メグレの途中下車
シムノン/榊原晃三訳
目 次
第一章 雨中のローカル列車
第二章 兎皮商人
第三章 眠らなかった教師
第四章 皮下溢血のイタリア女
第五章 ブリッジの勝負
第六章 十時半のミサ
第七章 ルイーズの宝物
第八章 グロ=ノワイエ村の老廃者
第九章 ブランデーのナポレオン
訳者あとがき
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登場人物
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メグレ……パリ司法警察の警視
ジュリアン・シャボ……予審判事、メグレの旧友
ユベール・ヴェルヌー・ド・クルソン……殺されたロベールの義理の弟、城館主
フェロン……フォントネイ警察の警視
ロメル……新聞記者
シャビロン……刑事
アラン・ヴェルヌー……ユベール・ヴェルヌーの息子、ドクター
ルイーズ・サバチ……アランの愛人
レオンチーヌ……クルソン家の元家政婦
アルセーヌ……クルソン家の家令
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第一章 雨中のローカル列車
二つの小さな駅――その名前を彼は言えなかったろうし、事実、大きな燈りの前の雨足と荷車をおす何人かの人影以外、暗闇の中にはほとんど何も見えなかった――の間で、とつぜん、メグレは、おれは何をしていたんだろうと自問した。
たぶん、煖房が熱すぎる車室の中でしばらくうとうとしていたのだろうか? 自分が列車に乗っていることはわかっていたのだから、完全にぐっすり寝こんでいたはずはなかった。列車の単調なひびきも聞いていたし、野の暗いひろがりの中で、一軒家のともしびのともった窓を断続的に見つづけていたとはっきり言えただろう。こうしたことと、彼のぬれた衣服の匂いとまじり合う煤煙の匂いは、依然として現実のものだったし、隣りの車室の声の規則正しいつぶやきも同じだった。そうしたことは、言わば現実味を失い、もはや空間の中に、ことに時間の中にしっかり根をおろしてはいなかった。
ひょっとすると、どこ行きでもいいから田舎を走るローカル列車に乗って別の場所にいるのかも知れなかったではないか。今乗っているのとまったく同じような普通列車で、機関車に引っぱられるたびに仕切りがきしむ旧式の客車にゆられて、土曜日に中学校から帰る十五歳のメグレであるかも知れなかったろう。そうだったら、夜、駅に停車するごとに、今夜と同じ人声を聞き、今夜貨車のまわりでいそがしく働いているのと同じ人々を見かけ、同じ駅長が吹く笛を耳にするだろう。
彼は薄目を開けて、消えてしまっているパイプを吸った。視線が車室の向こうの隅に座っている男の上にとまった。この男だって、昔、メグレを父親の家へ運ぶ列車の中にいるのかも知れなかったろう。伯爵か、城館《シャトー》の持ち主か、村あるいはどこかの小さな町の有力者であるかも知れなかったろう。
男は明るいツイードのゴルフ用の服と、目がとびでるほど高い店でしかお目にかかれないようなレインコートを着ていた。帽子は緑色の狩猟帽で、小さなキジの羽根がリボンの下にさしこんである。暑いのに、淡褐色の手袋をぬいでいなかったが、それはこういう人種は汽車や自動車の中では決して手袋をとらないからだった。それに、こんな雨降りにもかかわらず、男のよく磨いてある靴には泥のしみ一つついていなかった。年は六十五歳にはなっているらしかった。すでに老紳士だった。これくらいの年ごろの男たちが、こんなに風采の細かい点にまで気を配るということは、おかしいではないか? それに、この年でなお、自分を俗衆から目立たせて喜んでいるとは?
顔色はこうした人種特有のバラ色で、ごましおの小さな口ひげの中に、葉巻でつけられた黄色い輪がのぞいていた。
ところが、そのまなざしには、持っていて当然の自信がまったくなかった。男は自分の席からメグレに注目していた。メグレもやはり自分の席から、男にちらちらと視線を投げ、二、三度、今にも話しかけそうになったようだった。ちりぢりに分散した光にちりばめられた暗い世界の中で、列車は汚れて雨にぬれながらまた発車し、そして、ときどき、踏切にさしかかると、列車が通りすぎるのを待つ自転車に乗った人間が見わけられた。
メグレは悲しかったのだろうか? いや、悲しみよりももっと漠然とした感じだった。完全に放心状態だった。第一、この三日間、彼は飲みすぎていた。必要だったから飲んだだけで、酒はうまくなかった。
彼は今年はボルドーで開催された国際警察会議に出席したのだった。四月だった。パリを発つとき、今年の冬は長くて単調だったが、春はすぐ近くまできていると信じられていた。ところが、ボルドーでは、三日間降り通しで、おまけに冷たい風が衣服を身体にはりつけた。
たまたま、ミスター・パイクのような、こうした会議ではいつも出会う数人の友人が、今回はきていなかった。各国は努めて若いものたち、つまり彼が一度も顔を合わせたことのない三、四十代の男たちしか送りこまないようにしているようだった。そうした若いものたちはみんな、メグレに対してはとても親切だったし、敬意も払ってくれた。が、それは多少時代おくれだと思いながら敬意を払う先輩に対してするように、そうしたのだった。
メグレの勝手な思いつきだったのだろうか?あるいは、はてしなく降りつづく雨が彼の気をめいらせたのだろうか? それとも、商工会議所の招きで訪れたあちこちの酒倉で飲まなければならなかったブドウ酒のせいだったのだろうか?
「あなた、たのしい?」と妻が彼に電話でたずねた。
彼はわけのわからないことをぶつくさ言って答えた。
「少し休むようにしなさいよ。家を出るとき、あなたは疲れてるようでしたよ。とにかく、これであなたの考えも変わるでしょう。かぜを引かないようにね」
たぶん、彼はとつぜん自分が年をとったと感じたのだろうか? 会議での討論も、いつもほとんど新しい科学的捜査方法がとりあげられるのだが、彼にはさっぱりおもしろくなかった。
宴会は前日の晩に開かれた。今朝は、今度は席を変えて市庁舎で最後の接待が行なわれ、食事には酒がふんだんにふるまわれた。彼はシャボに、月曜日の朝までにパリに戻っていればいいから、この機会にフォントネイ=ル=コント〔フランス西南部ヴァンデ県にある町〕へ会いにいくから、と約束していた。
シャボはもう若くは見えなかった。メグレとシャボは、昔、メグレがナントの大学で二年間医学を勉強していたとき仲よくなったのだった。シャボのほうは法律を勉強していた。二人は同じ下宿で暮らしていた。二、三度、日曜日に、シャボはフォントネイの母親の家ヘメグレをつれていった。
以来、これまでの年月、二人はおそらく合計十回ほど会っていただろう。
「君はいつヴァンデヘぼくに会いにきてくれるのかね?」
メグレ夫人まで一枚加わって、こう言った。
「なぜ、ボルドーの帰りに、シャボさんに会いに寄らないの?」
彼はもう二時間前からフォントネイにいるはずだったのに。汽車に乗りそこなったのだ。ニオールで、長く待たされたので、待合室でちびちび飲みながら、シャボに車で迎えにきてくれと電話をかけようかどうか迷った。
結局、電話はかけなかった。もしジュリアンが迎えにきたら、きっとメグレに自宅へ泊まれと言ってきかなくなるだろうし、それにメグレはよその家で泊まるのがこわかったからだ。
彼はホテルヘいくつもりなのだ。ホテルヘいったん落ちついてから、電話をかけるつもりなのだ。だいたい、この二日間の休暇を、リシャール=ルノワール大通りの自分の家ですごさないで、こんな道草をくうこと自体、まちがっていたのだ。そうかも知れない。おそらく、パリではもう雨も降っていなければ、春もとうとうやってきていただろう。
(ところが、こうやって、おびき寄せられちまった……)
彼は身ぶるいした。自分では知らぬ間に、彼は旅の相客をぼんやりながめていたにちがいなかった。そして相手がやっと彼に話しかけようと決心したところだった。が、彼自身、どう言葉をかけていいものやら困っていたらしかった。メグレは声に何となく皮肉なひびきをこめるべきだと思った。
「何ですかな?」
「あなたのような方の助力をこうんじゃないかなと思っていたんですよ」
それから、メグレがあいかわらずわかったという顔をしないので、
「あなたは確かメグレ警視でしょう?」
相客はまたもとの上流社会の人間に戻って、シートの上に身体を起こして自己紹介をした。
「ヴェルヌー・ド・クルソンです」
「初めまして」
「あなただということはすぐわかりましたよ。たびたび新聞にのったお写真を拝見していましたからな」
こういう彼の態度から見ると、新聞など読む人間の一人であることを言いわけしているみたいだった。
「こういうことは、ちょくちょくあるものでしょうな」
「どういうことがですか?」
「人に顔を見知られるということがですよ」
メグレはどう返事してよいかわからなかった。彼はまだ二本の足をしっかりと現実に踏まえていなかったのだ。男のほうは、汗の玉を額に浮かべて、ある状況に足をつっこんでしまったものの、どうやったら自分に有利なようにそこから出られるかわからないでいる人間のようだった。
「友人のジュリアンがあなたに電話をしたでしょう?」
「ジュリアン・シャボのことを言っているんですか?」
「予審判事のね。おどろいているんです、今朝会ったとき、私には何も言いませんでしたから」
「やっぱり、何のことか、私にはわかりませんな」
ヴェルヌー・ド・クルソンが眉をひそめて、いちだんと注意深くメグレを見つめた。
「では、フォントネイ=ル=コントヘいくのは偶然だ、とおっしゃるのですか?」
「ええ」
「ジュリアン・シャボの家へはいかないのですか?」
「ええ、しかし……」
とつぜん、メグレは自分自身に腹を立てて顔を赤らめた。昔、今相手にしているような種類の人間、つまり『城館《シャトー》に住む人間』に対してそうしたように、相手に素直に答えてしまったからだった。
「おかしい、じゃないですか?」と相手が皮肉った。
「何がおかしいんですか?」
「メグレ警視が今まで一度もフォントネイに足を入れたことがないなんてことは……」
「だれかにそう言われたんですか?」
「私の推測ですよ。とにかく、フォントネイではあなたを一度も見かけなかったし、あなたに会ったという人の噂も一度も耳にしたことがない。ところが、そんなあなたが、ちょうどあの実におどろくべき謎の事件で当局があわてているときに、フォントネイにこられるというのは、ねえ、おかしいでしょうが……」
メグレはマッチをすって、パイプをぷかぷかふかした。
「シャボとはいっしょに勉強した仲です」と彼は静かに言った。「昔、数回、クレマンソー通りの彼の家に招かれたことがありました」
「ほんとうですか?」
メグレはそっけなくくり返した。
「ほんとうです」
「それなら、たぶん、明晩、ラブレー通りの私の家で、またあなたにお目にかかれるでしょう。シャボは毎週土曜日に私の家ヘブリッジをやりにきます」
列車は、フォントネイにつく前に一度停車した。ヴェルヌー・ド・クルソンは旅行かばんを持っていなかった。茶色の皮の折りかばんを持っているだけで座席の自分の横においていた。
「あなたがあの謎を解くかどうか見ものです。偶然だろうがなかろうが、あなたがここへこられたのは、シャボにとっては幸いです」
「彼の母上はまだご健在ですね?」
「あいかわらず至極元気ですよ」
男は立ちあがって、レインコートのボタンをはめ、手袋を引っぱり、帽子をかぶりなおした。列車が速度をゆるめ、前より多くなった光が列をなして通り、人々がプラットホームの上を走りはじめた。
「あなたとお知り合いになれてよかった。シャボに、彼といっしょに明晩あなたにお会いしたいと私が言っていたとおつたえください」
メグレは首でうなずいて返事しただけで、列車のドアを開けると、旅行かばんをつかんだ。かばんは重かった。そして通りすがりの人たちなど見向きもしないで、改札口のほうへ向かった。
シャボはメグレが偶然乗ってしまっただけのその列車で彼を待っているはずがなかった。駅の出口から、メグレはレピュブリック通りをずっと見渡した。通りでは雨が前よりもはげしく降っていた。
「タクシーかね、旦那?」
彼はそうだという合図をした。
「フランス・ホテルかね?」
彼はもう一度そうだと言うと、むっつりとして座席の隅に身を沈めた。まだ晩の九時なのに、もう町中には活気が少しもなく、二、三軒のカフェがまだあかりをつけているだけだった。フランス・ホテルの玄関の両側には、緑色のペンキをぬった樽に植えられたシュロの木が二本立っていた。
「部屋はあるかね?」
「シングルですか?」
「うん。できたら、何かちょっと食べたいんだがね」
ホテルはすでに電燈を暗くしてあって、まるで晩祷がすんだあとの教会みたいだった。だから調理場へ問い合わせたり、食堂の電燈を二つ三つつけたりしにいかなければならなかった、部屋へあがらないですむようにしようと、メグレは陶器の水盤で手を洗った。
「白ブドウ酒ですか?」
メグレはボルドーでいやおうなく飲まされたいろいろな白ブドウ酒に食傷していた。
「ビールはないかね?」
「壜入りならあります」
「それなら、ふつうの赤ブドウ酒をくれたまえ」
彼のためにスープがあたためられ、彼のためにハムが切られた。席から彼はだれか男がびしょぬれになってホテルのロビーにはいってくるのを見た。その男は話相手が一人も見つからないので、食堂のほうをちらっと見て、そこに警視がいるのを認めて安心したらしかった。四十くらいの赤毛の男で、血色のいいぽってりした頬を持ち、ベージュ色のレインコートの肩に写真機をぶらさげていた。
彼は帽子をふって雨水を切ると、歩み寄ってきた。
「まず写真を一枚とらせてくれませんか? ぼくは『ウェス=テクレール』紙のこの地方担当の特派員です。あなたを駅で見かけたんですが、すぐあとを追えなかったんです。やっぱり、クルソン事件解明のために派遣されたんでしょうな」
フラッシュ。シャッターの音。
「フェロン警視はわれわれにあなたのことを話しませんでしたよ。予審判事はなおのことです」
「私はクルソン事件のためにここへきたのではない」
赤毛の男がほほえんだ。それはその道の玄人であるものが見せる笑い、その玄人には人が見せない笑いだった。
「わかってますとも!」
「何がわかっているんだね?」
「あなたはここへ公《おおやけ》にきたのではない。よくわかりますよ。いずれにしても変わりない……」
「変わりがあるもないもないさ!」
「その証拠に、フェロンが私に、かけつけると返事しましたからね」
「フェロンってだれだ?」
「フォントネイ警察の警視です。私は駅であなたを見かけるとすぐ電話ボックスヘかけこんで彼に電話をかけたんです。彼はここで私に合流すると言っていましたよ」
「ここで?」
「そうですとも。ここじゃなかったら、あなたはどこへいくつもりだったんですか?」
メグレはグラスをあけて口をぬぐうと、ぶつぶつと言った。
「ニオールから私と汽車でいっしょだったヴェルヌー・ド・クルソンって男はだれだね?」
「彼はやっぱり汽車に乗ってたんですね。義理の兄弟ですよ」
「だれの義理の兄弟だね?」
「殺されたクルソンのですよ」
今度は茶毛の小柄な男がホテルにはいってきて、さっそく食堂にいる二人の男たちに気づいた。
「やあ、フェロン!」と新聞記者が言葉を投げた。
「こんばんは。失礼します、警視さん。あなたがおつきになったことを、だれも知らせてくれなかったものですから。それで駅にもお迎えにいけませんでした。一日じゅう忙しくてへとへとに疲れたあげく、ちょっと食事をしてたとき、ちょうど……」
彼は赤ブドウ酒を指さした。
「急いでやってきたんですが……」
「今、この若い方に話してたんだがね」とメグレが皿をおしやり、パイプをつかみながら言った。
「あなたが手がけているクルソン事件に私が首をつっこむ必要は少しもないってね。私がフォントネイ=ル=コントへやってきたのは、まったくの偶然で、旧友のシャボの手をちょっとにぎるのが目的なんだから……」
「あなたがここにいらっしゃることを、彼は知ってるんでしょうね?」
「彼は四時につく汽車で私を待っていたにちがいない。で、私の姿が見えないもんだから、おそらく彼は、私が明日くるか、それともまるっきりこないだろうと思ったんだろう」
メグレは立ちあがった。
「じゃあ、これで失礼して、寝る前にシャボにおやすみを言いにいってくるよ」
フェロン警視も新聞記者も一様にろうばいしたようだった。
「あなたはほんとうに何もごぞんじないんですか?」
「何も知らんね」
「新聞をお読みにならなかったんですか?」
「三日前から、ボルドーの警察会議の主催者と商工会議所は、われわれにちょっとの暇もくれなかったよ」
警視と新聞記者はうたがわしげな目をちらっとかわした。
「予審判事の住まいはごぞんじでしょう?」
「もちろん。私が最後に彼を訪ねてから、この町が変わっていなければね」
警視と新聞記者はまだメグレを解放する決心がつかなかった。歩道に出てからも、二人はメグレの両側にくっついていた。
「では諸君、私は失礼しますよ」
新聞記者がしつこく言いつづけた。
「『ウェス=テクレール』紙に声明されることは何もないんですか?」
「何もない。じゃ、おやすみ」
メグレはレピュブリック通りを歩いて、橋を渡った。そして、シャボの家までいきつく間、二人には出会わなかった。シャボは古い家に住んでいて、昔、若いメグレを賛嘆させたものだった。家は、玄関前の四段の階段、小さな窓ガラスがはまった高い窓がついていて、昔どおりだった。細い燈りがカーテンの間から洩れていた。メグレがベルをおすと、廊下の青いタイルをふむ小刻みの足音が聞こえた。ドアののぞき窓が開いた。
「シャボ君は在宅かね?」と彼はたずねた。
「どなたですか?」
「メグレ警視」
「メグレさまですか?」
メグレはシャボ家の女中のローズの声はよく知っていた。ローズはもう三十年前から同家にいるのだった。
「今、お開けします。ちょっとお待ちください、チェーンをぬきますから」
と同時に、ローズは家の中に向かって叫んだ。
「ジュリアンさま! お友だちのメグレさまがいらっしゃいましたよ……さ、おはいりください、メグレさま……ジュリアンさまは午後駅までいらっしゃったんですよ……あなたが見つからなくてがっかりしておいででしたよ。どういうふうにいらっしゃったんですか?」
「汽車できたよ」
「夜行の普通列車にお乗りになったんですか?」
ドアが開いた。オレンジ色の光の束の中に、背が高くやせていて、ちょっと腰のまがった男が立っていた。栗色のビロードの部屋着を着ていた。
「きみか?」と男が言った。
「そうだよ。急行に乗りおくれちまってね。それで普通に乗ったんだ」
「荷物は?」
「ホテルにおいてある」
「どうかしてるんじゃないか? とりにいかせなければならんじゃないか。ここにくるのは決まりきっていたんだろ」
「ま、聞けよ、ジュリアン……」
奇妙だった。メグレは旧友を名前で呼ぶのに努力しなければならなかったし、それはぎこちなくひびいたのだ。親しい話し方ですら、ひとりでに口をついて出てこなかった。
「はいれよ! 夕飯はまだたべてないんだろ?」
「いや、たべた。フランス・ホテルで」
「奥さまをお呼びしましょうか?」とローズがたずねた。
メグレが口をはさんだ。
「もう寝ておられるんだろう?」
「今、二階へあがったところさ。でも、十一時か十二時前にはベッドにはいらない。わしが……」
「とんでもない。母上のおじゃまをするのはやめてくれ。明日の朝、お会いしよう」
「母が気を悪くするよ」
メグレは、シャボ夫人は少なくとも七十八歳になっていると計算した。そして、心中、この家にきたことを後悔していた。それでも、彼は雨ですっかり重くなっているレインコートを古ぼけた外套かけにかけると、ジュリアンに事務室までついていった。その間、ローズは、彼女自身もう六十歳はすぎていたが、指図を待っていた。
「何をめしあがりますか? 年代もののブランデーですか?」
「おまえにまかすよ」
ローズは判事の無言の指図を理解して、立ち去った。家の匂いは変わっていなかったが、これもまた、昔、メグレをうらやましがらせたことだった。それはきちんと片づいた家の匂いで、床板はきれいに蝋引きしてあり、うまい料理が作られた。
家具一つ場所を変えられていないようだった。
「かけたまえ。きみに会えてうれしいよ……」
できればメグレはシャボ自身もぜんぜん変わっていないと言いたいところだったろう。シャボの顔の輪郭と表情はよくおぼえていた。おたがいに離れて年をとったので、メグレには歳月のなせるわざがよくわからなかった。でもやはり、これまで一度も友の顔に認めたことのなかった、何となく艶のない、あいまいな、多少生気のない感じに心をつかれた。
シャボは昔もこんなだっただろうか? メグレが気がつかなかっただけだろうか?
「葉巻かね?」
煖炉の上に箱がいくつか積んであった。
「あいかわらずパイプだ」
「そうか。すっかり忘れていたよ。おれはたばこをやめてからもう十二年になる」
「医者に言われたのか?」
「いや。ある日、吸うのはばかばかしいと思ったんだ……」
ローズが盆を持ってはいってきた。盆の上には、地下室のほこりをかぶった酒壜とカット・グラスが一個のっていた。
「酒のほうもやめたのか?」
「たばこをやめたころにやめちまった。食事のときに水で割ったブドウ酒を少し飲むだけだ。きみはあいかわらずだね?」
「わかるか?」
「至極健康そうだからな。いや、きてくれて、ほんとにうれしいよ」
なぜメグレは心からうちとけた態度を示さなかったのだろう?
「この前最後に会ったとき、きみはこれからはちょいちょい寄るからと弁解したな。実を言うと、おれはあんまりあてにしなかったがね」
「だから、こうしてやってきたじゃないか!」
「奥さんは?」
「元気だ」
「今度はいっしょじゃなかったのか?」
「あれは会議なんか好きじゃないからな」
「で、会議はうまくいったのかい?」
「おおいに飲み、おおいにしゃべくり、おおいに食ったさ」
「おれはたまにしか旅に出ない」
シャボが声を低くした。二階で足音が聞こえたからだった。
「母といっしょだと、旅もなかなかできない。もう母を一人にしておくことはできないしね」
「母上はあいかわらずご壮健だろうな?」
「変わらないね。ただ、目が少々弱くなったな。針に糸を通せないでこまっているんだが、ご本人はがんとしてめがねをかけない」
シャボはメグレをながめながらほかのことを考えているようだった。ちょうどヴェルヌー・ド・クルソンが列車の中でメグレをながめながら見せたようすと同じだった。
「きみ、知ってるだろう?」
「何を?」
「この町で起こったことさ」
「ここ一週間ばかり、新聞を読んでないんだ。でも、さっきまで、きみの友人だと言うヴェルヌー・ド・クルソンとかいう人物といっしょに汽車に乗っていた」
「ユベールが?」
「さあね。六十五くらいの男だよ」
「ユベールだよ」
町のほうからは何の物音も聞こえてこなかった。ただ、窓ガラスをたたく雨の音と、炉床でたきぎがはじける音がときどき聞こえるだけだった。ジュリアン・シャボの父親は、昔すでにフォントネイ=ル=コントの予審判事で、息子が父親の代りに判事の椅子に座ったときも、その事務室は変わらなかった。
「それなら、きみも話を聞いたにちがいない……」
「何も聞かない。新聞記者が写真機をかかえてホテルの食堂までおれを追いかけてきた」
「赤毛だろう」
「うん」
「ロメルだよ。彼はきみに何て言った?」
「おれが知りもしない事件を手がけるためにこの町へきたと言いはっていた。そうじゃないとあの男を納得させる暇もないうちに、今度は警視がやってきた」
「つまり、今では、きみがここにいることを町じゅうが知っているってわけだ」
「きみがこまるかね?」
シャボは今まで躊躇していた気持をどうにかうちくだくところまで漕ぎつけた。
「いや……ただ……」
「ただ、何だ?」
「何でもない。いや、ことはきわめて複雑なんだ。きみはフォントネイみたいな郡の中にある町なんかには住んだことが一度もないからな」
「でも、リュソンに一年以上も住んでいたじゃないか!」
「あの町には、おれが今背負いこんでるような事件は起きなかった」
「エーギョンで殺人事件があったのをおぼえているぞ」
「なるほど。忘れていたよ」
それは、ちょうど、そのとき、世間から完全に有罪だとみなされていたある元司法官を殺人犯として、メグレが逮捕しなければならないはめに陥った、という一件だった。
「今度のは、あれほど重大じゃないがね。きみも明日の朝になればわかるさ。パリの新聞記者連中が一番列車でここへやってきでもしたら、おどろくだろうがね」
「殺されたのは一人か?」
「二人だ」
「ヴェルヌー・ド・クルソンの義理の兄弟か?」
「何だ、きみはよく知ってるじゃないか!」
「それだけ聞かされたんだ」
「そう、義理の兄弟のロベール・ド・クルソンだ。四日前に殺された。が、それだけならこんな騒ぎにはならなかったろうがね。一昨日、今度はやもめのジボンばあさんがやられた」
「そりゃ、どういう人物だい?」
「たいした人間じゃない。いや、正反対だ。ロージュ通りのはずれに一人で暮らしているばあさんだ」
「二つの犯罪の間に何か関連はあるのか?」
「二つとも同じ手口でやられている。おそらく兇器も同じものだろう」
「ピストルか?」
「いや。報告書に書いたように、鈍器だ。鉛管の棒かスパナに類する道具かだ」
「それだけかい?」
「これでも、じゅうぶんじゃないというのか?……しっ!」
ドアが音もなく開いて、黒い服を着た、とても小柄でとてもやせた夫人が片手を差し出して進んできた。
「ジュールじゃないの!」
もう何年このかた、彼はこんなふうに呼ばれないですごしてきたことだろうか?
「息子は駅へいったんですよ。戻ってきて、あなたはもうこないだろうって言うもんだから、わたし、二階へあがっちゃったの。まだ夕食をお出ししてないんでしょ?」
「こいつ、ホテルで食ったんですよ、ママ」
「何だってまた、ホテルなんかで?」
「こいつ、フランス・ホテルヘいったんですよ。うちへ泊まるのはいやだって……」
「とんでもない! そんなこと、わたしがゆるしませんから……」
「奥さん、聞いてください。もう新聞記者どもが私を追いかけていますから、ホテルに泊まったほうがいいんですよ。もしお招きをお受けしたら、今晩でないとしても明日の朝、連中はお宅の呼鈴のひもにぶらさがるでしょう。それに、私がご子息にたのまれてここへきたと言われないほうがいいし……」
実は、それこそ判事を困惑させていたことで、メグレはその確証を判事の顔に認めていた。
「でもやっぱり、そう言われるでしょうよ!」
「私ははっきり否定しますよ。この事件、あるいはこれらの事件は、私には関係がない。私は事件に首をつっこむつもりは毛頭ないんだ」
彼がこの彼には関係のないことにまきこまれることを、シャボは心配していたのだろうか?それとも、メグレが、そのときに幾分個性的すぎるやり方でもって、シャボをむずかしい立場に追いこむと思っていたのだろうか?
