ヴェニスの商人
ウィリアム・シェイクスピア/大山敏子訳
目 次
第一幕
第二幕
第三幕
第四幕
第五幕
解説
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登場人物
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ヴェニスの公爵
モロッコ王……ポーシャへの求婚者
アラゴン王……ポーシャへの求婚者
アントーニオ……ヴェニスの商人
バッサーニオ……アントーニオの友人、ポーシャヘの求婚者
グラシアーノ……アントーニオ、バッサーニオの友人
サリーリオ……アントーニオ、バッサーニオの友人
ソレイニオ……アントーニオ、バッサーニオの友人
ロレンゾ…………ジェシーカの恋人
シャイロック……金持ちのユダヤ人
チューバル……ユダヤ人、シャイロックの友人
ラーンスロット・ゴボウ……道化、シャイロックの召使い
老ゴボウ…………ラーンスロットの父
リオナード……バッサーニオの召使い
ポーシャ……ベルモントの金持ちの後継ぎ
ネリッサ……ポーシャの侍女
ジェシーカ……シャイロックの娘
その他、ヴェニスの高官たち、法廷の役人たち、牢番、召使いたち、従者たち大勢
場所 ヴェニスとベルモントのポーシャの家
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第一幕
第一場 ヴェニスの街上。
〔アントーニオ、サリーリオ、ソレイニオ登場〕
【アントーニオ】 実際、なぜこんなに気がふさぐのか、ぼくにはわからないんだ。
なんとなく気がめいってしかたがない。それで君たちまで気がめいると言う。
だが、どうしてこれをつかまえたのか、見つけたのか、手に入れたのか、
何でできているのか、どこから生まれたのか、
まるでけんとうがつかないんだ。だが、とにかくふさぎ虫がぼくをすっかり腑《ふ》抜けにしてしまって
自分の正体をさえなかなかつかめないというしまつだ。
【サリーリオ】 君の心は大海原でゆれているんだ。
あの海の上、ほら、君の商船がいっぱいに帆をはらんで、
まるで海の殿様か、大金持ちといったように、
あるいはまた、海の上をわたる山車《だし》行列かなんかのように、
まわりの小舟どもを威風堂々見くだして、
それらが頭をさげて、敬意を表しているそばを、
翼をいっぱいにひろげて走っているあの海の上でゆれているんだ。
【ソレイニオ】 まったくだよ、君、かりにぼくがあれだけの財産を海に賭けていたら、
ぼくの心はほとんどそっちのほうへ向けられて、望みをたくしている船とともに、
大海原をうろついているだろう。ぼくはたえず
草の葉をむしりとっては、風の方向をたしかめようとするだろうし、
地図をのぞきこんでは、港は、埠頭《ふとう》は、停泊所はどこだと大さわぎをし、
そしてぼくの積荷に何か気がかりなことが起こりそうな
心配の種が、かりにもあったとしたら、きっとそれが
ぼくをふさぎこませてしまうにちがいないよ。
【サリーリオ】 ぼくだって、スープをさますのに
息を吹きかけただけでも、たちまちおこりにかかっちまうよ、
もしこの息が大風だったら、海の上でどんなわざわいを起こすかと考えただけでもね。
砂時計の砂の落ちるのを見れば、
きっと、浅瀬や砂州《さす》のことを思い出して、
積荷いっぱいのアンドルウ号が砂の上に乗りあげて、
あの高い帆柱《ほばしら》の先を肋材《ろくざい》よりも低くつっこんで、
自分の墓場にキスしている様子を思わずにはいられない。
教会に行って、あの石の会堂を見れば、また、
あの恐ろしい暗礁《あんしょう》の岩のことを思い浮かべるわけだ、
それがちょっとでもあのぼくのやさしい船の横腹にさわってみろ、
たちまち、海一面に積荷の香料がまき散らされる、
荒れ狂う海の大波もぼくの絹で衣裳をつけるというわけさ、
で、つまり、たった今まであれだけ価値のあった財産が、
ぜんぜん、無一文の状態になってしまうというわけだ。ぼくだってこんなことを
想像するんだから、君のこともよくわかるんだ、
そんなことでも起こればどんなにふさぎこんでしまうかじゅうぶんに察しはつくのさ。
だから言わなくたっていいよ、アントーニオ、
船荷のことを思って気がふさいでいるにきまってるさ。
【アントーニオ】 いや、そうじゃないんだ。ありがたいことに、
ぼくの投資は一つの船だけにかかっているわけじゃないんだ。
また一つの場所だけにかかっているのでもない。また、ぼくの全財産が
ことし一年の運勢によってきまるわけでもないのだ。
だから、船荷のことでふさいでいるわけじゃないんだ。
【ソレイニオ】 ほう、じゃあ、恋をしているんだな。
【アントーニオ】 冗談じゃない。
【ソレイニオ】 恋でもない? じゃあ、君は、ええと、
楽しくないんで気がふさいでるってわけだな? すると。
君は笑ったり跳《は》ねたりすることだってできるわけだね、そしてふさいでないから
楽しいんだとも言えるのさ。いや、双面《そうめん》のヤヌスの神にかけて言うが、
自然もまことにおかしな人間をこしらえたもんだ、
いつも、目を細くしてニヤニヤ笑って、
バグパイプの憂うつな音を聞いても、おうむのようにケタケタ笑うやつもいれば、
いつも酢でものんだような渋い顔ばかりしていて、
謹厳《きんげん》そのもののネストルでさえ、おかしいとはっきり宣言したような冗談にでも、
ニヤリとさえもしてやるもんかというような手あいもいるのさ。
〔バッサーニオ、ロレンゾ、グラシアーノ登場〕
あ、君の親戚のバッサーニオがやってきた。
それにグラシアーノやロレンゾもだ。じゃあ、さようなら、
ちょうどいいお相手がみえたから、われわれはこれで失礼しよう。
【サリーリオ】 そうだな。君をすっかり上きげんにしてやるまでここにいるつもりだったが
こういうりっぱなかたがたがみえたんだから……
【アントーニオ】 どうして、どうして、君たちだってとてもりっぱな仲間じゃないか、
どうやら君たちは、自分たちの用事があるので、
これをいい機会に体《てい》よく逃げだそうというわけだな。
【サリーリオ】 やあ、皆さん、こんにちは。
【バッサーニオ】 やあ、これは両君。こんどはいつひと騒ぎやろうか? いつがいい?
ひどくよそよそしいじゃないか? もう帰るのか?
【サリーリオ】 いつかまた暇をみてお相手しましょう。〔サリーリオとソレイニオ退場〕
【ロレンゾ】 バッサーニオさん、アントーニオさんにお会いになれましたから
私どもふたりはこれでおいとまいたします。ですが、どうぞお昼食のときには、
お会いするお約束の場所を忘れないでください。
【バッサーニオ】 忘れやしないさ、だいじょうぶだ。
【グラシアーノ】 アントーニオさん、どうも顔色がよくありませんな、
あんまり世間のことをくよくよ考えすぎるんだ、あなたは。
あまり気苦労して手に入れたんじゃ、結局、骨折損《ほねおりぞん》じゃないですか。
まったくあなたは変わりましたね。
【アントーニオ】 グラシアーノ、ぼくは世間は世間、ただそれだけのものと思っている。
いわば、すべての人がそこで一役つとめる舞台というわけさ、
そうしてぼくのは憂うつな役まわりさ。
【グラシアーノ】 じゃ、わたしは道化役とゆきましょう。
どうせ年とってしわくちゃになるなら、笑って陽気に年をとりましょう、
生命《いのち》をちぢめるようなため息で心臓を冷たくするよりは、
酒でも飲んで肝臓をあたためましょう。
熱い血の通《かよ》った人間ですよ、なんで石膏細工《せっこうざいく》のじいさまみたいに、
じっと冷たく坐りこんでる必要があるんですかね?
起きているときも眠ってるも同然、ぶつくさ小言ばかりならべて
黄疸《おうだん》になるなんてのはまっぴらだ! ねえ、アントーニオ……
わたしはあんたが好きだ、だから言うんですがね……
世間にゃ妙な人間がいるもんで、その顔ときたら
まるでよどんだ水みたいに、かすや薄皮を顔いっぱいに張りつめて。
かたくなにむっつりと黙りこくっているやつがいますぜ、
つまり、知恵者で、まじめで、分別があるというような
世間の評判をとりたいばっかりにさ。まるで、「われこそはお託宣《たくせん》大明神だぞ、
神託を述べてやるから、犬どもは黙れ!」と言わんばかり。
ねえ、アントーニオ、わたしはこういった連中をよく知ってますがね、
なにも口をきかないだけで、まことに賢い人間だという
評判をとっている連中をね、ところがですよ、こういう手あいにかぎって、
ひとたび口を開いてしゃべるとなると、とても聞いちゃいられない、
聞いている者こそいい面の皮、自分の兄弟だってばか者と罵倒《ばとう》して
地獄落ちっていうわけですからね。
まあこんなことはまたいつか話しましょうよ。
だけどとにかく、こんなふさぎ虫を餌なんかにして、
世間の評判なんていうつまらないさかなを釣るのはおよしなさいよ。
さあ、ロレンゾ、行こう。では失礼します、
いずれ食事のあとにでもわたしの説教のしめくくりはつけましょう。
【ロレンゾ】 じゃあ、お昼食時《ひるどき》まで失礼いたします。
グラシアーノがまったく口をきかせてくれないので、
私もそのだんまりの賢人という仲間のひとりになっちまいそうです。
【グラシアーノ】 まあ、あと二年もつき合っていろよ、
きっと自分の声だって忘れちまうだろうからさ。
【アントーニオ】 さようなら、じゃあぼくもおしゃべりになるとしようか。
【グラシアーノ】 こいつはありがたい。まったく、黙っててほめられるのは、
かわいた牛の舌と、売れ口のない娘ぐらいのもんですからね。〔グラシアーノとロレンゾ退場〕
【アントーニオ】 あれでなにか言ったつもりなのかな?
【バッサーニオ】 グラシアーノときたら、のべつまくなし、つまらないむだ口ばかりだ、この点にかけちゃあ、ヴェニスじゅうにかなう者はないのさ。あいつのおしゃべりの中の道理ときたら、
四斗俵《よんとびょう》のもみがらの中にかくれた小麦二つぶというところだ。さがすのにはまる一日かかるが、さてさがしあててみると、まったくの骨折損ってやつさ。
【アントーニオ】 ところで、君がひそかに巡礼をしようとちかったという
問題の女の人はいったいだれなんだ?
きょう話すって約束だったが、話ってのをきこうじゃないか。
【バッサーニオ】 アントーニオ、君も知らないわけじゃないが、
ぼくは、ぼくのわずかの財産ではとても長つづきしそうもないほどの
どちらかといえばはでな暮らしをしてきてしまったので、
今じゃ、ほとんど財産はなくしてしまった。
そして今じゃ、あんなぜいたくな暮らしをやめるのには
何も不足や苦情はない。だが、さし当たってのぼくの大きな問題は
どうしてぼくが背負いこんでしまった借金をかたづけるかということなんだ。
なにしろ今までだいぶぜいたくをしすぎたもんだから、
ずいぶん背負いこんでしまったんだ。アントーニオ、君には
いちばん世話になっているんだ、金のことでも、友情のうえでも。
そういう君の友情にまたあまえて、おりいって相談したいんだ……
ぼくの計画と目的のいっさいを打ち明けてしまいたいんだ、
どうすればこの借財からきれいに抜け出せるかってことなんだがね。
【アントーニオ】 バッサーニオ、どうか打ち明けてくれたまえ、
もし、それが不名誉なことでさえなければ……
もちろん君のことだから、そんな心配はないと思うがね……
ぼくのさいふも、このからだも、できることならなんだって、
みんな君の必要なだけすべてあげるよ。
【バッサーニオ】 ぼくが小学校のころだった、ぼくは矢をなくすことがあると、
それを見つけだすために、もう一本、それと同じ矢を
前のとまったく同じ方向へ、前よりはもっと注意して射飛ばしたものだった。
そして思いきって二本ともなくすつもりでやってみて、
二本とも見つけだすことができたんだ。ぼくがこんな話をするのは、
今ぼくが話すこともまったくこどもっぽいことだからなんだ。
ぼくは君にはずいぶん借りがある。そして向こうみずな若気のいたりで、
借りた分までみんななくしてしまった。だけど、もし君が
最初とばしたと同じ方向にもう一本矢をとばしてくれたら
ぼくは必ず、今度こそしっかりけんとうをつけておくから、
必ず前の矢と両方見つけだしてみせるよ。
少なくともあとの分だけはもって帰って、
最初の分は、債務者《さいむしゃ》になって、
末長く感謝することにしよう。
【アントーニオ】 君はぼくをよく知っているはずじゃないか、だから、よけいなことを
くどくど言ってぼくの友情を遠くからからめてゆくようなやり方は時間つぶしだ。
ぼくができるだけのことをするかどうかを疑うなんて、
ぼくの持っているものをみんな使いはたしてしまうより
もっとぼくに対してひどい侮辱なんだよ。
だから、ただ、ぼくが何をすればよいのか、
ぼくにこれだけはできると君が思っていることを率直に言ってくれ。
そうすればすぐにもしてあげるよ、ねえ、君、言ってくれたまえ。
【バッサーニオ】 ベルモントに、多額の遺産を相続した女の人がいるんだ。
すばらしく美しい人だ、ただ美人だという以上に
すばらしい心ばえの、徳の高い人だ。かつてぼくは、この人の目から、
美しい無言の挨拶を受けとったことがあるのだ。
その人の名まえばポーシャ、あのケイトウの娘
ブルータスの妻のポーシャにも、けっしてひけをとらない人だ。
広い世間にも、この人の値うちは知れわたって、
東西南北、四方からの風があらゆる岸辺から
りっぱな求婚者たちを吹き送ってくるのだ。あの人の明るい金髪が
こめかみにたれさがっているのは、ちょうど昔の伝説の金の羊毛のよう、
そのために、彼女のベルモントの屋敷はまるでコルキスの岸辺、
金の羊毛を求めて、たくさんのジェイソンがやってくるのだ。
おお、アントーニオ、こんな求婚者に張り合えるだけの
財産がぼくにありさえしたらとぼくは思うんだ。
そしてぼくにはなんだか予感があるんだ、
ぼくこそ、この幸運をつかんでみせるだろうと思うんだ!
【アントーニオ】 君も知ってるだろうが、ぼくの全財産は海にあるのだ。
今、君が金がいるといっても、それを用だてるだけの現金も商品も手もとにはない。
だからね、君、やってみようじゃないか、
このヴェニスの町で、ぼくの信用がどのくらい物をいうかためしてみよう。
その信用で、できるかぎりのくめんをしてみよう、無理にでも。
君をベルモントヘ、美しいポーシャのいる所へ送りこむために。
さ、すぐにも行って金のくめんをしてくれたまえ、
ぼくも行くから。だいじょうぶ、必ずできるよ、
ぼくの信用によってでも、またぼくへの好意によってでもきっとできるさ。〔両人退場〕
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第二場 ベルモント。ポーシャの家の一室。
〔ポーシャと侍女ネリッサ登場〕
【ポーシャ】 ほんとうに、ネリッサ、私の小さなからだは、この大きい世の中にはもうあきあきしてしまったわ。
【ネリッサ】 まあ、お嬢様、もしも不幸が、今お嬢様のもっていらっしゃるおしあわせほどたくさんにおありでしたら、そんなふうにおっしゃるのも、ご無理ございません。でも、どうやら、あまりたっぷりごちそうを召し上がりすぎたかたってものは、何も食べ物がなくて飢えている人と同じように病人のようでございますとか。そういたしますと、ちょうど人並みになかほどにおりますことが、なみなみならぬ幸福でございますね。あり余れば白髪《しらが》を早め、ほどほどが長生きの秘訣とか。
【ポーシャ】 りっぱな格言だし、それに言い方もなかなかうまいじゃないの。
【ネリッサ】 そのとおり実行なされば、なおさらよろしいのですが。
【ポーシャ】 どんなことが良いかを知るのと同じくらいに、それを実際に行なうのがやさしいのならば、小さな礼拝堂も大きな教会になるだろうし、まずしい人の小屋も王族の宮殿になるでしょう。自分が説教することを身をもって実行なさるのはよほどりっぱな聖者様。何をしたらいいかを二十人の人に教えることは、たやすいけれど、その教えを守る二十人のひとりになることはなかなかむずかしいわ。頭がいくら血気をおさえる掟《おきて》をこしらえたって、燃えるような血気は冷たい命令なんかはすぐにとびこえてしまうわ。青春というのはそんな気違いじみたうさぎ、びっこの分別なんかがしかけた綱なんか、ひととびにとびこえてしまうものよ。でもこんな理屈言ったって、私が夫を選ぶのになんの役にもたちはしないわ。ああ、「選ぶ」なんて、なんとおかしなことでしょう! 私は自分で好きな人を選ぶことも、いやな人を断わることもできはしないのですもの。生きている娘の意志が、死んだ父親の遺志でこんなに束縛されるなんてひどいと思わない? ネリッサ、自分で選ぶことも断わることもできないなんて?
【ネリッサ】 お父様はごりっぱなかたでございました。そして聖者様はそのご臨終にすばらしい霊感をお受けになりますとか。ですからこのくじ引き、お父様がお考えになりましたこのくじ引き、金、銀、鉛の三つの箱の中から一つを正しくお選びになるおかたが、お嬢様を奥様になさるというこの箱選びでは、それを正しくお選びになるほどのおかたなら、必ず、ほんとうにお嬢様をお愛しになるにちがいございません。それはともかく、もうここにおみえになっていらっしゃるりっぱな殿様がたを、お嬢様はどう思っていらっしゃるのでございますか?
【ポーシャ】 じゃ、ひとりひとり順にお名まえを言ってちょうだい。名まえを言ってくれたら、私がどんなかたか言ってみましょう、そしてその言い方で私の気持ちを察してちょうだい。
【ネリッサ】 ではまず最初に、ナポリの殿様。
【ポーシャ】 そう、あのかたはまるで子馬ね。だって馬のことしかお話にならない。そしてご自分で馬に蹄鉄《ていてつ》をはかせるってのが、たいした才能のように思っていらっしゃるらしいのよ。あのかたのお母様、きっと鍛冶屋《かじや》とおかしかったのでしょうよ。
【ネリッサ】 つぎがパラタインの伯爵様。
【ポーシャ】 あのかたのなさることといったらしかめ面ばかり、「わしがいやなら、かってにするがいい」といわんばかりなのよ。おもしろい話を聞いても、にこりともなさらない。いまに年をとったらきっとあの泣虫哲学者におなりになるわ、まだお若いのに、不作法なくらいふさぎこんでいらっしゃるのですもの。あんな人たちと結婚するくらいなら、骨をくわえたしゃれこうべとでも結婚したほうがましだわ。神様、どうか、こんな人たちから私をお守りくださいまし!
【ネリッサ】 フランスの貴族のムッシュ・ル・ボンはいかがですか?
【ポーシャ】 神様があのかただってお作りになったのだわ。だから、まあ、人間ってことにしとくわ。ほんとに、私だって人の悪口言うのは罪だってことぐらい知ってます。でもあのかたときたら、馬はナポリの殿様よりよいのをお持ちだし、パラタインの伯爵よりももっと悪いしかめ面の習慣をお持ちだし、なんでも屋の能なしだわ。鶫《つぐみ》が鳴けば踊りだす。自分の影とでも剣でわたり合いをする。あんな人と結婚したら、いっぺんに二十人もの夫を持ったのと同じこと。もし向こうで私を軽蔑なさるなら、許してあげるわ。なぜって、気違いみたいに愛してくださったって、私はなにもお返しできないんですもの。
【ネリッサ】 それじゃ、あのイギリスの男爵のフォーコンブリッジ様はいかがでございます?
【ポーシャ】 言うことなんかなんにもありはしないわ。だって、あのかたにはこっちの言うことがぜんぜんおわかりにならないし、私も向こうの言うことがわからない。あのかたはラテン語も、フランス語もイタリア語もわからない。そして私は、法廷へ行って宣誓してもらってもいいけど、英語ときたら、これっぽっちもわからないのよ。そりゃ、あのかたは絵にかいたようないい男だわ。でも、黙劇《だんまりしばい》を相手にお話なんかできて? それに、どうよ、あの服装は! 胴衣《タブレット》はイタリア製、丸いズボンはフランス製、帽子はドイツで買ったものね。そしてお行儀ときたら、あちこちの買い集めだわ!
【ネリッサ】 ではお隣のスコットランドの殿様をどうお思いになります?
【ポーシャ】 あのかたこそ隣人愛の持ち主。だってイギリス人からいつか耳もとへ一つ平手打ちが借りになっているというので、くめんができしだいお返しいたしますってお誓いになったそうよ。なんでもフランス人が保証人になって、もう一つお借りしますって署名して印をおされたそうよ。
【ネリッサ】 あの若いドイツ人、サクソニー公爵の甥御《おいご》様は?
【ポーシャ】 朝しらふでいらっしゃるときもとてもいやだわ。午後、酔っぱらっていらっしゃるときは、がまんもできないわ。いちばん上等なときでも人間といえるかどうか、いちばん悪いときには、けもの同然。どんな最悪の事態が起こったとしても、あのかただけはごめんこうむりたいわ。
【ネリッサ】 もしあのかたが箱選びをするとおっしゃって、正しい箱をお選びになったといたしますと、あのかたをいやだとおっしゃったりしては、お父様のご遺言にそむくことになりますわ。
【ポーシャ】 だから万一のときを考えて、おねがいだからライン葡萄酒の大盃《たいはい》をほかの箱の上にのせといてちょうだい。中に悪魔がはいっていようとも、外に誘惑をおいておけば、きっとあのかたはその箱を選ぶにきまっています。あんなのんだくれと結婚するくらいなら、ネリッサ、私はどんなことだってするわ。
【ネリッサ】 お嬢様、このかたがたをお婿様になさるご心配はもうございません。皆様、もうお帰りになる決心を明らかになさっていらっしゃいます。お父様がおきめになった箱選び以外の方法でお嬢様をお迎えになることができないならば、もうお国へお帰りになり、二度とお申込みをなさってお嬢様のお心をわずらわすことはなさいませんそうです。
【ポーシャ】 たとえシビラのように長生きをしても、お父様のご遺言どおりの方法で結婚するのでなければ、私はダイアナのように清いおとめのままで死んでゆきます。この求婚者の連中が物わかりがいい人たちで助かったわ。だって、いなくなってうれしいと思わないような人はひとりもいませんもの。どうか神様、皆さんを無事にここからたたせてくださいますように!
【ネリッサ】 お嬢様は覚えていらっしゃいますかしら? まだお父様が生きていらっしゃいましたころ、モンフェラット公爵様といっしょにいらっしゃいました、学者で軍人でいらっしゃるヴェニスのかたのことを。
【ポーシャ】 ええ、あれはバッサーニオ様……たしかそういうお名まえのかただったわね。
【ネリッサ】 そうでございますよ。あのおかたこそは、このふつつか者の私が今までお見受けいたしました中でいちばんごりっぱなかたで、お美しいお嬢様にお似合いのかただと思います。
【ポーシャ】 あのかたのことはよく覚えているわ。ネリッサがほめるとおりのかただと思うわ……
〔召使い登場〕
どうしたの? なにか用?
【召使い】 あの四人のお客様がたが、お嬢様にお目にかかってお別れのことばをおっしゃりたいとのことでございます。それから、またおひとり、モロッコの王様からのお使いのかたがみえまして、王様が今夜ここにお着きになるとのことでございます。
【ポーシャ】 私があの四人のかたたちによろこんでお別れするのと同じようなうれしい気持ちで、こんどのかたをお迎えできれば、ほんとうにいいのだけれど。こんどのかたが、お顔の色は悪魔のようにまっ黒でも、お心が聖者のように清いかただったら、私はむしろ、ざんげでも聞いていただきたいわ。妻になさろうなんてお考えはやめにしていただきたいの。さあ、ネリッサ、さきに行ってちょうだい。やっとひとり求婚者を送り出したと思ったら、もう別のかたが戸口をたたいていらっしゃる。〔退場〕
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第三場 ヴェニス。広場。
〔バッサーニオとシャイロック登場〕
【シャイロック】 三千ダカット、なるほど。
【バッサーニオ】 そうだ、三か月間。
【シャイロック】 三か月間、なるほど。
【バッサーニオ】 さっきも話したように、アントーニオがその保証人になってくれる。
【シャイロック】 アントーニオが保証人になる、なるほど。
【バッサーニオ】 助けてもらえるかね? きいてくれるかね? 返事をしてくれないか?
【シャイロック】 三千ダカットを三か月間、そしてアントーニオが保証人になる。
【バッサーニオ】 さあ、君の返事だ。
【シャイロック】 アントーニオはりっぱな人だ。
【バッサーニオ】 そうでないといううわさをぎいたことがあるかね?
【シャイロック】 ああ、いや、いや、いや、いや。りっぱだといったのは、あの人なら保証人としてけっこう十分だという意味で、そうとってもらいたいね。だがあの人の財産は今のところすベて仮定の状態だ。トリポリヘ商船が一艘、西インドへ一艘行っている。そして取引所《リアルトゥ》で聞いたところによると、もう一艘はメキシコ、もう一艘はイギリスヘ、そしてまだほかにもあちこちばらまいて投資しているそうだ。だが、船ってやつはしょせん板きれですぜ。そして船員はただの人間さ。陸のねずみもいりゃあ、海のねずみもいる。つまり陸の泥棒もいれば、海の泥棒も……つまり海賊のことだが……いるというわけさ。それから海の危険、風の危険、暗礁の危険ってやつもある。だが、まあ、あの男ならだいじょうぶだ。三千ダカット、あの人の証文ならとってもだいじょうぶだろう。
【バッサーニオ】 もちろんだいじょうぶだとも。
【シャイロック】 だいじょうぶだというようにしたいもんだ。そして、だいじょうぶだとするためには、とっくり考えてみよう、アントーニオに会って話ができるだろうか?
【バッサーニオ】 よかったら、われわれといっしょに食事をしてくれないか?
【シャイロック】 ふん、豚肉のにおいをかぎに行くというわけか。おまえさんがたの予言者のナザレ人が悪魔を封じこんだという、その悪魔の住み家を食べにね……。わしはな、あんたがたといっしょに買いもしよう、売りもしよう、いっしょに話もしようし、歩きもしよう、だが、わしはあんたがたといっしょに食べたり、飲んだり、お祈りしたりすることは真っ平だ……。取引所で何があったのかな? だれだ? こっちへやってくるのは。
〔アントーニオ登場〕
【バッサーニオ】 アントーニオさんだ。
【シャイロック】 〔傍白〕なんと、おべっかつかいの収税人《みつぎとり》みたいな顔したやつだ!
おれはあいつがキリスト教徒だからきらいなんだ、
だがもっと気にくわんのは、あいつが頭の低いまぬけさで
無利子で金を貸しやがることだ、そして、
このヴェニスじゅうの、われわれ仲間の金利を引きさげやがる。
もしも、あいつの弱味をひっつかまえたら、
つもる恨みを思う存分晴らしてやるぞ。
あいつは、われわれ神聖なユダヤ人を憎みやがって、
場所もあろうに、大勢商人たちが集まるところで、
おれのこと、おれの取り引きのことをさんざん悪口言いやがって、実直にもうけた
おれの金もうけを高利だとぬかしやがった。あいつを許してやるくらいなら、
おれたちユダヤ人は地獄へでも落ちりゃいいんだ。
【バッサーニオ】 ねえ、シャイロック、聞いてるかね?
