怪盗レトン
ジョルジュ・シムノン/稲葉明雄訳
目 次
一 『年齢三十二歳前後、身長一六九センチ』
二 億万長者の友人
三 毛髪の束
四 『海魔丸《ゼートイフェル》』の二等航海士
五 酔いどれたロシア人
六 『シチリアの王』にて
七 三幕目の幕合い
八 メグレ本腰をいれる
九 『殺し屋』
十 オスワルト・オッペンハイム帰る
十一 あわただしい一日
十二 ユダヤ女と拳銃と
十三 二人のピートル
十四 ウガラ倶楽部
十五 二通の電報
十六 巌上の人
十七 ラムの壜
十八 ハンスの生活
十九 傷ついた男
訳者あとがき
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登場人物
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ピートル・ル・レトン……怪盗
モーティマー・レヴィングストン……アメリカの富豪
フィオドル・ユーロヴィッチ……「シチリアの王」に住まうスラブ系の浮浪者
アンナ・ゴルスキン……ユーロヴィッチの愛人
オスワルト・オッペンハイム……レトンの使った偽名
オラフ・スワン……フェカンに住まいをかまえる二等航海士
ベルト・スワン……オラフの妻
ペピート・モレット……ホテル・マジェスティックの部屋係
ジョゼ・ラトゥーリ……ピックウィック・バアの社交ダンサー
トランス刑事……メグレの部下
メグレ……パリ警察の警部
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一『年齢三十二歳前後、身長一六九センチ』
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国際刑事警察委員会《シー・アイ・ピー・シー》より パリ治安庁へ。
○○○○クラクフ○○○○○○○○○○ピートル・ル・レトン○○○○○○ブレーメン○○。
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機動第一班のメグレ主任警部は、ふと顔をあげた。ストーヴのはぜる音が弱まったようだ。オフィスの中央には鋳物《いもの》のストーヴがすえられ、黒く太い煙突が、天井《てんじょう》にむかって消えていた。
彼は、その電報をおしやると、のっそり腰をあげた。火口をあけて、石炭を三ばいほど投げこんだ。
そうしておいて、ストーヴに背をむけて立ち、おもむろにパイプを詰めはじめた。指をさしこんでカラーをゆるめた。いくらゆるめても、窮屈でしかたがないのだ。
彼は懐中時計をとりだした。四時、上着《うわぎ》は、ドアの内側の鉤《かぎ》にぶらさがっている。そして、ゆっくりとデスクにもどると、さっきの電報をとりあげ、声にだして翻訳した。
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国際刑事警察委員会《コミッション・アンテルナショナル・ド・ポリス・クリミネル》より パリ治安庁へ。
クラクフ警察より、ピートル・ル・レトンが当|該地《がいち》を通過し、ブレーメンへむかったむね報告あり。
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国際刑事警察委員会はウィーンに本部をおき、ヨーロッパ内の強力犯罪対策を統轄《とうかつ》している。もっと詳しくいえば、各国警察間の連絡をその任とするものなのだ。
メグレは二本めの電報をひきよせた。これも同様に『ポルコ』で書かれていた。『ポルコ』というのは、いわば一種の国際暗号で、全世界警察組織の通信用として使用されているものである。
メグレは眼でたどりながら翻訳した。
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ブレーメン警察から パリ治安庁へ。
ピートル・ル・レトンは、アムステルダムからブリュッセル方面へむかったことを報告する。
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三本めの電報は、オランダ警察本部発信のもので、こんなふうに読めた。
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ピートル・ル・レトンは、本日午前十一時、列車『北極星号』に乗車した。目的地はパリ。車輛《しゃりょう》番号五。車室番号G二六三。
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最後の至急電報はブリュッセル発信のもので、暗号でこう書かれていた。
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ピートル・ル・レトンは、午後二時、『北極星号』にてブリュッセル通過の事実が確認された。車室はアムステルダム電に同じ。
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デスクのうしろの壁に、大きな地図がかかっている。メグレはその前にどっかと巨躯《きょく》をすえた。両手はポケットにいれたまま、口のはしからパイプが突きだしている。
彼の視線はクラクフをあらわす点から、反対側のブレーメン港をしめしている点までのび、さらにアムステルダムからブリュッセルへ移動した。
もう一度、時計をながめた。四時二十分。『北極星号』は時速百十キロのスピードで、サン=カンタンとコンピエーニュのあいだを走っているはずだった。
国境でも停車しない。速度を落とすこともない。
第五車輛のG二六三号車室では、ピートル・ル・レトンが新聞かなにかに読みふけっていることだろう。あるいは、窓外にとび去る風景に目を奪われているかもしれない。
メグレはいっぽうのドアへむかった。そのなかは造りつけの戸棚になっている。琺瑯《ほうろう》びきの洗面台で手をあらい、こわい頭髪に櫛《くし》をいれた。髪はくらい栗色《くりいろ》で、鬢《びん》のあたりにわずかに白いものが判別できる。それから、申しわけのようにネクタイを締めなおした。いまだかつて、それはきちんと結ばれたためしがなかった。
十一月の日が暮れかかっていた。窓ごしにセーヌの流れがみえる。サン・ミシェル広場。洗濯場。一つまた一つと、ガス燈がともされて、すべては青い靄《もや》にかすんでいた。
彼は引出しをあけて、コペンハーゲンの国際犯罪人鑑別局《ビュロー・アンテルナショナル・ディダシチフィカション》からの至急電報に目をはしらせた。
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パリ治安庁あて。
ピートル・ル・レトン。32 169 01512 0224 0255 02732 03116 03233 03243 03415 03522 04115 04144 04147 05221 ……
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こんどは、わざわざ大声をあげて翻訳し、さらに、小学生が学課を暗誦するように、何度かくりかえして読んだ。
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――ピートル・ル・レトンの特徴挙示。
年齢三十二歳前後。身長一六九センチ。鼻梁《ビリョウ》直線、鼻底水平。鼻尖《ビセン》最大限、鼻中隔《びちゅうかく》ミエズ、耳ノ輪郭ニ大イナル特徴アリ。耳輪原形|耳垂《じすい》大キク、径大ニシテ横径限度。対耳珠《ついじしゅ》突出シ、下部耳輪ハ襞状《ヒダジョウ》ヲナス。頭蓋正顎《ズガイセイガク》、面長デ両頬《リョウホオ》クボム。眉毛《マユゲ》ハマバラニシテ明ルイぶろんど。下唇《カシン》突出シ、幅ヒロク、下方ニムカッテ垂ル。頸《クビ》ナガシ。眼ハ角膜アワイ黄色、虹彩ハ緑ガカッタ色ヲ帯ブ。頭髪ハアカルイ金髪。
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以上がピートル・ル・レトンの人相特徴書であった。メグレにとっては、これはへたな写真などより、よほど雄弁な効果をもっていた。最初におもだった特徴がしめされている。やせがたの小柄な青年。ひじょうに明るい色の頭髪。おなじくブロンドのまばらな眉毛。緑いろがかった眸《ひとみ》。ながい頸。
さらにメグレは、耳の特徴について、とくに詳しく心にとめていた。これさえあれば、雑沓《ざっとう》のなかであろうと、またかりにピートル・ル・レトンが変装していようと、ひとめで判別できるはずだ。
彼は上着を鉤《かぎ》からはずして着こんだ。その上から重い黒の外套《がいとう》をはおり、頭に山高帽をのせた。
もう一度ストーヴに目をやった。また燃えはじめたようだ。
ながい廊下をぬけて、控え室代用の踊り場までくると、ジャンに声をかけた。
「おい、ストーヴを頼んだぞ!」
階段では、ふきこんでくる突風が、彼をおどろかせた。片隅《かたすみ》へからだをよせて、パイプに火をつけねばならなかった。
宏大《こうだい》なガラス屋根でおおわれているにもかかわらず、北停車場《ガール・デュ・ノール》の各ホームには、強風が吹きあれていた。屋根のガラスの何枚かがわれて、下の線路に破片をちらしている。照明もうす暗かった。だれもが外套のなかに身をちぢめていた。
一群の旅客が出札口の前にあつまって、不穏な通報に目をはせている。
『英仏海峡に暴風雨』
息子《むすこ》のフォークストンへの渡航を見送りにきたという婦人が、眼を充血させ、とりみだしたようすをみせていた。息子のほうは、母親を、デッキへは一歩もでないからと、しきりになだめていた。
メグレは十一番ホームの近くに立っていた。そこは『北極星号』の到着を待つ人びとで混雑していた。クック旅行代理店はいうにおよばず、パリの大ホテルの案内人たちが、すべてすがたをみせていた。
メグレは動こうとしなかった。あたりの空気はざわめいていた。若い女がひとり、貂《てん》のコートにぬくぬくとくるまり、脚のほうは反対に眼にみえないほど薄い絹ストッキングにつつんで、ハイヒールの音をかつかつ響かせながら、ゆきつもどりつしていた。
彼は巨大な体躯をそこにすえたままだった。印象的な両肩が大きな影をおとしていた。少々ぶつかったぐらいでは、びくともしない、まるで壁のようだった。
列車の黄色いライトが、ぽつんと遠くにみえた。やがてホームは騒然としてきた。赤帽のさけぶ声。出口へいそぐ乗客たちのあわただしい靴音。
二百人ほどをやりすごしたころ、メグレの視線がひとりの小柄な男のすがたをとらえた。
大きな格子縞《こうしじま》のはいった、緑色の旅行用外套を着た男だった。外套は色調だけでなく、仕立てもあきらかに北欧風と思われた。
男は悠然《ゆうぜん》とあるいていく。三人の赤帽があとにしたがっていた。シャンゼリゼーの某大ホテルの案内人が先頭にたって、客のために通路をきりひらくのに汲々《よくよく》としていた。
『年齢三十二歳前後、身長一六九センチ……鼻梁ハ……』
メグレは焦らなかった。男の耳だけに目をすえていた。それでじゅうぶんだったのだ。
緑色の外套の男は、メグレの目の前をとおりすぎた。赤帽のひとりが、スーツケースの角を彼にぶつけた。
その瞬間だった。列車の乗務員のひとりが駆けつけてきて、ホームのはしにいた駅員にむかって、ふた言三言、早口になにかいった。ちょうど通行どめのチェーンのそばだ。
チェーンが張りわたされた。抗議の叫びがおこった。
旅行外套の男は、すでに駅の玄関口にさしかかっていた。
警部はあわただしげに、一、二服小きざみにパイプをふかした。それから、チェーンを張っている駅員に近づいてたずねた。
「警察のものだ。どうかしたのか」
「事件です。たったいま発見されたんです」
「二等車だね?」
「だと思います」
駅そのものは、ふだんとかわりがなかった。ただ十一番ホームだけが、異常な空気につつまれていた。まだ五十人ばかりの降車客が残っている。足止めをくわされているのだ。みんなじだんだを踏んでいた。
「通してやれ」と、メグレがいった。
「しかし――」
「いいから、通してやれ」
彼は、その最後の一団が流れるようにでていくのを見送った。ラウドスピーカーが、近郊むけ列車の発車をつげていた。あちこちで走っていく足音がきこえた。
『北極星号』の車輛の一つ前では、一群の人影がなにかを待っていた。三人の男で、どれも駅員の制服をつけていた。
まず最初に駅長がやってきた。もったいぶった物腰が、どこか不安げである。構内に担架《たんか》がひきだされ、人波をぬって進んできた。人びとは気づかわしげな視線で、それを追っている。これから汽車に乗ろうという連中だ。
メグレはパイプをふかしながら、重々しい足どりで列車ぞいに歩いていった。一号車輛、二号車輛……やがて五号車のところまできた。
昇降口の前に人びとがかたまっていた。担架車がとめてある。駅長は口々にしゃべりたてる三人の言葉に、等分に耳をかたむけていた。
「警察のものだ。どこかね」
一同はほっとした表情をみせた。彼がその巨躯を、興奮した一群のなかへ割りこませると、たちまちまわりの連中は、アクセサリーとしかみえなくなった。
「洗面所です」
メグレは昇降口《ステップ》をのぼった。右手に、洗面室のあけはなしたドアが見えた。そこの床にひとつの死体がうずくまっている。二つ折れになって、奇妙なかっこうに捩《ねじ》れていた。
駅長が、ホームから、指令をとばしていた。
「この車輛を待避線へ誘導するように、レールをきりかえろ……待て!……六十二番線だぞ……それから、駅詰めの特務警部に通報してくれ」
最初、メグレには男の首筋しか見えなかった。が、よこっちょにのせたハンティングをずらすと、左の耳が目にはいった。
『耳垂《じすい》大キク、径大ニシテ横径限度。対耳珠《ついじしゅ》突出シテ……』
メグレは口のなかでつぶやいていた。
リノリウムの床に、何滴かの血がしたたっていた。メグレはあたりを見まわした。駅員たちはあるいはホームに、あるいは昇降口に立っている。駅長はひっきりなしにしゃべっていた。
メグレは死体の顔をひっくりかえすと、ぎゅっとパイプを咥《くわ》えなおした。
あの緑色の外套の男を見ていなかったら、そして、その男がホテル・マジェスティックの案内人に導かれて、自動車に乗りこむのを見ていなかったら、メグレも疑念を抱かなかったろう。
あの男とそっくりなのだ。おなじ特徴。おなじ小さなブロンドの口髭《くちひげ》が、鋭くつきでた鼻のしたで、歯ブラシのように刈りこまれている。おなじく薄いブロンドの眉毛。おなじ灰色がかった緑いろの瞳《ひとみ》。
すなわち、ピートル・ル・レトンなのだ!
メグレはせまい洗面室のなかで、身動きもならなかった。だれか締めわすれたとみえて、蛇口から水が流れっぱなしだ。不備な接続箇所から、蒸気がもれて噴きだしていた。
メグレは死体の前にしゃがみこみ、その上半身をおこした。シャツも上着も、胸もとのところに、至近距離から発射された弾丸の焦げ痕《あと》がみられた。
それは血の深紅色とまざりあって、大きな黒ずんだ|しみ《ヽヽ》をかたちづくっていた。
ある一点がメグレの心をとらえた。偶然、死体の足に目をとめたのだ。ドアをしめるために、死体はむりに押しこまれて歪《ゆが》んでいたが、それにともなって片足も同様にねじれたかたちで斜めになげだされていた。
問題は、はいている靴だ。色は黒だったが、ひどく俗っぽい安物だった。半張りのあとさえあった。踵《かかと》はいっぽうに傾いて、底のなかほどにはまるい孔《あな》があいていた。はきふるされて磨《す》りへったものだ。
当駅に詰めている警部が到着した。制服をきこんで、自信たっぷりの口調《くちょう》でホームから声をかけた。
「また、なにかあったのか? 他殺か? 自殺か? 検事局からだれかくるまで触るんじゃないぞ。いいか、おれが責任者なんだからな」
メグレは洗面室をでようとしたが、なみ大抵の努力ではなかった。死体に足をからまれていたのだ。職業がらの敏捷《びんしょう》な手つきで死体のポケットをさぐって、なにもないことをたしかめた。完全にからっぽだった。
彼は車輛をおりた。パイプは消え、帽子はゆがみ、袖口《そでぐち》には血がこびりついていた。
「やあ、メグレか。どうだ、あんたの意見は」
「なにもないさ。いってみろよ」
「自殺なのかね」
「そうとれないこともない。検事局へは電話したのか?」
「通報があったんで、すぐ連絡しておいたよ」
ラウドスピーカーの声が、雷のようにとどろいた。なにか変事があったらしいことに気づいた連中が、遠くからこちらを見まもっていた。からっぽの列車を、五号車の昇降口《ステップ》のあたりで動かない人影を見まもっていた。
メグレはそのままにして、駅をでると、タクシーを呼びとめた。
「『マジェスティック・ホテル』だ!」
風雨はいっそう激しさをくわえていた。街々をつむじ風が吹きはらって、通行者の影を蹌踉《そうろう》とゆるがせていた。屋根|瓦《がわら》が、舗道《ほどう》のここかしこに散乱し、バスは立往生しているありさまだった。
シャンゼリゼーの大通りも、無人の滑走路と様相を変えていた。大粒の雨がぱらぱらおちかかった。マジェスティックの玄関番が、まっ紅《か》な雨傘《あまがさ》を大きくひろげて、タクシーのほうへとんできた。
「警察のものだ。『北極星号』からたったいま着いたお客がいるだろう?」
たちまち玄関番は傘をつぼめた。
「ええ、お一人さまがみえてましたよ」
「緑色の外套をきて……ブロンドの口髭を生やした……?」
「その方です。フロントでおききになってください」
驟雨《しゅうう》をさけて、人びとが走りかう。メグレはうまい頃合いにホテルへはいることができた。胡桃《くるみ》大もありそうな、氷のようにつめたい雨滴だった。
「警察の者だが、緑色の外套をきて、ブロンドの小さな口髭をはやした客が……」
マホガニーのデスクのうしろに、フロント係や通訳たちがひかえていた。返事は慇懃《いんぎん》かつ的確をきわめていた。
「十七号室です。ただいま、お荷物をお運びしているところです」
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二 億万長者の友人
ホテル・マジェスティックにあって、メグレの存在には、なにかしら決定的な排他感がつきまとっていた。彼の存在自体がまわりの雰囲気《ふんいき》に、どうしても同化できない一種の障壁のようなものを形づくってしまうのだ。
けっして彼の姿が、諷刺《ふうし》漫画によく見る警察官に似ているというわけではない。口髭もないし、底のごつい靴をはいているわけでもない。着ている服地はこまかい織りのものだし、仕立ても上等だ。髭は毎朝あたるし、手も入念に手いれがゆきとどいていた。
ただし、骨格はまさしく労務者ふうだった。骨組は大きく、たくましい。隆々とした筋肉は、上着のうえからそれと察知できる。仕立ておろしのズボンも、すぐに型が崩れるしまつだった。
その上、彼には、重々しく構えてみせる一種の性癖があった。これがために同僚たちの反感を買うこともおおかった。
これは自負以上のものからきていたが、自惚《うぬぼれ》とは、もともと性質を異にしていた。彼という障壁がいったんすがたを現わせば、それが歩いていようが、両脚に根をはやして立ちはだかっていようが、とにかく体当りしたらこっちが砕けてしまうような気を、まわりの者にいだかせるのだ。
パイプは両顎《りょうあご》のあいだに鋲《びょう》ででもとめてあるようだ。マジェスティックへきたからといって、彼はそれを引っ込めるようなことはしなかった。
要するに、野人の頑《かたくな》さというのだろうか? 自恃《じじ》というのだろうか?
ビロードの襟《えり》をつけた、黒の大外套をきこんでいるので、当然、人目に立たないわけにはいかなかった。照明に煌々《こうこう》と映《は》えるロビーは、優雅な装いの婦人たちでさざめいていた。ただよう芳香。嬌笑《きょうしょう》。私語。とりすました挨拶《あいさつ》。
彼はそうしたものには無関心だった。そうした動きの外にとどまっていた。地階のダンスホールから、ジャズの騒音がながれてくる。それと彼とは、まるで不浸透性の防壁でもあるかのように、たがいに反発しあっていた。
階段の昇り口に足をかけたときだった。エレベーター係が、メグレを呼びとめた。エレベーターで昇るようにすすめているのだ。彼は踵《きびす》を返そうともしなかった。
二階で、べつのボーイが彼に声をかけた。
「部屋をお探しですか?」
その声は、彼の耳に達しなかったようだった。彼は廊下を見わたした。吐き気をもよおしそうなまっ赤な絨緞《じゅうたん》が無限につづいている。彼はそのまま昇りつづけた。
三階へくると、彼は、ブロンズの板金にかかれた部屋番号を読みながらすすんだ。十七号室のドアは開けはなされていた。縞《しま》のチョッキをきたボーイたちが、荷物を運びこんでいた。
例の旅行者は外套をぬいでいた。薄地の背広すがたになると、いかにもほっそりと痩《や》せてみえた。吸い口のついたシガレットをふかしながら、ボーイたちにあれこれと指示をあたえているところだった。
十七号室といっても、一部屋ではなかった。客間、書斎、寝室、バスルームと、完備したアパルトマンだ。二つのドアが二本の廊下のかどに面してあいていた。そのかどに沿って、ちょうど町角においたベンチのように、幅広の長椅子《ながいす》がめぐらしてある。
メグレはそれに腰をおろした。ちょうど開けはなしたドアの真正面だ。そして脚をながながとのばし、外套のボタンをはずした。
ピートル・ル・レトンは彼を認めたが、いぜんとして指図をつづけた。驚いたふうもない。腹をたてたようすもない。ボーイたちが大小のスーツケース類を所定の位置に運びおえると、ピートルは自分自身でドアをしめにきた。
メグレは三度パイプを詰めかえた。そのあいだに、部屋付きのボーイ二人と女中が一人ちかづいてきた。どなたをお待ちですかとメグレに訊《き》いたが、彼は追いかえしてしまった。
八時きっかりに、ピートル・ル・レトンは部屋からでてきた。からだにぴったりついたタキシードを着ているので、いちだんと痩せてみえる。仕立てはイギリスの一流店を想像させた。
帽子はかぶっていなかった。髪はあかるいブロンドで、みじかく刈られ、やや薄くなりかけていた。頭のてっぺんが薄く、額はいくぶん後退ぎみで、まんなかの部分は、つややかなピンク色の肌《はだ》があらわれていた。
手はほっそりとながく、蒼白《あおじろ》かった。左の薬指に、どっしりした印章|指環《ゆびわ》がはまっていた。プラチナ台に黄色ダイヤをあしらったものだった。
さっきとおなじように、厚紙の吸い口のついたロシア煙草をふかしている。メグレのすぐ目の前を通りかかり、瞬間、ちょっと立ちどまって、話しかけたい衝動《しょうどう》にかられたようだった。しかしすぐ思いなおして、エレベーターへむかった。
十分後に、男は食堂にすがたを現わした。そして、満座の注目をあびているモーティマー・レヴィングストン夫妻のテーブルに、席をしめた。
レヴィングストン夫人は、百万フランもしそうな真珠の頸飾りをつけている。
夫のレヴィングストン氏は、前夜、フランス有数といってよい一大自動車製造事業に投資して再発足させたばかりだった。株の大部分が、氏の所有に帰することはいうまでもない。
三人ともに、なかなかの健啖《けんたん》ぶりをしめした。ピートル・ル・レトンは身をのりだすようにして、おちついた声音《こわね》で大いに弁舌をふるっていた。態度にはぜんぜん屈託というものがない。自然そのものの闊達《かったつ》な話しぶりだ。ロビーとのさかいのガラス扉《とびら》に映ったメグレの黒い影に気づいていないのだろうか。
メグレはフロントへいって、宿泊者名簿を要求した。例の男の署名とおぼしいところには、こうあった。
オスワルト・オッペンハイム。ブレーメン居住。船舶業。
メグレはべつに驚かなかった。
相手が正規のパスポートを所有していたとしても、なんらのふしぎはない。身分証明書にしても、オッペンハイム名義のものその他、各種用意してあることだろう。
モーティマー・レヴィングストンには、どこかほかの土地で会ったことがあるにちがいない。ベルリンか、ワルシャワか、ロンドンか、あるいはニューヨークか。
パリへ現われたのも、夫妻に会って、得意とする大規模な詐欺《さぎ》を実行にうつそうがためではないのか?
メグレのポケットにあるファイル・カードには、こう記載されてあった。
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『狡猾《こうかつ》かつ危険きわまりない人物。国籍は不明。北欧系、おそらくはリトアニアかエストニアの生れと推定される。ロシア語、フランス語、英語、ドイツ語の四か国語を流暢《りゅうちょう》に話す。
該博《がいはく》な知識を有するをもって、詐欺をもっぱらとする一大強力国際犯罪団の首領の任にあるとされている。
この詐欺団は、順次、パリ、アムステルダム(ファン・ホイフェル事件)、ベルヌ(連合船舶事件)、ワルシャワ(リップマン事件)その他、詳細はあきらかでないが、ヨーロッパ各都市において、跳梁《ちょうりょう》の事実が確認されている。
ピートル・ル・レトン一味は、その多くがアングロ=サクソン人種にぞくするもののようである。彼と行動をともにしているところをしばしば目撃され、ベルヌ連邦銀行において偽造小切手を提示したとみとめられた人物が、逮捕にさいして射殺された。この人物はアメリカ陸軍少佐ハワードと自称していたが、その後の調査によって、かつての[酒類密輸業者《ブートレガー》]、アメリカのニューヨークで[肥っちょフレッド]の通称で知られていた男であったことが判明した。
ピートル・ル・レトンは過去において二回逮捕されている。第一回はヴィーズバーデンで、ミュンヒェンの豪商あいてに五十万マルクの詐欺をはたらいた廉《かど》。第二回はマドリッドで、罪科は同上のものであったが、この場合の被害者はスペイン宮廷の高官であった。
二度とも手口は同一である。彼は被害者との示談をもくろみ、詐取された金品は確実な場所に保管してあるが、自分が逮捕されれば、それらの回復は不可能になろうと脅迫した形跡がある。
告訴は二度とも取りさげられ、原告は相応の補償をえたように思われる。
その後、現行犯として逮捕された記録はない。
マロネッティ団(紙貨幣|贋造《がんぞう》)ならびにケルン団(脱獄|幇助《ほうじょ》を専門とする)と関連ありと想定される』
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こうしてピートル・ル・レトンは、ヨーロッパ各警察を東奔西走《とうほんせいそう》せしめているのである。
彼は一ないしそれ以上の犯罪団体の首領兼[財政担当]として、数百万にのぼる詐取資産を、諸種の名義をもちいて、あるいは銀行預金あるいは株式買い占めと、増殖をはかっているのにちがいない。
彼はいま品のよい微笑をうかべて、モーティマー・レヴィングストン夫人の話にききいっている。白い指がたわわな葡萄《ぶどう》の房をつまんでいた。
「失礼ですが、ほんのしばらく、おつきあいねがえませんか?」
メグレはレヴィングストン氏に声をかけた。マジェスティックのロビーである。ピートル・ル・レトンは夫人といっしょに部屋へ引きとったあとだった。
レヴィングストンは[ヤンキー]の呼び名にふさわしからず、スポーツマン・タイプの男ではなかった。むしろラテン系にちかい風貌《ふうぼう》だった。
長身にして痩躯《そうく》、小ぶりの頭に、くろい髪を一本の筋できちんとわけている。
ふだんでも疲れた表情をみせていた。眼のふちはたるんで、くろい隈《くま》どりがみられる。日夜、多忙なスケジュールに追われづめの生活なのだ。あるいはドーヴィル、あるいはマイマミ、リド、パリ、カンヌ、ベルリンと、つぎつぎに旅程がくまれている。あちらでヨットをあやつったかと思うと、ヨーロッパのどこかの都市で商談をすませ、もうその次には海をこえて、ニューヨークやカリフォルニアでボクシングの選手権試合に列席しているといったふうであった。
彼は悠揚《ゆうよう》せまらぬ態度で、メグレをじろりとながめた。そして唇《くちびる》もうごかさずにいった。
「きみは……?」
「機動第一班のメグレ警部です」
レヴィングストンはこころもち眉をひそめて、かるく頭をさげた。ほんのしばらくなら差し支えないという意味だ。
「いま、あなたがいっしょに食事をなさった男が、ピートル・ル・レトンだということはごぞんじですか?」
「きみの用件というのは、それだけかね」
メグレはたじろがなかった。その質問は予期されたものだったからだ。
彼はあらためてパイプをくわえた――この富豪に話しかけるさいに、わざわざ口から離していたものだ。それから、自信たっぷりの口調で、
「それだけです」
といいきった。
レヴィングストンは背をむけると、平然としてエレベーターに乗りこんだ。
九時半をすこしまわっていた。夕食の伴奏をつとめていたオーケストラは、ジャズ・バンドに席をゆずっていた。三々伍々、人々がはいってきはじめた。
メグレは夕食はまだだった。苛立《いらだ》ちをおしかくして、ホールの中央につっ立っていた。とおくから、支配人が、うさんくさそうな視線を送っている。このホテルでいちばん貧弱な風采《ふうさい》をした客までがメグレのそばへくると、急にもったいげなようすをつくり、なかにはわざと押しのけていくのもいた。
マジェスティックはついにメグレを消化しきれなかった。燦然《さんぜん》たる照明、綺羅《きら》をつくした夜会服の右往左往、毛皮のコート、金粉と香水……そうしたもののなかに、メグレはひとつの大きな黒い汚点となって、微動もせず立ちつくしていた。
まず、レヴィングストン夫人がエレベーターにすがたを見せた。夫人は装いをかえていた。あらわな肩を、白貂《しろてん》の毛皮に、おもてを金片で飾ったケープでおおっていた。
だれもいないのを知って、彼女は驚いたようだ。金箔《きんぱく》をほどこしたハイヒールで拍子をとるようなかたちで、あたりをさがしかけた。
急に、彼女は、フロント係や通訳たちのひかえているデスクへいって、なにごとか話しかけた。フロント係のひとりが赤いボタンをおして、受話器をとりあげた。
係員もびっくりしたらしい。ボーイをひとり呼びつけると、急いでエレベーターへむかわせた。
夫人は目にみえて苛だっていた。玄関のガラス・ドアを通して、舗道のきわに、アメリカ製自動車の柔軟な曲線がみえていた。
さっきのボーイがあらわれて、フロント係に耳うちした。こんどはそのフロント係が、夫人にむかって話した。夫人は抗弁していた。
「そんなはずはないわ!」
と、いっているようだ。
そのあいだにメグレは階段をのぼり、十七号室の前にたってドアをノックした。そうしてそのまま待っていたが、応答はない。
彼はドアを開けてみた。客間はからっぽだ。寝室をのぞくと、ベッドの上に、ピートル・ル・レトンのタキシードが無造作になげだしてある。衣裳戸棚はあけはなしてあった。絨緞の上に、はなればなれに、エナメル靴がころがっていた。
支配人がやってきて、不服そうにつぶやいた。
「あなた、もう来ておられたんですか」
「どうなんだ、消えたのかね? レヴィングストンもいっしょに? ほんとうかね?」
「騒ぎたてるほどのこともありませんよ。お二人とも、お部屋にはみえませんがね。なに、どこかホテルの中においでになるはずですよ」
「出口はいくつある?」
「三つです。シャンゼリゼーに面した表口。アーケード側の出口。それから従業員用の通用門……これはポンチュウ街に面しています」
「門衛はいるな? よんでくれ」
電話がとりあげられた。支配人は怒っていた。気のきかない交換手にむかって、腹をたてているのだ。メグレの上に釘《くぎ》づけにされた視線には、好意のかけらもなかった。
「これは、どういう意味なんです?」と、支配人がきいた。
ふたりは、ガラス張りの小部屋のなかで勤務している、門衛の到着を待っていた。
「きみのいうように、ぜんぜんなんでもないのかも知れん」
「そうあってほしいものですな。もし、これが……」
犯罪という言葉――下はみすぼらしい家具付きアパートの亭主から、上は大ホテルの支配人にいたるまで、世のすべての宿泊業者の悪夢である犯罪という言葉が、彼の咽喉《のど》につかえているようだった。
「そこのところを知りたいんだ」と、メグレがいった。
夫人がのぼってきて、
「どうしたんですの?」
と、たずねた。
支配人は頭をさげて、ためらいがちに答えていた。廊下のつきあたりに小柄な老人が姿をあらわした。よごれた口髭、くたびれた服、このホテルのありようとは似ても似つかぬ人品の男だった。
門衛室にとじこめておかれるのもむりはない。さもなければ、この老人も、美しい制服をきせられ、毎朝髭をそらされたことだろう。
「だれかが出ていくのを見たかね」と、支配人がきいた。
「いつのことでがす」
「つい四、五分前だ」
「たぶん調理場の者でしたろうな……よくは見なかったんですが……ハンティングの男がひとり……」
「小柄で、金髪の男だな?」と、メグレが口をはさんだ。
「へえ、そうだったと思います。よく見なかったもんでね。なにぶん相手は急いでたんで……」
「ほかには?」
「ぞんじませんな。あっしは、街角まで新聞を買いにいきましたんでね」
レヴィングストン夫人は、すっかり度を失っていた。メグレにむかって詰《なじ》るようにまくしたてた。
「まあ、あなたがたの捜査法って、こんなに手ぬるいものですの? あなたは警察のかただそうじゃありませんか。主人《たく》はもう、殺されたかもしれませんのよ。なにをいつまでも、ぼやぼやしてるんです!」
そういう夫人の上にすえられたメグレの視線こそ、メグレ独特のものといってよかった。沈着! 無関心! 蠅《はえ》の羽音さえ耳にはいらぬようだ。日常|茶飯《さはん》にすぎないといっているようだ。
夫人はそうした凝視に馴《な》れていなかった。きっとくちびるを噛《か》んでいる。皮膚のおくが紫色にかわって、じだんだを踏むように、ハイヒールの踵《かかと》が床をたたく。
メグレはあいかわらず、凝視をつづけた。
やがて、耐えきれなくなったのか、あるいはそうするよりすべがなかったのだろう、夫人はいきなりヒステリックな発作《ほっさ》に身をまかせた。
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三 毛髪の束
メグレが司法警察本部へついたのは、真夜中にちかかった。颱風《たいふう》はここをせんどと吹き荒れていた。河岸《かし》にそった街路樹を烈《はげ》しくゆすり、洗濯船のまわりにさざなみを立てていた。
司法警察の建物は、ひっそりと人気《ひとけ》がなかった。だが、ジャンはやはり持ち場の控え室にいた。そこからは、廊下にそって、おびただしい数の部屋が見わたせる。
がやがやとしゃべりながら、警官の一団が帰ってきた。まもなく、ぽつんぽつんと離れた部屋のドアの下から、糸のようなあかりが洩《も》れた。警部なり刑事なりで、まだ捜査にたずさわっているものがあるのだろう。中庭で、庁車の一台が、エンジンの音をひびかせて発車した。
「トランス刑事はもどってきたな?」メグレがきいた。
「さっきもどりました」
「おれのストーヴの火は?」
「窓を半分ばかしあけときましたよ。部屋が熱くなったんでね。壁が汗をかいてます」
「ビールとサンドウィッチを頼んどいてくれ。ただし、屑《くず》パンはだめだぞ!」
そういうと、メグレはあるドアを押して、「トランス!」と、呼んだ。
トランス部長刑事は、メグレのあとにしたがって、警部の部屋へはいった。
北停車場《ガール・デュ・ノール》を去るまえに、メグレはかれに電話して、駅での捜査をつづけるよう命じておいたのだった。
メグレ警部は四十五歳だった。トランス刑事のほうはまだ三十歳だ。だが、かれにはすでに、メグレの複製品といってはずかしくないだけの貫禄がそなわっていた。
いまさらいうまでもないことだが、二人はこれまでに、幾多の事件をともに解決してきた仲だった。
警部は外套をぬぎ、上着をとって、ネクタイをゆるめた。ストーヴに背をむけると、温みがからだに浸みわたるまで、じっと待っていた。そして、おもむろに口をきった。
「どうだった」
「検事局がいそいで駈けつけました。鑑識の連中も写真をとっていましたが、指紋は発見できなかったようです。もちろん被害者以外のですがね。被害者の指紋にしたって、ファイル・カードには一致するものがないんです」
「おれの記憶にまちがいがなければ、犯罪者識別局には、レトンの識別カードはないはずだが」
「人相書ていどのものしかありません。指紋も、くわしいデータもないんです」
「では、死体がピートル・ル・レトンであるとは、証明できないわけだ」
「しかし、そうでないという証明もできませんよ」
メグレはパイプを手にとった。刻み煙草の袋には、もう褐色《かっしょく》の粉しかはいっていない。機械的な動作で、トランスが封をきったばかりの紙巻き煙草をわたした。
沈黙がつづいた。煙草が音をたてて燃える。やがて、ドアの外に、だれかの足音とガラス器のふれあう音がした。トランスがドアをあけた。
ビアホール『ドオフィーヌ』のボーイがはいってきて、テーブルの上に盆をのせた。ビールの大コップが六つと、はちきれそうなサンドウィッチが四切れのっている。
「これだけでよろしいんですか?」
ボーイは、メグレ一人でないのを見てとって、そうたずねた。
「いいよ」
煙草を喫《す》うのもやめずに、メグレは飲みかつ食いはじめた。ビール一杯、刑事にすすめようとはしなかった。
「それで?」
「列車の乗務員ぜんぶを尋問しました。その結果、ひとりの男が切符をもたずに乗っていたことが判明しました。死人か犯人のどちらかですね。そいつはブリュッセルで、反対側のホームから乗りこんだのだろうということです。一等車にかくれるのは造作もありませんよ。それぞれの車輛に、手荷物をおくひろい場所がとってありますからね。ル・レトンは、ブリュッセルと白仏国境のあいだで、お茶をのみにいき、そこで英語とフランス語の諸新聞に目をとおしているんです。そのなかには経済専門紙もふくまれています。モーベージュとサン・カンタン間で、洗面所へいきました。それはボーイ長がおぼえているんです。通りすがりに[ウィスキーを持ってきてくれ]と頼んだんだそうです」
「そして、しばらくして、食堂車の席へもどったんだね?」
「十五分後には、ウィスキーを前にしてすわっていました。でもボーイ長は、席へもどるところは見ていないんです」
「彼のあとで洗面所へいったものはなかったのかね」
「待ってください…… 女の客がひとり、ドアをゆすぶったのです。しかし錠がどうかなっていたようで、開かなかったんです。パリへ着いてから、やっと乗務員がやってみました。むりやりこじあけてみると、鍵穴に鑢《やすり》屑をつめて、開かなくしてあったらしいのです」
「そのときまで、だれも第二のピートル・ル・レトンを見かけなかったんだな」
「もちろんです。見れば、目を惹《ひ》かなかったはずはありません。一等車にはふさわしくない、みすぼらしい服装をしてましたからね」
「弾丸は?」
「至近距離で発射されています。六ミリのオートマティックです。監察医のはなしでは、この銃創なら、一発で即死だろうということでした」
「格闘の形跡はないんだな?」
「ぜんぜんありません。ポケットはからっぽでした」
「それは知っているよ」
「どうも。しかし、わたしは、チョッキの内側のボタンでとめた小ポケットから、こんなものを発見したんです」
そういうと、トランス刑事は紙入れをだして、そのなかから絹のように薄い紙でできた小さな袋をとりだした。茶色の髪の束がはいっているのが、すけて見える。
「かしてみろ」
いぜん飲み食いをやめようともせずに、メグレはいった。
「女か、子供の頭髪だな」
「女のだ、と監察医はいっています。すこし渡しておきました。徹底的に研究してみるそうです」
「検屍《けんし》は?」
「午後十時に、すっかりおわりました。推定年齢は三十二歳、身長一六八センチです。遺伝性の疾患《しっかん》はありません。しかし、腎臓の一部に障害があるので、アルコール中毒者ではないかと想像されます。胃の内部には、紅茶と、ほとんど消化しつくされた食物の残滓《ざんし》がみられましたが、その場での分析は不可能でした。明日になればわかるでしょう。検屍がおわったあと、死体は監察医務院へはこばれて、氷室で保管されているはずです」
メグレはくちびるを拭《ぬぐ》って、お気にいりのストーヴの前へ席をしめた。手をのばすと、トランスが反射的に煙草の袋をとって、その上にのせた。
やがてまた、警部が口をひらいた。
「おれのほうも、ピートルかその替え玉かはしらんが、ホテル・マジェスティックへ落ちついたのをつきとめたよ。そいつは、モーティマー・レヴィングストン夫妻といっしょに食事をしていた。会う約束をしていたらしいんだ」
「あの富豪のですか?」
「そうさ? 食事がすむと、ピートルは自室へひきとった。おれはレヴィングストンを監視していたんだ。やっこさんも部屋へのぼっていった。たぶん三人で外出する約束でもあったんだな。しばらくすると、夫人が夜会用の服にきかえて降りてきたよ。ところが、それから十分後に、二人の男がいなくなったことが確認されたわけだ。
ピートル・ル・レトンは、タキシードを、もっと目立たない背広にきかえて出ていったんだ。ハンティングなんぞかぶっていたもので、門衛は調理場の者とまちがえたくらいだ。
レヴィングストンのほうは、そのままの夜会服すがたで出かけている」
トランス刑事はだまっていた。うちつづく長い沈黙のなかに、窓ガラスをふるわす旋風《せんぷう》の唸《うな》りと、ストーヴのはぜる音が、はっきりとききとれた。
「荷物は?」と、しばらくしてトランスがきいた。
「調べたよ。なにもなかった。服、下着……それに高級旅行者のもちあるくような装具一式。だが、紙っ切れ一枚みあたらないんだ。レヴィングストン夫人は、主人が殺されたにちがいないといいはっている」
どこかで鐘が鳴った。メグレはデスクの引出しをあけた。その日の午後、ピートル・ル・レトン関係の電報をつっこんでおいた引出しだ。
つぎに地図に目をやった。クラクフ――ブレーメン――アムステルダム――ブリュッセル――パリと、彼の指が一本の線をたどってすすんだ。
サン・カンタンのあたりで、ちょっと指がとまった。殺人のあった地点だ。
線はパリまできてぷっつり切れた。男二人が、シャンゼリゼーのどまんなかで消えた場所だ。
ホテルの部屋には、何個かの荷物がのこっているだけだ。そしてレヴィングストン夫人と。しかも、レトンの部屋のまんなかに残された大型トランク同様に、夫人のあたまは虚《うつ》ろなのだった。
パイプがぐじゅぐじゅと汚ならしい音をたてはじめたので、メグレ警部はべつの引出しから牝鷄《めんどり》の羽根を束ねたものをとりだし、それでパイプを掃除した。よごれた羽根は、ストーヴの蓋をあけて、そのなかへ投げこんだ。
大コップは四つが空になっていた。ねっとりしたビールの泡《あわ》で、ガラスの表面が曇っていた。
近くの部屋からだれかが外へでて、ドアに鍵をかけ、廊下ぞいに去っていく足音がきこえた。
「仕事がかたづいたんだな」と、トランスがつぶやいた。「リュカですよ。あいつは今日の夕方、麻薬の運び屋を二人つかまえたんです。有名人のせがれの密告のおかげでね」
メグレは、あかく火照《ほて》った顔でストーヴを攪《か》きたてていた。さっきの小型の紙袋から、髪の束をとりだすと、灯にかざしてながめた。つづいてまた地図のほうへ向きなおった。眼にはみえないが、ピートル・ル・レトンの足どりは、半円にちかい弧をえがいてたどることができた。
なぜだろう? パリへ来るのに、なぜわざわざブレーメンをまわってきたのか?
