TITLE : タイタス・アンドロニカス
タイタス・アンドロニカス
ウィリアム・シェイクスピア 著
福田 恆存 訳
タイタス・アンドロニカス
場 所 ローマ、及びその近郊
人 物
サターナイナス 前ローマ皇帝の息子、のちに皇帝となる
バシェイナス その弟
タイタス・アンドロニカス ローマの貴族
マーカス・アンドロニカス その弟、護民官
ルーシアス )
クィンタス )タイタス・アンドロニカスの息子
マーシアス )
ミューシアス
小ルーシアス 少年、ルーシアスの息子
パブリアス マーカス・アンドロニカスの息子
イーミリアス ローマの貴族
アラーバス )
ディミートリアス )タマラの息子
カイアロン
エアロン ムーア人、タマラの情夫
隊長、護民官、使者、道化、
及びローマ人、ゴート人の一群
タマラ ゴートの女王
ラヴィニア タイタス・アンドロニカスの娘
乳母、及び黒人の幼児
タイタスの親族、元老、護民官、将兵、侍者など
1
〔第一幕 第一場〕
ローマの議事堂前広場
その入口の側にアンドロニカス一族の記念碑が建つてをり、階上露台に向つて開いてゐる窓越しに会議中の元老達の姿が見える。ドラムとトラムペットの音が聞え、広場の一方からサターナイナスとその部下達が、反対側からバシェイナスとその部下達が行進して来て出遭ふ。
サターナイナス 吾がローマの貴族諸卿《しよきやう》、御身等は謂はばこの身の後楯、直ちに武器を取つて吾が正義の主張を護つて貰ひたい、更に日頃この身に好意を寄せる臣下、市民一同にも切に頼む、その剣を手にこの身の帝位継承権を擁護してくれる様に、言ふまでもなく、父にとつてこの身は長男であり、その父はつい先頃までローマ皇帝の冠を戴いてゐたのだ、なればこそ、父の栄誉はこのサターナイナスのうちに生き受継がれねばならぬ、長男としての立場を蔑《ないがし》ろにするが如きかかる無法は断じて許されない。
バシェイナス ローマ人諸君、吾が友、吾が臣下、そして吾が権利の擁護者に向つて言ふ、このバシェイナスはほかでもないローマ皇帝の子息、もしこの男が大ローマの民衆の目にこよなく好もしき者と映じるなら、それならジュピターを祀るこの議事堂への路を塞ぎ、汚辱にまみれし輩を断じて玉座に近附けてはならぬ、そもそもかの玉座は美徳と正義、克己心と気高き精神に捧げられしもの、この上は公正なる選挙によつて自らの真価を問ひ、勝利の栄冠を輝かしめるにしくはない、さあ、ローマ人諸君、己が意志表明の自由の為に、今こそ戦ふべき時が来たのだ。
マーカス・アンドロニカスが王冠を手にして露台に姿を現す。
マーカス 先帝の御子息に申上げる、お二人共、徒党を組み、身方を頼みに、帝国制覇の野望に燃え互ひに鎬《しのぎ》を削つておいでの御様子、が、その前にローマ人民の意向を御承知置き願ひたい、以下、その代表者の資格を以て申上げるが、人民の意志は既に一致し、ローマ皇帝の候補者として挙《こぞ》つてアンドロニカスを推してゐる、今日までローマの為に尽し来たつた数の勲《いさをし》により「忠誠」を意味するパイアスの名を贈られしかのアンドロニカスを。彼に優る高貴な人物、彼に優る勇敢な武人は今日この城壁の内に一人としてゐはすまい。彼は今元老院の命により帰国の途次にあり、蛮族ゴート人相手の厭《いと》はしい戦から引揚げて来ようとしてゐる、しかも戦場においては息子等を引具して、到る処、敵を恐怖の渦に巻込み、さすが百戦錬磨の手強《てごは》い種族も今や軛《くびき》を掛けられ身動き出来ぬ有様。顧みれば既に十年の歳月が流れ去つた、このローマの正義を守る為の戦が始つて以来、彼は初めから全軍の将として出陣し、思上つた敵の頭上に仮借《かしやく》なく膺懲《ようちよう》の刃を打降した、その間、五たびローマに戻り、同胞の前に血に塗《まみ》れた己が姿を現したが、それはいづれも勇しく散つた吾が子の柩《ひつぎ》を戦場から持ち帰る為だつたのだ、〔そしてその度に、それ、そのアンドロニカス一族の記念碑に生贄《いけにへ》が捧げられ、ゴート人の捕虜のうち最も身分高き者が殺されたものだ。〕が、これが最後、今、目の前に、栄光に輝く戦利品を山と積んで、あのアンドロニカスがローマに戻つて来る、その名も高きタイタスが武装いかめしく凱歌に包まれて。ともあれ、お願ひ申上げる、お二人共に堂と帝位の継承をお求めになつた当の父君のお名に賭けて、また信仰と敬意の念をお示しになつたこのジュピターを祀る議事堂と元老院と両者の権利に賭けて、一先づこの場を立退かれ、武装をお解きになり、それぞれ部下の方を解散せしめられる様、その上、訴へ事の常道に則り、お二人の御要求を事《こと》穏かに、己れを空しうして御提出願ひたい。
サターナイナス 情理兼ね備へた申し様、さすがは護民官、これでこちらの気持も納つた!
バシェイナス マーカス・アンドロニカス、このバシェイナスも日頃から御身が正義と廉直の士である事は信じてゐた、更に御身と御身の一族を、即ち御身の兄高邁なるタイタスとその息子等を、そしてまた吾が心の主《あるじ》であり、ローマの花とも言ふべきタイタスの娘御、ラヴィニアを深く敬愛してもゐる、随つてここに直ちに同志諸兄を解散せしめ、当方の主張についてはこの身を支配する運と民衆の人気にすべてを預け、自づと秤《はかり》の傾くところに随ふ事にする。(同志一同解散)
サターナイナス 聴いてくれ、皆、このサターナイナスの権利を守るべく、諸兄は終始挙《こぞ》つて熱意を示してくれた、それには心から礼を言ふ、が、この場で一同に解散を命じる。この身の身分と主張については、吾が祖国の恩寵にすべてを預ける事にする。(同志一同解散)おお、ローマ、何よりも公正と仁慈を以てこの身を守つてくれる様に、この身が信頼と愛情を以て御身に仕へてゐる如く。さあ、扉を開き、中へ入れてくれ。
バシェイナス 相手は護民官共、こちらは俺一人、所詮は負け犬だ。(二人共に元老院に入る)
隊長登場。
隊長 ローマの同胞諸君、道を開けて戴きたい! 武人の鑑《かがみ》にして、ローマに並ぶ者なき戦士アンドロニカスの凱旋だ、戦の度毎に数の武勲をお立てになり、今や栄誉と幸運に包まれて戻つておいでになる、しかも自ら剣を揮《ふる》つて膝下に組み敷いたローマの仇敵共を軛《くびき》に繋いでの御帰還だ。
ドラムとトラムペットの吹奏。行列が登場、ミューシアス及びマーシアス、黒布に覆はれた柩を担いだ兵士二名、クィンタス及びルーシアス、そしてタイタス・アンドロニカスの順、その後から捕虜となつたゴート族の女王タマラ、その息子のアラーバス、カイアロン及びディミートリアス、ムーア人エアロンその他が随ふ。兵士二名が柩を下すと、タイタスが語り始める。
タイタス 吾が祖国、ローマ、喪服に包まれし勝利者! 御覧戴きたい、荷揚げを終へた帆船は貴重なる品を満載し嘗て錨《いかり》を挙げた港へ戻つて来る、その様にこのアンドロニカスも、頭《かうべ》を月桂樹に包まれ、再び祖国に見《まみ》えん為、涙に噎《むせ》んで戻つて来たのだ、祖国ローマの地を踏む喜びの涙に噎びながら。ジュピター、この議事堂の大いなる守護者、願はくは吾等の執り行ふ儀式に憐みを垂れ給はん事を! 同胞諸君、このタイタスには二十五人の勇敢なる息子がゐた、かのトロイの王プライアムに較べればその半ばにしか過ぎぬが、それが、見るがいい、残つた者は僅かこれだけだ、まだ生きてゐる者と既に死んで横《よこたは》つてゐる者と、両方合はせてもな! この生き残つた連中にはローマは愛を以て報いて貰ひたい、また、私がこの手でこの世の最後の故郷《ふるさと》へと連れて帰つて来た連中にはその先祖の霊と共に安らかな眠りに就くことを許してやつて貰ひたい。ゴート族も遂にこの私の剣を鞘《さや》の中に息ませてくれた。それなら、タイタス、自らに対して如何に冷淡、非情の態度を押通して来たからといつて、自分の息子達にまで辛く当り、未だに埋葬の礼も取らず、その魂をして徒《いたづ》らに黄泉《よ み》の国の河原を彷徨《さまよ》はせて置く法があらうか? 道を開けて彼等を眠れる兄弟達のもとへ。(人墓を開く)親しく無言の挨拶を、それこそ死者の慣ひ、さあ、安らかに眠れ、祖国の為に命を捧げたお前達! おお、この身に喜びを齎《もたら》した者達が眠る聖なる奥津城《おくつき》、武勇の誉も高き高潔の士が眠る麗はしき庵室、お前は私から一体何人息子を奪ひ取り、貯へて来た事か、それも二度と手もとに返してくれる気もあるまいに!
ルーシアス 父上、ゴート人の捕虜の中から最も傲慢な男を一人、吾兄弟の手にお預け下さい、そいつの五体を切刻み、積上げた薪の上に置き、「眠れる同胞《はらから》の霊」を弔ふ生贄《いけにへ》として供へ、吾等が兄弟の骨を封じ籠めたこの大地の牢獄の前で火炙《ひあぶ》りにし、死者の霊魂をして安らかに眠らしめ、生ある吾にしても、この世で忌はしき物の化《け》などに悩まされぬ様にしたいのです。
タイタス よし、あの男を遣らう、生き残つた連中のうち最も身分の高い男、この歎きの女王の長男を。
タマラ お待ちを、今は兄弟にも等しきローマの御一族! 慈悲深き征服者、武勇の誉高きタイタス、哀れとはお思ひになりませぬのか、私の流す涙を、子を想ふ母親の悲しみの涙を、考へても御覧なさいまし、あなたの御子息があなたにとつて掛け替への無いものなら、ああ、私にとつても同じ事、吾が子は何処にも掛け替への無いもの! まだお心が晴れぬとおつしやるのか、かうして私共をこのローマに連れ帰り、あなたの勝利と凱旋を美しく飾立て、ただ捕虜としてローマの軛《くびき》に繋いで置くだけではまだ足りぬ、更に私の息子達を街なかで酷《むご》たらしく斬り殺さねば気が済まぬ、それも息子達が祖国の為に雄しい働きをしたからだと、さうおつしやるのか? ああ、王の為、国の為に戦ふことが御子息方にとつて忠と言へるなら、吾が子等にとつても同じこと、アンドロニカス、御一族の墓を血で穢《けが》してはなりませぬ。御自分を神のお心にまで高めようと目ざしておいでのあなたではありませぬか? それなら慈悲深さにおいても神に見倣《なら》つて下さいまし、優しい慈悲こそ身分高き者の真《まこと》の標《しるし》、こよなく気高きタイタス、私の長男の命をどうぞお助け下さいまし。
タイタス お気を鎮《しづ》めて、女王、そして私の立場もお察し願ひたい。ここに葬られてゐるのはこの者達の兄弟なのだ、嘗てはあなた方ゴート人の目の前に生きてその勇姿を現し、同じその目の前で死んで行つたのだ、その殺された兄弟の霊を弔ふ為に息子達は生贄を求めてゐる、それにあなたの御子息が選ばれたのだ、死んで貰ふほかは無い、みまかりし者達の呻き苦しむ霊を慰める為に。
ルーシアス 奴を連れて行け! 直ぐにも薪に火を、そして吾等の剣を振りかざし、燃上る焔に包まれた奴の五体を切刻み、跡方も無く焼き尽してやるのだ。(タイタスの息子達、アラーバスを引立てて退場)
タマラ おお、酷いことを、神を畏れぬ不信の輩が!
カイアロン スキチア人の野蛮な心も貴様等には及びもつかない。
ディミートリアス スキチアを野心に燃えたローマなどと較べるな。アラーバスには安らかな眠りが待つてゐる、だが、俺達は生き残つてタイタスの眼差《まなざ》しに震へ戦《おのの》きながら暮さねばならぬ。かうなつたら、母上、覚悟をお決めになることだ、が、希望をお捨てになつてはいけない、嘗て神は息子を殺されたトロイの王妃ヘキュバに身方し、トラキアの暴君ポリムネスターのテントの中で苛烈な復讐を果さしめたではありませんか、その同じ神がゴートの女王タマラに身方してくれませう、そして――ゴート人がゴート人であり、タマラが女王である限り――その敵に流血の復讐をさせてくれる時が来るかも知れません。
アンドロニカスの息子達、手に手に血に塗れた剣を下げて再び登場。
ルーシアス それ、この通り、父上、吾等が祖国ローマの聖なる儀式は無事終りました。アラーバスの五体は切刻まれ、その腸《はらわた》は生贄の神火を弥が上にも燃上らせ、立昇る煙は恰《あたか》も香《かう》の如く大空をかぐはしく蔽ひ尽しました。後は唯兄弟達を手厚く葬り、トラムペットの響高らかにローマに迎へ入れてやるだけです。
タイタス さうしてやらう、このアンドロニカスが息子達の魂に最後の別れを告げるのだ。(トラムペットの吹奏、柩が墓に降される)平和と栄光に抱かれ、この奥津城に眠るがよい、私の息子達、進んでローマの為に身を捨てた戦士達、ここに安らかに眠れ、最早この世の禍ひや不幸に煩はされる事も無く! ここには裏切りの待伏せも無ければ、憎しみの芽生えも無い、忌はしい毒草も繁らず、嵐も襲ひ掛りはしない、物音一つ聞えず、ただ静寂と永遠の眠りがあるだけだ。
ラヴィニア登場。
タイタス 平和と栄光に抱かれ、この奥津城に眠るがよい、私の息子達!
ラヴィニア 平和と栄光に抱かれて、タイタスがいつまでも生きてゐて下さいますやう、秀れた御気象のお父様、いつまでも名声に包まれて! さあ、私も、このお墓に涙を、それをお兄様方への手向けに致しませう、そしてお父様の足許に跪《ひざまづ》き、歓喜の涙をこの大地に注ぎ掛け、ローマへの凱旋をお祝ひ申上げます。ああ、どうぞ私に祝福を、その勝利に輝くお父様の御手で、ローマのお歴が挙《こぞ》つて褒めそやす勲《いさをし》をお立てになつたそのお手で。
タイタス 心優しきローマ、お前に礼を言ふぞ、この私の老後の唯一の慰めをかうして今日まで守り通し、私を喜ばしてくれるとは! ラヴィニア、いつまでも生きてくれ、父よりも長く、いや、永久《とこしへ》に続く名声よりも長く、自ら淑徳の誉の鑑として!
露台にマーカス・アンドロニカス、サターナイナス、バシェイナス、その他の人が姿を現す。
マーカス 御長命を、タイタス、親愛なる兄上、全ローマの敬愛の的、吾等が凱旋将軍!
タイタス ありがたう、護民官、私の敬愛する弟マーカス。
マーカス そして、甥達もよく戻つた、数の武勲に心から敬意を、生き残つた者にも、栄光の眠りに就いた者にも! 誉高き諸卿《しよきやう》、その勲はいづれ劣らぬ立派なもの、皆、吾遅れじと剣を以て祖国の為に尽して下さつた、が、何にも増して確たる勝利は他でもない、この盛大なる葬儀そのもの、賢人ソロンの言を借りれば、それこそ「死」といふ幸福を手に入れ、名誉を枕にこの世の気紛《きまぐ》れな運命を超えた永遠の勝利を誇るものと言へよう。タイタス・アンドロニカス、ここにローマの民衆は、常にその公明正大なる友であつたあなたに対する贈物として、彼等の信頼する護民官の私を介し、この穢れなき純白の衣を呈上し、ここにおいでの二人の先帝の御子息と共に、帝位継承の候補者としてあなたを推挙する事にした。お願ひする、人の希望を容れ、この衣を着て、頭《かしら》なきローマの頭と成る様、快く引受けて貰ひたい。
タイタス 栄光に輝くローマの肩にはもつとふさはしい頭があるはず、何も好き好んで五体の衰へ果てた老残の身に白羽の矢を立てる事もあるまい、どうして私の様な者がこの衣を身に着け、御一同に迷惑を掛けねばならないのか? 選ばれてけふ自ら皇帝と名乗り、あすは統治の大権を抛棄し、この世に別れを告げる、さうして、御一同にまた同じ労苦を背負はせようと言ふのか? おお、ローマ、私はこの四十年、お前の兵士として、この国の兵共《つはものども》を率ゐて戦ひ勝ち、二十一人の勇敢なる息子共を葬つて来た、あの子達は戦場で騎士の位を受け、武器を取つて男らしく死んで行つたが、それも誇るべき祖国を信じ守らうとしたまでのこと。今、私が頂戴したいのはこの老いの身を支へる名誉の杖のみ、この世を治める笏ではない。それを手にして見事にこの国を治めておいでだつたお方は、諸卿もお認めであらう、つい最近までそれを手にしておいでだつた先帝その人である事を。
マーカス タイタス、あなたのお心一つで帝国は自分の物になるのだ。
サターナイナス 思上るな、野心に憑かれた護民官めが、どうしてその様な出過ぎた事を?
タイタス お鎮りを、サターナイナス。
サターナイナス ローマの同胞諸君、私の権利の為に立上つてくれ。諸卿、今こそ剣の鞘《さや》を払ひ、サターナイナスがローマ皇帝となるまでそれを元へ収めるな。アンドロニカス、さあ、貴様を地獄に送り届けてやるぞ、この身から民衆の心を盗み取るのを誰が黙つて見てゐられるものか!
ルーシアス 驕《おご》り昂ぶるにも程がありませう、サターナイナス、敢へて邪魔立てしようお積りか、高潔な心の持主タイタスがあなたに好意を示さうとしてゐるのを?
タイタス 御安心なさるがよい、サターナイナス、民衆の心は必ずあなたのお手に、直ぐにも彼等の気持を飜へさせて御覧に入れませう。
バシェイナス アンドロニカス、この身は世辞の言へる男ではない、が、あなたを尊敬してゐる、その気持は死ぬまで変るまい、もしあなたが同志を率ゐ吾等を助けてくれるなら、これほど有り難い事は無い、感謝こそ高潔の士にふさはしい最高の報いであらう。
タイタス ローマの同胞諸君、及びその護民官諸君にお願ひする、皇帝選出に関する全権をこの私に委ねて貰ひたい。アンドロニカスを信じてすべてをお任せ下さらぬか?
護民官 アンドロニカスに対し吾の信頼を示し、且つまたそのローマへの無事凱旋を祝ふ為、民衆一同はアンドロニカスの可とする人をそのまま受容れる事にしよう。
タイタス 護民官諸君、よく言つてくれた、では、かうして戴けまいか、即ち先帝の御嫡男、サターナイナスを皇帝としてお迎へ願ひたい、その徳は、必ずや日の神タイタンの陽光が大地に降り注ぐが如くローマ全土に照り映え、国中至る処に正義の声が盛上るに違ひ無い、となれば、私の助言に従ひ皇帝を選出しようといふのなら、王冠をサターナイナスの頭上に、そして一斉《いつせい》に歓呼の声を、「吾等が皇帝万歳!」と。
マーカス 身分の上下を問はぬ、ここに貴族、平民、挙《こぞ》つてサターナイナスを偉大なるローマ皇帝に推戴し、歓呼の声を以てお迎へしよう、「吾等が皇帝サターナイナス万歳!」(トラムペットの吹奏、露台上の人が下りて来るまで続く)
サターナイナス タイタス・アンドロニカス、今日の皇帝推挙に際し、この身に示してくれた好意については、御身がこれまでに尽してくれた数の功績の一つとして、取敢へず感謝の意を表すると共に、なほ実際の行動によつて御身の親切に報いたいと思ふ。先づその手初めとして、タイタス、御身の名と栄えある一族の家名を高めんが為、ラヴィニアをこの身の后に迎へ、ローマ皇帝の妻、吾が心の想ひ人にしたい。聖なるパンテオンの神殿においてラヴィニアととはの契《ちぎ》りを結びたいのだが、どう思ふ、アンドロニカス、この申出で、喜んで受けて貰へるかな?
タイタス 申上げるまでもございませぬ、そのお申出で、身に余る光栄に存じます、その証《あか》しに、このタイタス、かうしてローマの民衆の眼前で、吾が祖国の王にして支配者、全世界を統べる皇帝、サターナイナスにすべてを捧げませう、この吾が剣、吾が戦車、そして吾が捕虜の面を、ローマ帝国に君臨するお方にふさはしき贈物として。何とぞお納め下さいます様、臣下たる私の当然の貢物として、吾が勝ち戦の証《しるし》として、謹んで皇帝のお手もとに。
サターナイナス 礼を言ふぞ、吾がタイタス、今や御身はこの身にとつては命の親! 御身とその贈物をこの身は何よりの誇りに思つてゐる、その気持をローマは永く記録に留めて置く様に、そして万一その言葉に尽せぬタイタスの勲功をこの身が少しでも忘れる様な事があつたら、その時は、ローマの同胞諸君、お前達もまたこの身に対する忠誠を忘れてくれるがよい。
タイタス (タマラに)さあ、女王、あなたは今や皇帝の捕虜、皇帝としても、御身の名誉と地位とに鑑み、あなたは固よりお供の方を寛大に処遇なさらう。
サターナイナス (傍白)いい女だ、全く! かういふ女をものにしたい、改めて選び直すとすればな。(声を挙げて)御心配無益、麗しき女王、その額の雲をお晴し下さる様に。戦の勝ち負けは風向き次第、ただそれだけの事で今の御境涯、あなたがかうしてローマに連れて来られたのは、辱《はづか》しめを受ける為ではない。あなたに対するお扱ひは万事王侯なみにさせて戴かう。この身の言葉をお信じになり、悲しみの余り希望をお捨てにならぬ様。女王、今かうしてあなたを慰めてゐる男には何でも出来るのだ、あなたをゴート族の女王より遥かな高みに挙げることさへ。ラヴィニア、まさか私の言葉に気を悪くしたりはすまいな?
ラヴィニア 決してその様なことは、寧ろさうした寛大なお言葉こそ王者の礼にふさはしく、高貴なお心の証しと申せませう。
サターナイナス よく言つてくれた、ラヴィニア。同胞諸君、さあ、引揚げよう、捕虜達はこの場で自由の身にしてやれ、身代金は要らぬ。トラムペットと太鼓を高らかに鳴らす様に、そして諸卿、吾等の栄誉を周《あまね》く世人に知らしめるのだ。(トラムペットの吹奏、サターナイナス、タマラを口説く身振り)
バシェイナス (ラヴィニアを攫み)タイタス、お許し戴かう、この娘御は私のものだ。
タイタス 何をおつしやる! まさかあなたは本気でその様な事を?
バシェイナス さうだ、本気だ、タイタス、しかも私の決心は堅い、好きにさせて貰ふ、自分の権利を主張するだけのことだ。
マーカス 「人をして各その分前を取らしめよ、」これこそ吾がローマの正義だ。バシェイナスはその正義の名において自分のものを手に入れただけの話だ。
ルーシアス そして、今後もさうするだらう、いや、さうさせてやるぞ、このルーシアスが生きてゐる限り。
タイタス 謀反人めら、退れ! 皇帝の衛兵はどこにゐる? 謀反ですぞ、サターナイナス! ラヴィニアが辱しめを受けましたぞ!
サターナイナス 辱しめを! 誰がそんな事を?
バシェイナス ラヴィニアと将来を誓つた男だ、誰にも手出しはさせぬぞ。
ミューシアス 兄上達、妹をこの場から連出して下さい、この剣にかけて私がこの戸口を守ります。
マーカス、バシェイナス、及びルーシアス、クィンタス、マーシアスの三兄弟、ラヴィニアを守りつつ、広場を立去る。
タイタス 後からお出でを、娘は直ちに奪ひ還して御覧に入れます。
サターナイナスはタマラに合図し、連立つて議事堂の内に退場、後にエアロンとタマラの息子達が続く。
ミューシアス 父上、ここはお通し出来ません。
タイタス 何を、小童《こわつぱ》が! この俺を通さぬと言ふのか、ローマの只中でこの俺を? (両者戦ふ)
ミューシアス (斃《たふ》され)おお、ルーシアス、俺を!
ルーシアスが戻つて来る。
ルーシアス 父上、何といふ非道なことを、いや、言葉に尽せぬ没義道《もぎだう》、非は御自分にありながら吾が子を手に掛けるなどと。
タイタス 貴様も、あいつも、俺の子ではない、俺の子がこの俺をこれ程までに辱《はづか》しめる筈《はず》が無い。謀反人め、さあ、ラヴィニアを直ちに皇帝にお返ししろ。
ルーシアス 屍《しかばね》でよければ、今直ぐにも、が、奴の妻としてなら、お断りします、妹には愛の契《ちぎ》りを交した男がをります。(退場)
露台に皇帝が姿を現す、タマラ、その息子二人及びムーア人エアロンが続く。
サターナイナス もう用は無い、タイタス、もうお前に用は無い、皇帝はラヴィニアなどもはや求めてはゐないのだ、あの女も、貴様も、いや、貴様の一族の者など誰一人として要りはせぬ、一度でもこの身を欺く様な男と呑気に附合つてゐる閑は無いのだ、貴様にしても、その貴様の傲慢な息子等にしてもさうだ、寄つてたかつてこの身に恥辱を加へる謀反人に他ならぬ。ローマ中を探して笑ひ物に出来る男はこのサターナイナスの他に誰も見附からなかつたとでも言ふのか? 大したものだ、アンドロニカス、かうした貴様の所業は先刻の不遜極まる、あの大言壮語を見事裏書きしてゐるな、貴様は確かかう言つた、この身が皇帝の位に即けたのも所詮は貴様のお蔭だと。
タイタス おお、何といふ事を! これほど侮辱に満ちた言葉がまたとあらうか?
サターナイナス が、好きにするがよい、さあ、あの尻軽女を奴に呉れてやれ、あんな女の為に剣を振り廻す様な馬鹿者にな、勇敢な婿が出来て、さぞかし嬉しからう、貴様のあの無法者の息子等と組んで一騒ぎ起し、ローマ中を暴れ廻るには正に持つて来いの男だ。
タイタス 重ね重ねのお言葉、剃刀《かみそり》の刃の如くこの傷附いた胸を抉る。
サターナイナス この上は、美しいタマラ、ゴートの女王、その姿は附き随ふ妖精の中にあつて輝き渡る月の女神フィービーさながら、ローマの美しき貴婦人達もあなたを前にしては遠く及びもつかぬ、もしあなたがこの身の性急な申出でを快く受容れてくれるなら、聴いてくれ、タマラ、この身はあなたを花嫁に迎へ、ローマ皇帝の后にしたいと思つてゐるのだ。さあ、答へてくれ、ゴートの女王、この身の申出でを喜んではくれぬのか? ここにローマの凡ゆる神に賭けて誓はう、幸ひ近くに僧侶も控へてをり、聖水もある、蝋燭も燦然と輝き、婚礼の神ハイメンを迎へる準備はすべて整つてゐる、しかもこの場で直ちに吾が想ひ人を妻とし、連立つて帰れぬとすれば、神賭けてこの身は二度と再びローマの街に姿を現すまい、また宮殿の階《きざはし》にこの足を掛ける事もすまい。
タマラ それなら、私もこの場で、神のみそなはす中でローマにお誓ひ申上げませう、もしサターナイナスがこのゴートの女王をその后にお挙げ下さいますなら、この身はお側に仕へるただの婢《はしため》、若き皇帝の忠実な乳母とも母ともなりませう。
サターナイナス さあ、美しき女王、パンテオンの神殿へ。諸卿も皇帝とその麗しき花嫁の伴をして貰ひたい、この女王はサターナイナスの為に天上の神が贈り届けて下さつたもの、しかもこの好運を掴《つか》む叡智の持主でもある。神の御前に吾等二人は直ちに婚礼の儀式を挙げる事にする。(一同中に入る)
タイタス この俺には婚礼の列に加はれとも言はぬ。タイタス、けふまでお前はたつた一人で歩かせられた事があつたか、この様に辱しめられ、身に覚えの無い言掛りまでつけられて?
マーカス、ルーシアス、クィンタス及びマーシアス再び登場。
マーカス おお、解つてゐるのか、タイタス、解つてゐるのか、自分のした事が! 無法な諍《いさか》ひの果てに立派な息子を殺してしまつたのだぞ。
タイタス 何を言ふ、愚かな護民官、違ふ、俺の息子ではない、お前も、こいつらも、ぐるになつて吾が一族の家名に泥を塗つたのだぞ、恥晒《さら》しが、それでも弟か、それでも息子か!