【シャイロック】 なにね、今手もとにある金の勘定してたところで。
で、ざっと胸算用したところじゃ、
今すぐ、三千ダカットという金を全部、
耳をそろえてというわけにはゆかないがね。だが、そんなことはなんでもない。
同族のユダヤ人の金持ちでチューバルという男がいる、
彼が融通してくれるでしょう。だが、待ってくださいよ、ええと、
何か月って言いましたっけ?〔アントーニオに〕これは、これは、旦那、
ごきげんよろしゅう。今おうわさしてたところです。
【アントーニオ】 シャイロック、私は金を貸したり借りたりするのに、
余分な利息の金をとったりすることはしないのだが、
友だちのさし迫った入用の金をととのえるために、
今までのしきたりを破るのだ。いくら君が入用だか
もう話してあるのか?
【シャイロック】 はい、はい、三千ダカット。
【アントーニオ】 そして三か月間だ。
【シャイロック】 おお、忘れておりました、三か月間でしたな。そうおっしゃいましたな。
ところで、旦那の証文でござんすがね。ええと、……うかがいますがね、
たしか利息をつけたりして金の貸し借りはしないと、
おっしゃいましたようでしたが。
【アントーニオ】 そうだ、そんなことはしたことがない。
【シャイロック】 あのヤコブが叔父のラバンの羊を飼っていましたとき……
このヤコブというのは、アブラハムさまの三代目の
跡とりでござんしてね、つまりりこうな母親がうまくはからいましたんで、
三代目におさまったというわけなんでござんして……
【アントーニオ】 ヤコブがどうしたというんだね?利息でも取ったのかね?
【シャイロック】 いえ、いえ、利息なんかとりゃしません、旦那がたのおっしゃるような利息はな。
ですが、まあ、ヤコブのやったことを聞いてくださいよ。
ラバンと彼との間には約束ができましてね、
生まれてくる小羊のうち、縞やまだらのやつは、
みんなヤコブがもらうことにきまったわけです。さて秋の終わり、
牝《め》羊にさかりがつくころになって、牡《お》羊がかかるときになり、
この毛のふかふかした羊たちの間に、つまり、
生殖作用ってのが実際行なわれるようになりますとな、
このりこう者の羊飼いのヤコブは、なんと、木の枝の皮をはぎまして、
かれらの自然のいとなみのまっ最中に、
発情している牝羊の目の前に、その木の枝をつき立てたというわけなんです。
で、その牝羊はやがてはらむ、そしてうみ月になって
まだらな小羊ばかりを生み落とし、これがみんなヤコブのものになったというわけでさ。
これが利殖の方法ってやつでさ。そしてヤコブは神様から祝福されましたのさ。
盗みさえしなければ、もうけることは神様の祝福が受けられるってわけでさ。
【アントーニオ】 ヤコブのやったのは、そりゃ、一種の投機だよ。
自分自身の力ではどうにもなることじゃないんだ、
天の手でさだめられ、支配されることなんだ。
この話は利息をとることを正しいとするために聖書に入れてあると思うのかね?
それとも君の金銀が牝羊や牡羊だとでも言うのかね?
【シャイロック】 そりゃ、わかりませんな。とにかくわしは金銀にもどんどん子をうませますんで。
ですが、旦那、きいてくださいよ。
【アントーニオ】 バッサーニオ、聞いたろう。
悪魔も自分の都合のいいときには聖書を引きあいに出すんだ。
根性のわるいやつが、聖書の文句を楯《たて》にとるのは、
作り笑いしている悪党みたいなもんだ、
見かけはりっぱだが、芯《しん》はすっかりくさっているりんごのようなもの、
おお、なんと、うわべだけはきれいにかざったまがい物だ!
【シャイロック】 三千ダカット、こりゃ、どうしてなかなか大金だ。
十二か月のうちの三か月と。それで、ええと、利息の割合は……と。
【アントーニオ】 どうだ、シャイロック、金のほうは用立ててもらえるんだね?
【シャイロック】 アントーニオさん、いままで何度となく
あんたはずいぶんとこのわしのことを取引所で罵倒《ばとう》なさったな、
わしの金のこと、わしの利息のことでな。
いつもわしは肩をすぼめて、じっとがまんしてきた。
忍耐はわれわれ種族の、いわば象徴《しるし》だからだ。
あんたはわしを不信心者、人殺しの犬めと呼び、
わしのユダヤ人の上衣《ガバーディーン》につばを吐きかけなすった。
それもわしが自分で自分のものを使うのが悪いと言ってな。
ところがだ、こんどはどうやらあんたはこのわしの助けが必要らしい、
それで、わしのところへきて、あんたはこう言いなさる、
「シャイロック、金がほしいんだ」……あんたがだ!
わしのひげにつばをひっかけたそのあんたがだ!
まるで野良犬かなんかを戸口から蹴とばすように、
わしを足蹴にしたそのあんたがだ! 金が入用だとおっしゃる。
で、わしはなんとお返事しましょうかな? こうでも言いますか、
「犬が金を持ってるでしょうかね? 野良犬に、
三千ダカットの金を貸すことができるでしょうか?」とな。それとも、
わしは腰を低くかがめて、奴隷のような調子で、
息をひそめて、こそこそとへりくだった声で
こう言いましょうかな……
「旦那様、このまえの水曜日には、あなた様はつばをかけてくださいました、
いつ何日かには蹴とばしてくださいました。いつかはまた、
犬と呼んでくださいました。こういうご親切なおもてなしのお礼に
これだけの額のお金をお貸しいたしましょう」とでもね。
【アントーニオ】 わたしは、これからだっておまえさんを犬呼ばわりするだろうさ、
また、おまえさんにつばをはきかけるかもしれない、蹴とばすこともあるだろう。
もしおまえさんがこの金を貸してくれるっていうなら、
友だちに貸すなんて思わないでくれ、だって友情が
子を生みもしない金を貸してそれをふやそうとしたためしがあるかね?
むしろその金は敵《かたき》に貸したと思ってくれ。
そうすれば、万一、期限を守らなかったら、大きな顔して
違約金をとることもできるだろうからな。
【シャイロック】 おや、おや、またこれはたいした剣幕《けんまく》だ!
わしはあんたと仲よくして、あんたにも好意をもってもらおうと思っていたのに、
わしの顔にぬられた泥も忘れもしましょうし、
さしあたってのご入用を用立てもしましょう、しかもびた一文も
利息なんかとらないつもりなのに、それでもあんたは話を聞こうとしない。
親切ずくでゆこうとしてるんだが。
【バッサーニオ】 親切かもしれない。
【シャイロック】 だからその親切をお目にかけましょう。
わしといっしょに公証人のところへ行って、判をついてもらいましょう。
旦那の単記証文でようござんすから。そしてこれは冗談半分だが、
あんたが証文の契約どおりに、かくかく、しかじかの金を、
かくかくの日に、かくかくの場所で、
もしも返済できないときには、その違約金としてだ、
あんたのからだの肉を、かっきり一ポンドだけ、
あんたのからだのどこでも、わしの好きな所から
わしが切り取ってもいいってことにしてもらいましょうか。
【アントーニオ】 よろしい、承知した、その証文に判をついて、
そしてユダヤ人もずいぶん親切だということにしようよ。
【バッサーニオ】 ぼくのために、そんな証文に判をついちゃいけない。
ぼくはそんなことなら、今までどおり、何もない状態でいたほうがいいんだ。
【アントーニオ】 なあに、君、心配することはないさ。ぼくが違約することなんかありゃしない。
この二か月のうちに……つまりこの証文の期限が切れる日より
一か月も前に、この証文の額の九層倍もの
金がかえってくることはたしかだから。
【シャイロック】 おお、ご先祖のアブラハム様、キリスト教徒とはなんというやつらでしょうか?
自分がひどいことを他人にするので、他人の考えることを
片っぱしから疑ってかかるとは! ねえ、一つお伺《うかが》いしたいもんですがね
もしあの人が約束の期日を守らないとする……その違約料を
取り立てたところで、それがわしのもうけになるとでもいうんですかな?
ひとりの男のからだから肉一ポンド切りとったところで、
それは羊の肉、牛の肉、山羊の肉などと比べて
値うちもなけりゃ、役にもたちゃしません。いいですかな、
わしはただあの人に気にいられたいばっかりに、好意を示しただけなんですぜ。
それを受けてくださりゃ、それでよし。いやだとおっしゃるなら、それまでです。
わしのせっかくの好意を、あまり誤解しないでほしいもんです。
【アントーニオ】 よし、シャイロック、その証文に判をつこう。
【シャイロック】 じゃ、すぐに、公証人のところでお会いすることにしましょう。
この冗談みたいな証文のこと、公証人に指図しといてください。
わしは、金を用意しに行ってきます。
なにしろやくざな下男が留守番で、心配ですから
ちょっと家の様子を見に行ってきましょう。なに、すぐにも
あなたにお会いしに行きますとも。
【アントーニオ】 じゃ、急いでくれ、シャイロック。〔シャイロック退場〕
あのヘブライ人、キリスト教徒になるつもりかな。ずいぶん親切になったもんだ。
【バッサーニオ】 口先で巧《うま》いこと言って腹黒いというやつは、どうもぼくはきらいだ。
【アントーニオ】 さあ、行こう。なにも心配することはないよ、
ぼくの船は、期日よりも一か月も前に帰ってくるんだ。〔両人退場〕
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第二幕
第一場 ベルモント。ポーシャの家の一室。
〔コルネットのはなやかな吹奏。モロッコ王、従者をしたがえて登場。ポーシャ、ネリッサ、侍者たち登場〕
【モロッコ王】 この顔色のゆえに私をおきらいにならぬように。
これは、太陽と隣あわせ、ごく近くで育った私に
輝く太陽がお仕着せにとくれた黒い衣裳なのですから。
日の神の火も氷柱《つらら》をとかすことさえできぬ北国生まれの
このうえもなく色白の男を連れてきてくださるがよい。
あなたへの愛をためすために、互いにそのからだを傷つけあって、
彼と私と、どちらの血が赤いか、比べてみましょう。
はっきり申し上げますが、お嬢さん、私のこの顔こそは、
勇者をもおそれさせたものでした。愛にかけて誓いますが
私の国のこのうえなく美しいおとめたちも、
この顔を愛しておりました。私はこの顔色を変えたいとは思いません、
ただ、私の女王様、あなたのお心をかち取るためにならば別ですが。
【ポーシャ】 選ぶということでございましたら、私は娘にありがちな
見た目であれこれやかましく言うような女ではございません。
そのうえ、くじ引きで運命の定められるこの私に、
かってに選ぶ権利などは許されておりません。
でも、もし私の父が、今も申し上げましたような方法で、
私をお選びになりましたかたの妻になれという、
父の思いつきで、私を束縛しておりませんのでしたら、
殿下、ご高名なあなた様は、今までにお訪ねくださいました
どなたにも劣ることなく、私の愛をお受けくださるのに
ふさわしいおかたとお見受けいたします。
【モロッコ王】 そのおことばが何よりありがたい、
どうか私をその箱のところへ連れて行ってください。
私の運命をためしてみましょう。この偃月刀《えんげつとう》にかけて……
トルコ王スレイマンを三たびも打ち破ったという
ペルシアの王さえ斬った、この刀……これにかけて、
私は、あなたをわが妻にするためならば、どんなにおそろしい目つきも、
にらみかえしてみせよう。どんな荒々しい勇者にでも
挑戦してやる。母熊の乳を吸っている子熊をその胸から奪うことも、
餌食を求めて吠えたけっているライオンをなぶりものにすることも、
やってみせよう。だが、なんと悲しいことか!
もしも、ヘラクレスが召使いリカスとさいころをふって
どちらが強いか定めるとなれば、すべて運命しだい、
案外弱いほうに、大きい目がでないとは限らない。
そうなれば、ヘラクレスも、小僧っ子に負けるということになる。
そしてこの私も、盲目の運命が私を導いているのだから、
くだらんやつらが手に入れるようなものさえ、みすみす手に入れそこねて、
なげき悲しんで死なねばならぬかもしれぬ。
【ポーシャ】 ご運しだいでございます。
ですから、いっそ箱選びをおやめになりますか、
それともお選びになる前に、万一選びそこねておしまいになりましたら、
今後二度とふたたび、どなたにも結婚の申し込みをなさらないと誓いをおたてになるか、
どちらかでございます。ですから、どうぞ、よくお考えくださいませ。
【モロッコ王】 二度と結婚の申し込みはしません。さあ、運だめしのところへ案内してください。
【ポーシャ】 ではまず教会堂へまいりましょう。それから、お食事のあとで、
ご運をためしていただきましょう。
【モロッコ王】 どうか幸運に恵まれますよう!
このうえない幸福な男になるか、このうえなくみじめな者になるかどちらかだ。〔一同退場〕
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第二場 ヴェニス。街上。
〔ラーンスロット・ゴボウ登場〕
【ラーンスロット】 おれがよう、あのユダヤ人の旦那のところから逃げだしたって、おれの良心のやつもきっと味方になってくれるだろう。悪魔のやつがよう、おれの肱《ひじ》のとこへやってきて、おれをそそのかして言いやがるんだ、「ゴボウ、ラーンスロット・ゴボウ、おい、ラーンスロット!」ってな調子で、「おい、ゴボウ!」とか「おい、ラーンスロット・ゴボウ、脛《すね》を使いなよ、飛び出せ! ずらかっちまえ!」とかよう。ところがよう、おれの良心は言うんだ、「いいや、いけないぜ、気をつけなよ、正直なラーンスロット! 気をつけなよ、正直者のゴボウ!」とか言うんだ。でなけりゃ、こんなふうにさ、「正直なラーンスロット・ゴボウ、逃げちゃいけねえ! ずらかるなんてとんでもねえこった!」とね。するとよう、おっそろしく勇気のある悪魔がよう、おれにトットと行っちまえって言いやがる。「さあ、行けっ」と悪魔のやつが言うんだ、「いっちまえ!」って言いやがる、「天国にかけていうが、かならず勇気出せよっ!」ってさ、「逃げるんだぜ!」って言うんだ。するとよう、良心のやつが、おれの心臓の首根っこのとこにぶらさがっていやがって、もっともらしくおれに言いやがるんだ、「正直者のラーンスロット、なにしろ正直者の倅《せがれ》なんだから」、うんにゃ正直な女の倅って言ってもらいたいもんだ。ってのはよう、おれの親父のほうはどうもちょっとばかりくさいんだ、少々こげついてるってところだが、なんだかぷーんとくさいんだ。ま、とにかくよう、良心のやつが言うんだ、「ラーンスロット、動くんじゃねえぞ!」ってね。「動け!」って悪魔がぬかしやがる。「動くんじゃねえ!」って良心のやつがぬかしやがるんだ。「良心さんよう」とおれは言ってやるんだ、「おまえさんの言うことは、もっともだ」ってね。「悪魔さんよう!」っておれは言ってやるんだ、「おまえさんの言うことも、もっともだ!」って。だから、もしもおれが良心の言うことをきくなら、おれはユダヤの旦那んとこにいることになる、ところがその旦那ってのがよう、……はばかりながら……まあ一種の悪魔みたいなもんだ。そんなら旦那んとこからずらかるってことになればよう、おれは悪魔の言うこときくわけになるのさ。そしてこいつぁ正直正銘の悪魔なんだぜ。たしかに、ユダヤの旦那ときたひにゃ、それこそ悪魔の化けた人間だぜ。そして、たしかによく考えてみると、おれの良心ってやつはどうもひどい良心だ。だっておれにユダヤの旦那んとこにいろなんていいやがるんだから。悪魔のやつのほうが、ずっと親切に言ってくれるじゃないか。おれは逃げるとも、おまえさん! おれのかかとはよう、おまえの言うなりになるぜ。ああ、逃げるともさ。
〔老ゴボウ、籠《かご》を持って登場〕
【老ゴボウ】 お若いおかた、おまえさま、ちょっとおたずねいたしますがな、ユダヤの旦那さんとこはどっちへ行ったらよろしいんで?
【ラーンスロット】 〔傍白〕あれまあ、おどろいた! こりゃ、おれのほんとうの親父《おやじ》さまじゃないかよう。ところがこの親父さま、かすみ目を通りこして、まったくのくもり目ときちゃ、おれがてんでわからないんだ! おれが一つ混乱させてやろうかな!
【老ゴボウ】 お若い旦那、お願いでござんすがな、ユダヤの旦那さんとこはどっちへ行ったらよろしいんでしょう?
【ラーンスロット】 この次の曲り角で右手のほうへ行きなよ。でもよう、その次の曲り角で左手へ行くんだぜ、そうだ、すぐその次の曲り角じゃ、どっち側にも曲っちゃいけねえ、ぐるっと回ってまっすぐ行きゃ、そのユダヤの旦那の家だぜ。
【老ゴボウ】 これは、まったく、わかりにくい道でござんすな。ところで、おまえさま、ごぞんじですかな、その旦那の家にごやっかいになってるラーンスロットって者が、今でもまだそこにおりますでしょうかな?
【ラーンスロット】 ラーンスロットの若旦那のことかね?〔傍白〕ほら、いいかね、今、おれがひとつ涙の雨を降らしてみせるぜ。おまえさん、ラーンスロットの若旦那のこと言ってるのかね?
【老ゴボウ】 いえ、なに、旦那なんてもんじゃございません、しがない貧乏人の伜でして。その父親っていうのが……あっしが自分で言うのもなんですが……正直なひどい貧乏人でございまして、でもまあ、おかげさまで、けっこうくらしておりますがな。
【ラーンスロット】 まあ、親父さんのことなんかどうでもいいってことよ、ラーンスロットの若旦那のこと話してたんじゃねえか。
【老ゴボウ】 ヘい、おまえさまのお友だちのラーンスロットのことですだ。
【ラーンスロット】 でもよ、いいかね、かるがゆえにさ、おっさん、かるがゆえだ、いいかね、ラーンスロットの若旦那のことだね?
【老ゴボウ】 ヘい、おそれいります、そのラーンスロットのことですだ。
【ラーンスロット】 かるがゆえによう、ラーンスロットの旦那だ。とっつあん、ラーンスロットの若旦那のことはもう言わないほうがいいぜ。だって、あの若旦那はよう、天命とか運命とか、なんでもそんな妙な話によると、それから、三人姉妹の神様とかなんとか、そんな学のある話によると、なんでも、ほんとうに死んじまったらしいぜ、つまり、簡単に言うとよ、なんでも天国へ行っちまったらしいぜ。
【老ゴボウ】 ええっ、とんでもない! あの子はあっしの老後の杖、ささえの柱と思っていましただに。
【ラーンスロット】 おれ、そんなにこん棒や、つっかい棒みたいに、杖や柱みたいに見えるかね? とっつぁん、このおれがわかんねえのかい?
【老ゴボウ】 情けないこってすが、若旦那、わかりませんので。でも、お願いですから言ってくださいまし、あっしの伜は……神様のお恵みがありますように……生きとりましょうか、死んでおりますんでしょうか?
【ラーンスロット】 とっつぁん、おまえさんこのおれがわからねえのかよ。
【老ゴボウ】 それが情けないこってすが、あっしゃかすみ目なんで、わからないんですだ。
【ラーンスロット】 まったくよ、たとえとっつぁんの目が見えたって、おれのことわからねえかもしれねえ。親馬鹿にゃこどもがわからねえってからよ。ま、とっつぁん、おれがおまえさんの伜の話してやるよ。さあ、まず祝福をしてくれよ。真理はやがてあらわれるって言うじゃないかよ。人殺しはかくしおおせるもんじゃないって言うぜ。息子ってものはよ、いくらかくれることができたって、結局は真理はあらわれずにゃおかないってことよ。
【老ゴボウ】 どうか、旦那、立っておくんなさいまし。あんたが伜のラーンスロットだって、そんなことはとんでもないこってすだ。
【ラーンスロット】 ねえ、もう冗談言うのはやめようぜ。おれに祝福をしてくれよ。おれはラーンスロットだよ、かつてのおまえさんの息子、今のおまえさんの伜、未来のおまえさんの幼児《おさなご》になるラーンスロットだよ。
【老ゴボウ】 あっしには、おまえさまが伜だなんて思えませんがな。
【ラーンスロット】 思えるか思えないか、そんなことはわからないけどよ、おれはラーンスロットで、ユダヤの旦那の下男でよう、おまえさんの女房のマージャリーがおれのおふくろだぜ。
【老ゴボウ】 あいつの名まえはマージャリーだ、こいつぁたしかだ。するともしおまえがラーンスロットだとすると、たしかにおまえはおれの血を分けた伜だ。あれ、まあ、こいつぁ、おったまげた! えらくひげをはやしたもんだなあ! おれんちの荷馬のドビンのしっぽよりおまえのあごのほうがよっぽど毛深いじゃないか!
【ラーンスロット】 そうするてえと、ドビンのしっぽはだんだん短くなったってこったな。この前みたときにゃよう、おれの顔よりあいつのしっぽのほうがよっぽど毛が多かったぜ。
【老ゴボウ】 まあ、ほんとに、なんておまえは変わったもんだ! 且那とはうまくいってんのかね? おれ、旦那にみやげ持ってきただよ。うまくいってんのかね?
【ラーンスロット】 まあな。だけどよう、おれとしちゃあ、せっかくずらかることにおちついたわけだ、ちったぁ逃げてみなくちゃ、どうもおちつかねえや。おれの旦那は正真正銘のユダヤ人だぜ。みやげをやるって! とんでもねえ、首くくる縄《なわ》でもくれてやれってことよ! おれは、あいつに奉公したおかげで干ぼしになっちまった。そら、おれのあばら骨が指で数えられるぜ。とっつぁん、よく来てくれたなあ。そのみやげは、バッサーニオって旦那にあげてくれよ。この旦那は、まったくパリッとしたお仕着せをくれるぜ。こういう旦那になら、世界の果てまで走って行っても奉公したいもんだ。あれっ、こいつぁなんて運がいいんだ! 旦那がおいでなさった。とっつぁん、挨拶しとくれよ、あんなユダヤ人に奉公するなんてとんでもねえこったよ!
〔バッサーニオ、リオナードその他の従者とともに登場〕
【バッサーニオ】 それもよかろう。だが、大急ぎだぞ、おそくも五時までには夕食のしたくができるようにな。この手紙をみなちゃんと届けてくれ。仕着せの注文を忘れないように。それから、グラシアーノにすぐ私の家に来るように伝えてくれ。〔召使い退場〕
【ラーンスロット】 さあ、とっつぁん、あの人だよ。
【老ゴボウ】 旦那様、ごきげんさんで!
【バッサーニオ】 や、こんにちは。何か用かね?
【老ゴボウ】 ここにおりますのが、へえ、伜でございまして、へえ、貧乏な小伜で……
【ラーンスロット】 いえ貧乏な小伜じゃなくて、金持ちのユダヤ人の下男で。で、お願いと申しますのは、今おやじから、逐一《ちくいち》申し上げる事が……
【老ゴボウ】 伜が、へえ、旦那様、ご奉公いたしたい、そりゃもう、なんと申しますか、たいそうな熱の入れようでごぜえましてな……
【ラーンスロット】 まったく、つまりでございます、私はユダヤ人に奉公しておりますが、お願いしたいことは、おやじが逐一申し上げるとおり……
【老ゴボウ】 で、伜の旦那と伜とは、旦那様の前でこう申しちゃなんでごぜえますが、どうも、うまが合いませんので、へい……
【ラーンスロット】 つまり、てっとり早く申しますと、その真相と申しますのは、あのユダヤ人のやつが、あっしをひどいめに合わせますんで、それで、あっしゃ、そのまあ、この年とったおやじが、ひとくだり申し上げますが……
【老ゴボウ】 ここに山鳩の肉を一皿持ってまいりましただ、これを旦那様にさし上げようと思いましてな、それでお願いと申しますのは……
【ラーンスロット】 ごく簡単に申しますと、そのお願いと申しますのは私自身に関することでございまして、旦那様がこの正直な年寄りからおききになってくださいますように……それにあっしの口から申しますのもなんですが、年ばかりとっておりますが、貧乏人でございまして、あっしのおやじでございます。
【バッサーニオ】 ひとりで言ってくれ。望みというのは何なのだね?
【ラーンスロット】 ご奉公したいんで、旦那。
【老ゴボウ】 それがその病(要)点でごぜえますだ。
【バッサーニオ】 おまえのことはよく知っている。願いは聞いてやるぞ。
おまえの主人のシャイロックにきょう会って話をしたが、
おまえを使ってくれと推薦していた。もっとも、
金持ちのユダヤ人の所からひまをとって、こんな貧乏紳士のところへ来るのは、
推薦といえるかどうかわからんがね。
【ラーンスロット】 「神に恵まるるは富めるなり」と古い諺にありますが、旦那様と、あっしの主人のシャイロックとはそいつを仲よく分け持っていなさるわけだ。旦那様は「神に恵まるる」ってわけですし、「富めるなり」ってのはあっしの主人で。
【バッサーニオ】 なかなかうまいこと言うじゃないか。さあ、おやじさん、息子といっしょに行ってやれ。
前の主人に暇をもらって、それからわたしの家へ
訪ねておいで。〔召使いに〕この男に仕着せをやってくれ、
みんなのよりはもっとはでな飾りめついたやつをな、いいかね。
【ラーンスロット】 とっつぁん、はいんなよ。おれってやつはよう、奉公口はみつからないし、おしゃべりはこれっぱかりもしねえんだからな。なあ、イタリアじゅうにこれほどいい手相があったら、お目にかかりてえもんだ。つまりよう、誓いをたてるときに聖書の上におく、その手の相だぜ。おれにゃ、きっと運が向いてくるぞ。どうだい、こりゃ、ちょっとした生命線じゃねえか、それにちょっぴり女出入りとくらぁ。女房の数が十五人なんてのは、てえしたことはねえや! 後家が十一人に、娘っ子が九人なんてのは、男にとっちゃ、てえしたみいりじゃねえ。それに溺れ死をのがれるのが三度、羽根ぶとんのはじで、生命が危ねえとくらぁ。こいつぁちょっとした厄逃《やくのが》れだ。どうだい、運命の神様ってやつは女らしいが、どうしてなかなか親切なあまらしいぜ。とっつあん、来なよ。ユダヤの旦那からまたたく間にひまもらってくるからな。〔ラーンスロットと老ゴボウ退場〕
【バッサーニオ】 リオナードウ、忘れないでくれよ。頼んだぞ。
こういう品を買いこんで船に積みこんだら、
大急ぎで帰って来てくれ、なにしろ今夜の宴会には、
たいせつなお客を招くんだからな。さあ、急いでくれ。
【リオナードウ】 かしこまりました、できるだけいっしょうけんめいいたします。
〔グラシアーノ登場〕
【グラシアーノ】 ご主人はどこだ?
【リオナード】 あちらにおいでです。〔退場〕
【グラシアーノ】 バッサーニオさん!
【バッサニオウ】 グラシアーノ!
