TITLE : ヘンリー四世
ヘンリー四世
ウィリアム・シェイクスピア 著
福田 恆存 訳
ヘンリー四世
ヘンリー四世
場   所   イングランド
人   物
ヘンリー四世
ヘンリー(ウェイルズ公)  四世王の長子
ジョン (ランカスター公) 四世王の次子
ウェストマーランド伯
騎士ウォルター・ブラント
トーマス・パーシー     ウースター伯
ヘンリー・パーシー     ノーサンバランド伯
ヘンリー・パーシー     その息、「燃ゆる拍車《ホツトスパー》」と綽名さる
エドマンド・モーティマー  マーチ伯
リチャード・スクループ   ヨーク大司教
アーチボルド        ダグラス伯
オーエン・グレンダワー
騎士リチャード・ヴァーノン
司祭マイクル        ヨーク大司教の身内
エドワード・ポインズ    ウェイルズ公の侍臣
騎士ジョン・フォールスタフ
ガッヅヒル
ピートー
バードルフ
パーシー夫人        ホットスパーの妻、モーティマーの妹
モーティマー夫人      グレンダワーの娘、モーティマーの妻
クィックリー        イーストチープの居酒屋猪首亭《ボアーズ・ヘツド》の女将
貴族、士官、代官、居酒屋の亭主、旅籠の番頭、居酒屋の給仕、運送屋、旅人、侍者など
〔第一幕 第一場〕
ロンドン、王宮
ヘンリー四世が騎士ウォルター・ブラントと共に登場し、ウェストマーランド伯その他に出遭ふ。
王 何たる事か、吾等は瘧《おこり》に取憑かれ、憂ひに蒼褪めてゐる、この上は疲れ切つた平和に一息入れさせ、内乱に怯えわななくその口に、せめて海の彼方で新たに始らうとしてゐる戦について語る様仕向けるほかはあるまい、もう沢山だ、これ以上、国内の皸《ひび》割れた渇ける大地の脣にその子等の血を貪り吸はせたくはない、これ以上、地肌を引裂く戦ひの魔手に田畑を荒させ、敵意に燃ゆる軍馬の蹄に野の花を蹂み躙らせてはならぬ、互ひに憎しみを籠めた目と目、が、それもあの天界の気象の乱れに流れ飛ぶ星と同じく、元はすべて一つ腹から生れ出でたものではないか、それなのに骨肉相食む激しい角突き合ひに明け暮れしてばかりゐる、今や一切を水に流し、美しく隊伍を整へ、同じ道をまつしぐらに進んで貰ひたい、これ以上、仲間、身内、同志の間に憎しみの眼《まなこ》を向けるな……戦乱の刃は鞘の出来の悪い短刀と同じ事、これ以上、持主を傷附けさせたくはない……となれば、良いな、目ざすはクリストの墓あるのみ、今こそ吾等はその主に仕へる兵《つはもの》となり、誓つてその聖なる十字架の下に戦はねばならぬのだ、その為、これより直ちにイングランド軍を徴集する、その将兵の腕《かひな》は既に生れながらにして彼の聖地の異教徒共を追払ふべく作られた筈だ、その土の上を漂泊ひ歩き給ひし聖なる足、その足ではなかつたか、今より千四百年前、吾等の為、酷き十字架に釘打たれ給うたのは……が、この挙を思立つたのはもう一年も前の事、改めて告げ知らせるまでもない、その為にかうして集つて貰つた訳ではない。処で、一つ知つて置きたい事がある、ウェストマーランド伯、昨夜の国会の結論はどうだつた、この大事の遠征を実行に移す手立は。
ウェストマーランド は、直ぐにも事を起すべく、一同真剣に論議を交し、戦費の分担まで定めました、処が、夜に入りまして情勢急変致し、意地悪くもウェイルズより凶報が齎されました、最悪と思はれますのはモーティマー伯の事でございます、伯はハーフォードシアーの兵を率ゐて残忍無法の徒グレンダワーと激戦中、彼のウェイルズ人の魔手に捉はれ、伯の部下もおよそ千人が虐殺の憂き目に遭ひ、しかもその屍に暴行といふか、殆ど元の姿を留めざる程の破廉恥極る凌辱を加へたのが、あらう事かウェイルズの女共、その酷たらしさを口にするのは如何なる舌も憚りませう。
王 さうか、その知らせで聖地奪還の話は吹飛んでしまつたといふ訳か。
ウェストマーランド 加ふるにまた別の知らせが参つたからでございます、と申しますのは、更に好もしからぬ悲報が相次いで北より飛来し、それによりますと、九月十四日、聖架節の日に、「燃ゆる拍車《ホツトスパー》」の異名を持つた彼の勇敢なるハリー・パーシーとスコットランドの勇将、不撓不屈、百戦錬磨の荒武者アーチボルドと、この二人がホームドンの丘に相会し、両軍互ひに死力を尽しての血腥き戦ひを繰り拡げをるとの事、それも炸裂する砲弾の音や大よその戦況より推し測り知らせ来つたものに過ぎませぬ、何分、その使者に立つた者も、両軍の鬩《せめ》ぎ合ひ酣《たけなは》なる折、急ぎ馬にて馳せ戻り、肝腎の勝敗を確める暇はございませんでした。
王 その事なら、天晴れ忠義の騎士ウォルター・ブラントがここにゐる、今着いたばかりだ、まだその馬はホームドンとこの地との間に横はる野山の土に塗《まみ》れてゐよう、それが真に好もしい吉報を齎してくれた。ダグラス伯のアーチボルドは惨敗し、向う見ずのスコットランド兵一万と騎士二十二人が自ら流した血に浸り累と屍を曝してゐる、騎士ウォルターがその目ではつきり確めて来た事だ、ホームドンの丘でな。ホットスパーが虜にしたのはマードック伯、ファイフの領主で敗軍の将ダグラス伯の長子に当る、それにアサル、マリ、アンガス、メンティースの領主達……立派な戦利品ではないか? 見事な獲物であらう? ふむ、どうだ、さう思はぬか?
ウェストマーランド 仰せの通り、寧ろ王子にもふさはしき天晴れの手柄と申せませう。
王 それを言ふな、この身にとつては辛い、嫉ましくさへなる、ノーサンバランド卿にはああいふ立派な息子がゐるといふのに……名誉の噂の種、森にあつて一際高く聳え立つ木、運命の女神の寵児、その誇りとするに足る息子、その誉を見るにつけ、忽ちこの目に浮ぶのは放埒と汚辱のしみに塗れた吾が子ハリーの顔だ……ああ、今更どうにもならぬ事だが、あの夜をさまよふ妖精共が吾等二人の子供をまだ産衣のうちに取換へてしまひ、吾が子をパーシーと名附け、あれの子をプランタジネットと呼んでくれたら良かつた、さうすればあれのハリーがこの身のものとなり、吾が子のハリーがあれの子になる、いや、もうあの子の事に心を煩はすまい……それにしても、どう思ふ、ウェストマーランド、あのパーシーの思上りを? 例の虜にした領主達の事だが、自ら危険を冒して捷ち得たものには相違無いが、パーシーの奴、それを手もとに留め置き己が意のままに使ひたいとの申出、唯ファイフの領主マードック伯のみをこの身に差出すと言ひ寄越して来たのだ。
ウェストマーランド あれの叔父の差し金にございませう、ウースター伯に決つてをります、あの男は王家に対して事毎に敵意を示し、獲物に襲ひ掛らんとする鷹の如く羽毛を整へ折を窺ひ、若い者に頸毛を逆立て王の威信を傷附ける様に仕向けます。
王 いづれにせよ、自ら王の前で経緯を明かにする様、既に使者を送つて置いた、随つて当分の間はエルサレム奪回の為の聖なる企ても見合はさねばなるまい……良いな、次の水曜はウィンザーで会議だ、その様、皆に伝へて置いてくれ、だが、急いでまたここへ戻つて来る様に、といふのは、まだ他にも言ふべき事、為すべき事が多ある、腹立ち紛れの時には思ひも及ばぬ事がな。
ウェストマーランド 畏りました、では、いづれ直ぐ。(一同退場)
〔第一幕 第二場〕
ロンドン、王の長子ウェイルズ公の居城、その一室
騎士ジョン・フォールスタフが片隅の長椅子《ベンチ》に横はり鼾をかいてゐる。ウェイルズ公が這入つて来て、フォールスタフを起す。
フォールスタフ (目を醒し)やあ、ハル、何時になる?
王子 お前の頭は古酒のお蔭で余程鈍になつてしまつたと見える、晩飯が済んだかと思ふと全部ボタンを外して武装解除と来た、昼が過ぎれば長椅子の上にごろ寝と来る、そんな塩梅《あんばい》だから、手前がどうしても知りたいと思つてゐる事をどうしても訊き出す方法が解らなくなつてしまつたのだ。一体全体、お前と昼の時間と何の関係があるのだ? 一時間が一杯の古酒で、一分が一羽の〓で、時計の音が女郎屋の客引の声に聞え、その文字盤が女郎屋の看板に見え、お恵み深き太陽が真赤な薄絹を羽織つたお美しき淫らな尼つちよに見えると言ふなら別の話、さもなければ、俺にはとんと合点が行かないね、お前とした事が何だつて真昼間から時間を訊く様な詰らない気を起したのか。
フォールスタフ 仰せの通りだ、こいつは一本やられたな、ハル、お互ひ他人様の懐《ふところ》を狙ふ稼業とあれば、月と七つ星とがお馴染みだ、日の神には御縁が無い、「諸国諸領を遍歴なさる美しき姿のお侍」とかいふお日様は真平御免だ……処で、小僧、一つ訊いて置きたい事があるのだ、もしお前さんが王様になつたら、その時は大いに引立ててやるから――いや、間違ひ、大いに引立てて貰ふ事にして、待てよ、その前にお前さんの方が引立てられてしまふかも知れないぞ――
王子 何の事だ、それは?
フォールスタフ さうよ、解り切つた事だ、お前さんの側にはいつも俺といふ引立役が附いてゐるといふ事を忘れるなよ。
王子 ふむ、それがどうしたといふのだ? さ、言ひたい事はさつさと言つたら良い。
フォールスタフ 良し来た、小僧、お前さんが王様になつたら、よろしく頼むぞ、こちとら、寄る辺無き夜の女王をお衛り申上げる騎士様一同だ、ゆめ日の神の目を盗む怠者呼ばはりはしないで貰ひたい、俺達は月の女神ダイアナの森番、夜道の侍従、お月様の寵臣、かるが故に、世の人をして言はしめよ、吾等は礼節を守る忠義の士にして、かの海と同じく、気高き貞潔の女神、月の御心にひたすら添ひ奉らむと心懸け、そのお袖に縋り、夜の目、人の目を盗んで盗みを働く者なりと。
王子 巧い事を言ふ、事実、その通りだ、月に仕へる俺達の懐《ふところ》具合は海の水と同じで、月の出入りに随ひ満ちたり引いたりするからな――その何よりの証拠はと言へば、例の金貨の一杯詰つた財布で、こいつは「義を見て為さざるは」とばかりふんだくつたのが月曜の晩で、そいつを「瓶を見て飲まざるは」とばかり使ひ果してしまつたのが火曜の朝だ、「動くな」と脅して手に入れた金を、「頼む,持つて来てくれ」と賺《すか》して使つてしまつた――お蔭で今では引潮も引潮、絞首台の梯子の一番下の段まで干からびてしまつたよ、いや、何、直ぐまた天辺の横木の処まで満ちて来ようといふものさ。
フォールスタフ 然り、正にお前さんの言ふ通りだ、処であの旅籠《はたご》の女将《おかみ》をどう思ふ、なかなか行ける代物だらうが?
王子 蜂蜜はハイブラの産といふ処だな、飲屋の戦友、処で例の囚人のお仕着せをどう思ふ、あのバフ革といふ奴、丈夫で長持して、なかなか行ける代物だらうが?
フォールスタフ 何だと、何が言ひたいのだ、この気違ひ小僧め? やい、その当てこすりと駄洒落は何の積りだ? 糞、俺と囚人服と何の関係があるのだ?
王子 それなら、肥溜野郎、俺と旅籠の女将と何の関係があるのだ?
フォールスタフ あるとも、お前さんはあの女を呼んでは、いつも勘定を頼む。
王子 呼んでも、お前の分をお前に払はせた事が一度でもあつたか。
フォールスタフ 無い、お前さんの言ひ分は認める、あそこの勘定は皆お前さんが払つた。
王子 さうだ、そのほか何処でも、さうして来た、財布に金の有る限りな、但し無い時は附けを効かせた。
フォールスタフ 効かせた、それもとことんまで効かせた、だからお前さんの身元がもし地元で解つてゐなかつたら――いや、それより、小僧、お前さんの肚を訊いて置きたいのだが、イングランドの絞首台はお前さんが王様になつてもそのまま置いておく積りなのかね? それに、俺達の勇気を挫く為に法律といふ道化爺の錆ついた馬銜《は み》をいつまでも噛ませて置かうといふのか? まさか、お前さんが王様になつたら、盗人を絞首罪にしはしまいな?
王子 しない、それはお前の役だ。
フォールスタフ 俺の? こいつは有難い! それこそ名裁判官になつて見せるぞ!
王子 早くも誤審と来た。俺の積りは、お前を首絞め役人にして盗人の罪を免じてやらうといふ事だ、その意味でなら有難き仕合はせといふ訳だな。
フォールスタフ さうか、ハル、成る程ね――或る程度までそいつは俺の性に合つてゐるよ、裁判所に毎日通ふといふのも楽しみだな、本当だよ。
王子 通ふ度にぼろが出てもか?
フォールスタフ ぼろは出ない、さうだらうが、首絞め役人は死刑囚の着物で箪笥が幾つあつても足りないさうだぜ……いや、正直の話、けふは馬鹿に気が滅入つて仕方が無いんだ、雄猫よろしくさ、まるで犬に追廻される熊みたいなものよ。
王子 それとも老いぼれライオンか恋する男のリュートといつた処か。
フォールスタフ 全くだ、さもなければリンコンシアーのバッグパイプと言ひたい処さ。
王子 では、どうだね、野兎の如く、或はムーア下水の陰気そのままといふのは?
フォールスタフ 能くもまあ人の気持を腐らせる様な譬へばかり仕込んだものだ、悪口の名人、この上無しの碌でなし、有難い王子様さ……だが、ハル、もう結構だ、軽薄な無駄口でこれ以上俺を苦しめるな。俺は本気で思つてゐるのだが、お互ひ、他人様には良く言はれたい、その評判を何処かで一山仕入れて来たいものだとね、この間も枢密院の貴族の爺め、往来の真中で俺を取掴へてお前さんの事を種に毒づいて来たものだ、勿論、俺は相手にしなかつたけれど、奴さん、結構分別臭い御託を並べたものだ、勿論、俺は取上げなかつたけれど、奴さんの方は分別臭い御託を並べ立てるのだ、それも町中《まちなか》でさ。
王子 お前が相手にしなかつたのは正しい、賢者、「町に叫べども、耳傾ける者無し」といふからな。
フォールスタフ この罰当りめ、神聖な文句を捻ぢ曲げたりして、その分では聖者を迷はしかねない、ハル、お前さんのお蔭で俺も随分堕落したものだ――神様、どうぞこの男の罪をお許し下さいます様、とにかくお前さんを知る前の俺はな、ハル、何も知らずに暮してゐたのだ、それが今では、正直の話、罪を犯せる者の一人と言はざるを得ない様な有様さ……こんな生活はもう止めにしなければならん、きつと止めて見せる、誓つても良い、それが止められなければ、俺は悪党だ。地獄落ちは真平御免だ、たとへクリスト教国の王子様の為だつて。
王子 あしたは何処にするかな、追剥の場所だよ、ジャック?
フォールスタフ 畜生、来たな、こいつめ、お前とならば何処へでもだ、それを尻込みする様な俺様なら、悪党とでも何とでも呼ぶが良い、逆吊り結構、どんな辱しめを受けても文句は言はない。
王子 悔悛の情、真に顕著なるものあり、祈祷変じて窃盗となるか。
フォールスタフ おい、ハル、これは俺の職業なのだ、良いか、ハル、人として職に忠なるは罪に非ずだ。
ポインズ登場。
フォールスタフ ポインズだ! 奴に訊けば直ぐ解る、ガッヅヒルの野郎、もう張込みを済ませたかどうか。(指差して)ああ、人間といふものが功徳次第で救はれると決つてゐるものなら、どんな地獄の穴だつて、あいつの為には熱過ぎるといふ事は、まあ無いだらうね? あいつこそ全能の悪党だ、けふまで堅気の人間に向つて「やい、動くな」と嚇しを掛けた盗人の中でもこの男の右に出る者は一人もゐはしない。
王子 お早う、ネッド。
ポインズ お早うございます、ハル。何だつて、後悔屋さん? お話を伺ひませうか、砂糖入り葡萄酒の騎士ジョン殿? おい、ジャック、手前の魂の事で悪魔との折合ひは附いたかね、それ、この間の聖金曜日にマデーラ酒一杯と〓の脚一つで魂を売渡してしまつたらうが?
王子 騎士ジョンは決して約束を破らん、契約の品は必ず悪魔に引渡す、未だ嘗て諺を破つた事の無い男だからな、「人それぞれに取り分あり」といふ、悪魔にもその分前に与らせるのがこの男さ。
ポインズ では、お前は地獄に落ちても悪魔との約束を守る積りかい?
王子 それを守らなければ、悪魔を瞞した罪によつて地獄落ちは免れない。
ポインズ それより、御両人、宜しうござんすかね、あすの朝は起き抜け四時にはガッヅヒルですぜ、相手はキャンタベリー詣りの巡礼達で、寺に納める金や品物をしこたま持つてゐる、それにロンドン行きの商人連中も一緒だ、はち切れさうな財布を懐にしてな……面《つら》隠しは用意して来たが、馬は皆手前達のがあるだらう、ガッヅヒルは、いや、人間の方さ、奴は今晩はロチェスターに泊り込む、あすの晩飯はイーストチープでやれる様に言つて置いた、居眠り半分で出来る仕事だ。一緒に来さへすれば、請合つても良い、御両人の財布を一杯にしてやる、厭なら、家でごろごろしてゐて、そのまま彼の世にでも何処へでも送り込んで貰ふが良い。
フォールスタフ おい、エドワード、俺をここへ残して置かうといふ気なら、さつさと一人で出掛けたら良い、その代りお前さんの方を彼の世に送り込んで貰ふ様にその筋へ願ひ出るとしよう。
ポインズ では、遣る気か、太つちよ?
フォールスタフ ハル、かうなれば、お前さんだつて火の中、水の中といふ処だらう?
王子 誰が、俺が? 追剥を? 俺が盗人になる? 厭な事だ、とんでもない。
フォールスタフ 何といふ事だ、誇りも男気も無ければ、友情の一かけらも無いのだな、お前さんには、それ処か、王様の血だつて一滴も流れてゐさうも無いね、たとへ十シルの為にも乾坤一擲の大芝居が打てない様では。(ポインズがフォールスタフの背後で合図をする)
王子 さうか、では、一生に一度、思切つて暴れて見るか。
フォールスタフ それ、それ、さう来なくては。
王子 さうだな、誰に何と言はれようと、俺は残るよ。
フォールスタフ 良し、それなら俺は謀反を起してやるぞ、お前さんが玉座に納つたら。
王子 お好きな様に。
ポインズ サー・ジョン、お願ひだ、王子様と俺と二人切りにして置いてくれないか、王子様にはとつくり話を聴いて貰つて、どうでもその気になる様にして置くから。
フォールスタフ それなら、どうぞ神様がお前に説教の力を、そして王子様には素直な耳をお与へ下さいます様に、さうしてお前の言ふ通り、王子様の聴く通り、万事めでたく納つて、本物の王子様が一寸した気晴しに、贋物の追剥になれます様に、といふのも、当節は悪い事をしようにも、お偉方がさう易と手をお貸し下さらない世の中だからね……では、行くよ、イーストチープで待つてゐるぜ。
王子 では、また、季節外れの狂咲き殿! 御機嫌良う、初霜過ぎての小春日和殿!(フォールスタフ退場)
ポインズ さて、王子様、あすは是非とも御一緒に。一寸面白い思附きがあるのですが、私一人では出来ません。フォールスタフ、バードルフ、ピートー、それにガッヅヒル、この四人に、例の目を附けて置いた旅人共を襲はせます――処であなたと私とはその場に姿を現さない、段取がここまで来てゐて、その四人が手に入れた獲物を、お互ひ、そのまま手を拱いて見逃す様なら、その時はこの首を肩から外して戴きたいもので。
王子 さうして張込む前に、どうして奴等を撒くのだ?
ポインズ 何の事は無い、私達の張込みは奴等より前か後にするのです、落合ふ場所を打合はせて置きさへすれば宜しい、その手筈を破るのはこちとらの御心次第、先づ奴等に思ふ存分手柄を立てさせる、さうして獲物が奴等の手に入るや否や、今度はこちらで奴等に襲ひ掛るといふ段取です。
王子 それにしても、直ぐ解つてしまひさうだな、馬や着てゐる物もだが、持物どれ一つにしてもごまかしは効くまい。
ポインズ へん! 何も馬など見せる事はありません、森に繋いで置けば宜しい、面隠しも別れた後で別のと換へてしまひます、しつかり頼みますよ、わざわざ粗布の合羽まで用意して置いたのですよ、他でもない、いつもの上着を隠す為に。
王子 それにしても、奴等は一寸俺達の手に余りさうだな。
ポインズ それが、連中のうち二人までは敵に後を見せる事に掛けては他に類の無い生れながらの臆病者、三人目と来た日には一合か二合の斬合ひが精、それ以上保《も》つたら、誓つても宜しい、私はこの剣を二度と手にしません。処で、この思附きの妙味たるや、実に尽きせぬものありといふ訳でして、といふのは、あの太つちよのごろつきめ、後で晩飯の時にきつと大法螺を吹くに違ひありません、群る敵はざつと三十人と来る、それを相手に、奴さん、さつと身構へ、手傷、危難を物ともせず、打発止かくかくしかじかと口から出任せ、その後でこちらは一つ一つ反証を挙げて遣り込める、そこが味噌なのでして。
王子 解つた、一緒に行かう。用意万端、手抜りの無い様にしろ、あすの晩、イーストチープで待つてゐる、晩飯はそこでする……では、また。
ポインズ では、あしたお目に掛ります。(去る)
王子 お前達の事はすつかり解つてゐる、ここ当分はその野放図な気紛れに附合つてゐるだけの事。実は、さうして俺は太陽を真似てゐるのだ、醜い雲の群るに任せ、己れの美を人の目から隠し、気の向いた時に姿を現せば、それまで見失はれてゐただけに却つて人は讃歎の声を惜しまぬもの、その時こそ、汚れた霧を吹き払ひ、己れを抹殺してしまつたかと思はれた暗雲を引裂いて正体を現すのだ。一年が毎日休みとなれば、遊びも仕事と同様辛いものにならう、事実、たまの休みであればこそ、来るのが待ち遠しがられるのだ、何事にせよ、稀に起るものでなければ人を楽しませない、それ故、やがてこの自堕落の衣を投げ捨て、今までの借財も、還す約束は一度もした事は無かつたが、それを一切還すとなつたら、言葉以上の行ひはそれだけに立派なものとなり、それだけに見事人の予想を裏切つて黒い地金の台に嵌め込んだ黄金よろしく、悔悛の効き目は十分、俺の非行を蔽ひ隠して、ますます美しく照り映え、愈人目を惹かうといふもの、それを引立てる地金の台を持たぬ奴の比ではない。それ故、俺は悪い事をする、勿論、方便としてだ、さうして、人が夢にも考へぬ時に、失はれた時を一挙に償ふのだ。(退場)
〔第一幕 第三場〕
ウィンザー、会議の間
王、ノーサンバランド伯、ウースター伯、「燃ゆる拍車《ホツトスパー》」、騎士ウォルター・ブラント、その他が登場。
王 成る程、今日まで聊か冷静に過ぎ専ら寛容を旨とし、度重る屈辱にもさして苛立ちもしなかつた、さすがにそれが皆の目にも余つたのであらう――口にこの身の寛大を譏る気持は良く解る。が、安心してくれ、今後は気を取り直し、力と威を以て臨む、思へば、油の如く手応へ無く、和毛《にこげ》の如く柔き日頃の気質、それ故にこそ王の資格を疑はれ、誇りをもてる心が唯誇り有る者にのみ支払ふ尊敬を失つたのだ。
ウースター 吾がウースター一家の為、敢へて申上げます、吾等、王権の鞭を蒙る謂はれは更にございませぬ、しかも、その王権たるや、吾等の手を借り今日の大を為したる事実に鑑みれば猶の事。
ノーサンバランド それはさて置き――
王 ウースター、出て行くが良い、その目には逆心と不敬の色が現れてゐる、そもそもこの場に姿を現す事すら、不敵傲慢の振舞、あまつさへ王として忍び難きはその怒気を含める不逞の面持《おももち》、臣下にあるまじき事だ。直ぐにも退出して貰はう。何か用があれば、改めて使ひを出す……(ウースター退場)何か話し掛けた様だが。
ノーサンバランド (一礼して)はい、一言。王の名において引渡しをお命じになりました捕虜の件にございますが、伜のハリー・パーシーがホームドンの丘において捕へし者共につき、当人の言によりますと、力づくでお引渡しを否み申した訳ではなく、その点、王のお耳に誤り伝へられたものと思はれます。どうやら悪意、乃至は誤解にその咎は帰せらるべく、伜の全く与り知らぬ処にございます。
ホットスパー 捕虜のお引渡し、お断り申上げた覚えはございませぬ、成る程、あの時は戦が終つたばかりで、激しい命の遣取りに咽喉は干上る、息も切れ果て気を失ひさうになる、それを剣を杖に漸く持ち堪《こた》へてをりました処へ、さる貴族が現れました、それも雅な衣裳を一分の隙無く着こなし、花婿の様に晴しい顔附き、短く刈り込んだ顎鬚は穫入時の畑よろしく処に切株が残つてゐるといつた形。小間物屋の様に香料の匂ひを撒き散らし、その上、人差指と親指で香料の小箱を掻い摘み、それを引切り無しに鼻先に押し附ける――当の鼻もこれにはすつかり腹を立て、終ひには好い加減に鼻であしらふ始末――それでも御本人は結構御機嫌でにこにこ話を続けてをりました、そこへ偶兵士の一群が戦死者の遺骸を運んで通り掛りました処、その貴族殿、物を知らぬ奴ばら、無礼にも程がある、見るも厭はしき不様な死体を運ぶのに貴族の風上を通るとは何事かと、大声挙げて叱り附けました、かと思ふと、他所行きの女房言葉を混へて、何の彼のとうるさく私に話し掛けて参り、その話の中で事の序でに捕虜引渡しは王の御為、必ず実行せよとの仰せ。こちらは傷口がそろそろ冷えて来て痛みはひどくなる一方、その上鸚鵡男に悩まされ、苦痛と苛立ちから、吾知らずつい投げ遣りにお答へしてしまつたのです、捕虜を引渡すと言つたのか引渡さぬと言つたのか、その辺も定かではありませぬ、何しろ目の前に、けばけばしく磨き立て、辺り構はずぷんぷん匂ひを撒き散らし、宮仕への女房の様な口調で、大砲や軍鼓の話から死傷者の事まで喋りまくる奴を見てをりますと、ええい、勝手にしろ! そのまた言ふ事が奮つてゐる、深傷《ふかで》に効く最高の妙薬は鯨の脳味噌から取れる鯨蝋に優る物無しとか、遺憾この上無きは、人殺しの道具、残忍無比なる硝石が何の邪心も無き大地より掘出され、お蔭で数多《あまた》の勇士が片端から殺されるといふ卑劣な事態に立ち到つた、もしかかる禍《まが》しき砲弾さへ無かりせば、自分は進んで武人の道を歩みしものをとか……この愚にもつかぬ支離滅裂なお喋りに対して、私は唯今申上げました様に、当り触りの無い返事をして置いたまでの事、それ故、その男の言葉によつて私の忠誠をお疑ひになり、咎め立てなさいませぬ様に。
ブラント 色考へて見ますに、ハリー・パーシー卿がその場でお答へになりました事は、相手が相手であり、その上、時と所とがあり、話を伺へば伺ふほど、改めてお採上げになり、卿に苦しみをお与へになるまでも無い事の様に思はれますし、その時の卿のお言葉も、今自ら否認しておいでとあれば、敢へてお責めになる要はございますまい。
王 いや、これは今なほ捕虜の引渡しに応じようとはせず、飽くまで己れの条件を押し貫かうとしてゐる、どうしてもこの身に身代金を支払はせ、直ちにこれの義兄のモーティマーを、あの馬鹿者を敵の手から取返さうといふのだ、言ふまでもあるまいが、あの男は始めから寝返りを策し、己が部下の命を忌むべき魔術師グレンダワーの手に渡した、しかも、聞けば、最近、奴はその娘と結婚したといふ……吾が国庫を空にしてまでその様な裏切者の命を贖はねばならぬと言ふのか? 金を出して謀反人を買取れと言ふのか? 自らを滅ぼし自らを売つた恐るべき卑怯者と取引をしろと? その様な事が出来るか、奴の如きは荒れ果てた野山に飢ゑしむるに若くは無い、それ程に思つてゐるこの身の事だ、まさか身方のうちから、かかる男の為に弁じ、一ペニーと雖もその身代金を支払はせ、反逆者モーティマーの命乞ひをする者が出て来ようとは夢にも思へぬ。
ホットスパー 反逆者モーティマー! あれは反逆ではない、戦に附き物の運否天賦《うんぷてんぷ》に過ぎませぬ。その証しの為には唯一枚の舌で十分だ、それがあの無数の手傷の跡を物語つてくれませう、ざつくり口を開いた深傷の跡を、それは見事な向う傷だつた、あの時、葦の生ひ茂つたセヴァーンの河岸で人も交へぬ一騎打におよそ一時間、鎬《しのぎ》を削つて勇将グレンダワーと互角の勝負を戦つたのだ。三度《みたび》、二人は息を入れ、三度、水を求め、相手の応諾を得てセヴァーンの流れに咽喉を潤したが、二人の姿を映した水面《みなも》はその血みどろの顔に恐れざわめき、辺りの震へ戦く葦の間を逃れる様に流れ去り、忽ち波頭を岸の凹みに隠してしまひはしたものの、その凹みも猛り狂ふ二人の戦士の血に赤黒く汚れてしまつたのだ。単なる卑劣な策謀が、これほどの深傷に命を賭けてまで念入りな細工を施した例は無い、モーティマーにしてもあれだけの傷を、しかも自ら求めて負ふ必要は全く無い。謀反の中傷を以てあの男を葬つてはなりませぬ。
王 お前の言ふ事は嘘だ、パーシー、あれはそんな男ではない。グレンダワーともつひに戦を交へず終ひだつた、良く聴け、グレンダワーを敵として戦へる位なら、悪魔との一騎打を見せてくれもしたらう。お前は恥を知らぬのか? いや、良い、とにかく今後はモーティマーの事をこの耳に聴かせてくれるな、捕虜はあらゆる手立を尽して直ちに送り届けてくれ、さもなければ、お前の身にも面白からぬ沙汰を下さねばなるまい……ノーサンバランド卿、息子を伴ひ直ぐにも出立して宜しい。捕虜の事は良いな、命令通りにせぬと、このままでは済まぬぞ。(王、ブラント、その他の貴族達退場)
ホットスパー 悪魔が猛り狂つて喚かうが、捕虜は決して渡さぬ、良し、直ぐに追掛けて行つて、それだけは言つて置かう、鬱憤晴らしには首でも何でも賭けてやる。
ノーサンバランド おい、苦い胆汁でも飲んだのか? 待て、少し落着いたらどうだ、それそこに叔父が来る。
ウースターが戻つて来る。
ホットスパー モーティマーの事をこの耳に聴かせるな! ふざけるな、幾らでも言つてやる、神のお気に召さうが召さなからうが、俺はあの男と一緒にならずに置くものか、さうだ、あれの身方になつて、この血の管を打ちまけ、俺の血の一滴を乾いた大地に吸込ませても、あの蹂み躙られたモーティマーを、恩知らずの王よりも、悪逆非道のボリングブルックよりも空高く押し上げてやるぞ。
ノーサンバランド おお、弟、王のお蔭でお前の甥はすつかり半狂乱の態だ。
ウースター 誰がかうまでこの男の血を燃え上らせたのだ、俺が座を外して直ぐこの様とは?
