ジョルジュ・シムノン/矢野浩三郎訳
目 次
第一章 茶色の靴
第二章 しし鼻の女
第三章 半熟卵
第四章 雨の日の埋葬
第五章 警察官の未亡人
第六章 物乞い同然
第七章 レインコートの店
第八章 モニクの秘密
第九章 コメリオ判事、しびれを切らす
訳者あとがき
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登場人物
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エミリー・トゥーレ……被害者ルイ・トゥーレの夫人
モニク・トゥーレ………ルイの娘
ジャンヌ……エミリーの妹
アルベール・ジョリス…モニク・トゥーレの恋人
サンブロン……カプラン商会の元会計係
レオーヌ………カプラン商会の元タイピスト
アントワネット・マシェール……カプラン商会の元倉庫員
マリエット・ジボン……下宿屋の女主人
ジェフ・シュラメック……元軽業師
コメリオ……予審判事
ヌヴー………第三区署の刑事
メグレ………司法警察局警視
リュカ、ジャンヴィエ、ラポワント、サントニ…司法警察局刑事
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第一章 茶色の靴
その日、十月十九日はメグレにとって、おぼえやすい日だった。義妹の誕生日だからである。さらに日曜日だということでも、忘れられない日だっただろう。月曜日にはめったに殺人《ころし》はないというのが、オルフェーヴル河岸〔パリ警視庁〕での言い習わしのようになっていたからだ。しかもそれは、その年でも、冬のきざしが感じられてからの、最初の捜査となった。
日曜日は一日中雨だった。冷たいこぬか雨が降り続き、屋根も舗道も、くろぐろと光っていた。黄色味がかった霧が窓のすきまから入りこんできて、さすがにメグレ夫人もたまらず、
「窓に隙間ふさぎをつけなくちゃね」
すでに五年以上も前から、毎年秋になると、メグレはこんどの日曜こそ実行するからと、約束しつづけていたのである。
「厚手のオーバーにしたほうがいいですよ」
「どこにある?」
「探してきますわ」
朝の八時半になったが、どのアパルトマンも電灯をつけたままだった。メグレのオーバーはナフタリンの匂いがした。
雨はやんでいた。すくなくとも目に見える雨は降っていなかったが、舗道はまだ濡れていて、通行人の足が踏みつけていくにしたがって、泥でぬるぬるしてきた。午後の四時頃、夕闇がおりはじめるすこし前だが、朝とおなじ黄色味がかった霧がパリの町をつつみ、街灯やショーウィンドーの明かりはぼんやりかすんで見えた。
電話がかかってきたとき、オフィスにはリュカも、ジャンヴィエも、ラポワントもいなかった。サントニが電話に出た。新入りのコルシカ人だが、ここにくるまでに、賭博班と風紀班で十年勤めあげてきている。
「第三区署のヌヴー刑事です、警視《パトロン》。あなたと直《じか》に話したいといってます。緊急らしいですよ」
メグレは送受器をつかんだ。
「私だ」
「サン・マルタン通りの酒場《ビストロ》から掛けているんですが。ナイフで刺殺された男の死体が発見されました」
「往来でかね?」
「いえ、ちょっと違うんですが。つまり袋小路みたいな場所です」
ベテラン刑事のヌヴーは、メグレの脳裏にひらめいたことを、たちどころに察知していた。ナイフでの刃傷沙汰は、とりわけ庶民的な繁華街では、べつだん珍しいことではない。酔っぱらいどうしの喧嘩もある。あるいはポン引き仲間とか、スペイン系や北アフリカ系の連中どうしの出入りもしょっちゅうだった。
ヌヴーはすかさずつけ足した。
「こいつはどうも、ふつうじゃないんです。とにかく来ていただいたほうがいいと思います。大きな宝石店と造花屋のあいだの路地なんですが」
「すぐ行く」
警視ははじめてサントニを同行させることにした。司法警察の黒塗りの小型車内で、刑事のつけている香水がやけに鼻につく。こいつ、背丈の低いのをカバーして、かかとの高い靴なんぞをはいている。髪はチックでべったり撫でつけ、薬指には、どうせ擬物だろうが大きな黄色のダイヤを光らせていた。
黒ずんだ街路に通行人たちのシルエットがさらに黒くうかび、靴底が舗道の泥でぴたぴた音をたてる。サン・マルタン通りの歩道には三十人ほどの人だかりができていて、半オーバーを着た警官が二人、野次馬連の前進をはばんでいた。待ちかまえていたヌヴーが、車のドアを開けた。
「医者には、あなたがおいでになるまで待つように言っておきました」
人通りの多いグラン・ブルヴァール〔マドレーヌ教会からバスチーユ広場までの大通り〕のこのあたりでも、いまが雑踏のピーク時だった。宝石店の上で照明をうけている大時計が五時二十分を指している。造花屋のほうはウィンドーもなく、照明も暗くて、およそ客が入ったことはないのではないかと思いたくなるほど、活気はないし、すっかり埃をかぶっている感じだった。
この二軒の店のあいだに、うっかりすると見過ごしそうな狭い路地の入口があった。灯火ひとつない、壁と壁のあいだの通路といったところで、この界隈に多く見られる小さな中庭へと通じているらしい。
ヌヴーがわきへ退いてメグレに道をあけた。路地を三、四メートル入ったあたりの暗がりに、四人の人間が佇立して待っていた。そのうちの二人が懐中電灯を手にしていた。よほど近く寄ってみないと、相手の顔の識別がつかないほどである。
表道りと較べると、ここはいっそう冷えこみ、じめついていた。絶えずどこからか風が吹きこんでくる。犬が一匹、なんど押しもどしても、しつこく脚のあいだから割りこんできた。
雨水でしみのできた壁と地面に、俯せになった恰好で、男が倒れていた。片腕をからだの下に折り敷き、もう片方はすっかり色を喪った手をひろげて、通路をふさぐかたちになっている。
「死んでいるんだね?」
町の医者が首をうなずかせた。
「即死だったようですな」
そのことばを裏書きするかのように、懐中電灯の光の円が死体の上を這って、そこに突き立っているナイフを奇妙な|浮彫り《レリーフ》のようにうかびあがらせた。べつの懐中電灯が、死体のねじむけた横顔を照らす。目を見開き、頬に、倒れたときに石壁でひっかいた傷があった。
「発見者は?」
制服の警官の一人が、このときを待っていたらしく、前へ進み出た。顔立ちはよくわからないが、まだ若く、かなり興奮している。
「いつもの巡回を行なっていたのです。路地にはかならず目を配るようにしているのですが。暗がりを利用してワイセツ行為に及ぶ連中がいるものですから。地面に人影が倒れているのが見えました。とっさには、泥酔者だろうと思ったのですが」
「そのときは、すでに死んでいたのかね?」
「はい。だと思います。死体にはまだ温か味がありましたが」
「何時だった?」
「四時四十五分でした。呼子を吹いて同僚に知らせてから、ただちに分署に電話連絡しました」
ヌヴーが口をはさんだ。
「その連絡を受けたのが私でして、すぐにここに急行したんです」
ここの街警察署はすぐ目と鼻の先の、ノートルダム・ド・ナザレト街にある。
ヌヴーはつづけた。
「私がうちの署のものに、医者を呼ばせたのです」
「だれも物音を聞いたものはいないのか?」
「そのようですが」
路地のすこし奥にドアが見えていた。その隙間からかすかに明りがもれている。
「あれは?」
「宝石店の事務所のドアです。めったに使用されていないようですが」
メグレは警視庁を出る前に、鑑識課に連絡しておいた。いま、その器具や写真機をたずさえた連中が現場に到着した。彼らはいかにも技術者らしく、自分たちの仕事以外のことにはいっさい気をつかわない。よけいな質問はなにひとつせず、ただこの狭苦しい通路でいかに手順よく運ぶかに、ひたすら腐心していた。
「中庭の奥には、なにがあるのかね?」メグレが訊いた。
「なにもありません。壁だけです。メレー街のアパートへ通じる扉が一つだけついていますが、永いあいだ閉めきったままです」
被害者は路地に十歩ほど入ったところで、背後から刺されたのだ。それは疑う余地がない。犯人は音もたてずに忍び寄ったのだろう、表通りには多勢の人通りがあったにもかかわらず、だれにも気づかれていない。
「被害者のポケットから、財布を引っぱりだしておきました」
ヌヴーがメグレのほうに差しだした。鑑識課員の一人が、頼まれもしないのに、刑事のもっている懐中電灯よりはるかに強烈な光を差しむけた。
ごくありふれた財布だった。新しくもなく、とくに使い古されているわけでもなく、品物は良質ではあるが、それだけのことだった。中身は千フラン札三枚と百フランが数枚、それに身分証明書があって、名前はルイ・トゥーレ、住所はジュヴィジー市〔パリの南。エソンヌ県の中心市〕ポプリエ街三十七、職業は倉庫係となっている。ほかには、同名義の有権者カードと、鉛筆のメモがある紙片、それに女の子のかなり古い写真が一葉はいっていた。
「行ってみますか?」
メグレはうなずいた。まわりで写真班のフラッシュが閃めき、しきりにシャッターを切る音がした。路地の入口の野次馬はいっそう数をまし、警官がそれを抑えるのに苦労している。
そのあと鑑識班は注意深くナイフを引きぬいて、特殊な箱におさめた。ようやっと死体はあおむけに引っくりかえされる。四十から五十歳のあいだの男の顔があらわれ、そこに浮かんでいる表情は、ただ、茫然という一語につきた。
自分の身になにが起きたのか、彼にはわからなかったのだ。わからないままに絶命したのだろう。その驚きの表情には、ひどく小児じみた、およそ悲惨とは縁遠いものが感じられ、だれかが暗闇で失笑をもたらしたほどであった。
服装は端正で、きちんとしていた。地味な色合いの背広に、ベージュの間《あい》もののコートを着ていた。妙なぐあいにねじれた足には明るい茶色の靴をはいていたが、それだけが今時分の装いにしてはどうもちぐはぐな感じだった。
靴の点をのぞけば、いたって平凡そのもので、街頭でも路上のテラスでも、人目を惹くようなことはなかっただろう。ところが、死体を発見した警官は、
「どこかで見たような顔だな」
「どこで?」
「さあ。たしかに見た顔なんだが。毎日顔をあわせているのに、特にどうってことないって人間がよくいるでしょう」
ヌヴーもそれに同調した。
「私にもなんだか見覚えがありますね。職場がこのへんにあるのかな」
だからといって、ルイ・トゥーレがどこにも通じていない袋小路に何の用があったのか、その説明にはならない。メグレはサントニにも尋ねてみた。彼はながいこと風紀班にいたのだ。事実この界隈には、人込みから身を匿す必要のある変質者が少なくなかった。その顔ぶれはほとんどわかっている。なかには社会的に重要な地位にいる人間も結構いた。頃合いをみて、ときどきしょっ引くのだが、釈放してやると、またぞろ性懲りもなくはじめるのである。
しかし、サントニはかぶりを振った。
「見たことないですね」
そこでメグレは断をくだした。
「捜査をつづけてくれ。ひととおり済んだら、被害者《がいしゃ》は法医学研究所のほうへ移すんだ」
そして、サントニに、
「家族に会いに行こう。もし、家族がいればだが」
おそらくあと一時間遅かったら、自分でジュヴィジーまで出かけて行く気にはなれなかっただろう。しかし、車が使えたし、とりわけ被害者と彼の職業の、まったくの凡庸さに好奇心をそそられていたのだった。
「ジュヴィジーまで」
その前にイタリー門で一時停車して、カウンターで生ビールを一杯ひっかけた。そのあとは郊外へむかう大街道の一本道、ヘッドライトの波と、行き交う大型トラックの列のみだった。ジュヴィジーでは、駅の近くで、ポプリエ街への道をたずねた。六人目でやっと教えてもらえた。
「ずっとむこうの、分譲区画の中だよ。あそこに入ったら、標識の街名に注意しなよ。どれも樹木の名前がついている〔ポプリエはポプラの樹の意〕。どれもよく似てるからね」
車は巨大な転轍駅にそって走った。ひっきりなしに線路から線路へ、列車の車両の入換えがおこなわれている。二十両もの機関車が、蒸気を吐きだし、汽笛をひびかせ、喘息音をあげていた。貨車がぶつかり合う。右手に新しい家並の区画が見えてきた。網の目にはしる狭い道路には、いちいち電灯で表示がつけられている。おそらくは同じ規格、同じ寸法で建てられた家が何百、いや何千軒とひしめいている。通りの名になっている、ありふれた樹々は、まだ充分成長するにいたらず、歩道はところどころ舗装されていない個所もあった。ほうぼうに黒い穴ぼこや空地がのこっており、小さな庭とおぼしきあたりに、なごりの花々が凋れかかっている。
シェーヌ〔柏〕街……リラ街……エトール〔ぶな〕街……。建造物とは名ばかりの安普請の家々が、これらの樹々が正常の大きさに成長する以前に崩壊してしまわなかったならば、このあたりはいつの日か、一種の公園の様相を呈することだろう。
家々の台所の窓辺には夕食の支度をする女たちの姿が見えている。ところどころに商店があるほか、道路はまったく人通りがなかった。その商店もできたてのほやほやで、素人経営くさく見える。
「左へ行ってみよう」
めざす街名を青い標識の上にみつけだすまでに、十分ほどぐるぐる廻り、番地も二十一の後ろにいきなり三十七がきたりするものだから、気がついたときはその家を通りすぎていた。家には一階に灯が一つ点いているだけだった。台所である。カーテンごしに、やや肥満ぎみの女が行ったりきたりしている。
「よし、行こう!」
メグレはいくぶん苦労して小型車から這いだした。
靴のかかとでパイプの火皿をたたいて灰を落す。歩道を横ぎって行くと、カーテンが動いて、女の顔が窓ガラスにはりついた。家の前に車が停まることなど、めったにないのだろう。三段の階段をのぼる。ドアはニス塗りの松材で、錬鉄の把手がつき、濃い青の小さな四角いガラスが二枚はめこまれていた。呼鈴のボタンをさがす。見つかるより早く、羽目板のむこうから声がした。
「なんですか?」
「マダム・トゥーレは?」
「わたくしですけれど」
「お話したいことがあるのですが」
まだ開けるのをためらっている。
「警察のものです」メグレが低声でいった。
ようやく意を決して鎖錠をはずし、ボルトをぬいた。顔の一部がわずかにのぞける程度に開けて、入口に立っている二人の男を観察している。
「なんのご用ですの?」
「お話があるのです」
「警察の方だと、どうしてわかるの?」
メグレがポケットにバッジを入れていたのは、まったくの偶然だった。たいていは自宅に置き放しなのだ。彼は明りのほうにバッジを差しだしてみせた。
「いいわ。どうやら本当らしいから」
彼女は二人をなかに入れた。廊下はせまかった。壁は白く、羽目板とドアにはニスが塗ってある。台所のドアが開いたままだったが、彼女はそのとなりの部屋の灯をつけて二人を招じ入れた。
夫とほぼ同年輩で、彼よりはずっと肥っていたが、いわゆる脂肪肥りの感じはなかった。いかつい骨格を堅牢な肉がおおっているという印象である。グレーの服の上につけていたエプロンを機械的にはずしたけれども、それで印象が柔らぐということはなかった。
二人が通された部屋はいなか風の食堂で、客間と兼用らしかった。家具類がウィンドーの飾りか家具屋の店内のように、整然と置かれている。乱雑なところはこれっぱかりもなかった。パイプとか、タバコの箱とか、編みものや雑誌が放りだされているということもなく、生活の営みのかけらも見あたらない。彼女は二人に椅子をすすめようとはせず、ただ床のリノリウムを汚されはしまいかと、足元をじろじろ見ただけだった。
「どうぞ話してください」
「ご主人のお名前はたしかルイ・トゥーレとおっしゃる?」
彼女は眉をひそめて、二人の来訪の目的は何かといぶかりながら、うなずいてみせた。
「お勤めはパリですか?」
「ボンディ街のカプラン・エ・ザナン商会で副部長をしてます」
「倉庫係ではなかったのですか」
「昔はそうでした」
「ずっと以前?」
「数年前ですわ。そのころから、会社を動かしていたのはあの人だったんです」
「ご主人の写真はありませんか?」
「なにをするの?」
「確かめたいので……」
「なにを確かめるんですか?」
だんだん心配になってきたようすで、
「ルイに事故でもあったの?」
とっさに台所の柱時計に目をやった。いまの時刻、夫がいるはずの場所がどのへんか、推量しようとしたのだろう。
「なにはともあれ、ご主人に相違ないことをまず確認したいものですから」
「食器戸棚の上です」と、彼女は言った。
五、六葉の写真が金属製の額縁に入って飾ってあった。その一葉に若い女と、袋小路で刺殺されていた男が写っていた。男は黒い服を着ていて、ずっと若く見えた。
「ご主人に敵があるかどうか、ご存知ですか?」
「どうして敵がいなきゃならないの?」
彼女は一時中座して、なにやら煮えたっているガス・コンロを止めに行った。
「いつも帰宅されるのは何時ごろです?」
「いつもはリヨン駅を六時二十二分に出る列車に乗るのですわ。娘はその次に乗るんです。会社の退けるのがすこし遅いし、あの娘《こ》は上役の方に信頼されていて……」
「パリまでわれわれにご同行願いたいのですが」
「ルイが死んだのですか?」
上目づかいにこちらをじっと見た。嘘をつかれるのが大嫌いといわんばかりである。
「本当のことをおっしゃって」
「今日の午後、殺されたのです」
「どこで?」
「サン・マルタン通りの路地です」
「そんなところになにをしに行ったのかしら」
「わかりません」
「それは何時でした?」
「たぶん四時半すこし過ぎではないかと思われます」
「四時半にはまだ会社にいるはずです。カプラン商会の人と話をされました?」
「その時間がありませんでしたので。それにご主人のお勤め先がどこか知りませんでしたし。」
「だれに殺されたの?」
「それを調べているところです」
「あの人、一人でした?」
メグレはいらいらしてきた。
「外出のしたくをされたほうがよいのではないですかな?」
「あの人はいま、どうなっているんですか?」
「いまごろは、法医学研究所のほうへ移されているはずです」
「死体公示所《モルグ》のことですの?」
なんと答えたらいいのだろう?
「娘にどうやって知らせようかしら」
「伝言をのこしておけばいいでしょう」
彼女は考えこんだ。
「いいえ。妹のところによって、カギを預けていくわ。妹にここへきて、モニクの帰りを待ってもらいます。娘にもお会いになる必要がありますか?」
「はい、ぜひとも」
「どこでお会いになります?」
「警視庁の私の部屋で。それがいちばん手っとり早いでしょう。娘さんはおいくつです?」
「二十二ですわ」
「電話で娘さんに連絡できませんか?」
「だいいち、うちには電話がありません。それにあの子はもう会社を出て、駅へむかう途中ですわ。ちょっと、失礼します」
彼女は階段を上っていった。階段が軋むのは古びているからではなく、素材の板が薄すぎるからである。家全体が安売りの建材で造られているため、おそらく古びるまで保《も》たないだろうという感じだった。
頭上で歩きまわる足音を耳にしながら、二人は顔を見合わせた。彼女は服を着替えているらしい。おそらく黒い服に替えて、髪もとかしているのに相違ない。彼女が降りてくると、またもや二人は目くばせを交した。思ったとおり、彼女はすでに喪服を着て、オーデコロンの匂いをさせていた。
「電気を消して、ガスの元栓をしめますので。外で待っていてくださいますか……」
小型車を目にすると、彼女はたじろいだ。自分の割りこむ余地があるかどうか、心配になったらしい。隣の家から、だれかがこちらを見ていた。
「妹の家はここから二本めの通りです。右へ曲って、二つめを左へ曲っていただければ結構です」
二軒の家はまるで双子といってよいほどそっくりの造りだった。違うところといえば、わずかに玄関のドアにはまったガラスの色だけである。こちらは黄杏色だった。
「すぐもどってきます」
そうはいったものの、たっぷり十五分以上は出てこなかった。ふたたび車のほうへ戻ってきたときは、彼女と目鼻立ちもそっくりの女といっしょだった。こちらも喪服を着ている。
「妹もごいっしょします。詰めあわせれば乗れるでしょ。義弟がうちへ行って娘を待っていてくれるそうですから。今日は非番なんですよ。義弟は鉄道の運転士をしてるんです」
メグレは運]手のとなりに席をうつした。後部に女二人が乗りこみ、サントニ刑事は小さくなって押しこめられた。ときどき、女どうし、ひそひそ囁きあう声が聞こえる。
オステルリッツ橋ちかくの法医学研究所に着いた。ルイ・トゥーレの死体は、メグレの指示にしたがって、服を着せたまま、一時的に舗石の上に寝かされた。メグレが顔の被いを取った。そうしながら、はじめて明るい光の下で、二人の女の顔を見くらべた。さっきの路上の薄暗がりでは、双生児ではないかと思っていたのである。いま見ると、妹のほうが三つ四つは若く、ごくわずかながら、肉づきに柔らかみが残っているようだった。
「まちがいありませんか?」
トゥーレ夫人はハンカチを手にしていたが、涙はこぼさなかった。妹が力づけるように姉の腕を抱えていた。
「ええ、ルイですわ。わたくしの可哀そうなルイ。今朝、家を出るときは、こんなことになるなんて……」
それから、だしぬけに、
「目をつぶらせてやらないんですか?」
「もう、そうなさってよろしいですよ」
彼女は妹を見た。どちらが手を出すか、おたがいに相談しあっている顔つきである。結局夫人のほうがいくぶん厳粛らしい手つきで瞑目させてやり、こうつぶやいた。
「可哀そうなルイ」
その直後、彼女は遺骸をおおっているシーツからはみだした靴に目をとめた。はげしく眉をひそめる。
「これはどういうことですの?」
メグレはとっさには意味が呑みこめなかった。
「だれがこの靴をはかせたんですか?」
「発見されたとき、これをはいていたのですよ」
「まさか。ルイがこんな茶色の靴なんかはくはずがありません。とにかく、結婚してから二十六年間、いちどだってありませんよ。わたくしが許すはずがないことを、主人は知っていましたから。あなた見た、ジャンヌ?」
妹のジャンヌはたしかに見たというジェスチャーをした。
「着ている服がご主人のものかどうか、たしかめていただいたほうがよさそうですな。この人がご主人であることには、疑問の余地はありませんね?」
「ありません。でも靴は主人のものじゃありませんわ。毎日靴を磨くのはわたくしですから。わたくしにはわかるはずでしょ。今朝は黒靴でした。仕事に行くときはく二重底の靴ですわ」
メグレはシーツをすっかり剥ぎとった。
「ご主人のコートですか?」
「ええ」
「背広は?」
「背広もそうです。ネクタイが違うわ。こんな派手なネクタイしたことありませんもの。こんな赤いネクタイなんか」
「ご主人の生活は規則正しかったのですか?」
「どんなに規則正しかったか、妹に訊いてもらえばわかります。毎朝、角のバス停からジュヴィジー駅までバスで行って、八時十七分の列車に乗ります。列車ではいつも、ボードアンさんといっしょでした。税務事務所にお勤めの、ご近所の方ですわ。リヨン駅で降りて、そこから地下鉄でサン・マルタン駅まで行くんです」
法医学研究所の係官がメグレに合図をおくった。メグレは了解して、被害者のポケットに入っていた品々が並べられているテーブルのほうへ、婦人二人をいざなう。
「ここにある物を見ていただきましょうか」
鎖のついた銀の懐中時計、イニシアルなしのハンカチ、口を開けたゴーロワズ一箱、ライター、鍵、それと、財布のそばに、青いボール紙の小さな切れ端が二つ。
すぐに彼女は、この紙きれに目をとめた。
「映画のキップだわ」
メグレはそれを手にとってみて、
「ボンヌ・ヌーヴェル通りのニュース映画館のものですな。この日付どおりなら、今日のキップだ」
「そんなばかなこと。あなた聞いた、ジャンヌ?」
「おかしな話ね」と、妹が落着きはらって答える。
「財布の中身を見ていただきましょうか」
夫人はいわれた通りにして、またも、眉をひそめた。
「ルイは今朝、こんなにたくさん持っていなかったわ」
「たしかですか?」
「わたくしが毎日、主人の財布にお金が入っているかどうか、たしかめるんですから。これまで、千フラン札一枚と、百フラン札二、三枚以上は持っていたことなんてありませんもの」
「サラリーが入ったということは?」
「まだ月末じゃありませんわ」
「夜、帰宅されたとき、お金はいつも残っていましたか?」
「地下鉄の料金とタバコ代を引いた分がね。列車のほうは、定期券がありましたから」
彼女は財布をじぶんのハンドバッグに入れたそうなようすを見せた。
「まだご入用なんでしょうね」
「さしあたってはね」
「わたくしにわかりませんのは、どうして靴をはき替えさせたり、ネクタイを替えさせたのかということですわ。それと、事件のあった時刻に、主人が会社にいなかったということです」
メグレはいいかげんで打切ることにして、公式書類に彼女のサインをとった。
「お宅へお帰りになりますか?」
「遺骸はいつ引取らせてもらえますの?」
「たぶん一両日中には」
「死体解剖をするんですか?」
「予審判事の命令があればね。どちらともいえません」
彼女は腕時計に目をやった。
「二十分後に列車があるわ」と、妹にいう。
つづいて、メグレに、
「駅まで送っていただけるのでしょうね?」
「お嬢さんを待たないのですか?」
「あの子は一人で帰れますわ」
そこでリヨン駅へまわり道をすることになり、二人の瓜二つのシルエットが、駅の石段を上っていくのを見送った。
「手に負えんな!」サントニがうなった。「哀れなご亭主は、一日だって息つく日もなかっただろうな」
「とくに、あの奥さんではね」
「例の靴の件はどう思います? あれが新品だったのなら、今日買ったばかりということも考えられるんだけど」
「それはむりだろう。あの奥さんのいったことを聞かなかったのか?」
「それに、はでな色のネクタイもありますしね」
「娘が母親似かどうか、興味のあるところだな」
二人はまっすぐ警視庁へはもどらなかった。途中夕食をとるために、ビヤホールに寄った。メグレは夫人に電話を入れて、今夜は何時に帰宅できるかわからない旨をつげた。
ビヤホールもまた、冬の匂いがした。どのコート掛けにも、濡れたオーバーと帽子が掛かっていて、暗い窓ガラスはびっしり汗をかいていた。
司法警察局の玄関までくると、守衛がメグレに声をかけた。
「若いご婦人がたずねてきましたよ。お約束があるとかで。階上《うえ》に通しておきましたが」
「ずいぶんになるかね」
「二十分ほどです」
霧はこぬか雨に変っていた。濡れた足跡がいつも埃をかぶっている広い階段に、まだら模様をつくっている。ほとんどの部屋はからっぽだったが、ドアの下から光がもれている部屋もいくつかあった。
「私もごいっしょしますか?」
メグレはうなずいた。はじめにそうした以上は、サントニにつづけて捜査にあたらせるべきだろう。
娘は控え室の肱掛椅子にすわっていた。最初に目についたのは、彼女の明るいブルーの帽子である。室内は照明がわるく、うす暗かった。給仕は夕刊を読んでいた。
「あなたのお客です、警視《パトロン》」
「わかっている」
それから、娘にむかって、
「マドモアゼル・トゥーレ? 私の部屋のほうへどうぞ」
メグレは自分のと向かいあった椅子を照らす、グリーンのシェードのついた電気スタンドのスイッチを入れた。そこに彼女をすわらせて、それまで彼女が泣いていたことを知った。
「父が死んだと、叔父から聞きました」
メグレはしばらく口をつぐんでいた。彼女も母親と同じく、ハンカチを手にしていたが、こちらはそれを手の中で丸めて、指でいじくりまわしている。メグレはそれを見て、パテのかたまりをいじるのが好きだった子供の頃を想いだしていた。
「母もごいっしょかと思ってました」
「ジュヴィジーへ帰られましたよ」
「どんなようすでした?」
どう答えればよいのか?
