モンマルトルのメグレ
ジョルジュ・シムノン/矢野浩三郎訳
目 次
第一章
第二章
第三章
第四章
第五章
第六章
第七章
第八章
第九章
訳者あとがき
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登場人物
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フレッド・アルフォンシ……キャバレー『ピクラッツ』の主人
ラ・ローズ……フレッドの妻
アルレット……『ピクラッツ』の踊り子
ベティ……『ピクラッツ』の踊り子
タニア……『ピクラッツ』の踊り子
「ばった」……『ピクラッツ』のボーイ
デジレ……『ピクラッツ』のボーイ
ブロック……町医者
フィリップ・モルトマール……男色者
ロザリー・モンクール……サン・ジョルジュ署の刑事
ロニョン……司法警察局警視
リュカ……司法警察局刑事
ジャンヴィエ……司法警察局刑事
ラポワント……司法警察局刑事
トランス……司法警察局刑事
[#ここで字下げ終わり]
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第一章
ジュシオム巡査の夜の勤務は、毎日おなじことの繰返しであった。時間にいくらかのずれはあるにしても、いつもおなじ場所を巡回する。往き来する人たちまできまりきった日常風景の一部となってしまっていて、彼はその人たちを、いつのまにか機械的に記憶していた。いわば駅のそばの住人が、列車の発着をいつしか心の底に刻みこんでしまうのと、似ていたかもしれない。
霙《みぞれ》が降っていた。ジュシオムはフォンテーヌ街とピガル街の角で、いっとき軒下に身をよせていた。ほとんど灯の消えたこの界隈で、キャバレー『ピクラッツ』の紅いネオンが、濡れた舗道に、血溜りのような光を映していた。
月曜日。モンマルトルの暇な日である。ジュシオムはこのへんの店がどの順序で閉店していくか言いあてることもできた。やがて『ピクラッツ』の順番がきてネオンが消えた。背の低いずんぐりの主人《あるじ》が、タキシードの上に色|褪《あ》せたベージュのレインコートをはおって、道路に出てくると、シャッターのハンドルをまわしはじめた。
人影(それは子供のように見えた)が、ピガル街の家並みにそって、滑るように、ブランシュ街の方向へ下っていった。つづいて男が二人、クリシー広場のほうに上っていく。その一人は小脇にサキソフォンのケースをかかえていた。
まもなく男がもう一人、オーバーの襟をたてて、サン・ジョルジュ広場のほうへむかった。
ジュシオム巡査は彼らの名前も知らないし、顔もほとんどわからないけれども、そのシルエットだけはほとんど見分けがついた。
こんどは女が出てくる番だということを、彼は知っていた。女は明るい色のひどく短い毛皮のコートを着て、極端に高いハイヒールで、足速にせかせかと歩いてきた。こんな朝の四時に、往来に一人でいるのが怖いみたいなようすだった。それでいて彼女の住んでいる家までわずか百メートルしかないのである。この刻限にはすでにドアが閉ざされているので、彼女は呼鈴をならさなければならない。
最後に女二人が出てきた。いつも二人いっしょだ。小声でひそひそ話しながら街角までくると、彼のいる数歩そばで二人は別れた。年かさのからだの大きいほうが、腰をふらふらゆすりながらピガル街をルピック街まで上っていった。彼はそのルピック街で彼女が家に入るところをなんども見ている。もう一人のほうはその場にぐずついている。こちらを見て話しかけたそうなようすをしていたが、やがて帰り途であるノートルダム・ド・ロレット街を下りては行かずに、ドゥエ街の角にあるカフェのほうへ歩きだした。カフェはまだ灯をつけていた。
彼女は酔っているようだった。帽子はかぶっていない。街灯の下を通るとき、金髪がきらりと光るのが見えた。ゆっくりとした足取りで、ときおり立ちどまっては、ひとりごとを呟いているようすだった。
カフェの主人が親しげに話しかけた。
「コーヒーかい、アルレット?」
「アロゼにして」
すぐに、コーヒーに暖められたラム酒特有の芳香がひろがった。男が二、三人カウンターで飲んでいたが、彼女は目もくれなかった。
のちに主人はこう述懐している、
「あの娘《こ》はひどく疲れているようでした」
おそらくそのためか、彼女はラム酒をダブルで入れたカフェ・アロゼを二杯も飲んだ。バッグからお金を出すのもやっとという感じだった。
「おやすみ」
「おやすみ」
彼女がまたもどってくるのを、ジュシオム巡査は見ていた。通りを下ってくる足取りは、上っていったときよりもおぼつかなかった。そばまでやってくると、暗闇で彼の姿をみとめて、面とむかいあった。
「あたし、警察に知らせたいことがあるんだけど」
「かんたんだよ。署は知ってるだろ」
街警察署はほぼ通りの向かい側にあった。いってみれば『ピクラッツ』の裏手にあたるラ・ロシュフコー街にあったのだ。二人がいま立っているところからも、青い角灯と、壁ぎわに並んだ自転車パトロール班の乗り物が見えていた。
彼は最初、女が警察へは行かないだろうと高をくくっていた。ところが彼女は通りをわたると、街警察署の建物のなかへ入っていったのである。
彼女が照明の悪い署内に入ってきたのは、四時三十分であった。署内にはシモン巡査部長と、任官前の若い巡査見習が一人いたきりである。
彼女はさっきの言をくりかえした。
「知らせたいことがあるんですけど」
「いいとも、話してごらん」
シモンが応じた。彼はこの署にきて二十年になるベテランである。
彼女は厚化粧をしており、ぬりたくったメーキャップが剥げかけていた。模造ミンクのコートの下に、黒|繻子《しゅす》のドレスを着ている。署内の人間と一般人の位置をへだてる手摺につかまって、からだがゆらゆら揺れていた。
「ある犯罪のことなんだけど」
「つまり犯罪が行われた、ということかね?」
壁に大きな電気時計が掛かっていた。彼女はその針の位置になにか特別な意味があるかのように、時計をみつめた。
「行われたかどうかは知らないわ」
「だったら、犯罪じゃない」
巡査部長は若い仲間に目くばせをした。
「でも、たぶん行われるのよ。それはたしかだわ」
「だれがそう言った?」
彼女はおのれの思考をたどるのに手間どっているようすだった。
「二人の男よ。ついさっき」
「どこの男?」
「お客よ。あたし、『ピクラッツ』で働いているの」
「どうりで、どこかで見たことがあると思った。あんた、ストリップやるんだな、そうだろ?」
『ピクラッツ』のショーを実際に観たことはなかったが、毎朝毎晩、店の前を通るたびに、表のウィンドーに張りだされた女の引伸し写真が、目の前に立ちはだかっていた。それといっしょに、別の二人の女の小さな写真も見ている。
「つまりだな、お客が犯罪が行われると、あんたに話した、とこういうわけ?」
「あたしにじゃないわ」
「じゃ、だれに?」
「二人で話あっていたのよ」
「それをあんたが聞いたってわけだな」
「そうよ。ぜんぶ聞いたわけじゃないけど。間に仕切りがあったから」
それもシモン巡査部長には理解できた。いつか店の掃除をしているとき前を通ったことがあった。表のドアが開け放してあったのだ。うすぐらい内部は、全体が紅色に塗られていて、照明のあたった通路と、壁にそって並べられたテーブルとテーブルを、仕切りがへだてているのが見えた。
「話してごらん。それはいつのこと?」
「今夜よ。二時ごろかな。そう、午前二時ごろだったはずだわ。あたしのショーが一番しかすんでいなかったもの」
「その二人の客はなにを話していた?」
「年嵩《としかさ》のほうの男が、伯爵夫人を殺しに行くって言ってたわ」
「伯爵夫人って、だれだい?」
「知らないわ」
「いつ?」
「たぶん今日よ」
「そいつはあんたに聞かれていると考えなかったのかな」
「仕切りの反対側にあたしがいることを知らなかったのよ」
「あんた、一人でいたの?」
「いいえ。別のお客といっしょよ」
「知ってる男?」
「ええ」
「だれ?」
「苗字は知らないの。名前はアルベールよ」
「彼も聞いたんだな?」
「それはどうかしらね」
「どうして彼には聞こえなかったんだね?」
「あたしの手を握って、話かけていたからね」
「あんたを口説いていたわけ?」
「そう」
「で、あんたは仕切りの向こうの話を聞いていた。どんな話だったか、正確に思いだしてもらえるだろうね?」
「正確じゃないわ」
「あんた、酔っぱらってるのか?」
「飲んでるけど、自分の言ってることぐらいわかるわよ」
「そんなふうに毎晩飲むのかい?」
「それほどでもないわ」
「そのアルベールと飲んだのか?」
「彼とはシャンパン一壜だけよ。彼にはお金を費わせたくなかったの」
「彼は金持ちじゃないんだな?」
「まだ若いのよ」
「あんたに惚れてるんだろ?」
「ええ。わたしにお店をやめてほしいらしいの」
「それで、彼といっしょにいたとき、その二人の客が入ってきて、仕切りの向こう側にすわったんだな」
「そのとおりよ」
「二人の姿を見た?」
「あとでね。帰るときにうしろ姿を見たわ」
「永くいたのかい?」
「三十分ぐらいかしら」
「二人もほかの女たちとシャンパンを飲んだのか?」
「いいえ。たぶんブランデーを頼んだでしょう」
「そしてすぐに、伯爵夫人の話をはじめたのかい?」
「すぐにじゃないわ。はじめのうちは、あたしも注意していなかったの。最初に聞いたのは、こんなふうな話だった。『なあ、彼女はまだ宝石をだいぶ持っているけど、あの調子じゃ、そいつも永くはないぜ』」
「どんな声だった?」
「男の声よ。ある程度年輩の男ね。二人が出ていくとき、背が低くずんぐりして、髪がグレーなのがわかったわ。きっとその男のほうよ」
「どうして?」
「だって、もう一人はもっと若かったし、あれは若い人の声じゃなかったもの」
「どんな身なりをしていた?」
「気がつかなかったわ。たぶん黒か、それらしき色よ」
「クロークにコートを預けたかな?」
「たぶんね」
「つまりそいつは、伯爵夫人がまだいくらか持っているけど、あの調子だと、それも永くはないだろう、とこう言ったのだな?」
「そうよ」
「どんなふうに伯爵夫人を殺すと話した?」
彼女はまだ若かった。じっさい自分でそう見せたがっているよりも、はるかに若かった。ときおり、放心しているときの少女のような表情を見せる。いまは壁時計にじっと目をみすえて、そこから霊感を汲みとろうとしているように見えた。からだがかすかに揺らいでいる。ひどく疲れているのに相違なかった。化粧品の香りにまじって、彼女の腋《わき》からにおってくる、軽いつんとくるような汗の匂いを、巡査部長は感じとっていた。
「どんなふうに夫人を殺すといったんだ?」と、もう一度訊いた。
「わからなくなったわ。えーっと、あたし、一人きりじゃなかったもの。ずっと耳を澄ましてるわけにはいかなかったのよ」
「アルベールにからだを触《さわ》られていたのか?」
「ちがうわよ。彼はあたしの手を握っていただけよ。年取ったほうの男が、たしかこんなふうに言ったのよ。『今夜、片をつけちまうことに決めたぜ』って」
「だから殺すということにはならんじゃないか。夫人の宝石を盗むという意味かもしれない。あるいは借金取りが、取立人をさしむけて差し押えてしまうと言っていたのだとしても、すこしもおかしくはないぜ」
彼女は頑として言いきった。
「そうじゃないわ」
「どうしてわかる?」
「だって、そんなふうじゃなかったからよ」
「はっきり殺すと言ったのか?」
「たしかにそのつもりなのよ。どんなふうに言ったのかは憶えていないけど」
「聞きまちがいってこともあるんだろ?」
「ないわ」
「それが二時間前のことなんだな?」
「もうちょっと前かな」
「なのに、ある男が犯罪を行おうとしているのを知っていながら、やっと今頃になって知らせに来たってわけかい」
「びっくりしちゃったのよ。それに閉店前にお店から出るわけにはいかなかったわ。アルフォンシはそういうことに、とっても厳しいの」
「あんたがわけを話してもか?」
「自分のことだけ構ってればいいって言われるのが|おち《ヽヽ》よ」
「そいつらの話していたことを、すっかり思いだしてくれないか」
「そんなにいろいろ話さなかったわ。それにすっかり聞こえたわけじゃないし。音楽をやってたでしょう。それから、タニアがショーをやったりして」
すこし前から巡査部長はメモをとりはじめていた。しかし彼女の話をそれほど信じていたわけでもなく、適当にノートしていたにすぎない。
「伯爵夫人って、だれかわかるかい?」
「さあ」
「店にくる客には?」
「女の人はあんまりこないもの。それも伯爵夫人みたいな女の客なんて、聞いたこともないわ」
「その二人の男の顔を見てみようとはしなかった?」
「そんな。怖かったのよ」
「なにが、怖かった?」
「あたしが話を聞いたことを知られるんじゃないかって」
「そいつらの名前はなんといってた?」
「気をつけてなかったわ。たぶん一人のほうは、オスカルっていったのじゃないかな。でも、たしかじゃないわ。あたし、飲みすぎたみたい。頭が痛いわ。早く帰って寝たい。信じてくれないとわかってたら、こんなとこに来るんじゃなかった」
「まあ、すわれよ」
「もう帰っちゃいけない?」
「まだだ」
黒白印刷の政府のポスターの下にある、壁ぎわのベンチを指さした。
彼女が掛けるのも待たずに、質問をつづける。
「あんたの名前は?」
「アルレット」
「本名だよ。身分証明書があるだろう?」
彼女はハンドバックから証明書を出して、さしだした。それにはこう読めた。『ジャンヌ=マリー=マルセル・ルルー。二十四歳。出生地ムーラン。舞踊芸術家。住所パリ。ノートルダム・ド・ロレット街四十二番地三号』
「アルレットじゃないのか?」
「舞台での名前よ」
「舞台に出てたのかい?」
「ちゃんとした劇場じゃないけどね」
彼は肩をすくめた。記載事項を写しとって証明書を彼女に返した。
「すわれよ」
それから小声で、若い同僚に彼女を見張っているように頼んでから、隣りの部屋に入っていった。電話の声を聞かれないためである。警察救助本部を呼びだす。
「あんたか、ルイ。こちら、ラ・ロシュフコー街のシモンだ。今夜、伯爵夫人殺しはなかったかね?」
「伯爵夫人とは、またどういうわけだ?」
「さあね。与太かもしれんがな。ちょっと頭のイカれたふうの女の子がいてね。ただ酔っぱらってるだけかもしれんがな。伯爵夫人、それも宝石を所持している伯爵夫人の殺しを企んでいる奴らの話を聞いたっていうんだがね」
「知らんね。リストには出てないぜ」
「なにかその手の話があったら、おれに知らせてくれ」
さらに二人はちょっとした別件のことですこしばかりしゃべった。シモンがもどってきたとき、アルレットは居眠りしていた。まるで駅の待合室風景といったふぜいである。思わず足許にボストンバックがないかと見てみたくなるほど、はまりすぎた感じだった。
七時。ジャッカルがシモン巡査部長の引継ぎにやってきたとき、彼女はまだ眠っていた。シモンは同僚に事のあらましを伝えた。帰りかけたとき、彼女が目をさます気配が見えたが、彼は足を止めもしなかった。
彼女はびっくりして、口髭をたくわえた新来者をみつめた。不安げに目で時計をさがし、はっと立ちあがった。
「あたし、行かなければ」
「あとちょっとだよ。姐ちゃん」
「まだなにかあるの?」
「ひと眠りしたあとでは、たぶん記憶もはっきりしてきたんじゃないのかな」
彼女はこんどはふくれ面をした。肌が光沢《つや》をおびえている。ことに眉毛を抜いたあとの部分が光っていた。
「もうなにも知らないわ。あたし、うちに帰りたいの」
「オスカルのことはどうだ?」
「オスカルって?」
ジャッカルは彼女が眠っていたあいだにシモンがしたためた報告書を見ていた。
「伯爵夫人を殺すといってた奴だよ」
「オスカルなんて名前かどうか知らないわ」
「じゃ、なんて名だ?」
「知らない。あたし、なにを話したのか憶えてないわ。酔ってたから」
「つまり、みんなデタラメってわけ?」
「そうは言ってないわ。仕切りの向こうで二人が話してることを聞いたのよ。でも、聞こえたのは言葉の端ばしだけだし。あたしの聞きちがいかもしれないしね」
「じゃ、なんでここへ来たんだ?」
「言ったでしょ。酔ってたのよ。酔ってるときは、物事が別なふうに見えたり、大袈裟に考えたりするもんよ」
「伯爵夫人のことを話してたんだろ?」
「それは、そうだけど……」
「宝石のことは?」
「宝石のことは話してたわ」
「で、片をつけちまうんだ、って?」
「そう聞こえたと思ったのよ。そのへんではもうだいぶ酔ってたから」
「だれと飲んだんだ?」
「いろんなお客さんと」
「アルベールとかいう男とも?」
「ええ。でも、もうわかんない。みんな顔でしか知らないんだもの」
「オスカルもか?」
「どうしてその名前にこだわるの?」
「彼を見ればわかるか?」
「彼のうしろ姿しか見なかったのよ」
「うしろ姿でもけっこう見わけはつくもんだぜ」
「自信ないわ。たぶん」
そこではっと思いあたったように、こんどは彼女のほうから訊いた。
「だれか殺されたの?」
相手が答えないので、ひどく落着かなげなようすを見せはじめた。だいぶ宿酔《ふつかよい》がひどいらしい。眸《ひとみ》のブルーは水で洗ったように薄く、唇は口紅がひろがって不恰好に大きく見せていた。
「家に帰っちゃいけない?」
「いますぐはだめだ」
「あたしはなんにもしてないのに」
いまや署内には警官がふえだしていた。てんでにおしゃべりをしながら、めいめいの勤務につきはじめる。ジャッカルは警察救助本部を呼びだした。あいかわらず伯爵夫人殺しらしきニュースは入っていないということだった。それでも念のため、あるいは肩の荷を軽くするためもあって、警視庁に電話を入れた。
リュカは勤務についたばかりのところで、まだちゃんと目が醒めていなかった。こちらも、念のためという意味あいで、
「彼女をこっちによこしなさいよ」
言ってしまってから、もうそのことはろくに考えもしなかった。メグレが出勤してきて、オーバーと帽子を脱ぐ前に、夜勤の報告書にざっと目をとおした。
雨が降りつづいていた。肌に粘りつくようないやな日だった。今朝はたいていの人間が機嫌が悪かった。
九時をいくらか廻ったころ、第九区の警官がアルレットをオルフェーヴル河岸の警視庁につれてきた。まだ新米のため建物の内部をよく知らず、女をつれてあちこちのドアをノックしてまわった。
たまたま刑事部屋のドアを開けたところ、若いラポワントが一人、机の端に腰をかけてタバコを喫っていた。
「リュカ巡査部長はどちらですか?」
ラポワントとアルレットがじっと目を見交わしたことに、彼は気がつかなかった。隣りの部屋だと教えられて、彼はドアを閉めた。
「掛けなさい」と、リュカはその踊り子に言った。
ちょうどメグレは日課の点検を終えたところで、会議のはじまるのを待つあいだ、ストーブのそばでパイプにタバコをつめていた。
「この女は、ある伯爵夫人殺害を企んでいる二人の男の話を盗み聴きした、と言っているのです」と、リュカが彼に説明した。
彼女はこれまでとはうって変わって、いやにはっきり、それも突っかかるように言った。
「そんなこと言わなかったわよ」
「きみは二人の男の話を聞いたと……」
「あたし、酔っぱらってたのよ」
「じゃ、みんな創り話かね?」
「そうよ」
「どうして、そんなことをした?」
「わかんないわ。むしゃくしゃしてたのよ。家に帰るのも厭だし、ついふらふらと警察へ入っちゃったの」
メグレは好奇の目をちらりと彼女に投げて、報告書に視線をもどした。
「ということは、伯爵夫人の話などなかったのかね?」
「そう……」
「まるきり?」
「伯爵夫人って言葉は聞いたかもしれないわ。ちらっと聞いた言葉が、いつまでも引っかかってることって、よくあるでしょう」
「それは昨晩のことかね?」
「たぶんね」
「で、その言葉をもとに、話をでっちあげたというんだね?」
「あんた、酔っぱらってるときでも、自分がなにを言ってるのかちゃんとわかってる?」
メグレが微笑した。リュカはむっとした顔つきになった。
「それが軽犯罪になることを知らないのか?」
「だから、なによ」
「虚偽の訴えをすると、きみは警察侮辱の罪で……」
「そんなこと、どうでもいいわ。あたしが訊きたいのは、家に帰ってもいいかってことだけ」
「一人で住んでいるのかね?」
「あたりまえよ!」
メグレがまた微笑した。
「じゃ、これも憶えていないかね。きみとシャンパンを一本空け、きみの手を握っていたアルベールという客のことだ」
「ほとんどなんにも憶えてないわね。証明しろって言うの?『ピクラッツ』のだれにでも訊いてごらん。あたしがへべれけだったって言うわよ」
「何時ごろから?」
「正確に言えっていうなら、昨日の夕方からね」
「だれと飲んだ?」
「ずっと一人よ」
「どこで?」
「あっちこっち。あっちこっちのバーよ。あんた、一人きりで暮らしたことないんでしょ」
リュカがなんとか峻厳らしく見せようと努めているだけに、このせりふは、ひどくおどけて聞こえた。
時は過ぎてゆき、雨はいっかな止むけはいがなかった。どんよりした空から、冷い雨が単調に降りつづく。庁内のどの部屋にも電灯がともり、床のいたるところに濡れた跡ができていた。
リュカはほかにも事件をかかえていた。ジャヴェル河岸の倉庫を襲った押込み強盗の一件である。彼は早く切りあげてしまいたかった。もの問いたげに、メグレのほうを見た。
『どうしましょうか?』と、訊いている目つきである。
ちょうど会議をつげるベルが鳴ったので、メグレはひょいと肩をすくめた。その意味するところは、
『好きなようにしろ』
「きみのところに電話はあるかね?」リュカは質問をつづけた。
「門番室にあるわ」
「家具付ホテルか?」
「ちがうわ。自分のうちよ」
「一人で住んでいるんだよね?」
「そう言ったでしょ」
「一人で帰らせたりしたら、もしもオスカルに会ったとき、怖くないかね?」
「あたしは、うちに帰りたいの」
彼女が街警察署で話をしたというだけで、いつまでも引きとめておくわけにはいかなかった。
「こんどなにかあったら、私に電話してくれ」リュカは立ちあがりながら言った。「市《まち》を出るつもりはないだろうね?」
「ないわ。どうして?」
彼はドアを開けてやり、彼女が広い廊下を遠ざかって行きながら、階段のところでちょっと躊躇しているのを見ていた。みんなが彼女のほうを振りかえって見た。彼女が別世界からきた、夜の世界の人間であることを感じとるのだ。冬の日の露わな陽ざしの下で見ると、彼女は淫らな感じすらあたえた。
リュカは室内にもどって、彼女が残していったにおいを嗅いだ。女の、それもベッドに入った女のにおい。彼はもういちど救助本部に電話を入れた。
「伯爵夫人のニュースは?」
「特になにもないですよ」
そこで刑事部屋のドアを開けた。
「ラポワント……」なかを見ずに声をかける。
若いラポワント刑事のものではない、べつの声が返ってきた。
「出て行きましたよ」
「どこへ行くか言ってなかったのか?」
「すぐもどると言ってました」
「もどったら、私が用だと伝えてくれ」
アルレットとか伯爵夫人とかのことではなく、ジャヴェル河岸へ同行させるつもりなのだ。
ラポワントは十五分後にもどってきた。二人はオーバーと帽子をとって、シャトレ広場へ向うために地下鉄駅へ行った。
メグレは定例の会議が行われた局長室からもどってくると、書類の山の前に腰をすえ、やおらパイプに火をつけて、午前中はここから梃《てこ》でも動かないぞと心に決めた。
アルレットが警視庁の司法警察局を出たのが、ほぼ九時であった。ノートルダム・ド・ロレット街まで、彼女が地下鉄で行ったかバスで行ったか、だれも気にとめたものはいない。
おそらくカフェに寄って、クロワサンとコーヒーの朝食をとったかもしれない。
門番の女は彼女が帰ってきたのを見ていない。事実そこは、サン・ジョルジュ広場からすぐのところにある、出入りのはげしい建物だった。
時計が十一時を打ったとき、門番の女はB号棟の階段の掃除にとりかかろうとして、アルレットの部屋のドアが半開きになっているのを見て驚いた。
ジャヴェル河岸でのラポワントは、心ここにないという、うつろな様子をしていた。顔色がおかしいのを見て、リュカは気分でも悪いのかと彼にたずねた。
「どうも風邪をひいたらしいです」
二人が、強盗に入られた倉庫の、聞き込みにまわっていたところ、メグレの部屋の電話が鳴った。
「こちら、サン・ジョルジュ署の署長ですが……」
アルレットが朝の四時半ごろに通報に行って、ベンチで居眠りをした、ラ・ロシュフコー街にある警察署である。
「秘書の話では、今朝ほどアルレットことジャンヌ・ルルーという女を、そちらへ送り届けたということですが。伯爵夫人殺害の会話を立ち聞きしたと主張していた女ですよ」
「少しは聞いていますが」と答えながら、メグレは眉をひそめた。「死んだんですか?」
「そうです。さきほど自室で絞殺されているのが発見されました」
「ベッドで?」
「いいえ」
「服を着たまま?」
「そうです」
「コートは?」
「着ていません。黒い絹のドレスを着ていたそうです。これまで私が報告を受けたかぎりでは、そうです。まずあなたに電話を入れておこうと思いまして。それが先決だという気がしたもので」
「たしかにそのようですな」
「あいかわらず、伯爵夫人に関する情報はありませんか?」
「目下のところは皆無です。まだ時間がかかるでしょう」
「検事局のほうへは、そちらから連絡願えますか?」
「そのほうがいいでしょう。なんとも妙な事件ですな。うちの夜勤の巡査部長は、女が酔っていたもので、あまりまじめに取り合わなかったのですよ。それじゃ、あとで」
「じゃ」
メグレはリュカをつれて行きたいを思ったが、机に彼の姿はなかった。そこでジャヴェル河岸の一件を思いだした。ラポワントもいなかった。ジャンヴィエが外から帰ってきたばかりで、まだ濡れて冷えきったレインコートを着たままだった。
「いっしょに来い!」
例によってメグレは、パイプを二本ポケットにしのばせた。
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第二章
ジャンヴィエは司法警察局の小型車を、歩道ぎわに停めた。二人は申しあわせたように、同時にアパートの番地をたしかめる仕種をし、つづいて驚いたように顔を見あわせた。道路上に野次馬が一人もいないのだ。玄関内にも中庭にもそれらしき人影はなく、街警察署から人混み整理にきていた警官は、所在なげにすこし離れたところを行ったりきたりしていた。
その理由《わけ》はまもなく判明した。街警察の署長プーランが門番のドアを開けて二人を迎え入れた。彼のそばに門番の女が立っていた。ものしずかで賢そうな、大柄な女である。
「こちらマダム・ブエ」と、署長が引きあわせる。「彼女、うちの巡査の細君でしてね。死体を発見したとき、彼女はマスター・キーでドアに鍵をかけておいてから、階下《した》へおりて私に電話をしてきたのです。おかげでアパルトマンの住人はまだなにも知りません」
彼女はお世辞をいわれたように、かるく首をかしげてみせた。
「階上《うえ》にはだれもいないのですか」メグレが聞いた。
「ロニョン刑事が検死医といっしょにいます。私自身はマダム・ブエといろいろ話していましてね、伯爵夫人の心当りを二人して検討していたところです」
「この界隈には伯爵夫人なんて一人もいません」と、夫人が言った。
その態度、声、話しぶりなどから判断して、彼女は完璧な証人たらんとしているらしかった。
「べつだん悪い女《ひと》じゃなかったですわ。ただ、朝方帰ってきて、昼間はほとんど眠ってられたようだから、ほとんどお付合いはなかったですけど」
「彼女がここに越してきてから永くなりますか?」
「二年です。中庭の奥のB号棟で、二間の部屋に住んでられましたけど」
「来客は多かったですか?」
「ほとんどなかったのじゃないかしら」
「男の客は?」
「来てたとしても、わたしは見かけませんでしたね。最初のころは別ですけど。越してこられてから、家具やなんかが着いたころ、一、二度年輩の男の方を見ましたわ。肩幅のひろい背の低い方で、わたしはちょっと見て、お父さんかと思ったんですよ。お話をしたことはありません。わたしの知るかぎり、その後はお見えにならないようですよ。ただ、なにしろ間借人は大勢ですし、特にA号棟のほうは事務所やお店で、絶えず出入りが多いですからね」
「あとでまた話を聞かせてください。すぐもどってきますから」
古い建物だった。玄関内には左右に階段がついていて、どちらも薄暗い。模造大理石かあるいは琺瑯塗りの表札があって、それで見ると、中二階に美容室、二階がマッサージ師、三階は造花教室と訴訟代理屋と占師とが占めている。中庭の石甃は雨にぬれて光っていた。そのむこうにB号棟の黒塗りのドアがあった。
階段に黒くぬれた足跡をのこしながら、四階までのぼった。途中一カ所だけドアが開いて、まばらな髪にヘアピンをまきつけたデブの女が顔をのぞかせたが、びっくりした顔で彼らをみつめると、またドアを閉めて錠をおろした。
サン・ジョルジュ警察のロニョン刑事が、持前の沈痛な顔つきで二人を迎えた。メグレに向けた彼の目は、こう言っていた。
『やれやれ、こうなる運命だったのか!』
こうなる運命とは、若い女が絞殺されるということではなくて、この街で事件がおこり、ロニョンが現場に派遣されると、きまってメグレ御大が乗りだしてきて、彼から事件を取りあげてしまう、という意味である。
「なにひとつ手を触れていません」いとも事務的な口ぶりで言う。「ドクターはまだ部屋のなかです」
どの住居にもせよ、この季節に明朗快活なところなぞ、一部屋もなかったにちがいない。こういう陰鬱《いんうつ》な日々には、えてして、なんのためにこの世に生を享けたのだろうか、こんな厭な想いをしてまで何故この地上に留まらなければならないのか、と自問したくなるものだ。
入口にちかいほうの部屋は、一種の客間になっていた。可愛らしい家具類が置かれ、小ぎれいに、きちんと整頓されている。まったく予想しないことだった。最初に目についたのは、あたかも修道院の床のように丹念に磨きあげられ、蝋引きの芳香をただよわせている床板であった。アルレットが自分で家事をやっていたかどうか、あとで門番の女に尋ねる必要がこれでなくなった。
半開きのドアのむこうで、パスキエ医師がオーバーを着、医療カバンに道具をしまいこんでいるのが見られた。ベッドのカバーは乱れていなかった。そのベッドの足許の、羊皮の白い敷物の上に、黒繻子のドレスを着た死体が横たわっていた。腕がいやに白く、髪が赤褐色の反射光をうつしていた。
最も心を打つのは、いつも取るにたらない細部である。この場合、メグレの胸を緊めつけたものは、まだヒールのたかい靴をはいたままの足のそばに投げだされた、もう一方の、靴が脱げたほうの足であった。ストッキングを透して足指の形がはっきりと見分けられ、そのストッキングには、まるで篩《ふるい》にかけたような泥の|はね《ヽヽ》が飛んでいて、くるぶしから膝のところまで梯子形の|でんせん《ヽヽヽヽ》があった。
「いうまでもなく死亡している」医者が言った。「首を締めた奴は、最後まで手をゆるめなかったらしいな」
「死亡時刻は推定できますか?」
「せいぜい一時間半前かそこいらでしょう。まだ死後硬直が起こっていないから」
ベッドのそばの、ドアのうしろに、押入れの戸が開いたままなのにメグレは気がついた。なかに掛かっている服はほとんどが絹のドレスで、それも大部分が黒だった。
「背後から襲われたのかな?」
「たぶんね。争った形跡がありませんからね。死亡診断書はあなたに提出するのですか、メグレ警視?」
「そうしてください」
小粋な寝室は、とてもキャバレーの踊り子の部屋とは思えなかった。模造ミンクのコートがベッドの上に投げだされ、安楽椅子にハンドバッグが放りだされているほかは、客間と同様、すべてが整然としていた。
メグレが言った。
「彼女が警視庁を出たのは九時半ごろだった。タクシーを拾ったとすれば、十時ごろにはここに帰り着いているはずだ。バスか地下鉄ならもうすこし遅いくらいかな。いずれにしろ帰ってすぐに襲われたわけだな」
床を調べながら押入れのほうへ進んだ。
「待ち伏せていたんだ。犯人はここに身を潜めていて、彼女がコートを脱いだとたんに襲いかかって首を締めた」
生なましい事件の温もりが伝わってくるようだった。これほど犯行後まもない現場に行きあう機会はめったにあるものではない。
「もう私に用はありませんね?」と、医者が訊いた。
彼は帰って行った。署長も、検事の到着までのこっている必要があるのかどうかたずねてから、まもなく目と鼻の先の警察署へ引きあげていった。ロニョンにいたっては、だれも帰ってよいと言ってくれないので、ふくれ面をして隅に立ちつくしていた。
「なにか発見したものはないかね?」メグレがパイプにタバコをつめながら、彼にたずねた。
「引出しをちらっとのぞいてみました。タンスの左の引出しです」
そこは写真でいっぱいだった。いずれもアルレットの写真ばかりである。なかには『ピクラッツ』のウィンドーに貼りだされているような、宣伝用のものもふくまれていた。黒い絹のドレスを着た彼女。現在死体がまとっているような外出用のものではなく、ぴったりからだに貼りついた絹のドレスである。
「彼女のショーを観たことはあるかね、ロニョン。きみはいわば町内だから」
「観たことありませんが、どんなものかは知っています。踊りといっても、そこの写真から想像がつくようなしろものでしてね。からだをくねらせながら、少しずつドレスを脱いでいくんですが、ドレスの下にはなにも着ていないってわけです。そしてショーの終りには全裸になるんです」
ロニョンの節くれだった長い鼻が、赤らみつつうごめいているように見えた。
「アメリカのバーレスクで演《や》るやつらしいですがね、もう脱ぐものがなくなったとたんに、照明が消えるんです」
ややためらってから、
「彼女のドレスの下をごらんになってみれば?」
メグレが驚いたような顔をしているので、
「死体を調べたドクターが、私にも見てみろというものですから。彼女、すっかり毛を抜いているんですよ。街を歩くときも、下着は着ていなかったんですね」
その場にいた三人ともが、いたたまれない想いをしたのは何故だったのだろうか。三人とも言葉もなく、羊皮の敷物に横たわる、どこか淫らさを感じさせる死体から目をそむけていた。メグレはほかの小さな写真には一瞥をくれただけだった。いずれも素人が撮ったものらしく、ひどくエロチックなポーズをとったヌード姿ばかりだった。
「封筒を見つけてきてくれないか」彼は言った。
するとロニョンが、声にださない、冷やかな笑いをうかべた、下司の勘ぐりで、警視が写真を役所に持ちかえって、ゆっくり娯しむつもりだと思ったらしい。
ジャンヴィエは隣室へ行って、入念な現場捜索を開始していた。彼らが現に目にしているものとこれらの写真、アルレットの内面生活と彼女の商売との間には、どうにも結びつかない断層があった。
押入れのなかには、石油コンロ、ぴかぴかのソースパン、皿、コップ、食器セットなどが入っていて、彼女が少なくともある程度の台所仕事をしていたことを物語っていた。窓の外側には中庭にむかって蠅帳《はいちょう》が掛っており、卵とバター、セロリー、それに骨つき肉が二本はいっていた。
もう一つある押入れのほうには、箒《ほうき》と雑巾、磨き蝋の箱などがつまっており、そこから連想されるのは、整頓された住居を自慢にしている、いくらか几帳面すぎるほどの主婦の生活であった。
手紙や書き物の類は、いくら探しても出てこなかった。あちこちに雑誌がいくらかある程度で、本は、料理の本が一冊と仏英辞典があるきりだった。ふつうの家庭で見られるたぐいの、両親や友だちあるいは恋人などの写真は一枚もなかった。
靴類はやたらに多く、それもヒールが極端に高くて、大部分が新品同様であった。まるでアルレットという女は、靴マニヤであったのか、さもなければ繊細な足をしていて履物には特に気をつかっていたかのような按配である。
ハンドバッグからは、コンパクト、鍵、紅棒、身分証明書、イニシアルなしのハンカチが出てきた。メグレは身分証明書をポケットに入れた。この暖房のきいた狭い二間のアパート内で息苦しさをおぼえでもしたのか、ジャンヴィエに向って、
「きみは検事を待っていろ。たぶんあとでまた戻ってくるから。まもなく鑑識の連中もやってくるはずだ」
封筒がみつからなかったので、彼は写真をオーバーのポケットに押しこみ、同僚から『無愛想な刑事』の異名をもらっているロニョンににやりとしてみせてから、階段のほうへむかった。
アパルトマン内には、まだ、時間のかかる細かな仕事がのこっている。全住人に訊問してまわるという仕事である。そのなかには、あのヘアピンをつけていたデブ女も含まれていて、彼女は階段を昇り降りするものに関心があるらしいから、あるいは犯人の姿を見ているかもしれないのである。
メグレは門番室に寄って、マダム・ブエに電話を貸してほしいとたのんだ。電話はベッドのそば、制服姿のブエの写真の下にあった。司法警察局を呼び出す。
「リュカはまだもどらないのか?」
そこで別の刑事に、被害者の身分証明書にある記載事項を書きとらせた。
「ムーランに電話してくれ。彼女に家族があるかどうか探りだすんだ。とにかく彼女を知っている人間を見つけなければならん。もし両親が生きていたら、知らせてやれ。すぐに飛んでくると思うよ」
メグレが表に出て、通りをピガル街のほうへと上っているとき、背後に車のとまる音が聞こえた。検事局の車だ。つづいて鑑識の連中もくるだろうし、やがて、死体の位置は動かさないまま狭い二間のアパルトマン内に、二十人もの連中が右往左往しはじめるだろう。そんな場面をメグレは見たくなかったのである。
左隣りにはパン屋があり、右隣りは表を黄色にぬったワイン商だった。夜ならばこの両隣りが灯《あかり》を消してしまい、それと対照的にネオン・サインをつけている『ピクラッツ』は、もっと目立ったにちがいない。しかし昼間は、そこにキャバレーがあることすら気がつかずに通りすぎてしまいかねなかった。
表の間口がせまく、ドアが一つと窓が一つあるきりだった。雨にけぶる海緑色の昼光のもとでは、ウィンドーの写真も痛々しく、ぼやけて見える。
正午をすぎていた。メグレは表のドアが開いているのを見て驚いた。内部には電灯がついていて、女がテーブルの間の床を掃いていた。
「主人はいるかね?」メグレは訊いてみた。
女は箒を手に、臆するけはいもなく彼を見返した。
「なんの用?」
「個人的に彼と話をしたいのだが」
「眠っているわ。あたしは家内ですけど」
五十を超えていた。あるいは六十歳に近いかもしれない。脂肪がついて肥っていたが、まだ元気そうで、円く平べったい顔についた栗色の目は澄んでいた。
「司法警察のメグレ警視だが」
まるで動じるけはいがない。
「おすわりになったら?」
内部は暗かった。壁と壁紙の紅色がほとんど黒にちかく見える。開け放しのドアのそばのバーにならんだ酒壜だけが、わずかに昼光を反射して光っていた。
全体に細長く、天井は低かった。バンドのための狭いステージに、ピアノとケースに入ったアコーデオンがあり、踊りのための花道のまわりには、一メートル半ほどの高さの仕切りが一種のボックスを形造っていて、客たちは多少ともプライバシーが保てるようになっている。
「フレッドを起こしてきましょうか?」
彼女は着古した服の上にグレイのエプロンをつけて、スリッパをつっかけていた。まだ顔も洗っていなければ、髪も整えていない。
「夜もここにいるのかね?」
「あたしは洗面所の受持ちでね、お客がなにか食べたいといったときは、調理場のほうへまわるのよ」
「店に住んでいるのかね?」
「中二階にね。奥に調理場からあたしたちの住居へあがる階段があるんですよ。でも、家はブージヴァルにあって、お店が休みの日はそちらへ行くんです」
不安そうなようすは微塵《みじん》も感じられなかった。警察の人間が訪ねてくれば、やはり何事かと気になるのが当然である。しかし彼女は平然と落着きはらっている。
「このキャバレーをはじめて何年になる?」
「来月で十一年ですよ」
「客は多いかね?」
「その日によりますね」
小さなカードの上に、こんな文字が読みとれた――
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Finish the night at Picratt's,
The hottest spot in Paris.