ホットスパー 捕虜を悉く引渡せと言張るのです、私がもう一度改めて妻の兄弟に身代金をと言ひ掛けるや否や、顔を真蒼にして、この私に憎しみの眼《まなこ》を向け、モーティマーの名を耳にしただけでもぶるぶる体を震はせる騒ぎだ。
ウースター 俺には良く解る、亡つたリチャード王がはつきり公言してゐるではないか、この男こそ自分の血に最も近い者だと?
ノーサンバランド その通りだ、俺もこの耳で聴いてゐる、が、直ぐその後で不幸なリチャード王は、いや、その責めは吾にある、何とぞ神のお許しを! アイルランド征討に出発した、それも中断させられ、ロンドンに戻るや否や廃位の憂き目に遭ひ、そのまま虐殺されたのだ。
ウースター その死のお蔭で吾は世間の非難をまともに浴び、悪党呼ばはりされたものだ。
ホットスパー 待つて下さい、本当ですか、リチャード王の公言といふのは、義兄のエドマンド・モーティマーを王位継承者に指定するといふ?
ノーサンバランド 本当だ、この耳で聴いてゐる。
ホットスパー さうか、それなら良く解る、あの男を荒れ果てた野山に飢ゑ死にさせたいといふ王の気持も。しかし、それで平気なのですか、大事な王冠をあの恩知らずの王の頭に載せてやり、お蔭で人殺しの片棒を担いだといふ汚名を着せられても、それでも平気だと言ふのですか、在りとあらゆる呪ひの雨を浴び、犬の、道具のと罵られ、首絞め縄、絞首台の梯子、首絞め役人と悪口叩かれても?――ああ、お許し下さい、つい口汚い事を言つてしまひましたが、お二人の地位といひ、身分といひ、在り態に申せばさういふ事になりませう、仕へる相手が他でもないあの陰険な王なのだから!――恥も厭はぬとおつしやるのか、生きて世人に蔭口され、後の世にその語草が文字となる、誇り高き血筋と権力に恵まれたお二人が、それを質に不正と取引、正直、お二人共、神よ許し給へ! 否とはおつしやれますまい、さうしてリチャードを、彼の美しい薔薇を切落し、その代りにあの棘しい野茨、ボリングブルックの根廻しに努めた、さう言はれても? それ処か、更に恥づべき事を噂されても一向厭はぬとおつしやるのか、いづれは嘗められ、小突かれ、抛り出される、他でもない、けふまで数の恥を蒙らされたあの王の手で、さうまで言はれても? 誰がそんな事を、いや、まだ時はある、今のうちに剥ぎ取られた名誉を恢復し、再び世人の心を取戻さねばなりませぬ、復讐してやるのだ、あの王の嘲りと蔑みに、思上りにも程がある、あの男が日夜心を砕いてゐる事は、お二人に借りた負ひ目をどうして返すか、その手立だけです、詰り、お二人の命を奪ふといふ残忍な支払方法できれいさつぱり帳尻を合はせて置きたいのだ、ですから、ここは――
ウースター もう良い、何も言ふな。今度は俺が秘密の本の扉を開いて見せる、不満に乾いたお前の心は何事にせよ忽ち吸込んでくれよう、その耳に重大深刻な事態を読んで聴かせようといふのだ、譬へば轟音を挙げてり流れる早瀬の上を、一本の槍を橋にして渡り越える様な頼り無い話だが。
ホットスパー 足を踏み外したら、それでおさらばだ! そのまま沈まうとじたばたしようと同じ事。いつそ危険の嵐を東から西へと吹き募らせるが良い、さうなれば、こちらは横紙破り、北から南へ面目玉を突走らせ、危険を相手に大立廻りをさせてやるだけの事、おお、この血を沸らせるには、獅子こそ持つて来いだ、兎では話にならぬ!
ノーサンバランド 早くも大勝利の夢に耽り、その興奮にすつかり己れを見失つてしまつたらしい。
ホットスパー 誓つても良い、そんな事は何の造作も要らぬ、ほんの一飛びだ、生白い月の手から名誉の輝しさだけを引手繰つて来るなど、いや、海の底にだつて潜つて行くぞ、鉛が底に届かぬ深海であらうと、そこに名誉が死んで横はつてゐるとなれば、その髪毛《かみのけ》を引掴んで持帰つてやるだけの話、さうして名誉の為に償ひをしてやつた者だけが、そのあらゆる栄光を独り占め出来るのだ、が、分け前半分で我慢しろなどと言ふ奴はさつさとくたばつてしまへ!
ウースター 無数の幻に取憑かれてゐる、が、そのどれに心を託して良いのか肝腎の事が解つてはゐない。まあ、少しは俺の言ふ事にも耳を藉したらどうだ。
ホットスパー これは失礼しました。
ウースター 例のスコットランド人、それ、お前の虜にした連中の事だが――
ホットスパー 全部、手もとに留め置く積りです、誰が何と言はうと、一兵たりとも王には渡しませぬ。渡すものか、スコットランド人一人と引換へに王の霊が救へると言はれても、断じて。奴等は今のまま、決して手離しませぬ。
ウースター お前は話を直ぐ傍道へ逸らしてしまふ、俺が何を言はうとしてゐるか、耳を藉さうともしない……捕虜は自分の手もとに留めて置くが良い。
ホットスパー 勿論、さうします、決り切つた話だ、王はモーティマーの身代金は出さぬと言つた、そしてモーティマーの名を口にする事さへ禁じた、だが、俺は王が眠つてゐる処を掴へて、その耳もとで大声に喚いてやる、「モーティマー!」とな。いや、それより椋鳥を一羽掴へて唯「モーティマー」と鳴くしか能の無い様に仕込み、そいつを贈物にして向つ腹の立て続けにしてやるのだ。
ウースター まあ、聴け、ほんの一言で良い。
ホットスパー ここ当分、何も彼も抛り出して、専らあのボリングブルックを捻ぢ伏せ一泡吹かせる事に精出してやる。それに例の空威張屋の王子、ウェイルズ公だが、あいつは親父にすら疎まれ、何か禍ひでも起きれば誰より親父が喜ぶ様な碌でなし、さもなければ、飲みつけの酒に一杯盛つてやりたい位だ。
ウースター けふはこれでお別れだ! 話はもう少し落着いて耳を藉してくれさうな時までお預けにしよう。
ノーサンバランド おい、山蜂に刺されでもしたのか、吾を忘れたその様は何だ、女しい泣き事ばかり並べ立て、人の言葉には少しも耳を藉さず、自分の言葉にばかり酔つてゐる!
ホットスパー 何をおつしやる、事実、鞭責め棒責めの拷問に遭つてゐる様なものです、体中、刺草《いらくさ》に刺され、蟻に食ひ附かれてゐるのも同じ事だ、あの悪辣な策士、ボリングブルックの喋るのを聴いてゐる時の私は。リチャード王の時――あれは何処でしたつけ?――畜生、グロスターシアーだつた、あそこには王の叔父に当る我武者羅公爵のヨークが住んでゐたが――あそこで俺は始めて拝謁の栄を賜つたのだ、八方美人のあのボリングブルックに――糞面白くもない! さうだ、あれはお二人がラヴンスパーグから帰つていらした時だつた――
ノーサンバランド バークレーの城内だつたな。
ホットスパー さうでした。それが、何たる事だ、巧言令色の飴をしやぶらせて、あのおべつか使ひの猟犬め、この俺をちやほやしたものだ! 「未だ嬰児《みどりご》にも等しい私の運が開け、やがて成年に達する時も来よう、その時はいづれ」などと抜かしやがつた、それから「吾がハリー・パーシー」とか「吾等が身内の頼みの綱」とか、憶出せば切りが無い、ああ、悪魔の奴、何だつて放つて置くのだ、あんないかさま師を! いや、つい口が滑つた、神よ、許し給へ! 叔父上、お話を承りませう――私はもう何も言ふ事は無い。
ウースター 構はぬ、まだ言ひたい事が有るなら、幾らでも喋るが良い、こちらはお前の気が向くまで待つてゐる。
ホットスパー もう良いのです、真面目な話。
ウースター では、重ねて言ふが、例のスコットランド人の捕虜の件だ。一人残らず身代金無しで直ぐ釈放してやれ、一方、ダグラスの息子のマードック伯は、お前にとつて唯一の大事な手掛りだ、やがてスコットランドで兵を挙げるとなればな、しかも、その件は、いづれ手紙で詳しく説明するが、先方でも喜んで応じるに相違無い。処で、兄上、(ノーサンバランドに向つて)あなたの息子がスコットランドでさういふ風に事を進めてゐる間に、彼の名望高き大司教の心を得る様、ひそかに渡りを附けて頂きたい。
ホットスパー 大司教といふのは、ヨーク寺院の?
ウースター さうだ、ブリストーで弟御のスクループ卿が殺された事を大層憤つておいでだ。以上は単なる臆測ではない、如何にもありさうな事だといふ程度の事ではなく、確かな事実なのだ、十分に練り上げられ、その計画も軌道に乗り、決定済みの事柄で、今は唯それを実行に移す機会が顔を覗かせてくれるのを待つてゐるだけの話なのだ。
ホットスパー 匂つて来たぞ。大丈夫、きつと巧く行く。
ノーサンバランド お前は獲物が姿を現す前に、いつでも犬の方を先に嗾ける。
ホットスパー しかし、こいつはどうにも堪《こた》へられない名案だ。とにかくスコットランドとヨークの兵がモーティマーと合流する、え、さういふ事でせう?
ウースター うむ、さうなるだらう。
ホットスパー 実に見事な計略だ。
ウースター さうして事を急ぐといふのも、さしたる理由は無い、唯、吾の首を繋いで置く為に首を擡げるだけの話だ、といふのは吾が如何に大人しく振舞はうとも、王には永久に吾からの借りが忘れられず、吾が常に不満を懐いてゐると思ひ続け、いつかそのお返しが出来る時を待つてゐるのだ。見れば解るだらう、王は既に吾を他所者扱ひし始めてゐる。
ホットスパー さうだ、その通りです、もはや復讐あるのみだ。
ウースター では、いづれまた。事を急ぐなよ、手紙で一切の手筈を伝へるからな。時が熟すれば、それも直ぐ目前に迫つてゐる、その時は、俺もグレンダワーとモーティマーの処へ身を寄せる、そこで忽ちお前とダグラスと俺の手の者とが、手筈通りめでたく合流し、吾の運命は己が強固な武力によつて守られるといふ事にならう、それが今の処はまだまだ不確かな状態だが。
ノーサンバランド それでは、これで別れよう、万事巧く行く、間違ひ無い。
ホットスパー 叔父上、またお目に掛りませう、ああ、早く時が経てば良いのだが、戦場、剣の響き、人馬の呻き、それらが俺達の大芝居に拍手を送つてくれる日が待ち遠しい!(三人退場)
〔第二幕 第一場〕
ロチェスター、旅籠《はたご》の中庭
運送屋の一人が燈りを手にして登場。
第一の運送屋 おおい! もう四時だ、そろそろ夜が明けるぞ、畜生め。七つ星が新しい煙突の上に来てゐる、それなのに馬の荷の積込みがまだ終らない。おい、廐番!
廐番 (奥で眠さうに)直ぐ行くよ、直ぐ。
第一の運送屋 良いかい、トム、駄馬公の鞍を一寸とんとんやつて毛屑を少しばかり填めておいてくれ、奴め、かはいさうに鞍に引擦《こす》られて肩骨をひどく痛めてゐる、あれではどうにもならない。
運送屋の二が登場。
第二の運送屋 豌豆も隠元豆も黴だらけのこんこんちき、これでは馬の腹に蛔虫を送り込む様なものだ、廐番のロビン親分が死んでからといふもの、この宿もすつかり左前だな。
第一の運送屋 かはいさうに、奴は燕麦《からすむぎ》が値上りしてからといふもの、からきし元気が無くなつてしまつてよ、死んだのもそれが因さ。
第二の運送屋 それにしても恐しい家だ、ロンドン街道の旅籠で、ここほど蚤の出る処は多分他にはあるまいよ。ほれ、この食ひ附かれた痕、まるで鯉の肌そつくりだ。
第一の運送屋 本当だ、まるで鯉だ! 誓つても良い、クリスト教国の王様は何でも一番だといふけれど、こればかりは俺の方が上だ、一番〓が鳴いてから後に食はれた分だけでもな。
第二の運送屋 当り前よ、この家では溲瓶《しゆびん》を置いて置かないから、ついその煖炉なるもので用を足してしまふ、そこに溜つた小便から蚤が涌くといふ訳だ、鰌《どぢやう》に寄生虫が涌くのと同じさ。
第一の運送屋 おい、廐番! 早く来い、このこんこんちきめ、早くしないか。
第二の運送屋 俺はベーコンの燻製と生姜《しやうが》の根を二束、チャリング・クロスまで届けなければならないんだ。
第一の運送屋 本当にどうしてくれるんだ! 俺の方だつて、籠の中の七面鳥は大方冷たくなつてしまつたよ……やい、廐番! くたばつてしまへ! 手前の顔には目玉は附いてゐないのかい? 俺の言ふ事が聞えないのか? 飲んだくれるのと手前の頭を打割るのと、どつちが罪かと言へば、勿論、飲んだくれる方だ、といふ事にならないと、俺はとんでもない大悪党といふ事になる。やい、出て来い、こんこんちきめ! 手前には真心といふものが無いのか?
ガッヅヒル登場。
ガッヅヒル お早う、今何時だね?
第一の運送屋 まだ二時頃だらう。
ガッヅヒル 出来たら、燈りを貸してくれないかね、廐まで馬の様子を見に行きたいんだ。
第一の運送屋 待つた、さうは問屋が卸《おろ》さない、その手は先刻承知だつて事よ!
ガッヅヒル では、お前さんのを貸してくれな。
第二の運送屋 ほい来た、夜が明けてからで良いのかい? お前さんの燈りを貸してくれ、さうおつしやつたらしいね? とんでもない、それより、俺はお前さんが首を絞められる処を見物したいよ。
ガッヅヒル 処で、お前さん達は何時にロンドンに着くんだね。
第二の運送屋 着いてから蝋燭の火を頼りに寝床に潜り込める位の暇はあるだらうよ。(奥へ向つて)おい、マッグズ、そろそろ旦那方にも起きて貰はうぢやないか。皆一緒に出掛けるのだらう、何しろ大金を持つてゐるのだからな。(運送屋二人共、奥に入る)
ガッヅヒル おおい、番頭!
声 (奥から)いつでもお側に、さういふお前は巾着切。
ガッヅヒル それなら同じく――いつでもお側に、さういふお前は宿屋の番頭、いづれにしろ、大した違ひは無い、番頭は口で指図をし、巾着切は手で仕事をする、お前は筋書を作る役さ。
番頭登場。
番頭 お早うございます、ガッヅヒルの旦那。万事巧く行つてゐます、ゆうべお話しした通りだ。相手はケントの森林地帯の地主だ、そいつが金貨で三百マークも持つてゐる、仲間にさう言つてゐるのを、ゆうべ晩飯の時、小耳に挿んだのです、その仲間といふのは大蔵省の役人でね、これがまたしこたま懐に持つてゐる、見当も附かない位ね。もう皆起きて、朝飯に卵とバタの御注文と来た。直ぐ出掛けますぜ。
ガッヅヒル 良し来た、その御一行が万一街道の聖者ニコラス様の信者共のお出迎へを受けなかつたら、俺はお前さんにこの首を遣つても良い。
番頭 結構ですよ、お心遣ひには及びません。そいつは首絞め役人の為に大事に取つて置いた方が良い、ニコラス様の信者なればこそ、いや、やくざなら当然だがね、だからこそ、さう申上げてゐるのだ。
ガッヅヒル 何だつて首絞め役人の話などするのだ? もし俺が首を絞められる様な事になつたら、絞首台に太つちよが二人並んでしまふぜ、だつて、さうだらう、俺が絞められれば、騎士のフォールスタフも同じ運命だ、知つての通り、奴は決して痩せてはゐないからな。へん! 他にもまだ有難い仲間が何人かゐるのだ、お前さんなど夢にも思附かないのが、さうよ、そいつらはほんの遊び半分からやつてゐるので、謂はばこの商売を聊か品の良いものに格上げしようといふだけの事さ、で、もし手が廻つて調べられても、その連中の面目の為に万事めでたく納る仕掛になつてゐるのだ。こちとらの仲間は街道無宿のごろつきでもなければ、唯の半シル欲しさにむやみやたらと棍棒を振廻す追剥でもない、といつて、こけ嚇しに髯を紫に染めた半気違ひの飲んだくれとは一寸筋が違ふのだ、身分は高く暮しは安穏、お歴のお偉方、といふ訳で、大事な事をべらべら喋つたりする事は無い、喋るなら先づ殴つてから喋る、喋つてから飲む、飲んでから祈る。いや、これはいかん、今のは嘘だ、連中は始終お祈りを捧げてゐる、自分を守つてくれる聖者様だの、国家だのに、自分の国がいつまでも繁栄します様につてな、詰り、それはいつまでもそこから搾り取れます様にといふ事さ、連中はその上を思ひのままに乗廻して、そこからたつぷりせしめるのさ、所謂役得つていふ奴だ。
番頭 へえ、国家はやつと食つてゐるのですかね? その調子ではとても繁栄といふ訳には行かないだらう?
ガッヅヒル 行かないね、とても――だから、お上《かみ》が一杯飲ませて時国家に活を入れなければならない、でも、俺達は謂はば城の中にゐる様なものだ、安全この上無しさ、それに姿を隠す羊歯の種の使ひ道を知つてゐる、そこら中を歩き廻つても誰にも見えないのだ。
番頭 何を言つてゐるのだね、歩き廻つても誰にも見えないのは、夜のお蔭で、羊歯の種のせゐではありませんや。
ガッヅヒル ま、握手と行かう、何か手に這入つたら、分け前を遣る、俺の様な真人間の言ふ事だ、間違ひ無い。
番頭 いえ、有難く頂戴するにしても、それは、お前さんが盗人だからで真人間だからではない。
ガッヅヒル 何を言ひやがる、「人」といふ言葉は盗人と真人間とを問はず全人類共通のものだ、さ、廐番に言つて俺の馬を引出させてくれ。あばよ、この半人足。(二人退場)
〔第二幕 第二場〕
ロチェスターより二哩ばかり離れたガッヅヒルの丘、その頂きの狭い小道
木立、灌木。夜明け前でまだ暗い。
王子、ピートー、バードルフが丘を登つて来る、その後を追掛けてポインズ登場。
ポインズ さあ、隠れるんだ、隠れて下さい! フォールスタフの馬は隠してしまひました、奴はゴム引きの天鵞絨よろしくぷりぷりしてゐます。
王子 隠れてゐろ。(ポインズ灌木の後に姿を隠す)
フォールスタフが喘ぎ喘ぎ丘を登つて来る。
フォールスタフ ポインズ! ポインズのこんこんちきめ! ポインズ!
王子 うるさい、腎臓病の太つちよめ! 何だつてさう喚き立てるのだ!
フォールスタフ ポインズは何処へ行つた、ハル?
王子 丘の天辺の方へ歩いて行つたよ、俺が探して来よう。(ポインズの傍へ姿を隠す)
フォールスタフ あんな盗人野郎と一緒になつて追剥などやつてゐる様では、俺も地獄落ちだ。あいつ俺の馬を何処かへ引張つて行つて、解らない処へ隠してしまひやがつた。後ぎりぎり四呎しか歩けない、それ以上一足でも歩かせて見やがれ、俺は完全に息が切れてしまはあ……さうだ、間違ひ無い、まだ今のうちなら大往生が遂げられるかも知れない、色やつたが、とにかくあの成らず者を殺して絞首台送りといふ事にだけはならずに済むからな。俺はけふまで奴との附合を断ち切らうとして、この二十二年の間、一時間毎に誓ひを立てて来た、だのに、その度に魔法を掛けられたみたいにあの成らず者に附合はされてしまふのだ。あの畜生め、俺に惚れ薬を飲ませて、どうしても奴に惚れ込んでしまふ様に仕掛けたとしか思へない。さうだ、さうに決つてゐる――俺は一杯盛られたのだ。ポインズ! ハル! 二人共くたばつてしまへ! バードルフ! ピートー! 俺は盗人働かうにも、もう一足動かしたら、あの世へ行つてしまふぞ。飲んだくれるのと、真人間になつて奴等成らず者と手を切るのと、どつちも同じ悪い事だといふなら、それなら俺はこの世に生を受けた悪人のうちでも最大の極悪人といふことになる……山道の八碼といふのは、この俺様には七十哩に突つかふ、あの残酷な悪党め、それを百も承知なのだ。ええい、くたばつてしまへ、盗人の仁義を弁へない様な奴等は!(口笛が聞える)ヒュー! 皆、くたばつてしまへ! 俺の馬を還せ、この成らず者めら、馬を還さないと唯では置かないぞ。
王子 (姿を現し)うるさい、この脹れ腹の太つちよめ! 伏せろ、耳を地面に当てるのだ、旅人達の足音が聞えるかどうか。
フォールスタフ 後で起してくれる梃子を持つて来たかい、横になるのも良いけれどな? 畜生、俺はもう一足だつて自分の体を動かせないのだ、お前さんの親父の国庫に蔵つてある金を全部くれると言はれても、もう駄目だ。全くむしやくしやする、お前さんはどういふ肚で俺をまんまと乗せてこんな目に会はせたのだ?
王子 出たらめも休み休み言へ、こつちで幾ら乗せたくとも乗せ様が無いではないか、お前の馬は盗まれてしまつたもの。
フォールスタフ それだよ、ハル、良い子だ、俺を馬のゐる処まで連れて行つてくれ、な、王子様。
王子 ふざけるな、この成らず者! 俺はお前の廐番か?
フォールスタフ 畜生め、手前の靴下留で首を括りやがれと言ひたい処だが、その首にぶらさげてゐるガーター勲章の綬で縊れ死んでしまへ! もし俺が掴つたら、洗ひ浚ひ何でも喋つてやる……お前の生涯を歌に作らせて廉つぽい節廻しで国中歌ひ歩かせてやるのだ、それが出来ない様な俺様なら、さうだ、俺の飲む酒が忽ち毒に変つてしまふが良い――悪ふざけも好い加減にしろ、何処まで行く気だ! 俺はもう厭だ。
ガッヅヒルが丘を降つて近附いて来る。
ガッヅヒル 動くな!
フォールスタフ 仰せの通り動かないよ、動きたくも動けない。
ポインズ、バードルフ、ピートーがガッヅヒルに近寄る。
ポインズ ああ、張込みに出して置いた男だ。声で解る。
バードルフ 首尾はどうだ?
ガッヅヒル 面を隠せ、面を、面隠しを附けるのだ、王の御用金が丘を降りて来る、国庫に収る金だ。
フォールスタフ 何を出たらめ言ひやがる、この成らず者め、そいつは居酒屋に収るのだ。
ガッヅヒル あれだけあれば、一同めでたしめでたしだぜ。
フォールスタフ ――絞首台の上でな。
王子 良いか、お前達四人はこの狭い小道の処で奴等を待伏せ、正面からぶつかつて行くのだ、ネッド・ポインズと俺とは下の方で待つてゐる。折角お前達の手を逃れたと思ひきや、今度は俺達の懐に納つてしまふといふ寸法だ。
ピートー 相手は何人位ゐるのだね?
ガッヅヒル 見た処、八人か十人位だ。
フォールスタフ 何といふ事だ、まさか奴等、俺達を丸裸になどしないだらうな?
王子 何だ、早くも臆病風を吹かせ始めたのか、サー・ジョン・ポンポン?
フォールスタフ それは、俺は同じジョンでもお前さんの爺さんの痩せ我慢の荒武者ゴーントのジョンとは違ふよ、でも、臆病風など吹かせてはゐないぞ、ハル。
王子 良し、直ぐ解る、お手並拝見と行かう。
ポインズ おい、ジャック、お前さんの馬は向うの生垣の後に繋いであるぜ、要る時には、そこへ行けば必ずゐる……では、頼んだよ、腰を抜かすのではないぞ。
フォールスタフ あいつはどうしても殴り飛ばす気になれないよ、さもないと絞首台だぞと言はれても出来ない。
王子 (小声で)ネッド、変装の道具は何処だ?
ポインズ こつちにあります、直ぐそこだ、静かに。(二人離れる)
フォールスタフ さあ、お呪《まじな》ひだ、運のお裾分けに預れます様に! 皆、仕事に掛つた。
旅人達が話しながら丘を降りて来るのが聞える。
第一の旅人 さあ、馬は若い者に頼んで丘の麓の方へ引いて行つて貰ふ事にして、少し歩いて足を休めようではありませんか。
盗人達 動くな!
旅人達 助けてくれ!
フォールスタフ 張り飛ばすのだ、伸《の》してしまへ、こいつら悪党共の咽喉をかつさばいてやれ! ええい、全く手に負へない青虫だ! ベーコン肥りのやくざ野郎! 俺達が若しいので、こいつら面白くないのだ。伸《の》してしまへ、片端から剥いでしまへ。
第一の旅人 ああ、これでお終ひだ、俺達も俺達の財産も。
フォールスタフ くたばれ、この太鼓腹のやくざ野郎、何がお終ひだ? 嘘を吐《つ》け、太つちよの握り屋め。飽きるほど溜め込んでゐる筈だ、そいつを洗ひ浚ひ吐き出させてやりたい処だ! さあ、来い、ベーコン野郎、打つて来い! 何だと、この野郎? これからは若い者の天下だ。やい、皆金持なのだらう? それなら序でに尻餅を搗かせてやるか。(寄つて集《たか》つて旅人達から剥ぎ取り、彼等を縛り上げ、麓の方へ追つて行く)
王子とポインズとが灌木の蔭からそつと姿を現す、二人共粗布の合羽を被つてゐる。
王子 盗人が真人間に御用と来た。お次はお前と俺とでその盗人から剥ぎ取り、好い気持でロンドンへ引揚げる、さうなつたらこの話、一週間は腐らない、一月は笑ひが止らない、いや、後の世までの語草、如何にも気がきいてゐる。
ポインズ 静かに、奴等が、戻つて来ます。
一同、戻つて来る。
フォールスタフ さあ、皆、獲物を山分けにして、夜の明けないうちに馬に乗つてしまはう。それにしても、王子とポインズとは揃ひも揃つて底抜けの臆病者だな、もしさうではないといふ事になつたら、この世に公正といふものは無いといふ事になる。あのポインズの野郎、肝玉といふものを鴨程も持合はせてゐないのだな。(皆で獲物を山分けしてゐる処へ、王子とポインズとが襲ひ掛る)
王子 その金を寄越せ!
