TITLE : ロミオとジュリエット
ロミオとジュリエット
シェイクスピア 著
福田 恆存 訳
ロミオとジュリエット
ロミオとジュリエット
場   所   ヴェローナとマンテュア
人   物
エスカラス     ヴェローナの大公
パリス       若き貴族、大公の親族
モンタギュー )  互ひに憎みあふ両家の主人
キャプレット
老人        キャプレットの親族
ロミオ       モンタギューの息子
マーキューショー  大公の親族、ロミオの友人
ベンヴォーリオ   モンタギューの甥、ロミオの友人
ティボルト     キャプレット夫人の甥
修道僧ローレンス  フランシスコ派の僧
修道僧ジョン    右に同じ
バルサザー     ロミオの従僕
サムソン  )   キャプレット家の従僕
グレゴリー
ピーター      ジュリエットの乳母の従僕
エイブラハム    モンタギュー家の従僕
薬屋
三人の楽師
パリスの小姓
他の小姓
役人
モンタギュー夫人  モンタギューの妻
キャプレット夫人  キャプレットの妻
ジュリエット    キャプレットの娘
ジュリエットの乳母
市民達、両家の親族、番人、夜警、従僕及び侍者など
序詞役
プロローグ
序詞役登場。
序詞役 処は花のヴェローナ、いづれ劣らぬ名門の両家をめぐり、古き遺恨は新しき不和を招き、血で血を洗ふ忌はしき物語。敵《かたき》同士の親を持つ非運の子等、痛ましくもその死によりて両家の宿怨を葬る。生きては添へぬ恋の悲しき顛末、吾が子の死を見るまで、つひに止む事なかりし親の確執、委細はこれより二時間に亙り舞台の上に繰り拡げられませう、皆様、もしも御辛抱いただけますなら、吾等一同、至らぬ節は勉めて補ひ、精一杯の処を御高覧に供したく存じます。(退場)
〔第一幕 第一場〕
ヴェローナの広場
キャプレット家のサムソンとグレゴリー、剣と楯を持ち登場。
サムソン グレゴリー、もう真平だ、腹の虫が承知しない。
グレゴリー さうとも、虫も殺せぬ男には成りたくはあるまい。
サムソン 違ふ、違ふ、腹に据ゑかねたらこいつを抜く、さう言つたのだ。
グレゴリー さうよ、生きてゐるうちは棺桶から足を抜いてゐろ。
サムソン 俺は手が早い、腹を立てれば直ぐに抜く。
グレゴリー そこはお前のことだ、腹が立つには時間が掛る。
サムソン モンタギューの家《うち》の犬ころを見てさへ、忽ちぐつと虫酢が走るのだ。
グレゴリー 虫酢といへども走らせてはいけない、勇気のある奴は断じて動かぬ、といふ訳で、お前なら虫酢が走れば、さつさと走つて逃げる。
サムソン 何、犬ころを見て逃げるものか、断じて動かぬ、モンタギューの奴等なら、男だらうが女だらうが、手出しはさせない。
グレゴリー それで解る、お前の腰抜け振りがな、弱い奴は相手に手を出されると身動き出来なくなるものさ。
サムソン なるほど、女を弱き器といふのは、男に手を出されると、直ぐ身動きしなくなるからか、よし、モンタギューの男には手出しをさせ、女の方には専らこつちから手を出す事にする。
グレゴリー 喧嘩は殿様同士、野郎同士で片が附く。
サムソン 構ふものか、思切り暴れて見せる、野郎同士の喧嘩が済めば、女共も容赦はしない、どて腹を刺貫いてくれる。
グレゴリー どて腹?
サムソン さうよ、どて腹だらうと、下腹だらうと、そいつは先様に任せるさ。
グレゴリー お前に身を任せたら堪《こた》へられない、といふ訳か。
サムソン 相手は堪へられないね、俺が踏み堪へて立つてゐる限りな、御存じの通り、俺は滅法発育が良いのだ。
グレゴリー 発育は良いかもしれぬが、味は塩鱈だらう。それ、道具を抜け、来たぞ、二人、モンタギューの奴等が。
エイブラハムと他の従僕一人登場。
サムソン さあ、抜いたぞ、喧嘩を吹掛けろ、俺が尻押しになつてやる。
グレゴリー 何だと? 尻に帆かけて逃げる気か?
サムソン 心配するな、大船に乗つた気でゐるがいい。
グレゴリー 笑はせるな、泥船に乗つた気でゐるとしよう!
サムソン 法律を敵に廻したら損だ、向うから仕掛けてくるやうに仕向けろ。
グレゴリー 擦違ひざま、顰め面をしてくれよう、どう取るかは先様の気分次第だ。
サムソン いや、度胸次第さ。俺は親指を噛んでやる、如何にも相手を馬鹿にしてゐるやうにな、奴等の面目は丸潰れだ、それを黙つて見過すやうならな。
エイブラハム 親指を噛んでゐるな、俺達が相手か?
サムソン 確かに親指は噛んでゐるがね。
エイブラハム それは、俺達が相手か?
サムソン (小声で)法律を敵に廻す事になるかね、「うん」と答へたら?
グレゴリー (小声で)まさか。
サムソン まさか、お前さんが相手ぢやない、ただ一人で親指を噛んでゐるだけの事さ。
グレゴリー 喧嘩を売らうといふのか?
エイブラハム 喧嘩を売る? とんでもない。
サムソン 売るなら、俺が買ふ、俺の御主人は今を時めく御大尽だ、お前さんのに引けは取らぬ。
エイブラハム といつて、上とは言へまい。
サムソン だから、どうした。
ベンヴォーリオとティボルト、左右より登場。
グレゴリー (ティボルトの姿を認めて、小声で)言へ、言へ、ずつと上だと、それ、そこに殿様の身内が。
サムソン さうとも、ずつと上だ。
エイブラハム 嘘をつけ。
サムソン 抜け、もしも貴様が男なら。グレゴリー、お前の腕の見せ処だぞ。(四人戦ふ)
ベンヴォーリオ (後から割つて入りながら)分れろ、阿呆共! 剣を納めろ、無分別にも程がある。
ティボルト近寄る。
ティボルト おい、こんな腰抜けを相手に剣を抜くのか? こつちを向け、ベンヴォーリオ、命は貰つたぞ。
ベンヴォーリオ 俺は仲直りさせようとして留めに這入つただけだ、剣を納めろ、それが厭なら、手を藉して奴等を引分けてくれ。
ティボルト 何、抜身をかざして仲直りの説教をしろと言ふのか? 仲直りなどと、言葉を聞いただけで虫酢が走る、おおさ、地獄もモンタギュー一門も、それに貴様の面を見ただけでも、さ、行くぞ、腰抜けめ。
一同戦ふ。両家の者数人登場、喧嘩に加る。ついで棍棒や矛を持つた三、四人の市民、及び役人一人が登場。
役人 棍棒だ、槍だ、矛だ! 突け、打ちのめせ。キャプレットを、モンタギューを!
部屋着を着たキャプレット、及びキャプレット夫人登場。
キャプレット 何事だ、この騒ぎは? おい、剣をよこせ!
キャプレット夫人 いいえ、松葉杖を! なぜ刃物などお求めになります?
キャプレット ええい、剣だ! モンタギューが来る、それ、あのやうに剣を閃し、俺を愚弄してゐる。
モンタギューとモンタギュー夫人登場。
モンタギュー おお、悪党キャプレット!――止めるな、放せ。
モンタギュー夫人 敢へて敵を求めるお気持なら、決してお放し致しませぬ。
ヴェローナ公エスカラス、侍者を伴ひ登場。
大公 手に負へぬ平和の敵、同胞の血潮に刃を穢す奴ばらめ――俺の言葉が聞えぬのか? ええい、鎮れ! 獣にも劣る人非人、その執念き憎悪の炎を消す為には、己が血潮を紅の泉と化し、拷問の厳罰も恐れぬ奴等だ、その血にまみれた手を引け、邪悪な心の鍛へた太刀を棄てろ、怒れる大公の宣告を聞くがよい。キャプレットにモンタギュー、互ひにたわいもない言葉尻を捉へての三たびの諍ひ、そのたびに町の平穏を乱し、為にヴェローナの古老たちも、その身にふさはしい杖を投げ捨て、老いさらぼうた手に平和に錆ついた古き矛を操り、汝等の心に錆ついた憎しみを取除かうと躍起になつてゐる。この上更に町の平穏を乱す様な事があれば、治安妨害の罪として双方共に死刑を言渡す。が、この度に限り大目に見る、皆立去れ、待て、キャプレット、お前はこの身と共に。それとモンタギュー、けふ午後、今回の事件について言つて置きたい事がある、わが町の裁きの場フリータウンまで来て貰ひたい。重ねて言ふぞ、命が惜しい者は、皆立去るのだ。(モンタギュー、モンタギュー夫人、およびベンヴォーリオを除き、全員退場)
モンタギュー 誰だ、この古き諍ひの燠に新たな油を注いだのは? 言へ、ベンヴォーリオ、喧嘩が始つた時、お前はその場に居合はせたのか?
ベンヴォーリオ 私がここに参りました時には、既に敵身方の下僕共の間で斬合ひが始つてをりました、私が剣を抜き、両者を分けようと致しました折も折、かの猪武者ティボルトが抜身のまま飛込んで参り、私の耳を挑発せんものと、頭上に剣を振りかざし虚空をめつたやたらに斬り廻す、斬られた空気の方では更に痛痒を感ぜず、唸りをあげて剣を嘲るばかり、かくて斬り結びをりますうちに、次第に新手が加り、互ひに敵と身方のまんじ巴、そこへ大公がおいでになり、万事、お納め下さつたといふ訳でございます。
モンタギュー夫人 おお、ロミオはどこに? 会ひましたか、けふ? 何よりでした、あの子がこの騒動に加つてゐなかつたのは。
ベンヴォーリオ 叔母上、神しい朝日が、東の金色の窓に顔を覗かせる一時間も前の事、この胸の悶えに駆立てられてか、私は戸外を歩き廻つてをりましたが、西の方、町はづれ、シカモの森で、そんな朝まだきに辺りをさまよひ歩く御子息に出会ひました、で、近寄らうと致しますと、あちらはそれに気づき、つと森の繁みに隠れてしまつたのでございます、こちらも吾身に照して相手の心を推し測り、かうして人気の無い場所を選ぶのも心に悩みがあればこそ、そんな時には己れ一人でさへ重荷になる、先様よりは今の自分がそれと、敢へて私から逃げて行く相手の姿をこちらも敢へて見逃した次第でございます。
モンタギュー 早朝、幾度となく、あれの姿を見掛けるといふ、朝露に涙を注ぎ、朝靄に歎きの霧を加へながらあの森をさまよふ姿を、だが、東の彼方、憂ひの雲を吹払ふ太陽が、暁の女神オーロラの臥所の黒い帷を引きあげるや、息子の暗い心は光を避け、こつそり館へ戻り、ただ一人部屋に籠つて鎧戸を鎖し、美しい日の光を遮り隠し、自ら偽りの夜を造り出す、そのやうな気分でをれば、早晩必ず忌はしい事態を招かう、とくと思案のうへ、その原因を除かねばならぬ。
ベンヴォーリオ 叔父上、その原因を御存じで?
モンタギュー 知らぬ、訊ねても答へてくれぬのだ。
ベンヴォーリオ たつてお訊ねなさいましたか?
モンタギュー この身はもとより、友人達にも探つてもらつた、が、あれは、本心を己が胸の内に秘め隠し――何たる事か、その方が身の為と思込んでゐるのだ――とにかく秘密を守り、心を鎖してゐる、突止めることはもちろん、さぐりを入れる事すら覚束ない、いはば、心なき害虫に食ひ荒された蕾も同然、その艶やかな花びらを大気にさらし、日の光に美しい姿を誇らぬうちに腐れ萎む。あの悲しみの源さへ突止められれば、出来る限りの手当を施してやりたい。
ロミオ登場。
ベンヴォーリオ それ、ロミオがあれに、どうかお引取りを、私が悲しみの源を探り出してみませう、何としてでも。
モンタギュー ここに居残り、首尾よくあれの心の内を探り出して貰へれば何よりだが。さ、行くとしよう。(モンタギュー夫妻退場)
ベンヴォーリオ お早う、ロミオ。
ロミオ まだ、そんな時間か?
ベンヴォーリオ 九時を打つたところだ。
ロミオ ああ、悲しみは時の歩みを遅らせるらしい。いま、急いで立去つて行つたのは父ではなかつたか?
ベンヴォーリオ さうだ。が、どんな悲しみがロミオの時間を長引かせるのだ?
ロミオ それを手に入れれば忽ち時が過ぎる、それが手に入らぬからだ。
ベンヴォーリオ では、恋を?
ロミオ いや、恋に――
ベンヴォーリオ 破れて?
ロミオ その破れた恋に恋ひ焦れて。
ベンヴォーリオ おお、キューピッドの奴、見掛けは至極優しい癖に、思つてもみなかつたぞ、これほど酷くすげないものとは!
ロミオ おお、キューピッドの奴、絶えず目隠しをされてゐる癖に、思つてもみなかつた、これほど意のままに的を射とめるものとは! ところで、食事はどこでしようか?――おい! どうだつた、ここでの立廻りは? いや、話さなくてもいい、残らず聴いた、憎しみも激しからうが、恋の方がもつと激しい、してみれば、おお、諍ひながら恋し、慕ひながら憎む、おお、それも因はと言へば影も形も無いところから生じたもの! ああ、浮立つ様な重い心、見せかけの真実、うはべは美しく見えながら、中身は醜く濁つてゐる、鉛の羽根、輝しい煙、冷やかな炎、健かな病、常に醒めてゐる眠り、そんなものは在りはしない! が、それが俺の恋なのだ、それを俺は憎んでゐる。笑つてくれぬのか?
ベンヴォーリオ いや、ロミオ、俺は寧ろ泣いてやりたい位だ。
ロミオ 何の為に?
ベンヴォーリオ 友人の悲しみの為に。
ロミオ いや、それは度を越えた友情といふものだ。吾身を歎くだけでも、胸が潰れる想ひだ、このうへ君の悲しみまで引受けねばならぬとすれば、その思遣りはありがたいが、耐へきれぬほどの悲しみに更に悲しみを添へる事になる。言つてみれば、溜息とともに立昇る湯気、それが恋なのだ、恋する者の目は、祝福されれば火と燃える、妨げられれば大海に涙の雨を降らせる。如何にもその通り、冷静きはまる狂気、咽喉を締めつける苦汁、魂の砂糖漬けさ。では、また、ベンヴォーリオ。
ベンヴォーリオ 待つた、いつしよに行かう、このまま置去りはひど過ぎる。
ロミオ ちよつ、俺には俺が見えない、俺はここにはゐないのだ、これはロミオではない、あれはどこか別のところにゐるのだらう。
ベンヴォーリオ 腹を割つて話してくれ、誰なのだ、意中の人は?
ロミオ 何、腹を切つてまで意中を明かせと言ふのか?
ベンヴォーリオ 腹を切る? とんでもない、真面目な話、誰なのだ?
ロミオ 瀕死の病人に向つて真面目くさつて遺言状の催促をしてみるがいい――重い心の病を歎いてゐる身にとつて、なんと気の利かぬ言葉か。真面目な話、ベンヴォーリオ、俺は大真面目で或る娘に恋をしてゐる。
ベンヴォーリオ すると当つてゐたな、恋ではないかと睨んでゐたのだ。
ロミオ おお、見事、的を射抜いたぞ! 美しい娘なのだ、俺が恋してゐるのは。
ベンヴォーリオ 目に立つ的なら、ロミオ、たやすく射抜ける筈だ。
ロミオ いや、それこそ的はづれだ。俺の相手はキューピッドの矢でも射落せまい、貞節の女神ダイアナの分別を備へ、貞操の鎧に身を固めてゐる、悪戯子キューピッドの弱い弓などに擦り傷一つ負はされるものか。口説き攻めにも城を開け渡さず、どのやうな秋波を送られようと靡かず、聖者さへ迷ふ黄金の誘惑にも更に膝を崩さうとはしない。おお、限りないあの美しさも、残念ながら一代限り、死ねば、すべてが滅び去るのだ。
ベンヴォーリオ 生涯、生娘で通すと誓ひを立てたのだな?
ロミオ その通り、その倹《つま》しさこそ却つて大きな無駄遣ひといふものだ、さうではないか、節制ゆゑに美しさが餓死すれば、その美しさを子孫に伝へる術もない。頗る美しく、頗る賢く、その賢しさを以て美徳を守る事、これまた頗る慎重と来てゐる。あの娘、天国行きは望めぬぞ、かうまで俺を絶望させてしまつたのではな、男を愛さぬと誓ひを立てたのだ、お蔭でこの身は生ける屍、かうして口を利いてゐるのも精一杯といふ訳だ。
ベンヴォーリオ 悪いことは言はぬ、その娘を忘れてしまへ。
ロミオ おお、教へてもらひたい、どうしたら忘れられるか。
ベンヴォーリオ その目に自由を与へてやるがいい、ほかに美人がゐない訳でもあるまい。
ロミオ ゐても、あの娘の引立役をしてくれるだけだ。美しい娘達の額に口づけするあの幸福な仮面は、黒ければこそ、隠した白き素顔を思はせる。そして盲にされた男は、失はれた視覚の貴さを忘れられぬのだ。類ひなき美人を見せられて何の役に立たう、更に類ひなき美人を思出すだけのことではないか? もう行くぞ、思切る術は教へて貰へさうもないからな。
ベンヴォーリオ いづれ教へて差上げよう、お尋ねに預かつた以上、借放しにはせぬ積りだ。(二人退場)
〔第一幕 第二場〕
前場に同じ
同じ日おそく。
キャプレット、パリス、キャプレット家の従僕たる道化登場。
キャプレット しかし、モンタギューもこの身同様誓つた、違約の罰も平等だ、だが、吾ほどの老人には、平和を守ることはさほどの難事でもありますまい。
パリス ともに由緒ある家柄でありながら、久しく不仲でをられるのは真に残念。が、時にキャプレット殿、如何でせう、私の申出は?
キャプレット 先に申上げたことを繰返す他ありませぬ。娘はまだ世間見ず、十四の春すら迎へてはをらぬ、せめてあと二回、夏の盛りを過さねば、花嫁にふさはしい年頃とは申せますまい。
パリス 娘御よりも若くて既に仕合はせな母親となつてゐる例《ためし》もあります。
キャプレット いや、そのやうに早う咲いたのでは、あまりにも早う凋むだけのこと。子達は次に土となり、手許に残されたは唯あればかり、この世の頼みどころは、あの娘のほかには何も無いのです。しかし、娘を口説かれるがよい、パリス殿、あれの心を掴むことだ、娘の気持次第、年寄の意向はほんの添物に過ぎませぬ、娘さへ承知なら、その選択にこの身は同意、喜んで受入れてやる積りでをります。今夜は、恒例の酒盛りを開き、親しき友人を多数招いてありますが、それに御出席下さるとは忝ない、珍客を迎へて、集ひの楽しみは一段と大きくなりませう。今夜ばかりはむさくるしい吾が屋敷も、この世の星が群り集ひ、その華やかな輝きに暗き空も明るむといふもの。もどかしい歩みの冬が去り、装ひを凝らした四月が訪れる時、血気盛りの若者達が感ずるやうな楽しさを、御身も花も蕾の娘達に立混り、今宵は吾が屋敷でとくと味ははれる筈、その際よくよく御検分の上、最も美しき娘をお選びになるがよい。念を入れ品定めをなさるなら、私の娘も多少は数にも入りませうが、何しろ若い娘は大勢ゐる、殊更お目に留る事もありますまい。さ、参りませう。(道化に)おい、ヴェローナ中を駈け廻つてくれ。ここに控へてある名前の方を訪ね廻り、(一枚の書附を渡す)門毎に触れて歩くのだ、今宵の御光来をお待ち申上げてゐるとな。(キャプレットとパリス退場)
道化 (書附の向きを変へ)ここに書いてある方を訪ね廻れと来た! なるほど書いてあるぞ、靴屋は物差しで稼ぐべし、仕立屋は靴型、漁師は絵筆、絵描きは網で稼ぐべしか。はてと、俺様の役目はここに書いてある名前の方を捜し出すといふ訳だ、ところが、その俺様にはどんな名前が書いてあるものやらとんと解らぬ。学者のところへ行かずばなるまい。おつと、これは幸ひ!
ベンヴォーリオとロミオ登場。
ベンヴォーリオ ちよつ、それ、火を打消すには火を以てするに如かずと言ふではないか、苦痛は別の苦痛によつて和らぐ例へ、ぐるぐる廻つて眩暈《めまひ》がしたら、逆に廻つて直すがいい、激しい悲しみは他の悲しみを癒す、まづその目に新しい毒を差すに限る、古い毒は流れてしまふさ。
ロミオ 例の車前草《おほばこ》の葉が一番効くさうだな。
ベンヴォーリオ 何に効くのだ?
ロミオ 向う脛の傷に。
ベンヴォーリオ おい、ロミオ、気でも狂つたのか?
ロミオ 狂つてはゐない、が、気違ひ以上に辛い思ひだ、牢獄に繋がれ、食ひ物は断たれ、鞭打ち、拷問、そしてまた――やあ、達者でゐるか?
道化 は、お蔭をもちまして。ところで、旦那様、読むことはお出来で?
ロミオ うむ、読めるとも、惨めなこの身の運命をな。
道化 それは本など読まなくともお解りでございませう。実はそのお目に見えるものがお読みになれるかと、さうお尋ねしましたので。
ロミオ 読めるとも、文字と言葉を知つてゐればな。
道化 とはまた正直な。では、御免下さい。(道化、行きかける)
ロミオ おい、待て、読む事くらゐ出来るさ。(書附を読む)「マーティーノー夫妻及びその令嬢達、アンセルモー伯爵及びその美しき令妹達、ヴィトルーヴィオー未亡人、プラセンショー殿及びその愛らしき姪御達、マーキューショー及びその弟ヴァレンタイン、叔父キャプレット夫妻及びその娘達、吾が麗しき姪ロザライン及びリヴィア、ヴァレンショー殿及びその甥ティボルト、ルーショー及び活溌なるヘレナ」大した顔触れだな、で、この連中、どこに集るのだ?
道化 お揃ひで。
ロミオ どこに?
道化 晩餐に、はい、お屋敷に。
ロミオ 誰の屋敷に?
道化 はい、手前共の主人の。
ロミオ なるほど、それを先に訊くべきだつたな。
道化 いえ、申上げませう、訊かれぬ先に。手前共の主人はかの長者キャプレット様でございます。旦那様がモンタギュー家の方でない限り、一杯やりにお出掛け下さいますやう。では、御免。(退場)
ベンヴォーリオ そのキャプレット家恒例の宴会に、君の慕つてやまぬロザラインが、ヴェローナ中の美女ともども同席する、行かうではないか、ロミオ、囚はれぬ目で見較べてみるがいい、あの娘の顔を俺の教へるどこかの娘の顔とな、思知らせてやらう、君が白鳥とのみ思つてゐたのは実は烏だつたと。
ロミオ この目の堅い信心にそんな嘘偽りが混つてゐるなら、涙は炎に変るがいい、度溺れながら死にきれずにゐるこの目が、紛れもない裏切りを犯すなら、偽誓の罰で燃えてしまへばいいのだ。俺の恋してゐる娘より美しいと! 何でもお見通しの日の神さへ、この世始つて以来、あれに較べうる美しい女は御存じの筈がない。
ベンヴォーリオ ちよつ、その目に美しいと映るのも、傍に誰も置かず、二つの目であの娘だけを測つてゐるからだ、その水晶の秤の片方に、今夜俺が教へる別の美しい娘を載せ、君の心の人を測つてみることだ、今でこそ他に類ひ無しと見える美しさが、さほどでもないものと見えて来よう。
ロミオ もちろん行く、その女を見る為ではない、わが恋人のすばらしさを讃へる為に。(二人退場)
3〔第一幕 第三場〕
キャプレット邸の内部
キャプレット夫人と乳母が登場。
キャプレット夫人 乳母《ば あ》や、娘はどこにゐます? 呼んで来ておくれ。
乳母 おや、間違ひございません、生娘だつた私の十二の齢《とし》に賭けて誓ひます、確かにお呼び致しました。ほうい、小羊さん! 移り気の天道虫さん! おや、これは失言! はて、どうしたのでせう? ほうい、ジュリエット!
ジュリエット登場。
ジュリエット 何か、呼んだのは誰?
乳母 お母様ですよ。
ジュリエット お母様、ここに。何の御用?
キャプレット夫人 大事な事。乳母や、暫く席をはづしておくれ、娘と二人だけで話したい。いえ、戻つておいで、その方がいい、やはりお前にも聴いて貰ひませう。知つての通り、娘はもう年頃。
乳母 ええ、ええ、お嬢様のお齢なら、時間で勘定が出来ます。
キャプレット夫人 まだ十四にはなつてゐない。
乳母 この十四本の歯に賭けて――とは言ふものの、それもあらかた欠けてはかない話、もう四本しか残つてをりませんが――はい、まだ十四にはおなりにならない。あと何日で収穫祭になります?
キャプレット夫人 まだ二週間余り。
乳母 余らうと詰らうと、一年は三百六十五日のうち、収穫祭の前夜で丁度十四におなりです。スーザンとお嬢様とは――神様、あの子の魂にどうぞ安らかな眠りを――同い齢でございました。さう、スーザンは今神様のお傍にゐる、私には過ぎた娘でございました。ところで、唯今も申しましたやうに、収穫祭の前夜で丁度十四、間違ひなし、よく覚えてをります。それに十一年前の大地震が日も同じ収穫祭の前の日で、丁度その日が乳離れ――決して忘れはいたしませぬ――一年三百六十五日のうち、選りに選つてあの日に、はい、あの日、私は乳首に苦よもぎを塗り、鳩小屋の壁際の日なたに坐つてをりました。旦那様も奥様もその日はマンテュアに行つていらしてお留守――この通り、記憶力はまだまだ確かなものです! で、唯今も申しました通り、苦よもぎを塗つた乳首を吸つて、さぞ苦かつたのでございませう、このお馬鹿さんは、かはいさうに、むづかつて離してしまひましたつけ! すると、「ぐらぐら」と鳩小屋が揺れましてね、さうなれば、全くの話、お暇を出されるまで待つてはをられず、一目散に逃げ出したのでございます。あれからもう十一年になる、あの頃、お嬢様は立派に立つて歩けるやうになつて、いえ、正直、よちよち駆け廻ることさへ出来たのでございます。その証拠にその前日も、額にお怪我をなさり、さう、その時でございましたよ、私の主人が――神様、あの世で仕合はせでゐられますやうに、陽気な男でございましたつけ――お嬢様を抱き起して差上げました。「よう」と主人が申しました、「俯伏せにお転びだな? もつと智慧がつけば、仰向けに転ぶやうになるよ、さうだらう、ジュール?」すると、本当の話、お嬢様が泣きやんで、「うん」とおつしやつた。その冗談が、たうとう本当の話になつたのですね! 全くの話、この先千年生きようと、あの話は到底忘れられません、「さうだらう、ジュール?」と申しましたのですよ、すると、お馬鹿さんが、ぴつたり泣きやんで、「うん」ですつて。
キャプレット夫人 もうたくさん、その話は、お願ひ、黙つておくれ。
乳母 はい、奥様、でも、やはり笑はずにをられません、泣くのをやめて、「うん」とおつしやつたのですもの、それも、正直な話、額の上に若鶏のおちんちん位の瘤をこしらへて、本当に危いつたらない、引きつるやうに泣いてゐたのでございますよ。「よう」主人が申しました、「俯伏せに転んだか? 年頃になつたら、仰向けに転ぶやうになるよ。さうだらう、ジュール?」するとぴつたり泣きやんで、「うん」とおつしやつた。
ジュリエット それならお喋りをやめて、お前も、お願ひ。
乳母 はい、もう黙りました。お嬢様に天のお恵みがありますやう! お嬢様はこれまでお乳を差上げたうち、いちばん美しい赤さんで、御婚礼の晴姿を一目見て死にたい、これが私の願ひでございます。
キャプレット夫人 結構な話だね、いえ、その結婚の話なのですよ、私の話さうとしてゐたのは。聞かせておくれ、ジュリエット、お前の気持はどうなの?