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メグレのとぼしい英語の知識でも意味はわかった。
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パリ随一の熱狂の社交場
『ピクラッツ』で夜の仕上げを。
[#ここで字下げ終わり]
熱狂というのは正確ではない。英語のほうはもっと含蓄があった。|熱い《ヽヽ》という言葉をそのまま使って、パリで最も『お熱い』社交場、といったところか。
彼女はあいかわらず静かにメグレを見ていた。
「なにか飲みますか?」
彼が断ることをちゃんと承知している口調である。
「このチラシはどこに撒くのかね?」
「大きなホテルのドアマンに渡しておくんですよ。すると、お客さんに、とくにアメリカ人のお客さんの手に、そっと握らせてくれます。夜の、それも遅い時間になって、外国からきたお客さんたちが大きな店にもそろそろ飽きてきたけど、どこへ行けばいいのかわからないというようなとき、このへんをうろついている当店《うち》の『|ばった《ソートレル》』が、そんな人たちの手にチラシをすべりこませたり、車やタクシーの中に投げこんでいくんです。つまりは、他店《よそ》がおしまいになる時間から、うちらの商売が始まるってことですね。わかりました?」
よくわかった。ここにくる客は大部分が、お目あてのものを見つけられずにモンマルトル中を歩きまわったあげくに、最後のチャンスのつもりでやってくるわけだ。
「すると、客のほとんどは、すでに半分酔っぱらってるわけだな」
「そのとおりですよ」
「昨晩は客は多かったかね?」
「月曜日ですからね。月曜日はいつも暇ですよ」
「あんたはいつもどこにいる? 店で起こっていることが見える位置かね?」
彼女はバンド・ステージの左手の奥に、『洗面所』としるされたドアを指さした。反対側の右手にもそれと対をなすドアがあったが、それにはなんの表示もなかった。
「だいたい、いつもあそこにいますよ。当店《うち》では食べるものは出さないんだけど、たまにお客さんがオニオン・スープとか、フォア・グラとか、冷たいいせえびを食べたいって言いだすことがあるのよ。そのときだけ、あたしが調理場に行きますけどね」
「それ以外は店にいるんだね?」
「ほとんどはね。女の子たちを見張っていて、きわどいときに、チョコレートの箱とかお花とか繻子のお人形とかを、さっと持っていくのよ。そのへんのことはよくわかってるでしょ?」
彼女はみせかけを繕おうとすらしなかった。ふとい溜息をついて腰をおろすと、片足のスリッパを脱いだ。足がむくんでいる。
「いったい何が知りたいの? べつにせかせるわけじゃないけど、そろそろフレッドを起こしに行く時間ですからね。やっぱり男だから、あたしより睡眠をとらなきゃならないんですよ」
「何時に寝たのかね?」
「五時ごろね。ときには、あたしが上へ行くのが七時まわってるときもあるけど」
「それで起きたのは?」
「一時間前。ごらんのように、お掃除をしてたんですよ」
「ご亭主もあんたとおなじ時間に寝たのかね?」
「あたしよか五分早く、上へ行きましたね」
「彼は今朝、出かけなかったか?」
「ベッドから出やしませんよ」
話が亭主のことに集中してきたので、さすがに、いくらか心配になってきたらしい。
「うちの人がどうこうっていうんじゃないでしょうね、まさか?」
「そういうわけでもない。ゆうべの午前二時ごろ、ここに来てボックスにすわった二人ずれの男のことだが、憶えているかね?」
「二人ずれ?」
テーブルをぐるりと見まわして、記憶をたどる仕種をした。
「アルレットが二回目のショーの前に、付いていた場所は?」
「ええ、例の若い男といっしょでしたよ。時間の無駄だからって、あの娘《こ》に注意してやったんですけどね」
「その男はよく来るのかね?」
「ここんとこ三、四回来てますよ。お店にふらっと迷いこんできて、女の子に惚れちまうのがよくいるんですよ。あたしはいつも女の子たちに言うんですけどね、もしも気に入ったら一遍ぐらいなにしてやるのもいいけど、繰返しにならないように気をつけなさいねって。二人は通りに背中を向けたほうの三番目のボックスの六番テーブルに、ずっと二人きりでいましたよ。男のほうがあの子の手を握って、すっかりぼーっとなっちまって、ずっと口説きどおしでしたね」
「その隣りのボックスは?」
「だれもいませんでしたけど」
「夜通しずっとかね?」
「見ればすぐわかりますよ。テーブルの上はまだ拭いてないから。お客さんがいたのなら、灰皿にタバコとか葉巻の吸殻がのこっていて、テーブルの上にグラスの跡がついてますからね」
メグレが確かめに行ってるあいだ、彼女はその場を動こうともしなかった。
「なにもない」
「ほかの日だったら、あたしもそれほど自信はないんだけど、ここんとこ月曜日は、休業にしようかと考えているほど暇ですからね。ゆうべもせいぜい十二、三人しかお客さんがなかったんですよ。うちの人に訊いてもらえばわかります」
「オスカルを知っているかね?」だしぬけに訊いてみた。
彼女は動じる気色もなかったが、いくぶん警戒心を起こしたことは確かだ。
「オスカルって?」
「背が低く、ずんぐりして、髪がグレイの中年の男だ」
「それじゃ知らないわ。肉屋さんがオスカルっていうんだけど、髪は茶色で、口髭をはやした大男ですからね。うちの人を起こしてきます?……」
「そうしてもらおうか」
メグレはこのいわば赤いトンネルの中に、一人とりのこされた。トンネルの端にはドアが薄灰色の長方形をつくっていて、それがあたかも、実体のない人影が行き来する古いニュース映画を写している、スクリーンのように思えた。
すぐに目の前の壁には、アルレットの写真が貼ってあった。例のからだの線がくっきり見せる黒いドレスをまとった姿は、メグレのポケットに入っている淫猥《いんわい》なヌードよりも、もっと生なましい感じをあたえる。
今朝、リュカの部屋にいたとき、メグレはほとんど彼女に注意をはらわなかった。どこにでも転がっている夜の蝶の一人というにすぎなかった。ただ、彼女がひどく若いのにいささか驚き、どことなくチグハグなものを感じてはいた。彼女の疲れた声、あれは夜通し深酒とタバコの吸いすぎですごした女たちに特有の声だった。メグレは彼女の落着かない目差しを想起し、自分がおもわず彼女の胸に目をやったときのこと、なかんずく、彼女が発散させていた、温いベッドから匂ってくるような女のにおいを、まざまざと想いおこした。
あれほど強烈にセックスを感じさせる女に出会ったことも珍しい。それがおどおどした少女のような目差しと対照的だっただけになおさらだった。それはまた、さきほど見てきたばかりの彼女の住居の、ぴかぴかに磨かれた床や、掃除道具の入った押入れ、蠅帳などとも際立った対照をなしている。
「フレッドはすぐに降りてきます」
「ご亭主に話をしたのかね?」
「二人づれの男のことを訊いてみたんですけどね。記憶がないそうですよ。それに二人づれのお客さんが、あそこのテーブルにすわっていたはずはないって言ってますよ。つまり四番テーブルですけどね。当店《うち》ではテーブルに番号をふっているんです。五番テーブルには、ウィスキーのボトルをほとんどまるまる空けちまったアメリカ人のお客がいて、十一番には女づれのグループがいましたけどね。なんなら、今夜、ボーイのデジレに確かめてごらんなさいよ」
「そのボーイはどこに住んでいるのかね?」
「郊外ですよ。どこだか知らないけど。朝、サン・ラザール駅から列車に乗って帰るんですよ」
「そのほかに従業員は?」
「『|ばった《ソートレル》』。表に立ってドアボーイの役をやったり、時にはチラシを撒いたりするんです。それから、バンドの人たちと女の子」
「女の子は何人いる?」
「アルレットのほかには、ベティ・ブリュースって子。警視さんの左のほうに写真があるでしょう。アクロバットを踊るんですよ。それと、タニア。この子はショーの前後に、ピアノを弾くんです。いまのところは、これだけね。もちろんお客を拾いに外から入ってきて、一杯飲んでいく子はいるけど、当店《うち》の子じゃないからね。うちは家族的なのよ。フレッドとあたしはこれといって野心はないし、少しばかりお金が貯まったら、ブージヴァルの家で静かに暮したいだけですからね。ほら、降りてきたわ」
五十がらみの、たくましいからだの小男が調理場から出てきた。こめかみのあたりに白いものが見えるていどの黒々とした髪で、まだ若々しく、カラーをはずしたワイシャツの上に背広の上着をひっかけている。手許にあったものを取りあえず身に着けたらしく、ズボンはタキシードの揃いだし、素足にスリッパをつっかけていた。
こちらも女房におとらず悠然としている。メグレの名前ぐらいは知っているはずだが、実際に顔を見るのははじめてだった。相手を観察する時間をかせぐために、ゆっくりゆっくり歩み寄ってきた。
「フレッド・アルフォンシです」手をさしだして自己紹介する。「女房のやつ、なにもお出ししなかったんで?」
気休めのためか四番テーブルまでくると、掌でさっと撫でてみた。
「ほんとになにも召し上がらないんですか? あたしは『ラ・ローズ』にコーヒーを淹《い》れさせますけど、かまいませんか?」
『ラ・ローズ』とは女房のことらしい。彼女は調理場のほうに姿を消した。男は警視と向きあってすわると、テーブルに両肱をついて、待つ姿勢をとった。
「昨晩あのテーブルに客がいなかたというのは、確かかね?」
「いいですか、警視さん。あたしはあんたがどなたか知ってるけど、あんたはこっちをご存じない。たぶんここへ来られる前に、風紀班の旦那がたにいろいろ聴いてこられたんでしょうが。そりゃ旦那がたはお仕事だから、ときどきここにお見えになりますし、それもこの何年かずっと続いてますよ。まだお聴きになってないなら、聴いてもらえばわかりますが、あたしんとこじゃ、これっぱかしも間違ったことはやってないし、あたしが他人《ひと》さまに迷惑をかけるようなことはなんにもできない男だってことは、みなさんご存じですよ」
つぶれた鼻にカリフラワーの耳をした、元ボクサーみたいな顔つきからこのセリフが出ると、なんとなくそぐわない感じがした。
「ですから、あのテーブルに客がいなかったとあたしが言えば、そりゃもう掛値なしってことですぜ。当店《うち》は小さいんです。つまり自家営業ってわけで、ですからあたしはいつも、あそこんところにいて、目を配っているわけです。なんなら昨晩の客が何人あったか、正確に申しあげられますぜ。水揚げ伝票をしらべりゃすぐわかることです。テーブルの番号がついてますからね」
「アルレットはたしかに、若い男と五番テーブルにいたのかね?」
「六番ですよ。右側が二、四、六、八、十、十二と偶数番号で、左側が奇数になってますんで」
「じゃ、反対隣りは?」
「八番ですか。四時ごろ二組のカップルがつきましたね。パリジャンではじめて見かける客ですが、どこに行っていいかわからなくて入ってはみたものの、すぐに自分たちの来るところじゃないって気がついたみたいでしたね。シャンパン一本とっただけで、出て行きましたよ。そのあとすぐに、あたしが店を閉めたんです」
「どちら側のテーブルにも、男二人だけの客はいなかったんだな? その一人は、ちょうどあんたに似た感じの中年の男だというんだが」
フレッド・アルフォンシはしたり顔ににやりとして、答えた。
「もっと腹を割って話してもらえれば、お役に立てるかもしれないんですがね。なんだか鬼ごっこでもやってるみたいじゃないですか」
「アルレットは死んだよ」
「あ?」
びくっと跳びあがった。いきなり立ちあがると、奥にむかって叫んだ。
「ローズ! ローズ!」
「はい……すぐ行くよ……」
「アルレットが死んだんだと!」
「なんて言ったの?」
彼女は肥満体に似あわず驚くべき速さですっとんできた。
「アルレットが?」と、おうむ返しに言う。
「今朝、自分の部屋で絞殺されたんだよ」メグレが二人を見くらべながら言った。
「なんてことを! いったいだれが、犯人……」
「それを探しているところだ」
『ラ・ローズ』はハンカチで洟《はな》をかんだ。ほんとうに泣きそうな様子をしている。目は壁の写真にじっと注がれていた。
「なんでそんなことになったんです?」フレッドがバーのほうへ行きながらたずねた。
注意ぶかく酒壜を選んで、グラス三つに注ぎ、まずその一つを女房のほうに差しだした。年代もののブランデーだった。べつのグラスをなにもいわずにメグレの前に置いた。メグレは結局それに口をつけることになった。
「昨晩ここで、彼女は、男二人が伯爵夫人のことを話しているのを聞いたんだ」
「伯爵夫人って、だれです?」
「わからない。男の一人はオスカルという名だった」
フレッドはびくともしなかった。
「ここを出てから、彼女は街警察署へ行ってその話をした。そこから警視庁のほうへ連れてこられたんだ」
「それで殺《や》られたんですか?」
「たぶんな」
「おまえ、二人づれの男を見たか、ラ・ローズ」
彼女は見なかったと答えた。二人の驚きにも心痛のようすにも、嘘偽りはなさそうだった。
「誓いますよ、警視さん。その二人がここに来たのなら、あたしの目にとまらないはずはないし、そんならそうと言います。お互い隠さなければならんようなことはなにもないでしょうが。あたしんとこみたいな店の仕掛《からくり》はよくご存じでしょう。客がくるのは、特別な演《だ》しものを見るためでもなければ、良いバンドのジャズで踊りたいためでもないんですよ。かといってお上品なサロンというわけでもないし。チラシの文句はお読みになったでしょう。
みんななにかに刺激を求めてほかの店へ行きます。そこで淫売でも拾えば、それまでで、こっちには関係ない。だけど、そうやってお目当てのものを掴めなかった連中が、結局ここへたどりつくわけで、それが結構多いし、そのときはもう、たいがいは酔っぱらってますからね。
夜中に流しているタクシーの運ちゃんとは、こちとらツーカーだし、たっぷりチップを掴ませてあります。大きい店のドアマンのなかにも、帰りのお客にそっと耳打ちしてくれるのがいるってわけですよ。
ですから、たいがい外国人の客が多いですし、みんななにか特別なことを期待してくるんですよ。
で、その特別なことってのが、アルレットのストリップだったわけでね。ほんの瞬きする間、すっ裸の彼女が拝めるわけです。厭な感じを与えないために、彼女には毛を抜くように言いました。そのほうがいくらか上品な感じがすると思ってね。
そのあとでは、かならずといっていいくらい、彼女はテーブルに指名されましたよ」
「彼女は客と寝たのかね?」メグレが静かに訊いた。
「どっちにしろ、店じゃそんなことはないです。仕事の時間内もありません。あたしが開店時間中の外出は許さんからですよ。女の子たちは客に飲ませるために、できるだけ長く引留めるようあれこれやるわけで、店が退《ひ》けたあと外で逢いましょうぐらいの約束はするでしょうがね」
「騙《だま》すわけか?」
「どういうことです?」
「アルレットも同じか?」
「そりゃあったでしょうな」
「昨晩の若い男と?」
「それはありませんや。ありゃ、ただ結婚してくれ、という口でね。ある晩ひょっこり友達と入ってきて、一発でアルレットに参っちまったんですよ。それからもちょくちょく来たけど、閉店までねばったことはありません。たぶん仕事の関係で、早起きしなけりゃならないんでしょう」
「そのほかに彼女の常連の客はいたかね?」
「あたしんとこじゃ、常連ってのはほとんどないんですよ。そこんとこをわかって頂かなくちゃ。たいてい振りの客です。いってみりゃ、みんな似たりよったりだけど、顔ぶれはいつも新しいですよ」
「恋人はいたかな?」
「さあね」やけに冷たく答えた。
メグレは遠慮がちにフレッドの細君のほうを見て、
「ひょっとしたら、あんたと……」
「どうぞ、おっしゃってください。ローズは嫉妬《やきもち》は焼きません。そんなことはもう昔の話でね。どうしても知りたいってのなら、答えましょう。たしかにありましたよ」
「彼女の家で?」
「彼女んとこには足を踏み入れたこともないですよ。ここですよ。調理場」
「いつもそうなんですよ」『ラ・ローズ』が言った。「姿が見えなくなったことすら気がつかないうちに、すぐに戻ってくるのよ。その後から、女の子が雌鶏みたいに、ぶるぶるってやりながら出てくるんだから」
そう言って自分で笑った。
「伯爵夫人のことは知らないかね?」
「どこの伯爵夫人です?」
「どこでもいいよ。ところで、『|ばった《ソートレル》』の住所を教えてくれないか、そのボーイのほんとうの名はなんというんだね?」
「トマ……それだけです。以前は孤児院にいた子でね。どこに住んでいるのかは知らないけど、今日の午後、競馬場に行けば見つかりますよ。やつのたった一つの娯しみでね。もう一杯いかがです?」
「いや、結構」
「新聞雑誌の記者が押しかけてきますかね?」
「くるだろうね。事件を知ればな」
ジャーナリズムに書きたてられることで、フレッドが喜んでいるのか困ったと思っているのか、どちらとも判断がつきかねた。
「とにかく、なんでもあんたのおっしゃるとおりにしますよ。今晩も、いつものとおり店は開けたほうがいいでしょう。お立寄りになれば、みんなに訊問できますぜ」
メグレがノートルダム・ド・ロレット街に引返したとき、検事局の車はすでに帰ったあとで、救急車が若い女の死体をのせて走り去るところだった。門口のところにひとかたまりの野次馬がいたが、それでも予想したよりは少なかった。
門番室にはジャンヴィエがいて、電話で話をしていた。送受器をおろすと、彼はメグレに言った。
「ムーランから報告が入りました。ルルー夫妻つまり両親はともに健在で、銀行に勤めている息子がいるそうです。娘のジャンヌ・ルルーですが、これは茶色の髪のだんご鼻で、三年前に家を出たまま消息不明。両親は娘の話なぞ聞きたくもないと言ってます」
「人相特徴は一致しないわけか」
「ぜんぜん。背丈もアルレットのほうが五センチ低いし、隆鼻術をやったとはちょっと考えられません」
「伯爵夫人のほうは情報なし?」
「こちらはまるっきりです。B号棟の住人の聞き込みをやりました。これがえらい数でしてね。私たちが階段を上るとき覗いていたデブのブロンドですが、彼女、劇場のクローク係をしているんです。アパルトマン内の出来事にはぜんぜん関心ないようなことを言っていましたが、例の若い女が帰ってくる数分前に、だれかが上っていったのを聞いているんですよ」
「つまり、彼女が上っていく音も聞いたということだな。どうしてあの女だとわかったのかな?」
「足音でわかるんだと言っていましたがね。実際は、ドアを半開きにしてるんですよ」
「男の姿を見たのかな?」
「見なかったと言っています。ただ、ひどくゆっくりした足取りで、まるで体重が重すぎるか、あるいは心臓が悪い人のようだったと言うんです」
「降りてくる足音は聞かなかったのか?」
「ええ」
「階上の住人じゃないという確信はあるのかね?」
「住人の足音ならぜんぶ聞きわけられるそうです。それから、アルレットの隣りの女にも会ってみたんですが、ビヤホールに勤めている娘で、私が訪ねたときはまだ寝ていたらしく、なにも物音は聞いていません」
「それだけか?」
「リュカが電話してきまして、現在本庁にもどり、指示を待っているとのことです」
「指紋は?」
「われわれのと、アルレットのもの以外は、見つかっていません。夜までには報告が入るでしょう」
「オスカルという名の間借人はいないかね?」メグレは念のため門番の女に訊いてみた。
「ええ、いません。でも一度、それもずいぶん以前のことですけど、アルレットに電話がかかってきたことがあります。男の声で、田舎ふうのアクセントでしたが、
『オスカルが例の所で待っていると、彼女に伝えてほしい』って」
「どれくらい前かね?」
「彼女が越してきた一、二カ月後でした。なにしろ彼女への伝言を受けたなんて、後にも先にもこれっきりでしたから、憶えていたのですわ
」
「郵便物は?」
「たまにブリュッセルから手紙がきました」
「男の字かね?」
「女文字でしたわ。それも教養のある人の字ではなかったですね」
三十分後、通りがかりにビヤホール『ドフィーヌ』で生ビールを一杯やったメグレとジャンヴィエは、オルフェーヴル河岸にある警視庁の階段をのぼっていった。
メグレが自室のドアを開けるまもなく、背の低いラポワントがとび出してきた。目の縁がまっかで、熱っぽい目をしている。
「いますぐお話しなければならないことがあります、警視《パトロン》」
警視が帽子とオーバーを掛けてもどってくると、ラポワント刑事は唇を噛み、両手をにぎりしめて、いまにも泣きだしそうに顔を歪めていた。
[#改ページ]
第三章
メグレに背を向け、顔を窓ガラスに押しつけるようにして、喰いしばった歯のあいだから声をだした。
「今朝、ここで彼女を見かけたとき、なんで連れてこられたのだろうと不審に思いました。ジャヴェル河岸へ行く途中で、リュカ巡査部長が話してくれたんです。そしてここに戻ってきたら、彼女が死んだって」
メグレは腰をおろして、静かに言った。
「きみの名がアルベールだということを、私は忘れていたよ」
「巡査部長にあんな話をしたあと、彼女を監視もつけずに一人で帰らせたのが、まちがいだったんです」
まるきり拗《す》ねた子供のような言い方だった。警視は微笑した。
「こっちにきてすわれよ」
ラポワントはメグレにまで遺恨があるというように、躊躇していた。やがて、しぶしぶ机の正面の椅子に腰をおろした。しかし顔は伏せたまま、じっと床を凝視している。一方メグレのほうは、ゆっくりパイプをふかしている。それはあたかも、深刻な話合いをする父と子といった風情であった。
「きみは警察にきてまだ永くない。しかし、ここに訴えにくる連中ぜんぶに、いちいち監視をつけていたら、きみたちは眠る時間はおろか、サンドイッチをかじる暇すらなくなってしまうということぐらい、きみにもわかっているはずだがね。そうだろう?」
「はい、警視《パトロン》。ですが……」
「ですが、なんだね?」
「彼女の場合、それと同列じゃありません」
「どうして?」
「根拠のない、いいかげんな話ではなかったじゃないですか」
「すこしは落ち着いたろう。話してみろ」
「話すって、なにを?」
「なにもかもだ」
「どうして彼女と知りあったか、ということですか?」
「それもある。そもそもの始まりからだ」
「あれはムーランからきた友達といっしょのときでした。学校のときの友人で、パリにはめったに出てこないんです。最初は妹もいっしょに外出したのですが、彼女を家まで送ってから、二人だけでモンマルトルへ行きました。そのへんの成行きはおわかりでしょう。二、三軒ハシゴをして、最後の店を出たとき、小人《こびと》みたいなのからチラシを握らされたんです」
「小人みたいなとは、どういう意味だ?」
「一見十四、五歳の感じなのに、顔にはくたびれきった大人のように細かい皺があったからです。からだつきだけ見ると、浮浪児みたいな感じで、だから、みんなから『|ばった《ソートレル》』と呼ばれているんだと思いますけど。私の友達がそれまで行ったキャバレーに失望していたもので、『ピクラッツ』ならもっとぴりっとくるものがあるんじゃないかと思って、行ってみたわけです」
「それはいつごろの話だ?」
彼は記憶をたどるふうだったが、その結果に愕然としたらしかった。やっとのことで答える。
「三週間前です」
「で、アルレットを知ったのだな?」
「彼女がわれわれのテーブルについたんです。友人は馴れないもので、彼女を売春婦とまちがえてしまって。それで、店を出てから、われわれは口論したんです」
「彼女のことでか?」
「そうです。彼女がほかの女たちと違うということが、私にはわかりましたから」
メグレはパイプの火皿を丹念にほじくりながら、にこりともせずに聴いていた。
「それで、つぎの夜に、また行ったわけか?」
「友人のとった態度のことで彼女に謝りたいと思ったからです」
「正確にはどんなことを言ったのだね?」
「金をやるからいっしょに寝ろと言ったんです」
「彼女は拒絶した?」
「もちろん。私はまだ客がいない早い時間を選んで行きました。彼女は私と一杯飲むのを承知してくれました」
「一杯か一本か?」
「一本です。彼女らにも飲ませなければ、彼女らが客のテーブルにすわることを、店の主人が許してくれないからです。それもシャンパンときまっています」
「なるほど」
「あなたの考えてることはわかってます。でも、彼女は警察に通報しにきて、それがために殺されたんですからね」
「彼女はなにか危険が迫っているようなことを、きみに話したかね?」
「はっきりとは言いません。でも、私は彼女の生活に秘密めいた部分があることを、知らなかったわけじゃないんです」
「たとえば、どんな?」
「説明しにくんですが、信じてもらえないでしょう、私が彼女を愛していたから」
最後のせりふは小声で言ったのだが、首をきっともたげ、警視の顔をまともに見据えて、すこしの皮肉も許さないという挑戦的な構えであった。
「彼女の生き方を変えさせたいと思ったんです」
「結婚して、かね?」
ラポワントは具合悪そうに、もじもじしている。
「そこまでは考えませんでした。いますぐ結婚はできなかったでしょう」
「しかしきみは、彼女にキャバレーで裸を見せるのをやめさせたかった」
「そのことで彼女が悩んでいるのがわかっていたからです」
「自分でそう言ったのか?」
「そんなに単純なんじゃないんですよ、警視《パトロン》。あなたが違った見方をされていることはわかってます。でも、私だって、この界隈の女たちのことは知ってるいるつもりです。
だいいち、彼女がなにを考えているか、正確に知るのはとても難しかった。いつも酔っていたからです。そりゃ、ああいう女たちが本当は酒を飲んでいないんだということくらい、あなたに言われなくても知っていますよ。客の勘定を高くするために、飲んでいるふりをしますが、実際は酒にみせかけて砂糖水《シロップ》をグラスに入れて運んでくるだけです。そうでしょう?」
「そんなところだな」
「でもアルレットは酔いたいから飲んだんです。ほとんど毎晩のように。ショーの前には、主人のフレッドさんは、彼女がちゃんと立てるかどうか、いちいち確かめにこなければならなかったほどです」
フレッドさん、と言ったとき、ラポワントはまるで『ピクラッツ』の従業員になってしまったかのようであった。
「朝方まで店にいたことはないそうだな」
「それが彼女の希望でしたから」
「なぜ?」
「私が勤めの関係で早起きしなければならないんだと話しておいたからです」
「その勤め先が警察だということは話したのかね?」
またもや顔を赤らめた。
「いいえ。ただ、妹といっしょに住んでいて、その妹がうるさく言うんだと話しておきました。私は彼女にお金を渡したことはありません。渡したとしても、受け取らなかったでしょう。彼女はいつも、私にはシャンパンを一本しか取らせませんでした。それも安いやつを選んでいたんです」
「彼女もきみに惚れていたと思うのか?」
「昨晩はそう思いました」
「どうして? なんの話をしたのかね?」
「いつも同じ話です、彼女と私のこと」
「彼女は自分のことや家族のことを、きみに打明けたか?」
「偽の身分証明書をもっていることや、本名が知られたら恐ろしいことになるというようなことを、隠さず話してくれました」
「高等教育は受けていたのかな?」
「さあ。あんな職業に向かなかったことは確かです。生い立ちのことは話しませんでした。ただ、どうしても逃げられない男がいるという話をちらりとしました。それもみんな身から出た錆で、もう手遅れだといったことや、彼女を苦しめるだけだから、もう来ないでほしい、というようなことを言ったのです。彼女が私を愛しはじめていると思ったのは、それだからですよ。その話をするとき、彼女は私の手を強くにぎりしめたんです」
「彼女は酔っていたか?」
「たぶん。たしかに飲んでいましたけど、まったく正気でしたよ。私の知っている彼女は、ほとんどいつもぴんと張りつめていて、なにかに悩んでいるか、わざと陽気らしく見せかけているかでした」
「彼女と寝たか?」
警視を射るように見たラポワントの目には、ほとんど憎悪に近いものがあった。
「いいえ!」
「彼女に寝ようと言わなかったのか?」
「はい」
「彼女のほうからも言いださなかった?」
「ぜんぜん」
「処女だと、きみに思わせていたのかな?」
「彼女はやむを得ず男たちを受入れなければならなかったんです。内心では彼らを憎んでいました」
「なぜ?」
「そのことのために」
「なんのため?」
「男たちが彼女にしたことのためです。まだずっと小さかったころのことで、なにがあったのかは知りませんが、とにかくそれが傷痕として残っていたんです。その記憶が彼女に付きまとっていました。彼女がひどく怖がっている男のことを、よく口にしたものです」
「オスカルかね?」
「名前はいいませんでした。わかってますよ、彼女は私を揶揄《からか》っていただけで、私が、純情《うぶ》だったんだ、と思っているんでしょう? それでもいいですよ。どうせ彼女は死んだんだ。どっちにしたって、彼女が怖がっていたのが嘘じゃなかったと証明されたんですから」
「彼女と寝たいと思ったことは一度もないのかね?」
「友達と行った、最初の晩に思いました」と、白状した。「生きていたときの彼女をみたことありますか? あ、そうか、今朝、ちょっと会いましたね。彼女、すっかり疲れきっていたから。そうじゃないときの彼女を見ていたら、きっとわかっていただけたはずですよ。どんな女より……」
「どんな女より……?」
「なんといったらいのかな。男たちみんなの欲望の的。彼女がショーをやっているときなんか……」
「彼女はフレッドとは寝たのか?」
「ほかの男のときとおなじで、しかたがなかったんです」
アルレットがどこまで話していたのか、それを知るためにさらにつっこんでみた。
「どこで?」
「調理場です。ラ・ローズは知っていました。彼女は亭主を失いたくない一心で、なにも言えなかったんです。彼女に会われましたか?」
メグレはうなずいた。
「彼女、歳はいくつだと言いました?」
「五十は過ぎいると見たんだが」
「七十に近いんですよ。フレッドのほうが十歳も若いんです。若い頃はたいへんな美人だったそうで、大金持ちの男たちに囲われていたようです。彼女はフレッドを心底から愛しています。ですから嫉妬心《やきもち》を見せないようにして、フレッドの浮気がなるべく店内にかぎられるように気を遣っているんです。そのほうがまだしも安心できるらしいんですね。おわかりですか?」
「わかるよ」
「アルレットの場合はほかのだれより気を遣って、見張っていたんですよ。なにしろ店がやっていけたのは、いわばアルレットのおかげだったわけですから。彼女がいなかったら、客なんて来ませんよ。ほかの子はモンマルトルのどこのキャバレーにもいる気の強い女というだけのことですから」
「昨晩はなにがあったんだ?」
「彼女が話したんですか?」
「彼女はリュカに、きみがいっしょだったと話した。ただ、きみの洗礼名《プレノン》しかいわなかったが」
「私は二時半までいました」
「どのテーブルだね?」
「六番です」
常連というか、むしろ店の人間のような言い方だった。
「隣りのボックスに客はいたかね?」
「四番にはいません。八番は男女のグループがいて、大騒ぎしていました」
「そのために、四番にだれかいても、気がつかなかったのかもしれないな」
「それはないです。私は他人《ひと》にこっちの話を聞かれたくなかったので、ときどき伸びあがって、仕切りの向こうをのぞいたんですから」
「どのテーブルでもいいんだが、背の低い、がっしりした体格の、グレイの髪の中年の男を見かけなかったかね?」
「見ません」
「じゃ、きみが話しているあいだ、アルレットがだれか他の人間の会話に耳をすましていたようなようすは?」
「ないはずです。どうしてですか?」
「私といっしょに、この事件の捜査をやっていく気はあるかね?」
彼はメグレをみつめた。最初はびっくりし、それから感謝であふれんばかりになった。
「とおっしゃると、つまり、私が……」
「いいか、ここが重要なところだ。アルレットは朝の四時に『ピクラッツ』を出て、ラ・ロシュフコー街署にあらわれた。話を聞いた巡査部長の言うには、そのとき彼女はひどく興奮していて、いくらかふらふらしていたそうだ。
そこで、六番テーブルにきみと二人でいたとき、四番に二人の男がすわって、彼女はその二人の会話を聴いたと言っているんだ」
「どうしてそんなことを?」
「さっぱりわからん。それがわかれば、捜査も進展するんだが。それだけじゃない。その二人のうちの片方が、ある伯爵夫人を殺すという話をしていたというのだ。アルレットの話では、二人が店にでるとき、彼女は肩幅がひろく、背が低く、グレイの髪をした中年の後姿をはっきり見たことになっている。また話の合間に、その中年男らしい、オスカルという名前を耳にしている」
「だったら、私にも聞こえなかったはずは……」
「私はフレッドと細君に会ってきたよ。二人とも、四番テーブルは一晩中空いていたし、その特徴に合致するような客は『ピクラッツ』にはこなかったと断言した。にもかかわらずアルレットはなにかを知っていた。どうして知ったのかは、言いたくなかったのか、あるいは言えない事情があったのかだ。彼女は酔っていた、ときみは言ったな。まさか客がどのテーブルにすわっていたか、調べられるとは考えもしなかったのだろう。私の言っていることはわかるかね?」
「はい。でも、どうやってその名前を知ったのでしょう? なぜ、その名前を持ちだしたのかな?」
「そこだよ。だれもその点を問い質《ただ》さなかった。その必要がなかったからだ。しかし彼女にはそれなりの理由があったはずだ。それは、こちらになんらかの手がかりを与えるためだとしか考えられない。それだけじゃない。街警察署では断定的だったのに、ひと眠りしてシャンパンの酔が醒めたあとここへ連れてこられてからは、ひどくあやふやになった。さきに話したことをすべて撤回したがっているような印象を、リュカは受けたようだ。
しかるに、それが根も葉もない話じゃなかったことは、いまやはっきりしている」
「あたりまえです!」
「彼女が家に帰ると、寝室の押入れに身を潜めて待ち伏せていた奴がいて、彼女の首を締めた。つまりそいつは、彼女をよく知っていて、彼女の住所を知っていたばかりか、部屋の鍵を持っていたのかもしれないんだ」
「伯爵夫人の手がかりは?」
「いまのところ皆無だ。殺されてなぞいないのか、あるいはまだ死体が発見されていないということもあり得る。アルレットは伯爵夫人の話をしたことはなかったかね?」
「ありません」
