サン・フォリアン寺院の首吊り人
ジョルジュ・シムノン作/水谷準訳
目 次
第一章 メグレ警部の犯罪
第二章 ヴァン・ダンム氏
第三章 ピクピュ街の薬種屋
第四章 意外な訪問者
第五章 リュザンシのパンク
第六章 首吊り人の群
第七章 その三人
第八章 ちびのクライン
第九章 黙示録の同志
第十章 ポトノアール街の降誕祭
第十一章 蝋燭のかけら
訳者あとがき
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第一章 メグレ警部の犯罪
誰も気がつかない。こんな小さい停車場の待合室で、ドラマめいたことが演じられているなんて、誰だって思うわけがない。そこには、コーヒーやビールやレモン水などの飲物の匂いが立ち迷う中に、わずか六人の旅客が、つくねんと汽車を待っているだけである。
午後五時、そろそろ夜である。灯がともされたが、窓をとおして暮れなずむプラットフォームには、ドイツ、オランダ両国の税関吏や駅員たちがぶらついているのが、まだ見分けられる。
このノイシャンツ駅はオランダの北端に設けられてあって、ドイツ国境に接しているのだ。停車場もちっぽけだが、ノイシャンツも小さな町で、幹線は一つも通らない。列車は朝夕の二回だけ、それも高賃銀に釣られてオランダ工場に働きに来るドイツの工員たちのためといっていい。
毎度型どおりに繰り返される。ドイツの列車がフォームの一方の端に着くと、一方の端でオランダのが引きつぐ。
オレンジ色の帽子の連中と、プロシャ風の緑や青の制服たちが入りまじって、税関の仕事で一時賑わう。
全部で二十人ほどもない客数のことで、それに税関吏をチャンづけで呼ぶ仲であり、手続きはすぐすんでしまう。
ぞろぞろつながって食堂に行く。国境いの駅食堂も、型どおりである。値段表はセントとペンニヒの両方で書いてある。ガラス箱の中にオランダ・チョコレートとドイツ・タバコが並べられてあり、お酒も杜松子酒《シュニエーブル》と火酒《シュナップ》といった具合だ。
その夕方はうっとうしい天気だった。カウンターでは女が居眠りをやっている。コーヒー沸しから蒸気が吹きだしていた。台所の戸が開いていて、子供が弄《いじ》っているラジオがピーピーいうのが聞えて来る。
いかにも家庭的だが、それでも冒険と怪奇のきっかけになる下地がないでもなかった。
いって見れば、ドイツ、オランダ両国の制服の相違だとか、ドイツ側には冬季スポーツの広告があるのに、一方ではユトレヒト貿易市のポスターがあるといった混乱である。
待合室の片隅に年の頃三十代の男がいる。糸の目が見えるくらいの上衣、やつれた顔、無精髭《ぶしょうひげ》を生やして、何とも名状しがたい灰色になったソフト帽をかぶっている。あんな色になるのには、ヨーロッパじゅうを歩き廻らねばなるまい。
彼はオランダの汽車で着いたのである。ブレーメン行きの切符を見せたが、駅員は彼が迂廻線に乗ったので、急行はないのだとドイツ語で説明してやった。
男は言葉の通じない仕草をして見せてから、フランス語でコーヒーを注文した。みんな物珍しそうに彼を見つめた。
凹んだ眼窩《がんか》の底で、眼が熱っぽい。下唇にへばりつけるようにして巻タバコを吸う。それがいかにも倦《う》みきって蔑《さげず》み果てたように見える。
足もとに、どこの売店にでもあるファイバー製の小さい旅行鞄がある。まだ新しい。
コーヒーが来ると、ポケットからバラ銭をつかみだして手を拡げる。フランス、ベルギー、オランダ、まぜこぜである。
給仕女はその中から代金をつまみ上げる。
そのテーブルの隣に、もう一人、人目につかぬ旅客がいる。大柄で太っていて、肩巾が広い。ビロード襟の黒い厚手の外套、軽便ネクタイといういでたちである。
若い男は屈んだまま、列車に乗りおくれまいとしてか、絶えずガラス戸から駅員の動きを見守っている。
それを隣りにいて、パイプをぷかりぷかりやりながら、無慈悲とも見える冷然たる様子で眺めているわけだ。
そわそわしていた男が、洗面所へ行こうと二分ほど座を立った。その時|屈《かが》みもせずにちょいと足を動かして、隣りの客が男の旅行鞄を引き寄せ、代りに見分けのつかぬほど同じ自分のと置き換えた。
それから半時間ほどして、列車は出た。二人とも同じ三等車に相乗りしたが、相変らず言葉一つかわそうともしない。
レールでみんな降りたが、この二人だけは先を続ける。
ブレーメン駅のあの途方もない玻璃《はり》天井の下へ滑りこんだのが十時、アーク燈が歩く人たちの顔をしらじらと浮きだしていた。
ドイツ語の通じないらしい若者は、さんざ行き迷ったあげく、一等客のレストランへ踏み込んだりしたが、それでもやっとどうやら三等食堂に辿《たど》りつくことができて、そこでは腰もおろさず、腸詰入りのコッペパンを指して、身振りで持ち運びできるようにしてもらい、例によってバラ銭をつかみだして選りださせた。
駅をとびだしてから、近所の大通りを半時間ほどもさまよい歩く。いっかな旅行鞄を手から離さず、しきりに何か探しあぐねている。
ビロード襟の男は倦むことも知らずそのあとをつけ廻していたのだが、若者が隣接したみすぼらしい町へ踏みこんだ時に、やっと探し物の正体がのみこめた。
若者は安宿を探していたのだ。足取りがのろのろしはじめて、玄関の上に出ている目印の艶《つや》消しガラス玉のある木賃宿へ来ると、しきりと疑わしそうな物色をはじめる。
片手に旅行鞄をぶらさげ、一方には薄紙に包んでもらったコッペパン。
通りはざわめいていた。霧が降りはじめて、窓の灯をぼかしている。
若者が取った部屋の隣りを借りるのに、外套の男はちょっと手間取った。
わびしい部屋、世界のどこへ行っても見られる、貧乏たらしい部屋。強いていうなら、北ドイツでもこんなに暗い感じのものは他に二つとは見られないといえようか。
隣り合った部屋の間には仕切扉があって、鍵がかかっている。
だから、若者が古新聞しか入っていない鞄を開けるのが、鍵穴から見て取れる仕掛けである。
鞄をあけたとたん、気分でも悪くなったようによろめいて、若者は震える手で鞄をひっくり返し、新聞を部屋中にばらまいた。
テーブルの上には、紙包のままコッペパンが置いてある。四時からこっち、何もたべていないのに、それを見向きもしないのである。
若者は慌てふためいて宿をとびだし、駅に向ったが、何度となく道をたずねる。
「停車場《バーンホフ》!」
と、同じ言葉を繰り返し繰り返しいうのだが、アクセントが変なのでたずねられた方でまごつくくらいだ。それに、あまり神経がたかぶっているものだから、ゆっくり聞かせる分別もなく、とうとう子供のように汽車の真似までやってのけた。
駅へ来て、広場をうろうろし、荷物の積んだところへ行ってはのぞきこむが、求める鞄はいっかな見当らない。
似たような鞄を持ち歩いている旅客に行き合うと、びくんと躍りあがる。例の尾行者はいつの間にか来ていて、じッとその様子を見守っている。
十二時になって、前後してホテルへ戻って来た。
椅子にくず折れ、両手の中に頭をかかえこんだ若者の姿を、鍵穴がくッきりと浮きだしていた。苦悶の末に立ち上り、憤怒と絶望の入り混った様子で、激しく指を鳴らした。
それが最後であった。ポケットからピストルを抜きだすや否や、あんぐりと口を開いて、引金を引いたのである。
たちまち、部屋へ十人ほどの人が集ったが、ビロード襟の外套を着たままの人物――メグレ警部は、みんなの近寄ろうとするのをしきりに抑えていた。口々に「警察」と「殺人」の言葉が繰り返される。
若者は死んでから一層惨めたらしく見えた。靴底は穴だらけだし、倒れる時にズボンがまくれあがって、ぞッとするような赤靴下がのぞき、蒼ざめて毛むくじゃらな脛《すね》がむきだしになっている。
警官が一人やって来て、何か命令的な口調でわめき散らすと、一同は廊下の隅に押しかたまった。メグレだけはパリ司法警察警部の徽章を示した。
警官はフランス語が話せない。メグレもうろ覚えのドイツ語がわずか並べられるだけである。
それでも十分後には、ホテルの正面へ自動車がとまって私服たちがどやどやと乗りこんで来た。
廊下のひそひそ話には警察につづいてフランス人という言葉がまじるようになり、好奇の眼が警察に注がれた。しかし、それもたちまち一喝をくらうと、まるで電気のスイッチでも切ったようにパッタリ鎮まってしまった。
宿泊人たちはつまらなくなって部屋へ引き揚げる。街路ではひっそりした一団の彌次馬がほどのよい距離を保ってひかえている。
メグレ警部は相変らずパイプをくわえているが、火はとっくに消えている。よくこねた粘土に彫《ほ》ったような肉厚の彼の顔に、恐怖とも失意ともつかぬ妙な表情が漂っている。
「あなた方の捜査と一緒に私の方もやらしてもらいたいのです」と彼は申し出て、「一つだけ確かな事実は、この男が自殺したということです。フランス人なんで……」
「尾行して来たのですね?」
「それを説明していると長くなります。それよりも、この男の顔をあらゆる角度から、できるだけ正確に撮影してもらいたいのです」
三人だけしかいない部屋が一しきりざわめいて、あとはシーンとなる。
一人は、若くて血色のよい坊主刈りの頭、モーニングに縞ズボン、金の蔓の眼鏡をしょッちゅう拭くのが癖である。科学警察医師という肩書きを持っている。
もう一人は、これもいい顔色をしているが、どこかちょこまかしていて、しきりにフランス語を使おうと努めている。
だが別に変ったものは出て来なかった。ルイ・ジューネの名の旅券、オーベルヴィリエ生れ、機械工としてあった。
ピストルはベルギーのエルスタル工廠の銘が入っていた。
パリのオルフェーヴル河岸の司法警察本部では、この夜こんなところでメグレが活躍しているとは夢にも知らないのである。
メグレは死者とはどうにもならぬ悪因縁だったのだと観念したふうで、ドイツ警官たちの捜査に協力し、写真撮影や警官医の検死には場所を空ける手伝いをしたり、消えたパイプをくわえたまま、辛抱強く獲物が渡されるのを待った。
やっと午前三時になって、そのわびしい獲物が手に入った。死人の服、旅券、眩暈《めまい》がするほどマグネシュームを焚《た》いて撮った写真一ダース。
一人の人間を殺してしまった。その思いがひしひしと胸にこたえた。
向うでは彼を知っていない。メグレも実は何も知らない。かの男が検察に関係があるという見込みはどこにもないのである。
そもそものきッかけは、前の日ブリュッセルで、思いがけぬことからはじまったのだ。メグレは要務出張中だったのである。フランスを追放されたイタリア亡命者たちが、不穏な行動を起す疑いがあり、その打合せをベルギー警察とやりに来たのだ。
だからこの旅行は遊山《ゆさん》がてらといってよかったのである。打合せは予定よりもあっさり片づいた。警部はたっぷり半日の暇ができた。
そこで、気まぐれに、とある小さなカフェをのぞいた。
朝の十時で、カフェもほとんどからっぽだった。陽気で人なつこい親爺とお喋りをかわしながら、メグレはふと、店の奥の薄暗がりに腰をおろして、奇妙な仕事に熱中している一人の客に注意した。
みすぼらしい男である。文字どおり定職にあぶれたという恰好で、どこの都会に行ってもこの種の人たちに出会うことができよう。
ところが、その彼がポケットから千フランの札束をだして枚数を勘定し、灰色の紙に包むと小包にして、宛先を書いた。
少くとも三十枚はあった。三万ベルギー・フラン! メグレは眉根を寄せて、男が飲んだコーヒーの代金を支払って出かけるのを見すますと、あとをつけて、もよりの郵便局まで行った。
そこでは、男の肩越しに宛先をのぞいて見た。なかなかどうして達筆である。
パリ、ロケット街十八番地
ルイ・ジューネ殿
驚いたことに、その小包は書籍郵便扱いとしてあるのである。
三万フランの大金を送るのに、まるで新聞か規則書を発送する手軽さ、むろん書留にもなっていない。
局員は目方を量っていった。
「七十サンチームです」
料金を払って局をとびだす。メグレは名前と宛先をノートしてなおも尾《つ》けて行く。心中いささか愉快だった。ゆくりなくベルギー警察にちょっとした贈り物ができたと思ったからだ。のちほどブリュッセル警察署長に会った時、何気なくこういうのだ。
「それはそうと、ギューズ・ランビックを一杯やりに入ったカフェで、椋鳥《むくどり》を一羽見つけましたよ。ここに書いてあるのが奴の巣なんです……」
メグレは浮き浮きしていた。秋の柔い陽ざしが、ポカポカと大気を暖めている。
十一時、その見知らぬ男は三十二フラン出して、模造皮――というよりは、模造ファイバーの旅行鞄を、ヌーヴ街のとある店で買った。メグレも気まぐれで同じ品を求めた。もともとそんなことをして、この冒険の続きがどうなるものやら考えもしなかった。
十一時半、男はある横町のホテルへ入った。警部が名前を見つけようとしてもダメだったほどの小ホテルだ。しばらくしてそこを出て来て、北停車場へ来ると、アムステルダム行の汽車に乗った。
この時ばかりは、警部もためらった。おそらく、この男の顔をどこかで見たことがあるという漠然とした印象が、彼の決心を促したのだといえようか。
「どうせろくでもない事件にきまっているが……ひょッとして重大事件につながりでもあったらことだ……」
幸いパリには緊急をようする問題もなかったのである。
オランダ国境にさしかかった時、男の思いもかけぬ動作に彼は驚かされた。こういう事には慣れ抜いているといわんばかりに、税関が来る前に汽車の屋根の上へ旅行鞄をほうり上げたのである。
「とまったらどうなるかわかるだろう」
ところが、アムステルダムではとどまる気配もなく、今度はブレーメン行三等切符を買い求めた。
オランダ平野の横断。方々の運河に、まるで大海原を航海しているように見える帆船が浮んでいる。
ノイシャンツ……ブレーメン……
メグレは全く何の気なしで旅行鞄をすり代えた。長い間かかって、彼はこの男を警察当局に知られている犯罪者型の何に属するか決めようとして、それができなかった。
「国際的な常習盗賊にしては線が細すぎる。それとも首領のお先棒をかつぐ三下奴か? 陰謀家? 無政府主義者?……奴はフランス語しか喋れない。フランスには今のところ陰謀家も、活動的な無政府主義者もいはしない。……残るはけちな詐欺師ということになるが……」
そんな見すぼらしい詐欺師|風情《ふぜい》が、三万フランもの大金を灰色の紙に包んで発送したりするだろうか?
酒は見向きもしない。駅で長いこと待っているのに、コーヒーをのむだけで、時たまコッペパンか、菓子をつまむのがせいぜいである。
汽車の方向にも全く不案内である。乗換えの度ごとに、目指す方角に行ってるのかどうか、聞いて廻る。その不安げな様子が大袈裟なくらいである。
頑健とは見えない。にもかかわらず、手を見ると手工労働の跡が歴然としている。黒い爪が伸びすぎているのは、ここしばらく仕事から離れていたせいに違いない。
顔色は青ざめていて、いたましいくらいだ。
この男を、なぶるようにしながら、がんじがらめにしてベルギー警察へ贈り物にしようという面白い思いつきも、見ているうちにいつかメグレは忘れてしまっていた。
謎が彼を追い立てたのである。心中しきりにいいわけをしている。
「アムステルダムならパリから遠くはない!」
つづいて、
「なんだい、ブレーメンからなら、急行に乗れば、十三時間で帰れる!」
その男は死んでしまった。これといって怪しむべき品もその活動の範囲を知るにたるものも身に帯びていない。あるのはヨーロッパのどこにでもころがっているありふれたピストル一挺だけだった。
鞄を盗まれたというその事だけで、自殺して果てたとしか見えない。さもなければ、手もつけようとしなかったコッペパンを、駅の売店でどうして買ったりしただろう?
それに、旅行中でも、ドイツへ来てから自殺するくらいなら、ブリュッセルでだっていくらでも機会はあったはずだ。
その鞄一つが残された。謎を解いてくれといわんばかりに。
死体の方は検死、写真と、足の先から頭の地膚まで調べられて、まる裸かを布でくるまれ、死体運搬車で持ち去られた。警部は自分の部屋に引き籠った。
メグレはげっそりした顔つきである。いつものように、拇指でパイプのタバコを抑えつけている動作は、ただ自分が平静であるのを確かめようとしているにすぎなかった。
死体のうらがれた顔つきが彼をいら立たせる。眼の前に絶えず、指を鳴らしたり、大きな口をあんぐりさせて、ピストルを突込んだりした様子がちらつく。
困惑といわんよりは後悔に似た思いが募って、それでも何度かためらったあげく、やっとの思いで模造ファイバーの鞄に手を触れた。
ともかくこの鞄の中には一切を明らかにするものがあるに違いないのだ。警部が哀れを催したその男が、詐欺師か、危険な悪人か、事によったら殺人犯か、そのどれかを示す証拠が見つけられよう。
ヌーヴ街の店で買った時のままに、把手に糸でぶらさげてあった鍵が残っている。メグレは蓋を開いたが、最初に出たのが暗灰色の服一着である。死人が着ていたのよりは大分新しい。
服の下に汚れたシャツが二枚、襟も袖口もすり切れていて、いい加減に丸めこんである。
桃色の細縞が入ったカラーが一本、半ヵ月はつけッ放しだったと見えて、首のあたったところが真黒になり、それにほつれてさえもいる。
これで全部だった! 底に緑色の紙が敷いてあり、二本の革紐も丸くなって、締め金がまッさらなところを見ると一度も使った形跡はない。
メグレは洋服を打ち振って、ポケットも探って見たが全然、からだった。
いいようのない不安が咽喉を締めつけているようで、やみくもに何としてでも何か探しだしてやろうといった気持。
あの男はこの鞄が盗まれたために、自殺したにちがいないのだ!……それなのに、中に入っていたものは、着古しの洋服と汚れたシャツ……
紙片一枚見当らない! 参考書類といえそうなかけらもない。死人の過去について手掛りになりそうなものは、これっぱッちも残っていないのだ。
部屋は安物ながら、まだ新しい壁紙を張ってあって、けばけばしい色の花模様である。それに反して、家具は使い古され、片ちんばで、ガタガタになっている。テーブルの上に、インド更紗《さらさ》の掛布をしているが、気味悪くて触れる気もしない。
街路《まち》は人ッ子一人いなくなった。店がみんな雨戸を閉めてしまった。ただ百メートルほど向うの四つ辻では自動車の賑やかに行きかう音がしている。
メグレはもうその鍵穴をのぞく気もしなくなった隣室との間の扉を見やった。警察の連中が、さすがに抜かりなく、死体を型どって床にチョークの印をつけて行ったことを思いだしたのだ。
宿泊の客が眼を醒まさぬよう、それにまた、神秘が彼の肩を抑えていたせいもあって、抜き足さし足で、メグレは隣室に忍びこんだ。手には悪皺が寄ったままの洋服をかかえて。
床の線画は不恰好にはできていたが、寸法だけは正確にとってあった。
上衣を型に合わせズボンとチョッキも置いて見て、警部の目はキラキラとし、機械的にパイプを激しくかみしめた。
洋服の方が少くとも三まわりくらい大きいのだ。だから、これはあの死んだ男の服ではないのだ。
あんなにも躍起になって鞄に蔵《しま》いこみ、それが無くなったばかりに生命を捨てたその洋服というのが、他人の着ていたものであったとは。
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第二章 ヴァン・ダンム氏
ブレーメンの新聞は、一フランス人の死に数行を費したのみだった。
ルイ・ジューネと名乗る機械工が、町のホテルで自殺をとげたが生活苦が原因である、と。
しかし、この新聞が出廻ったその翌朝の頃、報道が誤りであることがわかった。旅券を調べて見て、メグレが特別な点を発見したのである。
その第六ページ目、署名のあるところだが、欄を作って、年齢、身長、頭髪、額、眉という順になっている。それが、額と頭髪の順が逆であることを発見したのだ。
かれこれ半年前のことだが、パリ警視庁ではサントゥアンで、偽旅券、軍隊手帖、外国秘密地図、その他公文書類の偽造工場に手入れしたことがある。押収した証拠物件もおびただしい数量であったが、犯人らの自供によれば、彼らの印刷物は数年にわたって幾百となく流布され、帳簿の不備から売りこんだ連中のリストもわからないのであった。
ルイ・ジューネの持っていた旅券がこの工場製のものとわかって見れば、つまり彼はルイ・ジューネではないのだ。
捜査にとっての唯一の確実な手掛りと思われたものも、今は失われたことになった。この夜自殺した男は、まさにどこの何者とも知れないのである。
午前九時、メグレ警部は必要な自由行動のとれる許可を当局から得て、死体陳列場《モルグ》に姿を現わし、開場早々から一般人のやって来るのを待つことにした。
その事に大した期待を持ったわけではなかったが、見張りに都合のいい暗い片隅でもあろうかと思ったのに、あてがはずれた。ここの死体陳列場は、町の大部分がそうであり、公共建築のほとんどがそうであるように、すこぶるモダンなのである。
そのくせ、パリのロルロージュ河岸にある古ぼけた死体陳列場よりも一層陰惨な感じがする。
思うにそれは、線と平面の簡潔さ、ギラギラする光をはね返している白い壁、発電所の中のように磨き立てられた冷房装置のせいなのであろう。
一見近代的な工場と変りがない。その工場の第一の資材が人間の死体と来ては、誰しも胸が悪くなるだろう。
偽のルイ・ジューネはそこにいた。専門家が修正したと見えて、思ったほど人相は変っていない。
他に若い女が一人、港内で溺死したのが一人。
門番は健康ではち切れそうで、塵一つない制服を身にまとい、まるで博物館の門番と見間違える。
約一時間のうちにやって来たのは、期待に反してわずか三十人ほどである。一人の婦人が場内に陳列されてない死体を見たいと申し出ると、ベルが鳴って、電話で番号が呼び上げられた。
一階のある場所に、一壁全部を占める大きな戸棚の仕切りがあり、その一つが揚げ下ろし器に乗ると、やがて地階へ鋼鉄の箱が滑り出て来た。まるで図書館みたいに、本が読書室へ運ばれて来るのとそっくりな仕掛けだ。
その死体が求められていたものだった。婦人は屈みこんで、涙を流し、奥まった事務室へ連れて行かれた。そこには若い事務員がしきりに陳情をノートしている。
かんじんのルイ・ジューネは誰も見向きもしない。ただ、十時頃凝った服装の男が自家用車を乗りつけて、場内に入って来ると、自殺者を探し当て、念入りに見直していた。
メグレは数歩の近さにいたが、くわしく様子を見ようとして近づき、どうやら彼がドイツ人でないと見て取った。
その人物は警部が近寄って来たのを見て、ぶるッとし、困惑した素振りを見せたが、それはメグレが感じたと同じことを、すぐにも彼が感じたせいだったろう。
「あなたはフランスの人ですね」
と、向うからいいかけて来た。
「さよう、あなたも?」
「正確に言うとベルギーなんですがね。……しかしこの数年ブレーメンに住んでいます」
「それで、このジューネと称する男を御存知なのですか?」
「いや! ただ、今朝がた、新聞でフランス人がこのブレーメンで自殺した記事を読みましてね……パリには長いこといたものですから……どんな人かちょッと覗いて見ようと……ただそれだけの好奇心で……」
こんな時、いつもそうなのだが、メグレは重い静けさである。片意地ではあるが、牛みたいに狡《ずる》さのない表情である。
「あなたは警察の方でしょう……」
「ええ、司法警察ですが……」
「じゃアこの事件で急遽出張というわけですね。……いや、私としたことが、バカな話を……自殺は今朝がたのことだからこう都合よく間に合うはずはないのでしたね。……ところで、このブレーメンには御|昵懇《じっこん》でも? おありにならない? それじゃア、私でよろしければ、何でもお役に立たせて頂きましょう。いかがです、お近づきのお印までにその辺でお口よごしを……」
いわれるままに、やがてメグレはこの男がみずから運転する自動車の客となった。
実によく喋る男である。実業家にはよく、陽気で一時もじッとしていない型があるものだが、これもそれだ。あらゆるものに馴染みだ。通りがかりの人と挨拶をかわしたかと思うと、とある建物を指さしていう。
「これが北ドイツロイド汽船です。最近進水の新型船のことはご存知でしょうナ。……あれは、私のお顧客でして……」
そのうちに、窓という窓に皆違った文字を書いてあるビルディングを指し示して、
「五階の左手、あれが私の事務所なんです」
窓ガラスには白い文字が浮いている。――輸入、輸出、一手取次ジョセフ・ヴァン・ダンム。
「考えてごらんなさい、私は丸一ヶ月、フランス語を片言も話さずにいることがあるんです。使用人はおろか、秘書というのもドイツ人なのですからね。商売がら止むを得ないといえばそれまでですけれど……」
もともとメグレの表情からは心の動きを読みとることは至難である。探したところで、せいぜい陰険さが見つかるばかりだ。彼は何でもフムフムと聞いている。相手の押しつけるものは何でも受け入れる。ヴァン・ダンムが自分の車の特許停歩器を自慢すれば、一応それを感服するといった具合だ。
一緒に大きなビヤホールへ入る。商売人がごった返して大声で話し合っている。ウィンナ・オーケストラが絶え間なく演奏し、ビール・コップがガチャガチャ音を立てている。
ヴァン・ダンムは夢中になって話しつづける。
「ここに集っている何百万というお客が、どういう連中かおわかりになりますまいね。ドイツ語がおわかりにならんようだから……隣りでは今、オーストラリアとヨーロッパで取引されている羊毛の船荷の売買が成立したところです。彼はいつも就役中の船を三十ぱいや四十ぱい持っているという豪勢な男です。ほかにもそんなのがうようよしていますよ。……何をお飲みになります? ピルゼンがいいと思いますが……それはそうと……」
来たナ! だが、メグレはニコリともしない。
「それはそうと、あの自殺者はどうなんです?……ここの新聞がいっているように、やはり食いつめた揚句というわけでしょうかね」
「まアね」
「そのことはお調べになったんでしょう?」
「いや、それはドイツ警察の領分でしてね。まア、自殺ということだけは確定したんだから……」
「全くですとも!……私もフランス人ということだけで、びっくりしたわけでしてね。何しろ、この北方にはほとんどフランス人を見かけることがないもんですから……」
つと立ち上って、出て行こうとする客と握手し、いそがしそうに立ち戻る。
「いや失礼しました。あれは大きな保険会社の頭取をしているんです。何億という資本でしょう。……ところで、警部さん、もうおっつけお午ですが、昼飯を御一緒にいかがですか?……何しろまだ独り身なもんですから、レストランでないとお招きできないという次第で……そのレストランもパリのようには行きませんが、それでも何とか及ぶ限りのものを作らせるようにいいつけましょう……よろしいでしょうナ?」
給仕を呼んで、金を払う。ポケットから財布を引きだすその動作は、メグレがよくお目にかかる奴である。取引所の近所で一杯ひっかけた実業家たちの決ってやる癖、うしろへそっくり返って、顎を埋めるようにし、満ち足りた無雑作さで、紙幣でふくらんだ革の紙入れをとりだす……ちょいと真似のできない仕草である。
「それでは、お供を……」
警部は夕方の五時までとっつかまってしまった。ご丁寧に事務所へまでも案内を受けたのである。事務員が三人、それに女タイピストがいた。
ヴァン・ダンムはその上メグレにこんな申し出までした。その日ブレーメンを出発するのでなかったら、夜分は町の有名なキャバレーへお供したいというのである。
警部は町へとびだしたが、独りになって見て、はっきりそれとはいえないある考えを追いつづけている。思考と名づけられるかどうか危ぶまれる漠《ばく》としたものだが……
彼は心の中で、二人の人間のシルエットを並べて見る。どこかにつながりはないかとそれを探す。
一つあるのだ。ヴァン・ダンムは死体陳列場で見知らぬ男の死体をつくづく見検《みあらた》めようとしたではないか。フランス語が喋れるという嬉しさだけで、メグレを飯に誘ったのではない。
それに、警部がどうやら事件に無頓着なばかりか、いっそ鈍感にさえも見えるということがわかりかけると、それにつれて本性を現わしはじめた。
朝方、死体陳列場の時はそわそわと落ち着かず、その笑いにも自然さが欠けていた。
それが夕方別れる時は、まるで見違えるような生粋のビジネスマン振り。ちょこまかとよく動いて、よく喋り、大実業家気取りで、自動車を操縦し、電話をかけ、タイピストに物をいいつけ、うまい料理を出させ、すっかり自分は満足しきっているふうである。
一方には顔色の悪い男がある。着古しの洋服、穴だらけの靴底、たべられるかどうかもわからないような腸詰パンを買い求めたあの男。
ヴァン・ダンムはおそらく、また誰か相棒を見つけ、夕方の一杯をあのウィンナ音楽とビールの雰囲気の中で取りかわすだろう。
その六時には、死体陳列場で、金属の箱が音もなく滑って、あの贋《にせ》ジューネの死体を蔵いこみ、揚げ下ろし機がその箱を冷蔵室へ運ぶ。明日の朝になるまで、その番号のついた棚も開かない。
メグレは警察へ寄って見た。警官たちが、この季節にもかかわらず上半身を裸かにして、赤煉瓦の塀に囲まれた中庭でしきりと体操をやっていた。
実験室には優しい眼つきの青年が働いていて、その傍のテーブルの上に、死体に属していたあらゆる品がきちんと並べられ、いちいち札がつけられてある。
青年は正確で適切なフランス語を話したし、そうすることに誇りを感じているらしかった。
まずジューネが自殺した際に着ていた灰色の服について、その裏は全部ほどき、縫目なども調べて見たが、目新しい発見はなかったと前置きした。
「服はパリの百貨店のものです。五割|綿《めん》入りの服地ですから、特売品売場の品です。油脂のしみが大分あります。鉱油の方は、工場、作業場、ガレージ等に勤めたか、しばしば出入りしたことを物語っています。シャツはマークなしでした。靴はランスで買ったものです。洋服同様、並製の、大量生産品です。靴下は綿製、行商人が一足四、五フランで売っている安物です。穴があいていますが、一度も繕《つくろ》った形跡はありません。
これらの被服は全部丈夫な紙袋に入れ、篩《ふるい》にかけ、埃《ほこり》を集めて鑑識して見ました。
その結果、鉱油の|しみ《ヽヽ》で判断した結果が一層裏書されたわけですが、服地には金属の小粉末が食いこんでいて、これは仕上工とか施盤工といったような製作機械工場に働く連中の服に見られる現象なのです。
この特徴が、もう一つの方の服、仮りにBと呼びますが、それに一向見当りませんし、しかも最少限度六ヵ年以降着用した形跡がありません。
この他まだ相違点があります。Aの服には、一般に鼠葉《ねずみば》と呼んでいるフランス専売局の安タバコの粉がありました。
ところが、Bのポケットから出て来たタバコの粉は、エジプト葉に似た黄色の上物だったのです。
最後に、一番重要な点を申し上げましょう。B服についていた|しみ《ヽヽ》は油ではありません。だいぶ古いものですが人血です。それも動脈血と思われます。
この服は長いこと洗濯されないままです。着用者は文字どおり血まみれになったものと考えられます。方々に裂け目がありますが、これは格闘の結果生じたもので、緯《よこいと》が爪にひっかかってはじけてしまったものと思われます。
B服の方は、リエージュ市オート・ソーヴニエール街の洋服店ロジェ・モルセルのマークがあります。
ピストルは二ヵ年このかた作られていない古い型のものです。
おところを書いて下されば、上司に出す報告書のコピーをお送りして差し上げますよ」
夜の八時、メグレは手続きを終えた。ドイツ警察は自殺者の服と、いわゆる係員がB服と名づけた、鞄の中の服とを引き渡してくれた。死体の方も、フランス当局の処置がきまるまでは、そのまま死体陳列場の冷蔵庫の中に保管される許可がおりた。
メグレはジョセフ・ヴァン・ダンムの戸籍を調べてもらった。リエージュ生れで、両親はフランドル(北フランス)出身、外交販売から現在その名がある取次店の支配人となった。
三十二歳、未婚、ブレーメンに住みついて三ヵ年、当初はだいぶ悪戦苦闘だったが、今はなかなかの羽振りである。
警部はホテルへ帰ると部屋に閉じこもって、眼の前にファイバー製の鞄を二つ据えたまま、長いことベッドの端に腰かけていた。
隣りの部屋との間の扉を開いたが、全部昨日とそのままに変らない。ほんのわずか、悲劇が残して行った変化があるとすれば……壁紙の薔薇の花模様の下に、ぽちりと褐色の|しみ《ヽヽ》がある。一滴の血痕だ。テーブルの上に紙にくるんだままの腸詰パンがまだ打ち捨てられてあって、蠅が一匹とまっている。
午前中に、メグレはパリに宛てて死者の写真を二葉送っておいた。司法警察に頼んで、できる限り多くの新聞に掲載方を要請したのである。
パリで何か見つかるだろうか? そこには少くとも証拠の宛先がある。ブリュッセルからジューネが三万フランを送り届けた番地である。
リエージュも当って見なくてはならない。B服が何年か前に買われたからである。ランス、そこは自殺者の靴が出た。ブリュッセル、例の三万フランの小包。ブレーメン、あの男が自殺して、ジョゼフ・ヴァン・ダンムと称する男がそ知らぬ顔つきで、こっそり死体を見にやって来た。
ホテルの主人が顔をだして、ドイツ語で長々と喋り立てた。警部は、この悲劇の部屋を明渡して、貸せるようにしてもらいたいのだと解した。
そこで、承知の咳払いをして見せ、手を洗ってから、支払いをすませ、二つの鞄を持って宿を立ち退いた。
彼はこの事件を、隅から隅まで捜査しようという気は別になかった。ただ、ともかくパリに行こうと思い立ったのは、ここの激しい異国的な雰囲気が絶えず彼の習慣や精神状態をかき乱して、さすがの彼もいささかふらふらになったからにほかならない。
黄色い葉のタバコもとうとうやらなかった。軽すぎて吸おうという気を起させなかったのである。
急行に乗って一眠りし、ベルギー国境で眼が醒めたが、ちょうど日の出の頃で、三十分後にはリエージュを通った。ぼんやりした眼を窓外に送る。
汽車は駅で三十分停車になっているが、その間にオート・ソーヴニエール街の洋服屋を調べるだけの暇はない。
午後二時には北停車場に着いた。パリっ児たちと一緒になって、第一にしたことはタバコ屋に立ち寄ることだった。
ポケットのフランス貨幣を探しだすのでちょっと手間どった。誰かが彼を小突いた。二つの鞄は足もとに置いてあったのだが、タバコを買い終って、鞄に手をのばすと、いつの間にか一つ無くなっている。きょろきょろ見廻しても無駄だった。しかし、慌ててお巡りさんを呼ぶことはないということに、すぐ気づいた。
というのは、残った鞄の把手には二つの小さな鍵が紐でぶらさがっていたからである。これは例の洋服が入っている方の鞄である。
かっぱらいは古新聞紙の入った鞄を持って行ったのだ。
停車場をうろついているコソ泥の類いだろうが、それにしても、わざわざ選りに選って、こんな見すぼらしい鞄に眼をつけたというのは変ではあるまいか?