メグレは悪いときにとびこんできたものだった。
「ママ、メグレの言うことはおかしいと思うんだがね」
そして、旧友のほうを向くと、
「きみ、今度のは並の捜査では話にならんのだよ。殺されたロベール・ド・クルソンは世間に知られた男で、縁の遠い近いはともかく、この地方のすべての大きな家族を親戚に持っていた。義理の兄弟のヴェルヌーも社会の視聴を集めている男だ。最初の犯罪のあと、いろいろな噂が流れはじめた。それからジボンばあさんが殺されたのだが、この事件が噂の流れを幾分か変えた。しかし……」
「しかし……?」
「君に説明するのはむずかしいよ。警視が捜査をはじめている。律義な男でね、南仏の確かアルルからきたんたが、この町のことをよく知っているんだ。ポワチエの機動警官隊も現場にいっている。結局、おれのほうでは……」
老婦人は、椅子のはしにお客のように腰かけて、まるで大ミサのお祈りでも聞くみたいに息子の話に耳をかたむけていた。
「三日間に殺人が二度というのは、人口八千の町には多すぎるよ。もうおびえている連中もいる。今日の晩など、通りでだれにも出会わないというのは、あながち雨のせいばかりじゃないんだ」
「住民はどう考えているんだ?」
「気違いの仕業だと言うものもいる」
「何か盗《と》られてはいないのか?」
「両事件とも、何も盗られていない。いずれの場合も、殺人者は犠牲者に警戒させないでドアを開けさせている。これが一つの手がかりだ。われわれが手に入れた唯一の手がかりと言ってもいいだろう」
「指紋はないのか?」
「一つもない。気違いの仕業だとしたら、おそらく、また別の人殺しをするだろう」
「わかった。で、きみの考えは?」
「ない。見当をつけようとしているのだが。どうも困っちまっているんだ」
「何に?」
「まだ頭の中がひどく混乱しているので、きみに説明することができない。肩に重大な責任を背負いこんでいるんだ」
シャボはこの言葉を弱り切った役人の口調で言った。そして、メグレが今目の前にしているのは、まさしく一人の役人、へまをするのを極力おそれて生きている小さな町の役人だった。
メグレも年とともにこのようになったのだろうか? 友のおかげで、メグレは自分は年をとったと感じた。
「やっぱり、おれは明日の一番列車でパリヘ戻ったほうがよかないかと思うな。結局、おれがフォントネイにきたのは、きみの手をにぎるためだけなんだからな。しかたないさ。おれがここにいると、ますますきみを煩雑な目に合わせかねないよ」
「何を言いたいんだ?」
シャボの最初の反応は抗議することではなかった。
「すでに、赤毛と警視は、きみが応援におれを呼んだと思いこんでいる。で、きみは事件におびえている、どうやって切りぬけたらいいかわからないでいる、と言うだろう……」
「そんなことはないよ」
判事はこの考えをやんわりとおしのけた。
「でも、きみをいかせるわけにはいかないね。やはり、おれには、自分の友人をよかれと思うようにもてなす権利があるからな」
「息子の言うとおりですよ、ジュール。わたしだって、あなたはうちへ泊まるべきだと思いますよ」
「メグレは自分の自由にしたほうがいいんだろう、ちがうかい?」
「おれにはおれの習慣があるからだ」
「たってとは言わない」
「それでも、明日の朝発ったほうがいいだろう」
たぶん、シャボは承知するだろうか? 電話のベルがなりひびいたが、その音声はよそにあるのとは同じではなかった。年よりじみた音だった。
「失礼」
シャボが受話器をとった。
「予審判事のシャボだが」
こう言う彼の態度がまた特徴があり、メグレは笑わないように努力した。
「もしもし? ……ああ! うん……聞こえるよ、フェロン……なに?……ゴビヤール?……どこで?……練兵場と……通りの角か……すぐいくよ……うん……彼はここにいるよ……知らない……わしがいくまで何にもさわらないように……」
母親が片手を胸にあてて彼をじっと見ていた。
「また?」と彼女がつぶやくようにたずねた。
シャボがそうだという合図をした。
「ゴビヤールだよ」
彼はメグレに説明した。
「年よりの酔っぱらいで、フォントネイではだれでも知っている。彼は一日じゅうほとんど池で釣りをしてすごすからだ。彼が歩道で死んでいるのが見つかったんだ」
「殺されたのか?」
「ほかの二人のように頭を割られてな。おそらく同じ兇器を使ったんだろう」
彼は立ちあがってドアをあけ、古びたトレンチコートと雨の日しか使えないいびつになった帽子を外套かけからはずした。
「くるかい?」
「おれがきみについていくべきだと思うか?」
「今じゃあもう、きみがここにいることはみんなに知れちまっているんだから、なぜきみをつれてこなかったかと思われるだろうな。犯罪が二つ起きただけでも多すぎるんだ。三つとなったら、住民は恐慌状態になるだろう」
二人が家を出ようとしたとき、小さな筋ばった手がメグレの袖口をつかみ、年老いた母親が彼の耳元でこうささやいた。
「ジュール、息子をよく守ってやってくださいね。あれはとてもきまじめだから、つい危ないことも目にはいらないんですよ」
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第二章 兎皮商人
この程度のしつっこさ、はげしさとなると、雨ももうただの雨だと言うわけにはいかず――それに風、凍るように寒い風もともなって――自然力の悪意となっていた。そして、さきほど、メグレはニオール駅のろくに屋根もついていないプラットホームで、最後の痙攣をいつはてるともなくつづけている今年の冬にいじめぬかれていた。彼は、この雨はまるで死ぬのはいやだととことんまで必死になってかみついてくるけだもののようだと思っていた。
どんなに身を守ろうと骨を折ってもむだだった。やっと空からの雨水はやんだが、樋から大粒の冷たい雨滴が落ち、歩道に沿って、家々の戸口にぽたぽたとしたたっていた。歩道の上では、流れが急流とまごう音を立て、顔と言わず、首筋と言わず、靴と言わず、二度の外出でついに乾かなかった外套のポケットの中までも、水びたしだった。
二人は頭をさげて、口もきかないで、風に向かって歩いた。判事は古びたレインコートにくるまり、その裾が旗のようにぱたぱたはためいていた。メグレは百キロもあるかと思われるほど重い外套を着ていた。そして数歩歩くと、警視のパイプの中でたばこがじゅっと音を立てて消えた。
あちこちに燈りのともった窓が見えたが、数は多くはなかった。橋を渡ってから、二人はカフェ・ド・ラ・ポストのウインドーの前を通りかかったが、一瞬、店の中にいるものたちがカーテン越しに二人を見ていると思った。二人がそこを立ち去ったあとでドアが開き、背後に足音と人声が聞こえた。
殺人はそのすぐ近くで起こったのだった。フォントネイでは、どこへいくのにも決して遠くはなかったから、たいてい自動車を車庫から出す必要はなかった。一本の短い通りが右手にのびていて、これはレピュブリック通りを練兵場に結んでいた。三軒めか四軒めの家の前で、歩道に人だかりがあり、近くに救急車のランプがともっていた。数人のものが懐中電燈をさげていた。
一人の小男が人だかりからぬけ出した。フェロン警視だったが、彼はあやうくシャボよりメグレのほうに先に声をかけるというへまをしでかすところだった。
「すぐ、カフェ・ド・ラ・ポストから電話したんですよ。検事にも電話をかけておきました」
人間の形をしたものが歩道にななめに横たわっていた。片手を雨水の流れの中につっこんでいた。黒い短靴とズボンの裾の間から白い肌がのぞいていた。死んだゴビヤールは靴下をはいていなかった。帽子は一メートルはなれたところにころがっていた。警視が電燈を死人の顔にあて、そしてメグレが判事と同時にかがみこむと、フラッシュがひらめき、シャッターの音がし、それから赤毛の新聞記者の声が、こう言った。
「もう一枚とらせてください。メグレさん、もっと被害者に寄ってください」
警視はぶつぶつ言いながらあとずさりした。死体のそばに二、三人の人間がいて死体を見ていた。それから、かなり、つまり五、六メートルはなれて、第二の人だかりがあり、これは前のより人数が多く、ひそひそと話し合っていた。
シャボが四角ばっていると同時にうんざりしたようすで質問した。
「だれが発見したのかね?」
するとフェロンがすぐ近くにいる二、三人の人影の中の一つを示しながら答えた。
「ドクター・ヴェルヌーです」
その男もやはり、あの列車に乗っていた男の一族なのだろうか? 暗闇の中で判断できるかぎりでは、男はずっと若かった。たぶん三十五歳だろう? 大男で、筋肉質の細長い顔で、かけているめがねの上に雨滴がたまっていた。
シャボとその男が、たがいに毎日、それも日に数回も会っている人間らしく機械的な態度で握手した。
ドクターが小声で説明した。
「ぼくは広場の向こうにある友人の家へいくところでした。歩道の上に何か目にとまりました。かがんでみると、彼はすでに死んでいました。早いほうがいいと思って、カフェ・ド・ラ・ポストヘかけこんで、警視に電話したのです」
二、三のほかの顔が電燈の光線の中に次つぎにはいってきた。あいかわらず雨がけぶるように降っていて、それが人の顔を後光のようにつつんでいた。
「そこにいるのかジュシュー?」
握手。そこにいる人々は、たがいに同級生のように知り合いだった。
「わしはちょうどカフェにいた。みんなでブリッジをやっていたので、いっしょにやってきたんだ……」
判事がわきに寄っているメグレを思い出して、紹介した。
「友人のドクター・ジュシューだよ。こちらはメグレ警視……」
ジュシューが説明した。
「前の二つと同じ手口だよ。頭のてっぺんを強打されている。でも今度は、兇器が多少左へそれている。ゴビヤールも、身をかわすひまもなく、真正面からおそわれたんだ」
「酔っていたのか?」
「かがんで匂いをかいでみりゃ、すぐわかるよ。それに、こんな時間には、あんたも知ってるように……」
メグレは上の空で聞いていた。赤毛の新聞記者のロメルが、二度めの写真をとりおわって、メグレを人だかりから遠ざけようとした。メグレをびっくりさせたのは、かなり定義しにくいことだった。
二つのグループのうちの小さいほう、つまり死体のそばにかたまっているほうは、たがいに知り合いで、ある一定の社会に属しているようだった。それは、判事と、二人の医者と、それからおそらく、さきほどまで、ドクター・ジュシューとブリッジをしていて、すべてこの町の著名の士にちがいないものたちとだった。
もう一つ、前のほど光の中にはいっていないグループは、一様に沈黙を守っていなかった。口にこそ何も出さなかったが、ある種の敵意をみなぎらせていた。二、三、嘲笑するものさえあった。
くすんだ色の自動車がやってきて救急車のうしろにとまり、中から一人の男が出てきたが、メグレを認めて、はっと立ちどまった。
「警視《パトロン》、こんなところにいるんですか!」
警視に出会ってよろこんでいるようではなかった。それはシャビロンと言い、数年前からポワチエの憲兵隊付になっている機動班の刑事だった。
「ここへ派遣されたのですか?」
「偶然、やってきたんだ」
「これこそまさに、とんで火にいる、ですな?」
彼は冷やかし半分だった。そして、こう言った。
「おれは自分のおんぼろ車で町をパトロール中だった。それで、事件を知らされるのに時間をくっちまったわけだ。被害者《がいしゃ》はだれ?」
フェロン警視がシャビロンに説明した。
「ゴビヤールって男だ。週に一度フォントネイじゅうをまわって、兎の皮を集めているやつだよ。市の屠殺場で牛や羊の皮を買うのも彼だ。荷車と老いぼれ馬を持っていて、町の外にあるあばらやに住んでいる。ひまのときはたいてい、鶏の骨の髄だの腸だの、凝固した血だの、胸がむかつくような餌を使って、橋のそばで釣りをしている……」
シャビロンは釣り道楽にちがいなかった。
「魚を釣るのか?」
「ほとんど一人で釣っている。晩は、飲み屋から飲み屋を渡り歩いて、一軒一軒で赤ブドウ酒を半リットルあけて、ぐでんぐでんになっちまう」
「人と喧嘩したことは?」
「一度もない」
「結婚してるのか?」
「馬一頭とうじゃうじゃいる猫といっしょに、一人で暮らしている」
シャビロンがメグレのほうを向いた。
「警視《パトロン》、これ、どうお思いですか?」
「何にも思わない」
「殺しが一週間に三回。こんな町にしては悪かない回数ですね」
「どうしましょうか?」とフェロンが判事にたずねた。
「わしは検事を待つまでもないと思うね。検事は自宅にいないのか?」
「ええ。奥さんが電話でつかまえようとしていますが」
「死体を死体公示所《モルグ》へ移してもいいと思うな」
彼はドクター・ヴェルヌーのほうへ向いた。
「ほかには何も見ませんでしたか、何も聞きませんでしたか?」
「何にも。ぼくは両手をポケットにつっこんで急いで歩いていました。うっかり死骸につまずくところでしたよ」
「お父上はご在宅ですか?」
「今晩、ニオールから戻ってきました。ぼくが家を出てくるとき、夕食をたべていました」
メグレに理解できたかぎりでは、彼があのローカル線でいっしょに旅行した、ヴェルヌー・ド・クルソンの息子だった。
「きみたち、死体を運んでいいよ」
新聞記者はメグレをはなさなかった。
「今回は、あなたがこの事件をあつかうんでしょう?」
「もちろん、ちがうね」
「個人の資格ででもですか?」
「うん」
「興味ありませんか?」
「ないね」
「あなたも、気違いの犯行だとお思いですか?」
シャボとドクター・ヴェルヌーが、この言葉を聞きつけて、顔を見合わせた。あいかわらず一つの同じ親族に属し、もう言葉で言いあらわすことも必要でないくらい相手をよく知っているというようすだった。
これはあたりまえのことだった。どこにでもあることだった。にもかかわらず、メグレがこうした点で徒党という印象をかつて受けたことは、まれだった。このような小さな町では、言うまでもなく、数は少ないけれども名士という人間たちが何人もいるが、彼らはたとえ路上でしか会わないにしても、日に数回はたがいに顔を合わせているのだ。
それから、ほかの人間たち、たとえば、今少しはなれたところに集まっていて、どうやら不満があるらしいものたちがいるのだ。
メグレが何一つたずねないのに、シャビロン刑事が彼に説明した。
「私らは二人でやってきたんです。相棒のルヴラは今朝出かけなければなりませんでした。やつの女房がちょうど赤ん坊を産みそうなんで。私は、自分でできるだけのことをします。とにかく、あらゆる手をつくして事件にあたりましょう。でも、あの連中にしゃべらせようとしたら……」
彼があごで示したのは、第一のグループつまり名士たちのグループだった。彼の同情は明らかにもう一つのグループのものたちのほうに傾いていた。
「この町の警視も、できるだけのことをします。彼は巡査を四人しか自由に使えません。巡査たちは一日じゅう働きづめでした。フェロン、現在、パトロールしているのは何人かね?」
「三人だ」
彼の言うところを証明するかのように、制服を着て自転車に乗った男が歩道のはしにとまって、肩の雨をふり落とした。
「異状ないか?」
「出会った五、六人の人間の身元を確かめた。そのリストをあげるよ。みんな、外にいる確かな理由を持っていた」
「ちょっとうちに寄らないかね?」とシャボがメグレにたずねた。
メグレはためらった。もしそうするとしたら、それは身体をあたためるために何か飲みたかったからだし、ホテルでもう飲み物の心配をすることもなくなるという心づもりからだった。
「ぼくもごいっしょします」とドクター・ヴェルヌーが言った。「おじゃまじゃないでしょうね?」
「ちっとも」
今度は、彼は風を背に受けて、しゃべることができた。救急車がゴビヤールの死体をのせて去り、その赤いランプがヴィエト広場のほうに見えていた。
「まだちゃんと紹介してなかったね。ヴェルヌー君は、きみが汽車の中で出会ったユベール・ヴェルヌーの息子だ。医学を勉強したが、臨床のほうじゃなくて、もっぱら研究のほうに興味を持っているんだよ」
「研究だなんて!……」とドクター・ヴェルヌーがあいまいに抗議した。
「サン=タンヌで二年間インターンをやって、精神病医になろうといっしょうけんめいだ。週に二、三度、ニオールの精神病院へいく」
「あなたは今度の三つの犯罪が気違いの仕業だとお思いですか?」とメグレがむしろていねいな態度でたずねた。
今までメグレについて言われてきたことは、メグレに対してヴェルヌーによい感じをいだかせなかった。メグレは素人の言うことをほとんどとりあげなかったからだ。
「そうにちがいありません。まず確実でしょう」
「あなたはフォントネイで気違いを何人もご存じですか?」
「気違いはどこにでもいますが、たいてい、発作を起こしたときしか見つかりません」
「私は女性ではないんじゃないかと思います」
「なぜですか?」
「毎度、打撃がくわえられた力を見ればわかります。三つの場合とも、一発でしとめるとすれば、あのやり方では、殺すのは容易じゃないはずです」
「それなら、男性にまけないくらいたくましい女性はいくらもいます。それから、気違いの仕業である場合には……」
三人はもうついていた。
「もう言うことはないかい、ヴェルヌー?」
「今のところは」
「明日、会えるかな?」
「大丈夫でしょう」
シャボはポケットの中で鍵をさぐった。廊下で、メグレとシャボは全身をふるわせて服にたまった雨水をはらい落とした。すると、たちまち、タイルの床に水たまりがいくつもできた。母親と女中が、通りに面していて、燈りのとてもとぼしい小さな客間で待っていた。
「もう寝にいってもいいですよ、ママ。待機中の警官にパトロールさせるよう憲兵隊に要請するだけで、今晩はもうすることはありませんから」
母親がやっと二階へあがる決心をした。
「ジュール、あなたがうちに泊まらないなんて、わたしはまったく侮辱されたみたいですよ!」
「ひょっとしたらの話ですが、もしもう一日余計に滞在するなら、そのときはきっとお言葉に甘えますよ」
シャボとメグレは、また事務室のよどんだ空気を吸った。そこにはブランデーの壜があいかわらず元の場所にあった。メグレは自分で酒をつぐと、グラス片手に火のそばにいき、背中を火に向けて立った。
シャボは落ちつかなくて、そのために自分を家につれてきたのだ、と彼は感じた。まず、判事は憲兵隊に電話した。
「あ、警部かね? もう寝てたのか? こんな時間におじゃまして、ほんとうに悪いね……」
文字盤が金褐色で、その上にやっと針が見える柱時計が十一時半を示していた。
「まただよ、うん、ゴビヤールだ……今度は通りで……正面からね、そう……もう死体公示所《モルグ》へ運んでしまった……今ごろ、ジュシューが屍体解剖をしているにちがいないが、解剖しても別に何かわかるというものでもないがね……今、あんたのほうに人手はあるかね? ……町をパトロールしてもらったらありがたいんだがね。なに、今夜、二、三時間だけやれば、あとはそれほどする必要はないよ。住民を安心させるためにね……わかったかね? そう……わしもさっき、そう思ったよ……ありがとう、警部」
受話器をかけながら、シャボがつぶやいた。
「いいやつだ、ソミュールからまわされてきたんだが……」
彼はこの自分の言葉が何を意味するか気がついたにちがいない――やっぱり仲間意識の問題じゃないか!――で、少々顔を赤らめた。
「ほらね! おれは自分のできることをする。きみの目には子供っぽく映るだろうが。おそらく、木の鉄砲で戦争してるような印象をあたえるだろう。でも、ここでは、きみがパリでずっと慣れてきているような組織は持てないんだ。たとえば、指紋をとるにしても、おれは毎度ポワチエから専門家にきてもらわなければならん。一事が万事そうなんだ。地方警察は、ほんものの犯罪よりも細かい軽犯罪に慣れてしまっている。ポワチエの刑事連中ときたら、フォントネイの人間をよく知らないんだ……」
ちょっと沈黙してから、彼はまた言葉をつづけた。
「三年して退職するとき、こんな事件を背負いこまなけりゃよかったと思うことだろうよ。要するに、おれたちはほとんど年が同じだ。きみだって、三年したら……」
「おれだって同じさ」
「何か計画でもあるのかい?」
「すでに、ロワール河のそばの田舎に小さな家を一軒買ってある」
「退屈するだろうよ」
「きみはここで退屈してるのか?」
「きみとは事情がちがうさ。おれはこの町で生まれた。おやじもここで生まれた。おれは町の連中をみんな知っている」
「住民は満足していないようだな」
「きたばかりなのにもうそれがわかったのか?その通りだよ。避けられないことだと思うよ。普通の犯罪なら見すごせる、とくに、あの最初の犯罪は」
「どうして?」
「殺されたのがロベール・ド・クルソンだからだ」
「彼は町で好かれてなかったのか?」
判事はすぐには答えなかった。まず言葉をさがしているようすだった。
「実際には、町の連中は、外で見かけでもしないかぎり、彼のことをほとんど知らなかった」
「結婚してたのか? 子供は?」
「独身の老人だ。変わりものだが、いい人間だった。もし殺されたのが彼だけだったら、住民はかなり冷静でいられたろう。ちょっとした動揺は常に犯罪を伴うものだ。しかし、引きつづいて、ジボンばあさんが殺され、今度またゴビヤールが殺された。明日はまた……」
「それはもうすでに始まっている」
「何だって?」
「町の連中だと思うが、さっき少しはなれたところにいたグループと、カフェ・ド・ラ・ポストから出てきた連中とは、おたがいに敵意を持っているように見えたよ」
「敵意とまではいかない。でも……」
「この町はひどく左がかっているのか?」
「まあね。全部が全部というわけじゃないが」
「町の連中はヴェルヌー家の人たちが好きじゃないね?」
「だれかに言われたのか?」
時間を稼ぐために、シャボは質問した。
「すわったらどうだい? 酒をもう一杯どうかね? きみに何とか説明してやろう、かんたんにはいかないが。きみはヴァンデ県のことは知っているだろうが、世評以上のことは知るまい。長い間、ヴァンデ県の人間たちのことを語らせてきたのは、城館《シャトー》とか、伯爵領とか、子爵領とかの持ち主、名前の中に貴族のしるしの『ド』を持っている連中で、彼らは県人たちの中で生きながら、そこに一つの閉ざされた社会を形成した。その連中は、もうほとんど没落しながら、まだ存在はしているものの、まるでものの数にははいらない。以前のようにりっぱな体面を持ちつづけているものは一人もいない。で、ある種の憐憫の目で見られている。わかるかね?」
「どこの地方へいっても、そういうふうだよ」
「現在、彼らの昔の地位に座っているのは、ほかの連中なのだ」
「ヴェルヌーか?」
「きみは彼に会ってるんだから、彼の父親が何をやってたか、わかっただろ」
「いや、ちっともわからんね! 何だって言うんだ?」
「家畜の商人さ。おじいさんは農場の下男だった。父親のヴェルヌーは、この地方で家畜を買い、群れごと街道を歩かせて、パリヘ運んでいた。それで大金持になった。野卑で、いつも半分酔っぱらっているような男だった。おまけにアルコール中毒性の精神病で死んだのだ。息子は……」
「ユベールか? 汽車でいっしょだった?」
「そうだ。彼は中学へやられた。確か大学へも一年いったと思う。晩年の数年間に、父親は家畜と同時に小作地や土地を買いはじめ、これがユベールがずっとつづけてきた商売だ」
「つまり、ブローカーだ」
「そうだ。駅のそばに事務所を持っている、石作りの大きな建物で、彼は結婚するまであそこに住んでいた」
「彼は城館《シャトー》の娘を嫁にもらったのか?」
「どうやらね。でも、まったくそうだとも言えん。クルソン家の娘だったんだ。どうだ、おもしろいだろう?」
「実におもしろい!」
「これがこの町についての正確な観念をきみにあたえるだろう。クルソン家は、実際はクルソン=ラグランジュ家と呼ばれていた。もともとはラグランジュ家にすぎなかったのだが、クルソンの城館《シャトー》を買ったときに、クルソンという名前をくっつけたのだ。こうして、三代か四代つづいた。クルソン家の最初のご先祖が何を売っていたかは、おれにはもうわからない。おそらく、やはり家畜か屑鉄だったのだろう。ところが、この商売も、ユベール・ヴェルヌーが登場したころに忘れられてしまった。子供も孫ももう働かなくなった。ロベール・ド・クルソン、つまり殺された人物だが、彼は貴族社会に認められていて、紋章に関してはこの地方随一の博識だった。紋章について二、三著作までしている。彼にはイザベルとリュシルという二人の妹があった。イザベルがヴェルヌーと結婚し、こうしてヴェルヌーはついにヴェルヌー・ド・クルソンと称することになった。おれの言うことがわかるかね?」
「たいしてむずかしくはない! その結婚のころ、クルソン家はすでに零落していて一文なしだったんだろう?」
「まあそんなところだ。メルヴァンの森に抵当にはいっている城館《シャトー》が一つと、ラブレー通りに邸が残っていた。この邸は、この町でいちばん美しい家で、町では何度も、この邸を史蹟にしようとしたもんだ。きみもそのうちに見るさ」
「ユベール・ヴェルヌーはあいかわらずブローカーをしているのか?」
「彼は大きな荷物をいくつもかかえている。まず細君の姉のエミリーが夫婦といっしょに暮らしている。きみがさっき会った息子のアランは、医者だが臨床はいやだと言って、一つももうからない研究に血道をあげている」
「結婚しているのか?」
「カドゥイユの令嬢と結婚した。これは正真正銘の貴族の娘で、もう子供が三人いる。いちばん下の息子は生まれて八カ月だ」
「みんな父親といっしょに暮らしているのか?」
「家は十分に大きい。君もそのうちわかるさ。家族はこれで全部じゃない。アランのほかに、ユベールには娘が一人いる。アデールと言って、ロワイヤンでヴァカンスをすごしてるうちに知り合ったペイエとかいう男と結婚した。この男が何をして食ってるかは知らないが、この夫婦の食いぶちを援助しているのはユベール・ヴェルヌーだということはわかっている。ユベールはよくパリで暮らすことがある。ときどき、連中が数日か数週間姿をあらわすことがあるが、それは彼らのふところがすっからかんだからだと思う。どうだ、わかるかね?」
「何をわかれと言うんだ?」
シャボが気むずかしげな笑いをもらしたが、それが一瞬メグレに昔の仲間を思い出させた。
「なるほど。おれはきみがずっとこの町にいるように話している。でもきみはヴェルヌーを見たろ。彼はこのへんの田舎紳士のどれとくらべたって、ずっと田舎紳士らしい。彼の細君とその細君の姉はどうかと言うと、彼女らは一般の町民たちにとって憎い存在になろうとわざと立ちまわっているように見える。こういうことすべてが氏族を形作っているのだ」
「で、その氏族にはごく少数の人間しか訪ねていかない」
シャボがその晩二度めに顔を赤らめた。
「不幸にも」と彼はつぶやいた。「罪人のようにわずかな数の人間しかね」
「したがって、ヴェルヌー家の人々、クルソン家の人々、そして彼らの友人たちは、町の中では、ある別の世界となっている」
「きみは見ぬいちまったな。職掌柄、おれは彼らに会わなければならない。そして、ほんとうのところ、彼らは見かけほどいやな人間じゃない。たとえば、ユベール・ヴェルヌーは、誓ってもいいが、実際にはいろいろな気苦労に苦しめられている男だ。かつてはたいへんな金持だった。が今では昔ほどじゃない。おれは彼がまだ金持かどうか疑ってさえいるんだ。だって、大部分の小作人たちが地主になっちまってからは、土地の商売も昔ほどじゃなくなってしまい、ユベールはいろんな重荷におしつぶされ、なんとか持ってるものだけでも維持しなければならないのだ。アランという息子は、おれはよく知っているが、ある固定観念につきまとわれている男だ」
「どんな?」
「これはきみも知っておいたほうがいい。さっき、路上で、なぜ彼とおれが落ちつかない視線をかわし合ったかも、きみにはわかるだろう。ユベール・ヴェルヌーの父親はアルコール中毒性の精神病で死んだと言ったろう。母方のほう、つまりクルソン家のほうも、血筋はそんなによくない。クルソン老人は、みんなは秘密にしているが、かなり謎めいた状況で自殺した。ユベールにはバジルという兄弟があって、この男についてはだれもぜったいにしゃべらないが、実は十七の年に自殺したんだ。どんなに遠くさかのぼっても、あの家系には気違いか異常者が見つかるようだ」
メグレは、パイプをものうげにぷかぷかやり、ときどき唇をグラスにつけながら聞いていた。
「こういうわけで、アランは医学を勉強して、インターンとしてサン=タンヌにはいったんだ。大部分の医者が自分がかかるおそれのある病気を専攻すると言われるが、もっともだね。アランは自分が気違いの家系に属しているという観念にとりつかれている。彼に言わせると、叔母のリュシルは半分気違いだそうだ。彼がわしにそう言ったわけではないが、彼は父親と母親ばかりか、自分の子供たちまでじっと観察している、と確信するね」
「そのことは、この地方で知られているのか?」
「それを口にするものもいる。小さな町では、まるきりみんなとちがう暮らしかたをしている人間のことは、常にたんとしゃべるし、猜疑の目で見ながらしゃべる」
「第一の殺人事件のあとで、とくに、そのことがみんなの口にのぼったかね?」
シャボはちょっとためらっただけで、すぐ首でそうだと言った。
「なぜだろう?」
「ユベール・ヴェルヌーとその義理の兄弟のクルソンとがそりの合わないことを、みんなが知っていたか、あるいは知っていると思っていたからさ。それにたぶん、この二人がたがいに向かい合って住んでいるからだろう」
「二人は顔を合わせていたのか?」
シャボが口のはしにちょっと笑いを見せた。
「きみはおれたちのことを考えようとしているのか。パリでは、そんな状況が存在するとは思えないがね」
予審判事は、自分が一年まるまるそこで暮らしているかぎり、多少とも自分のものである環境を恥ずかしく思っていた。
「前にも言ったが、クルソン家は、イザベルがユベール・ヴェルヌーと結婚したときに没落した。義理の兄弟のロベールに扶助料を出すようにしたのはユベールだ。ところが、ロベールはユベールをぜったいにゆるさなかった。ユベールのことを口にするときには、皮肉たっぷりに『百万長者のわしの義理の兄弟が』とか『お大尽にたのみにいこう』とか言ったものだ。
彼はラブレー通りのあの大きな家には足を踏みいれない。この家の中の人のいききは、ロベールの家の窓からすっかり見通せるのだ。ロベールが住んでいるのは、この大きな家の向かいにある小さいけれども品のある家で、ここへは毎朝家政婦が通ってくる。ロベールは自分の長靴を磨き、食事も自分で作り、土地を見まわる城主のようななりをして買物をするところを見せびらかし、ねぎやアスパラガスの束をまるでトロフィーのようにかついでいるようだった。そうやってユベールを怒らしていると思っていたにちがいない」
「で、ユベールは怒ったのか?」
「知らない。怒ったかも知れん。ユベールはだんだんロベールと話をしなくなった。数回、二人が道で出会って、優しいがとげを含んだ言葉をかけ合うのが見かけられた。これは作り話じゃないが、ロベール・ド・クルソンは、向かいの家にこちらの一日じゅうのようすを見せようとして、自分の家の窓を決して閉めなかったという。また、彼が相手の家族に舌を出して見せたこともあった、と言うものもいる。
それで、ヴェルヌーはロベールをなきものにした、あるいは腹を立てたときに彼をなぐり殺したのだ、という主張になる」
「みんなはそう主張したのか?」
「うん」
「きみもそう思っているのか?」
「職業上、おれは先験的にいかなる仮説もしりぞける」
メグレはこの大げさな言葉に笑いをこらえることができなかった。
「ヴェルヌーを訊問したのか?」
「わしの事務所には招喚しなかった、きみの言わんとするところが、そういうものであればね。彼のような男を疑うには、やはり十分に資料がなかったのだ」
彼は、『彼のような男』と言ったのだった。
そして、こうしてシャボが本音をはき、自分を多少ともその氏族の側に立っているものとして認めたことが、メグレにはわかった。その晩、メグレの訪問はシャボにとっては苦痛になったにちがいなかった。ましてメグレにとっては、今はもうこの町から出ていきたいとも思わなかったが、シャボを訪問したことは喜びではなくなっていた。
「彼には毎朝のように道で出会った。それでそれとなくいろいろたずねてみたんだ」
「彼は何と言った?」
「あの晩は自分の部屋から出なかったそうだ」
「殺人はいつ行なわれたんだい?」
「一回めの殺人か? 今日のとほとんど同じで、夜の十時ごろだ」
「そのときヴェルヌー家の連中は何をしてた?」
「みんなが客間に集まる土曜日のブリッジがないときは、めいめい、ほかのもののことは気にしないで、自分勝手にすごす」
「ヴェルヌーは細君と同じ部屋で寝ないのか?」
「そういうことは平民のやることだと思ってるのだろう。めいめいがちがった階に、自分の部屋を持っている。イザベルは二階に、ユベールは中庭に面している一階の翼棟にいる。アランの家族は三階を占領し、叔母のリュシルは四階の二室で、これは屋根裏部屋だ。娘とその亭主がいるときは……」
「その二人は、今、そこにいるのか?」
「いや、いない。五、六日するとくるはずだ」
「召使いは何人いる?」
「下男が一人で、これはあの家に二、三十年来いる。そのほかにかなり若い女中が二人だ」
「そういう連中はどこで寝るんだ?」
「一階の別の翼棟だ。君もあの家を見るとわかるが、ほとんど城館《シャトー》と言っていい家だ」
「裏に出入口はあるのか?」
「中庭の塀に戸口が一つついていて、これは袋小路に向かって開く」
「人に見られないで出はいりできるようにしてあるんだな!」
「たぶんね」
「きみはたしかめなかったのか?」
シャボは苦しみにさいなまれていた。そして自分のミスに気がついたので、友に対してほとんど怒りに似た気持をいだきながら、声をはりあげた。
「きみはある種の住民たちがここで言うように言う。証拠一つ、ちょっとした手がかりさえないのに、おれがあそこの召使いたちを訊問しようなんて気になっていたら、ユベール・ヴェルヌーかその息子が殺《や》ったんだ、と町全体が信じこんじまっただろう」
「息子だって?」
「彼もそう思われるさ、あたりまえさ! だって、彼が働かないで精神医学に血道をあげている以上、彼も気違いだとみなすものがいるだろう。彼はこの町にある二軒のカフェには足をいれないし、玉突きもしなければブロット〔オランダではじまったトランプの一種〕もしない、女のしりも追いかけない。その彼がたまたま、路上でとつぜん立ちどまり、あのめがねの玉で大きくなった目でだれかを見るんだ。みんなが彼をひどくきらうのは……」
「きみはヴェルヌー家の連中をかばうのか?」
「いいや。おれは冷静でいたんだが、こういう郡部では、それも常に容易なことじゃない。おれはつとめて公正であろうとしている。おれだって、最初の殺人がおそらく家族の内輪もめから起こったんだと考えた。この疑問をあらゆる角度から検討してみた。が、盗難もなく、ロベール・ド・クルソンが身を守ろうとしなかったという事実に、おれは混乱しちまった。おれはおそらく何らかの処置をとっていただろう、もし……」
「ちょっと待て。ユベール・ヴェルヌーとその息子を尾行するよう、警察に要請しなかったのか?」
「パリでなら、それも実行できるだろう。ここではだめだ。町全体が四人の警官をよく知っているのだ。ポワチエの刑事だって、自動車から降りる前に見破られちまったんだから! それに、道に、一度に十人以上の人間がいるなんてことはめずらしいんだ。こんな状況でも、まだきみは怪しまれずにだれかのあとをつけたいと言うのか?」
彼はとつぜん静かになった。
「失礼した。こんなに大きな声を出したら、母を起こしちまう。これも、きみにおれの立場をよくわかってほしいからだ。反証が出てこないかぎり、ヴェルヌー家の連中は潔白だ。彼らは潔白だと、おれが断言するよ。最初のより二日後に起こった第二の殺人事件には、ほとんど証拠があると言っていい。ユベール・ヴェルヌーは義理の兄弟を殺すとか、腹立ちまぎれになぐりたおすとかいう気持になっていたかも知れない。が、おそらくは見も知らないやもめのジボンばあさんを殺すために、ロージュ通りのはずれまでいく理由は一つもなかったよ」
「そのばあさんてのはだれだね?」
「昔、産婆をしていた女で、亭主はずっと以前死んだが、巡査をしていた。彼女は半身不随で、三部屋の家で一人で暮らしていた。
ジボンばあさんが殺されたばかりでなく、今晩はまたゴビヤールが殺された。ヴェルヌー家の連中は彼をよく知っている。フォントネイの人間がだれでも彼を知っているようにね。フランスのどの町へいっても、少なくとも、彼のように、一種の有名人になっている酔っぱらいはいるものだ。
もしきみが、この種の好人物を殺す理由を一つでもおれに指摘できたら……」
「彼が何かを目撃したと仮定したら?」
「じゃあ、もう家から一歩も出なかったジボンばあさんは? 彼女も何か見たのでは、というのか? 夜の十時に、ラブレー通りへやってきて、窓ごしに殺人を目撃したとでも? そんなことがあるわけがない、おれだって犯罪捜査の方法を知っている。おれはボルドーの警察会議には出席しなかったし、おそらく最近の科学上の発見についてはおくれをとっているだろう。でも、おれは自分のやり方をよく知り、それを良心的に実行していると思う。三人の犠牲者は、それぞれ、まるでちがう社会に属していて、相互の関係は一つもない。三人とも同じ手口で殺され、しかも傷口から判断して同じ兇器で殺された、と断定できる。さらに、三人とも正面から襲われていて、これで彼らが警戒していなかったことが想像できる。もし犯人が気違いなら、話しながらさかんに身ぶりをする気違いとか、半分いきり立っている気違いではない。そうだったら、被害者たちはいずれも身をよけていただろう。こういうわけで、犯人はわしに言わせれば覚醒期間にある気違いなのだ。こういう気違いは、一定の行動系統に従って行動し、非常にぬけめなく用心をはらうものだ」
「アラン・ヴェルヌーは、今晩、はげしい雨の中で、町のどこにいたかを、十分に説明しなかったな」
「練兵場の向こうにある友人に会いにいったと言っていた」
「その友人の名前を言っていない」
「言う必要がないからだ。わしは彼がよくジョルジュ・ヴァサルという男を訪ねるのを知っている。この男は独身で、アランの中学校の同窓だ。こんな細かいことを彼に言われなくても、おれはちっともおどろかなかったろう」
「なぜ?」
「きわめて個人的な理由から、彼は今度の事件におれよりも心を奪われている。彼が自分の父親を疑っているとまでは言わないが、それに近いことを思っていると思う。数週間前、彼は父親のことと家系の精神的欠陥についておれにしゃべったことがある」
「いきなり、そんなことを言ったのか?」
「いや、ラ・ロッシュ=シュール=ヨンから戻ってきて、彼が研究したあるケースについておれに話したのだ。それは六十すぎのある男の話で、彼はその年になるまでは正常にふるまっていたが、ある日、それまでずっと娘に約束してきた嫁入りの持参金を用意しなければならなくなったとき、とつぜん発狂してしまったのだ。が、だれもそのことをすぐには気づかなかったというのだ」
「言葉をかえて言えば、アラン・ヴェルヌーも殺人を求めて夜フォントネイの町をうろついたかも知れない、というわけか?」
予審判事は一瞬、また新たな激昂にとらわれた。
「町をパトロールする律義な警官とか、きみやおれなどより、彼のほうがずっと、道で気違いを識別する能力を持っていると思うが、どうかね?」
メグレは答えなかった。
もう真夜中をすぎていた。
「きみは、やっぱりうちには泊まりたくないかい?」
「ホテルに荷物がおいてある」
「じゃあ、明日の朝、会えるかね?」
「いいとも」
「明日、おれは裁判所へいく。裁判所のある場所を知ってるかい?」
「ラブレー通りだろ?」
「ヴェルヌー家より少しあがったところだ。まず刑務所の鉄柵が見える。それから、ぱっとしない建物がある。おれの部屋は廊下の奥の、検事室の隣りだ」
「じゃあ、おやすみ」
「何もおかまいしなかったな」
「いや、とんでもない!」
「おれの気持を察してくれ。おれにとっては、町を敵にまわすような種類の事件なんだ」
「ちがいない!」
「おれをからかっているのかい?」
「そんなことはぜったいにないよ」
ほんとうだった。メグレはむしろ悲しかった、過去の一部が立ち去っていくのを見るたびに悲しくなるように。廊下で、水びたしになっている外套を着ながら、彼は家の匂いをかいだ。その匂いは彼にはいつも快く、しかも気がぬけているように思えたものだった。
シャボは頭髪がほとんどぬけて、ある種の鳥のようにとがった頭をあらわに見せていた。
「送っていこう……」
ほんとうは送りたくなかったのだ。礼儀上、そう言ったまでだった。
「いや、かまわないでくれよ!」
それからメグレはあまりおもしろくもない冗談をくっつけた。それは何か言ってやろう、最後に陽気な調子で言葉をかけてやろうとしたからだった。
「おれは泳げるからな」
それから、外套の襟を立てながら、吹き降りの中へ踏みこんだ。ジュリアン・シャボは、長方形の黄色っぽい光に包まれて、まだしばらく敷居の上に立っていた。それからドアが閉まり、そしてメグレは一瞬、町の通りでは自分よりほかにはもうだれもいないんだ、という気がした。
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第三章 眠らなかった教師
町の光景は、朝の光の中で、夜よりも色あせていた。雨が家々の正面にうす黒いあとをつけてその色を醜くして、何もかも汚していたからだった。大きな水滴がまだ樋や電線や、ときには雨がたれる空から落ちていた。そのようすはあいかわらず悲壮で、新たな発作に備えて英気をやしなっているみたいだった。
メグレは、おそく起きたが、朝食をたべに階下へ降りる気がしなかった。不機嫌で、食欲がなく、ただブラック・コーヒーを二、三杯飲みたいだけだった。シャボのところでブランデーを飲んだのに、ボルドーでしたたか飲んだ甘ったるい白ブドウ酒の後味がまだ口の中でしているような気がしていた。
メグレは枕元の小さなスイッチをおした。それに応じた黒い服に白いエプロンをかけたルーム・メイドが、彼をあまりにじろじろとながめたので、彼は自分の態度がけわしいのだなと思いこんだほどだった。
「ほんとに暖かいクロワッサンがほしくないんですか? お客さんのようなかたは朝たべなきゃだめですよ」
「コーヒーだけでいいよ。大きいポットにいれたのだ」
ルーム・メイドは、メグレが昨夜ラジエーターの上で乾かしておいた服に気がついて、それをつかんだ。
「どうする気だ?」
「アイロンをおかけしますよ」
「いや、結構、いらないよ」
それでもルーム・メイドは服を持っていってしまった!
