TITLE : 十二夜
十二夜
ウィリアム・シェイクスピア 著
福田 恆存 訳
十二夜
十二夜
場 所 イリリア
人 物
オーシーノー イリリアの公爵
セバスチャン ヴィオラの兄
アントーニオー 船長、セバスチャンの友人
別の船長 ヴィオラの友人
ヴァランタイン ) イリリア公の家臣
キューリオー
騎士トービー・ベルチ オリヴィアの親戚
騎士アンドルー・エーギチーク
マルヴォーリョー オリヴィアの執事
フェイビアン オリヴィアの侍者
フェスティ オリヴィアの道化
オリヴィア 富裕な伯爵の娘
ヴィオラ イリリア公を慕ふ女
マリーア オリヴィアの侍女(小柄)
貴族、神父、水夫、警吏、楽師、侍者など
1
〔第一幕 第一場〕
イリリア公爵宮殿内の一室
公爵オーシーノー、その家臣キューリオー始め貴族達が音楽に耳を傾けてゐる。音楽が終る。
公爵 楽の調べが恋の糧になるものなら、そのまま奏し続けるがよい、そして思ひ切りこの腹を満してくれ、食ひ気も衰へ、やがては消え果ててくれるに越した事は無い……今の調べをもう一度! 消え入る様な曲だつた、おお、それが何とこの耳を甘く擽《くすぐ》つた事か、恰《あたか》も菫咲く花床の上を吹き抜けるそよ風、その花の香を奪つたり与へたりするかの如く……(音楽、再び始る)もうよい、止《や》めてくれ! 前ほど甘くは響かぬ。ああ、恋心といふやつ、何と激しく、しかも飢ゑにあへいでゐる事か、海の様にすべてを呑み干してしまふ癖に、どれほど価値あるものもそのままにはして置かず、忽ち廉《やす》つぽい詰らぬ物にしてしまふ……恋ほど気紛れな物は無い、これほど気違ひじみた物もまたとあるまい。
キューリオー 狩りにでもお出掛けになりませぬか?
公爵 狩りに、何を、キューリオー?
キューリオー 鹿でも。
公爵 それなら、とうにさうしてゐる、世にも気高いこの牡鹿の心を吾から狩り立ててゐるではないか、ああ、この目がオリヴィアを始めて見た時、あれは大気の中の汚れを一時《いつとき》に洗ひ浄《きよ》めてくれたと思つたのだが、その瞬間、浴水《ゆあみ》するダイアナを覗き見した猟人宜しく私は鹿に変へられてしまつた、それからといふもの、私の欲情が酷《むご》い猟犬の様に私を狩り立てて止まぬのだ……
ヴァランタイン登場。
公爵 どうだつた? あれは何と言つてゐた?
ヴァランタイン 正直の処、お目には懸れませんでしたが、お附きの女より御返事を承つて参りました、姫の仰せでは、今後七年《ななとせ》、大空も十分お顔を眺められまい、御外出の折も尼僧よろしく面《おもて》をヴェイルに隠し、日に一度は歎きの涙でお部屋をお浸しなさらうとの事、それもこれもお亡《なくな》りになりました兄上様の姫に対する御愛情に報い、悲しい憶出《おもひで》をいつまでも忘れたくないからとの仰せにございます。
公爵 おお、兄に対してさへ、その愛にかほどの優しさを以て報いる、それなら、かのキューピッドの黄金の矢が、あれの心のうちに棲むあらゆる感情を射殺してしまつたら、そして肝臓や脳髄や心臓など、あらゆる無上の玉座が、あの完璧な優しさが、唯一人の王によつて意のままに出来たなら、その時、あれはどれほど素晴しい愛情を見せてくれるだらう! さあ、美しい花園へ案内してくれ――恋の想ひは亭の蔭でこそ豊かに息づくものだ。(一同退場)
2
〔第一幕 第二場〕
海際
ヴィオラ、船長、水夫達。
ヴィオラ 何処でせう、ここは?
船長 イリリアですよ、お嬢さん。
ヴィオラ イリリアなどへ来て、私、どうしたらいいのだらう? 兄は天国にゐるといふのに。でも、ひよつとすると運好く助つたかも知れない、皆さん、どう思つて?
船長 とにかくあなたは運好く助つた。
ヴィオラ ああ気の毒な兄さん! でも、運好く助つてゐるかも知れない。
船長 その通りだ、お嬢さん、運といふものがあります、どうぞお心丈夫に、さうだ、船が毀れて、あなたや、一緒に助つた連中が漂ふ小舟に縋り附いてゐた時……私はお兄様の姿を見掛けた、あの危険な時にも実に沈着だつた――勇気と希望が智慧を授けたのでせう――波間に浮いてゐた大きな帆柱に吾が身を括り附け、海豚《いるか》の背に跨つたアライオンさながら、荒波の中を意のままに乗り切つて行くのを、この目で確かに見届けました。
ヴィオラ さう言つて下さつたお礼に、この金貨を、自分がかうして死を免れた事を考へて見れば、今の話も心強く耳に響きます、兄も私と同じ好運に見舞はれたかも知れない。この国の事は良く知つてゐて?
船長 はい、良く存じてをります、私はここから三時間も掛らぬ所で生れ育ちました。
ヴィオラ 御領主はどなた?
船長 立派な公爵です、お家柄も、御気性も。
ヴィオラ 何とおつしやるお方?
船長 オーシーノー様。
ヴィオラ オーシーノー、さう言へば、父がその方の話をしてゐるのを聴いた事がある。その頃はまだお独りだつた。
船長 今もさうです、少くともつい最近までは、と申しますのも、ここを出てから一月ほど経つてをりますのでね、その頃、何かと噂が立ちそめてをりましたつけ――御承知の様に、御身分の高い方の話はとかく賤しい者の噂の種になりますので――それによると、オーシーノー公は美しいオリヴィア姫の心を得ようとしておいでとか。
ヴィオラ それはどういふお方?
船長 淑徳の誉れ高きお方で、一年ばかり前に亡《なくな》つた伯爵の姫君に当ります――伯爵は姫君のお身上を御長男の兄君にお託しになつたのですが、その兄君も間も無く御逝去、その亡つたお二人の愛情が忘れ難く、何でも、姫君は如何なる男性ともお附合ひなさらず、お顔もお見せにならぬとか。
ヴィオラ ああ、出来たら、その方の所に御奉公し、世間から身を隠してゐたい、やがて時が熟して、身分が明せる時が来るまでは。
船長 そいつは実現不可能だ、あの姫君は願ひ事には一切耳を傾けない、どうにもなりません、公爵さへ歯が立たないのですから。
ヴィオラ 船長さん、お見受けした処、あなたは立派なお心の持主らしい、勿論、綺麗な壁の後に穢《きたな》い物を隠し持つてゐる人もゐるにはゐるけれど、あなたなら私は信じます、そのお心は上辺《うはべ》通りに美しいもの。お願ひ、御礼は幾らでも致します、私の身分を隠して置いて頂戴、さあ、何とか手を貸して、先づ身装《みなり》を変へなければ、巧く私の目的が達せられる様に。私、公爵様の所に奉公します、私をお小姓にと言つて推薦して頂戴、お世話を掛けただけの事はあると思ひます、さう、私、唄も歌へるし、色音楽のお話相手にもなれるし、とにかく十分お役に立てるでせう。そのほか予想外の事が起つたら、その時は臨機応変と行きませう、後は黙つて私の機転に任せてくれさへすればいいの。
船長 では、あなたはあの方のお小姓におなりなさい、私はあなたの黙り役になりませう、もしこの舌を動したら、この目を潰して頂きませう!
ヴィオラ ありがたう、さあ、連れて行つて頂戴。(一同退場)
3
〔第一幕 第三場〕
オリヴィアの邸内の一室
騎士トービー・ベルチが酒を前にして腰を降し、マリーアと話してゐる。
トービー 姪の奴《やつ》、何といふ様《ざま》だ、高が兄貴に死なれてあの態《てい》たらくは? 煩ひ事は命の敵だぞ。
マリーア ですから、お願ひ、サー・トービー、夜は必ず早く帰つて来て下さらなければ困りますよ、お姪御様のお嬢様があなた様のお帰りが遅いので、大分御機嫌斜めでいらつしやるのだから。
トービー それはいい、門限に期限無しと行かう。
マリーア まあ、それにしても、もう少し程を弁《わきま》へ、態《てい》良く振舞つて下さらなくては。
トービー 態良く? よし、精態良く着こなすとしよう、今着てゐる物にしても、飲んだくれるには打つて附けの代物だ、靴だつてさうよ、もしさうでないと言ふなら、手前の靴紐で手前の首でも縊《くく》りやがれと来た。
マリーア さう毎日がぶ飲みばかりしていらつしやると、終ひには体を毀しておしまひになりますよ、きのふもお嬢様がその事を御心配になつておいでだつた、それにあの薄馬鹿の騎士さんの事もね、そら、いつかの夜、お嬢様のお婿さんにとおつしやつて連れておいでになつた。
トービー 誰だ、それは? あ、サー・アンドルー・エーギチークの事か?
マリーア それ、それ、そのお方ですよ。
トービー あれはイリリア中、武勇にかけては誰にも劣らぬ名高い男だ。
マリーア 名高からうが何だらうが、人間、高いだけが能ではございますまい?
トービー それに年金が三千ダカットもある。
マリーア 成るほどね、でも、一年でそれを皆使ひ果してしまふ、あの方は薄馬鹿の上にお金を湯水の様に撒き散らすのだもの。
トービー 畜生、何を言ふのだ! あれはヴァイオル・ダ・ギャンバの名演奏家だぞ、おまけに三四箇国語を一つも間違へずにそらで喋れるのだ、そればかりではない、何をやらせても人並優れた素質を持つてゐる。
マリーア 確かにあの方は人並外れた素質を持つていらつしやる、薄馬鹿で喧嘩早いと来てゐるのだから、でも、そこは巧く出来たもので、喧嘩好きに比例して臆病の素質の方も人並外れでいらつしやる、その為、喧嘩でかつとなつても、直ぐにも鉾を収められるといふ訳、利口なお人の噂によると、さもなければ、あの方、とうに墓の下に納つてゐるだらうつて。
トービー この手に賭けて言ふ、あれの事をそんな風に言ふ奴は人非人だ、罵詈讒謗《ばりざんばう》の徒だ。誰だそんな事を言つた奴は?
マリーア その人達は、その上、またかうも言つてゐてよ、あの男は毎晩あなたと一緒になつて酔払つてゐるつて。
トービー それも姪の健康を祈つて飲んでゐるのだ、俺はあの子の為に飲み続けるぞ、この咽喉に道のある限り、このイリリアに酒のある限りな、姪の為に飲まない様な野郎は臆病者だ、出来損ひだ、それ、どの村にも大《おほ》独楽《ご ま》が備へつけてあるだらうが、霜凍る夜、百姓共がそいつをぶん廻して体を煖める為にさ、あの大独楽の様に頭がぐるぐる廻るまで飲めない様な奴はくたばつてしまへ……(マリーアの腰に手を廻し、踊り廻り)やい、尼つちよ! カスティリアーノ・ブルゴ、陽気な面をしてゐなといふ事よ、それ、サー・アンドルー・エーギチークのお出ましだ。
騎士アンドルー・エーギチーク登場。
アンドルー サー・トービー・ベルチ! おい、どうした、サー・トービー・ベルチ?
トービー おお、吾が友、サー・アンドルー!
アンドルー 元気で何よりだな、口の減らない別嬪《べつぴん》さん。
マリーア (礼をして)あなた様もお元気で何よりでございます!
トービー さあ、船を早く岸へ附けたり、附けたり、サー・アンドルー。
アンドルー え、何だつて?
トービー 姪の小間使だよ。
アンドルー これは、これは、ツケタリさん、今後とも宜しく。
マリーア 私の名前はメアリと申します。
アンドルー ああ、メアリ・ツケタリさん、――
トービー (アンドルーに)違ふ、違ふ、「岸へ附ける」といふのは、真正面からぶつかる事だ、乗込むのだ、口説くのだ、襲ひ掛るのだよ、相手に。
アンドルー (トービーに)とんでもない、かうして皆の観てゐる前でそんな事は出来ない。さういふ意味かね、「岸へ附ける」といふのは?
マリーア 私、これで失礼致します。(行かうとする)
トービー (アンドルーに)このまま行かせてしまふ様では、ねえ、サー・アンドルー、お前さん、二度と腰の物は抜けさうもないね。
アンドルー もしこのまま行かせてしまふ様では、ねえ、お女中、吾輩、二度と腰の物は抜けさうもない……これ、美しいお方、あなたは腹の中では吾輩を阿呆扱ひしてゐるのかな?
マリーア いいえ、私はまだ自分のお腹の中へ入れるほど、あなたと深いお附合ひはしてをりません。
アンドルー 成るほど、では、先づその手始めに――この手から。(握手しようとして手を差出す)
マリーア (その手を取り)処で、良く言ひませう、「相手を何と思はうが、こちらの勝手」つて……(相手の掌を見て)まあ、お願ひ、この手を台所の酒棚に持つて行つて、たつぷり飲ませて差上げなさいまし。
アンドルー どういふ事です? 何の譬へかな、それは?
マリーア 乾き切つてゐて、色気も無し、何ともお気の毒ですもの。
アンドルー 成るほど同感だ、吾輩は頓馬ではない、雨の中でも、手を濡らさずに置く位の智慧はある。それにしても、一体、どういふ洒落《しやれ》だね。
マリーア 乾いた洒落、気が抜けて、しかも辛辣な。
アンドルー それがあなたの十八番《お は こ》なのかね?
マリーア はい、左様で、しかも、それをこの指先に一杯、それが、かうしてお手を放してしまふと、後はもう種切れ。(相手の手を放し、礼をして、足早に去る)
トービー (腰を降し)おお、大将、酒が足りない様だな、今までこんな事はあつたかい、すつかり遣られ放しではないか?
アンドルー 始めてだね、思ふに、尤も酒には始終やられ放しだが……(トービーの側に腰を降し)で、時思ふのだ、どうやら俺の頭は人並以下ではないかとね、だが、牛肉となれば誰にも負けぬ大喰《おほぐら》ひだ、その為、頭が鈍つてしまつたに違ひないよ。
トービー おつしやる通りだ。
アンドルー 処で例の件だが、あれは諦める事にする。あすは馬で故郷《く に》へ帰るよ、サー・トービー。
トービー プルクワ、それはまたなぜだ、大将?
アンドルー そのプルクワといふのはどういふ意味だ? さうしろといふ事かね、それとも止《よ》せといふ事かね? 畜生、もつと外国語の勉強をして置くのだつたな、剣術や踊りや熊苛《くまいぢ》め遊びに時間を潰したりして馬鹿を見た、ああ、学問に励んで置けば良かつたよ!
トービー (相手の頭を撫でて)さうして置けば、この髪の毛もこれほど人目に立たずに済んだらうに。
アンドルー 何だつて、そんな事でこの縮れ毛が直るのかね?
トービー 勿論さ、その代り禿になる、学問に励んだお蔭でな。
アンドルー 禿よりはこの方が俺には似合ふだらう、どうだい?
トービー 立派なものだ! 恰《あたか》も糸巻棹に亜麻糸をぶらさげた如しさ、そいつを何処かのおかみさんが股倉に押挟んで、見事に紡ぎ上げてくれたら文句無しだがね。
アンドルー 正直、俺はあす帰るよ、サー・トービー。お前さんの姪御は会つてはくれないし、たとへ会つてくれた処で、俺の望みは十に一つも叶へられさうにない、ここの公爵がひどく御執心といふ事だし。
トービー 公爵は問題外だ――姪は自分より上の者とは結婚しないのだ、財産、年齢、頭、いづれにせよ、上の者とは結婚しない、あれがさう誓つてゐるのを、俺は現にこの耳で聴いてゐる。しつかりしろ、まだまだ脈がある。
アンドルー もう一月、厄介にならう……世の中にこの俺ほど奇妙奇天烈《きてれつ》な男はゐない、時仮装舞踏会やどんちやん騒ぎがやりたくて堪らなくなるのだ。
トービー お前さん、そんな詰らぬ事に血道を上げてゐるのかい?
アンドルー イリリア中の誰にも負けない、さうさ、誰だらうと俺より一枚上の奴でさへなければ退《ひ》けは取らない、とは言ふものの、その道の達人には叶はないがね。
トービー では、三拍子の威勢のいいギャリアードは踊れるかい、何が得意かね?
アンドルー 勿論、高跳びの両脚ばたつかせのケイパーとござい。
トービー (傍白)それで羊の肉のバタいためでも作つてやるか。
アンドルー それにケイパーも唯のケイパーではない、後ずさりで出来る、イリリア中のどんな奴にも退けは取らない。
トービー それをどうして隠して置くのだ? それだけの芸があるのに、どうして皆に目隠し掛けて置くのだ? 高等淫売モールの似顔絵宜しく、埃をかぶらせたくないとでも言ふのか? いつそ教会通ひにも往きはギャリアード踊りで、復《かへ》りはすばしこくコラント踊りと行つたらどうだ? 俺なら普段歩くにも軽くジーグ踊りでやつつける処さ、小便する時は脚を後ろへ跳ね上げのシンク・ペイス踊りに限る。おい、一体、どういふ気なのだ? 美徳を隠すのが世の習ひとでも言ふのかい? 俺はかねがね思つてゐたのだ、その脚の見事な出来から察するに、お前さんはどうしたつてギャリアードの星の下に生れたに違ひないとね。
アンドルー ああ、脚はがつしりしてゐる、焦茶色の靴下が良く似合ふのだ。では、一つどんちやん騒ぎと行かうか?
トービー さう来なくて、どうしようといふのだ? 俺達は牡牛座の星の下で生れた筈ではなかつたかね?
アンドルー 牡牛座だ! あれは脇腹と心臓を司る星だ。
トービー 違ふよ、脚と股だ……さ、お前さんのケイパーを見せてくれ、(アンドルー、跳上る)……は! もつと高く、はあ、はあ! 巧いものだ! (二人退場)
4
〔第一幕 第四場〕
イリリア公爵宮殿内の一室
ヴァランタインと男装のヴィオラが登場。
ヴァランタイン 御前《ごぜん》の君に対する御寵愛、もし今のまま続くとすれば、サゼーリオー、君も大いに出世の見込みがあるといふものだ。お目に懸つたのが唯の三日前、それがもうすつかりお気に入りの態《てい》だ。
ヴィオラ 御寵愛が続けばとおつしやるのは、御前《ごぜん》のお気分が変るか私が御奉公を怠るか、どちらかを気遣つておいでだからでせう。あの方はそれほど当てにならないお人なのですか?
ヴァランタイン その反対だ、嘘は言はない。
ヴィオラ それで安心しました。それ、あそこに御前《ごぜん》が。
公爵、キューリオー、その他の侍者登場。
公爵 サゼーリオーを見なかつたか、誰か!
ヴィオラ 御前に、はい、ここに。
公爵 皆、暫く二人だけにして置いてくれ……(キューリオーと侍者達退く)サゼーリオー、お前には何も彼も打明けた、吾が心の秘密を綴ぢ込めた書物も隅まで開いて見せもした。この上は、頼む、何としてでも姫を訪ね、門前払ひにも臆せず、戸口に立ち尽し、たとへ脚に根が生えても、姫君とお話し出来るまでは立退《たちの》きませぬと言ひ張つてくれ。
ヴィオラ とは申せ、御前、もし姫君がお噂の通り悲しみに身を委ね切つておいでだとしたら、とても私などにお目通りを許しては下さらないでせう。
公爵 さんざん喚き散らすがいい、礼儀作法など一向構ふな、その方が手ぶらで戻つて来るよりは余程ましだ。
ヴィオラ 万一お目に懸れたとしたら、御前、その時は何と申上げたら?
公爵 おお、その時はこの身の想ひのたけを打明けてくれ、この切ない真心を伝へ、あれの心を掻き乱してくれ、お前なら、この身の身代り、口説き役には誰より適してゐる、真面目腐つた使者よりは若いお前の方があれも喜んで相手にしてくれよう。
ヴィオラ 私はさうは思ひません、御前。
公爵 何を言ふ、大丈夫だ、その水の滴《したた》る若さ、それを見てもなほ大人扱ひする奴は、自らを偽つてゐる者だ、処女神ダイアナの唇もお前の唇ほど滑らかで紅く燃えてはゐない、細い咽喉も小娘そつくり、高く澄んだ声を聴かせる――いや、どう見ても女としか思へない。持つて生れたさういふ素質が何よりこの役に向いてゐる……(侍者達を手招きして)誰か四五人、この男に附き添つて行くがよい、何なら皆附いて行つても構はぬ、この身は今の処、供人が少なければ少ないほど心息《やす》まる思ひがする……さあ、頼んだぞ、巧く行けば、この身と同じ気ままな暮しをさせ、財産も吾が物同様、自由に使はせてやる。
ヴィオラ 出来るだけ役目は果します、きつと姫君を口説いて御覧に入れませう……(傍白)ああ、何といふ事! 自分を苦しめる為の甲斐無き勤め! 私が誰かを口説く、その相手が誰にせよ、この私があの方の奥様になりたいのだもの。(一同退場)
5
〔第一幕 第五場〕
オリヴィアの邸内の一室
正面にオリヴィアの椅子。
マリーアと道化登場。
マリーア お黙り、何処へ行つてゐたのか、はつきりお言ひ、さもなければ、お前さんの取成しの為、たとへ一息だつてこの口を開きはしないからね、黙つてお邸《やしき》を空けたからには、お嬢様、きつとお前を縛り首にしておしまひになるよ。
道化 縛り首、結構、この世で見事縛り首にされてしまへば、この世に怖いもの無しだものな。
マリーア 自分で言つて置いて、その言葉の意味が解つてゐないらしいね。
道化 解つてゐるとも、怖い物が何も見えなくなるといふ事さ。
マリーア 一寸も解つてはゐないのだね、「怖いもの無し」といふ諺の元は何から来てゐるのかが、ええ、私には解つてゐるのだけれど。
道化 それは何から来てゐるのですかね、メアリ姫?
マリーア 戦よ――お前さん、戦に行つて留守だつたといふのなら、何処へ行つて何をしてゐようと、何とか言ひ訳は立つかも知れない。
道化 成るほど、神よ、智慧を持てる者には智慧を恵み給へ、而して阿呆は阿呆なりに、その才を用ゐしめ給へ。
マリーア どつち道、かう長い事、お邸から姿をくらましてゐた罰には縛り首だよ、さもなければ、追出される、縛り首とどつちがいい?
道化 縛り首のお蔭で悪い女房を押附けられずに済んだ奴は山程ゐる、それにどうせ追出されると決つたら、凌ぎ易い夏場にして貰ひたいね。
マリーア それなら、覚悟は出来てゐるのだね?
道化 いや、さういふ訳でもない、ただ二つだけ決めてゐる事があるのだ――
マリーア 一つが外れれば、残りの一つで繋《つな》ぎ留め、両方が外れれば、お前さんの股引がずれ落ちる。
道化 巧い、正にその通り……(マリーア立去らうとする)さてと、どうぞ何処《いづこ》へなりと――処で、もしサー・トービーが酒さへ止《や》めてくれれば、お前さんはイリリア切つての良い女房になるのだがな。
マリーア お黙り、このごろつきめが、図に乗ると承知しないよ、そら、お嬢様がお出でになつた、何とか巧く切抜ける事、それより他《ほか》に手は無いのだから。(去る)
オリヴィア登場、喪服を着てゐる。マルヴォーリョー、その他の侍者が随ふ。オリヴィア、椅子に腰を降す。
道化 (一同に気附かぬ振りをし)智慧袋殿、出来る事なら、この私に巧い駄洒落を思ひ附かしめ給へ! 処で、この智慧といふ奴、自分ではたんと持つてゐると思込んでゐながら、実は阿呆といふ手合が幾らもある、一方、この俺だが、そんな物は一かけらも無いのに、一端《いつぱし》智慧者として通らないでもない。それ、クィナパラスも言つてゐるではないか? 「智慧に富める阿呆の方が阿呆な智慧者に優る」とな。(一同の方を向いて)これは、これは、姫君には御機嫌麗しく何よりにございます!
オリヴィア この阿呆を何処かへ連れて行つておくれ。
道化 姫君のお言葉が聞えなかつたのかい、皆? さ、早く姫君を何処かへお連れしな。
オリヴィア 何といふ事を、干からびた阿呆が、もうお前に用は無い、それに、この頃のお前は日増しに淫らな事を口にする様になつた。
道化 その二つの欠点でしたら、お嬢様、酒と、それに忠告一つでけろりと癒ります。阿呆が干からびたら、酒びたしにしてやれば忽ち瑞《みづみづ》しくなりませう、淫らな男はそれと言つて聴かせてやれば、奴《やつこ》さん、自分で癒す、で、自分で癒せれば、もう淫らな男とは言へません、癒せぬ様なら、仕立直しに出せばいい、直し物なら、この道化のまだら服同様、あちこち継ぎ接《は》ぎだらけ、左様、よく世間では折角の美徳に瑕《きず》が附いたと口惜しがりも致しますが、その綻《ほころ》びを塞いでごまかしてゐるのは罪の接ぎ裂《き》れ、一方、これで罪は消滅と喜んだりも致しますが、それを美徳の接ぎ裂れで塞いでごまかしてゐるだけの事……この簡単な三段論法、お役に立てば、何より結構、が、お役に立たぬとすれば、さて、他に妙案はと? いや、お嬢様は喪服と御結婚、これ、阿呆の最たる証拠、そもそも女の操ほど当てにならぬものはない、花の顔《かんばせ》も忽ち盛りを過ぎませうからな、先程、お嬢様は阿呆を何処かへ連れて行つておくれとおつしやつた、それなら改めて申上げます、お嬢様を何処かへお連れする様にと。
オリヴィア 私はお前を連れて行つておくれと言つたのだよ。
道化 これは人違ひも甚しい! 「僧服を着する者、必しも僧にあらず、」同様、このまだら服にしても、そいつを頭の中まで着てはをりませんよ……どんなものでせう、一つ私にお嬢様が阿呆だといふ事を証明させて下さいませんかな?