ジュリエット そのやうな晴れがましい事、夢にも考へてみませんでした。
乳母 晴れがましい事! お嬢様にお乳を差上げたのはこの私、遠慮なく言はせて頂ければ、その位の分別はこの乳首からたつぷり吸ひ取つておいでの筈。
キャプレット夫人 それなら今でもいい、よく考へて御覧。このヴェローナには、お前より年下の良家の娘で、とうに母親になつてゐる者もある。考へてみれば、まだ娘でゐるお前の年頃には、私はお前の母親になつてゐました。手取り早く言へば、あの雄しいパリス様がお前を御所望なのです。
乳母 まあ、お嬢様! お嬢様、あれほどの殿方なら、それこそ――さう、まるで蝋人形の様にお綺麗な。
キャプレット夫人 ヴェローナの夏でさへあれほどの花は咲かせますまい。
乳母 はい、花でございます、本当に花そのもので。
キャプレット夫人 さ、どうします? あの方が好きになれて? 今夜の宴会にはお出でになる筈、パリス様のお顔を本と思つて隅まで読み取り、美の神の見事な水茎の跡を存分に味はふがよい、調つた目鼻立ちをとくと眺め、その一つ一つがどんなに素晴らしい中身を造上げてゐるかを確めるのです、そして、あの美しい書物にどこか腑に落ちないくだりがあつたら、註釈ほどに物を言ふ目を御覧。ただ、あの貴重な恋の書物は仕上げが出来てゐない、まだ一度も愛の縛《いましめ》めを受けた事のない男には、全体を美しく纏め上げるに足る表紙だけが欠けてゐるのです。魚は水を得て初めて魚、総じて内に包まれた美は、外の美の輝きを増すもの。誰の目にも立派に見えませう、黄金の留金に抱きとめられた黄金の物語は。お前とて同じこと、あの方のすべてはお前のものになる、あの方を夫に持ち、しかも自分はそのまま、何一つ失ふものは無い。
乳母 失ふものはない! それどころか、女は男のお蔭で大きくなります!
キャプレット夫人 さ、手短かにお言ひ、パリス様が好きになれますか?
ジュリエット 好きになるやう努めませう、この目が心を動かせるなら、でも、この目の放つ矢の勢ひもお母様のお許しによるもの、それ以上は届かぬやうに致します。
従僕登場。
従僕 奥様、お客様がお揃ひで、食事の用意は整ひ、旦那様がお呼びでございます、お嬢様も、皆様お待ちかね、台所では乳母の悪口ばかり、いや、もう大変な騒ぎでございます。手前もこれから御接待役、どうぞ、直ぐさまおいで下さいますやう。
キャプレット夫人 直ぐに行きます。ジュリエット、伯爵がお待ちですよ。
乳母 さ、参りませう、喜ばしい昼に重ねて喜ばしい夜を心ゆくまでお楽しみなさいまし。(一同退場)
〔第一幕 第四場〕
キャプレット邸の外
ロミオ、マーキューショー、ベンヴォーリオ、仮面をつけた五、六人及び松明持ち達登場。
ロミオ どうする、そんな口上を楯に潜込むか? それとも挨拶抜きで押通るとするか?
ベンヴォーリオ 当節そんなくだくだしい礼儀は流行らない。スカーフで目隠ししたキューピッドを先導に色塗りのトルコ弓を持たせ、案山子《か か し》よろしく御婦人を脅やかす、そんな手はもう使ふまい、もちろん、後見役頼りに、うろ覚えの前口上をおづおづ述べたてる、あの手も使はずに乗込むのだ、奴等にどう思はれようと構はぬ、好きなやうに値踏みさせ、こつちは宜しく床を踏み鳴らし踊りまくつて引揚げる。
ロミオ 松明をよこせ、とても跳ね廻る気にはなれない、この暗い心の錘り、せめて明るい燈りで軽くしたい。
マーキューショー 駄目だ、ロミオ、是が非でも踊らせてやるぞ。
ロミオ いや、正直、御免蒙る、君の舞踏靴は底が軽い、が、俺の心の底は鉛だ、飛び跳ねることはおろか歩くことすら出来ない。
マーキューショー 君は恋をしてゐる、それならキューピッドの翼を借り、鷹のやうに宙に舞ひ揚るがいい。
ロミオ キューピッドの矢に射抜かれたこの重い心、たとへその軽い翼を借りようと、宙に舞ひ揚るなど思ひも寄らぬ、そんな事が出来る筈がない、この重い心を抱へて少しでも飛び揚れるものか、恋の重荷に押潰され、ひたすら沈みゆくばかりだ。
マーキューショー 君が一緒に沈めば、その恋人の方に一層重みが掛る――優しい恋人にはいささか荷が勝ち過ぎるといふものだ。
ロミオ 恋が優しい? 何を言ふ、こんなすげないものは無い、残酷、兇暴、極り無し、荊棘よろしく人を刺す。
マーキューショー 先様がさうまですげないなら、こつちもすげなく振舞へば良い、刺されたら刺せ、破れるのは必ず先様だ。この顔を隠す面《めん》を寄越せ、まづい面《つら》にはまづい面を! 構ふものか、不様な顔をとくと見たがる酔狂な御仁はまさかゐまい? このおでこに俺に代つて赤面して貰はう。(仮面をかぶる)
ベンヴォーリオ さ、戸を叩け、這入るのだ、いいか、乗込んだら直ぐ踊り出すのだぞ。
ロミオ 松明を寄越せ、何も感じない藺草の床を踵で擽るのは浮かれた手合に任せておかう。俺は昔の諺に随つて、燈り持ちは、傍眼《をかめ》八目の得と行くか。勝負事に勝ち放しは無し、俺は手を引く。
マーキューショー ちよつ、引くのは鼠だ、頭の黒い鼠なら巡査が引いて行く、君が泥沼に落込んだ引き馬なら、皆で引抜いてやる、怒るなよ、その恋の泥沼に君は首まで漬つてゐるのだからな。さあ、昼間の燈りはもう沢山だ、しつかりしろ。
ロミオ 何を言ふ、もう昼ではない。
マーキューショー さうではない、かうぐづぐづしてゐるのは燈りの無駄使ひ、だから昼間の燈りと言つたのだ。俺には何の底意もありはしない、人の言葉はその真意を汲取る事、その方が五倍も賢明だからな、五感のうちただ耳だけに頼つてゐるのでは駄目だ。
ロミオ むろん、舞踏会へ乗込むのに何の底意もありはしない、といつて、余り賢明とは言へないな。
マーキューショー とはまた、なぜだ?
ロミオ ゆうべ夢を見たのだ。
マーキューショー 俺も見た。
ロミオ さうか、どんな夢だ?
マーキューショー かういふ夢だ、夢想家の話は寝言に似てゐる。
ロミオ 然り、寝床に寝てゐる、が、その夢は真実を写す正夢。
マーキューショー おお、さてはマブの女王と枕を交したな。あいつは妄想を取上げる産婆役、役人の人差指に光つてゐる瑪瑙ほどの小さな姿に化け、芥子粒ほどの小人の一団に車を牽かせ、眠つてゐる人間共の鼻先をかすめて通る。その馬車は榛《はしばみ》の実の殻で、それを拵へたのは大昔から妖精の車作りを一手に引受けてゐる栗鼠か地虫だ。車輪の輻《や》は手長蜘蛛の脚、幌は蝗《いなご》の羽、牽綱は青白い月の光、頸輪は細い姫蜘蛛の糸、鞭は蟋蟀《こほろぎ》の骨、鞭縄は豆の薄皮。馭者は灰色づくめの小さな蚋《ぶゆ》が勤め、そいつがまた怠け女の指先に湧く丸い蛆《うじ》の半分もない。このやうに装ひをこらして夜毎恋する者の頭の中を駈けめぐれば、そいつは夜毎恋の夢にうなされる、廷臣の膝の上を走れば、忽ち最敬礼の夢、弁護士の指先を走れば早速手数料の夢、御婦人の脣をかすめれば、忽ち口づけの夢、尤もマブは腹を立てると、よく脣に爛れを拵へておくものだ、寝息が砂糖菓子で臭いからな。時に廷臣の鼻先を駈け抜ければ、そいつは出世の手蔓を見つけた夢となる、また税金代りに納める豚の尾で眠つてゐる坊主の鼻を擽れば、坊主はまたぞろ実入りの殖える夢を見る。時に兵士の首筋を駈けめぐれば、敵兵の首を取る夢、攻落した敵の城、伏兵、スペインの名剣、さてはまた底抜け騒ぎの祝盃の夢、と思ふ間もなく耳元に軍鼓の響き、驚き目醒めてみたものの、祈祷の文句を二言三言、二たびぐつすり眠つてしまふといふ訳だ。夜中に馬の鬣《たてがみ》を編むのも、不精者の髪の毛を縺れさせ、そいつが解ければ大きな不幸の前兆だなどと気を揉ませるのも、みんなマブの仕業なら、娘が仰向けに寝てゐるとき、その上にのし掛つて忽ち重荷に耐へる女に仕立て上げてしまふのも、あの魔女のする事だ、のみならず――
ロミオ もういい、もういい、マーキューショー、やめてくれ! 愚にもつかぬ話だ。
マーキューショー いかにも、夢の話だからな、夢は愚かな頭脳から生れる、その父親はほかでもない、あの取り留めもない空想といふやつ、こいつは空気のごとく稀薄で、風よりも気紛れだ、今、北国の冷たい胸に頬を寄せてゐるかと思ふと、忽ち腹を立てて顔をそむけ、恵みの雨を降らせる南国へ心を寄せるあの風よりも。
ベンヴォーリオ その君の話の風に煽られて、吾までも立往生だ、晩餐は終つたぞ、遅すぎたかな。
ロミオ いや、早すぎたのかもしれぬ。この胸が騒ぐのだ、今はまだ宿命の星に懸つてゐる大事が、今宵の宴会を切つかけに恐るべき効力を現し、不慮の死といふ忌はしい罰を以て、この胸に宿るみじめな命を取立てるのではないかと。だが、運命の柁取りは神に任せた俺だ、安らかな航海を祈るほかはない! さ、行かう、陽気な諸君。
ベンヴォーリオ 打て、太鼓を!(一同、邸内へ退場)
〔第一幕 第五場〕
キャプレット邸の広間
楽師達が待機してゐる。仮面をつけた客達登場、広間をぐるりと廻り、片脇へ寄る。
従僕達、ナプキンを持つて登場。
従僕一 ポットパンはどこへ行つた、後片附けの手伝ひもしない気か? 皿も運ばぬ! 拭きもしない!
従僕二 何から何まで一人や二人の手に委せきりで、またその汚れた手を洗ふ間も無しと来たのでは、どうにも遣りきれないな。
従僕一 折畳椅子を片附けてくれ、食器棚を移すのだ、皿に気を附けろ――おい、あんず菓子を一つ取つておいてくれよ、それと、頼む、門番に伝へてくれ、スーザン・グラインドストンとネルを入れてやるやうにな――アントニー、ポットパン!
従僕三 ほい、ゐるぜ、ここに。
従僕一 さつきから捜し廻り、呼び廻り、尋ね廻り、きりきり舞ひしてゐたのだ、この大広間中をな。
従僕四 一遍にあつちとこつちに顔を出す訳にはゆかないよ。さあ、精を出せ、陽気に行かうぜ、死んだら負けよ、と。(従僕達退場)
キャプレット及びジュリエット、男女の客全員を伴ひ登場、仮面をつけた男達に加る。
キャプレット よくお越し下さつた、殿方! 爪先に肉刺《ま め》を拵へてをられぬ御婦人なら必ず一番御相手を勤めてくれませう。さて、御婦人方、踊りの相手を断るのはどなたかな? 乙に澄まして踊らぬ方は、極つてゐる、肉刺を拵へておいでの方だ、まづは図星であらう? ようこそ、殿方! 嘗つてはこの身も面を被り、美しい御婦人の耳元に甘い言葉を囁いた覚えがある、それも、遠い昔、昔の憶出話。よくぞおいで下さつた、殿方! さあ、楽師達、音楽を。散らばれ、散らばれ! 道を開けろ。さ、踊るがよい、娘御達。(音楽が始り、一同踊る)これ、もつと燈りを、食卓を片附けろ、炉の火を消せ――この部屋は暑すぎる。これは、これは、思ひがけぬ珍客の到来だな――さ、さ、掛けてくれ、従弟のキャプレット、お互ひに踊りを楽しむ時期は既に過去のもの。舞踏会で踊らぬやうになつてから、もうどの位になるかな?
キャプレットの従弟 確か、三十年になる。
キャプレット おお、まさか! そんな筈はない、そんな筈は。ルーセンショーの婚礼以来だから、もう直ぐ踰越《すぎこし》の祭が来るとしても、精二十五年、あの時はお互ひに踊つたな。
キャプレットの従弟 そんな事はない、そんな事は無い、あれの息子はもつと年を取つてゐる、あの息子はもう三十だからな。
キャプレット 何を言ふのだ? あれはまだ二年前には後見人が附いてゐた筈だ。
ロミオ (従僕に)誰だ、あの男の手に輝きを添へてゐる娘は?
従僕 存じませぬ。
ロミオ (傍白)おお、燈し火はあの娘に輝く術を教はるがいい! 黒人の耳を飾る目《ま》映《ばゆ》い宝石さながら夜の頬に輝いてゐる――手に取るには余りにも美しい、この世のものとは思へぬ! 雪を欺く白鳩が烏の群に降り立つたのか、娘達に立混り一際燦然と輝くあの美しさ。踊りが終つても、あの娘を見失ふな、あの手に触れ、このいかつい手に祝福を与へてやるのだ。この胸は既に恋を知つてゐた筈ではないか? 目よ、「否」と答へるがいい! まことの美といふものを、俺は今の今まで知らずにゐたのだ。
ティボルト あれは、声で解る、モンタギューの奴だ。剣を取つて来い、小僧。(小姓退場)悪党め、よくもここへ、ひよつとこ面に顔を隠し、この晴れの祝宴を愚弄する気か? よし、一族の貴い家柄にかけて、奴を打ち殺してやる、それが何で罪にならう。
キャプレット これ、どうした、ティボルト! 何故さう息巻いてゐる?
ティボルト 叔父上、あれにモンタギューの奴が、吾の敵が、悪党め、わざわざここへ乗込んで来たのは、今宵の祝宴を愚弄しようといふ底意だな。
キャプレット 息子のロミオだな?
ティボルト さうです、悪党のロミオです。
キャプレット ま、落着け、放つておくがよい、折目正しい紳士らしく振舞つてゐるではないか。それに、事実、品行方正、礼儀も正しい若者とヴェローナ中が褒め讃へてゐる。この町中の財宝に代へても、この邸の中で危害を加へたくはない。まあ、我慢してくれ、見て見ぬ振りをしてゐろ。わしの頼みだ、わしに免じて、晴やかな顔に戻り、その顰め面は投げ捨てるがよい、宴にはおよそふさはしからぬ顔だ。
ティボルト いや、あんな悪党を迎へるには持つて来いの顔だ、あの男には我慢なりませぬ。
キャプレット そこを我慢しろと言ふのだ。おい、どうしたといふのだ? わしの命令だぞ、我慢するのだ。待て、この邸の主《あるじ》は誰だ、お前か? 待て、どうしても我慢できぬといふのか? 手に負へない奴だ! 客人の前で、どうでも一悶着起したいのか! 向う見ずにも程がある! 見上げた男だ!
ティボルト だが、叔父上、恥辱ですぞ。
キャプレット 待てといふに、つけあがるな。さうか、それが恥辱か? その悪癖がいづれ禍を招かう、火を見るより明かだ。わしにまで楯突くとは! それ、いい潮時だぞ――(踊手達に)やあ、見事、見事!――全く猪口才な奴だ、待て、静かにしろ、さもないと――もつと燈りを、もつと燈りを、恥を知れ!――静かにするのだ――よう、見事、見事!
ティボルト 無理強ひの忍耐が気負つた腹立ちを押へつける、その食違つた出会ひのお蔭で、体中の筋肉が震へて来た。引揚げるとしよう、だが、この無法極る闖入、今は甘く見えもしようが、いづれ苦い胆汁に変へてやるぞ。(退場)
ロミオ (ジュリエットの手を取り)この私の賤しい手が聖なる社を穢したならば、その甘い罪の償ひは、この脣に、それこそ、赤面する二人の巡礼さながら、優しき口づけを以て、手の穢れを拭ひ取りませう。
ジュリエット 巡礼のお方、それはそのお手に対して余りにすげないお仕打ち、それ、そのやうに恭しくすべてを捧げてをりますものを、聖者の御手にさへ巡礼の手は触れませう、それに手と手の触合ひこそ巡礼同士の口づけ。
ロミオ 聖者にも脣がありませう、そして巡礼達にも?
ジュリエット ええ、お祈りに用ゐねばならぬ脣が。
ロミオ おお、それなら優しき聖者、手に許されることを脣にも、脣にも祈りを、お願ひです、信仰が絶望に変らぬやうに。
ジュリエット 聖者の心は動きませぬ、よし祈りを聴届けようとも。
ロミオ では、そのまま動かずに、祈りの効目がこの身に現れるまで。かうしてあなたの脣が、私の脣から罪を拭ひ去る。(接吻する)
ジュリエット それなら、その罪が私の脣に移る筈。
ロミオ この脣の罪が? おお、なんと優しいお咎めを! その私の罪を返して頂きませう。(接吻する)
ジュリエット 口づけの儀式を楽んでおいでのやう。
乳母 お嬢様、お母様が是非お話しなさりたいとおつしやつておいでですよ。
ロミオ あの方の母上とは?
乳母 これは、まあ、お母様とはすなはち当家の奥方、情け深く聡明で御立派な奥様でございます。この私は今話してをられたお嬢様の乳母。ところで、お嬢様を手に入れる殿方は身代もどつさり手に入れるといふ訳で。
ロミオ キャプレットの娘か? おお、酷い勘定書! この命は敵からの借物か。
ベンヴォーリオ 帰るとしよう、夜遊びもここらが潮時。
ロミオ うむ、さうらしい、それだけに益不安が募る。
キャプレット ま、ま、殿方達、帰り支度は早過ぎますぞ。詰らぬ物だが茶菓の用意もある。(仮面をつけた客達、それぞれキャプレットの耳元に辞去の挨拶を囁き、退場)うむ、さやうか? それなら、止むをえぬ、皆さん、よくおいで下さいましたな、本当によく来て下さつた、殿方達、では、お寝み。もつと燈りをこれへ。さあ! もう寝るとするか。(従僕達、松明を持ち仮面をつけた客を送出す)やれ、やれ、大分、夜も更けたな。寝むとしよう。(ジュリエットと乳母を除き全員退場)
ジュリエット ここへおいで、乳母《ば あ》や。あの方はどなた?
乳母 タイビーリオー様の御長男でございます。
ジュリエット 今戸口をお出になる、あの方は?
乳母 おお、ペトルーキオー様の御子息だ。
ジュリエット その後に続く方は、最後まで踊らうとなさらなかつた方?
乳母 存じませぬ。
ジュリエット お名前を聞いて来ておくれ――もし結婚なさつてゐるのなら、私の墓が新床になるかもしれぬ。
乳母 名前はロミオ、モンタギュー家のロミオ、憎い敵の一人息子でございます。
ジュリエット (傍白)私にとつて唯一つの恋が唯一つの憎しみから生れる! 知らずにお会ひしたのが早過ぎて、知つた時にはもう遅すぎる! 産声をあげた時からすでに不吉な恋、憎むべき敵を愛さねばならぬ定めか。
乳母 何とおつしやいました、何でございますと?
ジュリエット 歌の文句、さつき一緒に踊つた方から教へて貰つたの。
舞台奥から「ジュリエット」と呼ぶ声。
乳母 はい、只今! さ、参りませう、お客様ももう皆お帰りになりました。(二人退場)
序詞役登場。
序詞役 さて、古びたる思慕は死の床に就き、若き恋はその跡目を継がうと願ふ、焦れ死ぬかとまで思ひを寄せたかの美女も、優しきジュリエットに較べては、もはや美しとも思はれず。今やロミオは慕ひ慕はれ、二人ともども互ひの面影に魅入られる、されど男は敵の娘に恋ひ焦れ、女もまた恐るべき針先より恋の甘い餌を掠め取らねばならぬ宿命、敵と目される身に、恋する男の誓ひを囁く術も無し、女とて同じ心ながら、新しき恋人に会ふ術は無し。されど熱情は力を、時は手立を与へ、程なく二人は、逢瀬の限りなき甘さもて限りなき苦痛を和らげむ。(退場)
〔第二幕 第一場〕
キャプレット邸の庭園
一方に石垣、その背後に小径、他方にキャプレットの邸宅があり、二階の窓が見えてゐる。
ロミオ、唯一人、小径へ登場。
ロミオ どうして帰れよう、心はここを去らぬといふのに? 引返せ、この蛻《もぬけ》の殻の重い土塊《つちくれ》め、貴様の心臓を手に入れて来るのだ。(石垣を攀ぢ庭内へ跳び降りる)
ベンヴォーリオとマーキューショー、小径へ登場。ロミオは石垣の背後で聴耳を立てる。
ベンヴォーリオ ロミオ、おおい、ロミオ!
マーキューショー 利口者のやることだ、間違ひない、こつそり屋敷へ戻り寝床に潜込んでゐるのだらう。
ベンヴォーリオ ここまで駈けて来て、石垣を跳び越えたのだ。呼んでみろ、マーキューショー。
マーキューショー いや、呪文を唱へてやらう。ロミオ、浮気者、気違ひ、煩悩の虜、恋の奴! 溜息に化けて出て来い、ただの一言で十分、それで俺は安心する、言つてくれ「ああ!」と一言、「惚れた」でもいい、「はれた」でもいい、あの口軽女ヴィーナスに一言色よき返事を、或はその盲の息子の愛称でも構はぬ、コフェチュア王が乞食娘に恋をした時、天晴れ的を射抜いた、あの若きエイブラハム・キューピッドの愛称でもいい。聞えぬのか、こそりともしない、動きもせぬ、猿めは往生したか、では、益もつて祈らねばならぬ。ロザラインの輝く目にかけて、高い額に赤い脣、美しい足に真直な脛、さらには顫へる太股と、あの辺り一帯にかけて祈る、生返つて、俺達の前に姿を現せ。
ベンヴォーリオ それを聞いたら、奴は定めし怒るだらう。
マーキューショー 怒るものか。奴の女の魔法の輪の中に一風変つた化物を突入れて、女がそれを咥《くは》へ込んだまま呪文を唱へて鎮め参らせでもしたら、確かに腹も立たう。あくどい悪戯だからな。俺の祈りに他意はない、恋人の名を借りたのも、ロミオを祈り出さうとしたまでの事だ。
ベンヴォーリオ おい! 奴はこの木立に身を隠したのだ、夜露を浴びて闇に溶込むためさ。恋が盲なら闇こそ打つて附けではないか。
マーキューショー 恋が盲なら、的は射抜けぬ筈だ。今頃は枇杷の根方にうづくまつてゐるだらう、その名を口にする度に娘共がひそかに微笑むあの木の実のやうに、吾がいとしの娘もまた、などと思つてゐるかもしれぬ。おお、ロミオ、お前の思ひ人が、おお、あの底割れの実で、お前が細長の梨ならよいのだ! ロミオ、お休み。固い寝床が恋しくなつた、野天の寝床では寒くて眠れぬ。さ、行くとするか?
ベンヴォーリオ よし行かう、見つけられまいとしてゐる男を捜すのは無駄だからな。(二人退場)
〔第二幕 第二場〕
前場に同じ
ロミオ登場。
ロミオ 傷を笑ふのは深手を負つたことがないからだ。
ジュリエット、二階の窓に現れる。
ロミオ 静かに! あの窓から洩れる光は? あれは東、ジュリエットは太陽。昇れ、美しき太陽、あの妬み深い月を葬つてしまへ、悲しみの余り早くも色青ざめてゐる月を、それに仕へる乙女、あなたの方が遥かに美しいからだ。もう月には仕へるな、あれは妬み深い女だ。そのお仕着せは青ざめた緑一色、阿呆のほかは誰も身につけぬ、脱いでしまへ。あれはジュリエット、おお、俺の恋する女、ああ、この心が通じないものか。何か話す、いや、何も言ひはせぬ。それがどうした? あの目が語つてゐるではないか、それに答へよう。いや、厚かまし過ぎる、俺に話しかけてゐるのではない。あの夜空に輝く最も美しい星が二つ、何の気紛れか、あの目に頼んだらしい、留守の間そこで代りに光つてゐてくれと。あの目が夜空に輝き、星がその顔に納つてもよいではないか? 日の光を浴びた燈し火さながら、その頬の輝きには星も恥らはう、そして夜空にかかる二つの目は隈なく辺りを照し出し、昼とも見紛ふ明るさに鳥が囀ることだらう。見ろ、片手に頬を預けてゐる! ああ、その手を包む手袋になり、その頬に触れることが出来たら。
ジュリエット ああ!
ロミオ (物蔭で)何か言つたな。おお、もつと言つてくれ、美しい天使! 頭上にあつて闇夜に輝くその姿は、正に翼もつ天の使、後退りして目を見張つて仰ぎ見る人間共の頭上を、徐ろに流れる雲に乗り、天空を滑り行くかのやう。
ジュリエット おお、ロミオ、ロミオ! なぜあなたはロミオなの? お父上に背き、その名を捨てておくれ、さもなければ、それが出来ないなら、せめて愛の誓ひを、さうしてくれさへしたらもうこの身はキャプレットではない。
ロミオ (物蔭で)このまま聴いてゐようか、それともこちらから?