ルーシアス それより今は弟の埋葬を、ミューシアスを兄弟達の眠る傍に葬らせて下さい。
タイタス 失せろ、裏切者め! 奴をこの墓に眠らせてはならぬ、この記念碑は五百年の間、ここにかうして建つてゐた、しかもこの俺が修復の手を加へ、弥が上にも豪壮に仕立上げたのだ、ここには、ローマの為に戦ひ、ローマの為に尽した者だけが、名声に包まれ永生の眠りに就く事を許されるのだ、愚にもつかぬ諍ひで殺された男など以ての外だ。そんな奴はどこにでも勝手に埋めるがいい、ここへ運び入れる事は許さぬ。
マーカス 兄上、それは余りにも厳し過ぎる。甥のミューシアスの行為は自らの潔白を証《あか》しするものだ。兄弟達の傍に眠らせてやらねばならぬ。
クィンタス )
マーシアス 必ずさうして見せる、さもなければ、吾もあれと運命を共にするしか無い。
タイタス さうしてみせる? 何者だ、その様な暴言を口にする奴は?
クィンタス このクィンタスだ、口に出した事は必ず実行して見せる、この聖域以外の所なら何処ででも。
タイタス おお、貴様、俺に逆《さから》つてまで奴をこの墓に納めようと言ふのか?
マーカス さうではない、タイタス、私達はお願ひしてゐるのだ、ミューシアスを許し、その屍をここへ納めさせてくれと。
タイタス マーカス、お前までがこの俺の兜に一撃を浴びせ掛け、此奴等小童共と一緒になつて俺の誇りを傷附けた。皆、俺の敵だ、さうとしか思へぬ、どいつもこいつも、解つた、もうこれ以上俺を苦しめないでくれ、さつさと立去るがいい。
マーシアス 逆上の余り吾を忘れてゐる、仕方が無い、引揚げよう。
クィンタス いいや、俺は動かぬ、ミューシアスの亡骸を葬るまではな。(弟マーカス及び息子達、跪く)
マーカス 兄上、さうお呼びして兄弟の情に訴へ――
クィンタス 父上、さうお呼びして親子の情に――
タイタス 言ふな、命が大事なら。これ以上、何も聴きたくない。
マーカス その名も高きタイタス、吾が魂にも等しきタイタス――
ルーシアス 吾が父上、吾等兄弟の魂とも源とも言ふべきタイタス――
マーカス この弟マーカスに免じて許しては下さらぬか、あの立派な甥を勇者達の眠るこの墓に葬らせては下さらぬか、名誉とラヴィニアの為に命を落した男を。兄上は飽くまでローマ人、残忍な事をおつしやるな。ギリシア人は自殺したエイジャックスの遺骸を、熟慮の末、漸く埋葬する事にした、レアティーズの賢い息子ユリシーズがその葬儀を行ふ様、心を籠めてエイジャックスを弁護したからだ。若いミューシアスにしても同じこと、あれは兄上の喜びでもあつた、ここに葬るのを否む法は無い。
タイタス 立て、マーカス、立つてくれ。今日ほど辛い思ひをした日はまたと無かつた、ローマで己が息子達に辱しめを受けるとは! もうよい、あれを葬つてやれ、その次にはこの俺を葬るがいい。
一同、ミューシアスを墓に入れる。
ルーシアス 安らかに眠れ、俺のミューシアス、兄達の仲間入りをするのだ、いづれはその墓に立派な碑を建ててやるぞ。
一同、跪いて語りかける。
一同 何人《なんぴと》も高潔なるミューシアスの為に涙する事勿《なか》れ、名声のうちに生き、義によつて死せる者なりき。
マーカス 兄上、この沈鬱の沼地から一刻も早く脱け出さねば、訳が解らぬのはあのゴートの女王、なかなか抜け目が無い、このローマに入るや否や、どうしてああも素早く栄誉の地位を捷《か》ち得たのか?
タイタス 俺にも解らぬ、マーカス、解つてゐるのは事実だけだ、何か策を弄したのか否か、それは誰にも解りはせぬ。いづれにせよ、あの女、あれ程の好運に恵まれたのも、詰りは自分をここまで引張つてきてくれた男のお蔭ではないか? さうであらう、となれば、やがて立派な褒美を届けてくれよう。
一方よりサターナイナスがタマラ、ディミートリアス、カイアロン及びエアロンを伴つて再び姿を現す。
反対側からバシェイナス、ラヴィニア、その他の者が登場。
サターナイナス 成る程、バシェイナス、お前、見事賞品を物にしたな。では、神のお計ひでその美しい花嫁を精楽しむがいい!
バシェイナス そちらも御同様に、兄上! 他には何も言ふ事は無い、まして力を借りる事も無い、では、これで、失礼する。
サターナイナス 待て、謀反人、ローマに法があり、この身に力がある限り、お前もその一味徒党もやがて自ら犯したその凌辱《りようじよく》の罪を悔いることになるぞ。
バシェイナス 凌辱、さう言つたな、兄上、自分で自分の物を手に入れただけの事ではないか、誓を交した愛する許嫁を、そして今ではこの身の妻となつてゐる女を? すべてはローマの法に任せよう、それまでは自分の物は決して手放さない。
サターナイナス それも良からう、弟、結構軽く言つて退《の》けたな、だが、こちらも生きてゐる限りは、結構厳しくやつて退けるぞ。
バシェイナス 兄上、自分のした事には、何処までも責めを負ふ積りだ、命を賭けてもさうして見せる。その代り、これだけは言つて置きたい――この身がローマに負うてゐるあらゆる義務に賭けて見過せぬのはこの高潔の士、このタイタスの事だ、評判も名誉もすつかり台無しにされてしまつた、あの時、ラヴィニアを助けようとして自らの手で己が末子を斬捨てたのも、一重に兄上に対する忠誠の為、快く兄上に捧げようとしたのに、それを裏切られて激しい怒りに駆られたからに他ならない。この上はタイタスの振舞ひを許し、特に引立ててやつて貰ひたい。考へるまでもあるまい、サターナイナス、これのあらゆる行動から察せられる様に、この男こそは兄上の、そしてローマの、父でもあり友でもあると言へよう。
タイタス バシェイナス、私の所業を弁護するのは止めて頂きたい、他でもない、あなたと、そこにおいでのお二人なのだ、この身を辱しめたのは。ローマと公正なる神は御存じの筈だ、この私がどれほどサターナイナスを敬愛して来たかを!
タマラ サターナイナス、このタマラがそのお目にこよなく好もしい者と映つてゐるなら、もしさうでしたら、御一同の為に何の私心も無くお話し申上げる私の言葉にお耳をお藉《か》し下さり、このタマラに免じて過ぎた事は何とぞお許し下さいます様に。
サターナイナス 何を言ふのだ、后! 人前で公然と己が名誉を穢《けが》されながら、復讐もせずじつと耐へてゐろと言ふのか?
タマラ さうは申しませぬ、サターナイナス、私が好んであなたの名誉を穢すなどと、神罰を恐れる者がどうしてその様な事を! 私の名誉に賭けて敢へてお誓ひ致しませう、タイタスは立派なお人柄、心に影一つ無いお方にございます、ああして激しい憤りをお隠しになれぬ事こそ、その悲しみの深さを物語つてをります。それ故、私に免じてこの方の上に慈悲深い眼差しを向けて差上げて下さいまし、あらぬ疑ひを掛けて尊い友を失つてはなりませぬ、険しいお目であの優しい心をお苦しめにならない様に。(サターナイナスに小声で)サターナイナス、私にお任せなさい、勝利は最後にあなたのお手に、御不快や御不満を決して顔にお出しなさいますな――今はまだ皇帝の位に即いたばかりのあなた――さもないと民衆共は、いえ、貴族にしても同じ事、実情を公正に判断し、タイタスに身方して、忘恩の罪を楯にあなたに退位を迫りかねない、それはローマ人にとつて何より憎むべき大罪と言はれてゐるもの。相手が折れて出たら、譲つておやりなさいまし。後は私に任せて下されば、いづれ片端から鏖《みなごろ》しにしてくれる、一味徒党も奴等の一族も一人残らず根絶やしにせずに置くものですか、あの残虐な父親と裏切者の息子共、私は奴等に向つて愛する吾が子の命乞ひをしたのに、きつと思ひ知らせてくれる、街なかで女王に跪《ひざまづ》かせ、慈悲を乞はせながら、それを卻《しりぞ》けたといふ事がどれほど高く附くものかを。(声をあげて)さあ、お願ひします、サターナイナス――さあ、アンドロニカスも――この善良な老人をお心寛やかにお迎へになり、励しておやりなさいまし、そのお怒りのお顔に震へ戦き今にも死にさうに悩んでゐるタイタスを。
サターナイナス 立て、タイタス、立つがよい、后の取成《とりな》しとあれば、快く従はう。
タイタス お礼を申述べます、サターナイナス、そしてお后にも。お二人のお言葉を聴き、そのお顔を拝し、タイタス、漸く力を取戻しました。
タマラ タイタス、今や私もローマと一体、仕合はせにもかうしてローマ人となれたからには、皇帝の為に助言をせねばなりませぬ。今日を限りに、あらゆる諍ひは消え去りました、アンドロニカス。さあ、サターナイナス、これを私の手柄とお考へ下さいまし、あなたとあなたのお仲間の仲裁役を見事果したのですもの。ところでバシェイナス、私、皇帝に向つて預言《よげん》をしてしまひました、あなたもこれからはもつと穏かで物解りの良い人になるでせうと。他の方も、恐れる事はありませぬ、あなたも、ラヴィニア。皆、私の忠告に耳を藉し、お跪きになつて、(一同跪く)皇帝のお許しを心からお願ひになるがよい。
ルーシアス 仰せの通りに、天に、そしてサターナイナスにお誓ひ申上げます、私共と致しましても能ふ限り穏便に事を運んだ積りでございます、それも、妹の名誉と私共自身のそれを重んずる為に。
マーカス それは私自身の名誉に賭けてもはつきり申上げて置きます。
サターナイナス ええい、失せろ、黙れ、もう何も聞きたくない。
タマラ いけませぬ、さうおつしやらずに、もうお互ひに手を取合はねばなりませぬ。護民官と甥御達は跪いて慈悲を乞うてをります。私の頼み、どうぞお聴入れ下さいまし。サターナイナス、顔をお背けにならないで。
サターナイナス マーカス、お前とそのお前の兄の為に、それに后の美しいタマラの懇願もある事だ、若い者達の憎むべき過ちを許す事にする。立て。ラヴィニア、お前は私を下司下郎の如く扱ひ、捨て去つた、が、この身はかうして親しい友を見出し、命に賭けて誓つたのだ、神殿から独り身のまま戻つては来ぬとな。さあ、一緒に来るがよい、もし吾が宮殿が二人の花嫁を歓迎し得るなら、ラヴィニア、お前は私の客になつてくれ、お前の友人達も一緒に来るがよい。今日を愛の日として楽しく過すのだ、タマラ。
タイタス そしてあしたは、もしお気が向きさへすれば、私と御一緒に豹《へう》や鹿を狩りにお出掛けになりませぬか、角笛《つのぶえ》の音と猟犬の鳴声で、一同、朝の御挨拶を申上げませう。
サターナイナス さうしてくれ、タイタス、礼を言ふぞ。
一同、トラムペット吹奏裡に列を成して退場。エアロン一人舞台に残る。
2
〔第二幕 第一場〕
エアロン たうとうタマラはオリンパスの頂きを極め尽した、運命の矢弾を免れ、雷《いかづち》の轟や稲妻の閃光に身を晒《さら》す事も無く、青褪めた憎しみも遠く及ばぬ高みに登つてしまつた。あの日の神そつくりではないか、金色の日輪は地上に朝の挨拶を投掛け、大海原を黄金色に染め出し、光り輝く馬車を駆つて己が決められた道筋を走りながら、聳え立つ山を遥か脚下《あしもと》に見下す、今のタマラが正にそれだ。世上の名誉が才智に長《た》けたあの女に媚び諂《へつら》ひ、その眉の顰《ひそ》みを恐れ、その前には美徳も身を屈《かが》め慄へ上がつてしまふ。それなら、エアロン、心に武装を、そして思慮には鞭《むち》を、さあ、お前のお后様と手を携へ高く翔《あまがけ》り、同じ頂きを極めるがいい、お前はあの女を長年、思ふがままに操り、己れの虜《とりこ》にして来た、欲情の鎖に繋ぎ留め、このエアロンの美しい目にしつかりと縛り附けてある、あのコーカサスの岩に縛り附けられたプロメテゥスでさへこれ程ではなかつた。さあ、かなぐり捨てるのだ、この奴隷の服も卑屈な根性も! 輝かんばかりに着飾つて、真珠や黄金を身に纏ひ、お仕へするのだ、新たに迎へられたローマの后に。仕へる、俺は今さう言つたな? さうだ使つてやるのだ、火遊びの相手にあの后を、あの女神、あのセミラミス、あの妖精を、ローマ皇帝サターナイナスを虜にした男たらしのあの魔女を、さうして奴とその帝国が難破するのをこの目でしかと見てやりたいのだ。どうした! 何の騒ぎだ、あれは? (傍に退く)
カイアロンとディミートリアス、言ひ争ひつつ登場。
ディミートリアス カイアロン、お前は若い、思慮分別が無さすぎる、あつたところで、その切れ味が悪い、しかも礼儀知らずと来てゐる、だからこそ、俺の方に分があるのにその領分を犯さうなどと考へるのだ、お前にも解つてゐるだらう、あの女が惚れてゐるのは俺の方さ。
カイアロン ディミートリアス、いつも兄貴風を吹かして高飛車に出て来るのはそつちだ、今度の事もさうさ、兄貴は好《い》い気になつて俺を抑へ附けようとしてゐる。年の違ひと言つても高が一つか二つ、それだけの事で俺に分が無く、恋の風は兄貴の方に吹いてゐるなどと、そんな事は言へはしない。俺は兄貴に退けは取らない、あの女を仕合はせにする事も出来る、あの女にふさはしい男にもなれる、よし、かうなつたら、この剣がその証しを立て、その決着を附けてくれよう、俺がどれほどラヴィニアの心を射止めたいと思つてゐるか。
エアロン (傍白)喧嘩だ、喧嘩だ! 恋の鞘当《さやあ》てと来た、街中がひつくり返るぞ。
ディミートリアス 何を、小僧、母上のほんの気紛《きまぐ》れで腰に竹光を着けて貰つたからと言つて、さうまで逆上《の ぼ》せあがり、誰より親しい身内に襲ひ掛らうといふのか? 好い加減にしろ、そんな小枝の切端、しつかり鞘に膠《にかは》附けにして置け、もつとまともに扱へる様になるまではな。
カイアロン その時はその時、今、どれだけやれるか、存分に思ひ知らせてくれる。
ディミートリアス やい、小僧、好い気になるにも程がある、さうまで附け上る気か? (二人、剣を抜く)
エアロン (進み出て)まあ、お待ちなさい、お二人共! 場所も弁へず皇帝の宮殿の直ぐ側で抜身を振りかざし、さうまで大つぴらに争はうとおつしやるのか? 諍ひの因《もと》が何かは十分存じてをります。勿論、私は巨万の金貨をくれると言はれても、実情は誰方《どなた》にもお知らせしますまい、殊にこの諍ひに深い関はりのある方には、いや、お二人の母上にしても、私以上に金づくではお動きになりますまい、ローマの宮廷で御一族の名誉が傷附けられるのを御承知で。恥をお知りなさい、さあ、剣をお収めになつて。
ディミートリアス 俺は断る、この剣を収める鞘は奴の胸の他にはない、今ここで俺の名誉を穢した罵詈雑言《ばりざふごん》を奴の喉元深く突戻してやるまではな。
カイアロン さう出て来るのを待つてゐたのだ、覚悟は出来てゐる、大法螺吹きの臆病者、大口叩《たた》いて喚《わめ》き散らすばかりで、その武器の扱ひ様も知つてはゐまい。
エアロン お止めなさい、お解りにならぬのか! 勇敢なゴート族が崇める神に賭けて申上げるが、この様な詰らぬ喧嘩が因《もと》で吾一族が悉《ことごと》く破滅してしまひかねない。お二人ともお解りにならぬのですか、皇帝一族の権益を侵す事がどれ程危険な事かが? ほう、それともラヴィニアがいつの間にか余程ふしだらな女になつたとでもおつしやりたいのか、或は堕落したのはバシェイナスの方だとでも、いづれにせよ、それであの女の心を巡つてお二人が喧嘩を始めたといふ訳ですか、法や裁判は固より復讐の事もお考へにならずに? お二人共、御用心なさい! もしこの不協和音がお后の耳に這入つたら、如何なる楽の調べも決してお后の心をお楽しませする事はありますまい。
カイアロン 俺の知つたことか、母上に知られようと世界中に知られようとな、俺はラヴィニアを世界中の何物にも増して愛してゐるのだ。
ディミートリアス 若僧、もつと身分の卑しい女を選ぶ様に心掛けろ。ラヴィニアは貴様の兄上様が御所望とおつしやる。
エアロン まあ、お待ちなさい、お二人共気でも狂つたのですか? それとも御存じないのか、ローマの奴等と来た日には、一度激怒に身を委ねたら全く手に負へず、恋敵には決して容赦しないといふ事を? 率直に御注意申上げて置きます、今のお二人の御所業はただ死に急ぎを考へておいでとしか思へません。
カイアロン エアロン、何度でも死んでやるぞ、愛する女を手に入れる為なら。
エアロン え、あの女を手に入れる、どういふ風にして?
ディミートリアス 何をさう驚くのだ? あれは女だ、それなら口説ける、あれは女だ、それなら物に出来る、あれはラヴィニアだ、それなら愛するのが当然。え、どうだ! 粉屋が気附かずとも水が水車を動かす、食ひかけのパンから一撮《ひとつま》み失敬するのは訳も無い事、さうだらうが、成る程、バシェイナスは皇帝の弟だ、が、奴より身分の高い者で間男された男は幾らでもゐる。
エアロン (傍白)さうとも、皇帝サターナイナスも同じ憂き目に遭ひかねない。
ディミートリアス それなら諦める手はあるまい、巧みな言葉に、優しい眼差し、その上気前のいい贈物と、口説きの手練手管を心得た男が? おい、貴様こそ今までに何度も雌鹿を射止めては、森番の目の前で見事それを持ち逃げした事があるだらうが?
エアロン 何だ、それなら、撮《つま》み食ひさへ出来れば、それでお気が晴れるらしい。
カイアロン さうとも、あれだけが何より気晴しさ。
ディミートリアス エアロン、貴様、はつきり言つて退けたな。
エアロン そちらも初めからはつきりさうと言つて下されば、何もこれほど大騒ぎして無駄骨折らずとも済んだでせうに。それなら、一寸お耳を拝借、お耳を! さてと、まさかお二人共こんな下らぬことで掴《つか》み合ひをするほど野暮天ではありますまい? お二人一緒で望みを遂げたのでは面白くないなどとはおつしやらないでせうな?
カイアロン 成る程、俺はそれで結構だ。
ディミートリアス 勿論、俺も、一口ありつけさへすればな。
エアロン 馬鹿しい、それならこの場で直ぐに仲直りだ、そして二人で力を協せて共通の獲物を狙《ねら》ふに限る。何より肝腎なのは作戦です、お二人の手に入れたい物を攻め落さねばならない、先づお二人とも腹を決めることです、物にしたくとも物にならぬ物は、有無を言はさず奪ひ取るしかありません。よく聴いて下さい、かの貞節なるルークリースにしてもバシェイナスの恋人の、あのラヴィニアほどではなかつた。とすれば、恋患ひなどに悶と悩んでゐないで、もつと手取り早い道を選ぶ事です。ところで、私に一つ良い考へがある。宜しいですか、近く貴族連中が猟を催します、そこへはローマ中の美しい貴婦人方もお集りになりませう、森の木蔭の道は広として、到る処に大自然が造り給うた人目に附かぬ場所があり、女を手籠めにし悪事を企《たくら》むには正に持つて来い。そこにあのかはいい雌鹿を群から離して追込み、否応言はさず急所にぐさりと一突き、いえ、それは言葉ではどうにもならなかつたらの話ですが。それに限る、さもなければ、他に望みを遂げる手立ては全くありますまい。まあ、話は最後まで聴いて下さい、お后の事ですが、悪企みと復讐に掛けては誰にも退けを取らぬ、悪智慧に長けたお方だ、この企みについても一切合財お知らせして置きませう、さうすれば、吾の企みに一層磨きをかけてくれる様な名案を何かと授けて下さるに相違無い、お蔭でお二人共詰らぬ諍ひをして互ひに邪魔し合ふ事も無く、揃つてお望みの物を手に入れられませう。宮殿といふのは「噂の館」、口さがない連中が目を光らせ、耳を〓《そばだ》ててゐるだけの場所、それに引換へ、森といふのは冷酷無慙、何をしようが、声も聞えず、姿も見えない、そこでなら口説くもよし、一突きするもよし、生きの良いお二人の事だ、替る替るお楽しみなさい、天の目の届かぬ木蔭で欲望を満し、ラヴィニアの宝物を心ゆくまで味はふが宜しい。
カイアロン その忠告、さすがお前だ、少しも臆病者の匂ひがしない。
ディミートリアス 「正邪を問ふ事勿《なか》れ、」先づこの熱を冷ます冷たい流れを見附け、この激情を静める魔術を見出す事が第一、となれば、「地獄の業火《ごふくわ》も敢へて辞せず」だ。(一同退場)
3
〔第二幕 第二場〕
ローマ近郊、森の中の空地
タイタス・アンドロニカスと彼の三人の息子及びマーカス登場、猟犬の声と角笛の響。
タイタス 猟が始る、朝まだき、空は白と明け初《そ》めた、野には甘い香りが漂ひ、森の樹は美しい緑に輝いてゐる、さあ、猟犬を解き放ち、その吠声《ほえごゑ》に皇帝と美しき花嫁の眠りを醒させろ、そして皇帝の弟君も。猟師共に命じ、角笛《つのぶえ》を高らかに鳴り響かせ、宮廷をその木霊で満すのだ。息子達、任せるぞ、いつもの様に吾の務めとして皇帝の警護を怠るな、昨夜はよく眠れなかつた、が、夜明けと共にすつかり気も晴れた。
この時、一斉に猟犬達の吠声がし、角笛が鳴り響く。サターナイナス、タマラ、バシェイナス、ラヴィニア、カイアロン、ディミートリアス、及び侍者達登場。
タイタス 御機嫌麗はしく何よりと存じます! お后にも同じ御挨拶を! お約束通り猟師共に命じ角笛を高らかに鳴り響かせてお起し申上げました。
サターナイナス それにしても、実に威勢よく鳴り響かせてくれたものだな、諸卿、が、新床《にひどこ》を迎へたばかりの御婦人連にはどうやら少し早過ぎたらしい。
バシェイナス ラヴィニア、どうお答へする積りだ?
ラヴィニア 決してとお答へ申上げませう、二時間余り前に爽かな目醒めを迎へましたもの。
サターナイナス では、出掛けるとしよう、馬と車の用意をしてくれ、さあ、大空のもとに心ゆくまで気晴しを! タマラ、これからローマ人の猟を御覧に入れよう。
マーカス (サターナイナスに)私の猟犬共からお目を離されぬ様、狩場の王者たるかの豹《へう》をも見事狩出し、如何に切立つた高い頂きと雖《いへど》も易駆け登つて見せませう。
タイタス 私の馬にもどうぞお目を、奴は獲物の駆け巡る処、どこまでも跡を追ひ廻し、野の空を飛び交ふ燕の如く速かに駆け巡りませう。
ディミートリアス カイアロン、俺達の猟には馬も猟犬も要らぬ、俺達にはな、ただ狙《ねら》ひはかはいらしい雌鹿一頭、それを大地に組み伏せるだけだ。(一同退場)
4
〔第二幕 第三場〕
エアロン一人、金袋を持つて登場。
エアロン 智慧のある奴から見れば、俺は一片《ひとかけら》の智慧も無いといふ事になるだらうな、これだけの金貨を木の根元に埋めてしまつて、二度とそれを懐《ふところ》にしないといふのだからな。さう俺を軽蔑する奴に一つ教へてやらうか、この金貨を鋳型《いがた》にして策略といふ贋金を造る、その策略が巧く運べば、そこから素晴しい悪事が一つ生れ出る仕掛になつてゐるといふ訳さ、さあ、そこで一休みしてゐるがいい、美しい黄金、奴等を不安のどん底に陥れる為にな、さうよ、后の小匣から施し物をせしめようと狙つてゐる奴等をそのまま放つて置けるものか。(金貨を隠す)
タマラ一人登場し、ムーア人に近附く。
タマラ いとしいエアロン、なぜその様に沈んだ顔を、辺り一面陽気な輝きに満ち溢れてゐるといふのに? 鳥達は繁みのあちこちから美しい囀《さへづ》りを聴かせ、蛇は心地よい日射しの中に蜷《とぐろ》を巻き、緑なす木《こ》の葉は爽かな風に震へて大地の上に市松模様の影を落す、その優しい木蔭に、エアロン、寄り添つて腰を下さう、あのお喋《しやべ》りの木霊に騙《だま》された猟犬共は美しい角笛《つのぶえ》の音に応《こた》へて激しく吠立《ほえた》ててゐる、恰も大空と大地で一時《いつとき》に狩りが始つたかとでも思つてゐるのだらう、さあ、腰を下してあの吠声《ほえごゑ》に耳を傾けよう、あの時の二人もきつとかうだつたに違ひ無い、漂泊《さすらひ》の王子イーニアスとカルタゴの女王ダイドーは、幸ひにも粋《すゐ》な嵐に見舞はれて、秘密を漏さぬ洞窟の帳《とばり》の奥に隠れ、楽しい揉合《もみあ》ひの一時《ひととき》を過したのだらう、あの二人の様に、私達も、互ひに相手の腕《かひな》に抱《いだ》かれて――さうだらう、楽しい一時はもう何度も過して来た私達だもの――今は黄金のまどろみに身を委ねよう、あの猟犬の声と角笛の音、そして小鳥達の甘い囀りは私達にとつては乳母の歌ふ子守唄、赤児を寝かせつけてくれる様な。
エアロン お后、あなたの欲望を左右するのは愛の女神ヴィーナスの金星、だが、私の支配者は陰気な土星です、それ、この死の影を宿した様な私の瞳は一体何なのか、私の沈黙、この雲に蔽はれた陰気な顔附きは、それに、羊の毛の様な髪の毛、それがかうして解《ほつ》れて、恰も蜷《とぐろ》を解いて、今にも敵に襲ひ掛らうとしてゐる蝮《まむし》そつくり、これは一体何なのか? いいや、お后、これはいづれも色恋を仄《ほの》めかす様なものではない。復讐がこの胸中に潜《ひそ》んでゐる、死がこの掌中に蹲《うづくま》つてゐる、血と復讐が私の頭の中を狂ほしく駆け巡《めぐ》つてゐるのだ。聴いてくれ、タマラ、吾が魂の后、この私の魂は天国などを当てにはしてゐない、それよりはあなたの中に安らぎを覚えるのです、今日こそバシェイナスにとつて破滅の日、今日、奴の大事なラヴィニアは、王に犯され、舌を抜かれたピロメーラーと同じ運命に遭ふでせう、あなたの二人の御子息があの女の操を奪ひ、その罪の手をバシェイナスの血で漱ぐのだ。この手紙、御覧になりましたか? お受取り下さい、お願ひだ、この人殺しの企みを秘めた書き物を皇帝に渡して戴きたいのです。今は何もお訊《たづ》ねにならぬ様、誰かに見られたらしい、おお、待つてゐた、獲物の片割れがやつて来る、身の破滅も怖れずに。
バシェイナスとラヴィニア登場。
タマラ ああ、いとしいムーア、私にとつては命よりも大事な人!
エアロン いつまでもそんな事を、お后、バシェイナスが来る。奴に言掛りを附けて下さい、私は御子息達を探して来る、諍ひの加勢をして貰ふのです、諍ひの種は何でも構ひませんから。(退場)
バシェイナス こんな所でまさか、やはりローマ皇帝のお后では、なぜ御身分にふさはしい供廻りの者をお連れになりませぬ? それとも、狩猟の名手、貞節な月の女神ダイアナがお后の衣を纏つて現れたのか、いつもお棲《すま》ひの聖なる杜を脱け出し、この森で行はれてゐる大掛りな狩猟を見物にお出でになつたのでは?
タマラ 何の彼のと差出がましい事を、どこへ行かうとそれは私の勝手! もしダイアナの持つてゐた力がこの身に備はつてさへゐたなら、直ぐにもその額に角を生やしてやりたい、浴《ゆあ》みするダイアナを覗き見したアクティオーンの様に、さうすれば猟犬共が鹿に変へられたあなたの体に跳び掛つて来るだらう、臆面も無い差出口、無礼にも程がある!