オリヴィア お前にそれが出来て?
道化 見事、やつてのけて御覧に入れます。
オリヴィア では、やつて御覧。
道化 それには先づ教義問答の手続を取らせて頂きませう。これ、淑徳の誉れ高き吾が子よ、私の問ひに答へるがよい。
オリヴィア よくてよ、他に鬱《うさ》晴しの材料も無し、そのお前の証明とやらのお相手を勤めませう。
道化 さて、姫君よ、なぜさう悲しみにばかり身を委ねるのぢや?
オリヴィア さて、阿呆殿、それは兄上の亡《なくな》りし為。
道化 思ふに、その兄の霊魂は地獄に悶えてゐると見ゆるな、姫君。
オリヴィア いいえ、天国にをりまする、阿呆殿。
道化 さても阿呆なるかな、姫君、兄上の霊魂が天国にあるを以て、かくも歎き悲しむとは……さ、皆さん、この阿呆を何処かへお連れしな。
オリヴィア どう思つて、マルヴォーリョー? この阿呆、少しはましになつた様ね?
マルヴォーリョー はい、どうやら、この調子ですと、死の苦痛に取り憑かれるまでどんどん進歩するに違ひございません、耄碌《もうろく》致しますと、賢者は頭脳が衰へますが、阿呆は愈その面目を発揮するものでございます。
道化 神よ、このお方に一日も早き耄碌を授け給へ、その阿呆らしさが日増しに阿呆らしくなります様に! サー・トービーにしても、まさかこの私を狐の様な利口者とはおつしやいますまいが、さりとて、あなたは阿呆にあらずと証言しろと頼まれても、唯の二ペンスだつて賭けるお気持にはなりますまいね。
オリヴィア さあ、何と答へる積り、マルヴォーリョー?
マルヴォーリョー こんな詰らぬごろつきの戯言《たはごと》をお嬢様が結構興がつておいでとは全く驚き入りました、ついこの間の事、此奴《こやつ》、何処にもゐさうな小石ほどの脳味噌しか無い道化にさんざんしてやられてゐるのを見掛けたばかりでして。それ、御覧なさいまし、この男、早くも種切の態《てい》、お嬢様がお相手をして笑つておやりにさへならなければ、猿轡《さるぐつわ》を嵌《は》められたも同然、からきし物も言へますまい。憚りながら、かういふ阿呆に調子を合はせて笑つてなどやる賢い方は、芝居によく出て来る阿呆の引立役としか思はれませぬ。
オリヴィア まあ、お前のはまた自惚《うぬぼれ》病とでも言ふものだよ、マルヴォーリョー、だから、始めから口を附けて見ようとしないでゐる。心寛《ひろ》やかに、何の気も無く、さらりと聞き流してしまへば、相手の悪口も精たんぽ槍同然、痛くも痒くも無い、それがお前には大砲の弾ほど手剛《てごは》い物に思へるらしい、もともと天下御免の阿呆に悪意のあらう筈は無い、ただそれが役目なればこそ悪口ばかり言つてゐるだけの事でせう、それに引きかへ、名の通つた分別のある人となると、決して悪口など言ひはしない、ただ人のあらが目に附けば、それを咎め立てせずにはゐられないだけの事でせう。
道化 嘘吐きの神様マーキュリーが精嘘のあの手この手をお与へ下さいます様に、驚いた事に阿呆の弁護をしてくれようといふのだから!
マリーアが戻つて来る。
マリーア お嬢様、御門の前に若い男の方が、何としてでもお目に懸つてお話し申上げたい事があるとおつしやつて。
オリヴィア オーシーノー様のお使ひではなくて?
マリーア さあ、存じませぬ、お嬢様――若くて美男子で、立派なお供の方を連れておいででございます。
オリヴィア 家の誰がその人の相手をしてゐて?
マリーア トービー様でございます。叔父上様がお相手を。
オリヴィア あの人は駄目、引込んでお貰ひ! 気違ひじみた事しか言はない人だから、本当に仕様の無い人……(マリーア、急いで退場)さ、お前、行つておくれ、マルヴォーリョー、もし公爵様のお使ひだつたら、私は病気だとか、留守だとか……何とでも機転を利かして、お還ししておくれ。(マルヴォーリョー去る)さあ、これで解つたらう、お前の道化振りも時代遅れになつて、今では皆の鼻摘み。
道化 さつきは俺の弁護をしてくれた、まるで跡継ぎは道化にでも育てんばかりの口振りだつたのに、おお、ジュピター、せめてこの方のお子さんだけは脳味噌が一杯詰つてをります様に! といふのも――それ、そこへ、あの男が――あれも御親戚の一人、ひどく弱い脳味噌の持主だから、心配にもなるのさ。
騎士トービー・ベルチ、千鳥足にて登場。
オリヴィア まあ、また酔払つていらつしやる……門の前においでの方はどなた?
トービー (呂律の廻らぬ話し方で)男だ。
オリヴィア 男? 男つて、どんな方?
トービー 男が来てゐるのだ……(しやつくりをして)塩漬の鰊め、まだ祟りやがる……(道化が笑ふ)やい、どうした酔払ひの阿呆め!
道化 トービー様――
オリヴィア 叔父様、叔父様、どうしてこんな早くからお酒を飲んだりなさるの、いいお年をして?
トービー 色事師! 失敬だぞ、俺が色事師とは……おい、門に客が来てゐる。
オリヴィア さう、その話よ、どなた、そのお方は?
トービー 悪魔かも知れんぞ、ひよつとすると、いや、何だつて構ふものか、「信仰」といふものがありさへすればね……(戸口の方へ千鳥足で進む)ええい、どの道同じ事さ。(去る)
オリヴィア 酔払ひは何に似てゐて?
道化 土左衛門に似てゐるね、それから阿呆にも気違ひにも似てゐる、丁度を一杯過せば阿呆、二杯過せば気違ひ、三杯過せば土左衛門といふ訳さ。
オリヴィア では、早速、検屍のお役人を呼んで来て、叔父様の容体を調べさせておくれ、だつてあの人はもう三杯目程度に酔つてゐるもの、どう見ても土左衛門よ、さ、後を追つて面倒を見て上げておくれ。
道化 いや、あの人はまだ気違ひ程度さ、それならまだ阿呆の手に負へるといふもの。(騎士トービーを追つて入る)
マルヴォーリョーが戻つて来る。
マルヴォーリョー お嬢様、例の若者でございますが、お目に懸つて親しくお話し申上げたい事があると言つて聞きませぬ。お加減が悪いからと言つてやりました処、それは十分承知の上、だからこそお話しに伺つたのだと申します。更に、只今お寝《やす》みになつておいでだと言つてやりました処、それも予《あらかじ》め承知らしく、だからこそお話しに伺つたのだと申します。この上、どう言つてやつたら宜しいものでございませう? 何と断らうと頑として動きさうもありませぬ。
オリヴィア 私には絶対に会はせないと言つておやり。
マルヴォーリョー さう言つてやりました、処が、相手はかう申すのでございます、それなら警保官の役所の前にいつも立つてゐる立札宜しく、御門の前にいつまでも突立つてゐる、いや、腰掛の脚の様に辛棒強く動かない、いづれお会ひ下さるまではと、かう申しますので。
オリヴィア どんな人?
マルヴォーリョー それは、勿論、吾と同じ人類である事は確かでして。
オリヴィア いいえ、見た処、どんな風の人?
マルヴォーリョー それが全く大風《おほふう》な奴でして、何しろ、どうあらうとお目に懸つて見せると頑張つてをりますので。
オリヴィア 私が知りたいのは人柄よ、それに年は幾つ位?
マルヴォーリョー 先づ大人といふほど年を取つてもをらず、子供といふほど若くもなく、まだ十分に実の入らぬ莢豌豆《さやゑんどう》、そろそろ紅く成りかけの青林檎、丁度、子供と大人の中間で潮の差し退きがぴたりと止つた頃合にございます。顔は眉目秀麗、それに反して弁舌は口から先に生れて来た様な悪達者、が、どう見ても、漸く乳離れしたばかりの小童《こわつぱ》としか思へませぬ。
オリヴィア 通しておやり……それから侍女のマリーアを呼んでおくれ。
マルヴォーリョー (戸口へ行つて)マリーア、お嬢様がお呼びだ。(去る)
マリーアが這入つて来る。
オリヴィア ヴェイルをおくれ、さ、それを顔に掛けて――これが最後、もう一度、オーシーノー様のお使ひに会ひます。(マリーアがオリヴィアの顔にヴェイルを掛ける)
ヴィオラ(サゼーリオーとして)登場。
ヴィオラ このお邸の姫君は、どちらが姫君でいらつしやいます?
オリヴィア 話があるならどうぞ私に、さうして下されば、私がお答へ致します、さ、御用は?
ヴィオラ 美しく光り輝き、世にも優れたる姫君!――いえ、その前にお教へ下さい、あなた様は本当にこのお邸の姫君でいらつしやるのかどうかを、私はまだお目に懸つた事が無いのですから。主人より言附《ことづか》つた大切なせりふ、空《くう》に向つて投げ捨てたくはありません、それは大層美しく出来てゐるばかりか、私としてもそれを覚えるのに随分骨を折りましたので。お二方共、どうぞ私を蔑《さげす》まないで下さい、私は不当なおあしらひを受けると、それがどんな些細な事でも堪へられぬ性《たち》なのです。
オリヴィア 何処からおいでになりました?
ヴィオラ 予め覚えて来た事以外は答へられません、今の御質問に対する答へは私の役にはありません。お願ひします、あなた様がこのお邸の姫君でいらつしやるのかどうか、私が安心出来ます様、はつきりお教へ下さい、さもないと先へ進めません。
オリヴィア では、あなたは役者なの?
ヴィオラ いいえ、さすがに鋭いお見透し、と申上げたい処ですが、さういつまでも私をおからかひになつていらつしやりたいなら、それならここで申上げて置きませう、私が今演じてゐるこの役、それは本当の私ではありません。が、あなた様はこのお邸の姫君、さうでいらつしやいませう?
オリヴィア ええ、身分を隠さずに申上げれば。
ヴィオラ いいえ、まだ身分を隠しておいでになる、もしあなた様がこちらの姫君でいらつしやるなら、なぜと言つて、さうでございませう、当然、誰方《どなた》かにお与へになるべき御自分、それをお与へにならぬのは、何処かへ御自分を隠しておいでだからです。でも、これは役目以外の差出口、それよりも先づ姫君礼讃の御挨拶を申述べ、その後で肝腎のお言附《ことづ》けをお伝へ致しませう。
オリヴィア その大事な用件を先に言つて頂戴、お讃《ほ》めの言葉は略して下さつて結構。
ヴィオラ 何といふ事を、それを覚えるのに大骨折りを致しましたのに、なかなか詩的に出来てをります。
オリヴィア それでは、なほさら信用出来ない、どうぞ蔵《しま》つて置いて。実はさつき門の前で大口叩いてゐる男がゐると聞いたので、さういふ珍しい物は出来るだけ見て置きたいと思つてお通ししただけの事、お話を伺ふ積りは少しもありません。もしあなたが気違ひでないなら、早く帰つて頂戴、もし理性があるなら、極く簡単にお願ひします、月は人の心を狂はせると言ふけれど、今の私はどうやらその気《け》も無ささう、気違ひじみた話のお相手はとても勤りさうにもありません。
マリーア (ヴィオラが手に持つてゐる帽子を指差し)さ、そろそろ帆をお揚げになつたら? 風はあちらへ吹いてゐる。(戸を開けて、ヴィオラを突出さうとする)
ヴィオラ (抵抗して)待つてくれ、甲板洗ひの舟乗り君、こちらはもう少しここに碇《いかり》を降してゐたいのだ……お願ひです、姫君、この大女に暫く足枷でも嵌めて置いて下さい!
オリヴィア さ、おつしやつて、御自分の思つてゐる事を。
ヴィオラ いいえ、私は唯の使者に過ぎません。
オリヴィア きつと何か恐しい事を言ひ出すに違ひない、それを持出すまでの手続があんなに凄《すさま》じいのだもの。さあ、言附かつて来た事をおつしやつて。
ヴィオラ それは姫君のお耳にだけ。と申して、開戦の合図に伺つたのでもなければ、降伏の勧告に参つたのでもありません、手には平和の標《しるし》オリーヴを掲げ持ち、言葉は実に穏かで真《まこと》が籠つてをります。
オリヴィア でも、今、あんな手荒な真似を。一体、あなたは誰方《どなた》? 何の用でここへ?
ヴィオラ 手荒な真似とおつしやいますが、それも余りにひどいおもてなしに、唯受けて立ちましただけの事。私が何者か、何の用で伺つたか、それは乙女の操と同様、本人だけにしか解りません、姫君のお耳に這入れば神の声とも聞えませうが、他の人に聞かれれば忽ち穢《けが》れてしまひます。
オリヴィア では、私達二人だけにして置いておくれ、神のお声を聞かせて頂きたいから……(マリーア、侍者達退く)さあ、そのお告げといふのは?
ヴィオラ 世にも麗しき姫君、――
オリヴィア 耳を擽《くすぐ》る様なお告げ、この調子では、色な事が伺へさう。で、そのあなたのお言葉の本文《ほんもん》は何処にありますの?
ヴィオラ オーシーノー公のお胸の内に。
オリヴィア あの方のお胸の内に! では、その第何章に?
ヴィオラ 敢へて申上げれば、その心臓の第一章に。
オリヴィア ああ、それで読めました、それこそ邪《よこしま》な教へ。おつしやりたい事はそれでお終ひ?
ヴィオラ お願ひです、一目、お顔を拝ませて下さい。
オリヴィア そんな事を公爵がお命じになりましたの、私の顔と話を附けて来いなどと? あなたはどうやら御使者として脇道に逸《そ》れておしまひになつた様ね、でも、この帳《とばり》を開き、中の絵姿をお見せ致しませう……(ヴェイルを外し)さ、御覧になつて、これが紛れも無い私の似姿――今描上げたばかりの処! 良く出来てゐるとお思ひにならない?
ヴィオラ この上も無い素晴しい出来です、もし神が手を下した時そのままのお姿なら。
オリヴィア 使つた絵具がいいので決して剥げません、たとへ雨風に曝《さら》されようとも。
ヴィオラ 何たる美しさ、正に配合の妙、白と紅《くれなゐ》の見事な調和は造化の神が巧みに腕を揮つて描上げたもの、姫君、あなたほど酷いお方はいらつしやいますまい、もしこの様な麗しきお姿をそのまま墓場に納め、跡継ぎをお残しにならぬお積りなら。
オリヴィア いいえ、私はそれほど頑《かたくな》な心の持主ではございません、自分の美しさは一から十まで箇条書にして残して置きます、家財道具同様、その補足として遺言状に明細書を附けて置けばいい、一つ、かなり紅味を帯びた唇二片《ひら》、一つ、灰色の瞳二つ、いづれも目蓋附き、一つ、首、顎、それぞれ一箇、その他といふ具合に。処で、あなた、こちらへいらつしやつたのは私の品定めの為なの?
ヴィオラ どうやらあなたのお人柄は解りました、大層誇りの高い方でいらつしやる、が、たとへあなたが悪魔の様に傲慢であらうと、お美しい事には変りは無い……私の主人の公爵はあなたをお慕ひしてをります、ああ、その想ひの激しさと来たら、たとへあなたがこの世に類ひ無き美人であらうと、果してそれに報いる事がお出来になるかどうか!
オリヴィア 私をお慕ひになつていらつしやるとおつしやいますけれど、それはどんな風に?
ヴィオラ この世の物ならず崇《あが》め尊び、目には涙を浮べ、雷の様に大きな呻き声を挙げ、吐く溜息は焔さながらといふ有様。
オリヴィア 公爵は私の気持を御存じ無いらしい、私はあのお方をお慕ひする気にはどうしてもなれません、勿論、徳の高い立派なお方とは思ひます、御領地も広く、御気質も清く正しく、お年もまだ若くていらつしやる、世の取沙汰も宜しいし、学はおありだし、それに自由闊達、勇気に富み、その優雅なお姿は一点非の打ち処も無い、それなのに、あのお方をお慕ひする気にはどうしてもなれません、さういふ私の気持はとうにお伝へしてある筈なのに。
ヴィオラ いえ、仮りに私が主人の恋の焔に取り憑かれ、同じ想ひをあなたに寄せたとしたなら、そしてあの様に悶え苦しみ、生きながら死んだも同然の日を送る様な羽目になつたら、その様にお断りになつた処で、こちらはそれとは気附きますまい、何の事やらさつぱり解りますまい。
オリヴィア まあ、それなら、どうするお積り?
ヴィオラ 片想ひの標《しるし》の柳の枝で御門前に掘立小屋を造り、お邸《やしき》に向つて吾が魂にも等しき姫君の名を呼び立て、蔑《さげす》まれた恋の切ない唄を作り、たとへ真夜中であらうと、大声張上げ、それを歌つてお聴かせします、それ処か、姫君のお名を辺りの山も響けとばかり呼び立て、おしやべりの空気のこだまに乗せて叫ばせませう、「オリヴィア!」と。ああ、さうして、この天地の間に姫君が落着いてお休みになれる所が無い様にして見せます、私がかはいさうだといふお気持をお起しになるまでは。
オリヴィア どうぞ御勝手に、御両親は何処の誰方?
ヴィオラ 今よりはましな身分の者でございます、が、今のままで十分満足してをります、公爵にお仕へする者の一人として。
オリヴィア では、その公爵のもとへお帰りになつて、私はどうしてもあの方をお慕ひする気にはなれません、これ以上御使者は御無用とお伝へ下さいまし、尤も――ひよつとして――公爵が私の言葉をどうお取りになつたか、それをお伝へになる為、あなたをお寄越しになるなら、また別の話だけれど……では、これで、お骨折には感謝します、これは私の気持だけ。(金を渡す)
ヴィオラ 私はこのお使ひだけに傭はれた者ではございません、その財布はどうぞお納め下さいます様に。報いを得られなかつたのは、この私ではなく、主人の方でございます。この上は恋の女神にお願ひしたい、今後、姫君が誰方かをお慕ひになる様な時が来ましたら、その方の心を石の様にして下さいます様、そして火と燃ゆる姫君の情熱が、私の主人のそれと同じく世にも冷たくあしらはれます様に! では、御機嫌宜しう、こよなく美しい酷いお方。(去る)
オリヴィア 「御両親は何処の誰方?」「今よりはましな身分の者でございます、が、今のままで十分満足してをります、公爵にお仕へする者の一人として」……さう、確かにその通り! あの弁舌、容貌、姿形、心ばえ、物腰、どれ一つ取つても、そこらの只者とは大違ひ……いえ、早まつてはいけない、落着いて! 落着いて! 主人と家来とが入替らない限り、どうにもならないもの……(考へ深く)何といふ事だらう! こんな事があるのかしら、忽ち病気に取憑かれてしまふなどと? どうやらあの若者の一点非の打ち所の無い美しさが、自分でも気の附かぬうちにそつとこの目から心のうちに忍び込んでしまつたのだらう……それなら、どう足掻いても仕方無い……さうだ、一寸、マルヴォーリョー!
マルヴォーリョーが戻つて来る。
マルヴォーリョー はい、姫君、何なりと御用をお申附け下さいまし。
オリヴィア 今ここにゐた公爵のお使ひ、それ、あの怒りぽい田舎者を直ぐ追掛けておくれ、この指輪を無理やり押附けて行つたのだよ、でも、こんなものは要らないと言つてやつておくれ。好い加減な事を言つて公爵の御機嫌を取結んだり、徒《あだ》な望みをお懐《いだ》かせしたりしない様にと言つておやり――私には全然そんな気は無いのだもの、もしあの男があすにでもここへ来る気があるなら、その訳を事細かに言つて聴かせてやりませう……さ、急いで、マルヴォーリョー。
マルヴォーリョー はい、畏りました、早速その様に。(急ぎ去る)
オリヴィア 自分にも解らない、私は一体どうしようといふのだらう、この目に欺かれて、心がすつかり乱れてしまつたのかも知れない……かうなつたら、もう運命の神様任せ――自分で自分の始末が附けられないのだもの――これが身の定めとあれば、その通りにするしか法は無い、何事も成行きに任せませう! (退場)
6
〔第二幕 第一場〕
アントーニオー家の戸口
アントーニオーとセバスチャン登場。
アントーニオー いつまでも泊つてはゐられないとおつしやるのですね? 一緒にお伴も出来ないのですか?
セバスチャン お許し下さい、お断りします、私の星は暗い、その運命の禍ひがあなたまで巻き添へにしかねません、それ故お願ひするのです、この辺でお別れして、自分の不幸は自分一人の肩に背負つて行きたい、あなたに少しでも御迷惑をお掛けしたのでは、これまでの御好意に対して申訳ありません。
アントーニオー それにしても行先位お教へ下さい。
セバスチャン いや、それも申上げられない、旅とは言ふものの、今の処、何処といふ当てもありません。しかし、お見受けした処、あなたは節度を弁へた方だ、私が隠して置きたい事を無理に引き出さうとはなさらない、ですから、礼儀としてこれだけは申上げて置きたい……実は、アントーニオー、私の名はセバスチャンです、今までロダリーゴーと偽名を使つてをりましたが。私の父はメサリーンのセバスチャンです、その名は多分お聞き及びの事と思ひます。父の死後に残つたのが私と妹、しかも同時に生れた双子《ふたご》です、出来る事なら、あの時、二人一緒に死にたかつたのですが! が、あなたのお蔭でさうはならなかつた、あなたはあの荒波から私を救ひ出して下さつたが、その前に妹は溺れ死んでしまつたのです。
アントーニオー 何とも申上げ様が無い!
セバスチャン 妹は私に似てゐるとよく言はれましたが、それはともかく美人だといふ評判でした、私はさうまで讃《ほ》めちぎる気にはなれませんが、唯これだけは誰憚る処なく断言出来る――あれの気立てに関する限り、どんなに猜《そね》み深い人間でも貶《けな》す事は出来なかつたものです……それがもう潮に流されて死んでしまつた、が、それよりもつと塩辛い私の涙がまたもあれを押し流して溺れ死にさせてしまひかねない。
アントーニオー 御滞在中、碌なお持成《もてな》しも出来ず、申訳ありませんでした。
セバスチャン おお、アントーニオー、私こそ御迷惑をお掛けしました、お許し下さい。
アントーニオー お世話をしたのが迷惑だ、顔も見たくないとおつしやるならともかく、さもなければ旅のお伴をさせて下さい。
セバスチャン けふまで尽して下さつた御親切を帳消しにしてしまはうといふお気持でなければ、いや、折角助けて下さつたものを今度は殺してやらうといふお積りでなければ、どうぞそんな事はおつしやらないで頂きたい。さう、もうお別れしませう。私の胸は切ない想ひで一杯です、気の弱い母親宜しく、一寸した事で直ぐにもこの目に涙が……(両人手を握り合ふ)実はオーシーノー公爵のお館に伺ふ積りでをります――では、これで! (去る)
アントーニオー 神の御加護を! オーシーノーの所には俺の敵が沢山ゐる、さもなければ、直ぐにも会ひに行きたいのだが、いや、どんな目に遭はうと、君には惚れ込んでゐる俺だ、となれば、危険は遊びも同然、よし、附いて行つてやらう。(家に入る)
7
〔第二幕 第二場〕
オリヴィアの邸近く、街なか
ヴィオラが出て来る、その後をマルヴォーリョーが追つて出る。
マルヴォーリョー (追附いて)一寸お伺ひしますが、あなたはつい今しがたオリヴィア姫をお訪ねではなかつたかな?
ヴィオラ はい、つい今しがた。それから別に急ぎもせず普通の並足で真直ぐここまで参つた処です。
マルヴォーリョー (鋭く)姫君の御命令でこの指輪はお返しします、先程、持つて帰つてくれさへしたら、こんな手間を掛けずに済んだものを。更に姫君にはかうおつしやつておいでだ、公爵の御希望に添ふ事は絶対に出来ないとの事、それにもう一つ、あなたもこの件に関しては二度とお出でにならぬ様にとの事、但し、それについて公爵がどうお考へ遊すか、その辺の消息を聞かせて下さる為なら、話はまた別だとおつしやつておいでだ……(指輪を差出し)さ、これをお受取り願ひませう。
ヴィオラ 姫君は指輪をお受けになつた……私としては今更それを受取る訳には行きません。
マルヴォーリョー 何を言ふ、あなたは無礼にも姫君に向つてそれを投げ附けた、そこで今度は姫君のお言附けとして、かうして返してやらうといふものだ、(ヴィオラの脚下に指輪を投げ附ける)屈んで拾ふ値打のあるものなら、それ、直ぐ目の前にある、それだけの値打も無いものなら、行きずりの者に拾はせたらいい。(去る)
ヴィオラ 指輪など置いては来なかつた、姫君は何を考へていらつしやるのかしら? ああ、この私の変装があの方の心を捉へたのでなければいいのだけれど! さう言へば、じつと私の顔に見とれていらつしやつた、その為、目と舌とがまるでちぐはぐ、おつしやる事がしどろもどろだつたもの……あの人は私を恋してしまつたのに違ひ無い――その恋心が生んだ計《はかりごと》、きつとさうよ、あんな野蛮な使者を寄越して私の気を引かうとしてゐるのだ……公爵から指輪など頂きません! まあ、何といふ事を、公爵は指輪も何も差上げなかつたのに……あの人の狙つてゐる男は私なのだ――もしさうなら、さう、この通り私は男だもの、もしさうなら、かはいさうに、あの人は夢に恋をした方が余程まし……他人に姿を変へる、それこそ悪魔の常套手段、悪企みに長《た》けた連中はその手でどんな事でもやつてのける。真心など一片《かけら》も無い美男子が蝋の様に柔い女の心に、自分の姿形を焼き附けるのは訳も無い事! ああ、それもたわいの無い女心のせゐ、でも、私達が悪いのではない、もともとさういふ風に出来てゐるのだもの、私達、女といふものは……それはともかく、一体どうなるのだらう? 公爵は姫君を深く想つておいでになる、そしてこの私は、(ああ、男と女の化物)それが公爵をこんなにも深くお慕ひしてゐる、その上、姫君は私を男と思込んで恋ひ焦れてゐるらしい、一体どうなるのだらう? 私は男なのだもの、公爵の心を捷《か》ち得る事など逆立ちしても出来つこ無い、でも、私は女なのだもの――かはいさうに!――オリヴィア姫の洩らす溜息にどう応へられるといふのだらう? ああ、時を待つしかない、これをほごすのはお前の役目、私には何も出来ない、随分入組んだ縺《もつれ》だもの、私に解ける訳が無い。(去る)
8
〔第二幕 第三場〕
オリヴィアの邸内の一室
食卓と長腰掛、その上に杯、冷肉、その他。
トービー・ベルチ、アンドルー・エーギチークの両騎士が酔払つて登場。
トービー (食卓に附き)さあ、来た、サー・アンドルー、(アンドルーよろめきながら近寄る)真夜中過ぎてもまだ起きてゐるといふのは、早起きしたのと同じ事だ、「早起きは健康の因《もと》、」こんな事はお前さんにも解つてゐるだらうが、――
アンドルー (トービーの傍に腰掛け)いや、とんでもない、俺には解らない、だが、俺にだつて解つてゐる事がある、それは、遅くまで起きてゐるといふ事は遅くまで起きてゐるといふ事だ。(食ひ始める)
トービー (酒瓶を取上げ、それが空《から》である事を発見し)問題にならん、さういふ考へ方は空徳利同様、糞喰《くそくら》へだ。真夜中過ぎまで起きてゐて、それから床に這入るとなれば、夜明け前に起きてゐた事になる、それなら、真夜中過ぎに寝るのは早起きなりといふ事になる。処で、俺達の生命は土と水、火と風の四元素から成り立つてゐるのだらう?
