TITLE : リチャード二世
リチャード二世   ウィリアム・シェイクスピア
福田 恆存 訳
リチャード二世
場   所  イングランド、及びウェイルズ
人   物
リチャード二世
ジョン・オヴ・ゴーント
ランカスター公 )王の叔父
エドマンド    ヨーク公
ヘンリー・ボリングブルック ハーフォード公、ジョン・オヴ・ゴーントの息子、後にヘンリー四世
オーマール公        ヨーク公の息子
トーマス・モーブレー    ノーフォーク公
サリー公
ソールズベリー伯
バークリー卿
ブッシー )
バゴット  リチャード王の従者
グリーン )
ノーサンバランド伯
ヘンリー・パーシー その息子
ロス卿
ウィロビー卿
フィッツウォーター卿
カーライル司教
ウェストミンスター修道院長
騎士スティーヴン・スクループ
騎士ピアース・オヴ・エクストン
式部卿
ウェイルズ軍隊長
リチャード王妃
ヨーク公夫人
グロスター公夫人
王妃の侍女
貴族、伝令官、役人、兵士、庭師、牢番、使者、馬丁、侍者など
〔第一幕 第一場〕
ウィンザー城内
大きな椅子席が階段状に造られてあり、その前は空白になつてゐる。
リチャード王がジョン・オヴ・ゴーント、サリー公、その他の貴族、侍臣等と共に出て来る。一同、椅子席に腰かける。王は中央の審判の席に坐る。
リチャード王 由緒あるランカスター家の主《あるじ》、老いたるジョン・オヴ・ゴーント、かねての誓約どほり、利かん気では名だたる子息のヘンリー・ハーフォードを一緒に伴うて来たか、例の一件、前から仰しく申立てをるノーフォーク公トーマス・モーブレーの大罪、連日、ついその暇がなく、聞き捨てにしておいたものの、けふこの場ではつきりけぢめを附けておきたいと思ふのだが?
ゴーント はい、連れて参りました。
リチャード王 なほ聞いておきたいのだが、御身としても十分問ひただして下さつたらうな、従弟のハーフォードがノーフォーク公に大逆の罪ありと言ひ張るのは、何か私事《わたくしごと》の宿怨が底にあつてのことか、それとも忠良な臣下として、反逆の確たる証拠を掴んでのことか、どうだな、それは?
ゴーント その儀は、私の問ひただした限り、何らか確とした危険が御身の上に迫つてゐるとしか思はれず、決してわが子の側に根深い怨みごとがあつてのこととは申せませぬ。
リチャード王 では、直ちに両人を呼び出すがよい――怒れる顔と顔とを向ひ合はせ、こちらはこちらで罪を着せる者と着せられる者と、双方が存分に喋り合ふのを聞くことにしよう。両人共、思上つてゐる上に怒り狂つてゐる、おそらく大荒れに荒れすさび、海のやうに聞く耳を持たず、火のやうに気短であらう。
ボリングブルックとモーブレーとが出て来る。
ボリングブルック 幸福に満ちた歳月が、世に最も慈悲深きわが君の上に!
モーブレー けふの幸福はきのふの幸福にいや優り、天もその地上に溢れるめでたき恵みを羨んで、わが君の王冠の上に不死の称号を!
リチャード王 両人に礼を言はう、が、どちらかがこの身に心にもない追従《ついしよう》を言つてゐるに違ひない、それは両人がここへ来た理由によつて明白だ、詰り、いづれも相手方の反逆を訴へてゐる。ハーフォードは確かに私の従弟だ、それがノーフォーク公トーマス・モーブレーを訴へる、その理由は何なのだ?
ボリングブルック まづ――天も御照覧たまはるやう、以下申上げることはひとへに臣下としての真心の致すところ、ただひたすらわが君の御安泰を願へばこそ、決して卑しむべき私怨を懐いて御前に罷り越したのではございませぬ……さあ、トーマス・モーブレー、今度は貴様に向つて言はう。これから俺の口にすることをよく聴くがよい、この地上においては、それらいづれも偽りなきことをこの肉体が証しし、天上においては、わが天与の霊魂をもつて、そのすべてが真《まこと》なることの責めを負はう、貴様こそ正に謀反人の名に値する、卑劣きはまる悪党だ、さう呼ぶには身分が良すぎるし、生かしておくには悪党すぎる、大空が美しく晴れ渡り、澄んでゐればゐるほど、そこに浮かぶ雲はことさら醜く見えるもの。もう一度言つてやらう、今の恥辱をいやが上にも恥づべきものにするためにな、よいか、よく聞け、謀反人といふその名を貴様の咽もと深く押しこんでやる、そして王のお許しさへあれば、時を移さず、俺の舌の喋つたことを、この正義の刃を一抜き、直ちに証しして見せてやらう。
モーブレー 私の口ぶりが冷静だからといつて、それだけの熱がないのだと思はれては心外でございます。王に裁きをつけていただかうとしてのわれら二人の争ひは、よくある女同士の喧嘩のやうに、互ひに口先だけの喧《かまびす》しい争ひとは異なり、よもや簡単に黒白はつけられますまい。いまかうして熱し滾《たぎ》つてゐるどちらかの血潮が死によつて冷え切つてしまふまでは、決して後には引けませぬ。しかし、私にしてもこのまま口を鎖し、何も言はずに引込むやうな腑甲斐ない我慢といふやつを、敢へて自慢にする気は毛頭ございません……まづ何より王に対する畏敬の念がこの私に手綱を掛け、自由に勝手なことを口に出すのが憚られるだけのこと、それさへ無ければ、謀反人などといふ言ひ掛りは奴の咽もと目がけて奔馬のやうに忽ち跳ね戻つて行つたに相違ありません。もしこの男が王族のお血筋でさへなければ、それにまた王の極く近い御身内でもなければ、私は奴を蔑み、唾を吐きかけ、中傷讒誣を事とする卑劣漢と呼び捨てませう、敢へてその事実を示せと言はれれば、こちらがどんなに不利な立場に置かれようとも、一向構ひません、最後まで争つて御覧に入れませう、たとへ、そこが凍てつく雪で蔽はれたアルプスの峯であらうと、または未だ嘗てイングランド人が足を踏み入れたことのない人跡未踏の僻地であらうと、直ぐにも足で歩いて行つて奴と立会ひませう。今はただ、次の一言をもつて、わが忠誠の証しと致します――この男の申すことは悉く欺瞞の一語に尽きる、これこそ私の救ひのすべてでございます。
ボリングブルック 卑怯者め、色を失つて震へ戦いてゐるではないか、さあ、この挑戦の印《しるし》を取れ、(手袋を相手の足下に投げる)同時に俺は王の近親たる資格を投げ捨てる、もはや俺は王の血筋ではない、これまで貴様は畏敬の念を口実に手が出せなかつたといふが、実は何よりも恐しかつたからだ……もし犯した罪の怖しさにも拘らず、なほ名誉ある俺の決闘の印を受ける余力が少しでも残つてゐるなら、さあ、屈んでそれを拾へ。それだけで、いや、その他のあらゆる騎士道の厳粛な約に従ひ、あとは決闘あるのみ、今、俺の口にしたことは勿論、その他お前の思ひつく限りの悪事を明らかにしてくれよう。
モーブレー (手袋を拾ひつつ)受取らう、そして嘗てはこの肩に騎士の栄爵を授けてくださつた王の剣に懸けて誓はう、いやしくも名誉ある騎士道の掟にかなふ限り、いつでも相手にならう。一度《ひとたび》馬に跨つた以上、万が一にも自分が謀反人であつたり、不正な戦ひをしたりしたなら、生きて馬から降りはせぬぞ!
リチャード王 ボリングブルック、お前がモーブレーの罪として告発したいのは、一体、何なのかな? その男に逆心ありと、この身もさう思へるほどのことなら、よほどの重大事に相違あるまい。
ボリングブルック 私の申上げることに耳をお傾けいただきたい、その真実なることは命に懸けて証し致しませう、まづモーブレーは王の兵士を出しに「借入金」といふ名目で八千ノーブルを受取りながら、これを手もとに留め置き、いかがはしき私用に使ひ果しました、正に不法の謀反人、不敵な悪党と申すべきであります。そればかりではない、敢へて断言して憚りません、過去十八年に亙り、この国において目論まれ、企まれた限りのあらゆる反逆は……すべてこの邪《よこしま》なモーブレーが源泉であり、その発頭人であつたのだ! それゆゑ、ここでなりと、あるいはイングランド人の目の届く限り遠い地の果てでなりと、私の述べたことを決闘によつて証ししたいと存じます。それだけではございません、更にその悪逆なる一命に照らして、はつきりさせておきたいことがあります、それはモーブレーがかのグロスター公の暗殺を企て、信じやすい公の敵方を唆《そそのか》し、つひにはかの罪なき魂を、血の流れに投ぜしめた無類の悪党だといふことであります、公の血は神に贄《にへ》を捧げたアベルの血のごとく、物言はぬ大地の墓穴の底から、この私に向つて絶え間なく正義の裁きと手厳しい懲《こら》しめとを求めて止みません。私としても、栄誉ある家門の名に懸け、この腕をもつてその罪をただすか、それともこの命を失ふか、そのいづれかを選ぶ覚悟、それしかございません。
リチャード王 これはまた大した覚悟だな、このままどこまで舞ひ上ることか! ノーフォークのトーマス、これに対して、お前は何と答へる?
モーブレー 王にはお顔をそむけてゐていただきませう、またお耳も暫し聞えぬといふことに、その間に私がこの御血統を穢す者に向つて、嘘をつく輩は神も人もこれを腐れ肉の如く憎むといふことを教へてやります。
リチャード王 モーブレー、この身は目も耳も至つて公平なのだ、たとへこれが自分の兄弟であらうと、いや、わが王国を継ぐ者であらうと、所詮は父の弟ジョン・オヴ・ゴーントの息子に過ぎぬ、この笏《しやく》の尊厳に懸けて誓ふが、この身の聖なる血に如何に近からうと、だからといつて、これに何の特権も与へはせぬし、またわが剛直なる魂が身近な者にだらしなく腰を屈《かが》めるやうなことも断じてありはせぬ。畢竟、この男はこの身の臣下だ、モーブレー、そしてお前もさうだ、思ふがままに、何の憚るところなく、言ひたいことを言ふがいい。
モーブレー それなら、ボリングブルック、貴様は偽りで塗り潰したその咽のとば口から、下は心臓のどん底まで、余す所なく嘘をついてゐるのだ! カレーへ行くために、俺が受取つた金は、その四分の三をリチャード王の兵士にしかるべく支払つてある、残りはお許しを得て自分の手許に留めておいたが、それも王に当方からお貸ししてあつたからだ、先に自分がフランスへお妃をお迎へに参上した際の、多大な御負債の残額として頂戴しただけのことだ、さあ、まづ、その嘘を呑みこむがいい……次にグロスター公の死についてだが、公を殺したのは決して自分ではない、ただ、この件については、臣下としての務めを怠つたことを恥辱と思つてゐる、が、ランカスター公、今、自分が敵と見なしてゐる者の父君にあらせられる老公、嘗てはあなたのお命を頂戴しようとして待伏せしたことがある、これこそ許しがたき罪として、未だに後悔致してをります、もちろん、いつぞや聖餐を受けるに際して、そのすべてを懺悔し、はつきりお許しをお願ひしたところ、幸ひにして御了承いただいたものと存じてをります……これは明らかに私の過ちであります――その他の事に関する限り、すべての弾劾、告発は、一人の悪党にして裏切者、そして祖先の徳を穢す謀反人の口から出た憎悪にほかなりません、それには、私自身もなに恐れるところなく身を守りませう、こちらからも傲慢な謀反人の足もとに挑戦の印を投げ、私が忠節の士であることを証ししたいと思ひます、そのためあの男の胸に宿る最善の血を流すことも厭ひませぬ、その速かな結末をつけるため、心からお願ひ申上げます、何とぞ決闘をもつて是非をつけるべく、その日をこの場でお定め下さいますやうに。
リチャード王 怒りに燃え上る二人に言はう、この身の言ふことによく耳を傾け、血を流さずには治らぬ腹の虫を追ひ払ふがよい。医者ではないが、これがこの身の処方だ――怨みが深ければ、切開もまた深くなりがちなもの――まづ忘れ、まづ許すのだ、互ひに手を握れ、何より妥協が大切。医者に言はせると、この月は血を取るにはよくない月ださうだ……叔父上、この一件は始まつたところで止めにしておかう、この身はノーフォーク公を鎮める、あなたは息子の方を頼む。
ゴーント 和解をさせるのは、いかにも私の年にふさはしい、投げ捨てるのだ、倅、ノーフォーク公の手袋を。
リチャード王 そして、ノーフォークも相手の手袋を投げ捨てるのだ。
ゴーント どうした、ハリー? 何をしてゐる? 従順の美徳を忘れたか? この父親に二度と言はせるな。
リチャード王 ノーフォーク、投げ捨てろと言つてゐるのだ、拒むことは出来ぬはずだぞ。
モーブレー 畏れながら、この一身を王の脚下に投げ捨てませう、私の命は王の御《み》心のまま、が、恥の方はさうは参りませぬ、それは飽くまで私のもの、命を捧げるのは臣下の義務、が、その名誉は、たとへいつ死なうと、墓の上に生き続けるもの、王といへども、決してこれを穢すことは出来ません。今や、私は侮辱され、告発され、このやうに恥辱を人目にさらされ、讒誣、中傷の毒を塗つた槍先で魂の真只中を突き刺されたのでございます、この上は、その毒を吹き出すこの男の心臓の血をもつてするほか、心の痛手を癒やす道はありませぬ。
リチャード王 怒りは耐へる以外に法はない。その手袋をこちらに寄越せ、豹は獅子の前では大人しく振舞ふものだ。
モーブレー 確かに仰せの通りでございます、が、まさかその汚れた斑点まで無くすことは出来ますまい、まづは私の受けた屈辱をお拭ひ下さいますやう、さうすれば手袋は諦めませう。わが君も御存じのはず、人の生涯において最も純粋な宝は斑点の全く無い名声にございます――もしその名声を失へば、人間は所詮、金粉を塗り、彩色を施した粘土《ど ろ》人形にほかなりません。十重、二十重に秘められた箱の中の宝石、それこそ忠節な臣下の胸に宿る勇猛心でございませう、名誉こそわが命、両者は根を同じうしてをります、私から名誉を取上げれば、私の命は無くなります。何とぞわが名誉を試めさせて下さいますやう――そのうちにこそ私の生き甲斐があり、その為にこそ私は喜んで死にませう。
リチャード王 従弟のボリングブルック、手袋を捨てるがよい、まづお前から。
ボリングブルック おゝ、神よ、わが魂にそのやうな深い罪を犯させ給ふのか! 父の見てゐる前で意気銷沈、頭《かしら》の〓冠《とさか》をたれるなどと、誰がそんなことを? この腰抜けの卑怯者を前にして、蒼白い乞食のやうに色を失ひ、わが家名を辱しめねばならないのですか? 私が自分の舌に、敢へて己が名誉を傷つけるが如き弱気の言葉を吐かしめ、わざわざ休戦のための談判をさせるくらゐなら、いつそこの歯でそのやうな臆病風に吹かれた卑劣な舌の根を噛み切り、血の滴るまま、それを恥の隠れ家たるモーブレーの面《つら》に吐きかけ、千切れた私の舌に大恥をかかせてやりませう。
リチャード王 頼むのはこの身の任ではない、ただ命令するだけだ、それが果せず、二人を和睦させられぬ以上、来たる九月十七日、聖ランバートの祭日を期し、コヴェントリーに出頭せよ、万一、この約に背けば、一命は無いものと思へ。両人共、その地で、剣と槍とをもつて、積る宿年の憎しみを決するがよい。仲裁が不調に終つた以上、騎士道に照らし、勝敗を決せしめ、正義は勝利者の頭上に輝かう。式部卿、決闘の係りの者に命じ、この内紛を処理するやうに計らつてくれ。(一同退場)
〔第一幕 第二場〕
ランカスター公邸内の一室
ジョン・オヴ・ゴーントと亡きグロスター公の夫人とが出て来る。
ゴーント あゝ、実に歎かはしい、ウッドストックは私には血を分けた弟、あなたに泣きつかれるまでもなく、残虐にもあれの命を絶つた奴原に一矢報いたいと思つてゐる、だが、その罪を罰する権力は、その罪科を犯した者の手に握られてゐるのだ、私らにはどうにもそれを罰する手立てがない……この争ひは天の御《み》心に任せるがいい、天上の神はこの大地に機の熟するのを待つて、罪を犯したものの頭上に復讐の雨を降らせるに違ひない。
グロスター公夫人 兄弟ではあつても、あなたの胸に刺さる針は、精それだけのものでしかないとおつしやる? 兄上の年老いた血には、もう生きた火は燃えてはゐないと? エドワード王には七人の息子がありました、あなた御自身もその一人でいらつしやる、その七人は王の聖なる血を湛へた七つの器、一つ根から分れた七本の美しい枝、この中には自然に干上つてしまつたものもあり、また運命の手によつて切り裂かれたものもある、でも、トーマスは、私の夫、私の命、私のグロスターは、エドワード王の聖なる血をなみなみと湛へた一つの器、王のこの上ない貴い根から生じ花を咲かせた一本《ひともと》の枝、その器が砕かれ、大事な血はみんな何処かへ飛び散つてしまひ、敵意に満ちた手、人殺しの血に塗《まみ》れた斧で切り倒され、生気に溢れた夏の木《こ》の葉もすつかり色褪せてしまつた……(泣く)あゝ、ゴーント、あの人の血はあなたの血! あなたを生んだあの寝床、あの腹、あの種、あの同じ鋳型があの人にも命を与へたのに。あなたはさうして生きておいでになるけれど、あの人の中であなたも殺されたのだ。あなたはお父上の死に手をお貸しになつたも同然、さうして惨めな弟が死ぬのを黙つて見ておいでになるのは! あの人は誰よりもお父上にそつくりだつたのだもの……それをしも忍耐とお呼びになるとは、ゴーント、いいえ、それこそ絶望でなくて何でせう。このやうに弟が虐殺されるのを許していらつしやるのは、残酷な人殺しにあなたを殺す方法を教へ、御自分の命を片づけるのは何の訳もないといふことを明かしてゐるやうなもの、卑しい者の場合は忍耐と呼んで済むものも、身分の高い者にとつては、色蒼ざめた、冷めたい臆病と言ふほかはありません……何と言つたらいいのか、あなた御自身の命を守るためには、夫のグロスターの死の敵討ちをなさるのが最善の道でございませう。
ゴーント 神の代理人のなさつたことは非難しても仕方がない――神の身代り、神の前で聖油を塗られた神の代理人が弟のグロスターを死なせたのだ、もしそれが過ちであるなら、天の復讐を待つのみだ、私には神の代理人に向つて怒りの腕を振りあげることは出来ない。
グロスター公夫人 それなら何処へ、あゝ、この惨めな私は誰に訴へたらよいのでせう?
ゴーント 神に訴へるがよい、神は夫を失つた者にとつて唯一の身方であり、その保護者となつて下さる。
グロスター公夫人 それなら、さうしませう……御機嫌よう、ゴーント。あなたはコヴェントリーへいらつしやる、甥のハーフォードと、あの残忍なモーブレーとの命を賭けた勝負を御覧になりに。あゝ、夫の受けた無実の怨みがハーフォードの槍先に籠り、人殺しモーブレーの胸元に突き刺さるがいい! もし最初の試合で不運にもさうは行かなかつたら、モーブレーの罪の重さに堪へかねて、その泡吹く乗馬の脊骨が折れ、乗り手は馬場の真只中に放り出されて、卑怯未練にも甥のハーフォードの足もとに大声挙げて詫びを入れるがいい! では、御機嫌よう、ゴーント、嘗てはあなたの弟の妻だつた私、これからは悲しみを友として生涯を終へねばなりません。
ゴーント では、これで。私はコヴェントリーへ行かねばならぬ、行く私と同様、留るあなたも無事であることを祈る!
グロスター公夫人 もう一言――悲しみは手に持つ毬と同じこと、落ちてもまた跳返るでせうけれど、私のは中身が空《うつろ》なそれとは異なり、重くてどうにもなりはしない、いいえ、止めませう、言はないうちにお別れ致します、歎きは終つたやうに見えて、決して終りはしないものですから。どうぞ御兄弟のヨーク公に宜しく。さ、もう何も言ふことはない……待つて、まだいらつしやらないで、もう何も言ふことはないと言つても、何もさう急いでいらつしやらなくても……まだ言ふことがありさう……あの方に――あゝ、何だつたかしら?――大急ぎでプラッシーに来て下さい、私に会ひにと。あゝ、でも何があるかしら、あのやさしいヨーク公がいらしても、そこに何を御覧になるかしら、ただ空家同然、住む者の一人もゐない部屋、一枚の壁掛けも無い白《しらじら》した壁、傭人の一人もゐない詰所、人の訪ねた跡が何処にも見られない敷石のほかには? お出迎へするのは、ただ私の歎き声だけ、そのほかに何があらう? ですから、ただ宜しくとおつしやつて下さい、わざわざお出で下さるには及びません、何処もかしこも歎きが住みついてゐるのを御覧になるだけ。見捨てられ、見離され、唯一人で死んで行きます、この泣き濡れた眼を、最後のお別れの印に。(二人退場)
〔第一幕 第三場〕
コヴェントリーの試合場
横手に高台、そこには王のための豪華に飾られた玉座、及び王の廷臣の坐る座席が設《しつら》へられてあり、試合場の両端には、闘士二人の椅子が置いてある。試合を見ようとして、見物人が大勢集つてゐる。先触れ、その他。
式部卿とヨーク公の息オーマール公が登場。
式部卿 オーマール卿、ハリー・ハーフォードはもう武装を済まされたらうか?
オーマール 勿論、一分の隙もない、入場の合図を待ちかねてゐる。
式部卿 ノーフォーク公の方も意気軒昂、しかも自信満、呼び出しの喇叭の合図を待つてゐる。
オーマール おゝ、それなら、当人はいづれも用意が出来、後は王のお出ましを待つばかりだ。
トランペットの吹奏が聞え、王が職杖を手にし、貴族達(ゴーントもその中にゐる)を引連れ登場。一同が席に就くと同時に、ノーフォーク公が甲冑姿で現れる。
リチャード王 式部卿、そこに見える闘士に武装をしてここへ参つた理由を問ひ、それに何者かその名を問うた上、式に則り、その訴への正当なることを誓はしめるがよい。
式部卿 神の名と王の名において問ふ、まづ名は何といふ、また何故《なにゆゑ》そのやうに騎士の甲冑に身を固めて参つたのか、更に誰を相手に戦ひを挑まうとしてゐるのか、そもそも争ひの因《もと》は何なのか。騎士道の誓ひに照らし、はつきり申し述べるがよい、さすれば天もその身とその武勇とをお守り下さらう!
モーブレー わが名はノーフォークの領主、トーマス・モーブレー、騎士たるもののゆめ破るまじき誓ひに随ひ、この場に参上したるは、一にこの身を訴へしハーフォード公を相手取り、神とわが王と、更にはまたわが子孫とに対する己れの忠節と真実とを守らんがためにほかならぬ。それにより、神の恩寵とわが腕にかけ、この身を守り、かの男こそは、神と王とわが身とに対する謀反人たることを証しし得るといふもの――この正義の戦ひ、天よ、わが身を守り給へ!(自分の席に腰を降す)
トランペットが鳴り、原告ハーフォード公が武装して登場。
リチャード王 式部卿、そこに見える武装の騎士に向つて、その名を問ひ、何のためにそのやうな物しき身ごしらへをして、ここへ参つたのか、その訳を問ひただした上、形どほり、わが法に随ひ、その訴への正当なることを誓はしめるがよい。
式部卿 名は何といふ? また何故にこの王の試合場に来たり、リチャード王の御前に罷《まか》り出ようとするのか? 更に誰を相手に戦はうといふのか? そもそも争ひの因は何なのか? 真《まこと》の騎士らしくはつきり申し述べるがよい、さすれば天も御身をお守り下さらう!
ボリングブルック わが名はハーフォード、ランカスター、並びにダービーの領主のハリー、かくのごとき武装にて、ここに参上したるは、神の恩寵とわが武勇にかけ、ノーフォーク公トーマス・モーブレーを相手に一戦を交へ、この男こそは、天にまします神とリチャード王とわが身とに対する邪智、奸佞の謀反人たることを、証しせんがため、これこそ飽くまで正義の戦ひ、天よ、わが身を守りたまへ!
式部卿 この公平に処理せらるべき訴へを管理すべく命ぜられたのは、われら式部卿とそのために任ぜられた役人だけである、それ以外の者にして試合場に立入り、敢へて軽挙、狼藉を働く者は死罪に処せられるであらう。
ボリングブルック 式部卿、王の御前に膝まづき、その御手に口づけすることを許されたい、モーブレーと私とは飽き飽きする巡礼の長旅に出ようとしてゐるやうなものゆゑ格別のお許しを。更にわれらの友人にも仕来たり通り親しく別れの挨拶をさせて戴きたい。
式部卿 告訴人ハーフォードが王の御前に礼を尽して御挨拶を申上げたく、御手に口づけして、お暇乞ひを致したいと申してをります。
リチャード王 (立ち上り)この身の方から玉座を降り、この腕に抱かせてもらはう、従弟のハーフォード、お前の訴へが正しいとすれば、この試合においても、幸運がお前に頬笑みかけるであらう……(ゴーント、及び他の貴族と共に試合場の中に降り、ボリングブルックを抱擁する)さらばだ、わが血よ、もしけふの戦ひにおいて、たとへお前がその血をどれほど流さうと、この身はただそれを歎き悲しむだけで、復讐することは出来ぬのだ。
ボリングブルック おゝ、そのお目を涙でお穢しにならぬやう、たとへ私がモーブレーの槍先に刺し貫かれませうとも。御心配無用、隼が小鳥を相手に戦ふやうなもの、モーブレーとの決闘にはそれだけの自信を持つてをります……わが友よ(式部卿に)、これで失礼する、お前とも、従弟のオーマール卿――こちらが死ぬかも知れぬのだが、何も悩んでゐるわけではない、元気一杯、陽気で若さに溢れ、胸を膨《ふく》らませてゐる。さて、言つてみれば、イングランドの祝宴のやうなもの、一番旨いものを最後に出す、それと同じに甘いものを最後の御挨拶に取つておかうといふわけだ……(ゴーントに)おゝ、父上、私の血の源、あなたの若き日の根性が私のうちに甦つて来て、二倍の強さをもつて私を励し、この頭上に、輝く勝利の栄冠を勝ち取らせてくれるでせう……この上は、どうかあなたの祈りをもつて私の鎧に不死身の力をお与へ下さり、わが槍先はあなたの祝福によつて、いやが上にも鋭くなり、封蝋のごとき軟弱なモーブレーの鎧を苦もなく突き通せるやうにして下さいますやう、そしてゴーントのジョンの令名を、その息子の目ざましい振舞ひによつて、研ぎ磨かせて下さいますやう。
ゴーント 神がお前の訴へをお聴き届け下さるやう、一度《ひとたび》動かば稲妻のごとく、一度撃たば雷《いかづち》のごとく、怨み重なる敵の冑も砕けよとばかり打つて打つて打ちまくれ! その若い血潮を湧きたたせ、勇猛果敢に戦つて生きるがいい。
ボリングブルック わが身の潔白と聖ジョージの御加護とによつて必ず勝利を!(自分の席に坐る)
モーブレー (立ち上つて)たとへ神慮、運命がどうあらうと、また生きようと死なうと、リチャード王に忠誠にして、いささかの邪心も無き、この臣モーブレー、世のいかなる奴隷といへども、今の私ほど喜んで鉄の縛《いまし》めを解き放つてはもらへますまい、そして黄金にも比すべき無限の自由を、これほど勇んで選び取りも致しますまい、このとほり私は欣喜雀躍、恰も楽しき饗宴に臨むがごとく敵との決闘を待ち焦れてをります。王、並びにわが友なる貴族諸公、なにとぞ末長くお栄えのほどを。私にとつては遊びがてらの戦闘、春風駘蕩の気分で事に臨みます――正しき者の胸は常に清新の気に満ちてゐるものとお心得下さい。
リチャード王 さらばだ、モーブレー。お前の眼の奥には美徳と勇気とが手を携へて安住してゐるのが窺へる。さあ、式部卿、試合の命令を、直ぐ始めるがよい。(王と貴族とは席に戻り、ボリングブルックとモーブレーとは冑を被り、頬当てを下す)
式部卿 ハーフォード、ランカスター、ダービーの領主ハリー、この槍を受取るがよい、神が正しき者をお守り下さるやうに!