ラヴィニア お言葉を返す様でございますが、お后様、世上の取沙汰《とりざた》では、お后には殿方に角を生やさせる才に特に長《た》けておいでとの事、あのお側に仕へるムーア人とお二人でひそかに脱け出していらしたのもその腕前を試して見る為だとか。ジュピター、どうぞこの方の夫をお守り下さり、けふの様な日に猟犬共に襲はれません様に! それこそお気の毒と申すもの、もし犬共が御主人を角を生やした鹿と間違へでもしたら。
バシェイナス 正直に申上げよう、お后、御贔屓《ごひいき》の黒人ムーアはあなたの名誉までその肌の色に染め、黒と汚し、呪はしくも厭はしいものにしてしまつた。なぜ供廻りの者達をお卻《しりぞ》けになり、白雪の如く美しい駿馬《しゆんめ》をお捨てになつてまで、このやうな薄暗い処を出歩いておいでになるのか、さうしてお伴は唯一人、あの野蛮なムーアだけ、なぜその様な事をなさるのだ、もし穢《けがら》はしい欲情に吾を忘れたのではないとしたなら?
ラヴィニア それなら、お愉《たの》しみの最中を邪魔されたのですもの、当然と申せませう、何の罪咎《とが》も無い私の夫を無礼者呼ばはりなさるのも。バシェイナス、私達は失礼してあちらへ参り、お后には鴉《からす》の様に真黒なお好きな人と存分に楽しく過せる様にして差上げませう、この谷間はさういふ事には正にうつてつけですもの。
バシェイナス 兄の皇帝の耳にもいづれこの事は伝はるだらう。
ラヴィニア ええ、さう、前から兄上はこの事で蔭口を叩《たた》かれていらつしやる。立派な皇帝なのに、こんなにひどい侮辱を受けるなんて!
タマラ これだけ言はれて平然と我慢してゐられようか?
カイアロン及びディミートリアス登場。
ディミートリアス どうなさいました、吾等がお后にして吾が母上、なぜその様に青ざめたお顔をしておいでになる?
タマラ 青ざめるのも当然、さう思つておくれでないのか? この二人が私をこんな処へ引張つて来たのだよ、この荒れ果てた谷間へ、見ればお解りだらう、木といふ木は、夏だといふのに、すつかり生気を失ひ、葉も附けず、苔に覆はれ宿り木に蝕《むしば》まれてゐる。陽《ひ》の光も射さず、棲《す》みつく生き物など何処にもゐはしない、ただ真夜中に騒ぐ梟《ふくろふ》と不吉な鴉がゐるだけ、さうして奴等は私にこの怖しい穴を見せて、かう言つたのだよ、ここでは、真夜中になると数知れぬ悪魔や、不気味な舌の音を立てる蛇、体を膨《ふくら》ませた無数の蟇《ひき》や小鬼が化けた針鼠が怖し気な声を上げて一斉《いつせい》に鳴き交す、そして、それを耳にした生き物は皆、そのまま気が狂つてしまふか、忽ちその場で死んでしまふのだと。こんな怖しい話を聞かせたかと思ふと、奴等は直ぐに続けてかう言つたのだ、この私をその不吉な水松《いちゐ》の幹に縛り附け、酷たらしく野垂れ死にさせてやるなどと。それから二人して私に悪態をつき、穢はしい姦婦とか、色気違ひのゴート人とか、さうした意味の有りとあらゆる罵詈雑言を浴びせ掛けたのだ。運よくお前達が来てくれなかつたら、奴等は私をひどい目に遭はせてゐたことだらう。復讐をしておくれ、この母の命を大切だと思つてくれるなら、さもなければ、今後私の息子と呼んでは貰へないと思つておくれ。
ディミートリアス 母上の息子である証拠はこれだ。(バシェイナスを刺す)
カイアロン ついでに俺の分も、骨まで一突きに、思ひ知つたか、俺の腕を。(同じく刺す)
ラヴィニア さあ、どうとでもおし、お前はセミラミスの生れ替り、ああ、さうに違ひ無い、残忍無比なタマラ! さう呼ぶより他にお前の本性にふさはしい名がまたとあらうか!
タマラ 短剣をお貸し! 息子達、お前達の母親が受けた辱しめは母自らの手で雪《そそ》いで見せる。
ディミートリアス 待つて下さい、母上、この女にはまだ用がある。先づは麦の中身を頂戴する事、藁を焼くのはその後でも遅くはない。このじやじや馬が何より大事にしてゐるのは操を守る事、詰り結婚の誓とか夫に対する貞節とかで、そんなありもしない絵空事を並べ立てて、事もあらうにお后に楯突いてゐるのだ。そのお宝を身に附けたままこの女を墓穴に送込んでしまはうとおつしやるのですか?
カイアロン そんな事が許してやれるなら、俺はいつそ宦官《くわんぐわん》宜しく去勢して貰ひたいね。それよりはこの女の亭主の死骸をどこか人目に附かぬ洞穴《ほらあな》に引きずつて行き、その動かぬ胴体を枕にして、俺達の情欲をたつぷり満足させるに越した事は無い。
タマラ それなら、お前達が嘗《な》めたい蜜をすつかり吸ひ尽してしまつたら、それでこの蜂はもう御用済み、後は生かして置くのではない、さもないと、私達を刺し殺しかねないからね。
カイアロン 御安心なさい、母上、万事抜かりなくやります、さあ、来るがいい、奥方、力づくでも楽しませて戴かう、勿体つけて大事にしておいでの、そのお前さんの操とやらをな。
ラヴィニア ああ、タマラ! あなたも女の筈、それなら――
タマラ この女の言ふ事は何も聞きたくない、早く連れてお行き。
ラヴィニア お二人にお願ひします、お母上に申上げて、唯一言でいい、私の言葉に耳を藉《か》して下さる様にと。
ディミートリアス 聴いておやりなさい、母上、それこそ、この女の流す涙を御自分の誇りとなさるに若《し》くはない、勿論、それにお心を動かされる事無く、雨の滴《しづく》を弾ね返す堅固な巌の平静をお保ちになる様に。
ラヴィニア 若い虎がその生みの親に智慧を授けた事があつただらうか? そんな必要は無い、母虎に向つて猛り方を教へるなどと、それは母親がお前に教へておいてくれた筈。その母親から吸取つた乳はお前の中で硬い石と化し、昔、その乳首を銜《くは》へてゐた頃から、お前は今と少しも変らず残忍な心を持つてゐた。が、どんな母親も自分の息子達を同じ様に育てはしまい、(カイアロンに)お母上に頼んで、女らしい憐みを見せて下さる様にと。
カイアロン 馬鹿な! お前はこの俺だけが后の継子《ままこ》であつて貰ひたいとでも思つてゐるのか?
ラヴィニア その通り、鴉から雲雀《ひばり》の雛が生れはしない、でも、前に聞いた事がある――ああ、それが今起つてくれれば!――獅子が、憐みに心を動かされ、その王者の爪が一つ一つ切り落されて行くのにじつと耐へてゐたとか、いいえ、鴉でさへ親に捨てられた人の子を養ひ育てたといふ、己が雛は巣の中で飢ゑてゐるといふのに、ああ、お願ひ、たとへその頑な心が否と言つたとしても、鴉ほどの思遣りを求めはしない、せめてその気持の一片《ひとかけら》でも!
タマラ 私には意味が解らない、何が言ひたいのか、さ、その女を早く連れて行つておくれ!
ラヴィニア 待つて、それなら教へてあげませう、私の父の名誉に懸けて、あの時、父はあなたの命を助けて差上げた、自分の心一つで直ぐにもあなたを殺せた筈。お願ひします、さう頑にならず、私の言ふ事にも耳を開いて。
タマラ お前一人の事なら許せもしようが、そのお前の父の為と言はれた以上、憐みの一片《ひとかけら》も湧きはしない。まさか忘れはしまい、息子達、生贄にされたお前達の兄を救ふ為に、私が涙を振り絞つて頼んでも、残虐非道なアンドロニカスは何の情け容赦もしてはくれなかつた。さあ、その女を何処へでも連れて行つて、好きな様に弄んでおやり、ひどい目に遭はせてやればやるほど、この母に喜んで貰へると思ふがいい。
ラヴィニア (タマラの膝に縋附き)ああ、タマラ、優しい女王、さう呼ばせて貰ひませう、その代りその手で今直ぐこの場で私を殺すがいい! 命を助けてくれと頼んでゐるのではない、私はもう死んでゐるのだもの、あのバシェイナスが殺された時に。
タマラ ではどうしてくれと言ひたいのか? 愚かな女が、さ、その手を放して。
ラヴィニア 今直ぐこの場で殺してくれと言つてゐるのに、それにもう一つ頼みが、女の身として、口には出せぬ事だが。ああ、この私を人殺しよりも醜い欲情から守つてくれる様に、そしてどこでもいい、気味の悪い穴の中にこの身を投込み、二度と人目に触れぬ様にしておくれ、さあ、早くさうして、人殺しにも慈悲を。
タマラ それでは息子達から褒美の手間賃を取上げる事になる、もう沢山、さあ、この子達にお前の体を存分楽しませてやらう。
ディミートリアス さあ、行け! 待ちくたびれて痺れが切れたぞ。
ラヴィニア 慈悲はないのか? 露ほどの女らしさも持合はせてゐないのか? ああ、獣! 女の名を穢す女の敵! お前の頭上に破滅が――
カイアロン ほざくな、その口を黙らせてやる。(ラヴィニアに猿轡《さるぐつわ》を噛ませる)ディミートリアス、この女の亭主をあそこへ。その穴だ、エアロンがそいつの死骸を隠す様に言つてゐたのは。
ディミートリアスが死骸を穴に抛込み、木の枝で覆ふ、それから二人でラヴィニアを間に挟み引きずつて退場。
タマラ では、また後で、息子達、その女、くれぐれも抜かりの無い様に。でも、私の心はまだ本当の喜びを知つてはゐない、あのアンドロニカスの一族をいづれ鏖《みなごろ》しにしてしまはぬうちは。が、今の処はいとしいムーアに会ひたい、猛り狂つた息子達にはあの売女《ばいた》を、思ふ存分、花園を荒してやるがいい。(退場)
他方からエアロンがクィンタス、マーシアスと共に登場。
エアロン さあ、こちらです、脚下《あしもと》にお気を附けになつて! 直ぐそこです、例の薄気味悪い穴は、ええ、さつきは確かに豹がぐつすり眠りこけてをりました。
クィンタス 目が良く見えないのだ、どういふ訳か。
マーシアス こちらも御同様、本当なのだ、恥も外聞も気にせずに済ませられれば、このまま猟を止めて引揚げ、一眠りしたいところだ。(穴に落ちる)
クィンタス おい、穴に落ちたのか? 油断出来ないぞ、この穴は、上辺《うはべ》は一面、茨に覆はれ、その葉にはあちこち点と新しい血しぶきの跡がある、どうしたのだらう、それも花弁《はなびら》の上に降りた朝露の様に生しい、をかしいと思はないか? 何だか不吉な気がする。何か言つてくれ、マーシアス、大丈夫か、怪我は無かつたか?
マーシアス おお、クィンタス、大変だぞ、怪我をしたのは目だ、世にも悲惨な姿を生れて初めて見せ附けられたこの俺の目だ、見ただけで胸が締附けられる。
エアロン (傍白)さてと、今度は皇帝にここまでお出まし願ひ、此奴等が現場にゐるところをお見届け戴くといふ寸法だ、それを手掛りに皇帝は何とか察しを附けてくれるだらう、これこれかういふ訳で此奴等は弟バシェイナスを片附けたのに違ひ無いとね。(退場)
マーシアス なぜ助けてくれないのだ、自分の弟を、この陰気な血みどろの穢れた穴から?
クィンタス 何とも言ひ知れぬ恐怖が俺を襲ふ、冷汗が打震へる手足を伝つて流れ、今俺の目に見える物より遥かに忌はしい不安が俺の心を惑はしてゐるのだ。
マーシアス その胸騒ぎは当つてゐる、嘘だと思ふならエアロンも兄上もこの穴の中を覗いて見るがいい、血に塗《まみ》れた無慙な死骸が見えるだらう。
クィンタス エアロンは何処かへ行つてしまつた、俺の心は憐みに動かされ、想像しただけでもぞつとする様なものをこの目に見せようとしないのだ、おお、教へてくれ、そいつは一体誰なのだ、今日までの俺は得体の知れぬ物などに怯《おび》えるほど子供ではなかつた筈だからな。
マーシアス 皇帝の弟君バシェイナスが朱《あけ》に染つて血の海に倒れてゐるのだ、身をよぢらせた五体は惨殺された仔羊さながら、この暗黒の悪魔の棲家、飽く事無く血を吸込む穴倉の中に無慙な姿を横たへてゐる。
クィンタス 中は暗黒だといふのに、なぜそれがバシェイナスと解るのだ?
マーシアス 血塗れの指に嵌《は》めた立派な指輪が、この穴の中を隅まで照し出し、霊廟《みたまや》に点る蝋燭の様に、土気色した死者の頬を浮上らせ、この穴の内側の凄じい形相をまざまざと見せてくれるのだ。夜《よる》よなか、乙女の血に染つて斃《たふ》れたピラマスの姿を照し出してくれた月の光もこの様に青ざめてゐたのだらう。おお、クィンタス、その萎《な》えた手に力を籠めて救ひ出してくれ――恐怖の余り力も抜けてしまつたかも知れぬが、こちらもさうなのだ――頼む、人を破滅に陥れるこの怖るべき墓穴から、霧にかすんだ黄泉の国の入口にも紛《まが》ふこの墓穴から、何とか救ひ出してくれ。
クィンタス 手を伸ばすのだ、さうすれば引揚げてやれるかも知れない、いや、駄目だ、それだけの力も出さうにない、この深い穴の胎内に、気の毒なバシェイナスの墓の中に、吸込まれてしまひさうだ。(必死に努力する)どうしても縁まで引揚げてやる力が無い。
マーシアス 俺にも助け無しで這上る力はとても無い。
クィンタス もう一度手を、二度と離しはせぬ、お前を引揚げてやるか俺が引摺《ひきず》り込まれるか。(再び必死の努力をする)どうしても上つて来られないのなら、こちらがお前の処へ。(落ちる)
皇帝及びムーア人エアロン登場。
サターナイナス おい、一緒に附いて来い! 確かめてやる、何の穴だらう、あれは、それに今その中に跳込んだ男がゐる、あれは何者か。答へろ、誰だ、貴様は、私ははつきりこの目で見たのだ、たつた今、貴様がこの大地に口を開いた空ろな顎を目がけて跳込んだ処を?
マーシアス アンドロニカスの不運な息子達にございます、ここに連れて来られ何の巡《めぐ》り合はせか忌はしい光景に出遭はせました、弟君、バシェイナスの御遺骸がここに。
サターナイナス 弟が死んでゐる! 冗談も程にしろ、あれはラヴィニアと二人で亭《あづまや》に休んでゐる、この浮き立つ猟場の、それ、その北側にある、そこで別れてから一時間と経つてはゐないぞ。
マーシアス 御存命中どこでお別れになつたかは存じませぬ、が、何とお痛ましい事か! 私共がここへ参りました時には、既に亡《なくな》つておいででした。
タマラ、アンドロニカス、及びルーシアス登場。
タマラ 皇帝はどちらに?
サターナイナス ここだ、タマラ、激しい悲しみに心を揺さぶられて。
タマラ 弟の、バシェイナスは?
サターナイナス 正にその一言《ひとこと》、心の痛手を深く抉られる想ひがする、かはいさうに、バシェイナスは殺されて、そこに横たはつてゐる。
タマラ それではやはり間に合はなかつたのか、この不吉な手紙をお届けするのが、思ひも寄らぬ惨劇の筋立を書き記したこの手紙を。人間の顔がその穏かな頬笑みの裏にこれほど血腥《なまぐさ》い冷酷な心を包み隠す事が出来るとは、さすがにこの私も。(サターナイナスに手紙を渡す)
サターナイナス (読む)「もし運よく奴に会へなかつたら――吾等が仲間の狩人殿、その、奴といふのは、勿論、バシェイナスの事だが――せめて奴の為に墓穴だけでも掘つてやつてくれ。吾の肚は大よそ察しが附いてゐよう。報酬は接骨木《にはとこ》の側の蕁麻《いらくさ》の蔭に隠してある、バシェイナスを埋める手筈《てはず》になつてゐる例の穴の上に枝を張つてゐる木の根がただ。手際よく事を運んでくれれば吾は末長く君の身方とならう。」おお、タマラ! この様な話を聴いた事があるか? これがその穴だ、接骨木の木もある。皆で探せ、バシェイナスを殺したその狩人とやらも見附かるかも知れぬ。
エアロン おお、ここに金貨の入つた袋があります。(袋を見附け出す)
サターナイナス (タイタスに)貴様の小僧が二人、血に飢ゑた残忍な野良犬の本性を現し、俺の弟をここで手に掛けたのだ。皆、奴等を穴から引きずり出し牢獄に打込め、そこに奴等を閉込めて置き、未だ嘗て思ひも附かなかつた様な拷問の手立てを工夫して、いづれその責苦を味ははせてやる。
タマラ え、あの二人がこの穴の中に? おお、夢にも考へられない恐しい事が! 人殺しがこれほどたやすく露見してしまふとは! (家臣数名がタイタスの息子等を引張り出す)
タイタス 皇帝、サターナイナス、この老いさらばへた膝を七重に屈《かが》めてお願ひ申上げます、軽に人には見せぬ涙と共に。この残忍極まる罪を犯した呪ふべき息子共を、正に呪ふべき奴ばらにございます、もしこの大罪を犯した者が明かに彼等と判りました暁には――
サターナイナス 明かに判つた暁にはと! 言ふまでもあるまい、歴然としてゐるではないか。誰がこの手紙を見つけたのだ? タマラ、お前か?
タマラ いえ、アンドロニカス御自身が拾つたのでございます。
タイタス 確かに私が見附けました、が、この身を抵当《か た》に息子共の身柄を当方にお預け下さいます様、吾が父祖の名誉ある霊廟に賭けてお誓ひ申上げる、この者共は御心のまま、疑ひの霽《は》れませぬ時は、必ずやこの身自らが処分してお目に掛けませう。
サターナイナス お前を抵当《か た》にこいつ等の身柄を任せる訳には行かぬ、お前はこの身に附いて来るがよい。誰か亡骸を運ぶ様に、他の者は人殺し共を、言ひ訳は一言も許すな、罪科は明かだ、この世に死よりも恐しい終りがあるものなら、それこそ奴等の処刑に何よりふさはしい物であらう。
タマラ アンドロニカス、皇帝には私から取成《とりな》して差上げませう、御子息の事は心配なさらぬ様に、必ず御期待通りに計ひませう。
タイタス さあ、ルーシアス、一緒に来るがいい、ここにゐてあの子達と話をせぬ方がよい。(一同退場)
5
〔第二幕 第四場〕
后の息子達がラヴィニアを連れて登場、ラヴィニアは両手首を斬り落され、舌も斬り取られ、凌辱された姿。
ディミートリアス さあ、行け、誰にでも知らせてやるがいい、その舌で物が言へるなら、誰がお前の舌を斬り、お前を辱《はづか》しめたかをな。
カイアロン 思ひのたけを書き記し、事の次第を皆に告げ報せてやるがいい、その切株の様な手に書記役が勤まるものならな。
ディミートリアス 見ろ、身振り手振りのこの黙り芝居、結構楽しめる、お楽しみの後の俺達にはな。
カイアロン 家に戻つて、香料入りの水をと言つて、先づ手を洗ふ事だ。
ディミートリアス 何を言ふにしても、その舌も無ければ洗ふ手もない、この際、黙つてそぞろ歩きを楽しんで戴くより他はあるまい。
カイアロン 俺がこんな目に遭はされたら、きつと首を括《くく》るだらうな。
ディミートリアス 縄《なは》を綯《な》ふ手がありさへすればね。(二人退場)
マーカスが猟から戻つて来る。
マーカス 誰だ? 姪ではないか、何で逃げるのだ! ラヴィニア、待て、お前のバシェイナスはどこにゐる? (ラヴィニア、振返る)もしこれが夢なら、俺の全財産に代へても目を醒させて貰ひたい! もしこれが夢でないなら、大空の惑星よ、この俺を打砕き、永遠の眠りに憩はせて貰ひたい! さあ、答へるのだ、ラヴィニア、一体誰なのだ、お前の美しい一番《ひとつが》ひの小枝を無慙にも斬り落し親木を丸裸にした極悪非道の輩は? その親木を美しく飾つてゐたあの小枝、その下蔭に数多《あまた》の王侯貴族はひたすら憩ひの場を求め、お前の差しのべる愛の手に較べれば、如何なる幸福も取るに足らぬものと思つた事であらう。なぜ答へてくれぬ? おお、酷い事を、熱い真紅の血の流れが、風に繁吹《しぶ》く泉の如く、その薔薇の唇の間から絶え間無く吹出し流れ落ちてゐる、その蜜の様な甘い息に調子を合はせて。さうだ、間違ひ無い、トラキア王ティリュウスの様な奴がお前を凌辱し、お前に喋られるのを怖れ、その舌を斬り落したのだらう。ああ、さうして顔を背ける、恥辱に堪へられぬのであらう! そればかりか、三つの滝口を持つた湖の様に、そんなに血を流してゐながら、それでもなほ、雲に遮られて照り映えてゐる日輪の面さながら、そのお前の頬は紅く染つてゐる。お前に代つてこの私に事実が話せないものだらうか? 起つた事をありのままこの私に話せないものだらうか? おお、お前の心が読めさへしたら、その野獣が誰か解りさへしたら、そいつ等に罵詈雑言《ばりざふごん》を浴びせ掛け、少しは鬱憤を晴せように! 秘められた悲しみは、鎖された竈《かまど》の様にその中に閉ぢ籠められた心を焼き尽し、果てはその燃え滓《かす》が残るだけだ。美しいピロメーラー、あの女が失つたのは舌だけだつた、それ故、己が苦しい胸の内を衣の縫取りの中に何とか描き出す事も出来たのだ、が、このかはいい姪は、お前は、その針持つ手を斬り落されてしまつた、神話に出て来るティリュウスより遥かに狡賢いティリュウスがゐるらしい、ラヴィニア、お前を襲つたのはそいつだ、そいつがあの優しい指を斬り落してしまつたのだ、その指でピロメーラーより遥に美しい縫取りを描き出す事も出来たのに。おお、呪ふべき化物め、そいつは見た事があるのか、お前のあの白百合の手がポプラの葉先の様にリュートを掻き鳴らし、その絹の絃が喜んでお前の手に口附けする様を、もしもそれを見た事があるなら、そいつも決してお前の手に触れようとさへしなかつたであらうに! そいつは聴いた事があるのか、天上の楽の音にも紛《まが》ふあの優しい舌の歌声を、もしもそれを聴いた事があるなら、そいつも手にした剣を落し、快い眠りに誘はれてしまつた事であらう、あの地獄の番犬サーベラスがトラキアの詩人、オルフェウスの奏でる竪琴の音に誘はれ、その足元に眠りこけてしまつた様に。さあ、行かう、お前の父親を盲《めしひ》にしてやるのだ、この様な娘の姿を目の辺りにすればどんな父親も盲にならう。嵐が一時間も続けば香はしい牧場も水の底に沈んでしまふ、涙の雨が何箇月も続いたらお前の父親の目は一体どうなるのだ? 逃げ隠れする事は無い、皆、お前と共に泣いてやるぞ、おお、その皆の涙でお前の惨めな悲しみを少しでも和らげてやれるものなら! (二人退場)
6
〔第三幕 第一場〕
裁判官数名及び元老達が縛られたタイタスの二人の息子を引連れて登場、処刑の場へと通る、タイタスは彼等の先へ廻つて歎願する。
タイタス 頼む、私の話を聴いてくれ、元老諸卿、護民官、ほんの一言でいい! 老いたこの身に露ほどの憐れみを、嘗てこの身の若かつた頃は常に危険な戦場で日を過し、その間、あなた方は心安んじて眠る事が出来たのだ、ローマの為の大いなる戦にこの身が流した血に免じて、敵襲に備へて一睡もしなかつたあの凍《い》てつく夜の見張りに免じて、さうして、それ、この通り年老いた頬に刻まれた皺《しわ》を伝はり流れる苦い涙に免じて、お願ひする、この死を宣せられた息子共に諸卿の憐れみを、この者達の魂は取沙汰されてゐるほど穢れたものではない。嘗て失つた二十二人の息子の為に私は決して涙を流しはしなかつた、あれ達は誇らかに名誉の眠りに就いたのだ。
アンドロニカス身を投出す、裁判官達はその横を通り過ぎる。
タイタス が、この二人の為には、護民官、俺はこの土塊《つちくれ》にかうして刻込まねばをられぬ、この心の深い悲しみを、この魂の苦い涙を、その涙を以て渇き切つた大地の欲望を満してやつてくれ、息子達の清き血には土塊《つちくれ》もこれを恥ぢ、顔を赤らめよう。おお、この大地、俺はお前の良き友となり、雨を降り注がせてやらう、この二つの老いた水差しから絞り出した涙の雨を、若さに溢れた四月の春雨にも負けずに。旱魃《かんばつ》の夏が来てもなほ俺はお前の上に雨を降らせてやる、冬には熱い涙を以て雪をも溶し、お前の面に永遠の春を保たしめてやる、頼む、最愛の息子達の血だけは飲まないでくれ。
ルーシアス、抜剣して登場。
タイタス おお、敬愛する護民官達! 高貴なる元老諸卿! 息子達の縄を解き、死刑の宣告を取消しては下さらぬか、敢へて言はせて貰はう、未《いま》だ嘗て泣いた事の無い男だ、その涙に優る雄弁はない。
ルーシアス おお、父上、歎いても何の役にも立ちません、護民官共は聴いてはゐない、もう誰もゐはしません、悲しみを石に向つて聞かせようとおつしやるのか。
タイタス ああ、ルーシアス、お前の弟達の為に言はせてくれ。護民官、俺の頼みをもう一度聴いてくれ。
ルーシアス 父上、護民官はもう行つてしまひました、誰も父上の言葉を聴いてはをりません。
タイタス 何、構ふものか、ルーシアス、たとへ聴いてくれた処で、奴等、気にも懸けてはくれぬ、気に懸けてくれた処で、憐れんでくれはせぬ、が、それでも聴いて貰はずにはゐられないのだ、所詮は空しき足掻《あが》きと分つてはゐる……ただ俺はこの胸の悶《もだ》えを路上の石に向つて語るだけの事、いや、石がその苦悩に答へてくれようとは思はぬ、が、それでも護民官共よりはまだましであらう、俺の話を遮つたりはせぬからな。俺が歎けば、石は優しく脚下にひれ伏し、俺の涙を吸込んで、どうやら貰ひ泣きしてくれてゐるらしい。もしこいつらが立派な衣を身に着けさへすれば、ローマもこれに優る護民官を持つ事は出来まい。石は蝋の様に柔く、護民官は石よりも固い、石は黙《もく》して人の心を傷附けず、護民官は舌の動き一つで人の命を死に導く。(立上る)しかし、どうしてお前、剣など抜いてゐるのだ?
ルーシアス 二人の弟を死から救はうとしたのです、お蔭で裁判官共から生涯追放を宣告されました。
タイタス おお、幸せな男だ! 奴等、お前には随分優しくしてくれたものだな、お人好しにも程があるぞ、ルーシアス、まだ解らないのか、このローマは残忍な虎共のうろつき廻る荒れ野に過ぎないといふ事が? 虎は餌食を求めて止まない、が、ローマにはその餌食が無い、俺とその一族以外にはな。とすれば、お前は誰よりも幸せ者、飢ゑた野獣の檻《をり》から追放されるとは! 待て、誰だ、そこに弟のマーカスと一緒にやつて来るのは?
マーカス、ラヴィニアを伴つて登場。
マーカス タイタス、しつかりしてくれ、その老いの目を泣き腫《はら》す心構へを、それが性に合はぬと言ふなら、その高邁な心を引裂く覚悟を。私が齎《もたら》した悲しみは年老いた兄上を一挙に薙《な》ぎ倒しかねないものなのだ。
タイタス この身を薙《な》ぎ倒す? それなら憚る事は無い、さあ、見せてくれ。
マーカス これを見ろ、嘗てはあなたの娘だつたラヴィニアを。
タイタス 何を言ふ、マーカス、これは今でも俺の娘だ。
ルーシアス ああ、どうしてくれる! その姿、この兄の命を!
タイタス 情けない奴だ、立て、この妹の姿をよく見てやれ。言つてくれ、ラヴィニア、手を下した奴は誰なのだ、呪つても飽き足りぬ、手無しのお前をこの父親の目の前に送つて遣《よこ》した奴は? 一体、何処のどいつだ、大海に水を注ぎ、紅と燃え盛るトロイに薪を投込む様な馬鹿な真似をする奴は? お前がその姿で現れる前に俺の歎きは既にその極みに達してゐた、それが今やナイルの流れの如く溢れ拡り、堤の高さなど苦も無く乗越える。剣をよこせ、己が両の手も斬り落してくれる、さうせずにゐられるものか、嘗てこの手はローマの為に戦つた、が、今やすべてが空しく終つたのだ、そればかりか、他ならぬこの手が今の苦しみを育てた事になる、この口に食物を与へ今日まで俺を生かして来たのだからな、何の御利益も無い祈りの為に差し延べたこの手、それが何一つこの俺の為に尽してはくれなかつた。今となつては、尽して貰ひたい事といへば、どちらか一方の手が、もう一方の手を斬り落すのを手伝つてくれる事だけだ。良かつたな、ラヴィニア、お前には両手とも無い、さうではないか、この手を以てローマの為に尽した処で、すべては空しく終るだけだからな。
ルーシアス 言つてくれ、優しい妹、相手は誰なのだ、お前をそんな不具《かたは》にしてしまつたのは?