アンドルー (口一杯に食物を頬張りながら)うむ、さういふ事になつてゐるらしいな――だが、実際は飲む事と食ふ事で成り立つてゐると思ふのだがね。
トービー お前さんはなかなかの学者だな、さうと決れば、大いに飲み、且つ食ふ事にしようぜ。(大声で喚き)おい、マリアン! 酒を持つて来い!
道化が這入つて来る。
アンドルー 阿呆が来たぞ、それ。
道化 (二人の間に腰掛け)これは、これは、お二方! 処で、「三人、似た者同士」といふ絵看板を見た事がおありかな?
トービー よくぞ御入来、阿呆殿。さて、尻取唄でもやらかすか。
アンドルー 実際、この阿呆はいい咽喉を持つてゐるからな。俺は四十シリング出しても惜しくないね、この阿呆の様な細《ほつそ》りした脛《すね》、それにあのいい声を俺のと取換へつこして貰へるなら。処で、ゆうべの洒落は実に巧かつたな、名医ピグログロミタスとか、キューバスの赤道を通過するヴェイピアンズ星座とか、感心したよ、全くの話……情婦《いろをんな》にくれてやる様にと六ペンスやつたつけな――ちやんと渡してやつたかい?
道化 その半端な御祝儀、こちとらが頂戴して置いたよ、何しろ、マルヴォーリョーは始終目を光らせてゐるし、吾が愛する女人は一寸贅沢と来てゐるし、行き附けのマーミドンズ亭はそこらの一杯飲屋と訳が違ふからね。
アンドルー 上出来、上出来! 謂はば、最高の洒落と言ふべきものだ。さ、今度は唄を頼む。
トービー それ、六ペンスやる。唄を聴かせてくれ。
アンドルー 同じく俺も、さあ、取つて置け、苟《いやしく》も騎士たる者が六ペンス出したからには――
道化 恋の唄がお望みかね、それともお祭り唄がいいかね?
トービー 恋の唄がいい、恋の唄だ。
アンドルー さうよ、決つてゐる。政《まつりごと》の唄など真平だ。
道化 (歌ふ)
おいおい、おいらの情婦《いろをんな》、何処へおいでか、ちよいとお待ち、
こちとらお前に首つたけ、唄なら何でもお手のもの、
たつぷり聴かせて進ぜよう。
急ぐにや及ばぬ、別嬪《べつぴん》さん、ここで遭つたが百年目、
お前はおいらの腕の中、〓《もが》こと足掻《あが》こと、放しやせぬ、
通なら誰でもお見透し。
アンドルー 実に巧い、感心した!
トービー 巧いものだ。
道化 (歌ひ続ける)
恋とは何ぞや、今が花、いつまで咲いてるものぢやない、
手に手を取り合ひ楽んで、笑ひさざめき、気もそぞろ、
どうなる事やら、その先は。
待つてるだけでは実らない、何をぐづぐづしてゐやる、
さあさあ、おいらに跳び附いて、雨と霰《あられ》の口づけを、
若さは忽ち朽ち果てる。
アンドルー 声のいい事、正に蜜の如しだ、騎士の名に賭けて断言する。
トービー それに、かの息たるや、正に疫病やみの如しだ。
アンドルー さうだ、至極とろりとしてゐて、しかも疫病やみそつくりと来てゐる。
トービー もし声が鼻で聴ければ、あの唄には何とも言へない臭い甘味があるかも知れないな……どうだ、一つ、大空の星まで一緒に浮かれ出す様などんちやん騒ぎをやらかさうか? 梟《ふくろふ》の奴がびつくりして目を廻す様な銅鑼声《どらごゑ》を張上げて、皆で尻取唄でも喚き散らすとしようか、お祈り好きな織匠《おりこ》が胆を潰す様な奴を? どうだ、一つ?
アンドルー 吾輩を喜ばせてくれようといふ気なのかい、それなら大いにやらかさうではないか、吾輩、尻取を歌はせたら、誰にも引けは取らない。
道化 その通り、塵取りを持たせたら誰にも引けは取らない。
アンドルー さうとも……さてと、今日の尻取は例の「こん畜生め」といふ奴にしよう。
道化 「黙れ、こん畜生め」といふのかね? さうなると、あなたに向つて、心ならずも「こん畜生め」と怒鳴り附けなければならなくなりますぜ。
アンドルー 吾輩、心ならずも自分の事を「こん畜生め」と怒鳴り附けさせた事は、これまで何度もある。さ、始めた、阿呆、「黙れ」だ、「黙れ」だ。
道化 黙つてしまつたのでは、始めようにも始められませんや。
アンドルー これは参つた! さ、始めてくれ。(三人、尻取唄を始める)
マリーアが酒を持つて登場。
マリーア まあ、まるで猫の様にぎやあぎやあ騒いで! 今にもお嬢様が執事のマルヴォーリョーをお寄越しになつて、あなた方をお邸の外に追ひ出しておしまひになるに決つてゐる。
トービー お前さんの言ふ「お嬢様」なるものは俺達を追払ふ為の出しに過ぎない、処が、俺達は駆引の達人、マルヴォーリョーに至つては案山子《か か し》もいい処さ、となれば、
(歌ふ)「こちとら三人、陽気な一組。」
おい、俺は親戚ではないのかい? 血が繋《つなが》つてゐる筈ではなかつたかい? ふざけるな! 「お嬢様」だと!
(歌ふ)「その昔、バビロンに名高き男、住みにけり、
妻なるは、眉目《みめ》麗しきスーザンナ、
それ、嬢様、嬢様!」
道化 何といふ事だ、こちとらのお株を取られてしまつた。
アンドルー うむ、乗つて来ると、結構やるよ、吾輩だつてやる事はやるがね、尤も彼奴の方が巧い、吾輩のはもつと素朴なのだ。
トービー (歌ふ)「おお、時は師走《しはす》の十二日、」――
マリーア お願ひだから、静かにして。
マルヴォーリョー登場。
マルヴォーリョー 皆さん、気でも狂つたのですか? 一体、何事です? 分別も作法も体面も、どうでもいいとおつしやるのか、こんな真夜中にまるで鋳掛屋宜しく喚き立てるとは? ここは姫君のお邸、それを居酒屋とでも心得ておいでなのですか、職人ではあるまいし、何の憚る処も無く大声を張上げて尻取唄など歌つておいでになる? 場所と言ひ、時間と言ひ、それにお人柄もありませう、その点、皆さんは何の弁へもお持ちにならぬのですか?
トービー 時の刻みは心得てゐる、さもなければ、唄の拍子が狂つてしまふ。黙れ、くたばり損ひめ!
マルヴォーリョー サー・トービー、では、はつきり申上げませう。これは姫君のお言附《ことづ》けです、姫君にはあなた様を御親戚とお思ひになればこそ、何かと御面倒を見ていらつしやいましたものの、日頃の乱暴狼藉には何の関《かかは》りも無いとの事。もしあなた様がその不行跡ときつぱり縁を切つて下さるなら、快くお邸に留《とどま》つても頂きませうが、もしそれが厭だ、姫君と手を切つても平気だとおつしやるなら、姫君としても喜んでお別れの御挨拶をなさいませう。
トービー (マリーアに向つて歌ふ)「それなら別れよ、いとしの君よ、いづれは出て行く身の定めなりや。」(マリーアを抱く)
マリーア いけません、サー・トービー。
道化 (歌ふ)「さう言ふその目が悲しく陰《かげ》る、いづれは死に行く身の定めなりや。」
マルヴォーリョー 何の因果でこんな目に?
トービー (歌ふ)「それでもおいらはまだまだ死ねない。」(大地に倒れる)
道化 (歌ふ)「さういふトービー、それ、もう立てない。」
マルヴォーリョー 全く御立派な事で。
トービー (立上りながら歌ふ)「ここらで、そろそろ、追払はうか?」
道化 (歌ふ)「それからお後は、どうなるかいな?」
トービー (歌ふ)「ここらで、そろそろ追払はうか? 後は野となれ、山となれ。」
道化 (歌ふ)「いや、いや、いけない、そりやいけない、何ぼ何でも出来つこ無い。」
トービー (道化に)おつと、それでは拍子が合つてゐないぞ! それに、出来つこ無いのはお前さんの事だ、俺なら出来る……(マルヴォーリョーに)おい、お前は唯の執事だらう? 自分の品行が正しいからといつて、この世に酒も菓子も必要ないとでも思つてゐるのかい?
道化 全くだ、それに、薑《しやうが》を薬味に一杯ぐつとやらかす位、大目に見て貰ひたいね、さうすれば、口はかつとするし、下腹はぽうつとするといふ訳でさ。
トービー 正にその通り……さあ、その鎖をパン屑で磨いて来な……酒だ、酒だ、マリーア! (マリーア、皆の杯に酒を注ぐ)
マルヴォーリョー メアリさん、もし姫君の折角の御寵愛を蔑《ないがしろ》にする気が無いなら、そんな乱行の火に油を注ぐ様な真似はしないが宜しい、やがて姫君のお耳に這入るに決つてゐる。(出て行く)
マリーア お嬢様に精尻尾を振るがいい。
アンドルー 空《す》き腹《ばら》に一杯やらかすくらゐ、この世の極楽はあるまいが、ああいふ奴に決闘を申込んで、こちとらは雲隠れ、蔭でさんざん阿呆扱ひしてやるのも結構楽しからうぜ。
トービー そいつはいい。果状《はたしじやう》は俺が代りに書いてやる、それともお前さんがかんかんになつて怒つてゐるといふ事を口頭で伝へてやつてもいい。
マリーア サー・トービー、今夜の処は我慢して頂戴、けふ、公爵様の若い方がお使ひにお見えになつてからといふもの、お嬢様と来たら、すつかり落着きを無くしておしまひになつたのですもの。マルヴォーリョーさんの事は私に任せて、ええ、大丈夫、もし私があの人を騙して皆さんの慰み物に出来ない様な女なら、独りで寝床へ這入るだけの智慧も無い能無しと思つて下さつて結構、ええ、自信は大あり。
トービー 教へてくれ、教へてくれ、彼奴の事なら何でもいい。
マリーア さうね、あの人、時清教徒みたいになりますの。
アンドルー ふむ、さうと知つたら、犬宜しく打ちのめしてくれたものを。
トービー 何だと、清教徒なら打ちのめしてやる? ほう、何か特別の訳があるのかい、お前さんには?
アンドルー 特別の訳は何も無いけれど、訳なら十分ある。
マリーア 正直の話、清教徒の何のと筋の通つた男ではありませんの、その場、その場で時の花を挿《かざ》しにする気取屋の驢馬、馬鹿丁寧な言葉遣を覚え込んでゐて、べらべら喋りまくつたりする、その上、大層な自惚屋《うぬぼれや》で、自分では美徳の塊だと思ひ込んでゐるものだから、誰でも自分を一目見れば忽ち惚れ込んでしまふと信じてゐるのですよ、だから、その弱点を利用して、見事仕返しをしてやらうといふ寸法なの。
トービー 何を考へてゐるのだ?
マリーア あの人の通りさうな処に曖昧な恋文を落して置くのです、その中に、鬚の色とか、脚の恰好とか、歩き方とか、それから目つき、額、顔の色とか、どうしてもこれは自分の事だと思はずにはゐられない様な事を書き込んで置く。それに、私、お嬢様の筆蹟をそつくりそのまま真似られます、暫く前に書いた物など、どちらが書いたのか、区別が附かない位。
トービー 素晴しい! お前さんの企み、どうやら臭つて来たぞ。
アンドルー 俺も鼻がむずむずして来たよ。
トービー 奴《やつこ》さん、そのお前さんが落して置いた手紙の筆蹟を見て、こいつはてつきり姪が寄越したものと思ひ込む、そして姪に惚れられたと思ひ込む、さういふ段取りだな。
マリーア まあ、大体そんな処ね、この羂《わな》にうまうま嵌り込んでくれればいいのだけれど。
アンドルー うまうま嵌り込めば、彼奴、馬から驢馬に転落だ。
マリーア 細工は流、炉端で一杯やりながら待つていらつしやいまし。
アンドルー うわあ、そいつはありがたい。
マリーア 気晴しとしては天下一品、見てゐて頂戴、私の処方箋はよく効きましてよ。あの人が手紙を拾ふ時は、お二人に立会つて頂きます、それから阿呆にもね、そしてあの人が手紙をどう受取るか、その時の顔色を見逃さない様に……今夜は、これで寝《やす》みませう、先の事は夢の中のお楽しみ……では、皆さん、これで。(去る)
トービー お寝み、アマゾンの女王。
アンドルー 全く大した女だ。
トービー あれは兎狩り用の小さな猟犬といふ処だ、毛並みも良し、しかも俺にぞつこん惚れ込んでゐる……おい、どうしたものだらう? (溜息を吐く)
アンドルー さういへば、俺も惚れられた事があつたつけ。(溜息を吐く)
トービー 寝る事にするか……それにしても、お前さん、もつと金を取寄せなければならないぞ。
アンドルー もしお前さんの姪御が物に出来ないとなつたら、俺はどうにも首が廻らなくなるよ。
トービー 何より金を取寄せる事だ、もし姪がお前さんの物にならなかつたら、この俺を畜生とでも何とでも怒鳴るがいい。
アンドルー さう怒鳴らずに置くものか、それでお前さんがどう思はうと、こちらの知つた事ではない。
トービー さあ、行かう、これから熱燗でもう一杯やらかすとしようぜ、寝るにはもう遅過ぎる、さあ、旦那、一緒に来た、一緒に。(一同退場)
9
〔第二幕 第四場〕
イリリア公爵宮殿内の一室
公爵、ヴィオラ、キューリオー、その他登場。
公爵 (ヴィオラに)何か唄を聴かせてくれ……それ、あの――(楽士達登場)早くから、よく来てくれた……サゼーリオー、それ、あの唄がいい、ゆうべ聴かせてくれた古風な昔の唄だ、どうやらあの唄のお蔭でこの胸の結ぼれも大分解きほごされた、例の陽気な早調子の、言葉に技巧を凝《こら》した奴よりずつといい。さあ、頼む、一節だけでも。
キューリオー 真《まこと》に申訳ございませんが、あれを歌へる者が只今ここにはをりませんので。
公爵 歌つたのは誰だな?
キューリオー フェスティと申す者でございます、オリヴィア姫の父君が大層かはいがつておいでになつた道化でして。或は今頃、お館の近くをうろついてゐるかも知れませぬ。
公爵 直ぐ探して来い、その間、何か一曲頼む。(キューリオー退場、音楽が始る)さあ、ここへ、サゼーリオー――もしお前が誰か人を恋する様になつたら、その甘い悩みの一息毎に、この俺を想出《おもひだ》してくれ、いや、必ずさうなる、真の恋に悩む者は、誰も皆この俺の通りになるのだ、いつも心に恋する者の姿を追ひ求め、他の事となると全く落着きを失ひ、始終、空《うつ》ろな心を懐き続けてさまよひ歩く……どうだ、この曲は気に入つたか?
ヴィオラ 恰《あたか》も木霊《こだま》の様に胸底の恋の玉座を震はせます。
公爵 味な事を言ふ。賭けてもいい、お前はまだ若いが、その目は既に誰かをいとほしく思ひ、夢に逢瀬《あふせ》を楽しんだ事があるに違ひ無い、きつとさうであらう、サゼーリオー?
ヴィオラ はい、仰せの通りで。
公爵 どんな女だな、相手は?
ヴィオラ 御前に良く似てをります。
公爵 それでは恋するほどの相手でもあるまい。年はどの位だ?
ヴィオラ 御前と同じ位でございます。
公爵 年を取り過ぎてゐる、何といふ事だ、女は自分より年上の男を夫に迎へた方がいい、その方が巧く行く、夫の機嫌を取りながら、自分の思ふままに夫を操れるといふものだ、いいか、サゼーリオー、男は誰しも男の美点を自慢しがちなものだが、先づは女よりも浮気で気の変り易いものと決つてゐる、狂気の様に恋ひ焦れもしようが、それ、男心と秋の空、忽ち秋風が吹きそめる。
ヴィオラ おつしやる通りでございます。
公爵 それなら、自分より年下の女をかはいがるがいい、さもないと、お前の愛情は決して長保《ながも》ちしない、女は薔薇の花の様なもので、美しく開いたと見る間に忽ち散つてしまふものだからな。
ヴィオラ 確かにその通りでございます、残念ながら、その通りで、花はその盛りを誇る正にその時凋《しを》れ始めるもの!
キューリオーが道化と共に戻つて来る。
公爵 おお、お前か、ゆうべの唄を頼む……聴け、サゼーリオー、古い素朴な唄だ、日の光に温《ぬくも》りながら糸を紡《つむ》いだり編物をしたりする女達や、或は織匠《おりこ》の無邪気な娘達がよく歌ふ唄だ、素朴なものだが、その間《かん》に真実が窺はれ、無垢の恋を偲ばせる、昔の鄙《ひな》びた人情さながらに。
道化 宜しうございますか?
公爵 さあ、頼む、歌つてくれ。(音楽)
道化 (歌ふ)
おいらはいつでも待つてゐる、死ぬのが何で辛からう、
死んだら冷たい糸杉の柩がおいらを待つてゐる、
おいらはいつでも待つてゐる、死ぬのが何で辛からう、
酷《むご》いあの子に殺される、酷いあの子に殺される、
経帷子《きやうかたびら》に水松《いちゐ》を差して、おいらの死ぬのを、
待つてておくれ!
本気で恋して、本気で惚れて、おいらは悔いない、
恐れもしない。
花など撒くなよ、止しとくれ、おいらの柩にや勿体ない、
黒布一枚あればいい、ほかには何も要りはせぬ、
友達や来るなよ、止しとくれ、おいらの死骸にや勿体ない、
挨拶無用、墓など訪ねておくれでない、
役にも立たない溜息吐息、おいらは沢山、
真平御免、
本当の恋に悩む男は、おいらを偲んで、
泣かずにおくれ。
公爵 (金を渡し)さ、これは骨折賃だ。
道化 骨折とはとんでもない、唄は手前の道楽でして。
公爵 では、その道楽の報いだ。
道化 成るほど、道楽に耽れば、いづれは報いありといふ訳でございますね。
公爵 まあ、その辺でお引取り願ふとしよう。
道化 では、憂鬱の神様に御前をお預けするとしませう、それから仕立屋に頼んで、幾色にも変つて見える交ぜ織りの胴着を作つてお貰ひなさいまし、そのオパールそつくりの変り易いお気持にぴつたり合ひませう。かういふ風に気の変り易いお人は船旅をさせるに限るんですがね、したい事は何でも出来る、風向き次第で何処へでも行ける、揚句、空手で帰つて来るのが船旅の面白さでございますからね……では、これで失礼を。(去る)
公爵 他の者も退《さが》つてくれ……(キューリオー、その他の侍者退場)頼む、サゼーリオー、もう一度あの酷い姫の所へ使ひに行つてくれぬか、そして、よくよく伝へてくれ、この身の気持は世の在り来りのものとは違ふ、姫の広大な領地も所詮は汚い泥土《どろつち》に過ぎぬ、受け継いだ財産も大した物とは思つてをらぬ、唯、自然が腕を揮つて彫り上げたあの姫の美しい姿だけはこの世の物とも思はれぬ、それが私の心を惹き附けるのだ。
ヴィオラ しかし、姫君のお心がどうしても御前を受け容れられぬとなれば?
公爵 その様な返事一つで引下る訳には行かぬ。
ヴィオラ それは御無理と申すもの。譬へば、ある女性《によしやう》が、それが誰にもせよ、御前をお慕ひ申上げ、御前がオリヴィア姫を恋ひ焦れておいでの様に身も世も無く悶え苦しんでゐると致します、でも、御前は、その女の心をお受け容れになる訳には参りますまい、で、さうお答へになる、相手としては引下る他《ほか》ございますまい?
公爵 女の胸の内に、この身のそれの如き激しい情熱の火が燃え滾《たぎ》つてゐよう筈が無い、もともと女の心臓は大きくはない、激しい愛情を懐き続けるだけの力が無いのだ。情けない事に、女の愛情は精食欲程度だ――肝臓の働きほど強くはない、舌先の味に酔うてゐるだけの事――直ぐ飽きてしまつて、見るのも厭だといふ事になる、が、この身の愛情は海の如く餓ゑてゐる、幾ら呑み込んでも、片端から消化してしまふのだ。何処やらの女がこの身に対して懐く愛情と、この身がオリヴィアを想ふ気持と、同日に論じてくれるな。
ヴィオラ しかし、私の知つてをります限り――
公爵 どうだといふのだ?
ヴィオラ 女が男に対して懐く愛情も同じ事、その真心にかけては私達に少しも劣りは致しません。父には娘がございましたが、それがある男に恋ひ焦れてをりました、もし私が女でございましたら、あんな風に御前をお慕ひ申上げた事でございませう。
公爵 その妹の恋といふのは、もう少し詳しく話を聴かせてくれぬか?
ヴィオラ 何の話もございません、妹は自分の想ひをつひに口には出さなかつたからでございます、蕾のうちに潜む虫が薔薇の花弁《はなびら》を蝕む様に、頬は蒼ざめ、血の気を失ひ、それでも自分の想ひを秘め通したのでございます、悩み、苦しみ、病み窶《やつ》れながら、それでも妹は耐へ忍ぶ沈黙の彫像さながら、いつも悲しげな頬笑みを湛へてをりました。これこそ本当の恋ではございますまいか? 私達男は思つた事を直ぐ口へ出し、思切つた事を申します――しかし、見せ掛けほどには実意が無い、誓つたほどには情が無い、その様に思はれます。
公爵 で、お前の妹はその恋が因《もと》で死んだのか?
ヴィオラ 父にとつては、今では私だけ、他に娘も息子もをりませぬ……でも、まだはつきりした事は……(二人、考へ込む)御前、姫君の所へお使ひに行つて参りませうか?
公爵 (はつとして)さうだ、その話だつた。急いで行つて来て貰はう、この指輪を渡してくれ、そして、かう伝へるのだ、こちらは決して諦めぬ、如何なる拒絶にも耳を藉さぬとな。(二人退場)
10
〔第二幕 第五場〕
オリヴィアの邸に続く庭園
石垣に囲まれてをり、戸口が二つあつて、一つは庭外に、一つは邸内に通じてゐる。後者の戸口に至る道は広い遊歩道路になつてをり、大きな黄楊《つ げ》の木の並木、石垣の近くに石の椅子が一つ。
邸の戸が開き、トービー・ベルチ、アンドルー・エーギチークの両騎士が出て来る。
トービー (後を振向き)さあ、附いて来られい、フェイビアン殿。
フェイビアン (二人の後から出て来ながら)勿論、お伴させて頂きますとも、話によりけり、これほどの気晴しを一寸でも見逃す様な私なら、いつそ鬱《ふさ》ぎの虫の冷水《ひやみづ》で煮殺された方がましでございます。
トービー あのけちな下劣極る狡賢《ずるがしこ》い助平野郎に赤恥掻かせてやらうといふのだ、どうだ、一寸は面白いとは思はないかい?
フェイビアン 胸がどきどきしてをります、といふのは、御存じの通り、熊苛《くまいぢ》めの一件であの清教徒先生に憎まれ、お嬢様の御不興を買つた事がございますので。
トービー また奴を怒らせる為に、熊を引張り出して来よう、そして思ふ存分、奴を慰みものにして、大いに楽しまうではないか――どうだ、サー・アンドルー?
アンドルー そこまでやつてのけなくては、後で幾ら悔しがつても間に合はないやね。
マリーアが歩道伝ひに急いで現れる。
トービー それ、そこにちびの悪党殿がやつて来る……やあ、どうだね、吾が金むくの才女殿?
マリーア さ、皆さん、黄楊《つ げ》の木の蔭に隠れて、今、マルヴォーリョーがこちらへやつて来る処よ、あの人、もうさつきから半時間ほど、日なたで自分の影法師に向つてお辞儀の稽古をしてゐましたつけ、まあ、見ていらつしやい、いい慰み物の種にして御覧に入れますから、そら、この手紙、これを読んだら、頭の中が妄想で一杯になる。さ、早く隠れて、たつぷり楽しませて差上げる! (男達黄楊の木蔭に隠れる)いいかい、そこでじつと待つてゐるのだよ(手紙を投げ捨て)……御主人大事の鱒が一匹やつてくる、それをいい気にならせて釣上げるのだから。(邸の中に入る)
マルヴォーリョーが羽毛を飾つた帽子を被り、物思ひに沈みながらやつて来る。
マルヴォーリョー 運次第だ、何事も運一つで決る……マリーアの話によると、お嬢様はこの私に思召《おぼしめ》しがあるといふ、私自身、お嬢様がそれに近い事をお仄《ほのめか》しになつたのを耳にした覚えがある、恋をするなら、私の様な相手がいいとな……それに、お嬢様は御家中の誰よりも私を大切に扱つて下さる……さて、これをどう考へたものかな?