ジュリエット 私の敵はあなたの名前だけ。モンタギューでなくても、あなたは矢張りあなたなのだもの。ああ、名前を変へて! モンタギューが何だと言ふの? 手でもない、足でもない、腕でも顔でもない、生れ附き人の身に備はつてゐるやうなものとは違ふ。名前に何があると言ふの? 薔薇の花を別の名前で呼んでみても甘い香りは失せはしない。ロミオとて同じ事、ロミオと呼ばれなくても、その完全無欠のお人柄は名前を離れて残らうものを。ロミオ、名前を捨てて。身に備はつたものならぬその名の代りに、受けておくれ、この身のすべてを。
ロミオ お受けしませう、そのお言葉通りに。ただ一言呼びかけてくれればよい、わが恋人と、それでこの身は新たな洗礼を済ませたことになる、その後はもはやロミオではない。
ジュリエット さう言ふあなたは誰、夜の帷に身を隠し、この胸の秘密を窺ふのは?
ロミオ 名を訊かれては答へる術を知りませぬ。己れの名が何より憎い、優しき聖者のあなたには、それが敵なのだから。紙に書かれたものなら、引裂いてしまひたい。
ジュリエット この耳はその舌の送つてよこす言葉をまだ百とは飲み干してゐない、でも、声音で解ります。ロミオ様では、モンタギューの?
ロミオ そのどちらでもない、もしお気に召さないなら。
ジュリエット どうしてここまで? 話して、何のために? 庭の石垣は高くてたやすく攀れぬ筈、それに誰か身内の者に見附り、御身分が知れれば、忽ちお命は無くなりませう。
ロミオ 恋の軽い翼を借り、その石垣を飛び越えたまでのこと、石の衝立で恋は遮れぬ、恋の為し得る事なら、恋は何でも企らむ、お身内のどなたであらうと物の数ではない。
ジュリエット 見附れば、殺されませう。
ロミオ ああ、その目の方が遥かに恐ろしい、二十本の剣より。せめて優しい目差《まなざ》しを、それさへあればこちらは不死身、どんな敵意も刃は立ちませぬ。
ジュリエット 困ります、ここで見附りでもしたら。
ロミオ 夜の帷に身を隠してゐる、見附る筈はない、だが、愛して下さらぬなら、見附つたはうがましだ、憎しみの刃に倒れるにしくはない、愛されずして生き永へるよりは。
ジュリエット どなたの手引でここへ?
ロミオ 恋の手引で、先づ恋が捜せと命じたのです。恋が智慧を貸してくれ、こちらは目を貸してやつた。この身は水先案内ではない、が、あなたがたとへ遠き最果ての海に洗はれる渚であらうと、きつとそこまで漕ぎつけてお目にかける、これほどの宝を手に入れる為なら。
ジュリエット この通り夜の仮面がこの顔を蔽つてゐる、さもなければ乙女の恥らひがこの頬を染めてをりませう、誰も知らぬ胸の内をあなたに聴かれてしまつたのだもの。成らう事なら嗜みを忘れずにゐたい、成らう事なら、言つてしまつた事を取消したい、でも、お体裁はもう止めにしませう! 本当に私を? いいえ、解つてゐるのです、愛してゐて下さる事は。お言葉を信じませう。でも、幾ら誓つて頂いても、それが嘘でないとは言へない。恋人の二枚舌ならジュピターも笑つてお見逃しになるとか。おお、優しいロミオ、愛しておいでなら、さうとはつきりおつしやつて。それとも、余り手軽に靡き過ぎるとお考へなら、顔を顰め依怙地になり「厭」とさへ申しませう、もつと言寄つて頂く為に、でも、さうでないのなら、決してそのやうな事は致しませぬ。正直、モンタギュー様、恋の手管を知らぬ愚かな私を、ふしだらな浮気者とお思ひかもしれませぬ、でも、信じて、ことさら余所しく見せ掛ける術を心得た女達より、真心のある事がいつか解つて頂けるでせう。私にしてももつと余所しく振舞つたかもしれない、本当です、もしそれと気づかぬ先に、立聴きされさへしなかつたなら。ですから、お責めにならないで、この靡く心を浮ついた恋だなどと、この夜の重い帷につい気を許し胸の秘密をさらけ出してしまつたのです。
ロミオ この果樹の梢を銀一色に染め出してゐるあの清らかな月にかけて――
ジュリエット いえ、月では駄目、絶えず盈ち虧けを繰返すあの不実な月のやうに、あなたの恋が一月毎に変るかもしれない。
ロミオ 何にかけて誓ひませう?
ジュリエット 何もお誓ひにならないで、もし、どうしてもとおつしやるなら、私が崇める神、そのあなた御自身にかけて、それなら信じませう。
ロミオ もしもこの胸の思ひが――
ジュリエット いえ、お誓ひにならないで。お会ひ出来たのは嬉しい、でも、今宵ここでのお約束は嬉しいとは思ひませぬ、余り軽はずみで、無分別で、唐突で、「光つた」と言ひ終らぬ先に消えてしまふ稲妻のやう。さあ、お寝みなさいまし。この恋の蕾は、恵みの夏の息吹きを受け、この次お会ひするまでには美しい花を咲かせてゐるかもしれませぬ。お寝みなさい、お寝み! この胸の甘い息《やす》らひがあなたの胸にも宿りますやうに。
ロミオ おお、別れようと言ふのか、この満ち足りぬ心を残して?
ジュリエット 今宵どんな満足を手に入れたいと?
ロミオ この身の誓ひと引換へにあなたの誓ひの言葉を。
ジュリエット それならお求めになる前にもう差上げた筈、でも、もう一度差上げる事が出来たら。
ロミオ では、取戻したいと? 何の為に?
ジュリエット もう一度気前よく差上げる為に、でも、返して頂きたいと申上げても、それはこの胸の内にあるものに過ぎない。気前のよさなら海にも負けない、想ひの深さも。差上げれば差上げるほど、なほ恋しさは募るばかりですもの、どちらも切りが無いのですから。中で何やら声が。私の恋しい人、さやうなら――(舞台奥で乳母の声)直ぐに、乳母《ば あ》や!――モンタギュー様、変らぬ愛を。しばらくお待ちになつて、また戻つて参ります。(ジュリエット中へ入る)
ロミオ おお、仕合はせな、こんな仕合はせな夜がまたとあらうか! だが、待て、夜なら、すべては夢に過ぎぬかもしれぬ、現《うつつ》にしては余りに仕合はせ過ぎる。
ジュリエット、二たび窓辺に現れる。
ジュリエット もう一言、ロミオ様、それだけ申上げたら本当にお別れします。もしそのお気持に偽りなく、結婚して下さるお積りなら、明日差向ける使ひの者にお返事を、いつどこで式を挙げて下さるか、そのお言葉さへ伺へれば、この身ともども持てる物すべてをあなたの足下に投げ出し、世界中いづこへなりとお伴致しませう。
乳母 (舞台奥で)お嬢様!
ジュリエット 行きます、今直ぐ――でも、本気でないのなら、お願ひ、どうぞ――
乳母 (舞台奥で)お嬢様!
ジュリエット 今、行きます――もう何もおつしやらずに、このまま私を悲しみのうちに。では、明日使ひを差向けます。
ロミオ おお、命にかけて――
ジュリエット お寝みなさいまし、もういらして!(中へ入る)
ロミオ 動けるものか、お前の光が消えてしまつては! 恋人に会ひに行く男は教科書を仕舞ふ子供と同じ、恋人と別れる男は、重い足取りで学校に向ふ子供のやうなものだ。
ジュリエット、二たび窓辺に戻つて来る。
ジュリエット 待つて、ロミオ、待つて! ああ、あの雄鷹を呼戻す鷹匠の声が欲しい! 囚れの身の苦しさ、声を張上げられぬ、さもなければ山彦の住む洞を引裂き、ロミオの名を呼び続け、その声で木霊の息の根を止めてやりたい、「私のロミオ!」
ロミオ 俺の魂が俺の名を呼んでゐる。いとしい女の声は夜に聴く白銀の鈴の音、甘美な調べさながら耳を惹きつける!
ジュリエット ロミオ!
ロミオ おお、まだ巣立ちせぬ鷹の雛!
ジュリエット 明日何時に使ひを差向けませう?
ロミオ 九時までに。
ジュリエット では、必ず。それまでまだ二十年もあるやうな気がする。忘れてしまひました、何のためにお呼びしたのかしら。
ロミオ ここに立つてゐよう、それが憶出せるまで。
ジュリエット それなら忘れてしまひませう、いつまでも立つてゐて頂けるやうに、お傍にゐられる喜びのほかに生き甲斐の無い事を繰返し憶出しながら。
ロミオ いつまでも立つてゐよう、あなたがいつまでも忘れてゐられるやうに、このほかに住む家がある事をすつかり忘れて。
ジュリエット もう夜が明ける。帰つて頂かねばなりませぬ、でも遠くまでは離したくない、あの悪戯娘に飼はれてゐる小鳥のやうに、手離したと思ふのも束の間で、糸の鎖に繋がれた囚人よろしく、絹の糸で手繰り寄せ、自由を奪つてしまひたい。
ロミオ そのあなたの小鳥になりたい。
ジュリエット ああ、さうして差上げたい、でも、かはいがりすぎて死なせてしまふかもしれない。お寝みなさい、お寝み! 別れがこんなに甘く悲しいものなら、夜が明けるまで別れの言葉を言ひ続けてゐよう。
ロミオ その目に眠りが、その胸に息らぎが訪れるやうに! その眠りと息らぎに代つて、あの目と胸にこの身を委ねたい! (ジュリエット、中へ入る)これから神父様の庵へ、その助力を乞ふのだ、そしてこの幸運を知らせねば。(退場)
〔第二幕 第三場〕
修道僧ローレンスの庵
修道僧一人、バスケットを持ち登場。
修道僧 灰色の目をした朝が顰め面の夜に頬笑みかけ、東の雲を光の縞で染め分ける、斑に破れた闇はタイタンの車輪に追はれ、日の神の道筋から乱れ足で逃げて行く、さて、太陽が燃える目差《まなざ》しを投げかけ、昼を励し夜の湿つた露を乾かしてしまはぬうちに、毒草と貴重な汁を含む花を摘み、この柳の籠を満して置かねばならぬ。自然の母なる大地はその墓、自然を埋める墓場はその子を孕む腹、その腹からかうして種様の子が生れ母の乳を吸ふ、それらはいづれも優れた効き目を持ち、一つとして役に立たぬものはなく、しかも効き目はそれぞれ異る。草や木や石に籠る功徳は、何と測り知れぬことか、如何に悪しき物であれ、この大地に存する物に無用のものはなく、用ゐ方次第で必ず大地に益を齎す、同様、如何に善き物であらうと、正しき用途を歪めれば、いづれもその本性に悖《もと》り、思ひもよらぬ害を齎すであらう。処を得ねば、美徳も悪徳に転じ、悪徳も時と場合によつては価値ある物となる。
ロミオが近づく、修道僧は気づかない。
修道僧 このか弱い花も幼い蕾の中に毒を宿し、同時に病を癒す力も含んでゐる、嗅ぐだけなら、その香りは五体の隅にまで活力を与へよう、が、嘗めたが最後、心臓もろとも五感の働きを止めてしまふのだ。薬草だけに限らぬ、この互ひに啀《いが》み合ふ二人の王は何人《なんぴと》の体内にも身をひそめてゐる――優しき心と酷き心と。悪しき王が力を得れば、覿面に毒虫が根まで食荒してしまふのだ。
ロミオ お早うございます、神父様。
修道僧 ベネデシテ! 朝早うから親しげな挨拶を送つてよこすのはどなたの舌か? うむ、ロミオか、心の乱れてゐる証拠だぞ、このやうに朝早く寝床を抜出したりするのは。年寄の目にはすべて気苦労が宿り、気苦労の在るところに眠りは訪れぬ、だが、頭に煩ひの種なく心の痛みも知らぬ若者なら、床に四肢を横へるや否や忽ち黄金の眠りが襲ひ来る筈。とすれば、その早起は、解つてゐる、何かの煩ひのため深く眠れなかつたのであらう、それとも、もしさうでなければ、よし、当ててみようか――ゆうべロミオは床に就かなかつた。
ロミオ その後の御推測どほり――お蔭でいつそう満ち足りた息らぎを。
修道僧 神よ、罪人をお許し下さいますやう! ロザラインと共にか?
ロミオ ロザラインと? 神父様、違ひます。その名前は忘れました、その名に伴ふ悲しみも。
修道僧 それでこそ吾が子だ! が、それならどこで?
ロミオ 重ねてのお訊ねを待たずにお話し致します。敵《かたき》の邸に催された宴会の席に出掛け、そのさなか、図らずもさる人により手ひどい傷を、が、こちらも相手に深手を負はせました。二人の傷を癒しうるのは神父様のお力と聖なる療法のみ。私に憎しみはありませぬ、このお願ひ、この身のみならず敵の為にも。
修道僧 在るがままを話しなさい、ロミオ、事の経緯を率直に。謎めいた懺悔には謎めいた免罪符しか得られぬ。
ロミオ では、在るがままを、この身のすべてをキャプレットの美しい娘に、同様娘の方でも、すべてをこの身に捧げると誓ひました、一切の手筈は整ひ、後は神父様のお手による聖なる結び附きを待つばかりです、いつ、どこで、どうして二人が出会ひ、愛を語り、誓ひを交したか、それは途お話し申上げませう、今はまづお願ひを、今日、直ぐにも式を挙げて下さいますやう。
修道僧 聖フランシス様、心変りにも程がある! ロザラインを、あれほど恋ひ焦れてをつたのに、もう忘れてしまつたか? 若者の恋は胸に宿らず、目に宿るのであらう。呆れて物も言へぬ、ロザラインを思ふ涙にその蒼白い頬を幾たび濡したことか! さんざん流した塩辛い水もあの恋の味附けに何の役にも立たず、今はもうその香りさへ残つてをらぬといふのか! お前の溜息で出来た雲を日はまだ追払つてはゐまい、かつてのお前の呻声はこの老いたる耳にまだ木霊してゐるぞ、それ、その頬に古き涙が拭はれずに残つてゐる。お前が本当のお前で、あの悲しみが真実お前の悲しみであつたなら、お前もお前の悲しみも、悉くロザラインの為だつた筈。それが変つてしまつたのか? それならかう言ふがよい、それ、例の諺だ――男、頼り無きに、女の身持ち悪きを責めるなかれ。
ロミオ 神父様はロザラインを愛する私を屡お責めになりました。
修道僧 溺れるなと言つたのだ、愛するなとは言はぬ。
ロミオ そして恋を葬れとおつしやつた。
修道僧 古き恋を葬り新しき恋を掘出せとは言はなかつた。
ロミオ お責めになりませぬやう。かうして今恋ひ焦れてゐる娘は、喜びには喜びを、愛には愛を報いてくれます、前の娘には望めなかつた事です。
修道僧 おお、それは相手が見抜いてゐたからだ、お前の恋が文字を知らぬ童同然、ただただ諳《そらん》じてゐる文句を繰返すばかりだといふ事を。しかし、移り気な若者、附いて来るがよい、いささか思ふ処もある。手を貸さう、といふのは、この縁組が両家の怨恨を誠の友愛に変へないでもないからな。
ロミオ では、一刻も早く! ぐづぐづしてはをられませぬ。
修道僧 大事なのは分別と熟慮だ。駆け出す者はとかく躓《つまづ》く。(二人退場)
〔第二幕 第四場〕
町なか
ベンヴォーリオとマーキューショー登場。
マーキューショー 一体ロミオはどこへ行つたのだ? ゆうべは戻つて来なかつたのだな?
ベンヴォーリオ 父親の許へは戻つてゐない、奴の下男に会つて訊ねてみたのだが。
マーキューショー すると、あの情け知らずのロザラインは、それほど奴を苦しめてゐるのか、あの男、きつとそのうち気が狂つてしまふぞ。
ベンヴォーリオ キャプレットの身内のティボルトが、ロミオの父親宛てに書面を送つたといふ。
マーキューショー 果し状だな、間違ひない。
ベンヴォーリオ ロミオは放つては置くまい。
マーキューショー 手のある者なら封くらゐ切つて見るだらう。
ベンヴォーリオ いや、封だけではない、手紙の主を切る、挑まれた以上後へは退《ひ》かぬさ。
マーキューショー おお、かはいさうに、ロミオはもう死んだも同然――肌白の尼つちよの黒眼に斬りつけられ、恋歌で耳を突刺され、心臓の真唯中を盲小僧の稽古矢で射抜かれてゐる、どうしてティボルトに太刀打ち出来よう?
ベンヴォーリオ で、そのティボルトといふのは?
マーキューショー 昔話の猫の王ティボルトとは大違ひだぞ。おおさ、礼法とやらをお守り遊ばす達人だ。楽譜片手の歌の稽古よろしく戦ふ――拍子をつけ、間をおき、リズムを守る――一、二と休み、三で胸にずぶりとお突きが一本。それ、例のボタンを突割るのが自慢の当世風の肉屋だ、殺し屋も殺し屋、家柄は第一流、決闘となれば、第一、第二と理由を数へあげねば気の済まぬ紳士! おお、不死身の神業突き、逆手突き、ハーイと来る!
ベンヴォーリオ 何と来るつて?
マーキューショー 気障な言葉さ、疫病に取附かれてしまへ、奇妙な片言を操る上調子な洒落者は、あの新しがり屋の囀りやう! 「イエスにかけて、こよなく御立派な剣士! こよなく勇しき剣士! こよなく見事な夜鷹の君!」なんと、慨歎に耐へぬではないか、御老体? 全く遣りきれぬ、あのハイカラ気取りの銀蠅共、流行かぶれのおつちよこちよい、パードン・ミーのへなへな野郎、新式の礼法とやらを身に着けて、古い椅子に居心地良く腰を落着けてゐられぬ手合と来ては。おお、その腰骨が何と頼りの無い事!
ロミオ登場。
ベンヴォーリオ おお、ロミオだ、ロミオがあそこへ!
マーキューショー 〓《はらご》を抜かれて、干物の鰊《にしん》そつくり。おお、この間までは血の通つてゐたあの肉も、あはれ、干物になり下つたか! かうなつてはペトラルカが想ひの丈を連ねた恋歌でも口ずさむしか手はあるまい。吾が恋人に較ぶればローラもおさんどんに過ぎざりき、か――どう致しまして、この恋歌から察するに、ローラの方が遥かにましな恋人を持つてゐただらう!――ダイドーは台所女、クレオパトラはジプシー女、ヘレンは手練手管、ヒーローは色仕掛、シスビーは青い目だけが売物だと来る、どんな天下の美女もてんで眼中に無しだ。ロミオ殿、ボン・ジュール! これはそのフランスずぼんへのフランス式御挨拶。ゆうべは見事におまき遊ばされたな。
ロミオ お早う。俺が何をまいたと?
マーキューショー 煙だ、左様、煙に巻いた。解らないか?
ロミオ 許してくれ、マーキューショー。拠んどころ無い用があつたのだ、恭しく挨拶などしてゐられぬ場合もあるものさ。
マーキューショー 詰り、君の場合、もつと恭しく腰をかがめて、這ひ這ひして見せなければならない相手がゐたといふ訳だな。
ロミオ その心を射止めるためにか?
マーキューショー 当つた、正にそのとほり、胸元ずばりだ。
ロミオ 御挨拶痛み入る、よほど胸に覚えがあるらしい。
マーキューショー もちろん、腕に覚えの、この身は正に騎士道の花。
ロミオ 花は花でも手生けの花だらう?
マーキューショー おお、なかなかやるな。
ロミオ それ、この靴の飾りを見ろ、花なら、俺のは足の先に附いてゐる。
マーキューショー 言つたな! その調子で附いて来い、その靴の底がすり切れるまで。行くぞ、幾ら底がすり切れようと、洒落は残らう、底無しの洒落者だからな。
ロミオ とはまた、底の見えすいた薄ぺらな洒落だ、しやれこうべの娑婆怨み!
マーキューショー 助け舟を出せ、ベンヴォーリオ、洒落の息が切れる。
ロミオ 頑張れ、頑張れ、勝名乗をあげてしまふぞ。
マーキューショー いや、止めた、こんな頓智の駆けつこは、正気の欠けぐあひでは、正直、とても君には叶はない。どうだ、この逃げぶりは、羚羊よろしくだらうが?
ロミオ なるほど、そのよたつき振りは鴨にもしかずだ。
マーキューショー 仕方の無い奴だ、生意気な。
ロミオ さう息巻くな、鴨殿、勘弁してくれ。
マーキューショー お前の方が上手《うはて》だ、下手に出て値切り倒しの甘口ソースと来た。
ロミオ 甘い鴨にはその方が合ふだらう?
マーキューショー おお、よく廻る舌だ、伸縮自在のなめし革め。
ロミオ それなら、伸縮自在の嘘の皮と行かう、鴨の手には負へぬかもしれないぞ。
マーキューショー その意気だ、どうだ、恋の萎れ顔よりはましだらう? それでこそ愛すべきロミオ、今こそお前はロミオだ、それでこそ正真正銘、紛れも無いロミオ。惚れたはれたの鼻啜りは、棒きれを穴に突込んで大口あけた阿呆も同然。
ベンヴォーリオ 止めろ、その辺で止めておけ!
マーキューショー 一度抜いた剣、握つた柄から手を引けと言ふのか、一度も使はずに?
ベンヴォーリオ 放つておけばその刃無しの剣、先が長くなるばかりで、切りが無いからな。
マーキューショー おお、それは違ふ! 手取り早く切上げようとしてゐるのだ、正直、柄までぐさりと一刺し、手持ちの種はすつかり使ひ果して物言ふ気力もない。
盛装した乳母、下僕のピーターを伴ひ登場。
ロミオ それ、あの満艦飾! 船だ、船だぞ!
マーキューショー 二艘だ、二艘! 雄と雌の番《つが》ひだ。
乳母 ピーター!
ピーター はい、ここに。
乳母 扇をおくれ、ピーター。
マーキューショー (小声で)おい、ピーター、婆さん、面を隠したがつてゐるのだ、扇の面の方がましだからな。
乳母 お早うございます、お三方。
マーキューショー 晩《おそ》うございます、お一方。
乳母 もうそんな時刻に?
マーキューショー まあね、それ、日時計の淫らな手が正午のあそこに届いてゐる。
乳母 まあ、呆れた! あなたは一体どこの、どういふお方です?
ロミオ 神様がお造りになつた人間さ、打ち毀し役専門に。
乳母 それはまた、巧い事をおつしやる。なるほど「打ち毀し専門」? ところで、皆様、どなたか御存じでいらつしやいますか、若様は、ロミオ様は今どちらにおいでで?
ロミオ 俺が知つてゐる、だが、その若様、いざ会つてみれば、今までお前さんが探し廻つてゐたのよりも大分古くなつてゐるだらうよ。ところで、そのロミオのうち一番若しいのがここにゐる、これ以上出来の悪いのはゐないお蔭でな。
乳母 巧い事をおつしやる。
マーキューショー 何、出来の悪いのが巧い事だと? それこそ巧い洒落! いや、見事、見事!
乳母 もしあなたがあの方なら、折入つて御密通申上げたい事がございまして。
ベンヴォーリオ 夕食にお寝巻申上げたいといふ訳か。
マーキューショー (小声で)それ、出た! 女衒が、女衒が!
ロミオ え、何が出たのだ?
マーキューショー 夜鷹にあらず、四旬節のパイに肉入りはまづい、あいつは、食はぬ先に黴が生える。(歌ひつつ他の四人の周囲を歩く)
老いぼれ夜鷹、腐れ肉
老いぼれ夜鷹、腐れ肉
四旬節には持つて来い
されど腐れ夜鷹の肉なれば
金を出す気にはさらさらなれぬ
食はぬ先から黴臭い
ロミオ、親父さんの邸へ行かぬか? 一杯やることにしよう。
ロミオ 先に行つてくれ。
マーキューショー では、婆《ばば》様、失礼、(歌ふ)「奥方、奥方、奥方様よ!」(マーキューショーとベンヴォーリオ退場)
乳母 それにしても若様、小癪な出過ぎ者たらありはしない、悪態ばかりついて、何者でございます、あれは?
ロミオ 己れのお喋りを聴いてゐるのが何よりも好きなのだ、実行すれば一月も掛る事を一分足らずで喋りきらうといふ男だ。
乳母 私の悪口でも言つてみるがいい、打ちのめしてくれるから、見掛けより強いかもしれないけれど、あんな男の二十人位、何でもありはしない、自分だけでやれなければ、やれる男衆を頼んで来ます。全くいけすかない悪党だよ! あんな男に愚弄される女とは女が違ひます、人間が違ふのですよ。(ピーターに)お前もお前だよ、何だね、つくねんと突立つてゐるだけで、私が悪党のいい嬲り者になつてゐるのを高見の見物してゐるなんて?
ピーター 別に男の嬲り者になどなつておいでのやうにはお見受けしませんでしたがね。もしそんな事になつてをりましたら、この私の道具が何で呑気に鞘に納つてをりますものか、はい、それはもう。正直、抜く時の早さなら誰にも負けません、そんな楽しい喧嘩で法律もこつちに分があるとなつたら猶のこと。
乳母 本当に、悔しくて五体が震へる。いけすかない悪党だ! ところで、若様にお話が。先刻も申上げましたとほり、若様を捜出せとのお嬢様のお言附け。そのお嬢様のお言伝てはまだこの胸の中に、その前に言はせて下さいまし、もしもお嬢様を謀つて、いはゆる阿呆の天国とやらへ連込むお積りなら、それこそいはゆる不埒千万な御所行。お嬢様はまだお若い、となれば、お嬢様を騙さうお積りなら、本当にこんな悪《わる》はございません、誰であらうとよそ様のお嬢様を騙すなどと、それこそ男にあるまじきひどいお仕打ち。
ロミオ 乳母《ば あ》や、あの方によろしく伝へてくれ。ただ、この際お前に一言、文句がある――
乳母 おお! そのとほり間違ひなくお伝へ申しませう。ああ、ああ! どんなにお喜びになることか。
ロミオ 何と伝へる気だ? まだ何も言つてゐないぞ!
