男の首
ジョルジュ・シムノン/宗左近訳
目 次
一 死刑囚監房十一号室
二 眠る男
三 破られた新聞紙
四 捜査本部
五 キャビアを好む男
六 ナンディの宿屋
七 札束を見せる男
八 邸のなかの人影
九 その翌日
十 恐怖の戸棚
十一 ポーカー・ダイス
十二 転倒
訳者あとがき
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登場人物
メグレ 司法警察の警部
ジョゼフ・ウルタン 花屋の配達人
ジャン・ラデック チェコ生まれの医学生
ヘンダーソン夫人 アメリカ外交官の未亡人
コメリオ 予審判事
ウィリアム・クロスビー ヘンダーソン夫人の甥
ヘレン・クロスビー夫人 その妻
エドナ・ライヒベルク スウェーデンの製紙業者の娘
デュフール 司法警察の刑事
ジャンビエ 司法警察の刑事
リュカ 巡査部長
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一 死刑囚監房十一号室
どこかで二時の鐘がなった。寝台の上で、その囚人は、大きなふしくれだった手に、折りまげたひざを抱えこみ、なにかを決心しかねているように、一分ばかり、じっと動かなかった。が、ふと深い息をついたかと思うと、手足を伸ばして、独房のなかで立ちあがった。
ばかに頭の大きな、腕だけがむやみに長い、くぼんだ胸の、不恰好《ぶかっこう》な大男である。
その顔には、虚脱した表情しかなく、人間ばなれのした無関心さしか、浮かんでいなかった。彼は、覗《のぞ》き窓のしまったドアに向かう前に、一方の壁へ握り拳《こぶし》を突きだした。
その壁をはさんだ隣りにも、まったく同じ型の独房があった。ラ・サンテ監獄の、死刑囚監房である。
その監房では、他の四つの独房の囚人と同じように、ひとりの死刑囚が、特赦《とくしゃ》か、あるいは、深夜に無言で彼をゆり起こす、ものものしい死刑執行吏の一団を待っていた。
この五日間というもの、隣りの囚人は、たえまなく呻《うめ》きつづけていた。あるときは、単調でおもくるしく、またあるときは、反抗の叫び声をあげ、涙を流してわめきたてた。
十一号監房の囚人は、隣りの監房の男を見たこともなかったし、その男について、なにも知らなかった。その声からおして、かなり若い男だと判断するのがせいぜいだった。
もう、隣りの監房の呻き声は、疲れはてて、機械的にくりかえされるだけである。だが、いま立ちあがった十一号監房の囚人は、この男とは反対に、その眼に憎悪《ぞうお》の光をたたえ、ふしくれだった握り拳に、力をこめていた。
廊下からも、構内からも、中庭からも、城塞《じょうさい》のようなラ・サンテ監獄のどこからも、そして、監獄の周囲の街路からも、パリの市街からも、もの音は、なにひとつきこえてこない。
きこえるのは、十号監房の囚人の呻き声だけである。
十一号監房の囚人は、硬《こわ》ばった指をのばし、ドアをつかもうとして、二度ばかりふるえた。
独房には灯《ひ》がともっていた。これは、死刑囚監房の規則である。その規則では、看守がひとり廊下にいて、一時間ごとに、五人の死刑囚の房を、覗き窓をあけて調べることになっている。
十一号監房の囚人の両手は、ドアの把手《とって》にふれた。不安にふるえているために、かえってその手つきはものものしかった。
ドアがあいた。廊下には、看守の椅子《いす》があった。だが、だれもいない。
十一号監房の囚人は、足ばやに歩きだした。めまいがして、腰をまげたまま進んだ。顔はつやがなく、蒼白《そうはく》だ。緑色がかった眼の上のまぶただけが、赤い。
囚人は三度ひき返した。通路を間違えて、しまったドアにつきあたったのだ。
廊下の奥で人声がする。数人の看守が、詰所でたばこをすいながら声高に話しているのだ。
やっと中庭に出た。暗闇《くらやみ》のところどころを、屋外燈が明るく円を画いて照らしている。百メートルばかり先の表門のところで、守衛がひとり、靴《くつ》の先で地面を蹴って暖をとっている。
向こうの窓がひとつ明るく灯がついていて、ひとりの男がパイプをくわえて、机いっぱいにひろげた書類に向かっているのが見える。
十一号監房の囚人は、食器の底に貼りつけてあった三日前の手紙を、もう一度読みたかった。だが、その手紙は、差出人の指示どおりに、噛《か》んでのみこんでしまった。つい一時間前までは、その手紙の文句を覚えていたが、いまでは、はっきり思い出せない個所が数行もあった。
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十月十五日午前二時、きみの監房の鍵はあいている。看守は他の場所で仕事をしている。もし、きみがつぎの道順でゆけば……
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彼は熱い手を、額にあてた。そして、弧を画く屋外燈の光を、おびえながら眺めた。そのとき、足音を耳にして、あやうく叫び声をあげそうになった。だが、足音は塀《へい》の向こうの街路のものだ。
娑婆《しゃば》の人間が、靴音を敷石にひびかせて、話しながら歩いているのだ。
「あんなものの入場料が五フランもするなんて! あきれたわ」
女の声である。
「しかたがないさ。あれで、費用もかなりかかるだろうからね」男の声が答えている。
囚人は壁を手さぐりしながら進んだが、石につまずいて、はっとして足をとめ、あわててきき耳をたて、蒼白になって、長すぎる両腕で、暗闇をさぐった。それは、おそろしく奇妙な恰好である。他の場所だったら、酔っぱらいに間違われたことだろう。
囚人から五十メートルとは離れていないところに、数人の人間が闇にかくれてたたずんでいた。『会計』と書いたドアに近い、壁のひっこんでいるところである。
メグレ警部の背後には、黒ずんだ煉瓦《れんが》の壁があったが、彼はよりかかる気になれなかった。外套《がいとう》のポケットに両手をつっこんで、がっしりと足をふまえて立ったまま、微動だもしない。まるで、生命のないなにかのかたまりのようである。
規則的に間をおいて、メグレのパイプがじいじいいうのがきこえた。目には、不安をおさえきれない表情がうかんでいた。おちついていられなくなって、この場から動き出そうとするコメリオ予審判事の肩に、メグレは二度手をおかねばならなかった。
コメリオ予審判事は、燕尾服《えんびふく》のまま社交界の集りから、午前一時にやって来た。ぴんと張ったりっぱな口ひげは、きちんと手入れがしてあって、顔はふだんよりつやがよかった。
ふたりの傍《かたわら》には、ラ・サンテ監獄長のガシュ氏が立っていた。しかめっつらをして、背広の襟《えり》をたてていた。そして、現在起こっていることに、無関心を装っていた。
気温は、むしろ寒いくらいである。看守は表門の近くで、靴先で地面を蹴って暖をとっていた。人の吐息が、外気に白く長い尾をひいた。
囚人は、明るい場所を避けていたので、姿が見えなかった。だが、音をたてないように、どんなに注意しても、行き来する物音はききとれたから、彼の動作は手にとるようにわかった。
十分が過ぎた。コメリオ予審判事は、メグレの傍に来て、話しかけようとして口を開いた。が、メグレ警部がその肩を強くおさえたので、彼はしゃべるのをやめ、深い息をついて、ポケットから無意識のうちにたばこを一本とりだした。だが、これもとりあげられてしまった。
三人とも事件のなりゆきを理解していた。十一号監房の囚人が、逃げ路《みち》を見いだせないで、巡視にぶつかる危険が、刻々と迫っていた。
とはいえ、三人にはどうすることもできない。ある地点に行きつけば、塀のわきに着替えの包みが置いてあって、結び目のついた綱がさがっている。しかし、囚人をそこまで行かせることはできない。
ときどき、車が外側の街路を走った。そしてときおり、人々が話しながら通り過ぎた。その声は、監獄の中庭に、とりわけよく響いた。
三人の男は、視線を交わすことしかできなかった。監獄長の視線は、激しく皮肉で残忍な輝きを帯びていた。
コメリオ予審判事は、いらだたしさと同時に、不安がつのってゆくのを感じた。
メグレだけが、強い意志でもって、しっかりとおちついて、自信を抱いているように見えた。だが、もし白昼のことだったら、額に汗の滴《しずく》が光っているのが見られただろう。
二時三十分の鐘が鳴った。囚人は波のまにまに漂うような動きをくりかえしていた。突然、一瞬のうちに、監視していた三人は同じ衝撃にみまわれた。
吐息はきこえなかった。だが、囚人の動きはわかる。とうとう着替えの包みに行きつき、綱を見つけて、ひどくあわてているようすが想像され、感じることができる。巡視の靴音は、過ぎてゆく時間の流れに、リズムを与えている。おそるおそる、予審判事は低い声で言った。
「きみが確信していることは……」
メグレがにらみつけたので、予審判事はまた黙りこんだ。そのとき、綱が動いた。塀にひときわ、鮮やかに黒い影が浮かんだ。十一号監房の囚人の顔だ。手頸《てくび》に力をこめて、懸命によじのぼっている。
それは、長いあいだかかった。想像以上に、十倍も二十倍も長くかかった。ようやく、てっぺんにたどりついたとき、囚人は逃亡をあきらめたようだった。そのまま、彼は動かなかった。
塀のてっぺんで腹ばいになっている囚人の姿が影絵のように見える。
めまいを感じたのだろうか。街路に降りるのをためらっているのだろうか。通行人がいるのか、あるいは路の片すみに恋人たちがうずくまっているので、降りられないのだろうか。
コメリオ予審判事は、もどかしげに指を折って、ぽきんぽきんと鳴らした。低い声で、監獄長が言った。
「もう、わたしにご用はありませんでしょう」
ついに、綱がたぐりあげられた。そして、塀の向こう側へおろされた。囚人の姿が消えた。
「警部さん、あなたを、とことんまで信頼していなければ、こんな冒険にひきずりこまれたりはしません。よく覚えていてください。ウルタンが犯人だと、わたしはいまでも信じているんですからね。このまま、あの男を逃がしてしまうなら」
「あした、お会いできますか」
メグレは、それだけきいた。
「十時から役所にいます」
二人は黙って握手した。監獄長はしぶしぶ手を出し、ぶつぶつつぶやきながら立ち去った。
メグレは、それからしばらく、壁の傍にたたずんでいた。そして、一目散に走り去る足音に耳を傾けていたが、やがて、入口のほうへ歩きだした。守衛に手をあげて挨拶《あいさつ》して門を出ると、人気のない通りを眺めた。それから、ジャック・ドラン通りの角をまがった。
「行ってしまったのかね」
塀に、ぴたりと身を寄せていた人影に、メグレは声をかけた。
「アルゴー大通りの方角です。デュフールとジャンビエが尾行しています」
「もう帰ってもいいよ」
メグレは、うわのそらで刑事と握手してから、パイプに火をつけて、頭をたれ、重い足どりで立ち去った。
メグレが、警視庁の入口のドアをあけたのは、午前四時だった。吐息をついて外套をぬぐと、書類のあいだに、置きっぱなしになっていたコップ半分ばかりの生ぬるいビールを飲んだ。それから、安楽椅子にどっかりと腰をおろした。
彼の前には、書類でふくらんだマニラ紙の紙袋があった。表に「ウルタン事件」とりっぱな円味をおびた書体で書いてあった。司法警察の書記の字である。
三時間待った。裸電球がたばこの煙につつまれていた。空気がかすかにゆれても、煙の雲は流れた。
メグレは、ときおり立ちあがって、暖炉の火をかきたて、また、椅子に腰をおろした。立ちあがるたびに、最初は上着を、つぎはカラーをはずし、ついにはチョッキまで脱いでしまった。
電話は手のとどく位置にあった。六時ごろ、彼は受話器をとって、外線をつなぐのを忘れていはしないか、たしかめた。
黄色い書類ばさみが開かれていた。報告書、新聞の切抜き、調書、写真などが、机の上に散らばっていた。メグレは、そういったものを、手にとらずに眺めた。ときどき書類をとりあげたが、それは読むためではなくて、考えをまとめるためだ。
そのなかで、二段抜きの刺激的な新聞の見出しが、ひときわ目をひいた。
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ヘンダーソン夫人と女中殺しのジョゼフ・ウルタン、今朝死刑の宣告を受く。
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メグレはたえまなくパイプをすいつづけ、不安に耐えながら、じっと受話器を見つめていたが、電話は執拗《しつよう》に沈黙していた。
六時十分、電話のベルが鳴った。が、それは間違い電話だった。
椅子に腰をおろしたままでも、さまざまな書類の文字を読みとることができた。彼はそれを暗記してしまった。
ジョゼフ・ジャン・マリー・ウルタン、ムラン生まれ、二十七歳、セブール通りの生花商ジェラルディニ方の配達人。
ウルタンの写真があった。一年前に、ヌイリー露店写真屋でとったものである。並はずれて腕が大きく、三角頭で顔色のよくない大男である。身なりは、悪趣味なおしゃれといった感じである。
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サン・クルーの惨劇
富豪のアメリカ婦人、女中とともに殺さる。
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事件は七月に起こった。
メグレは、鑑識課のとった陰惨な写真をおしやった。あらゆる角度からとられた血まみれのふたつの死体の写真。顔はひきつり、血にそまった寝間着は乱れ、ひき裂かれていた。
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司法警察のメグレ警部、サン・クルーの惨劇事件を解決、犯人、逮捕さる。
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メグレは、前にひろげた書類をかきまわして、一枚の新聞の切り抜きを、見つけ出した。さっきの、十日前の記事である。
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ヘンダーソン夫人と女中殺しのジョゼフ・ウルタン、今朝死刑の宣告を受く。
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警視庁の中庭で、囚人護送車が夜の狩込みの獲物《えもの》を吐きだしていた。ほとんど女である。廊下に靴音がしだし、セーヌ河にたちこめていたもやが、晴れかかってきた。
電話のベルが鳴った。
「もしもし、デュフール君かい?」
「ええ、デュフールです」
「で、どうだ?」
「べつに異常ありません。というのは……。そちらへ行ってもいいんですが。いまのところ、ジャンビエだけでたくさんです」
「あいつは、どこにいるんだ?」
「『シタンゲット』にいます」
「え、なんだって? シ……なんだって?」
「バアです。イシー・レ・ムリノの近くの……。タクシーをつかまえて、いま報告に行きますよ」
メグレは、部屋のなかを歩きまわった。給仕をレストラン『ドフィンヌ』に行かせて、コーヒーとクロワッサンを注文させた。
メグレが食べはじめたとき、デュフール刑事がいつもの思わせぶりな顔つきではいってきた。体は貧弱だが、糊のきいた高いカラーをつけて、灰色の背広をきちんと着ている。
「で、『シタンゲット』というのはなんだね?」メグレは口をもごもごさせながらきいた。「まあ、腰かけたまえ」
「船乗り相手のバアです。ブルネルとイシー・レ・ムリノのあいだで、セーヌの河っぷちにあるんです」
「あの男は、まっすぐに、そこへ行ったのかい?」
「違いますよ。ジャンビエもわたしも、あいつにまかれなかったのが不思議なくらいです」
「朝飯はすんだかい?」
「『シタンゲット』でやりました」
「では、つづきを頼むよ」
「あいつが逃げるところは見たんですね? もういっぺんつかまったら百年目、とばかりに走りました。『ベルフォルの獅子《しし》』の像のところへ来ると、ひと安心したのか、さてどうしたものか、という恰好で、像を見ていましたよ」
「尾行を感づいていたかね?」
「おそらく感づいていなかったでしょう。一度もふりかえりませんでしたよ」
「それで?」
「めくらか、パリをまるで知らない人間みたいでしたね。なんていうところでしたか、あのモンパルナスの墓地を横ぎる通りへはいったんです。人っ子ひとりいませんでしたね。気味の悪いところですね。むろん、あいつは自分がどこにいるのか、わからなかったようです。鉄の柵の向こうが墓地なのに気づくと、またかけだしました」
「それから?」
メグレはパンを頬《ほお》ばっていたが、前より上機嫌になってきたようである。
「それから、モンパルナスの通りを出ました。大きなカフェは店をしめていましたが、ナイトクラブがまだ何軒かあけていましたよ。なかからジャズがきこえる店の前で、あいつが立ちどまったのをおぼえています。小柄な花売り女が花籠をかかえて近づいてくると、また歩きだしました」
「どっちへ?」
「どの方角とも言いかねますね。ラスパイユ通りを歩いて、横丁を通って、ひっ返して、モンパルナスの停車場の前へ出ました」
「どんなようすだった?」
「べつに、なんていうこともないです。予審のときや、重罪裁判所のときと同じです。ひどく蒼《あお》い顔で……おびえた目つきで、放心しているみたいな……。どうもじょうずに言えませんが、とにかく三十分後には中央市場へ来ていたんです」
「で、だれか、あの男に声をかけなかったかね」
「ええ、だれも」
「手紙をポストに投函しなかったかね」
「たしかに投函しなかったと思います。ジャンビエが一方の歩道を歩いて、わたしは反対側の歩道を歩きました。われわれは、あいつの動きを、ひとっかけらだって見落としていません。ああ、そうだ。生肉ソーセージの煮たのと、ポテト・フライを売っている肉屋の店先で足をとめてもじもじしていましたよ。が、また歩きだしました。たぶん、制服の巡査に気づいたからでしょう」
「番地を探しているようすはなかったかね」
「まるで、なかったですね。むしろ、あてもなく、ふらついている酔っぱらいみたいでしたよ。コンコルドのセーヌ公園に出ると、そこで、セーヌ河沿いに行こうと考えたようです。途中で、二、三回腰をおろしました」
「なんに?」
「一度は石の欄干《らんかん》で、もう一度はベンチでした。間違いかもしれませんが、泣いていたんじゃないかと思いますよ。ともかく、両手で頭を抱えこんでいました」
「ベンチには、だれもいなかったのかね」
「いませんでした。で、また歩きだしました。なにしろ、ムリノまで行ったのです。ときどき足をとめては、河の水を眺めていました。曳船《ひきふね》が通いはじめ、工場へ出かける労働者たちが、通りにおしよせるようにやって来ました。それでも、あの男は、なんのあてもない人間みたいに、ぶらぶら歩きつづけていましたよ」
「それだけかね」
「まあ、そんなところです。あ、それからミラボオ橋で、急にポケットに両手をつっこんだかと思うと、なにかとりだしました」
「十フラン紙幣だろう」
「どうもそのようでした。ジャンビエもわたしも、そう判断しました。それから、あたりを見まわして、なにか探していました。たぶん酒場でしょう。だが、右岸には開いてる店なんてありはしません。で、橋を渡りました。ちっぽけな酒場がありましたが、なかにはいってみると、運転手でいっぱいです。そこで、あいつはコーヒーとラム酒を一杯ずつ飲みました」
「『シタンゲット』はそこなのかね」
「いや、まだです。ジャンビエにしろ、わたしにしろ、足が棒になっていました。それでも、こっちは一杯やってあったまるわけにはいきません。あいつが、また、そこを出たんです。あっちを折れ、こっちを曲りして歩いていきました。歩いた通りの名は全部ジャンピエが書きましたから、あとでくわしく報告します。最後に、また大きな工場の近くの河岸に戻ってきました。ひとけのないところです。
古い資材が二か所ばかり、山積みにしてあって、そのあたりはいなかみたいに、草原や雑木林《ぞうきばやし》になっているんです。クレーンの傍に、小型の帆船がつないでありました。二十隻ばかりでしょう。
『シタンゲット』というのは安宿ですが、こんなところに、と思うようなところにありました。ちっぽけな酒場があって、食事も出します。右手に小屋みたいな家があって、自動ピアノがあります。『土曜、日曜ダンス・パーティ』と書いた看板が目につきました。あの男は、そこでまた、コーヒーとラム酒を飲みました。だいぶ待たされてから、ソーセージがきました。それから、あいつは店の主人に話しかけたりしていましたが、十五分ばかりすると、店の主人といっしょに二階へあがっていきました。主人がおりてきたとき、わたしは店にはいりました。いきなり、あの男が部屋をとったのか、ときいたんです。すると、主人はきき返しましたよ。
『どうしてです? 違反じゃないでしょう』
主人は警察との応対には、きっと慣れっこなんでしょうね。ごまかそうったってだめです。ひとつ、おどかしてやれ、と思いましてね。あの客に、これっぽっちでも話したら、営業停止だぞ、と釘をうってやりましたよ。主人は、あの男と顔なじみじゃないようです。こいつは確かだと思います。この店の常連は船員の連中だとか、お昼のサイレンを合図に食前酒《アペリティフ》を飲みにくる近くの工場の労働者たちですよ。ウルタンは部屋にはいると、靴も脱がずに、ベッドに横になったそうです。主人が文句をつけると、靴を床に放りだして、すぐに眠ってしまった、といっています」
「ジャンビエは、まだそこにいるのかい」メグレはきいた。
「ええ、いますとも。電話で話せますよ。『シタンゲット』には電話があります。船員たちは、ときどき船主と連絡することがあるもんですから」
メグレ警部は受話器をとった。やがて、ジャンビエが電話口に出た。
「もし、もし、あいつはどうしてるかね?」
「寝ています」
「なにか、妙なことはないかな。とくに注意するというような……」
「ないです。無事平穏ですね。階段のほうからあの男のいびきがきこえてきますよ」
メグレは受話器を置くと、小柄なデュフールを、頭の先からつま先まで、じろじろ見まわした。
「逃すことはないだろうね」とメグレはきいた。
デュフールは文句を言いたそうに見えた。すると、メグレがその肩に手をおいて、いっそう重厚な声で、言葉をつづけた。
「ねえきみ、きみが全力をつくすことは承知さ。だが、おれはこのことに自分の職を賭けている。賭けているのは、職ばかりじゃない。それに、あの男はおれの顔を知ってるから、おれは自分では出かけられないんだ」
「警部、誓います」
「誓うなんて言いなさんな! まったく!」
メグレは、ひろげてあったさまざまな書類を、そそくさとマニラ紙の袋にしまい、ひきだしに押しこんだ。
「念を押しておくが、人手がいるなら、遠慮なく言いたまえ」
事務机に、ジョゼフ・ウルタンの写真が残っていた。耳がつき出して、大きな唇《くちびる》の血の気のないウルタンのぶこつな顔に、メグレは一瞬、目をすえた。
前に、三人の法医学者がウルタンを鑑定したが、そのうちのふたりはつぎのように診断した。
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知能は普通、責任能力は十分。
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弁護士の指名した三人目の医者は、ひかえ目ではあったが、つぎのように鑑定した。
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隔世遺伝の疑いあり。責任能力はやや不十分とみらる。
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メグレは、ジョゼフ・ウルタンを逮捕しておきながら、警視総監、初審裁判所検事、予審判事に、つぎのように明言した。
「彼は狂人であるか、無罪であるか、です」
メグレは、それを立証することをうけあった。
デュフール刑事が、とびはねるような足どりで遠ざかる音が、廊下からきこえた。
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二 眠る男
メグレが、心を休められずにいるコメリオ予審判事に会って、簡単な会話を交わしてから、オテーユに着いたのは十一時だった。空はどんよりと曇り、敷石は濡れて光沢を失っていた。雲は屋根にふれるくらいに、低くたれこめていた。メグレが歩いている河岸には、豪華な邸宅が建ち並んでいたが、対岸はまるで郊外としか思えなかった。工場やあき地が見え、資材を山のように積みあげた荷揚げ場も見えた。この両岸の風景にはさまれて、銀ねずみ色のセーヌ河が流れ、曳き舟ののぼりくだりで波だっていた。
離れたところからも『シタンゲット』は見わけられた。あき地のまん中に、一軒ぽつんと建っていたからである。あき地にはさまざまなものがころがっていた。煉瓦の山や自動車の古い車台、タール・フェルト、それに鉄道のレールまで。
鮮やかな赤い塗りの二階建てで、前のテラスには、テーブルが三つ出してあった。きまりきった日除《ひよ》けテントには『酒、軽食』と書いてある。
店のなかには、人夫たちの姿が見えた。ついいましがたまで、セメントの荷おろしをやっていたとみえ、足の先から頭まで、白くなっている。人夫たちは、店を出るとき、入口で青いエプロンの男と握手した。その男が、この店の主人らしかった。人夫たちは、河岸につないである大型伝馬船のほうへ、ゆっくりと歩いていった。
メグレは憔悴《しょうすい》しきった顔をしていた。目はどんよりしている。だが、それは一晩眠らずに過ごしたせいではなかった。
ひとつの獲物を猛烈な勢いで追いかけ、どうやら手もとまで近づけると、いつも、そんなふうに気ぬけするのが、彼の癖である。
もやもやした不快感があるのだが、それを払いのけようとはしないのである。
彼は『シタンゲット』のま向かいにあるホテルに気づくと、はいってフロントへ行った。
「河岸に面した部屋をとりたいんだがね」
「月ぎめでございましょうか」
彼は肩をそびやかした。こんな時に疳《かん》にさわることを言うなんて。
「わたしが滞在を希望するあいだだよ。司法警察の者だ」
「あき室がございませんので」
「よろしい、宿帳を拝見しよう」
「じつは……ちょっとお待ちください。係りのボーイに電話して、たしかめてみますから。たしか十八号室が……」
「ばかばかしい」メグレは口のなかでつぶやいた。
むろん、室は借りることができた。豪勢なホテルである。ボーイがきいた。
「お荷物はございませんでしょうか。お持ちいたしますが……」
「荷物はないよ。双眼鏡をもってきてくれないか」
「さあ、ありますかどうか」
「ともかく、双眼鏡をもってきてくれたまえ。どこからでもいいから探してくるんだよ」
彼はため息をついて外套をぬいだ。それから窓をあけ、パイプにたばこを詰めた。五分もしないうちに、螺鈿《らでん》の双眼鏡が来た。
「こちらの支配人の夫人の双眼鏡でございます。お使いくださるようにと……」
「わかった。出ていってくれ」
メグレは、『シタンゲット』の表側は、すみずみまで、たちまち知りつくした。
二階に、開いている窓がある。寝台は散らかったままで、赤い大きな羽根ぶとんがずれ、つづれ織のスリッパが羊の毛皮の上に脱ぎすててある。
「主人の部屋だな」
隣りの窓はしまっていた。三つ目の窓が開いていて、室内で下着姿の肥った女が、髪をとかしていた。
「女将《おかみ》だな。それとも女中かな」
下では、主人がテーブルをふいていた。テーブルのひとつに、赤ぶどう酒の半リットルびんを前に、デュフール刑事ががんばっていた。
主人とデュフールが会話していることは、ふたりのようすでよみとれた。
ずっと向こう、石畳の河岸の河っぷちには、ブロンドの青年が、レインコートにねずみ色の帽子をかぶって、どうやらセメント船の荷揚げを監督しているようである。
それがジャンビエ刑事である。司法警察でも最年少者のひとりだ。
メグレの部屋には、ベッドのあたまのところに電話があった。彼は受話器をとった。
「もしもし、フロントかね」
「ご用でございますか」
「向こう岸の『シタンゲット』という酒場へつないでもらいたい」
「承知いたしました」かたくるしい声だった。
かなり時間がかかった。こっちの窓から見ていると、主人がふきんをおいて、ドアのほうへいくのが見えた。すると、メグレの部屋の電話のベルが鳴った。
「お申し込みの電話がでました」
「もしもし、そちらは『シタンゲット』ですか。お客さんを電話口へおよび願いたいのですが。そうです。……間違いないです。いま、そちらには客はひとりのはずだから」
窓から眺めていると、店の主人があわててデュフールに話しかけていた。そして、デュフールが電話室にはいった。
「きみかい?」
「警部さんですか」
「おれはま向かいにいるんだ。きみのところから見えるホテルだよ。あの男はどうしてるかね?」
「寝ています」
「寝てるところを見たんだね」
「さっき、あいつの部屋のドアに耳をつけてみたら、いびきがきこえました。ちょっとドアをあけてみましたが、たしかにあの男がいました。ベッドのなかで丸くなって寝ていましたよ。服のままです」
「店の主人はあいつに知らせなかっただろうね」
「だいじょうぶです。本人は警察をばかにこわがっているんです。前に、ひどい目にあったことがあるんですね。営業許可証をとりあげるといっておどかしたら、一も二もなく、言うことをききましたよ」
「出口はいくつあるのかい?」
「ふたつです。表の出口と庭に向かった出口。あとのほうは、ジャンビエが自分の位置から見張っています」
「べつに、だれも二階へあがらなかったね」
「あがりません。それに、わたしのそばを通らないでは、二階へいけないんです。階段が酒場のなかにあって、スタンドの後側についてるものですから」
「わかった……。そこで食事をしたまえ……。またすぐ電話する。なるべく艤装業者の雇い人のような恰好をするといいな」
メグレは、受話器を置くと、あけ放った窓のところまで、安楽椅子をひきずっていった。寒いので、かけてあった外套をとって着こんだ。
「おすみですか」ホテルの交換手がきいた。
「ああ、すんだよ。つぎはビールだ。それからパイプたばこも」
「パイプたばこはおいてございませんが」
「えっ! では、買いにやればいいさ」
午後三時になっても、メグレは同じ場所から動かなかった。ひざの上に双眼鏡を置き、手にはからのコップがあった。窓はあけ放してあったが、パイプたばこの強い匂いが、部屋いっぱいにこもっていた。朝刊が床に落ちたままだったが、どれにも警察の公式発表として、つぎのような記事が載っていた。
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死刑囚、ラ・サンテ監獄から脱走。
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メグレはあいかわらず肩をすぼめたり、足を組んだり、といたりしていた。
三時半に、『シタンゲット』から電話がかかった。
「なにか起こったのか」メグレがきいた。
「いや、あの男はずっと眠っています」
「じゃ、なんの用だい」
「警視庁から連絡がきて、あなたの居場所をきいています。予審判事があなたに用事があるそうです」
メグレは、もう肩をすぼめたりしなかった。きっぱりした口調で電話をきった。それから交換手をよんだ。
「検察庁を願います。特急で」
メグレには、コメリオ予審判事の言おうとしていることが、よくわかっていた。
「もしもし、警部かね。やれやれ! あんたの居場所がだれにもわからなくてね。本庁で、ようやく、あんたが『シタンゲット』に刑事をはりこませていることがわかったもんでね。さっき、そこへ電話したところだ」
「どういう用件ですか」
「まず、そちらはどうなんです? なにか、変ったことは?」
「まるっきり、ないですね。あの男は眠っています」
「たしかだろうね。間違いないだろうね」
「ちょっと大げさに言ってみれば、わたしは、いま、あの男が眠っているところを見ているようなものです」
「ぼくは後悔しはじめているんだよ」
「わたしの意見をいれたことをですか。だが、ご存じのように、司法大臣も同意なさったうえで、ですからね」
「待ちたまえ。朝刊に、きみのところの公式発表がのっているのを見たかね?」
「ええ、見ました」
「昼の新聞は? 読んでいない? 『警笛《シフレ》』を探して読んでくれないか。どうせ強請《ゆすり》記事なんだが。いや、それはわかってる。が、ともかく……。ああ、ちょっときるのは待ちたまえ。もしもし、きいているのかな? 読むよ。『警笛《シフレ》』のゴシップ欄だが、見出しは『国是《こくぜ》』というのだ。きこえるかね。メグレ君。こう書いてあるんだ」
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今朝の各紙は、警察の半公式の発表として、死刑囚ジョゼフ・ウルタンが原因不明の情況のもとで脱走したことを報じている。ウルタンは、セーヌの重罪裁判所で死刑を宣告され、ラ・サンテ監獄の死刑囚監房に拘禁中だったものである。
右の事情は、一般にとっては、必ずしも不可解ではないことを付言する。
つまり、ジョゼフ・ウルタンは脱走したのではなく、脱走を余儀なくされたものである。脱走は死刑執行予定直前におこなわれた。
ラ・サンテ監獄で今暁、演じられた歓迎できぬ喜劇の詳細は報道しえないが、警察当局が司法関係の権威筋とぐるになって、脱走をしくみ指導したことは確実と思われる。
ジョゼフ・ウルタンは、そのことを承知だろうか。
以上のような解釈以外には、犯罪記録上例のないこの事件を説明する根拠を発見することは不可能である。
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メグレは、身じろぎひとつしないで、最後まできいていた。電話の向こうで、予審判事の声は、すこしやさしくなった。
「このことに関して、きみの意見は?」
「わたしが正しかったことを証明していると考えます。『警笛《シフレ》』は、それを自分で見破ったのではないと思います。だが、この秘密を知っている六人の関係者のだれが洩らしたわけでもありません。洩らしたのは……」
「それは?」
「今晩申しあげましょう。コメリオさん。万事好調です」
「ほんとうかね? だが、もし、各新聞がこの情報をとりあげたとすると……」
「スキャンダルになりますね」
「それも、承知のうえだね」
「人間の首と、スキャンダルとどっちが大切でしょうか」
五分後に、メグレは警視庁へ電話をかけた。
「リュカ巡査部長ですか。……さっそくだが、モンマルトル通りの『警笛《シフレ》』の編集局まで行ってもらいたいんだが。直接編集長に会ってくれたまえ。ちょっと、おどかすんだね。ラ・サンテ脱獄の情報を、どこから仕入れたかきき出さなけりゃあならないからな。いましがた編集長は、普通郵便や速達便を受けとったにちがいない。その手紙を探しだしてもらいたいんだ。そしてここに持ってきてくれないか……。わかったかい」
「おすみになりましたか」交換手がきいた。
「まだだ。『シタンゲット』をたのむよ」
まもなく、デュフール刑事が電話口に出てきて、さっきと同じ報告をくりかえした。
「あいつは眠っています。さっき、十五分ばかり、ドアに耳をつけてきいてみたんですが、夢にうなされたんでしょう。『おかあさん』と言ってるのがきこえました」
『シタンゲット』の二階の閉じた窓に双眼鏡を向けていると、男の枕《まくら》もとにいるかのように、メグレは男の眠っている姿を鮮やかに、思い画くことができた。
メグレが、その男にはじめて会ったのは、この七月のある日だった。サン・クルーの惨劇から四十八時間とたっていなかった。その日、メグレは男の肩に手をかけ、低い声で言った。
「騒ぐなよ。おれのあとについてくりゃいいんだ」
ムッシュウ・ル・プランス街の、ささやかな家具つきアパルトマンでのことだ。ジョゼフ・ウルタンは七階の部屋を借りていた。
アパルトマンの女主人は、ウルタンについて、
「実直で、働き者のおとなしい若者ですよ。ときたま、妙なところもありましたがね」と話していた。
「人が訪ねてくることはなかったかね」
「だれも来ませんでしたよ。それに、十二時過ぎに帰ってくるようなことは、まるっきり、ないですからね」
「最近はどうだったかね」
「二、三度、ふだんより遅くなって帰りましたよ。一度は……、水曜日でしたが、午前四時少し前に帰って、ドアをあけてくれと言いました」
問題の水曜日が、サン・クルーの犯行の日だった。そのうえ、法医学者は、ふたりの婦人の死亡時刻をほぼ午前二時と断定した。それに、ウルタンの犯行である確証があがっていた。もっとも、そのほとんどを見つけだしたのは、メグレ自身なのだ。
その別荘は『パピヨン・ブルー』から約一キロの地点にあり、サン・ジェルマン街道に沿っていた。ウルタンは夜なかに、たったひとり、この店にはいってきて、グロッグを四杯たてつづけにひっかけた。勘定をはらうとき、パリ、サン・クルー間の片道三等切符を、ポケットから落としている。
ヘンダーソン夫人は、アメリカのいくつかの財閥と姻戚関係になる外交官の未亡人で、夫の死後は、ひとけのないその別荘に、ただひとりで暮らしていた。
女中がひとりいるだけであった。それも、小間使いというよりは、茶飲み相手といったエリーズ・シャトリエというフランス人で、幼時をイギリスで過ごし、高度の教育をうけた人である。
一週に二度、サン・クルーの庭師が来て、別荘の周囲の小庭園の手入れをした。
訪問客はほとんどなかった。老夫人の甥《おい》のウィリアム・クロスビー夫妻が、たまに訪ねてくるくらいである。
さて、七月のある晩、──つまり七日の夜だが──ドォヴィルに通じる広い街道には、いつものように、何台もの自動車が走っていた。
午前一時、『パピヨン・ブルー』などのレストラン・ダンス・ホールも店をしめていた。
あとで、自動車の運転手が、二時半ごろに、別荘の二階に灯《ひ》がともり、いくつかの人影が奇怪な動きをしているのを見た、と証言している。
六時に、庭師がやって来た。その日は、約束の日にあたっていた。いつも、彼は鉄格子《てつごうし》の窓をそっとあけてはいり、八時になると、エリーズ・シャトリエがよびに来て、朝食が出るのが習慣になっていた。
ところで、その日は八時になっても、なんの気配もなかった。九時になっても、別荘の扉はしまったままである。心配になって、庭師は扉を叩いてみたが、なんの答もないので、いちばん近い十字路で立番中の巡査に知らせにいった。
まもなく、惨劇が発見された。ヘンダーソン夫人の部屋には、夫人の死体が、絨毯《じゅうたん》の上に斜めに横たわり、寝間着は血に染まって、胸部をほぼ十か所、ナイフで刺されていた。