メグレはタクシーに乗り込むと、夢中でパイプを味わい、街の懐しい雑沓を眺めた。通りすがりの新聞売店にぶらさがっている新聞の第一面に、肖像写真が出ていて、遠くからでもそれがブレーメンから送ったルイ・ジューネのであることがわかった。
彼はひとまずリシャール・ルノワール通りのわが家に立ち戻って、着換えをし、妻に挨拶をするつもりでいたが、駅前での出来事が何となく気になって来た。
「かっぱらいの目的が、もしB服だったとすると、どうしてパリにいながら、おれがそれを所持していることや、この時間に到着することをはッきり知ることができただろう?」
ノイシャンツやブレーメンで、あの放浪者の痩せさらばえて蒼ざめた顔のまわりに、もろもろの秘密が、へばりついていたように見える。現像液にひたした写真の種板に、もやもやといろんな影が浮きだしている感じである。
どうしてもそれをはっきりさせ、顔を見分け、名前も明らかにし、性質や存在の理由を突きとめなければならぬ。
現在、写真の種板の真中には、真裸かにされた死体がころがっているだけだ。顔はドイツ官憲がもっともらしく見せかけようといじり廻し、むごい光線を当てて切離したものではあるが……
まわりに立ち迷う影?
パリではまず第一に、鞄をかっぱらって消え失せた。おそらくブレーメンかどこからか、べつな影が連絡をとったにちがいない。あの陽気なジョゼフ・ヴァン・ダンムの仕業か? いやそうではあるまい。……もう一人、あのB服を数年にわたって着用した人物がいる。そいつは格闘をして、服を血まみれにしたのである。
まだいる。贋ジューネに三万フランの金を与えた人物。あるいは盗まれたのかも知れないけれど……
陽が輝いていて、火鉢で暖められたカフェのテラスには客が賑っている。客引きの運転手たちの声。バスや電車に鈴なりの群集。
ブレーメンでも、ブリュッセルでも、ランスでも、同じようにこの群集が動き廻っているだろうが、その中から二人、三人、四人、五人の人間を探しださねばならぬ。
もっといるだろうか? いや、案外少いのか?
メグレはタクシーを降りると、懐しそうに警視庁の堂々とした正面玄関を眺め、前庭をよぎった。鞄をぶらさげたまま、事務室の給仕に愛称で呼びかける。
「おれの電報を受け取ったね?……ストーヴの支度はできてるか?」
「写真のことで、婦人が一人出頭してますよ。……もう控室で二時間も待っているんです」
メグレは外套も帽子も脱ごうとしない。鞄さえぶらさげたままである。
警部たちの事務室が並んでいる廊下の一番奥に、応接室があって、三方ガラス、緑のビロード張りの椅子をしつらえ、一方の壁に殉死した警官のリストがずらりと掲げられている。
椅子に一人の婦人が腰をおろしていた。まだ若く、きちんとはしてるが、長いことランプの下で縫い物をして、こつこつと生活費を稼がねばならぬ貧しさが一目で見てとれた。
黒いマントの上に、ひどく痩せ細った毛皮の襟巻をしている。灰色の手袋をした手に、メグレの鞄と同じような擬革の手提げを握っていた。
警部は彼女と自殺者との間に、何となく相通じるものがあるのに気がつかぬはずはない。顔つきが似ているわけではない。一種の表情である。いって見れば、階級の相似ででもあろうか。
彼女もまた、勇気が置きざりにした人々と同じく、灰色の瞳、疲れた眼蓋の持ち主。鼻孔が痩せ細って、色艶《いろつや》も褪《あ》せている。
二時間も待っている間、場所も変えず、身動き一つしなかったのだ。ガラス窓を通してメグレの姿を見たが、それがこれから会う人だという期待さえ抱いていないようである。
メグレは戸を開けた。
「奥さん。私の事務室へおいでになりませんか?」
彼女は先に立たされて、事務室に来たが、どうしていいのかわからぬように棒立ちになっていた。手提袋と一緒にくしゃくしゃの新聞を持っている。自殺男の肖像が半分のぞいている。
「その人物をあなたが御存じのように聞きましたが……」
いわせ果てず、彼女は顔を蔽うて、唇を噛んだ。泣きじゃくりながら、身を震わせ、やっとのことのようにいった。
「これは、私の夫でございます」
メグレはいちはやく安楽椅子を彼女のところへ押しやった。
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第三章 ピクピュ街の薬種屋
やっとのことのように、彼女が発した最初の言葉はこうである。
「あの人、ひどく苦しんだでしょうか?」
「いや、奥さん、何しろ即死といってもよかったでしょうからね」
彼女は手にしていた新聞を見て、それを拾い読みするのにも大変な努力で、
「口の中へ?……」
警部は微かに頭をうなずかせただけだったが、彼女は急に落ち着いて、床を見つめながら、まるで悪戯《いたずら》ッ児の話でもするように、深い調子でいった。
「あの人は月並なことのできない人でした」
それは愛人の調子でもなく、配偶者のそれでもない。まだ三十にもならぬ年であるのに、母のような優しさを帯び、修道女のような控え目な甘さを持っていた。
貧しいものは自分らの絶望の表現を抑制することに慣れているものである。生活が時々刻々、労働と日々の糧を得ることに彼らを追うからである。彼女は眼頭《めがしら》を手巾《ハンカチ》で拭き、その鼻が少し赤くなり、そのためせっかくの容貌が台無しになった。
警部を眺めている間中、悲嘆の表情と愛想笑いとが入りまじって唇を震わせた。
「お差し支えなかったら、質問を二、三させて下さい」と、警部は机の前に坐って、「御主人はルイ・ジューネというのが本名だったでしょうか? 最後にお別れになったのは、いつのことだったでしょうか?」
彼女はまたも危く泣きだしかけた。瞼《まぶた》が涙でうるんでいる。手の中の手巾が、小さく丸められた固いタンポンのようになっている。
「もう二年にもなりますの……でも一度、玄関のガラスに顔を押しつけたのを見たことがあります……その時、母がそこには居合わせなかったら……」
メグレはこのまま彼女に喋らせるより他はないと悟った。彼のためというより、自分のために彼女は喋っているからだ。
「あたしたちの生活のこと、いろいろお知りになりたいのでございましょうね。それがどうしてルイがあんなことをしたかということのわかる唯一つの手掛りですわ。……あたしの父はボージョンで病院の看護人をやっていました。それと一緒に、ピクピュ街で、母には薬種屋をやらしていました。
六年前に父が亡くなりましたので、母とあたしは商売の方だけでやって行かねばなりませんでした。……その頃、ルイと知り合いになったのです……」
「あなたは今、六年前といわれましたね。その頃もジューネといっていたのですか?」
「はい……」と、びっくりしたようにして、
「あの人はベルヴィユの工場で断截《だんさい》工をやっていました。よく働いてくれました。ですから、どうして物事がこう急に変ったのか、あたしにはわかりません。あなたにもお察しがつきますまい。あの人は何にでもいらいらして、噂《うわさ》では熱病にかかったせいだろうといわれたものです。
交際を続けたのはほんの一ヶ月くらいだったでしょう。すぐ結婚して、あの人はあたしたちの家へ住むようになりました。
お店の部屋は家族三人には手狭で、母のために一部屋シュマン・ヴェル街に借間をしました。……薬種屋はそのままあたしが引き受けて、母の生活費として毎月二百フラン仕送りすることにしたのです。
ほんとうに幸福でございましたわ。……ルイは朝方働きに出かけます。母が手助けにやって来て下さる。夕方、あの人は帰って来て、いつも家にいてくれました。
さア、なんといっていいのかあたしにもわかりませんが、そんなふうでいながら、何かそぐわないものがあるのを、あたしは感じないわけには参りませんでした。
そうです、いって見ると、こんなふうなのです。ルイはあたしたちの世界の人じゃない。その世界の空気があの人をしばしば痛めつけたのだと。……それほど、弱々しいところがあった人です」
表情が曇りを帯びて来たが、喋っている間にだんだん彼女は美しくなって来る。
「あたしは、多くの男のかたがそうだとは思っていませんけれど、……あの人は時たま突然あたしを抱きしめて、眼をじっと覗きこみます。あんまりみつめるので、気持が変になるくらいに。……そうかと思うと、不意にあたしを突き放して、独り言のように溜息をつくのです。
『ジャンヌ、やっぱりおれはお前を愛しているんだ!』
それっきりでした。あたしの方は見向きもせず、何かに夢中になってしまうのです。何時間もかかって、家具を整理したり、台所道具を作ったり、柱時計の修繕をはじめたり……
あたしの母は彼をあまり好きませんでした。特別の理由からではなく、彼が変り者であるということだけで……」
「衣服や道具の中で、特に大切に蔵《しま》って置いたようなものはありませんでしたか?」
「あら、どうしてそれを御存知なんでしょう?」
彼女は驚いて、ちょっととび上り、早口でいいつづけた。
「古い洋服なんですの。……ある日のこと、洋服|箪笥《だんす》の上に置いてあったボール箱の中から、あたしがその古洋服をとりだして、ブラシをかけようとしているところへ帰って来ました。破れ目もできているので、繕おうと思っていたのです。家でならまだ何とか着ていられる服でした。……ルイはそれをあたしからひったくると、とても怒って、わけのわからぬことを口走り、その晩はまるであたしを憎くてたまらない様子でした。……それがあたしと結婚して一ヶ月ほど経った頃でしょうか。それからというものは……」
そして彼女は溜息をついた。メグレを見上げる眼眸《まなざし》には、こんなつまらない話ばかり続けて申しわけないと詫びる色があった。
「ふむ、御主人は一層|偏屈《へんくつ》におなりになったというわけですね?」
「でも本当に、それはあの人の罪ではないんです。あたし、病気だったのだと信じています。それを苦にしていたのです。たとえば、一時間ほども、台所に一緒にいて、楽しく話し合っているうちに、突然フッと気分が変ってしまいます。急に黙りこくって、家具でもあたしでもじろじろ皮肉な笑いを含んで眺め、あげくにおやすみとも言わないで寝床にもくりこんでしまうのでした」
「友人はなかったのですか?」
「ありませんでした。誰一人訪ねて来た人はありません」
「旅行をしたり、通信を受けたりするようなこともなかったのですか?」
「ございません。家で人に会うのも嫌いなふうでした。……時々隣りの女の人がやって来て、ミシンがないのであたしのを使うのですけれど、それがルイを怒らせるのには一番のやり方でした。
怒るといっても、ひとさまのようではありません。心の中でくすぶらしているのですね。一人|角力《ずもう》の苦しみようなのです。
赤ん坊ができたようだと一度あの人に告げたことがあります。その時、あたしをみつめた眼つきといったら、狂人のようでした。
この時から、ことに赤ん坊が生れてからというもの、酒びたりになるようになりました。
でも、あの人は赤ん坊が可愛かったのだと思っています。最初の頃、あたしを愛《いと》しそうに眺めたその眼つきで、時々赤ん坊を眺めていましたから……
その癖あくる日にはべろべろになって戻って来て、部屋の扉にも鍵をかけて寝てしまい、何時間でも何日でも出て来ないのです。
最初の頃は、それでも、泣きながらあたしに詫びました。おそらくは、あたしの母が間に入らなかったら、あの人をそっとしておくことができたでしょうに、母が余計なお説教をはじめるものですから、つい大騒ぎになってしまうのでした。
ルイが二日も三日も仕事を休んでしまう時に、この騒ぎが特にひどくなりました。
おしまいには、あたしたち、全くもう不幸になりました。おわかりになって下さいましょう? あの人はだんだん手がつけられなくなってしまい、母は二度までも、帰って来るな、とあの人を家から突きだしたりしました。
それでも、あの人には何の罪もなかったのです。何かに駆り立てられていたのでしょう。そんな時でも、あたしの坊やを、さっき申し上げたような優しい眼で眺めることがありました。
もっともそれは、ごくたまさかのことで、それに永続きもしませんでした。……最後の時の場面は何と申し上げてよいやら……母が居合せていて、ルイは勘定台のお金に手をつけたので、母は泥棒呼ばわりをしたのです。……あの人はぐれている時のように真っ蒼になり、眼を赤くして、まるで狂人の眼つきになりました。
あたしに近寄って来て、首を締めそうにするのです。怖しさのあまり、あたしは叫びました。
『ルイ!』
身をひるがえして彼は出て行きました。後ろ手に閉められた戸が、あまり強すぎて、ガラスが割れました。
それっきり、二年になります。御近所の人の話では、時々姿を見かけたこともあるそうです。あたしはベルヴィユの工場にも行って見ましたけれど、もう働きに来ないという返事でした。
誰やらのお話に、ロケット街でビールのポンプを作る小さな工場で見かけたと教えてくれたこともあります。
半年ほど前、たった一度ガラス戸越しに覗いている彼を、あたしは見かけました。あたしと坊やのためにまた一緒に暮すようになった母が店にいました。母はあたしが戸口へ走って行こうとするのをさえぎりました。
あなた様のお話では、あの人、苦しみもせず、即死だったそうですね。……本当に不幸な人だったのですわ。それが少しはわかって頂けたと思いますけれど……」
彼女はいかにも同感を求めるように話を進めていた。愛する夫の影響力が強くて、知らず知らずにそれが表情にまでも出て来ている。
最初会った時、ちらと受けた印象であったが、メグレはこの女性と、ブレーメンで口に一発ぶち込む直前劇しく指を鳴らしたあの男との間の妙な共通点を、また感じないではいられなかった。
むしろ、彼女が述べたわけの分らぬ熱病なるものが、彼女にも乗り移ってしまったようだ。ふと押し黙ったが、全神経が沸々《ふつふつ》とたぎっている。彼女は口を開けて喘ぐ。何というわけもなしに、何かを待っている。
「御主人は自分の過去や幼年時代のことを、話したことはありませんか?」
「いいえ、もともと口数の少いほうでしたが――あたしの存じているのは、ただあの人がオーベルヴィリエの生れだということだけです。あたしはあの人が身分不相応な教育を受けたことはわかっています。とても能筆でしたし、草木の名前もラテン語で知っていました。近所の小間物屋の小母さんが、手間のかかる手紙を書く時は、いつもそれをあの人に頼むのです」
「御主人の家族には一度もお会いにはならなかったのですか?」
「結婚前に、自分は孤児だと語ったことがあります。……あの、警部さん、つかぬお伺いをしますけれど、あの人の遺骸はフランスへ引き取ることになっているのでしょうか?」
メグレがちょっと返事に戸惑っていると、彼女は心配を隠そうと顔をそむけながら付け加えた。
「ただいま、薬種屋の方は母のものなのでございます。それで、お金となると、母はあの人の遺骸を引き取る費用をだしたがらないと思うのです。あたしが会いに行こうと言っても、同じことなのです。そんな時は……」
咽喉が塞《ふさが》って、慌てて床の上に落ちた手巾を拾おうと屈みこんだ。
「奥さん、御主人がこちらへ届けられるよう手続きを取って差し上げますよ」
いいようのない微笑をうかべて、彼女は頬ぺたに涙を溢れさせながら、
「ああわかって下さいましたのね。あなたもあたしと同じように考えて下さった。警部さん、あの人は悪い人ではありません。ただ不幸だったのです」
「お金は相当沢山自由にできたのではありませんか?」
「賃銀だけでしたわ。……最初の頃、みんなあたしに渡しましたけれど、それから飲む方にばかり……」
ほんのわずかな微笑がまた浮かぶ。悲しげだが、しかし慈悲のこめられた笑いだ。
彼女はやや落ち着きを取り戻して帰って行った。片手で細い毛皮の襟巻を引き締め、残った左手に相変らず手提げと折畳んだ新聞を握って……。
ロケット街十八番地、メグレの見つけたのはみすぼらしいホテルである。
この辺はバスチーユの広場から五十メートルとは距《へだた》っていない場所である。品の悪い踊り場や小屋掛けが並んでいるラップ街がそこに通じでいる。
地階がみんな飲み場になっていて、家という家は立ちん坊、あぶれ者、放浪者、売笑婦のお宿だ。
しかし、この日蔭者たちの気味悪い隠れ家にまじって工場が何軒かあり、間口を開けっ放して、槌の音、鎔接の響き、重いトロッコの往来で賑っている。
これは全く現世の激しいコントラストである。正規の労働者や雇人たちのひしめき、送り状のやりとり、それらと付近をうろつく下劣で厚顔な連中の横顔。
「ジューネ」
中二階にあるホテルの事務所の扉を開けて、警部は吠えるように言った。
「いねえよ!」
「部屋はあるんだろう?」
警察だナと嗅ぎつけたらしい。不機嫌になって答える。
「ええ、十九号室で」
「週借りか、月借りか?」
「月借りで」
「郵便物が来ているだろう?」
最初は胡魔化そうとしたが、結局ジューネが自分でブリュッセルから送った小包をメグレに渡した。
「こんなものをだいぶ受け取っていただろう?」
「時々ね」
「ほかに手紙類は来ないのか?」
「来ませんや。小包も全部で三度だと思いますがね。……物静かな仁でしたぜ。警察がネタを漁ろうとするわけがわからねえ」
「働いていたそうだが……」
「大通りの六十五番地でさ」
「きちんと勤めていたかね?」
「さァねえ、何週間か続いたかと思うと、パッタリ休みつづけたりのようでしたぜ」
メグレは部屋の鍵を要求した。しかし、大したものは残っていなかった。底皮が甲の方と完全に離れてパクパクになってしまったボロ靴が一足、アスピリンの入っていたチューブ、隅に放りだされてある作業服一着。
下へ降りて、もう一度親爺に確かめる。ルイ・ジューネを訪ねて来たものはかつてないこと、町の女どもとの引掛りもないこと、三、四日続く旅行をする以外に、単調きわまる生存を続けていたこと、などなど。
だが、こういう種類のホテルにいて、こんな猥雑な一廓に住んでいて、どこか抜穴がなくていられるものではない。ホテルの親爺もメグレが考えているように、それはわかっていた。それで、とうとう吐きだすように付け加えたのである。
「とり立てて落度というには当らねえかも知れねえが……飲むことでしたよ、それが、途方もねえので……あッしら、女房と一緒に言い言いしたが、まるで願掛けだッてね。月のうち、三週間は毎日毎日まじめに働きに出る。残る一週間を、トコトンまで飲みまくって丸太ン坊のように寝床にころげ込むような酔払い振りでしたぜ」
「その様子に腑に落ちないところがなかったかね?」
親爺は肩をすくめて見せた。この宿に腑に落ちるような人間なんか出入りするものかと言わんばかりに。
六十五番地はビールを吸い上げるポンプを作る工場で、間口を道路一抔に開けひろげてやっている。メグレは職工長と会ったが、新聞に出た肖像のことは、もう見て知っていた。
「警察へ一筆お知らせしようと思っていたところでしたよ。あの男は先週までここで働いていたのですからね。一時間八フラン五〇の稼ぎをしていました」
「よく働いていたとすればね!」
「事情はご存知のようですナ……全く、働いてくれさえすればね。そういう連中が多いのですよ。しかし、普通は飲むにしても、せいぜい足を出す、土曜の宵越しの金は使わないといった程度ですが、彼と来たら、それが突発的で前触れも何もありやしません。立て続けに八日くらいは酔払いのめすんです。……一度なぞちょいと急ぎの仕事があって、彼の部屋を訪ねたことがありますが、どうでしょう、たった独りで、ベッドの傍に胡坐《あぐら》をかき、床に酒壜をおっ立てて呷《あお》りつづけているんです。……お世辞にも浮き浮きした図とは申せませんでしたね」
オーベルヴィリエに行って見たが、なんの収穫もない。戸籍簿の記載によれば、ルイ・ジューネは、日傭取《ひようとり》ガストン・ジューネと女中ベルト・マリー・デュフォアンとの間に生れた。ガストン・ジューネは十年前死亡、妻は当地を去っている。
ルイ・ジューネに関しては何も知られていない。六年前に、パリから手紙で、戸籍謄本を求めて来たことがあるくらいのものである。
その旅券が偽造であること、従ってピクピュ街の薬種屋の娘と結婚し、一子を儲け、ブレーメンで自殺して果てた男が、真のジューネだったかどうかは依然わからないのである。
警視庁の帳簿を見ても、この点を明らかにする材料は見出されない。ジューネと称する前科の名もなく、ドイツで採取した死者の指紋と照応する指紋もないのである。
して見ると、自殺者はかつて一度も司直の手を煩わしたことはないわけである。それはフランス本国ばかりではない、外国においてもそうである。メグレは抜かりなく欧州諸国の当局に連絡をしてカードを調べてもらったからである。
その過去の経歴については、わずかに六ヵ年を遡ることができるのみである。その頃ルイ・ジューネは断截工として、模範的な職工の生活を送っていた。
彼は結婚した。その時すでに、B服を所持していた。この服が妻との間に最初のゴタゴタを起し、数年後にはとうとう死の原因とさえなったのである。
往来する知人も持ち合せず、手紙さえ来なかった。ラテン語を知っていて、実際に中等以上の教育を受けたらしく見える。
事務室に帰って来て、メグレはドイツ警察に宛てて死体の送還方を依頼する書状をしたため、引掛りの要務を片づけてから、ぶすッとした様子で、また黄色い鞄を開けた。そこにはブレーメンの鑑識課員が手際よく証拠品を詰合せてあった。
その中へ三万フランの小包を投げこんだのだが、思い直して紐をほどき、紙幣番号をノートして、ブリュッセル警察にその出所を確かめてもらうことにした。
この操作を、彼は熱心に重々しくやってのけた。何かのっぴきならぬ仕事なのだと自分に思いこませているふうに。
しかし、それも長くは続かず、やがて彼の視線が並べられた現場写真に憎さげに据《すわ》ってしまい、ペンも動かず、ただパイプの吸口を噛んでいるばかりとなった。
彼はしぶしぶ立ち上った。家に戻って、仕事の残りは明日に廻す気になったのだが、その時ランスから電話がかかって来たという報らせである。
それは新聞に出た肖像に関してであった。カルノ街のカフェ・ド・パリの主人からであるが、六日前に自分の店へこの男がやって来て、あまり酔払っているのでそれ以上飲ませることは断った記憶があるのだという。
メグレは躊躇《ちゅうちょ》した。ランスが出て来たのは、これで二度目である。最初は死体の穿《は》いている靴がランスの出だ。
あの靴は穿き古されていて、数ヶ月以前に買われたものであるが、ルイ・ジューネがこの町へ行ったという事は単なる偶然とは言えない。
一時間後、警部はランス行の急行列車に乗っていた。その町へ着いたのは夜の十時である。カフェ・ド・パリはなかなか贅《ぜい》を凝《こら》していて、上流の客で一杯だった。撞球台《たまつきだい》が三台もあり、まわりのテーブルでは、皆トランプに興じていた。
フランスの地方にはよくあるカフェである。客は帳場の女と握手を交すし、ボーイは親しげに客の名を呼ぶ。それが町の名士であり、代表的な商人たちであるわけだ。
あちこちに、ナプキン紙の入っているニッケルの球がぶらさがっている。
「先ほど電話を頂いた警部です」
立飲台の傍らに立って、監督役の主人が、球撞きの客の用を承っていたが、警部を振り返り、
「ああ、これは! 電話で知っている限りのことは申し上げましたがね」
低い声で、いささか迷惑そうであった。
「そうですナ。……あのお客は、あそこの三番目の撞球台の傍のテーブルに坐って、コニャックを言いつけました。二杯、三杯と立てつづけです。時間はちょうど今頃だったでしょう。……ほかのお客さんたちは、みんなじろじろ見ていましたよ。何というか……そうですね。こういう店には場違いの客だったものですからね」
「何か手荷物を持っていましたかね」
「錠前のこわれた古鞄をぶらさげていました。それを覚えているのは、出て行く時に蓋が口を開けて、中から古着が、ずり落ちたのです。蓋を縛るのに紐をくれって言ったんです」
「誰か他のお客と話したですか?」
主人は玉撞きをやっている客の一人をじっと見つめた。痩せた大男で、凝った服装をしているが、斯道《しどう》の大家らしく、そのキャノン突きなどは並居るものどもの賞讃の的になっているようだ。
「さア、よくは覚えておりませんナ。……いかがで、何か一杯……お掛けになっては?……」
盆が積んである少し離れたテーブルを選んで腰をおろし、
「十二時頃でしたか、そのお客はこの大理石みたいに白っちゃけましてね。何しろ、八九杯はコニャックを引掛けたでしょう。胸糞が悪いくらいに目が据《すわ》りました。……酔うとよくこういうふうになる人があるものです。決って身動きもせず、押し黙ってしまって、時が来ると、ドタンとぶっ倒れる。……それがわかり切っていましたから、私はもうこれ以上酒はあげられないと言いに行きましたが、別に逆らいもしませんでしたナ」
「玉撞きの連中はまだいたのでしょう?」
「そこの三番目の台にいる御連中です。あの人たちは毎晩やって来る御常連で、コンクールをやり、まあクラブなんですナ。……そのお客はでて行きました。その時、鞄の蓋が開いたというわけですが、あんなに酔払っていて、どうして紐を結ぶことができたか不思議ですよ。……それから半時間ほどもして、店は看板にしました。……撞球のお客さんたちも私の手を握ってお帰りでしたが、中の一人がこう言いましたっけ。
『あの酔払いにはその辺のドブん中でお目にかかるだろうね』」
主人の眼がまた例の上品な客に注がれる。色白で手入れの行届いた手をして、非の打ちどころのないネクタイを締め、エナメル靴が球台を廻る度ごとにキュッと音を立てる。
「洗いざらい、みんなお話しても構わんでしょうね。どうせそれはほんの偶然か何かの間違いに決っていますから。……というのは、そのあくる日のことでしたが、毎月顔を見せる外交商人がいましてね、その晩もここで一緒だったのが、昨夜夜更けの一時頃に、その酔払い客とベロアールさんが一緒にいるのを見かけ、おまけに揃ってベロアールさんの家に入って行ったというのです……」
「あの背の高い金髪の人だね?」
「さようで……ここからほんの五分、ヴェール街の綺麗なお屋敷です。銀行の副頭取をやっているのです」
「今もその商人は来ていませんかね?」
「おりませんな。例によって、東部へ行っております。十一月の中旬でないと戻っては参りますまい。もちろん私はその時、見誤りだったろうと言ってやりましたよ。ところが、間違いなしと頑張る。……そこで面白半分に、ベロアールさんに言って見ようかとさえ思いましたが、まア止めました。ご機嫌を損ずるかも知れませんからナ。……ところで、私がお話ししたことを、そのままに受け取って頂かぬようにお願いしますよ。……それに、こんな話にしても、私から出たようにはなさらんで下さい。どうもこういう人気商売なもんですから……」
球撞きの客は、四十八点を撞き切ると、鮮かな腕前が示した効果を確かめるように周囲を見廻し、キューの先に緑のチョークをこすっていたが、メグレが主人と一緒にいるのを見ると、眼につかぬほどわずかに眉をひそめた。