乳母 御伝言は、「一言、文句がある」、正直、感心致しました、さすがに男らしい殿御でいらつしやる。
ロミオ どんな手立てを講じてでも、けふの午後、きつと懺悔に来てくれるやうにと、ローレンス神父の庵で懺悔を済ませ式を挙げて頂く手筈になつてゐる。さ、これは駄賃だ。
乳母 いえ、頂きませぬ、鐚《びた》一文も。
ロミオ 何を言ふ、取つておけ。
乳母 けふの午後、はい、では、必ずお連れ致しませう。
ロミオ 修道院の石垣の外で待つてゐるやうにとな。その頃までに家の者を差向ける、縄梯子を持たせてやらう、暗夜ひそかに喜びの高みにこの身を導いてくれる頼みの綱を。さ、行け。頼んだぞ、骨折りには報いる。行け。あの人にくれぐれもよろしくな。
乳母 では、御機嫌よろしう! あ、若様。
ロミオ 何だ。
乳母 若様のお供は口の堅いお方で? 御存じでございませう、「二人切りなら秘密は洩れぬ、三人ならば請合へぬ」といふ諺を?
ロミオ 心配は要らぬ、鋼の様に堅い男だ。
乳母 ところで、若様、お嬢様はそれはかはいらしい方。ああ、さう、さう! ちよこちよこ歩きの頃のあのあどけなさ――大変だ、パリスといふ名の立派な殿方が、どうにかしてお嬢様を物にしようと躍起になつておいでです。でも、お嬢様はいつそ蟇蛙を眺めてゐるはうがましとまで、何と蟇蛙でございますよ。私も時折お諫め申上げます、パリス様ならまづは申分ない殿御ではございませんかと、ところが、御安心なさいまし、さう申上げる度に、お嬢様は下着のやうに蒼ざめておしまひになる。確か忠節の花のローズマリーとロミオとは、同じ字で始るのでは?
ロミオ その通り、それがどうした? 両方共同じ字で始る、さう、R。
乳母 まあ、お人の悪い、それではまるで犬を呼んでゐるやうな。Rなら譬へば――あ、違つた、あれは別の字で始つたつけ、それよりお嬢様はそれを材料に見事な諺の格言をお作りなさいました、若様とローズマリーとを結び附けましてね、それを是非お訊きになつて御覧なさいまし。
ロミオ くれぐれもよろしくな。
乳母 はい、何度でも倦きるほど。(ロミオ退場)ピーター!
ピーター ほい、ここに。
乳母 先をお歩き、とつとと。(二人退場)
10
〔第二幕 第五場〕
キャプレット邸の庭園
ジュリエット登場。
ジュリエット 乳母やを出してやつたとき、時計は九時を打つてゐた、半時間もすれば戻ると言つてゐたのに。ひよつとするとお会ひ出来なかつたのかもしれない。いえ、そんな筈はない。ああ、あれは跛《びつこ》なのだ! 恋の飛脚はやはりあの想ひの矢でなくては。人の心に浮ぶ想ひは嶮しい山から影を追ひ退けて走り抜ける日の光より十倍も早いのだもの。だからこそ、恋の女神の車は軽い翼の鳩が牽く、だからこそ、〓《はやて》のやうに駆抜けるキューピッドには翼があるのだ、ああ、日はもうけふ一日の旅路の峠に差掛つてゐる、九時から十二時まではたつぷり三時間、それなのにまだ戻つて来ない。あの乳母やに恋の想ひと熱い血があつたなら、球の様に早く駆廻れよう、私の言伝てを携へていとしい方の許へ飛んで行き、お返事を戴きさへしたら、直ぐ跳返つて来るだらうに。でも、年寄は、皆死んででもゐるかのやう――小廻りが利かず、動きが鈍く、重苦しく、鉛のやうに蒼ざめてゐる。
ピーターと共に乳母登場。
ジュリエット ああ、戻つて来た! ああ、乳母や、どうだつたの? お会ひ出来た? 供の者をさがらせて。
乳母 ピーター、戸口の向うで待つてゐておくれ。(ピーター退場)
ジュリエット さあ、乳母や――まあ、どうしてそんな悲しさうな顔を? 悲しい知らせでも楽しさうに話しておくれ、たとへ良い知らせでも、その楽しい歌の調べをそんな渋い顔で歌はれてはそれこそ台無しだもの。
乳母 疲れてゐるのでございます、暫くお待ちを。ふう、あちこち骨が痛んで痛んで! どんなに歩き廻つたことやら!
ジュリエット 出来ることなら、私の骨をお前にやつて、その知らせをこちらへ貰ひたい、ねえ、お願ひ、乳母や、さ、さ、話して。
乳母 呆れたお嬢様だ、せつかちにも程がある! 束の間もお待ちになれないのですか? こんなに息を切らせてゐるのが、お見えでないとおつしやる?
ジュリエット 息を切らせてゐると言へるのだもの、息が切れてゐる筈はないだらう? こんなに待たせる言訳の方が肝腎の一言よりも長いのに。良い知らせ、それとも悪い知らせ? 答へて。一言でいい、詳しい話は後でもいいから。安心させて、良い話、悪い話?
乳母 とにかく、詰らぬ殿方をお選びになつたものだ、お嬢様は男の選び方を御存じないらしい、ロミオですつて? 駄目、駄目、あの人は。なるほど、お顔なら誰よりも美男子、ところが脛となるとどんな男より立派と来てゐる。手足や体の方は、取立てて言ふほどの事もないけれど、そのくせ、いづれも飛切り上等。礼儀の鑑とは申せません、でも、正直な話、小羊のやうに優しい殿方でいらつしやる。さ、お出掛けなさいまし、お嬢様、神様にお勤めを。さてと、お食事はお済ませになりましたか?
ジュリエット まだ、まだよ。でも、そんな事なら前から解つてゐた。式のことは何て、何ておつしやつたの?
乳母 ああ、頭が痛くてかなはない! 何といふ頭だらう! 粉に砕けてしまひさうだ。それが裏側に廻つて背中まで、ああ、背中、背中が! 死物狂ひであちこち駆廻つた乳母やは本当にお嬢様が怨めしい。
ジュリエット お願ひ、許して、体を大事にしておくれ。でも、乳母や、大好きな乳母や、言つて、あの方は何とおつしやつたの?
乳母 あの方のおつしやいますには、さすがは立派で、礼儀正しく、深切で、男振りも良いし、それに、賭けてもいい、高潔なお方だけのことはあります――お母様はどこにいらつしやいます?
ジュリエット お母様がどこですつて? もちろん奥にいらつしやつてよ。解り切つた事でせう? お前の答は妙だ事、「あの方のおつしやいますには、さすが立派な殿方だけのことはあつて、『お母様はどこにいらつしやいます?』」だなんて。
乳母 いや、はや、何といふ事を! そんなにまでお気が揉める? 本当に、何といふ事でせう! 節が痛むといふのに、そのお言葉を塗薬にしろとおつしやるので? これから飛脚は御自分でなさいまし。
ジュリエット まあ、大仰な! さ、お言ひ、ロミオは何と言つてゐました?
乳母 けふ懺悔にお出掛けになれますか、お母様のお許しは?
ジュリエット 頂いてゐるわ。
乳母 それなら今直ぐローレンス神父様の庵へ、夫となる方がお嬢様をお待ちの筈。それ、悪戯者の血がその頬に。何をお聴きになつてもさうして直ぐ紅くなる。早く礼拝堂へ、乳母やは別の所へ行かねばなりませぬ、縄梯子を取りに、その梯子を伝つて、あの方が、今宵暗くなるのを待つて小鳥の巣まで登つて行きます。乳母やは縁の下の力持、自分は骨を折つてお嬢様にお楽しみを、でも、やがて夜ともなればお嬢様とて結構骨をお折りになりませう。さ、早く、乳母やは食事を、さ、神父様の庵へ。
ジュリエット それなら、このまま、この上ない幸ひを掴みに! 乳母や、それではまた。(二人退場)
11
〔第二幕 第六場〕
修道僧ローレンスの庵
修道僧とロミオ登場。
修道僧 神がこの神聖な儀式を微笑を浮べてお見守り下さるやう、後日悲しみの鞭をお当て下さらぬやうに。
ロミオ そのお言葉の通りに。が、どのやうな悲しみが来ませうとも、互ひに顔を見詰め合ふ喜びの一瞬には到底代へられませぬ。聖なる言葉と共に二つの手を結び合はせて頂きさへすれば、恋を食殺す死神が何をしようと厭ひませぬ、あの娘を吾が妻と呼べさへすれば、それで満足なのです。
修道僧 そのやうな激しい喜びは激しい破滅を招く、触れ合へば立所に炸裂し四散する火と火薬のやうに、歓喜のさなかに死滅する。甘きに過ぎる蜜はその甘味ゆゑに疎ましく、一たび味はへば食慾は直ちに消え失せてしまふもの。それゆゑ、恋も程合ひを知らねばならぬ、程よき恋は長く続く、早きに過ぐるは遅きに過ぐると変りは無い。あれにジュリエットが。
ジュリエット登場。
修道僧 おお、あの軽やかな足取り、堅い石の道をいささかも擦減らしはすまい! 恋する者には浮気な夏の風に揺られる蜘蛛の糸すら恰好な揺籠、徒な喜びはさまで軽いのだ。
ジュリエット 御機嫌よろしう、神父様。
修道僧 ロミオが挨拶を返してくれよう、私の分までも。
ジュリエット では、ロミオにも、さうしておかないと、この人のお返しの方が多く成りかねませんもの。(二人抱合ふ)
ロミオ ああ、ジュリエット、あなたの喜びがこの身の喜びほど大きく、そして、それを表す技にかけてはあなたの方が擢《ぬき》んでてゐるならば、その言葉で辺りの大気を薫らせて欲しい、甘き音色のその声でこのうれしい出会ひの夢としか思へぬ喜びを歌ひあげてくれ。
ジュリエット 誠の想ひは、言葉に表せない、ありのままの姿を誇りこそすれ、上辺の装ひなど気に掛けは致しませぬ。持金を数へられるのは貧しい者だけ、この胸の偽りなき恋心は募りに募り、その半ばすらとても数へ切れませぬ。
修道僧 さ、附いて来なさい、早く済ませよう、聖なる教会が二人を一つに結附けるまでは、気の毒だが、二人だけにはしておけぬのでな。(三人退場)
12
〔第三幕 第一場〕
町なか
マーキューショー、ベンヴォーリオ及びその手下達登場。
ベンヴォーリオ 頼む、マーキューショー、引揚げよう、日射しは暑いし、それにキャプレットの奴等も出歩いてゐる、出遭へば喧嘩は免れまい、かう暑い日には、とかく狂気の血潮が騒ぐものだ。
マーキューショー お前もあの手合だぞ、居酒屋の敷居を跨ぐなり、食卓の上に剣を投出し、「こいつにはもう用はない」などと言つておきながら、二杯目が利いて来る頃には、それこそ何の用もない時に、給仕を相手に抜放つ。
ベンヴォーリオ 俺をそんな男と思ふのか?
マーキューショー さうとも、イタリア切つての癇癪持ちだ、その気になれば忽ち腹を立て、腹を立てれば忽ちその気になる。
ベンヴォーリオ で、どうなる?
マーキューショー 怒鳴る位で済むものか、お前の様な男が二人揃つたら忽ち斬合ひだ、揚げ句の果に一人もゐなくなる、両方で殺し合つてしまふからな。そんな男? さうとも、相手の髭が自分の髭より一本多くとも少くとも喧嘩する男だ、お前は。相手が榛《はしばみ》の実を割つたからといつて、それがまた喧嘩の種になる、しかもその理由たるやお前の眼玉が榛色だといふだけの事でな。そんな眼玉でなければかういふ喧嘩の種は捜出せまい? お前の頭の中には喧嘩が一杯詰つてゐるらしい、卵の中の黄身さながら、しかも喧嘩の度に叩かれて腐れ卵よろしく腐つてゐる。いつかもさうだ、誰かが往来で咳をした、すると日向で寝てゐたお前の犬が目を醒した、それから喧嘩だ。復活祭も待たずに仕立屋が新しい服を着た、これも喧嘩だつたな? 新調した靴に中古の紐を結んだ奴がゐた、これも喧嘩になつたな? そのお前が、喧嘩をするなと俺に説教するのか?
ベンヴォーリオ 俺がお前に劣らず喧嘩好きなら、この命を生涯買取つてくれる奴には、まづ一時間と四分の一しか保たぬと観念して貰ふほかあるまい。
マーキューショー 生涯買取る? おお、とんでもない、こんな仕様がない奴を!
ティボルト達登場。
ベンヴォーリオ あそこにキャプレットの奴等が。
マーキューショー あそこでもここでも、構ふものか。
ティボルト 離れずに附いて来い、俺が話掛ける。これはお久しう、どちらか一人に一言だけ話があるのだが。
マーキューショー どちらか一人に一言だけ? 後に何か足りないぞ、一言ついでに一突きと来るがいい。
ティボルト その用意は出来てゐる、機会さへ拵へてくれればな。
マーキューショー 拵へて貰はぬと自分から拵へる事は出来ないのか?
ティボルト マーキューショー、貴様はロミオといちやつき、調子を合はせ――
マーキューショー いちやつき、調子を合はせる? ふん、吾を楽隊扱ひにする気か? 楽隊扱ひする気とあれば、覚悟は出来てゐるのだらうな、凄じい音をお聴かせするほかあるまい。これがその弓だ、きりきり舞ひを舞つて貰ふとしよう。畜生、いちやつくだと!
ベンヴォーリオ ここは人通りの激しい往来だ。どこか人目につかぬ場所に引揚げ、お互ひの怨みを冷静に述べ合ふはうがいい、さもなければこのまま別れるに限る、それ、皆が見てゐる。
マーキューショー 人間の眼玉は見るためのもの、見させておけ。傍《はた》目を気にして二の足踏むやうな男ではないぞ、この俺は。
ロミオ登場。
ティボルト おお、お前とは和睦だ、あれに目指す下郎が。
マーキューショー 下郎だと? もう勘弁できない、ロミオは貴様のお仕着せを頂戴してはゐない。よし、先に決闘場へ行け、ロミオは後から行く! なるほど、それなら下郎だ、殿様、お先へ。
ティボルト ロミオ、貴様に対する俺のせめてもの愛情だ、かうとしか挨拶出来ぬ、貴様は悪党だ。
ロミオ ティボルト、俺にはお前を愛さねばならぬ因縁があるのだ、その挨拶にも腹は立たぬ。俺は決して悪党ではない――とにかく、このまま別れよう、お前は俺を知らぬのだ。
ティボルト 小僧、そんな挨拶では非礼の振舞の言訳にはならぬ。向き直つて抜け。
ロミオ 何を言ふのだ、非礼の振舞などした覚えはない、それどころか、仔細を知らぬうちは思ひもよるまいが、俺はお前を愛してゐる、それ故、キャプレット、おお、俺はその名を吾が名に劣らず大切に思つてゐるのだ、頼む、堪へてくれ。
マーキューショー おお、手緩いぞ、面目丸潰れだ、卑劣極る屈服だ! 「お突き、一本」の一言で片は附く。(剣を抜く)ティボルト、おい、猫、鼠取り、行くか?
ティボルト 俺をどうしようと言ふのだ?
マーキューショー 猫の大将、九つある命の唯一つを頂戴したいのだ、尤も、残る八つも貴様の後の出方次第で、残らず叩出してやらぬでもない。それ、その鞘の耳を引張り、思切り良く抜いて見せぬか? 早く抜け、この剣が貴様の耳を斬落さぬ先に。
ティボルト それなら相手にならう。(剣を抜く)
ロミオ マーキューショー、剣を納めろ。
マーキューショー さあ、来い、突きを一本。(二人戦ふ)
ロミオ 抜け、ベンヴォーリオ、二人の剣を叩落せ。おい、恥を知れ、引け。ティボルト、マーキューショー、ヴェローナの町なかで喧嘩は禁じられてゐる、忘れはしまい、大公のお言葉を。引け、ティボルト! マーキューショー!(ティボルト、ロミオの腕の下からマーキューショーを刺し、逃去る)
マーキューショー やられた。両家とも疫病にとりつかれるがいい! やられたぞ。奴は無傷で逃げたのか?
ベンヴォーリオ やられた?
マーキューショー まあな、ほんの掻き傷、引掻き傷。いや、結構応へたぞ。小僧はどこだ? おい、医者だ。(小姓退場)
ロミオ しつかりしろ、マーキューショー、傷は大した事はない。
マーキューショー うむ、井戸ほど深くはない、教会の入口ほど広くもない、だが、応へはあつた、たつぷり利いてゐる。明日会ひに来い、俺は性根を入替へ墓の下で世をはかなんでゐるだらう。正直、この世ではもう駄目だ。両家とも疫病にとりつかれるがいい! 何といふ事だ! 犬、鼠、猫、爪の一掻きで人間を殺すとは! あの法螺吹きめ、悪党、下司下郎、一、二、三の算術戦法で来やがつた! 何だつて分けた? その腕の下から刺されたのだ。
ロミオ 為を思つてしたのだ。
マーキューショー その辺の家へ、ベンヴォーリオ、気を失ひさうだ。ええい、疫病にとりつかれるがいい、両家共! よくも俺を蛆虫の餌にしてしまひやがつたな。食らつたぞ、それもたつぷりな。どつちもどつちだ、両家とも!(ベンヴォーリオ、マーキューショーを助け退場)
ロミオ あの男が、大公の近き身内でもあり、俺にとつては掛替へのない友達が、俺に代つて深手を負ふ、ティボルトの無礼な挨拶で俺の名誉も傷ついた――ティボルト、一時間は従兄だつたな。おお、ジュリエット、お前の美しさが俺を腑抜けにしたのだ、鍛へに鍛へた鋼の心も鈍つてしまつた!
ベンヴォーリオが戻つて来る。
ベンヴォーリオ おお、ロミオ、ロミオ、勇敢なマーキューショーが死んだぞ。あの雄しい魂ももう雲の彼方だ、気短かにもさつさとこの世に見切りをつけて行つてしまつたのだ。
ロミオ けふの禍、これだけでは済むまい、これはほんの手始め、続く不幸がこの片を附けねばならぬ。
ティボルトが戻つて来る。
ベンヴォーリオ あそこに、ティボルトが怒り猛つて。
ロミオ 来たな! 勝つて好い気になつてゐる、マーキューショーは殺されたといふのに! 分別臭い思ひやりなどもう沢山だ、燃ゆる眼《まなこ》の憤怒の鬼、さあ、貴様にこの身を委ねるぞ! おい、ティボルト、お返しと行かう、先刻貰つた「悪党め」の。マーキューショーの魂はまだこの頭の上をさ迷つてゐる、貴様の来るのを待つてゐたらしい。俺か貴様か、さもなくば二人共、あの男の供をしなければならぬのだ。
ティボルト 若造め、この世での二人のいちやつきをあの世まで持込むがいい。
ロミオ それはこの手が決める。
二人戦ふ。ティボルト倒れる。
ベンヴォーリオ ロミオ、行け、早く! 町中が騒ぎ出したぞ、ティボルトは死んだ。ぼんやり立つてゐる奴があるか。捕へられたら最後死罪の宣告だ。さ、行け、逃げてくれ!
ロミオ おお、愚かな俺は、運命の慰み物だ。
ベンヴォーリオ 何をぐづぐづしてゐるのだ?(ロミオ退場)
市民達登場。
市民の一人 どつちへ逃げた、マーキューショーを殺した奴は? ティボルトめ、人殺しはどつちへ逃げた?
ベンヴォーリオ それ、ティボルトならそこに。
市民の一人 来て貰ひませう、私と一緒に。大公の御命令だ。
大公、モンタギュー、キャプレット、二人の夫人、その他登場。
大公 どこにゐる、この諍ひの口火を切つた不心得者は?
ベンヴォーリオ おお、大公、この酷たらしき闘争の不幸な経緯は一切この私から。そこに斃れてゐる男はロミオに刺し殺されました、が、実はその前に御親族のマーキューショーを刺し殺してゐるのでございます。
キャプレット夫人 甥の、ティボルト、おお、兄の子が! 殿様! あなた! ああ、身内の血が流れてゐる。殿様、公正無私の殿様、一族の血の償ひにモンタギューの血を。おお、私の甥、ティボルト!
大公 ベンヴォーリオ、誰だ、この血なまぐさい争ひの張本人は?
ベンヴォーリオ ここに倒れてをりますティボルト、ロミオに刺し殺されたティボルトにございます。ロミオは穏やかに、諍ひの愚かしきを説き諫めました、且つまた大公のお怒りを思へとも。その間、一言一言――穏やかな口調と平静な顔附を以て、時には膝を折つてまで説き聴かせました――しかし、それもすべて仲裁話に藉す耳持たぬティボルトの猛る心を鎮めるにいたらず、ティボルトはマーキューショーの胸板めがけて激しく突きかかる、相手も同様怒りに燃え立ち、凄じき勢ひで切先合はせ、何を猪口才なとばかり、片手に氷の刃を払ひ退けるや、残る片手の長剣をティボルトの懐に突込みました、それをティボルトが巧みに撥ね返す。すかさず、ロミオが声を張上げ「止めろ、二人共、引け!」と叫びざま、敏捷な腕が二人の剣を叩落した時には早くも両人の間に割つて入つてをりました、その腕の下からティボルトが恨みの一突き、さすがのマーキューショーもつひに命を落しました、そのままティボルトは姿をくらませましたが、程無く取つて返し、今や復讐の鬼と化したロミオと、稲妻の如く切結び、引分ける暇もあらばこそ、忽ちティボルトは刺し殺され、ティボルトが倒れるや、ロミオも逃げ失せたのでございます、以上が在りのままの事実、少しでも嘘があれば、直ちにこのベンヴォーリオの命を。
キャプレット夫人 この男はモンタギューの身内にございます、身贔屓のため事を曲げ、真実を隠してをります。二十人余りの男達がこの忌はしき争ひに加り、寄つてたかつて一人の男の命を奪ひ取つたに相違ございませぬ。何とぞ公正なお裁きを、殿様、お願ひにございます、ティボルトを殺したのはロミオ、ロミオを生してはおけませぬ。
大公 ロミオがティボルトを殺し、ティボルトはマーキューショーを殺した。それなら、マーキューショーが流した血の償ひは誰がするのだ?
モンタギュー ロミオではありませぬ、大公、あれにとつてマーキューショーは友人にございます、過ちとは申すものの、それはいづれ法によつて裁かるべきものを――詰り、ティボルトの命を――己が手により裁いたといふだけの事。
大公 その罰として即座にロミオを追放に処する。御身達の心はそのままこの身の心でもある、両家のあさましき諍ひに吾が身内の血が流されたのだ。しかし、両家共に等しく重罪を課する、流された吾が一族の血を共に悔いるがよい。懇願や言訳には耳を藉さぬ、涙も祈りも罪を贖ひはせぬ。もう何も言ふな。ロミオをすみやかに追放するのだ、万一見附れば、その時こそ命は無いものと思へ。この死骸を運び出し、後の宣告を待つがよい。慈悲の心も時には人を殺す、人殺しを許したのではな。(一同退場)
13
〔第三幕 第二場〕
キャプレット邸
ジュリエット唯一人登場。
ジュリエット 急いでおくれ、焔の足の若駒、日の神の今宵の宿へ! フェイトン程の馭者ならば西へ西へと鞭を当て直ぐにも暗い夜を齎してくれるだらうに。厚い帷を拡げておくれ、恋を取持つ夜の闇、口さがない差出者の目を奪つておしまひ、ロミオが人目に留らず噂の種にもならずこの腕《かひな》の中へ飛込んで来られるやうに。恋する者が相手の顔に見入るのに何の妨げがあらう、お互ひの美しさが恋の闇路を照し出してくれるもの、それとも、恋が盲なら、なほさら夜は打つてつけ。おいで、礼儀正しい夜、黒一色、渋い装ひの奥方、勝つて負ける手立てを教へておくれ、穢れ無き二つの操を賭けたこの勝負に。この頬に羽ばたく初心な血を、お前の黒いマントで隠しておくれ、臆病な恋が大胆になり、まことの恋の営みを純真で淑やかなものと知るまでは。早く夜に! 早くロミオが! ああ、夜の真昼とはあなたの事、夜の翼に羽を休めるあなたは鴉の背に降りかかる雪よりも白いだらう。さあ、優しい夜、早く来ておくれ、いとしい、暗い夜、私のロミオをおよこし、ロミオが死んだら返してあげよう、細かく刻んであの夜空の星にするがいい、さうすれば、夜空は一段と美しくなり、誰も彼も夜を愛して、ぎらつく太陽など拝まぬやうにならう。ああ、私は恋の館を手に入れた、でも、まだそこには住めない、この身は売つたのに、まだ愛でては貰へぬ。今のこのもどかしさ、祭の前夜の子供の苛立ちに似てゐる、新しい着物を作つて貰ひながら、まだ着せては貰へないのだもの。ああ、あそこに乳母やが。
縄梯子を持つた乳母登場。
ジュリエット 何か知らせを持つて来たらしい、誰の舌であらうとロミオの名を語るのなら、天使の声に聞えよう。さあ、乳母や、何の知らせを? 何を持つてゐるの? ロミオ様が取つて来いとおつしやつた縄梯子?
乳母 ええ、ええ、その縄梯子を。(縄梯子を投出す)
ジュリエット まあ、どうしたの? なぜ手を絞るのです?
乳母 ああ、悲しい! 死んで、死んで、死んでしまつた! もう駄目、お嬢様、もう駄目でございます。ああ、何といふ事、あの方は逝つてしまつた、殺されて、死んでしまつた!
ジュリエット まさか、天がそれほど酷い事を?
乳母 酷いのはロミオ、天ではなくてロミオ様。おお、ロミオ、ロミオ! あのやうな事を誰が思附きませう? それをロミオ様は!
ジュリエット お前はさうまで私を苦しめたいの? そんな残酷な言葉は地獄へ行つて吐くがいい。ロミオ様が御自害なさつたの? 「はい」とだけお言ひ、その唯一言が毒蛇コカトリスの一睨みよりも恐ろしい。もしも「はい」なら、その一言で私はもう私ではなくなる、それとも、あの方の開かぬ目を見たばかりに、お前は口が利けぬのか。さ、答へておくれ、亡つたのなら「はい」と、さうでないなら「いいえ」と。ほんの一言でこの身の幸不幸は決る。
乳母 傷もこの目で、しかと確めました、おお酷たらしい事を! あの男らしい胸のこの辺に。痛ましい亡骸、血まみれの無慚な亡骸、灰のやうに蒼ざめて、体中血みどろ、どこにも血糊がべつとり、一目見るなり私は気を失つてしまひました。
ジュリエット ああ、裂けてしまふがいい、この胸も! 傷附いた哀れなこの胸も裂けてしまふがいい! この目は、獄《ひとや》に、二度と自由を見るな。この用の無い土くれ、大地に帰るがいい、憂世をのそのそ動き廻ることはない、ロミオの柩と共に一つ車の積荷になればいい!
乳母 ああ、ティボルト! ティボルト様、あんなにも親しくしてゐたティボルト様! 優しく立派だつたティボルト様、ああ、生き長らへてあなたの死目に会はうとは!