マーカス おお、これは自分の想ひを伝へる手立て、人の耳を楽しませ、胸中の想ひを言葉に託したその舌までも斬り落され、かはいらしい鳥籠は空になつてしまつたのだ、その中で、甘い調べを囀《さへづ》る小鳥の様に、数の美しい調べを歌つて聞かせ、その妙なる歌声に聴入る者すべてを酔はせた舌はもう無いのだ!
ルーシアス おお、叔父上、これに代つて話して下さい、誰がこんな事を?
マーカス おお、私が姪を見附けたのは、既にこの姿で森を彷徨《さまよ》つてゐる時だつた、これは深手を負つた鹿の様に、急いで己が姿を隠さうとしたのだ。
タイタス 俺にとつてこれはかはいい仔鹿、それをこんな目に遭はせ、この俺に深い痛手を負はせた、そいつ、いつそ俺を殺してくれた方がまだましだつた。俺は、今、荒れ狂ふ大海の真只中の巌の上に唯一人立ちはだかつてゐる様なものだ、打寄せる潮のうねりが一波毎に高くなるのをじつと見詰めながら、やがて敵意に満ちた大波がその塩辛い腹の中にこの俺を呑込んでくれるのをひたすら待つてゐる。今そこを死に向つて、俺の哀れな息子達が連去られて行くのを見た、ここに残されたもう一人の息子は追放の身、そしてまた唯一人の弟が俺の不幸に涙を流してゐる、が、俺の魂に何より酷い卑劣な一撃を与へたのは、この大事なラヴィニア、己が魂にも増して大事な娘の姿だ。たとへさういふお前の絵姿を目にしただけでも、気が狂つてしまひかねないこの俺だといふのに。どうしたらいいのだ、現に生きながらさうまで変り果てたお前の姿を目の前にして? お前にはその涙を拭《ぬぐ》ふ手が無い、自分をこんな姿にした奴が何者か、それを教へる舌が無い、夫には死なれ、その死が因《もと》で二人の兄は死の宣告を受け、今頃は刑場の露と消えてゐよう。見ろ、マーカス! ああ、ルーシアス、これを見ろ! 俺が今これの兄達の話に触れた時、清い涙がまたもこれの頬を濡らす、摘取《むしりと》られた百合の花が殆ど萎《しを》れ掛つてゐるといふのに、なほも雌蕊《めしべ》から甘い露を滴《したた》らす様にな。
マーカス ひよつとするとその涙は二人の兄が自分の夫を殺したからかもしれぬ、それとも兄が無実であることを知つてゐるからか。
タイタス もし二人がお前の夫を殺したのだとしたら、寧ろ喜べ、国法によつて既に二人は復讐されたではないか。いや、何を馬鹿な、二人は決してそんな卑劣な真似をする筈が無い、何よりの証拠はこの子の悲しみ、見れば解らう。かはいいラヴィニア、その唇に口附けを、いや、せめてその身振りで教へてくれぬか、どうしたらお前の悲しみを和らげられるのか、お前の叔父と、兄のルーシアスと、そしてお前とこの父と、噴水の周りに腰を降し、揃つてその水の中を覗き込み、皆の頬が見る影も無く汚《よご》れ果て、それが洪水の後の泥に塗《まみ》れてまだ乾かぬ牧場の様になつてしまつてゐるのを、この目ではつきり見てやらうか? そしていつまでもその水面に見入つてゐるうちに、その清らかな水から清らかな味はひが消え失せ、つひには皆の苦い涙で水面が濁り、すつかり塩辛くなつてしまふまで? それとも俺達もこの両手を斬り落してしまはうか、それ、その様に? それより舌を噛切り、黙り芝居よろしく醜い余生を送るとしようか? 一体どうすればいいのだ? さあ、俺達にはまだ舌がある、それを働かせて今よりも遥かに惨めな境涯に陥る手立てを一つ考へてやらうではないか、後までもそれを知つて誰もが愕然とする様な手立てを。
ルーシアス お願ひだ、父上、歎くのは止めて下さい、父上の悲歎に誘はれて、さらでだに惨めな妹が、それ、この様に涙に噎《むせ》び、泣き悶《もだ》えてゐるではありませんか。
マーカス こらへるのだ、ラヴィニア。タイタス、濡れたその目の曇りを拭《ぬぐ》へ。(ハンカチーフを差出す)
タイタス ああ、マーカス、俺の弟、マーカス! この裂《き》れは俺の涙の一滴も呑み干せはせぬ、済まぬ、弟、見ろ、これを、お前の涙にすつかり溺れてしまつてゐるではないか。
ルーシアス ああ、ラヴィニア、俺がその頬を拭いてやらう。(ハンカチーフを差出すが、ラヴィニアは頭を振る)
タイタス 見ろ、マーカス、あれを見ろ! 俺には解るのだ、これの身振りが何を言はうとしてゐるのかが。もしこれに舌があつたら、今、兄に言はうとしたのは、俺がお前に言つたのときつと同じ事だらう。その兄の裂れはこれの深い苦しみの涙ですつかり水浸しにされてしまひ、その悲しい頬を拭はうにも何の役にも立ちはせぬ。おお、不幸を同じくする者の心はかうも通じ合ふのか! 救ひはもう何処からもやつて来ない、地獄の底に天使が訪れる筈があるものか!
ムーア人エアロン一人登場。
エアロン タイタス・アンドロニカス、皇帝からのお言葉を伝へる、二人の息子の命が惜しいなら、三人のうちの一人、マーカスかルーシアスか、それともタイタス自らの、いや、その他誰でもよい、アンドロニカス一族の者一人、その片手を斬り、直ちに皇帝の許に送り届ける様に。その代り皇帝は二人を生きながらにこちらへ送り届ける様、お手配下さるとの事、謂はば斬り落した腕を保釈金として二人の咎《とが》をお許し下さるといふ訳だ。
タイタス おお、慈悲深き皇帝! 思遣り深きエアロン! 未だ嘗て鴉がこの様な快い囀りを聴かせてくれた事があつたらうか、あの、日の出を逸早く報せてくれる雲雀の様に? 心を籠めて、皇帝の御前に私の手をお届けしよう、お手数だが、エアロン、この手を斬り落すのに手を貸してくれぬか?
ルーシアス 待つて下さい、父上! その尊いお手、数知れぬ祖国の敵を薙《な》ぎ倒したその手を渡してはなりません、代りにこの私の手を。私はまだ若い、その若さがまだしも失つた血の補ひを附けてくれませう、お願ひです、この手に代へて弟達の命を救つてやります。
マーカス お前のその手はどちらもローマを守つた手ではないか、戦場で血染めの斧《をの》を揮《ふる》ひ、敵の城壁に破壊の一撃を振り下した手ではなかつたか? おお、二人はいづれも赫《かくかく》たる勲を立ててゐる。が、私の手だけはけふまで何もしては来なかつた、その手を保釈金として二人の甥を死から救ひ出させてやつてくれ、さうすればかうして今までこの手を取つて置いた甲斐《かひ》があるといふものだ。
エアロン さあ、早くしてくれ、誰の手を遣《よこ》すと言ふのか、遅れると赦免の報せが間に合はず二人は殺されてしまふかも知れぬ。
マーカス 俺の手を持つて行くがいい。
ルーシアス 何を言ふ、決してそんな事はさせない。
タイタス 二人とも、諍ひはもう止めろ、この様に萎《しな》びた草こそ引抜くにはふさはしい、やはり俺の手を持つて行つて貰ふ。
ルーシアス 父上、もし私を父上の子とお認め下さるなら、私に任せて下さい、二人の弟を死から救ひ出す役目は。
マーカス それなら、吾兄弟を育ててくれた父の為、母の為にも、俺に与へてくれ、兄に対する弟の愛を見せる機会を。
タイタス よし、二人で決めるがいい、この手は遣らぬ。
ルーシアス では、私が斧《をの》を取つて来ます。
マーカス だが、その斧を使ふのはこの俺だぞ。(ルーシアス及びマーカス、急ぎ退場)
タイタス ここへ来い、エアロン。二人を騙《だま》したのだ、さあ、手を貸せ、さうすれば俺の手をお前に遣る。
エアロン (傍白)それが騙すといふ事になるのなら、俺は正直者といふ事になる、先づ死ぬまで人を騙す事は起るまい、尤も俺は貴様を他の手で騙してやる、いづれ半時間も経たぬうちにほざくだらう、よくも騙したなとな。(タイタスの手を斬り落す)
ルーシアス及びマーカス、再び登場。
タイタス さあ、諍ひは止めろ、話は万事片附いた。エアロン、皇帝にこの手を渡し、これはあなたを数の危難からお守りした手だとお伝へし、是非埋葬して下さる様にと言へ――いや、この手にはそれ以上の値打がある、せめてその位の事はして貰ひたい。二人の息子の事となれば、話は別だ、二つの宝石、結構廉値《やすね》で手に入れられたと思つてゐる、吾が子ながら高く買つてゐた俺だ、それにしても高過ぎるな、自分のものを買ふのだからな。
エアロン では、行くぞ、アンドロニカス、この手の代りに直ぐにも御子息達にお会ひになれるだらう。(傍白)その首にな。おお、悪事もここまで来ると、ただ考へてゐるだけで養分たつぷり、結構食へるぞ! 阿呆共は善行とやらに精を出すがいい、潔白が御自慢の白人共には高潔な慈悲とやらを後生大事に抱《かか》へ込ませて置け、エアロンはこの面同様魂まで黒で押通してやる。(退場)
タイタス おお、かうして残つた片手を高く天に差し延べ、この砕かれ衰へた残骸を低く大地に着けるのだ。いづれかの神がこの哀れな涙を憐み給ふなら、その神に申上げよう! (ラヴィニアに)さうか、お前も一緒に跪《ひざまづ》いてくれるのか? それなら頼む、娘、天も吾の祈りを聴届けてくれるだらう、さうしてくれなければ、二人の吐く溜息で大空を曇らせ、日輪を灰色に染めてやるのだ、空に懸つた雲が時に太陽をその湿つぽい胸に包込んでしまふ事がある様に。
マーカス おお、タイタス、起りさうも無い事を口にするな、吾から底知れぬ苦悩に身を投じる様な事を言ふな。
タイタス 俺の悲しみが底知れぬ深いものではないと言ふのか? さうではあるまい、それなら俺の激情もその苦悩と共に底知れぬ淵を這ひずり廻るがいい。
マーカス それにしても、理性を働かせてその歎きを抑へる事だ。
タイタス この打続く惨事が少しでも理に適つたものなら、この苦しみを檻《をり》の中に閉ぢ籠めて置く事も出来よう、が、天が涙を流せば、大地には洪水が起るではないか? 風が怒《いか》れば、海も荒れ狂ひ、天にも届かんばかりの高潮で大空を脅すではないか? お前は俺が荒れ狂ふ道理を知りたいといふのだな? 俺は海なのだ、聞け、娘の激しい溜息を! あれは泣き濡れる大空、俺は大地だ、それなら俺といふ海は娘の溜息に心動かされずにはゐられない、俺といふ大地は娘の果し無い涙で大洪水となつて辺り一面水浸しにせずにはゐられない、なぜといふのか? 俺の胸は娘の歎きを包込んでやれず、ただ酔ひどれの様にその歎きをそこら中に吐き散らすだけではないか。解つたら、この俺を許してくれ、負け犬にも許されよう、煮えくり返る胸の内をせめて激しい毒舌で和らげさせる事位は。
使者登場、生首二つと手を一本携へてゐる。
使者 敬愛するアンドロニカス、あなたは酷い仕打ちをお受けになりました、これが皇帝にお届けになつた尊いお手に対する報いでございます、お二人の立派な御子息の頭《かうべ》が、そしてあなたのお手が、これをお手許に送返せとの人もなげなるお仕打ち、あなたのお悲しみは人の慰み物にされ、強い御決意も物笑ひの種になつてをります。そのお苦しみはそのまま私の苦しみ、自分の父の死を憶出すより辛うございます。(退場)
マーカス かうまでされるならシシリーの島に燃え盛る火の山エトナを凍りつかせ、俺の心を永遠の焦熱地獄と化すがいい! この打続く悲惨な出来事、到底人間の耐へ得るものではない! 共に泣いてくれる者がゐれば幾らか心が安まりもしよう、が、悲しみを愚弄の種にされては死の苦しみを二度味はふ様なものではないか。
ルーシアス ああ、この様な目に遭はされるとは、深手を負つたぞ、やくざな命、これでもまだ俺の息の根は止らぬのか! 死神の奴、なほも俺の命をそのまま放つて置かうといふのか、生きてはゐても何の喜びもありはせぬ、ただ息をしてゐるだけに過ぎない! (ラヴィニア、タイタスに接吻する)
マーカス ああ、かはいさうに、その口附けも慰めにはならぬ、寒さに震へてゐる蛇に凍てついた水をかけてやる様なものだ。
タイタス いつになつたらこの怖ろしい眠りに終りが訪れてくれるのだらう?
マーカス さあ、もう止めにしたがいい、自分を騙すのは、死ね、アンドロニカス、あなたは眠つてはゐない、それなら見るがいい、二人の息子の頭《かうべ》を、武勲に輝くあなたの手を、切り苛まれたこの娘を、もう一人の追放された息子は余りの悲惨な光景に顔面蒼白、血の気を失ひ、弟の私は石像の如く心まで凍りつき五体が痺れた様になつてしまつてゐる。ああ! もう兄上の歎きを抑へようとは思はない、その白髪を掻きむしり、残つてゐる手を歯で食ひちぎるがいい、この悲惨な光景を、吾の世にも哀れな目の最後の見収めとしよう、今こそ嵐の如く猛り狂ふ時だ、なぜ黙つてゐる?
タイタス は、は、は!
マーカス なぜ笑ふのだ? 時を弁へぬにも程がある。
タイタス といつて、もう流す涙など一滴も残つてはをらぬ、そればかりではない、この悲しみといふ奴、俺にとつては敵だ、この濡れた目を侵略し、裏切者の涙を手先に使つて俺を盲《めしひ》にしてしまふ、これでは「復讐」の女神の力を借りたくとも、その棲家が何処にあるのか見附ける事も出来まい? さうなのだ、この二つの首は俺に向つて話し掛け、この俺に幸福の訪れる時は決して無いと脅してゐるらしいのだ、いつかこのひどい仕打ちをした奴等の喉元に同じ仕打ちをしてやる迄はとな。さあ、教へてくれ、俺がやつてのけねばならぬ仕事は一体何なのかを。重苦しい悲しみを背負つたお前達、俺の周りに集まつてくれ、お前達一人の顔が見える様にな、そして俺に誓つてくれ、お前達が受けた屈辱の仇を討つと。
タイタス跪く、マーカス、ルーシアス、ラヴィニアも跪く、二つの首をタイタスの傍におく、タイタスは手を天に差し延べる。
タイタス 誓ひは済んだ。(立上る)さあ、マーカス、首を一つ持つてくれ、もう一つは俺が持つ。ラヴィニア、お前にも手伝つて貰はう、その俺の手を持つてくれ、娘、歯で銜《くは》へるのだ、お前は、ルーシアス、行け、俺の目の前から姿を消し去れ。お前は追放されたのだ、ローマに残つてゐてはならぬ。急いでゴート人の所へ行け、そこで兵を挙げるのだ、もし父を愛してゐるなら、いや、愛してゐるに決つてゐる、それなら別れの挨拶に口附けを、吾にはまだやらねばならぬ事が山ほどある。(二人、接吻を交す、タイタスはマーカスとラヴィニアを伴つて退場)
ルーシアス では、お元気で、アンドロニカス、立派な父上、ローマ人のうち最も深い悲しみに見舞はれた男! さあ、お別れだ、驕《おご》り昂ぶるローマ! ルーシアスが再びお前に相見《あひまみ》える日まで、己が命よりも貴くいとしい人を預けて置くぞ。お別れだ、ラヴィニア、かはいい妹、おお、お前が昔のままのお前であつたら! が、ルーシアスもラヴィニアももはや今までの様には生きて行けない、世間から忘れ去られ、憎しみに満ちた悲しみの中に生きて行くのだ。もしルーシアスが生きてゐる限り、必ずお前が受けた辱しめの仇を討ち、傲慢なサターナイナスとあの后を門前に跪かせ、許しを乞はしめてやる、嘗てのタークィンとその后の様にな。俺はこれからゴート人の許へ走り兵を募《つの》り、ローマとサターナイナスに復讐してやるのだ。(退場)
7
〔第三幕 第二場〕
タイタスの家の一室
食卓が用意されてゐる。
タイタス、マーカス、ラヴィニア及び小ルーシアス登場。
タイタス さてと、まあ、ここへ腰を下さう、いいか、食ひ過ぎは禁物だ、この苦い悲しみの復讐に必要な力を貯へる事、それだけで十分だ。マーカス、悲しみに悶えて組んだその腕を解いてくれ、お前の姪と俺とは、見ろ、惨めなものだ、かうして手を失つては、お前の十倍もの苦しみを抱《かか》へてゐながら、徒らに手を抱へてそれに捌け口を与へてやる事も出来ぬ。この哀れな右手だけ残されたのもこの胸中の苦悩を抑へ附ける為なのだ、俺の心臓は悲しみの余り気も狂はんばかりになり、この肉の奥の空ろな牢獄の中で激しく脈打つ、その時、俺はこの手でかうして胸を殴り、抑へ附けてやるのだ。(ラヴィニアに)その、悲しみが隅まで刻込まれてゐるお前の姿、それがさうして身振りで己が胸の思ひを伝へようと〓《もが》いてゐる、だが、その哀れな心臓が狂ほしく脈打つても、それ、かうして俺の様に手で胸を殴り、それを抑へ附けてやる事も出来はせぬ。それなら、娘、ラヴィニア、溜息でそれを締附け、呻き声で押殺してしまふがいい、さもなくば小刀をその歯に銜《くは》へ、心臓を一突き、思切り抉りをくれてやれ、さうすれば、お前の目から滴り落ちる涙がその傷口から胸の内に流込み、悲歎に暮れる愚かな心臓を塩辛い涙の海に浸し溺れさせてくれるだらう。
マーカス 止せ、タイタス、好《い》い加減にするがいい! 詰らぬ事を言つて、かよわい命に自ら手を下す様な酷い事を教へるな。
タイタス 何を言ふ! 悲しみの余りどうかしてしまつたのではないか? しつかりしろ、マーカス、気違ひは俺一人で沢山だ。己が命に自ら手を下す様な真似がどうしてこれに出来ると言ふのだ! ああ、なぜ手の事などわざわざ口にするのだ、イーニアスに二度も語らせようといふのか、愛する祖国トロイが燃え落ち、惨めな境遇に陥つた己れの運命を? おお、もうその話には触れるな、手の話には、それがこの俺達二人には無い事を憶出させてくれるな。(舌打)ちえ、ちえ、全く狂気の沙汰だ、俺の話してゐる事は、俺達には手が無い、それが忘れられるとでも言ふのか、譬《たと》へマーカスが手といふ言葉を口にしないからといつて! さあ、始めよう、ラヴィニア、これを食つて見ろ。飲むものは無いのか? 聴け、マーカス、娘が何か言つてゐる――俺には解るのだ、この犠牲者の身振りが何から何までよく解る――娘はかう言つてゐるのだ、己れの涙の他には飲物は何も要らぬ、己れの悲しみから絞り出され、己れの頬の上で醸し出された涙以外はな。言葉によつて訴へる術《すべ》無き哀れな奴、その胸の内はこの父が察してやるぞ、言葉を伴はぬその仕ぐさのすべてに通じてやる、托鉢《たくはつ》の修道僧が施主の為に捧げる聖なる祈りに通じてゐる様にな、お前が吐く溜息一つ無駄にはさせぬ、その切株の様な手を天に差し延べる時、瞬《まばた》き、頷《うなづ》き、跪き、或は何か合図をする時、俺は必ずその中に文字を見附け出し、たとへ少しづつでもお前の言ふ事が解る様になつて見せるぞ。
少年 (啜り泣く)お祖父様、そんなに深くお悲しみにならないで。何か楽しいお話で叔母様を喜ばせて上げて下さい。
マーカス ああ、心の優しい子だ、祖父の泣くのを見て、自分も心を動かされて泣いてゐる。
タイタス もうよい、優しい孫だな、お前の体は涙で出来てゐるのだ、そんなに泣くと、お前の命は忽ち涙に溶かされ、何処かへ流されてしまふぞ。(マーカスがナイフで皿を突く)どうしたのだ、今の音は、マーカス、そのナイフで何を?
マーカス 殺してやつた――蠅《はへ》を一匹。
タイタス よくもそんな事を、何にせよ殺すなどと! お前が今殺したのはこの俺の心なのだ、俺の目は残虐な光景を厭といふ程見せつけられて来た。罪無き者を死に追ひ遣る、タイタスの弟にふさはしからぬ行ひだ、出て行け、もう仲間とは思はぬぞ。
マーカス 何といふ事を、私が殺したのは高が蠅《はへ》一匹に過ぎない。
タイタス 「高が」だと! どうなると思ふ、もしその蠅に親がゐたとしたら? そいつは金色の薄い羽を弱しく動かし、悲しげな羽音に辺りの空気を震はせるに違ひ無い! 何の害も与へはしない、哀れな蠅だ、かはいい羽音で吾を楽しませる為に飛んで来たのに! それをお前は殺してしまつた。
マーカス 悪かつた、タイタス、ただ真黒な醜い蠅だつたので、つい、それ、后のかはいがつてゐるあのムーアそつくりだつた。だから殺してしまつたのだ。
タイタス おお、おお、おお、悪いのはお前を詰《なじ》つた俺の方だ、お前のやつた事は思遣りから出たものだ。そのナイフを寄越せ、この俺の手で奴に目に物見せてやる、かう思へばいい、こいつがあのムーアで、俺に毒を盛らうとしてここへ来たのだとな。(蠅を突刺す)ムーア、今のは貴様の身替りだ、今度はタマラの身替りに一突き。やい、様を見ろ! それにしても、俺達はまだそれほど惨めに追詰められてはゐない筈だがな、炭の様に黒いムーアに姿を窶《やつ》して飛んで来た蠅を漸く二人掛りで片附けられたなどと、まさかそれほどに。
マーカス ああ、気の毒に! 悲しみがタイタスの心をすつかり蝕《むしば》んでしまつたらしい、偽《いつは》りの影を本物だと思込んでゐる。
タイタス さあ、片附けてくれ。ラヴィニア、一緒に行かう、お前の部屋へ行かう、さうしてずつと昔に起つた悲しい物語を一緒に読んで時を過さう。お前も一緒に来い、孫のルーシアス、お前は若いから目は確かだ、俺の目が疲れて霞んだ時にはお前が代つて読んでくれ。(一同退場)
8
〔第四幕 第一場〕
タイタスの家の前
ルーシアスの息子が駆け込み、ラヴィニアがその後を追ひかけて登場、少年は数冊の本を腕に抱へて彼女から逃げる。そこにタイタス及びマーカス登場。
少年 助けて、お祖父様、助けて! 叔母様が放してくれない、どこまでも僕を追掛けて来る、どうしてなのか解らないけれど。(マーカスに)そら、あそこに、ラヴィニアが、あんなに急いで。ああ、いい叔母様なのに、何を考へていらつしやるのか一寸も解らない。
マーカス ここにゐなさい、ルーシアス、叔母さんを怖がる事は無い。
タイタス あれはいつもお前をかはいがつてきたではないか、ルーシアス、お前をひどい目に遭はせる筈が無い。
少年 ええ、お父様がまだローマにいらつしやつた頃にはとてもかはいがつて下さいました。
マーカス 何が言ひたいのだらう、姪のラヴィニアは、あの身振り手振りで?
タイタス 怖がるな、ルーシアス。何か訳があるに違ひ無い。これ、ルーシアス、お前には解つてゐる筈だ、ラヴィニアはいつもお前をかはいがつて来た、きつとどこかへ一緒に行つて貰ひたいのだらう。ああ、ルーシアス、母親の鑑と言はれたあのコーニーリアにしてもその息子達を育てるのに、数の美しい詩やシセローの書いた『雄弁家』を、お前の叔母さんほど熱を入れて読んで聴かせてやりはしなかつたらう。お前には何か思ひ当る事は無いか、なぜ叔母がこれほどお前に縋る様な素振りを見せるのか?
少年 お祖父様、解りません、僕には、見当も附かない、何かの発作か狂気にでも取憑《とりつ》かれたのではないかしら。(マーカスに)お祖父様はいつもおつしやつてゐました、悲しみが余りひどくなると、気が狂つてしまふものだつて、それに僕も読んだ事がある、トロイのヘキュバは歎き悲しみの余り気が狂つてしまつたといふ話を。だから怖いのです、(タイタスに)勿論、お祖父様、僕には解つてゐます、叔母様は亡つたお母様にも劣らぬほど僕をかはいがつて下さるし、気が狂ひでもしなければ、人を怖がらせたりはなさらないでせう、僕の様な子供をこれほどまでに。僕は本を抛出《はふりだ》し、夢中になつて逃げて来ずにはゐられなかつたのです、はつきりした理由なんて無かつたのかも知れないけれど。御免なさい、叔母様、ねえ、叔母様、もしマーカス叔父様が一緒に行つて下さるなら、喜んで叔母様のお伴をします。
マーカス ルーシアス、一緒に行かう。(ラヴィニアは手首の無い両手でルーシアスが落した数冊の本を繰る)
タイタス どうした、ラヴィニア? マーカス、あれはどういふ事なのだ? 見たい本があるに違ひ無い、どれだ、娘、どの本が見たいのだ? 本を開けてやれ、ルーシアス。それにしても、お前はもつと難しい本が読める筈だ、それだけの教養も身に附けてゐる、さあ、俺の書斎に来い、その中からどれでも好きな本を選ぶがよい、さうして悲しみに傷附いたその心を紛らはすのだ、せめて神がお前をこの様な目に遭はせた呪ふべき張本人を教へてくれるまではな。あれはなぜあの様に両手を替る替る空に向けて延ばさうとしてゐるのだらう?
マーカス きつと、自分をこの様な姿にした相手は一人ではない、さう言ひたいに違ひ無い、うむ、さうだ、一人ではなかつたのだ、それとも天に向つて腕《かひな》を差延べ復讐を誓つてゐるのかも知れぬ。
タイタス ルーシアス、その本は何だ、叔母が必死になつて頁を繰つてゐるのは?
少年 お祖父様、あれはオヴィディウスの『変身』です、お母様に戴きました。
マーカス 死んでしまつた義姉《あ ね》の事が懐しく想はれ、特にその本を選び出したのだらう。
タイタス 待て! あんなに焦つて頁を繰つてゐる! 手伝つてやれ! 何処か見たい処があるのでは? ラヴィニア、俺が読んでやらうか? これはピロメーラーの不幸な物語だ、姉の夫ティリュウスに犯され、舌を斬り取られた話が書いてある、さうか、何者かに犯されたのか、ラヴィニア、お前の苦しみの根はそこに。
マーカス 見ろ、あれを、それ、ああして同じ処ばかり見詰めてゐる。
タイタス ラヴィニア、お前も不意を襲はれたのか、そして、かはいさうに、手籠めにされ辱しめを受けたといふのか、あのピロメーラーの様に、あの茫漠とした薄暗い冷酷な森の中で無理無態に? さうか、さうだつたのか! うむ、如何にもそんな場所もありさうだ、俺達が猟をしたあの森には――おお、もしも、もしもあの森で猟をしさへしなかつたら!――そつくりそのままではないか、この詩人がここに描き出してゐる場所と、それこそ気紛れな自然が殺人と凌辱《りようじよく》の為に造上げた様な。
マーカス おお、なぜ自然はあの様な忌はしい谷間を造るのだ、まさか神が不幸を喜ぶと思つたのではあるまいが?
タイタス 身振りで教へてくれ、娘、ここにゐるのは身方だけだぞ、大方ローマの貴族であらう、誰だ、無法にもこの様な暴行を働いたのは。いや、サターナイナスであらう、人目を盗んでお前に襲ひ掛つたのは、自分の天幕を脱け出し、ルークリースをその床の上で犯した例のタークィン宜しく、奴がお前を手籠めにしたのではないか?
マーカス お坐り、ラヴィニア、タイタスも私の側に。太陽神アポロ、女神アテナ、そして主神ジュピター、使神マーキュリー、この私に啓示を下し、かかる悪虐非道の企みを曝《あば》く力を与へ給へ! タイタス、ここを、ここを御覧、ラヴィニア、砂地が平らになつてゐる、どうだ、何とか巧くやつて見てくれ、いいか、私のする通りにな。(自分の名を杖で書く、その杖を両脚と口を使つて動かす)この通り、私は自分の名を書いた、全く手の力を借りずにな。呪つても飽き足りない、俺達にこんな真似までさせる奴等の心根が! 書いて御覧、ラヴィニア、そして何も彼も明るみに晒してやるがいい、復讐の為に神がすべてを明さうとしてゐる事を。天に祈る、神がお前の筆を導き、その悲しみの源を示し給ひ、残酷な悪党共とその罪の証しをお教へ下さいます様! (ラヴィニアは杖を口に銜へ、手首のない両手でそれを動かして書く)おお、読んだか、タイタス、自分の娘の書いた言葉を?