ラポワントはながいこと机を凝視していたが、やがて異様な声をだした。
「彼女、ひどく苦しんだと思われますか?」
「ながい時間じゃなかっただろう。犯人はかなり力が強かったらしく、彼女はほとんどもがいてすらいない」
「いまも向こうですか?」
「さっき法医学研究所のほうへ運んでいったよ」
「見せてもらいに行ってもいいですか?」
「まず食事をしてからだ」
「そのあと、私は何をしたらいいのですか?」
「ノートルダム・ド・ロレット街の彼女の部屋へ行ってこい。ジャンヴィエに言って部屋の鍵を受取るんだ。われわれはすでに室内を調べたが、彼女をよく知っていたきみには、ほんの些細なことがなにかの手がかりになるかもしれない」
「ありがとうございます」と、熱をこめて言った。メグレがこの任務をくれたのは、ただ彼を喜ばすためにすぎない、と思いこんでいるらしい。
警視は故意に、いまの彼の机上で書類の下から角がはみ出している写真のことには、いっさい触れなかった。
廊下に五、六人の新聞記者がきて、どうしても記事を取るんだと頑張っています、と部下が告げた。メグレは記者を室内に入れて、話の一部だけを聞かせ、黒い絹ドレスのアルレットの写真を、各々に渡した。
「目下、別名を名乗っていると思われる。ジャンヌ・ルルーという女性に、居所を知らせてくれるように呼びかけて欲しいんだ。われわれは彼女の秘密を尊重するし、彼女の生活を乱す気は毛頭ないから、とな」
自宅で遅い昼食をしたため、警視庁へもどって、アルフォンシに関する記録に目をとおした。パリの市街は、あいかわらず降りつづく小雨にくすんで、幽鬼じみて見え、道行く人たちは、この一種の水族館から脱出しようと苛立っているようだった。
『ピクラッツ』の主人《あるじ》に関する記録は、その分量のわりには、たいして実のある内容を含んでいなかった。彼は二十歳で、アフリカ囚人部隊で軍務をつとめている。このころすでに、セバストポル通りの娼婦のヒモになっていて、傷害罪で二度逮捕された前科があったからである。
つづいて長い空白期間を置いたあと、マルセイユに姿をあらわし、そこで南仏《ミディ》近辺にあるいくつもの淫売屋に女たちを送りこむ商売をやっていた。それが二十八歳のときである。まだ親分とかなんとか呼ばれるにはいたっていなかったが、ヴィユ・ポール界隈のバーでのケチな喧嘩でしょっ引かれるようなことがないていどには、その道で顔が利くようになっていた。
この時期に受けた罪科はない。いちどだけ、十七歳にしかならない娘を、偽の身分証明書でベジエ郡にある『パラディ』という店に売りとばした廉《かど》で、かなり深刻なトラブルをおこした程度である。
ふたたび空白期間。この間にわかっていることは、イタリア国籍の船に五、六人の女を乗せていっしょにパナマへ渡り、向こうでかなり羽振りをきかせていた、ということぐらいである。
四十歳。パリへ移ってきて、通称『ラ・ローズ』ことロザリー・デュモンと同棲。すでに往年の勢いはなく、マルチール街にマッサージ・サロンを開く。この頃は、競馬場やボクシングの試合や賭博場に、ひんぱんに出入りしている。
結局『ラ・ローズ』と結婚し、二人して『ピクラッツ』を開いた。『ピクラッツ』は最初のうちは、常客あいての小さなバーにすぎなかったのである。
ジャンヴィエはノートルダム・ド・ロレット街にいたが、アパルトマンにではなく、まだ隣近所の聞込みをつづけていた。それも建物の住人相手ばかりでなく、なにか知っているかもしれないとおぼしい付近の店にまで足をのばしていた。一方リュカは、ジャヴェル河岸の押込みに関する捜査を一人でやるはめになり、そのためにすっかり不機嫌になっていた。
五時十分前、もうあたりはすっかり暗くなってから、待ちかねた電話が入った。メグレが電話をとった。
「こちら、警察救助本部ですが」
「伯爵夫人か?」と、彼は訊いた。
「伯爵夫人にはちがいないですがね。お目当ての女かどうかわかりません。ヴィクトール・マッセ街から通報があって、数分前、アパルトマンの門番の女が発見したそうです。住人の一人が殺され、それもたぶん昨夜のことだろうと……」
「伯爵夫人だね?」
「フォン・ファルンハイム伯爵夫人です」
「射殺か?」
「絞殺。そのほかは目下のところなにもわかりません。街警察が現場捜査にあたっています」
ほどなくメグレはタクシーにとび乗っていた。タクシーはパリの中心街をつっ切るのにひどく手間どった。ノートルダム・ド・ロレット街を通るとき、八百屋の店先から出てくるジャンヴィエの姿をみとめて、車を停めさせた。刑事に呼びかける。
「乗れ! 伯爵夫人が殺《や》られた」
「ほんものの伯爵夫人ですか?」
「わからん。ここのすぐ近くだ。すべてこの近辺で起こっている」
事実、ピガル街のバーとアルレットのアパルトマンは五百メートルしか離れていなかった。そしてヴィクトール・マッセ街も、バーからほぼ等距離のところにある。
今朝の事件のときとは反対に、快適で閑静そうなアパルトマンの入口に警官が立っていて、野次馬が二十人ほどむらがっていた。
「署長は来ているかね?」
「あいにく署にいませんでしたので。捜査はロニョン刑事が……」
ぜひとも手柄をたてたいと思っているロニョンには、なんとも気の毒というほかはない。彼が捜査にのりだすと、きまって、それが定められた宿命ででもあるかのように、メグレがあらわれて事件を横取りして行く。
受付に門番の女はいなかった。階段の階井《かいせい》は大理石に似せた塗装がほどこされ、踏み段には深紅のぶあつい絨毯を敷いてその上を真鍮の棒でおさえてある。内部にはむっとする空気が淀んでいた。ここに住んでいるのは、窓を開けたことのない老人ばかりではないかと思われるほどで、建物全体がひっそり静まりかえっている。メグレ警視とジャンヴィエが階段を上っていくあいだ、どこの部屋のドアも、ぴくりとも動かなかった。五階につくと、ようやく物音が聞こえ、ドアが開いた。ロニョンの悲劇的な長い鼻がちらりとのぞいた。彼は、頭の天辺に髪を巻きあげ、小さくてでっぷり肥った女と話をしているところだった。
二人が足を踏みいれた部屋は照明が悪く、羊皮紙の笠のついたフロア・スタンドが一つあるきりだった。息苦しい空気の淀みがいっそうひどくなった。ここに入ったとたん、なぜだか定かな理由は不明だが、パリの街から遠く離れたところへ来たような印象をうけた。外のしめっぽい天候や、舗道を往来する人びと、警笛をひびかせるタクシー、停車のたびにブレーキを軋ませながら波打つように流れていくバス、そういった世界とはまったく隔絶しているように思われるのだった。
熱気がひどいため、メグレはすぐにオーバーを脱いだ。
「死体はどこだ?」
「寝室にあります」
寝室というよりはサロン、それも昔風のサロンといった趣きだったが、これはもはや、物みながその意味を喪失してしまう世界、とでもいうよりはほかない。家具などはとても考えられないような場所に積みあげられていたりして、あたかも競売に付す前のアパルトマンならば、こういう様相を呈するだろうか。
壜がいたるところに転がっていて、それは強い赤ワインのリットル壜ばかりであるのに、メグレは気がついた。土方たちが仕事台の上でソーセージをかじりながら、ラッパ飲みするような|しろもの《ヽヽヽヽ》である。おまけにソーセージまであった。皿の上や油じみた紙片の上に、鶏肉の食いかけといっしょにのっていた。鶏肉の骨のほうは、絨毯の上にころがっている。
この絨毯がまた前代未聞の穢らしさだった。絨毯ばかりかほかの家具も似たりよったりで、椅子の脚は片ちんばだし、長椅子からは腹わたがはみ出しており、羊皮紙のスタンドの笠も、古くなって茶色に変色しており、ほとんど形をなしていなかった。
部屋のわきに押しやられたベッドにはシーツがなく、明かに何日もメーキングされていないようすだったが、そのベッドの上に半裸の死体が横たわっていた。文字通り半分裸で、上半身には短い上っぱりをまとっていたが、腰から爪先までは剥きだしになり、それもいやに白っぽく膨らんでいた。
一瞥しただけでメグレは、太腿に点々と小さな青痣があるのを見てとって、どこかに注射器があるにちがいないと思った。注射器はナイトテーブルに使われていた台の上に二本見つかったが、一本は針が折れていた。
殺された女は少なくとも六十歳にはなっているように見えたが、断定はむずかしい。現場はいまだだれも手をふれていなかった。医者もまだ来ていない。ただ、女が死んでから相当の時間が経過していることだけはたしかだった。
死体が横たわっているマットレスは、かなりの長さにわたってカバーが切り裂かれており、内部の詰めものを一部引っぱり出した形跡がみられた。ここにも壜や食物の食いかすが散らばっており、部屋のどまんなかには尿瓶《しびん》があって中に小便が入っていた。
「一人住まいだったのかね?」メグレは門番の女のほうを振りかえってたずねた。
こちらは口元をきゅっと結んで、うなずいた。
「来客は多かったのかな?」
「客があったら、こんなに汚いままにしていなかったのじゃないかしら」
それから、過ちの現場をおさえられでもしたような顔つきになって、
「もう三年ものあいだ、この部屋には足も踏み入れたことがなかったんですよ」
「彼女が入らせなかったのかな?」
「入りたくもなかったけどね」
「お手伝いさんとか、家政婦とかはいなかったのか?」
「いませんでしたね。この女《ひと》とおんなじような半気違いの女の友達が、ときどき訪ねてくるくらいでね」
「その友達を知っているかね?」
「名前は知りませんけど、ときどき街《まち》で見かけますよ。いちどだって、同じ場所で会ったことはありませんけどね。この前見かけたときもそうでしたね、もうだいぶ以前ですけど」
「おたくの間借人が麻薬中毒だということは知っていたのかね?」
「半気違いだってことは知ってましたよ」
「彼女がこの部屋を借りたとき、あんたはここの門番をしていたかね?」
「もしそうだったら、貸しゃしなかったですよ。あたしたち夫婦がここに来てからまだ三年にしかなりませんけど、あの女は八年前からここに住んでたんですからね。なんとか出てってもらおうと手をつくしてみたけど、だめでした」
「彼女はほんとうの伯爵夫人なのか?」
「らしいですね。とにかく伯爵の奥方だったことはちがいないけど、その前は、どうせ碌なもんじゃなかったんでしょ」
「お金はあったのかな?」
「でしょうね。とにかく餓死したわけじゃないんだから」
「この部屋にだれか来たのを見なかった?」
「いつです?」
「昨夜か、今朝か」
「見ませんね。あの友達は来なかったし、若い男も来ませんでしたよ」
「若い男?」
「礼儀正しい、背の低い青年で、病身らしいようすでした。いつもあの女を、小母さんと呼んでいましたよ」
「その青年の名前も知らないのかね?」
「あんな連中に関わりたくなかったですからね。この建物の他の人たちは、みなさん静かな人たちばかりでね。二階には、いってみれば、ぜんぜん都会《パリ》的じゃない人たちが住んでいますし、三階には、退役された将軍が住んでらっしゃいます。そういえば、ここがどんなアパルトマンかおわかりでしょう。あの女はそれこそ穢らしくて、ドアの前をとおるたびに、あたしゃ鼻をつまんだほどですよ」
「彼女が医者を呼んだことはなかったかな?」
「週に二度は呼んでましたよ。お酒にひどく酔っぱらったとか、なんだか知らないけど、いまにも死にそうだとか言っては、お医者に電話をしてました。お医者のほうも心得ていて、ゆっくりしたもんでしたね」
「この近くの医者かね?」
「ええ、ブロック先生。三軒隣りに住んでる方ですよ」
「死体を発見したとき、その医者に電話したのかね?」
「いいえ。あたしの知ったことじゃないですから。すぐに警察へ電話しましたよ。刑事さんがこられて、それから、あなたがこられたわけです」
「そのブロック先生をつかまえてくれ、ジャンヴィエ。すぐにここへ来るように言うんだ」
ジャンヴィエは電話機をさがしまわり、ようやく別の小さな部屋の床に、古雑誌や半分破れた本の山に隠れていたのを見つけだした。
「あんたに見られずに、このアパルトマンに入るのは、簡単にできるかな?」
「どのアパルトマンだって、むずかしいでしょ」彼女は突っかかるように言いかえした。「あたしはお仕事はちゃんとやってますし、他処《よそ》さまには負けないつもりですけどね。階段にだって、塵ひとつありゃしませんでしょ」
「ほかに階段は?」
「お勝手用のがありますけど、だれも使ってません。どっちにしても、門番室の前は通らなければ行けませんよ」
「のべつ門番室にいるわけでもないだろう」
「お買物のときは別ですけど、いくら門番だって、食べなければ生きていけませんからね」
「買物には何時に行くのかね?」
「朝の八時半ごろ。郵便屋さんが来て、手紙を配りおえたらすぐですよ」
「伯爵夫人には手紙はよく来たかな?」
「宣伝のチラシばっかしね。電話帳で名前を見て、伯爵夫人だからって、みんなびっくりするんでしょ」
「オスカルという男を知っているかね?」
「オスカルなに?」
「なんでもかまわんよ」
「あたしの息子ですけど」
「年齢は?」
「十七歳。バルベス通りの指物師の店で働いてますよ」
「あんたたちといっしょに住んでいるのかね?」
「あたりまえでしょ」
電話をかけ終ったジャンヴィエが、報告した。
「医者は在宅していました。患者をあと二人診なければならないんで、それが終ったらすぐに来るそうです」
ロニョン刑事は、いっさい関知せず、門番の女の話にもまるで関心がないようなふりをしていた。
「伯爵夫人は銀行名の入った郵便物を受取ったことはないかね?」
「ぜんぜん」
「よく外出していたかな?」
「ときには十日も二週間も部屋にこもったきり、外に出ないことがありましたよ。コトリとも物音がしないので、死んでるんじゃないか、と思うことさえあったくらいです。きっと汗と垢にまみれて、ベッドに寝たっきりだったんでしょうよ。かと思うと、ちゃんと身じたくをして、帽子をかぶり、手袋まではめて出てくるんです。あんなにふらついてさえいなかったら、どこかの奥方さまみたいに見えたでしょうね」
「長く外に出ていたのかね?」
「その日によりけりですね。ちょっとのこともあれば、一日中ってこともありましたよ。買物の袋をいっぱい抱えて帰ってきましてね。それから、ワインがケースごと届くんですよ。いつも赤ワインばっかり。コンドル街の食料品店で買ってましたね」
「配達人は彼女の部屋に入ったのかね?」
「いつもドアのところに置いていきました。お勝手用の階段を使わないんで、あたし、口喧嘩したことがあるんです。あの階段は暗すぎるし、怪我するのはいやだからって、彼は言ってましたけどね」
「どうして彼女が死んでいることがわかったのかな?」
「死んでるなんて、知りませんでしたよ」
「しかし、ドアを開けたのだろう?」
「そんなことするもんですか。頼まれたって開けやしませんよ」
「じゃ、どういうことだったのかね?」
「あたしたちの住居はここの五階にあるんです。六階には手足のきかない老人がいて、あたしがそこの家事をやってあげたり、お食事を運んだりしているんです。この方は税務事務所に勤めていた人で、それこそもう何年もの長いあいだこのアパルトマンに住んでおられるんだけど、ちょうど六カ月前に奥さんを亡くされましてね。新聞で読んだでしょう? ルピック街のマーケットに行くために、朝の十時にブランシュ広場を渡っていて、バスにはねられたんですよ」
「その老人の用事をするのは何時?」
「朝の十時頃です。そこから降りてきながら、階段をお掃除するんですよ」
「今朝も掃除したかね?」
「あたりまえでしょう」
「じゃあ、その前に一度、郵便物を届けに上っていったわけだね?」
「六階までは行きません。ご老人にはほとんど手紙はこないし、来ても、急いで読まなければならないようなものはないですからね。四階の人たちは夫婦とも朝早く勤めに出かけます。だいたい八時半ごろですかね。ですから、出かけに門番室で郵便物を受取って行くんですよ」
「あんたがいなくても?」
「ええ、あたしがお買物に出ているときでもですよ。あたし、鍵はかけませんから。外でお買物しながらも、ときどきアパルトマンのほうに目をやるんです。窓を開けてもかまいません?」
ひどく熱かった。一同はふたたび入口側の部屋にもどってきていた。ただジャンヴィエだけは、今朝のノートルダム・ド・ロレット街でと同様に、寝室にのこってタンスの引出しや戸棚をしらべている。
「とすると、三階までしか上らなかったわけだね?」
「ええ」
「そして十時ごろ、六階まで上り、そのときこの部屋の前を通った。そうだね?」
「ドアが開いていたんです。ちょっと驚きましたけど、たいして気にはしませんでした。ご老人の用をすませてから下りてきて、次に上って行ったのは四時半でした。それがお夕食を運ぶ時間ですから。降りてくるとき、まだドアが開いたままなのに気がついて、思わず小声で呼んだんです。
『伯爵夫人!』
みんなそう呼ぶんですよ。外国人の名前でとても言いにくいもんですからね。ただ伯爵夫人、と言うほうが手っとり早いから。返事はありませんでした」
「室内に灯はついていたかね?」
「ええ。あたしはなにひとつ手を触れてませんよ。このスタンドがついてました」
「で、寝室のほうは?」
「それも、いまのまんまです。あたし、スイッチはひねらなかったですよ。なぜかわからないけど、悪い予感がしたんです。ドアのあいだから顔をさし入れて、また呼びました。それから、気がすすまなかったけど、室内《なか》に入りました。あたしって、匂いにとても敏感な性《たち》でね。寝室をのぞいて見たんです。
それで、警察に知らせなければと思って、階段を駆けおりました。アパルトマンにはご老人のほかだれもいませんから、親しくしているお隣りの門番の女性《かた》のところに駆けこみました。ここに一人でいたくなかったんです。ご近所の人たちが、何事かとやってきて、みんなでドアの前に集まっていたときこちらの刑事さんが見えたんです」
「どうもご苦労でした。あんたの名前は?」
「マダム・オーバンです」
「ありがとう。マダム・オーバン。門番部屋へもどってもいいですよ。階段に足音が聞こえるから、きっと医者が来たんだろう」
医者とはいっても、ブロック医師ではなくて、検死医だった。今朝アルレットの検死をおこなったのと同一人である。
彼は警視と握手をし、ロニョンにいたわるような仕種をしてみせたあと、寝室の入口に行った。思わず口をついて出たのは、
「またか!」
伯爵夫人の首にのこされた傷痕から、絞殺であることは、一点の疑いもなかった。さらに太腿の青痣の状態も、麻薬中毒の歴然たる度合をしめしている。彼は注射器の一本をくんくん嗅いでみて、肩をすくめた。
「まちがいなくモルヒネだ」
「彼女を知っていますか?」
「見たことはないですね。ただ同類ならこの界隈にはごろごろいる。おやおや、こいつは物盗りの犯行ですか?」
マットレスの三日月形の裂け目からはみ出している馬の尾の詰めものを指さした。
「金持ちだったんですか?」
「さあね」と、メグレ。
さっきから、家具の錠前をナイフの尖でこじっていたジャンヴィエが言った。
「この引出しは書類がいっぱいつまってますよ」
若い男が急ぎ足に階段をのぼってきた。ブロック医師である。
検死医が挨拶がわりにひどく冷やかに肯いただけで、同業者に対するように手を差しのべもしなかったことに、メグレは気がついた。
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第四章
ブロック医師は冴えない蒼白い肌の持主で、目が異様に輝き、髪は黒くつややかだった。往来で野次馬たちの話に耳を傾ける時間も、門番の女と話をかわす暇もなかったらしい。またジャンヴィエも、電話では、伯爵夫人が殺されたとは言わず、ただ彼女が死んだということと警視が会って話したいと言っていることを告げただけだった。
彼は階段をいっきに四段ずつ駆けあがってくると、不安げに周囲を見まわした。あるいは診察室を出る前に、気付けに注射を一本打ってきたのかもしれない。同業の医者が握手に応じようとしないのにもさして驚いたふうはなく、また強いて求めもしなかった。彼の態度はトラブルを予期している人間のものであった。
ところが、寝室の入口をはいったとたん、明らさまにほっとした様子を見せた。伯爵夫人は絞殺されたのだ。だとすれば彼に関わりのあることではない。
それから彼が立ちなおりを見せ、どちらかというと、よそよそしい尊大さをとりもどすのには、ものの三十秒とかからなかった。
「どういうわけで、ほかの医者ではなく、私が呼ばれたのですか?」と、まず小手調べの探りを入れる。
「あなたがこの婦人の主治医だったという、門番の女の話があったからですよ」
「彼女を診たのは数えるほどしかありませんけどね」
「なんの病気で?」
ブロックは同業者のほうを向いた。いかにも、彼がよく知っているはずだと言わんばかりである。
「彼女が中毒患者だということはご存じだと思いますがね。薬をやりすぎたとき、よくあることですが、鬱病におそわれ、恐怖にかられて私を呼んだのです。死ぬのをひどく怖がっていました」
「ずいぶん以前から彼女をご存じでしたか?」
「私はこの街にきて、三年にしかなりませんよ」
まだ三十になるかならぬかだろう、メグレは、彼が独身であり、彼みずからが開業してすぐかあるいはたぶん医学生時代から、すでにモルヒネ中毒にかかっていたに相違ないことは、賭けてもいいと思った。彼がモンマルトルを選んだのは偶然とは思えないし、彼の患者たちがどういう種類の連中かは容易に想像がつく。
おそらく、あまり詳しくは語りたがらないだろう。すでに彼自身が、猫に魅入られた小鳥でしかない。
「彼女について、どんなことをご存じです?」
「彼女の名前、住所、これは私のカルテに記載されていますから。それから、十五歳のときから薬を用いていたということ」
「彼女の年齢は?」
「四十八か九です」
ベッドに横たわっている、痩せさらばえ、色艶をうしなった髪が抜けおちかけている死体を見るかぎりでは、とても信じられる話ではなかった。
「麻薬中毒者が、同時に飲酒癖にも溺れるというのは、珍しいのじゃないですか?」
「そうでもないですよ」
彼の手はひどい宿酔《ふつかよい》のときのように、小刻みにふるえており、顔の片面の口元に、ときおり痙攣《ひきつり》が走った。
「彼女に薬をやめさせようとなさったのでしょうな?」
「最初はね。でも、まず望みはありませんでした。私にはなにひとつできなかった。何週間も私を呼ばないままでしたらかね」
「薬がきれて、なんとしてでも手に入れたいために、あなたに助けを求めたことは?」
ブロックは同業者のほうをちらりと見やった。嘘をついてもしかたがない。この死体とこの部屋ぜんたいが、すべてを明々白々に物語っていた。
「ここで医学の講義をしてもはじまらんでしょうが、中毒者はある階段に達すると、薬をきらしたがために、致命的な危険を招くことになりかねないのです。彼女がどこで薬を手に入れたかは知りません。たずねてみたこともない。たぶん二度くらいだったか、彼女が持っていた薬が届かず、そのため幻覚症状を呈していたことがあって、私がモルヒネを打ってやりました」
「彼女は自分の生活や家族や出生のことについて、なにも話さなかったかな?」
「私が知っているのは、たぶんオーストラリア人だったと思いますが、彼女よりずいぶん年上のフォン・ファルンハイム伯爵とかいう人の奥さんだった、ということくらいですよ。コート・ダジュールの、なんでも豪勢な邸に住んでいた、ということらしいですよ」
「もう一つ教えてください。ドクター、診察料は小切手で支払われていましたか?」
「いいえ。現金です」
「彼女の友達とか親戚とか薬の売人《バイニン》とかについては、なにもご存じない?」
「まるで知りません」
メグレはそれ以上固執しなかった。
「結構でした。お引取りくださってよろしいですよ」
こんどもまた、検事が到着したときその場に居合せたくないという気持ちが動いた。とりわけ、まもなく駆けつけてくるはずの新聞記者連中の相手をするのは気がすすまなかったので、この息のつまる、げんなりするような部屋からは早々に退散することにした。
ジャンヴィエに指示をあたえて、オルフェーヴル河岸まで車で戻った。警視庁では法医学研究所のポール医師からの伝言が待っていた。すぐに連絡をほしいという。
「明朝そちらへ廻す報告書を作っているところだがね」医師はいきなり切りだした。今夜は死体解剖がもう一つ彼を待っているのだ。「おたくの捜査に重要な二つの点を、はやく知らせておこうと思って。まず、あらゆる蓋然性からして、娘は身分証明書にある二十五歳には達していないね。医学的見地からいえば、せいぜい二十歳そこそこだ」
「たしかですか?」
「ほぼ確実だ。つぎに、彼女は子供を産んでいる。私にわかるのはそれだけ。殺しに関していえば、犯人はおそろしく力の強い奴だな」
「女という可能性は?」
「ないだろうね。男ぐらい力の強いのなら別だが」
「第二の犯行の話はまだ聞いていないんですか? まもなくヴィクトール・マッセ街に呼びだされますよ」
ポール医師は夕食の約束がどうのこうのと、ぶつぶつぼやいてから、電話を切った。
夕刊にアルレットの写真が載ったため、いつのもことだが、やたらと電話がかかってきた。待合室には二人か三人、通報者が待っている。そちらは一人の刑事にまかせて、メグレは自宅に夕食にもどった。メグレ夫人は新聞を読んでいたので、まさか夫が帰ってくるとは思っていなかったらしい。
雨はあいかわらず降りつづいていた。メグレはすっかり濡れてしまった服を着替えた。「また出かけるんですか?」
「たぶん夜は外ですごすことになる」
「伯爵夫人はみつかったの?」
新聞にはまだ、ヴィクトール・マッセ街の殺人のニュースは出ていない。
「見つかった。絞め殺されていたよ」
「風邪をひかないように気をつけてくださいよ。今夜は寒さが厳しくなって、明朝には霙《みぞれ》になるかもしれないって、ラジオで言ってましたよ」
メグレは小さなグラスで一杯ひっかけてから、外の空気を吸いたくて、レピュブリック広場まで歩きだした。
最初彼の心に閃いたのは、あの若いラポワントをアルレット事件にの捜査にあたらせようか、という考えだったのだが、思いなおしてみて、やはりこの事件を担当させるのは酷だという気がした。で、結局、ジャンヴィエにお鉢がまわることになったのだ。
彼はいまごろ仕事の真最中にちがいない。あの踊り子の写真を片手に、モンマルトルの家具付ホテルを一軒一軒、それも特にご休憩専門の小さなホテルを選んで聞きこみにまわっているのだ。
アルレットがほかの女たちと同じように、閉店後に客と落合っていたらしいことを、『ピクラッツ』のフレッドは仄《ほの》めかしていた。彼女が自分のアパルトマンに客を連れて行かなかったことは、ノートルダム・ド・ロレット街の門番の女が確証している。どっちにしてもそう遠くまで足を伸ばしたはずはないのだ。もしも特定の愛人がいたとすれば、ホテルで待ち合わせていたとも考えられる。
同時にジャンヴィエは、正体不明のオスカルなる人物についても、聞き込みをおこなっているはずである。この名前は一度だけ、アルレットの口をついて出たのだったが、それにしても、なぜ彼女は、あとで口にしたことを後悔するようなようすを見せ、曖昧にぼかしてしまったのだろう。
適当な人材がなかったため、メグレはとりあえずロニョンを、ヴィクトール・マッセ街のアパルトマンに残してきた。そこでは、メグレが夕食をしたためていたあいだに、鑑識の連中が仕事を終え、検事もすでに姿を見せていたはずだった。
警視庁に着くと、大部分の部屋はすでに電灯が消えていた。広い刑事部屋には、ラポワントが一人、伯爵夫人のタンスから見つかった書類や手紙の類ととりくんでいた。それを整理する仕事を引き受けていたのだ。
「なにかわかったかね?」
「まだ途中ですから。順序もなにもかもめちゃくちゃで、ちゃんと整理をつけるのは容易じゃありません。それに、ひとつひとつ細かく当たっていってるんですよ。ほうぼうにずいぶん電話もしてみました。なかでも特に、ニースの機動班からの返事を待っているところです」
彼は一枚の絵はがきを見せた。ニース近くのアンジュ湾をのぞむ、広々とした贅沢な別荘地の写真である。回教ふうの尖塔《ミナレット》まである、東洋スタイルを下手に模倣した家が写っていて、家のまわりは棕櫚でとりかこまれている。絵はがきの隅に『オアシス』と、その別荘の名が印刷されていた。
「書類によると」彼は説明した。「彼女は十五年前、夫君とこの別荘に住んでいたんですね」
「すると、三十五歳前だったということか」
「当時の彼女と伯爵の写真がこれです」
素人写真だった。二人ならんで別荘の玄関前に立っており、女のほうが二匹の大きなロシア系グレーハウンドの綱をにぎっている。
フォン・ファルンハイム伯爵は骨と皮ばかりの小男で、山羊髯をたくわえ、片眼鏡をつけ、気取った服装《みなり》をしている。隣りの女性のほうは、男たちが振りかえって見るたぐいの、肉付のぽってりした美人である。
「どこで結婚したのかな?」
「カプリ島です。この写真を撮る三年前ですね」
「そのときの伯爵の年齢は?」
「結婚したときが六十五歳。三年してイタリアから戻るとすぐ、この『オアシス』を買ったんです」
こういったことはすべて、黄ばんだ領収書とか、無数の査証《ビザ》印をおされたパスポート、ニースやカンヌのカジノの会員証、さらにはラポワントがまだ整理しきっていない手紙の束などに断片的にしるされている。書類や手紙には金釘流のドイツ文字で書かれたものが混っていて、署名はハンスとなっていた。
「女の名前はわかったかね?」
「マドレーヌ・ラランド。生まれはヴァンデ県のラ・ロッシュ=シュール=ヨンで、一時期カジノ・ド・パリに端役で出ていたようです」
ラポワントはどうやら、この仕事をいわば贖罪《しょくざい》として引受けているふうである。
「なにかわかりましたか?」ややあって、彼のほうから訊いた。
むろんアルレットのことを言っているのである。
「ジャンヴィエが調べている。私もこれから出かけるつもりだ」
「『ピクラッツ』へ、ですか?」
メグレはうなずいてみせた。隣りの彼の部屋には、踊り子の身許に関して、ほうぼうからの電話や訪問者の対応をした刑事がいた。
「まともなのはひとつもないですね。ひどく自信ありげな老婆がいたんで、法医学研究所へ連れていったんですがね。こいつがまた、死体を見て、はっきり自分の娘だと言いきるんですよ。ところが、研究所の人間のほうが彼女の顔を知っていて、こいつが気違い女だったんです。もう十年も前から、女の死体を見ちゃ、自分の娘だと言いつづけてるんだそうです」
今度ばかりは気象庁の予報があたった。メグレは外に出てみて、凍りつくような冬の寒さを感じ、オーバーの襟をたてた。モンマルトルには、着くのが早すぎた。時刻は十一時をまわったばかりで、夜の活動はまだはじまっていなかった。街の人びとはまだ劇場や映画館で肱をつきあわせている時間で、キャバレーはネオンをつけていないし、お仕着せ姿のドアマンもまだ位置についていなかった。
メグレはひとまず、ドゥエ街の角にあるカフェに入っていった。なじみの店で、すでに幾度となく足を踏みいれている。ここの主人《あるじ》は仕事についたばかりだった。彼もまた深夜人種なのである。昼間は細君がボーイをつかって店を引受け、夜にはいると彼が引継ぐ。いわばすれ違い夫婦であった。
「何にしますか。警視さん?」
主人が目で知らせようとしている相手が、明らかに例の『|ばった《ソートレル》』に相違ないことに、メグレはすぐに気がついた。立ったままで、やっとカウンターにとどくくらいの背丈しかない。そのカウンターで、彼はペパーミントを飲んでいた。向こうでも警視に気がついていたが、いっしんに競馬新聞に没頭しているふりをして、鉛筆でしるしをつけていた。
見ようによっては、彼自身が騎手と見えないこともない。そのていどの体重だろう。しかし子供の体躯に、濁った灰色の、皺だらけの顔がのっているのをまぢかに見るのは、なんとも異様な感じだった。しかもその眼は、敏捷にすべてを見て取る、つねに警戒を怠らないある種の動物に特有の目であった。
彼はお仕着せではなく、背広を着ていた。まるで始めての聖体拝受式に出かける、正装した子供といった趣である。
「今朝の四時ごろ、あんたが店にいたのかね?」メグレはカルヴァドスを注文してから、主人にたずねた。
「いつものとおりですよ。彼女を見ました。事件は知ってますよ。新聞を読んだからね」
こういう連中にかかったら、事件もたいしたことではないように思えてくる。バンドマンが幾人か、仕事につく前のコーヒーを飲んでいた。さらに警視とは顔見知りのチンピラが二、三人いたが、まるで悪事とは関係ないという顔をしている。
「彼女のようすはどうだった?」
「いつものあの時間のようすと変わらなかったね」
「毎晩きていたのか?」
「いや、ときどきです。飲み足りないと思ったときなんかね。寝に行く前に、強いやつを一、二杯ひっかけて、さっさと帰りましたね」
「今朝がたも?」
「気が立ってるみたいだったけど、なにも言わなかったね。勘定を訊いたとき以外は、だれとも口をきかなかったと思いますよ」
「カウンターに、背が低くてずんぐりした、グレイの髪の中年の男はいなかったかね?」
メグレは記者たちにオスカルのことを話すのを避けたので、当然、新聞にこの話は載っていなかった。しかし、フレッドにはその件で質問した。フレッドはたぶん『ばった』にその話をしただろうし、したがって……。
「そんなのは見もしなかったですね」主人の言い方はいささか強調しすぎのようだった。
「オスカルという男を知らないか?」
「この辺には山ほどオスカルがいるけど、そういう特徴のは一人もいませんや」
『ばった』のそばに寄るのに、メグレは二歩と移動する必要はなかった。
「何か言うことはないか?」
「特にねえですよ、警視さん」
「昨晩は『ピクラッツ』の入口にずっといたのか?」
「だいたいね。二度か三度、チラシを撒きにピガル街のあたりまで行ったけどね。アメリカ人にタバコをたのまれちゃって、ここにも買いに来たけど」
「オスカルを知らんか?」
「聞いたこともねえな」
相手が警察だろうと何だろうと、恐れをなすような手合いではなかった。ほかの客を面白がらせるために、わざとらしく場末の労働者ふうのアクセントを使い、子供じみた仕種を強調してみせているらしい。
「アルレットの恋人のことも知らんか?」
「あの娘《こ》に恋人が? こりゃ初耳だね」
「店の外で彼女を待っている男を見かけたことはないか?」
「たまにね。でも、客ですぜ」
「彼女はついて行ったか?」
「いつもってわけじゃねえけどね。ときにはなかなか厄介払いできねえんで、撒くためにここに来てたけど」