【グラシアーノ】 お願いがあります。
【バッサーニオ】 よし、いいとも。
【グラシアーノ】 いやと言わないでくれ、どうしても君といっしょに
ぼくもベルモントヘ行くよ。
【バッサーニオ】 そうか、じゃ行けよ。だがね、グラシアーノ、よく聞いてくれ、
君は乱暴すぎるよ、礼儀知らずで、なんでもずけずけ言いすぎる。
そりゃ、それが君にはぴったりだし、
ぼくたちの目にはべつに欠点とは見えないがね。
だがね、君をよく知らない連中には、どうも無作法すぎると
思われるぞ。頼むから、どうか骨が折れてもつとめてみてくれ、
うきうきした君の気分に、少々控えめという水をかけて、
しずめるようにしてくれ。そうでないと、君の乱暴なふるまいのために
ぼくまでが行くさきざきで誤解されて、
せっかくの望みもだいなしになってしまうかもしれない。
【グラシアーノ】 ねえ、聞いてくれ、だいじょうぶだ、ぼくはまじめらしくよそおって、
ものを言うときも気をつけるし、口ぎたなく言うのも時たまのことにしよう、
ポケットには祈祷書を入れ、もっともらしい顔をして
いや、それどころか、食前の祈祷がはじまったら
こんなふうに帽子で目をかくして、ためいきをつき、「アーメン」と言うし、
ありとあらゆる礼儀作法を守ることにするよ。
おばあさんのごきげんをとるために、まじめくさった様子をするのは、
おてのものだというようにね。それができないようなら今後ぼくを信用しないでくれ。
【バッサーニオ】 ま、どんなぐあいか拝見しよう。
【グラシアーノ】 もっとも、今夜は例外だ。今夜のやり方で
将来を判断されちゃ困るよ。
【バッサーニオ】 そんなことはしないよ。
今夜はひとつ大あばれにさわいで、思いきり、
陽気にやってほしいんだ。はめをはずしてさわぐために
集まってくる連中だからね。じゃ、その時まで、しっけいする。
ちょっと用事があるんだ。
【グラシアーノ】 ぼくもロレンゾたちのところへ行かなくては。
でも、夕食のときにはかならず参上する。〔両人退場〕
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第三場 同じくヴェニス。シャイロックの家の一室。
〔ジェシーカとラーンスロット登場〕
【ジェシーカ】 おまえはどうしてもお父さんから暇をもらって行くっていうのね。
この家は地獄だわ、でも今までは、おまえという陽気な悪魔が
いてくれたので、いくらかはたいくつがしのげたんだけど。
でも、さようなら、この一ダカットをおまえにあげましょう。
それからラーンスロット、お夕飯のころにはきっと
ロレンゾに会うわね……おまえの新しいご主人の所へみえるはずだもの……
そしたら、この手紙を渡してちょうだい。こっそり渡すのよ。
じゃ、さようなら。おまえと話しているところを
お父さんにみつかると困るのよ。
【ラーンスロット】 おさらばでございます。涙がことばをあらわしてくれます。美しい異教徒の娘さん、やさしいユダヤ娘さん! きっとキリスト教徒が、いたずらして、おまえさんをつくってしまったんだろうね。だけど、おさらば! ばかなこったがこの涙が、おれの男らしさを溺らせてしまうじゃないか。おさらばです!
【ジェシーカ】 さようなら、ラーンスロット。〔ラーンスロット退場〕
まあ、私としたことが、なんて罪深いことをしてるんだろう、
自分の父親の娘であることを恥じるなんて!
でも私、たしかに血のつながりではお父さんの娘だけど、
性質まではもらってやしないわ。ああ、ロレンゾ、
あなたさえ約束を守ってくださるならば、私はこの悩みをすてて、
キリスト教徒になり、あなたのいとしい妻になります。〔退場〕
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第四場 同じくヴェニス。街上。
〔グラシアーノ、ロレンゾ、サリーリオ、ソレイニオ登場〕
【ロレンゾ】 なに、ぼくらは夕飯の間にこっそりと抜けだして、
ぼくの家で仮装して、帰ってくることにする……
一時間もあればじゅうぶんだ。
【グラシアーノ】 準備がじゅうぶんにできていないぜ。
【サリーリオ】 松明《たいまつ》持ちもまだ頼んでない。
【ソレイニオ】 よほどうまく運ばないとまずいことになるぞ、
いっそのことやめたほうがいいのじゃないだろうか。
【ロレンゾ】 まだ四時じゃないか、あと二時間あるから、
準備にはじゅうぶんだ、
〔ラーンスロット手紙を持って登場〕
やあ、ラーンスロット、なんだね?
【ラーンスロット】 もしも旦那がこの封を切ってくださりさえすれば、すべては明白となりましょう。
【ロレンゾ】 この筆蹟にはおぼえがある。まったくきれいな筆蹟だ、
そしてこれが書かれている紙よりも白いのは、
この手紙をかいたきれいた手だ。
【グラシアーノ】 恋の便りだね、これは。
【ラーンスロット】 ではこれでごめんこうむります。
【ロレンゾ】 どこへ行くのかね?
【ラーンスロット】 ヘい、旦那様、あっしのもとの旦那のユダヤ人のところへまいって、新しい旦那のキリスト教徒の家へ、今晩お夕食においでくださいましと言いますんで。
【ロレンゾ】 ちょっと待て……さあ、これを取っておいてくれ。〔金をやる〕ジェシーカに言ってくれ。かならず行きますと。こっそり言うんだぞ。〔ラーンスロット退場〕
さ、諸君、行こう。
今夜の仮装舞踏会《マスク》の準備にかかってくれないか?
松明持ちはぼくのほうでできた。
【サリーリオ】 よしきた、すぐにとりかかろう。
【ソレイニオ】 ぼくもやろう。
【ロレンゾ】 一時間ばかりしたら、
グラシアーノの家へ来てくれたまえ、ぼくも行くから。
【サリーリオ】 よし、承知した。〔サリーリオとソレイニオ退場〕
【グラシアーノ】 あの手紙はジェシーカから来たんじゃないのか?
【ロレンゾ】 君にはなにもかも話しとかなきゃいけないがね。じつはジェシーカが、
親父《おやじ》の家から彼女を連れだすてはずを言ってよこしたんだ。
どれだけ金や宝石を持ち出すことにするとか、
小姓のきる着物もちゃんと用意してあるとかをね。
もし親父のユダヤ人が天国へ行けるようなことがあったら、
それは、あのやさしい娘のおかげだ。
あの娘のゆくてにだけは不幸をこさせたくないものだ、
不信心なユダヤ人の娘だからということが、
さしさわりになるかと気がかりだが。
さ、いっしょに来てくれたまえ、そしてみちみちこれを読んでくれ。
美しいジェシーカがぼくの松明持ちになろうというんだ。〔両人退場〕
[#改ページ]
第五場 同じくヴェニス。シャイロックの家の前。
〔シャイロックとラーンスロット登場〕
【シャイロック】 いいか、今にわかるぞ。おまえの目で見きわめるがいい、
このシャイロックとあのバッサーニオがどうちがうか
おい、ジェシーカ! ……これからは、おまえは大食らいはできんぞ、
おれのところでやったようにはな……おい、ジェシーカ! ……
ぐうぐう大いびきかいてねることも、着物をやぶって平気でいることもできんぞ……
おい、ジェシーカ、どうした!
【ラーンスロット】 おい、ジェシーカ!
【シャイロック】 だれが呼べと言った? わしゃ呼べなんて言いはせんぞ。
【ラーンスロット】 旦那さんはいつもあっしが命令されなきゃなにもやらないと言いなさったで。
〔ジェシーカ登場〕
【ジェシーカ】 お呼びになって? なんのご用?
【シャイロック】 ジェシーカ、わしは夕食によばれているんだ。
鍵はここにある。だがなんだってわしはでかけてゆくんだ?
好意でよんでくれるわけじゃない。みんなわしのきげんをとろうとしてるんだ。
だが、わしも憎くてしかたがないから行ってやるんだ。放蕩三昧《ほうとうざんまい》のキリスト教徒めを
食いつぶしてやるために行くんだ。ジェシーカや、
家に気をつけてくれよ。お父さんはな、ちっとも行きたかないんだ。
なにかいやな事が起こるようで、わしの気持ちはどうも落ちつかない、
なにしろ、ゆうべは金袋の夢を見たんでな。
【ラーンスロット】 どうか旦那様おいでなすってくださいまし。あっしの旦那が、ご叱責(ご出席)をお待ちかねです。
【シャイロック】 叱責なんか覚悟のまえさ。
【ラーンスロット】 それに皆さんが寄ってたかっておたくらみで、べつにあっしゃ旦那が仮装舞踏をごらんになるだろうとは申しちゃおりませんがね。でももしごらんになるようなことがありゃ、あっしの予感が当たったわけで、去年の復活祭あけの暗い月曜日にあっしが朝の六時に鼻血だしたのもわけがあったということで。ちょうどその日は四年前の聖灰水曜日の午後に当たっていたわけでして。
【シャイロック】 なに? 仮装舞踏がある? いいか、ジェシーカ、
戸口にしっかりと錠をかけといてくれ、太鼓の音や
ねじり首のきいきい声の笛のいやらしい音が聞こえても、
けっして窓になんかよじ登ったりするんじゃないぞ。
また往来へ頭をつき出したりして、キリスト教徒の阿呆どもの
べたべたぬりたくった顔なんかぽかんと見ていたりしちゃいかんぞ。
すぐにもこの家の耳をすっかりふさいでしまうんだ、窓のことだ。
うわっ調子のばか騒ぎの音などをこのおれの
まじめな家の中に入れちゃいかん。ヤコブ様の杖にかけて誓うが、
今夜の宴会はどうも気が進まないんだ。
ま、行くことにしよう。一足先に行って、
すぐまいりますと言ってくれ。
【ラーンスロット】 一足お先にまいります、旦那様。お嬢さん、かまうこたぁないから窓からのぞいてごらんなさいましよ。
キリスト教徒が通りすぎるよ、
ユダヤ娘の見たいよな。〔退場〕
【シャイロック】 あのやくざ野郎の阿呆め、なんと言った? ええ?
【ジェシーカ】 ただ、「お嬢さん、さようなら」と言っただけ……それだけですわ。
【シャイロック】 あの阿呆、人はいいんだが、とにかく大食らいでな、
もうけになるような事にはかたつむりみたいにのろまで、ひるまっから
野良猫もかなわんくらい、ぐうぐうねこんでやがる。なまけ蜂はわしの巣にはいらんのだ。
だからひまをやることにした。そしてひまをやった先で、借り物の財布をすっかりつかい果たすようなむだ使いの
手伝いでもさせるつもりだ。さ、ジェシーカ、おはいり。
たぶんすぐに帰ってくるつもりだ。
言われたとおりにするんだ。はいったら戸をしめておくんだぞ。
しっかりしめれば、しっかりもうかる。
つつましい人間にゃ、この諺は古くさくなることはない。〔退場〕
【ジェシーカ】 さようなら、もし私の運に邪魔がはいらなければ
私はお父さんを、お父さんは娘をなくしてしまうんだわ。〔退場〕
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第六場 同上。
〔グラシアーノとサリーリオ、仮装して登場〕
【グラシアーノ】 この軒の下だな、ロレンゾが
待っていてくれと言ったのは。
【サリーリオ】 約束の時間はもう過ぎているんだが。
【グラシアーノ】 あいつが時間におくれるとは妙だね。恋人ってものはいつも時計の針に先回りするものだが。
【サリーリオ】 ヴィーナスの車をひく鳩も、新しい恋の契《ちぎ》りを
かためるためなら早くとぶものだが。もうすでに約束された
愛の誓いを長つづきさせるためじゃ、あまりいそぎはしないだろう。
【グラシアーノ】 そのとおりだ。最初に食卓についたときのあの旺盛な食欲を、
席を立つときまでそのまま持っている者はいないからな。
同じ道をいったり来たりさせられる馬が、その退屈な帰り道に、
いくときと同じような足どりを、同じような熱心さで、
踏んで帰ることがあるだろうか? 世の中のことはすべて
手に入れてからの楽しみよりは、追いかけるときのほうが夢中になるものだ。
満艦飾《まんかんしょく》の船が帆をあげて故郷の港を出てゆくときは、
たとえ話の若者か放蕩息子そっくりだ、
浮気女の風のやつに、かかえられたり、抱きつかれたりだ。
そしてその船が帰るときは、放蕩息子の帰りそっくり、
風や雨にやられた肋材《あばら》は痛みほうだい、帆はぼろぼろ、
浮気女の風のやつに、身ぐるみはがれて、やせこけて、乞食同然だ。
【サリーリオ】 ロレンゾが来たぞ。この話はまたあとにしてくれ。
〔ロレンゾ登場〕
【ロレンゾ】 両君、どうも待たせてすまなかった、
ぼく自身のせいじゃなくて、例の一件でお待たせしたわけだ。
そのかわり、君たちが細君でも盗み出そうってときにゃ、
ぼくだってこのくらいは待ってもいいぜ。さあこっちへ来てくれ、
ここだよ義父《おやじ》のユダヤ人が住んでいるのは。おーい、いるかね?
〔ジェシーカ、少年の衣裳をつけて二階舞台に登場〕
【ジェシーカ】 どなた? 言ってください、念のために。
私にははっきりあなたのお声だとわかっているのですけど。
【ロレンゾ】 ロレンゾだ、君の恋人だ。
【ジェシーカ】 ほんとに、ロレンゾね。そしてほんとに私の恋人!
だってこれほど愛している人はいないんですもの。そしてあなただけよ、
ロレンゾ、私があなたのものだってこと知ってるのは。
【ロレンゾ】 神様と君の愛情がその証人なんだよ。
【ジェシーカ】 さ、この箱を受け取ってちょうだい。骨折り甲斐《がい》はあるのよ。
夜でほんとによかった、あなたに顔を見られずにすむんですもの。
だってこんな変装して、ほんとうに恥ずかしいわ。
でも恋は盲目。恋人は見ることはできないのよ、
自分たちのやるつまらない馬鹿げたことを。
もし見ることができるとしたら、こんな男の子の身なりなんかして、
キューピッドだってきっと赤い顔をするわね。
【ロレンゾ】 おりておいで。君はぼくの松明持ちになるんだよ。
【ジェシーカ】 なんですって、私が明りを持って恥をさらさなければいけないんですって?
明りにてらさなくたって、ほんとうに、もうじゅうぶんさらけだされてるのに。
松明持ちっていうのは、なんでもさらけだす役目なんでしょう?
私はなんとかしてかくれていたいのに。
【ロレンゾ】 かくれているじゃないか、君は。
そのかざりのついた男の子の衣裳の中に。
とにかく、すぐにおいでよ。
人目をかくす夜はすぐに逃げてってしまうし、
バッサーニオの宴会じゃ、みんながぼくたちを待っているんだ。
【ジェシーカ】 じゃ、戸じまりをして、それからもう少し
お金を持って、すぐにそこへ行きますわ。〔二階舞台より退場〕
【グラシアーノ】 いや、この頭巾にかけていうがね、ユダヤ人じゃなくてりっぱな異邦人さ。
【ロレンゾ】 ぼくはほんとにあの娘《こ》を愛しているんだ。
あの娘は賢いんだ、ぼくに判断力があるといえるならばだ。
それにあの娘は美しい、ぼくの目に狂いがなければだ、
そして真実がある、これはあの娘自身が証明ずみだ。
だからぼくは、賢くて、美しくて、真実なあの娘にふさわしく、
あの娘をいつまでもこの変わらぬ心にしっかり抱きしめてゆくのだ。
〔ジェシーカ下舞台に登場〕
あ、来たのか? さあ諸君、行こう!
仮装舞踏の仲間たち、もういまごろは待ちかねているだろう。〔ジェシーカやサリーリオ とともに退場〕
〔アントーニオ登場〕
【アントーニオ】 だれだ?
【グラシアーノ】 アントーニオさん!
【アントーニオ】 なんだ、グラシアーノか。ほかの連中はどこにいるかね?
もう九時じゃないか。みんな待ちくたびれてるぞ。
今夜はもう仮装舞踏はないんだ。風が変わったんだ。
バッサーニオはこれからすぐ船に乗り込むんだ。
君を捜しに大勢の人を出してたところだった。
【グラシアーノ】 それはありがたい。今夜のうちに出帆できるなんて、
こんなうれしいことはない。〔両人退場〕
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第七場 ベルモント。ポーシャの家の一室。
〔コルネットのはなやかな吹奏。ポーシャ、モロッコ王とその従者たちとともに登場〕
【ポーシャ】 さあ、カーテンを開けて、三つのそれぞれちがった箱を
殿下にお目にかけなさい。
さあ、どうぞ、お選びくださいませ。
【モロッコ王】 まず最初は金の箱だな、それにはこんな銘《めい》が刻んである、
「われを選ぶ者は、多くの人々の望むものを得べし」
つぎは、銀の箱だ、こんな約束が書かれている、
「われを選ぶものは、おのれに相ふさわしきものを得べし」
三番めはこれだ、にぶい鉛の箱、無愛想な警告もかいてある、
「われを選ぶものは、おのれが持てるものすべてをなげうち、危険にさらすべし」
正しいのを選んだときにはどうしてわかるのですか?
【ポーシャ】 この箱の一つに、私の肖像がはいっております、殿下。
もし、それをお選びくださいましたら、私もあなたのものとなるのでございます。
【モロッコ王】 だれか神様よ、わたしの判断を導いてください。はてな、
もう一度刻んである銘をよみ直してみよう。
この鉛の箱にはなんと書いてあるのだ?
「われを選ぶものは、おのれが持てるものすべてをなげうち、危険にさらすべし」
すべてをなげうつ? なんのために? 鉛のために?鉛のために危険にさらすのか?
この箱は人を脅迫している。いっさいを危険にさらすのは、
なにかよいことがあると望むからできることだ。
黄金の心が、鉄屑《てつくず》としかみえないものの前に身をかがめる必要があるだろうか?
わたしは鉛のためになげうったり、危険にさらしたりはしない。
清いおとめのような色をした銀の箱はなんと言っているのだ?
「われを選ぶものは、おのれに相ふさわしきものを得べし」
おのれに相ふさわしきもの? さあ、待てよ、モロッコ王?
公平におのれの価値をはかってみるのだ!
もしも世間の評判で値ぶみしてみるならば、
おまえはじゅうぶんに値うちがある。だがじゅうぶんといっても、
あの人をかち得るのにじゅうぶんかどうか?
が、自分の価値を危うく思ったりするのは、
自分をいやしめてしまう、気の弱いやり方ではないか。
おのれに相ふさわしきもの、それこそはこのご婦人、
わたしは生まれからもこの人にふさわしい、それに財産も、
生まれながらの美徳、育ちのりっぱさからいっても、
だがとくに、この愛の真心において、ふさわしいのだ。
もうこれ以上迷わないで、これを選ぼうか?
だが、もう一度、金の箱に刻まれていることばを見よう。
「われを選ぶものは、多くの人の望むものを得べし」
おお、それこそはこの人、世界じゅうの人が望んでいるのだ。
地球の四すみから、いろいろな人が集まってくる、
この聖堂に、いやこの生き身の聖者に接吻をささげるためにだ、
ハーカニアの砂漠も、はてしないアラビアの
広い荒野も、うるわしのポーシャに一目まみえんと集《つど》い来る
王侯貴人たちのかよう大通りのようになってしまった。
天にもとどけよとばかり高い大波の荒れくるう
水の王国、大海原も、はるばる外国から来る冒険者たちを、
はばむことはできず、彼らはあたかも小川をまたぎ越すかのように、
ポーシャを一目見ようとおとずれてくるのだ。
これら三つの箱の一つに、彼女の気高い絵姿がはいっている。
鉛の中にはいっているなどということがあり得るだろうか?
そんないやしいことは考えただけでも地獄へおとされてしまう。暗い墓の中で
たとえ彼女のきょうかたびらを包むにしても鉛はそまつすぎる。
それなら、銀だろうか、彼女の絵姿がおさめられているのは?
純金の十分の一の値うちしかない銀の中に?
考えただけでも恐ろしいことだ! あのように貴い宝石が
黄金よりも劣ったものの中に収められたことはないのだ。イギリスには、
天使の姿を刻みつけた金貨があるということだが、
それはただ表面に刻みつけただけのことだ。
だが、ここでは天使が黄金の寝床の中に、
くるまって横たわっているのだ。どうか私に鍵を渡してください。
私はこれを選びます。どうか神よ、うまくゆきますように!
【ポーシャ】 さあ、殿下、これを。もし私の姿がその中にございましたら、
私はあなたのものでございます。〔モロッコ王、金の箱をあける〕
【モロッコ王】 ややっ、これはなんだ!
きたならしいしゃれこうべ! そのうつろな目の中に、
なにか書き物がある。読んでみよう!〔読む〕
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輝くものすべてが必ずしも金ならず、とは
汝もしばしば聞いたであろう。
わが表面だけを見ようとて、
多くの人がその生命を売ってしまった。
金色のまばゆい墓も、内には蛆虫《うじむし》。
汝が大胆であったように賢かったならば、
手足は若くとも、分別が老成していたならば、
かかる答を得ることはなかったであろう。
さらば、汝の望みは冷え果てたのだ。
冷え果てた、まったくだ、すべては徒労に終わった。
青春の情熱よ、さらば、これよりは冬の霜を迎えるのみ!
[#ここで字下げ終わり]
ポーシャ、さようなら。私はあまり心が痛むので、
ゆっくりといとまを告げることもできない。敗者はこのようにひきさがるだけだ。〔従者たちとともに退場。コルネットのはなやかな吹奏〕
【ポーシャ】 まあ、よかった。カーテンを引いておくれ。
ああいう顔色のかたは、みんなこういう逃び方をなさるといいんだわ。〔一同退場〕
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第八場 ヴェニス。街上。
〔サリーリオとソレイニオ登場〕
【サリーリオ】 そうだよ、ぼくはバッサーニオの船出するのを見たんだ。
グラシアーノもいっしょに行ったぜ。
だが、ロレンゾはあの船にはたしかに乗っていなかった。
【ソレイニオ】 あのユダヤ人のやつめ、大さわぎして公爵までたたき起こして、
いっしょにバッサーニオの船をさがしにつれていった。
【サリーリオ】 だけどおそすぎたのさ。もう船は出てしまったあとさ。
だがちょうど公爵にお知らせしたものがいたんだ、
ロレンゾと恋人のジェシーカがいっしょに、
ゴンドラに乗っているのを見たというのだ。
それに、アントーニオも公爵にはっきり言ったんだ、
このふたりはバッサーニオの船には乗らなかったとね。
【ソレイニオ】 ぼくはあんなひどいわめき声は今まで聞いたこともなかった、
まったくわけのわからない、ものすごい剣幕で、支離滅裂なわめきようで、
町の中をあのユダヤ人のやつめ、どなりちらすんだ……
「娘だ! わしの金だ! おお、わしの娘だ!
キリスト教徒とかけ落ちしやがった! キリスト教徒の金だ!
お裁きだ! 法律だ! わしの金だ! わしの娘だ!
封印した金袋だ! 封印しといた金袋を二つだ!
大きな金貨のはいったやつだ! 娘がぬすみやがったんだ!
それから宝石もだ! 宝石が二つだ! 二つのりっぱな金目《かねめ》のやつが、
娘にぬすまれた! お裁きだ! 娘を見つけてくれ!
あいつは宝石を持ってるんだ、金もだ!」
【サリーリオ】 それで、ヴェニスじゅうの小僧っ子どもがあとをついてまわって、
「宝石だ! 娘だ! 金だ!」とはやしたてているぞ。
【ソレイニオ】 アントーニオは気をつけて必ず期限を守るようにしなけりゃいけない、
さもないときっとひどいめにあうぜ。
【サリーリオ】 ほんとうだ。それで思い出したんだが、
きのうぼくはあるフランス人と話をしていたら、
その男が言うには、なんでも、フランスとイギリスの間の
狭い海狭のところで、りっぱな船荷をうんと積んだ
わが国の船が一艘|難破《なんぱ》したということだ。
その話を聞いたとき、ぼくはアントーニオのことを思い出した。
そしてあの人の船でなければいいがとひそかに祈ったんだ。
【ソレイニオ】 その話はアントーニオの耳に入れといたほうがいいぞ。
でも、だしぬけに言うなよ、あいつがきっと心配するだろうからね。
【サリーリオ】 あんな親切な人はちょっといないね。
ぼくはバッサーニオとアントーニオが別れるところを見ていたんだがね。
バッサーニオができるだけ急いで帰ってくると言うと、
アントーニオが言うんだ、「そんなことする必要はない」とね、
「バッサーニオ、ぼくのために自分の仕事をおろそかにしてはいけない、
じっくりと時が熟するのを待つんだ。
それからぼくから取ったあのユダヤ人の証文のことなんか
ぜんぜん考えないでいいんだ。君は恋のことで心がいっぱいのはずじゃないか。
愉快にやってくれ。そしてまず第一に求婚のことを考えるんだ、
どういうふうにすればうまく愛情を表現することができるか考えるんだ、
いいか、そしてうまくやって成功するようにしてくれ」
そのとき、もう彼の目は涙でいっぱいになってしまったので、
アントーニオは顔をそむけて、後ろ向きに手をのばして、
あふれるような無限の感動をこめて、
彼はバッサーニオの手をにぎりしめた。そしてふたりは別れたんだ。
【ソレイニオ】 あの人は、バッサーニオがいるので生き甲斐を感じているんだ。
さあ、ふたりでアントーニオをさがしに行こう、
そしてなにか愉快な話でもして、あの人の
重くふさいだ心を晴らしてやろうじゃないか。
【サリーリオ】 ああ、そうしょう。〔両人退場〕
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第九場 ベルモント。ポーシャの家の一室。
〔ネリッサ、召使いをつれて登場〕
【ネリッサ】 さ、早く、早く! すぐにカーテンを開けておくれ。
アラゴン王がもう誓いをおすませになって、
すぐにも箱選びにいらっしゃる。
〔コルネットのはなやかな吹奏。アラゴン王、ポーシャ、従者たち登場〕
【ポーシャ】 ごらんくださいませ。殿下、あそこに箱がございます。
私の絵姿がはいっております箱をお選びになりましたら、
すぐにも私どもの結婚の式が挙げられるようにいたします。
でも、もし失敗なさいましたときは、殿下、なにもおっしゃらないで、
すぐにもここからおひきとり願わねばなりません。
【アラゴン王】 私は誓いをたて、次の三つの事を守ります……
第一に、私がどの箱を選んだかを、けっして
だれにも明かさないこと。つぎに、もし私が正しい箱を
選びそこねたら、私は、生涯、二度とふたたび、
どのような娘にも、けっして結婚の申し込みはしないこと。
最後に……
もし私が不幸にも箱選びに失敗したそのときは、
ただちに暇《いとま》をつげて、あなたのもとからたち去ること。
【ポーシャ】 このような誓約は、どなたにもお誓いいただくのでございます、
このふつつか者の私に求婚されて、運命をお賭けになりますかたには。
【アラゴン王】 私もその覚悟はしております。どうか、わが心の望みに
幸あれ! 金、銀、そしていやしい鉛!