そのあいだも、彼は、絹のような手触りの紙袋をはなさずにいた。
「このなかには、写真がはいっていたんだな」
そう呟《つぶや》くようにいった。
事実、その紙封筒は、写真屋用のものだった。写真をいれてお客にわたす、あの紙袋だ。
しかし、その様式をみると、現在はせいぜい片田舎《かたいなか》でしか使われていない型だった。かつて[キャビネ]判とよばれていた、あの大きさである。
とすると、そこにはいっていた写真は、葉書の半分の大きさで、光沢のある象牙色《ぞうげいろ》の、うすい紙質のものと考えられる。
「鑑識にはまだ誰かいるだろうな?」
だしぬけに警部がたずねた。
「いるはずですよ。列車事件の仕事がありますからね。フィルムを現像しているはずですから……」
テーブルの上のビールは、もう一杯しか残っていない。メグレはそれを一息にのみほして、上着をきた。
「きみもいっしょに来てくれ……ここにはいっていたような写真にはふつう、浮彫りなり凹版《おうはん》なりで、写真屋の名前と住所をいれてあるもんだ」
トランス刑事はうなずいた。
ふたりは網の目のように錯綜《さくそう》した廊下や階段をいくつも通りぬけて、裁判所《パン・ド・ジュスティス》の建物へはいった。治安庁の犯罪人識別局はそこにあった。
技師のひとりは紙封筒をとりあげて、手で触ったり匂《にお》いをかいだりしてみた。つぎにそれを強力な投射器の下へおくと、車輪のついた複雑な機械を手もとへひきよせた。
原理は簡単そのものだ。印刷物なりインク書きの紙片を、一定時間以上、白紙と接触させておくと、白紙のほうへインクが滲透していくという原理を応用したものである。
結果は肉眼では認めにくいが、専門の技師にはそれを解読する方法があるのだ。
鑑識室にストーヴがあるのを見ると、メグレはさっそく、その前にみこしをすえた。パイプをふかしながら、彼は一時間ちかくもそこを動かなかった。いっぽうトランス刑事のほうは、ゆきつもどりつする技師のそばにつきそっていた。
やがて、暗室のドアがあいて、
「わかりましたよ!」
という声がきこえた。
「ふむ。どうなんだ」
「写真の署名はですね。『フェカン。ベルジュ海岸。芸術写真一般、レオン・ムテ』となっています」
かすかに浮きだした文字を読みとるには、専門技術を必要とした。トランスなどの眼では、ぼんやりした陰影としかみえない。
写真技師は大いに気をよくして、さらに言葉をかさねた。
「死体の写真をごらんになりますか。みごとな出来ばえですよ。なにしろ、あの洗面所ときたら狭いんでね。天井からカメラをぶらさげて撮《と》ったようなしまつでした」
メグレはそばの電話を指さして、
「きみ、これは市内直通なのかね」
と、きいた。
「ええ。九時すぎると、交換手が帰ってしまいますのでね。直通になってます」
メグレはホテル・マジェスティックにかけて、通訳のひとりを呼びだした。
「モーティマー・レヴィングストン氏はもどられたかね」
「ただいま調べてみます。どちらさまで?」
「警察だ」
「まだお戻《もど》りになっておりませんが」
「オスワルト・オッペンハイム氏もかね」
「まだお帰りになりませんようです」
「モーティマー夫人はどうしておられる?」
沈黙。
「夫人はどうしてると訊いているんだ」
「夫人のほうは……バアにおいでかとぞんじますが……」
「つまり、酔っぱらっているんだな?」
「はあ。カクテルを四、五杯めしあがりまして、ご主人のご帰館までは、ご自分も部屋へもどらないと、そうおっしゃっておいでなんです。あの……」
「なんだね」
「もしもし……わたくし、支配人ですが……」と、べつの声がかわって出てきた。「なにか掴《つか》めましたか?……こんどのことは、新聞に発表されるのですか?」
メグレは嘲《あざけ》るように受話器をかけた。そして、写真技師をよろこばせてやろうと、乾燥台の上にならんだ現場写真のほうへちらっと視線をなげた。まだ濡《ぬ》れてひかっていた。
それと同時に、トランス刑事にむかって話しかけた。
「おい、きみ。きみはホテル・マジェスティックへ張りこんでいてくれ。一言いっとくが、支配人のやつは気にせんでいいぞ」
「で、主任、あなたは?」
「おれはオフィスへもどる。五時半にフェカン行きの列車がでるんだ。家へ帰って女房をたたき起こすにもおよぶまい。それと……ビアホールはまだ開いてるはずだな。通りがかりに寄って、大コップを一つ、とどけるようにいってくれ」
「一つですか……?」
トランス刑事が無邪気な顔でききかえした。
「ああ、たのむよ。ボーイのやつ、ぬけめがないから、一つといえば三つ四つは届けてくるさ。それからサンドウィッチも少しばかりな」
ふたりは前後にならんで螺旋《らせん》階段をおりた。
黒い上っぱりをきた写真技師は、いま現像して引きあげたばかりの写真を、ほれぼれした表情でながめてから、それに番号をうちはじめた。
ひえびえとする中庭へでて、ふたりの警察官は左右にわかれた。
メグレが追いかけるように指令をあたえた。
「なにかの理由でマジェスティックを離れるような場合には、こっちへ連絡して、だれか代りの者に張らしといてくれ。緊急の場合には、おれもそっちへ電話するつもりだからな」
警部はオフィスへもどると、火床がこわれそうになるくらいの勢いで、ストーヴの石炭をかきまわした。
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四 『海魔丸《ゼートイフェル》』の二等航海士
朝の七時半に、メグレはパリ=ル・アーヴル間の本線を、ラ・ブレオーテ駅で下車した。駅そのものが、あらかじめメグレにたいして、フェカンという町〔フランス北西部の漁港〕の概念をおしえていた。
ビュッフェは照明がくらく、壁はよごれきっている。カウンターにのせたケーキは、ぽろぽろに乾燥して、黴《かび》が生えているのもあった。そのそばでは、バナナ三本とオレンジ四個がピラミッドをつくりそこねていた。
ここへくると、嵐《あらし》はいっそう強く感じられた。雨はさながら滝のようだ。支線のホームへわたるには、膝《ひざ》まで泥水に浸らねばならない。
車輛の廃物をよせあつめたような、みすぼらしい列車。家々の屋根は、仄白《ほのじろ》い夜明けの光に浮きだしているが、ふりしきる雨にかき消されて、輪郭はさだかでない。
フェカン!
鱈《たら》と鰊《にしん》のむっと鼻をつく匂い。山とつまれた樽《たる》。機関車のむこうにマストが見えている。どこかで汽笛が唸《うな》りをあげた。
「ベルジュ海岸は?」
すぐ近くだった。ぎらぎらした魚のうろこと、腐ったはらわたでねばつく水溜《みずたま》りを、五つ六つこえた先がそうだった。
写真屋というのは新聞販売店も兼業していた。そのほかにも、防水帽だの、帆布地のまっかな作業衣だの、麻ロープだの、新年の郵便葉書までが店頭にならべてあった。
血の気のうすい痩せた主人は、警察という言葉をきくと、さっそく細君をよんで助け舟をもとめた。細君というのはノルマンディー風の美人だったが、挑《いど》むような視線をメグレのほうへむけた。
「この封筒のなかに、どんな写真がはいっていたか、教えてもらいたいんだがね」
それはずいぶん手間どった。メグレは、主人の頭のなかからつぎつぎと、いろんな言葉をひきだしては、代りに考えてやらなくてはならなかった。
まず第一に、写真はすくなくとも八年以上前に撮影されたものであることがわかった。というのは、八年前から、この判の写真はあつかっていなかったからだ。店では、あらたに葉書型の機械を買いこんだとのことであった。
では、八年前に写真をとらせにきたのは、いったい誰なのだろう?
十五分ほどして、主人のムテはようやく思いだした。その店であつかった肖像写真の見本は、ことごとく一冊のアルバムに収めて保管してあったのだ。
細君がそのアルバムをとりにいった。その間に、何人もの水夫が店に出入りした。子供たちが一スウを握ってボンボンを買いにきた。外では、船のクレーンの軋《きし》りがきこえた。また堤防にそって、波が砂利をあらう音もきこえていた。
メグレはアルバムを繰りながら、範囲を限定していった。
「ひじょうに細い、褐色の髪をした若い女で……」
それで充分だった。
「スワンのおくさんだ!」と、写真師がさけんだ。
その女の写真はすぐにみつかった。店にある見本でいちおう自慢できるのは、それ一枚きりだった。
美しい女だ。年齢は二十歳ぐらいだろう。写真は封筒にぴったりおさまった。
「どういう女だね?」
「むかしからフェカンに住んでいましてな。ですが、現在は崖《がけ》の中腹に別荘ふうの家をもって、そこに住んでいますよ。つい先のカジノから五分ぐらいのところです」
「結婚してるのかね」
「この当時はまだ独り身でした。『鉄道ホテル』の会計係をやっておりましたよ」
「鉄道ホテルというからには、むろん、駅前にあるわけだね」
「ええ。通りがかりにごらんになれますよ。あのひとは孤児でしてね。なんでも、この周辺の田舎の生れなんです……そんなわけで、ホテルに泊りにきた外国人の客と知り合って……結婚するようなことになったわけです。現在は、子供二人と女中の四人で、この町に住んでいるんです」
「スワンとかいうご主人は、フェカンに住んでいないのかね?」
しばらく沈黙がつづいた。写真屋と細君は、後悔したような視線をとりかわしていた。
口をひらいたのは、細君のほうだった。
「警察のお方だから、すっかりお話ししたほうがよいでしょう。それに、どうせお調べになれば判《わか》ることですからね。これは人からの又聞きなんですけれど、スワンさんは、めったにフェカンにおられたことはないんだそうです。たまに見えても、ながくて二、三日、すどおりして出ていかれるようなことも、しょっちゅうだそうですよ。
あのひとがこの土地へみえたのは、大戦がおわって、しばらく後のことでした。五年のあいだ閉ざされていたニュー・ファウンドランドの漁場が、いよいよ解禁になるというので、みんな色めきたっていたころです。
あのひとはなんでも、そうした漁業問題を研究して、資本を注《つ》ぎこんでみたいというような触れこみでした。
自分ではノルウェー人と称していまして……オラフというのが名前なんです……鰊《にしん》漁でときたまノルウェー近海へでかける人たちにきいてみると、あっちには、そうした名前がおおいということです。
しかし、いっぽうでは、いやあれは、実はドイツ人でスパイなのだという噂《うわさ》もありました。
そうしたわけで、結婚したのちも、奥さんを離れた場所に住まわせることにしたのでしょう。
そのうちに、あのひとが、実際は船員であったことがわかったんです。ドイツ商船の二等航海士として、海上生活をつづけているというんです。めったに姿を現わさないというのも、それがためだったんです。
やがて、人びとも気にとめなくなりました。もっとも、わたしどものように、いまだに腑《ふ》におちないというものもいますけどね……」
「子供があるとかいったね?」
「二人いますよ。三つになる女の子と、生後数か月の男の子です」
メグレは写真をアルバムから剥《は》がした。別荘をたずねてみることに決めたが、それにはまだ時間が早すぎると思われた。
二時間ほどのひまを、彼は港のカフェでつぶした。船員たちの話題は、いまやたけなわになりつつある鰊漁のことでもちきりだった。波止場にそって黒い色のトロール船が五隻ならんでいた。魚の樽をすっかり陸揚げしたとみえて、突風にもかかわらず、ふんぷんたる臭気が漂っていた。
別荘へむかうために、メグレは人気のない堤防にそって、カジノのかどをまがった。娯楽場は閉業中で、夏場のうちに貼《は》られたポスターがまだ壁をかざっていた。
まもなく急な坂道にさしかかった。崖へ通じる登り口のようなものだ。あちこちに、別荘風の建物の柵《さく》がみとめられた。
メグレの探す家は赤煉瓦《あかれんが》づくりで、大きくも小さくもなく、快適な住みごこちを思わせた。時候が時候なら、白い砂利道につづく前庭はさぞ手入れがゆきとどいているのだろう。窓からは遠くへ眺望《ちょうぼう》がきくにちがいない。
メグレは呼鈴をおした。デンマーク犬が一頭、柵のむこうから現われた。吠《ほ》えたてこそしないが、それ以上の獰猛《どうもう》なそぶりをみせて、メグレに鼻をあてて嗅《か》ぎまわった。
二度めの呼鈴で女中がでてきた。まず犬を犬小屋へ追いこんでから、メグレのほうへたずねた。
「なんのご用ですか」
アクセントに田舎訛《いなかなま》りがあった。
「スワンさんにお目にかかりたいんだがね」
女中はちょっとためらった。
「旦那さまはご在宅かどうかわかりません……いまうかがってまいります」
女中は柵をあけてもくれなかった。あいかわらず車軸《しゃじく》を流すような雨だ。メグレはぐっしょり濡れていた。
女中は踏段をのぼって、家の中へすがたを消した。つづいて、窓のひとつでカーテンが揺れた。しばらくすると女中がもどってきた。
「旦那さまは、何週間かさきでなければ、お帰りになりません。ただいまはブレーメンにおいでです」
「それなら、奥さんと話がしたいんだが」
「奥さまは、お召し替えがまだなんです。しばらくお待ちいただかねばなりませんけど」
ずぶ濡れになってうんざりしていたメグレは、こぎれいな客間に通してもらった。窓にはカーテンがさがり、床には蝋《ろう》がひいてあった。
調度類はまだ新品で、小市民階級の家庭でよくお目にかかるようなものが多かった。良質の材料を使ってあり、一九〇〇年当時にいわゆるモダンと称していた様式であった。
明るい色調のオーク材。テーブルの中央にのせた凝った砂岩の壺《つぼ》。それにさした花。イギリス刺繍《ししゅう》をほどこしたテーブル掛け。
円テーブルの上をみると、これはまたうってかわって、りっぱな彫銀の大きなサモワールがおいてあった。ほかのどの調度よりも、これがこの部屋にいちばん調和しているように思われた。
どこか二階のほうで物音がした。また、一階の裏手のほうでも、赤ん坊の泣く声がきこえた。べつの声がにぶい単調なつぶやきを繰りかえして、それをあやしているようだった。
やがて廊下にスリッパをひきずって歩いてくる足音がきこえた。ドアがあいた。メグレの目の前にすがたを現わしたのは、ひとりの若い女だった。客ときいて、あわてて身づくろいをしたという感じだった。
中背で、痩せてはおらず、むしろふっくらとした印象だ。あどけない表情をひきしめて、瞬間、そこに漠然《ばくぜん》とした不安がよみとれた。
しかしながら、微笑をまじえていった。
「椅子にかけて、お待ちいただけばよろしかったのに」
メグレの外套からも、ズボンからも、靴からも、雨がしずくとなって蝋《ろう》びきの床に流れ、小さな水溜りをこさえていた。
そんなしだいで、緑色のふかふかした安楽椅子に、腰をおろすわけにもいかなかったのだ。
「スワンの奥さんですな」
「はい。さようでございますが……」
女は怪訝《けげん》な表情でメグレを見かえした。
「突然おじゃまして、すみません。ほんの形式的な手続きなんでして……じつは、わたしは警察の外国人登録課のものですが、このたび、人口調査をおこなうことになりましてね」
彼女はなんとも答えなかった。不安とも安堵《あんど》ともつかない表情をたもっていた。
「ご主人はたしかスウェーデンの方でしたな。ちがいますか」
「いいえ、ノルウェー人ですわ。フランスのかたにとっては、どちらでもおなじようなものですわね。わたくしも当初は……」
「職業は船員ですね」
「二等航海士の資格で乗っておりますの。ブレーメンの『海魔丸《ゼートイフェル》』という船ですわ」
「そうでしたな。では、会社はドイツですな」
彼女はぽっと顔をあからめた。
「船主はドイツ人でございます。すくなくとも名義の上では……」
「といわれると?」
「かくしだてする必要もないようですから、お話ししますわ。ごぞんじでしょうが、戦争からこのかた、海運業界は恐慌にみまわれています。お名前をあげてもよろしいですけれど、仕事がないために、船長さんでありながら、二等航海士、三等航海士に身をおとして働いておられるかたはずいぶんいらっしゃいます。それがいやなら、ニュー・ファウンドランドや北海近辺まで漁獲にでむいていくよりしかたがないということで」
彼女は一気呵成《いっきかせい》にしゃべりだした。しかし語調はやわらかで、いささかも淀《よど》みがなかった。
「太平洋方面ならいくらか仕事もあるのですけれど、まるまる二年間ヨーロッパを離れるというので、主人は契約書の署名をしぶりました……わたくしたちが結婚してまもなく、『海魔丸《ゼートイフェル》』はアメリカ人に買い取られました。名義上の船主はドイツ人になっているわけです。それに、はっきり申しますと、主人がフェカンにまいりましたのも、ここでゴエレット船〔二本マストの細長い船〕を売りたい者があるかどうか、それを確かめるためだったのです。
ここまで申しあげれば、おわかりでしょう……主人はアメリカへのアルコール類の密輸に関係していたのです。
大会社はみんな、アメリカ資本の上に成りたっているわけなんです。そして、それらの会社はフランスなり、オランダなり、ドイツなりに本拠をおいているのですね。
主人がはたらいているのも、実際はそうした会社のひとつなんです。『海魔丸』は、俗にいう[ラムの通い路《じ》]の役目を果たしているというわけですわ。
したがって、主人は、船主のドイツ人に会う機会など、ぜんぜんありませんの」
「現在は航海中なのですか」
メグレは視線をそらさずにたずねた。美しい顔は率直そのもので、ときには感動的とうつることさえあった。
「ではないと思います。ああした船の日程は、ふつうの定期船のように規則的なものではありませんの。でも、わたくしはいつも、『海魔丸』のだいたいの位置を計算してみることにしています。現在なら、ブレーメンにいるか、あるいはもうすぐ入港というところでしょう」
「あなたはノルウェーへいらっしゃったことがおありですか」
「一度もありません。ノルマンディーを一歩も出たことがないといってもよいくらいですわ。ほんの二、三か月だけ、パリに滞在したことはありますけれど」
「ご主人とごいっしょに?」
「ええ、新婚旅行のとちゅうでした」
「ご主人は金髪ですな?」
「はあ……でも、なぜ、そんなことをおききになりますの?」
「小さな口髭を生やしておいでですな、唇とすれすれに刈りこんだ?」
「はあ……なんでしたら、写真をお見せしてもようございます」
彼女はドアをあけて出ていった。隣りの部屋を歩きまわる足音がきこえた。
しかし、不自然なくらいながい時間、すがたを見せなかった。その間、別荘のなかでは、何度もドアを開け閉めする音がきこえていた。説明はつけがたいが、人が出入りしていることはたしかだった。
やっと彼女はもどってきた。すこし困った顔で、ためらいがちにいった。
「お待たせしてすみません。どうしても、写真が見あたりませんの。子供がおりますと、家の中が散らかってしまいまして……」
「もうひとつ、おたずねしたいことがあるんです。あなたがご自分の写真をおあげになった相手は、何人くらいですか」
メグレは手に入れた写真の見本をみせた。スワン夫人は真赧《まっか》になって、口ごもりながらいった。
「さあ、わかりませんわ」
「ご主人はおそらく、お持ちでしょうな」
「はい……婚約当時に……」
「ほかに、この写真をやったおぼえはありませんか」
彼女はいまにも泣きそうであった。唇のふるえが、内心の狼狽《ろうばい》をしめしていた。
「ございません」
「いや、どうもお手数をかけました」
警部が帰りかかると、女の子がひとり、いつのまにか次の間へでてきた。メグレにはしげしげとながめる必要もなかった。その顔はピートル・ル・レトンに生き写しだった!
「オルガ!」
母親が叱《しか》りつけるようにして、その子を半びらきのドアのほうへ押しやった。
警部はふたたび雨のなかへ、突風のさなかへ足をふみだした。
「失礼します。奥さん」
なかば開いたドアのあいだから、また一瞬ちらっと、夫人の顔がみえた。不意の訪問でおどろかせたメグレだが、彼は、なぜかこの女を、その微温的な別荘へ、そっとそのままにしておいてやりたいような気がした。そしてまた、ドアをしめるその若い母親の眼のおくには、なんとも形容しがたい微妙なものだが、一種の苦悩に似た翳《かげ》がひそんでいた。
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五 酔いどれたロシア人
そうしたことは自慢にはならなかった。人に話したところで、微苦笑を買うのがせいぜいだろう。しかしながら、それをやりとげるには、ある意味の英雄的勇気を必要とした。
メグレは一睡もしていなかった。朝の五時半から八時まで、風通しのよい車室でゆられどおしだったのだ。
ラ・ブレオーテ駅をおりてからこっちは、文字どおり水びたしだった。いまでは一足歩くごとに靴が泥水を吐きだすしまつである。山高帽は型がくずれ、外套も上着もびしょびしょのありさまだった。
風は平手打ちさながらの烈しさで、彼のからだに雨粒をたたきつけた。露地はひっそりとして人影がなかった。両がわを庭壁にはさまれた一本の小径《こみち》、といったようなものにすぎなかった。そのまんなかを、雨水が滝となって流れていた。
メグレはながいあいだ、そこを動かなかった。ポケットにいれたパイプまでが湿っている。別荘の近くには、身をかくす場所もなかった。どうかこうか壁ぎわに身をよせて、待っているより方法がなかった。
もしだれかが通りかかったとしても、そんなメグレの姿をみればたちまち踵《きびす》を返したことだろう。何時間も何時間も、そうして立っていなければならないかも知れなかった。さっきの家のなかに、男がいるという確固とした証拠はないのだ。また、もしいたとしても、かならず外出するときまったものでもあるまい。
しかし、メグレは不機嫌《ふきげん》な面持ちで、しめったパイプにタバコを詰めると、あるかないかの凹所《おうしょ》をえらんで身をよせた。
いやしくも司法警察の、警部たるもののやるべき仕事ではなかった。せいぜいが新米刑事の職務であった。メグレは二十二歳から三十歳になるまで、こうした張込みを何十回となく経験してきた。
マッチをするのが、またたいへんな苦労だった。鑢紙《やすりがみ》がぬれてはがれかけた。もしかりに、マッチが点《つ》かなかったとすれば、メグレはそこを立ち去っていただろうか?
彼のいる場所からは、なにも見えなかった。見えるのはただ、別荘のひくい壁と緑色に塗った鉄柵だけだった。足が痛んだ。つめたい風が襟首から吹きこんできた。
フェカンの町は眼下にあった。しかし、彼の眼には、その町並みは映っていなかった。潮騒《しおさい》の音と、船の汽笛のさけびと、自動車の騒音が、間《ま》をおいてきこえていた。
見張りにたって半時間もすぎたかと思うころ、料理女らしい風体《ふうてい》の女がひとり、買物籠《かいものかご》をさげて急な坂道をのぼってきた。そばまできてはじめて、メグレの存在に気がついた。風に吹きさらされた露地の壁ぎわに、微動もせず立ったその巨大な影をみて、女はおびえて駈けだした。
たぶん、この上のほうの別荘で働いている女なのだろう。
四、五分すると、また一人の男が曲り角にあらわれた。女連れだったが、遠くからメグレの姿をみとめると、二人とも家のほうへひきかえしていった。
情況としては滑稽なものだった。この立ちんぼうが効果をおさめる確率が十に一つもあるまいということは、警部自身も承知していた。
それでもやはり、彼はその場を去らなかった。予感とさえ呼べないようなものであったが、ある漠然とした感じが胸にわだかまっていたからだ。
それはむしろ、メグレにとってひとつの理論と化していた。それ以上に発展をみることもないままに、判然としないかたちで、彼の心にわだかまっていたが、やはり一種の理論にはちがいなかった。彼は自己流の呼びかたで、それを[断層の理論]と名づけていた。
いかなる犯罪者、いかなる極悪人であろうとも、そのなかには、一個の人間がひそんでいるものだ。しかしながら、一方そうした人種の心には[やくざ]というか敵役《かたきやく》のような因子が存在している。通常、警察が目をむけ、襲いかかる対象は、この後者なのである。
犯罪がおこなわれるというのは、言葉をかえていえば、そこになんらかの断層が形成されることではなかろうか。
多少とも対立する因子のあいだでは、そこに争闘がおこなわれるのが当然だ。理性が解明をめざして、しかも酬《むく》われない一ないし数個の問題が、そこに醸《かも》されているのである。
メグレのとる行動は、他の警察官のそれといささかの変りもなかった。ベルティヨン、ライス、ロカールの諸家が犯罪捜査面に導入し、もって一つの純正科学となしたあの奇異な捜査方式を、彼とても採用していないわけではなかった。〔ベルティヨン、ライス、ロカールはいずれも著名な犯罪学者。二十世紀初頭にそれぞれ人類学、写真技術、犯罪心理学を警察活動に応用して、画期的な貢献をなした〕
しかしながら、彼が求め、待ちのぞみ、狙《ねら》っているものは、ひとえにこの[断層]であった。いいかえれば、[敵役]のかげから[人間]がすがたをあらわす瞬間なのだった。
ホテル・マジェスティックで、彼の前にしていたのはその[敵役]のほうだった。
しかし、ここフェカンの町では、ある別の予感におそわれたのだ。秩序整然とした平和そのものの別荘風景は、どう考えてみても、ピートル・ル・レトンの内的|葛藤《かっとう》とは結びつきようがなかった。ことにあの女と二人の子供たちは、物質的にも精神的にも、まったく異質の世界にぞくしていたのである。
だからこそ、メグレは、むしゃくしゃしながらも待ちつづけるのだ。本来ならば、オフィスのテーブルに良質ビールの大コップを林立させ、お気にいりの大型ストーヴを前にすわっていられたのだ。颱風のなかに濡れそぼって立番するなどという憂き目をみなくてすんだのだが……
彼が張込みを開始したのは午前十時すぎだった。十二時半になると、砂利道にきしる足音がきこえた。やがて正確かつ敏速な動作で鉄柵があいた。メグレから十メートルとはなれないところに、一個の人影がうかびあがった。
警部には身をかくす余地もなかった。彼はあいかわらず、根が生えたようにその場につったっていた。いっそ無気力からといったほうがよいかもしれない。ズボンに水が浸透して、その両脚を大きくみせていた。
別荘から出てきた男は、粗悪なベルトつきのトレンチ・コートを着て、擦《す》りきれた襟を立てている。頭にはグレイのハンティングをのせていた。
その扮装《ふんそう》が男をひどく若々しくみせていた。両手をポケットにいれ、戸外へでて気温が急に変わったためか、肩をすぼめて顫《ふる》えながら、坂道をくだりはじめた。
男は警部の前一メートルと離れないところを通らねばならなかった。通りすぎる瞬間、男は歩調をゆるめ、ポケットから煙草の袋をとりだして火をつけた。
その動作からすると、男はわざと自分の顔を照らしだして、警部の注視の的になりたいらしい!