遠慮するふうもなく耳を澄ましていた主人が、肯定の意味で首をうなずかせた。
「昼間彼女に会ったことはなかったか?」
「おれ、昼間は寝てるし、昼からは、競馬だからね」
「彼女の友達は?」
「ベティとタニアがダチ公だよ。特に仲良しってわけでもねえけどよ。タニアとは仲が悪かったかもしれねえな」
「麻薬を手に入れてくれと頼まれたことはなかったか?」
「なんのために?」
「彼女のためにだ」
「ねえですよ。あの娘《こ》は酒が好きだったけど、薬《ヤク》をやってたとは思えねえな」
メグレは心ならずも、この一寸法師の爪先から頭の天辺までを、じろじろ眺めた。
「彼女を送って行ったことは?」
「送っちゃいけないっての? ほかにも何人もいるよ。店の女の子だけじゃなくて、すげえ羽振りのいい女のお客を送ってったことだってあるんだから」
「その通りですよ」主人が割りこんできた。「どういうわけか知らないけど、女どもは、夢中になってこいつの尻《ケツ》を追いまわすんですよ。それもぜんぜん婆ぁとかオカチメンコとかいうのじゃないのが、朝方、ここに来て一時間も二時間も彼を待っているってわけでね」
小人《こびと》の口元がゴムのようにニッと伸びたと思うと、恍惚とした冷笑をうかべた。
「たぶん、こいつのせいだろね」と、ワイセツな素振りをしてみせた。
「アルレットとも寝たのか?」
「まあね」
「なんども?」
「ほんと言うと、一遍だけ」
「彼女のほうから誘ったのか?」
「おれが彼女とやりたがってるのを知ってたからね」
「どこで?」
「『ピクラッツ』でじゃねえことは確かだね。『モデルヌ』って知ってる、ブランシュ街の?」
警察にマークされている連れ込みホテルである。
「そうそう! そこよ」
「彼女は多淫だったのかな?」
「テクニックはみんな知ってたな」
「それで、喜んでいたようすだったか?」
『ばった』はひょいと肩をすくめた。
「喜んでなくったって、女ってのは、それらしい振りをするんだから。感じないと、なおさら、頑張らなくっちゃって思うんだよね」
「その夜は、彼女、酔っていたか?」
「いつものとおりだったな」
「で、店の主人とは?」
「フレッドと? 彼がそう言ったの?」
しばらく考えていてから、ぐいっとグラスを干した。
「おれには関係ねえや」と、言った。
「主人は惚れていたんだと思うか?」
「みんなそうさ」
「おまえもか?」
「知っていることはもうみんな話したからね。まだ足りないってのなら」と、からかうように、「いつだって証拠を見せますよ、だ。『ピクラッツ』へ行くんだろ?」
メグレは、まもなく仕事につく『ばった』を待たずに、『ピクラッツ』へ行った。すでに紅いネオンがともっている。表のアルレットの写真はまだ外されていなかった。窓とドアのガラスにはカーテンが掛かっている。音楽は聞こえてこなかった。
なかに入ると、まずフレッドが目についた。タキシード姿で、バーの酒壜をならべていた。
「おいでになるだろうと思ってましたよ」と、彼は言った。「伯爵夫人が絞め殺されたってのは、ほんとうですか?」
街中の噂になっているのだろうから、彼が知っていても不思議はなかった。たぶん、ラジオでも、ニュースで流したにちがいない。
バンドマンが二人、ステージに腰をおろして各々の楽器を調整していた。片方は髪をチックで撫でつけた若い男で、もう一方は、四十がらみの、病身らしい、憂わしげな男だった。ボーイが一人、すでに位置についている。『ラ・ローズ』の姿は見えなかった。調理場にいるのか、あるいはまだ降りてきていないのだろう。
壁は四面真っ赤に塗られ、照明はピンク一色である。この光の中にいると、人も物もその現実感をいくぶん喪失するように思われる。あたかも写真屋の暗室に入ったような印象――少なくともメグレはそういう印象を受けた。馴れるまでにちょっと時間がかかった。人の顔のうち、唇のほうは光に溶けこんでしまっているのに、目だけが異様に黒かったり輝きすぎたりして見える。
「おすわりになるんでしたら、帽子とオーバーを女房に預けてください。奥にいるんですよ」
それから呼んだ。
「ローズ!」
調理場から彼女が姿をあらわした。黒繻子のドレスの上に、刺繍の入ったエプロンをつけている。メグレのオーバーと帽子を持って行った。
「いますぐテーブルにおすわりにはならんでしょう?」
「女の子たちは来ているのかね?」
「いま降りてきますよ。着替えをしてるんです。うちは芸人の更衣室がないもので、あたしらの寝室と化粧室をつかわせてるんですよ。ところで、今朝訊かれたことを、あれからよく考えてみたんですがね。『ラ・ローズ』とも話し合ってみたんです。で、あたしら二人とも、アルレットがなにかを知ったのは、客の話を盗み聴きしたからじゃない、という考えで一致したんです。ここへ来てくれ、デジレ」
呼ばれたボーイは、頭のまわりに毛髪が冠のように輪をつくっている他はすっかり禿げあがった、食前酒《アペリチーフ》の広告に出ているカフェのボーイによく似た男だった。本人もそのことを承知しているらしく、さらに似せるために揉上げを長くのばしている。
「警視さんに率直に申し上げろ。昨晩、四番テーブルで客に給仕したか?」
「いいえ」
「男の二人づれで、一人のほうが中年の男の客を見かけたか?」
フレッドはメグレをチラリと見て、つけくわた。
「あたしみたいな背格好の男だよ」
「いいえ」
「アルレットはだれといた?」
「例の若い男とかなり長くいっしょにいました。そのあとアメリカ人の客のテーブルで、何杯か飲んでいました。それだけです。最後はベティといっしょにいて、二人でコニャックを飲んでましたよ。自前でね。伝票についているはずですよ、彼女は二杯飲みましたから」
褐色の髪の女が調理場から出てきた。職業的な目でがらんとした店内をざっと見わたし、他所《よそ》者がメグレ一人なのを見てとると、ステージへ歩みより、ピアノの前に腰をおろして、二人のバンドマンに低声でなにやら話しかけた。三人の視線が警視のほうを向く。つづいて彼女が二人に向って鍵《キー》を叩いてみせた。若いほうがサキソフォンでなにかの調べを吹いてみる。他の一人がドラムの前に腰をすえて、まもなく、ジャズの曲が流れだした。
「外を通る人に音楽が聞こえるようにしなければならないんでね」と、フレッドが説明した。「三十分かそこら、客は一人もこないでしょうが、もしも入ってきて、店内がしんとしていたり、蝋人形館みたいに人間がぼやっとつっ立っていたりしてはいかんのです。なにを召し上がりますか? テーブルにすわられるのでしたら、シャンパンにしてもらいたいですな」
「どっちかというと、ブランデーのほうがいいんだが」
「グラスにブランデーをお注《つ》ぎして、そばにシャンパンの壜を置いときましょう。原則として、特に夜の早いうちは、シャンパンしか出さないことになってますんで。いいですか?」
見るからに楽しそうに仕事をしている。まるで人生の夢を実現しているとでもいった趣きである。彼は店内のすべてに目を配っていた。女房はすでに、バンドの後方にあたる奥の椅子に腰を落着け、これまたいかにも満足そうに見える。おそらく自分たちの店を持つということが、二人の永いあいだの夢だったので、仕事は彼らにとって一種のゲームのようなものに思われるのかもしれなかった。
「それじゃ、六番テーブルに座ってもらいましょうか。アルレットが恋人といた場所です。タニアとの話は、ダンス曲が始まるまで待ってもらいます。そのときは、ジャン=ジャンがアコーデオンを弾いて、彼女はピアノを離れますから。以前は専門のピアニストがいたんですが、タニアがきて、彼女がピアノを弾けるとわかったんで、バンドのほうも兼任させれば経済的だと思ったんですよ。
ベティが降りてきました。ご紹介しますか?」
メグレは客のようにボックスにすわった。フレッドが、茶色っぽい髪の、水色の光を反射するスパングルをちりばめたドレス姿の女をつれてきた。
「メグレ警視さん。アルレットの殺された事件を調べていらっしゃるんだ。べつに怖がることはないよ。決まりなんだから」
男のようにいかつい、筋肉質のからだつきでなかったら、美人といってもよかっただろう。どちらかというと大人っぽく装っている少女といった感じで、なんとなく気まずさを覚えた。いくらかしゃがれ声にちかいハスキーな声をしている。
「あたしもすわったほうがいいですか?」
「そうしてもらおうか。なにか飲むかね?」
「いまはあんまり欲しくない。デジレがグラスを持ってきますから、それでいいんです」
疲れきった、憂わしげなようすをしている。彼女が男たちの劣情を掻きたてる女だとは考え難かった。おそらく、夢や幻想をあまり持たない娘なのだろう。
「きみはベルギー人?」訛《なま》りから判断して、そうたずねてみた。
「ブリュッセル近くのアンデルレヒト市の生まれです。ここへ来る前は、アクロバットの一座にいたの。父がサーカスにいたから、ちっちゃいときから始めたんです」
「歳は?」
「二十八歳。からだが鈍《なま》っちゃってダメになったから、ダンスに切り替えたの」
「結婚は?」
「してたわ、軽業師の人と。捨てられちゃったんです」
「今朝がたアルレットと店を出たのは、きみだね?」
「いつもそうです。タニアはサン=ラザール駅のそばに住んでいるから、ピガル街を下って行くんです。いつも彼女が先に出ます。あたしはちょっと遅れて、アルレットとあたしはいつも、ノートルダム・ド・ロレット街までいっしょに行って、そこで別れるの」
「彼女はまっすぐ家へは帰らなかったようだが?」
「ええ、よくあるの。右へ曲がるふりをして、あたしの姿が見えなくなると、また引返してきてドゥエ街のカフェにお酒を飲みに行くのが、足音でわかるんです」
「なぜ隠れて飲むのかな?」
「お酒飲みって、たいてい、飲みたりなくてがつがつしてるとこを、他人《ひと》に見られたくないんじゃないかな」
「彼女はたくさん飲んだ?」
「お店を出る前に、あたしとコニャックを二杯飲んだし、それまでにシャンパンをかなり飲んでたわ。お店にくる前にも飲んでいたことは確かです」
「悩みごとがあったのかな?」
「あったとしても、あたしには話さなかったわ。それより、自分が厭になってたのじゃないかしら」
たぶんベティ自身、いくぶん自分が厭になっていたのだろう。このせりふを、暗い顔つきで、しかも一本調子の冷淡な口調で言ってのけたからである。
「彼女のことで、何か知っていることは?」
二人づれの客が入ってきた。男女のカップルで、デジレがテーブルのほうへ案内しようとしたが、がらんとした店内に立ちすくみ、二人で顔を見あわせている。男のほうが、硬《こわ》ばった声音で言った。
「また来るよ」
「お店をまちがえたんだわ」とベティが静かな声で解説する。「当店《うち》向きのお客さんじゃないもの」
彼女は微笑しようとした。
「あと一時間はしなきゃ、本式にはならないわ。ときには観客が三人しかいなくて、ショーをはじめることもあるんですよ」
「アルレットはなぜ、この商売にはいったのかな?」
彼女はながいことメグレの顔をじっとみつめていた。それから呟くように、
「あたしもなんどか訊いたことあるんです。でも、わかんない。きっと好きだったからじゃないですか」
壁の写真に目をむけた。
「彼女のショーのこと知ってますか? あれほど見事に演《や》れる女《ひと》って、ほかにいないんじゃないかしら。見てると簡単みたいなの。それであたしたちもやってみたんです。言っとくけど、これが、すっごく難しいんです。いいかげんにやってると、すぐにワイセツな感じになっちゃうんです。ほんとうに自分が好きで演ってるみたいに見せなければいけないんですね」
「アルレットはそんなふうに見えたんだね?」
「彼女、どこまで本気なんだろうかって、あたし、ときどき考えちゃうことがありました。男が好きだからっていうんじゃないんです。そうじゃないと思うわ。でも彼女は、男たちを興奮させ、息もつけないような気持にさせなければいられない。ショーが終って、調理場に引っこみますね――そこがわたしたちの、いってみれば楽屋で、そこを通って階上《うえ》に着替えに行くわけだけど――彼女、ショーを終えたあと、ドアのあいだから自分のショーがどんなふうに受けたか、じっとのぞいているんです。ちょうど俳優がカーテンのすきまから客席をのぞくみたいに」
「彼女が惚れていた男はいなかったかね?」
彼女はしばらく返事をしなかった。
「たぶん、昨日の朝までだったら」ようやく口を開いた。「いなかったって答えたでしょうね。でも昨晩、あの若い人が帰ったあと、彼女とても気が立っているみたいだった。自分のことを大バカだって言うんです。どうしてって訊いたら、自分しだいで変えようと思えばできるのに、って。
『なにを変えるの?』って、あたしが訊くと、
『なにもかも。もううんざりだわ』
『お店をやめたいの?』
フレッドに聞かれるといけないから、あたしたち、小さい声で話していました。彼女は、
『お店がすべてじゃないわよ!』
彼女が酔ってることはわかってたけど、でも、彼女の言うことももっともだって思っちゃったんです。
『彼、あんたを養ってくれるの?』
彼女は肩をすくめただけでした。
『どうせあんたにはわかりっこないわよ』
あたしたち、もう少しで喧嘩になりそうでした。あたしだって、彼女が考えてるほど馬鹿じゃないって、言ってやったんです、あたしだって、似たような経験をしてきたんだからって」
こんどは正真正銘のお客だった。『ばった』が意気揚々と案内してきた。男三人に、女が一人。男たちは一見して外国人とわかる。ビジネスか、なにかの会議かで、パリに来ているのだろう。女のほうは、男たちがどこかのカフェのテラスあたりで拾ってきたのらしい。いくぶん身を硬くしている。
フレッドがメグレに片目をつぶってみせて、客を四番テーブルに案内し、考えつくかぎりあらゆる種類のシャンパン名がならんでいる、特大サイズのメニューをさしだした。ここの地下室にはその四分の一もあればいいほうだろうが、フレッドは聞いたこともないようなラベル名を薦めていた。おそらく値段は四倍ぐらいについているだろう。
「ショーの支度にかからなくちゃ」ベティが溜息とともに言った。「どうせたいしたことはないのよ。でも、それで充分なんです。客が見たがるのは、お尻だけなんだから」
演奏はダンス音楽にかわった。ステージを降りたタニアに、メグレはこちらへ来るように合図した。フレッドも、彼女に行くようにと、目で合図を送った。
「あたしに話があるの?」
タニアというロシア系の名にもかかわらず、それらしい訛りはない。サン=ジェルマンに近いムフタール街の生まれだということだった。
「すわって、アルレットについて知っていることを聞かせてくれないか?」
「あたしたちお友達じゃなかったから」
「どうして?」
「彼女の態度が気にくわなかったからよ」
ひどく素っ気のない口振りだった。自尊心の強さもそうとうなもので、メグレなどなんとも思っていないようす。
「言い争ったことは?」
「それもないわね」
「話をするということはなかったのかね?」
「ほとんどね。彼女、嫉妬してたのよ」
「なにに?」
「わたしに。彼女は自分以外の女に関心があつまるなんて、考えることもできなかったのよ。この世にいる女は自分だけ。わたしはそれが気に入らなかったの。ダンスだってなってないし、レッスンを受けたこともないのよ。できるのは裸になることだけ。彼女が脱がなかったら、あんなショー、意味なかったわね」
「きみは踊るのかね?」
「十二の歳から、クラシック・バレーのレッスンを受けてたわ」
「ここでバレーをやるのか?」
「まさか。ここで踊るのは、コサックダンスよ」
「アルレットに恋人はいたかね?」
「いたはずよ。でも彼女には、それを自慢できない理由があったみたいね。だから、だれにも話さなかったんだわ。わたしに言えるのは、それが老人だったということだけ」
「どうして知っているのかね?」
「わたしたち、階上《うえ》で着替えるでしょ。なんども彼女のからだに青痣《あおあざ》があるのを見たのよ。クリームをこってり塗って匿そうとしていたけど、わたしの目はごまかせないわよ」
「そのことを言ってみたかね?」
「一度だけね。階段から落ちたんだって答えたわ。だけど、毎週毎週、階段から落っこちるわけないでしょ。傷のつきぐあいで、わたしにはピーンときた。ああいう変態的なことするのは、老人にきまってるもの」
「最初にその傷に気がついたのは?」
「六カ月以上前。ここにきてまもなくだわ」
「それからずっとつづいていたのか?」
「毎晩顔を合わしてたわけでもないけど、でもときどき見たわね。まだなんか話があるの? もうピアノのとこへ戻らなくちゃ。
彼女がピアノの前にすわるかすわらないうちに、照明が消えて、スポットライトが、花道に長々と横たわっているベティ・ブリュースを照らしだした。メグレの背後で、フランス語を口真似している男たちの声と、発音を教えている女の声とが入り混って聞こえた。
「わたしと寝てくれませんか?」
笑い声がおこって、順ぐりに口真似する。
「わたしゅとぉ……」
暗闇でワイシャツの烏賊胸《プラストロン》だけを白く浮きあがらせたフレッドが、ものもいわずに、メグレの向い側に腰をおろした。音楽に乗って、軽く拍子をとりながら、ベティ・ブリュースが脚をまっすぐ頭上まで揚げた。タイツが裂けそうなほど張りつめ、口元に引釣った微笑をうかべたまま、彼女は片脚で宙に跳びあがると、グラン・テカールにはいった。
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第五章
夫人の運んできたコーヒーに起こされて、メグレがとっさに思ったのは、眠りが足りないということと、頭痛がするということだった。彼は大きな目を剥《む》いて、メグレ夫人がまるで楽しいプレゼントでも用意しているみたいな、嬉々としたようすをしているのは、いったいどういうわけかといぶかった。
「ほら、ごらんなさい!」彼がまだおぼつかない手つきで、やっとコーヒー・カップをつかんだとたん、夫人が言った。
彼女はカーテンの紐を引いた。雪が降っていた。
「どう、すてきでしょう?」
たしかに、すてきではあったが、口中のねばつきが、昨晩は思った以上に飲みすぎたことを如実に示していた。あのボーイのデジレの奴が、本来は見せかけに置いたはずのシャンパンの壜を抜いたせいだ。メグレは無意識のうちに、ブランデーの杯の合間に、それを注いでいたのだった。
「保《も》つかどうかわからないけど、雨なんかよりは、とにかく楽しいでしょ」
楽しいか楽しくないかの区別なぞ、実際はメグレにはどちらでもよいことだった。彼はどんな天候であろうと好きだった。とりわけ極端な天候ほどよい。新聞に、明日は、豪雨になるだろうとか、竜巻が起こるとか、やれ酷寒だ猛暑だといった予報が出るときほど、彼は気に入っていた。雪もいいが、それは雪が子供の頃を想いださせるからいいのであって、パリの雪、ことにこんな朝のパリで、妻が雪を楽しいと思えることじたい不思議であった。空は昨日よりいちだんと鉛色に汚れ、雪片の白さが、濡れて黒く光る屋根をいっそう黒ずんで見せている。そのせいか家並のくすんだ陰鬱な色彩とか、窓をおおうカーテンのなんとなく薄汚れたようすなどが、かえって目につくのである。
朝食をとり、服を着るころになって、ようやく昨晩の記憶に脈絡がつきはじめてきた。彼はあまり眠っていない。『ピクラッツ』を出たのは閉店後だったから、朝方の四時半をまわっていたはずだが、アルレットの真似をする必要があるような気がしていたので、それから最後の一杯を飲みにドゥエ街のカフェへ足を向けた。
昨晩の体験をわずか数行に要約してみせるのは困難である。彼はボックスに一人すわって、パイプの煙を小刻みに吹かしながら、現実生活の外へと人をいざなう、あの奇怪な照明に浸された、ショーの進行や客たちのようすを傍観していたのだった。
じつをいうと、もっと早く店を出てもよかったのである。いつまでもぐずぐず腰を上げなかったのは、怠惰のためもあるが、その場の雰囲気に彼を引きとめる何かがあったからである。客や店の連中のようす、主人《あるじ》の小細工振り、ラ・ローズや女たちの動静をながめていると、無性に楽しかった。
そこにはいわば、一般人の実生活に背中をむけた、小世界が形造られていた。たとえばデジレや二人のバンドマンにしても、各家庭の目覚し時計が鳴りはじめる頃に寝所へと急ぎ、日中の大部分をベッドですごす。アルレットの生活は、いってみれば『ピクラッツ』の紅味がかった照明を浴びてようやく本当に息づきはじめ、彼女の出会う相手は、酔っぱらいか、『ばった』がよその店の出口で拾ってくる男たちばかり、といったものだったのである。
メグレの目を意識しながら、わざときわどい真似をやってみせて、ときおり共犯者のウィンクを送ってよこしたベティ。そのベティの手管をもとっくり見物させてもらった。
彼女がショーを終えて、着替えのため階上《うえ》へ行っていた三時頃、二人の客が入ってきた。二人ともいいかげん酔っていたが、ちょどその時には店内が静まりかえっていたときなので、フレッドは調理場に姿を消した。ベティにすぐ降りてくるように言いに行ったのにちがいない。
彼女はまたダンスを始めたが、こんどは二人の客だけのための特別ショーであった。客の鼻先で脚をあげてみせ、おしまいには片方の客の禿頭にキスしてやった。そして着替えに引っこむ前に、もう一人のほうの膝に乗って、彼のもっているシャンパンのグラスを一気に飲み干した。
アルレットも同じようなことをしたのだろうか。それもおそらくはもっとずっと巧緻《こうち》に?
客はほとんどフランス語を話せなかった。ベティはなんども繰返していた。
「五分間……五分間待ってね。……あたし、もどってくる、ね」
五本の指をひろげてみせた。実際に彼女は五分ちょっとすぎて、スパングルのきらめくドレスを着てあらわれ、勝手にデジレを呼びつけて、二本めのシャンパンを持ってこさせた。
一方タニアのほうは、ヤケ酒ぎみの一人ぼっちの客の相手をしていた。男は彼女のはだかの膝をつかんで、夫婦生活のぐちをくどくどと聞かせている。
二人のオランダ人の客の手はめまぐるしく動いて、ベティのからだを撫でまわしていた。やたらと声をはりあげて笑い、顔はますます赤味を増してくる。シャンパンがつぎからつぎへとテーブルへ運ばれてきて、空になった壜は片端からテーブルの下に姿を消した。そのなかには、ちゃんと空になっていない壜もまじっているらしいことが、メグレにもだんだんわかってきた。巧妙なトリックだ。フレッドの目つきがそれを教えていた。
途中メグレはトイレに立った。入口の洗面所のほうに、櫛《くし》とかブラシ、化粧品、白粉などが備えつけてあって、ラ・ローズがそれのサービス係をつとめていた。
「警視さんのお役に立つかもしれないことを、想いだしましたよ」と、彼女は言った。「あんたがここに入ってくるのを見たとたん、想いだしたんですよ。というのは、女の子たちがあたしに打明け話をするのは、たいがい、ここにきて身づくろいしているときが多いからね。アルレットはお喋りのほうじゃなかったけど、それでもぽつりぽつり話したことから、だいたい推測がつきますしね」
彼女はメグレに石鹸ときれいなタオルを手渡した。
「あの娘《こ》があたしたちなんかとは生まれが違っていたことは確かですよ。家族のことはぜんぜん話さなかったし、だれもその話はしなかったと思うけど、修道院で育てられたみたいなことはよく言ってましたね」
「どういう話だったか憶えているかね?」
「なんですか、とても厳しくて意地悪な女のことを口にしたり、とくに表面《うわべ》は優しそうな顔をして陰でひどいことをするような手合いの女たちの話をするとき、よっぽど恨みつらみがありそうな口振りでしたね。
『まるでユーディスばあさんそっくりだわ』
なんて言うんで、あたしが誰のことかって訊くと、あの娘がこの世でいちばん嫌いな、いちばんの悪女だって答えましたね。その女は修道院長で、なんでもアルレットを憎んでいたみたいでしたね。そうそう、こんなことも言ってましたっけ。
『あいつをカッカさせるためなら、どんな悪いことでもやってやる』って」
「どこの修道院か、言わなかった?」
「ええ。でも海から遠くないとこですよ、きっと。子供の頃を海の近くですごしたみたいな話をよくしてましたからね」
おかしかったのは、この話のあいだ、ラ・ローズがメグレを客として扱っていたことである。背中や肩のごみを、機械的にブラシで払ってやっていた。
「あの娘は母親を憎んでいたんだと思うわ。べつに本人がそう言ったわけじゃなく、これは女の勘みたいなもんですけどね。ある晩、お店に昔のロシアの皇族さまみたいな、たいそうなご一行がこられてね。とくに大臣の奥方さまは、ほんとうの貴婦人という感じでね。この方がとても悲しそうに打沈んでおられて、ショーにもまるきり興味がないし、お酒もちびちびなめてるだけで、お連れの話もほとんど聞いていないようすだったんですよ。
あたしはその方の身の上を知っていたんで、アルレットがここに化粧直しにきたとき、その話をしたんですよ。
『さんざ不幸な目に遭ってきたんだから、無理もないやね』
そしたらあの娘《こ》は、ぎゅっと口を歪めて、
『不幸を背負ってるような人間って、大嫌いさ。とくに女は厭よ。そういうのに限って、自分の不幸を他人に押売りするんだから』
これはただの直感ですけどね。アルレットはきっと、母親のことを言ってたんだと思うんですよ。父親のことはなにも言いませんでした。あの娘《こ》、この言葉を言ったとき、遠くを見るような目つきをしてましたからね。
あたしの知っているのはこれだけ。前からあたしは、あの娘が良家のお嬢さんで、家に反抗してとび出してきたんだと思ってましたよ。そういう娘にかぎって、墜《お》ちだすと、とことんまで行っちまうもんです。そうだと考えれば、いろんなことの説明がつくと思うけどね」
「彼女が反抗心から、男たちを渡り歩いた、ということかね?」
「そう。そんなふうに見えましたよ。あたしは今時の若い娘《こ》とはちがうけど、昔は商売をやったこともあって、ご存じのようにもっとひどかったですけどね。でも、あの娘みたいじゃなかったですよ。そこがあの娘の違ってるところでね。ほんとうの商売女《プロ》だったら、あんなふうに本気でかっと逆上《のぼせ》あがりはしないですよ。ほかの娘を見ててごらんなさいよ。そりゃ、彼女らだって頭に血がのぼることはあるけど、どこか本気じゃないところがありますよね……」
ときどきフレッドが、メグレのテーブルにすわりにきては、ちょっとの間話をしていった。そのたびにデジレがブランデーの水割りを二杯運んでくるのだが、かならず、主人の分のほうが色が薄いのに、メグレは気がついた。彼はブランデーを飲み、アルレットのことを想い、昨晩のボックスにすわっていたラポワントのことを考えた。
ロニョン刑事がかかわっている伯爵夫人のほうは、ほとんどメグレの関心を惹かなかった。あの種のタイプは、知りすぎるほど知っていた。人生の下り坂にある女たち。ほとんど例外なく孤独で、ほとんど例外なく輝かしい過去を持ち、麻薬に身を持ちくずして急速にみじめな境涯に転落していった女たち。似たようなのは、モンマルトルにはおそらく二百人ぐらいいるだろうし、もう少し高級になれば、パッシーとかオートゥイユあたりの豪華なアパルトマンに何十人といるだろう。
メグレに関心があるのは、アルレットのことだった。彼はいまだに、アルレットをどういうたぐいの女として理解すればよいのか、よくわからずにいたからである。
「彼女は多淫だったのかね?」と、フレッドにも質問してみた。
訊かれたほうは、ひょいと肩をすくめた。
「あたしは、つまり、彼女らのことはあんまり気にしないほうでしてね。昨日女房が話したのは、ありゃ本当です。たいがい調理場でやったり、彼女らが着替えてるときに階上《うえ》へ行ったりなんかでね。あの女《こ》たちがどう感じてるかなんて、あたしは訊いてみたこともないし、どうせちょっとした浮気心だから」
「外で彼女と逢ったことは?」
「街《まち》で?」
「そうじゃないよ。彼女とデートしたことはあるかと訊いているんだ」
どうやら躊躇しているようすである。細君がいる奥のほうに、ちらりと目をやった。
「ありませんね」と、やっと言った。
彼は嘘をついたのだった。そのことをメグレは、警視庁に着いて最初に知った。今朝の出勤は遅刻で、会議にも間に合わなかった。刑事部屋にはすでに活気がみなぎっている。メグレはまず局長に電話して詫《わ》びを言ってから、部下たちとの話が終るまでは、そちらに行けない旨を断わった。
ベルを鳴らすと、ジャンヴィエと若いラポワントが同時に顔をのぞかせた。
「まずジャンヴィエからだ」メグレは言った。「ラポワント、きみはあとで呼ぶ」
ジャンヴィエも、ご同様にくたびれきった顔色をしている。ほとんど夜通し、街をうろつきまわっていたらしいことは、一目瞭然であった。
「『ピクラッツ』に顔を出すかと思っていたんだぞ」
「そのつもりでした。ところが、やればやるほど、しなければならない仕事が増えましてね。とうとう寝る暇なしですよ」
「オスカルをみつけたか?」
ジャンヴィエはポケットから、びっしり書き込みのある紙を引っぱりだした。
「どうも、ダメのようですな。シャトーダン街とモンマルトルの各通りのあいだにある家具つきホテルは、ほとんどぜんぶ当ってみました。それぞれに女の写真を見せたんです。なかには彼女を見たことがないらしいのや、どっちつかずの返事をするのがかなりいまして」
「それで、結果は?」
「十軒のホテルで、彼女の顔を確認しました」
「おなじ男となんども来たかどうか、訊いてみたかね?」
「その点を強調して聞き込みをやったんですが、答えはノンのようです。たいてい朝方の四時か五時ごろで、男はどれも酔っぱらっていたということですから、おそらく『ピクラッツ』の客でしょう」
「ながいこといたのかな?」
「せいぜい一時間か二時間てとこですね」
「彼女が客に金を払わせていたかどうかわからないか?」
「その質問をしたら、どのホテルでも、月世界から来た人間でも見るような目でじろじろ見られましたよ。『モデルヌ』というホテルに二度、彼女は、頭をぺったりなでつけ、サキソフォンのケースを抱えた若い男と現われています。
「ジャン=ジャン、店のバンドマンだ」
「かもしれません。二度目は、二週間ほど前だったそうです。それから、ブランシュ街の『オテル・デュ・ベリー』を知ってますか?『ピクラッツ』からも、ノートルダム・ド・ロレット街からも、たいして離れていないホテルですが、彼女はそこになんどか現われています。ここの女将《おかみ》がまたお喋りでしてね。以前に未成年の娘のことでトラブルを起こしたことがあるもので、こっちの心証を良くしておきたいと思ったんでしょうがね。ここに数週間前、アルレットは昼間に、背が小さくて、いかつい肩をした、こめかみのあたりに白いもののまじった男と来たそうなんです」
「それは女将《おかみ》の知っている男かね?」
「顔には見おぼえがあるようだけど、誰であるかは知らないそうです。たしか街中《まちなか》で見かける顔だというんですが。二人は夜の九時までいました。それまでアルレットは昼間とか夕刻に来たことはなかったし、まして長居したことはなかったので、記憶にのこっていたというわけです」
「フレッド・アルフォンシの写真を手に入れて、その女将《おかみ》に鑑別させてみろ」
ジャンヴィエは『ピクラッツ』の主人を識らなかったので、眉をひそめた。
「もし彼だったら、アルレットはほかでもその男と逢っていますよ。待ってください、リストを見ますから。ルピック街の『オテル・ルピック』。ここで応対に出たのは片足の男でしてね。夜は足が痛んで眠れないので、ずっと小説を読んですごすんだと言ってましたが、その彼がアルレットの顔をおぼえていたんです。彼の言うには、かなり頻繁におなじ男と来たそうで、その男を彼はルピック市場でときどき見かけるけれども、名前は知らない奴だと言っています。からだのがっしりした小男で、お昼頃、ワイシャツのカラーをはずした格好のまま、ぶらりと買物にあらわれるそうです。特徴は符合しますか?」
「あるいはな。アルフォンシの写真をもって、もう一度聞き込みのやりなおしだ。役所の記録に写真があるけれども、いかんせん古すぎる」
「本人から借りてきましょうか?」
「検証のためとかいって、身分証明書を提出させ、そいつから複写してしまえ」
給仕が入ってきて、メグレに話したいという婦人がみえていると告げた。
「待たせておけ。すぐすむから」
ジャンヴィエが口添えして、
「マルクーシが郵便物の整理にかかっています。アルレットの身許に関して、山ほど手紙が殺到したらしくて。また今朝は、二十本ほど電話での通報が入っています。しかし検討してみたところでは、まだ本命らしいのはひとつもありません」
「聞きこみのとき、オスカルのことは話してみたか?」
「はい。まるで手応えなしですね。というか、人相特徴の符合するオスカルは一人もいませんでした」
「ラポワントを入れてくれ」
ラポワント刑事は不安げな顔つきをしていた。いままで二人がアルレットの話をしていたことはわかりきっているのに、どうしていつものように、自分をその話に立合せてくれなかったのかと、問いかけている顔である。
警視に向けた彼の目差しには、ほとんど縋《すが》りつくような表情があった。
「ま、すわれよ。なにか新事実があったのなら、私から話す。しかし、昨日から、まるで前進していない、というのが現状だ」
「昨晩はあそこに行かれたのですか?」
「そうだ、前の晩にきみがすわっていたテーブルにいた。ところで、彼女は家族のことをきみに話さなかったかな?」
「私の知っているのは、彼女が家出をしてきたということぐらいです」
「その理由は聞かなかった?」
「偽善的なことが厭で厭でたまらなかったからだと言っていました。そのために、子供の時からずっと、息がつまりそうな気持を抱いていたそうです」
「正直に答えてほしいんだが、彼女はきみにたいして優しかったかい?」
「あそこで、なにを聞いてこられたんですか?」
「きみを友達として扱っていたか? 包み隠しのない話をきみにしたかね?」
「そういうときも、ままあった、と思います。うまく説明できませんけど」
「きみはずっと、彼女を口説いていたんだな?」
「愛していると打明けました」
「最初の晩に?」
「いいえ。最初の夜は友達といっしょで、私はほとんど口をききませんでした。二度めに一人で行ったときのことです」
「彼女はなんと答えた?」
「私を子供扱いしようとしました。私は二十四歳で、彼女より年上なんだぞと言ってやったのですが、
『問題は年月じゃないのよ、あんた。あたしはあんたより、ずっとおばあさんだわ』と、取りあわないんです。