ポインズ 悪党めら! (一同、慌てて逃去り、獲物を残して行く、フォールスタフも一二合切り結んで、直ぐ皆の後を追つて逃出し、王子とポインズがそれを追ひながら剣の先で突き廻す度に、悲鳴を挙げて命乞ひをする)
王子 呆気無く片が附いてしまつたな。さて、好い気分で馬に乗れるといふものだ、皆、蜘蛛の子を散らす様に逃げてしまつた、余程、肝を潰したと見えて、組んで事に当らうとする処の騒ぎではなかつたのだ。互ひに仲間を役人と勘違ひしたらしい。行かう、ネッド。フォールスタフの奴、すつかり汗を出してしまつて死にさうになつてゐる、その脂汗のお蔭で奴の歩いた跡の痩地が肥えるかも知れないな。これだけ笑はせてくれたから良い様なものの、さもなければ、一寸はかはいさうな気にもなつたらうに。
ポインズ 太つちよの成らず者めが、あの喚き様といつたら無かつた!(二人退場)
〔第二幕 第三場〕
ワークワース城、その一室
ホットスパー登場、一人手紙を読みながら、あちこち歩き廻つてゐる。
ホットスパー 「されど、己が立場としては、日頃より敬愛致しをる御一家の為、この際、喜んで馳せ参じたきは山なれど、」ふむ、喜んでおいでになる、それなら何故来ないのだ? 吾が一家を日頃より敬愛してゐると来た、見え透いた事を言ふ、それは詰り己れの納屋を吾が御一家よりも敬愛してゐるといふ事だ。もう少し先を読んで見よう。「お申越の一件、聊か危険に存ぜられ、」何を言ふ、解り切つた事だ。危険と言へば、風邪を引いても危険だ、眠るのも、酒を飲むのも危険だ、しかし、解るか、馬鹿殿様、こちらはその刺草の危険を冒して花の平安を摘み取らうといふのだ。「お申越の一件、聊か危険と存ぜられ、同志として書中御列挙の面についても心中未だ測り知り難きものあり、機もまた熟せず、謀《はかりごと》の全貌を承るに、相手方の強大なる兵力に拮抗し得るには猶軽率の恨み無しとせず、」さうか、さうおつしやるのか、さう? それなら、こちらは御返事としてかうおつしやつて置かう、貴様は浅はかな臆病侍だ、しかも貴様の考へには何の根拠も無いとな……脳味噌が足りないにも程がある! 神に賭けても良い、吾の謀たるや未だその例を見ざるほど非の打ち処が無い、同志に忠誠と節操あり、非の打ち処無き謀に非の打ち処無き同志、成算は十分、謀に一点の非無く、同志に非の打ち処無し……それを、この血の気の失せた卑怯者めが! 何といふ事だ、既にヨークの大司教がこの挙を認め、作戦の大綱を支持してゐる。畜生、こいつが今ここにゐたら、その女房の羽扇で頭蓋骨を打割つてやるのだが。俺の親父が附いてゐるではないか、それに叔父だつて、いや、俺がゐるではないか? エドマンド・モーティマー、大司教、オーエン・グレンダワーが、その上、ダグラス家の当主も附いてゐるではないか? いづれも俺に書面を寄越し、来月九日までには兵を率ゐてここに馳せ参ずると言つて来てをり、中には既に進発してゐる者もあるではないか? 全く疑ひ深い野郎だ! 信じる事を知らぬ男だ! はつ! それで解つたぞ、恐怖で心臓の芯まで凍り附き、早速、王の御前に駆け込み訴へ、吾の目論みを一切合財打明けてしまはうといふ肚だな! ああ、いつそ、吾と吾が手でこの身を真二つに引裂き、その二つの自分に掴み合ひの大立廻りをさせてやりたい、こんな牛乳の搾り糟みたいな奴を栄えの大業に引入れようとした事を思ふと! 畜生! さつさと王の処へ行け、覚悟は出来てゐる、良し、今夜中に行動開始だ。
ホットスパーの妻、パーシー夫人登場。
ホットスパー ケイトか? 俺は出掛ける、後二時間しか無い。
パーシー夫人 まあ、あなた、どうなさつたの、さうしていつもお一人で? 私の事で何かお気を悪くしておいでなの、この二週間といふもの一晩もお側に寄せ附けないで? 本当の事をおつしやつて、何かお有りなのでせう、食事も余り召上らない、楽しさうな御様子を一度も見た事が無い、それに夜も碌お眠りにならないといふのは? なぜいつも下ばかり向いていらつしやるの、さうして一人で腰を降しておいでの時、なぜ急にぎよつとしてお立上りになつたりするのでせう? なぜかお顔の色も冴えない、妻の私に対する愛情も夫と苦楽を共にする妻の権利も取上げてしまつて、時空《うつろ》な目をして物思ひに沈み、とげとげしい態度をお見せになる、どうしてなのでせう? 偶に浅い眠りに落ちた時など、気になつてお側で伺つてゐると、口の中で荒しい戦の事を呟いたり、躍り上る乗馬に調教の号令を掛けたかと思ふと、急に「頑張れ! 突撃だ!」などと大声を挙げたりなさる。脱出だの、退却だの、塹壕、天幕、それからあれは何と言つたかしら、防禦の為に釘を打込んで転がして置く棒杭の事や、壕の側の防塁、城の胸壁、バシリスク砲、キャノン砲、カルバリン砲、そんな事ばかり、その他にも捕虜の身代金とか戦死者とか、激しい戦の模様とかを口走つておいでになる。そんな風にあなたのお心があなたの中で戦を始めてゐる、それがあなたの眠りを乱し、油の様な汗の玉が額に浮き上り、堰き止められた流れの様に泡を立てて、お顔まで妙に攣《ひきつ》つて見えたりする、さう、人が急に重大な決意をしなければならない事にぶつかると、緊張の為、息が詰るでせう、あれとそつくりなの。ああ、これはどういふ事? 何か大変な事を考へておいでに違ひ無い、是非お打明けになつて、さもなければ私に愛情が無いとしか思へない。
ホットスパー どうしたのだ!
召使登場。
ホットスパー ギリャムズはもう書類を持つて出掛けたか?
召使 はい、旦那様、一時間ばかり前に。
ホットスパー バトラーは、代官の処から馬を連れて来たか?
召使 はい、一頭だけは、唯今戻つて参つた処でございます。
ホットスパー どんな馬だ? 葦毛か、耳を切つた、さうではないか?
召使 はい、左様で。
ホットスパー (夢中になつて)その耳無しに俺が乗る。うむ、直ぐ乗る事にしよう、おお、「希望!」これぞ吾が家の座右の銘。バトラーに言つてそいつを庭に引出させて置け。(召使退場)
パーシー夫人 一寸お待ちになつて。
ホットスパー 何か用があるのか?
パーシー夫人 私には解らない、何があなたをさうして外へ連れ出すのか?
ホットスパー 何がつて、馬さ、お前、それは馬だよ。
パーシー夫人 勝手になさい、気違ひ猿よ、あなたは! むら気の強い鼬鼠《いたち》だつてあなたほど苛してはゐない。お願ひ、あなたの考へていらつしやる事を教へて、ハリー、話して頂戴。もしかすると、兄のモーティマーが王位請求の為に事を起さうとして、あなたに手紙を寄越し、その目論みを助けてくれと言つて来たのかも知れない。どうしてもお出掛けになるなら――
ホットスパー そんな遠くまで歩いてか、それではくたびれてしまふよ。
パーシー夫人 もう結構、鸚鵡さん、真直ぐ答へて頂戴、私の問ひに。ハリー、本気よ、私、このあなたの小指をどうかしてしまふかも知れない、もし洗ひ浚ひ本当の事を話して下さらなければ。
ホットスパー 退《の》いた、退いた、うるさい奴だ! 愛情だつて! 愛情などあるものか、お前の事を考へてゐる暇は無いのだ、ケイト。今は御時世が違ふ、人形と遊んだり、脣の嘗めつこをしてはゐられない。お互ひ、鼻から血の流しつこ、お頭《かしら》の打割りつこだ、お頭のな、しかも、それが何処でも彼処でも当世大はやりと来てゐる……かうしてはゐられない、馬を引出せ! 何か用かね、ケイト? 何か俺に話があるのか?
パーシー夫人 私に愛情が無いのね? 無いのね、本当に? ええ、結構よ、無くても、あなたがさうなら、私だつて自分に愛情を持たない。本当なのね、もう私に愛情を持てないのね? ね、言つて、今の話、冗談なの、それとも本気?
ホットスパー さ、見送つてくれないか、馬に乗る処を? 鞍に跨つたら、お前に対する俺の愛情が無限である事を誓つても良い。が、良いか、ケイト、今後一切訊いてはならぬ、俺が何処へ行くのか、何しに行くのかなどと。俺は行かねばならぬ処へは行かねばならぬのだ。で、結論は、今夜はお前を置いて行かねばならない、ケイト。成る程、お前は分別者だ、が、パーシーの妻以上の分別は持つてゐない、お前はしつかりしてゐる、が、女は女だ、そして秘密を守る事にかけては、他の如何なる女もお前に遠く及ばない、さうだらう、俺は固く信じてゐるが、お前はお前の知らない事を喋る訳には行かないからな。その限り、俺はお前を信じてゐるよ、ケイト!
パーシー夫人 何ですつて! その限り?
ホットスパー それから先は一吋たりとも信じてはをらぬ。しかし、良いか、ケイト、俺が何処へ行かうが、そこへお前も一緒に行くのだ、けふは先づ俺が行く、あすはお前の番さ――これで気が済んだらう、ケイト?
パーシー夫人 仕方がありません、それより他に。(ホットスパー急ぎ退場、夫人、物思ひに耽りながら後に随ふ)
〔第二幕 第四場〕
イーストチープ、居酒屋猪首亭《ボアーズ・ヘツド》
背景に煖炉、長椅子。真夜中。
王子が片側の戸口より登場、部屋を横切り、反対側の扉を開け、奥に向つて声を掛ける。
王子 ネッド、そんな風通しの悪い穴蔵に引込んでゐないで、一寸俺の冗談に手を貸してくれ。
ポインズ 何処へ行つていらしたので、ハル?(出て来る)
王子 酒蔵さ、三四十の樽に囲まれて、三四人の弛んだのと一緒だつた。出来るだけ身を落して謙遜の最低音を掻き鳴らして見てゐたといふ訳さ。落ちも落ちたり、居酒屋の給仕人一束と義兄弟の契りを結び、馴れ馴れしく洗礼名を呼び合つてトム、ディック、フランシスなどとふざけ散らしてゐた処だ。皆すつかり信じ込んでしまつてゐる、あの世で救はれようが救はれまいが、これだけは確かだと言ふのだ、この俺は今の処まだ王子に過ぎないにしても、人を厚く遇する事に掛けては正に王に値する、とさ、それから遠慮会釈もなくかう言ひ切つたものだ、フォールスタフの様な威張りくさつた野郎とは違ふ、粋な伊達男だ、肝玉の太い若い衆だ、本当さ、奴等は俺の事をさう呼びやがつた! そして俺がイングランド王になつたら、イーストチープの若い者共は皆俺の言ひなりになるさうだ。奴等は酒を飲む事を茜染《あかねぞめ》と言つてゐるが、飲んでゐる最中に一息入れようものなら、「それ行け!」と囃し立て、「底まで飲んでしまへ!」と嗾ける。要するに、俺は唯の十五分のうちに忽ち手が上つてしまふ、もうこれからはどんな飲助の鋳掛屋を相手にしようと、奴等の流儀通り堂と附合つて見せるぞ、だがな、ネッド、お前の面目は丸潰れだぞ、俺と一緒にこの壮挙の仲間入りしなかつたものな……その代り、ネッド――そのネッドといふ名にねつとり味附けする為に、この砂糖をお裾分けして遣らう、たつた今それをくすねて俺の手に押し込んでくれたのは見習給仕で、そいつが喋る英語と来たら、「八シル六ペンス頂きます」に「いらつしやい」精それに追掛けて甲高い声で「唯今、唯今! バスタード酒一パイント、半月間です、勘定書、頼みましたよ」とか何とか、その程度のものさ。だが、ネッド、フォールスタフが帰つて来るまでの暇潰しに、どうだい、その辺の控への間に立つてゐないか、俺の方は例の見習小僧に奴が何の為に俺に砂糖をくれたか訊いて見る、その間中、お前は引切り無しに「フランシス、フランシス」と名を呼び続けるのだ、さうすると、奴は俺に向つて「唯今、唯今」を連発する仕掛だ。さ、引込んでゐな、実例を見せてやるから。(ポインズは出て来た処へ引込み、扉を開け放しにして置く)
ポインズ (奥で)フランシス!
王子 その息だ。
ポインズ フランシス!
フランシスが反対の戸口から、せかせか登場。
フランシス 唯今、はい、唯今。階下《し た》の柘榴《ざくろ》の間を頼むよ、ラルフ。
王子 おい、一寸、フランシス。
フランシス はい、何か?
王子 この店で一人前に勤め上げるには何年掛るのだね、フランシス?
フランシス 正直の処、五年でして、その間も――
ポインズ (奥で)フランシス!
フランシス 唯今、はい、唯今。
王子 五年もか! 驚いたな、年期奉公にしても長過ぎる、錫の杯をちやりんちやりんやつてゐるだけだからな……だが、フランシス、お前には卑怯者になる勇気が無いのか、年期奉公の証文を裏切つて、後足で砂を引掛け雲を霞と逃げてしまふといふのはどうだ?
フランシス はい、それはもう! イングランド中の在りとあらゆる本に賭けて、肚の中ではいつもその気で――
ポインズ (奥で)フランシス!
フランシス はい、唯今。
王子 幾つになるね、フランシス!
フランシス ええと――九月二十九日のミカエル祭で丁度――
ポインズ (奥で)フランシス!
フランシス はい、唯今。一寸、失礼を。(控への間の方へ行き掛ける)
王子 (押へて)まあ、待て、フランシス。例の砂糖、さつきくれた奴だが――あれは一ペニー分位だつたな?
フランシス 済みません、せめて二ペンス分差上げて置けば!
王子 その礼に千ポンド遣る。要る時にはいつでもさう言へ、直ぐ遣るぞ――
ポインズ (奥で)フランシス!
フランシス はい、唯今。
王子 今直ぐにか、フランシス? それは無理だ、あしたにしてくれ、フランシス、でなければ、フランシス、木曜が良い、いや、フランシス、いつでも要る時に言つてくれ。それはそれとして、フランシス!
フランシス はい、何か?
王子 お前はその革の胴着をそのまま失敬してしまはうといふ気か、その水晶ボタンに五分刈頭に瑪瑙の指輪に毛の長靴下に毛糸の靴下留にスペイン革の下げ袋に得意のおべんちやらを――
フランシス ま、そんな、一体誰の事をおつしやつてゐるんで?
王子 さうか、お前の処には焦茶色のバスタード酒しか無いのだな! 道理で、見ろ、フランシス、そのお仕着せの白の胴着はますます汚れるばかりだ。砂糖の産地のバーバリへ行つて見ろ、一ペニーが千ポンドになるなどと、そんな巧い話があるものか。
フランシス へ、何の事で?
ポインズ (奥で)フランシス!
王子 行つてしまへ、この成らず者、呼んでゐるのが聞えないのか? (ここで王子とポインズとが代る代る呼び立てるので、給仕はすつかり面食ひ、どちらへ行つて良いか解らなくなつてしまふ)
居酒屋の亭主登場。
亭主 こら! 呼ばれてゐるのに、唯じつとして聞いてゐる奴があるか? 奥のお客の御用を聞いて来い。(フランシス奥へ入る)へい、唯今、騎士のジョン様が五六人のお仲間と御一緒にお着きでございます。お入れして宜しうございませうか?
王子 そのまま放つて置いて、暫くしたら戸を開けてやれ。(亭主退場)ポインズ!
ポインズ (戻つて来て)唯今、はい、唯今。
王子 来たぞ、フォールスタフと例の盗人共が戸口に現れた。一つ、陽気に行くか?
ポインズ きりぎりすに負けずにね。処で、余り気の利いたいたづらではありませんね、あんな給仕をからかつて何処が面白いのです? え、どうしようとおつしやるので?
王子 俺のうちには今あらゆる気分が一杯に漲つてゐるのだ、アダムの大昔から、まだ年端も行かぬ今日今夜、真夜中の十二時まで、人間が経験したあらゆる気分がね。(フランシスが飲物を持つて急ぎ通り掛る)今、何時だフランシス?
フランシス 唯今、はい、唯今。(退場)
王子 あいつの使へる言葉の数は鸚鵡より少いと来てゐる、それでも女から生れたと言へるのか! あいつの勤めは階段の昇り降り、あいつの雄弁は勘定書の読上げ……俺はまた北国の荒武者パーシーの様な気持にはなれない、朝飯前にスコットランド兵を六七ダースも斬り殺して置いて、それから手を洗つて奥方に向つてかう言ふ、「糞面白くも無い、こんな平穏無事の世の中は! これでは運動不足になつてしまふよ、」とな、さういふ男だ、あいつは。「まあ、ハリー、」奥方の方がかう言ふ、「けふは何人殺したの?」すると、奴は「俺の耳無し馬に薬を飲ませてやつてくれ」と喚き、それから「十四人位かな」と答へが出て来るのが一時間位後の話だ、そして「ほんの僅かだ、取るに足らぬ、」と来る。頼む、フォールスタフを呼んで来てくれ。一つ、パーシーの流儀で行かう、そしてあの罰当りの豚には奥方のモーティマー夫人の役をやらせてやらう。「リヴォー!」あの酔払ひめ、さう喚いて飛び附いて来るに違ひ無い、さ、肋骨《あばらぼね》を呼べ、脂身も。
フォールスタフがガッヅヒル、バードルフ、ピートーと共に登場、その後にフランシスが白葡萄酒の入つた杯を幾つか盆に載せて持つて来る。フォールスタフは王子とポインズには気附かず、ぐつたりとテーブルに附く。
ポインズ お帰り、ジャック。何処へ行つてゐたのだ?
フォールスタフ (独り言の様に)くたばつてしまへ、臆病者めら、糞食へ! 畜生、唯で置くものか! 白を一杯持つて来い、小僧。こんな暮しをいつまでも続ける位なら、靴下を編んだり綴つたり縫つたりしてゐた方がずつとましだ。くたばつてしまへ、臆病者めら! 白を一杯持つて来い、碌でなし。勇気といふものが一かけらも残つてゐないのか?(飲む)
王子 (それを指差し)太陽がバタの皿に口附けするのを見た事があるか、おお、情け深い太陽! その太陽の情にほだされてでれでれに溶けてしまつたバタを? 見た事があるなら、それ、見ろ、あの大きな塊を。
フォールスタフ (フランシスに空の杯を渡し)やい、この碌でなし、葡萄酒の辛味に石灰を使ひやがつたな……碌でもない事ばかりやりやがる、全く手に負へない野郎だ、尤も臆病者よりは石灰入りの葡萄酒の方がまだましよ。手に負へない臆病者! おい、ジャック、いつ死んでも良いぞ。度胸といふものが、さうよ、あの男らしい度胸といふものがこの世で忘れられてしまつたのよ、さもなければ俺は卵を放《ひ》つてしまつた鰊と言はれても文句は言はない……今のイングランドで絞首台に送られずに済んでゐる善人は三人しかゐない、その一人は太つちよで、もう相当の年だ。神様、どうか世直しを頼みますぜ! 悪い世の中だ、本当に。俺は織匠《おりこ》になりたいや――讃美歌でも歌ひながら仕事してよ。くたばつてしまへ、臆病者めら、くたばつてしまへつていふ事よ。
王子 おい、どうした、羊毛入れの大袋! 何をぶつぶつ言つてゐるのだ?
フォールスタフ (王子の方に向き直り)王様の御曹子か! お前の様な奴は道徳劇の悪魔よろしく木刀でもつてこの国から追出してしまひたい、家来だつてさうよ、野鴨の様に追払つてやる、それが出来ない様では、俺はもうこの面に髯は一本も生やさないぞ。ふむ、お世嗣、ウェイルズ公か!
王子 おい、真丸爺さん! 一体どうしたといふのだ?
フォールスタフ お前さん、自分で臆病者だと思はないのかい? さ、答へて見ろ――ポインズ、お前もだ?
ポインズ 畜生、この太鼓腹め、臆病者とは何だ、刺し殺してくれるぞ。(短剣を抜く)
フォールスタフ さうよ、臆病者よ! 尤も俺がさう言ふ前に、お前の方で先に地獄落ちだ――いや、俺は千ポンド賭けても良い、お前さんより脚は速いのだ。お前は好い肩をしてゐるね、真直ぐだ、それなら誰に後を見せても平気な訳だよ、だが、あれが後楯といふものかい? そんな後楯なら、くたばつてしまへ! それよりはいつそ前から掛つて来る奴の方が良い。(フランシスに)白を一杯持つて来い――俺とした事が、柄でも無い、けふはまだ一杯もやつてゐなかつたつけ。
王子 盗人猛しいにも程がある! 飲んだばかりの、その脣がまだ乾いてもゐない癖に。
フォールスタフ どちらにしても同じ事さ。(飲む)くたばつてしまへ、臆病者めら、くたばつてしまへと言ふのに。
王子 一体どうしたのだ?
フォールスタフ 一体どうしただと? ここにおいでのお四方様がだ、明け方に千ポンドを手にお入れになつたのさ。
王子 何処にあるのだ、ジャック、そいつは何処にあるのだ?
フォールスタフ 何処にあるだと? 取られてしまつたのだ、そいつが、何しろ相手は百人、身方は四人で散の態たらくさ。
王子 え、百人もゐたのか?
フォールスタフ これが嘘だつたら首を遣らあ、俺は十人余りを相手に二時間もぶつ続けに鎬を削つての大奮戦。かうして九死に一生を得たのも全くの奇蹟だ。上衣は八度、下穿きは四度、ぶつすりやられ、楯は穴だらけ、剣は鋸の様になつてしまつた、これぞ証拠の大事の品!(剣を抜いて見せる)物心附いて以来、これほど暴れ廻つた事は無かつた、それが悉く水の泡と来た。くたばつてしまへ、臆病者めら! こいつらに訊いて見な。もし本当の事を在りのままに言はない様なら、どいつもこいつも悪党だ、悪魔の手先だ。
王子 おい、聴かせてくれ、どうだつた、その時の模様は?
ガッヅヒル こつちは四人で十人余りの――
フォールスタフ 十六人はゐたよ、少くともね。
ガッヅヒル で、そいつらを皆ふん縛つてしまひましたので。
ピートー いや、そんな、ふん縛りはしなかつたよ。
フォールスタフ 何を言つてゐやがるんだ、皆ふん縛つてしまつたぢやないか、一人残らず、それが嘘だといふなら、俺はユダヤ人だ、正真正銘のユダヤ人といふ事になる。
ガッヅヒル それから、皆で獲物の山分けに掛らうとした時、またしても新手が六七人、襲ひ掛つて来まして――
フォールスタフ 縛つた奴等の縄を解き、一緒になつて掛つて来やがつたのだ。
王子 え、お前達四人でそいつら皆と?
フォールスタフ 皆とだ! 尤もどういふ意味だね、お前さんの言ふ皆といふのは、とにかく俺は五十人位を相手に大立廻りをやつてのけた、本当だとも、それが嘘なら俺は萎びた赤大根だ、さうよ、五十二人か三人が一塊になつて、無惨やな、このジャック爺さん目掛けて打掛つて来たのよ、それが嘘だといふなら、俺は唯の二本脚の動物よ。
王子 それにしても、お前の事だ、そのうち何人か殺してしまつたりしなければ良いのだが。
フォールスタフ 駄目だ、さう言つても、もう後の祭だ。俺はそのうち二人をひどい目に遭はせてやつた。多分二人だつたよ、俺はそいつをとうとう片附けてしまつた、粗布を引被つた成らず者を二人な……良いか、ハル、これがもし真赤な嘘だつたら、俺の顔に唾を吐き掛け、馬鹿野郎とでも何とでも言ふが良い。お前さんなら知つてゐる筈だ、吾輩十八番《お は こ》の構へを、それ、まづかう構へて、それから切先をかう持つて行くのだ。相手は成らず者、それも四人、粗布を引被つたのが俺に突掛つて来やがつた、それを――
王子 え、四人? お前、ついさつき二人と言つた筈だが。
フォールスタフ 四人だ、ハル、俺は四人と言つたのだよ。
ポインズ さうとも、その通り、確かに四人と言ひましたよ。
フォールスタフ その四人が肩を並べて、しかも俺ばかり目の敵にしやがつて突掛つて来たものだ。が、その時、俺は少しも騒がず、殺到する七つの切先を次にこの楯で受留めてやつた、こんな具合にな。
王子 七つの切先、をかしいぞ、お前、つい今四人と言つた筈だが。
フォールスタフ 粗布の奴がか?
ポインズ さうよ、四人と言つたぜ、粗布を引被つた奴が四人と。
フォールスタフ 七人だ、この刀の柄に賭けても良い、それが嘘なら、俺はとんでもない悪党だ。
王子 (ポインズに傍白)まあ、放つて置け、そのうちまた殖えるぞ。
フォールスタフ 俺の話を聴いてゐないのか、ハル?
王子 聴いてゐるとも、数も洩らさぬ身構へでな、ジャック。
フォールスタフ 勿論だ、それだけの値打のある話だからな。その九人の粗布を引被つた奴が、今言つた通り――
王子 (傍白)それ、早くも二人殖えた。
フォールスタフ といふ訳で、切先が折れて吹飛び――
ポインズ 敵は慌てて前を両手で押し隠し。
フォールスタフ ぢりぢり後へ退り始めた、俺はと言へば、そこを透かさず追詰める、その身構へに一分の隙もあらばこそ、あつといふ間にその十一人のうち七人まであの世に送り込んでしまつたものだ。
王子 (傍白)いやはや、呆れたものだ! 二人を元手に十一人も放《ひ》り出しやがつた!
フォールスタフ だが、畜生、何といふ事だ、緑色の粗末なケンダル服を着込んだ人でなしのやくざ野郎が三人、俺の後に廻り、いきなり突込んで来やがつた、何しろ真暗闇でどうにもならないのよ、ハル、手前で手前の手が見えない程だからな。
王子 嘘の大廉売、それにしても生みの親のお前そつくり、大なる事山の如く、一目瞭然、隠し様も無い。この大食《ぐら》ひめ、その頭の中には粘土でも詰つてゐるのだらう、このとんちきの、せう事無しの、脂肪の塊野郎の――
フォールスタフ どうした、気でも狂つたのか? 気は確かかよ? 本当の事は本当の事だらうが?
王子 では、お前にはどうして解つたのだ、そいつらが緑色のケンダル服を着てゐるといふのが、手前で手前の手が見えない程の真暗闇だといふのに? さ、その訳を言つて見な。どういふ返答を聴かせて貰へるね。
ポインズ さ、その訳を言つて見な、ジャック、その訳をよ。
フォールスタフ おい、それを力づくで言はせようといふ気か? 糞、吊落し、脚裂きの拷問に掛けられようと、そんな力づくで口を割る俺ではない。力づくでその訳をと来やがる! その訳が人に分けてやるほど沢山あつても、力づくで寄越せと言はれて誰が分けてやる気になるものか、厭な事だ、俺は。
王子 これ以上、罪の深い真似は止めとしよう。(指差して)この鼻息の荒い臆病者、寝床泣かせの馬泣かせ、特大の肉団子――
フォールスタフ 何言つてゐやがるんだ、この腹凹の表六玉、鰻の脱殻野郎の、牛の舌の日干野郎、萎びた牛のちんぽこ、蔵ひ忘れの冷凍魚! ああ、息が切れら、手前に似た物を並べ立ててゐた日には切りが無いや! 貴様はな、仕立屋の物差だ、刀の鞘だ、弓の箱だ、やくざな細身の剣の――
王子 まあ、そこらで一息入れて、もう一度出直した、で、その悪口にもお疲れ遊ばしたら、今度は俺の番だ、唯一言で済む。
ポインズ 拝聴するのだな、ジャック。
王子 俺達は二人共この目ではつきり見届けてゐる、お前達は四人で四人に襲ひ掛り、奴等をふん縛つて、見事金品を捲き上げた、良いか、その後を聴け、在り態に話して聴かせれば、お前達はぐうの音も出なくなる。その後はだ、俺達二人でお前達四人に襲ひ掛つた、そして一口に言へば、お前達は震へ上つて、素直に獲物をこちらに譲り渡した、勿論、俺達はそいつを有難く頂戴したさ、直ぐにもここでお目に掛けられる、さうだ、フォールスタフ、お前はその脹れ上つた腸《はらわた》を引抱へて結構素敏《すばしこ》く姿を晦《くら》ましたものだ、助けてくれと喚いては駆け、駆けては喚き、その声たるや正に仔牛も顔負けの哀れさだつた。それにしても呆れて物も言へない、お前といふ奴は、わざわざ自分で剣に刃毀《こぼ》れなど拵へやがつて! さあ、どうだ、いかさま、小細工、言ひ抜け、何でもやつて見ろ、この明白たる恥曝しをごまかす手があつたら是非伺ひたいものだが?
