ジュリアス・シーザー
ウィリアム・シェイクスピア/大山敏子訳
目 次
第一幕
第二幕
第三幕
第四幕
第五幕
解説
あとがき
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登場人物
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ジュリアス・シーザー
オクテヴィアス・シーザー(シーザー死後の執政官)
マーカス・アントニー   (同)
M・イミーリアス・レピダス(同)
シセロー  (元老院議員)
パブリアス    (同)
ポピリアス・レナ (同)
マーカス・ブルータス(シーザーに対する反逆者)
キャシアス   (同)
キャスカ    (同)
トレボーニアス (同)
リゲリアス   (同)
ディーシァス・ブルータス (同)
メテラス・シンバー (同)
シンナ (同)
フレイヴィアス(護民官)
マララス   (護民官)
アーティミドーラス (修辞学の教師)
予言者
シンナ (詩人)
もう一人の詩人
ルーシリアス (ブルータスとキャシアスの友人)
ティティニアス(同)
メッサラ   (同)
ケイトー二世 (同)
ヴォラムニアス(同)
ヴァロー (ブルータスの召使い)
クライタス  (同)
クローディアス(同)
ストレートー (同)
ルーシァス  (同)
ダルダニアス (同)
ピンダラス (キャシアスの召使い)
カルパーニア (シーザーの妻)
ポーシァ (ブルータスの妻)
その他元老院議員、市民たち、衛兵たち、従者たち
場所
ローマ。サルディスの付近。フィリパイの付近。
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第一幕
第一場 ローマ。街上。
〔フレイヴィアス、マララスおよび数人の市民たち登場、舞台の上を歩き回っている〕
【フレイヴィアス】 出てゆけ! 家に帰れ!怠け者めらが! 家に帰れ! 祭日か何かのつもりか? おい! 知らないのか? 職人なら、仕事日には、職人らしいかっこうして歩かなければならんという掟《おきて》があることぐらいお前たちが知らんはずはあるまい。おい、お前の商売は何だ?
【大工】 へい、だんな、大工でござんす。
【マララス】 お前の皮の前掛けや、物|さし《ヽヽ》はどこへやった? 何だってお前は晴れ着なんか着かざっているんだ? おいお前さん? ご商売は何ですかな?
【靴屋】 へい、だんな、りっぱな職人衆の前じゃお恥ずかしいんですが、あっしは、その、まあ、いわば、直し屋なんでござんすよ。
【マララス】 お前は何の商売なんだ? はっきり返事をしろ!
【靴屋】 へい、だんな、心に何のやましい所なくやって行ける商売とでも申しましょうか。つまり、まったくのところ、悪くなったところを直すんで。
【フレイヴィアス】 何の商売だと? 下《くだ》らん奴《やつ》めが! ろくでなし奴《め》! 何の商売だ?
【靴屋】 ねえ、だんな、お願いですからそんなにやぶれかぶれに当たらないでくださいまし。もっとも、やぶれたら直してさし上げますがね。
【マララス】 何だと? おれを直す? けしからん奴めが!
【靴屋】 いえ、なに、だんな! だんなの靴を直してさし上げますんで。
【フレイヴィアス】 それじゃ、お前は靴屋だな? え、そうだな?
【靴屋】 そのとおりで、だんな。あっしの生活は突錐《つきぎり》で成り立ってますんで。あっしは他の商売の人のことには口を入れることはいたしません、もちろん女のことについてもですがね。ですがね、だんな、あっしゃあ、まったくのところ、古靴の直し屋なんで。古靴があぶなっかしい状態になったら直すのが、あっしの役目なんでさ。いやしくも牛皮の靴をはいて歩いたことのあるりっぱな男ならだれでも、このあっしのこしらえた靴をはいてまさあ。
【フレイヴィアス】 だが、なぜ、お前は今日、店にいないのだ? なぜ、お前はこんな奴《やつ》らを引きつれて街《まち》へ出て来たのだ?
【靴屋】 実のところ、みんなに靴をすりへらしてもらうためでさ。そうなりゃ、もっとあっしの仕事はふえますからね。いえ、だんな、今日仕事を休んだのは、ほかでもない、シーザー様を見るため、|がいせん《ヽヽヽヽ》をお祝いするためなんで。
【マララス】 なんのために祝うんだ? シーザーがどんな勝利を持ち帰ったというのだ! 捕|りょ《ヽヽ》の|かせ《ヽヽ》をはめられ、彼の戦車の車輪につながれた、どんな納貢者《のうぐしゃ》たちが彼について来たというのだ? 切り株め! 石っころめ! 石っころにも劣る奴《やつ》らだ! おお、なんとかたくなな心だ! なんと残酷なローマ市民たち! お前たちはポンペイを知らなかったのか! いくたびとなくお前たちは城壁にのぼり、胸壁にのぼったではないか、塔にも、窓にものぼった、そうだ煙突の頂上にも、子供たちを腕にいだいてのぼったのだ。そうしてそこで、一日中、じっと期待を心にいだいてお前たちは座《すわ》っていた、あの偉大なポンペイがローマの街《まち》を通ってゆくのを見ようと。そして彼の戦車があらわれるのを見たとき、お前たちはいっせいに歓喜の叫び声を上げたので、その叫び声が凹《くぼ》んだ岸に|こだま《ヽヽヽ》してひびきわたるのを聞いたその時に、テヴェレ川はその岸の下でおびえふるえたほどではなかったか? そのお前たちが、今、晴れ着をきているのか! そのお前たちが、今、お祭りさわぎをしようというのか! そのお前たちが、今、花をまきちらそうというのか、ポンペイの血の上を、勝ちほこってふみ渡って来た者のために! さあ、立ち去れ! お前らの家に走って帰れ! そしてひざまずいて、この忘恩に対してきっとふりかかってくるにちがいないわざわいを、どうか一時でもまぬがれさせてくれと神々に祈るのだ!
【フレイヴィアス】 さあ、さあ、市民たち、みんな行け! そしてこのあやまちを悔《く》いて、お前たちの仲間をみんな集めるのだ。そして皆をテヴェレの川の岸に連れてゆくのだ。そこでありったけの涙を川に注《そそ》ぎこむがよい。もっとも低い流れももっとも高い川岸にくちづけすることができるまで。〔市民たち退場〕
そら、あんな奴らだって感動せずにはいられないじゃないか、罪の意識に、ただ黙りこくって帰って行った。さあ君はこの道をキャピトルの方へ行ってくれ、わたしはこっちへ行く。もしあいつらがお祭り気分で像をかざりたてているのを見つけたら、そのかざりつけをはずしてくれたまえ。
【マララス】 そんなことをしてもいいだろうか? 君も知っているように、ルーパーカスのお祭りなんだぜ。
【フレイヴィアス】 かまうもんか! どこのどんな像にだって、シーザーのための飾りものなんかつけさせるものか! わたしはそこらを歩いてくる。市民どもを通りから追いはらってくるつもりだ。君もそうしてくれ。きゃつらが大勢|たむろ《ヽヽヽ》しているのを見たら追いはらってくれ。シーザーの翼からだんだんに育ってゆく羽根をむしりとってしまえば、彼とても並の高さしか飛べはしないんだから。さもないと彼はたちまち人間の目のとどかない所まで飛び上がって、われわれを卑屈なおそれの中にとじこめてしまうからな。〔退場〕
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第二場 同じ。広場。
〔シーザー、アントニーが競走の身|支度《じたく》をして登場。カルパーニア、ポーシァ、ディーシァス、シセロー、ブルータス、キャシアス、キャスカ、群集大勢あとに続き、その後から一人の予言者、さらにその後にマララスとフレイヴィアス登場〕
【シーザー】 カルパーニア!
【キャスカ】 しっ、静かに! シーザーが語るぞ!
【シーザー】 カルパーニア!
【カルパーニア】 はい、ここにおります。
【シーザー】 アントニーの前に立ちふさがるのだ、いいか? 彼が走ってゆく時にだぞ! アントニー!
【アントニー】 閣下、何かご用で?
【シーザー】 アントニー、早く走っているときにも、忘れずにカルパーニアにさわってくれ。老人たちの話では、子をうまない女も、この聖なる競走のときにさわってもらうと|うまずめ《ヽヽヽヽ》の呪いをふり捨てることができるとか。
【アントニー】 よくおぼえておきます。シーザーが「こうせよ!」と言われれば、それは実行されるのです。
【シーザー】 さあ、やれ! 儀式を略してはならぬぞ!
【予言者】 シーザー!
【シーザー】 おや! だれがよんでいるのだ?
【キャスカ】 さわぎを静めろ! 静かにせいと言っているのだ!
【シーザー】 群集の中でわしを呼んでいるのはだれだ? わしは聞いたぞ、どんな楽器の音《ね》よりはるかにするどく「シーザー!」と呼ぶのを。語れ! シーザーは聞いているぞ!
【予言者】 三月十五日にご注意あれ!
【シーザー】 この男は何者だ?
【ブルータス】 予言者があなたに「三月十五日にご注意あれ」と言っています。
【シーザー】 その男をわしの前に連れてこい! 対面しよう。
【キャシアス】 おい、群集の中から出てこい! シーザー様にお目通りしろ!
【シーザー】 お前はわしに何を言おうとするのか? もう一度言ってみろ。
【予言者】 三月十五日にご注意あれ。
【シーザー】 この男は夢を見ているのだ。さ、かまわずに、行こう。
〔ラッパ吹奏。ブルータスとキャシアスを残して一同退場〕
【キャシアス】 競走の様子を見に行かないか?
【ブルータス】 わたしはいやだ。
【キャシアス】 まあ、そう言わないで行こう。
【ブルータス】 わたしは競技など好かんのだ。わたしにはアントニーのような活発な性質は欠けているのだ。だが、君が行きたいのを邪魔《じゃま》する気はないんだ、キャシアス、ここで別れるとしよう。
【キャシアス】 ブルータス、わたしは最近君を観察しているが、以前にはいつもわたしによくわかった君のやさしさと、友情の眼《まな》ざしを見ることができなくなってしまった。君は、君を愛している友だちに対して、あまりにもかたくなな、よそよそしいふるまいをしているではないか。
【ブルータス】 キャシアス、誤解しないでほしい。わたしがもし、よそよそしくしているとしたら、それはわたしが他人に対して顔にあらわすその苦しみをただただ、自分自身に向けていたからなのだ。最近わたしは強く矛盾する感情に苦しめられているのだ。それはまったくわたし自身だけの問題なのだが、それがわたしの動作に何かこだわりを与えているのだろう。だからといって、わたしは親しい友だちに心配はかけたくない──その中にもちろん君もはいっているのだが、キャシアス──わたしがよそよそしくしていると思えたときには、気の毒にブルータスは自分自身の感情とたたかっているので、他人に友情を示すことを忘れてしまったと考えてほしいのだ。
【キャシアス】 じゃ、ブルータス、わたしは君の気持ちを誤解していた。そんなことを考えていたので、このわたしは自分の胸の中に大切な問題、重大な考えをすっかりしまいこんでいたのだ。ねえ、ブルータス、君は自分の顔を見ることができるのか?
【ブルータス】 いや、できない、キャシアス。目というものは、何かにうつしたり他のものの力を借りたりしなければ、自分自身を見ることができないのだ。
【キャシアス】 そのとおりなのだ。君自身が、心の中にかくし持っている価値を自分の目にうつして、そこに自分の影を見ることができるようなそんな鏡を、君が持ちあわせていないというのは、ブルータス、まことに悲しむべきことだ。わたしは聞いている、ローマでもっとも尊敬されている多くの人々が、不滅のシーザーだけは例外だが、ブルータスのことを話して、この時代の束縛のもとに苦しんでいる人々が、けだかいブルータスが目を持っていてくれればと望んでいるのを。
【ブルータス】 わたしが持ちあわせてもいないものを、わたし自身の中に捜させようとしているらしいが、キャシアス、君はどんな危険にわたしを引きずり込もうとするのかね?
【キャシアス】 だから、ブルータス、聞いてもらいたい。君がうつしだされたものによってでなければ、自分自身を見ることができないとすれば、君の鏡であるわたしが、君自身のものでありながら、君が知らずにいるものを正しく君自身に見せてあげよう。ブルータス、どうかわたしを疑わないでくれたまえ、わたしが皆の笑い者になるようなつまらん男であってまた誰《だれ》かれの見さかいもなしに、会う人ごとに、定《きま》り文句の誓言で自分の友情を安っぽいものにしたなら、もしわたしが人々にへつらい、親しげにふるまい、かげではその人々の悪口を言うようなことがあったら、またもしわたしが宴席に出たときに、そこにいる人すべてに愛きょうをふりまいているとしたら、わたしを危険人物と思ってくれたまえ。
〔ラッパの音と歓声〕
【ブルータス】 あの叫び声は何だ? 皆がシーザーを彼らの王に選びはしないかと心配だ。
【キャシアス】 心配だと言われるか? では君はそうなることを望んでいないと考えていいわけだ。
【ブルータス】 望んでいない、キャシアス。だが、わたしは十分彼を愛している。しかし、なぜ君はわたしをここにこんなに長く引きとめるのか? 君がわたしに打ち明けたいと思っているのはどんなことかね? もし、それが何か一般の人々のためになることならば、一方の目に名誉を、他の目に死をおくがよい、わたしは冷静に、その両方を見るつもりなのだ。なぜならば、どうか神々よ、ご照覧あれ! わたしは死をおそれる以上に、名誉という名を愛するからだ。
【キャシアス】 わたしは君の外観、顔かたちをよく知っている。ブルータス、君にその勇気があることはよく知っている。そうだ、その名誉というのがわたしの話の主題だ。君や他の人たちが、この人生というものをどういう風《ふう》に考えているかわたしは知らない。だが、少なくともわたし自身のことをいうならば、わたしは自分自身と同じ程度の人間なんかを恐れてくらすくらいなら、むしろ死んでしまったほうがよいと思っているのだ。わたしはシーザーと同じく自由に高貴に生まれた。君もそうだ。われわれ二人は共にシーザー同様にりっぱに育てられて来た。そして彼と同じにりっぱに冬の寒さをも耐えしのんで来た。かつてこんなことがあった。ひどく寒く風の強い日だった、テヴェレ川のさわがしい流れが、川岸に激しく打ちくだけていた、その時シーザーは言った。「キャシアス、君は今、わたしといっしょに、このたけり狂った川の中にとびこんで、向こう岸まで泳いでゆくだけの勇気があるか?」と。それを聞くなり、わたしは、衣服をきたままだったが、川にとびこんだ。そして彼に、ついて来い! と言ってやった。彼はついて来た。川の流れは激しくとどろいていた。そしてわれわれは、たくましい元気で流れに立ち向かい、その水をかきわけ、押しのけて、たがいに競争心にかりたてられて泳いで行った。だが、目的の向こう岸にわれわれがつくことができる前に、シーザーは叫んだ、「キャシアス! 助けてくれ! 沈んでしまう!」と。わたしは、ちょうどわれわれの先祖、偉大なイニーアスがトロイの町の火炎の中から、あの年老いたアンカイシスを肩にせおって、助け出したように、テヴェレ川のあれくるう波の中から、疲れ果てたシーザーを助け出した。それなのに、この男が、今では生き神様だ。そしてこのキャシアスはどうかと言えば、まことみじめさのきわみだ。そして、シーザーがさりげなく、愛想よくふるまっただけで、ひたすら平身低頭しなくてはならない。彼はスペインにいたとき、熱病にかかったことがあった。そして発作が起こったとき、わたしははっきり見たのだが、ひどく震《ふる》えたのだ。ほんとうだ、この生き神様がガタガタ震えたのだ。彼の臆病な唇《くちびる》からはすっかり血の気が引いてしまっていた。今、彼の視線の向けられるところ、世界がおそれうやまうその目が、その輝《かがや》きを失《な》くしてしまっていた。わたしは彼がうめくのを聞いた。そうだ、全ローマ人に彼の方を注目せよ、彼のことばを書物に書き記《しる》せと命じたその舌が、何ということだ、病気の娘のように、「何か飲みものをくれ、ティティニアス」と叫んだのだ。おお、神よ、わたしはただただ驚きあきれるばかりだ、こんな弱い性質の男が、こんな風《ふう》にして、全世界の人々を出し抜いてしまい、栄光を一人占めにするなどとは!
〔歓声。ラッパの音〕
【ブルータス】 また皆が叫んでいる! この喝采《かっさい》は、きっと何か新しい栄誉がシーザーの上につみ重《かさ》ねられたためにちがいない。
【キャシアス】 いや、なに、彼はロードス島の巨人像《コロサス》のように、この世界狭しとばかりふまえて立ちはだかっている。われわれちっぽけな人間どもは、その大きな足の下を歩き、こそこそとのぞき、自分自身のみすぼらしい墓場を見出そうとしている。人間というものは、時にはその運命を支配することができる。ブルータス、われわれがくだらぬ、取るに足らぬ者たちであるのは運命の星がまちがっているのではなく、われわれ自身に責任があるのだ。ブルータスとシーザー、その「シーザー」にいったい何があるというのだ? なぜ、その名前が君の名前より多く人びとの口に語られるのか? 二つの名前を並べて書いてみるがよい、君の名前も同じくらいりっぱだ。両方いっしょに口で唱えてみるがよい、同じように口によく合った名前だ。両方の重みをはかってみるがよい、同じくらい重々しい。呪文《じゅもん》に用いればブルータスの名もシーザーと同じにすぐ精霊を呼び出すことができる。さあ、すべての神々の名を一つに合わせて、それにかけて言うが、シーザーがこれほどまでに偉大になったというのは、どんなものを食べて大きくなったというのか? ああ、何と恥ずべき時代だ! ローマよ、お前は勇気あるその伝統をなくしてしまったのだ。あの大洪水の時以来、たった一人の人間によって有名になった時代がいまだかつて、一度でもあったであろうか? 現在にいたるまで、ローマのことを語るとき、その広大な城壁がただ一人の人間しかいれられないと断言できた時があったであろうか? その国の中にただ一人の人間しかいないと言うのが、そしてそんな余裕しかないのが大ローマなのであろうか? おお、わたしも君も、われわれの父親たちが言うのを聞いたものだ、かつてこの国にブルータスという男がいて、彼はこのローマが王によって支配されるくらいなら、永久に悪魔によって支配されたほうがはるかにましだと考えていたということを。
【ブルータス】 君がわたしに好意を持ってくれることを、わたしは少しも疑わない。君がわたしにどんなことをさせたがっているのか、およその見当はついている。この問題について、また今の時世についてわたしがどう考えているかは、そのうちに話すことにしよう。今のところでは、わたしは自分の心をこれ以上動かされたくないのだ。だから友情のよしみで頼む、どうかやめてくれ。君がわたしに話してくれたことはとくと考えておくことにしよう。君が言わなくてはならないことをじっと我慢《がまん》してわたしは聞くつもりだ。そしていつか折りを見て、このような重要なことを聞いたり、それに答えたりする時を見つけよう。それまでは、りっぱな友だちである君に頼む、このことだけを承知していてくれ、現在のローマがわれわれに課そうとするきつい条件のもとでは、ブルータスはローマの嫡子《ちゃくし》としての名声をはせるよりは、むしろ一介の百姓としてすごしたい気持ちだということを。
【キャシアス】 これはうれしいことだ。わたしのこんな無力なことばが、このような熱情の火花をブルータスから打ち出すことができたとは。
〔シーザー供の者を従えて登場〕
【ブルータス】 競技は終わった、そしてシーザーが帰ってくる。
【キャシアス】 彼らが通りすぎて行くとき、キャスカの袖を引いてみたまえ、彼はきっと、例の不機嫌《ふきげん》な調子で、今日どのような重要な事件が起こったかを君に話してくれるだろう。
【ブルータス】 そうして見よう。だが、見たまえ、キャシアス、シーザーのひたいにあれあのように怒りの表情があらわれているぞ、他のものたちは皆、叱られた家来たちのようにしんとしているじゃないか。カルパーニアの頬《ほほ》は青ざめている。そしてシセローは、キャピトルでわれわれはしばしば見かけたのだが、元老院議員たちと議論して意見が合わないときのように真赤《まっか》に血走った目をしているではないか。
【キャシアス】 キャスカがわれわれに何事が起こったか話してくれるだろう。
【シーザー】 アントニー!
【アントニー】 シーザー!