エリーズ・シャトリエも、隣室で同じ死に方をしていた。すぐ隣りの部屋に、彼女が寝ていたのは、夜中に病気になるのを恐れて夫人が頼んだからである。
残忍なふたり殺し。警察が凶悪犯と呼んでいるものである。
犯跡はいたるところに見られ、足跡もあれば、血まみれの指跡もカーテンに残っていた。
警察庁の検証、鑑識専門家の到着、多くの分析や解剖といった、おきまりの手続きがおこなわれた。
警察の捜査は、メグレが指揮にあたった。そして、ウルタンがうかびあがるのに、二日とかからなかった。
足跡は、じつに明瞭《めいりょう》だった。別荘の廊下には絨毯がなく、床には蝋《ろう》がひいてあり、数枚の写真をとっただけで、鮮明な足跡を得ることができた。ま新しいゴム底の靴が問題になった。ゴム底には、雨の日のすべりどめに、とくに何本もの|うね《ヽヽ》がはいっていた。容易に底の中央の製造元の名と、サイズ番号を判読することができた。
数時間後には、メグレはラスパイユ大通りの靴屋の店で、同じ型の同サイズ──四十四番なのだが──の靴が、この二週間に、一足しか売れていないことをつきとめた。
「そうそう。オート三輪でやって来た配達人でしたよ。よく街《まち》で見かける人ですが」
それから数時間後に、メグレ警部はセブール街の花屋のジェラルディエを訪ね、配達人のジョゼフ・ウルタンが問題の靴をはいているのを発見した。指紋照合だけが残っていたが、それはパリの裁判所の鑑識課でおこなわれた。
鑑定人が道具を手にのぞきこんだ。ただちに結論が出た。
「この男ですよ」
「どういうわけで、殺したのかね?」
「殺しやしませんよ」
「ヘンダーソン夫人の住所を、だれが教えたんだ?」
「わたしは殺してやしません」
「なんのために、午前二時に、その別荘へ出かけたのかい」
「わたしは、知りゃしないんです」
「サン・クルーから、どうやって帰ってきたんだ?」
「サン・クルーから帰ってきやしません」
その男は、でこぼこのふとった青い顔をしていて、数日眠らないでいたように、まぶたが赤くなっていた。
ムッシュウ・ル・プランス街にある彼の部屋から、血染めのハンカチが発見された。化学の技師は、それが人間の血であることを証言し、ヘンダーソン夫人の血液中に発見された細菌が、そこにも見つけだされた。
「わたしは、殺していないんです」
「弁護士はだれにするかね」
「弁護士なんかいりません」
官選弁護人として、ジョリ氏が指名された。彼はやっと三十歳になったばかりだが、無駄と承知のうえで活躍した。
精神病医は、七日間の観察の後に、ウルタンをつぎのように診断した。
「異常なし。極度の精神的動揺のため、現在は衰弱しているが、自身の行為にたいする責任能力は十分である」
夏の休暇の時期だった。メグレは他の事件の捜査でドォヴィルに出かけていた。予審判事のコメリオは、この事件を有罪確実と判断し、検事局も有罪の線に決定した。だが、ウルタンはなにも盗んでいなかったし、ヘンダーソン夫人と女中の死に、明白な利害関係がなかった。
メグレは、ウルタンの経歴を、可能なかぎり過去にさかのぼって調査していたので、肉体的にも精神的にも、すべての年代にわたって、ウルタンを熟知していた。
彼はムランに生まれた。当時、父親はホテル『セーヌ』のボーイで、母親は洗濯女《せんたくおんな》だった。
三年後に、両親は県の中央刑務所の近くの酒場をひきついだが、うまく経営できず、セーヌ・エ・マルヌ県のナンディで旅館をはじめた。
ジョゼフ・ウルタンが七歳のとき、妹のオデットが生まれた。
メグレは、ウルタンの写真を手にいれていた。熊《くま》の毛皮の前にしゃがんで、セーラー服を着ている肖像《しょうぞう》写真である。毛皮の上には、むっちりした手足をあげて、赤ん坊がころがっていた。
十三歳のころ、ウルタンは馬の世話をしたり、父親の手助けに、客の接待をしたりした。
十七歳になって、フォンテンブローの豪華なホテルのボーイになった。
二十一歳で兵役を終え、パリに出て、ムッシュウ・ル・プランス街に居を定め、ジェラルディエの店の配達人になった。
「あの男は、たいへんな読書家でした」と、ジェラルディエは言った。
「映画見物が、ただひとつの楽しみだったんです」と、アパルトマンの女主人は証言した。
だが、ウルタンとサン・クルーの別荘を結ぶ関係は、なにひとつ発見されなかった。
「いままでにも、サン・クルーへ行ったことがあるのかね」
「いいえ、ないです」
「日曜日には、なにをしていたんだ」
「本を読んでいました」
ヘンダーソン夫人は、ウルタンが働いていた花屋のとくい先ではなかった。他の別荘ではなく、とくにこの夫人の別荘を選んではいり、強盗を働く根拠がなかった。なにも盗まれてはいないのだ。
「なぜ、白状しないんだね」
「白状することがありません」
メグレは国際詐欺団の一味を追跡して、一か月のあいだ、ドォヴィルで活躍した。
九月になって、メグレはラ・サンテ監獄の独房にウルタンを訪れた。ウルタンは、まるで虚脱した人間になっていた。
「わたしはなにも知りゃしない! 人殺しなんかするもんか」
「だが、きみはサン・クルーにいたじゃないか」
「そっとしておいてくださいよ」
「ありふれた事件だ」と検事は判断していた。
そして、ウルタンは十月一日、休暇あけの、重罪裁判所の最初の裁判にかけられることになっていた。
ジョリ弁護士には、唯一の弁護手段があるだけだった。それは、ウルタンの精神状態の再鑑定を要求することだった。弁護士が依頼した医師は、つぎのように鑑定した。
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責任能力は不十分である……
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それにたいして、検事側はつぎのように反論した。
「まさに凶悪犯である。ウルタンがものを盗《と》らなかったのは、周囲の状況が盗ることを許さなかったからである。ナイフのあとは、前後十八回にもおよび……」
被害者の写真がまわされた。陪審員たちは胸が悪くなり、その写真をつき返した。
「すべての点において有罪と認める」
死刑である。翌日、ジョゼフ・ウルタンは、他の四人の死刑囚とともに、死刑囚監房にうつされた。
「なにか言いたいことはないかね」メグレは、ものたりない気持でやって来て、ウルタンにきいた。
「なにもないです」
「死刑になるんだよ。わかってるだろうな」
ウルタンは泣くだけだった。いつものように蒼白な顔で、眼を赤くしていた。
「共犯者はだれなんだ」
「ないです」
メグレは、すでに、この事件をとりあつかう職務上の権利を失っていたが、毎日のように姿を見せた。ウルタンは、いつも、やつれてはいるが平静だった。恐怖にとらわれることもなく、瞳に皮肉な輝きさえ見せていた。
……だが、それも、隣りの独房に足音をきき、つづいて鋭い叫び声を耳にする朝までだった。
親殺しの九号室の囚人が、処刑のときが来て、連れだされていったのである。
ウルタンは翌日十一号室に移された。彼は泣きじゃくった。だが、口はきかなかった。
小型寝台に、体を伸ばし、壁に顔を向けて、歯をがたがた鳴らしていた。
メグレは、ふと、ある考えを思いついた。その考えは、長いあいだ、頭を離れなかった。
「この男は気違いか、でなければ、罪を犯していない」メグレは、コメリオ予審判事のところへ行って断言した。
「そんなことはありえない! それに、証拠があがっている」
メグレは身長一メートル八十センチ。パリの中央市場の人足のように力があり、肥っていた。彼は自分の考えに固執した。
「サン・クルーからパリまで、どうやって帰ってきたのか、その証拠がないではないですか。ウルタンは列車に乗らなかった。これには証拠がある。電車にも乗っていない。歩いてきたわけでもない」
メグレはひやかされた。
「では、実験してみてはどうですか」
「検事局に相談してみなければならないね」
その後、メグレは忍耐強く、それをやってのけた。ウルタンに脱走の計画を知らせる手紙を自分で書いた。
「ところで、あの男に共犯者がいるとすれば、その手紙は、そいつらが出したと考えるでしょう。もし、いなければ、|わな《ヽヽ》だと考えて信用しないのじゃないですか。あいつの身柄はわたしがひきうけます。なにが起こっても、あいつを逃しはしないですよ」
メグレ警部の顔は重々しく、平静ではあるが、きびしい表情をしていた。
それには三日かかった。裁判の間違いや、それにたいして早晩起こるだろう世間の非難を、メグレはさかんにほのめかした。
「だが、あの男を逮捕したのはきみじゃないか!」
「警察の職務上、物的証拠から論理的に結論をくださねばならなかったからですよ」
「では、きみ個人としては、どう考えるのかね」
「心理的証拠も必要です」
「それで?」
「あの男は気違いか、でなければ罪を犯していないのです」
「どうして、あの男は白状しないのだろう」
「わたしが計画した実験をしてみればわかります」
そのために、何度も電話がかけられ、協議がくりかえされた。
「警部、きみは一生を賭けているんだよ! おちついて考えてみたまえ!」
「もう十分考えましたよ」
手紙が、ウルタンにとどけられた。彼はその手紙をだれにも見せなかった。それから三日のあいだ、いつもよりがつがつとものを食べた。
「やっぱり、あの男は驚かなかった」とメグレは言った。
「やっぱり、あの男はああいうものが来るのを待っていたのです。共犯者があるのですよ。そいつらが逃がしてくれることを約束していたのです」
「もし、あいつが、いまは馬鹿のふりをしていて、刑務所を出るやいなや、きみの手から逃げだしてしまうことにでもなったら、きみの一生はとんでもないことになってしまうぞ、警部!」
「だが、あの男の首もまた、賭けられているんですよ」
いま、メグレは、ホテルの部屋の窓ぎわで、革ばりの安楽椅子に、じっと腰をおろしていた。そして、思いだしたように、双眼鏡を『シタンゲット』に向けた。そこには、荷揚げ人夫や船乗りが飲みに来ていた。
ジャンビエ刑事は河岸にいた。つとめて、気楽なようすを見せていたが、内心は待ちくたびれていた。デュフールは、小型ソーセージとマッシュ・ポテトを食べ終り、カルバドスを飲んでいた。そんな、こまかなことまで、メグレには手にとるように見えた。
例の部屋の窓は、まだしまっている。
「『シタンゲット』につないでくれたまえ」
「ただいま、こちらの外線がふさがっております」
「そんなことはどうでもいい。その電話をきるんだ」
すぐに、『シタンゲット』が出た。
「デュフール、きみかい?」
刑事の答は簡単だった。
「あの男は、ずっと眠っています」
だれかが、ドアをノックした。はいってきたのは、巡査部長のリュカだった。彼はいきなり咳《せ》きこんだ。パイプの煙が、もうもうとたちこめていたからである。
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三 破られた新聞紙
なにか、変ったことがあったのだろうか。
リュカは、メグレ警部と握手してから、ベッドのふちに腰をおろした。
「ちょっとしたことがありましてね。が、たいしたことじゃありません……。『警笛《シフレ》』の編集長は、あの手紙をとうとう、わたしに渡しましたよ。例のラ・サンテ監獄脱出事件について書いてきた手紙ですがね。それを彼は今朝十時ごろに受けとったのだそうです」
「見せたまえ!」
リュカ巡査部長は青鉛筆の書きこみでいっぱいのきたならしい紙をメグレに渡した。
『警笛《シフレ》』社では、その手紙のなかの数行を削除し、あとの文章をつなぎあわせただけで、そのまま印刷にまわしたのだった。
その他に、印刷上の指定と、記事を組んだ者の頭文字が書いてあった。
「便箋の上のほうを切りとってあるね。むろん、印刷してあった店の名を隠すためだろうがね」とメグレは指摘した。
「そうですよ。わたしもすぐ気づきました! それに、この手紙はきっとコーヒー店で書いたものだと思ったので、ムルスに会ってみました。あの男はパリのコーヒー店の用箋はどこのものか、大体わかると言ってましたからね」
「で、わかったかい?」
「十分とかかりませんでしたよ。モンパルナス通りの『クーポール』のものだったんです。いま、そこに寄ってきました。まずいことに、そこは、一日たっぷり千人は客があるんですよ。おまけに、なにか書く紙をよこせというのが、五十人以上あるそうです」
「それで、ムルスは筆蹟のことはなんと言っていたかね」
「まだ、なんとも! これから、その手紙をムルスに渡さなければならないんです。ちゃんとした鑑定をするんでしょう。さしあたって、『クーポール』にもう一度行ったほうがよければ……」
メグレは『シタンゲット』から目を離さなかった。
いちばん近くの工場の門があいて、おおぜいの労働者が、どっと溢れ出てくるところだった。ほとんどが自転車に乗っていて、黄昏《たそがれ》の灰色の夕闇《ゆうやみ》に、黒い影をくっきりと画いて遠ざかってゆくのが見えた。
『シタンゲット』の一階には、電燈はただひとつついているだけだった。だが、メグレ警部は、行ったり来たりする客の動きを見のがしはしなかった。
錫《すず》ではったスタンドの前には、五、六人の客がいて、そのなかの何人かは疑惑をこめた視線をデュフールに向けていた。
「あそこにいる男はなにをしているのでしょう」とリュカがきいた。遠くにいる同僚の姿を見つけたのだ。「おや、あれはジャンビエじゃないか。あんなところで、河の流れを眺めてるなんて!」
メグレは、もうきいていなかった。彼の位置から、スタンドの背後に螺旋《らせん》階段の昇り口が見え、そこに人間の足だけが見えたのだ。その足は、ちょっとのあいだ、たちすくんだ。やがて、全身の輪郭があらわれ、その人影は客のほうへ近づいた。そして、ウルタンの蒼白な顔が光にうかんだ。同時に、メグレはテーブルにたったいま、とどけられた夕刊に目をやった。
「おい、リュカ。新聞は『警笛《シフレ》』の記事を載せているかね」
「まだ見ていません。警察へのいやがらせには、おあつらえむきですから、必ず載せるんじゃないですか」
メグレは受話器をとりあげた。
「もしもし、『シタンゲット』を願います。大至急で」
その日、はじめて、そのときメグレは熱っぽい調子になった。セーヌ河の向こう岸では、バアの主人がウルタンに話しかけていた。おそらく、なにを飲みたいかをきいているのだろう。
ラ・サンテ監獄の脱獄囚にとって、いちばんしたいことは、手のとどく場所にある新聞に目を通すことではないだろうか。
「もしもし、もしもし、はい、そうです」
向こう岸の『シタンゲット』では、デュフールが立ちあがり、電話室にはいった。
「注意してやってくれ、きみ! 新聞があるんだ、テーブルの上にさ。あの男に読ませるわけにはいかない。どんなことがあったって……」
「どうすればいいでしょうか」
「急ぎたまえ。あいつは、いますわったところだ。新聞が目の前にあるんだ」
メグレは、いらいらして立ちあがった。もし、ウルタンがあの記事を読んだら、さんざん苦労して許可をとった実験がだめになるのだ。
見ると、ウルタンは、壁によせた椅子に、どっかり腰をおろし、テーブルに両肘《りょうひじ》をついて、両手で頭を抱えこんでいる。
酒場の主人が近づいて、酒を一杯彼の前に置いた。
デュフールが、テーブルに戻って、新聞をとりあげようとするところだ。
リュカは、事情がくわしくはわからなかったが、およその察しはついたので、同じように、窓辺に身をのりだした。だが、曳き船が通ったので、一瞬、店のなかが見えなくなった。白、緑、赤の灯をつけた船は狂おしいほど警笛を鳴らしはじめた。
「よし、よし!」デュフール刑事が客席に戻ったのを見て、メグレはつぶやいた。
ウルタンは、投げやりなようすで日刊新聞をひろげている。彼に関する記事が、第一面にあったのだろうか。それを読もうとしているのだろうか。
また、デュフールは、その危険を防ぐだけの、機転をきかすだろうか。仕事のきめの細かいデュフール刑事は、行動に移る前にセーヌ河のほうをふりむいて、上司のメグレのいる窓の方を見やった。
工場労働者や、荒っぽい荷揚げ人夫たちが陣どっているこの酒場では、小ざっぱりしたなりの、きゃしゃなデュフールは場違いな感じである。
だが、彼は、ウルタンに近づいて、新聞に手をのばした。そして、「失礼ですが、わたしの新聞でして」と言ったらしかった。スタンドの客が、いっせいにふりむいた。ウルタンは驚きの目で相手を見あげた。
デュフールは強硬に言いはって、新聞紙をつかもうとして、体をかがめた。リュカは、メグレの傍でつぶやいた。
「いいぞ、いいぞ」
これで、うまくいくぞ! だが、その場の光景は一変した。ウルタンは、これから何をするのか自分にもわからないような様子で、ゆっくりと立ちあがった。
左手は、新聞の端を、しっかりつかんでいた。だが、刑事のほうも手を離そうとしない。
いきなり、ウルタンがあいた手で、隣りのテーブルのサイフォンびんをつかんだ。そして、厚みのあるガラスびんが、刑事の頭に打ちおろされたのだ。
ジャンビエは、五メートル離れた河っぷちにいたが、なんの音も耳にはいらなかった。
デュフールは、よろめいた。スタンドにぶつかった。スタンドのコップがふたつ割れた。
その場にいあわせた男が三人、ウルタンのほうへ走りよった。他のふたりが、デュフール刑事の腕をおさえた。
そうぞうしい騒ぎが起こったにちがいなかった。というのは、ジャンビエが、水面の照り返しを眺めるのをやめて、『シタンゲット』のほうへ歩きだし、数歩行ったかと思うと、あわててかけだしたからである。「急げ! 車でかけつけろ……」メグレがリュカに命じた。
リュカは、気がすすまなかった。いまからでは遅すぎることが、わかっているからだ。現場近くにいたジャンビエさえ、まにあわなかったのだから。だが彼は、命じられたとおりに出かけた。
ウルタンは、暴れて、なにか叫んでいた。
デュフールを警察の犬だとでも言って、責めたてているのだろうか。
いずれにしろ、ほんの一瞬のあいだ、彼は体の自由をとり戻した。そして、まだ手にあったサイフォンびんで、電燈をぶち壊した。
メグレは両手で、窓の手すりを、きゅっとつかんだまま身動きしなかった。日の下の河岸で、タクシーが走りだした。『シタンゲット』で、マッチの燃えあがるのが見え、すぐに消えた。遠い距離にいるメグレにも、たしかにピストルが一発うたれたような気がした。
その数分は、果てもなく長く感じられた。タクシーは橋を渡りきり、セーヌの向こう岸に沿って走った。車輪で掘られた溝《みぞ》だらけの道を、どうにかこうにか前進していった。
ひどく、のろのろしていた。『シタンゲット』まで、あと二百メートルというところで、リュカはとびおりてかけだした。おそらく、ピストルの音をきいたのにちがいない。鋭い警笛がきこえた。リュカかジャンビエが助けを求めたのだ。よごれた窓ガラスに、『御弁当御持参歓迎』──御と歓の字が消えている──という字が、エナメルで書いてあった。ガラス窓の向こうに、ろうそくが一本ともっていて、横たわった一人の体の上にかがみこんでいる、何人かの人影を浮かびあがらせていた。
だが、メグレの位置からは、その光景はぼんやり見えるにすぎない。あまり遠すぎ、しかも暗いので、その場の人影は見わけられないのだ。
窓から動かないので、メグレはだみ声で電話をかけた。
「もしもし! グルネル警察署ですか、いそいで車で五、六人よこしてください。『シタンゲット』のまわりにです。男が逃げかかったら逮捕してください。背が高くて、大頭の、蒼《あお》い顔のやつです。それから医者を頼みます」
リュカが現場についた。乗ってきたタクシーが、店の正面のガラス戸の前にとめてあるので、メグレには、部屋の一部分が、そのかげになって見えない。酒場の主人は、椅子の上にあがって、新しい電球をつけた。まぶしい光が、ふたたび、部屋に溢れた。
電話のベルが鳴りひびいた。
「もしもし……メグレ君かね。予審判事のコメリオだが。いま、うちで晩飯に客をよんであるんだ。だが、心配でね。早く安心したかったもので」
メグレは、だまっている。
「もしもし……電話をきらないでくれたまえ。聞いてるのかね」
「きいてますよ」
「どうなんだ。電話がききとりにくくてね。夕刊を読んだかい。どれも『警笛《シフレ》』の特種を、でかでかと載せてるよ。わたしの考えでは、やっぱり、これは……」
そのとき、ジャンビエが『シタンゲット』から姿を見せた。そして、右手の方角に向かい、暗闇の空地に、そそくさと消えた。
「それ以外のことは、すべてうまくいってるかね」
「万事好調です」受話器をもとに戻しながら、メグレは大声で言った。汗びっしょりだった。パイプが床にころがって、まっ赤なたばこの火が、絨毯を焦《こ》がしはじめている。
「もしもし。『シタンゲット』を頼む」
「いま、そちらに電話がきていますが」
「いいから、『シタンゲット』につないでくれ。わかったね」
メグレは、『シタンゲット』で人影が動くのを見て、電話のベルが鳴っているな、と思った。店の主人が、電話のほうへ行こうとした。だが、リュカが先をこして、受話器をとりあげた。
「もしもし、はい。警部ですか」
「ああ、おれだよ」メグレは疲労のこもった声で言った。「えッ、なんだって、逃げられた?」
「ええ、そうです!」
「デュフールは?……」
「たいしたことはないと思います。頭の皮をはがれたんですが、気も失わなかったくらいですから」
「グルネル署の連中が、いま応援に行く」
「連中はなんの役にもたたないでしょうよ。ご存じでしょうが、この辺は造船所の船台や、材料の山や工場の敷地があったり、イシー・レ・ムリノの小径《こみち》があったりするところですからね」
「ピストルをうったのか」
「一発うったんです。だれがうったかわかりません。居あわせた連中は、みんな呆然《ぼうぜん》として、ひっそりしてるんです。なにが起こったかさえわからないようすです」
自動車が一台、河岸の角をまがって、そこで警官をふたりおろした。それから百メートル行ったところで、また、ふたりおろした。
つづいて、四人の警官が『シタンゲット』の前で車からおりた。なかのひとりは、かたどおり、裏口を見はりに、建物の裏側へまわった。
「ほかに、なにか?」ちょっとの間、沈黙したあとで、リュカがきいた。
「いや、なにもしなくていい。念のため、追跡の手配をたのむ。──おれも、いま行くから」
「医者を呼んでくれませんか」
「呼んだとも」
電話の係の女が、同時にホテルの帳場をあずかっていた。彼女は、目の前に大きな人影が立ったので、びくりとした。
冷たいまでに物静かなメグレなのだ。その顔は、肉でできているとは思えないほど硬ばっている。
「いくらになってる?」
「お出かけですか」
「勘定は?」
「支配人にきいてみなければなりません。電話を何回おかけになったのでしょう。ちょっと、お待ちください」
彼女が立ちあがったので、警部はその胸をつかみ、強引に腰かけさせて、事務机に百フラン紙幣をのせた。
「これで十分かね」
「十分だと思います。ええ……。でも……」
彼は、深い息をついて、出ていった。歩道を、ゆっくり歩いた。そのままの足どりで橋を渡った。
一度、メグレはパイプをとりだそうとしてポケットを探ったが、パイプはなかった。不吉な前兆と、うけとったようだ。口もとに、苦々しげな薄笑いがうかんだ。『シタンゲット』のまわりには、数人の船のりがたたずんでいた。その場かぎりの好奇心を示しているにすぎないのだ。前の週には、同じ場所で、ふたりのアラブ人が殺しあった。一月前には、女の両脚と胴体をつめた袋が、釣竿で水中からひき揚げられたのだ。
セーヌ河の向こう岸には、オテーユ地区の豪壮な建物が、くっきりとそびえている。地下鉄の数両連結の電車が通るたびに、近くの橋が揺れた。
しとしとと小雨が降っている。制服の警官が、懐中電燈のほの暗い光の輪に、あたりを照らしだしながら、行ったり来たりしている。
酒場では、リュカだけが立っていた。乱闘に加わったり、居あわせたりした客たちは、壁にそって腰かけていた。
リュカ巡査部長は、順番に客の前へ行き、身分証明書を調べた。みんなは、不愉快そうな眼で、彼を見まもっている。
デュフールは、もう警察の車に運びこまれていた。車はできるだけ静かに走りだした。
メグレは黙りこんでいる。外套のポケットに両手をつっこみ、ひどく重々しい目付きで、ゆっくりとあたりを眺めている。
店の主人が、なにか説明しようとした。
「警部さん、これはたしかですがね。あのとき……」
メグレは、黙るように目くばせした。それから、ひとりのアラブ人に近づいて、頭のてっぺんからつま先までじろじろと見まわした。男の顔色は土色になった。
「いま、仕事についてるのかね」
「ええ、シトロエンで……。あっしは……」
「滞在禁止は、あとどれくらいだ?」
メグレは警官にめくばせした。「連行しろ」という合図である。
「警部さん!」出稼ぎのモロッコ人が叫んだとたんに、入口のほうへ押しやられた。「わけを話しますよ。あっしはなにもしてないんです」
メグレは、耳をかさなかった。ひとりのポーランド人は、正式の身分証明書を持っていなかった。
「連行しろ!」
これで、すっかり終ったのだ! デュフールのピストルと、からの薬莢《やっきょう》がひとつ、床の上に見つかった。サイフォンびんや電球の破片もあった。新聞はひき破られ、二か所に返り血のあとがあった。
「やつらをどうしますか」身分証明書を調べ終って、リュカが聞いた。
「釈放してやれ」
ジャンビエが戻ってきたのは、それから十五分もたってからである。ジャンビエがはいっていくと、メグレは巡査部長のリュカといっしょに、酒場の片すみに腰をおろしていた。ジャンビエは泥《どろ》にまみれ、レインコートに、黒ずんだしみが、いくつかついていた。
ジャンビエは口をきく必要がなかった。黙って、ふたりの傍に腰をおろした。
メグレは、まったく関係のないことを考えているように見えた。店の主人が小さくなって神妙に立っているスタンドのほうを、ぼんやり見ながら、いうのだ。
「ラム酒を……」
彼はまた、ポケットに手をつっこんで、パイプを探した。
「たばこを一本くれないか」彼はため息まじりに、ジャンビエに言った。
ジャンビエのほうも、なにか話しかけたいところである。だが、彼は、はっとした。親分の肩が、ぐったり落ちていたからである。それで、荒い息をつくだけにして、顔をそむけてしまった。
コメリオ予審判事は、シャン・ド・マルスの自邸に、二十人ばかりの客を招いて、晩餐会《ばんさんかい》を催していた。それがすんでから、内輪の連中の小舞踏会をする予定だった。
デュフール刑事は、グルネルのある医者の鋼鉄の手術台の上に、ながながと横たわっていた。医者は白衣を着て、器具の消毒を見まもっていた。
「傷あとは、あとあとまでめだちますか」デュフール刑事はきいた。あおむけに寝かされているので、天井しか見えなかった。「頭蓋はやられていないでしょうね」
「いや、たいしたことはない。数か所縫うだけです」
「じゃあ、毛はまた生えますね。ほんとうですか」
医者は、きらきら光るピンセットを手にとると、助手に合図して、患者をしっかりおさえさせた。デュフールは苦痛の叫びをおしころした。
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四 捜査本部
メグレは身動きひとつしなかった。抗議するようなしぐさも、いらだったようすも、表面には、少しも出さなかった。
やつれてはいたが、真面目くさった顔つきで、最後までうやうやしく、おとなしくきいていた。ただ、コメリオ予審判事の言葉や態度がいっそうきびしくなり、激しい調子になった瞬間には、メグレののど仏が、急にぴくりと動いた。
コメリオ予審判事は、ほっそりした体つきで、いかにも神経質そうに、いらいらして、部屋のなかを行ったり来たりしながらしゃべっていた。声がひどく高いので、廊下で待たされている被告人たちにも、断片的な言葉はきこえたにちがいない。
ときどき、彼はなにかをつかみあげ、しばらくいじりまわしてから、荒っぽい動作で事務机に戻した。
書記は困惑して、そっぽを向いていた。メグレは立ったまま、予審判事の話しが終るのを待っていた。予審判事よりも首ひとつ上背があるので、見おろすような形になっている。
コメリオは、一応非難めいた言葉をはいてしまうと、ちらっと相手の顔色を見て、ぷいと顔をそむけてしまった。とにかく、メグレは年齢も四十四になっているし、しかも二十年ものあいだ、さまざまで複雑な警察関係の事件に打ちこんできた人間なのである。
なにはともあれ、男のなかの男なのだ。
「ところで、言うことはないのかね」
「さきほど上司に申し出ておきましたが、うまく犯人を逮捕できない場合は、十日後に辞表を提出します」
「ジョゼフ・ウルタンを逮捕できなかったら、というわけだね」
「犯人を逮捕できなかったら、ですよ」メグレはさりげなく、くりかえした。
判事はひどくびっくりして、とびあがった。
「きみは、まだほかに犯人がいると信じているのか」
メグレはなんとも答えなかった。そこで、予審判事は、指をぼきぼきいわせて、あわてて言った。
「このことは、まあ、これまでにしよう。さもないと、わたしはアタマにきちまうからね。あらたな情報がはいったら、電話してくれたまえ」
メグレ警部はおじぎをして、通い馴れた廊下を通って、立ち去った。だが、街路には出ずに、検事局の建物のいちばん奥の区画へ行って、科学警察試験室のドアを押した。
とつぜん、メグレが目の前にあらわれたのを見ると、その部屋にいた鑑定官のひとりは、彼の元気のないようすに驚いて、手をさしのべてきいた。
「どこかお悪いのですか」
「いや、ありがとう。元気です」
メグレは、どこも見ていないのだ。黒の大きな外套は着たままで、両手はポケットにつっこんだままだ。長い旅行から戻ってきて、かつてすみなれた場所を、新鮮な目で、改めて見直している人間のようである。そんなようすで、前日強盗にはいった家の証拠写真を手にとったり、同僚のひとりが依頼していったカードを読んだりするのだ。
部屋の一隅《いちぐう》で、ひげのうすい、すらりとやせた男が、度の強い近眼鏡をかけて、ひどく驚いたような顔つきで、そのようすをそっと眺めていた。
彼のテーブルには、種々の大きさの拡大鏡や、字消しナイフや、ピンセットや試薬びんがあり、また強力な電光に照らしだされているガラス板もある。その男がムルスで、紙やインクや筆蹟の研究が専門なのである。
メグレが自分に会いに来たことは、わかっていた。だが、メグレは、ムルスには目もくれずに、なんのあてもないように、部屋のなかを、行ったりきたりしているのだ。
やがてついに、メグレはポケットからパイプを出して火をつけ、調子はずれな声をあげた。
「さあ、仕事にかかろう!」
ムルスは、メグレがだれの部屋から来たのか知っていたので、その言葉をすぐ理解できたが、少しも気づいていないようなふりをしていた。
メグレは、外套をぬぎ、大げさなあくびをし、いつもの自分に戻るためであるかのように、顔の筋肉をぴくぴく動かした。椅子の背をつかんで、お目当ての若い男の近くへひきずってゆくと、その椅子に馬乗りになって腰をおろした。そして、親しみのこもった口調で言った。
「ムルス。どうだい?」
それで、もうことは済んでいた。やっと、肩の重荷がおろせたのだ。
「どうだった、結果は……?」
「ゆうべ、手紙を調べてみましたが……。残念ながら、かなりの人の手にふれていましてね。いまさら、指紋なんか探したって無駄なんです」
「べつに、探すつもりはないがね」
「けさ早く、『クーポール』へ出かけて、インク壷《つぼ》をすっかり調べてみたんです。あの店を知ってますか。いくつかの部屋に別れていて、はいると、まず、ビヤホール。一部は、食事時間になるとレストランになります。それから二階の広間、それにテラス。最後に左手にアメリカ風の小さなバアがあるんですが、そこにはよく常連が集まります」
「知ってるよ」
「この手紙を書くのに使ったのは、そこのインクです。字は左手で書いてありますが、左利きが書いたのじゃなくて、左で書けば、どんな人の字も、みんな同じようになるのを知っている人間が書いたものですね」
『警笛《シフレ》』宛に投函された手紙は、ムルスの前のガラス板に、いまもそのままのっていた。
「これだけは確実です。差出人がインテリだということ……。そして、五、六か国語を自由に読み書きできる人間だということも断言できます。いま、筆相についてお話しときましょう。ええ、それは厳正な科学的見地から出発するわけですが……」
「まあいい。きくとするよ」
「では……。結局、こういうことなんです。わたしの判断に、大きな誤りがなければ、いま、われわれがぶつかっているのは、そうざらにはない人物だと考えるんです。つまり、まず知恵は人なみ以上に優秀である。そして、厄介なことに、意志が強いかと思うと、一方ひどく弱いところもある。冷静そのものかと思うと、感動しやすいところがある。筆蹟は男です。だが、字体から明確によみとれるのは、書いた人間が女性的性格だということです」
ムルスがお得意のところである。よろこびで、顔がほのかに紅潮している。メグレが思わず微笑をうかべると、この青年はどぎまぎした。
「いまお話したことは、すべて確実だというわけではないのです。それはわたしもよくわかっています。予審判事さんだったら、わたしの話をすっかりきいてくれなかったでしょうね。でも……警部さん、わたしは断言しますが、これを書いた男は、おそらく重い病気にかかっているんです。しかも、自分でそれがわかっています。右手の筆蹟でなら、もっといろいろ申しあげられるんですが、あ、小さなことですが、言い忘れました。紙にしみがいくつかついていましたが、これは、たぶん印刷所でついたのだと思います。それはともかく、そのひとつはクリーム入りコーヒーのしみなんです。最後に、ひとつだけつけ加えますと、手紙の上の部分を切りとるのに、ナイフではなく、匙《さじ》のような丸いものを使っているんです」
「すると、きみの言うのは、つまり、きのうの朝『クーポール』で、クリーム入りコーヒーを飲み、数か国語を流暢《りゅうちょう》に話せる客、その男が書いたということなんだな」
メグレは立ちあがり、手をさしのべて、言った。
「ありがとう。その手紙を返していただこうか」
彼は、低い声で皆に挨拶してから、そのまま出ていった。ドアがしまると、その部屋にいた連中のなかのひとりが、感心したような声で言った。
「ともかく、たいしたものだね。あれだけ、こっぴどくやられたのに……」
だが、メグレの自他ともに許す崇拝者であるムルスがにらみつけると、相手は口をつぐんで中断した分析をまたつづけた。
パリは、十月によくあるいやな天候で、陰気に垂れこめていた。よごれた天井に似た空から時折り、なまなましい光がさしていた。夜中に降った雨のあとが歩道に残っている。
道を行く人々も、思いがけない冬の寒さに、気むずかしそうな表情だった。
警視庁では、一晩かかって、何通もの手配書がタイプで打たれた。市内の各警察署に伝令で伝えられた。全国のすべての憲兵隊や税関や駅の構内警察に、電報で通達された。
人ごみのなかの警官は、制服の市警はもちろん、交通係、社交界係、ホテル係、風紀係も、同じ人相書を念頭に、同じひとりの人間を発見するためにひとりひとりの顔を、たんねんに覗きこむこととなった。
パリの街じゅう、どこでも変りはなかった。郊外でも同じことだった。街道のあちこちに立っている憲兵は、かたっぱしから身分証明書を出させて、浮浪者を調べた。
列車に乗れば、これも国境のあたりで、いつもと違ったくわしい調べがあるので、乗客はひどく驚いた。
セーヌの重罪裁判所で死刑の宣告を受け、ラ・サンテ監獄を脱獄して『シタンゲット』でデュフール刑事を殴ってから姿を消したジョゼフ・ウルタンの捜査がつづけられていたのだ。
「脱獄当時、彼はほぼ二十二フランを持っていただけである」とメグレが作製した調書には載っている。
メグレは、ただひとりパリ裁判所を出ると、オルフェーブル河岸《がし》の役所の自分の部屋にも寄らずに、そのままバスティーユ監獄行きのバスに乗り、シュマン・ベール街のあるアパートの四階の部屋を訪ねて、ベルを押した。
ヨードフォルムと鶏肉の煮ものの匂いがたちこめていた。まだ身づくろいのできていない女が出てきて言った。
「ああ! メグレさん。夫がきっとよろこびますわ。でも、わざわざ……」
なかにはいると、デュフール刑事は自分の部屋で、悲しげな不安な顔つきで寝ていた。
「具合はどうかね」
「それが、あまり……。傷あとには、もう髪の毛が生えてこないらしいんですよ。そうなれば、かつらをかぶらねばならないでしょうね」
さっき、実験室にいたときと同じように、メグレは、身の置き場もないようすで、部屋のなかをうろうろしていた。少したって、彼はつぶやいた。
「わたしを、恨《うら》むかね」
デュフールの、まだ若いきれいな妻は、入口のところに立っていた。
「うちの人が、あなたをお恨みするなんて……。けさから言いつづけなんですよ。警部さんが、この重大事件をどうやって切りぬけられるか心配だって、そればっかり。郵便局へ出かけて、電話をかけてくれって、申しておりましたの」
「さて、ではまた近いうちに……」とメグレは言った。「必ず治るさ」
メグレは、そこから五百メートルばかり離れたリシャール・ルノワール大通りにある自分の家には帰らなかった。彼は歩いた。歩きたかった。無関心に通りすぎる群集のなかで、孤独な自分を感じたかった。そうやって、パリの街を歩いているうちに、彼の顔からは、いたずらを発見された小学生のような、その朝からの、どうしていいか判らないような表情が、しだいに消えた。表情がひきしまってきた。好調であるときのように、パイプをたえまなくふかし始めた。
ジョゼフ・ウルタンをふたたび逮捕するということには、ほとんど関心がなかった。コメリオがこれを知ったとしたら、大いに驚き、おそらく怒ったにちがいないであろう。
メグレにとっては、そんなことは二義的な問題にすぎなかった。その死刑囚は、数百万の人間の中にまぎれこんで、どこかにいるはずである。しかも、その男が必要になれば、いつでも逮捕できる確信があるのだ。
さしあたっての関心は、そんなことではないのだ! 『クーポール』で書かれた手紙のことを考えているのだ。更に、最初の捜査で、うっかり見のがしたあの腹だたしい疑問点について考えているのだ。
だが、七月のあの当時は、だれもがウルタンの有罪を信じて疑わなかった。事件の審理はすぐ予審判事の手にうつって、警察は手をひいたのだ。
凶行は午前二時半ごろ、サン・クルーでおこなわれた。ウルタンは四時前に、ムッシュウ・ル・プランス街に戻ってきていた。列車にも、電車にも乗らない。公共のいっさいの交通機関を使っていない。タクシーにも乗らなかった。ふだん彼が使う三輪自動車は、セブール街の主人の店にあった。
しかも、歩いて帰るということは考えられなかった。もし、そうなら、休みなしに走りつづけなければならなかったはずである!