タイタス 「凌辱、カイアロン、ディミートリアス。」
マーカス 許せぬ、何といふ事を! タマラの倅《せがれ》共だつたのか、あの情欲に狂つた奴等だつたのか、この残忍極る、血腥《なまぐさ》い所業の張本人は?
タイタス 天の支配者、偉大なる神、罪の犯されしを耳にする事、かくも遅きや? そを目にする事、亦かくも遅きや?
マーカス おお、気を鎮めてくれ、タイタス! 確かにこの大地に書かれた文字を見れば、それだけでもう十分だ、如何に温厚の士と雖《いへど》も激しい憤りに震へ、幼子すら心を猛く鎧《よろほ》ひ、その相手に立向つて行くに違ひ無い。が、タイタス、共に跪かう、さ、ラヴィニアも跪くのだ、ルーシアス、お前も、ローマのヘクター、吾が一族に残された唯一つの希望の燈《ともしび》、さあ、跪くのだ、さうして私と共に誓つてくれ、あの辱しめられた貞女ルークリースの歎き悲しむ夫や父と共にその辱しめに復讐する事を固く誓つた武将ジューニァス・ブルータスの様に、そして吾も熟慮を廻《めぐ》らし策を講じて、あの残虐非道のゴート人共に復讐し、奴等の罪を奴等の血を以て償《つぐな》はせるか、さもなければ吾がこの恥辱に塗《まみ》れたまま斃れるか、道は二つに一つだ。
タイタス 解つてゐる、迷ふ事は無い、大事なのはその手立てだ、あの仔熊共を片附けるとなると、十分に用心して掛らねばならぬ。先づ母熊が目を醒しかねない、そして一旦こちらの臭ひを嗅ぎつけたとなると、あの女、今もなほぐるになつてゐるローマの獅子を直ぐにも利用する、勿論亭主には甘い子守唄を聴かせてやりながら、蔭では間男と遊び戯れる、相手が寝入つたと見れば、したい放題の事をやつてのける、さういふ女だ。いざ猟となると、お前はまだ素人だ、マーカス、万事は俺に任せておけ、さあ、それより俺は青銅の板を探し、鋭い鋼《はがね》の切先でこの文字を書附け、後まで残して置きたい、怒り狂ふ北風が一吹きすれば、この砂は、女預言者シビルが預言を書き誌す木《こ》の葉同然、跡方も無く吹飛ばされてしまふだらうからな、さうなつたら、吾が学び知つた事実は何処へ消えてしまふ? さあルーシアス、お前ならどう答へる?
少年 僕なら、お祖父様、僕が大人だつたら、あいつ等が母親の寝室に逃込んだところで無事には済まさない、皆このローマへ軛に繋がれて連れて来られた卑しい奴隷なのだもの。
マーカス さうだ、よく言つた! お前のお父さんはこの恩を知らぬローマの為に何度もさういふ働きをしたのだ。
少年 ええ、叔父様、僕もきつとさうしてみせます、生きてゐる限り。
タイタス さあ、俺と一緒に武器を収めてある倉まで来てくれ、ルーシアス、お前に合ふのを見つけてやらう、それを身に着け、俺の使者として后の息子共の処へ行つてくれ、奴等に届けて貰ひたい贈物があるのだ、さあ、行かう、早く、ルーシアス、俺の使者になつてくれような、どうだ?
少年 はい、僕の短剣を奴等の胸に突刺してやる、お祖父様。
タイタス いや、ルーシアス、さうではない、それとは違ふ手を教へてやらう。ラヴィニア、行かう。マーカス、しつかり留守を頼む。ルーシアスと俺はこれから宮殿に行つてこちらから喧嘩を仕掛けてやる、おお、さうとも、きつとさうしてやる、さうすれば奴等も俺達を今までの様に好い加減にあしらつてはゐられなくならう。(退場、ラヴィニア及び小ルーシアスが続く)
マーカス おお、神よ、あの、心正しき男の呻きが天には届かぬのか? 届いても憐れんではくれぬのか、思遣つてはくれぬのか? マーカス、お前こそ狂気の兄に附合つてやるがいい、どうして気が狂はずにゐられよう、あの心に受けた悲しみの痛手は、幾度となく戦場で振り翳《かざ》されたあの男の楯に残つてゐる敵兵の刃の痕《あと》よりも遥かに深い、それにも拘らず兄は飽くまで正義の士だ、決して復讐などしはすまい。願はくは天の復讐を、老いたるアンドロニカスに代つて! (退場)
9
〔第四幕 第二場〕
宮殿内の一室
エアロン、カイアロン及びディミートリアス、一方の戸口より登場、他の戸口から、小ルーシアス及びその他一人が登場、一束ねの武器と詩を書いた巻物を携へてゐる。
カイアロン ディミートリアス、見ろ、ルーシアスの息子だ、俺達に何か言ひたい事があるらしい。
エアロン うむ、気違ひ染みた言ひたい放題を気違ひ染みた爺さんに頼まれたといふ訳か。
少年 謹んでお二方にアンドロニカスからの御挨拶を。(傍白)そしてローマの神にはこの二人の頭上に破滅の祈りを。
ディミートリアス 有難う、ルーシアス、何の報せだ?
少年 (傍白)貴様等二人の悪行、既に証拠が挙つてゐる、その報せだ、強姦の罪といふ焼鏝《やきごて》を押された悪党だといふ。(声を挙げて)それを喜んでお受容れ下されば何よりと存じますが、祖父は、心を鎮《しづ》めて考へました末、ここに私を遣し、祖父所蔵の武器のうちより選びし最も秀れたるもの数点をお二方に差上げ、尊敬すべき若武者、ローマにとつては希望の火とも言ふべき御両人に対する祖父、日頃の忠誠の証《あか》しとしたい、さうお伝へする様にと言ひ附かつて参りました、この上は直ぐにも祖父よりの贈物をお納め戴きたく、いづれ御必要の折あらば、それにて身をお固めになり、凜《りり》しきお姿をお見せ下さいます様。では、これにて御無礼……(傍白)どころか、残忍極まる悪党め等。(退場)
ディミートリアス 何んだこれは? 巻物かな、あちこち書き散らしてあるが? 一寸読んでみよう、「公正、廉潔の士は、ムーアの援けを借りる要無く、その投槍、その弓を頼りとする事無し。」
カイアロン ああ、それはホラティウスの詩にある、よく知つてゐる、大分前にラテン語文法を書いた本に出てゐたのを読んだ事がある。
エアロン ああ、その通り、ホラティウスの一節だ、お見事、よくお解りになりましたな。(傍白)はて、さて、手の施し様が無いね、頓馬といふ奴は! しかし、冗談にしても、これは大出来だ! あの爺、こいつ等の罪を嗅ぎつけたな、武器を包んで贈つて寄越したその巻物の文句、それが見事、いや、こいつらにはとんと通じぬらしいが、二人の急所をぐさりと突いてゐる。もし抜目の無い吾等がお后様がお産の床を離れてさへゐたら、このアンドロニカスの思附きに喝采を送つたに違ひ無い。が、后にはもう暫く不安の床で安眠を貪《むさぼ》つてゐて貰ふとしよう。(声を挙げて)さうだ、ところで、御両人、私達には幸運の星が附いてゐる様ですな、かうしてローマに他処《よ そ》者として、いや、それどころか、捕虜として連れて来られたにも拘らず、位はこれほどの高みを極められたのですから? あれはいい気分だつた、宮殿の門前で例の護民官を怒鳴り附けてやつたのは、しかも兄貴のタイタスの目の前でね。
ディミートリアス 今の俺はもつといい気分さ、あの驕り昂つた大貴族が卑屈にもかうしておべつか使つて贈物を贈つて寄越すのだからな。
エアロン それにはそれだけの理由がありませう、ディミートリアス? あなたには娘をたつぷりかはいがつて貰つた筈では?
ディミートリアス 出来る事なら、ローマの女共をざつと千人、あの手で狩出し、取替へ引替へ慰み物にしてやりたいものだ。
カイアロン なかなか思遣りのある願ひ事だ、情が籠つてゐる。
エアロン お母上がおいでにならぬのが残念、私も同感、アーメンとおつしやつて戴けないのが。
カイアロン さうとも、母上だつたら、ローマの女を手籠めにするなら数を千人では足りない、その二十倍に増やせとおつしやるだらう。
ディミートリアス さあ、行かう、神に祈るのだ、愛する母上の産みの苦しみをどうぞ和らげて下さる様にと。(一同退場しかける)
エアロン (傍白)どうせ祈るなら悪魔に祈れ、神の方は俺達にはとうに見切りを附けてしまつたよ。(一人舞台脇に離れる、トラムペットの吹奏)
ディミートリアス どうしたのだ、あれは皇帝のトラムペットではないか?
カイアロン 多分、皇子誕生の喜びを告げる報せだらう。
ディミートリアス 待て! 誰だらう、あれは?
乳母が黒人の赤児を抱いて登場、若者達を認めると、慌てて子供を自分のマントで覆ひ隠す。
乳母 どなたかと思ひましたら、これは、これは。あ、お二人共、お見掛けになりませんでしたか、ムーアのエアロンを?
エアロン (進み出て)おお、ここにゐる、見掛け倒しならぬ正真正銘のムーアはこの俺様だ、他処《よ そ》を探してもムーアの一かけらも見附かりはしない、エアロンはここだ、で、そのエアロンに何の用だ?
乳母 (啜り泣く)ああ、エアロン、もう何も彼もお終ひ! 早く何とかして、さもなければ、禍ひの海がお前さんを永遠に押流してくれるがいい!
エアロン ふざけるな、猫ではあるまいし、何でさうぎやあぎやあ喚き立てるのだ! 何だ、その両腕に抱へ込んでゐる包みは、不様な恰好《かつかう》をしやがつて?
乳母 ああ、それなのだよ、これさへ天の目から覆ひ隠す事が出来たら、さうさ、何と言つてもお后様の恥だもの、栄えあるローマの面汚しだもの! お后様がお床に、皆さん、お后様がお床に就いて。
エアロン 何処の男の後についておいでになつたのだ?
乳母 違ふよ、お産のお床の事を言つてゐるのだよ。
エアロン それなら結構、神よ、お后に安らぎを与へ給へ! で、神はお后に何をお贈り下さつたかね?
乳母 悪魔さ。
エアロン ほう、それならお后は悪魔のお袋におなり遊ばしたといふ訳か、実に嬉しい先触れだな。
乳母 いいえ、憂《うれ》はしい不吉な先触、目の前が真暗になる様な歎かはしいこの姿! (赤児を見せる)これがそのお子、忌はしいにも程がある、まるで蟇蛙《ひきがへる》の様、この国に生れる白く美しい顔立ちの赤児達に較べて御覧。お后様はこれをお前さんにお届けする様にと、お前の烙印を押され、お前の手で封印されたこのお子を、そしてその短剣の切先で直ちに洗礼を施す様にとのお言ひ附け。
エアロン 畜生、この売女め! 色が黒ければ臭いとでも言ふのか! これ、丸顔で真赤な顔をしてゐる、ローマのどの赤坊より遥かに美しい花だ。
ディミートリアス 悪党、貴様、一体、何をやつたのだ?
エアロン お前などには今更やり直しの効かない事をやつてのけただけさ。
カイアロン 貴様は母を破滅の淵へ逐ひやつたのだ。
エアロン 間抜けめ、俺はお前さんのお袋とただ宜しくやつてゐただけの事だ。
ディミートリアス それ見ろ、犬畜生、貴様は母を破滅の淵へ逐ひやつたのだ。これで母上も運の尽き、事もあらうにこんな忌はしい野郎を相手にして! 呪はれるがいい、穢はしいこの悪魔の小倅め!
カイアロン 生かしてはおかぬぞ。
エアロン どつこい、死なせはせぬぞ。
乳母 エアロン、頼むから殺しておくれ、その子のお母様がさう望んでおいでなのだから。
エアロン 何、頼むから殺してくれだと? それなら他の者の手は借りない、己れの血と肉の始末はこの俺の手で附けてやる。
ディミートリアス そのおたまじやくしは俺の鋭い細身で串刺しにしてくれる、乳母《ばあや》、そいつをこつちに寄越せ、この剣で直ぐにも片を附けてやらう。
エアロン その前にこの剣で貴様の腸を鋤き返してやらう。(子供を乳母から奪ひ、剣を抜き放つ)待て、人殺しの悪党め等! 貴様達は自分の弟を殺さうといふのか? その気なら、この子が生れ落ちた時、大空に燦然と煌いてゐた数知れぬ星に誓ふぞ、初めて生れたこの跡継《あとつぎ》に手を触れる奴には容赦はせぬ、この剣の鋭い切先をぐさり一突きお見舞ひ申すぞ! よく聴け、若僧共、巨人エンケラドスが残虐な怪物テューポーンの大群を随へて攻めて来ようと、剛勇無双のハーキュリーズや軍神マルスが乗出して来ようと、この父親の手からこれを奪ひ取る様な真似は誰にもさせぬ。やい、やい、すつかり逆上《の ぼ》せやがつて、頬ぺただけに血を吸上げて肝腎の心臓は空つぽの臆病者め等! 塗りたての白壁《しろかべ》野郎! 場末の呑屋の絵看板! よく聴け、黒といふのは他のどんな色よりずつと上等なのだ、こいつは決して他の色に染らず、汚れを潔《いさぎよ》しとしない、大海原の水を全部打ちまけようと、白鳥の黒い脚は白くはならない、たとへ一時間毎に潮水に浸して洗つてもな。お后にはかう伝へておけ、俺は一人前の大人だ、自分のものは自分で面倒を見るとな、皇帝への言訳は自分で考へたらいい。
ディミートリアス 貴様はさうして自分の女を裏切らうと言ふのか?
エアロン 俺の女は俺の女だ、が、こいつは吾が身同然、俺の若き日の、命の籠つた絵姿だ、全世界を捨てても俺はこいつを採る、全世界に代へても俺はこいつを無事に守り通す、それを許さぬと言ふなら、誰であらうが、このローマの真只中で痛い目に遭はせてやらう。
ディミートリアス そいつのお蔭で母上は永遠に恥を晒すだらう。
カイアロン ローマは母上の罪を蔑《さげす》むに違ひ無い。
乳母 皇帝はお怒りの余りお后様を死刑になさいませう。
カイアロン この恥辱、考へただけでも顔が赧らむ。
エアロン ふむ、それも綺麗な白い肌を持つて生れた貴様等の特権といふ訳さ、へん、安心出来ない色だ! 直ぐ寝返つて赤に変り、どんな秘められた心の動きや考へ事も公然と表に曝《さら》け出してしまひやがる! それが、この小僧となると、まるで違つてゐる、見ろ、この顔を、黒坊のちびが父親に微笑みかけてかう言つてゐる、「お父《とう》、あたいはお前の倅だよ」とな。これはあなた方の弟ですぜ、あなた方に初めて命を与へた血と全く同じ血が脈を打つてゐる、あなた方が閉ぢ籠められてゐたのと同じ胎《はら》から生み落され、かうして日の目を見たのだ、さうでせうが、あなた方にとつては、母親が同じといふ何より確かな保証附きの弟なのです、たとへ私の烙印がはつきりこの顔に押されてゐようとも。
乳母 エアロン、お后様には何とお伝へしたら?
ディミートリアス 智慧を貸してくれ、エアロン、ここをどうしたら切抜けられるか、それを教へてくれさへすれば、俺達もお前の考へに黙つて随はう、子供の命を助けるのもいい、俺達が皆助るなら。
エアロン では、腰を下して先づは皆で相談と行きませうか。倅と私は風下に廻つてお二人の逃げ道を断たせて貰ひませう、そこを動いてはいけない、さあ、あなた方の助る方法を心置き無く言つて見たらいい。(一同坐る)
ディミートリアス そいつの子供を見た女は何人ゐる?
エアロン ふむ、そこだ、見事、一本! 仲間にして貰へれば、この私は仔羊同然、が、この一本気のムーア、一度《ひとたび》敵に廻すと大事《おほごと》だ、追詰められて猛り狂ふ猪も山奥に潜む雌獅子も逆巻く大海の大波もこのエアロンほどには暴れ廻りはしないでせうな。が、それはともかく、今の話だ、何人位ゐる、この子を見た奴は?
乳母 産婆のコーニーリアと、それから私だけ、あとは誰も、お産みになつたお后様の他には。
エアロン お后、産婆、それにお前か、二人なら秘密は守れる、あとの一人が消えさへすれば、よくさう言ふな。お后の処へ行つて、さう伝へてくれ、俺がさう言つてゐたと。(乳母を殺す)ひゆうひゆう、ひゆうひゆう! 豚の奴、さう泣き喚くものだとさ、串焼きにされるのが予感で解るらしい。
ディミートリアス どういふつもりだ、エアロン? なぜこんな事を?
エアロン おお、若様、これこそ正に戦術といふもの! この女を生かして置いて私達の罪をばらさせようといふのですか? この舌長のお喋り婆を生かして置く? いや、とんでもない。さてと、私の深謀遠慮を知つて置いて戴きませう。ここから程遠からぬ処にミューリーといふ男が住んでゐます、私の国の者ですがね、その女房がゆうべ子供を産んだ、その子は母親に似て、あなた方の様に白い肌をしてゐる、その男の処に行き手を藉《か》す様に頼んで見なさい、母親には金をやり、夫婦に事情を説明する、詰り、すべては子供の出世の為、それも皇帝の世継になるのだと話して聴かせ、私の子供と取替へる、さうして宮殿に渦巻くあらしを先手を打つて抑へてしまふといふ段取り、皇帝にはその子を自分の息子と思込ませ膝の上であやさせておけばいい。さて、宜しいか、お二人共、私はこいつに一寸手術を施してやつた、(乳母の死骸を差示す)あとはあなた方が弔ひを出してやらねばならない、野原は近し、お二人共、御婦人には優しい伊達《だ て》男《をとこ》ですからな。それが済んだからといつて、のんびり構へてゐてはいけない、直ぐにも産婆を私の処に来させて戴きたい。産婆と乳母とさへ巧く片附けてしまへば、御婦人方が何を喋り散らさうとお好きな様にといふ訳でさあ。
カイアロン エアロン、成る程、秘密となるとお前は身の囲《まは》りの空気すら信用しないらしい。
ディミートリアス タマラの事をそこまで心に懸けてくれるのか、母は勿論、吾その一族も大いに恩に着るぞ。(二人、乳母を担いで退場)
エアロン さあ、ゴート族の国へ、燕の様に風を切つて飛んで行くのだ、この腕《うで》に抱いた宝を奴等に預け、秘かにお后の身方の者達に会ふとしよう。さあ行かう、厚い唇をした小僧、俺がここから連出してやる、俺達はお前のお蔭で窮地に追込まれたのだからな。俺が育ててやる、木の根、草の実を食へ、乳の凝《かたま》りを嘗《な》めろ、山羊の乳を吸つて生きるのだ、さうして洞穴に寝起きし、いづれ成長して大人になつた時には一軍を率ゐる武将となつてくれ。(退場)
10
〔第四幕 第三場〕
ローマの宮殿前
タイタス、老マーカス、その息子パブリアス、小ルーシアス、及びその他の紳士、手に手に弓を携へて登場、タイタスは先端に手紙を結びつけた数本の矢を持つてゐる。
タイタス さあ、マーカス、来てくれ、皆も一緒に、こつちだ。若武者殿、お前の腕前を見せて貰はう、的を狙つて一杯に引絞るのだ、さうすれば真直ぐに飛ぶ。「正義の女神アストライアー、既に地上より姿を消したり、」忘れるな、マーカス、女神はもう去つてしまつたのだ、この世を嫌つて天上へ逃げ帰つてしまつた。皆、武器を取れ。さうだ、海の中を探して見てくれ、投網《とあみ》を投げるのだ、ひよつとすると、女神は海の中で見附かるかもしれぬ、尤も海の中も陸《をか》同様正義など殆どありはすまい、それよりパブリアスとセンプローニアス、二人に頼みがある、どうしてもやつて貰ひたい事があるのでな、鋤と鶴嘴《つるはし》を以て大地を掘り起すのだ、この大地を地球の中心に届くまで深く掘り返して見てくれ、そこで地下神プルートーの国に辿り着いたら、私の歎願を伝へるのだ、吾に正義と援軍をと、それが老アンドロニカスの、忘恩のローマで悲しみに打拉《うちひし》がれたタイタスの願ひだとな。ああ、ローマ! さうか、解つた、俺の方だつたな、お前を惨めな目に遭はせたのは、あの時、俺が民衆の心を動かし、あの男に票を投じさせたばかりに、奴はいい気になつてかうして俺の頭上に暴虐の鞭《むち》を揮つてゐるのだ。行け、直ぐにも出掛けろ、万事抜かり無くやれ、敵兵と見たら一人として見逃すな。だが、あの狡猾な皇帝の事だ、正義の女神を舟に乗込ませ、この国から連出してしまつたかもしれぬ、となると、皆、どう思ふ、こちらが幾ら笛吹き鳴らして正義を求めたところで所詮無駄かも知れぬな。
マーカス おお、パブリアス、この重荷が背負ひ切れるか、お前がいつも尊敬してゐたあの伯父がかうまで取乱した有様を、これ、かうして目の前にして?
パブリアス かうなれば、父上、吾に為し得るせめての事は、昼夜を問はず伯父上を見守り、出来る限り優しく伯父上の気分に添ふ様に心懸け、いづれ時が何か優れた治療を施してくれるのを待つより他はありますまい。
マーカス 皆、聴いてくれ、兄の悲しみを癒《いや》す事はもはや吾の手の及ぶ事ではない、この上はゴート人と力を協せ、復讐の兵を挙げるしかない、忘恩のローマに恨みを晴らし、国賊サターナイナスに復讐しようではないか。
タイタス パブリアス、どうだつた! どうだつた、皆の者! で、正義の女神には会へたか?
パブリアス いいえ、伯父上、しかし地下神プルートーの伝言を持つて帰りました、地獄にゐる復讐の神が入用なら、直ぐにも送り届けよう、しかし、正義の女神となると、大層忙しい、今は多分、天上のジュピターの処か、いや、その他何処にゐるのかよく解らぬ、そんな訳で、今直ぐといふ訳にはいかぬ、暫く待つて貰ひたいとの事でございました。
タイタス 俺を侮辱する積りか、暫く待てだと。それ位なら俺は燃え盛る地獄の業火《ごふくわ》の真只中に飛降り、アケローンの川底に潜つて、女神の足首を掴み、地獄から引きずり出して来てやらう。マーカス、俺達は背の低い灌木に過ぎぬ、堂と聳え立つ杉の大木ではない、一つ目の巨人族キュクロープスの様な逞しい体の持主でもない、だが、金属だ、マーカス、骨の髄まで鋼で出来てゐる、それなのに、度重なる不当な暴虐に打拉がれ、そのさすがの脊骨さへ、今や重荷に耐へかねる有様だ、地上にも地獄にも正義が見当らないとなれば、今度は天に訴へ、神の心を動かし、正義の女神をこの世に遣はして貰ひ、吾が受けた暴虐に対して復讐を頼むしかない。さあ、直ぐにも取掛らう。お前は弓の名手だつたな、マーカス。(手紙の宛名に応じて、それぞれに矢を渡す)「主神ジュピター」、これはお前だ。次はと、「太陽神アポロ」。「軍神マルス」、これは私の分だ。それ、ルーシアス、アテナイの女神、パラス宛てだ。これは、使ひの神、マーキュリー宛。農耕の神サートゥルヌス宛だ、いいか、ケイアス、サターナイナス宛ではないぞ、皆、風上に向けて射た方がいい。矢をつがへろ、ルーシアス! マーカス、俺の合図で矢を放て。手紙の中身は、巧く書いて置いた、頼み忘れた神は一人もゐない。
マーカス (傍白)皆、宮殿に向けて矢を放つのだぞ。せめて驕り昂ぶる皇帝を悩ませてやらう。
タイタス さあ、いいか、皆、弓を引け。(一同矢を放つ)おお、よくやつた、ルーシアス! 巧いものだ、正義の女神アストライアーの化身、乙女座に当つたぞ、それも、見事、太腿《ふともも》に命中だ、獲物はパラスにくれてやれ。
マーカス 兄上、私は月の彼方一マイルも先を狙つた、あなたの手紙、今頃はジュピターの手許に届いてゐる筈だ。
タイタス やい、やい! パブリアス、パブリアス、何といふ事をした! それ、見ろ、お前、牡牛座の角を一本射落してしまつたぞ。
マーカス これは面白い、兄上、パブリアスの放つた矢に、牡牛が傷つき、暴れて牡羊座にぶつかつたので、牡羊の角が二本共折れ、真直ぐ宮殿の中に落ちて行つた、で、その角を拾つたのは誰かといふと、それは后がかはいがつてゐる悪党に決つてゐようが? そこで后は大笑ひ、そのムーアにかう言つた、その二本の角は皇帝に献上しなければいけませんとね。
タイタス それ、行け! 皇帝に神のお恵みのあらん事を!
道化登場、二羽の鳩を入れた籠を持つてゐる。
タイタス 報せだ、報せだ、天が送つて寄越したのだぞ! マーカス、郵便馬車が着いた。おい、何の報せだ? 手紙は持つてゐるのか? 俺宛の正義が届いてゐる筈だが? ジュピターの返事はどうした、待ちくたびれたぞ。
道化 え、先づ首括《くく》つたぞ! 慌《あわ》ててはいけない、絞首台作りの話では、折角作つた絞首台は取毀《とりこは》してしまつたさうだ、罪人の処刑が来週まで延期になつたのでね。
タイタス いや、俺はジュピターの返事を待つてゐたのだ、それで待ちくたびれたと言つたのだが。
道化 それはお気の毒な話で、旦那、ジュピターなんてお人は全く存じ上げませんな、一度も一緒に飲んだ事が無いのでね。
タイタス 畜生、貴様は配達係りではないのか?
道化 いえ、ちやんとここに鳩を配達しに参りました、旦那、でも、他には何も。
タイタス 何だ、貴様、天から来たのではなかつたのか?
道化 天から? とんでもない、旦那、私はまだ一度もそんな処へ行つた事は無い! 滅相も無い事を、この若い身空で天国に押入るなんて、そんな大胆不敵な真似は出来ませんや。何ね、御免官の処へこの鳩を持つて行くのでして、私の叔父とサトーナイナス様の御家来衆との喧嘩をうまく収めて貰ふ為の鼻薬に使はうと思ひましてね。
マーカス さうだ、兄上、これは正にお誂へ向きだ。兄上からの口上をこいつから言はせたらいい、鳩を兄上からといつて皇帝に献上させませう。
タイタス どうだ、お前、俺からの口上を皇帝に恭《うやうや》しくお伝へ出来るか?
道化 とんでもないことで、旦那、私は、何につけ事をうやむやにしちやへる質《たち》ぢやございませんので。
タイタス ええい、こつちへ来い、これ以上手を焼かせるな、直ぐその鳩を皇帝の処へ持つて行け、俺が口添へしてやる、お前のサトーナイナス様は必ず正義の裁きをしてくれよう。まあ、待て、とにかく、これを取つて置け、鳩の代金だ。誰かペンとインクを持つて来い。(書く)しつかりしろ、請願書を恭しく呈上して貰へような?