トービー 思上りにも程がある!
フェイビアン まあ、静かに! あの思ひ詰めた様子、まるで七面鳥宜しく膨《ふく》れ上つてゐる。どうです、あの気取つた歩き方は、それ、羽毛を逆立てて!
アンドルー 畜生め、打撲《ぶんなぐ》つてやりたい!
フェイビアン 静かにと申上げたでせうが。
マルヴォーリョー さうなると、愈マルヴォーリョー伯爵だ!
トービー ええい、ごろつきめ!
アンドルー 短銃で撃ち殺してしまへ。
フェイビアン 静かに、静かに!
マルヴォーリョー 例の無い話ではない、ストレーチ家の姫君が衣裳係と一緒になつた事がある。
アンドルー 畜生、この色気違ひめが!
フェイビアン まあ、静かに! それ、すつかり嵌《はま》りこんでしまひましたぜ、御覧なさい、あれを、夢ですつかり膨れ上つてしまつてゐる。
マルヴォーリョー 一緒になつて三月も経てば、あの伯爵の椅子に納りかへつて――
トービー おい、弩《いしゆみ》は無いか、彼奴の目玉に一発打込んでやるのだ!
マルヴォーリョー 模様入りのビロードのガウンを着用に及び、家来共を呼びつける、こちらは今寝椅子から起上つて来たばかりといふ処だ、まだ眠つてゐるオリヴィアをそつとそのままそこに残してな――
トービー 燃えさかる地獄の業火の真只中に叩きこんでやりたい!
フェイビアン まあ、静かに、静かに!
マルヴォーリョー それから身分高き者にふさはしく尊大に構へ、辺りを見廻し、かう言つてやる、この身は己れの身分を心得てゐる、同様、その方達もそれぞれ身分を弁へてゐて貰ひたい、処で、吾が親族のトービーを呼んで来てくれぬかとな――
トービー 奴に足枷を嵌め、牢屋に打込んでしまへ!
フェイビアン まあ、まあ、静かに、静かに! さう興奮なさらないで。
マルヴォーリョー すると、家来が七人、俄かに畏れ謹み、あれを探しに出て行く、吾輩は暫し顔を顰《しか》めたままでゐる、それから、まあ、時計の螺子《ね ぢ》でも巻くか、それとも、この(執事の標《しるし》である鎖に触れ)――いや、鎖などではない、何か素晴しい宝石をまさぐる……そこへトービーが現れ、吾輩に向つて恭《うやうや》しくお辞儀をする――
トービー この野郎、これでもこのまま生かして置かなくてはいけないのか?
フェイビアン 静かに、たとへ八裂き、車引の拷問に遭はされようと、ここは黙つて引込んでゐなければいけません。
マルヴォーリョー 吾輩はあの男にかうして手を差し延べる、いつもの笑顔など何処へやら、峻厳な目差しを以て相手を睨み附ける――
トービー そしたら、その「トービー殿」、お前さんの鼻面に一撃お見舞ひ申すといふ段取りになるか?
マルヴォーリョー それから、かう言つてやる、「吾が叔父御のトービー殿、この度、運命の命ずる処、あなたの姪御とこの身と、かくして縁組み相整ひし上は、その特権を以て一言申上げ置きたき儀あり」――
トービー 何だと、何だ、それは?
マルヴォーリョー 「といふのは、今後、泥酔酩酊、一切御遠慮願ひたいといふ事だ。」
トービー 黙れ、下司野郎! (マルヴォーリョー、声の方に振向く)
フェイビアン お願ひだ、我慢して下さい、さもないと、折角の筋書が台無しになつてしまひます。
マルヴォーリョー 「しかも、その上、さる頭の足りぬ騎士と相交り、大切な時間を浪費しておいでだ」――
アンドルー あれはきつと俺の事だ。
マルヴォーリョー 「かのサー・アンドルーといふ男の事だが」――(落ちてゐる手紙に気附く)
アンドルー さうだと思つてゐたよ、皆が俺の事を足りない、足りないと言つてゐるものな。
マルヴォーリョー (手紙を拾ひ)これは一体如何なる物件かな?
フェイビアン 山鴫《やましぎ》め、愈羂《わな》に掛りますぜ。
トービー おい、静かに! 悪戯《いたづら》の神よ、手を貸し給へ、彼奴が声を出して手紙を読んでくれます様に!
マルヴォーリョー おお、これは紛れも無い、お嬢様の手だ、このcは正にお嬢様の筆癖、このuもさうだ、tも、それに大文字のPなど、いつもかうお書きになる。疑ふ余地は全く無い、これはお嬢様のお書きになつたものだ。
アンドルー cもuもtもお嬢様のだとさ、だから、どうしたと言ふのだ?
マルヴォーリョー (上書を読む)「さる恋しきお方に、心を籠めて」……如何にもお嬢様らしい言葉遣ひだ! さて、失礼仕る、封蝋殿。待つた!――この封蝋に捺《お》してあるルークリースの肖像も、日頃お嬢様がお使ひになるものだ、もうこれで確かだ……処で、この手紙の相手は誰だらう? (封を切る)
フェイビアン これで愈骨抜きになりますぜ。
マルヴォーリョー (読む)
神のみぞ知り給ふ、吾が恋は、
されど誰を恋すてふ?
口黙《もだ》し、な語りそ、君が名は!
世の人の口の端にのぼすまじ。
「世の人の口の端にのぼすまじ」……その次は? ここから後は調子が変つてゐるな……(考へ込む)「世の人の口の端にのぼすまじ」――もしその相手がお前だつたら、マルヴォーリョー!
トービー ええい、畜生、穴熊め!
マルヴォーリョー (読む)
何の因果ぞ、吾が心より崇《あが》むる人を召使ふ、
その苦しみは人には告げず、ルークリースの剣のごと、
無慙なるかな、血こそ流れね、吾が胸深く突き刺さる、
M・O・A・I、この四文字こそ、吾が生涯を定むらむ。
フェイビアン 判じ物にしても大げさ過ぎる!
トービー 大したものだ、あのあまつちよめ。
マルヴォーリョー 「M・O・A・I、この四文字こそ、吾が生涯を定むらむ」か。――いや、待てよ、先づ、さて、さて、さてと。
フェイビアン あの女、随分凄《すさま》じい毒を盛つたものだ!
トービー そいつをまた、あの阿呆鷹め、慌てふためいて引攫《ひつさら》はうとしてゐる!
マルヴォーリョー 「何の因果ぞ、吾が心より崇むる人を召使ふ」と来た……成るほど、吾輩はお嬢様の召使だ、吾輩はお嬢様にお仕へしてゐる、お嬢様は吾輩の御主人だからな……成るほど、人並みの脳味噌を持つた人間なら、誰にも解り切つた話だ。これに関する限り、別に問題は無い。処で、結びの一節だ、このアルファベットの並べ方にはどういふ謎が隠されてゐるのだらう? これが何処かで吾輩に通じる点があれば、これほど有りがたい話は無い! 落着いて、落着いて! M・O・A・Iと――
トービー おお、そこだ、ええい、そいつを繋げて見るのだ――奴《やつこ》さん、少しは臭つて来たらしい。
フェイビアン 阿呆犬ですから、直ぐに吠え立てるでせう、獲物の兎の匂ひを忘れ、狐の後を追掛けて。
マルヴォーリョー Mか――マルヴォーリョー――Mと――成るほど、これは吾輩の頭文字だ。
フェイビアン 今、言つた通り、狐の後を追掛け始めたでせう? ああいふ犬に限つて、一旦、方向を間違へると、如何にも尤もらしく筋を通すものですよ。
マルヴォーリョー Mと――だが、その後がどうも納得行かない、Aと来なければならぬのだが、それがOになつてゐる。
フェイビアン それに、とどの詰りは、おお、情けなやといふ事になるのさ。
トービー さうとも、さもなければ、棍棒で奴を叩きのめして、「おお、御勘弁を!」と悲鳴を挙げさせてやる処だ。
マルヴォーリョー その後がIとなつてゐる。
フェイビアン 愛も恋もあるものか、もしお前さんに後を見る目があつたなら、目先の仕合はせより、脚下《あしもと》の愛の羂に気附いてもよささうなものだがな。
マルヴォーリョー M・O・A・Iと……この謎は確かに前のより解りにくい、しかし、一寸捻つて考へて見れば、狙ひはすべて吾輩にある、どれもこれも吾輩の名に出て来る文字だからな。おや! お次は散文と来た……
(読む)「この書面、万一御身の手に入りし場合は、よくよく御熟慮願ひたし。吾が身の星は御身より上にあり、されど、身分に物怖《ものお》ぢし給ふ事勿れ、生れながらにして身分高き者あり、己が力により高き身分に達する者あり、或は偶《たまたま》高き身分を授る者あり。御身の運命神は両の腕《かひな》を開いて御身を待つ、されば毅然としてその胸に身を投じ給へ、いづれは己が物となり得べき地位に御身の心を馴すべく、願はくは卑屈の殻を脱ぎ捨て、新しく生れ変らん事を。敢へて親戚の者に逆らひ、召使共には常に気難《きむづか》しき面持もて対せられよ、儀式張りたる事柄を絶えず声高に喚き散らし、また並の者とは異れる非凡の人と見做《みな》さるる様、心掛けられたし。以上、御身を慕ひ焦るる者よりの忠告なり。なほ、今後は黄色の長靴下を着用に及び、十文字の靴下留を使用し給ふ様、心より願ひをる者の胸の内を夢忘れ給ふ事勿れ。御身にその望みあらば、そは忽ち達せらるべく、その望み無き時は、今までと同じく召使ふ者の一人たる執事として扱ふ他無く、運命の女神の指に触るるに値せざる者と諦むべし。さらば、これにて。御身と主従の身分を変へん事を願ひつつ、幸《さち》多き薄幸の女より」
真昼間の野原にしても、これほど空《あ》け放しではない、正に一目瞭然だ。これからは傲然と構へる事にしよう、政治学の勉強もしてやらう、サー・トービーを眼下に見下してやるのだ、詰らぬ奴等の相手など、もうしてやるものか、何から何まで御注文通りの男になつて見せるぞ。想像通り突走つた処で、馬鹿を見る気遣ひは絶対無い、この手紙、一言一句、どう考へて見ても、お嬢様はこの私に首つたけだものな。さう言へば、いつぞや、お嬢様は私の黄色い靴下が気に入つたとおつしやつた、それに十文字の靴下留を称《ほ》めておいでだつた、だから、この手紙で恋を打明け、謂はば命令に事寄せ、御自分の好み通りの姿をさせようとなさつてゐる訳だ。私は自分の星に感謝する、私は仕合はせな男だ……よし、一風変つた処を見せてやらう、横柄に構へ、直ぐにも黄色い靴下に穿き換へ、十文字の靴下留を附けるのだ。ジュピターに、それから私の守り星に礼を言ふぞ! さうだ、まだ追伸が残つてゐた。
(読む)「この手紙の主はやがて御身の知る処とならむ。もし吾が想ひを受容れ給はば、頬笑みもて応へられたし、頬笑みこそ御身に似つかはしきものなればなり。吾が前に在る時は常に笑顔を見せ給はらむ事を、これ、切なる吾が願ひなり。」
ジュピター、吾が感謝の心を受け給へ! (両手を天に差上げる)笑つて御覧に入れますとも、その他何でも思召しとあらば、必ずそれにお応へ申上げませう。(邸内に入る)
フェイビアン こんな面白い事はない、たとへペルシア王が何千何万の年金をくれるから、せめてこの私の分だけでも譲つてくれとおつしやらうが、決して手放す気にはなれませんや。
トービー 俺はあのあまつちよを嫁に貰つてもいいな、こんな仕掛を思ひつくとは全く大した女だ――
アンドルー 俺もあの女なら嫁に貰つてもいい。
トービー 持参金など一文も要らん、もう一丁こんな悪戯の筋書を組立ててくれさへしたらな。
アンドルー それなら、俺だつて持参金など一文も要らん。
マリーアが邸の中から出て来る。
フェイビアン それ、あそこに椋鳥《むくどり》に羂を仕掛ける名人がやつて来ました。
トービー おい、その足で俺の首根つ子を踏附けてくれんか?
アンドルー 頼む、俺のもさうしてくれんか?
トービー それより、俺の自由を骰子博打《さいころばくち》の賭物にし、とことんまですつてしまつて、お前さんの奴隷にでもして貰へないか?
アンドルー 俺もさうして貰へないか?
トービー それ、あの野郎、お前さんに嬉しい夢を見させて貰つたものの、それが醒めたら、気が狂つてしまひかねないぜ。
マリーア まあ、どんなでした、本当の事をおつしやつて、薬は効いたかしら?
トービー 効いたとも、取上げ婆《ばば》あが空腹《すきつぱら》に駆け附け三杯といふ処さ。
マリーア この悪戯の刈入れが御覧になりたければ、あの人がこの次始めてお嬢様の前に姿を現す時を決してお見逃しにならない様に、あの人、きつと黄色い靴下を穿いて来るから、それがまたお嬢様の一番お嫌ひな色なの、十文字の靴下留も大のお嫌ひ、その上、あの人、一所懸命笑顔を見せようとするでせう、けれど、それが今のお嬢様の御気分には合はないと来てゐる、お嬢様は喪中で気が沈んでいらつしやるのですもの、ですから、あの人、御機嫌を損じるに決つてゐる、それが御覧になりたければ、私に附いていらつしやい。
トービー 地獄の門まででも附いて行くぜ、この悪魔顔負けの狡賢い女め!
アンドルー 俺も仲間に入れて貰はう。(一同邸内に入る)
11
〔第三幕 第一場〕
前場に同じ
道化が笛と小太鼓を持つて登場、楽器を奏し始める。一曲終つた処へ、ヴィオラが外から這入つて来る。
ヴィオラ やあ、元気で何より、それにそのお前さんの楽器にも御挨拶申上げる、お前さんは太鼓を叩いて暮しを立ててゐるのかね?
道化 いいえ、私は教会が無ければ、一日として暮しが成り立ちません。
ヴィオラ では、お前さんは神父さんかね?
道化 とんでもない、手前は教会が無ければ暮して行けないと申しただけの事、詰り、私は自分の家で暮してをりますが、その家が偶《たまたま》教会の側《そば》にあるといふ訳でして。
ヴィオラ その手で行くと、王様も乞食女がゐなければ、一日として生きて行かれないといふ事になる、偶乞食が宮殿の近くに住んでゐるとなればな、同様、教会はお前さんの太鼓が無ければ成り立たないといふ事になる、もしお前さんがその太鼓を教会の側に置いておけばな。
道化 巧い……何といふ世の中だ! 近頃、利口な手合にとつては、言葉は伸縮自在の仔山羊の手袋同然――あつと言ふ間に裏返しにされてしまふ!
ヴィオラ 全くその通りだ、言葉を玩具にして楽しんでゐる連中に遭つては、どんな言葉も忽ち穢《けが》されてしまふ。
道化 ですから、私の妹には名前など無い方がよかつたと思つてゐる位でして。
ヴィオラ それはどういふ訳だ?
道化 訳も糞もありませんや、宜しいか、妹の名前は言葉で出来てゐる、それを玩具にされた日には、妹は忽ち穢れてしまひまさ……それにしても、言葉といふ奴、全く頼りにならないものになつてしまひましたよ、誰も彼もが誓ひの大廉売をやらかして来たお蔭でね。
ヴィオラ どうしてだ?
道化 それ、その理由は言葉無しでは説明出来ない、然るに、その言葉がこれほど信用出来ないものになつてしまつたのでは、それを使つて説明しようといふ気にもなれませんや。
ヴィオラ お前さんは極楽蜻蛉《とんぼ》の苦労知らずだな。
道化 それは違ふ、これでも色苦労の種はありまさ、但し、あなたの事では何も苦労などしませんや、もしそれだけで苦労知らずと言へるなら、あなたのほかに苦労の種は無いといふ事になる、それならさつさと何処かへ消え失せて貰ひたいものですね、さうすれば、文字通り全くの苦労知らずで過せますからね。
ヴィオラ お前さんはオリヴィア姫の阿呆ではないのかい?
道化 いいえ、決してそんなものではない、あのお嬢様には阿呆な処など毛ほどもありはしませんからね、それに、お嬢様はまだ結婚していらつしやらないので、亭主と称する阿呆を飼つてはおいでにならない、左様、阿呆と亭主と相似たるは、正に鱒と鮭との相似たるが如しでさ――尤も亭主の方が大きいがね。といふ訳で、手前がお嬢様の阿呆などとは、とんでもない、時駄洒落を飛して、お相手を勤めてゐるだけの話で。
ヴィオラ ついこの間、オーシーノー公爵のお館で見掛けた事があつたな。
道化 それは、阿呆はお日様と同じで、何処へでも顔を出しますし、一寸でも顔を覗かせれば、直ぐ目立つてしまひますのでね。これはどうも止むを得ない事で、私の姫君の所ばかりでなく、あなたの御主人様の所へも、ちよいちよい出入り致します、私も確かに才気煥発のあなた様をお見掛けしてをります。
ヴィオラ その調子でこの私まで一本参らさうといふ積りなら、もう相手は御免だ。さ、これを、ほんの飲代だ。(金を渡す)
道化 (掌の上の金を見詰めながら)この次、ジュピターが人間界に毛をお下げ渡しになる時は、どうぞそれをあなた様の顎に!
ヴィオラ 正直の話、その鬚を物にしたくて堪らない想ひをしてゐるのだ――(傍白)といつて、私の顎に生えたら大変だけれど。処で、姫君は奥においでかね?
道化 (なほ掌の金をじつと見詰めながら)これにもう一枚掛け合はせたら、子を生むものでせうかな?
ヴィオラ 生むとも、二枚一緒にして誰かに貸して利子を取ればいい。
道化 ここは一つ取持役のパンダラスの役をやりたい処だね、自分の姪のクレシダをトロイラスに取持つてたんまり儲けたいものですよ。
ヴィオラ 解つた、解つた、貰ひ方までなかなか凝つてゐる。(再び金を掌に載せてやる)
道化 といつて、大した物を貰つた訳ではない、ただ物貰ひを貰つただけの話でさ、クレシダはトロイラスを裏切つて、キューピッドの罰を受け、物貰ひに身を落したさうですからね。はい、お嬢様は奥にいらつしやいます。あなたが何処からお出でになつたか、行つてお伝へして参りませう、但し、あなたが誰なのか、何の用で見えたか、それは私の管轄外――謂はば余の関知せざる処なりだ、が、こんな言葉はもう古いかな。(邸内に入る)
ヴィオラ あの人、頭がいいのだ、あれだけ阿呆の役が勤まるのだもの、結構、智慧を働かせなければ出来るものではない、相手をからかつてゐながら、その相手の気分や人柄の見分けが附き、時と場合を弁へてゐなければ勤まるものではない、野生の鷹の様に、目の前にどんな鳥が飛出して来ても、臨機応変、忽ち引攫《ひつさら》つてしまはなければならないのだもの。これも立派な技術、骨の折れる点では、智慧を備へた人の学問と同じ事、当意即妙に阿呆口を叩くのは、聴いてゐて胸がすく、その反対に、結構、智慧者と思つてゐた人が阿呆な真似をすると、もうどうにも取返しが附かなくなる。
トービー・ベルチ、アンドルー・エーギチークの両騎士が出て来る。
トービー ようこそ、お客人。
ヴィオラ 何とぞ宜しく。
アンドルー (頭を下げ)御身の上に神の御加護のあらん事を、謹んで祈り奉る。
ヴィオラ (頭を下げ)御同様、御身の上にも、忠実なる御身の僕《しもべ》として。
アンドルー いや、はや、これは恐れ入る――こちらも喜んであなたの僕になる。
トービー 処で、貴下は邸内御侵入を御希望なのでござらう? 姪は喜んでお迎へすると申してをる、尤も御用の趣が姪に関《かかは》り無いとあらば、それはまた別の話。
ヴィオラ いや、姪御こそ当方の目的地。言ひ換へれば、姪御は吾が船旅の目ざす最後の港。
トービー ならば、貴下の脚をお試し願ひたい、先づそれを動かして見られい。
ヴィオラ 私の脚は私の気持を十分理解してをります、が、それを改めて試して見よとの仰せ、その御気持のほど、ちと理解致しかねますが。
トービー いや、いや、私が申上げたかつたのは、お歩きになる様にといふ意味で、どうぞ奥へお通り下されい。
ヴィオラ 通り一遍の御挨拶かも知れませぬが、先づは仰せの通りに――いや、その必要は無くなりました。
オリヴィアがマリーアを連れて邸から出て来る。
ヴィオラ 一点、非の打ち処無き姫君、何とぞ天があなた様の上に香高き雨を注がせ給ふ様!
アンドルー この若いの、なかなかの伊達男だ――「香高き雨」と来た――こいつはいい!
ヴィオラ 御用の趣、ここでは何も申上げられませぬ、憚りながら姫君お一人のお胸にお納め頂く様、お心寛《ひろ》やかに特別のお計ひを。
アンドルー 「香高き」「お心寛やかに」「特別のお計ひ」と来た、三つともいつか使へる様に覚えて置かう。
オリヴィア 庭の木戸を閉めておくれ、それから私一人にして置いて……(トービー、アンドルーの両騎士、及びマリーア退場)さあ、お手を。
ヴィオラ (低く頭を下げ)御用がおありの節は何なりとお心のままに。
オリヴィア お名前は、何とおつしやるの?
ヴィオラ サゼーリオーと申します、召使同様に思召《おぼしめ》します様。
オリヴィア 私の召使! まあ、本当に厭な世の中だ事、見せ掛けの謙遜が礼儀として通るのだもの、あなたはオーシーノー公爵の召使だつた筈。
ヴィオラ しかし、公爵は姫君の召使、御迷惑であらうと、きつとさうなつて見せるとの仰せ、とすれば、姫君の召使の召使である私は当然、姫君の召使であるべき筈。
オリヴィア あのお方の事なら、私、何とも思つてをりません、同様、あのお方のお心も白紙のままでゐて下さればいいのに、私の名など書き散らしたりなさらずに!
ヴィオラ 姫君、私は主人の為、姫君のうちに、優しいお心を掻き立てに参つたのです。
オリヴィア まあ、待つて、お願ひ、二度とあのお方の事は口になさらないで、でも、誰か他の人の為に頼みがあるとおつしやるなら、それこそ宇宙を経巡る天体の奏でる楽の音、喜んであなたのお言葉に耳を傾けませう。
ヴィオラ 姫君、――
オリヴィア お願ひ、一寸お待ちになつて、この間の事は覚えておいででせう、あなたは私の心を迷はせてお帰りになつた、その後を追掛けて指輪を届けさせました、考へて見ると、あれは私自身を、使ひの者を、そして何より気懸りなのはあなたまで騙し弄《もてあそ》んだ事になる、さういふ私をあなたはきつと厭な女だと思つていらつしやるに違ひ無い、それこそ恥づべき企み、御自分の物でもない物を無理やり押し附けたりなどして、それをあなたはどうお考へになつていらつしやるのかしら? 熊苛《くまいぢ》めの時の熊宜しく、私の名誉を杭に縛り附け、酷《むご》いお心の思ひ附く限り、手厳しく責め立てずには置かないお積り? あなたの様な察しのいいお方にはとうに解つておいでの筈、私の心臓を蔽つてゐるのは、この衣裳ではない、透けて見える薄いヴェイル一枚だけ、さあ、お気持をありのままにおつしやつて。
ヴィオラ 御同情申上げます。
オリヴィア それは恋への第一歩。
ヴィオラ いいえ、そこにはつひに越え得ぬ溝があります、よくある事ですが、敵に対しても同情位は持てませう。
オリヴィア この分では、どうやら引揚げ時、もとの笑顔に戻りませう、ああ、何といふ世の中なのだらう、身分の低い者が大きな顔をする! 同じ餌食になるなら、狼よりは獅子の前に身を投げ出した方が、ずつとましではないかしら? (時計が鳴る)時計が私を叱つてゐる、無駄に時間を費すなと……御心配御無用、お若いお方、何もあなたを取つて食はうとは申しません、でも、年と分別とがいづれ収穫の秋を迎へる時が来る、さうすれば、あなたの奥様は立派な旦那様を刈入れるといふ訳ね、さ、出口はそちら、日は西に。
ヴィオラ では、テイムズ河の船頭宜しく、「西行きが出るよう!」と行きませう。天のお恵みを、御機嫌宜しう! 主人には何のお言附けも?
オリヴィア 一寸待つて、一言、言つて頂戴、あなた、私の事をどう思つてゐるの。
ヴィオラ それなら、お答へ致しませう、姫君はありのままの御自分とは異つた役を演じていらつしやいます。
オリヴィア もし私がさうなら、あなたにしても同じ事、ありのままの御自分とは異つた役を演じていらつしやる。
ヴィオラ 正にその通りにございます、私はありのままの私ではございません。
オリヴィア そして、出来れば私の思ひ通りのあなたであつて下さつたら!