「お母さんは、たいそう気丈な女《ひと》ですな」
モニクはむしろ可愛らしい感じだった。母親にはまるで似ていなかったが、体つきは頑丈そうだった。それも肉付が若々しく、いかつさがないので、目だつというほどではない。ずいぶん仕立のよいドレスを着ていた。明らかに自分で縫ったのでもなければ、安物の店で買ったのでもないところが、メグレにはいささか意外に思えた。
「いったい、なにがあったんですか?」そう訊くと同時に、睫毛のあいだから涙がこぼれそうになった。
「お父さんはナイフで刺し殺されたのです」
「いつ?」
「今日の午後、四時三十分から四十五分あたり」
「どうして、そんなことに……」
どういうわけかメグレは、彼女がどこか率直でないという感じを抱いた。母親のほうも、一種反抗的な態度を見せていたが、彼女の性格からすればそれも納得がいく。実際トゥーレ夫人にとって、サン・マルタン通りの路地で殺されるなどということは、まったくの面汚しでしかないのだろう。彼女は自分の生活のみならず家族の生活までも支配していて、その彼女がしつらえた枠組の中には、あのような死にざまの入りこむ余地はないのだ。ましてはでな茶色の靴をはき、赤いネクタイをしめた死体など、言語道断というわけである。
モニクのほうはむしろ、何か知られたくないことがあって、ある種の質問を恐れて用心ぶかく身構えているという感じなのである。
「お父さんのことは、よく知っていましたか?」
「だって……それはもちろん……」
「だれもが両親のことを知っているという意味合いで、あなたがお父さんの事を知っていたというのは、これはあたり前の話。私がたずねているのは、お父さんがあなたに自分の内面生活や考え方について、打明け話をするような、信頼関係があったのかどうかという……」
「あたしにはいい父親でした」
「幸福だったのかな?」
「そう思います」
「パリでときどき、お父さんと会うことはありましたか?」
「どういうことでしょう? 道で行き会うということかしら?」
「あなたがたは二人ともパリの会社に勤めていた。しかし通勤はおなじ列車ではなかったでしょうが」
「通勤時間が違っていましたから」
「昼食をいっしょにするということも、あったのじゃないですか?」
「たまにありましたけど」
「頻繁に?」
「いいえ。ごくたまにです」
「お父さんの会社にたずねて行ったことは?」
答えをためらっている。
「ありません。レストランで待合わせただけです」
「あなたのほうから電話をしたことはありますか?」
「たぶん、なかったと思います」
「最後にいっしょに食事をしたのはいつです?」
「数ヵ月前。ヴァカンスの前でした」
「どこで?」
「≪ラ・ショップ・アルザシエンヌ≫、セバストポル通りのレストランです」
「お母さんはそのことをご存じですか?」
「あたしが話したと思います。はっきりとはおぼえてませんけど」
「お父さんは明るい性格でしたか?」
「ええ、かなり……と思います」
「からだは丈夫でした?」
「病気をしたのを見たことありません」
「友人は?」
「とくに叔父叔母たちとの付合いが多かったものですから」
「多勢いらっしゃるのかな?」
「叔父が二人と、叔母が二人です」
「みなさんジュヴィジーにお住いですか?」
「ええ。あたしたちの家の近くです。父が死んだことを教えてくれたのが、ジャンヌ叔母の連れあいのアルベール叔父です。セリーヌ伯母はもうすこし離れたところに住んでいます」
「お二人ともお母さんのご姉妹ですか?」
「ええ。ジュリアン伯父──セリーヌ伯母の連れあいですけど──彼も鉄道で働いてるんです」
「あなたに恋人はいますか、マドモアゼル・モニク」
いくぶん、どぎまぎしたようす。
「今はそんな話をするときではないのじゃないでしょうか。父に会わなければならないんでしょう?」
「どういう意味かな?」
「叔父の話では、あたしが死体を確認しに行くのだとか」
「お母さんと叔母さんがすませましたよ。もっとも、あなたがそうしたいといわれるのなら……」
「いいえ。どうせ家で会えるでしょうから」
「あとひとつだけ、マドモアゼル・モニク。あなたたちがパリで会われたとき、お父さんは茶色の靴をはいていましたか?」
すぐには答えなかった。時間かせぎのためか、彼女はおうむ返しに、
「茶色の靴?」
「とても明るい茶、ですが。私たちの若い頃は、どうも妙な表現ですが、カカドワ〔ガチョウのうんこ色〕といっていたやつです」
「おぼえてません」
「赤いネクタイをしていたこともありませんか?」
「ええ」
「最近、映画を観に行きましたか?」
「昨日の午後行きました」
「パリで?」
「ジュヴィジーでです」
「これ以上はお引きとめしません。たぶん、列車はまだ……」
「あと三十五分あります」
彼女は腕時計を見て、立ちあがったが、ちょっとぐずついている。
「失礼します」と、ようやく言った。
「さようなら、マドモアゼル。ご足労かけました」
メグレはドアのところまで彼女を送って行った。
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第二章 しし鼻の女
どういう理由でかは定かでないが、メグレはグラン・ブルヴァールの、特にレピュブリック広場からモンマルトル街までの部分に、ある種の愛着をいだいていた。そこはいわば、彼のわが街であった。毎週といってよいほど、夫人同伴で、仲良く腕を組みながらぶらぶら歩いて映画を観に行くのが、ボンヌ・ヌーヴェル通りで、そこはルイ・トゥーレが殺されていた路地からわずか数百メートルの距離である。しかもその真向いには、彼がよく好物のシュクルートを食べに行くビヤホールがあった。
それよりももっと先の、オペラ座からマドレーヌ教会までの部分では、ブルヴァールもずっと爽やかでエレガントになる。一方、サン・マルタン門とレピュブリック広場のあいだは、ときに目眩めくほど強烈で濃密な生活がうごめく、暗い影の部分である。
その朝、メグレは八時半ごろ家を出た。どんよりと曇って、前日より湿度は低かったが、冷えこみはいちだんと厳しかった。べつに急ぐでもなく、わずか十五分たらずのうちに、ブルヴァールに接したボンディ街の、ルネサンス劇場の前に小さな広場を作っている交叉点についた。トゥーレ夫人の話では、ルイがつい昨日まで勤めていた、カプラン・エ・ザナン商会がそこにあるはずだった。
番地で見ると、そこはひどく古ぼけたアパートだった。ほとんど傾きかけていて、大きく開いた玄関には、白地に黒文字の表札がずらりとならんでいる。マットレス製造業、タイピスト塾、万年筆商〔A棟左側四階〕、執達吏、マッサージ師などの表示が読める。門番室は玄関の円天井の下にあって、門番の女が郵便物をいそがしく選りわけているところだった。
「カプラン・エ・ザナン商会は?」と、メグレは訊いてみた。
「商会がなくなってから、来月で三年になりますよ」
「その頃、あんたはここにいたのかね?」
「こんどの十二月で、まるまる二十六年になるわ」
「ルイ・トゥーレを知っているかな?」
「ルイさんならよく知ってるわ。あの人、どうかしたんですか? 顔を見せなくなってから四、五ヵ月になるけど」
「死んだよ」
はっとして、手紙を選りわける手がとまった。
「あんな元気な人が! なんで亡くなったの? 心臓でしょ、きっと。うちの亭主もやっぱり……」
「昨日の午後、この近くで刺し殺されたんだ」
「あたし、まだ新聞を読んでないもんだから」
いずれにしろ事件の報道は、ありふれた出来事として、数行でかたづけられていた。
「あんな気のいい人を、だれが殺そうなんて考えたのかしら?」
彼女もまた、気のいい女だった。小柄で、ぴちぴち元気がいい。
「二十年以上も、あの人は日に四度、あたしの門番室の前を行き来して、そのたびにかならずお愛想をいってくれたもんだわ。カプランさんが商会をやめたときは、それはひどくがっかりしてしまって……」
いまにも涙をぬぐって、ハンカチで洟をかみそうな気配だった。
「そのカプランさんは元気なのかね?」
「なんなら住所を教えましょうか。アカシア街のマイヨ門のそばに住んでるんですよ。あの方もいい人だけど、ルイさんとは違うわ。今でもカプランさんは、お元気だと思いますよ」
「なにを商っていたのかな?」
「商会のこと知らないんですか?」
カプラン・エ・ザナン商会を知らない人間がいるなんて、彼女には驚くべきことらしい。メグレは言った。
「私は警察のものだ。ムッシュー・トゥーレについて、なんでもいいから知りたい」
「あたしたちは、ルイさんと呼んでましたよ。みなさん、そう呼んでたわ。あの人の姓を知っている人なんて、ほとんどいなかったわ。ちょっと待ってくださいね……」
郵便物ののこりを整理しながら、ひとりごとを呟いている。
「ルイさんが殺されるなんて! だれがいったいそんなことを! あんなに気のいい……」
手紙をすべて仕分け棚に入れおわると、毛玉のショールを肩にかけて、ストーブのコックを半分閉めた。
「こちらへどうぞ」
門番室を出ると、彼女は説明した。
「三年前この建物は、取り壊されて映画館になるはずだったんですよ。その当座、店子たちは賃貸解約通知を受けとって、あたしなんか、ニエーヴルの娘のところに身を寄せる手はずにしてたんです。カプランさんが会社をたたまれたのも、そのためですよ。もっとも商売のほうも、前ほどうまく行かなくなってたんでしょうけどね。あたしたちがマックスさんと呼んでた、息子さんのほうのカプランさんは、考え方がお父さんとは違ってましたからね。こっちですよ……」
円天井の下を出ると中庭があって、その奥に駅のホールのように天井がガラス張りになった、大きな建物が建っていた。漆喰ぬりの壁にはまだ、≪カプラン・エ・ザナン≫の文字のうちのいくつかが消えずに残っている。
「あたしがここにきた二十六年前には、もうザナンのほうはなかったんですけどね。あのころはお父さんのほうのカプランさんが一人で会社を切り盛りしておられて、あの方は聖書に出てくる東方の博士みたいな頭をしてらっしゃったので、外に出ると、子供たちがわっと寄ってきたもんでした」
ドアは閉まっていなかった。錠前がはずされていた。いまやすべてが死滅しているが、数年前までは、ここがルイ・トゥーレの世界の一部だったのだ。それがどんなようすだったのか、いまとなっては正確にはわからない。建物の内部はひろびろとしていて、頭上たかくに見える天井の方形のガラスも、その半分がたは失くなっているし、残りの半分も透明度を失っていた。大きな倉庫のように、壁に沿って回廊が、それも二階と三階にめぐらされており、商品棚のあった部分にはそれを取りはずしたあとが歴然と残っていた。
「ルイさんはここに訪ねてこられるたびに……」
「彼はよく来たのかね?」
「二、三ヵ月毎ぐらいかしら、いつもなにかしらおみやげを持ってきてくれてね……そのたびに、ここを見に入ってこられるんだけど、あの人の胸が悲しみでいっぱいだってことが、よくわかりましたよ。なにしろ最後のころは品物を包装する女の子だけでも二十人以上いたし、お祭りのシーズン前には、夜まで働いてることも珍しくなかったですからね。カプランさんは小売りはなさってなくて、地方の百貨店とか行商人とか露店なんかに卸してたんですよ。ここは人が通れないくらいの商品の山で、なにがどこに置いてあるかは、ルイさんにしかわからなかったくらいですよ。とにかくいろんな品物があって、それこそ付け髯から、クリスマス・ツリーにさげるボール紙のラッパとかいろんな色の玉、カーニバルの色テープ、お面、海水浴場で売ってるおみやげとか」
「ルイさんは倉庫係だったんだね?」
「そうですよ。グレーの上っぱりを着てね。右手の、ほら、あそこのガラス張りのとこが、息子さんのカプランさんの部屋だったんですよ。お父さんが最初の発作のあと、会社へ出てこられなくなってからのことですけどね。おなじ部屋に、タイピストのマドモアゼル・レオーヌがいて、二階の部屋には、お年寄りの会計係の人がいたんです。それでだれも、あんなことになるなんて、思ってもいなかったんですね。あれは十月だったか十一月だったか、もう忘れちゃったけど、とにかくもう寒くなってからでしたよ。ある日、マックス・カプランさんが社員を集めて、会社をたたむことにしたって、いっちゃったんですね。在庫品は買取り手が見つかったからって。
あのときはみんな、そのあくる年に建物は取り壊しになって、さっき話しましたように、映画館にするんだって聞かされてたんです」
メグレは彼女の話に聞き入りながら、周囲を眺めまわして、その最盛期のようすを想像してみた。
「表側の建物も壊されることになってるんですよ。店子みんなに、解約通知がきてるんです。それで出て行ったところもいくつかあります。そのほかは居坐っちゃってるんだけど、結局その人たちのほうが正しかったわけですよね。だっていまだに出て行かなくてすんでるんだもの。ただ、建物が売られてから、新しい持主は建物の補修はしないって、断ってるんですよ。執達吏はほとんど毎月やってくるし。わたしなんか、もう二度も荷造りやりましたよ」
「トゥーレ夫人を知っているかね?」
「会ったことはないですね。おすまいは郊外のほうの、ジュヴィジーだったとか……」
「いまでもそうだよ」
「会ったんですか? どんな女《ひと》でした?」
メグレはそれには答えず、ただ顔をしかめただけだった。それだけで彼女には通じた。
「やっぱりね。家庭には恵まれてない人だなって感じてましたものね。あの人の生活はここにあったんですよ。それだけに、なんどもあたしがそういってるんですけど、いちばん打撃が大きかったのはあの人なんですよ。とくにあの齢で生活を変えるというのは、大変なことよね」
「いくつだったんだね?」
「四十五か六ですよ」
「その後なにをしていたのか、知ってるかね?」
「聞きませんでしたね。とても苦労したんだと思うわ。ずいぶん長いこと顔を見せなかったから。いちどなど、あたしがいつものように急ぎの買物に出かけたら、あの人がベンチに坐ってるのを見ちゃいましてね。ショックだったわ。昼日中、彼みたいな人がいる場所じゃないですからね、わかるでしょ? あたし、ふっと声をかけようとしたんだけど、気まずい思いをさせちゃいけないと思って、遠まわりして帰ってきましたけどね」
「それは会社を閉鎖してからどれくらい後のことだね?」
ガラス天井の下の空気は冷たかった。中庭にいるより寒い。そこで彼女が、
「門番室にもどって暖まりません? さあ、どれくらい後だったかしらね。まだ春にはなってなかったわね、木に葉っぱがなかったから。そう、冬の終りごろかしら」
「そのつぎに会ったのは?」
「ずっと後の、真夏になってからね。それが、あたし、びっくりしちゃったのよ、あの人、カカドワの靴なんかはいてるんだもの。なんでそんな顔してあたしを見るの?」
「いや、なんでもない。話をつづけて」
「あの人らしくなかったですからね。以前は黒靴をはいてるところしか見たことなかったから。あの人はこの部屋にはいってくるなり、テーブルに小さな包みをポンと置いて。白い包装紙に金色のリボンがかかった、チョコレートの箱でしたよ。そして、そこの椅子にすわったんです。あたしはコーヒーを入れて、あの人にここの番をたのんでおいて、角の酒屋さんまでカルヴァドスの小壜を買いに走りましたよ」
「彼はどんな話をした?」
「特別にはなにも。ここの空気を吸うのが、さも嬉しいってようすでね」
「新しい生活についてはふれなかったのかね?」
「うまく行ってるのって訊いたら、そうだという返事でしたよ。どっちにしても普通の会社勤めじゃないわね。時間が午前の十時か十一時ごろでしたからね。またべつのときなんか、午後の時間にやってきて、派手なネクタイなんかしちゃっててね。若く見せたいからでしょうって、からかってやったわよ。そんなことで怒るような人じゃないしね。それからお嬢さんのことを訊いたわ。会ったことはないけど、生まれてから何ヵ月かしたころ、写真を見せてもらったことがありましたからね。子供が生まれたことを、あんなに自慢してた人も珍しいわね。会う人みんなにその話をして、ポケットにはいつも写真を入れていましてね」
しかし彼の所持品のなかに、モニクの最近の写真はなかった。赤ん坊のころのものだけである。
「あんたの知っているのは、それだけかね?」
「なにを知ってろっていうの? あたしは朝から晩まで、ここに閉じこもってるんですからね。カプラン商会がなくなって、二階の美容師さんも引越していってしまって、ここには活気ってものがなくなってるのよ」
「その話を彼にしたかね?」
「しましたよ。いろんな話をしたわ。少しずついなくなっていく店子のこととか、訴訟のこと、ときどきやってくる建築家のこともね。あの人たちが愚にもつかない映画館の設計図なんかひねくりまわしているあいだも、ここの壁はすこしずつ崩れていってるという話とか」
彼女の口調に苦々しさは感じられなかった。それでも、ここに最後まで居残るのはやはり彼女ではないかと、思わずにはいられない。
「どんなぐあいだったんですか?」こんどは彼女が訊く番だった。「あの人、苦しんだのかしら」
トゥーレ夫人もモニクも、そのことを訊こうとしなかった。
「医者は即死だといっているから、そんなことはなかっただろう」
「場所は?」
「すぐ近くの、サン・マルタン街の路地だ」
「宝石店のそばの?」
「そう。日が暮れかかったころ、うしろからついてきたやつが、背中にナイフを突きたてたんだ」
メグレは昨晩と今朝、自宅から鑑識の研究室に電話をしていた。それによると、兇器のナイフはどこの金物店にも売っている、ごくありふれた製品だということだった。まあたらしい品で、指紋は発見されなかった。
「可哀そうに! あんなに人生を楽しんでいた人なのに!」
「彼は陽気な性格だったのかね?」
「陰気な人じゃなかったわ。どう説明したらいいかしら。だれにでも愛想がよくて、いつでも優しいことばや心遣いを忘れなかった。それでいて、出しゃばるようなことはなかったですね」
「女性関係は?」
「まるっきりね。もっともその気があれば、いちばん恵まれていたはずですけどね。マックスさんと会計のご老人をのぞけば、商会でたった一人の男性だったし、包装の仕事にきていた女たちに、身持ちのいいのはいなかったから」
「酒は?」
「ワインをごくふつうていど。それと、ときどき、コーヒーの後に飲むリキュールぐらいですかね」
「昼食はどこでとっていたのかな?」
「お昼も会社から出ませんでしたよ。いまでもはっきりおぼえているけど、油布に包んだお弁当を持ってきてたんですよ。それをテーブルの隅で立ったまま食べてから、また仕事にもどるまで、中庭でパイプをふかしていましたね。ただ、ときたま、お嬢さんと待合わせてるからっていって、出かけることがありましたね。お嬢さんが大きくなられて、リヴォリ街の会社に勤めるようになってからだから、ずっと後のことですけどね。
≪どうしてお嬢さんを連れてこないの? お会いしたいわ≫っていうと、
≪そのうちにね……≫っていって。
だけど、とうとう連れてこなかった。なぜだかわかりませんけどね」
「マドモアゼル・レオーヌはどうなったか、わからないかね?」
「わかりますよ、アドレスも知ってるし。彼女はお母さんと住んでるんですよ。会社勤めはやめて、モンマルトルのクリニャンクール街に小さなお店を開いたんです。彼女なら、あたしよりくわしく知っているかもしれないわ。ルイさんは彼女のところにも訪ねて行ってましたからね。いちど彼女の話が出たとき、赤ちゃん用の産着やなにかを売ってるんだって、あの人が教えてくれたんですよ。おかしな話」
「なにがおかしい?」
「彼女が赤ちゃん用品を売るなんてね」
アパートの住人たちが郵便物をとりに来はじめて、気づかわしげな視線をメグレに投げかけていった。おそらく、彼のことを、店子を追い出しにきた人間だと思ったのだろう。
「いろいろありがとう。たぶんまた来るよ」
「犯人の見当はつかないんですか?」
「まるでつかない」と、正直に答えた。
「財布を奪《と》られたのかしら?」
「いや。時計も奪られていない」
「だったら人違いしたんだわ、きっと」
ここからクリニャンクール街までいくとしたら、かなりの距離である。メグレはバーに入っていって、そこの電話ボックスを使った。
「そっちはだれだ?」
「ジャンヴィエです、警視《パトロン》」
「なにかニュースは?」
「あなたの指示にしたがって、みんな出かけて行きました」
つまり五人の刑事がパリの街々を手わけして、金物店の聞きこみにまわっている、という意味である。サントニには、念のために、モニク・トゥーレに関する情報を集める役割をふりあててある。おそらくいまごろはリヴォリ街で、訴訟代理業のジェベール・エ・バシュリエ社のあたりをうろつきまわっているはずである。
もしもジュヴィジーのトゥーレ夫人のところに電話があるのであれば、この三年間も、亭主が毎朝、黒い油布に包んだ弁当をもって家を出ていたかどうか、尋ねてみたいところだった。
「車をまわしてもらいたいんだがね」
「いま、どこですか?」
「ボンディ街だ。ルネサンス劇場の前につけてくれればいいよ」
彼はジャンヴィエに、手がすいているなら、サン・マルタン通りの商店の聞きこみをやるように、よほど指示しようかと思った。その方面はヌヴー刑事があたっているはずだが、この手の偶然に頼ることの大きい仕事では、人手が多すぎるということは決してあり得ない。
だがそういわなかったのは、メグレが自分でその方面にまわってみたい気持があったからである。
「ほかになにか?」
「新聞関係に写真をくばれ。月並みな事件式の扱い方をつづけさせるように」
「了解。では車をまわします」
門番の女がカルヴァドスの話をしたせいもあるが、じっさい寒くもあったので、一杯ひっかけることにした。そのあと、両手をポケットに入れた恰好で通りを横断して、ルイが殺されていた路地をのぞきに行ってみた。
事件のことがほとんど知れわたっていないせいか、路上に血痕がのこっていないかと、足をとめてのぞく人もいないようだった。
メグレはしばらくのあいだ、宝石店のウィンドーの前に立ちつくしていた。店内には五、六人の店員のすがたが見える。さほど高級な品は扱っていないらしい。陳列されている品の多くには、≪特売品≫の表示が見えた。ウィンドーはそれこそ雑多な商品の満艦飾で、結婚指輪から、模造ダイヤ、擬物の宝石類、目覚し時計、腕時計、趣味のわるい掛時計……。
店内からメグレのようすを見ていた小柄な老人が、どうやら客の可能性ありと見てとったらしい。口許に笑みをうかべて、中に招じ入れんものと、ドアのほうへ歩み寄ってきた。そこで警視どのはその場を離れることにした。さらに数分たってから、司法警察局の車がやってきた。
「クリニャンクール街だ」
こちらはずっと人通りも少なかったが、やはり庶民の街であることに変りはない。≪べべ・ローズ≫という看板の出ている、マドモアゼル・レオーヌの店は、馬肉屋と運転手相手の食堂とのあいだにはさまって、おそらくこの辺の顔なじみにしか知られていないような、目だたない店だった。
中に入ってみて、メグレはショックに近いものをおぼえた。店の奥の部屋に、猫を膝に抱いて、肘掛け椅子にすわっている老婆のすがたが見えたが、その奥から彼のほうに歩み寄ってくる女が、カプラン商会のタイピストということから彼が抱いていたイメージに、まるでそぐわなかったからである。どうしてかは、彼にもわからなかった。彼女はフェルトのスリッパをはいているらしく、あたかも尼僧のように音もなく歩み寄ってくる。さらに、上体を動かさずに歩くところも、やはり尼僧に似ていた。
ぼんやりとした微笑をうかべた。いわば口許が示す微笑ではなくて、顔ぜんたいに拡がった、そこはかとない頬笑みとでもいおうか。
彼女の名前がレオーヌというのも妙だった。もっと妙だったのは、動物園にうずくまっている年老いたライオンに見られるような、丸くて大きな鼻をしていたことである。
「いらっしゃいませ」
彼女の装いは黒だった。顔も手も血の気がなく、とりとめのない感じ。奥の間においてある大きなストーブから、おだやかな温か味が漂っていた。カウンターにも棚にも、柔かそうな毛糸、ブルーやピンクのリボン飾りのついた靴、帽子、洗礼用の衣装などがならんでいる。
「司法警察局のメグレ警視です」
「え?」
「あなたの元の同僚だったルイ・トゥーレが、昨日殺害されまして……」
最も強烈な反応を見せたのは、このレオーヌだった。もっとも、涙を見せたわけでもないし、ハンカチを出したり、唇をふるわせたりもしなかった。ただ、突然のショックに金縛りとなり、いってみれば、心臓が停止したといった按配である。もともと血の気のなかった唇が、まわりの産着のように真白になった。
「どうも、ぶしつけにこんなことを言ってしまって……」
彼女はかぶりを振って、怒っているわけではないことをわからせようとした。老婆が奥の部屋で身じろぎした。
「犯人を探しだすために、彼に関する可能なかぎりの情報を集めなければならないもので……」
彼女は≪わかった≫というしるしに、うなずいてみせた。まだ声が出てこない。
「あなたなら、彼のことをよくご存知だったはずだと……」
そこでようやく、顔に一瞬、血の気がもどったようだった。
「どうしてそんなことに?」膨らんだのどからしぼりだすような声だ。
彼女は少女のころから、すでに醜かったに相違なく、おそらく彼女自身そのことをよく承知していたのだろう。奥の間のほうに目をやって、囁くようにいった。
「お坐りになりません?」
「しかしお母さんが……」
「母の前ではなにを話してもかまいませんわ。耳がまったく聞こえないのです。そばに人がいると喜びますから」
二人の婦人が籠りきりの生活を送っている、空気の稀薄な部屋では、息がつまりそうな気がするのだとは、さすがにいえなかった。
レオーヌの年齢は見当がつかない。おそらく、それもかなり前に、五十をすぎているのではないか。母親のほうはすくなくとも八十歳にはなっている感じだった。まるで小鳥のようにはしこい小さな目で、じっと警視を注視している。レオーヌの大きな鼻は母親似ではなく、壁に引伸し写真がかかっている父親ゆずりだった。
「ボンディ街で門番の女《ひと》に会ってきました」
「彼女、ショックだったでしょうね」
「そう。よほど彼を好きだったようです」
「だれだって好きでしたわ」
その言葉とともに、顔色に紅味がさした。
「とてもいい方でしたから」と、いそいでつけ足す。
「よく会っておられたのでしょうな」
「なんどか訪ねてみえました。よくってほどではありませんけど。とてもお忙しい方でしたし、ここは街の中心から離れていますから」
「最近の彼の仕事のこと、ご存知でしたか?」
「お尋ねしたことありません。ご繁盛のようでしたわ。ご自分でなにかなさっていたのじゃないですか、サラリーマンではないようでしたから」
「どんな人たちと関係していたか、話しませんでしたか?」
「あたしたち、ボンディ街のことばかり話してました。カプラン商会や、マックスさんや、棚卸しのこと。なにしろたいへんな数の品物でしたから、毎年の棚卸しは、それこそ大仕事でした」
それから、ためらいがちに、
「奥さんにはお会いになりました?」
「昨晩にね」
「なんとおっしゃってました?」
「ご主人が亡くなったとき、茶色の靴をはいていたのが、ふしぎだったようですよ。犯人が履きかえさせたのにちがいないと」
彼女も門番の女とおなじく、靴のことには気がついていた。
「いいえ。ときどき履いていらっしゃいましたよ」
「ボンディ街に勤めていたときから?」
「その後ですけど。かなり後でした」
「どれくらい後だったか、おわかりですか?」
「一年ぐらいじゃないですか」
「茶の靴を見て、びっくりしましたか?」
「ええ。あの方らしくなかったですから」
「どう思いました?」
「お変りになったって」
「ほんとうに変ったのかな?」
「とにかくすっかり同じじゃなかったですわ。ご冗談の言いかただって、違ってました。大声で笑ったりなんかして」
「以前には笑わなかった?」
「笑い方がちがってました。あの方の生活に、なにか変化があったのですわ」
「女、かな?」
酷とは思ったが、訊かざるをえなかった。
「でしょうね」
「あなたに打明けたのですか?」
「いいえ」
「あなたを口説いたことは?」
烈しく否定した。
「そんな! ぜったいありません! 考えたことさえないはずですわ」
猫が老婆の膝から、メグレのほうへ跳びうつってきた。彼女が手で追い払おうとしたので、
「かまいませんよ」と、メグレ。
彼はパイプを喫いたい気持をがまんしていた。
「カプラン氏が商売をやめると宣言したときは、さぞかしみなさん、がっかりだったでしょう」
「ええ、それはもう」
「ルイ・トゥーレには、特にショックだった?」
「商会にいちばん愛着のあったのが、ルイさんでしたから。商会はあの方の一部のようなものでした。なにしろ十四歳の小僧さん時代から、あそこで働いていた人ですから」
「彼はどこの出身です?」
「ベルヴィルですわ。あの方の話では、お母さんが未亡人で、カプランさんのところへ連れていったのもそのお母さんだったそうです。まだ半ズボンをはいていた年頃で、ほとんど学校にも行かなかったんです」
「お母さんは亡くなったのでしょうな」
「もうずっと以前に」
どういうわけかメグレは、彼女がなにかを秘している、という気がしてならなかった。話し方は率直だし、こちらの目をまっすぐみつめているのだが、にもかかわらず彼女の履いているフェルトのスリッパのように、ひそやかに滑り抜けていくものを感じとっていた。
「彼は新しい仕事をみつけるのに、だいぶ苦労したようですね」
「だれがそういいました?」
「門番の話から推測したんですがね」
「四十をすぎて、それも手に職がないとしたら、お仕事を見つけるのは難しいにきまってますわ。このあたしだって……」
「職さがしをされたのですか?」
「数週間だけでしたけど」
「で、ルイさんは?」
「永いあいだ探しつづけてらしたんです」
「それはあなたの推測ですか事実ですか?」
「事実です」
「その当時も、あなたを訪ねてきたわけですか?」
「ええ」
「で、あなたが援助してやった?」
それはほとんど確信に近かった。レオーヌは貯蓄をするタイプにちがいない。
「どうしてそんな話をなさるの?」
「最近の彼のようすをくわしく知らなければ、それだけ犯人を捕えるチャンスもなくなるからですよ」
「そうですわね」やや考えてから納得した。「なにもかもお話しますけど、なるべく、ここだけの話にしてくださいね。特にあの方の奥さんには知られたくないんです。とても気位の高い女《ひと》だから」
「彼女を知ってるんですか?」
「あの方のお話ですわ。義理のご兄弟がいい職に就いていらして、それぞれお家を建てたんですって」
「彼もですよ」
「奥さんのたっての望みだったからですわ。ご姉妹とおなじように、ジュヴィジーに住むといってきかなかったのも、奥さんなんです」
いつのまにか声の調子が変っていた。ながいあいだひそかに醗酵しつづけてきた、根深い恨みに似たものが沸きでてくる。
「奥さんが怖かったのかな?」
「あの方は、だれも傷つけたくなかったんです。あたしたちが職を失ったのは、クリスマスの何週間か前だったのですが、あの方はそのために年の暮をだいなしにしたくなかったのです」
「つまり、奥さんには話さなかった? ずっとボンディ街に勤めに出ていると思わせていたのですな?」
「数日か、せいぜい数週間のうちに、新しい就職口をみつけるおつもりだったんです。でも、お家のことがありますし」
「どういうことかな」
「お家の年賦払いがあったんです。ですから指定の日に支払いをしないと、大変なことになるのはあたしにもわかりました」
「で、だれから借金したのです?」
「サンブロンさんとあたしです」
「サンブロンさんとは?」
「会計係をしていた方ですわ。いまは働いていませんけど。メジスリー河岸におひとりで住んでいます」
「お金持ですか?」
「とても貧乏ですわ」
「で、あなた方二人が、ルイさんにお金を貸したのですか?」
「ええ。そうでもしないと、あの方のお家は売りに出されて、ご一家が路頭に迷うことになりますもの」
「どうしてカプラン氏に頼まなかったのです?」
「カプランさんにお願いしても無駄ですわ。そういうお人です。商会を閉じるというお話のとき、あの人はわたしたち一人一人に、三ヵ月分のお給料の入った封筒を渡されました。ルイさんはそのお金をお家に持って帰るわけにはいかなかったのです、奥さんにみつかるといけないから」
「奥さんが彼の財布を調べていた、ということですか?」
「さあ。そうかもしれません。それであたしがお金をお預かりして、毎月、あの方は月給の分だけ持って行かれました。でも、それもなくなってしまったので……」
「なるほど」
「でも返してくださいました」
「どれくらいたってから?」
「八、九ヵ月か、一年ちかくですね」
「ながいこと彼は姿を見せなかったのですか?」
「たぶん二月から八月ごろまで」
「心配になりませんでしたか?」
「ええ。かならずまたお見えになると思ってましたから。たとえ、お金を返していただかなくても……」