ポインズ さあ、何とか言つて見な、ジャック――今度はどんないかさまをお見せ下さらうといふのだ?
フォールスタフ (厳粛に)正直の話、お前さんの仕業だといふ事位、重承知してゐたのだ……それはさうだらうが、お二方――そもそも王様のお世嗣を殺すといふ法があるかね? 正真正銘の王子様に刃向ひしても良いと言ふのか? 勿論、お前さんも御存じの通り、俺はヘラクレス顔負けの勇士だ、しかし、本能といふものがあるんだぜ――獅子は真の王子には手を出さない。本能の力は正に大なるものあり――俺はあの時本能の命に随ひ臆病者になつたのだ。これで俺は生涯俺自身及びお前さんの値打を十分認める事が出来るといふものだ、確かに俺は獅子でお前さんは真の王子といふ事なのだよ……それはそれとして、結構な事だ、良くまあ金を持つて来てくれたな。(踊り廻る)女将、戸締りをしつかり頼むぜ。今夜は夜明し、お祈りはあしただ。粋な兄さん達、若いの、曲つた事の嫌ひな連中は皆寄つて来い、楽しき附合を表はすあらゆる言葉がお前さん達の頭に授けられます様に! なあ、大いにはしやがうぢやないか? 即興で茶番でもやるか?
王子 そいつは良い――中身はお前の逃げる処を扱つたのにしよう。
フォールスタフ ああ! そいつはもう言ひつこ無しだ、ハル、お前さんと俺との仲ぢやないか。
女将登場。
女将 ああ、どう致しませう、王子様――
王子 やあ、これは、これは、女将殿! 何か用か?
女将 はい、お城から偉いお方がお見えですよ、王子様にお話があるとか、王様のお使ひでいらつしやつたさうで。
王子 その貴族に一杯飲ませてやり、「貴族」足つて礼節を知つた頃合を見計つて、直ちに俺のお袋の処へ追返してしまへ。
フォールスタフ どんな男だ、そいつは?
女将 お年寄りで。
フォールスタフ 一体何事だ、真夜中に老体を寝床から引張り出す様な事が起つたのか? 俺が返事をして来ようか?
王子 頼む、さうしてくれ、ジャック。
フォールスタフ 良し来た、俺が追払つて来てやる。(退場)
王子 さあ、皆! 実際、お前達の武者振りは見事だつたよ、お前もだ、ピートー、それからお前もな、バードルフ。お前達も獅子だ、本能の命に随つて逃出したものな、真の王子には手を出さうともしなかつた、断じてな、へつ!
バードルフ 実は、他の奴等が逃出したのを見たもので。
王子 実は、聴かせて貰ひたいのだ、本当の事を、フォールスタフの剣の刃毀れはどうして出来たのだね?
ピートー それは、自分の短剣でやつたんでさあ、奴は言つてゐましたぜ、このイングランドから真実といふ真実を追払つても、この刃毀れだけは誓つてあなたに信じさせて見せる、だから、私達も同じ様にしろと言はれまして。
バードルフ へえ、それから浜麦の葉つぱで鼻の先をつつ突いて血を出させ、それを着た物に塗りたくつて、旅人達の血だと言張れと言ふんで。こんな事は七年前には考へても見なかつた、余りひどい企み事だ、それを聞かされた時は思はず鼻の先まで真赤になつてしまひましたよ。
王子 よくも抜け抜けとそんな事が言へたものだ、貴様は十八年前に葡萄酒を一杯盗み飲みして、直ぐその場で挙げられた事がある、それ以来、鼻を赤くするのに何も格別の手続は要らない筈だ。面に火の玉、腰には剣、それでも貴様は逃出した。それはまたどういふ本能の働きに拠るのだね?
バードルフ (顔を突出して)この焼け爛れた隕石が見えますか? 太陽から飛出したかけらが?
王子 見える。
バードルフ これは何の前兆とお思ひで?
王子 酔ひが廻つて首が廻らなくなる。
バードルフ でも、酔ひが首まで廻れば、占めたものだ、大いに管を巻かせて貰ひますぜ。
王子 さうなれば、締めたものだ、首に縄を巻かせて貰ひますぜ。
フォールスタフが戻つて来る。
王子 痩せのジャックが戻つて来た、骨のお化けの御入来だ、おい、どうした、吾が愛する蒲団綿殿? それはさうと、もう何年になるね、ジャック、お前が自分の膝小僧の顔が拝めなくなつてから?
フォールスタフ 俺の膝小僧! さうだ、俺がお前の年頃にはな、ハル、胴周りが鷲の爪程もなくてな、どんな萎びた年寄の指輪にだつて、すつぽり嵌り込んでしまつたものだ、糞忌しい、爾来尽きぬは溜息、吐息! さうかうしてゐるうちに、この通り膀胱の如く脹れ上つてしまつたといふ訳さ。それはさうと、騒しい世の中になつて来たぞ。親父さんの使ひといふのは騎士のジョン・ブレイシーだつた、あすの朝、必ず出て来いだとよ。例の北国の気違ひ野郎、パーシーと、それからウェイルズの、それ、悪魔の子分のアメーモンを棍棒で打ちのめし、親分のルーシファーの女房を寝取つておいて、その上、得物のウェイルズの鉾を差出し、その十字に懸けて、自分の家来になると誓はせた豪傑がゐたらう……畜生、あいつ、何と言つたつけ?
ポインズ オーエン・グレンダワーだらう。
フォールスタフ オーエン、オーエン、そいつだ――それとその婿のモーティマーとノーサンバランドと、それからスコットランド人の中のスコットランド人で、断崖を馬で駆け上つたダグラスといふ生きの良い男がゐたな――
王子 馬では速足の名人だ、飛んでゐる雀を短銃で射落すといふ。
フォールスタフ 当つた、そいつだ。
王子 処が、そいつの弾は当らなかつた、雀の話は出たらめさ。
フォールスタフ とにかく、その男、肝玉の太い奴で、大敵を前にしても少しも動じない。
王子 やい、この野郎、さつきのは出たらめか、断崖をさつさと駆け上るとか言つて吾が事の様にさんざん褒めちぎつたらう。
フォールスタフ それは馬でだよ、この解らずや、馬無しでは一足も動かないのだ、その男は。
王子 さうとも、ジャック、それは本能の命に随つてゐるのだ。
フォールスタフ その通りよ、本能といふものさ……処で、そいつがゐる上に、マードックとかいふ奴と、それに青帽子のスコットランド人が千人だ。ウースターの野郎はまだ夜の明けないうちに敵側へ逃亡した、それを聞いて、お前の親父さんの髯は忽ち真白くなつてしまつたとよ、かうなつたら土地の買占めだ、腐つた鯖と同じ廉値で手に入れられるぜ。
王子 それならいつそ夏場を待つに越した事は無ささうだ、それまでこの内乱が保てば、生娘が幾らでも手に這入る、靴の鋲と同じく一山幾らの大廉値でな。
フォールスタフ 全くだ、お前さんの言ふ通りよ、どうやらその筋で俺達は得手に帆を上げと行きさうだな……だがな、大丈夫か、ハル、何だかおつかなくなつて来ないか? お前さんはお世嗣だぞ、さうなると、幾ら広い世界でも敵としてあの三人位厭な奴を拾ひ出して来るのは容易ではない、鬼のダグラス、血気のパーシー、悪魔のグレンダワーと揃つてゐる、さうだらう? お前さん、おつかなくなつて来ないかい? ぞつと鳥肌立つて来ないかい?
王子 いや、一向、きつと俺にはお前の様な本能が欠けてゐるのだらう。
フォールスタフ それにしても、あした親父さんに会つたら、どえらく叱られるぞ。悪い事は言はない、その時の返答の練習をして置けよ。
王子 では、お前が親父の代りをやれ、俺の日頃の行状について細かく問ひ匡すのだ。
フォールスタフ 俺がか? そいつは良い。この椅子が俺の玉座だ、この短剣が笏で、背蒲団が王冠だぞ。
王子 が、所詮はその玉座も折畳式の腰掛に、金の笏も鉛の短剣に、豪華な王冠も惨めな薬鑵にしか見えまいぞ!
フォールスタフ これ、ハリー、もし徳の火種《ほだね》がお前のうちに全く消え果ててしまはぬ限り、今こそ心を動かすに相違無い。おい、葡萄酒を一杯くれ、目を赤くするのだ、泣いてゐる様に見えないと拙いよ――悲痛の声を振り絞つて話してゐるのだからな、一つペルシア王キャンバイシーズの流儀で行くか。
王子 (頭を下げ)良し、俺の方は先づかうして脚を引くと。
フォールスタフ さうしたら俺の方は口をきくと……一同は退つてをれ。
女将 まあ、こんな面白い見せ物は滅多に見られはしないよ、本当に。
フォールスタフ 泣くな、妃、頬を伝ふ涙に何が出来よう。
女将 あれ、あれ、あの真面目くさつた顔附といつたらない!
フォールスタフ 頼む、皆の者、歎き悲しむ吾が妃を奥へ連れて行つてくれ、このままでは涙の塊があれの目の水門を塞いでしまふであらう。
女将 あれを、田舎芝居の役者そつくりだよ、私は能く見に行くんだ!
フォールスタフ 静かに、静かに、酒壺の君、静かにおし、お神酒の局《つぼね》。さて、ハリー、俺は呆れて物も言へぬ、お前の日頃の行状は固より附合つてゐる仲間の事ぢや、成る程、カミツレの草は踏まれれば踏まれるほど早く生ひ繁る、が、若さは無駄遣ひすればするほど早く枯れ萎むもの……処でお前は俺の息子ぢや、といふのもお前の母親がさう言つてゐるからでもあり、またこの身自らさう思つてゐるからでもあるが、何よりその目附きの悪さと垂れ下つた下脣の締り無さ、俺はもうそれだけで得心する。かくてお前が吾が子と決つたからには、肝腎なのは次の事ぢや――何故、吾が子と決りながら、いつもこの身に極りの悪い想ひばかりさせるのぢや? 日の御子がやくざ仲間に身を投じ、掃溜を漁り歩く様な真似をするものか? イングランドを照らす日輪とも仰がるるべき身に在りながら、自ら盗人に成り下り、人の懐を狙ひなどして良いものか、改めて問ふまでもない事ぢや。それ、お前も聞いてゐような、ハリー、この国で普通瀝青《ピツチ》と呼んでゐる塗料がある、昔より物の本にも書いてあるが、瀝青に触るる者、汚れを免れずといふ代物、お前の附合うてゐる仲間が正にそれぢや、良いか、ハリー、今、俺は酔うて管を巻いてをるのではない、泣いて掻き口説いてゐるのぢや、興に乗つてふざけてゐるのではない、狂気に胸ふたがるる想ひぢや、口先だけの説教ではない、口惜しさからの絶叫ぢや、但し、聞く処によると、唯一人だけお前の仲間にも有徳の士がをるとの事、が、残念ながらその名が解らぬ。
王子 せめてその風態を、もしお差支へ無ければ?
フォールスタフ なかなか堂たる人物だといふ、肉附きは良し、顔に和楽の相あり、目差《まなざ》し優しく、行住座臥に品位備はり、察するに年の頃は五十余り、いや、確か六十路に近いものと思はれる。うむ、憶出したぞ、その男の名はフォールスタフと言うた。万一その男に邪悪淫蕩の素質ありとすれば、それこそこの身に人を見る目の無き証拠、さうであろう、ハリー、あの男に有徳の相ありと見たこの目に狂ひは無い……木はその実によつて知られ、実はその木によつて知らる、とすれば、俺は断言して憚らぬ、彼のフォールスタフなる者は有徳の君子ぢや――あの男のみを手もとに留め、余の者はすべて追払つてしまふが良い。なほ訊きたい事がある、これ、始末に負へぬ碌でなしめ、正直に答へろ、この一月、お前は何処をうろつき廻つてゐた?
王子 それでも王のせりふか? 今度はお前が俺の代りをやれ、俺が親父の役になる。
フォールスタフ 王位簒奪をやらかさうといふのか? だが、言葉といひ態度といひ、俺の半分でも威厳と荘重の感じが出せたらお慰みだ、その時は俺は野兎同様、逆吊にされて騎士の位を奪はれても文句は言はない。(二人場所を変へる)
王子 さて、かう構へてと、行くぞ。
フォールスタフ こちらはかう控へてと――おい、皆、審判を頼むぞ。
王子 処で、ハリー、今まで何処へ行つてゐたのだ?
フォールスタフ はい、イーストチープにをりました。
王子 お前に向けられた数の非難、いづれも聞き捨てに出来ぬものばかりだ。
フォールスタフ ふざけちやいけない、それは皆嘘八百の出たらめばかりで。(傍白)まあ、待ちな、若き王子役を演じてお前達を堪能させてやるからな、本当だとも。
王子 今、ふざけちやいけないと言つたな、この罰当りめが? 今後、俺の前に二度と姿を現すな。お前の暮し振りを見るに、徳に遠ざかる事甚しく、それといふのも、悪魔が肥つた老人の姿に化けてお前の身辺を離れぬからだ、酒樽の化物と附合うてゐるからだ、なぜあの様な男と遊び廻る、奴は当てにならぬ気紛れの詰合はせ、野獣の黒焼を挽いた粉末がぎつしり詰つてゐる箱みたいな男だ、いや、水ではち切れさうな氷嚢、酒のだぶついた革袋、はみ出しさうな内臓で脹れ上つた鞄、腹の中に挽肉を押込んだマニングトリーの丸焼牛、好い年をした背徳漢、白髪頭の人でなし、不良親父の虚栄《み え》坊爺、あんな男とどうしてお前は? あの男の何処に取柄があるのだ、精利き酒位が関の山、手際の鮮かさといへば、〓肉に庖丁を入れて口の中に抛り込む事位で、器用なのは小細工だけ、その細工も専ら悪意に用立てるだけで、しかもその悪意だけは、奴のする事なす事、端にまで滲み通つてゐる、その癖善意と来たら切端程も見附からない、さういふ男ではないか、奴は?
フォールスタフ もつと解り良くお話し下されば有難き仕合はせにございます。一体誰の事を仰せで?
王子 若者の身を誤らせる憎むべき悪党、その名はフォールスタフといふ髯の真白なサタンの事だ。
フォールスタフ ああ、その男なら私の知り合ひで。
王子 解つてをる。
フォールスタフ しかし、私よりも奴の方が悪党だといふ事を私が知つてゐるとまで申しますと、私は知りもしない事を申上げた事になります、成る程、あいつは年を取つてをります、全く気の毒な事だ、その証拠に髪の毛が真白です、だが、奴が、その、真平お許しを、女郎屋の亭主と附合つてゐるといふのは大嘘で、それはこの私の口からはつきり否定して置きます、砂糖入りの葡萄酒を飲むのが罪だとおつしやるなら、おお、神よ、罪人共を救ひ給へ! 年寄が陽気に騒ぐのも罪だとおつしやるなら、私の附合つてゐる老いたる酒屋の亭主共は皆地獄落ちの憂目に遭ひませう、肥えてゐるだけで憎まれなければならぬとなつたら、エジプト王ファラオの夢に出て来た飢饉の夢知らせの痩せ蛇が誰よりもかはいがられなければなりません。まさか、王様そんな事を――先づピートーを追払つて下さいまし、バードルフを、そしてポインズを、唯あの好もしきジャック・フォールスタフだけは、あの優しきジャック・フォールスタフ、忠実なるジャック・フォールスタフ、勇敢なるジャック・フォールスタフ、それも年寄なるが故にますます勇敢この上無しとも言ふべきジャック・フォールスタフ、あれだけはこのハリーの仲間より追払はず、何とぞ手もとに留め置かせて下さいまし、試みにでぶのジャックを追払つて御覧なさいまし、それは全世界を追払ふことになりませう。
王子 解つた、一つさうして見よう。
バードルフが慌てて駆け込んで来る。
バードルフ ああ、大変だ、大変だ、代官の野郎がお巡りを物凄く大勢引連れてやつて来たぞ!
フォールスタフ 失せやがれ、この碌でなし! 芝居を終ひまでやつてしまはう。フォールスタフの為に色言つて置きたい事があるのだ。
女将が駆け込んで来る。
女将 やれ、やれ、大変な事になつてしまひましたよ、大変な事に!――
王子 しつかりしろ! 悪魔がヴァイオリンの弦に跨つて宙乗りとござい。一体どうしたといふのだ?
女将 代官様とお巡りさんとがやつて参りまして家捜しをすると言つてゐますが、お通ししてもよろしうございますか?
フォールスタフ おい、聞いたか、ハル? 頼むからお巡りの前で本物の金貨をやくざな贋金扱ひにしないでくれよな。お前さんだつて本当は気違ひの癖に、一寸見ると、そんな顔はしてゐないだらう。
王子 お前の方も本当は臆病者の癖に、一寸見ると、ただ本能の命に随つて逃げ腰になつてゐる様にしか見えないものな。
フォールスタフ 俺はその先入観を認めないね、もしお前さんもお巡りに潜入を認めなければ、それはそれで良し、さもなければ、さつさと奴等に踏み込ませてやつたら良い。その時、俺が他の誰よりも喜び勇んで豚箱行の護送車に飛込んで行かなかつたら、正に俺の恥だ、吾が素姓に呪ひあれ! 有難い事に、俺は誰よりも早く首を絞められちまふのだらうな。
王子 さ、お前はその壁掛の後に隠れろ、他の者は二階へ行つてゐろ。良いか、皆、面《おもて》に影無く心に曇無しだ。
フォールスタフ 両方共さういふ時期があつたつけ、だが、いづれも期限が切れてしまつた、となれば、何はともあれ隠れるとしよう。(さう言ひながら隠れる、他の者も王子とポインズ以外すべて姿を消す)
王子 代官を呼べ――
代官と運送屋の二人登場。
王子 やあ、代官か、俺をどうしようと言ふのだね?
代官 御無礼の段、先づはお許しを。実は罪人逮捕の触れが出てをりまして、犯人らしき者を追ひ求めをりました処、それがどうやらこの家に。
王子 風態は?
代官 そのうちの一人は誰知らぬ者無き男でして、はい、途方も無い太つちよで。
運送屋 まるでバタの塊みたいな野郎なんで。
王子 その男なら、俺が証人になる、ここにはゐないよ、実は今し方、この俺が使ひに遣つたばかりの処だ、で、代官には俺が固く約束する、あすの昼飯時までに必ずあれをお前の処へ出頭させ、いや、誰にでも良いが、奴が告発されてゐる件につき申開きをさせるとしよう。さういふ事で一先づお引取り願ひたいのだが。
代官 は、畏りました……なほこの事件で二人の身分ある者が三百マークの盗難に遭つてをります。
王子 ありさうな事だ、もしそれが奴の仕業とすれば、当然その報いを受けねばなるまい――では、いづれ。
代官 は、お寝みなさいまし。
王子 もう朝ではないか?
代官 成る程、左様で、二時頃かと存じます。(代官と運送屋退場)
王子 あの脂身のごろつきめ、誰でも知つてゐやがる、聖ポール寺院よろしくだ……さ、奴を引張つて来い。
ポインズ (壁掛を上げて)フォールスタフ! 奴は壁掛の後でぐつすり寝込んでしまつてゐますよ、馬の様な鼾をかいてゐまさあ。
王子 呆れた奴だ、それ、その凄じい息! ポケットの中を捜して見ろ。(ポインズ、言はれた通りに捜し、紙片を取出す)何だ、それは?
ポインズ 紙切ればかりですよ。
王子 何だか調べて見ろ――読んで見な。
ポインズ (読む)
一、〓肉……二シル二ペンス。
一、ソース……四ペンス。
一、白葡萄酒二ガロン……五シル八ペンス。
一、アンチョヴィーと食後の白葡萄酒……二シル六ペンス。
一、パン……半ペニー。
王子 とんでもない野郎だ! それにしても半ペニーのパンに浴びる程の酒とは! その他にも何かあつたら隠して置け、もつと適当な時を狙つて読んでやるのだ、昼まで起すなよ。俺は朝のうちに親父の処へ顔出しして来る。皆、戦に出掛けねば納るまい、お前は大いに引立ててやる。この太つちよのやくざ野郎は歩兵隊長にでもしてやるか、この調子では二百碼の行進でくたばつてしまふだらうが。盗んだ金は利子を附けて還してやらう……夜が明けたら早に来てくれ、では、これで、ポインズ。
ポインズ 御機嫌良う、王子様。(二人退場)
〔第三幕 第一場〕
ウェイルズ、グレンダワー家の一室
ホットスパー、ウースター、モーティマー、オーエン・グレンダワー、手に紙片の束を持つてゐる。
モーティマー いづれも色よい返事ばかり、身方としても頼みになる連中だ、まだ幕が開いたばかりだが、先行きは希望に満ち満ちてゐる。
ホットスパー モーティマー卿、グレンダワー、あなたもお掛けになりませんか?(ウースターに向つて)叔父上も。畜生、何といふ事だ、地図を忘れて来た!
グレンダワー いや、ここにある……パーシー、あなたも腰を降したらどうだ、ホットスパー、いや、その名を耳にする度に、あの自称国王のランカスターめ、頬は蒼褪め、吐息を洩らし、密かにあなたの昇天を祈つてゐるに相違無い。(一同腰を降す)
ホットスパー 同時にあなたの地獄落ちも、オーエン・グレンダワーの名を耳にする度に。
グレンダワー 無理もあるまい、私が生れた時、大空は一面焔と化し、燃え盛る篝火が林の如く立ち並ぶかと思はれる凄じさ、私の産声を聞いて大地もその堅固な土台を震はせ、臆病者よろしく怯え戦いたといふ。
ホットスパー 成る程、同じ事が同じ時刻に起つたでせうな、あなたの母上の猫が仔を産んだとしても、詰り、あなたの生れる代りにね。
グレンダワー いづれにせよ、大地が震へたのは、私が生れた時なのだ。
ホットスパー いづれにせよ、大地は私と大分心掛けが違ふ様ですな、あなたの思込んでおいでの様にあなたを恐れて震へ上つたといふ事になると。
グレンダワー 大空は一面火の海と化し、大地は怯え戦いたのだ。
ホットスパー ああ、成る程、大地が震へたのは大空が一面火の海と化したからだ、あなたの誕生を恐れたからではない。大自然も病ひに罹ると、時奇妙な膿を吹出す、豊穣な大地の事だ、腹痛《はらいた》に悩む事もあらうし、猛烈な気流が胎内にとぐろを巻き、外に飛出さうとして暴れ廻れば、老いぼれ祖母《ば ば》さんの大地が震へ揺ぐのも当然、寺院の塔や苔蒸した砦が引つくり返りもしませう。あなたの生れた時、吾等が祖母《ば ば》さんの大地は、てつきりその病ひに掛つてゐて、痛さの余り思はず身を震はせたに違ひ無い。
グレンダワー ふむ、他の者なら、今の厭がらせ、黙つて聴き流しはせぬ。とにかくもう一度言はせて貰はう、私が生れた時、大空は一面焔と化し、山羊は山から逃去り、家畜は辺りの恐れ戦く田畑に向つて狂ほしく鳴き叫ぶ有様。これらの兆しはいづれも吾が身の非凡を物語るもの、それに過去半生の行ひを顧みても、己れの常人と異れるを証する事ばかり……誰になりと訊いて見るが良い、四囲を海に取巻かれ、荒波に渚を噛み嘖まるるこのイングランド、スコットランド、ウェイルズの島国に住む者のうち、私を弟子呼ばはりし、私に物を教へてやつたと大口叩く者が一人でもゐようか? ゐるなら、直ぐにも連れて来るが良い、苟しくも女の胎から生れし者のうち、錬金魔法の術習得の為に重ねし苦業の数、吾に匹敵する輩がゐようとは思へぬ、秘法の奥義において吾に抗し得る者があらう筈は無い。
ホットスパー 一人もゐさうもない、あなた程巧みにウェイルズ訛を話せる男は、さて、食事にしますか。(立ち上る)
モーティマー (傍白)黙つてゐろ、パーシー、今に気違ひの様に怒り出すぞ。
グレンダワー 俺は果知れぬ空の彼方、地の底より精霊共を呼び寄せる事も出来る。
ホットスパー そんな事、私にも出来る、いや、誰でも出来る、が、奴等はやつて来ますかな、あなたの一声で?
グレンダワー それなら、教へて差上げようかな、悪魔を頤で使ふ法を。
ホットスパー では、私も教へて差上げませうか、真を語つて嘘つきの悪魔に恥を掻かせる法を。諺通りだ、真を語り以て悪魔を恥ぢ入らしめよ……奴を呼出す神通力があると言ふなら、直ぐにでもここへ連れて来るが良い、そしたら、誓つても良い、こちらは奴に恥を掻かせてやるだけだ。おお、あなたにしても、せめて生きてゐるうちに、真を語り以て悪魔を恥ぢ入らしめよ。
モーティマー さあ、もうその位で無駄なお喋りは止めにして置け。
グレンダワー 今までに三度、あのボリングブルックのヘンリーめ、俺に戦を仕掛けて来をつた――そして三度共、ワイ河の岸辺で、或はセヴァーンの浅瀬で俺に食ひ止められ、さすがの奴も捨てぜりふ一つ吐く暇も無く、慌てて雨の中を逃げ返つたのだ。
ホットスパー では、何も履かずに雨の中を! それで奴は能く瘧に取憑かれずに済んだものですな?
グレンダワー さあ、地図だ、お互ひの境界をはつきりさせて置かう、既に三人の間で話合つた取決めがある筈だな?(地図を卓上に拡げる)
モーティマー 副監督が定めた境界線は全く公平だ、イングランド、即ちトレント河からセヴァーン河のこの地点まで、東南部は私の支配下に置く、セヴァーンの河向うに当る西部一円のウェイルズ地方は域内悉く肥沃の地、これはオーエン・グレンダワーの所領だ、それから、パーシー、あなたはその残りの全土トレント河以北一帯を領有する。誓約書はさうなつてゐる、正副三通作り、確認封印の上、相互に交換すれば良い、それは今夜中に済ませて置かう、夜が明けたら、パーシー、あなたと私と、それからウースター卿と三人一緒にここを発ち、あなたの父上のノーサンバランド卿、及びその配下のスコットランド兵と合流する、その場所はかねて定め置いた通りシュルーズベリーだ。義父のグレンダワーは備へもまだ整つてはゐないが、こちらもここ半月はその助けを必要とすまい。(グレンダワーに)それだけの暇があれば、配下の将兵、同志、近隣の豪族を糾合する事もお出来になりませう。
グレンダワー も少し早く馳せ附けられよう、女共はその時俺が連れて行く、今は二人共黙つて別れを告げずに出陣するに限る、涙の雨は夫婦の別れに附き物だからな。
ホットスパー (地図に見入りながら)見た処、私の領分は、このバートンの北といふ事になるが、お二人のそれと同等とは思はれない。それ、この通り、トレント河が私の方に深く食ひ込んでゐて、一番良い土地が削り取られてゐる、この大きな半月形の処だ、それが余りにも出張り過ぎる。それなら、河の流れをこの地で堰き止め、しめやかな白銀のトレントの流れをこのまま真直ぐなだらかに走らせる新流を造れば良い。流れをこんな風に大きくうねらせて、豊穣な流域一帯を切取られては堪《たま》らない。
グレンダワー 大きくうねらせる? それで良いのだ、それより仕方は無い――それ、事実、さうなつてゐるのだ。
モーティマー さうだ、しかし、これを見ろ、流れはそこから更に溯つて俺の方に食ひ込み、同じ利益をそちら側に与へてゐる、こちら岸が削られてゐる分だけ、そちらから切取つてゐるまでの事だ。
ウースター さうだ、しかし、ほんの一寸の費用でここに流れを通す事が出来る、さうすれば、北側にこの出端《でばな》を取入れ、河は真直ぐ流れる様になる。
ホットスパー 是非さうしたい、一寸の費用で出来る事だ。
グレンダワー 私は流れを変へたくない。
ホットスパー 変へたくない?
グレンダワー うむ、あなたもそれは止めて貰ひたい。
ホットスパー 私に向つて止めろと誰がそれを?
グレンダワー 決つてゐる、私がさう言ふ。
ホットスパー それなら、私に解らぬ様に言つて貰ひませう、ウェイルズ語でお願ひする。
グレンダワー 私はイングランドの言葉が話せます、あなたに劣らず、といふのは、私はイングランドの貴族の間に育ち、まだ若い頃から竪琴に合はせてイングランドの歌の文句をなかなか器用に作り、その国語に美しい調べを与へたものだ、それはあなたの与り知らぬ身嗜みではあらうが。
ホットスパー 仰せの通りです、知らなくて何よりの仕合はせと喜んでゐる! それより小猫に生れてニャーとでも鳴いてゐる方がまだましだ、そんじよそこらの在りふれた小唄作者になど、誰が成るものか――それ位なら、真鍮の燭台を拵へる時に使ふ轆轤や油の切れた車軸の廻る音でも聞いてゐた方が良い、その方がまだしも歯が浮くまい、猫撫で声の詩など聞かせられたら一遍で歯茎が緩んでしまふ――あの詩といふ奴は馬が厭足を引きずつて歩く不様な姿にそつくりだ。
グレンダワー それならトレントの流れを変へたら良い。
ホットスパー 実はどちらでも良い事なのです、その土地の三倍を呈上しても構はない、それに値する同志なら。ただ取引である以上、宜しいか、髪の毛一筋の九分の一に過ぎぬ些細な事にも拘泥らずにゐられない、それだけだ。誓約書の方はもう良いでせうね? 直ぐ出発しませうか?