【シーザー】 わしは肥《ふと》った人間だけをそばにおいておきたい、髪をきれいに手入れして、夜もぐっすりやすむような者だけを。あそこにいるキャシアスはやせこけて、がつがつした様子をしている。彼はあまり物事を考えすぎる。あんな男は危険この上なしだ。
【アントニー】 彼を恐れることはない、シーザー! 彼は危険ではありません。彼はりっぱなローマ人、そして気のいい男です。
【シーザー】 彼がもう少し肥っていたら! だがわしは彼を恐れはしないぞ。しかし、かりにシーザーというわしの名前が何者か恐れることがあるなら、わしはあのやせこけたキャシアスほど、避けたい人間はほかにはないと思うのだ。彼は本を読みすぎる。それに彼はするどい観察者でもある。彼の目は人々の行為の底まで見通してしまう。彼は君とはちがって芝居などは好まんのだ、アントニー。彼は音楽など聞こうともしない。彼はほとんど笑ったりしない。たとえ笑ったとしても、その時はあたかもおのれをあざけっているようだ。つまり、つまらぬことに笑顔《えがお》を見せてしまった自分自身をあざわらうようにだ。こういう男は、おのれよりも偉大なものを見ている間は、けっして一|時《とき》たりとも心やすまることがないのだ、だから彼らはまこと危険この上なしと言わねばなるまい。わしは君に、何をわしが恐れるかではなく、むしろ恐れられるべきは何かということを話そう。つまり、わしはつねにシーザーだからだ。わしの右手に回ってくれ、こちら側の耳は聞こえないんだ。そしてわしに、君があの男をどう思っているか本当のところを話してくれ。
〔ラッパ吹奏。シーザーと供の者退場〕
【キャスカ】 あなたはわたしの上着を引っぱったが、何かご用ですかな?
【ブルータス】 そうだ、キャスカ、今日何が起こったか話してくれないか、シーザーがひどくむずかしい顔をしているが。
【キャスカ】 おや、あなたは彼といっしょにおられたのではないですか?
【ブルータス】 もしそうならば、わしはキャスカに何が起こったかたずねはしない。
【キャスカ】 なに、シーザーに王冠がささげられたんです。王冠がささげられると、シーザーは手の甲で、それ、こんなふうに、それをはらいのけました、そこで群集がわっと叫んだのです。
【ブルータス】 二度目のさわぎは何のためだね?
【キャスカ】 なに、同じことです。
【キャシアス】 三度叫んだじゃないか。最後のは何のためだね。
【キャスカ】 なに、それも同じことです。
【ブルータス】 王冠が三度ささげられたというのだね?
【キャスカ】 ええ、そうですとも。そして彼が三度はらいのけた、一回ごとに、前よりはやわらかになりましたがね。そしてシーザーがはらいのけるたびに、律儀者《りちぎもの》の群集が叫んだのです。
【キャシアス】 王冠をささげたのは誰《だれ》かね?
【キャスカ】 もちろん、アントニーですよ。
【ブルータス】 ね、キャスカ、その様子を話してくれないか?
【キャスカ】 そんなこと話すくらいなら、わたしゃ首でもくくられちまったほうがましさ。まったくバカバカしいことなんです。わたしはマーク・アントニーが王冠を彼にささげるのを見ました、──だが、それはほんとの王冠なんかじゃなくて、ちっぽけなおもちゃの王冠みたいなものでした。──そしてわたしが話したように、それをシーザーは一度はらいのけました。でも、わたしには、はらいのけはしたものの、できれば受けとりたがっているように思われました。アントニーはまたそれをささげ、そしてふたたびシーザーははらいのけました。だが、わたしには、彼がそれから手をはなすのをいやがっているように思われました。アントニーは、またそれをささげ、シーザーは三度それをはらいのけました。そして彼がそれを拒《こば》みつづけているあいだじゅう、下《くだ》らん奴《やつ》らどもは、わめきたてるやら、ひびだらけの手をたたくやら、汗のにじんだ帽子を投げ上げるやら、シーザーが王冠を拒んだというので、臭い息をはきちらすやら、おかげでシーザーはほとんど窒息しそうになって、気絶して、倒れてしまうという始末でした。わたしは、でも、笑うことすらできません、唇《くちびる》を開いたら、いやな空気を吸いこみはしないかと心配でしてね。
【キャシアス】 だが、待ってくれよ、頼む。なに、シーザーが気絶したって?
【キャスカ】 広場のまん中で倒れて、泡《あわ》をふいて、物も言えなかったんです。
【ブルータス】 彼は|てんかん《ヽヽヽヽ》持ちだから、ありそうなことだ。
【キャシアス】 いや、シーザーにはそんなことはないはず。|てんかん《ヽヽヽヽ》で倒れるのは、むしろわれわれ、そして実直なキャスカのほうだ。
【キャスカ】 あなたが何を言おうとしているのかは知りません。だが、たしかにシーザーは倒れたのだ。まったくの話、ちょうど芝居小屋の俳優たちにいつも彼らがしているように、ぼろっきれみたいな奴《やつ》らは、シーザーが奴らを喜ばせたり、そうしなかったりするままに、彼に拍手を送ったり、|やじ《ヽヽ》をとばしたりするという調子でした。
【ブルータス】 息をふきかえした時、シーザーは何と言ったかね?
【キャスカ】 それがです。シーザーが倒れる前のことです、王冠を拒絶するのを群集がよろこんだのを見てとったシーザーは、彼の上着の前をはだけて、彼らに、彼の咽喉《のど》をかき切ってくれと言いました。もしもわたしが職人だったとしたら、かならずそのことばを文字通りにとって行動に移さずにはおかなかったはずですがね。そんな状態でシーザーは倒れました。彼が息をふき返したとき、彼は言うんです、「もしわたしが何かおかしな事をしたり、言ったりしたら、どうかみんな、これはわたしの病気のためだと思ってくれ」と。三、四人の女たちがわたしのそばにいて、「まあ、おかわいそうに」と叫んで、心から彼を許してやったようですが、そんな女たちなんか別に気にかける必要はありません。もしもシーザーが彼らの母親を刺し殺したとしても、同じようなことを言うでしょうからね。
【ブルータス】 その後で、あんなむずかしい顔をしてやって来たのだな?
【キャスカ】 そうです。
【キャシアス】 シセローは何か言っていたかね?
【キャスカ】 ええ、ギリシア語でね。
【キャシアス】 どんな事を?
【キャスカ】 いやはや、それがお話できるくらいなら、もう二度とお目にかかりませんよ。でも、彼の言うことがわかった者たちはたがいに顔を見あわせて笑い、頭を振りました。しかし、わたしには何が何やらさっぱりでした。それよりもっとお知らせすべき事がありますよ。マララスとフレイヴィアスとは、シーザーの像からスカーフをはぎとったというので免職になりました。では、さようなら。まだもっとばかばかしいことがあったと思いますが、忘れてしまいました。
【キャシアス】 キャスカ、今晩いっしょに食事をしてくれないか?
【キャスカ】 いや、あいにく先約がありまして。
【キャシアス】 それでは明日《あす》いっしょに食事をしないか?
【キャスカ】 いいですとも、もしもわたしが生きていて、あなたの気が変わらないで、あなたの食事が十分たべる価値がありさえすればね。
【キャシアス】 よし、待っているぞ。
【キャスカ】 どうぞ。ではお二人とも、これで失礼。〔退場〕
【ブルータス】 何とこの男はぶっきらぼうになったのだろう。学校に行っていたころは、もっときびきびした男だったが。
【キャシアス】 今だってそうだ。どんなにあの男がぐずぐずした様子をしていても、何か勇敢な、りっぱな仕事を実行するということになれば、あの男は今だって以前とちっとも変わってはいない。このぶっきらぼうな様子は、あいつの知恵に風味を添えるようなもの、もっと食欲をそそりたてて、彼のことばをよく消化するように、添えられるソースのようなものだ。
【ブルータス】 なるほどそうだな。ともかく今はこれで失礼する。明日《あす》、もし君がわたしと話し合いたいというのなら、君の家へ話しに行ってもいい。それとも、もし君が希望するなら、わたしの家へ訪ねて来てくれ、待っているから。
【キャシアス】 そうするとしよう。それまで、世の中の情勢をよく考えておいてほしい。
〔ブルータス退場〕
なるほど、ブルータス、君は高潔だ。だが、君のそのりっぱな精神といえども、それが本来持っている性質と全く反対の方向に向けられるかもしれない。だから高潔な人間は、同じように高潔な人間と共にあることがふさわしいのだ。どんなに確固とした精神を持っていても、誘惑されないとは限らないのだ。シーザーはおれをよく思っていない。しかし彼はブルータスを愛している。もしおれがブルータスで、あいつがキャシアスだったら、あいつにはこんなにおれを動かすことはできない。そうだ、今晩、いろいろな筆跡で手紙を書いて、あいつの窓に投げこんでやろう。いかにもその手紙がそれぞれ別の市民から来たように見せかけて。そしてその手紙には、ローマの市民たちがいかにブルータスという名を深く信頼しているかというような事を書いておこう。そしてその手紙に、シーザーの野心をそれとなく解《わか》らせるように書こう。それでもなお、シーザーがその地位に安泰でいられるかどうかみるがよい。シーザーをゆさぶり倒してやる。さもないともっとみじめな目に会うのだ。〔退場〕
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第三場 同じ。街上。
〔雷《かみなり》と稲妻。キャスカとシセロー登場〕
【シセロー】 今晩は、キャスカ。シーザーを家に送りとどけて来たのか? なぜ君はそんなに息せき切っているのかね? なぜそんなに目をすえているのかね?
【キャスカ】 この大地の安定がすっかりくつがえされて、何か固定しないもののようにぐらぐら揺れている時に、あなたは平気なのですか? おお、シセロー、わたしは、怒り狂う風が、ふしくれた|樫《かし》の大木を裂いてしまうような大|暴風雨《あらし》をみたことがあります。わたしは大海が怒り、たけり、泡《あわ》をたてて、おびやかしているようなたれこめた雲と同じ高さにまで逆《さか》まいているのを見たことがあります。しかし、今夜、今、この時まで、わたしは暴風雨が火をふらしているのを経験したことはありませんでした。これは、おそらく天に内乱が起こっているからでしょう、さもなければ、この世の中が、神々に対してあまり傲慢《ごうまん》にふるまったので、神々が怒って、この世を破壊してしまおうとされたのでしょう。
【シセロー】 なに、君は何かもっと不思議なものを見たというのか?
【キャスカ】 一人のこの町の奴隷《どれい》が──あなたはよく見かけて知っているはずですが──彼の左手を上げましたら、それが焔《ほのお》を吹いてもえたのです、二十本もの松明《たいまつ》を集めたほどあかあかと。しかも彼の手は、火の熱さを感じることなく、火傷《やけど》もしませんでした。それから──わたしはそれ以来まだ自分の剣を|さや《ヽヽ》におさめてもいませんが──キャピトルのすぐ近くで、わたしは一頭のライオンに出会いました、そのライオンはわたしをギョロリとにらみつけましたが、危害を加えることなく、無愛想《ぶあいそう》に立ち去りました。それからまた、百人ものおびえた女たちが群れをなして、近づいて来ました、彼女らは恐怖で顔色をすっかり変えて、口々に言うのです、火炎につつまれた男たちが町をあちこち歩いているのを見たと。また、昨日《きのう》は、夜の鳥ふくろうが、真昼だというのに、市場のところに来てとまり、無気味な声でほうほうとなき立てているのです。このようにさまざまな前兆が時を同じくして起こった今、「これらはこういう理由で起こった、これらは自然の現象である」と言って済ますことはできません。というのは、わたしは思うですが、これらの前兆はそれが起こったその特定の場所にとって不吉なものであるからです。
【シセロー】 まったくだ、異常に乱れた世の中であると言わねばなるまい。しかし、人間というものは、とかくそれ自体の本来の目的からはなれて、物事を自分の都合のよいように解釈するものなのだ。ところで、シーザーは明日《あす》、キャピトルに出て来るだろうか?
【キャスカ】 その予定です。彼はアントニーに命じて、明日キャピトルに行くとあなたに伝えるよう申していました。
【シセロー】 じゃ、さよなら、キャスカ。こんな険悪の空では出歩かないほうがよいからね。
【キャスカ】 失礼します、シセロー。
〔シセロー退場〕
〔キャシアス登場〕
【キャシアス】 そこにいるのはだれか?
【キャスカ】 ローマ人だ。
【キャシアス】 その声はキャスカだな。
【キャスカ】 あなたの耳は正確だ。キャシアス、何という夜だろう!
【キャシアス】 実直な人間にとってはとても気持ちのよい夜だ。
【キャスカ】 天があんなに威嚇《いかく》的になろうとだれが考えただろうか?
【キャシアス】 大地が欠点だらけだと知ってるものはそう考えるだろう。わたしはどうかと言えば、街《まち》々を歩き回った、怖《おそろ》しい夜のその中に自分自身を投げ出して、そしてこんな風《ふう》に、キャスカ、君が見ているように、上着の前をはだけて、自分の胸をあらわに雷鳴に向かってさらしたのだ。また、行きかう青い稲妻が、天の胸を開くようにみえた時、わたしは自分自身をその稲妻の向けられている中心にあえておこうとした。
【キャスカ】 だが何だってあなたは神々に挑戦して、試《ため》すようなことをしたのだ? もっとも力がある神々が、前兆によって、われわれを、打ちのめすためにあんな怖しい使いをわれわれに送るときには、おそれたり、おののいたりするのが人間のやることではなかろうか。
【キャシアス】 君はにぶいんだ、キャスカ、君には、ローマ人にあるべき生命の火花が欠けているのだ。さもなければ、あっても役にたてようとしないのだ。神々のこのふしぎな怒りを見て、君は青ざめ、じっと目をすえ、恐怖におののいて、ただ茫然《ぼうぜん》自失、なす所を知らないではないか。だが、もし君が、この恐ろしいことの本当の原因を考えて見たら、なぜこんな焔《ほのお》の雨がふるのか、なぜ亡霊がうろつき回るのか、なぜ、鳥や獣《けだもの》が本来の性質をなくしてしまったのか、なぜ老人や阿呆《あほう》や子供たちが未来を予言することができるのか、なぜ、すべてのものが、その定められた位置を変え、本来の性質、自然にもって生まれた特徴をすてて、おそろしい性質を持つようになったかを考えてみれば、ねえ君、君は天が、何か怖《おそろ》しい状態になるという恐怖と警告の手段として、これらのものすべてに、精霊をふき込んだのが解《わか》るはずだ。さあ、キャスカ、君に教えてやろうか。このおそろしい夜にもっともよく似ている一人の男の名前を。雷をとどろかせ、稲妻を光らせ、墓を開き、怖《おそろ》しい声で、ちょうどキャピトルのライオンとおなじように吠《ほ》えたけっている男、個人的な行動においては、君自身やわたしと比べて別に変わりのない男、しかもこの不思議な前兆と同様にばかに不吉な存在になって、皆を恐怖におとし入れてしまった男の名前を。
【キャスカ】 あなたが言っているのは、シーザーのことだろう、キャシアス?
【キャシアス】 だれのことだってかまいはしないんだ。ローマ人は今、その先祖と同じような筋肉と手足はもち合わせている。だが、何と悲しむべきことだ、父親たちの精神は死んでしまった、そしてわれわれは母親の精神に支配されてしまっている、束縛と、われわれの忍従とは、われわれが女々《めめ》しいことをよく示している。
【キャスカ】 なるほど、噂《うわさ》によると、元老院の議員たちは、明日《あす》、シーザーを王位につけようとしているということだ、そうすれば、シーザーは、ここイタリアを除いて、すべての国々に海陸ともに君臨することになるのだ。
【キャシアス】 そうなれば、この短剣をただ無駄《むだ》に身につけてはいないぞ。キャシアスは自分の手でキャシアスを束縛から救ってみせるぞ。そうすることによって、神々よ、あなたは弱き者をも最も強くしたもうた。そうすることによって、神々よ、あなたは暴君どもを打ち負かしたもうた。石でできた塔も、真鍮《しんちゅう》でつくられた城壁も、風も通わぬ牢獄《ろうごく》も、強い鉄のくさりも、確固とした強い精神力を、とじこめることはできない。生命というものは、この世の中の障害につかれて、つねにわれとわが命を絶つ力を失《な》くしてはいない。現在わたしがじっと耐えている圧政の束縛を、わたしはよろこんで振り捨てることができるのだと自分でも承知しているのだから、他の人々にも知ってもらいたい。
〔雷なおつづく〕
【キャスカ】 わたしにだってできる。奴隷《どれい》になっても、人間というものは、自分自身の手に自ら束縛をときはなつ力はもっているものなのだ。
【キャシアス】 それじゃ、なぜ、シーザーを暴君にして放《ほう》っておくのか? かわいそうに、ローマ人がみな羊だと思いさえしなければ、あの男だって、狼《おおかみ》であるはずはないではないか。ローマ人が皆、牝鹿《めじか》でありさえしなければ、彼だってライオンにはならない。大急ぎで、大きな火をおこそうとする人々は、よわい|わら《ヽヽ》からはじめるという。ああ、ローマ人はなんと下《くだ》らぬものか! なんというがらくた、きれっぱしみたいにつまらぬものだろうか! あんな卑劣なシーザーのようなものに光を添えるために、たきつけのようなものになりおおせているとは! だが、おお、悲しみよ! お前はわたしをどこにつれて行こうというのか? おそらくわたしは奴隷の境遇に甘んじている男の前で、こんな事を言っているのだろう。それなら、わたしの答えはもう定《きま》っている。覚悟はできている。危険などは現在のわたしにとって何でもないのだ。
【キャスカ】 キャスカに向かって話しているのだ。にやにや笑っていいかげんな事を言ったりはしない男に向かってだ。さあ、握手だ。これらすべての悲しむべき事を是正《ぜせい》するため、同志を集めてほしい、そうすれば、わたしは、仲間のだれにも負けないで、つき進んで行くつもりだ。
【キャシアス】 では、約束はできた。今こそ君に知ってもらいたいのだ、キャスカ、わたしがすでにもっとも高潔な心を持ったローマ人たちを幾人か説得して、わたしと共に、非常にりっぱな、しかも非常に危険をともなうある仕事を実行するように計画しているということを。そして、もう今ごろまでには、きっと彼らはポンペイ劇場の入口でわたしを待ち受けているはずだ。今、この恐怖にみちた夜、街《まち》々にはだれ一人歩いている者はいないし、それに空の模様さえも、われわれが今、これから決行しようとしている仕事のように、もっとも血なまぐさく、火ともえさかり、もっともおそろしい様子を呈している。
〔シンナ登場〕
【キャスカ】 しばらくかくれていたまえ。だれか急いでやってくる。
【キャシアス】 シンナだ。歩きっぷりでわかる。彼は仲間の一人だ。シンナ、どこへそんなに急いで行くのだ?
【シンナ】 あなたを見つけるためにです。あれはだれですか? メテラス・シンバー?
【キャシアス】 いや、キャスカだ、われわれの計画に加わってくれる。皆がわたしを待っているんじゃないか、シンナ?
【シンナ】 それはうれしいことだ。なんと恐ろしい夜だろう! 二、三人の仲間は不思議な光景を見たと言っていました。
【キャシアス】 皆がわたしを待っているんじゃないのか? どうなんだ?
【シンナ】 そうです、あなたを待っています。おお、キャシアス、もしあなたがあのりっぱなブルータスを仲間に入れることができさえしたら──
【キャシアス】 大丈夫《だいじょうぶ》だ。さあ、シンナ、この書面を持って行って、それを執務官の椅子《いす》のところにかならず置いて来てくれ、そこならブルータスがすぐ見つけるだろう。それからこの書面は彼の窓から投げこんでおいてくれ。それからこれは封|ろう《ヽヽ》で老ブルータスの像の所にはりつけておいてくれ。それが全部すんだら、ポンペイ劇場の入口に帰って来てくれ。そこでわれわれは君を待っている。ディーシァス・ブルータスやトレボーニアスもいるかね?
【シンナ】 メテラス・シンバーをのぞいて皆来ています。彼はあなたの家へあなたを捜しに行きました。さあ、わたしは大急ぎで、あなたのご命令通り、書面をあちこちに置いてきます。
【キャシアス】 それが終わったら、ポンペイ劇場にもどって来てくれ。
〔シンナ退場〕
さあ、キャスカ、君とわたしとは、夜が明ける前にブルータスの家に彼を訪《たず》ねよう。彼の四分の三ぐらいはもうすでにわれわれのものだ。そうして今度彼に会ったら、彼は全部われわれのものになること間違いなしだ。
【キャスカ】 おお、彼こそは民衆の心の中に高い位置を占めている。われわれにおいては罪とみえるようなことも、彼の同意を得れば、ちょうどすばらしい煉金術をほどこしたかのように、美徳やりっぱな行ないに変えられてしまうのだ。
【キャシアス】 あの男の人物、価値、そしてわれわれが彼を必要としていることは君の考えやことばどおりだ。さあ、行こうではないか。もう夜中をすぎてしまった。そして夜が明ける前に、われわれは彼を起こし、はっきりわれわれの味方にしたいからな。〔退場〕
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第二幕
第一場 ローマ。
〔ブルータス、彼の庭園に登場〕
【ブルータス】 おい、ルーシァス、おい! 星の運行を見ていても、どのくらいで夜明けになるのかわしにはわからない。ルーシァスといっているではないか! こんなにぐっすり眠れることが、わしのあやまちだったらよいと思う。おい、ルーシァス、おい、起きろといっているのだ、おい、ルーシァス!