モンパルナスの辻《つじ》は活気に溢れていた。正午を三十分過ぎたところである。ラスパイユ大通り近くに軒を並べた四つの大きな喫茶店のテラスは、秋のつめたさにもかかわらず客がいっぱいで、八割まで外国人である。
メグレは『クーポール』まで歩いてゆき、アメリカ風の酒場の入口を見つけると、はいっていった。
テーブルが五つあったが、どれもふさがっていた。ほとんどの客は、バアの高い椅子に腰かけているか、スタンドにそって立っている。
だれかが、「マンハッタンをひとつ」と注文するのが耳にはいった。
メグレも、つい、つりこまれて「わたしもそれを」と言ってしまった。
ビヤホールとジョッキが好きな年配なのである。バーテンがオリーブの盆をさしだしたが、手をふれようとしなかった。
「お先にごめんなさいね」と、ブロンドというより、黄色に近い髪の、小柄なスウェーデン女が言って、オリーブの盆に手をのばした。
がやがやとしていて、ひどい混みかただった。調理場からオリーブや、ポテト・チップスや、サンドイッチや、あたたかい飲みものが送りだされてくるたびごとに、配膳場のドアが、たえまなく、あいたりしまったりした。
皿やコップがぶつかってがちゃがちゃ音をたてるなかで、四人のボーイが、同時に大声でなにやら叫ぶかと思えば、客は客で種々雑多な国語で、声高にしゃべりあっている。
客も、バーテンも、ボーイも、部屋の装飾も、いっさいがとけあってひとつになっているという感じが強くした。
客は、親しげに、肘をふれあうばかりに、くっついて腰かけていた。小柄なスウェーデン女も、陽気な友だちと連れだってリムザン型の自動車から降りたった実業家も、エストニア人のヘボ絵描きも、みんな店の主人を『ポップ』と呼んでいる。お互いに紹介なしで友だち同士のように言葉をかけあっている。ドイツ人が、ヤンキーと英語でしゃべっている。ノルウェー人が、スペイン人に自分の話を理解させるために、少なくとも三か国語を混ぜてしゃべっていた。
だれからも声をかけられる常連らしいふたりの女がいた。そのなかのひとりを、メグレは知っていた。肥って年とってはいるが、いまでは毛皮の外套を着ているその女は、その昔、ロケット街の一斉狩りこみでつかまった商売女で、メグレはこの女をサン・ラザールに送りこむ命令を受けたことがあった。
彼女の声はしわがれて、目はどんよりしたまなざしをしていた。だが、通りすがりの客たちは、みんな握手している。テーブルを背中にした彼女は、ざわめく人々の猥雑さの化身ででもあるかのように、この場内に君臨しているのだ。
「なにか、書くものはないかね」メグレはバーテンに話しかけた。
「食前酒《アペリティフ》のお時間には、置いてございませんので。ビヤホールのほうへお出かけいただきませんと……」
そうぞうしいいくつものグループにはさまれて、ひとりぼっちの人間が何人かいた。おそらく、それが場内で、最も絵になる光景なのだ。
一方では、何人かの連中が、大声でしゃべったり、歩きまわったり、つぎつぎに酒をたのんで皆にふるまったり、風変りで豪華な衣裳を見せびらかしたりしている。
また一方には、こうした華やかなたくさんの人々の仲間入りだけを目的に、世界のはしからやって来たと思われる連中が、あちこちにいた。たとえば、おそらく二十二にはなっていない若い女がいたが、上等の仕立ての黒い小さなスーツを、心地よさそうに着こなしてはいるものの、それは何度となくアイロンをかけ直したものにちがいなかった。
疲れて、いらいらしているような妙な顔つきである。そばにはクロッキーの画帳が置いてある。彼女は、十フラン貨を出しては食前酒《アペリティフ》を飲んでいる連中のまん中で、ミルク一杯を飲み、クロワッサン一個を食べているだけである。
一時だった。それだけで、彼女は昼の食事をまにあわせているのだろう。食べながら、お客のための備えつけのロシア語の新聞を読んでいる。
彼女はなんにも耳を傾けず、見もしなかった。ゆっくりクロワッサンをかじり、思いだしたようにミルクを一口飲んだ。自分と同じテーブルで、四杯目のカクテルを飲んでいる連中のことなどは念頭にないようだった。
その女に劣らず人目をひく男がいた。しかも、その髪だけで、十分人目をひくにちがいない。赤毛のちぢれ毛で、めだって長い髪をしていたからである。
着古して光り、くたびれて、黒ずんでいる背広を着こんだその男は、ネクタイもせずに、青いワイシャツの襟《えり》をはだけていた。彼はバアのいちばん奥に腰かけ、店の古くからの常連のように超然としていた。そして、一びんのヨーグルトを、さじですくっては食べていた。ふところには、五フランの金があるだろうか。どこからやって来たのだろう? そしてどこへ行くのだろうか。おそらくは、毎日たった一度だけとるにちがいない食事としての、このヨーグルトの代金の幾スウかの金を、どうやって手にいれるのだろうか。
彼もまた、さっきのロシア女のように、気の強そうなまなざしをしていて、瞼《まぶた》には疲労の影がにじんでいたが、その顔つきには、人を小ばかにしたようなひどく傲慢《ごうまん》なところがあった。
彼に握手をしに来た者もなかった。話しかける者もなかった。
回転ドアがあいて、とつぜん、一組の男女がはいってきた。鏡にうつったふたりの姿を見て、メグレはクロスバー夫妻であるのに気づいた。夫妻は、どんなに安くふんでも、二十五万フランはするアメリカ製の自動車から降りてきたところだった。それが、歩道のわきに置いてあるのが見えた。車体がすべてニッケル製なので、よけいに人目をひいた。
ウィリアム・クロスビーは、よけてくれた客のあいだから、マホガニーのスタンドごしに、手をさしのべて、バーテンの指を握りしめて言った。
「ポップ、元気かい?」
クロスビー夫人は、例の小柄なブロンドのスウェーデン女のところへ走りより、接吻《せっぷん》し、英語でしゃべりはじめた。
夫妻は、わざわざ注文する必要はなかった。言いつけられなくても、ポップはクロスビーにウィスキー・ソーダをさしだし、若い夫人のためにローズをつくりながら、夫のほうにきいた。
「もう、ビアリッツからお戻りなんですか」
「三日いただけなんだ。雨がこっちよりひどくてね」
クロスビーは、メグレの存在に気づいて、目顔で軽く会釈《えしゃく》した。動作の柔軟な、背の高い三十男で、褐色の髪をしている。
この時刻に酒場に来ている男たちのなかで、この男がいちばん、くせのない好みの上品な人間だった。彼は、軽く握手を交わしては、友人に「なにをあがりますか」ときいている。彼は金持なのだ。スポーツカーを持っていて、気のむくままに、ニースや、ビアリッツ、ドーヴィル、ベルリンなどへ行ったりするのである。
数年前からジョルジュ五世通りの、豪華なホテルに住んでいた。殺された伯母《おば》から、サン・クルーの別荘は別として、千五百万から二千万フランの財産を相続していた。
クロスビー夫人は、小柄な、気ぜわしい婦人で、顔を見なくても、彼女だとすぐわかるような、疳《かん》高い声で、ちょっと真似られないアクセントをつけて、フランス語と英語をまぜては、ひっきりなしに、しゃべりつづけていた。
夫妻の席とメグレのあいだには、何人かの客がいた。メグレの知っている代議士がやって来て、親しそうに、クロスビーの手を握った。
「食事をいっしょにどうですか」
「きょうはあいにくでしてね。ほかに招かれているんです」
「明日はいかがですか」
「けっこうです。ここで、お会いすることにしましょう」
「ヴァラシーヌさん、お電話です!」と、ボーイが呼びに来た。
すると、だれかが立ちあがり、電話室のほうへ行った。
「ローズをふたつ、ふたつ頼むよ!」
皿の音がした。そうぞうしさがますますひどくなった。
「ドルを両替してもらえないかね」
「新聞で為替《かわせ》相場を見てくれよ」
「シュジーは、ここに来ていて?」
「いまお出かけになったところですよ。『マキシム』で食事なさっているんじゃありませんか」
メグレは、脳水腫にやられているみたいな大頭の、腕の長いあの男のことを考えていた。あの男は、ポケットに二十フランちょっとの金のあるだけで、パリの雑踏《ざっとう》にとびこんでしまった。そして、いまフランスの全警察が、あの男の追跡に必死になっている。
メグレは、ラ・サンテ監獄のうす暗い塀を、少しずつのぼっていった、蒼白な男の顔を思いうかべた。
つづいてデュフールからの何回とない電話を思いだした。
「あの男は寝ています……」
あの男は、一日じゅう寝ていたのだ。
いまは、どこにいるのだろう。それに、なぜなのか? そうだ、いったい、どういうわけで、あの男は例のヘンダーソン夫人を殺したのだろうか。彼女と知りあいだったわけじゃなし、なにひとつ盗みもしなかったというのに。
「ここでときどき食前酒《アペリティフ》をあがるのですか」
声をかけたのは、ウィリアム・クロスビーだった。彼はメグレに近づいて、シガレット・ケースをさしだした。
「ありがとう。パイプしかすいませんのでね……」
「なにかあがりますか。ウィスキーはいかがです?」
「まだ残ってます。ごらんのとおり」
クロスビーは気を悪くしたようだった。
「英語やロシア語やドイツ語がおわかりなんですね」
「フランス語だけです。それだけですな」
「では、『クーポール』は、あなたにとっては、バベルの塔のようなものですね。前には、ここでお会いしたことはなかったようですが。ところで、世間の噂《うわさ》は、あれはほんとうでしょうか」
「なんのことです?」
「例の殺人犯のことです……。ご存じでしょう」
「なあに、心配するほどのことはありませんな」一瞬、クロスビーはじっとメグレを見つめた。
「さあ! わたしどもとお飲みになってください。妻もよろこびます。エドナ・ライヒベルクさんをご紹介しましょう。ストックホルムの製紙業者のお嬢さんです。シャモニでの前年度のスケート選手権保持者でいらっしゃるんです。エドナさん、こちらは警部のメグレさんです」
黒い服のロシア女は、あいかわらず新聞を読みふけっているし、赤毛の男は素焼の壷を前に、半眼をとじて、夢想にふけっている。壷のなかのヨーグルトは、最後の一さじまで、すくいだされていた。
エドナは気のりのしないようすで言った。
「はじめまして……」
彼女は、メグレと強い握手を交わしたあとも、そのままクロスビー夫人と英語でしゃべりつづけた。すると、ウィリアムが、言った。
「ちょっと失礼。電話がかかってきましたもので……。ポップ、ウィスキーをふたつ。では失礼」
表では、ニッケル製の自動車が、灰色の外光のなかで、輝いていた。みすぼらしい人影が、それをまわって、足をひきずりながら、『クーポール』に近づいてきた。酒場の回転ドアの前で、立ちどまった。
その男は、血走った目で、室内をうかがっている。みすぼらしいこの男を追い払おうと、ボーイがあわててかけていった。
パリ内外のいたるところで、警察はラ・サンテ監獄の脱獄囚を探しつづけていた。
その男がここにいるのだ。メグレ警部の声のとどくところに。
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五 キャビアを好む男
メグレは、じっとしたまま、身動きひとつしなかった。すぐ傍では、クロスビー夫人と若いスウェーデン娘が、カクテルを飲みながら、英語でしゃべっている。酒場のなかは狭いので、メグレ警部とこのスウェーデン娘はひどく接近していた。おかげで彼女が身動きするたびに、しなやかな体は、軽くメグレに触れた。やっとききとれたところでは、話題にあがっているのは、『リッツ』でこの娘を口説いてコカインをすすめた、ジョゼという男のことらしかった。
ふたりとも、しきりに笑い声をたてた。ウィリアム・クロスビーは、電話から戻ってくると、メグレに向かって、もう一度くりかえした。
「失礼しました……。電話はあの自動車のことでしてね。あれを売って、別のやつを買おうかと考えているんです」
ウィリアムはふたりのコップにソーダを割った。
「あなたのご健康を祈って……」
外には、あの死刑囚の奇妙な姿が、テラスのまわりを、いかにも文字通り漂っている、という感じであった。
おそらく『シタンゲット』から逃げるときに帽子をなくしたにちがいない。ジョゼフ・ウルタンはなにもかぶっていなかった。監獄にいたから、髪はほとんど丸坊主に刈られて、おかげで、大きな耳がいっそう大きく見えた。靴は色も型も見わけられないほどひどくなっていた。こんなにぼろになった、埃《ほこり》や泥にまみれた服を着ているのは、どこで寝たせいなのだろうか。
通りすがりの人間に、物乞いでもすれば、こんなところにいるわけが、だれにもすぐにのみこめたにちがいない。彼は浮浪者のなかでもいちばんみじめな姿をしていたのだから。だが、彼は物乞いをするのでもなく、靴紐《くつひも》や鉛筆を売るわけでもなかった。
群集の流れについて、行ったり来たりしていた。五、六メートルも行きすぎたかと思うと、また激しい流れをさかのぼるような恰好で戻ってきた。
頬には褐色の不精ひげが伸びている。そのせいで、いっそう、やせて見えた。
とりわけ、そのおびえたような目は、不気味な感じを与えた。その目は酒場から離れずに、くもったガラスごしに、たえず内部を覗こうとしていたのだ。
彼はまた、入口のところまで来た。今度こそ、ドアを押してはいってくるな、とメグレは信じた。
メグレ警部は、じりじりしながら、たばこをすった。神経が極度に緊張し、こめかみにじっとり汗がうかんだ。感覚がはりつめて痛いほどだ。
異状な一瞬だった。ついさっきまでは、メグレは敗北者のように見えた。難局を切りぬける手だてが、つかなくなっていた。事件は彼の手から離れ去り、手がかりをふたたびつかめようとは思われなかったのだ。
彼は、ウィスキーをゆっくり飲んだ。クリスビーは礼儀上、なかばメグレに向かい妻とエドナの会話に仲間入りしていた。メグレは、とくに注意していたわけでもなく、知ろうと努めていたわけでもないのに、こうした複雑な情景のなかで起こっていることを、不思議にもなにひとつ見のがさなかった。
たくさんの人間が、周囲を動きまわっていた。実にさまざまな物音がして、海鳴りのような、ききわけにくいざわめきに変っていた。さまざまな声、いろいろな動作、かずかずの姿態。
ヨーグルトの壷を前に、テーブルに向かっている男。なにものかにひきよせられたように、何度となく入口のところにひっ返してくるこの浮浪者。クロスビーの笑い。唇に紅を塗るその妻の口を尖らすしぐさ。シェーカーをはでに振って、フィリップをつくるバーテンの動き。
そして、つぎつぎに店を出てゆく客。その客たちの交わす会話。こうしたすべてを、メグレの目は見のがさなかった。
「それじゃあ、今晩、ここで?」
「レアといっしょにおいでよ。なるべくね……」
酒場は少しずつすいてきた。一時半である。隣りの部屋から、フォークのふれあう音が、きこえてきた。
クロスビーは百フラン紙幣を、カウンターに置いた。
「まだ、いらっしゃいますか」彼はメグレにきいた。
クロスビーは、あのみすぼらしい浮浪者風の男に気づいていない。だが、まもなく、出がけに、あの男とまっこうからぶつかるのだ。
メグレは、ぶつかるその瞬間を、息苦しいくらいの焦燥《しょうそう》にかられながら、待ちこがれていた。クロスビー夫人とエドナは、軽く頭をさげ、にっこり笑ってメグレに挨拶した。
そのとき、ジョゼフ・ウルタンは入口から二メートルとはなれていないところにいた。片方の靴の紐がなくなっている。きっと、いまにも警官がやって来て、身分証明書の提出を求め、立ちのくように言うにちがいない。
廻転ドアが、ひじ金を軸にまわった。クロスビーが、帽子をかぶらずに、自分の車のほうへ行く。ふたりの女が、冗談をいって笑いあいながらつづいて行く。
だが、何事も起こらなかった。ウルタンは、このアメリカ人たちを、他の通行人以上に気にかけているように見えなかった。ウィリアムも妻も、ウルタンを気にとめなかった。三人が自動車に乗りこんで席につくと、ドアが音をたててしまった。
それから、また五、六人の客が出ていった。入口に近づいたウルタンは、またひっ返さねばならなかった。
そのとき、とつぜん、メグレは鏡のなかのひとつの顔に目をやった。濃い眉《まゆ》の奥に、いきいきした目が輝いて、かすかにうかべた笑いに皮肉がこめられている。
たちまちまぶたがとじて、あまりに表情のきわだつ目を、おおいかくした。
その動作はすばやかったが、その皮肉が自分に向けられているのを、メグレは感じた。
メグレにちらっと目をやった男、そして、いまはもうなにも、だれをも見ていないこの男、それはヨーグルトを食べていた、赤毛のあの男なのだ。
『タイムズ』を読んでいたイギリス人が出ていくと、スタンドの高椅子には、もうだれもいなかった。ポップが言った。
「飯をくってくるかな」
ふたりの見習が、マホガニーのスタンドを拭いたり、コップを並べたり、食べのこしのオリーブやポテト・チップスの皿を並べたりしていた。
だが、テーブルの席には、客がふたり残っている。赤毛の男と黒い服のロシア女だ。ふたりは、自分たちだけになったのに、気がつかないようだった。
外では、ジョゼフ・ウルタンがたえずうろついていた。目は疲れきっているようだったし、ひどく蒼ざめた顔をしていた。ボーイのひとりが、ガラスごしにウルタンを眺めて、メグレに言った。
「また、てんかんを起こしそうな男がふらついてますよ。あの連中は、カフェのテラスを選んで倒れる癖がありましてね。案内係に知らせてきます」
「いや、待ってくれ」
さっきヨーグルトを食べていた男に、きこえたようだった。だが、メグレはほとんど声を低くしないで、一言一言明瞭に言った。
「わたしの代りに、司法警察に電話してもらいたい。ここに、ふたりよこすように話してほしい。とくにリュカとジャンビエを……。わかったかね?」
「あの浮浪者のためにですか」
「そんなことは、どうだっていい」
そうぞうしい食前酒《アペリティフ》の時間が過ぎたあとの、ばかに静かなひとときだった。
赤毛の男は、じっとしたまま、身動きひとつしなかった。黒い服の女は、新聞をめくっていた。
別のボーイが、メグレを好奇の目で見ていた。数分が過ぎた。水滴が一滴一滴落ちるように、一秒一秒過ぎていった。そのボーイは、紙幣をかさかささせ、貨幣をならして、現金の勘定をしていた。
電話をかけに行ったボーイが戻ってきた。
「承知したとのことでした」
「ああ、ありがとう」
身体の重みで、お粗末なスタンドの高椅子を、いまにも押しつぶしそうにしながら、メグレは、機械的にウィスキーのグラスをあけ、たえまなくパイプをふかして、昼飯を食べるのを忘れていた。
「クリーム入りコーヒーをひとつ」
すみのほうで声がした。そこにはヨーグルトを食べていた男がいる。ボーイが、メグレにちらっと目をやって、肩をすぼめた。奥の差し出し小窓に向かって、ボーイは大声をあげた。
「クリーム入りコーヒーひとつ。ひとつだよ!」
それから、メグレに、ひどく声をひそめて言った。
「あの方は夕方七時までねばるんですよ。もうひとりの方もご同様なんです」
ボーイは、あごをしゃくって、ロシア女のほうをさした。
二十分たった。ウルタンは歩き疲れて、歩道のはじに立ちどまった。すると、自動車に乗ろうとした人が、乞食と間違えて、貨幣を一個さしだした。ウルタンは、黙ったまま受けとった。
彼が持っていた二十数フランのうち、まだいくらかは残っているのだろうか。きのうから、なにか食ったのだろうか。眠ったのだろうか。
この酒場には、ウルタンをひきよせる何かがあるのだ。
さっき彼をテラスから追っ払った案内係やボーイのようすをうかがいながら、おそるおそる、もう一度、彼は近づいてきた。
こんどは、店がすいている時間である。ガラス窓のところへ来て、顔をぴったり押しつけることができた。鼻が不恰好に押しつぶされているのが見える。だが、その小さな目は、酒場の内部を探っているのだ。赤毛の男は、クリーム入りコーヒーを唇までもっていった。外のほうをふりむこうともしない。
だが、どういうわけで、さっきと同じような薄笑いをうかべた目を、光らせているのだろうか。まだ十六にもなっていない案内係のボーイが、このみじめな身なりの男に尋問すると、その男は、また足をひきずりながら離れていった。巡査部長のリュカが、タクシーから降りて、驚いたようすではいってきた。あたりを見れば、店はほとんど客がなくがら空きなので、いっそう驚いた顔をした。
「あなただったのですか。お呼びになったのは……」
「なにを飲むかね」
それから、声を低めて言った。
「外を見たまえ」
リュカがその人影を見さだめるのには、ちょっと時間がかかった。やがて、彼は明るい表情になった。
「うまくやりましたね。あなたは……」
「それほどでもないさ。おい、バーテン! コニャックをひとつ」
ロシア女が、ひどいなまりのある言葉をかけた。
「ボーイさん! 『写真画報』を見せてくれない? それから、商工年鑑もよ……」
「リュカ、飲みたまえ。それから、外へ行って、あの男を見はってくれないか」
「逮捕したほうがいいとは思いませんか」
巡査の手が、ポケットのなかで手錠をいじっている。
メグレは一見冷静に見えた。だが、緊張しきっていたのだ。酒をのもうとしてコップを、あやうく大きな手で握りつぶすところだったのだ。
赤毛の男は、席をたつ気配はなかった。なにかを読むのでも、書くのでもなく、とくに、なにかを見ているわけでもなかった。外には、あいかわらずジョゼフ・ウルタンが待ちかまえている!