グレンダワー 今夜は月が良い、夜に入つて出掛けた方が宜しからう、私は急いで誓約書を書かせて来る、序でに二人の出発を女共に知らせてやりませう。娘が取乱さねば良いが、深くモーティマーの事を想うてをりますのでな。(退場)
モーティマー ちよつ、仕様の無い奴だ、パーシー! 親父にああまで突掛る事はあるまい!
ホットスパー どうにも堪《こら》へられなかつたのだ。いつもつい腹を立ててしまふのだ、土龍《もぐら》と蟻の話とか、魔法使のマーリンがどうかうして、その預言がどうなつたとか、龍と鰭無し魚、翼を切られた怪獣グリフィンに羽の抜けた烏、寝そべり獅子に立上り猫、さういふ珍糞漢の戯言《たはごと》を聞かされると、クリスト教徒たる自分の信仰が何だかをかしくなつて来るのでね。まあ、聴いてくれ――ゆうべもさうだ、九時間も俺を側から離さず、色な悪魔の名を並べ立てたものだ、そいつが皆自分の意のままになるといふ。俺は「ほう」とか「成る程、それから」とか、口では言つてゐたが、一言も心に留めてはゐなかつた。ああ、あの男位附合ひにくい奴はゐない、くたびれ馬やがみがみ女房よろしくだ、煙つた小屋に閉ぢ籠められてゐた方がまだしも楽さ――チーズと蒜《にんにく》だけで一生風車小屋棲ひに甘んじてゐる方が、御馳走を食はされて、あの男の話を聴かされるよりずつと良い、たとへそれが文明開化のクリスト教国の居心地宜しき避暑地の別荘であらうとね。
モーティマー いや、正直、あれは立派な人物なのだ、非常に博学で秘法に通じてゐるばかりでなく、獅子の如く勇敢な半面、実に思遣りがあり、インドの鉱山の様に惜しみ無く富を人に分ち与へる……俺の話を聴いてくれぬか、パーシー? あれで義父はあなたの気性を高く買つてゐて、努めて自分を抑へ怒りに身を委ねまいとしてゐるのだ、どんなに機嫌を損ねる様な事を言はれても、義父はいつもさうしてゐる。本当なのだ、今まで誰一人として、あなたの様に義父を怒らせて、然も何の咎めも禍ひも蒙らなかつた男はゐない――しかし、その特権をむやみに利用しない方が良い、くれぐれも頼むぞ。
ウースター 正直、お前は人に悪く思はれるのを承知の上でわざと厭がらせをする癖がある、ここへ来てからも、あれに堪忍袋の緒を切らせる様な事ばかりやつて来た。何よりこの過ちを改める様に努めねばならぬ。尤も時にはそれが権勢、勇気、迫力の証しともならうが――それにしても、精その程度のお返しがあるだけで――先づ大抵の場合、自制心の欠如、粗暴、不作法、傲岸、不遜の徴《しるし》にしかならぬ、そのうち一番罪の軽いものでも、貴族にとつては、民の心を失ひ、その他如何に美点があらうと、ただそれに染みを残すだけで、当然受くべき称讃を台無しにしてしまふものなのだ。
ホットスパー 解りました、お叱りは謹んでお受けします――作法が叔父上を敵からお護り下さいます様に! それ、奥方達の御入来だ、別れの挨拶をして置きませう。
グレンダワーが娘のモーティマー夫人とホットスパーの妻とを連れて戻つて来る。
モーティマー これだけは焦れつたくて腹が立つ――妻はイングランドの言葉が話せず、俺はまたウェイルズ語が話せないと来てゐる。
グレンダワー 娘は泣いてゐる、あなたと別れるのは厭だと言ふ、自分も戦士《いくさびと》として戦場に附いて行くといふのだ。
モーティマー 父上、言つて聴かせて下さい、これも叔母のパーシー夫人と一緒に直ぐ父上のお伴をして後から来るのだと。(グレンダワーがウェイルズ語でさう伝へる、モーティマー夫人もウェイルズ語でそれに答へる)
グレンダワー この事になると全く訳が解らなくなる、手に負へぬ我儘娘だ、何を言つてもてんで受附けない。(夫人が直接モーティマーにウェイルズ語で話し掛ける)
モーティマー 顔を見れば解る。その目もとに溢れるウェイルズの美しい言葉、それが潤んだ空から降り注ぐ、俺には解り過ぎる位解つてゐるのだ、傍目さへ無ければ、俺も同じ話術で答へたい。(夫人が二たびウェイルズ語で何か言ふ)口附けなら俺にも通じる、俺のもお前には通じるだらう、そしてこれが心の通ひ路といふもの、だが、俺はそれだけで怠けてゐる積りはない、きつとお前の言葉が解る様になつてみせる、お前の舌に載るとウェイルズ語が美しい言葉に聞えて来るからだ、調べ高き歌の様に、優雅な女王が夏の亭《あづまや》で独りリュートに合はせて口ずさむ歌の様に、それが人の心を掻き乱す。
グレンダワー 泣くな、あなたがそれでは、これは気が狂つてしまふだらう。(夫人が二たびウェイルズ語で話す)
モーティマー ああ、私にはどうしても解らない、これの言ふ事が!
グレンダワー かう言つてゐるのだ、目の醒める様な藺草の上に身を横へ、これの膝を枕にして息め、歌を歌つてお慰めしよう、さうすれば目蓋の上に眠りの神を宿らせ、その血を鎮めて心地良い眠気に誘ひ込み、夢と現の境をさまよはせて差上げよう、あの昼と夜との別れ目、夜明け前の一時、日の神を乗せた車を引き美しく鎧うた馬が東の空に姿を現し、黄金の道を歩み始めるその一時の様にと。
モーティマー 喜んで腰を降し、歌を聴かせて貰ひませう、その間に例の誓約書も出来上るでせう。
グレンダワー それが良い、(モーティマー腰を降し、夫人はその側に坐る)楽士達にも何かやらせたいが、連中がたとへここから千リーグ離れた宙にうろついてゐようと、直ぐにも呼び寄せて見せよう。腰を降して待つてゐなさい。
ホットスパー さ、ケイト、横になる事に掛けては、お前は全く文句の附け様が無い。さ、早く、早く、そのお膝の上にこの頭を。
パーシー夫人 そんな事を、お調子に乗つて。(パーシーに腕を掴まれ藻掻く、二人一緒になつて敷物の藺草の上に倒れる、パーシーは夫人の膝に頭を凭せ掛ける、その時、楽の音が聞えて来る)
ホットスパー さうか、悪魔の奴はウェイルズ語を解するのだな、それなら何も不思議は無い、奴等が気紛れなのも。結構やるな、楽士としても一人前だ。
パーシー夫人 それではあなたも音楽が解る筈だけれど、さうでせう、あなたと来たら全く気紛れ屋さんなのだから。静かにしていらつしやい、暴れん坊さん、あの人のウェイルズ語の歌を聴きませう。
ホットスパー 俺はあの牝犬のレディーがアイルランド語で吠える処を聞きたいね。
パーシー夫人 どうしても頭を叩き割つて貰ひたいといふのね?
ホットスパー それは困る。
パーシー夫人 それなら黙つておいでなさい。
ホットスパー それも困る――黙つてゐるのは女の、(皮肉に)悪い癖だ。
パーシー夫人 本当に仕様の無い人!
ホットスパー あのウェイルズ女の寝床に潜り込みたがつてね。
パーシー夫人 え、何ですつて?
ホットスパー 静かに! 歌が始つた。(モーティマー夫人がウェイルズの歌を歌ふ。それが終つて)さあ、ケイト、今度はお前の歌を聴かせてくれ。
パーシー夫人 私は厭、たとへあなたの頼みでも。
ホットスパー 「私は厭、たとへあなたの頼みでも!」「命に代へても!」その言草は清教徒そつくり、菓子屋の女将さんよろしくだ――「厭、厭、たとへあなたの頼みでも」とか「本当なのだもの」とか「神様の御加護により」とか「昼の如く明白」とか――幾ら腹を立てても、そんな気の抜けた誓ひの文句しか使へないのか、ロンドンの箱入娘、盛り場といへば精フィンズベリー止り、それより先へ遠出した事が無いと見える。思切つてやるのだ、ケイト、貴族の女らしくな、堂と大口叩け、止してくれ、「あなたの頼みでも」などと、そんな生姜《しやうが》入り砂糖菓子みたいな、甘いのだか辛いのだか解らない清教徒式怨みつらみは、天鵞絨の晴着に現を抜かしてゐる町人共に任せて置け。さ、歌ふのだ。
パーシー夫人 歌ひません。
ホットスパー 歌が歌へれば、直ぐにも仕立屋に成れるのだがな、駒鳥に囀りを教へ芸人にだつて成れるぜ。さてと、誓約書さへ出来てしまへば、二時間以内に出掛ける――良かつたら奥へお出で。(退場)
グレンダワー さ、さ、モーティマー卿、その腰の重さは、パーシー卿が直ぐにも飛出さうとして火の様に逸つてゐるのと好い対照だ。誓約書も出来上つた頃だ。後は封印するだけ、それが済んだら直ちに馬に乗る。
モーティマー 喜び勇んで。(一同退場)
〔第三幕 第二場〕
ロンドン、王宮内の一室
王、王子、その他。
王 皆、済まぬが、暫く退つてゐてくれ。ウェイルズと二人だけで話したい事があるのだ。が、近くにゐてくれ、いづれ直ぐにも来て貰はねばならぬからな……(一同引退る)或はこれも神の思召しかも知れぬ、この父が知らぬうちに神の御心に逆ふ様な罪を犯し、その見えざる裁きの御手が血を分けた吾が子を借りて懲罰の鞭を揮ひ給ふのか、とにかくお前の日頃の暮し振りを見てゐると、お前といふものが、この身の罪を懲しめる為天の降し給うた厳しい復讐の手立としか思はれなくなつて来る。さうではないと言へるか、それならどうしてあの様に身を持ち崩し、低劣な欲望に身を委ねる、愚にも附かぬ卑しい行ひに吾を忘れ、いたづらに快楽を追ひ求め、自ら進んで身を落しやくざ仲間と附合ふ、その様な事が高貴な血筋にふさはしいしぐさと思ふのか、王子の品性に似合はしからぬ所行とは思はぬのか?
王子 お許し下されば、唯今のお咎め、直ぐにも疑念をお霽らし申上げます、私には私なりの言ひ分があり、これだけは信じて疑ひませんが、世上の非難を招いた罪の大部分は難なく払ひ落せるものばかりでございますから。それにしても多少はお見逃し願ひたい事もあります、といふのは、色と粉飾された拵へ事が多く、それがお耳に達してのお叱り、が、さういふにこにこ顔の追従者《もの》や取るに足らぬ事件屋の作り話を見事粉砕してお目に掛けませう、さうすれば、その他の事実については、いや、それも若気の過ちからつい羽目を外しただけの事で、その非を自ら認めをります事に免じて、今度だけはお見逃し下さいます様に。
王 先づ神のお許しを! それにしても、ハリー、どうにも解せぬのはお前の心様だ、恣《ほしい》ままに翼を拡げ、お前の祖先の夢にも思はなかつた方角に飛び去らうとする。枢密院でも乱暴を働いて己れの地位を失ひ、弟に取つて代られ、貴族は固より血の繋る親族すらお前を除け者扱ひしてゐる始末だ。お前の将来に対する国中の希望も期待も今や全く失はれ、誰一人としてお前の躓きを見越さぬ者は無い……もし俺が吾が身を廉売りし、始終人目に触れ、大衆に馴れ馴れしく見縊られてをつたなら、当時の輿論は俺に王冠を戴かせはしなかつたらう、恐らく時の王に忠誠を誓ひ、この身を忌はしき追放の憂目に陥れ、俺は名声も未来も奪はれた一凡人の生涯を送つたに違ひ無い。が、滅多に人前に姿を現さなかつたからこそ、この身が動けば彗星の如く人に仰ぎ見られもしたのだ、誰もが俺を指差し子供に言つて聞かせた、「あの人がさうだ!」すると、誰かがかう言ふ、「何処に? どれがボリングブルックだ?」とな。それから俺はあらゆる恭順の美徳を天上から盗み出し、遜《へりくだ》りの衣裳で一分の隙も無く身を固め、お蔭で人の心から忠勤を、その口から歓呼の叫びを〓ぎ取つたものだ、それも王冠を戴いたリチャード王を目の前にしてだぞ……この様に俺はいつも身の囲りに新鮮の香を漂はせておいた、法王の盛装の様に誰にも見られるものでないだけに、稀に姿を現せば人はこれを仰ぎ見る、謂はば、この身は、滅多には訪れぬが、来れば派手に装ふ祭の様なものだ、濫りに見られねばこそ尊厳なものとなる……跳ね上りの王はあちこち気取つて歩き廻る、その供がまた浅薄な道化や燃え易い鉋屑の様な才子だ、直ぐ人気の火花を散らせたかと思ふと、忽ち燃え尽きる、果は己が位を卑しめ、尊き血筋を下司下郎の勘繰りに委ね、偉大な名を奴等の嘲笑によつて穢す、奴等に顔を貸してやり、お礼にその名を盗まれ、それでも好い気になつてやくざ共の嘲笑を面白がり、髯も生えぬ青二才の利いた風な悪口を大人しく聴いてゐる、身を市井に投じ、その附合に全く己れを売渡してしまへば、日世人の目に曝され、始めは蜜の香りに酔うた口もやがてはそれに倦き、甘い味を厭ひ始める、さうなつたら最後だ、一寸甘過ぎただけで途方も無く甘く感ぜられ、もう沢山だといふ気になる。さうなつてから、偶に姿を見せる様に心掛けた処で、もう手遅れだ、真夏の郭公よろしく、その声は聞えはするが、誰も耳を傾けない、姿も見えはするが、それを見る目は馴れつこになつて何の気も無い詰らなさうな目附きだ、熱の籠つた目差しを強ひて求めても無理な話で、それは日輪の威を備へた人物が、その出現を待ち望む讃美者の前に偶に強い日射しを投げ掛けた時に限る、さもなければ、如何にも眠さうに目蓋を垂れ、まだはつきり目醒めぬ顔を漸く擡げ、恰も機嫌の悪い処へ厭な奴が現れたといふ様な目差しを向けるだけだらう、さんざん見倦きてうんざりしてゐるからだ。正にさういふ類《たぐひ》の人物としか思はれぬ、ハリー、今のお前を見てゐると、さうとしか思へぬ、王子の特権を捨ててやくざな仲間と附合つてゐるではないか。誰の目も、日頃見慣れたお前の姿に倦き倦きしてゐよう、唯、この父の目だけは別だ、それだけはお前のうちに猶も別の何物かを探し求めて来たからだが、それが不覚にも、これ、この通り愚かな涙で何も見えなくなつてしまつた。
王子 私も今後は、父上、身分にふさはしく行ひを改めませう。
王 真の話、今日までのお前は嘗てのリチャードと同じだつた、俺がフランスから攻め寄せてラヴンスパーグに上陸した時の事だが、その時の俺が差詰め今のパーシーだ。そのパーシーだが、この笏と、更に吾が魂に賭けて言ふが、あの男の方が遥かにこの玉座にふさはしい、お前は単なる影の王位継承者に過ぎぬ。あれは何の権利も無ければ、その兆しらしきものすらないのに、この国の原野に兵馬の群を漲らせ、待ち構へてゐるこの獅子の顎《あぎと》を目掛けて立向つて来たのだ、それが年齢はお前とさして変らぬ若さで、年上の貴族や司教達を動かし、血腥い戦闘や激しい打物業に駆立てる。それに、不朽の栄誉を捷ち得た勇将ダグラスとの一騎打! その潔い振舞、その燎原の火の如き進撃、数の武勲、それには如何なる武人《もののふ》も太刀打ち出来ず、クリストを神と仰ぐすべての国を通じて、あれの右に出づる者は無い。一度ならず三度まで、そのホットスパーが、まだ襁褓《むつき》の取れぬ軍神マルス、小童《こわつぱ》武者が、見事勇将ダグラスを打破り、一度はそれを虜にし、二度目は捕へながらこれを許し放ち、三度《みたび》勝つて身方に附けた、根強く己れに挑戦して来る奴の咽喉を締上げ、その雄叫びを転じて、吾が玉座の平穏を乱さしめようといふ肚だ。処でお前はどう思ふ? このパーシーとノーサンバランドと、それにヨークの大司教、ダグラス、モーティマーと、五人が密かに謀を廻らし、兵を挙げようとしてゐるのだが……いや、俺は何の為にこの様な事をお前に知らせようといふのか? ハリー、お前に向つて俺の敵の話を、他の誰よりも身近な、そして誰よりも手に負へぬ敵であるお前に向つて、俺はまたなぜ? お前なら随分ありさうな事だ、奴隷の恐怖心、卑劣な根性、曲つた性根、それに動かされてパーシーに飼ひ馴らされ、奴の手先となつてこの父に刃向ひかねぬ、犬の様に喜んで奴の踵の砂を浴び、その顰面に心を煩はし、腐り果てた己が正体を曝し物にするのが落ちであらう。
王子 その様な思ひ過しはお捨てになつて下さい、決してその様な事にはなりませぬ、それにしても先づ神のお許しを、かうまで父上のお心を私から逸らしてしまつた人に! いづれすべての償ひはパーシーの首に賭けませう、いつか、輝しい勝利の一日が幕を降す時、胸を張つて父上の前に立ち、きつとかう申上げます、私はあなたの子だと、その時の私は鎧を血で染め、顔には厚い血塗りの面を被つてをりませう、が、その血を洗ひ落した時、それと共にこれまでの私の汚辱もすべて拭ひ去られませう。正にその日に、それがいつであらうと、彼の栄誉と人望に恵まれた勇士ホットスパーと、万人渇仰の騎士と、父上の見縊つておいでになるこのハリーと、二人は遂に相見《まみ》ゆるのだ。それまでは、あれの兜の上に積る栄誉の弥増さん事を、そして吾が頭上を蔽ふ汚辱のますます多からん事を! いづれ、その時が来れば、あの北国の若者の潔い振舞とこの身の不名誉とを交換する取引をしてやるのだ。パーシーは今の処私の仲買人に過ぎませぬ、父上、詰り、潔い振舞酒といふ奴を私の為にしこたま仕入れさせ、その後で私は奴に厳しく精算を迫る、さうすれば、さすがの奴もその手持ちの潔さを悉く吐き出さざるを得ず、これまで得意の潔いの酔ひ心地もすつかり醒め果ててしまふでせう、それが厭なら、奴の心臓から勘定を取立てるだけの事……以上、神の名に懸けて、ここにお約束致します、そして、それがもし神の思召しに適ふとあらば、必ず仕遂げて御覧に入れるだけの事、お願ひ致します、何とぞ父上にも私の放埒の長年の疵を労り癒して下さいます様、もしそれが成らぬとおつしやるなら、この一命を断ち、すべての帳尻を綺麗に片附けるだけの事、この誓ひの如何に些細な事柄でも、それを破る位なら、寧ろ死を以てお応へする覚悟でをります。
王 その言葉で死んだのは謀反人の方だ――ここに吾が軍の指揮権と最高の地位とをお前に与へる。
ブラント登場。
王 どうかしたか、ブラント? その様子、何か差迫つた事があると見える。
ブラント お察しの通り是非お耳に入れて置きたい事があります。スコットランドのモーティマー卿より言ひ寄越した処によりますと、その地のダグラスとイングランド側の叛軍とが去る十一日シュルーズベリーに集結せしとの事。その兵力は強大、もし銘が誓約通り足並み揃へて動き出さうものなら、未だその例を見ざる程の忌はしき事態を惹き起しかねぬ勢にございます。
王 ウェストマーランド伯はけふ既に出発した、これの弟のランカスター公ジョンも一緒だ、この事はもう五日前から解つてゐた事なのだ。次の水曜には、ハリー、お前も出発して貰はう、木曜にはこの身も出陣する、落合ふ場所はブリッヂノースだ、だが、ハリー、お前はグロスターシアーを抜けて行つて貰ひたい、その手筈通りに行けば、色為すべき事を勘定に入れても、凡そ十二日後には全軍がブリッヂノースに集結する事にならう。手は一杯だ、為すべき事は山程ある、さ、急がう、人間が怠けてゐれば、運の方でも転寝《うたたね》してしまはう。(一同退場)
10
〔第三幕 第三場〕
イーストチープ、居酒屋猪首亭《ボアーズ・ヘツド》
早朝、フォールスタフ、腰に棍棒を吊してバードルフと共に登場。
フォールスタフ バードルフ、俺はすつかり肉が落ちて惨めになつてしまひはしないかい、あの時の騒ぎからこつち? 力が抜けてしまつたらう? 縮んでしまつたらうが? それ、皮が弛《たる》んで婆《ばばあ》の寝間着みたいにだぶついてゐやがる、取つて置きの古林檎みたいに萎びてゐらあ。さうだ、かうなつたら、俺も悔い改めるとしよう、それも手取早い処、まだ何とか見られるうちにな。どうせ俺も直ぐ老い込んでしまふだらう、それからでは、悔い改めようにもそれだけの元気もなくなつてしまふ。教会の中はどんな風に出来てゐたつけな、それを憶えてゐる様なら、俺は胡椒粒ほど小柄で、酒屋の馬ほど痩せつぽちといふ事になる。教会の中か! 友達だ、友達が悪いのだ、奴等が俺を駄目にしてしまつたのだよ。
バードルフ サー・ジョン、さうくよくよしてゐたのでは、長生き出来ませんぜ。
フォールスタフ うむ、そこだよ、困るのは、さあ、一つ色つぽい歌でも歌つて、俺を陽気にしてくれ……俺は元品性高潔で、君子の見本みたいな男だつたのだ、高潔なる事限り無く、悪態を吐《つ》く事殆ど無し、骰子《さいころ》いぢりは週に七度を越える事無く、淫売屋通ひもたつたの四度、それも一時間に四度を越えず、借りた金はそれこそ何度も返し、安穏に、俺の箍《たが》を守つて暮して来たものだ、それが今ではすつかり暮しの調子が狂ひ、俺は自分の箍から外れてしまつた。
バードルフ だつて、それは肥つてゐるからさ、ジョン、どうしたつて箍から外れてしまひまさあ、在り来りの箍には嵌りつこありませんや。
フォールスタフ 貴様はその面を直しな、さうしたら俺も俺の暮し振りを直す事にする、貴様は俺達艦隊の差詰め旗艦といふ処だ、艫《とも》に燈りが附いてゐるものな、尤もお前はそれを鼻先に紅と附けてゐる、これから貴様を燃ゆる御燈しの騎士と名附ける。
バードルフ でも、サー・ジョン、俺の顔がお前さんに何の損害を与へる訳でもあるまいに。
フォールスタフ 与へない、断じて与へない――そいつは大いに俺の役に立つてゐる、今流行《はやり》の髑髏の彫物と同じだ、誰も彼もそれを指輪に彫り込んで、それを見る度に死を忘れない様にと心掛けてゐるだらう。俺は貴様の顔を見る度に地獄の業火を想ひ起すのだ、それから聖書に出て来るあの話、生きてゐる時いつも赤紫の着物を着てゐた金持で、死んで地獄に落ちたダイヴィーズといふ男の事をね、奴はその着物を着たまま焔に焼かれるのだ、焔に。もし貴様に何処か高潔な処がありさへしたら、俺はその面に懸けて誓つてやる、俺の誓ひといふのはかうだ、「燃ゆるこの焔こそ、正に地獄の手先の証しなり」とね。だが、貴様の身柄はもう丸悪魔に引渡されてしまつたのだ、僅かながらもその面に燈りが点つてゐなければ、全く暗黒地獄の伜だよ。貴様はこの間の晩、例のガッヅヒルで俺の馬を掴へようとして丘を駆け登つて行つたらう、あの時、俺はてつきり貴様を鬼火か鉄砲玉だと思つたよ、本当とも、嘘なら俺は懐中一文無しだといふ事になる。全く貴様といふ奴は、年中のべつ幕無しのお祭り男だ、消ゆる事無き大花火だ! 貴様のお蔭で松明を買ふ金が千マークも助つたよ、毎晩、居酒屋から居酒屋へ梯子酒をやりに夜道を歩き廻つても、燈り無しで済むのだからね、しかしだな、貴様が俺の附けで飲んだ酒代の事を考へると、それでヨーロッパ中の一番高い蝋燭屋に俺の燈り代をたつぷり払へたかも知れないぞ。サラマンダーといふ蜥蜴《とかげ》は火の中で火を食つて生きてゐるといふが、俺はその貴様のサラマンダーを養つて置く為に、この三十二年間一時も絶やさず火を飲ませ続けて来たのだ、神様、どうぞ御褒美を下さいまし!
バードルフ 糞、そんなに言ふなら、俺の顔をお前さんの太鼓腹の中に蔵つて置いたらどうだい!
フォールスタフ 助けてくれ! そんなものを飲み込んだら、忽ち胸焼けを起してしまふ。
女将登場。
フォールスタフ これ、これ、牝〓パルトレ奥様え、俺の財布を掏つた奴をお調べ下さいましたかね?
女将 これは驚いた、サー・ジョン、何を考へておいでなのだい? 家《うち》では盗人を飼つてゐるとでも思つておいでかい? 私は家《うち》中捜し廻り、片端から問ひ匡してやりましたよ、家《うち》の人と一緒に、一人残らず召使から小者の末に至るまでね。でも、家《うち》では今まで何も無くなつた事なんかありはしなかつた、髪の毛一筋だつて、その十分の一だつて。
フォールスタフ 嘘を吐け、女将――バードルフが丸禿になつた事があるではないか、原因は何だか知らないが、髪の毛がぞろぞろ抜けてしまつた、間違ひ無い、俺の財布を失敬した奴がゐるのだ、やい、やい、この尼つちよ、正直に言へ。
女将 誰の事だい? 私がかい? とんでもない、おふざけでないよ、尼つちよだなんて、憚りながら家《うち》の店でそんな風に呼ばれた事は後にも先にもありはしないんだから。
フォールスタフ 止せやい、俺はお前さんの事は何から何まで良く知つてゐるのだ。
女将 嘘をお言ひ、サー・ジョン、何も知つてはゐない癖に、サー・ジョン。私の方はお前さんといふものを良く知つてゐるんだ、サー・ジョン。お前さんは私に借りがある、サー・ジョン、それだものだから、私に言掛りを附けてごまかしてしまはうといふ気なんだ。私はお前さんにシャツを一ダース分立換へてあげた事があつたね。
フォールスタフ ダウラス産の奴か、あのけちなダウラス・シャツをね。あれは皆くれてしまつたよ、パン屋の女将連に。皆はそれで篩《ふるひ》を拵へたとさ。
女将 私はね、これでも嘘をついた事は無いんだよ、あの裂れは一エルで八シルもするんだ! そのほかにもこの店の貸しがあるんだよ、サー・ジョン、食事代や酒代が溜つてゐるし、現金だつて二十四ポンドも貸してある。
フォールスタフ その中にはこいつの分も這入つてゐる、こいつから取つてくれ。
女将 こいつからだつて? ふん、こいつは素寒貧だ、何も持つてゐはしないよ。
フォールスタフ へえ! 素寒貧だと? こいつの面を見て見ろよ。お前さんが金持といふのは一体どういふ奴なのだ? この鼻で金貨を造らせたら良い、この頬で。俺は鐚一文だつて払はない! さうかい、お前さんはこの俺を勘当息子扱ひしようといふのだな? 棲み慣れし家に在りても心安からずといふ目に遭はせたくて、俺の財布を盗ませたのだらう? あの中には俺の祖父《ぢぢい》の印形の附いた指輪が這入つてゐたのだ、四十マークもする奴が。
女将 よくもまあそんな! 王子様が言つてゐたよ、それこそ何度聞いたか憶えてはゐない位だ、その指輪は赤銅《あ か》だつてね。
フォールスタフ へえ! その王子様はやくざ野郎だ、胡麻擂《ごます》りの小悪党だ。畜生め、もしここにゐようものなら、犬の様に打ちのめしてやるんだが、よくもそんな事を吐《ぬ》かしやがつたな。
その時、王子登場。ポインズもその後に一列になつて行進して来る。フォールスタフはそれを見て、直ぐ迎へ、腰の棍棒にて横笛を吹く真似をしながら、三人で部屋中を行進する。バードルフもポインズと並んで行進に加る。
フォールスタフ おい、おい、小僧! 愈さういふ風の吹き廻しと相成つたのかい? 皆、揃つてお出掛けといふ訳か?
バードルフ 二人づつ縛られてね、ニューゲイト監獄に送られる時はさうだつてよ。
女将 王子様、是非、私の話を聴いて下さいまし。
王子 何が言ひたいのだ、クィックリー? 亭主は元気か? 俺はあの男が大好きだ、正直者だからな。
女将 王子様、私の話を。
フォールスタフ まあ、この女の事は放つて置いて、俺の話を聴いてくれよ。
王子 何だ、お前の話といふのは、ジャック?