というのは、とぼけた顔つきをしようとすると、かえって陰謀家の不安気な表情になるものだが、主人のがそれだった。
「エミール君、どうだね、一丁!」
遠くからベロアールは声をかけて来た。
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第四章 意外な訪問者
その邸宅はまだ新しく、その設計の中に、また建築素材の中に、簡潔さ、気安さ、程のよい近代味、浮わつかぬ豪奢さなどを企図《きと》しているのがよく現れていた。
鮮やかな漆喰《しっくい》どめをした赤煉瓦、建築用石材、銅飾りを施したピカピカする樫の大扉。メグレがそこに立ち現れたのは朝の八時半という早目の時刻。ベロアール家の私的生活を驚かそうという下心あってのことである。
正面玄関は、なるほど銀行の副頭取の様子に似つかわしく、それが大扉を開けて純白の前掛け姿の小間使が現われるに及んで、いよいよその感じが深まった。廻廊は広く、分厚な鏡をとりつけた戸で距てられている。模造大理石の壁、幾何学的模様を作って二色に分けられた花崗岩作りの床。
左手に、明るい色の樫で作った二枚戸の扉がある。客間と食堂に通じているのである。
外套掛けには、いろいろぶらさがっている中に、四、五歳の子供のがまじっている。たっぷりと大きな傘立てに、握りを金にした籐《とう》のステッキがのぞいている。
このような隅々まで行届いた生活の雰囲気をゆっくり見定めている暇は警部にはなかった。ベロアール氏の名を口に出すや出さぬに小間使はうなずいたからである。
「どうぞこちらへ。皆さまお待ちかねでいらっしゃいます」
彼女はガラスをはめた扉に進み寄った。もう一つの扉の隙間から、警部は食堂をチラと覗いた。
暖くて清潔そうである。きちんと飾られたテーブルに、略服姿の若い女性と、四歳くらいの男の子が一緒に朝の食事をとっている。
扉を開けた向うに、明るい色の板張り階段があって、真紅の絨氈が張られ、一段ごとに真鍮の棒で押さえられている。
階段の踊り場には、巨大な常盤木《ときわぎ》の鉢がある。先に立った小間使は、ある部屋の扉に手をかけていた。そこは書斎と覚しいが、そこに三人の人間がいて、一齊に振り返ってこっちを見た。
瞬間ショックが起った。間の悪さ、というより憂悶といったものが視線を固くした。何にも知らぬ小間使だけが、いかにも自然な調子でいう。
「どうぞお通り下さいませ」
三人のうち一人は当のベロアール。きちんとして、金髪に櫛が当てられている。その隣りにいるのは、さほど身装《みなり》の凝っていない人物で、メグレには初対面である。三人目は他ならぬジョゼフ・ヴァン・ダンム、ブレーメンの実業家その人なのであった。
三人のうち、二人が同時に口を切った。
まずベロアールが眉を寄せて一歩踏み出すと、乾いて癇《かん》高くなった声で、飾った含みをつけて、
「あなたは?」
と言いかけると、ほとんど同時にヴァン・ダンムが例のように滑脱振りを示しながら、メグレに手を差しだしたのである。
「やア、これはこれは。あなたにここでお目にかかれようとは!……」
三番目の人物は黙ったまま、何事が起ったのか解《げ》せぬ面持で成行きを見守っている。
「お邪魔したことをお詫びします」警部は口を切って、「こんなに朝早くお集まりがあるとは思っていなかったものですから」
「とんでもない! とんでもない!」ヴァン・ダンムはさえぎって「さア、おかけなさい。葉巻はいかがです?」
マホガニーの机の上に葉巻の箱があるが、この実業家は喋りながら、それを開いて、ハヴァナを一本つまんだ。
「今ライターを点《つ》けますからお待ち下さい。……この葉巻は無検印ですけれど、私を違警罪で告発するのは勘弁して頂きたいですな。……それはそうと、ブレーメンで、どうしてあなたがベロアールを知っているとおっしゃっては下さいませんでした? だったら一緒にここまでお供することができたのでしたがね。何しろ私は、あなたが発った数時間あとに出発したんですよ。電報が来て、事業のことで至急パリに駆けつけたというわけです。ついでにベロアールと旧交を暖めに来たところですが……」
そのベロアールは依然固くなったままで、説明を求めるがごとくにダンムとメグレの二人をとみこうみしている。メグレはベロアールの方に向き直って言った。
「できるだけ簡単に私の訪問は切り上げたいと思います。どうやらまだお客がおありのようですから……」
「お客を? どうしてそれを御存じですか?」
「いや何でもないことで! お女中が私に、皆さんお待ちかねで、という御挨拶でしたが、あなたが私をお待ちになっているはずはないのですから……」
眼だけは笑っているが、表情は全然動いていない。
「司法警察のメグレ警部です。……昨夜カフェ・ド・パリで私をお見かけのはずです。実は捜査中の事件について、あそこで聴き込みをやっていたのでしたが……」
「まさかブレーメンの時の事件じゃないでしょうな?」
ヴァン・ダンムがわざと無造作に口を挟んだ。
「いや、そうなのです。……ベロアールさん、この写真をごらんになって、この男が先週のある晩、あなたがここに迎えた男と同一人物かどうか、おっしゃって頂きたいのです」
警部は自殺者の肖像をさしだした。銀行の副頭取は身を屈ませたが、ろくに見もしないで、というより焦点を合わせようともせずに、
「全然知らん人ですね」
と写真をメグレに返しながら、きっぱりと言った。
「では、カフェ・ド・パリの帰途、あなたに言葉をかけたのはこの男ではないとおっしゃるのですな?」
「何のことですか、それは?」
「しつこいようで、まことに恐縮です。取るにたらない情報かも知れませんが、ちょっと私の耳に入ったものですから、それを確かめにお邪魔にあがったので、もちろんあなたが司直に御助力して下さると信じてのことですが……実は、あの晩、あなたが球撞《たまつき》をやっていらした三番目の球台の傍に、酔払いがおりました。様子が変っているのでお客がみんな注意していたんですが、その男はあなたの帰る前に店を出て、あなたが皆さんとお別れになって外へ出ると、あなたに近寄って行って……」
「ああやっと思いだしましたよ。タバコの火を借りに来たのでした」
「それであなたはその男と連れだってここへ御帰りだったのではないのですか?」
ベロアールは厭味な微笑を浮かべた。
「そんなお伽噺を誰があなたに話したのか知りませんが、浮浪人を邸内に引張りこむなんて、およそ私の趣味ではありませんね」
「浮浪人でも友愛をお感じになれば別だと思いますが……」
「私はやたらに友だちを作りませんよ」
「すると、やはりお独りで帰られた?」
「断言します」
「あの浮浪人は、このお見せした写真の主と同一人だったでしょうか?」
「分りませんね。私は相手を眺めもしなかったくらいです」
聴き手に廻ったヴァン・ダンムはもどかしそうにして、何度か間に割って入ろうとする気配を見せた。三人目の人物は、小さな鳶《とび》色の顎髯《あごひげ》をつけ、どこか芸術家風の黒い服を着ていたが、窓から戸外を眺めつづけたなりで、呼吸でガラスが曇るのを時々指で拭《ぬぐ》っていた。
「なるほど、そうおっしゃられれば、ベロアールさん、お邪魔したお詫びを述べて引き退るより他はありません」
「お待ちなさい。警部さん」ジョゼフ・ヴァン・ダンムはとうとう仲に入って、「こんなふうにしてお立ちになる法ッてないでしょう。どうぞ、もう少しいらしていてください。ベロアールはとって置きの古いコニャックを振舞おうというのですよ。……あなたはブレーメンで私が申し出た晩餐をすっぽかしたではありませんか。私は一晩中あなたを待ちぼうけたんですからね」
「パリへは汽車でしたか?」
「飛行機ですよ! 旅行は大概飛行機にしていますよ。実業家は皆そうですからね……パリへ来て、急に旧友のベロアールと会いたくなったというわけで。……我々は同級生だったのです」
「リエージュで?」
「そうです。相見ゆることなく十年、この男が結婚したことさえ知らなかったという始末でしてね。来て見て大きな坊やのパパになってるなんて、全く驚きました。……それはそうと、あの自殺者のことがまだ引掛っているらしいじゃありませんか」
ベロアールは小間使を呼んで、コニャックとグラスを持って来るように命じた。意識的にゆったりとまたはっきりと試みているその身振りの一つ一つに、思いつめた熱っぽさがあった。
「捜査はやっと取り掛かったばかりです」メグレは素直に呟《うなず》いて「ですから、これが長引くか、それとも案外一日二日で片づくかどうか見当もつかないでいるのですよ」
玄関の呼鈴が響き渡った。三人の人物は互いに視線を流した。階段に人声がする。はっきりそれとわかるベルギー訛りで喋っているのだ。
「みんな階上だね? よしよし、部屋はわかってる!」
扉の向うで、もう声をかける。
「いよう、諸君!」
だがその挨拶は硬ばった沈黙の中に落ちただけだった。彼は周囲を見廻して、メグレがいるのに気づき、眼で仲間のものたちにたずねかけた。
「お待たせしたようだが……」
ベロアールは表情を硬ばらせて、警部に向って進み出た。
「友人のジェフ・ロンバールです」
歯の先で言った。それから、言葉を区切るようにしながら、
「こちらは、司法警察の、メグレ警部」
新来の客はちょっとよろめくようにして、滑稽な調子を帯びた意味のない言葉を呟いた。
「やア、それはどうも、結構!」
だが、戸惑って、小間使に外套を渡し、あわててポケットに入れてあったタバコを取り返しにあとを追った。
「警部さん、またベルギー人です。あなたは申し分のないベルギー人の集りに立ち会っているわけですナ。何かこれから謀反の相談でもはじめるのかとお思いでしょう。……コニャックか、ベロアール?……警部さん、葉巻はどうです?……ジェフ・ロンバールはリエージュに残っているただ一人の男ですよ。仕事とはいいながら、偶然こうして一堂に会する機会ができたので、好機逸すべからずと、大いに飲み食いの宴を張ろうというわけです。お差し支えなければ……」
ヴァン・ダンムはほかの連中を幾分ためらいながら見やって、
「何しろあなたはブレーメンで私の申し出た晩餐をすっぽかしてしまわれた。今度は受けて頂きたいものですがね」
「いや、残念ながらほかの約束がありますのでね。それに、あなた方の用事の邪魔をしてもいけません」
メグレが答えると、ジェフ・ロンバールはテーブルの方へ歩み寄った。背が高く痩せているが、どこか不釣合いで、間伸びのした体躯で、色艶も蒼い。
「ああ、その写真なんですが……」と警部は独り言のように言って、「ロンバールさん、まさかその男を御存じじゃありますまいな。そんな偶然は万に一つの奇蹟には違いないのですが……」
言いながらも写真を相手につきつける。このベルギー人の咽喉仏が急にふくれて、上から下へ、下から上へ異様な動きを示すのが見られた。
「知らんですなア……」
やっとしゃがれ声で言ってのける。
ベロアールはマニキュアした指の先で机をこつこつ小刻みに叩いている。ジョゼフ・ヴァン・ダンムは何か他のことに言い紛わそうとして、
「それでは警部さん、もうお目にかかれないのでしょうかしら? パリへお帰りなんでしょう?」
「まだ決っておりません。……では皆さん、失礼をいたしました」
ヴァン・ダンムが握手をしたので、他の連中も倣《なら》わないわけに行かなかった。ベロアールの手は干からびていて固かった。顎髯を生やした人物は、おずおずと手をさしだした。ジェフ・ロンバールは部屋の隅っこで巻タバコに火を点けようとしていたが、咽喉の奥で咳払いし、頭を下げただけである。
メグレは大きな鉢に植えてある常盤木の傍を通り、真鍮棒の置いてある敷物を歩いて行った。
廻廊のところで、生徒が弾《ひ》いているキイキイしたヴァイオリンの音が聞え、それを女の声がたしなめていた。
「そんなに早くなく……肱《ひじ》は顎の高さに持ち上げて……静かによ」
それはベロアール夫人の愛息であった。通りへ出てから、居間のカーテンを透して、この二人を警部は認めたのである。
午後二時、メグレはカフェ・ド・パリで昼食を終ったところである。ヴァン・ダンムがやって来て、誰かを探すようにキョロキョロ店を見廻した。警部の姿を見つけると、にっこりして、手を差しだしながら近寄って来た。
「約束があるなんて、レストランで独りで食事をしているんですね。いや、よくわかっていますよ。あなたは気を利かして、私たちだけにしときたかったんでしょう」
実にこの種の人間はいるものである。招きもせぬのに食いさがって、いい加減にあしらわれても、一向にそれを苦にしようとも思わないのだ。
メグレは思い切って冷淡な態度をとることに妙な快感さえ覚えたが、ヴァン・ダンムは悠然とテーブルについた。
「食事はおすみなんですね。それでは、食後のリキュールを差し上げましょう。……ボーイ、……何がいいですか、警部さん?……古いアルマニャックでも?」
洋酒表を持って来させて、わざわざ主人を呼びつけると、一八六七年のアルマニャックに決めて、グラスも鑑定にふさわしい特別なのを注文した。
「それはそうと……あなたはパリへお帰りになるんでしょう? 私も夕方には行こうと思っています。どうも汽車だけは真平御免でしてね、自動車を一台雇うことにしています。もしよろしかったら御一緒に参りましょう。……ところで、私の友人たちをどうお思いですか?」
運ばれたアルマニャックを批判的な様子で嗅いで見て、ポケットから葉巻入れをとりだす。
「さアいかがです、なかなかの逸品ですよ。ブレーメンでもこの品を売る店は一軒しかありません。ラ・ハヴァナから、直接輸入しているのでしてね」
メグレは不得要領の表情、眼つきにも何の考えも現れていない。
ヴァン・ダンムはわずかの間でも沈黙に堪えがたいように、また喋りだす。
「長いこと会わずにいて、さて会って見ると実に変なものですね。何しろ、揃って二十歳という歳に、強いていえば同じ線をスタートしたってわけです。ところが久しぶりに会って見ると、思いがけなくお互いの間には深い溝ができている。……彼らを悪く言うつもりは毛頭ありませんがね、それでもさっきなんかベロアールのところで、あまり居心地はよくありませんでしたね。
この地方的なよどんだ雰囲気はどうです! ベロアール御当人だけが、おしゃれに憂身をやつして!……まアそれでも奴はうまくやったわけですよ。モルヴァンドオ……あの金属建築材のモルヴァンドオですが、その娘と結婚しましてね、妻君の兄弟たちはそれぞれ工業家ですし、彼自身いま居る銀行の位置も悪くなし、まアいずれは頭取になるでしょうから……」
「顎髯の小柄な人は?」
メグレは口を挟んで訊いた。
「あれですか……彼は自分の道を進むでしょうが、現在恵まれていないのですよ。パリで彫刻をやっているんです。天分はありそうなんですがね、どういったらいいでしょう。……ごらんになったとおり、服装だって前世紀のものです。当世向きの男ではありません。商売には向かないのですな」
「ジェフ・ロンバールは?」
「この世にあんないい奴はいませんよ。無類の諧謔家《リゴロ》でしてね、何時間でも息をつかせず相手を楽しましてくれようという男です。
はじめ画家になるつもりでしてね。生計のために新聞へ挿画を描いていたんですが、リエージュで写真製版をはじめたのです。結婚しましてね。何でも三番目の赤ん坊が生れるそうですが……
ともかく私は、彼らと一緒にいて、窒息しそうな気がしましたよ。ちっぽけな生活、ちっぽけな心配。……でもそれは彼らが悪いわけじゃない。私は自分の事業に急いで立ち戻ればいいんです」
グラスを開けて、ガランとした広間を見渡す。ボーイが奥のテーブルで新聞に読み耽っている。
「どうでしょう。御一緒にパリまでいらっしゃいませんか?」
「一緒に落ち合われたのなら、あの髯の小さな人を連れて行かないのですか?」
「ジャナンですか? いや、もう今頃は汽車に乗っているでしょうよ」
「結婚してますか?」
「まアまだといった方がいいでしょうね。女はいつもいるんです。一週間で別れたり、一年も続いたり、それでまた変える。人にはきまってジャナン夫人として引き合わせるのですよ。……ボーイ、お代わりだ」
メグレは、ちらりと鋭い眼つきになったのを、相手に覚られないようにした。店の主人がこっそりやって来て、電話が掛って来たことを告げた。警視庁にはこのカフェ・ド・パリの番号を通じてあったからである。
司法警察に、電話でブリュッセルの情報が入ったのだそうである。
「ベルギー国立銀行よりルイ・ジューネなるものに支払われたる三万フランの紙幣は、モーリス・ベロアールと署名のある小切手によれるもの」だというのだ。
電話室の扉を開けた時、メグレはヴァン・ダンムが、見られているとも知らず、その表情を弛め放しにしているのを見た。その結果、急に丸みがなくなり、顔色も褪《あ》せ、健康と楽天性とがすぼんでしまっていた。
だが、自分に向けて視線が落ちているのに気がつくと、ぶるッとして、自動的に快活な事業家に立ち帰り、叫んだ。
「よござんすな、御一緒に参りましょう。……親方《パトロン》、自動車を一台呼んでもらえないかね。パリまで行くんだ。乗心地のいいのを頼むよ。……それまで、もう少し飲むことにしよう」
葉巻の端を噛み切って、ふッと生れた空虚に、彼はテーブルの大理石を眺め、その瞳が暗くなり、唇の合せ目が歪んで来て、まるでタバコが苦くてたまらなそうに見える。
「外国に住みついて見て、はじめてフランスの酒の味がわかって来るものですね」
その言葉が空しく響いて来る。言葉と、額の奥に走っている考えとが、まるでチグハグになっていることがわかる。
ジェフ・ロンバールが街を歩いて行くのが見える。レースのカーテンを透して、その横顔はぼかされていた。独りである。ゆっくりと物倦《ものう》そうな大股で、町の風物には眼もくれないで……。
手には旅行鞄をぶらさげている。メグレは黄色い二つの鞄を思いだしたが、彼のは上等で、締革が二本もついていて、名刺挟みもあった。
靴の踵がもうだいぶ一方へ傾いている。洋服も毎日ブラシがかけられている様子はない。ジェフ・ロンバールも、歩いて駅へ向おうとしているのである。
ヴァン・ダンムの方は、指に平打ちの大きなプラチナ指環を光らせ、酒の鋭い芳香による体臭をぷんぷんさせている。……ガレージに電話をかけている主人の声が流れて来る。
ベロアールもあの新しい邸宅を出て、銀行の大理石の玄関にさしかかっているであろう。一方その夫人は、子供の手をひいて並木路を散策しているにちがいない。
行きかう人はベロアールに頭を下げる。義父はこの地方では最大のお大尽、義兄たちも工業家であり、彼自身輝く将来が約束されている。
ジャナンはどうだ。黒い顎髯にリボンネクタイで、ごっとんごっとんパリに帰る。賭けてもいいが、三等車だ。
思考の梯子の一番下段に、あのノイシャンツとブレーメンの蒼ざめた旅客がいる。ピクピュ街の薬種屋の亭主、ロケット街の断截工、孤独な酔払い、店のガラス戸から自分の妻を盗み見る男、古新聞みたいに大金を自分に宛てて送る男、停車場の食堂で腸詰パンを買い、自分のでもない古洋服を盗まれたからって口の中へピストルを突込んだ男。
「来ましたよ、警部さん」
メグレはとびあがった。混乱しきった眸を相手に注いだので、ヴァン・ダンムも戸惑って、笑おうとしたがうまく行かず、おろおろと、
「うとうとしてらしたようですね。……思いは遠く、そうですね、またあなたを悩ましているあの自殺男に走っていたのでしょう?」
そうだともいい切れない! メグレが声をかけられたとき、どういうわけかわからないが、この事件には子供が顔をだしていることを考えていたのである。たとえば、ピクピュ街では、薄荷《はっか》とゴムの匂う店の中に、母親と祖母の間に赤ん坊が一人。
ランスではヴァイオリンを弾きながら、しきりに肱を顎の高さに支えようとしている少年が一人。
リエージュのジェフ・ロンバールの家には二人、いや三人目が生れかかっている。
「最後のアルマニャックを、いかが?」
「ありがとう、もう充分……」
「では、別盃!」
ジョセフ・ヴァン・ダンムだけが笑いのめす。まるでそうせずにはいられないように。それはちょうど、洞穴の中へ降りるのが怖い子供が、勇気があるのだと信じたいために、口笛を吹いているのと同じだ。
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第五章 リュザンシのパンク
かわたれ時を快速で車が走る間、三分間と沈黙がなかった。ジョセフ・ヴァン・ダンムが次から次へと話題を見つけだしていたからである。アルマニャックのおかげで、まだ浮き浮きとしていられたのである。
自動車は上物だが旧い型で、クッションはくたびれ、花挿し、嵌《は》めこみの小物入れをしつらえてある。運転手はトレンチ・コートを着て、毛糸の襟巻きをつけていた。
二時間ほども走ってからだったろうか。劇《はげ》しい音がして、車は道傍にとまった。町からは一キロも離れた場所で、霧をとおしてチラチラと灯が見えるばかりだった。
運転手は後部車輪をのぞいて見て、扉を開けると、パンクで、修繕するのに十五分くらいかかるといった。
二人は車を降りた。運転手は車体に起重器をあてがっていたが、手伝いがなくてもやれるといった。
散歩して見ようといいだしたのは、メグレだっただろうか、ヴァン・ダンムだったろうか? 本当はどっちでもない。きわめて自然に足を踏み出したといってよかった。街道へ出て見て、小さな道があり、その果てに川の流れが早く走っているのが見られた。
「おや、マルヌ河だナ」ヴァン・ダンムが呟いて、「だいぶ増水している……」
葉巻をふかしながら、二人はゆっくりとその小道を歩いて行った。轟々たる響きがして、それが川からやって来るのがやっとわかった。
川向こうの百メートルほどのところに、水門がある。これがリュザンシの水門だろうが、その辺は広漠としていて、門は閉されていた。二人の男の足もとには堰《せき》があり、水が白く迸出《ほうしゅつ》し、泡立ち、渦巻き、急流になっていた。マルヌ河はふくれている。
薄暗がりで十分には見えないが、水面一杯にまたがっている木の枝があって、その先ッぽが堰につき当り、なお踏み越えているようである。
ぽつりと一つ、正面に水門の灯が見える。
ちょうどこの時、ジョセフ・ヴァン・ダンムは話の緒口《いとぐち》を見つけていいだした。
「ドイツ人は毎年のように河の力をつかまえようと躍起の努力をしていますよ。それをまたロシア人が真似してるんですね。……ウクライナでは、一億二千万ドルという巨額を投じて堰を作ったそうですが、その電力はわずか三州を満すだけだそうです……」
よく聞きとれない「電力」というところで声がかすれた。それから急に大きくなる、咳が出そうになったのか、ポケットから手巾をとりだして、口に当てる。
二人は水際から半メートルとは離れていない。メグレはどんと背中を押されて、中心を失い、よろめき、前へのめったが、両手で崖の草にすがった。両足が水に浸って、帽子が堰を越して飛んで行った。
咄嗟《とっさ》のことだったけれど、警部は次の一撃を待った。右手の下で土塊が抜け落ちた。だが、左手で目星をつけていた堅い枝をつかんだ。
数秒がすぎて、彼は曳舟の小路に膝まずき、続いて立ち上って、その場を去って行く後ろ姿に向って叫んだ。
「とまれ!」
不思議に、ヴァン・ダンムは駆けだそうともしない。幾分足を早めた程度で、自動車の方へ帰って行くのである。警部の声で振り向いたが、度肝を抜かれたか、足が動かなくなったらしい。
顔を伏せ、外套の襟に首をちぢめて警部が近寄るにまかせている。ただ一つの動作、それは憤激の末、眼の前にテーブルでもあるように拳を振って、歯の間から唸った。
「間抜けめ!」
メグレはともかくピストルを構えた。それを持ったまま、相手から目を離さずに、ズボンを膝までたくしあげて絞り、靴から水を捨てた。
道路では、自動車が動けるようになったと見えて、運転手が警笛を二、三度鳴らした。
「行くんだ」
警部が言い捨てて、二人は元どおり、押し黙ったまま席についた。ヴァン・ダンムは依然葉巻を口にしていたが、メグレの視線は避けていた。
十キロ、二十キロ。
町めいたところでは、ぐッと速力が落ちる。通りの明るいところを人々がうごめく。……また、街道へ出る。
「私を逮捕しようったって、それはできますまいよ」
警部はギョッとした。ゆっくりと、片意地な調子を帯びたこの言葉は実に意外ではあったが、にもかかわらずその言葉は正確に彼の先入観念に照応したものだったのである。
モオをすぎた。郊外区域がたちまち林野である。霧雨が振りだしたようで、窓ガラスに雨滴がたまり、街燈の前を通りすぎる時は星のようにまばたく。警部は伝言管に口を寄せて言った。
「オルフェーブル河岸の警視庁へやってくれ」
パイプを口にしたが、マッチが濡れてしまったので吸うわけに行かない。隣りの男の顔は見えない。扉の方へ向いて、輪郭をぼんやり映しだしているだけだが、兇暴になっていることだけはよくわかった。
車内の空気には、皮肉っぽくて重苦しい固いものがあった。
メグレも意地悪く顎をつんだしている。
その結果が、自動車が警視庁の正面にとまった時に、バカげたことで現われた。
警部がまず最初に車をとびだして、
「来たまえ」と言った。
運転手は支払いを待っていたが、ヴァン・ダンムは全然知らぬ振りをしている。ちょっと、間の悪い瞬間である。
メグレは妙な具合だと思わぬわけには行かなかったが、あえて言った。
「車を雇ったのは、あんたでしょう」
「失礼、囚人扱いの旅行なら、当然そちらで支払うべきものでしょう」
この委曲こそは、ランスからの道中、ことにあのベルギー人の家での鮮かな変貌を証明してあまりあるものだ。
メグレは料金を払って、黙って、相手に行き先を指し示し、事務室に連れこんで、扉を閉じた。まず、最初の仕事はストーヴをとぼすことだった。
次に戸棚を開けて、着換えをとりだした。お客には眼もくれず、ズボン、靴下、靴とみんな換えて、濡れたものは火の傍に立てかけた。
ヴァン・ダンムは手持ち無沙汰げに腰をおろしている。明るい光線の中で、彼の変貌は一層鮮かであった。
彼はリュザンシで偽りの好人物をかなぐり捨てたのである。円転さも、見せかけの笑いも、もはやない。引き締めた表情とぎらぎらする眼つきで、じっとしている。
メグレは部屋の中で、わざと相手を無視するように、書類を整頓したり、上司に電話をして、事件に関係のない情報のことをたずねたりした。
それも一段落して、おもむろにヴァン・ダンムの前に立ち塞がると、きりだした。
「どこで、いつ、どうして、あんたは知り合ったか? あの、ルイ・ジューネと称する旅券で旅行し、ブレーメンで自殺した男を?」
相手はブルッとして、ぐいと顔を上げると、反問した。
「私の立場は何なのです?」
「あんたは私の質問を拒否するのかね?」
ヴァン・ダンムは笑った。初めて見せる皮肉な意地の悪い笑いだ。
「警部さん、法律の知識はあなたくらいなら弁《わきま》えていますよ。私を罪に落すつもりなら、逮捕状を見せて頂きましょう。罪人扱いにする気がないのでしたら、返答をする義務を感じませんね。
最初の場合、法律によって、私は弁護士の立会いのもとに応答することにしましょう」