道化 はい、旦那。
タイタス ではこれが請願書だ。お目に懸つたら、皇帝の側まで行つて先づ跪いてその足に口附けする、それからお前の鳩を献上し、褒美を下さるのを待つ。さうだ、俺が側に附いてゐてやらう! 堂とやつてのけるのだぞ。
道化 大丈夫、旦那、私に任せておいて下さい。
タイタス おい、お前、短剣を持つてゐるか? どれ、見せてくれ。さあ、マーカス、それを口上の中に包むのだ、お前の遣り方ではその請願書、頗《すこぶ》る控へ目に見えてしまふからな。いいか、それを皇帝にお渡ししたら、俺の家を尋ね、皇帝が何と言つたか教へてくれ。
道化 御機嫌よろしう、旦那、行つて参ります。
タイタス さあ、マーカス、行かう。パブリアス、附いて来い。(一同退場)
11
〔第四幕 第四場〕
皇帝、后、その息子二人が貴族達を伴つて登場、皇帝はタイタスが射た数本の矢を手に持つてゐる。
サターナイナス どうだ、諸卿、実に不埒千万な所業だ! 未だ嘗てこの様な例《ためし》があつたらうか、ローマ皇帝がこれほど侮辱を受けた事が、かうまで心を煩はされ、真向から挑戦を受け、しかも、正義に基づく法の支配がこの様な蔑みを受けるなどと、その様な例が今までにあつたらうか? 諸卿も知つてゐよう、全能の神は固より御存じの筈だ、この様に吾等の平和を脅かす輩が如何に民衆の耳に流言を注ぎ込まうと、この身は意に介しない、アンドロニカスの無法な息子共に対しては、ただ法によつて厳正な裁きを下しただけの事だ。たとへ奴の悲しみが理性を押流してしまつたにもせよ、だからといつて、この身が奴の復讐心に、発作や狂気に、その激しい苦悶に巻込まれ、かうまで心を煩はされなければならぬといふのか? しかも、奴はつひにかうして天に向つてまで手紙を書きその助けを求めようとした! それ、これがジュピターに宛てたものだ、これはマーキュリーに、これはアポロ、これは軍神マルス宛てと来た。結構な目録だ、ローマの街に撒き散らすには正にお誂へ向きな代物だぞ! 要するに元老院に対する中傷以外の何物でもない、この身の不正を街中大仰に囃《はや》し立てて歩かうといふだけの事ではないか? 御愛嬌といふものだな、さうだらう、皆? ローマには正義が無い、どうやらさう言ひたいらしい。だが、この身の生きてゐる限り、あの偽りの狂気、断じて見過す訳には行かぬ、それを隠れ蓑《みの》にこの様な無法に及ぶとは、寧ろ奴とその一族に思知らせてくれよう、正義はこのサターナイナスの繁栄と共にあるのだといふ事を、もしその正義の女神がこの胸の内で惰眠を貪つてゐるとすれば、この身がその目を醒させ、自ら猛然として立上り、思上つた謀反人の首を刎《は》ね、あの世に送込んでやる。
タマラ いとしいサターナイナス、私にとつては命の主《あるじ》、心の支配者、そのサターナイナスにお願ひ致します、どうぞお気持を鎮めて下さいます様、タイタスも年には勝てませぬ、それ故に犯した数の罪咎《とが》、それも雄しい息子達を失つた悲しみがタイタスの胸を深く突刺し、その心を掻乱したに違ひ無い、それなら寧ろその打拉《うちひし》がれた心を慰めてやつた方が、その傲慢を罰するよりは遥かにましといふもの、何しろ相手はこの世で最も軽蔑すべき男とも言へませうし、また最も尊敬すべき男とも言へませうから。(傍白)さう、かういふ遣り口こそ頭の切れるこのタマラにふさはしい、かうして上辺ばかりの綺麗事を並べたてて置くのが。でも、タイタス、これで急所に一撃、それ、生き血が流れ出す。今頃はエアロンが、巧くやつてくれさへすれば、舟は安泰、錨《いかり》を港に降してしまつた様なものだもの――
道化登場。
タマラ 何だ、お前さんかい? 何か用でも?
道化 はい、左様で、奥様が皇帝でいらつしやるなら。
タマラ 后だよ、私は、皇帝はあちらにお坐りになつていらつしやる。
道化 あの方で。(跪く)神様と聖スティーヴン様があなた様に素晴しい夜を下さいます様に。あなた様に手紙を一通、それから鳩を二羽持参致しました。(サターナイナス、手紙を読む)
サターナイナス おい、此奴を引立てろ、直ちに縛り首にしてしまへ。
道化 で、御褒美は幾ら頂戴出来るので?
タマラ 何を、馬鹿な事を、お前は縛り首にされるのだよ。
道化 縛り首! 何てこつた、今まで首を体に繋いでおいたのも、かうして綺麗さつぱりとお別れする為だつたのか。(衛兵、道化を引立てて退場)
サターナイナス 人を侮《あなど》るにも程があらう、もう許せぬ! これ程の無礼極まる横暴にもなほ耐へねばならぬのか? この企みの主《ぬし》は分つてゐる。これが我慢出来る事だと思ふのか? 奴の息子共は反逆者だ、この身の弟を殺したが故に国法に随ひ処刑されたのだぞ、それを、これではまるでこの身が正当な理由もなしに奴等を虐殺した事になる。おい、誰か、あの悪党を髪の毛引掴《ひつつか》んで、ここへ引摺《ひきず》つて来い、奴の年も名誉ももはや免罪符にはならぬ、かうまで思上つてこの身を嘲弄するなら、この身自ら貴様の死刑執行人になつてやる――狡猾な気違ひ爺め、この身が帝位に即くのに手を貸したのも、いづれは己れがローマを、そしてこの身を支配しようといふ魂胆だつたのだ。
使者イーミリアス登場。
サターナイナス 何の報せだイーミリアス?
イーミリアス 戦の御用意を、一刻の猶予もなりませぬ! ローマ開闢《かいびやく》以来の一大事、ゴート族が大軍を駆り集め、それがいづれも志気に燃えた奴ばら、ひたすら掠奪《りやくだつ》を恣《ほしいまま》にせんものと、破竹の勢でローマに向つて進撃を続けてをります、その全軍の指揮官はルーシアス、あのアンドロニカスの息子でございます、しかも目的は復讐にある、その為なら嘗てコリオレイナスがやつてのけた様に、せめてその位の事はやつて見せると息まいてをります。
サターナイナス あの名将ルーシアスがゴート族の総指揮官だと言ふのか? その報せで心も挫《くじ》けた、頭《かうべ》を高く持する気力も失せ、霜に遭つた花や嵐に打拉《うちひし》がれた草も同然。ああ、かうしてこの身に悲しみが近づいて来る、あの男こそ、民衆に心から慕はれてゐる、奴等がさう言つてゐるのを屡聞いた事がある、一度市民に姿を〓《やつ》して街なかを忍び歩いた事があるが、ルーシアス追放は不当な処遇だと口に言つてゐた、あまつさへルーシアスを皇帝にしたいと願つてゐるのだ。
タマラ 何を恐れる事がございませう? 皇帝の都ローマの守りは万全ではありませぬか?
サターナイナス 確かにな、が、民衆はルーシアスの身方、この身に背き奴を助けるに違ひ無い。
タマラ お願ひでございます、皇帝のお名に恥ぢぬ様、毅然《きぜん》としたお心を。高が蚊の群が押寄せた位で、日輪は面を曇らせませうか? 鷹は小鳥達に好きなだけ囀らせて置くもの、何を囀つてゐようと気に懸けたりは致しませぬ、鷹は自分の力を知つてゐるからでございませう、己れの翼を拡げただけで、その影に蔽はれた小鳥共は忽ち怯《おび》えて囀りを止めてしまふといふ事を。あなたにしても同じ事、気の変り易いローマの民衆など物の数ではありますまい。ですから、元気をお出しになつて。宜しうございますか、実は私、アンドロニカスを巧く騙《だま》して見ようと思つてをります、魚を引寄せる餌よりも、羊の好むクローヴァーよりも甘い、しかも毒を含んだ言葉でもつて、ええ、餌に食ひついた魚は傷附き、草を食べ過ぎた羊は死んでしまひますもの。
サターナイナス だが、奴がこの身の為を思つて息子に頭を下げる筈が無い。
タマラ タマラがタイタスに頭を下げれば、タイタスも息子に頭を下げてくれませう、私がタイタスに取入つて御覧に入れます、あの年老いた耳をあの男の喜びさうな約束で満してやるのです、さうすれば、たとへあの年寄の心がどれほど頑であらうと、両の耳が聾同様になつてゐようと、その心も耳も私の舌に大人しく操られるに違ひありません。(イーミリアスに)その前にお前にはルーシアスの処へ行つて貰はう、私達の使者として、そしてかう伝へておくれ、皇帝が勇敢なる名将ルーシアスとの話合ひを希望してゐる、会見の場所はお父上、アンドロニカスの邸にしたいと。
サターナイナス イーミリアス、この役目、立派に果して貰ひたい、もしルーシアスが己が身の安全の為、人質を要求したら、誰でも構はぬ、思ひのままに要求する様、伝へてくれ。
イーミリアス 御命令通り、万事巧く運ぶ様、務めを果して参ります。(退場)
タマラ さあ、私はアンドロニカスの処へ参り、有らん限りの策を弄してあの男の心を和らげ、思上つたルーシアスに勇敢なゴート族から手を引かせませう。さあ、あなた、もう一度皇帝の明るい笑顔を、恐怖心はこの私の策略の中にすべて葬り去つて。
サターナイナス では、直ぐにも奴の処へ、何とか巧く説き伏せてくれ。(一同退場)
12
〔第五幕 第一場〕
ローマに近い平原
ルーシアス、ゴート族の軍勢と共に登場。鼓手及び旗手が従ふ。
ルーシアス 百戦錬磨の勇士、忠実なる吾が友に告げる、このところ大ローマより幾度か書状を受取つたが、それを読むと、民衆が如何に自分達の皇帝を憎み、吾がローマに姿を現す日をどれほど待ちあぐねてゐるかがよく解る。それゆゑ、諸卿、それぞれの地位にふさはしく堂と威儀を正し、不当な暴力に対しては、これを容赦無く打ちのめすがいい、ローマによつて与へられた傷は、その深手、浅手を問はず、どれも三倍にして奴等に返してやれ。
ゴート人の一 勇敢なる若武者、偉大なるアンドロニカスのお世嗣《よつぎ》、お父上のお名は吾ゴート人にとつて、きのふまでは恐怖の的であり、けふからは勇気の源となつた、それほどの名声と勲功に輝く人物に、かの忘恩のローマは不当にも侮蔑を以て報いた、が、吾は信じて戴きたい、吾はあなたの命に随ひ、何処《いづこ》へなりと附いて行く、鋭い針を含んだ蜂の群が暑い夏の日に、女王蜂に率ゐられ、百花咲き乱れる野に向つて飛んで行く様に、さうしてあの呪ふべきタマラに復讐してやりたいのだ。
ゴート人一同 その通りだ、俺達も誓ふ。
ルーシアス 今の言葉、心から感謝する、その他すべての人にも。何者だ、あれは、頼もしげなゴート人に引立てられて、それ、そこへ?
一人のゴート人、子供を腕に抱いたエアロンを引立てて登場。
ゴート人の二 吾等の総帥《そうすい》、ルーシアス、私は何気無く隊を離れ、毀《こは》れかけた修道院を眺めてをりました、そして、その朽ち果てた建物にじつと目を注いでをりましたところ、突然、壁の下から赤児の泣く声が聞えて来たのであります。声のする方へ近附いて行くと、直ぐ私の耳に入つて来たのは、泣き叫ぶ赤児をあやす声で、「静かにおし、半分は俺、半分はお前のお袋から血を受け継いだ黒い赤坊! もしもその肌の色次第でお前が誰の子とも分りさへしなかつたら、もしも自然がその肌の色だけでもいい、お袋のを授けてゐてくれさへしたら、小僧、お前は皇帝になれたかもしれないのだぞ、とはいふものの、牡牛と牝牛が揃つてミルク色の肌をしてゐれば、石炭色の仔牛など生れる筈は無いのだらうな。静かにおし、小僧、静かにしろといふのに!」――かうしてその男は赤児を叱りつけてをりました――「俺はお前を誰か信用できるゴート人の処へ連れて行かなければならないのだ、もしそいつが、お前が后の子と知つたら、その御威光でたんとかはいがつて貰へるぞ。」それを聞いた瞬間、私は直ぐ様、剣を抜き放ち、その男に襲掛り、かうして生捕《いけど》りにして連れて参つたのです、次第によつては御処分の必要もおありかと考へましたので。
ルーシアス おお、よくやつてくれた、この男こそ人の姿を借りた悪魔、アンドロニカスの名誉ある手を奪つた奴だ。この男こそ諸卿の女王タマラの目を楽しませた真珠だ、そしてこれがあの女の燃える様な情欲から生れ落ちた卑しい果実なのだ。答へろ、眼玉だけが白抜きの悪党、どこへ連れて行く積りだつたのだ、その悪魔の様な貴様の面に生写《いきうつ》しのこの小僧を? なぜ口を利《き》かぬ? おい、唖にでもなつたのか? 一言も喋らぬ気か? 縄《なは》を持つて来い、誰か! 奴をその木に吊《つる》せ、奴の隣りにはその不義の子供を吊すのだ。
エアロン 子供に手を触れるな、この子はローマ皇帝一族の血を引いてゐるのだぞ。
ルーシアス 結構一人前に父親らしい御託《ごたく》を並べるではないか。先に子供を吊せ、その苦しみ〓《もが》く様をこいつが見物出来る様にな――父親の心を苦しめるには何よりの見世物だ。梯子《はしご》を持つて来い。(梯子が運込まれ、エアロンが無理矢理それに登らされる)
エアロン (上から)ルーシアス、子供は助けてくれ、そして俺からだと言つてその子を后タマラの許に届けてやれ、さうしてくれさへすれば、貴様が驚く様な事を教へてやらう、聴けば必ずお前の得になる。それが厭なら、どうともなれ、もうこれ以上何も言ふ気は無い、唯一言、言はせて貰はう、「どいつもこいつも復讐の餌食になるがいい!」
ルーシアス 話してみろ、もしお前の話が俺を満足させたら、子供は助けてやらう、大人になるまで面倒を見てやつてもいい。
エアロン もしお前を満足させたらか! ふむ、安心しろ、ルーシアス、俺の話を聞けばお前の魂は〓き苦しむに決つてゐる、その話といふのは他でもない、殺人、凌辱、虐殺、一数へ上げたら切りが無い、闇夜に息づく悪業、忌はしい暴行、憎悪に満ちた企み、謀反、耳にしただけでも憐れみを感ぜずにはゐられぬ非道の数、しかもなほそれが事実、この世で行はれたのだ。が、俺が死んでしまへば、すべては闇から闇へ葬り去られる、貴様が俺の子供の命を助けると誓はぬ限りな。
ルーシアス 何も彼も泥を吐いてしまへ、子供の命は助けてやる。
エアロン それを誓へ、さうしたら話してやらう。
ルーシアス 何に賭けて誓ふのだ? 貴様は如何なる神も信じてはゐない、とすれば、どうして誓ひなど信じられるのだ?
エアロン 俺が神を信じないからといつて、それがどうだと言ふのだ? 確かにそんなものは信じてはゐないが、お前には信仰心がある、その上、良心とやらいふものを胸に抱へてゐて、何だ彼だと七面倒な儀式や手順を後生大事に守つてゐるのを俺は知つてゐる、だからお前に是非誓つて貰ひたいのだ、それは、阿呆は自分の物となれば、たとへ詰らぬ石ころでも神様だと思込み、その神に賭けて誓つた言葉は必ず守るものだからさ、さういふ阿呆にはそれなりに誓つて貰ふのが俺様の流儀だ、だから貴様にも誓つて貰はう、どんな神でも一向構はぬ、貴様が崇め奉る神に賭けて誓へ、俺の息子の命を助け、立派に育ててくれると、さもなければ俺は貴様に何も明さぬ。
ルーシアス では、吾が信ずる神に賭けて誓はう、約束は必ず守る。
エアロン 先づ教へてやるとするか、その子供は俺が后に生ませたのだ。
ルーシアス おお、あの女どこまで情欲に目が眩《くら》んでゐるのだ!
エアロン 待つた、ルーシアス、こんな事はほんの慈善行為に過ぎない、お次に俺が話して聴かせる事に較べたら、十分納得して貰へるだらう。その后の二人の息子の事だが、バシェイナス殺しは奴等の仕業だ、その二人が貴様の妹の舌を斬り取り、辱しめ、揚句の果てにその両の手を斬り落し、その目で見た通り、結構、色つぽい女に仕立上げてやつたといふ訳さ。
ルーシアス おお、憎んでも飽き足りない、この悪党め! 色つぽい女に仕立上げてやつただと?
エアロン さうだらうが、二人の男に水揚げして貰ひ、身を捩《よぢ》つて泣き悶え、やつと一人前の女に仕立上げられたんぢやないか! 勿論、さうしてやつた二人の仕立屋もそれ相応のお返しは貰つてゐるだらうがね。
ルーシアス おお、残虐な、獣同然の恥知らず、貴様に退けを取らぬ悪党め等!
エアロン その通り、俺は奴等の御指南番、何かと智慧を授けてやつたのだからな。尤《もつと》もあの情欲、激しいの何のつて、あれはお袋の血を引いたものだ、一度狙ひを附けたら決して外さない、一方、あの残忍な性格、あれは俺から教はつたものだらう、一度食らひ附いたら二度と離さぬ、正に犬も顔負けだ。さてと、俺が何をやつてのけたか、教へてやるとするか、俺様の値打を認めて戴く為にな。先づお前の弟達を巧みに操り、あの穴に誘《おび》き寄せた、そこには前もつてバシェイナスの死骸を抛込《はふりこ》んで置いたといふ仕掛さ。例の手紙を書いたのも俺だ、それ、お前の親父さんが見附けたやつだが、その中に書いてある金の袋を隠して置いたのもこの俺だ、勿論、后とその二人の息子達もぐるになつて仕組んだ芝居さ。かうして数へ立てて見ると、お前の胸を苦しめる様な悪事のうち、俺が一役買つて出なかつたものは今まで一つでもあつたかな? 皇帝の使者の役を演じ、お前の親父の手を騙し取つて来たのもこの俺だが、その手を受取つてお前達と別れた後、余りのをかしさに危ふくこの心臓が破裂しさうになるほど笑ひが込上げて来て全く困つたよ。実は壁の後に隠れてその割れ目から、お前の親父が自分の手と引き代へに二人の息子の生首を受取るのを盗み見してゐたのだが、その時、奴の目に涙が一杯溢出るのを見せて貰つて、俺は腹を抱へて笑つたものだ、お蔭で俺の目まで奴の目に劣らぬくらゐ涙の雨に濡れそぼちといふ訳さ、後で后にもこの余興を一つ残らずありのままお伝へしたところ、その面白をかしき物語にお后は今にも気絶せんばかりのお喜び様、嬉しい事を報せてくれたと顔中口附けの雨を降らせてくれたつけ。
ゴート人 黙れ、よくもそんな事が言へるな、顔色一つ変へずに?
エアロン さうよ、仕方があるまい、諺《ことわざ》にあるぢやないか、「黒色は赤面出来ず」とな。
ルーシアス 貴様、それ程の残虐な悪事を犯してゐながら、少しも悔いてはゐないのか?
エアロン いや、大いに悔いてゐる、もつと思ふ存分暴れ廻つて置かなかつた事を。今でも呪つてゐる、過ぎ去つた一日を想出してな――尤も、実のところそんな日が幾日あつたか――俺が世の中を騒がせる様な悪事を何一つ犯さずに過した日が。けふまでの俺は人を殺すか、そいつが死ぬ様に策を巡らすか、生娘を犯すか、その為の手立てを講ずるか、そんな事で一日を過して来た、無実の人間を中傷して自ら証人役を買つて出る、友人同士の間に二度と解け難い確執を生じさせる、貧乏人共の家畜に羂《わな》を仕掛けて、その首をへし折る、夜中にその納屋と乾草に火を放ち、その火を消し止める為、奴等に涙を絞らせる。これもよくやつた事だが、死人を墓から掘出し、その死骸を誰か親戚の奴の門口に真直ぐ立掛けて置く、それも連中がそろそろ悲しみを忘れた頃を見計らつてな、そして死骸の肌には、木の皮に彫り附ける様に、ローマ文字でかう刻み附けて置く、「吾死すとも、汝の悲しみを死なしむる勿れ、」とな。ちよつ、確かにこれまで数知れぬ恐ろしい悪事を重ねはした、それも蠅《はへ》を殺す様に極く気軽にやつてのけたが、一度も後悔した事は無い、それが多少あるとすれば、今となつては今までの十倍も悪事を重ねる事が出来ないといふ事だけだな。
ルーシアス その悪魔を降せ、縛り首などで一瞬の中に死なせるなど、そんな楽な死に方をさせてはならぬ。
エアロン 悪魔といふものがゐるなら、俺はその悪魔になりたい、永劫の地獄の業火に焼かれて生きてゐたい、さうしてやがてそこで貴様等と顔を会はせた時、激しい毒を含んだこの舌で貴様等を苦しめてやる為に!
ルーシアス おい、奴を黙らせろ、もう一言も口を利かせてはならぬ。(兵士達がエアロンに猿轡をかませ梯子から下す)
ゴート人一名登場。
ゴート人 ローマからの使者にございます、是非お目通り願ひたいと申出てをります。
ルーシアス ここへ通せ。
イーミリアスが連れて来られる。
ルーシアス よく来た、イーミリアス、ローマから何の報せだ?
イーミリアス ルーシアス、並びにゴートの諸卿、ローマ皇帝に代つて御挨拶申上げます、皇帝は御一同が武器を取つて立上つたことを知り、お父上のお邸にて和を講じたいとお望みです、必要とあれば人質を要求して戴きたい、直ぐにもお送りするとの事でございます。
ゴート人の一 お考へは?
ルーシアス イーミリアス、人質に値する者を皇帝から父と叔父の処へ届けさせて戴きたい、さうすれば吾もそこへ行く。さあ、進軍だ。(一同退場)
13
〔第五幕 第二場〕
タイタス家の中庭
タマラと二人の息子登場、「復讐」とそれに仕へる「凌辱」と「殺人」の扮装をしてゐる。
タマラ さあ、この無気味な陰気臭い姿に身を隠し、アンドロニカスに会はう、私は地獄から遣はされた「復讐」の神、一緒に力を合はせ、あの男の受けた不当な仕打ちに仕返しをしに来たのだと言つてやる。あの書斎の戸を叩いておくれ、噂によると、あの男、そこに閉ぢ籠つて思ひも附かぬ恐しい復讐を企んでゐるらしい、「復讐」の神が手を藉しに来たと言つておやり、お前の敵を破滅させに来たのだと。(一同、戸を叩く)
タイタスが二階の窓を開ける。
タイタス 誰だ、独り居の俺の冥想を邪魔する奴は? いづれ、何かの企みであらう、俺に戸を開けさせようといふのは、恐らく俺の厳しい決意がその戸口から飛去り、今まで考へて来た事を悉《ことごと》く無に帰させてしまはうといふのでは? さうは行かぬぞ。俺がやらうと思つてゐる事は、これ、この通り、血染めの文字に記してあるのだ。かうして書留めておいた以上、その通り必ずやつてのける。(血で書いた紙を見せる)
タマラ タイタス、私はお前と話をしに来たのだ。
タイタス いいや、一言も話したくない。俺はどうすれば自分の言葉に磨きを掛けられるのだ、その為の手振りをしようにもその手が無いといふのに? 所詮、お前の勝ちだ、それなら、もう用は無い。
タマラ 私が誰か解つたなら、恐らくお前も話す気になるだらうに。
タイタス 俺は気違ひではない、お前ならよく知つてゐる。この惨めな切株、この真赤な血染めの文字、この悲哀と苦悩が刻みつけた額《ひたひ》の皺《しわ》、心ふたがるる昼と重苦しい夜、有りと有る悲しみ、それが何よりの証拠だ、貴様ならよく知つてゐる、あの驕り昂れる后、威勢を誇るタマラだ。今かうしてやつて来たのも、まだ残つてゐるこの手を奪ふ為であらう?
タマラ よく見るがいい、気の毒な男だ、私はタマラではない、あの女はお前の敵、が、私は身方だ。地獄から遣はされた「復讐」の女神だ、お前の心に巣食ひ、その心を食ひ散らす兀鷹《はげたか》を鎮まらせる為に、お前の敵に酷い復讐をしようとしてゐるのだ。降りて来ておくれ、そして私をこの世の光の中に迎へておくれ、殺人や死について語り明かさう、この世にどんな洞窟や隠れ家があらうと、また果て知れぬ暗闇や霧深い谷間があらうと、血腥い殺人や忌はしい凌辱がその罪深さに戦《おのの》いて身を潜《ひそ》め隠れる場所など何処にもありはしない、必ず私が奴等を見附け出し、奴等の耳に私の恐しい名前を囁《ささや》いてやる、私は「復讐」の女神だと、それを聞けばどれ程邪悪な罪人《つみびと》も慄へ上るだらう。
タイタス お前は「復讐」の女神なのか? 俺の許に遣はされたといふのか、俺の敵を苦しめる為に?
タマラ さうだ、だから、そこから降りて来て、私を迎へ容れておくれ。
タイタス 降りて行く前にして貰ひたい事がある。それ、お前の側に「凌辱《りようじよく》」と「殺人」が立つてゐる、さあ、お前が「復讐」の女神だといふ確かな証拠が欲しい、今直ぐにもその二人を刺し殺すか、それともお前の戦車に括《くく》り附けてそいつ等の胴体を真二つに引裂くかして貰ひたい、さうすれば俺もそこへ降りて行き、お前の馭者《ぎよしや》となつて共に地球の囲《まは》りを駆け巡らう。駿馬《しゆんめ》を二頭用意してくれ、黒い大理石の様に黒光りのする馬を、そいつにお前の復讐の馬車を引かせて疾駆させ、罪に汚れた洞窟に隠れ潜《ひそ》む人殺し共を片端から見附け出すのだ。さうしてお前の馬車が奴等の首で一杯になつたら、俺は馬車から降り、車輪の側に附いて供の馬丁宜しく駆けずり廻つてやる、一日中さうしてやつてもいい、日の神ハイペリオンが東の空に昇り、西の海に沈むまで。いや、毎日でもいい、俺はこの辛い仕事に耐へて見せるぞ、もしお前がそこにゐる「凌辱」と「殺人」の二人を打ち殺してくれさへしたらな。
タマラ この二人は私の手先、一緒に連れて来たのだ。
タイタス お前の手先だと? では、何といふ名だ?
タマラ 「凌辱」と「殺人」、確かにさう呼ばれてゐるが、それもこの二人がその二つの大罪を犯した人間に復讐する事を目的としてゐるからだ。
タイタス ほう、不思議な事もあるものだ、二人共、后の息子に生写《いきうつ》しではないか! そしてお前は后にそつくりだ! とはいへ、俺達は所詮この世の生き物、皆、鈍い狂つた目の持主、始終見間違へばかりする。おお、待つてゐた、「復讐」の女神、今直ぐお前の処へ降りて行く。この片腕だけの抱擁で我慢してくれるなら、直ぐにもこの腕でお前を抱かせて貰はう。(窓を閉ぢる)
タマラ かうして調子を合はせて置くのが気違ひには一番いい。あの男の狂つた妄想を煽《あふ》り立てる為、私が何を言はうと、お前達はわざとそれに乗つて巧く話を合はせておくれ、今ではあの男、私のことをすつかり「復讐」の女神だと思込んでゐる、ああして狂気の妄念に取憑かれ、何でも信込んでしまふのを巧く利用して、息子のルーシアスを呼びにやらせよう、宴会の間中、私はルーシアスをその場に釘附けにして置いて、臨機応変、何か巧い手を考へ、気の変り易いゴート人共の結束を乱し、追払つてしまふ、少くとも連中を奴の敵に廻してしまふのだ。それ、あいつが来る、狙《ねら》ひ通りに片附けてしまはなければ。
タイタスが家から出て来る。
タイタス 長い間、惨めな日を送つて来た、それもひたすらお前の来るのを待ち侘びながら。よく来てくれた、「復讐」の女神、この苦悩に満ちた私の家へ。「凌辱」殿に「殺人」殿、お二方共よく来てくれた。それにしても后とその息子共に何とよく似てゐる事か! これでムーアが一人加はれば、全く文句の附け様無しだ。詰り、地獄中探してもあれだけの悪魔は手に入らなかつたといふ訳だな? さうだらう、俺にはよく解つてゐるのだ、后はどこへ行くにも必ずムーアを連れて出歩いてゐたからな、だから、お前がローマの后に成りすます積りなら、ああいふ悪魔を連れて来た方がよかつたのだ。ともかく、よく来てくれた。で、これからどうしたらいい?
タマラ 私達に何をして貰ひたいのだ、アンドロニカス?
ディミートリアス 人殺しの下手人を教へてくれ、俺は先づそいつを片附けてやる。
カイアロン 娘を強姦した悪党を教へてくれ、俺は先づそいつに復讐させて貰ひたい。
タマラ お前を不当に苦しめた連中を教へておくれ、それが何百人ゐようと、私は一人残らず復讐してやらう。
タイタス このローマの到る処、罪に穢れた街を探し廻り、お前によく似た男を見附けたら、「殺人」殿、そいつを一突きにするのだ、そいつこそ、人殺しの下手人だ。お前も一緒に行け、運よくお前によく似た男を見つけたら、「凌辱」殿、そいつを一突きにするのだ、そいつこそ強姦の罪を犯した色気違ひだ。お前も二人と一緒に行つてくれ、皇帝の宮殿にムーアに傅《かしづ》かれた后がゐる、お前の姿形を目安にすれば直ぐそれと分らう、后は頭の天辺《てつぺん》から爪先《つまさき》までお前の姿に生写しだからな、お願ひだ、奴等をたつぷり責め苛んだ揚句、あの世に送込んでくれ、奴等も俺と俺の一族をたつぷり責め苛んだのだからな。
タマラ よく教へてくれた、言はれた通りにしよう。それはそれとして、もしよかつたら、アンドロニカス、使ひを出してルーシアスを招んで置いて貰ひたい、あの人並み優れて勇敢なあなたの息子を、あの男は今、勇猛なゴート軍を率ゐてローマに攻込まうとしてゐる、あれを招き、お前の邸で会食する様、伝へて貰ひたいのだ、もしあれが来たら、その盛大な宴《うたげ》の開かれてゐる処へ、私は后とその息子達を連れて来る事にする、いや、皇帝も連れて来よう、その他お前の敵といふ敵を悉く一堂に集めるのだ。さうして奴等をお前の思ふがままに頭を下げさせ、跪かせてやつたらいい、奴等の上にお前の憤《いきどほ》りを打ちまけ、何でも気の済む様にするがいい。この企み、アンドロニカスはどう思ふ?