午後四時になっても、状況は変っていなかった。ただ、いくらか変ったといえば、ウルタンがベンチへ行って、腰をおろし、そこから酒場のドアを見はっていることだけである。
メグレは、食欲はなかったが、サンドイッチを食べた。黒い服のロシア女は、ゆっくり時間をかけて化粧を直してから、出ていった。
それで、ヨーグルトの男だけになった。ウルタンは、若いロシア女が出てくるのを、身じろぎもせずに、じっと見まもっていた。
街燈はまだついていなかったが、酒場では電燈をつけた。
ひとりの店員が、ストックのびんをいれかえ、もうひとりの店員は、忙しそうにあちこち掃いている。
受け皿にさじのあたる音が、急にきこえてきた。赤毛の男が腰をおろしている片すみのほうからなのだ。メグレもバーテンも、驚いてふりむいた。
ボーイは、この哀れな客への侮蔑《ぶべつ》を隠そうともせず、平然と仕事をつづけながら、大声で言った。
「ヨーグルトひとつに、クリーム入りコーヒーひとつですから、三フランに一フラン五十で、四フラン五十になります」
「おいおい、違うよ。キャビアのサンドイッチがほしいんだ」
だが、その声は静かだった。
メグレ警部は、店の鏡をのぞくと、その客の笑いをうかべた目は、なかば閉じられていた。
バーテンが品出しの小窓の口をあけに行った。
「キャビアのサンドイッチ一人前、一人前だよ!」
「いや三人前だ!」
例の客が訂正した。
「キャビア三人前、三つだよ!」
バーテンは、軽蔑の色を浮かべて客を無遠慮に眺め、皮肉な口調できいた。
「ウォッカもつけますか」
「そうだ、ウォッカもくれたまえ」
メグレは、理解しようと努力した。というのは、さっきとはまるで男のようすが変ってしまったからだ。
「それから、たばこ……」と男が言った。
「マリーランですか」
「アブデュラだ」
サンドイッチができるあいだに、その男はアブデュラを一本ふかし、その箱の上に、鉛筆でいたずら書きをしていた。それからサンドイッチをたいらげたが、その早いことといえば、食べ終って、立ち去ろうとするまでに、ボーイが自分の位置に戻る暇もないくらいだった。
「サンドイッチが三十フラン、ウォッカが六フラン、アブデュラが二十二フラン、それに、前のお勘定で……」
「あした払いに来るよ」
メグレは眉をひそめた。しかしベンチに腰かけたウルタンからは決して目をはなさない。
「ちょっとお待ちください。では、支配人にお話し願います」
赤毛の男は頭をさげ、席に戻って待った。タキシードを着た支配人が来た。
「どうしたんだね?」
「こちらが、お勘定をあしたにするようにおっしゃるんで……。キャビアのサンドイッチ三人前と、アブデュラ、それから……」
例の客は、少しも困ったようすを見せなかった。前よりもいっそう皮肉に、もう一度頭を下げて、ボーイの言葉を肯定した。
「お持ちあわせはございませんか」
「ほんの少しも……」
「近くにお住みですね! 案内係のボーイをお供させましょう」
「うちにだって、金はない」
「それで、キャビアをおあがりになったのですか」
支配人が手をたたいた。制服のボーイが、小走りにやって来た。
「警官を呼んでくれ」
大した騒ぎも起こらず、事は静かに運んだ。
「たしかに、お金を持っていないんですね?」
「いま言ったとおりだ」
返事を待っていた案内係のボーイは、それをきくと走って出ていった。
メグレは、身動きしなかった。支配人は、そこに残って、モンパルナス大通りを往来する人を、静かに眺めていた。
バーテンは、せっせとびんを拭きながら、ときどき、意味ありげな目を、メグレに投げた。
三分たつかたたないうちに、案内係のボーイが、オートバイの警官をふたり連れてきた。警官は、オートバイを店の外に乗りすてて、はいってきた。
警官のひとりが、メグレ警部に気づいて、近づいてこようとした。メグレはめくばせのかわりにその警官をみつめた。それで支配人も、無益な興奮を静めて、簡単に説明した。
「こちらさまが、キャビアと高級たばこを、ご注文くださいましたが、代金をお払いくださいませんので」
「金がないのさ」赤毛の男は、もう一度くりかえした。
メグレが合図したので、警官は、ただこれだけのことしかいわなかった。
「よろしい。署で事情を話してもらう。われわれといっしょに来たまえ」
「おふたりとも、ちょっといかがですか」支配人が言った。
「いや、ありがとう。だが……」
何台もの電車や自動車、おおぜいの人々が、たそがれのもやが濃くたちこめた大通りを行ったり来たりしていた。逮捕されてゆくその男は、出しなに、あらたにもう一本たばこに火をつけ、バーテンに親しげに会釈した。
メグレの前を通るとき、数秒だけ、男の視線がメグレにそそがれた。
「さあ、もっと早く歩け、妙な真似するんじゃないぞ」
三人とも出ていった。支配人はカウンターに近づいた。
「あれは、前にも追いだしたことのあるチェコ人じゃないかね」
「そうです。あいつですよ!」バーテンも認めた。
「あの男は、朝八時から夕方の五時まで、ねばっているんですよ。一日じゅういて、せいぜいクリーム入りコーヒーを二杯飲むくらいなんだから」
メグレは戸口に近づいていた。それで、ジョゼフ・ウルタンのようすを見ることができた。ウルタンがベンチから立ちあがり、キャビア好きの男を連行するふたりの警官のほうを向いて、立ちすくんでいた。
だが、すでに暗くなっていたので、その顔にうかんだ表情をよみとることはできなかった。
三人が、百メートルも行かないうちに、もうウルタンは立ち去った。巡査部長のリュカが少し距離をおいて、尾行した。
「司法警察の者だが」そのころ、メグレ警部はスタンドへ戻って言った。
「あの男は、どういう人間だね?」
「ラデックというのだと思いますが……。あの男は自分あての手紙を、ここの気付にしているんです。店のガラスのケースに手紙を入れるようにしてありましてね。チェコ人ですが……」
「なにをしている人間かね……」
「なにもしていないんです。酒場で毎日過ごしているだけです。考えごとをしたり、なにか書いたりして……」
「あの男のうちを知ってるかい?」
「いいえ」
「友人はいるのだろうか」
「だれかに話しかけているのを見たことはないですね」
メグレは、勘定をすますと、店を出て、タクシーをひろった。そして、言った。
「所轄の警察へやってくれ」
メグレが着くと、ラデックはベンチに腰かけて、署長の用事が済むのを待っていた。四、五人の外国人が、居住証明をもらうために来ていた。
メグレは、どこにもよらずに、まっすぐに署長室へ行った。ひとりの若い女が、中央ヨーロッパの三、四か国の言葉をまぜて宝石の盗難にあったことを訴えているところだった。
「いま、こちらでお仕事なんですか」署長は驚いたようすで言った。
「とにかく、そのご婦人の用件をかたづけたまえ……」
「この婦人の言うことが、さっぱりわかりませんでね。三十分も前から、全く同じことのくりかえしなんです」
外国人の女が怒りはじめ、指輪の消えた指を見せて、話の要点を一つ一つ、また話し直しているあいだ、メグレはにこりともしなかった。
ようやく女が出ていくと、メグレは言った。
「ラデックとかいうんだが。そんな名の男が連行されてきているはずだね……。尋問にたちあわせてもらいたいのだ。その男を、一晩留置してから釈放するように手配してくれないかね」
「いったい、なにをしでかしたんです?」
「キャビアの無銭飲食さ」
「『ドーム』でですか」
「いや、『クーポール』でだよ」
呼鈴が押された。
「ラデックを、連れてきてくれ」
ラデックは、少しも悪びれたようすもなくポケットに両手をつっこんだままではいってきた。そして、ふたりの前につっ立って、相手の目をまじまじと見つめながら、言葉を待った。唇には、満足そうな笑いさえうかんでいる。
「きみは、無銭飲食で訴えられているんだがね……」
彼はうなずいた。そして、たばこに火をつけようとした。かっとなったメグレ警部がその手から、たばこをもぎとった。
「なにか言いたいことがあるかね」
「ぜんぜん、ありませんよ」
「うちや、食う仕事を持ってるのか」
彼は、ポケットからよごれたパスポートを出して、事務机に置いた。
「へたすれば、十五日はくらいこむことを、知ってるだろうな」
「執行猶予がつきますよ!」平然と、彼は相手の言葉を訂正した。「調べてみればわかりますが、ぼくは前科がありませんからね」
「医学生だと書いてあるが、ほんとうだろうな」
「グロレ教授といえば、名前ぐらいはご存じでしょう。教授はぼくを、最も優秀な学生だとおっしゃいますよ」
それから、メグレのほうを向いて、あざけりの響きをこめて、
「あなたも、警察のお方のようですな」
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六 ナンディの宿屋
メグレ夫人は、ため息をついたが、なにも言わなかった。朝七時に、夫は、火傷《やけど》しそうに熱いのにも気づかずに、コーヒーをがぶ飲みすると、そのまま出ていった。
前の晩は、午前一時に、むっつりして帰ってきた。そしてまた、いかにも頑固なようすで、出ていった。
メグレ警部は、警視庁の廊下を横ぎるとき出あった同僚や刑事から、給仕にいたるまで、顔に好奇の色をうかべているのを見た。そればかりではなく、讃嘆とわずかばかりの、憐憫《れんびん》らしいものも混じっていた。
だが、彼は、女房の額に接吻するのと同じような気持で握手をし、自分の部屋にはいるとすぐに、ストーブの火をかきおこしはじめた。それから、椅子をふたつ並べて、雨に濡れて重くなった外套をひろげた。
「モンパルナス警察に頼むよ」小きざみにパイプをふかしながら、ゆっくり、交換台に申しこんだ。
そして、机の上に積み重ねてある書類を、機械的に整理した。
「もしもし、だれかね。当番の部長……? 司法警察の警部のメグレだ。ラデックは釈放したかね? なんだって? 一時間前に? ジャンビエ刑事が、尾行することになっていたが、たしかめただろうね。もしもし、ああわかった!なに、あいつは眠らなかったって! そうか。たばこをみんなすっちまったのか。いや、ありがとう。いや、いいよ! その必要はない。よし、また、もっとくわしいことが知りたかったら、こっちからよぶさ」
彼は、あずかっていたチェコ人のパスポートを、ポケットからとりだした。チェコの国章のついた灰色の小さな手帳である。どのページにも判が押してあり、証明の署名があった。
ジャン・ラデック、二十五歳、ブルノー生まれ。父親はわからない。旅券査証によれば、ベルリン、メーヤンス、ボン、チュラン、ハンブルクに滞在している。身分証明書によれば、医学生である。
母親のエリザベス・ラデックは二年前に死んでいる。職業は家政婦。
「きみは、なんで食ってるのかね?」前の晩、メグレはモンパルナスの署長室できいた。
すると、拘留中のラデックは、相手をいらだたせる例の微笑をうかべて、答えた。
「ぼくも、あなたをきみと呼ばなくちゃいけないでしょうか」
「くだらんことを言わずに答えるんだ!」
「母が生きていたころは、学資を送ってくれました」
「家政婦の給料でかね」
「そうです。ぼくは一人息子《ひとりむすこ》なんです。母は、ぼくのためなら、両腕だって売り払ったでしょうよ。それが驚くほどのことですか」
「二年前に、母親が死んだんだな。その後は?」
「遠い親戚《しんせき》が、ときたま、わずかばかりの金を送ってくれます。それに、パリにいる同国人が必要なときには助けてくれます。翻訳の仕事がときどきありますしね」
「では、『警笛《シフレ》』の仕事をすることもあるんだな」
「なんのことです!」
皮肉な身ぶりである。「さあ、やってみるがいい。めったに尻尾《しっぽ》をつかまれはしないからね」と言わんばかりなのだ。
メグレは、出かけたほうがいい、とさっきから考えていた。
『クーポール』の周囲には、ジョゼフ・ウルタンや、巡査部長のリュカの姿は、まるっきり見えなかった。ふたりは、前後して、パリの街にふたたびのみこまれてしまったのだ。
「ホテル『ジョルジュ五世』へやってくれ」メグレ警部は運転手に言った。
ホテルにはいってゆくと、ウィリアム・クロスビーが、タキシードを着こんで、フロントで百ドルの銀行紙幣を両替しているところだった。
「なにか、わたしにご用ですか?」彼はメグレに気づいて、きいた。
「いやいや、あなたがラデックとかいう男をご存じでなければいいのです……」
ルイ十六世ホールのなかを、何人かの人たちが行ったり来たりしていた。
事務員が、十枚ずつピンでとめた百フランの札束を数えていた。
「ラデックですって?」
メグレの視線は、アメリカ人の目に、じっと注がれていた。アメリカ人にろうばいの色はなかった。
「知りませんね。妻にきいてみてください。いま降りてきます。これから街で友人と食事をするところなのです。『リッツ』で慈善の催しがありましてね」
はたして、クロスビー夫人はエレベーターから出てきた。寒そうに、貂《てん》の袖《そで》なし外套で体をつつんでいた。ちょっと驚いたようすでメグレは見た。
「なにか、ご用ですの?」
「御心配なさらないでください。ラデックという男を捜しているんです」
「ラデックですって……。ここにお泊りの方なのかしら」
クロスビーは、札束をポケットにつっこむと、メグレに握手を求めて言った。
「失礼します。じつは遅れているものですから」
外で待っていた自動車が、アスファルトの道をすべりだした。
電話のベルが、鳴りひびいた。
「もしもしコメリオ予審判事が、メグレ警部をお呼びです」
「まだ戻っていない、と言ってくれ。いいかね」
時刻からいって、コメリオ予審判事は、おそらく自宅からかけているのだ。たぶん、部屋着のままで、さっさと食事をすませ、いつものように唇を痙攣《けいれん》させながら、夢中になって新聞に目を通しているところなのだろう。
「もしもし、ジャン! だれからも電話はなかったかね。予審判事は、なんと言っていたかい?」
「あなたがお戻りになったら、すぐ電話するようにとのことでした。九時までは自宅で、それから警察庁にいらっしゃるそうです。もしもし、ちょっとお待ちください。いま、電話がかかってきました。もしもし! もしもし! メグレ警部ですね。おつなぎします。ジャンビエさんからです。おつなぎしますよ」
すぐに、ジャンビエが電話に出た。
「警部ですか」
「見失ったんだな」
「そうなんです。見失いました。だが、わけがわからないんです。二十メートルと離れないで、尾行してたんですが……」
「さあ、早く話してくれ」
「どうして、そんなことになったのか、まだ判らないんです。たしかに、あの男は、わたしがつけていることに、気づいてなかったのですが……」
「とにかく、先を話してくれ」
「あの男は、最初、あの近くをぶらぶらしていました。それからモンパルナス駅にはいりました。郊外電車の到着時刻だったもので、雑沓のなかで見失うといけないので、近くに行きました」
「それでも、見失ったんだな」
「人ごみのなかでではないんです。到着した列車に、|やつ《ヽヽ》は切符も買わずに乗りこんでしまったんです。わたしが、列車の行先を駅員にきいている、ほんのわずかな間のことです。その車輛から目を離したわけじゃありません。それなのに、もう車内にあの男はいなかったのです。きっと反対側から逃げたのだと思います」
「おそらく、そうだ」
「これから、わたしはどうしますか」
「じゃあ、酒場の『クーポール』で待っていたまえ。驚くことはないよ。くよくよするな」
「承知しました、警部」
ジャンビエ刑事は、まだ二十五なのだ。電話口で話しているその声は、まるで泣きべそをかいた子供なのだ。
「じゃあ、また、あとで」
メグレは、一度電話を切って、また、すぐにかけた。
「『ジョルジュ五世』ホテルだ……。もしもし! そうです。ウィリアム・クロスビーさんは戻られましたか。いや! その必要はありません。すみませんが、何時だったか、教えてください。え、三時? 奥さんもいっしょですか。ありがとう。もしもし! なんですって、十一時前には起こさないように言われたんですって。どうも、ありがとう。いや、伝えていただく必要はない。わたしが会いに行きますから」
メグレ警部は、わざわざパイプにたばこをつめたり、ストーブのそばへ行って、石炭がたっぷり残っているかどうかみたりした。
彼をよく知らない人間の目には、このときの彼は、避けえない目標に向かって、敢然と立ち向かってゆく、自信に溢れた男と映ったことであろう。
メグレは、何度も胸をつきだして、パイプの煙を天井に向けて吹きつけた。給仕が新聞を持ってくると、彼は陽気な冗談口をたたいた。
だが、給仕が行ってしまって、ひとりになると、いそいで電話をつかんだ。
「もしもし! リュカから電話がきていないかい」
「警部、まだ、なんとも……」
メグレは、パイプの柄を噛んだ。朝の九時だった。前の日の午後五時以来、ジョゼフ・ウルタンはラスパイユ大通りから消えている。巡査部長のリュカが尾行している。だが、その後、リュカからは、なんの報告もきていない。電話をかけるとか、だれか他の巡査に手紙を渡すとか、連絡の方法がなかったのだろうか。
メグレは、デュフール刑事のアパートに電話をかけた。メグレの心の底がどんなであるか、これを見ても判るであろう。
デュフール自身が電話口に出た。
「どうだ。具合はいいかね?」
「もう、部屋のなかを歩いています。あしたは役所に出るつもりです。傷あとがどんな具合か、お目にかけますよ! きのうの夕方、医者が包帯をちょっとはずしてくれて、はじめて傷あとを見たんです。よく頭を割られなかった、と不思議な気がするくらいです。それはともかく、あの男は発見されましたか」
「心配するな! もしもし! 電話をきるよ。交換台でベルが鳴ってるからね。電話待ちのところなんだ」
部屋のなかは、むんむんする熱さだった。ストーブがまっ赤に燃えているのだ。メグレの予感は、間違っていなかった。デュフールの電話をきったとたんに、電話のベルが鳴りだした。
リュカの声だった。
「もしもし! 警部ですか。きらないでください、交換手君。ぼくは警察の者なんだよ。もしもし! もしもし!」
「おれだ。きいてるよ。いまどこにいるんだい?」
「モルサンです」
「どこだって?」
「パリから三十五キロ離れた小さな村です。セーヌの河沿いです」
「それで、あいつはどうした?」
「無事です。自分の家にいます」
「モルサンというのは、ナンディの近くかね」
「四キロばかり離れています。いま、ここまで電話をかけに来たんです。感づかれるとまずいですからね。ゆうべは、まったくひどい目に会いましたよ!」
「話してみたまえ」
「はじめ、あの男は、パリ中をうろつきまわるのだろうと、考えていたんです。|やつ《ヽヽ》には行くめあてがありそうにも見えなかったものですから……。八時に、わたしとあいつは、レオミール街の無料給食所の前に並びました。そして、あの男は、食物がもらえるのを、二時間近くも待っていたんです」
「じゃあ、金がなくなったんだな」
「それから、また、歩きだしました。あの男があんなにセーヌ河をすきだとは、ちょっと考えられないくらいです。セーヌ河を離れないで、あっちへ行ったり、こっちへ行ったりのくりかえしなんですから。もしもし! きらないでください! そちらに、ずっといらっしゃいますか」
「その先は、どうなるんだ」
「あの男は、やがて、シャラントンへ向かいました。土手沿いにです。わたしは、あの男が橋の下で寝るのを待っていました。まったく! あいつは、もう、ちゃんと立っていられずに、ふらふらだったんです。ところが、あてがはずれました。シャラントンのつぎの村はアラフォルトビルでしたが、そこまで来ると、ヴィルヌーブ・サン・ジョルジュへ向かう道を、しっかりした足どりで歩きだしたのです。そのときは、もう、暗くなっていて、道は雨で濡れているし、それに三十秒おきに車が通るんですよ、もう一度、あんな目に会うんだったら……」
「なに、もう一度やるさ! だが、先を話したまえ」
「それだけです! そんな具合で三十五キロ歩いたんです。おわかりになりますか。雨はますますひどくなってくるんです。あの男は、まるっきり気がつかないんです。コルベイユに来たときには、尾行しやすいように、もうすこしでタクシーをとめようかと思ったほどです。朝の六時になっても、あの男とわたしはあいかわらず、前と後になって、モルタンからナンディへぬける森のなかを歩きつづけていました……」
「あの男は、自分の家の入口からはいったかい?」
「あの宿屋をご存じですか。りっぱだとは、義理にも言えません。車夫馬丁さま御宿といったところで、同宿屋もやれば、新聞も売る、酒も飲ませる、たばこも売るといった店です。それに、小間物だって売るんだと思います。あいつは入口からはいらずに、一メートル幅の道を通って、家をまわって、塀をとびこしたんです。家畜を寝かす小屋に、もぐりこんだんだとわかりました」
「それだけかい」
「まあ、そんなところです。三十分たつと、ウルタンの父親が出てきて、鎧戸《よろいど》をあけて、店をあけました。静かな男ですね。わたしは、そこへ行って一杯やったんですが、父親にはおどおどしたところはすこしも見えません。街道に出ると、うまい具合に、自転車に乗った警官に出会いました。その男に頼んで、わざと自転車のタイヤをパンクさせてもらって、それを口実に、わたしが戻るまで、その宿屋でねばってもらってるんです」
「そいつはよかった!」
「よかありませんよ。わたしは腰まで泥だらけになっているんです。靴はびちゃびちゃに濡れて、湿布みたいです。きっと、シャツまで雨がしみとおってます。これから、どうしましょうか」
「むろん、スーツ・ケースは持っていないしね」
「このうえ、スーツ・ケースなんか持ってたらやりきれませんよ」
「その宿屋に戻ってくれないか。なんでもいいから、話題をみつけてしゃべるんだ。友だちと会う約束になっていて、来るのを待ってるんだとか、なんとか言ってさ」
「こちらへみえますか」
「わからん。だが、ウルタンをもう一度とり逃がせば、おれは、てっきりクビになるね」
メグレは電話をきると、ぼんやりあたりを見まわした。そして、半開きになっていた入口から給仕を呼んだ。
「ジャン、よくきいておくんだ! わたしが出かけたら、すぐコメリオ予審判事に電話してくれ。こう申しあげるんだ。万事うまく行っていますとな。それから、こちらの経過は、つぎつぎにお知らせしますと。わかったな。丁寧に、お上品にいうんだ! たっぷり敬語を並べたててな」
十一時に、メグレは『クーポール』の前で、タクシーから降りた。ドアを押してはいると、最初に目にはいったのは、ジャンビエ刑事だった。新米の役者のように、さりげなく新聞紙で身を隠して、自分ではうまくやっているつもりなのだが、頭もとびだしていれば、新聞をめくりもしないのだ。
向かい側のすみでは、ジャン・ラデックが、クリーム入りコーヒーにさじをつっこんで、なげやりにかきまわしていた。
ひげは剥《そ》りたてて、清潔なワイシャツを身につけ、ちぢれた髪も、櫛《くし》でなでつけられているようである。
バーテンが、メグレに気づいて、目くばせをしようとした。新聞のかげからジャンビエもまた、そぶりでわからせようとした。だが、すべて無駄になった。ラデックが、まっすぐメグレの方をむいて、「なにかあがりますか」と声をかけてきたからである。
ラデックは、なかば腰をうかしていた。笑ってはいない。顔の一点一画が頭の鋭さをのぞかせている表情だ。
メグレは、重そうに大きな体を運んで、前にふみだし、椅子の背をつかんだ。その手つきには、椅子を握りつぶすことさえできそうな力がこもっている。それから、どっかと椅子に腰をおろした。
「もう帰ってきたのかね」そっぽを向いて、メグレはきいた。
「あそこの旦那方は、たいへんご親切でしたな。治安判事に叫びだされるのは、二週間後のようですね。事件が山のようにたまってるというわけでしょう。ところで、もうクリーム入りコーヒーの時間ではありませんよ。キャビアのサンドイッチとウォッカ一杯というのはどうですか。ちょっと、バーテン!」
バーテンは、耳の付根まで赤くした。あきらかに、この外人の客に、食べものを出すのをためらっているのだ。
「連れといっしょのときには、前払いはご免こうむりたいな」ラデックは言葉をつづけた。それから、メグレに説明した。
「ここの連中は、なにもわかってくれませんでね。少し前に、ここへ来たのですが、呆れたことに、ぼくの注文に応じようとしない。なにも言わずに、支配人を捜しに行く。そして支配人は、ぼくに、出てゆくように言うんです。仕方がないから、テーブルに金を出しましたよ。おかしなことだと思いませんか」
ラデックは、夢でも見ている人のように重々しく言った。
「きのう、ここで与太者にお会いになりましたね。もし、ぼくがああいう恥知らずの手合いだったら、この店は、馬鹿みたいに貸してくれるんですからね。ところがぼくは、まともな人間ときている! そうでしょう、警部さん。いつか、ふたりだけで、このことを話しあわなければいけませんね。おそらく、全部わかっていただくというわけにはいかないでしょうが。まあ、ともかく、あなたは、ものわかりのいい人間のなかにはいっておいでなのだから……」
バーテンが、テーブルにキャビアのサンドイッチを置き、メグレにちらっと目をやると、あらたまった口調で言った。
「六十フラン頂戴します」
ラデックはにやりと笑った。すみのほうでは、ジャンビエ刑事が、あいかわらず新聞紙のかげで、ようすをうかがっている。
「アブデュラ一箱」と赤毛のラデックが注文した。
たばこを待つあいだ、ラデックは人の見ている前で、上着のポケットから、しわくちゃの千フラン札を一枚出して、テーブルに投げだした。
「警部さん、なんの話をしてたんでしたっけ。ちょっと失礼。急に思いだしたもので、洋服屋に電話することになっていたのを」
電話はビヤホールの奥にあった。そこには、外へ出られる出口がいくつかある。
メグレは動かなかった。ジャンビエだけが、自動装置で動くように、少し離れて彼のあとを追った。
しばらくたつと、ふたりは、席をたったときと同じように、前後して戻ってきた。ジャンビエの目は、このチェコ人が洋服屋に電話したことが嘘ではないことを、あきらかに語っていた。
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七 札束を見せる男
「警部さん、重要な意見をおきかせしましょうか」
ラデックは、相手のほうに体をかがめ、声を低めて言った。
「おことわりしておきますが、あなたがぼくの意見をきいて、どう考えられるかということぐらいは、いまでもわかっています。だが、そんなことは、実はどうでもいい。ともかく、ぼくの意見を申しあげますと──失礼でなければ、ご忠告すると申しましょうか──そっとしておいたほうが無事だということです。あなたは、むやみやたらにひっかきまわしておいでなんですから」
メグレは正面に目をやったまま、じっと動かなかった。
「あなたは、これから先も、間違いをつづけてゆかれますよ。なにも、おわかりじゃないのですから」
チェコ人は、しだいに夢中になった。しかし、ひどく特徴のある、陰《いん》にこもった熱し方だ。メグレは、ふと男の手に目をやった。指が長く、びっくりするくらい白くて、そばかすがところどころにある。その指は、まるでいっしょになって会話しているかのように、伸びたりちぢんだりしていた。
「申しあげておきますが、ぼくは、あなたの職業的な才能を疑っているわけではありません。あなたは、こんどの事件が、なにもわかっていないのです。これっぽっちもわかっていやしない。それは、出発当初から、あなたが間違った材料を基盤に進んでいるからなんですよ。それですっかり誤ってしまうことになったのです。そうでしょう? だから、あなたが、これから発見する事柄もすべて、おしまいまで誤ることになってしまいますよ。そんなわけで、こんどの事件の解決に役立ついくつかの事柄も、あなたは見落してしまったのです。たとえば、こんどの事件で、セーヌ河が演じている役割に気づかれてはいないでしょう。サン・クルーの別荘は、セーヌ河のほとりにあります。ムッシュウ・ル・プランス街は、セーヌ河から五百メートルのところです。新聞の記事によれば、死刑囚が脱走して身を隠したという『シタンゲット』もセーヌ河のほとりです。ウルタンはムラン出身ですが、それもセーヌの河岸です。彼の両親は、ナンディに住んでいますが、やはり、そこもセーヌの河沿いなのです」
ラデックは、目に微笑をうかべていたが、その表情は真剣味を帯びていた。
「たいへん、お困りのようですね。そうでしょう? ぼくは、自分から進んで網にかかったようなものです。あなたが、なにもききはしないのに、やって来て、ある事件について話しています。しかも、あなたはぼくに嫌疑をかけたがっている。まったく、いったい、なぜなんです? ぼくはウルタンとなんの関係もありません! クロスビーとだって、関係なんかありはしないですよ! ヘンダーソン夫人とだってね。それに、その人の女中とだって、むろん、関係がありません。せいぜいあなたが指摘できる疑惑の点は、きのう、あのジョゼフ・ウルタンがやって来て、このあたりをうろついて、ぼくを待ちうけているようなようすだったということだけです。
それは、あたっているかもしれないし、いないかもしれない。とにかく、ぼくがふたりの警官にかこまれて、この建物から出ていったことだけは、間違いないのです。だが、このことは、なんの証明にもなりはしないでしょう。さっきから言っているように、あなたにはなにもわかっていないし、また将来わかるとも思えません。
この事件でぼくは、どんな役割を演じているのでしょうか。まるっきり、関係がないとも言えれば、すべてぼくがやったということにもなるわけです。
頭がいい、というより、よすぎる男が、なにもせずに、毎日ものを考えることだけで暮らしているうちに、たまたま、自分の専門に関係のある問題を追究する機会にぶつかる。そういう男を想像してみてください。つまり、ぼくの専門の医学と犯罪学とは、隣りあわせの学問なのです」
メグレは、じっと動かなかった。きいているとも思えないくらいだ。ラデックは、いらだった。声を高くした。
「ところで……、警部さん、あなたはどうお考えなのですか。誤ったことを、認めはじめましたか。どうです? あるいは、いまはまだ認められないというのですか。もっと、はっきり言わせてもらえば、犯人を逮捕しておきながら、釈放したのは、誤りだったんです。なぜって、あの男に代る犯人が見つからないばかりか、あの男だってずらかってしまうかもしれないんだから。
さっき、出発点が間違っていると言いましたが、ほかに、その証拠をもうひとつおめにかけましょうか。そして、ついでに、ぼくの逮捕に必要な口実を、あわせてつかませてあげましょうか?」
ラデックは、ウォッカを一気にあおると、腰かけたまま身をのけぞらせて、上衣のポケットに手をつっこんだ。その手を出したときには、十枚ずつピンでとめた百フラン紙幣の束を、いっぱいつかんでいた。札束は十あった。
「ごらんください、新しい紙幣ですよ。つまり、出所を簡単に調べられる紙幣というわけです。調べてみてはどうですか。楽しい仕事ですよ。家に帰って寝るほうがましだというのなら、またべつですが。まあ、お帰りになって寝るほうをおすすめしますよ」
ラデックは立ちあがった。メグレは、腰かけたまま、パイプの濃い煙を吐き出しながら、頭の先から足の先まで、ラデックをみつめた。
客がぽつぽつと姿を見せはじめた。
「ぼくを逮捕しますか……」
警部は、すぐに答えようとはしなかった。札束を手にとり、じっと見つめ、そのままポケットにつっこんだ。
やがて、こんどはメグレのほうが立ちあがった。その動作が、あまりおちついていたので、ラデックはいらいらして、顔の筋肉をふるわせた。その肩に、メグレが静かに二本の指をかけた。
好調なときのメグレなのだ。力に溢れ、自信にみちて、おだやかなメグレなのだ。
「ねえ、坊や……」
その態度は、ラデックの口調や骨ばった体つきや、まったく特種な才気の輝く険しい目つきと、興味深い対照を見せている。
メグレは、相手より二十歳も年上なのだ。それが、言葉や態度にはっきり出ている。
「ねえ、坊や……」
ジャンビエは、これをきいて、笑いだしそうになるのを我慢した。やっと親分が、いつもの調子にかえったのを見て、嬉しくて仕方ないのだ。
ところでその親分は、あいかわらず人の好さそうな磊落《らいらく》な調子で、こういっただけである。
「いずれ、そのうち、また会うことになるだろうぜ」
そう言うと、バーテンに会釈し、両手をポケットにつっこんで出ていった。
「たしかに、それだったと思います。でも、一応調べてみます」『ジョルジュ五世』ホテルの事務員が言った。いま、メグレが渡したばかりの紙幣を調べているところである。
まもなく、事務員は銀行に電話をかけた。
「もしもし、きのうの朝、引き出しにやった百フラン紙幣百枚の番号をひかえてありますか」
彼は、鉛筆で、相手の言う紙幣の番号を書きとめると、電話をきって、メグレ警部のほうへ向きなおった。
「やはり、きのうの紙幣です。まさか、いやな事件ではないのでしょうね」
「いや、そんな事件じゃない……。クロスビー夫妻は部屋かね」
「三十分ほど前に、お出かけです」
「出かけるのを見たんだね。あんたの目で?」
「たしかに、見ました」
「このホテルには、出口はいくつあるのかね」
「ふたつです。ですが、ひとつは従業員専用になっています」
「クロスビー夫妻は、けさ三時に帰ったそうだが、それから、だれか訪ねてこなかったかね」
事務員は、客室係や小間使や守衛にきいた。
その結果、メグレはクロスビー夫妻が午前三時から翌朝十一時まで、まったく部屋から出ず、だれも夫妻の部屋にはいらなかったという証言を得た。
「夫妻が、メッセンジャー・ボーイに手紙を持たせはしなかったかね」
それもなかった。ジャン・ラデックのほうも、前日の午後四時から、その朝七時まで、モンパルナス警察署に留置されていて、外に連絡できはしない。
その朝七時に、ラデックは文なしで舗道をぶらぶら歩いていた。そして八時ごろには、モンパルナスの駅で、ジャンビエ刑事をまいたのだ。
十時に『クーポール』に姿を見せたが、そのときは、少なくとも一万一千フランのかねを持っていた。そのうちの一万フランは、たしかに、前の晩ウィリアム・クロスビーのポケットにあったものなのである。
「夫妻の部屋を見せてもらえないかね」
支配人は、困ったようすだったが、結局、承知した。メグレはエレベーターで四階にあがった。高級なホテルに、よく見られるような部屋である。ふたつの大きな部屋、ふたつの化粧室、客間、それに婦人用の居間がついている。
寝台は、まだ、ちらかっていた。朝食のあともかたづいていない。ボーイがクロスビーのタキシードにブラシをかけていた。他の部屋では、椅子の上に夜会服が脱ぎすててあった。
シガレット・ケース、ハンドバッグ、ステッキ、まだページを切っていない単行本など、いろいろなものが散らばっていた。
メグレは通りへ出て、タクシーを拾い、『リッツ』へ出かけた。そこのボーイ頭《がしら》の証言によると、クロスビー夫妻は、前夜、エドナ・ライヒベルク嬢といっしょに、十八番のテーブルについたという。夫妻は、九時ごろやって来て、二時半すぎにそこを出た。いつもと違ったようすは見えなかった、ということである。
「だが、あの紙幣は……」メグレは、ヴァンドーム広場を横ぎりながらつぶやいた。
ふいに、メグレは足をとめた。あやうく、自動車の車輪の泥よけに、ひっかけられるところだった。
「どういうわけで、ラデックのやつは札束を見せびらかしたのだろう。だが、もっといけないことがある。いま、その札束を持っているのは、このわたしなのだ。こいつを法律的に説明するとなると弱るぞ。それに、セーヌ河の話もあるしなあ……」
メグレは、いきなり自動車をとめた。はっきりしたあてがあったわけではない。
「ナンディまで、どのくらい時間がかかるかね。コルベイユの少し先だが」
「一時間です。道が濡れててね」
「では、行ってくれ、その前に、たばこ屋の前で、ちょっと、とめてくれないか」
メグレは、座席の片すみに、どっかと腰をおちつけた。車窓のガラスの内側は蒸気で曇り、外側には雨の滴が丸くなって、たまっている。彼は、その一時間を、気ままに過ごすことになった。
彼はたえず、たばこを吸った。そして、オルフェーブル河岸の仲間のあいだで評判になっている、例のゆったりした黒い外套《がいとう》に、あたたかそうにくるまっていた。
郊外の風景が、とぶように過ぎた。つづいて、十月の田園の風景が展《ひら》ける。ふたつの切妻屋根のあいだや、葉の落ちた木立のあいだに青いリボンのようなセーヌ河が、ちらちら見えた。
ラデックが、あんな話をしたり、札束を見せびらかした理由は、ただひとつしかありえない。あらたに、不可解な問題を持ち出してじゃまをし、しばらくのあいだ、捜査の目をそらそうという魂胆である。
なぜだろう。ウルタンが逃走する時間を稼ぐつもりだろうか。クロスビーを危地に追いこむためだろうか。
だが、それは同時に、自分自身をも、危険におとしいれることになる!