メグレはこの態度を見て、怒りもせぬし、また困った様子もない。いっそ逆だ。彼は相手を興味深げにみつめた。かえって、少なからず満足したようにさえ見える。
リュザンシの出来事のおかげで、ジョセフ・ヴァン・ダンムは技巧的な態度を捨てざるを得なくなった。その態度は、メグレの前だけではない。世の一般に向って、また、自分自身に対しても、そうだったのだ。
もはやブレーメンの陽気で浅薄な実業家の面影は全然残っていない。大料理店からモダンな事務所へ、事務所から有名レストランへ往復する人柄ではない。事業に満足している商人の気軽さ、欲しいものは根こそぎにし、きびきびと金を掻き集め、実によく食うその食欲、それらも消え失せた。
眼の前にある顔は、彫刻されたようで、色艶もなく、この一時間ほどで、眼の下にたるんだ肉袋ができている。
その一時間前までは、ヴァン・ダンムは自由人として、たとえ良心に翳《かげ》がきざしていたにもせよ、栄養や金や営業権や商魂に絶対の自信を抱いていたに相違ないのだ。
この変貌をもたらしたのが彼自身だったではないか。
ランスでは、次から次へ手を打っていた。相手に最上等の葉巻をだす。ちょっと命令すればカフェの主人は鞠躬如《きっきゅうじょ》として、ガレージに電話して乗心地のいい自動車を用意する。
彼はそういう「何者か」であった。
ところが、パリへ来て自動車賃を支払うのを拒んだ。法律を言いだした。議論をおッぱじめ、歩一歩真剣に、まるで頭をかかえるようにして身を護りだした。
彼は自分自身に怒っている。マルヌの岸でやり損ったあとの一言こそ、その証拠だ。
むろん前もって計画したわけではないのだ。彼は運転手を知らない。パンクした時でさえ、そんなことをやろうとは考えつかなかったろう。
ただ、河岸へ出て見て、渦巻きを見、木々がただの落葉のように水の上を渡っているのを見た時、ふいと反射的に、肩の一撃をくれただけなのである。
口惜しかった。相手がこの襲撃をひそかに期していたことがわかったからである。
もはや逃れるすべはないだろう。だが、とことんまで粘って身を防ぐより他はない。
新しい葉巻をつけようとして口へ持って行ったが、メグレはそれをもぎとると石炭箱に投げ捨てた。ついでにまだ頭の上にあった帽子も引ッぱずした。
「私の要求はこうです。もし、あなたが型どおりに私を逮捕する決心がつかないのなら、どうぞ釈放してもらいたい。その反対に出ようとおっしゃるのなら、私は不法監禁のゆえをもってあなたを告訴しなければなりますまい。
なお、これもお断りして置いた方がいいと思いますが、あなたがおやりになった水浴びについては、断然私の責任はないのですよ。……あなたは曳舟の道が泥で汚れていたので足を滑らしたにすぎません。自動車の運転手は、私が逃げも隠れもしなかったことを証言するでしょう。もし私があなたを溺れさすなんて大それたことをしていたら、当然逃げるわけですからね……
その他に、私を非難する材料に何があるか伺いたいもんですナ……私は事業のことでパリへやって来た。これはいつでも証明ができますよ。次いで、ランスの旧友に会いに行った。この旧友は私同様十分世間から尊敬をかち得ています。
私は虚心坦懐で、ブレーメンであなたに逢っても、ついぞ見かけぬフランス人が懐しく、友愛を感じ、飲み食いにお誘いしたり、パリへ自動車の相乗りまでお願いした。
あなたは、友人や私に、我々の知りもしない男の写真を見せて廻った。彼は自殺している。それは事実が証明しているので、どこからも告訴が出されているわけではなく、したがって正当な司直が手をだす筋合いのものではないのです。私の言いたいことはこれで全部です」
メグレは紙片を折ってパイプに火をつけ、燃え残りをストーブの口へ叩き込んだが、
「あンたは絶対自由ですよ……」
と、あっさり言ってのけた。彼が微笑を禁じ得なかったのは、それを聞いてヴァン・ダンムがあまりにも容易な勝利にすっかり面喰ったことである。
「何ですッて?」
「自由に引き取って下さい。そう言ったのです。なお、よろしければ、あンたの御親切に応えて、食事でも一緒に頂きたいと思いますがね……」
彼がこんな陽気に見えたことは珍しい。相手は眼を瞠《みは》って、恐怖を帯びた驚きの色を見せた。メグレの言葉が装われた脅迫としか思えなかったのであろう。立ち上がって、おずおずと、
「それじゃ、このままブレーメンに帰っても構わないのですね?」
「どうしてそんな事をお訊きになる? 今しがたあンたの口から、自分が罪になるいわれはないと言ったではありませんか」
ちょっとの間、ヴァン・ダンムが元どおりの落ち着きと快活さを取り戻して、晩餐の招待にも応じ、リュザンシの行動をも悪戯《いたずら》か気狂い沙汰だと軽口をとばしそうに見えた。
しかし、メグレの微笑はこの楽天主義の下心を溶き流してしまった。彼は帽子をとりあげると、ぎこちない手つきで頭にかぶり、
「自動車代はいくらでしたか?」
「いや、構いません。お役に立って結構だと思っています」
ヴァン・ダンムの唇がその時震えはしなかったろうか? どんなふうにここを引き取っていいかわからないのだ。何とか挨拶をせねばならない。仕方なく、肩をツンとゆすりあげ、咽喉を鳴らしながら、扉口に進んだ。誰に、何に向ってかわからないが、思わず次の言葉が口から洩れた。
「頓馬!」
階段のところで、警部は手摺にもたれて、出て行く彼を見送っていたが、そこでもまた彼は同じ言葉を繰り返した。
そこへ、巡査部長のリュカが書類を手にして上司の事務室へやって来た。
「大至急だ! 帽子と外套、あの男を世界の涯《はて》まで尾《つ》けてくれ」
メグレは部下の手から書類を奪い取って叫んだ。
警部は名前の上の各欄に調査要項を書きこんだ。数班に分れてそれぞれの人物について具体的な調査が行われたのを整理すると、次のようになる。
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モーリス・ベロアール――リエージュ出身、ランス市ヴェール街、銀行副頭取。
ジェフ・ロンバール――リエージュ市写真製版業。
ガストン・ジャナン――パリ市ルピック街彫刻家。
ジョセフ・ヴァン・ダンム――ブレーメン市貿易取次業。
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この書込みが終りかけた頃、給仕が頭をだして、ルイ・ジューネの自殺について話を聞いてもらいたいと訪問者のあることを告げた。
もう晩くて、司法警察のどこにも人影はまばらである。ただ隣りの部屋で、刑事がしきりに報告書をタイプしている音だけが聞えて来る。
「ここへ!」
案内されて来た人物は、戸口に立って、ぶきッちょで不安な様子を見せ、出頭したことをひそかに後悔しているらしい。
「さァどうぞ、おかけなさい」
メグレは相手を値踏みした。背の高い痩せた男で、鮮やかな金髪、無精髭《ぶしょうひげ》、着ているものはルイ・ジューネのを思わせずに置かないくたびれた服だ。外套のボタンが一つ無くなっていて、その襟は脂で光り、裏も埃だらけであった。
その他に、ほんのつまらないことだが、立居振舞に特色がある。坐り方、眼の配り方、警部はその尋常でなさをむしろ無理もないと心得ているのだが、ともかく警官と面と向っては不安を制し切れぬ態度である。
「あンたは新聞に写真が出たので来られたのですね?……どうしてすぐに来ることができなかったのです。写真が出てからもう二日も経っているんですがね」
「新聞をとっていないんです」と男はおずおずと、「偶然うちの女房が買物を包んで帰った新聞の切れッ端を読んだというわけで……」
メグレはすでに、この動きやすい表情、絶えず震えている鼻翼《びよく》、特に病的にさえ見える不安な眼つきに思い当たるところがあった。
「あんたはルイ・ジューネを御存じなのですな?」
「それが、よくわかりませんが、写真がハッキリしないので、しかし何だか、私の弟のように思われるので……」
メグレは我にもなくホッとした思いだった。どうやら今度だけは、すべての秘密が一発で解明されるような気がした。そこで、ストーヴに背を向けると、上機嫌の時にはいつもやるおきまりのポーズをとった。
「そうすると、あンたもジューネさんですな?」
「いや、そうじゃないんで。……ですから私は、ここへ来るのに手間取ってしまったんです。……でも、ありゃ私の弟にちがいありませんよ。そこの机の上に飾ってあるはッきりとれた写真を見て確信がつきました。……ごらんなさい。この傷です。それにしても、どうして自殺なぞしたのか、おまけに名前まで変えてしまったのか、それが不審でなりません」
「すると、あンたの名は?」
「アルマン・ルコック・ダルヌヴィユです。証明書を持って来ましたが……」
垢《あか》じみた旅券を取りだすためにポケットへ手をやるその動作にも、いつも咎められては、その証明書をだす癖がはっきりと見られた。
「アルヌヴィユに小文字のdが食っついて二文字になっている?」
「さようで……」
「リエージュの生れですね」警部は旅券をちらりと見やって、「三十五歳、職業は何ですか?」
「現在のところ、イシ・レ・ムリノー工場で事務所の雑役をやっています。女房と二人、グルネルで暮らしていますが……」
「機械工と書いてあるようだが……」
「以前は、そうだったんです。何でもやらなきゃならなかったもんで……」
「ついでに監獄もね」メグレは手帳のページを繰りながら、「脱獄者になってる」
「それは特赦《とくしゃ》になりました。……お話を聞いて下さい。私の親父は金がありました。ゴムタイヤの事業をやっていたんです。私が六歳の時、弟のジャンを生み落したばかりのお袋を捨てて家出してしまいました。……それからが大変でした。
私どもはリエージュのプロヴァンス街で、小さな借家住いをはじめました。最初のうちは、父からも規則正しく私どもの養育費の仕送りがありました。
それが再婚してまた女が出来たとなると……一度など、月の費用を届けてくれたはいいが自動車の中に女を待たせて置くといった調子です。
当然、いざこざがはじまって、仕送りはとぎれたり、それでなくてもほんの内金ばかりということになりました。……お袋は家計に追われるようになり、だんだん気が狂《ふ》れて行ったんです。
もっとも、まだ軟禁せねばならぬほどの狂い方ではありませんでした。ただ、逢う人ごとに降りかかる不幸な話をめんめんと訴えるのです。町の中を歩き廻っては泣きのめしていたのです。
私は弟の面倒なんかそっちのけで、近所の子供と一緒に駆けずり廻っていました。何度交番へ引張って行かれたかわかりません。手に負えないと見て、とうとう金物屋へ奉公に出されました。
家にはできるだけ帰らないようにしました。いつもお袋がめそめそしているし、それと調子を合せに、近所の婆さん達が来ているのですから、我慢できたものじゃなかったんです。
十六の時、軍隊へ入りました。コンゴへ行く遠征部隊です。一月も辛抱していたでしょうか。休暇をとった時、マタジに隠れていて、こっそりとヨーロッパへ帰る船に密航しました。
しかし、すぐ見つかって、牢屋へぶちこまれたんです。……そこを逃げだして、フランスへ戻って来てから、いろんな仕事にかじりつきましたよ。
二日三晩飲まず食わずのこともありましたし、市場で寝たこともあります。相変らず日向《ひなた》には出られませんでしたけれど、しかしこの四年というものは、それこそまじめにやりました。
というのも、私は結婚したからです。相手は女工でした。私の稼ぎは少いし、しょッちゅう仕事にあぶれるので、結婚しても工場は止《よ》せないのでした。
私はベルギーに帰ろうとしたことはありません。幼馴染が、お袋は癲狂院《てんきょういん》で死んだが、親父はまだ生きていると教えてくれました。
無論親父は私たちに構いつけようとはしてくれません。二度目の世帯をもっていたのですからね」
男は、すまなそうな歪んだ微笑をうかべて見せた。
「弟さんは?」
「あれはちがっていました。……ジャンはまじめで、学校へあがっても給費生の資格をとって、中学校へ進むことができたのです。私がベルギーからコンゴへ行く時、あれはわずか十三でしたが、それ以来一度も逢っていません……
それでもリエージュ出身の人に会って、噂《うわさ》は聞いていました。中学校を終えると、彼の面倒を見た人たちが大学へ行けるように骨折ってくれたらしいのです。
それから十年経ちます。しかし私の逢う同郷人に訊いて見ても一向に消息がわからなくなりました。誰も噂を聞かないところを見ると、外国へ行っているのではなかろうかとのことだったのです。
それが、あの写真です。偽名を使って、ブレーメンで死んだなんて、どうして考えることができましょう。
お話ししても本当とは思えないでしょうね……。私はやくざでろくなことはしませんでした。
しかし、別れた時、十三になっていたジャンのことを思いだして見ても、とても静かで、まじめな子でした。もう詩なぞを読んでいましてね……あれは、独りきりで、夜な夜な堂守の爺さんからもらって来た燃え残りの蝋燭の火で勉強を続けたものです。
行く行くは相当なものになると私は信じていました。そりゃそうでしょう。そんじょそこらの餓鬼の仲間入りなどしませんでしたからね。悪戯小僧どもからは嘲《あざけ》りの的になっていたくらいです。
私は小遣いが欲しくッて、顔さえ見ればお袋に金をせびり、お袋も無理して都合してくれました。子供には目がなかったのです。……十六の鼻たれ小僧で、何も分かっちゃいません。今でも思いだしますが、ひどいことをやりました。仲好しになった女の子を映画に連れて行く約束をしたのです。
お袋は金を持ち合せていませんでした。私は泣きわめいて、おどしさえしました。賃仕事をして、必要な医薬を整えたところだったのでしたが、お袋はその薬をまた売りに出かけました。
おわかりでしょうか?……こんなふうにして、ジャンが他人の名で死んでいるんです。
あれが何をやったのか知りません。あれが私の歩いたようなやくざの道を踏んだとはどうしても思えません。子供の頃のあれを御存じなら、あなたもそうお考えになるでしょう。それとも、あなたは何か御存じなのですか?」
メグレは相手に旅券をかえして、
「あんたはリエージュで、ベロアール、ヴァン・ダンム、ジャナン、ロンバールといった家族を知っていますか?」
「ベロアールなら、一人知っていますよ。親父が医者で、同じ町に住んでいました。息子はずっと学校ばかりで、私などには関係のない『物持ち』の連中の一人でしたね」
「その他は?」
「ヴァン・ダンムも名前だけは聞いたことがあります。カテドラル街だと思いましたが、その名前のついた大きな雑貨屋がありました。でも、それはもう古い昔のこッてす」
それから、アルマン・ルコック・ダルヌヴィユは、ちょっとためらってから、
「ジャンの遺骸が見られるでしょうか? もうこちらへ来ているのでしょう?」
「パリへは明日着くことになっています」
「自殺したということには間違いないのでしょうな?」
メグレは顔をそむけた。彼自身がその悲劇に直面したばかりか、知らぬとはいいながら、死者を刺戟したという思いに堪えられなかったのだ。
相手は帽子をまさぐり、脚をしきりに組みかえて、別れの挨拶を待っている。落ちくぼんだ眼窩《がんか》の、青い眼蓋の底にある眼は、ノイシャンツの旅人の遠慮勝ちで不安な眼を偲ばせ、メグレは胸に悔恨の針に似たものをズブリと刺された思いであった。
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第六章 首吊り人の群
夜の九時、メグレはリシャール・ルノワール通りの自宅に立ち戻っていて、カラーもとり、チョッキもなしで寛ぎ、妻君は傍で繕い物に余念がなかった。
その時、どしゃ降りの雨でずぶ濡れの肩を振りながら、部下のリュカがやって来た。
「奴は遠出をしましたぜ。外国まで追いかけて行くこともあるまいと思いましたんで……」
「行先はリエージュだろう?」
「そのとおりです。もう調べが大体進んでいるらしいですね?……オテル・デュ・ルーヴルの札がついた鞄を持ってましてね。そこで食事をすると、金を替えて、八時十九分の急行でリエージュに発ちました。ただの一等切符です。駅の本屋で絵入り新聞をしこたま買い占めて行きましたよ」
「奴は先手先手と俺の邪魔をしようてんだ」警部は唸り声をあげて、「ブレーメンでは、あいつの存在さえ知らなかったが、死体陳列場《モルグ》へのこのこやって来て、俺を食事に誘い、食いさがった。……パリへ帰ると、前後して奴もやって来る。いや、飛行機を利用したから俺よりも早かったろう。ランスへ行っても、ちゃんと俺の前に行っている。……一時間ほどまえ、明日にもリエージュまで行かずばなるまいと考えると、もう一足先に出かけている。……何もかも見通していて、ちゃんと手はずを整えてやがる!」
リュカは、事件について何も知らされていないので、思惑で、
「多分、誰かを助けようと思って、わざと自分に疑いがかかるように仕向けているんじゃありませんかい?」
「また、事件なのね?」
繕い物の手を休めないで、メグレ夫人は優しく口を添えた。
だが彼女の夫は溜息まじりに立ちあがると、一瞬間前にはゆったりと落ち着いて坐っていられた安楽椅子を振り返った。
「ベルギー行きの汽車は何時のが残っている?」
「あとは二十時三十分のが一本だけですね。リエージュには朝の六時の到着です」
「鞄の用意をしてくれないかね」警部は妻君にいった。「リュカ、まア一杯やって行ってくれ。戸棚の中、知ってるだろう。アルサスの義妹が自分で作った梅酒を送ってくれたんだ。首の長い壜《びん》だよ」
服を着替えて、ファイバー製の鞄からB服をとりだし、よくくるんで、旅行鞄にしまった。三十分後には、リュカと連れ立って外に出た。並んでタクシーを待ちながら、リュカはたずねた。
「どんな事件なんです? 本庁ではまだ誰も噂をしてませんがね」
「ところが、おれ自身、まだ何にも知らないんだ」警部は首を振って、「おれの眼の前で小僧ッ子が一人死んだ。この出来事のまわりにわけのわからない影が蠢《うご》めいている。おれは猪みたいにその中へ鼻を突込んだが、あげくの果てに指を焼かれるような羽目になるかも知れない。それは覚悟の前だ。……車が来たよ。途中でおろしてあげよう」
リエージュのギイユマン駅の真前にある鉄道ホテルを立ち出でたのは朝の八時である。一風呂浴びて、髭もあたり、小脇にはB服の上衣だけをくるんだ包みをかかえて……。
オート・ソーヴニエール街に行って見る。坂道になった賑かな通りで、そこでモルセル洋服店を探した。陽当りの悪い家で、上衣をぬいで仕事をしていた親方が、警部が持参した上衣をしきりにひねくり廻していたが、熟考の末に、
「どうも大変古い服ですナ。裂けてもおりますし、これはもう着ようとしても役に立ちますまい」
「心当りはないかね?」
「とんとありませんな。襟もうまく作ってありません。ヴェルヴィエで織られたイギリス地の模造品ですね」
親方はようやくお喋りがはずんで、
「あなたはフランスのお方ですな……この上衣はお知り合いの持ち物だったのですか?」
メグレは溜息をして、親方から上衣を受け取った。相手は依然として喋りつづけて、こんなふうにもいった。
「実は、私がこの店へ来たのは半年ほど前のことです。私が手がけたものでしたら、こうまで使い古されるわけはないので……」
「モルセルさんは?」
「ロベルモンです」
「ここから遠いかね?」
洋服屋は冷かすような笑い声をあげた。
「ロベルモンというのは、墓場ですよ。……モルセルさんはこの年の初めに死んで、私があとを引き受けたので……」
メグレは包みを小脇にして店を出た。この町でも一番旧い通りの一つであるオル・シャトオ通りを歩いて行くと、広場の奥の方に、亜鉛版に次のような文字を書いた看板が出ていた。
高等写真製版――ジェフ・ロンバール――至急調製に応ず
窓は古代リエージュ風で、小さく四角な枠ができている。形の不揃いな敷石を畳んだ広場の中ほどに、往時の大殿様の紋章を彫りこんだ噴水がある。
警部は呼鈴を鳴らした。二階から降りて来る足音が聞えて、老婆が戸からちょっと顔をのぞかせ、ガラスのはまった戸の方を示しながらいった。
「そこからどんどん通って行って下さいな。仕事場は廊下の突当りになっていますから……」
細長い部屋で、明り窓から光線が入り、青い作業服の男が二人、亜鉛版や酸の入ったバケツの間で働いていた。土間には写真版や印刷インキでよごれた紙がぶらさがっている。
壁にはポスター類、絵雑誌の表紙らしいものが沢山貼られてある。
「ロンバールさんはいますか?」
「事務室でお客来ですよ。……ここからどうぞお通り下さい。……汚れないようにお気をつけて……ええ、左に曲がって、最初の扉です」
この建物は次から次へ建て増して行ったものであろう。段々をあがったり降りたりせねばならなかったし、使っていない部屋は戸口が切り放しになっている。
何もかも古めかしく素朴である。さっきメグレを最初に迎えた老婆もそうだったし、向うで働いていた職人たちにもそれがあった。
薄暗い廊下の奥までやって来た時、警部は爆発するような声を聞きつけた。紛うかたなきジョセフ・ヴァン・ダンムの声で、何をいってるのか聞き取ろうとしたが、こんぐらがってわからなかった。歩いて行くうちに、その声は黙ってしまった。扉が半分開かれて、顔がのぞいたが、それはジェフ・ロンバールだった。
「私に御用?」
暗いので、相手が誰だかわからぬままに彼は叫んだ。
その事務所というのは、どの部屋よりも小じんまりしていて、テーブルが一つ、椅子が二脚、写真版を並べた棚があった。乱雑なテーブルの上に計算書や目論見書や商用の手紙などが散らばっている。
ヴァン・ダンムがそこにいる。机の端ッこに尻をのせ、メグレの視線にこたえて不得要領な頭の下げ方をし、それッきり身じろぎもせず、ぶすっとしたきり前方を見つづけている。
ジェフ・ロンバールは仕事の最中だったと見えて、手もよごれているし、顔に黒いとばッちりさえできていた。
「何でしょう?」
紙を積んである椅子を坐れるようにして、警部の方へ押しやり、吸いさしのタバコをつまみあげた。棚の上へ置いてあったのだが、木が焦げだしていた。
「ほんのちょっとしたことを伺いたいのですがね」警部は立ったままで、「お邪魔で全くすみません。……もしやあなたは、ここ数年来、ジャン・ルコック・ダルヌヴィユという名を聞いたことはありませんか?」
この名はまるで始動機のような作用をした。ヴァン・ダンムはぴりりとして、メグレの方へ向くのを危く踏みとどまり、製版屋はひらひらと舞い落ちた紙を床から拾いあげるような動作を示した。
「そう……そうですね。何だか聞いたことのあるような名前ですが、やはり……リエージュ人なのでしたね」
いいながらも、顔色は血の気を失っていた。無意味に写真版の山を置きかえている。
「どうなったのか、全然知らんですな。……遠い、とても昔のことで……」
「ジェフ!……早く、ジェフ!」
曲りくねった廊下の向うで、女の呼び声がする。やがて駈けこんで来て、息をきり、開け放しの扉の前で立ちどまり、感動のあまり、膝がしらをがくがくさせ、前掛けの端で汗をふく。メグレを最初に迎えた婆さんであった。
「ジェフ!」
そのジェフも真っ蒼に昂奮して、眼をギラギラさせ、
「どうした?」
「女の児よ! 早く!」
そう聞くと、ジェフはきょろきょろして、何かわけのわからぬ事を呟き、部屋から駈けだして行った。
あとには二人の人間が残された。ヴァン・ダンムはポケットから葉巻を抜いて、ゆっくり火を点けるとマッチを足で踏みにじった。警視庁でと同じように、硬ばった表情で、唇にも皺を見せ、顎をつんだしている。
しかしメグレの方は全然相手の存在を気づかぬ顔つきで、ポケットに両手を突込み、パイプをくわえ、壁を眺めながら部屋の漫歩をはじめた。
あちらこちら、写真版の棚がなくて、ほんの壁紙がのぞいているところに、ずらりとデッサンや銅版画や油絵がかけてある。
油絵も額縁なしで、みんな枠に張った画布《カンバス》のむきだしで、あまり上手とも申せぬ風景画、草も木々の葉ッぱも同じ濃い緑色で塗りたくってあろうという出来栄え。
カリカチュアも何枚かあって、ジェフと署名が入っている。水彩で色あげしてあったり、地方新聞の切り抜きをそのままだったり……
だが、メグレを打ったのは、同じテーマをいろいろに描き分けてあるデッサンが実に沢山あることである。用紙はもう十年以上の年月が経っている。
それらは型破りで、徹底的にロマンチックであり、新進が真似たギュスターヴ・ドレの画風と見なさずにいられぬものだ。
あるペン画のデッサンは、首吊り台に死人がぶらさがっていて、樹木に大きな鴉《からす》がとまっている。この絞刑《こうけい》ということが主題になっているので、鉛筆、ペン、銅版と二十枚ばかりの作が全部それなのだ。
木の枝々に首吊り人のぶらさがっている森のほとり……かと思うと寺院の鐘撞き堂、十字架の二本の腕木、風見鶏の下、それぞれに死人がぶらんこをやっている。
その首吊り人も多種多様で、あるものは十六世紀の服装で、神秘劇の宮廷のように、すべての人間が地上数尺に足をぶらぶらさせている。
かと思うと、シルクハットにフロック、手にステッキという気狂いじみた首吊り人もあり、横木はガス燈の燃え口になったりしている。
あるスケッチの余白には、ヴィヨンの歌った「首吊りの四行詩」が書き込まれている。
日付はほとんど同じ頃のものばかりだ。これらおぞましいデッサンは、すべて十年前に描かれたまま、滑稽新聞絵解きだとか、絵暦だとか、アルデンヌの森の風景画だとか、宣伝ポスターなどと並んでいるのである。
鐘楼をテーマにしたのも随分ある。寺院をあらゆる角度から、正面、横、下方と描き分け、時には玄関だけ、龍頭、遠近法でひどく広く見える六つの階段のある寺院前庭など。
どれもこれも同じ寺院である。メグレが壁に沿うて、こうして歩き廻っている間、背後に感じたのは、ヴァン・ダンムがいらいらして、ちょうどあのリュザンシの水門の時と同じ誘惑に襲われていることであった。
こんなふうにして、十五分はすぎたろう。ジェフ・ロンバールが眼をうるませ、髪の毛の垂れた額に手をやりながら戻って来た。
「失礼しました。女房がお産をしたものですから……女の児です」
その声の中に誇らしげな調子もあったが、喋っているうちに、その眼は不安げにメグレからヴァン・ダンムへ移った。
「三番目の子供なんです。……それなのに、まるで初産みたいにおろおろしてしまうんですよ。あのお婆さんは女房のお袋で、十一人も子供を産んだしっかり者ですが、嬉し泣きに泣いているような始末です。職人たちにも喜んでもらおうと、自分で知らせに行きました。赤ん坊を見に、みんなを連れて来ようというのです」
ジェフは、メグレの視線が、鐘楼の二人の首吊り人に注がれているのを追い、おどおどして、いかにも困惑しきったように呟いた。
「それはみんな、若気の過ちです。下手糞なものばかりで……でもその頃は未来の大画伯を夢みていましたが……」
「これはリエージュのお寺でしょう?」
ジェフはその問にすぐには答えなかった。やがて、悔いに似た調子で、