フォールスタフ この間の晩、俺はここで寝込んでしまつたらう、それ、その壁掛の後でよ、あの時、財布を盗まれてしまつた。この店は淫売屋に鞍替へしてしまつたのだ、枕探しまでやりやがる。
王子 何を奪られたのだ、ジャック?
フォールスタフ それが、あらう事か、ハル、四十ポンドの手形三四枚と祖父の印形の附いた指輪だ。
王子 そんな廉物、精八ペンス位の物だ。
女将 私もさう言つたのでございますよ、王子様、はい、王子様もさう言つておいでだつたつて、さうしましたら、王子様、この人は王子様の事をさんざん毒づきまして、御承知の通り、それはもう口汚い事を次から次へと、揚げ句の果に、王子様を叩きのめしてくれるなどと申しまして。
王子 おい! おい! まさかそんな事は?
女将 それが嘘なら、私は信仰の無い不真面目な女だといふ事になります、いいえ、さうなつたら女とは言へません。
フォールスタフ お前に信仰があるなら、女郎屋の女将にだつてある、お前が真面目なら、狐だつて真面目だ――最後に、女といふ事になると、メイド・メーリアンの様な悪女だつて、お前よりは余程まともに町のお歴の奥様役が勤まるだらうよ。さつさと引込まないと目に物見せてくれるぞ。
女将 どんな物を見せてくれるんだよ、何だよ、その物といふのは?
フォールスタフ どんな物だと? それは、詰り神様が御覧になりたい様な物さ。
女将 神様が御覧になりたい様な物なんて、私には勿体無い、見せてくれなくて良いよ、本当に余計なお世話だ。私は真面目な男の女房なのだよ、お前さんの方は、騎士とは名ばかり、私に言はせれば唯のごろつきさ。
フォールスタフ お前も女とは名ばかり、手取早く言へば唯の獣さ。
女将 それなら言つて御覧、何の獣だい、このごろつきめ、さ、言つて御覧?
フォールスタフ 何の獣だと? それは、川獺《かはうそ》さ。
王子 川獺だと、ジョン! どうして川獺なのだ?
フォールスタフ どうして? それは、魚でもなし四足でもなし、どの種類に属するのかあしらひかねるからさ。
女将 能くもそんな事が言へたものだ、お前さんだつて誰だつて、私をいつも良い様にあしらつてゐる癖に、このごろつきめ!
王子 全くお前の言ふ通りだ、こいつの悪口は如何にもひど過ぎる。
女将 さうなのでございますよ、王子様の事までさうなのでして、この間も千ポンドも借りられたなどと。
王子 やい、本当か、俺に千ポンド貸してくれたといふのは?
フォールスタフ 千ポンドだつて、ハル? 百万ポンドだ。並の人間ならいざ知らず、お前さんに対する友情は百万の値打がある、詰り、お前さんは俺にその友情の借りがある訳だ。
女将 それに、王子様、こいつは王子様の事をやくざ野郎だ、今度遭つたら打ちのめしてやる、さう申してをりました。
フォールスタフ 俺はそんな事を言つたか、バードルフ?
バードルフ うむ、サー・ジョン、さう言つたよ。
フォールスタフ それは、俺の指輪が赤銅だなんて、もしハルがそんな事を言つたらの話だよ。
王子 さうさ、赤銅さ。で、お前は自分の言つた通りやつてのける気か?
フォールスタフ それは、ハル、決つてゐらあな、お前さんが唯の人間なら、俺はやつてのけるさ、だが、王子ともなれば、仔獅子の吠声程度には気を遣ふよ。
王子 なぜ獅子とは言はないのだ?
フォールスタフ 恐るべき事獅子の如きは王だけだよ。俺がお前さんを親父さん並に怖がると思つてゐるのかい? とんでもない、そんな俺なら、神様、どうぞ不幸の前兆をお与へ下さいまし、靴の紐でも帯でも切れてしまふが良い。
王子 帯が切れたら大変だ、その腹の中の臓物が膝の上に垂れ下つて来てしまふ! だが、その腹の底を掻分けて見ても、お前の中には信仰だの真実だの正直だの、そんなものは薬にしたくもありはしない――在るのは臓物と粘膜だけさ。正直者の女将に因縁附けるとは何といふ根性だ! 全く呆れて物も言へない、窮鼠猫を噛む厚顔無恥の水脹れ野郎、お前の懐にあるのは居酒屋の勘定書と、淫売屋の覚書と、それから太つちよの息切れを防ぐ甘い駄菓子と、精それ位のものさ――もしその他に被害の何のと大きな事を言へる物が這入つてゐたら、この首をやる。それでもまだ頑張る気か、嘘の財布の紐を締めようとしないのか! どうだ、恥しいとは思はないかい?
フォールスタフ お前さん、聴いた事があるだらうな、ハル、アダムは全く罪といふものを知らないで暮してゐたのに、それでも楽園を追払はれたらう、して見れば、この極悪非道の末世に生きてゐるジャック・フォールスタフは正に憐むべし、一体どうしたら良いのだね? 御覧の通り、他の人間よりは大分肉が豊富だ、随つてそれだけ弱味も豊富といふ事になる……処でお前さんの問はず語りを聴いてゐると、どうやら盗んだのはお前さんらしいな?
王子 話の筋道から言ふと、どうもさうらしいな。
フォールスタフ 女将、お前は無罪放免とする。さ、朝飯の支度をしてくれ、汝、須く亭主をかはいがり、召使に目を掛け、客を大事に持成すべし。良く心得て置け、俺は筋の通つたまともな事なら、話の解る男なのだ、見ろ、この通りいつでも機嫌を直す。な、もう良いだらう、早く奥へ行きな。(女将退場)処で、ハル、様子はどうだつた、親父さんの前で、その、例の追剥の一件はどう申開きしたのだ?
王子 おお、吾が牛肉殿、俺はいつもお前の守護天使さ。盗んだ金は後で返して置いてやつたよ。
フォールスタフ ああ、その返してやるといふのは、俺は好かないね、二重の手間だものな。
王子 俺は親父と仲直りした、だから何でも出来る。
フォールスタフ では、その手始めに国庫を丸毎盗み出すのだ、それもお手を洗ふ暇もあらせず手取早い処な。
バードルフ それに限りますよ、王子様。
王子 俺はお前の為に早速仕事を見附けてやつたよ、ジャック、お前は歩兵隊長だ。
フォールスタフ どうせの事なら騎兵隊の方が良かつたのに。何処かで盗みの巧い奴を見附けられるかね? ああ、腕の良い盗人が一人欲しいな、二十二かそこらの! 俺の財布の中身は今ひどいものだ。とにかく神様にお礼を申上げるよ、謀反を起させてくれたものな、謀反人といふ奴は善人しか相手にしないものだ、だから俺は奴等を褒め称へる、奴等を絶讃する。
王子 バードルフ――
バードルフ はい。
王子 この手紙をランカスター公のジョンに届けてくれ、弟のジョンにだ、これはウェストマーランド卿に。さ、ポインズ、馬だ、馬だ、お前は俺と一緒に来い、三十哩飛ばすのだ、昼飯前にだぞ。ジャック、あすテンプルホールで午后二時に会はう。その時、お前の任務を言ふ、その準備の金も細目もその時渡す。国に火が附いたのだ、パーシー一族は今や頂きを極めようとしてゐる、吾か奴等か、そのいづれが蹴落されるかだ。(バードルフとポインズの後を追つて退場)
フォールスタフ よく言つた、お前の舌は天晴れ! 天が下は五月晴れ! 女将、朝飯だ、早くしろ! ああ、ここで進軍の太鼓を打つてゐて済めば良いのになあ。(退場)
11
〔第四幕 第一場〕
シュルーズベリー近辺、叛乱軍の天幕
ホットスパー、ウースター、ダグラス登場。
ホットスパー 今のお言葉、敬服に堪へません、ダグラス伯! たとへ本心からさう思つてゐても、上辺ばかりを飾り立てる今の世でそれをそのまま口に出せば単なる追従としか思はれない、さもなければ、ダグラス家は最高の栄誉を与へられて然るべきもの、当節輩出する武人のうちあなたの様に世界中何処へ行つても通用する者は一人もありますまい。正直の話、私は阿諛の言へぬ男です、追従者の巧言には虫酸が走る、だが、私の心のうちにあなたよりも名誉ある地位を占め、吾が敬愛の的たり得る人物は他にありません。さあ、いつでも私の言葉を試し、その真意をお認め下さるが良い。
ダグラス あなたこそ名誉の担い手、その王者。が、如何に豪勇の士と雖も、この世の者なら、私は必ず相手にして見せる。
ホットスパー 頼みます、それこそ願つたり叶つたりだ。
使者が書面を持つて登場。
ホットスパー その書面は何だ?――(ダグラスに)お褒めのお言葉、心から感謝します。
使者 お父上よりの御書面にございます――
ホットスパー 父上の書面! なぜ自ら来られぬのか?
使者 お越しになれぬのでございます、御重病の由承りました。
ホットスパー 何だと! 親父には病気になどなつてゐる暇があるのか、この伸るか反るかの大事の時に? 部下の兵を誰が指揮するのだ? 出兵は誰が始末するのだ?
使者 それこれ、この御書面に、私は何も存じませぬ。
ウースター では、何か、兄は寝た切りなのか?
使者 は、左様で、私が出立する前、四日間ずつと、で、出発の際には、医者達が大層御憂慮申上げてをりました。
ウースター 万事滞り無く動き出してからならまだしも、事がそこまで運ばぬうちに病気になられては。今こそ一番達者でゐて貰ひたかつたのに。
ホットスパー 今になつて病気とは! 今になつてへたばるとは! 親父の病気のお蔭で俺達の目論みの生き血が腐りかねない、病菌がここまで、陣地まで伝染して来る。手紙にはかう書いてあります、「内臓に疾患あり」――要するに、同志を募らうにも代理の者を遣はしたのでは容易に集らぬ、のみならず、これは当を得た処置とは言へぬ、これほど深刻重大な任務を自分以外の者に委ねる訳には行かぬと言ふのです。しかも、同時にかなり大胆な提案をしてゐる、吾等の兵力は小なりとはいへ、互ひに一致して軍を進め、運を天に任せるべしと言つてをります。といふのは、この書面にもある通り、今やためらふべき時ではない、既に王が吾の企てを知つてゐるからだ。その点、どうお考へになります?
ウースター いづれにせよ、ノーサンバランドの病気は吾にとつて手痛い打撃だ。
ホットスパー 命に関る深傷《ふかで》です、手脚を切落された様なものだ――だが、そんな事があつて堪《たま》るものか。ここに父が姿を現さぬのは却つて良いかも知れない、さうではありませんか、吾の全財産を骰子《さいころ》の一目に丸賭けてしまつて良いものか? 巨額の賭金を張るのに唯一度の不確かな勝負を空頼みする手があるものか? それで良いとは言へますまい、下手をすれば、吾は厭でも自分のどん底を覗かせられる、未知の希望の腹の内、吾等の運の道筋の行き着く先、その最後の果まで。
ダグラス さうだ、さうならざるを得ない。頼もしい後継者がゐるとなれば、いづれは取返せる事を当てにして大胆に投資出来るといふもの。いつでも手が引ける心の裕りも出て来よう。
ホットスパー 隠れ家が、逃げ返る家がある、もし悪魔や禍ひの神が不気味な顔を見せ、謂はばおぼこ娘とも言ふべき吾が兵力の前に立ちはだかつても。
ウースター それにしてもお前の父親がゐてくれたら……今度の挙兵は本来の筋といひ在り方といひ、二段構へで行くべきではない。誰でも考へさうな事だ、兄が来られぬ理由を知らぬ以上、それは分別、或は王に対する忠誠の為ではないか、それとも吾の目論みを一途に憎み、伯は遂にここへ姿を現さぬのではないか、さう思ふ者も出て来よう。考へて見ろ、さういふ想像が内に恐怖を包める謀反の上潮を一挙に引かせ、吾等の名分に疑ひを生ぜしむる事もあり得るのだ、改めて言ふ必要もあるまいが、吾敵の非を責める側に立つ者は厳しい詮索の手の届かぬ処に身を避け、あらゆる覗き穴に蓋をして置かねばならないのだ、正義の目が吾を覗き見する様な壁穴を作つてはならぬ。お前の父親の不参は垂幕を開き、何も知らぬ者に向つて、今まで夢にも考へなかつた不気味な物を見せてやる様なものだ。
ホットスパー 叔父上、それは取越苦労といふものです。私は寧ろ父の不参を逆に利用したい――その為に却つてこの偉大な企てに輝きと誇りが備り、そして更に勇気を奮ひ起される様に、左様、父がここにゐるよりはずつと良かつたといふ風にです、さうではありませんか、きつと皆はかう考へるでせう、もし吾が父の助け無しに挙兵し一王国に楯突けるなら、その上父の助けが加れば、それを引つくり返してしまふ事など造作無いだらうと。まだ万事安泰です、まだまだ吾等の五体はしつかりしたものだ。
ダグラス その点、全く心配は無い。スコットランドでは恐しいといふ言葉を口にする者はゐないのだ。
騎士リチャード・ヴァーノンが天幕に這入つて来る。
ホットスパー やあ、ヴァーノン! 良く来たな本当に。
ヴァーノン 願はくは私のお知らせがその歓迎のお言葉に値します様に。ウェストマーランド伯が七千の兵《つはもの》共を率ゐ、こちらを目ざして進軍中との事、王子のジョンも一緒です。
ホットスパー 痛くも痒くもない――それから?
ヴァーノン 更に、私の知り得た限りでは、王親《みづか》ら陣頭に立つとの事、それも既にこちらへ向つて疾風の如く寄せつつあり、その備へも強大を極めたものとの噂もございます。
ホットスパー そいつも大歓迎だ、伜は何処にゐる、あの脚速で有名な我武者羅王子のウェイルズ公は、世間を嘗めて、その鉾先をぬらりくらりと受け流してきた奴の相棒達は?
ヴァーノン 一人残らず鎧兜に身を固め、武器を取つて立上りました、兜に差したその羽毛の凜しさは風に羽搏く駝鳥、水を浴びたばかりの鷲さながら、聖者の立像の様に金色のマントを飜し、五月《さつき》の若葉の如く精気に溢れ夏至の太陽の如く光り輝き、仔山羊の様に伸びやかに牡牛の様に逸つてをります。現に私も見て参りましたが、王子ハリーは兜に面を隠し、腿当《ももあて》を附け、真に水際立つた武者振り、翼を持てる軍神マーキュリーの如く大地にすつくと立上り、ゆらりと鞍に跨つたその姿は、恰も雲間より降り立ちし天使が荒馬ペガサスを縦横に乗廻し、鮮かな馬術を以てこの世の者を魅し去らむとするかの如く見受けられました。
ホットスパー 沢山だ、もう沢山だ! そんな褒め言葉は身方の間に癘気を撒き散らす、三月の太陽より有毒だ。来る者は来るが良い、神前の生贄よろしく思切り飾り立てて来い、それをあのローマの戦の女神ベロナの焔の目に捧げてやるのだ、腥い血潮がまだ湯気を立ててゐるうちに。祭壇に坐してゐる軍神マルスの耳元まで奴等の血に浸してやるぞ。俺は体が火の様に燃えて来た、そんな素晴しい獲物が近附いて来るといふのに、まだ話だけで俺達の前に姿を現さぬとは……良し、それまで一乗りして来る、奴め、俺を乗せて雷《いかづち》の様にウェイルズの胸に打つかつて行くのだ。ハリーとハリーとが、その馬と馬とが激しく打つかり、どちらかが落ちて屍となるまで離れるものか。ああ、グレンダワーさへ来てゐてくれれば!
ヴァーノン その事について猶お知らせせねばならぬ事が。ウースターを通りました時、耳にした事ですが、グレンダワーはこの十四日のうちに麾下の兵を集められさうもないとの噂にございます。
ダグラス 今までのうちで最悪の情報だ。
ウースター 左様、正直に言つて木枯しの音を聞く思ひがする。
ホットスパー 王の兵力は総勢どの位なのだ?
ヴァーノン 三万に上る大軍とか。
ホットスパー 四万にしてくれ! 親父とグレンダワーと二人が脱けた、しかし、手持ちの兵力だけでもけふの大勝負には事欠かぬ。さ、今のうちに閲兵を済ませて置かう――最後の審判は目の前に迫つてゐる――皆死ぬのだ、笑つて死なう。
ダグラス 死ぬなどと、そんな言葉を口にするな、死が何だ、死神も俺には手が出せぬのだ、この先半年はな。(一同、天幕より急ぎ退場)
12
〔第四幕 第二場〕
コヴェントリー近くの街道
フォールスタフ、刺子の革の上衣を着、短銃入を吊つた帯を着用し、バードルフと共に話しながら登場。
フォールスタフ バードルフ、一足先にコヴェントリーに行つてゐてくれ、この酒瓶を一杯にして置くのだぞ、兵隊共は素通りで進軍だ。夜までにはサトン・コーフィルに這入る。(酒瓶を渡す)
バードルフ 金は、隊長?
フォールスタフ 払つて置け、公用だ、ぱつぱと使へ。
バードルフ この瓶だと、十シルの貸しに成る。
フォールスタフ 借りは返さなくても良い、お前の駄賃に遣るから取つて置け――たとへ二十シルに成らうと、遠慮せず取つて置け、その分の貨幣鋳造に対しては俺が責任を持つ。副官のピートーに伝言を頼む、町外れの処で俺を待つてゐる様にとな。
バードルフ 畏りました、隊長、では、行つて参ります。(退場)
フォールスタフ 糞、俺の部下と来たら、あんな野郎共を恥しげも無く引連れて歩いてゐる様では、俺も塩漬の魴〓《はうぼう》よろしくだ。俺は徴兵の権限を思ふ存分悪用してやつたからな。百五十人の兵隊を徴集するのに、免除の袖の下で三百ポンド余り儲けた。先づ立派な屋敷持ちに狙ひを附けた、小地主共の伜ばかりな、婚約中の独り者を探し出してやつたのだ、それも教会の告示が済んで、何処からも二度の異議申立が無かつた奴とか、ふやけた野郎で、戦太鼓の響きを聞くよりは悪魔の囁きの方がまだましだといふ手合や、小銃の音を聞くと打たれた野鴨より震へ上つてしまふ様な手合をな、俺はバタをたつぷり召上つてゐる連中にしか目を附けなかつたね、針の頭位の肝玉しか持合はせてゐない奴だけを狙ひ撃ちにした、だから、奴等は金を出して兵役ばかりはお許しをと来やがつた、かくして吾が部隊の体裁は整ひ、旗持、伍長、将校、下士官と一応揃つた――が、そいつらと来たら癩病やみよろしくの襤褸を纏つてゐやがる、それも廉物の壁掛などに能くある奴で、食ひしん坊の犬共に踵の瘡蓋を嘗められてゐるラザロそつくりだ、こんなのが兵隊であつて堪《たま》るものかい、お払箱になつた手癖の悪い召使、冷飯食ひの末子のまたその末子、店が勤らずに逃出した丁稚小僧、不景気で馘首になつた廐番、波風立たない平和な御時世の穀潰し、潮垂れたおんぼろ軍旗より何層倍も見つともない襤褸裂れ野郎、さういふ奴等を、俺は金で徴集免除してやつた連中の穴埋めに引張り出さなければならなくなつてしまつた、だからよ、誰が見たつて、この百五十人のおんぼろやくざが、ついこの間まで豚飼ひをやつてゐた奴だといふ事は一目瞭然だ、おからや籾殻でやつと食ひ繋いで来たしがない野郎共だといふ事は。途中で素頓狂な奴に出遭つたが、そいつ、俺にかう抜かしやがつた、絞首台から引きずり降して来た死体で能くもまあかうして軍隊が作れたものだと。誰もこんな案山子《かがし》を見た事は無いだらう。こいつらを引連れてコヴェントリーの街中が歩けるものか、解り切つた事よ、厭な事だ、あの畜生め等、行進するのに両股を拡げやがつて、まるで足枷でも嵌められた様に歩きやがる、尤も、正直の話、大抵は監獄から引張つて来た連中だからな。シャツは皆一枚半しか無い、その半といふのは、手拭きを二枚続きに縫ひ合はせて、首だけ出して肩に引掛けたやつで、例の軍使の着る袖無しの上衣とそつくりと来た、が、本物のシャツの方は何を隠さう、セイント・オールバンでは宿屋の亭主のを、ダヴェントリーでは居酒屋の赤鼻親父のを盗みといふ訳さ。が、そんな事はどうでも構はない、布裂れが欲しければ、途中幾らでも生垣の上に干してあるのにお目に掛れようといふものさ。
王子とウェストマーランドとが後からやつて来る。
王子 やあ、どうした、着脹れ野郎? おい、こら、刺子の掛蒲団、どうしたのだ?
フォールスタフ あ、ハルか? やあ、どうした、気違ひ小僧? 一体全体どうしてお前さんウォリックシアーなどに現れたのだ?――や、これは、ウェストマーランド卿で、失礼致しました。もう疾くにシュルーズベリーに着いておいでだとばかり思つてをりました。
ウェストマーランド 実は、サー・ジョン、さうしてゐなければならぬのだ、勿論お前もな。が、私の部隊は既にそこに到着してゐる。言ふまでもなく王は吾をお待ちになつておいでだ、夜を徹してでも全部隊そこへ急行せねばならぬ。
フォールスタフ へん、私の事でしたらお気遣ひ無用、クリームに忍び寄る盗人猫よろしくまんじりともしやしませんや。
王子 さもあらむだ、クリームに忍び寄るとは能くも言つたり、さうして盗んだ結果が、それ、もうバタが出来上つてゐる。それはさうと、ジャック、あれは誰の部下だ、後からやつて来るのは?
フォールスタフ 俺のだよ、ハル、俺の部下だ。
王子 俺は始めてだよ、あんな惨めな腰抜共は。
フォールスタフ ヘへん、槍玉の材料としては結構役に立つさ、鉄砲玉の肥しだよ、鉄砲玉の――奴等だつて墓穴を埋めてくれる段になれば他人様《ひとさま》と一寸も変りはしない、ふん、所詮は人間さ、死ぬに決つてゐる唯の人間さ。
ウェストマーランド それはさうだ、しかし、サー・ジョン、どう考へても見窄《みすぼら》し過ぎる、余りにも貧弱だ。
フォールスタフ いや、全く、その貧乏たるや、奴等がそれを一体何処で拾つて来たのか、てんで見当も附きません、いづれにしても奴等が貧相なのは断じて私を手本にしたのではありません。
王子 その通り、確かにお前の知つた事ではない、肋骨の上に指三本分の脂肪が乗つてゐるお前を貧相と言へぬ以上はな。が、そんな事はどうでも良い、さあ、急げ。パーシーは既に戦場に乗り込んでゐる。(退場)
フォールスタフ 一寸、王も親ら御出馬なさつたのですか?
ウェストマーランド さうだ、サー・ジョン。吾も余り遅れぬ様にせぬと拙い。(急ぎ退場)
フォールスタフ さてと、喧嘩は終り頃に宴会は真先に、これが意気地無しの侍と意地穢《きたな》しの客の守るべき作法といふものだ。
13
〔第四幕 第三場〕
シュルーズベリー近辺、叛乱軍の陣営
ホットスパー、ウースター、ダグラス、ヴァーノン登場。
ホットスパー 今夜こそ奴と決戦だ。
ウースター それは拙い。
ダグラス さうして手を拱き敵を有利に導かうといふ。
ヴァーノン 決してさうは言へません。
ホットスパー 何の根拠があつてそんな事を? 敵は後詰を待つてゐるのではないか?
ヴァーノン それはこちらも同じ事です。
ホットスパー が、敵の方は必ず来る、こちらは当てにはならぬ。
ウースター まあ、待て、冷静に考へるのだ、今夜はじつとしてゐるに限る。
ヴァーノン 是非さうなさる様に。
ダグラス その進言は当つてゐない、恐怖で心臓の芯まで凍り附いてゐる者の言葉としか思はれぬ。
ヴァーノン 人を侮辱するにも程がある、ダグラス。命に賭けて申上げるが、いや、その命を張つても飽くまで戦つてお目に掛けませう、もし分別を弁へた名誉心がさうせよと命ずるなら、懦弱な恐怖心の勧めに耳を藉す私ではない、そこはあなたとは、いや、今日唯今生きてゐる如何なるスコットランド人にも負けはしない。あす戦場ではつきりさせませう、二人のうちどちらが恐怖心の虜になるか。
ダグラス 宜しい、今夜にも。
ヴァーノン 承知しました。
ホットスパー 今夜のうちに、きつとだぞ。
ヴァーノン まあ、待つて下さい、それは拙い。私にはどうにも理解出来ません、お二人の様な人の上《かみ》に立つ方が、どうして先がお見えにならぬのか、折角の企てを躓かせるその因になる石が何処に在るか、それがお見えにならぬとは。私の一族ヴァーノンの率ゐる騎兵もまだ到着してをりませぬ、ウースター卿の騎兵部隊は漸くけふ着いたばかりで、精も根も尽き果て、強行軍のお蔭で志気はすつかりだれ切つてをります、馬にしても平生の半分のまたその半分も生気がありません。
ホットスパー それは敵の馬も同じ事だ、いづれも旅に疲れ、衰へ切つてゐる。一方、身方の大部分は十分休息を取つてゐる。
ウースター 王の兵力は吾を遥かに上廻つてゐるのだ。頼む、ハリー、皆が集るまで待て。(喇叭が軍使の到来を告げる)
騎士ウォルター・ブラント登場。
ブラント 国王よりの使者として参上しました、以下、私の言葉をそのお積りで謹んでお聴き願へればと存じます。
ホットスパー 良うこそ、サー・ウォルター・ブラント、願はくは、貴下が吾と同じ心の持主であらん事を! 吾の間には、貴下に並ならぬ好意を寄せてゐる者も少くないが、さういふ連中ですら、貴下の大いなる功績と名声の為に大いに惜しんでゐる、貴下が吾等の身方とならず、吾等に敵対してゐるからだ。
ブラント 私としては常にさうありたいものと祈つてをります、あなた方が臣下の身分を忘れ、真の秩序を破り、聖油を塗られて玉座に上つた王に敵対してゐる限り、さうせざるを得ませぬ。が、それはさて措き、先づ私の任務を。王が私をお遣はしになつたのは、あなたの不満は何処にあるのか、その根を知りたいとのお心、如何なる理由により、平和に眠るこの国の胸中を掻き乱し、かかる不敵な憎しみを誘ひ出さうとするのか、王に従順を誓ふ国土に非道の残虐を吹込まうとするのか。仮りに王が、如何なる事にもせよ、あなたの功労をお忘れになつたとすれば、いや、事実はお忘れ処か、はつきり認めておいでですが、もしあなたがさうお思ひなら、その不満の種を明示して貰ひたい、直ぐ様、希望通りに、それも利子を附けて埋合はせしよう、のみならず、あなた御自身、及びその教唆によつて道を過つた人を無条件に許さうと仰せになつておいでです。
ホットスパー 王は真にお優しい、吾も疾くに承知してゐる、いつ約束をし、いつそれを果したら良いか、王はその辺の呼吸を実に良く心得ておいでだ、さう、父と叔父と私とその三人だつた、今王が身に附けておいでの聖なる権威を附けて差上げたのは、それもあの男が漸く二十六人ばかりの供を引連れ、世間には相手にされず、尾羽打枯らした惨めな姿で、誰からも見捨てられた追放人としてこそこそと本国に舞戻つて来た時だ、それを父はわざわざ海岸まで出迎へに行つた、すると、あの男は神に誓つてかう言つたものだ、自分の望みは唯亡父の後を継いでランカスター公を名乗り、その領地を回復し、リチャード王との和解を求めるだけだと、さうして穢れ無き涙を流し赤心を披瀝するのを見て、情にほだされ心を動かした父は、直ちに助力を申出で、事実またその通り約を果した。さうなると、国中の貴族、豪族はノーサンバランド卿があの男の身方と見て取り、大物小物、競つてあの男の前に帽を脱ぎ膝を屈し、その赴く処、町に村に集り来り、橋に迎へ、道に待ち構へ、貢物を捧げて忠誠を誓つた、己れの世嗣を小姓に差出し、仰しく群を成してその後塵を拝するに至つた。あの男はさうして自づと自分の権威に目醒め始め、私の父に対する嘗ての誓ひを踏み外し、ラヴンスパーグの荒涼たる磯辺で意気銷沈してゐた時とは聊か違つて来た、現に見るが良い、厚かましくも種の勅令や厳しい布告を廃して国の手枷足枷を取除くと称し、旧来の陋習を難じ、悪政を憂ひ歎いて見せる、さういふ顔で、見せ掛けだけの正義者面を以て、奴は見事に世人の心をその釣針に引掛けたのだ、そればかりではない――亡つた王がアイルランド親征の際、己が代理としてこの地に残した寵臣達の首を刎《は》ねる暴挙まで敢へてした。
ブラント ええい、私はそんな事を聴きに来たのではない。
ホットスパー それなら要点を言はう。その後間も無く、奴は王位を簒奪した、それに続いて直ぐ王の命を奪つた、更に間髪を入れず全国に重税を課した、その上なほ憎むべきは、親戚のマーチ伯を追払つた、万人にその処を得しむとなれば、彼の男こそ王たるべきモーティマーを、ウェイルズに人質に遣り、身代金を以て呼戻さうともせずそのまま放置してゐる、剰《あまつさ》へ、俺の栄えある武勲を辱しめ、間者を寄越してまで俺を陥れようとした、叔父のウースターを会議の席から追出し、怒りに任せて父まで宮中から却けた、誓ひを次に破り、不正を次に重ね、揚げ句の果には吾を窮地に追込み、かうして自衛の軍を起し、王位の正統を問はしむるに至つたのだ、といふのは、それが、吾の目には、聊か幹から離れ過ぎ、このまま永続すべきものとは思はれぬからな。
ブラント お言葉の通り王にお伝へして宜しいでせうな?