メグレ警部はラデックの言葉を思いうかべた。
「すべての前提が、そもそもの始めから、間違っているんです……」
まったく、そのとおりだ! それが判ったからこそ、重罪裁判所が死刑を宣告したのに、メグレは再捜査の許可をとったのだ。
だが、どこまで間違っているのだろうか。どんなふうに、誤りを犯しているのだろうか。だが、捏造《ねつぞう》することのできない、物的証拠があがっている。
厳密に推理するなら、ヘンダーソン夫人と女中を殺害した犯人は、ウルタンの靴を借りて、別荘に靴跡を残したと言えないこともない。
だが、指紋はそうはいかない。あの晩、犯行現場から動かしえない。カーテンやシーツなど、いくつかのものから彼の指紋が発見されている。
では、どこが誤っているのだろうか。ウルタンが、夜の十二時に『パピヨン・ブルー』に姿を見せ、朝の四時にムッシュウ・ル・プランス街の家に帰ったことはたしかである。
「あんたは、なにもわかっていないし、今後も、ますますわからなくなるでしょう」とラデックは断言している。この数か月というもの、そういう存在など、まったく知られていなかった男が、とつぜん、事件のただなかにあらわれて、そう言うのだ。
きのう、『クーポール』にいたとき、ウィリアム・クロスビーは、ラデックを見向きもしなかった。
そして、ラデックの名前をきかされても、クロスビーは、少しも驚いていない。
だが、百フランの札束が、クロスビーのポケットから、ラデックのポケットに移動している!
しかも、ラデックはその事実を、警察に知らせたがっていた! それどころか! 彼は、いま、まっ先にのりだして、主役を買って出ようとしているのだ。
ラデックが署を出てから、『クーポール』で彼を見かけるまで、きっちり二時間経過している。このあいだ、彼は自由に行動できたはずである。この二時間のあいだに、ひげをそったり、シャツを着替えたりしたのだ。あの札束を手にいれたのも、この二時間のあいだである。
メグレは、不安な思いを静めたかった。そこで、つぎのように結論をくだして、やっと気持をおちつけた。
どんなに少なくみても、それだけのことをするのに、三十分はかかる。だから、あの男は、ナンディにくる時間はなかったはずである……。
ナンディは、セーヌ河を見わたす小高い丘にあった。その丘には西風が激しく吹きまくって、木の幹を、いまにも折れそうに、しなわせていた。とび色に色づいた畑が、はるか地平線のかなたまでひろがって、歩いている猟師の姿が小さく見えていた。
「どこに車をつけますか」車窓のガラスをあけて運転手がきいた。
「村の入口だ。戻ってくるから、待っていてくれ」
長い道が一本通っているだけだった。その通りの中ほどに、『旅館業、ユヴァリスト・ウルタン』と書いた看板が出ていた。
メグレがドアを押してはいると、ベルが鳴った。色刷りの石版図を飾った店の広間には、だれもいなかった。リュカ巡査部長の帽子が、帽子かけにかかっている。
メグレ警部は声をかけた。
「おおい! だれかいないのかね!」
頭上で足音がきこえ、五分ほどたってから、ようやく決心がついたようなようすで、だれかが廊下の奥の階段を降りてきた。
メグレの前に立ったのは、六十歳ばかりの、思いがけず、かなり背の高い、目のすわった男である。
「なにかご用なんで……」と、廊下からきいた。
だが、すぐ、
「あなたも、警察の人かね」
その声は、感情をはっきり見せていなかった。言葉の区ぎりさえ、明瞭ではなかった。そしてそれ以上、口をきこうとしないのだ。階段のあがり口に立って、こちらですというような身ぶりで階段を示してから、旅館の主人はゆっくりと、また上っていった。
はっきりききわけられない音が、二階からきこえていた。階段はせまく、その壁は白いしっくいだった。ドアをあけると、まずリュカ巡査部長の姿が目にはいった。
窓ぎわにうなだれたまま、リュカはしばらくのあいだ、メグレの方に目をむけないでいる。
同時に、目にはいったのは、寝台と、かがみこんでいる人影と、ヴォルテール型の古ぼけた椅子に腰をおろしている年老いた女の姿だった。
部屋は広かった。そして、天井の梁《はり》はむきだしで、壁紙はところどころはげている。樅《もみ》の板で張った床が、足もとできしんだ。ドアをしめてくれ、と寝台にかがみこんでいた男がいらいらして言った。医者がきているのだ! 医療機具のはいったかばんが、開いたまま、マホガニー製のテーブルの上に置いてある。リュカはやつれ果てた顔で、やっとメグレのところへ来た。
「もう、おいでだったのですか。どうやってこられたのです? わたしが電話してから、まだ一時間もたっていませんが」
こわれた品物のように、ジョゼフ・ウルタンが寝台に長くなっていた。胸が露出して、青白い皮膚から肋骨《あばらぼね》がとびだしている。老婆は、泣きじゃくりつづけていた。父親は死刑囚の枕もとにいた。気味の悪いほどうつろな目つきをしている。
「ちょっと、おいでください。ご報告しておきましょう」リュカが言った。
メグレとリュカが部屋を出て、階段の降り口まで来ると、リュカ巡査部長はちょっとためらったのち、他の部屋のドアを押した。その部屋は、まだ散らかしたままになっていた。女の服が何枚か脱ぎすててあった。窓は中庭に面していて、庭では鶏が濡れた堆肥に足をつっこみ、あがきながら歩いていた。
「で……?」
「まったく、たいへんな朝でしたよ。あなたに電話したあと、すぐ戻ってきて、例の警官にもう出かけてもいいから、と合図しました。それから、なにが起こったかというと……。これからお話することは、あとで少しずつ推察を加えて判断したことなのですが。ウルタンの親爺《おやじ》は、わたしと一緒に店にいました。親爺は、なにか食べるか、とききました。うさん臭い目でわたしを見ているのが感じられました。わたしが、たぶんこの宿屋に泊めてもらうようになるだろうとか、人を待っているのだとか言ったときには、ことに……。
そのうちに、廊下の奥の勝手元でひそひそと話をするのがきこえます。見ると主人が驚いて、きき耳をたてています。
『おまえ、そんなところにいるのかい、ヴィクトリーヌ』と、主人が叫びました。二、三分間は、なんの話し声もきこえませんでした。まもなく婆さんがでてきました。妙な表情をしているのです。気が顛倒《てんとう》しそうでいながら、ことさらに平静を装っている人間の顔つきなんです。
『牛乳をしぼってきます』と、婆さんはいいました。
『そんな時間じゃないぜ』
それでも婆さんは木靴をはき、ネッカチーフを巻いて出かけて行きました。宿の主人は、勝手元へ出かけたのですが、そのときは娘しかいなかったのです。まもなく、叫び声とすすり泣きと短い言葉がきこえてきましたが、わたしには、ただ一言しかききとれませんでした。
『わしも、もっと早く気がつかなきゃいけなかったんだ。婆さんの顔色を見ただけでも……』
それから、宿の主人は、大股《おおまた》に歩いて中庭へ行き、戸をあけました。たぶん、ジョゼフ・ウルタンが隠れている物置の戸なのだと思います。一時間ばかりたってから、やっと戻ってきました。そのとき、娘はふたりの荷車曳きに飲物を出しているところでした。娘は目をまっ赤にしていました。そして、客のほうを見る気にもなれないようなのです。婆さんも戻ってきました。また家の奥で、ひそひそ話しあいが始まりました。
親爺がまた店に戻って来たときには、あなたもさっきごらんになったような目つきになっていました。
こうした出たりはいったりのいきさつは、あとになってはじめてわかったのです。婆さんと娘が、まず最初に、ウルタンが物置小屋にいるのを見つけて、年寄りの主人には、なにも言わないでおこうということになっていたのですね。
店の主人は、なにかがあったことは、なんとなく気づいたのです。それで、女房が出かけたあとで娘にきいた。娘は耐えきれずにしゃべってしまったというわけです。そこで、彼は息子に会いに行き、家においてはおけないと言いわたしたのです。あなたもごらんになったでしょう。あの男は一徹者の正直者ですね。で、事情に気付くと同時に、わたしが何者であるかも見ぬいたわけです。
もっとも、親爺が、あの小僧っ子をわたしに引き渡しただろうとは考えません。たぶん、逃げるのを助けてやろうと決心したくらいのところでしょう。
それはともかくとして、十時ごろ、わたしが、中庭に面した窓の傍にいると、雨だというのに、婆さんが靴下でとびだして、壁に身をすりよせて物置のほうへ行くじゃありませんか。
数秒もたったかと思うころ、婆さんがすごい叫び声をあげました。まったく嫌なもんですよ、こんな場合は! わたしと同時に、親爺のウルタンもその場にかけつけて来ました。すると、この目で実際に見たんですが、親爺のこめかみから、汗が文字通り玉になってほとばしってるじゃありませんか。
息子は、奇妙な恰好《かっこう》で、壁にもたれかかって倒れていました。そばまで行って、はじめて釘《くぎ》に紐《ひも》をかけて首を吊っているのがわかったのです。
この老人は、わたしより沈着でした。急いで紐を切ったのは爺さんだったのです。息子を藁《わら》の上に仰向けに寝かせ、医者を呼んでくるように、大声で娘に言いつけながら、息子の舌をひっぱりだそうとしました。それからはもう、テンヤワンヤです。あなたもごらんになった通りです。でも、わたしは、まだ咽頭のあたりがしめつけられているような気がして……。
さいわいにも、ナンディでは、だれひとり、この事件の真相に気づいていません。みんなは、婆さんが病気だと思いこんでいます。
わたしたちふたりで、息子の体を二階へ運びました。それから医者が来て、一時間ばかり、いろいろな手当をしているのです。
ジョゼフ・ウルタンは命をとりとめるようです。親爺は、まだ一言も口をききません。娘は発作を起こしたので、大声でわめかないように、台所に閉じこめてしまいました」
どこかの部屋の戸があいた。メグレが階段の降り口まで出てみると、医者が帰ろうとしているところである。
メグレは、医者といっしょに階段を降り、店の広間のところで呼びとめた。
「わたしは司法警察の者ですが……具合はどうでしょうか」
いなか医者だった。彼は、警察に好意を抱いていないようすをありありと見せて、
「連行するつもりですか」と、不機嫌そうにきいた。
「わかりません。容体はどうなんですか」
「うまいときに紐からはずしましたな。だが、回復には、数日はかかる。ラ・サンテ監獄にいたから、あれほど衰弱したのかな? 血管がまるで血がなくなっているみたいだな……」
「この出来事は、だれにも話してもらいたくないのですが、いいでしょうな?」
「ご忠告には及ばん。職業上の秘密というものがあるんだから」
今度は、親爺が降りてきた。その目は、メグレをじっとうかがっていた。だが、口をきく気配はまるでない。スタンドの上にあったからのコップをふたつ、機械的にとりあげて、流しにつっこんだ。
不安に耐えている重苦しい何分かが、流れた。娘のすすり泣きが、三人の男のところまできこえてきた。やがて、メグレはため息をついた。
「ここで、しばらく看護してもいいといったら、うれしいかね?」メグレは、老人を見つめて、はっきりと言った。
答えはなかった。
「だが、そのときは、警察の者をひとり、ここに残しておくことになるがね」
宿屋の主人の視線は、リュカに注がれていたが、やがてまたスタンドの上に落とされた。
一粒の涙が頬を伝わって流れていた。
「せがれは母親に誓ったそうですが……」と老人は話しだした。
だが、そのまま顔をそむけた。それ以上言葉が出ないのだ。人目をつくろおうとラム酒を自分で注いだが、唇《くちびる》につけたとたんに嘔《は》きそうになってしまった。
メグレは、リュカのほうに向いて、つぶやくように言っただけだった。
「ここに残っていてくれないか」
メグレは、すぐに出かけなかった。廊下をひとまわりすると、内庭に出るドアが目についた。頭を抱えて、壁にぴたりと身を寄せている女の姿が、台所のガラス戸ごしに見えた。
堆肥の山の向こうに、物置の戸が大きく開いていた。縄《なわ》のはじが、まだ鉄の釘にかかったままである。
メグレ警部は肩をすぼめてひっ返した。店にはリュカしかいなかった。
「爺さんはどこにいるかい?」
「二階です」
「なにも言わなかったかね。きみの交替に、だれかをよこすよ。一日に二回ずつ、わたしに電話してもらいたいな」
「あんただよ。あの子を殺したのは、あんたなんだよ」二階では、婆さんが泣きじゃくっていた。
「あっちへ行っとくれ! あんたがあの子を殺したんだ。かわいいせがれ! むごい目にあわされて!」
ドアのはしにつけてあるベルが鳴った。メグレがドアをあけ、村の入口に待たせてあるタクシーの方へ歩き出したのだ。
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八 邸のなかの人影
サン・クルーのヘンダーソンの別荘の前で、メグレがタクシーを降りたのは、午後三時を少し過ぎていた。ナンディからの帰途、鍵《かぎ》をまだ、ヘンダーソン夫人の相続人たちに返していないことを、思いだしたからである。七月に、捜査の必要上預かっていたものである。
メグレが寄ったのは、はっきりした目的があったわけではなかった。ただ、前に見のがしたこまかな事実を、偶然発見できるかもしれないというような期待はあった。さらに、あの邸の雰囲気《ふんいき》が、なにかのインスピレーションを与えてくれるかもしれないという気持もなくはなかった。
その別荘の建物は、広いだけで独特な情趣がなく、はしに趣味の悪い塔がついている。庭にしても、庭園といえるような代物《しろもの》ではない。
鎧戸が、ぜんぶおりていた。庭の小径《こみち》は枯葉でおおわれている。
鉄柵の門の大扉は、押すとすぐにあいた。住居というより、むしろ墓地を思いださせる荒廃した背景のなかに立って、メグレ警部はちょっと気の落ち着かない思いであった。
彼は気のすすまないようすで、玄関の四段の階段をのぼった。両側には、もったいぶった石膏像が立っていて、その上に大燭台がついている。つづいて、メグレは入口の扉をあけた。内部はまったく薄暗く、しばらく目が慣れるのをまたなければならなかった。
内部は豪奢《ごうしゃ》でいて、しかもみすぼらしく、ぜんたいに薄気味の悪い感じだった。一階の部屋は、四年前、つまり、ヘンダーソン氏が死んでからは、使用されていない。
だが、家具や置物は、ほとんどもとどおりの場所にあった。たとえば、メグレが大広間にはいると、水晶のシャンデリアはゆるやかに音をたてはじめ、床の敷物は足を運ぶたびに、きしんで音をたてるという具合であった。
彼は、電燈をつけてみたい好奇心にかられた。二十個ある電燈のなかの約十個が灯《ひ》をともした。電球はひどくほこりをかぶっているので、輝きが弱まっている。
片すみに、高価な絨毯《じゅうたん》が何枚も巻いたままにしてある。椅子は部屋の奥に寄せてある。いくつかの旅行かばんが乱雑に積み重ねてある。その一つはからで、もう一つのには、ナフタリンの玉をばらまかれたまま亡くなったヘンダーソンの衣服が、まだ入れっぱなしになっている。
ヘンダーソン氏が死亡してから、すでに四年もの歳月が流れている! 生前は豪奢な生活をし、この部屋でも、新聞紙上をにぎわした宴会が何度も開かれたものだ。
大きな暖炉の上には、封を切ったハバナたばこが一箱、いまもそのままに置いてあった。こここそ、この邸の与える圧迫感を最も強く感じさせる部屋ではないだろうか。
ヘンダーソン夫人は、未亡人になったとき七十歳近かった。生きることにあきあきしていた夫人は、もう生活を変えようとはしなかった。
夫人は、自分の部屋で生活するだけにして、その他のところはいっさい、ほったらかしにした。
世界じゅうの多くの国の首都での社交生活を送って、ともかく幸福で華やかな夫妻だったであろう。そのあげくの果てに、老年の夫人だけがあとに残り、茶飲み友だちとふたりで閉じこもっていたのだ。
そして、この老夫人も、ある晩には……。
メグレは、他の広間を横切り、豪華な食堂を通り抜けて、二階まで大理石を敷いてある広い階段の下に出た。この家のがらんとして静まりかえった空気のなかでは、どんな小さなもの音もよく反響した。
クロスビー夫妻は、ここのものには、なに一つ手を触れていなかった。伯母《おば》の埋葬がすんでからは、おそらく一度も来たことがないのだろう。
別荘は、まったく手を入れてないので、メグレが、この前の捜査に使ったろうそくが、階段の絨毯の上に、そのまま置いてあったくらいである。
メグレは、第一の踊り場まで来ると、急に足をとめた。ふと、不快な気持になったからだ。その原因を分析するのに、何秒かかかった。それから、きき耳をたてて、息をころした。
なにか、もの音でもしたのだろうか。たしかにきこえた、と断定はできない。だが、ともかく、この邸にいるのは自分だけではないことを、はっきり感じるのだ。
生きものの息づきのようなものを、感じたような気がした。まず、ふんと肩をすくめた。だが、目の前のドアを押したとたん、眉をひそめ、大きく息をした。
たばこの匂いが鼻をついたのだ。しかも、ずっと前にすったたばこの匂いではない。たったいま、この部屋でだれかがすったのだ。おそらく、いまもすっているのにちがいない。
メグレは素早く二、三歩すすんだ。亡くなったヘンダーソン夫人の居間に出た。寝室のドアは半開きになっていた。なかにはいってみても、人影はない。たばこの匂いは、いっそうに強くなった。そのうえ、たばこのかすかな灰が床に落ちている。
「そこにいるのはだれだ?」
メグレは、できれば興奮したくなかった。だが、そう思っても無駄だった。こう情況が揃ってくれば、気持が顛倒するのもやむをえないではないか。部屋のなかは、虐殺《ぎゃくさつ》のあとが、やっと消え去っているかいないかである。ヘンダーソン夫人の服も、まだ安楽椅子に置いたままになっている。
鎧戸からは、光のしまが、幾条かさしこんでくるだけである。
幻想をよび起こすこの薄暗がりのなかで、何者かが動いているのだ。
浴室でもの音がした。金属的なひびきをもつ音だ。メグレは、あわててとびこんでみた。何者も見あたらない、するとまた、物置部屋に通じるドアの向こうで、はっきり靴音がした。
メグレの手は、無意識に、ピストルをさぐった。ドアをあけてとびこみ、物置部屋を走ってぬけると、裏階段が目についた。
そこは、前の部屋よりも明るかった。セーヌ河に面している窓に、鎧戸がなかったからだ。
何者かが、靴音をしのばせて、階段をのぼって行く。
メグレ警部は、もう一度言った。
「だれだ?」
興奮がますます増大した。ほとんど何の期待ももっていなかったのに、いまやついに、すべての謎《なぞ》がとけようとしているのではないだろうか。
メグレは駈けた。三階で、激しい音をたててドアがしまった。得体の知れない何者かが逃げだして、部屋を横ぎり、べつのドアをあけ、ふたたびそれをしめた。
メグレは追いせまっていった。三階の部屋は、以前は予備室として使われていたが、最近は一階の部屋同様に、ほったらかしになっている。家具や、あらゆる種類の品物が、たくさん、放りこんである。
大きな音をたてて、花瓶《かびん》がこわれた。メグレ警部は、ただひとつのことを恐れていた。逃げる男が、なかから鍵をかけて、しめだされることだった。
「警察だぞ」メグレは、念のためにどなってみた。
だが、相手は相かわらず逃げまわる。三階の部屋々々の半分は駈けぬけてしまっている。やがてメグレがドアの把手《とって》をつかむと、逃げていく人間の手が、向こう側で、そのドアの鍵をかけようとしている。
「あけろ、あけないと……」
鍵がかかった。閂《かんぬき》が落ちた。ためらう間もなく、警部は二、三歩あとずさったかと思うと、ドアの鏡板に突進し、肩がぶつかった。
ドアは、ぐらついたが、あかなかった。隣室で窓があいた。
「警察の命令だ」
実は正式の逮捕状がなかったから、いまウィリアム・クロスビーの所有であるこの邸に侵入しているのは非合法だった。だが、メグレは、そんなことは考えてもいなかった。
二、三度ドアに体あたりした。鏡板のひとつが、やっとこわれはじめた。
メグレが、最後の体当りをくわせたとき、ピストルの音が一発鳴りひびいた。その後は、いやにしんとして、なんのもの音もきこえない。メグレは気勢をそがれて、呆然と立ちすくんだ。
「だれだ、そこにいるのは? あけろ!」
なんの返事もない。息づかいひとつきこえない。ピストルに、あらたに玉をこめる、あの特徴のある音さえきこえない。
物狂わしくなったメグレは必死になって、いやというほど肩と右脇腹をぶつけた。とつぜん、ドアがあいた。ふいをくらって勢いあまり、部屋のなかに倒れこんで、つんのめりそうになった。
開いた窓から、湿気を含んだ空気が流れこんでいた。そこからは、灯のついたレストランの窓と、一台の電車の黄色い車輛が見えた。
床には、ひとりの男が壁にもたれかかり、心もち左に体をかしげて倒れている。
着ている服の灰色の柄や、体つきから、ウィリアム・クロスビーだということが、メグレにはすぐわかった。
だが、その顔から、彼であることを確認することは困難だった。
なぜなら、クロスビーは、ピストルの銃口をくわえて弾丸をうちこんだので、顔の半分が吹きとんでいたのである。
メグレは、むっつりした顔つきで、いま通ってきた全部の部屋をゆっくりと引き返しては、電燈をつけて歩いた。いくつかの電燈には、電球がなくなっていた。が、予想以上に、たくさんの電燈に灯がついた。
そこで、邸は、ところどころ穴があいたように暗い部屋があるだけで、一階から三階まで、上から下まであかあかと灯がともった。
ヘンダーソン夫人の部屋にはいると、寝台の脇の小卓の上の電話器が目にはいった。念のため受話器をはずしてみると、制動子の動く音がして、線が切れていないことがわかった。
このときほど、死の家にいるという感じを強くうけたことはなかった。
あのアメリカの老婦人が非業の死をとげたのは、自分のいま腰をおろしているこのベッドの上なのだ。正面には、その敷居の上で女中の死体が発見されたドアがある。
そして、三階の、ドアが打ち破られた部屋には、もうひとつの新しい死体が、湿気を含んだ夜気の流れこむ窓の傍に横たわっているのだ。
「もしもし、警視庁に願います」メグレはわれにもあらず、声を低くして言った。
「もしもし、司法警察部長をたのむ。こちらはメグレだ。もしもし、部長ですか。ウィリアム・クロスビーが、ただいま自殺しました。アン・クルーの別荘でです……。もしもし、はい、そうです。現場におります。手配願えますか。偶然、現場に居あわせたのです。クロスビーとは四メートルと離れていなかったのですが。しまったドアを間にして……。はあ、そうです。いや、原因はわかりません。いずれまた後ほど……」
電話をきってからも、メグレはじっと前方を見つけたまま、五、六分のあいだ動かなかった。
無意識に、ゆっくりパイプにたばこをつめたが、そのまま火をつけてすうのを忘れていた。
この別荘が、冷えきった、がらんどうの大きな空箱のように感じられた。自分が、その空箱のなかのごく小さな存在にすぎないような気がするのだ。
「前提を誤っている!」低い声で、彼はつぶやいた。
もう一度三階にあがってみようとしかけた。だが、あがってみたところで、なんになるだろう。クロスビーが死んだことに間違いはない。自殺するために使ったピストルは、いまだにその右手に握りしめられたままなのだ。
いまごろ、コメリオ予審判事は、この事件の報告を受けているにちがいない。それを思うと、メグレの顔には、苦い笑いがうかんだ。おそらく、コメリオは警官や鑑識課の技師といっしょに、かけつけてくるだろう。
壁には、ヘンダーソン氏の油絵の肖像画がかかっていた。燕尾服《えんびふく》を着て、レジヨン・ド・ヌール大綬章や、たくさんの外国の勲章をつけて、威儀を正した肖像画である。
メグレ警部は歩きだし、隣室にはいった。エリズ・シャトレエの部屋である。メグレが衣裳だんすをあけてみると、絹や毛織の黒い服が、きちんとつるされてあった。
メグレは、外部の音にきき耳をたてていた。鉄柵の門の大扉の前に、二台の自動車が、ほとんど同時にとまる音がしたとき、メグレはほっとして、ため息をついた。
つづいて、庭で人声がきこえた。コメリオ氏が、例の神経質な疳《かん》高い声で言っているのだ。
「ありえないことだ! 考えられないことだ」
メグレは、客を出迎える主人のように、階段の降り口のほうへ出ていって、階下のドアがあくと、とたんに言った。
「どうぞ、こちらへ」
メグレは、あとあとまで、このときのコメリオ予審判事の態度を忘れないにちがいない。予審判事は、いきなりメグレの前に突ったったかと思うと、おそろしい顔つきで、にらみつけた。唇を怒りでふるわせて、やっと言ったものだ。
「警部、説明したまえ」
メグレは、無言でコメリオといっしょに裏階段をのぼり、三階の部屋を通って現場へ案内した。
「これです」
「ここへクロスビーを呼んだのはきみかね」
「この男が、ここにいることさえ知らなかったのです。念のために、ここへ来てみたまでのことだったのです。なにか証拠になるものを、見落してはいないか、たしかめたいと思いましてね」
「クロスビーはどこにいたのだ」
「たぶん、彼の伯母の部屋だと思います。いきなり逃げだしたのです。こっちは追いかけたというわけです。ここまで追ってきて、ドアを押し破ろうとしているうちに、自殺してしまったのです」
コメリオ判事の目をよく見れば、作り話ではないかという疑念の表情があらわれていると、人は思いこんだかもしれない。だが、事実は、事件の紛糾《ふんきゅう》を恐れる法官気質が、その目にあらわれていたまでのことなのだ。
医者が検屍《けんし》し、現場の写真がうつされた。
「ウルタンは?」コメリオ予審判事が、ぶっきらぼうにきいた。
「ご希望がありしだい、いつでもラ・サンテ監獄に戻ることになっています」
「発見したのか」
メグレは肩をすくめた。
「では、すぐに連れてきてもらいたい」
「承知いたしました」
「ほかに、なにか言いたいことはないかね」
「現在は、それだけです」
「きみは、まだ信じているのかね……ウルタンが……」
「ウルタンが犯人ではないと? それは、なんともわかりません。十日の猶予を願いました。まだ四日にしかなりません」
「これから、どこへいくのかね」
「わかりませんな」
メグレは、両手をポケットに深くつっこんだまま、検事局の連中の行きかいを目で追った。それから、とつぜん、ヘンダーソン夫人の部屋へ降りていって、受話器をとりあげた。
「もしもし! 『ジョルジュ五世』ホテルを頼む。もしもし! そちらに、クロスビー夫人はおられますか。なに、喫茶室? ありがとう。いや、伝言の必要はないです」
コメリオ予審判事は、メグレのあとから降りてきて、入口に立って、何のいたわりもない目付きでメグレを見つめていた。
「見たまえ、こんな厄介なことになって」
メグレは答えずに、帽子をかぶった。そして、そっけない挨拶をして出ていった。タクシーを待たせておかなかったので、別の車を探しに、サン・クルー橋まで歩かねばならなかった。
しめやかに、静かな音楽が流れていた。幾組かの男女が、ゆるやかに踊っていた。『ジョルジュ五世』ホテルの喫茶室の、人目につかない一画で、美しい婦人たち、とくに外国の婦人たちの、いくつかのグループがテーブルを囲んでいた。
メグレは、不機嫌なようすで、携帯品預かり所で外套をぬいで預けると、エドナ・ライヒベルクとクロスビー夫人のいるグループに近づいた。
ふたりは、スカンジナヴィア人風の若い男といっしょだった。その男が、よほど面白い話でもしているらしく、二人の婦人は、ひっきりなしに笑っていた。
「クロスビーの奥さん」メグレは、ちょっと会釈して言った。
クロスビー夫人は、ものめずらしそうに、メグレを見た。それから、思いもかけないところでじゃまが入ったというような、いかにもけげんな面持ちで、連れのふたりをふりかえった。
「なんですの」
「ちょっとお時間をいただいて、お話したいのですが」
「いまですの? なんでしょう」
メグレが、あまりものものしいようすをしているので、彼女は立ちあがって、あたりを見まわし、静かな場所を探した。
「バアにおいで願いましょうか。いまの時間なら、だれもいませんわ」
なるほど、バアにはだれにもいなかった。ふたりは立ったままで話した。
「ご主人のことですが、きょうの午後、サン・クルーにお出かけの予定は知っておられましたか」
「ご質問の意味がわかりかねますが……。それに、そんなこと、主人の自由ですわ」
「クロスビーさんが、あの別荘を訪ねることを、あなたにお話になったかどうかを、おききしているのです」
「いいえ、なんにも……」
「伯母さまが亡くなられて以来、あちらへおふたりでお出かけになったことはおありですか」
彼女はいいえというように、くびをふった。
「いいえ、一度も。あまりいやな思い出ですもの」
「きょう、ご主人はおひとりで、あそこへおいでになったのです」
彼女は不安を感じはじめたらしい。いらいらして警部を見つめた。
「それで?」
「ご主人に、事故があったのです」
「自動車事故でしょうか。あたくし、必ず起こると申してたんですの」
エドナが、どこかに置き忘れたハンドバッグを探すというのを口実にやって来て、きき耳を立てたそうな目を投げかけてきた。
「奥さん、違います。ご主人は自殺をはかられたのです」
夫人の目に、驚きと疑惑が溢れた。一瞬、あやうく吹き出しそうにもなった。
「ウィリアムが……?」
「ご自分でピストルを一発……」
熱い両手が、いきなり、メグレの手首を握りしめた。激しい語調になって、立てつづけに英語でききただしはじめた。
それから、とつぜん、わなわなとふるえると、メグレをつかんでいた手をはなして、一足うしろにしりぞいた。
「奥さん、お気の毒ですか、ご主人は亡くなられました。二時間前に、サン・クルーの別荘で……」
クロスビー夫人は、もうメグレのことなどかまおうとしなかった。エドナや、その連れの男などには目もくれずに、喫茶室を大股で横切り、ロビーにとび出し、手になに一つ持たず、帽子もかぶらずに、通りへ出ていった。
門番が彼女にきいた。
「お車でございますか」
しかし、クロスビー夫人はもう、タクシーに乗りこんでいて、運転手に向かって大声で言った。
「サン・クルーまで。急いで」
メグレは別にその後を追おうともせず、携帯品預かり所で外套を受けとると、ラ・シテ方面行きのバスが通りかかったので、ステップにとびのった。
「電話がかからなかったかね?」メグレは役所の給仕の前で足をとめてきいた。
「二時ごろかかってきました。メモが机の上に置いてあります」
そのメモには、つぎのように書いてあった。
[#ここから1字下げ]
伝言。ジャンビエ刑事からメグレ警部へ。
洋服屋で仮縫い。モンパルナス通りのレストランで食事。二時に、ラデックは『クーポール』でコーヒー。そのあいだ二度電話。
[#ここで字下げ終わり]
では、午後二時以後はどうなのだろうか。
メグレは自分の部屋のドアに鍵をかけ、安楽椅子に深く腰をおろした。ふと目をさまし、腕時計を見て、十時半をさしているのに驚いた。
「電話がかかってこなかったかね」
「そこにおいでだったんですか。お出かけだと思ってたものですから。コメリオ予審判事から二回、かかってまいりました」
「ジャンビエからは?」
「かかりません」
三十分後に、メグレは『クーポール』のバアへはいっていった。ラデックとジャンビエ刑事を探したがいない。彼はバーテンを脇の方へ連れてゆき、
「例のチェコ人は、あれから来たかね」
「午後ずっと、ここにいらっしゃいました、あなたのお知りあいの方とごいっしょに。ほら、あのレインコートを着た若い方ですよ」
「同じテーブルに?」
「あのすみのです。おふたりとも、少なくとも四杯ウィスキーをめしあがりました」
「いつ、そのふたりは出ていったんだい」
「おふたりとも、まずビヤホールで食事をなさいまして……」
「いっしょに?」
「ごいっしょです。十時ごろお出かけになられたと思いますが……」
「どこへ出かけたか、わからないかい?」
「案内係のボーイにきいてください。あの男がタクシーを呼んだのですから」
案内係のボーイは覚えていた。
「あそこの、あの青いタクシーです。ふだん、よくここに駐車しているんです。おふたりは、遠くへお出かけのはずはありません。車が戻ってきておりますから」
つぎには、その車の運転手が言った。
「ふたり連れのお客さんですか。エコール街のペリカンまで乗せましたよ」