ジュリエット どうしたといふの、こんなに急に嵐の風向が変つてしまふなんて? ロミオが殺されたの? そしてティボルトも? 誰より大事な従兄と、それよりももつと大事なあの方と? それなら、恐ろしい喇叭が最後の審判を告げるがいい。あの二人がゐないのに生きてゐる甲斐がどこにあらう?
乳母 ティボルト様はお亡りになり、ロミオ様は追放、殺したのはロミオ様、そのため追放されたのでございます。
ジュリエット ああ! ロミオがティボルトを?
乳母 はい、さうなので、はい! ああ、その通り、さうなのでございます!
ジュリエット ああ、蝮の心を、花の顔が隠してゐたのか! あれほど美しい洞にも竜が潜むものか? 美しい暴君、天使のやうな悪魔、鳩の羽根をつけた鴉、狼のやうに貪婪な小羊! 表は神に似ながら卑しむべき心の内、見掛けとは似てもつかぬ――忌はしい聖者、気高い悪党! ああ、造化の神様、地獄では一体どうなさつたのです、悪魔の心をこの世のあれほど美しい楽園に閉込めたあなたは? これほど忌はしい中身を詰めたあれほど美しい装ひの書物がまたとあるだらうか? これほどの嘘偽りがあれほど華やかな宮殿に潜んでゐようとは!
乳母 殿方は頼りになりませぬ、当てにはなりませぬ、貞節などあるものですか、皆嘘つきばかり、誓は破るし、心の拗けた、偽善者ばかり。ああ、ピーター? お酒を持つて来ておくれ。この苦しみ、この歎き、この悲しみ、寿命が縮る思ひだ。ああ、ロミオの奴、たんと恥を曝すがいい!
ジュリエット そんな事を、舌が爛れておしまひ! あの方は恥を曝すやうな方ではない。あの額を前にしては恥の方で恥かしがつて寄り附きはしない、そこはこの世の在りとある名誉が占める唯一つの玉座なのだもの。ああ、私は何といふ人でなしだらう、あの方を悪しざまに罵るなんて!
乳母 お従兄を殺した男をお褒めにならうお積りですか?
ジュリエット 悪しざまに言へようか、自分の夫の事を? ああ、かはいさうな人、誰の舌があなたの名をいたはつてくれるでせう、妻となつて三時間の私が、散に痛めつけてしまつたら? でも、なぜ、ひどい、なぜ従兄を殺しておしまひになつたの? さう、ひどいと言へば、従兄の方が夫を殺してしまつたかもしれない。さあ、お戻り、愚かな涙、元の泉へ! 悲しみに捧げるべき滴を、お前は誤つて、喜びに捧げてゐる。私の夫は生きてゐるのだ、ティボルトに殺されたかもしれないのに、そしてティボルトは死んだ、私の夫を殺したかもしれないのに、それなら、嬉しい筈、なぜ泣く? さうだ、一つの言葉、ティボルトの死よりも恐ろしい言葉が、この身を殺してしまつたのだもの。出来る事なら忘れたい、でも、ああ、記憶に纏はり附いてゐる、罪人の心に忌はしい罪の意識が附いて廻るやうに――「ティボルトは死んでロミオは追放」。「追放」、この「追放」といふ一言が、一万人のティボルトを殺してしまつた。ティボルトの死、それだけで十分に悲しいのに、それとも、苛酷な悲しみが道連れを欲しがり、別の悲しみを連れて来なければならぬのなら、「ティボルトが死んだ」と言つたとき、なぜ続けてくれなかつたの、「お父様も」とか「お母様も」とか、いいえ、お二人ともだつて構ひはしない、それなら在り来りの悲しみを味はふだけだつたらうに? でも、ティボルトの死に続けて、最後に「ロミオは追放」! それではお父様も、お母様も、ティボルト、ロミオ、それにこのジュリエットも、皆殺され、皆死んでしまつたも同然、「ロミオは追放」! この言葉の恐ろしさは底知れず果も無い、これほどの悲しみを表す言葉は二つと無い。乳母や、お父様やお母様はどこ?
乳母 ティボルト様の亡骸を前に泣崩れておいでです。お側へいらつしやいますか? それなら御案内致します。
ジュリエット 涙で傷口を洗つておいでなのだらう。私の涙は、お二人の涙が涸れ尽きた時、ロミオの追放を思つて流しませう。さ、その縄梯子をお拾ひ。哀れな縄梯子、お前は騙されたのだよ、お前も私も、だつて、ロミオは追放されてしまつたのだもの。私の臥所への通ひ路としてお前をお作りになつたのに、この身は、生娘のまま、寡婦として死なねばならない。さ、おいで、縄梯子、さ、行きませう、乳母や、新床へ、ロミオならぬ死神にこの無垢の体を委ねに!
乳母 早くお部屋へ。乳母やがロミオ様を探し出し、お嬢様をお喜ばせ致しませう、お目にかかれる場所は知つてをります。お解りですね、ロミオ様は今夜きつとおいでになります、あの方の処へ行つて参ります、ローレンス神父様の庵に身を隠しておいでなのです。
ジュリエット ああ、あの方を捜して来て! この指輪を私の騎士に、そして伝へておくれ、最後のお別れに必ずおいで下さるやうにと。(二人退場)
14
〔第三幕 第三場〕
修道僧ローレンスの庵
奥が書斎になつてゐる。
修道僧登場。
修道僧 ロミオ、ここへお出で、ここへ、何を恐れる。お前の器量に禍が惚れこみ、お前は不幸と縁組したのだ。
ロミオ、書斎から出て来る。
ロミオ 神父様、何か知らせが? 大公の御宣告は? この上どんな悲しみがこの身との交はりを?
修道僧 思へば、さういふ辛い交はりにお前は慣れ過ぎて来たな! 大公の御宣告は聴いて来たぞ。
ロミオ それなら、死罪以下ではございますまい?
修道僧 いや、もつと寛大な御裁決、死罪ではなくて追放だ。
ロミオ なに、追放? お慈悲を、おつしやつて下さい、「死罪」と、追放は死より遥かに恐ろしい。「追放」などとおつしやつて下さいますな。
修道僧 このヴェローナからお前は追放される。が、堪へろ、世界は広い。
ロミオ ヴェローナを離れて世界は在りませぬ、ただ煉獄と、苦悶と、地獄そのものが在るばかりです、この地から追放されるのは世界から追放されるやうなもの、世界からの追放は死に他なりませぬ。詰り、「追放」とは死の別名。死罪を「追放」とお呼びになつて、美しい黄金の斧でこの首をお刎ねになり、その斬れ味を小気味よげに楽しんでおいでになる。
修道僧 おお、罰当りな事を言ふ! 恩知らずにも程がある! 国法に随へば死罪は避けられぬ、それを寛大な大公が、その身の上を思遣り、国法を却け、恐ろしい「死罪」の文字を「追放」と変へて下さつたのだ。その深い慈悲のお心が、お前には解つてをらぬ。
ロミオ それこそ責苦、慈悲とは申せませぬ。ジュリエットのゐるこの地こそ天国、犬猫や小鼠の類ひでも、いえ、如何に取るに足らぬ塵芥でも、その天国に住み、あれの姿に眺め入る事が出来るのに、このロミオにはそれが叶ひませぬ。寧ろ腐れ肉に集る蠅の方が遥かに生甲斐がある、身分も恵まれてゐる、日の暮しも遥かにみやびやかだ、このロミオよりは。ジュリエットの雪を欺く白い手を眺め、あの脣から永遠の祝福を盗む事さへ出来る、穢れを知らぬ生娘の慎み深さ、その二つの脣は互ひに触合ふ事すら罪と思ひなし、絶えず紅《くれなゐ》に染つてゐる、それを蠅ですら盗むことが出来るのに、この身は盗人よろしく逃げ隠れせねばならない、神父様、それでも、追放は死罪ではないとおつしやるのですか? 何か毒薬を、或は研ぎすました剣を持つておいでにはなりませぬか、如何に見苦しい死に様であらうと、立所に死ねる手立てを教へて下さいませぬか? ただ「追放」の一言で殺されたくはない。「追放」! おお、神父様、これこそ地獄でしか聴かれぬ言葉、恐ろしい呻きが聞える。それでもお心が痛みませぬか、いつも私の懺悔に耳を傾け、罪の許しを祈つて下さる、この身にとつては掛替へのないお方が、「追放」の一言でこの身を斬苛まうとおつしやるのですか?
修道僧 愚かな事を、気でも違つたのか、私の言葉に暫く耳を藉すがよい。
ロミオ ああ、また追放の話を。
修道僧 その言葉の切先を防ぐ鎧を与へようといふのだ――失意の者を養ふ甘い乳、哲学を、それが心を慰めてくれよう、たとへ追放の身とならうともな。
ロミオ またも「追放」のお話を? 哲学など犬に食はれてしまふがいい! 哲学がジュリエットを造り、町を根こそぎ移し変へ、大公の御宣告を覆さぬ限り、どうにもなりませぬ、何の役にも立ちませぬ、もう何もおつしやらずに。
修道僧 おお、なるほど、狂人には耳が無いと見える。
ロミオ あらう筈はございますまい、賢人に目がないとすれば?
修道僧 お前の身の上についてとくと話合はうといふのだ。
ロミオ 身に感じておいでにならぬ事をどうしてお話しになれませう。もし私くらゐ若く、そしてジュリエットを愛し、結婚して一時間後、ティボルトを殺し、私同様恋に溺れ、私同様追放の憂目にお遭ひになつたとすれば、その時始めて神父様もお話が出来ませう、髪の毛を掻毟り、それ、このやうに大地に倒れ、まだ出来てゐない己が墓穴の長さを測る事も。(奥で戸を叩く音がする)
修道僧 立て、誰か戸を叩いてゐる。ロミオ、隠れろ。
ロミオ 隠れませぬ、痛む胸の絞出す吐息が霧のやうにこの身を包み、追手の目をくらますならともかく。(二たび戸を叩く音)
修道僧 それ、あの激しい音を!――誰だらう?――ロミオ、立て、捕へられるぞ――一寸、待つてくれ!――立ちなさい、(いつそう大きく戸を叩く音)さ、私の書斎へ――直ぐ行く!――どうしてさう解らないのだ?――待て、今、直ぐに。(二たび戸を叩く音)誰だ、激しく戸を叩くのは? どちらからお出でだ? 何の御用か?
乳母 (舞台裏から)入れて下さいまし、用向はその後で、ジュリエット様のお使ひにございます。
修道僧 それなら、這入るがよい。
乳母登場。
乳母 おお、神父様、教へて下さいまし、神父様、お嬢様の旦那様はどこに? ロミオ様は?
修道僧 それ、その土のうへに、己が涙に酔うてゐる。
乳母 おお、お嬢様も、この通り。
修道僧 おお、悲しみは相応ずるもの、思へば、気の毒な身の上!
乳母 お嬢様もかうして打伏し、ひたすら泣き沈んでおいでになります。お立ちなさいまし! さ、あなたも男なら、お立ちになつて、ジュリエット様のために、お嬢様のために、しやんと立上つて下さいまし、なぜそのやうに深い悲しみに浸つてばかりおいでになります?
ロミオ (立ちながら)お前か!
乳母 それ、それ、命あつての物種でございますよ。
ロミオ ジュリエットがどうしたと? あれはどうしてゐる? この俺を忌はしい人殺しと思つてはゐないか、二人の間に生れたばかりの喜びを身内の血で穢したこの身を? あれはどこにゐる? どうしてゐる? ひそかに結ばれた妻として、早くも失はれた二人の愛についてあれは何と言つてゐた?
乳母 おお、何ともおつしやりは致しませぬ、ひたすらお歎きになるばかり、寝床に突伏しておしまひになるかと思ふと、直ぐまた立上り、ティボルト様の名を呼んだり、ロミオ様をお怨み申上げたり、そしてまた突伏しておしまひになる。
ロミオ つまりはその名が、狙ひ違はずあれを打殺してしまつたのだ、呪ふべきこの手があれの近親を刺し殺してしまつたのだからな。おお、神父様、お教へ下さい、この体のどこに、どの醜い箇処に私の名は潜んでゐるのか? さ、お教へを、その憎むべき棲家をこの手で打壊してやる。(ロミオは自らを刺さうとする、乳母がその短剣を奪取る)
修道僧 その愚かしい手を引け! それでも男か? 姿はいかにも男だが、涙は女の涙、狂気の振舞は事理をわきまへぬ畜生の猛りさながら。女としか思へぬに見掛けはどうやら男、男とも女とも見えようが、如何にも見苦しい畜生の姿! 呆れて物も言へぬ。正直、もう少しましな気性の男とのみ思つてゐた。ティボルトを殺したばかりではないか? その上、自分も殺す気か? いや、あの娘まで殺す気か、お前を頼りに生きてゐるあの娘、それを吾と吾が手で忌はしき罪を犯してまで? 何ゆゑ生を呪ひ、天を、地を呪ふのか、生と、天と、地と、その三つが寄り集つて出来たその身が、そのすべてを捨て去らうといふのか? た、たつ! 己れの姿と愛と理性を辱める事でしかない、使ひきれぬ程の宝を持つた吝坊よろしく、正しい用途を皆目知らず、その姿、愛、そして理性に輝きを添へる事が出来ぬのだ。男の勇気を欠くなら、その気高い姿も一片の蝋細工に過ぎぬ、慈しむと誓つた相手を殺すとなれば、固き愛の誓ひも空手形に過ぎまい、それにまた、己れの姿と愛を飾るべき理性も、その両者の扱ひを誤つならば、拙ない兵士の火薬筒に詰められた火薬よろしくその身の無智に自ら火を吹き、身を守るべき武器により吾が身を滅ぼしてしまはう。これ、目を醒せ! ジュリエットは生きてゐるのだ、今しがた死にたいとまで恋ひ焦れてゐた相手は。それこそ幸ひといふもの。ティボルトはお前を殺さうとした、しかしお前がティボルトを殺した。これまた幸ひ。死罪ともあるべき国法はお前の身方となり、追放と変つた。これもまた幸ひではないか。数の恵みがその肩の上に降積み、幸福が晴着を纏うてお前に言寄る、それを、嗜みを知らぬ膨れ面の小娘よろしく、幸運を呪ひ愛を呪ふ。よいか、心するがよい、そのやうな輩には惨めな最期が訪れよう。さ、予定通りジュリエットの許へ行け、目ざす部屋へ行け、そして慰めてやるがよい。が、忘れるな、夜番が出歩く頃までゐてはならぬ、マンテュアへの旅に間に合はねばならぬ、お前があの町に行つてゐる間に、二人の結婚を公表し、両家確執の調停を済ませ、大公のお許しを乞ひ、今旅立つ悲しみの百万倍の喜びをもつてお前を呼び戻すやう計ひたい。乳母殿、御身は先に行くがよい。ジュリエットによろしくとな、それと、家中の者を早く寝ませるやうに、深い嘆きは深い眠りへの誘ひ水とならう。ロミオは直ぐ後から行く。
乳母 おお、一晩中ここにゐて立派な御説教を伺つてゐたい、学問とは本当に大したもの! では、若様、お越しをお嬢様にお伝へ致します。
ロミオ さうしてくれ、それとこの身を責める用意を忘れぬやうにと。
乳母 (退場しようとして二たび振向き)ああ、これを、お渡しするやう言附かつた指輪です。では、きつと、一刻も早く、もう大分晩うございますので。(退場)
ロミオ お蔭で大分気も鎮りました。
修道僧 さ、行くがよい、お寝み、お前の運命はすべて次の一事に係つてゐる、夜番が出歩く前に立去るか、夜明けまでに姿を変へてこの地を発つかだ。暫くマンテュアに逗留してゐるがよい。いづれ適当な使者を見つけ、何か良い事があればその都度知らせよう。さあ、手を。もう晩い、では、お寝み。
ロミオ すべての喜びに勝る喜びが私を呼んでゐるに違ひない、さもなければこのやうに慌しいお別れはさぞや悲しい事でございませう。では、御機嫌よう。(二人退場)
15
〔第三幕 第四場〕
キャプレット邸
キャプレット、同夫人、パリス登場。
キャプレット さういふ訳なのです、悲しみの余り、娘を説伏せる暇はありませんでした。ともかく、娘は従兄ティボルトを大層慕つてをりましたからな、無論それはこの身も同様。が、生あるものは必ず死ぬ。とにかく、もう大分夜も更けました、今夜は娘も降りて来ますまい。正直、御来訪が無かつたなら、私とて一時間前に寝んでをりましたらう。
パリス さうした御不幸のさなかに縁談の割込む余地はありませぬ。奥様、失礼致します、ジュリエットによろしくお伝へ下さいますやう。
キャプレット夫人 申伝へます、そして朝早く娘の心を問ひただしてみませう、今宵はただもう悲歎に沈んでをりますので。
キャプレット (出て行かうとするパリスに)パリス殿、心を決めました、娘の心を差上げませう、あれも父親の言附けには決して背きますまい、いや、必ず随ひませう。これ、寝む前にあれの部屋へ行け、婿となるパリス殿の愛をあれの耳へ注ぎこんでやるがいい、そして、よいか、この水曜日には――待て、今日は何曜日だつたな?
パリス 月曜日でございます。
キャプレット 月曜日か、ふむ、ふむ、水曜日では早過ぎる、さう、木曜日としよう――あれにさう伝へてくれ、木曜日にはこの伯爵のもとに嫁ぐのだとな――それでよろしいな? この急な取極めに御異議はありますまい? 大仰な事は致しませぬ、親しき友を一人、二人、何せ、ティボルトが死んで間も無き事、身内の死を軽んじて盛大に式を執行ふとなれば、心無き振舞と思はれませう、客は精五、六人の友人に限り、その他は遠慮したい。が、木曜日でよろしいかな?
パリス 勿論、木曜日が明日であればとさへ思つてをります。
キャプレット ではと、これでお帰り頂かう。よろしいか、木曜日ですぞ。寝む前にジュリエットの部屋へ行け、婚礼の心構へをな。では、御機嫌よう。これ、俺の部屋に燈りを! おお、すつかり夜も更けた、いや、そろそろ明ける頃だな。さ、さ、お寝み。(三人退場)
16
〔第三幕 第五場〕
ジュリエットの寝室
一方に庭に面した窓。他方に扉。
ロミオとジュリエット、窓辺に立つてゐる。
ジュリエット もうお帰りになるの? まだ朝にはならない。あれはナイティンゲイル、雲雀ではありませぬ、怯えきつたその耳に今聞えたのは。夜毎あの柘榴の木で鳴くの。本当、あれはナイティンゲイル。
ロミオ いや、あれは雲雀だ、朝の先触れだ、ナイティンゲイルではない。それ、御覧、意地の悪い光の縞が東の雲の隙間に紅の縁取りを。夜空の燈し火は燃え尽き、舞ひ降りる陽気な朝が、霧に蔽はれた山の頂きに爪先立たうとしてゐる。立去つて生き延びるか、留つて死ぬかだ。
ジュリエット あの光は朝の光ではない。見れば解ります、私だつて。あれは太陽が大地に吐かせた息、マンテュアまでの夜道を松明代りに照してくれよう積りでせう。だから、もう少しいらして、そんなにお急ぎにならなくても。
ロミオ それなら捕はれてもよい、殺されてもよい、本望だ、それがあなたの望みなら。さう、あの薄明りは朝の目差《まなざ》しではない、月の女神の額の蒼白い照返しにすぎぬ、頭上高く空一杯に鳴渡るあの調べも雲雀ではない。いつまでもここにゐたい、帰りたくなどあるものか、来るがいい、死神、喜んで迎へてやるぞ! それがジュリエットの望みなのだ。どうした、ジュリエット? さあ、ゆつくり話さう、まだ朝ではない。
ジュリエット いえ、朝よ! 早くお帰りになつて、早く! あの調子はづれに歌つてゐるのは雲雀、あのうるさい耳障りな金切声は。雲雀は色変つた音色を弾分けるといふ、でも、あの雲雀は駄目、私達を引分けてしまふだけ。雲雀は忌はしい蟇蛙と目を取替へつこしたとか、ああ、序でに声も取替へてしまへばよかつたのに、私達の腕を引離すあの声こそ、朝を呼寄せあなたを追立てるのですもの。ああ、早くお帰りになつて! 段明るくなつて来る。
ロミオ 外が明るくなれば、二人の心は暗くなるのだ。
乳母、急ぎ登場。
乳母 お嬢様!
ジュリエット 乳母や?
乳母 お母様がこちらへおいでになります。夜が明けます、よろしうございますか、お気を附け下さい。(乳母退場。ジュリエット、戸の閂を掛ける)
ジュリエット それなら、その窓から朝の息吹きを、その代りに私の命を吐出すがいい。
ロミオ では、これで、さあ、お別れだ、もう一度口附けを、それを最後に降りて行かう。(縄梯子を伝つて降りて行く)
ジュリエット このまま行つてしまふのね、いとしい方、私の夫、私の恋人は? 毎日欠かさずお便りを、でも、私の一日は一時間、皆の一分が私には何百日にも感じられる。ああ、そんなふうに数へたのでは、ロミオとまた会ふ日まで、私はすつかり年寄になつてしまふ。
ロミオ (庭園から)頼む、元気でゐてくれ! あらゆる機会を捕へて必ず便りをする、愛するジュリエット、お前に。
ジュリエット ああ、また会へるかしら?
ロミオ 必ず会へる、さうして、この悲しみのすべてが後までの楽しい語り草に。
ジュリエット ああ、胸騒ぎがする! かうして見てゐると、下に立つてゐるあなたが、墓の中の死人のやう。この目が悪くなつたのか、それともあなたの顔が本当に蒼ざめてゐるのか。
ロミオ ジュリエット、この目にはあなたの方がさう見える。悲しみが二人の血を飲干してしまつたのだ。では、これで、もう行く!(退場)
ジュリエット おお、運命の女神、誰でもお前を移り気だと言ふ、もしさうなら、誠実無比でその名も高いあの方と何の掛り合ひがあるだらう? いえ、移り気で結構、それなら長い間あの方を引留めてはおかず、直ぐ返して呉れる筈だもの。
キャプレット夫人 (戸の外で)これ、ジュリエット、起きてゐますか?
ジュリエット (縄梯子を引上げ、それを隠す)誰かしら、呼んだのは? お母様だわ。こんな晩くまでお寝みにならずにゐるなんて、それとももうお目醒めに? 何かあつたのかしら、どうして今頃ここへ? (ジュリエット、戸の閂をはづす)
キャプレット夫人登場。
キャプレット夫人 一体、どうしたといふの、ジュリエット?
ジュリエット お母様、気分が悪いの。
キャプレット夫人 いつまで従兄の死を歎いてゐる積りです? まあ、その涙で墓の中のティボルトを押流してしまはうとでもいふのかい? たとへさうしたところで、あれを生返らせる事は出来はしない、だから、もうおよし――程の歎きは深い愛情の印、でも、度を過ぎた歎きは分別の足らぬ証拠でしかない。
ジュリエット でも、思切り泣かせて、こんな悲しい事が。
キャプレット夫人 思切り泣いたところで、死んだ身内は戻らない。
ジュリエット 戻らぬとは知りながら、やはり泣かずにはをられませぬ。
キャプレット夫人 それなら、お前は従兄の死を悲しむより、下手人のあの悪党が生き永らへてゐる事を悲しんだらよい。
ジュリエット 悪党つて誰の事?
キャプレット夫人 言ふまでも無い、あの悪党ロミオです。
ジュリエット (傍白)悪党とあの方とは天地の違ひ――神様、あの人をお許し下さいまし、私は許してゐます、心から、でも、あの人ほどこの胸を痛ませる人はゐない。
キャプレット夫人 それといふのも、あの悪逆無道の下手人がまだ生き永らへてゐるからです。
ジュリエット ええ、それも、この手の届かぬ遠い所に。出来る事なら、誰の手も借りずにこの手で従兄の仇討ちがしたい!
キャプレット夫人 仇は必ず討ちます、安心おし。だから、もう泣くのはやめにして。あのならず者が逃げのびたマンテュアへ使者を差向け、猛毒を飲ませるやうに仕組むのです、それを飲んだら最後忽ちティボルトの後を追ふ、さうなれば、きつとお前も満足するだらう。
ジュリエット いいえ、決して、あのロミオの顔を見るまでは――その死顔を――私のあはれな胸は身内の死を悼んで悲しむのです。お母様、毒薬を持たせてやる使者さへ探して下されば、薬は私が調合します、それに手を触れるや否やロミオが永遠に眠つてしまふやうに。ああ、もどかしい、その名を聞いてゐるだけで側へは行けず、従兄への情愛を直接下手人の体に刻みつけてやれないのが。
キャプレット夫人 その手立てはお前が考へ出しなさい、使者は私が探します。でも、それよりも、嬉しい知らせがある、ジュリエット。
ジュリエット その嬉しい知らせが今は何より欲しい時なのです。何、早く教へて、お母様?
キャプレット夫人 まあ、まあ、お前は思遣りのあるお父様を持つて仕合はせですよ、お父様は、お前の悲しみを忘れさせようと、俄かの思ひ立ち、おめでたをお極めになつたのです、お前には思ひも及ばないだらう、私とて思ひも寄らなかつた事だもの。
ジュリエット まあ、お母様! それはまた何の事でせう?
キャプレット夫人 それが、ジュリエット、この木曜日朝早く、あの雄しく、若く、立派な殿方、パリス伯爵が、聖ペテロ教会でめでたくお前と婚礼の式を挙げて下さるといふ。
ジュリエット それなら聖ペテロ教会と、聖ペテロ様にかけて申上げます、あの方の花嫁にはなりませぬ。どうしてそんな急に、夫となる方からの求婚も受けぬ先に結婚しなければならないなんて。どうぞ伯爵とお父様にお伝へ下さいまし、私、当分結婚などする気はありませんと。今結婚するなら、いつそロミオと、ええ、これ程までに憎んでゐるロミオと致します、パリス様と結婚するくらゐなら。本当にひどいお話!
キャプレット夫人 それ、お父様が、お前の口からその通りお話し、何とお答へになる事やら。
キャプレットと乳母登場。
キャプレット 日が没すれば、露が降りる、甥の日没には篠突く雨か。これ、どうした、噴水娘? おお、まだ泣いてゐるのか? その大雨、いつまで続くのだ? 小さな体が船になり、海になり、風にもなる、差詰め、その目は海、涙の満ち干を繰返してゐるからな、その体は船、塩辛い浪に洗はれながら走つて行く、溜息は風、涙の浪と共に荒れ、また浪を狂はせる、直ぐにも凪ぎが来ぬ限りその体は覆つてしまふだらう。(夫人に)おい、どうした? 取極めは話して聞かせたか?
キャプレット夫人 はい、でも、どうしても厭、それでもお志は有難いですつて。かう解らずやでは、いつそ墓へ嫁入りしたらいい!