「もうありません、七年この方……新しいのを建立するというので取り壊したのです。特別に美しいわけでもありませんでしたし、様式に変ったところもないのでしたが、ともかく古くて、その結構やまわりの路次などには何か神秘的なものがありました。それも今ではすっかり消え失せましたが……」
「何という寺です?」
「サン・フォリアン寺院というのです。同じ場所に建てられた新しいのも、同じ名がついていますよ」
ジョセフ・ヴァン・ダンムは神経を消耗しつくして気分が悪いように見えた。かすかにそれと分る身動き、呼吸の不整、指の震え、机に支えている脚の動きなどで、内心の動揺を蔽《おお》うべくもなかった。
「この画の頃は結婚していたのですか?」
メグレの問に、ロンバールは笑って見せて、
「まだ十九だったのですよ。大学の新米でしてね、……ごらんなさい」
ジェフはノスタルジックな眼つきで、色褪せた書き損ねの肖像画を持ちだした。よく見ると、釣合いのはずれている容貌のおかげで彼であることが分る肖像画である。髪の毛が首筋まで垂れていて、咽喉元までボタンのかかる黒い服を着て、その上へ大きな蝶ネクタイを房々と結んでいた。
画風は狂熱ロマンチズムで、背後にはおきまりの|されこうべ《ヽヽヽヽヽ》が浮き出ている。
「その頃、私が写真製版屋になろうなどとは、誰が考えたでしょうね」
ジェフは皮肉めかして言った。彼は、メグレに対すると同様にヴァン・ダンムの存在も悩みの種のようである。だが、どうしてこの会見を切り上げるか始末がつかぬらしいのだ。
職人の一人がやって来て、まだできていない製版についての指図を仰いだ。
「午後にとりに来るようにいっておくれよ」
「それじゃ間に合わないらしいんですがね」
「仕様がないナ。今、お産でてんてこ舞いだというんだよ」
喜びと悩みとがこんぐらかった複雑な表情である。眼や動作や酸の小さな|しみ《ヽヽ》のできた顔の青さなど、それを如実に暴露している。
「何かちょっとしたものを差し上げたいと思いますが、いかがでしょう。母屋《おもや》の方へおいで下さいませんか?」
三人は曲りくねった廊下を一列になって歩いて、先ほどメグレに老婆が開けてくれた戸をくぐった。
通路は青みがかった石が敷かれてあった。その辺一帯に病院へ来たような何となくそッけない匂いがただよっている。多分産室から流れ出て来ているのであろう。
「上の子供二人は義兄のところへ預けてあります。……どうぞ、こちらから」
ジェフは食堂の扉を開けた。小さな窓からわずかばかりの陽の光がさしこんでいるので、家具のありかさえはっきりせず、そこここに置かれた真鍮の器具が微かに光っているのみである。
壁にジェフの署名がある女の大きな肖像画がかかっていて、うまくはないが、モデルをできるだけよく描こうとした努力が明らかに見てとれた。
メグレはそれがジェフの妻君であることを悟り、眼を転じて、期待どおりに首吊り人の画を見つけた。ここにあるのはわりに上出来のものばかりである。そのためか、ちゃんと額にはめてある。
「杜松子酒《ジュニエーヴル》を一杯いかがですか?」
警部は自分にそそがれているヴァン・ダンムの兇暴な視線を感じ、この会見のちょっとつまらぬことでも一触即発の感を受けた。
「さっき、あなたはジャン・ルコック・ダルヌヴィユを御存知のようにいわれたが……」
産室と思われる二階の部屋にあたって、足音がしきりにする。
「ほんのちょっとした付きあいでしたね」
二階から聞えて来る赤ん坊の泣き声に気を奪われて、ジェフは上の空で答える。そして、杯をあげて、
「乾杯して下さい、赤ん坊のために、妻のために!」
顔をそむけて、ぐいと一息に杯をあけると、ジェフは憂悶の表情を見せまいと戸棚をのぞきこんで、ありもせぬ品を探すそぶりをする。そして警部は咽喉の奥に押し殺したうるんだ彼の声を聞いた。
「ちょっと上へ行って見なくてはなりません。失礼いたします。今日のような取りこんだ日で、あいにく……」
ヴァン・ダンムとメグレとは相変らずことばをかわさない。広場をよぎって、噴水の傍を通りながら、警部は皮肉な眼つきで連れを眺め、彼が何をやろうとしているのかを考えてみた。
だが、通りへ出ると、ヴァン・ダンムは軽く帽子の縁へ指先を当てただけで、大股に右手の道へ立ち去って行った。
リエージュでは、タクシーは少い。メグレは市内電車の系統にも通じていないし、一旦歩いて鉄道ホテルに戻って食事をし、この町の新聞社を調べてもらった。
午後二時、ラ・ムーズ新聞社を訪ねたが、入替りにジョセフ・ヴァン・ダンムが出て行った。二人は一メートルの近さのところをすれ違ったのだが、互いに挨拶もかわさず、警部は思わず舌打ちと共に呟いたのである。
「また先手を打ちやがる!」
受付へ新聞の綴込みの借覧を申し出て、願書を書き、管理者の指示を待った。多少の事情は彼にも明らかにされている。アルマン・ルコック・ダルヌヴィユが彼に伝えたように、弟のジャンがリエージュを去ったのは、ちょうどジェフ・ロンバールがしきりと狂気じみた執拗さで首吊り人の画を描いていた頃である。
そして、ノイシャンツとブレーメンの放浪者が鞄の中に持っていたB服は、ドイツ官憲が六ヵ年と鑑定したが、もっと古く、少くとも十年は経っている古着である。
のみならず、ヴァン・ダンムがラ・ムーズ新聞社に姿を見せたということは、そのこと自体警部に何物かをもたらす暗合である。
やがてメグレは一室へ案内された。スケート場みたいにつるつるに蝋《ろう》引きされて、豪奢な家具をしつらえた部屋で、銀鎖をじゃらつかせている受付係が、
「何年頃の綴込みが御入用ですか?」
とたずねた。メグレは各年代の新聞が製本されて部屋の周囲にうず高く積んであるのを見ていたので、
「自分で探させて下さい」
と申し出た。
古い紙にも、製本の豪奢さにも、床同様に蝋引きの丹念さが感じられる。モルキン織のテーブル掛けをした上に、とりだした本を置く書見台が置いてある。すべてがキチンとして壮重なので、警部はポケットからパイプをとりだすことも憚られたのである。
割に早く求める「首吊り人の年代」の新聞の綴込みがわかって、一ページ一ページ繰って行った。
いろんな見出しが流れて行く。世界的な大事件もあるし、地方的な小事件も無数だ。某百貨店の火災(三日間にわたって一ページ全部使っている)、市助役の免職、市電の運賃値上げ……
突然、背のところから切りとった跡が現われた。二月十五日のところである。
メグレは別室へとんで行って、受付係を呼んで来た。
「私の前に誰か来たのでしょう。そして、やはりこの綴込みを借覧したのではないのですか?」
「ええ、そのとおりです。でも、ほんの五分もいはしませんでしたが……」
「あなたはずッとリエージュにお住みでしょうね。この日付の頃、何があったか思いだすことはできませんか?」
「そうですね。十年前、……というと、私の義妹が死んだ年だが、……そうです、あの年は大洪水がありましたよ。妹の葬式をだすのに、八日間も待たされました。何しろムーズ河の近所の町並みは、ボートでなくては出入りができなかったくらいでしたから。……記事を読んでごらんなさい。ほら、皇帝皇后両陛下は難民を慰問せらる、とありましょう。写真もあるでしょう。おや、一日抜けている。これは大変、すぐ局長さんに知らせなければなりません」
メグレは床の上から新聞の小さな切れッ端を拾いあげた。いうまでもなくそれは、ヴァン・ダンムが二月十五日付の新聞を切り取った時に生じた切れッ端である。
[#改ページ]
第七章 その三人
リエージュには四つの日刊新聞がある。メグレはその編輯局を一廻りするのに二時間かかったが、どこへ行っても綴込みには二月十五日付の分が切り取られてしまっていた。
この町の目貫のところと言うと、四方町《カレ》と呼ばれている街なのだが、そこには豪奢を誇る店舗や大ビヤホールや映画館やダンスホールなどが櫛比《しっぴ》していた。
そこへ行けば誰かに必らず逢えるが、事実メグレは三度も、ステッキを手にして漫歩しているジョセフ・ヴァン・ダンムの姿を見かけた。
鉄道ホテルに帰って来ると、二つの通信が届いていた。一つはリュカからの電報で、出発の際に頼んであったことの返事である。
[#ここから1字下げ]
ロケット街ルイ・ジューネの部屋のストーヴの灰は鑑識課にて検《あらた》めたるところ、ベルギーおよびフランスの紙幣なること判明。量よりして莫大なる金額にのぼらむ。
[#ここで字下げ終わり]
もう一つは、使いのものが、ホテルへ届けてきたという手紙である。タイプで打ってあって、タイピストがコピーをとるのに使うマークなしの紙である。
[#ここから1字下げ]
警部殿
小生は貴下捜査中の事件につき必要なる解明の鍵を提出せんとするものなり。仔細ありて慎重を期するため、もし小生のこの申し出に対し御興味抱かれし節は、今夕十一時、王立劇場裏のカフェ・ド・ラ・ブールスへ御来駕くだされたし。
最大の尊敬をもってするこの御招待になにとぞ御快諾願いあげたし。
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署名はない。商用文にはありきたりの慣用句が使ってあるのが、この種の手紙にはいかにもそぐわない感じである。
メグレはただ一人で食卓についたが、いつの間にか、自分の考えが変っていることに気づいた。彼はブレーメンのホテルで自殺したルイ・ジューネと称するジャン・ルコック・ダルヌヴィユのことはあまり考えないようになっていた。
そのかわりに、彼の心はジェフ・ロンバールの作品でいっぱいだ。その辺やたらに、教会の十字架であろうが、森の木の枝であろうが、屋根裏の釘であろうが、所嫌わずぶらさがるグロテスクで忌わしい首吊り人。いろんな時代の衣服を着て、時に赤く時に青く塗られた皮膚……
十時半になって、メグレは王立劇場へ行く道を辿っていた。カフェ・ド・ラ・ブールスの扉を押したのは、十一時五分前。静かな小じんまりしたカフェで、常連、とくにトランプ遊びの連中が通うところらしい。
だが、驚きが彼を待ち受けていた。立飲み台の傍の隅の方に三人の客が坐っている。モーリス・ベロアール、ジェフ・ロンバール、ヴァン・ダンムの三人だ。
ボーイが警部の外套をぬがせている間、いささかばつの悪い空気が流れた。ベロアールは機械的に立ち上って、半分ほど上体を屈めて礼をした。ヴァン・ダンムは動かない。ロンバールはひどく昂奮の色を見せて、友人たちがどういうふうな態度に出るだろうかと椅子の上で踊るようにそわそわしている。
さて、どうしたものだろう。彼らのところへ近づいて、手を差しだし、一緒のテーブルへついたものだろうか? それぞれ顔見知りでないものはない。メグレはブレーメンの実業家とは晩餐を採り合った間柄であるし、ベロアールはランスの自邸で彼にコニャックを餐応したし、ジェフは今朝彼を客として遇したではないか。
「みなさん、今晩は」
彼は一同の手を強く握った。それはいつものことなのだが、ある時はそれが相手を脅してることを意味するのである。
「ここでまた皆さんにお目にかかるなんて全く思いもよりませんでしたな」
いいながら、ヴァン・ダンムの隣りが空いているので、吸いこまれるように腰をおろして、ボーイにいった。
「白の小壜をくれ」
それきり沈黙が来た。厚ぼったくて締めつけるような沈黙だ。ヴァン・ダンムは例によって顎を引いて前方を見つめたままである。ジェフ・ロンバールはまるで洋服が小さすぎて袖口を締めつけているのが我慢できないといった調子で、しきりにもぞもぞしている。ベロアールは、冷然とすまして、指の爪を眺めていたが、人差指のところに塵が一つ見つかると、それをマッチの軸で払いのけた。
「ロンバール夫人はその後いかがです?」
訊かれてジェフは、何か支えになるものでも探すように周囲を見渡し、ストーヴに眼を据えながら答えた。
「大変順調です、ありがとう」
立飲み台の上方に大時計があって、メグレは正確に時間を計ることができたが、だんまりのまま五分がすぎた。ヴァン・ダンムは葉巻を消えたままくわえていたし、その表情の中に明からさまに憎悪をうかべているのは彼だけであった。
ジェフの様子は、確かに観物《みもの》に価いした。日中の出来事は疑いもなく彼の神経を丸裸にしてしまったのだ。その顔面には、どんなに微細なものでも震えていない筋肉はひとつもないといってよかった。
四人のついているテーブルだけが、大声で喋り合っている周囲の中で、取り残された沈黙のオアシスのようである。トランプの連中は夢中で掛け声をかけあっているし、それに応じてボーイが飲物の注文を奥へ通す。
みんなが生き生きと動いているのに、このテーブルにだけ目に見えぬ壁がめぐらされて、それが刻々に厚くなるようである。
たまらなくなって、とうとうジェフがそれを突き破った。下唇をぎりりと噛んで、すッくと立ち上ると、
「しようがない!」
と口籠りながら、ちらッと鋭く深い眼つきで友人たちを見廻し、壁の外套と帽子をひったくると、扉を乱暴に開けてとびだして行った。
「町へ出るや否や、間違いなく泣きだすことでしょうな」
メグレがぼそりと呟いた。
メグレにはそれが見えるような気がした。咽喉仏がぐりぐりとあがったりさがったりして、怒りと絶望に泣きわめくその姿が。
大理石のテーブルをじッとみつめているヴァン・ダンムを振り向いて、彼は小壜の酒をぐいとやり、手の甲で唇を拭いた。
ランスのベロアール邸の会合の雰囲気を、十分の一にも煎《せん》じつめた感じである。いつもメグレが顔を出したことよって生れた雰囲気なのだが、それほど警部の全重量が驚異的な効果を現わしているのである。
彼は大きく幅が広い。厚みもあって強靱《きょうじん》そうだ。ありふれた服装は見ただけでも庶民的であることを裏書している。のっそりした顔に、その眼が牛の物に動ぜぬ感じを湛《たた》えていた。
彼は子供の悪夢に出て来るある人物に似通っている。ぶわーッと大きくて、表情がなく、踏み潰さんばかりにまともに、夢を見ている当人に迫って来るのだ。
度しがたい、非人道的な何物かである。一たび的へ向ったとなったら、それを躱《かわ》させようとしても、あくまで進んで来る厚皮動物。
彼は杯をあげ、パイプをくゆらし、満ち足りたふうで大時計を見上げる。その針は一分ごとに、チカリ、チカリと動く仕掛けになっている。時計も蒼くなってやがる!
人のことなどは少しも気にしていないようだが、本当は左右にうごめくどんな些細なことでも見逃しはしない。
しかし、このひとときは彼の全生涯のうちでもまことに異様なページに価いするものであった。たっぷり一時間、正確に大時計が示した時間は五十二分。神経の格闘がつづいたのだ。
ジェフ・ロンバールはもう緒戦で戦域外に脱落してしまった。しかし残った二人はなかなかやる。
二人の間にあって、メグレは裁判官のように坐っている。裁きもせず、その意見も述べようとせぬ裁判官である。何を知っているのか? 何のためにここへ来たのか? 何を望んでいるのか? その疑いを明らかにする言葉なり挙動なりを待ち伏せているのか? すでに事件の全貌を発見したのか? それとも確信に満ちたその態度は、単なる脅しにすぎないのか?
どんな言葉を発したらいいのか? いい加減の出まかせか、ひょっくり逢った時の軽い言葉がいいのか?
だが、結局沈黙だった。待つ当てもなくて待っている。何かを待ってるが、何物も現われようとせぬ。
大時計の分針は一分ごとに震える。そのたびに、機械の軋《きし》る微かな音がする。最初のうち、その音には誰も気がつかなかった。だが、今では轟然と聞える。しかもそれは、三つの段階をともなっている。最初にギチッと鳴る。針が一足動く。それからまたギチッと、新しい場所に安定したのを確かめるように鳴る。大時計の面《つら》つきもだんだん変って行く。鈍角であった針と針が、鋭角になって、やがて両方とも重なりそうになった。
ボーイはこの辛気くさいテーブルに気づいて怪訝《けげん》な視線を投げかける。モーリス・ベロアールは時々ごくりと唾《つば》を呑みくだすが、メグレは格別それを確めるために視線を動かすこともいらない。相手が呼吸をしたり、しゃちこばったり、教会で誰もがやるようにそッと靴底をずらせたりするのが、いちいち手にとるように感ぜられていたからである。
お客たちは大分まばらになった。赤いテーブル掛けもトランプ札も無くなって、テーブルはただの青白い大理石の地膚を現わす。ボーイが鎧戸を閉めに外へ出る。店の女主人はトランプの賭札《ジュトン》を片づけるために色分けにして積み重ねはじめる。
「まだいますか?」
とうとうベロアールがやっと聞きとれるくらいの声音《こわね》できりだした。
「あなたは?」
「さァそれが……」
すると、ヴァン・ダンムが銀貨でテーブルを叩いて、ボーイを呼んだ。
「いくら?」
「御一緒ですね?……九フラン七十五でございます」
三人一緒に立ち上った。お互いに顔は見ず、ボーイが代る代る外套を着せてくれた。
「お寝みなさい、みなさま!」
その声に送られて外に出ると、霧である。街燈の灯がやっと見分けられるくらい深い。どこの家の鎧戸もたてられている。どこか遠いところを、鋪道に高く靴音が消える。
さて、どっちの方へ行ったらいいか、というちょっとした躊躇。三人とも自分で方向の責任をとりたくないのだ。背後ではカフェの表戸に鍵をかける音がし、閂《かんぬき》もかけられたようである。
左手の方に、いろんな形の玄関をのぞかせた古い家の並んだ道がぼんやり見える。
「では、皆さん、どうやらこれで御機嫌ようと申し上げるより他はないようですな」
メグレは言った。まずベロアールの手を握ったが、冷え切っていて、ぶるぶるしていた。いやいやながら差しだしたヴァン・ダンムの手は、湿っぽく柔かだった。
警部は外套の襟を立て、咳払いをやってのけてから、独りで人気ない道に沿うて歩き出した。全身の感覚が、今やただ一つの目的に向って集注された。どんな物音でも、危険と目されるどんな気配でも、見逃してはならない。
ポケットに突込んだ右手はピストルの銃尾を握りしめている。通りに沿うて、まるでひび割れができたように網目の小路が左手にひろがっているのだが、そこを誰やら知らぬが足音を忍んで足を早めている気配がするのである。
低い声で言葉をかわし合っているのが、ひどく遠くにも、ひどく身近くにも聞えて来る。霧がひどくて、彼の感覚もさすがにしかとはつかみえないのだ。
だが、ガバと彼は身を躱《かわ》して、とある戸口にへばりついた。乾いた銃声がして、誰か暗闇の中を一散に駆けて行く足音。
メグレは五六歩進みでて、通りを見渡し、射ち込んで来たあたりを確かめたが、誰もいなかった。見えるのは、袋小路に違いない路次の入口が黒く口を開けているだけで、遠く二百メートルほども先の方に、艶消しの丸い電燈が一つ見える。揚げた馬鈴薯を売っている店の看板である。
メグレはやがてその店の前を通りかかったが、そこからこんがり揚った薯《いも》を包んだ袋をかかえて、一人の女がとびだして来た。彼女は彼に、気乗りのしない流し目をくれたが言葉もかけずそのまま明るい町の方へ小走りに消えて行った。
メグレは静かに手紙を書いている。骨太の人差指が、ペンを紙に押し潰しているように見える。時々パイプの皿の熱い灰を抑える。
鉄道ホテルの一室。窓から見える駅の発光時計は深夜二時を指している。
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リュカ大兄
今後いかなる事態が発生するかわからないので、小生は君に二三の指示を書き送っておく。それによって、万が一の場合に、小生の着手した捜査を続行して貰いたい。
一 先週のこと、ブリュッセルで、浮浪者風の身装《みなり》卑しい男が、千フラン紙幣を三十枚小包にして、自分自身の番地、パリのロケット街に送った。捜査によると、彼はしばしばこの種の大金を送っているが、一度も消費した模様がない。その証拠に、彼の部屋にはみずから焼き捨てたと思われるおびただしい紙幣の灰が発見された。
この男はルイ・ジューネの名のもとに、同街の工場でまずまず謹直に働いていた。
彼は結婚し(ピクピュ街薬種屋ジューネ夫人に会うこと)一男あり。ただし家庭事情混乱し、アルコール中毒症を起し、妻子を捨てて家出した。
ブリュッセルで金を送ったあと、鞄を一個求めて、その中にホテルに置いてあった衣類を納めた。
この鞄はブレーメンに行く途中、小生が同様の鞄とすり代えてしまった。
ジューネは、|それまで自殺の気配も見せず《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|食糧の準備まで整えていた《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》のであるが、鞄の中の衣類が盗まれたと知るやたちまち自殺をとげた。
問題の古い衣類は彼の着用したものではなく、数年前に格闘によって裂け疵《きず》を生じ、血に塗《まみ》れている。洋服は|リエージュで《ヽヽヽヽヽ》仕立てられたものである。
ブレーメンでは、彼の死体をわざわざ検分に来た人物あり。ジョセフ・ヴァン・ダンムといい、リエージュ生れ輸出入取次商。
パリで、ルイ・ジューネは実はジャン・ルコック・ダルヌヴィユ、|リエージュ生れ《ヽヽヽヽヽヽヽ》、なること判明。ただし、ここ数年の行動一切不明。彼は大学課程の教育を受けている。リエージュでは、彼の行方不明が伝えられてから約十年になるが、悪い噂をするものがない。
二 ランスでは、このジャンがブリュッセルにおもむくまえに、一夜モーリス・ベロアール邸に現われしこと判明。ベロアールはリエージュ生れ、銀行の副頭取でジャンとの会見を否定している。
しかるにブリュッセルよりジャンが送った三万フランはベロアール払出しの小切手による。
ベロアール邸にて、小生はブレーメンより飛行機で来たヴァン・ダンム、ジェフ・ロンバール(リエージュの写真製版屋)および当市生れのガストン・ジャナンの三名に出会った。
ヴァン・ダンムと共に自動車でパリに帰る途中、彼は小生をマルヌ河に突き落そうとした。
続いて小生は彼とリエージュのジェフ・ロンバール家で出会った。ロンバールは十年以前には画家たらんとし、当時の画が壁面を埋めているが、それがことごとく首吊り人の絵である。
当市で新聞の綴込みを調べたが、首吊り人の描かれた年の二月十五日付新聞が、すべてヴァン・ダンムによって切り取られていた。
その夜、無名の手紙が来て、事件の全貌を明らかにするから、町のカフェに来いとの指示があって、行って見ると、発見したのはベロアール(ランスより来る)、ヴァン・ダンム、ジェフ・ロンバールの三名であった。
彼らは困惑をもって小生を迎えた。この三名のうちの一人が小生に真実を訴えようとしているのだとの確信を持った。それを残りの二人が牽制しているのである。
ジェフ・ロンバールは直ちに尻尾《しっぽ》を捲いて逃げだした。残る二人とは十二時すぎの看板までねばり、外で別れたが、少時の後、霧の中で一発の弾丸が小生に向って放たれた。
三名のうち一人が小生に真相を打ち明けんとし、しかも一方三名のうち一人が小生の息の根をとめようと試みたのである。
しかもなお、この最後の襲撃によって明らかなことは、彼は今一度小生を狙い今度こそは仕損じまいとしていることだ。
その一人とは何者? ベロアールか、ヴァン・ダンムか、ジェフ・ロンバールか。
彼が再度の襲撃を試みた時にそれがわかるのだが、万が一を慮《おもんぱか》り、大兄にこのノートを送って、捜査の手掛りに残したい。
事件の裏面については特にジューネ夫人および死者の兄アルマン・ルコック・ダルヌヴィユに会って訊くこと。
ではお休み。諸君にもよろしく。
メグレ拝
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霧が薄れて、アヴロア広場の街路樹や灌木の枝々に、白い霜の真珠の玉が残されているが、そこをメグレはよこぎって行った。
しらちゃけた青空にちぢかんだような太陽が輝いていて、霜は刻々に溶け、輝く水玉となって砂利の上へしたたり落ちる。
まだ朝早く、八時という時刻で、警部の歩いている四方街《カレ》の通りは人通りもなく、映画館の閉された表口に、立看板が立てかけられたままになっている。
メグレは道傍のポストの前に立ちどまって、部下のリュカに宛てた手紙を投げこんだが、あたりを見廻して、何か一種の感動に似たものを覚えた。
この同じ町の中に、こうやって金色の陽に輝き渡っている通りのどこかに、一人の男が、同じ時間に、メグレの事を考えているのだ。しかもこの男は、彼を殺すことによってでなければ助かる道はないのである。彼は警部よりも土地に明るいという利点を持っている。たとえば昨夜経験したように、あの錯雑した路次を自在に見え隠れすることもできる。
それにこの男は、メグレをよく知りつくしていて、おそらくはこの今の瞬間にも彼を盗み見ているかも知れないのに、一方警部の方ではその正体をつかめずにいるのだ。
そやつは、ジェフ・ロンバールだろうか? あのオル・シャトオ通りの古風な家の中に危険がはぐくまれているというのか? そこには、二階には産婦が眠っていて、けなげなお袋さんがあれこれと世話を焼き、気の好い職人たちが酸を入れた桶の間を歩き廻り、新聞社の使いから、いつも催促の叱言を食っている。
ジェフでなければ、ジョセフ・ヴァン・ダンムか? 陰険で兇暴で、しかも行う時は大胆、術策的である彼が、いずれは追い込まれるであろう罠の中へメグレが足を踏み入れるのを、じッとどこからか窺《うかが》っているのではなかろうか?
ともかく此奴《こやつ》は、ブレーメン以来万事を見透しているのである。ドイツの新聞に、わずか三行の記事が出ただけで、死体陳列所《モルグ》に駆けつけて来る。メグレと一緒に昼飯を食ったかと思うと、その行先を感知して、警部よりも一足先にランスに乗りこんで来る。
オル・シャトオ通りのジェフ・ロンバールの家に来て見ても、ちゃんと先廻りしている。揚句に、警部が新聞社廻りをはじめると、その先々で調査の裏をかく。
そしてとうとう昨夜、カフェ・ド・ラ・ブールスでもそのとおりだった。
事件の真相を明かす気になったのが、彼ではないという証拠はどこにもない。ところがその反対に彼だという証拠も全然ありはしないのだ。
あるいは、ベロアールかも知れない。冷静で、きちんとしていて、地方の大紳士の尊大さを十分に身につけた彼が、霧の中に身をひそめて、一発ぶッ放す。メグレを亡きものにする手段を、そういう方法でしか求め得なかったとも考えられる。
ガストン・ジャナンはどうだ。あの顎髯のある小柄な彫刻家。カフェ・ド・ラ・ブールスには姿を見せなかったが、メグレの帰路を擁して、街路にひそんでいなかったとはいえないではないか。
これらのすべての出来事に、寺院の十字架にぶらさがっている首吊り人がどんな引張りを持っているというのだ? 首吊り人は一人ではない。やたらにいる。まるで果物みたいに、森の木々の枝もたわわにぶらさがっていたあの首吊り人と何の関わりがある?
それから、あの血に濡れた洋服、伸びきった爪で裏までも引掻かれた古洋服の語るものは何なのだ?