ボリングブルック 櫓のごとく堅固な希望をもつてお答へしませう、「何とぞそのやうに」と。
式部卿 (第二の先触役たる騎士に向ひ)この槍をノーフォーク公トーマスにお渡ししろ。(第二の先触役は槍を受取りノーフォーク公のところへ持つて行く。その間に第一の先触役たる騎士が前に出る)
第一の先触 ハーフォード、ランカスター、ダービーの領主ハリーは、ここに神、国王、みづからのために、ノーフォーク公トーマス・モーブレーに向ひ、神、国王、みづからに対する反逆者なることを証しせんがために控へをるものなれど、万一、その証しの立たざる時は、虚偽、卑劣の汚名を受くるも覚悟の上にて、敢へてモーブレーに決闘を申込むものなり。
第二の先触 こちらはノーフォークの領主、トーマス・モーブレー、ここにわが身を守らんがため、ハーフォード、ランカスター、ダービーのヘンリーに向ひ、神、国王、みづからに対する不忠の徒なることを証しせんがために控へをるものなれど、万一、その証しの立たざる時は、虚偽、卑劣の汚名を受くるも覚悟の上にて、勇気凜、みづから望んで、決闘開始の合図を待ちをるものなり。
式部卿 喇叭を吹き鳴らせ、闘士両名、前に進め……。
突撃の合図。両闘士、将に戦ひを交へようとする、その時、王が立ち上り、試合場に職杖を投げる。
式部卿 待て、王が職杖を投げられた。
リチャード王 二人に命じ、冑と槍を脚下《あしもと》に置き、共にそれぞれの席に戻るやうにと言へ。(周囲の側近達に)一緒に来てもらひたい、喇叭はそのまま鳴らし続けるがよい、その間に両人に命ずることをこれら諸公と決めて戻つて来よう……。
長い間、トランペットの吹奏、王と側近とは高台の後にある一室に退く。闘士二人は冑を脱ぎ、椅子に戻り、見物人たちは驚いて、低声に何か囁いてゐる。暫くして王は側近と共に戻つて来て、二人の闘士を召集する。
リチャード王 二人共、近くに寄れ、重臣達と話した結果を言つて聞かせよう……わが王国の土は、みづから培《つちか》つた貴い血をもつて穢されてはならない、身内同士の剣によつて鋤き耕された傷の恐るべき有様は、わが眼の到底見るに忍びざるところだ、思ふに、この度の所行は、大空めがけて舞上り己れの野望を遂げようとする鷲の羽ばたきにも似た傲慢な奢り昂り、それが互ひに憎み合ふ嫉妬と相まつて、二人の心を唆し、わが国の平和の夢を驚かさうといふのであらう、それも漸く揺り籠の中で優しい寝息をたてて眠りかけたばかりだといふのに。それを騒しい調子はづれな太鼓の音、耳ざはりな喇叭の響き、すさまじく打ち合ふ猛り狂つた刃物の噪音をもつて目醒めさせようとする、やがて、わが心優しき平和はこの静かな領域から逃げ去り、誰もが己が同胞の流した血の川を裸足で渡らなければならなくならう。それゆゑ、お前達両名をわが国から追放の刑に処する、従弟のハーフォード、お前は夏が十度《とたび》この国の原野に訪れ、それを豊かにするまでは、この美しい土地に一度たりとも足を踏み入れてはならぬ、これに違背すれば、命は無いものと思へ、追放の身を異国で過すのだぞ。
ボリングブルック 仰せの通りに致します、せめてもの慰めは、この地で王の上に温もりを与へる太陽が異国の私の上にも照り輝くことでございます、王の身を飾るその黄金の光がわが身にも降り注ぎ、追放の日に一際彩《いろど》りを添へてくれますやう。
リチャード王 ノーフォーク、お前には一層重い運命が待ち受けてゐるぞ、それを言ひたくはないが、敢へて宣告する。秘めやかなひつそりした時の流れに随ひ、いつ果てるともない厭ふべき流浪に期限は不要だ。「二度とこの地を踏むな」といふ絶望の言葉を申し渡す、違背すれば命はないものと思へ。
モーブレー それは余りにも重いお咎め、まさかにかほどのお言葉を王のお口から承らうとは思つてもみませんでした。外の広い世界に投げ出されるやうな、それほどの深い傷を身に負はねばならぬ覚えは全くなく、それよりは遥かにましな恩賞を戴けるものとばかり思つてをりました……この四十年の間に習ひ覚えたイングランドの言葉を、今になつて捨ててしまへと仰しやる、この舌は今はもう糸の切れたヴィオラやハープと同じ、あるいは箱の中に蔵ひこんであつた名器と同様――開けて手に取つたところで、どうして弾いたらいいのか、全く見当も附きません、私の口の中に無理やり私の舌をお閉ぢこめになり、歯と唇で二重に戸をお閉めになつてしまはれた、これでは鈍い、無感覚な無智、無教養が私の番をする牢守となつたやうなもの、乳母の後を甘えて蹤いてゆくには、私はもう年を取り過ぎました、今さら物を習ふ年でもありません、私の舌から母国の言葉を奪つておしまひになる御宣告は、言葉なくして死ねと仰せになるのも同じことではございませぬか?
リチャード王 情に訴へても無駄だぞ、一度、国王たる者が宣告を下した以上、何を言はうがもう手遅れだ。
モーブレー それならこの国の明るい光に背を向け、無限の夜の陰鬱な闇をおのが住ひと致しませう。(王の前を退く)
リチャード王 待て、もう一度ここへ、二人に誓つてもらひたいことがある。この国王の剣に、追放された手を置き、神に対する義務に懸けて誓ふのだぞ、勿論、この身に対する義務もあらうが、それは追放とともに解除してつかはす、よいか、これから申し渡すことは必ず守ると誓へ。正義と神にお前達の身方となつてもらひたいなら、追放の間は互ひに接触を求め、あるいは会談することは全く許されぬ、また書面を交し意を通じ合ふことはもちろん、かうして故国において生じた激しい憎しみの嵐を海外において勝手に収め、和解の手を差し伸べるやうなことも決してしてはならぬ、ましてや、この身、この王位に対し、あるいはこの同胞、この国土に対して、敢へてみづから陰謀を企まんとして相会するやうなことは断じて許さぬ。
ボリングブルック 必ず誓ひませう。
モーブレー 私も誓ひます、只今の仰せ、すべてを守りませう。
ボリングブルック ノーフォーク、敵に対して言へるだけのことは言つておかう……丁度、いまごろは、もし王のお許しがあつたなら、二人のうちどちらか一人の魂はこの脆い肉体の墓場を追はれ、空《くう》を彷徨《さまよ》うてゐたことだらうが、今はかうして、その肉体が共にこの国土を追はれる始末だ。どうせのことなら貴様がこの領土を離れる前に、謀反の大罪をすべて白状して行つたらどうだ――行き着く先は遠いのだ、罪に穢れた魂といふ厄介な重荷など、何も運んで行くことはないぞ。
モーブレー 何を言ふ、ボリングブルック、もし俺が謀反人なら、生命の書から俺の名を削り取り、この地同様、天からも追放してもらはう。だが、貴様がどんな男かは、神と貴様と、そしてこの俺がよく知つてゐる、恐らく、さほど先のことではあるまい、王御自身後悔なさる時がやつて来よう。では、お別れを。今はどの道を行かうが俺の勝手だ――イングランドに背を向けてゐる限り、全世界が何処でも俺の道になる。(退場)
リチャード王 叔父上、あなたの目はその心の悲しみを映す鏡だ、その寂しい顔付があれの追放年限を四年差引かせましたぞ。(ボリングブルックに)六年の凍てつく冬を過したら、早く祖国へ戻つて来るがよい、歓んで迎へるぞ。
ボリングブルック たつた一語に何と長い年月《ねんげつ》が懸つてゐることか! 遅たる四度《よたび》の冬と贅を尽した四度の春、それがただの一語で片がつく――王の言葉といふのは大よそかくのごときものさ。
ゴーント ありがたいことに存じます、私のためをお思ひ下さり、息子の追放を四年短くして下さいました、しかし、それによつて私の手に入れ得る利得は殆どございませぬ、あれが流浪のうちに過さねばならぬ六年がその月日を変へ、時を一巡りせぬうちに、この油の切れた灯火《ともしび》は年とともに光が衰へ、果てしない夜の闇へと消えて行きませう、もともと残り少い蝋燭の火、やがては燃え尽きてしまひ、直ぐにも死神が目を塞ぎにやつて来て、自分の息子の姿を全く見えなくしてくれませう。
リチャード王 何を言ふ、叔父上、その長寿、まだまだ先は長い。
ゴーント たとへ王とはいへ、時間は一分といへども下さるわけには行くまい、なるほど悲しみの涙をもつて、寿命を幾日か縮め、幾夜か摘み取ることは出来ても、一日の朝を恵んで下さることは出来はせぬ。時に手を貸して、年とともに私の顔に皺を造ることはお出来にならうが、その、時の巡礼の足を止め、皺を伸ばしてやることは出来はしない、勝手に死なせろとおつしやれば、時は幾らでも聞き入れてくれようが、その死んだ私を買ひ戻さうとして、その代りこの王国をやらうとおつしやつても、この止つた息の根はもはやどうにもなりはせぬ。
リチャード王 ハリーを追放の刑に処したのは、十分協議した上でのこと、あなたも賛意を表したはずだ、なぜ今になつてその裁決に不服を唱へられるのか?
ゴーント なまじ味はいいと思つても、一度《ひとたび》食べて消化してみると、結構、苦いこともある……王は私に裁き手になれとお命じになつた、が、私は寧ろ父親として意見を述べろとおつしやつていただきたかつた、あゝ、あれが自分の血を引く倅でなく、全くの他人であつたなら、私はあれの罪を和げるため、もつと穏かに扱へたものを。ただただ身贔屓《びいき》の非難を避けようと務め、自分の生涯を破滅に導く宣告を下してしまつた、言つても甲斐ないこと、あなた方のうちの誰かが、わが子を追放に処するのは余りに厳格過ぎる、さう言つてくれるのを当てにしてをつた、だが、皆この自分の望みもせぬ舌の言ふことをそのまま認め、その結果、自分の意志に反してわれとわが身を損ふことになつてしまつた。
リチャード王 従弟、ボリングブルック、では、これで――叔父上、暇乞ひの用意を、六年の追放だ、立去るがよい。(トランペットの吹奏。リチャード王、供の者を引連れて退場)
オーマール (立ち去り際に)ボリングブルック、では、これで。これからは会つて様子を聞くわけには行かない、何処からでもいい、住んでゐるところから手紙で知らせてくれ。
式部卿 ハーフォード卿、私はお別れの挨拶は致しません、陸続きである限り、騎馬でお供させて戴きませう。
ゴーント おゝ、何のために言葉を惜しむのだ、どういふ気持ちで友人たちに挨拶を返さぬ?
ボリングブルック 父上に別れの御挨拶をと思へば、言葉が幾らあつても足りません、心中に溜つてゐる憂愁の思ひを吐き出すだけで、結構、舌の役割は忙し過ぎるのですから。
ゴーント 何を言ふ、お前は高が一時の留守を悲しんでゐるに過ぎない。
ボリングブルック 喜びが留守になれば、その間、悲しみが居坐るだけです。
ゴーント 六度の冬が何だ? 直ぐに過ぎてしまふだけではないか――
ボリングブルック 喜んでゐる人間には、まあ、さう言へませう、が、悲しんでゐる者には、たつたの一時間が十時間になる。
ゴーント 遊山のための旅と思へばよい。
ボリングブルック さう呼び違へたら、私の心はさぞ悲しみの溜息をつくことでせう、本当は強ひられた巡礼でしかありません。
ゴーント 疲れた足どりの佗しい旅は、後《のち》の帰国の喜びといふ貴重な宝石の色や艶を引き立たせるための下敷きだと思へばよい。
ボリングブルック いや、それどころか、一足一足の退屈な歩みが、自分の愛する宝石から、どれほど遠く流離《さすら》つて来たことかとつくづく思ひ出させるにちがひありません……大陸遍歴に長い年期を入れて、やつとのことで手に入れた自由が、一体、何の自慢の種になりませう、それでは悲しみに仕へる旅の傭はれ職人に過ぎません、さうではないと誰が言へませう?
ゴーント 天翔《が》ける日の訪れるあらゆる土地が、賢者にとつてはよい港であり、安息の地と言へよう。一言、教へておかう、窮境に陥つたら、まづかう考へたらいい――窮境ほど値打ちのあるものは何処にもないとな。王がお前を追放したとは思ふな、お前が王を追放したのだ……悲運は、それに耐へる力が弱い男と見ると、その者の上にますます重くのしかかる。どこへ行かうと、かう言へ、私がお前に名誉を得させるために旅に出したので、王に追放されたのではないとな。それともかう思つてもいい、今、この国には人を食ひ荒す疫病が拡つてゐるので、自分はもつと気候のいい所へ身を避けに行くのだと。よいか、お前が大切に思ふものは、これから先、自分がどの道を行くかにあるので、既に歩いて来たところにあるのではないぞ、囀る鳥を音楽家と思ひ、お前の踏みしだく草を宮中の謁見の間の絨緞と見なし、野の花は美しい女性と眺め、お前の足取りも楽しい踊りと見入れば何も文句はあるまい、いかつい唸り声をたてる泣きの涙も、それを嘲笑つて相手にしない者には噛みつきはしないものだ。
ボリングブルック あゝ、霜凍る冬のコーカサスの山を思ひ浮べたからといつて、この手に火を掴むことが誰に出来ませう? ただ晴れがましい宴《うたげ》を思ひ描いたところで、飢ゑに飢ゑた食欲がそれでうんざりするなどといふことがあり得ませうか? 夏の暑さを思ひ描いただけで、厳冬の雪の中を素裸で転げ廻れる者が果してをりませうか? いいや、決して。良き日のことを夢想すれば、悪しき日がなほさら辛く感ぜられるだけのことです。謂はば、猛烈な歯の痛みと同じやうなもの、ただ普通に物を噛んでゐる時の方が遥かに疼《うづ》く、いつそ、切開手術をしてもらつた方がずつとましといふものです。
ゴーント まあ、いい、途中まで一緒に行かう、私だつてお前くらゐ若く、同じ動機があつたら、この土地にぐづぐづしてはゐまい。
ボリングブルック これでイングランドともお別れだ、香ぐはしい大地よ、これが最後だ、私はまだかうしてお前の上に01650883.gif《おぶ》さつてゐる、おゝ、私の母、私の乳母! どの地を流離《さすら》はうと、これだけは自慢できる、たとへ追放されたにせよ、私は生粋のイングランド人だ。(一同退場)
〔第一幕 第四場〕
宮廷
一方の戸口から王がバゴットとグリーンを伴つて登場、反対側の戸口からオーマール卿、その他登場。
リチャード王 まあ、そんなことと思つてゐた……おゝ、従弟のオーマール、どこまでついて行つたのだ、あの度外れに尊大なハーフォードに?
オーマール 道外れに尊大なハーフォード、どうやらさうおつしやりたいやうですが、それなら確かについ近くの街道筋の道外れまでお伴を致し、そこで別れて参りました。
リチャード王 どうだな、お互ひにたつぷり別れの涙を流したことであらうな?
オーマール 正直の話、私の方は全く。ただ北東の風がその時まともに私の顔に吹きつけ、丁度、眠りかけてゐた目を刺激して、旨い具合に空涙を誘ひ出し、それでどうやら別れを惜しむことが出来ました。
リチャード王 で、別れた時、わが従弟は何と言つてゐたな?
オーマール 「では、いつまでも元気で」と――しかし、このオーマールは日頃からさういふ実意のない言葉を口にするのを快しとしませんので、咄嗟に旨いことを思ひつきました、つまり、余りの悲痛に心を打たれ、言葉が悲しみの墓の中に閉ぢ籠められてしまつたやうな振りをして切り抜けたのでございます。全くの話、「いつまでも元気で」といふだけで、あの男の短か過ぎる追放の年月を少しでも長引かせられるものなら、書籍一冊分を「いつまでも元気で」といふ言葉で埋め尽してもやりませう、しかし、それだけの効き目はありさうもないので、それも一切やめることに致しました。
リチャード王 あの男もこの身の従弟だ、お前と同じやうにな、が、時が来て、追放が許され、この国に戻つて来た時、わが身内なるあの男、果してその仲間に会へるかどうか、頗る疑はしいものだ……この身もブッシーも見逃さなかつたし、そこにゐるバゴットもグリーンもよく見てゐる、あれが民衆を前にして相手の機嫌を取るやうなことを言ひ、如何にもわが身を相手の胸の底に埋め尽して、腰をかがめんばかりの親しげな挨拶を送り、あまつさへ奴隷にまで盛んに敬意を捧げ、貧しい職人相手にも先づは笑ひが必要とばかりに相好を崩す如才の無さ、国を追はれるといふ耐へ難い運命をも甘受して動じぬ不屈の態度、それも民衆の人気を追放先まで背負つて行かうといふのであらう。蠣売りの小女にまで帽子を脱ぎ、二人連れの荷車引きにお大事にと挨拶されれば、忽ちしなやかな膝を曲げ、「ありがたう、わが同胞《はらから》、愛する友よ」と来る――わがイングランドは待つてゐさへすれば、自分のものになると言はんばかり、まるで国民誰もが自分を王位継承者と見なしてゐるとでもいつた大風《おほふう》な態度だ。
グリーン さうでもございませうが、国を出て行つてしまつた以上、只今の御心配ももはや去つてしまつたも同然。それより、今アイルランドにて反旗を飜してゐる逆徒どもでございますが、機敏な御処置が肝要、もはや猶予はなりませぬ、このままでは敵方にはますます有利に、そして王のお身方にはますます不利になるばかりでございます。
リチャード王 この戦《いくさ》には自ら陣頭に立つつもりだ、それにしてもこのところ家臣が殖《ふ》え宮廷が大きくなり過ぎたこともあり、片やそれぞれの恩賞も余りに寛大に与へ過ぎたため、手許金が少不足気味なのだ、それ故この度の征討費を調達するためには、わが王家の領土を最高の入札者に貸し与へ、その税の収入を抵当として金を借りるしか手は無い――それでもなほ不足する場合は、留守居の国王代理の者達に、金額、署名、共に無記名の特許状を預け置き、あらかじめ誰が金を持つてゐるかを調べておいた上、後はその書状に署名さへさせれば、幾らでも多額の金が調達出来よう、出征後でもよい、それを直ちに送り届けさせることにしよう、この身は直ぐにもアイルランドに向つて兵を進めることにする……。
ブッシー登場。
リチャード王 ブッシー、どうかしたのか?
ブッシー ジョン・オヴ・ゴーントの老公が御重態にございます、突然の御発病で、急ぎ使者を送つて参り、直ぐにも王のお出でをと、たつてのお願ひにございます。
リチャード王 どこにゐるのだ?
ブッシー イーリーのお館に。
リチャード王 神よ、何とぞ医師をして速かにあの男を己が墓場に送り込むやう、その手助けを思ひつかせ給へ! あの老人の宝石匣の中身でアイルランド征討の兵士たちを美しく飾つてやれるといふものだ……さあ、皆の者、一緒に見舞ひに出掛けよう、この上は、ただ神に祈るばかりだ、一刻も早く老人の館へ、そしてそれが既に手遅れであるやうに!
一同 何とぞ、そのやうに。(一同退場)
〔第二幕 第一場〕
イーリー館
病めるジョン・オヴ・ゴーントが椅子に乗せられ、弟のヨーク公と共に登場。
ゴーント 王はお出でになるだらうか、かうしてまだ息のあるうちに、あの若気の気紛れ屋に少しは為になるやうな意見をしておかねば、死んでも死に切れぬのだが?
ヨーク 幾ら気を揉んでも始まらぬ、物を言へば、ただ息が切れるだけだ、どんな意見を言つたところで王の耳には何もはいりはしない。
ゴーント 確かにさうかも知れぬ、だが、よく言ふではないか、今はの際に口にする言葉は、深く人の胸に食ひ入る音楽と同じこと、それに応じて、じつと耳を藉さずにはをられぬものだ。やうやうの思ひで人に伝へた言葉が無駄に終つた例《ためし》はめつたにない、苦しみ悶えながら外に出す言葉には、必ずそれだけの真実が籠つてゐるからだ。口がきけるのもこれが最後、さう思つてゐる者の言葉は、呑気な若者の調子の好いお喋りよりは、遥かに身を入れて聴いてもらへよう、人の命の終り際は、それまでの全生涯にも優つて万人の注目を浴びるものだ、沈み行く夕日も、終り際の楽の音も、舌に心地よい食べ物と同じこと、これが最後と思へばこそ、いつそう心地よく、その旨さだけがしみじみ心に残る。確かにリチャードは俺の生きてゐる間の忠告に耳を傾けようとはしなかつたが、死を前にしての真剣な話には、まさか耳を塞ぐわけにも行くまい。
ヨーク いや、駄目だ、王の耳は他の様な追従の雑音で聾も同然、賢い者でさへ、その味はひを好むといふ褒め言葉や、若者がいつも好んで聴き惚れる毒気を含んだ淫らな歌の調べに、結構、気をよくしておいでだ。華やかなイタリーで新流行だと言はれれば、その噂を好んでお聞きになる、民衆も民衆だ、たとへ流行遅れになつてもいいから、それを猿真似し、いつも跛ひきひき後を追ひかけて、下手な模倣に齷齪《あくせく》してゐるといふ態体《ていたらく》。この世のどこかで軽薄な流行が花を開いたと聞けば――何、それがどんなに卑しいものであらうと、新しくさへあれば一向構ひはしない――その話がどうして王の耳に吹聴されずに済むものか? それで万事休すだ、どんな忠告も間に合ひつこなし、何も聞いてはもらへない、王の心中には思慮分別に逆つてまで、したいことをやつてのけようといふ気持がいつも騒いで止まぬからだ。どの道を行かうと自分の思ふがまま、その王に向つてどう申上げても所詮は無駄、息もままならぬのに、その息を失ふことは、もうしないがいい。
ゴーント どうやら新しい息を吹き込まれた預言者のやうな気がする――だから、かうして自分が息を引取る前に、王のことを預言しておく――あの短気で性急な放埒の火花は決して永続きするものではない、激しく燃え上がる焔は直ぐに燃え尽きるものだ。時たまやつて来る小雨は降りみ降らずみ、なかなか切りがないものだが、急に襲ひかかる嵐は忽ちに止む。馬もさうだ、急に拍車をくれて早く走らせると、乗り手の方も早く疲れてしまふ。食ひ物にしても、余りがつがつ食らへば、胸が閊《つか》へて苦しくなる。軽薄な虚栄は飽くことを知らぬ鵜も同じこと、餌《ゑ》といふ餌を食ひ尽し、やがては自分自身を餌《ゑさ》と化すのだ。この歴代の王の坐る玉座、この王笏の支配する島、この尊厳なる王者のいます陸地、この軍神マルスの牙城、この天国にも類ふべき第二のエデン、自然の女神が疫病と戦ひの魔の手から自分を守らうとして築いた、この要塞、この幸福な同胞《はらから》、この小宇宙、恵まれぬ国の妬みに備へては、わが身を守る城の壁ともなり、己が館を囲む堀ともなるあの白銀《しろがね》の海を下敷の箔として飾られたこの貴重なる宝石……この恵まれた土塊《つちくれ》、この大地、この領土、このイングランド、このわが国歴代の王を次に生んで来た大いなる母胎、その育ての親、気高き血筋の故に恐れられ、優れた血統の故に名も高く、外に出でては、あのマリアの御子の身代金目当てに酷きユダヤの地に奪はれたイエスの墓を取り戻さんがため、クリスト教徒としての勤め、真の騎士道に基いて赫たる武勲を挙げた尊い魂を生んで来たこの国、この弥《いや》が上にも尊い国、世界広しといへども、これほど音に聞えた尊い国はどこにもない、それが今、貸しに出されてゐるのだ――これだけは死んでも言つておかねばならぬ――まるで詰らぬ貸家かくだらぬ農地ででもあるかのやうに……栄光に輝く海に囲まれたイングランド、それを取巻く岩壁は海神ネプチューンの猛しい暗流を飛沫《しぶき》をあげて打返してゐたのだが、そのイングランドが今は恥に取り付かれ、腐り果てた羊皮紙にインキの染みの点と撥ね返つた借用証文で縛られて身動き一つ出来ない有様。あゝ、あのイングランドが、他国を征服するのに慣れたイングランドが恥づかしくも自分自身を征服してしまつたのだ。あゝ、この恥がわが命とともに消えてくれたら、どれほどこの死も幸せなものになることだらう!
王、王妃、オーマール、ブッシー、グリーン、バゴット、ロス、ウィロビー、揃つて登場。
ヨーク 王がお出でだ、若い者を相手にする時には、穏かにな、血気に溢れる若駒は、怒らせるとなほのこと暴れるものだ。
王妃 御機嫌は如何でいらつしやいます、ランカスターの叔父上様?
リチャード王 機嫌は如何かな? どうなされたゴーントの老公?
ゴーント おゝ、正にその名の通り、年をとつて骨ばかりに痩せ衰へてしまつた! 胸のうちには悲しみがしつかり住みついてしまひ、おかげで精進潔斎、碌食ひ物も口に出来ぬ有様、それでどうして骨ばかりにならずにをられませう? それもこのイングランドがいつしか眠りに就いてしまつたため、私は長い間、その寝ずの番、寝ずにゐれば、肉が落ち、肉が落ちれば骨ばかりになる。並みの父親を満足させる楽しみが私には強《きつ》い御禁制、お分りにならぬのか、子供の顔を見てはならぬといふ、この御禁制だけでも、私の体はただただ痩せ細る一方、それも墓に合はせて痩せ放題、今ではやつと墓穴ぐらゐの大きさに痩せ細つてしまひ、その中の空洞には骨以外にもう何も納つてはゐない。
リチャード王 病んでゐるといふのに、ゴーントの名に引懸けて、よくそれだけ巧い洒落が言へたものだな?
ゴーント さやう、わが身を哀れと思へばこそ、わざと戯言《ざれごと》の一つも言つて気晴しがしてみたくなる――王の方で、持つて生れた私の名を私一代で亡きものになさるので、自分でわが名を嘲けつて、ただ偉大なる王に諂つてみただけのことだ。
リチャード王 死に臨んだ人間が生きてゐる者に諂ふとは、一体、どういふ意味だ?
ゴーント いや、いや、生きてゐる人間が、死んで行く人間に諂つてみただけのこと。
リチャード王 今、死んで行くあなたが、この身に諂ふと言つたではないか。
ゴーント とんでもない、死ぬのは正に王御自身だ、私の方がただ重態といふだけのこと。
リチャード王 私なら達者も達者、かうして生きのびて、病んでゐるあなたの姿をこの目でよく眺めてゐる。
ゴーント 何をおつしやる、神はよく御存じだ、病んでゐる王の姿がこの目にはつきり映つてゐる、目の方もだいぶ病んではゐるが、王御自身の病ひだけは明らかに見て取れる。王の寝こんでゐる死の床はこの国ほどの大きなものだが、その隅から聞えて来るのは王を恨む悪口ばかり、それも真《まこと》に当然、王御自身、余りに不注意な患者だ、それ、その神の聖油を塗られた尊い体を、自分に傷を負はせた医者共の勝手な看護に任せてをられるではないか。その王冠の中には数知れぬ阿諛追従の輩が巣くつてゐる、しかもその冠は精王の頭ほどの大きさでしかない、そんな狭苦しい処に閉ぢ籠つてゐながら、奴等の浪費癖は果てしなく、つひにはこの国の領土をあらかた食ひつぶしてしまふだらう。あゝ、あなたの祖父のエドワード三世に、見事、預言者の目が備はつてゐて、自分の息子の息子、つまりあなたが、その叔父の私たちを打ち滅してしまふに相違ないと見抜いてゐたら、所詮は恥にしかならなかつたその王位をその手の届かぬところに置き、あなたなどが王位を嗣ぐ前に廃嫡してしまつたに相違ない、それが今は悪魔に魅入られ、われとわが身を滅し、自分自身を廃嫡せねばならぬことになつてしまつたのだ、王よ、私の甥と思へばこそ言ふのだが、たとへあなたがこの世界全体の支配を任されてゐようと、金のためにこの国を貸しに出すのは大きな恥としか言ひやうがないであらう、ところが、今はこの国以外に自分の領土はどこにもありはしない、それに辱しめを加へるとは、正に恥の上塗りではないか? 今のあなたはイングランドの地主に過ぎぬ、国王などと言へた義理がどこにある、国法に随へば、もうあなたはその法の指図を受ける一介の奴隷に過ぎぬのだ、それどころか、あなたこそ――
リチャード王 狂気、愚鈍の大戯《たはけ》、死に際の熱に浮かされたのをいいことにして、冷酷な諫言を敢へてなし、この身の頬を怒りの余り強ひて青褪《ざ》めさせようとの魂胆であらう……それならそれで、こちらも王たる者の権威に懸け、お前がエドワード王の子、黒太子の弟でさへなければ、図に乗つて良く喋りまくるその舌の根もろとも素頭《すかうべ》を、無礼きはまる肩の台から切り落してやらうものを。
ゴーント おゝ、何の遠慮が要るものか、なるほどお前は私の兄、黒太子エドワードの息子、私はその父エドワード王の息子であるにはちがひない。だが、そのお前はどうだ、エドワード王の血を、親の血で育つと言はれるペリカンさながら、その嘴で聖なる樽に穴をこじあけ、酔ひ潰れるほどに飲み干してしまつたではないか。おゝ、わが弟のグロスター、あの人のいい、正直者のグロスターこそ――おゝ、天上にあつて、その魂が幸ある人の魂に囲まれてこの上なき仕合はせな日を送つてをりますやうに――あれこそいい証拠だ、いい先例だ……お前はエドワード王の血を流すことなど何とも思つてゐはしない! さあ、もつと流すがいい、どうせ病み惚《ほう》けたこの体だ、お前の残酷な曲り鎌の一振りをくれるがいい、もともと枯れ萎んでゐた花も同然のこの体、忽ち息を引き取ることだらう。お前はその身の恥と共に生きるがいい、が、恥はお前とともに死なせはせぬぞ! この俺の言葉が後までその身を嘖むであらう! 俺を寝床へ連れて行つてくれ、更にその先、墓場にまでも――愛され、敬はれる者が生きたいと思へばいいのだ。(従者に伴はれ、連れ出される)
リチャード王 そして年寄りの気むづかし屋が死んで行けばいいのだ、お前はその両方を持つてゐる、おまけに両方とも墓場によく映る。
ヨーク 何とぞお許しを、今、兄の口にしましたことは、病人や年寄に附きものの片意地のせゐとお聞き流し下さいますやう。兄の王に対する気持は、誓つて申上げますが、深い愛情あるのみ、もしここにハーフォード公がをりますなら、そのハリーも同様でございませう。
リチャード王 正にあなたの言ふ通り――この身に対するハーフォードの気持は、あれと全く変りはしない、同様、あの二人に対するこの身の気持は、二人のそれと全く変りはしない、何も彼《か》もそのままでいいのだ。
ノーサンバランド伯登場。
ノーサンバランド リチャード王、ゴーントの老公にお会ひして参りました。
リチャード王 何か言つてゐたか?