メグレは男を二、三歩やりすごしておいて、眉をひそめながら尾行をはじめた。パイプの火は消えていた。彼の全身から、不快感と同時に、理解しがたいものへの焦躁感がふきだしていた。
それは、トレンチ・コートの男が、ピートル・ル・レトンに似てしかも非なるものであったからだ! 身長はおなじ一六九センチ前後。服装からするとむしろ二十六歳ぐらいともとれるが、また三十二歳前後と見えなくもない。
れいの『人相書』と齟齬《そご》する点はどこにもなかった。メグレはその人相書をいまもポケットにいれていた。いやその全文を暗記していたといってよい。
それでいながら、まったくの別人なのだ! たとえば眼だ。その眼にはもっとやわらかな、郷愁に似た表情があった。瞳を雨で洗いおとしたように、灰色の部分が澄みきっていた。
この男には、歯ブラシのような小さな口髭がなかった。けれど、相貌《そうぼう》をかえているのは、その点ばかりではなかった。
ほかにもメグレをおどろかせる特徴が多々あった。
物腰にしても、とても商船勤務の航海士とは思えぬものだった。それはまた別荘風の住宅や、小市民的な生活や、そうしたものの発散する平穏な雰囲気とも、どうしてもそぐわぬものであった。
靴はすり減って、かかとがいっぽうに傾いていた。男が泥はねをよけようとズボンを捲《まく》りあげたひょうしに靴下がみえた。灰色の木綿《もめん》靴下で、色はあせ、大きなつぎがあたっていた。
トレンチ・コートは種々雑多な汚点《しみ》でいっぱいだった。全体からうける感じは、メグレにはおなじみのものだった。それは間断なく東部方面からヨーロッパへ流れこんでくる浮浪民の感じだった。パリでも最下層の家具つき貸間に宿をとり、駅の構内に寝ることもしばしばだ。地方へ出かけることはめったにない。汽車に乗るのもふつうは無賃かせいぜいが三等、列車のデッキの上だの貨車のなかだので転々と旅をする種族なのだ。
数分とたたぬうちに、そのことが証拠だてられた。フェカンの町には、一般にいうような意味での貧民街といった地域は存在しない。しかしながら、波止場の裏手には、むさくるしい酒場も二、三軒はあった。漁夫よりはむしろ沖仲仕連中の出入りする店だ。
そうした店々から十メートルばかり離れて、清潔な明るい感じのカッフェが一軒あった。
トレンチ・コートを着た男は、そのカッフェの前を通りすぎると、そのさきの汚ない酒場へずかずかとはいっていった。当然のことながら、いちばん薄暗いすみっこに腰をおろし、カウンターに両肘《りょうひじ》をついた。
この動作がメグレをまごつかせた。
いかにも場慣れのした動作で、俗な言葉でいえば、ざっかけない親しみがこもっていた。メグレも現在の社会的地位にいなかったならば、ひとつ真似《まね》てみたいところであった。
メグレもつづいてはいっていった。
男はアブサンのまがいものを注文すると、そのままの姿勢ですわっていた。口をひらこうともしない。虚《うつ》ろなまなざしを、そばに立ったメグレの上へ無表情にそそいでいた。
衣服の合わせ目から、あやしげな下着がみえていた。これも同様にちょっと真似ようのないものだ。ワイシャツの取りはずしカラーはよじれて一本の紐《ひも》のようになっていた。何日も、いや何週間もぶっとおして着ているにちがいない。おそらく服を着たまま眠ったのだろう。どこに寝たかわかったものではなかった。
店内は蒸し暑かった。雨はいぜんとして降りつづいている。
背広も品のよいものとはいえなかった。これも負けずおとらず、無頼な放浪生活のあとをほうぼうにとどめていた。
「おかわりだ」
グラスは空になっていた。
店の亭主はそれに注ぎおわると、メグレの前にもフィランシスとよばれる[強いやつ]を一杯だした。
「おや、またここで一緒になったね」と、メグレは声をかけた。
男は返事もせずに、最初の一杯とおなじように、ぐっとひと息にあおると、カウンターにグラスをのせて、もう一杯注ぐように合図した。
「召しあがりものはいかがです。鰊の酢漬けがありますよ」
メグレは小型ストーヴのほうへ歩いていって、雨傘のように濡れて光る背中をあたためにかかった。
亭主は失望したふうもなかった。警部のほうへ目くばせしてみせると、またトレンチ・コートの客にむかって話しかけた。
「ところであんた、先週でしたが、あんたの国の人が店へみえましたぜ。ロシア人で、アルハンゲルスクの生れだそうです。スウェーデンの三檣帆船《さんしょうはんせん》の船員だったが、嵐のために船を碇泊《ていはく》させなきゃならなくなったとかでね。いやまったく、酔っぱらってる余裕なんてものは、とんとないらしかったね。悪魔どもに総がかりでいたぶられたようなひでえ態《ざま》でね……帆はちぎれる、帆桁《ほげた》は二本まで折れちまう、根こそぎ壊されちまってましたよ」
男はもう四杯目のアブサンにかかって、あいかわらずせっせとグラスをあけていた。
主人はグラスが空になるごとに注いでやりながら、そのつどメグレのほうへ、こっそり目くばせを送った。
「スワン船長のほうは、そうですな、あんたがこの前きたとき以来ぜんぜん姿をみせないね……」
メグレ警部は胴震いをおぼえた。
トレンチ・コートの男は五杯目をぐいっとほしたところだった。あぶなっかしい足どりでストーヴのそばへ寄ってくると、メグレを押しのけて、両手を火にかざした。
「そんなことより、はやく鰊《にしん》をだしてくれ」
男は明快なアクセントでそういった。そのロシア訛りは警部にもはっきりと聞きわけられた。
二人はそうやって、そこにならんで立っていた。いや、むしろ反発しあいながら、といったほうがよいだろう。
男はくり返しくり返し、顔に手をやった。眼の色がしだいにどんより曇ってきた。
「おれのグラスはどこへやった?」
いらだたしそうに、そんなことを呟《つぶや》いた。
メグレはわざわざその手にグラスを握らせてやらねばならなかった。男は飲みながらも、メグレのうえに目をすえて、面白くなさそうな渋面をつくっていた。
まぎれもない嫌悪《けんお》の表情だ。
その感情をいっそう強調してみせるように、男はグラスを土間にたたきつけた。そして椅子の背へもたれかかると、外国語でなにか呟きつづけた。
亭主はすこし不安になったのか、メグレのそばにやってきて小声でささやいた。いや、そのつもりなのだろうが、そんな声の調子では、一語一語がロシア人につつぬけだったようだ。
「ご心配はいりませんよ。いつだって、この体《てい》たらくなんですから」
男は酔っぱらいにありがちの曖昧《あいまい》な笑いをうかべた。どさっと椅子に倒れこむようにすわると、両手で頭をかかえ、そのまま動かなかった。その間に亭主は、男の両肘のあいだのテーブルに、ソースをかけた鰊料理の皿をおしこんでやった。
そして男の肩をゆすぶっていった。
「さあ、あがんなさいよ。食べれば気分もよくなりますぜ」
相手はまた笑った。むしろ苦しい咳払《せきばら》いといったほうがよかった。またメグレを眼でさがして、臆面もなくじろじろながめていたが、急に皿をテーブルからつきおとした。
「酒だ!」
亭主は両手を高くあげて、申し訳のようにつぶやいた。
「やれやれ、露助《ロスケ》ってやつは、まったく……」
そして額の上に、人さし指でくるっと円を描いてみせた。
メグレは山高帽をあみだに押しあげた。着衣から灰色をした湯気が立ちのぼっていた。[強いやつ]をまだ二杯目も空けていなかった。
「おれにも鰊をくれんか」と、彼はいった。
パンを一斤そえてもらって、いざ食事にかかろうとしたときだった。
ロシア人がにわかに立ちあがった。手肢《てあし》はぐにゃぐにゃのまま、なにをしているのかもわからぬような始末であたりを見まわした。そしてメグレに目をすえると、またしても小馬鹿にしたような冷笑をみせた。
つづいてふらふらとカウンターに倚《よ》りかかると、重ね棚のグラスを一つとった。錫《すず》のバケツからも、水で冷やしてある酒壜《さけびん》をぬきとった。
それから、壜をたしかめることもしないで、手酌《てじゃく》でつぎ、歯をがちがち鳴らせて酒をあおった。
やがてポケットから、百フラン紙幣を一枚つまみだすと、
「これで足りるだろう、おやじ?」
と、亭主にいった。
紙幣が宙に舞った。亭主は濡れたそれを、あわてて流し台から拾いあげねばならなかった。
ロシア人はドアの取っ手をひっぱっていたが、なかなか開かなかった。しかし問題はなかったようだ。亭主が手伝おうとそばへ寄っていくと、男は肘でつきのけたからである。
トレンチ・コートの影は、霧雨《きりさめ》のなかを海岸ぞいに、駅の方角へ遠のいていった。
「いやはや、とんだ野郎ですよ!」
勘定をはらっているメグレのほうへ、亭主は溜息《ためいき》まじりにそういった。
「よく来るのかね」
「ときたまですよ。一度なんざ、この店でひと晩明かしちまいましてね。いままで旦那がすわってらしたあのベンチに寝ちまってね。ありゃロシア人なんです。なんでも奴《やっこ》さんがはじめて姿をみせた当日に、ロシア水兵が多勢フェカンの港へ上陸してたっていう話で……あれでなかなか教育があるとみえますな。あの男の手をごらんになったでしょう?」
「スワン船長にそっくりだとは思わんかね」
「おや! スワンさんをご存じですかい。もちろん、似てますとも。まちがえるところまではいかないにしても、とにかく似てますな。あたしなんざ、ずっと前から、兄弟じゃないかと思ってたくらいで」
灰色のうしろすがたが曲り角にきえた。
メグレは足をはやめた。
駅の三等待合室へはいったところで、彼はロシア人に追いついた。ロシア人はベンチに腰をおろし、また両手で頭をかかえこんでいた。
一時間ののち、二人はおなじ車室の客となった。もうひとり、イヴトー東方の家畜商だとか称する男がいっしょだった。その商人は、メグレにむかって、ノルマンディー方言でさかんに退屈な会話をもちかけてきた。そうしながらときどきメグレを肘でつついて、隣りの酔いどれ客に注意をうながした。
ロシア人は、しらずしらずにずっこけて、座席に酔いつぶれていた。蒼《あお》ざめた顔を胸におりたたみ、半びらきの口から酒くさい息を吐いているのだった。
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六 『シチリアの王』にて
ラ・ブレオーテ駅で乗りかえて、発車まぎわに目をさまして以後、ロシア人はもう眠ろうとしなかった。また事実、そのル・アーヴル=パリ間の急行列車は満員だったということもあった。
メグレと例の商人はずっと廊下にいた。それぞれ昇降口に陣どって、刻一刻と暮色にむしばまれていく外の風景に目をはせていた。
トレンチ・コートの男は、もう警部の存在などぜんぜん意識においていなかった。サン・ラザール停車場に降りたときも、混雑を利用して逃走しようという気はさらさらないように思われた。
むしろ逆に、ゆっくりした足どりで大階段をおりていった。煙草の袋が濡《ぬ》れてしまったのに気がつくと、駅の売店であらたに一個買いもとめた。つづいて簡易食堂へはいろうとするようすをみせたが、気をかえて駅を出、舗道にそって歩きだした。
足をひきずりひきずり、見るもいたいたしい風情《ふぜい》だった。その姿はまさしく、完全な放心と同時に、なんの反応もしめしようがないほどの憔悴《しょうすい》状態をうかがわせた。
サン・ラザール停車場から市役所までは、かなりの道程があった。パリの市街の中心部を通らねばゆけなかった。ことに夕方の六時から七時という頃合《ころあ》いである。通行人は舗道に波うち、自動車群は動脈のうずきにも似た早いリズムで街をながれていた。
やせた肩をおとし、泥と機械油によごれたレインコートをベルトでぎゅっと締め、遅々とした歩みで灯《ひ》だまりをひろっていく。途中で人とぶつかってはよろけそうになるのだが、それでも、立ちどまろうともふり返ろうともしない。
男はいちばんの近道をとって、九月四日通りから中央市場《レ・アル》をつっきって進んだ。それはいつもこの道順をとる習慣らしいことを示していた。
やがてパリのユダヤ人街にかかった。その中央をつらぬいているのがロジエ小路《こうじ》だ。ユダヤ文字で書かれた看板にぶつかりながら、肉屋の窓口や無酵母パンのウィンドウを横にみて、とぼとぼと歩きつづけた。
トンネルさながらに暗くながい露地の入口で、ひとりの女が彼の袖《そで》をひきかけた。が、彼がなにもいわぬさきに、女のほうで手を離した。いかな女もおどろいたらしい。
まもなくロワ・ド・シシール街へはいった。不規則な道筋、無数の袋小路とほそい露地、人のごったがえしている小広場。ユダヤ人地区と昔のポーランド移民街が半々になっている町だ。
二百メートルほどいったところで、男のすがたは、とあるホテルの入口に吸いこまれた。
正面入口の文字は『シチリアの王』と読まれた。
その下には、ヘブライ語、ポーランド語をはじめ、わけのわからぬ外国語が記されていた。なかにはロシア語もあったろう。
横手には普請場《ふしんば》がみえた。大梁《おおはり》のたすけをかりて、それが建物ぜんたいを支えていたのだ。
あいかわらず雨は降っていた。だが突風は、この裏町の小路までは吹きこんでこなかった。
メグレの耳に、ホテルの四階で、にわかに窓のしまる音がきこえた。彼はロシア人にならって、ずかずかはいっていった。
玄関にはドアというものがなかった。階段をのぼった。中二階にガラス張りの小部屋があり、なかではユダヤ人の家族が食事のさいちゅうだった。
警部がノックすると、ドアはあかないで、四角な窓口がするするとあがった。饐《す》えたような匂《にお》いがただよってきた。ユダヤ人の亭主は頭の上に黒いお釜《かま》帽をのせていた。でっぷりした細君のほうは、食事の手をやすめようとしなかった。
「なんの用ですかな」
「警察のものだ。いまもどってきた止宿《ししゅく》人の名前を知りたいんだ」
亭主は母国語でなにかつぶやきながら、引出しから埃《ほこり》まみれの帳簿をとりだし、だまって窓口ごしにメグレのほうへ押してよこした。
その瞬間、メグレは、灯のついていない階段の上から、だれかが自分を見ているのを直感した。すばやくふりかえった。十段あまりの階段の上方に、一対の眼が光っていた。
「部屋番号は?」
「三十二号です」
メグレは帳簿をくって、読んだ。
『フィオドル・ユーロヴィッチ、二十八歳、ヴィルナ生れ、労働者。アンナ・ゴルスキン、二十五歳、オデッサ生れ、無職』
ユダヤ人の亭主はまた席にもどって、食事をつづけていた。まっとうな良心の持ち主といったようすにみえた。
メグレはこつこつと窓口のガラスをたたいた。亭主は気の進まぬようすでのろのろと腰をあげた。
「このフィオドル・ユーロヴィッチというのは、このホテルに住んで、何年くらいになる?」
「かれこれ三年近いですな」
「アンナ・ゴルスキンのほうは?」
「もっと古いですよ……四年半にもなりましょうかね」
「なんで生活を立ててるんだ?」
「帳簿をごらんになったでしょう……労働者でさ」
「おい!」
メグレが一喝《いっかつ》した。相手の態度を一変させるに足る威圧的な声だった。
「あとのことは、こっちには関係のないことでさ、そうでしょう?」
と、亭主は熱心に弁解をはじめた。
「部屋代さえきちんきちんと払ってもらえば、出ていこうが帰ってこようが、なにも詮議《せんぎ》だてする必要はないと思いますがね……?」
「人は訪ねてくるかね」
「やっぱり同じご返事しかできませんや。お客の数は六十人をこえるんですぜ。なにか悪いことでもするならべつだが、そうでもないのに、いちいち見張ってるわけにゃいきませんからねえ。それに、警察のかたならご承知のはずだ。うちのは帳簿がじつにきちんとしたもんだってことはね。なんならヴェルムイエ刑事にきいてごらんなさいよ。あのひとは毎週しらべにみえるんですから」
メグレがだしぬけに振りむいてさけんだ。
「降りてきたまえ、アンナ・ゴルスキン!」
階段にかすかな気配が、つづいて足音がきこえた。やがて、ひとりの女が、灯だまりのなかへ降りてきた。
彼女は帳簿に記載された二十五歳という年齢よりずっとふけてみえた。この民族の属性ででもあるのだろう。その年齢のユダヤ女の例にもれず、彼女も肉付きがよく、それでいてある種の美しさはそこなわれていなかった。瞳《ひとみ》はきわめて黒かった。それにくらべて、角膜は異常なまでに白く輝いて、きわだった対照をしめしていた。
しかしながら、一方、ひどくなげやりな面もあって、そうした印象をだいなしにしていた。黒くこわい髪は櫛《くし》のあとさえなく、幅びろの束となってうなじに垂れている。着ふるした部屋着をはおっているのだが、打合わせがひらいて、おくの下着がのぞかれた。
靴下は、ずんぐりした膝《ひざ》がしらの上のところで丸まっていた。
「階段の上なぞで、なにをしていたんだね」
「あっちがわたしの部屋なんですよ」
自分の相手にしているのがどういう種類の女であるか、メグレはただちに感じとった。激情的で、ずぶとく、喧嘩っぱやい、そんな類《たぐ》いの女だ。ちょっとした機会でもみつかれば、ひと騒動まきおこして、ホテル中の人間を味方にひきこみかねない。刺すような悲鳴をあげたり、根も葉もない悪口|雑言《ぞうごん》を吐きちらすぐらいは朝飯前だろう。
そうした自分の手|強《ごわ》さを心得ているのだろうか。とにかく女は、決然とした態度で敵と相対していた。
「旦那の世話でもやいてたほうがいいんじゃないのか」
「よけいなお世話よ」
窓口のおくでは、ホテルの主人が頭を左右にふって二人を見くらべていた。いたましい表情は非難しているようにもみえたが、目はわらっていた。
「フィオドルが出かけたのはいつだね」
「きのうの晩、十一時ごろかね」
嘘《うそ》をついている! はっきり嘘だとわかった!
だが、真っ向からたちむかってもむだなことだ。あるいは、両肩をこの場でしっかり抑えて、留置場へ放りこまねばならぬことになるかもしれない。
「フィオドルはどこで働いてるんだ」
「気のむくままね」
はだかった部屋着の下で、乳房がゆれた。軽蔑するように口もとがゆがんだ。
「警察がフィオドルに、いったい、なんの用があるっていうのよ?」
メグレはわざと優しい声をだした。
「部屋へもどったらどうだ」
「もどりたければもどるよ! なにもあんたの指図をうけるつもりはないさ」
これ以上、押し問答しても埒《らち》はあくまい。騒ぎでもおこせば、捜査に支障をきたすのが関の山だ。
メグレは帳簿をとじて、亭主に返した。
「ただの捜査手順なんでしょう?」
亭主は若い女のほうへ、黙っていろと手まねで制しながらいった。
だが女は、握りこぶしを腰にあてたまま立ちはだかっていた。小部屋をもれる光線に半身を照らしだされ、あとの半分は蔭になっていた。
警部はもういちど女をながめやった。
女はその視線をしっかり受けとめて、呻《うめ》くようにいった。
「ふん! そんな顔をしたって、ちっともこわかないよ……」
メグレは肩をすくめると、両側のせまい壁にぶつかりながら、階段をおりていった。
玄関で、メグレは二人のポーランド人にぶつかった。ワイシャツのカラーもつけていない男たちで、メグレのほうをふり返っていた。
外はまだ雨だった。街の灯が石甃《いしだたみ》にひかっていた。
どんな小さな物蔭にも、どこの袋小路、どこの露地にも、人間がうごめいていた。窺知《きち》をゆるさぬ破廉恥《はれんち》な生活のいぶきがあった。壁をすれすれに通りすぎる人影。フランス人には名前も知らぬような品物を売っている店々がひしめいている。
百メートルたらずの先を、リヴォリ街からサン・タントワヌ街へと連なる大通りが走っていた。明るくひろい道幅。市街電車。ショウ・ウィンドウ。それに警官たち。
メグレはそばを駈けていく子供の肩をつかんで引きとめた。キャベツの葉のような耳をした小僧だ。
「サン・ポール広場へいって、おまわりさんを呼んできてくれ……」
だが、小僧はあっけにとられた顔で、なにか意味をなさないことをつぶやいた。フランス語というものを一言も知らないのだ。
警部はあらためて、ひとりの浮浪者をみつけた。
「ここに百スウある……この札をサン・ポール広場のおまわりにとどけてくれ……」
浮浪者はうなずいた。
十分ほどして、制服警官がやってきた。
「司法警察へ電話して、刑事を一人よこすようにいってくれ……できたらデュフールがいいんだが」
その後三十分ばかりのあいだ、メグレはほとんどその場を動かずにいた。例のホテルには、何人もの連中が出入りした。が、そのあいだも、四階の左から二つ目の窓には、灯がつきっぱなしだった。
アンナ・ゴルスキンが玄関口にあらわれた。部屋着の上から緑色の外套をひっかけている。帽子もかぶらず、雨の中だというのに、赤いサテンのサンダルをつっかけたままだった。
彼女は足早に通りをよこぎってきた。メグレは物かげに身をかくした。
ある店へはいっていったが、十分ほどして出てきた。両腕に二本の酒壜《さかびん》と、無数の小さな白い紙包みをかかえて、またホテルへすがたを消した。
やっとデュフール刑事が到着した。当年三十五歳で、三か国語をたくみに操ることができる。ごく単純な事件をことさら紛糾させるという厄介な性癖の持ち主だったが、その特殊技能を買われて、重用されていた。
単純野卑な強盗事件であれ、街頭スリであれ、いつのまにか不可解な怪事件にしたてあげてしまって、自分はそのまんなかで途方に暮れるというのが、彼デュフール刑事の奇癖《きへき》だった。
しかし、張込みとか尾行とか、きまりきった仕事にはすこぶる役にたった。そのたぐいまれな辛抱づよさの賜《たまもの》だろう。
メグレは彼に、フィオドル・ユーロヴィッチと情婦アンナの特徴をおしえた。
「もうひとり相棒をよこしてやる。もしフィオドルかアンナのどちらかが外出した場合には、きみが尾行しろ。ひとりはここで張っていなくてはだめだ……わかったな?」
「まだ『北極星号』事件のつづきなんですか? するとあれは、マフィアのしわざなんですかね?」
警部はなんとも答えずに、そこを立ち去った。
十五分後には、司法警察本部へついた。デュフール刑事の相棒を派遣しおえると、メグレは、ストーヴをのぞきこんで、当番のジャンを烈《はげ》しくののしった。まだ、ストーヴに火がはいってなかったのだ。
外套をぬいできちんと洋服掛けにかけると、肩の形をなおした。
「女房から電話はなかったか?」
「今朝ありました。目下出張中だとお伝えしておきましたが……」
メグレ夫人はそうしたことには馴《な》れていた。
家へ帰ってもいいな、とメグレは考えていた。夫人は喜々としてキッスで迎えてくれるだろう。とるものもとりあえず、鍋《なべ》を火にかけて、香ばしいシチューを皿に盛ってくれるだろう。いくら忙しくても、メグレが食卓につけば、夫人は顎《あご》を手でささえて彼を眺《なが》めながら、
「いかが?」
と、きいてくれることだろう。
正午と五時には、そうしていつも食事の用意が整っているのだ。
「トランス刑事は?」と、彼はジャンにたずねた。
「朝の七時に電話がありました」
「マジェスティックからか」
「どこだか知りません。あなたが出かけられたかどうかをきいていました」
「それで?」
「午後五時十分すぎに、もう一度電話がありました。お待ちしているから、そうお伝えするようにということでした」
メグレは朝から鰊《にしん》しか食べていなかった。そのまましばらく、燃えはじめたストーヴを前にして立っていた。彼には、どんなに燃えにくい石炭でも熾《お》こしてみせるという、一種独特の手腕があった。
やがて、重い足どりで壁ぎわへむかった。そこには磁器の流し台と洗面器、タオル、それに鏡とトランクが置いてあった。そのトランクをデスクの中央へひろげて、着替えをした。清潔な下着にとりかえ、乾いた背広をきこむと、髭《ひげ》ののびた顎をおずおずとなでた。
「やれやれ!」
さかんに燃えはじめたストーヴへ、ちらっと羨望《せんぼう》の視線をなげて、椅子を二脚ひきよせると、濡れた服をていねいにそこへかけた。
デスクの上に昨夜のサンドウィッチが残っていた。外出の支度をしながら、立ったままで、それを貪《むさぼ》るようにつめこんだ。遺憾なことにビールがなかった。咽喉《のど》がすこしひりひりした。
それからジャンにむかっていった。
「どんな用ができるか知らんが、おれはホテル・マジェスティックへ行く。電話はそっちへまわしてくれ」
まもなく、彼はタクシーの座席におさまった。
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七 三幕目の幕合い
メグレが到着してみると、同僚のトランス刑事は階下のロビーにはいなかった。二階の一部屋をあてがわれ、夕食をふるまわれているところだった。料理や酒がならんでいた。
刑事は片目をつぶってみせながら、メグレに説明した。
「支配人の指し金なんですよ。階下にいないで、ここにいろというんです。泣かんばかりのようすで、一部屋提供してご馳走《ちそう》もだすからと頼むもんで、ここにがんばってたんです……」
低声《こごえ》でそういいながら、いっぽうのドアをゆびさした。
「レヴィングストン夫妻の部屋は、そっちなんです」
「モーティマーは帰ってきたのかね」
「朝の六時ごろです。びしょぬれで、泥まみれになって、かんかんに腹を立てていました。壁土とも石灰ともつかないもので、服はひどく汚れていたようです」
「で、なにかいっていたか」
「なにもいいません。人目を避けてこっそり自室へもどろうとしたんです。ところがホテルの者が、夫人がバアにいることを教えました。いや、ひどいものでしたよ! 結局、夫人はブラジル人の男を二人ばかりひっぱりこみましてね。そのためにバアを閉めようにも閉められないで、弱っていたのです……夫人ときたら、もうへべれけに酔ってましてね」
「で、どうなったんだ?」
「亭主は顔を青くしました。唇《くちびる》をゆがめて、二人のブラジル人に木で鼻をくくったような挨拶《あいさつ》をみせると、ものもいわずに細君の腕をつかんで連れていきました。細君はたぶんきょうの午後四時ごろまで眠っていたのでしょう……その頃まで、かれらの部屋では、物音ひとつしませんでしたからね……そのうちに、ひそひそと話し声がきこえました……モーティマーは、新聞を届けさせるように、フロントへ電話をかけていたようです」
「新聞では、あの事件のことは伏せてあったろうな?」
「だいじょうぶです。緘口令《かんこうれい》は守られているようです。たったひとつだけ、小さな記事がのっていましたが……それも、『北極星号』で一個の死体が発見され、警察では自殺と推定している……まあ、そんな程度のものでした」
「それで?」
「ボーイがかれらの部屋へレモネードを運んでいきました。六時になると、モーティマーはロビーへおりて、しばらくぶらついていました。わたしの前を二、三回通りすぎましたが、なにか考えごとにとらわれているらしく、心ここにないようすでした。それから、ニューヨークの銀行と、自分の秘書にあてて、暗号電報を二本打ちました。秘書というのは、四、五日前からロンドンにいるんです……」
「それだけかね」
「いましがた夕食をすませたところです。献立《こんだて》は牡蠣《かき》とロースト・チキン、それにサラダです。そんなことまで、ホテルでは、みんな教えてくれるんです。わたしをここへ閉じこめときたいもんだから、支配人はわたしのご機嫌をとろうと一所懸命なんですね。ついさっきも、夫妻がジムナーズ劇場へでかける予定だとわざわざ報《し》らせてくれました。演《だ》し物はなんでも四幕ものの[叙事詩]だそうですが、わたしにはどうもよくわからないので……」
「ピートルの部屋は?」
「いまだにからっぽです。わたしはドアに鍵《かぎ》をかけて、鍵穴に小さな蝋《ろう》のかたまりを詰めておきました。ああしておけば、誰かはいろうとすれば、かならずわかるわけです」
メグレはチキンの股《もも》のところをつまんで、なりふりかまわずかぶりついた。ストーヴを探したが、あいにくその部屋にはなかった。で、しかたなくスチームの上に腰をかけると、
「飲みものはないのかね?」
と、きいた。
トランスがマソン産の上等な白|葡萄《ぶどう》酒を注いでわたすと、警部はのどを鳴らして飲んだ。
そのとき、ドアにかるいノックがきこえた。メイドのひとりが密告者のような顔つきではいってくると、こう告げた。
「支配人からのおことづてです。レヴィングストンご夫妻からガレージの車をだすように指示があったそうです」
メグレはさっきオフィスで、ストーヴのほうへ投げたとおなじ悲痛な眼《まな》ざしを、テーブルにのこったご馳走の上にすえた。
そして、しぶしぶの口調で、「おれがいくよ」と、いった。「きみはここに張っていてくれ」
鏡の前にたってすこし身繕《みづくろ》いをし、唇と顎《あご》のあたりをぬぐった。
それからほどなく、彼はタクシーに身をひそめて、レヴィングストン夫妻が車に乗りこむのを待っていた。
待つほどのこともなく、夫妻はでてきた。夫は燕尾服《えんびふく》の上から黒の外套を着こみ、細君のほうは、前夜とおなじ毛皮にぬくぬくとくるまっていた。
彼女はかなり疲れているらしい。夫が片方の手で慎重にささえてやっていた。
車は音もなくすべりだした。
メグレはジムナーズ劇場に[招待日]のあることを知らなかったが、それでもかろうじて入場することができた。劇場の正面にはパリ警察の警官隊がピケをめぐらしていた。弥次馬たちは雨の中をものともせず、招待名士たちがつぎつぎに車をおりるのを見物していた。
メグレは劇場支配人にたのみこもうと、そっと通廊へまぎれこんだ。背広すがたで歩きまわっているのは、彼ひとりなので、汚点のようにめだった。
支配人は両腕をふりまわして、熱病やみのように抗弁していた。
「もういいかげんにしてくださいよ! [安い席]でいいからいれてくれって人は、あなたで二十人めなんですよ。おまけに、あなたは平服のままじゃありませんか!」
四方八方から、支配人を呼ぶ声がきこえた。
「やれやれ! まったく、こっちの身にもなってほしいもんだ」
結局、メグレは、案内ガールやプログラム売りにまじって、一つのドアのうしろに立ちつくしていた。
モーティマー・レヴィングストン夫妻は桟敷《さじき》席にいた。そこはぜんぶで六人が占めていた。そのなかのひとりは公爵夫人、ひとりは大臣であった。たくさんの人が桟敷を出たりはいったりし、手の甲にキッスしたり、たがいに微笑をかわしたりしている。
幕があがって、日光にかがやく庭園の場景があらわれた。しーっと制止する声。ひそひそと囁《ささや》きかわす声。しのびやかな足音。
はじめは曖昧《あいまい》だった俳優の台辞《せりふ》が、まもなくはっきり聞きとれるようになり、しだいに雰囲気が盛りあがっていった。
しかし、遅刻した客の到着はたえまがなかった。ふたたびしーっと制止の声。どこかで女性の笑う声もした。
モーティマー・レヴィングストンは、これまでになく尊大にかまえていた。燕尾服がじつによく似合った。白いシャツが象牙色の肌をきわだたせていた。
彼はメグレのすがたを見ただろうか? 見なかっただろうか?