キャプレット 待て、何の事だ、解るやうに話せ。何? どうしても厭だと? 有難いとは思はぬのか? 誇りとは思はぬのか? 嬉しいとは思はぬのか、ふつつか者を、あれほど立派な男の妻となれるやう計らつてやつたのに?
ジュリエット 誇りとは思ひませぬ、でも、有難いとは思つてをります。嫌ひな人を誇りに思ふ訳には参りませぬ、でも、厭な事もこの身の為を思つてのお心、それゆゑ有難いと思つてをります。
キャプレット 何だと! ええい、何といふ屁理窟だ! 何だ、それは? 「誇りに思ひ」、「有難く思ひ」、「有難いとは思へず」、しかも「誇りとは思へぬ」と、このやんちや娘が? 有難いも誇りに思ふも無い、そのひ弱な足を馴しておけ、木曜日パリスと共に聖ペテロ教会へ行くのだ、さもなければ、戸板に縛附けても連れて行くぞ。失せろ、青瓢箪! 失せろ、唐変木! この青虫め!
キャプレット夫人 まあ、ま! どうしてそんな、気でも狂つて?
ジュリエット (膝まづき)お父様、この通り膝まづいてお願ひ致します、ただ一言、聴いて下さいまし。
キャプレット 死んでしまへ、碌で無し! 親不孝者! よいか、木曜日は教会へ行け、行かぬなら、二度とこの顔を見るな。言ふな、口を利くな、答へるな! 手がむづむづする。(夫人に)これ、この娘一人しか授からぬのを不運と思つた事もあつたな、だが、今解つたぞ、一人でも多過ぎたのだ、こんな娘を持つたとは情け無い。ええい、消えてしまへ、碌で無し!
乳母 それでは余りおかはいさう! 旦那様がお悪い、そんなに口汚くお叱り遊ばすなんて。
キャプレット は、何故だな、賢女殿? 黙れ、分別面を引込めろ。お喋りなら無駄口仲間とするがいい、出て行け!
乳母 お為にならぬやうな事は一言も申上げてをりませぬ。
キャプレット おお、喧ましい、出て行け。
乳母 誰も物を言うてはならぬとおつしやるのでございますか?
キャプレット 黙れ、ふがふがの阿呆め! 分別臭い話ならお喋り婆と酒の肴にするがいい、ここでは用が無い。
キャプレット夫人 何もさう興奮なさらずとも。
キャプレット 何を言ふ! 気が狂ひさうなのだ。昼夜を問はず、仕事があらうと無からうと、一人の時も人と一緒の時も、俺の気苦労と言へばこれに良い婿を当てがふ事だけだつた、それが今、家柄はよく、領地も広く、若くて躾の良い、いはゆる三国一の、男として何一つ欠ける所の無い婿を当てがはうとすれば――罰当りの阿呆め、この泣虫が折角の幸運を掴まうとせず、「結婚は厭だ、好きになれない、まだ齢がゆかぬ、何とぞお許しを」などとぬかす。だが、結婚したくないのなら、よろしい、許さう――好きな所で草を食め、この家には置いておかぬ。よいか、とくと思案しろ、俺は冗談を言つてゐるのではない。木曜日はもう直ぐだ。胸に手を置き、よく考へてみろ。俺の娘ならば、パリス殿にくれてやる、さうでないなら、首を縊らうと、乞食に身を落さうと、餓ゑて野たれ死にしようと好きなやうにするがいい、誓つて言ふが、貴様を決して吾が子とは思はぬ、また何一つ貴様にはやらぬ、本気だぞ、よいな、俺は誓ひを破らぬ男だ。(退場)
ジュリエット 神様はおいでにならないのだらうか、雲の上からこの悲しみの奥底をお見透しの慈悲の神は? ああ、お母様、私をお見捨てにならないで! 式を一月延して下さいまし、せめて一週間でも、それも叶はぬとあれば、私の新床をティボルトの眠る暗い納骨堂の中に。
キャプレット夫人 何も言はないでおくれ、私も口を利きたくない、好きなやうにおし、私の知つた事ではない。(退場)
ジュリエット ああ!――乳母や、どうしたらこの場を切抜けられるだらう? 私の夫はこの世にゐるけれど、私の誓ひは天に届いてゐる、その誓ひをどうしてこの世へ戻せよう、夫が死んで天へ昇り、そこから送返してくれでもしない限り? 力を附けて、智慧を貸して。ああ、情けない、こんなか弱い娘にまで、神様は策をおめぐらしになるのか! どうしたらいいの、乳母や? 慰めの一つも言つてくれないの? 何か力になるやうな事を、乳母や。
乳母 よろしい、申上げませう。ロミオ様は追放されておしまひになつた、たとへ世界が消え失せてしまはうと、舞戻つて来てまで異議を申立てる事は出来ません、よし戻つて来るとしても、人目を忍んで来なければならない筈。とすれば、かうなつた以上、伯爵と結婚なさるのが何より。おお、本当に美しい殿方! あの方と較べたらロミオなどまるで雑巾みたいなもの。鷲だつて、お嬢様、パリス様ほど青く、鋭い、美しい目は持つてはをりません。正直、嘘は申しませぬ、今度の御結婚こそきつとお嬢様に仕合はせを齎しませう、前のより幾らましかしれませぬ、また、さうでないとしても、最初の旦那様は死んでおしまひになつた――ええ、生きてゐても役に立たないのなら、これはもう死んだも同じ事。
ジュリエット お前は本気で言つてゐるの?
乳母 本気も本気、本心から、さもなければ、私の気も心も地獄へ落ちますやうに。
ジュリエット さうなりますやうに!
乳母 え?
ジュリエット いえ、随分力を附けてくれて有難う。奥へ行つてお母様に伝へておくれ、お父様の御機嫌を損じたので、ローレンス神父様の庵へ出掛けた、懺悔をし、罪の赦しをお願ひするためにと。
乳母 はい、はい、お伝へ申します、それこそ御分別と申すもの。(退場)
ジュリエット 罰当り! ああ、手に負へない悪魔だ! 自分で自分の罪が解らないのかしら、ああして私に誓ひを破らせようとする、今まで何回となくロミオを誉めちぎつたその舌で今度は同じ人を悪しざまに貶《けな》したりして? もう要らない、お前のやうな相談役は! 今を限りお前とこの胸とは別。神父様の所へ行つて、救ひの道を教へて頂かう。何も彼も駄目になつても、死ぬ力だけは残つてゐる。(退場)
17
〔第四幕 第一場〕
修道僧ローレンスの庵
修道僧とパリス登場。
修道僧 木曜日に? それはまた慌《あわただ》しい事ですな。
パリス 舅キャプレットがさうしたいと申します、それに私にも、それを押へる程悠長な気は毛頭ありませぬ。
修道僧 娘御の気持がまだ解らぬといふ事でしたな? 事はさほど容易ではない、感心出来ませぬな。
パリス あれは身も世もなくティボルトの死を歎き悲しむばかり、愛を打明ける暇は殆どございませんでした、悲しみの家ではヴィーナスも微笑まぬと申しますから。ところが、父親としては、余りに悲しみに耽るのも考へ物、寧ろ婚礼を急ぎ、それによつて娘御の涙を堰き止めようとの慮《おもんばか》り、一人では耐へられぬ重荷も、二人でなら軽と背負へようといふ訳です。式を急ぐ理由もお解り下さつた事と存じます。
修道僧 (傍白)延さねばならぬ理由さへ解つてをらねばな――おお、ジュリエットがこの庵へ。
ジュリエット登場。
パリス これはよい所で、吾が妻に!
ジュリエット さう呼んで下さる時が来るかもしれませぬ、私があなたの妻になりましたなら。
パリス その「かもしれぬ」、必ず叶ひませう、この木曜日には。
ジュリエット 必ず叶ふ事なら必ず叶ひませう。
修道僧 筋の通つた話だな。
パリス 神父様のところへ懺悔をなさりに?
ジュリエット それにお答へすれば、あなたに懺悔する事となりませう。
パリス 神父様に隠さずに申上げなさい、私を想つてゐると。
ジュリエット 隠さずに申上げませう、あの方を想つてゐると。
パリス それなら、必ず、私を想つてゐて下さると。
ジュリエット それを言ふとしても、面と向つてではなく背を向けて、その方が一層値打ちがございませう。
パリス かはいさうに、お顔が涙で台無し。
ジュリエット それは涙の手柄とも申せませぬ、涙に損はれる前から十分汚うございましたもの。
パリス その言葉こそ涙以上にお顔を傷つけませう。
ジュリエット 傷つけは致しません、本当の事ですもの、素顔通りにお受取り下さいまし。
パリス その顔は私のもの、それをさまで悪し様に。
ジュリエット さうかもしれませぬ、自分の顔ではないのだから――神父様、お手隙でせうか、それとも夕方のおミサの時に参りませうか?
修道僧 その悲しげな顔のためなら、今でも構はぬ。パリス殿、ここは二人きりにして下さらねばなりませぬ。
パリス もちろん、お勤めの邪魔をする気など毛頭ありませぬ! ジュリエット、木曜日は朝早くお迎へに伺ひます、では、それまで、この清純な口附けをお預けしておきませう。(ジュリエットに接吻し退場)
ジュリエット ああ、扉を閉めて下さいまし、そして、その後で、一緒に泣いて下さいまし――もう私には希望も、手立ても、救ひも無い。
修道僧 ジュリエット、その悲しみは既に知つてゐる、私の智慧にも余る事だ。必ず、何事が起らうと、この木曜日にはあの伯爵の許に嫁がねばならぬとか。
ジュリエット その事はもう何もおつしやらないで下さいまし、窮地から脱け出す手立てを教へて頂けないなら。それが神父様のお智慧によつても解けぬ難題なら、私の決心を賢い分別とお呼び下さいまし、この匕首の一振りで即座に難題を解いてお目にかけます。二人の心を結びつけて下さつたのは神様、二人の手を結びつけて下さつたのは神父様、永久にロミオへ捧げたこの手が、別の証文に署名し、この真心が謀反を起して別の男へ靡くなら、その手も心もこの刃で殺してしまひませう、お願ひです、長年の御経験をもとに、急場を凌ぐ手立てを考へて下さいまし、さもなければ、これ、この通り、この恐ろしい匕首を苦悶の瀬戸際の審判役に仕立て、神父様のお齢や学問でも裁けぬこの難題を、見事裁いてみせませう。さ、早く何とか。お助け頂けぬのなら、早く死にたうございます。
修道僧 待て、ジュリエット。一つ手立てを思附いた、だがそれには余程の覚悟が要る、避けたいと思つてゐる事柄に敢へて立ち向ふ程の覚悟が。もしも、パリス伯爵に嫁ぐよりはいつそ自害しようとまで臍《ほぞ》を固めてゐるならば、この汚辱から逃れる為には死の真似事など更に厭はぬ筈であらう、汚辱を免れる為には死神に嫁がうといふお前だ、やり遂げる勇気があるなら、救ひの手立てを授けよう。
ジュリエット ああ、飛降りろとおつしやつて、パリスに嫁ぐくらゐなら、どんな高い塔の上からでも飛降りろと、お言附け下さいまし、山賊の出没する夜道を行けと、毒蛇の潜む藪に身を隠せと。吠え立てる熊と共に繋がれようと、夜毎に納骨堂へ閉込められ、かたかたと鳴る死骸や悪臭を放つ脛の骨、黄色い顎無しの頭蓋骨に埋もれようとつゆ厭ひませぬ、それとも、真新しい墓穴へ追ひやり死人と一つ経帷子を着て寝ろとお命じ下さいまし――聴いただけで、かつては身の毛が弥立つたやうな事も――恐れもためらひもせずやり遂げてお目にかけます、恋しい夫に操を立てる為なら。
修道僧 では、お待ち。直ぐ家へ戻り、楽しげに振舞ひ、パリスとの結婚を承知するがよい。あすは水曜日だ。あすの夜は必ず一人で寝るやうに、乳母を同じ部屋に寝かせてはならぬ。床に就く前、この瓶の煎薬を飲干すのだ、程無う眠気を催す冷たい体液が体中の血管に行渡り、その胸の鼓動も本来の機能を失ひ、完全に止つてしまふ、体温も失せ、呼吸は止り、生きてゐる標は無くなる、脣と頬の朱《あけ》も蒼白く変り、その目の窓も閉ぢてしまふだらう、死神が生命の扉を閉ぢる時のやうに。身体のどの部分も、柔軟な動きを失ひ、硬く冷たく強張り、誰の目にも死骸としか見えなくなる。この仮死状態も四十二時間続けば、その後でお前はぐつすり眠れた朝のやうに目を醒す筈。が、木曜日の朝、花婿が起しに来る時には、お前は死んでゐる事になる。さうなれば、この国の習ひとして、お前は晴着を纏ひ、顔を隠さず柩に入れられ、キャプレット一族の眠るあの穴倉へ運ばれよう。一方、私はお前が目醒める時に備へ、この筋書を記した手紙を使ひの者に持たせ、ロミオの許へ走らせる、直ちにこの地に帰るやう伝へるのだ、私はロミオと二人でお前の目醒めを待つ、その夜のうちに、ロミオはお前を伴ひマンテュアに辿り着くだらう。かうしてお前はこの差迫つた汚辱から免れる訳だ、移り気や女しい気後れゆゑに、いざといふ時になつて勇気を失はぬ限りはな。
ジュリエット 下さいまし、そのお薬を! 気後れなどしますものか!
修道僧 それ、さ、行け! 揺がぬ心で抜かりなく事を運ぶがよい。私は直ぐにも手紙を認《したた》め、マンテュアへ使者を差向けよう。
ジュリエット 愛が勇気を与へてくれますやうに! 勇気さへあれば必ず為遂《なしと》げられませう。では、御機嫌よう、神父様。(二人退場)
18
〔第四幕 第二場〕
キャプレット邸
キャプレット、キャプレット夫人、乳母及び二、三人の従僕登場。
キャプレット (書附を渡し)ここに書いてある客人を招待するのだ。(従僕の一人、書附を持つて退場、別の従僕に)おい、お前、腕こきの料理人を何人でもよいから集めて来い。
従僕 下手な料理人など一人も傭ひませぬ、まづ指を嘗めさせて試してみますから。
キャプレット それが何の役に立つのだ?
従僕 それは、旦那様、自分の指も嘗められぬのは下手な料理人と申しますからで、とにかく、指も嘗められぬ奴など相手に致しませぬ。
キャプレット よし、行け。(従僕退場)今度は頗る手廻しが良くないぞ。これ、娘は神父様の処へ行つたのだな?
乳母 はい、その通りにございます。
キャプレット うむ、神父様が或は娘を然るべく説き伏せて下さるかもしれぬ。ひねくれた我儘娘だ、全く。
ジュリエット登場。
乳母 それ、お嬢様が懺悔からお戻りになりました、和やかなお顔で。
キャプレット おお、どうした、強突張り? どこをうろついてゐた?
ジュリエット お言附けに逆つた罪を悔いる術を教はりに、ローレンス神父様からかうして膝まづいてお許しを乞ふやう諭されて参りました。(膝まづく)お許し下さいまし、お願ひにございます! 今後は必ず仰せに随ひます。
キャプレット 伯爵を呼びにやらせろ、この事をお伝へするのだ。あすの朝にはこの縁結びを済ませよう。
ジュリエット パリス様には神父様の庵でお目に掛り、出来うる限りの真心をお見せ致しました、慎みの枠を破らぬやうに。
キャプレット おお、それは何より、それはよかつた。さ、立つがよい。さう来なくてはならぬ。さて、私も伯爵に会つておかう。おお、さうだ、お前が行け、ここへお連れするのだ。いや、全くの話、あの立派な神父様のお蔭を蒙らぬ者はこの町には一人もゐまい。
ジュリエット 乳母や、私の部屋へ来て智慧を貸して、あしたの衣裳を選びたいのだけれど?
キャプレット夫人 いいえ、木曜日でなければ間に合ひません。それならまだ十分時間がある。
キャプレット 乳母や、行つてやれ、あすは教会だ。(乳母、ジュリエットと共に退場)
キャプレット夫人 それでは私達の準備が間に合ひませぬ、もうやがて日が暮れますのに。
キャプレット 何を言ふ、私が駆廻れば、万事うまく行かう、心配は要らぬ。さ、ジュリエットの部屋へ行け、着附けを手伝つてやるがよい。今夜は眠らぬぞ。いや、捨てておけ、今度だけは私が女房役を勤めよう。おい、誰かをらぬか! 皆出払つてしまつた、構はぬ、自らパリス殿の許へ出向かう、明日の準備をして貰はねばならぬ。すつかり心が軽くなった、あの我儘娘がああも素直になるとは。(二人退場)
19
〔第四幕 第三場〕
ジュリエットの部屋
奥にカーテンをめぐらした寝台がある。
ジュリエットと乳母登場。
ジュリエット さう、この着物が一番いい。でも、乳母や、お願ひ、今夜は一人きりにしておいて、神様が憐みを垂れて下さるやうに沢山お祈りをしなければならないのだから、さうだらう、私はひねくれ者で罪深い娘だもの。
キャプレット夫人登場。
キャプレット夫人 ああ、忙しいだらうね? 手伝はなくてもいいかしら?
ジュリエット 結構ですわ、お母様、あしたのお式にふさはしい品は選んでしまひました。ですから、どうぞ休んでいらして、それに今夜は乳母やをお傍に、急の事で、さぞお手が足りないことでせう。
キャプレット夫人 それならお寝み。早く床にお這入り、体を休めておかなければならないからね。(乳母を伴ひ退場)
ジュリエット 御機嫌よう! 今度はいつお会ひ出来るだらう。気を失ふ程冷たい不安が血の管を通抜け、命の熱を凍りつかせる。側にゐて貰はう、慰めが欲しい。乳母や!――あれに何が出来るだらう? この恐ろしい一場はどうしても一人きりで演り通さなければ。さあ、瓶を! この薬が一寸も利かなかつたら? そしたら、あしたの朝式を挙げる事になるのだらうか? いいえ、そんな事が! それはこれが許さない! さあ、そこにゐておくれ。(短剣を下に置く)これが毒薬だつたら、神父様が私を殺さうとしてお盛りになつた企みの毒薬だつたら、先にロミオと縁組させた越度《をちど》が、今度の結婚で表沙汰にならぬやうにと? さうかもしれない、いいえ、そんな筈は無い、神父様はいつも変らぬ高潔なお方だつた。それより、墓の中に横たへられて、ロミオが助けに来てくれる前に目を醒してしまつたら? それが恐ろしい! 穴倉の中で息が詰るかもしれない、あの穢れた穴の中へ清らかな空気は通はぬ、ロミオが来るまでに窒息してしまふのでは? それとも、仮りに生きてゐたとしても、たぶん死と闇の身の毛も弥立つ幻が、場所が場所だもの――古い霊廟の中だもの、何百年もの間先祖代のお骨が詰つてゐて、さう、血まみれのティボルトが、埋葬されたばかりだし、それが経帷子を纏つたまま腐りかけてゐる、そこには、夜中或る時刻になると、亡霊共が集るといふ――ああ、ああ、きつとさういふ事に、目が醒めるのが早過ぎて――むかつくやうな悪臭を嗅いで、土の中から毒草マンドレイクを引抜く時、その草の根が発するといふ、そんな凄じい悲鳴を聴くかもしれない、それを聴いたら最後、立所に気が狂ふといふではないか――おお、目が醒めたら、気が狂つてしまふかもしれない、さういふ身の毛も弥立《よだ》つ程の恐怖に取巻かれたら? 御先祖の骨と戯れ、傷だらけのティボルトから経帷子を剥ぎ取り、狂気の余り、誰か名高い親族の骨を取上げ、それを棍棒代りに、自分の狂つた頭を叩割つてしまふのでは? おお、あそこに! 確かに従兄の亡霊が、一太刀浴びせたロミオを探し求めて、復讐しようとしてゐる。待つて、ティボルト、待つて! ロミオ、私も行く! さうだ、これを飲まう、あなたの御無事を祈つて。(寝台の上、カーテンの中へ倒れる)
20
〔第四幕 第四場〕
キャプレット邸の広間
キャプレット夫人及び香草を持つた乳母登場。
キャプレット夫人 これ、この鍵を持つて行つて、もつと香料を取つて来ておくれ。
乳母 台所では棗《なつめ》と榲〓《まるめろ》が要ると申してをります。
キャプレット登場。
キャプレット さあ、働いた、働いた! 二番鶏が鳴いたぞ、明けの鐘も鳴つた、もう三時だ。パイは大丈夫か、アンジェリカ、費えを惜しんではならぬぞ。
乳母 はて、何とお節介な、さ、お寝みなさいまし。正直、あすは病気になつてしまはれませう、この夜明しの寝ずの番が祟つて。
キャプレット 何の、祟りはせぬ。おお、夜明しなら何度もやつたぞ、もつと下らぬ事でな、だが寝込んだ事など一度も無い。
キャプレット夫人 さうでせうとも、お若い頃は鼠狩りの上手でいらつしやつた、でも、今は私が張番をしてゐますもの、そのやうな寝ずの番はおさせするものですか。(急ぎ乳母と共に退場)
キャプレット はつ、妬きをる、妬きをる!
三、四人の従僕、焼串と薪と籠を持ち登場。
キャプレット おい、こら、何だそれは?
従僕一 料理人が要ると申しますので、何に要るのか存じませんが。
キャプレット さ、急げ、急げ。(従僕一、退場)これ、もつと乾いた薪を取つて来い。ピーターを呼べ、場所はあれが知つてゐよう。
従僕二 この石頭めが薪の在り場くらゐ割出してくれませう、それしきの事でピーターを煩はすまでもございませぬ。
キャプレット おお、うまい事を言ふ、愉快な奴め! その石頭、薪割りには役立たう。(従僕二、退場)やあ、夜が明けたぞ! 追附け伯爵がお出でにならう、楽隊を連れてな、さういふお話だつた。(音楽が聞える)おお、来られたぞ。乳母や! 奥! これ、おおい! 乳母や、おおい!
乳母登場。
キャプレット ジュリエットを起して来い、着替へをさせるのだ。パリス殿のお相手は引受けよう。それ、急げ、急ぐのだ! 花婿殿は早くも御入来、ええい、急げと言ふのに。(一同退場)
21
〔第四幕 第五場〕
ジュリエットの部屋
寝室の周囲のカーテンは締つてゐる。
乳母登場。
乳母 お嬢様! これ、お嬢様! ジュリエット様! ぐつすりお寝みだ、さうに決つてゐる。さあ、小羊さん! さあ、お嬢様! ちよつ、お寝坊な! さあ、さ! お嬢様! いとしい人! さあ、花嫁さんや! これ、何ともお答へにならぬ? 貪るやうに眠つておいでだ! 一週間分もお眠り遊ばせ、よろしいか、今夜ともなれば、パリス様が臍《ほぞ》を固めておいでだ、夜通し一睡もお出来になりはしまい。おや、またこんな事を! 神様お許し下さいまし! 本当にぐつすりお寝みになつてゐる! といつて、どうでもお起しせねば。お嬢様、お嬢様! さうだ、伯爵様をお呼びしてお床の中へ潜込んで頂いてもよろしいか、大丈夫、そしたらびつくり仰天、跳起きておしまひになりませう! それでも駄目ですか?(カーテンを開く)おや、着替へをなさつて、晴着を召したまま、また寝ておしまひに? どうでもお起ししなければ。お嬢様、お嬢様!(ジュリエットを揺さぶる)ああ、ああ! 誰か、誰か! お嬢様が死んでゐる! ああ、何といふ事だ! 早く、気附薬を! 旦那様! 奥様!
キャプレット夫人登場。
キャプレット夫人 何事です、一体?
乳母 ああ、悲しい事が!
キャプレット夫人 どうして?
乳母 あれを、あれを! おお、胸が張り裂けさうに!
キャプレット夫人 おお! 娘、掛替ない私の命! 生返つて、目を開いて、さもなければ私も一緒に! 誰か、誰か来て! 誰か、早く!
キャプレット登場。
キャプレット ええい、ジュリエットを連れて来いと言つたではないか、花婿の御入来だ。
乳母 死んでおしまひに、もう駄目、死んでおしまひに、ああ!
キャプレット夫人 ああ、娘は、死にました、死んでしまつた!
キャプレット うつ、見せろ。どうともなれ、何といふ事を! 冷たい、脈も停り、節も硬張つてゐる、命の息は疾うにこの脣を離れてしまつた、広い野辺に二つと無いこの美しい花の上に、時ならぬ死の霜が。
乳母 ああ、悲しい!
キャプレット夫人 おお、こんな酷い事が!
キャプレット 死神め、娘を奪ひ断腸の思ひをさせながら、この舌まで金縛りにしをつて。
修道僧ローレンス及びパリス、楽師達を伴ひ登場。
修道僧 さあ、花嫁は教会へ行く用意が出来ましたかな?
キャプレット 用意は出来ました、が、二度と戻つては参りますまい。おお、婿殿、時もあらうに婚礼前夜、死神があなたの妻を寝取りましたぞ。それ、ここに、花の姿が、酷くも死神の手に毟り取られて。死神が私の婿、死神が私の後継、私の娘をあいつが嫁にしてしまつたのだ! 死ぬ時には何もかも奴にくれてやる、この命も、財産も、すべて死神に。
パリス 今朝の訪れを待焦れてゐたのは、こんな光景を見せつけられる為だつたのか?
キャプレット夫人 こんな呪はしい、辛い、惨めな事がまたとあらうか! これほど悲しい一刻が、絶え間無い時の旅路の中にあらうとは! 一人切りの、かはいい子、かはいさうないとし子が、唯一つの喜びとも慰めとも思うてゐたのに、酷い死神に攫はれて!
乳母 ああ! ひどい、ひどい、ひどい! これほど胸の裂けるやうな、辛い目に、つひぞ遭つた事が無い! ああ、ああ、ああ、怨めしい! こんな惨めな思ひはつひぞ知らぬ。ああ、ひどい、ひどい!
パリス 欺かれ、引裂かれ、そのうへ辱められ、痛めつけられ、つひに殺されてしまつたのだ! 憎んでも憎み足りぬ死神め、貴様に欺かれ、残忍このうへ無いその手に滅されてしまつたのだ! おお、吾が想ひ! 吾が命! いや、命ではない、吾が恋の骸《むくろ》だ!
キャプレット 蔑まれ、苛まれ、憎まれ、迫害され、揚句の果に殺されてしまつたのだ! 無情な時め、なぜ今頃やつて来たのだ、楽しかるべき祝典に呪ひを浴びせに? おお、娘、娘! 俺の魂、だが、もう娘ではない! 俺の娘は死んでしまつたのだ、さうして一緒に、俺の喜びも葬られてしまつたぞ!