ノーサンバランド いいえ、何も。すべて語り尽されたのでございませう、あの方の舌は今は弦の切れた楽器同然、言葉も命も、その他、何も彼も使ひ果しておしまひになりました。
ヨーク 次はこのヨークだ、破産の憂き目に遭ふのは! 死んでしまふのは惨めだが、それでやつとこの世の苦悩にけりが附く。
リチャード王 熟した果物は最初に落ちる、ゴーントがそれだ、あの年寄り、自分の持ち時間をすつかり使ひ果してしまつたが、この身はなほも巡礼を続けねばならぬ、そのことはもうこれで終りだ……ところで、今度はアイルランド征討の話だ――頭に櫛を入れたこともない、荒しい敵兵どもをあの島から追払つてしまはねばならぬ、聖パトリックのお蔭で毒虫が一匹もゐなくなつた跡に、奴等だけがまるで毒虫の様に勝手気儘に生き延びてゐるのだ。が、この大仕事には当然大金を必要とする、その補助として……よいか、叔父ゴーントが所有してゐた金銀の財宝、貨幣、そのほか歳入や動産も没収する。(部屋中を歩き廻り、金になりさうなものを見て歩く)
ヨーク いつまで我慢せねばならぬのか? あゝ、いつまでも穏かに己れを殺して忠勤に励まうとも、詰りはかうして不法な目に遭はねばならぬのか? グロスターの死も、ハーフォードの追放も、ゴーントに対する辱しめも、イングランドの国民一人の受けた不当な扱ひも、ボリングブルックが追放中に受けたフランス王家との結婚の邪魔立ても、そしてこの己れに加へられた屈辱も、ただじつと耐へ忍び、顔色を少しも変へず、王の前では眉根に皺一つ寄せることさへせずに来た。私はエドワード王の残した息子のうち一番最後の生残りだ、そしてリチャードの父親は長男のウェイルズ公、黒太子エドワードだつた。戦時においては荒れ狂ふ獅子も適はぬほどの勇猛果敢な王子であつたが、戦《いくさ》が終つて平和に戻れば、仔羊も及ばぬほど温和な人柄、若くて気高い男の中の男ともいふべき人物だつた。リチャードの顔立ちは兄に生き写し、兄がその盛んな年頃には今のリチャードにそつくりそのまま。だが、兄が険しい顔を見せるのはフランス兵を相手にした時だけ、身方に対してはそんな顔を絶対に見せはしなかつた。兄の使つた財貨は、ことごとく戦ひの場でわれとわが手で勝ち得たものであつて、父親の手が戦《いくさ》で勝ち得たものではない。その手は近親の血で穢れてはゐない、穢れてゐるとすれば、その近親の敵の血に塗《まみ》れてゐるだけだ。おゝ、リチャード……ヨークは悲歎のあまり、つい心が乱れてしまつた、さもなければ、どうしてこのやうに兄と較べて……。(声高くすすり泣く)
リチャード王 (ヨークの方を見て)おゝ、叔父上、どうかしたのか?
ヨーク 何とぞお許しを――いえ、お許しが無ければ無いで結構、それでも申上げねばなりませぬ。王は追放なさつたハーフォードの王族としての権利も財産も、悉く取上げて没収なさるおつもりか? ゴーントはもう死んでしまひましたが、ハーフォードはまだ生きてゐるではありませぬか? ゴーントは正義の人だつた、ハリーも忠節な男とは言へませぬか? ゴーントは跡継ぎを持つ資格がないとでも仰しやるのか? その息子は跡を継ぐに値しないと仰しやるのか? ハーフォードの権利を取上げて御覧になるがいい、そして「時」からその権力と仕来りを取上げて御覧になるがいい。今日に続いて明日といふ日が来なくなりませう。さうすれば、王も、もう自分自身ではなくなる……なぜなら正当な継承と相続とがなくなり、それをどうして王とお呼びできませう? あゝ、神よ――私の口にしてゐることが断じて起りませぬやうに!――もし王が不法にもハーフォードの権益を没収し、あれが財産相続の訴へを起すための特許状をも無効にして、相続の際に立てる忠節の誓ひを拒否するやうな目に遭はせようものなら、王はその頭上に無数の危険を招くことになり、無数の民心を失ふことになりませう、さすがに忍耐強いこの私でさへ、いつまでも名誉の忠誠のとばかり言つてはをられなくなります。
リチャード王 好きなやうに考へたらよい、この身は、あの男の金《かね》、土地、財宝ことごとくをわが掌中に没収する。
ヨーク それなら、ここにゐたうはございませぬ――これにて失礼を――どういふことになるか、先は誰にも分らない。が、悪辣な手立てを講じて、その結果が良くならうはずはない。(退場)
リチャード王 さあ、ブッシー、直ぐにもウィルトシャー伯のところへ行け、急いでイーリー館《やかた》に来いと伝へるのだ、この件を片附けるやうにとな。明日《あ す》、この身はアイルランドに向ふ、愈《いよいよ》、時が来たのだ。留守の間は、叔父のヨークにイングランド総督になつてもらはう、あの男は正義の士だ、そしていつもこの身を愛してくれる……さあ、妃、明日は別れねばならぬ、笑顔《ゑがほ》を見せてくれ、一緒に過せるのも今宵《こよひ》だけだ。(王妃を連れて退場、ブッシー、オーマール、グリーン、バゴットも一緒に退場)
ノーサンバランド あゝ、つひにランカスター公もお亡りになつてしまつた。
ロス 同時に、また生きてもおいでだ、今は老公の御子息がランカスター公ではないか。
ウィロビー それもただ名前だけだ、収入は何もない。
ノーサンバランド 両方とも有り余るほど持つておいでだつた、もし道義が地に落ちさへしなければ。
ロス 俺は言ひたいことで胸が一杯だ、だが、このまま黙つてゐて胸が張りさけようと、それを口に出すわけには行かぬのだ。
ノーサンバランド 構ふものか、心のたけを言ふがいい、その言葉をあちこち持ち歩いて、友を窮地に陥れるやうな奴は、こつちで先に口をきけなくしてやるだけだ。
ウィロビー ロスが口に出したいといふのはハーフォード公のことだらう? それならさうとはつきり言つたらいい。公のためになる話なら、この耳は一刻も早く聞きたいのだ。
ロス あの人のためになるやうなことは何も出来ぬ、ただ同情するだけで良いといふなら話は別だが。世襲財産は悉く奪はれ、〓《も》ぎ取られてしまつたのだからな。
ノーサンバランド なんといふ屈辱だ、あのやうな王の一族と言つてもいいやうな方を始めとし、更に多くの高貴な人が、傾きかけたこの国でこれほど不当な目に遭はされてゐるとは。王は自分を失ひ、おべつか使ひの奴等にいいやうに引き廻されてゐる、もしその輩《やから》がちよつとしたことで、俺達の誰かに敵意を抱いて告げ口でもしようものなら、王は厳しくそれを追及し、俺達はもとより、その跡継ぎや子供達の命まで亡き者にしようとするのだ。
ロス 平民達は堪へがたい重税で身の皮を剥がれ、今や全く誰の心も王から離れてゐる。一方、貴族は貴族で古い昔の紛争を種に罰金を取られ、その心はすつかり王から離れてしまつた。
ウィロビー それに毎日のやうに新たに金銭の取立て方を考へるのだ、やれ金額未記入の御用金だの、やれ国王強制の貢納金だの、その他何でもござれの納入金を思ひつく、しかも、その金が何に使はれるやら、誰も知りはしない。
ノーサンバランド 戦争のためではない、それだけは確かだ、王は戦争などしたことがない、それどころか、代の立派な国王たちが堂と戦つて勝ち取つたものを卑劣にも妥協をしてまで敵国に譲り渡してゐる。戦ひに注ぎこんだといふより、平和の時に無駄遣ひをしてゐるのだ。
ロス さう言へば、ウィルトシャー伯は王の領土を金で借りてゐる。
ウィロビー 王はもう破産してゐる、親の財産を食ひ潰した人間とどこが違ふ。
ノーサンバランド 不名誉と破滅が王の頭上に落ちかかつてゐるのだ。
ロス あれほどの重税を取立てたにもかかはらず、アイルランド征討のための金などありはしない、それで追放したハーフォード公の財産を召し上げようといふのだ。
ノーサンバランド 頼りになる立派な近親だといふのに――これほど堕落しきつた王は見たことがない! それでゐて誰も彼もこの恐しいあらしの歌を耳にしながら、それが襲ひかかるのを避ける場所を見つけようともしない。風が帆に激しく吹きつけるのを見ながら、それを下さうともせず、安閑と自ら滅ぶのを待つてゐる。
ロス このままでは難破の憂き目に遭ふに決つてゐる、どう足掻いたところで危険は避けられさうにない、今まで難破するのを手を拱いて待つてゐた以上、仕方はあるまい。
ノーサンバランド いや、さうとも言へない、死に果てた空《うつろ》な髑髏《しやれかうべ》の目の中から、生がこちらを覗いてゐるのが見える、もちろんこの吉報がどこまで信じられるものか、俄《にはか》に口には出せないが。
ウィロビー そんなことを言ふな、何を考へてゐるのか教へてくれ、俺たちの考へはもう分つてゐるはずだ。
ロス 安心して話してくれ、ノーサンバランド、この三人は同じ考へだ、話したところで、自分一人で思つてゐるのと同じこと、思切つて言つてくれ。
ノーサンバランド では、話さう――ブリトンの港ポール・ル・ブランから這入つて来た情報だが、ハーフォード公ハリーを頭に頂き、コバム卿レーンルドや、過日エクセター公より絶縁されたアランデル伯リチャードの子息、また、その弟に当る先のキャンタベリー大司教、騎士のトーマス・アーピナム、ジョン・ラムストン、ジョン・ノーベリ、ロバート・ウォータトン、フランシス・クォイントの面が相語らひ、これらすべてが、先に言つたブリトン公の援助のもとに、三千の兵士ともども、八艘の巨船に乗りこみ、大至急、こちらに向つてゐるはず、間もなくこのイングランドの北岸に到着するだらう、いや、もう既に上陸してゐるかもしれぬ、言ふまでもない、王がアイルランド征討に出掛けるのを待つてゐるのだ……そこだ、もし俺達が奴隷の軛を自ら断ち切り、この国のうなだれた首《かうべ》を支へ、折れた翼を直し、詐欺師どもの質屋から、疵の跡も生しい王冠を受け出して、王の笏の金色を覆ひ隠してゐた埃を拭ひ去り、この国にふさはしい威厳を取り戻さうと思ふなら、直ちにラヴンスパーグへ一緒に来るがいい。もつとも事を恐れて、それは出来かねると言ふなら、ここに留り、その代りすべてを秘密にしてもらひたい、自分は直ぐ出掛ける。
ロス 直ぐにも馬だ! それが恐しいといふ奴こそ疑はしいぞ。
ウィロビー 馬が持ちこたへさへすれば、私が一番先に着いて見せる。(一同急いで退場)
〔第二幕 第二場〕
ウィンザー城
王妃、ブッシー、バゴットと共に登場。
ブッシー お妃様、その憂ひに沈んだ御様子、いささか度が過ぎるやうに思はれます。王とお別れの際、既にお約束なさつたはず、体に障る辛い想ひはなるべく忘れるやうに追ひ《しりぞ》け、明るい気持で日を過さうと仰しやつたではございませんか。
王妃 王をお喜ばせするために、さうは言ひました――自分自身を喜ばすためなら、とてもさうは言へません、でも、私にはかうした悲しみといふお客を迎へねばならないわけがよく分らない、ただあのリチャードといふ優しいお客と別れの挨拶を交したといふことのほかには。またかう思つたりもする、たぶん、まだ生れない悲しみが運命の胎内に宿つてゐて、それが私の方に向つて歩いて来るのではないか、そのために私の心の底の魂がありもしないものに怯《おび》え戦《をのの》くのかも知れない、王との別れといふことのほかに、まだ何か悲しみの種があるのだらう。
ブッシー 悲しみの正体は二十もの影を持つてをります、その影一つ一つがあたかも悲しみそのもののやうに見えながら、実はさうではないと申せませう、それも歎きの目は人を盲目にする涙で曇つてをり、たつた一つの物が幾つもの姿に形を変へて見えるもの、それはまるで魔法の鏡そつくり、真正面から覗き見ると、何が何やらさつぱり分らず、全くの混乱状態、それが斜めから見ると、はつきりした形に見えて参ります、お妃の場合も同じこと、王とお別れの際には、何が何やらさつぱり分らず、混乱しておいでなので、実際のお歎き以上に多くの悲しみの姿が次と立ち現れて参ります、が、それらは在りのままに眺めれば、いづれもこの世に在りもしない幻以外の何ものでもございません、それゆゑ、わが王妃におかせられましては、国王、御出征の時のお別れ以外は、何とぞ泣いて下さいますな――そのほかのことは、すべて在りもしないこと、仮にあつたにもせよ、偽りの悲しみの目にだけ映るもの、その目は全く真実ではないものを眺め、ただその仮の姿に涙を流すのでございます。
王妃 そのとほりかもしれない、でも、私の胸の内の魂は、さうではないと言つてゐる、いづれにせよ、この憂ひばかりはどうにもならない、憂ひの雲が重く垂れこめ、思ひに耽けることは何もないのだけれど、心はひたすら重く、気が遠くなり身もすくむ思ひで一杯なのだもの。
ブッシー それはただお妃のお思ひ過しでしかございますまい。
王妃 さう言つてはすまされない、思ひ過しといふのは、いつも何か前の悲しみから生じるもの。でも、私のはそれとも違ふ、なぜといつて、私の悲しみのもとは何かと言へば、それは何も無い、ただ空なるところから生じたのだもの、それとも私の悲しがるこの空なるものも、何か謂はれがあつて、それから生じたものかも知れない――それはやがて何かの形を取つて、きつと私のものになるだらう――でも、それが何であるかはまだ分らない、何と名附けたらよいのか、私が知つてゐることは、ただ名の無い苦悩。
グリーン登場。
グリーン お妃に神の御加護を! おゝ、良いところで皆に会へた。王はまだアイルランド征討には御出発にならないだらうな? 望むらくはまだであることを。
王妃 「望むらくは」とお言ひなのは? 王がまだ御出帆にならぬ方がよいとでも? 王の御計画は一日も早くといふことだつた、それなら一日も早く御出帆なさつた方がよいはず、それをなぜ王がまだ御出帆なさらぬことを望むとお言ひなのか?
グリーン せめてもの望みは、王が身方の軍勢を引き返へさせ、逆に敵の望みを水泡に帰せしめることにあります、敵は大軍を擁して既にこの国に上陸、追放中のボリングブルックが既に自ら禁を犯して舞ひ戻り、意気軒昂としてラヴンスパーグに辿り着いたのでございます。
王妃 まさか、そのやうなことが!
グリーン あゝ、お妃、それこそ事実なのでございます、それに輪を掛けて悪いことに……ノーサンバランド卿とその子息ヘンリー・パーシー、それにロス、ボウマンド、ウィロビーの諸卿が、それぞれ強力な兵達を引き連れ、ボリングブルックのもとに馳せ参じました。
ブッシー それを聞いて、なぜ、ノーサンバランド、その他一味の者を反逆の徒と宣告しなかつたのだ?
グリーン 勿論、宣告はした、しかし、宮内卿のウースター伯はノーサンバランド伯の弟だけあつて、直ぐに職杖を折つてその職を投げ打ち、その下の役人共もすべてウースター伯と一緒にボリングブルックのもとに急ぎ走つてしまつたのだ。
王妃 あゝ、グリーン、お前は私の苦しみに産婆の役を果しておくれだつたのか、さうして生れたボリングブルックこそ私の悲しみにとつては不吉な跡継ぎ。私の魂がこのやうな恐しい子供を生んだからには、産褥《さんじよく》に喘《あへ》ぐ母親の私には苦悩に苦悩が重なり、悲歎に悲歎が重なるばかり。
ブッシー お妃、絶望してはなりませぬ。
王妃 誰にそれが押さへられます? もう絶望しかない、いつもさう、敵意を懐きながら希望で瞞す――希望は人に媚び諂ふ寄生虫、人を欺いてなかなか死なせてくれはしない、死が親切にも生の絆を溶かしてくれようといふのに、偽りの希望がいつまでもその時を長びかせる。
ヨーク公が鎧下の鎖かたびらに咽当てをつけて登場。
グリーン ヨーク公がお見えになりました。
王妃 年老いた首《くび》に戦《いくさ》の印をおつけになつて。あゝ、そのお顔を見れば、如何にも御心配さうな御様子! 叔父上様、どうぞ慰めのお言葉を。
ヨーク もしそれが言へたなら、それこそ自分を偽ることにならう。慰めは天にある、そして人の住むこの地上にあるのは、悩み、煩ひ、そして悲しみだけだ。あなたの夫はこの国を救ふために、遥か遠くへ行つてしまはれた、その隙を狙《ねら》つて、王の手にあるこの国を失はせようとする他処《よ そ》者《もの》が這入りこんで来たのだ。後へ残つてこの国を支へようとする私は、この年で、己が身一つ自由には扱へぬ。今こそ、王に食べ過ぎの報いが病んで襲ひかかるのだ、今こそ、王は自分に諂つてゐた連中が真の身方かどうか、それを試す時が来た。
召使ひ登場。
召使ひ 御前様、若様は私が出て来る前に御出発なさいました。
ヨーク 行つてしまつたか? 止むを得ない! 銘好きな方に行くがいい! 貴族達は皆逃げてしまふ、平民共は冷めたい、そして誰も彼もハーフォードの身方になつて反逆するだらう……おい、お前はプラッシーへ行け、妹のグロスターのところだ、そして直ぐに一千ポンドを送つてくれるやうに頼んでくれ。待て、この指輪を持つて行け。
召使ひ 御前様、ついお話しするのを忘れてをりました、今日、ここへ伺ふついでに、一寸お寄りして参りましたが――でも、これ以上、お耳に入れましたら、きつとお歎きになりませう。
ヨーク 何のことだ、それは?
召使ひ 私が参上する一時間前、既にお亡りになつたとのことでございます。
ヨーク おゝ、何といふことを、禍の大潮が一時《いちどき》に押し寄せて来ようといふのか、この禍の島へ! どうしたらいいのかまるで分らぬ、弟のグロスターが不忠不義の罪であんな最期をとげたのでさへなかつたら、いつそのこと王はなぜ弟と一緒にこの首を刎ねてくれなかつたのか……おゝ、どうした、アイルランドに早馬の使ひは出したのだらうな? この戦ひの費用はどうしたらいいのか? (王妃に)さ、妹――いや、姪だつたな、許してくれ。(召使ひに)おい、お前、家へ帰つて荷車を幾つか用意するんだ、それから家に蔵つてある鎧冑を持つて来てくれ……(召使ひ退場)あなた方は兵士を集めてくれないか? この手に、かう、突然、乱脈に事件を持ちこまれても、事をどつちへ、どう処理すれば良いのか、てんで見当もつきはせん……敵、身方、いづれも俺の甥だ――一人は君主、それを守らねばならぬ誓ひも義務もある、一方は、これまた俺の近い身内だ、それが王から不当の扱ひを受け、良心と血が何とかしてやれと命じてゐる……うむ、いづれにせよ、何とかせねば……さ、まづ姪のお妃だ、あなたを先にお連れ出しせねばならぬ。兵士を徴集したら、皆、直ぐにバークリーに集つてくれ、プラッシーにも行かねばならぬが、とてもその時間はあるまい、何から何まで異常だ、すべてが乱脈に陥つてゐる。(王妃を連れて退場)
ブッシー 風は順風だ、アイルランドへの報せには持つて来いなのだが、まだ誰も戻つては来ない。兵士を徴集せよと言はれても、敵軍に匹敵するだけ集めるのは、所詮無理だ。
グリーン その上、俺達は王の寵愛を深く受けてゐるだけ、王を大事にしない連中の憎しみもまた深く受けてゐるといふわけだ。
バゴット それに、事なのは気紛れな平民どもの動きだ、奴等の大事なのは、要するに財布だ、誰にせよ、それを空にする者は奴等の心を冷酷無情な憎悪で一杯にする。
ブッシー それだ、王が一斉に皆から憎まれてゐるのは。
バゴット もし、裁く権利が奴等の手にあるとすれば、当然、俺達もやられる、いつも王の近くから離れなかつたからな。
グリーン うむ、俺は直ちにブリストー城に逃げこむ――ウィルトシャー伯はもう既にそこへ行つてゐる。
ブッシー それなら俺も一緒に行かう、憎しみに燃えた平民共は殆んど当てには出来ない、奴等は野良犬同然、こちらは噛みつかれて、ずたずたに引き裂かれるのが落ちだ、皆、一緒に行くとするか?
バゴット いや、俺はアイルランドの王のもとへ行く、さあ、お別れだ――もし俺の予感に誤りがなければ、俺達三人、これが最後だ、二度と会ふことはあるまい。
ブッシー それはヨーク公がボリングブルックを叩きのめすかどうかに懸つてゐる。
グリーン あゝ、気の毒な! 公のしようとしてゐることは、真砂《まさご》の数を算へ、大洋の水を飲みほさうとするやうなものだ――公の側に立つて戦ふものが一人とすれば、脱走する者が千人もゐる。では、別れよう、これが最後だ、もう二度とは会ふまい。
ブッシー まあ、さう言ふな、もう会へぬとは限らぬ。
バゴット いいや、恐らく会へまい。(一同退場)
〔第二幕 第三場〕
バークリー城の近辺
ボリングブルックとノーサンバランドとが丘の上を他の将兵と共に行進して来る。
ボリングブルック まだどのくらゐあるかな、バークリーまでは?
ノーサンバランド いや、正直の話、グロスタシャーには全く不案内でして。かうした高い荒れた山に殆ど未開の凸凹《でこぼこ》道ばかり、これでは今までの道程《みちのり》が殊のほか長く思はれ、いつそう疲れが増すはずでございますが、途中のお話が大層楽しく、あたかも疲れを癒す砂糖とでも申しませうか、お蔭で道中の辛さもすつかり忘れ、結構楽しく過させていただきました。それに引きかへ、ロスもウィロビーも、あなたのお伴が出来ないため、このラヴンスパーグからコッツウォルドへかけての道にはさぞかし難渋してゐることでございませう、私の方はお蔭で、この長道中の退屈を紛はせることが出来ました。しかし、いづれ彼等も、今、私が浴してゐる恩恵を身に頂戴出来ようといふ希望に胸を膨《ふくら》ませてゐることでございませう。喜びが手に入るかもしれぬといふ希望は、その希望が手に入つた時の喜びに較べて、優るとも劣らぬものと申せませう。お蔭でこの辛い道中を、二人とも、案外、短いものと思ふに違ひありません、現に御一緒にゐる私がさう感じてをりますので。
ボリングブルック 私と一緒に行を共にしたからといつて、何もそれほどの値打ちはあるまい、あなたの褒め言葉の方が一層優れてゐる……おゝ、誰だ、あれは?
ハリー・パーシーが丘を越えて登場。
ノーサンバランド 倅のハリー・パーシーでございます、どこから参つたにせよ、弟、ウースターが寄越したのに相違ございません……ハリー、叔父の様子はどうだな?
パーシー 父上、こちらへ来れば、それが伺へるものとばかり思つてをりました。
ノーサンバランド どうしたのだ、お妃と御一緒ではないのか?
パーシー いいえ、違ひます、叔父上は宮廷を出ておしまひになりました、職杖を折り、王の役人をすべて解散させておしまひになつたのです。
ノーサンバランド なぜなのだ? 最後に会つた時は、そこまで決心してはゐなかつたぞ。
パーシー 父上が反逆の徒と宣告されたからです。叔父上は真直ぐラヴンスパーグへ行かれました、勿論、ハーフォード公にお身方するためで、私にはバークリー城の方へ行くやうに命じ、ヨーク公がどの位の兵士を集め得たかを知つた上、直ぐラヴンスパーグの方へ来るやうにとのことでございました。
ノーサンバランド ところで、お前はハーフォード公をお見忘れしたのか、ハリー?
パーシー いいえ、父上、忘れるわけがない、まだ知つてはをりませんので――いづれにせよ、今までにお目にかかつたことは一度もございません。
ノーサンバランド さうだつたのか、では、ここでお見知り置きを願ふがよい。この方がハーフォード公だ。
パーシー 何とぞお見知り置きを、ぜひお身方させていただきたう存じます、とは申しても、まだ未熟な弱輩者、やがて時が来れば、十分に成熟し、もつとお役に立ちもし、お認めいただける時が来ようかと信じてをります。
ボリングブルック 礼を言ふぞ、パーシー、心中、立派な友を得たと思ふ時ほどの喜びはまたとあるまい、そして私の運がお前の友情によつて実つて来たなら、その真の友情に必ず報いる時が来よう。これが私の心の固く銘記するところだ、この手がそれに印を捺《お》さう。
ノーサンバランド バークリー城までは、まだどのくらゐある? それにヨーク公だが、部下の者を率ゐてどのやうにしておいでだらう?
パーシー あの木立ちの向うに城があります、三百人の将兵で守つてゐるとのこと、城内には、ヨーク、バークリー、シーモーアの諸卿がおいでとか――その他、名のある方は一人もをられませぬ。
ロスとウィロビー登場。
ノーサンバランド おゝ、ロス卿とウィロビー卿だ、拍車に血が附いてゐる、よほど急いだと見えて、頬が火のやうに真赤だ。
ボリングブルック よく来てくれた。友情があればこそ、追放された謀反人を慕つて来てくれたのであらう、今、私の倉の中には影も形も伴はぬただの感謝の念しかないが、すべては運次第、やがては皆の友情と労力に報いられる日が来《こ》よう。
ロス いえ、お側に仕へることが出来るだけで、何よりの喜びに存じます。
ウィロビー それだけで私どもの労力は報いられて余りあると申すもの。
ボリングブルック それにはただ感謝の言葉を述べるだけが、いつも変らぬ貧者一流の礼金だ、今はまだ幼少期にある私の運が成年に達するまでは、その言葉をもつて報いの代りとしておかう、待て、あそこへ来たのは誰だらう?
バークリーが近づく。
ノーサンバランド バークリー卿でございませう、多分。
バークリー ハーフォード卿に御伝言を。
ボリングブルック いや、「ランカスター」にの間違ひではないか、私はその名を自分のものにするためにイングランドに来たのだ、それゆゑ、何が言ひたいかは別にして、それに答へるためには、まづその称号で呼んでもらはねばならぬ。
バークリー お間違ひになつては困ります、私としては、あなたの栄誉ある御称号を消し去らう謂《い》はれは全くございません。どうお呼ばれになりたいかは別として、私がこちらへ伺ひましたのは、この国の摂政ヨーク公からのお使ひとしてでございます。只今は国王御不在、その機に乗じて国事《こくじ》のためならいざ知らず、単なる私事《わたくしごと》のために兵を起し、国内の平和を脅《おび》やかさずにはゐられぬやうなことが何かおありなのか、その辺のこと、承りたう存じます。
ヨークが一群の兵と共に登場。
ボリングブルック あなたを通じてお答へする必要は無ささうだ、あそこに公御自身がお見えになつた。おゝ、叔父上! (膝まづく)
ヨーク 遜《へりくだ》るなら、その心を見せてもらはう、膝などでごまかすな、さうした形だけの従順は人を欺くための偽りの礼儀だ。
ボリングブルック わが叔父上ヨーク公!