街は女事務員の行き来で賑かである。市の清掃車がゆっくり走って来て、二重になったポンプから水を流し、ローラー型の箒でその辺の塵芥をみんな溝の中へ押しこんでしまう。
街角に、白エナメルを塗ったヘルメットを被って、お巡りさんがこれも白く塗った長手袋を勢いよく振り廻して交通整理をやっている。
「中央警察署はどこでしょう」
メグレは訊いた。
道を教えられて、警察署に行って見ると、さすがにまだ早く、掃除婦がしきりに立ち働いていたが、愛想のよい巡査が彼を迎えて、十年前の二月に当たる報告書の綴込みを見せてもらいたいと聞くと、面白そうに叫んだ。
「ほほう、わずか二十四時間の間にあなたで二人目ですよ。……ジョセフィン・ボランという女が、そのころに窃盗をやっていますが、お調べになりたいというのは、多分それなんでしょう?」
「私の前に誰か来たというのですね?」
「昨日、夕方の五時頃でしたろう。外国で成功したリエージュ出身の事業家でしたが、まだ年配も若い人で……お父さんは医者でしたよ。御当人はドイツで一身代作りあげたのですね」
「ジョセフ・ヴァン・ダンムですね?」
「ああその人です。……しかし、記録をめくって見ても、求める報告はなかったようでしたがね」
「それをどうぞ見せて下さい」
緑色のカバーをかけて日々の報告書がそのまま綴込にみなっているが、一通ごとに番号が打ってある。二月十五日の日付のところには五件の報告書があった。二件は泥酔並びに安眠妨害、一件は街頭の窃盗、つづいて傷害事件、最後が家宅侵入並びに飼兎の窃盗というつまらぬものばかりだ。
メグレはもちろんそんな事件を一顧だにしなかった。ページの上方に打ってある番号を照し合して見る。
「ヴァン・ダンム氏は自分でこの綴込みを調べたのでしょうな?」
と彼は訊いた。
「そうです。……この隣の部屋でやって行きました」
「いや、ありがとう」
十五日付の五件には、それぞれ二三七、二三八、二三九、二四一、二四二と番号が打ってあった。
つまり、一つだけ抜けているのである。新聞社の綴込みと同じように、二四〇の一枚が切り取られているのだ。
メグレは数分後に、市役所の裏手の広場を歩いていた。結婚式場に行く自動車が列を作っている。それには眼もくれず、メグレは聴き耳を立てていた。ささやかではあるが、いても立ってもいらねぬ不安が彼を駆り立てている。
[#改ページ]
第八章 ちびのクライン
まさにきッかりである。九時。
吏員たちは市役所に出勤して来て、儀式に使われる広場をよぎると、ちょっと立ちどまって門衛と握手をかわす。門衛はピカピカした石の階段の上に立っていて、金モールのついた帽子をかぶり、髯に十分の手入れをし、パイプをくゆらしている。
それは海泡石《かいほうせき》のパイプであった。メグレは何ということなしにそのパイプに見とれた。多分、それは、朝陽がパイプに当ってキラキラと映えたせいであったろうし、丹念に使いこまれていて、いかにもそれをくゆらすことが楽しく、まるで平和の象徴か、生の喜びの姿そのものに見えて、警部が羨望《せんぼう》を禁じ得なかったせいでもあったろう。
何しろ、その朝は、大気も活力に満ち、空に太陽が昇るにつれてますますすがすがしさが増して行った。あたり一帯には耳に快い不協和音が溢れていた。ベルギー東南部特有の訛《なま》りを持った各種の呼び声、黄と赤に塗った電車のかん高い警笛、正面階段の上にしつらえた記念噴水から四方に撒き散らす水の音。水の音だけは、流石《さすが》に一番近く、ざわめきのすべてを支配していたけれど。
両翼に分れた階段の片隅で、メグレはジョセフ・ヴァン・ダンムの姿をちらと認めて、それが控えのホールの方へ消えたように思った。
身をひるがえして、警部はそのあとを追った。建物の内部でも、階段は左右に分れて、上へ行って各階ごとに再び行き合うようになっている。上の廊下で、二人はばったり顔を合せた。走ったのでハアハアしながらも、銀鎧をつけた守衛の前へ来てその気振りを見せまいと息を殺した。
実に咄嗟のことであった。さッと頭にひらめいたことで行動に出たのだ。
階段を駆けあがりながら、メグレはヴァン・ダンムが、例のとおり、新聞社や警察を先廻りして、警部の欲しがっているものを隠してしまうことを考えていた。二月十五日付の報告書の一つは切り取られている。
しかし、どこの町でもそうだが、警察は毎朝市長に宛てて日々の事件報告のコピーを届けるものである。
「書記さんに面会させて下さい。大至急なんですが……」
メグレは、ヴァン・ダンムとは二メートルと離れぬところで絶叫した。
二人の目はかち合った。目礼しかけて、あえてそれを制し、ブレーメンの実業家ヴァン・ダンムは守衛に用件をたずねられると、さりげなく口籠った。
「いや別に……また参りましょう」
そのまま彼は踵《くびす》を返した。その足音が控えのホールの方へ消えて行く。
しばらく待たされたがメグレは美々しい部屋へ通された。そこには、フロックに身を固めて、顎のつかえそうなカラーをした書記がいたが、メグレは十年前の市事件簿の借覧を申し出た。
部屋の中の空気は生温く、敷物は靴の裏に柔い。壁間一つを占領している大きな歴史画の中に、偉い坊さんが描かれているが、胸の十字架に窓から洩れる陽が当って、燦然と輝き渡っていた。
約三十分も、丹念に捜し求めた甲斐あって、メグレはようやくのことに家兎窃盗事件や、泥酔騒ぎや、街頭かっぱらいの項目を見つけだすことができた。この間にまじって、次のそれまで発見できなかった報告があったのである。
[#ここから1字下げ]
――第六区受持ちのラガス巡査は、今朝六時頃、アルシュ橋際の交番に当直のためおもむく途中、サン・フォリアン寺院の門前にて、門の敲《たた》き金に吊り下げたる死体一箇を発見せり。
――急遽現場に到着せる医師の診断は、完全なる死体なることを認め、調査の結果、死者はエミール・クラインといい、アングラール生れ、二十歳。室内装飾画工でポトノアール街に居住せり。
――クラインは前夜半、廻転窓掛の紐をもって縊死をとげたるものにして、ポケットにはありきたりの所持品およびバラ銭少々を発見せるのみ。
――引続きの調査により、ここ三ヶ月クラインは正規の職より離れ、貧窮の末、死を選びたるものと推定せらる。
――クラインの母は寡婦にして、アングラールに居住、素人下宿を営み居り、息子変死の報に接したり。
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それから何時間かが熱狂的に過ごされた。メグレはこの新しく発見された道をやみくもに突き進んで見たのである。ところが、どういうものか、ヴァン・ダンムに出会った以上にはこのクラインなる人物の消息がはっきりしないのだ。
ともかくあのブレーメンの実業家を見かけた時には、一歩事件の真相に近づいていたものだった。ブレーメンで会ったことだけで、その第一歩が踏みだされていた。以来、歩一歩、事件の重要な点に来てヴァン・ダンムの出現がなかったことがない。
とうとう市役所で鉢合せをして、警部が報告書を見たと決まった以上、逆にクラインという一人物が発見されたことをヴァン・ダンムも覚悟したであろう。
ところが、アングラールへ来て見て、何の発見もできないのだ。メグレはタクシーを雇って、工場地区におもむいた。どれもこれも同じような形の、煤で灰色になった労働者の家々が、工場の煙突の足元にへばりついて町を作っている一廓である。
そのみすぼらしい家の表口を掃除している女がいた。クライン夫人が住んでいた番地だったので、声をかけて見ると、
「あのお神さんが死んでから、もう五年にもなりますよ」
という返事である。
ヴァン・ダンムの影は全然その辺には感ぜられない。
「息子さんが一緒じゃなかったのでしょうかね?」
「いいえ、それがね、息子さんもとんだ末期でしてね。お寺の門に首を吊ったんですとさ……」
これが全部である。メグレはわずかに、クラインの親父というのが、どこかの炭坑の坑夫頭をしていて、それが死んだあと、未亡人が乏しい部屋の又貸しという素人下宿をはじめて、ほそぼそと口を糊《と》していた事実だけを聞き知った。
「六区の警察分署にやってくれ」
待っていた運転手にメグレは命じた。
ラガス巡査は幸い生きていてくれたが、その頃の記憶は怪しいものだった。
「たしか夜どおし雨の降り続いた晩のことでしたよ。……その男はずぶ濡れで、赤毛の髪が額に垂れさがっていましたね」
「背の高さは、大きい方、小さい方?」
「まァ小柄でしょうナ」
分署を出た警部は、憲兵本部へ廻った。一時間近くも皮革と馬の汗の匂いがする事務室に頑張った。
「当時二十歳というと、徴兵検査を受けたに違いないですな。クラインといいましたね。Kの頭文字ですね」
退役者名簿のうちの十三番の表の中に求める名が出ていた。メグレは数字を写し取った。身長一メートル五五、胸囲八十センチ、備考として、肺の虚弱。
ここにもヴァン・ダンムの影は見えない。どこか他を探しているのだ。
午前中の捜査でやっと判明した唯一の収穫は、例のB服がこのサン・フォリアン寺院の首吊り男が着たものでは絶対にないということだ。それほどこの男は発育不全なのである。
クラインは自殺した。そこには格闘の形跡もなく、一滴の血も流れてはいなかった。
では、ブレーメンの浮浪者の鞄と、ルコック・ダルヌヴィユすなわちルイ・ジューネの自殺の関係は、一体何なのだ?
「ここで降してくれ。……ポトノアール街というのはどの辺かね」
「お寺の裏手ですよ。……サント・バルブ河岸へ出る通りで……」
サン・フォリアン寺院の正面で降りて、メグレはタクシー代を払った。広い台地の上にそそり立った新しい会堂を、しげしげと彼は見守った。
右手と左手の方へ、新しい寺院とはほぼ同年代と思える家屋に縁どられて、大きく道がひろがっている。ただ裏側の一廓が元どおりの旧い町並みだが、そこへも寺の通りが路が拓《き》りこんでいる。
文房具屋のショーウインドに絵葉書が並んでいて、それには昔の寺院が写されているが、今のよりずっと低く、ずんぐりしていて、黒っぽい。袖の一つが厚板で支えられている。三方から、軒の低いむさくるしい家々が壁によりかかって来ていて、全体がいかにも中世紀風の面影を与えている。
奇蹟の広場の方には、残された一廓が続いているのだが、そこは路次や袋小路が蜂の巣のようになって、胸の悪くなるような貧民たちの匂いをこもらせている。
ポトノアール街の路は、わずかに幅二メートルたらず、その真中をシャボン臭い水が流れを作っていて、子供たちが家々の戸口で遊び戯れ、その奥でうじゃうじゃと人間の生活がはびこっている。
暗い。空には太陽が輝いているのに、その光はとてもこの細い路次の奥までは届かないのだ。桶屋がこの通りで大樽の箍《たが》を入れているが、火鉢の火を起しているのである。
所番地の字も消えているので、警部はいちいち聞いて廻らなければならなかった。七番地を訊くと、しきりに鋸と鉋《かんな》の音が聞えてくる袋小路を指で指し示された。
その路次のどんづまりに仕事場があって、指物師の腰掛があり、三人の職人が、戸を開け放して、ストーヴにかけた膠《にかわ》で何かやっていた。
その一人が顔をあげて、火の消えたタバコの吸いさしを置き、メグレのいいだすのを待った。
「クラインという人が住んでいたというのは、御宅でしょうな?」
職人は仲間の方に意味ありげな一瞥をくれてから、奥の方の暗い階段を指で差し示し、投げやりな調子でいった。
「あそこからおいでなさい……もう一人誰か来てますぜ」
「新規の下宿人ですか?」
返事がなくて、ただ妙な笑い方をする。この笑いの意味が、まもなく警部にも呑みこめたけれど。
「ま、あがっておいでなさい。二階ですから。間違いッこありませんや、あの戸一つきりですからね」
鉋を動かしていたもう一人の職人が、クスッと忍びやかな笑いを洩した。メグレはその階段にさしかかったが、何とも暗い。四五歩昇って、手が空を泳いだ。手摺《てすり》が無くなっているのである。
マッチをとりだして、上を確かめた。頭の上に一枚の扉がある。把手がなくなっていて錆びた釘に糸でつなぎとめる仕掛になっている。
メグレのポケットに突込まれた手は、ピストルを握りしめていた。膝でドンと扉に一突きくれたが、とたんに眼がくらんだ。正面にステンドグラスをはめこんだ窓があるが、ガラスが一枚こわれていて、そこから外光が彼の眼を射たからである。
それがあまりに意表を衝いたので、メグレは一瞬度を失ってキョロキョロするばかり。すぐには内部の様子を見てとることもできないくらいだった。だが、眼が慣れると、隅の方に誰やら人影が佇んでいる。壁によりかかって、じッと彼に兇暴な視線を注いでいるのだ。まぎれもなくそれはジョセフ・ヴァン・ダンムであった。
「とうとうここで落ち合ったですな」
警部が声をかけた。
しかしその声は、あまりにもよそよそしく、あまりにも空虚な空気の中へ投げだされ、そのままはね返って来た。
ヴァン・ダンムは返事もせず、身動き一つなく、噛みつくようにメグレを見返しているばかりである。
建物を見るには、それが僧院風か、兵営風か、教員室風か、その作り方を見るより他はないのだが、この部屋は全く型からはずれている。土間の半分が板敷きになっているかと思うと、あと半分が古い礼拝堂みたいに不規則な床石を並べているといった具合。
壁は石灰の粗塗りだが、旧い窓を塞ぐために、矩型《くけい》に赤煉瓦で埋めてある。
色ガラスの窓から、破風や樋やごちゃごちゃと勝手な形の屋根が見渡せる。
そのへんまでは別に驚くこともないが、度胆を奪うにたるのは、その場の造作がいかにも乱雑を極めていて、まるで気狂い病院の一室か、大乱痴気騒ぎの跡を思わせるのであった。
床には新しい椅子、作りかけの椅子、羽目板を修繕しかけている扉が平べったく置かれたままであるし、膠の鍋、折れた鋸、藁《わら》屑|鉋《かんな》屑を垂れさげた箱の類まで、いやもうごッちゃに投げだされている。
そうかと思うと、一隅には長椅子――というより寝台といった方が適当な家具が据えてあって、半分ほどインド模様のシーツで蔽ってある。その真上に、変ちくりんな燈籠がぶらさがっている。骨董屋の店先に行かねば見られない色ガラスのはまった奴である。
長椅子の上には骨のたりない骸骨が解体されて投げだしてある。医学生の研究用によく見かけるものだが、肋骨と骨盤とがまだ留金でつながっていて、壊れた人形のように、前のめりにひっかかっている。
壁がまた大変だ。白く塗ってはあるのだが、落書きでいっぱいである。まさに落書の壁画と言ってよい。
この落書が部屋の乱脈さを最高潮に強めている。書かれている人間たちはみんな歯をむきだしていて、その傍にこんな走り書きがしてある。
「悪魔万歳! 世界の父祖!」
足もとに、昔の破れた聖書が一冊。書き散らしの画稿、黄ばんだ紙、それらはすべて厚い埃をかぶっている。
落書は戸の上にもある。
「呪われ人よ、大歓迎!」
まだ仕上げのできていない椅子や、膠の鍋や、削り放しの松板などは、みんな階下の指物師のものだろうが、その真中にストーヴが一つ、赤錆びたまんまひっくり返っている。
この混乱しきった舞台装置の中に、ジョセフ・ヴァン・ダンムは例により仕立てのよい外套に、化粧も行届き、非の打ちどころのない靴を穿いて、ブレーメンの大実業家、ビルの中のモダンな事務所の所有主、豪華な食事、アルマニャックの古酒の杯をあげる紳士として、そこにいる。
……ヴァン・ダンム。みずから自動車を運転して諸名士と挨拶をかわし、振り返って曰く、あの毛皮外套は百万長者、この人は貨物船三十艘の所有者、とあたかも掌を指すよう、やがてビヤホールでは、軽音楽とコップと皿の音を合の手に、顔を合せる大立物と例外なく握手をまじえて、一歩たりとも退けを取ろうとせぬ。
……そのヴァン・ダンムが、今や血迷った野獣のように、身じろぎ一つせず、壁に背を寄せ、その壁の漆喰《しっくい》が肩を白く染めていることも意に介せず、片手を外套に突込んだなりで、メグレに向って錨《いかり》のような視線をからませていたが、ついに口を割ったのだ。
「いくらだ?」
果してそう発言したのであったろうか? この変挺子《へんてこ》な雰囲気の中では、警部もそれを自分の空耳ではないかと疑わざるを得なかった。
メグレはぶるッとして、坐り底のできていない椅子をひっくり返した。それが途方もない大きな響きをたてて倒れた。
ヴァン・ダンムは顔を充血させた。だが、その顔からはいつもの健康そうな様子は消え失せていた。狼狽と絶望、同時に憤怒と生への執着、どんなことをしてでも勝利を得ようとする焦り、それが血圧の高くなった顔から溢れでて、眼は抵抗の最後の力を集めようと瞠《みは》られている。
「何ですッて?」
メグレは呟くように反問しながら、大窓の下に当る部屋の隅へ掃き溜められた反古紙《ほごがみ》の山に歩み寄って、わざと返事をおくらせるように、一枚の裸体画のスケッチの皺をのばした。ごくありきたりの器量で、髪をもじゃもじゃにした娘だが、さすがに身体は張り切って均整もとれ、乳房も見事に盛り上り、腰も豊かに大きかった。
「潮時ですぜ」ヴァン・ダンムはなおもおッかぶるように、「五万?……それとも、十万?」
警部は不思議そうな眼つきでヴァン・ダンムを見返したが、相手は熱に浮かされたようにのしかかる。
「二十万だそう!」
あばら屋のぶざまな壁に囲まれた空気の間を、ぞッとするものが稲妻のようにとびちがう。辛辣で、歪んでいて、病的のものを含んだ何物かである。
この恐怖のようなものの他に、何か別のものが流れている。抑えに抑えている誘惑、殺人への迷妄。
メグレはしかし、依然として書きよごしの紙を漁《あさ》っている。他にいろんなポーズのものがある。同じその豊満なモデル少女で、ポーズをとりながら、じッとくくりつけのように動かずにいた様子がメグレにも容易に想像できた。
ある一枚には、部屋の隅の長椅子に掛けてあるインド模様のシーツを肩にかけさせてスケッチしてあったり、その他に、黒い絹靴下を穿かせたのもあった。
彼女の背後には、|されこうべ《ヽヽヽヽヽ》が描かれてあるが、それはあの長椅子の足もとにだらりと垂れている骸骨から写し取ったものであろう。なるほど、そういえばメグレは確かにジェフ・ロンバールの肖像画を見せられた時も、このされこうべにお目にかかったことがあるのを思いだした。
まだぼんやりとではあるが、これらの人々と事件との間に、空間と時間を通して、何かしら脈絡があることが感じられる。警部は、いささか夢中の態で、なおも一枚のスケッチを拡げた。それは木炭画で、若い男の像も描いている。髪を長く伸ばし、胸の丸く開いたワイシャツを着て、顎にしょぼしょぼと生えかかった髯がある。
彼のポーズもなかなかロマンチックに気取ったものだ。四分の三正面向きで、太陽を睨む鷲のように、はるかなる未来に視線を送っている。
これこそは、まぎれもなく、腸詰パンをとうとう食べなかった浮浪人、ブレーメンの木賃宿で自殺をとげたジャン・ルコック・ダルヌヴィユである。
「二十万フラン」
ヴァン・ダンムは三度叫ぶ。今は大実業家の面影を全く失い、わずかの動き、わずかの変動にもすがる気配。
「フランスのフランで。……いいですか、警部」
メグレは哀願の調子が脅迫に変って行くことを感じた。声音の中にあった恐怖の響きが、やがて狂乱の怒りに変じて行こうとしている。
「潮時だといってるんです。……合法的な捜査ではないじゃありませんか。……ここはベルギーですぜ」
吊り燈籠の中にはまだ蝋燭のかけらが残っており、床の上に積み重ねた紙屑の下に、旧い石油焜炉があるのが見えた。
「あなたは正式な捜査許可を得ていない。それで……僕は、ひと月の猶予を申し出たいのです」
「事件が十二月に行われたとしたら、ちょうどね」
ヴァン・ダンムは一層壁にへばりつくようにして、口籠る。
「何ですッて?」
「今は十一月ですね。十年前の二月にクラインは縊死をとげている。それにあと一ヶ月の猶予というのは……」
「何のことやらわからん!」
「どういたしまして!」
メグレが依然として左手を動かして紙屑を漁り、その紙がガザガザ音を立てているのを見ていると、全くヴァン・ダンムならずとも気が変になるであろう。そのくせ右手は外套のポケットに突込んだままで、何時でもピストルが射てるようになっているのだ。
「あンたはよくわかってるはずじゃないか。ヴァン・ダンム君。仮りにこれがクラインの死に関するものだとして、その死が殺害であったとすると、十年の時効では来年の二月でないといけない。あンたがあとひと月といった以上は、事件が十二月に起ったことは間違いないことだ」
「だが、あなたは発見できないだろう」
奇妙に震える声だ。調子の狂った蓄音機である。
「じゃァ、何故そんなに怖がっているんですね?」
メグレは寝台のクッションを押しあげて見たが、その下には埃と、やっとそれと見分けられる青黴の生えたパンのかけらがあるばかり。
「二十万フランではどうなのですか?……あとになったら、少しぐらいは……」
「頬ぺたに一発お見舞いを受けたいのかね?」
あまりにも無残であり、思いがけなかった答なので、ヴァン・ダンムは一瞬度を失って、その一発を避けるような身振りをしたが、そのために、われにも非ず、ポケットの底で握りしめていたピストルを引きだすことになってしまった。
そのことに気づいて、ハッとし、しばらくは逆上したまま、引金を引くべきかどうかを考えてでもいるふうである。
「捨てろ!」
とたんに、指が開いてピストルは床の上の、紙屑の山の傍にガタリと音を立てた。
メグレは敵に背を向けたまま、風変わりなボロ漁りを続ける。やがてつまみだしたのは、靴下の片方。これまた黴で地図のような模様ができ、赤茶けてしまっていた。
「ところでヴァン・ダンム君……」
妙に静かになったのが気になって、ぎょッと振り向いて見た。相手は頬へ手をやったが、その指の間に濡れた筋ができている。
「泣いているのかね?」
「僕が?」
この「僕」は、挑みかかるような、嘲笑うような、またやけ糞の響きを含んでいた。
「どんな武器をあンたは使ったのかね?」
この質問はヴァン・ダンムもわかりかねたらしい。だが彼は今、溺れようとする人間のように、藁にもすがろうとしているのだ。武器という言葉の連想から、こう答えた。
「僕はブヴェルローの予備将校学校にいましたよ」
「歩兵かね?」
「騎兵でした」
「ということは、当時あンたは身長一メートル六五から七〇くらいで、体重も七〇キロくらいしかなかったことになるね。……それ以来、大分肥った」
メグレは突きあたった椅子をどけて、また一枚の紙片を拾い上げた。手紙の切れ端らしく、わずかに一行書いてあるばかり。
わが親愛なる旧き友よ……
そんな捜査を続けながらも、ヴァン・ダンムの様子からは眼を離さない。ヴァン・ダンムは警部の質問を理解しようともがいているふうだったが、突如としてそれがわかり、とびあがって、顔を歪めながら、
「僕じゃァない。あの服を着ていたのは、絶対僕じゃァない」
メグレは足で、相手がさっき取り落したピストルを部屋の別の隅へ蹴とばした。
この時、どういうわけか、また彼はフッと子供たちのことを頭に描いた。
ベロアール家の少年! まだ眼を開いていない生れ立ての赤ん坊を入れて、オル・シャトオ通りの三人の子供! 贋ルイ・ジューネの息子!
床には例の美しいモデルが、裸体の腰を反らしているのが赤鉛筆で書かれている。署名のない絵であった。
階段に足音を憚った人の気配がした。戸をまさぐって、かけがねがわりの紐を探している。
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第九章 黙示録の同志
つづいての場面には、言葉も、沈黙も、視線も、果ては筋肉が我にもなく痙攣するにいたるまで、何もかも総登場の形である。すべてが官能を与えられて重苦しく、人物の背後には何かしら蒼ざめた妖気、恐怖の非物質的な影みたいなものを感ぜずにいられない。
扉が開いた。モーリス・ベロアールが顔をのぞかせたが、その最初の一瞥で、部屋の隅に、壁へへばりついているヴァン・ダンムの姿と、床の上へ投げだされているピストルとを見てとった。
これだけで事態はわかりすぎるほどわかるはずである。しかも一方には、メグレがパイプを口にしたまま、のんびりと、書き古しのスケッチを探しているのである。
「ロンバールもやって来る!」
ベロアールは警部へともつかず友人へともつかず言葉をかけた。
「僕は自動車でやって来た」
このわずかな言葉だけで、メグレはこの銀行副頭取がもはや勝負を投げたのだと悟った。見分け難くはあったが、緊張のゆるんだ表情であったし、声の抑揚も張りを失い、いっそ面目なげであった。
三人は顔を見合わせた。ヴァン・ダンムが口を切った。
「彼が何か……?」
「うんまるで気狂いなんだ。鎮めるのに骨を折ったんだが、とうとう駄目でね。一人で何か喚きながら、とびだしてしまったのさ」
「武器を持って?」
メグレが鋭く訊いた。
「ええ、持ってるんです」
ベロアールは聴き耳を立てた。狼狽しきって、落ち着こうとしてもそれができない浅間しい表情である。
「あンたとロンバール君は、オル・シャトオ通りの家にいたんですね。私と、こちらとの会見の結果を待っていたわけだ」
指でメグレはヴァン・ダンムを差し示した。ベロアールは頭をこッくりさせてうなずいた。
「そうすると、あンた方三人は私にある種の申し出をすることに意見が一致したことになる」
全部の言葉を言い切る必要はなかった。言葉半分で何もかも解るのである。いや、沈黙でさえも意が通じるだろう。それほど彼らは考え合おうとしているのだ。
だしぬけに階段にあたってドタドタという足音がした。つまずいて、ころげたと見え、憤怒の唸り声を上げた。続いて扉が足蹴にされて乱暴に開き、黒々と口を開けた枠の中に、ジェフ・ロンバールの棒立ちの姿が見えた。彼は一瞬身じろぎもせず、三人の人物を兇暴な瞳でまじまじと見据えていた。
やがて彼はがたがた震えだした。熱にでも浮かされているのか、いっそ発狂したとさえ見えた。
眼に映るものが揺れているように見えたであろう。ベロアールの横顔が、スーッと彼から遠ざかる。ヴァン・ダンムの充血した顔、その向うに、メグレが広い肩幅で微動だもせず、じッと息をつめている。
古物屋の店先と見まごう中にデッサンが一面に散らかっている。そのどれもが乳房と頤《おとがい》の書き散らし。古びた吊り燈籠、底の抜けた長椅子。
これらのすべてが、ただの一瞬に眼に映り、一切の事情も判じとられたにちがいない。ジェフはそのだらりとさげた長い腕に旧式なピストルを提げていた。
メグレは静かに彼を見守っていた。だか息苦しくなるまで待つこともなく、ジェフ・ロンバールはがたりと武器を床に投げだし、両手で頭をかかえ、粗々《あらあら》しく泣き声をあげながら、身もだえした。
「だめだ。俺にはできない。……え、俺にはできないんだ!」
彼は両腕を拡げて壁に向いてよりかかった。両肩が激しくがたがたと震えて、泣きじゃくるのが聞えた。
警部は扉を閉めに行った。というのは、鋸と鉋のキイキイする音が、まるで遠くで子供たちが金切声をあげているように響いて来るからである。
ジェフ・ロンバールは手巾《ハンカチ》をとりだして顔を拭うと、髪をがくんとうしろへ振り上げ、危険な興奮の時期がすぎたあと誰もする空ろな眼つきでまわりを見廻した。
むろん、まだすっかり落ち着いたわけではない。指が硬ばって曲っている。小鼻がひくひくしている。何かいいかけようとしているのだが、唇を噛んでしまう。それは新しい涙が出かかっているからだ。
「こうなるのに決っていたのさ!」
やっとそれだけいった。皮肉な調子が声を鈍重に、食い入る響きを持たせた。
笑おうとした。絶望的な笑いだったが……
「九年前だ。……いや、ほとんど十年。僕は独りで、一文もなく、職もなかった」
独り言にすぎなかった。その眼があのなまなましい肉体の裸体画に吸いついていることも、自分では気がついていないのだ。
「十年前、毎日のように打ち続いた努力、悔恨、あらゆる種類の難儀……それでも僕は結婚もした。子供が欲しかった。まるでけだものみたいに、家族には世間なみの生活をさせようと、夢中になってやり抜いた。……家! 工場! 何もかも! それは君たちもごらんのとおりだ。だが、君たちの眼に触れないもの、それはそれらを打ち樹てる努力だった。……思っても吐気を催す商売の心配……最初は手形のことで夜もおちおち眠れなかったものだ」
唾をぐいと飲みこむ。額に手をやる。咽喉仏があがったりさがったりする。
「やっと可愛いい娘ができた。その赤ん坊もろくに可愛がっていられるかどうかが怪しい。……まだ寝ている女房は、何も知らないものだから、僕がちがう人間になったのではないかという恐怖の色を浮かべて僕を窺《うかが》う。職人たちも僕にいろいろたずねるが、それには答えようもない。
万事休すか! わずか四五日の間に、ばったりだ。掘り返され、壊され、砕かれ、木っ葉微塵だ。何もかも! 十年の仕事も!