「新しい仕事がみつかったと、彼は言ったのですか?」
「働いている、とおっしゃいました」
「そのときは茶色の靴をはいていた?」
「ええ。それからときどきお見えになりました。そのたびに、母にお菓子やなにかを持ってきてくださって」
どうりでさっきから、老婆が失望の色ありありと、メグレの顔をみつめていたはずである。ここへ来る客はみな、彼女に甘いものを持ってくるらしいのに、メグレは空手でやってきたのだ。こんど来るときはきっと、ボンボンを持ってこようと、彼は心に銘記した。
「彼はだれかの名前を口にしませんでしたか?」
「だれの名前です?」
「わかりません。傭い主とか、友だちとか、同僚とか」
「いいえ」
「あるいは、パリのどこか、街の名前とか」
「いつもボンディ街の話ばかりです。あそこにはなんども行かれていたようでした。いつまでたっても建物が壊されるようすがないので、辛い想いをされたようですわ。
≪あと一年ぐらいいられたのになあ≫って、ため息をついておられましたわ」
入口の鈴がチリンと鳴った。レオーヌはほとんど反射的に首をのばして、だれが店へ入ってきたのか見ようとする仕種をした。メグレは立ちあがった。
「あまり永くお邪魔してはいけませんので」
「いつでも、またいらしてください」
おなかの大きい女の客が、カウンターのそばに立っている。メグレは帽子をとって、ドアへむかった。
「お世話さまでした」
彼が車に乗りこむところを、女二人は、白やピンクの産着と羊毛ごしに見守っていた。
「どこへ行きますか、警視《パトロン》」
時刻は午前十一時だった。
「ちかくの酒場《ビストロ》で停めてくれ」
「店のそばにありますよ」
レオーヌの目の前で、酒場へ入って行くのは気がひけた。
「角をまがってくれ」
カプラン氏に電話したかったのと、商工年鑑でメジスリー河岸のサンブロンの正確なアドレスを知りたかったのである。
そのついでに、さっきのカルヴァドスが後を引いたせいもあって、カウンターでもう一杯ひっかけることにした。
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第三章 半熟卵
メグレはビヤホール≪ドフィーヌ≫の一隅で、ひとり昼食をとっていた。それはつまり、自宅まで食事に帰っている余裕がないということであり、それだけに彼の精神状態をしめす赤信号でもある。いつものように警視庁の刑事たちが多勢、アペリチフを飲んでいたが、彼らはいっせいに、メグレがいつもの彼のテーブルへ歩いていくのを目で追った。セーヌの流れを見おろせる窓ぎわのテーブルである。
メグレとは所属がちがう刑事たちは、無言で目くばせを交しあった。彼が重い足取りで、いくぶんうつろな目つきをし、一見不機嫌の兆候ととられかねないようすを見せているとき、それがなにを意味するかは警視庁中だれ知らぬものもなかった。それを見て思わずニヤリとするものがいたとしても、そこにはある種の畏敬がこもっていなくもない。その結果は遅かれ早かれ、容疑者の自白へとつながるからである。
「子牛のマレンゴはうまいかい?」
「はい、ムッシュー・メグレ」
自分では気づかずに、容疑者を見る目でボーイを見据えていた。
「おビールで?」
「ボルドーの赤の小壜だ」
天邪鬼精神というやつ。もしもワインをすすめられていたら、ビールと言ったにちがいない。
今日はまだ警視庁に足をふみいれていなかった。メジスリー河岸にサンブロンを訪ねてきたところだったが、その訪問が彼をいささか淀んだ気分にさせていた。
まず最初はマックス・カプランに電話をしたのだが、アンチーブ市の別荘に行っていて、いつパリへ戻るかわからないという返事だった。
メジスリー河岸のアパートの入口は、両側を小鳥屋の店にはさまれていた。ほとんど歩道いっぱいに、鳥籠がはみだしている。
「ムッシュー・サンブロンは?」と、門番の女に訊いてみた。
「最上階です。すぐわかりますよ」
エレベーターをさがしたが無駄だった。しかたなく七階まで歩いて昇った。古い建物で、壁は汚れて黒ずんでいた。最上階の踊り場には明り取りから光が射しこんでいた。左手のドアのきわに、部屋着についているような赤黒だんだらの打ち紐がぶらさがっている。それを引くと、室内《なか》でなにやらおかしな音がした。つづいて軽い足音が聞こえ、ドアが開いて、なかば幽鬼じみた顔がのぞいた。長細くて蒼白く、骨ばった顔。何日も剃らないひげは色がさめたようになり、目は涙でしょぼついている。
「サンブロンさん?」
「私です。お入りください」
そんな短いせりふも、うつろな咳でさえぎられた。
「失礼。気管支が……」
室内には、気のぬけた、胸のむかつくような臭気がみなぎっていた。ガスコンロがしゅうしゅう音をたてている。湯が沸騰していた。
「司法警察局の、メグレ警視です……」
「はい。あなたか刑事さんが、おいでになるだろうと思っていました」
蚤の市でしか見られないような花模様のクロスが掛かったテーブルの上に、朝刊がひろげられていた。ルイ・トゥーレの死を報じた数行の記事が見えている。
「お食事中でしたか?」
新聞のそばに、皿と、ワインで色つけした水のコップと、パンが一片のっていた。
「べつに急ぎません」
「どうか、私には構わずつづけてください」
「どうせ卵も固くなったころですから」
老人はその卵を取りに行った。ガスの音がやんだ。
「お掛けください、警視さん。オーバーもお脱ぎになって。なにせこの気管支めのせいで、部屋を特に暖くしておりますので」
年齢はレオーヌ嬢の母親とさほど違わないように見えたが、彼には面倒をみてくれる人もいない。おそらくこの部屋に客がくることもないのだろう。ここの唯一の贅沢は、窓から見えるセーヌ川と、その両岸にパリ裁判所と花市場を配した眺望ぐらいのものだった。
「ルイ氏には、永くお会いになってなかったのですか?」
会話は半時間たっぷりかかった。ときどき咳の発作にさえぎられたのと、サンブロンが卵を食べるのに信じ難いほど時間をかけたせいである。
そして結局は、すでにボンディ街の門番女とレオーヌから聞いていたこと以外、なにひとつ収穫は得られなかった。
カプラン商会の閉鎖はサンブロンにとっても破局を意味した。彼は新しい就職口をさがそうとすらしなかった。いくらか貯えがあったのだ。彼は永年のあいだ、老後の生活はその貯えで充分だろうと思っていた。ところが平価切下げがあり、文字通り手許にのこったのはかろうじて飢えをしのぐ、かつかつの金額にしかすぎなくなっていた。おそらくあの半熟卵は、彼の一日で唯一の食物らしい食物だったはずである。
「さいわい住居のほうは、四十年前からここに住んでおりましたからな」
妻も子もなく、もはや血縁は一人もいなくなって、彼は天涯孤独の身だった。
しかもルイ・トゥーレが訪ねてきたとき、なんの躊躇もなく彼に金を貸している。
「彼は生死にかかわる問題だからといっておりましたし、それが嘘ではないのが、よくわかりましたからですよ」
レオーヌ嬢も彼に金を貸していた。
「数ヵ月後にはちゃんと返しにきましたよ」
しかしその数ヵ月のあいだ、ルイが二度と来ないのではないかと、いちども考えたことはなかったのだろうか。そうなったら、サンブロンは毎日の半熟卵代にすら事欠くことになったはずである。
「ときどき訪ねてきたのですか?」
「ニ、三回ですかな。最初は、お金を返しにきたときですよ。海泡石のパイプを手みやげにくれましてね」
そのパイプを飾り棚の上から持ってきて見せた。タバコも倹約しているらしい。
「顔を見せなくなって、どのくらいになりますか?」
「いっとう最後は、三週間前に、ボンヌ・ヌーヴェル通りでベンチに坐っているのを見かけたときでした」
この会計係もまた、生涯勤めてきた界隈への愛着捨てがたく、ときどき近くまで出かけているのかもしれない。
「声をかけてみました?」
「ならんでベンチに腰をおろしましたよ。彼は近くのカフェで一杯ご馳走するといってくれたのですが、断わりました。晴れた日でしてね。通行人をながめながら、しばらくお喋りをしましたよ」
「彼は茶色の靴をはいてましたか?」
「靴には注意しませんでしたな。気がつきませんでした」
「いまは何をしているのか、彼は話しましたか?」
サンブロンはかぶりを振った。レオーヌ嬢とおなじ慎しみから、敢えて尋ねなかったのだろう。メグレはこの二人のもつ共通点が理解できたような気がした。そして、実際には不慮の死に襲われたときの顔しか知らないけれども、ルイ・トゥーレという男の人柄に好感を抱きはじめていた。
「別れるときはどんなふうでした?」
「だれかがベンチの近くをうろうろしながら、どうやらルイさんに、合図をしているような按配でしてな」
「男ですか?」
「そうです。中年の男でした」
「どんなタイプの?」
「あの辺のベンチに掛けているのを、よく見かけるようなタイプでした。それでおしまいには、なにもいわずに、自分も腰掛けてきまして。で、私は立ちあがったのですよ。立ち去るときに振り返ってみたら、二人は話しこんでいました」
「親しそうでしたか?」
「喧嘩をしているようには見えませんでしたな」
それですべてだった。メグレはまた階段を歩いて降りて、自宅に寄ろうかとは思ったがそれも気がすすまず、結局ビヤホール≪ドフィーヌ≫のいつものテーブルで昼食をとる仕儀となったのだった。
空は灰色にくもっていた。セーヌ川もどんよりとして生彩がない。メグレはコーヒーといっしょにカルヴァドスをもう一杯飲んで、警視庁にもどった。そこで彼を待っていたのは書類の山である。しばらくしてから、コメリオ判事が電話をしてきた。
「例のトゥーレ事件をどう思うかね? 今朝、検事がこの件を廻してきて、きみが担当しているというものだからね。ヤクザの犯罪だろう、やっぱり?」
メグレはウイともノンともつかない、うなり声を発しただけだった。
「遺族が死体を引取りたいと申し出てきている。きみの同意を得ないうちは、事を運びたくないと思ってな。まだ死体は必要なのかな?」
「ボール医師の検視は終ったのですか?」
「さっき電話で知らせてきた。報告書は今夜書いて送るそうだ。ナイフは左心室を貫いていて、ほぼ即死に近いらしい」
「そのほかのの刺傷とか打撲傷は?」
「ない」
「遺族に引取らせても支障はないと思います。ただし衣類は研究室へまわしてほしいですね」
「わかった。状況は逐一、私に連絡してくれたまえ」
コメリオ判事は珍しくおとなしかった。おそらくそれは、新聞が事件のことを書きたてていないせいであり、彼が事件をヤクザの犯罪だときめてかかっているからである。まるで関心を呼ばない事件というわけだろう。
メグレはストーブの火を掻きたて、パイプにタバコをつめて、一時間ばかりお役所仕事に浸りきっていた。書類に補足事項を書き入れたり、署名をしたり、面白くもない電話を何本かかけたりする仕事である。
「入ってもいいですか、警視《パトロン》」
例によってめかしこんだサントニ刑事だった。これまた例によって床屋みたいな匂いを発散させており、それがために同僚たちからは、
「おまえ、淫売みたいに匂うぜ!」と、いわれている。
サントニは雀躍りせんばかりに張りきっていた。
「手がかりらしきものを掴みましたよ」
メグレはまるで無感動に、どんよりした目を彼のほうに向けた。
「まず第一に、あの娘が勤めているジェベール・エ・バシュリエという会社は、手形の取立て屋だということです。ケチな仕事でしてね。つまりほとんど望みのない手形とか借用書を安く買い取って、なんとか取立てようってわけです。ビジネスというよりは、内職みたいなものでね。トゥーレ嬢は午前中だけリヴォリ街で働いて、午後はずっと債務者まわりをやってるんです」
「なるほど」
「たいがいは下層の貧乏人ばかりでね。泣き落しの手にひっかかって、結局は金を払わされることになる連中ですよ。彼女の傭い主には会わなかったのですが、お昼に会社の入口で、彼女に気づかれないようにしながら、待ちかまえていて、姥桜という年頃の女子社員に話しかけたわけです。彼女、どうも同僚のことを好きじゃないらしくて」
「で、結果は?」
「わがモニク嬢には恋人がいるんですよ」
「名前はわかったか?」
「いまその話をしますよ、警視《パトロン》。二人が知りあったのは四ヵ月ほど前で、セバストポル通りにある定食レストランで、毎日昼食をいっしょにしています。彼はまだ若く、わずか十九歳でして、サン・ミシェル通りの大きな書店の店員をしています」
メグレは机の上にならべたパイプをもてあそんでいたが、その一本を手にとると、いま喫っているのがまだ終らないうちから、タバコをつめはじめた。
「男の名前はアルベール・ジョリス。どんな奴かひと目見たいと思って、その定食レストランに行ってみました。たいへんな混雑でね。ようやくテーブルについているモニクをみつけましたが、彼女、一人なんですよ。私もべつの一角に坐ったんですが、おちおち食ってもいられません。彼女、ばかにいらいらしていて、しょっちゅう入口のほうに目をやってるんです」
「男は現われなかったのか?」
「そうなんです。彼女、せいいっぱいのろのろ食べてましたがね。なにせあの込みようですから、ものすごい速さで料理は出てくるし、ぐずぐずしてる奴は厭がられるんですよ。しかたなく彼女は外へ出たんですが、それから十五分ほど、店の前の歩道を行ったりきたりしてました」
「それで?」
「彼女、よほど男のことが気がかりだったと見えて、私には気がつかないんですよ。それからサン・ミシェル通りのほうへ歩きだしたんで、あとを尾けて行きました。あの角の書店はご存じでしょう、道路にまで本の箱を出してるとこですよ」
「知ってる」
「彼女、店内《なか》に入っていって、店員に話しかけましたら、レジのところへ行くようにいわれたようです。だいぶしつこく訊いているようでしたが、がっかりしたようすで、結局店から出て行きました」
「彼女のあとを尾けなかったのか?」
「男のほうを調べたほうがいいと思いましたんでね。こんどは私が店内に入っていって、支配人にアルベール・ジョリスという男を知っているかと尋ねたんです。彼は知っているけれども、ジョリスの勤務は午前中だけだというんです。ちょっと驚いたんですが、彼の話によると、あそこでは特に学生アルバイトを使っているので、まる一日勤務というのは少ないっていうんですよ」
「ジョリスは学生なのか?」
「まあまあ、そう急かさないで。彼がいつごろから書店に勤めているのか知りたいと思いましてね。支配人は台帳を見てましたよ。まる一年とちょっとになるそうです。最初のうちはフル勤務だったんですが、三ヵ月ばかし前、法律学校に行くんで午前中だけの勤務にしてほしいといってきたんだそうです」
「彼の住所は?」
「シャティヨン通りの、モンルージュ教会のほぼまむかいに両親と住んでいます。話はまだあるんです。アルベール・ジョリスは今日、サン・ミシェル通りの店に姿を見せなかったんですよ。こんなことは年に二、三回しかないそうで、それも必ず、そのつど電話連絡をしてきたというんですがね。今回はそれもなかったんです」
「昨日は出勤していたのか?」
「そうなんですよ。あなたも関心をもたれると思いましてね、タクシーでシャティヨン通りへ行ってみました。両親はちゃんとした人たちで、四階にある小ぎれいなアパルトマンに住んでいます。ちょうど母親が洗濯のものにアイロンをかけてるところでしたよ」
「それで、きみは警察のものだと言ったのか?」
「いいえ。息子さんの友だちで、大至急彼に会う用事があるんだと……」
「書店へ行けと言われたか?」
「そのとおり。母親はなんにも気づいていないんですよ。彼はいつものとおり今朝八時十五分に家を出ています。法律学校のことなぞ彼女は聞いてもいないんです。父親はヴィクトワール街にある服地問屋に勤めてます。彼らは息子に学費を出してやれるほど裕福じゃないんです」
「それでどうした?」
「どうもジョリス違いだったらしいというふりをしましてね。息子さんの写真がないか訊いてみたんです。食堂の食器戸棚の上にあった奴を見せてくれましたよ。じつに気のいい女で、なにひとつも疑っちゃいません。しじゅう気にしていたのは、アイロンが冷めやしないか、下着を焦がしやしないかということだけでね。こっちは適当におべんちゃらなんか使っちゃって……」
メグレはなにも言わなかったが、かといって感心したふうもなかった。サントニは彼の班に移ってきてまだ間がないのだ。その喋っていることも、またその喋り方の口調すらも、メグレや彼の部下たちとは調子が一本狂っていた。
「出がけに、彼女に気づかれないよう……」
メグレは手を出して、
「よこせ」
サントニが写真をくすねてきたのは、わかりきっていた。写真の男は、髪を長くのばし、痩せて神経質そうな青年で、女たちからハンサムだと思われていることを、ちゃんと自覚しているといったタイプだった。
「それでお終いか?」
「奴が今夜家に帰るかどうかは、いずれわかることじゃないですか?」
メグレは溜息をついた。
「それは、まあ、わかるだろうな」
「ご不満ですか?」
「いや、そんなことはない」
しかたのないことだった。サントニもいずれは、他の連中とおなじようにこの仕事に慣れてくるだろう。要するによその班からきた刑事が相手のとき、いつも同じ想いを味わなければならない、というだけのことだ。
「私が娘の尾行をつづけなかったのは、彼女の行先がわかっていたからですよ。毎日、五時半かおそくとも六時十五分前には、集金した金を持ち帰ってその日の報告をするために、会社へもどってくるんです。なんなら、確かめてきましょうか?」
メグレはこの件からいっさい手を引けと言いそうになって、ぐっと堪えた。それではあまりにフェアではない、と思いなおしたのだ。サントニ刑事は彼なりに、せいいっぱいやってきたのだ。
「彼女が会社にもどってきて、いつもの列車に乗るところを、確認しろ」
「あるいは彼女の恋人も姿をあらわすかもしれませんな」
「あるいは、な。男がいつも両親の家に帰るのは何時ごろだ?」
「夕食はいつも七時です。夜間に外出するときでも、その時間には家に帰ってくるそうです」
「電話はないのだろうな?」
「ええ」
「門番室にもないのか?」
「さあ。あれは電話のありそうなアパートじゃないですな。調べてみましょうか?」
彼は街別に分類された電話帳をめくりはじめた。
「七時半すぎたらアパートを訪ねて、門番に訊いてみろ。写真はここに置いていけ」
サントニが盗んできた以上は、預っておいても大差はあるまい。いずれ役に立つときがあるかもしれない。
「あなたはオフィスにいらっしゃいますか?」
「わからん。私がどこにいようと、本庁への連絡は怠るな」
「私はこれから何をすればいいんです? リヴォリ街へ出かけるまで、まだ二時間ぐらいありますが」
「家具つきホテル班へ行ってみろ。あるいは間借人名簿に、ルイ・トゥーレの名前がみつかるかもしれん」
「奴が市内に部屋を借りていたと思われますか?」
「でなければ、帰宅する前に、茶色の靴と赤いネクタイをどこで取り替えていたと思うんだ?」
「あ、なーるほど」
まるまる二時間過ぎてから、ようやく新聞の午後の版にルイの写真が載った。それも隅のほうに小さな写真が出ただけで、簡単な記述がついていた──。
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≪ルイ・トゥーレ。昨日の午後、サン・マルタン通りの路地で殺害された。警察は目下、手がかりを追っている。≫
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記事はまちがっていた。手がかりなど皆無なのだ。しかし新聞記事がよけいなことを書くのは、いまにはじまったことではない。それにしても、いまだに電話が一本もかかってこないというのは妙だった。じつをいうとメグレが自室にもどってきて、つまらない書類整理で時間をつぶす気になったのも、電話による通報があるのを予期したからだった。
こんどのような事件の場合、その正否はともかくとしても、被害者を知っているという人間がかならず幾人か現われるものである。またあるものは、殺人の現場付近で、犯人らしい人物を見かけたといってくる。その大部分が調査してみるとたいがい誤報と判明するものだが、だからといって、そこからなんらかの糸口が見つからないとはいいきれないのである。昔の同僚とボンディ街の門番女が「ルイさん」と呼んだ男は、この三年間もこれまで通り、毎朝おなじ列車でジュヴィジーを発って、毎夕おなじ列車で帰宅しつづけ、油布にくるんだ弁当を持参していたのだ。
リヨン駅で列車を降りてから、彼はいったい何をしていたのか。この点が謎だった。
最初の二、三ヵ月間は、必死で新しい就職口をさがし歩いていたと見て、まず十中八九間違いなかろう。彼もまた失業者の例にもれず、求人広告にのる広告主のアドレスを一刻も早く知ろうとして、新聞社の前に行列をつくった一人にちがいない。あるいは電気掃除機のセールスをして、一軒一軒訪ねあるいたこともあったのかもしれない。
いずれにしろ、うまくは行かなかった。切羽詰まって、レオーヌ嬢と老会計係から借金をする破目になっているからである。
その後の数ヵ月間、彼は足跡をくらます。カプラン商会でのサラリーと同額の金ばかりでなく、貸してくれた二人へ返す金をも、どこかから調達してこなければならない。
しかるにこの間も、彼はなにごともなかったような顔をして、いかにも一日の勤務をおえたサラリーマンといった風情で、毎夕わが家へ帰っているのである。
細君はまるで気づいていなかった。娘もそうだ。義理の姉妹にしても、鉄道に勤めているというその夫たちも、同様である。
そしてある日、彼はレオーヌ嬢に返す金だけでなく、彼女へのプレゼントと彼女の老母へのお菓子まで携えて、クリニャンクール街に姿をあらわす。
おまけにはでな茶色の靴をはいて、ときた!
メグレが彼に共感のようなものを覚えるのは、この茶色の靴となにか関係があるのかもしれない。自身ではそうと認めてはいなかったが、彼もまた、カカドワの靴をはくことを夢見た時代があったのだ。それはペタンレール〔≪放屁にひるがえる≫の意。裾が尻のあたりまでしかない〕と呼ばれた短いベージュ色のコートと同様、当時の流行であった。
結婚したての頃、彼はいちど茶色の靴を買おうと意を決したことがあり、顔を赤らめて靴屋にとびこんだ。しかもそれは、サン・マルタン通りの、ランビギュ劇場の真向いの店だった。しかし靴は買ったものの、すぐに履く勇気がなく、夫人の前で包みを解いたときも、彼女にからかわれる始末だった。
「あなた、履かないんですか?」
結局いちども履かずじまいで終った。足に合わないからという口実で、靴屋にそれを返しに行ったのはメグレ夫人だった。
ルイ・トゥーレもまた、茶色の靴を買った。そのことがメグレの目には、ある兆候として映る。
まず第一に、それが解放のしるしであることは間違いないだろう。彼はその靴を足に履いているあいだ、おのれを自由な人間だと感じていたに相違ない。つまり、ふたたび黒靴に履きかえるまでの間は、細君や義理の姉妹たちの軛から解放されていると感じていたということである。
さらにそこにはもう一つの意味がある。メグレがあの靴を買った日は、彼が当時勤務していたサン・ジョルジュ街署の所長から、月給を十フラン昇給してやると言われたのだった。当時の十フランだから、ちょっとしたものである。
ルイ氏もまた、きっと懐が暖かいような気分だったにちがいない。老会計係に海泡石のパイプを贈っているし、彼を信用してくれた二人に借金を返しに行っているのである。それからはときおり、その二人、とくにレオーヌ嬢のところに顔を見せるようになり、さらにまた、ボンディ街の門番女のところをも訪ねるようになっている。
しかしどんな仕事に就いているのか、彼らに話さなかったのは何故か。
まったくの偶然からか、門番の女は朝の十一時に、サン・マルタン通りのベンチに坐っている彼を目撃している。
彼女は声をかけようとはせず、相手から見られないように廻り道をしてしまった。彼女の気持はメグレにはよくわかった。彼女を当惑させたのは、それがベンチだったからだ。その半生を毎日十時間たゆまず働きづめで過してきたルイのような男が、なすこともなくベンチにぼんやり坐っていたのだ。日曜日でもなければ、一日が終った夕刻というのでもない。午前十一時といえば、どこのオフィスもどこの商店も活気にあふれていなければならない時刻である。
さらについ最近、サンブロンがそのかつての同僚に出会ったのも、ベンチでだった。こんどはボンヌ・ヌーヴェル通りだが、やはりサン・マルタン通りとボンディ街とは目と鼻の距離である。
それは午後で、サンブロンは門番女のように遠慮はしなかった。あるいはルイ・トゥーレのほうが先に気がついたのかもしれない。
ルイはそこで、だれかと待合わせていたのだろうか。ベンチのまわりをうろついて、坐る機会をうかがっていたらしい男というのは、いったい何者か?
サンブロンはその男のようすを詳しくは述べなかったし、とくに注意して見もしなかったらしい。しかし彼の言ったことは、なかなか示唆に富んでいた──。
≪あの辺のベンチに掛けているのを、よく見かけるようなタイプでした≫
通りのベンチに何時間もすわって、道行く人々をぼんやり眺めてすごす、定職のない連中の一人。サン・マルタン界隈のベンチといった場合、どこかの広場とか公園にあるベンチとは趣きを異にするのだ。それはたとえば、近所に住む年金生活者たちがよく坐りにくるモンスリ公園のベンチとはまるで違う。
年金生活者たちはサン・マルタン通りのベンチには坐らない。あの辺で彼らが座を占める場所といえば、それはカフェのテラスだ。
かたや黄色い靴で、かたやベンチである。この二つはメグレ警視の心中では、まったく結びつかない。
そしてそのルイ氏が、雨模様のうす暗い午後の四時半ごろ、一見なんの用もないはずの路地に入って行き、しかもその背後に音もなく忍びよったものがいて、肩甲骨のあいだにナイフを突きたてた。それも歩道を行き交う群集から十メートルと離れていない場所での出来事である。
新聞に写真は出たが、だれひとり電話をしてこない。メグレは報告書を補足したり、書類に署名する仕事をつづけていた。グリザイユ画のような街の風景は、いっそうその灰色の色調を濃くしていった。メグレはスタンドの灯をつけた。暖炉の上の時計が三時を指しているのを見ると、彼は椅子から立ちあがって、厚手のオーバーを取りに行った。
出かける前に、刑事部屋をのぞいて、
「一、二時間したらもどる」
車を使うほどのことではなかった。オルフェーヴル河岸のはずれでバスにとび乗り、まもなくセバストポル通りがグラン・ブルヴァールと交る角で降りた。
昨日のちょうど今頃、ルイ・トゥーレはまだ生きていて、この界隈をうろついていたはずだ。茶色の靴を黒のと履きかえ、ジュヴィジーへ帰るためにリヨン駅へ向う時刻までには、まだ間があった。
人通りは多かった。交叉点にくるたびに、横断の前にしばらく待たねばならなかった。そのために人の山ができて、信号が変るとその山がどっと動きだす。
≪きっとあのベンチにちがいない≫ボンヌ・ヌーヴェル通りに面して歩道にベンチが置いてあるのを、メグレは目にとめた。
だれも坐っていなかったが、遠くからでもしわくちゃの紙がベンチにすてられているのが見えた。豚肉かなにかを包んでいたらしい油じみた紙だった。
サン・マルタン街の角では、女たちが客を引いていた。同類の女の姿はバーの中にも見うけられ、そのそばで、男が四人、円テーブルをかこんでカードをしている。
レジのところに見覚えのある人影が見えた。ヌヴー刑事である。メグレは足をとめて、刑事が出てくるのを待った。彼が足をとめたのを女の一人が勘違いしたらしいので、そうではないというしるしに、ぼんやり首をふってみせる。
ヌヴーがここにいるからには、すでに彼女らからの聞込みはすませたにちがいなかった。ここは彼の縄張りであり、女たちみんなとも顔見知りである。
彼が出てきたところを待って、メグレは声をかけた。
「どうだった?」
「あなたもいらしたんですか?」
「なに、ちょっと一廻りだ」
「私のほうは、朝の八時からこの区域をぐるぐる廻ってますよ。聞込みをやった相手の数なんか、もう大変なもんです」
「被害者《がいしゃ》が食事をしていた店はわかったのか?」
「どうしてそれを?」
「だいたいこの近くで昼食をしてたのじゃないかと思われるし、彼は同じ店にずっと通うタイプの男だからね」
「あれですよ……」
ヌヴーは見るからに閑静そうなレストランを指差してみせた。彼は手に折カバンをもち、指には指輪がはまっている。
「店ではなんと言っている?」
「彼はいつも、レジに近い奥のテーブルに坐るんで、係のウェートレスもいつもきまっていたんですが、こいつが顎にひげなんか生やした茶色の牝馬みたいなシロモノでね。彼女、被害者《がいしゃ》のことをなんと呼んでいたかわかりますか?」
そんなことメグレにわかるわけがない。
「お兄さま……彼女、こんなふうにいうんだそうです、
≪お兄さま、今日はなに召しあがるの?≫
彼はまったく屈託なさそうに見えた、と彼女は断言しています。いつもお天気を話題にして、彼女を口説いたことはなかったようです。
あのレストランのウェートレスたちは、昼食時が終って夕食時の準備にかかるまで、二時間の自由時間があるんです。彼女はよく、三時ごろ外出して、ルイがベンチに坐っているのをなんども見かけたようです。そのつど、彼は手をふってみせたそうです。
で、ある日、彼女が、
≪お兄さまって、ずいぶんお暇みたいね!≫と声をかけたら、彼は夜働いているんだと答えたそうですよ」
「それを彼女は信じたのか?」
「そうです。彼が好きだったようですな」
「新聞は読んだのかな?」
「読んでませんでした。彼が殺されたことを私が教えてやったんです。彼女、信じようとしないんですよ。あそこは高級レストランじゃないけれども、定食食堂でもないんです。ルイはいつも、上等のワインの小壜を注文していたそうです」
「この界隈でほかに彼を見知っていたものは?」
「目下のところ、十人ほど。街角に立っている女たちの一人が、ほとんど毎日顔をあわせています。最初のとき彼女は被害者《がいしゃ》をさそったんです。彼はべつだん尊大ぶるでもなく、丁寧に断ったんですな。それ以来顔をあわせるたびに、彼女のほうから声をかけるようになったそうです、
≪ねえ、今日はどう?≫ってね。
二人ともそれを面白がっていたようですな。彼女が客といっしょのところに出くわすと、彼はウィンクを送ってよこしたそうです」
「ほかの女について行ったこともないのか?」
「ありません」
「彼が女性といっしょのところを見たものはいないのか?」
「彼女らは見ていませんが、宝石店の店員が見ています」
「彼が殺されていた現場のそばの宝石店か?」
「そうです。店員たちに写真を見せたら、なかの一人がおぼえていました。彼は、
≪先週、指輪を買った人だ!≫と言ったんです」
「ルイは若い女性といっしょだったのか?」
「特に若いというわけでもないんです。店員は二人を夫婦だと思ったので、あまり注意を払わなかったようです。ただ女が銀ギツネの襟巻をしていて、四つ葉のクローバーのペンダントをつけていたことには気がついていました。
≪うちでも同じ品を売っていますから≫というわけです」
「指輪は高価なものかね?」
「金メッキの台に模造ダイヤのついたやつです」
「店員の前で二人はなにも話さなかったのかな」
「夫婦らしい口のきき方だったようです。内容については彼はなにも記憶していません。興味をひくようなことではなかったのですな」
「もういちどその女に会えば、わかるかな?」
「あまり自信はないようです。彼女は黒いドレスを着ていて、手袋をしていた、と言ってます。指輪を試してみたあと、手袋の片方をカウンターの上に置き忘れそうになったのだそうです。それを取りに戻ってきたのはルイのほうでした。女は入口のところで待っていたんです。彼女のほうが背が高く、ルイは外に出ると、彼女の腕をとってレピュブリック広場のほうへ歩いて行ったそうです」
「そのほかには?」
「なかなか手間がかかるんですよ、こいつが。ずっと先のモンマントル街のあたりからはじめたんですが、あの辺では収穫がなくて。あ、忘れるところだった。ラ・リュヌ街のゴーフル屋をご存知でしょう」
表にガラス戸のない店が軒をつらねていて、まるで縁日のように、露店同然のところでゴーフルを焼いている。だからすでに街角のあたりから、甘い砂糖のにおいが漂ってくるのである。
「あそこの連中が被害者《がいしゃ》をおぼえてましてね。よくゴーフルを買いにきたそうですが、いつも三個買って、その場では食べずに持っていったそうです」
あのゴーフルは大きいのだ。宣伝ではパリ一大きいといっているが、いずれにしろ小男のルイが、昼食をたっぷり摂ったあと、あれを三個もたいらげられるとは考えられない。
だいいちベンチでゴーフルをぱくつくようなタイプでもない。例の指輪の女といっしょに食べたということか? そうだとすると、彼女の住居はここからそう遠くないということになる。
あるいはそのゴーフルは、サンブロンが見たという相手の男のためだったのか?