その容貌から判断すると、ふだん彼女はどちらかというと強情な女だと言えそうだった。
メグレが顔を洗っている間二度も、彼女は彼のじゃまをしにきた。一度は石鹸があるかないか確かめに、もう一度は彼がたのみもしないコーヒーのポットのお代りを持ってきて。それから、彼女は乾かした上にアイロンをかけた服を持ってきた。彼女はやせていて、胸はぺちゃんこで、不健康そうなようすをしていたが、鉄のようにがんじょうにちがいなかった。
これは階下《した》で宿帳にのっているおれの名前を見たのだ、ゴシップに夢中になる女なのだ、とメグレは思った。
朝の九時半だった。メグレは、自分でもえたいの知れないこと、漠然と運命のなせるわざだと思っていることに反抗して、重い足をはこんだ。
赤い絨毯が敷いてある階段を降りると、労働者風の男が逆に階段をのぼりかけながら、メグレにうやうやしく挨拶した。
「おはようございます、メグレ警視」
メグレはロビーに足をふみいれながら、さとった。ロビーの小型円卓の上に『ウェス=テクレール』紙がひろげてあり、一面に彼の写真がのっていたのだ。
それはゴビヤールの死体にかがみこんだときに撮られた写真だった。二つの見出しが三段ぬきで次のように報じていた。
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メグレ警視、フォントネイの殺人事件を担当
第三の犠牲者は兎皮商人
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彼が記事に目を通すひまもなく、ホテルの支配人がルーム・メイドと同じようにいそいそと近づいてきた。
「よくやすまれましたか。十七号室のお客がとてもうるさくなかったでしょうか?」
「十七号室のお客って?」
「商業関係のかたですが、昨夜はずいぶん飲んで、うるさかったんです。とうとう、あなたさまをお起こししないように、あのお客の部屋を変えました」
メグレは何の物音も聞いていなかった。
「ときに、『ウェス・テクレール』の特派員のロメルが、今朝、あなたに会いに寄りましたですよ。まだ寝ていらっしゃると言うと、急いで会うことはない、いずれ裁判所で会うから、と言っていました。それから、あなた宛に手紙が一通きております」
雑貨店で六色で一組にして売っているような封筒だった。その封筒は緑色がかっていた。それを開きかけたとき、メグレは数人の人間が、樽に植えてあるシュロの間の窓戸に顔をくっつけているのに気がついた。手紙には次のように書いてあった。
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旦那衆の言うことに気をとめなさんな
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歩道で待っていた連中(中に買物にいく身なりをした女が二人いたが)はメグレに道をあけたが、彼をながめる態度にはどこか信頼しているような親しみのこもったところがあった。それほど好奇心を持っているのでもなく、メグレが有名だからというわけでもなかったが、どこかこう彼をあてにしているというふうだった。女のうちの一人が、あえてメグレには近づこうとはしないで、こう言った。
「きっと犯人を見つけてくださいよ、メグレ警視さん!」
それから、配達人の風体をした若い男が、反対側の歩道でメグレと歩調を合わせていて、彼をよく見ようとしていた。
家々の門口では、女たちが三度目の殺人事件について議論し合っていたが、話を中断してメグレの姿を目で追った。カフェ・ド・ラ・ポストから客が一かたまり出てきたが、彼らの目つきにもメグレは自分に対する共感の色を読みとった。どうやらみんなは彼をはげましたがっているようだった。
シャボ判事の家の前を通りかかると、ローズが二階の窓を雑巾でみがいていた。彼は足をとめないで、ヴィエト広場を横切って、ラブレー通りをのぼった。この通りの左側に、正面の切妻壁に紋章が描いてある大きな邸が建っていた。ヴェルヌー家の家にちがいなかった。閉まった窓の中には人の動く気配は一つもなかった。この建物の向かい側に小さな家が一つあった。この家もやはり古く、鎧戸も閉まっていたが、これがたぶん、ロベール・ド・クルソンがその孤独の生涯を終えた家だろう。
ときどき、雨を含んだ疾風が吹いた。曇りガラスのような色の空に雲が低く黒々と流れ、その総《ふさ》飾りから雨滴が落ちてきた。刑務所の鉄柵は雨にぬれてなおのこと黒く見えた。数人の人間が裁判所の前にたむろしていた。裁判所は実際ヴェルヌー家の邸より小さくて魅《ひ》きつけるところが少しもなかったが、それでも柱廊と数段の正面階段を持っていた。
ロメルが、あいかわらず二台の写真機を肩にかけて、まっさきにメグレのところへとんできたが、その色つやのよい顔にも、非常に明るい青い目にも、後悔の跡はなかった。
「あなたの印象を、パリのお仲間に知らせる前に私に話してくれますか?」
そして、メグレが顔をしかめて、ロメルのポケットからはみ出ている新聞を示すと、ロメルはにやっと笑った。
「怒ってるんですか?」
「私はきみに言ったはずだ……」
「ねえ、警視、私はブン屋としてすべきことをしなきゃなりません。あなたが最後には今度の事件を担当されることは、ちゃんとわかってました。ただ、予定より五、六時間早く……」
「この次は、予定より早くするな」
「これからシャボ判事に会いにいくんですか?」
人だかりの中に、すでにパリからきた新聞記者が二、三人いて、追い払うのに苦労した。それに、今日一日は裁判所の前で見張ってすごそうと決めたらしい野次馬たちもいた。
廊下は暗かった。ロメルが先に立って案内して、メグレに道を教えた。
「こちらです。今度のことは、パリの新聞なんかよりわれわれの新聞にとって、ずっと重大ですからね! そこを理解してくださるべきですよ! 判事はもう八時から事務所でがんばっています。検事もきています。昨夜、みんながあちこち捜している間、検事はラ・ロシェルにいました。ラ・ロシェルから自動車ですっとんで帰ってきたんです。警視は検事を知っていますか?」
戸をたたくと、はいれと声がかかったので、メグレはドアをあけて、赤毛の新聞記者を廊下に残したままドアをしめた。
ジュリアン・シャボは一人ではなかった。ドクター・アラン・ヴェルヌーがシャボと向かい合って肘掛椅子に座っていて、立ちあがって警視に挨拶した。
「よく眠れたかい?」と判事がたずねた。
「まあまあだ」
「昨日は何の愛想もなくて。アラン・ヴェルヌーはもう知ってるだろう。通りがかりにここへ寄ったんだ」
それはうそだった。メグレは、この精神病医が待っていたのは自分だと、それにおそらく、こうして顔を合わせるようにしたのも医師と判事の計画だったと、うけ合うことができただろう。
アランは外套をぬいでいた。粗い毛織の三つぞろいを着ていたが、アイロンが必要なくらい形がくずれていた。ネクタイもゆるんでいた。上着の下から黄色いスウェーターがのぞいていた。靴も磨いてなかった。こんな格好をしていても、彼はやはり、あの身なりに細心の気を配っている父親と同じ階級に属しているのだった。
なぜ、このことがメグレをはっとさせたのだろうか? おやじのほうは身なりに注意を払って、気どっている。息子のほうは反対に、銀行員か中学校の教師か行商人でもしかねないような投げやりな格好が好きなのだ。しかし、こんな布地の三つぞろいは、パリか、いやおそらくボルドーの特別仕立ての洋服屋でしか売っていないはずだった。
一瞬、かなりしらけた沈黙があった。メグレは、二人の相手の気をほぐしてやろうともしないで、煖炉のとぼしい火の前へいって座った。煖炉の上には、オルフェーヴル河岸〔パリ警視庁があるところ〕のメグレの部屋にあるのと同じ黒大理石の時計がおいてあった。当局は昔、これと同じ時計を何百何千と注文したにちがいない。やっぱりこの時計も、メグレのところにあるのとまったく同じように十二分遅れているのだろうか?
「アランがおもしろいことを言ってたところだ」と、とうとうシャボが、ふつう予審判事たちがよくやるようなポーズで片手をあごにあてて、ぼそぼそと言った。「二人で気違いの犯罪について話し合っていたんだ……」
ヴェルヌーの息子が口をはさんだ。
「今度の三つの犯罪がみんな一人の気違いの仕業だとは、私は断定しませんでした。私はただ、もし気違いの仕業だったとしたら、と言っただけで……」
「同じことじゃないか」
「正確にはちがいますよ」
「すべてがわれわれは気違いを相手にしていると指摘しているように見える、と言ったのはわしだと仮定しよう」
それから、メグレのほうを向いて、
「きみとは、このことについて昨晩話し合ったな。三つのケースとも、動機がない……手口が同じだ……」
次に、ヴェルヌーに向かって、
「じゃあ、さっきわしに言ったことを警視にも話してくれんかね?」
「ぼくは専門家じゃありません。こういうことでは、一個のアマチュアにすぎません。一般的な考えを発展させただけのことです。気違いはいつも気違いとして、つまり思考に論理もなければ脈絡もなく行動すると、たいていのものが想像します。ところが、現実には、往々にしてその反対なんです。気違いも彼らだけの論理を持っています。むずかしいのは、その論理を発見することです」
メグレは、何も言わずに、多少朝の空のようなその青緑色の大きな目でヴェルヌーをながめていた。彼は、どこかへ寄って一杯ひっかけてきたら、食欲が回復していたかも知れない、と後悔していた。
彼のパイプの煙が漂いはじめ、薪の小さな炎が踊っているその小さな事務所が、彼にはやっと現実と思われるか思われないくらいで、彼をちらちらと横目で見ながら気違いについて議論し合っている二人の男も、彼の目には何だか蝋人形のように映っていた。二人の男は、もはや生命《いのち》あるものの世界にはいなかった。たがいにすでに百も承知の身ぶりをし、話の内容もはたのものがすでにわかっているように話していた。
「一回めの事件以来、ぼくが見つけようとしているのは、そういう論理です」
「一回めの事件以来だって?」
「二回めの事件以来ということにしておきましょう。でも、一回めのとき、つまり叔父が殺されたとき以来、ぼくは精神錯乱者の仕業じゃないかと考えていました」
「証拠を見つけたのかね?」
「まだです。問題の要素をいくつかノートしただけです。でも、そういう要素が何らかのヒントをあたえてくれるかも知れません」
「たとえば?」
「たとえば、正面から襲っていることです。ぼくの考えをかんたんに説明するのは容易じゃありません。殺すために、つまりほかの生きているものを抹殺するために殺そうと思い、と同時につかまりたくないと思う人間は、いちばん危険の少ない方法をえらぶでしょう。そこで、今度の犯人は、犯行の跡を残すことをさけているのだから、おそらくつかまりたくないと思っている。ぼくの言うことがわかりますか?」
「そこまでは、そんなにむずかしくないよ」
ヴェルヌーが、メグレの声に皮肉を感じて眉をひそめた。この男、根は臆病なのかも知れなかった。彼は相手を目でしっかり見なかった。めがねの大きな玉のかげから、こそこそした視線をちらちらと投げるだけで、それから、空間のどこかの一点を見つめた。
「つかまるまいとして不可能なことをする、と言うのですか?」
「そういう気がします」
「にもかかわらず、同じ週のうちに人間を三人も襲っている。しかも、三回とも襲撃に成功している」
「そうです」
「三回とも、背後からやろうと思えばできたでしょう。ということはつまり、犠牲者が声をあげるひまがあったということです」
メグレはヴェルヌーをじっと見つめた。
「ところが、気違いがやったみたいに、理由もなく何もしていない。そこでぼくは、殺人者は運命をせせら笑う、あるいは襲う人間をせせら笑う必要のあることを証明していると推測するのです。中には自己を主張する必要のあるものもいますが、それは一つもしくは一連の犯罪によってです。ときには、自己の方や、自分の重要性や勇気を自分自身に証明するためにすることもあります。またあるものは、自分の同類に対して復讐すべきであると信じこんでいます」
「そういう気違いも、今までのところ、弱いものしか襲っていない。ロベール・ド・クルソンは六十三歳の老人だった。やもめのジボンばあさんは身体の自由がきかなかったし、ゴビヤールは、襲われたときはぐでんぐでんに酔っぱらっていた」
今度は判事が、あいかわらず片手をあごにあてたまま、明らかにメグレに向かって口をきいた。
「ぼくも同じように考えました。これはたぶん何かの表示なんだ、おそらく偶然なんだ。おれが見つけようとしているのは、そういう未知の男の行為や動作をつかさどる論理のようなものだ。われわれに見つけられるものなら、手近なところで見つかるでしょう」
この男は、まるで自分が至極当然なことに捜査に参加しているみたいに、『われわれ』と言った。それにシャボはたてつかなかった。
「そのために、あなたは昨晩外出していたんですか?」とメグレが質問した。
アラン・ヴェルヌーははっとして、軽く赤面した。
「多少はそのためです。ぼくは確かに友人の家へいきました。しかし、白状しますが、三日前から、ぼくはできるだけ何度もあちこちの道を歩きまわって、通行人のようすを調べたのです。この町は大きくありません。おそらく殺人者は自分の家にひそんではいないでしょう。彼は町のものと同じように歩道をほっつき歩いて、あちこちのカフェで飲んでいるでしょう」
「もし犯人に出会ったら、顔がわかると思いますか?」
「それは可能でしょう」
「アランは、われわれには貴重な存在となることができると思う」とシャボが何となく困ったような顔をしてつぶやいた。「彼が今朝われわれに言ったことは、至極もっともなことだと思うね」
ドクターが立ちあがった。と同時に、廊下に足音がし、だれかがドアをたたいたかと思うと、シャビロン刑事が首を出した。
「お一人じゃないんですか?」と彼はメグレではなくアラン・ヴェルヌーの顔を見ながら言った。どうやらアランがいるのが気にくわないらしかった。
「何だね、刑事?」
「ちょっと判事さんに訊問していただきたい人物を連れてきたんです」
ドクターが言った。
「ぼくは失礼します」
だれも彼を引きとめなかった。彼が部屋から出ていく間に、シャビロンがメグレに、やはりいくらか苦々しそうに言った。
「どうやら、今度の事件を手がけられるらしいですね?」
「新聞がそう言っている」
「たぶん、訊問は長くはかからんでしょう。ほんの五、六分で終っちまうでしょう。判事さん、証人を部屋にいれていいですか?」
それから、ほんのり暗い廊下に向かって、
「はいってこい! こわがらなくていいよ」
声が答えた。
「こわくはありません」
そして、紺色の服を着た、顔が青白く、目の血走った、やせた小男がはいってくるのが見えた。
シャビロンが紹介した。
「エミール・シャリュス。小学校の教師です。すわれよ、シャリュス」
シャビロンは、そうするのが相手の心を動かせると信じこんで、罪人や証人にはいつもぞんざいな口をきく警官の一人だった。
「今夜」と彼が説明した。「ゴビヤールが殺された通りの住民の聞きこみを始めたんです。たぶん、ありふれたやり方だと言われるでしょうが……」
彼はメグレのほうをちらっと見た。まるでメグレが個人的にはそういうありふれたやり方の反対者だったと言わんばかりに。
「……でも、ときには、ありふれたやり方でもいいことがあります。あの通りは長くはありません。今朝も、早くから、引きつづきあの通りをざっと見まわりました。エミール・シャリュスは、殺人が起こった場所から三十メートルはなれたところにある家の三階に住んでいます。一階と二階は事務所になっています。話せよ、シャリュス」
シャリュスは明らかに判事に対しては少しも好感をおぼえなかったが、ただもうしゃべりたくてたまらなかった。それで彼はメグレのほうを向いた。
「歩道で足を踏み鳴らすような音を聞きました」
「何時ごろ?」
「十時ちょっと過ぎです」
「それから?」
「足音は遠ざかりました」
「どちらのほうへ?」
予審判事が二、三質問をしたが、質問をするたびに、メグレをちらと見た。まるでメグレに質問をしているみたいに。
「レピュブリック通りのほうです」
「急いでいる足音だったですか?」
「いいえ。ふつうの足音でした」
「男の?」
「ええ、確かに」
シャボはたいした発見じゃないというようすをしたが、刑事が口をはさんだ。
「そのあとを聞いてください。それから、何が起こったか言えよ、シャリュス」
「それから、だいぶたってから、人の群れが、やはりレピュブリック通りからやってきて、あの通りにはいっていきました。大声で話しながら、歩道に集まっていました。ドクターという言葉が聞こえました。それから警視という言葉も。それで、私は起きて窓をのぞきにいきました」
シャビロンがとびあがって喜んだ。
「おわかりですか、判事さん? シャリュスは足を踏み鳴らす音を聞いたのです。さっき、彼は人が歩道の上に倒れるようなにぶい音もしたと、はっきり私に言いました。もう一度言えよ、シャリュス」
「そのとおりです」
「そのすぐあとで、だれかがレピュブリック通りのほうへ向かいましたが、そこにカフェ・ド・ラ・ポストがあるのです。ほかの証人も控え室に待たせてあります。そのとき、あのカフェにいたお客たちです。十時十分には、ドクター・ヴェルヌーがカフェにはいってきて、何も言わないで、電話室へいきました。電話をかけ終ってから、ドクター・ヴェルヌーはカードの勝負をしているドクター・ジュシューに気づいて、その耳元で何かささやきました。するとジュシューは勝負仲間たちに殺人があったことを告げ、それからみんなは外へとび出したのです」
メグレは顔をこわばらせている友人のシャボをじっと見つめた。
「これはどういう意味だと思いますか?」と刑事がまるで何か個人的な復讐をはたしているみたいに、一種のはげしい喜びを見せながらつづけた。「ドクター・ヴェルヌーの証言では、彼はすでにほとんど冷たくなっていた死体を歩道で認めて、カフェ・ド・ラ・ポストヘいき、警察へ電話したということです。もしそのとおりなら、通りに二度足音が聞こえたはずでしょうし、シャリュスも、眠っていなかったのだから、その二つの足音を聞いたはずでしょう」
彼はあえてまだ勝利の声をあげなかったが、ますます興奮をつのらせているのがよくわかった。
「シャリュスには前科はありません。すぐれた教師です。彼が話をでっちあげる理由は一つもありません」
メグレはシャボから何か発言するよう目で求められたが、それをもう一度拒否した。それから、かなり長い沈黙が流れた。その顔から察しておそらく、判事は目の前においてあった書類に何か書いたにちがいなかった。そして顔をあげたとき、態度がけわしくなっていた。
「あなたは、結婚していますか、シャリュスさん?」と彼が沈んだ声でたずねた。
「ええ」
二人の間に敵意が感じられた。シャリュスも態度を硬化させ、その答え方も挑戦的だった。判事が自分の供述を握りつぶすのを警戒しているようだった。
「子供は?」
「ありません」
「奥さんは、昨晩あなたといっしょだったですか?」
「ベッドがいっしょでした」
「奥さんは眠っていましたね?」
「ええ」
「二人はいっしょに寝てたんでしょ?」
「私がなおす宿題がたいしてないときには、いつもいっしょです。昨日は金曜日だから、宿題はぜんぜんありませんでした」
「奥さんとあなたは、何時にベッドヘはいったのですか?」
「九時半、たぶん、もう数分あとでした」
「いつも、そんなに早くやすむのですか?」
「朝五時半に起きますから」
「なぜ?」
「自分の好きなときに起きる全フランス人に同調する自由を得たいからですよ」
シャリュスを興味深そうにながめていたメグレは、シャリュスは政治に首をつっこんでいて、左翼に属し、おそらく活動家と呼ばれる人間だと確信しただろう。それは、デモにくわわって練り歩き、集会ではまっさきに口を切る男、郵便受けにパンフレットをさしこんだり、警察の命令にさからって、立ちどまらず歩くことを拒否したりする男だったのだ。
「それで、二人とも九時半に寝て、ぐっすり眠りこんだんでしょう?」
「まだ十分ぐらいしゃべっていました」
「ということは、十時二十分前までですね。それから、二人ともぐっすり眠りこんだんでしょう?」
「妻は眠ってしまいました」
「あなたは?」
「眠りませんでした。なかなか寝つかれないたちですから」
「それで、あなたの家から三十メートルはなれた歩道で物音を聞いたとき、あなたは眠っていなかったんですね?」
「そのとおりです」
「ぜんぜん眠っていなかったですか?」
「ええ」
「完全に目をさましていたんですね?」
「足音と人が倒れる音を聞くには十分なほどね」
「雨は降っていましたか?」
「ええ」
「あなたが住んでいる階の上はありませんね?」
「ありません。うちは三階ですから」
「じゃあ、屋根に雨音が聞こえたはずですね?」
「しょっちゅう聞いてれば、しまいには気にしなくなるものです」
「雨水が樋に流れていたでしょう?」
「そりゃ、そうでしょうね」
「だからあなたが聞いた物音は、ほかの物音とまぎらわしい物音にすぎなかったんでしょう?」
「雨が流れる音と、人が足踏みしたり倒れたりする音とは、はっきりちがいますよ」
判事はなおも自分の主張を放棄しなかった。
「あなたは起きてみようという気にはならなかったんですか?」
「ええ」
「なぜ?」
「うちはカフェ・ド・ラ・ポストからそんなに遠くないですから」
「それ、どういうことですか?」
「よく、晩など、酒を飲みすぎた連中がうちの前を通ります。で、歩道の上に立ちどまるってことがちょくちょくあるのです」
「いつまでも立ちどまっていることもですか?」
シャリュスはすぐには答えを見つけることができなかった。
「足を踏み鳴らすのを聞いたと言ったんだから、道に数人、少なくとも二人いるという印象を受けたでしょう?」
「当然です」
「レピュブリック通りのほうへ立ち去ったのは一人だけだった。確かにそうですね?」
「だと思います」
「殺人があったのだから、足音を聞いたとき、最小限二人の人間が、あなたの家から三十メートルはなれたところにいた。わかりますね?」
「むずかしくはありませんよ」
「一人が立ち去る足音を聞いたでしょう?」
「それはもうさっき言いましたよ」
「彼らがやってくる足音を聞いたのはいつですか? 彼らはいっしょにやってきたんですか?レピュブリック通りからやってきたんですか、それとも練兵場のほうから?」
シャビロンが肩をすくめた。エミール・シャリュスのほうは、けわしい目つきをして、じっと考えこんでいた。
「彼らがやってきた足音は聞きませんでした」
「でも、片方がもう一方を殺すのに都合のいいときを待っていたというふうに、二人が長い間雨の中にいたとは思わないでしょう?」
教師は両拳を握りしめた。
「あなたがたが見つけたのはそれだけですか?」と彼は歯の間でぶつぶつ言った。
「さあ、どうだか」
「あなたの側のだれかがまきぞえをくうのがこまるんでしょう。でも、あなたの質問はなってませんね。私はかならずしもだれかが歩道を通る足音を聞いていません。もっと正確に言えば、私はそんな足音に注意していませんからね」
「しかし……」
「私をブタ箱にぶちこもうとやっきにならないで、私にしまいまで言わせたらどうです? 足音が聞こえたときまで、私は道を通るものにはまるっきり注意しませんでした。足音が聞こえたあとで、かえって、気をそそられました」
「で、人が歩道に倒れたときから、何人かの人間がカフェ・ド・ラ・ポストからやってきたときまで、だれ一人道を通らなかった、と断言するんですね?」
「どんな足音も聞こえませんでしたよ」
「その供述が重要なことは、よくわかっていますね?」
「私は何も供述させてほしいと言ったわけじゃありませんよ。この刑事さんが私のところへやってきて訊問したんです」
「刑事に訊問される前に、自分の証言の意味を少しも考えなかったんですか?」
「私はドクター・ヴェルヌーの供述を知りませんでした」
「そんなこと、誰があなたに言ったんですか?ドクター・ヴェルヌーは供述のために呼び出されませんでしたよ」
「私はドクターのしゃべったことを知らなかったということにしておきましょう」
「それをあなたに言ったのは刑事ですか?」
「ええ」
「で、あなたにはわかったんですか?」
「ええ」
「それで、あなたは自分があたえようとしている効果に夢中になったんでしょう? あなたはヴェルヌー家の連中を毛ぎらいしているんでしょう?」
「彼らもきらいなら、彼らに似ているやつらもみんなきらいです」
「あなたは、いつか、演説の中で、とくにヴェルヌー家の連中を攻撃していましたね?」
「そういうこともあったでしょう」
判事が非常に冷やかにシャビロン刑事のほうを向いた。
「細君はこの供述を確認したのか?」
「一部確認しました。細君は家事に忙しいのでつれてきませんでしたが、呼びにいけますよ。二人は確かに九時半に寝ました。細君は、自分がいつもの夜のように目ざまし時計のねじをまいたから確かだと言ってます。二人は少し話をしました。それから細君は眠りこんじまったんだけど、ご亭主がそばにいる気配がしないので目をさましたんだそうです。細君はご亭主が窓の前に立っているのを見ました。それは十時十五分過ぎで、そのとき死体のそばに人だかりがしたんです」
「二人とも階下《した》に降りなかったかね?」
「いいえ」
「二人は何が起きたか知りたいという気を起こさなかったのか?」
「窓を少しあけて、ゴビヤールが殺されたという声を聞きました」
シャボは、あいかわらずメグレのほうを見るのをさけていたが、落胆しているようすだった。自信はなかったが、なお二、三質問した。
「町のほかの住民たちは、彼の証言を支持しているのか?」
「今までのところは、していません」
「みんなを訊問したのか?」
「今朝、自宅にいた連中はしました。もう仕事に出かけたものが何人かいます。また二、三人のものが、昨晩は映画を見ていて何にも知りません」
シャボは教師のほうを向いた。
「あなたは個人的にドクター・ヴェルヌーと知り合いですか?」
「彼とは一度だって話したことはありません、あなたの言わんとするところがそういうことでしたらね。ときどき、世間の人と同じように道でいき合います。何者かぐらいは知っています」
「あなたは彼に対して個人的に何の恨みも持っていませんね?」
「それはもう答えたでしょう」
「あなたは裁判所に呼ばれたことはありませんね?」
「デモをしたときに、たっぷり十二回は逮捕されましたよ。でも、いつも一晩留置所にほうりこまれるだけで釈放されました。もちろん、ひどい目に遭いましたが」
「私はそんなことは言っていない」
「私の言ったことがあなたに興味ないのはわかります」
「やっぱり供述を変えませんか?」
「ええ。たとえあなたが困ってもね」
「私のことは問題ではない」
「あなたの友人のことが問題ですね」
「あなたは、ためらうことなくだれかを懲役か絞首台に送るほど、昨晩耳にしたことについて確信を持っているのですか?」
「殺人をしたのは私じゃありません。殺人者は何のためらいもなくやもめのジボンばあさんとかわいそうなゴビヤールを殺したんです」
「ロベール・ド・クルソンを忘れている」
「あんなやつなんか!……」
「では、書記を呼んで、あなたの供述を書きとらせましょう」
「ご勝手に」
「それから、あなたの奥さんにも聞きます」
「あれは私の言ったことに反対しないでしょうよ」
すでにシャボは机の上にあるベルのほうに手をのばしていたが、そのとき、それまでほとんど忘れられていたメグレの声が聞こえて、こう穏やかにたずねた。
「シャリュスさん、あなたは不眠症に悩んでいらっしゃるんですね?」
シャリュスがさっと首をまわした。
「それはどういう意味ですか?」
「いや別に。あなたは、さっき、なかなか寝つかれないと言おうとしたでしょう。ということはつまり、九時半に床についたけれど、まだ十時まで目をさましていたことを説明していますね」
「もう五、六年ずっと、不眠症にかかっています」
「医者にみてもらいましたか?」
「私は医者がきらいです」
「薬ものんでみなかったんですか?」
「睡眠薬をのんでいます」
「毎日?」
「いけませんか?」
「昨日も、床につく前にのみましたか?」
「いつものように二錠のみました」
シャボがまるで長い間水を切らしていた植物がとうとう水をかけられたように蘇生するのを見て、メグレは危く笑いそうになった。判事はもう自ら、作戦の指揮をもう一度とらざるを得なくなった。
「なぜ、さっきは睡眠薬をのんでいることを言わなかったのかね?」
「あなたが聞かなかったし、それにこれは私個人のことだからね。女房が下剤を使っていることも言わなきゃなりませんかね?」
「九時半に睡眠薬を二錠のんだんだね?」
「ええ」
「それでも十時十分まで眠らなかったんだね?」
「ええ。あなたにも睡眠薬をのむ習慣があったらわかるだろうが、あれは長い間使っていると、ほとんどききめがなくなる。私だって、最初は一錠で十分だった。ところが今では、二錠のんでも、寝つくのに三十分はかかる」
「じゃあ、道に物音を聞きつけたとき、あなたはすでに寝ついていたかも知れないね?」
「いや、眠ってなかったですよ。もし眠りこんでいたら、何も聞こえなかったでしょう」
「でも、半睡状態だったかも知れない。この点はどうです?」
「よくおぼえていません」
「あなたは目ざめと眠りの間の状態にいなかったかね? 私の質問をよく考えてください。偽証は重罪だから」
「私は眠っていなかった」
男は根は正直だった。確かに、ヴェルヌー派のメンバーをやっつけられるのに有頂天になって、うれしくてぞくぞくしながらやっていたのだ。が、今は、勝利が指先から滑り落ちるのを感じて、必死にしがみつこうとしていたが、それでも嘘を言う勇気はなかった。
彼はメグレに悲しそうなまなざしを投げた。そこには非難の色はあったが怒りの色はなかった。こう言っているようだった。
『なぜ、あんたはおれを裏切ったんだ、あんた、まさか、やつらの味方じゃあるまい?』と。
判事はチャンスをのがさなかった。
「睡眠薬は効果をあらわし始めたが、あなたを完全には眠らせなかったと仮定すると、あなたはひょっとすると道の物音を聞いたかも知れない。そして、そうした半睡状態が、あなたが殺人の行なわれる前には足音を聞かなかったことを説明するでしょう。あなたの注意を引くためには、かならず足音や人の倒れる音がなければならなかった。それから、足音が遠ざかったあとで、あなたはまた眠りに落ちてしまった、と考えられませんか? あなたは起きなかった。奥さんも起こさなかった。さっきわれわれに言ったように、まるですべての出来事が無意識の世界で起きたもののように、あなたは不安を感じなかった。そして、大声で話し合っている人の群れが歩道の上に立ちどまったとき、あなたははじめて完全に目をさました」
シャリュスは肩をそびやかしたが、うんざりしたようにその肩をまた落とした。
「だいたいそんなところでしょうな」と彼は言った。
それから、こう何かつけくわえた。
「あんたとあんたの同類は……」
シャボはそれにはもう耳をかさないで、シャビロン刑事にこう言った。
「やっぱり、供述を調書にとってくれ。午後、奥さんに会おう」
メグレとシャボだけになってしまうと、判事はノートをとるふりをした。そして、たっぷり五分すぎてからやっと、警視のほうは見ないで、こうつぶやいた。
「ありがとう」
メグレは、パイプを吸いながら、ふくれっ面で答えた。
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第四章 皮下溢血のイタリア女
昼食――メイン料理は、メグレにはたべた記憶がないような挽肉をつめた羊の肩肉だったが――の間じゅう、ジュリアン・シャボは何かやましい心にとらわれた人間のようなようすをしていた。
家の敷居をまたぐときに、彼はこう小声で言う必要を感じた。
「今度のことは母の前では言わないようにしよう」
メグレにはそんなつもりはなかった。見ていると、シャボは郵便受けにかがみこみ、広告のちらしをいくつも脇にどけて、一通の封筒をつまみあげた。その封筒は、メグレがその日の朝ホテルで受けとったのと同種類のものだったが、ちがっているのは緑がかっていなくてサモン・ピンクだったことだ。おそらく同じ一組からぬき出したものだろうか? そのときは、メグレはそれを確かめることができなかった。判事が封筒をポケットに無造作につっこんだからだ。
二人は裁判所から帰ってくるときは、ほとんど口をきかなかった。裁判所を出る前に、二人は検事とちょっと話し合ったが、メグレは検事がまだ学校を出たばかりの、やっと三十になるかならずの男で、それに自分の職務を悲観的には解釈しないらしい美男子であるのを見て、かなりびっくりしたのだった。
「昨晩は失礼しましたね、シャボ。よんどころない都合で、ぼくに連絡がとれなかった。ぼくはラ・ロシェルにいたが、それを妻は知らなかったんですよ」
彼はちらっとウインクして見せながら、こうつけくわえた。
「幸いにもね!」
それから、自信満々のようすで、
「メグレ警視に助けてもらえることになったから、あなたは遠からず殺人犯をつかまえるでしょう。警視、やはりあなたも犯人は気違いだとお思いですか?」
議論したとて何になろう? 判事と検事の間が大して親密でないことが感じられた。
廊下に出ると、すでにシャリュスの供述を知っている新聞記者たちにおそわれた。シャリュスが彼らにしゃべったにちがいなかった。もう町じゅうが知っているとメグレは確信しただろう。この雰囲気を説明するのはむずかしかった。裁判所から判事の家までいく間に、二人は五十人くらいの人に出会っただけだが、地方の町の熱っぽい空気をはかるにはそれで十分だった。二人の男に向ける視線には信頼が欠けていた。下層階級の人間たち、とくに買物帰りの主婦たちは、ほとんど敵意と言っていい態度を示した。ヴィエト広場の上のほうに、小さなカフェが一軒あり、そこでかなりおおぜいの人たちが食前酒をのんでいたが、二人が通りかかると、不安をおぼえさせるような騒ぎ声や冷やかに笑う声が聞こえてきた。
また、あるものは、事件に夢中になりはじめ、憲兵たちが自転車で町をパトロールするぐらいでは、こういう連中を落ちつかせることはできなかった。こういう連中は、落ちつくどころか、町のどこかに殺人犯人が自由にうろついているとか言って、町のようすにドラマチックな様相を添えた。
シャボ夫人は何も聞こうとしなかった。息子にもメグレにも細かい心づかいをし、メグレには息子を守ってくれるよう目で頼んでいるようで、つとめてさしさわりのないことを話題にしようとしていた。
「あなたたちが、日曜日にこの家でいっしょに昼食《おひる》をたべた、あのやぶにらみの娘さんをおぼえていますか?」
彼女はおそろしく記憶力がよくて、もう三十年以上も前、フォントネイにちょっと立ち寄ったときに出会った人々のことを、メグレに思い出させた。
「あの娘さんはいい結婚をしました。旦那さんは大きなチーズ工場を作ったマラン家の青年でした。子供が三人できて、どれもいい子ばかりでした。それが、とつぜん、あんまり幸せすぎると運命に思われたものか、肺病にかかってしまいました」
シャボ夫人は、ほかにも病気になった人、死んでしまった人、あるいは別の不幸にみまわれたものの話をした。
デザートになって、ローズが大きなチョコレート・シュークリームの皿を持ってくると、老夫人はいたずらっぽい目でメグレをながめた。メグレは最初、自分が何か言うのを期待されていると感じながらも、わけがわからなかった。彼はたいしてチョコレート・シュークリームが好きではなかったが、一つ自分の皿にとった。
「さあさあ! おとりなさい。恥ずかしがらないで!……」
夫人ががっかりするのを見て、メグレは三つとった。
「食欲がなくなったなんて言うつもりじゃないでしょうね? あなたが十二個も食べた晩のことをおぼえていますよ。あなたがくるたびに、チョコレート・シュークリームを作ってあげると、あなたはこんなおいしいのはよそで食べたことがないって、お言いでしたね」
(これはある意味ではほんとうだった。彼はチョコレート・シュークリームなど、どこへいっても一度もたべたことがなかったからだ!)