ヨーク たっ、たっ! お辞儀だけの叔父扱ひに騙されてたまるか、俺が謀反人の叔父などであるわけがない、ヨーク公とはまたよく言つた、そんな言葉も謀反人の口から出ると、即座に朽ち果てるばかりだ。追放に遭ひ、上陸禁止のその脚に敢へてイングランド領内の土を踏みにぢらせようとは、一体、何の目的があつてのことか? いや、まだある、何の目的があつて、この平和な国の内懐ふかく兵を進め、顔青褪めた村人を戦《いくさ》に巻きこみ、これ見よがしに卑しむべき武器をもつて脅《おど》しに掛らうとしたのだ? 恐らく正統な王は何処かへ行つてしまはれたと思つて遣つて来たのであらう? ふむ、馬鹿な奴だ、王はちやんと残つておいでだぞ、この忠なる心を見ろ、王の力はいつもこの中にある。俺がまだ血気壮んな若者であつたころのこと、お前の父親、勇敢なゴーントと共に、あの生ける軍神マルスの如き、若き黒太子を、数千のフランス軍の中から見事、救ひ出したものだ、おゝ、その腕が今は痺れて少しもいふことをきかぬが、今、あの時の若さがあつたら、忽ち貴様を打ち懲らし、その極悪な所行を厳しく罰してやらうものを!
ボリングブルック では、叔父上、私の所行のどこが悪いのか、教へていただきませう、どんな性《さが》についておつしやるのか、どこが悪いのか?
ヨーク それだ、正に最悪の性といふべく……それこそ大いなる反逆、憎むべき謀反といふほかはない。お前は追放された人間だ、それが今ここにゐる、まだその期限も終らぬのに、大軍を引き連れ、国王に刃向はうとしてゐるのだ。
ボリングブルック 確かに私は追放されました、が、その時はハーフォードとしてであり、かうして、今、戻つて来た私はランカスター公……叔父上、お願ひします、私の受けた不当な扱ひを公平な目で御覧いただきませう、叔父上は私にとつて父親同様、老ゴーントがそのまま生き返つたやうに思はれます……これからは父上と呼ばせて戴きませう、あなたは平気でお見のがしになるのですか、おゝ、父上、私がこの世で無籍者、浮浪人と宣告され、王族としての権利も財産も無理無体に剥ぎとられ……それを碌でもない成上り共にくれてやつてしまはれたのを? 私は何のために生れて来たのだ? 従兄の王がイングランド国王であるならば、私は当然ランカスター公であることを認めてもらはねばならぬはず。あなたにもオーマールといふ息子がある、私にとつても大事な従弟だ、もしあなたの方が私の父より先に亡り、オーマールが今の私同様、踏み付けにされようものなら、彼は伯父のゴーントを己が父と頼み、自分を不当に扱つた者共を直ちに塒《ねぐら》から引きずり出し、窮地に追ひこまずにはゐられますまい……私は相続人としての土地、財産引渡しの訴へを拒否されてしまひました、私には特許状があり、当然のことなのに、それが許されない……父の財産はすべて差押へられ、売り払はれてしまひ、しかも、すべてがすべて不正不法に使はれてをります、この私にどうしたらいいと仰しやるのか? 私は臣下です、それゆゑ、あくまで法に訴へるしか、手はありません。だが、法定代理人を立て特許状の権利を主張することは、私には認められないといふ、それなら、私みづからが嫡子として、遺産相続を要求する以外にどうしようもないではありませんか。
ノーサンバランド 公には余りにもひどい扱ひをお受けになつて来られました。
ロス その権利の恢復は、やはりヨーク公にお願ひするほかございません。
ウィロビー 下劣な輩《ともがら》が公の財産で幅をきかせるやうでは困ります。
ヨーク イングランドの諸卿、これだけは言つておかう、自分の甥が不当な扱ひを受けてゐるのを知つてはをつた、そして自分なりに出来るだけのことは試みてもみた。しかし、このやうに国王に刃向はんとして帰国し、おのが意のまま、自分の道を切り進まうとするのは、邪《よこしま》な法を以て正しき目的を達せんとするに等しく、天が下に許されまじきこと。それゆゑ、このやうに甥を唆《そそのか》す諸卿は心中みづから逆心を懐く輩であらう、いづれも反逆者以外の何者でもない。
ノーサンバランド ハーフォード公の御帰国は御自身お誓ひのとほり、ただただ御自分の権利御恢復のためにほかならず、それなればこそわれら一同、御助力申上げようと心に堅く誓つたのであります、この誓言を破る者には永遠に喜びの訪れなきことを!
ヨーク よろしい、仕方がない、この戦ひの結果はこの目によく見えてはゐるのだが。それを自分にはどうすることも出来はせぬ、正直、白状するが、私はただでさへ微力、それに自分に残された兵力は高が知れてゐる。が、出来るものなら、私に命をお与へ下さつた神の名に懸けて、ここにゐる一同の者を捉へ、王の前に膝まづかせて、その御慈悲を乞はせたいところだ、それが出来ぬ以上、はつきり言はう、私は中立の立場を取る。では、これで別れるとするか、が、もし厭でなければ、城中に這入り、今宵一夜の休息を取つて行くがよい。
ボリングブルック 叔父上、只今のお申出で、われら一同喜んでお受け致しませう。しかし、その前に老公には是非とも聞いていただかねばならないことがございます、それはまづブリストーの城に御同行いただくこと、と申しますのは、ブッシー、バゴット、その他の共謀者どもが、謂はばこの国を食ひ潰す毛虫のごとく、そこに巣食つてゐる由、誓つて奴等を根だやしにしてやらねば、この胸が治りませぬ。
ヨーク まあ、行つてもよからう――だが、一寸待て、国法を破るのは何と言つても、気が進まぬのでな。まあ、友でもなければ敵でもない、さう思つて城へ迎へるのだ。治しやうもないものを、自分が心配してもどうしやうもない。(一同退場)
〔第二幕 第四場〕
ウェイルズの陣営
ソールズベリー伯とウェイルズ軍の隊長が登場。
隊長 ソールズベリー卿、もう十日も待ちました、召集した同国《く に》のウェイルズ人共を、やつとのことで足どめしておいたやうなものの、王からは何のお便りもございません、ですから、吾もここらで解散といふことに致します。では、これでお別れです。
ソールズベリー もう一日、待つてもらへぬか、あなたは信頼すべきウェイルズ人だつた。王もあなたには殊のほか信頼を寄せておいでなのだ。
隊長 王はお亡りになつたとのこと、もう誰も待つてはくれますまい。国中の月桂樹は枯れ萎み、天には流れ星が飛び交ひ動かぬ恒星を脅《おびやか》す、不断なら蒼白い月が血のやうな凄《すさ》まじい色をしてこの大地を見下し、痩せ衰へた預言者たちが恐しい異変の噂を、そこここに囁き交す、金持は悲しげに鬱ぎこみ、無頼の徒は踊つたり、はしやいだり――片方は今まで持つてゐたものが取られさうだと惧《おそ》れ、片方は暴力や戦争で今まで欲しいと思つてゐたものが手に入《い》りさうだと喜ぶ。かうした兆しは、いつでも国王が亡る前か、それとも滅びる前には、きつと起つてゐたものだ……では、これで失礼します。ウェイルズの者は、みんな逃げて行つてしまひました、誰もが自分達の王のリチャードがお亡りになつたと信じこんでゐるのだ。(退場)
ソールズベリー あゝ、リチャード! この私の重い心の目には、あなたの栄光があの天空からこの低い大地に、流星のやうに一つ、まつすぐに落ちて来るのが見える。あなたの太陽は歎きながら低く西の空に沈んで行き、襲ひ来るあらしや、悲哀、不安を戦《をのの》き示してゐるのだらう。友達もみな、あなたの敵に傅《かしづ》くために逃げて行つてしまつた、あなたの運もあなたの想ひとは逆様に動いて行くのか。(退場)
〔第三幕 第一場〕
ブリストー城の前
ボリングブルック、ヨーク、ノーサンバランドが、捕虜のブッシー、グリーンを連れて登場。
ボリングブルック 両人を前へ……ブッシー、グリーン、今更、お前らの魂を苦しめようとは思はぬ、直ぐにもその魂は肉体を離れて行かうといふのに、既に犯した諸《もろもろ》の悪業を事細かに弁じたてたところで始らぬ、徒らに慈悲の道に外れるばかりだ。だが、お前らの血をこの手から洗ひ浄めておくために、かうして皆の前で、処刑の理由を幾つか陳《の》べておかうと思ふ。お前らは主君たる王を、かの恩寵に恵まれた血筋、整つた風采、いづれにも優れた人物を、その手で惑はし、行くべき道を誤らしめ、恩寵を奪ひ、歪んだ醜いものにしてしまつたのだ。自分らにも覚えがあらう、いたづらに罪深き不義淫蕩の道を王宮にまで引き入れ、王と妃との仲を裂き、睦じかるべき臥床も今は全く別、嘗ては麗はしき妃の頬も胸中より溢れ出る涙をもつて穢された、それもこれもみなお前らの醜い悪行のしからしめるところなのだ。私もまた王族の一人に生れ、血のつながりから言つても王に親《ちか》しく、王との間も至極親《した》しかつた、その王をお前らは口先で巧みに操り、私を誤解させたのだ、おかげで私は不当な中傷にさらされ、項《うなじ》を低く垂れ、このイングランド人の浮かぬ溜息を異国の雲の下で何度吐《つ》いたことか、もちろん、追放の苦いパンの味も知らされた、その間、お前らはわが領地を食ひ物にして、私用の猟園を勝手に公有地と化し、片端から山林の樹木を切り倒した。しかも、わが館《やかた》の窓から先租伝来の家紋を〓《も》ぎ取り、この私を現すものとして描かせておいた意匠もきれいに消し去つてしまつた、おかげで世人の判断と私の中に流れてゐるこの血以外には、今や自分の生れが何であるかを世間に向つて誇示すべき何ものもありはしない……もちろん、罪はそれだけではない、今述べた倍以上はある、よつて、お前らを死刑に処する……両人を直ちに処刑場に送り届け、死神の手に預けるがよい。
ブッシー 私にとつて死は歓迎だ、このイングランドにボリングブルックを迎へるよりは。諸卿、これでお別れだ。
グリーン 私の慰めは、まづ天がわれらの魂をお受け取り下さつて後、ゆつくり地獄の責め苦をもつて不正を罰して下さらうといふことだ。
ボリングブルック ノーサンバランド卿、二人の処刑をお願ひしよう。(ノーサンバランド、その他数人が囚人を連れて去る)叔父上、先程、お妃はあなたのところにお出でだとか言つていらつしやつた、くれぐれも大事にしてあげて下さい、私からもよろしくとお伝へ下さい、私の御挨拶が届きますやう特別の御配慮を。
ヨーク もう既に頼りになる男に、お前の好意を十分に伝へる書面を持たせてやつた。
ボリングブルック 何よりです、叔父上……さあ、諸卿、出発だ、いよいよグレンダワー一味の者と一戦を交へよう。まづは仕事、休みはその後だ。(一同退場)
10
〔第三幕 第二場〕
ウェイルズの海岸
リチャード王がカーライルの司教、オーマール、兵士たちと一緒に登場、上陸したばかりの様子。
リチャード王 バークローリー城といふのはあれがさうか、直ぐ近くに見えるのが?
オーマール そのとほりでございます。荒海に揺さぶられどほしの後、この辺りの空気はいかがでございませうか?
リチャード王 いい気持だ、全く文句の言ひやうがない。嬉しさに泣きたいくらゐだ、かうして再びわが王国の土を踏みしめられようとは。(大地の高くなつた所に腰をおろし、草を手で愛撫する)懐しい大地よ、自分の手でかうしてお前に挨拶しよう、反逆者どもの馬の蹄《ひづめ》で大分傷つけられはしたらうが。母親が長く別れてゐたわが子に再び会ふことが出来、涙に濡れ、再会を喜びながら笑つてわが子に戯《たはむ》れる、それと同じやうに、私の大地よ、私も泣きながら、そして笑ひながら、お前を優しく擦《さす》つてやらう、この王の手をもつて穏かに。その代り、お前の主君の敵を養つてやつてはならぬぞ、わが寛大な大地よ、その甘い味を貪り食らふ奴らの飽くことを知らぬ食欲を満たしてやることはない、それより、お前の体内に潜む毒液をたつぷり吸ひ上げた恐るべき蜘蛛を片端から放してやれ、また、あののろくさい蝦蟇《がま》を奴等の行手、行手に這ひつくばらせ、あの王位を狙ふ足取りで不遜にもお前の顔を踏みつける反逆者どもの歩みを、どこまでも悩ませてやるがいい。どうせ私の敵だ、あの肌を刺す蕁麻《いらくさ》をそこら中に生《は》やしてやれ。そして、もし奴等がたまたまお前の胸から花を摘まうとしたなら、さうだ、蛇がいい、頼むから、蛇を潜ませ、花を守つてやるのだ、そしてついでにその毒蛇の二股に分れた舌で、花を摘む指先を一嘗めさせ、お前の君主の敵に死の一撃を与へてくれ……おゝ、命なきものを相手に無益な歎願をするこの身を嗤つてくれるな、諸卿、さうは思はぬのか、この国の正統な王が邪な反徒の手により危機に瀕してゐるのを見れば、この大地も敏感な感情を持ちもしようし、この石塊《くれ》どもも甲冑を身に附けて立ち上りもしよう。(立ち上る)
カーライル 御心配なさいますな。御身《おんみ》を王たらしめた神の御力は、何がどうあらうと御身を王として守り給ふに違ひございません。天が与へ給うた手立ては、必ずこれを用ゐねばなりませぬ、蔑《ないがし》ろにするのはもつてのほか、もし天がこれを欲し、われらがそれを欲せざる時は、みづから天の御《み》恵みを拒否し、天佑神助を《しりぞ》くるに等しい所行と存じます。
オーマール 要するに、司教はわが方が余りに怠慢ではないかと申してゐるのでございます、その間《かん》に、かのボリングブルックはこちらの油断を見すまし、財力、兵力、共に強大になつて参りませう。
リチャード王 面白くないことばかり言ふ男だ! どうやらお前には解つてをらぬらしいな、この地上の悪事を隈《くま》なく照らし出す日輪が姿を隠して、地球の反対側を明るく照らし始める頃には、こちら側は盗人や暴漢どもが闇に紛れて這ひずり廻り、大手を振つて人殺しや乱暴を働くといふ訳だ、が、やがてまた、この大地をめぐつて日が昇り、東に聳える松の誇らかな梢が紅と染め出《いだ》され、在りとあらゆる罪の巣窟《さうくつ》めがけて、次に光の矢が射込まれ始めると、殺人、謀略、その他の忌まはしい罪は、身を蔽ふ夜の衣を背なかから剥ぎとられ、素肌のまま震へ戦《をのの》く、お前にはなぜそれが分らぬ? 同じやうに、あの盗人、あのボリングブルックといふ名の謀反人も、この身が丁度この地球の反対側を歩き廻つてゐた頃は、たまたま呑めや唄への大酒盛りに酔ひ痴れてゐたでもあらうが、この身が再び東を背にして玉座にすつくと立つのを仰ぎ見れば、さすがの奴も己が謀反の疚しさにたちまち顔を紅らめ、日輪の光に堪へず、ただただ己れの罪に恐れ戦くほかはないであらう。荒海の水を悉く傾け尽したとしても、王の体に塗られた香油を拭ひ落すことなど出来はせぬ。この世の人間の言葉をもつてして、神の代理人たる王を退位せしめることなど、どうして出来よう、この黄金の王冠に刃向ふため、ボリングブルックが徴集した兵士一人に対し、神はこのリチャードのために、栄《は》えある天使一人を遣はし給うた、その天使達がこの身のために戦つて下さるのだ、当然、弱き人間どもは滅びねばならぬ、天はつねに正義なのだ。
ソールズベリーが遣つて来る。
リチャード王 おゝ、よく来てくれた、で、お前の手の者は今どこにゐるのだ?
ソールズベリー どこにもをりませぬ、この私の痩せ腕一本、そのほかに頼れるものはどこにもありませぬ。失意のみがこの舌の案内人、それに縛られて口にすることの出来るのは、ただ絶望の唄ばかり、恐らくはたつた一日、御到着が遅れたため、この地上での御幸運に暗い蔭がさしてしまひました。おゝ、去つた時を甦らせ、昨日《きのふ》を今日《け ふ》に呼び戻す、さういふことがお出来になるなら、お手もとにはなほ一万二千の兵《つはもの》どもがお指図を待つてをりましたらうに! それが今日《け ふ》では、今日《け ふ》になつてからでは、不幸なこの日が訪れてからでは、すべてが遅すぎる、お喜びも、お身方も、そして御運も、御威光もすべてが覆《くつがへ》されてしまひました、あのウェイルズ人どもは国王御逝去の噂を聞くや、あるいはボリングブルックのもとに走る者あり、あるいはてんでんばらばら何処かへ逃げ去る者もあるといふ始末。
オーマール お気を確かに、なぜそのやうにお顔の色まで?
リチャード王 当り前だ、今の今まで二万の兵《つはもの》どもの血潮がこの顔の中で誇らかに照り映えてゐた、それがもうどこかへ逃げ去つてしまつたのだ、それならそれだけの兵が再びここへ戻つて来るまで、死人のやうに蒼白になるのも当然ではないか? 一身の安全を守りたいものは、さつさと俺の側から逃げ出したらいい、時がこの身の誇りに染《し》みを残した以上は。
オーマール お気を確かに、何卒、御身分をお忘れなきやう。
リチャード王 さうだ、我を忘れてゐた、俺は王ではないか? 目を醒せ、王冠を被つた臆病者! 貴様はぐつすり眠りこけてゐる。王の名は二万の兵《つはもの》に匹敵する、さうではないか? 武器を手に執れ、武器を、わが名にかけて! 取るに足らぬ家来が一人、わが大いなる栄光を傷つけようとしてゐる。さあ、そのやうに項垂《うなだ》れるな、ここにゐる者は、皆、王の寵臣ではないか、身分高き者達ではないか? それなら心を高く保たうではないか。叔父ヨークのもとには、われらの危急を救ふに足る軍勢がまだ十分にゐる。だが、誰だ、こちらにやつて来るのは?
騎士スティーヴン・スクループが近付いて来るのが見える。
スクループ 御健康と御幸運が御身の上に留りますやう祈つて止みません、この悲しい音《ね》を奏でる舌の調べに余り御期待なさいませんやうに。
リチャード王 どんな報せであらうと、この耳は開いてゐる、心の覚悟も出来てゐる、お前の口にし得る最悪の事といつたところで、高この世の損失に過ぎまい、この王国が失はれたとでもいふのか? おゝ、それなら、あれはこの身の煩ひの種であつた、それがどうして損失と言へよう、煩ひの種が消えて失《なくな》つただけの話ではないか? それともボリングブルックがこの身とどちらが偉大か、懸命に争はうとしてゐるのか? が、あの男に勝ち目があらうはずもない。ひよつとすると、あの男、神に仕へようといふのかな、それならこの身も神に仕へる身、つまり同じ仲間だ。おゝ、この身の家臣たちが反逆するといふのか、さうなればこちらとしてはどうにも手が無い、だが、あの連中、この身に対してだけではなく、神そのものに忠誠を破るも同然だぞ。何とでも言ふがいい、悲歎、破壊、滅亡、堕落、そして何より恐しいのは死だが、その死は誰にも必ずやつて来るのだ。
スクループ たとへどれほど不運な凶報でも、進んで聞いてやらうといふ御覚悟、殊のほか忝《かたじけな》く存じ上げます。あたかも時ならぬあらしに襲はれ銀色の河といふ河がその両岸を越えて溢れ出し、世界中がすべて涙に溶け去つたかのごとき有様、かのボリングブルックの奴め、今や、怒濤のごとく己が領地を一気に乗り越え、怯《おび》え戦《をのの》くこの王の領土に堅い鋼をきらめかせ、その鋼より堅い心を持てる輩を次に送りこんでをります。白髯の年寄りは、国王に背いて、薄く禿げ上つた頭に冑を戴き、まだ女のやうな声をした少年たちも王冠にさからつて、いたづらに大声を張上げようと努め、女にも劣るひよわな手足に無理やり堅固な鎧を附けようと焦つてをります、それどころか、国の施しを受けて、王の御身の上の御祈祷をすべき連中さへ、王に向つて櫟《いちひ》の弓を引かうとしてをります、それに糸を紡《つむ》ぐ女どもまで、錆びた矛を振りかぶり、玉座めがけて打ち掛からんばかりの有様、老いも若きも逆心を育《はぐく》み、すべては私の口に語り尽せぬほどの為体《ていたらく》にございます。
リチャード王 口には出来ぬことをよく言つてくれた、全くよすぎるほどにな。どこにゐるのだ、ウィルトシャー伯は? バゴットはどこにゐる? ブッシーはどこへ行つた? グリーンはどうしたのだ? 危険な敵にこの身の領土をかうもたやすく踏躙《ふみにじ》らせておいていいのか? この戦《いくさ》、もしこの身の勝と決れば、奴等の首を刎ねて、その償ひとさせてやらうものを。分つてゐる、一日も早く平和の眠りを貪りたくて、ボリングブルックの麾下に身を投じたに相違ない。
スクループ 御明察どほり、確かにいづれも平和の眠りに就いてをります。
リチャード王 おゝ、悪党、毒蛇、救ひがたい奸賊め! 誰にでも尻尾を振つてついて行く犬畜生! 俺の心臓の血でぬくぬくと育ちながら、俺の心臓を刺す蛇! ユダが三人集つたのだ、そのどれ一人を取つてもユダよりは三倍も悪い裏切者のユダが! 平和の眠りがそれほど恋しかつたのか? その罰として、奴等の穢れ果てた魂に恐しい地獄の悪魔が戦ひを挑んでくれるがいい!
スクループ 優しい愛情も、時と場合で、その中味が変るらしい、そしてそれが今はこの上もなく凄《すさま》じい不倶戴天の憎しみに姿を変じてしまふのか。ただ三人の魂に対する呪ひだけはお取消し願ひませう、彼等にとつての平和の眠りは敵に首を差し出すことによつて得られたもの、決して敵と手を握り合つて得られたものではありません、今、お呪ひになつた者どもは、いづれも死が手を下した手ひどい傷を受けて、空《うつろ》な大地の墓の中に低く身を横たへてをります。
オーマール では、ブッシーもグリーンも、あのウィルトシャー伯も、既に死んだといふのか?
スクループ さうです、いづれもブリストーで首を刎ねられました。
オーマール では、父のヨーク公はどこにゐるのだ、その部下の兵士どもは?
リチャード王 どこにゐようと構ひはせぬ。もう一時の慰めを口にするな。墓や蛆虫《うじむし》の話をしよう、墓碑銘の話でもいい、この大地の胸の上に、塵を紙と見なして、己が悲しみを書き記さう、せめてこの眼から雨と滴る涙をもつて……さうだ、遺言執行人を選んで、どう書いたらいいか相談しよう、いや、そんなことをして、どうなるといふのか、分つてゐる、この身がこの世に残して行けるものは、退位させられた王の屍《しかばね》以外に何があると言ふのか? この領土も命も、すべてはボリングブルックのものだ、吾がものと呼べるものは、ただ死があるだけ、それと、この骨を蔽ひ包んでくれる不毛の土の小さな塚があるばかりだ。かうなれば、いつそこの大地に坐し、諸の国王達の哀れな最後を物語るにしくはあるまい――中には己が玉座を奪はれた王もある、戦死した王もある、また自ら玉座を奪つておきながら、その相手の亡霊に悩まされ通した王もある、己が妃に毒を盛られた王もあれば、眠りこけてゐるうちに殺された王もある、かうしてみんな殺されて行つたのだ――それといふのも、生ける王の顳〓《こめかみ》を取巻くあの空しき王冠の中には死神といふ道化役が棲みついてゐるからだ、そいつが王者の栄光を嘲笑《あざわら》ひ、その栄華を嘲弄し、ほんの一時《いつとき》、ほんの一場《ひとば》だけ王の役割を演じさせてくれる、そこで王はここぞとばかり、人を恐れ戦《をのの》かせ、その目差《まなざ》し一つで人を殺してのける、お蔭で当の本人は空疎な自惚れを吹込まれ、己が命を守るだけの外壁にしか過ぎぬこの生身の肉体を難攻不落の鉄壁とまで思ひ込んでしまふ、かうしてすつかり良い気にならせておいてから、最後の土壇場に、またあの道化めが姿を現し、小さな針のほんの一突きで、その鉄壁を貫き通し、「王よ、さらば!」と捨てぜりふを吐いてのけるのだ。さあ、みんな、帽子を頭にのせるがいい、恭《うやうや》しい敬礼などして、この生身の人間を嘲笑《てうせう》してくれるな、尊敬も要らぬ、古い仕来たりも、形通りの儀式も、格式ばつた儀礼も、もう何も要らぬ、お前達はこれまで長い間この俺を見損つて来たのだ、俺だつてお前達と同じやうにパンを食つて生き、飢ゑを感じもすれば、悲しみに溺れもする、親しい友も欲しい――かうした欲望のままになつてゐるこの俺を、どうして王などと呼べるのか?
カーライル 何を仰しやる、賢者は坐して徒らにわが身の不幸を歎かず、直ちにその歎きの拠つて来たる道を封じませう。敵を恐るるは、恐怖の余り力衰へ、それが御自身の弱さとなり、敵に力を与ふるだけのこと、何より愚かしきは、みづからを敵として戦ふことにございませう。恐れれば殺さるるのみ、戦つて、それ以上の悪しき結果は得られますまい、戦つて死ぬのは死をもつて死を制するにひとしく、怖れて死ぬは死の奴隷となるだけのことに過ぎませぬ。
オーマール 私の父は僅かながら一群の手の者を率ゐてをります、それにお訊ねになり、一挙手一投足、もつて五体の働きに等しい力を発揮し得る法をお考へ下さい。
リチャード王 よくぞ言つてくれた――傲り昂ぶるボリングブルックめ、貴様と一戦を交へ、どちらが斃れるか、最後の日を決めてやる、これで恐怖の発作は消えてしまつたぞ。訳もない仕事だ、自分の物を取り返すのは……おい、スクループ、叔父上は手の者を率ゐてゐると言つたが、何処にゐるのだ? 苦い顔をしてゐるが、良い返事を聞かせてくれ。
スクループ 誰しもその日の空模様で一日の天候のありやうを判断致します、同様、私の陰鬱な目の色で、それ以上に陰鬱な話しか申上げられぬことをお察し願ひたう存じます。私の演じてをりますことは、丁度あの拷問の手口と同じ、厭なことは少しづつ語り、いづれ口にせねばならぬ最悪の事態は出来るだけ先に延ばさうと、そんなことばかりでございます。叔父君のヨーク公はボリングブルックの側に立ち、幾つかの北方の城を明渡され、南方の部下たちも武装してそのお身方に馳せ参じました。
リチャード王 もう沢山だ。(オーマールに)どうしてくれるのだ、折角、絶望の甘い小道を彷徨《さまよ》つてゐたこの俺を、無理にもこの世に引き戻したな! 今さらどう言つて逃げる気か? 今になつてこの身にどんな慰めがあると言ふのか? この上まだ慰め顔に何の彼のと言ふ奴は未来永劫に憎んでやる……フリント城へ行かう、そこで俺はやつれて死んで行くのだ――王は王でも、不幸の奴隷、それならいつそ王らしく不幸に服従するのだ、俺の部下は悉く解散させてくれ、少しでも収穫の望みのある所に鋤《すき》を入れさせてやれ、俺についてゐても望みは無い。もう誰も何も言ふな、言つて変へられるものではない、意見は無用だ。
オーマール お待ちを、ただ一言。
リチャード王 今さら色んな甘言をもつて俺を欺く手合ひは、俺を二重に苦しめる……部下はすべて解散してしまへ、リチャードの夜の闇を去つて、ボリングブルックの光輝く昼のもとに行かせてやれ。(一同退場)
11
〔第三幕 第三場〕
ウェイルズ フリント城の前
ボリングブルック、ヨーク、ノーサンバランドがその他の将兵を引連れ、太鼓、軍旗と共に登場。
ボリングブルック つまり、この情報によると、ウェイルズの軍勢は解散し、ソールズベリーは王に会ひに行つたとある、その王はこの程、極く少数の身近な身方とともに、この辺りの海岸に上陸したといふのだ。
ノーサンバランド 得がたい吉報かと存じます、リチャードはここから余り遠くない所に頭を隠してゐるといふことになります。
ヨーク 「リチャード王」と言はれたはうが、むしろノーサンバランド卿には似つかはしいやうに思へるが。あゝ、何といふ情けない日か、神聖なる王が頭を隠さねばならぬといふのは。
ノーサンバランド 思ひ違ひをしておいでだ、単に手短かに申上げようとして、敬称を略しただけに過ぎません。
ヨーク しかし、ついこの間までだつたら、それで事が無事に済むわけがない、あなたが王のことをそのやうに手短かに取扱はうものなら、同様、王の方でもあなたを手短かに取扱ひ、頭の敬称を取はづされたおかへしに、あなたをその頭の長さだけお切捨てになつた事だらう。
ボリングブルック 叔父上、あまり悪くお取りにならぬやうに。
ヨーク お前の方もあまり悪く取らぬ方がいいぞ、あくどい取りやうはいかん、天はわれわれのしてゐることをいつもお見通しだからな。
ボリングブルック 承知してをります、叔父上、天意に逆らふやうな真似は自ら許しません……おゝ、誰でせう、あれは?