「つづけますか?」
「もちろんだ」
とはいったものの、メグレの気持はすっきりしなかった。本心をいうと、彼は平刑事だったときのように、自分の足で歩きまわってみたかったのである。
「どこへ行くんですか、警視《パトロン》」
「ちょっとのぞいてみるだけだ」
べつになにかを期待したのではない。ただ、ルイが殺された場所がつい百メートルたらずのところにあるから、その現場をもういちど見てみたいと思っただけのことだった。時刻はほぼ同じだった。今日は霧はかかっていない。しかし路地はやはりまっ暗だった。宝石店のまぶしい照明のせいで、いっそう暗い路地を見え難くしていた。
ゴーフルの話から縁日の記憶がよみがえり、ルイ・トゥーレは急に用を足したくなって路地に入っていったのかもしれないという考えが、メグレの脳裏をよぎった。だが、まむかいに公衆便所があるので、その推定はあたっていそうにない。
「その女さえ見つかったらなあ」ヌヴーが嘆息した。さんざ歩きまわって、足が棒になっているのにちがいない。
メグレはメグレで、ルイが会計係と話しこんでいたとき、なにやら用ありげなようすでベンチに坐りにきたという男を見つけだすことができたら、と思っていた。それであたりのベンチを注意して見た。ベンチの一つに、年輩の浮浪者が半分ほど入った赤ワインのリットル壜をわきに置いて坐っていた。あの種の男でないことは確かだろう。もしそうならサンブロンははっきり、「浮浪者」といったはずだからである。
やや離れて、肥った田舎ふうの女が、トイレに入った亭主を待ちながら、そのあいだ疲れた足を休めている。
「私がきみだとしたら、店なんぞよりは、ベンチに坐っている連中のほうを当ってみるがね」
まだ駆けだしの時代にさんざ街を歩きまわった経験から、ベンチというものにはいわば常連がいて、一日のうちのきまった時間にきまった人間が坐りにくるものだということを、メグレは知っていた。
通行人はあんがい気がつかないものである。道を通る人がベンチに坐っている人間に目をやることはきわめて少ない。ところがベンチに坐る連中どうしは、おたがいに顔見知りになる。メグレ夫人がその気はなかったのに偶然殺人犯の手がかりをつかんだことがあるが、それはアンヴェル広場のベンチで、歯医者の診察時間を待つあいだ小さな男の子の母親とおしゃべりをしていたときであった〔『メグレ夫人と公園の女』参照〕。
「手入れをやれっていうんじゃないんでしょう?」
「そうじゃないよ。ただベンチに坐って、連中と仲良くしてみろというんだ」
「わかりました、警視《パトロン》」ヌヴーは溜息をついた。考えてみただけでゲンナリして、歩きまわっているほうがまだましだと思ったらしい。
まさか警視自身が、彼と替りたがっているのだとは、つゆほども考えなかったのである。
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第四章 雨の日の埋葬
翌日の水曜日、メグレは重罪裁判所に証人として出廷しなければならず、午後の時間の大部分を陰気な証人控え室ですごすはめになった。はじめのうちは、だれも暖房を入れることを思いつかなかったらしくて、凍えるほどの寒さだった。そのあと暖房のスイッチが入れられて十分もすると、こんどはひどく暑くなり、風呂に入っていないからだのにおいや、汗くさい衣服のにおいが、むっと鼻をついた。
その日裁かれるのは、七ヵ月前に叔母を壜で殴り殺した、ルネ・ルクールという青年だった。まだ二十二歳の若さで、市場人足のような体格に、いかにも無教養そうな顔つきをしていた。
それにしても裁判所の内部というのは、なぜああも薄暗くしておくのだろう。光はすべて周囲の灰色の色調に吸収されてしまうように思える。
メグレは法廷を出るとき、すっかり憂鬱な気分になっていた。特にその攻撃的やり口で名を売っている若い弁護人は、証人たちを片端から槍玉にあげていった。
メグレにたいしては、被告の自白が警視庁でうけたひどい虐待の結果にほかならないと証明しようとした。むろんそれは嘘である。嘘であるばかりか、弁護人自身そのことを百も承知なのだ。
「証人は、被告の最初の尋問が何時間つづいたか、証言していただけますか?」
それは予期していた質問だった。
「十七時間です」
「食事ぬきで?」
「ルクールは出されたサンドイッチに手をつけませんでした」
弁護人は陪審員にむかって、いかにもこう言っているように見えた、
「どうです、みなさん! 十七時間ぶっとおしで、食事ぬきですよ!」
しかしその間、メグレとてサンドイッチを二片つまんだにすぎない。しかも彼はだれも殺してはいないのだ。
「三月七日の午前三時、被告の側からなんの挑発行為もなく、しかもこの哀れな青年は手錠をはめられていたというのに、証人は彼を殴ったことを認めますか?」
「認めません」
「証人は殴ったことを否定するのですか?」
「いわば息子にたいするような、軽い平手打ちをあたえたことはありました」
弁護人は間違っていた。こんなふうに話をもって行くべきではなかったのだ。しかし彼の念頭には、傍聴人の反応と、新聞がどう書くかということしかなかった。
いまや彼は、規則を破って、メグレに直《じか》に二人称で問いかけてきた。それも毒をふくんだ、ばかに慇懃な声音で、
「あなたに息子さんはおありですか、メグレ警視」
「ありません」
「お子さんはいらっしゃらない?……そう、おっしゃったのですか?……どうも、よく聞きとれなかったのですが……」
メグレはさらに声を大きくして、かつて娘が生まれたことはあったが、亡くしてしまったのだという話をさせられることになった。
それだけだった。メグレは法廷を出ると、裁判所内の食堂に行って一杯ひっかけてから、警視庁の自室にもどった。二週間前からたずさわっていた事件のけりがついたばかりのリュカが、トゥーレ事件の捜査にくわわっていた。
「ジョリス青年の足取りは?」
「さっぱりです」
モニク・トゥーレの恋人は昨夜家へ帰らず、また今朝は書店にも顔を出していないし、さらに昼も、いつも彼女と昼食をともにするセバストポル通りの定食レストランには姿をあらわさなかった。
リュカは各駅、憲兵隊、国境警察と連絡をとりながら、彼の足取り捜査の指揮をとっていた。
一方ジャンヴィエは、他の四人の刑事とともに金物屋の聞込みにまわって、兇器のナイフの出処をさがしていた。
「ヌヴーからの連絡は?」
メグレはもっと早くオフィスに戻るはずだったのだ。
「三十分前に電話してきました。改めて六時ごろにまたするそうです」
メグレはいくぶん疲労をおぼえた。被告席にいたルネ・ルクールの姿が、脳裏につきまとって離れない。それから、あの弁護人の声音、凍りついたような陪審員たち、採光の悪い板壁の傍聴席にすわった人たち。そこにはメグレにたいする好意のかけらも感じられなかった。いったん司法警察局を離れて予審判事の手中に身を置いたがさいご、警視の身分ではなくなったと思わなければいけない。物事はもはやいつものようには行かず、彼の思いどおりには運ばなくなる。それから先どういうことになるか、彼は知りすぎるほどよく知ってはいたのだが……。
「ラポワントのほうは成果なしか?」
各人がそれぞれの役割をになっていた。若いラポワントはアパート廻りである。最初はサン・マルタン通りから始めて、しだいにその範囲を拡げていった。ルイはどこかで靴を履きかえていたはずなのだ。それが彼の名で部屋を借りていたのか、それともだれかの部屋を使っていたのか。もし後者だとすれば、おそらく彼が指輪を買ってやった、あたかも正妻であるかのように振舞っていたという、例のキツネの襟巻の女の部屋だろう。
サントニはサントニで、アルベール・ジョリスがかならずや恋人に接触しようとするか、あるいは居所を知らせてくるものと睨んで、あいかわらずモニクの見張りをつづけていた。
遺族は葬儀をおこなうため、昨日遺体を引きとっていた。埋葬は明日に予定されている。
メグレはまたもや署名しなければならない書類の山と、面白くもない電話連絡とにかかずらっていた。ルイ・トゥーレに関して、いまだに一本の電話も、一通の手紙も、一人の人間もあらわれないというのは不思議だった。あたかも彼の死はなんの痕跡ものこさなかったかのようである。
「もしもし! こちらメグレ」
ヌヴー刑事の声が聞こえてきた。酒場から掛けていると見えて、ラジオの音楽らしきものが流れている。
「たいしたことはなにもありません、警視《パトロン》。いまのところ、ブルヴァールのベンチの常連で被害者《がいしゃ》をおぼえている人間は、おばあちゃんを含めて三人みつけたんですがね。みんなの言うことが同じなんですよ。彼はとても親切で、だれにでも腰が低くて、気やすく口をきく人だったってね。そのおばあちゃんの話だと、彼はたいがいレピュブリック広場のほうへ歩いて行くんだけど、すぐに人込みにまぎれて見えなくなったから、っていうんですね」
「彼がだれかといっしょのところを見たことはないのか?」
「おばあちゃんは見ていません。ただ、浮浪者のいうには、
≪だれかを待っていたんだな。そいでそいつがくると、いっしょにどこかへ行っちまったね≫
でもその相手がどんな奴かはっきりしないんです。訊いても、≪どこにでもいる普通の男≫というだけでしてね」
「つづけてくれ」メグレは吐息とともに言った。
それから夫人に電話をして帰りが遅くなると告げてから、下に降りて車に乗りこむと、ジュヴィジーへ行くように運転手に命じた。風が強かった。嵐の前の海辺のように、黒雲が低く、飛ぶように過ぎさってゆく。運転手はこんどもポプリエ街をみつけるのに手間どった。トゥーレ家は台所だけでなく、二階にも灯がついていた。
呼鈴は鳴らなかった。喪中のため線を切ってあるのだ。しかし物音を聞きつけたらしくて、なかのドアがわずかに開いた。見たことのない女の顔がのぞいた。トゥーレ夫人に似ていたが、彼女より四、五歳年上だろう。
「メグレ警視ですが……」
すると、台所のほうに向かって、
「エミリー!」
「聞こえたわ。お通しして」
メグレは台所へ通された。食堂は臨時の遺体安置所に使われていたからである。狭い廊下は花と大ロウソクの香が満ちていた。多勢の人たちが冷えきった夕食を前に、テーブルについている。
「お邪魔してすみません……」
「運転士をしています義弟のマニャンを紹介しますわ」
「よろしく……」
マニャンは勿体ぶって間が抜けた感じの男で、赤い口髭をはやし、喉仏がつき出ている。
「妹のジャンヌはもうご存知ですわね。こちらはセリーヌ……」
よくもこの狭い場所にこれだけの人数が入ったものである。モニクだけは挨拶のために立ちあがろうとせず、じっと警視を見据えていた。メグレが来たのはアルベール・ジョリスのことで彼女に尋ねるためだと思いこみ、恐怖心ですくみあがっているのだろう。
「セリーヌの連れあいのランダン義兄《あに》は、今夜青列車でもどってきます。お葬式には間にあうはずですわ。お掛けになりません?」
メグレはかぶりを振った。
「あの人をご覧になりますでしょう?」
彼女は万端ぬかりなく整っているところを見せたがっている。ルイ・トゥーレが寝棺に横たわっている、次の間へ案内された。棺の蓋はまだ開かれたままだった。彼女は小声でささやくように、
「まるで眠っているみたいですわ」
メグレは型どおりに、黄楊《つげ》の小枝を聖水にひたし、十字を切り、唇をもごもご動かして、また十字を切った。
「死ぬなんて、自分でも夢にも思わなかった……」
言いさしてから、夫人はさらに付け加えた。
「あんなに人生を楽しんでいたのに!」
二人は爪先だってそっと部屋を出た。彼女がドアを閉めた。他の連中は食事を中断して、メグレが退散するのを待っている。
「埋葬にはご列席くださいますわね、警視さん?」
「そのつもりです。今日はその話できたのですよ」
モニクはあいかわらず身じろぎもしなかったが、いまの言葉で胸を撫でおろした。メグレはさっきから、彼女のほうには一顧も与えるようすがなく、彼女はじっと身を固くしてさえいれば、呪詛を祓うことができるとでも思っているみたいだった。
「あなたやご姉妹の方なら、葬式に参列する人たちのほとんどをご存知のはずです。こればかりは私の出る幕ではない」
「そうなんだ!」
義弟のマニャンは、自分もメグレと同じことを考えていたといわんばかりだった。つづいて、みんなのほうを向くと、「いいか、よく聞け!」とでもいうような身振りをする。
「私がお願いしたいのは、つまり、あなたが妙だと思われるような人物がいた場合、私に合図してそのことを教えてほしいのです」
「犯人がくるかもしれないのですか?」
「犯人とはかぎりません。私はなにひとつ見逃したくない。ご主人の生活の一部、ことにこの三年間のことがよくわからないのですよ」
「女がいた、とお考えですの?」
彼女の顔が硬ばるのと同時に、姉妹たちの顔までが自動的におなじ表情をうかべた。
「何も考えてはいません。ただ調べているだけです。もしも明日、その合図があれば、はっきりするでしょう」
「あたしたちの知らない人間なら、だれでもいいんですね?」
メグレはうなずいて、もういちど、お邪魔したことを詫びた。玄関までマニャンが見送ってきた。
「手がかりはつかめたんですか?」と、訊く。
男どうしの話というわけだろう。まるで病人の枕もとを離れた医者に尋ねるような按配である。
「いや」
「まるっきり、なし」
「まるっきり。では」
この訪問も、ルクール裁判で証言の順番を待つあいだ彼の肩にのしかかってきた、重味を取りはらう結果にはならなかった。パリへ引き返す車のなかで、メグレはとりとめのない物想いに沈んでいた。二十歳で首都に出てきたとき、彼を最も狼狽させたのは、大都市にみられる絶えまない動揺であった。何十万という人たちが、たえず何かを索めて蠕動し揺れ動いている。
いわば拠点とでもいうべき場所では、とくにこの不安動揺がほかよりも強く感じられる。たとえば中央市場、クリシー広場、バスチーユ広場、それにルイが殺されたサン・マルタン通りなどがそうである。
かつて彼の心を強く打ち、ロマンチックな情熱を吹きこんだもの、それはこうした集団的動揺のたえざる流れのなかで、命綱を放してしまって流れるままにもみくちゃにされていった人たち、希望を絶たれ、打ち負かされ、諦めてしまった人たちのことだった。
それ以後、その種の人間たちのことをもっと知るようになり、やがて彼の関心の対象は、もう一段上にいる人たちへと移っていった。それはまじめで地味で、めだたない存在だが、毎日毎日を水面に浮かびあがるために闘いつづけ、幻想をけっして捨てず、その幻想があたかも実在するかのように、また人生は生きる苦しみに値するかのように、ただ信じこむための努力を孜々としてつづける人たちである。
ルイ・トゥーレは二十五年間、毎朝おなじ列車におなじ通勤仲間といっしょに、油布に包んだ弁当を小脇にかかえて乗りこみ、夕刻ともなれば、メグレが≪三人姉妹の家≫とでも名付けたくなった場所へと帰る生活をくりかえしていた。たしかにジャンヌとセリーヌの姉妹は別の家に住んではいるけれども、にもかかわらず三人姉妹はつねに一体となって、石壁のように視界に立ちはだかっていたのだ。
「本庁へもどられますか、警視《パトロン》」
「いや。家へ帰る」
その夜メグレは、夫人を映画に誘った。例によって腕を組んで、サン・マルタン通りの路地の前を、往きと帰りとで二度通った。
「ご気分でも悪いの?」
「いや」
「今夜はぜんぜん口をきかないわ」
「そうだったかな」
午前三時か四時ごろ、雨が降りはじめた。夢の中で、雨水が樋を流れおちる音を聞いていた。朝食の時分には、どしゃ降りとなり、それに突風がくわわって、道行く人たちはいまにも逆にめくれそうになる傘に必死でしがみついていた。
「万聖節の時期だわね」と、メグレ夫人がいった。
彼の記憶の裡では、万聖節の空は灰色で、風が強くて寒いという印象があったが、雨は降っていないはずだった。なぜだか、その理由はわからない。
「今日もお仕事は忙しいんですか?」
「まだわからん」
「オーバーシューズを履いてったほうがいいですよ」
そうした。タクシーをつかまえるまでに、すでに両肩はぐっしょり濡れ、車中に乗りこむと、帽子から冷たい雨水がしたたり落ちた。
「オルフェーヴル河岸まで」
葬式は十時の予定だった。メグレは朝の会議を避けて、部長室でしばらく時間をつぶした。彼のところへ来ることになっているヌヴー刑事を待っていたのだ。いまやサン・マルタン界隈の連中の多勢の顔を見知っている刑事を、万一ということもあって、葬式へ連れて行くことにしていた。メグレは彼なりの考えにふけっていた。
「またジョリスの行方は知れないかね?」と、リュカに訊いてみる。
はっきりした理由があったわけではないが、あの青年はパリの外へは出ていないという確信がメグレにはあった。
「この数年に彼が会っている友人の全リストを作ってみるといいな」
「もうやっています」
「じゃ、つづけろ」
ドアが開いて、これも濡れねずみのヌヴーが姿をあらわした。その彼をまた表へつれ出す。
「まったくの葬式日和だよなあ!」刑事がうなった。「車をつらねてやるんならいいですがねえ」
「まさか」
十時十分前にジュヴィジーに着いた。家の玄関前には、銀箔で縁取りした喪の黒布が張られている。傘をさした人びとが立っている舗装されていない歩道には、茶色味がかった粘土が雨水に溶けて幾条もの溝ができている。
会葬者たちは順ぐりに遺体の安置された部屋へ入って、また出てくる。いずれもいま果してきたばかりの務めのことを意識して、いかにも厳粛そのものといった顔つきで出てくる。ざっと五十人ばかりが会葬していたが、そのほかに近所の家々の軒下で雨を除けている人たちの姿が見えた。さらに窓からようすを窺っていて、終りのほうになって出てくる隣人たちもいるはずである。
「入らないんですか、警視《パトロン》」
「私は昨日来たんだよ」
「内部《なか》はあんまりゾッとしないようですな」
ヌヴーが言っているのは今日の雰囲気のことではなくて、家そのもののことらしい。それでもこれと似たような家を有《も》つことを夢にしている人たちが、何万人といるのだ。
「なんでこんな所に住むことになったんですかね?」
「姉妹とその亭主たちのせいさ」
鉄道の制服を着ている人たちが多数見うけられた。ここは転轍駅からさほど遠くないのだ。この区画に住んでいるのは、大なり小なり鉄道に関係のある人が大部分である。
まず霊柩馬車がやってきた。つづいて、十字架を捧げ持った侍者の少年を先にたて、短白衣《スペルペリチュウム》姿の司祭が傘をさして急ぎ足に歩いてきた。
通りには風を防ぐものがなにもないため、まともに吹きつける雨風のせいで、濡れた衣服がからだに貼りついた。棺はたちまち濡れた。遺族が廊下で待機しているとき、トゥーレ夫人と姉妹がこそこそ囁きあっているのが見られた。どうやら傘が足りないもようだった。
彼女らも亭主たちも、正式の喪服姿である。そのうしろに、娘たち──モニクと三人の従姉妹たちがいた。
つまり全部で女が七人である。娘たちのほうも、母親たちと同じように、おたがいよく似ているに違いない、とメグレは思った。女系家族。男どもは自分たちが少数派であることを、いやでも意識せざるをえないだろう。
馬が荒々しく鼻息を吹いた。遺族が霊柩車の後ろにならぶ。つづいて、友人隣人のうち、最前列につく権利のある連中がつらなった。
残りの会葬者たちは、そのあとから行列をつくって従いていくのだが、激しい風雨のため整然というわけにいかず、なかには歩道の端を家並すれすれに歩いて行く人たちもいた。
「見おぼえのある顔はいないか?」
それらしい人間は見あたらなかった。まず例の指輪の女だが、それに該当しそうな女性はぜんぜん見あたらない。キツネの襟巻の女性が一人いたが、これは道路に面した家から出てきて、ドアに鍵をかけるところをメグレが目撃している。男のほうでも、サン・マルタン通りのベンチに坐っていそうなタイプといっても、想像もつかない。
それでもメグレとヌヴーは最後まで留っていた。さいわい、安息祈願のミサは省略されて、棺側の祈祷式だけですませた。教会の扉を閉めなかったので、甃石はたちどころにずぶ濡れになった。
二度、モニクとメグレ警視の視線が出会った。二度とも娘の胸が恐怖ですくむのをメグレは感じとった。
「墓地まで行きますか?」
「どうせ遠くはないさ。何があるかわからんからな」
墓穴はまだ道もろくに引かれていない新開区域にあったため、踝のあたりまで泥濘に埋まって歩かなければならなかった。トゥーレ夫人はメグレの姿を目にするたびに、彼の勧告を忘れていないことを示すために、あたりを見廻してみせた。墓穴の前に並んでいる遺族のそばへ、メグレが会葬者たちに立ちまじってお悔みを述べに行くと、夫人は小声で、
「気になるような人はいませんでしたよ」
寒さのため鼻の頭がまっかになり、雨で化粧が流れ落ちていた。若い四人の従姉妹たちも、おなじく濡れて光っていた。
墓地の戸口の柵のところでしばらく待たされたあと、やっと正面にある小さなカフェにとびこんで、メグレはグロッグ酒を二杯注文した。むろん彼らだけではなく、数分後には、会葬者の半数ちかくがこの小さな店に入りこんできて、冷えきった足を暖めようと床を踏みならしはじめた。
耳に入ってくる会話はすべて、ただひとつに集約できた。
「彼女は、年金はもらえないのかね?」
彼女の姉妹には、亭主がいずれも鉄道で働いているから、むろん年金がある。結局ルイが親戚中でいちばん貧乏だったわけである。彼は一介の倉庫係にすぎなかったばかりでなく、年金すらついていなかった。
「これからどうするんだろう?」
「娘が働いているからね。下宿人でも置くんじゃないの」
「行こうか、ヌヴー」
雨は二人のあとを追ってパリまでついてきた。ここでは雨脚は舗道ではねかえり、自動車が泥水の髯をびっしり生やしていた。
「どこで降ろそうか?」
「着替えのことでしたらご心配なく。どうせまた濡れるだけですから。司法警察局まで乗せてってもらえれば、そこからタクシーで署のほうへ帰ります」
司法警察局の廊下には、教会の甃石にあったのと同じような汚れが見られ、同じように湿っぽく冷たい空気が流れていた。手錠をはめられた男が、賭博取締班の警視室のそばのベンチに坐っていた。
「なにかあったかね、リュカ」
「ラポワントが電話してきました。いまビヤホール≪レピュブリック≫にいるんですが。部屋をみつけたそうです」
「ルイのか?」
「だというんですがね。家主は捜査に協力的ではなかったようですが」
「こっちに呼びつけたのかな?」
「あなたに来てもらえれば、と思ってるようです」
メグレもそのほうがよかった。濡れた服のままでオフィスの椅子に坐る気にはなれなかった。
「そのほかには?」
「例の青年に関して偽《がせ》情報が一本。モンパルナス駅の待合室に彼がいたということだったんですが。彼ではなくて、他人の空似ってやつでした」
メグレはふたたび黒の小型車に乗りこんで、しばらく後には、レピュブリック広場にあるビヤホールに入っていった。ラポワントがストーブのそばで、コーヒー・カップを前に腰をおろしていた。
「グロッグだ!」メグレは注文した。
天から降ってくる冷たい雨水が鼻孔に入りこんでくるような気分で、どうやら鼻風邪の予感らしきものがあった。たぶん葬式に行くと風邪を引くという、昔からの言い伝えのせいかもしれないが。
「どこだ?」
「すぐ近くです。偶然みつけたんです。家具付ホテルではないし、こちらのリストにも出ていない家ですので」
「まちがいないか?」
「女主人《おかみ》に会ってもらえればわかります。私はアングレーム街を抜けて別の通りへ向う途中だったんですが、ふと、家の窓にある≪貸間あり≫の貼紙が目にとまったんです。門番も置いていない小さな家で、三階までしかありません。私は呼鈴を鳴らして、部屋を見たいと言ったんです。女主人《おかみ》を見たとたん、ピンとくるものがありましたね。もういい歳をした赤毛の婆さんで、昔は美人だったんでしょうが、いまは色褪せ、髪は薄くなって、空色のバスローブをきた肉体《からだ》はしおたれたという感じでしてね。
≪あなたが借りるの?≫って、ドアを開けようかどうしようか決めかねているようすで訊くんです、≪あなたお一人なの?≫って。
二階でドアがそっと開く音がして、階段の手摺の上から、ちらっと、きれいな女が顔をのぞかせました。彼女もバスローブを着ていましたよ」
「売春宿か?」
「そうではないようです。もっともあの女主人は、前身が淫売屋の遣り手ばばあだったとしてもおかしくはないですが。
≪月極めですか? お仕事はなにをしてらっしゃるの?≫
ようやく三階の部屋へ案内してくれましてね。中庭に面した、わりと家具も整った部屋でした。私の好みからいうと、安物のビロードや人絹がやたら多くて、いささかふんわかしすぎですがね。まだ女臭さが残っていました。
≪だれからここをお聞きになったの?≫
あぶなく貼紙を見たんだといいそうになりましてね。なにしろ話しているあいだじゅう、たるんだ片方のオッパイが、バスローブからはみ出してきそうなぐあいなんで。
≪友だちから≫
そういっておいてから、もう一歩つっこんで、
≪ここに住んでると言ってたんだけど≫
≪どなた?≫
≪ルイさん≫
彼女、たしかにルイを知っていると見ましたね。顔色が変ったし、声の調子まで変ったんですよ。
≪知りませんね!≫やけにそっけなく言うんですよ。≪あなた、夜は遅いほうなんですか?≫
どうやら早く厄介払いしたいようすなんです。こっちは、空とぼけて、
≪その友だちは、いまいるんじゃないかと思うんだけどな。彼は昼間は働いていないから、遅くまで寝てるんだよ≫
≪部屋を借りるのやめるの、どっち?≫
≪借りるよ、だけど……≫
私はポケットから財布を出して、いかにも偶然みたいに、ルイの写真を引っぱり出してみせたんです。
≪これこれ! こいつがその友だちの写真なんだけど≫
彼女はちらっと見ただけでした。
≪おたがいに折合えないみたいね≫そう言って、ドアのほうへ行きかけるんです。
≪だけど……≫
≪引き伸ばそうったって無駄ですよ。こっちはお夕飯を火にかけっ放しなんだから≫
彼女ぜったい知ってますよ。私が外に出たとき、カーテンが動いてましたから、こっちを窺っていたにちがいないですよ」
「よし、行こう!」メグレは言った。
すぐ近くだったにもかかわらず、二人は車で家の前に乗りつけた。またもやカーテンが揺れた。玄関口に出てきた女は、下に服を着ていなくて、バスローブだけをまとっていた。そのブルーは彼女にぜんぜん似合わない。
「なんなの?」
「司法警察だ」
「なんのご用? だから、その坊やは虫が好かないと思ったんだ!」ラポワントのほうをジロリと見て、ぼやいた。
「なかで話をしたほうがいいと思うがね」
「ああ、どうぞ! べつに入らせないなんて言ってないのよ。なにも匿すことなんかないんだから」
「なぜルイがお宅の下宿人だと認めなかった?」
「その若い人には関係ないことだからよ」
彼女は小さな客間のドアを開けた。暖房が効きすぎていて、いたるところにけばけばしい色のクッションが投げだされている。それらには猫の刺繍や、ハートや、音符の模様が縫いとりしてあった。窓にはカーテンが引かれていてほとんど陽が入らないので、彼女はオレンジ色の大きな笠のついたフロア・スタンドを点けた。
「いったい全体、どんな用なの?」
こんどはメグレが、葬式をすませてきたばかりのルイ・トゥーレの写真を出してみせた。
「この男にまちがいないね?」
「そうですよ。そう認めればいいんでしょ」
「いつから下宿していた?」
「二年ぐらいか、もうすこし前からですよ」
「多勢いるのかね?」
「下宿人のこと? この家は女ひとり住居には広すぎるのよ。それに今日び、住宅事情もままならないですからね」
「何人?」
「いまのところ、三人ですよ」
「それと、空き部屋が一つかね?」
「そうですよ。この坊やに見せた部屋よ。こんな男、信用したのがまちがいだったわ」
「ルイはどんな人間だったんだね?」
「だれにも迷惑をかけない、おとなしい人でしたよ。お勤めは夜の仕事で……」
「どこに勤めていたか知っているかね?」
「こっちから訊くほど物好きじゃないですからね。いつも夕方出かけて、朝帰ってくるんですよ。あんまり眠らなかったみたい。もっと眠らなきゃだめですよって、ときどき言ってあげたんだけど、でも夜のお勤めの人って、みんなあんなふうらしいのね」
「客は多かったかね?」
「ほんとうのところ、なにが知りたいの?」
「新聞は読んだだろう……」
小さな円テーブルの上に、朝刊がひろげて置いてあった。
「あんたの考えてることぐらいわかるわよ。でもね、まず、あたしに迷惑をかけないっていう確証がなくちゃあね。警察のやり口はわかってるんだから」
風紀取締班の記録をしらべれば、この女のカードが出てくることは間違いないな、とメグレも思った。
「あたしは下宿人を置いてますって、屋根の上から叫んだりなんかしないし、うちの下宿人を警察につき出す気もないわ。だからって罪にはならないんでしょ。それでも、あたしをいじめようってのなら……」
「それはあんたしだいだ」
「約束する? だいいち、あんたの階級は?」
「メグレ警視」
「なーるほど、わかったわ! あたしの思ってた以上に重大らしいわね。だいたいお宅の風紀の連中ときたら……」
彼女が臆面もなく卑猥な言葉を口走ったので、ラポワントが顔を赤らめたほどだった。
「彼が殺されたことは知ってるわ、たしかに。でもそのほかのことは何も知らない」
「彼はなんと名乗っていた?」
「ムッシュー・ルイ。それだけですよ」
「茶色の髪の、中年の女が訪ねてきただろう」
「きれいな女《ひと》。歳は四十そこそこで、おしとやかで」
「よく来ていたかね?」
「週に三、四回かしらね」
「彼女の名前は?」
「マダム・アントワネットって呼んでたけど」
「だいたいあんたは、人を洗礼名《プレノン》でしか呼ばんのか?」
「それ以上詮索する気はないからね」
「部屋には長いこといたかね?」
「必要なだけね」
「午後ずっと?」
「ときにはね。一時間か二時間ってこともありますよ」
「午前中に来たことはなかったんだな?」
「そうよ。あったかもしれないけど、少ないわね」
「彼女の居所は?」
「訊いてみたことないわ」
「お宅の下宿人たちは女性かね?」
「そうですよ。ルイさんひとりが男で……」
「その彼女たちと彼とは関係はなかったのかな?」
「寝たかってこと? それはないわ。彼はあっちの好きなタイプには見えなかったですよ。もしその気になれば……」
「彼女らと行き来はあったんだな?」
「口ぐらいきいてたわ。あの女《こ》たちが火を借りに行ったり、タバコとか新聞とか借りに行ったことはあるでしょ」
「それだけかね?」
「お喋りぐらいしたでしょ。それと、たまに、リュシルと二人でブロットの勝負をやってたわね」
「その女《こ》は階上《うえ》にいるかね?」
「二日前から男を引っぱりこんでるわ。ときどきあるのよ。あの女《こ》には、男が必要なのよ。あたしにも、うちの下宿人にも、迷惑はかけないってお約束したこと、忘れないでくださいよ」
なにも約束したおぼえはないとは、メグレは言わなかった。
「ほかにルイを訪ねてきたものは?」
「わりと最近に二、三度、訪ねてきたのがいたわね」
「若い娘かね?」
「そう。部屋にはあがらなくて、階下《した》で待っているからと伝えてくれって言って」
「名前は言った?」
「モニク。廊下につっ立ってたきりで、客間にも入ろうとしなかったわ」
「彼は降りてきたかね?」
「最初のときは、しばらく小声で話してから、娘は帰っていったわ。それからは、二人で外へ出かけてましたね」
「彼女が何者か、ルイはあんたに話したかね?」
「ただ、彼女を美人だと思うかって、たずねただけよ」
「で、なんと答えた?」
「あの齢ではみんな可愛らしいけど、もう少したつと、どうなることやらって」
「そのほかに訪ねてきたのは?」
「お掛けになったら?」
「結構。クッションが濡れるだけだから」
「あたしは家の中はせっせときれいにしておくんですよ。えーと、そのほかというと、若い男がきたわね、名前はいわなかったけど。あたしがルイさんに来客のことを告げに行くと、なんだか急にそわそわしちゃってね。階上《うえ》へくるように言ってくれって頼むのよ。若い男はものの十分もいたかしらね」
「それはいつごろ?」
「八月の最中だったわね。暑くて、蝿がうるさかったのを憶えているから」
「彼はその後も来たかね?」
「いちど、外で会ったとかで、二人いっしょに帰ってきたことがあったわ。そのときも二人で部屋へ上ったんだけど、若い男はすぐに帰っていった」
「それだけか?」
「あたしの感じじゃ、そんなものだったと思うけど。きっとあんたも、階上《うえ》を見てみたいんじゃないの?」
「そうだな」
「三階の、さっきお宅の若い人に見せたのの向かいの部屋よ。表通りに面してて、緑の部屋って呼んでるんですよ」
「案内してもらおうか」
彼女は溜息をついた。階段を三階まで上っていくあいだも、しじゅう溜息をつきどおしだった。
「お約束のこと、忘れないでくださいよ……」
メグレは肩をすくめただけだった。
「いいこと、あたしに汚い真似をしようとしたら、裁判官の前で、あんたの話したことはみんな出たらめだって言ってやるからね」