ご存じのように、彼女には暗い翳《かげ》があって、絶望的なものさえ感じさせるほどでした。そのために私は彼女を好きになったのかもしれません。笑ったりふざけたりしていても、なにか苦いものが感じられるんです。おまけに……」
「つづけてくれ」
「あなたも、私のことを初心《うぶ》な奴と思っておられることはわかってます。彼女は私を遠ざけようとして、わざとらしく邪慳《じゃけん》な態度をとったり、ひどい言葉をつかってみせたりしました。
『ほかの男たちみたいに、あたしと寝るだけでどうして満足しようとしないの? あたしを見ても興奮しない? あたしね、どんな女にもできないようなことを教えてあげれるわよ。あたしぐらい経験を積んでいて、あたしみたいに上手な女って、ぜったいほかにいないんだから……』
そうだ! いま想いだしたけど、こうも言ってました、
『あたしには、いい教師《せんせい》がついてたからね』と」
「試してみようという気は起こらなかったのか?」
「そりゃ、彼女が欲しかった。ときには叫びだしたいような気持のときもありました。でも、そんなやり方で彼女を手に入れるのは厭だったんです。そんなことをすれば、すべて台無しになってしまいます。わかりますか?」
「わかるよ。それで、きみが生き方を変えるように勧めたとき、彼女はなんと答えた?」
「笑いました。私のことを、可愛い童貞さんとか呼んで、浴びるように酒を飲みました。あれは自棄《やけ》になっていた証拠ですよ。男はみつかったんですか?」
「どの男?」
「オスカルとかいう男です」
「まるで手がかりがない。それより、昨晩のきみのほうの成果を話してくれ」
ラポワントは書類の山を抱えてきていた。伯爵夫人の部屋から運んできて、彼が丹念に整理した書類や手紙と、彼自身でびっしり書きこんだノートである。
「ほぼ伯爵夫人の一生を再構成することができました」と、彼は言った。「今朝がた、ニース警察から電話連絡が入ったんです」
「話してくれ」
「まず、彼女の本名が、マドレーヌ・ラランドだということがわかりました」
「それは昨日、結婚証明書で見たよ」
「そうでしたね。すみません。出生地はラ・ロシュ=シュール=ヨンで、母親だけの家庭でした。父親はわかりません。マドレーヌはパリに出てきて女中をしていたのですが、数カ月後には、もう男《ひと》の囲いものになっています。情夫《おとこ》をつぎつぎと変え、そのたびに少しずつハシゴ段をのぼっていって、いまから十五年前には、コート・ダジュールの名だたる美女連の仲間入りをしていました」
「そのころから麻薬を用いていたのかな」
「わかりません。そうだと推量させるような形跡はみつかりませんでした。彼女は賭博が好きで、カジノ通いをしていました。そこでオーストリアの旧家の出であるフォン・ファルンハイム伯爵と出会ったわけです。伯爵は当時六十五歳でした。伯爵の手紙はここに、日付順に整理してあります」
「ぜんぶ目を通したのか?」
「はい。伯爵は彼女を熱烈に恋していたんです」
ラポワントは顔を赤らめた。ひょっとしたら彼がその手紙を書いた本人ではないか、と思わせるような狼狽ぶりである。
「じつに真情あふれる内容の手紙です。彼は自分がもう不能者《インポテンツ》にちかい老人にすぎないことを悟ったのです。最初のころはしごく丁重な内容でした。彼女のことを、『マダム』と呼び、それから『愛しい人』に変わり、最後は『私の可愛い娘《ひと》と呼びかけて、自分を棄てないでくれ、一人ぼっちにしないでくれ、と哀願しているのです。この世にはもはや彼女一人しかいないとか、これから最後の月日を、彼女なしで送ることなど考えられないということを、繰返し書いています」
「それで、二人はすぐいっしょになったのか?」
「いいえ。何カ月もたってからです。『オアシス』を買取る前に住んでいた家具つきの別荘で、彼が病気になったとき、彼女に客としてそこに住み込み、毎日何時間かずつ彼のそばについていてほしいと、頼んだのです。
手紙の文面からは、彼が誠心誠意であり、必死で彼女に縋りつこうとしていて、彼女のためならすべてを投げうつ覚悟でいることがうかがわれます。
二人の年齢の違いに悩み、彼女に与えられる生活がけっして愉しいものではないということもよく知っている、とまで言っているのです。ある手紙にはこう書いてあります。
『そんなに永いことではない。私は老人だし、健康もすぐれているとはいえない。あと何年かすれば貴女は自由になれるのです。そのとき貴女はまだ美しく、望むなら、財産も手に入り……』
また、ときには学生のラブレターみたいな調子で、
『愛している! 愛している! 愛している!』
かと思うと、突然ソロモンの雅歌のように、一種の惑乱状態になって、調子ががらりと変わり、いわば崇拝の念と激情をまじえた調子で彼女の肉体《からだ》を賛めたたえるんです。
『これほどの肉体が私のものになるとは信じられない。あの乳房、あの豊な腰、ふくよかなお腹……』」
メグレはじっとラポワントの顔に視線をあてたまま、にこりともしない。
「このときから、彼はマドレーヌを喪《うしな》うかもしれないという、脅迫観念にとりつかれるようになります。そして、嫉妬に苦しめられるようになるんです。それがたとえ彼を傷つけるようなことであっても、すべて真実を話してほしい、と彼女に頼んでいます。彼女が前の晩になにをしたか、どんな男たちと口をきいたかとか、根掘り葉掘りするんです。
カジノに出ていた美男のバンドマンのことにも触れていて、その男に伯爵は恐怖心に似た気持をいだいていたようです。それから、こんどは彼女の過去のことを知ろうとします。
『私が欲しいのは「貴女のすべて」なのだ……』
そして遂には、結婚してくれと頼むんです。
女のほうの手紙はありません。彼女は手紙も書かなかったらしく、返事は直接《じか》に口で伝えたのか、電話をするかしたのでしょう。年齢の差のことを改めて持ちだしている最後のほうの手紙で、彼はこう書いてます。
『貴女の美しい肉体には、私の力ではとうてい充たしてやることのできない欲求が宿っているということを、理解しているべきだった。それを想うと私は胸がはり裂けそうだ。考えるたびに死ぬほどの苦悶にさいなまれる。しかし貴女を喪うくらいなら、他の男たちとの共有に甘んじているほうがまだましだ。これ以降は決して見苦しい真似をしたり、貴女を責めたりはしないと誓います。今後も貴女は現在《いま》と同様に自由だし、私は、隅に引っ込んで、貴女が年老いた夫にいくらかの歓びをもってきてくれるのを、ひたすら待っているだけにしよう……』」
ラポワントはハンカチで洟《はな》をかんだ。
「二人はカプリ島へ行って結婚しました。なぜカプリ島を選んだのかはわかりません。特に結婚にあたっての契約書というのはありませんから、したがって財産はすべて二人の共有となったわけです。それから数カ月間は、コンスタンチノープルやカイロへと旅行してまわり、さらに数週間パリのシャンゼリゼの高級ホテルに滞在していました。この件についてはホテルの勘定書がのこっていました」
「伯爵が死んだのは、いつだね?」
「それに関する情報はニース警察が提供してくれました。結婚して三年たらず後です。二人は『オアシス』に落着きました。その後数カ月間、夫婦そろって運転手つきのリムジンで、モンテ・カルロ、カンヌ、ジュアン・レ・パンあたりのカジノに姿を見せていたそうです。
マドレーヌは豪華な衣装をまとい、宝石で飾りたてていました。二人が現われると、ちょっとしたセンセーションが起こりました。彼女はいやでも人目を惹いたし、一方夫のほうは、黒い山羊ひげに鼻眼鏡をつけた、ひ弱そうな小男で、彼女の尻にちょこまかついてまわっていたからです。みんな伯爵のことを、|ねずみ《ヽヽヽ》と呼んでいました。
彼女の賭け方は派手で、男とは所かまわずいちゃつくし、情事の数もそうとうなものだったと言われています。
ところが伯爵のほうは、まるで彼女の影みたいに、明け方までおとなしくじっと待っていたということです」
「伯爵の死因は?」
「ニースから報告書が郵送されてくることになっています。当時の調査記録がのこっているからです。『オアシス』はコート・ダジュールの絶壁道《コルニシュ》にあり、あのへんの別荘地はたいがいそうですが、棕櫚樹にかこまれた庭園が百メートルほども切りたった断崖の上に張りだしているんです。
伯爵の死体は、ある朝、その断崖の下で発見されました」
「酔っていたのか?」
「彼は食餌療養中でした。医者の判断では、彼が用いていたある薬剤が原因で、眩暈《めまい》をおこしたのだということです」
「伯爵と夫人はおなじ寝室で寝ていたのかね?」
「部屋は別々でした。その前夜は例によってカジノに行き、朝の三時頃帰っていますが、これは彼らとしては異例に早い帰宅です。夫人が疲れたからだそうです。その原因を彼女は率直に警察に述べていて、彼女はちょうど生理の時にあたり、ひどく気分が悪かったとのことでした。それで彼女はすぐに床に就いています。一方伯爵のほうは、運転手の証言によると、書斎に降りていったそうで、そこのフレンチ・ドアから庭園に出られるんです。それは彼が眠れないときの習慣だったようで、彼は不眠症だったのです。で、彼は外気にあたり、断崖の縁の石に腰掛けていたのではないかと思われています。そこは伯爵のお気に入りの場所で、そこからアンジュ湾や、ニースの街の灯、それから海岸《コート》の大部分が見晴らせるからです。
発見された死体には、暴力を加えられた形跡はなかったし、内臓検査が行われましたが、なんら異常はみとめられませんでした」
「その後伯爵夫人はどうなった?」
「オーストリアから出てきた甥か姪の息子が、遺産相続をめぐって訴訟をおこし、彼女がそれに勝訴したのは二年近くたってからでした。彼女はずっとニースの『オアシス』に住んでいました。その間、連日のように賑かな酒盛りで、それが朝までつづき、ときには客が泊まりこみ、目がさめるとまたドンチャン騒ぎをはじめるという調子でした。
地元署の報告によると、情夫《ジゴロ》も入れ替わり立ち替わり変わっていって、彼女の財産のおおかたを毟《むし》りとっていたようです。
彼女が麻薬に溺れるようになったのがこの頃だったのかどうか問い合わせてみたのですが、はっきりしたことはわからないようです。調査してくれることにはなっていますが、なにしろ古いことですから。現在までにみつかった記録は、不正確きわまるものだけで、はっきりしたことが掴めるかどうか覚束ないようです。
はっきりわかっているのは、彼女が酒と博奕が好きだったということで、調子に乗ると、誰でも彼でも家につれて帰ったそうです。ま、つまり、あの辺では彼女みたいな頭のおかしな連中はちっとも珍しくないんですよ。
彼女はルーレットに相当の金をつぎこんだようですね。なにしろ何時間もぶっつづけで、同じ目ばかり張りつづけることが、よくあったようですから。
伯爵の死後四年して、彼女は『オアシス』を売却しました。それもかなり窮乏していたらしく、安値で手放しているんです。現在はサナトリウムか保養所になっているのでしょう。いずれにしても、個人の住居でなくなっていることは確かです。
ニースでわかっているのはこの程度です。別荘を売り払った後、伯爵夫人の噂はぱったり途絶え、以後コートで彼女の姿を見たものはいません」
「賭博取締り班にあたってみるべきだな」メグレが言った。「それと麻薬班の連中からも、なにかつかめるかもしれんぞ」
「アルレットの件にかかわっちゃいけませんか?」
「まだだ。それから、もういちどニース警察に電話してもらおうか。伯爵の死亡時に『オアシス』にいた連中全員のリストを作ってもらうんだ。奉公人もぜんぶだぞ。十五年前とはいっても、そのうち何人かは見つけられるかもしれん」
雪は降りつづいていた。かなりの降りではあったが、風が強いためもあって、かろやかな雪片は壁や地面にふれるそばから溶けていった。
「それだけですか、警視《パトロン》」
「いまのところはな。一件書類を置いていけ」
「報告書をつくらなくていいんですか?」
「すべて終ってからだ。さあ、行け!」
メグレは立ちあがった。室内の熱気のせいでからだが気怠《けだる》い。おまけに口中の不快な味はあいかわらず消えず、後頭部には鈍痛がよどんでいた。彼は待合室に婦人の客を待たせてあることを想いだし、軽い運動のつもりで自分から迎えに出ていくことにした。時間の余裕さえあれば、ビヤホール『ドフィーヌ』まで一走りして、気付けに生ビールを一杯ひっかけてくるのだが、と思う。
ガラス窓のある待合室には、大勢の人がすわっていた。長椅子のグリーンがふだんより妙に生なましく見え、隅に立てかけられた傘が水溜りをつくっていた。目で客の姿をさがして、中年の黒服の女を見とめた。しゃんと背をのばして椅子にすわっていたのが、メグレの近づいてくるのを見て、立ちあがった。たぶん新聞で彼の写真を見たことがあるのだろう。
ロニョンもそこにいたが、立ちあがりもせず、すわったまま目で警視の姿を追って、ふとい溜め息をついただけだった。いかにもロニョンらしい。彼はいつもおのれを、不幸で運の悪い、不運の星の犠牲者のように考えていなければ気がすまないのである。パリの何十万人もの市民が眠っている夜中、彼はぬかるみを一晩中歩きまわらねばならなかったのだ。これはもはや彼の仕事ではなく、司法警察の管轄になっている。それでも彼は、どうせ他の人間の手柄にされることを承知の上で、自分にできる全力をつくし、新事実をさぐりだしてきたのだ。
彼がここに来てすでに三十分が経過していた。いっしょにつれてきている長髪の若い男は、顔色が悪く、とがった鼻をしていて、失神寸前のように目がすわっている。
そしてもちろん、だれ一人ロニョンに注意を向けようとしないのである。勝手にしびれを切らせておいて、彼が連行してきたのが誰なのかとも、なにかわかったのかとも、たずねようとすらしない。メグレにしてからが、小声でこういっただけだった。
「もう少し待ってくれ。ロニョン!」
そして婦人の客を先に立てて、警視室のドアを開け、なかに姿を消した。
「どうぞお掛けください」
メグレはすぐに、おのれの勘違いに気がついた。ラ・ローズの話があったことでもあり、この婦人客のどことなく堅苦しい尊大な外見、彼女の黒い衣装やとり澄ました態度から、てっきり彼女がアルレットの母親で、新聞で娘の写真を見てきたのだと思っていたのである。
しかし彼女の最初の切りだし方で、メグレは自分の早トチリを悟った。
「わたくし、リジウに住んでおりまして、今朝の一番列車でこちらへ参ったのです」
リジウなら海から遠くない。メグレの記憶ではたしか修道院もあったはずである。
「昨日の夕刊を見てすぐ、あの娘《こ》の写真に気がつきました」
いかにも痛ましげな表情をうかべてはいるが、それはそうすべき場合だと思っているからで、すこしも悲しんでいるようには見受けられない。むしろその小さな黒い眸には、勝ち誇ったような煌《きらめ》きすら見られた。
「もちろん四年も経ちますと娘は変わるものですし、特にわかりにくいのは、あの髪型のせいですわ。それでも、わたくしはあの娘《こ》だという自信があります。義姉《あね》に話してみればよかったのでしょうけど、わたくしたちもう何年もお付き合いがなくて、わたくしのほうから歩み寄るような立場でもありませんのでね。おわかりになりますかしら?」
「わかりますよ」メグレはパイプの煙をぷっと吹くと、憮然《ぶぜん》とした表情で答えた。
「もちろん名前は違います。でもああいう暮しをしておれば、変名を使うのは当然ですし。だたあの娘《こ》がアルレットという名前をつかって、ジャンヌ・ルルー名の身分証明書を持っていたというので、ちょっと混乱しましたのですよ。おかしなことに、わたくしの知りあいにも、ルルーというお宅があるものですから……」
メグレは窓外の雪をながめながら、辛抱づよく聴いていた。
「ともかくわたくしは、三人の方に写真を見てもらいました。アンヌ=マリーをご存じだった立派なお方ばかりですが、お三方とも、まちがいないと断言なさいました。たしかにあの娘《こ》、わたくしの兄と義姉の娘にちがいありません」
「お兄さんはご健在ですか?」
「子供が二歳のときに、亡くなりました。鉄道事故で、たぶんご記憶かと思いますが、あの有名なルーアンの大惨事です。わたくし、悪い予感がして……」
「お義姉《ねえ》さんはリジウにお住まいですね?」
「あの人は土地を離れたことはありません。でも、さっきも申しましたように、わたくしたちお付き合いがありませんの。どうしても理解し合えない性格の人って、ございましょう? 話題を変えましょう」
「変えましょう」メグレも口移しに言った。
そして質問してみた。
「ところで、お兄さんのお名前は?」
「トロシャン。ガストン・トロシャンです。わたくしたちの家系は由緒の正しい、たぶんリジウで一番の旧家でして。あそこの土地のことご存じかどうか知りませんけど」
「ええ、知りません。通ったことがあるだけでして」
「でも広場にある、トロシャン将軍の銅像はご覧になったでしょう。あれがわたくしたちの曾祖父ですわ。それに、カーンへ向かう道を行かれたのでしたら、右手にスレート葺きの城館が見えたはずで、あれが代々の館だったのです。いまはわたくしたちのものではありませんけれど。一九一四年の戦争の後、新興の成金が買取ったのです。それでも兄は結構楽しくやっておりましたのですよ」
「お兄さんのご職業をうかがっても構いませんか?」
「山林監督官でした。義姉のほうは、小金を貯めこんだ金物商の娘で、十軒ほどの持家と農地を二つばかり相続したのです。兄の代になってからは、兄のおかげでみんなも彼女を認めるようになりました。でも未亡人になってからは、彼女がそれに相応《ふさわ》しい女《ひと》ではないということが、みんなにもわかりまして、いわば大きな邸に一人ぼっちで暮しております」
「彼女も新聞を読んだと思われますか?」
「もちろんですわ。写真はみんながとっている、地方紙の第一面に出てましたもの」
「それでわれわれのところになんの連絡もないと聞かれても、あなたは驚かれないわけですな?」
「ええ、そうですわ、警視さん。連絡なんかするはずはありませんもの。あの女《ひと》、それは気位が高いのですから。たとえ死体を見せられても、ぜったいに自分の娘ではないと言い張るにちがいありませんわよ。わたくし知っておりますけど、あの娘《こ》が消息を絶ってから四年になりますのよ。リジウではだれも行方を知りません。それでもあの女《ひと》が気に病むのは娘のことではなくて、世間の噂のほうなのです」
「どういうわけで姪ごさんが母親の家を出たのか、ご存じありませんか?」
「ともかくあの女《ひと》とは、だれだろうといっしょに暮していけない、とお答えしておきますわ。でも理由は他にもあったのです。あの娘はいったいだれの血を引いたのか、父親似でないことだけは、だれにお訊きになってもわかりますわ。それでもとにかく、十五歳のときに修道院へ入れたんですけどね。それからはわたくし、夜分に外出しなければならないときなど、暗い物陰をのぞくのが怖くて、そこにあの娘《こ》が男といっしょにいるのではないかと、びくびくしてましたの。妻子のある男だろうと見境いがないのです。義姉はあの娘《こ》を監禁しておくのが当然だと思ったようですけど、けっして良策ではありませんでした。よけい火に油を注ぐ結果になっただけでした。あの娘が裸足で窓から抜け出すのを見たとか、それで町中をうろついていたとか、町中の噂になったのですわ」
「姪ごさんだとわかる、なにか目じるしのようなものはありませんか?」
「ございますわ」
「どんな?」
「残念ながら、わたくしには子供がございません。主人はあまり丈夫なほうではなく、もう何年も病んでおります。姪が赤ん坊のころ、わたくしたち、つまりあの娘《こ》の母親とわたくしとはまだ不仲になっておりませんでした。それでときどき、義姉は赤ん坊をわたくしに預けたことがございまして、あの子の左足のかかとに、生まれつきの痣があったのを記憶しております。赤紫色の小さな痣ですが、ずっと消えずに残っていたはずです」
メグレは送受器をとって、法医学研究所を呼びだした。
「もしもし! こちら司法警察。昨日運ばれた若い女の死体の左足をしらべてほしいんだが……そう……切らずに待ってるよ……なにか特に気付いたことがあったら教えてくれないか……」
彼女はいささかの揺ぎも見せずに待っていた。およそ自分自身にたいする疑念など、つゆほども抱いたことのない女らしく、組んだ手をハンドバッグの銀の止め金の上において、背をまっすぐに伸ばしてすわっている。おそらく教会ですわっているときも、おなじく堅い表情で、説教に聴き入っていることだろうと思わせた。
「もしもし?……そう……なるほど……ご苦労さん……死体の確認のため、ご婦人にそちらへ行ってもらうことになると思うから」
リジウから来た婦人のほうを向いて、
「お厭じゃないでしょうな?」
「義務でございますから」と、彼女は答えた。
メグレはこれ以上ロニョンを待たせる勇気はなかったし、ことに死体公示所《モルグ》までこの女に同行する気はさらさらなかった。隣りの部屋をのぞいてみて、
「手|空《す》きか、リュカ?」
「ジャヴェル事件の報告書を書き終えたところです」
「ご婦人のお伴をして、法医学研究所まで行ってくれないか」
彼女はリュカ巡査部長よりも背が高く、痩せていた。彼女が先に立って廊下を歩いて行く図は、まるで彼女のほうがリュカに網をつけて、引立てているようにすら見えた。
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第六章
ロニョンは若い男の背中を押しながら入ってきた。男の長髪は首筋のあたりで波打っている。メグレは彼が紐でくくった、茶色のズックの、重いトランクを提げているのに目をとめた。そのせいでまっすぐ歩けないのである。
メグレはドアを開けて、若い男を刑事部屋に入れてやった。
「その中になにが入っているか調べてみろ」彼は刑事たちに言った。
だが、席へもどる前に、思いなおして、
「彼のズボンを脱がせて、注射の痕《あと》がないか見てみるんだ」
無愛想な刑事と二人だけで向かい合うと、メグレは彼を好意の目差しでながめた。その不機嫌の故に彼に腹をたててみせてもはじまらない。彼の細君が、彼の生活を愉快なものにする内助の役に立っていないことを、メグレは知っていた。同僚たちも、もっとロニョンに親切にしてやってもよさそうなものだが、こればかりはどうにもならない面がある。いつも破局のにおいを追いかけているような、彼の悲痛な表情を目にすると、ついつい肩をすくめてやりすごすか、ニヤリとしてしまいたくなるのだ。
彼がいつのまにか悪運と不機嫌にたいする嗜好を持ちはじめているのではないかと、メグレは心ひそかに憂慮していた。それがいつとはしれず悪癖になってしまい、たとえば老人が愚痴のたねにするために気管支カタルを温存するように、後生大事に、その悪癖をかかえこんでしまっているのではないか。
「いいかね?」
「いいですよ、どうぞ」
つまりロニョンは、私は下っ端にすぎないのだから、いつでも質問してくださればお答えしますよ、と言っているのである。それは同時に、もし司法警察局が存在しなかったら捜査は彼の手にわたっていたはずであり、その彼こそ管轄の街区を自分の掌のように熟知しているのであり、その彼が昨夜から寝る間も惜しんで駈けずりまわって、いまここに報告のために出頭しているというのは、なんともひどい話ではないか、と考えている、という意味でもある。
口元の皺が能弁に彼の気持を代弁していた。
『これからどうなるか、おれにはちゃんとわかっている。いつでもこうなんだ。あんたは巧妙におれに喋らせ、それで明日か明後日か、新聞には、メグレ警視が事件を解決、という記事が出る。そしてみんなが、またもやあんたの勘とか捜査方法を話題にする。とこういうわけだ』
しかしロニョンは内心、本気でそれを信じているわけでもない。そしておそらく、それこそが彼の態度の真意を説明するものなのだが、彼にはこういう気持がある。メグレが警視になり、あるいはここの連中が特捜班に所属していられて、他のものたちのように街警察署のあたりで寒さのなかを足踏みしていなくてもすむのは、彼らが好機《チャンス》に恵まれていたか、いいコネがあったか、あるいは自分を売りこむ術を心得ていたからにほかならない、と。
ロニョンくらい腹に一物も二持も持っている人間はほかにいないのである。
「どこで捕まえてきた?」
「北駅ですよ」
「いつ?」
「今朝の六時半。まだ暗かったですね」
「彼の名を知っているのか?」
「昔から知ってますよ。奴をパクるのはこれで八度目ですからね。フィリップの洗礼名《プレノン》だけで知られていますが、フルネームはフィリップ・モルトマール。親爺がナンシー大学の教授です」
いちど訊いただけで、ロニョンがこれだけのことをいっきに喋るなどどいうのは、まさに驚きであった。彼の靴は泥にまみれていた。それも古くて水がもるのにちがいない。ズボンのあたりまで濡れており、疲労もあらわな彼の目は赤い隈取りができていた。
「長髪の若い男のことを門番の女が言ったとき、すぐに彼だと察しがついたのかね?」
「あの街のことなら私はよく知ってますからね」
ということはつまり、メグレや彼の部下たちの出る幕ではない、という意味である。
「きみは彼の家に行ってみたんだな? どこに住んでいるのかね?」
「ロシュシュアール通りのアパルトマンの、昔の女中部屋です。奴はいませんでした」
「それは何時だった?」
「昨日の午後六時」
「そのときはすでにトランクを持ちだしていたのか?」
「まだです」
ロニョンが執念深い猟犬のように、じつに粘りづよいことは認めてやらねばならない。いったん手がかりをつかんだら、たとえそれが本星だという確信がなくとも、とことんまで諦めずに喰らいついて行く。
「昨夕の六時から今朝まで彼を探しまわっていたのかね?」
「奴があらわれる場所はわかってますからね。奴にしてみれば、逃走する資金が必要なんで、借金ができる相手がみつかるまで、ほっつき歩いてたってわけです。奴がトランクを取りにもどったのは金ができてからですよ」
「どうして北駅にいるとわかった?」
「奴がアンヴェール公園からバスに乗るところを見た、女の子から聞いたんですよ。奴は待合室にいました」
「で、今朝の七時以後は何をしていた?」
「署に連行して尋問してましたよ」
「それで?」
妙だった。ロニョン刑事は早くここから退散したがっているような感じである。それも早く帰って寝たい、というのとは違うらしい。
「奴のことはお任せしていいですね?」
「報告書は作らなかったのかね?」
「今晩、うちの署長に提出しますよ」
「伯爵夫人に麻薬を渡していたのはフィリップだったのかね?」
「でなきゃ、彼女が奴に分けてやっていたんですよ。どっちにしても、奴らがいっしょのところを、なんども人に見られているんです」
「いつごろから?」
「何カ月も前からです。もうご用がないんでしたら、私は……」
まちがいなく、なにか企んでいる。フィリップが耳よりな話をもらしたのか、それとも昨晩歩きまわっている途中で、手がかりになりそうな情報をつかんだのか。いずれにしろ他人が手をつけないうちに、早くその線を追いたがっているのだ。
メグレとて、あの界隈のことはよく知っていた。フィリップとロニョン刑事の昨晩の行動がどうだったかも、およそ想像がつく。フィリップは金を借りるため、知人という知人を片端から捜しまわり、中毒者仲間にも当ってみなければならなかったはずである。いかがわしいホテルの前で客の袖を引いている女たちとか、カフェのボーイ、キャバレーの客引きなどにも、声をかけただろう。そして街頭に人影がなくなるころになると、こんどは、みすぼらしいボロ家の戸をたたいてまわる。そこには彼とおなじようにうらぶれ、彼と同様に金のない、人生の落伍者たちが巣喰っているのだ。
彼はせめて自分用の分の薬ぐらいは手に入れたのだろうか。さもなければ、いまに|ぼろくず《ヽヽヽヽ》のようにぶっ倒れるにちがいない。
「行ってもいいですか?」
「ご苦労だった。よくやってくれたよ」
「私は奴が夫人を殺した犯人だと思ってるわけではありませんよ」
「私もだ」
「奴を引留めておいてくれますね?」
「いいだろう」
ロニョンは出て行った。メグレは刑事部屋のドアを開けた。床の上のトランクが口をあけて、中身が拡げられていた。フィリップの顔は、まさしく融けたろうそくそのもの、といった感じであった。だれかが動くたびに、腕をあげて、殴られるのを防ぐような恰好をする。
そんな彼に同情の目を向けるものは一人もいなかった。みんなの顔にいちように嫌悪の色がうかんでいる。
トランクの中身は、着古した下着、替えの靴下一足、いくつかの薬壜(メグレは匂いを嗅いでみて中身がヘロインではないことを確かめた。)、それとノートが数冊である。
メグレはノートをぱらぱらめくってみた。詩が書きこまれていた。詩というよりも、麻薬中毒者の妄想から生まれた脈略のない言葉の羅列、といったほうがより正確だろう。
「こっちへ来い!」メグレが言った。
フィリップは彼の前を、尻を蹴とばされるのを予期しているような恰好で歩いた。どうやら習性になっているらしい。この種の人間を見るとぶん殴らずにはいられなくなる連中が、モンマルトルにもいるのだ。
メグレは腰をおろしたが、彼にはすわるようにとは言わなかった。フィリップは佇立《ちょりつ》したまま、鼻孔をいらいらと蠢《うごめ》かして、たえず空鼻をくすんくすん鳴らした。
「伯爵夫人はお前さんの情婦だったのか?」
「あたしの保護者だったのよ」
明らかに男色者のしゃべり方だった。
「つまり彼女とは寝なかったということかね?」
「彼女はあたしの作品が好きだったのよ」
「で、お前さんに金をくれた?」
「生活の援助をしてくれたんだわ」
「たくさん貰った?」
「そんなにお金持ちじゃなかったわ」
それは彼の着ている服を一目見ればわかった。ダブルのスーツで、仕立ては悪くないが、青糸の織りがはっきり見えるほど擦りきれていた。靴も貰いものらしい。エナメル革の靴で、どちらかというと彼がいま引っかけているよれよれのレインコートよりは、タキシードに合いそうな品物である。
「なぜベルギーへ逃げようとしたんだ?」
すぐには返事をしなかった。隣りの刑事部屋のほうをちらちら見る。いまにメグレが、彼を痛めつけるために、向こうにいる二人の屈強な刑事を呼ぶのではないかと、びくついているような按配である。前に拘留されたとき、そういう目に会ったのかもしれない。
「あたし、なにも悪いことしてないわ。どうして捕らえられたのかわかんないわ」
「お前さん、男専門かい?」
どの男色者もそうだが、彼も内心ではそれを誇りにしているらしく、いやに紅い唇に、ふっと薄ら笑いがうかんだ。真の男らしい男に痛めつけられるのを、ほんとうは嬉しがっているのかもしれない。
「答えたくないのか?」
「男の友達《アミ》はいるわ」
「しかし女の友達《アミ》もいるのか?」
「それはまた別よ」
「ということは、つまり、男の友達《アミ》は情事の付合いで、年上の女たちとの付合いは金銭ずくということだな」
「彼女たちはあたしがいっしょにいてあげれば嬉しいのよ」
「大勢いるのかね?」
「三、四人ね」
「みんなお前さんの保護者か?」
こういった事柄を平静に話し、この若者を自分とおなじ人間として見るためには、相当の自制心が必要だった。
「ときどき援助してくれるわね」
「彼女らも麻薬《くすり》をやるのかね?」
相手がぷいと横を向いたとたん、メグレの怒りが爆発した。椅子を蹴って立ちあがったり、相手の薄汚れたレインコートの襟をつかんだりこそしなかったが、破《わ》れんばかりの声を叩きつけるように吐きだした。
「おい! 今日のおれは虫の居所があんまり良くないんだ。それにおれはロニョンとも違う。いますぐ吐けばよし、さもなければ、当分の間ブチ込んでやるからそう思え。それもうちの刑事連中とたっぷり付合ってもらった上でな」
「刑事たちにあたしを殴らせようっていうの?」
「連中はやりたいようにやるさ」
「そんな権利はないわよ」
「お前だって、ここの空気を勝手に汚す権利はない。さあ、答えろ。いつから伯爵夫人と知り合った?」
「六カ月前ぐらいよ」
「どこで会った?」
「ヴィクトール・マッセ街の小さなバー。彼女の家の向かいにある店よ」
「彼女が麻薬《くすり》をやっていると、すぐにわかったのか?」
「そりゃすぐわかるわよ」
「で、話しかけたんだな?」
「少し分けてちょうだい、って言ったの」
「彼女、自分で持っていたのか?」
「そう」
「たくさん?」
「ほとんど欠かしたことなかったわね」
「どこから手に入れていたか知っているか?」
「話してくれなかったわ」
「答えろ。知ってるのか、どうだ?」
「たぶん」
「どこから?」
「お医者よ」
「薬《ヤク》をやってる医者か?」
「ええ」
「ブロックという医者か?」
「名前は知らない」
「嘘つけ。彼に会いに行ったことは?」
「あるわ」
「なにしに?」
「薬《ヤク》をもらいに」
「くれたのか?」
「一度だけね」
「お前が他人《ひと》に喋ると脅したからか?」
「どうしても欲しかったのよ。三日もきらしてたし。注射を打ってくれたわ、たった一本だけ」
「伯爵夫人とはどこで逢っていた?」
「バーか彼女の家かね」
「なぜ彼女は、モルヒネとかお金とか、お前にくれたんだ?」
「あたしに気があったからだわ」
「まともに答えろと言ったはずだぞ」
「彼女、淋しかったのよ」
「友達はいなかったのか?」
「いつも一人ぼっちだった」
「彼女と寝たのか?」
「喜ばしてあげたいと思ったの」
「彼女の家で?」
「ええ」
「それで二人して赤ワインを飲んだ?」
「あれを飲むと気分が悪くなるの」
「で、彼女のベッドでいっしょに眠ったわけだな。彼女のところに泊まったことは?」
「二日間居続けたことはあるわ」
「カーテンを閉めっぱなしでか。昼間だか夜もわからずにな、そうだろう?」
そのあと夢遊病者のようにふらふらと街にさまよい出て、もはや自分がはみ出してしまったこの世界を、つぎのチャンスを求めて、うろつきまわったのに相違ない。
「お前さん、いくつだ?」
「二十八よ」
「いつから始めた?」
「三、四年になるかしら」
「なぜ?」
「わかんない」
「いワでも両親とは連絡があるのか?」
「ずっと前に、父から勘当されたわ」
「お袋さんは?」
「ときどき、こっそり郵便為替を送ってくれる」
「伯爵夫人のことを話してくれ」
「なんにも知らない」
「知っていることだけでいい」
「昔は大金持ちだったらしい。愛してもいない老人と結婚してたのね。その老人は彼女に片時も息つく暇をあたえず、私立探偵に彼女のあとをつけさせていたそうよ」
「彼女がそう話したのか?」