案内ガールがメグレに腰掛けをひとつ運んできてくれた。彼はそれを、出演女優の母親だという黒い絹のドレスを着た、ぶくぶく肥った女と二人掛けにしなければならなかった。
第一幕、第二幕とすすんで幕合いになった。桟敷席の出入りは繁《しげ》くなった。興奮のざわめき。平土間の一等席から二階正面の特別席へむかって挨拶がおくられる。
休憩室から廊下のすみずみにいたるまで、蜂《はち》の唸《うな》りのようなざわめきで充《み》たされた。インド太公、実業家、政治家、芸術家などの名が、そこここで耳にされる。
レヴィングストンは三度、自分の席をたって平土間にやってきた。そして元首相と雑談をかわした。高らかな元首相の笑い声が響きわたった。
三幕目がおわった。舞台に花束がとどけられ、それを受けた痩《や》せっぽちの女優にたいして、盛大な拍手がおくられた。いっせいに補助椅子がたたまれ、床にひびく足音は波とまがうばかりだ。
メグレが例の桟敷へ目をやってみると、モーティマー・レヴィングストンの姿はなかった。
第四幕、最後の幕である。
それがあがる前、なにがしかの資格をもつものは、舞台裏から俳優たちのいる楽屋へ押しかけていく。ほかの連中はクロークめがけて殺到する。だれもが自分たちの車やタクシーのことを気にかけていた。
メグレは劇場の内部をさがすことで、たっぷり十分をむだにした。それから帽子もかぶらず、外套もないままで外へでた。彼は巡査や劇場のボーイや警官隊に問いただした。
結局、レヴィングストンの車は、ついさっき出発したばかりだということがわかった。それが駐車してあったのは、合札《あいふだ》売りたちがよくいく近所の酒場の正面だということだった。
自動車はサン・マルタン門の方角へむかったという。帽子や外套はクロークに預けっぱなしだった。
外では、見物人の群れがてんでに雨やどりの場所をみつけて、しばしをしのいでいた。
警部はポケットに両手をいれたまま、パイプをふかしつづけた。顔は気むずかしい仮面のようであった。
ベルが鳴りひびいて、人々はまたなかへ吸いこまれていった。警官隊までもが、最後の幕を見んものと姿をけしてしまった。
大通りは深夜十一時の素顔をあらわに見せていた。降りしきる雨の箭《や》は、光線に照らしだされて、よけい細やかになったようだ。映画館も客の波をはきだすと、いっせいに明りをけし、広告板をひっこめて表のドアをしめた。
人々は緑色の街燈の下でバスを待っていた。列は崩れてしまっているので、いざ到着したとなると、客のあいだに悶着《もんちゃく》がおこった。割ってはいった警官自身もそのいざこざに捲きこまれて、バスがいってしまったあとも、中っ腹の肥った男と口論をつづけている始末だった。
やがて一台の自動車がアスファルトをすべってきた。まだ停《とま》りきらぬうちにドアがあいて、一人の男が降りた。モーティマーである。燕尾服すがたで、帽子もかぶっていない。かろやかな足どりで砂利道をふんで、あかるい劇場の廊下へ進んできた。
メグレは運転手へ目をやった。百パーセントのアメリカ人だ。下顎のつきだした、ごつごつした顔立ちの男である。制服のなかで凍りついたとでもいうように、ハンドルの前から動かなかった。
警部はクッションを張った劇場のドアを、細めにあけてのぞいていた。
モーティマーは自分の桟敷席の後方に立ったままでいる。人をくったような俳優がきれぎれの科白《せりふ》を投げおわると、幕がおりた。花束の受け渡しと、われんばかりの拍手。
気の早い観客は出口へむかいはじめた。
しーっと制止の声がかかった。
さっきの俳優が作者の名を呼びあげ、最前列の客席までおりていって、当の作者を舞台の中央へひっぱりだした。
モーティマーは貴婦人の手にキッスしたり、高官と握手するのに忙殺されていた。案内ガールのひとりが彼の帽子と外套をとどけてきた。彼は百フランのチップをはずんだ。
夫人のほうはとみると、顔色が青く、眼の下にどすぐろい隈《くま》ができていた。二人は車にのりかけたが、そこでちょっと一悶着があった。
夫妻はなにか口論していた。夫人はヒステリックに抗弁している。モーティマーは煙草に火をつけると、腹立たしげなようすでかちっとライターを消した。
結局、彼が手で口をかこって、なにか耳打ちしたのが最後で、車はすべるように走りだした。
メグレのタクシーもすぐあとを追った。
夜も十二時半になっていた。
ラ・ファイエット街。トリニテ教会の白い円柱が足場にかこまれて立っている。
クリシイ街にはいった。
フォンテーヌ街までくると、自動車は『ピックウィック・バア』の正面にとまった。
青と銀の縞《しま》のユニフォームのドアボーイ。クローク。紅《あか》い緞帳《どんちょう》をわけると、タンゴの調べがあふれだした。
メグレもつづいてはいり、戸口のそばのテーブルに席をしめた。風通しがよすぎるので、そこはいつも空席になっているらしい。
レヴィングストン夫妻はバンドのそばに席をとっていた。モーティマーがメニュを受けとって、夜食のコースを選定した。男のダンサーが近づいてきて、夫人の前で一礼した。
夫人は踊りはじめた。モーティマーはおどろくばかりの執拗《しつよう》さで夫人のほうを眼で追いつづけた。夫人はパートナーとふたこと三言会話をかわしていたが、メグレのいる隅へは一度も目を向けなかった。
ここでは夜会服にまじって、ふつうの背広すがたも何人か見うけられた。
メグレは、さっきから彼のテーブルにつきたそうだったホステスを、手真似《てまね》で追いはらった。否応《いやおう》なしに、前にシャンパンの壜がすえられた。
あちこちに紙テープがぶらさがり、クラッカーがとびかっていた。メグレも一発を鼻のあたまに受けて、犯人の年増《としま》女をこわい顔で睨《にら》みつけた。
レヴィングストン夫人は、もう席にもどっていた。男ダンサーはしばらくフロアをうろついていたが、煙草に火をつけて、出口のほうへ歩きだした。
彼はにわかに紅い緞帳をまくって外へすがたを消した。三分ばかり経ってから、メグレはちょっと外をのぞいてみようという気になった。
が、ダンサーはそこにいなかった。
それからあと、退屈きわまる時間がつづいた。レヴィングストン夫妻はさかんな食欲を発揮していた。キャヴィア、シャンパン漬の松露《しょうろ》、アメリカ風のエビ料理、さらにチーズ……
夫人はもう踊らなかった。
メグレはシャンパンときくと総毛だつほうなのだが、それでも渇をいやす意味で一口ふた口すすった。前においてあった巴旦杏《はたんきょう》のグリルをうっかりつまんだもので、喉がやけつくように渇いていたのだ。
彼は時計をだしてみた。二時だ。
客足はようやくひきつつあった。踊り子がひとり登場して、このうえないほどの無表情でレパートリーをおえた。女三人をテーブルにしたがえた外人客がいて、ほかの客ぜんぶを寄せた以上の乱痴気《らんちき》さわぎを演じていた。
例のダンサーが外へでていたのは、十五分そこそこだったろう。いつのまにかはいってきて、すでに五、六人の婦人客をダンスに誘っていた。
だがもう、それも終わった。店内を倦怠《けんたい》の影がくまどっていた。
レヴィングストン夫人の顔は、いまや鉛色で、瞼《まぶた》まで青みがかっている。
レヴィングストンがボーイを呼んだ。毛皮のコートと、外套とオペラ・ハットが届けられた。
例の男ダンサーはサキソフォン奏者のそばに立って、不安げなようすで話していたが、メグレはその眼が自分のほうを見ているような気がした。
メグレはボーイ長を呼んだが、すこし待たされた。勘定をすますまでにはしばらく手間どった。
それでメグレが外へ出たときには、レヴィングストン夫妻をのせた車は、もうノートル・ダム・ド・ロレット通りの角を曲がろうとしていた。
舗道ぎわには空《から》のタクシーが五、六台ならんでいた。で、メグレはその一台に近づいていった。
ぱしっというような銃声がした。
メグレは胸に手をあてて、あたりに目をくばった。なにも見えなかった、が、ピギャール街のほうへ逃げていく足音がきこえた。
彼は見えぬ糸にひかれるように五、六メートル走った。ドアマンが駆けよって、彼を扶《たす》けおこした。ピックウィック・バアの連中も、なにごとが起こったのかととび出してきた。その人混みのなかに、メグレは例のダンサーのそわそわした姿をみとめた。
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八 メグレ本腰をいれる
モンマルトル界隈《かいわい》で夜をあさっているタクシーの運転手連中は、みなまでいわぬさきにこっちの意図を察してくれる。それどころか、ぜんぜんなにもいわなくても、呑《の》みこんでいてくれる場合がおおい。
銃声がひびいた瞬間に、ピックウィック・バアのおもてに駐車していた一台の車が、乗ってくれとばかりに、メグレのほうへ客席のドアをあけた。メグレの素性を知っているわけはない。それとも、彼の風体《ふうてい》からして、警察関係の人間だと察したものだろうか。
向いがわの小さなバアからも、嫖客連《ひょうきゃくれん》が走りでてきた。五分とたたぬうちに、怪我人《けがにん》のまわりは弥次馬たちでいっぱいになった。ドアボーイはメグレを抱きかかえたものの、どうしたらよいか迷っているようすだ。それを例の運転手が手をかして、あっというまに客席へ運びこんだ。そして一分とたたぬうちに、タクシーは走りだしていた。メグレは座席に凭《もた》れこんでいた。
十分ばかり走ったと思うころ、タクシーはひっそりした裏通りに停車した。運転手はいったんおりて、うしろの客席のドアをあけた。客は片手を上着《うわぎ》の下へすべりこませてはいたが、あとはほとんど正常の姿勢ですわっていた。
「たいした怪我じゃなかったようですね。あっしの思ったとおりだ。どっちへやりましょう?」
メグレはすこし動顛《どうてん》したらしかったが、傷が表面的なものだとわかって毅然《きぜん》とした態度をとりもどしていた。胸の肉が裂けている。弾丸は肋骨《ろっこつ》をかすめて、肩胛骨《けんこうこつ》のあたりから外へぬけていた。
「警視庁だ……」
運転手はなにか意味をなさぬことをつぶやいた。
車が走りだすと、メグレは気を変えてこういった。
「ホテル・マジェスティックへたのむよ。ポワンチュウ街の通用門でおろしてくれ」
彼はハンカチをまるめて、傷口に当てがっていた。血はとまったらしい。
パリの中心部へと近づくにつれ、メグレの表情からは苦痛がきえて、焦慮の色だけが濃くなっていった。
運転手は彼を助けおろそうとした。メグレは手真似でことわると、たしかな足どりで舗道をよこぎった。
狭い入口のわきの窓口をみると、門衛がとろんとした目付きでひかえていた。
「べつに異常はないかね?」
「はあ? なんのことでしょうか?」
寒気がした。メグレは料金をはらうためにタクシーへひきかえした。ああしたみごとな離れ業をやってのけたのに、百フランしかもらえないと知った運転手は、また不平そうになにか呟《つぶや》いた。
メグレの姿はいかにも印象的なものだった。片手を上着の下へいれて、胸にあてたハンカチをかたく握りしめている。いっぽうの肩をそびやかすようにして、なによりも体力を消耗せぬよう気を配っていた。意識はややもうろうとしてきた。ともすると倒れそうになる。そのたびに気をひきしめて、意識と動作の両方を鮮明にたもつよう心がけた。
彼は階上へつうじている鉄梯子《てつばしご》をのぼった。ドアをあけると、そのさきは廊下になっている。迷路へふみこんでしまったのだ。彼はまた梯子をのぼった。最初のとそっくりだが、番号だけがちがっていた。
ホテルの裏手へ迷いこんでしまったのだ。
そのうちに、運よく、白いコック帽をかぶった料理係にでくわした。相手はメグレの異様なすがたを恐ろしそうに見まもっている。
「二階へ連れていってくれ……モーティマー・レヴィングストン氏の部屋のそばだ……」
だが、まず第一に、コックは客の名前なぞ知るはずがなかった。そしてさらに、彼はメグレの顔に五本の血のあとを見たのである。手で顔をなでたときについたものだろう。
黒い外套を、袖もとおさずに肩の上からひっかけている。片手はかたくなに胸にあてたままだ。上着もチョッキもねじれてしまっている。せまい廊下のいりくんだ裏手の迷路で、そんな巨漢に面と向われたもので、コックはふるえあがった。
「警察のものだ……」
メグレはもどかしそうにいった。
吐き気がおそってきた。傷口は長い針で刺しとおされるように、灼《や》けつくように痛んだ。
結局コックは、ふりむこうともせずに行ってしまった。しばらくして、メグレの靴先が絨緞《じゅうたん》をふんだ。やっと使用人地域をぬけて、ホテルの内部にはいったことがわかった。彼は部屋の番号に目をやった。そこは奇数番号の側だった。
そのうちに、あたりをうろついていた女中の一人を捉えてきいた。
「レヴィングストン氏の部屋は?」
「下でございます……ですが……あなたさまは……」
彼は階段をおりていった。
もうその間に、負傷しているらしい異形《いぎょう》の怪人物がホテルの内部へ舞いこんだということで、騒ぎがひろまっていた。
彼はしばらく壁に身をささえた。血痕がのこった。いっぽう絨緞の上にも、どすぐろいものが三滴ばかりしたたった。
まもなくモーティマー・レヴィングストンの部屋がみつかった。そのそばが、トランス刑事の張りこんでいる部屋だ。廊下を斜めによろよろとつたって部屋の前にたつと、ドアを押した……
「トランス!……」
室内は電燈で明るかった。テーブルの上にはまだ、食物の残骸《ざんがい》や酒壜がちらかっている。
メグレはふとい眉《まゆ》をよせた。同僚刑事のかげは見あたらなかった。そのかわりに、病院の臭気のようなものが鼻をおそった。
彼は意識のおぼろげなままに、何歩か前進した、が、長椅子のまえまでくると、はたとその足をとめた。
黒革の靴をはいた足が一本、そこからつきだしていたのだ。
彼は三度も試みては失敗した。傷口から手をはなそうとすると、とたんに、おびただしい量の血があふれだすのだ。
結局、テーブルの上にあったナプキンをとりあげて、それをチョッキの下におしこみ、金具をしっかり締めた。
室内にたちこめた臭気は、胸苦しいばかりである。
彼は長椅子の片端に手をかけて、そっと二本の脚をもちあげた。
予想したとおりであった。そこにはトランス刑事がよこたわっていた。ちぢこまった恰好《かっこう》で、片腕がねじれている。そのせまい場所へおしこめるのに、関節をへし折ったとでもいうようだ。
顔の下半分を帯状の布がおおっていたが、結んではないらしい。メグレはひざまずいた。
動作は冷静そのもの、鈍重といってもよいくらいだった。現在の状態がそうさせたのだろう。死体の胸をさぐりかけて、その手はためらっていた。ついに手が心臓にふれると、メグレは、凍りついたようになった。絨緞の上に身動きもせずすわったまま、同僚のすがたを見すえていた。
トランスは死んでいる! メグレの唇がしらずしらずゆがんだ。手はかたく拳《こぶし》ににぎられた。そして、ともすれば眩暈《くら》みそうになる眼をみはると、ひっそりと静まりかえった隣りの部屋にむかって、おそろしい呪詛《じゅそ》のことばを投げた。
それは奇怪ということもできた。いや、おそろしい悲劇だった! 身の毛もよだつ光景だった!
メグレの顔はこわばっていた。が、泣きはしなかった。泣くことのできぬ男であった。しかしながら、おどろきと同時に彼をみまった憤怒《ふんぬ》と苦痛の表情は、紙一重で痴呆《ちほう》状態といってよいようなものだった。
トランス刑事は三十歳になっていた。ここ五年来、彼は、日夜メグレと行動をともにしていたといってもいいすぎではないのだ。
そのトランスが、いま、大きく口をあけて横たわっている。ひとにぎりの空気でも吸いこもうという絶望的な努力にみえた。
死体の真上にあたる階上の部屋で、客が靴をぬぐ音がきこえた。
メグレは敵のすがたをもとめて、あたりを探しまわった。あらあらしい息づかいだった。
そうした努力をしばらくつづけたのち、メグレはからだをおこした。傷の痛みが、ひどくなったように思えたからだ。
窓ぎわへいって、窓をあけた。がらんとしたシャンゼリゼーの街路がみえた。さわやかな微風を額にうけた彼は、一瞬ののちに、トランスの顔からはがしておいた布片をとりあげた。
それは食卓用のナプキンで、紋織りのもようの上にマジェスティックの名が花文字でいれてあった。まだつよいクロロフォルムの匂いを放っている。
メグレはうつろな頭をいだいて立ちつくした。明確なかたちをとらないいろんな考えが、そのうつろな頭のなかでぶつかりあって、苦しげな余韻をひびかせた。
また、さっき廊下でしたとおなじように、壁に両肘《りょうひじ》をついてよりかかった。顔の肉が急激にそげおちたのがわかった。めっきり老《ふ》け衰えたようであった。いまにも歔《すす》り泣きが口をついて洩《も》れそうになった瞬間なのかもしれなかった。が、すすり泣くには、彼はあまりにも巨躯をもち、あまりにも硬質の材料でできていた。
長椅子はななめにたおれて、端をテーブルにふれていた。テーブルの上の皿には、チキンの骨にまじって煙草の吸殻《すいがら》がころがっていた。
警部は電話機に手をのばした。が、それには触れることなく、怒ったように指をはじいて、死骸のそばへもどると、だまってその上に目をそそいだ。
彼は皮肉と苦痛に表情をゆがめながら、法規、検事局、その他あらかじめ考慮すべき手続きのことを思った。
そんなことがどうだというんだ? 肝腎《かんじん》なのはトランスではないか! そしてそのトランスは、とりもなおさず、メグレ自身なのだ!
彼はトランスのチョッキのボタンをはずした。みかけの平静とうらはらになった内心の憤怒のせいで、そのボタンを二つ、ひきちぎってしまった。そして、視線があるものをとらえると、彼は急に顔をくもらせた。
シャツの上、ちょうど心臓の中央部に、小さな褐色《かっしょく》の点がみえたのだ。
エジプト豆ほどの大きさもない! たった一滴の血がもれて、針の頭ほどの大きさの点となってそこに凝固していた。
メグレの眼が曇った。彼はむなしい怒りに表情をひきつらせた。
嫌悪《けんお》すべきものであると同時に、犯罪手口としてはまことに狡猾《こうかつ》きわまるものであった! それ以上たしかめる必要もなかった。この手口を、メグレは何か月か前、ドイツの犯罪学雑誌でよんで知っていた。
あらかじめクロロフォルムに浸したナプキンが、二十秒から三十秒のうちに、被害者を無抵抗の状態におとしいれる。犯人はあわてずさわがず、長い針をかまえて、二本の肋骨のあいだから心臓をねらってさしこむのだ。そうして、物音ひとつたてず、またあたりを汚すこともなく、生命を奪うことができるのだ。
これとまったく同一の犯行が、六か月前にハンブルクでおこなわれていた。
弾丸だと仕損じて相手を傷つけるだけにおわることがある。メグレの場合がその実例だ。それに、音をたてる。着衣もよごす。
ところが針を無抵抗な人間の心臓部に插入《そうにゅう》するという方法は、百パーセントまちがいなく相手を殺すことができるのだ。
警部はあることを思いだした。
さっきの宵《よい》、支配人がレヴィングストンの出発をしらせてきたとき、メグレはスチームの上に腰をかけて、チキンの股肉にかぶりついていたのだった。そうしてのどかな安逸にひたっていた彼は、すんでのところでトランスを劇場へ派遣し、自分がホテルの張込みにあたろうという気になりかけていたのだ。
その考えがメグレを焦燥においやった。彼はおずおずと同僚の遺骸に目をうつした。負傷のせいか、感情のせいか、それともクロロフォルムの匂いに毒されたのか、ある漠然とした不快感が彼をおしつつんだ。
秩序だった正規の捜査にとりかかろうという気もおこらなかった。
目の前にいるのはトランスなのだ! ここ何年か、すべての戦いをともにしてきたトランス! たった一言いえば、指いっぽん動かせば、ただちに彼の気持を酌《く》んでくれたトランス!
そのトランス刑事は、わずかばかりの酸素でも吸いとろうとして、生をもとめて、大きく口をあけていた。そして、泣くことのできないメグレは、むかむかする気分におそわれた。気はあせり、両肩はおもしをのせられたかのようで、胸の底から吐き気がこみあげた。
ふたたび電話にちかづいて、受話器をとりあげた。声はひどく低くて、相手が二度訊きかえしたくらいであった。
「警視庁をたのむ……ああ……もしもし!……警視庁?……きみはだれ?……え?……タローか……すぐ課長のところへ行ってくれないか……ああ、課長のとこへな……それで、マジェスティックへ来てくれるように伝えてほしいんだ……至急だぞ……部屋番号はわからん……だれか案内してくれるはずだ……うん?……いや、べつに……もしもし?……なんだって?……いや、おれのほうはべつになんでもない……」
メグレは受話器をかけた。声そのものも異常だが、あたえられた指令がそれにもまして異常だったので、相手がききかえしてきたのだ。
彼はそのままで腕を垂れて立っていた。トランス刑事の死体のほうは見ないようにしていた。鏡にうつった自分のすがたから、メグレは、血がナプキンを通してにじみでてきたのに気づいた。で、たいへん苦労をしながら上着をぬいだ。
一時間ののち、ホテルの従業員をしたがえた捜査課長がメグレのドアをノックした。ドアがほそめにあいて、課長はメグレの姿をそこにみとめた。
「もう行っていい」
メグレは重々しい声で、従業員にそう命令した。
そして、従業員が立ち去ったのをたしかめて、はじめてドアをあけた。そのときやっと、課長はメグレの上半身がはだかであることを知った。浴室のドアは大きく開け放たれていた。床の上には真っ紅《か》な血だまりが点々とできていた。
「すぐ閉めてくださいよ」
メグレは階級なぞ無視して課長にそういった。
右の脇腹《わきばら》から胸にかけて、傷痕《きずあと》はひじょうに長く腫《は》れあがっていた。ズボン吊《つ》りが尻のあたりにたれている。
彼は頭をしゃくって、トランスの横たわっている一隅をさすと、
「しーっ……」
と、唇に指をあてた。
こんどは課長がぶるっと身震いした。たちまち興奮した声でたずねた。
「死んでるのか?」
メグレはうなずいて、
「課長、ちょっと手を貸してもらえませんか?」
と、沈んだ声でいった。
「しかし……きみは……重傷を受けてるじゃないか……」
「しッ!……弾丸は外へぬけたんです、だから平気ですよ……テーブル・クロースで結《ゆ》わきますから、手つだってください……」
皿は床におろして、テーブル・クロースを二つに切ってあった。
「レトン一味のしわざでしょう」
メグレはそう説明した。
「わたしの場合はしくじったようですが……トランスのほうは、巧みにやってのけたわけです……」
「傷口は消毒したのか?」
「石鹸《せっけん》であらったあと、ヨードチンキを塗っておきました」
「で、きみの意見は?……」
「いまはかんべんしてくださいよ!……針なんです、課長! トランスを眠らせたあと、針で刺し殺したんです……」
もはやそれは別人のメグレであった。チル織りのカーテンごしに姿を見、声をきいているようだった。それほど映像も声音《こわね》もさだかでなかった。
「シャツをとってください……」
性別のないような声だ。動作も確然としてはいるが実体がおぼろなのだ。顔には表情というものがなかった。
「課長に来ていただいたわけはですね……われわれの一人がこうなった以上……外部にもらしたくないわけですが……嗅ぎつけられては困りますので……新聞に発表されないよう、万全の手をうっていただきたいのです……課長、わたしを信頼してくれますね?……」
といいながら、声はあるかないかの顫《ふる》えをおびていた。それを感じとって、課長はメグレの手をつかんだ。
「おい、メグレ君!……きみはなにを掴《つか》んどるんだ?」
「なにひとつ掴んではいません。しかしわたしは冷静ですよ。いや、いまくらい冷静なときは、かつてなかったといってよいでしょう……だが、こうなった以上は、わたしとやつら一味との闘いです……わかっていただけますな!……」
課長はチョッキに手をとおすのを手伝ってやった。繃帯《ほうたい》のために胴まわりがひろがって、上着の正確な線はくずれてしまった。まるで脂肪の塊りを詰めたようなかたちになった。
彼は鏡のほうへむかって、皮肉な嘲笑をつくってみせた。さきほどからの自分の態度の女々《めめ》しさを意識してのことだ。それはもはや、あの渾然《こんぜん》一体となった強固な障壁、彼が敵の面前にすえることを好んだあの防壁とはよべないものであった。
蒼《あお》ざめた顔には、血のあとが糸をひいていた。ぜんたいにむくんだようで、眼の下に袋ができているのがわかった。
「ありがとう、課長……では、トランスのために、いっさいを抑えておいていただけますな?」
「公表を避けるという意味だろう? 承知した……検事局へ話しておくよ……わたしが直接、検事にあおう」
「おねがいします! では、わたしは仕事にかかります」
メグレは乱れた頭髪を整えながらいった。つづいてトランスの死体のそばへ歩みよったが、ためらいがちに課長へたずねた。
「眼をつぶらせてやってもかまわんでしょうな?……むしろこれが、わたしであったらという気さえしますよ……」
指がふるえた。しばしのあいだ、愛撫《あいぶ》するかのように、彼は死骸の眼蓋《まぶた》にじっと指をあてていた。
感じやすい課長のほうが、
「メグレ君!」
と、まるで哀願するようにさけんだ。
警部は立ちあがって、最後にひとわたり室内を見まわした。
「またお会いしましょう、課長……家内にはわたしの負傷は報《し》らさんでください……」
一瞬、メグレの影がドアの枠《わく》をいっぱいにみたした。捜査課長は呼び返そうとしなかった。心をかきみだされるのを恐れたのだ。
戦争中に、幾人もの戦友が、いまとおなじ落ちついた声で、いまとおなじ不自然なほどの優しみをこめて、[また会おう]といいながら、戦闘へ出かけていったものだ。
そして、そうした戦友たちは二度と還《かえ》らなかったのだ。
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九 『殺し屋』
高級詐欺を専門とする国際犯罪団は、めったに人を殺すことはない。
原則として、ぜったいに殺さぬと断定してもさしつかえないだろう。すくなくとも、数百万を騙《かた》りとろうときめた相手にたいしては、暴力はふるわぬものである。金品を詐取するについては、もっと科学的な方法が採用されるし、一味のものはその大半が、兇器などというものを忍ばせていない紳士たちなのだ。
しかし、かれらには報復として殺人をおかす場合がある。毎年どこかで、解決不可能な殺人事件の一つや二つはおこっている。そのほとんどは、被害者の身許《みもと》が不明で、あきらかな仮名のもとに埋葬されることになっている。
その場合は、裏切りか、アルコールで多弁になってうっかり口をすべらせたか、三ん下|奴《やっこ》の野望が現在の秩序をおびやかすにいたったか、とにかく、そのどれかに当てはまると考えてよいのである。
分業化のすすんだアメリカにおいては、そうした処刑に団体の一員の手をわずらわすことは、まずないようだ。そうした場合には、いわゆる[殺し屋]とよばれている専門家団体に連絡がとられる。殺し屋のほうでも、公けの死刑執行人なみに、助手や定価表を用意してあるというわけだ。
ヨーロッパでも、それと似た事態がしばしばおこっている。
なかでも有名なものに、ポーランド人からなる殺人業者の団体があった。かれらは、手を血でよごすことをいさぎよしとしない別種の犯罪団体のために、何度か貢献していたのである。
メグレはそんなことを考えながら、階段をおりて、ホテル・マジェスティックのフロントへ足をむけた。
「客から食事をとどけるよう電話があった場合、その電話はどこへつながれるのかね?」と、彼はたずねた。
「客室係の専任ボーイ長のところです」
「夜間もおなじかね?」
「失礼しました。夜の九時以降は、そのための係がいるのです」
「どこにいるんだ」
「地階です」
「案内してくれたまえ」
彼はふたたび、この千人近い人を収容する豪華ホテルの地下へもぐった。調理室ととなりあった区画に電話交換台があって、その前に一人の係員がすわっていた。目の前に帳簿がおかれている。しずかな時刻であった。
「午後九時から午前二時までのあいだに、トランスから電話がなかったかね」
「トランス?」
「三……号のわきの[青の間]に張りこんでいた刑事さんさ」
フロントの係員が専門用語をつかって説明した。
「電話はありませんでしたよ」
「じゃ、だれも階上へはいかなかったんだな?」
ごく初歩的な推理だった。トランスが室内で襲われたことは明らかだ。したがって犯人は部屋にはいったものでなければならない。また猿《さる》ぐつわをかませるためには、犯人はトランスの背後へまわらねばならない。しかも、トランスに怪しまれることなく、そうできるものでなければならないわけである。
それらの条件をみたせるのは、ボーイだけだ。刑事に呼ばれたとしても、あるいは自分から皿を下げにいったのだとしても、犯行は可能なわけだ。
メグレはぜんぜん表情をかえずに、べつの質問にうつった。
「早|退《び》けして帰ったものがあるかね?」
交換手はびっくりした。
「どうしてそれをごぞんじで? 偶然の一致でしょうかね……ペピートが電話で、弟が病気だというしらせを受けて帰りましたが……」
「何時ごろだった?」
「十時前後でしたろうか……」
「そのとき、その男はどこにいたんだ?」
「階上です」
「それをうけたのは、どの電話機だ?」
交換手は中央交換台へ問い合わせてみた。担当者の返事では、ペピートへ電話をつないだおぼえはないということだった。
簡単すぎるくらいに簡単だった!
しかしながら、メグレはしずかな無表情をたもっていた。
「その男の記録は?……身上調査書みたいなものはあるんだろう……」
「とくに調査書といったものはありませんね……ことに部屋づきのボーイの場合は、しょっちゅう人が変わりますのでね」
人事課へいってみたが、その時間ではだれも見あたらなかった。しかしメグレは帳簿をひらいてみた。探すものはそこに見つかった。
ペピート・モレット。バチニョル街三。「ホテル・ボーセジュール」
「電話で『ホテル・ボーセジュール』をよんでくれないか」
そして電話を待つあいだ、メグレはべつの係員を尋問していた。ペピート・モレットがホテル・マジェスティックにはいったのは、イタリア人のボーイ長の推薦によるもので、モーティマー・レヴィングストンの到着三日前のことだということがわかった。勤務の面ではとりたてて非難すべき点もなかった。最初は大食堂を担当していたが、本人の要請で部屋づきへまわされたのだという。
[ホテル・ボーセジュール]が電話にでた。
「もしもし!……ペピート・モレットを呼んでもらえませんか?……もしもし!……なんだって?……荷物をまとめて……午前三時に……ありがとう! もしもし! ひとつだけ訊きたいんだが……郵便物はそちらで受けとっていたのかね?……手紙一本きたことがないって?……ありがとう!……お世話さん」
メグレは、あいもかわらぬ異様なほどの平静さで受話器をおいた。
「いま何時かね」
「五時十分です」
「タクシーをよんでくれたまえ」
彼は運転手にピックウィック・バアの番地をつげた。
「ごぞんじでしょうが、あの店は四時に閉まるんですよ」
「かまわんさ!」
車はピックウィック・バアの正面にとまった。鎧扉《シャッター》はおりているが、ドアの下から灯がもれていた。
こうした夜の商売の店では、従業員たちが帰る前に夜食をとるのが習慣になっている。大きな店では四十人以上もの店員が会食することになるが、メグレもその習慣を知らないわけではなかった。
食事をとるのは、客が帰ったあとのサロンである。いっぽうでは紙テープをはずしたり、家政婦がかたづけをはじめているといったぐあいなのだ。
だが、メグレはピックウィック・バアの呼鈴を押さなかった。バアに背をむけて、フォンテーヌ街の町角の煙草屋へ目をすえていた。そこは酒場も兼ねていた。近所のキャバレエなどで働いている連中が、宵のくちとか、ジャズ・バンドの変りめとか、あるいは看板になったあとで、よくいりびたる店だ。
酒場はまだ営業中だった。
メグレがはいっていくと、三人の男が目についた。カウンターに両肘をついて、酒をまぜたコーヒーをすすりながら、商売の話にふけっている。
「ペピートはこなかったかね」
「とっくに帰りましたよ」
答えたのは店のおやじだった。
客のひとりでペピートを識《し》っているらしいのが、おやじのほうへ、黙っていろと目くばせした。それを見ながら、メグレはつづけていった。
「二時に彼とここで会う約束だったんだが……」
「来てはいましたよ」
「わかってる……むかいの店のダンサーに、彼への伝言をたのんでおいたんだ」
「ジョゼのことですかい?」
「そう、その男だ。私がからだが空かないからってことを、ペピートに伝えてくれたはずなんだがね」
「たしかにジョゼは来てました……二人で、なにか話してたようですよ」
黙っていろとさっき合図した客が、こんどは指の先でカウンターをこつこつ叩きはじめた。彼は怒りに青ざめていた。おやじが不用意にもらした二たこと、三ことで、事情が説明しつくされてしまったからである。
十時か、あるいは十時をすこしまわった頃に、ペピートはホテル・マジェスティックでトランス刑事を殺したのだ。
おそらく綿密な指令があたえられていたにちがいない。ペピートは弟からの電話を口実に、ただちに仕事をやめ、フォンテーヌ街のこの酒場へきて待っていたのだ。
そうするうちに、さっきジョゼと呼ばれていたダンサーが向いのキャバレエからやってきて、あらたな指令をあたえた。指令というのはわかりきっている。メグレがピックウィックをでた瞬間を狙撃《そげき》しろというものだ。
いいかえれば、数時間のうちに、彼は二つの犯行をやりおおせたのだ。そして、レトン一味にとってもっとも危険な二人が、襲撃の的となったわけだ。
ペピートは撃っておいて逃げだした。役目は果した。だれにも見られていない。だからホテル・ボーセジュールへ荷物をとりにいくことも可能だったのだ……
メグレは勘定をはらって外へでた。ふりかえってみると、三人の客がおやじにむかって非難の雨をふらせていた。
彼はピックウィック・バアのドアをノックした。あけたのは雑役婦だった。
メグレの予想どおり、従業員たちは夜食のさいちゅうであった。テーブルをつなぎあわせ、それにそって席がならべてある。チキンだのシャコの雛だのアントルメだのの残骸がみえる。どれも客の食べのこしたものだった。三十ばかりの頭が、いっせいに警部のほうへむいた。
「ジョゼが帰ってからずいぶんたつかね」
「もちろんですよ!……あのあとすぐですからね……ほら……」
だが、給仕頭はメグレの顔を見おぼえていた。自分が給仕したからだが、しゃべりだした店員を肘のさきでつついて黙らせた。
メグレはもう、そんな茶番にはかかわりあっていなかった。
「そいつの住所だ! 正確なところを教えるんだぞ、あん? でなけりゃ、きさまをしょっぴいて、ぎゅうぎゅう絞りあげてやる……」
「わたしは知らないんです……知っているのはマスターだけなんで……」
「マスターはどこにいるんだ?」
「自宅です。場所はラ・ヴァレンヌです」
「帳簿をだしてみろ」
「でも……」
「うるさい!」
相手はバンド・スタンドのおくにすえた小さなデスクへいって、引出しを探すようなふりをした。
メグレはざわつく店員たちをおしのけて、帳簿をさがしだすと、必要事項を読みとった。
「ジョゼ・ラトゥーリ。ルピック街七十一番地」
彼ははいってきたとおなじように、のっそり出ていった。ボーイたちは不安な気持でまた食事にとりかかった。
ルピック街は目と鼻のさきだった。が、七十一番地は坂道をかなり登りつめたところだった。息ぎれがひどいので、とちゅうで二度も休まねばならなかった。
まもなく目ざす建物の前へきた。ホテル・ボーセジュールと似たりよったりで、もっとうすよごれている。メグレは呼鈴をおした。
玄関のドアが自動的にあいた。小さな円窓があって、そこをノックすると、やがて夜勤のボーイがベッドを這《は》いだしてきた。
「ジョゼ・ラトゥーリは?」
ボーイは簡易寝台のあたまのところにある鍵|架《か》けを見やったが、
「まだお戻りになりません! 鍵がここにありますから……」
「よこしたまえ! 警察のものだ」
「でも……」
「はやくしろ!……」
実際、その晩にかぎって、だれひとり反抗しなかった。かといってべつに、彼がふだんほどの厳しさと、頑固《がんこ》一徹でおしまくったわけではない。そのほうがかえって、なんとなく不気味な感じをあたえるのだろうか。
「何階だ」
「五階です」
部屋は細ながくて、彼は閉じこめられてしまったような気がした。
ベッドは乱れたままであった。ジョゼもそうした職業のものの例にもれず、夕方の四時ごろまで寝ているのにちがいあるまい。部屋の掃除にくる時間までに、目をさますようなことはないだろう。
襟《えり》もとと肘のすりきれた、ふるびたパジャマがシーツの上に投げだしてあった。床をみると、踵がつぶれ底に穴のあいたダンス靴がおいてある。スリッパの代用に使っているのだろう。
模造革のスーツケースのなかには、古新聞と、つぎのあたった黒ズボンがはいっているだけだった。
洗面台の上には石鹸が一個、ポマードらしいもの、アスピリンの薬包、それにヴェロナールのびんがのっていた。
床の上にごしゃごしゃに丸めた紙片がおちていた。メグレはそれを拾って、入念にしわをのばしてみた。鼻孔を近づけて匂いをかぐまでもなく、ヘロインがはいっていたものだとわかった。
十五分ほどのち、部屋中をくまなく捜査していたメグレ警部は、ひとつしかない安楽椅子の絹地に穴があいているのを発見した。指をいれてさぐってみると、ヘロインの薬包が一つずつ、ぜんぶで十一包ひきだされた。それぞれ一グラム相当のヘロインがはいっていた。
彼はそれらを紙入れにしまって、階段をおりた。
ブランシュ広場までくると、警官にちかづいて、七十一番地付近を見張るよう指示をあたえた。警官はすぐそっちへ足をむけた。
メグレは黒い髪をしたその青年を頭にえがいた。栄養のわるいジゴロといった格で、眼にはおちつきがまったくない。モレットと会ってもどってきたときだろう、昂奮《こうふん》のあまり、メグレのそばを通りしなに、テーブルにぶつかったりしていた。
事件がおこったあとは、ホテルへ帰る勇気をなくしたのにちがいない。背広三着とヘロイン十一包を見すてて逃げてしまったのだ。ヘロインのほうは小売価格になおせば、そうとうな金額になるだろう。
こちらのほうは一両日のうちに捕まると考えてよい。度胸のぜんぜんない男で、しかもたえず恐怖につきまとわれているはずだからだ。
ペピート・モレットのほうは、まるで正反対の冷血漢だ。たぶんいまごろは、停車場で、始発列車を待っていることだろう。それとも郊外へ逃げのびているかもしれない。あるいはもっと単純に考えて、地区とホテルを変更しただけかもしれない。
メグレはタクシーを呼びとめたが、うっかりして、ホテル・マジェスティックの名を告げかかった。しかし、心のなかでは、あそこの騒ぎもまだかたづいていないだろうと計算していた。つまり、トランスの死体がまだ部屋にのこされているだろうということだ。
「司法警察へたのむ……」
ジャンのそばを通りしなに、メグレは彼がもう一切を承知しているらしいと知った。メグレは罪人のように顔をそむけていた。
ストーヴのことも念頭になかった。上着もぬがず、カラーもゆるめなかった。
二時間のあいだ、デスクに両肘をのせたまま、メグレは微動もしなかった。空が白みはじめるころになって、メグレは前におかれた書類に目をとおしてみる気になった。それは昨夜のうちにとどけられたものらしかった。
[#ここから1字下げ]
メグレ警部殿。至急。
[シチリアの王]ホテルに、午後十一時半ごろ、夜会服の男がはいっていき、そこで十分ほどすごした。高級車にてふたたび出発。ロシア人は一度も外出していない。
[#ここで字下げ終わり]
メグレは眉ひとすじ動かさなかった。
それからあいついで報告がはいってきた。その皮切りが、クールセル地区警察署からの電話だった。
「キャバレエの職業ダンサーで、ジョゼ・ラトゥーリという男が、モンソー公園の鉄柵そばで死体となって発見されました。三か所にナイフの傷痕があります。紙入れはぬすまれてません。犯行の時刻とそのさいの状況にかんしては、いまだに不明です……」
メグレにははっきりわかっていた、あいつにちがいない!
彼は同時に想像していた。ピックウィック・バアをでた青年のあとを、ペピート・モレットが尾《つ》けていく。青年が動顛《どうてん》して、裏切りかねないとみてとると、彼は青年を刺し殺す。紙入れをうばって身許をかくすということすらしないのだ。これは当局への挑戦の意味ではなかろうか?
[この死体から、われわれまでたどってこようというのだろう? やってみるがいい!]