「カギはあるか?」
下の部屋のドアがわずかに開いて、バスタオルを手にした裸の女が、こちらを窺った。
「親カギがありますよ」
それから、階井にむかって、
「風紀班じゃないのよ、イヴェット!」
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第五章 警察官の未亡人
室内の家具は街の競売場で買いそろえたもののようだった。一見、全体が胡桃材ふうの、五、六十年はたっていそうな時代もので、そのなかには、鏡付の巨大な衣裳ダンスもある。
入ってまっさきにメグレの目を捉えたのは、インド更紗のカバーを掛けた円テーブルの上にある鳥籠で、なかではカナリヤが一羽、急にあちこち飛びまわりはじめた。それがサンブロンのアパートにあったメジスリー河岸を、メグレに想いださせた。きっとルイ・トゥーレは、たまたま老会計係をたずねた折に、このカナリヤを買ったのにちがいない。
「ルイの小鳥だろうね?」
「およそ一年ぐらい前に持って帰ってきたんですよ。彼、騙されたんだわ。この鳥、啼かないもの。雌なのに雄だといって掴まされたのよ」
「家事はだれがしていた?」
「あたしは家具とベッド・シーツ付の部屋を貸すだけで、家事のサービスはないんですよ。前にやってたことはあるんだけどね。お手伝いには手を焼くばかりだから。それにうちの下宿人はほとんど女の子ばかりだし……」
「ルイは自分で部屋の掃除をしていたのかね?」
「ベッド・メーキングも、洗面所の掃除も、ごみ捨てもね。彼の場合だけ、週に一度、あたしが雑巾がけをしてあげてたですけどね」
彼女がドアのところにつっ立ったままでいるのが、メグレにはどうも目障りだった。彼の目に映るこの部屋は、いわゆる尋常の部屋とはちがうのだ。ルイ・トゥーレが身を潜めるために選んだ場所である。いいかえれば、ここにあるものはすべて、通常の場合のように生活のこまごました必需品を構成するのではなくて、私的な、いわば秘事の一部といってもよいものである。
鏡付の衣裳ダンスのなかには、背広は一着も入っていなかった。入っていたのは丁寧に木型をはめた三足の黄色い靴。それと棚の上に、めったにかぶったことがないらしい真珠色の帽子があったが、これもジュヴィジーの雰囲気にたいする反抗心から、発作的に買ってしまったものに違いなかった。
「競馬には行っていたかね?」
「どうだか。そんな話はしなかったわ」
「よく話すことはあったのかい?」
「通りがかりに客間で足をとめて、お喋りをすることはありましたよ」
「彼は陽気なほうだった?」
「いつも楽しそうでしたね」
これも妻の好みに対する反撥からだろうが、ルイは花模様の部屋着に、紅いキッド皮のスリッパを用いていたらしい。
室内はきちんと整頓されていて、家具の上には塵ひとつなかった。押入れを開けると、封を切ったポートワインの壜が一本と、そのそばにコップが二つあった。ハンガーには、レインコートがぶらさがっている。
これはちょっと思いがけなかった。たしかに昼間雨が降って夕方には晴れたような日に、ルイが濡れた服でジュヴィジーに帰ったら、おかしなことになる。
彼はまた、読書で時間をつぶしていたらしい。タンスの上に、廉価版の本がずらりと並んでいた。外套と短剣式のスパイ小説で、なかに二、三冊推理小説もあったが、こちらはあまり気に入らなかったと見えて、それ以上買わなかったらしい。
肘掛椅子は窓ぎわにあった。そのそばの小さな円テーブルに、マホガニー縁の額に入った写真がのっていた。褐色の髪と目の、黒いドレスを着た、四十がらみの女性が写っている。宝石店の店員のいった特徴にぴったり符合する。彼女は長身らしく、ほとんどトゥーレ夫人と同じ背丈ではないかと思われる。さらに夫人とおなじようにがっしりした固肥りで、場合によっては、貫禄があるという言い方もできそうである。
「これがよく訪ねてきていた女かね?」
「そうですよ」
引出しの中から、そのほかにも写真がみつかった。いずれも三分間写真らしくて、いくぶん印象の薄いルイの顔がうつっているものも混っていて、そのうち一枚では、真珠色の帽子をかぶっていた。
衣類としては靴下が二足と、ネクタイが数本あったきりで、シャツもパンツもなかった。また、だれもが引出しの中に少しずつ溜めこんでいる、書類とか古手紙とかいった、雑多な紙くずのたぐいも出てこなかった。
メグレは子供のころ両親に匿しごとをした時分のことを想いだして、椅子を衣裳ダンスのそばに運んでくると、その上に乗ってタンスの上をしらべてみた。どこの家でも同じだが、そこには埃が厚くつもっている。だが一ヵ所だけ、大きな封筒か本のようなものを置いていたらしい、四角形の跡がくっきりとついていた。
メグレはべつだん何も考えなかった。女はずっと彼のあとを目で追っている。ラポワントがいったように、乳房の片方がバスローブから、まるでパン生地のようにぐにゃりとはみ出てきそうに見える。
「この部屋の鍵は?」
死体からは、ジュヴィジーの家の鍵しか出てこなかったのだ。
「彼が一つ持ってたけど、出かけるときは預けていくのよ」
「ほかの下宿人もみんなそうするのかね?」
「いいえ。彼はすぐ失くすからといって、下に置いて出て、帰ってきたとき鍵を取って上るわけ。夜帰ってくることなんてなかったから……」
メグレは額縁から女の写真を抜きとった。部屋を出る前に、カナリヤの水をかえてやり、さらに少しばかり歩きまわった。
「たぶんまた来るよ」と、言う。
彼女が先にたって階段を降りた。
「一杯さしあげたいけど、どうせ断わるんでしょう?」
「電話はあるかね? あったら番号を教えてくれないか。あとで訊きたいことがあるかもしれないから」
「バスチーユの二二―五一番ですよ」
「あんたの名は?」
「マリエット。マリエット・ジボン」
「どうも」
「それだけ?」
「いまのところはね」
あいかわらず激しく降っている雨の中を、メグレとラポワントは車へ急いだ。
「つぎの角まで転がしてくれ」と、メグレは言った。
そして、ラポワントに、
「いまの家へ引返してくれ。階上《うえ》の部屋にパイプを忘れてきたんだよ」
メグレはこれまで、けっしてパイプを忘れたことなどない。それにポケットには、いつも二本入っているのだ。
「いますぐですか?」
「そうだ。あのマリエットという女に、数分間かまっていてほしい。それから、あそこへ戻ってこい」
薪と炭を売っている小さなバーを指差してみせた。彼自身はそのバーに入って、まっすぐ電話機へ向い、司法警察局を呼びだした。
「リュカをたのむ……。きみか、リュカ……。すぐに電話傍聴係に、つぎの番号へつなぐよう指示してくれ。バスチーユの二二―五一……」
そのあとラポワントを待つあいだ、カウンターで一杯飲みながら他にすることもないので写真を引っぱりだして眺めた。ルイが細君とからだつきの似た女を情婦に選んだのは、べつだん驚くにはあたらない。ただ性格まで似ているのかどうか。案外そんなところかもしれない、とも思う。
「はい、パイプです、警視《パトロン》」
「きみが引返したとき、彼女は電話をしていなかっただろうな?」
「どうですか。ほかに女が二人、いっしょにいましたよ」
「あの裸の女か?」
「バスローブを着てました」
「きみは食事をしてこい。午後本庁で会おう。車は私が使う」
運転手にクリニャンクール街のレオーヌの住所を告げ、その途中、菓子屋によってチョコレートを一箱買った。チョコレートの箱をレインコートの下に抱えて、歩道を渡る。柔かく軽やかな品物の並んでいる店に、こんなびしょ濡れの服を着て入っていくなんて、なんとも恰好がつかないという気はしたが、だからといって止めるわけにもいかない。店に入るとメグレは、ぎこちない動作でチョコレートを差しだした。
「これをお母さんに」
「こんなに気を使っていただいて」
湿気のせいだろうが、この前よりさらに暑苦しい感じがした。
「ご自分で母にお渡しになりません?」
彼は奥へ行く気になれなかった。店にいればまだしも、外の生活となんらかのつながりを保っていられるような気がした。
「この写真をあなたに見てもらおうと思ってきただけですから」
彼女はちらりと見て、すぐに、
「マダム・マシェールだわ!」
しめた、と思った。新聞が大見出しで書きたてるような成果では、むろんない。なんでもないといえば、なんでもないことだった。しかしルイ・トゥーレについてのメグレの判断がまちがっていなかったことが、これで証明されたのだ。ルイは街やビヤホールで女を拾うような男ではなかった。彼が知りもしない女を口説くはずがないと、メグレは睨んでいたのである。
「どうして知っているんです?」と、訊いてみた。
「だって、この方はカプラン商会で働いていたんです。永い間ではありませんけど。六、七ヵ月くらいかしら。なぜこの写真をあたしにお見せになったの?」
「彼女がルイ氏のいい女《ひと》だったんですよ」
「まあ!」
彼女には酷だったかもしれないが、やむを得なかった。
「二人がボンディ街で働いていたとき、なにも気がつかれませんでしたか?」
「なにもあったはずがありません。彼女はそのときどきで十人とか十五人とかいた倉庫員の一人だったんです。ご主人が警察官だったので、よく憶えていますわ」
「なぜ辞《や》めたのですか?」
「たしか手術を受けなければならなくなったからだと思います」
「どうもありがとう。またお邪魔して申し訳ありませんでした」
「ちっとも邪魔ではありませんわ。サンブロンさんにお会いになりました?」
「会いました」
「あの、ルイさんはあの方と同棲していたのではないのでしょう?」
「レピュブリック広場の近くに彼が借りていた部屋に、よく訪ねてきていたのです」
「きっとただのお友だちで、二人のあいだにはなにもなかったのだと、あたし思いますわ」
「かもしれません……」
「会社の帳簿がのこっておれば、彼女の住所をお教えできるのですけど、どうなってしまったのか」
「警察官の奥さんだということであれば、こちらでわかりますよ。マシェールといわれましたね?」
「あたしの記憶にまちがいがなければ、名前のほうはアントワネットだと思います」
「では、ご機嫌よう、マドモアゼル・レオーヌ」
「さようなら、ムッシュー・メグレ」
奥の部屋で老婆の身動きする気配が感じられたので、彼は大急ぎで逃げだした。あの老婆と顔を合わせるのは、どうも苦手だった。
「警視庁へやってくれ」
「河岸ですか?」
「いや、市警察局のほうだ」
正午だった。オフィスや商店から出てきた人たちが、行きつけのレストランへ急ぐために道を横断しようとして、ぐずついていた。どの家の軒先にも人だかりができていて、だれもが目に憂鬱そうな忍従の色をうかべている。キオスクでは新聞がびしょ濡れになっていた。
「ここで待っていてくれ」
メグレは人事課長室をみつけて、そこでマシェールという警官について尋ねた。しばらく待たされてから、たしかにマシェールという巡査がいたが、二年前に乱闘騒ぎにまきこまれて殺されていることがわかった。その当時の住居はドメニル通りにあった。未亡人には年金が支給されており、夫婦に子供はなかった。
メグレはアドレスを書きとった。時間の節約のため、電話でリュカを呼びだす。そうすればパレ通りを横断して向いの司法警察局まで足を運ぶ手間がはぶける。
「彼女は電話をかけたか?」
「いまのところはまでです」
「外からもかかってこないか?」
「彼女にではなく、オルガとかいう女の一人に、仮縫いのことで掛かってきました。先方はサン・ジョルジュ広場の仕立屋でした」
昼食は後まわしにすることにした。通りすがりにバーでアペリチフを一杯流しこんだだけで、またもや黒塗りの小型車に乗りこんだ。
「ドメニル通りだ」
そこは通りからかなり外れた、地下鉄の駅の近くだった。どこにでもあるような中級のアパートで、くすんだ色の建物だった。
「マダム・マシェールは?」
「五階ですよ」
エレベーターがあったが、ガクンと発作的に動きだすかと思うと、やたら階と階の中間で停止したがる。ドアについている銅の把手はぴかぴかに磨かれ、足許には清潔な靴拭いがおいてあった。呼鈴を鳴らすと、すぐに内側で足音が聞こえた。
「ちょっと待って!」ドアの羽目板ごしに声をかけてくる。
きっとネグリジェ姿の上に、部屋着をはおるところなのだろう。たとえガス・メーター検針員といえども、バスローブひとつで応対するような女とは違うのだ。
ドアを開けてから、しばらくは言葉もなくメグレの顔をまじまじと見た。心の動揺はかくしきれない。
「お入りください、警視さん」
写真そっくり、さらにいえば、宝石店の店員の描写にそっくりだった。背が高く頑丈そうで、自己を抑制したもの静かな挙措。メグレに気がついた以上は、彼の来意も充分わかっているはずである。
「こちらへ……家事の途中でしたので……」
にもかかわらず髪はすこしも乱れていない。彼女は地味な色合いの部屋着を着ていたが、そのスナップボタンも、一つはずれているだけだった。床は光っていた。ドアのそばにフェルトの足拭きが置いてあり、外出から戻ったとき、濡れた足をそれに擦りつけるものらしい。
「私がそこらじゅうを汚してしまいそうだな」
「そんなこと、構いません」
ジュヴィジーの家ほど新しくはないが、むしろそれ以上に磨きあげられていて、室内の感じは家具類の上の装飾品にいたるまで、よく似ていた。食器台の上に、巡査の写真が飾られていて、その額縁にメダルが掛けてあった。
彼女の不意をついて当惑させる気は、メグレにはなかった。もっとも、彼女を驚かすようなことはなにもないのかもしれないが。彼は簡単にきりだした。
「ルイのことでお訪ねしたのです」
「覚悟しておりました」
打ち沈んではいたが、その目は乾いていて、物腰はきりっとしていた。
「お坐りください」
「椅子を濡らしてしまいますから。ルイ・トゥーレとあなたとは、親密な間柄だったんですね?」
「彼はわたしを愛してくれました」
「それだけ?」
「愛してくれていたと思います。あの人、仕合わせではなかったのですわ」
「ボンディ街に勤めていた頃からの仲ですか?」
「あの当時、主人はまだ生きていたのですよ」
「ルイがあなたを口説いたようなことはなかったのですね?」
「倉庫のほかの女《ひと》たちと同じとしてしか見ていませんでしたから」
「ということは、カプラン商会が閉鎖した後になってから、再会されたというわけですな?」
「夫が亡くなって八、九ヵ月後でした」
「偶然に出会ったわけ?」
「未亡人の年金では食べて行けないことは、よくご存知でしょう。夫が生きていた頃から、ずっとではありませんけど、例えばカプラン商会などで、ときどき働いておりました。ご近所の女《かた》がシャトレ座の人事主任に紹介してくださって、場内案内のお仕事をいただいたんです」
「では、そこで……?」
「ええ、ある日のマチネーのときでした。よく憶えていますけど、上映していたのは『八十日間世界一周』でした。わたしはルイさんをお席へ案内していて、あの人だと気がついたのです。むこうもわたしに気がつきました。そのときはそれだけでした。でも彼はそれからいつもマチネーに来るようになり、入口でわたしの姿を捜しているんです。ある日出がけに、アペリチフを付き合わないかと誘われました。わたしたち、スタンドで立ったままお食事をしました、わたしが夜の開演までに戻らなければならないものですから」
「そのときはもう、アングレーム街に部屋を借りていたのかな?」
「と思いますけど」
「仕事口がないというような話をした?」
「そうは言いません。ただ、毎日午後は暇なんだって」
「彼がなにをしているのか知らなかった?」
「ええ。そのことは訊かないようにしていましたから」
「奥さんや娘の話は?」
「それはもう」
「どんなことを話しました?」
「おわかりでしょう、いちいち繰返してはいられませんわ。男の人が家庭的に幸福ではなくて、打ち明け話をしはじめると……」
「彼は家庭的に幸福ではなかったわけですか?」
「奥さんのご姉妹のご主人たちのせいで、すっかり馬鹿にされてしまって」
「どういうことかな」
メグレはとっくにわかっていることだが、彼女の口から聴きたかった。
「お二人ともいい職につかれていて、旅行するにもご家族は無料《ただ》だし……」
「それに年金もある」
「ええ。ルイは出世の意欲がないとか、倉庫係みたいな下積みで一生満足するつもりかとか、責めたてられていたんです」
「彼とはいつもどこへ行きました?」
「たいていは、サン・タントワーヌ街の小さなカフェです。そこで何時間もお話をしました」
「あなたはゴーフルが好きですか?」
顔が赤くなった。
「どうしてご存知ですの?」
「彼はラ・リュヌ街へゴーフルを買いに行っていた」
「それはずっと後になって……」
「あなたがアングレーム街の彼の部屋を訪ねるようになってから?」
「はい。彼が毎日の生活の一部をすごす場所を、わたしにも見てほしいと言うものですから。彼は≪おれの隠れ処≫と呼んで、それは得意そうにしていました」
「どうして市内に部屋を借りたのかは話さなかったのですか?」
「一日に数時間だけではあっても、自分の場所が欲しいからだ、と言っていました」
「で、あなたは彼の愛人になった」
「よく彼の部屋へ行きました」
「彼は装身具やなにかを買ってくれましたか?」
「六ヵ月前にイアリングと、つい最近には、指輪を、それだけですわ」
その指輪をいま嵌めていた。
「彼は人が善すぎる上に、とても感じやすい人でした。だれか勇気づけてくれる人が必要だったんですわ。どうお思いになろうと、わたしは彼の本当のお友だち、それもただ一人のお友だちだったのです」
「彼がここへ来たことは?」
「いちどもありません。門番や近所の口がうるさいですから」
「日曜日には彼に会いました?」
「一時間ほど」
「それは何時です?」
「午後早くでした。わたしはお買物があったものですから」
「彼がどこにいるか知ってたわけですか」
「逢う場所を決めていましたから」
「電話で?」
「いいえ。電話は使いません。前に逢った時に決めておくんです」
「どこで?」
「たいていはいつもの小さなカフェですわ。ときにはサン・マルタン街とグラン・ブルヴァールとの角のことも」
「彼は時間には正確でしたか?」
「はい、いつも。日曜日は寒くて、霧が出ていました。わたしは咽を痛めていて。二人でニュースの映画館に行きました」
「ボンヌ・ヌーヴェル通りの」
「ご存知でしたの?」
「別れたのは何時でした?」
「四時ごろです。新聞の記事が正しければ、彼が死ぬ三十分前です」
「彼がだれかと会う約束をしていたというようなことは?」
「彼はなにも言いませんでした」
「付き合っている友人とか、そんな人たちの話も?」
彼女はかぶりを振った。食堂のガラス戸のついた食器戸棚のほうに目をやる。
「一杯さしあげてもよろしいですか? ベルモットしかありませんけど。自分で飲まないものですから、ずいぶん古いものですけど」
彼女の意を迎えるために受けることにしたが、壜の底に澱がよどんでいる。おそらく故人の巡査が飲んでいたものにちがいない。
「新聞を見たとき、よっぽどあなたのところへ行こうかと思いました。主人があなたのことをよく話しておりましたから。さっきも、お写真でよく見ていましたから、すぐあなただとわかりましたわ」
「ルイはあなたと一緒になるために離婚するというような話をしなかったのですか?」
「奥さんが怖かったんです」
「それと娘も?」
「娘さんのことはとても愛していました。彼女のためならどんなことでもしたでしょう。でもなんだか、力を落していたみたいでしたけど」
「どうして?」
「ただそんな気がしただけですけど。ときどき、ふっと淋しそうにして」
彼女もやはり淋しそうにして、抑揚のない単調な声で話しつづけている。アングレーム街にルイを訪ねて行ったとき、彼女が部屋を磨きあげていたのかもしれない。
彼女がルイの前で服を脱いだり、ベッドに身を横たえているところなぞ、とても考えられない。裸やあるいはパンティとブラジャーだけの彼女すら、メグレには想像もできなかった。彼の脳裏にうかぶのは、彼女の話にあったように小さなカフェの薄暗い片隅で、ときおりカウンターの上の時計を気にしながら、小声で話しこんでいる二人の姿であった。
「彼はお金をたくさん費っていましたか?」
「≪たくさん≫とおっしゃる意味にもよりますわ。特に倹約家ではありませんでしたし、わりと気楽に費っていたと思います。放っておいたら、特に無駄なものを目につく端から買って、わたしにプレゼントしようとしたでしょうね」
「ベンチに坐っているのを見かけたことはないですか?」
「ベンチに?」はっとしたらしく、おうむ返しに言った。
逡巡している。
「いちど午前中に買物に出たときでした。彼が痩せた男の人と話しているのを見かけて、ずいぶん変だなと思ったことがあります」
「どうして変だと?」
「その男の人が、道化師とか、喜劇俳優がメーキャップを落したみたいな感じだったからです。顔はよく見ませんでした。ただズボンの裾と靴が擦りきれているのが目についただけです」
「だれだったのか、ルイに訊いてみましたか?」
「彼はベンチに坐っていると、いろんな人種の人に会えて、それが面白いんだと言ってましたわ」
「そのほかに知っていることは? 葬式に行きたいとは思わなかったですか?」
「そんな勇気はありませんでした。一両日たったら、お墓にお花を持って行くつもりですわ。墓地の番人が場所を教えてくれるでしょうから。新聞にわたしの事が出るのでしょうか?」
「そんなことはない」
「よかった。シャトレ座ではとても厳しくて、そんなことになったら、わたしは馘になります」
ここからリシャール・ルノワール通りまで、さほど遠くはなかった。そこを辞してから、メグレは自宅へ寄ることにした。運転手には、
「どこかで食事をして、一時間後にここへ戻ってきてくれ」
昼食の間じゅう、メグレ夫人は常になく夫の顔を穴のあくほどみつめていた。
そして、ようやく、
「いったい、どうなさったの?」
「おれがどうかしたか?」
「さあね。だれかさんに似てるみたい」
「だれに?」
「だれでしょうね。ただ、メグレさんじゃないわ」
メグレは笑った。ルイのことばかりが念頭にあって、いつのまにか、彼ならばこうするだろうという想像のままに、自分までも彼の肉体的特徴を真似てしまっていたらしい。
「背広をとりかえるのでしょう?」
「どうせまた濡れるんだから、むだだよ」
「また葬式があるんですか?」
結局は夫人の出した服に着替えることになったが、わずかな間とはいっても、やはり乾いた服は気持がよかった。
警視庁にもどってからも、まっすぐ自室へは行かずに、風紀取締班へまわった。
「マリエットないしマリー・ジボンという女を知っているか? ちょっと、記録を調べてほしいのだがね」
「若い女?」
「五十代ってところだ」
刑事はすぐに、黄ばんで埃っぽいカードのつまっている棚をしらべはじめた。たいして時間はかからなかった。ジボン名の女は出生地がサン・マロで、十一年間売春婦として登録されていたが、サン・ラザール監獄が存在していた時代にここに三度送られている。そのほか売春詐欺で逮捕歴二回。
「有罪だったのかね?」
「証拠不充分で釈放」
「その後は?」
「ちょっと待って。別の棚を見ますから」
最新の記録が見つかったが、そうはいっても十年前のものである。
「戦前はマルチール街のマッサージ・パーラーで遣り手をやってました。そのころ、フィリッピことフィリップ・ナタリと同棲、男は殺人罪で十年の刑。この事件は憶えてますよ。奴らは三、四人で、フォンテーヌ街のカフェでライバルの組織の男を襲ったんです。結局だれが銃を撃ったのかはわからずじまいで、全員が処罰されたんですよ」
「彼は出獄したのか?」
「フォントヴローで死にました」
これでは何の役にもたたない。
「それで現在は?」
「さあね。女がまだ死んでいないとしたら……」
「女は死んじゃいない」
「だったらゴロツキ宿でもやってるかな。案外うまれ故郷あたりで慈善婦人団体の会員あたりにおさまってるかもしれませんぜ」
「いまはアングレーム街で下宿宿をやってるが、家具付ホテル班には申告していない。下宿人はほとんど女だが、あそこで商売をやっているようには見えないな」
「なるほど」
「あの一角に目を配って、住人たちについての情報を集めてほしいんだが」
「お安いご用です」
「アングレームの張り込みをやるのも、風紀班の人間のほうがいい。うちの班の連中では、それらしい奴の見わけがつかないかもしれん」
「わかりました」
メグレはようやっと、自分のオフィスの肘掛椅子に、腰をおろす、というより身を投げだすことができた。すかさずリュカがドアを開けてのぞきこんだ。
「なにかあったか?」
「電話の件に関してはなにもありません。例の番号からはどこにも電話をするようすはないですよ。それより今朝、妙な事件がありましてね。ゲイ・リュサック街に甥といっしょに住んでいる、マダム・テヴナールという婦人が、葬式に出るために家をあけたんです」
「その婦人もか?」
「いや、別の葬式です。町内であったんですよ。彼女の留守中、アパルトマンは空だったわけですが、帰ってきて、ついでに買物してきたものを入れようと蠅帳を開けたところ、二時間前まであったはずのソーセージが消えていたというわけです」
「彼女は確かに……」
「まちがいありません! さらにアパルトマン中を探しまわり……」
「よく怖くなかったな」
「彼女は亭主のものだった軍隊拳銃を持っていたんです。一九一四年の戦争のときのものでしてね。面白い女なんですよ、チビで丸々肥っていて、のべつころころ笑うんですよ。で、甥のベッドの下に、彼のものではないハンカチと、パン屑が落ちているのを発見したというわけです」
「その甥はなにをしているんだ?」
「名をユベールといって、学生です。テヴナール夫妻はあまり裕福ではないので、彼は昼間、サン・ミシェル通りの書店で店員をしています。おわかりですか?」
「うん。で、その叔母は警察に通報したんだな?」
「彼女は門番室に降りてきて街警察署に電話をしました。電話を受けた刑事がすぐこちらに連絡してきたので、ルロワを書店へやってユベールを尋問させたんです。ユベールは全身がたがた震えだして、泣きだしてしまったそうですよ」
「アルベール・ジョリスが彼の友だちか?」
「そうです。ジョリスが彼の部屋に数日かくまってくれと頼んだんですよ」
「どういう口実で?」
「両親といさかいをしてしまって、父親がたいへんな剣幕なので、殺されるかもしれないと言ったそうです」
「それで二日二晩、ベッドの下にいたのかい?」
「いや、一日と一晩だけです。最初の夜は街をほっつき歩いてたようですよ。少くとも友だちにはそう話しています。彼はまたもや、街をうろつき廻っているはずです」
「金は持ってるのかね?」
「ユベールは知らないようです」
「駅にも知らせたのか?」
「万事ぬかりありません、警視《パトロン》。明日の朝までに必ずや、しょっ引いてきますよ」
いまごろ、ジュヴィジーでは何をしているだろう。おそらく未亡人とその姉妹、それからその亭主と娘たち、全員がいっしょに食事をしているところだろう。葬式の慣習《しきたり》どおり、ご馳走が山ほどあるにちがいない。トゥーレ夫人と、モニクの将来について、みんなが話し合っている。
男たちが酒を振舞われて、椅子にふんぞりかえりながら、付け焼刃の葉巻などをふかしている場景が、メグレには目に浮かぶようだった。
≪──あんたも少し飲みなさい、エミリー。元気をつけなくちゃ≫
故人についてはどんな話をしているだろう。悪天候だったにもかかわらず、葬式にずいぶん多勢の人が集った、などと言っているかな。
メグレはその場に飛んで行きたい気持だった。とりわけモニクに会いたかった。会って彼女と真剣に話してみたかった。だが彼女の家ではまずい。かといって公式に召喚する気にもなれなかった。
機械的に彼女の傭い主の電話番号をまわした。
「ジェベール・エ・バシュリエ社ですか?」
「ジョルジュ・バシュリエですが」
「トゥーレさんは明朝会社へ出られるかどうか、教えていただけますか?」
「もちろんですよ。今日は家の事情で休んでおりますが、明日はべつに……あなた、どなたです?」
メグレは電話を切った。
「サントニは部屋にいないのか?」
「今朝から見かけませんが」
「彼にメモを残して、明朝ジェベール・エ・バシュリエ社の入口で待伏せをするよう指示してくれ。トゥーレ嬢が出勤してきたら、丁重にお連れせよ、とな」
「ここへですか?」
「そう、わたしの部屋へだ」
「ほかには?」
「なにもない! おれに仕事をさせてくれ」
今日はルイ・トゥーレと彼の家族と彼の愛人とに、すっかりかかずらってしまった。もし職業的良心というやつさえなかったら、このままオフィスをとび出して、映画にでも行ってしまいたかった。
メグレは夕方七時まで、あたかも世界の命運がそこに懸かっているとでもいうように、傍目もふらず仕事に没入した。目下≪進行中≫の書類のみならず、数週間前、ある場合は数ヵ月前から未処理のままになっていたものから、どうでもいいようなものまで、片端からかたづけていった。
やっと終って外に出たとき、ながいことまっ黒な書類ばかり凝視していたため焦点を失った目が、なにやら異常な事態を感じ取っていた。しばらくして手をさし出してみてから、はじめて雨が降っていないのに気がついた。まるでぽかんと空白ができてしまったような按配であった。
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第六章 物乞い同然
「彼女は何をしている?」
「なんにも。ただ頭をあげて、まっすぐに坐って、まんまえをじっとみつめていますよ」
彼女が待合室に入って自分から坐ったのは、ソファーではなく、堅い椅子のほうだった。
メグレは、彼の表現にしたがえば、彼女をゆっくりとろ火で煮るつもりだった。九時二十分ごろサントニが、モニクを連れてきましたと報告にきたとき、メグレはつぶやくように一言、
「鳥籠にいれとけ」
ガラス戸のついた待合室を、彼はそう名付けていた。そこのグリーンの天鵞絨張りのソファーでは、モニク・トゥーレの前に、すでに多勢の人間がながい間坐らされているうちに自信を喪失したものである。
「どんなようすだ?」
「喪服を着てます」
「そんなことを訊いてるんじゃない」
「私があそこで待ってるのを、まるで予期してたみたいでしたね。リヴォリ街の建物の入口から二、三メートルのところに待機してたんです。彼女があらわれたんで、前へ進みでて、
≪あの、失礼ですが、マドモアゼル……≫
彼女、目を細めて私の顔をじっと見ましてね。彼女、近眼らしいですな。そして、やっと、
≪あ、あなた≫
≪警視がちょっとお会いしたいと……≫
ぜんぜん逆らわなかったですよ。ここまでのタクシーの中でも、いちども口をきかずです」
雨が降っていないばかりでなく、陽まで射していた。大気中の湿気のせいで、日差しはふだんより密度が濃いような感じすらあたえた。
メグレは会議に出るとき、腰掛けているモニクの姿を、遠くからちらりと眺めて通った。それから三十分後、自室にもどってきたときも、彼女はやはりおなじ姿勢で凝然とすわっていた。さらにその後、リュカに様子を見に行かせた。
「なにか読んでいたかい?」
「いいえ。なんにもしてません」
彼女の位置からも、ちょうどレストラン内で厨房をドア越しにのぞくようなぐあいに、司法警察局の内部がいくらか見えるようになっている。ドアがいくつも並んだ廊下を、刑事たちが書類を手にして往来したり、あっちのドアからこっちのドアへ出入りしたり、任務で出掛けていったりあるいは帰ってきたりするさまが、彼女にも見えているはずである。なかには足をとめて、目下捜査中の事件について話を交わすものもいれば、手錠をはめられた罪人を引連れているもの、泣いている女の背を押しながら通るもの、さまざまである。
彼女のあとからきた連中が、つぎからつぎへオフィスに呼び込まれていたが、それでも彼女は毫末も苛立ちの色を見せなかった。
アングレーム街の家の電話はあいかわらず鳴りをひそめていた。マリエット・ジボンはなにか感付いたのだろうか。例のパイプを取りに行った一件で、疑念をいだいたのかもしれない。
ヌヴーがその地区の刑事と交替して、家の張込みにあたっていたが、なんら異常はみとめられなかった。
アルベール・ジョリスに関しては、昨夕の六時、彼がまだパリにいたことがほぼ確実になっていた。他の警官と同様に彼の特徴を知らされていたダンボワ巡査が、ほぼその時刻に、クリシー広場がバチニョル通りと交わるあたりで彼の姿を見かけたのである。彼は一軒のバーから出てくるところだった。巡査は逮捕をあせりすぎた。いずれにしろジョリスは人込みにまぎれて逃げだし、しかもそのときは特に人通りが多かった。巡査は呼子を吹いて他の警官に知らせようとしたが、すぐに見失ってしまった。
結局はそれだけのことで、なんの収穫も得られなかった。そのあと近辺をしらみつぶしに捜索したが無駄だった。バーの主人《あるじ》は、その客がどこにも電話をしなかったといった。ただ、茹卵を五個と、パンと、コーヒー三杯をたいらげたという。
「おっそろしく腹を空かしてたようでしたね」と、彼は言った。
コメリオ判事から、メグレに電話があった。