ヴィオラ その方がありのままの私より宜しいといふのなら、それこそ私にとつても遥かに望ましうございます、寧《むし》ろ一刻も早くさうなりたい、かうして姫君の道化役を演じてをりますよりは。
オリヴィア ああ、どうしたのだらう、この人の唇を洩れる息は、どんな蔑《さげす》みも怒りも美しく見える! 人殺しの罪も秘めた恋ほど早く人目に附きはしない、恋する者にとつては夜も頼りにならない、昼同様に何も彼も曝け出されてしまふのだもの。サゼーリオー、春の薔薇に賭けて、乙女の操に賭けて、名誉、誠実、その他のあらゆるものに賭けて申します、私はあなたのもの、たとへあなたがどんなに冷たくても、ええ、さう、この私の想ひは分別や理性ではとても抑へ切れるものではありません。お願ひ、だからといつて、言ひ寄つたのは私の方、それに応へる理由は無いなどと理屈つぽい事はおつしやらないで、同じ理屈を通すなら、かうお考へになつて、求めて得た恋は忘れられない……が、求めずして得た恋はそれに優ると。
ヴィオラ 無垢の心に賭けて、若さに賭けて申します、私は一つの心、一つの胸、一つの誠実しか持つてをりません、そして、それは如何なる女性も自由には出来ません、しかも、それを左右し得る者はこの世に唯一人、私だけでございます。では、これでお暇《いとま》を、姫君! これが最後、二度と主人の涙の使者としてお伺ひする様な事は致しません。
オリヴィア でも、またいらつしやつて、あなたが御使者なら、今は煩はしいと思つてゐるこの心も、いつかは靡《なび》くかも知れません。(二人退場)
12
〔第三幕 第二場〕
オリヴィアの邸内の一室
トービー・ベルチ、アンドルー・エーギチークの両騎士、及びフェイビアン登場。
アンドルー いや、真平だ、俺は直ぐにも出て行く。
トービー どうしてだ、この怒りん坊め、訳を言へ。
フェイビアン 是非その訳を伺はせて下さいよ、サー・アンドルー。
アンドルー 言つてやらう、それはお前さんの姪だ、あの公爵の召使に対する態度が気に入らん、俺とは段違ひだ、俺は庭で現場を見てゐるのだぞ。
トービー その時、姪はお前さんのゐるのを見てゐたかい? そこが問題だ。
アンドルー 勿論さ、今、俺がお前さんを見てゐるが如しだ。
フェイビアン それなら、お嬢様があなたに気のある何よりの証拠だと思ひますがね。
アンドルー 何を抜かす! 俺を驢馬扱ひする気か?
フェイビアン とんでもない、筋道立てて証明して御覧に入れませう、判断力と理性に賭けて。
トービー その二つはノアが船に乗り込むずつと前、この世の始め以来の名陪審員だ。
フェイビアン お嬢様があなたの見てゐる前であの若僧をちやほやしたのは、それは何の事はない、あなたを怒らせる為ですよ、あなたの寝ぼけてゐる勇気を目醒めさせ、心臓に火を附け、肝臓を燃上らせようといふ魂胆に他ならない、そこで、あなたは当然、姿を現し、お嬢様の側《そば》へ行つて、今造幣局から出て来たばかりの慥《こしら》へ立ての金貨の様な、手垢の附かぬぴかぴかの洒落《しやれ》を一つ二つ叩き附けて、その若僧をぐうの音も出ないほどやつつけてやるべきでしたよ、お嬢様はそれを待つてゐたのだ、それがあなたのへまで拍子抜け、この折角の絶好の機会を見逃されたものだから、お嬢様はあなたにすつかり愛想を尽かしておしまひになつた、このまま放つておいたのでは、この間北の海に航海して名を挙げたオランダ人宜しく、お鬚に垂氷《つらら》が垂れてしまひますぜ、かうなつたら、何か余程派手な手でも使はなければ駄目ですな、勇気なり策略なり、どちらにせよ、お好み次第といふ事で。
アンドルー どうにかしなければならんといふ事になれば、勇気で行かう、策略など真平だ、策略を弄する位なら清教徒になつた方がまだましだ。
トービー さうか、それなら勇気を元手に一財産慥へる事だ。あの公爵の若僧に決闘を申込んで、十一箇所も手疵を負はせたらいい――さうすれば、姪も考へ直すだらう、言ふまでもないが、女の気を引く恋の取持役は、あの男、なかなか勇気があるといふ評判を取る事だ、世にこれに優るものは無い。
フェイビアン それ以外に手はありませんよ、サー・アンドルー。
アンドルー お前さん達のうち、どちらが俺の果状を持つて行つてくれるかね?
トービー さあ、威勢のいい字で書くのだ、怒気満、しかも簡潔にな、機智縦横などといふ事はどうでもいい、雄弁で創意工夫に富んでゐさへすれば、それで結構、言葉を総動員して嘲弄の限りを尽してやれ、「この野郎」などといふのは何度使つても構はない、紙一杯に嘘を並べ立ててやるのだ、その紙も出来るだけ大きいのがいい、それ、二十五人も一緒に寝られるといふあの有名なウェールの寝台のシーツ位大きい奴を使ふ気でな――さあ、やつつけるのだ。インクにはたつぷり苦味を効かせるのだぞ、たとへ臆病な鵞鳥のペンで書くにしてもな、さ、やつつけろ。
アンドルー 書上げたら、何処で会ふ?
トービー こちらからお前さんの部屋へ行く事にするよ、さ、さあ。(アンドルー退場)
フェイビアン あの人も、あなたに遭つては、まるで操人形同然ですね、サー・トービー。
トービー 当然だ、彼奴、大分儲けさせてくれたものな――二千ではきかない。
フェイビアン 素晴しい果状を見せて頂けませうよ……だが、それを本当に先様に持つていらつしやるお積りはございますまい?
トービー 持つて行かずに置くものか、何としてでもあの若僧を突つついて決闘を承諾させるのだ。とは言ふものの、首に縄をくつ附けて引きずつて行つても、あの二人を一緒に突き合はせる事は出来さうも無い。あのアンドルーにしてからがさうだ、まあ、一つ解剖でもして見な、奴の肝臓に血の気があつたらお慰み、あつたとしても、蚤の脚の錘《おも》りにするほどの量もあるまい、それより多かつたら、解剖の残りは俺が全部食つて見せら。
フェイビアン そのお相手の例の若僧にしても、あの顔ではとても残酷な真似は出来つこありませんし。
マリーアが腹を抱へて笑ひながら駆込んで来る。
トービー それ、そこへちびがやつて来る、鷦鷯《みそさざい》の一番後から生れた雛子《ひなつこ》宜しくだ。
マリーア さあ、お腹のよぢれるほど笑ひ転げたいなら、私の後に附いていらつしやい……あの間抜けのマルヴォーリョーが異教徒になつてしまつた、紛れも無い背教者に、なぜといつて、まともなクリスト教徒なら、正しい信仰によつて救はれたいと願ふ筈なのに、それが、とんでもない馬鹿な事を本気で信じ込んでしまつたのですもの……(笑ひを抑へ切れず)あの黄色い靴下!
トービー (叫ぶ)十文字の靴下留もか?
マリーア それも白昼堂と、教会附属の小学校の先生みたい……私、今までその後を附いて歩いてゐましたの、刺客の様に。あの人つたら、私が仕掛けた羂《わな》の手紙の文句通り何から何まで忠実に守つてゐましてよ、にやにや笑ひ崩れて、それがまるで新大陸のアメリカまで描き加へた近頃売出しの地図宜しく、顔中四方八方筋だらけ、誰方《どなた》もまだ御覧になつた事が無いほど珍無類……危く何かぶつけてやりたくなつた位、お嬢様のお目に触れたら、きつとひどい目に合はされる、でも、たとへぶたれても、あの人、にやにや笑つてゐるでせうよ、特別の御寵愛を被《かうむ》つた気持になつて。
トービー さ、連れて行つてくれ、早く、奴のゐる所へ。(一同、急いで退場)
13
〔第三幕 第三場〕
街なか
アントーニオーとセバスチャンが歩いて来る。
セバスチャン 吾から好んで御厄介を掛けたくはない、が、尽して下さるのが御自分の楽しみだとおつしやるからには、もうこれ以上何も申上げますまい。
アントーニオー ぼんやり手を拱《こまね》いて後に残つてゐる気にはなれなかつたのです、砥《と》ぎ立ての刃の如き願望が私を急《せ》き立てたとでも申しませうか、それも、ただ御一緒にゐたいだけではありません、成るほど、それだけでもどんな長い船旅も厭はずお後を追つて来た事でせう、が、それよりもあなたの身の上にどんな禍が起るか知れぬといふ不安の方が強かつたのです、何しろこの辺りには全く不案内なあなたの事ですから、いや、改めて申上げるまでもありますまいが、右も左も分らず、知人とて無い他処《よ そ》者《もの》となると、人はとかく乱暴や不親切を働きがちなもの、友情も友情、それこれ心配の種もあり、あなたの後を追つて来たのです。
セバスチャン 御親切に、アントーニオー、今の処、私には唯お礼を申上げる事しか出来ません、重ね重ねお礼を申上げます、折角の好意に対して鐚銭《びたせん》同様の挨拶でその場を糊塗する例がよくある、しかし、私の財力が私の良心ほど当てになるものなら、もつとましな御恩返しが出来たでせう……さて、これからどうしませう? この町の遺跡でも見物して廻りませうか?
アントーニオー それはあすにしませう――先づ第一に宿をお決めになる事です。
セバスチャン 私は疲れてはゐない、それに夜にはまだ大分間がある、一つ目の保養に、この町の有名な建物などを見て廻りませう。
アントーニオー それは御勘弁願ひませう、私には、この町を迂闊に歩き廻れぬ訳があるのです。過ぎた事ですが、ここの公爵の敵方に附いて海上で大暴れした事があり、それが今でもよく知れ渡つてゐるので、万一掴つたら、唯では済みますまい。
セバスチャン どうやら、この町の連中を大分、手にお掛けになつたらしい。
アントーニオー それほど血腥《ちなまぐさ》い罪を犯した訳でもありません、とはいへ、その場の成行き次第では、随分血腥い事にもなりかねませんでした、或は、その折、敵方から奪つた物を返してやりさへすれば、事は円く納つたかも知れません、この町との貿易上の都合から、私の町の者は大抵さうしました、独り私だけが頑張つた、ですから、ここで掴れば、それ相応の報復を受けませう。
セバスチャン それでは、余り大ぴらに出歩かぬ様になさるがいい。
アントーニオー おつしやる通りなのです……あ、一寸、この財布をどうぞ。(相手に渡す)南の町外れにエレファントといふ宿があります、泊るにはあそこが一番いい、予《あらかじ》め食事の準備はさせて置きます、それまで見物に暇を潰し、色知識を仕込んでお置きになるがいい、私はエレファントでお待ちしてをります。
セバスチャン なぜ私にこの財布を?
アントーニオー 何か一寸した物で買ひたい物が目に附かぬでもありますまい、その時の御用にそれを、あなたのお貯へではそんな無駄使ひの余裕はありますまい。
セバスチャン では、暫くお預り致します、一時間後にはまたお目に懸りませう。
アントーニオー エレファントですよ。
セバスチャン 覚えてをります。(互ひに反対の方角へ別れ去る)
14
〔第三幕 第四場〕
オリヴィアの邸に続く庭園
オリヴィアが物思ひに沈みながら登場、続いてマリーア。オリヴィア、椅子に腰を降す。
オリヴィア (傍白)あの人を呼びにやつたけれど、もし来ると言つたら、そしたらどういふ風にすればいいのだらう? 何を上げようかしら? 若いうちは言葉や約束より贈物で心を動かされるものだから。つい大きな声を出してしまつて……(マリーアに)マルヴォーリョーは何処にゐて? あの人はいつも真面目で物静かにしてゐてくれるから、今の私にはふさはしい相手――マルヴォーリョーは何処にゐるのかしら?
マリーア 直ぐいらつしやいます、でも、少し様子がをかしうございます。きつと気でも狂つたに違ひありません。
オリヴィア あら、どうかしたの? 何か戯言《たはごと》でも口走つたりするの?
マリーア いいえ、お嬢様、それが唯にやにや笑つてばかりゐるのでございます、お側へ参りましたら、十分お気を附け遊した方が宜しうございますよ、確かに頭がどうかしてをりますので。
オリヴィア さ、とにかく呼んで来て……
マルヴォーリョーがやつて来るのが見える。黄色い靴下と不恰好な靴下留をしてゐる。
オリヴィア 私もあの人同様、気が狂つてゐるのかも知れない、鬱《ふさ》ぐのも燥《はしや》ぐのも気違ひに変りがないとすれば。どうして、マルヴォーリョー?
マルヴォーリョー お嬢様、ほ、ほ、ほ、ほ、ほ。
オリヴィア 笑つておいでだね? 辛い事があるので来て貰つたのに。
マルヴォーリョー 辛い事とおつしやる? 私にとつても正にその通りでして、はい、この靴下留のお蔭で血液の循環が悪くなつて、脚がひどく痺《しび》れます――いえ、そんな事で凹《へこ》たれる私と思召しますか? これが誰方《どなた》かのお目をお楽しませ致しますなら、小唄にもございます通り、私にとつては、それ、「一人の楽しみや、皆の楽しみ」でございます。
オリヴィア まあ、どうしたの、お前? どうかしたのでは?
マルヴォーリョー いえ、心は黒く沈んではをりません、靴下は黄色うございますが……お手紙は確かに本人の手に届きましてございます、そして御命令通り実行致してをります。あのお美しいローマ字の書体は誰もが存じ上げてをりませう。
オリヴィア 少し横になつてゐた方がよくはなくて、マルヴォーリョー?
マルヴォーリョー 横になつて! はい、お嬢様、仰せの通り、お待ちしてをります。
オリヴィア かはいさうに! なぜさうにやにや笑つて、自分の手に口附けばかりしてゐるの?
マリーア 御機嫌如何、マルヴォーリョーさん?
マルヴォーリョー (蔑《さげす》む様に)ほう、お前さんが私に口をきく! 成るほど、ナイティンゲイルが燕烏《こくまるがらす》に返事をしないでもないからな。
マリーア なぜお嬢様の前で、そんな厚かましい馬鹿げた真似をなさるの?
マルヴォーリョー (オリヴィアに)「身分に物怖ぢし給ふ事勿れ」、なかなかの名文でございましたな。
オリヴィア それはどういふ意味、マルヴォーリョー?
マルヴォーリョー 「生れながらにして身分高き者あり、」――
オリヴィア え?
マルヴォーリョー 「己が力により高き身分に達する者あり、」――
オリヴィア 何を言つてゐるの?
マルヴォーリョー 「或は偶《たまたま》高き身分を授る者あり。」
オリヴィア 祈るしかない、どうぞこの人を正気にして下さいます様に!
マルヴォーリョー 「なほ、今後は黄色の長靴下を着用に及び」――
オリヴィア 黄色の長靴下!
マルヴォーリョー 「十文字の靴下留を使用し給ふ様。」
オリヴィア 十文字の靴下留?
マルヴォーリョー 「御身にその望みあらば、そは忽ち達せらるべく」――
オリヴィア 私の望みが達せられるのですつて?
マルヴォーリョー 「その望み無き時は、今までと同じく召使ふ者の一人として扱ふ他無し。」
オリヴィア 間違ひ無し、木芽時《きのめどき》で気が狂つたのよ。
召使の一人が邸の内より出て来る。
召使 オーシーノー公爵のお使ひの若い方が戻つてお出でになりました――やつとの事でお越し願へたのでございます、あちらでお待ち申上げてをります。
オリヴィア 直ぐ行きます。(召使退場)マリーア、この人の事、十分気を附けてね。トービー叔父様は何処かしら? 誰でもいいから、附き切りで面倒を見させて頂戴、私、財産の半分を捨ててもいいから、この人に間違ひの無い様にして貰ひたいの。(マリーアと共に邸内に入る)
マルヴォーリョー おお! やつとお解りになつたかな? 人もあらうに、叔父御のサー・トービーに私の面倒を見させようとおつしやる! これは正に手紙の文面通りだ――サー・トービーを呼びにおやりになつたのは、あの男を横柄に扱はせる為に間違ひ無し、手紙にさう書いてあつたからな。「願はくは卑屈の殻を脱ぎ捨て、」といふ訳だ、「敢へて親戚の者に逆らひ、召使共には常に気難しき面持もて対せられよ、儀式張りたる事柄を絶えず声高に喚き散らし、また並の者とは異れる非凡の人と見做《みな》さるる様、心掛けられたし」と、この後にさういふ時の素振りについて色注意が書いてあつたな、真面目臭つた顔、尊厳な振舞、ゆつくりした喋り様、如何にも身分ありげな態度、その他あれこれとな。もうこちらの物だ、万事、ジュピターのお蔭だ、改めて感謝を捧げます! それに、今お這入りになる時、お嬢様はかうおつしやつた、「この人の事、十分気を附けてね、」と、この人と来た! もうマルヴォーリョーではない、執事扱ひもしてゐない、俺は「この人」なのだ。どうだ、すべて辻褄《つじつま》が合つてゐる、これつぽつちも疑ひの余地は無い、これつぽつちのぽつちも無い、問題無しだ、疑つて掛る様な危い話ではない――何処に文句の附け様があるといふのだ?――吾輩とその素晴しい未来との間に紙一枚入り込む隙も無い。これもジュピターのお蔭だ、吾輩の与《あづか》り知らぬ事、何度でも感謝しますぞ。
マリーアが騎士トービー・ベルチとフェイビアンを連れて戻つて来る。
トービー 先づ十字を切つてと、その悪魔の野郎、何処にゐるのだ? たとへ地獄中の悪魔共が小さくなつて奴の体内に潜り込まうと、俺は平気だ、言ひたい事は言つてやるぞ。
フェイビアン ここにゐます、ここに……どうなさつたのです、マルヴォーリョーさん?
トービー どうしたのだ、貴様?
マルヴォーリョー 行け、用は無い、一人にして置いてくれ、さ、行けといふのに。
マリーア そら、あの空《うつ》ろな声、どうしたつて、この人の中に悪魔が潜り込んでゐるとしか思へない! だから申上げたでせう? サー・トービー、あなたに面倒を見てくれる様にと、お嬢様のお頼みなのですよ。
マルヴォーリョー あ、はあ! 正にその通り!
トービー 解つた、解つた、静かに、静かに、優しく扱つてやらなければいけない、俺に任しておけ。御機嫌如何だね、マルヴォーリョー? どうかしたのかい? おい、しつかりしろ! 悪魔などやつつけてしまへ、考へても見ろ、奴等は人類の敵だものな。
マルヴォーリョー 今、何と言つたか、自分で解つてゐるのかな?
マリーア それ、御覧なさい! 悪魔の悪口を言はれると、あんなに気を悪くする! どうぞ、神様、悪魔を追払つて下さいまし!
フェイビアン この人の小水を巫女《み こ》の所へ持つて行つて、占つて貰つたらいい。
マリーア 本当、是非さうしませう、直ぐあしたの朝にでも。お嬢様はどんな事があらうと、この人を止《や》めさせたくないとおつしやるのですもの、お返しに何をして差上げようと申上げても決してお聴入れにならないでせうね。
マルヴォーリョー おい、こら、女!
マリーア (息を呑み)まあ、何といふ事を!
トービー 頼むから、少し静かにしてゐてくれ、その手では駄目だ、解らんのかね、すつかり興奮させてしまつたではないか? いいから、俺に任せて置いてくれ。
フェイビアン 優しくしてやらなければいけませんよ、他に手は無い、優しくね、優しく、優しく、元来、悪魔といふのは乱暴なものです、しかも自分が乱暴に扱はれるのはお気に召さない。
トービー おい、おい、父ちやん! どうした、坊や?
マルヴォーリョー 何だと!
トービー こ、こ、こ、ぴよ、ぴよ、ぴよの雛鳥君、俺と一緒に来いよ。おい、君! 大人物たる者が悪魔相手に陣取り遊びなどしてゐる法は無い。ええい、勝手にしやがれ、この悪魔野郎!
マリーア お祈りがいい、サー・トービー、この人にお祈りをさせておあげなさい。
マルヴォーリョー お祈りを、この俺が、黙れ、売女《ばいた》!
マリーア これはどうにも手に負へない、神様の事など、とてもこの人の耳に這入りつこありませんよ。
マルヴォーリョー ええい、皆、くたばつてしまへ! 薄つぺらな頓馬野郎だ、お前等は――吾輩はお前等とは種が違ふ――いづれ思ひ知るだらう。(退場、一同、呆然としてその後姿を見送つてゐる)
トービー 前代未聞、こんな事があるものかね?
フェイビアン こんな事がもし芝居の中で起つたとしたら、嘘出たらめも好《い》い加減にしろと言つてやりたい処ですがね。
トービー 骨の髄まで羂《わな》に引掛つてしまひやがつたな。
マリーア それより、直ぐ後を、さもないと、筋書がばれて台無しになつてしまふかも知れない。
フェイビアン それ処か、本当に気が狂つてしまふかも知れないぞ。
マリーア さうなれば、お邸が静かになる。
トービー さ、奴を真暗がりの部屋の中に閉ぢ籠めて、ふん縛つて置かう。姪はあの男が気違ひになつたと信じ込んでゐるからな、さあ、その段取りで行かう、俺達にとつては慰み、奴にとつては懲《こら》しめ、そして俺達の気晴しに飽きが来て、奴《やつこ》さんがかはいさうになつて来るまではそのまま放つて置くのだ、愈その時が来たら、万事をお裁きの庭に持出し、あの気違ひの発見者としてお前さんに御褒美を貰つてやるよ……おつと待つた、あれを。
騎士アンドルー・エーギチークが手に手紙を持つて出て来る。
フェイビアン また一つお祭り騒ぎの材料が!
アンドルー 果状だ、読んでくれ、大分辛味を利かして置いた積りだがね。
フェイビアン そんなに絡んで大丈夫ですかね?
アンドルー 当り前さ! 奴さん、蒼くなるだらう、まあ、いいから読んでくれ。
トービー さあ、寄越せ。(読む)「青二才、汝、何者にてもあれ、いづれにせよ下賤の徒なり。」
フェイビアン 巧い、それに如何にも強さうですよ。
トービー 「驚く勿れ、魂消《たまげ》る勿れ、吾、何故、汝をかく罵倒せしかを、何となれば、その理由を明示するの気、更に無ければなり。」
フェイビアン 巧い言ひ廻しだ、さう断つて置けば、法律に触れずに済みますよ。
トービー 「汝、オリヴィア姫を訪れ、吾が目の前にて、姫の好遇を得、されど、汝は大嘘つきなり、とはいへ、それが為、吾、汝に決闘を申込むものに非ず。」
フェイビアン 簡にして要を得てゐる――(傍白)とは言へない。
トービー 「吾、汝の帰途を待伏せせんとす、汝、幸《さいはひ》にして吾を殺さば、」――
フェイビアン 成るほどね。
トービー 「汝の所業はごろつき、悪党のそれと異る事無し、」
フェイビアン また法律除けの用心がしてありますね、いや、結構。
トービー 「さらば、これにて、なほ、神、吾等両人の魂のいづれかに恵みを垂れ給はらん事を! 勿論、神は吾が魂の上に恵みを垂れ給ふべし、されど、吾は決して負けざるべし、汝、よくよく注意するにしかず。汝の出方如何にて、汝の友たるべく、また汝のしぶとき敵たるべきアンドルー・エーギチークより。」
これを読んで腹も立たない様な野郎では、脚も立ちつこ無いや、よし、俺が渡して来る。
マリーア 今が丁度いい時ですよ、あの方、お嬢様と何やら話をしておいででしたが、そろそろお引揚げになりませうから。
トービー おい、サー・アンドルー! 庭の隅で捕方宜しく見張つてゐな、彼奴の姿を見掛けるや否や、先づ剣を抜く、剣を抜くや否や、先づ怒鳴り散らす、わあわあがなり立てて景気好くやつた方が勝だ、実際の決闘よりその方で男を挙げた例がよくある。それ、行け!
アンドルー 大丈夫、うんとこさ怒鳴り散らしてやる。(外に通じる出口から退場)
トービー さてと、この手紙を相手に渡す訳には行かん、あの若いのはどう見ても才はあるし育ちもいいらしい、あれの主人と姪との仲立ちを頼まれてて往き来してゐる事から見ても察しは附く、して見ると、この無智蒙昧頗附《すこぶるつ》きの手紙を貰つた処で、相手はびくともしない、脳足りんが寄越した位にしか考へまい。そこでだ、俺は口頭で決闘を申込む事にする、エーギチークの野郎をこの上無しの使ひ手に仕立て上げるのだ、さうすれば、あの若僧、きつと真に受けるだらうから、エーギチークが凄い野郎で、腕もあり、それが猛烈に向つ腹を立ててゐると思込むに違ひ無い。それで双方共、ぶるぶる震へ上り、相手を見ただけでくたばつてしまふに決つてゐる、それ、あの体が蛇で頭が〓といふ怪物コカトリスに見入られた様にな。
オリヴィアとヴィオラが邸内から出て来る。
フェイビアン そこへあの男がお嬢様と一緒に――奴がお暇乞ひするまで放つて置いて、直ぐその後を追掛けるのですな。
トービー その間に相手を震へ上らせる様な決闘申込みの文句を考へて置く事にしよう。(トービー、フェイビアン、マリーアの三人は庭の奥へ引込む)
オリヴィア 私は立つ瀬がありません、自分の気持を石の様な心に向つてお喋りし過ぎました、うつかり吾を忘れ、体面も何も台無しにしてしまひました、内心、その罪を後ろめたく思つてをります、その癖、なほも罪を重ねたい気持が激しく動き、後ろめたさなど吹飛んでしまひさう。
ヴィオラ その姫君の心の鬱さが、そのまま私の主人の悲しみと同じもの。
オリヴィア これを、私をかはいさうと思つて、せめてこの宝石を身に附けてゐて、これは私の絵姿、お願ひ、お断りにならないで、唯の石ですもの、あなたを困らせる様な事は何も申しません、そして、出来れば、またあしたお越しになつて。あなたが欲しいとおつしやるものを、それが何にせよ、この私がお断りするかしら、ただ私の顔さへ立てて下されば、何でも差上げようと思つてをりますのに?
ヴィオラ 何も欲しい物はございません――主人の想ひを受け容れて下さる事以外は。
オリヴィア どうして私の顔を立てて下さるの、あなたに差上げてしまつたものを、改めて御主人に差上げたりしたら?