そういっているようであった。
八時半。電話が鳴り、マジェスティックの支配人の声がひびいてきた。
「もしもし!……メグレ警部ですね?……まったく、信じられません。前代|未聞《みもん》の事態がおこったんです!……四、五分前に十七号室から電話がかかったんです……十七号室ですよ! おぼえておいででしょう?……ほら、あの男……」
「オスワルト・オッペンハイムだろう……それで?」
「ボーイをいかせました……するとオッペンハイムがですね、けろりとした顔でベッドに寝ていて、朝食を運んでこいといいつけたそうです……」
[#改ページ]
十 オスワルト・オッペンハイム帰る
メグレはそのままの姿勢で、二時間ばかり身動きもしなかった。やがて立ちあがろうとしたが、腕がほとんど動かせないので、呼鈴をならしてジャンをよび、外套を着せかけてもらった。
「タクシーをよんでくれ……」
五、六分後には、彼はムッシュウ・ル・プランス街にあるルクルブ医師のところへいった。待合室には六人の先客がいたが、彼は特別にわきへ通され、診察室があきしだい、すぐに入れてもらえた。
一時間ほどして、やっとそこをでた。上半身はいままでよりも、いっそう弱っているようにみえた。眼のふちの隈《くま》はさらに濃さを増して、目つきまでが変わってしまった。まるでメーキャップでもしたようであった。
「ロワ・ド・シシール街へやってくれ! とめる場所は、おれが教える」
ホテルの前を二人の刑事がぶらついているのが、遠くからわかった。
メグレは車をおりて、そっちへ近づいた。
「だれも出てこないか?」
「はあ……二人のうち一人が、たえず見張っていたんですが……」
「どんな連中がホテルをでていった?」
「よぼよぼの小柄な爺《じい》さんがひとり、それから若い者が二人ばかり、それに三十がらみの女が一人です」
メグレは肩をすくめて、溜息まじりにいった。
「爺さんは髯《ひげ》をはやしていたろうな?」
「はあ」
メグレは無言で刑事たちのそばをはなれると、せまい階段をのぼり、管理人室のまえを通りすぎた。
まもなく、彼は三十二号室のドアをノックしていた。何語ともしれない女の声で返事があった。ドアがあき、メグレは、ベッドから出たばかりで、半裸にちかいアンナ・ゴルスキンのすがたを認めた。
「彼氏はどうした?」
と、彼はたずねた。せかせかと口さきだけでしゃべっていた。室内をつぶさに点検することすらしなかった。
「出ていってちょうだい!……あなたは、なんの権利があって……」
アンナ・ゴルスキンがさけんだ。
だが、メグレはそしらぬ顔で、床の上から見覚えのあるトレンチ・コートを拾いあげた。まだほかのものを捜しているようであった。ベッドの足もとに、フィオドル・ユーロヴィッチの鼠《ねずみ》色がかったズボンが発見された。
ところが、室内には、どこにも男の靴らしいものがないのだ。
ユダヤ女は部屋着に袖をとおしながら、燃えるような視線をメグレの上にそそいだ。
「あんたがたは、われわれが外国人だというので……」
メグレは、その怒りを爆発させる余裕を女にあたえなかった。しずかに外へでてドアをしめたのだった。
まだメグレが一階も降りきらぬうちに、女がまたドアをあけた。踊り場に立って、一言もいわずに息を大きくはずませていた。欄干から乗りだすようにして、メグレを目で追っていたが、やがてそれでは満足しきれなくなった。なにかしてやろうという熾烈《しれつ》な欲求をおぼえたのだろう、女はぺっと唾《つば》をはきかけた。
その唾は、警部から数センチとはなれぬところに、にぶい音をたてて落下した。
「どうします?」
デュフール刑事がきいた。
「女を見張っててもらおう。あの女なら、爺《じい》さんには変装できないからな」
「どういう意味です?」
意味? とんでもない。メグレはなにも嫌味《いやみ》をいうつもりはなかった。いまさら議論をはじめたところで、どうなるものでもない。
メグレはタクシーに乗りこんだ。
「ホテル・マジェスティック……」
デュフール刑事は気落ちがしたか、恥ずかしそうに警部を見送っていた。
「精いっぱいがんばってくれ」
と、メグレはそっちへ叫んだ。
部下を苦しませようという気はさらになかった。もし失敗があったとしても、デュフール刑事自身の責任ばかりとはいえないのだ。
げんにメグレ自身にしても、トランス刑事を殺させたのではなかったか。
支配人は玄関まで出て待っていた。これはめずらしいことだった。
「やっとみえましたな!……いやまったく、どうしてよいか途方に暮れてしまいましてね……あなたの……お友達をひきとりにみえましたよ……新聞にはなにも発表しないと約束していただきましてね……ところで[例のやつ]がいたんです……あいつがいるんですよ!……」
「もどるところは、だれも見ていないのかね?」
「だれも見ておらんのです……ただ、いいですか!……さっきもお話ししたように、彼の部屋から電話があったんです……で、ボーイがいくと、コーヒーを注文したんですよ……ベッドのなかからね……」
「モーティマーのほうは?」
「あなたはあの二人のあいだに関係があるといわれるんですか?……そんなことはありえませんよ!……あの人は名士です……このホテルへも、大臣や銀行家のお歴々がたずねてみえるくらいですから……」
「オッペンハイムはなにをしているんだね?」
「ちょうど、ひと風呂《ふろ》あびたところです……着替えでもしているんでしょう」
「モーティマーのほうは?」
「レヴィングストンご夫妻からは、まだお電話がありません……お寝《やす》みなんでしょう」
「ペピート・モレットの特徴をおしえてもらえんかね?」
「ええ……でも、また聞きですよ……直接には会ったことがないんでね……なにぶん多勢の人間がはたらいていますもんで……しかし、話としては聞いています……小柄な男で、肌は褐色、髪は黒、がっちりしたからだつきで、何日もほとんど口をきかずにすごしたというんです……」
メグレはルーズ・リーフにそれらの特徴を書きとめ、封筒にいれて、おもてに捜査課の宛名《あてな》をかいた。たぶんトランス刑事が殺された部屋から指紋が採取できたことだろうから、それとこれとをあわせれば完全ということができる。
「これを警視庁へとどけさせてくれ……」
「はい、承知しました」
支配人はすこぶる愛想がよくなった。事件が険悪な雲行きをしめしつつあることを感じたからだろう。
「で、これからどうなさいます?」
だが、警部はすでにその場にいなかった。
彼はロビーの中央に、そのぶこつな巨躯をのっそりとすえていた。どうやらそれは、古い教会を訪れた旅客が、案内人の力をかりずに、おのれの眼力で由緒《ゆいしょ》ある聖器を見ぬいてくれよう、と身がまえた感じに似ていた。
日光が射しこんで、マジェスティックのロビーは金色に輝いていた。
朝の九時という時間には、ほとんど人気《ひとけ》がなかった。客はちらほらと見えるていどで、めいめい離れたテーブルに席をとって、新聞を前にかるい朝食をとっていた。
メグレは籐《とう》の肘掛椅子におちこむように腰をおろした。そばの噴水はなぜか、その日にかぎって動きをやめている。陶器の水盤の金魚もかたくなにその場を動こうとせず、口だけをむなしく開けたり閉じたりしていた。
それがメグレに、ぱっくりあけたトランス刑事の口を連想させた。それで強い衝撃をうけたものとみえて、気分がおちつかず、満足できる姿勢をきめるまでにずいぶん手間どった。
従業員たちのまばらな影が往《ゆ》き来していた。メグレはそれを目で追いながら、いつどこから弾丸が飛んでくるやもしれぬことを感じていた。
予約席の客たちがぼつぼつ降りてきはじめた。
メグレがオッペンハイムすなわちピートル・ル・レトンの素性をつきとめたところで、たいして重要な結果を招きそうもなかった。メグレは慎重な男であった。
ル・レトンは、自分にはなんの罪科も適用されないと知って、堂々と司法警察にむかって挑戦してきている。
その証拠が、あのクラクフからブレーメン、ブレーメンからアムステルダム、アムステルダムからブリュッセル、そしてパリと、着々と彼の航跡を追って発信された電報の数である。
しかし、そこにはさらに、『北極星号』の死体が介在している。またその上に、メグレのつきとめた事実――ル・レトンとモーティマー・レヴィングストンの思いがけない関係という発見もあった。
その発見こそは重要なものだ!
ピートルはつねに公然と賊を自称し、国際警察にむかって、
[おれを現行犯で捕えてみるがいい!]
と、挑戦してはばからぬ男である。
ところが、いっぽうのモーティマー・レヴィングストンは、全世界から名士と仰がれている人物なのだ!
そのモーティマー=ピートルの結びつきを、二人の人間が感知しそうになった。
そして、そのおなじ夜、トランス刑事は殺され、メグレはフォンテーヌ街において、拳銃で狙撃された。
さらにここに三人目の男がいる。こちらは無能力でなにも知っていないようだが、新規な捜査の足場として役立つおそれがあるために抹殺《まっさつ》されてしまった。すなわち社交ダンサーのジョゼ・ラトゥーリである。
さて、ル・レトンもモーティマーも、三人の邪魔者をかたづけ得たと確信して、それぞれの部屋へもどってきた。そして現在、かれらは豪奢な建物の高みにあって、電話一本でボーイたちをあごで使い、風呂をあび、朝食をとり、いま着がえにかかっているのだ。
メグレはただひとり、傷ついたからだを籐椅子において、かれらを待ちうけていた。脇腹は刺すような痛みにさいなまれ、右腕は鈍痛に動かすことさえ困難だった。
かれらを逮捕する権限はないではなかった。が、そうすることの無益を、彼は知りぬいていたのだ。必要とあれば、ピートル・ル・レトンに不利な証拠はいくつも挙げることができた。フィオドル・ユーロヴィッチにしろオスワルト・オッペンハイムにしろ、かずかずの変名を用いているではないか。あるいはその中にオラフ・スワンの名も含まれるかもしれない。
しかし、アメリカの富豪モーティマー・レヴィングストンのほうはどうであろうか? 逮捕後一時間とたたぬうちに、アメリカの大使館から抗議が申し込まれるだろう。フランス諸銀行や、彼が理事をつとめている各種の実業団体が、当局者の尻をつついてくるにちがいない。
なんの証拠があるというのだ? どんな徴憑《ちょうひょう》があるというのだ? ル・レトンの消失につづいて、何時間か雲がくれしていたということか?
ピックウィック・バアで夜食をとり、夫人がジョゼ・ラトゥーリと踊ったことが、なにかの罪に値いするのか?
彼が[シチリアの王]と看板のでた場末のホテルに出入りするところを、一人の刑事が目撃したことが、なにかの証拠になるというのか?
そうしたていどの証言はあっというまに粉砕されるだろう! そして、そればかりか、アメリカの大使館を満足させるような口実が必要になる。種々の手をうたねばなるまいが、メグレ自身も、形式上だけでも左遷《させん》のうきめをみることは疑う余地がない。
トランス刑事は死んだ!
彼は担架にのせられ、ほのかに射しはじめた朝日に照らされながら、このおなじロビーを運ばれていったことだろう。もしかすると、早朝の客にその悲痛な光景をみせることをはばかって、支配人は通用口から死体を搬出するように主張したかもしれない。
おそらくそれにちがいあるまい!
せまい廊下を通って、担架は手すりにぶつかりながら、螺旋《らせん》階段をおりていったことだろう……。
マホガニーのカウンターの向うで電話が鳴りひびく。ボーイやメイドが右往左往する。あわただしい指図がとぶ。
支配人がちかづいてきた。
「レヴィングストン夫人がお発ちになるそうです……たったいま、お部屋から荷物を運ぶように電話がありましてね。自動車も到着しています……」
メグレは青ざめた顔に微笑をうかべてきいた。
「汽車は何時のだ?」
「ブルジェから、ベルリン行きの飛行機にお乗りです」
支配人がいいおわらぬうちに、夫人があらわれた。灰色がかった旅行用外套に身をつつみ、鰐皮《わにがわ》のハンドバッグを提《さ》げている。足早やに歩いていった。しかし、玄関の回転ドアの前までくると、ちょっと振りむかずにいられなかった。
はっきりと自分の姿をみせるために、メグレは苦労して立ちあがった。
夫人はきっと唇をかむと、さらに歩調をはやめて外へでた。運転手のほうへ手まねで指図をあたえていた。
支配人は呼ばれて去っていった。
メグレはまた一人になった。目の前の噴水がにわかに活動をはじめた。一定の時間がくると、水を通じるきまりなのだろう。
十時だった。
彼はまた自分にむかって微笑《ほほえ》んでみせると、どっかりと腰をおろした。慎重な配慮が必要だった。傷口がしだいに過敏になってきて、ちょっとした動作でも苦痛を感じさせるのだった。
(弱い者は遠ざけるというわけか……)
たしかにその通りであった。
さきにはジョゼ・ラトゥーリが危険だとみてとると、胸にナイフの一撃をくわえて口を封じてしまった。そしていま、感情的にもろいレヴィングストン夫人をベルリンへ発たせたのだ。これは好意ある処置とみてよかった!
弱者は去り、強者がのこる。
まだ着がえの最中であろうピートル・ル・レトン。つねに貴族的な態度をくずさぬモーティマー・レヴィングストン。そして、一味の専属の[殺し屋]ペピート・モレット。
それぞれが見えぬ糸で結ばれながら、着々と準備をととのえているのだ。
かれらの敵はいま、かれらのまっただ中にいた。ようやく活況をみせはじめたロビーの中央の籐椅子に、凝然《ぎょうぜん》とすわっていた。両膝をのばしたまま、涼しげな音とともにとび散る噴水の飛沫《しぶき》を顔にあびていた。
エレベーターがとまった。
まず、ピートル・ル・レトンが降りたった。りゅうとした肉桂色《にっけいいろ》の背広に、ヘンリー・クレイを横ぐわえにしている。
彼はまるでわが家にいるように寛《くつろ》いでいた。そのために料金を払っているといいたげだ。悠揚せまらず、むぞうさな足どりでロビーをぶらつきはじめた。よく大商社などが豪華ホテルに展示するガラスの飾り棚の前で足をとめる。ボーイに煙草の火をつけさせると、こんどは、外国|為替《かわせ》相場の掲示板をのぞきこむ。
ついにメグレから三メートルと離れないところへきた。噴水の前へゆっくりとたたずんで、人工とさえ思えるくらい微動もしない金魚の上に目をすえていた。やがて指先で、葉巻の灰を水盤にはたきおとすと、新聞閲覧室へむかって歩きだした。
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十一 あわただしい一日
ピートル・ル・レトンは何種かの新聞に目を通していたが、なかでもルヴァレ・ボット紙には熱心に読みふけった。それはエストニア発刊の地方紙で、ホテル・マジェスティックには古い日付のものが一部あるだけだった。おおかた客のだれかが置き忘れていったものだろう。
十一時前になると、彼はあらたな葉巻に火をつけ、ロビーを横ぎっていくと、帽子をとってくるようボーイにいいつけた。
シャンゼリゼー通りの半分を日光が洗っていて、ほの暖かい陽気だった。
ル・レトンは外套もつけず、グレイのソフトを頭にのせて、ふらりとおもてへでた。ゆったりとした歩調でエトワール広場へむかってあるいていった。新鮮な空気をすいこむのに余念がないといった風情《ふぜい》だった。
メグレはすこし間をおきながら、身をかくそうともせず尾行しはじめた。厚ぼったい繃帯《ほうたい》に動きを封じられて、楽しかるべき散歩も索然《さくぜん》としたものに思われた。
ベリー街の角までくると、ほそい口笛がきこえた。数歩とはなれない場所だ。彼は気にとめなかった。口笛がまたきこえた。メグレがやっとふりむくと、そこにデュフール刑事がいた。主任に話したいことがあるんだがという意味を、すべて謎《なぞ》めいた身ぶりでしめしてみせた。
デュフール刑事はベリー街の歩道に立って、そばの薬局のショウ・ウィンドウをのぞきこんでいるふりをしていた。演技はいかにも真に迫ったもので、ちょっとみると、頬にいっぱい湿疹をこさえたマネキン人形の首と話をしているように見えた。
「歩くんだ!……おい! さっさと来ないか……」
デュフールはむっとしたような、悲しげな表情をした。ここ一時間というもの、彼はあらゆる技術の粋を駆使して、ホテル・マジェスティックの周囲を徘徊《はいかい》していたのだ。それが、いまの警部の命令で、一瞬にしてぶちこわされてしまったのだ。
「なにかあったのか」
「例のユダヤ女ですが……」
「でかけたのか」
「ここにいるんです……あなたが大きな声をだしたもんで、彼女、こっちに気がついちまいましたよ……いまだって見ています……」
メグレはあたりを見まわした。
「どこだ」
「『セレクト』です。店のなかにすわっているんです……あ、待って……カーテンが動いたようです」
「見張りをつづけろ」
「こっちの姿をみせてもいいんですか」
「もしなんなら、女のとなりのテーブルに席をとって、アペリチフでもなめていろ……」
こうして公然と戦いを挑《いど》まれたからには、身を匿《かく》しているのがなんの役に立とう。メグレはまた歩きだした。二百メートルの前方にル・レトンのうしろ姿がみえた。メグレたちのやりとりのあいだを利用して、尾行を逃れようという気も起きなかったらしい。
勝負はもう新しい段階に発展していて、たがいに意識しあい、尾行をまく必要はないのだった。
ピートル・ル・レトンは凱旋門《レトワル》とシャンゼリゼーの円型広場を二回往復した。メグレはついに、相手の人物を微細な点にいたるまで知りつくした。性格の底の底まで自分のものにしていた。
その容姿は繊細で、すみずみまで神経がはりつめていた。はっきりいって、レヴィングストンよりも洗煉されている。つまり、北欧風な意味で洗煉されているのだ。
これまでにメグレは、こうした性質の人間を何人か研究したことがあった。どれも知識階級の人間であった。
彼はむかし、結局は中途で投げだすことになったが、ラテン区《クオーター》へ医学の勉強に通ったことがある。その時代に、彼の内にあるラテン人気質をめんくらわせるような人種に、よく出会《しゅっかい》したものだった。
なかでも印象にふかいのは、ひとりのポーランド人であった。金髪のやせた男だったが、まだ二十二という若さで、頭髪は、かなり薄くなっていた。母親は故郷にいて家政婦をやっているとのことだった。この男、まる七年のあいだソルボンヌ大学へ通っていたのだが、その間、靴をはいたことがない。素足のままで、食事も一日あたりパン一片と卵一個しかとらなかった。
講義録を買う金がないので、やむをえず公立図書館で用をたすというありさまだった。
パリにいながらパリの街を知らず、女友達もなければ、フランス人にひとりの知合いもいないのだった。しかし、彼が研究をおえると、たちまちワルシャワの大学から教授の口がかかった。そして、それから五年後、メグレは、ふたたびその男にパリで出会った。あいかわらず寒々とした貧弱な風采《ふうさい》だが、なんでも外国学術委員の一人として招待され、エリゼー宮で大統領と会食をしたとのことであった。
メグレはほかにも、そうした類《たぐい》の人間を知っていた。どこからどこまで似ているというわけにはいかないが、どこか共通点があった。ことに、かれらが研究を希望し、また実際に学びとった知識の量とその多様性にいたっては、まことに驚くべきものがあった。
学問のための学問!
つまりそれは、ベルギーのどこそこの大学教授が、極東諸地方の方言のすべてに精通している(四十種にのぼるといわれる)というのと五十歩百歩なのである。その当人はアジア大陸など一度も足を踏みいれたことがなく、したがってそこの住民になんらの関心もないはずであって、お道楽として言語を分析しているにすぎないといえるだろう。
ピートル・ル・レトンの灰色がかった緑の瞳《ひとみ》のおくには、それとおなじ性質の意志を読みとることができた。ところが、それではそうしたインテリ人種に一括して考えてよいかというと、そこが問題なのである。そうした概念を一挙にしてくつがえすような、まったく異質の要素が顔をだしてくるのだ。
あのトレンチ・コートの浮浪者、フィオドル・ユーロヴィッチの影のようなものが浮かびあがって、それがあのホテル・マジェスティックの端正な客の映像と重なりあってくるのである。
ふたりは唯一同一の人物である――そう考えるのが、心理的な意味でも、そしてもう現在では肉体的な意味においても、ほとんど確実なようであった。
到着した晩にピートルは姿を消した。翌朝、メグレは、フィオドル・ユーロヴィッチとしての彼をフェカンの町に発見した。
彼はロワ・ド・シシール街へもどってきた。それから数時間後に、モーティマー・レヴィングストンがそのホテルを訪ねた。その後数人の人物がホテルをでたが、そのなかに髯《ひげ》の老人もまじっていた。
翌朝になると、ピートル・ル・レトンは、ホテル・マジェスティックの自室に帰っていた。
もっとも驚くべきことは、その二通りの変化の間において、肉体的特徴はまったく酷似している反面、性格的になんらの共通性も見いだせないという事実だ。
フィオドル・ユーロヴィッチはスラヴ系の浮浪者そのままで、ノスタルジックであると同時に狂暴性をもった一種の落伍者といってよかった。お芝居くさいところはみじんもなかった。フェカンの飲み屋でカウンターに肘《ひじ》をのせていたしぐさなど、どうみても完璧《かんぺき》なものであった。
いっぽうピートル・ル・レトンの人格のほうも、一分の隙《すき》もなかった。足の先から頭のてっぺんまで、知識人として非の打ちどころがなかった。ボーイに葉巻の火をつけさせるしぐさ。英国一流店製のグレイのソフトをとりにやらせた指図ぶり。シャンゼリゼーの日光をむぞうさに吸いこんで、ショウ・ウィンドウに目をやりながら散歩するその物腰……心憎いばかりのものであった。
その完璧さは、たんに表面的なものであるはずがない!
メグレ自身も、いろんな人物に変装したことがあった。警察官は一般に考えられるほど、ひんぱんに変装するものではないが、それでもときどきはその必要が生じてくる。
しかし、いくらメグレが変装したところで、それはやはり一個のメグレにすぎない。いろんな癖にしても、目つきひとつ、顔の筋肉の動かしかたひとつにしても、あきらかに、メグレのものなのである。
たとえば、彼がふとった家畜商人に扮したとしても、それはあくまでも[演技]の域をでない。家畜商人そのものとはいいがたい。扮装はひとえに外面的なものにとどまっているにすぎないものである。
ピートル=フィオドルの場合は、[しんから]、ピートルであり、フィオドルであるのだ。
警部の印象を要約すれば、こういうことになるのではないか。すなわち、かれは着衣の点だけでなく、本質的に、一でありまた同時に他であるのだと。
そのまったく異質の二つの生命を、彼は交互に生きているのであった。おそらく、ずっと以前から、つねにそうしてきたのであろう。
そうやって安穏しごくな雰囲気につつまれて、ゆっくりと歩を運びながら、メグレの頭は、とりとめもない想念に追われがちであった。
が、そのとき、にわかにピートル・ル・レトンは相貌《そうぼう》を一変したのである!
その出来事をもたらした情況には、意味ぶかいものがあった。
「フーケ」の店の向いがわの歩道にいたピートルは、道路をよこぎろうとしはじめた。その高級店のバアで、アペリチフでも一杯やりたくなったのにちがいない。
だが途中で気をかえて、歩道にそってあるきだしたと思うと、急に歩調を早めて、ワシントン街のほうへ折れた。
そこには、高級住宅街の中心部によくみかける一軒の安酒場があった。もっぱら運転手や使用人相手のものである。
ピートルはそこへはいった。警部もあとからつづいた。ちょうどピートルがアブサンのまがいものを注文したところだった。
彼はカウンターを前に立っていた。青いエプロンをしめたボーイが、思いだしたように汚ない布巾《ふきん》をとりあげて、その馬蹄形《ばていけい》のカウンターを拭いていた。左手には埃《ほこり》をかぶった石工たちの一群、右手にはガス会社の集金人がいた。
ル・レトンはおのれの端正さ、すみずみまで洗煉されつくした贅沢《ぜいたく》な服装が人目をひくことに、腹を立てているらしくみえた。
濃いブロンドの、歯ブラシに似た口髭《くちひげ》が、まばらな眉毛がひかっていた。彼はメグレを見た。面とむかってではなく、鏡の中からながめていた。
警部はその唇がふるえているのを、そして、それとわからぬくらいに鼻孔が緊張しているのを看《み》てとった。
ピートルは視線をはずした。
最初はゆっくりと飲みはじめたが、残りをぐっとひと息にあおると、指先で、
「注いでくれ!……」
というように合図をした。
メグレはヴェルモットを取りよせていた。せまいバアのことで、彼の巨躯《きょく》はいやが上にも大きく映った。彼はピートルから目を離さなかった。
メグレは同時に二つのシーンを前にしている気がした。さっきとおなじように映像がだぶってきたのだ。目の前の舞台装置の裏がわへ、フェカンのうす暗いカッフェがすべりこんできた。ピートル自身も二重にみえた。肉桂色の背広と、すりきれたギャバジンのコートが、重なりあってみえた。
「こんりんざい、仲直りなんかしてやらねえぞ!……」
石工の一人がそういいながら、グラスの尻でがんとカウンターをたたいた。
ピートルは乳白色の液体の三杯目を飲んでいた。ぷん、とアニゼットの匂いが警部の鼻をついた。
ガスの集金人がからだをずらせたために、二人の肘と肘がふれあう結果になった。
メグレはピートルより頭ふたつぐらい高かった。二人は鏡に面とむかって、その灰色のガラスを通して見つめあっていた。
まず眼からはじまって、しだいしだいにピートルの表情が曇りはじめた。ひからびた音をさせて指を鳴らし、グラスを指さすと、額に手をあてた。
それから徐々に、彼の表情にある種の葛藤《かっとう》がかたちをとりはじめた。鏡をみつめるメグレの目に、ある瞬間はマジェスティックの旅客の顔が、またある瞬間には、アンナ・ゴルスキンの情夫の苦悩のすがたが映った。
しかし、そのどちらも、完全な形でうかびあがることがなかった。死に物ぐるいな筋肉の作業の下に圧《お》しこめられていたのだ。ただ、目だけがロシア人の目であった。
メグレはある実験をこころみた。彼のポケットには、フェカンの写真屋のアルバムから剥《は》がしてきたスワン夫人の写真があった。
「いくらになる?」
と、彼はボーイにたずねた。
「四十四スウいただきます……」
メグレは紙入れをかきまわすふりをしながら、写真をわざと取りおとした。それはカウンターの上の、水でぬれた個所におちた。
彼はすました顔で五フラン紙幣をぬきだした。が、視線はじっと鏡のなかに注がれていた。
ボーイは写真を拾いあげて、いかにも気のどくだといったようすで、エプロンで拭った。
ピートル・ル・レトンはグラスを握りしめていた。眼はうつろで、表情にはまったく動きがなかった。
つづいて、ふいにある小さな音がきこえた。小さいがきわめて明瞭《めいりょう》な物音で、出納器にむかっていた店の主人が、思わずふりむいたほどだった。
ピートルの手がひらいて、カウンターにグラスの破片がすべりおちた。
彼はグラスを静かに握りつぶしてしまったのだ! 人差し指のほそい傷口から、血がにじみだした。
むぞうさに百フラン札をほうりだすと、彼はメグレには目もくれずに店をでた。
ピートルはいま、まっすぐホテル・マジェスティックへ向かって歩いていた。ぜんぜん酔ったふうはなかった。ホテルを出たときと、そっくり同じ人物にもどっていた。足どりもたしかだった。
メグレは執拗《しつよう》にあとをつけた。ホテルの見える距離まできたとき、見覚えのある自動車が走りだすのがみえた。
それは治安庁鑑識課の車だった。写真をとったり、指紋を採取したりするための器具をのせているのだ。
それを見て、メグレはがっくりと気落ちがした。一瞬、自信をうしなって、掴《つか》まる場所も身をささえるものもなくなった感じがした。
やがて「セレクト」の前にきた。デュフール刑事がガラスごしに合図を送ってよこした。当人は秘密の合図のつもりらしかったが、それがユダヤ女のテーブルを指していることは、だれの目にもはっきりわかった。
メグレはホテルのデスクへ立ちよって、
「モーティマーは?」
と、たずねた。
「いまアメリカ大使館へおでかけになりました。そこで昼食をとられる予定らしいです」
ピートル・ル・レトンは、がらんとした食堂に席をしめていた。
「あなたもお食事をなさいますか?」
支配人はメグレにむかってきいた。
「ああ。あの男とおなじテーブルに用意をしてくれ」
相手は息をのんだ。
「おなじテーブルに? それは困りますな! 食堂はがらあきなんですから……」
「あそこにしてくれというんだ」
支配人は驚いてばかりいるわけにもいかず、いそいでメグレのあとを追った。
「こまりますよ! そんなことをすれば、よくない評判がたちますから……あそこに劣らずお気に召すテーブルにご用意しますよ」
「あそこにしろといったろう」
そうしてロビーを歩きまわっているうちに、メグレは疲労感をおぼえていた。それと気づかぬくらいのけだるさが、彼の全身を、いや肉体と精神をふくむ彼の全存在を、むしばみつつあった。
彼は朝とおなじ籐の肘掛椅子にすわりこんだ。
それと同時に、たいへんな姥桜《うばざくら》と、ひどく凝った服装の青年からなる男女の一対《いっつい》が、腰をあげた。女のほうが聞こえよがしにいった。いらいらしたように手|眼鏡《めがね》をまさぐりながら、
「こうしたホテルも、ひどくなったもんだねえ……ちょっと、あいつをごらんなさい!……」
[あいつ]といわれた当人は、メグレであった。彼はにこりともしなかった。
[#改ページ]
十二 ユダヤ女と拳銃と
「もしもし!……主任さんですね?……」
「メグレだが……」
警部はほっと吐息をもらした。声で、デュフール刑事からだとわかっていた。
「じゃ、主任、てっとりばやくいいますよ……女は手洗いにたちました……テーブルにハンドバッグがあったので……あけてみますと……ピストルがはいってるんです」
「女は、ずっとそこにいるのか?」
「食事中です」
デュフール刑事はきっと電話室のなかで、犯罪者を気どって、おどおどと謎めいたそぶりをみせているにちがいない。メグレは黙って受話器をかけた。返事をする気力もなかった。デュフール刑事のそうした性癖も、ふだんなら微苦笑ですむところだが、いまは胸がわるくなるほど煩《わずら》わしかった。
支配人はあきらめてしまって、レトンの前へメグレのナイフやフォークをならべさせた。レトンはボーイ長を呼んでたずねた。
「ここへ誰かみえる予定なのかね」
「ぞんじませんです。わたくしはただ命じられたまででして……」
レトンはそれ以上追求しなかった。
そこへどやどやと、イギリス人の五人家族がなだれこんできたので、食堂の冷たい空気もいくぶん和《やわ》らいだ。
メグレは帽子と重い外套を携帯品預り所へあずけて、食堂へはいっていった。腰をおろす前にちょっとたちどまって、かるく身振りであいさつをした。
だが、ピートルは、そっちを見たようすもなかった。さっき飲んだ四、五杯のアペリチフは醒《さ》めてしまったようだ。動作はひややかで、正確をきわめていた。
いらだった気配はみじんもない。遠くへ目をすえて、技術的な問題に没頭している技師とでもいった印象をあたえていた。
酒はほとんど口にしなかったが、銘柄だけは二十年前のブルゴーニュ産の上物をえらんでいた。
食事もごく軽くて、パセリをいれたオムレツ、薄いカツレツに、よく冷えたクリームといったところだった。
料理が運ばれる合間も、両手をきちんと前へおいて悠然《ゆうぜん》として待っていた。周囲には目もくれなかった。
食堂はしだいに混んできた。
「あなた、口髭がはがれかかっていますよ……」
メグレがだしぬけにいった。
相手はひっかからなかった。しばらくたったあとで、二本の指をさりげなく唇のあたりへのばしたが……事実、ほんのわずかだが剥《は》がれかけていたのだ。
司法警察では沈着をもってきこえたメグレだったが、さすがにこの場合は冷静を保持しかねていた。
そして、その午後はずっと、つらい試練を味わわねばならぬはめになった。
じつのところ、そうしたレトンの態度をまのあたりにした以上、レトンが危険な方向へふみだすことは予想されなかった。
しかし、朝の彼は、一瞬ではあったが、崩れ去るきざしをみせたではなかったか。だから、光線の前においた動かぬ衝立《ついたて》のようなこの影を、つねにこうしてレトンの前にすえておくことによって、彼を狂気のふちに追いやることも可能なのではあるまいか。
レトンはロビーでコーヒーを飲みおえると、軽い外套をとりにやって、ぶらりとシャンゼリゼーの大通りへでた。二時をすこしまわったころ、近所の映画館へはいった。
六時になってやっとそこをでた。そのあいだも、だれかに話しかけるとか、紙になにか書きつけるとか、そういった怪しい素振りはいっこうにみせなかった。
彼は座席にふかぶかとすわりこんで、たわいもない映画の筋を始終追っているようだった。
もしもそこからまっすぐ、朝アペリチフを飲んだ店へもどっていたとしたら、いかなメグレも堪忍袋《かんにんぶくろ》の緒をきらせたことだったろう。
しかし、映画館をでると、ピートルはオペラ座広場へ足をむけた。
いったい彼は、警部に疑惑の眼でみられているのを知っているのだろうか?
じつのところをいうと、メグレは何時間も映画館の暗がりの中にすわらされ、見たくもないスクリーンに目をむけていたあいだも、いつかそのうちに逮捕の機会が訪れはしまいかと、たえず神経を研《と》ぎすましていたのである。
しかし、かりにそうなった場合でも、それにつづく事態はじゅうぶんに覚悟していた。的確な物的証拠といっては、なにひとつないのだ! いっぽう予審判事や検事局の上に圧力がかけられることになるだろう。さらには、外務省や司法省さえもが、腰をあげざるをえなくなるかもしれぬのだ!
彼は背をこごめかげんにして歩いた。傷口がいたみ、右腕はしびれてきた。そういえば、医師がしきりに警告していたことだった……
[痛みが広範囲にひろがりはじめたら、すぐやってきたまえよ! 傷が化膿した証拠だからね……]
それがどうだ? そんなことを考える暇があったろうか?
「ちょっと、あいつをごらん、あいつ!……」
今朝もマジェスティックで、客の一人にそんな言葉をかけられたのだった。
あまりにもひどいではないか!
[あいつ]これが大規模な犯罪団をむこうにまわしてその犯行を阻止しようとする警官にたいする言葉なのだ。このおなじホテルで惨殺された同僚の仇《かたき》をうとうと、血眼《ちまなこ》になって奮闘している警官をねぎらう言葉なのだ。
[あいつ!]この言葉を投げつけられた警官は、英国仕立ての背広もきられず、毎朝マニキュアに時間をさくだけの余裕もない男なのだ。その妻はなにひとつ知らされぬままに、三日間の食事の支度もむなしく、じっと耐えつつ夫の帰りを待っているのだ。
[あいつ!]この言葉でよびかけられた警官は、階級は第一級警部、月給は千二百フラン。事件がかたづいて、殺人犯を裁きの底におくりこんだあと、こまかな報告書を作成し、雑費をリストにつくり、それに領収証と確認書類をそえて、はては会計課員と押し問答をしなければならないのだ。
メグレには自動車も、巨額の資産も、多数の協力者もなかった。一人二人の警官を動員しただけでも、あとでその目的をことこまかに説明しなければならないのだ。
ピートル・ル・レトンは三歩とはなれないところにいた。アペリチフを一杯飲んだが、五十フラン紙幣をだして釣銭も受けとらない。これが彼の癖なのだろうか、それともたんなる虚勢なのか。
つぎに彼は紳士雑貨の店にたちよった。たぶん冗談のつもりなのだろうが、三十分もかけてネクタイ一ダースと室内着三着をえらびだし、カウンターの上に名刺をおいて立ち去ろうとした。なにも知らぬ店員は、あわててあとを追わねばならなかった。
傷口は化膿しているにちがいなかった。ときどき、肩ぜんたいに大きな銛《もり》をうちこまれるような痛みを感じた。胸も重苦しく、胃のなかが掻きまわされるようであった。
平和街《リュ・ド・ラ・ペー》、ヴァンドーム広場、フォブール・サントノレ……ピートル・ル・レトンは歩きつづける。
やがて、ホテル・マジェスティックへ帰りついた。ボーイがでてきてドアをあけた。
「主任さん……」
「なんだ、またきみか?」
デュフール刑事だった。心配そうな目つきで、暗がりからおずおずと姿をあらわした。
「じつは……女が消えたんです……」
「なんだと?」
「できるだけの手は打ったつもりです。女は『セレクト』をでて、すぐさま五十二番地の建物へはいっていきました。裁縫店です。私は一時間ばかり外で待ってから、門番にきいてみました。ところが、二階のサロンでは、だれも見かけたものがいないんです。女はあっさり建物を通りぬけちまったらしいんですね。ベリー街にも出口があったんです……」
「やれやれ!」
「どうしましょう?」
「休むんだな」
デュフール刑事はメグレの眼をのぞきこむように見たが、つっと顔をそらせていった。
「主任、私はぜったいに……」
麻痺《まひ》しきった右手をかろうじてあげると、メグレは刑事の肩をたたいてやった。
「デュフール、たしかにきみは正直者だよ! だが、もうこのくらいでたくさんだ!」
そういうと、マジェスティックへはいっていった。めずらしく笑顔をみせたので、渋面をつくっていた支配人のほうがびっくりした。
「ル・レトンは?」
「いま部屋へのぼったばかりです」
メグレはエレベーターに乗ると、
「三階」と、つげた。
メグレはぐるぐると音をたててパイプを吸いながら、急にまたにっこりした。さっきとちがって、むしろ苦笑にちかかったが、ここ数時間パイプをやらなかったことを思いだしたのだった。
十七号室の前にたつと、メグレはためらわずにノックした。どうぞ、と大きな声がきこえた。メグレはなかへはいり、うしろ手にドアをしめた。
客間にはラジエーターが通っていたが、にもかかわらず、煖炉もすえてあった。もっぱら装飾的な配慮から焚《た》かれているのだった。
ル・レトンはマントルピースに肘をついて、一枚の紙片を燃やしていた。火がはやくまわるように、足の先でそれをつついていた。
一瞥《いちべつ》しただけで、メグレは、レトンがさっきの平静を失っていることを知った、が、内心の歓《よろこ》びをそとにあらわさぬだけの自制は保っていた。
太い腕をのばすと、メグレは金粉をふきつけた椅子の背をつかんでひきよせた。炉端から一メートルばかりのところに、その華奢《きゃしゃ》な脚をすえると、どっかと、馬乗りにまたがった。
ふたたびパイプを口にできたせいだろうか? それとも、いままでの沈滞状態、いやむしろ遅疑逡巡《ちぎしゅんじゅん》といったようなものに、メグレ自身が反発しはじめたのだろうか?