「われを選ぶ者は、おのれが持てるものすべてをなげうち、危険にさらすべし」
私がなげうち、危険にさらすためには、おまえはもっと美しくなければだめだ。
金の箱はなんと言っている? はて、どうだな……
「われを選ぶ者は、多くの人々の望むものを得べし」
多くの人の望むもの! 「多くの」とは、おそらくは、
おろかな大衆のことであろう。みせかけだけで物を選び、
おろかな目が教える以上のことは学ぼうともしないやつらだ。
ものの内部にまではいってさぐろうとしないやつらだ。岩燕《いわつばめ》のように、
壁の外側のあらしにさらされるような場所にわざわざ巣をつくって、
だから災害が起これば、ひとたまりもないのだ。
私は多くの人の望むものなどは選びたくはない。
なぜなら、平凡な人たちといっしょになることはごめんだし、
野蛮な一般大衆と肩をならべる気はないのだから。
では、いよいよ、おまえの番だ、銀の宝庫よ!
もう一度おまえがかざしていることばを教えてくれ。
「われを選ぶものは、おのれに相ふさわしきものを得べし」
なかなかいいことばだ。自分にたいした取りえもないのに、
運命をだまして、りっぱな名誉を手に入れようと
試みたりすべきではない。身分不相応な地位に
のぼろうなどという望みをもってはならない。
ああ、身分や、階級や、官職などが、
不正な手段で手に入れられることなく、けがれない名誉が、
本人の値うちによって得られるというのであれば、
どれだけ多くの頭になにもかぶらぬ下賎《げせん》のものが、帽子をかぶる身分にのぼり、
どれだけ多くの現在命令をくだしている人々が命令される身に落ちるであろうか!
まがいもないりっぱな高い家柄のものの中から、
どれだけつまらぬいやしい人間がより出され、またもみがらや世の中のがらくたから、
どれだけのりっぱな落穂《おちぼ》がひろい出されて、
新しい栄誉を受けるであろう! だが、私は箱選びにとりかかろう。
「われを選ぶものは、おのれに相ふさわしきものを得べし」
私は自分にふさわしいものをいただくことにしよう。この箱の鍵をください。
すぐにもこの箱の中の私の運命を聞いてみるとしましょう。〔銀の箱を開く〕
【ポーシャ】 〔傍白〕そんなに長い時間思案して見つけるほどのものではないのに。
【アラゴン王】 なんだ、これは? 目をしょぼつかせている阿呆の絵じゃないか!
なにか書いたものをさし出している。ともかく読んでみよう。
だがこれは、ポーシャとは似ても似つかぬもの!
私の望みや、私の値うちとこうもちがったものがあろうか!
「われを選ぶ者は、おのれに相ふさわしきものを得べし」
私はこんな阿呆の頭ぐらいの値うちしかないのか?
これが私の賞品か? 私の値うちはこれだけなのか?
【ポーシャ】 罪をおかし裁かれるのと、裁くのはちがった役目で、
正反対の性質をもったものでございましょう。
【アラゴン王】 なにが書いてあるんだ?〔読む〕
[#ここから1字下げ]
七たびこの箱は火にきたえられた。
思慮分別も七たびきたえられてこそ、
あやまった選択をすることなし。
いたずらに影に口づけするものは、
ただ影の祝福を手に入れるのみ。
まこと、世には、銀にて表をよそおえる
阿呆あり、この箱もまたそれ。
汝、いかなる妻を寝床にともなうとも、
われはつねに汝のすがたとなるであろう。
さらば、行くがよい。汝のすべては終わったのだ。
[#ここで字下げ終わり]
ここにぐずぐずしていれば、私は
ますます阿呆に見えるばかりだ。
来るときには一つの阿呆の頭だったが、
帰りがけは連れができてふたりになった。
では、さようなら、誓いは必ず守ります。
つらい思いはじっと辛抱しましょう。〔アラゴン王と従者たち退場〕
【ポーシャ】 こうして夏の虫は火に焼かれてしまった。
もっともらしいことばかり言う阿呆たち! 箱を選ぶときには、
りこうぶって失敗するだけの知恵をお持ちなのだわ。
【ネリッサ】 古い諺に嘘いつわりはございませんね、
「おしおきと嫁とりは運まかせ」と申しますもの。
【ポーシャ】 さあ、カーテンをお引き、ネリッサ。
〔召使い登場〕
【召使い】 お嬢様はどちらにおいでになりますか?
【ポーシャ】 ここよ、なんのご用、殿様?
【召使い】 お嬢様、ただいまご門のところに、若いヴェニスのかたが、
馬でお越しになりました。まもなくご到着になる
ご主人のさきぶれとのことでございます。
ご主人からと申されて、りっぱなご挨拶のお品を……
つまり、丁重なおことばのほかに、りっぱな贈りものを
お持ちになりました。私はいままでに、恋のお使いとして、
あれほど似つかわしいかたを見たことがございません。
ゆたかな夏がすぐ近くまで来ていることを告げるような
四月の日のおとずれも、ご主人のさきぶれとして来られた
この使者ほどに美しく気持ちよいものではございません。
【ポーシャ】 もうたくさん、やめておくれ。いまにおまえは、
その人はじつは私の親戚に当たりますので、なんて言いだすんじゃない?
よそゆきの知恵をふりしぼって、よくもまあほめちぎったものね。
さあ、さあ、ネリッサ、行きましょう。そんなにりっぱな
キューピッドのお使いなら、早く見たいものだわ。
【ネリッサ】 恋の神様、どうかそれがバッサーニオ様でありますように!〔一同退場〕
[#改ページ]
第三幕
第一場 ヴェニス。街上。
〔ソレイニオとサリーリオ登場〕
【ソレイニオ】 ところで取引所ではどうなんだい?
【サリーリオ】 いまだにうわさでもちきりだよ。なんでもアントーニオの積荷を満載した船が狭い英仏海峡で難破したというんだ。なんでもグッドウィンとか呼ばれていたね、その場所は! おそろしく危険な浅瀬で、りっぱな船の残骸がたくさんうずまってるそうだ。もっとも、おしゃべりな「うわさ」というばあさんが正直者で、言うことが当てになるんなら、だがね。
【ソレイニオ】 そいつがとんでもない大うそつきであってくれればいいんだが、生姜《しょうが》でもかじりながら、三人めの亭主に死なれて泣いているんだと近所の連中をごまかす例のやり方でさ。ところが、これはほんとうのことなんだ、長ったらしい話を抜きにして、話を横道にそらさず言えば、あの親切なアントーニオ、正直者のアントーニオ……ああ、なんと言ったらいいのだ、あの人の名まえにふさわしいような肩書をつけるためには……
【サリーリオ】 おい、おい、そこでストップだ!
【ソレイニオ】 え、なんだって? なに、結末を言えば、アントーニオが船をなくしちまったということだ。
【サリーリオ】 それで彼の損も終わりということであってほしいな。
【ソレイニオ】 「アーメン」と言いたいね、悪魔に邪魔されないうちに、ほーら、悪魔がユダヤ人にばけてやってきたぞ。
〔シャイロック登場〕
どうだい? シャイロック? 商売の景気はどうかね?
【シャイロック】 あんたがたは、だれよりもよく知ってたはずだ、娘が夜逃げをしやがったのを。
【サリーリオ】 そうさ。少なくともぼくは、娘さんが飛び出したその翼をつくってやった仕立屋を知ってたさ。
【ソレイニオ】 そしてシャイロックにしたところで、小鳥の羽毛がはえそろってたことぐらいは知ってたはずだ。羽毛がはえそろえば、親鳥の所から飛びたつのは自然のことじゃないかね。
【シャイロック】 娘のやつ、地獄へでも落ちやがれ!
【サリーリオ】 まあ、それが当然だろうよ、裁くのが悪魔ときてりゃあね。
【シャイロック】 おれの血を分けた肉身が謀叛《むほん》を起こすなんて!
【ソレイニオ】 ばかな、よせよ、じじい! その年で謀叛心が起こるってのかい?
【シャイロック】 いいかね、娘が血を分けた肉身だと言ったんだ。
【サリーリオ】 あんたの肉と娘さんの肉とじゃあ、黒玉と象牙ぐらいちがうぜ。あんたの血と娘さんの血じゃ、赤葡萄酒と白葡萄酒のちがいどころじゃないぜ。そりゃそうと、聞いたかね、アントーニオが海で損をしたとかしないとかいう話を?
【シャイロック】 それもまた大損だ! 身代《しんだい》かぎりの放蕩者めが! 取引所に顔出しもできないだろうが! 乞食野郎め! いやにめかしこんで市場へ来てやがったが! あの証文をよくおぼえてろよ! あいつはおれのことをいつも高利貸しだとぬかしやがって! 証文をよくおぼえてろよ! キリスト教の仁義だとぬかしやがって、ただで金を貸しやがった! 証文をおぼえてろ!
【サリーリオ】 だがね、もしも期限が切れたからって、あんたはあの人の肉を切り取ったりはしないだろう? なんの役にもたたんからな!
【シャイロック】 さかな釣りの餌にはなるわ! なんの役にもたたんでも、おれの復讐のたしにゃなるわ! あいつはおれに恥をかかせやがった! 五十万ぐらいもうけの邪魔をしやがったんだ! おれが損すりゃ笑いやがった、おれがもうけりゃ馬鹿にしやがった。おれたちの民族をさげすんで、商売の邪魔はする、友だちにゃ水をさす、敵をそそのかしやがった! それもなんのためだ? おれがユダヤ人だからさ。ユダヤ入にゃ目がないっていうのか? 手がないっていうのか? 耳や目や、五体がないっていうのか? 感覚が、感情が、情熱がないっていうのか? 同じ食い物を食い、同じ刃物で傷つきもするさ、同じ病気にもかかり同じやり方でなおりもするさ、同じように冬は寒いし、夏は暑いのさ、キリスト教徒とはこれっぱかりもちがやしない! 針でつついても、血もでないとでもいうのか? くすぐったって、笑いもしないっていうのか? 毒を盛ったって、死なないとでもいうのか? そしておまえさんたちにひどいめにあわされりゃ、復讐するのはあたりまえだ! ほかのことが同じなら、このことだって同じだろうぜ。もしもキリスト教徒のやつらをユダヤ人がひどいめに合わせたとする、あいつらはどんな我慢をするね? 復讐だ。だからキリスト教徒のやつらがユダヤ人をひどいめにあわせたら、やつらの手本にしたがっておれたちはどんな我慢をすりゃいいんだ? 復讐だ! おまえさんたちが教えてくれた悪党らしいやり方をやってみせるぜ。教わった以上にうまくやってみせなきゃ腹の虫がおさまらないんだ。
〔召使い登場〕
【召使い】 だんな様がた、主人のアントーニオが帰宅いたしまして、おふたかたにお話があると申しております。
【サリーリオ】 こっちもほうぼうさがしていたところだ。
〔チューバル登場〕
【ソレイニオ】 またひとり、同族の者がやってきたぞ。このつぎは悪魔が自分でやってこなけりゃとてもかなわないぜ。〔ソレイニオ、サリーリオ、召使い退場〕
【シャイロック】 どうだ、チューバル、ジェノアのほうはどうだった? 娘はみつかったか?
【チューバル】 娘さんのうわさのあるところへはでかけていったが、みつからないんだ。
【シャイロック】 そら、そら、そら、そら、ダイヤモンドがなくなっちゃった! フランクフルトで二千ダカットも出したやつが! おれたち民族にこんな呪いがかかったことは今までなかった、はじめてだ、こんなことは! 二千ダカットだ! そしてほかにも高価な宝石がたくさん……いっそ耳に宝石をつけたまま、娘がおれの足もとでくたばっちまえばいいと思う! おれの足もとで、娘なんか死んで棺桶に入れられちまやいいんだ、あの金貨さえいっしょにはいっててくれれば! 音沙汰なしだっていうのか? ようし、さがすのにだって、どれだけかかったか、わかりゃせん。損の上に損のうわぬりか! 泥棒にこっそり持って行かれて、その泥棒さがすのにまたごっそり金がかかる。しかもうめ合わせもできなけりゃ、復讐もできない!ありったけの不幸がみんなおれの肩にかかってくる。ありったけのため息をみんなおれがつかなけりゃならない。そしてありったけの涙はみんなおれが流すんだ!
【チューバル】 いや、まだほかにも不幸な男がいるよ。アントーニオが……ジェノアで聞いた話だが……
【シャイロック】 なに? なに? なんだって? 不幸? 不幸だと?
【チューバル】 トリポリからの帰りに、船を一艘やられたそうだ。
【シャイロック】 こいつはありがたい! ありがたい! ほんとうか? え、ほんとうか?
【チューバル】 その難破船から助かってきたという船乗りたちに聞いた話だ。
【シャイロック】 ありがとうよ、チューバル! いい知らせだ! いい知らせだ! ふん、ふん、ジェノアで聞いたって?
【チューバル】 なんでもうわさによれば、あんたの娘さんはジェノアで一晩で八十ダカット使ったそうだぜ。
【シャイロック】 短刀つきっけられるようにつらい話だ! もうあの金もおしまいか! 一度に八十ダカット! 八十ダカット!
【チューバル】 アントーニオの債権者の連中といっしょにヴェニスに帰ってきたんだが、どうもあいつも破産するよりしかたがないと言ってたぜ。
【シャイロック】 うれしいね、そいつは! いまにうんと痛めつけてくれるぞ! 責めぬいてやるわ! まったくうれしいこった。
【チューバル】 その債権者のひとりが、おれに指輪を見せてくれたが、そりゃ猿とひきかえにあんたの娘さんからもらったんだそうだ。
【シャイロック】 えい、ちくしょう! おれはもうたまらん、チューバル! それはおれのトルコ玉だ。まだおれがひとり者だった時分に、死んだ女房のレアからもらったもんだ。猿なんか山ほどもらったって、手放せるようなもんじゃないんだ。
【チューバル】 だが、アントーニオはたしかにもうだめだな。
【シャイロック】 そうだ、そのとおり、まったくだ。チューバル、おまえ行って、下っ端役人に金をやっといてくれ。二週間前から頼んでおくんだ。もし期限が切れたら、あいつの心臓を取りたててやるぞ。あいつさえ、このヴェニスにいなくなれば、どんな取り引きだってできるってもんだ。さあ、チューバル、行ってくれ。あとで礼拝堂で会おう。さあ、チューバル、礼拝堂でな。〔両人退場〕
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第二場 ベルモント。ポーシャの家の一室。
〔バッサーニオ、ポーシャ、グラシアーノ、ネリッサおよび侍者たち登場〕
【ポーシャ】 どうぞ、お願いですからごゆっくりなさって、お選びになる前に、
一日か二日お待ちになってくださいませ。もしお選びそこないになりますと、
お別れしなければなりませんもの。ですからしばらくお控えになって。
なんですかお別れしたくないんですの。いいえ恋じゃございませんわ、でも、
お別れしたくありませんの。こんな気持ちおわかりになっていただけると思いますわ、
憎しみはけっしてこんな気を起こさせるものではございませんもの。
でもよくわかっていただけないといけませんわ……
処女《おとめ》はただ心に思うばかりで、口に出しては言えませんのよ……
ですからせめてもうひと月でもふた月でもお引きとめしたいと思いますわ、
私のためにご自分の運命をお賭けになります前に。正しくお選びになるよう
お教えすることはできるのです。でもそれでは誓いを破ることになりますわ。そして
それはできないことですわ。ですからあなたは失敗なさるかもしれません。
もし失敗なさったりしたら、私が誓いを破っておけばよかったと、
罪なことを考えるかもしれません。あなたのお目がうらめしい、
私はそれにまどわされ、二つに裂かれてしまいましたわ。
私の半分はあなたのもの、あとの半分は……それもあなたのもの、
私自身のものと言うつもりでしたけど、私のものなら、あなたのもの、
ですからみんなあなたのものですわ。なんていやな世の中なのでしょう、
持ち主とその正当な権利の間にへだてをおいてしまうなんて!
だからあなたのものでありながらあなたのものになれない。もしそんなことになったら、
運命の神様が地獄へ行けばいいのですわ、私じゃなくて。
まあ、ずいぶんおしゃべりしましたこと。でも、これも時に錘《おもり》をつけて、
それをひき伸ばしたり、長びかせたりして、
あなたがお選びになるのをひきとめたいばかりなのですわ。
【バッサーニオ】 私に選ばせてください。
このままでは拷問台にかけられている気持ちです。
【ポーシャ】 拷問台ですって! バッサーニオ様、それならどんな謀叛が
あなたの愛の中にひそんでいるか白状なさってくださいませ。
【バッサーニオ】 いえ、とんでもない、もしあるとしても、それはただ、
あなたの愛が得られないのではないかという、みにくい疑惑の心だけ。
私の愛に謀叛など、そんなことがあるくらいなら、それくらいならばむしろ、
雪と火が仲よくともにくらしてゆけようというものです。
【ポーシャ】 でも、拷問台にかけられて、しゃべらされていらっしゃるのでしょう?
責められれば、ついどんなことでもしゃべってしまうものですわ。
【バッサーニオ】 生命《いのち》だけは助けてください。そうすればほんとうのことを白状しましょう。
【ポーシャ】 よろしい、白状なさいませ、命は助けてあげましょう。
【バッサーニオ】 「白状いたしますなら、愛して
おります」というのが
私の白状のすべてです。
なんとしあわせな拷問でしょう。責めるその人が
生命が助かるための答えを教えてくださるのだから。
だが、どうか運だめしをさせてください。箱選びをさせてください。
【ポーシャ】 では、どうぞいらっしゃいませ。あの箱の一つに私がはいっております。
もし私を愛してくださいますなら、きっとそれを当ててくださいますわ。
ネリッサもほかの者も、皆さがっておいで。
お選びになっていらっしゃる間、音楽をたのみます。
万一、失敗なさったら、白鳥の最期のように、
歌いながらしずかに消えて行かれるように。そしてこの比喩《たとえ》を
もっとふさわしくするように、私の目が川の流れとなって
あのかたの死の床にもなりましょう。いいえうまくお当てになるかもしれない。
そのときには音楽はどうなるかしら? そのときの音楽は、
新しく王冠をつけた王様のまえに、忠実な臣下の者たちがひざまずくときの、
あのはなやかなラッパの吹奏。それはまた、
結婚の日の明けがたに、
夢にまどろむ花婿の耳もとにしのびよって、
晴れの式典へと彼をよびさます、あのあまく美しい
音楽の音《ね》のよう。……ああ、今あのかたは、進んでゆかれる、
あの若き日のヘラクレスが、なげきのトロイ王によって
海の怪物にささげられた処女《おとめ》を救い出したそのときの姿にも劣らず堂々と、
しかも、さらに深い愛情にみちた心をもって。私はそのいけにえの娘、
さがってあそこにいる者たちは、涙に顔をくもらせて、
勇士の強い手なみをじっと見守っている
トロイの女たち。……さあ、ヘラクレスよ、お行きなさい!
あなたが生き残れば、私も生きるのです……戦いをいどむあなたより、
それを見ている私のほうが、どれほどこわいかしれないのです。
〔音楽、その間にバッサーニオは箱を見ながら考えている〕
〔歌〕
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浮いた心はどこで生まれる?
胸の中でか、頭でか?
どうして生まれ、どんなに育つ?
さ、答えておくれ、答えておくれ。
浮いた心は目で生まれるの、
見つめて育ち、そこで死ぬ、
生まれそだったそのゆりかごで、
さ、浮いた心を弔《とむら》う鐘を、
ならしましょうよ……ディン、ドン、ベル。
[#ここで字下げ終わり]
【一同】 ディン、ドン、ベル。
【バッサーニオ】 そうだ、外観はまったく中身を示さないことがあるものだ……
世間はつねに虚飾にあざむかれてしまうのだ……
裁判にしても、どんなにきたない、堕落した訴訟でも、
上品な弁舌で味つけをしさえすれば、
邪悪なうわべはごまかせるではないか。宗教にしても、
地獄へ落ちるほどの邪説でも、まじめな顔をした人が
それを祝福し、聖書をひいて証明しさえすれば、
美しい飾りのかげに、中身のひどさはかくされてしまうではないか!
世の中にはまじり気のない悪徳というものはないのだ、
必ずそのうわべになにかしら美徳のしるしをつけているものだ。
どんなに多くの臆病者が……砂の階段のようにあてにならぬ心をもった者でも……
その顎《あご》に勇ましいヘラクレスのひげをはやしていたり、
おそろしい軍神マルスのようなこわい顔をしたりしていることか……
もちろん、腹の中をさぐってみれば、乳のように白い、臆病な肝臓があるばかりなのだ。
いわば、彼は、勇敢な男のひげづらだけをよそおい、
おどかしてみせるだけなのだ! 美人にしてもそうだ、
厚化粧のせいで、美しさがひきたてられているのがわかるだろう。
そしておしろいを厚くぬっているときに、世にもふしぎな奇蹟が起こるのだ、
いちばんおもたくぬりたくったやつが、いちばん尻が軽いというわけだ。
すばらしい美人だと思われている女の、
蛇のように長くくねらせた巻き毛の金髪が、
うきうきと風にたわむれているかと思えば、
じつは、この髪はもともと他人のものであって、
その持ち主は、すでに墓の中でしゃれこうべになってしまっている。
このように、虚飾というものは、人をもっとも危険な海にさそう
いつわりの岸辺であり、
インド美人の黒い肌をかくす美しいスカーフでもある。
一口に言えば、狡猾《こうかつ》な世間が、賢明な人たちをおとしいれようとして装う
みせかけだけの真実だ。だからけばけばしい黄金《おうごん》
欲ばりのミダス王のかたい食物の黄金よ、おまえには用はない。
また、青ざめた顔をして、人から人へと、
つまらぬ使い走りをする銀にも用はないのだ。だが、おまえ、みすぼらしい鉛よ、
おまえは、なにかを約束するというよりは、おどしているようにみえるが、
おまえのその青白さが、雄弁よりももっとわたしの心を動かすのだ、
だからわたしはこれを選ぼう……どうか首尾よくゆきますように!
【ポーシャ】 〔傍白〕ほかの感情がみんな空にとび去ってゆく……
疑いにみちた思いも、あわてて抱いた絶望も、
身をふるわすような不安も、緑の目をした嫉妬も!
おお、恋よ!
落ち着いているのだよ、有頂天になってはいけない!
ほどほどにおまえのよろこびを降らせておくれ、こんなに度をすごしてはいけない!
おまえの祝福をあまりに感じすぎるわ! どうかもっと少なくしておくれ、
しあわせを食べあきてはいけないから!
【バッサーニオ】 なんだろう、ここにあるのは?〔鉛の箱を開く〕
おお、美しいポーシャの絵姿! どんな神わざに近い名人でも、
これほどまで自然のたくみに近づき得ただろううか?この目は動くのか?
それともこれはわたしの目が動くのにつれて
動いているように見えるのか? この開いているくちびるには
甘い息がかよっているのか? ……こんな甘い息なればこそ、
このように美しいくちびるを開かせることができるのだ。……この髪はどうだ!
画家は蜘蛛《くも》になって、この金色の網をおりだしているのではないか、蜘蛛の巣にかかるよりも、もっとしっかりと、
男の心をとらえようとしているこの金色の網を。……だがこの目!
これを描いた画家の目がよくもつぶれなかったものだ! 片方の目を描いたとき、
それを描く人の目のほうがつぶれてしまって、
絵はそのままにでもなってしまいそうに思えるのだが。それにしても
わたしがいくら実際にこの絵を賞賛しても、
この影をうつした絵姿はほめたりないのだが、それと同様に、
この影である絵姿は、まことの姿にはおよびもつかないのだ。
ここに書いたものがある。わたしの運命はここに要約されているのだ。〔読む〕
[#ここから1字下げ]
外観のみにて選ばざる者よ、
汝につねに幸いあれ、つねにかく正しく選べ!
しあわせはかく汝の上にあれば、
心みちたりて、新しきものを求むるなかれ!
これによりて、汝の心みちたりるならば、
汝の幸運をこよなきよろこびと思うならば、
いざ、彼《か》の人のもとへゆきて、
愛のくちづけもて、妻となることを求めよ!
[#ここで字下げ終わり]
なんと親切な書面だろう。失礼ですが、お嬢さん、
書いてありますとおりに、さしあげ、またいただくことにしましょう。
私の気持ちは、ちょうど賞を争って、相手と競争していた者が、
人々の見ている前で、うまくやったぞとは思うものの、
いっせいの喝采《かっさい》と叫び声を聞いていると、
茫然としてしまって、はたしてその賞賛のあらしが、
自分のものかどうか、半信半疑で、じっとみつめつづけているもののよう、
ちょうどそんな気持ちで、お嬢さん、私はここにいるのです。
あなたが確認し、署名し、批准《ひじゅん》してくださるまでは
これがはたして真実なのかどうか、疑わずにはいられないのです。
【ポーシャ】 バッサーニオ様、ここにこうしております私は、
ごらんのとおりの人間でございます。私ひとりのためでございましたら、
これ以上高望みして、もっとりっぱな者でありたいなどと
野心をもったりはいたしません。けれどもあなたのために、
今の六十倍もりっぱでありたいと思っております。
今の千倍も美しく、今の一万倍も
お金持ちでありたいと思います。
それもただあなたに高く評価していただくために、
美徳についても、美しさについても、財産についても、お友だちについても
人並みはるかにすぐれていたいと思います。ですけれど、私というものは
いくらすべてを集め計算しても、たいしたことはこざいません、
しつけも、教育も、経験もない未熟な娘でございます。
でも、しあわせなことには、学ぶことができないほどに
年をとってもおりません。またなおしあわせなことには、
学ぶことができないほど、おろかに生まれついてもおりませんし、
いちばんしあわせなことには、その素直でやさしい心は、
あなたを主人として、支配者として、王として、
この身をあなたに捧げて、あなたのお指図にしたがうことができるのでございます。
私自身、そして私のもっておりますすべてのものは皆、
今からあなたのものになるのでございますわ。たった今まで私は
この邸《やしき》のあるじ、召使いたちの主人であり、
私自身の女王でございました。でも今、ただ今から
この家も、召使いたちも、そして私自身も、
あなたのものでございます。私はこの指輪とともにこれらすべてをさしあげます。
この指輪を万一手ばなしたり、なくしたり、他人におあげになったりしましたら、
それはあなたの愛のなくなってしまった証拠、
そして、そのときは私も黙ってはおりません。
【バッサーニオ】 もう私はなにも申し上げられなくなりました、
ただ、私の血管を流れてわきたっている血だけがお返事を申し上げています。
私はもうすっかり混乱してしまってなにを言うことも考えることもできません、
ちょうど、皆に愛されている国王がみごとな演説をしたあとで、
よろこびに湧きたっている群集が、なにかぶつぶつ言い合っているときの
混乱のようなものなのです。一つ一つでは意味のあることばなのですが、
まざり合ってしまうと、わけのわからない雑音になって、
ただわかるのは大きなよろこびだけ……
それが表現されているはずなのだが、はっきりとはわからない。
ですが、この指輪がこの指からはなれるときは、生命《いのち》が私からはなれてゆくとき、
おお、そのときこそは、バッサーニオは死んだとおっしゃってください。
【ネリッサ】 ご主人様、奥様、さきほどから控えておりまして、
私どもの願いのかなえられるのを見ておりましたのですが、今こそ
私どももおよろこびを申し上げたいとぞんじます。おめでとうございます。
【グラシアーノ】 バッサーニオさん、おやさしい奥様、
お望みになるかぎりのありとあらゆるおよろこびがおふたりのものとなりますように、
と申しましても、私のよろこびまで取っておしまいになろうとは思いません。
おふたりがご結婚のちかいをかためられる式をおあげになるその日に、
どうかお願いでございます、その同じときに、
私にも結婚の式をあげさせていただきたいものです。
【バッサーニオ】 よろこんでそうしましょう……相手さえあれば。
【グラシアーノ】 ありがとうございます。おかげで相手もみつかりました。
私の目も、あなたの目におとらずすばやいのです。
あなたはお嬢さんに目をつけられ、私はお女中に目をつけたのです。
あなたが恋をなさる、私も恋をしました。なにしろぐずぐずするのは、
私の性分には合いません、あなたとまったく同様に。
あなたの運命はあの箱にかかっておりました、
そして実は私の運命もそうだったのです。
と申しますのは、なにしろ大汗かいて口説き通しでしたし、
まるで顎《あご》の天井がひあがるほどに愛の誓いを並べまして、
とうとう、やっとのことで、これがずっとつづいてくれればですが、
私はこの美しいひとから、約束をもらったのです、
もし、あなたが幸運にも、お嬢さんを手に入れることができたら
私もこの人をもらえるという約束を。
【ポーシャ】 ネリッサ、それ、ほんとうなの?