タイタス マーカス、弟! 悲しみに打拉《うちひし》がれたタイタスの声が聞えぬか。
マーカス登場。
タイタス 直ぐ発《た》つてくれ、マーカス、ルーシアスの処へ、ゴート軍と一緒だ、そこへ行けば直ぐ見附かる、そして俺の処へ来る様に、それから主だつたゴートの貴族達も一緒に連れて来いと言つてくれぬか。兵士達はそのまま野営して待たせて置く様にとな。なほかう伝へて貰ひたい、皇帝自ら、いや、お后までも俺の邸で食事を召上る事になつた、あれも御相伴《しやうばん》する様にとな。これは兄の頼みだ、言ふ通りにしてくれ、あれにもさう伝へてくれ、年老いた父の命を大切に思ふならと。
マーカス 宜しい、さうしよう、直ぐ戻つて来る。(退場)
タマラ では、私もお前の為に一肌脱ぐとしよう、手先の者も一緒に連れて行く。
タイタス いや、いや、「凌辱」と「殺人」の御両人にはここにゐて貰はう、それが厭なら、弟を呼び戻し、復讐はルーシアス一人に任せて置く。
タマラ (傍白)どうする、お前達? あの男と一緒にここで待つてゐておくれかい、皇帝の処に行つて、例の悪戯が巧く運んでゐる事をお報せして来る間? 奴の気紛《きまぐ》れに逆《さから》つてはいけないよ、巧く取入つて話を合はせ、私が戻るまであの男と一緒に待つてゐておくれ。
タイタス (傍白)奴等の正体は解つてゐる、奴等は俺を気違ひだと思つてゐるらしいが。いづれ奴等の企みの裏を掻いてやるぞ、忌はしい地獄の番犬共とその母《おや》犬めが。
ディミートリアス 女神殿、安心してお出掛けを、吾二人の事は御心配無く。
タマラ では、これで、アンドロニカス、いよいよ「復讐」の女神のお出ましだ、お前の敵《かたき》を欺く為の羂を仕掛けに。
タイタス 頼りにしてゐるぞ、「復讐」の女神殿、成功を祈つてゐる。(タマラ退場)
カイアロン 遠慮無く言つてくれ、老人、俺達は何をすればよいのだ?
タイタス ちよつ、お前達の仕事なら幾らでもある。パブリアス、来てくれ、ケイアス、ヴァランタイン!
パブリアス及びその他の者、屋敷から出て来る。
パブリアス 何か御用が?
タイタス この二人を知つてゐるか?
パブリアス 后の息子達だ、間違ひ無い、カイアロンとディミートリアスだ。
タイタス 馬鹿な、パブリアス、馬鹿な! 間違へるにも程がある、一人は「殺人」殿、もう一人は「凌辱」といふお名前だ、だから、直ちに縛上げろ、パブリアス。ケイアスとヴァランタイン、二人を抑へてゐろ。お前達も知つてゐよう、この日の来るのを俺がどれほど待ち焦れてゐたか、遂にその時が来たのだ。しつかり縛れ、猿轡《さるぐつわ》を噛ませろ、喚出《わめきだ》しでもしたらな。(家へ入る、パブリアス及びその他の者はカイアロンとディミートリアスを捉へる)
カイアロン 悪党共、手出しは許さぬ! 俺達は后の子だぞ。
パブリアス だからこそ言はれた通りにするのだ。猿轡を噛ませろ、一言も喋《しやべ》らせるな。そつちはしつかり縛つたか? いいか、解けない様に強く縛るのだぞ。
タイタス・アンドロニカスがナイフを持ち、ラヴィニアが水盤を持つて登場。
タイタス さあ、ここだ、ラヴィニア、見ろ、お前の敵《かたき》を捕へたぞ。皆、奴等の口を塞げ、俺に向つて物を言はせるな、だが、俺の口が吐き出す恐しい言葉は聞える様にして置け。おお、悪党共、カイアロン、ディミートリアス! この清らかな泉を見ろ、それを貴様達は泥で汚したのだ、この爽かな夏を燻《くす》んだ冬の気で濁らせたのだ。貴様達がこれの夫を殺し、その穢はしい罪の為にこれの兄二人は処刑され、俺は片手を奪はれ、その上、物笑ひの種にまでされたのだ。娘の美しい両の手も、舌も、いいや、手や舌などよりも遥かに貴い、その穢れ無き操を、人でなしの悪党の貴様等が暴力を以て奪つたのだ。何と答へる、貴様等、もし口を利かせてやつたら? 悪党め等、恥ぢて慈悲を乞ふ事すら出来はすまい。聞け、畜生共、どうやつて貴様等を殺す積りか、俺の肚を。この片手がかうして残つてゐるのは、その貴様等の喉を掻切る為なのだ、そしてラヴィニアはあの切株の様な両手で水盤を支へてそれに貴様等の罪に穢れた血を受けるのだ。知つてゐよう、貴様等の母親は俺と食事を共にする積りでゐる、自ら「復讐」の女神などと抜かし、俺を気違ひだと思込んでゐる。聞け、悪党共、俺は貴様等の骨を碾《ひ》いて粉にし、それを貴様等の血で捏《こ》ね、その練り粉を延し、見るも穢はしいその貴様等の頭を叩き潰した奴を中身にパイを二つ作つて、あの淫売に、さうよ、貴様等の忌はしい母親に食はせてやるのだ、大地が自ら生み落したものを、再び呑込む様にな。これが后の為にしつらへた宴《うたげ》だ、これが后の腹を満してやる献立だ、ピロメーラーも及ばぬ苦しみを貴様等は俺の娘に味ははせた、それならピロメーラーの姉プロクネーが及びも附かぬ復讐を俺は果してやる。さあ、覚悟はいいな、喉を出せ。ラヴィニア、ここへ、血を受けるのだ、奴等が死んだら、その骨を碾いて粉にし、奴等の憎むべき血で捏ね上げ、その皮に忌はしい頭をくるんで焼くのだ。さあ、いいか、皆、忙しくなるぞ、この宴の用意を怠るな、出来ることなら婚礼の宴に招《よ》ばれ、それが一瞬にして血の海に化せしめられたケンタウロス族の例も遠く及ばぬほど残忍で血腥いものにしてやりたい。(二人の喉を切る)さあ、死体を中へ運べ、俺が料理番を務めよう、奴等の母親が来るまでに仕上げて置かなくてはならぬのだ。(一同死骸を邸内に運込む)
14
〔第五幕 第三場〕
ルーシアス、マーカス、及びゴート人数名が捕虜にしたエアロンを連れて登場、侍者の一人は赤児を腕に抱いてゐる。
ルーシアス 叔父上、かうしてローマに戻れといふのが父上のお考へ、私に異存はありません。
ゴート人の一 私達の考へもあなたと同じだ、如何なる運命が待受けてゐようと、少しも恐れぬ。
ルーシアス 叔父上、こいつを家の中に、この残虐なムーア、獰猛《だうまう》な虎、呪はれた悪魔を、食べ物も与へず、手枷足枷《てかせあしかせ》を嵌めておいて下さい、いづれ后の面前に引張り出し、あの女の邪な企み事を何から何まで証言させてやりたいのです。それから、屈強の兵《つはもの》を選りすぐり、要所に伏兵として配置する様に、どうやら皇帝は何か企んでゐるらしい。
エアロン 何の悪魔でもいい、俺の耳に呪ひの言葉を吹込み、俺を唆《そその》かし、この舌を操つて胸に溢れる毒気を敵の頭上に吐出させてくれ!
ルーシアス 失せろ、人でなしの犬畜生! 呪はれた下司下郎! 皆、叔父に手を藉して奴を家の中へ閉ぢ籠めて置いてくれ。(ゴート人数名エアロンを引立てて入る。トラムペット吹奏)あのトラムペットは皇帝到著の報せだ。
皇帝及び后、護民官その他を伴つて登場。
サターナイナス 妙な話だな、大空の太陽は必ずしも一つとは限らぬと言ひたいのか?
ルーシアス 何の御利益があるといふのだ、自ら太陽と呼んで憚らぬといふのは?
マーカス ま、お二人共、諍《いさか》ひは止めて戴きたい、この度の争ひは穏かに話合つて片を附けるべきもの。宴の用意は既に出来てをります、それも思慮深いタイタスの思附き、この度の不和に然るべき決着を附け、このローマに平和と愛と団結を齎す為、祖国の将来を慮つての催しにございます。その気持をお汲取りの上、どうぞ奥へ、さあ、お席にお着きになつて下さいます様。
サターナイナス マーカス、解つた、さうしよう。
召使達が食卓を持つて出る。トラムペットの吹奏、料理番の服装をしたタイタスが皿を並べる、顔をヴェイルで隠したラヴィニア、小ルーシアス、その他の者が随ふ。
タイタス ようこそ、皇帝サターナイナス殿、ようこそ、お后様、勇敢なゴートの諸卿もよくお出で下さつた、おお、お前もよく来てくれたな、ルーシアス、改めて、ようこそ御一同。大したお持成しも出来ませぬが、胃袋だけは一杯にして差上げられませう、どうぞ召上つて戴きたい。
サターナイナス なぜその様な姿をしてゐるのだ、アンドロニカス?
タイタス 万一の事があつてはと存じまして、他ならぬ皇帝、並びにお后をお持成し申上げるのでございますから。
タマラ 忝《かたじけな》く存じます、アンドロニカス。
タイタス 私の心中をお察し戴ければ、左様にもお思ひ戴けませう。一つ、皇帝に御教示願ひたい事がございます、といふのは、かのヴィルギニウスの話でございますが、あの男は己れの娘にやにはに襲掛り、自らの右手を以て刺し殺したとか、これは果して正しき行ひと申せませうか、その訳は娘が辱しめられ、穢され、操を奪はれたからだと申しますが?
サターナイナス 正しい行ひであらう、アンドロニカス。
タイタス で、その理由は、是非伺ひたい!
サターナイナス 娘としては、辱しめを受けながら、なほ生き永らへ、己れの姿を父の前に晒し、その悲しみを日新たにすべきではないと思ふ。
タイタス 立派な理由だ、実に公明正大、誰でも納得する。以て範と為すべき鑑《かがみ》だ、これに倣《なら》ひ、これを生き証人と仰げば、この俺にも、世にも惨めなこの俺にも同じ事がやつてのけられる。死ね、死ね、ラヴィニア、さうしてお前の受けた恥辱もお前と共に、いや、その恥辱と共にお前の父の悲しみも、ええい、死んでしまへ! (娘を殺す)
サターナイナス 何をする、それでも親か、無慈悲な事を?
タイタス 盲《めしひ》の事だ、仕方あるまい、この娘故に涙がこの目を曇らせ、己れの娘を殺してしまつたのだ。俺の悲しみはヴィルギニウスに劣りはせぬ、いや、あの男とは較べ物にならぬ名分があればこそ、この暴虐な振舞に及んだのだ。それもかうして終つてしまつた。
サターナイナス では、ラヴィニアは何者かに辱しめられたのか? 言へ、誰だ、そんな暴行を働いたのは。
タイタス それを召上つては戴けませぬか? 何とぞ、お召上りを?
タマラ なぜ唯一人の娘御をこの様な酷い目に?
タイタス それは私ではない、手を下したのはカイアロンとディミートリアスだ。あの二人が娘を辱しめ、娘の舌を斬り落したのだ、奴等が、さう、奴等なのだ、娘をこの様な酷い目に遭はせたのは。
サターナイナス 誰か、二人を連れて来い、直ぐにもここへ。
タイタス いや、二人ともここにゐる、焼かれてそのパイの中に、おお、それを奴等の母親が旨さうに食つてゐる、自ら生み育てて来た子供の肉を食らつたぞ。本当だ、本当だとも、このナイフの鋭い切先が何よりの証人。(后を刺し殺す)
サターナイナス 死ね、気違ひ爺、これが酬いだ。(タイタスを殺す)
ルーシアス 父の血が流されるのを息子が黙つて見てゐられると思ふのか? 酬いには酬いを、剣には剣を。
ルーシアス、サターナイナスを殺す。人、騒然となる。ルーシアス、マーカス、その他の者、露台に上る。
マーカス ローマ市民にしてローマの息子たる諸卿、その顔色蒼然たる姿は見るに忍びぬ、御一同は眼前の内紛に右往左往し、恰も鳥の群が一陣の突風に列を乱して四散するが如き有様だ、頼む、私の言ふ事に耳を傾けてくれ、このほつれた麦穂を再び元通り一つの束に戻す事が出来るか、この引裂かれた五体を元通り一つの体に戻す事が出来るか、私の考へを聴いて貰ひたい、このローマは自らの手で己が頭上に破滅を齎してはならぬ、数の強大な王国が臣下の礼を取るこのローマが、恰も見捨てられて自暴自棄となつた無頼の徒の如く、自らに向つて恥づべき鞭を揮《ふる》つてはならぬ。が、もしこの老いの白髪と額の皺を、それこそこの過ぎし歳月の厳粛なる証人と言へようが、それを以てしても、私の言葉に耳を傾けて貰へないとすれば――(ルーシアスに)お前の口から話して貰はう、ローマのこよなき友、ルーシアス、建国の祖イーニアスの如く見事に話してやつてくれ、その昔、イーニアスはその荘重なる弁舌を以て、恋の病に打ち沈むダイドーの耳に、地獄もかくやと思ふばかりに燃え盛るトロイ落城の夜の物語を語り聴かせ、ダイドーの耳を〓《そばだ》てさせたといふではないか、卑劣にも巨大な木馬に身を隠したギリシアの軍勢が突如その中から姿を現し、プライアム王のトロイを襲つたといふあの話だ、それからあの話も聴かせてくれ、ローマにとつてシノーンは誰なのか、運命の木馬をトロイの城に引入れる様、自ら捕虜となつてプライアム王を騙し、このトロイに、このローマに内乱といふ痛手を負はせたシノーンは誰なのか。私の心臓は堅い石で出来てゐるのでもなければ鋼で出来てゐるのでもない、吾が蒙つたこの上ない悲しみ凡てを語らうとすれば、溢れる涙が私の言葉を溺れさせずには置かぬ、話の途中で言葉が途切れてしまふに違ひ無い、それも、皆の心を動かし、私の話にじつと耳を傾けさせ、憐憫の情を抱かしめなければならぬ、愈これからといふ大事な時に。見るがいい、ここにローマの若き指導者がゐる、この男の話を聴かせて貰はう、私は傍に立ち、泣いてその話を聴かう。
ルーシアス では、先づ御一同に聴いて戴きたい事がある、あの呪ふべきカイアロンとディミートリアスの事だが、あの二人こそ吾が皇帝の弟バシェイナスを殺した罪人なのだ、そればかりか、私の妹ラヴィニアを辱しめたのも奴等二人なのだ。その残酷な罪悪の濡衣を着せられ、私の弟二人は首を刎《は》ねられた、しかもそれを歎く父の涙は徒《いたづら》に嘲笑の的となり、いい気になつた奴等は陋劣《ろうれつ》にも父を欺き、その忠誠なる手を奪ひ取つたのだ、ローマの為に戦ひ続け、その敵共を墓場へ送込んだこの父の手を。そして遂にはこの私まで追放の憂き目に遭はせた、鎖された城門を背にした私は泣く泣く祖国を後にし、嘗てのローマの敵に救ひを求めた、彼等は私の涙によつてその敵意を洗ひ流し、私を友として両の腕《かひな》に強く抱き締めてくれたのだ。確かに私は追放に処せられた身だ、が、私の言葉を聴いて戴きたい、嘗て私は己が血に代へて祖国ローマの安寧を守り、祖国の胸に突附けられた敵の刃を払ひ退け、この己が五体を敵前に晒し、その剣の鞘と為して少しも怯まなかつた男だ。ああ、御存じの通り、私は自分の手柄を鼻に掛ける様な男ではない、誓つてもいい、この身に残る傷痕こそ何よりの証人、口こそ利かぬが、すべてを語り証してくれよう、私の話が公正と真実に満ちたものである事を。いや、待つてくれ! どうやら、余計なことを申上げた様だ、薬にもならぬ己が功績など申上げるべき時ではなかつた。どうか、大目に見て戴きたい、人間といふものは、側に友がゐないとなると、自ら己れの功績を吹聴するもの。
マーカス 今度は私が話す番だ。この赤児を見てくれ、(指し示す)タマラが産んだ子だ、父親は神を怖れぬあのムーア、この度の打続く悲惨な禍ひの筋書を作つた元兇、その悪党はこのタイタスの家の中に閉ぢ籠め、まだ生かしてある、憎んでも余りある奴だが、事実の証人にと思つたからだ。さあ、諸兄の判断にお任せしよう、如何なる名分のもとにタイタスはこの様な復讐の挙に出でたか、あの男の受けた不当な酷い仕打ちは言語に絶し、あの男としてもつひに耐へかねたのであらう、いや、それは、誰にせよ、生ある人間の耐へ得る限度を遥かに超えるものだつた。お聴きの通り、以上が真実なのだ。どうお考へになる、吾がローマの同胞諸君? もし吾の行ひに過ちがあれば、忌憚《きたん》無く御指摘願ひたい、さうすれば、アンドロニカス一家の哀れな生残りに過ぎぬ吾は今、かうして御一同の前に訴へてゐるこの場から直ちに身を退き、手に手を取つて断崖から真逆様に身を投げ、嶮しい岩に吾等の魂を叩附け、家名の断絶を計るも厭ひはせぬ。お答へ戴きたい、ローマの同胞諸君、お答へを、死ねと仰しやるなら、御覧になるがいい、手に手を取つて、ルーシアスとこの身はここから身を投げよう。
イーミリアス まあ、お待ちを、吾等ローマ人の尊敬の的たるマーカス、吾等の皇帝をそのお手でこちらへお導き願ひたい、吾等の皇帝ルーシアスを、私には解つてゐる、民衆は歓呼の声を以てお迎へするでせう。
一同 ルーシアス、ヘイル、吾等のローマ皇帝!
マーカス (兵士達に)お前達、亡きタイタスの悲しみに満ちた家の中に入り、神を信じぬあのムーアをここに引立てて来い、何か思ひも寄らぬほど残虐な死刑に処してやらう、奴の憎むべき生涯に対する罰としてな。
ルーシアス、マーカス、その他の者露台より降りる。
一同 ルーシアス、ヘイル、吾が恵み深きローマの支配者!
ルーシアス 心からの感謝を、ローマの同胞諸君。この私が支配者たる資格に恵まれ、ローマの傷を癒《いや》し、その禍ひを拭ひ去る事が出来ればよいのだが! が、諸君、暫しのお許しを、御覧の通り骨肉の情に急かれ、一刻も早く済まさねばならぬ重い務めが残つてゐるのだ。皆、離れて遠くから見守つてゐて戴きたい、が、叔父上、あなたはもつと近くに、生き残つた者のせめてもの務め、この亡骸《なきがら》に追悼の涙を。(タイタスの亡骸に接吻する)おお、この温かい口附けを父上の青ざめた冷たい唇に、この悲しみに満ちた涙の滴をその血に塗れた顔に、さあ、父上の貴い血を受けた息子の心を籠めた最後の務めを!
マーカス 涙には涙を、口附けには心からの口附けを、このマーカスが兄の唇に。おお、私に課せられたこの務めがどれほど際限の無いものであらうと、私はきつとそれを果してみせる!
ルーシアス ここへ来い、ルーシアス、さあ、ここへ、そして同じ様に涙の雨を降らせるがいい、お前のお祖父様はお前を心からかはいがつておいでだつた、幾度となくお前を膝の上であやして下さり、歌を口ずさみながら寝かせつけて下さつたものだ、あの優しい胸を枕にお前の頭を抱きかかへ、色な昔話を聴かせて下さり、その楽しい話を覚える様にといつも言つておいでだつた、お祖父様が亡くなつた後もそれを話して聴かせる事が出来る様にと。
マーカス この青ざめた唇も、嘗て生きて息をしてゐた時、幾度となくお前に口附けし、その命の温みに喜びを感じ取つてゐた事か! ああ、これ、ルーシアス、最後の口附けを。お別れの御挨拶をするのだ、そしてお祖父様をお墓へ、最後まで優しくしておあげ、さうしてお別れするがいい。
少年 ああ、お祖父様、お祖父様! 僕が代つて死んでしまひたい、それでお祖父様が生き還るものなら!――ああ、神様、込上げる涙の為にお話が出来ない、口を開けば、涙で息が詰つてしまふのだもの。
兵士達がエアロンを連れて戻つて来る。
ローマ兵 アンドロニカスの御一族、そのお歎きに暫し耐へて戴きたう存じます。この忌はしい悪党に死刑の宣告を、この男こそ恐るべき数の悪事を企んだ張本人にございませう。
ルーシアス 奴を胸まで地中に埋め、飢ゑ死にさせてやるがいい、そのまま放つて置き、奴が食ひ物を求めて気が狂つた様に喚《わめ》き叫ばうと一切構ひ附けるな。奴を助けようとした者は勿論、たとへ聊かでも憐れみの心を懐いた者は、その罪を以て死刑に処する。以上の通り宣告する。誰か後に残り、奴を土中に埋め、身動き出来ぬ様にしてくれ。
エアロン ああ、何で怒りが口を鎖し、激情が黙《もだ》してゐなくてはならぬのだ? 俺は赤坊ではない、さうよ、下らぬ祈りで自分の犯した悪事を悔いて見せるなど、そんな真似が出来るか。けふまでやつて来た事より何層倍も罪深い悪事を犯してやりたい位だ、もしこれで俺の思ひ通りに動けさへしたらな。善行など糞食らへ、もし一生のうち一つでもそんな事をしてゐたら、俺は心の底からそれを後悔しただらうよ。
ルーシアス サターナイナスと親しい者は手を藉せ、皇帝の亡骸をここから運び出し、先祖代の霊廟《みたまや》に葬る様に、父タイタスとラヴィニアも直ちに吾がアンドロニカス家の霊廟に葬る事にする。あの貪欲《どんよく》な虎、タマラだが、葬儀は一切許さぬ、何人も喪服を着るな、追悼の鐘一つ鳴らしてはならぬ。屍は野に晒し、獣や鳥の餌食にするがいい。生前、あの女は正に獣同然、そこには憐れみの情の一片《ひとかけら》も見出せはしなかつた、せめて死後は、屍を襲ふ鳥に憐れみを乞ふしかあるまい。(一同退場)
解 題
一
『タイタス・アンドロニカス』の初演は、当時の役者エドワード・アレンの岳父でローズ座の持主であつたフィリップ・ヘンズロウの日記によつて明白に記録が残されてゐる。それには一五九四年一月二十三日、サセックス伯一座によりローズ座において初演され、引続き一月二十八日、二月六日に上演されたとある。この最後の二月六日は偶作品登録が行はれた日と同じである。一五九三年から翌九四年に掛けて悪疫が猖獗し、ロンドンの劇場は屡閉鎖され、それが時には数箇月の長期に亙る事も珍しくはなかつた。ヘンズロウ日記に初演以来一箇月の間、新作にも拘らず三回の上演しか記録されてゐないのもその為である。事実、第三回目の二月六日以後、ロンドンの全劇場は二箇月間閉鎖されてゐる。
二月六日に作品登録が行はれ、その後間も無く四折本『タイタス・アンドロニカス』が出版された。シェイクスピア生存中に出版された作品はすべて四折本であり、上演と共に本になつたといふのは、先づそれだけの人気があつたと見做してよい。一六〇〇年には第二・四折本が、一六一一年には第三・四折本まで出版された程である。いづれも再演、三演の人気に応へたものであらう。が、作者死後は余り上演されず、一六八〇年前後にレイヴンズクロフトが徹底的に原作を改訂し、八七年にその改訂版が上梓され、それも一七〇三年から翌四年に掛けて一回、同じく四年の八、九、十一月に三度上演されただけである。題名も『タイタス・アンドロニカス、或はラヴィニア凌辱』と改められた。その後は一七一七年から二四年に掛けて、この改訂版、或は原作が何回か陽の目を見たが、一七二五年以後、十九世紀の半ばまで一世紀以上に亙つて上演された形跡は全く無い。一八五二年、五七年に再びこの作品は陽の目を見るに至つたが、いづれも改訂版によるものであつて、現存のシェイクスピア正典は二十世紀初頭にオールド・ヴィック劇場が採上げるまでは、誰もこれを舞台で観る事は出来なかつた。またその後も今日に至るまで数回しか上演されてゐない。
作者生存中には人気がありながら、死後これほど粗末に扱はれた作品はシェイクスピア劇中、他に例を見ない。理由は作劇術上、構成の欠陥、筋の矛盾、流血と悲歎との混淆、時代の推移に伴ふ趣味の変遷などが挙げられるが、何より決定的なのはシェイクスピア学の発達により、この作品が果してシェイクスピアの書いたものかどうか、その正典としての信憑性について多くの学者、批評家が疑義を持ち始めたからであらう。結論を先に言へば、これは二流の劇詩人ジョージ・ピールの書いたものにシェイクスピアが手を入れたといふのが今日の定説になつてゐる。
しかし、その何処までがピールの作で、何処にシェイクスピアの才能の輝きが見られるかは、考証上、左程難事ではないにしても、それは飽くまで推測の域を出ない。が、原典考証と制作年代推定に関する限り、『タイタス・アンドロニカス』は簡単明瞭で殆ど疑問の余地が無い。今、吾の前にある作品は版によつて多少の差異はあるが、いづれも先に述べた第一・四折本と一六二三年の第一・二折本とに依拠し、考証復原されたものである。第一・二折本は先に触れた一六一一年の第三・四折本から起されたものである事は明かであるが、この第三・四折本は先行の第一、第二の四折本と多少の相違があり、それは後見用台本を参照した事から生じたものと推察されてゐる。更に三つの四折本のいづれにも無い第三幕第二場全部がこの第一・二折本に初めて出て来るが、これも劇場用の台本を生かしたものと考へられてゐる。
執筆年代については、作品登録が一五九四年二月六日である事、その初演が凡そその二週間前である事、この二つの記録から、一五九三年の暮から翌九四年の年頭に掛けて大体二週間位の間に書かれたものと推定される。遅くとも九四年一月半ばには完成されてゐなければならない。だが、それはシェイクスピアが誰かの作品に手を入れた時期であつて、原作がいつ誰によつて書かれたか、そして如何なる経緯でシェイクスピアがそれに手を入れたのか、更に原作が一人の作者によつて書かれたものではないにしても、手を入れたのが果してシェイクスピアであるかどうかといふ事になると、事は決して簡単明瞭とは片附けられぬ。
第一・四折本は固より、第三・四折本を基にした第一・二折本、即ち現在吾の目にしてゐる『タイタス・アンドロニカス』の作者をシェイクスピアに非ずと断定したのは、エドワード・レイヴンズクロフトであるが、先に述べた様に彼は自説に基き、一六八七年に改訂版を造り上演してゐる。彼はこの作品を無名の作家の持込みと想像し、シェイクスピアは主要人物のせりふにほんの一、二箇処、天才の筆を揮つただけだと主張した。しかし、レイヴンズクロフトは大した人物ではなく、自分の改訂版売込みの底意があからさまなので、シェイクスピア学者は殆ど誰も信用しなかつた。それにしても、『タイタス』がシェイクスピアの正典ではないのではないかといふ疑問の切掛けを造つたのはレイヴンズクロフトの功と言へよう。十九世紀末までには『タイタス』非正典説が学者や批評家の間で殆ど定説化し、シェイクスピアは数箇処に二、三行の補綴を施したに過ぎぬと見做されるに至つた。が、第一・二折本上梓の関係者にはシェイクスピアの知人が何人かをり、その中に収録されてゐる『タイタス』を否定するには余程の証拠が要る。今世紀に入ると、一九〇九年にアルフレッド・ポラードの『シェイクスピアの二折本と四折本』といふ本が出版され、第一・二折本の全作品にシェイクスピアの烙印が捺された。これはともすれば詰らぬ「犯人探し」の如き瑣末事に堕しがちなシェイクスピア学への反撥と見られぬ事もない。が、その四年前の一九〇五年にJ・M・ロバートソンの『シェイクスピアが“タイタス・アンドロニカス”を書いたのか?』といふ題名の書物が出てをり、今までに無い程の強力な証拠によつて第一・二折本の信憑性は既に致命的な打撃を蒙つてゐたのである。
ロバートソンは『タイタス』を書いたのはジョージ・ピールだと断定し、幾つかの場にグリーン、キッド、マーロウの手が加つてゐると推測した。夭折を惜しまれ、シェイクスピア=マーロウ説まで出てゐるマーロウをここに挙げたのは、やはり粗雑な措辞、常套的修辞の多い『タイタス』のうちにも所に天才的な閃きが見られるのを看過し得なかつたからであらう。
ロバートソンは勢ひに乗じ、一九二四年に前著の増補版として『シェイクスピア正典研究序説』を出版したが、その面前に強力な敵が現れた。サー・エドマンド・チェインバーズがそれである。チェインバーズの反論の前にロバートソンは再起不能に陥つた。一九三二年にはセント・クレア・バーン女史がチェインバーズの後を受け、『タイタス』をシェイクスピアの正典から外す根拠として挙げられる「粗雑な措辞」説に冷水を浴びせ掛けた。といふのは、ロバートソンがピールの特徴として挙げた一三三の語彙や言ひ廻しについて、そのうち一二〇は同時代の他の作者のそれと全く同一であるか、或は酷似してゐる事実を例証したからである。しかし、バーン女史よりも寧ろチェインバーズの「功」によつて、『タイタス』問題は一旦休戦状態に入り、学界はこの作品をシェイクスピアの正典として第一・二折本の中に確乎たる地位を与へるに至つた。