〔ルーシァス登場〕
【ルーシァス】 お呼びでございますか? だんな様。
【ブルータス】 わしの書斎に燭火《ろうそく》をつけて来てくれないか、ルーシァス。そして、つけたら、ここに知らせてくれ。
【ルーシァス】 かしこまりました。
【ブルータス】 彼を殺してしまわねばならない。そしてこのわしはどうかと言えば、あの男を足|げ《ヽ》にするような個人的な理由は何もない。ただ、この国全体のためにやらねばならんのだ。彼は王になりたがっている。そんな事になったら彼の性格はどんなに変えられてしまうだろう、問題はそこだ! 明るく晴れた日にこそ、毒|蛇《へび》ははい出すのだ、だから、歩くのにも気をつけなくてはならん。彼を王位につける? そんなことになったら! それこそ、たしかに、われわれは彼に、やろうとさえすればいつでも危険な事ができるように、毒|牙《きば》を与えるようなものだ。偉大な者の弊害は、それが憐《あわ》れみの心を失って権力だけを乱用する時に起こってくるものだ。シーザーについて正直に言えば、わしは彼の感情が彼の理性よりも強く彼を支配した時などがかつてあったとは思わない。だがこれだけはだれでも心得ている常識だ、つまり、謙遜《けんそん》をよそおうことは、若い野心家にとっては梯子《はしご》であって、高みに登ろうとするものは、かならずそこに顔を向けて立つ、ところが、ひとたび彼が頂上に到達してしまうと、こんどは彼はその梯子に背を向けてしまうのだ。そしてはるか雲のかなたに目を向け、自分が今までのぼって来た低い階段などは軽蔑してしまうのだ。シーザーもそうするにちがいない、だから、彼にそんな事をさせないように、まず手を打つのだ。このような非難は、現在のシーザーに対しては何の根拠ももたないのだから、事態をこんな風《ふう》に考えてみよう。つまり、現在の彼がこのまま大きくなると、かくかくしかじかの極端な事態を引き起こしてしまうだろう、だから、彼を蛇の卵と考えてみようではないか、それが孵化《ふか》すると、その本来の性質からしても、かならず害を及ぼすだろう、だから、まだ殻の中にある中《うち》に、彼を殺すのだ。
〔ルーシァスふたたび登場〕
【ルーシァス】 燭火《ろうそく》がお部屋《へや》につきました、だんな様、火|うち《ヽヽ》石を見つけようと、窓のあたりを捜しておりましたら、このように封印した、こんな書付けを見つけました。たしか、私が寝《やす》みました時には、あそこにはありませんでしたが。
〔彼に手紙を渡す〕
【ブルータス】 さあ、も一度寝むがよい。まだ夜は明けない。明日《あす》は、お前、三月十五日ではなかったかな?
【ルーシァス】 よくは存じませんが。
【ブルータス】 暦をみて来てくれ、そしてわしに知らせてくれ。
【ルーシァス】 かしこまりました、だんな様。
【ブルータス】 音をたてながら空を飛ぶ流星の群れが、あたりを明るく照らしているのでその光でわしは読む事ができる。
〔手紙を開き読む〕
「ブルータス、汝《なんじ》は眠っているではないか。目|覚《ざ》めよ! そして汝自身を見よ。ああ、ローマよ……云々《うんぬん》。語れ、打て、そして救え! ブルータス、汝は眠っているではないか。目覚めよ!」
このような扇動《せんどう》の手紙がしばしば落とされているのをわしは拾って読んだことがある。
「おお、ローマは……云々」これをこのようにわしはおぎなわねばなるまい、ローマが一人の男の権威におそれおののいていなければならないのか? おお、ローマが? わしの祖先の人たちはローマの街《まち》々から、タークインが王と呼ばれた時、彼を追いはらった。「語れ、打て、そして救え!」わしは語れ、打てと懇願されているのか? おお、ローマよ、わしは汝に約束する、もし救済がともなうならば、汝はその嘆願をこのブルータスの手から、十分に求めることができるだろう。
〔ルーシァス登場〕
【ルーシァス】 だんな様、三月はもう十五日になりました。
〔舞台奥でノックの音〕
【ブルータス】 よし、門の所へ行け。だれかが戸をたたいている。
〔ルーシァス退場〕
キャシアスが、シーザーをたおすようにわしを扇動して以来、わしは全然眠っていない。おそろしいことを実際の行動にあらわしてゆくことと、はじめてそれを考えるようになったその気持ちの間はすべて妄想《もうそう》や、おそろしい悪夢のように思われる。人間の精神と肉体的な力とが、さかんに議論し合っている。そして小宇宙とも考えられるべき人間というものは、そんな時にはまるで暴動の状態におかれていると言ってもよいだろう。
〔ルーシァス登場〕
【ルーシァス】 義弟《おとうと》様のキャシアス様がお見えになっておりまして、だんな様にお目にかかりたいとおっしゃっております。
【ブルータス】 一人きりでか?
【ルーシァス】 いえ、だんな様、幾人かお連れの方とごいっしょでございます。
【ブルータス】 だれだかわかるか?
【ルーシァス】 いえ、だんな様、帽子を耳の所まですっぽりかぶっておられますし、お顔は半分は上着の中にかくしておられますので、お顔つきの特徴などで、どなたか見わけることなどとてもできません。
【ブルータス】 中に通してやれ。
〔ルーシァス退場〕
徒党を組んでやって来たのだな。おお、陰謀よ、お前は、あらゆる悪が自由にのさばり歩く夜においてさえ、その危険な顔をみせることを恥ずかしく思うのか? おお、もしそうであれば、昼間には、お前のそのおそろしい顔をおおうことができる暗い洞穴《ほらあな》をどこに見つけようとするのか? 捜すのはやめろ、陰謀よ! ただ、微笑と愛想《あいそう》のよい態度の中にかくすがよい。なぜならば、もしお前が、生来の顔つきそのままでまかり通るならば、暗黒の場所エレバスも、お前をさえぎってかくすだけの暗さは持たないであろうから。
〔陰謀者たち、キャシアス、キャスカ、ディーシァス、シンナ、メテラス・シンバーおよびトレボーニアス登場〕
【キャシアス】 おやすみの所をおさわがせして申しわけない。おはよう、ブルータス。お邪魔じゃなかっただろうか?
【ブルータス】 わたしはもう一時間も前から起きていた。全然眠っていないのだ。君といっしょに来たのは、わたしの知っている人たちかね。
【キャシアス】 そうだ、皆一人残らず。そしてその一人一人が願っているのは、すべてのりっぱなローマ人が君についてもっているのと同じ意見を、君も、自分自身に対して持ってもらいたいということだ。これはトレボーニアス。
【ブルータス】 よく来てくれました。
【キャシアス】 こちらはディーシァス・ブルータス。
【ブルータス】 ようこそ。
【キャシアス】 これがキャスカ、こちらがシンナ、そしてこちらがメテラス・シンバー。
【ブルータス】 皆さん、ようこそ。で、夜も眠れないほどのどんな心配事があって、こうして、起きているのですか?
【キャシアス】 ひとこと話があるのだが。
〔彼ら小声で話し合う〕
【ディーシァス】 こっちが東だね、ここから夜が明けてくるというわけだな?
【キャスカ】 いや、ちがう。
【シンナ】 いえ、いえ、失礼ながら、そうなんです。ほれ、あそこの雲にねずみ色の光線が縞《しま》のようになっているのが、日が昇《のぼ》る前ぶれですよ。
【キャスカ】 君たち二人とも、たしかに間違っているのだ。ほうら、わたしの剣の先が示しているこの方角に、太陽は、まだ三月だという年の若さから考えてみても、だいぶ南の方にかたよって昇ってくるのだ。あと二か月もすると、ずっと北寄りの方に、太陽はその姿をあらわすというわけだ。だから真東はキャピトルのある方向、こっちの方に当たるわけさ。
【ブルータス】 さあ、もう一度、皆さん一人一人握手してください。
【キャシアス】 そしてわれわれの決意を誓い合うとしよう。
【ブルータス】 いや、誓う必要はない。もしも人々の表情や、われわれの精神的苦悩や、世の中の堕落が──もしもこれらがわれわれの動機として弱すぎるというなら、さっさと解散して、ここから各自家に帰って惰眠をむさぼるがよい、そして、傲慢《ごうまん》な暴虐に思う存分力をふるわすがよい、われわれ一人一人が彼の気まぐれのままに倒れるまで。しかし、もしこれらが、わたしはそうだと確信しているのだが、臆病者をもふるいたたせ、涙もろい弱い婦女子の心をも勇気をもって鍛えるだけの熱い火をもっているならば、それならば同胞諸君、われわれを事態の救済に赴《おもむ》かせるのに、われわれ自身の主義主張以前に何の拍車を必要としようか? 秘密をかたく守るローマ人たちは、いったん約束をとり交《かわ》したなら、それをけっして破ることはないはずなのに、どんな他の契約の必要があろうか? いったんわれわれが死を賭《と》しても事を行なおうと、正義と正義で約束を交した以上、それ以外のどんな誓言《せいごん》が必要だと言うのか? 誓言などは、僧侶か、臆病者か、ごまかしをする者か、老いぼれの能なしか、不正と知っていながらもそれに甘んじる意気地《いくじ》なしかに任せておけ。いいかげんな主張によって、悪事をたくらむ者どもに誓言させておけばよいのだ。だがしかし、われわれの主張や、その実行に誓言が必要だと考えて、われわれの企ての正しさや、われわれの精神の不屈の強さを汚《けが》すことはやめようではないか。もしもローマ人が、いやしくも彼の口にした約束のほんの一部分でも破ることがあったとすれば、一人一人のローマ人のもっている、しかもりっぱに保っている血の一滴一滴が不純なものだと言ってよかろう。
【キャシアス】 だが、シセローはどうするか? 気持ちを探って見ようか? われわれにとっては有力な同志だと思うのだが。
【キャスカ】 彼を仲間|外《はず》れにしてはならない。
【シンナ】 そうですとも、むろんのこと。
【メテラス】 ぜひとも仲間に入れましょう。彼の白髪はわれわれに対してもよい評判をかちえることができるだろうし、われわれの行為に対して世の中の人の賛同を得ることができるでしょう、彼の分別が、われわれの実行を支配していたと言われるでしょう。われわれの若さや奔放さは全然あらわれることなく彼の謹厳さの下にかくされてしまうでしょう。
【ブルータス】 彼の名前をあげることはやめてくれ。彼に打ち明けるのはやめよう。彼は他人の言い出した事だったらけっしてついて来はしないのだから。
【キャシアス】 それじゃあ、彼はやめにしよう。
【キャスカ】 そうだ、考えて見れば仲間にふさわしくない。
【ディーシァス】 ところでシーザーだけをたおして他の者には手を下《くだ》さないのですか?
【キャシアス】 ディーシァス、いいことに気がついてくれた。マーク・アントニー、あのようにシーザーに愛されている彼をシーザーといっしょにたおさずに生かしておくことはけっしてしてはならない。彼がずるく立ち回って事を計る者だといまにきっと解《わか》るだろう。君らは彼のやり方を知っているだろう? もし彼がそれをうまく利用すると、われわれ皆が困るような事態になりかねない。それを前もってやらせないために、アントニーもシーザーといっしょにたおさなければならん。
【ブルータス】 それではわれわれのやることはあまり残忍ではないか、ケイアス・キャシアス、首を切っておいて、その上手足までも切りきざんでしまうようなものだ、まるで腹立ちまぎれに殺してしまって、その後まで憎みつづけるようなものだ、アントニーはシーザーの手足にすぎないではないか。われわれは|いけにえ《ヽヽヽヽ》の捧げ手であって、屠殺《とさつ》者であってはならない、ケイアス。われわれすべてはシーザーの精神に反対して立ち上がったのだ、そして人間の精神には血は流れていないはずではないか。おお、われわれがただ、シーザーの精神だけを手に入れて、肉体を切りさいなむことがなければよいのだが。おお、何ということだ、シーザーはどうしても血を流さなねばならないのだ! さあ、諸君! われわれは勇敢に彼を殺そうではないか、怒りに任せてではなく。われわれは彼を神々にささげるにふさわしく料理しよう。猟犬の餌食《えじき》になる死肉のように切りさいなんではならない。そして、ちょうど巧みに行動する主人のように、われわれの心はその召使いである感情をかき立てて、怒り狂った行為をさせ、それから後でそれをとがめるようなふりをしよう。そうすれば、きっと、われわれの目的は憎しみからではなく、必要に迫られたものとなろう。また一般民衆の目にそのように映れば、われわれは殺人者ではなく、粛清《しゅくせい》者と呼ばれるであろう。それから、マーク・アントニーについては、考えないでもよいのだ、なぜなら、シーザーの首が切りとられてしまった後の一本の腕のように彼には何もできはしないのだから。
【キャシアス】 だが、何だかわたしは不安だ。なぜなら、彼がシーザーに対してもっている深い愛は──
【ブルータス】 まあ、いいではないか、キャシアス、彼のことなど考えるな。もしかりに彼がシーザーを愛しているとしても、彼にできる事は、彼自身に対してだけ、つまり、思いなやんで、シーザーのために死ぬだけだ。そのくらいできれば結構なくらいなのだ、なにしろ彼は遊び好きで、奔放で、交際ずきの男だから。
【トレボーニアス】 彼のことは心配するには及ばない。あの男は生かしておきましょう。彼は生きのびて、やがてこの事件を笑って語るでしょうよ。
〔時計が鳴る〕
【ブルータス】 静かに時計の数をかぞえたまえ。
【キャシアス】 三時を打った。
【トレボ】 もうおいとまする時間です。
【キャシアス】 だが、まだ疑問だ、シーザーが今日外出するかどうかわからないぞ。なぜなら、最近シーザーはひどく迷信的になっていて、幻影とか、夢とか、前兆などというものに対して、かつて彼がもっていた強い意見をすっかり捨て去ってしまったようだ。だから、最近のこの明らかにあらわれている前兆とか、今夜のようなかつて前例を見ないほどの恐ろしい現象が原因で、また、彼に仕えている占い者たちの勧告があったら、彼は今日、キャピトルに出て来ないかもしれない。
【ディーシァス】 そんな事は心配に及ばない。もし彼がそう決めているなら、わたしが説きふせてみせます。というのは彼は一角獣が樹木にだまされて、熊《くま》は鏡でだまされて、象がおとし穴にだまされて、ライオンが|わな《ヽヽ》にかかって、生けどりになる話をきき、人間が追従者によってだまされる話をきくのが好きなのです。ところであなただけは追従者がきらいですねとわたしが言うと、こんな時もっとも追従にのっているのに、そうだと答えます。わたしに任せといてください。わたしなら彼の気分をうまくあやつることができますし、キャピトルにつれてくることもできると思います。
【キャシアス】 いや、われわれ皆で行って連れてこようではないか。
【ブルータス】 八時までに。どんなにおそくともそのくらいだね?
【シンナ】 どんなにおそくともそのくらいに、おくれないようにしてください。
【メテラス】 ケイアス・リゲリアスはシーザーに敵意をもっている、ポンペイをほめたというので、シーザーが彼を叱《しか》ったからです。どうしてだれもあの男のことを思いつかないのでしょうか。
【ブルータス】 さあ、メテラス、彼の家を訪《たず》ねてみてくれ。彼はわたしに好意を持ってくれている。わたしもそれだけの事はしている。ここへ来るように言ってくれないか。きっと彼を説得してみせる。
【キャシアス】 夜が明けそうだ。もうおいとましよう、ブルータス、諸君たちも解散してくれたまえ。ただ、君たちが言ったことは覚えていてくれ。そして誠実なローマ人らしくふるまってくれ。
【ブルータス】 さあ、諸君、明るく愉快な様子をしていてくれ。われわれの表情に、われわれの計画をあらわすことなく、ローマの俳優たちのするように、疲れを知らない元気と、威厳ある落ちつきをもってふるまってほしいのだ。じゃあ諸君、これで、さようなら。
〔一同ブルータス一人を残して退場〕
おい、ルーシァス、ぐっすりねこんでしまったな? まあ、いい、甘い蜜《みつ》でしっとりと重たくなった眠りを十分に味わうがよい。忙しい世間のわずらいが人間の頭の中にもたらす妄想《もうそう》や幻影のようなものをおまえは知らないのだ、だからおまえはこんなにぐっすり眠ることができるのだ。
〔ポーシァ登場〕
【ポーシァ】 ブルータス! あなた!
【ブルータス】 どうしたというのだ、ポーシァ? なぜ今ごろ起きて来たのだ? こんなきびしい寒さの朝に、弱い身体《からだ》をさらすのはお前の健康によくないことだ。
【ポーシァ】 あなたのお身体《からだ》にもよくありません。あなたはひどい方、ブルータス、ベッドから、こっそり抜け出しておしまいになって。昨夜もお食事のとき、あなたは突然立ち上がって、そこらを歩き回ったりなさいました、物思いにふけって、ためいきをついて、腕組みをなさって。そして私《わたくし》が、どうなさったのかとおたずねしたら、こわい顔をなさって、私をにらみつけていらっしゃいました。私はなおもおたずねしますと、あなたは頭をかきむしって、とてもいらいらなさったように、足をふみならしていらっしゃいました。私はなおも強くおたずねしました。でもあなたは話してはくださいませんでした、おこったようにあなたは手をお振りになっておそばを離れるように合図をなさいました。私は退《さが》りました、とてもはげしくおこっていらっしゃるようにお見受けしましたので、これ以上お怒りをひどくしてはいけないとも思いましたので。また、男の方に時にありがちなように、ほんの一時の気まぐれのためだろうと思ってみました。そのためにあなたは、お食事もとらず、口もあまりおききにならず、おやすみにもなりません。もしその原因があなたのお気持ちをすっかり変えてしまったように、あなたのお姿もすっかり変えてしまったのでしたら、私はあなたをブルータスと見わけることもできますまい。ねえ、あなた、ご心配の理由をどうぞ私にお聞かせくださいませ。
【ブルータス】 身体《からだ》の調子がどうも悪いのだ。ただそれだけだ。
【ポーシァ】 ブルータスはかしこいお方、ですからお身体の調子が悪ければ、それをなおす方法をかならずお考えになるはずです。
【ブルータス】 そうとも、考えているさ、さあ、ポーシァ、おやすみ。
【ポーシァ】 ブルータスはご病気なのに、しめった朝の空気を吸い、胸をはだけてお歩きになるのが、健康によいとでもおっしゃるのですか? ブルータスはご病気なのに、健全なベッドからこっそり抜けだしてしまわれ、毒のある夜の空気の中に身をさらしたり、身体に悪いというしめった、汚《けが》れた空気を、あえてお吸いになったりして、病気をなおひどくなさるというのでしょうか? いいえ、ブルータスあなたは心の中に危険なご病気をお持ちなのです。それを妻である私の立場のもつ権利と力によって、当然私は知るべきだと思っています。私はひざまずいて、あなたのお気持ちを動かしたい、かつては賞《ほ》めていただいた私の美しさにかけて、あなたの愛の誓いのすべてにかけて、そして私ども二人を一つに結んだその大きな誓いにかけても、私はお願いしたいのです。どうぞ私に打ち明けてください。あなた自身であり、あなたの半身である私に、なぜそんなに気持ちがふさいでいらっしゃるのか、今夜あなたの所へ、どなたが来られたのか教えていただきたいのです。たしか六、七人の方《かた》がここにお見えでした。その方々は夜の暗やみからもお顔をかくしておいででした。
【ブルータス】 ひざまずくのはやめてくれ、ポーシァ。
【ポーシァ】 そうする必要はございません、あなたがやさしいブルータスでおありならば。結婚の約束の中に、ねえ、ブルータス、おっしゃってください、あなたご自身に関する秘密を私が知ってはならないということがきめられていますの? 私はあなた自身でありながら、それもある点についてだけ、条件づきでというわけなのですか? つまり、お食事のお相手をしたり、ベッドであなたをおなぐさめしたり、時々あなたにお話ししたりするだけですの? あなたの本当の愛情の、いわば町はずれに住んでいるというわけですの? もしそれだけの者なら、ポーシァはブルータスのなぐさみ女で、彼の妻ではありません。
【ブルータス】 君はわたしの真実の、りっぱな妻なのだ。この深く思いなやむ心を訪れる赤い血潮と同様にわたしにとってたいせつな妻だ。
【ポーシァ】 もしそれが本当でしたら、私はこの秘密を知るべきだと思います。私《わたくし》が女であることは認めます。でも女ではございましても、ブルータス様が妻となされた女なのでございます。私が女であることは認めます。でも女ではございましても、りっぱな名声を持った女、ケイトーの娘でございます。このような父を持ち、このような夫をもっておりながら、私が世間の普通の女と同じ強さしかもたないとお思いでしょうか? ご心配ごとをお話ください。私はけっしてそれを洩《も》らしたりはいたしません。私は、つねに変わらない誠実さのはっきりした証拠として、これ、このように私の|もも《ヽヽ》に自分からすすんで傷をつけてごらんに入れます。この傷の痛みをじっとがまんできる私が、自分の夫の秘密を守れないことがございましょうか?