【ネリッサ】 ほんとうでございます、もしお許しをいただけますならば。
【バッサーニオ】 グラシアーノ、君、本気だろうね?
【グラシアーノ】 はい、そのとおりで、だんな様。
【バッサーニオ】 じゃあ、君たちの結婚で、われわれの祝宴もいっそうめでたさを加えるわけだ。
【グラシアーノ】 どっちがさきに男の子ができるか一千ダカット賭けて競争しようよ。
【ネリッサ】 なんですって? そんなことしていいのかしら?
【グラシアーノ】 そうとも、そんなことしなけりゃ、賭けには勝てないぞ。だが、あれはだれだ? ロレンゾとユダヤ人の娘だな。
それから、ぼくの親友、ヴェニスのサリーリオじゃないか。
〔ロレンゾ、ジェシーカおよびサリーリオ登場〕
【バッサーニオ】 ロレンゾ、サリーリオ、よく来てくれた。
もっとも、ぼくはまだこの家の主人になったばかりで
大きな顔して君たちを歓迎できるかどうか問題だけどね。ところで、ポーシャ、
この人たちはぼくの親友で、同郷のものなんだ、
歓迎させてもらいますよ。
【ポーシャ】 私も歓迎いたしますわ、
ようこそいらしてくださいました。
【ロレンゾ】 ありがとうございます。私は、バッサーニオさん、
ここであなたにお目にかかるつもりではなかったのですが、
途中で、サリーリオに会いました。そして、
彼はどうしてもいっしょに来いといいはってきかないんです。
【サリーリオ】 そうなんです。
それにはわけがあるんです。アントーニオさんが
よろしくとのことでした。〔バッサーニオに手紙を渡す〕
【バッサーニオ】 手紙を開くまえに聞きたいが、
あの人はどうしているのかね?
【サリーリオ】 ご病気というわけではありません。心の中のことを問題にしなければ。
そして心の中のことを問題にすれば、お元気とも申せません。
お手紙で様子はおわかりになると思います。
【グラシアーノ】 ネリッサ、あちらのお客さんをもてなしておくれ、ようこそと言ってね。
サリーリオ、ようこそ。どうかね、ヴェニスのほうは?
それから、あの商人の王様、アントーニオはどうしてる?
われわれの成功を聞いたらどんなに喜んでくれるだろう。
われわれはジェイスンというところかな、みごと金の羊毛を手に入れたんだから。
【サリーリオ】 あの人がなくしてしまった羊毛を手に入れてくれたらと思うよ。
【ポーシャ】 あのお手紙にはなにか悪いしらせが書いてあるのだわ、
バッサーニオの頬から血の気がひいてしまった。
だれか親しいお友だちでも亡くなったのかしら、それでなければ、
しっかり落ち着いた男の人が、あんなにまで顔色を
変えるはずはないわ。まあ、ますます悪くなる!
ね、お願い、バッサーニオ! 私はあなたの半身なのよ、
だから私はそのお手紙の内容の半分の重荷は
私がになわせていただきますわ。
【バッサーニオ】 ああ、ポーシャ!
こんな不愉快なことばが、かつて手紙に書かれたためしが
あっただろうか! ねえ、ポーシャ
わたしがあなたにはじめて愛を打ち明けたとき、
なにもかも打ち明けて話したね、わたしが持っている財産といったら
このからだに流れる血だけだって。わたしには家柄だけしかないって。
そしてそれはほんとうのことを言ったつもりだ。でもね、ポーシャ
無一文だといっただけでは、まだこのわたしは
大法螺《おおぼら》吹きだったんだ。わたしが自分の財産はなにもないと
言ったとき、そのときにわたしはあなたに言うべきだった、
なにもないよりもっと悪い状態だということを。まったくのところ、
わたしの費用をまかなうために、わたしは親友から金を借りたんだが、その友だちはその金を、
彼を完全に敵《かたき》と思っている男から借りたんだ。この手紙を見てください、
この手紙は彼の肉体で、そこに書かれている
一語一語は生き血を流している傷口、
ぽっかり開いた傷口みたいだ。だが、サリーリオ、ほんとうかね?
アントーニオの投資は全部だめになってしまったのかね? 一つ残らず?
トリポリからのも、メキシコからのも、イギリスからのも、
リスボンからのも、バーバリ、インドからのもみんなか?
あの商船の敵のおそろしい暗礁から、ただの一艘も
逃れたのはないというのか?
【サリーリオ】 一艘もです。
それに、どうやら、こうなっては、
たとえ、支払う金を用意したところで、
あのユダヤ人のやつ、受け取らないでしょう。あんなやつ、
人間の形こそしているけれども、あんなおそろしいやつ、
人を破滅させようと夢中になってガツガツしてるやつは見たことがありません。
あいつは昼といわず、夜といわず、公爵にしつこく要求して、
もし正しい裁判を法律にしたがってしないようなら、
ヴェニスの自由はないも同然と難くせをつけています。
大勢の商人たち、そして公爵ご自身も、また身分の高い
えらいかたたちも、みんな説得につとめているのですが、
証文どおり、裁判を願い、科料をもらいたいという
憎しみにみちた訴えをやめさせることができないのです。
【ジェシーカ】 まだ私が父の家にいましたとき、父は大声で
同族のチューバルやチェーズにはっきり言っておりました、
アントーニオの借金は、その額を二十倍にして
返してもらうよりは、胸の肉を切りとってやりたいのだと
言っておりました。ですから、バッサーニオ様、
これが法律か、権威か、力でおさえることができないとなりますと、
おかわいそうに、アントーニオ様はひどいめにおあいになりますわ。
【ポーシャ】 そんなにお困りになっていらっしゃるのはあなたのご親友?
【バッサーニオ】 わたしのいちばんの親友、そしてあんなに親切な人はないのです。
りっぱな心の持ち主で、人のためにつくすときには、
親切をつくして、つねに倦《う》むことを知らない人です、
彼こそは、イタリアじゅうのだれよりも、
古代ローマの名誉の精神を身にそなえた人です。
【ポーシャ】 ユダヤ人からいくらお借りになったのですか?
【バッサーニオ】 わたしのために、三千ダカット。
【ポーシャ】 え、たったそれだけ?
彼に六千ダカット払っておやりなさい、そして証文を取り消させるのです。
なんなら六千ダカットを倍にしても、それを三倍にしてもかまいません、
今お話になったようなりっぱなお友だちが、
バッサーニオのあやまちのために、髪の毛一本でもなくすくらいなら。
まず、教会にごいっしょに行き、私を妻と呼んでください。
それからすぐにヴェニスのあなたのお友だちのところへいらしてください。
不安な気持ちをおもちになったままで、私のそばにおやすみになったりしては、
いけません。そのわずかばかりの借金を、
二十倍にして、お払いになるくらいのお金を用意していらしてください。
そしてお払いになったら、そのご親友を連れていらしてください。
それまでの間は、ネリッサも私も、
処女《おとめ》か寡婦《やもめ》のような生活をしていましょう。さあ、早くいらして!
結婚式のその日におたちにならなければならないのですわ。
さあ、皆さんをおもてなしなさって、もっと元気なお顔をしてくださいね。
たいへんな思いをしてやっとのことに手に入れたあなた、
たいせつにたいせつにしてさしあげますわ。さ、そのお手紙を読んでください。
【バッサーニオ】 〔読む〕「バッサーニオ、ぼくの船はすべて難破してしまった。債権者たちは残酷になるし、事態はますます悪くなる。ぼくが例のユダヤ人に約束した証文も期限が切れてしまった。そして、これを払ってしまえば、生きていることはとてもできないのだから、君とぼくの間の債務はすべて清算されるわけだ。ただ死ぬときにひと目君に会いたい。もっとも、それは君の気持ちしだいだ、もし君の気持ちがすすまないならば、この手紙は読みすててくれたまえ」
【ポーシャ】 ああ、あなた、早く用事をすませて、すぐにもいらっしゃらなければ!
【バッサーニオ】 あなたのお許しを得たうえは
大急ぎでゆくことにします。でも帰ってくるまで
途中でぐずぐず泊まったりはしませんし、
むだに休息してふたりの再会をおくらせたりするようなことはしません。〔一同退場〕
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第三場 ヴェニス。街上。
〔シャイロック、ソレイニオ、アントーニオおよび牢番登場〕
【シャイロック】 おい、牢番、この男に注意しろ。慈悲だのなんだのくだらん話はやめてくれ。こいつは無利子《ただ》で金を貸した阿呆だ。
牢番、こいつに注意しろ。
【アントーニオ】 まあ聞いてくれないか、シャイロック。
【シャイロック】 証文どおりにしてもらうんだ、証文についてとやかく言うな。
おれはちゃんと誓言《せいごん》したんだ、証文どおりにしてもらうとな。
おまえは理由もないのにおれを犬と呼びやがった。
おれは犬なんだから、牙があるぞ、気をつけろ!
公爵にはどうあっても裁きをしてもらわなくちゃならん。
このろくでなしの牢番め! こんなやつが頼んだからって、
牢から出してのこのこ歩かせる馬鹿があるか!
【アントーニオ】 ねえ、お願いだから聞いてくれ。
【シャイロック】 証文どおりにしてもらうだけだ。おまえの言うことなんか聞いちゃやらんぞ。
証文どおりにしてもらうんだ、だからもう何を言ってもむだだ。
わしはな、キリスト信者の野郎どものとりなしで、
頭をふったり、折れたり、ため息をついたり、いうことをきいたりするような
すぐだまされる骨抜きの阿呆とはちがうんだぞ。ついて来るな!
話なんか聞かんぞ。証文どおりにしてもらうんだ!〔退場〕
【ソレイニオ】 なんてがんこな野良犬野郎だ!
情けしらずにもほどがある!
【アントーニオ】 もうほっといてくれ。頼んだってむだだから、もうついて歩くのはよそう。
あいつはぼくの生命がほしいんだ。あいつの理由はぼくにはよくわかる。
ぼくはときどき、あいつに取りたてられて困っている大勢の人たちに
泣きつかれて、助けてやったことがあるんだ。
だからあいつはぼくを憎んでいるんだ。
【ソレイニオ】 公爵だってきっと、
こんな科料を取りたてることをお許しにはならないだろう。
【アントーニオ】 公爵も法律の筋道を曲げるわけにはいかない。
なぜなら、このヴェニスで、外国人が持っている利権は、
もしこれを拒否するようなことになれば、
このヴェニスの正義に対する信用をなくすことになるからね。
この都市《まち》の商売や、利益というものは、
多くの国々の人がより集まっているために成り立っているんだ。
だから、もう行ってくれ。このあいだじゅうからの苦労でぼくはすっかりやせて、
あの血にうえた残酷な債権者に、
一ポンドの肉をやれるかどうかもおぼつかないくらいだ。
さ、牢番、帰ろう。どうか、バッサーニオがぼくの債務支払いを見に
ここへ来てくれますように、それさえかなえばもう思い残すことはない。〔一同退場〕
[#改ページ]
第四場 ベルモント。ポーシャの家の一室。
〔ポーシャ、ネリッサ、ロレンゾ、ジェシーカおよびバルサザー登場〕
【ロレンゾ】 奥様、面と向いてこんなこと申し上げるのもいかがかと思いますが、
奥様は、神聖な友情というものについて、ごりっぱな、ほんとうのご理解を
持っていらっしゃいます。それがなによりの証拠には、
こうしてご主人のおるすをじっとしんぼうしていらっしゃることです。
ですが、もし奥様がこの敬意をお示しになる相手をごぞんじなら、
どんなにりっぱなかたに奥様が救いの手をさしのべておられるか、
ご主人にとってそのかたがどんなにたいせつなご友人かをごぞんじなら、
世間なみの親切さをお示しになっているときよりももっと、
ご自分のなさっていらっしゃることを誇らしくお思いになりますでしょう。
【ポーシャ】 私はなにかよいことをして後悔などしたことはありませんし、
これからもしないでしょう。親しくおつき合いをし、
お友だちとして同じ友情のきずなにかたくつながれて
いつも仲よくすごしている人たちというものは、
きっと、顔かたちにも、物腰にも、心がまえにも、
同じようなところがあるにちがいないのですわ。
ですから、そのアントーニオというかたも、
私の主人の親友でいらっしゃるのだから、
きっと主人のようなかたでしょう。もしそうだとしたら、
私の魂とも思っている私の夫に似たそのかたを、
地獄のみじめな苦しみから救っておあげすることは、
どんなに犠牲をはらってもなんでもないことですわ。
でもこんなこと言いますのは、なんだか自分のことを自慢しているみたい。
ですから、もうやめにいたしましよう。ほかにお話することがあります。
ロレンゾ、私は、主人が帰ってくるまでは、
この家のいっさいのとりしきりを、すっかりあなたに
おまかせしたいの。いえ、私はね、
じつは、ひそかに神様に誓いをたててしまったのです、
ネリッサだけを連れて行って、
ネリッサの夫と私の主人が帰ってくるまで、
お祈りと瞑想の毎日を送りますって。
二マイルほどはなれたところに修道院がありますの、
そこでふたりでくらそうと思うのです。この私のいいつけは、
けっしていやと言わないでほしいの。
あなたへの信頼と、も一つはさしせまった必要があって、
どうしてもお願いしたいの。
【ロレンゾ】 奥様、よろこんでお引きうけいたします。
奥様のおいいつけならばなんでもいたします。
【ポーシャ】 家の者たちはもう私の気持ちをよく知っています。
あなたとジェシーカを、バッサーニオさんと
私のかわりと心得るはずです。
では、さようなら、またお会いするときまで。
【ロレンゾ】 どうかごきげんよくいっていらっしゃいまし。
【ジェシーカ】 奥様、どうぞごきげんよくおすごしになりますように。
【ポーシャ】 ありがとう。そしてあなたがたもごきげんよう
さようなら、ジェシーカ。〔ジェシーカとロレンゾ退場〕
さあ、バルサザー、
いつもあたしに忠実に仕えてくれるおまえをみこんで、
また一つ骨折ってもらいたいことがあるのよ。この手紙を持って、
そしてできるだけの工夫をして大急ぎで、
パドヴァヘ行っておくれ。そしてまちがいなく、
この手紙をあたしの従兄のベラーリオウ博士にお渡ししておくれ。
そして、きっと書類と衣服を渡してくださるはずだから、
それを持って、お願いだから、できるだけ大急ぎで、
あの渡し場へ、ヴェニスヘ通う船のでる渡し場へ、
届けておくれ。もうなにも言わなくてもいいから
すぐ出発しておくれ! あたしはさきに行って待っていますから。
【バルサザー】 奥様、できるだけ急いで行ってまいります。〔退場〕
【ポーシャ】 さあネリッサ、仕事があるのよ、
まだあなたには話してないけど、私たちは夫に会うのよ、
向こうじゃ気がつかないだろうけど。
【ネリッサ】 向こうからはこっちが見えますのでしょうか?
【ポーシャ】 そうよ、ネリッサ、でも衣裳を変えているから
あたしたちがうまれつき持っていないものを
もっているように思うでしょうよ。ねえ、賭けてもいいわ、
あたしたちがふたりとも若い男のような身なりをしたら、
きっとあたしのほうがいい男にみえるでしょう。
短剣だってちょっといきなふうにつってみせるわ。
そして、ちょうど声変わりするころの男の子のような声で、
キーキー声でしゃべってやるわ。そしていつもの小きざみな歩き方の
ふた足分くらいの大またで、男らしく歩いてみせるわ。そして、
偉そうなことを言う若い男がするように喧嘩の話をして、器用な嘘をついてやるわ。
ある高貴なうまれのご婦人がどんなにあたしに恋いこがれたか、
それをあたしが拒絶したので、その人は恋わずらいで死んでしまった、ということをね。
「どうにもしかたがなかったんだ」とか言ってね、それから後悔して見せる、
「そうはいうものの、ああ、殺さなければよかった!」なんて、
こういうつまらない嘘をうんとついてやりましょう。
するときっとみんなは言うわ、あたしはもう学校を出てから一年以上になるだろうって。
あたしはこんなホラ吹きの若者たちがやるような
下手くそないたずらならいくらだって知っているから、
それをやってみせるわ。
【ネリッサ】 まあ、それじゃ私たち男になるんですの?
【ポーシャ】 まあ、なんて言い方をするのよ!
そばにひねくれた解釈する人でもいたらたいへんよ。
でも、さあ行きましょう。この計画は馬車にのったら
みんなあなたに話してあげるわ。馬車は待たせてあるのよ、
庭の門のところに。だから、さ、大急ぎで、
きょうじゅうに二十マイルは行かなくちゃならないのよ。〔両名退場〕
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第五場 同上。庭。
〔ラーンスロットとジェシーカ登場〕
【ラーンスロット】 そうだ、まったくでさ、いいですかい、父親の罪は子に報いるときまってまさ。だからね、たしかに、あんたはあぶないよ。あっしはあんたにいつもはっきりもの言ってきたからね、今度も事のあやまちを話してあげまさ。だから、さあ、元気をだしておくんなさい。あんたの地獄行きはまちがいなしさ。たった一つだけあんたのためになるような望みはありまさ。それもまあ、いわばできそこないの望みだがね。
【ジェシーカ】 どんな望みなの、それは?
【ラーンスロット】 そうさね、あのおやじさんが、あんたの父親じゃないかもしれないって望みでさ。するってえと、あんたはユダヤ人の娘じゃないことになる。
【ジェシーカ】 まあ、それこそできそこないの望みね! そうすると、お母さんの罪があたしに報いるってわけね。
【ラーンスロット】 だから、ほんとに、あっしゃ心配するんだが、あんたはおやじさんからいってもおふくろさんからいっても地獄行きだね。前門の虎のおやじを逃れると、後門の狼のおふくろにやられる。どっちにしてもあんたは助からないんでさ。
【ジェシーカ】 でも私は夫のおかげで助かるでしよう。あの人のおかげでキリスト教徒になったんですもの。
【ラーンスロット】 まったく、けしからん亭主野郎だよ。キリスト教徒はもうたくさんいすぎるんだに。押し合いへし合いでたいへんなさわぎだ。そこへまたキリスト教徒をこしらえるとなっちゃあ、豚の値があがってしかたがない。人間がみんな豚を食うようになってみろ、いくら金だしたって、ベーコンひときれにだってありつけなくなるからね。
〔ロレンゾ登場〕
【ジェシーカ】 あの人にいいつけるわよ、ラーンスロット、あんたの言ったことを。ほらいらした。
【ロレンゾ】 ラーンスロット、おまえがおれの女房をそんなすみっこのほうへ引っぱりこんだりすると、いまにおれはやきもちをやくぞ。
【ジェシーカ】 いいえ、心配はいらないよ、ロレンゾ。ラーンスロットとあたしは喧嘩していたのよ。この人ったらずい分あけすけに言うのよ。あたしがユダヤ人の娘だもんだから、天国へ行ける見込みはないだとか、それに、あなたはこの都市《まち》の公民としてためにならない人間だっていうの、ユダヤ人をキリスト教徒に改宗させて、豚の値をつり上げてるからですって。
【ロレンゾ】 そんなことならわたしのほうがちゃんと申し開きはできるんだ、黒ん坊の腹をふくらませたおまえよりはな。あの黒ん坊の娘がおまえのこどもを宿しているっていうじゃないか、ラーンスロット。
【ラーンスロット】 あいつの腹がふくれたっていうと、こりゃえらいこったね。だが、あいつがそんなことやるやつだとすると、案外すみにおけないあまっちょですだ。
【ロレンゾ】 阿呆ってやつはまったく駄じゃれがうまいな! いまにりこうな人間はみんな沈黙を守るようになっちまって、しゃべってほめられるのは鸚鵡《おうむ》だけってことになるぞ。さあ、早く行って、食事のしたくをするように言ってこい。
【ラーンスロット】 食うしたくならできてまさあね。みんなもう腹ぺこなんで。
【ロレンゾ】 ええい、なんてやっだ! あげあしばかりとりやがって! じゃ、食卓の用意をしろといいつけるんだ。
【ラーンスロット】 それもできてまさあ、食卓に布をかぶせて、はじめりゃいいばかりでさ。
【ロレンゾ】 じゃ、おまえそうしてくれよ。
【ラーンスロット】 え、あっしがですかい? あっしがかぶってはじめる? 冗談いっちゃいけませんや、こう見えてもあっしは身分ってものを心得てまさ。
【ロレンゾ】 まだ、へらず口をたたいてるな、こいつめ! ありったけの知恵を一ぺんにみせびらかす気かね? あたりまえの人間の言うことをあたりまえに聞いてくれ。おまえの仲間のところへ行って、テーブルに布をかけて、料理を出すように言ってくれ、そうしたらすぐ食事に行くから。
【ラーンスロット】 食卓は、へい出しまして、料理にゃ布をかぶせるようにしますだ。そいで、あんた様がたがすぐにおいでになるかどうかは、どうなりとご気分しだいってことにしてくだせえまし。〔退場〕
【ロレンゾ】 なんてみごとな分別だ! よくもあんなことばづかいができたもんだ!
阿呆め、くだらんことばを、むやみやたらに、
頭の中につめこんでいるんだな。だがぼくも知ってるが、
ずっと身分は高いが、こいつと同じように駄じゃれを頭の中につめこんで、
そいつを言うためには、内容なんかはどうでもいいという
阿呆がいくらでもいるんだ。どうだい、ジェシーカ?
ねえ、ジェシーカ、どう思うかい?
あのバッサーニオの奥さん、気に入ったかい?
【ジェシーカ】 気に入ったどころじゃないわ。バッサーニオさんは
きちんとして、身をおつつしみにならなくちゃ、ばちがあたるわ、
だって、あんなすばらしい奥様をお持ちになったのですもの、
まるでこの世の天国っていうようなものだわ、
だからちゃんとりっぱにこの世でおくらしにならなくちゃ
とうてい天国にはいらっしゃれないわ。
もし、天国で、おふたりの神様がなにか賭けごとなさって
この世の女をだれかふたりお賭けになったとすると……
そのひとりがポーシャさんだとしたら、もうひとかたには、
それになにか添えものをして賭けなくちゃだめ、このそまつな世の中には、
あのかたと肩をならべられるような人なんてひとりもありゃしないわ。
【ロレンゾ】 それと同じような夫を君はもっている、
奥さんとしてのポーシャにけっして負けないような夫をもっているんだ。
【ジェシーカ】 それは、あたしの意見も聞いてみなくちゃ。
【ロレンゾ】 じゃ、さっそく聞いてみることにしよう。だが、まず食事に行こう。
【ジェシーカ】 だめ、食欲があるうちにほめとかなくちゃ。
【ロレンゾ】 ま、それは食事の席でやってもらいたいね。
そうしたら、君がどんなことを言っても、ほかのものといっしょに
のみこんじまうよ。
【ジェシーカ】 じゃ、思うぞんぶん言ってあげるわ。〔両人退場〕
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第四幕
第一場 ヴェニス。法廷。
〔公爵、ヴェニスの高官たち、アントーニオ、バッサーニオ、グラシアーノ、ソレイニオ、その他登場〕
【公爵】 アントーニオは出廷しているか?
【アントーニオ】 はい、ここに控えております。
【公爵】 おまえにはまことに気の毒に思う。おまえの訴訟の相手は、
石のように冷酷な、がんこな人非人《にんぴにん》だ、
あわれみなどはまったく知らず、慈悲の心などは、
ほんのわずかも持ち合わせていないという男なのだ。
【アントーニオ】 うけたまわりますと、
公爵様には、あの男の苛酷なやり方をやわらげるために
いろいろとお骨おりくださいましたそうでございますが、
当人がどこまでも頑強に主張いたし、合法的な手段では
とうてい彼の憎悪からのがれることはできませんので、
このうえは、彼の怒りに対しましては忍耐をもってのぞみ、
彼がいかに残忍、狂暴にふるまいましょうとも、
心静かにたえしのぶ覚悟でございます。
【公爵】 だれか行って、ユダヤ人を法廷に呼び出せ。
【ソレイニオ】 戸口に控えております。あ、まいりました。
〔シャイロック登場〕
【公爵】 さあ、そこをあけて、わしの前に立たせなさい。
シャイロック、世間の人々はとりざたしている……そしてわしもそう思うのだが……
おまえは、このような悪意にみちた態度を
最後までもちつづけてはいるものの、いざというときには、
いまのおまえのふしぎなほどの残忍さとはうって変わった
もっとふしぎな慈悲や、あわれみを示すであろうな。
そして、きょう、おまえは科料の取りたて、
つまり、このあわれな商人の肉一ポンドの取りたてを
あくまでも言い張ってはいるものの、そのときになれば、
それを免除するばかりでなく、人間らしいやさしい愛情をもって、
元金の一部をも許してやるのであろうな。
ともかく、最近この商人の背におおいかかった損失は、
あれほどの豪商の身をもすっかり押しつぶしてしまい、
その気の毒な彼の状態を見るならば、
いかに残酷な冷たい心の持ち主であろうとも、
人間らしい親切などということはまったく知らない、
トルコ人や、ダッタン人でさえも、
同情とあわれみの気持ちをおこさずにはおられないのだ。
われわれ一同は、おまえのやさしいことばを期待しているのだ。
【シャイロック】 公爵様には私の考えはとうに申し上げてあるはずでございます。
神聖なる安息日にかけて誓いましてございますが、
必ずこの証文どおりの科料を頂戴いたしたくぞんじます。
もし、それはならぬとおおせられますならば、公爵様の特権も、
このヴェニスの都市《まち》の自由も危険にさらされるわけでこざいますぞ。
公爵様は私におたずねになりますでしょうな、なぜ私が
三千ダカットの金より、こんなくされ肉をほしがっているのかと、
それに対して、私はお答えはいたしますまい、
ただ、まあ、私の気まぐれとでも申しましょうか、これでお答えになりますかな?
たとえば、もし私の家が、一匹の鼠に荒らされて困っているといたします、
そしてこれを毒殺したものには、一万ダカットやってもいいと
この私がこう申しましたらいかがでごさいましょう。まだご納得がいきませんかな?