パーシーが近づいて来る。
ボリングブルック ハリーか、よく来た。どうだ、この城、落ちさうにないか?
パーシー 王の居城らしき天晴れの構へ、あくまで御入城を塞《せ》き止めようとしてをります。
ボリングブルック 王の居城か! しかし、王は城中にゐないのであらう。
パーシー いいえ、おいでです。リチャード王はあの石と石灰で固めた砦《とりで》の中にをられ、そばにはオーマール卿、ソールズベリー卿、騎士のスティーヴン・スクループが居並び、もう一人、身分の高い僧侶がをられますが、それがどなたか分りません。
ノーサンバランド おゝ、それはどうやらカーライルの司教と思はれます。
ボリングブルック ノーサンバランド卿、この年旧りた古城の近くまで行つて見てくれぬか、そしてあの荒しい外壁のところから、波風に打たれて崩れた銃眼を通して、媾和の喇叭の音を響かせ、かう申入れるがよい……ヘンリー・ボリングブルックは大地に膝まづき、リチャード王の御手に口づけし、この世に上なき国王に心よりの忠誠と服従を誓つて止まない、かうしてここに参つたのも、王の足下にわが武器、兵力を捧げようがためにほかならず、ただし、それにはわが追放令が廃棄され、また一度没収された領地も再び元どほり返還されねばならない、もしそれが許されぬとあらば、直ちにわが兵力に訴へ、殺されしイングランド人の傷口より流れる血の雨をもつて、夏の大地に渦巻く塵埃《じんあい》を鎮めることも敢へて辞せぬであらう、とはいへ、このやうに深紅の豪雨をもつて、美しきリチャード王の国土を、その爽かな緑の窪みを埋め尽すのは、このボリングブルックの全く思ひも寄らぬところ、いづれ、わが恭順の意、容易にお汲みとりいただけよう、さう申入れてもらひたい、その間、吾はこの大地に敷きつめられた緑の絨緞の上を行進してゐよう……(ノーサンバランドは喇叭手と共に城へ向ふ)何も人を脅《おど》す太鼓の音をたてる必要はあるまい、ただ行進してゐればよい、この城の崩れた胸壁を通して吾が軍の威容がよく見えるやうにしてやらう……いよいよリチャード王と自分とが争ふことになれば、火と水とがぶつかりあひ、あたかも雷《いかづち》が天空の暗雲を引き裂く恐しさにもならうが、火の役は先づ相手に譲り、私はそれに従ふ水になつてやる、そしてあれが怒り狂ふ間に、こちらは地の上に雨を降らせるのだ――地の上にだ、王の上にではない……さ、進軍だ、リチャード王がどんな顔をするか、よく見てゐるのだぞ。
ノーサンバランドがトランペットを城外から吹かせる、それに応じて城内から、トランペットの音が聞え、やがて内外呼応してファンファーレが鳴り響く。城壁の上にリチャード王、カーライルの司教、オーマール、スクループ、ソールズベリーが現れる。
ボリングブルック そうれ、リチャード王みづからのお出ましと来た、太陽が火と燃ゆる東の門から出ておいでになる、すると、前方には妬み深い雲の一群がその輝きを蔽ひ晦《くら》まし、西の方に向ふ晴やかな自分の旅路を穢さうとしてゐる、それを見て、太陽は真赤になつて、すつかりお怒りといふところだ。
ヨーク さすがに国王らしいお姿だ! それにあの目を見るがいい、鷲のやうに光り輝き、人を畏怖せしめ、威厳を保つてゐる。あゝ、何とも情けない話だ、あのやうに見事なお姿がいささかなりとも穢されようとは!
リチャード王 (ノーサンバランドに)ただただ呆れるほかはない、さきほどからいつお前が畏れ謹んで膝まづく時が来ようかと、じつと待つてゐたのだ、この身はお前にとつて正統な王であらう、もしさうなら、その前に両膝を屈《かが》めて畏敬の念を払ふべきであらう、が、それをしないのは一体どういふわけだ? もし王でないとすれば、いつ、神の御手がみづからの代理人たる役割をこの身から取上げ給うたのか、それを明示するがよい、何人もその人間の骨ばつた手で、神聖なる王の笏《しやく》を奪ひ去ることは出来はせぬ、敢へてそれを行へば、それは冒涜であり、窃盗であり、王位簒奪にほかならない。しかもお前は自分と同じやうに世の諸人《もろびと》が己れの魂を引き裂くがごとき謀反を企てたと思ひこみ、この身独りが友に見捨てられ孤立の身となり果てたと見てゐようが、さうは行かぬ……よく見るがいい、わが主、全能の神はこの身の為を思ひ、かの雲の蔭に悪疫の大軍を集めてをられる、やがてそれが、いつの日か、不届きにも臣下の身をもつてその卑しむべき手をわが頭上に振りかざし、わが高貴な栄冠を脅やかさんとしたお前らの、いまだ生れざる子供らの上に降り注がれる時が来よう……帰つてボリングブルックに言つてやれ――それ、あそこに立つてゐるのがさうであらう――あの男がわが領土の上に踏み入れる一歩一歩が、危険極りない謀反の刻印となるのだと。奴は戦さの血に塗《まみ》れた遺言状を開いて、王の相続権を得ようとここまでやつて来たのだ、が、その求める王冠が平和に護られて奴の頭上に栄える前に、何万といふ数知れぬ人の子の頭《かうべ》がこのイングランドの野面に咲く花を朱《あけ》と染め、乙女のやうに淡い平和の顔色を憤りの真紅と化し、牧場《まきば》の緑の草も忠実なイングランド人の血に濡れることであらう。
ノーサンバランド この上は天に在《ましま》す王にお願ひするほかはございません、地上のわれらの王がそのやうな激しい内乱の渦に、ゆめ捲きこまれませぬやうにと! そして王の貴《たふと》きお従弟、ハリー・ボリングブルックは恭しく王の御手に口づけし、かうお誓ひになります、リチャード王とボリングブルック公、御二方の御祖父エドワード王の御墓所にかけて、またお二方が同じ一つの源から流れ出でし王族の血を分け担ひ給ふ事実にかけて、なほ武勲高かりしゴーントの御手にかけて、その他誓ひ得るかぎりのすべてを含む公御自身の名誉と徳にかけて、お誓ひになります、この度の御帰国は、御自分の王族としての権利をお認めいただくことのほかに全く他意はなく、その復権を膝まづいてお願ひ申しあげるのみ、それさへ適ひますれば、直ちにきらめく武器を錆びるに任せ、武装の馬も厩にもどし、心はひたすら王への忠勤に励むことをお約束致します……以上、王族の御身にかけて誤りなきことをお誓ひなさると同時に、私もまた武人として、その真実なることを信じて疑ひません。
リチャード王 ノーサンバランド、王はかう答へたと伝へるがよい、この身は従弟ボリングブルックを喜んで迎へよう、数の要求も何ら異議なくこれを容れ、直ぐさま実行に移すと。それも相手の耳に快く、言葉を尽して伝へてくれ。(ノーサンバランドは王の言葉を伝へに戻る。リチャード王はオーマールに向つて話しかける)どうやら腰を低くし過ぎたやうに思ふが、どうであらう、口先だけ美しく飾つても、みじめに見えるだけではないか? 直ぐにもノーサンバランドを呼び戻し、謀反人に挑戦状を叩きつけ、死ぬまで戦つて見せるか?
オーマール いいえ、それはなりませぬ。今は優しい言葉をもつて戦つておくに限ります、やがて、時が身方を呼んで参り、そしてその身方は剣を持つて馳せ参じませう。
リチャード王 あゝ、何といふことだ! あの高慢な男に厳しい宣告を言ひ渡したこの舌が、今また甘言を弄してそれを取消さねばならぬとは! あゝ、俺が自分の悲しみほどに偉大であつたなら、あるいは自分の名に及ばぬほどの小人であつたなら! あるいは、今までの自分を忘れるか、それとも今のこの自分を思ひ出さずにすまされたら! 誇り高き心よ、さうまで波打ち騒ぐのか? それなら心のままに波打つがよい、やがて敵がやつて来てお前も俺も意のままに打ちのめすであらうからな。
オーマール ノーサンバランドがボリングブルックのもとから戻つて参ります。
リチャード王 王はどうせねばならぬのか? 相手の命令に服さねばならぬのか? 王とあれば服従もしよう。では、退位させられねばならぬのか? 王なれば、それも仕方はあるまい。それなら王の名を捨てねばならぬのか? 神かけて、それを捨てもしよう。数の宝石を珠数に代へよう、あの豪壮な宮殿も隠者の小屋に、華やかな衣裳も乞食の破れ衣に、模様彫りの盃も木彫《きぼり》の皿に、王の笏も巡礼の杖に、数多《あまた》の家来どもも木製の聖者の像一対に、皆、皆、代へてしまはう。そしてこの俺の巨大な王国も小さな墓に代へてもらはう、小さな、粗末な墓に。それとも俺は、国王の大通りに、誰もが足繁く行き交ふ道端に埋められ、家来の足が休む間もなく頭の上を踏みつけるやうにしてもらふか。見るがいい、かうして生きてゐる今も俺の心臓の上を踏み躙つて顧みぬ奴らだ、埋められたら最後、頭を土足にかけずにゐるものか? オーマール、泣いてくれるのか、優しい心の持主だな、お前は! 二人で一緒に、敵に蔑まれた涙で天気を悪くしてやらう、俺達の溜息と涙で奴等の夏場の取入れを台無しにし、この謀反の土地に飢饉を起してやるのだ。それとも二人の不幸を玩具にし、滴《したた》る涙で何か遊びごとでも工夫してみようか? たとへば共に一つ所に涙を滴らせて、大地に二つの墓穴を掘れるやうにしてみようか? そこへ二人が埋められれば……ここに泣きの涙もて己が墓を掘りし二人の親族、とはに眠る! どうだ、こんな悪戯《いたづら》が二人には打つてつけではないか? さう、さう、俺には分つてゐるのだ、自分の馬鹿話が、さう、そしてお前達も俺を見て笑つてゐる……最も強大なるノーサンバランド卿、何と仰しやつたかな、ボリングブルック王は? リチャードは生きてゐてよいと言つたであらう、死ぬまではな? ほう、会釈を賜はる、するとボリングブルックは「うむ」と御返事なさつたと見える。
ノーサンバランド 下の前庭にて御謁見下さるやうにとのこと、直ぐにもお降りいただけませうか?
リチャード王 降りるとも、降りるとも、太陽神の御子、輝けるパエートンのごとく暴れ馬を御し損ね、真逆様に……下なる庭に落ちるとするか? 下なる庭へな、そこで王は謀反人のお召しに応じ、下手《したて》に出て彼等に恩恵を与へるのだ。下なる庭へとな? 降りる? 降りるとも、庭へ! 王が降りて行く! 朝の雲雀が囀《さへず》る頃合ひに、夜の梟が不吉な声で喚き立てる御時勢になつたらしい。(王たちは胸壁づたひに姿を消す)
ボリングブルック (前の方に出て行き)王は何と言はれる?
ノーサンバランド 御心中の御憂悶激しく、狂人のやうにたわいないことを口にしておいでです、おゝ、降りておいでになりました。
リチャード王が侍臣と共に下に降りて来る。
ボリングブルック 皆、退るやうに、王には臣下にふさはしき礼を……わが君、リチャード王。(膝まづく)
リチャード王 従弟殿、それは自ら尊い膝で卑しい大地に口づけし、膝の品位を落すと同時に、その土くれどもを好い気にさせるやうなもの、私の心は、この目にあなたの礼節を見るよりは、あなたの真心を感じたいのだ、さあ、お立ちになるやうに、従弟殿、お立ちに――あなたの心の姿そのままに、それが見えぬ私ではない、心はこの位の高さにある(自分の頭に手をやり)、膝の方をいくら低くしても始らぬ。
ボリングブルック 王に申しあげたい、私がこの地に参りましたのは、飽くまで自分自身の物を取り返したいからにほかなりません。
リチャード王 あなたの物はあなたの物、それに私も、その他、何でも彼でもあなたの物。
ボリングブルック 私の真心からの忠勤が、もしお心に適ひますなら、王は私の主君、それゆゑ確かに私の物でもございませう。
リチャード王 私の心に適ふ、勿論、物を手に入れるだけの最も強い、最も確実な法を御存じの人なら、それを手に入れるのに適つてゐよう。(ヨーク公に)叔父上、お手を、いや、お泣きにならぬやう、涙は情愛の印とはいふものの、どうしたらよいかは知りませぬ……従弟殿、私はあなたの父には若すぎる、が、あなたは私の後を継ぐには十分の年齢だ。あなたが手に入れたいものは、直ぐにもさしあげよう、それもまた喜んで、といふのは、力づくで手に入れようと望まれれば、さうせずには済まされないのだから……これからロンドンへ、従弟殿、さうであらう?
ボリングブルック 如何にも、王の仰しやる通り。
リチャード王 では、いやとは言へぬわけだな。(一同退場)
12
〔第三幕 第四場〕
ヨーク公の庭園
王妃と二人の侍女が出て来る。
王妃 この庭で何か慰みごとでも工夫しよう、辛い物思ひを避けるにはどうしたらいいだらう?
侍女 お妃様、球ころがしは如何でございませう。
王妃 いいえ、だめ、それだと球の行く手を邪魔するものがこの世に沢山あることに気附くだけ、それに私の運命は球にひねりを与へても、それとは逆に転つてしまふのだもの。
侍女 それなら、踊りに致しませう。
王妃 脚で陽気に調子を取るといふ訳にはとてもいかない、心の方が悲しみのために、まつたく調子をはづしてしまつてゐるのだもの、とても踊りなどは出来はしない――何かほかの遊びでも。
侍女 それなら物語りは如何でございませう。
王妃 悲しい話、それとも楽しい話?
侍女 どちらでも、お好きな方を。
王妃 どちらもだめ。楽しいことは今の私には全く欠けてゐるのだから、かへつて余計、辛いことを思ひだしてしまふ、そして悲しいことときたら私の周囲にはただそればかりなので、楽しみの欠けてゐる上に、ますます悲しみを附け加へてしまふやうなもの、もともと自分の持つてゐるものを繰り返してみる気はないし、何か欲しいからといつて、それが手に入らぬことを歎いてみても何の足しにもなりはしない。
侍女 では、歌を唄つてさしあげませう。
王妃 歌ひたいのなら、それも結構ね、でも私には泣いてくれた方がずつと嬉しい。
侍女 いつでも泣いて御覧に入れませう、その方がお役に立つのなら。
王妃 泣くのが役に立つのなら、私は嬉しくて歌が唄へる、でも、それならお前の涙を借りるまでもない……。
庭師達が鍬など手にして入つて来る。
王妃 でも、お待ち、そこに庭師達が。この木蔭に入つて、話を聴いてみよう。自分の惨めさをただの針一本に賭けて誓つてもいい、あの人達、きつと政治向きの話をするに違ひない、国の動きに何か変化が起ると、誰でもきつとさうするもの。禍ひの噂は禍ひそのものよりも一足さきに聞えてくるものなのだよ。(侍女達と共に身を隠す)
庭師 (弟子の一人に)おい、向うにぶらさがつてゐる杏《あんず》の実を結《ゆ》はへて来るんだ、まるで厄介息子宜しく親爺にぶらさがり、手前らの放蕩の重みで枝をすつかりたわめてしまひやがつた、そのひん曲つた枝に突つかへ棒をして来な。(他の弟子に向ひ)お前の方は、すつかり伸びすぎてしまつた枝の頭のところをちよん切つて来な、あの死刑執行人よろしくつてところだ、この国では余り背丈を伸ばしすぎるといふのは何よりいけねえ――よろしくどん栗の背較べで行かなければならねえんだ……お前達がそれをやつてゐる間に、俺はあの毒のある雑草を引つこぬいて来るとしよう、あいつがはびこると、いい花から養分をどんどん吸ひ取つてしまふんで、始末に負へない。
弟子 親方、何だつて俺達はこんな狭い囲ひの中で法だの形式だの釣合ひだのをきちんと守つて、立派な国家つていふものの真似事をしようとするんだね、この海で囲まれたお庭の、詰《つま》り、国家の方ではそこら中に雑草がはびこり、一番きれいな花まで息を止められ、果物の木も手入れが一向行き届かず、垣根は毀《こは》され放題、花壇はごちやごちや、大事な草木には毛虫がうぢやうぢやたかつてゐるといふのに?
庭師 黙つてゐろつてことよ――この春に手入れを怠つたお方だ、今ではもう葉の落ちる秋を迎へても仕方はねえ。広い葉の下で雨風を凌いでゐた雑草どもは実はそのお方を食ひ物にしてゐたのさ、結構そのお方のお役に立つやうな顔をしてゐたくせにな、それが今では皆ボリングブルックの旦那に根こそぎやられてしまつたといふ訳よ――詰り、ウィルトシャー伯、ブッシー、それからグリーンのやうな連中のことさ。
弟子 え、ぢやあ、あの連中は皆死んぢまつたんで?
庭師 さうよ、そしてボリングブルックはあの金遣ひの荒つぽい王様を取つ掴《つかま》へてしまつた。あゝ、お気の毒なことに、王様も俺達がこの庭の手入れをするのと同じやうに、この国を刈りこむなり、何なりしておけばよかつたのに! それ、俺達だつて生《な》り物の木には、時を見て幹の方に焼きを入れておくだらう、それは吸ひあげた養分が余り効き過ぎて、木はすつかり好い気になり、お蔭で駄目になつてしまふからよ。王様も成上り者のお偉方をさうしておけば、奴らも生き延びて、王様の方でその忠義といふ果物をうまく味はへたらうによ。俺達は余計な枝はちよん切つてしまふ、実の成る枝を生かすためにはな。王様もさうしておいたら、まだまだ冠をつけてゐられたらうに、詰らんことに精出しおつて、たうとうそれを投げ出しちまつたのさ。
弟子 ぢや、親方、王様はもう位を誰かに取られてしまふだらうといふのかね?
庭師 もうすつかり参つてしまつたよ。王位だつて危いものだ……ゆうべヨークの殿様の御親友つて方のところへお使ひが見えて手紙を届けてくれたさうだが、それが何だか不吉なものらしいよ。
王妃 あゝ、まるで拷問に掛つてゐるやう、胸が詰つて死んでしまひさう、どうしてこのまま黙つてゐられよう! (姿を現はし)お前は、大昔のアダムのやうに、大人しく庭の手入れをしてゐればよいのに、なんと不作法な、どうしてそのやうな不吉な知らせを口の端にのぼせられるのだらう? 一体どんなイヴが、どのやうな蛇がお前を唆《そそのか》して、この呪はれた人間に、二度の楽園追放の憂き目を味ははせようといふのか? なぜお前はリチャード王御退位の噂など流すのです? 一握りの土塊《くれ》にもひとしい身の上で、王の零落をあつかましくも口にすることがどうして出来よう? さあ、お言ひ、どこで、いつ、どうしてそんな不吉な知らせが耳に入つたのか? さあ、はつきりかうと口に出したらいい、恥知らずにも程がある!
庭師 どうぞ御勘弁を、お妃様、何も喜んでこんなことを口にしてゐるのではございません。ただ、私の申上げてゐるのは本当のことなのでして、つまり王様はボリングブルックの手ですつかり雁字搦めにされ、どうにも動きが取れません。御運はいま秤に掛けられてゐるやうなもので、王様の皿の上には、ただ王様お一人しかいらつしやらない、後には、その王様の目方を軽くするやうな軽薄きはまりない連中がほんの少し。それに引換へ、ボリングブルックの皿の方には、当の本人はもとより、そのほかにもイングランドの貴族といふ貴族が一人残らず乗つかつてゐる有様、どうしたつて、その方が重くなり、王様の皿の方は上の方に吊し上げられてしまひます。直ぐにもロンドンへお出掛けなさいまし、何も彼もおわかりになりませう、私のいま申上げましたことは、もう誰もが先刻御承知のことでございます。
王妃 不幸の使者の何と足の早いこと、お前はもともと私に宛てられたものなのに、その私が誰より最後に知らされる。あゝ、きつとお前は私を一番後廻しにして、その悲しみを誰よりも永く胸に蔵つておけといふのだね……(侍女達に)さ、行きませう、ロンドンで悲歎に暮れてゐるロンドンの王様に会ふために……あゝ、これも私の運命なのかしら、悲しい顔をして、あの勝ち誇つたボリングブルックの行列を迎へなければならないのも? 庭師のお前が私にこのやうな不幸を知らせてくれた罰として、これからお前の接いだ木は、どれもこれも片端から枯れ凋んでしまふがいい。(侍女を連れて庭を出て行く)
庭師 お気の毒に、お妃様! それで御運が開けるものなら、手前の腕を幾らお呪ひにならうと構ひはしない。ここへ涙をおこぼしなさつた、ここがいい、この辺に歎きの花ヘンルーダの花壇を造つてやらう、それがやがて花開けば、お妃の涙の形見になるといふものだ。(弟子と共に退場)
13
〔第四幕 第一場〕
ウェストミンスター大会堂 王の玉座
議会が開かれる、ボリングブルック、オーマール、サリー、ノーサンバランド、パーシー、フィッツウォーター、及びカーライル司教、ウェストミンスター修道院長が這入つて来る。伝令官と役人たちがバゴットを連れて来る。
ボリングブルック バゴットをここへ呼べ……(バゴット、前に連れ出される)おゝ、バゴット、ほかでもないが、グロスター公殺戮の経緯について、己れの知る限りのことを、ここに包み隠さず言つてみるがいい、一体、誰なのだ、このもくろみをリチャード王に持ち掛けたのは? また残虐にもその非業の死に自ら進んで手を藉したのは、どこの何者だ?
バゴット では、まづオーマール卿にお会はせ頂きたい。
ボリングブルック 従弟のオーマール、ここへ来て、この男を見るがいい。
バゴット オーマール卿、勇敢なあなたのことだ、まさか一度口に出されたことを、今更言ひはせぬとは仰しやいますまい。グロスター公の暗殺が目論まれてゐたあの不気味な夜のこと、あなたはかう言はれた、「俺の腕の長さはこの安穏なイングランドからフランスのカレーにまでも届く、そこにゐる叔父の頭にまで届かぬわけはあるまい」、まだほかにも色お話がありましたが、その中で私が特に覚えてをりますのは、「たとへ十万クラウン呈上すると言はれようと、あのボリングブルックをイングランドに呼び戻すことだけは真平だ」――それにまたかうも仰しやつた、「あの従兄が死んでくれれば、この国はどんなに仕合はせになるか」と。
オーマール 王族、貴族の諸卿、このやうな卑むべき男に向つて、一体どのやうに答へたらよいとお考へか? この男と同じ立場に立つて相手に吠え面かかせようものなら、かへつて夜空に燦然として輝く星のごときわがヨーク家の名誉を穢すだけのことになりはしませぬか? が、このまま黙つて引込んでゐたのでは、奴の口穢い中傷を浴びて、私の名誉は地に塗れるばかりとなりませう。(手袋を投げ棄て)さ、これが挑戦の印だ、それこそ貴様を地獄に送り届ける死の捺印と思ふがいい! いいか、お前の言つてゐることは大嘘だ、今まで喋つてきたことはいづれも嘘偽りに過ぎぬ、それを貴様の心臓の血によつて証しして見せてやらう、その血も俺の騎士の剣を汚《けが》すだけの役にしか立ちはしまい。
ボリングブルック バゴット、待て、それを取つてはならぬ。
オーマール これほど俺を怒らせた男が、ここに居並ぶ者のうち、ただ一人を別にして、一番身分の高い者であつたら、どれほどよかつたらうに。
フィッツウォーター 位の下の者が相手では、張り合ふ気も起らぬといふのなら、オーマール、これが私の印だ、貴様の印はいつでも受けて立つ。貴様がそこに立つてゐるのをまざまざと照らし出してくれる太陽に懸けて誓はう、俺は貴様が確かに言つたのを聴いてゐる、グロスター公殺戮の首謀者はこの俺だと貴様は誇らしげに放言したのだ。飽くまでもそれを否定しようとするなら、嘘つきは貴様の方だ、それなら、俺はその嘘をこの細身の剣の切先で見事、突き返してくれる、その大嘘をでつちあげた貴様の心臓目がけて只の一突きと行くぞ。
オーマール ええい、卑怯者の貴様に生きてその日が拝めるものか!
フィッツウォーター おゝ、頼む、今日がその日であつてもらひたい。
オーマール フィッツウォーター、今のその一言で、貴様の地獄落ちは決つたぞ。
パーシー オーマール、貴様の言ふことは嘘だ、フィッツウォーターの糾弾は正しい、貴様の言ふことはすべて不正だ。それを証しするためなら、息の根を止めるまで戦つてやる、さあ、これが挑戦の印だ、勇気があるなら、それを拾つてみろ。
オーマール もしそれが拾へないやうな俺なら、この手首が腐れ落ち、きらめく敵の冑の上に二度とふたたび復讐の刃《やいば》を振りかざせなくなるがいい!
別の貴族 偽りの誓ひをたてるオーマール、俺も大地にこれを投げる、そして日の出から日没に及ぶまで、その謀反人の耳もとに大声で「この嘘つきめ」と怒鳴りつづけ、どうしても受けて立たねばならぬやうにしてやるぞ、さあ、これがその印だ――勇気があるなら、俺の挑戦を受けてみろ。
オーマール もう他《ほか》にゐないのか? よし、みんな相手になつてやる! この一つ胸の内には一千の魂が宿つてゐるのだ、貴様のやうな奴なら二万人ゐようと平気だ。
サリー フィッツウォーター卿、私はオーマールとあなたとが話をしてゐた時のことをよく覚えてゐる。
フィッツウォーター さうだ、あの時、あなたも同席だつた、それなら私の言つたことが本当だといふ証人になつてもらへるわけだ。
サリー 正に大嘘だ、天に誓つてもいい、天そのものが真実であるやうにな。
フィッツウォーター サリー、嘘を言ふな。
サリー この恥知らずの若造め! それこそ大嘘、お蔭でそれがこの剣に重みをつけてくれ、盛んに仕返しせよとせつついてくる、この上は嘘つきの貴様もその嘘も、貴様の親父の頭蓋骨と静かに共寝の出来るやう、土の中へ投げこんでやらう……その証しに、さ、これが俺の名誉の印だ――勇気があるなら、それを拾つて俺と勝負しろ。
フィッツウォーター 気でも狂つたのか、さうして熱《いき》り立つた馬を相手にやたらに鞭をくれたがる! 俺が物を食ひ、酒を飲み、かうして息をして生きてゐる限り、サリーと会ふためなら、どんな荒地であらうと厭《いと》ひはせぬ、こちらから出向いて、その面《おもて》に唾《つば》を吐きかけ、奴の言ふことはみんな嘘の嘘の大嘘だと叫んでやる、さあ、これがその誓ひの印だ、いづれ完膚《かんぷ》無きまでに貴様を懲しめてやる、それまでその身をきつく縛《しば》りつけておくためにな。この新しい御代《みよ》の繁栄を祈つて言つておかう、オーマールの罪は俺がいま追及したとほりだ、それに追放されたノーフォークが言つたことを俺は耳にしてゐるぞ、オーマール、貴様はカレーにおいでのグロスター公を暗殺するため、二人の部下をかの地に送りこんでゐよう。
オーマール 誰でもいい、挑戦の印になるものを貸していただきたい、ノーフォークの言つてゐることはみんな嘘だといふことを証明して見せよう――さあ、これを投げるぞ、奴が帰国を許された時、私との戦ひに奴の名誉のすべてが懸かつてゐるのだ。
ボリングブルック これらの争ひは悉《ことごと》くノーフォークの帰国の時まで、挑戦の印と共に預つておくことにする。言ふまでもない、直ぐにも帰国を許さう、自分にとつては敵ではあるが、その土地、所領の一切を返し与へる。そのうへ直ちにオーマールとの立会ひを許さう。
カーライル その名誉ある日は決して参りますまい。ノーフォーク卿は追放中も幾度となくイエス・クリストの御為、十字の旗を飜へし、異教徒のトルコ人、サラセン人と戦ひ、栄光あるクリスト教国を護つてくれましたが、度重なる戦《いくさ》に疲れ果て、つひにイタリーに退きました、最後はヴェニスであの麗はしい国の土の下に己が体を埋め、醇乎たる魂を長年その旗の下に戦つて来た主クリストの御手に捧げたのでございます。
ボリングブルック なに、司教、ノーフォークは死んだといふのか?
カーライル 確かに……この私が生きてゐるのと同様に。
ボリングブルック 美《うるは》しき平安が美《うるは》しき魂をかのアブラハムの胸に導かんことを! 訴へを起した諸卿、相互の争ひは立会ひの日を定めて申渡すまで、それら挑戦の印とともに私が預つておく。
ヨーク登場。
ヨーク ランカスターの大公、私は羽を〓取《もぎと》られ素肌になつたリチャードのところから参つた者、リチャードは進んであなたを後継ぎとお定めの上、王の印、高貴なる笏をその御手《おて》に譲らうとの仰せ。今、直ぐにもリチャードのお降りになつた玉座に上《のぼ》られよ、ここに改めてヘンリー四世の御長命をお祈り申上げる!