【ブルータス】 おお、神々よ、どうかわたしをこのりっぱな妻にふさわしき者となしたまえ。
〔舞台裏で戸をたたく音〕
おや! だれかが戸をたたいている、ポーシァ、しばらく奥にはいっていてくれ。すぐにわたしの心の秘密をかならず君の胸に打ち明けてあげるから。わたしの計画のすべてを君にはなしてあげよう、この思いに沈んだひたいに書かれているすべての文字の意味を明かそう。さあ、いそいで行ってくれ。ルーシァス! 戸をたたいているのはだれだ?
〔ポーシァ退場〕
〔ルーシァスとリゲリアス登場〕
【ルーシァス】 病気の人がだんな様にお目にかかりたいと言っております。
【ブルータス】 メテラスの言っていたケイアス・リゲリアスだな。お前はさがっていてくれ。ケイアス・リゲリアス、どんなぐあいかな?
【リゲリアス】 病人の口からではございますが、朝のご挨拶《あいさつ》を申し上げます。
【ブルータス】 おお、勇敢なケイアス、お前はよりによってこんな時に、何だって病気になんかなったのだ! お前が病気でさえなければ!
【リゲリアス】 もしブルータスがその手に名誉の名にふさわしい計画をもっておられるのでしたら、わたしは病気でなどございません。
【ブルータス】 そのような計画をわたしはこの手にもっている、リゲリアス、もし、お前がそれを聞くだけの健康な耳をもっていればの話だが。
【リゲリアス】 ローマ人のあがめるすべての神々にかけて誓う、わたしは今ここにわたしの病気を投げすてよう! ローマの魂! ほまれ高きその身体《からだ》からうまれた勇敢な息子《むすこ》よ! あなたは魔法使いのように、わたしの死にかかった精神をよび起こしてくれました。さあ、わたしに走れと命じてください、そうすればわたしは不可能な事にも取り組んで努力しましょう、そして、それをやってのけましょう。何をなさろうというのですか?
【ブルータス】 病人をも健康にしてしまうような仕事だ。
【リゲリアス】 でも、何人かの健康な人を病気にしなければならないのではありませんか?
【ブルータス】 そのとおりだ、しなければならないのだ、ケイアス、何をするのか、目ざす相手のところに出かける途中で、わたしはお前に打ち明けることにしよう。
【リゲリアス】 さあ、お出かけください。新たに燃え立たされた心をもって、わたしはあなたに従います。何をするためにかは知りませんが、ただブルータスがわたしを導いてくださる、それだけで十分なのです。
〔雷鳴〕
それではついて来てくれ。〔退場〕
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第二場 ローマ。シーザーの家。
〔雷《かみなり》と稲妻。ジュリアス・シーザー、部屋《へや》着をきて登場〕
【シーザー】 昨夜は天も地も、相争っているかのようにさわがしかった。カルパーニアは三度、眠りの中でさけんでいた、「助けて! シーザーが殺される」と。だれかいないか?
〔召使い登場〕
【召使い】 だんな様、およびで?
【シーザー】 僧官たちにすぐささげものをするようにと命じてくれ、そして祈願の結果をわしの所に知らせるように言ってくれ。
【召使い】 かしこまりました。
〔カルパーニア登場〕
【カルパーニア】 あなた、どういうおつもりですの? お出かけになるのですか? 今日はあなたは一歩も家からお出になってはいけません。
【シーザー】 シーザーは行くのだ。わしをおどしているものはただ、わしの背中を見ただけだ。それらのものが、正面からシーザーの顔を見たならば、すぐに消え去ってしまうだけだ。
【カルパーニア】 あなた、私《わたくし》はいまだかつて前兆などを気にかけた事はありません。でも今は、前兆がおそろしくてならないのです。召使いの一人が申しますには、私どもが見たり聞いたりしたもの以外に、見張りの者が、とてもおそろしい物を見たそうです。雌《めす》のライオンが街《まち》の中で子を産んだとか、墓が口を大きく開いて、死人を外に吐き出したとか、隊伍、方陣を営々と整えて、戦闘態勢をしいた、おそろしい焔《ほのお》と燃えさかる戦士が雲の上で戦ったとか、それが血の雨をキャピトルの上にふらせたとか、剣をかわすおそろしい物音が空にひびきわたり、馬はいななき、死にひんした負傷者はうめき、亡霊が街々に細くしかもするどい声をあげてわめいたといいます。おお、シーザー、これらはまったく異常のことです、私は心配せずにはいられません。
【シーザー】 そうなるように全能の神々によって定められていたなら、どんな力によってもさけることはできない。だが、それでもシーザーは行くのだ。これらの前兆は、シーザー一人に対してでなく、世間一般の人々に対してもあるのだから。
【カルパーニア】 乞食《こじき》が死ぬときには、彗星《すいせい》もあらわれはいたしません。王者の死に際しては天全体がもえさかると申します。
【シーザー】 臆病者は彼らが死ぬ前に、幾度も死ぬ思いをするが、勇敢な者はただ一度しか死を味わうことがないのだ。わしが今までにきいたすべての不思議の中で、もっとも不思議に思われるのは、さけられぬ終わりである死は、それが来るべき時にかならずやって来ることを知っていながら、人々が死をおそれることだ。
〔召使いふたたび登場〕
予言者たちは何と言ったのだ?
【召使い】 彼らが申しますには、だんな様は今日はお出かけになりませんようにとのこと、なぜならば、ささげものの内臓を引き出して見ましたところ動物の体の中に心臓が見当たらなかったとのことです。
【シーザー】 神々はこれらのことを、臆病者を恥ずかしめるためにしておられる。もしシーザーが、今日、恐怖のために家にとどまったならば、彼は心臓のない動物になってしまうだろう。いや、シーザーはそんなことはしない。危険よりもシーザーがはるかにおそろしいことを危険自身が知っている。危険とシーザーとは同じ日に、同じ胎《はら》からうまれた二頭のライオンだ。そしてわしのほうが兄で、もっとおそろしいのだ。シーザーは行くのだ。
【カルパーニア】 ああ、あなた! 自信のあまり、あなたの知恵はなくなってしまいました。どうぞ、今日はお出かけにならないでください。家におとどまりになるのは、あなたご自身のではなく、私《わたくし》の心配のためだとおっしゃってください。マーク・アントニーを元老院に使いにやることにいたしましょう。そして彼に、あなたが今日はご気分がわるいからと言ってもらいましょう。どうぞ、ひざまずいてお願い申し上げます、これだけはおききくださいませ。
【シーザー】 マーク・アントニーに、わしは今日気分がわるいと言わせよう。そしてお前の気のすむように、わしは家にとどまることにしよう。
〔ディーシァス登場〕
ディーシァス・ブルータスが来た、彼に伝言を頼もう。
【ディーシァス】 シーザーばんざい! おはようございます。シーザー閣下! わたしはあなたを元老院にご案内するためおうかがいいたしました。
【シーザー】 ちょうどよいところに来てくれた、わしの挨拶《あいさつ》のことばを元老院議員たちに持って行ってくれ、皆にわしは今日は出席はしないと伝えてくれ。「出席できない」ではまちがい。「出席はとてもできない」ではなおまちがいだ。今日はわしは「出席はしない」のだ。皆にそう言ってくれ、ディーシァス。
【カルパーニア】 彼は病気だと言ってください。
【シーザー】 シーザーが嘘《うそ》をつくのか? この腕をはるか遠くまでのばして、征服をなしとげたシーザーが年寄りどもに真実を伝えるのを恐れるとでも言うのか? ディーシァス、彼らに、シーザーは今日は出席はしないと言ってくれ。
【ディーシァス】 いと力強きシーザー閣下、どうかわたしにその理由をお教えください。わたしが彼らに伝えます時に、皆に笑われることのないように。
【シーザー】 理由はわしの意志にある。わしは出席はしないのだ。それだけで元老院を納得させるには十分なのだ。だが、君個人を納得させるために──なぜならわしは君を愛しているから──君には理由を教えてやろう。ここにいるわたしの妻カルパーニアがわしに家にとどまれと言うのだ。妻は昨夜夢を見た。その夢の中で、わしの像が百ほどの口からまるで泉がふき出すかのように、血潮がほとばしり出るのを見たのだ。多くのたくましいローマ人が、笑いながらやって来て、彼らの手をその血潮に浸すのを見たというのだ。妻はこれを警告、前兆と考え、さし迫った不幸と考えずにはいられないのだ。そして妻はひざまずいて、わしにどうしても家にとどまれとたのんでいるのだ。
【ディーシァス】 その夢の解釈はまちがっております。それはたいへんに都合よく、幸先《さいさき》のよい夢なのです。閣下の像が数多くの管から血潮をふき出しており、そこに大勢のローマ人たちが笑いながら手を浸したというのは、閣下から、この偉大なローマが、復活の血を吸い上げ、偉い方々《かたがた》が、その血に染まった布や、記念品や紋章を手に入れようと群がり、ひしめき合っているということであります。これが奥様のみられた夢の解釈であります。
【シーザー】 なるほどそれもうまい解釈だな。
【ディーシァス】 そうですとも。わたしの申し上げることをお聞きになり、ご判断くだされば、おわかりと思います。元老院は今日、偉大なるシーザー閣下に王冠をささげることを決定いたしました。もし彼らに、今日ご出席にならないことをお伝えになりましたら、彼らの気持ちは変わるかもしれません。それに、もしそんなことになりますと、だれかが、こんなばかなことを言い出さないとも限りません、「元老院は、次の機会、シーザーの奥方《おくがた》がもっとよい夢をみるまで、それまでは散会にしておこうではないか」と。もしもシーザー閣下が身をかくしたりなされば、きっと陰口を言うでしょう、「何だ、シーザーはこわがっているのだな」などと。ああ、どうか、お許しください、シーザー閣下、閣下への深い敬愛の念が、わたしにこう言わせるのです、分別もなにも、愛情についまけてしまいましてね。
【シーザー】 カルパーニア、お前の心配はなんとばかばかしく思われることだろう、そんなことに心を動かした自分自身が恥ずかしくてならない。服を出してくれ、わしは出かけるぞ。
〔ブルータス、リゲリアス、メテラス、キャスカ、トレポーニアス、シンナ、パブリアス登場〕
おお、パブリアスがわしを連れにやってきたではないか。
【パブリアス】 お早うございます、シーザー閣下。
【シーザー】 よく来てくれた。おお、ブルータス、君もこんなに朝早くおきたのか? おはよう、キャスカ、ケイアス・リゲリアス、君をこんなにげっそりやせさせてしまった|おこり《ヽヽヽ》の発作のほうがこのシーザーよりもずっと君の敵だといっていいそ。何時だね?
【ブルータス】 八時を打ったところです。
【シーザー】 わざわざ迎えに来てくれてどうもありがとう。
〔アントニー登場〕
夜ふかしして、飲みさわぐくせのあるアントニーまでがこんなに早起きして来た。おはよう、アントニー。
【アントニー】 いと気高きシーザー閣下、おはようございます。
【シーザー】 召使いたちに支度《したく》を命じてくれ。すっかり待たせてしまってほんとうに悪かったな。さあ、シンナ、さあ、メテラス、おお、トレボーニアス! 君とは一時間も話すほどの話がたまっているぞ。どうか今日わしを訪ねて来たことを覚えていてくれ給え。わしのそばにいてくれ、わしが君のことを忘れるといけないから。
【トレボーニアス】 承知いたしました。〔傍白〕すぐそばにいてやるぞ、シーザーの親友たちが、わしがはなれていればよかったと思うほど近くに。
【シーザー】 さあ諸君、中にはいって、わしといっしょにブドー酒でものんでくれ。それから、われわれは友だちらしく、いっしょに出かけようじゃないか。
【ブルータス】 〔傍白〕|らしい《ヽヽヽ》ものが、かならずしもそのとおりのものではないのだ、それを思うとブルータスの心はいたむのだ。
〔一同退場〕
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第三場 ローマ。キャピトル近くの街上。
〔アーティミドーラス紙片を読みながら登場〕
【アーティミドーラス】 「シーザー、ブルータスに用心せよ。キャシアスを警戒せよ。キャスカに近づくな。シンナから目をはなすな。トレボーニアスを信頼するな。メテラス・シンバーに注意せよ。ディーシァス・ブルータスは汝を愛してはいない。汝はケイアス・リゲリアスの恨みを買うようなことをした。これらすべての人の心は、すべてシーザー反逆に向けられている。もし汝《なんじ》が不死の身でないならば、身辺警戒せよ。油断は反乱に道をつけるのだ。大いなる力の神々よ、汝を守りたまえ!
汝の味方、アーティミドーラスより」
ここでわしはシーザーが通りすぎるまで待っていよう。そして直訴《じきそ》人のように、彼にこれを渡すことにしよう。わしの心は悲しみでいっぱいだ、徳だけでは悪意のおそろしい牙《きば》をまぬがれることはできないからだ。もし汝がこれを読めば、運命の神も反逆者たちと一味になって戦うだろう。〔退場〕
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第四場 ローマ。ブルータスの家の前。
〔ポーシァとルーシァス登場〕
【ポーシァ】 ねえ、お願いだから、元老院まで一走り行って来ておくれ。返事をするためにここにぐずぐずしている必要はないよ、すぐに行っておくれ。なぜ、ぐずぐずしているの?
【ルーシァス】 ご用の趣《おもむき》を伺いますために、奥様。
【ポーシァ】 わたしがお前にあちらで何をするか言いつける前に、お前が向こうに行って、またここに帰って来てくれればいいと思うよ。おお、ひとすじの誠実な心よ! どうぞわたしの味方になっておくれ! わたしの心とわたしのことばの間に、大きな山をすえておくれ! わたしは男の心はもっているけれど、女の力しか持たない。女にとって秘密を守るのは何とむずかしいことか! まだお前はここにいたの?
【ルーシァス】 奥様、何をいたしましたらよろしいのですか? キャピトルへ走ってゆく、それだけでございますか?
【ポーシァ】 そう、だんな様がお元気かどうか、しらせておくれ。お出かけの時、ご気分がお悪いようだったから。それからシーザーが何をなさるかよくみとどけて来ておくれ、どんな訴人がいるか。おや、お聞き。あれは何の音かしら?
【ルーシァス】 何も聞こえませんが、奥様。
【ポーシァ】 お願いだからよく聞いておくれ。わたしには何か騒ぎのようにがやがやする音が聞こえる、そしてその音を風がキャピトルから運んで来るのだよ。
【ルーシァス】 本当に、奥様、私には何も聞こえません。
〔予言者登場〕
【ポーシァ】 こちらへおいで、どっちの方向に行っていたのかい?
【予言者】 自分の家におりました、奥様。
【ポーシァ】 何時だろうね?
【予言者】 かれこれ九時でございます、奥様。
【ポーシァ】 シーザーはまだキャピトルには行かないかい?
【予言者】 奥様、まだでございます。私《わたくし》は彼がキャピトルに出かける所を見るために場所を取りに行くところです。
【ポーシァ】 お前は何かシーザーに訴え事があるのだね? そうだろう?
【予言者】 さようです、奥様。もしもシーザーがその気になって、私の言う事を自分から聞いてくれるようなら、ご自分をたいせつにするよう願いたいと思っております。
【ポーシァ】 何か彼自身に危害が加えられるとでも思うのかい?
【予言者】 何もはっきりしたことはわかりませんが、そうかもしれないと心配しております。おいとまいたします。ここは狭すぎます。シーザーの後からついてくる人々の群れ、元老院議員や、執務官や、一般の直訴人たちの群れに私《わたくし》のように弱い者はおしつぶされてしまいます。私はもっと広い空《あ》いた場所を捜すつもりです。そこで偉大なシーザーが通りかかる時、彼に声をかけようと思います。
【ポーシァ】 もう中にはいらなければ。ああ、なんと女の心は弱いものなのか! ああ、ブルータス! どうか天があなたの計画を成功させてくださるように! きっとルーシァスは聞いたにちがいない。ブルータス様はね、シーザーがとうてい許してはくれないような訴えをなさるの。おお気が遠くなる。さあ、早くお行き、ルーシァス。そしてだんな様にわたしからよろしくと言っておくれ。わたしが元気だと伝えておくれ、そしてすぐに帰っておいで、そして、だんな様が何とおっしゃたか、わたしに知らせておくれ。
〔それぞれ退場〕
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第三幕
第一場 ローマ。キャピトルの前。
〔ラッパの吹奏。シーザー、ブルータス、キャシアス、キャスカ、ディーシァス、メテラス、トレボーニアス、シンナ、アントニー、レピタス、アーティミドーラス、ポピリアス、パブリアス、そして予言者登場〕
【シーザー】 三月十五日が来た。
【予言者】 はい、シーザー閣下、でもすぎ去りはしません。
【アーティミドーラス】 シーザー閣下、ばんざい! どうかこれをお読みください。
【ディーシァス】 トレボーニアスが、閣下、あなたのおひまの時に、この請願書にお目どおし願いたいと申しております。
【アーティミドーラス】 おお、シーザー閣下、私《わたくし》のほうをまずお読みください。これはあなたご自身に関係のあることです。閣下、どうぞお読みください。
【シーザー】 わし自身に関係のあることならば、最後にすべきだ。
【アーティミドーラス】 どうぞぐずぐずなさらず、閣下、すぐこれをお読みください。
【シーザー】 おい、この男は気でも狂ったか?
【パブリアス】 さあ、どいてくれ。
【キャシアス】 何だ、お前は街《まち》のまん中で請願を無理じいしようとするのか? キャピトルへ来るのだ。
〔シーザーと他の者たち元老院にはいる〕
【ポピリアス】 皆さん今日のご計画が成功しますように。
【キャシアス】 何の計画かね、ポピリアス?
【ポピリアス】 さようなら。
〔彼のもとを去りシーザーの所に行く〕
【ブルータス】 ポピリアス・レナは何と言った?
【キャシアス】 われわれの今日の計画が成功するようにと言った。われわれのすることが洩《も》れたのではないかな?
【ブルータス】 おや、彼はシーザーの所に行こうとしている。あの男に注目しろ。
【キャシアス】 キャスカ、早く片づけてしまおう。邪魔《じゃま》がはいるのが心配だ。ブルータス、どうしようか? もしこれが発覚してしまったら、キャシアスかシーザーかどちらか一人は帰れないぞ、わたしは自殺してしまうからな。
【ブルータス】 キャシアス、安心していていいぞ。ポピリアス・レナはわれわれの計画のことなどしゃべってはいない、ほら、見ろ、彼は笑っているし、シーザーも顔色一つ変えていない。
【キャシアス】 トレボーニアスはきっかけを心得ている。見ろよ、あの男マーク・アントニーを連れ出したぞ。
〔アントニーとトレボーニアス退場〕
【ディーシァス】 メテラス・シンバーはどこにいる。あの男に早速行かせて、彼の請願をシーザーにさせようじゃないか。
【ブルータス】 彼の用意はできている。すぐそばにいて応援してやれ。
【シンナ】 キャスカ、君がまず最初に手をくだすのだぞ。
【シーザー】 皆揃ったかな? シーザーとその元老院のただすべき不正な事、まちがったことは何かないだろうか?
【メテラス】 いと高く、偉大にして、全能なるシーザー閣下、メテラス・シンバーはあなたの足もとに身を投げだし、へりくだった心をささげます──
〔ひざまずく〕
【シーザー】 シンバー、そのような事はやめるがよい。そのようにひざまずき、低く頭をさげることによって普通の人間の感情を高め、あおり立てることができるかもしれぬ、そして、すでに定められた掟《おきて》、厳然として存在する法を子供の法則にしてしまうかもしれない。しかしシーザーが理性にもとる気まぐれな感情に左右され、おろか者をとろけさせてしまうようなもの、まことしやかなことばや、低く身をかがめる礼節や、いやしい犬のような追従《ついしょう》で、本来の正しいりっぱな性質をなくしてしまうなどと馬鹿なことを考えてはいけない。君の兄弟は法律によって追放になったのだ。もしも君が身をかがめ、彼のために嘆願し、へつらうようなことをすれば、わしは犬でもけとばすように、君をけとばしてやるぞ。いいかな。シーザーはまちがったことはしない。そしてまた、理由もなしに納得することもないのだ。
【メテラス】 おお、だれか、わたしのよりもっとりっぱなことばで、偉大なシーザーの耳にもっと気持ちよくひびくことばで、兄の追放を解いてくれるよう願ってはくれないものか?