「そこへやってくれ!」
メグレは、ひどく気の立ったようすで、『ペリカン』にはいった。まず、案内係のボーイを、つづいて、大広間に案内しようとしたボーイを、そっけなく断った。
バアにはいると、商売女や遊び人で混んでいるなかに、あのふたりの男が、すみのほうの高い椅子に腰かけているのが見えた。
一見して、メグレはジャンビエの目がぎらつき、顔が赤くなりすぎているのがわかった。
ラデックは、どちらかといえば陰気な顔で、自分のグラスをじっと見つめていた。
メグレは、ためらわずに近づいた。あきらかに酔ったジャンビエ刑事は、しきりにメグレに目つきで合図をよこしていた。
「万事好調です。任せてください。出ておいでにならないほうがいいですよ」という意味の合図であろう。
メグレ警部は、ふたりのそばに陣どった。
ラデックは、もつれる舌で、低い声で言った。
「やあ! ご入来ですね!」
ジャンビエは、自分では控えめであるが同時に雄弁であると思っている例の身ぶりをつづけていた。
「警部、なにを飲みますか」
「おい、ラデック……」
「バーテンさん。この方にも同じものを頼む」
ラデックは、自分の前のカクテルを、ぐっと飲んで、ため息をついた。
「お話をききましょう。ジャンビエ君、きみもきくだろう」
言いながら、ラデックは、ジャンビエ刑事の体をどんとどやしつけた。
「長いこと、サン・クルーには行っていないのかい?」ゆっくりと、メグレがきいた。
「ぼくがですか……。は、は、ご冗談でしょう!」
「あそこに、もうひとつ死体がふえたのを知っているかい」
「墓掘り人夫たちには、ありがたい話ですね。まあ、あなたの健康を祝福して……」
ラデックは、一芝居打っているわけではなかった。むろん、ジャンビエほどではないが、ともかく、かなり酔っていて、目がすわり、もたれ木の支えによりかからねばならないほどである。
「だれです、その果報者は?」
「ウィリアム・クロスビーさ」
とつぜん、この瞬間の重大さをさとったかのように、ラデックはしばらくのあいだ、酔いをさまそうと、努力しているようすだった。
それから、ラデックは身体をうしろにそらすと、みんなのグラスに酒を注ぐようにバーテンに合図し、冷笑をうかべていった。
「それは、ご愁傷さまですな」
「どういう意味かね?」
「あなたは、おわかりになっていない、ということです。これでますますわからなくなるばかりだ。はじめから言っといたじゃありませんか! ところで、いいことをひとつ、提案させていただきましょう。ジャンビエさんは、承知してくれましたがね。あなたは、ぼくの跡をつけろと命令する。ぼくは逃げる! だが、前と後になって、悪ふざけしながら歩くのをやめて、ふたりで楽しむほうが賢明だと思いますよ……。食事をなさいましたか。さあ! あしたはどうなるかわからないのだから、大いにたのしくやろうじゃないですか。ここには、きれいな女がおおぜいいます。それぞれ女の子をひとりずつ選ぼうじゃないですか。ジャンビエ君は、あそこの可愛いい褐色の髪の女に申しこんだんです。ぼくは、まだ、ちょっと、考えているところでしてね。むろん、ぼくのおごりです。どうです、あなたのご意見は?……」
ラデックは、メグレをじっとみつめた。メグレも彼を見た。ラデックの顔から、すでに酔いのあとは消えていた。
するどい知性にきらめく瞳《ひとみ》が、絶妙の皮肉をたたえて、またもや、メグレを見つめていた。ラデックは、それこそ最も激しい喜びの衝動にしびれているように見えた。
[#改ページ]
九 その翌日
午前八時だった。メグレは、四時間前に、ラデックとジャンビエに別れ、いまブラック・コーヒーを飲みながら、ひしゃげた大きな字体で、一句ごとに間をおいて、つぎのように書いた。
七月七日──夜十二時。ジョゼフ・ウルタンは、サン・クルーの『パピヨン・ブルー』で、アルコール飲料を四杯飲み、鉄道三等切符一枚を落とす。
二時半、ヘンダーソン夫人と女中が、ナイフで刺殺される。殺人犯の足跡は、ウルタンのものである。
四時、ウルタンは、ムッシュウ・プランスの自宅に戻る。
七月八日──ウルタンは平常どおり働く。
七月九日──靴跡によって、ウルタンはセブール通りの主人の店において逮捕さる。彼はサン・クルーに行ったことは否定しない。だが、殺してはいないと主張。
十月二日──ジョゼフ・ウルタンは、終始犯行を否認しているが、死刑の宣告を受ける。
十月十五日──ウルタンは警察当局の立案せる計画に従い、ラ・サンテ監獄を脱出。一晩じゅうパリの街をさまよい、『シタンゲット』にたどりつき、そこで寝る。
十月十六日──朝刊に、脱走の記事が載る。特別な註釈なし。
十時、酒場『クーポール』で何者かが手紙を書き、『警笛《シフレ》』に送り、この事件に、警察が一役かっていることを暴露。手紙の差出人は外国人で、故意に左手を使って書き、不治の病におかされている形跡がある。
夕刻六時、ウルタン起床。デュフール刑事は、ウルタンが手にしていた新聞をとりあげようとし、サイフォンびんで殴られる。ウルタンは、この混乱を利用、あかりを消して逃走。一方デュフール刑事は、夢中でピストルを一発発射したが、効果なし。
十月十七日──正午、ウィリアム・クロスビー夫妻とエドナ・ライヒベルクは、行きつけの酒場『クーポール』で食前酒《アペリティフ》を飲む。チェコ人ラデックは、クリーム入りコーヒーと、ヨーグルトをテーブルでとる。クロスビー夫妻とラデックが、顔みしりとは思えない。
外では、ウルタンが疲れきり腹をすかしながらも、何者かを待っている。
クロスビー夫妻は店を出たが、ウルタンはとくに気にかけるようすもない。
ウルタンは、酒場の客がラデックひとりになっても、あいかわらず、何者かを待っている。
五時、ラデックはキャビアを注文したが、勘定を払わないため、ふたりの警官にひきたてられてゆく。
ラデックが連行されると、ただちにウルタンは待つことをやめ、ナンディの両親の家に向かう。
同日、夜九時ごろ、クロスビーは『ジョルジュ五世』ホテルのフロントで、百ドル紙幣を両替、フラン紙幣の札束をポケットにつっこむ。
クロスビーは『リッツ』の慈善パーティに夫人同伴で出席。午前三時に帰宅。以後、自室から外出していない。
十月十八日──ナンディで、ウルタンは物置小屋にもぐりこむ。母親が見つけてかくまう。
九時、父親はウルタンが戻ってきたことに感づき、会いに行き、夜になったら立ち去れと命令する。
十時、ウルタンは物置で縊死《いし》をはかる。
パリでは、七時ごろ、モンパルナスの署長がラデックを釈放する。ラデックは、尾行のジャンビエ刑事をまんまと、まく。ポケットに、まったく金がないのに、ひげをそり、どこかでワイシャツを着替える。
十時に、ラデックはこれみよがしに『クーポール』にはいってきて、千フラン札をひけらかして席につく。
ラデックは、しばらくたってメグレに気づき、話しかけ、キャビアを食べないか、とすすめる。しかも、きかれもしないのに、ヘンダーソン事件についてしゃべり、警察は事件についてなにもわかっていない、と断言する。
ところで、警察は、彼の前でヘンダーソンの名を出したことは一度もない。
ラデックは、すすんで百フラン紙幣の束を十個テーブルに投げだし、新しい紙幣だから、出所の調査が、きわめて容易である、と註釈を加える。
ウィリアム・クロスビーは、午前三時に自室に戻り、この時刻にはまだ部屋から出てきていない。例の紙幣は、前夜『ジョルジュ五世』ホテルの事務員が、ドル紙幣と交換にクロスビーに渡したものである。
ジャンビエ刑事は、ラデックを監視するために、『クーポール』に残る。食事がすむと、ラデックはジャンビエに酒をすすめ、二度電話をかける。
四時、サン・クルーの別荘に、ひとりの人間がいる。だが、その別荘は、ヘンダーソン夫人と女中の葬式以来、放置されていたものである。その人間はクロスビーだった。彼は二階にいた。庭に人の靴音をきき、窓からのぞいて、メグレだと判った|はずである《ヽヽヽヽヽ》。しかも、身をかくす。メグレが近づくにつれて、クロスビーは逃げだす。クロスビーは三階にあがる。部屋から部屋へと追いたてられ、最後に出口のない部屋に追いつめられる。ついに窓をあける。どうしても逃げられないことを確認する。口中にピストルを一発うちこむ。
クロスビー夫人とエドナ・ライヒベルクは『ジョルジュ五世』ホテルの喫茶室で踊っていた。
ラデックはジャンビエ刑事を夕食に誘い、つぎに、ラテン区のある店で酒をすすめた。
夜十一時ごろ、メグレがふたりに会いにいくと、ふたりとも酔っている。四時ごろまで、ラデックは、連れの警察の人間を、酒場から酒場へひっぱりまわして飲ませ、自分も飲んで、ときには酔ったふりをし、ときにはしらふの態度を示す。わざとあいまいな言辞を弄し、警察ではヘンダーソン事件の謎は決して解けないだろうとくりかえしいう。
四時、ラデックは女をふたりテーブルに呼んで、連れの警察のふたりにも、女を呼ぶようにしきりにすすめる。連れのふたりが断ったので、ラデックはふたりの女とサン・ジェルマン通りのホテルにしけこむ。
「ご婦人ふたりはまだおやすみですが、お連れの男の方は、いまお出かけになりました。お勘定は、その方がお払いくださいました」
メグレは疲労感におそわれていた。捜査の途中では、めったにないことである。彼は、いま書き終った文章を、ぼんやり眺めた。そして、挨拶に来た同僚と無言で握手をし、しばらく一人にしておいてくれるように合図した。
欄外に、彼はつぎのように書きしるした。「十月十八日、午前十一時から午後四時まで、クロスビーがどんなふうに時間を過ごしたかを、明らかにすること」
それから、急に、負けぬ気をみなぎらせた顔になって受話器をとって、『クーポール』を出してくれ、と言った。
「ラデックあての手紙が、いつごろからこなくなったか知りたいのだが」
五分ほどたって、その返事を受けとった。
「少なくとも十日前からです」
つづいて、彼は、ラデックが部屋を借りているアパルトマンを、電話で呼びだした。
「およそ一週間くらいになります」と、メグレの同じ質問に対して答えた。
彼は、商工年鑑をひきよせると、私書函寄託所のリストを捜して、ラスパイユ通りの私書函寄託所に電話をかけた。
「ラデックという登録者が、そちらにいますか。いませんか。その人の受けとっている郵便物の宛名は、おそらく頭文字だけでしょうね。こちらは警察です。注意してききとってください。それは外国人で、身なりはあまりよくありません。ちぢれた赤い髪を長く伸ばしている男です。なに……? M・Vという頭文字ですか。最近、手紙を受けとったのは、いつでしょうか。調査願いたいのです。このまま、待っています。どうか、電話をきらないでください」
だれかがドアをノックした。メグレは、ふりむきもせずに、大声で答えた。
「どうぞ、おはいりください!」
「もしもし、なんですって? きのうの朝九時ごろですか。郵便が届いたのですね。ありがとう。ああ、ちょっとお待ちください。その手紙は、かなりかさばっているものですね。ちょうど紙幣が一束はいっているような具合なんですね」
「なかなかやるんですね」メグレの背後でつぶやく声がした。
ふりむくと、ラデックがいるではないか。陰気な顔つきだが、瞳はかすかに輝きを帯びている。腰をおろしながら、言葉をつづけて、
「もっとも、そんなことは簡単なことです。ラスパイユ通りの私書函寄託所で、きのうの朝ぼくが金を受けとったことが、これで、もうご存じというわけですね。その金は、前日には、あわれなクロスビーのポケットにあったものです。だが、クロスビー自身が、それを送ってよこしたのでしょうか。そこが問題ですな」
「給仕はなんとも言わなかったのか、君がはいってくるのを」
「給仕君は、ご婦人につかまってましてね。警察の人間みたいな顔ではいってくると、ドアにあなたの名前が貼ってあるのを見つけたのです。まったく、うまいもんでしょう。しかも、司法警察本部という役所のまっただなかなんですからね!」
メグレは、ラデックが疲れた顔をしているのに気づいた。一晩眠らずに過ごした人間の疲れきった顔というよりも、発作を起こしたばかりの病人のような顔である。目の下がくぼんでいる。それに、唇からは血の気がなくなっている。
「なにか用かね」
「べつに用じゃありません。あなたがどうなさってるかと思って……。けさは、無事に帰りましたか」
「ありがとう」
メグレ警部が、考えを整理するために、さっき要点を書きぬいたものを、ラデックは自分の椅子の上から、見てとった。口もとにかすかな笑いが漂った。
「テーラー事件をご存じですか」ラデックは、だしぬけにきいた。
「たぶん、アメリカの新聞は読んでおいでじゃないでしょうね。一九二二年に、デスモンド・テーラーというハリウッドの最も有名な映画監督が殺されたのです。十数人の映画俳優が嫌疑をかけられました。なかには、外国の女優も数人はいっていました。その連中は、皆釈放されたのです。何年もたったいま、新聞はどう言っていると思いますか。ぼくは、いまだに記憶しているのですが、それを引用してみましょうか。ぼくは、すばらしい記憶力を持っているんですよ。『捜査の最初から、テーラー殺害の犯人がだれであるか、警察にはわかっていた。だが、警察の握った証拠が不十分であるうえに、証拠が薄弱だったので、たとえ犯人が自首したとしても、自白を裏づけるためには、犯人自身が物的証拠を提出するか、証人を連れてこなければならないくらいだった』」
メグレは、けげんそうな顔で、相手をみつめた。ラデックは脚《あし》を組んで、たばこに火をつけ、さらに話しつづけた。
「気をつけてくださいよ、いまの言葉は、警察の幹部が自分から言ったものなのです。一年も前のことですが、ぼくは一言も忘れていません。むろん、テーラー事件の殺人犯人は遂に逮捕されなかったのです」
メグレ警部は無関心を装い、安楽椅子にひっくりかえって、机に両脚をのせ、暇をもてあましてはいるが、そんな話はまるで興味がないという顔つきで、相手の出かたを待っていた。
「ところで、ウィリアム・クリスビーを洗う決心をなさったのですか。事件発生当初は、警察は彼を調べることなど考えもしなかった。いや、考えつきもしなかった……」
「なにか、情報でも持ってきたのかね」メグレは、気のない調子で言った。
「お望みなら提供してもいいです。だが、モンパルナスへ行けば、だれでも教えてくれることですよ。あの伯母《おば》が死んだとき、クロスビーは六十万フラン以上の借金をかかえていて、『クーポール』の主人からも借りていたくらいです。りっぱなお家柄というやつに、よくあることですな。ヘンダーソン氏の甥《おい》だなんていったって、一度だって金を握ったことなんかありはしないのです。もうひとりの別の伯父は、億万長者です。
従兄弟《いとこ》のひとりは、アメリカでも、最も大きな銀行の支配人をしています。しかし、クロスビーの父親は、十年前に破産してしまったのです。いいですか。つまり、簡単に言えば、クロスビーは、一族中の貧乏人だったのです。
そのうえ、ヘンダーソン夫妻以外の伯父や伯母たちには皆、何人かの子供がいましてね。
そこで、クロスビーは年よりのヘンダーソン夫妻が、早く死ねばいいと思いながら、毎日暮らしていたのです。ふたりとも、もう七十歳をすぎていましたからね。いま、なにかおっしゃいましたか」
「いや、なにも……」
メグレが黙っているので、ラデックは明らかに、勝手が違ったようすだった。
「ご存じのように、パリではいくらか名が通っていると、金がなくても十分暮らしてゆけます。そのうえ、クロスビーは感じのいい男です。なにしろ、なんにもしたことのないって人間だから。それで、いつも、このうえなくご機嫌でした。つまり生活を楽しみ、なにをやるのも嬉しい、まあそういう子供みたいな人間なんです。
とくに女遊びは、大すきでしたよ。べつにわるぎはないのですがね。クロスビー夫人をご存じですね。あのひとを、とても愛していました。
といっても、その道はまた別なんですね……。うまいことに、こういう手合いの仲間には、ほんものの秘密結社みたいなところがあるんですね。ぼくは、あのふたりが、いっしょに『クーポール』で食前酒《アペリティフ》を飲むのを見ていました。すると、ひとりの可愛いい女が待っていて、彼に目くばせをするのです。
クーポールは夫人に言いましたよ。
『失敬。ちょっとそこまで用たしに行ってくるから』
そして、もう、だれもが知っていることですが、ドゥランブル街あたりの手近かなホテルへ出かけて、三十分ばかり過ごしてくるのです。
一度だけではありませんよ。よく見かけることなのです。いうまでもないでしょうが、エドナ・ライヒベルクは彼の情婦でした。クロスビー夫人といっしょに遊び暮らして、ご機嫌をとり結んでいるのです。そういうのが、またたくさんいたんです。
クロスビーは、女には何一ついやといえないんです。女たちを皆、可愛いがっていたのだと思いますよ」
メグレは、あくびをしながら、背のびをした。
「時にはまた、タクシー代もないくせに、ろくに知りもしない連中に、カクテルを十五杯もふるまったりするのです。それでいて、にこにこ笑っているのですからね。あの男がふさぎこんでいるようすは、見たことがありませんよ。生まれたときからご機嫌で、皆に愛され、皆を愛し、どんなことでも許され、しかも、だれにも許されないことまで許されている人間なのです。同時に、なにをしてもうまくいく人間です。あなたは勝負ごとを、なさいますか。トランプで、相手が七を出す、そこで、あなたがカードをめくると八が出る。この気持は判ってもらえないでしょうね、賭けをやらない人には……。つぎに、相手が八を出すと、こんどは九が出る。必ずそうなるのです! こいつは、うそ寒い現実の世界ではなく、夢の世界で起こってる事柄みたいなのです。
つまり、クロスビーは、そういう男だったのですよ。
あの千五、六百万とかを相続したとき、クロスビーはどうにもならない状況に追いこまれていました。ぼくの見るところでは、借金の支払いに、親戚のなかで、最も有名な人たちのサインを盗用してたらしいですからね」
「クロスビーは自殺したよ」メグレは、ひややかに言った。
すると、ラデックは無言のまま、笑いをうかべた。なんとも得体の知れない笑いなのである。彼は立ちあがり、たばこの吸いがらを石炭入れに投げすててから、自分の席へ戻った。そして、「きのうになってやっと自殺したんですな!」と謎めいた表情で言った。
「おい、きみ……」
とつぜん、メグレの声は気むずかしい調子に変った。立ちあがり、ラデックの目をみおろした。
しばらく、息づまるばかりの沈黙が流れた。やがて、メグレが言葉をつづけた。
「いったい、なにしに来たんだ?」
「話しをしにですよ。なんなら、お手伝いのためといってもいいですが。いまお話したクロスビーについての情報も、そちらで集めるとなれば、多少の時間がかかるということは、認めていただけますな。どうです、もっと教えてあげましょうか、ご同様出所のたしかなところを……。
あのライヒベルクという小娘にお会いになったことが、ありましたね。あの女は二十歳です。それがもう一年ほど前からクロスビーの情婦になって、それ以来、クロスビー夫人に、毎日くっついて甘えふざけているんです。
そのくせ夫人と離婚して情婦と結婚する相談が、ずっと前からできているのです。
ただし、資産家の実業家ライヒベルクの娘と結婚するのには、金が、しかも大金が必要でした。
ほかに、なにかききたいことがおありですか。『クーポール』のバーテンのポップについてですか? あなたがご存じの彼は、白い上着を着て、片手にナプキンを持っているポップですね。ところが、あの男は年に四十万フランから五十万フランも稼いでいるのですよ。ヴェルサイユに豪勢な別荘も持っていれば、高級車も持っているという具合です。呆れたことに、それがみんな、チップをためて手にいれたものなのです」
ラデックは、変に興奮しはじめた。声に、調子外れな異様な響きがこもってきた。
「こういう連中がいるというのに、ジョゼフ・ウルタンは、一日に十時間あるいは十二時間パリの街でオート三輪を乗りまわしても、月に六百フランしか稼げませんでした」
「じゃあ、きみは?」
その質問は、彼のいたいところを無残についていた。メグレの視線は、ラデックの眼にじっと注がれていた。
「いや、ぼくはそりゃあ……」
そのまま、ふたりとも黙りこんだ。メグレは、大股で部屋のなかを、行ったり来たりしはじめた。ストーブに石炭を入れるために一度立ち止っただけだ。その間、ラデックのほうは、新しいたばこに火をつけた。
異様な情景である。来訪者がなにをしに来たのか、それは見当がつかない。しかも、帰る気もなさそうに見える。むしろ、なにかを待ちもうけているようすである。
一方メグレは、自分の好奇心を満たすための質問などしないように、慎重な態度をとった。質問するにしても、いったい、なにをきけばいいというのだろう。
結局、ラデックが最初に沈黙を破り、つぶやくように言った。
「見事な犯行です! いや、映画監督のデスモンド・テーラー事件のことですよ。テーラーは、ホテルの自分の部屋にひとりでいたんです。若いスターが訪れてきました。そのとき以来、だれひとり、生きているテーラーを見たものはいないのです。いいですか。そのかわり、問題のスターが、テーラーに見送られもしないで、彼の部屋から出てきたのを見た人間がいるのです。ところが、驚いたことに、そのスターが、テーラーを殺したのではなかったのです」
ラデックが腰をおろしている椅子は、メグレが、いつも客用にあけておくもので、光がよくさす位置にあった。病院の診察室の光線のような、どぎつい光がそれを照らしだしていた。
そのときほどラデックの顔が、興味深く見えたことはなかった。額は高く、でこぼこがあって、無数のしわが刻まれていたが、そのくせふけて見えるというわけではない。
ぼさぼさした赤毛の髪は、国際的な放浪者らしい印象を与えていた。低いカラーの、地味な色の開襟《かいきん》シャツが、いっそう、その印象を強くしている。やせているわけではないが、病弱な感じを与えるのは、おそらく、肉づきにしまりがないせいだろう。同時に、唇のふくらみ具合も不健康なものを感じさせる。興奮していた。一種独特な興奮ぶりだ。心理学者にとって興味深いものがありそうである。顔の筋肉ひとつ動かしはしないが、瞳は急に強い電流が流れたようになって、ぎらりと光るのだ。
「ウルタンをどうするつもりですか」五分ばかりの沈黙のあとで、ラデックがきいた。
「首をたたき切るさ」ズボンのポケットに両手をつっこんだまま、メグレがつぶやいた。
ラデックの瞳は、最高アンペアの電流が流れこんだように輝いた。そして、異様な微笑をうかべた。
「当然でしょうな! 月に六百フランしか稼がない人間ですからね。ところで……。さあ、賭けようじゃないですか。ぼくは断言します。クロスビーの葬式には、あの二人のご婦人たちは、麗々しく喪服を着こんで、互いに抱きあって泣きますよ。むろん、クロスビー夫人とエドナのことです。ねえ、警部さん! クロスビーが自殺したことだけは確かなんでしょうね」
ラデックは笑った。意外な出方だ。することなすこと、ことごとく意外なのだ。なによりも、まず、この訪問からしておもいがけないことなのだ。
「犯行をごまかして、自殺に見せかけるのは簡単ですからね。もし、その時刻に、あの気のいい可愛いいジャンビエ刑事といっしょじゃなかったら、ぼくがやったんだと、自首して見せたところでしたね。あなたは奥さんがおありですね」
「あったら、どうなんだ?」
「なんでもありません。あなたは運がいいですね。女房はいる。人並の地位もある。ちゃんと仕事をしているという満足感もある。日曜には、玉突きか、さもなければ、釣りに行くことになっている。すばらしいことだと思いますよ。ただ、そういう生き方は、早くからはじめなければだめですね。それに、少し堅物だが、玉突きもやるというような父親から生まれる必要がありますよね」
「ジョゼフ・ウルタンにはどこで会ったのだ?」
メグレは、急所をついたつもりで、こう言った。だが、言い終わらないうちに、もう後悔しはじめた。
「あの男とどこで会ったか、ですって……? 新聞です。皆さんと同じですよ。でなければ……、とんでもない。まったく、人生は複雑ですね。あなたは、ここで、不愉快な気持で、ぼくの話をきいている。よくよく、ぼくを観察しているのだが、自分の考えをうまくまとめることができないでいる。それどころか、地位も、魚釣りの会も、玉突きも、すべてがご破算になる危機にたっている。しかも、その年になって、二十五年誠実に勤めあげた職を……。運悪く、生まれてはじめて、ばかげたことを思いついたばっかりに、変な妄想のとりこになってしまったために……。天才気取りとでもいうのでしょうな。天才ってものは生まれつきのものだってことを、ご存じないみたいですな。四十五にもなって、天才ぶろうったって、そりゃあ……。そう、ちょうど、そのあたりなんでしたっけ。あなたのお年は……。
ウルタンは、そのまま死刑にすべきだったんです。そうすれば、あなたは昇進したんですから。ところで、司法警察の警部さんていうのは、どれくらい収入があるんですか。二千フラン?三千フランくらいですか? クロスビーのような男の飲み代の半分というところですかね。きっと半分ですよ。ところで、あの男の自殺をどうお考えになりますか。痴情のもつれですか。世間には口の悪いやつらがいるもので、クロスビーの自殺とウルタンの脱獄を関連して考えていましてね。それに、クロスビー家一門、ヘンダーソン家一門の、従兄弟だとか、又従兄弟だとかいうアメリカで相当の地位にある連中が一斉に、外国電報をよこして、内密にしてくれるように、いってきますよ。
警部さん、ぼくがあなたの立場だったら……」
こんどは、ラデックが立ちあがった。そして、靴の裏でたばこを踏み消した。
「警部さん、ぼくがあなただったら、気分転換をはかりますな。そう! たとえば、だれも裏面工作などしてくれない男を逮捕するんですよ。ラデックみたいな男をです。こいつは母親がチェコスロヴァキアの小さな町で、家政婦をしていたというような男なんだから。パリの連中は、チェコスロヴァキアという国が、どこにあるか、それさえ正確には知らないんだから」
彼の声は、思わず震えた。外国|訛《なまり》のアクセントが、これほど強く感じられることは、めったにないことなのだ。
「いずれにしろ、この事件も、テーラー事件のような結末を迎えますよ。ぼくに暇さえあればなあ……。テーラー事件では、たとえば指紋、といったようなものは、なにもありませんでした。が、こんどの事件では、ウルタンはいたるところに痕跡を残していますし、サン・クルーに現われたりしています。クロスビーは、どうあっても金が必要でした。それが、捜査のやり直しがはじまると、とたんに自殺してしまった。最後に、ぼくが残ったのです。だが、ぼくはなにをしたのでしょうか。ぼくは、クロスビーに口をきいたことなんか、一度だってないのです。彼は、ぼくの名前さえ知りません。一度だって、ぼくに会ったことはないのですから。ウルタンにきいてみてください。ラデックなんていう名前が話に出たのをきいたことがあるかどうか。ぼくらしい男を、これまでに見かけたかどうか、サン・クルーのあたりできいてください。それに、ぼくはいま、司法警察の構内にいるのです。刑事が下で、ぼくを待っていて、行く先どこまでもついてきてくれる。ところで、今度もジャンビエですか。だったら、ありがたいですね。あの人は若いし、気持もいい。それに酒が弱くて、カクテル三杯で、極楽行きなんだから。
警部さん、ちょっと、うかがいますが、警察の養老院に数千フラン寄付するには、どなたに申し出ればいいのでしょうか」
彼は、さりげなくポケットから一束の紙幣をとりだすと、また、もとのポケットにしまいこみ、あらたに別のポケットから紙幣をとりだした。同じことを、チョッキのポケットでも、くりかえした。
そんなふうにして、少なくとも十万フラン以上の金を見せびらかした。
「ほかになにか、ぼくにおっしゃりたいことはないですか」
ラデックは、メグレに言った。その声には、口惜しさを隠しきれないでいるようなところがあった。
「べつに、言うことはないね」
「では、警部さん、ぼくのほうに、言わせてもらっていいですか」
沈黙。
「じゃあ言いますよ。この事件に関しては、あなたには、なんにもわかりっこないですね」
ラデックは、黒いソフトをゆっくりとりあげ、不機嫌なようすを露骨に見せて、入口のほうへ、ぎごちない足どりで行った。メグレは口のなかで、つぶやいた。
「さえずってろ、坊や! さえずってろ!」
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十 恐怖の戸棚
「そうやって新聞を売って、いくらになるんだ?」
モンパルナスのある店のテラスでのことである。ラデックがそり身になって椅子にかけ、唇にはいつもよりいっそう凄味《すごみ》のある薄笑いを漂わせて、ハバナをすっていた。一人のみすぼらしい老婆が、テーブルのあいだを縫って歩きながら、夕刊を客にさしだしては、ききとりにくい哀願の言葉をもらしていた。
老婆は頭の先から足の先まで、こっけいで、みじめな恰好《かっこう》をしていた。
「いくら、あたしが……?」
老婆には、言われたことが、よくのみこめないようだ。輝きを失った目は、頭の働きがぼやけていることを語っていた。
「ここにかけろ。いっしょに一杯やろう。ボーイさん。シャルトルーズを一杯、このご婦人に……」
ラデックの目は、メグレのようすをうかがっている。数メートル離れたところに坐っているのを、気づいているのだ。
「さあ、まず、その新聞をすっかり買おう。その代り、ちゃんと部数を勘定しろ」
老婆はどぎもをぬかれて、そのとおりにしたほうがいいのか、逃げだしたほうがいいのか、とまどっている。だが、ラデックが百フラン札を見せたので、老婆は一生懸命新聞を数えはじめた。
「まあ、飲め。四十部あると言ったな。一部五スウとして……。待ちたまえ、もう百フラン稼ぎたくないか」
メグレは、この光景を見ききしながら、肩ひとつ動かさず、何が起こっているか、まるで気づかぬようすである。
「二百フラン。三百フラン。さあ、ここに置くよ。五百フラン欲しいかい。ただし、それだけもうけたかったら、なにか歌ってくれなきゃあ……。手を出すなよ! まず歌うんだ」
「なにを歌いますんで?」
もうろくした老婆は、すっかりどぎまぎしている。ところどころに灰色の毛の生えているあごのあたりを、リキュールの一滴が、ねっとりと流れていた。隣席の客たちが、ひじでつつきあっている。
「なんでも好きな歌を歌ってみろ。陽気なやつがいい。踊れば、もう百フランやるぞ」
いかにも残酷な光景だった。哀れな老婆は、紙幣から目を離さない。そして、なんの歌か、まるでわからない歌を、低いかすれた声で歌い出しながら、紙幣のほうへ、手を伸ばした。
「もうよせよ」と隣りの席の客が言った。
「歌え!」ラデックは命令する。
ラデックは、たえず、メグレのほうをうかがっている。ほうぼうで、抗議の声が起こった。ひとりのボーイが、老婆に近づいて、追い出そうとした。老婆は、夢みたいな大金ほしさの一念で、どうしても出てゆこうとしない。
「あたしゃ、こちらのお若い旦那のために、歌っているんだよ。この旦那と、ちゃんと約束があるんだから……」
結末は、いっそう見るに忍びなかった。警官が中にはいって、老婆を連れだした。老婆は一フランも手に入らなかったのだ。だが、制服のボーイが、新聞を返しに老婆を追って行った。
こういった場面が、三日に十度も起こっていた。三日前から、メグレ警部は、片意地なむっつりした顔で、朝から晩まで、晩から朝まで、一歩一歩ラデックのあとをつけていた。
はじめのうちラデックは話しかけようと努力していた。何度も、くりかえして話しかけた。
「どうせ、ぼくから離れようとしないのなら、いっしょに歩きませんか。そのほうがもっと愉快ですよ」
メグレは拒否した。『クーポール』や他の店では、メグレはラデックの隣りのテーブルをとった。街路では、おおっぴらに、あとをついて歩いた。
ラデックはいらだってきた。まさに、神経戦だった。
ウィリアム・クロスビーの葬式には、パリ在住のアメリカ人たちの、最も裕福な連中から、モンパルナスの雑多な庶民にいたるまで、さまざまな階級の人たちが、いりまじって参列した。