ボリングブルック では、神の御名において、まづ玉座に上るとしよう。
カーライル お待ち下さい、それは神がお許しになりませぬ! 御列席の方をさしおき、まづ最初に私が発言を求めるのは、最も道にはづれたことでもありませう、が、わが役向きの上から申さば、真実を口にすることこそ最も道に適うたことでございます。御列席の高貴な方のうち、お一人でも高貴なリチャード王の正しき裁き手たるにふさはしきお方がいらつしやるなら、それこそ何より……もしさうしたお方なら、その高貴なお人柄のゆゑに王を裁くといふ憎むべき悪事はおのづと慎まれませう。臣下の分をもつて、如何にすれば王に宣告を下されませう? ここにおいでの方のうち、一人としてリチャード王の臣下にあらざる者がありませうか? 盗人すら、裁かれる時は必ずその場にをり、己が罪の宣告を聴いてをりませう、たとへ犯した罪が明かである場合にも同じ事、まして神の尊厳を一身に担ひ、神の命じたまうたその将帥、神の執事、神の代理人として、聖油を塗られ、冠を戴き、長年に亙り王の座に据ゑられてゐたお方を、自らここに在《おは》さぬのに、身分の低き臣下の身を以て裁くことが許されませうか? おゝ、神よ、これを許してはなりませぬ、クリスト教国に生を享け、霊魂を清められし者どもが、このやうな忌まはしい、残酷な行ひをなすことを禁じ給へ! 私は臣下の方に向つて、一臣下として、神に促され、神の命じ給うた王のために、かくも大胆に申上げる。ここにおいでのハーフォード卿を、誰もが一様に王と呼んでゐる、が、卿はその王に叛《そむ》いた不遜きはまる謀反人にほかなりませぬ、それゆゑ万が一にもこれに王位を与へるやうなことになれば、私は預言して憚りませぬ、イングランド人の血がこの国の隅にまで染みこみ、やがて来たるべき世は永劫に亙つてこの呪はれた所行に〓き苦しみ、平和はこの地を去つてトルコ、その他、異教徒の国に眠り、これまで平和が座を占めてゐたこの国は、忽ち戦雲に巻きこまれ、兄弟牆にせめぎ、骨肉相食む地獄と化しませう。そして、つひには混乱、憎悪、恐怖、叛乱がこの地に棲《す》みつき、国土はゴルゴタの野、髑髏《されかうべ》の原と呼ばれるに至りませう。あゝ、もし此の家を押して彼の家と争はしめるやうなことがあれば、この呪はれた地上にも未だ嘗て起つた例《ためし》なき悲惨な争乱が起ることは必定。それを防がねばなりませぬ、食ひ止めねばなりませぬ、そのやうなことがあつてはなりませぬ、さもないと、子供達が、孫達が、あなた方に怨嗟《えんさ》の声を放つことになりませう。
ノーサンバランド よくぞ弁ぜられた、カーライルの司教、その御苦労の御礼までに、大逆罪の廉《かど》により、この場であなたを逮捕する。ウェストミンスター卿、裁判の日まで必ず司教をお預り願ひたい……御一同、リチャード王糾弾について人民から出されてゐる請願の件はそのまま認めてよろしいでせうな?
ボリングブルック リチャードをここへ連れて来るやうに、皆の見てゐるところで退位してもらはう、その方が何も疑はれずに事が進められる。
ヨーク 私がお連れして来る。(退場)
ボリングブルック 諸卿、といつても、抑留されてゐる者たちのことだが、裁判の日に備へて保証人を用意しておくがよい。私はお前達の友情に負ふところもなかつたし、それだけ頼みにもしてゐなかつた。
ヨークがリチャード王を連れて来る、護衛がついてをり、王服は脱いでゐる。その後に役人が王冠、その他を持つて続く。
リチャード王 あゝ、何といふことだ、私がまだ王として君臨してゐた時の気持から完全に抜け切れぬうちに、かうして王の前に呼び出されるといふのは? 私はまだ習つてはゐないのだ、人にうまく取入つたり、世辞を言つたり、頭を下げたり、膝を曲げたりすることは。もう少し時を藉してはもらへぬか、いづれ悲しみが私にさうした服従の手立てを教へてくれよう……が、どうやらどの顔にも見覚えがある、みんな私の臣下ではなかつたか? 嘗てはいづれもこの私に、「おゝ、わが君!」と歓呼の呼び声を浴びせかけてくれはしなかつたのか? ユダもクリストに同じやうなことをした、ただ、クリストには十二人の弟子がゐたが、一人以外はみな忠実だつた、ところが、この私には一万二千の臣下がゐたのに、忠実なものは一人もをらぬ……「神よ、王を守り給へ!」私がさう言つても、「何とぞそのやうに」と言ふ者は一人もゐないのか? 教会とは違ひ、自分で言つて自分で答へねばならぬのだな? さうか、では言はう、「何とぞそのやうに」と。「神よ、王を守り給へ!」自分はもはや王ではない、が、「何とぞそのやうに」と応へよう、天が今なほ私を王だと思つてくれないものでもあるまい。さて、私は何のお務めのために、ここへ呼び出されたのかな?
ヨーク すべては御自分の御発意によるもの、王としての御政務の激しさにお疲れになり、進んで御退位のうへ、王位も王冠も、ともども御従弟のヘンリー・ボリングブルックにお譲りなさるためにございます。
リチャード王 王冠をこちらへくれ……さあ、従弟殿、この王冠を取るがいい、よいか、従弟殿、こちら側には私の手、そちら側にはあなたの手、かうなると、この黄金《わうごん》の王冠は深い井戸のやうなものだ、二つの釣瓶が代る代るに水を汲み、空《から》の方はいつも空中に躍り上つて、一方は人目に隠れ底に沈んだまま、なみなみと水を湛へてゐる。その、下に沈んでゐる釣瓶がさしづめこの私の方だ、悲しみに溢れて涙で一杯になつてゐる、もちろん、あなたの方はそのあひだ上の方に高く舞ひ上つてゐるのだ。
ボリングブルック 快く御譲位のことと思つてをりましたが。
リチャード王 王冠なら快く譲りもしよう、が、この悲しみだけはこの身独りのもの。なるほどこの身の栄光と権力は奪へもしよう、が、この悲しみだけは奪へまい、私はまだその悲しみの王なのだ。
ボリングブルック 御心中の悩みの一部を王冠と共に何とぞこの私に。
リチャード王 その胸に悩みが宿つたからといつて、この胸の悩みが消えて無くなるものでもない。この身の悩みといふのは古い悩みが終つて、悩みの種を失つたことにある、それに反してあなたの悩みといふのは新しい悩みを譲り受け、改めて悩みの種を背負ひ込んだことにある。私は譲る悩みをとうに捨てたはずなのに、まだそれがここにあるのだ、それは王冠に伴ふはずのものなのに、まだこの胸のうちに残つてゐるらしい。
ボリングブルック 王冠をお譲り下さるお気は有るのか、無いのか……。
リチャード王 有るとも、いや、有りはせぬ、有るわけがない、いや、その気はあるのだ、さうであらう、今の私は何者でもない一介の平民、それなら否も応もありはせぬ、王位はあなたに譲るとしよう……さ、見るがいい、私が私ではなくなる姿を、それにはまづこの頭から重苦しい王冠を、次にはこの手から煩はしい笏を、そして最後に私の心から王の権力に伴ふ誇りをかうしてすべて取り除く。己れ自身の涙をもつて、王の体に塗つた香油を洗ひ落し、己れ自身の手をもつて、王の冠を譲り渡し、己れ自身の舌をもつて、聖なる王権を取消し、己れ自身の息をもつて、王への服従の誓約を吹きとばす。私はあらゆる栄華も威厳も自ら誓つてこれを絶ち、領地も地代も歳入も悉くこれを捨て、法令も布告も法規もすべてこれを撤回する。神よ、私に対する誓ひを破つたものをお許し下さるやうに! 従弟殿、あなたに対する誓ひは、神がこれをお守り下さるやうに! 身一つの私に、歎きの種が一つも無いやうに、そして、すべてを手に入れたあなたにすべての喜びが与へられるやうに! あなたがリチャードの座に長く留り、リチャードは直ぐにも土の中に横たはらんことを……「神よ、ヘンリー王を守り給へ」と、今はもう王ではなくなつたリチャードが言ふ、「そしてヘンリー王には太陽の光り輝く長の歳月を与へ給へ」と……まだほかに何かあるかな?
ノーサンバランド 御退位の儀式はそれで十分でございます、ただ御自身が、そしてお仕へする家臣の方が、この国の秩序と利益とに反して犯された由しき罪状とその弾劾状をお読み下さらねばなりません、それを告白して頂き、人に御退位の然るべきことを納得してもらふためでございます。
リチャード王 さうまでせねばならぬといふのか? 自ら織りあげた愚かな行ひを自分の手で解きほぐさねばならぬのか? ノーサンバランド、もしお前の罪が記録されてゐるとしたなら、それをかほど優れた人の前で読みあげ、一廉《ひとかど》の説教を垂れよと言はれれば、結構、恥とは思はぬだらうか? もしお前がそれを読むとするなら、当然、次の憎むべき一箇条に触れずには済まされまい、それは王を退位に追ひこみ、臣下の誓ひを破つたといふ汚辱に塗《まみ》れた、正に天の記録にも堕地獄の罪と記されてゐる一条だ……ここにゐる者すべてに言つておくぞ、私が自分の惨めさに悩み苦しんでゐるのを、ただじつと突立つて眺めてゐるお前ら、中にはピラトのやうに手を洗ひ、上辺《うはべ》だけ気の毒さうにしてゐる者もゐようが、所詮、お前らはみんなピラトだ、かうしてこの私を酷い十字架に附けるのを許したではないか、如何なる水もお前らの罪を洗ひ落すことは出来はしないぞ。
ノーサンバランド わが君、お急ぎの程を、箇条書を読んで戴きませう。
リチャード王 私の目は涙で一杯だ、よく見えぬ。もつとも塩水で目を曇らせてゐても、ここに一群れの謀反人どもがゐることだけはよく見える。いや、飜《ひるがへ》つてその目をわが身に向けて見れば、自分も他《ほか》の者と同じ謀反人の一人だといふことがよく分る。ほかでもない、私自身が王の華やかな式服を剥ぎ取ることに心から同意し、その結果、栄光を卑賤に、主権を奴隷に、至尊の身分を臣下に、最高の位を土百姓にしてしまつたのだからな。
ノーサンバランド わが君――
リチャード王 黙れ、お前の君でなどあるものか、この思上つた無礼者めが。俺は誰の君でもありはしない、名もなければ、尊号もない、何もあるものか、確か洗礼の時に名はつけてもらつたが、今はそれも剥ぎ取られてしまつた、あゝ、全く惨めな話だ、厳しい冬を何度も凌いで来たのに、自分をどう呼んだらいいのか、今になつてそれが分らぬといふのは! さうだ、私は雪達磨の王になればよかつた、そしてボリングブルックの日射しに照らされて、水のやうに溶けて消えてしまへばいいのだ! 良き王、大いなる王、だが、大いに良き王とは言ひかねるが、おゝ、もし私の言葉がまだこのイングランドで通用するものなら、直ぐここへ鏡を持つて来てはくれぬか、今、この私がどんな顔をしてゐるか、それが見たいのだ、王の威厳の破産した顔をな。
ボリングブルック 誰か、行つて鏡を持つて来い。(侍者一人、去る)
ノーサンバランド 鏡が参りますまでに、この書面をお読み下さい。
リチャード王 鬼めが、地獄へ行かぬうちから、この俺を責め苛まうといふのか。
ボリングブルック これ以上、無理強ひせぬがよい、ノーサンバランド卿。
ノーサンバランド それでは人民が満足致しますまい。
リチャード王 いや、きつと満足してくれる。今、私の罪が一つ残らず書いてある本を持つて来てくれようから、それをたつぷり読んで聴かせよう、その本とは、つまりこの私自身の姿だからな。
侍者が鏡を持つて来る。
リチャード王 その鏡を寄越せ、そこに映るものの姿を読んで聴かせよう……皺はまだ深くはなつてゐないな? 悲しみがこの顔にあれほど何度も打撃を与へたのに、この程度の傷しかついてゐないのか? ほう、おべつか使ひの鏡め、俺が幸運に恵まれてゐた頃の家来同様、お前も俺を騙すのか! この顔が毎日、己れの屋根の下に一万の人間を養つてゐた男の顔なのか? この顔があの太陽のやうに仰ぎ見る者を眩《まぶ》しがらせた顔なのか? そしてこの顔が愚かな行ひでいろいろ化粧を施してもらひ、揚句《あげく》の果にはボリングブルックにその化粧を剥《はが》されてしまつた顔なのか? この顔には脆き栄光が輝いてゐる。その栄光のやうに脆いのだ、この顔は。(鏡を叩きつけ、粉に砕く)それ、見るがいい、粉に砕けてしまつた……王よ、黙つておいでだが、この見せ物の隠れた意味がお分りかな、私の悲しみが私の顔を打ち砕く、それはほんの瞬く間の出来事に過ぎぬといふことだ。
ボリングブルック あなたの悲しみの影があなたの顔の影を砕いたまでのことに過ぎますまい。
リチャード王 え、何と言つたのだ? 私の悲しみの影……ふむ、さうか――確かにその通りだ、私の悲歎はすべてこの胸の内に籠つてゐる、かうして外に現れる愚痴の類ひは、苦しみ悶える魂の奥底で黙つて波打つ、目には見えぬ歎きの単なる影に過ぎない……その苦しむ魂こそ本物なのだ、王よ、重ね重ねの賜物、何と御礼を申上げたらよいのか、あなたはただ単に歎き悲しむ本《もと》を与へて下さつたばかりでなく、どう歎いたらよいのかも教へて下さつた……ところで、もう一つ頼みがある、そしたらここを立ち去らう、これ以上、厄介は掛けぬ。聞いていただけるかな?
ボリングブルック 兄上、それが何か仰しやつて下さい。
リチャード王 兄上? 私は王より偉いのだな、まだ私が王だつた時、私に追従をいふ者は皆、私の家臣だつた、だが、今、かうして私の方が家臣になつてみると、王が私に追従を言つてくれる、そんなに偉くなつてしまつたのでは、もう頼む必要は何もない。
ボリングブルック まあ、仰しやつてごらんなさい。
リチャード王 こちらの言ふ通りにしてもらへるかな?
ボリングブルック その通りに致しませう。
リチャード王 それなら、是非、行かせてもらひたい。
ボリングブルック どこへおいでになりたいといふのか……?
リチャード王 あなたの望むところへ、ただしあなたの見えぬところへ。
ボリングブルック 誰か、ロンドン塔へお送りしろ。
リチャード王 おゝ、これはいい! お送りしろか? お前達は差詰め、運送屋だ、本物の王が重くて荷台から転げ落ちれば、これで身軽になつたと大喜び、如才なくそこらで贋物の軽い王を拾ひ上げて突走る。
数人の貴族が衛兵に取巻かれた王を連れ去る。
ボリングブルック 次の水曜日、この身の戴冠式を取り行ふ。諸卿も直ぐその準備にかかるがよい。
ボリングブルックと貴族たち、列をなして退場。ウェストミンスター修道院長、カーライル司教、オーマール公のみ残る。
修道院長 痛ましい芝居を見せられましたな。
カーライル やがて禍ひが起ります――まだ生れ出ぬ子らも、この日のことを思ひ出し茨《いばら》の棘《とげ》が刺さつたやうに痛みを覚えませう。
オーマール お二人とも聖職についておいでだが、ぜひお尋ねしたい、この国からあの有害な毒ともいふべき染みを取除く策はないものでせうか?
修道院長 オーマール卿、私の胸の内をお打明けする前に、聖餐にかけて、私の考へを人には洩さぬことを、なほそればかりか、私の目論見が何事であれ、必ずそれを達成するやう、きつと御誓約いただきませう。あなたのお顔にはあの方に対する御腹立ちの色が、お心にはお悲しみが、そしてお目に涙が、はつきり見受けられます。今夜、食事はわが家にてお取り下さい、その折、私の一策についてお話し申上げれば、きつとお心も晴れ渡ることでございませう。(一同退場)
14
〔第五幕 第一場〕
ロンドン ロンドン塔へ行く路上
王妃と侍女達登場。
王妃 王様はこの道をお通りのはず、これはジュリアス・シーザーが築いたといふ不幸な塔へ通じる道、あの冷たい石の胸に囲まれて、私のリチャードは傲り昂ぶるボリングブルックのために罪に落され、たうとう囚れの身となつてしまふのだ……この辺で休んで行かう、大地までが逆意を抱きかねない世の中だけれど、私は正統の王の妃、休む場所くらゐはあるだらう。
リチャードが護衛されて、同じ路を通る。
王妃 あ、お待ち、あれを見て、いいえ、見るのではない、私の美しい薔薇の花がああも萎《しを》れ果ててしまふのか――いえ、面《おもて》をお挙げ、よく見るがいい、おいたはしさの余り、お前達の体が溶けて露となり愛の涙となつて、萎《しぼ》んだお体に降りかかり、元どほりの清《すがすが》しい花のお姿を取戻してさしあげられたら……あなたは昔トロイが誇つた栄華の跡! 名誉の縮図、リチャード王の墓石、それがもうリチャード王ではない、あなたは一番美しい王公の宿舎、そこへなぜ醜い悲しみが宿を借りたりするのだらう、あの勝ち誇つた喜びが居酒屋の客に納り返つてゐるのに?
リチャード おゝ、妃か、悲しみに手を藉すな、さうまでして私の臨終を早めることはない、これまでの私達の豪奢な生活は一場の幸福な夢だつた、さう思つてくれ、それから醒《さ》めて、よく見れば、私達の本当の姿はこんなものでしかないのだ。私には騎士道の誓ひをたてた友がゐるのだが、それが陰気な貧苦といふ奴で、それと私は死ぬまで別れられないのだ……さ、お前は直ぐにフランスへ行つて、どこか尼僧院にでも籠ることだ。これからは神に身を捧げて暮すがいい、そして天国の王冠を捷ち得ねばならない、今日までの私達は、その王冠を投げすててまで、神に背いた時を送つて来たのだからな。
王妃 なぜそんな! 私のリチャードがお姿ばかりか、お心までもすつかり変り果てて、さうまで弱くなつておしまひとは、あのボリングブルックはあなたの分別の座まで譲り受けてしまつたと仰しやるおつもりらしい、それどころか、お心の中まで自分のものにしてしまつたと仰しやりたい御様子。獅子はたとへ死に追ひこまれようと、負けた悔しさに猛《たけ》り狂つて、その爪を突出し、たとへ抵抗する相手がゐなくとも、せめて大地を引き裂くといふ、それをあなたは子供のやうに叱られつ放し、相手の鞭に口づけして、どんな乱暴者にも媚びへつらふさもしさ、それが百獣の王、イングランドの獅子と言へませうか?
リチャード なるほど百獣の王か! もし相手が獣でさへなければ、私は今もなほ幸福な人間の王であつたらうに……かつては私の妃であつたお前も、今はフランスへ渡る用意をした方がいい。私は死んだのだ、だから今ここで私の死の床に、生きながら最後の別れを告げると思へばよい。退屈な冬の夜長には炉ばたに年寄りどもを集めて、昔に起つた悲惨な話を聴かせてもらひ、それが終つて皆がお休みを言ふ前に、それまでの悲しい話の礼として、今度はお前が私の哀れな転落の物語りをしておやり、それを耳にすれば誰でも泣きながら床《とこ》に就かう。人の世の情《なさけ》を知らぬ燃えさしさへ、そのお前の舌の悲しい調べに心を動かされ、憐れに思つて、つい貰ひ泣きをし、忽ち涙で残り火を消してしまふだらう、灰のところは灰のまま、黒く焼け残つたところは黒いまま、この正統な王の退位を歎いてくれるに違ひない。
ノーサンバランドがやつて来る。
ノーサンバランド 申上げます、ボリングブルックのお気持が変りました、ロンドン塔ではなく、ポンフレットにいらつしやつていただきませう……そしてお妃にも御指図が下り、至急フランスへお立ち願はねばなりません。
リチャード ノーサンバランド、ボリングブルックはお前を梯子に利用し、私を押しのけ、たうとう玉座に這ひ上《のぼ》つた、が、大して時はかかるまい、そのおぞましき罪は腫《は》れ上り、腐り頽《くづ》れて膿を出すに決つてゐる。たとへ奴がお前の分け前として全領土の半分をくれようとも、それで我慢の出来るお前ではあるまい、奴がこの全国を手に入れるのに、随分と力を藉してやつたお前だからな……それに奴のことだ、かう思つても不思議はない、資格のない王を玉座に植ゑつけるにはどうしたらよいかを知つてゐるお前のことだ、それなら今度はさほど大した理由はなくとも、その奪ひ取つた玉座から奴を摘《つ》み取り、真逆様に蹴落す法も知つてゐるはずだとな。邪悪な手合ひの友情は直ぐ恐怖に変り、恐怖は憎しみに変る、そしてその憎しみが一方の、あるいは双方いづれの頭上にも然るべき危険と身に応じた死を与へずにはおくまい。
ノーサンバランド 私の罪は私の頭上に、それだけの話。さ、お別れの御挨拶を、直ぐにも御一緒に来ていただかねばなりません。
リチャード 二重に離婚しろと言ふのか! さすがに悪党だ、お前らは二重に結婚を冒涜してゐるのだぞ――先づ王冠と私との仲だ、そして今度は私と妃との仲と来た……お前と私とが結婚の時に交した誓ひを、この口づけをもつて取り消すのだ、いや、それは出来ぬ、やはり口づけをもつて取り交した誓ひなのだからな……二人を引き離してくれ、ノーサンバランド――私は北へ、そこでは身の凍《こほ》るほどの寒さと病ひとが人を悩ませる北国へ、妃はフランスへ、そこから爽かな五月のやうに華やかに飾られて私の所へ来たのだが、それが今、かうして萎《しを》れて帰つて行く、一年中で昼の一番短い万聖節の日のやうに。
王妃 どうしても私達は離れ離れにならなければ、違つた道を裂かれて別に……?
リチャード さうなのだ、手も心も、それぞれ別れ別れに別の道を……。
王妃 それなら二人とも追放するがいい、王も私と一緒に何処へなりと追出しておくれ。
ノーサンバランド あるいはそのはうが、結構、情の籠つたやりかたかも知れませんが、決して策の上なるものとは申せませぬ。
王妃 それなら、王のいらつしやるところへ、この私も行かせておくれ。
リチャード それなら、二人が共に泣き、この悲運を一つものにしてやらうと言ふのか。妃、お前は私のためにフランスで泣き、私はお前のために、この国に留つて泣かう。近くにゐて一つになれぬものなら、遠く離れてゐた方が遥かにましだ。お前の歩む道程《みちのり》を溜息で数へて行くがいい、私は己れの呻《うめ》き声で数へて行かう。
王妃 帰る道程《みちのり》の遥かに遠い私は、それだけ何度も歎きを重ねねばなりません。
リチャード 私の行く道は短いかも知れぬが、その代り、一足ごとに二度の呻きを挙げよう、せめて重い心で歩む道程を延ばすのだ……さ、さ、もう止めにしよう、悲しみに言ひ寄るのは短い方がいい、どうせ悲しみと一つになれば、歎きは尽きはしないのだ。さあ、口づけで口を鎖《とざ》し、後は黙つて別れよう――かうして私の心はお前に、お前の心は私に。(口づけを交す)
王妃 もう一度、私の心を返して。あなたのお心を私が持つてゐるのは厭《いや》、それを涙で泣き殺してしまふなどと、とても辛い役目ですもの。(二人、再び口づけをする)あゝ、これでやつと私の心は返していただいた、さあ、いらして、これでたつぷりそれを泣き殺してやれる。
リチャード かうして女しく振舞つてゐたのでは、振りかかる不幸を一層いい気にさせるばかりだ、もう一度、これを最後にお別れだ、言ひたいことは山程ある、それはお互ひの悲しみに語らせよう。(一同退場)
15
〔第五幕 第二場〕
ヨーク公の館
ヨーク公夫妻が出て来る。
夫人 その後が伺ひたうございます、二人の従兄弟《い と こ》がロンドンにお着きになつた話の途中、急に泣き出しておしまひになりましたけれど。
ヨーク どこまで話したかな?
夫人 ひどく心ない仕打だつたとか、手に負へない乱暴者たちがそこいらの塵芥を掴んで、あちこちの二階の窓からリチャード王の頭を目がけて投げつけたといふあたりまでは伺ひましたが。
ヨーク うむ、そこで、先刻《さつき》も話したとほり、あの大ボリングブルックのことだ、それが大望を懐く主人の胸の内を十分に心得てゐるとしか思へぬ血気盛んな馬に打ち跨り、ゆつくりと、しかも堂たる歩調を保ちながらの行進、一方、それを見た群集は、「神よ、汝を守り給へ、ボリングブルック!」と喊声を挙げたものだ、まるで一つ一つの窓そのものが口を開けたとしか思へぬ、老いも若きもすつかり逆上《の ぼ》せあがつて、窓から首を突き出し、惚れ惚れした目つきでその顔を見ようとする、おまけに壁といふ壁には人の絵を描いた垂幕が張つてあり、しかもそれが一斉に声を張り上げんばかりの有様、「神の御守護を! ようこそ、ボリングブルック!」とな、その間《かん》、あれは始終、右を見、左を見、帽子を脱いだまま、誇らかな馬の首よりも低く頭を垂れ、連中に向つてかう言ふ、「皆に礼を言ふ、同胞諸君よ!」、絶えずさうしながら、通つて行つたものだ。
夫人 お気の毒なリチャード、その時、あのお方の馬はどのあたりに?
ヨーク 芝居を見るがいい、見物といふ奴は人気役者が舞台から姿を消したあと、次に出て来る役者を見る目はうつろ、何を喋つても耳は上《うは》の空、それと同じやうに、いや、それ以上に侮蔑の意を籠めて、見物人どもの目は不機嫌さうにリチャードの上に注がれ、誰一人「万歳、リチャード!」と叫ぶ者もゐはしない。嘗ての王の帰国を歓呼の声で出迎へる者もないどころか、塵芥を聖なる頭上に浴びせかける始末、それをあの方は穏かに憂はしげに、払ひのけはしたものの、さすがにそのお顔には涙とそれを打消すやうなかすかな笑ひとが交り合つてをつた、言ふまでもない、それは悲しみと忍耐の印なのだ、神には何か深い仔細がおありなのだらう、かうしてみんなの心を鋼と鍛へてお置きにならなかつたら、その心は涙となつてあのリチャードの上に降り注いだことだらう、それにはいかな野蛮人も憐れみを催さずにはゐられまい、やはりかういふ事柄のうちにも天意が働いてゐるのだ、さういふ気高い御意志には心して随つて行かねばならぬ……今やわれわれはボリングブルックに臣下の誓ひを立てたのだ、その威儀と名誉とは最後までこれを守つて行かねばならぬ。
オーマールが入口に現れる。
夫人 あゝ、息子のオーマールが。
ヨーク なるほど今までは確かにオーマール公ではあつたが、リチャードにお身方したため、その地位は失はれたのだ、これからはお前もラトランド伯と呼ぶことにせねばならぬ。私も議会でこれの保証人となり、新しく選ばれた王に対して終生変らぬ忠節を誓ふやう立会つて来たところだ。
夫人 お帰り。新たに巡り来る春に、居心地のいい緑の凹みに乱れ咲く菫の花になりさうな方はどなたかしら、教へておくれ。
オーマール 母上、それを私は知りもせず、知りたくもありません。また、決してそれにならうとも思ひませぬ。
ヨーク だが、新しく春が来たからには、程よく振舞はなければならぬ、さもないと花の盛りに追ひ附かぬうちに、忽ち刈り取られてしまふ。オックスフォードからの知らせはどうだ? 例の馬上試合は催されような?
オーマール はい、父上、恐らく催されませう。
ヨーク お前もそれに参加する、さう承知してよいだらうな?
オーマール 神がお留めにならぬ限り、その積りでをります。
ヨーク その印《いん》を捺《お》してあるのは何だ、胸から垂れ下つてゐるやつだ? 顔色が変つたな? その書き物を見せろ。
オーマール 父上、お見せするほどの値打ちもない詰らぬものです。
ヨーク それなら、誰に見せてもよからう。見ればそれで気が済む、さあ、その書き物を見せてくれ。
オーマール お願ひです、父上、それだけはどうぞお許しを、なに、詰らぬもので、ただ一寸訳があつてお見せしたくないだけのことなのです。
ヨーク こつちにも一寸訳があつて、是非とも見たいだけのことなのだ……事によると、何か恐しいことが――
夫人 何でせう、恐しいことと仰しやるのは? きつと何かの証文でせう、今度の試合の日に備へて晴れ着を買ふためにお金が欲しくて、証文を書いたに違ひない。
ヨーク 証文を書いたと、馬鹿な! 自分の借りた金の証文をどうして自分が持つてゐるのだ? 馬鹿なことを言ふな……おい、倅、その書き物を見せるがいい。
オーマール お願ひです、お許し下さい、これをお見せすることは出来ません。
ヨーク とにかく見せればいいのだ、さ、見せろといふに。(いきなりその書き物を胸から引つたくつて読む)おゝ、正に反逆だぞ! 不埒極まる反逆だ! 悪党めが! 謀反ではないか! この裏切者!