それというのも、みんな……」
といいかけて、拳を握り合わせ、床に投げ捨てられたピストルを眺め、メグレに視線を移した。彼はのっぴきならぬところまで来ていた。
「さア黒白をつけてしまおう」ぐったりしたように大きく息をついて、「だれが口火を切るのだ?……全く馬鹿げたことだが……」
この言葉は友人たちに向ってではなく、されこうべや、書き散らしのスケッチや、壁の落書に向って言い放たれたように聞えた。
「全く馬鹿げたことだ!」
彼は繰り返す。また泣きだすのではないかと思われる顔つき。だがそれをしない。神経がからっぽになってしまったのだ。危機は去った。彼は長椅子の端ッこに腰をおろして、組合せた膝に肱をつき、顎《あご》を両手の中へかかえこんで、じッと、待ち受けるように動かなくなった。
ズボンの裾についた泥のはねを、爪ではじき落す時だけちょっと動いたが、それきりまた作りつけのようになった。
「お邪魔じゃありませんか」
陽気な声で、おが屑にまみれた指物師の親方がやって来た。落書のある壁を見て、心の底から笑いだす。
「ははァ、またこれを見においでなすッたというわけで……」
誰も身動きするものはない。ベロアールだけはいかにも普通の様子を見せようと努めていた。
「お忘れもありますまいが、先月分の二十フランがまだ頂けずにあるんですよ。いや、それを催促にあがって来たわけではないんで、――あの時は腹をかかえましたッけね。何しろあンた方がこのガラクタを残して立ち退く時に、あンた方はこういったもンです。
『時が来たらこのスケッチの一枚だけでも、このあばら屋全部くらいの値打が出るだろうよ』
むろんあたしゃ本気にもしませんでしたね。それでも、壁を塗り変えようとは思いませんでしたよ。……一度、絵を売りに額縁屋がやって来て、デッサンを二三枚持って行ったことがありましたッけ。百スウほども置いて行きましたかナ……。あンた方、まだ絵をやっていなさるんで?」
喋りながらも、室内の空気がどうもおかしいと気がついたようである。ヴァン・ダンムは頑固に床へ注いだ視線をあげようともせぬ。ベロアールはいらいらしたふうで、指をぺきぺき鳴らしているばかり。
「あンたはオル・シャトオ通りに工場を建てたというじゃありませんか」親方はジェフに話しかけて、「あッしの甥の奴が、お店で働かしてもらったことがあるんですぜ」
「そうでしたかね」
仕方なさそうにロンバールは答えて、顔をそむけた。
「あンたは……と、どうも覚えていませんね。やはりお仲間で?」
親方が言葉をかけたのは、メグレであった。
「いや……」
「みんな選りに選って箸にも棒にもかからん人たちばかり。……うちの女房などは部屋を貸したがらず、どうでも追いだそうといって聞かなかったもんですよ。何しろ部屋代もろくに払わない。……が、それがあッしにはかえって面白かったんでさァ。することなすこと変ってましたからなァ。帽子をかぶれば度外れて大きい奴、パイプは粘土の物凄く長い奴。毎夜毎夜飲めや歌えの連続、時たま綺麗な娘さんもまじッてね。……そうそう、ロンバールさん、このほら、床に散っているこのスケッチの娘、その後どうなったか御存じですかい?
この娘さんは百貨店の監視係と一緒になりましてね。ここから二百メートルとないところに住んでいまさァ。息子ができて、うちのと一緒の学校へ通っていますぜ」
ロンバールは立ち上って、ガラスをはめた戸のところへ行って、またすぐ戻って来た。その様子がいかにも動揺しきっていて、さすがに親方ももはや退却の他はないと感じたようである。
「どうやら、すっかりお邪魔をしたようですナ。いや、御めん下さい。せいぜい御ゆっくりして行っておくんなさい。あッしや二十フランを頂きにあがったんじゃないんで。実は、食堂に掛けるのに、風景画が一枚もらえたらと思いましてね」
降り口へ来てから、また何か話をはじめようという気配だったが、このとき階下から声がかかった。
「親方、お客様ですぜ」
「あいよ。……それじゃ皆さん、のちほどまた」
声が急に聞えなくなった。扉が閉じられたからである。
メグレは親方の喋っている間に、パイプに火を点けていた。
指物師のお喋りはともかくも一同の緊張を幾分かは柔げたようである。それで、警部が周囲にある落書を見渡し、その中でも一番解り難いのを指さした時、モーリス・ベロアールは割に自然な声音で返事をした。
その文字は「黙示録の同志」とあった。
「これがあンた方のグループの名前ですね?」
「そうです。それを説明しましようか。時すでに遅しでしょうがね……可哀そうに、われわれの妻や子供たち!」
すると、ジェフ・ロンバールがさえぎって、
「僕に話させてくれ……」
彼は部屋の中をあちこちと歩き廻りはじめた。時々、部屋の装飾や調度に眼を注いで、自分の物語の裏書きを実物で示すもののようにしながら、
「もう十年以上も前のことになるでしょう。僕は絵の正式な過程を修業中でした。鍔広《つばびろ》の大きな帽子を被り、蝶結びの襟飾りをした典型的の画学生でした。……画学生は他にも二人いました。ガストン・ジャナン、この男は彫刻をやっていて、もう一人、ちびのクライン。僕等は自信に満ち溢れて、四方街《カレ》を遊弋《ゆうよく》したものです。何しろ、われわれは芸術家でしたからね。自分自身を未来のレンブラントと信じ切っていたのです。
今から考えると、愚かしいことでしたが、われわれは大いに本を読み、それがほとんど浪漫主義時代の作家のものばかりでした。もう無我夢中だったのです。一週間もある作家に熱中して、他の一切を省みずにいながら、次の日からはガラリと他の作家に乗りかえて前の作家を糞味噌にやっつけることなどは当り前のことでした。
ちびのクラインは、お袋がアングラールに住んでいましたが、この仕事場の二階を借りていて、われわれはいつもここに集りました。この部屋の雰囲気がどこか中世紀風で、特に冬の夜など、われわれを狂熱的にしたのです。古典の歌を合唱し、ヴィヨンの詩を吟じました。
張本人が誰だったか、もう覚えていませんが、この頃|黙示録《アポカリプス》を見つけだして来たものがあって、われわれに全章を読むように仕向けました。
ある夜のこと、われわれは数人の学生と知り合いになりました。ベロアール、ジャン・ルコック・ダルヌヴィユ、ヴァン・ダンム、それからモルティエ。この男はユダヤ人で、親父がここからあまり遠くないところに豚の腸詰業をやっていました。
みんなよく飲みました。飲んではここへ集って来たのです。一番年かさのものでも二十二だったのですからね。
それは君だったな、ヴァン・ダンム?」
話を進めて行くうちに、段々調子づいて来たようである。足取りがそれまでのようにせかせかしなくなり、声にもうるおいが出て来た。ただ、泣きわめいた跡が顔に残っていて、ところどころ赤味が斑《ぶち》になり、唇も脹れていた。
「最初いいだしたのが僕だったのではなかったかしら? クラブを作ろうというのだった。……僕はものの本で、前世紀にドイツの大学で秘密結社が作られたことを読んだことがあった。それは芸術と科学とを結びつけるクラブだった」
壁の落書を眺めて、自嘲を禁じ得ぬもののようである。
「口を衝《つ》いて出るのは、みんなそこに書いてある言葉でしたよ。われわれはその言葉で、誇りに満ち満ちていたんです。片や芸術組はクラインとジャナンと僕。片や学術組の猛者連。……実によく飲んだものです。昂奮を買うために飲まずにはいられなかったからです。雰囲気を怪奇めいたものにするために、照明をいろいろと工夫したりしました。
寝泊りもここでしたものです。ごらんなさい。……あの長椅子がその役目を引き受けましたし、あとは床に雑魚寝《ざこね》です。タバコの方も猛烈でした。そのために部屋の空気が重たくなりました。
集れば合唱です。きまったように誰か気持が悪くなり、お寺の庭へ行っては頭を冷やして来るという始末でした。
そういう事が、夜中の二時であろうが三時であろうがおッぱじまるのです。熱に浮かされていたのですね。胃袋をめちゃめちゃにする安酒の力を借りて、遮二無二形而上の世界へ跳びこもうという魂胆でした。
ちびのクラインは今でも眼に見えるようです。仲間のうちでは一番神経質で、健康も勝れていませんでした。……お袋は貧乏でしたし、彼は生活のたしをつける才覚もなく、酒を飲むのに食事を細くしたものです。
飲んでいさえすれば、間違いなしに天才だと自負していることができたのですからね。
学術組の連中は芸術組よりはいくらか賢明だったでしょう。ルコック・ダルヌヴィユを除いてはそう貧しくもなかったからです。ベロアールは親もとから葡萄酒《ブルゴーニュ》の古酒やリキュールをくすねて来ましたし、ヴァン・ダンムは豚肉を持って来ました。
町の人たちは、われわれを畏怖《いふ》をまじえた尊敬の眼で眺めていることがハッキリわかりました。それで、われわれはクラブの名ももっともらしく響きのいい〈|黙示録の同志《コンパニヨン・ド・ラポカリプス》〉と名づけたのです。
しかし、黙示録を全部読みあげているものは一人もありませんでした。ちびのクラインだけが、酔払った時にどこかの章を暗誦することがあったくらいのものです。
部屋代はクラブ員各自が出し合うことになっていましたが、クラインはここに住む権利がありました。
何人かの娘たちがモデルに来てくれました。モデルとその他の要求も含めて!……われわれはミュルジェの「ラ・ボエーム」をやろうとしていたのです。……何という乱痴気な集りだつたろう!
床に寝そべって、まるで牝牛みたいに見える女。……でもそれをマドンナに描きあげては大得意でした。
ともかく、酒を飲むこと、これだけはどうしても必要なことだったのです。何が何でも雰囲気の調子を高めることが第一の要求でした。クラインなぞは、この条件を満たすために、長椅子に硫化エーテルを振りかけるというような滅茶なことまでやってのけたのです。
陶酔と幻想をもたらすものなら、どんな手段をも選ぼうとしたわれわれでした。ああ聖なるジュピターの神。……」
ジェフ・ロンバールは薄汚れたガラス窓に額を押しつけて、じッと物思いに耽ったが、また戻って来て、咽喉を震わせた。
「こういうふうに過度の刺戟を続けようとしたために、みんなの神経はむきだしになってしまいました。ことにひどい栄養不良に陥ったのです。無理もありますまい。ちびのクラインなどは特にひどかったのです。ほとんど食事らしい食事もせず、アルコールで魂を燃やし続けていたのですから。
もちろん、われわれは新しい世界の再発見をしました。人生の問題のあらゆるものをわれわれは論じ合いました。ブルジョアも社会も、既成真理も、すべてわれわれの嘲笑の的でした。
酒がはいり、タバコの煙が部屋の空気を不透明にする頃となると、ひどく辻褄の合わない独断が火花を散らします。ニイチェ、カール・マルクス、モーゼ、孔子、キリスト、みんな一緒くたでした。
たとえば、こんなふうです。誰がいいだしたのか忘れましたが、苦痛は存在しないという説です。それは単に脳髄の幻覚にすぎないというのです。……この説がひどく僕には面白く思われたので、ある晩、みんながわいわいやっている真中で、僕は腕の肉にナイフを突き刺して、にっこり笑おうとしたものでした。
こんな例は数えあげると限りがありません。……われわれは選ばれた人々でした。偶然によって結びついた天才の小グループ。因習的な世間や偏見などを超越して悠々|飛翔《ひしょう》していると信じ合っていました。
わずか一握りの全能者たち、といったところです。時には腹をぺこぺこにしながら、なお昂然として町を練り歩き、行き交う人々を侮蔑の眼で打ち挫いていい気になっていた全能者たちでした。
われわれは各自の未来について目星をつけていました。ルコック・ダルヌヴィユはトルストイになるはずでした。ヴァン・ダンムは高等商業の散文的な講義を聴講していたのでしたが、従来の政治経済の機構を覆滅《ふくめつ》し、人類の組織の上に安座している概念を吹きとばす役目でした。
その他、みな所定の役目がありました。詩人として、画家として、そして一国の政治家として……
すべてアルコールの魔力です。とうとうおしまいには、ここへ集ることだけが目的となり、吊り燈籠の勿体ぶった光を浴び、薄暗がりの骸骨と並んで、そのされこうべをこもごも共有の盃に使って、自分自身を少しでも熱っぽくすることに努めたのです。
こうなって来ると、仮りにどんなに謙遜して考えて見ても、行く行くはこの家の壁に大理石の板が掲げられて、
ココニ著名ナル黙示録ノ同志|集《つど》エリ
とでも記念の標識がでるくらいのことは当り前に思えてくるのです。
誰か新しい本を見つければ、それがすぐ異常な思想に早変りするのです。
われわれが無政府主義者の運動に加わらなかったのは一種の偶然だったでしょう。この問題は絶えず深刻に討議されていたのでしたからね。……あの時、セヴィラで陰謀事件が発覚したことがあります。新聞記事が大声で朗読されました。そして、誰やらが絶叫しました。
『真の天才は破壊者だ!』
この命題は長時間にわたって、一握りの子供たちの論議の的となったものです。爆弾を製造することを真剣になって相談し合ったのもその頃です。爆弾を投げつける時の気持は堪らなく愉快だろうと、舌なめずりをして語り合いました。
ちびのクラインは、六七杯の安酒をひっかけるともう病人同様でした。それまではそれほどでもなかったのに、どうも少し変でした。神経衰弱のどんづまりまで来ていたのでしょうね。彼は床の上をころげ廻っていましたが、どんな不幸が彼に見舞おうと、それがわれわれにどういう関わりがあるかなどとは誰も考えさえしませんでした。
このモデルの少女が一緒でした。アンリエットという名前でしたが、彼女は泣いていました。
ああ、何とも美しい夜ごとでした。そして、ガス燈を消しに廻る夜番が来て、どんよりした朝になってから、凍えながらやっと帰路につくことがどんなに誇らかに感じられたことでしょう。
実家が満足な連中は、こっそり窓から忍びこんだりして、眠ったり食ったり、どうにかこうにか夜の消耗を取り繕うこともできたでしょう。
ところが、クラインやルコック・ダルヌヴィユや僕などという手合いは、ただ街をぶらついて、パンのかけらをかじりながら、物欲しげに店先の品を横眼で眺めるだけがせいぜいでした。
この年は、僕は外套を着ずに過ごしました。幅広の大きな帽子が欲しく、それが百二十フランもしたからでした。
例のデンで、寒さなんてものも幻覚にすぎないのだと僕は強がりをいったのです。僕は仲間の論争で口達者になっていたので、親父に向って、親の子に対する愛情などというものはエゴイズムの下等な形式にすぎない。だから子としての最初の義務は肉親を否定することにあるのだと、堂々と宣言したものです。
父は銃器工場に勤めている腕のいい職工でしたが、もう大分前に死にました。その頃は男やもめで、朝の六時には勤めに出るのでしたが、その時刻に僕が帰って来てばったり顔を合せるのです……それで、親父は僕と顔を合せたくないので、早目に家をでかけるようになりました。僕に議論を吹っかけられるのが堪らなかったからです。そして、テーブルの上には紙切れが置いてありました。
戸棚の中に冷肉がある……父」
ジェフの声がほんのしばらくとだえた。彼はベロアールを見た。ベロアールは坐り底のない椅子の枠に腰をおろして、じッと床を眺めている。ヴァン・ダンムの方は、手にした葉巻をくしゃくしゃにもみほぐしている。
「われわれは七人だった」とロンバールは低い声でいった。「七人の超人! 七人の天才! 七人の子供!
ジャナンは今、パリで、彫刻をやっています。彫刻というと聞えはいいが、ある大工場へマネキン人形を製作して送りこんでいるのです。当時の狂熱をだんだん醒まして、自分の愛人の胸像を作ることで満足するようになっているのです。
ベロアールは銀行家になりました。ヴァン・ダンムは実業家、僕は写真製版屋というわけです」
フッと不安な沈黙が生じた。ジェフは唾をごくりと呑んで、また話を続けたが、黒ずんだ眼の隈が一層深くなったように見えた。
「クラインはお寺の門で首を縊りました。ルコック・ダルヌヴィユは、ブレーメンで口の中へピストルを射ちこみました……」
再び話がとぎれて、沈黙。モーリス・ベロアールが坐っていられなくなり、すッと立ち上ると、ちょッとためらッてから、大窓の前に行って外を見ようとした。だがそうやって見ても、彼の胸で心臓が不規則な鼓動を打っているのがわかるくらいだ。
「最後の一人は?」とメグレが斬りこんだ。「モルティエでしょう? 腸詰屋の息子でしたね」
ロンバールはメグレを凝視した。眼つきが熱っぽくなって、また危険な状態がやって来そうな気配だ。
ヴァン・ダンムが椅子をひっくり返した。
「事件が起ったのは十二月、ちがいますか?」
メグレは喋りながら、三人が一斉にピリリと身を顫わしたのを見逃さなかった。
「もうひと月たつと、ちょうど満十ヵ年になる。それで時効というわけでしょう」
メグレはまずヴァン・ダンムの投げ捨てたピストルを拾いあげ、続いてジェフがここへ飛込みざまに捨てたピストルをも始末した。
彼の考えていたことは誤っていなかった。ロンバールはもう抗《あらが》おうとせず、両手で頭をかかえて、すすり泣いた。
「ああ、子供たち! 小さな三人!」
そして、突然遠慮もなく涙で濡れた頬を警部に近寄せながら、憑《つ》かれたもののように叫んだ。
「あなたのおかげなんだ。あなたたッた一人のおかげなんだ。僕はあの生れたばかりの赤ん坊の世話を焼くこともできない。……あの児がどんな様子なのか、満足に、人に喋ることさえできないのですよ。……それがわからんのですか?」
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第十章 ポトノアール街の降誕祭
空に突風でも起ったのかも知れない。黒雲が低く疾《はや》くその辺一帯を蔽うた。陽の光が一瞬で消えてしまった。部屋の中は、電気のスイッチでも切ったように、灰一色になり、調度が一様にしかめ面をする。
この天気の変化で、メグレは十年前の情景が解るような気がした。ここに集って来た連中が、色ガラスの吊り燈籠をつけて照明に工夫をこらし、怪奇味たっぷりな暗さをこしらえて、そこへタバコの煙を充満させ、アルコールの気焔を漂わしたその心根……。
それからまた、悲しい大酒宴の夜が明けて、林立する空壜やこわれたコップの中で眼をさますクラインの姿をメグレは想像することができた。腐りただれた臭いが部屋いっぱいに澱《よど》んでいた。カーテンのない窓から海緑色の光が流れこんで来る朝。……
ジェフ・ロンバールは疲れきって、押し黙ってしまった。代って口を切ったのはモーリス・ベロアールである。
突然の交替であったが、何か急に別なプランを思いついたような感じであった。
ロンバールの昂奮しきった有様は、全身をそわそわさせることや、痙攣や、涙や、声をヒューヒューいわせることや、室内のそぞろ歩きや、狂熱と鎮静の時期が、まるで大病人の温度表でも見るように劇しい弧線を描いていることなどによく現われていた。
ところが、ベロアールは爪先から頭のてッぺんまで、その声にもその眼つきにも、その態度にも気づまりな固さを持っていた。それはつきつめた懊悩《おうのう》が凝り固まった結果であったろう。
だから、彼はいまさら泣くこともできなかったろうし、唇を歪めたりすることさえもできない。すべてが凍っている。
「警部さん、あとを私に続けさせてください。……もうじき日が暮れるでしょう。ここは電燈の用意がしてないのです」
冒頭にこんな部屋の造作のことなどいいだしたというのは、無感動になっていたからではない。何か話に形をつけたいからだったのである。
「私たちはみんな真剣でした。お喋りをする時も、議論の時も、声高に夢物語を交わす時も、驚くほど糞真面目でした。ただその真剣さは多少違った度合いがありました。
ジェフもいったように、われわれの仲間には相当な暮し向きのものもあったのです。ちゃんと家へ帰ってガッチリした家庭の雰囲気の中に根を生やしている連中。それがヴァン・ダンム、ヴィリイ・モルティエ、それに私。ジャナンもどっちかといえばその組だったでしょう。
このヴィリイ・モルティエだけは特別に説明の要があるでしょう。中でも変っていたのは、彼だけがキャバレーの職業婦人や小劇場の踊り子などを自由に情婦にできる唯一人の男でした。それほど金持だったのです。
実利的な男でした。彼の親父にしてからが、一文無しでリエージュにやってきて、あまり人に喜ばれない腸詰の商売を平気でやってのけ、たちまち産をなしたのです。
ヴィリイは毎月小遣いを五百フランずつもらっていました。われわれの仲間には夢のような大金なのです。籍は置いていながら大学には一度も足を踏み入れたことはありませんでした。貧乏な友だちにノートを筆記させ、試験のときは買収と酒壜で楽々とパスしていました。
その彼がここへ来て、われわれの仲間になったというのも、ただ単なる好奇心からで、趣味や思想に共通点かあったというわけではないのです。
彼の親父は絵画の蒐集もやっていました。しかし、てんで絵そのものは軽蔑して芸術的価値など認めようとはしていないのです。絵と同じように、市の参事官だとか助役をさえも、商売上の利得のためとあれば買収していたのですからね。絵も助役も同列に軽蔑の的だったでしょう。
ヴィリイもまた、われわれに敬意などは示そうとしませんでした。ここへ来るのは、金持とその他の階級の違いを味わうためだったのです。
彼は酒をやりませんでした。酔払っているわれわれをいかにも蔑《さげす》み果てたような眼つきで眺めていました。……われわれがいつ果てるともしれない議論に耽っていると、ほんの二言三言、まるで冷水でもぶっかけるようなことをいうのです。それがひどく露骨でせっかくみんながいい気分で浸っているできそこないにしろ詩的雰囲気を、一ぺんで吹きとばし、みんなの気分を害しました。
彼はわれわれを憎んでいましたし、われわれも彼を憎んでいました。金持のくせに吝《けち》ん棒で、その吝も歪んでいたのです。……クラインはほとんど毎日食べるものがないほど窮乏の底にいました。それで仲間同志で、何とか助けてやることはできないだろうかと相談し合いました。すると、モルティエはいいました。
『われわれの間で金のことをいうのは止そうじゃないか。僕だって金だけで諸君に迎えられたくはないんだよ』
そういう彼のことですから、どこか町へ出て、何か飲み食いする時でも、自分のものだけしか支払いはしないのです。他の連中はポケットの底をはたいて出し合っているのに。
学校の講義のノートを写してやっていたのはルコック・ダルヌヴィユでした。ヴィリイはこの仕事の前払いを頼まれた時に、きっぱり拒絶したということです。
男の集りにはよく見かけられるものですが、彼はそういう異分子的で敵対的な存在だったのです。
しかし、みんなそれを我慢していたのです。ところが、クラインだけは酔払ったりすると、妙に彼に食ってかかり、心にあるわだかまりを洗いざらいさらけだしてしまうのです。モルティエの方はいくらか顔色を変えるだけで、いかにも相手にするさえ大人気ないといわんばかりの口もとを見せ、相手に喋らせていました。
われわれの真剣さについてはいろいろ説明もしましたが、中でも特別に神がかりのような状態になっていたのは、クラインとルコック・ダルヌヴィユだったでしょう。二人の間には肉親のような愛情さえ生れていました。……二人とも子供の時は苦労して、可哀そうなお袋を持つ境遇でした。心は高い理想に向けられながらも、現実には超えがたい障壁を眼の前に見つめなければならなかった二人です。
画学生の夜学をつづけるために、クラインは日中のあいだ室内装飾の仕事で働かねばなりませんでした。高いところで梯子にのぼって仕事をする時など、眩暈《めまい》がして仕事がうまく行かないとクラインはこぼしていました。……ルコックは講義のノートを写したり、外国人の子弟にフランス語を教えたりして糊口《ここう》をしのいだのです。それでも、町の食堂で食事ができず、ここへ来ては何か食っていました。……その時の焜炉が、まだどこかに残っているはずです」
焜炉は長椅子の足元にころがっていた。ジェフがそれを哀しげな様子で靴先で蹴った。
モーリス・ベロアールの声は抑揚のない寒々としたものである。コスメチックで光った頭髪が一本のほつれも見せていないのと妙な対照だ。話はつづく。
「ランスの、どこか金持の会合があった時でしょうが、冗談に次のようなことが話題の中心になったことがあるそうです。
『どういう状況に置かれたら、あなたは人を殺すことができるだろうか?』
御存じでしょうが、これについては支那官吏の問題というのがあります。……支那の奥地にいる大金持の官吏の遺産がもらえるとして、それを殺すために、ただ電気のボタンを押すだけでいいとしたら、あなたはそれをやるか?……こういう問題なのです。
ここでも、そういったふうな途方もない主題が議論の的となって毎夜のように果しなくつづけられました。生と死の謎が当然のように主題の主役をつとめざるを得なかったのです。
それはクリスマスのちょっと前のことでした。新聞に出る雑報一つでも議論の手掛りになりました。……雪が降っていました。われわれの考えがそれぞれどこかで食い違っていたことは当然でしょう。
人類は地球の表面にできた黴《かび》にすぎない。だからその生というも死というも取るにたりない。惻隠《そくいん》の情なども一種の病的現象にすぎない。強い動物は弱い動物を食う。その強い動物を人間が食う。それだけのことだ。……こういうテーマについてわれわれは夢中になって論じあったのです。
ロンバールはさッき腕にナイフをつき立てたことをいいましたね。この突飛きわまる振舞いはただ苦痛というものが存在しないことを証拠立てるものでした。
さて、その晩のことでしたが、もう三四本の空壜が床の上にころがっていたようでした。われわれは殺人に関して口角泡をとばしていたのです。
われわれは純粋に理論的な世界に住んでいるのであって、そこでは正しい理論のためなら何をしても構わないはずでした。それでお互いにたずね合いました。
『どうだ、お前にその勇気があるか?』
瞳が急に特殊な光を帯びて輝きました。一種の悪感に似た戦慄が背筋を走り抜けます。
『どうしてできないことなんてあるものか。人間の生命なぞ偶然にすぎないのだし、地球の表面に生れた皮膚病の一種なんだ!』
『町の中を通る見知らぬ奴をばッさりやればいいんだ』
一番酔払っていたクラインは、もう黒い眼隈《くま》ができて、どす蒼い顔色になっていましたが、
『ようし、やるぞ』
といいました。
みんな深淵の突端まで来ていることはわかっていました。それ以上前へ進むことが怖かったのです。ただ危険と戯れ、呼びさました死と遊ぶことが妙に魅惑的でしたが、死の影が今ではわれわれの背後にがっちりと立ち塞がってしまったようでした。
誰かが、たぶん教会の唱歌隊にいたことのあるヴァン・ダンムだったろうと思いますが、坊さんが葬龕《そうずし》の前で唱えるリベラ・ノスを大声で唄いだし、それに声を合せて一同も唄い、部屋の中に不吉な気分が漲《みなぎ》り渡りました。
しかし、その晩は人殺しなど起りはしませんでした。朝の四時になって、私は自宅へ戻り、塀を越えて部屋に入りました。八時には、私は家族と一緒にコーヒーをのんでいました。つまりこれは単にちょっとした思い出の一齣《ひとこま》にしかすぎない。ちょうど夢中になって観た恐怖劇の一幕のような……
ところが、クラインの方は、このポトノアール街の一室に取り残されました。懊悩でいっぱいになった頭の中に、われわれとかわした論議が大きく位置を占めて、彼を苛《さいな》みはじめていたのです。それからというもの、来る日も来る日も、頭の中を駆けめぐっている思いに取り憑かれて、人の顔さえ見ればいいだすのです。
『君は、人殺しがそんなに難しいことだと、本気で信じているのかい?』
それを聞いていまさらたじろぐ手合いでもありません。それに酔ってもいないので、誰でもこう答えるのでした。
『まず、駄目だね!』
そう答えることが、クラインの熱狂振りをからかうことになって面白かったという意識もあったかも知れません。どうとも宜しいようにお採りになって下さい。やり出したお芝居から離れたくないというのが人間の性質なのでしょう。とことんまで行かないと気がすまないものと見えます。
たとえば、火事があったとすると、見物のものは我にもなくそれが長く続くように念じ、『見事な火事』であることを望みます。出水があれば、新聞の読者はそれが二十年経っても語り草になるような『大洪水』になってくれればいいと思うのです
何でも構わないから、面白い事があればいい。この心理です。
そうして、クリスマスの晩がやって来ました。みんな手に手に酒壜を持って集りました。例によって、飲みかつ唄い、クラインはもう半ば泥酔の形で、誰彼の差別もなく問いかけています。
『おれに人殺しができそうもないんだッて?』
もうそれが口癖のようになっていたので、取り合うものもないくらいでした。十二時頃にはすでに一人として正気のものはいませんでした。酒が足りなくなって、新しく買いに出なければなりませんでした。
ちょうどそこへヴィリイ・モルティエがやって来たのです。りゅうとしたスモーキングに身を固めて、広い真白な烏賊胸《いかむね》がピカピカと灯に映えるくらいでした。むろん念入りに化粧もして、プンプン香水の匂いを振り撒いていました。彼はある豪華な会合の帰りだという触れこみでした。
『何か飲むものを探して来い!』
と、クラインが彼に向ってどなりました。
『なんだ、君はもう大虎じゃないか。僕はお寝みをいいに寄ったんだぜ』
『大きなお世話だい!』
この辺までのやりとりは、別にどうということもなかったのです。ただクラインはいつもの酔払った時よりも一層兇暴な顔つきをしていました。彼はひどいチビで、ひとと並ぶと痩せ細って貧弱でした。もみくしゃにした髪に、額を汗でてらてらさせて、ネクタイもひんむしッていました。
『クライン、君はまるで豚のように酔払ってる!』
『その豚がお前に酒を見つけて来いといってるんだ』
この時、ヴィリイがちょっとひるんだように見えました。まわりのものが誰一人として笑顔をしていないのを感じて、それに挑むように大声をだしました。
真黒い髪に鏝《こて》を当てて、香油で光らせている頭を昂然とそらせて、
『なんだい、こんなところの馬鹿騒ぎが面白いとでもいうのか? ぼくが今行って来た会の方がよっぽど愉快だったぜ』
と、ずけずけいいました。
『酒を探して来いといったら!』
クラインは自分のまわりをギラギラする眼で見廻しました。隅の方でカントの理論らしいものをしきりに振り廻している連中がいました。誰かが人生が存在に価いしないと断じながら泣き声を立てている。
一人として冷静な気分のものはなかったし、物事を注視しようともしていなかったようです。突然クラインがとびあがりました。痙攣していた神経がピョンととびあがった感じでした。
ヴィリイの胸板めがけて、クラインが頭突《ずつき》をくれたように見えました。だが次の瞬間、どッと血が吹き出て、ヴィリイはぱっくりと口を開けました」
「やめてくれ!」
突然ジェフ・ロンバールが立ち上って、ベロアールを呆然と眺めながら、嘆願するように叫んだ。
ヴァン・ダンムはまた肩をぴったり壁にへばりつけてしまった。
だが、強いてベロアールをとめようとするものはない。陽も落ちたらしく、部屋の人々の顔はすっかり灰色になった。ベロアールはつづける。
「さすがに大騒ぎになりました。クラインはナイフを手にしたままその場にうずくまって、呆然とした眼つきでよろめくヴィリイを見守っていました。……これらの光景は、一般の人が考えるようには展開されなかったのです。私もそれをうまく説明することができません。
ヴィリイは倒れませんでした。烏賊の胸板から血が滴り落ちる姿で、彼はハッキリした口調で、
『豚どもめ!』
と叫び、同じ場所に立ちつくしていました。バランスを保とうとして、両股を少し踏張って開いていました。血さえ流れなかったら少しばかり酔払っているんだとしか思われなかったでしょう。
もともと眼の大きい男でしたが、この時はそれを一層大きく見開きました。左手はスモーキングのボタンを抑えていましたが、右手をうしろへ廻して、そろそろとズボンのポケットを探っているのです。
誰か恐怖の叫びをあげました。多分ジェフだったでしょう。右手がとうとうポケットのピストルを探り当てて、ゆっくりそれを抜きだしました。いかにも凄そうな鋼鉄製の真黒な奴でした。
クラインは神経が持ちきれなくなって、そのまま床にころげてしまいました。酒壜が倒れて、割れました。
ヴィリイはまだ死んではいませんでした。ほんのわずかゆらゆらしているくらいのものです。彼はわれわれを一人ずつ眺め廻しました。しかし、視力はもう曇っていたでしょう。それでもピストルを持ちあげました。
誰かがとびついて、その手からピストルをもぎとろうとしましたが、そのはずみに血で足が滑って、二人とも床の上にもつれ合って倒れました。
多分筋肉の痙攣だったのでしょう。ヴィリイはまだ死んではおらず、依然として眼を大きく見開いていました。そして、ピストルの引金を引こうとしているのです。
『豚どもめ!』
という言葉がその口からまた洩れて出る。
その言葉をいわせまいとして、彼の咽喉を締めたものがありました。そうしなくても長くは保たない生命でしたが……
スモーキングの姿がそのまま床に動かなくなるまでに、私はすっかり血まみれになりました」
ヴァン・ダンムとジェフ・ロンバールとは恐怖の眼つきで友人をみつめた。……だが、ベロアールは思い切ったようにいった。
「そうです。ヴィリイの首を締めた手というのは、私の手なのでした。とびついて、血で足を滑らしたというのも、この私なのです」
その彼はかつての場所と同じところに立っているのではなかろうか? だが今は身綺麗にキチンとしていて、埃一つない靴を穿き、服も手入れがよく行届いている。
色白で、爪にもマニキュアまでしてある右手の指には、大きな金の平打指環が輝いている。
「われわれはみんな腑抜けになったようにポカンとしていました。自首して出ようとするクラインだけは、何とかなだめて寝かしつけました。……誰も何も喋らずだんまりです。その辺のことをどういうふうにいったらわかってもらえるでしょうか。……ただ私だけは少くとも落ち着いていたつもりでした。何度もいうことですが、殺人事件などについては誤った考えにとりつかれているわれわれでした。私はヴァン・ダンムを廊下に呼びだして、低声《こごえ》で相談しました。一人で大声あげて唸っているクラインだけは放っとくより他はありませんでした。
お寺の鐘が鳴っていましたが、時間は何時だったのか覚えていません。その鐘の音に送られて、われわれ三人はヴィリイの死体をかかえて路次へ忍び出ました。ムーズ河は増水していました。サント・バルブ河岸には五十センチも水が溢れて、流れは急になっていました。下流といわず、上流の方も、堰を水が越えて流れていました。ガスの火がちらちらする前を、滔々《とうとう》とすぎる水の流れに、黒い物がちらりと落ちて、たちまち見えなくなってしまったのです。
私の衣服は血まみれで、裂傷もできてしまったので、アトリエに脱ぎ捨てて、ヴァン・ダンムが代りの服を自分の家から持って来てくれました。あくる日、服のことは作り話をして両親をごまかしました。」
「あンた方はまたここで集りを開いたのでしょう?」
メグレがゆっくりとたずねた。
「いいえ……このポトノアールのクラブはそれきり解消されてしまったのです。ルコック・ダルヌヴィユだけはクラインと一緒に残りました。それ以来、われわれは暗黙の諒解でもあるように、お互いを避けはじめました。町でばったり顔を合わすようなことがあっても、顔をそむけるといった調子でした。
偶然とはいいながら、河の増水のおかげで、ヴィリイの死体は発見されずじまいでした。それに、都合のいいことには、ヴィリイ自身われわれと交渉があったことを、誰にも喋っていないことでした。われわれのような友だちがあることを恥としていたのでしょう。ですから、ヴィリイは失踪したものと思われ、その捜索も、彼がクリスマスの夜を過ごした悪所を中心に、全然別の方面に外《そ》れてしまっていました。
リエージュから姿を消したのは私が最初です。事件の三週間後のことでした。私は学校を退学して、フランスで勉強をやり直すことを家族に告げました。そうして、パリで銀行員になったのです。
クラインが翌年の二月、サン・フォリアン寺院の門で首を吊ったことを、新聞で読みました。
ある日、パリでジャナンに出っくわしました。事件のことは何も話し合いませんでした。ただ彼もフランスへ来て住むことにしたのだと彼はいいました」
「リエージュに残ったのは僕一人なんだ」
と、ジェフ・ロンバールはうなだれながら呻いた。
「あンたは首吊り人と鐘楼を描きまくった。そして、新聞に挿絵を書いた。それから……」
メグレはジェフの言葉を引きとるようにしていいかけた。
頭の中にはオル・シャトオ通りの家が描きだされる。緑色の小さいガラスを張りまぜにした窓、広場の噴水、若い女の肖像画、写真製版の工場、ポスターや絵入り新聞などが、首吊り人の画がかかっている壁をだんだん狭くして行く。
それに子供たち! 生れたばかりの三人目の赤ん坊!