【ブルータス】 シーザー、わたしはあなたの手に接吻《せっぷん》する、これはおせじではない、パブリアス・シンバーがすぐに追放を解かれて自由の身になれるよう、あなたのお力を借りたいのです。
【シーザー】 なんだと? ブルータス。
【キャシアス】 許されよ、シーザー、シーザー、許されよ。キャシアスはあなたの足もとに低く低くひれふして、パブリアス・シンバーの自由解放をお願いいたします。
【シーザー】 もしわしが君であったら、すぐに心動かされたかもしれぬ、もしわしが嘆願で人の心を動かす人間なら、わしも嘆願で心動かされるかもしれぬ。だが、このわしは北極星のように不変なのだ。その動くことのない、不変の性格については、宇宙の中、どこにもこれに比するものはない。大空は数限りない多くの星でいろどられている。それは皆、火で、一つ一つがかがやいているのだ。だがすべての中でただ一つ、不変の位置を守っている星がある。同じ事がこの世の中についても言える。そこには多くの人間がいる、人間というものは肉体をもち、理性も持っている。しかも大ぜいの人間の中でただ一人だけが、何ものにも動かされることなく、彼の地位を守っている。如何《いか》なる動きにも左右されずに。それがこのシーザーなのだ。それをよくわかるように教えてやろう、この一事においても──シンバーを追放するという意見を、わしはけっして変えない、だからこれからもずっと追放の状態におくのだ。
【シンナ】 おお、シーザー!
【シーザー】 さがれ! オリンパスの山を動かすというのか!
【ディーシァス】 偉大なるシーザー閣下!
【シーザー】 ブルータスがひざまずいても無駄だったではないか?
【キャスカ】 こうなれば、もう腕ずくだ!
〔彼らシーザーを刺す〕
【シーザー】 お前もか、ブルータス? ではもうこれまでだ!
〔死ぬ〕
【シンナ】 自由だ! 解放だ! 暴虐はたおれたぞ! 走れ、宣言しろ! 街中《まちじゅう》をふれて回れ!
【キャスカ】 だれか、市民の祭壇に行って、大声でさけべ、「自由、解放、今こそわれらのもの!」と。
【ブルータス】 市民諸君。元老院の諸君、おどろかないでほしい。逃げないでじっとここにいてくれ。野心の借りが支払われたのだ。
【キャスカ】 ブルータス、祭壇に上がりなさい。
【ディーシァス】 キャシアスもいっしょに。
【ブルータス】 パブリアスはどこにいる?
【シンナ】 ここにいます。この騒ぎにすっかり動転しています。
【メテラス】 皆ここに集まっていよう。シーザーの味方のものが、もしかすると──
【ブルータス】 集まっている必要はない。パブリアス、元気を出すのだ。君の身に危害が加えられることなどありはしないし、ほかの者も同様、そんな心配は不必要だ、皆にそう言ってくれ、パブリアス。
【キャシアス】 さあ、もうここを立ち去るほうがいい、パブリアス、皆がこちらに押しかけて来て、年よりの君に何かまちがいでも起こすといけない。
【ブルータス】 そうしてほしい。手をくだしたわれわれ以外はだれも、この行為について責任をとる必要はない。
〔トレボーニアス登場〕
【キャシアス】 アントニーはどこへ行った!
【トレボーニアス】 自分の家に、すっかり動転して逃げ帰りました。男も、女も、子供たちも、目を見はって、大声で叫び、まるで最後の審判の日が来たかのように走り回っています。
【ブルータス】 運命よ、どうしようというのか! いつかは死ぬことを、われわれは知っている。ただ人間にとって問題なのは、その時期であり、それまでの生命の長さであるのだ。
【キャシアス】 彼の人生から二十年を切り捨ててやることは、その年月だけ、死をおそれる恐怖を切り捨ててやることになるのだ。
【ブルータス】 そのように考えれば、死もまた恩恵と言える。とすると、われわれはシーザーの味方だ。彼が死を恐れる時間を縮めてやったからだ。さあ、ローマ人諸君、ひざまずいて、われわれの手を、シーザーの血潮に浸そうではないか! ひじのところまでも血潮に浸し、われらの剣を血でよごそう。それがすんだら出かけよう、広場まで。そして真赤《まっか》に染められた武器を頭上高くかかげて、皆で叫ぼうではないか、「平和だ、自由だ、解放だ!」と。
【キャシアス】 さあ、ひざまずいて手を血潮に浸そう。これからさき何年の間われわれのこの崇高な場面がくりかえし上演されるであろうか、まだうまれぬ国において、まだ知られぬことばで!
【ブルータス】 これからさき幾たびか、シーザーは演技の上で血を流すことか! 今ここ、ポンペイの像のもとに、ちりあくたにひとしい姿で横たわっている彼が!
【キャシアス】 これが上演されるたびに、われわれの結束かたい仲間は、われらの祖国に自由を与えたものと呼ばれることになるのだ!
【ディーシァス】 さあ、出かけようか。
【キャシアス】 そうだ、出かけよう! ブルータスを先頭に、みんなはあとにつづいて行こう。ローマに生をうけた、もっとも勇敢な、もっともすぐれた心を持って!
〔召使い登場〕
【ブルータス】 まて! だれか来たぞ! アントニーの味方だな。
【召使い】 かくのごとく、ブルータス様、私《わたくし》の主人がひざまずけと申しました。かくのごとく、マーク・アントニーはひれふせと命じましてございます。そして、低くひれふしましたら、かくのごとく申し上げよと命じましてございます。ブルータス様は高潔な、賢明な、勇敢な、誠実な方《かた》であられる、シーザーは全能で、勇敢で、王者らしく、やさしい方であられた、われブルータスを愛し、かつあがめると申せとの事、われシーザーをおそれ、あがめ、かつ愛していたと申せとのことであります。もしもブルータスが、アントニーの身の安全の保証をはっきりと断言するならば、かつシーザーがいかに倒れ死するに値する者であるかを答えてくれるならば、アントニーはもはや、死せるシーザーを愛することはせず、むしろ生きているブルータスを愛するであろう、高潔なるブルータスの運命と使命とにしたがい、いまだかつてなかったような不可解なこの危機に際しても、まったき信頼をもって共に行動しよう。このように主人は申しております。
【ブルータス】 お前の主人は賢明で勇敢なローマ人だ。わたしはそのように確信している。彼に伝えてくれ、どうかこの場所に来てほしいと。十分納得のゆくようにわたしが話をしよう。わたしの名誉にかけて、その身の安全を必ず保証して帰そうと。
【召使い】 直ちに連れてまいります。
【ブルータス】 あの男を味方にするほうがよいとわたしは考えている。
【キャシアス】 そうできればよいのだが。しかしわたしにはまだあの男に関しての不安を捨て切れない。わたしの不安はふしぎにいつも実現されるのだ。
【ブルータス】 アントニーがやって来た。よく来てくれた、アントニー。
〔アントニーふたたび登場〕
【アントニー】 おお、偉大なるシーザー! 汝《なんじ》は今かくもみじめに横たわるか! 汝のすべての征服、栄光、勝利、戦利品は、いまかくも小さなものに縮小してしまったのか! さらばだ。諸君、わたしはどういう意向でこの事が行なわれたか知らない、このほかにだれが血を流さねばならないのか、だれが病根をもっているのか、わたしは知らない。もしそれがわたし自身であるなら、たった今、この時、シーザーの死の時ほどふさわしい時はない。また君たちの剣ほど、この世でもっとも高貴な血を浴びて彩《いろど》られているその剣ほど、これを行なうにふさわしい道具はまたとあるまい。どうか、お願いだ。もしこのわたしを責めるのならば、今だ。諸君の|あけ《ヽヽ》に染まった手が血けむりをあげている時、思う存分、満足のゆくまでその手を使うのだ。一千年も生きようとも、今ほど死に対する心の準備ができている時はまたとないのだ。この時代のもっともすぐれた偉大な精神の持ち主である諸君の手にかかって、ここ、シーザーのかたわらに死ぬことができるならば、これほどわたしにとって満足な場所、これほど満足な死に方があろうか!
【ブルータス】 おお、アントニー、われわれから君の死を求めることはやめてくれ。君がその目で見ているわれわれの手、われわれの行為によって、われわれは今、世にも血なまぐさく、残酷に見えるにちがいない。だが、君は、われわれのこの手だけを見ている、この手が行なった血なまぐさい仕事だけをみているのだ。君にはわれわれの心はわからないのだ。われわれの心はあわれみにみちている。ローマ全体が受けている不幸なわざわいに対するあわれみだ。ちょうど火が火を消すように、あわれみがあわれみを消して、われわれはシーザーに対してこのような行動にでたのだ。君に対しては、われわれは剣の|きっ《ヽヽ》先を向けていないのだ、マーク・アントニー。われわれの腕は敵意にみちているように見えるが、われわれの心は兄弟愛にみちて、愛情と善意と尊敬の念をもって、心から君を迎え、受け入れようとしているのだ。
【キャシアス】 君の意見は、新しい権威の行使に当たっては、他のだれにも劣らぬ強い力を持つはずだ。
【ブルータス】 だが、しばらくの間待ってくれないか。われわれが一般大衆をしずめるまで。彼らは恐怖ですっかりおびえているから。それが済んだら、われわれは事の次第をすっかり説明しよう、シーザーを打ち倒した時にも彼を愛してやまなかったこのわたしが、なぜこのような事をしたかを。
【アントニー】 君たちの賢明な配慮はよくわかっている。さあ、諸君、一人一人、血に染まったその手に握手しよう。まず、第一に、マーカス・ブルータス、あなたと握手しよう。次に、ケイアス・キャシアス、君の手をとろう。さあ、ディーシァス・ブルータス、君の手を。さあ今度は君だ、メテラス。さあ、シンナ。それから勇敢なキャスカ、君の手を。最後になったが、親愛の情にかけてはけっして他に劣らぬつもりだ、トレボーニアス。さあ、諸君──ああ、わたしは今何と言ったらよいのか? わたしの信用は今は不安定な基礎の上に立っている。諸君がこのわたしを判断する方法は二つにひとつ、しかもどっちみち悪い。わたしを臆病者と考えるか、追従《ついしょう》者と考えるかだ。このわたしが汝《なんじ》を愛したことは、おおシーザー、真実であった!もし汝の精霊が今われらを見ているとしたならば、おお、いと高潔なる者よ! 汝の死骸《しがい》を前にして、アントニーが和平を結ぶために、人もあろうに汝の敵の血なまぐさい手をにぎっているのを見る時、それは如何《いか》ばかり汝を悲しみにおとしいれる事であろうか! もし汝が身に受けた傷口と同じ数の目をこのアントニーが持ち、それらが、汝の傷口が血潮をふいているのと同様にはげしく涙を流すならば、それこそは、汝の敵と友情の気持ちをもって和平を結ぶことよりはるかにこのわたしに適切な行動といえるだろう。このわれを許せ、ジュリアス! ここに汝は追われた鹿のように倒れてしまったのだ、そして汝を追った狩人《かりゅうど》たちはここに立ち、獲物《えもの》をしとめた事実を確認し、その鮮血に手を染めているのだ。おお、世界よ! 汝はこの鹿のすむ森であった。そしてこの鹿こそは、世界よ、汝の心臓であった。あたかも鹿であるかのように、多くの貴人たちに仕とめられて、汝は今ここに横たわっているではないか!
【キャシアス】 マーク・アントニー!
【アントニー】 許してくれ、ケイアス・キャシアス。シーザーの敵でもこのように言うにちがいない。まして味方であるならば、これは冷淡な控え目なことばだ。
【キャシアス】 わたしは君がそんな風《ふう》にシーザーをほめたたえるのをとがめてはいない。だが君はいったいどのような契約をわれわれと結ぶつもりか? 君はわれわれの仲間として名前を連ねることを望むのか! それともわれわれに君とはまったく無関係に進めと言うのか?
【アントニー】 だからわたしは諸君と手をにぎり合った。しかしながら、シーザーのこの姿を見た時、かんじんの中心点からそれてしまった。わたしは諸君らすべての味方であり、諸君を心から愛する。ただ願わくは、これだけは教えてもらいたい。このわたしに何故《なぜ》、いかなる点でシーザーが危険人物であったかその理由を話してもらいたい。
【ブルータス】 それができないくらいなら、これは野蛮な残虐行為だ。われわれの行動は十分な考慮を持ってなされた事だから、アントニー、君がもしシーザーの息子《むすこ》だとしても、必ず満足するはずだ。
【アントニー】 わたしの要求することはそれだけだが、それに加えてわたしがもう一つ願いたいことがある、シーザーの遺骸《いがい》を広場まで運んでゆき祭壇に安置し、彼の葬儀の際に彼の友人として話をさせてもらいたいのだ。
【ブルータス】 いいとも、アントニー。
【キャシアス】 ブルータス、一言《ひとこと》話がある。
〔ブルータスに傍白〕君は自分が何をしているかわからないのだ、アントニーが葬儀で話をすることなど許可してはいけない。彼が語る巧みな言葉で、いかに多くの人々が心動かされるか君は知らないのか?
【ブルータス】 ちょっと失礼──わたし自身がまず祭壇に上がることにするのだ、そして、シーザーの死の原因を示すのだ。アントニーが何を話そうと、わたしの言いたい事は、彼がわれわれの許可を得て、話をしているという事だ。われわれとしても、シーザーが、正当な儀式と彼の身分にふさわしい格式をもって葬られる事に同意したことを公表すべきだ。これはわれわれにとって害になるよりはむしろ利益になる。
【キャシアス】 さあ、何が起こるかわかったものではない、どうも気が進まない。
【ブルータス】 マーク・アントニー、さあ、シーザーの遺骸《いがい》を運んでゆくがよい。君は葬儀の時の演説でわれわれを非難してはならない。ただ、シーザーの美徳について、思いつくまま何でも語るのだ。そして話をする事はわれわれの許可を得ているという事を言ってくれ。さもなければ、君はこの葬儀には全然加わることはできないのだ。そして、いいかね、君は、このわたしの上がる同じ祭壇で、わたしの演説が終わったその後で演説するのだ。
【アントニー】 それで結構だ。それ以上何を望もう。
【ブルータス】 遺骸を運ぶ手はずを整えて、われわれについて来るがよい。
〔アントニーを残して全員退場〕
【アントニー】 おお、われを許せ、ここに血潮を流す一片の土くれよ! 彼ら屠殺《とさつ》者どもに対してのわが弱き意気地《いくじ》なきふるまいを許せ!汝《なんじ》こそは、この歴史の流れの中にかつて生をうけしもっとも高貴な人間の廃墟ともいうべきすがた! この貴き血潮を流した者どもの手にわざわいあれ! 汝の傷口に向かい、今こそわれは予言する──おし黙った口が、その赤い唇《くちびる》を開いてわれにことばを発し、語ることを願うようなその傷口に向かって──呪《のろ》いがこれらの者どもの上にふりかかるであろうと! 内政の混乱とおそろしい内乱のわざわいがイタリアの全土にその猛威をふるうであろう。血なまぐさい破壊はまるで習慣のようになり、おそろしい光景はごく身近なものになってしまうであろう。そのために、母親たちは彼女らの幼い子供が戦いの手に切りさいなまれるのを見ても、ただ笑うのみとなるであろう。あわれみの心はすべて、習慣となったおそろしい行為によってふさがれ、復讐《ふくしゅう》を求めてさまようシーザーの精霊は、地獄から出て来ただかりのわざわいの女神《めがみ》をともなって、この辺《あた》りをさまよいつつ、王者の声で叫ぶのだ、「徹底的に破壊せよ!」と。そして戦争の犬を放つのだ。そしてこの卑劣な行為は、埋葬を願いながらうめく腐った人間の肉と共に、この地上にその悪臭を放つであろう。
〔オクテヴィアスの召使い登場〕
お前はオクテヴィアス・シーザーに仕えている者だな?
【召使い】 さようでございます、マーク・アントニー様。
【アントニー】 シーザーがお前の主人に来てくれと手紙を書いたはずだが。
【召使い】 主人はシーザー様のお手紙を受け取りましてこちらに来る途中でございます。そしてあなた様に口上でこの事を申し上げよとの事でございます──おお、シーザー様!
【アントニー】 お前の心は悲しみでいっぱいであろう。さあ、立ち去って存分に泣け。はげしい悲しみは次々と伝わって行くものと見える。このわしの目もお前の目に悲しみの涙のしずくがつらなっているのを見て、すっかりぬれはじめた。ご主人は来られるのだな?
【召使い】 主人はこよいローマから七リーグの所に宿をとっております。
【アントニー】 大急ぎで帰って、ご主人に事の次第を話してくれ。今、ローマは悲しみに閉ざされた場所、危険きわまりない場所だ。オクテヴィアスにとっても安全なローマとは言えない。いそいで行って、そのように伝えてくれ。いやその前に一寸《ちょっと》まて、わしはこの遺骸《いがい》を広場に運ぶのだ。それまではここにいてくれ。広場でわしはやって見ようと思う、わしの演説によって、どのようにローマの人びとが、これらの残酷きわまりない行為を受けとめるかを見るのだ。その結果をたずさえて、お前はお前の主人の許《もと》へ若いオクテヴィアスのところへもどって事の成り行きを話すのだ。さあ、手を貸してくれ。
〔退場〕
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第二場 広場《フォーラム》
〔ブルータス、キャシアス、市民たちと共に登場〕
【市民たち】 納得のゆく説明をきかせてもらいたい、さあ、聞こうじゃないか。
【ブルータス】 それではついて来て、わたしの言うことをよく聞いてくれ、友人諸君。キャシアス、君は別の通りへ行ってくれ、人数を分けることにしようじゃないか。わたしの言うことをききたい者はここにとどまってくれ。キャシアスにつて行きたい者は、いっしょに行ってくれ。シーザーの死の公《おおやけ》の理由を、はっきりわかるように話してやろう。
【市民一】 おれはブルータスの話をきくことにする。
【市民二】 おれはキャシアスの話をきく。別々に話をきいてから、二人の言う事を比べてみようじゃないか。
〔キャシアス、一部の市民たちと共に退場。ブルータス壇上にのぼる〕
【市民三】 ブルータスが壇に上がった。しっ、静かに!
【ブルータス】 最後まで静聴を願いたい。ローマ市民諸君、同胞よ、友人たちよ、わたしの言うことをきいてくれ、よく聴くことができるよう静粛にしてくれ。わたしの名誉にかけて、わたしの言う事を信じてくれ。わたしの名誉に尊敬をはらってほしい。諸君の知恵により、わたしを判断し、よりよい判断ができるよう、諸君の理性を目ざめさせてくれ。もしもここに集まっている人々の中にシーザーの親しい友人がいるならば、彼にこそブルータスは言いたい。ブルータスのシーザーに対する友情は、彼の友情にすこしも劣らぬということを。そしてもしその友人が、何故にブルータスがシーザーに反旗をひるがえしたかと問うならば、これがわたしの答えだ。わたしがシーザーを愛する気持ちが足りなかったのではなく、わたしがローマを愛する気持ちがそれにまさっていたからだ。君たちは、シーザーが生きていて、皆が奴隷《どれい》の状態で死ぬほうが、シーザーが死んで、皆が自由人として生きるより望ましい状態と考えるのか? シーザーはわたしを愛していた、その彼のためにわたしは泣く。彼は幸運であった、それをわたしはよろこぶ。彼は勇敢であった、その彼をわたしは尊敬する。しかし彼は野心家であった、その彼をわたしは殺した。彼の愛に対しては涙があり、彼の幸福に対してはよろこびがあり、彼の勇気に対しては尊敬があり、彼の野心に対しては死があるのだ。君たちの中に奴隷になりたいと願うほど卑屈な男がいるだろうか? もしいるなら、申し出てくれ。その人に対してわたしは悪いことをした。君たちの中にローマ人でありたくないと願うほど無知なものがいるだろうか? もしいるなら申し出てくれ。その人に対してわたしは悪いことをした。君たちに中に祖国を愛したくないという卑劣な男がいるだろうか? もしいるなら、申し出てくれ。その人に対してわたしは悪いことをした。しばらく待って、君たちの返事を聞こう。
【一同】 そんなものはいない、いない、ブルータス!
【ブルータス】 ではわたしはだれにも悪いことはしていないのだ。君たちもこのブルータスに対して何も悪いことはしていないと同様、わたしもシーザーに対して何も悪い事はしていない。シーザーの死に関する事項は、キャピトルに書き残されるであろう。彼の偉大さを示す栄光を省略することなく、死を招くにいたった彼の罪を誇張することもなく。
〔マーク・アントニーと他の者たち、シーザーの遺骸《いがい》をかついで登場〕
シーザーの遺骸が運ばれて来た、マーク・アントニーが哀悼《あいとう》者となって。アントニーは直接手をくだしてシーザーを殺しはしなかったが、彼の死による恩恵を受けて、この共和国の自由市民になるはずだ。君たちとても同様だ。さあ、わたしは話をやめよう。わたしはローマの幸福のために最も親しい友を殺してしまった。その同じ剣を今自分につきつけている。わが愛する祖国がわたしに死を要求するなら、この剣で死ぬつもりだ。
【一同】 ブルータスを死なすな! ブルータスばんざい!