世の中には、あの口をあけた丸焼きの豚がいやでたまらんという人もございます、
また、猫をみると気が変になるという人もございましてな、
また、あのバグパイプが鼻ごえでなりはじめると、
小便がおさえきれないという人もございます。生まれつきの好ききらいというものは、
人間の感情というものを支配いたしまして、すきだとか、きらいだとかいう
気分をきめてしまうんでございます。さて、そこでお答えでございますがな、
なぜ口をあいた豚ががまんできないのか、
なぜ、罪もない、役にたつ猫がきらいなのか、
なぜ、ネルの袋にはいったバグパイプがいやなのか、
これにゃ、はっきりとした理由などはございませんので、
ただ、もう、まったくお恥ずかしいことじゃございますが、
自分も不愉快だが、他人様の気も悪くするというわけでしてな。
私の場合もそれと同じでしてな、アントーニオに対してみすみすこんな損な訴訟を
起こしますのも結局は深いうらみがあって、どうにも虫が好かんというだけで、
ほかに理由を申し上げることもできませんし、また申しあげようとも思いません。
まあこういったところでございましてな、ご納得がいきましたかな?
【バッサーニオ】 これじや返事にもなにもならんじゃないか、人でなしのやつめ!
おまえの残酷なやり方のいいわけになんかなりはせんぞ!
【シャイロック】 ベつにおまえさんの気に入るような返事をする義理もないわい。
【バッサーニオ】 好きでないから殺してしまう……それが人間のやることか?
【シャイロック】 殺そうと思わんほどのものなら、だれもきらいはせんだろうが?
【バッサーニオ】 きらいだからって、なにも憎むことはないだろう。
【シャイロック】 おや、おまえさんは蛇に二度もかまれたいのかね?
【アントーニオ】 お願いだ、もうユダヤ人と問答するのはやめてくれ。
そんなことするのは、海岸に立って、大海原に向かって、
いつもの高波をしずめるように命令するのと同じことだ、
狼に向かって、なぜ小羊をうばって、
牝羊《めひつじ》を泣かせるようなまねをするのかと聞くようなものだ。
その高い梢を風にゆり動かしている
峰の松の木に向かって、
音をたててはいけないと禁止するようなものだ。
ユダヤ人のかたくなな心をやわらげようとするなんて!
あんなにかたくななものはないのだ。もしそれができるとしたら、
ほかのどんなむずかしいことだってできるのだ。だからお願いだ、
もうこれ以上、なにも言ってくれるな。もうこれ以上なにもしてくれるな。
できるだけ簡単に、てまをはぶいて、
判決をくだしてもらいたいし、ユダヤ人にも望みをとげさせてやってもらいたい。
【バッサーニオ】 おまえの言う三千ダカットに対して、ここに六千ダカットある。
【シャイロック】 六千ダカットの一ダカットが、
六つに割れて、その一つ一つが一ダカットになっても、
わしは受けとるつもりはない。証文どおりにしてもらいたい。
【公爵】 人に慈悲をほどこさないで、どうして神のお慈悲を期待するのかね?
【シャイロック】 私はなにも悪いことはしておりません。ですからどんなお裁きもこわくありません!
あなた様がたはたくさんの奴隷を買ってかかえておられる、
そして、驢馬《ろば》や犬や騾馬《らば》同様にそいつらを
こきつかって、いやしい仕事をさせていらっしゃいますな、
金を出してお買いになったものですからな。そこで一つ申し上げますがね、
あいつらを自由にしておやりなさいまし、跡とりのお婿さんにしておやりなさいまし、
どうしてあんなに汗水たらして重荷をかついでるんです? やつらの寝床も、
あなた様がたのと同じように柔らかいものにしておやりなさいまし、
あなた様がたと同じようにうまい食物をたべさしておやりなさいまし、と。すると、
あなた様はお答えになるでしょう。「奴隷はわしのものだ」ってね。そこで私も申します、
あいつの肉の一ポンドですが、あれは高い金を出して
買いましたんで。ですから私のものですからいただきたいんです。
もしそれがならぬとおっしゃいますなら、法律なんてないも同然!
ヴェニスのおきてにはなにも権威がないと言わねばなりますまい!
どうかお裁きをお願いします。お答えください、願えましょうな?
【公爵】 わが権限をもって、本法廷を解散することもできるのだが、
ただ、この訴訟の決定のために迎えを出しておいた
博学のベラーリオウ博士が、
きょうここにみえるはずになっている。
【ソレイニオ】 公爵様、ただいまそとに
博士からのお手紙を持参したと申す使いの者が控えております、
パドヴァからまいったばかりとかでございます。
【公爵】 その手紙をこれへ、使いの者も呼び入れるがよい。
【バッサーニオ】 アントーニオ、しっかりしてくれ、勇気をだすんだ。
たとえぼくの肉や血や骨をすっかりあのユダヤ人にやっても、
君の血を一滴だって流させるもんか!〔シャイロックはナイフを出して、かがんでそれをとぎはじめる〕
【アントーニオ】 ぼくは群れの中で病気にやられた一匹の羊だ、
殺されるのにもっともふさわしいのだ。くだものだっていちばん弱いのが、
まっさきに地面に落ちてしまうのだ。だからもうほっといてくれ。
バッサーニオ、君ができるいちばんよい役目は、
ずっと生きながらえて、ぼくの墓碑銘を書いてくれることだ。
〔ネリッサ、法律家の書記のような服装で登場〕
【公爵】 パドヴァから……ベラーリオウのところからこられたのだな?
【ネリッサ】 さようでございます。ベラーリオウからよろしくとのことでございました。〔手紙をさし出す〕
【バッサーニオ】 なんでおまえはそんなに夢中になってナイフをといているんだ?
【シャイロック】 あの破産したやつから科料をきりとるためさ。
【グラシアーノ】 おまえの靴底じゃなくて、おまえの心の底で、
おまえはナイフをといでいるんだな。だがおまえの憎しみにくらべれば、
どんな刃物だって、死刑執行人の斧だって、
そのおそろしい執念にはかなわない。どんな祈りもおまえの心には通わないのか?
【シャイロック】 そうとも、おまえたちの知恵で考えるくらいのものじゃだめだ。
【グラシアーノ】 ちくしょうめ、地獄へでも落ちやがれ!
おまえみたいなやつを生かしておくなんて、法律がどうかしてる!
おまえの面《つら》みてると、おれの信心までぐらついてくるわ!
そしてピタゴラスの言ったように、動物の魂が
人間のからだの中にやどるもんだと考えたくなるわ!
おまえのその山犬みたいな根性は、もともとは狼にやどっていたんだ、
それが人間を殺したっていうんで首をくくられて、
そのときに絞首台から恐ろしい魂がぬけ出して、
おまえがまだ罪深いおふくろの胎《はら》の中にいた間に、
おまえのからだに宿ったんだな。だから、見ろ、おまえの欲望は、
さながら、血にうえて、がつがつして、貪欲だ。
【シャイロック】 おまえががみがみどなりつづけてこの証文から判が消えるというならとにかく、
そんな大声だしたって、肺が痛むだけですぜ!
おまえの知恵袋のつくろいでもしろよ、ねえ、お若いの! さもないと、
いまに修繕もきかなくなっちまうぞ。お裁きを願います。
【公爵】 ベラーリオウからのこの手紙によると、
この法廷に若い博識の博士を推薦してきているが
どこにおられるな?
【ネリッサ】 すぐあそこに控えておられまして、
お許しがありますかどうか待っておられます。
【公爵】 よろこんでお迎えしよう。だれか三、四人の者が行って、
こちらへ丁重にご案内申せ。
その間にベラーリオウの書面を一同に読みきかせるように。
【書記】 〔読む〕「貴翰《きかん》拝受いたしましたるところ、あいにく小生|病臥《びょうが》中にて残念にぞんじます。しかしながら、たまたまご使者ご入来のころに、ローマのさる少壮の学者にて、バルサザーと申します博士が小生の見舞いに来訪されました。お申しこしのユダヤ人対商人アントーニオとの係争の件につきましては、小生より同人にじゅうぶん申し聞かせ、ともに諸種の文献を参照のうえ協議いたしました。さらに小生の意見はじゅうぶんに同人に申し伝えておきました。なお同人の学識によって相おぎなわせますが、その学識については小生などのとうてい推薦しつくせぬほどの深遠なるものにて、小生懇望いたしましたるところ、応じてくれましたるゆえ、小生代理といたしまして、ご依頼に応ずべくさしつかわしますしだいであります。若年のゆえをもって、ご厚遇を逸するようなことなきよう願い上げます。かくも若年にして、かくも老成したる頭脳の持ち主、同人のごときは他にその例を知らざるところであります。なにとぞご採用くだされたく、必ずや事実をもって賞賛のまことなることを示すものと確信いたしおるしだいであります」
【公爵】 これが博学で知られるベラーリオウの書面だ、
そして、あそこへ来られたのがその博士であろう。
〔ポーシャ、法学博士の服装で登場〕
お手をどうぞ。ベラーリオウ先生のところから来られましたな?
【ポーシャ】 さようでございます。
【公爵】 ようこそ。どうか席についてください。
当法廷でただいま審議中のこの訴訟問題を
すでにご存知でしょうな?
【ポーシャ】 この事件についてはくわしくうけたまわってまいりました。
どちらが商人で、どちらがユダヤ人でございますか?
【公爵】 アントーニオとシャイロック、前に出なさい。
【ポーシャ】 おまえの名はシャイロックだな?
【シャイロック】 シャイロックでございます。
【ポーシャ】 おまえの訴訟はまことに奇怪なものだな。
しかし手続きはふんでいるのだから、ヴェニスの法律は
おまえのやり方を非難すべき筋合いではないな。
おまえは生命をこの原告の手ににぎられているわけだな?
【アントーニオ】 はい、そのようにこの男は申しております。
【ポーシャ】 証文は認めるのだな?
【アントーニオ】 はい、認めます。
【ポーシャ】 では、ユダヤ人が慈悲をかけてやらねばなるまい。
【シャイロック】 どうして、ねばならないのでございますかな? うかがわせていただきましょう。
【ポーシャ】 慈悲というのは強制されるべき性質のものではない。
それは、恵みの雨のように、天からふりそそいで
大地をうるおすものだ。それは二重に祝福されているのだ、
つまり、与えるものを祝福し、受け取るものを祝福するからだ。
それは最も偉大な人にあって、最も偉大な徳となる。
それは、玉座にある王者にとって、王冠よりもさらにふさわしいものだ。
王の笏《しゃく》は、この地上の特権の力をあらわすもの、
威力と威厳のしるしであって、
王者に対するおそれを意味する。
しかし慈悲はこの王笏の支配以上のものであり、
王者の心の中にその玉座を占めるもの、
それは神ご自身の持ちたもう性質をもつものである。
そして慈悲が正義をやわらげるとき、
地上の力は神の力にも似たものとなる。だから、ユダヤ人、
正義がおまえの訴えではあるが、このことを考えてみてほしいのだ、
つまり、正義だけを求めてゆくのでは、われわれはけっきょく
救われないのだ。われわれは神に慈悲をお祈りする。
そしてその祈りこそは、われわれすべてに、互いに慈悲をほどこしあうことを
教えてくれるのだ。このようなことを言うのも、
おまえの正義|一途《いちず》の訴えをやわらげたいと思うからなのだ。
もし、どうしてもおまえが正義だけを主張するならば、この厳しいヴェニスの法廷は
どうしてもその商人に判決をくださなければならないのだ。
【シャイロック】 私のしたことの報いは自分で引き受けます、
どうか証文どおりの科料をいただきたい。
【ポーシャ】 商人は金を払うことができないのか?
【バッサーニオ】 いいえ、できるのです。現に私がかわりに支払ってやるといっているのです。
しかも二倍の額を。もしそれでもたりないとなれば、
十倍にして払うことにいたします。
私の手、私の頭、私の心臓を抵当にいたしましてでも。
それでもまだ不足といいますならば、それはたしかに
正当なのではなくて悪意によるものにちがいありません。どうぞお願いでございます、
今回だけは、あなた様の権力によって法をまげてください。
少しばかりの不法を犯して、大きい正義を行なうために、
この残忍な悪魔の考えていますことをおさえてください。
【ポーシャ】 それはできない。このヴェニスではいかなる権力も
定められたおきてを変えることはできないのだ。
それが先例として記録されるようなことがあれば、
その同じ例にならって、つぎつぎと不正が行なわれ、
国家を誤るようになるからだ。そんなことがあってはならない。
【シャイロック】 ダニエル様がまたお裁きにみえた! そうだ、ダニエル様だ!
おお、なんとお若くて賢い裁判官様! まったくごりっぱなおかただ!
【ポーシャ】 どうか証文を見せてくれ。
【シャイロック】 ここにございます、おそれながら、ここにございます。
【ポーシャ】 シャイロック、おまえの金を三倍にして払うと言っているのだぞ。
【シャイロック】 誓言、誓言、神様に誓言しましたのです。
その私が自分の魂に偽誓《ぎせい》の罪をきせることができましょうか?
いやけっして、このヴェニス全部をもらってもできません。
【ポーシャ】 なるほど期限は切れている。
したがって、法律上、このユダヤ人は主張することができるのだ、
一ポンドの肉を、この商人の心臓に近いところから
切りとる権利があるのだ。だが慈悲をかけてやれ。
三倍の金を受けとって、私にこの証文をやぶらせてくれ。
【シャイロック】 証文のとおりに払っていただけましたときにはそれもけっこうでございます。
お見うけいたしましたところ、あなた様はりっぱな裁判官でいらっしゃる、
法律もよくごぞんじのようだし、あなた様の解釈も
なかなかしっかりしたもんでした。その法律にかけて、
その法律の柱でいらっしゃるあなた様にお願いいたします。
どうかご判決をいただきたくぞんじます。私の魂にかけて誓いますが、
どんなかたがどんな権力をもっておっしゃいましても、
私の気持ちは変わりません。証文どおりにと申し上げているのです。
【アントーニオ】 私からも本法廷にお願い申し上げます、
どうかご判決をくださいますように。
【ポーシャ】 では、しかたがない。
アントーニオは胸にナイフを受ける用意をしなければならない。
【シャイロック】 おお、なんと気高い裁判官様! なんとすばらしいお若いおかた!
【ポーシャ】 この証文に支払うように記載されている科料は
法の趣旨から考えてみても
じゅうぶん正当なものと認められる。
【シャイロック】 そのとおりでございますとも! おお、賢明で、正しい裁判官様!
お顔に似合わず、りっぱに老成されたおかただ!
【ポーシャ】 したがって、胸元を開いて用意するように。
【シャイロック】 そうでございますとも、胸元でございます。
そのように証文に書いてございます。ねえ、りっぱな裁判官様!
「心臓にもっとも近いところ」と、そう書いてございます。
【ポーシャ】 そうだ。秤《はかり》は用意してあるか?
肉をはかるための?
【シャイロック】 用意してございますとも。
【ポーシャ】 シャイロック、おまえの負担で医者を呼んでおくのだ。
傷口をとめなければならない。出血多量で死ぬといけないから。
【シャイロック】 そんなことが証文に書いてございましたかな?
【ポーシャ】 いや、書いてはない。が、そんなことはいいではないか。
それくらいの慈悲をかけてやるのが当然ではないかな。
【シャイロック】 ございませんな、証文にはございません、どこにも。
【ポーシャ】 アントーニオ、なにか言い残すことはないか?
【アントーニオ】 べつにたいしてございません。じゅうぶん覚悟も準備もできております。
さあ、バッサーニオ、手をくれたまえ。さようなら!
君のためにぼくがこんなことになったからといって悲しまないでくれたまえ、
これでも、運命の女神は、いつもよりは、
ずっと親切にふるまってくれているのだ。いつもなら
みじめな男を、財産がなくなってしまったあとまでも生きのびさせて、
落ちくぼんだうつろな目、しわくちゃな顔で、
老いさらばえた身に貧乏を味わわせるのだが、そういうみじめさの
かぎりなく続く貧困から、ぼくは救われたわけなのだ。
どうか君の奥さんに、くれぐれもよろしく言ってくれたまえ、
アントーニオの最期の様子をつたえて、
どんなにぼくが君を愛していたか、死んだら、よく伝えてくれたまえ。
そして、その物語が終わったら、奥さんに判断してもらってくれ、
バッサーニオに親友がなかったかどうかをね。
君が親友をなくすことを悲しんでくれさえすれば、
ぼくは君のために、君の借金を払うことなどすこしも後悔しやしない。
そうだ、もし、あのユダヤ人がちょっとでも深くこの胸を切りこんでくれたら、
ぼくはすぐにもこの心をささげて、借金を払うことになるのだ。
【バッサーニオ】 アントーニオ、ぼくは結婚した。そしてぼくの妻は
ぼくにとっては生命にもかえられないほどたいせつなものだ。
しかし、その生命も、妻も、全世界も、
ぼくにとっては君の生命と比べると貴くはない。
ぼくは君を救うためならば、それを皆なくしてしまってもいい、
そうだ、なにもかも全部この悪魔にささげものとして与えてしまってもよいのだ。
【ポーシャ】 もしあなたの奥さんが、ここにいて、そんな申し出を聞いたら
けっしてありがたいとは思わないだろう。
【グラシアーノ】 ぼくにも妻がある。はっきり言うがその妻をぼくは愛している。
しかし、この犬ちくしょうなユダヤ人の心を変えさせるように、
神様にお願いするために、いっそ死んで天国にいってくれればいいと思う。
【ネリッサ】 そういうことは奥さんの聞いていないところでおっしゃるがよろしい、
さもないと、家庭争議がおこって、ただはすまされないですからね。
【シャイロック】 こういうのがキリスト教徒の亭主のやることだ。わしにも娘があるが、
キリスト教徒を亭主にするくらいならば、
いっそ盗人《ぬすっと》のバラバスの子孫でも婿にしたほうがましだ!
〔傍白〕時間のむだだ、どうぞ早いところ判決を願います。
【ポーシャ】 その商人の肉一ポンドはおまえのものである。
法廷がこれを認め、法律がこれを汝に与える。
【シャイロック】 じつに公明正大な裁判官様だ!
【ポーシャ】 したがっておまえはこの肉を彼の胸元から切り取ることになるのだ。
法律がこれを許し、法廷がこれを汝に与える。
【シャイロック】 じつに学識ある裁判官様だ! 判決だ! さあ、覚悟しろ!
【ポーシャ】 しばらく待て! まだほかに申し渡すことがある。
この証文はおまえに血は一滴たりとも与えておらんのだ。
文面には、はっきりと「肉一ポンド」と書いてある。
証文どおりに取るがよい。肉一ポンドはおまえのものだ。
ただし、この肉を切り取る際に、キリスト教徒の血を
一滴たりとも流したときには、おまえの土地も、財産も、
ヴェニスの法律によって、ヴェニスの国庫に、
いっさい没収することになるのだ。
【グラシアーノ】 おお、公明正大な裁判官様! 聞いたか、ユダヤ人! おお、博学の裁判官様!
【シャイロック】 それが法律でございますか?
【ポーシャ】 おまえ自身で条文をよく見るがよい。
つまり、おまえは一途に正義を求めるのだから、そのとおりに、
望み以上に正義を通させてやろう。
【グラシアーノ】 おお、公明正大の裁判官様! 聞いたか、ユダヤ人! おお、博学の裁判官!
【シャイロック】 では申し出を受けることにいたします。証文の三倍払えば、
このキリスト教徒は許してやりましょう。
【バッサーニオ】 そら、金だ。
【ポーシャ】 待て!
ユダヤ人には正義にかなった裁判をしてやるのだ。待て、急ぐことはない!
証文の科料以外はやることはならぬ!
【グラシアーノ】 おお、ユダヤ人! 公明正大な裁判官様! 博学の裁判官様!
【ポーシャ】 だから、ユダヤ人! 肉を切る用意をするがよい。
血は流してはならぬぞ。また肉は一ポンドだ、
それより多くても、少なくてもならぬ。
正確に一ポンドだ。もしおまえがそれよりも多く、また少なく切りとったら……
たとえそれがわずか一分、一厘、いや……
その二十分の一のちがいであろうとも……
また、秤の皿が髪の毛一筋ほど傾いても、
どんなわずかな重さのちがいであっても、
おまえは死刑、財産はすべて没収だ。
【グラシアーノ】 ダニエル様の再来だ! ダニエル様のようなかただ! ユダヤ人!
さあ、不信心者めが、思い知っただろう!
【ポーシャ】 シャイロック、なにをぐずぐずしている! 早く科料を取るがよい。
【シャイロック】 元金だけください、そしてわたしを帰らせてください。
【バッサーニオ】 ここに用意してある。さあ、これを。
【ポーシャ】 法廷ではっきりそれを拒否したではないか。
だから証文どおりの科料のほかはとってはならない。
【グラシアーノ】 ダニエル様だ! まったく、ダニエル様の再来だ!
おまえに礼を言うぜ、ユダヤ人! いいことばを教えてくれたな。
【シャイロック】 元金だけももらえないのでしょうか?
【ポーシャ】 科料以外には取ることはならぬ、
そしてそれも今申したとおり、死刑を覚悟して取れ!
【シャイロック】 ちくしょう! 証文なんかどうとでもかってにしやがれ!
こんなくだらん問答をきいていられるか!、
【ポーシャ】 まて、ユダヤ人!
法律がまだおまえにもう一つ言い渡すことがある。
ヴェニスの法律にはっきり定めてあるが、
もしも外国人が、ヴェニスの市民に対して、
直接、または間接の手段によって、
その生命をおびやかすようなことを行なった事実が明白になったときは、
危害を加えられようとしたその当事者が、
犯罪人の財産の一半を取得し、
他の一半は国庫に没収されることになるのだ。
そして犯罪者の生命は、一《いつ》に公爵の裁量にまかせられる。
公爵の権限で、いっさい他の発言は認められない。
このような立場に、今、おまえはおかれているのだ、
なぜならば、明らかに、おまえの行動によって証明されるように、
直接にも、また間接にも、おまえは、
被告の生命をおびやかそうとたくらんだからだ。
したがっておまえは、今読んで聞かせたような
危険にさらされているのだ。
さあ、ひざまずいて、公爵のお慈悲をこうがよい。
【グラシアーノ】 自分で首をくくるお許しを願うがいいぜ。
でも、おまえの財産は国庫に没収されてしまったんだから、
なわ一本買うことはできないだろうよ。
だから、おまえは官費で首をくくってもらうほうがいいぜ。
【公爵】 われわれの精神がいかにおまえたちとはちがっているかを見せてやるために、
こわれるまでもなく、おまえの生命は助けてやるぞ。
おまえの財産の半分はアントーニオのもの、
他の半分は国庫におさめることになるが、
おまえが悔悟するようならば、罰金だけで許してやってもよいのだ。
【ポーシャ】 そうです、国庫の分については。アントーニオのは別ですが。
【シャイロック】 いいや、生命もなにもかもみんな取ってもらいましょう。許してもらわないでいい、
家をささえている柱をとっちまうんだったら、
家を取るのも同じこと。わしが生命をつないでいる
財産をとってしまうのは、生命を取るのと同じことだ。
【ポーシャ】 アントーニオ、おまえも慈悲をほどこしてやる気があるか?
【グラシアーノ】 首くくるなわを一本、ただでくれてやる。それだけです。
【アントーニオ】 公爵、ならびに法廷にご列席の皆様にお願い申しあげます。
この男の財産半分に対する罰金もお許しくださいますならば、
まことにうれしくぞんじます。ただ、もし他の半分を
私にあずからせていただけますならば、彼の亡くなりましたあとでは、
この金を、最近彼の娘とひそかに出奔いたしました男に
渡しますことにいたしたく、これを彼にも承知してもらいたくぞんじます。
これに加えまして、なおほかに二つの条件がございます。
一つは、ただちに彼がキリスト教徒になりますこと、
もう一つは、彼が死後におきまして、遺産のすべてを
彼の婿のロレンゾと、彼の娘とにゆずり渡す証書を
本法廷におきましてしたためますことでございます。
【公爵】 そのとおりさせることとしよう。もし承知しなければ、
さきほどの赦免は取り消すことにしよう。
【ポーシャ】 よろしいか? ユダヤ人、異議はないであろうな?
【シャイロック】 ございません。
【ポーシャ】 さあ、書記、譲渡証書をつくりなさい。
【シャイロック】 お願いです、これで帰らせてください。
気分がすぐれません。譲渡証書はあとからよこしてくだされば
署名いたします。
【公爵】 それでは帰ってよい、だが必ず履行《りこう》するのだぞ。
【グラシアーノ】 洗礼のときは立会人はふたりだ、
もし、おれが裁判官だったら、もう十人ふやして陪審員にして、
おまえを洗礼盤にではなく、絞首台に送ってやるんだがな。〔シャイロック退場〕
【公爵】 どうか私の邸《やしき》までおいで願いたい、お食事でもさしあげましょう。
【ポーシャ】 おそれいりますが、お許しをいただきたくぞんじます。
じつは今夜にもパドヴァに帰らなければなりませんので、
すぐにも出発したほうがよろしいかとぞんじます。
【公爵】 お暇がないとはまことに残念です。
アントーニオ、じゅうぶんにお礼を申し上げねばなりませんぞ、
ずいぶんおせわになったのだからな。〔公爵と従者たち退場〕
【バッサーニオ】 ほんとうにありがとうございました。私と私の友だちは
あなたのおかげできょう、生命にかかわるような科料を
ようやくまぬがれることができました。つきましては、
ユダヤ人に支払うはずでありました三千ダカットの金を、
あなたのご親切なお骨折りにたいするお礼のしるしにお納めいただきとうぞんじます。
【アントーニオ】 そして、そのうえに、このご恩はいつまでも
感謝いたしまして、けっして忘れるようなことはこざいません。
【ポーシャ】 自分の心に満足を得ました者は、それでじゅうぶん報いられたのです。
私は、あなたをお救いすることができまして、満足いたしています。
それでじゅうぶん報いられたと思っております。
私は今まで、心の満足以上の報酬を望んだことはありません。
今度お目にかかったおりには、どうぞおぼえていらしてください。
ごきげんよう、これでおいとまいたします。
【バッサーニオ】 ですが、どうしても、お願いいたしとうぞんじます。
なにか私どもの気持ちとして、記念の品をお持ちになってください。
報酬ではございません。お願いですから、二つのことをお許しください、
いやとおっしゃらないでくださること、そして私の失礼をお許しくださること。
【ポーシャ】 どうもそのようにおっしゃいましては……おことばに従うことにいたしましょう。
〔アントーニオに〕その手袋をいただきましょう、思い出に身につけることにします。
〔バッサーニオに〕それから、あなたの愛のために、この指輪をいただきましょう。
そんなに手をお引きにならないでください。これだけでけっこうです。
ご親切におっしゃってくださったあなたがまさかいやとはおっしゃいますまい。
【バッサーニオ】 この指輪は、じつはまことにつまらんものでございまして、
こんなものをさしあげるのはお恥ずかしくぞんじますので。
【ポーシャ】 ところが私はこれだけがちょうだいいたしたいものなので、
どうも、ますます、ほしくなってまいりました。
【バッサーニオ】 この指輪には、値うち以上のいわれがございまして。
ヴェニスじゅうでもっとも高価な指輪をあなたにさしあげましょう。
広告を出してさがしだすことにいたします。
ただ、これだけは、お願いですから、ごかんべんください。
【ポーシャ】 わかりました。ただ口だけでひどく気まえのよいことをおっしゃったのですな。
まずあなたは物ごいすることを教えてくださった。そして今度は
乞食がどういう扱いを受けるものかを教えてくださるおつもりらしい。
【バッサーニオ】 じつは、この指輪は妻が私にくれたものなのです。
そしてこれを指にはめてくれたときに、妻は私に誓いをたてさせました、
売ったり、他人にあげたり、なくしたりしないことを。
【ポーシャ】 そういういいわけは、贈り物をやるのが惜しくなったときに役にたちますな。
もし、あなたの奥様が、気が狂っているのでもなんでもなくて、
私がじゅうぶんその指輪をいただく値うちがあるということがおわかりになれば、
あなたがそれを私にくださっても、いつまでもあなたを
おうらみになるようなことはないと思いますが。では、さようなら。〔ポーシャ、ネリッサ退場〕
【アントーニオ】 バッサーニオ、その指輪をあげてくれないか、
もちろん君の奥さんの命令もわかるけれど、でもあの人は、
それをあげるだけの値うちはある。それにぼくとの友情も考えてみてくれ。
【バッサーニオ】 グラシアーノ、走っていって、追いついてくれ、
そしてあの人にこの指輪をあげてくれ、そしてできたら
アントーニオの家へおつれしてくれ。さあ早く、いそいでくれ!〔グラシアーノ退場〕
さあぼくたちも急いで君の家へ行って、
あすの朝早くふたりでベルモントヘ
急いでゆこう。さあ、アントーニオ!〔両人退場〕
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第二場 同じくヴェニス。街上。
〔ポーシャとネリッサ登場〕
【ポーシャ】 ユダヤ人の家をさがしだして、この証書を見せて
署名させるのよ。今晩は出発しなくちゃならないのですもの、
そして夫たちよりも一日早く家に帰っていなければならないわ。
この証書をみたら、ロレンゾはどんなによろこぶでしょう。
〔グラシアーノ登場〕
【グラシアーノ】 ああ、先生、やっとのことで追いつきました!