ヴィオラ 私に下さつたものは、どうぞお取上げになつて下さいまし。
オリヴィア では、またあしたいらつしやつて、けふはこれで失礼を。こんな悪魔に誘惑されるなら、地獄へまでも附いて行きたい。(邸内に入る、ヴィオラは外に通じる戸口に向ふ)
騎士トービー・ベルチとフェイビアンが出て来る。
トービー 一寸お待ち願ひたい、先づは神の御加護を。
ヴィオラ (振返つて)御同様、あなたにも。
トービー さ、何でもいい、得物の用意を、それで身を守られたい、お前さんが如何なる侮辱を与へたのか、吾輩には解らん、だが、とにかくお前さんを待伏せしてゐる男がゐる、怨み骨髄に徹し、猟師宜しく血腥《ちなまぐさ》い思ひに凝り固つて、この庭の隅に隠れ、お前さんを待つてゐる、さ、剣を抜いて、直ちに応戦の用意を、何しろその男は生きはよし、腕は立ち、一突きで片を附けようと意気込んでゐるのだから。
ヴィオラ 何かのお間違ひでせう。私に怨みを懐いてゐる人などゐる筈が無い、幾ら考へて見ても、誰かに無礼を働いた覚えは全くありません。
トービー 直ぐにも思ひ知る、事態は全く反対だ、命が大事だと思ふなら、直ちに防禦の用意をする事だ、何しろ敵は若さも若し、強いと来てゐる、腕は立つし、身は憤怒の鬼と化し、どうにもかうにも手に負へないのだ。
ヴィオラ で、お訊ねしますが、それはどういふ方なのですか?
トービー 騎士だ、儀式通り国王の剣で肩を撫でられ、絨緞の上で叙勲を受けた歴とした騎士だ、別に戦場で勲《いさをし》を立てた訳ではないが、喧嘩出入となると悪魔そこ退《の》けの強い奴だ、相手を三人もあの世に送り込んだ事がある、殊に今は手の附けられないほど腹を立ててゐる、どちらかが死ななければ収りが附きさうもない……どうともなれといふ訳だ、命を貰ふか、くれて遣《や》るかと喚いてゐる。
ヴィオラ では、一度お邸に戻り、姫君の御庇護を得ようと思ひます。私は剣が使へません。相手構はずわざと事を構へ、自分の勇気を試したがる人達がゐるとか、その人もその種の変り者なのでせう。
トービー いや、それは違ふ、その男が怒つてゐるのは、侮辱を受けたといふ、それ相応の理由があるのだ、直ぐにも身支度して、立合ふ他は無い。邸に引返すなど以ての外、尤も多少の危険を顧みず、この私を相手に一勝負しようと言ふのなら話は別だが、左様、かうなれば、直ぐ出て行くか、それとも今この場でその剣の鞘を払ふかだ、いづれにせよ、掛り合ひは免れぬ処、それが厭なら腰に鋼《はがね》などぶらさげて歩かぬ方がいい。
ヴィオラ 失礼にも程がある、呆れ返つて物も言へません。それより、その騎士に私がどんな無法を働いたのか、それを確めて来て下さる御親切心を、せめてお示し頂きたい、何かあるとすれば、うつかりしたのであつて、故意にした積りは毛頭ありません。
トービー 宜しい、お引受けしよう。フェイビアン殿、(目くばせして)私が戻つて来るまで、この人の側にゐて頂きたい。(戸外に通じる戸口から去る)
ヴィオラ これは一体どういふ事か、経緯《いきさつ》を御存じですか?
フェイビアン その騎士があなたに対してひどく腹を立ててゐて、決闘してでもと意気込んでゐる事は知つてゐますが、その間の事情については何も存じてをりません。
ヴィオラ 処で、その方はどんな人なのです?
フェイビアン 見た処、別に大した事は無いのですが、いざとなつて見ると、如何に手剛い相手かお解りになりませう。このイリリア中何処を探したとしても、あれほど腕の立つ残酷無類な男はをりますまい……(相手の腕を掴み)先づお会ひになつて見ませんか? 私としては、出来るだけ仲裁役を勤めさせて頂く積りでをります。
ヴィオラ 何ともお礼の申上げ様もありません、元来、私は騎士よりは神父様のお相手の方が性に合つてゐる方でして、何、自分の気質がどんなものか、人に見破られても一向に構ひません。(二人、庭を出て行く)
オリヴィアの庭の外側を通る静かな通り、庭に通じる戸が見える。木や灌木の繁み。
トービー、アンドルーの両騎士。
トービー それが、何と、奴は悪魔だ、あんなじやじや馬は始めて見たね……実は一勝負やつて見たのだ、この細身を鞘に収めたままだがね、処が、奴さん、素早くお突きと来た、とても躱《かは》し切れたものではない、まあ、それを突き返して見な、その出足の確かなのは結構だが、御同様、相手の切先はもつと確かでお前さんを見事ぐさりと串刺しにする。奴は何でもペルシア王お抱への剣士だとさ。
アンドルー 何といふ事だ、俺は、もう掛り合ひにならない事にする。
トービー それが駄目だ、今となつては奴の気持が納らない、フェイビアンがあの手この手で抑へようとしてゐるのだが、とても無理だ。
アンドルー 困つたな、そんなに腕の立つ使ひ手と解つてゐたら、奴が地獄に落ちる様に祈つて置けばよかつた、決闘など申込む手は無かつたよ。かうなつたら、万事を水に流して貰はう、俺は奴に馬を一頭くれてやる、あの葦毛《あしげ》のキャピリットの奴をな。
トービー 一つ話を附けて来よう、ここで待つてゐるのだぞ、堂と構へてゐろよ――命の遣り取りは何とか無しで済ませようぜ。(傍白)しめ、しめ、これで貴様の馬は俺の物、いつでも乗り廻せるといふものだ、貴様を乗り廻した様にな。
フェイビアンとヴィオラが庭から出て来る。騎士トービーはフェイビアンを側へ手招く。
トービー この喧嘩を丸く納める事にして、奴さんから馬を一頭せしめてくれた、あの若僧は悪魔だと言つて脅してやつたのさ。
フェイビアン あの男の方もすつかり震へ上つてゐますよ、胸をどきどきさせて真蒼になつてゐる、まるで熊にでも追掛けられた様ですぜ。
トービー (ヴィオラに)どうにも手の打ち様が無い、誓つたからには飽くまで戦ふと言つてゐる、実は、あの男も、争ひの理由をよくよく考へて見た処、別に取上げるほどの事は無いと悟つたらしい、そんな訳で、まあ、とにかく抜くだけ抜いて見せてくれ、一応相手に誓ひを守らせてやつてくれればいいのだ、自ら言つてゐる、決して怪我はさせないとさ。
ヴィオラ (傍白)神様、どうぞ私をお守り下さいます様に! 一寸した動きで、直ぐ男でない事が解つてしまふもの。
フェイビアン 向うが猛烈に仕掛けて来たら、構ふ事は無い、後へ退るに越した事はありませんよ。
トービー おい、サー・アンドルー、どうにも手の打ち様が無い、名誉の為だ、どうしても一勝負すると頑張つてゐる、決闘の作法上、さうせざるを得ないのださうだ、しかし、男として、且つまた剣士として、決して怪我はさせないと約束してくれたよ。さ、しつかり頼む!
アンドルー 最後の神頼みだ、彼奴が誓ひを守つてくれます様に!
ヴィオラ 宜しいか、これは飽くまで私の意思ではない。
二人、試合の用意をする。そこへアントーニオーがやつて来る。
アントーニオー (騎士アンドルーに)剣をお収め願ひたい、もしこの若者があなたに御無礼を働いたのなら、その罪は私が引受ける、その反対にあなたが無礼を働いたのなら、この若者の代りに私があなたのお相手をしよう。
トービー 君、君! おい、君は一体何者だ?
アントーニオー この若者の為なら、何でもする男だ、この男が君に対してどんな大口を叩いたとしても、私はそれ以上の事をやつてお目に掛ける。
トービー 何を言ひやがる、横合ひからわざわざ喧嘩を買つて出ようと言ふなら、俺が相手になつてやる。(両人、剣を抜く)
そこへ二人の警吏が近附いて来る。
フェイビアン 待つて下さい、サー・トービー、そこへ役人がやつて来る。
トービー (アントーニオーに)いづれ相手になつてやる。(木の背後に隠れる)
ヴィオラ (騎士アンドルーに)お願ひです、剣を収めて下さい。
アンドルー 本当だ、収めますとも、それから約束した事は、必ず守ります。(剣を鞘に収めて)彼奴は乗り心地がよくて、手綱捌きはずんと楽ですぜ。
第一の警吏 こいつだ、掴へろ。
第二の警吏 アントーニオー、オーシーノー公爵の命により貴様を捕へる。
アントーニオー 人違ひだ、それは。
第一の警吏 何が人違ひなものか、お前の顔はよく知つてゐる、舟乗の帽子を被つてゐないからといつて、誰がごまかされるものか……こいつを連れて行け、俺に顔を知られてゐる事は自分でも解つてゐるのだ。
アントーニオー かうなれば仕方が無い。(ヴィオラに)あなたを探しに出掛けてこの始末、といつて、他にどう仕様も無い、言ふ通りになりませう……ついては、如何なものでせう、かうして追ひ詰められた今となつては、財布を返して頂きたいのですが? 勿論、あなたの為に何も出来なくなつた事の方が私には辛い、降り掛つた災難など大した事ではありません……驚いておいでの様だな、いや、御心配御無用。
第二の警吏 さ、来い。
アントーニオー では、例の金を幾らかでもお返し願ひたい。
ヴィオラ 何の金でせう? 勿論、今、ここでお示し下さつた御親切の御礼がしたい、いいえ、そればかりではない、お身の上に差迫つた禍をこのまま見過す訳には参りません、貧しいながらも多少の持合はせをお貸し致しませう……(自分の財布を開け)大した事はありませんけれど、この中からお分け致します、どうぞ、お納めを、全財産の半分です。(金を渡さうとする)
アントーニオー (拒絶し)今になつて知らぬとおつしやる? そんな事があり得るのか、けふまであなたに尽した数の好意も、少しも心に響かぬとおつしやるのか! 惨めな立場に立たされた人間がどういふものか試して見ようなどとなさるな、うつかりすると、この私も人の道に外れた事をしかねない、これまで尽した親切を裏切つたあなたを責め立てたりする様な見苦しい真似をして。
ヴィオラ 私は何も存じません、あなたのお声もお姿も存じ上げない、私は何よりも恩知らずを憎みます、嘘で固めた虚栄や、傍《はた》迷惑な乱酔よりも、いや、人間の脆い本能を迷はせ腐らせるどんな穢《けが》れた罪よりも。
アントーニオー おお、何といふ事を!
第二の警吏 さ、早く行け。
アントーニオー ほんの一言、言はせてくれ。ここにゐる若者は半ば死の顎《あぎと》に呑込まれ掛けてゐたのだが、それをこの私が聖なる友情に賭けて救ひ出してやつたのだ、そればかりではない、その顔立ちから見て、きつと立派な心の持主と思込み、けふまで尊敬して来たものだ。
第一の警吏 そんな事は俺達に何の関係がある? 時間の無駄だ、行け!
アントーニオー それが、ああ、何といふ事だ、今まで崇《あが》め奉つて来た神がこんな穢はしい木偶《で く》になつてしまふなどと! 君はな、セバスチャン、その美しい姿形に自らの手で辱めを加へたのだぞ。この大自然の中で人間の心ほど穢れた物は無い、何が醜いといつて、自然に悖《もと》る不人情ほど醜い物があるものか、徳は美だ、が、美の衣を着た悪は空《から》の長持、それも悪魔の手で綺麗な浮彫が施されてゐる。
第一の警吏 気が狂つたな、早く連れて行け! さ、来い。
アントーニオー さあ、何処へでも連れて行け。(警吏達、アントーニオーを連れ去る)
ヴィオラ 今の言葉は本心から出た憤りとしか思へない、自分でさう固く信じてゐるらしい――私だつたら、あんなにまで自分を信じられるかしら? この想像が当つてくれたら、ああ、当つておくれ、お兄様、私はあなたと間違へられたのかしら!
トービー (木蔭から覗いて)こちらへ来な、騎士殿――さ、こちらへ、フェイビアン、差詰め、ここらで「かしら」「かしら」と何か小賢《こざか》しい格言を一つ二つ並べ立てて見たい処だがな。
ヴィオラ あの人はセバスチャンと呼んだ、私はお兄様とよく似てゐる、鏡を見る度にお兄様はまだ生きておいでなのだと思ふ位、この顔は確かにお兄様の顔立ちそつくり、それにお兄様はこれと同じ仕立て、同じ色合ひ、同じ飾りの出立ち、それを私は真似てゐるだけ、ああ、もしさうなら、嵐にも情けがあり、塩辛い荒波にも思ひ遣りがあるといふもの! (立去る)
トービー 卑劣極る嘘つき小僧だ、おまけに兎より臆病者と来てゐる。嘘つきなのは隠れも無い事実だ、窮地に陥つた友達を見殺しにし、素知らぬ顔で押通しやがつた、臆病者といふのも間違ひ無し、が、その点はフェイビアンに訊いて見な。
フェイビアン 臆病者ですとも、臆病神を信仰してゐる位だ、殆ど宗教的にね。
アンドルー 畜生、後を追掛けて、思切り叩きのめしてくれるか。
トービー やつてしまへ、拳固を喰《くら》はしてやれ、だが、剣は抜くなよ。
アンドルー やつつけずに置くものか、――(抜剣し、急いでヴィオラの後を追ふ)
フェイビアン さ、行つて見ませう。
トービー 賭けてもいい、何が出来るものか。(二人、アンドルーを追つて退場)
15
〔第四幕 第一場〕
オリヴィアの邸前広場
セバスチャンと道化登場。
道化 あなたを呼んで来る様に、私はさう言ひ附かつて来たのですが、それは何かの間違ひだと思はせようといふ腹ですかい?
セバスチャン もういい、もういい、お前さんは余程阿呆と見える、さ、放つて置いてくれ。
道化 よくもまあ、とぼけられたものだ! 成るほど、手前はあなたを存じ上げない、お嬢様の御命令で、またお話にお出で下さる様にと、さうお伝へしに参つたのでもない、あなたのお名前はサゼーリオーさんでもない、そしてこの鼻は私の鼻ではない、すべてさうある筈の物が実はさうではないといふ訳だ。
セバスチャン 好い加減にしろ、そんな戯言《たはごと》が喚き散らしたければ、何処か他処《よ そ》へ行つてやれ、俺はお前とは縁もゆかりも無い。
道化 戯言を喚き散らす! ふん、何処かの偉いお人がさう言ふのを聴いて、それをそのまま、この俺に言つて見たといふ訳だな。戯言を喚き散らす! 困つた事だ、皆がそんな勿体ぶつた言葉を使つてゐるうちに、世間様といふ大のろまめ、すつかりふやけた物になつてしまふぜ……処で、そのおとぼけの仮面は好い加減にお脱ぎ頂く事にして、お嬢様への御返事にはどう喚き散らしたらいいか、一つお教へ願ひたいものだね、(目くばせして小声で)直ぐ伺ひますと言つてもいいかね?
セバスチャン 好い加減にしろと言ふのに、この悪賢い剽軽《へうきん》者め、頼むからあつちへ行つてくれ。さ、金をやる(金を渡す)――それでもまだぐづぐづしてゐる気なら、それよりもつと怖いものをくれてやるぞ。
道化 本当にお前さんは気前がいい……阿呆に金をくれる利口者は最後には得をするよ――十四年分の家賃を一時《いちどき》に貰つた位にな。
騎士アンドルーが抜身のまま登場、それを追つて騎士トービーとフェイビアン。
アンドルー やあ、ゐたな? さあ、こいつを喰へ。(打つて掛るが、当らない)
セバスチャン (拳固で応じる)何を、かうしてくれる、どうだ、さあ、どうだ! (さんざんに打ちのめす)この町の奴等は皆気違ひか? (短剣に手を掛ける)
トービー (背後からセバスチャンを抑へ)待つた、さもないと、その短剣を屋根越しに抛り投げてしまふぞ。
道化 早速お嬢様に知らせて来よう、二ペンス貰つても、お前さん達のお仲間入りは御免だ。(邸内に入る)
トービー おい、おい! 待てと言ふのに! (セバスチャン、振払はうとして〓《もが》く)
アンドルー (疵を摩《こす》り摩《こす》り)おい、放してやれ、今度は違ふ手でやつつけてやる、暴行の罪で訴へてやるのだ、このイリリアには法律といふものがあるのだからな、殴り掛つたのは俺の方が先だが、後先の事はどうでもいい。
セバスチャン 手を放せ!
トービー いや、放さない。(アンドルーに)おい、若いの、剣を収めろ、もう解つた、お前さんは強いよ……(セバスチャンに)さあ、さあ。
セバスチャン これでも放さないか……(トービーを振払ふ)さあ、どうする? (短剣を抜く)まだやる気があるなら、その剣を抜け。
トービー 何だと? (剣を抜き)よし、かうなつたら、貴様のその生意気な血を一二オンス流させてやるか。(戦い始める)
オリヴィアが邸内から出て来る。
オリヴィア 待つて、トービー叔父様! 命が大事なら、お止《や》めになつて!
トービー こいつは拙《まづ》い! (両人別れる)
オリヴィア いつもどうしてかうなの? 乱暴ばかり働いて、その分では山奥の洞穴にでも棲んでゐた方がずつとまし、それなら礼儀作法のお説教などされずに済みますからね! 何処か私の目の届かない所へ行つてしまつて頂戴! お怒りにならないで、サゼーリオー……無法者は行つておしまひと言ふのに! (トービー、アンドルーの両騎士、及びフェイビアンはこそこそ逃げ出す)お願ひ、サゼーリオー、お怒《いか》りは御尤も、でも、それをお抑へになり、いつもの分別に訴へ、御自分に向けられたあの不当不法の振舞を許してやつて下さいまし。さあ、御一緒に邸の中へ、そしてあの手に負へない連中がけふまで色企んで来た下手な悪戯《いたづら》を一部始終お話しして聴かせませう、さうすれば、今の事も笑つて済して下さるかも知れない……(セバスチャン、後じさりする)どうしても来て頂かなくては、お願ひ、お断りにならないで。本当に憎らしい事、この人のお蔭で私の心臓は小鹿の様に騒ぎ立つ。
セバスチャン (傍白)一体、これは何の謎だらう? 川はどちらに流れてゐるのだ? 俺の頭がどうかしてしまつたのか、それとも夢でも見てゐるのか、空想に吾が身を委ねる、それもよい、分別、そんなものはいつまでもレーテの忘れ河の底深く浸して置くがいい――夢といふものがかういふものなら、俺はいつまでも眠つてゐたい!
オリヴィア さあ、どうぞ、奥へ、私の言ふ通りになつて下さる様に!
セバスチャン では、仰せの通りに。
オリヴィア よくおつしやつて下さいました、そしてそのお言葉通りに! (二人邸内に入る)
16
〔第四幕 第二場〕
オリヴィアの邸内の一室
正面に小部屋、その前に垂幕。
道化とマリーア登場、マリーアは黒い長衣と附鬚《つけひげ》を持つてゐる。
マリーア さ、このガウンを着て、附鬚を附けておくれ、そして神父のサー・トーパズだと思込ませるのだよ、早くおし。その間にサー・トービーを呼んで来るから。(退場)
道化 よし来た、こいつを着込んで、巧く化けおほせてやらう、上辺と中身とは大違ひ、そんな坊主は俺様が初めて、ほかには無かつたと、まあ、さうあつて貰ひたいものだな。(ガウンを着、附鬚を附ける)それにしても、この役をやるには背が一寸足りないし、立派な学者に見せ掛けるには少し肥り過ぎてゐる、だが、一家を立派に治めて行く一廉《ひとかど》の人物と見做《みな》されるだけでも立派な事だ、あながち書斎に閉ぢ籠つて骨身を削り大学者になるだけが能ではない。それ、お仲間の御入来だ。
マリーアが騎士トービーと共に戻つて来る。
トービー ジュピターの御加護を、神父殿!
道化 (作り声で)恐悦至極、サー・トービー、嘗て紙もペンも見た事の無いプラーグの隠者がゴールボダク王の姪御に告げた警句を御存じでせう、即ち「物はあるがままにある」とな、といふ訳で、私は神父であるが故に神父である、何故ならば、「物」は物以外の何物なりや? 「ある」はある以外の何物なりや?
トービー とにかくあの男の事を頼みます、サー・トーパズ。
道化 (カーテンの側に近附き)これ、これ、よく聴け! この牢内に平和のあらん事を!
トービー (傍白)奴《やつこ》さん、声色の名人だ、褒めて遣はす。
マルヴォーリョー (小部屋の中から)誰だ、そこにゐるのは?
道化 神父のサー・トーパズだ、気の狂つたマルヴォーリョーに会ひに来たのだ。
マルヴォーリョー サー・トーパズですか、サー・トーパズ、お願ひだ、サー・トーパズ、早速お嬢様に会つて頂きたい。
道化 ええい、悪魔め、途方も無い事を! 貴様、この男を何処まで苦しめる積りか? どうして姫君の事ばかり喚き立てさせるのだ?
トービー 巧いぞ、神父殿。
マルヴォーリョー サー・トーパズ、こんなひどい目に遭はされた男はありはしない――お願ひです、サー・トーパズ、気が狂つてゐるなどとはとんでもない、皆で寄つてたかつて、こんな暗闇の中に私を閉ぢ籠めてしまつたのですよ。
道化 黙れ、忌はしき悪魔め! これでも私は言葉を結構、慎んでゐる積りだぞ、相手がたとへ悪魔であれ、私はそれに礼儀を以て臨む君子の一人だ、今、部屋が暗いと言つたな?
マルヴォーリョー それが、地獄もかくやと思はれるばかりで、サー・トーパズ。
道化 何を言ふ、そこには石壁の如く透明な張出窓があり、南北《みなみきた》の方に向つて高窓が一つ開いてをり、そこから黒檀の様に黒とした光が降り注いでゐる筈だ、それでも暗いと文句を言ふのか?
マルヴォーリョー 気など狂つてはをりません、サー・トーパズ。本当なのですよ、この部屋は真暗闇です。
道化 これ、気違ひ、お前は大変な心得違ひをしてゐる、よいか、無智に優る暗闇は無い、その為、お前は聖書の始めに出て来るエジプト人の様に苦しんでゐるのだ。
マルヴォーリョー 私は本当の事を言つてゐるのだ、無智は地獄の様に真暗かも知れませんが、この部屋の暗さと来たら、無智に優るとも劣りはしません、本当ですよ、これほど屈辱を舐めさせられた人間はをりません。私はあなた同様、一寸も気など狂つてはゐない――一つ、筋の通つた問答で試して見て下さい。
道化 では、一つ、答へて見い、野鳥に関して、ピタゴラスはどういふ見解を述べてゐるかな?
マルヴォーリョー はい、死んだ祖母の魂は鳥の体内に宿るかも知れぬと申してをります。
道化 その意見について、どう思ふ?
マルヴォーリョー 元来、魂は高尚なものですから、その意見には同調出来ません。
道化 では、これで失礼する、いつまでもその暗闇の中にゐるがよい。ピタゴラスの見解を信じるまでは、お前の正気を認める訳には行かぬ、よいか、間抜けの山鴫《やましぎ》と雖《いへど》も殺してはならぬのだ、その体内にお前の祖母の魂が潜込んでゐぬとも限らぬからな。では、これで。(カーテンの前を去る)
マルヴォーリョー (慌てて叫ぶ)サー・トーパズ、サー・トーパズ!
トービー お見事、お見事、サー・トーパズ!
道化 何、どんな役でもお茶の子さいさいでさ。(変装を脱ぐ)
マリーア 鬚もガウンも要りはしなかつた、相手には何も見えないのですもの。
トービー 今度は地声で頼む、彼奴、それをどう受取るか、後で聴かせてくれ……(マリーアに)悪戯もそろそろ止《や》めにして置きたいのさ。助け出せるものなら、この辺で巧く片を附けて置かうぜ、何しろ姪の奴、大分御機嫌を悪くしてゐるのでね、この慰みも結構危《あぶな》い綱渡り、何処まで続けられるか解つたものではないのさ。後で俺の部屋へ来てくれよ。(トービーとマリーア、それぞれ別の戸口から退場)
道化 (歌ふ)「おい、おい、ロビン、陽気なロビン、
お前のいい人、何してござる。」
マルヴォーリョー おい、阿呆、――
道化 (歌ふ)「おいらのいい人、つれないお人。」
マルヴォーリョー 阿呆、阿呆、――
道化 (歌ふ)「なぜにそんなにつれなくしやる?」
マルヴォーリョー 阿呆、おい、阿呆、――
道化 (歌ふ)「好いた男がゐると言ふ」――おや、誰だ、俺を呼んだのは?
マルヴォーリョー 阿呆、俺だ、もしお前が少しでも俺に目を懸けて貰ひたいと思ふなら、頼む、蝋燭を持つて来てくれ、それからペンとインキと紙をな、さうしてくれれば、俺も男だ、一生恩に着るぞ。
道化 これは、これは、マルヴォーリョーさん!
マルヴォーリョー さうだ、阿呆。
道化 何と、まあ、お気の毒に、どうしてまた気など狂つてしまつたので?
マルヴォーリョー よく聴け、世に俺ほどひどい屈辱を受けた奴はゐまい、俺は気は確かだ、本当だ、阿呆、その点、お前と少しも変らない。
道化 少しも変らない、それだけですかい? それなら、やはり気違ひだ、幾ら気は確かだと言つても、阿呆と同じ程度ではね。
マルヴォーリョー 奴等は俺を小道具扱ひして、こんな暗闇に押込め、神父を寄越したり、その他、あの間抜野郎共め、ありとあらゆる悪戯を仕掛け、どうしても俺を気違ひにしてしまはうとしたのだ。
道化 一寸御注意申上げますがね、神父さん、ここにお出でですぜ……(声を変へて)マルヴォーリョー、これ、マルヴォーリョー、お前が一日も早く正気に立返ります様、何とぞ神のお恵みを! 何はさて置き、よく眠る様に努め、愚かな戯言《たはごと》など言はぬ様に心懸けるがよい。
マルヴォーリョー サー・トーパズ、――
道化 以後、あんな男と話をするではない。――え、手前の事で? 私は何も話など。では、失礼を、サー・トーパズ。――アーメン。――はい、はい、必ずさう致します。
マルヴォーリョー 阿呆、おい、阿呆、――
道化 これ、静かに。何の御用で? それが、あなたと話をしてはいかんと叱られましたのでね。
マルヴォーリョー 頼むから、阿呆、灯《あか》りと紙とを持つて来てくれ。俺は正気なのだ、その点、このイリリア中の誰にも劣らぬ。
道化 本当にさうだといいのだが!