「ええ。毎日毎日、彼女のすることなすことを、それこそ逐一調べさせていたんだって」
「彼女はそのころから薬《ヤク》を用いていたのか?」
「ううん、そうじゃないと思う。彼が死んでからは、みんなが寄ってたかって、彼の遺したお金を彼女から捲きあげてしまったのね」
「みんな、とは?」
「コート・ダジュールのジゴロとか、プロの博奕打ちとか、女友達とか……」
「その連中の名前は言わなかったか?」
「さあ、憶えてないわ。わかるでしょ。薬《ヤク》が効いていると、話し方もころころ変わるし……」
メグレはそういう話を聞いたことはあった。自分で実地に試してみたことはない。
「彼女はいまでも金を持っていたかね?」
「たいしたことないわよ。そのつど宝石を売ったりしてたんじゃないの」
「宝石を見たことあるのか?」
「ないわ」
「お前さんを警戒していたのかな?」
「どうだか」
からだがゆらゆら揺れている。ぶかぶかのパンタロンに隠れた二本の脚は、おそらく骸骨のように痩せ細っているのにちがいない。メグレは彼にすわるような手ぶりで指示した。
「お前さんのほかに、このパリで、彼女から金をせびっていた奴はいたのか?」
「聞いたことないわ」
「彼女の家で誰かを見かけたとか、街中《まちなか》やパリで、彼女が誰かといっしょのところを見たことはないか?」
明らかにためらいの色を見せた。
「な、ないわ!」
メグレは彼を睨《にら》みすえた。
「さっき言われたことを忘れやしまいな?」
しかしフィリップは立ち直った。
「彼女が誰かといるところなんて、見たことありません」
「男も女も?」
「誰とも」
「オスカルという名前を聞いたこともないか?」
「そんな人知らない」
「彼女が誰かを怖がっているようすはなかったか?」
「一人で死ぬことばかり怖がってたわ」
「彼女と喧嘩をしたことはあるだろう?」
あまりにも蒼白な顔色には、紅味がさす余地すらなかったが、それでも耳朶の辺がわずかに染まった。
「どうして知ってるんですか?」
それから、いささか人を小馬鹿にしたような薄ら笑いをうかべて、
「いつもお終いはそんなふうなんだから」
「話してみろ」
「誰にでも聞いてごらんよ」
つまり、『麻薬中毒者なら誰でも……』という意味である。
つづいて、理解してもらえないと思ったのか、がっかりしたような声で、
「薬《ヤク》が失くなって、すぐに手に入る当てがないようなとき、彼女はあたしに喰ってかかったわ。あたしが彼女に薬《ヤク》をたかるだけじゃなく、泥棒までしてるって言ってね。ゆうべは確かに、引出しにアンプルが半ダースとか一ダースとかあったはずだ、と言い張るわけよ」
「彼女の部屋の鍵を、お前さんは持っていたのか?」
「いいえ」
「彼女の留守中に部屋に入ったことは?」
「彼女、たいていいつもいたもの。一週間以上も、部屋から一歩も出ないことだってざらだったわ」
「ウイかノンか、はっきり答えろ。彼女の留守中に部屋に入ったことはないんだな?」
ふたたび、ごくわずかだが、逡巡を見せた。
「ないわ」
メグレはまるで独言のように、うなった。
「嘘つけ!」
フィリップのせいで、この部屋までがヴィクトール・マッセ街の伯爵夫人のアパルトマンのように、息苦しく、非現実的な様相をおびてきた。
中毒者にたいするメグレの知識の程度からしても、フィリップが薬を切らしたときは、是が非でも手に入れようと、必死になったにちがいないことは理解できた。逃走資金を求めてさまよった昨晩のように、もはや恥も外聞もなく、知りあいという知りあいの間を訪ねまわったことだろう。
かといって彼が生きているどん底の世界では、いつも簡単に手に入るというわけにはいかないだろう。そこでふと、伯爵夫人がいつも引出しに蓄えを持っていることに思い至る。しかもたまたま彼女が吝嗇《けち》になって、彼に薬を渡すことを拒んだとしたら、彼女が家をあけた隙をねらおうと考えるのは、しごく当然の成行ではないだろうか。
これは単なる直感にすぎなかったが、筋は通っていた。
この連中はおたがい猜疑心《さいぎしん》が強く、嫉妬し合い、相手のものを盗み、ときには密告もしかねない。この手の復讐心にかられた連中が、司法警察にかけてくる匿名の電話は、それこそ枚挙にいとまがいないほどである。
「最後に彼女に逢ったのはいつだ?」
「一昨日の朝」
「昨日の朝のまちがいじゃないのか?」
「昨日の朝は、あたし病気で、臥せっていたもの」
「なんの病気?」
「まる二日、薬を切らしてたの」
「彼女からもらえなかったのか?」
「彼女のところにもないし、お医者が持ってきてくれないんだって、言ってたわ」
「で、二人で喧嘩したんだろう?」
「二人とも機嫌が悪かったのよ」
「彼女の言葉を信じたのか?」
「からっぽの引出しをあたしに見せたわ」
「医者はいつくることになっていたんだ?」
「彼女も知らなかったわ。彼女が電話をしたら、お医者がくるって約束したのよ」
「お前さんは、そのあとまた、彼女のところへ引返したのじゃないのか?」
「ちがうわ」
「よし、いいか。伯爵夫人の死体が発見されたのは、昨日の午後五時ごろだった。夕刊はすでに発行されていて、このニュースが新聞に出たのは今朝になってからだ。なのにお前さんは、すでに昨晩、ベルギーへ逃げるために借金に駆けずりまわっていた。伯爵夫人が殺されたことを、どうして知っていたんだ?」
明らかに「知らないわ」と言いそうな素振りを見せた。
だが、メグレのきびしい視線に射すくめられて、思いなおした。
「街を歩いていて、野次馬がたかっているのを見たからよ」
「それは何時だった?」
「六時半ごろよ」
メグレがアパルトマン内にいた時刻である。たしかにそのころ、玄関のところで警官が野次馬を制していたはずである。
「ポケットの中身を見せろ」
「もうロニョン刑事に出して見せたわ」
「もういっぺんやるんだ」
彼はポケットから、汚れたハンカチ、鍵が二個ついたキーホルダー(そのうちの一個はトランクの鍵だ)、ナイフ、財布、丸薬の小箱、パス入れ、手帳、ケースに入った皮下注射器と、ぞろぞろ引っぱりだした。
メグレは手帳を手にとって見た。相当に古くてページが黄ばんでおり、アドレスと電話番号がびっしり書きこまれていた。人の名前は、イニシャルか洗礼名《プレノン》だけで、ほとんど苗字はない。オスカルの名はなかった。
「伯爵夫人が絞殺されたと知ったとき、自分が疑われると思ったんだな?」
「いつだってそうなんだもの」
「そこでベルギーへ逃げることに決めた。向こうに知人がいるのか?」
「ブリュッセルにはなんども行ったことがあるわ」
「だれから金をもらった?」
「友達よ」
「なんという友達?」
「名前は知らない」
「言ったほうが身のためだぞ」
「お医者よ」
「ブロック医師か?」
「そう。どうしようもなかったのよ。朝方の三時になっていたし、だんだん怖くなってくるしでね。それでコーランクール街のバーから、彼に電話しちゃったの」
「彼になんと言ったんだ?」
「あたしは伯爵夫人の友達で、どうしてもお金が要《い》るんだって」
「すぐに承知したのか?」
「もしあたしが捕ったら、彼もただじゃすまないよ、って言ってやった」
「要するに強請《ゆす》ったわけだ。彼は家にこいと言ったのか?」
「彼が住んでるヴィクトール・マッセ街のほうへ歩いてくれば、彼が路上で待ってるからって」
「要求したのは金だけか?」
「それと薬を一本」
「たぶんそいつを物陰で大急ぎで打ったんだろう? それでお終いか? 洗いざらい話してしまったか?」
「ほかになんにも知らないわ」
「あの医師も男色者《ホモ》か?」
「ちがうわ」
「どうしてわかる?」
フィリップは肩をすくめた。初心《うぶ》な質問をするな、とでも言いたげである。
「腹はすかないか?」
「すかない」
「のども渇かない?」
フィリップの唇がふるえた。しかし彼が欲しているのは、食物でも飲物でもなかった。
メグレは、しかたないとでもいうように、立ちあがった。隣りの刑事部屋のドアを開く。たまたまトランスの姿が目に入った。屠殺人の腕を持つ、がっしりとした巨体の刑事である。トランスから尋問を受けたことのある連中で、優しく扱われたという印象を抱いたものは、おそらく一人もいないのではないだろうか。
「来てくれ」メグレが声をかけた。「このお兄さんと差しで籠《こも》ってもらいたいんだ。腹の中にあるものをすっかり吐くまで、外に出してやるなよ。二十四時間かかろうと、三日かかろうと、かまわん。くたびれたら、誰かと交替しろ」
フィリップはうろたえて、抗議した。
「知ってることはみんな話したじゃないか。人の弱みにつけこみやがって……」
声が怒った女のように甲高くなる。
「このケダモノ!……あんたなんか大嫌い!……あんたなんか……あんたなんか……」
メグレはわきに寄って彼を通してやりながら、巨体のトランスと目くばせを交した。トランスはフィリップをつれて刑事部屋を通りぬけ、みんなが冗談に告解室と呼んでいる取調べ室に入っていった。入りぎわにわざとラポワントに呼びかけてみせる。
「ビールとサンドイッッチを注文しといてくれよな!」
刑事たちだけになると、メグレは背伸びをして、深呼吸をした。もう少しで、窓まで開けそうになったくらいである。
「どうだね、諸君?」
そこではじめて、リュカがすでに帰ってきていることに気がついた。
「彼女、また来ていますよ、警視《パトロン》。あなたに話があるそうです」
「リジウからきたあの叔母さんか? ところで、あっちではどうだった?」
「他人の葬式を最高の楽しみにしている婆さんみたいでしたね。気付け薬なんかこれっぽちも必要ない感じで、死人の爪先から頭の天辺まで、いとも冷静にじっくり調べましたよ。その最中で、いちどだけハッとして訊いたんです。
『どうして毛を剃ったんですの?』ってね。
こっちがやったのじゃないと答えると、さすがに口がきけないようでしたよ。それから蹠《あしうら》の痣を見せて言ったもんです。
『ほらね! これがなくても、この娘《こ》だということはわかりましたけどね』
そして帰ろうとしたら、私に相談もなしにこう言ったんです。
『ご一緒に警察にもどりましょう。警視にお話しなければならないことがございますから』
というわけで、彼女、待合室にいます。どうも易々とは帰ってくれそうにないようですよ」
ラポワントが電話をとったところだった。通話の状態がよくないらしい。
「ニースかね?」
彼が、そうだ、と肯いてみせた。ジャンヴィエはいなかった。メグレは自室にもどると、守衛を呼んで、リジウの婦人を部屋に通させた。
「私になにかお話がおありだそうですが?」
「あなたにご興味がおありかどうかわかりませんけど、わたくし、途々考えておりましたの。おわかりでございましょう、人間ってよく、その気がないのに記憶を掘りおこしたりするものですわ。わたくし、人の悪口を言う女だと思われたくはないのですけれど」
「お聴きしましょう」
「アンヌ=マリーのことなんですの。今朝ほど申しましたように、あの娘《こ》が五年前にリジウを出てしまいましてから、母親はあの娘がどうなったのか知ろうともしませんでした。母親としたら、ずいぶん酷《ひど》いことだと、わたくしなんか思いましたけどね」
黙って待つしかなかった。先をうながしてみても所詮むだだろう。
「当時のことですけれど、みんな、なにやかやと言いましてね。リジウは小さな町ですから、どんなことでもパッと拡まってしまうのですわ。ところで、わたくしが全幅の信頼をおいているご婦人で、毎週カーンにご商売の関係でお出かけになっている方がいらっしゃるのですが、このお方がアンヌ=マリーがいなくなったのと同じころ、カーンであの娘《こ》を見たと、それこそ誓ってもいいぐらいにおっしゃってましてね。それがちょうど、医院に入っていくところだったと、こうおっしゃるのですよ」
彼女は満足したように言葉を切った。メグレがなんの質問もしないので内心びっくりしたのか溜息をついてからつづけた。
「それが、あなた、ただの医院というのじゃなくて、ポチュ先生という産科医のところだったんですって」
「つまりあなたは、姪ごさんが町を出たのは、妊娠したためだったと思っておられるわけですな?」
「そういう噂が拡まったんですの。誰が子供の父親だろうと、みんなが詮索しましてね」
「それで、わかったのですか?」
「それが大勢いて、選択に苦しむほどでしたわ。でもわたくしには、わたくしなりのちょっとした意見がございまして、そのためにここに戻ってまいったんですのよ。あなたをお助けして、真実を見つけて頂くのが、わたくしの義務ですから、そうじゃございません?」
一般にいわれているほど、警察というところは詮索好きではないと、彼女は思いはじめたにちがいない。メグレがいっこうに相槌を打つ気配もなく、話の先をうながすでもなく、まるで格子窓の奥にうずくまっている聴罪司祭のように、どうでもいいような顔をして聴いているからである。
彼女はここが最大のポイントだとばかり喋りまくった。
「アンヌ=マリーはのどが弱うございましてね。毎冬、それも一度ならず扁桃腺炎をわずらっていまして、扁桃腺を手術してからも良くはなりませんでしたの。あの年、わたくしは憶えておりますけど、義姉が思いたって、のどの病いに効くといわれているブルブールの温泉場に、あの娘を療養につれてまいったのです」
メグレはしゃがれたようなアルレットの声を想い起こしていた。あのときは、酒やタバコや夜ふかしのせいだろうと思っていたのだ。
「リジウから姿を消したとき、あの娘《こ》のお腹は、まだ人目につくというほどじゃございませんでした。せいぜい言って、三カ月か四カ月ていどだったのじゃございませんでしょうかしら。それにあの娘はいつも、身にぴったりついた服を着ておりました。そこなんですけど、その月がちょうどブルブール滞在の頃とぴったり一致するんですの。わたくしが思いますに、あの娘はそのとき知り合った男の子供をお腹に宿し、それできっと、その男にまた会いに行ったのではないか、と。もしもそれがリジウの男だったとすれば、男はあの娘に子供を墜ろさせるか、いっしょに町を出るかしたはずですわ」
メグレはパイプにゆっくり火をつけた。長時間歩きまわった後のような疲労感をおぼえたが、違うところは、胸がむかつくことだった。フィリップのときと同様、窓を開け放してしまいたい気分だった。
「たぶん、リジウへお帰りでしょうな?」
「今日は帰りません。四、五日パリにいて、お友達の家に泊めて頂こうと思っておりますの。その方のご住所をお教えしておきますわ」
それはパストゥール通りの近くだった。名刺の裏にアドレスが認《したた》めてある。電話番号もあった。
「わたくしにご用の時は、お電話くだされば結構ですわ」
「それはどうも」
「いつでもお役に立ちますから」
「きっとそうでしょうな」
メグレはにこりともせずに、彼女をドアのところまで見送った。ゆっくりドアを閉じると、両手で頭をごしごし擦って、溜息まじりにつぶやく。
「糞くらえ!」
「入ってもいいですか、警視《パトロン》?」
ラポワントだった。紙片を手にして、ひどく興奮しているようす。
「ビールは注文したか?」
「ビヤホール『ドフィーヌ』のボーイがいましがた運んできたばかりですが」
まだ取調べ室のトランスのところへ運んでいなかった。メグレは冷えきった、泡だつ生ビールを、ぐいぐいと一息に飲み干してしまった。
「彼の分は、もう一杯注文しとけ!」
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第七章
ラポワントの口調には、いくぶん嫉妬の色がのぞいていた。
「ジュリアン君からの心からの挨拶を、まずお伝えします。そう言えば、おわかりになるはずだとか」
「彼はニースにいるのかね?」
「数週間前、リモージュから転勤になったのだそうですが」
永年のあいだメグレとともに働いていたが、のちにコート・ダジュールへ引き籠った、老刑事の息子である。図らずもメグレは、この息子のジュリアンとは、いわば彼を膝の上で遊ばせてやった頃からずっと再会していない。
「昨晩私が電話した相手が彼なんです」ラポワントはつづけた。「その後もずっと彼と連絡をとりつづけています。彼はこの件があなたの担当で、つまりあなたのために働いているのだと知ったとたん、電気にかかったみたいになって、あっといわせるような仕事をやってみせようと張り切りだしたんです。警察署の屋根裏部屋に入りこんで、何時間も古い記録を漁ってくれました。みんなが忘れてしまった昔のいろんな事件に関する記録類の、紐でくくった束が、山のようにあるらしいんですね。それこそごたまぜになって、天井に届くほどなんだそうです」
「それで、ファルンハイムの件の記録はみつかったのか?」
「いま電話があって、伯爵の死亡後に取調べをうけた証人たちの名前を連絡してきました。私は特に、『オアシス』で働いていた雇い人のリストを頼んでおいたのです。それを読みあげますと、
アントワネット・メジャ(十九歳)、小間使い。
ロザリー・モンクール(四十二歳)、料理女。
マリア・ピナコ(二十三歳)、お勝手女中。
アンジェリーノ・リュパン(三十八歳)、給仕頭」
メグレは窓辺に立って、外の雪をながめながら聴いていた。雪片はまばらになりはじめていた。ラポワントは俳優のように、思い入れたっぷりに間をおいてから、
「オスカル・ボンヴォワザン(三十五歳)、給仕兼運転手」
「オスカルか!」メグレは言った。「その連中がいまどうなっているか、わからんだろうな?」
「ですが、ジュリアン刑事があることを思いついたんです。彼はニースに来て間がないため、外国から沢山の金持連中がおしかけてきて、何カ月も滞在したり、豪勢な邸を借りて王侯のような暮しをするという現象に強い印象をうけていました。そこで彼らは当然、そのつど臨時の召使いを雇わなければならないはずだ、ということに思いあたったわけです。事実彼は、大邸宅専門の奉公人斡旋所をみつけだしました。
もう二十年以上前から老婦人が経営しているのですが、彼女はファルンハイム伯爵も伯爵夫人も記憶していませんでした。オスカル・ボンヴォワザンのことも想いだせなかったのですが、ただ一年たらず前、常連の一人である料理女のロザリー・モンクールの世話をしたと言ったのです。ロザリーはいまも、ニースに別荘をもっている南米人一家に雇われています。一家は一年のうちの一時期をパリで過ごすそうで、そのアドレスはイエナ街の一三二番地です。その老婦人の話によると、いまはちょうどパリにいるはずだというのですが」
「ほかの連中のことはわからんのかね?」
「ジュリアンが調査中です。私がその料理女に会ってみましょうか、警視《パトロン》?」
ラポワントはファルンハイムの昔の料理女の尋問を自分でやりたがっている。その彼を喜ばすために、メグレは、行ってこい、と言うべきだったろう。
「いや、私が自分で行く」彼はそう言ってしまった。
それというのも、どうにも外の空気を吸いたかったのと、通りがかりに生ビールを一杯ひっかけたかったことと、それに今朝から息がつまりそうなこの部屋の空気から、一刻でも逃げだしたかったがために他ならない。
「その間きみは犯罪人記録課へ行って、ボンヴォワザンの名前がないかどうか確かめてみてくれ。家具つきホテルの宿帳も調べたほうがいいな。各地区の役所や警察署にも問い合せてみるんだ」
「わかりました、警視《パトロン》」
気の毒なことをした、とメグレは内心唇を噛んだが、どうにも外出を諦める気にはなれなかった。
出かける前に、トランスとフィリップが籠っている取調べ室をのぞいてみた。巨漢のトランスは上衣を脱いでいたが、にもかかわらず、額には玉のような汗をうかべていた。一方フィリップのほうは椅子の端に尻をのっけて、顔面蒼白、いまにもぶっ倒れそうに見える。
なにも訊く必要はなかった。トランスはこの勝負《ゲーム》をぜったいに投げたりはしないだろうし、必要とあれば夜中でも明日の朝まででも、尋問をつづける気でいることが、メグレにはわかった。
三十分たらずでタクシーは、イエナ街の高級アパルトマンの前に停まった。黒い制服の男の門番が、大理石柱のある玄関で、警視に応対した。
メグレは身分を名乗って、ロザリー・モンクールがここで働いているかどうかたずねた。相手は勝手口用の階段を指さした。
「四階です」
途中生ビールを二杯飲んできたので、すでに頭痛は消えていた。狭い階段はらせん状をなしていて、メグレは小声で階の数をかぞえながら昇った。褐色のドアに着いて、呼鈴を押す。白髪の肥った女がドアを開け、びっくりしたように彼を見た。
「マダム・モンクールは?」
「なんのご用?」
「彼女と話したいのですが」
「あたしですけど」
彼女は料理の真最中だった。色の浅黒い黒髪の少女が、ミキサーから強い香りのする野菜スープの汁を漉《こ》していた。
「あなたはたしか、フォン・ファルンハイム伯爵夫妻のところで働いておられたのでしたね?」
「あんた、だれ?」
「司法警察のものです」
「まさか、あんな古い話を、いまごろほじくりかえしてるってのじゃないでしょうね」
「そういうわけでもないが。伯爵夫人が亡くなったことは知っていますか?」
「だれだって、いつかは亡くなるのよ。いいえ、知らなかったわ」
「今朝の新聞に出ていたんですが」
「あたしが新聞を読むと思ってるの? 毎日毎日ご主人さまに、十五皿から二十皿のお食事をお出ししなきゃならない、このあたしが!」
「殺されたのです」
「それは愉快ね」
「どうして愉快なんです?」
後女はメグレに椅子もすすめず、仕事をつづけながら、まるで出入りの商人と口をきくような調子で話していた。これまでにあらゆる苦い人生経験を味わってきた女らしく、なにごとにも簡単には驚かなくなっていると見えた。
「なんで、愉快、なんて言っちゃったのかしら。だれに殺されたの?」
「まだわかりません。それを捜しているところです。あなたは伯爵の死後も、夫人のところで働いていましたか?」
「二週間だけね。しっくり行かなかったから」
「どうして?」
彼女は少女の仕事を指図してから、鶏肉にソースをかけるためにオーブンを開けた。
「あたしに向く仕事じゃなかったからよ」
「つまり、まともな家じゃなかった、ということですか?」
「まあね。あたしは自分の仕事が好きだから、やっぱり決まった時間にはちゃんとテーブルについて、お料理の味ぐらいはわかってほしいわけよ。もういいよ、イルマ。冷蔵庫から茹で卵を出して、黄身と白身をわけてちょうだい」
マデラ酒をあけ、ソースに少しずつ注ぎながら、ゆっくりと木匙でかきまわす。
「オスカル・ボンヴォワザンを憶えていますか?」
彼女はメグレを見た。その目が、『それがここへ来た目的だね!』と言っているようだった。
だが彼女は答えなかった。
「質問が聞こえなかったのかな?」
「あたしは聾《つんぼ》じゃないよ」
「彼はどういう男でした?」
「給仕だよ」
その語調のはげしさが、メグレを驚かした。
「あたしは、給仕ってのが大嫌いさ。みんなのらくら者ばっかし。それが運転手もかねてると、もっと悪いんだから。家中で自分がいちばん偉いぐらいに思って、主人よりも大きな顔をしているんだ」
「それが、ボンヴォワザンだったわけ?」
「苗字なんか憶えてないわ。いつも、オスカルとしかいわなかったから」
「どんな男でした?」
「美男子よ。それをまた鼻にかけていたのよ。とにかく、そんなのが好きな女《こ》もいるのよ。あたしの好みじゃないし、面とむかってそう言ってやったわ」
「あなたの歓心を買おうとしたわけですな」
「あの男流にね」
「どういう意味?」
「なんでそんなことばかり知りたがるのさ?」
「知る必要があるからですよ」
「伯爵夫人を殺したのが、あの男じゃないかって思ってるの?」
「そうかもしれない」
三人のうち、この会話にいちばん熱中しているのはイルマだった。まるで本物の事件に捲きこまれでもしたみたいに、自分の仕事を忘れてしまうほど興奮していた。
「なにしてんの? 黄身をつぶさなきゃだめじゃないの」
「彼の外見の特徴を話してくれませんか?」
「昔の彼だったらね。でも、いまはどんなふうだか」
この瞬間、彼女の目がきらりと光るのを、見逃さなかった。さらに一押しする。
「確かですか? その後会ったことはないのですか?」
「いま、そのことを考えてるんだけど。自信はないのよ。何週間か前、小さなカフェをやっている弟に逢いに行ったとき、街頭で、どこかで見たような男に出会ったんだけどね。向こうもあたしのことを、なにか想いだそうとするみたいに、じっと見ていたのよ。そしたら急に、顔をそむけて、さっさと行っちまったような感じでね」
「それがオスカルだったのではないかと?」
「すぐそう思ったわけじゃないけどね。なんとなくそうじゃないかと思ったのは、後になってからで、いまは、たしかにあの男だったにちがいないって気がしてるのよ」
「弟さんのカフェはどこにあるのです?」
「コーランクール街だけど」
「すると、その昔の給仕を見たような気がしたのは、モンマルトルの通りでですね?」
「クリシー広場を曲がったところだったわ」
「それじゃ、どんなようすをしていたか話してみてください」
「密告は好きじゃないわ」
「人殺しを放っておくほうがいいというのですか?」
「殺したのが伯爵夫人だけなら、たいして悪いことをしたことにはならないわね」
「彼が伯爵夫人を殺した犯人なら、少なくとももう一人殺している。それに、これ以上殺さないという保証もない」
彼女は肩をすくめた。
「彼にはお気の毒、ってところだわね。背は高いほうじゃない、どっちかっていえば小さいわね。それをまたひどく気にしちゃって、背を高くみせるために、女物みたいにヒールの高い靴をはいてたっけ。あたしがそのことで揶揄《からか》ったら、ひとこともものを言わずに、すごい目つきで睨みつけた」
「口数が少ないほうだったのかな?」
「むっつりした男でね、自分のしてることや考えてることを、決して口にしない性《たち》だったね。色は浅黒くて、髪の毛は、濃くて硬《こわ》いのが額のあたりまでびっしり生えてて、眉も黒くて濃かった。そのせいで彼の目つきが、魅力的に見えるんだっていう女たちもいたけどね。あたしはべつだよ。彼は自信たっぷりな目で、じっと相手を見るのよ。この世には俺様しかいないと思ってるみたいに、あんたなんか屁とも思わないって顔で。あら、ごめんなさい」
「かまいませんよ。続けて」
いまやすっかり調子づいて、淀みなく喋りつづけた。台所を行ったり来たりするのはやめない。まるで彼女は、おいしい香りのいっぱい充満した台所で、とォどき電気時計のほうをちらりちらりと見ながら、フライパンや台所道具で曲芸をやっているように見えた。
「アントワネットがそいつに、ぞっこん参っちゃった。マリアもそう」
「小間使いと、お勝手女中のことですな?」
「そう。それから、彼女たちの前に奉公してた女たちもね。あそこは奉公人が永く居つかない家《うち》だったわね。いったい主人は伯爵なのか奥さんのほうなのか、わからないような家だったしね。あたしの言う意味わかるでしょう? オスカルは、さっきのあんたの言い方を真似れば、歓心を買うなんてことしなかったわね。新しい女中がくると、自分のものにするみたいに、ただ、じっとみつめるだけ。
それでもう最初の夜に、まるで約束がついてたみたいに、女の部屋にしのびこんでくるのよ。
ああいう男って、ほかにもいるけどね。ぜったいに抵抗できるはずがないって、思いこんでるのよね。アントワネットはそれでずいぶん泣いてたわ」
「なぜ?」
「彼女、本気で惚れちまって、彼が結婚してくれるのじゃないかって思ったのよ。ところが、あのことが終ると、彼はものもいわずに行ってしまう。あくる日になったら、もう知らんぷり。優しいことばひとつかけるどころか、見向きもしない。もう一度その気になって、また忍びこんでくるまでお預けってわけよ。
それでも結構彼の思うとおりになっていたのね。それも家の奉公人だけじゃなかったのよ」
「伯爵夫人とも関係があったと思いますか?」
「伯爵が亡くなって二日とたたずにね」
「それをどうしてあなたが知っているのかな?」
「朝の六時に、夫人の部屋から出てくるところを見たからよ。それがあたしが辞めた理由の一つでもあるんだから。使用人が主人のベッドで寝るようになったら、すべてお終いよ」
「彼は主人気取りだった?」
「あの男は好き勝手なことをしてたわよ。もう誰も、彼に命令できるものはいないって感じだった」
「伯爵があるいは殺されたのかもしれない、と考えたことはありませんでしたか?」
「あたしの知ったことじゃないわ」
「考えたのですね?」
「警察がそう考えたんじゃないの? でなかったら、あのとき、なんであたしたちを尋問したのよ?」
「オスカルがやったのかもしれない、と?」
「そうは言ってないわ。夫人にだってやれたかもしれないじゃない」
「その後もずっとニースで働いていましたか?」
「ニースとモンテ・カルロでね。あたしは南仏《ミディ》の気候が好きなのよ。主人についてパリにきてるのは、偶然そうなっただけよ」
「伯爵夫人についての、その後の噂は耳にしませんでしたか?」
「一、二度、道で見かけたことはあったけど、住む世界が違ってたからね」
「オスカルは?」
「向こうでは見なかったわね。コートにはいなかったのじゃないかしら」
「しかし何週間か前には、彼らしい男を見た。どんなようすだったか話してくれませんか」
「あんたって、やっぱり警察の人ね。人が道で会ったといったら、すぐ、その特徴はってくるんだから。それ以上大事なことないみたい」
「老《ふ》けていました?」
「あたし同様にね。あれから十五年になるもの」
「つまり彼はいま五十歳ということだな」
「あたしはそれより十歳ちかく年上よ。まだあと三、四年他人さまのために働いて、その後はカーニュに買ってある小っちゃな家に隠居して、そしたらもう自分で食べる料理しか作らない。目玉焼とカツレツだけ」
「彼がどんな服装だったか憶えていますか?」
「クリシー広場でのこと?」
「そう」
「黒っぽかったわね。まっ黒じゃなくて、黒っぽい服ね。厚ぼったいオーバーを着て、手袋をしていた。手袋には気がついたわ、とてもシックだったから」
「髪は?」
「この真冬に、帽子脱いで歩いているわけないでしょ」
「揉上げは白くなっていました?」
「でしょうね。あたしが驚いたのはそんなことじゃないわよ」
「なんです?」
「彼が肥っちゃったことよ。昔から肩幅は広かったけどね。よく見せびらかすために上半身裸で歩いてたわ。筋肉隆々としていて、それに魅力を感じる女もいたからね。洋服を着ると、そんなに逞《たくま》しいようには見えなかった。ところがいまは、あたしが会ったのが彼だったとすれば、まるで牡牛みたいだったわよ。首は太くなって、ますます背が小さくなったみたいだった」
「アントワネットの消息は聞かないですか?」
「彼女、死んだわ。あの後まもなくね」
「どうして?」
「流産でね。とにかくそういう話だったわね」
「それじゃ、マリア・ピナコは?」
「さあ、どうなっちまったか。あたしが最後に見たときは、ニースのアルベール一世通りで街娼になってけどね」
「いつごろ?」
「二年前。もうちょっと前かな」
彼女はとにもかくにも、こう訊いてみるだけの好奇心は持ち合わせていた。
「伯爵夫人はどんなふうにして殺されたの?」
「絞め殺されたのです」
彼女はなにも言わなかったが、オスカルの性格にそう似合いでないこともない、と思ったようすだった。
「もう一人って言ったのは?」
「あなたの知らない娘です。彼女はまだ二十歳でしたから」
「あたしがお婆さんだってことを想いださせてくれて、ありがとさん」
「そういうつもりで言ったのじゃないですよ。彼女はリジウの生まれで、南仏《ミディ》にいたという形跡はないんでね。私の知るかぎり、ラ・ブルブールに行ったことがあるという程度ですよ」
「モン=ドールの近くの?」
「そう、オーヴェルニュ地方のね」
一瞬彼女は、遠くを見るような目でメグレをみつめた。
「どうせ喋りついでだから……」と、呟くように言う。「オスカルはオーヴェルニュの出身だったのよ。オーヴェルニュのどこかは知らないけど、強い訛りがあったんで、彼を怒らせようと思ったときは、山出しの炭焼き人夫って言ってやるのよ。そしたら顔がまっ蒼になったもんよ。さーてと、追い出すようで悪いんだけど、あと三十分もしたらお食事の時間だから、こちらはお料理に専念しなきゃならないのよ」
「たぶん、また来るかもしれませんよ」
「あんたが今日みたいに感じ良くしてくれるんならね。あんた、お名前は?」
「メグレ」
少女がびくっとした。新聞で名前を知っていたのだろう。料理女のほうは、まちがいなく初耳らしい。
「憶えやすい名前ね。とくにあんたが痩《メグル》の反対で、肥ってるからね。そうそう! オスカルのことだけど、いまはちょうどあんたくらいの肥りぐあいよ。もっとも、あんたほどの頭はないけどね。わかった?」
「どうも、ありがとう」
「どういたしまして。ただあの男を捕えても、あたしを証人には喚ばないでね。うちのご主人が厭がると思うわ。それに弁護士ってやつは、山ほど質問を浴びせて、人を笑いものにしようとするからね。あたしは一度そんな目にあって、二度とやるもんかって誓ったのよ。だから、あたしを当てにしないで」
彼女は静かにドアを閉めた。メグレは通りのはずれまで歩いて、ようやくタクシーを拾うことができた。オルフェーヴル河岸へは行かず、自宅に昼食をとりに帰った。司法警察局へもどったのは、結局二時半ごろである。雪はすっかり止んでいて、路上には、黒ずんだ泥の、滑りやすい薄い層ができていた。
取調べ室のドアをあけると、なかはもうもうと煙がたちこめ、灰皿に二十本あまりの吸い殻があった。フィリップはタバコを吸わないから、ぜんぶトランス一人で吸ったものだ。さらにサンドイッチの食べ残しののった盆と、空のビール・ジョッキが五個ならんでいた。
「ちょっと来てくれ」
トランスは刑事部屋に入ってくるなり、額の汗をぬぐい、げんなりして溜息をついた。
「ぐったりくるな、あの野郎。まるっきり腑抜けで、取っかかりようがないよ。二度ばかり、これは喋るな、と思ったんですがね。たしかになにか言いそうだった。もう持ちこたえられないところまできていて、許しを乞うみたいな目つきをしてたんだ。それがどたん場になったら、くるっと変わって、またもや知らぬ存ぜぬとくる。むかむかするよ、もう。さっきは頭にきちまって、思いきりひっぱたいてやりましたよ。あの野郎、どうしたと思います?」
メグレはなにも言わなかった。
「頬っぺたをおさえて、泣きまねしやがる。それで、仲間のホモに言うみたいに、
『いやな人ね!』
やれないよ、もう。野郎、喜んでやがるんですよ」
メグレは思わず微笑をもらした。
「まだ、つづけますか?」
「もう少しやってくれ。そのうち他の手を考えよう。彼はなにか食ったか?」