主人のバッサーニオが、考えなおしまして、
あなたにこの指輪をお贈りすることにいたしました。それから
ぜひお食事をごいっしょにと申しております。
【ポーシャ】 それはどうもつごうが悪いのですが
指輪だけはありがたくちょうだいいたします。
どうか、そのようにお伝えください。それからもう一つお願いですが
この若者をシャイロックの家に案内していただけませんか。
【グラシアーノ】 かしこまりました。
【ネリッサ】 先生、ちょっとお話が……
〔ポーシャヘ傍白〕私も夫の指輪がとれるかどうかやってみますわ、
永久に手ばなさないと誓わせてあるんですから。
【ポーシャ】 〔ネリッサヘ傍白〕できるわよ、きっと。あの人たち、きっと
指輪は男の人にやったのだと、いっしょうけんめい言いはるでしょうよ。
でも私たちのほうがうわてだわ。あの人たちをグウの音もでないようにしましょう。
〔大きな声で〕さ、急ぐんだよ! 私の待っている場所はわかっているだろうね。
【ネリッサ】 さあ、どうか、その家へ案内してください。〔それぞれ退場〕
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第五幕
第一場 ベルモント。ポーシャの家への並木道。
〔ロレンゾとジェシーカ登場〕
【ロレンゾ】 月が美しくかがやいている。こういう夜に……
あまい風がやさしく木々に口づけしても
木の葉が音もたてない……こういう夜に、
あのトロイラスが、トロイの城壁にのぼって、
せつない心のため息を、ギリシアの陣営にねむっている
クレシダのところへ送ったのだ。
【ジェシーカ】 こういう夜に、
シスビが、こわごわ、夜露をふんでいったのだわ、
そして恋人に会う前に、ライオンの影を見て、
おびえて逃げてしまったのだわ。
【ロレンゾ】 こういう夜に、
ダイドウは柳の枝を手にかざして、
荒海の磯辺に立って、もう一度恋人を
カルタゴに呼びかえそうとしたのだ。
【ジェシーカ】 こういう夜に、
メディアは魔法の草の葉を集めて、老いたイーソンを
若返らせようとしたのだわ。
【ロレンゾ】 こういう夜に、
ジェシーカは金持ちのユダヤ人の家を抜けだして、
ろくでなしの恋人と、ヴェニスからはるばると
ベルモントまで逃げてきたのだ。
【ジェシーカ】 こういう夜に、
若いロレンゾが、ジェシーカがとても好きだと言って
たくさんの愛の誓いで、娘の心を盗んじまったけど、
一つもほんとうなんてありはしない。
【ロレンゾ】 こういう夜に、
きれいなジェシーカが、かわいいじゃじゃ馬ぶりを発揮して、
恋人の悪口を言ったけど、男はだまって聞きながした。
【ジェシーカ】 夜づくしの言いっくらなら、夜通しやっても私負けやしないんだけど、
ほら、だれか来たわ、お聞きさない、足音がきこえるわ。
[ステファーノウ登場]
【ロレンゾ】 この静かな夜に、こんなに急いで来るのはだれだ?
【ステファーノウ】 おうちの者です。
【ロレンゾ】 おうちの者? おうちのだれ? 名まえを言ってください。
【ステファーノウ】 ステファーノウと申します。おことづけを持ってまいりました。
奥様が夜明け前に、ベルモントに
おつきになるそうでございます。奥様はおかえり道に、
道ばたの十字架をお回りになりまして、おしあわせなご結婚を
祈っておいででございます。
【ロレンゾ】 おともの者はだれだね?
【ステファーノウ】 お上人《しょうにん》さまがひとりと、ネリッサさんだけです。
ご主人様はまだお帰りになりませんか?
【ロレンゾ】 まだだ。まだなんのお知らせもいただいてない。
でも、ねえ、ジェシーカ、家にはいろう、
そして奥様のお帰りをお迎えする手はずをきちんとととのえておこう。
〔ラーンスロット登場〕
【ラーンスロット】 おーい、おーい! おお、ほら、ほー、おーい、おーい!
【ロレンゾ】 だれだ呼んでるのは?
【ラーンスロット】 おーい! ロレンゾさんはいなさらんかね!
ロレンゾさん、おーい、おーい!
【ロレンゾ】 わめきたてるのはよせ、ここだよ。
【ラーンスロット】 おーい! どこだ? どこだ?
【ロレンゾ】 ここだよ。
【ラーンスロット】 ロレンゾさんにお伝えくだされ、ご主人からの飛脚ですだ。うれしい知らせをいっぱい角笛で吹きちらす飛脚でがすよ。ご主人は朝までにはお帰りですだ。〔退場〕
【ロレンゾ】 さ、ジェシーカ、はいろう、そして中でお帰りを待とう。
いや、そんなことはどうでもいい、なにも中にははいらなくてもいいね。
ステファーノウ、君に頼もう、お願いだ、
うちの者たちに言ってください、奥様がもうじきお帰りになるとね。
それから音楽をやる人たちに、外へ出るように言ってください。〔ステファーノウ退場〕
なんてきれいなんだろう、月の光がこの堤の上に眠っているのは!
ここに腰をおろそう、そして音楽の調べが
忍びよってくるのを聞こうじゃないか。このやわらかい夜の静けさは、
美しい楽《がく》のしらべにふさわしい。
さ、おすわり、ジェシーカ。ごらん、あの大空には、
きらきら輝く金の小皿がいちめんにちりばめられている。
ごらん、あそこに見える星は、どんな小さいのでも、
大空を回りながら、天使のように歌をうたっているのだ。
あどけない目をしたケルビムたちに声を合わせてうたっている。
不滅の魂の中には、このような音楽のしらべがかなでられているのだ。
ただこの老いくちてゆく土くれの肉体の衣におおわれている間は、
われわれにはそれが聞こえないのだ。
〔楽師たち登場〕
さあ! たたえの歌で月の女神の目をさましてくれ。
このうえもなく美しい楽のしらべで、奥様の耳をつらぬいてくれ、
そして音楽でお帰りを急がせてくれ。〔音楽〕
【ジェシーカ】 私は美しい音楽を聞くといつも悲しくなってしまうのよ。
【ロレンゾ】 それはね、君の気持ちが感じやすいためなんだよ。
だって、野生のきままな牛の群れや、
若さにあふれた、元気いっぱいの子馬たちを見てごらん、
狂ったようにとびはねたり、大声でないたりしている……
それが血気にもえている証拠なんだが……
でも、ふと、そいつらがらっぱの音でもきいたり、
なにか音楽のしらべが耳にふれたりすることがあると……
いっせいに立ちどまって、
荒々しい目つきも、静かななごやかなまなざしに変わる、
みんな快い音楽によってだ。だから詩人は、
オルフェウスが木や石や水を動かしたと歌っているのだ。
どんな鈍感な、がんこな、怒り狂ったものも、
音楽を聞いている間は、たとえいっときでも性質を変ないものはない。
心の中に音楽を持たない人間、
美しい音楽の調和に感動しない人間は、
謀叛や、策謀や、略奪をやりかねないものだ。
こういう男の精神の動きは夜のように鈍く、
感情はエレバスのように真っ暗だ。
そんな人間を信用してはいけない。あ、音楽だ。
〔ポーシャとネリッサ登場〕
【ポーシャ】 あそこに見えるあかりは、うちの広間のあかりだわ。
なんて小さなともしびが遠くまで光を投げているのでしょう。
きっとそのように、よい行ないが悪い世の中にも輝くのだわ。
【ネリッサ】 月が照っているときには、あのろうそくは見えませんでしたわ。
【ポーシャ】 ちょうどそのように、大きい栄光が小さい栄光を見えなくするのだわ。
王様がお留守のときは、代理の者だって王様のように
輝いてみえるのだけど、王様が帰っていらっしゃると、
代理の威厳は消えてしまうのよ。ちょうど小川の流れが
大海にのまれてしまうように。おや、音楽だわ。
【ネリッサ】 お邸の楽師たちですわ。
【ポーシャ】 どんなものでもまわりとの関係しだいなのね、
なんだか昼間よりは、ずっときれいに聞こえるわ。
【ネリッサ】 あたりが静かなせいでございますわ。
【ポーシャ】 周囲のものをすっかりとってしまえば
烏《からす》だってひばりのように美しく歌うと思えるでしょう。
夜うぐいすだって、もしも昼間、
鵞鳥ががあがあないているところで歌ったら、
|みそさざい《ヽヽヽヽヽ》ぐらいにしか思われないでしょうよ。
多くのものは季節によって、ぴったりと気分がでて、
正しい賞賛も受けられるし、じゅうぶんに真価をあらわすことができるのだわ。
しっ、静かに! 月の女神が羊飼いのエンディミオンといっしょにねむっていて、
起きそうにもないわ。〔音楽終わる〕
【ロレンゾ】 あれは、たしかに
ポーシャさんの声だ。まちがいない。
【ポーシャ】 ロレンゾは、声がわるいのであたしだってことがわかるのね、
ちょうど目の見えない人が|かっこう《ヽヽヽヽ》を聞きわけるように。
【ロレンゾ】 奥様お帰りなさい。
【ポーシャ】 あたしたち、主人たちのぶじをお祈りしてきたのです、
それがききとどけられればいいんだけど。
もうお帰りになって?
【ロレンゾ】 まだでございます、奥様。
でもひとあしさきに使いの者がもどってまいりまして、
まもなくお帰りとのことでございます。
【ポーシャ】 ネリッサ、うちへ行ってね、
召使いたちに言っといてちょうだい、
あたしたちが留守にしたことは知らないふりをするようにってね。
ロレンゾもそうしてね、ジェシーカもよ。〔ラッパの音〕
【ロレンゾ】 だんな様のお帰りです。ラッパの音がします。
私どもはおしゃべりではありませんから、奥様、どうかご心配なさらないでください。
【ポーシャ】 今夜はまるで昼間が病気にかかったというような感じね、
ひどく青ざめて見えるけれど、まるで昼間だわ、
それもお日さまのかくれていらっしゃる昼間のようだわ。
〔バッサーニオ、アントーニオ、グラシアーノおよび彼らの従者たち登場〕
【バッサーニオ】 お日さまが出ていなくても、あなたさえいてくれれば、
ぼくたちにとっては、地球の向こう側と同じように昼です。
【ポーシャ】 あかるくするのはいいけれど、私がかるくなってはたいへん、
だってかるいおしりの奥さんは、だんな様の心を重くしますもの、
そんな思いをバッサーニオにはさせませんように。
でもなにごともみな神様のみ心です。お帰りなさいませ。
【バッサーニオ】 ありがとう。ぼくの親友を歓迎してあげてください。
それがその人、アントーニオです、
ひとかたならぬおせわになった人です。
【ポーシャ】 ほんとうにひとかたならぬおせわになったおかたね、
ご自分のおからだまで危険にさらしてあなたのかたをもってくださったのですもの。
【アントーニオ】 いえ、それももうすっかりかたがつきました。
【ポーシャ】 ほんとうにようこそおいでくださいました。
私の気持ちはとうていことばなどではあらわせないものですから、
口に出してのご挨拶はこのくらいにいたしておきます。
【グラシアーノ】 〔ネリッサに〕あの月にかけて誓うが、そんなことはない。
ほんとうに、ぼくはあれを裁判官の書記にやったのだ。
君がそれをそんなに気にかけるのなら、いっそ、
やったあいつが去勢でもしてればいいと思うよ。
【ポーシャ】 もう、けんか? どうしたっていうの?
【グラシアーノ】 いえ、なに、たかが金の輪のこと、安物の指輪のことですがね、
これがくれたもんですが。その銘というのが
例のよく刃物屋がナイフに刻んどくような文句、
「愛してちょうだい、捨てちゃいやよ」ってやつですがね。
【ネリッサ】 銘だの、値段だのはどうだっていいじゃないの!
あなたは私に誓ったのよ、それを私があげたときに、
死ぬときまではけっして肌身はなさずはめていますって、
そして死んだらお墓の中でもそれをはめていますって!
私のためというよりは、あの大げさな誓言のためにだって、
気をつけてそれを持っていてくれてもいいはずなのよ。
それを裁判官の書記にやってしまうなんて! いえ、神様に裁いていただきましょう。
その書記っていうのは、一生、お顔にひげのはえない人でしょうよ。
【グラシアーノ】 はえるとも、一人まえの男になったら。
【ネリッサ】 そうですとも、女が男になれるものならね。
【グラシアーノ】 ほんとうに、ぼくは若い男にそれをやったんだ、
子どもみたいな、ちんちくりんの若い男に、
背の高さはちょうど君くらい、裁判官の書記で、
よくしゃべるやつだったが、お礼にくれといってきかないんだ、
ぼくはどうしてもことわりきれなかったんだ。
【ポーシャ】 はっき言いますけど、それはあなたが悪いわ、
あなたの奥さんの最初の贈り物をそんなに簡単に手ばなしてしまうなんて。
しかもそれは誓言までして指にはめたものなんでしょう?
あなたの肉に、誓ってとめた、とめ金みたいなものでしょう?
私もこの人に指輪をあげました。そしてどんなことがあっても
手ばなさないと誓ってもらいました。そしてげんにこうしてここにいらっしゃるわ。
はっきり私が言ってもいいけど、この人はけっして、
世界じゅうの富をやるって言われたって、この手から
それを抜いたり、手ばなしたりはなさらないわ。ねえ、グラシアーノ、
あなたは奥さんにほんとうにひどいことをしたものだわね、
もし私がそんなめにあったら、くやしくて気が狂ってしまうと思うわ。
【バッサーニオ】 〔傍白〕ああ、いっそのことこの左手を切ってしまいたい、
そして、指輪を守ろうとしたがだめだったと言えたら……
【グラシアーノ】 バッサーニオさんも指輪をあげてしまいました、
裁判官がどうしてもそれをくれと言ってきかないもんで、
もちろん、それだけの値うちはありましたが。するとあの書記の若僧のやつが、
書類を作るのに骨をおってくれたんですが、私のをくれと言いだしたんです。
そしてその若僧も裁判官の先生も、ほかのなにもいらん、
ただ指輪がほしいって言いはったんです。
【ポーシャ】 あなた、どの指輪をおあげになったの?
まさか、私があげた指輪じゃないでしょうね?
【バッサーニオ】 もしぼくが失敗のうえにうそを重ねることができるものなら、
そうじゃないと言いたいところだ。だけど、ごらんのとおり、
ぼくの指には指輪はない。やってしまったんだ。
【ポーシャ】 そう、あなたのいつわりだらけのお心には少しの真実もないというわけね、
いいわ、あの指輪をもう一度みるまでは私はけっして
あなたのお床にはまいりませんことよ。
【ネリッサ】 私もですわ、私がもう一度私の指輪をみるまでは。
【バッサーニオ】 ねえ、ポーシャ、
ぼくがだれにその指輪をあげたかを君がわかってくれたら、
またぼくがだれのためにその指輪をあげたかを君がわかってくれたら、
そしてなんのためにあの指輪をあげたかをわかってくれたら、
また、あの指輪を手放すのがどんなにいやだったか……
そして、あの人があの指輪のほかはなにも受け取ろうとしなかったのだが……
それをわかってくれたら、きっときげんを直してくれると思うんだが。
【ポーシャ】 もし、あなたにあの指輪の力がおわかりだったら、
またあの指輪をさしあげた女の値うちが半分でもおわかりだったら、
また、あの指輪をもっていらっしゃることが男の面目だということがおわかりだったら、
あの指輪を手放すことなどなさらなかったはずですわ。
だって、もしあなたが、少しでもその指輪を守り通そうと努力なさったら、
他人が記念の品として持っているのに、それをよこせだなどという
そんな失礼なことをする人があるでしょうか?
そんなわけのわからないことを言う男がどこにあるものですか?
ネリッサはほんとうにいいことを教えてくれましたわ、
きっと、あなたはあれをどこかの女の人におあげになったのですわ。
【バッサーニオ】 いやちがう。名誉にかけて、魂にかけて誓うが、
女なんかにやりはしない、あげたのは法学博士なんだ。
その人は三千ダカットあげると申し出たのにきいてくれないんだ、
そして指輪がほしいと言うんだ。でもぼくは一度はそれをことわった。
そしてその人はきげんをそこねて行ってしまった。
ぼくの親友の、いいかい、ポーシャ、生命を救ってくれた
その人がだよ。ねえ、ポーシャ、どうしたらいいというのかね?
しかたなくぼくはその人のあとを追いかけさせた。
恥ずかしさと、礼儀を欠いてしまったという気持ちでいっぱいだった。
恩知らずというような汚名で、ぼくの名誉を
けがしたくはなかったんだ。許してくれないか、ポーシャ、
あの夜の空に輝くともしびのような星にかけて誓うが、
もし君がそこにいあわせたら、きっと君だって、
その指輪をそのりっぱな法学博士にあげてくれと頼んだと思うよ。
【ポーシャ】 じゃあ、その博士には私のこのうちにはけっして近づかないでいただきたいわ。
だって、私がたいせつにしていた宝石を手に入れておしまいになったのですもの……
あなたが私のためにそれを守る誓いをおたてになった宝石を……
私だって、あなたと同様に気まえよく、なんでもあげてしまいますわよ。
私のもっているものはなんでもいやだとは申しませんわよ、
私のからだだって、私の夫の寝床だって、
きっとお親しくしてしまいますわ、そのかたと。
ですから一晩でもうちをおあけになってはだめよ。アルゴスのように見はっていらして、
もしそうなさらないと……私がひとりでほっておかれたら、
今はまだだれのものでもないこの私のみさおにかけて誓いますけど、
きっとその博士といっしょに寝てしまいますわよ。
【ネリッサ】 私だってその書記の人とね、だから用心なさいよ、
けっして私をひとりぼっちにしておかないように。
【グラシアーノ】 えい、するならするがいい。とっつかまらないようにしろよ、書記の若僧め!
もしとっつかまえたら、商売道具のペンでもなんでもへしおってやるわ。
【アントーニオ】 私がこの不幸なけんかのもとなんです。
【ポーシャ】 どうぞそんなご心配はなさらないで。ほんとうによくいらしてくださいましたわ。
【バッサーニオ】 ポーシャ、許しておくれ、どうにもしかたなくて悪いことをしてしまった。
ここで大勢の友達の聞いているところではっきり誓うよ、
ぼくは君に誓うよ、ぼくの姿のうつっている
君のその美しい目にかけて……
【ポーシャ】 まあ、そのおっしゃりかた!
私の両方の目に、あなたのお姿も二つうつるというわけ、
一つの目に一つずつ。つまりあなたの二つのご自分にかけてお誓いになるのね、
さぞ信用のおける誓言でしょうよ。
【バッサーニオ】 まあ、聞いてくれないか、
こんどだけはぼくのあやまちを許しておくれ。そしてぼくの魂にかけて誓う、
二度とふたたび君との約束の誓いを破ったりはしないと。
【アントーニオ】 私はまえに、この人のしあわせのためにこの身をかたにおきました。
もしあなたのご主人の指輪をもらったあの博士がいなかったら、
私の生命もなかったのです。ですからもう一度、
今度は私の魂をかたにおいてもいいのですが……あなたのご主人は
二度とあなたに対する誓言をやぶったりはなさらないと思います。
【ポーシャ】 じゃあ、あなたに保証人になっていただきましょう、これをこの人にあげてください、
そしてこれをまえのよりももっとたいせつにするようにおっしゃってください。
【アントーニオ】 さあ、バッサーニオ、この指輪はなくしたりしないと誓いたまえ。
【バッサーニオ】 おや! これはあの博士にやった指輪だ!
【ポーシャ】 その博士からいただきましたの。ごめんなさい、バッサーニオ、
この指輪にかけて、私その博士といっしょに寝ましたのよ。
【ネリッサ】 ごめんなさいね、グラシアーノ、
私も昨夜、あのちんちくりんの若僧、あの博士の書記と、
この指輪のお礼に、寝てしまいましたのよ。
【グラシアーノ】 やれ、やれ、これじゃ夏の間に、まだいたんでもいないのに、
道路を修繕するようなもんだ。
なんだ、われわれはそんなめに会うおぼえもないうちに、もう間男されたのか!
【ポーシャ】 そんな下品な言いかたなさるもんじゃありません。皆さんほんとに驚いていらっしゃるようね。
ここに手紙があります。おひまのときにお読みになってください。
この手紙はパドヴァから、ベラーリオウからです。
これでおわかりになるでしょうけれど、ポーシャがあの博士で、
ネリッサが書記だったのですわ。ここにいるロレンゾが、
あなたがたがおたちになってすぐ私たちが出発したこと、そして
いましがた帰って来たことの証人になってくれるでしょう。私はまだ
家の中にもはいっていないんですのよ。アントーニオさんよくいらっしゃいました。
そして私はあなたにも思いがけないようなよいおしらせを
もっております。この手紙をすぐお開きになってごらんなさいませ。
あなたのお船が三艘、船荷をいっぱいにつんで、
思いがけなくも港に帰ってきたというおたよりですの。
ほんとうに偶然なことに、その手紙が私の手にはいりましたの、
とてもあなたには信じていただけないようなことで。
【アントーニオ】 ああ、なんと言ったらいいのか!
【バッサーニオ】 君が博士だったのか? それなのにぼくはちっとも気がつかないなんて。
【グラシアーノ】 君が書記だったのか? 間男をしようという若僧の?