いつもこうした瞬間には、メグレはかつてないほどの強硬さをしめす。いわばふだんのメグレを二倍にしたようなものだ。それは古い樫材《かしざい》でできた障壁、むしろ砂岩づくりの障壁といってもよかった。
彼は椅子の背に両肘をのせていた。これでいったん怒らせれば、そのがっしりした手で相手の頸筋《くびすじ》をおさえ、壁に頭をうちつけるぐらいのことはやりかねないように思われた。
「モーティマーはもどっているんだな?」
と、彼はいった。
焼けおちる紙片に目をそそいでいたル・レトンは、ゆっくりと顔をあげた。
「知らないね……」
指が烈《はげ》しくけいれんしていた。それをメグレは見逃さなかった。彼の見逃さなかったものがもうひとつある。それは一個の鞄だった。前には部屋になかったものだが、寝室の戸口におかれていた。
「あれには何がはいってるんだ」
返事はなかった。が、レトンの表情が急激にかわって、動揺を色にだした。やがてこう訊ねた。
「わたしを逮捕する気だね?」
その不安そうな声音《こわね》のうらには、一抹《いちまつ》の安堵《あんど》といったような響きがくみとれた。
「まださ……」
メグレは立ちあがって、鞄をとりにいった。足先をつかって煖炉の前まで運んでくると、それをあけた。
なかには既製品らしいグレイの背広がはいっていた。まったくの新品で、正札をはがすことさえ忘れている。
警部は受話器をとっていった。
「もしもし……モーティマーは帰ったかね?……まだ?……で、十七号室を訪ねてきたものはいないかね?……もしもし!……なに……シャンゼリゼー通りの紳士用品店から包みがとどいてるって?……いや、こっちへ運ぶ必要はないよ……」
彼は電話をきると、パイプを詰めながらきいた。
「アンナ・ゴルスキンはどこだ?」
「なんなら捜してもいいよ」
「というからには、この部屋にはいないんだな。だが彼女はここへきたはずだ。この鞄をもってきて、手紙がそえてあったんだろう……」
あわてたようすで、ピートルは灰をつきくずした。粉末状のものだけがのこった。
メグレはこの瞬間、うかつな言葉を吐けないことをさとった。いまは彼が先手をとっているものの、一歩でも出かたを誤ればたちまち優勢はくずれてしまうのだ。
彼は習慣にうながされて立ちあがると煖炉にちかづいた。その動作があまりにも唐突だったので、ピートルははっと身がまえる気勢をしめした。が、すぐに気づいてやめると、顔をあかくした。
メグレはただ背中を温めにいっただけであった。パイプを吸いこむと、濃い煙をこきざみに吐いた。
そのあとは、長い沈黙が室内を圧した。さまざまの想《おも》いが乱れて、神経を堪えがたくさせた。
ル・レトンは、うわべこそ自若《じじゃく》とした態度をみせていたが、明らかにいらだっていた。彼もメグレのパイプに対抗して、葉巻に火をつけた。
メグレはあちこちを歩きはじめた。電話をのせた円テーブルに手をつこうとして、あやうく毀《こわ》しそうになった。
相手は、メグレが受話器をはずさないで、ボタンだけ押したのに気づかなかった。結果はただちにあらわれた。電話のベルが響きわたった。
フロントの声がたずねていた。
「もしもし!……お呼びですか? もしもし!……フロントですが……なにかご用でも? もしもし! こちらはホテルのフロントですが……」
メグレはすました顔でいった。
「もしもし!……ああ……モーティマーが?……ありがとう……すぐ行ってみよう……」
「もしもし! もしもし……」
彼が受話器をおくと、そのとたんにまた鳴りだした。こんどは支配人の声だった。
「どうなさったんです?……さっぱり、ようすがわかりませんが……」
「うるさい!」
メグレはどなりつけた。眼はレトンに釘づけにしたままだ。
レトンは蒼白《そうはく》になって、いまにもドアへむかって駈けだしそうな気配をみせた。
メグレがいった。
「なんでもないんだ。モーティマー・レヴィングストンが帰ってきたそうだ。報らせるように頼んでおいたんでね」
相手の額に汗の玉がひかっていた。
「鞄と、それにそえてあった手紙のことを話していたんだったな……アンナ・ゴルスキンのね」
「アンナには関係のないことだ」
「これは失礼。てっきり……じゃ、手紙は彼女からではなかったんだな?」
「じつはね……」
ル・レトンはふるえていた。それは確かだった。異常なまでに神経質になっていた。顔もからだも、小波《さざなみ》のように、けいれんしていた。
「きいてほしいんだ!……」
「きいているじゃないか!」
メグレは、火に背中をむけたままで答えた。片手は、ポケットの小型拳銃を握りしめていた。ひきぬくのに一秒とかかるまい。彼は、微笑した。が、その微笑のかげには、極度の緊張がうかがわれた。
「どうしたんだ……こっちは聞いているんだぞ……」
しかし、レトンはウィスキーの壜《びん》をにぎったまま、
「どうでもいいことさ……」
と、喰いしばった歯のあいだから呟《つぶや》いた。グラスになみなみと注ぐと、ひと息にあおってメグレの顔をみつめた。フィオドル・ユーロヴィッチの苦悩にみちた眼であった。顎《あご》にひとしずく、酒がたれて光った。
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十三 二人のピートル
メグレは、これほどおそろしい飲みっぷりを見たことがなかった。実際のところ、水をのむ大型グラスにウィスキーをなみなみと注いで、それをぐっとひと息にあおるというような男に、お目にかかったのはこれが最初だった。しかも、注いではあおり、注いではあおり、またたくまに三杯を飲みほしたのだった。空になった酒壜をふって、六十度のウィスキーを最後の一滴まで、あまさず胃の腑《ふ》へ落としこんだわけだ。
その結果はすさまじいものだった。
ピートル・ル・レトンは紫色になったかと思うと、つぎの瞬間には、血の気がひいて紙のようになった。だが両頬だけは、まだらな紅《あか》みをのこしていた。唇まで白くなった。
よろよろっと二、三歩後退すると、円テーブルに倚《よ》りかかった。そして酔いに誘われた放心状態のなかでいった。
「おれをここまで追いつめるのが、あんたの狙《ねら》いだったんだろう、え、そうだろう?」
そして苦しげに笑った。
その笑いには、すべての意味が含まれていた。恐怖、自嘲、にがにがしさ、またそこには絶望もみえた。
彼は椅子をむけなおして、からだをささえると、汗ばんだ額をぬぐった。
「結局、おれ一人ではどうにもならなかったんだ……まったくの偶然さ……」
メグレは身動きをしなかった。相手に鎮静剤を飲ませるなり吸入させるなりして、こんな場面に終止符をうちたいのはやまやまだったが、からだのほうがいうことをきかないのだった。
朝とおなじように、ピートルは変貌《へんぼう》しつつあった。ただしそれは十倍も百倍も強烈なものであった。
さっきまでメグレが相手にしていたのは、完全に自己を制禦《せいぎょ》した男だった。たぐいまれな意志力にささえられた、鋭敏な知性人であった。
一分として隙のない社交人であり、教養人であった。
それがたちまちにして、一個の神経の塊りと化してしまった。まるで、くるった糸にあやつられる傀儡《くぐつ》人形だ、蒼ざめた顔面をひきつらせ、その内部は怒濤《どとう》さながらに沸きかえっているのだ。
彼は笑っていた! 嘲笑をうかべながら、ただ意味もなくいらだっていた。しかもいっぽうでは、階下の物音をきき分けようとでもするように耳をそばだてていた。
そういえば、この直下がモーティマー・レヴィングストンの部屋になっている。
かれはしわがれた声を張りあげていった。
「乗りかかった船だったんだ! しかも、その船から、どうしても降りることができなくなってしまった! まったくの偶然さね、あんた……最初から偶然の連続だったといえるんだ!」
壁にぶつかると、そのままからだを斜めにして凭《もた》れかかった。そしてぎゅっと顔をしかめた。さっきの無茶苦茶な飲みっぷりは、毒薬をあおるにも等しいものだ。頭痛に襲われたのにちがいない。
「おい……おれに教えてくれないか。まだ時間のあるうちに、おれがどっちのピートルだか教えてくれ! あんたの国のフランス語じゃ、ピートルっての道化師《ピートル》につうじるんだろう?」
悲しいと同時に、胸のわるくなる光景でもあった。滑稽《こっけい》でもあり、おぞましくもあった。
しかも、刻一刻と泥酔の度合はひどくなってくる。
「奴《やつ》らがまだこないのは変だな……だが、いずれは、やってくるさ!……そしてそのときは!……おい……教えてくれ!……おれはいったいどっちのピートルなんだ?……」
にわかに様子がかわって、彼は両手で頭をかかえこんだ。その顔の表情が肉体的な苦痛をしめしていた。
「ぜったいにわかってはもらえまい……二人ピートルの物語はな……あのアベルとカインの話に似たところがあるんだ〔旧約聖書の創世記にある。アベルは、アダムとエバの長子であるが、弟のカインにねたまれて殺された。これが殺人のおこりとされているが、歴史上さまざまの解釈がなされている〕……あんたはきっとカトリック教徒だろうが……おれたちの国はプロテスタントだ。聖書とともに生きるというやつさ……話してもむだだと思うがね……おれはしかし信じている……あのカインという奴はお人好しで、他人を疑うことを知らない男だったにちがいない……ところが、いっぽう兄のアベルは……」
そとの廊下に足音がひびいた。ドアがあいた。
さしものメグレもぎくっとして、パイプを咥《くわ》えなおしたくらいだった。
はいってきたのがモーティマー・レヴィングストンだったからだ。毛皮襟の外套をきこんでいた。豪華な会食に列席していたためだろう、顔色が上気してみえた。
身のまわりには、酒と葉巻の芳香をただよわせていた。
客間へ足をいれるやいなや、さっと顔色がかわった。血の気がひいてしまった。どこがどうというわけではないが、均斉が急にくずれた感じをうけた。面上には一種くるしげな色がうかんだ。
戸外から帰りついたばかりらしい。着衣の襞《ひだ》のあいだから、まだ新鮮な空気が匂っていた。
双方に派手《はで》な動きがおこった。警部はどちらにも眼をすえるわけにはいかなかった。
彼はむしろピートルのほうを眺めていた。衝撃の第一波が去って、やや正気にかえりつつあった。だが、その余裕はなかった。酒量があまりにも多すぎたのだ。自分でもその気配を感じて、ピートルは死に物ぐるいで気力をまとめようと努力した。
顔がゆがんだ。もう目の前の人も物体も、ねじれた靄《もや》をすかしてしか見えなかった。テーブルを離れようとして、足をふみはずし、すんでのところに倒れそうになったが、奇蹟的にバランスをとりもどした。
「やあ、これはモーティ……」
そういいかけたが、警部の視線にであうと、がらりとちがった口調で吐きだした。
「どうだっていいじゃないか、え?……どうだっていいのさ……」
ドアがばたんと音をたてた。足音があわただしく去っていく。モーティマーが逃げだしたのだった。ほとんど時をおなじくして、ピートルがどさっと肘掛椅子に倒れこんだ。
メグレはひとっ跳びにドアへとびついた。そして、開けるまえに、その場で耳をすませた。
しかし、ホテルの雑多な騒音のなかに、あのアメリカ人の靴音をききわけることは、もはや不可能だった。
「あんたは、こうなることを望んでいたんだろう!……」
ピートルがしゃがれ声でいった。そのあとは、もつれる舌で、どこの国語ともつかない言葉をつぶやきつづけた。
警部は外へでた。ドアに鍵をかけると、廊下にそって走りながら、階段をかけおりた。
二階のおどり場までたっしたとき、ちょうどうまいぐあいに、前方から逃げてくる女を捕えるかっこうになった。火薬の匂いがぷんと鼻をかすめた。
左手で女のドレスをひっつかみながら、右手で女のもった拳銃をはたきおとした。その瞬間に弾丸が発射されて、エレベーターのガラス扉をうちくだいた。
女は身をもがいた。女とは思えない糞力《くそぢから》の、ありったけをふりしぼって抵抗する。
メグレは結局、手首をねじあげて取りおさえるほかはなかった。女は膝をついて、
「放してよ!……」
と、呼吸をあえがせた。
ホテルはしだいに騒然としてきた。あちこちの廊下や、出口と名のつく出口すべてから、異常な気配が湧《わ》きおこった。
最初にすがたをみせたのは、黒と白の制服をつけた部屋づきのメイドだった。胆《きも》をつぶしたその女は、両手をたかだかと上へのばして逃げだした。
「動くな!……」
メグレがどなった。メイドにではない。いま捕えた女にむかっていったのだ。
ところが二人とも動きをやめた。メイドがさけび声をあげた。
「おねがいです……わたしはなにもしてないんです」
それをさかいにして、あたりはひどい混乱状態におちいった。四方八方から人間が駈けつけてくる。そんななかで、支配人がひとり手をふりまわして制していた。やがて、夜会服すがたの婦人群があらわれると、あたり一帯は不協和音の洪水となった。
メグレは背をかがめて、女に手錠をかけることにした。女というのはアンナ・ゴルスキンにほかならなかった。彼女は大いに暴れた。そのひょうしにドレスを裂いて、いつも通りのあられもない姿をみせることになった。ものものしい形相で、眼をぎらつかせ、口をひんまげていた。
「モーティマーの部屋は……」
メグレが支配人に声をかけた。
だが支配人はすっかり動顛《どうてん》して、どう処置をとってよいか見当もつかぬありさまだった。メグレはそうした人の渦のなかに、ひとり立ちはだかっていた。
人々は押しあいへしあい、不安にかられて騒ぎたてている。婦人連中は、泣きわめき、じだんだを踏んでいるものもあった。
レヴィングストンの部屋は、ついその先だった。メグレはドアをあける必要もなかった。はじめから大きくあけ放してあった。そして、床の上には、血まみれの人間がひとり、まだ生きてうごめいていた。
メグレはただちに階上へ駈けのぼり、さっき自分で鍵をかけたはずのドアをたたいた。応答はない。彼は鍵をはずしてはいった。
ピートル・ル・レトンの部屋は、もぬけの殻《から》であった!
煖炉の前の床には、まだ例の鞄がおきっぱなしになって、グレイの既製服もいれたままだった。
あけはなした窓から、刺すような冷気がしのびこんでいた。その窓はちょうど、部屋にきった煖炉のようなぐあいに、中庭にむかってあいている。眼下には、長方形をした戸口が三つ、仄暗《ほのぐら》くみえていた。
メグレはまた、足をひきずるようにして階段をおりた。騒ぎはいくらか鎮まっていた。客のなかに医師がいたらしい。その医師はモーティマーのそばにかがみこんでいた。が、男たちはもちろんのこと、婦人連もそっちへは注意をむけていなかった。
あらゆる視線は、廊下にしゃがみこんだユダヤ女の上に集中されていた。彼女は手錠をかけられたまま、口をつんと突きだして、弥次馬たちを口汚なくののしっていた。帽子は頭からずりおち、光った髪の毛が束になって顔の上にたれさがっていた。
フロント詰めの通訳が警官をともなって、ガラスのわれたエレベーターをおりてきた。
「人を散らしてくれ」
メグレは警官にそう命じた。
背後でなにか抗議する声がした。どうやら、メグレが一人そこに立っただけで、通路がふさがれてしまったようだ。
メグレは重い体躯で強情に人をかきわけて、モーティマーのそばへいった。
「どうなんです?……」
医師はドイツ人で、フランス語はほとんどできなかった。くどくどと説明をはじめるのだが、ドイツ語とフランス語がちゃんぽんになっていて解《わか》りにくい。
富豪の顔の下半分は文字どおりけしとんでいた。その部分はもはや、赤黒い傷口としか見えなかった。
しかしながら、口があいた。それは口であって口でないようなものだった。そのおくから、血といっしょに、もごもごというような音がもれた。
だれにも意味はわからなかった。メグレにしても、医師にしてもすぐ近くにいた二、三の人にしても同様だった。医師というのは、あとになって、ボン大学の教授であることがわかった。
毛皮襟の外套は葉巻の灰にまみれていた。片方の手は、指をひろげたまま、大きく開かれていた。
「死にましたか?」
警部はたずねた。
医師が否定するように首をよこにふった。二人は黙った。
廊下からざわめきがひいていた。警官がじりじりと、さからう弥次馬連を押しかえしていったのだ。
モーティマー・レヴィングストンの唇がとじて、またひらいた。医師はしばらくのあいだ微動もしなかった。
やがて腰をあげながら、これで肩の荷をおろしたといった調子でいった。
「死にましたよ、|ええ《ヤー》……とても見込みはなかったが……」
だれかが毛皮襟の外套を踏んでいったとみえて、靴の痕《あと》がはっきりと残っていた。
戸口から、銀の袖章をつけた警官が顔をのぞけた。しばらく黙っていたが、やがて伺いをたてるようにいった。
「わたしはどうすればいいでしょう?……」
「一人のこらず追いだしてくれ」
と、メグレはいいつけた。
「例の女がわめきちらしてますが……」
「わめかせておくさ……」
そういって、例のごとく煖炉の前へいったが、あいにく火ははいっていなかった。
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十四 ウガラ倶楽部《クラブ》
どんな民族にも、それぞれ固有の体臭というものがあって、他の民族はそれを忌みきらうようである。
メグレ警部も窓をあけて、たてつづけにパイプを喫《ふ》かしてみた。が、その重苦しい臭気は容易にぬけるものではなかった。
この「シチリアの王」ホテルそのものの臭気なのだろうか? あるいはこの街ぜんたいがそうなのか。とにかく、あの黒いお釜帽をかぶった管理人が窓口をあけたときから、すでにこの匂《にお》いは漂っていた。それが、狭い階段をのぼるにしたがって、ますます強烈になっていった。
アンナ・ゴルスキンの部屋は、それで充満しているといってもよかった。事実、ここかしこに食料品が散らばっているせいもあったろう。うすぎたない桃色をした大型ソーセージは、どれもぶよぶよでやたらに大蒜《にんにく》の小片がのぞいている。饐《す》えたソースの皿のなかには、魚のフライが溺《おぼ》れていた。
ロシア煙草《たばこ》のすいがら。半ダースほどの茶碗の底に、紅茶がたまっている。
ベッドを覆《おお》った木綿の掛け布は、ねっとりとしめっていた。換気のない寝室なので、空気はひどく蒸《む》れていた。
メグレはベッドのクッションをほぐして、中を手でさぐってみた。でてきたのは、灰色をしたズック製の小さな袋だった。
そのなかには、二葉の写真と、一枚の証書がはいっていた。
一枚目の写真には、坂になった街並みがうつっていた。舗石はごつごつと尖《とが》っていて、それに沿って、オランダによく見るような切妻《きりづま》屋根のふるびた家々が建ちならんでいた。しかし壁はみなあざやかに白く、その上にあたって、窓や戸口や軒蛇腹《のきじゃばら》などの黒い輪郭がするどく描きだされていた。
前景にみえる家には、つぎのような看板がかけてあった。ゴシック字体ともロシア字体ともとれるような文字だった。
リュツェップ街 六番地
仕立屋
マックス・ヨハンソン
なかなか大きな家だった。切妻屋根のうえに大梁《おおはり》がそびえ、それに一個の滑車がとりつけてあった。その昔、大麦を屋根うらの貯蔵庫へ運びいれるのに使われたものだ。一階の正面には、六段からなる石段があり、両側を鉄の欄干《てすり》がかこっていた。
その石段の上に、ひとりの男をかこんで、家族の者がならんでいた。男というのはこの家の主人であろう、四十がらみの年配で、背はひくく、頭髪には白いものがまじり、どんよりと濁った顔色をしていた――まぎれもなく仕立屋の風貌《ふうぼう》である。謹厳そのものだが、どこか放心したような表情で写っていた。
その妻は、ごわごわしたサテンのドレスを着て、彫刻をほどこした椅子にすわっていた。人なつこい笑顔をレンズのほうへむけて、それでも、すこしは目立ちたいのか、唇をちょっとつきだしていた。
その夫婦の前に、二人の子供が手をつないでならんでいた。どちらも六歳から八歳というところだろう。脛《すね》までの半ズボンの下から黒の長靴下がのぞいている。襟はふちどりのある白のセーラー襟で、袖口にも折返しがついていた。
おなじ年齢! おなじ体格!
その二人の子供と、それから父親の仕立屋の三人は、おそろしいほどよく似ていた。
かといって、その二人の性格をはっきり区別している相違点にも、おのずから気づかぬわけにはいかなかった。
一人のほうは確乎《かっこ》とした表情をみせて、やや人をくったような、攻撃的な態度でカメラにむかっていた。
もう一人のほうは、そっととなりの子供のほうをうかがうようにして撮れていた。その眼差《まなざ》しには信頼感というか、相手にたいする嘆賞の色がみてとれた。
写真師の名前は、凹印《おういん》で、
『プスコフ市。K・アーケル写真店』
と読まれた。〔プスコフはロシア西部の都市〕
二枚目の写真はさらに大型のもので、よりふかい意味がふくまれていた。それはある宴会の席上で撮影されたものだった。遠景に、長いテーブルが二脚うつっていて、その上は、料理の皿や酒壜で埋まっていた。そして、そのまた奥の壁ぎわに、武具のひとそろえが飾ってあった。軍旗が六本、よくはみえないが小盾《こだて》らしいもの、交叉《こうさ》させた二本の剣、それに丸く巻いた軍用外套。
会食者はみな十八歳から二十歳前後の学生であった。鍔《つば》のせまい銀線でふちどりをしたハンティングをかぶっていた。生地はコールテンで、色はこれは想像にすぎないが、ドイツおよびその周辺の北欧人種がこのんで用いる、あのあざやかな緑であろうと思われた。
髪はのこらずみじかく刈っていた。大部分が彫りのふかい顔だちの者ばかりだった。
カメラのほうへ屈託のない笑顔をむけている者もあれば、ビールのジョッキをかざしている者もある。ジョッキは木に細工をしたもので、奇妙な形をしていた。またマグネシウムが眩《まぶ》しくて、眼をとじてしまった者も何人かいた。
テーブルの中央には一個の石盤がどっかとすえてあって、それにはこう書かれていた。
タルトゥ市
ウガラ倶楽部《クラブ》〔タルトゥはエストニア中部の都市〕
それは、世界各国どこの大学でも組織されているような、一種の学生団体の名称であった。
その武具のかざってある正面に、ひときわめだって一人の青年が立っていた。
無帽であるうえに、頭髪をきれいに剃《そ》っているので、顔の輪郭はいやでもくっきりと浮きだしていた。
ほとんどの青年が制服すがたであるのに、その青年だけは黒の背広を着てすましかえっていた。まだ肩幅がないので、ややぎごちなく見えるのはいたしかたなかった。白のチョッキの上に、レジオン・ドノールの大綬《たいじゅ》のつもりだろう、大きなリボンをとめていた。
それが会長のしるしなのだった。
希態なことに、会員の大半が正面をむいて撮《と》れているのに、一部の小心な連中は、本能的に、会長である青年のほうへ顔をむけているのだった。
なかでも、もっとも熱心な眼差しをそっちへむけている青年は、会長である青年と瓜《うり》二つといってもよかった。すぐ近くにすわって、わずかでも見逃すまいとして、むりに首をねじむけていた。
大きなリボンをとめた学生と、そっちをむさぼるような眼でながめている学生は、あえていうまでもなく、プスコフの家の前で、仕立屋の父親ヨハンソンと写っていた二人の子供であった。
証書のほうは、古文書をまねて、羊皮紙の上にラテン語で書かれていた。古風な表現をふんだんにつらねたそれは、哲学科学生ハンス・ヨハンソンなる者を、ウガラ倶楽部の会友とするむねを記載していた。
そして、署名の個所には、
[大総裁ピートル・ヨハンソン]と、あった。
おなじズックの袋のなかに、もうひとつ、紐《ひも》でゆわえた包みがあった。これにも同様に写真二枚と、そのほかにロシア語で書かれた手紙が何通かはいっていた。
写真には、ヴィルナの写真商の名前がはいっていた。〔ヴィルナ市は、リトアニア共和国の首府〕
一枚のほうには、五十歳前後のユダヤ女がひとり写っていた。肥満した気むずかしい表情の婦人で、教会の遺物といってもおかしくないような、古風な真珠で身のまわりを飾っていた。
ひとめみただけで、アンナ・ゴルスキンとの血縁関係が察せられた。
もう一枚のほうは、これはその娘自身を写したものであった。年齢は十六歳ぐらいで、白貂《しろてん》の毛皮でできた縁なし帽をかぶっていた。
手紙のほうをみると、商店名のはいった住所が三か国語で記入されていた。
ワルシャワ=ヴィルナ市
シベリヤ産毛皮専門
毛皮卸商
エフライム・ゴルスキン
文面のほうは手書きのものだったが、メグレには解読しようもなかった。ただある一句だけが、どの手紙をみても、乱暴に下線をひいてあることを知ったにすぎなかった。
彼は手紙の束をポケットにしまうと、たんなる義務感から、最後にひとわたり部屋を検《あらた》めることにした。
その部屋は、ひとりの人間があまりにも長く住んでいたために、アパルトマンの一室としての無味無臭な特性を失っていた。
どんな小さな品にも、壁紙の汚点や布片ひとつにしても、アンナ・ゴルスキンの歴史が沁みついているのだった。
そこここに頭髪がおちていたが、それは太く、脂ぎっていて、東洋人種のそれかと思われるようだった。
無数にころがっている煙草のすいがら。乾パンの函《はこ》。床にちらばったその破片。生姜《しょうが》の壺。大きな罐詰《かんづめ》。そのなかには鵞鳥《がちょう》肉の油漬けの残りがはいって、罐詰の製造マークはポーランドとなっていた。そしてキャヴィア。
ウォトカ。ウィスキー。小さな容器――メグレは鼻をつけてかいでみた。そこには、生のままの阿片《あへん》が、うすく板状に圧縮されていれてあった。
半時間ほどのちに、メグレは警視庁へもどると、それらの手紙を翻訳してもらった。そのなかの、こんな文面が、とびとびにかれの脳裡《のうり》にのこった。
『……母さんの脚のむくみは、ますますひどくなってきたよ……』
『……母さんがおまえの足のぐあいを知りたいそうだ。遠歩きをしたあとで、むくんではこないのかね。母さんは、おまえにも自分とおなじ持病があると信じこんで、心配しているのだ……』
『……ヴィルナ問題はまだ解決をみないが、こちらはしごく平穏だよ。われわれユダヤ人はリトアニアからもポーランドからも、どちらからも目の敵にされているらしい……』
『……おまえ、すまんが、ルヴァッソールという人の身元を調べてみてくれんか。住所はそっちのオートヴィル街六十五番地だ。毛皮を注文してきたんだが、銀行の関係書類をよこさんので困っているのだ……』
『……おまえも学業をおえたら、結婚して、うちの商売にはげんでもらわにゃならん……母さんはもう頼りにならんのでな……』
『……母さんはもう椅子から離れられなくなった……あの性分には、わしもこの頃は閉口しておる……はやく、おまえに帰ってもらわんことにゃ……』
『……ゴールドシュタインのとこの息子が、二週間ほど前に帰ってきおったが、おまえのことを、パリ大学に籍はないというておったぞ。わしはこの嘘つきめといってやったよ……』
『……母さんは、鍼《はり》の治療をやらなきゃならなかった……』
『……おまえがパリで、いかがわしい連中といっしょのところを見たというやつがおる……おまえの返事をきかせてくれ……』
『……またまた、おまえについての悪い評判をきいた。商売のひまをみて、わしが直接そっちへ行くつもりだ……』
『……母さんは一人で留守をするのはいやだといいおるし、医者も匙《さじ》を投げておる。そんなことがなければ、わしはすぐ、おまえの行状を調べにパリへいくんだが……とにかく帰ってこい……』
『……おまえに汽車賃として五百ズローチを送った……』
『……一か月以内に帰らないなら、あとは勝手にするがいい……』
つづいてまた、母親の脚の容態。さらにまた、ヴィルナへ帰郷したユダヤ人学生からきかされた、パリの若い娘の生活談……
『すぐこつちへ帰らないなら、親子の縁もこれまでだ……』
そして、最後の手紙には、
『送金をとめてから一年にもなるのに、おまえはどうやって生活していたのだ? 母さんはたいそう悲しんでおる。こうしたことになったのも、みんなわしの責任だといっておるんだよ……』
メグレ警部は、ただの一度も微笑をみせなかった。手紙類を引出しへ投げこんで鍵をかけた。それから一、二本電報をうっておいて、留置場へ足をむけた。
アンナ・ゴルスキンは、一般房でその夜を明かしていた。
メグレは、彼女を特別の独房へいれるように命じておいて、しばらくして、そこの覗《のぞ》き窓をあけた。
アンナ・ゴルスキンは、そこの腰掛けにすわっていたが、べつに怯《おび》えてもいなかった。ゆるゆると戸口へ顔をむけたが、相手がだれであるかを知ると、軽蔑したように頬をふくらませた。
彼は中へはいって、しばらく無言のまま女を観察した。罠《わな》にかけたり、誘導尋問によって無意識のうちに自白にみちびくような試みが、むだなことをメグレは知っていた。
彼女はあまりにも超然としすぎている。そうした罠にかけようとすれば、こっちが恥をかかされるだけだろう。
彼は結局、こんなふうにたずねた。
「白状するね?」
「とんでもない!」
「あくまでも、モーティマーを殺さなかったといいはる気か?」
「ええ」
「仲間のために、グレイの背広を買ってやったことも否定するんだな?」
「ええ」
「それをもってホテル・マジェスティックへいったことも、手紙を添えたことも否定するんだな? これからモーティマーを殺すという意味と、外での待合わせ場所とを書いた手紙のことも、否定するんだな?」
「否認します」
「マジェスティックへなにしにいったんだ?」
「ゴールドシュタイン夫人の部屋を訪ねていったんです」
「そんな名前の客は泊まっていないぞ」
「知らなかったんです」
「じゃ、なぜピストルをもって逃げだすようなまねをしたんだ?」
「二階の廊下で、一人の男がだれかにむけて、ピストルを撃ったのが見えたんです。つづいて男はピストルをとりおとしました。わたしは、こんどは自分が撃たれるんじゃないかと思ったので、それを拾いあげました。そして、従業員に知らせるつもりで駈けだしたんですわ」
「モーティマーには会ったことがないんだな?」
「ありません……」
「しかし、やつは『シチリアの王』ホテルへいったぞ」
「あのアパルトマンには、六十人の客がいますよ」
「ピートル・ル・レトンも、オッペンハイムも知らないというんだな?」
「知りませんよ……」
「しらをきるのは滑稽だぞ!」
「滑稽なら滑稽でいいわ」
「きみにグレイの背広を売った店員をさがしだすことになるが……」
「どうぞご自由に」
「ヴィルナにいるきみの父親にも報らせよう……」
彼女はこれで、はじめて動揺をみせた。が、同時に、冷笑をうかべながらやりかえした。
「父にそんな手間をとらせるのなら、旅費を送っておかなければだめよ……」
メグレは怒りもしなかった。好奇の視線で女をながめやったが、そこには同情に似た色がないとはいえなかった。女には気骨があったからだ。
最初から、女の申し立てがでたらめであることはわかりきっていた。事実そのものがはっきりしているのだから。
だが、被告人が拒否していて、警察がどうしても物的証拠でそれを覆《くつがえ》しえないという場合が、しばしば起こる。こんどの事件がちょうどそれであった。
この場合は極め手というものがぜんぜんなかった。使われた拳銃は、パリの銃砲店には馴染《なじ》みのないものであった。したがって、それがアンナ・ゴルスキンの所有物であるという証明ができないわけだ。
彼女が犯行の時間に、ホテル・マジェスティックにいあわせたという事実はどうか? 大きなホテルというのは、天下の公道もおなじことで、だれもが気軽に出入りできることになっている。彼女はだれかを訪ねてきたと申し立てているではないか? それはどうみたって、あってふしぎのないことだろう。
彼女が拳銃を発射する瞬間を目撃したものはいない。手紙もピートル・ル・レトンが焼いてしまって、あとかたも残っていない。
たんなる推定だけではないか。気は逸《はや》っても、それらを纏《まと》めあげるだんになると、たやすくはいかない。陪審というものは、推論だけにもとづいて、有罪の判決をくだすことはない。だいたいが陪審員は、弁護側からはつつかれるし、誤審のまぼろしをおそれるのあまり、明々白々な証拠でも、とかく無視したがるものなのだ。
メグレは最後の切り札をだした。
「レトンはフェカンの町にいるらしいな」
こんどこそ、望んだ結果がえられた。アンナ・ゴルスキンは大きく身ぶるいした。だが彼女は、嘘だ嘘だとみずからにいいきかせて、自制をとりもどした。
「それで、どうだというの?」
「匿名の手紙がとどいたんだ。こっちも真偽を確かめようとしてるんだがね。やつはそこに家を借りて隠れているというんだ。スワンという名前でね……」
彼女はメグレのほうへ暗い眼をむけた。それは厳粛で、悼《いた》ましくさえあった。……
メグレの眼が自動的にアンナ・ゴルスキンの足首へいった。母親の心配したとおり、たしかに彼女は水腫《すいしゅ》病におかされていた。
まばらな髪がみだれて、頭の地肌をのぞかせている。黒いドレスはよごれてしまった。
さらに上唇のうえあたりには、うす髭がかなりめだっていた。
それでいながら、彼女は美しくみえた。なにか動物的な、野性的な魅力なのだ。
視線をメグレの上にきっとすえ、人を人とも思わぬような、傲慢《ごうまん》な口もとだった。からだをちぢめるようにして、というよりは、むしろ本能的に危険をさけるように背を折って、ひくい声でいった。
「そこまでごぞんじなら、なにもわたしを訊問する必要はないでしょう?……」
一瞬きらっと眼がひかって、蔑《さげす》むようなうすら笑いをうかべながら、
「彼女をまきぞえにしたくないからなんでしょう! え、そうじゃなくて?……はっはっ……わたしなんか、どうなってもいいんだわね……ひとりの外国人の女というだけで……[ユダヤ人街]でどうかこうか生きてる女というだけでさ……でも、彼女となると……え、どうなのさ……」
アンナは激情にかられてしゃべりつづけた。メグレに注視されていることすらが、彼女の怒りを買うらしい。メグレは冷淡をよそおって、見て見ない顔をすることにした。
「さあ! どうなの、あんた、聞いているの!……もう行ってちょうだい! わたしに構わないでほしいわ。いっとくけど、話すことはなにもないわよ!……」
そして、どうと床に倒れた。メグレは経験上、こうした種類の女を知らないわけではなかったが、いまの動きは予測できなかった。
ヒステリーの発作だ! 彼女はぶざまな恰好でたおれていた。手足がひきつり、大波のようなふるえが全身をゆさぶった。
一瞬まえまでは美しくみえた彼女が、すさまじい形相になってしまった。痛さもかまわず、頭髪をひとつかみずつ引きぬいていた。
メグレは動じなかった。こんな光景は何十回となく見てきたのだ。彼は床の水差しをひろいあげた。なかは空だった。
彼は守衛をよんで、
「いそいで水をいれてきてくれ」
と、命じた。
やがて運ばれてくると、彼はユダヤ女の顔にその冷水をあびせかけた。女ははっと息をつめて、ぽかんと口をあけた。相手がだれであるかわからぬままに、メグレの顔を見ていたが、すぐまたふかい嗜眠《しみん》状態におちた。
ときどき、表面的なかるい顫《ふる》えが、彼女をおそった。
メグレは、規定どおり壁ぎわによせてある寝台をととのえて、パンケーキのように薄っぺらなマットレスを敷きなおした。そして、アンナ・ゴルスキンのからだを抱きあげた。
メグレのしぐさには、悪意のかけらもなかった。彼を知る人が見れば、目をまるくするだろうと思われる優しみがこもっていた。ドレスを膝がしらまでひきさげてやり、脈搏をたしかめてから、枕もとに立って見おろしていた。
こうしてみると、彼女の顔はくたびれきった三十女のそれであった。ことに平素はめだたないが、額に無数の小じわができていた。
しかし、手をみると、ぽってりと柔らかだった。粗悪なマニキュア剤で爪はきたならしいが、手の形はほっそりと品のよいものだった。
メグレは人差し指をこきざみに動かしてパイプを詰めた。どうしてよいものか迷っているようにみえた。やがて、彼は、開けはなしておいた独房の入口へむかった。
が、にわかに驚いてふりかえった。錯覚かと思ったくらいだった。
アンナ・ゴルスキンが、たったいま、掛布を顔までかぶってしまったのだ。粗末な灰色の布の下で、彼女はもうまったく、ぶかっこうな一個の塊りでしかなくなっていた。
そしてその塊りが、ときたま思いだしたようにはげしい起伏をしめした。耳をすますと、圧《お》し殺したようなしのび泣きがきこえた。
メグレは足音をしのばせて外へでた。ドアをしめ、守衛の前をすぎて歩いていったが、十メートルほどいくと、またひきかえしてきた。
「『ドオフィーヌ』から食事をとってやってくれ!」
低い声で、早口にそうつけくわえた。
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十五 二通の電報
メグレはその二本の電報を、治安判事コメリオ氏の前で声高に読みあげた。判事は気のなさそうな顔つきだった。
最初のものはレヴィングストン夫人からで、夫の殺害をしらせてやったその返事だった。
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ベルリン ホテル・モデルン発。
発病し高熱をはっす。旅行できぬ。ストーンズに代行たのむ。
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メグレは苦笑をもらした。
「おわかりでしょうな? かわって二本目はドイツ外務省発信の至急電報です。警察暗号で書かれているので、翻訳してみましょう。
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モーティマー・レヴィングストン夫人は、飛行機にてベルリンに到着、ホテル・モデルンに止宿した。観劇をおえてホテルへもどり、パリ発信の至急電報を発見、病にふして、ベルグラッドなるアメリカ人医師を呼ぶ。医師は、職業上の秘密として一言ももらさない。警察当局による調査の必要ありや? ホテル従業員はなんらその間の事情を知らぬもよう。
[#ここで字下げ終わり]
ごらんのように、判事、この婦人は、フランス警察の手のおよばぬところにいるのです。といって、なにも彼女が夫の共犯であると主張するのではありません。むしろ逆に、夫はみずからの行動を秘しかくしていたとみて、十中九分まちがいありません。モーティマーというのは、女、それもおのれの妻に、秘密をうちあけるような性格の人間ではありません。もっとも、ある夜、ピックウィック・バアで、夫の伝言の仲介をつとめたことはあります。その相手というのは職業ダンサーで、死体は現在、警察医務院の氷室に保管されているはずです……おそらくそれが、モーティマーがよんどころない必要から、妻を手先につかった、最初にして最後といってよいでしょう……」
「ストーンズというのはなんだね?」
予審判事がたずねた。
「モーティマーの主任秘書です。この男が、モーティマーと彼の企図するいろんな事業のあいだの連絡を受けもっていたのです。犯行のあった日時には、ロンドンにいました。一週間前からヴィクトリア・ホテルに泊まっていたのです。わたしはこの男には、事件のあったことを知らせないよう配慮をとりました。そうしておいて、|ロンドン警視庁《スコットランドヤード》へ電話して、男の存在をたしかめるように依頼しました。したがって、イギリス警察がヴィクトリア・ホテルへむかったときには、新聞社の編集局はべつとして、イギリスでモーティマーの死を知っているものは誰ひとりいなかったはずです。ところが、鳥はとびたったあとでした。ストーンズは、刑事たちの到着する寸前に、姿をくらましてしまったのです」
判事は、デスクの上にちらばった手紙や電報のうえに、くらい視線をはせていた。
富豪レヴィングストンの死は、多くの人々をあっといわせるにたりる出来事であった。しかもそれが非業《ひごう》の最期であったという事実は、彼と取引きのあった人々をいたくおどろかせた。
「痴情による犯罪といううわさを流したほうがよいという意見なんだな?」