やっと彼はそれを思い出した。それから、菓子が好きだと一度も言ったことがないことにもおどろいた。言ったとすれば、それは昔、礼儀上そう言ったにちがいなかった。
彼はやるべきことをやった。感嘆の声をあげ、皿の上にあるものをみんな平らげてから、またシュークリームを皿にとったのだ。
「それから、シャコのひなのキャベツまきが好きでしたね! おぼえていらっしゃる? 今はその季節でないのが残念です。だって……」
コーヒーが出ると、シャボ夫人はつつましく引きさがり、それからシャボがいつものように葉巻の箱をテーブルの上におくと同時にブランデーの壜を出した。食堂は事務室ほど変わっていなくて、昔とそっくり同じものを見つけると、ほとんど胸をしめつけられるような思いがした。シャボ自身は、見方を変えれば、さほど変わっていなかった。
友を喜ばしてやろうと、メグレは葉巻を一本とって、両足を煖炉のほうへのばした。シャボが今度の事件のことを話したがっていて、裁判所を出てからずっとそのことを考えているのを、メグレは知っていた。が、その話になるまでには時間がかかった。目をメグレからそらせた判事の声は、自信がなさそうだった。
「彼を逮捕すべきだと思うか?」
「彼ってだれだ?」
「アランさ」
「あの医者を逮捕する理由は一つもないと思うな」
「しかし、シャリュスは正直な男らしい」
「そのとおりだな」
「きみも彼は嘘をついていないと思うか?」
実は、シャボはなぜメグレが口出ししたのだろうと思っていた。なぜなら、メグレが口出ししなかったら、彼が睡眠薬のことを聞かなかったら、教師の供述はヴェルヌーの息子にとっては非常に重大なものになっていただろうからだ。このことが判事を当惑させ、落ちつかなくさせていた。
「第一」とメグレが葉巻を不器用にふかしながら言った。「彼はほんとうにうとうとしたらしいじゃないか。おれはいつも、ベッドで何か聞いた人間の証言を警戒している。たぶん、うちの女房のせいだろう。
ちょくちょく、うちの女房は夜明けの二時にやっと寝ついたと言うんだ。女房は大まじめで、誓いかねない勢いだ。ところがおれ自身、女房の言う不眠状態の間に目がさめていて、女房がぐっすり眠っているのを見ることが、ちょいちょいあるんだ」
シャボは納得しなかった。おそらく、友はただ自分を窮地から救い出したがってばかりいると思っていたのだろうか?
「それに」とメグレがつづけた。「たとえ殺したのがドクターだとしても、彼を逮捕しないでおいたほうがよさそうだ。あれは甘ちょろい訊問なんかでは、ましてなぐっておどかしたってどろを吐かせられない男だよ」
判事はすでにこの考えを怒ったような身ぶりをしてはねつけていた。
「現在の捜査段階では、彼に対する証拠の尻尾さえつかんでいない。彼を逮捕したところで、『死刑』だとわめきながら刑務所の窓の下にデモってくる住民の一部を満足させるだけだ」
「きみはほんとにそう考えるのか?」
「うん」
「おれを安心させるためにそう言ってるんじゃないだろうね?」
「真実だから、そう言うんだ。この種のケースにいつもあることだが、世論は多かれ少なかれ公然と容疑者を示し、おれはときどきどうやって世論は容疑者をえらぶのだろうとふしぎに思うことがある。ちょっとぞっとするふしぎな現象だ。最初の日から、おれにはよくわかっているんだが、町の連中は問題の人間が父親のほうか息子のほうかろくに考えもしないで、ヴェルヌーの一統のほうへ顔を向けていた」
「そのとおりだ」
「それが今では、息子に怒りが向けられている」
「で、もし彼が殺人犯だとしたら?」
「裁判所を出る前に、彼を監視するようおれが命令したのを聞いただろ」
「彼は監視をのがれるかも知れない」
「そっちのほうはぬかりはない。もし彼があんまり町に姿を見せると、ひどいめに遭いかねないからね。もし彼が犯人なら、早晩、何か手がかりになるようなことをしでかすだろう」
「おそらくきみの言うとおりだろう。実は、おれはきみがここにいてくれてうれしいんだ。白状するが、昨日はきみがそばにいるといらいらした。きみはおれを監視しようとしているんだ、おれは自分ではわからんが、きみはおれのことを下手くそだ、不器用だ、古いやり口だと思うだろうと、内心考えていたんだ。田舎じゃあ、みんなが、とくにパリからきた人間を前にすると、劣等感をいだくんだ。ことにきみのような人間を前にするといっそう強く感ずるんだ! おれをうらむかね?」
「何で?」
「きみにばかなことを言うからさ」
「いや、きみはきわめてあたりまえのことを言ってるよ。パリの人間も同じさ。われわれはいろいろな状況を考慮にいれて、地位のある人間に細かく気をくばらねばならん」
シャボはすでに機嫌をなおしていた。
「午後はシャビロンが見つけ出した証人を訊問するよ。たいていのものは何も見ないし聞かなかっただろうが、どんなチャンスもおろそかにしたくないからね」
「シャリュスの細君には親切にしろよ」
「あの連中に同情しているんだろう」
「うん、たぶんね!」
「きみもおれといっしょにくるかい?」
「いや。町の空気を吸って、あちこちでビールを一杯やったほうがいい」
「そうだ、あの手紙をあけるのを忘れてた。母の前ではあけたくなかったのでね」
彼はポケットからサモン・ピンクの封筒をとり出し、メグレはその上書きをみとめた。便箋はたしかに、メグレが朝受けとった手紙と同じ一組から使ったものだった。
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ドクターがサバチの娘にどんなことをしたか調べろ
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「知っている名か?」
「こんな名前は一度も聞いたことがないよ」
「きみは、ドクター・ヴェルヌーは放蕩者じゃないって、おれに言ったろう」
「そういう評判だよ。匿名の手紙がやたらにきはじめたよ。これは女文字だ」
「匿名の手紙の大半はそうさ! 警察に電話していただけましょうかな?」
「サバチの娘のことでか?」
「うん」
「今すぐにか?」
メグレはそうだとうなずいた。
「事務室へいこう」
シャボは受話器をとって、警察署を呼んだ。
「ああ、フェロンかね? 予審判事だ。サバチという娘を知っているかね?」
待たなければならなかった。フェロンは部下の警官たちにたずねにいき、そしておそらく書類を調べにいったのだろう。フェロンが再び電話口に出ると、シャボは聞きながら吸取紙の上に二言三言書いた。
「いや。おそらく何の関連もないだろう。何だって? きっとちがうな。今のところは、彼女はほうっておいていいよ」
こう言いながら、彼は目でメグレの同意を求め、メグレは何度も大きく首をたてにふった。「三十分したら、事務所にいくよ。うん。ありがとう」
彼は受話器をかけた。
「フォントネイ=ル=コントには確かにルイーズ・サバチという娘がいる。イタリア人の左官の娘で、父親はナントやその周辺で仕事をしているにちがいない。娘はしばらくフランス・ホテルでウェートレスをして、それからカフェ・ド・ラ・ポストで給仕をしていた。数カ月前から働いていない。最近引っこしたのでなければ、ラ・ロシェル街道の曲り角の、兵営のある区画にある大きなおんぼろの家に住んでいる。その家には六、七家族が暮らしている」
メグレは葉巻がいやになって、その白熱した火口を灰皿でおしつぶしてから、パイプにたばこをつめた。
「その娘に会いにいくつもりかね?」
「たぶん」
「きみはやっぱり、ドクターが……?」
彼は眉をひそめて、話を中断した。
「じゃあ、今晩はどうしようか? ふだんなら、おれはヴェルヌー家ヘブリッジをしにいくところだ。きみがおれに言ったところでは、ユベール・ヴェルヌーはきみがおれといっしょにいくのをあてにしているそうだね」
「そうだが、それがどうした?」
「おれがふしぎなのは、世論の具合では……」
「きみは、毎週あの家へいくことにしているのか?」
「うん」
「じゃ、もしいかなかったら、みんなは自分が疑われているからだと思いこむだろう」
「いけば、みんなは……」
「きみが彼らをかばっていると言うだけさ。これはもう言ってることだよ。もう少し多く、あるいはもうすこし少なく……」
「きみはおれといっしょにいく気か?」
「おそらくね」
「もしきみが……」
あわれなシャボはそれ以上さからわないで、メグレの決断にまかせた。
「もう裁判所へいく時間だ」
二人はいっしょに出かけた。空はあいかわらず白いと同時に明るく青緑色で、沼の水に映っている空のようだった。風は依然としてはげしく、通りのあちこちの角では、婦人たちのドレスが彼女らの身体にぴったりとくっつき、ときどき、男が帽子を風にとばされて、滑稽な身ぶりをしながら、走ってあとを追いかけていた。
二人は各自反対の方角へいった。
「何時に会おうか?」
「たぶん、おれはきみの事務所に寄るだろう。寄らなかったら、夕食にきみの家にいくよ。ヴェルヌー家のブリッジは何時にはじまるんだ?」
「八時半だ」
「言っとくけど、おれはブリッジを知らないよ」
「そんなこと、かまわないさ」
パイプを口にくわえ、両手をポケットにつっこみ、帽子がとばないようにおさえながら、歩道を歩いていくメグレが通りかかると、あちこちの家のカーテンが動いた。たった一度だけ、彼は少々不安な気持になった。彼が友人のシャボに言ったことは、すべてほんとうだった。しかし、昼前に、シャリュスの訊問の終りのほうで口出ししたとき、彼はやはり衝動にかられてそうしたのだが、その衝動の背後には、判事を厄介な状況から救い出したいという欲求がひそんでいた。
町の雰囲気はあいかわらず不安そうだった。町の人々はいつものように仕事に出かけてはいたが、道ゆく人たちのまなざしの中にはやはり何となく不安なものが感じられた。人々はいつもより足早に歩き、とつぜん殺人者が現われるのを目にするのではないかとこわがっているようだった。これがほかの日だったら、主婦たちだって今日のように家々の戸口に寄り集まって小声で話したりしないにちがいない、とメグレにもはっきり言えただろうに。
人々は目でメグレを追い、そしてメグレは人々の顔の上に無言の質問を読みとったと思った。メグレは何かしようとしているのだろうか? 正体のわからない人間が、これからも何の支障もなく殺人を続けるのだろうか?
中にはメグレにおずおずと挨拶するものもいたが、こう言いたそうだった。
『私たちはあなたがどういう人だか知っている。あなたはいろいろな難事件を解決したことで有名な人だ。そういうあなたなら、ある種の人物たちに影響されることはないだろう』と。
彼は危くカフェ・ド・ラ・ポストヘはいってビールを飲むところだった。が、都合の悪いことに、中に少なくとも十二人くらいの人がいて、メグレが戸口に近寄ると、みんながいっせいに顔を彼に向けた。とたんにメグレは、いろいろ質問をかけられて、それに答えるのはいやだと思った。
ところで、兵営のある地区へいくのには、練兵場をつっきらなければならなかった。それはむき出しの広い空地で、まわりをとりかこむ木々は最近植えられたものだが、それが北風の下でふるえていた。
メグレは、ドクターが前日の晩に歩いたのと同じ通り、つまりゴビヤールが殺されていた通りにはいった。一軒の家の前を通りかかると、三階でどっと笑う声が聞こえた。それはおそらく、教師のエミール・シャリュスが住んでいる家だった。数人の人たちが夢中になって議論していた。いろいろなニュースを手にいれたにちがいない人間の友人たちだった。
メグレは練兵場をつっきって、兵営をまわり、右手の通りにはいって、シャボに説明してもらった大きな傷んだ建物をさがした。二つの空地の間の、人気のない通りには、そういう種類の家は一つしかなかった。それが昔何であったか、それを見ぬくのはむずかしかったが、倉庫か風車小屋か、おそらく小さな工場だったのだろうか? 子供たちが家の外であそんでいた。もっと幼い子供たちは、おしりをまる出しにして、廊下をはっていた。髪を背中にたらした大柄な女が、ドアを細めにあけて顔を出した。この女はメグレ警視の噂を一度も聞いたことがなかった。
「何かさがしてるんですか?」
「サバチさんを」
「ルイーズですか?」
「そういう名前だと思います」
「家をまわって、裏の戸口からはいりなさい。階段をあがると、ドアは一つしかありません。そこです」
メグレは言われたとおりにした。ちり箱をいくつもかすめ、生ごみをいくつもまたいだ。その間に、兵営の庭でラッパが鳴るのが聞こえた。女が教えてくれた戸口はあいていた。手すりのない急な階段がある階に通じていたが、その階はほかの階と高さが同じではなかった。メグレは青いペンキでぬったドアをたたいた。
最初は、何の答えもなかった。もっと強くたたくと、踵のへった古靴をはいた女の足音が聞こえたが、さらにもう一度たたいて、やっと中から答えがあった。
「何ですか?」
「サバチさんですね?」
「何の用?」
「お話ししたいんです」
それからメグレはとっさにこうつけ加えた。「ドクターのことで」
「ちょっと待って」
女がドアから遠ざかった。たぶん、何か服を着にいったのだろう。やっとドアを開いたとき、女は粗悪な木綿の花模様の部屋着を着ていた。その下には寝間着しか着ていないにちがいない。素足にスリッパをつっかけ、黒い髪は乱れていた。
「おやすみでしたか?」
「いいえ」
女はメグレの頭のてっぺんからつま先まで、うさんくさそうにじろじろと見た。女の背後には、ごくせまい踊り場越しに、散らかった部屋が見えたが、そこへはいれとは女は言わなかった。
「彼はわたしに何を言わせようと言うの?」
彼女が頭を少しこちらにまわしたので、左の目のまわりが皮下溢血しているのを、メグレはみとめた。それはごく最近できたものではなかった。青色が黄色に変わりはじめていた。
「こわがらないで。私は友人だ。ただ、しばらくあなたと話をしたいだけだ」
彼を中にいれようと彼女が決心したのは、二、三人の悪童たちが階段の下へ二人を見にやってきたからだった。
二部屋しかなかった。彼がちょっとのぞいただけの、乱れたベッドがおいてある部屋と台所だった。テーブルの上には、小説が一冊あけたままのせてあり、そのわきに、まだ牛乳入りコーヒーが残っている椀があり、バターの塊りが皿の上に残っていた。
ルイーズ・サバチは美人ではなかった。黒い部屋着を着て白いエプロンをしめれば、田舎のホテルにいるたいていのウェートレスに見られるあの疲れた顔をしていて当然だった。ところが、暗い目がはげしく生きているその青白い顔には、どこか人を魅《ひ》きつける、ほとんど悲壮なものがあった。
彼女は椅子をかたづけた。
「あなたをよこしたのは、ほんとうにアランなの?」
「いや」
「あなたがここへきてることを、彼は知らないの?」
こう言いながら、彼女はおびえたような目をドアのほうに投げて、身を守る構えで立ちつづけていた。
「こわがらないで」
「あなたは警察の人ね」
「そうだとも言えるし、そうでないとも言える」
「何が起こったの? アランはどこにいるの?」
「たぶん、自宅にいる」
「確かね?」
「なぜ彼がよそへいくのかね?」
彼女は唇をかんだ。唇に血がのぼった。彼女はとても神経質だった。病的な神経過敏だった。一瞬、彼女は麻薬をのんでいるのではないか、とメグレは思った。
「誰があなたにわたしのことをしゃべったの?」
「以前、あんたはドクターの愛人だったね?」
「そう人から聞いたの?」
彼は世にもお人好しと言った顔をしたが、相手に同情の色を見せるために何の努力もはらわなかった。
「今、起きたばかりだね?」
と彼は相手に答えるかわりにたずねた。
「だったら、あなたはどうしようというの?」
彼女には多少イタリアの訛りがあったが、たいしたことはなかった。彼女はやっと二十過ぎたばかりに相違なかったが、安物の部屋着に包んだその肉体は曲っていた。以前は色っぽかったにちがいない胸も多少疲れていた。
「私のそばにすわったって別にこまらないだろう?」
彼女はじっとしていられなかった。熱に浮かされたようにふるえながら、彼女は紙巻たばこをとって、火をつけた。
「ほんとにアランはこないの?」
「彼がくるとこわいのかね? なぜだね?」
「彼は嫉妬《やきもち》やきだから」
「彼が私に嫉妬《やきもち》をやく理由なんか一つもないよ」
「彼はどんな男にでも嫉妬《やきもち》をやくわ」
彼女は妙な声でつけ加えた。
「あたりまえだけど」
「どういう意味かね?」
「それが彼の権利だから」
「彼はあなたを愛しているのだろう?」
「そう信じてるわ。そうにちがいないってことはわかってるけれど……」
「あんた、ほんとうにすわりたくないのかね?」
「あなたはだれ?」
「メグレ警視、パリ司法警察の」
「あなたの噂は聞いたわ。あなたはこの町で何をしているの?」
どうして彼女に腹を割って話さないのか?
「私は偶然この町へやってきただけだ、もう何年も会ってない友人に会おうと思ってね」
「その人があなたにわたしのことをしゃべったの?」
「いいや。私はあんたの友だちのアランにも会った。今晩だって、彼の家に招待されたんだよ」
彼女は彼は嘘をついていないと感じたが、まだ安心していなかった。椅子を自分のほうに引き寄せたものの、すぐには腰かけなかった。
「たとえ彼は今のところは窮地に立たされてはいないにしても、そのうちにそうなる危険がある」
「なぜ?」
この言葉を口にした彼女の語調によって、メグレは彼女はすでに知っていると断定した。
「彼はおそらく捜査されている男だと考えるものもいる」
「あの三つの殺人をしたから? そりゃ、ちがうわ。彼がやったんじゃないわ。彼があんなことをする理由は一つも……」
メグレは判事から渡されたあの匿名の手紙をさし出して、彼女の言葉をさえぎった。彼女は顔を固くし、眉をひそめて、手紙を読んだ。
「これ、だれが書いたのかしら」
「女だね」
「ええ。確かに、あの家に住んでいる女だわ」
「なぜ?」
「ほかの女なら知るわけないもの。あの家の中にいたって、彼がどういう人か知ってるものは一人もいないと言ったっていいわ。これは何かの恨みよ。汚ないやり方だわ。ぜったいアランは……」
「すわりたまえ」
彼女はあらわな両脚の上で部屋着の裾を合わせようと注意しいしい、とうとう腰かける決心をした。
「あんた、彼の愛人になってから、もう久しいのかね?」
彼女は躊躇しなかった。
「八カ月と一週間になるわね」
この簡明な答えに、メグレは思わず笑いそうになった。
「そりゃ、どういう具合にはじまったのかね?」
「わたしはカフェ・ド・ラ・ポストで給仕として働いていたの。彼はときどき午後に店にやってきて、いつも窓ぎわの同じ席にすわって、そこから人が通るのをながめていたわ。みんなは彼をよく知っていて挨拶したけれど、彼は簡単には会話の仲間にはいらなかったわ。しばらくすると、彼がわたしを目で追っているのに気づいたの」
彼女はとつぜんメグレを挑むように見つめた。
「あなたはほんとうにどうして始まったか知りたいの? いいわ! 言ってあげる。そうすれば、あの人があなたの思ってるような人じゃないってことが、あなたにもわかるでしょ。とうとう、彼が晩に一杯のみにやってくるようになったわ。一度、|看板に《ヽヽヽ》なるまでいた。彼のこわい目がどこにでもわたしを追いかけるものだから、わたしはどちらかというと彼を無視していたの。その晩、わたしは外で、あなたもたぶん会っているでしょうが、あるブドウ酒売りの男と会っていたわ。わたしたちはあの小路を右に折れ、それから……」
「それからどうした?」
「言ってしまうわ! わたしたち、練兵場のベンチにすわったの。わかるでしょ? 長くはかからなかったわ。あれが終ると、わたしは一人で広場をぬけて家に帰っていったけれど、うしろに足音を聞いたわ。ドクターだった。わたしは少しこわかった。でも、ふり返って、わたしに何の用かってたずねてやったわ。彼はすっかりどぎまぎしてしまい返事することもできなかった。で、最後に、彼はなんて言ったと思う?『なぜ、あんなことをしたんだ?』って言ったのよ。わたしは大笑いしてしまった。『あんなことすると、あんたはこまるの?』『とっても悲しかった』『なぜ?』ってやりとりしてるうちに、とうとう彼が、わたしを前から愛していたが、どうしても思い切って言うことができなかった、自分はとても不幸だ、って告白したの。あなたは笑ってるのね?」
「いや」
ほんとうだった。メグレは笑ってはいなかった。アラン・ヴェルヌーの今おかれている状況が彼にはよくわかった。
「わたしたちは、曳舟道に沿って、夜中の一時か二時まで歩いたわ。そして最後に、わたしのほうが泣いてしまった」
「彼はあなたをここまで送ってきたのか?」
「その晩はこなかったわ。そうなるまでにはまる一週間かかったわ。その間、彼はほとんどカフェにいりびたりで、わたしを見張っていたわ。わたしがお客からチップをもらって礼を言うのを見てももう嫉妬《やきもち》をやく始末だったわ。今だってそうよ。わたしに出ていかれたくないのよ」
「あんたをぶつのかね?」
彼女は部屋着の袖を上げて、本能的に片手を頬の皮下溢血したところへ持っていった。するとメグレには、彼女の両腕にも青いあざがいくつもあるのが見えた。指と指でもうれつにつねられたようなあざだった。
「彼にはこうする権利があるのよ」と彼女が少なからず誇らしげに答えた。
「そんなことがときどきあるのかね?」
「ほとんど会うたびに」
「なぜ?」
「わかってもらえなきゃ、わたしには説明のしようがないわ。彼はわたしを愛しているわ。彼はあの家で奥さんと子供たちと暮らさなければならない。彼は奥さんを愛してないだけでなく、子供たちも愛してないわ」
「あんたにそう言ったのかね?」
「わたしにはわかってるの」
「あんたは彼をだましているんだろ?」
彼女は口をつぐむと、おそろしい顔をして彼をじっと見つめた。それから、
「だれかにそう言われたんでしょ?」
そして、ずっとにぶい声で、
「最初のころ、わたしがよくわからなかったときは、そうだったわ。わたしはほかの男たちを相手にするのと同じだと思っていた。わたしみたいに十四歳ではじめた場合には、そんなことはどうでもいいのよ。それを知ったときには、彼はわたしを殺すだろうと思ったわ。だから、わたしはそのことをかるがるしく口にしなかった。あんなにおそろしい男を一度も見たことなかったわ。彼は一時間も、天井をにらみ、両手をにぎりしめ、一言も口をきかないで、ベッドに横になっていた。それで、わたしは、彼はとっても悩んでいるんだな、と思ったわ」
「あんたはまたはじめたんだね?」
「二、三度ね。わたし、ほんとにばかだったわ」
「それ以後は?」
「してないわ!」
「彼は毎晩あんたに会いにきたのかね?」
「ほとんど毎晩」
「あんた、昨日は彼を待っていたの?」
彼女は躊躇した。自分の返事がメグレをどこへ導くことができるだろうと考え、アランをぜひとも守ってやりたいと思っているのだった。
「それがどうちがうって言うの?」
「あんたは買物をしに外へ出なければならない」
「でも、町の中までいかないわ。町角に小さな食料品屋があるから」
「そのほかの時間は、ここに閉じこもっていたの?」
「わたし、閉じこもってなんかいなかったわ。その証拠に、あなたにドアを開けたでしょ」
「彼はあんたに部屋に閉じこもっていろとは一度も言わなかったかね?」
「どうして、それがわかったの?」
「彼はそう言ったんだね?」
「一週間ね」
「近所のものはそれに気づいたかね?」
「ええ」
「それで彼はあんたに鍵を返したんだね?」
「知らないわ。あなたがどうしようと思ってるのか、ちっともわからないわ」
「あんたは彼を愛しているね?」
「彼を愛していないで、わたしがこんな暮らしをしていられると思う?」
「彼はあんたに金をくれるのかね?」
「それができるときにはね」
「彼は金持だと思っていたがね」
「みんな、そう思ってるわ。彼が毎週父親に小遣いをせびらなければならない若い男のケースにぴったりだからだわ。あの人たちはみんな一つ屋根の下で暮らしているわ」
「なぜ?」
「そんなこと、わたしが知ってると思う?」
「彼は働くことができた」
「それは彼の問題よ、ちがう? 何週間も、父親はお金をやらないで彼を放っておくのよ」
メグレはパンとバターしかのっていないテーブルをながめた。
「今もそうなのかね?」
彼女が肩をそびやかした。
「これで何ができるって言うの? わたしも、昔は、人が金持だと思っている人たちのことをいろいろと空想したわ。外面《うわべ》だけね! 外から見ると大きな家でも、中はからっぽね。あの連中は年寄りからみみっちい金をまきあげようと、しょっちゅうけんかしてる。ご用ききたちが支払ってもらうのに何カ月も待つってことも、たびたびあるのよ」
「アランの細君は金持だと思ってたがね」
「金持だったら、アランとは結婚しなかったでしょうよ。あの女はアランが金持だと思いこんでたのよ。まるで反対だってことに気がつくと、あの女はアランを毛ぎらいしはじめたわ」
かなり長い沈黙があった。メグレは夢うつつでゆっくりとパイプにたばこをつめた。
「何を考えてるの?」と彼女がたずねた。
「あんたは彼を本気で愛していると思う」
「それだけ?」
彼女の皮肉は手きびしかった。
「わたしがふしぎなのは」と彼女がつづけた。「なぜ、みんなが何もかも彼のせいにするかってことよ。新聞を読んだわ。ちっとも正確なことを言ってないけど、彼は疑われていると思うわ。さっきだって、女たちが中庭でしゃべってるのが窓から聞こえたけど、あんなに大きな声ではっきり言うんだから、わたしには言ってることがみんな聞こえたわ」
「何て言っていた?」
「気違いをさがしているなら遠くまで捜しにいくことはないって」
「あの連中はあんたのところで起きたけんかさわぎを聞いていたのだろう」
「それでどうだって言うの?」
彼女はとつぜんほとんど狂ったように腹を立てて、椅子から立ちあがった。
「あんただってそう思ってるのよ。彼がわたしのような娘を愛しはじめたものだから、わたしがそういう娘であることに彼が嫉妬《やきもち》をやいているものだから、あなたも彼が気違いだって思いこもうとしているでしょう?」
今度はメグレが立ちあがって、なだめようと片手を彼女の肩におこうとしたが、彼女は腹を立てて彼をおしのけた。
「そう思ってるなら、そうだと言いなさいよ」
「私はそうは思っていない」
「あんたは、彼は気違いだと思ってるんでしょう?」
「確かにちがうね、彼はあんたを愛しているのだから」
「でも、やっぱり気違いでしょ?」
「反対の証拠が出るまで、私にはそういう結論に至る理由は一つもない」
「それ、はっきり言って、どういうこと?」
「そりゃ、あんたがいい娘で、それに……」
「わたしはいい娘じゃないわ。わたしはパンスケだし、汚れた女だわ。だから、わたしなんか……」
「あんたはいい娘だ。だから、あんたには、真犯人を見つけるためにできるだけのことをすると約束するよ」
「やっと彼じゃないってことがわかったのね?」
メグレは返事にこまって息を切ると、平気をよそおってパイプに火をつけはじめた。
「もう彼のことは言わないわね!」
「あんたはいい娘だよ、ルイーズ。おそらく、またあんたに会いにくるだろう……」
しかし、彼女はメグレに対する信頼を失ってしまっていた。そして、彼の背後でドアをしめながら、彼女はぶつくさ言った。
「あんたも、あんたの約束も、信用できるもんか!……」
下から悪童たちがようすをうかがっている階段で、メグレは彼女が自分自身にこうつけくわえるのを耳にした。
「あんたはやっぱりきたないポリ公にすぎないわ!」
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第五章 ブリッジの勝負
八時十五分にクレマンソー通りの家を出るとき、二人は一瞬あとずさりしそうになった。それほどとつぜん二人を包んだ穏やかさと静けさはおどろくほどだったのだ。
夕方の五時ごろ、空が一天にわかにかき曇り、町のいたるところに燈をつけなければならなかった。雷が二度短いがはげしくとどろき、最後に雲の中身をぶちまけたように降ってきたが、それは雨ではなく雹で、道いく人々がまるで突風に掃き出されるように姿を消すのが見えた。その間に白いボールがピンポン玉のように舗道の上でとびはねた。
メグレはこのときちょうどカフェ・ド・ラ・ポストにいたが、ほかの客と同じように立ちあがった。
みんなは窓ぎわに立って、あの花火を追うのと同じ目つきで道をながめていた。
今、その雹も降りやみ、みんなはとほうにくれて雨の音も風の音も耳に入らず、そよとも動かない大気の中を歩くか、あるいは頭をあげて家々の屋根の間の星をながめるかしていた。
おそらく、二人の足音だけがかき乱す静けさのせいだろうが、二人はヴィエト広場に向かって道をのぼりながら、一言も口をきかないで歩いていた。ちょうど広場の角にさしかかったとき、二人は一人の男とすれちがった。男は外套を着た腕に腕章をまき、片手に棍棒を持って、身じろぎもしないで暗闇の中に立ち、一言も声をかけないで、二人を目で追った。
それから数歩いってから、メグレが何か質問をしようと口を開いた。すると、それと察したシャボが、ぎごちない声で説明した。
「事務所を出かけるちょっと前に、警視から電話がかかってきた。この警戒は昨日から慎重に準備されたものだ。今朝、町の浮浪者たちが各家の郵便箱に呼び出し状をくばって歩いた。会議が六時に開かれ、連中《ヽヽ》は自警団を作った。
連中《ヽヽ》は浮浪者たちとは関係なかったが、町の反応とは関係があった」
シャボはつけくわえた。
「われわれとしてはああいうふうに警戒せざるを得んのだよ」
ラブレー通りのヴェルヌーの家の真前には、また三人の腕章をつけた男が歩道に立っていて、二人が近づくのをながめていた。が、パトロールしているのではなく、そこで見張っているのだったが、まるでメグレたちを待ち受けていて、おそらく二人が家の中へはいるのをとめようとしているのだ、と思われかねなかっただろう。メグレは三人の男のうちのいちばん小柄な男に、教師のシャリュスのやせたシルエットをみとめた。
かなりびっくりさせられた。シャボは入口に向かって進むのを躊躇した。そのままきた道をつづけようとしたかっただろうに。まだ暴動や擾乱の気配は感じられなかったが、住民たちの不満をこれほど明白に表わしている証拠に出会ったのははじめてだった。
外面《うわべ》は落ちつき、非常に威厳を見せ、少なからず厳粛な態度をとりながら、予審判事はとうとう玄関前の階段をあがって、入口のノッカーを持ちあげた。
背後には、ささやきもひやかしも聞かれなかった。あいかわらず身じろぎもしないで、三人の男はシャボのすることをながめていた。
ノッカーの音が、まるで教会の中でひびくように、家の内部で反響した。するとすぐに、前からそこで二人を待っていたかのように、家令がドアの鎖と閂をはずすと、黙ってお辞儀をしながら二人を招じいれた。
ふだんはこんなふうではなかったに相違ない。なぜなら、ジュリアン・シャボが、おそらくはきたことを後悔しながら、客間の敷居の上でしばらくつっ立っていたからだ。
舞踏室くらいも広い部屋に、クリスタルの大シャンデリヤがともされ、あちこちのテーブルの上にも燈が輝き、部屋の四隅や煖炉のまわりには、四十人の客をすわらせるのに十分なくらいの数の肘掛椅子がかためておいてあった。
さて、この部屋のいちばん端に、ただ一人の男がいた。白い絹のようなひげをはやしたユベール・ヴェルヌーで、ルイ十三世時代風の大きな肘掛椅子から身を起こして、片手をさし出しながら、二人に会いにやってきた。
「メグレさん、昨日、汽車の中であなたに申しあげましたな、あなたはきっとわしに会いにくると。それに、わしは今日、きっとあなたをおつれするようにと、シャボに電話しときましたからね」
彼は黒ずくめだったが、服はどうやらスモーキングに似ていて、片めがねをリボンでつって胸にたらしていた。
「家族たちはすぐまいります。なぜみんな降りてこないのかな」
電燈の暗い列車の車室の中では、メグレにはユベール・ヴェルヌーの顔がよく見えなかった。今、ここで見ると、男は思っていたよりずっと老けているようだった。さっき客間を通りすぎたとき、彼の歩き方は痛風のために機械的でぎごちなく、その動きはまるでバネ仕掛けで動かされているようだった。顔はむくんで、ほとんど着色したようなバラ色だった。
なぜメグレは、年老いてもなお自分の役を演じつづけようとして、お客たちにすでに半分死んでいると気づかれはしないかとおびえながら生きている俳優を想像したのだろう?