ホットスパー いや、待て、サー・ウォルター。暫く時が欲しい、一先づ王のもとに戻り、人質を寄越して貰ひたい、安全に帰れる為の保証が欲しいのだ、といふのは、明朝早に叔父が吾の提案をそちらへ届ける――けふの処はこれまでにしよう。
ブラント 何とぞ王の情あるお心をお受け下さる様に。
ホットスパー 出来る事ならさうしたい。
ブラント その様に祈ります。(一同退場)
14
〔第四幕 第四場〕
ヨーク、大司教の館の一室
ヨーク大司教と司祭マイクル登場。
大司教 さ、一刻も早う、マイクル、この封書を元帥の処まで翼の如く急ぎ届けてくれる様、これは甥のスクループに、その他はいづれも宛名の通りに。その内容がどの様なものか解れば、急がずにはをられまい。
マイクル 畏りました、大よそは推察致してをります。
大司教 恐らくさうであらう。愈あすだぞ、マイクル、一万の人間の運命が試されるのは、といふのは、あす、シュルーズベリーで、私の知つてゐる事に間違ひの無い限り、王は急ぎ徴集した大軍を率ゐてハリー卿と会戦する、だがな、マイクル、私は不安なのだ、ノーサンバランドが病気の為、最大の兵力が欠け落ちた、それのみか、オーエン・グレンダワーの不参だ、これまた、皆が頼りにしてゐたといふのに、つひに来られぬといふ、預言を信じ込んでの事らしい、私は不安でならぬ、パーシー側は余りに劣勢、このままでは王と一気に雌雄を決する訳には行くまい。
マイクル どうしてその様な事を、決して御心遣ひには及びませぬ、ダグラス殿とモーティマー卿が控へてをります。
大司教 いや、モーティマーはをらぬ。
マイクル しかし、マードック、ヴァーノン、ハリー・パーシー卿あり、それにウースター卿もおいでです、麾下には勇敢な戦士、歴とした豪族が沢山集つてをります。
大司教 さうでもあらう、それにしても王は全国より特に選りすぐつた豪の者を率ゐてゐる――ウェイルズ公、その弟のランカスター公、それにウェストマーランド卿や勇将ブラントがをり、その他にも武名高き同志や天晴れの勇者が数多《あまた》ゐる。
マイクル 御心配御無用と存じます、連中もさぞかし手痛い目に遭はされませう。
大司教 私とてさうは思ふ、が、やはり用心するに越した事は無い。何より最悪の事態を避けねばならぬ、その為だ、マイクル、急いでくれ、万一パーシー卿がやりそこなつたとしたら、王は兵を解かず、そのままここへ寄せて来よう、王は吾等が一味である事を聞き知つてゐるのだ、分別を失はぬ限り、吾としてもそれに十分備へて置かねばなるまい。とにかく急いで貰ひたい。私はなほ他の同志にも書面を認《したた》めねばならぬ、では、頼むぞマイクル。(共に退場)
15
〔第五幕 第一場〕
シュルーズベリー近辺、王の陣営
王、兜に駝鳥の羽毛を靡かせた王子ハリー、ランカスター公ジョン、ウォルター・ブラント、フォールスタフの両騎士。
王 血の様に染つた太陽が樹に蔽はれた彼方の丘の上に顔を覗かせた! 朝だといふのに物皆蒼褪めて見えるのも、その病のせゐか。
王子 南の風が偶喇叭の役を演じ、木の葉の間を渡るその空《うつろ》な唸りが荒れ模様のけふ一日を先触れしてをります。
王 では、それを敗北者を悼む歎きの声と聴くが良い、勝利者にとつては何事も不吉に思へる物は無い筈だからな。(奥にて開戦の喇叭)
ウースターとヴァーノンが登場。
王 どうしたのだ、ウースター卿? 余り喜ばしい事ではないな、お互ひの間柄が今の様な状態で顔を合はせるといふのは。お前は私の信頼を裏切り、寛げる吾が平和の衣を脱ぎ捨てさせ、この老いた五体を厳《いかめ》しい鋼の鎧に締め附けようとする。良くない事だな、ウースター卿、良くない事だぞ、これは。私の言葉に何か言ひ分があるか? 誰もが嫌ふ戦のこの固い結び目を元通り解いてはくれぬか? そして二たび昔の軌道に還り、その中でも一際美しき光を放てる星であつた嘗ての忠実なお前に戻つては貰へぬものか、大地より〓ぎ取られし隕石、禍事《まがごと》の前兆、未だ生れ出ぬ未来の子等に飲ませる禍ひの前知らせにならぬ様、この際改めて考へて見る気は無いか?
ウースター 先づ私の言葉にお耳をお藉し下さいます様、私一人の事なら、何の不足も無く残る半生を静かに暮したいものと思つてをります、お言葉を返す様ですが、何もこの私が今日の不和を求めたのではございませぬ。
王 お前が求めたのではないと! では、どうしてこの様な事になつたのだ?
フォールスタフ 謀反が通り道に落ちてゐた、偶それを見附けて拾つただけの話だ。
王子 黙れ、お喋り烏、黙つてゐるのだ!
ウースター 寧ろ王御自身にございませう、王の御目に私及び吾が一族をお疎みになる影が差しましただけの事、が、決してお忘れにならぬ様、吾等一族はあなたのお身方として最初の、且つ最大の労を尽せし家柄にございます。あなたの為にこそ、私はリチャード王の宮内卿たる職を抛ち、夜を日に継いでお出迎に馳せ附け、その御手に口附け致しました筈、その頃のあなたは勢力、名声いづれにおいても私に及ばぬ御小身のお身の上でございました。他でもない、私と兄と、そして兄の伜と三人があなたをこの国にお迎へ致し、敢へて危険を覚悟の上、当時の障碍を打破りました。あなたは吾等にお誓ひになつた、あのドンカスターでの誓ひ、まさかお忘れにはなりますまい、何も国に野心を懐く者ではない、御父上の死により新しく手に入つた権利、ゴーントの土地、即ちランカスター公爵領の他、何も要求する者ではない、さうおつしやつた、そのお言葉に吾等は御助力を誓つたのでございます……が、その後間も無く、あなたの頭上に幸運の雨が降り掛り、大いなる権勢が潮の如くその肩を包んだ、吾等の助力、先王のお留守、乱世に附き物の不正、それらのお蔭でございませう、しかもあなたは受難者の様な尤もらしいお顔附で押通され、一方外征中の先王は風向き悪しくアイルランド征討の不幸な戦が長引き、このイングランドでは既に御戦死の噂まで流れる始末、かうして事態は次と有利に運び、あなたはその機を逃さず、王の大権を掌中にと、寧ろ周囲の者から急き立てられる様、仕向けられ、吾等に対するドンカスターの誓ひをお忘れになり、吾等の庇護の下に育ちながら、吾等を遇する事、恰も彼の忘恩の雛鳥、郭公の雀に対するのと同じお仕打――謂はば吾等の巣を台無しにしてしまはれた、吾等の運びし餌によつて彼程の権勢を身に附けられた今日、あなたを敬愛する吾等の方で却つてお目通りを避け、うかと近寄つて呑み込まれはせぬかと恐れる様になつたのです、それ故、こちらとしては素早く身を躱《かは》し、一族保全の為、お目の届かぬ処へ飛び去り、この度の挙に及びました次第、とすれば、吾の採上げし反抗の武器は、王御自身が自らを斬らんとして鍛へた鋼に他ならず、それは憎しみに満ちたおあしらひ、脅迫がましきお振舞、そして何より当初のお企ての際、吾等にお誓ひになつた信義に対する裏切によつて作られしものと存じます。
王 今言つた事は既に一箇条書にして公表されてゐる、お前等はそれを広場の十字架に貼出し、教会で読上げ、さうする事によつて謀反の衣に飾附けを行つた、その彩色《いろどり》は如何にも美しく移気の尻軽共や不平不満の徒の目を喜ばせる、さういふ連中は瞳を凝し、手を擦り合はせながら革命の大騒擾を今か今かと待つてゐるのだ。古来、如何なる叛乱もその名分を飾るのにさうした絵具を欠いた例《ためし》は無く、世の中が引繰返る様な大騒ぎになるのを待ち焦れてゐる不平面の乞食共のゐなかつた例は無い。
王子 この戦ひにおいては、両軍互ひに雌雄を決せんとして相見ゆる以上、いづれの側も多大の犠牲者を出す事であらう。甥御にお伝へ願ひたい、ウェイルズ公はヘンリー・パーシーを称《たた》へる事において決して人後に落ちないと。私は心から誓ふ、この度の謀反を別として、あの男に匹敵する勇士を私は知らない、あれ以上に勇猛果敢の若武者が、あれ以上に大胆不敵の勇士が今の世になほ生きてあり、天晴れの殊勲を以てこの末世を飾つてくれようとは思へない。顧みて吾が身の事となると、真に恥しい、自分はけふまで騎士道の修業を怠つて来た、また噂に聞けば、あの男も私をその様に見做してゐるといふ、それにも拘らず、一つの提案を敢へて父上の前で申上げる――寧ろあの男にはその大いなる名声を思ひのまま利用して貰ひませう、そして両軍の血を流す代りに、私はここにあの男との一騎打をお願ひしたいのです。
王 ウェイルズ、敢へてそれにお前の命を賭けよう、勿論、考へれば考へる程、その様な事を許す法は無いのだが……いや、ウースター、お前は間違つてゐる、私は国民を愛してゐるのだ――敵としてお前の甥の側に迷ひ込んだ連中をも愛してゐる――それ故、吾が寛大な申出を受容れてくれさへしたなら、あの男は固より、すべての者が、勿論お前も、さうだ、誰も彼もが二たび私の友となり、私もその友とならう。その通りを甥に伝へ、それについてあれがどう出るか折返し返事を貰ひたい。が、もしあれがどうしても肯ぜぬとあらば、直ぐにも膺懲の軍を繰出す用意は出来てゐる、部下の兵《つはもの》共にその役目を果させるだけだ。解つたら、行け、答へがどうあらうと、こちらは一向意に介せぬ。正当な申出をしてゐるだけだ、分別を以て受けるが良い。(ウースターとヴァーノン退場)
王子 受容れはしますまい、命を賭けても良い。ダグラスとホットスパーの両兵力を合はせれば、世界中を敵にしても大丈夫だと思つてゐるのだ。
王 さ、早く、さうとなれば、隊長達はその部署に附く様に、敵の返答次第で直ちに攻撃に掛らねばならぬからな、神の御加護を、吾等の名分の正しきを認め給へ!(一同、それぞれの部隊に散つて行く、王子が行き掛けるのを、フォールスタフが袖を押へて留める)
フォールスタフ ハル、もし、俺が戦場で引繰返つたら、俺の上に押被《おつかぶ》さつて敵を防いでくれよな、そこだぜ、それが友達甲斐といふものだ。
王子 お前の上に押被さるとなれば、それは巨人にしか果せない友情だよ。ま、早い処、お祈りをして、お暇乞ひでもして置くのだな。
フォールスタフ これから寝るのだと良いのにな、ハル、それなら万事めでたしだ。
王子 何言つてゐやがる、お前は神様に死に時を借りてゐるのだぞ。(急いで退場)
フォールスタフ まだ返す時ではない、期限が来ないうちに返すのは真平御免だ。何だつて慌てて返す必要があるのだい、向うで催促もしないのに? まあ、良いや、いづれ俺の名誉心が黙つてはゐまい。が、待てよ、いよいよ俺がその気になつた時、名誉心の方で俺に怪我でもさせたらどうするのだ? そしたらどうする? 名誉心に脚が治せるかな? 治せるものか――腕の方なら? 同じ事だ――傷の痛みはどうだ? 治せはしない。名誉心の奴に医者の心得はあるかな? あるものか。名誉とは何の事だ? 言葉だ。その名誉といふ言葉の中身は何だい? その名誉とは何の事だ? 空気だ。結構な差引勘定だ! 誰だい、それを持つてゐる奴は? 水曜日に死んだあの男だ。奴、それに触つて見たのかな? そんな事あるものか。その音が聞えたのかな? 聞えるものか。では、手応へ無しだつたのかな? 当り前よ、死人に手応へがある訳が無いやね。だが、生きてゐる者の中にだつて名誉なんていふものは生きてゐないんぢやないかな? さうよ、生きてゐるものか。さうだらうが? 世間の悪口といふ奴がそれを生かしては置かない。それなら、俺はそんなものは要らない。名誉とは単なる墓石の紋章に過ぎない――以上、吾輩の教理問答は終り。(退場)
16
〔第五幕 第二場〕
叛乱軍陣地近辺の平原
ウースターとヴァーノンが王の処から戻つて来る。
ウースター いや、それは拙い、甥に知らせてはならぬ、サー・リチャード、王の寛大な申出はこのまま握り潰してしまふのだ。
ヴァーノン お知らせするに若くはございませぬ。
ウースター さうしたら吾が方は万事休すだ。考へられぬ、そんな事は絶対にあり得ぬ、王が言葉通り約を守り、吾等を厚遇する筈は無い。内心ではまだ吾を疑つてゐる、そのうち折を窺ひ、他の詰らぬ越度に口実を求め、吾等を糾問するに相違無い。猜疑が顔中を目にして生涯吾を見張り続ける、裏切者は二たび信用を取戻した処で精狐の扱ひを受けるのが落ちだ、如何に飼ひ馴され、大事にされ、閉ぢ籠められてゐようとも、その血に染み込んだ野性を失ひはせぬ、さう思はれよう。見た処、詰らなさうにしてゐようと面白をかしくしてゐようと、解釈はその顔色を過つて受取る、牛小屋の牝牛よろしく食ひ物はたつぷり宛《あてが》はれようが、さうして大事にされればされる程、却つて死に近いといふ訳だ。成る程、甥の裏切は忘れられもしよう、若気の過ち、血気の勇、それで事が済む、その上、誰しも認めざるを得ぬ輝しい通り名がある――焔に焼かれた向う見ずのホットスパーがそれだ。が、あの男の罪を生涯引受けねばならぬのがこの俺だ、そしてあれの父親だ。吾があれを唆した、あれの不正は吾の感化によるもので、万事、その源たる吾が償はねばならぬ事にならう……さういふ訳だ、解つたな、ハリーには何も知らせずに置いてくれ、如何なる事があらうと王の申出について知らせてはならぬ。
ヴァーノン お心のままにお伝へ下さい、私は唯その通りだと申上げるだけに致します。それ、そこに甥御がお見えになつた。
ホットスパーとダグラスが将兵を率ゐて登場。
ホットスパー 叔父上のお帰りだ。ウェストマーランド卿を還してやれ。叔父上、如何でした?
ウースター 王は直ちに開戦しようと言つてゐる。
ダグラス ウェストマーランド卿に応戦の旨伝へさせろ。
ホットスパー ダグラス、済まぬが、あなたの口からその様にお伝へ下さい。
ダグラス 承知した、さうしよう、喜んで。(退場)
ウースター 王には慈悲の影すら見られぬ。
ホットスパー まさか詫び言をおつしやつたのでは? 幾ら何でもそれだけは!
ウースター 俺は穏かに述べただけだ、吾の不平の拠つて来たる処を、王が誓ひを破つた事を――それをあの男はかう言ひ繕ふ、断じて偽誓の覚えは無いと、飽くまでさう言張り、更に偽誓を重ねるだけだ。吾を謀反人、裏切者呼ばはりし、傲れる大軍の鞭を以てこの忌むべき名を懲しめようとしてゐる。
ダグラスが戻つて来る。
ダグラス 直ちに武装を、皆、部署に就いてくれ! 今、堂と挑戦の言葉をヘンリー王の鼻先に叩き附けて来た処だ、人質のウェストマーランドがそれを伝へてくれよう、さうすれば直ぐにも攻撃して来るに決つてゐる。
ウースター 先刻、ウェイルズが王の前に進み出て、大見得を切つてゐたぞ、ホットスパー、是非お前と一騎打がしたいとな。
ホットスパー おお、この一戦を吾二人の勝負に任せて貰ひたい、けふの処は誰も息を切らせるまで暴れ廻るな、俺とモンマスと二人で決着を附ける! 聴かせて下さい、早く、奴が挑戦を申出でた時、どんな様子でした? 思上つてゐる様に見えましたか?
ヴァーノン いえ、決して。今まで多くの勝負を見て参りましたが、あれ程謙遜な挑戦の言葉は聴いた事がありません、兄弟同士が行ふ練習の為の試合ならまた別ですが。とにかく、王子は言葉を尽してあなたの雄しさを称へ、王子らしき高潔な言葉を以てあなたの美徳を飾り立て、数の武勲を算へ上げるに至つては正に年代記さながら、それでも到底自分の言葉の及ぶ処ではない、実際のあなたに較べれば寧ろ讃辞にはならぬ讃辞を並べ立てるだけの事にならうとまで言つておいででした、それに如何にも王子に似つかはしく、顔を紅らめて、怠惰に過した青春を自ら責め悔い、恰も自問自答しつつ自らに教へ且つ自ら学ぶといふ御様子。それだけで、後は何もおつしやいませんでした。しかし、今の世の有様を眺めてをりますと、もし王子がけふの災厄を逃れ生き伸びられたら、イングランドの将来は嘗て無いほど希望に溢れたものとなりませう、王子の放蕩に対して世間が懐いてゐた誤解が大きかつただけに猶の事。
ホットスパー ほう、どうやらお前は奴の愚行にすつかり惚れ込んでしまつたらしい。俺は今まで聞いた事も無い、王子の癖にあれほど止め度の無い放埒振りとは。が、奴は奴の好きな様にさせてやるが良い、それも精今夜までの話だ、その前に俺は必ず奴に巡り遭ひ、この武人の腕に抱き締め、その挨拶を以て震へ上らせてやる。武装しろ、全員武装だ、早くしろ――吾が同志、将兵、身方の面に告げる、己れの為すべき事は銘考へてくれ、元弁舌の才に恵まれぬ俺だ、言葉で皆の血を湧き立たせようとしても高が知れてゐよう。
使者登場。
使者 唯今、書面が届きましてございます。
ホットスパー 今、そんなものを読んでゐる暇は無い。さあ、皆、人間の一生は短いのだ! その短い時も詰らなく過せば長過ぎる、命が時計の針の先に乗つて動き、しかも一時間でぴたりと止る、それだけの束の間のものとしても。もし生きたいなら、王であらうと何であらうと踏み倒して生きるのだ、死ぬなら、勇敢な死を、王の一族を道連れに! さあ、吾等の良心に照らして、この度の挙兵に疚しき節は聊かも無い、かうして武器を取る目的そのものが正当だからだ。
別の使者が急ぎ登場。
使者 直ぐにもお支度を、王の一隊が間近に攻め寄せて参りました。
ホットスパー 礼が言ひたい位だ、話の邪魔をしてくれたこの男に、実際、俺は話が苦手なのだ――唯一言、銘死力を尽して戦へと言へ。後は、見ろ、この通り俺は剣の鞘を払ふ、その刃に血を塗るのだ、けふの天下分け目の一戦で出遭へる限りの最も高貴な血を。さあ、吾が一族の合言葉を、「希望!」パーシー! さ、攻撃に掛れ。戦の合図の喇叭を高と鳴り響かせろ、その音を切掛けに、互ひにしつかり胸を抱合ふのだ、兵力には天地の差がある、ここにゐる者のうち誰かは二度と二たびさういふ挨拶も出来なくなるのだからな。(喇叭が鳴る。一同、互ひに抱き合ひ、急いで退場)
17
〔第五幕 第三場〕
戦場
王が一軍を率ゐて登場、そのまま行軍して去る。警鐘。騎士ブラントが王に変装してダグラスと戦ひながら登場、両人、一息いれる。
ブラント 貴様は何者だ、飽くまで俺の行手を遮らうとするのか? 如何なる名誉を求めて執拗に俺の首を狙ふのだ?
ダグラス 聴かせてやらう、俺はダグラスだ、確かに俺は執拗に貴様を狙つて来た、貴様が王だと言ふ者がゐるからだ。
ブラント そいつ等の言ふ通りだ。
ダグラス スタフォード卿はさつき死んだぞ、随分高く附いたものだ、お前の身代りとしてその似姿を譲つて貰つたばかりにな、ハリー王、この剣が卿の命を断つたのだ。序でに貴様の命も貰はう、それとも大人しく俺の虜になるか。
ブラント あいにく俺は大人しく生れ附いてはゐない、附け上るな、スコットランド、目に物を見せてくれよう、王がスタフォード卿の仇を討つてやる。(両人戦ひ、ダグラス、遂にブラントを斃す)
ホットスパー登場。
ホットスパー おお、ダグラス、もしホームドンの丘でその武者振りを見せられたら、俺は唯一人のスコットランド人をも虜に出来なかつたらう。
ダグラス 万事、これで片附いた、身方の勝ちだぞ! ここに死んでゐるのは王だ。
ホットスパー 何処に?
ダグラス ここだ。
ホットスパー これか、ダグラス? 違ふぞ、俺はこの顔を良く知つてゐる。勇敢な騎士だつた、その名はブラント、王そつくりに変装してゐたのだ。
ダグラス 阿呆の名が永久に貴様の魂に附いて廻るぞ、それが何処へ行かうと! 高が仮の称号を随分高く買つたものだ。なぜ王だなどと言つたのか?
ホットスパー 王は自分の上衣を羽織らせた武将を何人も戦場に出してゐるのだ。
ダグラス 良し、それならこの剣に賭けて、それを羽織つた奴を皆殺しにしてくれる、王の上衣を片端からずたずたに斬り刻んでやるのだ、本物の王に出遭ふまでは。
ホットスパー 向うへ行かう! 身方のけふの奮戦振りはなかなか大したものだぞ。(自分達の部隊の方へ走り去る)
警鐘。フォールスタフが一人で登場。
フォールスタフ ロンドンの飲屋では女将の剣突《けんつく》など物ともせず、専ら飲み逃げ食ひ逃げで押通して来たが、ここの剣突は本物だ、それもどたまばかり狙つて斬り附けて来やがる。待つた! お前さんは誰だい? サー・ウォルター・ブラント――これが名誉といふものさ! 断じて見えには非ずだ! 俺は体中が溶けた鉛の様に熱くなつて来た、おまけにそのせゐか重くて仕様が無い、神よ、この身を守り給へ、どうぞ鉛が飛込みません様に! 手前の腹の重さだけで沢山だ。俺はがらくた共を引張つて行つて、めつた打ちの殴合ひの中に追込んでやつた、お蔭で生き残つたのが百五十人中三人ゐるかゐないか、それもあの姿では町外れで一生乞食でもして暮すしか能はあるまい……おや、誰だらう、あれは?
王子が近附いて来る。
王子 おい、こんな処で油を売つてゐたのか? その剣を貸してくれ、名門の武将達が片端から冷たくなつて横はり、それを敵兵の傲り昂れる蹄が蹂み躙つて行く、その仇がまだ返せぬのだ。頼む、その剣を貸してくれ。
フォールスタフ ああ、ハル、頼む、少し息を吐《つ》かせてくれ。あの残酷無慈悲の法王グレゴリーだつて、けふの俺ほど物凄い暴れ方はしなかつたらうな。パーシーの奴を片附けてしまつたのだ、もう怖いもの無しだ。
王子 さうだ、奴には怖いもの無しさ、大張切りで今にもお前を殺しにやつて来る……だから、その剣を貸せといふのだ。
フォールスタフ とんでもない事だ、ハル、パーシーが生きてゐるなら、この剣は渡せない、その代り良かつたら短銃をやらう。
王子 寄越せ。へえ、容物に蔵つてあるのか?
フォールスタフ さうよ、ハル、熱くなつてゐるのだ、熱く。これさへあれば、町中、杯盤狼藉の大騒ぎを演じさせられるといふ代物さ。(王子がそれを引張り出す、中身は酒瓶である)
王子 こいつ、駄洒落や悪ふざけに耽つてゐる時か? (瓶を投げ附け退場)
フォールスタフ 良し、ハリー・パーシーの奴、まだ生きてゐるなら、俺が張り倒してやらあ……(傍白)奴の方で俺の目の前に現れたら、それで良しと。が、さうでもないのに、わざわざ手前の方から奴の目の前に顔を出す様な俺様なら、煮てなり焼いてなり御存分に召上つて頂かう。俺はサー・ウォルターの様な物凄い形相の歯を食ひ縛つた名誉といふやつはどうも虫が好かない。俺は何より命が惜しい、何とか助かれば、それで良しと、さうは問屋が卸《おろ》してくれず、欲しがりもしないのに名誉の方で押掛けておいでになつたら、それで万事お終ひといふものだ。(退場)
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〔第五幕 第四場〕
戦場
警鐘、軍隊の行進。王、及び頬に傷を負つた王子、ランカスター公、ウェストマーランド伯が登場。
王 頼む、ハリー、退《ひ》いてくれ、出血がひどすぎる。ランカスター、兄と一緒に。
ランカスター 私は厭です、父上、手傷を負ふまでは退きませぬ。
王子 父上、お願ひです、どうぞ進軍を続けられます様、王が退《しりぞ》けば身方は慌てふためきませう。
王 俺は進軍する。ウェストマーランド卿、あれを天幕まで連れ帰つてくれ。
ウェストマーランド さ、ウェイルズ公、天幕まで私が御案内致します。
王子 案内? 何も他人《ひ と》の助けは要らぬ、愚かな事を言ふな、擦傷《かすりきず》一つの為にウェイルズがこの場を後に引退れるものか、多くの貴族達が血塗れに横はり、人馬に蹂み躙られ、勝ち誇つた叛乱軍が殺戮を恣《ほしい》ままにしてゐる戦場を!
ランカスター 休息は十分に取つた。さあ、ウェストマーランド、俺達の勤めはこの道あるのみだ、頼む、一緒に来い。(ランカスターとウェストマーランド、敵軍の方へ駆け去る)
王子 おお、俺はお前を見損つてゐたぞ、ランカスター、それほど勇気のある人物とは思つてゐなかつた。今までは唯弟としてかはいがつてゐただけだが、ジョン、これからは俺の魂として仰ぎ見るぞ。
王 あれがパーシー卿に剣を構へ、一歩も寄せ附けずにゐる処を見たが、その勇敢な態度はまだ大人になり切らぬ戦士のそれとは思へぬ程だつた。
王子 少年の弟が吾等全軍の士気を鼓舞してくれる! (後に続く)
ダグラスが他の方角より登場。
ダグラス ここにも王が! ハイドラの頭の様に次から次へと現れる。俺はダグラスだ、誰彼の別は無い、王の紋章を附けてゐる者にとつては命取りの相手だ。貴様は何者だ、出立《いでたち》は王そのままだが?
王 紛れも無い王そのものだ、ダグラス、全く気の毒な目に遭はせたな、今までお前は多くの影武者に出遭ひながら、真の王に遭へなかつた。俺は今伜二人に命じ草の根を分けてもパーシーとお前を探し出す様にと送り出してやつた処だが、運好くお前の方から俺の手の中に飛込んで来た以上、ここで勝負を附けよう、さあ、構へろ。
ダグラス 貴様も替玉かも知れぬ、だが、その風采、如何にも王らしい、いづれにせよ、貴様の命は俺の物だ、誰であらうと構はぬ、手並を見せてやらう、それ。(二人、相戦ふ、王が危険に陥る)
そこへ王子が戻つて来る。
王子 首を挙げろ、スコットランドのごろつきめ、それが厭なら、二度と首が挙らぬ様にしてやるぞ! 勇敢なシャーリー、スタフォード、ブラントの霊がこの剣に宿つてゐるのだ。見ろ、ウェイルズ公だぞ、貴様の挑戦者は。口に出した事は必ず果す男だ……(二人、相戦ふ、ダグラス走り逃げる)お気を確かに、父上、大丈夫ですか? サー・ニコラス・ゴージーが援軍を求めて参りました、同様にクリフトンからも――私は直ちにクリフトンの方へ。
王 待て、少し休んで行け。お前は一度失つた名声を取戻した、父親の事を心から案じてゐる何よりの証しだ、俺の危難を見て、怖《お》めず臆せず見事に助けてくれたのは。
王子 ああ、何といふ事を! 中傷にも程がある、私が父上の死を待つてゐるなどと陰口叩く奴がゐたとすれば。もしさうなら、私は見て見ぬ振りをした筈だ、父上に伸《の》し掛つてゐる傲り昂つたダグラスの手を、さうすれば、その手が世界中のあらゆる毒薬よりも早くお命を奪ひ、父親殺しの大罪を犯す手間を省いてくれたでせう。
王 クリフトンの処へ急いでくれ、俺はサー・ゴージーを助けに行く。(退場)
そこへホットスパーが出て来る。
ホットスパー 俺の間違ひでなければ、貴様はハリー・モンマスだな。
王子 その口振り、どうやら俺が名を隠して逃げるとでも思つてゐるらしい。
ホットスパー 俺の名はハリー・パーシーだ。
王子 さうか、それなら俺は漸く出遭へた訳だ、謀反人中最も勇敢な名前の持主に。俺はウェイルズ公だ、夢にも考へるな、パーシー、今後も俺と並んで栄誉を分ち合へるなどと、二つの星が一つ軌道を共にする事は出来ない、それなら、一つイングランドが二重の支配に堪へられる筈は無い、ハリー・パーシーとウェイルズとは並び立たぬのだ。
ホットスパー それなら、貴様の言ふ通りにならう、今、その時が来てゐる、俺達二人のうちどちらかが死ぬべき時が、願はくは、今の貴様が俺の敵としてふさはしい武勲の持主である様に!