ラデックが予言したように、例のふたりの婦人は、麗々しい喪服を着てきた。ラデック自身も、墓地まで行列についていった。そのあいだ、彼は眉一つ動かさず、相手がだれであろうと口をきこうとしなかった。
この三日間の生活は、ひどく現実離れがしていて、悪夢でも見ている感じだった。
「そんなことしたって、どうせあなたには、なにもわからないんだ」と、ラデックはときどき、メグレをふりかえっては、言った。
メグレは、きこえないふりをし、いつも壁のような無感動な態度をつづけた。
ラデックは、一、二度メグレと視線をかわすことができただけだった。
メグレは、ラデックのあとをつけていた。ただそれだけのことだった。他のなにかを求めているように見えなかった。ただ、四六時中、執念ぶかく白昼夢のようにつきまとうのである。
ラデックは、午前中を、カフェで何もしないで、すごす。そして、とつぜん、ボーイに言いつける。
「支配人を呼んでくれ」
そして、支配人が来ると、
「ぼくに給仕したボーイは、手がよごれているから、気をつけてくれ」
彼は、勘定を払うのに、百フランか千フランの紙幣しか使わなかった。釣銭は、どこのポケットにでも、かまわず押しこんだ。
あるレストランでは、嗜好《しこう》にあわないからと、料理をつき返した。正午には、百五十フランの食事をしたあとで、ボーイ頭に言った。
「チップはやれないよ。それほどチヤホヤしてくれなかったからね」
そして、夜になると、キャバレーやナイト・クラブに腰をすえ、街の女たちに、景気よく飲みものをふるまって、最後まで気をもたせて釣っておいて、それから、とつぜん、千フラン紙幣を窓の中央に放りだして宣言する。
「さあ、ひろったひとにやるぞ」
真剣な奪いあいになる。おかげで、女がひとり、その店から追い出される。その間中、例によってラデックは、メグレがどんな印象を受けるかをさぐろうとしているのだ。
自分に向けられた監視の目をのがれようとはしなかった。むしろ、反対だ。タクシーをひろって乗るときなどには、メグレがタクシーをよぶのを待つくらいなのである。
葬式は十月二十二日におこなわれた。二十三日の晩の十一時には、ラデックはシャンゼリゼ付近のレストランで、食事を終ったところだった。
十一時半に、メグレの尾行つきで店を出ると、快適な車をたんねんに選び、小声で行先をつげた。
二台の車は、すぐに、オテーユの方向へ前後して走りだした。メグレは、四日のあいだ眠っていなかったが、その大きな顔に、興奮や焦躁や疲労のかげを見いだそうとしても無駄だった。
ただ、目つきだけが、ふだんより、心もちすわっていた。
前のタクシーは、河岸通りを走り、セーヌ河のミラボオ橋を渡って、どうにかこうにか『シタンゲット』への道へ出ることができた。
その酒場から百メートル手前で、ラデックは車を停めさせ、運転手に二言三言なにか言った。それから、酒場のま向かいの荷揚げ岸壁まで、両手をポケットにつっこんで歩いていった。
そこへ行くと、船をつなぐ繋留杭に腰をかけて、たばこに火をつけ、メグレがついてきていることをたしかめてから、そのまま、じっとしていた。
夜の十二時になっても、何事も起こらなかった。『シタンゲット』では、三人のアラビア人が、ダイスをやっている。男がひとり、すみのほうで、居眠りをしている。おそらく、酔いつぶれてしまったのだろう。店の主人は、コップを洗っていた。二階には、灯がひとつもついていない。十二時五分に、一台のタクシーが同じ道をやって来て、店先にとまった。一人の女が、ちょっとためらったあとで、勢いよく酒場にはいった。
ラデックの皮肉な視線は、いつにもましてしつこく、メグレの方にそそがれた。女の姿が、笠のない電燈の光に照らしだされた。毛皮の襟のついた地味な黒い外套を着ているが、ヘレン・クロスビーであることがはっきりわかった。
彼女は亜鉛張りのスタンドに身をのりだして、声をひそめ、店の主人になにか言った。アラビア人たちは、賭けごとをやめて、そのようすを無遠慮に眺めている。
店のなかの声は、外まではきこえない。だが、店の主人があわてふためき、そのアメリカ人の女が、困惑しているのだけはわかった。
しばらくして、店の主人は、カウンターの背後に上り口の見える階段のほうへいった。女があとにつづいた。二階のひとつの窓に灯がついた。それは、ジョゼフ・ウルタンが逃走してきたときに泊った部屋の窓だ。
ふたたび、店の主人が降りてきたときには、女の連れはなかった。アラビア人たちが、店の主人に、なにかきいている。彼はそれに答えて、ちょっと肩をすくめた。その動作が示した意味は、
「あたしにも、なんだかまるでわかりませんよ。なあに、あたしらとは、かかわり合いのないことでさ」というようなことに違いない。
二階には、鎧戸がなかった。カーテンが薄いので、クロスビー夫人が、行ったり来たりするのが、ほとんどまる見えだった。
「警部さん、たばこはいかがです?」
メグレは答えなかった。二階で、夫人は寝台へ行って、毛布とシーツをはいだ。形のはっきりしない、重そうなものを持ちあげようとしているのが見える。それがすむと、奇妙な仕事にとりかかり、せかせかと身体を動かしていたかと思うと、不安にかられたように、とつぜん窓に近よったりした。
「あの女は、藁《わら》ぶとんに恨みがあるようですね。ぼくの目に間違いがなければ、あの女はいま、藁ぶとんをほぐしているところですよ。いつも小間使いを使っている人にしては、おかしなことをしますね」
メグレとラデックは、五メートルと離れていなかった。十五分たった。
「ますますこんがらがってきましたね。あれは、いったい、なんですか」
ラデックの声には、いらだたしさがあらわれていた。メグレは、返事もしなければ、身動きもしなかった。
二時半を少しすぎたとき、ヘレン・クロスビーは、ふたたび店の広間に姿を見せた。一枚の紙幣をカウンター台に投げだし、毛皮の襟をたてて店を出ると、待たせておいたタクシーのほうへ、急いで行った。
「警部さん、あとをつけますか」
三台のタクシーが、前後して走りだした。だが、クロスビー夫人は、パリの街のほうへは行かなかった。三十分後には、サン・クルーに到着した。彼女は別荘の近くで、自動車から降りた。彼女が、ためらいがちに、通りの向こう側の歩道を歩く姿は、いかにもか細かった。
とつぜん、彼女は道路を横ぎった。そして、ハンドバッグのなかの鍵を探していたかと思うと、一瞬のうちに、門のなかにはいってしまった。鉄柵の門の大扉が鈍い音をたてて閉まった。灯はつかなかった。人のいる唯一の気配は、二階の部屋でついたり消えたりするかすかな光だけである。ときおりマッチをすりでもしているような光だ。夜の空気はつめたかった。街燈の灯のまわりには、湿気でぼうっと、暈《かさ》の輪がにじんでいる。
メグレのタクシーと、ラデックのタクシーは、別荘の二百メートル手前にとめてあり、クロスビー夫人のタクシーだけが、鉄柵の大扉の傍でとまっていた。
メグレ警部は車を降りると、両手をポケットにつっこみ、パイプをすっては、いらだたしく煙を吐きだしながら、行ったり来たりした。
「どうしたんです? なにが起こっているか、見にいかないんですか」
メグレは答えずに、単調な、ぶらぶら歩きをつづけた。
「警部さん、そいつは悪い料簡ですよ。もしもいま、あるいはあした、あの別荘でまた死体が発見されたとしたら……」
メグレは眉ひとつ動かさなかった。ラデックは半分しかすっていないたばこを、爪の先で紙の部分を破いてしまって、地面に投げすてた。
「何度となく、くりかえして言っているじゃないですか。あなたには、なにもわからないだろうってね。こうなれば、もう一度くりかえして申しあげますが……」
メグレ警部は、ラデックに背を向けた。そのまま一時間近い時が過ぎた。すべてが静まりかえっている。別荘の窓の向こうで、ゆらめいていたマッチの炎さえ、いまは見えなかった。
クロスビー夫人に待たされた自動車の運転手は不安にかられて、運転台から降り、鉄柵の大扉へ近づいた。
「警部さん。この邸に、ひょっとしてもうひとりの人間がいるとしたら……」
すると、メグレがラデックの目を、じっとにらみすえた。ラデックは黙りこんだ。
しばらくたつと、ヘレン・クロスビーが駈けて出てきて、車に乗りこんだ。見ると、片手になにかを持っている。二十センチくらいの長さのもので、紙か布に包んである。
「あれがなにか、知りたいと思いませんか」
「おい! ラデック」
「なんです?」
クロスビー夫人の車はパリに向けて遠ざかった。メグレは、あとを追おうとする気配さえも見せなかった。
ラデックが、いらいらしてきた。唇がかすかにふるえている。
「こんどは、われわれがはいる番だな」
「しかし……」
ラデックは、せっかく工夫をこらして計画をしていたのが、いきなり、思いがけない障害にぶつかったとでもいうように、急にためらいの色を見せた。
メグレが、ラデックの肩に、がっしりと手をのせた。
「さあいよいよ、われわれふたりが事件の真相をつかむときがきたようだな」
ラデックは笑った。だが、それはゆがんだ笑いだ。
「おじけついたのかね。さっき、きみが言ったように、また新しい死体にぶつかるのが、こわいのか。ばかな! だれの死体だというんだい? ヘンダーソン夫人は、死んで墓に埋められている。女中も死んで墓に埋められている。クロスビーもそのとおりだ。クロスビー夫人は、生きていて、げんにいま出ていった。それに、ジョゼフ・ウルタンはラ・サンテ監獄の特別病室に拘置中だ。ほかに、だれがいる? エドナか。だが、あの女がここへなにをしに来るのだ?」
「おともしましょう!」とラデックは、うめくようにつぶやいた。
「では、まず一番最初のところから始めるとするか。この邸のなかにはいるには、まず鍵がいるんだ」
だが、メグレがポケットからとりだしたのは鍵ではなかった。紐でしばった小さなボール紙の箱だった。メグレは、長いあいだかかって、その箱をあけ、やっとなかから大扉の鍵をとりだした。
「これだ。あとは自分の家へはいるみたいに、はいっていきさえすればいい。だれもいない家なんだから。ほんとうに、だれもいないはずだからな。なあ、そうだろ?」
この形勢逆転劇はどういう具合にして起こったのだろうか。それに、いったい、どうしてなのだろう。ラデックが相手にむけるまなざしには、もはや皮肉の色はなく、隠しきれない不安の影が漂っているのだ。
「この小箱を、きみのポケットにいれておいてくれ。すぐにもいるかもしれないから」
メグレは、電燈のスイッチをひねった。そして、靴のかかとにパイプをうちつけて、灰を落すと、新しくたばこをつめかえた。
「さあ、あがろう。思えば、ヘンダーソン夫人殺しの犯人も、われわれ同様らくらくと仕事ができたわけなんだな。ふたりの婦人は、すでに眠っている! 犬はいない! 門番もいない!おまけに、いたるところ絨毯《じゅうたん》が敷いてある。さあ行ってみよう!」
メグレ警部は、ラデックを見ようともしなかった。
「ラデック、さっきのきみの言葉は図星さ。もし、ここでもう一つ死体を発見するようなことにでもなれば、まったく、|さいころ《ヽヽヽヽ》の裏目もいいとこだ。コメリオ予審判事の評判はきいているだろう。クロスビーの自殺をくいとめなかったといって、もともとお冠《かんむ》りときてる。クロスビーの自殺は、おれの目の前で起こったわけだからね。しかも、その自殺の謎を解かないといって、機嫌をわるくしている。
また、もうひとつあらたに殺人事件なんか起こってみろ……。完全にお手あげだ。クロスビー夫人は逃がしてしまった。まさかきみに、嫌疑はかけられない。こうして、そばから一歩も離れてはいないのだからな。つまり、三日前から、ふたりはどっちがどっちのあとをつけているのか、わからないくらいだからね。きみがおれのあとをつけているのか、それとも、おれのほうが、きみのあとをつけているのか……」
メグレは、まるで一人ごとを言っているみたいなようすなのである。ちょうどふたりは、二階にきていた。メグレは化粧部屋をぬけて、ヘンダーソン夫人が殺された部屋へはいった。
「はいりたまえ、ラデック、ふたりの女が、ここで殺されたことを思い起こしても、きみはべつに、なんともないだろうな? ひとつだけ、おそらく、きみが知らない、小さなことがある、それは犯行に使ったナイフが発見されていないことだ。ウルタンが逃走するとき、セーヌ河に捨てたのだろうと考えられているのだがね」
メグレは寝台のはじに腰をおろした。ちょうど、ヘンダーソン夫人の死体があった場所だ。
「おれの考えを話そうか? なあに、犯人はそのナイフを、この邸のどこかに隠したのさ。だが、じつにたくみに隠したものだから、発見できなかったのだ。そうだ、さっきクロスビー夫人が持っていた包みの恰好に気がついたろう?長さ三十センチ、幅は五、六センチ、つまり、がっちりしたナイフの大きさだということだ。ラデック、きみの仰せのとおりだ。ひどくこんがらがった事件なのさ。だが……。おや!」
メグレは蝋を塗った床にかがみこんだ。床には靴跡が、かなりはっきり認められた。婦人靴の小さなかかとのあとだ。
「きみの目はいいだろうね。だったら、手を貸してくれないか。この靴跡をたどってもらいたいのだ。ひょっとすると、クロスビー夫人が、今夜なんのためにあらわれたか、わかるかもしれないからな」
どんな役割を演じさせられるのかを考えたのだろう。ラデックはためらって、注意深く、メグレを見まもった。だが、警部の顔からは、なにも読みとることができなかった。
「靴跡は、あの付添いの女中の部屋まで続いているようだな。その先は? しゃがんでみたまえ。きみの体重は、まだ百キロもあるわけじゃないんだろう? どうだね? 靴跡はこの戸棚の前で消えているのかね? 衣裳戸棚にでもなっているのかい? 鍵がかかっているのかな。いや! あけるのは、ちょっと待ってくれ。きみは、さっき死体のことを話したね。どうだい? 万一なかに死体でもあったとしたら!」
ラデックは、たばこに火をつけた。指がふるえている。
「さあ! とにかく、あけてみる覚悟をしなくちゃ。さあ、あけたまえ」
メグレは話しながら、鏡に向かってネクタイを直した。だが、相手から視線をそらさないのだ。
「どうだい?」
戸棚の戸があいた。
「死体はあったかね? なに、どうしたんだ?」
ラデックは三歩ばかり、あとずさりした。ブロンドの髪の若い女が、隠れ場所から出てくるのを、呆然として見つめた。その女は、少し間がわるそうなようすだ。だが、べつにおびえているところはない。
エドナ・ライヒベルクなのだ。彼女は相手の説明を待つように、メグレとラデックを交互に眺めた。取り乱したところは更にない。
ただ、慣れない役を演ずる人のような、ぎこちなさがあるばかりだ。
メグレは、エドナにはおかまいなしに、ラデックのほうを向いた。ラデックは、おちつきをとり戻そうとあせっていた。
「どうだい。われわれは、死体がでてくるものだと思っていた──というよりも、死体がでてきそうだと君が思わせたのだ──ところが、可愛いらしい娘さんにお目にかかったじゃないか、こんなにぴんぴんしている……」
エドナもまた、ラデックのほうを向いた。
「どうした、ラデック」メグレは上機嫌で言った。
沈黙がつづいた。
「きみは、おれにはなにもわからない、とこれでも思ってるのかい? どうなんだ?」
ラデックから視線を離さなかったエドナがとつぜん、口をあいて、恐怖の叫び声をあげようとした。だが、のどの奥につまって、声にならなかった。
メグレ警部が、また鏡に向かい、手のひらで髪をなでつけていたところである。ラデックがポケットからピストルをとり出し、す早くメグレに狙いをつけた。エドナが叫び声をあげようとして声が出なかった。ちょうどその瞬間に、ひき金が引かれたのだ。それは素晴らしくもぶざまな光景だった。かすかな金属性の小さな音がした。子供のおもちゃのピストルのような音がした。だが、弾は全然発射されなかったのだ。ラデックは、もう一度引金をひいた。それからあとのあまりの素早さに、エドナは何が何だか、のみこめないほどであった。メグレは、その場でどっしりと身構えているように見えた。一瞬後には、身を踊らせて、全身の重みをラデックにぶつけて押し倒していた。ラデックは組み伏せられて、床にころがった。
「判ったか。百キロの目方だ!」メグレは言った。
じっさい、メグレは体の重みで、ねじ伏せた相手を押しつぶしそうだった。ラデックは、二、三度、じたばたしたが、両手に手錠をかけられると、そのまま静かになった。
「失礼しましたね。お嬢さん」立ちあがりながら、メグレはつぶやくように言った。「すみました。あなたのために、門のところにタクシーを待たせてある。ラデックとわたしとは、まだ話がすんでいないのだから……」
ラデックは無念そうに、すさまじい勢いで起きあがった。メグレのずっしりした手が、その肩の上にかかった。
そして、メグレは言った。
「そうだろう、なあ、坊や」
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十一 ポーカー・ダイス
午前三時から、すっかり夜があけるまで、オルフェーブル河岸のメグレの部屋には、灯がついていた。仕事で庁内に残っている警官の数は少なかったが、その人たちのところまで、単調な、つぶやくような話し声がきこえた。
八時に、メグレは給仕に言いつけて、ふたり分の朝の食事を選ばせた。それから、コメリオ予審判事の自宅へ、電話をかけた。
九時になると、メグレは部屋のドアをあけた。まず、ラデックがあらわれ、メグレがつづいた。ラデックは手錠をかけられていなかった。ふたりは、どちらも同じくらい疲れているようすだった。そして、殺人犯の顔にも、捜査にあたる警部の顔にも、まったく憎悪の影が見られなかった。
「こっちですか」廊下の曲り角で、ラデックがきいた。
「そうだよ。裁判所のなかを横切ってゆこう。近道だろうから」
メグレは、警視庁職員専用通路を通って、留置場へラデックを連れていった。手つづきはすぐすんだ。看守がラデックを独房に連れてゆくとき、別れの挨拶でもしようとしたのか、メグレはなにか言いたそうなようすで、ラデックをじっとみつめた。そして、肩をすくめた。それから、コメリオ予審判事の部屋へ、ゆっくり歩いていった。
予審判事は攻撃されるのを覚悟していたので、ドアをノックする音をきくと、急にさりげない態度をよそおったが、そんな必要はなかった。
メグレは、いい気になったり、勝ち誇ったり、皮肉に出たりはしなかった。ただ、長い困難な仕事をやりとげた者らしい、やつれた顔をしていただけである。
「たばこをすってもいいですかね。は、どうも……。寒いですな。この部屋は……」
そう言って、メグレはスティームのパイプに憎々しげに目をやった。彼は、自分の部屋ではそれをやめさせ、古い鋳物のストーブを置いているのである。
「解決しましたよ。電話で申しあげましたとおり、あいつは白状しました。今後の取調べで、お困りのことはないと思います。なぜなら、あの男は立派な勝負師ですし、こんどのことでは、敗北を認めていますから」
メグレは、調書を作るときに使うつもりで、メモを何枚もの紙きれにとってあったが、ごちゃまぜにしてしまっていたので、ため息をつきながら、またポケットにおし戻した。
「この事件の特徴は……」とメグレはきりだした。
この言いかたは、彼にしては大げさだった。彼は立ちあがり、うしろに両手を組んで、歩きながら言葉をつづけた。
「まるっきり仕組まれた事件です! そして、それだけの事件です! これは、わたしの言葉ではありません。犯人自身の表現なんです。しかも、犯人自身そうは言っても、その言葉の意味の深さが、自分でも判ってはいなかったのです。
ジョゼフ・ウルタンが逮捕されたとき、わたしはウルタンの犯行が、どんな種類の犯罪にも分類できないということを、強く感じました。ウルタンは被害者とは顔みしりではない。そして、なにも盗んでいません。あの男は、サディストでもなければ、気ちがいでもありません。
そこで、わたしは捜査のやり直しを思いたちました。やってみて、すべての前提はトリックだということを発見しました。
まさしく、トリックです。あえて申しあげておきますが、それは偶然ではなく、意識的に、しかも綿密に計画されたトリックです! 警察の目をくらますために、また裁判所にひどい誤審をさせるために仕組まれたトリックでした。
真犯人の男は、どう言えばいいのか、つまり、彼の打った芝居そのものよりも、さらにくわせもののやつなんです。あなたも、わたしと同じように、さまざまな種類の犯罪者の心理をご存じのはずです。ところが、ラデックのような男の心理は、あなたもわたしも、知る機会がなかったところのものなんです。
わたしは、八日前から、あの男といっしょにすごして、あの男を観察したり、その考えかたをつかもうとしました。この八日間というもの、ことごとに、わたしは呆然としつづけ、あの男はわたしの目をくらましつづけです。
その精神状態は、われわれがどんな分類からも、はみ出すものなのです。だから、かりにつかまってみたいという訳のわからない欲求が彼に起きなかったら、決して彼に嫌疑はかけられていなかったことでしょう。
実は、わたしに必要な捜査の鍵を与えてくれたのは、他ならぬ彼自身なのです。破滅に近づくことを漠然と感じていながら、あの男は、あえてそうしたのです。ともかく、そうしないではいられなかったのです。
いま、あの男は、なにはさておき、ほっとしているのだといっていいでしょう」
メグレの声は高くはなかった。だが、胸のうちに、抑えきれない激しいものがあって、それが言葉に独特の力をこもらせていた。検事局の廊下を往き来する人の靴音がきこえていた。ときどき、守衛が人の名前を呼んだり、憲兵が長靴の音をひびかせるのが耳にはいった。
「これという目的があって殺したのではなく、たんに、殺人のための殺人をした男なのです。人を殺すことが楽しみなのだ、と言っていいでしょう。いや、違うなどとは、おっしゃらないでください。あなたも、いまにおわかりになると思います。あの男が、くわしいことを話すかどうか疑問ですし、あなたの質問に答えるかどうかも、あやしいと思います。というのも、そっとしておいてもらうことが、いまは唯一の望みだと言っているからです。
あの男についての報告は、これから、わたしが申しあげることだけで十分だと思います。
母親は、チェコスロヴァキアの小さな町で家政婦をしていたのです。彼は、郊外の兵舎のような施設のなかで育ちました。学校へ行くことができたのは、奨学金をもらったり、慈善団体の恩恵に、たよることができたからです。だが、彼はまだ子供でしたが、そのことで傷つけられ、下からだけ眺めたこの世間を憎みはじめました。
それにまた、子供心にも、自分には天才があると思いこんでいたのでした。自分の天才をいかして有名になり、金持になるのだ! そんな夢にそそのかされて、彼はパリに出てきたのです。そして、脊椎《せきつい》カリエスに悩む母親が、六十五歳にもなって、いまだに家政婦稼業をして送金してくることを承諾したのも、この夢があったからでした。
途方もない、身を焼き亡すような自尊心! しかも、そうした自尊心の裏には焦《あせ》りがありました。というのは、医学を勉強していたので、自分も母親からの遺伝で、同じ病気におかされたことを知っていましたし、限られた年数しか生きられないことが、よくわかっていたからなのです。
最初、あの男は、がむしゃらに勉強しました。教授たちは、その才能に驚きました。
あの男は、だれとも交際しないし、だれとも話をしませんでした。
大変な貧乏です。しかし、貧乏にはなれっこになっています。
よく、あの男は靴下もはかずに講義に出ました。いくらかの金を稼ぐために、たびたびパリの中央市場で野菜の積下しをしました。
だが、いずれにしても、破局はやって来たのでした。母親が死んだのです。あの男は、もう、一フランももらえなくなりました。
そこで、とつぜん、いっさいの夢をすててしまったのです。あの男は、その気になれば、おおぜいの学生同様、学資を稼ぐこともできたはずです。
だが、あの男は、そうしようともしなかったのです。期待していたような天才になれないことがわかったのでしょうか。自分に疑惑を感じはじめたのでしょうか。
もう、彼は、なにもしなくなりました。厳密な意味で、なにひとつ! ビヤホールをうろつき、遠い親戚に手紙を書いて、急場をしのぐ金を手にいれました。慈善団体からの扶助金をもらいました。臆面《おくめん》もなく、同国人にたかりました。しかも、みじんも感謝の気持のないことを、わざと誇張するのでした。
世間は理解してくれませんでした! そこで、あの男は、世間を恨みました。
そして、すべての時間を憎悪を育てることに、ついやしたのです。モンパルナスの店へ行けば、金があって健康で幸福な連中のそばに腰をおろします。あの男は、いつもクリーム入りコーヒーしか飲みませんが、隣りのテーブルには、カクテルがつぎつぎに運ばれてきます。
すでにこのころに、犯罪を思いついていたのではないでしょうか。おそらくそうでしょう。二十年前だったら、戦闘的な無政府主義者《アナキスト》になっていたでしょう。どこかの国の首都で、爆弾を投げたかもしれません。だが、そんなことをするのは、いまは、はやりませんからな。
あの男は孤独でした! 孤独でいることを望んだのです! あの男は、自分で自分を苦しめたのです。そして、孤独にひたったり、また優越感や、自分への運命の不公平なことを憤る感情にひたることで、異常な病的快感を味わうのです。
その頭脳は、すばらしいものですが、とくに人間の弱味を嗅ぎつける鋭敏な感覚をもっています。
教授のひとりの話では、あの男は医学校のころから、すでにある奇妙な癖をもっていて、それを見せつけられて、教授はぞっとさせられたということです。ひとりの男を数分間観察しただけで、その男の弱点を感じとることができたそうです。
そして、意地の悪い喜びを感じながら、まるでそんなことを予期していない青年に向かって、こんな予言をしたのです。
『三年もしないうちに、きみは療養所行きだね』
とか、
『きみの父親は癌《がん》で死んだね。気をつけろよ!』
その診断には、類《たぐい》まれな正確さがありました。しかも、肉体的欠陥の場合と同様に、精神的欠陥についての診断も確実だったのです。
『クーポール』でいつもの片すみに腰かけること、それが唯一の気ばらしでした。あの男は、自分が病気だったので、他人のどんな病気のさ細な徴候でも見破ろうとして、見張っていたのです。
クロスビーは、あの男の観察圏内にはいっていました。クロスビーも、同じ酒場にいつも来ていたのです。ラデックは、真に迫るほどいきいきと、彼を描写してくれたことがありました。
実を言えば、クロスビーという男は、わたしには親の七光《ななひかり》のぐうたら息子か、ごく普通の遊人ぐらいにしか見えなかったのですが、ラデックはあの男の性格のなかの異常なものを見破っていたのです。ラデックの話では、クロスビーは非常に健康で、女たちにもてて、生活を享楽してきた男ですが、一方また、欲望を満足させるためには、どんなに卑劣なことも、あえてする男だそうです。
また一年間も、妻と情婦のエドナ・ライヒベルクを仲よくつきあわせておきながら、機会がきたら、妻と離婚して、情婦と結婚しようと考えていたというのです。
ある晩、そのふたりの婦人が、彼と別れて芝居見物に出かけてしまうと、ひとり残ったクロスビーの顔には、やがて、不安の影がうかびました。
『クーポール』の奥のテーブルでのことだそうです。クロスビーは友人が多かったので、このときも、ふたりの友人といっしょでした。
『ついきのうのことだが、どこかのばかなやつが、たった二十二フランの金のために、>小間物屋の婆さんを殺したのには呆れたね。ぼくだったら十万フランやるよ。あの伯母を消してくれたらね!』
口からでまかせに言ったのだろうか。大げさな言い方をしただけなのか。空想にすぎないのか。
ラデックがその場にいました。前々から、あの男は、だれよりもクロスビーを憎んでいたのです。というのも、ラデックが接近している連中のなかで、クロスビーが、いちばんはぶりがいいやつだったからです。
ラデックは、本人以上によくクロスビーを知りぬいていました。ところが、クロスビーは、ラデックに一度だって気づいていないのです。
ラデックは立ちあがり、便所で、紙のきれはしに、走り書きをしました。
『十万フランで承諾。ラスパイユ通りの私書函寄託所気付、頭文字M・V宛に鍵を送られたし』
ラデックは自分の席へ戻りました。ボーイがその紙きれをクロスビーに渡すと、クロスビーはちょっと冷たい笑いをうかべ、それから、また話をつづけましたが、やはり気になるとみえて、周囲の客たちの顔を、じろじろ見まわしていたそうです。
十五分ばかりたつと、クロスビーはポーカー・ダイスを持ってくるように頼みました。
『きみ、ひとりでやるつもりかい?』と仲間のひとりがからかいました。
『ちょっと、思いついたことがあってね。最初の一回で、一が二つ出るかどうかためしてみたいんだ……』
『出たらどうだっていうのかね』
『出たら|やる《ヽヽ》のさ』
『なにを|やる《ヽヽ》んだい?』
『いま思いついたことをさ。心配するなよ』
クロスビーは、長いあいだ筒のなかのダイスを振ってから、ふるえる手で投げだしたのです。
『一が四つだ!』
彼は汗をぬぐい、そらぞらしい出まかせを言って、出てゆきました。翌日の晩、ラデックは鍵を受けとったのです」
メグレは、とうとう、いつものように椅子に馬乗りになった。
「このポーカー・ダイスの話は、ラデックがはじめてしてくれたのです。たしかに、この話は事実でしょう。ジャンビエを調べにやりましたから、まもなく裏付けをとってくるでしょうが。
これからお話することは、これまでお話したことと同様に、断片的な材料から、わたしが少しずつ組みたてたものです。尾行中に、ラデックは推理の新しい基礎を、気づかずに提供してくれましたから。
鍵を持ったラデックを想像してみてください。あの男は、十万フランを手に入れることより、世間への恨みをはらしたい欲求にかられていたのです。
皆が羨《うらや》み、ちやほやしているクロスビーが、いま自分の手中にあるのです。ラデックは彼の弱点をつかんだのでした。上位に立ったのです。
ラデックは、人生に、なんの期待も抱いていない人間でした。病気で倒れるまで生きる自信さえなかったのです。クリーム入りコーヒーを飲むわずかな金さえなくなって、ある晩、セーヌ河にとびこむはめに追いこまれるかもしれないのです。
彼は、無意味な存在だったのです。世間とは、なんのつながりもありません! 前にも言いましたが、二十年前だったら、無政府主義者になっていたでしょう。だが、いまの時代に、モンパルナスあたりの、多少神経のおかしい連中のなかにいたのですから、みごとな犯罪を犯すことのほうに、ずっと魅力を感じていたのです。みごとな犯罪です! なんといったって、彼は素寒貧の一介の病人にすぎない! しかも、あの男がちょっと動けば、新聞に、でかでかと記事がのるのです。司法機関が、あの男の合図ひとつで動きだす! 死人が出ます! クロスビーのような男がふるえあがるんです!
しかも、知っているのは、あの男だけなんです。おきまりのクリーム入りコーヒーを前にして、ただひとり自分の力の強大さを心から味わってたのしんでいられるのです。
もっとも、重要な条件は、逮捕されないことです。そのためのいちばん確実な方法は、偽ものの犯人を餌にして、検察当局を釣っておくことです。
ある晩、あの男はコーヒー店のテラスで、ウルタンに、出あいました。ラデックは、いろいろな人物を観察するときと同様、ウルタンを注意深く観察したのです。そして、声をかけたのでした。
ウルタンもラデック同様、世間の敗残者です。両親がやっている宿屋で働いていれば、無事に暮らせたのですが、パリに出てきて、月給六百フランの配達夫になったために、さんざん苦労をして、夢想の世界に逃げこみ、三文小説をむさぼり読んでは、映画に通いつめて、人をあっと驚かせるような冒険を空想していました。
気力なんかまったくありはしないのです。ラデックの威力に出会っては、一たまりもありはしないのです。
『べつに危険はない仕事だが、一晩稼いで、一生気ままに暮らせるだけ、もうける気はないかい?』
ウルタンは喜びで胸をときめかせました。ラデックは、ウルタンの急所をつかんだのです!ラデックは自分の力を楽しみながら、しゃべりつづけて、結局、押入り泥棒の計画を承知させました。
ただ、ひとけのない別荘に、押し入るだけのことなのです!