「新事実はなにもないのかね?」
「四十八時間以内に犯人を逮捕できると思います」
「やはり、なんだろうね、ゴロツキの犯罪なんだろう?」
メグレは「そうです」と答えた。
まだナイフの件が残っている。今朝ほどナイフの製造元から一通の手紙が届いた。この件では捜査の最初からジャンヴィエがみずから聞込みにまわっていたのだが、製造会社の重役の一人は、どこの金物店で売られたナイフかとてもわかりっこありませんよ、と答えていた。彼はその社の生産量の天文学的数字を、いくぶん自慢げに挙げてみせたものである。
ところが今になって、≪副部長≫なる肩書の人物から司法警察部長宛に手紙がきて、サン・マルタン通りで使用されたナイフは、その柄にあった番号からして、四ヵ月前マルセーユの卸売店に出荷されたもののうちの一本である、と知らせてきたのだった。
つまり五人の刑事が三日がかりで、パリの金物店を調べ歩いたのは、まったくの無駄足だったわけである。ジャンヴィエは頭にきていた。
「私はなにをすればいいんですか、警視《パトロン》」
「マルセーユに連絡をとれ。それから、鑑識課のムルスかだれかをつれて、アングレーム街へ行くんだ。ムルスならあの部屋から指紋を検出できるかもしれん。鏡のついた衣裳ダンスの上を注意して見るように」
この間モニクはずっと待ちつづけていた。ときおりメグレは、だれかをやって鳥籠の中をのぞかせた。
「彼女、なにをしている?」
「なんにも」
彼女より強靭な連中でも、このガラス張りの待合室で一時間待たされれば、たいてい苛々したものである。
十一時十五分前、メグレはついに溜息をついて、
「彼女を通せ」
彼は起立してモニクを迎えながら、彼女に詫をいった。
「あなたとはゆっくり話をしたかったもので、急ぎの用件をさきに済ましていたのですよ」
「そうですか」
「どうぞお掛けなさい」
彼女は腰をおろすと、両頬に垂れている髪をなおし、ハンドバッグを膝の上においた。メグレも自分の椅子にすわり、パイプを口にくわえ、マッチを擦るまぎわになって低声で訊いた。
「よろしいですかな?」
「父もやっていましたし、叔父たちもパイプをふかします」
はじめてこの部屋に来たときに較べて、モニクはずっと冷静で、落着きはらっていた。今朝は陽気も温暖で、メグレが窓を半開きにしていたので、外の騒音が喧しくとびこんできた。
「おわかりでしょうが、お父さんのことをお聞きしたいんです」
彼女は首をうなずかせた。
「それにあなたや、その他の人たちのこともね」
彼女は相槌は打たなかったが、かといって視線を外らすこともなく、つぎにくる質問を予期しているかのように待ちうけている。
「お母さんのことを愛しているのでしょうね、マドモアゼル・モニク?」
メグレの意図は、まず子供をあやすような優しい質問からはじめて、しだいに真実を述べざるを得ないような心境へと誘導していくことにあった。ところが最初からして、その狙いは狂わされた。
彼女はしごく当然のように、平然といい放った。
「いいえ」
「お母さんとは話が合わないという意味かな?」
「母なんか大嫌い」
「どういう理由《わけ》で?」
彼女はひょいと肩をすくめた。
「家へいらっしゃったんだから、わかったでしょ」
「話したくないのですか?」
「母は自分のことしか頭にないんです。お上品で取り澄ました、自分自身の若い頃のことだけ。姉妹よりも結婚に恵まれなかったことで腹を立て、自分の生活程度も姉妹たちとたいして変らないと、なんとか信じてもらおうとしているんです」
メグレはおぼえず浮かんできそうになる微笑を抑えたが、彼女のほうは大まじめだった。
「お父さんのことは好きでしたか?」
しばらく返事をしない。もういちど質問をくりかえさなければならなかった。
「考えてるところ。どう言おうかと迷ってるんです。父は死んでしまったんだから、言い辛いわ」
「あまり好きではなかったということ?」
「父は可哀そうな人でした」
「可哀そうな人とは、どういう意味かな?」
「父は変えようとする努力をしなかったんです」
「なにを?」
「なにもかも」
それから、ふいに激した口調になった。
「あたしたちの生活をです。あれが生活といえるのならね。あたしはもう前から嫌気がさして、一つのことしか考えなかった。それは、家を出ること」
「結婚して?」
「結婚しようとしまいと、家を出さえすればいいんです」
「近いうちに出るつもりだった?」
「そのうちに」
「両親にその話をしましたか?」
「話して何になるんですか?」
「なにも言わずに家出するのかね?」
「いけないんですか? あの人たちにはどっちみち同じことよ」
メグレはしだいに好奇の色をつのらせて彼女を眺めていた。ときおりパイプを吸うのも忘れて、そのために二度も三度も火をつけなおさなければならなかった。
「お父さんがもうボンディ街に勤めていないと知ったのは、いつのことだった?」
メグレはある種の反撥を予期していたのだが、そういうこともなかった。彼女はこのことを訊かれるのを予想していて、あらかじめ答えを用意していたのにちがいない。そうとしか解釈のしようがなかった。
「たぶん三年ぐらい前です。数えてみたことはないけど。一月だったと思います。一月か二月。とても寒い日でした」
カプラン商会は十月に閉鎖している。一月か二月だとすれば、ルイがまだ就職口を探し歩いていた頃である。それはまた彼がついに万策つきて、不本意ながらもレオーヌ嬢と老会計係から借金することになった時期でもある。
「お父さんがあなたに話したのかね?」
「いいえ。もっと単純なことなんです。あの日の午後、あたしは取立てのことがあって……」
「そのときはもう、リヴォリ街のいまの会社に勤めていたの?」
「あたしは十八の齢にいまの会社に入社しました。まったく偶然に、あたしは仕事で、父が勤めていたアパルトマンにある美容室を訪ねることになったんです。そのとき、ついでに中庭のほうをのぞいてみました。午後四時すぎでした。もう暗くなりかけていました。それなのに奥の建物には灯がついていないんです。びっくりして門番の女の人に訊いてみたら、カプラン商会は失くなったって教えてくれました」
「家に帰ってそのことをお母さんに話さなかったんだね?」
「ええ」
「お父さんにも?」
「訊いてもどうせ本当のことは言わなかったでしょう」
「お父さんはよく嘘をつく人だったのかね?」
「なんていったらいいか。家庭に波風をたてまいとして、母の気に入るような答え方しかしないんです」
「お母さんを怖がっていたのかな?」
「平穏無事であればよかったんです」
その言い方にはいくぶん軽蔑がこもっていた。
「で、あなたはお父さんを尾行した?」
「ええ。あくる日はそのチャンスがなかったので、その二、三日後のことでした。会社に急ぎの仕事があるからということにして、早い時間の列車に乗って行って、駅の近くで待っていたんです」
「お父さんはその日、どんなことをした?」
「いろんな会社を訪ねました。ちょうど職を探している人みたいでした。お昼になったら小さなバーでクロワサンを食べて、それから求人広告を見に新聞社へ急いで行ったんです。それであたしにはぴんときました」
「それであなたはどうした?」
「どういうことですか?」
「お父さんがなぜ家でなにも話さないのか、変だとは思わなかったのかね?」
「思いません。そんな勇気はないんです。それこそ大騒動になって、叔父叔母たちはここぞとばかりに父を忠告責めにして、またもや、父には自主性《イニシアチヴ》が欠けてるっていいだすでしょう。あたしは生まれたときからずっと、この言葉を聞かされてきたわ」
「しかしお父さんは、毎月の月末には、月給をもって帰ったのじゃないのかい?」
「そこがあたしにも不思議だったんです。こんどこそ手ぶらで帰ってくるにちがいないって、毎回思っていました。それどころかある月など、昇給を≪会社に要求して≫、認めさせたからって母に話してるんです」
「それはいつのこと?」
「そんなに後でもないんです。夏、八月頃かしら」
「それでお父さんが新しい仕事をみつけたのだろうと思った?」
「ええ。あたしは確かめたくて、またあとを尾けました。でも働いてなんかいないんです。ぶらぶら歩いたり、ベンチに坐ったりするだけでした。たぶんその日は休暇なんだろうと思って、一、二週間後に、こんどはべつの曜日を選んでまた尾行してみました。それでグラン・ブルヴァールのベンチに腰をおろしたとき、父はあたしの姿に気がついたんです。父は蒼くなって、もじもじしていましたが、とうとうこちらに近寄ってきました」
「あなたが尾行していたことに気づいたのかな?」
「そんなことはないと思います。偶然通りかかっただけだと思ったはずです。父はカフェのテラスであたしにコーヒーをご馳走して、打明け話をしました。ひどく暑い日でした」
「どんな話をした?」
「カプラン商会が人手に渡って、父は失業してしまったこと。でも、心配させたくなかったから母には話さなかった、すぐに別のちゃんとした職が見つかる当てがあったからだ、だって」
「彼は茶色の靴をはいていた?」
「その日ははいていません。それから父はこうも言いました。最初のうちは予想していた以上に厳しかったけど、いまはうまく行っている。保険会社に仕事があって、それが割合暇なんだって」
「どうして家でその話をしなかったのかな?」
「それも母のせいです。掃除機のセールスであろうと保険の勧誘であろうと、家から家へ廻って歩く人たちを母は軽蔑しています。碌でなしの物乞いと変りはないっていうんです。もしも自分の夫がそんな仕事をしていると知ったら、それこそ恥をかかされたといって大騒ぎになったでしょう。とくに叔母たちに合わす顔がないといって」
「お母さんはご姉妹の意見にとくに神経質らしいな」
「要するに負けたくないんです」
「あなたはその保険会社の話を信じたのかね?」
「そのときは信じました」
「そのあとでは?」
「だんだん信じられなくなりました」
「どうして?」
「だいいち身入りが多すぎるんです」
「そんな大金を?」
「大金ってどれくらいのことをおっしゃっているのかわからないけど、それから何ヵ月かして、父は副部長に昇進したので給料も上るって言いだしました。それがやはりカプラン商会での話なんです。あのときの遣り取りはよく憶えているわ。母が身分証明書の職業欄を書き変えなくちゃって言いだしたんです。倉庫係というのを前から恥ずかしがっていたんです。父はそんなつまらないことはどうでもいいじゃないかって」
「お父さんとあなたとは、いわば共謀《ぐる》みたいなことになったわけだね?」
「母が見ていないときなんか、父はあたしにウィンクしてみせたりしました。また朝出がけに、あたしのバッグにお礼を押しこんだりして」
「あなたを買収しようとして?」
「あたしにお金をやるのが嬉しかったんです」
「昼食をいっしょにしたこともあるという話だったが」
「そうです。廊下で小さい声で誘うんです。レストランではいちばん高い料理をとってくれて、あとで映画に行こうと誘うこともありました」
「茶色の靴をはいていたことは?」
「いちどだけ。どこで靴をはき替えているのって尋ねたら、仕事のつごうで市内に部屋を借りているんだって答えました」
「アドレスも教えた?」
「いいえ、そのときはまだ。ずっと後になってからのことです」
「その頃、あなたに恋人はいた?」
「いいえ」
「アルベール・ジョリスと知りあったのはいつ?」
彼女は顔を赤らめるようすもなく、口ごもりさえしなかった。この質問も予期していたのだろう。
「四、五ヵ月前です」
「愛しているのかね?」
「二人いっしょに家を出るつもりです」
「結婚するために?」
「彼がその齢になったら。まだ十九歳だから、両親の同意がなければ結婚できないんです」
「彼の両親は同意しそうにないのかね?」
「絶対しないでしょうね」
「なぜ?」
「彼に社会的な地位がないから。両親の頭にはそのことしかないんです。あたしの母とおんなじ」
「二人でどこへ行くつもりだった?」
「南米。あたしはもうパスポートの申請をしました」
「お金は?」
「少しならあります。お給料の一部を貯金してあるんです」
「お父さんにはじめてお金を強請《せび》りに行ったのはいつのことかね?」
彼女はメグレの目をじっとみつめていたが、ふっと吐息をついた。
「そこまで知ってたんですか」
あとは躊躇《ためら》うようすもなく、
「そうじゃないかとは思ってたわ。だからあなたには本当のことをお話してるんです。あなたが母に告げ口をするような卑劣な人だとは思わないから。母の同類には見えないもの」
「お母さんにあなたのことを話すつもりなど毛頭ないよ」
「だからって、それで事態が変るわけじゃないわ!」
「どっちにしても家を出ることに変りはないということかね?」
「ええ、そのうちに」
「どうやってお父さんのパリのアドレスを知ったのかね?」
こんどは一瞬、嘘でごまかそうとする気配をみせた。
「アルベールがみつけたんです」
「尾行して、かね?」
「そうです。あたしたち二人とも、父がなんで稼いでいるのか、不思議に思ったからです」
「なんだと考えたのかね?」
「父が密輸に関係しているにちがいないって、アルベールは言うんです」
「だとしたら、それを知ってあなたたちに何の得がある?」
「きっとお金をたくさん稼いでるにちがいないって……」
「それを少し頂こうという魂胆かね?」
「せめて船賃ぐらいは」
「ゆすりだな」
「でも父親としては当然……」
「要するにあなたの恋人のアルベールが、あなたのお父さんをスパイしはじめた」
「三日間あとを尾けました」
「で、なにがわかった?」
「あなたにだって、わかっているんでしょう?」
「私は質問しているんだよ」
「まず、父がアングレーム街に部屋を借りているってこと。それから、ぜんぜん保険会社なんかには勤めていなくて、たいていグラン・ブルヴァールをぶらぶらしたり、ベンチに腰掛けたりしてすごしていること。それと……」
「それと?」
「父には情婦《おんな》がいること」
「それであなたはどう思った?」
「その女《ひと》がせめて若くてきれいだったら、あたしも喜んだでしょう。でもその女、母に似てるんです」
「見たのかね?」
「二人がよく逢っている場所を、アルベールが教えてくれたんです」
「サン・タントワーヌ街の?」
「ええ。小さなカフェ。偶然通りかかったふりをして、彼女を見に行きました。こまかく観察する暇はなかったけど、あたしにはわかったの。あれなら母といたって、おんなじです」
「そのあとアングレーム街へ行ったんだな?」
「そうです」
「お父さんはお金をくれたかね?」
「ええ」
「威したのか?」
「いいえ。あたし、午後の集金分が入っていた封筒を落してしまったって、作り話をしました。そのお金が出てこなかったら、馘になるって。きっとあたしが盗んだと思われて追求されるとも言ったわ」
「彼はどうした?」
「困ったような顔をしていたわ。あたしはテーブルの上に女の写真があるのを見たので、それを手にとって、訊いたんです、
≪この人、だれ?≫って」
「彼はなんと答えた?」
「子供の頃のお友だちで、偶然再会したんだって」
「自分のことを、ひどい娘だとは思わなかったのかね?」
「あたしは、自分を護っているだけです」
「だれにたいして?」
「世間ぜんたいにたいして。母みたいに、息のつまりそうな、あんなばかばかしい家で朽ち果てたくないわ」
「アルベールも、お父さんに会いに行ったんだね?」
「知りません」
「嘘をいってはいけないよ」
メグレの顔をじっと睨みつけるようにしていたが、やっと認めた。
「そうです」
「どうして嘘をつこうとしたんだね?」
「父が殺されたから、アルベールに疑いがかかってはいけないと思って」
「彼が姿を消したことは知っているね?」
「電話してきましたから」
「いつ?」
「あなたの言い方だと、姿を消す前に。二日前です」
「どこへ行くか話したかね?」
「いいえ。ひどく怯えていました。自分が犯人だと思われるにちがいないって」
「なぜ?」
「アングレーム街へ行ったから」
「警察が彼の行方を追っていることを、いつ知った?」
「刑事さんがあの意地悪マドモアゼル・ブランシュに尋問したときです。彼女、あたしが嫌いなんです。あのあとで、彼女流にいえば、あたしがぐうの音も出せないように、うんと喋りまくってやったって自慢していたわ。あたしはアルベールを安心させようとしました。身を匿すなんて、それこそ疑われるだけなんだから、馬鹿なまねはよしなさいっていったんです」
「彼は聞き入れなかった?」
「ええ。すっかり怯えていて、電話ではまともに話もできないようすでした」
「彼がお父さんを殺したのではないと、どうしてわかる?」
「なぜ彼が父を殺すんですか?」
それから自分に言いきかせるように、ぽつんと、
「お金なら、いくらでも取れたのに」
「しかしお父さんが断ったら?」
「そんなはずはありません。アルベールが母に話すって脅せば、それですむことです。あなたがどう思ってるかわかってます。さっきの言い方じゃないけど、ひどい娘だと思ってるんでしょう。でも、いわゆる青春時代の大部分を、あんなジュヴィジーなんかで過ごしていれば……」
「お父さんには、あの亡くなった日には会わなかったのだね?」
「ええ」
「アルベールも?」
「会わなかったと思います。あの日はなにも予定していませんでしたから。彼とはいつものようにいっしょにお食事をしましたけど、そのときも何も言いませんでした」
「お父さんがどこにお金を置いていたか、知っているかね? 私の知るかぎりでは、お母さんが毎晩、服のポケットと財布をしらべていたようだが」
「いつもそうなんです」
「どうしてかな?」
「いちど、十年ぐらい前だけど、ハンカチに口紅がついているのを母がみつけたことがあるんです。母は口紅を使わないんです」
「あなたはまだ小さかったはずだが」
「十歳か十二歳のときです、それでもよく憶えています。二人ともあたしのことなんか忘れてしまって。父は会社で倉庫の女の人が暑気あたりで倒れたので、ハンカチにアルコールを浸して気付けにつかったんだって、言いはっていました」
「たぶんその通りだったのじゃないかな」
「母は信じませんでした」
「さっきの質問にもどるが、お父さんは給料分以上のお金を、家に持って帰るわけにはいかなかったはずだが」
「市内の部屋に置いていました」
「衣裳ダンスの上に?」
「どうして知っているんですか?」
「あなたはどうして知っているのかな?」
「いちどお金を貰いに行ったとき、父が椅子を踏み台にして、タンスの上から黄色い封筒を取ったことがあるんです。その中に千フラン札が入っていました」
「たくさん?」
「ぶあつい札束でした」
「アルベールもそれを知っていた」
「だからって殺す理由にはならないわ。彼が犯人のはずはないんです。だいいち、ナイフを使うなんてあり得ないわ」
「どうしてそう断言できる?」
「いちど小刀で指を切ったときなんか、失神しそうになったくらいです。血を見ただけでまっ蒼になるんだもの」
「彼と寝たことは?」
またもや肩をすくめた。
「なんて訊き方!」
「どこで?」
「どこだっていいわ。そのためだけのホテルがパリにはいくらでもあるわ。警察が知らないはずないでしょう」
「つまりいままでの大変に面白い話を要約すると、アルベールとあなたは、お金ができたら南米へ逃げだす目的で、あなたのお父さんをゆすっていた、ということだな」
彼女は動じる気色も見せない。
「さらに念を押すと、あなたたちはお父さんを尾けまわしたけれども、彼がどこでお金を稼いでいるのか突きとめることはできなかった」
「そんなに調べまわったわけじゃないわ」
「わかっているだろうが、問題なのは結果だけだよ」
メグレはときどき、彼女の目に寛容の色が浮かんでいるような気がした。司法警察局の警視とはいっても、母や叔父叔母とおなじように単純なんだな、とでも思っているのかもしれない。
「これで洗いざらい話したわ」彼女は立ちあがりそうな気配をみせた。「あたしが猫をかぶるつもりなんかないことが、わかってもらえたでしょう。それであなたにどう思われようと、あたしにはどうでもいいんです」
それでも、なにか気にかかることがあるらしいようす。
「ほんとに母には話さないでいてくれるんでしょうね」
「どうせ家を出るんだから、どうでもいいことじゃないのかね」
「それまでにはまだ間があるかもしれないし。なるべくなら面倒は避けたいんです」
「わかった」
「アルベールは未成年だから、彼の両親が……」
「アルベールとも話してみたいんだがね」
「あたしの言うことさえ聞いていれば、いまごろはここへ来れたのに。馬鹿な人。きっと震えながら、どこかに匿れているにちがいないんです」
「彼のことをそれほど尊敬もしていないようだね」
「あたしはだれも尊敬なんかしません」
「自分以外はね」
「自分自身だって同じことだわ。あたしは、ただ自分を護っているだけ」
なにをかいわんや、である。
「会社にあたしがここにいることを話してくれました?」
「形式的な手続上のことであなたに用があるからと、電話で言っておいた」
「何時に戻ることになっているんですか?」
「時間はいわなかった」
「帰ってもいいですか?」
「引きとめはしないよ」
「刑事に尾行させるんですか?」
思わず吹きだしそうになったが、強いてまじめな顔をする。
「あるいはね」
「時間のむだだわ」
「それはどうも」
メグレは本当に彼女を尾行させた。もっともどうせ成果はないだろうという気はしていたのである。尾行の役には、ちょうど空いていたジャンヴィエがあたった。
メグレ自身は、ながいこと机に両肘をつき、パイプを歯で噛んだまま、ぼんやり窓をながめていた。やがてまだ夢から醒めきらない人のように首を振って立ちあがりながら、つぶやく。
「ばかな娘だ!」
特に用事もなかったが、刑事部屋のほうへ入っていった。
「アルベールに関するニュースはないのか?」
彼がモニクと連絡をとろうとすることはまちがいないだろうが、逮捕されないようにやるためには、どうするかだ。メグレは割合肝心なことを訊くのを失念していた。つまり、二人が南米へ発つときのために貯めている金はどちらが保管しているのか、ということである。もしアルベールのほうなら、彼の懐には金があることになる。さもなければ、いまや食事代にも事欠く事態かもしれないのだ。
メグレは考えこみながら二つの部屋を大股に往ったり来たりして、しばらく時間をおいてからジェベール・エ・バシュリエ社へ電話をした。
「マドモアゼル・モニク・トゥーレをお願いします」
「ちょっとお待ちください。いま戻ってきたばかりだと思いますから」
「もしもし!」モニクの声。
「喜ぶのはまだ早いよ。アルベールじゃなく、警視のほうだ。ひとつ訊くのを忘れていたんだが、お金を持っているのは、彼かねあなたかね?」
なんの話か彼女はすぐ理解した。
「あたしです」
「どこにある?」
「ここ。ここに鍵のかかる机があるんです」
「彼はお金を持っているのかな?」
「たくさんはないでしょう」
「ありがとう。それだけだ」
リュカがべつの線に電話がかかっていることを知らせた。ラポワントからだった。
「アングレーム街からかけているのか?」メグレはちょっと驚いた。
「例の家からじゃありません。角の酒場からです」
「なにがあった?」
「緊急を要するかどうかわからないのですが、とにかくお知らせしとこうと思って。例の部屋ですが、きれいに掃除されていたんですよ。床も家具も磨きあげて、塵ひとつないんです」
大失態だった。予想しておくべきだったのだ。
「ムルスはどこだ?」
「まだ上の部屋にいます。せめて何かの痕跡でものこっていないか調べているんですが、いまのところなにも見つかっていません。ほんとうに家政婦のやったことだとしたら、優秀な仕事振りですよ。本庁へもどりましょうか?」
「まだだ。その家政婦の名前と住所を聞きだせ。彼女をつかまえて、そのときの状況を訊くんだ。彼女がどんな指示を受けたか、掃除のとき、だれがその部屋にいたか……」
「わかりました」
「ムルスには戻るように伝えろ。それともう一つ。そちらに風紀班の人間が行くはずだが」
「デュモンセルです。彼とは話しました」
「彼の班に増援をたのむように言ってくれ。下宿人が一人でも外出したら、尾行するようにとな」
「あの女たち、外出しそうにないですよ。一人は裸で階段のあたりをうろつく癖があって、もう一人は風呂に入っているところだし、三人目はもう何日も帰ってきてないようすです」
メグレは部長室へ行った。とくにこれといった理由はないのだが、彼はときおり、捜査中の事件についてとりとめもないお喋りをするだけのために、この部屋へくることがある。ここの雰囲気が好きなのだった。いつものように、サン・ミシェル橋と河岸が見える窓辺に立っている。
「お疲れ?」
「まるきりジグソーパズルでもやっている気分だ。いちどきに何ヵ所にも行けたらと思ってるうちに、結局はオフィスの中をぐるぐる歩きまわってるだけでね。今朝の尋問はまた、なんともはや……」
といいかけたが、どうも適切な言葉がみつからない。疲れたというか、もっと正確にいえばすっかり中身がぬけ落ちた感じ。二日酔のときに味わうげんなりした気分、あれに似ていた。
「たかが小娘なんだがね」
「トゥーレの娘ですか?」
電話が鳴った。部長が送受器をとる。
「そう、ここだよ」
メグレに、
「あなたにです。ヌヴーがだれやらを連行していて、至急あなたにその掘出しものを見せたいと」
「すぐ行く」
待合室にヌヴー刑事がひどく興奮したようすで立っており、彼のそばの椅子には、ひょろひょろに痩せた色の蒼白い、年齢不詳の男が腰をおろしていた。その男にはたしかに見覚えがある。どちらかというとよく知っているという気がするのだが、顔と名前がどうにも結びつかないのである。
「先に二人だけで話すかね?」と、ヌヴーに訊いてみた。
「その必要はないです。それにこの野郎を一人にしておくのはまずいですよ」
そのときになってはじめて、男の手に手錠がはまっているのに、メグレは気がついた。
メグレが自室のドアを開けてやると、男はいくぶん足を引きずり気味にしながら、中に入った。アルコール臭がぷんとにおう。ヌヴーも中に入ると、ドアに錠をおろしてから、男の手錠をはずしてやった。
「こいつに見覚えありませんか、警視《パトロン》」
やはり名前は想いだせないのだが、とつぜん閃くものがあった。メーキャップを落したピエロの顔、ゴムのように伸び縮みする頬、悲嘆と滑稽を同時に表現する大きな唇。
そういえばだれだったか、道化師のような顔のことを話していたと思ったが、あれはレオーヌ嬢だったか老会計係のサンブロンだったか。どっちにしろ、サン・マルタン通りかボンヌ・ヌーヴェル通りだかのベンチで、ルイがだれかといっしょのところを見かけたという話のときだった。
「掛けなさい」
男はいかにも場馴れしたようすで、答えたものである。
「では、ご免なすって」
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第七章 レインコートの店
「道化師フレッド、またの名を軽業師のジェフ・シュラメック、六十三年前、ライン河上流はリクヴィールに出生」
ヌヴーはおのれの手柄にすっかり興奮してしまって、サーカスの呼びこみ風に男を紹介した。
「これで想いだしたでしょう、警視《パトロン》」
あれは少なくとも十五年、いやもっと前だったかもしれない。場所もサン・マルタン通りから程遠からぬ、リシュリュー街とドルオ街との間あたりだった。
「六十三年?」
メグレは改めて男を見なおした。こちらはにんまりと追従笑いで応える。
痩せているせいかもしれないが、とてもそんな齢には見えない。というより年齢不詳といったほうが当っている。彼が年寄りらしく見えないのは、殊にその表情のせいである。たとえ内心は怯えていたとしても、その顔は他人もおのれ自信も、茶化しているように見えるのである。おそらく笑いを誘うためにしかめ面をするというのが、もはや習い性となっているのだろう。
もっと驚くべきことは、グラン・ブルヴァールの話題を数週間にわたってさらったあの事件当時、彼がすでに四十五歳を過ぎていたということであった。
メグレは内線のボタンを押すと、電話の送受器をとった。
「シュラメックに関する書類を持ってきてくれ。オー・ラン地方リクヴィール生まれのジェフ・シュラメックだ」
そもそもの発端がどうだったのか、もう憶えていない。時刻は夜の八時頃で、グラン・ブルヴァールの通りも、カフェのテラスも人でいっぱいだった。あれは春になったばかりのころで、あたりはすでにまっ暗だった。
たぶんだれかが、あるアパルトマン内にあるオフィスの窓を灯が行ったりきたりしているのに気がついたかなにかだったのだろう。とにかく知らせをうけて、警察が駆けつけた。例によって野次馬が集ってきたが、ほとんどだれも、何事が起きたのか知らなかった。
それから展開した捕物劇が、あるときはドラマチックに、あるときはコミックに、延々二時間にわたって繰りひろげられることになろうとは、だれひとり予想もしなかったし、おかげでバリケードを築かなければならないほどに黒山の人が押しよせてくることになろうとは考えもしなかった。
一方、オフィス内で追いつめられた盗賊は、窓をあけると、建物の正面の壁を雨樋をつたってよじのぼりはじめていた。上の階段の窓庇に足がかかったとき、すでに警官の一人もおなじ階に姿をあらわしたのだが、男はそのまま上へ上へと登りつづけた。下の見物人のなかから、女たちの恐怖の悲鳴がおこる。
それは警察史上でも、最もスリルに満ちた手に汗をにぎる追跡劇のひとつであった。警官たちは建物の内部を駆け上りながら、つぎつぎと窓を開け放って行き、一方、外側にいる男は、あたかもサーカスで軽業を演じているかのごとく、それを楽しんでいるように見えた。
男のほうが先に屋根にのぼりついた。屋根は急傾斜をなしていて、警官たちはおっかなびっくり、上にのぼることを躊躇《ためら》っている。一方男は眩暈も知らないらしく、隣りの屋根へひょいと跳びうつった。そうやって建物から建物へぴょんぴょん跳びうつって行き、ドルオ街の角までくるとそこの天窓から姿を消した。
姿が見えなくなってから、ふたたび別の屋根の上にあらわれたのは、十五分ほども経ってからだった。見物人たちが指差しながら、口々に叫ぶ、
「あそこだ!」
男が武器を持っているのかどうか、彼がいったい何をやったのか、だれも知らなかった。なんでも多勢の人を殺したらしいという噂がひろがりはじめる。
そうした野次馬の興奮をさらに煽るかのように、消防夫がはしごをもって応援に駆けつけ、ながいあいだサーチライトがほうぼうの屋根を照らしつづけた。
ようやくグランジュ・バトリエール街で捕えられたときも、男は息ひとつ切らしていなかった。彼は得意満面に警官をからかった。そして車に押しこめられる寸前、まるで鰻が人の手をすり抜けるように、するりと逃げだしたかと思うと、あっという間に人込みにまぎれて姿を消したのである。
その男がシュラメックだった。それから何日ものあいだ、新聞はこの軽業師のことばかり書きたてた。彼が競馬場で逮捕されたのは、まったく僥倖中の僥倖であった。
彼は幼いときからサーカスにいて、アルザス地方やドイツ各地を巡業してまわった。その後パリに出てきて、押込みのため刑に服している間以外は、定期市などで芸をしていた。
「奴がうちの管轄内にくすぶっていたとは、思いもしなかったですね」ヌヴー刑事は言った。
相手は鹿爪らしい顔をして応じる。
「こちとら、とっくに堅気になってんだからね」
「ルイといっしょにベンチにいた相手というのが、背が高くて痩せた、年輩の男だったという話は聞かされていたんですがね」
メグレの聞いた話では、「ベンチに掛けているのを、よく見かけるような男……」ということだった。
道化師フレッドはまさに、何時間もぼんやりベンチに坐って、道行く人を眺めたり鳩に餌をやったりしていても、少しもおかしくないタイプの男だった。外見は、歩道の灰色がかった石のように目立たず、およそ待ち人などには縁のない顔つきをしている。
「尋問をされる前に、どうやって奴を捕えることになったか、その経緯をお話しておきます。私はたまたま、ブロンデル街の、サン・マルタン門のすぐそばにあるバーに行ったんです。そこは場外馬券販売店もかねていましてね。店の名前はシェ・フェルナンというんです。主人のフェルナンは昔騎手だった男で、私はよく知っているんですよ。彼にルイの写真を見せたところ、どうやら知っているらしい素振りでね。
≪おたくの客かい?≫と、訊いてみたんです。
≪いや、そうじゃないけど、うちのお得意の人と二、三度来たことがあるよ≫
≪そいつはだれだ?≫
≪道化師フレッド≫
≪軽業師の? 奴はとっくに死んでるか、刑務所《むしょ》のどっちかだと思ってたけどな≫
≪ぴんぴんしてるよ。毎日午後に来ちゃ、一杯やって競馬《うま》やってくよ。そういえば、ここんとこ姿を見せないね≫
≪いつから?≫
フェルナンは考えていましたが、調理場にいた細君に訊きに行きました。
≪最後に来たのは、月曜日だった≫
≪ルイもいっしょだったか?≫
彼は想いだせませんでしたが、月曜日から後、軽業師が姿を見せなくなったことだけは確かだっていうんです。どうです?