「小指をぴんと立てて、歯の先っちょでサンドイッチをかじってましたがね。あれは薬《やく》が切れてるんですよ。薬をやるからって言えたら、口を割ると思いますがね。麻薬取締り班に行けば、あるんじゃないですか?」
「局長に話してみるよ。だが、まだなにもいうな。とにかく尋問をつづけるんだ」
トランスはまわりの見なれた装飾をぐるりと見まわし、大きく息を吸いこんでから、取調べ室のげんなりする空気の中へもどっていった。
「なにかあるか、ラポワント」
こちらはまた、いってみれば朝から電話にかじりつきっ放しで、トランス同様、サンドイッチとビール一杯で頑張っていた。
「一ダースばかりのボンヴォワザンがいましたが、オスカル・ボンヴォワザンはいません」
「ラ・ブルブールに連絡をとってみろ。あるいはなにかわかるかもしれん」
「手がかりがあったのですか?」
「もしかしたらな」
「料理女から?」
「彼女の話では、つい最近パリで奴らしい男に会ったというんだ。それもきわめて面白いことに、モンマルトルでな」
「ラ・ブルブールというのは、どういうわけです?」
「まず第一に、奴がオーヴェルニュの出だということと、もうひとつは、五年前にそこで、アルレットが彼にあったらしいということだ」
もっともメグレは、そのことにさほど信を置いているわけでもなかった。
「ロニョンから連絡はなかったかね?」
みずからラ・ロシュフコー街警察署に電話をしてみたが、ロニョン刑事はついさっき、顔を見せただけでまた出て行ったということだった。
「あなたの手伝いをしているんで、今日は一日、こちらへは戻らないと言ってましたが」
メグレはまるまる十五分間、パイブをふかしながら、室内を往ったり来たりしていた。やがて、ようやく決心がついたらしく、司法警察局長室へと向かった。
「なにかニュースは、メグレ? きみは今朝の会議に出なかったな」
「寝坊しまして」ぽつんとそれだけ言った。
「新聞の最新版を見たかね?」
まるで興味がないというジェスチャーをしてみせる。
「さらに婦人の絞殺事件が続発するのではないかと書いているぞ」
「それはないでしょう」
「どうして?」
「伯爵夫人とアルレット殺しは、狂人のしわざではないからです。それどころか、犯人はまったくもって冷静ですよ」
「犯人の目星がついたのか?」
「たぶん。そう思っているのですが」
「今日中に逮捕できるかね?」
「どこにいるのかが問題ですが、それがさっばりわからないのです。モンマルトルのどこかだろうということは、ほば確実なんですが。さらに犠牲者が出る可能性は、たった一つだけあります」
「それは?」
「アルレットが第三者にもらしていたという場合です。たとえば『ピクラッツ』の仲間の、ベティかタニアに、打明けていたとしたら」
「その連中は取調べたのか?」
「喋りませんでした。主人《あるじ》のフレッドも喋らず、『ばった』も喋らず、です。またフィリップという女の腐ったような奴も、今朝から取調べているのに口を噤《つぐ》んでいます。たしかになにか知っているのは間違いないのですが。奴はしょっちゅう伯爵夫人と会っていました。彼女からモルヒネをもらっていたのです」
「で、彼女はどこから手に入れていたのかね?」
「医者から」
「その医者を逮捕したかね?」
「まだです。麻薬取締りのほうの管轄でしょう。私は一時間ほど前から、ある危険を犯すべきか否かで迷っているのですが」
「どんな危険かね?」
「死体がひとつ増えるかもしれない、という危険です。局長にご相談にきたのはそのためです。むろん通常の手段を用いても、女二人の殺人犯人であると思われるボンヴォワザンという男を、結局は逮捕できると信じています。しかしそれには、何日間も、あるいは何週間もかかるかもしれない。なによりも僥倖《ぎょうこう》を待つしかないという気がします。それに私の判断に間違いがなければ、この男は悪党です。こちらが奴に手錠をかけるまでに、さらに知りすぎた人間を消すかもしれない」」
「どういう手段でその危険を冒したい、というのかね?」
「私は冒したい、とは言っていません」
局長はにやりとした。
「話してみたまえ」
「私が考えているように、フィリップがなにかを知っているとすれば、オスカルはいま、そのことで不安になりはじめているはずです。そこで、フィリップが長時間の取調べを受けたが自白しなかった、という記事を新聞に流して、彼を放してやるわけです」
「だんだんわかってきたぞ」
「第一の可能性としては、フィリップがまっすぐオスカルの許へ急行するか、ということですが、これはあまり当てにできない。ただしフィリップにとって、いま麻薬《くすり》を手に入れる道がそれしかない、となれば話は別です。なにしろ時々刻々と彼はその必要に苛《さいな》まれているところですから」
「つぎの可能性は?」
すでに局長には見当がついていた。
「もうおわかりでしょう。中毒者は信用できない、と誰しも思う。フィリップは口を割らなかったが、だからといって今後も喋らないという保証はない。オスカルにはそれがわかっています」
「で、フィリップを消そうとする」
「その通り! だから私は、局長に相談せずに、行動をおこしたくはなかったのですよ」
「フィリップが殺されるのを防ぐことができると思うかね?」
「私はあらゆる警戒体勢を敷くつもりです。ボンヴォワザンは拳銃を使うタイブじゃありません。音が大きすぎるし、彼の好みではないでしょう」
「いつ証人を放すつもりかね?」
「夜に入ってからです。そのほうが気づかれずに監視をつけやすい。彼の尾行には必要なかぎりの人員を投入するつもりでいます。そうしておけぱ、不測の事故があった場合でも、失敗が少なくてすむでしょう」
「そうならないことを望むよ」
「私もです」
二人はしばらく黙って顔をみつめ合った。やがて司法警察局長は、溜息まじりにしめくくった。
「これはきみの仕事だ、メグレ。成功を祈る」
「あなたの言われた通りでしたよ、警視《パトロン》」
「話してみろ」
ラポワントは捜査上で重要な役を演じられることに有頂天になり、しばしアルレットの死のことすら忘れたかに見えた。
「折返し連絡が入りました。オスカル・ボンヴォワザンはモン=ドールの生まれで、父親はホテルのドアマン、母親はそこのメイドをしていたのです。オスカル自身は最初、猟師をしていました。その後|故郷《くに》を出たのですが、十年後に舞いもどってきて、別荘を買い込んでいます。それもモン=ドールにではなく、ラ・ブルブールのすぐ近くです」
「そこに住んでいるのか?」
「いいえ夏とか、たまに冬のうち何日かを、そこで過ごすていどのようです」
「結婚しているのかな?」
「ずっと独身を通しています。母親はまだ存命です」
「息子の別荘にいるのか?」
「いいえ。町に小さなアパルトマンを持っています。彼が母を養っているのじゃないかということです。なにしろ大金を稼いで、パリでは大層な羽振りだと思われているらしいですから」
「人相特徴は?」
「ピッタリです」
「きみ、秘密の任務を引受ける気はあるかね?」
「それは、あなたが一番ご存じでしょう、警視《パトロン》」
「たとえ危険が大きく、責任重大だとしてもかね?」
彼の裡《うち》でアルレットに対する恋情が、熱風のごとく甦ってきたらしく、いささかオーバーすぎる熱の入れ方で、
「たとえ殺されてもかまいません」
「よし! ただしきみの生命じゃなく、他人《ひと》の命を守るほうの仕事だがね。そのためには、刑事らしく見えないことが大事なんだ」
「私は刑事らしいですか?」
「更衣室へ行ってこい。仕事を探していながらも、内心見つからないことを願っている、万年失業者に似合いの恰好をえらぶんだ。帽子もハンチングがいいな。ただし、誇張しすぎないようにしろ」
ジャンヴィエがもどってきた。メグレは彼にも似たような指示をあたえた。
「勤め帰りのサラリーマンらしい恰好にしろ」
さらに、フィリップに顔を知られていない刑事を、二人選びだした。
四人を警視室にあつめ、モンマルトルの地図をひろげて、彼らの任務を説明した。
陽は急速に翳っていった。河岸とサン=ミッシェル通りに灯がともった。
メグレは夜まで待てなくてじりじりしていた。しかし、明るいうちだと、特に人の少ない通りでは、フィリップに気づかれずに尾行をするのが、ますます困難になる。とりわけボンヴォワザンに気づかれたら、水の泡である。
「ちょっと来てくれ、トランス」
トランスはわめいた。
「やめたよ、もう! こっちが吐きそうになってきた。もっと心臓の強いのと交替させて頂いて、こちとらは願いさげに……」
「あと五分で終らせてやるよ」
「奴を出してやるんですか?」
「新聞の第五版が出しだいにな」
「新聞に奴のことをどう書かせるんです?」
「何時間も取調べを受けたが、ついに口を割らなかった、とね」
「なるほど」
「もう少し揺さぶってやれ。そうしておいて帽子をかぶせ、まじめにやらなきゃだめだとかなんとか言いきかせて、外におっぽり出すんだ」
「注射器も返してやるんですか?」
「注射器も所持金もだ」
トランスは待機している四人の刑事をじろじろ見た。
「それで、こちらの旦那がたは、仮装行列みたいな真似をしてらっしゃるわけか」
刑事のうちの一人が、タクシーをつかまえに出て行った。司法警察の入口近くにタクシーを停めて、その中で待機するのである。他の三人も、それぞれの持ち場につくため、散っていった。
メグレは麻薬取締り班と、ラ・ロシュフコー街署とに、それぞれ必要な連絡をとった。
わざと細目に開けておいた取調べ室のドアから、トランスの咆え声がひびいてきた。すっかり気をよくして、フィリップに思いつくかぎりの罵声を浴びせている。
「貴様なんぞ、ピンセットでだって触ってやらんぜ、わかったか? 喜ばしてやりたくねえからな。こっちは、これから部屋の消毒をやらにゃ。そら、そのオーバーみたいなのを着て、帽子をかぶれ」
「帰らせてくださるの?」
「貴様なんか、もううんざりだ、顔も見たくない。みんな、うんざりだと言ってるんだよ、わかったか? その汚いボロをまとめて、臭い匂いといっしょに失《う》せちまえ!」
「そんなに急きたてなくたって」
「急きたてちゃいないさ」
「だって、そんなひどい言い方って……」
「出てけ!」
「出ます……出て行くわよ……どうもありがとう」
ドアが開いて、烈しく閉まる音がひびいた。この時間、司法警察の廊下は、仄暗い待合室に二、三の人影があるほか、まったくの無人だった。
長い、埃っぽい廊下に、フィリップのシルエットが浮かびあがり、出口をさがす昆虫のように小走りに遠ざかっていった。
メグレは自室のドアを細目にあけて、そこから、フィリップがようやく階段にたどりつくのを見送っていた。
いくぶん後悔に似たものが、胸をちくりと刺した。彼はドアを閉めて、楽屋にもどってきた俳優のようにぐったり伸びている、トランスのほうを振り返った。トランスはメグレの自信なげなようすに目をとめた。
「あいつ、殺《や》られると思いますか?」
「彼を狙った奴が、やりそこなってくれることを願うしかないな」
「あいつはまっさきに、モルヒネを手に入れられるところへ直行するでしょう」
「そうだ」
「それはどこです?」
「ブロック医師のところだ」
「その医者は薬をやるかな?」
「彼に与えてはいかんと釘をさしておいたから、まさか背きはしまい」
「そのあとは?」
「わからん。私はモンマルトルに行ってるよ。連絡先はみんなに教えてある。きみはここにいてくれ。もしなにかあったら、『ピクラッツ』にいるから電話をくれ」
「ということは、またもやサンドイッチで我慢しなきゃならんというわけですな。まあ、いいでしょう。あのホモ野郎と差しでいるのにくらべりゃ、なんでもない」
メグレはオーバーと帽子を身につけると、机の上から冷えきったパイプを二本選んで、ポケットにしのばせた。
タクシーを拾ってピガル街へ向かう前に、ビヤホール『ドフィーヌ』に寄って、ブランデーを一杯ひっかけた。前夜の二日酔いはすでに取れていたが、明朝はまたもや同じことの繰返しになるだろうという予感がしていた。
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第八章
アルレットの写真はついに取りはずされていた。かわりに別の女の写真が貼りだされている。おそらくは同じ衣装で同じショーをやるのだろうか、むずかしい役だとベティが言ったのは正しかったようだ。こんどの女の子がたとえ若く、ぽっちゃりとして可愛らしかったとしても、このドレスを脱いでいるところの写真ですら、煽情的なヌード写真の絵はがきを想起させる品のなさが露われていて、いくぶんドサ廻りのテント小屋の看板に見られる、そっくり返った裸女の下手くそな絵に似ていた。
メグレはドアを押してなかに入った。灯がバーに一つと奥に一つ点《つ》いていて、その中間に薄暗がりの細長い領域をつくっている。奥のほうで、白い丸首セーター姿のフレッドが、ふとい鼈甲縁《べっこうぶち》のめがねをかけて、夕刊を読みふけっていた。
階上《うえ》の部屋が狭いため、アルフォンシ夫婦は昼間、店を食堂兼客間として利用しているらしい。おそらく食前酒《アペリチフ》の刻限には、客というよりむしろ近所の顔見知りたちが、バーで一杯やりにやってくることもあるのだろう。
フレッドは、歩みよってくるメグレをグラス越しに見たが、立ちあがる気配はなく、大きな手をさしのべて、椅子をすすめる仕種をした。
「きっと来られると思ってましたよ」と、言った。
なぜそう思ったかは言わなかった。メグレも訊こうとしなかった。フレッドは捜査のもようを報じた記事を読み終ると、眼鏡をはずして、たずねた。
「なにか飲みますか? ブランデー?」
彼は立ちあがってグラス二つを満たすと、自宅に寛《くつろ》いでいる男らしい軽い吐息をついて、椅子にすわりなおした。二人の頭上で、足踏みをする音が聞こえた。
「奥さんは階上《うえ》かね?」警視が訊いた。
「新しい女《こ》にレッスンをつけてるんですよ」
でっぷり肥ったラ・ローズが、若い娘にエロチックなストリップの所作をしてみせている図なぞ、どうにもいただけない。
「興味ありませんか?」フレッドが訊いた。
メグレは肩をすくめた。
「美人ですぜ。アルレットよりいいおっぱいをしてるし、肌もピチピチしてる。ただ、ちょっとね」
「アルレットとは調理場でしか関係がなかった、と思わせようとしたのは、なぜかね?」
べつだん困ったような顔も見せなかった。
「ホテルを調べましたね? 女房の手前、ああいわざるを得なかったんですよ。余計な気を使わせたくなくってね。女房《あいつ》はいつも、いまにあたしが若い女のために、あいつを棄てるんじゃないかって心配してるんですよ」
「たとえアルレットのためでも、棄てなかったかね?」
フレッドはまともにメグレの顔を見据えた。
「もしあの女《こ》が、そうしてくれって頼んでいたら、そうしたでしょうな」
「それほど彼女の肉体《からだ》に愛着があったのか?」
「なんと言われようと結構ですよ。これまであたしは何百人、いや、もしかしたら何千人という女を知ってきたんだ。わざわざ数えてみる気もしないくらいでね。しかし彼女《あれ》のようなのは、一人もいなかったですね」
「彼女に同棲しようと口説いたんだな?」
「その気になってくれれば、悪いようにしない、みたいなことは言いましたね」
「彼女は断わった?」
フレッドは溜息をついた。グラスを灯にすかして見てから、ぐいと飲みほす。
「もし断わらなかったら、いまも生きてられたかもしれないのにね。知ってるでしょう、彼女には男がいた。どんなふうに彼女を虜《とりこ》にしてたのか、ついにわからなかったですがね」
「調べてみたのか?」
「彼女のあとを尾《つ》けたこともありましたよ」
「それでもダメだった?」
「あたしなんかより、彼女のほうが上手《うわて》だったな。あのホモを使って、なにをやらかそうってんです?」
「フィリップを知ってるのか?」
「いや。ただあの手の連中は知ってますよ。当店《うち》にもときどき押しかけてくるけど、こちらとしては、ご遠慮願いたい客種でね。あの手でうまく行くと思いますか?」
こんどはメグレが沈黙で答える番だった。フレッドはちゃんと読んでいた。いわば彼もずぶの素人ではない。おたがいやり方も違うし、その理由も別々ではあるが、いってみれば二人とも同じ玉を追っていたのだ。
「アルレットのことで私に話さなかったことが、いろいろとあるな?」警視が静かに言った。
かすかな笑いがフレッドの口元をかすめた。
「おわかりでしたか?」
「どういう類のことかはわかった」
「女房の奴が階上《うえ》にいるあいだのほうがいいですな。あの娘《こ》はもう死んだとはいえ、ラ・ローズの前ではあんまり喋りたくないんでね。ほんとを言うと、あたしは女房とは別れられないだろうと思ってるんですよ。おたがい馴れあってしまうと、離れがたいものでしてね。もしあたしがアルレットと出て行ったとしても、またここへ戻ってきたでしょうな」
電話が鳴った。ここには電話ボックスはない。電話機は洗面所の入口のところについていた。メグレが立ちあがりながら、
「私にだ」
その通りだった。ラポワントからである。
「あなたの言われた通りでしたよ。警視《パトロン》。奴はまっすぐブロック医師のところへ行きました。バスで行ったんです。なかには数分いただけで、すぐに顔色を変えて出てきました。目下、ブランシュ広場へ向かっています」
「うまくやってるか?」
「うまく行ってます。ご心配なく」
メグレは席にもどった。フレッドはなにも訊かなかった。
「アルレットのことを話してたんだったな」
「あたしは前から、彼女がいいところのお嬢さんで、家をとび出してきたんじやないか、とは思ってました。じつをいうと、あたしが気がつかなかった細かい点に最初に目を向けさせたのは、ラ・ローズなんですがね。それに彼女は自称してるほど歳が行ってないのじゃないか、とも思ってました。たぶん年上の友達かなんかと、身分証明書を取りかえたんじゃないですか」
フレッドは楽しかった追憶をまさぐる男のように、ゆっくりと喋った。その追憶はいま二人の目の前に、薄暗がりに沈んだトンネルのような細長い店の形と、それに添った、ドアのそばの灯をうけて煌めくマホガニーのバーとの裡《うち》に、形をつくっていた。
「どう説明したらいいか。世の中には、生まれつきあの道の本能みたいなものをそなえた女がいるもんです。それこそ海千山千のプロも顔負けの小娘を、あたしは何人も知ってます。でも、アルレットだけは違うんですよ。
彼女に最初に手ほどきした男がどんな奴か知らないけど、あたしはそいつに、シャッポを脱ぎますね。さっきも言ったように、あたしはこの道ではちょっとしたもので、そのあたしがあれほどの女には会ったことがないと請けあうんですから、これは信じてもらっていいですよ。
奴は彼女になにもかも教えただけじゃなく、あたし自身の知らないテクニックがあるってことを、このあたしが教えられたんですからね。この歳でですぜ。それもあたしみたいな人生を送ってきた男が! これには参ったですね。
誓ってもいいけど、彼女はあれを楽しんでたんです。誰とでも寝るってことだけじゃなく、あのショーそのものもね。あれをご覧になれなかったのは残念ですな。
男を喜ばすのが楽しみの、三十五にも四十五にもなった色気違いみたいな女たちも、あたしは知ってますし、火遊び好きの小娘たちも知ってます。でも彼女みたいなのはいなかった。あれほど夢中になれる女はね。
どうも説明がうまくないのは承知してますが、あたしの想ってることを正確にわかってもらうのは、できない相談ですな。
あんたはオスカルって男のことを、あたしに訊かれましたね? そんな男がいるかどうかも、あたしは知らないんですよ。どんな奴かも知らない。ただ確かなのは、アルレットがある男の手に握られていて、そいつは彼女を完全に虜にしてたってことだけです。
あるいは急にその男のことが厭になって、彼女は男を売ろうとしたんですかね?」
「朝の四時にラ・ロシュフコー街署にあらわれたとき、彼女は犯行のこと、そしてそれが伯爵夫人にかかわりのあることを知っていた」
「それにしたって、ここで、男たちの話を盗み聞きしたなんて言ったのは、なぜですかね?」
「第一に、彼女は酔っていた。ああいう行動をとる気になったのは、酔っていたせいかもしれないな」
「さもなけりゃ、その勇気をだすために飲んだのか」
「もしかして」メグレが眩くように言う。「彼女とアルベールとのことが……」
「そうそう! あれはおたくの刑事さんだそうですな」
「じつは私も知らなかったんだよ。あの男は心底から惚れていたらしい」
「それはよくわかりましたよ」
「どんな女でも必ず、ロマンチックな一面は持っているものだ。彼はなんとかして女に生き方を変えさせようとしていた。彼女がその気になれば、結婚することもできたかもしれないんだ」
「そのためにオスカルが厭になったんでしょうかね?」
「どっちにしろ彼に反撥したから警察へ行ったんだ。ただあんまり喋る気はなかった。漠然とした特徴と名前だけ話して、彼には逃げきれるチャンスを残しておいてやろうとした」
「でもやっばり、穢《きたな》い手だね。そう思いませんか?」
「警察には行ったものの、彼女は自分のとった行動を後悔しだしたようだな。思いもかけず長時間引留められ、警視庁へ連れて行かれたので、びっくりした。その間に、せっかくのシャンパンの酔も醒めてしまう。そこで言うことがひどく曖味になり、まるきりの出鱈目を喋ったわけでもないという程度でごまかそうとした」
「やっぱり女だね」と、フレッド。「あたしが不思議に思うのは、どうやって男がそのことを知ったのかってことですよ。なにしろ彼女より先にノートルダム・ド・ロレット街のアパートへ行って、待伏せてたんでしょう」
メグレは答えず、パイプをみつめていた。
「あんたの考えじゃ」フレッドがつづける。「あたしがそれを知っているのに、喋ろうとしないのじゃないかってね」
「まあな」
「いっときは、その男はあたしじゃないか、とまで思ったんでしょう」
こんどはメグレが微笑した。
「あたしの思うには」『ピクラッツ』の主人《あるじ》はつづける。「もしかしてあの女《こ》は、特徴をわざとあたしに似せて話したんじゃないか。彼女の男ってのは、ぜんぜん違うんじゃないのか」
「いや。特徴は合ってるんだ」
「わかったんですかい?」
「オスカル・ボンヴォワザンという男だ」
フレッドはなんの反応も見せなかった。確かにその名前に聞きおぼえはないらしい。
「参ったね!」急に声をおとした。「そいつにはシャッポを脱ぐよ、まったく。あたしはモンマルトルなら隅から隅まで知ってるつもりでしたがね。そのことじゃ『ばった』とも話したんですよ。あいつはしょっちゅう、そこらじゅうを覗きまわってますしね。さっきもお話したようにあたしは好奇心にかられて、彼女のあとを尾《つ》けたこともあるんですぜ。それでその男のことがぜんぜんわからなかったなんて、こいつは凄いじゃないですか」
テーブルの上にひろげた新聞を指ではじいてみせた。
「この伯爵夫人とかいう気違い女のとこにも出入りしてたわけでしょう。ああいう女が人目につかないなんてことはないし、みんなが大なり小なりおたがいに顔見知りの区域ですぜ。それにおたくの刑事さんたちも、あたし同様、なんにもご存じなかったみたいだし。さっきもロニョン刑事がきて、いろいろ鎌をかけようとしたんだけど、かかるようなミミズ一匹いやしません」
ふたたび電話が鳴った。
「あなたですか、警視《パトロン》。いまクリシー大通りにいます。奴はいまさっきルピック街の角のビヤホールに入って、誰かを捜すみたいに、テーブルの間を歩きまわっていました。がっかりしたようすです。また、すぐそばの別のビヤホールで、ガラスに顔をくっつけて覗いていましたが、なかに入って行き、トイレにはいりました。ジャンヴィエが奴のあとから入っていって、|トイレット番《マダム・ピピ》に訊いてきました。奴は、ベルナールという男がなにか伝言を残していかなかったか、たずねたもようです」
「ベルナールというのはだれだ?」
「トイレット番は知らないと言っています」
もちろん麻薬の密売人《バイニン》にちがいない。
「奴はいま、クリシー広場のほうへ向かっています」
メグレが受信器を置いたとたん、また鳴った。こんどはトランスの声。
「じつは、警視《パトロン》、空気を入れ換えようと思って取調べ室に入ったら、あのフィリップという野郎のトランクに蹴つまずいちゃって。返してやるのを忘れたんですよ。あいつ、取りにきますかね?」
「それも薬を手に入れてからの話だろう」
メグレがもどると、マダム・ローズとアルレットの後釜の女が、花道の中央に立っていた。フレッドは場所を移って、客をまねてボックスにすわっている。メグレにも、彼を真似るようにと手招きした。
「もう一度!」と、ウィンクをしながら言う。
女はまだずいぶん若く、髪はちりちりのブロンド、肌は赤ん坊か田舎娘のようなピンクだった。健康そのものの肉体《からだ》に、無邪気そうな目をしている。
「やってみる?」と、彼女は言った。
音楽も、スポットライトもなかった。フレッドが花道の上の灯をもう一つ点けただけだった。彼は手拍子をとりながら、アルレットがショーにつかっていた曲を口ずさみはじめた。
ラ・ローズはメグレに挨拶をしてから、手ぶりで女の子に動きの指図をあたえた。
こちらはまたぶきっちょに、どうやらダンスのステップらしきものを踏みだした。なんとかからだを波打たせ、つづいて、彼女の背丈にあわせて裁ち直した黒いサックドレスのホックを、教えられたとおり緩慢に、一つ一つはずしていった。
メグレに向けられたフレッドの視線が、彼の心中をあからさまに物語っていた。二人ともにこりともせず、ひたすら笑いをこらえている。裸を見せるには、いかにも不似合いなこの雰囲気の中で、彼女の肩が、つづいて片方の乳房が、ドレスの下からあらわれてきた。
ラ・ローズの手がそこで静止の合図をした。女の子はその手を一心にみつめている。
「花道をぐるっと廻って……」フレッドがまた曲を口ずさみはじめて、指図した。「ゆっっくり……トラ・ラ・ラ・ラ……その調子!……」
ラ・ローズの手が合図をする。
「こっちのお乳も……」
乳首は大きく、ピンクだった。ドレスは下へ下へとさがりつづける。影になったヘソがあらわれ、最後に彼女はぎごちない動作でドレスを下に落とすと、全裸で花道の中央に立ったまま、両手で恥部をおさえた。
「今日はそれでいこう」フレッドが溜息まじりに言った。「服を着替えておいで」
彼女はドレスを拾って調理場のほうへ消えた。ラ・ローズが二人のそばへ来て腰をおろした。
「あれで我慢しなきゃ。とてもあれ以上は無理よ。あの子、まるでコーヒーでも飲んでるみたいにケロッとしてるわ。よく来てくださいましたね、警視さん」
お義理ではなく、心底そう思っているらしかった。
「犯人は捕まると思います?」
「ムッシュー・メグレは、今夜逮捕したいとおっしゃってるんだ」と、亭主のほうが言った。
彼女は二人の顔を見くらべて、自分が余計者らしいと感じたのか、こう言いのこして調理場へ消えた。
「なにか食べるものをこさえるわ。いっしょにお食事しますか、警視さん?」
メグレは断らなかった。自分でまだよくわからなかった。『ピクラッツ』を連絡本部に選んだのは、いくぶん、ここの雰囲気が居心地がいいというせいもある。要するに、他の店だったとしたら、ラポワントははたしてアルレットに恋しただろうか?
フレッドが花道の灯を消した。頭上で女の子の往ったり来たりする足音が聞こえる。やがて彼女は降りてきて、調理場のローズのところへ行った。
「なんの話をしてましたっけ」
「オスカルのことだ」
「家具つきホテルはのこらず当ってみたんでしょうな?」
答えるまでもなかった。
「それで、アルレットのアバルトマンにも、訪ねてきたことはないんですか?」
二人の考えは同じところに帰着していた。二人ともこの街のことや、街の人たちの生活を知悉《ちしつ》していたからである。
オスカルとアルレットが親密な間柄だったのなら、二人は必ず、どこかで逢っていたはずであった。
「ここにも電話はかかってこなかったかね?」メグレが訊いた。
「気がつかなかったですね。何度かかかってきていれば、気がつくはずですがね」
アパルトマンにも電話をしてこなかった。門番の女の話では、男からの電話はなかったと言っている。ヴィクトール・マッセ街のほうの門番女とちがって、彼女は信用してよい。
家具つきホテルの宿帳はラポワントが調べたし、ジャンヴィエは聞き込みをやった。それもフレッドの足取りを探りだしたくらいだから、相当綿密に行なったはずである。
すでにアルレットの写真が新聞に出てから、二十四時間以上経過している。なのに、彼女がこれこれの場所になんども立入りするのを目撃した、という情報はひとつもない。
「あたしはさっき言ったことを、ぜったい撤回しませんぜ。その男には、完全に降参するよ!」
フレッドのひそめた眉が、彼もまたメグレと同じ考えであることを証明した。この悪名高きオスカルは、結局のところ、通常の分類では律しきれない。この界隈に住んでいることはほぼ間違いないはずなのに、この街の住人の範疇からはみ出しているのである。
どこに住んで、どういう生活を送っているのか、まったく見当がつかなかった。
そこから浮かびあがってくるものは、おそろしく孤独な人間像だけだった。それが二人の心に強烈な印象を刻みつけている。
「フィリップを消そうとするでしょうかね?」
「明朝になるまでは、なんともいえんな」
「さっき、ドゥエ街のカフェに行ってみましてね。みんな友達なんですよ。そこの連中ほど街のことをよく知ってるものはいないと思うんですがね。時間帯によって、いろんな種類の客がくるしね。その彼らにだって、見当すらつかなかったな」
「しかし、アルレットはどこかで彼と逢っていたはずなんだ」
「彼の家かな?」
違う、とメグレは思った。そうだとすると、いささか笑い話じみてくる。ほとんどなにひとつわからないということが、オスカルの人間像をおそろしく巨大に見せていた。癪《しゃく》だとは思いながらも、メグレは知らず識らずのうちに、彼をつつむ謎に眩惑され、おそらくは実際以上に頭の切れる男を想像してしまう自分を、どうすることもできなかった。
それはあたかも、現実の投影にすぎない影が、もとの現実よりも強烈な印象をあたえるようになってしまったのに似ていた。
彼もまた人間であり、それも骨肉をそなえた人間にすぎない。たかが女たらしの、もと運転手兼給仕でしかなかったはずだ。
彼がいわば現実の光の下で姿を見せた最後の場所は、ニースだった。たぶん、かつて小間使いアントワネット・メジャに子供を孕ませたのは、彼だったのだろう。それがもとで彼女は死んだ。また彼はマリア・ピナコとも関係があった。彼女はその後、街娼になっている。
それから何年かたって、彼は生まれ故郷のすぐ近くに別荘を買っているが、これは下積みから身を起こした男が急に大金をつかんだときによくある反応の仕方である。故郷に錦をかざって、昔の貧窮生活を知っている人たちの目に、いまの羽振りを見せびらかしたかったのだろう。
「あなたですか、警視《パトロン》」
またもや電話である。それも判で押したような、呼びかけのきまり文句。ラポワントは連絡係を引受けているのだ。
「いま、コンスタンタン・ペックール広場の小さなバーからかけています。奴はコーランクール街のアパルトマンに入って、六階まであがりました。ドアを叩いたんですが、返事はありませんでした」
「門番の女はなんと言ってる?」
「その部屋に住んでいるのは、画家だそうで、一種のボヘミアンです。麻薬をやっているかどうかは知らないけれども、そういえば時々変に見えることがある、と言っています。前にもフィリップが訪ねてきたのは見ていて、泊っていったこともあるそうです」
「男色者かね?」
「たぶん。彼女はこの世にそんなものが存在するとは、夢にも思わないようですが、画家の部屋に女が訪ねてくるのを見たことはないそうです」
「フィリップはいま、なにをしている?」
「右手の方に折れて、サクレ・クールへ向かっています」
「あとを尾《つ》けている人影はないか?」
「われわれだけです。大丈夫ですよ。雨が降りだして、寒さが厳しくなってきましてね。こんなことなら、セーターを着てくるんだった」
マダム・ローズがテーブルの上に赤い格子縞のクロスを拡げていた。その中央に湯気をたてているスープ鉢を置いた。食器が四人前ならべられる。女の子も仕度を手つだっていた。マリン・ブルーの服に着替えたところは、どこか幼さすら残っていて、ついさっき花道の中央で、ヌードになったのと同一人物だとは、信じられないくらいである。
「どう考えても」と、メグレが言った。「ここにも来たことがないとは、驚きだな」
「彼女に逢いに、ですか?」
「いわば彼女は、あの男の弟子みたいなものだった。彼は嫉妬《やきもち》もやかなかったのかな」
この疑問には、メグレよりもフレッドのほうが、より適切な解答をあたえられるはずである。いわば彼もまた、自分の女が他の男と寝たとか、あるいは彼のほうから女にそれを強要したことすらある経験の持ち主だったから、こういう場合に抱く感情の性質については、通暁しているはずであった。
「ここで彼女が会う男たちのことで嫉妬《やきもち》をやくなんてことはないですよ」
「そう思うかね?」
「なにしろそいつは、自信満々だったにちがいないですよ。彼女は自分のもので、ぜったい離れられっこない、と確信してたんですな」
『オアシス』の庭園から老伯爵を突き落としたのは、やはり伯爵夫人だったのだろうか。大いにあり得ることだ。もしそれがオスカルの犯行だったのなら、彼があれほど伯爵夫人にしつこく憑きまとうということはなかったはずである。二人が共犯だったとしても、話は同じだったろう。
このへんの顛末《てんまつ》全体には、ある種のアイロニーがある。哀れな伯爵は妻をあまりに愛していたがために、彼女のあらゆる気紛れをも許し、自分のためにはせめて小さな場所だけを残しておいて欲しいと、身を貶《おとし》めて哀願しなければならなかった。
もし夫の愛がそれほどでなかったら、夫人はもっと自制したはずだろう。彼女にとって夫の存在が鼻につくようになったのも、やはり彼の愛の強さのせいであった。
オスカルは、いつかこの日がくることを、見越していたのだろうか。彼女との結婚を目論んでいたのだろうか。それも充分にあり得る。
そのときの光景が目に見えるようである。カジノから戻った伯爵夫人は、いっしょに庭園に出た。夫人にとって、老伯爵を断崖の上まで連れていくくらい造作もないことだったろう。それから、彼を突き落とした。
犯行のあと、彼女は運転手が現場にいあわせていて、事の成行を冷たく見守っていたことを知り、震えあがったにちがいない。
そこで二人はなにを話しあったのか。どんな密約がかわされたのだろう?