ラデックは、きちんと計画をたて、共犯者ウルタンに、最もこまかな行動や、方法にいたるまで、あらかじめ決めておきました。音をたてないようにという口実で、ゴム底の靴を買うことをすすめたのもラデックでした。
ですが、実は、ウルタンの歩いたあとに、明瞭な足跡を、確実に残させるためだったのです。
これが、おそらく、ラデックにとっては、陶然としたよろこびに酔いしれた最高の時期だったでしょう。一杯の食前酒《アペリティフ》を飲む金も持たないラデックが、今や全知全能の人間になれた気がしたのですから。
しかも、彼は、毎日クロスビーと顔をあわせていながら、クロスビーのほうではラデックを知らない。そんなふうに、事件を待っているうちに、クロスビーは恐怖を感じはじめる始末です。
サン・クルー別荘事件の真相をとく鍵になったのは、実は医者の検死報告書の一節です。鑑定専門書の報告は、どんなにていねいに読んでも、読みすぎるということはないですね。つい四日ばかり前のことですが、ちょっとしたさ細な事実が、わたしの注意をひいたのです。
検死の法医学者は、こんなふうに書いています。
『死後数十分経過後、最初寝台の縁にあったと考えられるヘンダーソン夫人の死体が、床上に、転落した』
あなたも認められるでしょうが、犯行後数十分も経過してから、犯人が死体に触れるという理由は、まったくありません。死体は、宝石をつけていなかったのですし、ただ寝間着一枚を着ていただけですからね。
ともかく、つづけて事実の真相をお話しましょう。以下の事実は、ゆうべ、ラデックが裏づけをしてくれたものです。
あの男がウルタンに承知させたことは、二時半きっかりに別荘に忍びこみ、二階にあがって寝室にはいる、しかもそのあいだ、ぜったいに電燈をつけない、ということでした。家のなかには、だれもいないことを、ウルタンに教えてあります。金目《かねめ》のものがあると教えた場所は、寝台のある場所なのです。
二時二十分、ラデックはひとりでふたりの婦人を殺害し、衣裳戸棚にナイフを隠して外へ出ました。そして、ジョゼフ・ウルタンが到着するのを、うかがっていたのです。ウルタンは言われたとおりに実行しました。
彼は暗闇のなかで手さぐりをしているうちに、とつぜん、何者かの体を転げ落して、驚いて電燈をつけ、ふたつの死体を発見したのです。死んでいるかどうかをたしかめようとして、血のついた指の跡をいたるところに、つけてしまいます。
やがて、肝をつぶして逃げ出し、外へとびだすとラデックにぶつかりました。ラデックはいままでとはうって変って態度がかわり、ひややかな微笑をうかべ、冷酷にふるまいます。
このふたりの男の演じた場面は、世間に、まあ、めったに見られないものだったのでしょうね。だが、ウルタンのような素朴な男が、ラデックにたいして、なにができるでしょうか。
ウルタンは、ラデックの名前さえ知らないのです! むろん、どこに住んでいるかもわかりません。
ラデックは、ウルタンにゴム手袋と布製の靴を見せました。このふたつの道具のおかげで、ラデックは家のなかに、痕跡をなにも残さなかったのです。
『きみが犯人にされるぞ! きみの言うことは信じてもらえまい! だれひとり、きみの言うことを信じるものか! そうなれば、きみは死刑だね!』
一台のタクシーが、セーヌ河の向こう岸のブーロオニュで、ふたりを待っていました。ラデックは、しゃべりつづけます。
『きみが黙っていたら、ぼくが助けてやる。このぼくがだよ。わかったな。監獄から出してやるんだ。一月後かもしれない、あるいは三か月後になるかもしれない! だが、とにかく、監獄から出られるんだ』
二日後、ウルタンは逮捕されましたが、自分は殺さなかった、とくりかえすばかりでした。あの男は、頭がぼけてしまったのです。ただ、母親にだけ、ラデックのことを話しました。
だが、母親も息子の言葉を信じなかったのでした! このことは、ラデックの言ったことが、間違ってはいないという、なによりの証拠になったのです。そのうえ、そのまま、約束の救いの手を待ったほうがいいことを、如実に証明するものとなったのです。
数か月が経過します。ウルタンは、自分の手にべっとりと血のりをつけた死体の亡霊につきまとわれて、監獄で暮らしたのです。
頑張りつづけてはいたのですが、隣りの独房の男を、死刑執行に引き出しに来た獄吏の靴音を耳にした夜、とうとうがっくりきてしまいます。
そのとき、わずかに残っていた反抗の根気を、すっかりなくしてしまったのです。父親は、手紙を出しても返事もよこさないし、母親や妹にも面会に行くことを禁じていたようです。あの男は、ひとり悪夢と顔つきあわせてすごしていたのでした。
とつぜん、脱獄の計画を知らせる手紙を受けとりました。彼はその指示に従いはしたものの、うまくゆくと信じてはいず、ただ機械的に従っただけです。そして、一度パリの街に出ると、あてどもなくさまよい歩き、ついには、ホテルの寝台に倒れるようにして、眠ってしまいます。つまり、絞首台が待っている人間だけが眠るあの死刑囚監房の外で、眠ることができたのです。
翌日、デュフール刑事が、彼の前に姿を見せました。ウルタンは警察の臭いをかぎつけ、危険を感じると、本能的に相手を殴り倒し逃走して、またさまよいはじめました。
監獄から逃走しても、ちっとも楽しくはなかったのです。まず、どうしていいのかわからない。金もなければ、迎えてくれる人間もいません。
すべてラデックのおかげだ! と彼は考えました。いつか、ラデックに会ったコーヒー店へ出かけて、彼を探しました。
ラデックを殺す目的だったのでしょうか。ウルタンは凶器を持っていません。だが、非常に興奮していましたから、しめ殺すぐらいはしかねなかったかもしれません。それとも金の無心か? だが、あるいは、いまでも話しかけることができるのは、ラデック以外にはなかったためかもしれません。『クーポール』に行くと、運よくラデックを見つけることができました。ところが、店の者がなかに入れてくれないので、外で待ったのです。いなかの村の薄ばかのように、うろうろして、ときどき、蒼《あお》い顔を、ガラス戸にぴったり押しつけたりしました。
ラデックが出てきたときには、ふたりの警官が両側にくっついていたのです。ウルタンは、あてもなく、そこを立ち去ると、故郷のナンディの家に向かいました。家に帰れた義理ではなかったのですが……。あの男は、自分の家の物置の藁の上に、ばったり倒れました。
そして、父親から、日の暮れになったら出てゆけと言い渡されて、首をくくったほうがましだと考えたのです」
メグレは肩をすぼめ、吐き出すように言った。
「あの男は、二度と世間に迷惑をかけないでしょう! まあ、なんとか生きてゆくでしょう。しかし、今度のことは死ぬまで、心の傷となって残ることでしょう。ラデックの犠牲になった者のなかでも、あの男がいちばん、哀れです。
犠牲者はほかにもいます。ラデックがつかまらなければ、もっとふえていたかもしれません。
それについては、あとでお話します。犯行がおこなわれ、ウルタンが投獄されると、ラデックはまた、コーヒー店からコーヒー店へさまよう生活をはじめました。彼は、約束の十万フランを、クロスビーに請求しなかったのです。その理由は、そういうことをすれば、捕えられる恐れがありましたし、おそらく、彼にとっては、貧乏がぜったいに必要なものとなっていたからでしょう。貧乏は彼の心に、世間の人間にたいする憎悪をかきたててくれるものだったのです。
『クーポール』へ行くと、ラデックはクロスビーに会うことができました。このアメリカ人のご機嫌には、すでに明るさが失われていました。クロスビーは、手紙をよこした謎《なぞ》の人物を待っていたのです。だが、その謎の男に一度も会っていません。それで、ウルタンを犯人だと信じこみ、やがて自分の悪事がばれはしないかとびくびくしているのです。
ところが、ばれなかった。被告は、従順に刑に服しました。近々、犯人の死刑が執行されるという噂《うわさ》が伝わり、クロスビーはやっと安心できそうな気がします。
ところで、ラデックの心には、なにが起こったでしょうか。みごとな犯罪! それを、彼は遂行したのです。その犯行は、こまかな点まで、完璧に処理されてあります。だれひとり、あの男に疑いをかける者はなかったのです。
望みどおりに、彼ひとりしか真相を知りません。そして、クロスビー夫妻が、バアのテーブルについているのを見ると、自分が一言口をきけば、夫妻はふるえあがるだろう、と考えるのでした。
にもかかわらず、心は満ち足りないのです。あの男の生活は、相変らず単調でした。ふたりの女が死に、哀れなひとりの男が近々首をきられるということ以外に、変ったことはなにもなかったのです。
絶対に間違いないとは言えませんが、一応確信をもって言えることは、ラデックにとって、最大の苦痛は、自分を讃美する人間がいないということです。つまり、あの男が通りかかるときに、こう言ってくれる人がいないということです。
『あいつは見たところ、なんのへんてつもない男だが、じつにみごとな犯罪をやってのけたのだ。警察の裏をかき、検察当局をわなにかけて、そのうえ友人たちの運命を変えてしまったのだ』
他の殺人犯でもそうですが、ほとんどの殺人犯は、そのへんの売春婦にでも、自分のことを告白したい衝動にかられるものです。
だが、ラデックは、そういう連中よりは手ごわい男です。それに、女にはまるで関心がありません。
ある朝、新聞がウルタンの脱走を報告しました。それは、あの男にとって、絶好の機会だったのではないでしょうか。彼は、事件をひっかきまわして、もう一度主導権をにぎる役割を演じようとしたのです。
彼は『警笛《シフレ》』紙に投書しました。ところが、彼をうかがっているウルタンを見て、恐怖にかられ、自分から警察の手中にとびこんでしまうのです。それでいて、なお、他人の賞讃をうけたいのです! みごとな勝負師であることを認めさせたいのです。
そこで、あの男は言いました。
『あなたには、この事件は決してわかりっこないんだ!』
そのときから、あの男はおかしくなっていたのです。やがて、自分は捕まるだろうと感じている。それなのに、更に自分で捕まる時期を早めるのです。意識的に、軽はずみなことをやってのけたりするのです。内部にあるあやしい力にかりたてられて、自分を罪におとしいれようと、自から望んでいるかのようなのです。
生きていたって、なにもすることがありはしないのです! それに、あの男は、早かれ晩《おそ》かれ、死をまぬがれえないことを、医者に宣告されているのです。あらゆるものが、彼を不快にさせ、怒りを誘うのです。みじめな生活を、だらだらとつづけてゆく他はないのです。
彼は、わたしがあの男にへばりついて、結局目的を達するだろうということを悟ります。
そうなると、まるでノイローゼみたいなものです。大根役者のようなへたな芝居を打ち始めるのです。わたしを引きづり廻した気になっては、悦にいります。ウルタンやクロスビーは、すでに打ちのめしています。どうして、わたしに勝てないはずがあろうか、というわけです。あの男は、わたしを困惑させるために、いろいろな話をでっちあげます。たとえば、こんどの惨劇に関係のあるいっさいの事件が、セーヌ河の近くで起こっていると言って、わたしの注意をそっちへ向けさせようとしたりしました。わたしは混乱したり、捜査の方向を誤ったりしたでしょうか? つぎつぎにへまをやったのは、あの男のほうでした。熱にうかされて暮らしていたのですから。もう、すっかり負けているのに、人生と闘い、人生と丁半を争うのをやめないのです。
まず、最初に、クロスビーを破滅の道連れにしても悪くはあるまい。あの男は、自分が全知全能のデミウルゴス(プラトンが世界形成者としたもの)のような気がしてきます。クロスビーに電話して、十万フランを請求しました。
その金を、わたしに見せびらかします。そんな具合に、自分を危険にさらすあやうい行為に、あの男は病的な喜びを感じるのです。
特定の時刻に、クロスビーがサン・クルーの別荘に行かねばならないようにしくんだのは、あの男です。いかにあの男が人の心理をよく見ぬくかの典型です。その少し前に、彼はわたしに会ったのです。わたしが捜査をはじめからし直す決心をしたことを、その時見ぬいたのです。
そこで、あの男は、こんなふうに考えたのです。わたしがサン・クルーへ出かける、そこで、クロスビーに出会う。そのとき、クロスビーは、なぜそこに来ているか、説明できずに困る。
クロスビーは、自分の犯罪が露見したと信じて自殺する。そのことを、ラデックが予想しなかったでしょうか? 当然、予想したことでしょう。予想したと思う他はないのです。
しかも、ラデックは、それだけでは満足できません。いよいよ、自分の能力に酔わないではいられないのです。
彼が狂熱的になったのを感じたので、それ以来、わたしはむっつり黙りこんで、くっついて廻ったのです。朝から夜まで、夜から朝まで、いつも、そばを離れません。
あの男の神経が、こいつに耐えうるでしょうか。いくつかの小さな事柄から判断しても、あの男が危険な道にはまりこんでゆくのがわかりました。あの男は、世間の人へ恨みをはらしたいという欲求を、たえずいだいていたのです。子供に恥ずかしい思いをさせたり、女乞食をからかったり、夜の女同士をけんかさせたりするのです。
そんなことをして、わたしがどんな反応を示すか、たしかめようとしたのです。こいつは大根役者の芝居です。あの男は、もう、破滅一歩前にきていたのです。
このままの状態では、そう長くは冷静でいられません。そのうちに、必ず失敗するにちがいないのです。
ついに、あの男は失敗しました! 早晩、重罪犯人はだれでもそうなるものです。
ラデックは、ふたりの女を殺しました! クロスビーを殺しました! ウルタンを廃人にしました!
幕切れに先立って、彼は更に大殺戮《だいさつりく》をおこなおうとしました。ところが、わたしは前もって、いくつかの手を打っておきました。ジャンビエを『ジョルジュ五世』ホテルに張りこませ、クロスビー夫人とエドナに宛てた手紙をおさえ、ふたりにかかってくる電話を遮断するように命じたのです。
わたしはラデックのそばを離れませんでしたが、彼は二度だけ、五、六分の間、わたしのそばから抜けだして、どこかへ出かけました。手紙を出したんだ、わたしはそうにらんだのです。
二、三時間後に、ジャンビエがその手紙を、わたしに手渡しました。それがこれです。一通はクロスビー夫人あてで、彼女の夫がヘンダーソン夫人の殺害を命じたことが報告してあります。証拠として、鍵を入れた箱が同封してありました。箱の表には、クロスビー自身の筆蹟で、宛名が書いてあったのです。
ラデックは法律に精通していました。あの男の手紙には、殺人犯人は、その被害者の財産を相続できないということ、従って、クロスビー夫人の財産は、いずれ没収されるだろうということが書いてあったのでした。
ラデックはクロスビー夫人に、夜の十二時に『シタンゲット』へ行き、指定された部屋の藁ぶとんのなかを調べ、そこに隠した殺人に使ったナイフを見つけて、安全な場所に移すように命じています。
もし、そこにナイフがなければ、サン・クルーへ行って、戸棚のなかを探すようにと付け加えてあります。
ここで、注意すべきことは、事態を紛糾させるのと同時に、人に恥ずかしい思いをさせたいという、あの男の欲求です。クロスビー夫人が『シタンゲット』へ行くことは無意味でした。ナイフは最初から、そこにありはしなかったからです。
しかし、ラデックには、金持ちのアメリカ人の女を、下司な連中のたむろする酒場にゆかせることが、たいへんなたのしみだったのです。
それだけではありません。事態を紛糾させたいという情熱は、さらにあくどくなってきたのです。
ラデックは、若いクロスビー夫人に、エドナ・ライヒベルクがクロスビーの情婦だったことを、そして、クロスビーはエドナと結婚する約束がすでにあったことを暴露しました。
『エドナは、事件の真相を知っています。彼女はあなたを憎み、真相を暴露して、あなたを貧困におとしいれるでしょう』と、ラデックは書いているのです」
メグレは汗をぬぐい、深い溜息をついた。
「ばかなやつです。そう思われるでしょう! まるで、悪夢にとりつかれたみたいなものです! だが、驚くことは、この数年というもの、ラデックは巧妙な復讐《ふくしゅう》を夢みることだけで生きてきたのです。
それに、そうたいした見当はずれはしていないのです。エドナ・ライヒベルクにあてた手紙には、クロスビーが殺人犯人であること、犯行の証拠品が戸棚のなかにあること、指定された時刻にナイフをとりにゆけば、スキャンダルを避けられることなどが書いてあるのです。
そして、クロスビー夫人は、夫の犯行を前から知っていたと書き加えてあるのです。
何度も言うようですが、ラデックは自分が全知全能の神であると思いこんでいるのです。
二通の手紙は、宛名人には届きませんでした。ジャンビエが、わたしのところへ持ってきてしまったからです。
それにしても、この手紙がラデックの筆蹟であることを証明するのには、どうすればいいのでしょうか。『警笛《シフレ》』にあてた手紙同様、左手で書いてあるのですから!
そこで、わたしはそのふたりの婦人に、実験に加わってもらいたいと申し出ました。ふたりには、ヘンダーソン夫人を殺害した犯人を発見するためだということを説明しておいたのです。
この夫人たちに頼んで、手紙のとおりにやってもらったのです。
それに、ラデック自身がわたしを『シタンゲット』へ連れてゆき、そして、サン・クルーへもついてゆかせたのです。
あの男は、もう大詰がきたことを感じていたのでしょう。もし、手紙が途中で横どりされなかったら、思いどおりのすばらしい大詰になっていたのです。
クロスビー夫人は、殺人犯人の暴露した事柄で、心をかき乱され、酒場での憎むべきしむけかたで、すっかり疲れ果てて、サン・クルーの別荘にたどり着くと、ふたつの殺人事件のあった部屋にはいりました。
彼女の神経がどんなだったか、思ってもみてください。しかも、そんなときに、彼女はナイフを持ったエドナ・ライヒベルクと顔をつきあわせたのです!
そうした事情のもとでも、犯罪が、必ず発生するとは断定できません。しかし、ラデックの心理のよみとりかたは、かなり正確だったと思わないわけにはいかないのです。
わたしの演出で、形勢は、彼の意に反しました。クロスビー夫人は、ひとりで立ち去ったのです。
そこで、ラデックは、クロスビー夫人がエドナをどうしたか知りたくてがまんできなくなりました。
あの男は、わたしのあとから、二階へあがってきました。戸棚をあけたのは、あの男です。彼が発見したのは死体ではなく、生きて元気いっぱいのスウェーデン娘のエドナだったのです。ラデックは、わたしをじっとみつめました。いっさいが、彼にはわかったのです。
そこで、あの男はついに、わたしの予期どおりの行動をとりました。ピストルを撃ったのです」
コメリオ予審判事は目を見はった。
「ご心配なく。その日の午後、人混みのなかで、わたしはたまのはいったあの男のピストルと、空のピストルをとりかえておきました。これで、すっかり、お話したことになります。あの男は、賭けたのです! そして負けたのでした」
メグレは、消えたパイプに、ふたたび火をつけると、額にしわをよせながら、椅子から立ちあがった。
「申し添えておきますが、あの男は負けっぷりを、心得たやつでした。オルフェーブル河岸の本署で夜あけまで、いっしょにすごしたとき、わたしは知っていることを正直に話したのですが、あの男はその一時間の間、わたしをはぐらかして喜んだりはせず、すすんで、たりない部分を補充してくれました。いくらか大風呂敷のきらいはありましたがね。
今はもう、あの男はひどく冷静です。死刑になるだろうか、とわたしに、きくのです。それで、返事をためらっていると、ひややかな笑いをうかべて言うのでした。
『警部さん、できるだけ死刑になるように、とりはからってください。あなたも少しは、ぼくに世話になっているんだから。ところで、ふっと思いだしたんですが、ぼくはドイツで死刑執行にたちあったことがあります。その死刑囚は、はじめのうちは平然とかまえていたのですが、いざというときには、泣きだし、悲鳴をあげはじめました。
(おかあさん!)ってね。ぼくも母親の名を呼ぶかどうか知りたいのです。あなたは、どう考えますか』」
メグレもコメリオ予審判事も黙りこんだ。裁判所のなかのもの音が、あたかもその背景をなすようなパリの街のかすかなざわめきを伴って、いっそう、はっきりきこえた。
コメリオ予審判事は、話しはじめる前に、平静さを装うために、自分の前に開いておいた書類を押しのけた。
「そうだったのですか」と、彼は口をきった。「実はわたしは……」
予審判事は頬を紅潮させ、目をそらすと、
「わたしは、きみに忘れてもらいたいのだが……。あの……。そのう……」
だが、メグレ警部は外套を着ると、ごく自然な動作で、彼に手をさしのべた。
「明日、報告書を届けます。これから、メルスに会いにゆかなければなりません。さっきの二通の手紙を渡す約束をしたもので。完璧な筆相調査をしてみたいというのです」
言い終ると、彼はちょっとためらってから、出てゆこうとしたが、もう一度ふりむいて、予審判事の後悔している顔を見て、そこでやっと微笑をうかべて立ち去った。その微笑が、メグレの唯一の復讐だった。
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十二 転倒
一月だった。氷がはっていた。その場にいた十人の男たちは、両手をポケットにつっこんで、外套の襟をたてていた。その男たちのほとんどは、靴で地面をけりつけながら、同じ一つの方向へうかがうような目を向けては、ときたま言葉をかわしていた。
だが、メグレはひとりだけ離れて、首を肩のなかにちぢめて立っていた。ひどく険しい表情だったので、だれも言葉をかけなかった。近所の建物のいくつかの窓に灯がついているのが見えた。夜がまだすっかり明けていないのだ。どこかで、電車のけたたましいひびきがきこえた。
やがて、自動車の車輪の音、門のきしる音、大きな靴音、それに低い号令の声がきこえてきた。
ひとりの新聞記者が、気まずそうにノートをとっていた。ひとりの男は顔をそむけた。
ラデックは、囚人護送車から勢いよく降りて、明るい瞳で、周囲を見まわした。その瞳は周囲のほの暗い闇のなかで、大海のような無限の光をたたえていた。
彼は、両側からかかえられていた。しかし、気にもかけず、大股に絞首台のほうへ歩きだした。
そのとき、とつぜん、凍った地面に足をすべらせて倒れた。すると、あばれだそうとしたのだと勘違いして、看守がとり押さえに、あわててかけつけた。
数秒の間の出来事だった。だが、彼にすれば、こんなふうに転んだのは、なににもまして苦痛だったにちがいない。とりわけ、この死刑囚ラデックが、それまで装っていたいっさいの威嚇、いっさいの自信をすべて失って立ちあがったとき、その恥ずかしそうな顔は、まったく見るにたえなかった。
彼の視線は、メグレに向けられた。ラデックはメグレに、自分の死刑執行に立ち会うことを頼んでいたのだ。メグレ警部は目をそらしたかった。
「来てくれましたね」
人々は、いらだっていた。こうした場面は早く過ぎ去ってほしいという、堪えがたいくらいの焦躁が、皆の神経をとがらせていた。
ラデックは、嘲るような微笑をうかべて、さっきの凍った地面をふりむいた。そして、絞首台を指さし、つめたい笑いを見せて言った。
「失敗したな!」
人間の生命を断つことを職務とする人々の間に、ためらいが起こった。
だれかが口をきいた。自動車の警笛が近くの通りで響いた。だれの顔も見ようとはせず、いちばん先に歩きだしたのはラデックだった。
「警部さん……」
あと一分もたてば、すべては終るだろう。ラデックの声は、異様なひびきを含んでいた。
「これから帰れば、奥さんが待っている。もう、コーヒーも沸かしてありますね……」
メグレには、もう、なんにも目にはいらなかった。なんにも耳にきこえなかった。
ラデックの言葉どおりだった。妻は、あたたかい食堂で、朝食の用意をととのえて、彼の帰りを待っている。
なぜだか、メグレは、その家に帰る気がしなかった。まっすぐ、オルフェーブル河岸に戻り、自分の部屋のストーブに、口までいっぱいに石炭をつめこむと、火床も破れよとばかり猛烈な勢いで火をかきたてた。(完)
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訳者あとがき
『男の首』の作者ジョルジュ・シムノンについては、今さら改めて語るには及ばない。と思われるほど、日本の読者にはよく知られている。世界の推理小説ベストテンというと、必ずシムノンの作品がはいっているし、フランスの推理小説というと、きまってシムノンが代表にえらばれている。その探偵メグレ警部は、アガサ・クリスティのポワロ、ヴァン・ダインのフィロ・ヴァンスなどとともに、ほとんど典型的な名探偵の列に加えられている。戦後だけでも、その日本訳が三十冊をゆうに越えている。まことに、誰しらぬものとてないジョルジュ・シムノンなのである。
だが、知られているシムノンは、どんな像を、一般読者の心のなかに結んでいるのか、弱々しい日の光が物悲しくにじんでいる低い空。木枯れた郊外を背景にもつ、うす汚い場末。この世のむごたらしさに押しひしがれている人々。警部という仕事に、いつも心のやましさと自嘲を示し、むしろ犯人に同情をあらわにして、女房や同僚にそっけない対しかたをする、すいも甘いも心得ぬいて、物うくも剛顔で渋い、ジャン・ギャバンもどきの主人公メグレ。いかにも文化の爛熟したフランス風の、しっとりとした憂愁をたたえた雰囲気描写の名手。適確で簡潔で、気取りのない大人むきの文章はこび。人間通で人情家。フランスの岡本綺堂、半七捕物帖……。
こういったところであろうか。要するに他の国の推理作家と違って、さすがにフランス文学の味わいの(あるいは、味わい|も《ヽ》)ある、といって青白く深刻で高級趣味のない、質実な人生派の作家。岡本綺堂を知らない若い読者なら言うかもしれない、シムノンはフランスの松本清張……。
これはこれで、別に間違ったシムノン像ではあるまい。そして、おおかたの日本の読者は、シムノンの一冊を読み終えて、「ああ、しみじみとした人生の匂いのある面白い小説を読み終えた。たのしかった。まったく娯楽小説の傑作だな、フランス映画二つ見たくらいタンノウしたなあ」などと呟きながら安らかな眠りに入り、天下泰平の世の中それ自体よりももっと天下泰平な夢を見るであろう。
立派な、小説の効用である。これはこれで、よろしいのである。最近のフランスの二十世紀文学史のある本の著者のように、「シムノン、ああ娯楽用推理小説のベストセラー作りか。などとナメてはいけない。アンドレ・ジッドが心から賛嘆する文学者なのだ」などと野暮な金切り声を立てるほどのことはないのである。わたしもまた、しいて異をたてようと思わない。ただ、今まで、その作品《ヽヽ》の読まれ知られること多く、その人間《ヽヽ》の読まれ知られること少なかったシムノンという小説家のために、次に、その精神的伝記の素描を多少、伝えておきたいというまでのことである。
ジョルジュ・ジョゼフ・クリスチャン・シムノン。
一九〇三年二月十三日、ベルギーのリエージュに生まれる。
シムノン家は、代々フランスのブルターニュにすみなした一族。ジョルジュの父方の祖父は、帽子製造販売を業とする職人肌の人間。ジョルジュの生れた時、父親は二十五歳。母親は二十二歳。父親デジレ・シムノンは保険会社の会計係。母親アンリエット・ブリュルはドイツ系の父親とオランダ娘との間に生れた子供で、その父親はオランダで回漕業をいとなんでいたが、お人好しの大酒呑みで、同業者にだまされて破産したため、アンリエットはリエージュの百貨店の売り子となり、そこでデジレ・シムノンと知りあう。
一家は貧乏で、みじめであったらしい。その幼年時の若い経験が、後年の『メグレもの』の基調となる。たとえば、長編ものとしてはメグレの出てくる第一作『死んだギャレ氏』の主要人物ギャレ氏のつましい生活意識と職業とは、ジョルジュの父方の祖父の欧州全体を行商して廻った体験と父親の生活から借りてきたものであるし、『オランダの犯罪』は、母方の祖父の生活と性格からとるところが多い。シムノンは、空想から、登場人物をでっちあげないのである。
ある日、バルザックが訊ねられたことがある。「小説の登場人物とは、そもそもどういうものですか。あなたの小説の主人公たちを、あなたはどこから、もってくるのですか。そして、小説の登場人物と普通の人間とは、どういう点に違いがあるのですか」これに対して、バルザックは答えていった。「小説の登場人物は、街にいる誰でもいいのです。ただ、登場人物は、彼自身の極端にまで行ってしまう人間なんです」
このバルザックの言葉をそのまま肯定して、シムノンは次ぎのようにいう。
「まさしく小説家の役割とは、悲劇作者の役割と同じく、街のなかから、ある人間をとってくること(それは、あなたであっても、わたしであっても、誰であってもかまわない)、そうして、彼自身の極端にまで行かせること、彼自身の絶頂に対する機会を彼に与えてやることです。(中略)だから、小説にとりかかった最初の日、わたしの問題は、登場人物がそれに反応することによって自分自身の極端にまでゆきつけるようになるような情況のなかに、その登場人物をおくことなんです。いわば、まあこれだけが、小説のもっている唯一の人工的な部分です。わたしの創りだすこの情況、これが『発火装置』というやつです。
わたしのいうこの『発火装置』、これが第一章を構成するわけです。これは、父親の死であってもいい。事故であってもいい(中略)。主人公が全く予期していなかったのに、突然やってきて、主人公がそれまであきらめて従順に従っていた生活の慣習を一変してしまう手紙であってもいい。主人公の身の上に起こることなら、なんでもいいのです」
シムノンのこの言葉は、本書『男の首』でいえば、主人公ラデックの場合に、まったくよく該当する。パリで医学をおさめているチェコ人のラデックは、ある日、不治の病にかかっていることを知る。そのうえ、家政婦をしてお金の支送りをしていた母親の死の報らせに接する。これが、ラデックの、いや『男の首』の発火装置なのである。
しかし、なぜ『犯罪』を犯すのか。この世のなかにあっては、「彼自身の極端までゆく」とは、『犯罪』を犯すことに他ならないからである。シムノン自身は、そこのところを説明して、次ぎのように語っている。
「わたしたち一人一人のなかには、あらゆる可能性がある。英雄の種子、殺人者の種子、破廉恥漢の種子、聖人の種子、一切の種子が、わたしたちのなかにある。だが、そういう願望は、弱さや教育や政治などのせいや、さまざまなものへの恐怖のために、ごく一部分しか、実現されない。危険な事態をまきおこすまえに、たいていは、中途で停止してしまうのである。つまり、わたしたちは、わたしたちのなかにいる何人かの登場人物を殺しているのである」
殺さないで生かされた登場人物が、今度は他人を殺すこととなるのである。シムノンとならんで現代随一の物語の名手と称され、かつシムノンとならんで当代フランスきっての人気作家であるマルセル・エーメから「長ったらしくないバルザックだ」と批評されているシムノンは、また「バルザックは生の方に傾くのに、シムノンは死の方に傾く」と、批評家ベルナール・ド・ファロワから指適される。人間への関心の強さと、洞察力の激しさとでは、両者ともあまり異なりはしないであろう。ただ、あきらかにバルザックとは、時代が違いすぎるのだ。シムノンによれば、「罪の感情こそ、現代人の常数の一つなのである」。二十世紀とは、そういう時代なのである。
一九〇七年、シムノン一家、リエージュのロワ街、サンタンドレ大学の前に移転し、母親、安下宿屋をいとなむ。下宿人は、ロシア人およびポーランド人の学生。この学生たちの影響のもとに、生まれて始めて、十二歳のジョルジュ、文学書をよむ。それが、ドストエフスキー、ゴーゴリ、プーシュキン、チェホフなどのロシア人作家。
このことは、二つの意味で、注目に値する。第一には、一般の、いわゆるフランス的な作家と違って、シムノンの精神は根元的には、もっと後になって愛読したバルザックやスタンダールなどのフランス人作家や、更に二十歳すぎに傾倒したディケンズ、スティヴンスン、コンラッドなどのイギリス人作家などよりも、ロシア人作家に、深い影響をうけているということなのである。「バルザック、ゴーゴリ、ドストエフスキーの三人のうち、あなたの精神的な父親をえらばなければならぬとしたら、誰ですか」という質問に対して、シムノン自身、次ぎのように書いている。
「はっきり、ゴーゴリです。その『死せる魂』が、とくに。その世界を創造する方法、創造精神にとくに。次ぎに名付け親をえらぶとしたら、チェホフ。ことに、その戯曲のほとんど。チェホフの人間の愛し方に。その愛情が、作品のどの頁からも、はっきりと感じとられるのです。チェホフは、人間が苦しむのを見るのに苦しんでいる。そして、できれば、人間の運命を調整してやりたいと願っているのです。いつか言ったこともありますが、わたしはメグレを、『運命の修繕屋』だと思っているものです。まあ、わたしの若さというものでしょうか」
『男の首』の主人公ラデックには、ことにロシア人作家の影響が著しい。その思想からいって、あきらかにラデックは、ドストエフスキーの『罪と罰』の主人公ラスコーリニコフの分身なのである。
第二には、チェコからの留学生たる異邦人ラデックは、シムノンの母親の安下宿の下宿人にモデルがあるだろうということと、逆にそのモデルの医学生が、シムノンの人間形成に一役かっているのではないかと思われることである。シムノンが、次ぎのように語っているからである。
「わたしは、医者にならなれたのではないかと思うのです。それも、学者じゃなくて、診察を専門とする臨床医に。実をいうと、時々、診察しているのですよ。人の前にすわると、『この人はどこが悪いのだろうか』と考え出して、病理的な考察にふけりはじめることが間々あるんです」
これは、そのまま『男の首』のラデックの行動ではないか。
シムノンは、自分の医学的診察によほど自信があるらしく、高名な医学の大家ルリシェの次ぎの言葉をひいて、これが自分への最大の賛辞だと言っているのである。「ねえシムノンさん、あなたの小説で一番うれしいのは、作中人物が物語り的な、知的な、あるいは動物的な生活をもっているだけでなくて、肝臓や肺臓や心臓や筋肉や神経をもっていることなんです。ですからわたしは、第一章からその人間の病理的診断を始めるのです。そしてその診断が正しかったかどうかが読み進めてゆくうちに判ってくるのは、楽しいことですよ」
一九一四年。シムノンは作家として身を立てようと決心。しかし食えないことを知って、牧師を職業にえらぼうとする。だが、初恋に破れて、計画をひるがえす。
──シムノンは、やっと十一歳になったばかりのところである。しかし、もうこれ以上シムノンの精神の伝記を追う必要はないであろう。すでに、その骨格はできあがってしまっているのだから。
現代フランスの優れた劇作家にして小説家フェリシャン・マルソーは言っている。「シムノンの刻みあげたのは、今までほとんど描かれなかった人間だ。つまり、神も持たなければ、悪魔も持たない人間だ。魂のない人間だ」
その魂のない人間の、医学的なまでに厳密な把握と描写、その、ない魂の原因の形而上的な、または社会的な探索。それを行う小説家が、シムノンである。つまり、ロベール・カンの言葉をかりれば、「魂の探偵」、それが、シムノンなのである。
シムノンは、「フォークナーこそ、当代最も偉い作家です」という。実は、外見とはまるで違って、シムノンの世界こそは、フォークナーの世界と、その生れ故郷のベルギーとフランスとのように、はなはだ近くて血縁の濃い世界なのである。いえば、シムノンは、親しみぶかい、難解でない、フランスのフォークナーなのだ。そして、そのことを何にもまさって明らかに示す傑作が、『男の首』なのである。
そこに、ちょっと見の近親性を裏切って、日本の推理作家たちとの大きな相異がある。フランスの小説家ロジェ・ニミエのいうところも、そこにおいて他にないであろう。すなわち「多くの作家は眠りこませる。しかし、シムノンは夢見させるのだ」(訳者)
〔訳者略歴〕
宗左近《そうさこん》一九一九年、福岡県戸畑市生まれ。昭和二〇年東京大学文学部哲学科を卒業して、大学院仏文科に進む。専攻はフランス象徴詩。都立女子専門学校教授を経て、法政大学教授。二八年新潮社よりゾラ「ナナ」を翻訳出版し、以後英仏二十世紀文学の翻訳に努める。その他、アラン「情念について」「音楽家訪問」ミルン「赤い館の秘密」等の訳書がある。