コメリオ判事は確信なげにいった。
「それが賢明といえるようです。そうしなければまず株式市場に恐慌をきたします。最近モーティマーが危機を救ってやった二、三のフランス商会をはじめとして、彼の企図になる多数のまともな事業を挫折させることになるでしょう」
「もちろんのことだろうが、しかし……」
「さらにですな、アメリカ大使館から、あなたのもとへ証拠の提出を要求してきますよ……しかも、あなたはそれを持ちあわせていない……わたしにしても同様です……」
判事は眼鏡の玉をふきながら、
「だから、どうだというんだね……?」
「べつに、どうすることもできませんよ……わたしはデュフール刑事からの連絡を心待ちにしているんです。昨日からフェカンに張りこませてあるんです……モーティマーの葬儀は盛大にやらせてやってください。そうしたところで、たいした支障もありますまい。ほうぼうから公式代表が参列して、お悔やみなどをのべることになるでしょう」
予審判事は、さっきから探るような目でメグレのようすを観察していたが、
「きみ、ようすが変じゃないか?」
と、だしぬけにいった。
メグレは苦笑すると、秘密をうちあけるような調子でいった。
「モルヒネですよ!」
「え?」
「どうかご心配なく。まだ中毒とはいきませんからね。胸の傷に注射をしているだけなんです。医者たちはわたしの肋骨二本を切りとるといってきかないんです。どうしても必要だといいましてね……まったく、気違いざたですよ……そうなれば入院して、何週間か知らないが、絶対安静にしなくてはなりません……わたしは六十時間だけ猶予《ゆうよ》をくれるように頼んだんです……いくらわるくしても、三本目が危なくなる程度でしょう……アダムより二本よけいに取られるだけじゃありませんか!……おやおや、判事、あなたまで悲劇的な目で見ておいでのようですな……あなた、この問題をコシェ教授と論じてごらんになるといい。世界じゅうの王侯や大政治家の腹のなかをいじってきた人ですよ。彼はきっと、こういうでしょう。わたしもいわれたことですが、世の中には、肉体的に数多くの欠陥をもちながら生きている人は、数しれぬほどいるのだ、とね……。
チェコスロヴァキアの初代大統領がそのいい例です……コシェ教授はかれの腎臓の片方を切除したんです……わたしも実物をみましたよ……そのほかにも、肺臓や胃のアルコール漬けがありました……しかもその本来の所有者たちは、いまも世界の各地で、営々としておのれの本分にいそしんでいるんです……」
メグレは時計をだしてながめながら、独り言のようにつぶやいた。
「デュフールのやつめ……」
表情がひきしまった。
メグレの吐きだす煙で、判事の私室は青くよどんでみえた。メグレは自分の部屋にいるような調子で、デスクのはしにどっかと尻をのせてすわっていた。やがて、彼は溜息《ためいき》まじりにいった。
「わたし自身で、フェカンへいってみたほうがよさそうです……一時間ほどすれば列車がありますから……」
「いやな事件だて!」
コメリオ判事は捨て科白《ぜりふ》のようにそういって、書類をおしかえした。
メグレ警部はその巨大な体躯を、パイプの煙のなかにしずめていた。ときどき間をおいて、じいじいとパイプの燃える音がするだけで、完全な沈黙があたりをつつんでいた。
「この写真をごらんください!」
突然、メグレが口をきった。
彼がさしだしたのは、プスコフの仕立屋の家の写真であった。あざやかな白壁、屋根からは滑車がぶらさがっている。六段ある石の踏段の前に、家族がならんで写っていた。母親は椅子にかけ、父親はポーズに気をくばり、二人の男の子は縫とりのあるセーラー襟の服を着ていた。
「場所はロシアです。地図をしらべてみますと、バルト海の沿岸なんですね。あの近辺には小さな国がいくつかあるんです。エストニア、ラトヴィア、リトアニア……そして、それらをぐるっと取り巻くようなかたちで、ポーランドとロシアが控えています。そこでは国境線がかならずしも民族分布と一致しているとはかぎりません。村一つすぎれば国語がかわることもしばしばです。またその上に、ユダヤ人が各処に分散して、そこで独自の民族をかたちづくっています。さらに共産主義者の団体があって、目下さかんに国境線でつばぜり合いがおこっています。また超国粋主義者の軍隊もあります……その近在の人々は、文字どおり松の実をたべて飢えをしのいでいるありさまです。貧しいものはいやが上にも貧しくなり、飢えと寒さのために死んでいくのです……。
知識階級とよばれる連中は、あるいはドイツ文化を、あるいはスラヴ文化を、あるいは土地とその地方の方言を、護りぬこうと努力をつづけています。
北部のラポン地方や東部のカルムック地方にも、農民たちや悪虐な白人の村落があります。混血のユダヤ人たちは大蒜《にんにく》を食しながら、獣の処理を専業としているのです」
メグレは予審判事の手から写真をとりもどした。判事はたいした興味もおぼえなかったようだ。
「妙な子供たちだな」と、それだけいった。
メグレはまた写真を予審判事の手にわたしながら、
「わたしが追っているのは、この二人のどちらだと思います?」
と、たずねた。
列車の発車時刻までには、まだ四十五分あった。
コメリオ判事は二人の少年をかわるがわる見較べた。一人のほうは傲然《ごうぜん》とカメラに相対しているのに反して、他の一人は、まるで助言でももとめるというように、兄のほうをうかがっている。
「これらの写真は、おそろしいほど雄弁に事実を語っているのです!」
メグレは言葉をつづけた。
「両親や教授たちが、なぜ一目みただけで、この二人を包んでいる運命を見ぬきえなかったか、それがふしぎに思われるくらいです。
この父親をごらんください……この男は、国粋主義者と共産主義者の団体が街なかで交戦したとき、騒ぎにまきこまれて殺されてしまったのです……彼はそのどちらかに属していたわけではなく、パンをさがしに家を出たところだったのです……わたしはまったくの偶然から、この経緯を『シチリアの王』ホテルの主人からきかされたのです。主人がたまたまプスコフの出身だったものでしてね……。
母親のほうはその後も生きのびて、その家に暮らしています。日曜にはきまって、母国の衣裳を着る習慣だそうです。顔の両がわに垂れさがるような、あの高いボンネットをかぶりましてね……。
そして子供たちは……」
といいかけて、ふと話題を転換すると、まったくちがった声になっていった。
「モーティマー・レヴィングストンは、オハイオ州の百姓の悴《せがれ》で、サンフランシスコで靴紐《くつひも》の販売から身をおこしたのです。アンナ・ゴルスキンは生れはオデッサですが、少女時代をヴィルナで過ごしました。そして最後に、レヴィングストン夫人はスコットランド人で、子供のころにフロリダへ移住してきたのです。
こうした身の上は、わがノートルダム寺院のかげにも、無数に見いだされるものなのです。たとえばわたしの父親なども、ロワール河流域の、もっともふるい狩猟場の番人でした」
彼はふたたび時計に目をやった。そして、兄のほうを嘆賞の眼差しでながめている少年の写真を指さしていった。
「これからわたしが逮捕しようとしているのは、この少年なのです」
メグレはパイプの灰を石炭箱のなかへ落とそうとして、習慣で、思わず石炭をストーヴへ放りこみかけた。
それからすこしたって、予審判事コメリオ氏は金縁眼鏡をみがきながら、書記にむかっていった。
「メグレは人がかわったみたいじゃないか? まるで……なんというかな……どこか神経質で……なんとなく……」
形容をさがしていたが、ついにそれを諦《あきら》めて、
「まったくああした外国人たちときたら、なぜフランスへ厄介を起こしてくれるんだろう?」
そうつぶやくと、急に元気をとりもどして、モーティマー関係書類の口述にかかった。
「いいか、はじめるぞ。『千九百……』」
デュフール刑事が張りこんでいる場所は、あの嵐の朝、メグレがトレンチ・コートの男の出現を待ちかまえていたあの凹所以外に、ありえようはずがなかった。絶壁の中腹にならんだ数戸の別荘のあいだをぬけて、しだいにせばまりながら、みじかく刈った下草のなかに消えているあの小径《こみち》、あの露地のすみにちがいない。
デュフール刑事は黒のゲートルをつけ、ハーフベルトの小外套に、船員帽をかぶっていた。この船員帽はフェカンの町ではありふれた姿なので、到着そうそうに買いもとめたらしい。
「どうだ?」
メグレは夕闇《ゆうやみ》迫るなかを、そっちへ近づいてきいた。
「異常ありません」
これはいささか警部をがっかりさせた。
「どんなぐあいに異常がないんだ」
「男は出もしなければ入りもしません。もし、わたしより先にフェカンに着いて、あの家にはいったんだとすれば、まだそのままでいるはずです」
「とにかく、最初からくわしく話してみろ」
「きのうの朝は、どうということもありませんでした。女中が買物にでただけです。夕方になって、ボルニエ君にひきつぎました。夜間もずっと、人の出入りはありませんでした。十時になって、明りが消えました」
「それから?」
「今朝になって、わたしが交代して、ボルニエ君は寝《やす》みにいきました……もうまもなく交代時間ですがね……昨日とおなじように、九時ごろになると、女中が買物にでました……それから半時間ほど前に、若い女がやはり出ていきました。もうそろそろ帰ってくる時分です……だれかの家でも訪ねているんでしょう」
メグレはなんとも答えなかった。張込みの準備が不完全だったことが痛感された。しかし、水ももらさぬ厳重な監視ということになると、いったいどれくらいの人員が必要だろうか。
この別荘を見張るだけでも、三人という人数はけっして多くはない。女中のあとをつけさせる警官が一人、それに、デュフールのいわゆる[若い女]の尾行に、もう一人は必要だろう。
「女が出かけて半時間ほどになるといったな」
「ええ……あ、ボルニエ君がきましたよ……こんどはわたしが食事にいく番です……今朝からサンドウィッチをひと切れつまんだだけなんです。足が凍っちまいましたよ……」
「いってこい」
平警官のボルニエは、まだ若い青年だった。この機動班に編入されたのが警察官としての第一歩なのだ。
「ぼくはスワンのおくさんに出会いましたよ」
と、かれはいった。
「どこで? いつだ?」
「海岸で……ついさっきのことです……彼女は下手《しもて》の防波堤のほうへむかっていきました」
「ひとりでか?」
「ひとりでです……あとを尾《つ》けたんですが、見失いました。それに、デュフール刑事が待っておられることを思いだしたもので……防波堤のさきには、なにもありませんから、そう遠くへはいけないはずです……」
「どんな服装だった?」
「黒いオーバーを着ていました……あまり注意して見ませんでしたので……」
「わたしは行ってもよろしいですか?」
と、デュフールが訊いた。
「いいといったはずだぞ」
「もしなにかあった場合には、報らせてもらえるでしょうね……ホテルの玄関の呼鈴を、三度、たてつづけに鳴らしていただければ、すぐとんで出ますから……」
馬鹿めが! メグレはほとんど聞いていなかった。ボルニエにむかって、
「ここにいろ……」
といいつけた。
そして、ふいにスワンの家の前へいって、呼鈴の紐をちぎらんばかりにひっぱった。一階に明りがみえた。食堂にあたる部屋らしい。
五分たっても、だれも出てくるようすがない。塀《へい》がひくいので、メグレはそれを乗りこえていくと、拳で力まかせにノックした。
「どなたですか?」
同時に子供の泣き声がした。
「警察のものだ!……あけてくれないか」
ちょっとためらう気配があった。つづいて足音がきこえた。
「はやく開けないか!」
入口はうす暗かった。
メグレは押しあけてはいった。暗がりのなかに、女中のエプロンが、白い|しみ《ヽヽ》のようになって見えた。
「おくさんは?」
その瞬間、ひとつのドアがあいて、この前とおなじ小娘がすがたを現わした。
女中は身動きをしなかった。背中をぴったり壁にはりつけて、恐怖に凍りついたようになっていた。
「おまえ、今朝、だれと会ったんだ?」
「おまわりさん、あたしはぜったいに……」
涙がわっとあふれてきた。
「あたしは……あの……」
「スワンさんにか?」
「いいえ!……あたしは……その……おくさんの義理の弟のひとです……おくさんに手紙をとどけてくれといわれたんです……」
「その男はどこにいたんだ?」
「肉屋の前でした……あたしを待ってたんです」
「以前にも、そんな使いを頼まれたことがあったのか」
「いいえ……だいいち、外で会ったことは一度もありませんでした」
「で、おくさんとは、どこで会う約束か知ってるのか」
「なんにもぞんじませんわ!……おくさんは一日じゅう、そわそわしておいででした……おくさんからも、いろいろと訊かれました……どんなようすをしていたかとか……あたしは隠さずありのままを申しあげたんです……あのひとは、人殺しでもしてきたような感じでした。実際、そばに寄られると、ぞっとしたくらいです」
メグレは表のドアもしめずに、いそいで外へでた。
[#改ページ]
十六 巌上の人
警察官になりたてでまだ間もないボルニエは、主任のメグレが自分の面前を駈けすぎていったのをみて、びっくりした。ものもいわずに、彼にぶつかりそうにして走っていったのである。
いっぽう、別荘のドアは、開けはなしたままだった。
彼は二た声ほど呼びかけた。
「警部殿! メグレ警部殿!……」
メグレはふりむかなかった。
が、まもなくエトルタ通りへでると、歩調をゆるめた。通行人が行き交っている。そこを右へ折れ、海岸の水たまりに足をとられながら、また速度をはやめて、下手の防波堤へつきすすんでいった。
そっちへ百メートル行くか行かないうちに、ひとりの女のすがたが浮かびあがった。メグレはそちらへ近づこうと、ななめに横ぎっていった。一隻のトロール船が、荷揚げの最中らしく、支檣索《ししょうさく》にガス燈を結わえつけてあった。
メグレは足をとめて、女が光の輪の中へふみこむのを待った。スワン夫人のひきつった顔がみえた。そわそわした目を配りながら、ぎこちないそぶりをみせて足早に歩いてくる。まるで沼地に踏みまよって、九死に一生を得たとでもいうような感じだった。
メグレは彼女に話しかけるつもりで、二、三歩、そっちへむかって歩きだした。
が、彼は、目の前に荒涼とした防波堤がよこたわっているのを見た。闇《やみ》のなかにくろぐろとした線をえがき、その両側を海水の白い泡がふちどっていた。
彼はそっちの方向へ足をはやめた。トロール船を通りすぎると、あとは人影ひとつ見あたらなかった。瀬戸にともされた赤と青の灯が夜に孔《あな》をうがっていた。岩壁の下にあたって設けられた燈台は、十五秒おきに帯のような光箭《こうせん》をはなって、海面をなめ、あるいは下手の絶壁を照らして、それをまるで幻の存在でもあるかのように、瞬時のうちに現出させた。
メグレは繋索柱《けいさくちゅう》につきあたって、歩行者のためのブリッジへ下りた。下側をみじかい梁材《はりざい》で支えたそこは、波のうなりに包まれていた。
薄闇のなかをすかしてみた。運河をでようとしている船の汽笛がきこえた。
目の前の海面は不安定に波だちさわいでいた。そして背後には、フェカンの町の店々や、脂ぎった舗道がひかえていた。
彼は早足に歩いた。ときどきたちどまっては、あたりを見まわした。肉体的な苦痛はますますはげしさをくわえた。
地形に通じていなかったために、近道をとっているつもりで、その実、遠まわりをしているのだった。
梁材にささえられたブリッジをいくと、やがて信号所の下まできた。そこには黒い燈標球《とうひょうきゅう》が三つあった。メグレはべつにその気もなく、その数をかぞえていた。
さらにさきへすすんで、欄干《らんかん》から身を乗りだしてみた。すぐ下には、大きな水泡がたまって、あたりの岩々をその舌でなめていた。
メグレの帽子が風にとんだ。追いかけはしたものの、結局まにあわず、帽子は波にさらわれてしまった。
海鴎《かもめ》の啼《な》き声がするどく耳をさし、ときおり白い翼が空をいろどった。
スワン夫人は約束の相手に会えなかったのだろうか? それとも、その相手はもう逃げさったのか? あるいは死んだのか?
メグレはじっとしていられぬ気持だった。寸秒をあらそう問題であると確信していた。
彼は青い灯のともった場所へいきつくと、それを支えている鉄の台架をひとめぐりしてみた。
だれもいなかった!
波はつぎからつぎと突堤へぶちかましてくる。一瞬直立したかと思うと、よろめいて、大きな白い空洞《くうどう》をつくってひきさがっていく。そして、あらたな精気をはらんで打ちかえしてくるのだ。
砂利がたがいにぶつかりあってたてる音が、規則ただしく間をおいてきこえてくる。がらんとしたカジノの建物がにぶく霞んでみえている。
メグレはある男をさがしていた。
彼はまわれ右すると、浜辺をぶらぶら歩きだした。似たような大きさの砂利石が、暗がりのなかでまるで馬鈴薯《じゃがいも》のお化けのようにみえた。
彼は波とおなじ高さに身をおいていた。飛沫《しぶき》がたえず顔にふりかかった。
そのとき、潮がひきはじめているのに気がついた。防波堤のまわりには黒色をおびた岩の群れがうきだし、そのあいだをぬって海水が沸きかえっているのだった。
彼がその男を発見したのは、まさに奇蹟といってもよかった。最初みたときは、それは生命をもたない一個の物体、数おおくの影のなかのぼんやりした一つとしか映らなかった。
彼はそれに眸《ひとみ》をこらした。そのものは最先端の岩の上にいた。そこではまだ、傲《おご》りをすてぬ波がしらが岩鼻にたたきつけ、こなごなの飛沫《しぶき》となって砕け散っていた。
それにはなにか生気のようなものが感じられた。
メグレはそっちへいこうとして、ブリッジをささえる梁材に足をとられた。ついさいぜん、彼が渡ったブリッジだったのだが……
苔《こけ》が小石をつつんでいた。靴底がすべった。何百匹という蟹《かに》が這《は》いだしていくようなざわめきが、あたり一帯にしていた。水泡《みなわ》がはじける音もきこえた。厚いブリッジの板の中ほどまで貼《は》りついている貽《い》貝が、目にみえぬくらいの顫《ふる》えをみせていた。
メグレは足をふみすべらせて、水たまりのなかへ膝《ひざ》まで浸《ひた》ってしまった。
彼はもう人影のほうを見ようとしなかった。正しい方向へむかっている自信があったのだ。
相手は潮がもっとひいているときに、その岩へ陣どったのにちがいなかった。というのは、警部は突然、幅二メートルもある大きな水たまりにゆくてを遮られたからだ。右足でその底をさぐってみた。とうてい前進は不可能と思われた。
いろいろ考えたすえ、ブリッジの横木にぶらさがって、伝っていくことにした。
この瞬間こそ、相手にみつかってはならないのだ。思いもかけなかった離れわざをやってのけることになった。これは下手《へた》くそな軽業師のように、完全な失敗におわった。だが彼は、まるで見えぬ糸にでもひかれるように前進をつづけた。墜落はしたがすぐ起きあがった。そして面目なげに、ぶざまなかっこうで泥水からはいだした。
おかげでメグレは頬《ほお》に怪我《けが》をした。岩の上に腹ばいにおちたときにうけた傷なのか、あるいは厚板にうった釘《くぎ》でできたものか、どちらともわからなかった。
彼はふたたび人影をみやって、われとわが眼をうたがった。あまりにも動かなさすぎた。遠くからみると、まるでそれは人の形をした石のようだった。
ある距離までくると、脚のあいだにひたひたと水がよせてきた。メグレは海がにがてだった。
彼はしらずしらずのうちに速度を増していた。
やっとのことで、相手のいるおなじ岩まで達することができた。メグレの位置は相手の位置より一メートルだけ高かった。距離は十歩から十五歩というところだった。
拳銃をとりだすことに思いおよばなかった彼は、足場のゆるすかぎり、爪先《つまさき》だちで近づいていった。二つ三つ小石をけとばしたが、その物音は干潮のひびきに呑《の》みこまれてしまった。
つづいて、凍《い》てついたような人影の背後から、彼はいきなりとびかかっていった。まげた腕で相手の頸《くび》をはさんで、うしろへ引きたおした。
どこよりも強烈にぶちあたってくる波がしらに足をすくわれて、二人はすんでにすべり落ちるところだった。そうならなかったのは、まったくの偶然といってよかった。
十回、おなじような波に洗われて、十回とも危険な方向へ押しころがされた。
男は攻撃してきた相手がだれかもわからぬまま、鰻《うなぎ》のようにのらりくらりと身をもがいた。頭部をはがい締めにされているので、のこる全身を動かして抵抗した。その動作の柔軟なことは、情況を考えあわせると、とても人間のものとは思えないほどだった。
メグレは相手を窒息させたくなかった。ただ固定しておきさえすれば充分なのだった。彼の靴の爪さきは最先端の杭《くい》にひっかかっていた。この靴の先だけが、いまの二人をつなぎとめているものだった。
男の抵抗はあまりながくは続かなかった。それは瞬間的、動物的なものでしかなかった。
男はすこし頭をはたらかせる余裕ができたようだ。そして、顔と顔がふれあうほどの近さにメグレをみとめると、急に反抗をやめた。
男は瞼《まぶた》をしばたたいて降伏の意味をつたえた。そして、大きな波のうねりを漠然《ばくぜん》とさししめしながら、まだたよりない咽喉《のど》もとから、押しころしたような声をだした。
「みるがいい……」
「二人で話そうじゃないか、ハンス・ヨハンソン?」
メグレがいった。彼の指はべとつく苔《こけ》にしっかり爪をたてていた。
ここで述べておかねばならぬのは、もしこの瞬間、相手がちょっとでも足を動かせば、メグレを巨浪のまっただなかへ叩きこむこともできたということである。
ほんの一瞬のチャンスだったが、ヨハンソンは最先端の杭のそばにしゃがんだまま、それを利用しようとはしなかった。
のちになってメグレが率直に述べたところによると、彼はヨハンソンの足にすがって、かろうじて岩の傾斜をよじのぼることができたということだ。
やがて二人は、無言のまま、岸へとってかえした。潮はまた満ちてきていた。海岸へあとすこしというところに、さっきメグレを苦しめた大きな水たまりがあった。それはいちだんと深くなっていた。
まずレトンが先頭をきって水にはいった。三メートルほどすすむと背がたたなくなり、泥まみれの水をはねちらしながら、やっと腹のあたりの深さまで泳ぎついた。
つづいてメグレもとびこんだ。からだがあまりにも重くて、ある瞬間などは、彼も、もう沈むのではないかと、観念の眼《まなこ》をとじたことさえあった。
二人はそうしてぐしょ濡《ぬ》れになり、雫《しずく》をぽたぽたたらしながら、海岸までたどりついた。
「彼女がしゃべったんだな」
レトンが死んだような声できいた。その声にはなにもなかった。一人の男を生にひきとめておけるような響きは、ぜんぜんないといってよかった。
メグレには嘘《うそ》をつく権利があった。
彼はむしろこういった。
「彼女はなにも話さなかったよ……だが、私にはわかっているんだ……」
二人とも、そこにいつまでもいるわけにはいかなかった。風が濡れた服をふきつけて、氷の湿布でもしているようだった。
まずレトンが歯をかちかち鳴らしはじめた。おぼろな月の光でみると、彼の唇はまっさおだった。
もう口髭《くちひげ》はつけていなかった。それはフィオドル・ユーロヴィッチの不安げな顔、兄のほうを貪《むさぼ》るような眼でながめていたプスコフの少年の顔だった。だが眸《ひとみ》だけは、苦悩をたたえたおなじ灰色の眸ではあったが、ぶきみなほどすわって動かなかった。
ほとんど直角にちかい右方にあたって、二、三の燈火が点在している断崖《だんがい》がみえていた。別荘群で、そのなかにはスワン夫人の住居もあるのだ。燈台の光がなめるように刷《は》くと、彼女と子供二人とおびえた女中の四人を守っている屋根がうかびあがった。
「きたまえ……」
と、メグレがいった。
「警察へか?」
あきらめきった声、むしろ無感動な声だった。
「そうじゃない」
メグレはこの港町のホテルのひとつ、「レオンの宿」を識《し》っていた。
そして、その入口のひとつが夏場だけしか使用されていないことも知っていた。つまり、夏をフェカンですごす海水浴の客だけに開放するのだ。春秋のシーズンには、そのドアは、中級の食堂として改造される部屋へつうじていた。
冬のあいだは、釣《つり》の客たちはカッフェで酒をのみ、カキや鰊《にしん》をつついて満足しているのである。
メグレはそのドアを押した。二人でうすぐらい室をよこぎって調理場へでた。そこにいた女中がびっくりして叫び声をあげた。
「主人をよんでくれ……」
女中はその場から大声で主人の名をよんだ。
「レオンさん!……レオンさん!」
レオンが現われると、警部は、
「部屋をひとつたのむ」
といった。
「メグレさんじゃないか!……おや、ぐしょぬれのようですな……どうなさいました?」
「それより部屋を、はやくたのむよ!」
「部屋には火がいれてありませんぜ……湯タンポぐらいじゃ、とてもおっつかないでしょう……」
「部屋着が二枚ばかりないかね?」
「むろん、ありまさ……あたしのぶんがね……しかし……」
主人はメグレよりも、頭三つほど背がひくかった。
「そいつを持ってきてくれ」
かれらは風変りな踊り場のついた急な階段を、這うようにしてのぼった。
部屋は清潔だった。レオンはみずから鎧扉《よろいど》をおろしてからいった。
「火酒《グロッグ》でやしょうな?……それにご馳走《ちそう》をたっぷりとね」
「そういうわけだ。とにかく、さきに部屋着をたのむよ」
メグレは冷えたために、また病状が悪化したのを感じた。傷口のある脇腹は凍りついたようだった。
四、五分たつうちに、メグレとレトンのあいだには、部屋をともにしているという一種の親しみが湧いていた。二人はたがいの目の前で服をぬいだ。二枚の部屋着をかかえたレオンが、半びらきのドアからはいってきた。
「私に、いちばん大きなやつをくれんか」
警部はいった。
レトンが大きさをくらべた。
メグレのほうへその部屋着をわたしてやりながら、彼は泥水のしみた繃帯《ほうたい》に目をやって、神経質に顔の表情をゆがめた。
「傷はわるいんですかい」
「そのうちに、肋骨《ろっこつ》を二、三本とることになるさ」
メグレがそういったあと、沈黙がのこった。それをさえぎって、ドアの向うからレオンがさけんだ。
「まだですか?」
「はいっていいぞ!」
メグレの部屋着はまさにつんつるてんといったところで、膝までしかなく、ごつい毛脛《けずね》がむきだしだった。
レトンのほうは肉がうすく、顔色が青白い。おまけに金髪で、女みたいにきゃしゃな足首をしているので、その衣裳をつけたところは、まるでサーカスの道化師だった。
「火酒《グロッグ》はすぐもってきます。あなたがたの服を乾かせましょう」
そういって、レオンはまだ水の垂れている二人の服をもってでると、階段の上から声をはりあげた。
「おい、火酒《グロッグ》はどうしたんだい、アンリエット?」
そして、またもどってくると、二人にこう注意した。
「あまり大きな声をださんでくださいよ……商用旅行のお客さんが、となりの部屋におられるんでね……あす朝五時の汽車に乗せなきゃならんのです……」
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十七 ラムの壜
犯罪事件の捜査においては、警察官と、彼が自白においやろうとする犯人とのあいだに、つねに一種独特の親密な関係が生じるものだなどといえば、これはいささか誇張にすぎるかもしれない。
しかしながら、すくなくとも犯人が陰鬱《いんうつ》粗暴な性格のものであるばあいには、ある種の親近感がそこに生まれるものである。これはおそらく、何週間、いやときには何か月ものあいだ、警官と犯人がたがいに相手以外のものを念頭におかないという事実によるものだろう。
捜査官は犯罪者の過去の生活ふかくさかのぼり、その思考を再構成し、それにもとづいてどんな微細な反応をも予見しようとつとめる。
どちらも、おのれの生命を賭したたたかいなのだ。この両者の出会いはきわめて劇的な情況のもとにおこなわれる。この情況は、日常の人生における人間関係の基調であるところの、いんぎんかつ冷淡な要素を溶かしさるだけの烈しさをひめている。
よくきく話だが、ひじょうな骨折りのすえに犯人を捕えた刑事が、その犯人に愛情をおぼえて、監獄にまで足をはこび、死刑台へ上るまでの心の支えとなってやるといった場合も、起こりうることなのである。
こうしたことは、いまホテルの部屋にむかいあった二人の人間の関係を、部分的に説明するものといえるだろう。
主人のレオンは木炭のコンロと、湯のたぎっている湯わかしを運んできた。いっぽう、二人のそばのテーブルには、グラス二つと砂糖壺、そして、そのあいだに背のたかいラム壜《びん》が一本たっていた。
どちらも寒さにふるえていた。借りものの部屋着にしっかりとくるまり、コンロのほうへ身をかがめた。コンロはあまりにも小さくて、からだを暖めるところまではいかなかった。
かれら二人のあいだには、兵隊仲間にみられるような、ざっくばらんとでもいうか、妙に気やすい空気が流れていた。それは、おたがいの邂逅《かいこう》の偶然性だとかそういったものが、もはや問題でなくなった二人の人間のあいだだけにみられるものであった。
あっさりかたづければ、どちらも寒かったからということかもしれない。あるいは、二人を同時におそってきた疲労感かも知れなかった。
すべてはおわったのだ! 二人は、それを口にだすまでもなく感じていた。
やがて、二人はめいめいの椅子に、倒れこむように腰をおろした。湯沸しのうえに両手をかざし、二人のあいだの架《か》け橋となっているその琺瑯《ほうろう》びきの青いコンロを、放心したようにながめていた。
レトンのほうがラム酒の壜をとりあげて、確かな手つきで二人の火酒《グロッグ》を調合しはじめた。
何口かすすったあとで、メグレがたずねた。
「おまえは彼女を殺したかったんだな?」
返事はそくざにあった。おなじように率直なものだった。
「殺せなかったよ」
だが、男の顔がぎゅっとゆがんだ。ひっきりなしに顔面筋肉のけいれんがおそった。
ぴくぴくっと眼蓋《まぶた》がはげしくひきつる。上下の唇があらゆる方向へつきだされる。鼻孔がはげしく緊張する。
ピートルのものである意志と知性の相貌《そうぼう》は、どこかへきえてしまった。
いまそれを占めているのは、あのロシア人だった。極度に神経の過敏な浮浪者の顔だった。メグレはそうしたようすを見ていなかった。
したがって、メグレは、相手の手がラムの壜をつかんだことに気づいていなかった。グラスを満たして、ひと息にあおると同時に、眼がぎらぎらと光ってきた。
「ピートルが彼女の夫だったんだな? オラフ・スワンというのはピートルにほかならなかったんだな?」
と、メグレがたずねた。
相手は立ちあがると、いらいらしたようすで、あたりを見まわした。煙草を探していたのだが、ないとわかると、苦しそうな表情をした。コンロをのせてあるテーブルへ近よると、またラム酒をついだ。
「話をそんなところから始めちゃだめなんだ!」
彼はいうと、メグレのほうへ面と向きなおった。「結局、あんたはなにからなにまで、ほとんど全部を知ってるんだね?」
「プスコフの兄弟二人は……あれは双生児だったんだろう? そして、おまえがハンスのほうなんだ。兄の顔を、嘆賞と従順の目で見まもっていたほうなんだ」
「まだ子供のころから、あいつはおれを下男あつかいして喜んでいた。しかも、おれたち二人きりのときだけじゃない。仲間の前でも平気でやるんだ。下男と呼びはしなかった。奴隷なんだ。あいつは、おれがそうされて快感をおぼえているのを見てとった。いまだに自分ながらわからないが、おれにはそうされることが一種の快楽なんだ。おれには自分の考え方というものがなかった。いつもあいつの眼を通してしかものを見ることができなかったんだ。あいつのためなら、命をすてても文句はいわなかったろう。それがやがて……」
「やがて?」
痙攣《けいれん》。まばたき。またひと息にラムを飲みほす。
「結局、どうだっていいのさ……」
というように肩をそびやかす。
それから、抑えた声で話しだした。
「やがて、おれは一人の女を愛するようになった。自分でも、これ以上の献身ぶりは望めないくらいのものだったと思う。いや、これに近いものだって、あった例《ため》しがなかった。おれがピートルを愛した愛しかたというのは……どういったらいいかな……おれは、ピートルの偉さをみとめない仲間たちを相手にしてたたかった。そして、一種の歓《よろこ》びのようなものを感じながら、みんなに殴られていたよ。おれが一番弱かったんでね」
「そういった支配関係は、双生児にはありがちのものだ」
メグレは火酒《グロッグ》の二杯目をつくりながら、
「ちょっと待ってくれ」
そういって戸口へいった。そして、ホテルの主人に、自分の服にはいっているパイプと煙草をとどけてくれるように頼んだ。
ル・レトンが横から口をだした。
「おれにも巻たばこを頼んでくれないか?」
「それから巻たばこだ。ゴロワーズ・ブルーをな!」
メグレは席へもどった。二人は無言で待っていた。
やがて女中が、それらの品をとどけて、引き退っていった。
「おまえたちは、どちらもタルトゥの大学にいたんだな?」
メグレがまた話をもとへもどした。
相手は坐るにも坐れず、じっとしているわけにもいかないといったようすだった。煙草を噛《か》むようにしてふかしながら、その端から唾《つば》をはいていた。ごつごつした足音をたてて歩きまわっていた。マントルピースにのった花瓶《かびん》をとって、また置きなおすと、いちだんと熱をこめた口調でしゃべりだした。
「そう、話はそこから始まるんだ! おれの兄というのは、最優秀の学生だった。すべての教授連中が目をかけていた。学生たちも、兄の力の前にはかぶとを脱いでいた。とにかく、最下級生でありながら、ウガラ倶楽部《クラブ》の会長にえらばれたくらいだからな。
みんなは居酒屋へいって、よくビールを飲んだものだが、なかでもおれは凄《すご》かった! なぜだかわからないが、おれはずいぶん早く酒をおぼえてしまったんだ。おれには理性というものがなかった。毎日毎日酒びたりだったといっていいくらいだ。
おれがそれほどまで飲んだ理由は、こういうことが主だった。つまり何杯かグラスを重ねると、おれには別の世界がみえてくるんだ。そこでは、おれもりっぱな役割をつとめていてね。
ピートルはおれにたいして、辛くあたった。おれのことを[汚らわしいロシア人]と呼んでいた。これはおわかりになるまいね。おれたちの母方の祖母というのがロシア人だった。おれたちの地方では、ことに戦争後は、ロシア人というのは不精者で、飲んだくれの夢想家ということに相場がきまっていたんだ。
その当時、共産主義者たちに煽動されて騒乱がおこった。おれの兄はウガラ倶楽部の会長の地位にあった。みんな兵営へいって武器をさがしてきて、町のまんなかで始まっている戦闘に参加した。
ところが、おれは怖かった。これはおれの罪じゃないはずだ。とにかく、おれは怯《おび》えていた。戦闘にくわわることができなかったんだ。そこで、おれは鎧扉《よろいど》をおろした酒場にとじこもって、戦いがおわるまで酒を飲みどおしだった。
おれには自分の運命というものが、ひとつの大きなドラマに仕組まれているように思われた。チェホフの芝居のようにね。チェホフの作品なら、おれはのこらずそらで憶えている。ピートルはあざ笑って、
『おまえか――おまえはただの落伍者さ!』
と、そういうだけだった。
そうしてまる一年というもの、騒乱のおかげで、軌道を外れてしまったような、いやな生活がつづいた。軍隊ではもう秩序を維持しきれない。住民たちは、自分たちの手で軍隊のようなものを組織して町を護らなければならなかった。
兄はウガラ倶楽部の会長をつとめていた関係上、町の最上層の連中からも、かなりの注目をあつめる人物になっていた。まだ例の口髭こそ生やしていなかったが、解放されたのちの、未来のエストニアを背負って立つべき人物として、嘱目《しょくもく》されていたんだ。
ところが、秩序が回復されると同時に、あるスキャンダルが起こって、兄はそれをもみ消そうとやっきになった。結局のところ、兄がウガラ倶楽部のために尽くしたのは、私腹を肥やそうがためだったとわかったんだ。
兄は各種の委員会に関係していたことを利用して、全帳簿をごまかしていたのだった。
そんなことで、兄は故国を離れざるをえなくなった。ベルリンへやってきたんだが、兄はおれに手紙をよこして、やってくるようにすすめたんだ。
そこで、おれたち二人がいよいよ登場してくるという段どりになる」
メグレは、レトンの昂奮に火照《ほて》った顔をながめていた。
「贋造《がんぞう》をやったのは、どっちだね?」
「ピートルはおれに、ありとあらゆる筆蹟をまねる勉強をさせた。また化学の学校へも通わせた。おれは小さな部屋を借りて、毎月二百マルクずつもらって暮らしていた。何週間かするうちに、あいつは自動車を買って、情婦たちをのせてドライヴなんかやるようになった。
おれたちの扱ったのは、おもに小切手だった。十マルクの小切手を手にいれると、おれが額面を十万マルクに書きかえる。それをピートルがスイスや、オランダや、スペインにまで持っていってさばいていた。
おれは浴びるように酒をのんだ。ピートルはおれをばかにして、意地のわるい仕打ちをくわえていた。ある日のこと、おれの仕事の出来がわるかったために、あいつがすんでに逮捕されようとしたことがあった。
あいつはステッキで、おれを何度も殴りつけた。
だが、おれは黙っていた! なぜだか自分でもわからないが、おれはつねにあいつを尊敬していたんだ。そのうちに、あいつはみんなからも敬意を表される身分になった。あるときなぞは、あいつにその気があれば、ドイツの大臣の娘と結婚できるようなところまでいったんだ。
小切手の不手際から、おれたちは、フランスへ高飛びしなきゃならなくなった。おれは、エコール・ド・メドシヌ街に、まず部屋をかりた。
ピートルはもう単独で仕事をしなくなった。いくつもの国際的な犯罪団に加盟していたんだ。その関係でしじゅう外国へ旅行するようになり、しだいに、おれを利用しなくなった。だが、ときどき贋造の必要がおきると、おれのところへやってきた。おれはもうその道の達人だったからな。
それで、すこしばかりの金をもらっていた。
『おまえは飲むことよりほかに、能がないからな。ろくでなしの露助《ロスケ》さ!』
と、あいつは口癖のようにいった。
ある日、あいつはアメリカへ渡るといいだした。よほど大きな仕事で、それがうまくいけば、億万長者になれるような話だった。そして、おれには田舎へひきうつるように命令した。パリでは、おれは警察の外国人係から何度か喚問をうけていたからだ。
『とにかく、おとなしくさえしてりゃいいんだ!……そう骨の折れることでもないだろう、え?』
というわけだった。
それと同時に、おれに旅券の一式を偽造するように命じた。おれはそれをつくってあたえた。
おれはル・アーヴルへ住むことになった」
「そしてそこで、のちにスワン夫人になった女と知り合ったんだな」
メグレがたずねた。
「名前はベルトといったよ」
沈黙がとざした。レトンの喉《のど》ぼとけがふくれあがった。それから、かれは堰《せき》をきったように、一気呵成《いっきかせい》に話しだした。
「おれが[まっとうな人間]になりたいという考えをもったのは、そのときだった。彼女はおれが住んでいたホテルの会計係をやっていた。おれが毎晩のんだくれて帰ってくるのをみて、彼女はおれに意見するのだった。
まだ年は若かったが、しっかりした女でね。彼女をみていると、おれの頭に家庭とか子供とかいったものがちらつくのだった。
ある夜のこと、彼女からお説教をされて、まだそれほど正気を失ってはいなかったんだな、おれは彼女の腕に抱かれて涙をながし、真人間になると誓ったことをおぼえている。
どうしてあのときの約束を反故《ほご》にしたのかと、おれはいまだに悔やんでいる。なにからなにまでが、胸がわるくなるようだった。もう、人の采配《さいはい》をうけるのはまっぴらだった!