マルヴォーリョー この手に賭けてもいい、俺は正気だ……阿呆、頼む、インキと紙と灯りを持つて来てくれ、そして俺の書いた物をお嬢様の所へ届けて貰ひたいのだ、さうしてくれれば、お前さんの得になる、これまでの手紙の使ひとは較べ物にならない位にな。
道化 さうして差上げませう。だが、本当の事を言つて下さい、あなたは気違ひではないのですかい? ただ真似をしてゐるだけなので?
マルヴォーリョー 信じてくれ、俺は気違ひではない――嘘など言ふものか。
道化 それがね、手前は脳味噌を解剖して見るまでは、気違ひの言ふ事を信じない主義でしてね。ま、いい、灯りと紙とインキを持つて参りませう。
マルヴォーリョー 阿呆、礼は何でもする、さ、早く。
道化 (歌ひ踊りながら出て行く)
行つて来ますよ、はい、直ぐに、
直ぐまたお目に懸りませう、
芝居に出て来る道化役、
きつとお役に立ちませう。
道化は竹光振廻し、
怒り狂つて居丈高、
悪魔相手に見えを切り、
気違ひ宜しく荒れ狂ひ、
さてはお前の爪を切る、
悪魔の小父ちやん、はい左様なら。(去る)
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〔第四幕 第三場〕
オリヴィアの邸に続く庭園
セバスチャンが邸内から出て来る。
セバスチャン これは空気だ、そしてあれは輝ける太陽、この真珠の指輪はあの人がくれた、かうして目にも見えるし、触る事も出来る、体全体が靄に包まれてゐる様な不思議な気持だが、といつて気が狂つた訳ではない。それにしてもアントーニオーは何処にゐるのだらう? 約束のエレファントにはゐなかつた、しかし、あそこにゐた事は間違ひ無い、俺を探しに町へ出掛けたと言つてゐたからな。今、あの男がゐてくれたら、いい相談相手になつてくれたらうにな、とにかく俺の魂は俺の五感と色問答の末、これは何かの間違ひかも知れぬが、気違ひではないと結論を出してくれはしたものの、この思ひも掛けぬ夢の様な幸運、人の話に聞いた事も無し、筋道も通らぬ、俺としては吾が目を信じる気にもなれず、己れの理性に議論を吹掛け、やつとの事でかう説得しては見た、詰り、この俺が狂つてゐるか、あの人が狂つてゐるか、どちらかに相違無いとな、だが、あの人が狂つてゐるとなると、自分の邸の事を取仕切つたり、使用人達に色用を言附けたり、家事の切盛りが出来る筈が無い、それが、どうして、俺がこの目で見た通り、隅まで行届いてゐて、その態度も楽しさうで落着いてゐる、これは何処かに落穴があるに違ひ無い。いけない、そこにあの人が。
オリヴィア、神父と共に登場。
オリヴィア この私の性急な押附けがましさをどうぞお咎めにならないで……先程のお言葉、本当に守つて下さるお気持がおありなら、私と御一緒に、この神父様とそこの礼拝堂へいらつしやつて下さいまし、そしてその神聖な屋根の下で、神父様の前で、生涯変らぬ愛の誓ひを立てて下さいまし、この私の迷ひ易い不安な魂が無限の息《やすら》ぎを得られます様に。勿論、神父様には伏せて置いて頂きませう、あなたが公にしてもいいとおつしやるまでは、その時が来たら、いつでも私の身分にふさはしい披露の宴を挙げる事に致しませう。それで宜しうございます?
セバスチャン 御一緒に神父様のお後に、そして誓ひを立て、変らぬ愛の真《まこと》を捧げませう。
オリヴィア では、お導きを、神父様、光り輝く天もこの度の私の行ひを快くみそなはし給ふ様!(一同退場)
18
〔第五幕 第一場〕
オリヴィアの邸前広場
道化とフェイビアン。
フェイビアン 少しでも俺に好意があるなら、あの男の手紙を見せてくれ。
道化 フェイビアンさん、それなら、手前の頼みも聴いて下さいよ。
フェイビアン 何でも聴いてやる。
道化 それなら、この手紙を見ないで下さい。
フェイビアン それでは、犬を遣《や》つて置いて、そのお返しに今の犬をくれと言ふ様なものだ。
公爵とヴィオラが侍者達を連れて広場に這入つて来る。
公爵 オリヴィア姫の家の者か?
道化 はい、手前共はお嬢様の持物の一部でして。
公爵 お前はよく知つてゐる、近頃どうしてゐるな?
道化 それが、敵のお蔭で良くなり、仲間のお蔭で悪くなりといふ塩梅《あんばい》でして。
公爵 言ふ事が反対であらう、仲間のお蔭で良くなるのだ。
道化 いいえ、悪くなります。
公爵 どうしてそんな事が?
道化 と申しますのは、仲間は手前を褒めてくれます、お蔭で私は驢馬になる、処が、敵は手前を見て歯に衣着せず、お前は驢馬だと申します、詰り、敵のお蔭で自分といふものを知つて進歩する、仲間は騙すばかりでさ、といふ訳で、結論は口附けの如く、「いや、いや」と否定を二度繰返せば、「いや」の「いや」で肯定になる、それなら同じ事――仲間の為に悪くなり、敵の為に良くなると申せませう。
公爵 成るほど、巧い事を言ふ。
道化 いえ、一寸も巧い事は無い、ひよつとすると、御前は手前の仲間にならうといふ魂胆かも知れませんな。
公爵 といつて、この身の為に決して悪い目には遭はせぬぞ――それ、金貨を遣る。(金を渡す)
道化 もし贈賄の御心配さへなければ、もう一枚頂戴したいもので。
公爵 おお、お前はこの身を悪事に誘ひ込まうといふ気だな。
道化 この際、良心といふ奴を懐《ふところ》に押込んで、代りにその懐から、良心より役に立つ物をお出し下さいまし。
公爵 では、敢へて贈賄の罪を犯さう、さ、もう一枚。(更に金を渡す)
道化 「一つとせ、二つとせ、三つとせ」といふ子供の遊びは罪が無くていい、それに、昔からよく言ひますな、三度目の正直とね、踊りも三拍子に限りますよ、さう、さう、聖ベニト寺院の鐘の音と申上げたら、お解りかも知れない――ひい、ふう、みい!
公爵 駄洒落を並べて金出しやれと言はれても、もうその手には乗らない、尤も、姫君にお話し申上げたい事があり、かうしてお待ちしてゐるとお伝へし、姫君をここへ呼出してくれるとなれば、また話は別、もつと出さうといふ気を起さぬとも限らぬがな。
道化 解りました、では、戻つて参りますまで、その御前のお気持に一眠りさせておいて下さいまし。では、行つて参りませう、が、幾ら欲しがつても、これは欲張とお思ひ下さいません様に、とにかく、折角のお気持を暫く寝かせて置いて差上げる事だ、いづれ、直ぐお起ししに参上致します。(邸内に入る)
警吏数人がアントーニオーを縛つたまま登場。
ヴィオラ あの男です、私を救つてくれたのは。
公爵 あの男なら、よく知つてゐる、尤も、この前遭つた時には戦塵に塗《まみ》れ、鍛冶の神ヴァルカン宜しく真黒な顔をしてゐたが、さうだ、あの男は取るに足らぬ小つぽけな船の船長だつた、それにも拘らず、堂たる吾が艦隊に大きな損害を与へた、身方の者まで敵意や損失を忘れて、その働き振りに暫し喝采を送つたものだ。一体、どうしたのだ?
第一の警吏 公爵、この男は例のアントーニオーでございます、お覚えでもございませうが、フェニックス号がクレタ島から荷を積んで戻る途中を擁し、船もろとも強奪したばかりでなく、タイガー号に乗込んで参り、甥御のタイタス様の片脚を奪ひました、それが今、町中《まちなか》で、体面も考へず住民に迷惑を掛け、乱暴を働いてをりましたので、直ちに逮捕致しましてございます。
ヴィオラ この男でございます、御前、私の為を思ひ、私に身方して剣を抜いてくれましたのは、ただ終《しま》ひには妙な言ひ掛りを附けて参り、どう考へても狂気の沙汰としか思へぬ事を喚き散らしてをりました。
公爵 悪名高き海賊! 海上の平和を乱す盗人めが! 大胆にも程があらう、残忍極る所行を恣《ほしいまま》にした敵の国に敢へて乗込んで来るとは、一体どういふ訳だ?
アントーニオー オーシーノー公、唯今頂戴した悪名はすべて御返上申上げたい、このアントーニオーは決して盗人でも海賊でもございませぬ、成るほど、オーシーノー公の敵である事は十分認めますが。それを、敢へてこの地へ乗込んで参りましたのは何か魔法にでも掛つたのでございませう、その公爵のお側に仕へる若者はこの上無しの忘恩の徒、猛り狂ふ荒波に呑まれようとしてゐるのを救ひ出したのは、他でもない、この私でございます、とても助る望みは無かつた、その命を甦らせ、あまつさへ何の下心も無く何処までも友情の真を尽し、出来る限りの事をして参りました。その男の為なのです――その男に尽したいといふ真の友情あればこそ!――かうして危険を顧みず敵地に乗込んで参り、その男が敵に囲まれ、窮地に陥つてゐるのを見て取るや、私は剣を抜いて助けてやりました、その後で、私が捕へられるのを見て取り、狡賢《ずるがしこ》くも掛り合ひになるのを虞れ、見知らぬ者の如く振舞ひ、掌を返す様な冷たさ、何十年も逢つた事が無い様な顔附きになり、半時間前に当座の用にと貸してやつた財布を、そんな覚えは無いと言つて返してくれなかつたのでございます。
ヴィオラ どうしてそんな事を?
公爵 この町へはいつ来たのだ?
アントーニオー けふ参つたばかりでございます、それまで三箇月、二人は片時も離れず、昼夜の別無く行動を共にしてゐたのでございます。
オリヴィアが侍者と共に邸内より出て来る。
公爵 そこに姫が! 天降《あまくだ》つた女神さながら……処で、お前の事だが、アントーニオー――お前の言ふ事は狂人の戯言同様、この若者がこの身に仕へてから、もう三月になる。が、その話はまたの時に……この男をあちらへ。(警吏達、命に随《したが》ひ、アントーニオーを片隅へ退ける)
オリヴィア (近寄つて来て)御前は何をお望みになるのでせう、もはや何も差上げられるものが無いとすれば、このオリヴィアはどうしてお求めに応じたら宜しいのでございませう? ああ、サゼーリオー、あなたは約束を守つては下さらなかつた。
ヴィオラ 姫君、それは?
公爵 オリヴィア姫、――
オリヴィア お答へになれて、サゼーリオー?――御前、暫く、――
ヴィオラ 御前には何かおつしやりたい事がおありです、私が口をきく訳には参りませぬ。
オリヴィア そのお言葉がいつもの調べと同じものなら、御前、もうこの耳には聴き飽きました、妙なる楽の調べの後で獣の吠え声を聞く様なものでございます。
公爵 まだその様な酷《むご》い事を?
オリヴィア その変らぬ心、まだしもと思召《おぼしめ》せ。
公爵 変らぬ心、それは情が強いといふ事ではないか? 残酷な女性《によしやう》だ、その情けを知らぬ冷たい祭壇に、この身の魂は嘗て例《ためし》の無い真心の籠つた供物を捧げて来たといふのか! この上どうしたらよいとおつしやるのか?
オリヴィア お好きな様に、御身分にふさはしい事でしたら。
公爵 この身にはなぜそれが出来ないのか、もしさうしようと思ふなら、自分の死に際して最愛の女を他人《ひ と》に取られるのを虞れて、自らの手で殺さうとしたエジプトの盗人の様に、心から愛する者を殺せぬとは?――狂暴な嫉妬心とはいへ、それも気高い心と言へぬ事は無い。だが、これだけは言つて置きたい、あなたがこの身の真心をこれほど無視なさつて来た以上、いや、かうまでこの身を除《の》け者にした挺子《てこ》が何であるかは満更知らぬでもない、それならそれで、いつまでも生きて行かれるがよい、その大理石の様な硬い心の暴君として、が、このあなたのお気に入りは、どうやらこれに想ひを懸けておいでの様だが、同様、この身も心から大事にしてゐる者、その酷い目の前に二度と曝しはせぬ、主人の代りにその椅子を奪ひ、酷いあなたの目を溶けさせたお返しだ……サゼーリオー、一緒に来るがいい。この身にも残酷な思ひが忍込んで来た様だ、かはいがつてゐた仔羊を生贄《いけにへ》にしてやる、面《おもて》は鳩、心は烏のその人に対する腹癒せにな。(背を向ける)
ヴィオラ (それに随ひ)お心息《やす》めの足しになる事でしたら、喜び勇んでこの命を何度でもお捧げ致します。
オリヴィア 何処へいらつしやる積り、サゼーリオー?
ヴィオラ お慕ひするお方の命じるまま何処へでも、そのお方を私はこの両の目よりも、自分の命よりも、いいえ、将来、妻を愛する事があるにしても、それよりもつともつといとほしく思つてをります。もし今申上げた事が嘘偽りであつたなら、天上の神が愛の真心を穢《けが》した咎《とが》により、どうぞこの私を罰して下さいます様!
オリヴィア ああ、憎い事を! 私は騙されたのだ!
ヴィオラ 誰がお嬢様を裏切りました? 誰が不正を働きました?
オリヴィア 自分で自分の言つた事を忘れたとおつしやるの? つい今しがたの事ではなくて? 誰か神父様を呼んで来ておくれ。(侍者一人、邸内に入る)
公爵 (ヴィオラに)さ、行かう!
オリヴィア 御前、どちらへ? サゼーリオー、あなたは私の夫、お待ちになつて。
公爵 私の夫?
オリヴィア ええ、私の夫。その人にお訊きになつて、まさかさうでないとは言へますまい?
公爵 姫の夫だと言ふのか?
ヴィオラ いいえ、御前、決してその様な事は。
オリヴィア ああ、それこそ卑劣な恐怖心、さうして自分を押殺してしまふなどと、怖る事はありません、サゼーリオー、己が幸運を堂とお受取りなさい、さうすれば、どうなるか御存じの筈、今恐れておいでの御主人と対等の身分になれませう。
神父が邸内から出て来る。
オリヴィア ああ、お待ちしてをりました、神父様! 何も彼もお任せ致します、どうぞ証《あか》しして下さいます様――さつきは暫く秘密にして置かうと申しました、それに、時もまだ熟してはをりませぬ――でも、仕方が無い、この方と私との間にどんな事が起つたか、御存じの通りを皆様の前に打明けて下さいまし。
神父 とはに渝《かは》らぬ愛の生綱の誓ひが交されました、互ひに手と手を取合ひ、聖なる口附けによる証し、指輪の交換も相済み、それも悉《ことごと》く聖職者としての身共が正式の立会ひの上にて行はれました、この時計によりますと、その時以来、身共が墓の方へ歩みを進めまして、まだ二時間しか経つてをりませぬ。
公爵 おお、見掛けによらぬ大嘘附きの仔犬めが! 末恐しい奴だ、その頭に白髪が生える頃には、何を仕出来《しでか》すか? それとも、その悪賢さも、さすがに手が廻りかね、他人《ひ と》を嵌《は》めようとして自ら掘つた穴に足を掬《すく》はれるか? どちらにしても、もう用は無い、姫はお前のものだ、が、今後は俺の出向きさうな所へは一切顔を出すな。
ヴィオラ 御前、誓つて申上げますが――
オリヴィア ああ、誓ひなどお立てにならないで! 二人の真実がどれほどささやかなものであらうと、決してそれを裏切らないで下さいまし、御主人を裏切る恐しさがたとへどれほど大きなものにもせよ。
騎士アンドルー・エーギチークが頭に怪我をして駆込んで来る。
アンドルー お願ひだ、医者を! サー・トービーの所へ直ぐ頼む。
オリヴィア 一体どうしたの?
アンドルー 奴め、俺の頭を打割りやがつて、その上、サー・トービーの脳天にも一撃を喰はせ、血だらけにしやがつた、お願ひだ、助けてくれ! こんな事になるなら、家に大人しくしてゐて、何十ポンドでも無駄遣ひしてゐた方がましだつた。(地面にへたへたと坐込む)
オリヴィア その相手は誰なの、サー・アンドルー?
アンドルー 例の公爵の使者で、それ、サゼーリオーとかいふ奴です、臆病者だとばかり思つてゐたが、いや、どうして悪魔そこ退《の》けの野郎で。
公爵 私の使者のサゼーリオー?
アンドルー うわつ、そいつだ! 俺が何もしないのに、頭を打割りやがつて、いや、俺が打掛つたのは、あれはサー・トービーが尻押ししたからなのだ。
ヴィオラ なぜそんな事をこの私に? 私は何も怪我などさせた覚えはありません、あなたの方で先に剣を抜いて、何の理由も無く切り掛つて来たのだ、でも、私は丁重に挨拶を返し、何も怪我などさせはしませんでした。
アンドルー 血だらけの脳天でも怪我のうちに這入らなければ、貴様は俺に怪我をさせた事にはなるまい、貴様は脳天を血だらけにする事など何でもないと思つてゐるらしい。
血だらけの騎士トービーが道化に伴はれて登場。
アンドルー そこにサー・トービーが跛足《びつこ》を引き引きやつて来る、いづれ事情が解るだらう、だが、もしあの男が飲んでゐなかつたら、貴様、逆様にひどい目に遭はされる処だつたのだぞ。
公爵 やあ! どうしたのだ、その有様は?
トービー 大した事はありませんや――一寸した怪我で、それだけの話です……(道化に)おい、阿呆、医者のディックに会つたか?
道化 おお、それがすつかりへべれけでしてね、サー・トービー、一時間も前から動けないと来てゐる、あの医者の野郎、朝の八時にはもう目が霞んでしまつてをりましたよ。
トービー 仕様の無いやくざ野郎め、こちらは頭の鉢をやられてゐるといふのに、俺は酔払ひが大嫌ひだ。
オリヴィア あちらへ連れてお行き! 誰でせう、二人をこんなひどい目に遭はせたのは?
アンドルー (立上つて)俺が連れて行つてやらう、サー・トービー、同じ手当てを受ける身だものな。
トービー 連れて行つてやる? この頓馬、脳足りんのがらくた野郎! 黙れ、薄のろの阿呆め!
オリヴィア 寝かせておやり、疵の手当てをして上げてね。(道化と二人の騎士、邸内に入る)
そこへセバスチャンがやつて来る。
セバスチャン 申訳ありません、お嬢様、御親戚の方に怪我をおさせしてしまひました、しかし、相手が血の繋《つなが》る兄弟でも、身を守る為には、やはり同じ分別を働かせずにゐられなかつたらうと思ひます。(一同、ヴィオラと見較べて呆然としてゐる)よそよそしいそのお顔から察するに、余程お腹立ちなのでございませう、どうぞお許し頂きたい、つい今しがたお互ひに交した誓ひに免じて。
公爵 顔も声も服装も同じ一つものでありながら、体は二つ、これこそ自然のまやかし眼鏡、そこに在るとは見えて、実は無いのだ。
セバスチャン アントーニオー! おお、私のアントーニオー! 君を見失つてからこの何時間といふもの、私は拷問の苦しみを受けて来た様なものだ!
アントーニオー セバスチャンですね、あなたは?
セバスチャン それを疑ふのか、アントーニオー?
アントーニオー そのあなたがどうして二人になつたのです? 一つ林檎を二つに割つても、この二人ほど似てゐはしない。どちらがセバスチャンなのだ?
オリヴィア こんな不思議な事が!
セバスチャン これは俺だらうか? 俺に弟はゐない、といつて、この俺にそんな神通力があらう筈は無い、同時にあちこちに姿を現すなどといふ。確かに妹はゐた、が、あれは思遣りの無い荒波の餌食になつてしまつた……教へて下さい、あなたは私と一体どういふ縁があるのです? 何処の方か? お名前は? 親御さんは誰方《どなた》です?
ヴィオラ 生れはメサリーン、父はセバスチャンと申します――あなたと同じセバスチャンといふ兄もをりました、着てゐた物もそれと同じ、その姿のまま水底の墓へ、もしその亡霊が衣裳を着て私達を脅しに現れるとすれば、今のあなたが正しくそれでせう。
セバスチャン 確かに私は霊魂、が、この肉体からはまだ離れてゐない、母の胎内から生れた時の五体そのまま。もしあなたが女なら、後は話が合ふ、私はその頬に涙を浴びせ掛け、かう言へるのだが、「よく生きてゐてくれた、溺れ死んだとばかり思つてゐたのに、おお、ヴィオラ!」と。
ヴィオラ 父は額に黒子《ほくろ》がありました。
セバスチャン 私の父にもあつた。
ヴィオラ そして亡《なくな》つたのはヴィオラが生れてから十三年目。
セバスチャン おお、それを忘れてなるものか! 父がこの世を去つたのは妹が十三になつた時だつた。
ヴィオラ この男姿だけが二人の仕合はせを邪魔してゐるのなら、直ぐにもその胸に私を抱き締めて頂きたいのですが、それは暫く待つて下さい、やがて、時が、場所が、そして運命が、揃つて私がヴィオラである事を肯《うべな》ふまでは――その為には、この町に住んでゐる船長の所へお連れしませう、そこに私が娘だつた時分の衣裳が蔵《しま》つてあります、その親切な船長のお蔭でこの公爵にお仕へする事が出来ました……それ以来、どういふ巡り合はせか、このお嬢様と主人との間のお使ひ役をする様になりました。
セバスチャン (オリヴィアに)それで、お嬢様、あなたは私を妹とお間違へになつたといふ訳です、が、それこそ自然の成行きと申すもの。すんでの事で生娘《きむすめ》と婚約なさる処だつた、が、決して騙されたとは言へますまい、私は男だが、生娘同様、清純潔白です。
公爵 お驚きになる事は無い――これは血筋の正しい男です……かうなつたら、やはり自然の眼鏡に狂ひは無かつたのだ、この身も仕合はせな難破船に相乗りする事にしよう。(ヴィオラに)お前はこれまで何度も言つてゐた、私を想ふほど、女を想ふ気にはなれぬとな。
ヴィオラ その通り改めてお誓ひ申上げます、さうして、天があの昼夜を分つ日輪を懐《ふところ》に懐《いだ》き続けてゐる様に、私もさうして何度も誓つた言葉を心のうちに抱き締めて、片時も離さずにをりませう。
公爵 さあ、その手を、そして早く女の姿に立ち戻つて貰ひたい。
ヴィオラ 私を始めて渚に助け上げてくれた船長が私の衣裳を預つてくれてをります、その方は或る罪で牢に閉ぢ籠められてをります、お嬢様の執事のマルヴォーリョーが訴へたのでございます。
オリヴィア 直ぐにも自由にして差上げませう……マルヴォーリョーをここへ――ああ、困つた、今、憶出《おもひだ》しましたけれど、かはいさうに、あの男は気が狂つてしまつたとか。
道化が手紙を手にして登場、その後にフェイビアンが続く。
オリヴィア 自分の事にすつかり気違ひの様になつてをりましたので、あの男の病気を忘れてをりました。あれは今どうしてゐて?
道化 それがね、お嬢様、殊勝にも地獄の大将ベルジバブを寄せ附けまいとして一所懸命頑張つてをりますがね、で、お嬢様にこれ、この通り手紙を書きました、朝のうちにお届けしなければならなかつたのですがね、尤も、気違ひの手紙は福音書とは違ふので、いつお渡ししても構ひはしませんや。
オリヴィア 直ぐ封を切つて読んでおくれ。
道化 では、お聴き下さい、なかなか為になる奴でして、さて、阿呆が気違ひの口上を申述べます。(金切声で)「おお、姫君よ、」――
オリヴィア まあ! お前まで気が狂つたの?
道化 いいえ、お嬢様、私はただ気違ひの役を演じてゐるのに過ぎません、もしこの手紙をあるがままにお読みになりたければ、かういふ声をお許し下さらなくては。
オリヴィア お願ひだから、まともに読んでおくれ。
道化 はい、さう致しませう、お嬢様、しかし、あの男の書いた物をまともに読めとならば、どうしてもかういふ読み方をしなくては、さて、宜しうございますか、お嬢様、どうぞお耳を拝借。
オリヴィア (手紙を取上げ、それをフェイビアンに渡し)お前、読んでおくれ。
フェイビアン (読む)「おお、姫君よ、余りにも酷《むご》き御処遇、このままにてはいづれ世間にも洩れませう、身共を暗室に押込め給ひ、酔漢の叔父御をして監視せしめ給ふも、身共の頭脳は姫君のそれと同じく頗る健全にございます。身共は姫君御直筆の御書面を所持致しをりますが、それにはかくかくの身形《みなり》をせよとあり、それによりて吾が身の証しは立つべく、姫君の御面目失はるるは必定と存じをります。吾が身の事は如何様にも思召せ。この際、聊《いささ》か身の程も弁へず、身共の受けし被害につきお訴へ申上げます。狂人扱ひされしマルヴォーリョー」
オリヴィア あれが書いたの?
道化 はい、お嬢様。
公爵 別に狂つてゐる様にも思へぬが。
オリヴィア 部屋から出しておやり、フェイビアン、そして直ぐここへ連れておいで……(フェイビアン邸内に入る)御前、先程よりの事情、よくよくお考への上、もしお差支へなければ、私を妻としてではなく妹としてお扱ひ下さり、同じ日に式を挙げ、兄妹《あにいもうと》の契りを結ばせて下さいまし、それもこの邸で、費用も万端、私の手で。
公爵 お申出で、喜んでお受けしよう……(ヴィオラに)さあ、お前には暇を遣る、女の本性に背き、淑《しと》やかな育ちにふさはしからぬ勤めに励んで来た礼として、いや、それに、これまで私を御前と呼ばせて来た詫びとして、さあ、この私の手を――けふより後、お前はお前の主人の恋人だ。
オリヴィア そして私の妹!