修道僧 静かに、何といふ事か! 騒ぎ立てても騒ぎの因は納りませぬ。この美しい娘御は神とあなた方との共有物だつた、それが今もつぱら神の所有に帰しただけの事、娘御にとつてはその方が仕合はせと申せませう。あなた方の持分なら死神も攫へようが、神の持分は永遠に失はれませぬ。何よりも娘御の栄達を望んでをられた筈、娘御が高き身分に昇られる事こそこの世の天国とまで。それをさうしてお泣きになるのか、娘御が空高く天国までも昇られたといふのに? おお、そのやうに身も世もあらずお歎きになるのは、真の愛情とは申せませぬ、娘御がとこしへの息らぎを得られたといふのに。嫁いで齢を重ねる者が仕合はせとは限りますまい、嫁いで間も無く死ぬる者こそこの上なき仕合はせ。さ、涙を拭ひ、この美しい顔に迷迭香《まんねんろう》を飾り、世の仕来りに倣ひ、晴着を着せ、教会へお運びになるがよい、愚かな情愛は歎きの霧を誘ふだけだが、人情の涙は理性の笑ひを誘ひますからな。
キャプレット 祝ひのために用意した物すべてを、そのまま葬ひの用に当てるがよい、喜びの音楽は悲しい弔ひの鐘に変つてしまつた、そしてめでたい酒宴は弔問客の振舞ひに、楽しかるべき讃美歌は痛ましい挽歌に、新床に撒く花はそのまま亡骸を飾り、何もかも逆様になつてしまつたのだ。
修道僧 さ、奥へ、奥様も御一緒に、それに、パリス殿も。どなたもこの美しい亡骸を墓地へ運ぶ用意をなさらねば。何か仔細あつて神は御機嫌を損じたのでもあらう、さればこの上天意に逆らひ御不興を買つてはなりませぬ。(乳母と楽師達を除く全員、ジュリエットの上に迷迭香を置き、カーテンを締めて退場)
楽師一 こいつは、笛をしまつて帰つたはうがいい。
乳母 ああ、お前達、やめておくれ、やめておくれ! この有様だもの、私は悲しくてならない。
楽師一 はい、全く、同じ鳴らない場合でも、楽器なら直ぐ直せますがね。(乳母退場)
ピーター登場。
ピーター おい、楽師さん、楽師さん、「心は弾む」だ、やつてくれ「心は弾む」を! おお、元気を附けてくれる気があるなら、頼む「心は弾む」を!
楽師一 どういふ訳で「心は弾む」を?
ピーター それはだな、楽師さん、俺の心が「悲し、吾が心」をやつてゐるからだ。何か愉快な湿つぽい曲をやつて慰めてくれ。
楽師一 湿つぽい奴は苦手なんで! それに音楽をやつてゐる場合ではございますまい。
ピーター するとやらぬ気か?
楽師一 はい。
ピーター それなら一揉み揉んでくれるとしようか。
楽師一 下さるとは何を?
ピーター 金ではない、さうさ、発破をかけてやらうといふのだ。貴様等と来たら、全く半端野郎だ。
楽師一 それならあなたは木端野郎。
ピーター それなら、この業物で貴様の石頭を木端微塵に打砕いてやるとしようか。ええい、竪琴ならともかく、こんな譫言は真平だ。ド、レと構へて、ミ、ファと行くぞ。さ、音を上げるか?
楽師一 ド、ミと吹いてソと来れば見事音《ね》は合ひますがね。
楽師二 お願ひだ、その剣をしまつて、頓智を出して頂きませう。
ピーター よし、頓智で来い! 鋼の刃は納め、鋼の頓智で打ちのめしてくれる。男らしく勝負しろ。
悲しみゆゑに胸潰れ
憂ひの雲さへ懸かるとも
銀《しろがね》の調べに酔はば――
「銀」とはなぜだ? なぜ「銀の調べ」でなくてはいけないのだ? どうだ、糸弾《はじ》き?
楽師一 それは、銀の中には「音《ね》」が這入つてゐるからで。
ピーター うまい! 目立屋、お前はどうだ?
楽師二 「銀の調べ」に限りますのも、詰りは楽師は銀貨欲しさに御奉公する僕《しもべ》だからで。
ピーター 貴様もやるな! 譜めくり小僧、お前は?
楽師三 はて、手前は何とも言へません。
ピーター おお、こいつは失礼! お前は名歌手、歌へるが喋れない。代つて俺が答へよう。「銀の調べ」といふのも、楽師に黄金《こがね》は縁が無いからだ。
銀の調べに酔はば
結ぼれし思ひも解ける(退場)
楽師一 何と煩い奴だ、あれは!
楽師二 くたばつてしまへ! さあ、奥へ行かう、弔ひ客の来るのを待ち構へてゐて、御馳走にありつかう。(一同退場)
22
〔第五幕 第一場〕
マンテュア、商店街
ロミオ登場。
ロミオ 夢を信じる訳ではないが、もしあれが正夢なら、いづれ喜ばしい便りが届く筈だ。この胸の内の愛の神も、常ならぬ喜びに朝から浮かれ気味、お蔭で俺も足が地に附かぬ。あれがやつて来て俺が死んでゐるのを知り――死んだ男に考へるゆとりがあるとは妙な夢ではないか!――この脣に口附けをしてくれた、生の息吹と共に俺は生返りやがて王になる、さういふ夢だつた。ああ! 恋の影法師ですらこれ程の喜び、叶へられた真の恋はどんなに甘い事か!
ロミオの従僕バルサザー、長靴をはいた旅装で登場。
ロミオ ヴェローナからの便りだ! おいどうした、バルサザー? 神父様のお手紙か? あれはどうしてゐる? 父上はお元気か? ジュリエットは? 何よりそれが聞きたい、あれさへ無事なら、どんな知らせにも驚かぬぞ。
バルサザー では、何とぞ驚かれませぬやう、ジュリエット様のお体は無事にキャプレット家代の霊廟に眠つてをられ、その不滅の霊魂は天使と共に暮しておいでになる。私は霊屋へ納められるのを見届け、急ぎ馬を飛ばせ、お知らせに参りました。おお、このやうな凶報を齎し、申訳ございませぬ、しかし、これも仰せつかつた役目にございます。
ロミオ 本当か、それは? 本当なら運命と一戦交へてやる! 俺の宿は知つてゐる筈。インクと紙を取つて来い、それに早馬を傭へ。俺は今夜発つ。
バルサザー お願ひにございます、御自重下さいますやう。その蒼ざめて只ならぬお顔附、何か恐ろしい事が起りさうな気が致します。
ロミオ ちよつ、お前の思ひ過しだ。俺に構ふな、言附けられた仕事をしろ。その他に神父様からのお便りは?
バルサザー いいえ、ございませぬ。
ロミオ よい。行け、早馬を傭つて来い、すぐ後から行く。(バルサザー退場)ああ、ジュリエット、今夜はお前と共寝をするぞ。その手立てを考へよう。おお、禍の神め、潰れた胸によくも素早く忍込んだな! さうだ、あの薬屋、この辺りに住んでゐる筈、先に見掛けた時にはぼろぼろの着物を着て垂れさがる眉を顰め、薬草を選分けてゐた。痩せこけたあいつの顔、身を削る貧苦が骨と皮だけを残したと見える、みすぼらしい店先には海亀の甲や、剥製の鰐、それに異様な形の魚の皮がぶらさがつてゐた、棚には、少しばかりの空箱と、緑色の壼と、膀胱、黴びた種、荷造り縄の使ひ残り、それに干枯びた薔薇の香料などが散らばつてゐて、店を飾る物と言へば精そんなものだけだつた。その哀れな有様を見て、俺は思はず呟いた、「必要に迫られた客から毒薬を求められれば、このマンテュアでは毒薬の販売は死刑だが、この惨めな薬屋はきつと売らずにはゐまい」と。おお、あれは虫の知らせだつた、必要に迫られた客とは正にこの俺だ、貧乏神に責立てられたあの薬屋、必ず俺にも売つてくれよう。確か、これがあの男の家だつたな。休日なので、店を締めてゐる。おおい、薬屋!
薬屋登場。
薬屋 誰だ、大声で呼んだのは?
ロミオ ここへ来い、薬屋。見たところお前は貧乏してゐるらしい。それ、ここに四十ダカットある、毒薬を一ドラム貰ひたい、立所に効目をあらはす毒薬を、人生に厭き果てた男の血管を駆けめぐり、立所にそいつを殺し去るやうな、点火された火薬が恐ろしい砲身から飛出すよりも早く、五体から命の息吹を追出すやうな毒薬を。
薬屋 仰せのやうな激しい毒薬、確かに持つてはをります、が、マンテュアの法により、それをお売りすれば必ず死刑に処せられませう。
ロミオ こんな惨めな浅ましい暮しをしてゐて、なほ死を恐れるのか? 頬には饑餓の相が現れ、目には貧窮の影が宿り、背中には忌はしい貧乏神が押しかぶさつてゐる、この世はお前の身方ではない、法とて同じ事、この世はお前を金持にするやうな法律を作つてはくれぬぞ、赤貧に甘んじる手は無いのだ、法を破り、これを受取るがよい。
薬屋 手前の心ではなく、貧乏がそれをお受け致しますので。
ロミオ 貧乏に支払ふのだ、心に支払ひはせぬ。
薬屋 (薬瓶を渡しながら)これをお好みの飲物に落してお飲みなさいまし、よし二十人力の力持ちであらうと立所に往生致しませう。
ロミオ さ、この金を取れ――これこそ人の心の毒薬、忌はしいこの世にあつて遥かに多くの人間を殺すのだ、お前が売るのを禁じられてゐるこの毒薬など高が知れてゐる。俺がお前に毒薬を売つたのだ、お前は何も売りはせぬ。御機嫌よう、食物を買ひ、肉を附けるがよい。(薬屋退場)さあ毒薬ならぬ気つけ薬、早く俺をジュリエットの墓場へ連れて行け、どうしてもお前の力を借りねばならぬのだ。(退場)
23
〔第五幕 第二場〕
ヴェローナ。修道僧ローレンスの庵
修道僧ジョン登場。
修道僧ジョン フランシスコ派の修道僧、ローレンス様! もし、もし!
修道僧ローレンス登場。
修道僧ローレンス あれはジョン殿の声だな。はるばるマンテュアから、よう戻られた。ロミオは何と言つてをりましたな? それとも、心のうちを認《したた》めたものがあるなら、その手紙を見せて頂かう。
修道僧ジョン 掟に随ひ、同門の修道僧を道連れにしようと思ひ、それがこの町の病人を見舞つてゐる所を探し当てましたが、町の検疫官から、両人共伝染病患者の家にゐたとの疑ひをかけられ、その家の戸といふ戸に封印をされ、一歩も外へは出して貰へず、マンテュアへ急ぐべき使ひも遂に足留めを食つてしまひました。
修道僧ローレンス では、誰が持つて行きました、ロミオへの手紙は?
修道僧ジョン そんな訳で届ける事が出来ず――それ、まだ、ここに――こちらへ届けさせようと思つても、誰も彼も伝染を恐れ、使ひを引受けてくれませぬ。
修道僧ローレンス 何といふ不運! 実を言へばあの手紙、時候の挨拶などではなく、頗る重大な用件を書き記したもの、届かぬとあつては恐るべき大事が起るかも知れぬ。ジョン殿、さ、さ、急いで鉄梃《かなてこ》を手に入れ、ここへ持つて来て頂かう。
修道僧ジョン は、急いで持つて参りませう。(退場)
修道僧ローレンス 直ぐにもひそかに廟を訪ねねばならぬ。三時間とたたぬうちにジュリエットは目を醒さう。ロミオに事の次第が知れてゐないと解れば、さぞかしこの身を責めるに相違無い、マンテュアへは改めて手紙を出し、ロミオが来るまであの娘をこの庵に匿まつておかう。かはいさうに、死人の墓に閉ぢ籠められ、全く生ける屍ではないか!(退場)
24
〔第五幕 第三場〕
ヴェローナの墓地
その中にあるキャプレット家の霊廟。
パリスとその小姓、花束と松明を持ち登場。
パリス おい、松明をよこせ。さ、向うで待つてゐろ。いや、松明を消せ、人目に附いてはならぬ。あの水松《いちゐ》の木蔭に横たはり、空ろな大地に耳をつけてゐるがいい、この墓地を踏む足音を聴き洩すな、あちこち墓穴を掘られ地面が緩んでゐる、必ず聴取れよう。その時は口笛を吹け、何者か近づいて来た合図にな。花束をよこせ。言附け通りにするのだぞ、行け。
小姓 (小声で)墓場に一人きりでゐるとは何とも恐ろしい事だ、でも、仕方が無い、やつてみよう。(退場)
パリス 花のやうに美しかつたジュリエット、この花をお前の新床に――おお、天蓋が土くれと石だけとは!――夜毎その花を馨しい水で潤してやらう、それが尽きたら、代りに歎きが搾るこの涙を。お前への夜毎の手向けは墓に花を撒きながら泣く事しかない。(小姓の口笛)小僧め、何者か近づいて来た合図を。畜生、何者だ、今時こんな所へ迷ひこみ、愛の手向けを、心を籠めた回向の邪魔をするとは? や、松明を持つてゐるな? この身を隠してくれ、夜の闇、暫くの間だ。(物蔭に退く)
ロミオとバルサザー、松明と鶴嘴と鉄梃を持ち登場。
ロミオ 鶴嘴と鉄梃をくれ。待て、この手紙を。朝早く必ず父上にお渡しするのだ。松明をよこせ。お前の命に賭けて言つておく、何を見、何を聴かうと近寄るな、俺の仕事の邪魔をしてはならぬ。この穴倉へ降りて行くのは、あれの顔を見たいからだが、それよりも大事な目的がある、あれの指から貴重な指輪をはづして来ようといふのだ、大事な使ひ道があるのだからな。解つたら、早く行け。もし疑ひを起して舞戻り、その先の様子を隙き見でもしようものなら、誓つておく、お前の五体をずたずたに斬裂き、飢ゑてゐるこの墓地に撒き散らしてくれるぞ。時刻も時刻なら、俺の心も心、残忍極まり無いのだ、餓ゑた虎も轟く海も遠く及ぶまい。
バルサザー では、御免下さいまし、お邪魔は致しませぬ。
ロミオ それこそ友達甲斐といふものだ。さ、これを取れ、(金を与へる)達者で暮せ、いづれ、また。
バルサザー (小声で)やはり、この辺に隠れてゐよう。唯ならぬお顔附、何をなさるお積りか気懸りでならない。(物蔭に退く)
ロミオ 忌はしい胃袋、死神の腹、この世で最高の供物を呑んだ貴様の腐つた顎を、かうして無理やりこじあけてやる、(霊廟の扉を開け始める)貴様を苦しめるため、この上なほ餌を詰込んでやるぞ。
パリス (物蔭で)あれこそ追放された傲慢無礼のモンタギュー、ジュリエットの従兄を刺し殺した奴だ――その悲しみがあの美しい娘の命を奪つたとしか思へぬ――ここへやつて来たのは亡骸まで辱めようといふのか。放つてはおけぬ――(進み出る)手を出すな、モンタギュー! 殺しただけで飽足らず、なほも復讐を加へる気か? 追放の身ではないか、そのままにはして置かぬぞ。さあ、大人しく附いて来い、生かしておくものか。
ロミオ いかにも生きてはをれぬ、それゆゑここへやつて来たのだ。頼む、命知らずの男を、このうへ唆すな。早く逃げろ、放つておいてくれ。ここにゐる死人共の事を思へ、身に沁みてその恐ろしさを感じるがいい。お願ひだ、俺を怒らせ、二たび罪を重ねさせないでくれ。さ、行け! 神懸けて誓ふ、この身以上にお前を愛してゐる、ここへやつて来たのも自害する為なのだ。さ、早く行け。生きて伝へるがよい、気違ひの情けが逃げるやう命じたと。
パリス 貴様の願ひに藉す耳は持たぬ、重罪人として引捕へてくれる。
ロミオ 俺を怒らせる気か? それなら行くぞ、小僧!(二人戦ふ)
小姓 わあ、殺合ひだ! 夜警を呼んで来よう。(走り去る)
パリス う、やられた!(倒れる)情けがあるなら、あの扉を開け、ジュリエットの傍に寝かせてくれ。(死ぬ)
ロミオ よし、さうしてやらう。顔を見せろ。マーキューショーの身内、伯爵パリスか! 馬を飛ばせ駆けつける途中、下郎が何と言つてゐた、心乱れてよく聴いてゐなかつたが? パリスがジュリエットと結婚する筈と。さうではなかつたか? あれは夢だつたのか? それとも気が狂つたのか、あいつの口からジュリエットの名を聴いただけで、さう思込んでしまふとは? おお、手をよこせ、この身と共に痛ましい非運の名簿にその名を書加へられた男! すばらしい墓に葬つてやらう。墓? 違ふ、墓ではない!――明り窓だぞ、パリス、それ、ジュリエットが横たはつてゐる、その美しさゆゑにこの穴倉も光輝く宴の席さながら。さあ、ここに横たはれ、死人の手が死人を葬るのだ。(墓の中にパリスを横たへる)よくある事だ、死に直面して人は屡陽気になる、附添ひはそれを死際の稲妻と呼ぶ! これをどうして稲妻と呼べようか? おお、ジュリエット、俺の妻! お前の吐息の蜜を吸取つた死神も、この美しさには手が出せぬと見える。お前はまだ敗けてはゐないぞ、その脣とその頬に美の旗印がまだ赤と揺らめいてゐる、死神の蒼白い旗はまだそこまで迫つては来ない。ティボルト、お前もゐるのか、経帷子を血に染めて? おお、これ以上の手向けはあるまい、お前の若さを真二つに引裂いたこの手が、お前の敵を刺し殺してやるとすれば? 許してくれ、従兄! ああ、ジュリエット、なぜ今もなほさう美しいのだ? 姿無き死神、あの痩せさらぼうた化物までがお前の色香に迷ひ、この暗闇の中にお前を囲つてゐるのでは? それが気懸りだ、俺はいつまでもお前の側にゐてやるぞ、決してこの薄暗い宮殿を出まい。ここに、ここに俺は留るのだ、お前の侍女の蛆虫と共に。おお、ここをとこしへの安住の地と定め、非運の星の縛めから、憂世の煩ひに疲れ果てた五体を解き放つてやらう。目よ、これが見納めだぞ! 腕よ、最後の抱擁を! 脣よ、おお、命の息の扉、お前は今こそ、この世のあらゆる物を独り占めせねば気の済まぬ死神に口附けし、奴と無期限の契約を取り交すがよい! さ、この苦い手引を、お前の出番だぞ、飲みにくい案内人! さ、命知らずの水先案内、波に揉まれ疲れ果てたこの船を、今こそ堅牢無比の岩角へ打当てろ! この杯を、愛する妻の為に! (飲む)おお、嘘はつかなかつたな、薬屋! この効目の早さ。かうして口附けをしながら俺は死ぬ。(死ぬ)
修道僧ローレンス、堤燈、鶴嘴及び鋤を持つて登場。
修道僧 聖フランシス様、お力添へを! 今宵この老いた足は幾たび墓に躓いた事か! 何者だ、そこにゐるのは?
バルサザー 怪しい者ではございませぬ、神父様をよく存じあげてをります。
修道僧 何だ、お前か! おお、あれは何だ、蛆虫と目の無い髑髏を空しく照し出してゐるあの松明は? どうやら、キャプレット家の霊廟の前で燃えてゐるやうだが。
バルサザー その通りにございます、あれに、神父様のかはいがつておいでになる手前の主《あるじ》が。
修道僧 お前の主とは?
バルサザー ロミオ様にございます。
修道僧 どのくらゐ前からここに?
バルサザー もう三十分になります。
修道僧 一緒に霊廟へ来なさい。
バルサザー それは出来ませぬ。主人は手前が帰つたものとお思ひになつてをります、ここに居残り様子を窺ひでもしようものなら命は無いぞと、恐ろしい剣幕で嚇されましたので。
修道僧 それならここにゐるがよい、私が独りで行く。どうしたものか胸が騒ぐ。おお、心配でならぬ、何か忌はしい事が。
バルサザー この水松《いちゐ》の下で眠つてをりますうちに、主人が誰かと決闘をし、相手を刺し殺してしまはれた夢を。
修道僧 ロミオ!(進み出る)ああ、何といふ事だ、墓場の入口の石畳を染めたこの血は? おお、どうしたと言ふのだ、主を失つた血まみれの剣がこの憩ひの場に? (霊廟の中へ入る)ロミオ! おお、蒼ざめて! 他にも誰か? や、パリスも? 血まみれではないか? ああ、すべては残酷な時の仕業だ、この悲しむべき出来事も! や、ジュリエットが目を醒す。(ジュリエット、目を醒す)
ジュリエット ああ、いつも優しくして下さる神父様、あの方は? お話の筋道はよく憶えてをります、ここがその場所。どこにゐます、私のロミオは?(遠くで人声がする)
修道僧 人声がする。さ、早く脱け出すのだ、死と疫病と不自然な眠りの床から。吾等の手に余る大きな力が私達のもくろみを打砕いてしまつた。さ、早く行かねばならぬ。お前の夫は、それ、その胸を死の床に、それにパリスも。さ、お前は修道女に預つて貰ふ。仔細を話す暇は無い、夜警がもうそこに。さ、行くのだ、ジュリエット、これ以上ここにはをられぬ。
ジュリエット 行つて、行つて下さいまし、私は行きませぬ。(修道僧退場)これは? 杯だ、どうしてこれが愛する人の手に? 毒薬に違ひない、解つた、これを呷《あふ》り非業の最期を、ああ、ひどい! みんな飲干してしまふなんて、後を追ふ私に一滴も残して下さらなかつたの? その脣に口附けを。そこにまだ毒が残つてゐるかもしれない、その効目できつと私も死ねるだらう。(接吻する)温い脣!
パリスの小姓、夜警達を伴ひ、墓地へ入つて来る。
夜警一 案内しろ、小僧。どつちだ?
ジュリエット あ、あの声は? 早くしなければ。おお、幸ひここに短剣が、(ロミオの短剣を取り)この体をお前の鞘に、(自分を刺す)いつまでもそこに、そして私を死なせておくれ。(ロミオの体の上に倒れ、死ぬ)
小姓 ここです、この松明が燃えてゐる所で。
夜警一 あたり一面血だらけだ。墓地の周囲を捜せ。さ、誰か行け、誰だらうと構はぬ、見つけ次第引捕へて来い。(数人の夜警退場)酷たらしい事を! ここに伯爵様が、それにジュリエット様も血を流して、まだ温い、今亡つたばかりとしか思へぬ、二日前にここへ葬られたといふのに。大公にお知らせしろ、一刻も早く、キャプレット様のお屋敷へ、モンタギュー様をお起しして来い、残りの連中はなほよく辺りを捜すのだ。(他の夜警達退場)痛ましい亡骸はよく見えるが、その痛ましい不幸の由来は、詳しく調べなければ解るまい。
夜警の一組、バルサザーを伴ひ二たび登場。
夜警二 こいつはロミオ様の従僕です、墓地で捕へました。
夜警一 大公がおいでになるまで逃さぬやう留めておけ。
夜警の他の一組、修道僧ローレンスを伴ひ、二たび登場。
夜警三 この修道僧は、身を震はせ、吐息を漏し、ただ泣いてゐるだけです。墓地のこちらから出て来るところを捕へ、この鶴嘴と鋤を取上げました。
夜警一 怪しい奴だ! その修道僧も留めておけ。
大公及びその侍者達登場。
大公 こんな早くから何事だ、朝の眠りからこの身を叩き起したのは?
キャプレット及びキャプレット夫人登場。
キャプレット 一体どうしたといふのだ、この騒ぎは?
キャプレット夫人 おお、町なかを「ロミオ」と叫ぶ者、「ジュリエット」と叫ぶ者、「パリス」と叫ぶ者、そして誰も彼も大声にわめきながらわが家の霊廟目差し駆けて参ります。
大公 どうしたといふのだ、吾の耳を脅やかすあの叫び声は?
夜警一 殿様、ここにパリス伯爵が殺されておいでです、またこちらにはロミオ様が、それにジュリエット様も、先頃お亡りになつたのに、まだお体に温みが残つてをり、今しがた息を引取られたばかりとしか思へませぬ。
大公 よく調べろ、この忌はしい殺人の原因を突き留めるのだ。
夜警一 ここにをります修道僧、それに殺されたロミオ様の従僕、二人共死人の墓を暴くためと覚しき道具を所持してをりました。
キャプレット おお、神よ! (夫人に)これ、見ろ、娘の胸から血が! この短剣は居場所を取違へたのだ、見ろ、モンタギューの背に帯びたそれは蛻《もぬけ》の殻、鞘を誤り娘の胸に納つてゐる。
キャプレット夫人 ああ! この死顔は老いの身を墓場へ駆立てる弔ひの鐘さながら。
モンタギュー登場。
大公 さ、ここへ、モンタギュー、その時ならぬ早起きも、詰りは、一足先に眠りに就いた息子に会ふ為に過ぎぬ。
モンタギュー おお、大公、妻が昨夜死にました、倅の追放の悲しみが身に応へたのでございます。この上どのやうな悲しみがこの老骨を苛むとおつしやる?
大公 それ、これを見るがよい。
モンタギュー おお、不心得者め! 作法を知らぬのか、父親を押し退けて一足先にあの世に旅立つとは?