だが、表面上はともかく、裏面では疑ひは燻り続けた。右に紹介して来たのは『タイタス』はシェイクスピアの全く関与せぬ作品、或は手を入れたにしても極く僅か、数箇処に過ぎぬといふ説と、第一・二折本の権威のもとにこれをシェイクスピア若書きの正典とする説との二つであるが、そのいづれとも異り、何者かの原作に何らかの理由でシェイクスピアが大幅に改訂の手を加へたといふ第三の説が徐に有力になつて来たのである。既に一九〇八年、グレグ博士はロバートソンの非正典説に力づけられ、次の如き仮説を建ててゐる。それは一五九四年の第一・四折本はシェイクスピアの手の全く加はつてゐない別人の作であり、それに彼が手を入れた『タイタス』は早くも同じ一五九四年以来、彼の所属してゐた侍従長劇団によつて何度か上演されたが、一六一三年のグローブ座焼滅の際に失はれ、以後は止むを得ず改訂前の原作に随つて後見用台本を作り、それがそのまま一六二三年の第一・二折本の定本として使はれたといふのである。このグレグの説は、シェイクスピア改訂説を認めながらも、改訂版そのものは今日残つてゐないといふ事になり、結果としては『タイタス』非正典説と少しも変らない。のみならず、改訂版が火事で焼けて失はれたといふのでは、物的証拠は固より状況証拠としても殆ど無きに等しい。三百年も前の話では、在つた物が焼失してしまつたといふのと、初めから存在しなかつたといふのと、その差は全く零である。
それに較べてドーヴァ・ウィルソンの改訂説は遥かに筋が通つてゐる。なぜなら、彼は四折本、二折本、いづれにもシェイクスピアの痕跡を認め、しかも綿密な考証によつてその事実を明示してゐるからである。なほ彼は改訂の意味を明確にしてをり、それはレイヴンズクロフトの考へてゐた様にあちこちに何行か手を入れたといふのとは異り、作品全体の劇的構造の再編成をも含むと断つてゐる。このウィルソンの考へと同じく四折本、二折本のうちに既にシェイクスピアの手が入つてゐるといふ改訂説は、早くも一八八五年に優れた批評家アーサー・シモンズが指摘してをり、その論拠も正しく鋭いものであつたにも拘らず、イギリスでは不当にも無視された、が、海の彼方、アメリカでは、このシモンズとは無縁に同種の『タイタス』改訂説が今世紀初めに台頭し始め、その中で最も理路整然としてをり、示唆に富める試みと言ひ得るのは一九一九年のT・M・パロットのそれである、さうウィルソンは言つてゐる。
ウィルソンがパロットの功として認めてゐるのは、彼がグレグ達とは異り、『タイタス』の用語と他の作家達のそれとの共通点に注目する事よりも、寧ろシェイクスピア自身の書いた他の初期戯曲、及び詩における用語、それも単に「粗雑な措辞」のみに限らず、語彙、比喩的形象、考へ方などとの比較検討に主力を注いだ事である。その功にも拘らず、パロットは第五幕第一場のエアロンの長ぜりふにはシェイクスピアの手が三分の一程度しか入つてゐないと言つてゐるが、これは不見識も甚だしい、ウィルソンはそのすべてがシェイクスピアの書いたものと想定し、恐らく原作はエアロンの捕縛と処刑だけで済ませてゐたらうと言ひ、なほパロットの決定的な見過しは、折角『タイタス』と、同じ作者の初期戯曲、及び詩との比較検討に主力を注ぎながら、その代表作とも言ふべき長詩『ルークリース』との密接な関係に気附かなかつた事であると指摘してゐる。
『タイタス』と『ルークリース』との相関関係の解明といふ事、ウィルソンの功績は実にこの一点に懸つてゐると言つても過言ではあるまい。そこから、原作者ピール、改訂者シェイクスピアといふ推定に先づ間違ひは無いといふ事、その改訂の度合がどの程度であり、何処に天才の筆が入つてゐるかといふ事、そしていつ頃、どういふ経緯でシェイクスピアが乗出して来たのかといふ事などについて、人の納得出来る様な説明が試みられてゐるからである。
二
冒頭に述べた様に、『タイタス』の作品登録は一五九四年二月六日であり、『ルークリース』のそれは同年五月九日である。そして『タイタス』の初演が同年一月二十三日である事から、遅くともその半月前には脱稿してゐた事はほぼ確実に推測し得る。とすれば、シェイクスピアは『ルークリース』の詩作と平行して『タイタス』の改訂を進めてゐたとしか思はれない。ウィルソンはルークリース凌辱といふ主題がそのまま『タイタス』のうちに持込まれてをり、屡ルークリースへの言及が見られるばかりでなく、修辞、比喩などにおいても両作品に類似の箇処が非常に多い事を指摘してゐるが、更に次の事実に読者の留意を求めてゐる。といふのはシェイクスピアは『ルークリース』の前に同じく長詩『ヴィーナスとアドーニス』を書いてをり、その作品登録は前年の一五九三年四月十五日であるが、作者はこれをサウザンプトン伯に捧げ、その献辞の中に「引続く閑暇を卻つて幸ひに転じ、更に一層の力を傾け、御前に敬意を表すべく」と書いてゐる、この「閑暇」とは一五九三年二月からその年末までロンドンの劇場が閉鎖され、劇作家として「失業」の止む無きに至つた事を物語るものであり、『ヴィーナスとアドーニス』よりも「更に一層の力を傾け」と約束してゐるのは『ルークリース』の事に違ひ無い、さうウィルソンは推定する。たぶんシェイクスピアは九三年の夏と秋には『ルークリース』に掛り切りであつたらう。そしてそれが完成に近附きつつある時、疫病の死亡率も低下し、年改つての劇場再開の見透しが立ち、シーズン後半の短い冬に備へて、シェイクスピアは急遽『タイタス』の改訂を依頼されたのであらうといふのである。
ところで、その経緯はといふ事になると、その原作者が誰であるか、それが誰であるにせよ、この『タイタス』物語の素材は何であるか、更に原作者がピールであるとすれば、なぜさう断定し得るのか、ピールの原作はどの程度に残つてゐるのか、先づそれらの点を明かにしなければならなくなる。ウィルソンは躊躇する事なく、これをピールの作と断じ、第一幕には殆どシェイクスピアの手は入つてゐないと言切つてゐる。なぜなら、当時、シェイクスピアほど同語の繰返しを嫌つた作家は無く、またピールほど自他の作の別を問はず、平気で同語を繰返したり、使ひ古されたぎこちない言ひ廻しを仕立直して使つたりした作家は無い。しかもそれが『タイタス』では第一幕に最も頻繁に表れてゐる。そればかりではない、シェイクスピアのせりふはその語り手と密接に結附いてをり、その人物がどうしてもさう言はざるを得ぬ必然性を持つてゐるのだが、『タイタス』の第一幕では登場人物のすべてが同じ声、同じ構文、同じ修辞で喋つてゐる。殊にサターナイナスの戴冠まではその傾向がひどい。譬へば、呼び掛けで始り、命令形の動詞が続くせりふが何度も出て来る。冒頭のサターナイナスのせりふとそれに続くバシェイナスのせりふを対比して見れば、よく解るであらう。更に驚くべきは、そのバシェイナスのせりふ「もしこの男が大ローマの民衆の目にこよなく好もしき者と映じるなら、それなら……」と、同じ第一幕の終り近くでサターナイナスとタマラが三度目の登場の後、間も無く、タマラがサターナイナスに語り掛けるせりふ「このタマラがそのお目にこよなく好もしい者と映つてゐるなら、もしさうでしたら」と、この両者の、劇的には何の意味も無い繰返しである、「もし……、それなら(さうでしたら)」即ち"if……, then……"は一幕中他に四箇処もあり、ピールの常套的愛用句法だといふ。ウィルソンに言はれるまでもなく、第一幕は事件の変化はあつても、劇的リズムに乏しく平板である。グレグの言つてゐる通り、それが第二幕に入つて一変する。
しかし、如何にピールが二流の作家であるにしても、三文文士ではない。第一幕から察するに、恐らく座附作者として、当時流行の「血の悲劇」=残酷劇を劇団の要求に随ひ、余り乗気でもなく、止むを得ず書き下したのであらう。その間の事情についてウィルソンは次の様に推理してゐる。最初の手掛りは第一幕の右に触れたサターナイナス、バシェイナスの後で喋るマーカスの長ぜりふであるが、その中頃から少し後に括弧に入つた一節がある。これは一九〇四年、初めて発見された第一・二折本には確かにこの通り印刷されてゐるのだが、第二以下の二折本にはいづれも省かれてゐる。これは何を意味するか。もしこの第一・二折本のみにある括弧内のせりふ、即ち「そしてその度に、それ、そのアンドロニカス一族の記念碑に生贄が捧げられ、ゴート人の捕虜のうち最も身分高き者が殺されたものだ」を省き、タイタスが凱旋、初登場しての最初の長ぜりふの終りの部分、即ち「親しく無言の挨拶を、それこそ死者の慣ひ……」以下、そのせりふの終りまでと、それに続くルーシアスのせりふ「父上、ゴート人の捕虜の中から最も傲慢な男を一人、吾兄弟の手にお預け下さい……」以下全部、及びその後数頁をラヴィニア初登場の直前のタイタスのせりふ「さうしてやらう、このアンドロニカスが息子達の魂に最後の別れを告げるのだ」まで削除し、その後のト書「トラムペットの吹奏、柩が墓に降される」から生かして、先のタイタス初登場の長ぜりふの前半に、即ちト書「人墓を開く」に続ければ、タマラの長子アラーバス殺しは勿論、アラーバスその者が存在する必要が無くなる。いや、事実、存在しなくなり、その方がすつきりする。四折本ではタイタス初登場の際、タマラも一緒に登場するが、そのト書だけは「ゴート族の女王タマラ、二人の息子のカイアロンとディミートリアス、……が随ふ」とあつて、アラーバスには全然触れてゐない。とすれば、第一幕の文体が一人の作者が書いたものとして一貫してゐる以上、ピールは最初にアラーバス殺し無しで書上げ、その後で恐らく劇団の要請に随ひ、その部分を書き加へたものと考へれば、万事、辻褄が合ふ事になる。さう見て行けば、ミューシアスの死も第一稿には無かつたのではないか、寧ろ無い方が良くはないかと思はれる。即ち、サターナイナスがタイタスに向つてラヴィニアを后に所望し、その後でバシェイナスが抗議して、ラヴィニアに対する自分の権利を主張した後、ミューシアスが「兄上達、妹をこの場から連出して下さい、この剣にかけて私がこの戸口を守ります」と言ふが、その後のト書でマーカス、バシェイナス、及びルーシアス、クィンタス、マーシアスの三兄弟がラヴィニアを連れて退場、残されたタイタスがサターナイナスに向つて「後からお出でを、娘は直ちに奪ひ還して御覧に入れます」と言ふ、それを聴き捨てにして、サターナイナス、タマラ、エアロンが退場した後で、父親を遮るミューシアスをタイタスが殺す場面が入り、戻つて来たルーシアスがそれを見て、父を難詰する場面が続く、そこを全部削除し、サターナイナス達がその場にゐた事にして、サターナイナスの「もう用は無い、タイタス、もうお前に用は無い……」といふせりふが来れば、前のタイタスの「娘は直ちに奪ひ還して御覧に入れます」といふせりふと見事に吻合する。その後、サターナイナスとタイタスとの遣り取りがあり、一人残つたタイタスのせりふ「この俺には婚礼の列に加はれとも言はぬ。タイタス、けふまでお前はたつた一人で歩かせられた事があつたか、この様に辱しめられ、身に覚えの無い言掛りまでつけられて?」といふ独白が終ると、ラヴィニアを連れ去つたマーカスとルーシアス、クィンタス、マーシアスの三兄弟が戻つて来るが、そこまではよいとして、その後のマーシアスのせりふから、一同がミューシアスの冥福を祈る為に跪き、「何人も高潔なるミューシアスの為に涙する事勿れ、名声のうちに生き、義によつて死せる者なりき。」までを省いてしまへば、マーカスの「兄上、この沈鬱の沼地から一刻も早く脱け出さねば……」は前のタイタスの独白に巧く続く。今のままでは、このマーカスのせりふは取つて附けた様に急な話題転換になつてをり、それこれ考へ併せれば、やはりタイタスのミューシアス殺しは第一稿には無かつたものと考へるのが自然であらう。
以上すべてを削除しても、第一幕は全体の構成から見て長過ぎる。シェイクスピアが改訂を依頼された時、既に『リチャード三世』を書き、上演してゐたこの天才の目に、この不均衡が映じなかつた筈が無い。右の如き辻褄合はせは後世の学者の分析作業を俟つて初めてコロンブスの卵の如く容易な業と見えて来ようが、シェイクスピアにとつては、恐らくアラーバス殺しも、ミューシアス殺しも不要とまでは思へても、それを細かく継ぎはぎ細工する煩しさに堪へられず、またそれだけの時間の余裕も無く、精右のアラーバス、ミューシアスの無駄を省く様に指示しただけに過ぎまい。彼は専ら第二幕以下に力を尽した。主として詰らぬせりふを魅力のあるせりふに直す事に何より意を用ゐたに違ひ無い。
話を再びピールに戻すが、シェイクスピアが手を附けなかつた第一幕について検討した結果、歴然としてゐる事はピール自身の書いた第一稿があり、それに彼自身が手を加へて増補版を造つたといふ事である。ウィルソンの推測に随へば、既に何度も述べた通り一五九三年前後は悪疫流行の為、ロンドンの劇場は度、しかも時には長期に亙つて閉鎖の憂き目を見た。随つて多くの劇団は都を離れて地方廻りを余儀無くされたのである。ピールが最初に書いた『タイタス』はこの地方巡業用のものであり、随つて普通の作品よりは短いものだつた。それを後にロンドン興行用に増補の必要が生じたのであつて、その矛盾、曖昧は既存の誰かの作品に手を入れたからではなく、増補の不手際の結果に他ならない。更に考へ得る事は、この増補作業に際して、劇団はシェイクスピアに応援を頼んだのではないかといふ事である。ウィルソンはさう臆測する。なぜなら、一つにはシェイクスピアが凌辱された貞女ルークリースを主題にして長詩を書いてゐる事が当時既に知られてゐたからであり、それより何よりサセックス劇団の連中は、悪疫の下火と共に開場の見透しの附いたロンドン興行用の台本作成を急いでゐたからであらうといふ。
ピールの第一稿『タイタス』は同じ作者の詩との比較考証から、一五九三年の春から夏に掛けて書かれたものであり、ストレインジ卿劇団の依頼に応じたものである。だが、第一・四折本の扉には「この上なき悲しきローマの悲劇、タイタス・アンドロニカス」とあり、その下に「尊敬すべきダービー伯、ペンブルク伯、サセックス伯の諸劇団によつて上演さる」とある。これによつて上演権が幾つかの劇団の手に渡つた事が明かであり、その事もまた悪疫流行の「被害」を物語る。序でに言つて置くが、シェイクスピアは侍従長劇団の座附作者であるにも拘らず、前記の理由でサセックス劇団に改訂を要請され、それに応じたものの、数箇月後には『タイタス』は侍従長劇団のレパートリーになつた。その経緯についてもウィルソンは或る臆測を提出してゐるが、俄かに信用し難いし、余り重要ではないので、ここには省略する。
以上はすべてウィルソンの説を紹介したものであるが、ここまでは彼を信用してもよいと思ふ。なほシェイクスピアの手がどの程度に入つてゐるか、各場毎、註の初めに簡単な記述があるので、それを紹介して置く。
〔第一幕 第一場〕 全場ピールのもの、但し二箇処数行についてはシェイクスピアの手といふ説あり。
〔第二幕 第一場〕 色欠陥はあるが、大抵はシェイクスピアが書いたと見なされてゐる。
〔第二幕 第二場〕 パロットは全く非シェイクスピア的と言つてゐる。が、ウィルソンは諸処にシェイクスピアの手を感じてゐる。
〔第二幕 第三場〕 シモンズもパロットもこの場になつて漸くシェイクスピアが手を入れた形跡を認めてゐる。しかし、原作の姿は明瞭に透けて見える。
〔第二幕 第四場〕 シェイクスピアの色濃し。ウィルソンはピールらしき筆致が全く見えぬ、それはこの場が原作には無く、シェイクスピアの附加したものであらうと言つてゐる。
〔第三幕 第一場〕 基盤はピール的、しかし全体に亙つてかなり書直されてゐる。
〔第三幕 第二場〕 この場は第一・二折本において初めて出て来る。従来、シェイクスピアの手は加つてゐないと考へられてゐた。しかし、パロットも言つてゐる様に、諸処にシェイクスピアの他の諸作品との関聯性が見出され、それらは確かに彼の手に成るものと思はれる。
〔第四幕 第一場〕 パロットはシェイクスピアと無関係と言ふ。しかし、ウィルソンは第三幕第二場と殆ど変りの無い文体と考へてゐる。但し筋の上から考へて、欠くべからざる箇処を含んでゐるので、基盤はピールであらう。
〔第四幕 第二場〕 余りシェイクスピアの手は加つてゐない。
〔第四幕 第三場〕 パロットはこの場の前半にはシェイクスピアの手は全く加つてをらず、タイタスの狂気、或は佯狂はキッドの『スペインの悲劇』に出て来るヒエローニモーの真似で、その他キッドの影響が多いと言ふ。がウィルソンはピールとシェイクスピアとの混合を等分に見てゐる。
〔第四幕 第四場〕 スウィンバーン、パロットと同様、ウィルソンもこの場はシェイクスピアのものと考へてゐる。
〔第五幕 第一場〕 初めの数行、その他一、二箇処を除いて、全場シェイクスピアの筆の跡が明かと思はれてゐる。
〔第五幕 第二場〕 シェイクスピアの他の作品との関聯性が数多く見出される。タマラの変装は馬鹿げてゐると思はれようが、舞台では非常に効果あり、その後のタイタスの言動を引立ててゐる。ここは原作にもあつたらうが、多分、シェイクスピアも注意深く書直しをしたと思はれる。
〔第五幕 第三場〕 パロットも言つてゐるが、この場をシェイクスピアはかなり徹底的に書直したと思はれる。またボルトンが言つてゐる様に、原作ではここにエアロンは登場しなかつたに相違無い。四折本のト書にそれが無い事からも、その推測は正しい。
なほ、『タイタス』はシェイクスピアが書いた他のローマ史劇とは異り、史的事実とは殆ど関係が無い。プルタークにもほんの一箇処に数行の記述があるだけで、その言行については全く手掛りが無い。しかし、作者不明の『高貴なるローマ人、タイタス・アンドロニカスの生涯』といふイタリア語からの飜訳が出てをり、その筋書は殆どこの『タイタス』と同じであるが、出版が一五九四年であり、シェイクスピア、或はピールがこれを参照したとはどうしても考へられない。だが、何らかの形でそれが一五九二、三年頃にピールの目に触れたか、詳しく筋書を聴かされたかしたのかも知れぬ。さもなければ、これほど似た作品が出来上る筈が無い。尤もイタリア語からの飜訳は散文であり、殆ど粗筋に等しい詰らぬものである。
三
先にウィルソンについて「ここまでは彼を信じてよい」と書いたが、これから先は、少くとも私は、ウィルソンに同調し難い。先づ、細かい点について述べる。ウィルソンは次の如く幾つかの欠陥を挙げてゐる。
〓 タマラと、エアロンと、どちらが悪企みの首謀者であるか。最初はタマラの様に見えるが、忽ちエアロンが主導権を握つてしまつたかに見え、その点が曖昧、且つ矛盾してゐる。
〓 ルーシアスがゴート族のもとに走つた時、彼等が嘗ての仇敵タイタスの息子と共に、自分達の女王に刃向つて起つ必然性が無い。
〓 ラヴィニアはこの作品における悲哀の源泉とも言ふべき存在なのに、それが登場する時は常に滑稽に見える。その例、〓マーカスに発見された時のマーカスのせりふ。〓オヴィディウスの詩を斬取られた腕でめくるしぐさ。〓タマラの息子達の血を受ける姿。〓最高の馬鹿らしさは、タイタスに俺の手を口でくはへろと言はれるが、その恰好は犬の如く不様に見える。
〓 第二幕第三場でタマラの口から美しい恋の歌を聴かせるとは、気紛れにも程がある。
だが、これ等はいづれも私には承服出来ない。〓については愚問としか思へぬ。下手な禅問答に似て来るが、それは拍手して右の手が鳴つたのか左の手が鳴つたのかと問ふ様なものではないか。単なるシェイクスピア学者に留らず舞台にも造詣の深いウィルソンの言葉とは思へない。最初に凱旋将軍タイタスと一緒にタマラもエアロンも登場してをり、タマラがローマ皇帝の后に挙げられ、タイタスが皇帝の不興を買ひ、その取成しをタマラがしてゐる一部始終をエアロンは黙つて見てゐるのである。最初はタマラのうちに悪心が芽生え、それがエアロンの視線に励されたとも考へられるし、初めからエアロンの目顔で動いたとも考へられ、いづれにしろ全幕通じてエアロンの遠隔操縦によつてタマラは動いてゐると見られる。ゴート時代から二人は以心伝心の間柄ではなかつたか。舞台上で情報連絡の場は無くとも、それは舞台裏で行はれてゐる事を見物は容易に納得するであらう。その為には、見物から見て、この二人がサターナイナスの視線を逃れ、互ひに顔を見合はせられる場所に位置させればよく、エアロンの傲慢な態度に怒つた衛兵がエアロンを突き飛ばせば、自づとさういふ形にならう。
〓も愚問である。『コリオレイナス』でもシェイクスピアは同じ手を使つてゐるではないか。そこではさんざんヴォルサイ族を痛め附けた当の本人コリオレイナスをヴォルサイ方は喜び迎へ、彼を指導者にしてローマ攻撃を開始する。尤も『タイタス』の場合はローマを攻める事は自分達の女王に刃向ふ事になるのだが、その女王は今やローマ皇帝の后となり、自分達を裏切つたのである。のみならず、ゴートの女王として君臨してゐた時もエアロンと懇ろになつてゐた事を、ゴートの貴族達は快く思つてゐなかつたに違ひ無い。今や彼等は女王に刃向はうとしてゐると同時に、いや、それ以上にエアロンに敵意を懐いてゐるのである。第五幕第一場のエアロンの長ぜりふの間、作者はルーシアスにもゴートの貴族達にも何のせりふも与へてはゐないが、それこそルーシアスにとつてのみならず、貴族達にとつて、正に芝居のしどころと言つてよい。
〓についてはラヴィニアの演じ方一つで、読んだだけではウィルソンの如く吹き出してしまふであらうものを、舞ひとマイムに近い憂愁を帯びた緩慢な動きの流れる様な美しい線を以て、マイナスを転じて一挙にプラスに化する事が出来る。その〓の〓について、これは明かにシェイクスピアの筆と見做されてゐるが、それをウィルソンがラヴィニア凌辱の場の後のアンティ・クライマックス、詰りクライマックスの緊張を解く、或は緊張の解ける作用と見てゐる事に私はどうにも賛同しかねる。これは敢へて言へばプリ(予備)・クライマックスの効果を持つものではないか。恐らくその事を改訂時のシェイクスピアは意識してゐたと思ふ。私は『リア王』の解題の中でグロスターがリア王のスタンド・インとして有効な働きをしてゐる事を指摘した。それと同様、マーカスもタイタスのスタンド・インなのである。随つて、ラヴィニアを発見した時の彼の驚愕と悲歎はタイタスの代役として、タイタスの驚愕と悲歎の先触れ、即ちプリ・クライマックスなのである。タイタスを女しく見せてはならない、その威厳と強さを守らなければならない、その為の舞台上の効果としてマーカスが女しさを一身に背負ひ込んでゐるのである。第四幕第三場においても、マーカスは似た様なスタンド・インの役割を果してゐる。タイタスの狂気が滑稽に見え、その偉大な存在を傷附けぬ様に、彼に附合つて狂気を演じ、周囲の者にもさうする様に働き掛けてゐる。
〓については、ウィルソンの疑問の意味が私には解らない。悪人タマラがなぜ美しい恋の歌を口にしてはならないのか。
次にウィルソンにどうしても同調しかねるのは、シェイクスピアがピールの原作に手を入れる時の態度について論じてゐる処である。当時、シェイクスピアは齢三十に達し、『ヴィーナスとアドーニス』によつて詩人として成功し、『ヘンリー六世』三部作に引続き『リチャード三世』を、そして『恋の骨折損』を発表してをり、この『タイタス』の前後に『間違ひ続き』『じやじや馬ならし』『ヴェローナの二紳士』『ロミオとジュリエット』を書いてゐる。そのいづれにも『タイタス』に見られる如き感傷と空しさと大言壮語は見られない、ウィルソンはさう言つてゐる。それなのになぜシェイクスピアは『タイタス』改訂を引受けたのか。金が欲しかつたのかも知れぬ。悪疫流行の為に芝居小屋が不振で戯曲が書けぬ時だつたので、つい手を出してしまつたのかも知れぬ。いづれにせよ、彼はピールの原作を前にして馬鹿しいと思つたに違ひ無い、或は腹を抱へて笑つたに違ひ無い、ウィルソンはさう考へ、とすれば、ヴァン・ドーレンの言ふ如く、恐らくシェイクスピアは同時代の「血の悲劇」をからかひ、諷刺する戯画を造る気持で、自ら遊び戯れながら改訂の筆を採つたのではなからうかと述べてゐる。
これは余りに近代的解釈に過ぎる。「穏和なる《ジエントル》シェイクスピア」にどうしてその様な小賢しい、ひねくれた態度が採れようか。私には全く想像し得ない。『タイタス』には確かに多くの欠陥がある。が、その欠陥に最初に気附いたレイヴンズクロフトの改作とこれを較べて見るがよい。レイヴンズクロフトの『タイタス』は小綺麗に形を整へられ、枝振りも何とか恰好がついた様に見えるが、肝腎の幹は痩せ細り、骨抜きにされ、作品をうねり貫く太い線が失はれてしまつてゐる。タイタスもエアロンも小型になつてしまつた。正直の話、私自身も学生時代に『タイタス』を読んだ時、駄作とまでは思はなかつたが、それ程の作品とも思はず、殆ど印象に残つてゐなかつたのである。その私の目を開いたのは一九七四年、ロイヤル・シェイクスピア劇団によりロンドンのオールドヴィッチ劇場で上演されたトレヴァ・ナン演出の『タイタス』である。私はタイタスにリアの前身を観た。そしてこれを訳してゐるうちに、エアロンのうちにイアーゴーとオセローを、ルーシアスのうちにコリオレイナスとマルコムを、サターナイナスとタマラのうちにマクベスとその夫人を、詰り後期悲劇の片鱗を幾つか垣間見る想ひがした。
さすがにウィルソンもエアロンの力強さには脱帽してゐる。マーロウの中に出て来るマキャベリ的悪党の摸倣であり、『マルタ島のユダヤ人』のバラバスのせりふから剽窃してゐるとくさしながらも、自信を持ち、活気に満ち、茶目気のあるエアロン独自の性格を高く評価してゐる。尤も私はエアロンのうちに茶目気と軽妙だけを見て済ませる事には異論を持つ。彼には鋼の如き剛直と刃の如き冷めたさとその肌の色の如き陰鬱とが混在してゐる。タマラは女である以上、少くともタマラである以上、さういふエアロンに最も魅力を感じてゐたに違ひ無い。が、主人公は飽くまでタイタスであり、さういふ多彩の配色に負けずに太く強く伸上る大きさを持つてゐる。
福 田 恆 存
昭和五十一年十二月二十七日
この作品は昭和五十二年六月「シェイクスピア全集」
補巻として新潮社より刊行された。
Shincho Online Books for T-Time
タイタス・アンドロニカス
発行 2001年6月1日
著者 ウィリアム・シェイクスピア(福田 恆存 訳)
発行者 佐藤隆信
発行所 株式会社新潮社
〒162-8711 東京都新宿区矢来町71
e-mail: old-info@shinchosha.co.jp
URL: http://www.webshincho.com
ISBN4-10-861081-4 C0897
(C)Atsue Fukuda 1977, Corded in Japan