「あなたがいらっしゃったことを家のものに伝えさせなきゃ」
彼はベルを鳴らして、家令を呼んだ。
「家内は支度できたかい。リュシルにも、ドクターにも、嫁にも知らせなさい」
どこかおかしかった。彼は家族はここへこないほうがいいと思っていた。その彼を落ちつかせようと、シャボがすでに用意してある三つのブリッジのテーブルをながめながら言った。
「アンリ・ド・ヴェルジェンヌはきますか?」
「電話でこられないと言ってきたよ。嵐で城館の庭の道がくずれて、自動車を出せないんだそうだ」
「オーマルは?」
「代書人は今朝からかぜでね。正午《ひる》まで寝てたそうだ」
要するに、だれもこないのだろう。だから、家のものたちも階下へ降りてくるのを躊躇していたのだ。家令は再び現われなかった。ユベール・ヴェルヌーがテーブルの上のリキュールを指さした。
「一杯おやりになってはどうですかな? わしはちょっと失礼します」
彼は自ら家族を呼びにいき、鉄の手すりにつかまって石造りの大階段をのぼった。
「ふだんは何人くらいこのブリッジに参加するのかね?」とメグレが小声でたずねた。
「大勢じゃない。家族のほかに五、六人だ」
「きみがやってくるとき、たいていだれが客間にいる?」
シャボが残念そうに首でうなずいて合図した。だれかが音もなくはいってきたのだ。ドクターのアラン・ヴェルヌーだったが、別に変わってはいなくて、朝のときと同じプレスの悪い三つぞろいを着ていた。
「お二人だけですか?」
「父上は二階へいかれたよ」
「階段で出会いました。女どもは?」
「父上が呼びにいかれたと思うよ」
「もうほかの人たちはこないんでしょうね?」
アランは重いカーテンがさがっている窓のほうへちょっと首をまわした。
「見たでしょう?」
と言い、それが何のことを言っているのか、相手はすでに百も承知ということがわかっているので、先をつづけた。
「連中は屋敷を見張っているんですよ。裏の露地のほうの入口の前にも見張りを立たせているにちがいありません。たいへん結構なことです」
「なぜ?」
「だって、もし新しい犯罪が起こっても、この家のだれかに罪をなすりつけることはできないでしょうからね」
「あなたは新しい犯罪が起こると思っているのかね?」
「気違いの仕業だったら、連続する犯罪がこれで終りになるわけがありませんものね」
ドクターの母親のヴェルヌー夫人が、夫につきそわれてはいってきた。ヴェルヌー氏は、まるで細君に階下に降りる決心をさせるために言い争ったみたいに、興奮した顔つきをしていた。夫人は六十歳くらいだったが、頭髪はまだ褐色で、目のまわりに深いくまを作っていた。
「パリ司法警察のメグレ警視だよ」
夫人はそれとわかるかわからないくらいに頭をさげると、彼女の専用にちがいない肘掛椅子にすわりにいった。通りがかりに、判事にこっそり目をやっただけだった。
「こんばんは、ジュリアン」
ユベール・ヴェルヌーが口を開いた。
「義妹《いもうと》は今すぐ降りてきます。さっき、電気が故障しましてね。夕飯が遅れてしまったんです。これは町全体の停電でしょうな?」
彼はただしゃべるためにしゃべっていた。それぞれの言葉は意味を持つ必要がなかった。彼は空虚な客間を埋めなければならなかったのだ。
「葉巻はいかがですかな、警視?」
フォントネイにきてから二度目だったが、メグレは葉巻を一本受けとった。ポケットから思い切ってパイプを出せなかったからだ。
「アラン君、きみの奥さんは降りてこないのかね?」
「たぶん、子供たちにひっかかっているんでしょう」
母親のイザベル・ヴェルヌーは、どう折合いをつけたか知らないが、ちょっとだけ階下に顔を出すことに同意したものの、ブリッジには積極的にくわわるまいと決心していることは明らかだった。彼女は刺繍の仕事を手に持ってきていて、みんなの言うことには耳をかさなかった。
「警視、ブリッジをおやりになるでしょう?」
「がっかりさせて申しわけないが、私はブリッジを一度もしたことがないのです。拝見して楽しませていただこうと思いますよ」
ユベール・ヴェルヌーが判事の顔を見た。
「じゃあ、どういうふうにやろうかね? リュシルはきっとやるだろう。それから、あんたとわしと、アランもおそらく……」
「いや。ぼくをあてにしないでください」
「すると、あとはジャンヌだけじゃないか。おまえ、あれがすぐ支度できるかどうか見てきてくれんか?」
たいへんなことになってしまった。家の女主人をのぞいて、だれもなかなか腰をおろす決心がつかなかった。葉巻のおかげでメグレは落ちついていた。ユベール・ヴェルヌーも葉巻に火をつけていて、みんなのグラスにせっせとブランデーをついでいた。
家の外で警戒にあたっている三人の男たちに家の中でことがこんなふうに運ばれていることが想像できただろうか?
リュシルがとうとう降りてきた。もっとやせて骨張ってはいたが、姉に生き写しだった。彼女もメグレをちらっと見ただけで、まっすぐにブリッジのテーブルのほうへ歩いてきた。
「はじめるの?」と彼女がたずねた。
それから、それとなくメグレを指しながら、
「あの人はするの?」
「いいえ」
「じゃあ、だれがするの? なぜ、わたしに階下《し》におりてこいと言ったの?」
「アランはジャンヌを呼びにいったよ」
「あの人はこないわよ」
「なぜ?」
「神経痛だから。子供たちが夕方ずっとうるさかったのよ。家政婦が暇をとって出ていってしまったわ。だからジャンヌが赤ん坊のお守りをしてるわ……」
ユベール・ヴェルヌーが顔をぬぐった。
「アランが|あれ《ヽヽ》に決心させるだろう」
それから、メグレのほうを向いて、
「あなた、お子さんがおありか知らんが、おそらく大家族の家ではいつもこうなんでしょうな。みんな、めいめい勝手なことをする。めいめい、仕事だ、好みだと……」
もっともだった。アランが妻をつれてきた。どちらかと言うとまるまるとふとった平凡な女だったが、泣いたあとと見えて目が赤かった。
「ごめんなさい……」と彼女は舅《しゅうと》に言った。
「子供たちに手こずっちゃったんです」
「家政婦が暇をとったって?……」
「そのことは、明日、お話しします」
「こちらは、メグレ警視だよ……」
「はじめまして」
ジャンヌに片手をさしのべたが、それは暖か味のない無気力な手だった。
「さあ、はじめようか?」
「そうしよう」
「だれがやるの?」
「警視、あなたはほんとうにやりたくないんですか?」
「ええ、ほんとに」
ジュリアン・シャボは、すでに腰をおろしていたが、家族のものの気心を知っていたので、カードを切って、緑色のクロスの中央に積んだ。
「リュシル、あなたからだよ」
リュシルがキングをめくり、彼女の義兄はジャックをめくった。判事とアランの妻はそれぞれ三と七をめくった。
「われわれは組だね」
これで三十分近くたっていたが、みんなはついに腰を落ちつけてしまっていた。ひっこんだ部屋の隅からイザベル・ヴェルヌーはだれも見ていなかった。メグレはみんなから少しさがって腰をおろし、ユベール・ヴェルヌーの肩越しにその勝負ぶりを見ると同時に、リュシルがやるところも見ていた。
「パス」
「ワン・クラブ」
「パス」
「ワン・ハート」
ドクターは、どこに身を置いたらいいかわからないという格好で、ずっと立っていた。みんなはゲームに熱中していた。ユベール・ヴェルヌーはおそらく警視がいるためだろうが、この家でせめて上面だけでも正常な生活を保持しようと、ほとんど強引に家族たちを集めたのだった。
「ねえ! いいの、ユベール?」
ユベールのパートナーのリュシルが、彼に、あなたの番だと催促した。
「ごめん!……ツー・クラブ……」
「たしかにあなたはスリーと言わなくていいのね? わたしはあなたのクラブに対してハートを宣言したわ。つまり、わたしは少なくともビッド二回で……」
このあたりから、メグレはゲームを熱中して見はじめた。と言ってもゲーム自体に熱中したのではなく、ゲームをしているものたちの性格に啓示されるものに熱中したからだった。
たとえば友人のシャボは、メトロノームのようにきちょうめんな性格で、彼の宣言は大胆でもなければ臆病でもなく、正確になされるべくしてなされるといったふうだった。持ち札を冷静にすて、パートナーには何の注意もはらわなかった。せいぜい、ジャンヌが彼にうまく音頭を合わせないときに、不満の影が顔にさすくらいだった。
「ごめんなさい。スリー・スペードと答えなければならなかったんでしょ」
「そんなことはどうでも構いませんよ。あなたは私の手の内を知ることはできないんだから」
三回目にはいると、彼は宣言して、リトロ・スラムに成功し、こう弁解した。
「簡単すぎたよ。なに、はじめから手《ヽ》がよかったんだよ」
ジャンヌはよくミスをしては、平静になろうとつとめていた。そして持ち札が残ると、助けを求めようとまわりを見まわした。カードを指でおさえて、相談するようにメグレのほうを向くこともあった。
彼女はブリッジが好きではなく、ただメンバーをそろえるためにいなければならないから、そこにいるだけだった。
反対に、リュシルは個性をさらけ出してテーブルを牛耳っていた。一勝負終るごとに解説し、やわらかいようだがトゲを含んだまなざしをあちこちになげるのは彼女だった。
「ジャンヌがツー・ハートと宣言したんだから、あなたはどちらからフィネス〔高点の札を残しておいて低い点の場札をとろうとすること〕するかわかるべきだったのよ。悪いことに、ジャンヌはハートのクイーンを持ってたわ」
しかし、彼女の言うことはもっともだった。彼女の言うことはいつももっともなのだ。その小さな黒い目はカードの表を見すかしてしまうようだった。
「今日はどうかしてるのですかね、ユベールさん?」
「いや……」
「まるではじめてブリッジをしているみたいじゃないですか。人の宣言を聞いているだけだ。われわれは三回に一回は切り札なしで勝てたでしょうが、あなたはクラブを四枚要求しても一回も勝てなかった」
「そう言われると思っていたよ」
「ダイヤを持っていることをあなたに言う必要はなかったね。あなたが……」
ユベール・ヴェルヌーは負けをとり戻そうとした。まるでルーレットで、一度は損をしても、次は|つき《ヽヽ》が自分にまわってくるという希望にしがみついて、今すてたばかりの札が持っていかれるのを腹を立ててにらみながら、ありとあらゆる数の札を試してみる勝負師のようだった。
ほとんど常に、彼はパートナーの札をあてにして、自分の手札以上に宣言し、パートナーに札がないことがわかると、葉巻の吸口を神経質にかむのだった。
「リュシル、はじめのツー・スペードを宣言したことはぜったいに正しかったよ」
「スペードのポイントもダイヤのポイントも持っていなければね」
「でも、わしは……」
彼は自分の持ち札を数えてみて、かっとしてしまった。それをリュシルは残忍な冷たい態度でながめていた。
再び浮かびあがろうとして、彼はあいかわらず一か八かの宣言をし、そうなるともうブリッジではなくポーカーになってしまうほどだった。
アランはしばらく母親の相手をしにいっていた。戻ってくると、みんなのうしろに立って、めがねでぼやけたそのこわい目で、カードを興味なさそうにながめていた。
「少しはわかりましたかね、警視?」
「ルールはわかっているんです。だから、ゲームを追うことはできますが、実際にやるのはどうもね」
「おもしろいですか?」
「とてもおもしろいですね」
アランはいっそう注意深く警視をながめ、警視の興味がカードよりはむしろゲームをしているものたちの態度にあることを理解したようだった。そして、うんざりしたような顔つきで叔母と父親をながめた。
シャボとアランの妻が最初の三番勝負に勝った。
「パートナーをかえたら?」とリュシルが言い出した。
「せめて、わしたちが負けただけはとり返さなくては」
「わたしはパートナーをかえたほうがいいわ」
ところがパートナーをかえたのは、彼女の失敗だった。彼女はシャボと組んだが、シャボはミスをしなかったし、そういう彼女に文句をつけることはできなかった。ジャンヌはゲームが下手だった。しかし、おそらく、彼女がいつまでも非常に低い点数で宣言したからだろうが、ユベール・ヴェルヌーがつづけざまに二ゲーム勝った。
「これは|つき《ヽヽ》以外の何ものでもないね」
が、それは全部ほんとうというわけではなかった。彼は確かに手《ヽ》がよかった。しかし、もし彼がそれほど大胆に宣言していなかったら、勝っていなかっただろう。というのは、パートナーが彼によこす札に対して彼に希望を抱かせることは、ぜったいにできなかったからだ。
「つづける?」
「もう一勝負しよう」
今度は、ヴェルヌーは判事と組み、二人の女性がいっしょだった。そして勝ったのは男性組だった。それでユベール・ヴェルヌーは三回のうち二回勝った勘定だった。
終って彼は、このささやかなゲームが彼にとっては大いに重要なことだったかのように、ほっと安心していた。額の汗をぬぐうと、飲み物をつぎにいき、メグレにグラスを持ってきた。
「義妹《いもうと》が何と言おうが、わしがとても臆病なのがよくわかったでしょう。義妹《いもうと》によくのみこめんのは、どんなトランプのゲームででも、敵の思考のメカニズムをつかむことに成功すれば、勝負は半分勝ったも同然という点ですよ。農地や土地を売る|コツ《ヽヽ》も同じです。買い手が頭の中で考えていることを知るべきで……」
「おやめなさいよ、ユベール」
「何?」
「こんなところで、お仕事の話なんかしていいの?」
「こりゃ失礼。女どもは金をもうけることは好きなくせに、どういうふうにもうけるかは知りたがらないことを忘れていた」
これもやはり軽率な発言だった。妻が遠くの肘掛椅子から彼をたしなめた。
「あなた、お飲みになったんでしょう?」
メグレは彼がコニャックを三、四杯飲むのを見ていた。実は、ヴェルヌーの酒の飲み方にびっくりしていたのだ。ヴェルヌーは妻と義妹に見られないようにと願いながら、まるで飲みにげるみたいに、こっそりと、グラスに酒をみたしたのだった。そして、一息に飲みこむと、そ知らぬ顔を装って、警視のグラスに酒をついだのだ。
「二杯飲んだだけだよ」
「だから、もう酔っぱらってるのよ」
「そろそろ」とシャボが立ちあがってポケットから時計をひっぱり出しながら言いはじめた。
「引きあげる時間だよ」
「まだ十時半じゃないか」
「私には仕事が山とあることを忘れてもらってはこまるね。メグレもそろそろ疲れはじめているにちがいないし」
アランはがっかりしたようだった。その晩ずっと、ドクターはメグレを何とか部屋の隅へひっぱっていこうと思いながら、彼のまわりをうろうろしていた、とメグレは断言してもよかった。
ほかのものたちは二人を引きとめなかった。それでユベール・ヴェルヌーもたってとは言わなかった。二人が帰ってしまい、ユベールだけが三人の女たちと顔をつき合わせたら、どういうことになるだろう? アランはものの数にはいらなかったからだ。それは目に見えていた。だれもアランなど構わなかったのだ。彼はおそらく自分の部屋か研究室にあがるだろう。彼の妻は彼よりも家族たちのものだった。
要するに、ここは女の家族だったのだ。メグレはそれをすぐに見ぬいた。ユベール・ヴェルヌーには、おとなしくしているという条件でブリッジをすることをゆるしたのだった。そして、彼をまるで子供のようにたえず監視していたのだ。
こういうわけで、彼は家の外では自ら創作した人物に絶望的にかじりつき、服装の細かい点にまで気を使っていたのだろうか?
それをだれが知ろう? おそらく、さきほど、二階へ女たちを呼びにいって、自分にやさしくしてくれるように、女たちの目に卑屈になることなく一家の主としての役柄を演じさせてくれるようにと、女たちに懇願したのだろう。
彼はコニャックの壜のほうをうらやましそうに見た。
「警視、最後に一杯、イギリス人が寝酒《ナイト・キャップ》と呼んでいるやつをどうですかな?」
メグレは大してほしくなかったが、彼にも一杯飲ませてやるチャンスをあたえてやろうと、「いただきましょう」と言った。そしてヴェルヌーが、グラスを唇に持っていく間に、彼の妻がこちらをじっと見ているのに気づき、ヴェルヌーの手が宙にまよい、それからグラスを置くのを目にした。
判事と警視が玄関にいくと、そこで家令が二人の衣服を持って待っていた。アランがつぶやいた。
「そこの道の角までお送りしましょうか」
彼は女たちの反応におびえてはいないようだった。女たちの反応はとつぜんのものだったようだ。彼の妻は異議をとなえなかった。彼が生活の中で占める場所はわずかしかあたえられていなかったから、彼が家から出ようが出まいが、妻にはどうでもいいことにちがいなかった。彼女は姑に近づいて、姑の刺繍をうなずきながらほめた。
「退屈しませんでしたか、警視?」
「ちっとも」
夜気がすずしかった。ここ数日の夜のとはまた別のすずしさで、それを胸いっぱいに吸い、ずいぶん久しぶりでまた元の場所に見つけた星に挨拶したかった。
腕章をつけた三人の男が、あいかわらず歩道にいたが、今度は一歩さがって三人を通してくれた。アランは外套を着ていなかった。外套かけの前を通りすがりに、ソフト帽をかぶったが、それは最近の雨のために形がくずれてしまっていた。
こうして彼が身体を前にかがめ、両手をポケットにつっこんだところは、結婚して子供もある男というより最終学年の学生に似ていた。
ラブレー通りでは、三人はしゃべることができなかった。声が遠くまでひびき、背後に三人の見張りがいることを意識したからだ。アランはヴィエト広場の角で見張りに立っている男のそばをかすめてとびあがった。が、一度も見たことのない男だった。
「町じゅうに見張りがおいてあるようですね?」と彼がささやいた。
「そうにちがいない。交代するんだろう」
ほとんどの窓が燈りがついていなかった。町の人々は早く寝てしまったのだ。レピュブリック通りをずっと遠くまで見渡すと、はるかかなたにまだ開いているカフェ・ド・ラ・ポストの燈りが見え、ぽつんぽつんと見える二、三人の通行人も、一人また一人と姿を消した。
判事の家にたどりついたとき、まだしばらく言葉をかわす時間があった。シャボが心残りのようにささやいた。
「はいらないかね?」
メグレはだめだと言った。
「母上を起こしてはいけない」
「母は寝ていないよ。おれがもどるまでは決して寝ないんだ」
「あすの朝、会おう」
「ここで?」
「裁判所へいくよ」
「おれは寝る前にあちこちへ電話しなきゃならん。たぶん、新しいニュースがあるだろ?」
「おやすみシャボ」
「おやすみ、メグレ。おやすみ、アラン」
彼らは握手をした。鍵が鍵穴の中でまわり、一瞬後にはドアがまた閉まった。
「ホテルまで送りましょうか?」
通りにはもう二人しかいなかった。明るい空間にさしかかると、メグレは一瞬、ドクターがポケットから手を出して、鉛管の切端かスパナか、何か堅いもので自分の頭をなぐりつける幻想を抱いた。
彼は答えた。
「送ってもらおうかね」
二人は歩いた。アランはすぐには話す決心がつかなかった。とうとう話しかけたとき、それは質問になっていた。
「あれをどう思いますか?」
「あれって?」
「うちの親父のことです」
メグレはどう答えることができただろう? 興味があるのは、そういう質問が出された事実と、若いドクターが家を出てきたのはほかならぬこの質問をするためだったという事実だった。しかし、
「お父さんはどうもしあわせだとは思えないね」とメグレは言ったが、そのことにさして確信があるわけではなかった。
「しあわせな人間がいるんでしょうか?」
「少なくとも、ある時期は、しあわせな人間はいるさ。あんたはふしあわせかね、ヴェルヌー君?」
「ぼくですか、ぼくなんか問題じゃありません」
「でも、あんたは喜びの分け前を手にいれようとしている」
こわい目がメグレをじっと見すえた。
「何を言いたいんですか?」
「何にも。あるいは、あんたがその気になれば、絶対的にふしあわせな人間は存在しないよ。みんな、それぞれ、何かにかじりついて、一種のしあわせを創造するのさ」
「それがどういう意味なのか、あなたにはわかっているんですか?」
そして、メグレが返事しないので、
「それが、ぼくが代償と呼ぶものを捜し求めるため、精神錯乱や、ときには狂気が生む是非もない幸福を探し求めるためだということを、あなたは知っているんですか? こうしている今も、カフェ・ド・ラ・ポストで飲んだりカードをしたりしている人間たちは、そういうことに楽しみを見つけているのだと信じようとしているのですよ」
「じゃ、あんたは?」
「ぼくには質問の意味がわかりません」
「あんたは、その代償を捜し求めないのかね?」
今度は、アランはおびえて、メグレがもっと多くのことを知っているのではないかと疑い、それをメグレに聞こうか聞くまいかと迷っていた。
「あんたは、今日の夕方、兵営のある地区にいこうとしたね?」
警視がこうたずねたのは、むしろ憐憫からで、アランから自分の疑惑を追いはらうためだった。
「あなたは知っているんですか?」
「うん」
「彼女と話したんですか?」
「長いことね」
「彼女はあなたに何て言いました?」
「何もかも」
「ぼくはまちがっていますか?」
「私はあんたを裁かない。代償を本能的に捜し求めることを呼びさましたのはあんただ。あんたの父上の代償は何だろうね?」
二人は声を低くしていた。ホテルの開いた入口の前にきていたからだ。ホテルのホールには、燈りが一つだけまだともっていた。
「なぜ返事しないのかね?」
「どう返事していいかわからないからです」
「父上には色っぽい話はないのかね?」
「きっとフォントネイではないでしょう。父はよく知られているし、そんなことしたらすぐわかってしまうでしょう」
「あんたの場合は? やっぱり知られているのかね?」
「いいえ。ぼくの場合は父と同じじゃありません。父がパリやボルドーへいくときは、気晴らしをするのだと思います」
彼はひとり言のようにこうつぶやいた。
「かわいそうなパパ!」
メグレがおどろいてアランをながめた。
「あんたは父上を愛しているのかね?」
アランがおとなしく答えた。
「いずれにしても、父はかわいそうだと思います」
「父上はずっとああいうふうだったのかね?」
「もっとひどかったですよ。母と叔母は、多少おとなしかったです」
「母上たちは父上の何が気にくわないのかね?」
「父が平民の出だということ、村の宿屋で酔っぱらう家畜商人のせがれだということです。クルソン家のものたちは、かつては父を必要としたということで、父をぜったいにゆるさなかったんです、わかりますか? クルソンの祖父が生きていたころは、事態はずっと残酷でした。祖父は娘たちや息子のロベールよりも苛酷な人でしたからね。父が死ぬまで、この土地のクルソンのものたちはみんな、自分たちが父の金がなければ生きていけないことで父をうらむでしょう」
「クルソンの人たちはあんたをどう扱っているの?」
「ヴェルヌーの血筋のものとして扱っています。ぼくの妻は、父親がカドゥイユ子爵だったから、母や叔母とぐるになっています」
「そういうことを、あんたは今晩、わたしに話すつもりだったんだね?」
「わかりません」
「父上のことを私にぜひ話そうとしていたんだろ?」
「ぼくはあなたが父のことをどう思っているか知りたかったんです」
「ことに、私がルイーズ・サバチの存在を発見したのかどうか知りたいと気にかかっていたんじゃないのかね?」
「どうしてわかったんですか?」
「匿名の手紙でわかったのさ」
「判事は知っていますか? 警察は?」
「彼らは気がついていない」
「でも、すぐ気がつくでしょうね?」
「殺人犯人ができるだけ早く見つかれば、気づかないだろう。その手紙は今ポケットに持っているよ。ルイーズと会ったことは、シャボには話さなかったよ」
「なぜ?」
「今の捜査状態では、ルイーズのことが関心を呼ぶとは考えないからだ」
「彼女は事件とはまったく関係ありませんよ」
「ねえ、ヴェルヌー君……」
「はい」
「あんたはいくつになる?」
「三十六です」
「いくつのときに学校を終えたの?」
「二十五で医学部を卒業して、それからサン=タンヌで二年間インターンをしました」
「自分の力で生きてみようとしたことは一度もなかったかね?」
彼はとつぜん気をそがれたようだった。
「返事しないのかね?」
「返事する必要はありません。あなたはわかってくれないでしょう」
「勇気がないのかね?」
「そう言われるだろうと思っていましたよ」
「しかし、きみは父上を守るためにフォントネイ=ル=コントヘもどってきたんじゃないのかね?」
「ねえ、それはとても簡単なことであると同時にとても複雑なことなんです。ある日、ぼくは数週間ヴァカンスをすごすつもりでもどってきました」
「そして、そのままいついてしまったんだね?」
「そうです」
「無気力でそうなったの?」
「そう考えていただいてもいいです。正確にはそうじゃないけれど」
「自分で、ほかのことはできないと思ってしまったのかね?」
ここでアランはその話題をうち切ってしまった。
「ルイーズはどんなようすでした?」
「いつものとおり、だと思うね」
「おびえていませんでしたか?」
「きみはもう長いこと彼女に会っていないのかね?」
「二日間です。昨日の夕方、彼女の家へいきはしました。でも、会う勇気がありませんでした。今日の昼も会ってません。晩は、あちこちの通りをパトロールしている人間がいて、なおのことだめでした。最初の殺人があってから、世間はなぜわれわれ一家を非難しているのかわかりますか?」
「私もしばしば経験したことがある現象だね」
「なぜ、われわれをえらぶんですか?」
「彼らが疑っているのはだれだと思うね? 父上かね、きみかね?」
「彼らにとっては、犯人がわれわれ一家のうちのだれかでありさえすれば、あとはどうでもいいことなんですよ。母と叔母も今度のことを利用するでしょう」
足音が近づいてきたので、二人は黙らなければならなかった。足音の主は、腕章をつけ棍棒を持った二人の男たちで、通りすがりにメグレとアランの顔をじっとながめた。男たちの一人がメグレたちに懐中電燈の光をあて、遠ざかりながら、つれに大きな声で言った。
「メグレだ」
「もう一人はヴェルヌーの息子だ」
「確かにあいつだった」
警視はアランに勧めた。
「あんたは家にもどったほうがいいだろう」
「ええ」
「それから、あの連中といさかいしないように」
「ご親切に」
「何が?」
「何も」
彼は手を出さなかった。帽子をななめにかぶり、前かがみになって、橋の方角へ立ち去った。パトロールが足をとめて、アランが通りすぎるのを黙って見守った。
メグレは肩をそびやかすと、ホテルにはいって、部屋の鍵を渡されるのを待った。彼宛の手紙が二通あったが、おそらく匿名だろう。しかし、用箋は前にきたものと同じではなかった。筆跡もちがっていた。
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第六章 十時半のミサ
今日が日曜日だと知ると、メグレはうろうろしはじめた。その前にすでに、彼はごく小さかったころの秘密の遊びを行なっていた。妻にはぜったいさとられないよう注意しながら、彼女のかたわらで横になっていて、その遊びをしたことがあった。妻はそれを勘ちがいして、コーヒー茶碗を持ってきながら、彼にこう言った。
「何を夢見てるの?」
「なぜ?」
「あなた、天使に笑いかけてたわ」
その朝、フォントネイでは、両眼をあける前に、彼は瞼を通してさしこむ陽の光を感じた。いや、感じるばかりではなかった。ちくちくする感じのうすい皮膚を通して陽の光を見るような印象だった。そして、おそらくは皮膚の中で循環する血液のために、それは空の太陽よりも赤く、堂々としていて、まるで絵に描いたような太陽だった。
彼はこうした太陽のある全世界を、火花の束を、火山を、溶解した黄金の滝を創造することができた。万華鏡《カレイドスコープ》を使うやり方で、まつ毛を格子として使いながら、瞼をかるく動かすだけで十分だった。
彼は部屋の窓の上の軒でくうくう鳴くハトの声を、次に二つの場所で同時に鳴る鐘の音を聞いた。そして、ブルー一色であるにちがいない空にそびえる鐘楼を思い描いた。
彼はずっと通りの物音を聞きながら例の遊びをつづけていたが、ちょうどそのとき、人の足音が残すひびきと特徴のある静けさによって、今日が日曜日であることに気づいた。
長い間どうしようかと迷ったあげく、やっとサイド・テーブルの上の自分の時計をつかもうと腕をのばした。時計は九時半をさしていた。これがパリのリシャール・ルノワール大通りで、春がついにまたやってきていたら、メグレ夫人が窓をあけているにちがいないだろうし、シチューがとろ火で煮られている間に、化粧着を着、上靴をはいて、部屋の中を片づけているだろう。
彼は妻に電話しようと決心した。が、部屋には受話器がついてなかったので、階下の電話室へいってかけるまで待たなければならなかった。
彼は呼出しベルをおした。部屋係りが現われたが、彼女は前日の女より清潔で陽気だった。
「朝食をめしあがりますか?」
「いらない。コーヒーだけたっぷりほしい」
彼女がやはり穿鑿《せんさく》ずきな態度で彼をながめた。
「お風呂の湯をお出ししましょうか?」
「コーヒーを飲んでからでいいよ」
彼はパイプに火をつけて、窓をあけにいった。外気はまだ冷たくて部屋着を着なければならなかったが、すでにほのかな暖か味が感じられた。家々の正面や舗道は乾いてしまっていた。通りはひと気がなく、ときどき、通りかかる晴着を着た家族や手に紫色のリラの花束を持った田舎女を見かけた。
彼は長い間コーヒーを待たされたから、ホテルの一日はのろのろとはじめられているにちがいなかった。昨日の夕方受けとった二通の手紙はサイド・テーブルにのせてあった。一通は差出人の名前が書いてあった。筆跡は銅板画に書いたようにきれいで、墨のような黒インクを使っていた。
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やもめのジボンばあさんはヴェルヌー夫人が息子のアランを産んだときの産婆だったということを聞きませんでしたか? これは知っておくとたぶん役に立つでしょう。
敬具
アンセルム・ルムーシャン
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二つめの手紙は匿名だったが、上質の紙に書かれていて、おそらく用紙の頭書を抹消するためだろうが上部が切りとってあった。そして鉛筆書きだった。
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なぜ召使いたちを訊問しないのか? 彼らはだれよりもよく知っている。
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昨夜、寝る前に、この二行の手紙を読んだとき、彼は直観的に、この手紙はラブレー通りで彼を無言で迎え、そして帰るとき外套を着せてくれた家令が書いたものだと思った。毛が茶色で肉の引きしまったあの男は、四、五十歳だった。土地をたがやすことを好まず、自分もその出《ヽ》である百姓を軽蔑しきっているのと同じほど金持たちに憎悪を抱いている小作人の伜という印象を彼はあたえた。
彼の筆跡を手にいれるのはおそらくたやすいだろう。たぶん便箋もヴェルヌーのものだろう。
こういうことはすべて確かめるべきだった。これがパリだったら、ことは簡単だったろう。しかし、ここでは、結局、そんなことも彼の関知したことではなかった。
部屋係りがやっとコーヒーを持ってはいってくると、彼はたずねた。
「あんたはフォントネイの人かね?」
「ロージュ通りで生まれました」
「ルムーシャンとかいう男を知ってるかね?」
「靴屋ですか?」
「名前はアンセルムというのだ」
「わたしの母親の家の二軒隣りに住んでいる靴屋ですよ。鼻の上にハトのたまごくらいのイボがあります」
「どういう男かね?」
「何年前からか知りませんがやもめです。わたしが知るようになってからだってずっとやもめです。通りがかりの小娘たちをいやらしくからかってはこわがられています」
部屋係りはメグレをびっくりして見つめた。
「コーヒーをあがる前に、パイプを吸うんですか?」
「風呂の支度をしていいよ」
彼は廊下のつきあたりにある浴室へ風呂にはいりにいって、とりとめのない思いにふけりながら長い間湯につかっていた。ときどき、妻に話しかけようとするように口を開いた。いつも、風呂にはいっている間、彼は妻が隣室でいったりきたりするのを聞いていたのだ。
彼が階下に降りたのは十時半だった。ホテルの主人が、調理人の服装で、机の向こうから、
「予審判事から二度電話がございました」
「何時に?」
「最初のは九時ちょっと過ぎ、二度目のはついさきほどです。二度目のときに、あなたはもうすぐ降りていらっしゃる、と返事しておきました」
「パリに電話をかけられるかね?」
「日曜日ですから、たぶん、じきにかかるでしょう」
彼はパリの番号を言ってから、玄関へ外気を吸いにいった。今日は、彼をながめるものは一人もいなかった。にわとりがどこかさほど遠くないところで鳴き、ヴァンデ川のせせらぎが聞こえた。紫色の帽子をかむった老婦人がそばを通ったとき、彼女の服から香のにおいが漂ってきた、と彼は思った。
確かに日曜日だった。
「もしもし! あ、おまえか?」
「まだフォントネイにいるの? シャボさんの家から電話をかけてるの? あそこのお母さんはお元気?」
これには答えないで、彼のほうからたずねた。
「パリの天気は?」
「昨日の正午から春よ」
「昨日の正午からだと?」
「そうよ。お昼ご飯のあとすぐはじまったわ」
彼は日光を半分損したわけだった。
「そちらはどう?」
「やっぱりいい天気だ」
「風邪を引かなかった?」
「大丈夫だよ」
「明日の朝、帰るの?」
「そのつもりだ」
「確かじゃないの? わたしは……」
「たぶん、まだ五、六時間は引きとめられるだろう」
「何に引きとめられるの?」
「仕事さ」
「あなた、わたしに言ったわね……」
……彼はこの機会に休養すると言ったのだ、確かに! では、彼は休養しなかったのだろうか?