そんな状態がひと月もつづいたろう。まったく、おれはばかだった! ある日曜のこと、おれたちは音楽会へでかけた。秋だったな。帰りみちに港へたちよって、おれたちは、船をながめていた。
恋とか愛とかいう言葉は、二人とも口にださなかった。彼女は、わたしはあなたのお友達よといっていた。だが、おれのつもりでは、そのうちに……
ところがだ! ある日、兄のピートルがやってきた。すぐおれに頼みたい仕事があるというのだ。あいつは偽造する予定の小切手を、スーツケースにいっぱいいれていた。どこで掻《か》きあつめたのかと思われるくらいだ。どれをとっても、世界各地の大銀行のものだった。
便宜上、あいつは高級船員になりすまして、名前もオラフ・スワンとよばせていた。
あいつはおれのいるホテルに泊まった。おれは――骨のおれる仕事だったので――何週間もそれらの小切手ととりくんでいた。そのあいだ、あいつは近辺の港をまわってあるいて、船を買いいれる算段をしていた。
あたらしい仕事に着手していたからだ。あいつが説明したところによると、なんでもアメリカ有数の富豪の一人とわたりがついたのだそうだ。で、その富豪と組んで仕事にのりだせば、まさに鬼に金棒というわけだった。
あいつは、全世界のおもだった犯罪団体を統合して、一手に支配しようという計画をすすめていたんだ。
すでに酒類密輸業者《ブート・レガーズ》とは契約がきまっていた。そこで、酒を輸送するのに小型船が要るというわけなのだった。
そのあとはもう、おれが説明するまでもなく、わかっておいでのはずだ。ピートルはおれに酒をたたせて仕事に専念させた。おれは自分の部屋にこもりきりだった。時計屋のつかう拡大鏡だとか、いろんな薬品類、ペン、あらゆる種類のインク、さらに携帯用の印刷機まで手もとにおいてね。
そんなある日、おれは予告もなしに兄の部屋へはいった。
すると、ベルトはあいつの腕に抱かれていたんだ」
彼はもどかしそうにラムの壜をつかむと、いくらか底にのこっていた中身を、いっきに胃のなかへ落としこんだ。
「おれは出発したよ」
彼は妙な声音《こわね》で、話をしめくくるようにいった。
「そうするよりしかたがなかったんだ。おれはホテルをでて、汽車に乗った。そして、正体もなくなるほど酔っぱらって、死ぬ想いでロワ・ド・シシール街へたどりついたんだ」
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十八 ハンスの生活
「おれという男は、女にたいして憐《あわ》れみの情しかおこさせないらしい。目がさめると、そばにひとりのユダヤ人の女がいて、おれの面倒をみていてくれた。
その女も、おれに酒をやめさせようと決心したんだ。まるでおれを子供みたいにあつかっていた。この点もあの女とおなじだった!」
彼は笑った。眼がなみだに曇っていた。感情が飛躍するのと、それにつれて表情が急変するのとで、ついていくには骨がおれた。
「ただしこの女のほうは、いつまでも優しかった。いっぽうピートルだが……おれたち二人はただ双生児であるというだけなのに、ずいぶん共通したところがあったようだ。
あいつはその気があれば、上流のドイツ人令嬢と結婚できたはずだった。これはさっき話したね。ところが、そうはせずに、あいつはベルトと一緒になったんだ! そのころには、彼女は勤め先をかえて、フェカンの町のホテルで働いていた……あいつは彼女には自分の正体をうちあけていなかったんだ。
それぐらいは、おれにだって分からないじゃない……つまり、あいつも、清潔で平和な家庭というものをとっておきたかったんだ……そして、子供まで生まれちまった」
あんまりだ、といいたげな口調であった。声はかすれた。偽りでない涙が眼にあふれてきたが、まぶたが灼《や》けるように熱いせいでもあろうか、それはすぐに乾いてしまった。
「今朝あったときも、彼女はまだ、夫がほんものの船長だと信じて疑わないようすだった。
あいつはときどき現れて、二日から、ときには一と月ぐらいも、妻や子供のそばで過していくのだった。
そのあいだ、おれは、もう一人の女につきまとわれどおしだった、あのアンナにさ……
あの女がなぜおれを愛したのか、どうしてもおれには理解できない。だが、たしかに彼女はおれを愛してくれていた。
そしておれのほうは、いままで兄にあつかわれてきた調子そのままで、彼女につらくあたった。たえず罵《ののし》ったり、ひどい仕打ちをくわせたりしたのだ。
おれが酔っぱらうと、彼女は泣くのだ。で、おれは|わざと《ヽヽヽ》酒を浴びてやった。|わざと《ヽヽヽ》阿片《あへん》をのんだり、淫売女《いんばいおんな》を買ったりした!
そのうちに、おれは病気になった。アンナは何週間もぶっとおしで看病してくれたよ。こんなからだになっちまったのも、その病気のおかげさね」
彼は嫌悪《けんお》の指さきで自分の胸をさしてみせると、
「酒をとりよせてくれませんかね?」
と、いった。
メグレはただちに踊り場へでて、
「ラム酒をたのむ!」
と、大声でよんだ。
レトンは礼もいわずに話をつづけた。
「ときどき、おれはホテルを抜けだしてフェカンへいった。そしてベルトの住んでいる家のまわりをうろついた。彼女が生まれたばかりの赤ん坊を乳母車にのせて、押しているすがたがみえたよ。
おれたちは瓜二つといってよいくらいなので、ピートルも、おれのことを兄弟だといわぬわけにはいかなかったようだ。
あるとき、おれに妙な考えがうかんだ。まだ子供のころだったが、おれはピートルを尊敬するのあまり、かれの一挙手一投足をまねてやろうとしたことがあった。
あっさりいうと、おれはいろんな悩みに責めぬかれて、ある日、あいつとそっくりの変装をして、フェカンへ出かけたんだ。
女中は見むきもしなかった……が、家へはいったとたん、子供がとびだしてきて、
『パパ――』
と、呼んだのだ。
おれはばかな人間だった! 逃げるようにそこを立ち去ったよ。しかし、その着想はその後も、心のどこかに残っていたんだ。
ピートルはやはりときどき、贋造の必要がおきると、おれをたずねてきた。
おれはいう通りにしてやった。なぜだというのかい?
おれはあいつを憎んではいたが、それでも、あいつの威力には抵抗できなかったんだ。
あいつは何百万という金を動かして、豪奢《ごうしゃ》なホテルに泊まり、社交界に出入りしていたよ。
二度だけ捕まったことがあったが、その二度とも、まんまと嫌疑をまぬがれた。
おれは一度もあいつらの組織にたちいったことはないが、このことは改めていうまでもないだろう。もしあいつが単独か、せいぜい四、五人ぐらいの仲間と仕事をしていたのだったら、ほんのはした金しか稼《かせ》げなかったろうよ。
モーティマーという男には、最近はじめて会ったんだが、彼はそこをちゃんと見抜いていたな。兄のピートルは、天才といっていいほどの手腕と図々《ずうずう》しさを備えていた。相棒のモーティマーには信用というものがあった。全世界から、確実な声望をえていたんだ。
ピートルは有名な詐欺師たちをお膝元にかかえて、自分がその采配《さいはい》をふるっていた。その仕事に金を援助していたのがモーティマーだったんだ。
そんなことは、おれには関係がなかった。おれはまだタルトゥ大学の学生だったころ、あいつにしじゅういわれていたように、一介の落伍者にすぎなかった……そして落伍者の例にもれず、おれは酒にはまりこんだ。飲んでいるときだけが、日頃の憂さを忘れて、心の昂《たか》ぶりをおぼえるのだ。
おれの生涯という渦潮《うずしお》のなかから、なぜあのブイだけが一つひょっこり浮かびあがったのか、おれはいまだにふしぎでならない。幸福というものの可能性にでくわしたのは、たぶんあれが最初で最後だったろう――つまりベルトのことさ。
おれは不幸にも、先月、またあそこへいったのだ。ベルトはおれにお説教をしたあとで、こんなふうにつけくわえた。
『あなたは、なぜお兄さんを見習って、りっぱな人になろうとしないの?』
そういわれて、急にある考えがおれをとらえた。なぜもっとはやく気づかなかったのか、それがおかしいくらいだった。
おれはなろうと思えば、いつでもピートルになることができたのだ!
それから四、五日たって、ピートルから手紙がきた。おれが必要になったので、フランスへやってくるというんだ。
おれはブリュッセルまでいって、ピートルを待ちうけた。ホームの反対側から列車にのりこむと、小荷物のかげにかくれて待っていた。やがてピートルが席を立って、洗面所へいくようすだ。おれは先まわりをして洗面所へはいった。
おれはあいつを殺してやった! その前にベルギー産のジンを一リットルほど呷《あお》ってきたのだ。いちばん厄介だったのは、あいつの服をぬがせて、おれのを着せることだったよ」
彼は、メグレが思いもおよばぬくらいの貪婪《どんらん》さで飲みつづけていた。
「モーティマーとホテル・マジェスティックではじめて会ったとき、怪しまれなかったかね?」
「怪しみはしただろう。だが、漠然とした疑いにすぎなかったはずだ。あのとき、おれの考えはただひとつしかなかった――もう一度、ベルトに会いたいというね。
おれは彼女に真相を告白するつもりだった……とくに後悔の念もわかなかったが、だからといって、この犯罪を利用してどうこうというようなことも、おれにはできなかった……ピートルのトランクのなかには種々雑多な服がつまっていた。おれはいつもとおなじ浮浪者ふうのやつを選んで、それを着こみ……裏門から外へでた……そのとき、モーティマーがあとを尾《つ》けてくるのに気づいた。二時間ほどして、やっと彼を撒《ま》くことができた。
つぎに、おれは車をひろってフェカンへ走らせた。
おれが着いたときも、ベルトはなにも知っていなかった。そして、おれはいったん彼女の前にでたとなると懺悔《ざんげ》する勇気を失ってしまったんだ。
そこへあんたが突然あらわれた。おれは窓から、あんたの姿をみたよ。それから彼女にむかって、盗みをはたらいた廉《かど》で追われているんだが、なんとか助けてほしいとたのんだ。
『出ていってちょうだい』と、彼女はいった。『――さ、はやく帰って! あなたはお兄さんの家庭を汚したのよ』
そのとおりだ。彼女のいう通りにちがいない! そこで、おれは外へでた。そして、おれたち、つまりあんたとおれは、パリへ戻ったんだ。
おれはアンナのもとへ帰った。そこでお定まりの一幕さ! なみだに暮れるアンナ! 夜中になって、モーティマーがやってきた。もうすべてを承知していて、おれがピートルの完全な代役をつとめないなら、殺してしまうと脅迫した。
彼としては大問題だった。ピートルは、彼と犯罪団との唯一の架け橋だったからね。ピートルがいなくなれば、彼は犯罪組織にたいして、まったく無力な存在となるのだ。
おれはまたホテル・マジェスティックへもどった。あんたがおれを踉《つ》けている。なんでも、刑事が一人死んだそうだ。あんた自身も上半身のようすが変だった。
おれはつくづく人生というものが厭《いや》になった。この気持は、ちょっとわかってもらえまい。
永久にピートルの役をつとめることになるのかと思うと、おれはぞっとしたよ。
あの小さなバアの出来事をおぼえているかい? あんたがわざと写真をとり落としたことを?……
さきにモーティマーが『シチリアの王』ホテルを訪ねたとき、アンナは大反対だった。おれとの仲を割《さ》かれそうに感じたんだ。新しい役割が、おれを彼女からひきはなすだろうと考えたんだね。
夕方、おれがホテル・マジェスティックへもどると、包みと手紙がとどいていた」
「グレイの既製服と、それにアンナの手紙だろう? これからモーティマーを殺すから、そのあとで会いたいという意味の……」
たばこの煙のせいで、蒸し暑いあたりの空気が、いっそう息苦しくなっていた。ものの輪郭がぼんやりかすんでしまった。
「おまえは、ここへベルトを殺しにきたんだな」
と、メグレがいった。
相手はまた酒をあおった。グラスを空にすると、マントルピースの前へもどって口をひらいた。
「あらゆるもののかたをつけにきたんだ。おれ自身もふくめてな。なにもかもが、つくづくいやになってしまったんだ! それと、もうひとつ考えがあった。兄貴がいたら、またロシア人よばわりされそうなことさ。おれはね、ベルトと死ぬつもりだったんだ、たがいにしっかり抱き合って……」
彼はそこで言葉をきって、まったく別の声でいいだした。
「おれもばかな男さ! その考えというのをここで口にだすには、あと一リットルの酒が必要だろう。門の前には警官が張りこんでいたよ。おれは酔いもさめはてて、あちこち歩きまわった。今朝、おれは女中に紙片をわたした。義姉《あね》にあてて、下手の防波堤で待っていると書いたあとで、すこしばかり金をもってきてくれ、さもないと逮捕されるとつけくわえておいたんだ。
卑怯な男じゃないか。彼女はやってきたよ」
そういうなり、彼はマントルピースに両肘をのせて、急にすすり泣きをはじめた。それはもう一個の大人《おとな》ではなく、まるで子供のようだった。彼は合間々々にしゃくりあげながら、話をつづけた。
「おれには勇気がなかった。おれとベルトは夕闇につつまれていた。海は唸《うな》りをあげていた。そして、彼女の顔に不安がきざしたのをみて、おれはすべてを話した。一伍一什《いちぶしじゅう》、おれの犯した罪をふくめてだ。せまい洗面室のなかで、服をとりかえたことまで話してきかせた。すると彼女が気がくるったようになったので、おれはあわてて、ぜんぶ嘘なのだと取り消した……しっかりしろ、殺したというのは嘘なんだ、おれはそういった。だが、ピートルが悪人だということは取り消さなかった。そして、おれは復讐のために、こうした狂言をかいたのだといってやった。彼女は信じたようだった……女はとかく、そっちのほうを信じたがるものなんだな。彼女は、もってきた金のはいったバッグを地面へおとした。そして、こういった……いや! 彼女は口なんかきけやしなかったんだ……」
彼は頭をおこして、ひきつった顔をメグレのほうへむけた。歩きだそうとしたが、足がふらついて、またマントルピースへ縋《すが》りつくことになった。
「酒壜をとってくれないか、おい!」
その[おい]といった声には、感情のたかぶりが読みとれた。
「おい!……あの写真をちょっと見せてくれよ……ほら、あの……」
メグレはポケットからベルトの写真をとりだした。それは、この事件をつうじて、彼が犯したただ一つのあやまちといってよかった。この瞬間のハンスの心には、ベルトのことしかないように思ったのだ。
「ちがう……もう一枚のやつだ……」
それはセーラー服すがたの二人の男の子の写真であった!
レトンはそれを憑《つ》かれたように眺めていた。警部にはさかさまに見えていた。が、金髪の濃いほうの男の子が兄のほうへささげている感嘆の表情は、まちがいなく見てとれるのだった。
「服といっしょに、おれのピストルまで持っていっちまったな!」
突然ハンスが、無表情な抑揚のない声でいって、あたりを見まわした。
メグレの顔色は紫色になっていた。彼は自分の拳銃をおいてあるベッドのほうを、ぎこちなくゆびさした。
ハンスはマントルピースを離れた。もうふらつきはしなかった。全身の活力をふるいおこしたにちがいない。
彼はメグレの一メートルと離れないそばを通りすぎた。二人とも部屋着すがたであった。そして、二本のラムをわけあって飲んだのだった。
二脚の椅子が、木炭コンロのそばに向かいあっておかれているのが、まだ見えていた。
二人の視線がからみあった。メグレはふり返ってみるだけの勇気がなかった。彼は、相手が歩みをとめる瞬間を待っていた。
だが、ハンスはまっすぐ歩いていくと、スプリングを軋《きし》らせて、ベッドのはしに腰をおろした。
二本目の壜に、まだいくらか酒がのこっていた。警部はそれをとりあげた。壜のくびがグラスにふれて、かちんと音をたてた。
彼はゆっくりと飲んだ。いや、むしろ、飲むふりをしているように見えた。息を殺していた。
ついに銃声がきこえた。彼はグラスの中身を一息にのみほした。
その結果は、公式報告書のかたちにしてみれば、こういうことになる。
「一九……年十一月……日午後十時、ハンス・ヨハンソンなるもの(ロシア・プスコフ市生れのエストニア人。無職。住所パリ、ロワ・ド・シシール街)は、本年十一月……日急行列車『北極星号』上でおこなわれた兄ピートル・ヨハンソン殺害事件の容疑により、機動第一班メグレ警部の手でフェカンにて逮捕され、罪状を自認したのち、みずから口中に弾丸を撃ちこんで自殺した。
弾丸は径六ミリ、口蓋を貫通して脳中にとどまる。情況は即死。
死体はとりあえず警察医務院へ搬入され、医務院側では受納証を交付した」
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十九 傷ついた男
看護人たちは、スロー・ジンのご馳走になって帰っていった。そのスロー・ジンは、この夏メグレ夫人が、郷里であるアルザスの村で休暇をすごしたさいに、用意しておいたものだった。
ドアがしまり、足音は遠のいていった。メグレ夫人は、薔薇《ばら》の花束の壁紙をあしらった寝室へ足をむけた。
メグレは、赤い絹地の羽根ぶとんをかけたベッドに、そのからだを横たえていた。ぐったりしたようすで、眼のまわりに細いくまができている。
「手術はひどかったの?」
部屋を整頓《せいとん》しながら、夫人がたずねた。
「たいしたことはなかったよ」
「食事はなされる?」
「すこしぐらいなら……」
「ねえ、あなたは王様や、クレマンソーとかクルトリーヌとかいった名士を手術したのとおなじ外科医にかかったのよ〔ジョルジュ・クルトリーヌは十九世紀末のユーモア作家でフランスのマーク・トウェーンとまでいわれた〕」
夫人は窓をあけて、看護人のひとりが靴痕《くつあと》をつけていった絨緞《じゅうたん》をはらった。つづいて台所へはいると、シチュー鍋《なべ》を火からおろして、蓋《ふた》をとった。
「ねえ、あなた……」夫人はまた寝室へもどってきた。
「なんだ」
「あなたは、あの痴情犯罪説を信じてらっしゃるの?」
「いったいなんの話だ」
「アンナ・ゴルスキンというユダヤ女よ。きょう、重罪裁判にまわされるんでしょう? ほら、ロワ・ド・シシール街に住んでいた女で、嫉妬《しっと》にかられてモーティマーを射殺したと主張しているひとよ」
「あ、今日だったのか」
「ばかばかしい」
「いやいや、人生というやつは複雑なもんさ……それより、枕《まくら》を取りかえてもらわんとこまるぜ」
「彼女、無罪で釈放されるのかしら」
「ほかにも無罪放免になったものは、ずいぶんいるぜ」
「わたくしのいいたいのはね……そのひとは、あなたの事件に関係していたんじゃなくて?」
「ちょっぴり関係はあったよ……」と、メグレは溜息をまじえていった。
「まったく、司法警察官の妻であるということは、たいへんな苦労ですわ」と夫人はいったが、眼は微笑していた。そして、こういいそえた。「なにかあった場合には、管理人の女のひとから情報をおしえてもらうの……甥御《おいご》さんが新聞記者をしているんですって」
メグレもこれにはにっこりした。
彼は手術をうける前に、二度、サン・ラザールの拘置所へ足をはこんで、アンナ・ゴルスキンに面会した。
一度めは、爪で顔をひっかかれた。
二度めには、情報をもらしてくれた。それによって、翌日バニョレの下宿屋で、トランス刑事とジョゼ・ラトゥーリの殺害犯人、ペピート・モレットを逮捕することができた。
くる日もくる日も、音沙汰《おとさた》がなかった! ときどき長距離の電話がかかってきたが、けっして安心させる内容のものではなかった。そうしたある早朝、メグレ自身がひょっこり帰ってきたのだった。精根つきたようすでどさりと椅子に倒れこむと、聞きとれないくらいの声でいった。
「医者をよんでくれ……」
メグレ夫人はうれしさのあまり、小走りに室内をとびまわった。しかし、うわべだけは不平を鳴らしながら、シチューの焦げついた上から水をさすやら、窓をあけたりしめたりに大わらわだった。ときどき、
「パイプはいかが?」
と、たずねていたが、ついにその返事がきかれなくなった。
メグレは赤い羽根ぶとんで半身をつつんで眠っていた。頭は大きな羽根枕のなかへ埋めていた。そうして眠りこんでいる安らかな寝顔のまわりで、家庭でおなじみの音がきかれるのだった。
裁判所の判決によって、アンナ・ゴルスキンは死刑をまぬがれた。
サンテ監獄の独房のなかでは、厳重な監視のもとに、ペピート・モレットがやがてきたるべき、みずからの運命を待っていた。独房を歩きまわる彼の眼にうつるものといっては、覗《のぞ》き窓の格子《こうし》模様でくぎられた、むっつりとした看守の顔があるだけだった。
そしてプスコフの町では、お国風のボンネットを両頬にたらした老婆が、橇《そり》を駆って、雪のなかを教会へ向っているにちがいない。そして、橇《そり》の御者《ぎょしゃ》は、酔った顔を風にほてらせながら、玩具《おもちゃ》そのままの仔馬《こうま》に鞭をくれていることだろう。  (完)
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訳者あとがき
ジョルジュ・シムノンの経歴や作家活動については、すでに他の本にくわしいので、詳細はそちらを参照していただくこととし、ここでは重複を避けて、この世界的作家について、雑談風に述べてみようと思う。
シムノンについて書かれた評論は、有名なナルスジャックの「シムノンの場合(Le Cas Simenon)」をはじめ二、三種あるが、なんといっても資料的におもしろいのは、シムノン自身の手になる「メグレ回想録(Les Memoires de Maigret 1950)」と、メモふうの日記「私が老人だったころ(Quand J'etais Vieux. 1970)」の二冊であろう。
ことに前者は、わが国随一のシムノン通、長島良三氏をうながして、翻訳してもらい、『世界ミステリ全集(早川書房)』の第九巻に収録したものである。プレス・ド・ラ・シテ社の原本は、丸善で見て、その表紙にびっくりさせられた。初期の傑作をのぞいて、当時のメグレものにやや失望させられていたわたしも、その表紙につられて買ってしまった。ふつうだと上に題名、そしてそのすぐ下に George Simenon と作者名が描かれているのに、平台《ひらだい》にならべられたそれは、赤と黄を混ぜたようなどぎつい色の絵具で、ぐっと作者名を消し、さらにその下に Maigret となぐり書きしてあるのだった。一読の価値はあった。表紙にあるとおり、それは逆にメグレから見たシムノン像という体裁《ていさい》をとった、まことに意表に出たものだった。ご存じのように、小説中のメグレはだいたいずっと四十五歳ぐらいで登場しているが、この初対面のときはメグレが三十歳になろうというところ、シムノンは弱冠二十七歳、メグレの目からすると二十三、四にしか見えないと書かれている。小説家志望のこの若い記者を上司から紹介されたメグレが、その要望にしたがって司法警察内部をあちこち案内させられる。そして、一般見学者とはまるでちがった角度から質問を浴びせられ、[風変りなやつ]という第一印象を抱くところからはじまって、その後も交友がつづき、結果として一篇の小説にもなっているというふうに、かなり凝《こ》った作品である。
本書「怪盗レトン(Pietre-le-Letton. 1931)」がメグレもの長篇の処女作だということがわかったのは、この回想録によってであったと思う。書かれたのは一九二九年だが、出版は一九三一年。ちなみにメグレが初めて登場したこの年には、それまでに書きためてあったものだろう、他にも「男の首」「黄色い犬」「サン・フォリアン寺院の首吊人」など、わが国でシムノンの傑作とみられているものばかりが九篇、一挙に出版されていて、執筆の順序はわかっていなかった。
思いなしか、この作品には、その後のメグレものに共通する特徴がそっくりぜんぶ現われているようである。パリの街を舞台として跳梁《ちょうりょう》する謎めいた東欧人。ドストエフスキーの「罪と罰」のポールフィリー判事とラスコーリニコフの関係をそのままフランスに移したように、相手にぴったり寄りそって、その行動や心理の推移から犯罪そのものの姿をみずからの内部に忠実に再現しようとするメグレ警部。雨にけぶる巷《ちまた》に、霧ふかい地方の港町に、パイプをくわえてのっそりとたたずむ彼の姿。そうしたいわば静に対置するように、世界を股にかけた怪盗がパリに向いつつあることをしらせる電報が、国際刑事警察機構からつぎつぎと舞いこんでくる冒頭のはでなシーン。自分で翻訳したせいもあって、わたしはこの作品がいちばん好きである。
渋い作風でファンの多い作家、日影丈吉氏には、フランス推理小説の翻訳もたくさんあるが、そういう表芸とはべつに、外野席から、ひと味ちがった角度での考証をだされることでも知られている。たとえば、ルパンものの作者モーリス・ルブランという筆名は、「黄色い部屋」で有名なガストン・ルルウを意識したもの――つまり Le blanc(白)を Le roux(赤、すなわち rouge の短縮形)に対応させたものではないか、という説。また「黄色い部屋」とその続編「黒衣婦人の香り」に登場する若手新聞記者 Rouletabille は、従来、ルルタビイユとかルレタビーユとか表記されてきたが、これは正しくはルールタビルと読むべきである、という説も氏が立てられたものだ。bill とは俗語で頭のこと、したがってこの名前は roule ta bille[《おまえの》頭をひねれ]という意味の作者のおあそびだというわけで、あっといわせるような卓説であると思う。
氏のひそみにならって、わたしも Maigret(メグレ)について首をひねってみた。これは著者がどういおうと珍しい苗字《みょうじ》で、わたしは数多くの人名辞典にあたってみたが、一つも発見できなかった。maigre は[痩《や》せている]という形容詞なので、けっして痩せていない、むしろ[がっしりした岩のような]と描写される主人公に、著者は、わざとこんな苗字を冠したのではないだろうか。
ついでにいっておくと、本篇のほんとうの主人公というべきピートル・ル・レトンだが、このピートルはオランダ系の名前で、フランス語では道化師の意味をふくみ、ル・レトンは[東欧レトアニア生まれ]という、いわば[清水の]次郎長や[笹川の]繁蔵に類する、暗黒社会の二つ名である。
ふるい話になるが、昭和三十三年にシムノンが訪日するという噂《うわさ》がながれて大さわぎしたことがあった。その前年か前々年に、故木々高太郎氏がカンヌ在住のシムノンを訪ね、そのときの雑談中にそういう意向がもらされたというのだ。ほかならぬシムノン、戦前からよく知られたフランス探偵小説の大御所がくるというのである。その前年の夏だったか、たまたま所用で池袋の故江戸川乱歩氏邸をおとずれたわたしは、広い敷地内に大きな洋風? の別棟が建築中なのを見て、氏にそのいわくをたずねた。なんでもシムノンがホテルをきらって、作家の私邸に泊りたいといっているらしいので、急遽、洋式トイレつきの部屋をつくることにした、との返事だった。いかにも乱歩らしい構想だな、と当時、わたしは思った。結局、こういう話のつねで、シムノンは来なかったが、いまになると惜しまれてならない。敗戦後の乱歩氏は、創作よりむしろ海外作家の研究・紹介や、有名人に推理小説を書かせるための奔走といった、この世界の実際面にもっぱら力をそそいでいたことは周知である。その氏の自宅にシムノンが滞在して歓談をほしいままにされていたら、わが国でのシムノンの評価やその影響がどんなふうにあらわれているだろうと、残念でならない。
一九七七年八月  訳者