【市民一】 さあ、勝ちどきをあげて彼を家まで送ろう!
【市民二】 ブルータスの像をつくって、彼の先祖の像のそばに立てよう!
【市民三】 彼をシーザーにしよう!
【市民四】 シーザーのすばらしい点だけがブルータスの王冠になるだろう。
【市民一】 さあ、ブルータスを歓呼の声とともに家まで送りとどけよう!
【ブルータス】 同胞の諸君──
【市民二】 しっ、静かに! ブルータスが何か言っている。
【市民一】 しっ、静かに!
【ブルータス】 さあ、同胞諸君、わたしをここから立ち去らせてくれ。そして君たちはどうかアントニーと共にここにとどまってくれ。シーザーの遺骸に敬意を表してくれ。シーザーの栄誉をたたえるアントニーの演説をきいてくれ、マーク・アントニーはわれわれの許可を得て、ここで演説をすることになった。アントニーの演説が終わるまでは一人もここを離れることなく、どうか、わたし一人だけをここから立ち去らせてくれ。
【市民一】 待て! みんなでマーク・アントニーの言うことを聞こう。
【市民三】 彼を演壇にのぼらせようじゃないか。みんなで彼の話をきこう。さあ、アントニー、壇にのぼるんだ!
【アントニー】 ブルータスのおかげで、諸君に話ができて感謝している。
【市民四】 ブルータスのことを何と言った?
【市民三】 ブルータスのおかげでわれわれに話ができてうれしいとさ。
【市民四】 ここじゃブルータスのことを悪く言わないほうが得策だ。
【市民一】 シーザーという男は暴君だった。
【市民三】 そうとも、たしかにそうだ。ローマに彼がいなくなって、ありがたいことだ。
【市民二】 静かにアントニーが何を話すか聞こうじゃないか。
【アントニー】 ローマ人諸君!
【一同】 静かに! 彼の話をきこう。
【アントニー】 友人よ、ローマ市民よ、同胞よ、ご静聴を願いたい! わたしはシーザーを埋葬するために来た、賞賛するためではない。人間のなした悪はその死後までも残るといい、その善行はしばしば彼らの骨と共に埋められるという。シーザー場合もかくあらしめよ! 高潔なるブルータスは諸君に、シーザーは野心家であったと言った。もしもそれが事実ならば、まことに悲しむべき欠点であり、悲しくもシーザーはそれに対して責任をとった。ここに、ブルータスその他の人々の許可を得て──まこと、ブルータスは尊敬に値する人格高潔の士である。その他の人々も皆、尊敬に値する人格高潔の士である──わたしはシーザーの葬儀に告別の辞を述べに来た。シーザーはわが友、忠実に正しきわが友であった。しかし、ブルータスは彼を野心家だという。そしてブルータスは尊敬に値する高潔の士である。シーザーは多くの補|りょ《ヽヽ》をローマに運んで来た。その身代金《みのしろきん》は国庫をゆたかにみたしたのだ。このようなシーザーの行為が果して野心家であろうか? 貧しい者たちが泣き叫んだ時、シーザーもともに泣いた。野心というものはもっと|かたくな《ヽヽヽヽ》なものであるはず。しかし、ブルータスは言う、シーザーは野心家であったと。そしてブルータスは尊敬に値する人格高潔の士である。諸君も見たであろう、ルパカリアの祭りのその日に、わたしが三たびシーザーに王冠をささげたことを、そしてシーザーが三たびそれを拒《こば》んだことを。これが野心であろうか? しかもブルータスは言う、シーザーは野心家であったと。そしてたしかに、ブルータスは尊敬に値する人格高潔の士である。わたしはブルータスの演説を反|ばく《ヽヽ》するために来たのではない、ただここで、わたしは自分の知っていることを言おうとしている。諸君はかつてはシーザーを愛した、それも当然のことである。その諸君が今、如何《いか》なる理由で、シーザーの死を悼《いた》もうとしないのか? おお、分別よ! 汝《なんじ》は残忍な獣《けだもの》のもとへ逃《のが》れてしまった、そして人間はその理性をなくしてしまったのか!どうか許してくれ、わたしの心はそこなるシーザーの棺《ひつぎ》の中にあるのだ、それが自分に帰ってくるまでしばらく待たねばならない。
【市民一】 アントニーの言っていることはなかなか理屈にかなっているぞ。
【市民二】 よくよく考えてみると、どうやらシーザーがひどい目にあわされたようだ。なるほどそうかな!
【市民三】 そうなるとあまり変わりばえしないかもしれないぞ。
【市民四】 アントニーの言うことを聞いたか? シーザーは王冠を受け取らなかった。とすると、シーザーが野心家ではなかったことになる。
【市民一】 もしそれが事実とすれば、だれかがその報いを受けなくてはならないぞ。
【市民二】 かわいそうに、アントニーの目は涙でまっ赤になっている。
【市民三】 このローマにアントニーほどりっぱな人物がいるだろうか?
【市民四】 彼のほうを見ろ! また話をはじめるぞ。
【アントニー】 つい昨日《きのう》までは、シーザーのことばは世界を睥睨《へいげい》していた。その彼が今ここに低く低く横たわっているではないか! そして貧しい者たちですら、彼に敬意をはらおうともしない。おお、諸君! もしこのわたしが諸君の心を、気持ちを、反逆と激怒にかり立てるようなことでもすれば、わたしはブルータスを裏切り、キャシアスを裏切ることになる。彼らは、諸君も承知のように、尊敬に値する人格高潔の士だ。わたしは彼らを裏切るようなことはしたくはない。それならばむしろ、これら尊敬に値する高潔の士を裏切るような行為をするよりは、あえて死者を冒涜《ぼうとく》する行為をしよう、自分自身を、諸君を裏切ろう! さて、ここにシーザーの封印をした書きものがある。わたしは彼の書斎でこれを見つけた。これはシーザーの遺言書だ。市民たちがこの遺言を聞きさえしたならば──いや、許してくれ、これを読むつもりはないのだから──皆はきっと亡《な》きシーザーの傷口に口づけをするにちがいない、シーザーの聖なる血潮に彼らのハンカチを浸そうとするにちがいない。そうだ、シーザーの一本の毛髪を記念に乞い求めて、彼らが死ぬ時に、彼ら自身の遺言書にこれを記《しる》して、りっぱな遺産として、彼らの子孫にそれを伝えるにちがいない。
【市民四】 遺言を聞こうじゃないか! マーク・アントニー、よんでくれ!
【一同】 遺言だ! 遺言だ! われわれに遺言を聞かせてくれ!
【アントニー】 しばらく待ってくれ、友人諸君! わたしはそれを読んではならないのだ。シーザーが諸君を愛していたことを、諸君が知るのはよくない。君たちは木でもない、石でもない、血の通った人間だ。人間である以上、君たちがシーザーの遺言を聞けば、諸君の気持ちは激しくかきたてられ、諸君は気狂《きちが》いのようになるだろう。君たちがシーザーの遺産相続人であることは知らないほうがよい、もしそれを知れば、何が起こるかわからないからだ。
【市民四】 遺言を読んでくれ! さあ、聞こうじゃないか、アントニー! われわれに遺言を読んでくれ、シーザーの遺言を!
【アントニー】 しばらくがまんしてくれないか? しばらく待ってくれないか? わたしは君たちに言うべきでないことまで言ってしまった。尊敬に値する人格高潔の士を裏切るのではないかと心配だ、それらの人々の短剣がシーザーを刺したのだ。わたしは心配するのだ。
【市民四】 あいつらは反逆者だ。高潔な士だ? とんでもない!
【一同】 遺言だ! 遺言だ!
【市民二】 あいつらは悪党だ! 殺人者だ!遺言だ! 遺言を読んでくれ!
【アントニー】 では諸君はこのわたしに遺言を読めと強制するのか? それではシーザーの遺骸《いがい》を囲んで輪になってくれ。この遺言書をつくったその人を君たちに見せてやろう。壇をおりていいかな? 君たちはわたしにその許可をくれるかな!
【一同】 おりてこい!
【市民二】 壇をおりろ!
【市民三】 許可をやるぞ、アントニー!  下におりろ!
【市民四】 輪をつくれ! 丸くなれ!
【市民一】 棺《ひつぎ》からはなれていろ! 遺骸からはなれろ!
【市民二】 アントニーの場所を空《あ》けろ!  高潔なアントニーのために!
【アントニー】 さあ、あまり押さないでくれ! ずっと離れていてくれ!
【一同】 離れろ! 場所を空けろ! 退《さが》れ!
【アントニー】 もし君たちに涙があるなら、今こそ流す用意をしてくれ。君たちはこのマントを覚えているだろう? わたしはよく覚えている、シーザーがはじめてこれを着たその日のことを! それは夏の夕べであった。彼のテントの中で。あのネルビイ人を征服したその日のことであった。さあ見てくれ! この場所をキャシアスの剣が貫いたのだ。悪意にみちたキャスカが、ここに、こんな裂け目をつくっている。ここを、シーザーにかくも愛されたブルータスの剣が刺した。そしてブルータスがその呪《のろ》われた剣を引きぬいた時、如何《いか》にシーザーの血潮がそれについて流れて来たかを見よ! まるで、外に走り出て、ブルータスが本当に残酷なのか否かをたしかめでもするかのように、血潮はほと走り出て来た。なぜならば、ブルータスは、諸君もよく承知のように、シーザーの天使であった。おお、神々よ! 如何《いか》に深くシーザーがブルータスを愛したかをはかり給え! これはすべての傷の中でももっとも残酷な切り口なのだ。高貴なるシーザーはブルータスが彼を刺すのを見たとき、反逆者の腕よりもはるかに強い忘恩の行為に全く打ちひしがれてしまった。その時シーザーの偉大なる心はついえた。そして彼のこのマントにその顔をおおかくしながら、この事件の間じゅう血をふきつづけていたポンペイの像のその土台の真下に、偉大なるシーザーは倒れたのだ。おお同胞諸君よ! なんたる大きな崩壊であったことか! わたしも、君たちも、われわれすべてが倒れたのだ。そして血に飢えた反逆はわれらの頭上にその猛威をふるった。おお、今こそ、君たちは泣くか! わたしにもわかるのだ。君たちが今、憐れみの心にみたされていることが。その涙は尊いものだ。やさしい心の持ち主たちよ! なぜ君たちはシーザーの衣服を見ただけで、かくもはげしく泣くのか? さあ、ここを見てくれ、ここにシーザー自身がいる。反逆者たちに切りさいなまれたシーザーが。
【市民一】 おお、なんと哀れな有様だ!
【市民二】 おお、いとも高潔なるシーザー!
【市民三】 おお、なんと悲しい日か!
【市民四】 おお、反逆者だ! 悪党だ!
【市民一】 おお、なんと残酷な光景だ!
【市民二】 復讐《ふくしゅう》してやろう!
【一同】 復讐だ! かかれ! 捜せ! やき払え! 火をつけろ! 殺せ! 切れ! 反逆者は一人も生かしておくな!
【アントニー】 同胞諸君、待ってくれ!
【市民一】 静かにしろ! アントニーの話を聞こう。
【市民】 みんなで話を聞こう。彼に従おう、彼と共に死のう!
【アントニー】 友人たちよ、わが親しき友人たちよ! かくのごとく激しい反乱の|うず《ヽヽ》に、どうか巻き込まれないでくれ! この行為をなした人々は尊敬に値する高潔の士だ。かくのごとき行為をなすべき如何《いか》なる個人的な恨みを彼らが持っていたかわたしは知らない。彼らは賢明で尊敬に値する高潔の士だ。彼らは必ずや、りっぱな理由を諸君に示してくれるだろう。友よ、わたしは君たちの心を盗みにここへ来たのではない。わたしはブルータスのように雄弁ではないのだ。ただ、君たちもよく知っているように、友だちを心から愛する単純で愚鈍な一人の男にすぎない。君たちに話すことを許可してくれた人々もそのことは十分に承知しているのだ、というのは、わたしは知恵も雄弁も持ち合わさない。人々の心をかき立てるような威厳も、身ぶり構えも、表現力も、話術も持ってはいない、ただわたしは自分の考えを率直に話すことしかできない。わたしは君たちが知っていることをここで話すだけだ。君たちにシーザーの傷を示すだけだ。哀れないたましい物言わぬ口に、わたしに代わって語れと命じるだけだ。しかし、もしわたしがブルータスで、ブルータスがアントニーであったら、そのアントニーは、必ずや君たちの勇気をかりたてて、シーザーの傷の一つ一つに、語らせることであろう。そしてそれは必ずやローマの石をも立ちあがらせ、反乱にとかり立てることであろう。
【一同】 反乱だ!
【市民一】 ブルータスの家を焼き払おう
【市民三】 さあ行こう! 謀反《むほん》人たちを捜し出せ!
【アントニー】 もう少し聞いてくれ! わたしの言うことを聞いてくれ!
【一同】 さあ、静かに! アントニーの話をきこう。おお、アントニー!
【アントニー】 さあ、諸君! 君たちはただ逆上しているのだ! なぜ、シーザーはかくも君たちの愛情を受けるに値するのか? ああ、君たちはそれも知らないのだ。だからわたしは話さなければならない。君たちはわたしが話した遺言書のことをすっかり忘れてしまった。
【一同】 ああそうだ。遺言だ! さあ、遺言を聞こうじゃないか。
【アントニー】 ここに遺言書がある。シーザーの封印がしてある。ローマの市民諸君の一人一人に、シーザーは与えているぞ、一人一人に、シーザーは七五ドラクマを贈っている。
【市民二】 なんと高潔なシーザーだろうか!彼の死に復讐《ふくしゅう》するのだ!
【市民三】 おお、何とすばらしいシーザーだ!
【アントニー】 終わりまで静かに聞いてくれ。
【一同】 しっ、静かに!
【アントニー】 そればかりではないのだ。テヴェレ川のこちら側のすべてのりっぱな道路を、シーザーは君たちに残した。また自分の花園や新たに植樹した庭園などすべてを、散歩したり娯楽の場としたりする公園として、シーザーは君たちと君たちの子孫のために永久に彼の遺産として残している。シーザーこそはまこと、かくのごとき人物であった。彼のごとき人物がまたいつ出現するであろうか?
【市民一】 絶対に出現しない! さあ、出かけよう! まず彼の遺骸《いがい》を聖なる場所で火葬にしよう。そして火葬の時のもえさしをかかげて、反逆者どもの家に火をつけろ! さあ遺骸をかつぎ出せ!
【市民二】 火を持って来い!
【市民三】 ベンチをこわせ!
【市民四】 腰掛けでも、窓でも、何でも手当たりしだいこわせ!
〔死骸をかついで市民たち退場〕
【アントニー】 今はもう成り行きにまかせろ! 災《わざわい》よ、もう立ち上がったのだ、お前の好きな道をとって走れ!
〔召使い登場〕
ああ、お前か。
【召使い】 だんな様、オクテヴィアス様はもうローマにおつきになりました。
【アントニー】 どこにおられる?
【召使い】 レピダス様とごいっしょに、シーザー様のお邸《やしき》におられます。
【アントニー】 わしもすぐそちらに行くつもりだ。ちょうどよい時に来られた。さいさきがよいというもの、運命の女神《めがみ》はこの調子でわれわれに何でも与えてくれるだろう。
【召使い】 オクテヴィアス様の言われますには、ブルータスとキャシアスは気狂《きちが》いのようになってローマの城門から外へ逃げ出したそうでございます。
【アントニー】 おそらくあいつらは、人々の動きを見て、わしが徹底的に彼らを扇動《せんどう》したと見てとったな。さあ、オクテヴィアスの所へ案内してくれ。〔退場〕
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第三場 ローマ。街上。
〔詩人のシンナと彼を追って数人の市民登場〕
【シンナ】 昨夜わしはシーザーの所で宴席についていた夢をみた。何か不吉なことがわしの想像をなやましてならない。わしは家から外に出る意志は全然なかったのに、何か目に見えぬ力がわしをおびき出してしまった。
【市民一】 お前の名前は何だ?
【市民二】 お前はどこへ行くか?
【市民三】 お前はどこに住んでいるか?
【市民四】 お前は結婚しているのか、独身なのか?
【市民二】 一人一人に率直に答えろ。
【市民一】 そうだ、簡単に。
【市民四】 そうだ、賢明に。
【市民三】 そうだ、正直に答えたほうがいいぞ。
【シンナ】 わしの名前は何だ? わしはどこへ行くか? わしはどこに住んでいるか? わしは結婚しているのか、独身なのか? それじゃ、一人一人に率直に、簡単に、賢明に、正直に答えよう。わしは賢明にも独身なんだ。
【市民二】 それじゃ、まるで結婚した者は馬鹿だと言わんばかりだ。さあ、したたかなぐってやるぞ。さあ、率直に白状しろ!
【シンナ】 まっすぐにわしはシーザーの葬式に行くところだ。
【市民一】 味方としてか、敵としてか?
【シンナ】 味方としてだ。
【市民二】 こいつはまっすぐな答えだな。
【市民四】 お前の住居について簡単に言え!
【シンナ】 簡単に言えば、わしはキャピトルのそばに住んでいる。
【市民三】 どうかお名前を正直におっしゃってください。
【シンナ】 正直に言ってわしの名前はシンナだ。
【市民四】 こいつを八ツ裂きにしろ! こいつは謀反《むほん》人だ!
【シンナ】 いや、わしは詩人のシンナだ。わしは詩人のシンナだ。
【市民四】 つまらん詩を書くこいつを八ツ裂きにしろ! つまらん詩を書いた罪で!
【シンナ】 わしは謀反《むほん》人のシンナではない。
【市民四】 そんなことはどうでもいい。こいつの名前はシンナだ! こいつの名前を心臓から引っこぬけ! こいつを殺してしまえ!
【市民三】 八ツ裂きにしろ! 八ツ裂きにしろ! さあ、松明《たいまつ》だ! ブルータスの所へ行け! キャシアスの所へ行け! 何もかもやき払ってしまえ! だれか、ディーシァスの所へ行け! キャスカの所もだ! リゲリアスの所へもだ! さあ行くのだ!
〔市民一同退場〕
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第四幕
第一場 ローマ。アントニーの家
〔アントニー、オクテヴィアス、レピダス登場〕
【アントニー】 ではこれだけの者は死刑にする。名前に印をつけておいた。
【オクテヴィアス】 君の兄さんも死刑だ。レピダス、いいだろうね?
【レピダス】 いいとも。
【オクテヴィアス】 彼の名前に印をつけてくれ、アントニー。
【レピダス】 ただし、パブリアスも死刑にするという条件でだぞ、彼は君の妹の息子《むすこ》にあたるはずだが、アントニー。
【アントニー】 それはもちろんだ。ほら、このとおり印をつけてある。だがレピダス、まずシーザーの邸《やしき》に行ってくれ。そして遺言書を持って来てくれ。われわれは遺産分配の額をけずることが必要だ。
【レピダス】 じゃ、君たちはここにいるのだね?
【オクテヴィアス】 ここにいるか、さもなければキャピトルにいる。
〔レピダス退場〕
【アントニー】 とるに足らん、役に立たん男だ。使いに出すのがせいぜいのところだ。ところで、三頭政治が確立した時に、あの男は世界の三分の一の分け前を貰《もら》うに足りるだろうか?