これでほとんど言うことはなくなってしまった。彼らはいつも電話でかわす言葉をかわしたのだった。
それから、彼はシャボの家に電話をかけた。ローズが判事は朝の八時に裁判所へいったと答えた。彼は裁判所へ電話をかけた。
「変わったことがあったのか?」
「うん。兇器が見つかったんだ。それで、さっききみに電話したんだ。でも、まだ寝てるっていう返事だった。こっちへこられるかい?」
「五、六分したらいくよ」
「裁判所のドアは閉まっている。窓からきみを見張ってて、ドアをあけるよ」
「うまくいってないのか?」
シャボは電話の向こうでうちのめされているようだった。
「それは、あとで話すよ」
メグレはそれでもまだゆっくり構えていた。ぜひとも日曜日をゆっくり楽しもうとしていた。が、やがて、レピュブリック通りをゆっくりと歩いていた。カフェ・ド・ラ・ポストでは、すでに椅子やテラスの黄色の小円卓が並べてあった。
その二軒隣りの菓子屋のドアがあいていて、メグレはまた歩度をゆるめて、甘いにおいを吸いこんだ。
鐘が鳴った。ジュリアン・シャボの家のほとんど真向かいの通りが、何となく活気づいてきた。群衆が聖母教会の十時半のミサから帰りはじめたのだ。が、人々のようすは、いつもの日曜日にそうあるはずのようすとはまったくちがっていた。忠実に家に向かってまっすぐ立ち去るものは、ごく少なかった。
広場に人だかりがいくつもでき、その連中は威勢よく議論はしないで小声で話し、ときどき、教区の信徒たちの波が流れているドアをながめながら口をつぐんだ。女たちも、手袋をはめた手に金縁の祈祷書を持って手間どっていた。ほとんどの女が春の明るい色の帽子をかむっていた。
教会の前庭の前に一台のぴかぴかの細長い自動車がとまっていて、ドアのかたわらに黒い制服を着た運転手が立っていたが、メグレはその男がヴェルヌー家の家令であることに気がついた。
あの家の連中は、四百メートルとはなれていないところに住んでいるくせに、いつも自動車にのって大ミサにくるのだろうか? ありそうなことだった。これはおそらくあの家の伝統の一つなのだろう。また、町で物見高い連中に触れるのをさけるために今日は自動車を使ったということもあり得た。
ちょうど彼らが出てきたところでユベール・ヴェルヌーの白髪の頭がほかのものよりぬきん出ていた。彼は帽子を片手にして、ゆっくりと歩いた。彼が玄関前階段のいちばん上の段にさしかかったとき、メグレは彼のかたわらに彼の妻と義妹と嫁の顔をみとめた。
群衆はいつとはなしに道をあけた。群衆は適切に言えば堵列したわけではないが、それでもやはりヴェルヌー家の人たちのまわりに空間ができて、すべてのまなざしがヴェルヌー家の一団に集中した。
運転手が自動車のドアをあけた。女たちがまずのりこんだ。次にユベール・ヴェルヌーが前の席にすわって、リムジンはヴィエト広場の方角へ滑っていった。
おそらくこのとき、もし群衆の中のだれかが言葉を投げるか、叫声をあげるか、身ぶりをするかしていたら、それだけでもう十分に群衆の怒りを爆発させていただろう。教会の出口とは別のところだったら、こういうことが起きるチャンスもあっただろう。人々の顔はけわしく、たとえ雲がすでに空から一掃されていたとしても、空気の中には不安が残っていた。
数人のものがメグレにおずおずと挨拶した。彼らはまだ彼を信頼していただろうか? 今度は、彼がパイプをくわえ肩をまるめて道をのぼって行くのをながめていた。
メグレはヴィエト広場をぐるっとまわってラブレー通りにさしかかった。ヴェルヌー家の真向かいの、反対側の歩道に、二十にもなっていない二人の青年が見張りに立っていた。彼らは腕章もつけていなかったし棍棒も持っていなかった。こういう携行品は夜間のパトロールにだけ持つことをゆるされているらしかった。それでもやはり彼らは当直中で、横柄な態度を示した。
メグレが通りかかると、一人が帽子をちょっとあげて挨拶したが、もう一人はしなかった。
六、七人の新聞記者たちが裁判所の玄関の階段にたむろしていたが、裁判所のあちこちの大扉は閉まっていて、ロメルが写真機をそばに置いて腰をおろしていた。
「あなたにはドアを開けるでしょうかね?」と彼がメグレに話しかけた。「ニュースを知っていますか?」
「どんなニュースだね?」
「兇器が見つかったらしいですよ。中で大会議を開いています」
ドアが細目にあいて、シャボがメグレに早くはいれと合図し、彼がはいってしまうと、新聞記者たちが数と力をたのみに侵入してくるのをおそれるかのように、掛金をかけてしまった。
廊下はうす暗く、ここ数週間の湿気がことごとく石の壁と壁の間によどんでいた。
「まず、とくにきみに話したかったんだが、できなかったよ」
判事の部屋には燈りがあった。検事がいて、椅子に腰かけて、紙巻たばこを口にくわえてうしろにそっくり返っていた。フェロン警視もいた。さらにシャビロン刑事がいたが、彼はメグレに勝ち誇ってしかもひやかすようなまなざしを投げずにはいられなかった。
すぐにメグレは机の上に、長さ二十五センチくらい、直径四センチくらいの鉛管の切端をみとめた。
「これかね?」
みんながそうだという合図をした。
「指紋はついていないのかね?」
「血のついた跡と髪の毛が二、三本くっついていただけだ」
その鉛管はくすんだ緑色のペンキで塗ってあり、台所か地下の酒倉か車庫の水道設備の一部だった。あざやかに切断してあり、数カ月前に職人の手で切られたものらしかった。鉛は艶を失うのに時間がかかるものだからだ。
その切端は、台所の流し台か何かを移動させたときに切りとられたものだろうか? そうらしかった。
メグレが鉛管はどこで見つかったのかとたずねようと口を開いたとき、シャボが言った。
「説明したまえ、刑事」
シャビロンは、この言葉しか待っていなかったくせに、慎ましい態度をとった。
「ポワチエでは、まだずいぶん旧式の捜査方法をとっています。私は同僚といっしょに、あの町の住民を全部訊問するとともに、隅々まで残るくまなく捜しにかかりました。ゴビヤールが殺《や》られた場所から数メートルのところに大きな門があります。この門はある馬喰の家の中庭に通じていてうまやにかこまれています。今朝、私は好奇心にかられてそれを見にいきました。まもなく、地面を覆っている堆肥の中で、これを見つけました。あらゆる可能性を考えてみると、犯人は被害者の足音を聞きつけて、これを塀ごしに投げつけたのです」
「だれが指紋を調べたのですか?」
「私です。フェロン警視が手伝ってくださいました。われわれはそちらの専門ではありませんが、指紋を検出するのはかなりなれております。ゴビヤールを殺《や》ったやつはきっと手袋をはめていたんでしょう。髪の毛については死体公示所《モルグ》へいって仏《ヽ》の髪の毛と比べてみました」
彼は満足しながら結論をくだした。
「ぴったり一致しました」
メグレは何か意見を述べることをさしひかえた。ちょっと沈黙があったが、とうとう判事がそれを破った。
「それで、今、どうしたらいいか討議しているところなんだ。この発見物は、少なくとも一目見たところでは、エミール・シャリュスの供述を裏づけているようだ」
メグレはやはり何も言わなかった。
「この兇器があの場所で発見されていなかったら、ドクターにとっては、カフェ・ド・ラ・ポストヘ電話をかけにいく前にこれを処分することはむずかしかった、と言うことができただろう。刑事が確かな判断の上に立って強調しているように……」
シャビロンは自分の考えたことは自分で言いたかった。
「犯人が犯行後、アラン・ヴェルヌーがくる前に実際に立ち去ったと仮定すると、アランが主張するところと一致します。これは三度目の犯行です。ほかの二つの犯行の場合、犯人は兇器を持ち去っています。ラブレー通りにもロージュ通りにも見つからなかったばかりか、犯人がこの同じ鉛管で三度襲ったことは明白らしいのです」
メグレは理解したが、シャビロンにしゃべらせておくほうがよかった。
「この場合、犯人には兇器を塀越しに投げつける理由が一つもありません。彼は追跡されていなかったのです。だれも彼の姿を見ていません。しかし、もしドクターが殺《や》ったと認めるなら、こんなぶっそうなものは処分しないわけにはいかなかったでしょう……」
「なぜドクターは警察に知らせたのだろう?」
「そうすれば彼に嫌疑がかからないからです。だれも通報したものを疑わないだろうと考えたのですね」
これもまた筋の通っている話だった。
「それだけではありません。ご存じでしょうが」
シャビロンはあとのほうの言葉を何か言いにくそうに口にした。メグレは彼の直接の上司ではないにしても、やはり面と向かって攻撃できない人物だったからだ。
「説明したまえ、フェロン君」
フェロン警視は当惑して、まずたばこを灰皿の中でおしつぶした。シャボは沈痛な面持ちで、メグレの顔を見るのをさけていた。ひとり検事だけが何かとても楽しいことをこれからしようとしている男のように、ときどき腕時計を見つめた。
小柄なフェロン警視は、咳払いをしてから、メグレのほうを向いた。
「昨日、私に、サバチという娘を知っているかと電話でたずねてきたものがいましたが……」
メグレは何の話か理解すると、とつぜんこわくなった。胸に不快感がこみあげて、パイプの味がまずくなりはじめた。
「……そのとき、私は当然、これは事件と関係があるんじゃないかと思いました。が、それをもう一度思い出したのは、夕方近くになってからでした。忙しかったのです。もう少しで部下をやるところでした。でも、夕食をたべにいきがてら、ぶらっとその娘の家に寄ってみようと思い返しました」
「あの家へいったんですか?」
「私の前にあなたがあの娘に会いにいかれたことを知りました」
フェロンは、それで非難されても当然というように、頭をさげた。
「あの娘があなたにそう言ったんですか?」
「すぐには言いませんでした。最初、あの娘は私のためにドアをあけることを拒みました。それで、私は非常手段を用いなければなりませんでした」
「あの娘を脅迫したんですか?」
「そんなふざけたまねをするとあとで高くつくかも知れんぞと言ってやったのです。そうしたら、中へいれました。私はあの娘の片方の目がぶたれて黒ずんでいるのに気がつきました。それはどうしたんだとたずねました。三十分以上も、彼女は軽蔑しきった態度で私をながめながら、鯉のように黙りこくっていました。でも、私が連行しようと腹を決めてしまえば、ああいう娘に吐かせるのはいとも簡単です」
メグレは両肩にずしりと重いものを感じた。それはただルイーズ・サバチの身に起こったことのためばかりか、フェロン警視の態度のせいでもあった。フェロンは話をするのに躊躇してみせ、上面《うわべ》は謙遜しているくせに、実は心の中では、自分のしたことをとても誇っているのだった。
彼はこの自衛する手段を一つも持っていない下層階級の娘を喜び勇んで襲ったようだった。つまり、彼自身、下層階級の出身であるにちがいなかった。彼が攻撃したのは、ほかならぬ自分の同類の娘だったのだ。
彼が今自信ありげに声を張りあげて口にしているほとんどすべての言葉は聞くにたえなかった。
「あの娘はもう八カ月以上も働いていないので、合法的な収入はありません。これが私が彼女に指摘した第一の点です。それから、定期的にある男を招いているので、女は淫売の部類にはいります。彼女は納得しました。おびえていました。長い間、じたばたしました。どうやってあなたが話をつけられたかは知りませんが、彼女はとうとう、あなたに何もかもしゃべった、と私に白状しましたよ」
「何もかもって?」
「アラン・ヴェルヌーとの関係、彼の行為、つまり、狂ったように腹を立てて何もかもわからなくなり、彼女を何度もぶちのめしたこと」
「あの娘は夜ずっと豚箱にいれられていたんですか?」
「今朝、釈放してやりました。いい薬《ヽ》になりましたよ」
「彼女は供述書にサインしましたか?」
「それをさせないで釈放するわけがないでしょう」
シャボがメグレに叱責するようなまなざしを向けた。
「わしは何も知らなかった」と彼はつぶやいた。
シャボにはもうルイーズとアランのことを話しておくべきだったのだ。メグレは兵営のある地区を訪ねたことをシャボに話してなかったのだ。そして今、判事はメグレが黙っていたことに注目したにちがいなかった。それが彼自身をまるで裏切りのように窮地に陥れたのだ。メグレは上面《うわべ》は落ちついていた。その目は、いかにも賞賛を待っているという顔つきをしている貧弱なフェロン警視の上に、夢見るようにさまよっていた。
「その話から結論を引き出したかね?」
「彼女はとにかくわれわれにドクター・ヴェルヌーを新しい光の下で示しています。今朝、早く、私はあの娘の近所の女たちを訊問しましたが、アランが訪ねてくると、ほとんど毎度、はげしい口論が娘の部屋で起こり、そのたびに今にも警察を呼びそうになった、とはっきり言いました」
「なぜ彼女らは警察に知らせなかったのかね?」
「おそらく、自分たちには関係ないことだと思ったからでしょう」
ちがう! 近所の女たちが警察に通報しなかったとしたら、それは毎日何もしないでいいサバチがぶたれるのはいい気味だと思っていたからだ。そして、おそらく、アランがなぐればなぐるほど、近所の女たちはますます喜んだことだろう。
その近所の女たちは、ひょっとしたらチビのフェロン警視の妹であるかも知れなかっただろうに。
「娘はどうしました?」
「家に帰っておとなしく予審判事の裁定に服すよう命じました」
判事が今度は咳払いした。
「今朝の二つの発見は、きっとアラン・ヴェルヌーをむずかしい状況に追いこむだろう」
「昨夜、私と別れてから、アランはどうしましたか?」
これに答えたのはフェロンだった。
「自宅に帰りました。私は自警団と連絡をとっています。あの自警団を組織しないわけにはいかないのなら、私は進んで自警団との協力を確保します。ヴェルヌーはすぐに家に帰りました」
「彼はいつも、十時半のミサに出席するのですか?」
今度はシャボが答えた。
「ミサにはぜんぜんいかない。いかないのは家族で彼一人だけだ」
「今朝は出かけたね?」
フェロンが一瞬はっきりしない身振りをした。
「そうは思いませんね。九時半になっても、私にはまだ何の連絡もありませんでしたから」
検事が、そろそろ嫌気がさしはじめたらしく、とうとう口を開いた。
「そんなことをいくら話したって何にもならない。アラン・ヴェルヌー逮捕の状態に追いこむのに十分な告発理由を保有しているかどうか知ることが大事だよ」
彼は判事の顔をじっと見つめた。
「これはあなたの仕事だよ、シャボ。あなたの責任だ」
シャボが今度はメグレをながめた。メグレは重苦しく、中立という顔をしていた。
それで、予審判事は返事をする代りに演説をしはじめた。
「状況は以上のごとくだ。理由はさまざまであるにしても、世論は第一の殺人以来、つまり叔父のロベール・ド・クルソンが殺されて以来、アラン・ヴェルヌーを指さしている。が、その世論は何に基づいていたのか、それが私には今だにふしぎなのだ。アラン・ヴェルヌーは有名人ではない。彼の家族は多かれ少なかれ嫌われている。ラブレー通りのあの家を指さして、私が金持に便宜をはかり彼らとともに社交関係を保持しつづけていると非難する匿名の手紙を、私はすでに二十通も受けとっている」
(ほかの二つの犯罪は逆にこうした疑惑を晴らさなかった。ずっと以前から、アラン・ヴェルヌーは、『ほかの人間とはちがう人間』として、ある人々の目に映っている)
フェロンが判事の言葉をさえ切った。
「サバチの供述は……」
「……その娘の供述は、兇器が発見されている現在では、シャリュスの供述同様、アランにとっては決定的だ。一週間に殺人が三件とは重大だ。住民がおびえて自衛しようとするのは当然だ。現在まで、私は証拠不十分と考えて行動を起こすのを躊躇していた。事実、検事も指摘されたように、責任は重大だ。ひとたび逮捕されると、ヴェルヌーのような性格の男は、たとえ有罪でも口をつぐんでしまう」
「彼を、今すぐ逮捕したほうがいいか、それとも待つほうがいいか、それを知ることが大切だ……」
メグレは口の中でぶつぶつ言わざるを得なかった。
「サバチを逮捕して、しかも一晩じゅう留置したとは!」
シャボがそれを聞きつけて、たぶんそれは同じことではないのだと答えようと口を開いた。しかし、どたんばで、思い直した。
「今朝は、日曜日の太陽のために、ミサのために、われわれは一種の休戦状態にはいった。しかし今はすでに、あちこちのカフェでは食前酒《アペリチフ》をかこんで、連中は話しはじめているにちがいない。連中は散歩のとちゅうわざわざヴェルヌー家の屋敷の前を通りにいく。私が昨夜あの屋敷でブリッジをしたことも、メグレ警視が私に同行したことも知っている。理解させるのはむずかしい……」
「あなたは彼を逮捕するのかね?」と検事が、判事のにげ口上が長くかかりすぎると判断してたずねた。
「私は夕方ごろ、重大な結果になりかねないある出来事にふるえあがった。ごく些細なことで十分なのだ。たとえば悪童が窓に石を投げるとか、酔っぱらいがあの家の前で悪口をとばすとか。住民の精神状態では……」
「彼を逮捕するのか?」
検事は自分の帽子を捜したが見つからなかった。チビの警視がへつらって検事にこう言った。「あなたのお部屋にお忘れですよ。私がとってきてあげます」
シャボがメグレのほうを向いて、ささやいた。
「きみは逮捕のことをどう考える?」
「何にも」
「おれの立場だったら、どうかね?……」
「おれはきみの立場じゃない」
「ドクターは気違いだと思うかね?」
「どういうことを気違いと呼ぶかによるね」
「人を殺したことか?」
メグレは答えず、やはり自分の帽子を捜した。
「ちょっと待ってくれ。きみに話すことがあるんだ。まず、おれは|けり《ヽヽ》をつけなけりゃならん。まちがっていたら、こまるな」
彼は右の引出しを開いて、そこから印刷してある文書をとり出すと、それに記入しはじめた。一方、シャビロンがメグレにかつてないほど冷やかなまなざしを投げた。シャビロンとチビの警視が勝ったのだった。文書は逮捕令状だった。シャボはいざサインする段になってなおもちょっと躊躇し、そして令状に封印をおした。
それから、令状を二人の男のどちらに渡そうかと考えた。
このような逮捕を伴う事件は、フォントネイではまだ一度も起こらなかったのだ。
「さてと……」
が、とうとう、
「まあいい、二人でいけよ。できるだけこっそりやれ。住民の示威行為をさけることだ。自動車にのっていったほうがいいだろう」
「私が持っています」とシャビロンが言った。
不愉快な瞬間だった。しばらくの間、めいめい、多少恥ずかしかったようだ。みんながほとんど確実だと感じているドクターの罪過がどうも信じられないからというのではさらさらなく、彼ら自身の胸の奥で、自分たちが動くのはドクターの罪過のためではなく世論をこわがっているためだということを知っていたからだった。
「私に知らせてくれよ」と最初に部屋を出た検事がつぶやき、さらにこうつけくわえた。
「私が自宅にいなかったら、舅の家にいるから呼んでくれ」
検事は日曜日の残りを家ですごしにいこうとしていた。次にフェロンとシャビロンが出ていったが、チビの警視のほうが令状をていねいにたたんで折りかばんの中にいれていた。
が、廊下の窓からちょっと外を見てからもどってくると、こうたずねた。
「新聞記者たちですか?」
「連中には今は何も言うな。まっすぐ町の中心へいけ。新聞記者には、私が三十分後にここで発表すると言うんだ。そうすれば、やつらはここにいるだろう」
「彼をここへつれてくるんですか?」
「まっすぐ刑務所へつれていけ。群衆が彼にリンチを加えようとした場合、刑務所のほうがずっと保護しやすいだろう」
こういうやりとりで時間をくってしまった。そしてとうとう二人だけになった。シャボは誇らしそうではなかった。
「きみはこれをどう思う?」と彼が腹を決めてたずねた。「おれを非難するかね?」
「おれはおそろしい」とメグレは白状して、暗い顔でパイプをふかした。
「何が?」
彼は答えなかった。
「正直なところ、ほかにどうしようもなかったんだ」
「わかっている。おれが考えているのはそんなことじゃない」
「何を考えてるんだ?」
彼は自分がいまだに忘れられないルイーズ・サバチに対するチビ警視の態度のことを考えているとは、白状したくなかった。
シャボが自分の懐中時計をながめた。
「三十分で終るだろう。彼を訊問しにいけるだろう」
メグレは、どんな謎めいた考えを追っているのかわからないようなようすで、あいかわらず何も言わなかった。
「なぜきみは昨日、おれにあのことを話さなかったんだ?」
「サバチという娘のことか?」
「うん」
「起こってしまったようなことをさけるためさ」
「でも起こってしまった」
「うん。フェロンがあの娘のことに首をつっこむとは予想しなかった」
「きみはあの手紙を持っているか?」
「どの手紙?」
「あの娘のことでおれが受けとってきみに渡したあの匿名の手紙さ。あの手紙のことを書類に書きこまなければならんのだ」
メグレはポケットを探って手紙をとり出した。手紙はしわになり、まだ前日の雨でぬれていた。それを机の上に落とした。
「新聞記者たちがフェロンたちを追いかけたかどうか見てくれないか?」
メグレは立っていって、窓越しに外をちらっと見た。新聞記者とカメラマンたちは、何か事件を待っているようすで、あいかわらず出入口の前にいた。
「今、何時かね?」
「十二時五分過ぎだ」
二人は鐘が鳴るのを聞かなかった。ドアは全部閉めてあったので、二人はまるで陽の光が少しもささない酒倉の中にいるようだった。
「どう彼は反応するかな。彼の父親がどうするかも気にかかるな……」
電話のベルが鳴った。シャボはひどくびっくりしたので、一瞬、受話器をとらないでじっとしていたほどだが、メグレをじっと見つめながら、とうとう受話器に向かってささやいた。
「もしもし……」
彼の額にしわが寄り、眉も寄った。
「確かか?」
メグレは受話器の中で声ががなり立てているのを聞いたが、その言葉を聞きわけることはできなかった。しゃべっているのはシャビロンだった。
「家を捜索したか? きみはいまどこにいるんだ? よしわかった。そこにいろ。わしは……」
彼は非常に苦しげな身振りで、手を頭にやった。
「しばらくしたら、また電話する」
シャボが受話器を置くと、メグレは一言言うだけで満足した。
「いなくなったのか?」
「きみは予想していたのか?」
そして、メグレが答えなかったので、
「アランは昨夜きみと別れてからすぐ自宅へもどった。確証があるんだ。それから一晩じゅう自室にいた。今朝、早くに、彼はコーヒーの茶碗を持ってきてもらった」
「新聞は?」
「この町では、日曜日には新聞はない」
「彼はだれと話していたんだ?」
「まだわからない。フェロンと刑事はまだあの家で召使いたちを訊問している。十時ちょっと過ぎに、アランを除いて家族全員が家令の運転する自動車でミサヘ出かけた」
「おれは家族を見たよ」
「家に帰るとちゅう、だれもドクターのことを心配しなかった。土曜日の晩を除いて、めいめい自分の部屋で暮らしている家だ。フェロンたちがいくと、女中がアランに知らせに二階へいった。ところが、彼は部屋にいなかった。家じゅう捜した。彼は逃亡したと思うかね?」
「通りで見張りに立っている男は何と言ってるのかね?」
「フェロンが見張りを訊問した。ドクターは家族が全部出かけてしまったちょっとあとに家を出て、歩いて町のほうへおりていった」
「あとを追わなかったのか? おれが思うには……」
「彼を追跡するように指令を出しておいた。おそらく警察は、日曜日の朝だからその必要はないと考えただろう。おれにはわからない。もし彼がつかまらなかったら、みんなはおれがわざと彼に逃げる暇をあたえたと言うだろう」
「きっとそう言うだろうね」
「午後五時前には汽車はない。アランは自動車を持っていない」
「じゃあ、遠くへは行ってないな」
「そう思うか?」
「恋人の家で見つからなかったら、おどろきだな。ふだんは、彼は暗闇に乗じて晩にしか彼女の家へしのびこまない。しかし、もう三日も彼は彼女に会っていないからね」
メグレは、自分が彼女に会いにいったことをアランは知っている、とはつけくわえなかった。
「どうしたんだ?」と予審判事がたずねた。
「何でもない。おれはおそろしい、それだけさ。フェロンたちに彼女の家へいかせたほうがいいよ」
シャボは電話をかけた。かけ終ると、二人とも事務室の中で、黙って、顔と顔をつき合わせて、いつまでもすわっていた。その部屋へは春はまだはいってこず、電燈の緑色の笠のせいで、二人は病人のような顔をしていた。
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第七章 ルイーズの宝物
二人で待っている間に、メグレはとつぜん友を拡大鏡でながめるようないやな印象をおぼえた。シャボが、彼が一昨日やってきたときよりも一段と老け、ずっとよわよわしく見えた。前は確かに彼の中には、送っている生活をきりまわすのに十分な活気とエネルギーと個性があった。それが、とつぜん、まさしく彼に実力以上の力が要求されたら、彼は自分の無力を恥じてくずれてしまうだろう。
ところで、それは年齢の問題ではなかった。メグレはそれを受け合っただろう。シャボは昔からこういうふうだったにちがいなかったのだ。昔、二人がまだ学生で、メグレがシャボをうらやましいと思った時代には、メグレのほうが思いちがいしていたのだ。そのころのシャボはメグレにとっては幸福な青年の典型だった。フォントネイでは、メグレに細かい心遣いをしてくれる母親が彼を心地のよい家に迎えてくれて、その家はいろいろなものが堅固で不動のたたずまいを持っていた。シャボがこの家のほかに二、三の小作地を相続するだろうと、しかも友人たちに貸すほど十分な金を毎月受けとっていることも、メグレは知っていた。
三十年が過ぎ去って、シャボは当然なるべき人間になった。が今日、メグレのほうを向いて助けを求めるのはシャボだった。
数分過ぎた。判事は書類に目を通しているふりをしていたが、その目はタイプライターで打ってある文字を追っていなかった。電話はなかなか鳴らなかった。
シャボがポケットから懐中時計を出した。
「自動車であそこへいくのに五分とかからない。帰ってくるのも同じだ。あの二人は……」
十二時十五分過ぎだった。あの二人があの家へ訪ねていくのに数分は見てやらなければならなかった。
「もし彼が白状しなくて、しかも二、三日中におれがはっきりした証拠を見つけなかったら、おれが定年前の退職をねがい出るだけの話だ」
彼は大多数の住民をこわがって動いたのだった。それが今は、彼がおそれていたのはヴェルヌー家の連中とその同類たちの反発だった。
「十二時二十分。あいつら、いったい何をしているのかなあ」
十二時二十五分になると、彼は立ちあがった。いらいらしてすわっていられなくなったのだ。
「きみは自動車を持っていないのか?」とメグレがたずねた。
シャボは|ばつ《ヽヽ》が悪そうだった。
「母を田舎へつれていくのに日曜日に使うのを一台持っていたよ」
牝牛が主要な通りから五百メートルのところで草をはんでいるという町に住む男の口から、田舎という言葉を聞くのは奇妙だった。
「でも今は、母は日曜日にミサヘいく以外は外出しないから、自動車を持っていてもしようがないだろう?」
彼はけちんぼになってしまったのだろうか?そうかも知れなかった。これはさほど彼の罪ではなかった。彼のように小金をにぎると、金を失うことを宿命的におそれるものだ。
メグレは、フォントネイヘきて以来、それまで一度も考えたことがなかったようなさまざまなことを理解した。そして、一つの小さな町から、彼がそれまで心に抱いてきたイメージとはちがう一つのイメージを創り出した。
「きっと変わったことが起こったんだ」
二人の警察官が出かけてから、もう二十分以上もたっていた。ルイーズ・サバチの二部屋しかない住居を捜査するのに、そんなに時間はかからなかった。アラン・ヴェルヌーは窓からにげるような男ではなかったし、兵営のある地区の通りで男を追跡するのを想像するのはむずかしかった。
自動車のエンジンの音が勾配のある通りをのぼるのを耳にして、判事が身じろぎもしないで待ち構えたときには、しばらく希望が持てたが、自動車はとまらないでいってしまった。
「さっぱりわからん」
彼は明るい色の毛におおわれた長い手の指をにぎりこんで、安心させてくれと言わんばかりにメグレをちらっとながめたが、メグレのほうは頑固に無表情な顔をしつづけていた。
十二時半ちょっと過ぎに、とうとう電話のベルが鳴ったとき、シャボは文字通り受話器にとびついた。
「もしもし!」と彼は大声をはりあげた。
しかし、すぐに、彼は泡をくってしまった。聞こえてきたのは女の声、それもふだん電話をかけたことがないにちがいなく、大声で話す女の声だった。電話の声があまりに大きいので、メグレが部屋の隅からでも聞こえたくらいだった。
「判事さん?」と彼女はたずねた。
「予審判事のシャボです。私です」
彼女は同じ調子でくり返した。
「判事さん?」
「そうですよ! 何のご用ですか?」
「あなたは判事さん?」
彼はおこり出した。
「そうですよ。私は判事です。あなた、私の言うことが聞こえないんですか?」
「ええ」
「いったい、何の用なんですか?」
相手がもう一度、判事かとたずねていたら、彼はたぶん受話器を床にたたきつけただろう。
「警視さんがあなたにきてほしいって言ってます」
「何ですって?」
が、今度は、女は電話をかけているのと同じ部屋にいるだれかほかの人間に話しかけながら、別の声を出した。
「判事さんに伝えましたよ。え、何?」
だれかが命令した。
「受話器をかけろ」
「何をかけろって?」
裁判所の中で物音が聞こえた。シャボとメグレは耳をすました。
「ドアをどんどんたたいている」
「こいよ」
二人は廊下を走った。音がいっそうはげしくなった。シャボが大急ぎで閂をはずして、鍵穴の中で鍵をまわした。
「電話がかかってきましたか?」
ロメルだった。三、四人の仲間にかこまれていた。ほかの新聞記者たちが通りを町はずれの方角へのぼっていくのが見えた。
「シャビロンが自分の自動車を運転して通り過ぎたところです。彼の横に気を失った女がいましたよ。病院へいったにちがいありません」
一台の自動車が玄関前の階段の下にとまっていた。
「あれはだれの自動車だ?」
「私の、いやむしろ、わが社のです」とボルドーからきた特派記者が言った。
「われわれをのせてってくれ」
「病院へですか?」
「いや。まずレピュブリック通りのほうへくだるんだ。それから右へ曲って、兵営の方角へいってくれ」
みんなは自動車の中にすしづめになった。ヴェルヌー家の前では、二十人ばかりの人間が一団となっていて、メグレたちを黙って見送った。
「何が起こったんですか、判事?」とロメルがたずねた。
「わからん。逮捕にとりかかったはずだが」
「ドクターをですか?」
シャボは否定してうまくごまかす勇気がなかった。数人の人間がカフェ・ド・ラ・ポストのテラスにすわっていた。晴れ着を着た女が、白いボール箱を指から赤いひもでぶらさげて、菓子屋から出てきた。
「この道ですか?」
「うん。今度は、ただ……ちょっと……その建物の次を曲ってくれ……」
まちがうはずはなかった。ルイーズが部屋を借りている家の前に人だかりがしていて、とくに女子供が多く、自動車がとまると、車のドアに殺到した。前の日にメグレを応対した大柄な女が、両拳を腰にあてて、最前列に立った。
「わたしが食料品屋から電話をかけたんですよ。警視さんは二階にいます」
ことは混乱のうちに運ばれた。一行は家の裏へまわった。メグレは場所をよく知っていたから、先頭に立っていた。
裏手では、表より数の多い野次馬が入口をふさいでいた。二階に通ずる階段にもいたので、チビの警視は階段から二階のうち破られたドアの前を見張らなければならなかった。
「通してくれ……どきなさい……」
フェロンは顔をくしゃくしゃにして、髪の毛を額にたらしていた。帽子をどこかで失くしてしまったのだ。助けがやってきたので、ほっとしたようだった。
「署に知らせて加勢を送るように言ってくれましたか?」
「そんな話は知らない……」と判事が言いかけた。
「あなたに言ってくれとあの女にたのんだのですがね……」
新聞記者たちが写真をとろうとしていた。赤ん坊が泣き出した。メグレに先頭に立たされたシャボが、声をかけながら階段のてっぺんにたどりついた。
「何が起こったんだ?」
「彼が死んでます」
彼は木材が一部こっぱみじんになっているドアをおした。
「寝室です」
寝室はめちゃめちゃに散らかっていた。あいた窓から、陽の光とハエがはいりこんでいた。
乱れたベッドの上に、ドクターのアラン・ヴェルヌーが服を着たまま横たわっていた。めがねが枕の上の顔のそばに落ちていて、顔からはすでに血の気が引いていた。
「話したまえ、フェロン君」
「話すことなんかありません。刑事と私がきてみると、みんなが階段を指さしました。ドアをたたきました。返事がないので、非常手段を使いました。シャビロンがドアに肩を三、四度ぶつけました。やっと、彼がどうなっているのか、どこにいるのかがわかりました。私は脈をはかりました。すでにとまっていました。鏡を口の前に置いてみました」
「あの娘は?」
「床にころがっていました。ベッドからすべり落ちたようです。吐いていました」
みんなは娘が吐いたものの中を歩いた。
「彼女はもうぐったりしていましたが、死んではいませんでした。この家には電話がありません。この界隈をかけずりまわって電話をさがすことはできません。シャビロンが娘を肩にかついで病院へ運びました。ほかにどうしようもなかったんです」
「たしかに彼女はまだ息をしていたかね?」
「ええ。喉をぜいぜいさせていましたから」
カメラマンたちはあいかわらず写真をとっていた。ロメルは、赤い手帳を出してメモしていた。
「家じゅうのものがおしよせてきました。悪童どもが見る間に部屋にはいりこんできました。こっちは部屋から出ることもできません。何とかあなたに知らせたかったので、この家の管理人らしいあの女に電話をかけにやりました、あなたへの伝言をたのんで……」
まわりの乱雑なようすを指さしながら、彼はつけくわえた。
「部屋の中をちょっと見ることもできませんでした」
ヴェロナールの空壜をさし出したのは、新聞記者の一人だった。
「とにかく、これがありますね」
これが一切の説明をしていた。アラン・ヴェルヌーについては、確かに自殺と言ってよかった。
が、彼はルイーズを納得ずくで自分と心中させたのだろうか? それとも、何も言わないで彼女に薬をのませたのだろうか?