こんどは奴を捕まえなきゃなりません。どこを探せばいいかはだいたいわかっていました。奴が永年いっしょに暮らしているという女の名を聞きだしたんです。昔八百屋をやっていたフランソワーズ・ビドゥーという女なんですがね。そしてやっとのことで、彼女が運河に面したヴァルミー河岸に住んでいることを、確かめたんです。
奴はたしかに、女のところにいましたよ。寝室に匿れてましてね、火曜日以後ずっとそこから出なかったんです。私はまず奴に手錠をかけました。いつ何時するりと逃げられるかわかりませんからね」
「あたしは、それほどすばやくはないよ!」と、シュラメックがまぜっかえした。
ドアにノックの音。黄色い表紙のついた、ぶあつい書類が運ばれてきた。シュラメックの記録、もっと正確にいえば彼と司法当局との悶着の記録である。
メグレはパイプを小刻みにふかしながら、べつに急ぐふうもなく、書類のあちこちに目を通していった。
この手の尋問には絶好の時間であった。正午から二時までのあいだは、事実上大部分のオフィスが無人になり、人の行き来は少なく、電話もごく稀になる。深夜のオフィスと同じように、その辺一帯を一人占めにしたような気分が味わえるのである。
「腹が減ってないかね?」メグレはヌヴーに訊いた。
相手が呑みこみが悪いので、さらに強く、
「昼食をくってこいよ。そのあとで私と交替してもらうことになるだろうから」
ヌヴーは不満そうに立ちあがった。彼が出ていくところを、シュラメックが面白そうに眺めている。メグレはべつのパイプに火をつけ、書類の上に大きな手を置いて、道化師フレッドを真正面から見据えると、つぶやくように言った。
「これで差しだ」
モニクのときよりも、ずっとやりやすかった。それでも尋問を始める前に、メグレは用心のため、ドアにふたたび鍵をかけ、刑事部屋とのあいだのドアにも差し錠をかけた。彼が窓にちらりと目をやると、シュラメックがおどけた顰め面をしてみせた。
「心配しなさんな。あたしはもう、軒蛇腹の上を歩いて渡れるほど若くはねえよ」
「ここへ連れてこられた理由《わけ》はわかってるんだろうな?」
空惚けてみせる。
「捕まるときはいつも決まってるんだ!」こんどは嘆息する。「昔のことを想いだすねえ。あの頃はこんなことはなかったものね」
「お前の友だちのルイが殺された。そんなびっくりしたような顔をするな。なんの話か、先刻承知のはずだ。おまけにお前がぶち込まれなければならん理由が充分あることも、ようくわかってるだろう」
「そういうのを冤罪ってんですぜ」
メグレは送受器をとった。
「ブロンデル街の、シェ・フェルナンを呼びだしてくれ」
そして、相手が出ると、
「こちらはメグレ警視だ。おたくの客のシュラメックのことだが……そう、軽業師だ……。奴《やっこ》さんがでかい賭けをやっていたかどうか知りたいのだがね……何?……ああ、そうか……で、最後のときは?……土曜日?……ありがとう。いや、いまのところはそれだけだ」
メグレは満足そうだった。そのぶんシュラメックのほうが不安そうな顔つきになる。
「いま聞いたことを、もういちど言ってやろうか」
「口は重宝だからね」
「お前はずっと昔から、競馬ですってばかりいる」
「政府が禁止してさえくれたら、あたしもこんな目に会わなくてすむのにね」
「もう何年もお前は、フェルナンのところで馬券を買ってるな」
「あそこは公認の場外馬券販売店だからね」
「それにしても、馬に賭ける金をどこかで稼がなくちゃならんはずだ。しかも二年半ぐらい前までは、ケチな賭けしかやっていなかった。ときには飲み代の分まですってしまって、フェルナンから付けにしてもらっていたこともあった」
「あれがよくなかったね。おかげでこちとら、またぞろ出かけて行く気になるものね」
「それがでかい賭けをやるようになって、ときには大金を張ることもある。そいつが何日かつづくと、またもとの木阿弥にもどる」
「証拠があるんですかい?」
「この前の土曜日、お前さんは一か八かの大博奕をやったろう」
「そんなこというんだったら、馬一頭に百万も賭けるお大尽なんてのは、どうなるんです?」
「どこで金を手に入れた?」
「カミさんが稼いでるからね」
「どこで?」
「お手伝いやってんですよ。河岸の酒場なんかに、ときどき手伝いに行くんです」
「私をからかう気か?」
「そんな滅相な、メグレの旦那」
「いいか。話は手っとり早くやろうじゃないか」
「だって、あたしはなにも……」
「お前がどんな立場にあるか、話してやろうか。お前がルイという男といっしょのところを見たという証人は、何人もいるんだ」
「あれは気立てのいい男でね」
「そんなことはどうでもいい。最近のことじゃないんだ。およそ二年半ぐらい前で、その頃ルイは職もなく、金欠病にかかっていた」
「知ってますよ」シュラメックは溜息をついた。「それはもう、たいへんな重病でしたね」
「そのころお前が何で食っていたのかは知らんが、なんなら女房の稼ぎだったと信じてやってもいい。お前はベンチのあたりをうろつきまわり、ときどき小銭を馬に賭け、酒場には付けがたまっていた。それにルイのほうも、少なくとも二人の人間から借金しなければならなかった」
「この世にどんなに貧乏人が多いかという証拠ですねえ」
メグレはもう相手にならなかった。シュラメックは人を笑わせる習慣が身についてしまっているので、どうしてもおどけて見せずにいられないのだ。メグレは辛抱づよく、先をつづけた。
「ところが二人とも、急に金廻りがよくなった。その正確な時期は、調べればわかることだ」
「あたしはどうも物覚えがわるくてね」
「それ以来お前は、でかい賭けをやる時期と付けで飲む時期とが交互につづいている。そうなるとだれが見ても、どんな方法か知らんが、ルイとお前が金を手に入れる方法をみつけたことは明らかだ。それも不正な大金をな。この話はまたあとでしよう」
「そいつは残念。あたしもその方法とやらを知りたいのにね」
「いまに笑えなくなるからな。もう一度いうが、土曜日にお前は大金を懐にしていたが、数時間後にはすっからかんになった。そして月曜日の午後、お前の仲間のルイがサン・マルタン通りの路地で殺された」
「あたしにとっちゃ大損害」
「お前は重罪裁判所に出たことあるか?」
「軽罪のほうならね。もう、なんべんも」
「いいだろう。陪審員というのは冗談の通じない連中ばっかりだ。とくにお前みたいな前科のある奴だと尚更だ。まあ十中八九、ルイの動静を知っていて彼を殺して得をする奴は、お前だけだという結論をだすだろうな」
「だとしたら、そいつら石頭だね」
「私がいいたいのはそれだけだ。いまは十二時半。ここではわれわれ二人きりだが、一時になればコメリオ判事がオフィスにもどってくるだろうから、そしたらお前を判事のところにやって釈明してもらおうか」
「まさか、あのちょび髭をはやした、茶っ毛のチビ助じゃないだろうね?」
「そうだよ」
「前に会ったことがあるけど、厭な奴だよ。もちろんもう若くはねえでしょう? あんなのにお目にかかるのはごめんだよ」
「だったら、どうしなければならんかわかってるな」
道化師フレッドはながながと嘆息した。
「タバコありませんかね?」
メグレは机の引出しから出して、箱ごと差しだした。
「マッチは?」
火をつけるあいだ沈黙。
「なにか飲むものは置いてねえでしょうな?」
「話すのか?」
「さあてね。なにか話すことがあるかどうか、目下思案中でね」
へたをすると長びきそうだった。この手合いにはメグレは慣れている。彼はさりげなく隣りのオフィスとの境のドアを開けて、
「リュカ! ヴァルミー河岸まで急行して、フランソワーズ・ビドゥーという女を連れてきてくれないか」
道化師が椅子の上でびくっとして、生徒をたしなめる教師のように指をたててみせた。
「旦那! そいつはないよ!」
「話すか?」
「一杯飲ませてくれたら、話しやすくなると思うんだけどなあ」
「ちょっと待ってくれ、リュカ。私がそういうまで、出ないでいてくれ」
そして、シュラメックに、
「女房が怖いか?」
「飲ませてくれるって約束ですぜ」
メグレはふたたびドアを閉めると、戸棚からいつもそこに置いてあるコニャックの壜を出してきて、水コップに軽く注いでやった。
「一人で飲むの?」
「さあ、どうなんだ」
「そっちから質問してください。法廷の弁護人だったら、裁判の進行を妨げないようご注意申しあげますってところだ」
「どこでルイに会った?」
「ボンヌ・ヌーヴェル通りのベンチですよ」
「親しくなったきっかけは?」
「だれもがベンチで親しくなるのとおんなじ。あたしが、どうやら春めいてきましたなあ、てなことを言うと、むこうが、そういえば先週にくらべて風が心地よくなりました、てなふうに答えるわけです」
「それが二年半ほど前のことかい」
「だいたいね。日付の覚えが悪いほうでね。それからあとも、やっぱしおんなじベンチで顔を合わせて、奴《やっこ》さん、話し相手ができて嬉しそうでしたよ」
「失業中だという話をしたか?」
「そのうちにちょっとした身上話をしましたね。二十五年間おなじ会社に勤めていたのに、そこの旦那が前触れもなく店を閉めちまって、奴《やっこ》さんのほうはカミさんに話す勇気がねえってきてる。このカミさんてのが、ここだけの話しだけど、たいへんな女《あま》らしくってね。で、奴《やっこ》さん、いままでどうり倉庫係をやってると思いこませてるってんですよ。あたしの見たところ、奴さんそのときはじめて胸のしこりを吐きだしたらしくて、なんかこう、ほっとしたようでしたね」
「お前が何者か、彼は知っていたのか?」
「昔サーカスにいたってことだけ話しましたけどね」
「それから?」
「ほんとは何が知りたいんです?」
「なにもかもだ」
「その前にちょいとその記録をのぞいて、あたしの前科を勘定してみてくれませんかね。それにもう一つ背負いこんだら、主都圏追放になるかどうか知りたいんですよ。こいつはゾッとしないからね」
メグレは望みどおりに調べてやった。
「殺人が関係なければ、あと二点は大丈夫だ」
「だろうと思ってたんだ。旦那とあたしの勘定のしかたが一致するかどうかわからんからねえ」
「押込みか?」
「もうちょいとこみ入ったやつで」
「だれの発案だ?」
「奴さんですよ、もちろん。あたしはそんな悪《わる》じゃねえや。もう一口飲ましちゃもらえませんか?」
「あとだ」
「やれんなあ。旦那は、あたしに早いとこ話させたいんでしょうが」
メグレは譲歩して、一口分注いでやった。
「要するに、ベンチが原因《もと》なんですよ」
「どういうことだ?」
「さんざん同じベンチで暇をつぶしていたおかげで、奴さん、まわりのものをとっくり観察するようになったんですね。あの通りにレインコートを売ってる店があるのを、旦那はご存じかどうか」
「知ってるよ」
「ルイがいつも坐ってたベンチは、あの店の正面にあるんですよ。つまり、とくにその気はねえのに、店の毎日の出入りとか、店員たちの習慣やなんか、すっかり覚えこんじまったんですね。それであることを思いついた。一日中ほかにすることがないもんだから、もちろん実行する気なんかねえんだけど、あれこれ計画を練ってたんですね。である日、そいつを暇つぶしにあたしに話したんです。あの店はいつも客が多勢入ってましてね。男ものから女もの子供もの、ありとあらゆる型のレインコートが掛かってて、そいつが二階まであるんですね。店の左かたには、あの辺にはよくあるんだけど、路地があってそいつが奥の中庭へつづいてる」
ここで彼は、
「図を書きましょうか?」
「いまはいい。話をつづけろ」
「ルイがこういうんですよ、
≪あれでよく金庫を盗まれないものだ。簡単にやれるんだがね≫」
「お前、膝をのりだしたんだろう?」
「興味はあったね。奴さんの話だと、お昼になると、遅いときでも十二時十五分には客をみんな追い出して、店員たちが昼食《めし》を喰いに出払っちまうってんですね。店の主人も、こいつは山羊ひげを生やしたチビ助だけど、近くの≪ショップ・デュ・ネグル≫って店に食事に行くんです。
≪もしも客にまぎれて、あとに残ったものがいたら……≫
まあ、待ってくださいよ。あたしだって最初は、そんなことできっこねえと思ったんだ。ところがルイの奴は、何週間もずっと店を見張ってたんだからね。店員たちは昼食に出る前に、残っているものがいないか、わんさと掛かっているレインコートのうしろやなんかを、わざわざ調べたりしない。まさか客がわざと匿れるなんて、だれも考えないからね、そうでしょう? そこが穴なんだな。主人は出るときに、ちゃんとドアに鍵をかけてく」
「その居残るのがお前さんの役目で、そのあと、錠をこじあけて金庫を運びだすという寸法か?」
「ちがったね。つまりここがケッサクなところでね。かりにあたしをとっ捕まえたところで、有罪にはできなかったろうね。なにせ証拠がない。そりゃまあ、金庫の中身をさらったのはあたしだ。そのあと手洗いに入るんです。手洗いの水槽ちかくに明り取り窓があって、こいつは三歳の赤ん坊だって通りぬけられない。だけど札束の入った包みをここから出すとなると話は違ってくる。明り取り窓は中庭に開いているんです。そこでルイが偶然そこを通ったみたいな顔をして、包みを拾って行くわけですね。あたしのほうは、店員たちが戻ってきて、だれもあたしに注意を払わなくなるくらいの客の数がまた増える頃まで待つわけです。そして、入ってきたときと同じ涼しい顔をして出てくってわけで」
「金は山分けか?」
「きっちり半分ずつね。いっとう難しかったのは、やろうって決めたときでしたね。なにせ奴さんは、いってみれば芸術家みてえに、ただ空想して楽しんでただけだからね。あたしがひとつ試してみようじゃねえかっていったときには、まるきり肝をつぶしたくらいでね。結局決心したのは、からっ尻《けつ》になったってことをカミさんに白状しなけりゃならないと思ったからなんですね。それにこの企てにはもう一つ、うまい点があるんですよ。こうやってあたしが白状したから、盗みであたしを逮捕したとしても、家宅侵入ってのは成立しねえんだ。それで二年がとこ刑は軽くなる。ちがいますかい?」
「あとで刑法を調べてみよう」
「みんな話しちまった。ルイとあたしは、ささやかながら、いい想いをしてきたんだ。後悔なんかしちゃいません。あのレインコート屋からは、たっぷり三ヵ月以上は持ちこたえられるだけのものを頂戴しましたよ。正直いって、あたしのほうは、あの糞いまいましい馬めのおかげで、そんなに永くはもたなかったけど、ルイがときどき融通してくれたんでね。金が底をついてきたんで、ベンチを変えることにしたんです」
「つぎの獲物を物色するためか?」
「やり口は悪くねえんだから、変えなきゃならん理由はないものね。旦那は手口を知っちまったんだから、あとはおたくの記録を引っくりかえして、あたしがもぐり込んだ店ぜんぶをチェックすりゃいいわけだ。二番目の店は、同じ通りのちょっと先にある、照明器具店でしたね。あそこは路地はないけど、店の奥の部分が、べつの通りにあるアパルトマンの中庭とつづいてるんですね。やり方は同じようなもんです。あの界隈では、手洗いの小窓が中庭とか路地とかに開いてない店は珍しいくらいでね。
いちどだけ、あたしが匿れていた戸棚の戸を女の店員が開けちゃって、とっ捕まりそうになったことがあったんですね。こっちは、べろべろに酔っぱらったふりなんかしちゃってね。彼女が店の主人を呼んで、二人して警官を呼ぶぞなんていいながら、あたしを追いだしましたがね。
そういうわけなんだから、どうしてあたしがルイを殺さなきゃならねえのか、ひとつご説明願いましょうか。あたしたちは相棒だったんですぜ。あたしは奴さんをフランソワーズにも紹介したんだ。あたしがどこでのらくらやってるかと彼女《あいつ》が心配するもんで、安心させるためでしたがね。奴さんはチョコレートなんぞを進呈しちゃったもので、ずいぶん礼儀正しいお方だって、彼女《あいつ》が感心したくらいですよ」
「先週も盗みをやったのか?」
「新聞に出てますよ。モンマルトル通りの既製服店」
「だとすると、路地で殺されたとき、ルイは宝石店の円窓が中庭に向いていることを確かめに行っていたわけか?」
「だろうね。場所の当りをつけるのはいつも奴さんの役目でね。奴さんのほうが見てくれがいいから。あたしみたいなのだと、すぐ警戒されちまう。いちどパリッとした身なりをしてみたことがあるけど、それでもうさん臭そうな目で見られたものね」
「殺したのはだれだ?」
「そいつをあたしに訊くんですかい?」
「じゃあ、彼を殺す理由があったのはだれだ?」
「さあね。奴のカミさんかな?」
「なぜ細君が彼を殺すんだ?」
「ひでえ女《あま》だからね。もしも奴さんが二年以上も自分を痴《こけ》にしていたことを知って、奴に情婦《いろ》があるのを……」
「彼女を知っているのか?」
「紹介してはくれなかったけど、話は聞いたし、遠くから見たこともありますよ。奴さんすっかり惚れてたね。そういう相手が欲しかったんだよね。だれだってそうでしょうが。あたしにはフランソワーズがいる。旦那にだってだれかいるはずだよ。二人はうまく行ってたな。いっしょに映画に行ったり、カフェで話しこんだり」
「彼女は盗みのことを知っていたのか?」
「まさか」
「だれが知っていた?」
「まず、あたしだね」
「あたり前だ!」
「それと、奴さんの娘かな。奴さん、娘のことじゃえらく気を揉んでたな、年取ったらお袋みたいになるんじゃねえかって。しじゅう金の無心にきてたからね」
「アングレーム街の部屋に行ったことはあるか?」
「ぜんぜん」
「場所は知ってたんだな?」
「奴さんが教えてくれたからね」
「なぜ行かなかった?」
「奴さんに迷惑をかけるといけねえと思ってね。家主は奴さんのことを堅気だと思ってるから、あたしを見たら……」
「彼の部屋からお前の指紋が出てきたといったら?」
「指紋なんざ糞くらえって答えますね」
不安げなようすは微塵も感じられなかった。彼はときどき、酒壜に流し目をくれながら話をつづけている。
「そのほかに知っていたものは?」
「いいですか、警視の旦那、あたしはこんな人間だけど、生涯|密偵《いぬ》にだけはなったことがねえんだよ」
「ぶち込んでもらいたいのか?」
「そいつはひでえや」
「だれが知っていた?」
「娘の恋人。こいつばかりは、あたしもシロだという確信はないね。娘がやらせたのかどうか、そのへんのことは知らないけど、ルイを午後いっぱい尾けまわしはじめてたものね。それに二度ばかし、金を強請《せび》りに来てたしね。ルイはあの若造がカミさんにバラすか、匿名の手紙でも出すんじゃねえかと、死ぬほど怖がってた」
「彼を知ってるのか?」
「いや。まだ若造だってことと、昼前は本屋で働いてるってことは知ってますがね。最後のころなんか、ルイはもうお終いだっていってたくらいでね。こんなことがいつまでも続くわけがないし、結局はカミさんにわかっちまうんだってね」
「その細君の姉妹の亭主たちの話は聞いたことがあるかい?」
「よく話してたね。そいつらがお手本なんだってね。そいつらを引合いに出して、奴さんなんざ、碌でなしの、甲斐性なしの、腰抜けで、こんな惨めな暮しをさせるくらいなら、いっそ家庭なんか持たないほうがよかったんだって、やられっ放しだったんだね。とにかくあのときはショックだったね」
「なにが?」
「奴さんが殺されたって記事読んだとき。あたしは現場のすぐ近くにいたんだから。フェルナンに訊いてもらえば、あたしがカウンターで一杯飲んでる最中だったって請けあってくれますよ」
「ルイは金を所持していたのかね?」
「所持してたかどうか知らんけど、二日ばかし前に、かなりでかい山をやっつけたばかりだったからね」
「彼はいつも、そいつを持ち歩いていたのか?」
「持ち歩いてたか、部屋に置いてたか。ケッサクなのは、夕方になると、列車に乗る前に靴とネクタイを替えなきゃならなかったってことだね。いちどネクタイを忘れたことがあってね。奴さんから聞いた話だけど。リヨン駅まできて、はじめて気がついたってんだね。そこらへんのネクタイを買うわけにはいかず、朝家を出るとき締めてたのと同じでなきゃならんわけだ。しかたなくアングレーム街まで引返して、家に帰ってからは、急な仕事で残業したんだって、言いわけしたんだとさ」
「火曜日以降、フランソワーズの部屋から外へ出なかったのはどういうわけだ?」
「旦那があたしだったらどうする? 火曜日の朝刊を読んだとたん、あたしがルイといっしょのところを見てる奴らが、必ず警察《さつ》に知らせるにちげえねえと思ったんだ。疑われるのはいつも、あたしみたいな人間と決まってっからね」
「パリを離れようとは思わなかったのか?」
「ただ人目につかねえようにと思って、おとなしくじっとしてただけでね。それで今朝、刑事さんの声を聞いたときには、万事休すと観念したんだ」
「フランソワーズは知ってたのか?」
「いや」
「金がどこから出てると、彼女は思っていたんだ?」
「どだい彼女《あいつ》は、あたしが競馬で使った残りの金しか見たことないからね。それに、あたしが地下鉄でスリをやってるぐらいに思ってるんだ、あいつは」
「やったのか?」
「人の揚げ足は取らねえはずでしょ? 旦那はのどが渇いてないんですかい?」
メグレは最後にもう一杯注いでやった。
「洗いざらい吐いてしまったか? まちがいないな?」
「正真正銘まちがいなし!」
メグレは隣室との境のドアを開いて、リュカに声をかけた。
「彼を留置場まで連れていってくれ」
溜息をつきながら立ちあがるジェフ・シュラメックを見やって、
「手錠はやっぱり掛けたほうがいいな」
そして、軽業師がゴムを張ったような顔に妙なうすら笑いを浮かべて行きかけると、
「あんまり手荒に扱わないようにしろよ」
「ありがとさんです、警視の旦那。なにはともあれ、フランソワーズの奴には、あたしが大金を賭けたってこと、内緒にしといてくださいよ。あいつ、おやつの差入れをしてくれなくなるかもしれねえ」
メグレはオーバーをはおり、帽子を手にとると、ビヤホール≪ドフィーヌ≫に食事に行くために部屋を出た。灰色がかった広い階段を降りかけたとき、下から物音が聞こえてきたので、手摺ごしに身をのりだしてみた。
髪を乱した若い男が、巨漢の巡査ともみあっている。警官のほうは頬を引っかかれて血を流しながら、どなっていた。
「静かにしないか、この野郎。いつまでもやってると、張り倒すぞ」
メグレは思わずニヤリとした。アルベール・ジョリスが連行されてきたのだ。彼はなおも暴れながらわめいた。
「放せったら! 一人で歩けるんだから……」
二人はメグレのところまで上ってきた。
「サン・ミシェル橋の上で捕えました。すぐに奴だとわかったので、捕えようとすると、逃げだそうとしたもので」
「ちがう! 嘘だ!」
ジョリスは顔をまっかにし、目をぎらつかせながら、息を喘がせている。警官は彼のオーバーの襟首をつかんで、操り人形のように釣りあげているのだった。
「こいつに放すように言ってくれ」
床についていない足で蹴とばそうとする。
「ぼくはメグレ警視に会いたいって言ったんだ。だからここへ来た。自分で来たんだ……」
着ている服は皺くちゃで、ズボンには前日からの泥がこびりついている。目の下には黒い隈ができていた。
「私がメグレ警視だ」
「だったら、ぼくを放すように命令してくれ」
「放してやれよ」
「あなたがそういわれるなら……」
警官は彼がいまにも逃げだすのではないかと怖れているようすだった。
「彼はぼくに暴力をふるった……」アルベール・ジョリスは息もたえだえに言った。「ぼくをまるで……まるで……」
怒りに言葉をつまらせる。
メグレは思わず微笑しながら、警官の血だらけの頬を指さしてみせた。
「やられたのは反対に、彼のほうのように見えるが……」
ジョリスはいまはじめてその傷に気づいたらしく、瞳を輝かせて叫んだ。
「いい気味だ!」
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第八章 モニクの秘密
「掛けたまえ、風来坊くん」
「ぼくは風来坊なんかじゃない」ジョリスは喰ってかかった。
声はいくらか穏かになったが、息遣いがまだすっかり平静にもどっていないため、咽の奥でヒューヒュー音をたてている。
「メグレ警視ともあろう人が、相手の釈明も聞かないで人を侮辱するとは、考えてもみなかったな」
メグレは不意をつかれて、眉をひそめて相手を見なおした。
「昼食はすんだかね?」
「腹は減ってません」
まるで拗ねた子供のような返答。
メグレは送受器をとった。
「もしもし! ビヤホール≪ドフィーヌ≫につないでくれ……もしもし! ジョセフか? こちらメグレだが……サンドイッチの出前を頼む。六個……私のはハムサンドだ……ちょっと待った」
ジョリスに訊く、
「ハムかチーズか?」
「どっちでもいい。ハムにします」
「ビール、それとも赤ワイン?」
「水でいいです。咽が渇いたから」
「ジョセフ? ハムサンドを六個、うんと厚く切ってな。それとビール・ジョッキ四つ……まだあるんだ……できればいっしょにブラックのコーヒーを二杯持ってきてくれ。急いでくれよ」
送受器を置くまもなく、警視庁内の別の課を呼びだす。そのあいだもずっと、ジョリスに好奇の目をあてて観察をつづけていた。ジョリスはガリガリに痩せて顔色がわるく、いくぶん神経症的なところが見られる。どちらかというとビフテキのかわりにコーヒーで育ったという感じである。その点を別にすれば、ごく普通の若者だった。茶色の髪をながく伸ばしていて、ときおり頭を振って髪をうしろにやる動作をくりかえす。
まだ興奮が冷めきらないせいだろうか、小鼻がぴくぴく引きつっている。首をかしげてメグレを凝視しつづける目には、非難の色があった。
「もしもし! ジョリスという男の捜索はもう必要ないからね。全街警察署と駅に通達してほしいんだ」
ジョリスが口を開いてなにか言いたそうにしたが、メグレはそのチャンスを与えなかった。
「あとにしてくれ!」
空はまたも暗くなっていた。雨も降りそうな気配である。おそらく葬式のときとおなじように執拗な降りになるだろう。メグレは半開きになっていた窓を閉めて戻ってくると、終始黙りこくったまま、机の上のパイプを並べ変えはじめた。タイピストが仕事にかかる前に、タイプライターとレターペーパーとカーボン紙を整えるのに似ていた。
「どうぞ!」ドアのノックに応じて、口の中でつぶやく。
ヌヴー刑事だった。尋問の真最中だと思ったらしく、顔だけをのぞかせる。
「失礼。私になにか……」
「自由にしていいよ。ご苦労」
さらにメグレは、≪ドフィーヌ≫のボーイがくるのを待つあいだ、室内を縦横に歩きまわりはじめた。時間つなぎに、こんどはメグレ夫人に電話をかける。
「昼食にはもどらないよ」
「そうじゃないかと思ってたところ。いま何時だかご存知?」
「いや、知らんね。そんなことはどうでもいい」
夫人は笑いだしたが、なぜだかはわからない。
「あなたに言おうと思ったことだけど……」
「あとにしてくれ」
本日三人目の尋問である。彼は咽の渇きをおぼえた。彼の目がジョリスの視線を追って、机の上に置かれたコニャックの壜と水コップにとまった。
メグレは子供のように顔を赤らめて、釈明したい気持に駆られた。このコップでコニャックを飲んだのは彼ではなく、アルベールの前にこの部屋にいたジェフ・シュラメックなのだ、と。
この若者から向けられた非難に敏感になりすぎているのかもしれない。メグレ警視に彼が抱いていたイメージに傷をつけたことを、悔やんでいるとでもいうのか?
「入ってくれ、ジョセフ。盆はその机の上に置いて。忘れたものはないね?」
ようやっと食事を前にして、
「さあ、食べよう」
ジョリスはさっきの言にも似ず、すごい食欲を見せた。食事のあいだじゅう、ちらりちらりとメグレのほうに好奇の目を向けていたが、ビールを一杯飲み干したころには、すっかり冷静にもどっていた。
「落着いたかね?」
「ご馳走さま。さっきぼくのことを風来坊と言いましたね」
「その話はまたあとにしよう」
「ぼくがあなたに会いに来たというのは本当です」
「なぜ?」
「匿れているのに飽き飽きしたから」
「なぜ匿れた?」
「逮捕されると思ったから」
「なぜ逮捕されるのかね?」
「よくわかってるくせに」
「いや、わからんね」
「ぼくがモニクの友だちだからです」
「警察がそのことを知っていると思ったのか?」
「すぐわかることですよ」
「それで、きみがモニクの友だちだと、逮捕されるのかね?」
「ぼくに話させたいわけですか?」
「もちろんだ」
「それで、ぼくが嘘をつくのを待って、その矛盾をつこうという魂胆でしょう」
「推理小説ででも読んだのかい?」
「いえ。新聞の記事ですよ。あなたたちの手口はわかってるんだ」
「ほんとうはここへ何をしにくるつもりだったんだね?」
「ぼくがトゥーレさんを殺したのじゃないって言うためですよ」
メグレはパイプをくゆらせながら、ゆっくり二杯目のビールを飲み終えた。彼は自分の机についていた。グリーンのシェードのついたスタンドに灯を点ける。降りだした雨粒が外の窓台に砕けはじめた。
「そのへんのことを話してもらおうか」
「どういうことかわからないな」
「きみは警察がきみを逮捕しようとしていると思った。だったら、それだけの理由があるはずじゃないか」
「アングレーム街に行ったんでしょう?」
「どうして知ってる?」
「彼が市内に部屋を借りてたというのは、当然わかることです。茶色の靴の一件からだけでもね」
メグレの口許にかすかな笑みがよぎった。
「それで?」
「あの女は、ぼくが会いに行ったことを喋ったはずだ」
「それがきみを逮捕する理由かね?」
「モニクを尋問したでしょう」
「で、彼女が喋ったと思ってるわけだな?」
「喋らされたにきまってるでしょう」
「それにしても、最初、友だちのベッドの下に匿れていたのはどういうわけだい?」
「それも知ってたんですか?」
「答えろ」
「考えたくなんかなかった。ただ怖くて。殴られて、ありもしないことを自白させられるのじゃないかと思ったんです」
「それも新聞で読んだのか?」
重罪裁判所でルネ・ルクールの弁護人が、警察の虐待行為をうんぬんしたし、彼の弁論はどの新聞にも記事になって出たはずである。じつをいうと今朝の郵便で、ルクールからの手紙が届けられていた。死刑の宣告を受けて意気消沈した彼は、刑務所に是非会いにきてくれと、メグレ警視に懇願していた。
メグレはその手紙をジョリスに見せてやりたい気持だった。もしその必要があれば、そうしてもよい。
「ゲイ・リュサック街の隠れ処を逃げだしたのはなぜだ?」
「あれ以上、ベッドの下にもぐりこんでいられなくなったからです。ひどいものだった。からだはあちこち痛くなるし、始終くしゃみが出そうで。アパルトマンが狭い上に、ドアは開けたままになっているから、友だちの叔母さんが動きまわる音が聞こえるんです。だからぼくが身動きでもすれば、音を聞かれてしまったでしょう」
「それだけ?」
「空腹でしたし」
「それからどうした?」
「街を歩きまわりました。夜は中央市場で、野菜の袋の上で一、二時間眠って、サン・ミシェル橋までは二度も来てみたし、ここからモニクが出てくるところも見ました。アングレーム街にも行ってみて、遠くから見張りらしい人影が見えたので、きっと刑事にちがいないと思ったんです」
「どこにきみがルイを殺す動機があるのかね?」
「ぼくがお金を借りに行ったのを知らないんですか?」
「借りに行った?」
「だったら、貰いに行った」
「貰いに?」
「じゃ、なんと言えばいいんです?」
「貰う方法にもいろいろあるが、なかでも、相手がほとんど拒絶できないようにするやり方を、フランス語ではシャンタージュ〔恐喝〕といっている」
彼は黙りこんで、じっと床を睨んでいる。
「答えろ」
「ぼくはトゥーレ夫人に喋る気なんかなかったんだ」
「それでも喋るぞと威したんじゃないのか?」
「そんな必要はなかった」
「彼がかってにそう思ったのか?」
「知りません。もうそんな質問には引っかからないぞ」
そして、小声で、
「眠りたいなあ」
「コーヒーを飲めよ」
彼はおとなしく従ったが、視線はメグレから離さなかった。
「なんども行ったのか?」
「二度だけですよ」
「モニクは知っていたのかな?」
「彼女はなにを話したんですか?」
「彼女がなにを話そうと問題じゃない。こっちは真相を知りたいだけだ」
「知っていました」
「きみはなんと言ったんだ」
「だれに?」
「ルイ・トゥーレにだ。きまってるじゃないか」
「ぼくたちはお金が要るんだって」
「ぼくたち、とは?」
「モニクとぼくです」
「なぜ?」
「南米へ行くために」
「移民するつもりだと打明けたのか?」
「ええ」
「彼はなんと答えた?」
「おしまいには、それもしかたがないと認めましたよ」
どうもうまく話が運ばない。ジョリスがメグレのことを、実際以上に深く知りぬいていると思いこんでいるらしいのはわかっていた。それだけ慎重にやらなければならないのだ。
「彼に結婚するつもりだと話したのかね?」
「話しました。それが不可能だということは、彼にはよくわかっていましたよ。だいいちぼくは未成年だから両親の同意が要るし、それに、たとえ同意をもらえたとしても、トゥーレ夫人が社会的地位のない婿なんか認めてくれないでしょう。夫人に会いに行くのはよせといったのは、トゥーレさんのほうなんです」
「モニクときみが、何度ぐらいかは知らんが、家具つきホテルで愛し合ったということも話したのか?」
「そんな詳しくは話さないけど」
またもや顔に血の気がのぼってきた。
「ただ彼女が妊娠していることだけ」
メグレはぴくりともしなかったし、驚きの表情も見せなかった。だが相当なショックだった。瞬時たりともそのことが念頭に浮かばなかったというのは、自分に心理洞察の能力が欠けていると思わざるを得ない。
「何ヵ月だね?」
「二ヵ月とちょっと」
「医者に会ったのか?」
「ぼくはいっしょに行きませんでしたから」
「彼女は行ったんだね?」
「ええ」
「きみは外で待っていたのか?」
「いいえ」
メグレは椅子の背によりかかるようにして、別のパイプに機械的にタバコをつめた。
「南米へ行って何をするつもりだね?」
「なんでも。なんだってやります。カウボーイの仕事だっていいし」
ジョリスはしごく大まじめなのだった。いくらか得意そうでもある。メグレはかつてテキサスとアリゾナの牧場で見た身長一メートル九〇の大男たちを想いうかべた。
「カウボーイね!」と、おうむ返しに言う。
「なんなら、金鉱で働いたっていい」
「それはそれは!」
「なんとかなりますよ」
「で、モニクと結婚するんだろうね?」
「ええ。こっちでよりずっと簡単でしょうからね」
「モニクを愛してるのかい?」
「だって、妻ですよ。なにも市役所に届けていないからっていったって……」
「その話を聞いたとき、ルイはどんなようすだった?」
「自分の娘がそんなことをするなんて、信じられなかったんですね。泣いてました」
「きみの前でかね?」
「そうです。ぼくの意図は、誓って……」
「……純粋だったか。きまってるよ。それで?」
「ぼくらを支援するって約束しました。充分なお金が手許になかったので、少しだけ渡してくれました」
「その金はどこにある?」
「モニクが持ってます。会社に置いてあるんです」
「で、必要な金額の残りは?」
「火曜日に渡すという約束でした。大金の入る当てがあるからって」
「どこから?」
「知りません」
「彼はどんな仕事をしているのか話したのか?」
「話せるわけがないですよ」
「どうして?」
「だって働いてなんかいなかったんだから。どうやって稼いでいるのかはわからなかったけど、二人で何かやってたんです」
「もう一人のほうを見たことあるのか?」
「一度だけ、通りで」
「ピエロみたいな顔をして、背の高い痩せた男かね?」
「そうです」
「その男はきみがくるちょっと前にこの部屋にいた。ここでコニャックを飲ませてやったんだ」