フェイビアンがマルヴォーリョーを連れて戻つて来る。
公爵 これが例の気違ひか?
オリヴィア はい、御前、この男でございます、どうしました、マルヴォーリョー?
マルヴォーリョー お嬢様、私に対する不当なお扱ひ、余りにもひどうございます。
オリヴィア 私がお前に? とんでもない!
マルヴォーリョー 正《まさ》しくお嬢様の企みにございます。どうぞこの手紙にお目通しを……(懐中から手紙を取出し)お嬢様のお書きになつた物である事を、よもや御否定にはなりますまい、筆蹟にせよ、言廻しにせよ、それと違つた書き方がお出来になるなら、是非見せて頂きたう存じます、封蝋の印も御自分の物ではないとおつしやれるものなら、どうぞ御自由に、が、まさか、さうはおつしやれますまい。で、もしそれをお認めになるなら、御身分柄お名にも関ります事、それに賭けても是非お答へ頂きたう存じます。なぜあの様に格別の御寵愛をお示しになり、しかも、黄色の長靴下に十文字の靴下留をして絶えず頬笑みを浮べてゐろの、サー・トービーや小者達に顰《しか》め面《つら》をして見せろのとお命じになりましたのか、それをこちらは御命令通り実行致しました処、なぜお嬢様はこの私を真暗闇の小部屋に閉込めさせ、神父様をお寄越しになつたり、その他思ひ附かれるまま、この上無い悪ふざけをお仕掛けになり、さんざん私を慰み物になさいましたのか? 是非その訳をお教へ願ひたう存じます。
オリヴィア まあ、かはいさうに、マルヴォーリョー、これは私が書いたものではない、確かによく似せてあるけれど、でも、間違ひ無い、これはマリーアが書いたのだよ。さういへば、お前が気違ひになつたと最初、私の所へ知らせに来たのはあれだつた、そこへお前がにやにや笑ひながらやつて来た、この手紙にある様な恰好をして……まあ、怒らないで――この芝居はお前をからかはうとして随分念入りに仕組まれたもの、でも、その経緯《いきさつ》も書き手も解つた以上、お前自身の手でそれを告発し、裁いたらいい。
フェイビアン お嬢様、私にも一言、言はせて下さいまし、かうして万事めでたく納りました今、この上、喧嘩口論で、事を打毀《ぶちこは》しにしたくはございません。その気持から正直に白状致しますが、マルヴォーリョーさんを陥れようといふ企みの張本人は私とサー・トービーの二人でございます、と申しますのも、かねてよりマルヴォーリョーさんが全く融通がきかず、私共を舐めて掛る様な言動が屡《しばしば》だつたもので、はい、その手紙もサー・トービーにしつこくせがまれて、マリーアが書いたものでございます、そのお返しにといふ訳で、二人は結婚致しました……その後の成行きは悪ふざけとは申せ、詰りは陽気な遊び、怨みを招くよりは寧ろ笑つて済ませる様なものに過ぎません、どちらの方が被害が重いかとなれば、秤の目盛は五分と五分、双方共に痛い目に遭ひました。
オリヴィア かはいさうに、お馬鹿さん! 皆の弄《なぶ》り物にされたのだね!
道化 それ、「生れながらにして身分高き者あり、己が力により高き身分に達する者あり、或は偶《たまたま》高き身分を授る者あり、」といふ奴でさ。実は、私もこの間《あひ》狂言に一役勤めましたので、神父様のサー・トーパズとしてね――だが、そんな事は大した事ではない……「おい、阿呆、俺は気違ひではないのだ!」どうです、覚えてゐますかね?「お嬢様、どうしてこんな詰らぬごろつきの戯言を興がつておいでなので? 笑つておやりにならなければ、猿轡を嵌《は》められたも同然、からきし物も言へますまい、」さうおつしやいましたね……成るほど、因果は巡り巡つて吾が身の上にといふ訳で。
マルヴォーリョー いづれお前等に仕返ししてやるぞ。(くるりと背を向け、出て行く)
オリヴィア ひどい目に遭はせるにも程がある。
公爵 後を追ひ、宥《なだ》めてやるがよい、船長の事を訊くのを忘れてゐた。それが解り次第、吉日を選び、互ひに相寄る魂にふさはしい式を挙げる事にしよう……それまでは、妹、この身はここに留る事にしよう。サゼーリオー、さ、一緒に! 男でゐる間は、その名で呼ばせて貰はう、が、着換へを済ませたら、お前はオーシーノーの恋人、憧れの妃となるのだ。(道化以外、邸内に入る)
道化 (歌ふ)
おいらが子供でゐた頃にや、
風吹き、雨降り、うんざり、ヘイ・ホー、
おいたも笑つて済んだもの、
来る日も来る日もざんざ降り。
おいらが大人になつたときや、
風吹き、雨降り、うんざり、ヘイ・ホー、
やくざ、盗人、締め出され、
来る日も来る日もざんざ降り。
おいらが嬶《かかあ》を貰うたら、
風吹き、雨降り、うんざり、ヘイ・ホー、
駄法螺《だぼら》ばかりぢや、通りやせず、
来る日も来る日もざんざ降り。
おいらが嬶と寝る時にや、
風吹き、雨降り、うんざり、ヘイ・ホー、
酒に漬つて、夜を明し、
来る日も来る日もざんざ降り。
この世の幕開き、大昔、
風吹き、雨降り、うんざり、ヘイ・ホー、
どうともなりやがれ、幕閉ぢて、
毎日、お客の機嫌取り。(退場)
解 題
一
この作品も作者生前の四折本は無く、それが始めて活字になつたのは、作者死後の一六二三年に刊行された最初のシェイクスピア戯曲全集、第一・二折本においてである。私がいつも飜訳の原本として使用してゐるのはケンブリッジの『新修シェイクスピア全集』であるが、それも勿論、第一・二折本に依拠してゐる。尤も、校訂者ドーヴァ・ウィルソン独自の解釈により、他の版と多少の相違がある。これも毎の事であるが、私はそれを殆どそのまま受け容れた。
さて、この『十二夜』の製作年代であるが、これも余り問題は無い。それを推定する唯一の決定的な根拠は、当時四つあつた法学院の一つであるミドル・テンプルの弁護士ジョン・マニンガムの日記である。その一六〇一年二月二日の記述に次の如く書かれてゐる。
二月二日――吾の祝宴には十二夜、またの名お望みのものと題される芝居が演ぜられた。それは間違ひの喜劇やプラウトゥスのメネクミとよく似てゐる、なほそれ以上にイタリアの喜劇インガンニと酷似してゐる、その中に、面白い策略が出て来る、といふのは夫を失つた女主人が自分に恋をしてゐると思込んだ執事の話である、彼は如何にも女主人のものらしい字句によつて書かれた偽手紙によつて騙される、その手紙には女主人は彼をこの上も無く愛してゐると書かれてあり、更に頬笑みを絶やすなとか、衣服はかくかくしかじかの物をとか、その他の指示が出て来る。当の執事が、それを信じて策略に引掛かると、周囲の者は彼を狂人扱ひするのである。
右に出て来る「間違ひの喜劇」がシェイクスピア作のそれを差すものか、或は昔から屡取上げられて来た喜劇の一様式を差すものか、その点は断定出来ないが、続いてプラウトゥスの『双生児メネクミ』や同時代のイタリア喜劇『リ・インガンニ』(騙し)が出て来る処を見ると、どうも後者の様に思はれる。要するに、この日記の主ジョン・マニンガムが『十二夜』を先づ双生児によつて巻き起される間違ひの喜劇として受取つた事は確かだが、劇中の一挿話「マルヴォーリョー騙し」に少からぬ興味を覚えたらしい事も見逃せぬ。なほ、オリヴィアを未亡人としてゐるのは、マニンガムの間違ひである。題名の『十二夜、またの名お望みのもの』とあるのは、当時からさうなつてゐたので、第一・二折本以来、今日までそのまま踏襲されてゐる。私の訳本では副題を省いてあるが、それは煩雑になるのを避けたまでで、正式の題名は飽くまで『十二夜、またの名お望みのもの』である事をお断りして置く。
処で、この日記が一六〇一年二月二日附である事、しかもマニンガムが観た芝居が初演のものであるといふ確実な証拠は無いが、恐らく極く最近の新作である事は、その文章から十分に察しが附く。十二夜といふのはクリスマスから十二日目、即ち一月六日の公現祭(東方の三博士がベツレヘムのクリストのもとに現れた日を祝ふ祭)を意味するので、初演は一六〇一年一月六日ではなかつたかと推測し得る。この作品の中に法律への諧謔的言及が多いので、法学院における公現祭用の祝祭劇としてシェイクスピアが書下したものではないかと言はれてゐる。それが引続き上演されてゐたか、或は二月二日の聖燭祭の為に再演されたか、いづれにせよ、マニンガムはそれを観たのであらう。
なほ、この作品の執筆年代が一六〇〇年以後であるといふ傍証は他に幾つかある。その一つは、一九二四年にヴァイオレット・ウィルソンといふ女性シェイクスピア研究家が指摘してゐる事実だが、第二幕第三場で「清教徒」マルヴォーリョーがサー・トービー達の盃盤狼藉に文句を言ふ処がある、これは当時、似た様な事件が現実にあり、一六〇〇年から一六〇二年頃までの間、始終、人の噂の種になつてゐたといふのである。といふのは、ヨークシャーのハクネスに居を構へてゐた騎士のポスチュマス・ホビーといふ頑固で物笑ひの種になつてゐた男が、或日の事、狩猟に出掛けたのだが、その留守を狙つて、一群の地方郷士達がその邸に押入り、呑んだくれて大騒ぎを演じ、家族の祈祷の妨げをした事件である。それだけなら、噂にならずに済んだかも知れぬが、騎士ポスチュマス・ホビーは乱暴者を相手に訴訟を起し、法廷論争が展開された為、英国中に知れ渡つたのである。第二幕第三場は、シェイクスピアがこの事件を当込んで書いたものだとすれば、やはり一六〇〇年作といふ説は有力になつて来る。
第二に、一六〇〇年一月にイタリアの公爵、ドン・ヴァランタイン・オーシーノーが英国の宮廷を訪ねた事があるが、このヴァランタインとオーシーノーといふ名は作品中にも出て来る、これは単なる偶然ではなく、作者が偶英国王室を訪ねて来たイタリアの公爵の名から思附いたものと見做される。とすれば、この作品は一六〇〇年の二月以降の作といふ事になる。第三に、第三幕第二場に「新大陸のアメリカまで描き加へた近頃売出しの地図宜しく」といふマリーアのせりふがあるが、当時はどの地図にも既にアメリカ大陸は出てゐたが、「近頃売出しの」といふのは投影法を用ゐたもので、一六〇〇年にエドワード・ライト、リチャード・ハクルート、ジョン・デイヴィスによつて造られ、アメリカ大陸がこれまでにないほど大きく扱はれてをり、これを当込んだものとすれば、やはり一六〇〇年以降の作品と見做さざるを得なくなる。
第四に、ペルシア王への言及が第二幕第五場、第三幕第四場と二度も出て来るのだが、これは騎士アンソニー・シャーレーといふ人物が二人の兄弟と共にペルシア行を企て、一五九九年から一六〇〇年まで一年足らずの間、ペルシア王の宮廷に滞在してゐた事があり、それがロンドンで大評判になつた事実に対する当込みと思はれる。この事件がそれほど大評判になつたのは、このペルシア行がなかなか冒険的なものだつたからでもあるが、一つには騎士アンソニーがエリザベス女王に叛乱を起したエセックス伯の強力な支持者だつたといふ事にもよる。いづれにせよ、『十二夜』が一六〇〇年になつてからの作と見做す有力な傍証と言へよう。以上四点と最初に引用したマニンガムの日記と考へ併せ、『十二夜』の執筆年代は一六〇〇年、それもその後半の作と推定してよささうである。尤も、マニンガムの日記の日附に問題があり、同じ二月二日附にしても、一六〇一年ではなく一六〇二年ではないかといふ説もあり、もしさうだとすれば、『十二夜』執筆は一六〇一年になつてからと考へられよう。
しかし、一六〇〇年、或は一六〇一年の、最初に書かれた『十二夜』と第一・二折本に収められたそれとが全く同一の物であるとは言へない。第一稿はもつと短かつたものと考へられる。法学院で行はれる祝祭劇の為の作品といふ事からも、そんなに長いものではなかつたらうといふ推論は当を得てゐるが、なほ、書き換へ、書き加へが行はれたに違ひないと思はれる推測の根拠は、他に幾つかある。本文を気を附けて読めば誰にも気附く事だが、神父が出て来たり、その他クリスト教国の出来事を扱つたものと考へられる作品にも拘らず、所にジュピターの名が出て来る。これは一六〇六年五月、「舞台上、むやみに神の名を出す事」を禁止するお触れが出たからで、シェイクスピアは早速、クリスト教の神をローマ神話の最高神ジュピターに書き換へたのに相違無い。尤も、その為、第四幕第二場でトービーが「ジュピターの御加護を、神父殿」と叫ぶ処など卻つて滑稽になり、ドーヴァ・ウィルソンが言つてゐる様に、これはシェイクスピアが意識して禁止令を逆用したものだと考へられる。
更に書き直しの跡が歴然としてゐるのは、ヴィオラと道化との関係である。先づ第一幕第二場で、ヴィオラは船長に向つてオーシーノー公爵の小姓に推薦してくれと頼み、「私、唄も歌へるし、色音楽のお話相手にもなれるし」と言つてをり、第二幕第四場では、公爵がサゼーリオーのヴィオラに対して「何か唄を聴かせてくれ」と言ひ、それも「あの唄がいい、ゆうべ聴かせてくれた古風な昔の唄だ」と言つてゐるが、そのせりふを受けて、キューリオーが「真に申訳ございませんが、あれを歌へる者が只今ここにはをりませんので」と答へ、更に、それを歌つたのはフェスティといふオリヴィア家出入りの道化だと言つてゐる。これはどう考へてもをかしい。この矛盾に一つの解釈を与へたのはリチモンド・ノーブルといふ批評家である。詰り、この作品が最初に書かれた頃には、唄の上手な少年の役者がゐて、それがヴィオラを演じ、実際に唄も歌つたに相違ないのだが、その少年役者が後に声変りしてしまつたか、劇団を止めてしまつたか、いづれにせよ、ヴィオラに唄を歌はせる事が出来なくなつてしまつた、一方、道化のフェスティを演ずるアーミンといふ役者が唄の点でも評判になつて来たので、ヴィオラの歌ふ筈の唄をフェスティに与へ、新たにフェスティの為に唄を附け加へたりしたのであらうといふのである。その新しい唄といふのは最後のエピローグの雨の唄だが、これは『リア王』第三幕第二場に出て来る唄の替唄である。その本歌が『リア王』上演当時、今日の映画の主題歌と同じく、かなり人口に膾炙《くわいしや》してゐたので、それを捩《もぢ》つて新しくエピローグを附け加へたのだらうといふ推測である。『リア王』の執筆年代は一六〇四年末から一六〇六年初頭といふ事を考へれば、シェイクスピアが『十二夜』に新しく手を入れたのは一六〇六年の夏頃だらうといふドーヴァ・ウィルソンの推定は大体辻褄が合ふ様に思はれる。一六〇六年加筆説については、最後にもう一つ根拠がある。第三幕第二場の始めの方で、アンドルーとフェイビアンとの間に次の如き会話が交される。
フェイビアン それなら、お嬢様があなたに気のある何よりの証拠だと思ひますがね。
アンドルー 何を抜かす! 俺を驢馬扱ひする気か?
フェイビアン とんでもない、筋道立てて証明して御覧に入れませう、判断力と理性に賭けて。
これは当時、カトリック教徒のイエズス会員の間で、プロテスタントの裁判官に裁かれる場合、エクィヴォケイション(相反する二つの意味に解釈出来る様な言ひ抜け)を使つてもよいかどうかといふ事が問題になつた事があるが、フェイビアンの言葉は、さういふ場合にイエズス会員が法廷で誓ふ言葉の決り文句だつたといふのである。偶一六〇五年十一月、ヘンリー・ガーネットといふイエズス会の修道院長がプロテスタントのカトリック迫害に怒つて、議会の地下に火薬を仕掛け、建物を爆破しようと企んだ事件があり、その裁判は翌一六〇六年に行はれた。その時、ガーネット一派は国教忌避者としてエクィヴォケイションを用ゐても構はぬといふ事を、ガーネット自ら公言し、しかも、それを是とした秘密文書が発見されたので、ロンドン子の反感を買ひ、大騒ぎになつた事がある。それが第三幕第一場冒頭で道化とヴィオラとの間に交される言葉論議の終りの方で、次の様な形で表れてゐるといふのである。
道化 巧い……何といふ世の中だ! 近頃、利口な手合にとつては、言葉は伸縮自在の仔山羊の手袋同然――あつと言ふ間に裏返しにされてしまふ!
ヴィオラ 全くその通りだ、言葉を玩具にして楽しんでゐる連中に遭つては、どんな言葉も忽ち穢されてしまふ。
もしこれが議会爆破事件の裁判を当てこすつたものとすれば、この箇処はシェイクスピアが新しい道化役者を得て、得たりとばかり書き加へたものと言へよう。
二
『新修シェイクスピア全集』の序文を書いてゐるクイラ〓クーチは、この『十二夜』が何を下敷にして書かれたかといふ点について、余り関心を持つてゐないらしい。既にマニンガムの日記を引用した際、「それは間違ひの喜劇やプラウトゥスのメネクミとよく似てゐる、なほそれ以上にイタリアの喜劇インガンニと酷似してゐる」と書いたが、いづれも双生児の登場によつて事件が起り、紛糾し、最後は解決されるといふもので、成るほど、その程度なら、特に下敷を云するまでもない事である。マニンガムが触れてゐる『リ・インガンニ』の他に『リ・インガンナッティ』といふ作品があり、これは「騙されし人」といふ意味のものである。後者の方が『十二夜』の筋とよく似てゐる。シェイクスピアはこの作品の筋書を誰かに聴いたか、或はこの作品を「盗作」した同じイタリアの小説家バンデルロの英訳本で読んでゐたのであらう。それとも、このバンデルロの小説はフランスのべレフォレーが飜訳して『悲劇物語』の一部に収められてゐるが、それと同じ話を、ベレフォレーからか或は直接バンデルロからかは解らぬものの、バーナビ・リッチが『アポロニアスとシラの物語』の第二話に飜案してゐるものがあるので、シェイクスピアはそれを読んで想を纏めたのかも知れない。オーシーノー、オリヴィア、ヴィオラの三角関係の経緯、その混乱と解決といふ点では、バーナビ・リッチと『十二夜』とは殆ど同じと言つてよい。
しかし、トービー、アンドルー、マルヴォーリョー、マリーアは全くシェイクスピアの創作であると考へられる。そのうちでも、殊にマルヴォーリョーは彼の独創と言へるであらう。それにしても、下敷の詮議は、クイラ〓クーチの言つてゐる様に、この作品においては余り意味のある事ではない。譬へば、『マクベス』の様な作品では、或は『ジュリアス・シーザー』『アントニーとクレオパトラ』『コリオレイナス』の様な作品では、ホリンシェッドやプルタークと読み較べて、シェイクスピアが如何に「劇的天才」を発揮してゐるかを知り、多少の感銘を受けるであらう。が、『十二夜』の下敷を『リ・インガンニ』『リ・インガンナッティ』に求める位なら、寧ろシェイクスピア自身の初期の作品『間違ひの喜劇』を持出したらいいと、クイラ〓クーチの様に開き直る気持も解らないではない。年上のアントーニオーと若いセバスチャンとの友情は『ヴェニスの商人』にも出て来る。さう言へば、『ヴェニスの商人』でも年上の男は名も同じアントーニオーであつた。男装のヴィオラの前身としては『ヴェローナの二紳士』のジューリアがあり、『お気に召すまま』のロザリンドがあり、『ヴェニスの商人』のポーシャ、ネリサがある。トービーには『ヘンリー四世』『ウィンザーの陽気な女房達』におけるフォールスタフの面影があり、アンドルーにはやはり『ウィンザーの陽気な女房達』のスレンダーの面影がある。マルヴォーリョーといふ人物は『十二夜』独自のものかも知れぬが、マルヴォーリョー騙しのトリックそのものは『空騒ぎ』のべアトリス、ベネディックで既に実験済みである。
三
『空騒ぎ』『お気に召すまま』の解題において述べて置いたが、この『十二夜』もまた「自己欺瞞」の喜劇だとクイラ〓クーチは言つてゐる。言ふまでもなく、この劇の主筋はオーシーノー、オリヴィア、ヴィオラの三角関係にあるのだが、彼等は確かに「自己欺瞞」に陥つてゐる。オーシーノーのオリヴィアに対する愛情はどう見てもそれほど激しいものとは思はれない。もしそれが強烈なものであつたら、終末において、ヴィオラに対する愛に転位してしまふといふ事はあり得ないであらう。同じ事がオリヴィアについても言へる。ヴィオラに対する愛情が、如何に双生児でよく似てゐるとは言へ、セバスチャンによつて満されてしまふ事はあり得ないであらう。オーシーノーはオリヴィアを愛してゐるといふよりは、恋を恋してゐるのであり、恋に伴ふ憂愁を結構楽しんでゐる様に見える。オリヴィアも兄に対する喪に服してをり、他の男性は眼中に無いといふ感傷に耽つてゐるのであつて、ヴィオラ(サゼーリオー)に対する一目惚れは、それがヴィオラであるからではなく、若く美しい男性一般に対する恋に過ぎまい。詰り、オリヴィアの「自己欺瞞」は二重になつてゐる。亡き兄を追想する悲しみといふ「自己欺瞞」から解放されたいといふ気持が、オーシーノーの求愛に追詰められて、ヴィオラを愛してゐるといふ別の「自己欺瞞」に取憑かれたまでの事である。この二人に反して、ヴィオラの「自己欺瞞」はもつと意識的である。自分は女でありながら男を演じてをり、その為にオーシーノーに対する自分の恋を騙さねばならず、他方、オリヴィアに対しては、まるで自分の事の様にオーシーノーの愛情を押売りしなければならないのだが、それはすべて十分に意識した上での事である。にもかかはらず、オーシーノーの代りにオリヴィアを口説く時には、オーシーノーに対する自分の愛情が混つて来、それに酔つてゐる節がある。
クイラ〓クーチはダウデンの次の言葉を引用し、「自己欺瞞」の喜劇といふ自説を強調してゐる。「吾は仲間の誰かによつて、運命によつて、或は偶然の出来事によつて欺かれる、が、最大の騙し手は常に自分自身である――吾自身の感傷、虚栄心、恐怖心、利己心などである。」尤も「自己欺瞞」といふ言葉は最後の切札の様なもので、『お気に召すまま』の解題において述べた様に、これを持出せば、大抵の喜劇はすべて片が附くのみならず、悲劇についても、少くともシェイクスピアのそれはすべて片が附いてしまふ。しかし、悲劇の場合は、「自己欺瞞」といふ言葉よりは寧ろ「自己劇化」といふ言葉の方がふさはしいであらう。ハムレットも、リアも、オセローも、マクベスも、「あるがままの自分」よりは「さうありたい自分」にまで自分自身を劇化し、その矛盾に斃れる。いや、斃れる事によつて、ますます自己を劇化し、壮大なものに仕立て上げる。彼等はいづれも「自殺」への過程を無意識のうちに演じてゐるのである。しかし、喜劇における「自己欺瞞」はそれに耽つてゐる人間を破局には追込まない。最後には、彼等はそれから解放され、「あるがままの自分」といふ常識に立戻る。さう考へれば、『十二夜』は確かに「自己欺瞞」の喜劇である。マルヴォーリョーにしても、必ずしも他人の悪だくみによつて騙されただけとは言ひ切れない。自分自身のうちにオリヴィアの恋人を以て自ら任じたい気持が潜在的に働いてゐるのであり、それに乗ぜられたのに過ぎないからである。のみならず、彼の清教徒的正義派振りもまた一種の自己欺瞞であると言へよう。
それにしても、オーシーノー、オリヴィア、ヴィオラと異り、マルヴォーリョーだけは救ひが無い。しかも、マルヴォーリョー騙しは際立つて面白く描かれてゐる。その為、『ヴェニスの商人』におけるシャイロックと同様、上演に際しては、この副筋の主人公が強調され、一座の座頭的役者がこの役を演じる事が屡ある。それに対して、クイラ〓クーチは「この種の人間が吾の日常生活を支配する事を許してはならぬと同様に、この役に全作品を支配せしめてはならぬ」と警告してゐる。全く同感である。シェイクスピアは喜劇時代の終りから悲劇時代の始めに掛けて、『空騒ぎ』『お気に召すまま』『十二夜』と三つの名作を書いてをり、それぞれに特色があつて面白いが、全体の構成、筋の運び方、伏線の張り方などでは、この『十二夜』はウェル・メイド・プレイの典型と言ふべく、オーシーノー、オリヴィア、ヴィオラ達によつて醸し出される浪漫喜劇的要素とマルヴォーリョー、トービー、アンドルー、マリーアによつて演ぜられる風俗喜劇的要素とが過不足なく渾然一体として描かれてゐる処に面白味があるのであつて、これを上演する場合、どちらか一方が他方を否定するほど強く印象づけてはならない。が、同時に、両方を公平に扱つても、現代の客の目には、マルヴォーリョー達の世界の方が面白く映ずる事も、また否定し得ぬ事実であらう。
福 田 恆 存
昭和四十六年十二月二十日
この作品は昭和四十七年六月「シェイクスピア全集」
補巻として新潮社より刊行された。
Shincho Online Books for T-Time
十二夜
発行 2001年6月1日
著者 ウィリアム・シェイクスピア(福田 恆存 訳)
発行者 佐藤隆信
発行所 株式会社新潮社
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ISBN4-10-861080-6 C0897
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