台所では、茶碗の中にまだ牛乳いりコーヒーの飲み残しがはいっていたし、パンの切端のそばにチーズがあり、パンには娘の歯の跡がついていた。
彼女は遅く起きた。アラン・ヴェルヌーは彼女が朝食をとっている最中にやってきたにちがいなかった。
「彼女は服を着ていたかね?」
「シュミーズを着ていました。シャビロンは彼女を掛布団でくるんでつれていきました」
「近所のものは言いあらそう声を聞かなかったのか?」
「それを彼らにたずねることはできませんでした。悪童どもが最前列にしがみついていて、母親たちがどかせようとしてもだめなんです。母親たちに聞いてください」
新聞記者の一人が閉まらなくなっているドアを背中でおさえつけて、外からおしあけられないようにしていた。
ジュリアン・シャボは、まるで悪夢を見ているようにいったりきたりしていた。状況判断する能力を失った人間みたいだった。
二、三度、彼は死体のところへいって、だらんとたれている手首の上に、片手を思いきって置こうとした。
彼は自分がすでに同じことを言っているのを忘れたのか、あるいは自分自身納得しようと決心したのか、二、三度同じことをくり返した。
「明らかに自殺だ」
それから、こうたずねた。
「シャビロンはもどってこないのか?」
「病院にいて、娘が意識をとり戻したら訊問すると思います。署に通知しなければならないでしょう。シャビロンは医者を寄こすと約束しましたから……」
その医者がドアをたたいた。若いインターンはまっすぐベッドのほうへいった。
「死んでますか?」
インターンがそうだとうなずいた。
「病院へ運ばれた娘はどうですか?」
「今、手当てしています。一命はとりとめるでしょう」
彼は薬の壜をながめて、肩をそびやかすと、口の中でぶつぶつ言った。
「いつも同じやつだ」
「娘がああなのに、どうして彼のほうは死んだのか……」
彼は床の上の吐瀉物を指さした。
みんなが気づかないうちに姿を消していた新聞記者の一人が、部屋へ戻ってきた。
「言い争いはしていませんよ」と彼が言った。「近所のものに聞いてきたんです。今朝、このへんの家の窓は大部分あいていたそうですからね」
ロメルが恥も忘れてあちこちの引出しをかっさばいたが、大したものははいっていなかった。下着に、安物の服に、これも安物の装飾品だけだった。それから彼はかがみこんでベッドの下を見た。メグレが見ていると、彼は床に腹ばいになって片手をのばすと、青いリボンをかけたボール紙の靴箱を引きずり出した。ロメルは収得物を手にみんなからはなれて部屋の隅にひっこんだ。部屋の中があまりにごった返していて、ゆっくりできなかったのだ。
メグレはロメルに近づくだけでよかった。
「それは何だね?」
「手紙です」
箱はほとんどいっぱいだったが、中には手紙ばかりでなく、紙切れに急いで書いた簡単なメモもはいっていた。ルイーズ・サバチは、たぶん恋人に内緒で何もかもとっておいたのだ。たとえその箱をベッドの下にかくしておかなかったとしても、ほとんど同じことであったろう。
「ちょっと読ませてください」
ロメルは手紙を読みながら、びっくりしているようだった。ふるえ声でこう言った。
「ラヴ・レターです」
判事もとうとう何が起こったかに気がついた。
「手紙だって?」
「ラヴ・レターですよ」
「だれの?」
「アランのです。彼のサインがあります。ときどき、頭文字だけですが」
メグレは手紙を二、三読んだが、できればその手紙を人にまわし読みされたくないような気持だった。それはおそらく、彼がそれまで読むことをゆるされたうちでもいちばん感動的なラヴ・レターだった。ドクターはそれらの手紙をまるで二十歳の青年のように情熱的に、がときには天真爛漫に書いていた。
彼はルイーズを『ぼくのかわいい女《ひと》』と呼んでいた。
ときには『ぼくだけのかわいそうな女《ひと》』と呼んでいた。
世のあらゆる恋人と同じように、彼は彼女に、彼女のいない日ごと夜ごとが長いこと、日々の生活や、住むものがまるでスズメバチのように壁にぶつかる空虚な家のことを語っていた。きみをもっと早く知りたかった、どんな男もきみに触れない前に知りたかったと書いていた。そして、夜、一人自分のベッドの中で、彼女がほかの男たちから受ける愛撫のことを思うとき、はげしい怒りにかられる、と書いていた。
あるときには、まるで無責任な子供に話しかけるように彼女に話しかけていた。また別のときには、憎悪と絶望の叫びをあげていた。
「さあ、みんな……」とメグレが喉をしめつけられたような声で言いかけた。
だれも彼には目もくれなかった。彼など関係なかったのだ。シャボは、顔を赤らめ、めがねの玉を曇らせながら、まだ手紙に目を走らせていた。
『三十分前にきみと別れて、ぼくはまたぼくの牢獄にはいった。ぼくはもう一度きみと連絡をとる必要がある……』
彼はまだやっと八カ月前に彼女を知ったばかりだった。それから今日までの間に二百通近くの手紙があり、ある日々など、彼は三通たてつづけに書いていた。中には切手がはってないものも二、三あった。自分で持ってきたにちがいなかった。
『ぼくがひとかどの男だったら……』
警察のものが群衆と子供たちをかきわけてやってくる音を聞いて、メグレはほっとした。
「きみはこの手紙を持っていったほうがいい」と彼はシャボにささやいた。
手紙をみんなの手からとりあげねばならなかった。返したものたちは|ばつ《ヽヽ》が悪そうだった。今では、ベッドのほうを向くのも躊躇していて、横たわった死体をちらっと見るときも、言いわけするような顔つきで、こっそりとそうするのだった。
めがねがない顔はもともとしまりがなくおだやかだったので、アラン・ヴェルヌーは実際の年より十は若く見えた。
「母が心配しているにちがいない……」とシャボが懐中時計をながめながら言った。
彼はラブレー通りの家のことを忘れていた。その家には、一つの家族全員、つまり一人の父親と、一人の母親と、一人の妻と、そして子供たちがいた。この家に通知する決心をしなければならないだろう。
メグレがシャボにそのことを思い出させた。判事がつぶやいた。
「できるだけ自分であそこへいきたくないな」
メグレはすすんでその役を買って出ようとはしなかった。おそらく、かたわらにいるシャボも彼にぜひとは言わなかっただろう。
「フェロンにいってもらおう」
「どこへですか?」とフェロンがたずねた。
「ラブレー通りへ。知らせにいくんだよ。まず父親に話したまえ」
「父親に何を言うんですか?」
「真実を」
チビの警視が口の中でぶつくさ言った。
「いやな仕事だな!」
彼らはもうここでは何もすることがなかった。手紙をいれた箱を唯一の宝にしていたあわれな娘の住まいには、もう何も見つけるものがなかった。おそらく彼女は手紙を全部理解していなかっただろう。が、それは大したことではなかった。シャボが言った。
「さ、いこうか、メグレ?」
それから、インターンに、
「死体を運ぶことを引きうけてくれますか?」
「死体公示所《モルグ》へ?」
「解剖する必要があるでしょう。私にはどうするのかわからないが……」
彼は二人の警察官のほうを向いた。
「だれも部屋の中へいれさせるな」
彼はボール箱を小脇にかかえて階段をおりたが、階下にすしづめになっている群衆をおしわけなければならなかった。自動車のことなどすっかり忘れていた。町の反対側へいかなければならないのだ。が、ボルドーの新聞記者が自らかけつけてきた。
「どこまでお乗せしましょうか?」
「私の家へ」
「クレマンソー通りですね?」
彼らは道中ほとんど黙っていた。やっと家まで百メートルのところまできたときはじめて、シャボがつぶやいた。
「これで事件は落着だろう」
が、彼はそれほど確信しているはずがなかった。メグレの顔をこっそりうかがったからだ。そしてメグレは同意しなかったし、そうだともちがうとも言わなかった。
「たとえ彼が犯人ではなかったにしても、理由が一つも見あたらない。それは……」
彼は口をつぐんだ。待ちくたびれていたにちがいない母親が、自動車の音を聞いて、すでに入口のドアをあけていたからだ。
「何が起こったのかと思っていたよ。何か事件が起こったみたいに、町の人たちが走っていくのを見たからね」
シャボは新聞記者にお礼を言い、こう申し出るのが礼儀だと思った。
「ちょっと一杯どうですか?」
「ありがとう。でも、ぼくは至急社へ電話をいれなければなりませんから」
「焼肉が焼け過ぎてしまいますよ。十二時半まで待っていたんですよ。ジュリアン、おまえ、疲れてるようだね。ジュール、ジュリアンの顔色が悪いと思いませんか?」
「ママ、しばらく、われわれにかまわないでおいてくれないか」
「昼飯《おひる》をたべないの?」
「あとからだ」
彼女はメグレにすがりついた。
「悪いことは何もなかったんでしょうね?」
「お母さんを心配させるようなことは何もありませんよ」
彼は彼女に、真実を、少なくとも真実の一部を正直に言ったほうがいいと思った。
「アラン・ヴェルヌーが自殺しました」
彼女はただこう叫んだだけだった。
「ああ!」
それから、うなずくと、台所へいってしまった。
「おれの部屋へいこう。でも、きみ、腹はすいてないかね?」
「すいてないよ」
「何か飲んでくれよ」
メグレはできればビールを一杯飲みたいところだったが、この家にビールがないことは知っていた。彼は酒の棚を捜して、いきあたりばったりにペルノー酒の壜をとった。
「ローズが水とグラスを持ってくるよ」
シャボは自分の肘掛椅子に腰を落とした。その肘掛椅子には、彼がそこにすわる以前、父親の頭で革の上にくろぐろとした跡がつけられていた。靴箱が、解かれたひもといっしょに机の上にのっていた。
判事は早く安心する必要があった。神経がぼろぼろになっていたのだ。
「なぜきみはアルコールを少しも飲まないんだね?」
シャボがドアのほうへ投げたまなざしを見て、メグレはシャボが酒を飲まないのは母親からどうしてもやめてくれとたのまれているからだとさとった。
「おれは飲まないほうがいいんだ」
「好きなようにするさ」
その日はおだやかな気温だったが、煖炉に火が燃えつづけていて、メグレはとても暑かったので、煖炉から遠ざからなければならなかった。
「きみはどう思うかね?」
「何を?」
「彼がやったことさ。彼が犯人じゃないとしたら、なぜ……」
「きみは彼の手紙を何通も読んだだろう?」
シャボが頭を伏せた。
「フェロン警視が昨日ルイーズの住居におしいって、彼女を訊問し、署に連行し、一晩じゅう豚箱にいれておいた」
「彼はおれの指示も受けないでやった」
「わかっている。どっちみち彼はやったんだ。今朝、アランは彼女に会いにかけつけて、すべてを知ってしまった」
「それが何を変えたのか、おれにはわからん」
メグレはその通りだと思ったが、そうだと白状したくなかった。
「それで自殺したと思うかね?……」
「それで十分だろう。ほうっておいても明日になれば、町じゅうが知ってしまっただろう。フェロンはおそらくあの娘をいためつづけていたことだろう。そして最後には、売春で有罪にしていただろう」
「彼は軽率だったな。あんなことは自殺の原因にはならんよ」
「それは何が問題かによる」
「きみは、彼が犯人ではないと確信していたんだ」
「きみはどうだ?」
「みんなが彼が犯人だと信じ、それで満足すると思うよ」
メグレがおどろいてシャボの顔をながめた。
「きみは事件をもみ消そうと言うのか?」
「わからん。おれにはもうわからん」
「アランがわれわれに言ったことをおぼえているか?」
「どんなことだ?」
「気違いも自己の論理を持っていると言っただろう。だれにも気違いだと気づかれずに生涯を送った気違いが、とつぜん、理由もなく殺人をはじめる。が、それには少なくとも、きっかけが必要だ。一つの理由が必要だ。思慮分別のある人間には不十分に思われるかも知れないが、気違いには十分と思われる理由がね。
最初の犠牲者はロベール・ド・クルソンだった。そして、おれの目には、これは重要な犠牲者のように映る。なぜなら、われわれに手がかりをあたえることのできる唯一の犠牲者だからだ。町の噂は、ぜったいに、何の根拠もないところからは立たない」
「きみは大衆の意見を信用するのか?」
「大衆の意見は示威行為にまぎれるとまちがってしまうことがある。しかし、おれは長年の間にほとんど常に、大衆の意見を認めることができた。ちゃんとした根拠があるのだ。それで、おれは大衆も本能を持っていると……」
「だから、たしかにアランが……」
「おれはそうは言っていない。ロベール・ド・クルソンが殺されたとき、住民はラブレー通りの二つの家を比較した。が、そのときはまだ、気違いのことなど問題になっていなかった。クルソン殺害は必ずしも狂人もしくは偏執狂の仕業ではなかった。だれかが彼を殺そうと決心するか、彼を怒らせるかするには、いくつかの明確な理由があったはずだ」
「先をつづけてくれ」
シャボはもうさからわなかった。メグレが何を言っても、彼は同意しただろう。今破壊されているのは、自分の職業、自分の生涯だ、という印象を彼は持っていたのだ。
「おれだってきみ以上には何も知らない。それから、つづけざまに、二つの別の犯罪が起こった。二つとも不可解で、二つとも同じ手口で行なわれた。まるで殺人犯が犯人は一人で同一人物だと強調したがっているみたいだ」
「犯罪者はたいてい、いつも同じ一つの方法しか使わない、とおれは思っていたよ」
「なぜ彼が急いだか、おれはふしぎだ」
「何をそんなに急いだというんだ?」
「すぐ二度目の殺しをし、さらに三度目の殺しをやった。まるで、気違いの犯罪者が町をうろついているということを世論に植えつけようとしているみたいだ」
今度は、シャボが顔をさっとあげた。
「彼は気違いじゃないと言いたいのか?」
「正確にはそうじゃない」
「じゃあ、どうなんだ?」
「ある問題について、アラン・ヴェルヌーと十分に話し合わなかったのは残念だよ。でも彼がわれわれに言ったことは、少しはおれの記憶に残っている。気違いでも、必ずしも気違いとして行動しない」
「もちろんだ。でなかったら、思う存分に行動できないだろう」
「|先験的には《ヽヽヽヽヽ》、決してそうじゃない。彼は気違いだから殺すんだから」
「それは賛成できない。で、きみの結論は?」
「結論なんかないよ」
二人は電話のベルの音を聞いて、ぞっとした。シャボが受話器をとって、態度と声を変えた。
「そうですとも、奥さん。彼はここにいますよ。彼と代りましょう」
そして、メグレに、
「奥さんからだよ」
妻が電話の向こうで話しかけた。
「あなた? 昼飯《おひる》時におじゃまじゃなかった? お食事中だったんでしょう?」
「いいや」
まだ昼食をたべてないことを妻に教えるのは無用だった。
「三十分前に局長さんからお電話があって、あなたはたしかに明日の朝パリに戻るかってお聞きになったの。でも、あなた、この前電話くださったとき、いつ戻るかはっきりしないみたいだったから、ご返事のしようがなかったわ。そしたら局長さんがね、あなたに電話するついでがあったら、何とかいう上院議員のお嬢さんが二日前から行方不明だって、あなたに伝えてくれって。まだ新聞には出ていません。でも、とても大変なことで、大騒ぎになりかねないことらしいわ。どういうことか、あなた、おわかりになる?」
「いいや」
「局長さんが何か名前を言ってくださったけど、わたし、忘れちゃったわ」
「要するに、局長はおれに必ず戻ってほしいんだろ?」
「そうはおっしゃらなかったわ。でも、あなたに事件を担当してもらえたら、うれしいらしかったわ」
「そっちは雨かい?」
「上天気よ。あなた、どうなさるつもり?」
「できるだけ明日の朝パリヘ戻るようにするよ。たしか夜行が一本あるはずだ。まだ時刻表を見てないがね」
シャボが彼に夜行がたしかにあると合図した。
「フォントネイでは、何もかもうまくいってるの?」
「ああ、いってるよ」
「判事さんによろしく言ってください」
「ああ、言っとくよ」
受話器を置いたとき、彼がパリヘ帰るのを見て、シャボがはたして絶望するか喜ぶか、どちらとも言うことはできなかっただろう。
「帰らなきゃならんのか?」
「それがいいだろう」
「そろそろ食卓につく時間じゃないかな?」
メグレは心残りだったが、何だか棺のような気がする白い箱を置いていった。
「母の前では事件のことはしゃべらないことにしよう」
二人がまだデザートもたべないうちに、だれか入口のベルをおした。ローズがドアをあけにいって、戻ってくると、こう言った。
「警視さんがお見えですが……」
「わしの部屋へ通してくれ」
「もうお通ししました。待っていらっしゃいます。たいして急ぎでないとおっしゃっています」
シャボ夫人はまるで何もなかったようによもやま話をしようとした。彼女はいろいろな人の名前や、死んでしまったかずっと前に町をはなれてしまった人々のことを、記憶の中にまた見出しては、ながながと思い出話をした。
二人はとうとう食卓から立ちあがった。
「コーヒーは事務室のほうへお持ちしましょうか?」
コーヒーが三つ出され、ローズがグラスとブランデーの壜を、ほとんど司祭のような手つきで盆の上に置いた。ドアが再び閉まるのを待たなければならなかった。
「それで?」
「あそこへいってきましたよ」
「葉巻は?」
「ありがとう。でも、まだ昼飯をたべていませんから」
「何かたべるものを持ってこさせようか?」
「妻にもうすぐ帰るって電話しときましたから」
「それで、どういうことになったかね?」
「家令がドアをあけてくれたので、ユベール・ヴェルヌーに会いたいと言いました。家令は主人に知らせにいく間、私を廊下に待たせておきました。長く待たされましたよ。七つ八つの男の子が出てきて階段の上から私を見ていました。そのうち、子供を呼ぶ母親の声が聞こえました。だれか別のものが、細目にあけたドアから私をじっと見ていました。年とった女でした。ヴェルヌー夫人か夫人の妹か、知りませんが」
「ヴェルヌーは何と言ったかね?」
「廊下の奥からやってきて、私から三、四メートルのところまでやっとたどりつき、なおも前へ進みながら、たずねました。
『あんたが|あれ《ヽヽ》を見つけたのか?』
私は悪いことをお知らせしなければならないと言いました。彼は私に客間へはいれとも言わないで、私を見くだしながら、靴ぬぐいの上に立たせて置きました。でも、彼の唇と指がぶるぶるふるえているのがよく見えました。
『ご子息がなくなられました』と私はとうとう言いました。
すると、彼が答えました。
『|あれ《ヽヽ》を殺したのはあんたかね?』
『自殺したんです、今朝、恋人の部屋で』」
「彼はおどろいたようだったかね?」と予審判事がたずねた。
「ショックだったようです。彼は口をあけて、何かたずねようとしたようですが、こうつぶやいただけでした。
『やっぱり情婦がいたのか!』
その女がだれなのかとも、息子がその女とどうなったかとも聞きませんでした。玄関のドアをあけにいきましたが、私にさよならしながら、最後に言った言葉はこうです。
『これであの連中もわれわれをそっとしておくだろう』
彼は歩道に群がっている野次馬や、通りの向こう側に立ちどまっている人の群れや、ヴェルヌーがしばし玄関の敷居にいるのをさいわいに写真をとろうとしていた新聞記者たちを、あごでさし示しました」
「彼はそういう連中をさけようとしなかったかね?」
「その反対です。連中に気がつくと、顔をそっちに向けて、真向こうから見ながら、いつまでもそこにいました。それから、ゆっくりドアを閉めると、閂をかける音が聞こえました」
「娘は?」
「病院へ寄ってきました。シャビロンが彼女の枕元にいます。まだ助かるかどうかたしかではありません。心臓の奇形とやらが原因だそうです」
フェロンはコーヒーには手をつけないで、ブランデーのグラスをのみほすと、立ちあがった。
「飯をくいにいっていいですか?」
シャボはうなずくと、今度は自ら立ちあがって、警視を見送った。
「次は何をしましょうか?」
「まだ、わからない。私の事務所へ寄ってくれたまえ。検事が三時に待っているだろう」
「万一のことを考えて、部下を二人、ラブレー通りの家の前に残してきました。群衆が列を作って立ちどまり、小声で議論しています」
「娘は大丈夫かね?」
「アラン・ヴェルヌーが自殺してしまったから、もう危険はないと思います。うまくいきますよ」
シャボがメグレをこう言いたそうな顔で見た。
『わかっただろ!』
メグレから、
『わかったとも。何もかも終った』
と答えてもらえるのなら、彼は何でもしただろう。
ただしかし、メグレは何も答えなかった。
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第八章 グロ=ノワイエ村の老廃者
シャボの家から道をくだっていって、橋のちょっと手前にきたとき、メグレは右へ曲ったのだった。そして十分前から、彼は町でもなく田舎でもない長い通りを歩いていた。
最初は、大きな屋敷やブドウ酒屋の酒倉がまじっている白や赤や灰色の家々が、まだつぎつぎとつらなっていたが、それはたとえばレピュブリック通りの性格を持っていなかった。その中の数軒は石灰で白く塗った平屋で、ほとんど藁ぶきだった。
つぎに空地や小路がいくつもあり、そこにはなだらかな傾斜で河のほうへくだっている菜園や、ときには杭につながれた白い山羊がちらほらしていた。道の上ではほとんどだれにも会わなかったが、開いているドアを通して、うす暗がりの中で、じっとしているらしい家族がラジオを聞いたりタルト〔くだものやジャムをのせたパイ〕をたべたりしているのが見えた。また新聞を読んでいるシャツ一枚の男もいたし、さらに真鍮の振り子のついた大きな時計のそばで居眠りしている小柄な老婆もいた。
菜園の数が少しずつ多くなり、空地の塀の中の広さがいっそう大きくなり、ヴァンデ川が最近の突風で吹きとばされた枝を流しながら街道に近づいてきた。
メグレは、自動車にのせられるのをことわってきたのだが、後悔しはじめていた。道がこんなに遠いとは思わなかったし、太陽がすでに彼の首筋に熱く感じられていたからだった。三十分くらいしてグロ=ノワイエ村の十字路にやっとたどりつき、それからは牧場しかないようだった。
マリン・ブルーの服を着て、髪の毛にコスメチックをつけた三人の若ものが、一軒の宿屋のドアにもたれて立っていた。メグレがだれなのか知るはずはなかったが、自分たちの土地にまよいこんだ町の人間を見る百姓たちの敵意を含んだひやかすような目つきで、彼をじろじろながめた。
「パージュ夫人の家はどこかね?」とメグレが彼らにたずねた。
「レオンチーヌのことかい?」
「名前は知らないんだが」
これでもう彼らを笑わせるのに十分だった。彼らは相手がレオンチーヌという名前を知らないのはおかしいと思ったのだ。
「レオンチーヌの家だったら、あのドアの家へいったらいい」
彼らがさし示した家は一階しかなく、しかもとても低いので、メグレが手で屋根に触ることができたくらいだった。緑色のペンキで塗ったドアは家畜小屋のドアによくあるように二枚仕立てになっていて、上の部分はあいていたが、下の部分は閉まっていた。
最初、台所には人影は一つも見えなかった。台所はとても清潔だった。白い陶器のストーヴ、市松模様の蝋引きの布でおおった丸テーブル、たぶん縁日で買ってきただんだら模様の花壜にいけたリラの花などがあった。炉棚の上は安物の装飾品や写真で占領されていた。
メグレはひもでつってある小さな呼鈴をふった。
「何か用?」
メグレはドアが左のほうに開いている部屋からその女が出てくるのを見た。この部屋と台所しかないのだ。女は実際は六十五歳なのに、五十と言ってもおかしくはなかった。すでにホテルの部屋係りに見受けたように、この女もやせていたが頑丈そうだった。彼女はメグレを百姓女らしくうさんくさそうな目つきでじろじろ見ていて、ドアには近づかなかった。
「何の用ですか?」
そして、すぐに、
「新聞に写真をのっけられていたのは、あなたじゃないですか?」
メグレは部屋の中で動く音を聞いた。男の声がたずねた。
「だれだい、レオンチーヌ?」
「パリからきた警視さんだよ」
「メグレ警視か?」
「そんな名前の人だったと思うよ」
「はいってもらえ」
身じろぎもしないで、彼女が言った。
「おはいりなさい」
メグレは自分で掛金をはずしてドアの下の部分をあけた。レオンチーヌは彼に腰かけるよう勧めなかったし、言葉もかけなかった。
「あなたは以前、ロベール・クルソンの家の家政婦をしていましたね、ちがいますか?」
「十五年間してました。もう警察と新聞記者がそういうことをみんなわたしに聞きましたよ。わたしは何も知りませんよ」
自分のいるところから、メグレは色模様の壁の白い部屋、赤い掛布団をかけたクルミ材の高いベッドの脚をみとめた。そして、パイプの煙が彼の鼻先にただよってきた。男はしょっちゅう身体を動かしていた。
「どんな人か見てみたい……」と男がつぶやいた。
彼女がメグレにとげとげしく言った。
「うちの人が何て言ったか聞いたでしょ? 部屋へはいってちょうだい。うちの人はベッドから出られないんです」
ベッドにすわっていた男は、ひげだらけの顔をしていた。新聞と通俗小説がまわりに山と積んであった。男は柄の長い海泡石のパイプをふかし、サイド・テーブルの上の、手のとどくところに、白ブドウ酒の一リットル壜とグラスが一つ置いてあった。
「両脚なんですよ」とレオンチーヌが説明した。
「貨車の緩衝器にはさまれてからずっとです。うちの人は鉄道で働いていたんです。骨までやられちゃったんです」
レースのカーテンが光をやわらげ、三個のジェラニュームの鉢が窓際を飾っていた。
「あなたのことを書いた記事は全部読みましたよ、メグレさん。わしは一日じゅう読んでいるんです。以前は、まるっきり読みませんでしたがね。グラスを一つ持っておいで、レオンチーヌ」
メグレはことわることができなかった。彼はグラスを合わせて乾杯した。それから、細君が部屋にいるときを見はからって、あずかっていた鉛管の切端をポケットから出した。
「これを知っていますか?」
彼女はおどろかなかった。こう言った。
「知ってますとも」
「最後に見たのはどこですか?」
「客間の大テーブルの上です」
「ロベール・ド・クルソンの家のですか?」
「そうです。これは車庫から持ってきたものです。車庫で、この冬に、水道の配管を一部変えなければなりませんでした。水道管が凍りついて破裂してしまったものですから」
「この鉛管の切端は、ずっとテーブルの上に置いてあったのですか?」
「テーブルの上には何でも置いてありましたよ。客間とは呼んでいましたが、実際は旦那さまがしょっちゅういて仕事をしている部屋でした」
「あなたはあの家で家事をしていたんですか?」
「旦那さまからしていいとゆるされたことをしていました。床をはくこと、塵をとること――でも、何一つ触ってはいけないんですよ!――それから、食器を洗うことです」
「クルソンは気違いじみていましたか?」
「わたしはそんなこと言いませんでしたよ」
「警視さんには言ったっていいぞ」と亭主がささやいた。
「旦那さまに苦情を言う必要はありませんからね」
「数カ月、給料をはらってもらわなくてもですか?」
「それは旦那さまが悪いんじゃありません。向かいの家の人たちが、旦那さまに当然渡すべきお金を渡していたら……」
「あなたはこの鉛管をすてようとしたことはありませんか?」
「すてようとしました。でも、旦那さまに、そのままにしておけと言われました。旦那さまはこれを文鎮代りにして使っていたんです。もし強盗が家にはいろうとしたら、この鉛管で防ぐことができる、と旦那さまが言いそえたこともおぼえています。でも、おかしなことを考えるもんですわ、だって、壁には鉄砲がいっぱいかけてあったんですから。旦那さまは鉄砲を蒐集していました」
「ねえ、警視さん、あの人の甥が自殺したって、ほんとうですか?」
「ほんとうです」
「あなたはあの甥の仕業だったとお考えなんですか? 白ブドウ酒をもう一杯いかがです? わたしゃね、女房にも言ったんですが、金持連中のことは理解しようとは思いませんよ。金持はわれわれのようには考えないし、感じない」
「あなたはヴェルヌー家の人たちをよく知っていましたか?」
「世間並みにね、道で出会ったくらいです。あの家にはもう金がない、召使いたちに借金してるくらいだって言われるのを聞いたことがあります。レオンチーヌの旦那さんはもう年金をもらっていなかったし、レオンテーヌの給料も払えなかったんだから、噂はほんとうにちがいないですよ」
細君が亭主に、そうべらべらしゃべるなという合図をした。それに、彼はそう大してしゃべることがなかった。しかし、話相手が見つかり、それもメグレ警視と親しく口をきくことができてしあわせだったのだ。
メグレは、口の中に白ブドウ酒の甘ずっぱい味を残しながら、二人と別れた。帰り道で、少し元気が出てきた。自転車に乗った若ものや若い娘たちが田舎のほうへ帰っていった。家族づれはゆっくりと町のほうへ向かっていった。
裁判所の判事の事務所には、あいかわらずみんなが集まっているにちがいなかった。が、メグレは彼らといっしょになることをことわったのだった。彼らがこれからくだそうとしている決定に影響を及ぼしたくなかったからだ。
彼らはドクターの自殺を自白とみなして、予審を終結するよう決定するだろうか?