【ネリッサ】 そうよ。でも、この書記には間男するつもりなんかないのよ、
大きくなって男になるならべつですけどね。
【バッサーニオ】 かわいい博士様、君を私の添臥《そいね》の相手にしてあげようね、
ぼくが留守の間は、ぼくの妻といっしょにねてもいいよ。
【アントーニオ】 奥さん。あなたのおかげで、私は生命も財産もとりもどしました。
この手紙によりますと、たしかに私の船が
ぶじに港にはいったにちがいありません。
【ポーシャ】 それから、ロレンゾ、
私の書記があなたにもいい知らせをもって来たはずよ。
【ネリッサ】 そうですわ。これはお礼なしであげますわ。
ほら、あなたとジェシーカにあげましょう、
お金持ちのユダヤ人から、死後は彼の財産を
全部あなたがたにあげるという特別の譲渡証書ですよ。
【ロレンゾ】 奥様がた、まるで飢えたものたちへ
天からの食物のマナを降らせてくださるようなものです。
【ポーシャ】 もうそろそろ朝になります。
でも、皆さん、まだまだごなっとくがいかないと思いますわ。
さあ、皆さん、家の中にはいることにいたしましょう。
それから私どもにいろいろと聞いてくださいまし。
どんなことでも正直にお答えすることにいたしますわ。
【グラシアーノ】 そういうことにしましよう。
その訊問のまず最初は、
ネリッサに誓言させてききたいことですが、
われわれはあすの晩まで待つとするのか、それとも、まだ夜明けまでには
二時間ほどあるので、いっそ、今すぐ床にはいるとしようかということです。
でも、夜が明けても、わたしはきっともっと暗ければいいと願うでしょう。
だってわたしは、博士の書記といっしょに寝ていたいのですから。
そして、これから一生の間、ほかにたいして心配することはないのですが、
ただ一つ、ネリッサの指輪だけはたいせつに守らなければならないのですから。〔一同退場〕
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解説
シェイクスピアについて
〔生い立ち〕
シェイクスピアは一五六四年四月二十三日にストラットフォードで生まれた。しかしこれはストラットフォードのホーリー・トリニティ教会に、ジョン・シェイクスピアが息子ウィリアムに受洗させたという記録が同年同月二十五日に残されているところから推定した日付である。そして偉大な劇作家シェイクスピアの伝記は推定にはじまり、推定に終わるのである。わずかの記録を手がかりにして行なわれたこのような推定はけっして決定的、確定的なものでないことはもちろんである。シェイクスピア・マーロウ説、シェイクスピア・ベーコン説というような考えがとり上げられたこともあった。シェイクスピアの墓を開いて、何か手がかりになる資料を捜し出したいということを真剣に願い出たこともいくたびか、そして現在もなおそのような願いを持ちつづけている人もいる。
ストラットフォードに少年時代を送ったシェイクスピアが、どのような生活をしていたか、どのような興味を持っていたか、知るよしもないが、彼が町の有力者であったジョンの息子として、かなり恵まれた生活を送ったであろうということは考えられ、ストラットフォードの町に時々上演された、中世からの伝統ゆたかな芝居を興味をもって見たであろうことも考えられる。そしてまたこの町の文法学校(Grammar School)で学んだであろうとも推測される。この文法学校というのはかなり程度の高い教科課程を実施していたもので、シェイクスピアがその作の中で示している、古典語の知識や、論理学、修辞学の知識などはおそらくはこの学校で学んだものであろう。
彼はなぜ大学に学ばなかったのか、これもわからない。しかし彼の作品から理解できるシェイクスピアの教養の深さ、常識の豊かさ、人間性に対する洞察力のするどさは、他に比べることのできないほどのものである。
誕生のときの受洗の記録の次にわれわれの手にはいる資料は、一五八二年十一月二十七日の結婚の許可の記録である。その相手はアン・ハザウェイという彼より八歳年上の婦人である。この結婚についてもいろいろの憶測がなされているが、確かな証拠は何もない。六か月後に長女が生まれ、一五八五年には双生児の男女の父となっている。
〔ロンドンでの成功〕
一五八五年以後まもなくロンドンに出て来たであろうということは、一五九二年にはすでにかなり知名の劇壇人としてロンドンで活躍していたことからも推定される。いつロンドンに出てきて、立身出世を夢みる若いシェイクスピアが劇団にはいり、劇作に専念するようになったか、何もわかってはいない。真偽のほどはわからないが、このころのシェイクスピアと結びつけて、伝説のようになっているのが鹿泥棒の話である。ストラットフォードの近く、チャールコートの有力者サー・トマス・ルーシーの庭園からシェイクスピアが鹿を盗み、その一件が暴露して叱責を受けたこと、結局そのために郷里にいたたまれなくなって出奔したというのである。学者たちはこれを俗説として問題にしないが、さりとて、それに代わる確実な出奔の原因もない。あらゆる可能性が考えられ、そしてあらゆる考えが推定なのである。
シェイクスピアがロンドンで劇作家としての修業をつみ、あらゆる面で演劇の技巧と慣習をとりいれ、だんだんに増加してゆく観客たちの要望にこたえて彼自身の新しい劇の世界をつくり上げることに成功したのは、もちろん彼が偉大な才能の持ち主であったことに帰因するが、それと同時に彼がひじょうに幸運であったことも否定できない。当時のロン下ンはまだ中世風の、英国固有の奇蹟劇や道徳劇や間狂言などが盛んであった。古い英国的な伝統ゆたかな芝居は、シェイクスピアに多くのものを与え、シェイクスピアはこれを自由にとりいれることができた。いっぽうようやくルネサンスの機運とともに盛んに英国にとりいれられるようになった古典喜劇、とくにプロウタスやテレンティウスの喜劇の技巧と精神、そして古典悲劇、とくにセネカ悲劇への強い関心は、若いシェイクスピアの創作意欲をいやが上にもかき立てたであろうと想像される。
劇団もだんだんに組織化されて、安定した勢力をもつようになった。町から町へと巡業して、宿屋の庭などで、また多くの人の集まるところに舞台を設けて上演していた劇団の人々は、ようやく自分たちの劇場をもつことができるようになった。一五七六年ロンドン郊外に初めて公共劇場シアター座が建設されてからは、次々と劇場が建てられ、清教徒的な批判と圧迫をロンドン市の当局から加えられながらも、劇団の勢力はまし、観客層はますます大きくなっていった。また「大学才人たち」(University Wits)と呼ばれる劇作家たちが、大いに活躍したのも一五八〇年代においてであった。マーロウもこのグループの作家としてはなばなしい活躍をしたし、また、シェイクスピアのことを「成り上がりの、借り着を着た烏」と悪口を言ったグリーンもそのひとりであった。シェイクスピアにとって、このような環境が大きな刺激となって、彼の創作はますます豊かさと円熟を加えていったこともまた当然のことであろう。
〔劇場閉鎖〕
一五九二年から一五九四年の間、劇場閉鎖という時期があった。ロンドンに疫病が大流行したためであった。これはシェイクスピアにとって大きな一つの転換期となった。よりどころである舞台を失った劇団は地方巡業に出かけた。なんとかして手持ちの脚本を出版者に売って劇団を維持しようとすることもなされた。しかし経済的に立ちゆかなくなった劇団は解散せざるを得なかった。多くの人々は劇団をすてて、他に生活の方法を求めていった。名声と評判をほしいままにしたマーロウは政治問題にまき込まれて、刺殺されてしまった。グリーンは貧困の中に死んだ。足かけ三年の劇場閉鎖の間に劇壇の事情は変わり、大きな変革があらわれたのである。そしてその間も劇作をつづけ、さらに詩作にも興味をもって書きつづけたシェイクスピアは、劇場再開のときにには、押しも押されもしないりっぱな劇作家としての地位を確立したのである。
このような時期に『ヴィーナスとアドーニス』を書き『ルークリース』を書いたシェイクスピアの興味と関心が詩作に向けられていたことはたしかであり、またこのような詩作を通してシェイクスピアが抒情性を豊かにつちかってその後の作品に一つの新しい要素としてとりいれていったことも注目されなければならない。この二つの長篇の詩はともにサウサンプトン伯爵に捧げられている。当時の文筆家たちが生活のために、貴族にパトロンを見つけなければならなかった事情から考えても、シェイクスピアが、文芸の理解者であり、擁護者であったサウサンプトン伯爵に近づいていったことは、彼にとっても幸いなことであったと言わねばならない。
〔喜劇時代〕
劇場再開後のシェイクスピアは第一線の劇作家として活躍した。『ロミオとジュリエット』『リチャード二世』『真夏の夜の夢』がほとんど時を同じくして上演された。そしてこれらの芝居にみられる新しい変化は、シェイクスピアが人間の感情の面を描くことに強い関心を示し、またあふれるような抒情性を劇の中に盛りこんでいることである。そしてこれからしばらくの間、シェイクスピアの創作の中心となるのが、『ヴェニスの商人』などに代表される、いわゆるロマンティック・コメディである。そして『十二夜』にいたる一五九〇年代の後半は、しばしば喜劇時代と呼ばれるほど、シェイクスピアの興味の中心は喜劇におかれていた。これらの劇では人間の弱さ、欠点、醜さなどが、喜劇的笑いをつくり出してゆくのであるが、注目すべきことにはこれらがいつも豊かな抱擁力と、あたたかい人間理解と同情でつつまれていることである。そしてこの態度が、シェイクスピア独自の喜劇の世界をつくり出していた。しかしこの時代の創作活動も伝記による裏付けや説明はできない。
シェイクスピアはこのように作家としてもますます円熟した豊かさを加えてゆくのであるが、劇団の一員としての地位も安定し、収入も相当にあって、世俗的な意味でも成功していたと言い得る。一五九六年に彼の父ジョンは紋章を着けることを許され、「ジェントルマン」の資格を得ているが、おそらくは、これもシェイクスピアが金で買い取ったものであろう。そしてその翌年、ストラットフォードに新しい邸も買い入れている。シェイクスピアが属していた劇団「内大臣一座」は一五九九年、デズ川南岸に「地球《グローブ》座」を建て、当時彼の演劇活動の中心であった。「内大臣一座」と並んで勢力をもっていたのが「海軍卿一座」であって、これら二大劇団が互いにライバルとしてエリザベス朝演劇の隆盛をになっていた。そしてシェイクスピアは「内大臣一座」の幹部であり、株主であり、一座所属の劇作家であった。
〔悲劇時代〕
一六〇〇年ごろからシェイクスピアのいわゆる悲劇時代がはじまる。『十二夜』を最後として、ロマンティック・コメディの時代は終わり、『ハムレット』にはじまる四大悲劇の創作がはじめられるのである。そして彼の喜劇的な試みは、『以尺報尺』や『トロイラスとクレシダ』のように、皮肉と風刺にみちたいわゆる問題劇に見られるようになる。ここにも伝記的資料は何も残されていないが、世紀末から新しい世紀へかけての社会的、経済的情勢というものの反映はみとめられる。老齢に達し、やがて一六〇三年にはその死がつげられるエリザベス女王の後継者をめぐるさまざまの不安、危機があったし、ふるい宇宙観、世界観、自然観はくつがえされて新しいものにおきかえられようとしていたし、このような変動の中におかれた大衆の心には、エリザベス朝初期には経験されなかったような幻滅と無常感があった。かつての女王の寵臣エセックス伯の反乱と刑死、シェイクスピアのパトロンでエセックス伯の親友であったサウサンプトン伯の死刑の宣告等、シェイクスピアにとって大きな衝撃を与えられるような事件の数々が見られる。
一六〇三年女王が死に、それより十六年前に処刑されたスコットランド女王メアリの息子ジェイムズが、王位についた。シェイクスピアの属する「内大臣一座」は、ジェイムズ一世をパトロンにいただき、その名も「王様一座《キングズ・メン》」と変えられた。「王様一座」は公共劇場、「地球《グローブ》座」の他に、一六〇八年にはテムズ川の北岸に「|黒 僧《ブラック・フライアーズ》 座」を開いた。これはいわゆる私設劇場であって、公共劇場とは異なって屋内劇場で、入場料も高く、したがって観客層もちがっていた。シェイクスピアの劇はこの両者で上演されたが、十七世紀にはいってからは、私設劇場のほうが盛んになっていった。そしてこれは観客の好みや、劇の内容の変遷とも関係づけることができる。
〔ロマンス劇〕
シェイクスピアのいわゆる悲劇時代は終わり、新しい劇があらわれたのもこのころである。つまりロマンス劇と呼ばれるもので、『冬の夜ばなし』『テンペスト』などに代表される。これは劇作家としてのシェイクスピアの最後をかざるものである。これは悲喜劇とも考えられ、また和解を内容とする劇とも考えられるが、ここでもまた単純な解釈は許されないし、彼の伝記と直接に結びつけて考えることにも問題がある。一六〇七年にシェイクスピアの長女が結婚し、翌年には孫の誕生、一六一〇年ごろには、シェイクスピアは故郷へ帰って晩年を送ったことが、かなり確実に推定できる。しかしこれをそのまま、ロマンス劇の主題と結び合わせることは危険である。また王様一座の新人作家として多くの期待をになっていたF・ボーモントとJ・フレッチャーは悲喜劇を得意として評判であったので、シェイクスピアもかなり関心をもっていたことは想像されるが、形式の上から、ロマンス劇を彼らに対抗して書かれた悲喜劇とみることは、あまりにも単純な考えである。
ロマンス劇ではすべての悲劇的要素は背景となり、そこから新しい妥協と和解と再生の主題が展開する。そこには深い人間性への洞察から出発し、象徴と寓意を含んだ、調和と詩の世界があり、シェイクスピアの豊かな才能のみごとな完成がみられる。そしてひとりの偉大な劇作家の創作過程が変化し、発展し、到達した新しい境地が見いだされるのである。
地球《グローブ》座が焼失したのが一六一三年六月、シェイクスピアとフレッチャーの合作といわれる『ヘンリ八世』が上演されている最中のできごとであった。郷里ストラットフォードでシェイクスピアがこの知らせをどのように聞いたかは知るよしもない。一六一六年一月にシェイクスピアは遺書を書くことを思いたって、同年三月には署名を終えている。四月二十三日に彼は死に、二十五日にホーリー・トリニティー教会に埋葬された。
『ヴェニスの商人』について
〔出版〕
この劇の最初の出版は一六〇〇年、二種類の四折版である。一つはいわゆる「|第1四折版《ファースト・クォート》」、他は「|第2四折版《セカンド・クォート》」といわれるものである。「第1四折版」を出したジェイムズ・ロバーツは不正な手段で台本を手に入れたらしく、一五九六年にすでに出版登録がすませてあるが、しばらくは出すことができず、結局許可になったのが一六〇〇年であった。「第2四折版」はトマス・ヘイズがロバーツの許可を得て同年に出したものである。版本としてはヘイズの版を底本として一六二三年に「|第1二折版《ファースト・フォーリオ》」が出版され、以後、四折版、二折版ともに版を重ねている。またヘイズの「第2四折版」は舞台用台本として実演のために用いられたものと考えられる。
〔原話〕
この劇の書かれたのは一五九四年から一五九八年の間と考えられている。いわゆるロマンティック・コメディズの代表作である。この劇においても、シェイクスピアは他の劇と同様に、素材を既存の物語に求めている。『ヴェニスの商人』をささえている三つのエピソードは、人肉裁判と箱選びと指輪の物語である。これらはすべて、よく知られた物語であった。各国でよく知られたこれらの物語をシェイクスピアがどこからとりいれたかということをはっきり決めることはできないが、中世イタリアの物語集『イル・ペコローネ』の中の物語がひじょうにシェイクスピアの『ヴェニスの商人』とよく似ているので、おそらくはこれが典拠ではないかと考えられる。この物語集を書いたのは、セル・ジョヴァンニ、書かれたのがだいたい一三七八年、しかし出版されたのはずっとおくれて一五五八年であった。『デカメロン』ふうの物語集で、その第四日目の第一話に次のような物語が見られる。
フィレンツェ生まれの青年、ジャンネットーは、ヴェニス(ヴェネチア)のアンサルドーという豪商に養われて人となった。彼は貿易のためにアレクサンドリアに往来している間に、ベルモンテにひとりの美しい婦人が住み、数多くの求婚者が彼女のもとに押しよせるが、彼女の難題にだれも成功しないという話をきいた。その難題とは、彼女の邸で催される饗宴で前後不覚におちいることなく最後まで堪えたものが彼女を手に入れるが、もし彼女を手に入れることに失敗するときは、船もろともいっさいの船荷は没収されるというものであった。ジャンネットーも求婚者として彼女のもとにおもむくが第一回は失敗に終わる。ヴェニスに帰ったジャンネットーは彼に資金を融通してくれたアンサルドーが深い憂鬱にとざされているのを発見する。ジャンネットーは再度アンサルドーの助けをかりてまたベルモンテに行くが二度目も失敗に終わってしまう。アンサルドーはすでに自分の資産を使いはたしてしまったが、三度ジャンネットーを助けようとし、一万ダカットをあるユダヤ人から借りて準備をととのえた。借金の条件として、もし期日どおりに返済できないときは、ユダヤ人はアンサルドーの身体のどこからでも肉一ポンドを取ってさしつかえないということがとり決められた。二度の失敗を重ねたジャンネットーは三度試みたが、今度は侍女のひとりから、饗宴の酒がじつは麻酔薬であることをあらかじめ知らされて、うまくその計略の裏をかいて、婦人を手に入れることに成功する。彼はベルモンテで新婚のよろこびに酔いしれて、恩人アンサルドーのことは忘れて過ごしていたが、返済の当日になってこれを思い出し、十万ダカットの金をたずさえてヴェニスにかけつけるが、時すでにおそくアンサルドーはまさにユダヤ人に肉を切りとられようとしていた。このとき、法学博士に変装したジャンネットーの妻登場、ポーシャと同様に、巧みにこの事件を裁き、肉は取っても血は一滴たりとも流してはならぬと申し渡し、アンサルドーの危急を救うのでる。そしてその後の指輪の物語も『ヴェニスの商人』同様で、すべてはめでたく終わるのである。
箱選びの物語もけっして新しいものではない。一五七七年にリチャード・ロビンソンが英訳して好評、版を重ねたイタリアの物語集『ジェスタ・ロマノーラム』に次のようなものがある。
ローマ皇帝アンセルムスはその王子の妃としてナポリの王の娘を迎えようとしたが、結婚にさきだって王女の心を試すために、金、銀、鉛の三つの箱を選ばせる。王女は首尾よく正しい選択をしてめでたく王子と結ばれるという物語である。
なおこの箱選びの物語は他にも多く、それぞれ大同小異のものである。
これらの類似した物語のどれをとりいれたかということが問題ではなくて、シェイクスピアが当時ひじょうによく知られていた物語を用いて、これを芝居としてまことにたくみに成功させて、彼自身のものにしていることである。
この劇の底本になった劇が実際あったのかどうかも疑問であるが、一説には一五七九年にスティーフン・ゴッスンが英国演劇を非難した書物 The School of Abuse の中に言及している『ユダヤ人』という劇がそれであると言われ、また一五九四年に上演されたという記録だけが残っている『ヴェニスの喜劇』がこの劇のもとの形であると主張する人もあるが、どちらの場合も脚本が伝わっていないのでたしかなことはわからない。ここでもくりかえし言いたいことは、シェイクスピアがすでに親しまれていたものを、彼自身のものとして、そこに性格描写の巧妙さ、人間理解の深さ、そして喜劇への強い意欲を示していることである。
〔構成〕
この劇の構成についていえば、このような三つのエピソードを盛り込んで、ヴェニスという水の都、商人の町、取り引きの町とベルモントという夢と恋の町とを対照させながら、抒情性を美しく生かし、音楽的な調和を保ち、喜劇的なものと悲劇的なものを巧みに交錯、調和させていること、当時の舞台の構造をじゅうぶんに効果的に使いこなしてこの劇に独自性を与えていることなどが指摘できるであろう。異なったエピソードの結び合わせ方、種々さまざまな人物のとり合わせ、そしてこれらを全部一つの喜劇に融合させてゆくシェイクスピアの妙技には驚嘆の目を見はらずにはいられない。
〔シャイロック〕
この劇の性格の中でもっとも傑作はシャイロックである。彼の残忍さ、悪役としての役割、あくまでもキリスト教徒をおとしいれようとする執拗さ、金銭に対する執着等々、ユダヤ人に対する憎しみをシャイロックに具現しようとする作者の意図は明らかである。そしてそのようなシャイロックを思う存分舞台上でなぶり者にし、それに対して観客の拍手かっさいを意図し、喜劇の中での悪玉としてのシャイロックを思う存分楽しませようとするシェイクスピアの創作意図はじゅうぶんに成功している。
しかしシェイクスピアはシャイロックに対して、以上のべたような性格を与えて、笑いの対象とするだけでは満足しなかった。シェイクスピアはシャイロックを描くとき、もっと深い人間理解の立場に立っている。そしてシャイロックは単なる悪役のタイプでも、残忍なユダヤ人でもなくなってしまった。つまりシェイクスピアは観客にシャイロックの立場にたってすべてを考えることが可能であるという暗示を与えている。シャイロックにすればけっしてまちがったことはしていない。彼の言い分はどこまでも正当なのである。ただ、彼が彼自身のロジックで彼自身の行動を押し進めてゆくとき、それとまったく正反対の立場にあるキリスト教徒たち、ヴェニスの商人たちのロジックと食いちがい、対立し、結局、彼は自己のロジックに倒れてしまうのである。ここにシャイロックの人間性がみとめられ、シャイロックの悲劇が成立する。シェイクスピアの喜劇の円熟した味はこのようなところにみとめられるのである。シェイクスピアが意図したシャイロックは観客の同情をひくような人物ではなかったにちがいないのだが、シェイクスピアの人間理解の広さ、深さが、シャイロックという人物を複雑なものにしてしまったということが言えよう。シャイロックに対して感傷的な解釈をする必要はないけれども、シャイロックに見られるシェイクスピアの人間描写の複雑な深さは注目すべきである。
〔当時のユダヤ人問題〕
シャイロックに関連して当時の英国とユダヤ人問題について考えてみよう。英国では一二九〇年、エドワード一世がいっさいのユダヤ人を国外に追放した。そしてユダヤ人が英国に自由に居住することを許されたのは一六五〇年、オリヴァ・クロムウェルの治下のことであった。つまりシェイクスピアの時代には少なくとも表面上は英国内にはユダヤ人はいなかったことになる。しかし実際には少数であるがロンドンにもユダヤ人がいたこともまた事実である。このように居住を禁じられていた民族に対する英国人の反感はひじょうに強いものであった。ユダヤ人はしばしば舞台上で観客の嘲笑の対象となっていた。このようにユダヤ人を主人公とした劇の中で、このヴェニスの商人にも影響を与え、当時評判の芝居であったのが、一五九〇年ごろに上演されたクリストファ・マーロウ作の『マルタ島のユダヤ人』である。マキァベリ的悪役の代表的なものとされているバラバスというユダヤ人が、自分の国を売り、肉親を犠牲にして、自己の利益をはかろうとするが、結局は自分のかけたワナにおちいって大釜に煮られて死ぬという物語である。『ヴェニスの商人』のジェシーカと同様、バラバスにも親には似ぬ娘アビゲイルがあることなどからも、シェイクスピアがこの作品から何らかの暗示を得たであろうことは容易に想像できる。
ユダヤ人に対する英国人一般の反感というようなものの強かった当時、ユダヤ人を中心とする一つの社会的な事件があったことも記憶されなければならない。エリザベス女王の侍医にユダヤ系のポルトガル人で、ロデリーゴ・ロペスという男があった。彼は女王からひじょうに信任されていたが、一五九四年、彼がスペイン王フィリップから金をもらって女王暗殺の一味に加わっているという疑いがかかった。彼はあくまでも無実を主張したが、その背後には複雑な政治問題もからみ、ついにその罪をみとめ、同年六月七日絞首刑に処せられ、これによってユダヤ人に対する英国人の反感はいやが上にも強くされた。絞首台の上でもロペスは最後まで無実をさけびつづけたが、群集の罵倒の声に消されてしまったと伝えられる。シェイクスピアが、このような社会的事件と、ユダヤ人に対する国民感情を、この劇の中でもたくみに利用していることははっきりみとめられる。
このようなユダヤ人問題と切りはなせないものに金利の問題がある。ユダヤ人は伝統的に金利業者であったからである。中世の教会は金利を罪悪として禁じていた。そしてこの考え方はシェイクスピアのころまでも受けつがれていた。いっぽう中世的経済組織から、近世的資本主義へと英国が変化発展したのも十六世紀のころからである。金利を否定し、禁止するというような考えが捨てられなければならないときが来たのである。英国では一五七一年に最高一割を限度として金利がみとめられたのである。しかしこのような社会的変革の中にも、一般大衆はふるい中世的な考えを捨てきれずに持ちつづけていた。そしてまた他方には中世から近世への変動期の時代に一割という制限は必ずしも守られてはおらず、悪質な金利業者がひじょうに多かったことも事実である。このような社会情勢を考えてこの芝居をみるとき、われわれはシェイクスピアがいかに当時の観客の心理をたくみにとらえ、彼自身の芝居の独特なおもしろさを発揮していったかをみとめることができる。
〔ポーシャ〕
シャイロックについで性格としておもしろく描かれているのがポーシャである。登場する場面によってかなり矛盾しているような彼女の描き方の中に、シェイクスピアの性格描写の妙味がみとめられる。ひじょうに理知的であるかと思うと、女らしく、従順で、献身的で、しかも奔放、明朗でユーモアにとむ近代性の持ち主であるポーシャはシェイクスピアの創り出した女性の中でももっとも愛すべき人物のひとりであろう。法廷の場だけで彼女を解釈することは妥当でない。ひじょうに複雑な彼女の性格のさまざまなレベルの組合せにシェイクスピアの人間理解の態度が示されている。
〔バッサーニオ〕
ポーシャの恋人として、アントーニオの友人としてのバッサーニオの描き方が平凡であり拙劣《せつれつ》であるという非難がよくきかれる。なぜシェイクスピアはもっと理想的なすばらしい男性としてバッサーニオを描き出さなかったのであろうか? しかし、ここでもわれわれは単純な解決を見いだすことはできない。バッサーニオは無事に箱選びに成功する、外観と内容のくいちがいということに気づくことができたからである。このバッサーニオに対してアントーニオの友情は献身的という一語でつきるであろう。彼と涙の中に別れるアントーニオ、彼のためにはよろこんで生命をも投げ出すと言い、実際にそれを行動にあらわすアントーニオである。このように考えてくるとき、われわれは前に述べたシャイロックやポーシャとはまったくちがった意図でこのバッサーニオという人物が描かれていることに気づくのである。一つにはバッサーニオはシャイロックやポーシャよりももっとタイプ化された人物なのである。シェイクスピアは彼に性格描写のおもしろさを求めているのではないからである。それならば、なぜタイプであるバッサーニオをもっと理想化したものにしなかったのであろうか? ここにわれわれはシェイクスピアがこの人物に求めている喜劇的意図と社会風刺とをみとめるのである。身分は高く生まれついても財産のない上流階級の若者、幸福な結婚によって、生活を安定させようとする人たちが多かった時代、身分も高く、財産もあるが結婚の相手をなかなかみつけることのできない女性も多かった時代である。『十二夜』においてもそうであるが、ここでもシェイクスピアはこのような社会状態に対する一つの風刺を意図しているということができるであろう。しかもその風刺や皮肉はすべて、喜劇の世界をうちたて、美しい詩と抒情の中にこの芝居独特の融合を見せてゆくのである。
〔主題〕
この芝居を夢と現実の対照の劇と理解する人もあり、また法廷や社会に対する風刺の劇とする人もあり、また「正義」と「慈悲」とのアレゴリーの劇であるとする批評家もある。シャイロックとアントーニオの対照、シャイロックとバッサーニオとの対照、ベルモントとヴェニスの対照の中にこの劇の主題を見いだそうとする人もある。しかしこの場合もわれわれはあまり単純に解釈することは許されない。この劇においてロマンティックなものにはつねに社会風刺や現実的な物の考え方がまつわりついているからである。また現実的なものはつねに夢とロマンスにつつまれて展開してゆくからである。
このような対照や複雑なレベルの上にこの劇の愛の主題というものをおいてみると、われわれのこの劇に対する興味はさらに深くされる。アントーニオとバッサーニオの友情、ポーシャとバッサーニオの愛と結婚、ロレンゾとジェシーカの愛、シャイロックの娘ジェシーカに対する愛、法廷で説かれる慈悲と博愛、そして道化ラーンスロット・ゴボウと老ゴボウの親子の愛、グラシアーノとネリッサの愛というようなさまざまなレベルの愛が、この劇の進行するにつれて、互いにからまり合いながら、ゆたかに複雑に発展してゆく。愛の理想と現実と、愛の抒情とユーモアと、愛の象徴と寓意とがこの劇の中で盛り上げられてゆき、この劇独自の喜劇の世界がつくりあげられでゆくのである。そしてこの愛の主題の展開につれて、それぞれの人物が、それぞれの立場で生き生きと動いてゆくのである。
〔ゴボウイズム〕
この劇の中の道化、ラーンスロット・ゴボウは『お気に召すまま』のタッチストーンや、『十二夜』のフェステのようにそれぞれの劇の構成に密接な関係をもちながら、主要人物として活躍する人物としては描かれていない。彼の駄じゃれと聞きかじりのおかしなことばは、いわゆる「ゴボウイズム」として、シェイクスピアの一つの特徴を示すものである。彼の中にシェイクスピアは初期の劇に示していたようなことばとその技巧に対する深い関心と興味を示し、ことばによる喜劇的効果というものを意図している。道化としてのゴボウが書きたりないとか、不成功であるとかいう批評も聞かれるが、この劇におけるゴボウの役割は、単なる道化ではない。彼と父の老ゴボウの会見の場などは、滑稽な無知な人々のかもし出すおかしさだけではなくて、むしろ、人生の悲哀さえ含んでいる。道化の本質が、第三者的、傍観者的な批判の立場によって一貫性を保ち得るとするならば、シェイクスピアが、ラーンスロット・ゴボウに求めているのはそのようなものではないのである。そしてゴボウもこの劇のひとりの登場人物として、この喜劇のにない手として独自の役割を与えられているのである。
〔新しい喜劇の世界〕
このように『ヴェニスの商人』にはさまざまな要素が対照的に設定され、矛盾し合い、食いちがいながら、いつか美しい詩と、喜劇の中に融合されてゆくのである。どの人物の、どのような立場も、それを孤立させて解釈することは許されないのである。ひとりの人物の性格もまことに複雑であるし、また人物の配置、筋の運び方がまことにたくみになされている。当時すでによく知られていた、まことにありきたりの物語をとりいれながら、これほどまでに現代においてさえもわれわれをひきつけてゆくのは、単に筋の展開のしかたが巧妙であるとか、性格描写がすぐれているとかいうことにだけよっているのではない。この劇におけるシェイクスピアの意欲的な喜劇への意図が、すべての要素をひじょうに効果的に動かし、関連させ、対照させ、融合させているからである。『ヴェニスの商人』をシャイロックの悲劇と解釈する人もあるが、けっしてそのようなものでもない。シェイクスピアはこの劇において、あくまでも喜劇の世界をうちたてようとしているのである。それは初期の喜劇のように単なるトリックや、しゃれなどによってつくられてゆくものではなくて、人間の中にある悲劇的な要素も、現実も、夢もすべてを渾然《こんぜん》とその中に含めて成立する新しい喜劇の世界なのである。(大山敏子)
〔訳者紹介〕
大山敏子(おおやま・としこ) 一九一四年生まれ。東京文理科大英文科卒。近世英文学専攻。主著「シェイクスピアの心象研究」「シェイクスピアの喜劇」「女性と英文学」他。訳書「ヴェニスの商人」「ジュリアス・シーザー」「真夏の夜の夢」「お気に召すまま」「十二夜」「じゃじゃ馬ならし」など多数。