大公 腹も立たうが、暫く黙つてゐてくれ、何よりも先に色曖昧な点を明かにし、事の起り、始終の経緯を突きとめねばならぬ、それが済めば、自ら先んじて悲しみの川を渡り、お前を敵の面前に立たせ、思ひのままに振舞はせてやらう。が、暫く堪へ忍べ、その不幸を忍耐の鞭の下に置くがよい。さ、引出せ、疑はしい連中をここへ。
夜警達、修道僧ローレンスとバルサザーを引出す。
修道僧 この身こそ第一の容疑者、最も無力ながら、時といひ、場所といひ、この恐ろしい犯行のお疑ひ、最も逃れ難き立場にございます、これより、顧みて咎めらるべきは自らこれを責め、許さるべきは身を以て弁明致したう存じます。
大公 では、直ちに知れる限り、すべてを話すがよい。
修道僧 手短かに申上げます、余命いくばくも無きこの身ゆゑくだくだしき話はお許し願ひます。ここに倒れてゐるロミオはジュリエットの夫、そこに倒れてゐるジュリエットがロミオの忠実な妻。二人を妻《めあは》したのはこの私にございます、そして内にて式を済ませた日がティボルトの破滅の日、その非業の死のため花婿はこの町を追放されました、ジュリエットの恋ひ慕つてゐたのは、ティボルトならぬこのロミオ。それをあなた方は、悲しみの囲みを解いてやらうと、無理強ひにパリス伯爵と婚約させ、結婚させようとなさいました。そこでジュリエットは私の庵を訪ねて参り、重婚を避ける手立てを教へてくれねば、直ぐにもその場で死ぬと、物狂ほしき顔附にて申します。そこで止むをえず、かねがね嗜みをりました眠り薬を与へましたところ、案の定思ひ通りの効目を現し、ジュリエットは仮死の状態に陥つた次第にございます。一方、私はロミオへ手紙を認め、薬の切れるは今宵、されば、今日、この恐ろしい夜ここへ立戻り、仮りそめの墓場よりジュリエットを連出す手助けをするやう申し送りました。ところが、仕立てましたる使者修道僧ジョンは、思ひもよらぬ事故に阻まれ、昨夜手紙を持戻つたのでございます。そこで、私一人、娘が目を醒す予定の時刻にこの霊廟へ参る事に致しましたが、それも、娘を連出して庵に匿まひおく為、いづれ折を見てロミオの許へ知らせようとの心積りにございました。しかし、目醒める時刻を見計らひ、ここへ参りましたところ、これ、このやうにパリスもロミオも無慚の最期。程無くジュリエットは目を醒しました、私はここから出るやう、この天命を堪へ忍ぶやう説き聴かせたのでございます、その時、近づく人声に驚き、私は墓から脱け出しましたが、ジュリエットは絶望の余り、附いて来ようとはせず、どうやら、自ら死んだものと思はれます。私が存じをりますのはこれだけ、二人の結婚についてはジュリエットの乳母も与り知つてをります、万一この事態をこの身の越度《をちど》とお考へならば、余命いくばくも無き老骨、最も厳しき刑の適用をお願ひ申上げます。
大公 お前の事なら、今日まで常に高潔な人物と思つてゐた。ロミオの従僕はどこにゐる? あれにも何か言ひたい事があらう。
バルサザー ジュリエット様御死去の知らせをお伝へ致しましたところ、旦那様は早馬にてマンテュアからここへ、この霊廟へお駆けつけになつたのでございます。そしてこの手紙を早くお父上にお渡しするやうお言附けになり、霊廟へお入りになる前、即刻立去らねば私を殺すと嚇されました。
大公 その手紙を見せろ、読んでみよう。夜警を叩き起した伯爵の小姓はどこにゐる? (小姓進み出る)これ、お前の主はここで何をしてゐたのか?
小姓 奥様のお墓に花を撒くのだとおつしやつて、ここへおいでになり、離れて控へてゐろとお命じになりましたので、私はその通りに致しました。程無く松明を持つた男が現れ、霊廟の扉を開けようと致しましたが、その時、旦那様が剣を抜き斬りつけようとなさいました、そこで私は夜警を呼ばうと駆け出したのでございます。
大公 この手紙が修道僧の申立の正しさを証拠立ててゐる、恋の顛末、ジュリエットの死去の知らせ、それにまた、貧しき薬屋より毒薬を買求め、この霊廟にてジュリエットの傍に死なうと思つた事など、すべてはここに書かれてある。仇敵同士の両家の主はどこにゐる? キャプレット、モンタギューは? 見るがよい、お前達の憎しみに加へられた天誅を、神のお選びになつた手立てはお前達の生き甲斐を互ひに想ひ想はせ、その上で殺してしまふ事だつた! そしてこの身も、お前達の不和を見逃してゐた為に、身内を二人までも失つてしまつた。皆一人残らず罰せられたのだ。
キャプレット おお、モンタギュー殿、お手を。それこそわが娘への結納、頂戴すべきものは他に何一つ無い。
モンタギュー いや、他に差上げるものがある、娘御の純金の像を建てませう、この町がヴェローナと呼ばるる限り、貞節このうへ無きジュリエットの像こそ、何にもまして崇められねばなりませぬ。
キャプレット それに並べて優るとも劣らぬロミオの像を――互ひの憎しみの哀れな生贄!
大公 悲しみに満ちた息らぎが朝と共にやつて来る、太陽も憂はしげに面を背けてゐる。さ、行かう、この悲しい出来事について、更に語り合はねばならぬ。許さるべき者もあり、罰せらるべき者もある、哀れな物語はこの世に幾らもあらうが、ロミオとジュリエットの恋物語ほど痛ましいものは他にあるまい。(一同退場)
解   題
この作品は作者生前に二度四折本として上梓されてゐる。一五九七年の第一・四折本と一五九九年の第二・四折本である。死後の第一・二折本全集のそれは第二・四折本の再版に過ぎず、随つて定本決定の際、問題となるのは二つの四折本のいづれを重んずべきかといふ事に帰着する。結論を先に言へば、第二・四折本の方が信頼するに足りる。しかし、作者生前に出た四折本はすべて第一・二折本全集と較べて、善本と悪本と二つの群に分たれるが、『ロミオとジュリエット』の場合、第二・四折本は善本中最悪のものであり、第一・四折本は悪本中最善のものであつて、第二を採用すると言つても、第一を全く無視する訳には行かない。といふのは、両者の間に相互依存の関係が窺へるからである。その経緯は大体次の通りである。
第一・四折本は上演後の役者の記憶に基く再現であり、第二・四折本は作者の原稿に拠るものであるが、その原稿が書き加へや削除のため相当に混乱してゐるばかりでなく、第一幕の第二場五八行目から第三場三六行目までは殆ど第一・四折本のそれと同じであり、明かにそれに依拠してゐると見られ、その他にも第一を参照してゐると思へる節が諸処に見受けられる。そこから第二・四折本について、次の三様の推測が出て来る。
〓 最少限、第一幕第二場五八行目より第三場三六行目までは、作者原稿がどうにも判読出来ぬので第一を参照したのだが、他は全部作者原稿を基にして印刷されたもの。
〓 主として作者原稿に基いてはゐるが、処第一の、それも手を入れた訂正版を参照したもの。
〓 〓の逆に第一を底本とし、作者原稿を参照しながら、それを訂正補筆したもの。
そして結局の処、ドーヴァ・ウィルソンは新シェイクスピア全集『ロミオとジュリエット』の校訂において、共同作業者ジョージ・アイアン・ダシーと共に、右のうち〓を最も蓋然性あるものとなし、その推論に随つて新定本を完成してゐる。第二・四折本は第一・四折本に優る善本であるとは言へ、それには色弱点があり、それらはいづれも次の事実に起因してゐるらしい。〓前述の様な作者原稿そのものの混乱、〓第二・四折本の為の底本作製者がそれを参照しながら第一・四折本を訂正してゐた時、役者の誤れる記憶を見逃した事、〓底本作製者の誤解や誤写、更に複雑な事に、作者が自分の原稿を訂正する際に犯したのと全く同様に、処に改筆を施しながら前の処を消し忘れてゐる事、〓印刷所における植字工の誤解や誤植が多い事などである。
要するに、『ロミオとジュリエット』は今後の研究と共に、色改められるべき多くの問題を含んだ作品であつて、現にこの定本作製の際、ウィルソンとダシーとの間においても、六十五箇処も意見の食ひ違ひがあり、その大部分は未解決のまま、註に残されてゐる程である。尤も、それらはいづれも作品そのものの文学的、或は演劇的鑑賞には全く支障の無いものと言つて差支へ無い。
次に製作年代であるが、一番単純な手掛りは、第一・四折本刊行の一五九七年より前の作品であるといふ事、及び作中乳母のせりふに十一年前の大地震といふ言葉がある事である。後者に関しては、事実、一五八○年にロンドンに大地震があつた。それから推せば、一五九一年の作といふ事になるが、当時から人気のあつたこの作品が一五九七年まで活字にならなかつたといふのは聊か不自然である。それに乳母によれば大地震は収獲祭前夜の七月三十一日に起つた事になつてゐるが、実際は同年四月六日の出来事であつて、この地震をさほど強固な手掛りと見做す訳にも行かない。
一五九一年と言へば、シェイクスピアが作品を書き始めた習作時代で、『ヘンリー六世』三部作を書いてゐた頃であり、その続篇の『リチャード三世』を書く前である。その唯中に『ロミオとジュリエット』を持込むのは、主題から言つても、文体から言つても、無理でもあり唐突でもある。とすれば、『リチャード三世』の後に、『間違ひ続き』『タイタス・アンドロニカス』『じやじや馬ならし』『ヴェローナの二紳士』『恋の骨折損』と、主として軽い喜劇が続いた後、そして『リチャード二世』『夏の夜の夢』の前、即ち一五九五年頃といふ一般の推定が最も妥当といふ事になる。『リチャード二世』は歴史劇であり、『夏の夜の夢』は初期喜劇の傑作で、幻想的な作品であるが、両者の抒情的な文体は『ロミオとジュリエット』と通じるものがあるからである。
この作品の素材はイタリアの物語作者バンデッロの散文(一五五四年)の英訳、アーサー・ブルックの『ロミアスとジュリエットの悲しき物語』である。英訳といつても、これは三〇二〇行から成る詩であつて、シェイクスピアはそれから筋や人物ばかりでなく、語句の末に至るまでそのまま借用に及んでゐる箇処がある。といつても、原作と同じ場所で同じ語句を借りてゐるのではなく、作者は恐らく原作を誦んじてゐて、それが自由に、そして自然に適切な場所に流れ出して来たに過ぎまいと言はれてゐる。
バンデッロの物語は成るほど良く出来てゐるが、これも完全にバンデッロの創作とは言ひ難い。第一に、この時代までは、独創といふ事は別に何の特権をも意味しなかつたし、第二に、良く出来てゐる作品といふものは殆どすべて「盗作」の積み重ねの結果に過ぎなかつたのである。この場合もその例外ではない。譬へば、ジュリエットの仮死も既にバンデッロに出てゐる事は言ふまでもないが、これも古く溯れば、五〇〇年頃のギリシアの物語作者エフエソスのクセノフォンに出てゐる話である。但し、それが英訳されたのは一七二七年であるから、シェイクスピアが専らブルックに拠つた事は疑へない。のみならず、ブルックは勿論バンデッロさへ、それを読んではゐなかつたらう。といふのは、英語のみならず、イタリア語でも、それが始めて活字になつたのは、英訳の前年の一七二六年の事だつたからである。しかし、たとへ刊行されなくても、この話は当時のイタリアに広く流布されてをり、ボッカチオも既にそれを利用してをり、更にそれはマスッチョ・サレルニターノの『物語集』(一四七六年)に出て来る。
そこではロミオに当る一人の青年が町のお歴の一人に乱暴を働き、遂に殴り殺してしまひ、修道僧の世話でアレクサンドラに逃げ、一方、その恋人は父の選んだ男から逃れる為、やはり修道僧から薬を貰つて飲む事になつてをり、クセノフォンやボッカチオより余程バンデッロに近くなつてゐる。そればかりでなく、二人の男女が既に修道僧の手により秘かに結婚してゐるといふ筋書も、このマスッチョに端を発してゐる。
次に来るのが、一五三〇年に刊行されたルイジ・ダ・ポルトの物語で、それには相争ふ名門の男女といふ背景が始めて出て来るが、これはダンテの『神曲』からの流用であらうと言はれてゐる。しかし、シェイクスピアの『ロミオとジュリエット』に現れる登場人物の名も殆どすべてこの作品に出てをり、バンデッロを経てシェイクスピアに流込んだものである。なほバンデッロが流用したと思はれる作品として、一五四二年に出版されたアドリアン・スヴァンといふフランス人の物語、或はバンデッロの作品の出た前年に発表されたクリツィアといふ詩人の物語詩があるが、前者はマスッチョやルイジのみならず、ボッカチオをも利用してゐるが、そのボッカチオの『フィロストラート』は英国の詩人チョーサーの名作『トロイラスとクリセダ』に触発されたものと言はれてゐる。但し、このチョーサーそのものを、シェイクスピアは読んでゐたとしても、直かにそこから採つたものとは断定し難い。
ここまで来ると、どちらがどちらをまねたか、まねないか、すべて臆測に過ぎぬと言ふ事になりかねない。なぜなら、ボッカチオがチョーサーをまねたと言つても、或は両者が期せずしてまねた共通の作品、或は説話が、既に二人の前にイタリアかスペインかフランスかにあつたかも知れないからである。それはともかく、スヴァンとクリツィアについて、文献上今日知り得る限り「創意」と見做されてゐるものは、前者ではロミオが薬屋から毒を入手する話、後者ではジュリエットがロミオの追放を歎いてゐるのを見た母親が、それを身内のティボルトの死の為に流された涙と思込む話、この二つ位のものであらう。いづれも直接間接バンデッロの中に採入れられてゐる。
右のほかに更に附け加へるべきものがあるとすれば、バンデッロの英訳が出た年から五年後の一五六七年に刊行されたウィリアム・ペインターの物語集『快楽の宮殿』であらう。その中の一話にバンデッロの仏訳(一五五九年)を利用したものがあり、これはシェイクスピアも読んでゐたと思われる節がある。尤も仏訳と言つても、訳者ボエースチュオーは原作以外に自他の「創意」を附加してゐる。その点はブルックの場合も同様で、バンデッロそのままではない。のみならず、ブルックは原作バンデッロよりボエースチュオーの仏訳に多くを負うてゐるのである。
既に述べた様に、シェイクスピアは殆どすべてをブルックから借用してゐる。後年、『ジュリアス・シーザー』や『アントニーとクレオパトラ』において『プルターク英雄伝』の筋を些末事に至るまで忠実に辿つたのと同じく、ここでもシェイクスピアは驚くほどブルックに忠実である。ジョフレー・ブロー編纂の『シェイクスピア劇の素材』第一巻の言葉をそのまま引用すれば、「驚嘆すべきは、シェイクスピアが与へられた素材を元のまま引継ぎながら、その屍に命を吹込んだ事である、」詰り、「ブルックの詩は鉛であり、それをシェイクスピアは金に変へた」といふ事になる。
では、シェイクスピアの『ロミオとジュリエット』はどの点で、ブルック、バンデッロその他の作品に較べて「金色燦然」と輝いてゐるのか。新シェイクスピア全集におけるこの作品の解題者ダシーは次の様に述べてゐる。
シェイクスピアのそれにおいては、あらゆる細部に亙つて、他の作品のどれよりも強烈な劇的効果を発揮する事が狙ひとなつてゐる。ブルックでは全事件が数箇月に亙つて継起するが、それをシェイクスピアは二三日間の出来事に集約してゐる。この圧縮は(十分に成功してゐるかどうかは別として)観客や読者に悲劇的必然の印象を与へるための試みに他ならない。第二に、シェイクスピアにおいては、最後の場でパリスが廟内に登場する。これは知り得る限り他の作品には見出せぬ事であつて、この新機軸の効果は劇的に頗る強烈である。第三に、ブルックの功に帰せらるべきものの一つとして、シェイクスピアにおいてもそのまま踏襲されてゐる乳母の性格を挙げるとすれば、シェイクスピア自身が主張し得る功績はマーキューショーの性格であり、この男こそ彼の創造した最も生き生きした人物の一人と言へよう。
このダシーの評にはすべてが言ひ尽されてゐる。『ロミオとジュリエット』のすべての長所が、しかし、それを裏返しにしたすべての短所が、右の言葉のうちに裏切り示されてゐるのである。
まづマーキューショーの性格である。その魅力についてはコーリッジ、ドライデン、ジョンソン等が口を揃へて激賞してゐる処であり、誰も難癖は附けられまい。役者の名に値する役者なら、劇中第一にマーキューショー役を狙ひ、ロミオは新人に演らせて置けと言ふだらう。観客も男女を問はず、ロミオよりはマーキューショーの人間味に遥かに大きな好感を寄せるだらう。が、その事はこの人物が劇の統一から食み出てゐる事を意味する。
ハズリットはロミオを「恋するハムレット」だと言ふ。成るほど、単なる二枚目のロミオといふのは通俗過ぎる。ロミオを演ずる役者は飽くまでハムレットを下敷にして貰ひたい。それにしても、『ロミオとジュリエット』には若い恋人同士の悲運といふそれ自身の枠があり、ロミオは運命の手に弄ばれる世話物の受動的主人公に過ぎず、ハムレットの様に自分の運命を自分の手で切拓いて行く能動性に欠けてゐる。ウィルソンはハムレットを『ハムレット』劇の外へ連出して勝手な解釈を施して来た浪漫派以後の批評に警告を発してゐるが、ハムレットの行動にはさういふ警告を必要とするだけの積極性があつた。それがロミオには無い。ジュリエットには勿論、その他のどの人物にもその魅力は無い。マーキューショーにそれがあると言つては言ひ過ぎにならうが、少くとも彼だけは、この作品のみならず、シェイクスピアのどの作品のどの人物にも無い彼にだけ与へられた独自の魅力がある。マーキューショーは言はばロミオの「ホレイショー」であるが、『ハムレット』のホレイショーが終始後見役に留つてゐるのに反して、寧ろ吾は彼を主役にした劇をシェイクスピアに書いて貰ひたかつたといふ気を起させる作中唯一の人物である。
次に終幕においてキャプレット家の廟でロミオに殺されるパリスの効果であるが、その前に必ずしも偶然の一致とのみ言ひ捨てられぬ一事に読者の注意を促したい。それはこの『ロミオとジュリエット』と『アントニーとクレオパトラ』との相似性である。第一に、両者共に男女の愛欲を素材にしてゐる。第二に、前者ではモンタギュー、キャプレット両家の相剋が背景になつてをり、後者ではローマ、エジプト両国の対立が背景になつてゐる。第三に、アントニーはクレオパトラが死んだと思つて自殺するが、同様にロミオもジュリエットの仮死を本当の死と思ひ違へて自殺する。第四に、両者共に不気味な廟堂の場で終る。悲劇の最後は主人公の死に決つてゐる。が、シェイクスピアが男女の愛欲を扱つた唯二つの作品が、いづれも死の世界の象徴である廟堂で終つてゐる事実を、吾は気軽に見逃せない。
勿論、それは近松についても言へる事だが、愛欲は閉ぢられた世界であり、その底に沈澱して行けば、たとへ外部から干渉や妨害が無くても、といふ事はそれ自身の完成の為にも、死を必要とせずには済まされぬものである。メロドラマにおける恋する男女は、現実の障碍から免れる為に死ぬ、或はさう思つてゐる。が、実は愛欲はそれ自身の内に死を含み、死を願望してゐるのであつて、優れた作品においては、作者や登場人物がどういふ「積り」でゐようと、必ずさういふ真実が描き出されてゐる筈である。『ロミオとジュリエット』がそれであり、『アントニーとクレオパトラ』がそれである。近松の心中物についても同様の事が言へるが、シェイクスピアと近松との違ひは、また同じシェイクスピアでも『オセロー』とこの二作との違ひは、次の点にある。この二作においては、愛し合ふ二人の男女がただ見えない死の中に吸ひ込まれて行くだけではなく、死が、死の世界が向う側から遣つて来て、観客の前に判然と姿を現す。
二人の死を取巻いて右往左往する人物は、もはや現実界のそれではなく、死の世界、即ち廟内における暗い死の秘儀に参列する登場人物なのである。この死の秘儀は殆ど異教的と言つても良い。が、それは今日の目で見ての話で、当時のカトリック教会はさういふものを内蔵してゐたのではなかつたらうか。その観点に立てば、パリスの登場は確かに効果的である。なぜなら、彼は両家の争ひにも、二人の男女の悲劇にも、死の世界にも全く関係の無い、そして最も健康で、最も現実的で、最も常識的な人物だからであり、さういふ明るい人物が暗い廟内に現れ、ロミオに殺されるからである。
その事と関聯して重要と思はれる事実は、ダシーが最初に強調してゐる劇的展開の早さといふ事である。彼によれば、この劇の主題は「違つた星の下に生れた」男女の恋である。運命は二人を結附け、歓喜の絶頂に押上げた瞬間、直ちにそれが遂げられぬ恋である事を覚らしめ、忽ち破滅の道へと追込む。二人にとつて、恋も不意打ちなら、そこからの転落も不意打ちであり、始めから、終りまで偶然と事故と行き違ひの連続である。もし皮肉な批評が許されるなら、この作品を「コメディー・オヴ・エラーズ」に対して「トラジェディー・オヴ・エラーズ」と名附けても良い。主役は「運命」であつて、ロミオでもジュリエットでもない。この劇の上演の成功と失敗とは、その事を観客に納得させられるか否かに、そしてその主役の「運命」が全登場人物を死の世界に導入し得るか否かに懸つてゐるのである。その為には劇の展開の早さを何よりも重要視しなければならない。
それにしても、次の事実は無視し得ない。それは『アントニーとクレオパトラ』についても言つた事だが、そこにおけるほど露骨ではないにしても、シェイクスピアが男女の愛を採上げる時、この初期の『ロミオとジュリエット』においてさへ、一種のシニシズムが顔を覗かせてゐるといふ事である。今、私はこの作品を「トラジェディー・オヴ・エラーズ」と呼んだが、元来、間違ひや行き違ひから悲劇は生じない。如何に「運命」が主役だと言つても少くとも、現代人の目は、ロミオやジュリエットのみならず、この作品に登場するすべての人物の愚かさ、不様な慌て様を決して正当化し得まい。二人の恋の協力者である善意の乳母と修道僧に対してさへ、いや、この二人こそ、吾の目には最も許すべからざる、といふよりは最も滑稽な役廻りを演じてゐる様に見える。第二幕第四場で乳母がロミオに言ふせりふに「二人切りなら秘密は洩れぬ、三人ならば請合へぬ」といふのがあるが、この時、作者がその三人目を乳母や修道僧のうちに意識してゐなかつたとは思へず、それなら、現代の吾ばかりでなく、当時の観客にもこれを悲劇として提供する事に、シェイクスピアは多少の「シニシズム」を用意してゐたか、少くとも「後めたさ」を感じてゐたか、いづれかであつたに相違無い。
さういふ目で見て行けば、第四幕第二場におけるキャプレットのせりふ、「あの立派な神父様のお蔭を蒙らぬ者はこの町には一人もゐまい」といふ言葉も相当毒の効いた皮肉であり、終幕における修道僧自身のせりふ「ああ、すべては残酷な時の仕業だ、この悲しむべき出来事も」といふのも、「吾等の力に余る大きな力が私達のもくろみを打砕いてしまつた」といふのも、聊か抜け抜けとしてゐて、今日の観客の共感は呼び得まい。事実、彼が最後に告白してゐる様に、最大の責任者は彼自身だからである。「悲劇」は両家の争ひからではなく、この僧が両親を納得させずに恋人同士を結婚させた事に源を発してゐるからである。随つて、僧の告白を聴き終つた大公がその罪を深く咎めず、話を逸らせてしまふ事にも、今日の吾は不満を感じかねまい。
シェイクスピア自身、悲劇の筋立てとしてのその無理を予感してゐた事は疑へぬ事実で、譬へば、ジュリエットの年齢がブルックでは十六歳、ペインターでは十八歳になつてゐるのを、シェイクスピアは十四歳にしてゐるが、それも悲劇を実現し得る人物ではなく、悲劇に弄ばれる人物として観客を納得させる為であつたらう。そればかりではない。ブルックの英訳の序においては、若気の過ち、親に許されぬ恋、色欲などに対する戒めが強調されてをり、それにも拘らず、作者は二人の恋人に飽くまで同情的であるが、だからと言つて、その序を当時の道徳観に対する作者の迷彩と見做すのは早計で、ブルック自身、意識的にはその道徳観に随つてゐたのに相違無いのである。同様に、シェイクスピアも二人の恋人に同情的であつたのだが、それは恋そのものに同情的であつたといふ事を意味しない。
物語詩ならともかく、悲劇の材料として男女の恋が採上げられる様になつたのは、ずつと後の事で、当時は可成り無理な事であり、それが作者自身の意識しない処で「後めたさ」或は「シニシズム」となつて現れたのではないか。右に挙げた例だけではない。作品全体が悲劇と呼ぶにふさはしくない喜劇的な場面が時折挿入され、猥褻な言葉や地口が氾濫する。それは作者の若さと、この前後に書かれた作品の系譜とから容易に納得出来る事であるが、それらはいづれも後年の悲劇において頗る効果的に用ゐられる「コミック・レリーフ」とは異り、屡悲劇の調子を損ひ、それに酔はうとする観客の気分を妨げる。その事について、ジョンソン博士は次の様に言つてゐる。
その喜劇的場面は実に良く書かれてゐる、しかし、愁歎場は不意にその後に現れる堕落によつて汚される。登場人物達は、如何に苦しんでゐようと、その悲しみには一種の見えが、それこそ悲しい見えが附き纏つてゐる。
実は、私はジョンソンを読む前に、この一文の前半後半共、覚書中に書いて置いたもので、このジョンソンの一文を読んだ時、シェイクスピアに関しては、殆ど新発見といふものは在り得ないと覚悟してゐた私でも、さすがに口惜しかつた。尤もジョンソンは甚だ厳粛な人物で、この作品についてばかりでなく、時に偏狭と思はれるほどシェイクスピアの天衣無縫振りを非難する事がある。但し、ここでは私は彼に賛成する。その前半の評言について、例は幾らでもあらうが、一例を挙げれば、第四幕第五場である。ジュリエットの(仮)死を知つて、後の諸人物の悲しみ様も聊か大仰で、そこに用ゐられた比喩も多く喜劇的であるが、それはそれとしても、直ぐその後で乳母の従僕ピーターと楽士達の遣取りは「コミック・レリーフ」の域を逸脱し、どう見ても悪ふざけでしかない。また愁歎場の後ばかりではない、この作品の開幕も、悲劇のそれにふさはしくないのである。
ジョンソンの後半については、私はそれを更に敷衍してかう解釈する。クイラクーチはシェイクスピア喜劇の登場人物評として、屡「自己欺瞞の喜劇」といふ言葉を用ゐるが、それを『ロミオとジュリエット』に適用すれば、「自己欺瞞の悲劇」といふ事にならうか。それは先に指摘したシェイクスピアが恋愛に対して示す無意識の「シニシズム」と関聯する。
私は『ロミオとジュリエット』を低く評価する訳ではない。最初に述べた様に愛欲と死の秘儀とを強調する演出は可能である。そればかりではない、この作品は初演以来、『ハムレット』に次いで常に多くの観客を捷ち得て来た。たとへ偉大なる悲劇とは言へぬにしても、戯曲として最も大切な筋の一貫性は保たれてゐるし、その推移の面白さは否定し得まい。二人の恋人を無邪気な若人に演じさせれば、今日の観客にも「畏れ」は感じさせずとも、「憐れみ」は十分に感じさせる事が出来よう。
福 田 恆 存
昭和三十九年五月十八日
この作品は昭和三十九年六月「シェイクスピア全集」第3巻として新潮社より刊行された。
Shincho Online Books for T-Time
ロミオとジュリエット
発行  2001年3月2日
著者  ウィリアム・シェイクスピア(福田 恆存 訳)
発行者 佐藤隆信
発行所 株式会社新潮社
〒162-8711 東京都新宿区矢来町71
e-mail: olb-info@shinchosha.co.jp
URL: http://www.webshincho.com
ISBN4-10-861067-9 C0897
(C)Atsue Fukuda 1964, Coded in Japan