夫人 あなた、一体、何事が起つたと仰しやるのか……?
ヨーク (叫ぶ)おい! 誰かゐないか? 馬に鞍を置け。(再び書き物を読む)何といふことだ! これこそ、謀反ではないか!
夫人 まあ、一体どうしてそのやうな?
ヨーク (声高く叫ぶ)長靴を持つて来い、馬に鞍を置くのだ。(なほ書き物を読みつづける)かうなつたら、俺の名誉と真実に懸けて、俺の命に懸けて、その悪党を告発せずにおくものか。
夫人 でも、どうしてそのやうな事を?
ヨーク 黙つてゐろ、馬鹿な女だ。
夫人 黙つてはをりません。一体、何事が起つたのか、オーマール、一体どうしたといふのです?
オーマール どうぞ母上、御心配なさらぬやうに。高が命ひとつ捨てれば済むこと――
夫人 命を捨てる!
ヨーク 長靴を持つて来い、直ぐ王のところへ行くのだ。
召使が長靴を持つて来る。
夫人 その男を打つてやるがいい、オーマール……かはいさうに、すつかり取乱してしまつて。目障りな、あつちへお行き! 二度と顔を見せないでおくれ。
ヨーク (召使に)おい、靴を寄越せ。(召使が靴を穿かせる)
夫人 待つて、あなた、どうなさるおつもりか、それをお聞かせ下さいまし。まづ御自分の罪をお隠しにならないで宜しいのか、この子のほかに男の子はをりますまい、それともまた生れる望みがあるとでも? 私にはもうその力はありはしない、その年を取つた私から大事な息子を〓ぎ取り、母親の仕合はせを奪はうとなさるのか? この子はあなたに似てはゐない、あなたの子ではない、さう仰しやるおつもりですか?
ヨーク 愚かな気違ひ女だ、お前はこの恐るべき陰謀を隠しておけると思ふのか? 十数名の者が聖餐に懸けて誓ひをたて、代る代る署名を交し、オックスフォードで王を亡き者にしようとしてゐるのだぞ。
夫人 この子にさうはさせません。ここから出さないやうにしませう、さうすれば、どうしやうもないではありませんか!
ヨーク 退け、愚かな女め! たとへこの子が正真正銘、俺の倅であらうと、だからといつて、これが黙つて見逃せるものか。
夫人 もしあなたが私のやうに生みの苦しみを知つてゐたら、これにもつと憐れみを感じて下さるに違ひありません。でも、それも分つてをります、あなたは私を疑つていらつしやる、私が不貞をはたらいて出来た子がこの子、詰り、血の繋つた本当の子ではないとお考へなのでせう。あなた、お願ひします、どうぞそんな風にお考へにならないで、この子はあなたそつくり、私には少しも似てはゐない、私の身寄りの誰にも似てはをりません、それでも私はこの子が無性にかはいい。
ヨーク ええい、退け、仕様のない女だ。(去る)
夫人 後を、オーマール。お父様の馬に乗つて、一足先に王の御前に、そして、すべてをお話しして王の許しを請ひなさい。私もさうは遅れずに行きます――年は取つても、馬でならお父様に遅れを取りはしない、ボリングブルックがお前を許すまで、この両膝を決して地面からあげはしません。さ、早くお行き!(母子、共に急ぎ去る)
16
〔第五幕 第三場〕
ウィンザー城
ボリングブルック、パーシー、その他の貴族たち登場。
ボリングブルック 誰か知つてゐるものはゐないのか、私の息子の例の陸《ろく》でなしの消息を? この前、あれに会つてから、もう三月にもなる、もしわが家に不運が振り懸つて来るとすれば、その種はまづあいつだ。皆に頼む、何とかしてあれを探し出してもらひたい。ロンドン中の酒場を片端から当つてみることだ、何でも奴は毎日のやうに酒場に入り浸つてゐるとか、それも手に負へぬ無頼の輩《やから》と一緒に出入りしてゐるらしい、その連中と来たら、いつも狭い小路に出没し、夜廻りの役人を囲んで殴つたり、通行人を襲つて盗みを働いたり、全く仕方のないごろつきどもだ、さういふ放蕩仲間のわるさを助けるのが、あの気紛れな若造の目には、結構、騎士道の華と映じるらしいのだ。
パーシー もう二日ばかり前になります、王子にお目にかかりましたのは。その際、オックスフォードで催される試合のこともお話ししておきました。
ボリングブルック で、その勇敢な伊達《だ て》男はどう答へた?
パーシー それがかうです、俺はこれから女郎屋へ行つて一番すれつからしの淫売から手袋一つふんだくり、そいつを貴婦人からもらつた愛の印とばかりに冑に飾つて、誰でもいい、一番勇猛果敢な騎士を相手に、見事、落馬の恥を掻かせてやると、さうお答へになりました。
ボリングブルック 正に放蕩無頼、そのうへ怖いもの知らずと来た――だが、その向うに希望の閃きが無いでもない、それが年を経て物になればよいのだが……それより、誰だ、あれは?
オーマールが取乱した姿でやつて来る。
オーマール 王はどちらに?
ボリングブルック 従弟のオーマールではないか、どうしたのだ、目の色を変へて、その取乱しやうは?
オーマール 神よ、王を守り給へ。お願ひです、お人払ひを、二人だけでお話し申上げたいことがございます。
ボリングブルック 皆、退つてくれぬか、二人だけにしておいてくれ……(パーシー、その他の貴族、退る)さあ、どうしたといふのだ?
オーマール (膝まづいて)まづ許すとの一言《ひとこと》、何よりもそれを承りたうございます、さもなければ、この膝はとこしへに大地に根を張り、この舌は上〓に貼りついて離れず、立つことも話すこともできなくなります。
ボリングブルック それはただ心に思つただけのことなのか、それとも既に犯してしまつた罪なのか? もし思つただけなら、いかに憎むべきことであれ、お前の今後の忠節に換へて、すべてを許すことにしよう。
オーマール では、戸に鍵を掛けることをお許し願ひます、私の話が終るまで、誰も中に這入つて来られませんやうに。
ボリングブルック 好きにするがよい。(オーマール、鍵を廻す)
この時、ヨーク公が戸を叩き、叫ぶ。
ヨーク (外で)油断してはなりませぬ、お気を附けになつて、いま、王の御前にゐる者は謀反人にございます。
ボリングブルック さうだつたのか、悪党め、息の根を止めてやるぞ。(剣を抜く)
オーマール (再び膝まづき)暫くお待ちを、御警戒なさるには及びませぬ。
ヨーク (外で)戸をお開け下さい、余りにもお人が良すぎる、無鉄砲にも程がありませう、お為を思つての悪口雑言、王はこの上まだ欲しいと仰しやるのか? さ、早く戸をお開け下さい、さもないと打ち破つて這入りますぞ。
ボリングブルック、戸を開け、ヨーク公を中に入れると、再び戸の鍵を掛ける。
ボリングブルック どうなさつた、叔父上? 伺はう、さあ、息を継いで。危険はよほど差し迫つてゐるらしい、この身としてもそれを迎へ打つだけの準備をしておかねばならぬ。
ヨーク この書き物にお目通しを、それではつきりお分りのはず、(連名の同意書を渡し)謀反です、急いで参りましたので、息が切れ、詳しくお話し出来ませんが。
オーマール お読みになつても、先ほどの御約束をお忘れなきやう。今は後悔してをります、そこにある私の名はお読みにならぬやう、それを書いたこの手は私の心と一つではありません。
ヨーク 一つだつたのだ、この悪党め、その手で自分の名を書き入れるまではな……私はそれをこの謀反人の胸から〓ぎ取つて参りました。これの後悔は恐怖から生じたもの、決して愛から生じたものではございません。どうぞ憐れみをお忘れになつて下さい、さもないと、その憐れみが《かへ》つて御自分の心臓を突き刺す蛇となりませう。
ボリングブルック おゝ、憎むべき大胆不敵の陰謀! 忠節な父親に、二心ある息子! あなたは透き通つた穢れのない銀《しろがね》の泉だ、そこから流れ出た川ではあるが、泥だらけの道を通つて進むうちに、こんなに汚れ果てた姿になつてしまつたのだ! あなたの善は泉のやうに溢れ出し、たうとう悪に変つてしまつたが、その有り余る善に免じて、道を踏み外した息子の忌まはしい罪を許すことにしよう。
ヨーク それでは私の美徳がこれの悪徳をおびきだしたことになり、また放蕩息子がつましい父親の金を浪費するやうに、これは自分の恥辱をもつて私の名誉を無駄遣ひしたことになります。息子の恥が死んで、やつと私の名誉が生き、息子の恥が生きてゐる限り、私の恥も生きのびます。王はこれの命を救つて、私を殺すお積りらしい――これを生かしておけば、謀反人が生き残り、その代り忠臣は死なねばなりません。
夫人 (外で)お願ひでございます! どうぞ、私を這入らせて下さいまし。
ボリングブルック 誰だ、その金切声は……何か急な頼み事でもあるのか?
夫人 ただの女です、あなたの叔母です――私でございます。話を聴いてやつて下さいまし、哀れとお思ひになつて、この戸を開けて下さいますやう、今までに一度も物をねだつたことのない乞食が、始めておねだりに参つたのでございます。
ボリングブルック どうやら深刻な芝居が道化芝居に変じて、これから「乞食と王様」の場が始るらしい。物騒な従弟殿に頼むとするか、さ、母上を中へ入れてあげたらどうだ、分つてゐる、お前の罪を許してくれるやうに頼みに来たのだらう。
ヨーク 誰の頼みであらうと、万一、それをお許しなされば、その御赦免をよいことにして、罪はますます栄えませう。この腐つた関節を切つて捨てれば、後《あと》は事なく残りますが、それをそのまま放つておくと、その後の方まで腐つてしまひます。
オーマールがヨーク夫人を部屋に入れる。
夫人 あゝ、王様、この情《じやう》の無い人の言葉を決してお信じにならないで下さいまし! 自分の子を愛せぬ者がどうして人様を愛せませう。
ヨーク この気違ひ女が、お前はここへ何しに来たのだ? その萎びた乳房でもう一度謀反人に乳をやり、立ちあがらせようといふ魂胆か?
夫人 お願ひ、あなたは黙つていらして。(膝まづいて)どうぞ私の話も聴いて下さいまし。
ボリングブルック まあ、叔母上、お立ちを。
夫人 いいえ、まだ立つわけには参りませぬ。まづ私に喜びを与へて下さらねば――この私のラトランドを、罪深いわが子を、許すと一言《ひとこと》仰しやつて下さらねば、いつまででもこのまま膝で歩き、仕合はせな人の仰ぎ見る日の目を一切見たうはございませぬ。
オーマール (膝まづき)母の願ひに重ねて、私も膝を曲げます。
ヨーク (膝まづき)二人に反対の意味で、私も忠節の膝を曲げます。その者たちに恩恵をお与へになれば、きつと禍ひが起りませう。
夫人 あの人は本当にさう思つてゐるのでせうか? その顔を御覧になれば分ります。目に涙は浮かんでをりません。お願ひも単なる戯《ざ》れ言《ごと》に過ぎません。その言葉は口先だけのもの、私どものは胸の底から溢れ出たものでございます。あの人のお願ひはほんの上辺《うはべ》だけのもの、実は断つていただきたいのが本音、私どものお願ひは心と魂を、そのほかのすべてを懸けてをります。あの人の疲れた膝は、「さあ、立て」と仰しやれば喜んで立ちませう、それに較べて、私どもの膝は大地に根を張るまで、いつまでもかうしてをります。あの人のお願ひは偽善のかたまり、私どものは正直一途の熱意から、もし二つの願ひを較べてみるなら、私どもの方が勝つに決つてをります――その上で、心からお願ひ申上げるものの方へ、それにふさはしいお慈悲をお与へ下さいますやうに。
ボリングブルック まあ、叔母上、お立ち下さい。
夫人 いいえ、「立て」とは仰しやらないで、その前に「許す」と仰しやつて、「立て」はその後に。もしも私があなたの乳母だつたら、一番先にお教へする言葉は「許す」といふ言葉、今までこれほどこの言葉を聴きたいと思つたことはなかつた、お願ひ、「許す」と仰しやつて下さいまし、哀れとお思ひなら、その仰しやりやうは直ぐおわかりのはず、短い言葉だが、短いよりは優しい言葉、この「許す」といふ言葉ほど王の口に似つかはしいものは他《ほか》にはございません。
ヨーク 「許せ、そちの願ひは《しりぞ》ける」と仰しやればよい。
夫人 あなたは「許す」といふ言葉を弄び、反対の意味にも受取れるやうに許してやらうといふお気持、あゝ、何といふ意地の悪い夫なのでせう、情といふものが少しも無い、わざわざ言葉に言葉の邪魔をさせるなどと! 「許す」はこの国で誰もが使つてゐるやうに使へばいい――理窟つぽい言葉遣ひなど、私達には縁が無い。(ボリングブルックに)あなたのお目は今にも物を言ひさう――その目のやうに舌に物を言はせて。さもなければ、哀れを知る心にあなたの耳を藉しておやりになること、さうして私達の歎きや悲しみがどれほど深いかがお心に伝はれば、きつと哀れと思《おぼ》し召し、「許す」といふ言葉が口を衝いて出ることになりませう。
ボリングブルック 叔母上、どうぞお立ちになつて。
夫人 立たせてくれとは申しません、ただ許すと、それだけがただ一つのお願ひにございます。
ボリングブルック 許しませう、神が私をお許し下さるやうに。
夫人 おゝ、何といふ仕合はせ、これもみな膝まづいたこの膝のおかげ! でも、まだ恐しさの余り、この胸は震へてをります、もう一度仰しやつて。「許す」と二度仰しやつても、それは二度許すといふ意味ではありません、一度の許しを強めるだけでございます。
ボリングブルック 心に誓つて、御子息を許しませう。
夫人 あゝ、あなたは地上の神様。
ボリングブルック だが、あの今まで信じてゐた義理の兄や修道院長を始め、その他一味の者はことごとく破滅の淵へ追ひこんでやる。叔父上、直ぐにもオックスフォードへ、そのほか謀反人のゐるところならどこであらうと、部下の者を手分けして差し向けるやうお手伝ひいただかう。奴らはこの地上どこであらうと生かしてはおけぬ、居場所が分り次第、必ず引捕へてやる……叔父上、では、これで、お前もだ、いづれ、また――母上が頼んでくれたおかげだ、今後の忠節を待つぞ!
夫人 さ、行きませう――新しく生れ変るやう祈つてゐますよ。(一同退場)
17
〔第五幕 第四場〕
前場に同じ
騎士ピアース・オヴ・エクストン、従者一人と共に登場。
エクストン お前はなぜ王があんなことを言ふのか、全く気にも留めなかつたのか、「一人の友もゐないのか、私からあの生きてゐる恐怖を取除いてくれる者は?」さう言はれたらう?
従者 はい、確かにさう仰しやいました。
エクストン 「一人の友もゐないのか?」――さう言つた――しかも、二度もだ、促すやうにさう言はれなかつたか?
従者 はい、さう仰しやいました。
エクストン 王はさう言つて、俺の顔をじつと見詰められた、あたかも「お前こそ私の心を恐怖から自由にしてくれる男ではないのか」とでもいふ風に。的《まと》はポンフレットの王と決つた……さ、行かう、俺は王の真の身方だ、だから王の敵は必ず倒す。(両人退場)
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〔第五幕 第五場〕
ポンフレット城
リチャード独り登場。
リチャード 自分の生きてゐる牢獄を広い世界に較べてみたが、そこには人が一杯住んでをり、ここには俺だけで、ほかには誰もをりはせぬ、これではどうにも較べやうがない。でも、何とかやつてみよう。俺の魂を父親とすれば、さしづめ脳の方は女役、この二人を親として次に生れて来るのが、考へといふ代物だ、その考へが集つて小さな世界を造る、それがまた、この世の住民と同じで気随気儘《きずゐきまま》と来てゐる。どの考へも満足といふことを知らぬからだ。その上流社会には宗教上の考へが色あるが、こいつが疑惑と一緒になるや、言葉をもつて言葉に刃向はしめる、譬《たと》へばかうだ、「幼児らよ、いざ来たれ」と言つたかと思ふと、今度は反対に「来たることの何ぞ難き、そは駱駝《らくだ》に針の穴を潜《くぐ》らしむるに似たり」などと言ふ……また野心に燃える考へは、ありさうもない不可思議なことを目論む、己れのかよわい爪でこの酷《むご》い小世界の石の肋《あばら》を引掻き、このざらざらした牢獄の壁に風穴を明けて、外に抜け出られればと思つたりもする、正に出来ない相談だ、そんな途方もないことは、ただ考へるだけで忽《たちま》ち萎んでしまふ。それでも考へといふ奴はとかく自分を甘やかしがちなもので、きつとかう言ふだらう、運命の奴隷になつたのは、自分が最初でもなければ、最後でもない、と――ちやうど足枷をはめられたお人好しの乞食が、こんな目に遭ふのは自分だけではない、ほかに幾らもゐると思ひこんで、無意識に自分の恥の言ひ逃れにしてゐるやうなものだ。さうして、自分の不幸の重荷を、同じやうな運命を耐へ忍んで来た他人の肩に背負はせて、すつかり安心してしまふのだ……ま、こんな風にして、俺は一人で様な役を演じてみるのだが、どの役にも満足したためしがない。ある時は王になる、ところが、謀反に遭つて、これならいつそ乞食の方がいいと思ふ、そこで今度は乞食になる、すると貧乏に押しつぶされて、これよりは王になつてゐた時の方がまだましだつたと思ひこむ、で、もう一度王になる、さうかうするうちにボリングブルックに王位を奪はれ、何でもない、ただの男になりさがる……だが、何にならうと、この俺は、いや、誰であらうと、そいつが人間であるかぎり、何であらうと満足するはずがないのだ、自分が何でもない無に帰つて静かに横になるまではな……音楽だな? (音楽がきこえて来る)あ、間を外したぞ――どんなに快い音楽であらうと、間が外れたり、調子が狂つたりすれば、不快なものになるのだ! 人の一生も音楽に譬へれば、やはり同じことが言へる。今も俺は弦が乱れて間を外すのを聴き洩さぬだけの耳を持つてゐる、その俺がこの国の政治といふ音楽が間を外すのを、幾度も聴き逃して来たものだ。かうして俺はいつも間を外しながら時を無駄に遣つて来た、今度は時の方で俺を無駄遣ひする番だ。時の奴、俺を時間を数へる時計にしてしまつた。俺の心に浮ぶ悲しい思ひは一分ごとに溜息をつきながら、夜も休まず俺の目に時を運ぶ、さうして俺の指が針の役を務め、そこに溜つた涙をそつと拭《ぬぐ》つてゆく。うむ、さうだ、一時間ごとに時を知らせるあの音は、俺の狂ほしい呻き声、それが胸に応《こた》へて鐘のやうに響くのだ――かうして俺の溜息、涙、呻き声が分を示し、時を示し、やがて時間が経つて行く。俺の時間がこんなに早く駆け抜けるのはボリングブルックの喜びに追はれてゐるからだ、その間、俺は馬鹿のやうにここに立ち放し、時時間の箱から跳び出して鐘を打つ自動人形のやうなものではないか……あの音楽が俺の気を狂はせる、もう止めにしないか、音楽は気違ひを正気に連れもどすと言ふが、どうやらおれの場合は、その逆のやうだ。それにしても、俺にそれを聞かせてくれようとする人の心には感謝する! ともかく愛情の印には違ひない、この憎しみに満ちた世の中で、リチャードへの愛情は掛けがへのない宝石なのだ。
リチャード王の馬丁登場。
馬丁 王様、おなつかしうございます!
リチャード わざわざ来てくれたか、貴族どの、今では王様とは言へぬ、お前と同じお仲間だ。それにしても誰だ、お前は? どうしてここへ来たのだ、ここへは誰も来はしない、来るのはあの牢番だけだ、ただ、俺の不幸を長びかせるために食ひ物を運んで来る不様な犬めがな。
馬丁 手前はまだあなた様が王様でいらつしやつた時分、お厩《うまや》の面倒を見てをりましたしがない馬丁でございます、ちやうどヨークの方へまゐりましたので、ついでに何だかんだと大騒ぎの上、やつとのことで前の王様だつた御主人様にお目にかかるお許しを得たのでございます。あの戴冠式の日にボリングブルック様がロンドンの大通りを葦毛のバーバリに跨《またが》つて通つて行かれるのを見た時、手前はもう胸が一杯で! あれには王様が何度もお乗りになりました、手前も始終念入りに世話をしてやりましたのに!
リチャード あのバーバリに乗つて行つたのか? 正直に言つてくれ、あの馬はさぞ得意気な様子だつたらう?
馬丁 如何にも得意さうで、大地を軽蔑するかのやうに踏みつけて行きました。
リチャード 馬上のボリングブルックもさぞかし得意気であつたらう……あの馬はこの王の手からパンを貰ひ、俺はこの手でその首を叩いて得意がらせてやつたものだ、奴は蹴つまづきはしなかつたか、倒れはしなかつたか? 驕《おご》るものは必ず倒れる、奴はその鞍を乗取つた驕り昂ぶる男の首の骨をへし折つてはくれなかつたのか? あゝ、許してくれ! 何もお前を罵ることはない、お前は人におとなしく馴らされ、人を運ぶやうに造られてゐるのだ。俺は馬に生れついてはゐないのに、驢馬のやうに重荷を背負はされたり、荒馬乗りのボリングブルックに駆り立てられ、へとへとに悩まされてゐる。
牢番、リチャードに食物を持つて来る。
牢番 (馬丁に)おい、どいた、いつまでもゐるんぢやない。
リチャード 俺のことを思つてくれるなら、もう帰るがいい。
馬丁 口には出せないことは、胸の中で申上げませう。(退場)
牢番 (皿を食卓に置き)どうぞ召し上つて下さいまし。
リチャード いつものやうに、毒見をしてくれ。
牢番 はい、それが出来ませんので、サー・ピアースが、王様のところから見えたエクストンの旦那が、その必要は無いと仰しやるので。
リチャード ボリングブルックも貴様も悪魔に取憑《とりつ》かれるがいい! 我慢もこれまでだ、消え失せろ! (牢番を打つ)
牢番 助けてくれ、誰か、ゐないか!
エクストン、及び暗殺者数名現れる。
リチャード どうしようといふのか! 無礼だぞ、俺を殺さうといふのか? 悪党め、貴様の斧で殺してやる、自業自得だ……(敵の手から斧を奪つて殺す)貴様もだ、地獄が口を開けて待つてゐるぞ。(もう一人を殺す、が、つひにエクストンに倒される)おゝ、この身を倒したその手は永劫に燃え盛る業火によつて焼き尽されようぞ。エクストン、貴様の獰猛《だうまう》な手は王の血で王の国土を穢したのだ……昇れ、昇れ、わが魂! お前の玉座は天上にある、この穢らはしい肉体は下に沈んで、ここに死ぬのだ。(死ぬ)
エクストン さすがは王の血、その気魄にも頭が下る。その両方とも、俺は大地に流してしまつた。あゝ、これが善いことと言へたら! ついさつきまでは善いことをやつたと俺を褒めてゐた悪魔めが、今になつて、これは地獄の歴史に残る事件だぞと言ひやがる。この死んだ王を生きてゐる王のところへ持つて行くとするか……他《ほか》の死骸を片付けろ、どこかその辺に埋めてやれ。(一同、死骸を運び出す)
19
〔第五幕 第六場〕
ウィンザー城
ボリングブルックとヨーク公登場。
ボリングブルック 叔父上、最新の情報によると、謀反人どもはグロスターシャーのシシスターを焼き払つたとか、だが、その後、奴等は掴つたのか、殺されたのか、さつぱり分らぬ。
ノーサンバランド登場。
ボリングブルック おゝ、よく来た、何の知らせだな?