ともかく十年という年月がすぎたのである。人生は一歩一歩、どこかで、多少のつまずきがあったにしても、営みをつづけて来たのではないか。
ヴァン・ダンムも先発の二人を追ってパリへ出て来た。それから偶然のことからドイツへ移住することになった。両親の遺産をもらって、ブレーメンでは実業界に知られる顔になった。
モーリス・ベロアールは人に羨まれる結婚をした。うまい梯子をのぼったのである。
銀行の副頭取といえば大したもの。ヴェール街の新居、ヴァイオリンを習っている子供。
夜になると、カフェ・ド・パリの気持よい広間で、町の顔役たちと撞球《たまつき》を楽しむ。
ジャナンはマネキン人形を作ってその生活費を得ているが、仕事を終ったあとは恋人の胸像を彫刻して往年の芸術欲を充している。
ルコック・ダルヌヴィユとても結婚したではないか。ピクピュ街の薬種屋の娘をもらって子供まで作ったのだ。
ヴィリイ・モルティエの親父は相変らず腸詰を馬車や貨車で売り捌《さば》いては、町の参事官を買収して財産を太らせている。
彼には他に娘が一人いたが、騎兵将校と結婚した。ところがこの婿が軍隊をやめて腸詰屋になろうとしないので、モルティエはどうしても持参金を出そうとはいわないのである。
夫婦はどこかの駐屯地の小さな町に住んでいる。
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第十一章 蝋燭のかけら
ほとんど夜である。薄暗がりの中にみんなの顔がぼかされてしまい、輪郭だけが彫塑《ちょうそ》のように浮いている。
ロンバールが駆り立てられるようにいいだした。この薄暗がりが彼の弱い神経を苛《さいな》むかのように。
「ともかく灯をつけようじゃありませんか」
十年このかた、同じ釘にぶらさがっている吊り燈籠には、まだ蝋燭のかけらが残っていた。吊り燈籠ばかりでなく、そこには底の抜けた長椅子も、インド模様の掛布も、骨の欠けた骸骨も、一度だって売れた例しのない裸女のスケッチも、みんな昔どおりの位置にうずくまっている。
メグレが吊り燈籠に火を入れると、みんなの影法師が壁に踊った。色ガラスになっているので、赤に、黄に、青に、まるで魔法のランプとでもいった具合だ。
「ルコック・ダルヌヴィユがあンたのところへはじめて顔をだしたのは、いつですかね?」
警部はモーリス・ベロアールに向き直ってたずねた。
「今から三年ほど前だったと思います。よくは覚えていませんが、あなたがおいでになったあの家がちょうど建ち上ったところでしたから。子供がやっと歩けるようになっていましてね……。
私はダルヌヴィユがクラインとそっくりになっているのに、びっくりしました。顔つきが似て来たばかりでなく、その心持まで。……あの消耗的な熱に浮かされて、どうにもならぬ神経衰弱の様子が、全くそのまま乗り移ったようでした。
彼は私の前に敵として現われたのです。傷つき果て、絶望し切って……さあ、何といったらいいでしょうか……
彼は嘲笑い、棘《とげ》を含んで話しました。一応は私の家の立派なことや、私の地位のすばらしいことや、生活に恵まれて申し分のないことなどを讃えてくれましたが、それがまるで、クラインが酔い痴れて、泣き喚く時の状態の一歩手前であることをひしひし感じさせました。
彼は私が、昔のことなどけろりと忘れているのだと思いこんでいたようです。とんでもない! 私はただ生き抜こうとしただけなのです。おわかりでしょうね? 生き抜くために私は重刑者のように働いたものです。
彼はそれをしなかったのです。事実、クリスマスの夜の事件以来、クラインと一緒に行動を共にしました。……われわれがこの土地を離れて行ったあとも、二人でこの部屋に居残って暮したのです。
ルコック・ダルヌヴィユの前に立って、私が受けた印象をどういったらうまく説明できるでしょう。あれから一昔たったというのに、私の前に現われた彼は、昔とほとんど変らない……
まるでそれは、人生があるものには流れつづけているのに、あるものにはその流れがせきとめられているといった感じでした。
彼は名前を変えたといいました。事件を思いださせるようなものを身につけていたくないのだというのです。……名前ばかりか生活まで変えていました。もう書物など一ページだって読もうとしていないのです。
生れ代わった人間になるために彼が選んだというのが職工だったのです。
私は話の半ばで、彼の訪問の目的がわかりかけていました。それほど彼の語る調子には皮肉と非難と途方もない弾劾《だんがい》の意欲が籠められていました。
彼は人生に難破し、何もかも失ってしまいました。わずかに残ったものといえば、青春のかけらがこの部屋にちらばっているだけです。
むろん私たちだって同じことです。青春の日を忘れたわけではない。ただそんなにむきにならないだけのことです。彼のように病的につきつめるわけにはとても行くものではありません。
クラインの面影が彼に憑いてしまったのでしょう。ヴィリイの姿も大きく彼にのしかかっていたでしょう。
それでも結婚をし、子供も生れたのに、神経が鎮まらない。飲みにでかける。それで幸福になれるどころか、気が和まるところまでも行きはしなかったのです。
妻のことは心から愛していたのだといいました。その妻のもとから逃げださねばならなくなったのは、泥棒と思われるようなことをしでかしたからだったのです。
幸福の泥棒! クラインや、その他のものに盗まれた幸福……
私だって、事件以来、随分考え抜きました。そして、どうやら一つの結論を得たのです。……
われわれは危険な思想、神秘主義、不健全性などと戯れていたにすぎないのだ。
全くそれは遊びといってよかったのです。子供の遊戯……ただこの遊戯に心魂を捧げてしまったものが二人ある。
それがクラインとルコック・ダルヌヴィユでした。遊戯の最大なものは殺人でした。クラインはそれをやってのけようとし、とうとう最後には自殺して果てねばなりませんでした。……ルコックは恐怖の虜となり、神経をめちゃめちゃにし、一生悪夢に苛まれつづけるようになった。
他の連中と私とは、その悪夢から身をかわし、平常な生存に立ち帰ろうと努めて、どうやらうまく行ったのです。
ルコック・ダルヌヴィユは逃げるどころか、身心もろとも悔恨の中に浸りきり、兇暴な絶望の中に沈んでしまいました。……生きることに失敗し、妻も子も失うような始末になったのです。
そこで今度はわれわれに立ち向って来たのです。私に会いに来る理由はそこにあったのですが、最初私はそれがよく呑みこめなかったのです。
彼は私の家を眺め、私の暮し向きを観察し、私の銀行に眼をつけました。私は初めて彼の念じていることが、これら一切の私に関係しているものを破壊することなのだと感じたのです。
クラインの復讐。彼自身の復讐!
彼は私を脅迫しました。血と裂傷のある衣服をちゃんと持っているのです。クリスマスの夜の出来事の物的証拠としては唯一の品でした。
彼は金を要求しました。莫大な金額です。一度こっきりではなく、続いて何度もでした。
全くこれは弱点を衝いた企てでした。ヴァン・ダンムもロンバールも私も、ジャナンにしたところで、われわれの地位というものはみな金に依存しているのです。
新しい悪夢がはじまりました。ルコックの狙いは誤たなかったのです。彼はかわるがわる不吉な衣服を持ち歩いては巡歴をはじめました。われわれに要求する金額を、彼は悪魔的な正確さをもって計算していて、少しずつ困憊《こんぱい》の淵へわれわれを追いやる仕掛けになっていたのです。
警部さん、あなたは私の家においでになりましたね。……あの家は抵当に入っているのですよ。私の妻は持参金がそのまま銀行に預金されてあると思っているのでしょうが、実はもう一銭も残っていやしません。……そればかりか私はある不法行為さえやってのけています。
彼はブレーメンへヴァン・ダンムに会いに二度までも行っています。それから、このリエージュへ。
相変らず傷つき果てて、ただもう幸福のかけらが少しでも残っていればそれを砕こうと思いつめて……
ヴィリイの死体のまわりにいたのは六人です。クラインは死にました。ルコックは悪夢と一緒に生きている。
残った連中が一様に不安になるのが狙いなのです。だから、せっかくわれわれから絞った金も、彼は手をつけようとしませんでした。クラインと二人でわずかの金で買い求めた腸詰を分け合った時と同じように、底抜けの貧乏生活を続け、奪い取った紙幣はみな焼き捨ててしまったのです。
それらの灰になった紙幣は皆われわれにとっては言語に絶したやりくりの象徴だったのです。
三ヵ年の間、われわれはそれぞれの場所で、ヴァン・ダンムはブレーメンで、ジェフはリエージュで、ジョナンはパリで、私はランスで、苦闘を続けました。
三ヵ年の間、われわれは互いに文通し合うこともありませんでしたが、ルコック・ダルヌヴィユは厭でも昔の黙示録の同志雰囲気の中へわれわれを引きずりこもうとするのでした。
私には妻があります。ロンバールもそうです。子供もできてます。彼らのためにも何とか踏みとどまらなくてはなりません。
すると、ある日、ヴァン・ダンムから電報が来て、ルコックが自殺したから、ここに集れと言って来ました。
みんな集りました。そこへあなたの出現です。……あなたがいなくなってから、どうやらあなたが物的証拠の血まみれの衣服を持っていて、事件を追及し始めていることがわかりました……」
「北停車場で鞄を盗んだのは誰です?」
メグレが訊いた。
すると、反射的にヴァン・ダンムが答えた。
「ジャナンですよ。……僕はあなたより一足先に来て、フォームに隠れて待っていたのです」
みんなもう疲れ切ったように見えた。蝋燭のかけらは、あと十分も続くだろうか? 警部がぎこちなく身体を動かしたので、はずみを食って骸骨の頭が落ち、床にかみつくようにころがった。
「鉄道ホテルに私へ手紙を送ったのは、誰です?」
「それは僕だ!」ジェフがうつむいたままですぐに応じ、「生れた女の子のためだったのです。せっかく生れてくれたのに、僕は世話を焼くことさえできなかった。……ヴァン・ダンムがすぐに気配を察して、ベロアールを語らい、二人してカフェ・ド・ラ・ブールスへ牽制に来ました」
「すると、ピストルを射ったのもあンたでしたか?」
「そうです。そうするより他にはなかった。生きたい。ただ生きたかった。女房と子供たちと……。それで、外で見張っていました。……私は今まで五万フランにのぼる為替手形を振り出しています。その五万フランをルコック・ダルヌヴィユは燃してしまったのです。けれど、それは何でもない。稼いで払えばいい。できることなら何でもやるだけのこと。……ただ、あなたに、われわれのうしろに控えていられては……」
メグレは眼でヴァン・ダンムを捉えて、
「あンたは私の先々へ廻って、手掛りを潰《つぶ》して歩いたが……」
そこでふッと沈黙が来た。蝋燭の火がまばたきだした。ジェフ・ロンバール一人だけが燈籠の赤いガラスの光線を受けていた。
この時、はじめて、ベロアールの声が弱々しい響きを籠らせた。
「十年前の、あの出来事の直後であったら、私はどんなことでもやってのけたでしょう。私はピストルも買いました。逮捕される時に自殺する気だったからです。……しかしそれから十年経ってしまったのです。苦闘の十年、条件は新しく変っています。妻と子供。彼らのためなら、私もヴァン・ダンムのように、あなたをマルヌ河に突き落しもしましょうし、ジェフのようにカフェ・ド・ラ・ブールスの別れで、ピストルも射つでしょう。
それというのもたったひと月、いや二十六日待てば、時効が来るという事がわかっていたからです」
急に深まった沈黙の中で、蝋燭が突然大きな最後の焔をあげ、すッと消えた。真の闇が一帯を塗りつぶした。
メグレは動かなかった。ロンバールが左側に立っており、ヴァン・ダンムが真正面の壁にもたれており、ベロアールが背後一歩のところにいることがわかりすぎるほどわかっていた。
彼は待った。ピストルのポケットに手を突込もうという気も起らなかった。
背後のベロアールが足先から頭まで震え、大きく喘いだのがはっきりわかったが、やがてマッチが擦られて、こういうのが聞えた。
「よかったら、引き揚げようではありませんか」
マッチの光でみんなの瞳が妙にキラキラと輝く。四人揃って出口へ足を運び、階段を降りかけた。ヴァン・ダンムが足を踏みはずした。八段目のところから、手摺がなくなっているのをうっかり忘れてしまっていたからである。
指物師の職場はもう閉じられていた。窓のカーテンを透して、老婆が一人、石油ランプの乏しい光に照らされながら編物をやっていた。
「この道を行ったのだね?」
メグレは前方百メートルほどの河岸に出る凹凸道を指さしながら言った。そのあたりは塀に囲まれてガス燈がまたたいていた。
「ムーズ河へは三軒目の家から出られるのです」ベロアールが引き取って、「私は膝まで水につかりましたよ……|あれ《ヽヽ》を流すのに……」
一行はその道の反対側の方向を辿った。まだよくできてない台地のほぼ真中に立っている新しい寺院に沿うている道である。
不意に町へ出た。通行人や黄と赤の電車や自動車や飾り窓など……
中央へ出るにはアルシュ橋を通らねばならない。早い流れが泡立って激しく橋脚を洗っている。
オル・シャトオ通り。ジェフ・ロンバールの帰りをみんなが待っているだろう。階下では職工たちが酸の入った樽の間を動き廻り、新聞社の使いが製版の催促に来ている。二階では産婦が健気なお袋に付き添われながら、生れたばかりでまだ眼の開かぬ赤ん坊を、白い寝床の中にのぞきこんでいる……
上の子供たち二人は、騒ぐんじゃありませんよといいつけられて、首吊り人の画がかかっている食堂にいるだろう。
ランスには小さな息子にヴァイオリンの稽古をしてやるもう一人の母親がいる。女中は階段の真鍮棒を一本残らずピカピカに磨いて、常盤木を植えた瀬戸物の鉢の埃を払っている。
ブレーメンのビルディングの中の事務所でもそろそろ退社の時刻だ。タイピストと二人の事務員は、モダンな事務所の戸を閉め、電燈を消す。ジョセフ・ヴァン・ダンム、輸出入取次業……という窓の文字も暗闇の中に消えてしまう。
おそらくは、ウィンナ音楽をやっているビヤホールで、頭を短く刈った実業家あたりを見廻して呟く。
「おや、フランス人はここにいない……」
ピクピュ街ではジューネ夫人が歯ブラシを売ったり、カミツレを百グラム量ったりする。その薬草の萎れた花が小袋の中でかさかさ音を立てる。
子供は店の奥でしきりに宿題をやっているだろう。
……四人の人物は大股で歩みつづける。微風が起って、沖天《ちゅうてん》にかかっている明るい月を遠いところからやって来ては、ちょっとの間かげらす千切れ雲を吹き払っている。
みんなはどこへ行こうとしているのだろう?
明るく照明したカフェの前を通りすぎた。酔払いが一人よろめき出て来た。
それを機会《しお》に、メグレは足をとめて挨拶した。
「じゃ、この辺で……パリで待合せがあるんで……」
三人の連れは互いに眼を見かわした。喜んでいいのか悲しんでいいのか見当もつかず、すぐには言葉も出ない様子だ。メグレはポケットに両手を深く突込んでいった。
「この事件には、子供が五人もいる!」
この言葉を連れの人たちが果して聞いたかどうかはわからない。何しろ警部はほとんど独り言のように歯の間で呟いたにすぎないからである。ただ三人は、ビロードの襟の外套が闇に薄れて行くその広い肩だけを見送るのみであった。
「ピクピュ街に一人、オル・シャトオ通りに三人、ランスに一人」
停車場から出て、その足でルピック街を訪ねて見たが、アパートのお神さんはメグレにいった。
「おあがりになっても無駄ですよ。ジャナンさんはいませんわ。最初気管支炎だと片づけていたんですけれど、肺炎だとわかって、とうとう入院なさったんですから……」
そこで、自動車をオルフェーブル河岸の本庁へ廻した。
巡査部長のリュカがちょうどいた。不法なことをやったバアの経営者を電話で呼びだしてお説教しているところだった。
「手紙を受け取ってくれたね?」
「どうでした、うまく片付きましたか?」
「とんとね!」
これはメグレがよく好んで使う科白《せりふ》の一つだ。
「それじゃずらかったんですか?……あの手紙で、ひどく気をもみましたぜ。思いきってリエージュまで行って見ようかと思ったりしました。……何だったんです? 無政府主義者ですか? 贋金使い? それとも国際的な陰謀団?」
「ところが、ただの子供だったのさ」
吐き捨てるように警部は言った。
戸棚を開けて手にした鞄を放りこむ。その中にはドイツ警察の鑑識課員が、長時間にわたってこまごまと調べて、B服と名づけた衣服が入っているのだ。
「リュカ、一杯やりに行こう」
「どうもあまりパッとしてないじゃありませんか?」
「何をいってる。人生より面白おかしきはなし、だ、どうだい?」
それからしばらく経って、二人はドオフィヌのビヤホールの廻転扉を押していた。
この時くらいリュカが面喰らったことはない。ビールをのむのかと思ったら、メグレは立てつづけに六杯も、アブサンまがいの強い奴をひっかけたからである。
それでも最後には持前のしっかりした声色で次のような謎めいた言葉を洩した。もっとも、その眼つきの中には、いつもに見られぬ漠然とした影が漂っていたけれど。
「なアおい、こんな事件が十も重なったとしたら、おれは辞表をだすよ。……こりゃァつまり、天の高みに神様がおいでになって、警察の仕事も司っていらッしゃる証拠だろうという事さ」
それからボーイを呼んで勘定をさせながら、
「まア、気にすることはないさ。こんな事件が十なんてあることはない。……どうだい、庁内で何か変った話が持ち上っているかね?」(完)
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訳者あとがき
ジョルジュ・シムノンは、フランス文壇に属してはいるが、リエージュ生れのベルギー人である。普通に読むとシムノンと発音するのが順当と思われるが、ベルギー読みではシメノンがいいのだという説もある。
このシムノンについては訳者に妙な思い出がある。今から二十五〜六年前のこと、当時訳者は探偵小説を看板にした雑誌を主宰していて、雑誌に紹介する外国作品を鵜の目鷹の目で探していた。ある日、丸善の新刊を並べている棚に、全く耳新しい作家の探偵本が二種ほど出ていたので、すぐに買い求めた。フランス本というのは、ほとんどが例の仮綴《かりとじ》の瀟洒な体裁と決っているが、それは表紙裏表紙を真黒な写真版でくるんであり、その写真が犯罪に関係のある場面をセットしたものだった。これには当時実話的な匂いが感じられた。私はどういうものか犯罪実話というものが好きになれない。ぎしぎしした現実が嫌いな性分なのだろう。それで、その本の趣味の悪い装釘を見ただけで、実はあまり読んで見る食欲を覚えなかった。しかし、折角買ったものだからと思い、一応はペーパーナイフでページを切り、読みだして見た。文章はぶつぶつ切れたような、いわゆるタイプライター文章で、場面も何やら暗いところから始まっていた。
私のフランス語などは知れたものだから、ちよいと安楽椅子に腰をおろして一冊読みあげるというわけにはいかない。それで、二、三ページも読み進むと退屈してしまった。ぱらぱらとあとのページを繰って拾い読みして見ても、面白そうな描写にはぶつからない。なんだ、この作家、ダメだな。シムノンなんて、名前もあまりぱッとしないじゃないか。……私はそれきりその本を書棚の隅へ押しこんでしまった。
その後、この作家の作品が同じような装釘で月に一冊くらいの割合で丸善の新刊の棚を賑わした。ははア、探訪記者が警察から材料をもらってて、それで小説にでつちあげ、次々に書きとばしているんだナ。それじゃ碌《ろく》なものが出来っこないさ、と私は思い、もうそれらの新刊を手に取ろうともしなかった。それと同時に、私の作っていた雑誌にフランス物を材料にして寄稿している人と会い、この作家の話が出て、その人もこの新作には一、二眼を通したが、大して面白くなかったという感想を述べたので、もう私はシムノンという作家を脳裡から追いやってしまっていた。
ところが、それから四〜五年後、フランス映画で「モンパルナスの夜」というのが来た。見て大変面白かった。探偵メグレを名優アリ・ボールが演じて、その独自な探偵法と性格とを見事に浮き彫りにしていた。作の内容も一種の性格破綻者を取扱い、その周囲をめぐるうらぶれた近代文明が巨細なく描出されていた。
この映画とほとんど同時に原作が翻訳で出た。それがシムノンの「男の首」だった。私はその翻訳で初めてシムノンの作を読み通して見て、彼がすばらしい作家であったことに一驚を喫し、内心自分の不明について赤面を感じないわけにはいかなかった。
シムノンは私が予想した通り、探訪記者あがりで、早くから実話に取材した小説を発表していたが、あまり認められず、一九三〇年頃メグレ探偵を創造して、その独特な心理探究とも称すべき探偵振りを展開させるに及んで読書界の評判を呼ぶようになったのだった。
シムノンの創作力は実に旺盛なもので、バルザックやジョルジュ・サンドにも劣らぬ大量生産作家だ。一九〇三年生れというから、まだ五十四才の書き盛りで、これまで書いた作品が約四百篇、あと十年やそこらは書きまくるに違いないから、その全量を予想すればバルザックの記録は破るかも知れない。
しかし、多作家にも拘らずシムノンの作品はそういう作家にありがちな粗雑な描写や筋立てをあまり感じさせない。むしろ重厚で遅鈍な感じさえ与えるのは不思議である。これは素材を鑑定する眼力が優れていて、しかもそれを作品に化する時には一瀉千里とも言えるほどの早さで達成するだけの物凄い腕力を持ち合わせている証拠である。
シムノンの作品は大体二十篇くらいが日本に紹介されている。その大半はメグレ探偵の活躍する探偵小説であって、わが国にはメグレ・ファンが大変多い。この探偵はシャーロック・ホームズなどと違つて、推理を売り物にせず、足で事件を追いかけるいわゆるガボリオーのルコック探偵型ではあるが、その追求の仕方が非常に心理的であることが特徴である。だから、彼が動き廻り、何か獲物を追つている時は、何のために彼が働いていて、どんな事件が展開し、または解決されるのか読者には全く分らないことが多い。そして、メグレ探偵が最後に到達したゴールへ来て見て、はじめて事件の全貌が明るみに出て、思わず大きな吐息をつく。……そういう型のものがシムノンの作には多く、この「サン・フォリアン寺院の首吊り人」もその一つと言えるだろう。この作は、メグレ物としては処女作か第二作かくらいに当るものと思われ、私が丸善で逸早く手にしておきながらも、雑誌に紹介することを怠った曰くつきのものと言える。彼の作品中では代表的なものの一つと言ってよかろう。
シムノンはメグレ探偵物を書き続けたあと、ぱつたりと探偵小説から縁を切つて、世界大戦による社会現象に取材したものも大分書いている。いわゆる文明批判的な作品だが、やはり下地は争われず、それぞれ犯罪小説とでも言えるものになっているようだ。しかし探偵小説にも依然興味を抱いていて、その後再びメグレ物に着手して、あの懐しい風貌を再現させ、メグレ健在をファンに叫ばせているのは心強い。
五七年新緑の窓にて(訳者)