王子 貴様と別れる時には、俺の武勲は今より遥かに大いなるものになつてゐよう、貴様の兜の上に眠つてゐる名誉の蕾をそのまま切落し、俺の頭に戴く花環を造るのだ。
ホットスパー そんな空威張にいつまで附合つてゐられるものか。(二人戦ふ)
そこへフォールスタフが近附いて来る。
フォールスタフ 良いぞ、良いぞ、ハル! 頑張れ、ハル! こいつは子供の飯事《ままごと》ではないぞ、解つたか、本当だぞ。
そこヘダグラスが戻つて来て、フォールスタフに打掛る、フォールスタフは倒れて死んだ振りをする、ダグラスはそのまま通り過ぎる。ホットスパー、傷を負ひ倒れる。
ホットスパー おお、ハリー、貴様は俺の若い命を奪つたぞ! いや、脆い命などどうならうと構ふものか、それより我慢出来ぬのは、誇りに満ちた数の栄誉を貴様の手に〓ぎ取られてしまふ事だ。それが俺の心を傷附ける、貴様の剣が俺の肉に与へた傷よりも深く。が、心と言つた処で所詮は命の奴隷だ、そしてその生涯も時の慰み物、その時も全世界を統べるとはいふものの、やがては止らねばならぬのだ。ああ、一言、預言をして置きたいのだが、駄目だ、土の様に冷たい死神の手が俺の舌の上に、畜生、パーシー、貴様も塵だ、餌だ――(息絶える)
王子 蛆虫のな、パーシー。これでお別れだ、立派な男だつたが! いかなる大望も織りが荒ければ、直ぐ縮んでしまふ! この体に魂が籠つてゐた間はそれを容れるのに一王国も小さ過ぎた、それが今はこの取るに足らぬ地面が唯の二脚分、それで十分間に合ふ。が、死んだお前が横はつてゐるこの大地にお前程の生きた勇士は一人もゐない。もしお前が今なほ人の思遣りを感じる事が出来るなら、俺もかうまで真情を露《あらは》に見せはしなかつたらうが――しかし、騎士の愛情の印に、せめてその傷附いた面を隠させてくれ!(兜の羽毛を以てホットスパーの目を蔽ふ)今度は死んだお前に代つて、俺が俺に礼を言はう、能くぞさうして優しい別れの儀式を営んでくれたと。さらばだ、お前に対する讃辞は天まで持つて行くが良い! が、恥辱は体と共に墓穴に眠らせ、墓碑銘などに残してはならぬ!(ふと倒れてゐるフォールスタフに目が行く)や! 昔馴染が! こんな山の様な肉でも小つぽけな命の蔵ひ場所が無かつたのか? かはいさうな奴だ、ジャック、静かに眠れ! もつと立派な人間に死なれても、これほど寂しくは感じないだらう、が、俺がもしあの空ろな放蕩に本気でのめり込んでゐたなら、お前に死なれたこの悲しみはますます重いものになつたであらう、死の矢が射殺したけふの獲物のうち、お前より立派な大物は幾らもあらうが、この血みどろ合戦随一の大物は嵩《かさ》ではやはりお前に止めを刺す。直ぐ臓腑を抜かせる様に手配しよう、それまでは勇敢なるパーシーの側に寝てゐるが良い。(退場)
フォールスタフ (起上つて)臓腑を抜かせるだと! けふ中にさうする気なら、早い処、漬物にして、あすにも召上つて頂かうぜ。糞、あの時死んだ振りして置いて良かつたよ、さもなければ、俺はあのスコットランドの暴れん坊に肋《あばら》を折られ、この世から疾くに片附けられてしまつたらう。死んだ振り? いや、それは嘘だ、俺のは振りでも見せ掛けでもない。本当に死んでしまふ方が余程見せ掛けだ、さうだらうが、死人こそ見せ掛けだけの人間で、肝腎の命といふものが無い、処が、死んだと見せ掛けて、それで生き抜けたとなれば、これはもう見せ掛け処か、完全無欠、本物の命そのものだ。勇気の心髄は分別にありだ、その心髄を用ゐて俺は自分の命を守つたのさ。糞、この爆弾男が怖くて仕様が無い、幾らくたばつてゐても、怖い物は怖いや。さうよ、奴だつて死んだ振りしてゐて、急にのこのこ立上つたらどうする? 正直の話、同じ死んだ振りでも奴の方が俺より一枚上手《うはて》に違ひ無いや。こいつは一つ怖くない様に仕上げをして置く事だ、それに限る、で、こいつを片附けたのは俺だと言張るのだ。こいつだつて俺と同じにまたのこのこ起上らないと誰が言へる? 文句を附ける資格があるのはお目だけ、それが、誰も俺を見てゐないと来た、こいつは一つ、やつてしまへ、(死体を突刺す)腿のその新しい傷を失さない様にして、俺に附いて来な。(ホットスパーを背負ふ)
王子、ランカスター公が戻つて来る。
王子 いや、ジョン、お前の武者振りは大したものだつたぞ、その初陣の剣に血の味をたつぷり教へてやつたな。
ランカスター しつ、静かに! 誰だらう、あそこにゐるのは? さつきの話では、あの太つちよは確か死んだと?
王子 さう言つた、事実、死んでゐるのを見たのだ、息も無く血塗れになつて倒れてゐる処を。お前は生きてゐたのか? それともこの目をたぶらかす幻か? さあ、物を言へ。目だけでは信用出来ぬ、耳の証人が欲しい。お前は見える通りのものとは違ふのか?
フォールスタフ 違ふ、確かに違ふよ、脚が四本もあるのだから断じてお化けではない、この通り腹も身もある正真正銘のジャック・フォールスタフだ、それ、パーシーだよ!(死体を投げ出す)お前の親父さんが何か褒美をくれれば、それで良し、もしくれなければ、またパーシーの様な奴が出て来ても俺は知らない、その時は一つ自分で殺して見る事だな……先づ伯爵か公爵といふ処だらう、ま、見てゐな。
王子 何だと、パーシーは俺がこの手で殺したのだ、それにお前が死んだのも見届けてゐる。
フォールスタフ 本当か? ああ、神様、全くひどい世の中になつてしまひましたよ、皆嘘ばかり吐《つ》いてゐる! 成る程、お前の言ふ通り、俺は打倒れて、息も絶え絶えでゐた、が、こいつもさうだつた、処が、そのうち両方共どちらからともなく起上り、長時間に亙つてこのシュルーズベリーの平原を追ひつ追はれつ戦ひ続けた。それを信じてくれれば、それで良し、もし信じてくれなければ、勲章係に不公平の罰を食はせてやる。俺は殺されても嘘は言はない、この腿の傷は俺がやつたのだ。もし生きてゐる奴で、さうではないなどと言ふ奴がゐやがつたら、この剣を一刺お見舞申さずには置かない。
ランカスター これは全くをかしな話だ、今まで聴いた事も無い。
王子 こいつは全くをかしな奴なのだ、ジョン。さ、その荷物を背負つて颯爽と附いて来い。(フォールスタフに傍白)俺の腹はかうだ、お前の嘘がどうやらそのまま通りさうと見たら、俺はその名誉に鍍金《めつき》を施してやる、精体裁の良い言葉を並べてな。(引揚の喇叭が聞えて来る)引揚の喇叭が聞える、勝負はこちらのものだ。さ、弟、あそこの一番高い処へ登つて見よう、身方の生死が一目に見渡せる。(二人退場)
フォールスタフ 俺もお供をするか、おつしやる通り、褒美にありつけるだらう。俺が褒美を貰つたら、神様、そのくれた奴にどうぞ褒美をやつて下さいまし! 俺の名前が大きく脹《ふく》れ上つたら、腹の方は小さく萎むだらうな、といふのは、先づ下剤を掛け、酒を止め、貴族らしく上品に暮す事にするからな。(死体を引きずつて二人の跡を追ふ)
19
〔第五幕 第五場〕
戦場
喇叭の音、王、王子、ランカスター公、ウェストマーランド伯登場、捕虜のウースター、ヴァーノンがその後に随ふ。
王 この様に叛逆は必ず懲罰に遭ふ。拗《ねぢ》け者のウースター! 先に申渡したではないか、一同に恩赦と友誼の言葉を伝へる様にと? お前はこちらの申出を曲げて伝へたのであらう? 身内として信頼されながら、それを濫りに悪用したのであらう? けふの戦ひで吾が方は三人の騎士を失つた、それに貴族が一人、その他多数の兵《つはもの》共を、が、彼等とて今なほ生きてゐたかも知れぬ、もしお前が真のクリスト教徒らしく振舞ひ、両軍の間に正しく意思が通じ合ふ様に努めたならばな。
ウースター 私が行ひました事は、ひたすら己れの安全を衛らんが為の処置、この上は諦めて己が運命をこの胸に抱き取りませう、それが吾が身に襲ひ掛るのを避ける訳には参りますまい。
王 ウースターに死を、ヴァーノンも共に、他の罪人の処刑は良く考へた上で行ふ。(ウースターとヴァーノン、共に連れ去られる)戦場の模様は?
王子 彼のスコットランド人、ダグラス卿は、勝運遂に己れに幸《さいはひ》せず、パーシー斃れ、己が部下達まで恐れて浮足立つて来たのを見るや、他の者共と共に敗走し、丘の上より転落、身に負うた手傷も深く、遂に身方に捕へられました。そのまま私の天幕に連れて来てございます、何とぞ処分は私にお任せを。
王 好きにするが良い。
王子 では、ランカスター、この名誉ある恩赦はお前の土産に。ダグラスの処へ行き、その縛めを解き、身代金無しで自由の身にしてやつてくれ。吾が軍に刃向つて示したあの男のけふの奮戦振りには大いに学ぶべきものがある、あれ程の誇り高き行為は飽くまで寛かな心を以て遇せねばならぬ、たとへそれが敵の胸に育まれたものでも。
ランカスター 兄上の御好意には心からお礼を申上げます、そのお心を早速あの男に伝へませう。
王 では、次は後始末だが、兵力を二つに分ける様に。ジョン、お前とウェストマーランドとはヨークに兵を進めてくれ、出来るだけ迅速に行動し、ノーサンバランドと大司教スクループを邀《むか》へ撃つのだ、聞く処によると、いづれも挙兵の準備に奔走してゐるといふ、私とお前とは、ハリー、ウェイルズへ向ふ、グレンダワーとマーチ伯を攻撃するのだ。国内の叛軍は忽ちその野望を打砕かれてしまはう、もう一度けふの様な敗北を喫すれば、一堪《たま》りもあるまい、けふの処は運良く済んだ、全き勝利の日まで決して手を引いてはならぬ。(一同退場)
解   題
改めて断るまでもなく、原作『ヘンリー四世』は第一部と第二部とから成る二部作であるが、ここに訳出したものはその第一部のみである。その製作年代は同じ歴史劇『ジョン王』『リチャード二世』を書いた後で『ヴェニスの商人』を書き上げ、引続き直ぐに手を着けたもので、およそ一五九七年頃のものと推定される。この作品は上演当初より大いに受け、一五九八年には早くも二種の四折本が出版された。尤もそのうちの一つは今日一頁しか残存せず、これを零・四折本と称し、完全な形で残つてゐるものを第一・四折本と呼んでゐる。両者は同じ印刷所から刊行され、第一が零に拠つたものである事は明かであり、その後、更にこの第一に随つて五種の四折本が刊行されてゐる。勿論、第一のそれが最も信憑性があるばかりでなく、これは作者生前に出た他の作品の四折本と較べても最も信頼出来る善本と見做されてゐる。
随つて定本については大して困難な問題は無い。この第一・四折本が善本であると言つても、ト書や、せりふの冠頭の人名や、行分けに数多くのむらがあり、作者の原稿もさぞかしさうであつたらうと思はれるので、この第一・四折本の基となつた零・四折本の原稿はシェイクスピア自身の原稿であつたと推定される。一六二三年の第一・二折本は、第五・四折本(一六一三年)を使つた。一般に生前出版された四折本が善本と見られる作品においては、いつもそれに拠つた訳だが、それ以外の場合には、前に出てゐた四折本を先づ劇場の後見用台本と照し合はせるのが通例となつてゐた。さうして出来上つたものはかなり第一・四折本と異つたものになる。そこで、『ヘンリー四世』第一部のテキスト上の問題で主なる点は、その第一・二折本がこの通例に随つて後見用台本の影響を被つてゐるかどうかといふ事だ。その影響殆ど無しと見做す学者は次の様に主張する、即ち普通、四折本を後見用台本と照し合はせた場合の最も明かな証拠は、ト書とせりふの頭の人名とが四折本と二折本とでは著しく違つてゐる事であるが、『ヘンリー四世』第一部の二折本は四折本と事実上同じであるといふ。詰り、この戯曲の二折本は後見用台本の影響を全く受けてゐないと言ふのである。とすれば、この二折本を一応信頼し、更に編者として考慮に入れるべきものは第一・四折本のみといふ事になる。
処が、ウィルソンは、『ヘンリー四世』第一部の二折本と地球座の後見用台本との間には確たる繋りがあると主張する。四折本でpresentとあつた箇処が第一・二折本ではpresidentとなつてゐるが、文脈にぴつたり適合し、しかもシェイクスピアの響きを伝へてゐるのは後者であり、前者では、植字工の不手際から、-id-が過つて脱落したのだと言ふ。
随つて、この戯曲の編者は何よりも先づ最も権威のある第一・四折本を採り、一方、二折本も軽視せず、その変つてゐる点を一挙に却けてしまはずに、それらも併せて慎重に考慮すべきである。さいはひ、第一・四折本は善本であり、変つてゐる点は極めて少いので、この作業はさほど難事ではない。
次にこの作品の製作年次であるが、作品登録は一五九八年二月二十五日の記録が残つてゐる。それに用ゐた原稿は零・四折本に用ゐたのと同じシェイクスピア自筆のものと見做して良い。そして登録の作品題名も今日残存してゐる第一・四折本の扉の題名も次の様に大体同じである。
〔登録〕 ヘンリー四世物語
附・北国のヘンリー・ホットスパーとのシュルーズベリー決戦
附・騎士ジョン・フォールスタフの滑稽譚
〔第一の扉〕 ヘンリー四世物語
附・王及び北国のヘンリー・ホットスパーと綽名されしヘンリー・パーシー、両者のシュルーズベリー決戦
附・騎士ジョン・フォールスタフの滑稽譚
問題は右の「ジョン・フォールスタフ」といふ名前にある。といふのは、一五九八年二月二十五日と同二十八日との間にエセックス伯が騎士ロバート・セシルに書き送つた手紙が残つてをり、それには両者共通の友人である騎士アレックス・ラトクリフに「君の妹のお婿さんは騎士フォールスタフだ」と伝へてくれと書いてあるからだ。エセックス伯がどうしてそんな冗談を言つたかといふと、ラトクリフの妹のマーガレットは騎士ヘンリー・ブルック(コブハム卿)と結婚してゐたのだが、その先祖のうちにオールドカースルといふ人物があり、最初シェイクスピアは彼の創造した愉快なる「太つちよの騎士」をさう命名してゐた。勿論、故意にコブハム家を揶揄しようとしたのではない。この作品の素材の一つに作者不明の一五九四年に登録された『ヘンリー五世の名高き勝利』といふのがあり、それをそのまま採用したに過ぎない。いづれにせよ、その事がコブハム卿を怒らせた。コブハム卿は侍従長であり、シェイクスピアの属してゐた劇団の庇護者であつたから、シェイクスピアは急遽その名をオールドカースルからフォールスタフに改めた。一五九七年末から九八年初めに掛けての事である。
その事は既にこの作品が一五九七年には上演されてゐた事を意味する。とすれば、その前の時期を扱つた『リチャード二世』が書かれた一五九五年以後、即ち一五九六年から一五九七年に掛けて、第一部、第二部と続けて書き上げられ、上演されたものと推測される。第二部のエピローグの後半に、オールドカースルはフォールスタフとは無関係であるといふ弁明が出て来るが、この事はオールドカースルの名が既に広く市民観客の間に拡つてゐた何よりの証拠であり、その点からもこの作品が一五九六・七年に執筆上演されたものと推測し得よう。
なほ、フォールスタフといふ名は史上実在したファストルフといふ人物に因んだもので、この人物はヘンリー五世麾下の指揮官で、アジンコート戦で武勲を立てたが、パテイの戦ひで作戦を誤り、部下が総退却した。十六世紀年代記にはファストルフは臆病の廉によりガーター勲章を剥奪されたと書かれてゐるが、実際には後に赦免されてゐる。
先づ『ヘンリー四世』第一部の歴史的背景について簡単に記して置く。一三九八年リチャード二世は、エドワード二世の孫ボリングブルックを国外に追放した。ボリングブルックは、父の所領が没収されたのを知つて、直ちに英国に上陸し、従兄のリチャード二世を制圧して、その退位を強ひ、自ら王座についてヘンリー四世を名乗り、リチャード二世を暗殺した。以上が『リチャード二世』で描かれてゐる経緯であり、『ヘンリー四世』第一部はその後を受け継いだものである。王位を奪つたヘンリー四世は、安楽な日を送る事が出来ず、やがて自分を王にしてくれた貴族たちの謀反と王子の不品行に悩まされる事になる。ここに歴史の因果応報、栄枯盛衰が如実に現れてをり、シェイクスピアはそこにこの作品の主題を見出してゐる。第一部において既に暗示されてゐる如く、王子は第二部において見事に立ち直り、無頼漢と完全に手を切つてヘンリー五世として王位を継ぐ。のみならず、次作『ヘンリー五世』においては自由闊達な名君、英雄としてフランス遠征を企て、その王位継承権を手に入れ、ヴァロア家のキャサリンと結婚する。が、その子のヘンリー六世の時代からヨーク、ランカスター、両家の間に血腥い薔薇戦争が繰り拡げられ、リチャード三世の死によりリッチモンド(ヘンリー七世)のテューダー王朝成立と共に漸く内乱の幕は閉ぢられるが、その間の出来事は初期の作品『ヘンリー六世』第一部・第二部・第三部、及び『リチャード三世』において描き出されてゐる。要するにシェイクスピアは『リチャード二世』『ヘンリー四世』第一部・第二部、『ヘンリー五世』『ヘンリー六世』第一部・第二部・第三部、『リチャード三世』を八部作として近代国家英国誕生前の歴史の明暗を描かうとしたと言へよう。各作品に登場する人物の関係は別掲系図(電子文庫版では割愛しました。――編集部)を参照して頂きたい。
次にシェイクスピアがこの作品の執筆に際して参考としたもの、或は影響を受けたと考へられるものは大体次の書物である。
〓ホリンシェッド『年代記』
〓サミュエル・ダニエル『ランカスター家とヨーク家の内乱』
〓ハル王子乱行に関する様の物語
〓ジョン・ストウ『英国年代記』『英国年譜』
『ヘンリー五世の名高き勝利』
シェイクスピアは『ヘンリー四世』第一部・第二部において、ホリンシェッドの『年代記』の内容のほぼ五分の一を用ゐてゐる。『年代記』の雑然とした記述の中から、ホットスパーの離反とその結果を物語る一連の事項を選び取つてゐる。この点において指標となつたのは、ダニエルの詩『ランカスター家とヨーク家の内乱』である。そして、ハル王子の乱行については、シェイクスピアはホリンシェッドよりも詳しく書き込んでゐる。追剥の件は、ホリンシェッドには全く記されてゐない。
登場人物でホリンシェッドの記述より遥かに突込んで描かれてゐるのは、特にグレンダワーとホットスパー、それにハル王子である。ハル王子のみについて言へば、シェイクスピアは、主に『ヘンリー五世の名高き勝利』を通じてハル王子乱行に関する種の物語を織り込み、そこから蕩児ハルの決定的な更生(第二部)といふ主題を生み出したのである。
最後にフォールスタフであるが、その前身のオールドカースルといふ名はホリンシェッドにも出てくる。実在のオールドカースルは一三七八年から一四一七年まで生きてをり、ホリンシェッドでは、「勇猛なる隊長」で「王の親任が厚かつた」となつてをり、後に異端の罪に問はれ、ロンドン塔に幽閉されたが、更にそこから逃走し、再び逮捕されて絞首刑に処せられたとある。彼については二つの異つた言ひ伝へがあつて、一つは彼を無頼漢と見、一つは徳高き殉教者と見てゐる。『ヘンリー五世の名高き勝利』の作者も、その影響を受けたと思はれるシェイクスピアも彼を前者と見た訳だが、とにかく、シェイクスピアはこの実在の人物からヒントを得て、寓意劇《モラリテイ》の「悪徳」(若者を誘惑するとされた)や道化役の要素を盛り込み、文学史上稀有の喜劇的人物を創造したのである。
尤もハムレットの性格に惹かれる余りハムレットを『ハムレット』劇の枠外に連出してはならぬと戒めたドーヴァ・ウィルソンはこの作品においても同様の警告を発し、フォールスタフといふ人物の面白さに目を奪はれ、これを『ヘンリー四世』第一部・第二部といふ一つの完結した歴史劇=政治劇の枠の外に連出してはならないと言つてゐる。従来、多くの学者は第一部、第二部をそれぞれ独立した作品と見做してゐたばかりでなく、最初シェイクスピアは第一部しか念頭に無く、それがフォールスタフの魅力で大当りの狂言になつたのに気を良くして第二部を書き足したものと考へられてゐた。確かにさう考へられる程、第一部は第二部に較べて遥かに面白く、劇としての完結度においても第一部はそれだけで独立して鑑賞に堪へるが、第二部は続篇としてしか存立し得ない。
しかし前章に述べた様に、シェイクスピアは初期に『ヘンリー六世』三部作と『リチャード三世』を書き、更に『リチャード二世』に手を着けた時には、それ以後の英国王朝史劇を書き続け、初期に書いた薔薇戦争に繋げようとしてゐたに相違無い。とすれば、『ヘンリー四世』第一部を書いてゐた時のシェイクスピアの脳裡に第二部の構想が無かつたと考へるのは論外であるばかりでなく、最初から第二部を予想して第一部を書いたとするウィルソンの想定の方が妥当と言ふものであらう。ウィルソンの言葉に随へば、二部を通じて始めて筋の一貫性が見られるのであるが、その事と美学的判断とを吾は混同してはならぬのである。詰り第一部はそれ自体で完結してゐると言つても、それは飽くまで美学的な観点からの話であり、ここに一たびその観点を変へて歴史劇として見るなら、第一部はたとへ未完とまでは言へなくとも、第二部と合はせて別の文脈の中でまた別の、敢へて言へば一応の完結性を保持してゐる事が明かにならう。さういふ見方は何もウィルソンの独創とは言へない。既にジョンソン博士が次の様に述べてゐる。
この二つの戯曲は、別に何等の批評的新発見といふ野心無しに通読する読者の目には、相互に密接な関聯を持つてゐて、第二部は第一部の続篇として、即ち一作に纏めるには長すぎるといふ唯それだけの理由で二部に分たれたものと映るだらう。
前章で述べた様に、『ヘンリー四世』二部作は王に対する叛乱の始りからその完全な鎮圧に終ると同時に、ハルの回心から戴冠までといふ歴史劇としての一貫性を持つてゐる訳だが、第一部ではその両者共に最後の締りが十分ではないとウィルソンは言ふ。更にウィルソンは他のシェイクスピア劇に共通なリズムがある事を指摘し、『ヘンリー四世』の場合でも、それを二部作として捉へなければ、そのリズムが完成しないと述べてゐる。彼の言ふリズムとは、起承転結の始めの「起」が強い緊張感で始り、それが譬へば『ヴェニスの商人』の法廷の場、『ハムレット』の劇中劇の場、リチャード二世の退位の場などの様に中頃で絶頂に達し、第四幕では、一つには拡散した筋の収拾の為、一つには主役、準主役に休息を与へる為に、そしてまた観客の気持をほごす為に、その緊急度が弛み、更に第五幕のクライマックス、即ち悲劇なら破局へ、喜劇なら解決へ流れ込む事であり、『ヘンリー四世』の場合もその例外ではないと言ふ。処がその第一部の終りに出て来るシュルーズベリーの戦ひは他のシェイクスピア劇なら第三幕に起る結節に当るものであり、第四幕に起るべき叛乱軍の完全な潰滅と王父子の完全な和解とは第二部において始めて実現する。要するに、ウィルソンもまたジョンソンと同様に、偶一回の上演には長過ぎるから二つに分けただけの一作品だと強調して止まないのである。
しかし、私に言はせれば、そこまで行けば言ひ過ぎと言ふほかは無い。そればかりではない、ウィルソンの論旨もまた自家撞着に陥つてゐる。主役、準主役、或は観客を休ませる為の第四幕と言ふが、その必要は一回の上演としては長過ぎるからこそ生じるものであつて、始めから二回に分けるものとして書く以上、それぞれに休息の場が必要になつて来る筈である。未だ嘗て芝居に続き物といふのは存在した例が無い。芝居は一回の見物で終るものである。その事は、第一部が当つたから第二部を書き足したのではなく、シェイクスピアが始めから二部作を考へてゐたといふ事実と矛盾はしない。彼は最初から二部作を計画してゐながら、同時に第一部、第二部いづれも完結したものとして書かうとしたに相違無く、しかし、いざ書き出してみると、歴史に引き擦られて、第一部は一応成功したが、第二部はその附け足しに近いものになつてしまつたといふのが真相ではなからうか。美学的判断と歴史劇=政治劇の一貫性を混合してはならないといふ言葉は、逆の意味でそのままウィルソンの頭上に弾ね返つて来よう。歴史は劇を志向し、劇もまた歴史にその原型と故郷を見出す。両者は互ひに牽引し合ひ、同時に反撥し合ふ。その二律背反にシェイクスピアも多少手を焼いてゐる様に思はれる。
またフォールスタフの魅力については、如何にウィルソンがこの怪物を『ヘンリー四世』といふ歴史劇=政治劇といふ枠の中に閉ぢ込めようとしても、さうし切れぬものがある。フォールスタフの魅力は作品の枠を破つてゐる処にあるので、ハムレットを『ハムレット』劇の中に連れ戻す様には、彼を『ヘンリー四世』劇の中に連れ戻す事は出来ない。殊に第一部のフォールスタフは第二部のそれに優る。伝説めくが、エリザベス女王がこのフォールスタフにすつかり惚れ込み、もし彼が恋をしたらどうなるかと言はれ、それに応じて書かれたのが『ウィンザーの陽気な女房』であるといふ。さすがに二番煎じの感は免れず、この『ヘンリー四世』のフォールスタフに較べると遥かに見劣りがする。『ウィンザー』のフォールスタフは俗物に過ぎない。が、このフォールスタフは怪物である。あらゆる負を一手に掻き集めて正に化してしまつた様な人物で、俗物である事は勿論、臆病であり、卑劣であり、狡猾であり、見え坊であり、破廉恥であり、好色であり、貪欲であり、ありとあらゆる悪徳を身に附けてゐる。もし彼に無い悪徳があるとすれば、それは偽善である、と言ひたい処だが、その偽善さへ、必要とあらば徹底的にやつてのけるであらう。だからこそ彼は偽善者ではない。偽善者が最も恐れる事は偽善者と呼ばれる事であり、俗物が最も恐れる事は俗物と呼ばれる事であり、小心者が最も恐れる汚名は小心者と呼ばれる事である。が、フォールスタフは他人に何と思はれようと、どう呼ばれようと恐れない。生きる為には何にでもなる。それでゐて一片の暗さも無い。世にこれほど屈託の無い人物は存在し得まい。フォールスタフの魅力はそこに尽きる。
シェイクスピアの他のあらゆる作品を見ても、彼ほど作品の枠の外にはみ出して自立し得る人物は一人もゐない。いや、シェイクスピアに限らず、他の如何なる作中人物も、彼ほど作品や作者から自由ではあり得まい。シェイクスピアの作品のうち、どれが最も優れてゐるか、どれが最も好きかと問はれれば、色答へ様もあらうが、彼の創造した人物のうちどれが最も優れてゐるかと問はれれば、『ヘンリー四世』第一部のフォールスタフと答へるのに私は躊躇しない。
昭和四十二年二月十五日
福 田 恆 存
この作品は昭和四十二年四月「シェイクスピア全集」
第6巻として新潮社より刊行された。
Shincho Online Books for T-Time
ヘンリー四世
発行  2001年3月2日
著者  ウィリアム・シェイクスピア(福田 恆存 訳)
発行者 佐藤隆信
発行所 株式会社新潮社
〒162-8711 東京都新宿区矢来町71
e-mail: olb-info@shinchosha.co.jp
URL: http://www.webshincho.com
ISBN4-10-861068-7 C0897
(C)Atsue Fukuda 1967, Corded in Japan