「なんだ、だったらあなたは真相を知ってるんじゃないですか」
「きみが何を知っているか、私はそれを知りたいんだよ」
「なんにも知りません。きっとだれかを、ゆすってるんだろうと思ってた」
「それで、そいつに便乗しない法はないと思ったわけかね?」
「子供が生まれるので、お金が必要だったんです」
メグレは送受器をとった。
「リュカか? ちょっと来てくれ」
リュカがやってくると、
「アルベール・ジョリス君を紹介しよう。モニク・トゥーレと彼との間に、子供が生まれるんだそうだ」
ひどくまじめくさって言われたので、リュカはどう応えていいかわからず、かるく頭を下げた。
「彼女はたぶん会社にいるだろう。午前中は仕事にならなかったんだから。彼女に会いに行ってきてくれ。彼女の望む医者のところへ連れて行くんだ。とくに希望がなければ、警察医でもかまわん。彼女の妊娠が何ヵ月になっているのか知りたい」
「彼女が検査を拒んだら、どうします?」
「その場合は、彼女もここにいる彼氏も、ともに逮捕せざるを得ないと言うんだ。車を使え。答えは電話で知らせてくれ」
リュカが出ていって、また二人だけになると、ジョリスがたずねた。
「どうしてあんなことをするんです?」
「すべてを立証するのが私の務めだからだ」
「ぼくを信じないんですか?」
「きみは、信じる」
「じゃ、彼女を信じないんですね?」
うまいぐあいに電話が掛かってきたので、メグレは返答を回避する口実ができた。電話は事件とは何の関係もないものだった。数日前彼を訪ねてきた狂人が、路上で騒ぎをおこして逮捕されたというので、それについて情報を求めてきたのだ。簡単に答えればすむことだったが、メグレはそうせずに、できるだけ話を長びかせた。
電話を切ったときは、何の話をしていたのだったか、まるで忘れたようなふりをして、
「これからはどうするんだね?」
「ぼくが殺したのじゃないことは、納得してくれたんですか?」
「そんなことは前からわかってたよ。いいかい、人の背中にナイフを突き刺すというのは、だれもが考えるほど生易しいものじゃないんだぜ。ことに、声をたてる隙も与えず殺すのは、なおさらむずかしい」
「ぼくにはできないというんですか?」
「そのとおり」
どうやらつむじを曲げたらしい。とすると南米でのカウボーイだとか金鉱探しだとかいう夢物語は、本気だったのだ。
「トゥーレ夫人に会いに行く気かね?」
「そうしなければならないでしょう」
この青年がしゃっちょこ張って、モニクの母に夢物語の口上を述べるためジュヴィジーの家に入って行くところを想像しただけで、メグレは吹きだしそうになった。
「いまなら、婿として認めてもらえると思ってるのかい?」
「わかりません」
「さっきはちょっとばかし誤魔化したな」
「どういうことですか?」
「ルイに金を強請《せび》りに行ったのは、南米行きの旅費のためだけじゃないだろう。モニクが午後は会社にいないで街に集金にまわるのをいいことに、彼女といっしょに過したいと思った。一時間や二時間のやりくりは可能だろうから、二人して家具つきホテルに行ってたんだ」
「そういうこともあったけど」
「そうなると書店には午前中しか勤められない。ホテル代も馬鹿にならんからな」
「少しばかりは使いこんで……」
「ルイが金を置いていた場所は知ってたんだろう?」
ジョリスの反応をうかがったが、こちらは躊躇《ためら》うようすもなく、
「衣裳ダンスの上です」
「彼が金を渡したときは、そこから取ったのか?」
「そうです。その前から、モニクに聞いていましたけど」
「月曜日、きみはアングレーム街へは行かなかっただろうな」
「証明するのは簡単ですよ。あそこの女主人に訊いてもらえばわかります。ぼくは火曜日の五時に行くはずになっていたんです」
「出発はいつの予定だったんだね?」
「三週間後に出る船があるんです。それまでにビザをとる時間は充分あります。パスポートの申請はすましてあるんです」
「未成年者は両親の許可が必要なはずじゃなかったかな」
「父のサインを偽造したんですよ」
しばらく沈黙があった。はじめてジョリスのほうから訊いた。
「タバコ喫ってもいいですか?」
メグレはうなずいた。なんとも妙なことだが、彼はコーヒーの後にコニャックを飲みたくてしかたがなかったのだが、さっき戸棚へもどした壜をまたとりだすふんぎりがつかないでいた。
「ぼくを風来坊呼ばわりしたでしょう」
「きみ自身では、こんどのことをどう思ってるんだい?」
「ほかにやりようがなかったんだ」
「息子ができて、きみとおなじようなことをしたら、どう思うかね?」
「自分の息子は違った育て方をしますよ。決してこんな……」
またもや電話にさえぎられた。
「あなたですか、警視《パトロン》」
ヌヴーの声を聞いてメグレは眉をひそめた。彼にはなんの任務も課していなかったはずなのだ。
「金をみつけましたよ!」
「何の話だ?」
ジョリスを見やって、ヌヴー刑事におっかぶせるように、
「ちょっと待て。場所を変える」
彼はとなりの刑事部屋に移ると、念のため刑事をジョリスの見張りに行かせた。
「よし! 話していいぞ。いまどこにいる?」
「ヴァルミー河岸の酒場《ビストロ》です」
「そこで何をやってるんだ?」
「ご機嫌斜めですか?」
「とにかく話してみろ」
「うまくやったつもりだけどな。ジェフがフランソワーズといっしょになってから、もう十年になるんですよ。人の話では、奴《やっこ》さん見かけ以上に彼女に惚れてるらしい。それでちょっくら彼女のところを覗いてみようという気になりましてね」
「どうして?」
「奴さんが彼女に金を渡していないというのが、どうも気になりましてね。うまいぐあいに彼女は家にいました。部屋は二つあって、それと台所がわりに使っている一種の物置部屋がついてるんです。寝室には銅の球のはまった鉄製のベッドがあります。壁はいなか風の白漆喰なんですが、とても清潔にしていてね」
メグレは憮然として話のつづきを待った。こっちが頼みもしない勇み足をやられるのは、どだい気に喰わないのだ。ましてヌヴーのように、彼の直属の部下ではない相手の場合はなおさらだった。
「ジェフが逮捕されたことを彼女に話したのか?」
「いけなかったですか?」
「話をつづけろ」
「まずあのようすからすると、彼女は奴さんがやってたことを知らなかったんですな。とっさに言ったのは、地下鉄かバスの中で財布をすろうとして捕まったんだろうってことですよ。ときどきやってたんですね。
そういえば定期市なんかで芸をやってたときのシュラメックのお得意の一つがそれだったし、前科のなかには掏摸という一項目が入ってますからね。
彼女が文句をいったけど、私はかまわず家探しをはじめたんです。で、ふとしたことで、ベッドの銅の球をはずしてみたわけです。ベッドの脚が、なかが空洞の鉄パイプなんですよ。そのうちの二本のなかから、紙幣をまるめたやつが出てきましてね。たいした金額です。フランソワーズは自分の目が信じられないってようすでしたね。
≪これだけのお金がありながら、あたしにお手伝いなんかやらせやがって。あの世まで持っていけるわけじゃあるまいし! 帰ってきたら、ただじゃおかないから……≫
たいへんな剣幕でね。さんざん奴さんを罵って、私がこれは万一の時のために奴が取っておいた金にちがいないって話したもので、ようやっと少し治まったくらいでした。
≪よくもまあ競馬に使わなかったもんだよ!≫と、ぶつぶつ言ってましたがね。
これでおわかりでしょう、警視《パトロン》。奴らは先週の土曜日にごっそり稼いだのにちがいないですよ。ここにあるだけでも二十万フランですよ。ジェフもさすがに、これだけの大金を、とくにフェルナンの店で馬券に使うわけにはいかなかったんですね。すったのはその一部だけですよ。奴らが半分ずつ山分けしたんだとすれば、ルイも大金を持ってたはずです」
「ご苦労だった」
「この金はどうします?」
「持ってきたのか?」
「用心のためにね。置いてくるわけにはいかなかったもので」
「きみのところの署長に話して、最初から手順をふんでやり直せ」
「どうしても?……」
「あたりまえだ。きみが取ってきた場所に金を匿したのは警察のしわざだなんて、弁護士どもにいわれるのは沢山だからな」
「ドジでしたか?」
「相当なもんだ」
「すみません。私はただ……」
メグレは電話を切った。刑事部屋にはトランスがいた。
「忙しいか?」
「べつだんなんにも」
「アントワーヌ警視のところへ行ってきてくれないか。彼のところの連中をつかって、この二年半ばかりの間にグラン・ブルヴァールの商店で起こった盗難事件をぜんぶ当るように言うんだ。特に昼休み中、店を閉めていたあいだに起こったやつをな」
盗難事件はメグレの班ではなく、アントワーヌのところの管轄である。彼のオフィスは廊下のむこう端にあった。
ふたたびアルベール・ジョリスのところにもどると、彼はいま二本めのタバコに火をつけていた。見張り役の刑事を解放してやる。
「ぼくは逃げる気なんかないのに」
「だろうな。ただし、私の机の上にある書類を、ちょっと盗み見してみたいという気はおこしたのじゃないかな。どうだい。図星だろうが」
「たぶんね」
「それだと事情が変る」
「どう変るんです?」
「べつに。こっちのことだ」
「ぼくをどうするんですか?」
「いまは待ってるだけ」
メグレは時計を見た。いまごろリュカとモニクは医院に行っていて、たぶん、待合室で雑誌でものぞいているところだろう。
「ぼくのことを軽蔑しているんでしょう?」
ひょいと肩をすくめてみせる。
「ぼくにはチャンスがなかったんだ」
「なんのチャンス?」
「脱出のチャンス」
「なにから脱出するんだね?」
ほとんど突っかかるような口調になった。
「あなたにはわかりっこないんだ。子供のときからお金のことばかり聞かされ、月末が近づくと身震いしだす母親に育てられてみれば……」
「私に母はいなかったんだ」
ジョリスは口をつぐんだ。沈黙がおよそ十分間ほどつづいた。メグレは頃合を見はからって窓辺に立ち、窓ガラスを幾筋も伝う雨脚に眺め入った。それから室内を歩きまわり、ついには、いくらかオーバーな決意の程を見せて、戸棚を開いた。コップはさっき、琺瑯塗りの流し台で洗ってあった。それをもういちど濯いでから、コニャックを注いだ。
「きみは飲まないだろう?」
「結構です」
アルベール・ジョリスは眠るまいと懸命になっていた。頬は赤らみ、瞼は引きつっているにちがいない。ときどき椅子の上でからだが揺いだ。
「きみだって、いつかは一人前の男になるんだ」
廊下に足音が聞こえた。男と女の足音で、リュカがモニクを連れてきたのだとわかった。どうするか決めなければならない。この十五分間ほどはそのことばかり考えていたのだった。彼女を隣りの部屋に通して、そこで話をすることもできるのだが。
メグレは肩をすくめて、ドアをあけた。二人とも肩のあたりが雨に濡れている。モニクはいつもの自身を喪っている様子だった。アルベールの姿を見たとたん、両手でハンドバッグを握りしめて棒立ちになり、メグレのほうに怒りの眼差しを投げつけた。
「医者へ連れていったのか?」
「最初は厭だといったんですが、私が……」
「結果は?」
ジョリスも立ちあがって彼女をみつめた。いまにも彼女の足許に身を投げだして、許しを乞わんばかりの風情である。
「ゼロです」
「妊娠の徴候はないんだな?」
「過去にも現在もなしです」
ジョリスは自分の耳が信じられないというようすで、いったいだれのほうを向いたらいいのかもわからず、まごついていた。おそらく、いまはこの世でいちばん残酷な男だと思っているらしいメグレに、喰ってかかりたい気持だっただろう。
一方メグレはドアを閉めて、モニクに椅子をすすめた。
「なにか言うことがあるかね」
「あたしはぜったいに……」
「そんなことはないだろう」
「あなたに何がわかるの? あなたは女じゃないのよ」
ジョリスのほうに向きなおって、
「嘘じゃないわ、アルベール、あたしほんとうに赤ちゃんができたと思ったのよ」
メグレの声は静かで、抑揚がなかった。
「どれくらいの間かね?」
「何日間もよ」
「そのあとは?」
「あのあとは、彼をがっかりさせたくなかったから」
「がっかりさせる?」
メグレはリュカに目くばせをした。リュカは警視のあとについて隣りの部屋へ行った。こうして恋人二人だけをのこして、ドアを閉めた。
「彼女に医者へ行くんだと話したとたんに、これは何かあるなと感じましたよ。彼女は反抗しましてね。彼女とアルベールを逮捕すると脅したんでやっと……」
メグレは聴いていなかった。すべてわかっていたことだった。トランスが席にもどってきていた。
「伝えてきてくれたかい?」
「連中はいま、リストと取っ組んでますよ。長いやつになりそうですな。この二年ばかしアントワーヌ警視の班は黒星つづきなんだって。こいつはどうやら……」
メグレは境のドアに歩み寄って、耳をそばだてた。
「なにをしてます?」と、リュカが訊く。
「なんにも」
「話してませんか?」
「だんまりだな」
メグレは部長のところに行き、目下の情況を伝えた。二人してあれこれ話に花を咲かせる。それから一時間ほど、メグレはほうぼうのオフィスをのぞいては、同僚たちとムダ話をしてまわった。
自室にもどってきたとき、アルベールとモニクはおそらくさっきから微動もしていないように見えた。三メートルほど距離をおいて、それぞれ椅子に坐ったきりだった。モニクのほうは冷ややかな表情を浮かべ、手には母や叔母たちのものと似たハンカチをにぎりしめている。
彼女の視線がたまたまジョリスに向けられたとき、そこにはいかほどかの軽悔と憎悪とが入り混じっているようにも見えた。
ジョリスのほうはがっくり肩を落し、その目は睡眠不足と涙とでまっかになっていた。
「もう帰っていいよ」
メグレはそれだけ言うと、自分の椅子のほうへ行った。
質問をしたのはモニクだった。
「新聞に出るんでしょうか?」
「記事になるようなことはなにもない」
「母には知れるでしょうか?」
「そうとも限らないだろう」
「会社の上司には?」
メグレが否定《ノン》の素振りを見せると、彼女はほっとしたように立ちあがって、ジョリスのほうは見向きもせずにドアへ歩いて行った。把手に手をかけたまま、メグレのほうを振りかえって、こう言った。
「あなたがわざと仕組んだのね」
彼は肯定《ウイ》の仕種をして、深く息をついた。
「きみも行っていいんだよ」
しかしジョリスが動こうとしないので、
「彼女のあとを追わんのか?」
モニクはすでに階段のあたりにさしかかっていた。
「そうすべきでしょうか?」
「彼女はなんと言ったんだ?」
「ぼくのことを大バカだって」
「それだけ?」
「それから、もうこれきりで絶交だって」
「それで?」
「べつに。わかりません」
「行っていいよ」
「両親にはなんと言えばいいんですか?」
「なんとでも言うさ。きみが帰っただけで大喜びするよ」
「そうでしょうか?」
さらに外へ押し出さなければならなかった。まだなにやら釈然としないらしい。
「行けったら、このバカ!」
「もう風来坊じゃないんですか?」
「大バカ! ほんとに彼女の言うとおりだ」
そして顔をそむけると、洟をすすりあげるようにぽつりと、
「ご苦労さん」
そのあとメグレはたった一人で、ようやくコニャックを飲むことができた。
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第九章 コメリオ判事、しびれを切らす
「きみかね、メグレ?」
「そうです、判事さん」
いつもの電話である。部屋に同僚のだれかでもいれば、メグレは必ずウィンクをしてみせるところだった。判事に答えるときだけは、特別に優しい声音になる。
「例のトゥーレ事件だがね」
「順調に行ってますよ」
「少しばかり長引きすぎるとは思わんかね?」
「ご存知のように、ヤクザの犯罪というのは、解決に手間どるんですよ」
「ほんとうにヤクザの犯罪なのかね?」
「あなたが最初にそうおっしゃったじゃないですか、≪明々白々だ≫と」
「シュラメックの話を、きみは信じてるのか?」
「彼は真実を述べていると確信してますよ」
「だったら、だれがルイ・トゥーレを殺したのかね?」
「彼の金を奪《と》ろうとした奴ですよ」
「とにかく早いとこ片付けてくれんかね」
「わかりました、判事さん」
だが、なにもしなかった。目下主としてかかわっている、別の二つの事件に没頭していただけだった。ジャンヴィエとラポワントを含む三人の刑事が、昼夜をわかたず、交替でアングレーム街の家の張り込みをつづけ、電話線はあいかわらず傍聴器につながれたままだった。
メグレはもはや、トゥーレ夫人にもその娘にもジョリス青年にも係わりあいはなかった。ジョリスはサン・ミシェル通りの書店に、ふたたびフル勤務で働いていたが、メグレはそのことを知らなかったようである。
盗難事件については、記録書類を同僚のアントワーヌに譲ったので、アントワーヌのほうはほとんど毎日、軽業師こと道化師ジェフの取調べを行なっていた。メグレはときおり廊下でジェフと顔を合わせることがあると、
「どうだい?」
「こんちは、警視の旦那」
寒さが厳しくはなったが、雨は降らなかった。アングレーム街の女主人のところには、新しい下宿人は入らず、二部屋はずっと空室のままだった。いまも下宿している三人の女たちは、家が見張られていると知ってから、いつもの商売に身を入れることもできずにいた。ほとんど外出もままならず、せいぜい近くのレストランに食事に行くか、ハム、ソーセージの類を買いに行くか、女たちの一人がたまに映画に行くくらいのものだった。
「彼女らは一日中なにをやってるんだ?」
「寝てるか、カードをやってるか、トランプの一人占いをやってるかですね。一人、アルレットという女がいて、カーテンの隙間からこちらを見るたびに、ぺろりと舌を出すんですがね。昨日は作戦を変えて、向うむきにバスローブの裾をくるっとまくって、お尻を出して見せましたよ」
マルセーユの機動班はナイフの件を調べていた。捜査の手は市内だけでなく、近郊の町村までのびていた。特にこの数ヶ月間にパリに出かけていた遊び人あたりに焦点がしぼられていた。
すべてがたいして熱意もなく遂行され、これといって見るべき成果もないままだった。しかしメグレは、ルイのことを忘れてはいなかった。いちど別の用件でクリニャンクール街を通ったときなど、レオーヌの店の前で車を止めさせ、老婆へのクリーム菓子もちゃんと忘れずに持って、彼女を訪ねたものである。
「まだわかりませんの?」
「いまに結着がつきますよ」
このかつてのタイピストには、ルイの所業のことは何も話していなかった。
「どうして殺されたのですか?」
「金のためですよ」
「そんなに稼ぎがあったのかしら?」
「相当なものだったんですよ」
「可哀そう! やっと楽になれたと思ったら殺されてしまうなんて!」
サンブロンの部屋までは行かなかったが、彼とは花市場の近くで出会って挨拶をかわした。
ある朝、ようやくマルセーユからの連絡が入った。メグレは電話で永いこと話していたが、そのあと階上の犯罪記録課に行って一時間ほどカードを調べた。それからこんどは階下の文書保管所に降りていって、ここでもかなりの時間を費した。
メグレが車に乗りこんだときは、十一時近くになっていた。
「アングレーム街にやってくれ」
張り込みの番はラポワントだった。
「みんな家にいるか?」
「一人、外出しています。その近くで買物をしているところです」
「どの女だ?」
「オルガ。茶色の髪のですよ」
呼鈴を鳴らした。カーテンが動いた。女主人のマリエット・ジボンが、スリッパを引きずりながら、ドアを開けに出てきた。
「おや、まあ! こんどは大警視みずからのお出ましってわけね。おたくの刑事たちは、まだ表を歩きまわるのに飽きないのかねえ?」
「アルレットは階上《うえ》かね?」
「呼びましょうか?」
「いや結構。こちらから行く」
彼女が心配そうなようすで廊下に立ちつくしているのを尻目に、メグレは階段を上っていって、二階のドアをノックした。
「どうぞ!」
アルレットは例によってバスローブ姿で、乱れたままのベッドに横になって、大衆小説に読みふけっていた。
「あんたなの?」
「私だよ」
メグレはタンスの上に帽子をのせて、椅子に腰をおろした。
彼女はびっくりもし、また面白がっているふうでもあった。
「まだお終いにならないの?」
「犯人が見つかればお終いになるさ」
「まだ見つけてないの? 警察って、もっと頭がいいのかと思ってたのに。あたし、バスローブのままで構わないかしら?」
「ぜんぜん構わないよ」
「馴れてんのね」
ベッドの上で向きを変えたので、バスローブの裾が割れた。メグレがいっこうに気づいたようすもないので、彼女のほうから、
「たったそれだけ?」
「なにが?」
「だって見えたんでしょう?」
メグレが相変わらず動じないので、だんだん苛立ってきた。こんどは卑猥な素振りをしてみせて、
「どう?」
「いいね」
「とてもいい?」
「どうでもいい」
「なによ! あんたなんか……なにさ!」
「下卑なまねをするのが、そんなに面白いかい?」
「こんどは、おまけに、あたしの悪口を言いだす気?」
そういいながらもバスローブの前を掻きあわせて、ベッドの端に坐りなおした。
「いったいなんの用なの?」
「きみの両親は、きみがいまでもマニチョン通りで働いているものとばかり思っているんだろう?」
「なにがいいたいのさ?」
「きみはエレーヌの店に一年間勤めていた。マニチョン通りの婦人服店だよ」
「それから?」
「きみが仕事を変えたのを、おとうさんは知っているのかな、と思ったものでね」
「あんたになんの関係があるのさ?」
「いい人だよ、きみのお父さんは」
「あんなウスノロなんか……」
「もし、きみのしていることを知ったら……」
「あんた喋る気?」
「たぶんね」
こんどばかりは彼女も動揺の色を隠しきれなかった。
「クレルモン・フェランに行ったの? あたしの両親に会ってきたの?」
「まだだが……」
彼女は立ちあがるなりドアのところへすっ飛んでいって、いきなり引き開けた。そこにマリエット・ジボンの姿があった。羽目板に耳を押しあてていたらしい。
「ちっとは遠慮したらどう?」
「入ってもいい?」
「だめ。放っといてよ。これ以上立聴きしようとしたら……」
メグレは椅子から一歩も動かなかった。
「どうだね?」
「どうだねって、なにが? いったい何の用なのさ?」
「わかってるだろう」
「わかんないわ。ちゃんと筋道たてて話してもらいたいわね」
「きみがこの家に来たのは六ヵ月前だっス」
「それから?」
「きみはほとんど一日中家にいるから、ここで何が起こっているかわかっているはずだ」
「つづけて」
「始終ここに来ていた人物で、ルイの死後、急に足を踏み入れなくなったものがいる」
彼女の瞳孔がふいに窄《すぼ》まったように見えた。
ふたたびドアのところへ行ったが、こんどはだれもいなかった。
「どっちにしても、あたしのお客じゃないもの」
「だれの?」
「いまにわかるわ。あたし、着替えなきゃ」
「なんで?」
「こんな話をしたあとでは、いつまでもここにぐずぐずしていられないもん」
こんどは故意にではなく、バスローブを脱ぎすてた。パンティとブラジャーを掻き集めて、押入れを開ける。
「こんなことになるのは、わかってたはずなんだけどねえ」
ひとりごとを言っている。
「ねえ、あんたって頼もしい人?」
「犯罪者を捕えるのが私の仕事だ」
「もう捕えたの?」
彼女は黒い服を選びだして、こんどは唇にルージュを塗りたくった。
「まだだ」
「だれだかわかってんの?」
「きみが教えてくれるんだ」
「いやにはっきり言うわねえ」
メグレはポケットから紙入れを出して、三十歳前後の、左のこめかみに傷痕のある男の写真を引っぱりだした。
「この男だろう?」
「そうだと信じこんでるみたい」
「ちがうのか?」
「あんたが捕まえるあいだ、あたしはどこに行ってればいいの?」
「うちの刑事にどこかへ連れていかせる」
「どの人?」
「どの人ならいい?」
「茶色の、濃い髪の人」
「ラポワント刑事だ」
写真の話にもどって、メグレは質問してみた。
「マルコのことで、なにを知っている?」
「女主人の恋人。どうしてもここで話さなきゃならないの?」
「彼はどこにいる?」
それには答えず、彼女は服や身の廻りの品々を、大きなスーツケースに雑多につめこんで、いかにもこの家を早く出たいといったようすを見せた。
「この話は外でつづけよう」
メグレがスーツケースを持とうとして身をかがめると、
「あら! いちおうは紳士なのね」
階下の客間のドアが開いていた。マリエット・ジボンがその開いたドア框に身じろぎもせずに立っていた。その顔は疲れきって見え、目に不安の色をたたえている。
「どこへ行くの?」
「警視さんが連れて行くとこ」
「この女《こ》を逮捕するの?」
それ以上はなにも訊こうとはしなかった。二人が出ていくのを黙って眺め、それから窓のほうに行ってカーテンの蔭から見守っている。メグレはスーツケースを車に入れてから、ラポワントに言った。
「交替のものをよこすから、そうしたら、すぐに後からビヤホール≪レピュブリック≫へ来てくれ」
「わかりました、警視《パトロン》」
車には乗らずに、運転手に指示する。
「行ってくれ」
「ビヤホール≪レピュブリック≫ですか?」
「そう、そこまでだ」
すぐ目と鼻の先だった。店に入ると、奥のテーブルに場所をとった。
「ちょっと電話をしてくる。私を撒こうなんて考えないほうが身のためだぞ」
「わかってるわ」
メグレは警視庁に電話をして、トランスに指示をあたえた。テーブルにもどってきて、アペリチフを二杯注文した。
「マルコはどこにいる?」
「知らないの。最初にあんたたちが来た日、女主人にいわれて、あたし、彼に電話したの。情況が変るまでは電話をしてもいけないし、家にもこないようにって」
「どのときに電話をしたんだ?」
「あんたたちが行ってしまってから三十分後に、ヴォルテール通りのレストランからよ」
「彼と直接《じか》に話したのかい?」
「いいえ。あたしが電話したのは、ドゥエ街のバーのボーイよ」
「名前は?」
「フェリックス」
「バーは?」
「≪ポーカー・ダース≫っていうのよ」
「それ以来彼からの連絡はないのか?」
「そうなの。女主人は気を揉んでるわ。自分のほうが二十も年上だってことがわかってるものだから、彼が若い女と浮気してるのじゃないかって、始終悩んでるわけよ」
「彼が金を持ってるのかい?」
「さあ、どうだか。彼、あの日に来たのよ」
「どの日?」
「ルイさんが殺された月曜日よ」
「アングレーム街の家には何時に来た?」
「五時頃かしら。二人して女主人の部屋に閉じこもってたわ」
「彼女はルイの部屋に行ったかな?」
「かもね。べつに注意してなかったから。彼は一時間ぐらいして帰ったわ。ドアの閉まる音が聞こえたの」
「彼女はきみたちを使って、彼と連絡をとろうとはしなかったのかね?」
「見張られてると思ってたから」
「電話が傍聴器につながれているのも感付いていたのかな?」
「あのパイプの一件でわかっちゃったのよ。彼女、狡賢いからね。あたしはべつに好きじゃないけど、可哀そうな女《ひと》だから。それこそ彼に惚れぬいてしまって、病気にでもなりそうなくらい」
ラポワントがきたとき、二人はテーブルに向いあって、黙りこくっていた。
「何にする?」
彼はにこやかにメニューを読みあげる若い女のほうに目を向けることもできずにいた。
「おなじものでいいです」
「きみは彼女を連れてどこか静かなホテルへ行き、続き部屋をとる。私が連絡するまで彼女のそばを離れるんじゃないぞ。ホテルに落着いたら、場所の確認のために私に電話をしろ。べつだん遠くまで行く必要はない。なんなら向いの≪ホテル・モデルヌ≫にも部屋はあるだろう。彼女は誰にも会わず、食事も部屋でとるようにしたほうがいい」
彼女がラポワントといっしょに出て行ったとき、二人を眺めている人がいたら、女のほうが男の獲物を捕えたのだという印象をうけただろう。
それはさらに二日つづいた。なにものかはついにわからずじまいだったが、ドゥエ街のバーテンのフェリックスに、急を知らせたものがいたらしくて、フェリックスが友達の家に身を潜めているのを発見されたのは、翌日の夜になってからだった。
さらに彼にマルコの知り合いであることを白状させ、その居所を聞きだすのに、ほぼまる一晩かかってしまった。
マルコはパリを離れて、セーヌ川沿いの釣り宿に潜伏していた。この季節だから、宿の客は彼ひとりであった。
マルコは取り押さえられる前に、拳銃を二発撃ったが、弾丸《たま》はだれにもあたらなかった。ルイから奪った札束は、マリエット・ジボンが彼のために編んだ腹巻の中に入れられていた。
「きみかね、メグレ?」
「そうです、判事さん」
「例のトゥーレ事件だが」
「片付きました。犯人と共犯者をあとでそちらへ廻します」
「犯人はだれだったのかね? やっぱりヤクザの犯罪かね?」
「まったくもってヤクザな奴らですよ。曖昧宿の女主人《おかみ》とその情夫だったマルセーユのお兄《あに》いさんでね。ルイはまた金を匿すのに天真爛漫というか、衣裳ダンスの上なんぞに置いていたので……」
「何の話をしているんだ?」
「……金がもうそこにはないことを、ルイに悟られまいとして、その役をマルコが引受けたわけです。ナイフを売った店も見つかりました。夕刻までに報告書をお届けします……」
これがいちばん厄介な仕事だった。メグレは午後いっぱいつぶして、小学生のように舌の先をちらちら覗かせながら、報告書を書き終えた。
夜、食事を済ましてしまってから、はじめてアルレットとラポワントのことを想いだした。
「しまった! すっかり忘れていた!」と、思わず叫んだ。
「重大なことなの?」と、メグレ夫人が訊く。
「それほど重大でもないか。この時間なら、明日の朝でもおんなじだな。では寝るとしようか」
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訳者あとがき
すっかりトレード・マークになっているメグレ警視のパイプについて、何か書いてみたいと思ったのだが、これが意外とよくわからないことに気がついた。わからないというのは、メグレ愛用のパイプがたとえばブライヤーならばやはりサン・クロードだろうか、メグレ警視のことだからまさかダンヒルということはあるまいとか、好みの葉はたぶん辛口だろうが〔そうでなければなるまい!〕ヴァージニアかミクスチュアかとか、パイプをいたずらしたことのあるものなら一応は気にしてみたくなるような事柄のことである。
警視室の机上には十五本ばかりのパイプが常備されていて、外出の際には必ずそのうちの二本をポケットにしのばせるといったような場面に出くわすと、ならばその十五本のパイプ掃除はいつ、どんなぐあいにやるのだろう、なんぞといういささかみみっちいことまで気になる。大振りのパイプをがっしり銜えたスタイルはメグレらしいが、十五本のパイプをせっせと磨いているメグレなど、どうにもサマにならないと思うのである。
アクセサリーの名称だとか探偵の嗜好だとかを、登録商標名の向うを張って、コマーシャルよろしく並べたててみせるのがはやるようになったのは、おそらくイアン・フレミングのジェームス・ボンドあたりからだと思うが、あの露骨さがないだけでも、そのぶんメグレのほうがずっとスマートだと私は思っている。あるSF小説作家は、文章を書くとき、時代性や流行を反映させるような固有名詞とか描写を極力排除して行く、という話を聞いたことがあるが、シムノンの文章はそれとも少し違うようである。あのさりげなさはむしろ≪粋≫に通じる気合いであって、強いて求めるならば、池波正太郎の『鬼平犯科帳』の文章あたりがこれに匹敵すると思うのだが、どうだろう。
メグレ警視と鬼の平蔵との比較論などというのもなかなか魅力あるテーマだと思うが、こちらは〔植草甚一流にいうと〕予習復習が足りないのでその任ではないから、世の心のあるミステリー研究家で、それを試みる人がいないかと、じつは心秘かに待望しているのである。
話をパイプのことにもどすと、メグレものを読んでいて、世のパイプ愛好家が目を剥くような描写にしばしば出くわすことがある。たとえば一九五四年に書かれた中篇でLa Pipe de Maigret〔メグレのパイプ〕というそのものずばりのタイトルの作品があるが、その冒頭の場面で、メグレは喫いおわったばかりのパイプのまだ熱い火皿で窓の縁をゴツンとやる。どんなに頑丈なパイプかしらないが、火皿が熱をもっているときにそれで窓枠を叩くなどもっての他で、打ちどころが悪ければ一発でポキンと折れはしないかと、むしろ肝を冷やすのがパイプ党の心情であろう。
この中篇はメグレのお気に入りのパイプが紛失することから事件が展開するという話で、それでもパイプそのものは脇役の狂言回しにすぎないのだが、さすがにその紛失したパイプがどんなものであったか、簡単ながら説明されている。その一節を訳出してみると、
「パイプはなかった。灰皿のそばに三本置いてあって、そのうちの一本はメアシャウム〔海泡石〕だが、彼が探していたのはいつも肌身離さず持って行くお気に入りのやつだった。軽いベントの、大振りのブライヤーで、十年前に夫人から誕生日にプレゼントされたもので、彼はそれを≪私の上等の古パイプ≫と呼んでいたのだが、それが失くなっていた」
これですべてである。そのパイプの銘柄が何で、ブライヤーのグレインがどうであったかなどとは、ひとことも書いてない。
メアシャウムといえば、本篇『メグレとベンチの男』で、ルイ・トゥーレが老会計係のサンブロンにプレゼントするパイプが、やはり海泡石である。海泡石のパイプは練りものでないかぎり値段が張るにきまっているのだから、そのときのルイの懐ぐあいの温かさが、この一語でみごとに表現されているわけである。
このようにパイプが効果的に使われている例としては、たとえば『男のくび』で、わざと放った脱獄囚にまんまと逃走されるときの描写がある。メグレはセーヌ川をへだてたホテルの窓から双眼鏡で見張っているのだが、くだんの脱獄囚が刑事を殴って逃走するや、彼は電話にとびついて部下に指令を送る。そのときパイプが床に落ちて、火皿からこぼれたタバコの火が絨緞を焼いているのだが、メグレはそれにも気がつかないばかりか、パイプを拾うことすら忘れてホテルの部屋を出て行くのである。床に転がった一本のパイプと、じりじりと絨緞を焼くタバコの火が、メグレの心理状態の表象として効果をあげている。
さらに一例をあげると、『メグレと殺人者たち』では、メグレが自宅の電話でコメリオ判事と長話をしながら、夫人に合図してパイプにタバコをつめさせる場面がある。これなぞは、世のパイプ党を茫然たらしめる効果すらあるのではないかと思われる。俗にパイプ・タバコのつめ方は、「まず最初は子供の手で、中程は女の手で、最後は男の手でつめよ」という格言があるほど、いってみれば熟練を要すると同時に、各人それぞれの好みに合ったやり方があるといわれている。それを夫人につめさせるメグレが非常識なのではないとすれば、この二人はいったいどんな夫婦なのか。〔それをまた、たった二行でさりげなく描いてみせるシムノンの文章の心憎さよ!〕
ふたたび『メグレのパイプ』にもどるが、最後にめでたくパイプが戻って、それを手にしたメグレは、いとおしそうに握りしめながら、火皿で靴の踵をとんとんと叩く。そういえばこの靴の踵でパイプを叩く動作はメグレお得意のポーズの一つであって、本篇でも、そうやって灰を落す場面がある。ところが、たいていのパイプ入門書の心得第一条には、こう書いてあるはずである。
「パイプをハンマーと間違えるべからず。パイプでものを叩いてはならない」
こうしたパイプ入門の初歩心得のかずかずを、小気味よいばかりに踏みにじってみせるパイプ道ベテランの文章、これを≪粋≫といわずして何といおう。