ノーサンバランド まづ王のお仕合はせを。次に御報告でございますが、ソールズベリー、スペンサー、ブラント、並びにケントの首をロンドンに送り届けました。一同逮捕の次第はこの書面に。(書面を提出する)
ボリングブルック 苦労を掛けたな、礼を言ふぞ、その勲功については、いづれ相当の恩賞を与へよう。
フィッツウォーター登場。
フィッツウォーター 私はブローカスとサー・ベニト・シーリーの首級をオックスフォードからロンドンに送り届けました、例の危険きはまる謀反人どもの一味で、オックスフォードにおいてお命を狙つた輩《やから》にございます。
ボリングブルック フィッツウォーター、お前の苦労も決して忘れはせぬ、その見事な働き、よく心得てゐるぞ。
パーシー、カーライルの司教を引き連れて登場。
パーシー 陰謀の主魁、ウェストミンスターの修道院長は良心の重荷と暗澹たる想ひに堪へかね、己が体を墓石《はかいし》の下に委ねました。一方、カーライルはここに己れの僭越な不敬に対し、王の御宣告に服すると申してをります。
ボリングブルック カーライル、これがお前に対する宣告だ。今、お前の所有する教会を捨て、いづれにか隠棲の地に僧院を選び、そこで余生を送るがよい。平和に生きる限り、争ひから免れて平穏な死を迎へよう、お前は常に私の敵ではあつたが、その高潔な人格が内から光を放つのをいつも認めてゐたのだ。
エクストン、数人の男に棺を運ばせて登場。
エクストン 謹んで王に申上げます、この柩《ひつぎ》の中にはいつも王を悩まし奉つた者を納めてございます、王の最大の敵、そのうちでも最も力あるもの、ボルドーのリチャードの亡骸《なきがら》を運んで参りました。
ボリングブルック エクストン、お前に礼は言はぬ、お前はその死臭の漂ふ手をもつて、私の頭上に、この名誉ある国土に、恥辱をもたらしたのだ。
エクストン 王御自身のお言葉があつたればこそ、私は敢へてこの挙に及んだのでございます。
ボリングブルック 毒を必要とする者、必ずしも毒そのものを愛しはしない。私もお前を愛しはせぬ、確かに私はリチャードの死を望んではゐたが、その殺害者を憎み、殺されたリチャードを愛する。良心の苛責をお前の仕事の報いとするがよい、犒《ねぎら》ひの言葉も王の恩賞も与へるわけには行かぬ、これからはカインのごとく夜の闇をさまよひ、決してその顔を日の光に晒してはならぬ……諸卿、私はここに誓つて言ふ、この身を王にするため、血の洗礼を浴びたかと思へば、私の魂はただただ悲歎に暮れるばかりだ。さあ、私がその死を歎き悲しむ人のために、直ぐ喪服に着換へて私と共に哀悼の意を表してもらひたい。私は罪に穢れた手からこの血を拭《ぬぐ》ひ浄めるために、これより直ちに聖地遠征の旅に出掛ける。一同、柩《ひつぎ》に随ひ、しめやかに行進するやう、時ならぬ葬儀に列し、涙をもつて私の悲しみに花を添へていただきたい。
柩がゆつくり運び去られる、ボリングブルック、その他が附き随ふ。
解   題
『リチャード二世』には作者生前に出版された四折本が五種類もある。
その最初の第一・四折本は一五九七年八月二十九日に出版登録を済ませてゐる。これは謂はゆる善本に属し、作者手書きの原稿から印刷されたものと見られるが、それには第四幕第一場が大幅に省略されてをり、リチャード王が王冠を二つの釣瓶に譬へる箇処や、鏡を持つて来させ、そこに映る自分の顔を眺め、それを床に叩きつけて粉にしてしまふ所など、この場の核心ともいふべき一五三行から三一八行に至る部分が全部削除されてゐる。もともと第四幕第一場は三三四行あり、それがこの削除のため、殆ど前半しか残つてゐない。それはオーマール、フィッツウォーター、サリーがグロスター公の暗殺者について言ひ争ふ場に続き、追放中のノーフォークが帰国を許された時、すべては明かにならうと言ふオーマールの言葉に対して、ボリングブルックが王気取りで、「直ぐにも(ノーフォークの)帰国を許さう、自分にとつては敵ではあるが、その土地、所領の一切を返し与へる。そのうへ直ちにオーマールとの立会ひを許さう」と言ふ件りに続けて「では、神の御名において、まづ玉座に上るとしよう」といふ言葉に打つて返すやうに正義の司教のカーライルが「お待ち下さい、それは神がお許しになりませぬ!……」といふ三十六行に亙る名ぜりふが続く、それだけが聞きどころで、後半は最後の十六行を余すのみでこの場は終つてしまふ。
一五九八年の第二・四折本も第三・四折本も同じ削除を受けてゐて、この場の「主役」は恰もカーライルの司教であり、この「名ぜりふ」を受けて、「よくぞ弁ぜられた、カーライルの司教、その御苦労の御礼までに、大逆罪の廉《かど》により、この場であなたを逮捕する。ウェストミンスター卿、裁判の日まで必ず司教をお預り願ひたい」といふノーサンバランドの厭味を含んだせりふを残して、主要人物は退場し、後はオーマールとカーライルの司教を相手にウェストミンスター修道院長の「今夜、食事をわが家にてお取り下さい、その折、私の一策についてお話し申上げれば、きつとお心も晴れ渡ることでございませう」といふ謎めいた言葉が十四行続いて、この第四幕は終る。どう考へて見てもシェイクスピアの劇的《シアトリカル》アンテナがリズミカルに働いてゐるとは言ひがたい。
随つてこの場にはリチャード王は一切登場しない。それが始めて登場するのは一六〇八年の第四・四折本であり、それを踏襲した一六一五年の第五・四折本、そして一六二三年の死後のシェイクスピア戯曲全集である。そこで削除された一六六行が初めて読者の目に触れる。「人目に隠れ底に沈んだまま、なみなみと水を湛へてゐた」釣瓶は突如、空に跳ねあがり、そこになみなみと湛へられた水をボリングブルックの頭上に浴びせかけることになる。その一六六行に亙る削除は一体偶然か故意か、そこには次の様な事実が秘められてゐたのである。
一五九九年にアイルランド総督となつたエリザベス女王の寵臣エセックス伯が、その叛乱鎮圧に失敗、女王の命令に反しアイルランドを勝手に抛棄してロンドンに帰り、その罰として禁固されたのが一六〇〇年、女王の寵を失つたエセックス伯は焦慮の余り、ロンドン市民の力を藉り謀反を企てて失敗、翌一六〇一年には斬首の刑に遭つてをり、片や女王も一六〇三年に死去してゐる。一六〇一年といへば、エセックス伯は三十五歳であり、一六〇三年にエリザベス女王は七十歳である。この母子程も年の違ふ二人の恋はまた女王と臣下との恋でもあり、平坦に成就するわけもなく、それがエセックスをして成功するはずのない謀反の道を歩ましめたとも言へよう。
それはさておき、一六〇八年の第四・四折本において初めて、「リチャード王、議場における廃位の場、新たに追加」といふ扉を掲げた本の出版が許されたことは事実であり、一般にはエリザベス女王の逝去が固く閉じられた鍵を解いたのだと考へられてゐる。だが、当時の実情はどうであつたらうか。リチャード二世は十歳で即位し、未成年時代はジョン・オヴ・ランカスターとグロスターによつて輔佐されてゐた。成年後は専制的になり、やがて廃位に追ひ込まれたのである。それに反してエリザベス女王は三十も年下のエセックス伯の謀反をどれほど恐れる必要があつたのか。テューダー朝の末、その最盛期のエリザベス時代といへば、リチャード二世の時代とは大いに異り、ロバート・セシルのやうな賢臣が幾らもをり、すべてが明るく、諸制度も「近代的」、「官僚的」になつてゐた。王の廃位といふ程の芝居が許されぬはずも無かつたであらう。ドーヴァ・ウィルソンはその証拠として、次の手紙を挙げてゐる、国会議員のサー・エドワード・ホービーがロバート・セシルに宛てた一五九五年十二月七日附の手紙である。それには次の如く書かれてゐる。
拝啓 明夜は貴台ロンドンのお宅にお出でなきものと思ひ、火曜(十二月九日)ならば、まだしもチャノン・ローの拙宅にお越し頂けるかと存じ、敢へて御都合お伺ひ申上げます。当夜は夕食を差上げたく、お気の向くまま何時《なんどき》までなりともお留り願ひ、その際、リチャード王も御高覧に供したいと存じてをります……
とすれば、このリチャード王とはリチャード二世を扱つたシェイクスピアの作品『リチャード二世』に相違なく、今頃になつて初期に書かれた『リチャード三世』を女王に身近なセシルに見せようはずはない。また肖像画の類ひでもなかつたらう。それならなほのこと『リチャード二世』とか『リチャード三世』とかを招待状に明記したはずである。やはり芝居に違ひない。恐らくセシルの方からこの作品の話を聞いた上で、それを見せてくれと頼んだのであらう。既にこの芝居のことは評判が高く、エリザベス女王自身、それがしばしば舞台にかかつてゐることを知つてゐた。ロンドン塔の記録保管係ウィリアム・ランパートは次のやうに書き残してゐる。一六〇一年、彼が女王の私室を訪ねた時、女王は彼に向つてかう言つてゐる、「私はリチャード二世なのだよ、知らぬのか、お前は? この悲劇は街頭や屋内で四十回も演ぜられたのだよ」と。出版して売りに出すことは難しくとも、芝居として上演する分には構はなかつたらしい。
それにしても、リットン・ストレイチーは『エリザベスとエセックス』(中央公論社刊福田 逸訳)の中にかう書いてゐる。
ところが、そんなある日のこと(一五九九年)、エリザベスは大きな衝撃を受けた。一冊の書物が彼女の手に入つた――『ヘンリー四世伝』――彼女は表紙を開いて見た――エセックスへのラテン語の献辞が目に入つた。「誉れ高く世にかくれなき、エセックス及びユウの伯爵にしてイングランド紋章院総裁、ヘリフォード及びバウチャの子爵、さらにはチャートリーのフェラーズ男爵にして、バウチャ及びルウエン卿なるロバート殿に捧ぐ」――一体これは何か? 彼女はざつと目を通し、リチャード二世の敗北と廃位が詳細に記述されてゐることを知つた――つまり、これはイングランドの玉座から君主を追放する可能性を暗示するものであり、となると、エリザベスにとつては殊のほか不快な題材であつた。なるほど、カーライルの司教が王の廃位に反対する優れた演説が挿入されてはゐる、が、なぜかういふものを公にするのか? この愚劣な書物の目的は一体何だといふのか?
これで見ても明かなやうに、エリザベスはリチャード二世のうちに、自分の姿を見てゐたのであつた。この事件は一五九九年の初めに起つた一挿話に過ぎない。が、『リチャード二世』の初登録の際、即ち一五九七年には、シェイクスピアが書下した台本に廃位の場は既に書かれてをりながら、そこだけを省いて登録を行つたことは明かである。そしてホービーが見せた芝居は削除なしの『リチャード二世』であり、賢臣セシルは女王の心を察して、それをそのまま出版登録することを禁じたのに違ひない。とすれば、シェイクスピアの『リチャード二世』は早くも一五九五年には書き終つてゐたと言へる。しかも、作者がその下敷きに使つたと思はれるダニエルの『ランカスター、ヨーク両家の内乱』が一五九五年に登録ずみであるところから、この同じ年に書かれたものと見るのが至当であらう。
シェイクスピアが『リチャード二世』を書くに当つて用ゐた、或は用ゐたと思はれる、謂はば種本は何かと言へば主としてホリンシェッドの『年代記』である。しかし、それにも、またその他いづれにもシェイクスピア独特の性格描写は見当らない、また最後のエクストンに言ふボリングブルックの名ぜりふ、「毒を必要とする者、必ずしも毒そのものを愛しはしない……」もそれらの種本には何処にもない。左にまづ種本と思はれるものを挙げて置かう。
一 エドワード・ホール著『ランカスター、ヨーク両家の和合』――一五四八年
二 ホリンシェッド著『年代記』(第三巻)――一五四五年
三 『国王のための鏡』――一五五九年
四 フロワサール著『年代記』サー・ジョン・バウチャー及びバーナズ卿、フランス語より英訳――一五二三―二五年
五 サミュエル・ダニエル著『ランカスター、ヨーク両家の内乱』(詩)――一五九五年
六 ロワ・ダングルテール著『リチャード二世の殺害と死』ベンジャミン・ウィリアム訳
七 著者不明『トーマス・オヴ・ウッドストック*』(戯曲)
*暗殺されたグロスター公を指す。ランカスター、ヨークの弟、作中に言及あり。
これらを『リチャード二世』の各幕各場ごとに、シェイクスピアが下敷としてどう利用して行つたか、ウィルソンに随つて逐次述べてみよう。
第一幕第一場 この作品を、ボリングブルック、モーブレー、両名の争ひを以つて始めてゐる。その点、右のホールと全く同じだが、ホールはグロスター公には全然触れてゐない。だが、ホリンシェッドでは、リチャードの没落が次に起つて来る遠因をグロスター公暗殺にあると見てゐる。この点はシェイクスピアも同じである。
第一幕第二場 これはどの種本にも出て来ない、当然であらう。劇作家シェイクスピアならずとも、この前後の同じやうな場を続けて書きはしまい、が、ジョン・オヴ・ゴーントとグロスター公未亡人との会話は彼以外誰しも書けるものではない。未亡人は二度と登場しないが、戯曲『ウッドストック』では第五幕第三場に姿を現し、「泣き女」の役を果す。シェイクスピアではこの場だけだが、名女優でなければ到底演じられぬいい役に書かれてゐる。
第一幕第三場 ホリンシェッドがこの場について書いてゐる、それをシェイクスピアは膨らましただけである。ホールもかなり詳しく書いてゐるが、ダニエルはボリングブルックとモーブレーとの一騎打ちを書き、両人追放については一節を割いてゐるだけである、詩である以上、無理もなからう。だが、フロワサールのみが、王が職杖を投げて仕合ひを止めさせた後のせりふの土台となる一条を書き、ボリングブルックの追放を十年から六年にしたことも書き添へてゐる。
第一幕第四場 この場は次の四つから成り立つてゐる。〓ボリングブルックが友人達に見送られ去つて行く情景、〓アイルランド叛乱のバゴットによる報告、〓リチャード自ら陣頭に立つと言ひ、その戦費調達の方法、〓ゴーントがイーリーの館で病み、それも重態であるといふこと、この四つだが、〓については当然ホリンシェッドに短い記述があるだけでなく、ホールにもボリングブルックを慕つて、そのあとに追ひ縋る者たちを殆ど逐語的に描いてゐる箇所がある。フロワサールに到つては、その連中の姿をもつと生と物語つてゐる。〓については、フロワサール以外、いづれもアイルランド叛乱に触れてゐる。〓はホリンシェッドにあるが、例の戯曲『ウッドストック』にもあり、むしろこちらこそ主たる種本と言つてもよい。〓はホリンシェッドに、「無記名の特許状」について語つたあと、直ぐに「やがてランカスター公もホールボンにある、かの司教の館で、つひにこの世に別れを告げた」と述べてゐる。
第二幕第一場 この場は次の四つの場面に分れてゐる、〓ゴーントの死、〓ゴーントの財産没収とヨークの抗議、〓ヨークがイングランドの総督として残り、リチャード王がアイルランド征討に出掛けるところ、〓リチャード王の暴政に対する貴族たちの不平不満の言葉と、ボリングブルック、イングランド上陸の報がそれである。この〓については、シェイクスピアの「創造力によるもの」「全くの作り話」と考へられて来たが、一方、フロワサールの「如何にしてランカスター公は死んだか」といふ劇的な説明も無視出来ない。このところは『ウッドストック』と極く類似してゐる。〓ここではホリンシェッドの記述が非常に近い。が、ヨークの言葉は『ウッドストック』に似てゐる。〓ホリンシェッドにはかうある、「彼は自分の副将として、相手のゐない間に叔父のヨーク公を任命した」。〓はホリンシェッドが唯一とは言へないまでも、主要な種本となつてゐる。
第二幕第二場 この場は〓王妃の憂愁、〓ボリングブルックの上陸と素早い進撃ぶりを聞いて、ヨーク、ブッシー、バゴット、グリーンが愕然とするところと二つに分けられる。〓は全くの虚構で、シェイクスピアの想像である。フランスから嫁いで来た王妃は、この時はまだ十歳にしかなつてゐない、そのことをシェイクスピアは知らなかつたのか、或は無視したのか、恐らく、知つてゐて、無視したのに違ひない、十歳の少女では話にならぬからである。〓はホリンシェッドに随つてゐる、もちろん重ね重ねの災難にうろたへるヨーク達の姿を描き出すために色工夫はしてゐるが、それはどんな劇作家でもすることである。
第二幕第三場 殆どホリンシェッドの通りである。ウィロビー、ロスがラヴンスパーグにボリングブルックを迎へ、ノーサンバランドとその息子パーシーがドンカスターでボリングブルックに遭つてゐる。その他の諸卿も忠誠のためやら、利害のためやらで、集り来たり、礼を尽してゐる。イングランド総督のヨークは彼等と戦はうとしても、手もとに一兵も蒐《あつ》められず、城外の教会に来て、親しくボリングブルックと会談してゐる。
第二幕第四場 この場もホリンシェッドに基づいてゐる。リチャード王はボリングブルック上陸の報を聞き、ソールズベリーに命じてウェイルズ、チェシャの友軍四万を集めさせたが、やがて王はもう既に死んでゐるといふ噂が拡がり、王の姿を見るまでは、リチャード王に附き従はうとするものは一人もゐなかつた。漸く二週間だけ待つといふことになつたが、つひに王は現れず、一同は解散してしまつたといふ。また隊長の口にする天体の異変についても、一部はホリンシェッドに、他はダニエルに出てゐる。
第三幕第一場 これもホリンシェッドに出てゐる。ボリングブルックたちはブリストーを進軍して、城中に入り、ウィルトシャーのウィリアム・スクループ伯とイングランドの宝物保安係ヘンリー・グリーンとサー・ジョン・ブッシーとは応戦の用意をしたが、つひに敵はず、捕虜となり、ボリングブルックの前に引き出された。翌朝、いづれも王を誤り導いた反逆罪の廉で首を刎ねられた。
第三幕第二場 殆どホリンシェッドから取られてゐる。但しソールズベリーが軍の逃亡について語るところは、ホリンシェッドには無く、ロワ・ダングルテールに出て来る。もつともホリンシェッドにも、騎士スティーヴン・スクループがこの時リチャード王の側にゐたことだけは確かに書いてある。この場はホリンシェッドにも初めから終りまでリチャード王の絶望感が滲み出てゐる。
第三幕第三場 ホリンシェッドもダニエルもダングルテールも、リチャード王がウェイルズに上陸したのち、コンウェイ城に行つたと書いてある。更に彼はそのコンウェイを去つてフリントに行くやうにと、ノーサンバランドに説得され、相手の言ふ通りにフリントに向ふが、途中で待伏せに遭ひ捕虜にされてしまふ。フロワサールでは、リチャード王は真直ぐフリントに乗り込み、そこを占領してしまふのだが、ボリングブルックがやつて来て、リチャード王を見附け出し、城中に這入つて、リチャード王に自分と一緒にロンドンへ行くやうに無理強ひすることになつてゐる。シェイクスピアはこの辺では他の誰よりもフロワサールに近いが、フロワサールは一度もこの場の役者としてノーサンバランドには触れてゐない。作者はノーサンバランドを専らホリンシェッドから借りてはゐるが、彼を使者としてのみ用ゐ、その背信行為の方は省いてゐる。多分、そのやうな背信行為から次に執筆予定の『ヘンリー四世』第一部におけるノーサンバランド親子に対する見物の好意が割引きされるのを慮つてであらうが、ただそれだけでノーサンバランドは救はれるであらうか。第二幕第三場最初の長しいボリングブルック讃美のせりふは、どう見ても通り一遍の追従としか受取れず、第四幕第一場のリチャードに対する退位請求も執拗としか言ひやうがない。やはりシェイクスピアはノーサンバランドに好意を懐いてはをらず、やがて『ヘンリー四世』第一部であれほどの「豪傑」に仕立て上げようとは考へても見なかつたのではなからうか。もつともそれは「豪傑」には違ひないが、「はつたり」とも見られなくはない。
第三幕第四場 この場は完全に虚構である。ただその思ひ付きだけは、次のフロワサールの一部から来たものかも知れない――「リチャードの没落以後、王妃の家は侍女や行儀見習の数が殖えたし、男の方も役人や従者の数が殖えた。彼等はお互ひに王の話をすることを禁ぜられた」とあるが、シェイクスピアがこれだけで王妃と植木屋の場を造つたとも考へられない。
第四幕第一場 愈問題の場であるが、歴史的事実は例によつてホリンシェッドに拠つてゐる。〓初めバゴットがグロスター公暗殺の首謀者はオーマールだと言つたことから、オーマール、フィッツウォーター、パーシー、サリーの諸卿相互の口論となり、皆、己れの正義にかけて決闘することとなる、それをボリングブルックが側で見てゐて、止め役に入り、ノーフォーク公帰国の時まで、真偽の程は自分が預ると言つたのに対し、カーライルの司教がノーフォーク公はクリストの御為、異国で相果てたとモーブレーの最後を語る、このカーライルの言葉は、ダングルテールから取られてゐる。〓その次のヨークの登場から、リチャード王を連れての再登場までは再びホリンシェッドに従つてゐる。が、ダングルテールも関係なしとは言へない。カーライルのせりふはむしろホリンシェッドに近い。〓リチャード王がヨークと共に登場するところから、その退場までだが、ホリンシェッドの記述は簡単で、リチャードは敵の手のうちにあつて、容易に王冠を抛棄する状態にあり、ただ命だけは助けてもらひたさに、何でも相手の要求には従ふといふ有様だつたとあるのみである。それに較べれば、フロワサールもダニエルも廃位の場をもう少し詳しく書いてゐる。譬へば、フロワサールによれば、王は広間に連れて来られた時、王の衣裳はそのまま、手には笏、頭には王冠を戴いてをり、供もなくただ一人で這入つて来て、大声でかう言つた、「私はイングランドの王であり、アキテーヌ伯であり、アイルランドの貴族であつた、ここに過去二十一年間、保持して来た王位、笏、王冠を、従弟のランカスターに譲る……従弟のランカスター公、私は自分がイングランド王として頭に戴いて来たこの王冠をあなたに与へよう」。〓そして、ホリンシェッドによれば、その後はウェストミンスター修道院長の陰謀があり、その秘密は二箇月後に行はれたボリングブルックの戴冠式に到るまで表に現れなかつた。
第五幕第一場 王と王妃の対面の場はダニエルにのみある。ノーサンバランドがロンドン塔ではなくポンフレット城に行くやうにと、ボリングブルックの意志を伝へるところだけはホリンシェッドに出てゐる。
第五幕第二場 〓ヨークの語るリチャードがロンドンを通る時の状景はダニエル、ダングルテールに見られる。〓オーマールが連名の確認書を父親のヨークに発見されるところから最後まではホールの書の巧みな語り口に拠つてゐる。またホールはダングルテールに非常に近い。いづれもヨークはオーマールの弱味を握つてゐると書いてをり、また息子はその老いた父より早くボリングブルックの所へ着いたと述べてゐる。ホールはダニエルを例によつてあちこち利用してゐるものの、この場の主たる種本と言つてよからう。ヨーク夫人のことはどこにも出てゐない。
第五幕第三場 この場は主としてホリンシェッドによる。初めに出て来る自分の子供の不行跡を心配するボリングブルックは言ふまでもなく『ヘンリー四世』第一部のヘンリー四世であり、息子のプリンス・オヴ・ウェイルズは、同じく第一部のハルである。その『ヘンリー四世』の第一部、第二部、共にヘンリー四世その人は影が薄く、むしろこの『リチャード二世』のボリングブルックの方が灰汁《あ く》が強く描かれてゐる。その後から最後までは、新しく王になつたボリングブルックにオーマールが命乞ひをする場面だが、この場で一番せりふの多いヨーク夫人は前場と同じく、シェイクスピアの劇的な虚構である。
第五幕第四場 このエクストンと従者の対話はホリンシェッドとダニエルとの混ぜ合はせである。
第五幕第五場 リチャードの独白はもちろんシェイクスピアの創作だが、その死はホリンシェッド、或はホールに拠つてゐる。殊に殺害者エクストンの悔恨はホールのものだが、シェイクスピアはそれを殆ど利用してゐない。
第五幕第六場 ホリンシェッドが必要なものの殆どすべてを提供してゐる。しかし、ボリングブルックのエクストン拒否はシェイクスピア独自のものであり、一六〇九年版のダニエルでは、またそれをシェイクスピアから借りてゐる。
リチャード二世の性格は私には甚だ興味がある。シェイクスピア研究の権威シェンボーム教授に「愛すべき詩人」「統治するより詩作に耽ることに向いてゐる優柔不断な王」といふ言葉が出て来る。実際、文学好きな王であつたことは確からしい。しかし、私が『リチャード二世』の性格に興味を惹かれたのはその「幼児性」とでもいふべきものである、「人の善さ」といつてもいい、あるいは「甘えん坊」といつてもいい。リチャードの祖父エドワード三世は男女併せて十数人の子持ちであつた。その長子がリチャードの父、勇猛果敢な黒太子であるが、彼は父の死より一年早くこの世を去り、リチャードが代つてエドワード三世の死後、わづか十歳でその王位を継いでゐる。殆ど物心つくと同時に、一大王族の長として王位に就いた彼は我儘放題に甘やかされて育つたに違ひない。欲しいものは何でも手に入り、誰もが自分に追従し、世界は自分の思ひのままに動くと信じたであらう。自分を抑へることを知らずして王となり、幼児がそのまま大人となつたのだ。
シェイクスピアの目は過たずさういふリチャードの性格の核心を射ぬいてゐる。リチャードは得意の時をも失意の時をも、その都度、あたかもそれと戯れるが如く壮大なものにしてしまふ、謂はば自己劇化の名手とでも言ふべき特異な性格の持主と云へよう。その結果、彼のうちにある情緒Aと情緒Bとは、糸のやうに細い必然性でしか結ばれてゐないのに、そのAとBとがそれぞれ途轍もない大げさなものにされてしまふので、Aの固まりとBの固まりとをつなぐ糸は切れてしまひ、AとBとが何の必然性もなく、或は無理に辿れば辿れる程度の必然性をもつて並ぶ。子供が次に現はす感情とはさういふものだ、「今泣いた鴉がもう笑つた」と言ふしかあるまい。それが初めて明瞭な形で現はれるのは第三幕第二場の、アイルランド征討に失敗して、ウェイルズの岸辺に上陸したばかりのリチャードのせりふである。
いい気持だ、全く文句の言ひやうがない。嬉しさに泣きたいくらゐだ、かうして再びわが王国の土を踏みしめられようとは。(中略)母親が長く別れてゐたわが子に再び会ふことが出来、涙に濡れ、再会を喜びながら笑つてわが子に戯れる、それと同じやうに、私の大地よ、私も泣きながら、そして笑ひながら、お前を優しく擦つてやらう、この王の手をもつて穏かに。(後略)
どうやらお前には解つてをらぬらしいな、この地上の悪事を隈なく照らし出す日輪が姿を隠して、地球の反対側を明るく照らし始める頃には、こちら側は盗人や暴漢どもが闇に紛れて這ひずり廻り、大手を振つて人殺しや乱暴を働くといふ訳だ、が、やがてまた、この大地をめぐつて日が昇り、東に聳える松の誇らかな梢が紅と染め出され、在りとあらゆる罪の巣窟めがけて、次に光の矢が射込まれ始めると、殺人、謀略、その他の忌まはしい罪は、身を蔽ふ夜の衣を背なかから剥ぎとられ、素肌のまま震へ戦く、お前にはなぜそれが分らぬ? (中略)この身が再び東を背にして玉座にすつくと立つのを仰ぎ見れば、さすがの奴(ボリングブルック)も己が謀反の疚しさにたちまち顔を紅らめ、日輪の光に堪へず、ただただ己れの罪に恐れ戦くほかはないであらう。
アイルランドからウェイルズに敗走した後で、リチャードはかうした大言壮語を次に述べるのだが、ソールズベリーがウェイルズの兵に逃げられ、唯一人で戻つて来て、実情を報告するのを聴いてゐるうちに、忽ち顔面蒼白となり、オーマールに「お気を確かに」と言はれても、急に小心になつてしまつたリチャードはかう言ふ。
今の今まで二万の兵どもの血潮がこの顔の中で誇らかに照り映えてゐた、それがもうどこかへ逃げ去つてしまつたのだ、それならそれだけの兵が再びここへ戻つて来るまで、死人のやうに蒼白になるのも当然ではないか? 一身の安全を守りたいものは、さつさと俺の側から逃げ出したらいい、時がこの身の誇りに染みを残した以上は。
それがまたオーマールに「お気を確かに、何卒、御身分をお忘れなきやう」と勇気づけられると、くるりと気持が変つてしまふ。
さうだ、我を忘れてゐた、俺は王ではないか? 目を醒せ、王冠を被つた臆病者! 貴様はぐつすり眠りこけてゐる。王の名は二万の兵に匹敵する、さうではないか? 武器を手に執れ、武器を、わが名にかけて! (中略)さあ、そのやうに項垂れるな、ここにゐる者は、皆、王の寵臣ではないか、身分高き者達ではないか?
一瞬前までは顔を蒼白にしてゐた男が自分を「王」と呼び、周囲の者を「寵臣」と言ふ。「王」も「寵臣」も名だけのもの、言葉だけのものに過ぎぬ、実体は何もないのだ。空疎な言葉、言葉、言葉だけが右に左に飛び交ふに過ぎない。スクループから寵臣のウィルトシャー伯、ブッシー、グリーンの三人が「平和の眠りに就いて」ゐると聞くと、それを敵方に寝返つたものと思ひこみ、「おゝ、悪党、毒蛇、救ひがたい奸賊め! 誰にでも尻尾を振つてついて行く犬畜生! 俺の心臓の血でぬくぬくと育ちながら、俺の心臓を刺す蛇! ユダが三人集つたのだ、そのどれ一人を取つてもユダよりは三倍も悪い裏切者のユダが! (中略)その罰として、奴等の穢れ果てた魂に恐しい地獄の悪魔が戦ひを挑んでくれるがいい!」と、己れをイエスに擬し、悪態をつく。そして、スクループから三人はいづれも敵の手によつて打首、それゆゑ「ただ三人の魂に対する呪ひだけはお取消し願ひませう、彼等にとつての平和の眠りは敵に首を差し出すことによつて得られたもの、(中略)今、お呪ひになつた者どもは、いづれも死が手を下した手ひどい傷を受けて、空《うつろ》な大地の墓の中に低く身を横たへてをります」と告げられても、何も答へず、
墓や蛆虫の話をしよう、墓碑銘の話でもいい、この大地の胸の上に、塵を紙と見なして、己が悲しみを書き記さう、せめてこの眼から雨と滴る涙をもつて……さうだ、遺言執行人を選んで、どう書いたらいいか相談しよう。(後略)
ただわが身の哀れさを愚痴のやうに物語るだけで、それに続けて「空しき王冠」の名ぜりふが長と語られる。ここのところは王の運命を他人《ひ と》事《ごと》のやうに語ることによつて醒めてゐるが如く見えながら、むしろこれほど激しい自己劇化は他にはあるまい。次の場の第三幕第三場の終り近く「降りるとも、降りるとも、太陽神の御子、輝けるパエートンのごとく暴れ馬を御し損ね、真逆様に……下なる庭に落ちるとするか? (中略)降りる? 降りるとも、庭へ! 王が降りて行く! 朝の雲雀が囀る頃合ひに、夜の梟が不吉な声で喚き立てる御時勢になつたらしい」といふところなど、己れの不幸を種に自ら独り遊びをしてゐるかのやうに見える。
第四幕に入つて、愈退位の場だが、ここでも自ら進んで王冠をボリングブルックに与へながら、自分を沈んだ釣瓶に譬へたりしてをり、自分の退位を宿命的なものと見なし、それならそれで退位させられる王の芝居をうまく演じて見せようとしてゐるかのやうだ。また「王位はあなたに譲るとしよう……さ、見るがいい、私が私ではなくなる姿を」といふ件りや、わざわざ鏡を持つて来させ、「今、この私がどんな顔をしてゐるか、それが見たいのだ、王の威厳の破産した顔をな」と言ひ、その鏡を見ながら、それを床に叩きつける場など、いづれも自己劇化の最たるものと言へよう。
リチャードは初めから負け戦さと決めて、牢に押し込められるまで筋書どほりの芝居を演じ通す。ノーサンバランド等に向ひ、「所詮、お前らはみんなピラトだ、かうしてこの私を酷い十字架に附けるのを許したではないか」と言ふ。リチャードは登場して直ぐ「クリストには十二人の弟子がゐたが、一人以外はみな忠実だつた、ところが、この私には一万二千の臣下がゐたのに、忠実なものは一人もをらぬ」と言つてゐるが、ここでも自分をイエスに仕立てあげてゐるのだ。これに向つて不遜の、増長のと言つてみても始らぬ。
『リチャード二世』を見て見物は彼に深い憐れみを感じ、その心情に共感を覚えるであらう。私は一九七三年、ストラットフォードでジョン・バートン演出のそれを見た。この時はリチャード・パスコとイアン・リチャードソンの二人がリチャードとボリングブルックの二役を交互に演じたが、少くとも私には絢爛豪華な衣裳の似合ふ美貌のパスコのリチャード、男性的で押しの強いリチャードソンのボリングブルックの方が、遥かに良かった。バートン演出によつて、『リチャード二世』の傑作であることを十分に思ひ知らされたのである。
福 田 恆 存
昭和六十年十二月
この作品は昭和六十一年六月「シェイクスピア全集」補巻として新潮社より刊行された。
Shincho Online Books for T-Time
リチャード二世
発行  2001年10月5日
著者 ウィリアム・シェイクスピア(福田 恆存 訳)
発行者 佐藤隆信
発行所 株式会社新潮社
〒162-8711 東京都新宿区矢来町71
e-mail: old-info@shinchosha.co.jp
URL: http://www.webshincho.com
ISBN4-10-861131-4 C0897
(C)Atsue Fukuda 1986, Coded in Japan