【オクテヴィアス】 君がそう考えたのではないか。そして、だれを死刑にするかとリストをつくり、死刑の印をつけるその時にも彼の意見を聞いたではないか。
【アントニー】 オクテヴィアス、わたしは君より世の中の経験はもっとつんでいる。われわれはさまざまな悪口、非難を受けるのをさけるためにあの男に名誉をこのように与えはしたものの、あいつにとってはこのような名誉は、|ろ《ヽ》馬が金貨を背負っているようなもの、われわれが道を示した方向へ導かれたり追われたりしてその重荷を運ぶために、うめいたり、汗を流したりする。われわれはその重荷をわれわれの望む所へ運ばせたら、彼の重荷をその背からおろしてやり、用のなくなった|ろ《ヽ》馬のように追い出してしまえばよいのだ。そして彼は|ろ《ヽ》馬のようにいたずらに耳をふって共用牧場の草でも食って生きればよいのだ。
【オクテヴィアス】 君の好きなようにするがいいが、彼はあれでも経験もあり、勇気もあるりっぱな軍人だ。
【アントニー】 わたしの馬もまったくそのとおりだよ、オクテヴィアス、だからわたしは奴《やつ》に十分に飼料《えさ》をやっているのさ。そして奴にわたしは戦うこと、ぐるりと回ること、止まること、まっすぐに立つことを教えてやるのさ。つまり奴の肉体を動かすことはすべてわたしの思うままだ。そう、ある意味では、レピダスもそのとおりなのさ、彼は教えられ、仕込まれ、進めと命令されなければ動かない。独創性も指導性もない男なのだ。あの男はただ気まぐれにつまらぬものにひかれ、技巧や、模倣だけで生きているのだ。他の人々にすっかり使いふるされ、使いものにならなくなったころに彼はそれを最新流行だと考えるのさ。あの男のことはわれわれの道具だと考えればよいのだ。さあ、オクテヴィアス、重要問題の方に移ろう──ブルータスとキャシアスとが兵隊を徴発しているそうだ、われわれもすぐに兵隊を集めなければならない。そのためにはわれわれの同盟をしっかりと結ばなければならない、味方をはっきりと確保し、われわれの手段を徹底的に用いねばならない。さあ、すぐにも会議を開くことにしようではないか。如何《いか》にして陰謀をはっきりと明るみに出せるか、また明らかな危険は如何にして安全に処置できるかを考えるのだ。
【オクテヴィアス】 そうすることにしよう。われわれは杭《くい》につながれたも同然、多くの敵にとり囲まれ、ねらわれているのだ。ほほえんでいる者どもも、心の中には限りない悪意を持っていないとは限らないのだ。〔退場〕
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第二場 サルディスの近くの野営地。ブルータスのテントの前。
〔ブルータス、ルーシリアス、ルーシァス及び兵士たち登場。ティティニアスとピンダラス反対側から登場〕
【ブルータス】 おい、止まれ!
【ルーシリアス】 合いことばだ! 止まれ!
【ブルータス】 どうした、ルーシリアス、キャシアスはこの辺にいるか?
【ルーシリアス】 すぐ近くにいる。ピンダラスが彼の主人キャシアスから、君への挨拶《あいさつ》を伝えるためにここにきている。
【ブルータス】 それはよく来てくれた。ピンダラス、君の主人は自分で心変わりしたのか、それとも悪い部下にそそのかされたのか、やってしまった事をやめにしたいと思わずにはいられないような仕打ちをしているのだ。だが、もし彼がすぐそばに来ているなら、十分説明してもらえるだろう。
【ピンダラス】 たしかに私の尊敬する主人は、実際にいつわりなく敬意と名誉に値するりっぱな人物だと思います。
【ブルータス】 わたしもそう思っている。ルーシリアス、ちょっと、キャシアスが君をどのように迎えたか話してくれ給え。
【ルーシリアス】 丁重《ていちょう》に、十分に敬意を払って迎えてくれた。しかし、以前にはいつもそうであったように、友情を示したり、|くったく《ヽヽヽヽ》のない親しい会話で迎えてくれるというような態度ではなかった。
【ブルータス】 君の話をきいていると、あつい友情が冷えかかっているようだ。いつもおぼえていてくれ、ルーシリアス、愛情が病気になり、くずれそうになる時には、わざとらしく、形式的な儀礼をよそおうものなのだ。率直で単純な信頼にはとりつくろうところはないのだが、不誠実な人間に限って、威勢よく駆《か》けだす馬のように、見かけだけは勇敢な様子をし、さも勇気ありげに思われるが、しかし血なまぐさい戦いで、十分に働かなければならない時に、たて髪を垂《た》れ、見かけだおしのやくざ馬のように、すぐに参ってしまうのだ。彼の軍隊もいっしょに来たのか?
【ルーシリアス】 彼らは今夜、サルディスに野営するはずになっている。部隊の大部分は、だいたいにおいて騎兵部隊だが、キャシアスと共に来ている。
〔舞台奥で低い進軍ラッパの音〕
【ブルータス】 よく聞け! キャシアスだ!しずかに前進して彼を迎えよう。
〔キャシアスとその部隊登場〕
【キャシアス】 止まれ!
【ブルータス】 止まれ! 合いことば!
【兵士一】 止まれ!
【兵士二】 止まれ!
【兵士三】 止まれ!
【キャシアス】 兄弟、あなたはわたしを不当に扱った。
【ブルータス】 おお神々よ、裁《さば》きたまえ!  わたしは敵でさえ不当に扱った事があろうか?もしないとすれば、何故にわたしは兄弟を不当に扱うことがあろう!
【キャシアス】 ブルータス、その真面目《まじめ》な様子のかげでひどい仕打ちをしている。そしてそのような時に──
【ブルータス】 キャシアス、もうわかった。君の不平を落ちついて話してくれたまえ。わたしは君をよく知っている。われわれ二人の部隊の目の前では──彼らはわれわれからは愛以外の何ものをも期待していないのだから──口論するのはやめよう、彼らにここから立ち去るよう命じよう。それから、キャシアス、わたしのテントも中で君の不平を述べるがよい、わたしはよろこんで聞くことにしよう。
【キャシアス】 ピンダラス、隊長に命じて、それぞれの部隊を、少し離れた所まで引きさがらせるようにしてくれ。
【ブルータス】 ルーシァス、お前も同じようにしてくれ。だれ一人として、われわれが会談をすますまでは、われわれのテントに近づけてはならぬ。ルーシリアスとティティニアスは入口を見張っていてくれ。〔退場〕
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第三場 ブルータスのテントの中。
〔ブルータスとキャシアス登場〕
【キャシアス】 君がわたしにひどい事をしたのははっきりしている。君はルーシァス・ペラがこのあたりのサルディス人から賄賂《わいろ》をとったとはっきり非難している。そして、彼のために嘆願したわたしの手紙は、その男をわたしがよく知っているという理由で、無視されてしまった。
【ブルータス】 あのような場合に手紙を書くなど、君は自分自身を恥ずかしめている。
【キャシアス】 いや、今日のような時代には、一つ一つの細かい罪が、いろいろ問題にされるべきではないと思う。
【ブルータス】 いや、わたしにも言わせてくれ、キャシアス、君自身が金にきたないと思われ、非難されているのだ。とるにたらん下らん奴《やつ》らに、金のために官職を売り物にするとは何事だ。
【キャシアス】 わたしが金にきたない? それを口にしていうのがブルータスだということを君はわきまえているのだな? さもなければ、こんな事を言ってただではすまないぞ。
【ブルータス】 キャシアスの名前がこの堕落に名誉の衣を着せている、そして、こらしめはその頭をかくしてしまっているのだ。
【キャシアス】 こらしめだと?
【ブルータス】 おぼえていてくれ三月を。三月十五日をおぼえていてくれ。偉大なるジュリアスは正義のため血を流したのではないか? 正義のためでなくして、いかなる卑劣な人間でも剣をかまえて彼の身体《からだ》にふれることができたであろうか? われわれのうちでだれがただ盗人を助けるというだけの目的で、全世界の第一人者である彼を倒すことができたであろうか?今になってわれわれは卑劣な賄賂《わいろ》でわれわれの指をけがして、たったこれっぱかりの一にぎりのつまらぬもののために、かぎりなく偉大なわれわれの名誉を売り物にする事ができようか?そんなローマ人になるよりは、犬にでもなって、月に向かって吠《ほ》えるほうがましだ。
【キャシアス】 ブルータス、わたしを追いつめないでくれ。これ以上がまんできなくなるぞ。こんなにわたしを責めるとは、君はどうかしているぞ。わたしはこれでも軍人だ。物事を処理することにかけては、君よりも経験をつんだ年長者だし、君より腕もあるぞ。
【ブルータス】 やめろ、キャシアス、そんな事はない。
【キャシアス】 そうだ。
【ブルータス】 いや、そんな事はないと言っているのだ。
【キャシアス】 これ以上しつこく言わないでくれ。何をするかわからないぞ。君の身の安全を考えて、もうわたしをこれ以上そそのかさないでくれ。
【ブルータス】 行っちまえ、くだらん奴《やつ》めが!
【キャシアス】 そんな事言っていいのか?
【ブルータス】 ようく聞け、言ってやるから、君の向こうみずな怒りに対して、わたしに引っこんでいろと言うのか? 気狂《きちが》いがにらみつけた時に、ただおびえていなくてはならないのか?
【キャシアス】 おお神々よ! わたしはこんなことまで耐えなければならないのか?
【ブルータス】 こんなことだと? いやもっとだ! その傲慢《ごうまん》な心が張り裂けるまで、さあ、君の奴隷《どれい》どもに君がいかに怒りっぽい気質か見せてやれ! そして奴隷どもをふるえあがらせろ! このわたしがびくびくしなければならんのか? わたしがこんな君に敬意を表わさねばならんのか? 君のいらいらした気質をじっとがまんして、それに対して腰をかがめていろというのか? 神々に誓って言うが、君はそのために裂けてしまおうとも君の怒りの毒を、自分自身で味わうがよい。今日以後は、君がかんしゃくを起こしたら、わたしは君を慰み者にし、笑い物にしてやるぞ。
【キャシアス】 そこまで言うのか!
【ブルータス】 君は君のほうがずっとりっぱな軍人だと言うが、それを実証してもらおうじゃないか。その大|ぼら《ヽヽ》を事実で示してくれ。そうすればわたしも納得する。わたしだって、りっぱな人物から教えを受けることはありがたいのだから。
【キャシアス】 何から何まで、君はわたしを誤解している。誤解しているのだ、ブルータス。わたしはずっとりっぱな軍人だとは言わなかった。年長者だと言っただけだ。「ずっとりっぱ」などと言ったか?
【ブルータス】 そんな事はどうでもいい。
【キャシアス】 シーザーが生きていても、そんなにまでわたしを怒らせなかっただろう。
【ブルータス】 黙れ、黙れ! 君には彼をけしかけるほどの勇気はなかった。
【キャシアス】 けしかける勇気がなかったと?
【ブルータス】 そうとも。
【キャシアス】 あえてけしかける勇気がなかったと?
【ブルータス】 そうだとも、勇気がなかった。
【キャシアス】 わたしの友情をあまり買いかぶらないでくれ。ついかっとなって後悔するような事までしないとも限らないぞ。
【ブルータス】 もうすでに後悔するような事をしでかしてしまった。キャシアス、どんなにおどしても、君の脅迫なんかこわくないぞ。わたしは自分を誠実の甲胄《かぶと》でしっかりかためている、だから脅《おど》し文句などはたわいもない風のように通りすぎてゆく、わたしはそんなものには全く関心を持たない。わたしは君に、少しばかりの金が必要になってその調達を頼んだ。わたしが使者を送ったのに、君はそれを拒んだ。わたしは卑劣な方法で金を徴収する事はできない。天に誓う、わたしは不正卑劣な方法で無骨な百姓どもから、なにがしかの取るに足らぬ金をしぼりとるくらいなら、むしろわたしの心を貨幣にして、わたしの血をドラクマの代わりにまき散らしたい。たしかにわたしは自分の兵隊たちに支払う金の調達を君に頼むため使者を送った、それを君は拒絶したのだ。これがキャシアスらしいやり方か? わたしがケイアス・キャシアスにそんな返事をしたことがあろうか? マーカス・ブルータスともあろうものが、そのように貪欲《どんよく》になってほんのわずかばかりの金を友だちに出しおしみすることがあったら、神々よ、どうかすぐにもあなたの雷鳴をくだして彼をこなごなに砕きたまえ!
【キャシアス】 わたしは君に拒絶はしなかった。
【ブルータス】 いや拒絶した。
【キャシアス】 いや、しなかった。わたしの返事を運んだ奴《やつ》がほんとうにばか者だったのだ。ブルータスはわたしの心を引き裂いてしまった。友だちなら、互いのあやまちをがまんしてやれるものだが、ブルータスはそのあやまちを実際よりずっと大きくしてしまう。
【ブルータス】 そんなことはない、君がそうさせるだけだ。
【キャシアス】 君はわたしを愛してはくれない。
【ブルータス】 わたしは君のあやまちは好きではない。
【キャシアス】 友だちならそんなあやまちを見ようとはしないはず。
【ブルータス】 追従《ついしょう》者はあやまちがたとえオリンパスの山のように大きくともそれを見ようとはしないのだ。
【キャシアス】 さあ、アントニー、そして若いオクテヴィアスも来るがよい、そして、このキャシアス一人だけを敵として復讐《ふくしゅう》せよ。キャシアスはもうこの世の中にあきあきしてしまった。愛するものにはきらわれてしまい、兄弟にはみかぎられ奴隷《どれい》のように責めたてられ、すべてのあやまちは指摘され、ノートに書きとめられ、記憶され、暗記されて、それが皆自分の所へ非難となってかえされる。おおわたしはいっそ勇気も何もかも自分の目から涙で流し出してしまえたら? そこにわたしの短剣がある、ここに開いた胸がある。その中にはブルートーの鉱脈よりも高価な、黄金より貴い心臓がある。もし君がローマ人ならば、それをとり出したまえ。君に金を拒んだわたしが、自分の心臓を君にさしだすのだ。シーザーを倒した時のようにわたしを刺せ。よくわかっている、君がシーザーをもっとも憎んだ時にも、君がかつてキャシアスを愛したよりもっと深くシーザーを愛していた。
【ブルータス】 短剣を|さや《ヽヽ》におさめろ。好きな時に腹を立てるがよい。いくらでも気のすむまで。何でも好きなようにやるがよい。君がどんな暴言をはいても気まぐれと考えよう。おお、キャシアス、君は子羊にしばられているようなものだ、ちょうど火打ち石が火をともなうように怒りを運んでいる。強く打たれるとすぐに火花を発しはするのだが、またすぐに冷たくなってしまう。
【キャシアス】 ああ、キャシアスはこれまで、こんなに悲しみと均衡を失った気持ちに苦しめられている時でも、ただ彼の愛するブルータスの慰みや笑い物になるために生きて来たのか?
【ブルータス】 いや、わたしもつい不きげんになってあんなことを言ってしまった。
【キャシアス】 そう言ってくれるのか? さあ、手をくれたまえ。
【ブルータス】 心もあげよう。
【キャシアス】 おお、ブルータス!
【ブルータス】 どうした?
【キャシアス】 わたしが母親ゆずりの向こう見ずな気まぐれで、忘れっぽくなってしまった時に、君にはそれをがまんしてくれるだけの友情はないのか?
【ブルータス】 あるとも、キャシアス、そして、これからは君が君の友だちのブルータスにあまりはげしく怒っている時には、君の母親が叱《しか》っているのだと考えよう。そしてそれだけにしておこう。
〔詩人、ルーシリアス、ティティニアス、ルーシァスに伴われて登場〕
【詩人】 どうかわたしをお二人に会わせてくれ。何かお二人の間に感情の行きちがいがあるようだ。お二人だけにしておくのはよろしくない。
【ルーシリアス】 通ってはならん。
【詩人】 通さないなら、殺せ!
【キャシアス】 どうした? 何事だ?
【詩人】 何ということです、お二人とも! どういうおつもりですか? かかる立場のご両所にいとふさわしく愛し合い、親しき友であられよ、この世においていと長く齢重《よわいかさ》ねしこのわがことばに耳を傾けられよ!
【キャシアス】 は、は、何とこのへぼ詩人、下《くだ》らんうたを作っているわい。
【ブルータス】 ここから出て行け! 無礼者が! 出て行け!
【キャシアス】 ブルータス、がまんしてやりたまえ。これがこの男のやり方だ。
【ブルータス】 こいつが場所がらをわきまえているときには、気まぐれも許してやろう。だが、戦争の時に、こんなくだらん詩をつくる阿呆にかまっていられるか! さあ、出てゆけ。
【キャシアス】 さあ、さあ、行った、行った。
〔詩人退場〕
【ブルータス】 ルーシリアスとティティニアス、隊長たちに命じて今夜それぞれの隊をここで野営させるようにしろ。
【キャシアス】 それがすんだらお前たちは、メッサーラもつれてまたここへ来てくれ。
〔ルーシリアスとティティニアス退場〕
【ブルータス】 ルーシァス、酒を一杯もって来てくれ。
【キャシアス】 君がこんなに腹を立てたことはかつてなかった。
【ブルータス】 おお、キャシアス、あまり悲しみが重《かさ》なってわたしやいやになってしまった。
【キャシアス】 たまたま起こった不幸に君が負けてしまうなんて、君の哲学が全然なんの役にも立っていないじゃないか。
【ブルータス】 わたしほど悲しみに耐えぬいている人間が他にあろうか。ポーシァが死んだ。
【キャシアス】 何? ポーシァが?
【ブルータス】 ポーシァは死んだ。
【キャシアス】 君にあんなにさからった時、よくも殺されずにすんだと思う。おお、なんとかえがたい、この上なく痛ましい不幸だろう!何の病気でなくなった?
【ブルータス】 わたしがそばにいないのでいらいらして、若いオクテヴィアスとアントニーが非常に勢力をもって来たのを苦にして死んだのだ。ポーシァの死の知らせとともに、その知らせもやって来た。彼女は心の平静をすっかりなくしてそばにだれもいないすきを見て、火を飲みこんだのだ。
【キャシアス】 そんな死に方をしたのか?
【ブルータス】 そうなのだ。
【キャシアス】 おお何と痛ましいことだ!
〔ルーシァス酒とろうそくを持って登場〕
【ブルータス】 もうポーシァのことを言うのはやめてくれ。酒を一杯くれ。さあ、キャシアス、この酒にわたしはすべてのいさかいを流し捨てよう。
〔飲む〕
【キャシアス】 わたしの心はそのような貴重な約束をどんなに望んでいたことか。ルーシァス、なみなみとみたしてくれ。杯《さかずき》からあふれるまで。ブルータスへの友情にはどんなに飲んでも飲み切れない。
〔飲む。ルーシァス退場〕
〔ティティニアス、メッサラと共に登場〕
【ブルータス】 はいってくれ、ティティニアス! よく来てくれた、メッサラ! さあ、このろうそくを囲んで集まろう、われらの緊急の事態を考えようじゃないか。
【キャシアス】 ポーシァ、いってしまったのか?
【ブルータス】 もうやめてくれ。メッサラ、わたしは手紙を受けとっている。それによると、若いオクテヴィアスとマーク・アントニーが大軍をひきいてわれわれを攻撃してくるらしい、フィリパイまで遠征軍を向けてくるようだ。
【メッサラ】 わたしのほうにも同じ内容の手紙が届いている。
【ブルータス】 それ以外に何か書いてあったか?
【メッサラ】 死刑の判決と、法外放置の掟《おきて》によって、オクテヴィアスとアントニーとレピダスとが百人もの元老院議員を死刑にしたそうだ。
【ブルータス】 その点ではわれわれ二人の手紙は少しくいちがっている。わたしの所へ来た手紙によれば、彼らの判決によって、七十人の元老院議員が死んだそうだ。その中にはシセローもはいっている。
【キャシアス】 シセローがはいっている?
【メッサラ】 シセローは死んだ。しかも死刑の判決をくだされて死んだのだ。奥さんからの手紙を受けとったか、ブルータス?
【ブルータス】 いや、受けとっていない、メッサラ。
【メッサラ】 君への手紙に奥さんの事は何も書いてなかったか?
【ブルータス】 何もだ、メッサラ。
【メッサラ】 それはどうもおかしいな。
【ブルータス】 なぜそんな事をきくのだ? 君に来た手紙にポーシァの事が何か書いてあるのか?
【メッサラ】 いや、別に。
【ブルータス】 さあ、ローマ人なら、真実を話してくれ。
【メッサラ】 じゃ、ローマ人らしくわたしが話す真実をがまんしてきいてくれ。はっきり言うが、奥さんは亡《な》くなった。それもふしぎな方法で。
【ブルータス】 そうか。ポーシァ、さようなら。われわれはみな死なねばならぬ、メッサラ。ポーシァもいつか一度は死なねばならぬことを思えば、わたしは今それに耐えるだけの忍耐力を持っている。
【メッサラ】 偉大な人々は大きな損失にも耐えなければならない。
【キャシアス】 わたしも理屈では君と同じように考えることができるが、わたしの性格からとても君と同じように耐えることはできない。
【ブルータス】 さあ、われわれの現実の仕事にとりかかろう。ただちにフィリパイに進軍することをどう思うかね?
【キャシアス】 それはよくないと思う。
【ブルータス】 その理由は?