おそらくそうだろう。が、そうなると、シャボは一生涯悔いを残すことになるだろう。
彼がクレマンソー通りにたどりついて、レピュブリック通りをずっとながめ渡したとき、ほとんどの群衆がまだいて、両側の歩道を散歩するものもいれば、映画館から出てくるものもいた。カフェ・ド・ラ・ポストのテラスでは、椅子が全部ふさがっていた。太陽はすでに赤味がかった夕陽の色調をおびていた。
彼はヴィエト広場のほうへ向かい、シャボの前を通り過ぎた。一階の窓越しにシャボ夫人の姿がちらっと見えた。ラブレー通りにいくと、野次馬たちがまだヴェルヌー家の前にいたが、おそらく死者がそこを通ったからだろうが、人々は少しはなれたところに立ち、大部分は向かい側の歩道に集まっていた。
メグレは、またもう一度、この事件は自分には関係がないのだ、自分は今日の夜、列車に乗るのだ、自分は下手をするとみんなに不満を抱かせ、シャボとの仲も悪くしかねない、と心の中でくり返した。
が、それから、自分の意志にはどうしてもさからうことができないで、玄関のノッカーに手をのばした。道ゆく人々の視線の下で、長い間待たなければならなかったが、とうとう足音が聞こえ、家令がドアを細目にあけた。
「ユベール・ヴェルヌー氏にお会いしたいのですが」
「旦那さまはお会いできません」
メグレはどうぞと言われないのに家の中へはいってしまった。玄関ホールはうす暗かった。物音一つ聞こえなかった。
「ご主人はお部屋かね?」
「横になっていらっしゃると思います」
「一つ質問がある。あんたの部屋の窓は通りに面しているんだろう?」
家令はこまったようすで、小声で話した。
「はい。三階でございます。妻と私は屋根裏部屋で寝ます」
「では、あんたは向かいの家を見ることができるね?」
二人には何も聞こえなかったが、客間のドアがあいて、その隙間から、メグレはユベールの義妹のシルエットをみとめた。
「何なの、アルセーヌ?」
義妹はメグレの姿を見たくせに、言葉をかけなかった。
「旦那さまはお会いできないと、メグレさまに申しあげていたのです」
彼女がとうとうメグレのほうを向いた。
「義兄《あに》と話がしたいのですか?」
彼女は諦めてドアを大きくあけた。
「おはいりください」
彼女はカーテンを閉めた広い客間の中で一人でいた。電燈が一つだけ、小円卓の上にともっていた。開いた本一冊なく、新聞もなく、裁縫などの仕事もなかった。メグレがノッカーを持ちあげたとき、彼女は何もしないで客間にすわっていたにちがいなかった。
「義兄《あに》の代りに、わたしがお話をお伺いしましょう」
「私はお義兄《にい》さんにお目にかかりたいのです」
「義兄《あに》の部屋へいらっしゃっても、おそらく義兄《あに》はあなたのご質問に答えられる状態ではありますまい」
彼女は酒壜が何本ものっているテーブルに近寄ると、中の一本をつかんだ。それにはブルゴーニュ産のマルク酒〔ブドウのしぼりかすから作るブランデー〕がはいっていたのだが、今はからだった。
「正午《おひる》には半分はいっていたんです。わたしたちが昼飯《おひる》のテーブルについていたとき、義兄《あに》はこの部屋に十五分といませんでしたのに」
「こういうことはちょいちょいあるんですか?」
「ほとんど毎日のことです。これから義兄《あに》は五時か六時まで眠ります。起きたときには目がどんよりしてるでしょう。姉とわたしは酒壜を何度も隠しましたが、義兄《あに》はどこからか都合する方法を見つけるんです。でもどこか得体の知れない酒場で飲むよりせめてここで飲んでくれているほうが、まだましなのです」
「お義兄《にい》さんはよく酒場へいきますか?」
「そんなこと、わたしたちが知るわけがないでしょう? 義兄《あに》は、わたしたちの知らぬ間に、裏木戸から出ていきます。そして、家に戻ってきたときには、もう目がすわっています。これで舌がもつれ出したら、どういうことになったのかわかります。義兄《あに》はあの人の父親のように死ぬでしょう」
「そういうことがはじまったのは、もうずっと前のことですか?」
「数年前です。おそらくその前から飲んでいたのでしょうが、そのころはまだそれほど毒にはならなかったのでしょうか? 義兄《あに》は年には見えませんが、それでももう六十七歳です」
「家令にお義兄《にい》さんの部屋へ案内してもらいましょう」
「長くかからないでしょうね」
「私は今晩パリヘ帰ります」
彼女は言い争うのはむだだとさとって、呼鈴をおした。アルセーヌが現われた。
「警視さんを旦那さまの部屋へご案内しなさい」
アルセーヌがおどろいて彼女の顔を見た。よく考えたのかとたずねるような顔つきだった。
「なるようになるのよ!」
家令がいなかったら、僧院の廊下のようにいりくんでひびきのよい廊下のとちゅうで、メグレはまよってしまっただろう。彼は台所をちらっと見た。そこにはグロ=ノワイエ村の台所と同じように真鍮の食器類が光っていて、白ブドウ酒の壜がテーブルにのっていた。たぶんアルセーヌの酒壜だろう。
アルセーヌはメグレの態度がもうさっぱりわからないという顔をしていた。部屋のことを聞かれたあとで、てっきりほんとうの訊問がはじまるとあてにしていた。ところが、何も聞かれなかったのだ。
一階の右の翼棟で、彼は彫刻をほどこしたカシ材のドアをたたいた。
「旦那さま、私でございますよ!」と彼は中によく聞こえるように声をはりあげて言った。
そして、中でぶつぶつ言う声が聞こえたので、
「警視さんをおつれしました。どうしても旦那さまに会いたいとおっしゃるので」
二人はじっとしていた。その間に、部屋の中でだれかがいったりきたりしていたが、とうとうドアを細目にあけた。
義妹は目がすわっていると言ったが、まちがいではなかった。その目が茫然としたようにメグレを見すえた。
「あなたですか!」とユベール・ヴェルヌーがまわらぬ舌で言った。
彼は服を着たまま横になっていたにちがいなかった。服がしわくちゃだった。白い髪の毛が額にたれさがったので、手で機械的に髪をかきあげた。
「何の用です?」
「あなたとちょっとお話ししたい」
メグレを追い払うのはむずかしかった。ヴェルヌーは、まだ完全に意識をとり戻していないかのように脇に寄った。部屋はとても広かった。非常にくすんだ色の彫刻をほどこした木製の天蓋つきベッドが置いてあり、色あせた絹の掛布団がかけてあった。
家具はどれも古く、多かれ少なかれ同じ様式のもので、教会か聖堂の納器室を思わせた。
「失礼しますよ」
ヴェルヌーは浴室へはいっていって、コップに水を汲んで、うがいをした。戻ってくると、もういくらかよくなっていた。
「おかけください。この肘掛椅子にどうぞ。だれかに会いましたかね?」
「義妹《いもうと》さんに」
「義妹《いもうと》はあなたに私が酒を飲んだと言ったでしょう?」
「マルク酒の壜を見せてくれました」
ヴェルヌーは肩をそびやかした。
「いつも同じことを言うんですよ。女どもには理解できんことです。息子が自殺したなんてひどいことを知らされた男は……」
酒のために目がにごっていた。彼は声の調子を落として、空涙を流した。
「ひどいショックですよ、警視さん。息子はあれ一人だったんですからね。あれの母親はどうしてます?」
「さあ……」
「あれは病気になるでしょう。芝居ですよ。病気になれば、みんなはもうあれには何も言いませんからな。わかりますか? すると義妹《いもうと》があれに代る。義妹《いもうと》は家を切りまわすんだと言っていますがね……」
彼は観客をぜひとも感動させたい老コメディアンを思わせた。少しむくんだその顔の中で、表情がおどろくべきスピードで変わっていた。数分のうちに、困惑、ある種の恐怖、それから父親の苦しみ、二人の女性ゆえの辛さなどを、つぎつぎに表現した。そして今は、恐怖が顔面に戻ってきた。
「なぜあなたはどうしてもわしに会おうとなさったのです?」
メグレは指さされた肘掛椅子にすわっていなかったが、鉛管の切端をポケットから出して、テーブルの上に置いた。
「あなたはときどき義兄《おにい》さんの家へいきましたか?」
「月に一回ほどいきました。あれの金を持っていったのです。わしがあれに生活費を持っていっていたことは、みんな知っていたと思いますが」
「それでは、この鉛管の切端を義兄《おにい》さんの部屋で見かけましたね?」
ヴェルヌーは、この質問に対する答えが重要であり、自分がすみやかに決心しなければならないことをさとって、躊躇した。
「見たと思います」
「これは、この事件で唯一の物的証拠です。これまで、これがすべての手がかりを含んでいるようには見えませんでした」
メグレは腰をおろすと、ポケットからパイプを出して、たばこをつめた。ヴェルヌーは立ったままだった。まるではげしい頭痛に見舞われたように顔をゆがめていた。
「しばらく、私の言うことを聞いてくれませんか?」
返事を待たずに、メグレは言葉をついだ。
「三つの殺人事件は多かれ少なかれ同一のものだと断定されましたが、第一の事件が実はほかの二つとまったくちがうということを考慮していません。やもめのジボンばあさんもゴビヤールも、計画的で、冷静な犯人によって殺されました。ジボンばあさんの家の戸をたたいた男は、ばあさんを殺すためにやってきて、待つ間もなく、廊下でばあさんを殺しました。玄関で、彼はすでに兇器を手にしていました。二日後に、ゴビヤールを襲ったとき、犯人はおそらくゴビヤールをとくにねらったわけではない、ゴビヤールを殺そうとは思っていなかった。私の言おうとしていることがわかりますか?」
いずれにしてもヴェルヌーは、メグレが結局はどうしようとしているかを見ぬこうと、ほとんど苦しい努力を払っていた。
「が、クルソン事件は別です。クルソン家にはいるとき、犯人は兇器を持っていなかった。そこで、彼はもともと殺人の意図を持ってきたのではない、と推定できます。何事かが起こった、それが彼を殺人に走らせた。おそらく、それまでにもしばしば挑戦的だったクルソンの態度のせいか、あるいはおそらく、殺人者のほうから脅迫的な態度をとったせいではありませんか?」
メグレは言葉を切ると、マッチをすってパイプを吸った。
「あなたはどうお考えですか?」
「何を?」
「私の推理をです」
「その話はもうすんだと思っていたよ」
「たとえすんだにしても、私は理解しようと努力します」
「気違いはそんなことをごちゃごちゃ考えるはずがない」
「犯人が気違いではなかったら、ともかくふつう気違いという言葉にあたえられている意味での気違いではなかったら? もう少し、私の言うことを聞いてください。だれかがあの晩ロベール・ド・クルソンの家へいく。こそこそしないで堂々とね。だって、彼は兇悪な意図をまだ持っていなかったのだから。ところが、われわれの知らない理由で、彼は殺人に導かれた。彼はあとに何の痕跡も残さない。兇器も持ち去る。これは彼がつかまりたくなかった証拠です」
だから、被害者をよく知っている人間、いつもその時間に被害者に会いにいく人間が問題です。
警察は必ずこの方向で捜査するでしょう。
そして警察が犯人をつかまえるのには、あらゆるチャンスがあるのです」
ヴェルヌーは、深く考えこみ、是非を計るような顔つきで、メグレをながめた。
「さて、町の反対のはずれで、もう一つ別の殺人が犯された、殺人者にもクルソンにもまるっきり会ったことのない人間が殺されたと仮定しましょう。すると、どういうことが起こるでしょう?」
ヴェルヌーは笑いを少しもこらえなかった。メグレが言葉をつづけた。
「当局は|必ずしも《ヽヽヽヽ》最初の犠牲者の関係者たちを捜査しないでしょう。だれもが考えたことは、気違いの仕業ではないか、ということです」
ここでちょっと間を置いた。
「これが起こったことです。そして殺人者は、この気違いの仕業ではないかという仮定を強化するために、さらに念をいれて、今度は通りで、最初にやってきた酔っぱらいを殺して、第三の犯罪を犯したのです。判事も、検事も、警察も、それにひっかかってしまいました」
「あんたはちがうのか?」
「そう思わなかったのは私一人ではありませんでした。世論は思いちがいすることがあります。が、しばしば、世論は女子供の直観と同じ種類の直観を持つものです」
「世論がわしの息子を犯人と考えた、と言いたいのかね?」
「世論はこの家をさし示したのです」
メグレはそれ以上しつこく言わないで立ちあがると、ルイ十三世時代風のテーブルのほうへいった。そのテーブルは、事務机として使われていて、その上には下敷きを敷いた便箋がのっていた。彼は便箋を一枚めくりとると、ポケットから一枚の紙をとり出した。
「アルセーヌが書いたんですな」と彼は投げやりに言った。
「うちの家令が?」
ヴェルヌーがさっと近づいた。それでメグレは、ヴェルヌーが身体はふとっていても、ふとった人間によくある身軽さを持っていることに気がついた。
「彼は訊問されたがっています。でも、思いきって自分から警察や裁判所に出頭しようとしません」
「アルセーヌは何にも知らない」
「いや、知っているかも知れません。彼の部屋は通りに面していますからね」
「アルセーヌに話したのか?」
「まだです。あなたは彼に給料を払わないし、逆に彼から金を借りていることを悪いと思っているのではないかと思います」
「それも知っているのか?」
「あなたは何も私に言われませんでしたね、ヴェルヌーさん?」
「何をあなたに言ったらいいんだ? 私の息子は……」
「息子さんの話はよしましょう。あなたはずっとしあわせじゃなかったんでしょう?」
彼は答えず、くすんだ花模様の絨毯をじっと見つめた。
「あなたが金を持っている限り、あなたは虚栄心を満足させることができた。とにかく、あなたはこの土地の財産家なのだから」
「そういう個人的問題に触れられるのは不愉快だな」
「この数年間に、あなたは大金を失ったのですか?」
メグレは、言うことは大したことではないというように、ずっと軽い口調になった。
「あなたが考えているのとは反対に、捜査は終っていないし、予審もまだ行なわれています。今日まで、私には関係のないいろいろな理由から、捜査は規則通りには行なわれませんでした。お宅の召使いたちをいつまでも訊問しないわけにはいかないでしょう。それにあなたのお仕事にも立ちいって、あなたの銀行預金を調べなければなりますまい。そして、世間で疑っていることですが、ここ数年来、あなたが財産の残りを救おうとむなしく戦ってこられたことを知るでしょう。裏を見てみれば、もう何一つない、あるのはただ、もう金を作ることができなくなってからというもの、自分の家族からつれない仕打ちを受けてきた一人の男だけです」
ユベール・ヴェルヌーが口を開いた。がメグレは彼にしゃべらせなかった。
「また、精神科の医者を呼ぶでしょう」
メグレは相手がとつぜん顔をあげるのを見た。
「私は当局がどんな意見をとるか知りません。私は職権でここへきたわけではありません。今晩、パリヘ帰ります。そして友人のシャボが予審の責任をはたします。
さっきあなたに、最初の犯罪は必ずしも気違いの仕業ではないと言いました。さらに言えば、ほかの二つの殺人は、かなり悪魔的な推論に従って、ある明白な目的のもとに行なわれたのです。
さて、精神科の医者たちがこうした推論を気違いの徴候、彼らが偏執狂《パラノイア》と呼ぶ一種の特殊な、思ったよりよく知られている気違いの徴候ととっても、私はおどろかないでしょう。
あなたはご子息が研究室で持っているにちがいない本を読みましたか?」
「目を通したことはあったよ」
「もう一度読むべきです」
「あんたは主張しないんだね、わしが……」
「私は何も主張しません。私は昨日、あなたがトランプをするところを見ました。あなたが勝つところを見ました。あなたは、この勝負も同じやり方で勝つと確信しているにちがいありません」
「わしは何の勝負もしていないよ」
彼はやんわりと抗議した。しかし内心では、メグレがこれほど自分に注目し、自分の器用さをあからさまにほめるのが、うれしくてたまらなかった。
「私はあなたが過ちを犯さないように見張っているのです。と言って、新しい殺戮《さつりく》があるとかもう一つだけ犯罪が起こると決めているわけではさらさらありません。私の言おうとしていることがわかりますか? ご子息が強調されたように、気違いは気違いなりのルールを、論理を持っているのです」
もう一度、ヴェルヌーが口を開いたが、メグレはやはりしゃべらせなかった。
「話はこれで終りです。私は九時半の汽車にのりますから、夕食前に荷物をまとめにいかなければなりません」
相手はとほうにくれてがっかりし、もう何もわからなくなって、メグレをながめ、それから引きとめるような仕種をしたが、メグレはドアのほうへ向かった。
「道はわかります」
しばらくして、また台所にきてしまった。そこからアルセーヌが、何かたずねたそうな目つきをしてとび出してきた。
メグレは彼にも何も言わず、中央の廊下をたどり、自分で玄関のドアをあけた。そのドアをアルセーヌがメグレの背後で閉めた。
向かい側の歩道には、三、四人のしつっこい野次馬がいるだけだった。今晩も、自警団はパトロールをつづけるつもりだろうか?
彼はうっかり、おそらくはまだ会議がつづけられている裁判所のほうへいきそうになったが、すでに宣言したようにしよう、荷物をまとめにいこうと決心した。それから、歩いていて、ビールを一杯飲みたくなったので、カフェ・ド・ラ・ポストのテラスに腰をおろした。
みんなが彼をながめた。前より小声になって話をしていた。中にはささやきはじめるものもいた。
彼はまるでパリの大通りのカフェのテラスにいるみたいに、ビールを二本、ゆっくりと味わいながら飲んだ。子づれの親たちが、子供たちにメグレを指さして教えようと立ちどまった。
メグレは教師のシャリュスが通るのを目にした。でっぷりふとった男といっしょで、その男に向かって何やら身ぶりをまじえて話しかけていた。シャリュスのほうはメグレには気がつかず、やがて二人の男は町角に消えていった。
あたりはもうほとんど真暗で、テラスから客がいなくなったので、メグレもやっと腰をあげて、シャボの家のほうに向かった。シャボがドアを開けてくれたが、メグレに心配そうなまなざしを投げた。
「どこにいってたんだ?」
「カフェのテラスさ」
彼は帽子を外套かけにかけると、食堂に食卓の用意がしてあるのに気づいたが、夕食はまだできていなかった。シャボがまず事務室へはいってくれと言った。
かなり長い沈黙があってから、シャボがメグレの顔を見ないで、つぶやいた。
「捜査はつづけるよ」
彼はこう言っているようだった。
『きみが勝ったよ。ほら! われわれはそんなに臆病じゃないだろう』
メグレは笑わないで、ちょっと賛成の合図をした。
「今はもう、ラブレー通りの家は監視されている。明日、おれは使用人たちの訊問にとりかかる」
「うっかり、これをきみに返すのを忘れるところだった」
「ほんとうに今夜発つのか?」
「発たなきゃならん」
「われわれはなんらかの結論にたどりつけるのかな?」
メグレは鉛管の切端をテーブルの上におくと、ポケットをさぐって、アルセーヌの手紙をとり出した。
「ルイーズ・サバチは?」と彼はたずねた。
「危機を脱したらしい。それで吐き気がとまった。たべられるようにはなったが、まだ消化ははじまっていない」
「彼女は何と言った?」
「そっけなく答えている」
「二人で死ぬところだったってことを、彼女は知っていたのか?」
「うん」
「甘んじて死ぬ気になっていたのか?」
「彼が彼女に、二人はもうぜったいに幸福になれないと言ったのだ」
「彼は彼女に三つの殺人事件のことは話さなかったのか?」
「話さなかった」
「父親のことも?」
シャボはメグレをまともに見つめた。
「きみは父親が犯人だと思っているのか?」
メグレは瞼をしばたたいただけだった。
「彼は気違いか?」
「それは精神科の医者が決めるだろう」
「きみの意見ではどうだ?」
「おれは良識ある人間は人を殺さないとくり返すだけさ。しかし、それは一つの意見にすぎない」
「さほどまっとうな意見じゃないね?」
「ないね」
「きみは何か気にかかっているようだな」
「待っているんだ」
「何を?」
「何かが起こるのを」
「今日、何かが起こると思っているのか?」
「そうねがっている」
「なぜ?」
「おれがユベール・ヴェルヌーを訪ねたから」
「きみは彼に……」
「どうして、そしてなぜ、三つの殺人が犯されたかを話した。どうして殺人者が正常に反応しなければならなかったかという話を聞かせてやった」
シャボは、つい今さっき、自分が決断したことを誇っていたのに、再びおびえたようすを見せていた。
「しかし……それでは……きみがこわがるのは……」
「お食事の用意ができました」とローズが知らせにきた。一方、シャボ夫人が食堂に向かいながら、二人にほほえみかけた。
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第九章 ブランデーのナポレオン
一度となく、老婦人のために、彼は口をつぐむか、あるいはむしろ彼らの気がかりなことには関係のないよもやま話しかしないようにしなければならなかった。そして、その晩は、料理の、とくに|王室風野ウサギ《ル・リエーヴル・ア・ラ・ロワイヤル》の作り方が話題になった。
シャボ夫人はまたチョコレート・シュークリームを作り、メグレはたえず古時計の針をにらみながら、胸をむかつかせて、五つもたべた。
八時半になっても、まだ何も起こらなかった。
「急ぐことはないよ。タクシーに先にホテルヘ寄ってきみの荷物を受けとってくるようたのんだから」
「とにかく、ホテルヘいって清算しなけりゃならんよ」
「電話で、おれの勘定にいれておくように言っておいたよ。これできみは、二十年ぶりに、フォントネイにきてくれても、うちに泊まらないことをおぼえるだろう」
コーヒーとブランデーが出された。彼は葉巻を一本受けとった。それがしきたりだったし、もしことわったら、シャボの母親の意に満たなかっただろうからだ。
九時五分前に、自動車が玄関の前にきて轟音をたて、運転手が待機したが、ちょうどそのとき、とうとう電話のベルが鳴った。
シャボがとびついて受話器をとった。
「わしだ、そう……何?……死んだのか?……よく聞こえないよ、フェロン……もっと落ちついて話せ……わかった……すぐいく……病院へ運ぶんだ、当然だよ」
彼はメグレのほうを向いた。
「すぐ、あそこへいかなきゃならん。きみは今夜どうしても帰らなきゃならんのか?」
「どうしても」
「駅へ見送りにいけないな」
母親がいたので、彼はそれ以上は言わずに、帽子と合着のコートをつかんだ。
歩道に出てから、やっとこうささやいた。
「ヴェルヌーの家でおそろしい事件があった。ユベール・ヴェルヌーがぐでんぐでんに酔って、自分の部屋の中のものを片端からこわし、最後に気違いのようになって、手首をカミソリで切ったんだ」
メグレが落ちついているので、シャボはびっくりした。
「彼は死んでいない」とシャボがつづけた。
「知っている」
「どうして知っているんだ?」
「ああいう人間は自殺しないからだ」
「でも、彼の息子は……」
「さあ、いけ。みんなが待っているぞ」
駅までは五分しかかからなかった。メグレはタクシーに近づいた。
「ちょうどいい時間です」と運転手が言った。
メグレは最後にもう一度シャボをふり返った。シャボは歩道のまんなかでとほうにくれているようだった。
「手紙をくれよ」
単調な旅だった。二、三の駅で、メグレは降りて一杯飲み、最後に眠りこんでしまったが、列車が駅にとまるたびに、駅長の叫び声や荷車の音を、ぼんやりと意識していた。
夜明けにパリについて、タクシーで家までいった。家の下で、彼は開いている窓に笑いかけた。妻が踊り場で彼を待っていた。
「あんまり疲れてないのね? 少し眠ったの?」
彼はコーヒーを大きな茶碗で三杯飲んでから、やっとくつろいだ。
「お風呂へはいる?」
もちろん、彼は風呂へはいりにいった。また妻の声を聞き、部屋のにおいをかぎ、あるべきところにある家具や調度を見るのは心地よかった。
「あなたが電話で言ったことは、よくわからなかったわ。何か事件に首をつっこんでたの?」
「もう終ったよ」
「何だったの?」
「負けることをあきらめられないやつの話さ」
「わからないわ」
「何でもない。坂道をころげ落ちるくらいなら、どんなことでもできるという人間がいるもんだ」
「あなた、自分で何言ってるのかわからないんだわ」とメグレ夫人が諦めてつぶやき、もうそれ以上気を使わなかった。
九時半に、部長の部屋で、メグレは上院議員の娘の失踪事件を知らされた。ひどい話で、ごたぶんにもれず地下室の底ぬけパーティと麻薬がいっしょだった。
(娘が自分の意志で出かけたのではないのはほとんど確実だ、それに彼女を誘拐するチャンスはほとんどない。十中八九、娘はごく多量の麻薬をのまされてたおれ、錯乱状態になった仲間が死体を消したのだろう)
メグレは名前と住所のリストを写した。
「リュカがすでに五、六人に聞いた。今までのところ、だれ一人、話す決心をしていない」
その連中にしゃべらせることがメグレの仕事ではなかったか?
「おもしろかったかね?」
「どこで?」
「ボルドーでさ」
「ずっと雨だった」
彼はフォントネイのことをしゃべらなかった。自分をわるだと思いこんでいるばかな若ものたちを白状させていた三日の間に、やっとフォントネイのことをちらと考えたくらいだった。
それから、郵便物のなかに、フォントネイ=ル=コントの消印がある一通の手紙を見つけた。
新聞で、彼はすでに事件の結末を大ざっぱには知っていた。
シャボは、女の筆跡ととられかねないような、きれいで細い、少々とがった字で、メグレに詳細をつたえてきた。
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きみがラブレー通りの家から出ていった少しあと、しばらくしてから、ヴェルヌーは地下室へしのびこんだ。そして二代前からクルソン家で保存していたブランデーのナポレオンの壜を持ってあがってくるところを、アルセーヌが見た。
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メグレは思わず笑わないではいられなかった。ユベール・ヴェルヌーは、最後に酔っぱらうために、手あたり次第の酒では満足しなかったのだ! それで、家にあるうちでもいちばん数の少ない、高貴のしるしとしてわずかだが保存していた尊ぶべき酒をえらんだのだ。
『家令が彼に夕食の支度ができたと言いにいったとき、ヴェルヌーはすでに、目がすわり、目のまわりは真赤だった。芝居がかった大げさな身ぶりで、家令に一人にしておいてくれと言い、こうどなった。
「売女《ばいた》どもめ、おれをぬかして食うがいい!」
女たちはすでにテーブルについていた。およそ十分後に、ヴェルヌーの部屋からにぶい音が何度も聞こえてきた。何が起こったかアルセーヌを見にやったが、ドアに鍵がかかっていた。ヴェルヌーは卑猥なことをどなり散らしながら、手あたり次第にものをこわしている最中だった。
何が起こっているかがわかったとき、
「窓があいてるわ」とみんなに注意したのは義妹だった。
女たちは食事を中断しないで、アルセーヌが中庭へまわる間、ずっと食堂にすわっていた。窓が一つ、細目にあいていた。アルセーヌはカーテンを引いた。それをヴェルヌーが見ていた。ヴェルヌーはすでに手にカミソリを持っていた。
ヴェルヌーはもう一度、一人にさせろ、もうたくさんだと叫んだ。そして、アルセーヌの話によると、それまで彼が口にするのを一度も聞いたことがないような卑猥な言葉を言いつづけたそうだ。
どうしても部屋の中へはいれないので、家令が助けを呼んだとき、ヴェルヌーは手首を切りつけた。血がほとばしった。それをヴェルヌーはふるえながら見ていた。そして、それからはもうなるがままになった。まもなく、彼は絨毯の上にぐったりとたおれて、気を失ってしまった。
それからずっと、彼は質問に答えようとしない。翌日、病院で、彼は自分のベッドのマットレスを夢中になって切りさき、それで彼を、壁が刺し縫いのクッションになっている精神病棟の個室にいれなければならなかった。
精神病医のデプレがニオールからきて、はじめて彼をくわしく診察した。明日、医師はポワチエの専門医に相談するはずだ。
デプレの話では、ヴェルヌーの狂気はほとんど疑いないということだが、医師は事件がこの土地にあたえる影響を考慮して、十分に慎重を期すつもりだという。
おれはアランの埋葬を許可した。葬式は明日行なわれる。サバチはまだ病院にいるが、すっかり快方に向かっている。あの娘をどうしてやったものか、わからない。父親はフランスのどこかで働いているはずだが、さがしようがない。彼女はまだ自殺する考えを持っているから、あの住まいに送り返すことはできない。
うちの母は、年をとったローズの重荷を少し軽くしてやるために、サバチを家の女中にやとうと言っている。おれがおそれるのは、町の連中が……』
メグレはその日の朝、この手紙を最後まで読むひまがなかった。重要な証人が彼のところへつれてこられたからだ。彼は手紙をポケットにつっこんだ。そして、手紙の結末がどうだったかを、永久に知らずじまいになってしまった。
「そうだ」と彼は夕方、妻に言った。「ジュリアン・シャボから手紙がきたぞ」
「何て書いてあったの?」
彼は手紙をさがしたが、見つからなかった。手紙は、ハンカチかたばこいれを引っぱり出すとき、ポケットから落ちたにちがいなかった。
「新しい女中をやといそうだ」
「それだけ?」
「そんなところだ」
ずっとあとになってから、鏡にうつした自分の顔を不安な目でながめながら、メグレはつぶやいた。
「あいつは年くったなあ」
「だれが?」
「シャボだ」
「あの人、いくつになったの?」
「おれと二カ月くらいちがうだけだ」
メグレ夫人は、寝にいく前にいつもそうするように、部屋の中を片づけていた。
「あの人、結婚するといいのよ」と彼女がしめくくった。(完)
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訳者あとがき
シムノンの無数にある小説のうち、魅力の第一は何と言っても『メグレ警視シリーズ』であり、そしてこのシリーズの魅力は、やはり何と言ってもメグレの人間のおもしろさであろう。
正直言って、シムノンという作家にとっては、いわゆる推理小説の謎解きといったものは、たいして大切ではない。重要なのはメグレという警察官の人格であり、これがさまざまな環境と人間模様に触れて醸し出す雰囲気である。だから、たいてい、このメグレの気質や心理と、事件事件によって生ずる雰囲気の彼方から、自然に謎が浮かび出てくる趣向になっている。
もともと、フランスには、ポオやドイルが書いたような、徹頭徹尾謎解きを追うとか、あるいは読者の推理に挑戦するような推理小説は数少ない。しかし、『メグレ警視シリーズ』やレオ・マレ作の『探偵ピュルマ・シリーズ』、あるいは『ファントマ』や『リュパンもの』のように、警察官、探検、犯罪者などの人間としてのおもしろさ、かなしさ、あるいは事件をめぐって引き起こされる登場人物たちの生活模様や心理のおもしろさ、さらにある環境、社会の雰囲気を扱った小説やノン・フィクションはたくさんある。
たとえば、バルザックの『暗黒事件』『ふくろう党』、十八世紀の探偵ヴィドックの『回想録』、ナポレオン時代のヨーロッパを背景に展開する義賊『ロカンボーレ』の物語などがそうである。
これは、やはり、フランスの国民性が原因ではなかろうか。フランス人は、繊細で感受性が豊かで、人のことに気をつかい、何をおいても人間心理の機微に敏感……といった性格を持っている。それで、フランスの作家もしくはフランス系の作家(シムノンは衆知のようにベルギー生まれのフランス作家である)が推理小説や犯罪小説を書くと、どうしても人間本位になってしまい、謎解きに対するつっこみが足りなくなってしまう。(もちろん、ルルーの『黄色い部屋の秘密』や最近のボワロー=ナルスジャックの作品などの例外はある。しかし、こうした比較的謎解き本位の推理小説でも、他の国のものと比べると、人間臭さが濃厚に出ている)
『メグレ警視シリーズ』の場合、こうしたフランスの推理小説の特徴はどこに現われているだろうか? 第一に気づくことは、メグレが犯罪そのもの――ひいては謎解きに興味を持つより、犯人やその周囲の人間たちに興味を持つ点である。メグレは犯罪における証拠物件や指紋などは大して重要視しない。何よりもまず事件をめぐる人間に自分の肌で密着していく。証人や目撃者や被疑者と同じ心理状態、同じ思考形態、同じ感性にわが身を置いて、事件を最初から追体験する。つまりメグレはもう一度事件の中で生きてみようとする。そこで、メグレにとって、犯罪における真実発見の手がかりとなるのは、事件や事件関係者たちが残す日常生活の微妙な波立ちや、目には見えない雰囲気や、気づかないほど些細な言葉や身ぶりである。だから、往々にして、メグレは犯人にある意味では共感をおぼえることもあるし、医者が患者に示すようないたわりの気持を抱くことすらある。
『メグレ警視シリーズ』で、もう一つ興味をおぼえるのは警察小説としての面である。メグレは、たとえばシャーロック・ホームズのように純粋に単独では犯罪捜査をしない。もちろん、事件の核心においては、独特の古典的捜査方法――尋問とか、尾行とか――を駆使するが、同時に警察機構をフルに使う。そこでまた、パリ警視庁における上司や部下との関係や、パリ警視庁と地方警察との関係などをめぐって、独特の人間臭さが醸成されてくる。
一言で言えば、『メグレ警視シリーズ』のおもしろさは、犯罪という特殊な状況の中での人間存在のドラマ、そこから引き出される人間の真実、と言ったところではないだろうか?
なお本書の原題は、そのまま訳せば、『メグレおびえる』の意である。(訳者)