いずれにしろ彼女から金銭をせびり奪《と》っていたのは、情夫《ジゴロ》などではなかった。財産の大部分は、おそらくオスカルの手に移っていったのである。
彼はいつまでも夫人のそばにくっついているような、ヘマな真似はしなかった。やがて彼女の周辺から姿を消してから、故郷に別荘を購入するまでにも、何年間も待っている。
メグレの想念はたえずおなじ地点へと舞いもどる。それはオスカルがおそろしく孤独な人間だということであり、孤独な人間には用心しなければいけないということを、メグレは過去の経験から学んでいた。
オスカルが女好きであったことははっきりしている。昔の料理女の話からそれは明らかであった。おそらくラ・ブルブールでアルレットと出会う以前にも、ほかの何人もの女と関係があったに相違ない。
その女たちにも、おなじような手ほどきをあたえたのだろうか。おなじような仕方で、彼女らを支配していたのだろうか。
しかし彼の存在を暴きたてるようなスキャンダルは、一つも起きていないのである。
伯爵夫人は零落の一途をたどり、彼の存在は人の口にものぼらなくなっていた。
夫人は彼に金銭を手渡しつづけていた。それから見ても、彼が遠くに住んでいたはずはない。おそらく同じ街内にいるはずだろう。にもかかわらずアルレットを二年前から傭っていたフレッドのような男ですら、彼について、なにひとつ探りだすことができなかった。
もしかしたら、かつての伯爵のように、こんどはオスカルが恋に溺れる巡り合わせだったのか。アルレットが彼と別れようとしていなかったとは、だれにも言えないのである。
とにかく彼女が、一度だけは、ラポワントとの熱烈な語らいの後に、その素振りを見せたことは確実だった。
「あたしにわからないのは」とフレッドが言いだした。まるでメグレが、スープを飲みながら、自分の考えを声にだして喋っていたかのような、タイミングの良さである。「なんで奴が、あの気違い婆さんを殺しちまったのかってことですよ。そりゃ、マットレスに匿していた宝石を奪《と》るためだった、と言われてはいますよ。まあ、そうかもしれないし、それも充分あり得ますがね。だけど、彼女をがっちり抑えこんでいたんなら、同じ横取りするにしたって、もっとほかのやり方がありそうなもんじゃないですか」
「彼女がそう簡単に宝石を渡したかどうか、わからないじゃないの」ラ・ローズが言った。「もうそれしか残ってないし、それまで後生大事に永持ちさせてきたのよ。それに彼女が麻薬中毒だったってことと、あの連中はなんでもペラペラ喋っちまう危険があるってことを忘れないようにね」
アルレットの後任の女の子には、なにがなんだかちんぷんかんぷんらしく、一人一人の顔をもの珍しそうに、かわるがわる眺めている。彼女は小さな劇場の踊り子だったのを、フレッドがスカウトしてきたのである。ようやく自分のショーが演《や》れるというので、得意満面らしかったが、と同時に、アルレットの運命をたどりたくはないという、ちょっぴり心配そうな色がありありと見えていた。
「今夜はここにいてくださるの?」と、彼女がメグレにたずねた。
「そうなるかもしれんが、まだわからない」
「警視さんは二分後に行っちまうか、明日の朝までいなさるか、どっちとも言えるのさ」フレッドがにやりとして言った。
「あたしの考えでは」ラ・ローズが言った。「アルレットはその男に愛想をつかしていて、彼のほうがそれに感づいたんだと思うわね。あの娘《こ》みたいな女は、ある期限だけ一人の男に縛られるということはあるかもしれない。とくに若い時はそうよ。でも、そのうち他の男たちがあらわれる……」
彼女は亭主の顔を妙にしつこく眺めた。
「そうでしょ、フレッド。あの娘《こ》はプロポーズされてたのよ。第六感は女だけのものとはかぎらないからね。その男がどこか他所で彼女と暮す資金を手に入れるために、大バクチを打つ気になったんだとしても、不思議じゃない、とあたしは思う。ただ彼のやらかした間違いは、彼女を信じすぎて、そのことを打明けてしまったってことさ。それが破滅のもとだったんだよ」
まだなにひとつ明確になったわけではなかったが、少なくともある真実らしきものが、おぼろげに浮かびあがりかけていた。そこに見えてきているのは、不安の虜になったオスカルのシルエットであった。
また電話が鳴って、メグレが立ちあがった。だがこんどは、彼にではなかった。フレッドにかかってきたのである。フレッドは気をきかして、わざと洗面所のドアを開けたままにしておいた。
「もしもし、そうだ……なんだと?……お前そこでなにしてるんだ? そう……そう、ここにいるよ……そうどなるな、鼓膜が破けちまうぜ……よし……うん、わかってる……なんで?……そんなバカな、おい……彼に話したほうがいいんじゃないか……それはそうだ……どうするかわからんさ……とにかくそこにいろ……たぶんそっちに行くだろうから……」
テーブルにもどってきたが、心配そうな顔つきをしている。
「『ばった』のやつですよ」独り言のような言い方だった。
椅子にすわったが、すぐに料理には手をつけようとしない。
「あいつなにを考えてやがるのかな。五年も当店《うち》で働いてるのに、なにを考えてるのかさっぱりわからねえんですよ。だいいち、どこに住んでるかも言わないし、結婚してて子供が何人もいたと知っても、あたしは驚きませんね」
「どこにいるのかね?」メグレが訊いた。
「|丘の上《ラ・ビュット》にある『シェ・フランシス』という酒場《ビストロ》です。角にあって、ひげを生やした占い師みたいなのがしょっちゅう来るとこですよ。おわかりですか?」
フレッドはひどく考えこむふうだった。
「おかしなことに、ロニョン刑事も、店の前をうろちょろしてるってんですがね」
「『ばった』がなぜそこにいるんだ?」
「よくは話しませんでしたがね。フィリップとかいう奴のことじゃないですか。『ばった』はこの辺のホモ連中とは顔なじみでね、あるときなぞは、奴もそうなんじゃないかって思ったこともあるくらいで。おまけに、奴の姿が見えないときは、麻薬《くすり》かなんかやってんじゃないかって、噂するのもいてね。こんな話、まじめにとらないでくださいよ、なにしろうちの店で奴がそんな真似をしてるなんてことは、ぜったいにないんですから」
「フィリップは『シェ・フランシス』によく出入りしてるのかな?」
「そんなところでしょう。『ばった』ならよく知ってると思いますよ」
「それだけじゃ、『ばった』がそこへ行った理由の説明にはならんぞ」
「いいでしょう。まだおわかりにならんのなら、あたしから言いましょう。ただしこいつは奴の考えですぜ。奴の考えてるのは、こっちから情報《ネタ》をさしあげておけば、さきざき役に立つだろう、ということですよ。つまり、そのことを憶えておいてもらえれば、なにかのときに、すこしはいい顔をしてくださるだろうと、こういうわけです。こんな商売をしてますと、警察の旦那方とは仲良くやっていかないといかん。それに、この情報《ネタ》は、奴だけがつかんでるわけでもないようですぜ。ロニョン刑事があの辺をうろついてるんですからね」
メグレが動こうとしないので、フレッドは驚いたらしい。
「行かないんですかい?」
それから、
「そうか。刑事さんがたは、ここに連絡してくることになってるんで、あんたはここを動くわけにいかねえんだ」
メグレはとにかく電話機のところまでは行った。
「トランスか? そっちに人手はあるかね? 三人? よし! テルトル広場へ急行させてくれ。角の酒場で『シェ・フランシス』というのを張らせるんだ。第十八区署に連絡して、そのあたりに網を張るように言え。まだはっきりはわからん。私はここにいるよ」
いまとなっては、『ピクラッツ』に連絡本部をおいたことが、いささか悔まれた。自分も|丘の上《ラ・ビュット》へ車をとばしたくて、じっとしていられない気持だった。
電話が鳴った。こんどもラポワントである。
「奴はいったい、なにやってるんですかね、警視《パトロン》。もう三十分も、モンマルトルの通りをジグザグに歩きまわってるんですよ。尾《つ》けられてることに気がついて、われわれを撒《ま》こうとしてるのかな? ルピック街でカフェに入って、その後ブランシュ広場まで下りていって、また二軒のビヤホールを行ったりきたり。それからまた同じ道を引返して、ルピック街を上って、トロゼ街で、中庭の奥にアトリエのある家に入って行きました。そこに住んでるのは、もと音楽喫茶の歌手で、年輩の女です」
「麻薬をやってるのか?」
「はい。フィリップが出てくるとすぐ、ジャカンが入っていって彼女に尋間しました。伯爵夫人の同類ですが、もっとみすぼらしい感じですね。彼女、酔ってまして、ゲラゲラ笑って、彼には薬《ヤク》はやらなかったって、はっきり言ったそうです。
『あたしの分さえないのに!』って」
「彼はいまどこだ?」
「トロゼ街のバーで、茄で卵を食ってます。どしゃ降りになりました。すべて順調です」
「彼はたぶん、テルトル広場へ行くかもしれんぞ」
「さっきはその近くまで行ったんですよ。ところが急に道をもどったんです。これからどうするのか、決めてくれないかな。こっちは足が凍えてきましたよ」
ラ・ローズと女の子がテーブルの上を片付けていた。フレッドはブランデーの壜をとりに行って、コーヒーが運ばれてくるあいだ、聞き酒用のグラス二個に注いだ。
「もうすぐ階上《うえ》へ行って、着替えてこなくちゃ」と言う。「べつに追い出しませんから、ゆっくり寛いでいてください。じゃ、乾杯」
「『ばった』はオスカルを知っていた、と思わないかね?」
「おや! あたしもいま、それを考えてたところですぜ」
「彼は昼間はいつも、競馬場に行ってるんだったな?」
「そしてオスカルみたいな、なにもすることのない奴は、競馬場で暇をつぶすことが多いんじゃないか、そう言いたいんでしょ?」
彼はグラスを干すと、口元をぬぐった。手持ちぶさたらしい女の子を見て、メグレのほうにウィンクを送ってよこす。
「あたしは着替えてきます」と、彼は言う。「ちょっと、階上《うえ》へきなさいよ、あんた。ショーのことで話しときたいことがあるからね」
もう一度ウィンクしてみせて、小声で言った。
「暇をつぶさないとね」
メグレは店内にひとり残った。
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第九章
「奴はテルトル広場に上って行きました。危くロニョン刑事と鉢合わせするところでしたが、刑事がいそいで暗がりに身をかくしました」
「顔を見られなかったろうな?」
「はい。まっすぐ『シェ・フランシス』へ行って、ガラス越しに中をのぞきこみました。そのときはほとんど客もいませんでした。せいぜい四、五人の常連だけが、むっつり飲んでいただけです。彼は入りませんでした。そしてモンスニ街の石段を降りていき、コンスタンタン・ペックール広場で、またべつのカフェの前で足を停めました。まんなかにでかいストーブがあり、床にはおがくずを撤いた、テーブルは大理石という店で、主人《あるじ》がまわりにすわった客たちとカードをやってました」
『ピクラッツ』の新しい女の子が降りてきた。身の置き場に困ったというふうで、もじもじしていたが、メグレのそばにきて腰をおろした。たぶん彼を一人にしておかないよう、気を使ったつもりだろう。すでにアルレットのものだった黒い絹のドレスを着ていた。
「名前は?」
「ジュヌヴィエーヴ。ここではドリーって名にするの。明日はこのドレスで写真撮るのよ」
「歳はいくつ?」
「二十三歳。あなた、アルレットのショーを観たことある? 彼女、素晴しかったって、ほんと? あたし、ちょっとばかし下手くそでしょ?」
つぎにかってきた電話で、ラポワントはうんざりしたらしい声を出した。
「奴はサーカスの馬みたいに、ぐるぐる廻るだけなんですよ。こっちはその後をついてまわって、雨はざあざあ降るし。またまたクリシー広場を通り、ブランシュ広場に行き、二軒のビヤホールをまた交るがわるのぞきました。薬が切れたものだから、あっちこっちでちょびっとずつアルコールを入れはじめています。目的のものがみつからず、足取りもだんだんゆっくりになって、道の端にぴったりくっつくようにして歩いてます」
「なんにも気づいている気配はないか?」
「ありません。ジャンヴィエがロニョン刑事の話を聞いてきました。彼が『シェ・フランシス』のことを耳にしたのは、昨夜フィリップの立ち廻り先を調べてまわっていたときだそうです。フィリップはときどきあそこに現われて、だれかから麻薬《くすり》をもらっているらしい、とだけ聞いたんだそうです」
「『ばった』はまだそっちにいるか?」
「いいえ。さっき帰りました。フィリップはまた、モンスニ街の石段を上りはじめました。きっとコンスタンタン・ペックール広場のカフェをのぞきに行くんですよ」
タニアが『ばった』といっしょに店にあらわれた。まだ『ピクラッツ』のネオンを点す時刻までには間があったが、どうやらここでは、みんなが早目に顔をそろえるのが習慣らしい。それぞれ、どことなく自分の家に帰ってきたような気楽な雰囲気がある。ラ・ローズが着替えに上る前に、店内をざっと見まわした。まだ手には、食器をふく布巾をもったままである。
「ここにいたの!」と、新しい女の子に言う。
全身をじろじろっと見てから、
「こんどからは、こんなに早くそのドレスを着ないのよ。早く痛んじまうからね」
そしてメグレに向かって、
「どうぞ、ご自由にお注ぎなさい。壜はテーブルの上に置いときますから」
タニアはご機嫌が悪かった。アルレットの後任の女の子を矯《ため》つすがめつしてから、ひょいと肩をすくめた。
「ちょっとわたしにすわらせてよ」
腰をおろすと、ながいことメグレの顔を見ている。
「まだ捕まらないの?」
「今夜中に捕まえる」
「高飛びしたってことないの?」
彼女もまた、なにか知っている。みんながみんな、少しずつなにか知っているらしい。その印象はすでに昨晩からあった。いまタニアは、喋るべきかどうか迷っているのだ。
「あんたは、男がアルレットといっしょのところを、見たことがあるんだろう?」
「それがだれで、どんな男かも知らないわ」
「でも、いることは知っていた?」
「じゃないかと思ってたの」
「ほかになにを知っている?」
「どのへんの方角に住んでるかってこと」
こういうことは不愛想に話さなければ、体面にかかわる、とでも思っているらしい。厭々|喋《しゃべ》っているという様子を、むきだしにしていた。
「わたしの服の仕立屋がコーランクール街に住んでるの。ちょうどコンスタンタン・ペックール広場に面したところよ。わたしはいつも、そこへ午後の五時に行くの。昼間はずっと寝てるからね。そこで二度ほど、アルレットがバスから降りて、広場を渡って行くのを見かけたってわけ」
「どっちの方向ヘ?」
「石段のあるほう」
「尾《つ》けてみようとは思わなかった?」
「なんであたしが尾《つ》けるのよ?」
彼女は嘘を言っていた。好奇心は強いほうなのだ。おそらく石段の下まで行ってみたら、もう彼女の姿は見えなかった、というところではないか。
「知っているのはそれで全部かね?」
「全部よ。だからあの辺に住んでるはずよ」
メグレは手酌でブランデーを注いだ。電話が鳴り、ものうげに立ちあがる。
「あいかわらずの繰返しです、警視《パトロン》」
「コンスタンタン・ペックール広場のカフェか?」
「そうです。そこと、ブランシュ広場の二軒のビヤホールと、『シェ・フランシス』の前と、この三ヵ所でしか足を停めません」
「ロニョンはまだいるかね?」
「はい。通りすがりに姿が見えましたから」
「私からといって、彼に頼んでほしいんだが。コンスタンタン・ペックール広場に行って、カフェの主人に訊いてもらいたい。できるかぎり客に聞かれないようにな。主人に、オスカル・ボンヴォワザンを知らないかとたずねてほしい。あるいは、人相風態を話してもいい、変名をつかっているかもしれんからな」
「いますぐ?」
「そうだ。フィリップがぐるぐる廻りをやっているあいだは、手|空《す》きのはずだ。それですぐ私に電話を入れるように伝えてくれ」
店にもどると、『ばった』がバーに腰掛けて、手酌で一杯やっていた。
「まだ捕まんないの?」
「『シェ・フランシス』の情報《ネタ》は、どこから手に入れた?」
「オカマさまからさ。あの連中、おたがいによく知ってっからね。最初はコーランクール街のバーにフィリップがときどき来るって話をして、その後、『シェ・フランシス』ではよく夜遅くまでいるって教えてくれた」
「オスカルも知っていたか?」
「ああ」
「ボンヴォワザンか?」
「苗字は知らなかったな。ただ、そいつだったら近所に住んでて、よく寝る前に、白ワインをやりにくる奴だって言ってた」
「そこでフィリップに逢っているのか?」
「あすこじゃ、みんな口をきき合う仲間さ。奴もみんなとおんなじ。おれがあんたに手を貸してやったこと、忘れないでくれよな」
「今日は、彼は姿を見せなかったのか?」
「昨日もこなかったってさ」
「住んでる家はどこだと言っていた?」
「界隈のどこかだって」
時はゆっくりと過ぎていた。あたかもこんな状態が、果てしなく続くのではないかという感じすらする。アコーデオン弾きのジャン=ジャンがやってきた。泥のついた靴を磨いて髪に櫛を入れるために、洗面所へ行く。
「アルレットを殺《や》った奴はまだ捕まらないんですか?」
つづいて、ラポワントが電話をしてきた。
「ロニョン刑事に命令を伝えました。彼はいまコンスタンタン・ペックール広場にいます。フィリップが『シェ・フランシス』に入って、いま一杯飲んでますが、オスカルらしき客はいません。ロニョンからそちらに電話が行くはずです。あなたがどこにおられるか、教えておきましたから。それでよかったんですね?」
ラポワントの声は、夜の早いうちとは、だいぶ調子が変わっていた。彼は電話をかけるために、バーやカフェに入らなければならなかった。これで四度目の電話である。おそらくそのたびに、温まるために一杯ひっかけていたのだろう。
フレッドが降りてきた。ぱりっとしたタキシード姿で、糊のきいたワイシャツには模造ダイヤが光り、丹念に髭をあたった顔は、ばら色に輝いていた。
「お前も着替えてこい」と、タニアに言う。
それから店内の灯をつけ、バーのうしろで壜の並びを直す仕種をする。
もう一人のバンドマン、デュプーがやってきたとき、ようやくロニョンからの電話があった。
「どこから掛けているんだ?」
「コーランクール街の『シェ・マニエール』からです。コンスタンタン・ペックール街のカフェに行ってきました。住所がわかりましたよ」
ひどく興奮している。
「簡単に教えてくれたのか?」
「主人《あるじ》をごまかしてやったんですよ。私は警察のものだとは言いませんでした。田舎から出てきたばかりで、友達を捜してる、ということにしたんです」
「彼の名前を知っていた?」
「ムッシュー・オスカルって言いましたよ」
「どこに住んでいる?」
「石段をあがった右手の、小さな前庭のある家です。まわりは塀で囲ってあって、道路から家は見えません」
「今日は、コンスタンタン・ペックールには、姿を見せなかったって?」
「そうです。いつものカードをやる時間なんで、みんな待ってたらしいんですが。それで主人《あるじ》が彼のかわりをしていました」
「彼は職業はなんだと話しているのかね?」
「なんにも言ってませんよ。あんまり話さないようです。みんなは、財産の金利で食っているんだろうと思っています。奴はブロットの勝負がえらく強いそうです。よく、朝の十一時頃に、買物に行きがてら白ワインを飲みに寄ることがあると言っています」
「自分で買物をするのか? 女中はいないのかね?」
「いません。家政婦も使っていないんです。いくらか変人だと思われているようですね。」
「石段の近くで待っていてくれ」
メグレはグラスを干すと、クロークへ行って、まだ濡れて重いオーバーを取った。バンドマン二人が、手ならしに、なにかの曲を演秦しはじめた。
「見つかったんですかい?」ずっとバーにいたフレッドが訊いた。
「たぶんな」
「あとでまた、一杯やりにきてください」
『ばった』が口笛を吹いてタクシーを呼び停めてくれた。ドアを閉めるとき、小声でささやいた。
「奴が、おれがちらっと耳にしたような野郎なら、気をつけたほうがいいよ。簡単に捕まる相手じゃねえ」
車のガラス窓を雨水が滝のように流れ、街の灯は、雨が描く目のつまった線影模様を透して、ぼんやりかすんで見えた。この雨の街を、フィリップは暗闇にひそむ刑事たちに尾《つ》けられながら、ぬかるみに足をつっこんで歩きまわっているのだ。
メグレはタクシーを降り、徒歩でコンスタンタン・ペックール広場を横切った。ロニョンが塀にぴったり張りついていた。
「ずっと家を見張っていました」
「灯は?」
「塀の上からのぞいたんですが、なにも見えません。あのホモ野郎は、このアドレスを知らないんじゃないですか。これからどうします」
「裏に出入口はあるか?」
「いいえ。ここの戸口だけです」
「踏みこもう。武器はもってるね?」
ロニョンはポケットの上から、手でたたいてみせた。塀は漆喰が剥げおち、田舎の家のように、その上から木の枝がのぞいている。ロニョンが錠前をこじ開けにかかった。なかなか開かず、その間メグレは、人がこないか見張っていた。
戸が開き、さまざまな植木のある小さな庭が見えた。その奥に、一戸建ちの二階屋がある。モンマルトルの裏路には、まだこういうたぐいの家が残っている。灯はついていなかった。
「ドアを開けて、もどってこい」
メグレは専門家について何度も習ったにもかかわらず、どうも錠前いじりが苦手だった。
「外で待ってろ。連中が通りかかったら、ラポワントとジャンヴィエに、私が中にいると伝えてくれ。彼らにはフィリップの尾行をつづけるように言うんだ」
家の中は物音ひとつせず、人のいる気配はなかった。しかしメグレは念のため拳銃を抜いた。
廊下は暖く、田舎のにおいがしていた。ボンヴォワザンは暖房に薪を焚いているにちがいない。
家の中は湿っぽかった。メグレは灯をつけるのを一瞬ためらったが、肩をすくめると、右手にあったスイッチを入れた。
予想に反して、屋内はきれいに整頓されていた。独身者の家に特有の、いくぶん陰気で、どことなくうさんくさい感じはなかった。廊下を照らす明りは、色ガラスの角灯である。右手のドアを開けると、客間になっていて、バルベス通りあたりの家具店で見るような、どっしりした木材をつかった、趣味のよくないけれど金のかかった家具類がそろっている。つぎの部屋は食堂で、これまた同じ店で買いそろえた感じの、疑似いなか風のテーブルに、銀盆にのったセルロイド製の果物が飾ってある。
どこにも塵ひとつ落ちていなかった。台所に入ってみたが、ここもおなじく隅々まで掃除が行きとどいていた。ストーブにはまだ少し火が残っていて、湯わかしの湯はなま温かかった。食器戸棚をあけると、パンに肉、バター、卵が入っており、流し場には人蔘、蕪《かぶ》、カリフラワーがあった。この家には地下室がないらしく、おなじ流し場にぶどう酒の樽が置いてあり、ときどきここで飲むのか、栓の上にコップが伏せてあった。
廊下の反対側、客間とむかいあって、もう一つ部屋があった。かなり広々とした寝室で、ベッドには繻子の羽ぶとんがかかっていた。照明具は絹の笠のついたスタンドで、そのせいかひどく女性的な光を投げかけている。メグレはやたらと鏡が多いのに気がついた。それがある種のいかがわしい家を彷彿《ほうふつ》させる。隣りあった浴室にも、同じように鏡がいくつもあった。
台所の食料品とか、流し場のぶどう酒とか、ストーブの残り火をのぞけば、ここには生活のにおいはかけらもなかった。きちんと片付けられた家らしく、なにひとつ乱雑なものはない。灰皿に灰は残っていないし、押入れには汚れた下着ひとつ、皺になった服一着、見られなかった。
そのわけは、二階にあがってはじめてわかった。屋根を打つ規則正しい雨の音が、静けさをいっそう強調し、そのためにメグレは、内心恐怖をおぼえながら、左右二つのドアを開けてみた。
だれもいなかった。
左手の部屋が、オスカル・ボンヴォワザンがその孤独な生活を送っていた、いわば彼の本当の居室であった。ここにあるベッドは鉄製で、ぶ厚い紅色のふとんも、色褪せたシーツも、皺くちゃに乱れたままである。ナイトテーブルには果物があったが、そのなかのナイフを入れたリンゴは、果肉がすでに茶色に変色していた。
床には、汚れた靴と、タバコの箱が二、三個散らばっている。いたるところに吸い殻が落ちていた。
階下《した》にあったのが本当の意味のバスルームであるとすれば、こちらのは、手洗いの蛇口が一つと汚れたタオルがあるだけの、洗面所が部屋の片隅にくっついているというだけにすぎない。壁のフックには、男物のズボンがぶらさがっていた。
メグレは手紙の類をさがしてみたが無駄だった。どの引出しにもたいしたものは入っていない。せいぜいオートマチックの拳銃の薬包がみつかったくらいで、手紙も証明書の類も入っていなかった。
ただ、ふたたび一階に降り、寝室のタンスを開けたみたとき、そこには写真がいっぱいつまった引出しをみつけた。いっしょにフィルムと写真機、それにフラッシュ・バルブもあった。
写真はアルレットのものだけではなかった。少なくとも二十人はくだらない、いずれも若くてスタイルのいい女が、同じようにエロチックなポーズをとって、ボンヴォワザンのためにモデルをつとめていた。なかには大きく引伸した写真もある。メグレはもういちど二階に引返してみて、暗室をみつけた。水槽の上に赤い電球がついていて、現像液や薬品の壜がずらりと並んでいた。
階段を下りてきたとき、家の外で足音が聞こえた。メグレはすばやく壁に身を寄せ、拳銃をドアのほうに向けた。
「私です、警視《パトロン》」
ジャンヴィエだった。全身ずぶ濡れで、帽子は雨で変形してしまっている。
「なにかみつかりましたか?」
「フィリップはどうした?」
「あいかわらず歩きまわっています。まだ立っていられるのが不思議なくらいですよ。さっき『ムーラン・ルージュ』の前で、花売りの女と喧嘩をしました。彼女に麻薬《くすり》をくれと要求したんですよ。あとで彼女から話を聞いたんですが、彼女は奴の姿をよく見かけると言っています。奴はどこへ行けば麻薬があるか教えてくれと頼んだそうです。そのあと電話ボックスに入って、ブロック医師を呼びだし、なんだか知らないけれども脅迫でもしていたみたいでした。このまま行くと、いまに奴は路上でぶっ倒れますよ」
ジャンヴィエは煌《あか》あかと電灯のついた、ひとけのない屋内をながめた。
「奴さん高飛びしたんじゃないですか?」
吐く息が酒くさかった。メグレにはすでにおなじみの、引きつったような徴笑を見せる。
「駅に通報しなくていいですか?」
「ストーブに残っている火のぐあいから見て、奴が家を出てから、少なくとも三、四時間はたっている。ということは、逃走するつもりなら、とっくに列車に乗ってしまっているはずだよ。せいぜいどの列車を選ぶかが問題だったくらいでね」
「国境への連絡ならまだ間に合いますよ」
妙なことだが、メグレは、あの鈍重な警察機構に発動をかける気にはまるでなれなかった。単なる直感にすぎないことはもちろんだが、この事件は、けっしてモンマルトルの枠外に出ることはあり得ないだろうという気がしていた。これまでの進展はすべて、その枠内で起こっている。
「奴はどこかで、フィリップを待伏せているんでしょうか?」
メグレは肩をすくめた。彼にもわからない。家の外に出ると、塀にへばりついているロニョンのそばへ行った。
「屋内の灯を消して、張り込みをつづけてくれ」
「奴はもどってきますかね?」
それもわからない。
「ところで、ロニョン、昨晩フィリップが立ち寄ったアドレスは、どことどこだった?」 ロニョン刑事はそれを手帳に記録していた。フィリップは警察を出てから、同じアドレスをのこらず廻っているが、結局収穫は得られなかった。
「言い落としたことはないのか?」
ロニョンはむっとした顔になった。
「わかっていることはみんな言いました。あと残りは、ロシュフコー通りの奴自身の住所だけですよ」
メグレはなにもいわなかったが、なにやら満足したようすでパイプに火をつけた。
「よかろう。何があってもここを離れるなよ。いっしょに来い、ジャンヴィエ」
「なにか思いあたることでも?」
「奴の居場所の見当がついたよ」
二人はオーバーの襟をたて、両手をポケットにつっこんで、歩道づたいに歩いていった。タクシーをつかまえるまでもない。
ブランシュ広場にさしかかると、ビヤホールの一軒のほうから出てくるフィリップの姿が、遠くから認められた。ハンチングをかぶったラポワント刑事が、こちらに合図を送ってよこす。
他の刑事たちも、フィリップを取りかこむ形をとって、いずれもその近くにいた。
「きみもいっしょに来い」
ほとんど人影のない通りを、わずが五百メートルほど歩く距離である。雨にぬれて輝くナイトクラブのネオンサインも、この天気では効果がないように見える。着飾ったドアマンが庇《ひさし》の下に雨をよけて、紅の大きな傘をいつでも拡げられる用意をしている。
「どこへ行くんです?」
「フィリップの家だ」
伯爵夫人は自分の部屋で殺された。アルレットを襲ったときも、犯人はノートルダム・ド・ロレット街の彼女のアパートで待伏せていたのだ。
古ぼけたアパルトマンだった。おろしたシャッターの上に、額縁屋の看板が書いてあり、入口の右側の店は書店になっていた。呼鈴を押さなければならなかった。三人が仄暗い廊下に入ると、メグレはあまり音をたてないようにという合図をした。門番室の前を通るとき、はっきりと聞きとれない名前を口のなかで呟いてみせて、まっすぐ絨毯のないむきだしの階段へとすすんだ。
二階のドアの下から灯が洩れていて、濡れた|靴拭い《マット》が敷いてあった。それから七階までは、まったくの暗闇であった。階段を照らす灯のタイムスイッチが切れていたからである。
「私に先に行かせてください、警視《パトロン》」そう囁《ささや》いて、ラポワントがメグレと壁の間にわりこもうとした。
メグレはそれを強く押しもどした。彼はロニョンの話から、フィリップが最上階の左へ三つめの女中部屋に住んでいることを知っていた。懐中電灯を照らして、黄ばんだ壁のせまい廊下に人影がないことを確かめてから、灯を消した。
三つめのドアの両側に刑事を配して、彼はドアの把手に手をかけた。もう一方の手には拳銃をにぎっている。把手がまわった。ドアには鍵がかかっていなかった。
足で押してドアを開けると、そのままの姿勢で、耳をすました。さっき出てきた家と同様、屋根を打つ雨の音と、雨樋を流れ落ちる水音しか聞こえなかった。刑事たちの心臓の鼓動がはっきり聞きとれるようだった。あるいは、彼自身の心臓かもしれない。
手をのばして、ドアの框《かまち》についたスイッチをさぐりあてた。
部屋にはだれもいなかった。身をひそめる押入れもない。ここに較べれば、さっきの家のボンヴォワザンの部屋は、さしづめ宮殿といってもいい。ベッドにはシーツもなかった。尿瓶には中身が入ったままだ。汚れた下着が床に脱ぎすてられている。
ラポワントがベッドの下をのぞいてみたが、結果は同じことだった。生きものの気配すらない。部屋はひどく臭かった。
ふいにメグレは、背後でなにかが動く気配を感じた。驚く二人の刑事の眼前で、彼はうしろへ一跳びしたかと思うと、身をひるがえして、正面にあるドアに肩からぶつかっていった。
ドアは開いた。ちゃんと閉まっていなかったのだ。ドアのむこうにだれかがいて、こちらを伺っていた。その幽かなドアの動きにメグレは気がついたのである。
ぶつかっていった勢いで、隣りの部屋に飛びこみ、危くつんのめるところだった。だが転倒しなかったのは、そこに彼とおなじくらいの体重の人間がいて、それに正面衝突したからである。
室内はまっ暗だった。ジャンヴィエが反射的にスイッチを入れて灯をつけた。
「危い、警視《パトロン》……」
そのときはすでに、メグレは胸元に頭突きをくらっていた。彼はよろめいて、身を支えようとして掴まえた物を床に倒した。それはナイトテーブルだった。上にのっていた花瓶が床に砕けた。
拳銃を銃身のほうに持ち変えて、クロスカウンターの一撃をねらった。彼は悪名高きオスカルに会ったことはなかったのだが、これまでにさんざん人の話を聞き、なんども心に描いたイメージとして、すでによく知っていると言ってもよかった。相手はふたたび頭を下げて、行手をふさいでいる二人の刑事にむかって突進していった。
ラポワントは無意識に相手の上衣にしがみついたが、ジャンヴィエのほうは、どこにくらいつこうか迷っていた。
彼らはおたがいに相手の姿を見ていないに等しかった。ベッドの上にだれかが倒れていたが、そちらに注意を向ける余裕もなかった。
ジャンヴィエが投げとばされた。ラポワントの手に上衣をのこしたまま、相手が廊下へ走りだしたとたんに、拳銃が火を吹いた。誰が撃ったのか、とっさにはわからなかった。ラポワントは男のほうを見る勇気すらなく、いわば茫然自失の態《てい》で、拳銃をかまえたままだった。
ボンヴォワザンはさらに数歩進んでから、前屈みになり、そのまま廊下の床に倒れた。
「気をつけろ、ジャンヴィエ……」
男の手にオートマチックが握られていた。銃身が動いた。それからゆっくり指が離れ、拳銃は床にころがった。
「私が殺したのでしょうか、警視《パトロン》?」
ラポワントの両眼はとびださんばかりになり、唇がふるえていた。いまだに撃ったのが自分だとは信じられないようすで、あらためて手の中のリヴォルヴァーを、驚愕と畏怖のまなざしで擬視した。
「私が殺した!」死体のほうに目をやることもできず、そう繰返した。
ジャンヴィエが男の上にかがみこんだ。
「死んでる。胸のどまんなかをぶち抜いてるぞ」
メグレは刹那、ラポワントが失神するのではないかと思って、彼の肩に手をかけた。
「はじめてだったのか?」と、静かに訊いた。
それから、励ますつもりで、
「アルレットを殺したのがあいつだということをを忘れるな」
「そうでしたね……」
笑っていいのか泣いていいのか判断がつかないといった、ラポワントの少年のような表情を見ると、なんとなくおかしかった。
階段をそっと上ってくる足音がした。つづいて、
「だれか怪我したんですか?」
「ここへ上らせるな」と、メグレがジャンヴィエに言った。
彼はさっき人が倒れているのをちらりと見たベッドのそばへ行った。それは十六か十七歳の女の子だった。書店の女中をしている娘である。彼女は死んでいるのではなく、声をたてないように猿ぐるわを噛まされていたのだった。両手をうしろで縛られ、スリップが腋の下のあたりまで裂けていた。
「階下《した》に降りて、司法警察に電話してこい」メグレはラポワントに言った。「まだ開いている酒場《ビストロ》があったら、ついでに一杯ひっかけてくるんだ」
「本気ですか?」
「これは命令だ」
娘が話ができるようになるまで、しばらく待たねばならなかった。彼女は映画を観て、夜の十時ごろ部屋に帰ってきたのだという。ところが彼女の知らない男が暗がりに潜んでいて、いきなり襲いかかってきた。電灯をつける暇もなかった。男はタオルで彼女に猿ぐつわを噛ませた。それから両手を縛ると、ベッドの上に投げ出した。
男はしばらくは彼女をそのまま放っておいた。じっと物音に耳をすましたり、ときどき廊下のほうをのぞいたりしていた。
男はフィリップを待伏せていたのだが、警戒して、彼の部屋で待つのを避けたのである。おそらく彼女の部屋に忍び込む前に、先にフィリップの部屋に入ったはずである。そのためにドアが開いたままになっていたのだ。
「それから、なにがあったのかね?」
「あたしの服を脱がせたんです。両手を縛られていたから、ドレスを破いちゃったわ」
「乱暴されたのか?」
彼女はこっくり肯いて泣きだした。そして、床から、明るい色のドレスを拾いあげる。「ドレスがこんなになっちゃった……」
危く命拾いをしたのだということを、彼女は理解していなかった。ボンヴォワザンが彼女を生かしておいた筈がないのは、わかりきったことだった。フィリップがそうであったように、彼女もオスカルの顔を見てしまったのだ。殺された二人の女のときのように、即座に首を締めなかったのは、フィリップの帰りを待つあいだ、楽しむつもりだったからにすぎないだろう。
午前三時、オスカル・ボンヴォワザンの死体は、法医学研究所の、金属の引出し状の棺の中に横たわっていた。アルレットと伯爵夫人の死体をおさめた棺のすぐそばである。
フィリップは『シェ・フランシス』に強引に入りこもうとして、そこの客と喧嘩をし、制服の警官に街警察の分署へ連行された。トランスは家に帰って寝た。ブランシュ広場からテルトル広場へ、そしてさらにコンスタンタン・ペックール広場へとぐるぐる引きまわされた刑事たちも、おなじく帰宅の途についた。
ラポワントとジャンヴィエをともなって、司法警察局を出たメグレは、ちょっとためらってから、二人をさそった。
「どうだ、一杯飲んで行かないか?」
「どこで?」
「『ピクラッツ』だよ」
「私はやめときます」とジャンヴィエ。「女房が待ってるし、赤ん坊に朝早く起こされますんでね」
ラポワントはなにも言わなかった。黙ってメグレのあとからタクシーに乗りこんできた。
二人は新しくきた女の子のショーに間にあった。二人が入って行くと、フレッドがそばに寄ってきた。
「やりましたね?」
メグレはうなずいてみせた。やがてシャンパンを入れたバケットが、テーブルに運ばれてきた。偶然にも六番テーブルである。黒いドレスが、若い娘の乳色の肉体をすこしずつ露わにしていった。彼女は怯えたような目をして、ためらいがちに腹部を露出してゆき、最後は夕方してみせたように、両手で恥部をおおった。
フレッドはわざとやったのだろうか? 本当なら、その瞬間にスポットライトが消え、踊り子がドレスを拾ってそれで前を覆うまでのあいだ、店内を暗くしておくはずである。ところがスポットライトが点いたまま消えないので、哀れな娘はどうしていいかわからず、しばらく経ってからやっと、白いまんまるのお尻をふりふり調理場へ逃げこむ仕儀となった。
まばらな客たちがどっと笑った。メグレはラポワントも笑っているものと思って、ふと刑事の顔を見やり、彼の頬をつたう滂沱《ぼうだ》たる涙を見た。
「すみません」と、吃りがちに言う。「こんなつもりじゃ……バカげてることはわかってます。でも私は……彼女を愛していたんです」
翌朝目を醒したとき、ラポワントはさらに恥しい想いをしなければならなかった。どうやって帰宅したのか、憶えていなかったからである。
妹がことさら陽気にふるまって(メグレにそうするよう言われていたからだが)、カーテンを開けながら彼をからかった。
「あんなふうに、警視さんからベッドに寝かしつけてもらうなんて、ね!」
ラポワント刑事はその夜、彼の初恋と訣別し、そして人を射殺するという初めての経験をしたのである。ロニョン刑事の場合は、任務を解くのをすっかり忘れられてしまって、コンスタンタン・ペックール広場の石段で、いつまでも寒さにふるえていた。(完)
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訳者あとがき
一九六九年にパリのチューという出版者から『シムノンのパリ』というデッサン集が刊行された。パリの市街にたいする量りしれないノスタルジーに溢れた、白黒あるいは淡彩の各デッサンに、シムノンの小説の一節が添えられている大判一九〇ページほどの本で、いまこれをぱらぱらめくってみると、本作品『モンマルトルのメグレ』(原題 Maigret au "Picratt's")に該当するものとしては、冒頭の部分にあたる、キャバレー街に警官が立ちん坊をしている絵と、踊り子アルレットのストリップ・ショーの写真を模したらしき図柄との、二葉がおさめられている。こういうふうに言うと、いかにもシムノンの作品のために描かれた挿絵集のように聞こえるかもしれないが、この本の成立の経緯からいうと、順序はむしろ逆だったらしい。
デッサンを描いたフレデリック・フランクによると、彼にとっての最も典型的なヨーロッパの街であるパリ風景を、モベール広場で写生していたとき、うしろからのぞきこんだ通りすがりのフランス人が、
「あなたの描いているのは、まさしくシムノンそのものだ!」
と、賛嘆したというのである。
そのときはフランク自身、「うるさい奴だな!」と思っただけで、むしろその野次馬を睨みつけて追い払った。ところが、しだいにパリ風景のデッサンが溜まるにつれ、あの「あなたの描いているのは、シムノンそのものだ!」と言った野次馬のせりふが耳底に甦ってきたのだという。そこではじめて、デッサン集『シムノンのパリ』の構想が生まれた。したがってフランクは、これはシムノン作品のためのイラスト集ではなく、「私が激しい郷愁の念に渇いていたとき、生きたヨーロッパを喚起させてくれた魔術師ジョルジュ・シムノンに捧げる、感謝の花束である」と述べている。
このフレデリック・フランクは、昭和四十六年の三月に来日して、しばらく京都に滞在していたことがあるので、あるいはご記憶の方もおられるかもしれない。画家としてはむしろ素人で、本職のほうは医学博士、一時期アフリカのランバレネでアルベルト・シュヴァイツァー博士の協力者でもあった、平和運動家でもある。一九○九年オランダのマーストリヒトで生まれたが、第二次世界大戦中ナチスの圧迫を逃れて各地を転々とした後アメリカヘ渡り、四五年には帰化して米国籍となった。彼が「激しい郷愁の念に渇いていた」というのは、この頃のことを言っているのである。その時期、シムノンの作品から受けた感動を、彼はこう言いあらわす。
「戦時中、私がなんども読みかえした、ヨーロッパからもたらされる愛の便りには、ジョルジュ・シムノンという署名があった。人々は彼の作品を、『推理小説』とかあるいは『心理小説』の部類に入れるかもしれない。だが私にとっては、当時も今もかわらず、それは人生への愛の便りであり、一人の天才が観察し賞賛してみせる人生そのものの便りなのである」
このフランクの賛辞を、私はいま、本作品『モンマルトルのメグレ』にそのまま呈したい気でいる。ここにはメグレ警視という、限りない魅力を秘めた中年男の目を通して、モンマルトルの場末風景とそこに描かれる人生模様への、多分にセンチメンタルな愛情告白を訴えかける作者シムノンの姿がある、と思うからである。その意味でもこの小説は、厖大なシムノン作品中でも屈指の傑作の一つということができるだろう。
話はかわるが、この作品の翻訳をしていた最中(一九八二年)の十一月半ば、新聞が俳優ジャン・ギャバンの訃を報じた。享年七十二であったという。ギャバンといえば、私が学生時代に観た忘れられない映画の一つに『殺人鬼に罠をかけろ』(原題 Maigret tend un Piege)というのがあった。昭和三十三年頃の上映で、たしか監督はジャン・ドラノワだった。
その当時、通常入場料四十円の名画座通いをしていた学生が、メグレ警視とギャバンの取合せに惹かれてロードショー劇場に大枚の入場料を払っただけの期待は、十二分に報いられた。犯罪者の心理を追うメグレの心象風景を、パリの街の見事な描写にとらえてみせたカメラ・ワークの巧みさよりもなによりも、もはやメグレ警視そのものとしかいいようのないギャバンの名演にすっかり魅せられてしまったからである。そのときの印象は文字通り胸裡に刻印されてしまい、爾来メグレものを読むときは、ほとんど無意識のうちにギャバンのイメージを想い描く仕儀となったほどである。
そういえば、「俳優は所詮は道化師だ」といって、大統領の招待を断りつづけたといわれるギャバンもまた、モンマルトルに生まれた芸人の子であった。以て冥福を祈りたい。(訳者)
[訳者略歴]
矢野浩三郎(やのこうざぶろう)
一九三六年、福岡県生まれ。翻訳家、明星大学教授。一九六五年頃より、仏、英、米、加の作家の作品の翻訳にたずさわり、現在にいたる。主な訳書は、シムノンのメグレ警視もののほか、スティーヴン・キング『ミザリー』、ケン・フォレット『大聖堂』、スチュアート・ウッズ『湖底の家』、ピーター・アクロイド『魔の聖堂』などがある。