【キャシアス】 それはこうだ。敵のほうからわれわれに向かって仕かけさせるほうが得策だ、そうすれば敵は戦略的にも消耗するし、兵士たちもつかれはてる。みずから損害を大きくするわけだ。一方味方はといえば、ずっと待機して十分に休息をとり防|御《ぎょ》態勢をととのえ、活発に動くことができる。
【ブルータス】 りっぱな理由も、もっとりっぱな理由には道をゆずるべきだ。こことフィリパイの中間の地域の人々のことだが、彼らは無理|強《じ》いされて好意をもっているようなものだ。なぜならば彼らはわれわれの徴発をけっしてこころよく思ってはいない。敵はどうかといえば、彼ら大衆と共に進んで来るのだ。そして彼らが加わってその軍勢はますます強化される。新しい力をもち、新しい勢いを加え、元気をましてくる。そのような利便をわれわれは敵から断たねばならない。もしフィリパイでわれわれが敵を迎えうつならば味方は彼ら大衆をうしろ楯《だて》にして戦うことができるのだ。
【キャシアス】 わたしの言うことを聞いてくれ。
【ブルータス】 これだけは了承してもらいたい。君もわかっているはずだ。われわれは味方の精鋭をすぐった軍勢であり、十分に整っているし、戦機も十分に熟している。敵は、一日一日兵力を増しているのだ。わが軍は今その戦力の絶頂にあるが、いつくだり坂になるかもしれない。人間界のもの事には潮時《しおどき》というものがある。それが十分満ちている時、潮はわれわれを幸運に導いてゆく、潮時を逸してしまうと、人間の一生の旅は、浅瀬や悲惨な状態にしばりつけられてしまう。このような満潮の海に今われわれは浮かんでいるのだ。それを利用できる時に、潮にのらねばならない。さもないとわれわれは絶好の機会を逸してしまうのだ。
【キャシアス】 では君の言うとおり、進撃しよう。われわれは進軍して、フィリパイで敵を迎え撃つことにしよう。
【ブルータス】 話に夢中になっている間にいつの間にか夜もすっかり更《ふ》けた。われわれも自然の要求に従わなければならない。すこしは休息をとらなければならない。何かほかに話はないか?
【キャシアス】 もう何もない。おやすみなさい。明日《あす》の朝早く起きて、ここを出発することとしよう。
【ブルータス】 ルーシァス!
〔ルーシァス登場〕
部屋《へや》着をくれ!
〔ルーシァス退場〕
さようなら、メッサラ。おやすみ、ティティニアス、高潔の士キャシアス、おやすみ、ゆっくりやすんでくれ。
【キャシアス】 親愛なる兄弟、今夜は出だしがまことにぐあいがわるかった。もう二度とわれわれの心があのように離れることのないように、絶対にないようにしよう、ブルータス。
【ブルータス】 すべて心配なしだ。
【キャシアス】 おやすみ、ブルータス。
【ブルータス】 おやすみ、兄弟!
【ティティニアス】 おやすみなさい、ブルータス!
【メッサラ】 おやすみなさい、ブルータス
【ブルータス】 では、おやすみ。
〔キャシアス、ティティニアス、メッサラ退場〕〔ルーシァス部屋《へや》着をもってふたたび登場〕
部屋着をくれ、楽器はどこへやった?
【ルーシァス】 このテントの中にございます。
【ブルータス】 どうした? ねむそうな口のきき方だな。かわいそうに、むりもない。夜ふかしがすぎたのだ。クローディアスや、他の者を呼んでくれ。わしのテントの中のクッションの上でねかしてやろう。
【ルーシァス】 ヴァロー! クローディアス!
〔ヴァローとクローディアス登場〕
【ヴァロー】 およびでございますか、だんな様?
【ブルータス】 さあ、わしのテントの中にはいって横になってくれ。もっとも、兄弟のキャシアスの所に使いに行ってもらうためにすぐ、お前たちを起こすかも知れないがね。
【ヴァロー】 いえ、なんでしたら見張りをして起きておりましても。
【ブルータス】 いや、その必要はない。横になってくれ。もっともまた気が変わるかもしれないが、おい、ルーシァス! あんなにわしが捜していた本がここにあったぞ。部屋《へや》着のポケットにしまい忘れていた。
〔ヴァローとクローディアス横になる〕
【ルーシァス】 たしかにだんな様は私にはお渡しになりませんでした。
【ブルータス】 許してくれ。わしはすっかり健忘症になってしまった。しばらくの間、眠いだろうががまんして一曲か二曲、ひいて貰《もら》えないかね。
【ルーシァス】 かしこまりました。お望みでございましたら。
【ブルータス】 やってくれ。いつもお前には無理ばかり言うがよく聞いてくれるな。
【ルーシァス】 いえそれが私《わたくし》の務めでございます。
【ブルータス】 がまんのできない事まで務めだと強制はしたくない。お前の若い血気には十分の休息が必要だ。
【ルーシァス】 もうたっぷりやすみました。
【ブルータス】 それはよかった、でもまた眠るがよい。長いこと引きとめておくつもりはない。もし生きながらえたら、わしはお前にやさしくしてやるぞ。
〔音楽と歌。ルーシァス眠る〕
ねむたい調子の音楽だ。おお、何とひどいねむけだ! お前は、お前のために音楽をかなでているわしの少年の上に、お前の鉛のような杖《つえ》をおくのか? ルーシァス、おやすみ。お前を起こすような残酷なことはしたくはない。だが、このまま目をさまさないと、楽器をこわしてしまうぞ。さあ、どけてやろう。ルーシァス、おやすみ。さてな、さてと! この前読んだ所ではたしかページを折っておいたはずだが。ええと、ここだったかな。
〔坐《すわ》る〕
〔シーザーの亡霊登場〕
なんとうすぐらい燭火《ろうそく》の光だ。おや、そこにいるのはだれだ? おそらくわしの目がかすんでいるせいだろう、こんなおそろしい物の怪《け》の姿が見えるとは! こっちへやって来る。お前は実体をもったものなのか? お前は神か、天使か、それとも悪魔なのか? わしの血を凍らせ、わしの身の毛をよだたせるとは! お前が何者かわしに言ってくれ。
【亡霊】 ブルータス、お前の悪霊だ。
【ブルータス】 なぜ、ここへやって来た?
【亡霊】 またフィリパイの戦場でもう一度わしに会うだろうと告げに来たのだ。
【ブルータス】 そうか、ではもう一度お前に会うのだな?
【亡霊】 そうだ、フィリパイの戦場で。
〔亡霊退場〕
【ブルータス】 そうか、ではもう一度フィリパイで会おう。お前が消えたのでわしはまた元気をとりもどした。悪霊よ! もう少しお前と話がしたかった。おい、ルーシァス! ヴァロー! クローディアス! 皆起きてくれ! クローディアス!
【ルーシァス】 だんな様、どうも弦のぐあいがわるいようです。
【ブルータス】 ずっと楽器を手に持っているつもりでいる。ルーシァス、起きてくれ!
【ルーシァス】 だんな様!
【ブルータス】 夢でも見たのか、ルーシァス? 大声をあげて。
【ルーシァス】 だんな様、大声で叫んだことなど少しも知りませんでした。
【ブルータス】 叫んでいたぞ。お前、何か見たのか?
【ルーシァス】 何も見ません、だんな様。
【ブルータス】 またねるがよい、ルーシァス。クローディアス!〔ヴァローに〕おい、起きてくれ!
【ヴァロー】 だんな様、ご用で?
【クローディアス】 だんな様、ご用で?
【ブルータス】 なぜお前たちはねぼけて、あんな大声をだすのだ?
【ヴァロー】 そんな事いたしましたか、だんな様?
【クローディアス】 そんな事いたしましたか、だんな様?
【ブルータス】 そうとも、何か見たのか?
【ヴァロー】 いえ、だんな様、何も。
【クローディアス】 私《わたくし》も何も見ません、だんな様。
【ブルータス】 さあ、兄弟のキャシアスの所に行ってわしの伝言をつたえてくれ、彼の部隊を先発隊としてすぐ出発させるように言ってくれ、われわれもすぐ後からついて行くとな。
【ヴァロー】 かしこまりました、だんな様。
【クローディアス】 かしこまりました、だんな様。〔退場〕
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第五幕
第一場 フィリパイの戦場
〔オクテヴィアス、アントニーとその軍隊登場〕
【オクテヴィアス】 さあ、アントニー、すべてわれわれの期待どおりになったぞ。君は敵のほうから仕かけてやって来ることはない、敵は丘陵地や山岳地帯にたてこもるだろうと言っていた。だがそうはならなかったではないか。敵の軍勢はすぐそばまで来ている。ここフィリパイの戦場でわれわれに対決するつもりだ。われわれが仕かける前に、自分のほうから挑戦して来た。
【アントニー】 そう、わたしには彼らの心の中にある考えがよくわかる。なぜ彼らがそのような行動に出たかよくわかっている。できれば彼らはここへは来たくはなかったのだ。そして内心ビクビクしながら勇敢なふりをして、うわべだけはとりつくろって、彼らが勇気を持っていることをわれわれの心に刻みつけようとしているが、実際はまったく反対なのだ。
〔使者登場〕
【使者】 ご用意ください、指揮官がた!  敵は威風堂々とこちらへ進撃して来ております。血なまぐさい赤色の軍旗もすでにかかげられております。すぐに対策を講じていただきたいと思います。
【アントニー】 オクテヴィアス、君は君の軍隊をゆっくりと移動させて、平坦地の左手の方を行ってくれ。
【オクテヴィアス】 わたしは右手をゆく。君が左手を行ってほしい。
【アントニー】 なぜ君は、この危機に際して、わたしにいちいちさからうのか?
【オクテヴィアス】 さからってはいない。ただそうしたいだけだ。
〔進軍ラッパの音。太鼓の音。ブルータス、キャシアス及び彼らの軍隊登場。ルーシリアス、ティティニアス、メッサラその他登場〕
【ブルータス】 敵は止まった。会見を求めているようだ。
【キャシアス】 ここで止まれ、ティティニアス。こちらから出かけて話をする。
【オクテヴィアス】 マーク・アントニー、開戦の合図の旗を上げようか?
【アントニー】 いや、シーザー、敵が攻撃して来た時、それにこたえて立つのだ。さあ行こう。敵の指揮官たちも何か話があるらしい。
【オクテヴィアス】 合図があるまで動くな!
【ブルータス】 戦闘の前に、まずことばで交渉しよう。そうだな、同胞諸君?
【オクテヴィアス】 そうかと言って、君たちのようにことばのほうを好むというわけでもない。
【ブルータス】 りっぱなことばはまずい腕力よりははるかにましだぞ、オクテヴィアス。
【アントニー】 君のまずい腕力をかくすために、君は体裁《ていさい》のいいことばを使っている。シーザーの胸を君が刺し貫いたあの傷口をみろ!「ばんざい! ばんざい、シーザー!」と叫んでいるぞ。
【キャシアス】 アントニー! 君の打撃の実体はまだわかっていない。だが君のことばはどうかといえば、ハイブラの蜜蜂《みつばち》からすっかり蜜をうばってしまって蜜|なし《ヽヽ》にしてしまったほど甘いぞ。
【アントニー】 それに針までとられてしまったんじゃないか?
【ブルータス】 そうだ。そのとおりだ。そしてブンブンいう音もなくなってしまった。アントニー、君がその蜂のうなり声をうばってしまった。君が針で刺す前に、まことに上手《じょうず》におどしているぞ。
【アントニー】 卑劣な奴《やつ》だな、君たちは。そのいまわしい短剣でシーザーの脇腹《わきばら》を次々と刺した時、威《おど》すことさえしなかった。君たちは猿《さる》のように歯をむき出し、犬のようにじゃれついた。奴隷《どれい》のように低く頭を垂《た》れ、シーザーの足にキスした。その間にいやらしいキャスカが、野良犬のように、うしろからシーザーの首すじを刺したのだ、お前たちおべっか使い奴《め》が!
【キャシアス】 おべっか使いだと! さあ、ブルータス、自分自身に感謝するがいい、もしもキャシアスの言うとおりにしていたならば、今、こんな罵倒《ばとう》のことばを聞くことはなかったのだ。
【オクテヴィアス】 さあ、さあ、本筋にかえろう。議論しただけで一汗《ひとあせ》かくなら、それを実際の行動に移す時には、もっと赤い血潮になるだろう。見よ! わしは反逆者どもに向かって剣を抜く。この剣がまた|さや《ヽヽ》に納まるのはいつの日であろうか? シーザーの三十三の傷口がすべて復讐《ふくしゅう》されるまではけっして、またもう一人のシーザーが反逆者の剣に刺され、殺|りく《ヽヽ》が重ねられるまではけっして納まらない。
【ブルータス】 シーザー、君が反逆者の手にかかって死ぬことなどはあり得ない。君の部隊に反逆者がいるというのならばともかく。
【オクテヴィアス】 そう望みたいものだ。わたしはブルータスの剣にたおれるために生まれて来たのではない。
【ブルータス】 おお、たとえ君が君の一族の中でもっとも高貴に生まれていても、若者よ、それにまさる名誉な死に方はないはずだ!
【キャシアス】 おろかな青二才め! そんな名誉をうける価値はないわ! 仮面をつけた飲ん|べえ《ヽヽ》と一味になるとは!
【アントニー】 例のキャシアスの調子だな。
【オクテヴィアス】 さあ、アントニー、行こう。反逆者たち、われわれは今こそ挑戦状をつきつけてやるぞ。もし今日戦う勇気があるならば、戦場に出て来い! もし無いならば、いつでもその気になった時にやって来い。
〔オクテヴィアス、アントニー及び彼らの軍隊退場〕
【キャシアス】 さあ、今こそ、風よ吹け! 波よ高まれ! 舟よゆけ! 暴風雨《あらし》だ! すべてが賭《か》けられている。
【ブルータス】 おい、ルーシリアス、お前に話したいことがある。
【ルーシァス】 何かご用ですか?
〔ブルータスとルーシリアス離れた所で話し合う〕
【キャシアス】 メッサラ!
【メッサラ】 何のご用です?
【キャシアス】 メッサラ、今日はわたしの誕生日だ。今日この日に、キャシアスは生まれたのだ。さあ、手をくれ、メッサラ、わたしの証人になってくれ、あのポンペイと同様に、わたしも心ならずも、いや応なしに、この戦いにすべての自由を賭《か》けなければならなくなってしまった。君も知っているとおり、わたしはエピキュロスとその哲学を非常に高く買っていたのだ。だが、今、わたしは考えを変えて、すこしは前兆というようなものを信じるようになった。サルディスから来る時には、味方の先頭の軍旗に、二羽の大きな鷲《わし》が飛び降りて来た。そしてそこにとまって、兵士たちの手から食べ物をむさぼり食った。そしてここフィリパイまでわれわれと共にやって来た。今朝《けさ》それらの鷲《わし》は逃げ去って、行ってしまった。そしてその代わりに、烏《からす》や鳶《とび》どもが群れをなして、われわれの頭上を飛び、まるでわれわれが|ひん《ヽヽ》死の餌食《えじき》でもあるかのように、われわれを見おろしていた。彼らの影はまことに不吉な天蓋《てんがい》のように思われた。その下に、死すべき運命を負わされているかのようにわが軍の兵士は横たわった。
【メッサラ】 そんな風《ふう》に信じるのはやめてください。
【キャシアス】 完全に信じているわけではない。なぜならば、わたしは新しい勇気を持ち、つねに決然として、すべての危険に直面しようとしているのだ。
【ブルータス】 まったくそうなんだ、ルーシリアス。
【キャシアス】 さあ、いと高貴なるブルータスよ、どうか神々よ、われわれが味方となって、平和の愛好者であるわれわれがいついつまでも生きることができるよう導きたまえ! しかし、人間のさまざまな出来事はつねに不確実な状態にあるから、起こり得る最悪の事態を考えておくことにしよう。もしもわれわれがこの戦いに敗れたら、今この時がわれわれが共に語り合う最後の時だ。こんな場合、君はどうする覚悟だね?
【ブルータス】 わたしはケイトーがみずからえらんだ死の方法について、かつて彼を非難した。しかしまさにその哲学の規則によって──ともかくもわたしは、この世の中において、起こって来るかもしれない事をおそれて、自《みずか》らその生命を絶つ事によって、寿命《じゅみょう》をちぢめてしまうのは、臆病で卑劣なやり方だと思っているのだが──わたしは忍耐で自分自身武装して、この世のわれわれを支配している何か高い力の与えてくれる運命をじっと待つ事にする。
【キャシアス】 では、もしもわれわれがこの戦いに敗れたら、敵の戦勝の行列に捕|りょ《ヽヽ》として加えられ、このローマの町中をひきずり回されてもいいと思っているのか?
【ブルータス】 いや、ちがうキャシアス。君もりっぱなローマ人だ、ブルータスが捕|りょ《ヽヽ》としてローマに引かれてゆくなどと考えないでくれ。ブルータスはもっと大きな心をもっている。まさに今日この日、三月十五日にはじまった仕事の結末がつけられるのだ。そしてわれわれはふたたび会えるかどうかわからない。だから、われわれの最後の別れをとり交《かわ》そう、永久に、永久に、さようなら、キャシアス! もしまた再び相会うことがあれば、そう、笑いを交そう。もしもう会うことがなかったなら、この別れはよくぞなされたというべきだ。
【キャシアス】 永久に、永久に、さようなら、ブルータス! もしまた再び相会うことがあれば、そうだ、笑いを交そう。もしもう会うことがなければ、この別れはよくぞなされたというべきだ。
【ブルータス】 さあ、先に進んでくれ。おお、人間が、今日の戦いの結末を事前に知ることができるものであったら! しかし、ともかくも一日は終わるということだけで十分なのだ。その時になればすべては明らかになるのだから。さあ、ゆこう。〔退場〕
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第二場 同じ。戦場。
〔ラッパの音。ブルータスとメッサラ登場〕
【ブルータス】 馬をとばせ、馬をとばせ、メッサラ、馬をとばせ! この命令を向こう側の部隊に伝えてくれ!
〔高いラッパの音〕
彼らにすぐ攻撃させるのだ。見ろ! オクテヴィアスの部隊は戦意を欠いている! 奇襲攻撃をすれば、いっきょに壊滅するぞ! 馬をとばせ、馬をとばせ、メッサラ! 全軍丘をくだって総攻撃だ。〔退場〕
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第三場 戦場の他の場所。
〔ラッパの音。キャシアスとティティニアス登場〕
【キャシアス】 おい、見ろ、ティティニアス、奴《やつ》らが逃げて行くのを見ろ! わし自身が部下たちに、敵になってしまったではないか。わしの部隊の旗手が、退却して逃げようとした、おれは臆病者を殺して、彼から旗をうばい取ったのだ。
【ティティニアス】 おお、キャシアス、ブルータスの命令が早すぎたのだ。ブルータスはオクテヴィアスの軍に対して有利な立場にあったので図に乗りすぎてしまった。彼の部下の兵士たちは掠奪《りゃくだつ》をはじめるし、その間にわが部隊はアントニーにすっかり包囲されてしまった。
〔ピンダラス登場〕
【ピンダラス】 もっと遠くへお逃げください、だんな様! もっと遠くへ! マーク・アントニーがだんな様のテントにはいって来ました。ですから、だんな様、逃げて、遠くへ逃げてください。
【キャシアス】 この丘でもう十分だ。見ろ、ティティニアス、あそこに火の手の上がっているのがわしのテントだな!
【ティティニアス】 そうです、キャシアス。
【キャシアス】 ティティニアス、もし君がわたしに友情をもつなら、わたしの馬に乗って、全力をあげて走りまくり、向こう側の部隊の所まで走ってゆき、そこからすぐにまたここまで帰って来てくれないか。わたしはあの部隊が味方なのか、敵なのか、はっきり見きわめたいのだ。
【ティティニアス】 ではすぐにここにまたもどって来ます。
〔退場〕
【キャシアス】 行け、ピンダラス、その丘の高い所にのぼれ! わしの目は悪いのだ。ティティニアスを見ていてくれ! そして戦場で何かお前が見たらすぐわしに報告してくれ。
〔ピンダラス退場〕
今日この日、わしはこの世に生をうけた。時はめぐりめぐって、わしがはじめた所で、今わしは一生を終えようとしている。わが人生はそのコンパスをまわし切ってしまった。おい、どんな様子だ?
【ビンダラス】 〔二階舞台で〕おお、だんな様!
【キャシアス】 どうしたのだ?
【ビンダラス】 ティティニアス様が、騎兵たちにすっかり取り囲まれました。騎兵たちは駆《か》け足で向かって来ます。ティティニアス様も走りつづけています。ああ、もうすぐ追いつかれてしまいます。あ、ティティニアス様が! 何人かが馬をおりました! ティティニアス様もおります! あ、捕《つか》まってしまいました。
〔歓呼の声〕
ああ、あのように、皆が歓声をあげています。
【キャシアス】 おりてこい。もう見ないでもよい。おお、わしは臆病者だ。こんな生きながらえて、わたしの親友が目の前で捕らえられるのを見るとは!
〔ピンダラス登場〕
おい、ここへ来てくれ! わしはパルチアでお前を捕|りょ《ヽヽ》にした。その時わしはお前に言った。お前の生命を助けてやる代わり、お前はわしがやれと命じる事はどんな事でもやらなければならないと。さあ、その誓言《せいごん》を守るのだ。今こそお前は自由の身になれるのだ。この剣で、シーザーの脇腹《わきばら》を刺し通したこの剣で、わしのこの胸をつけ。とやかく言う必要はない。さあ、お前は柄《つか》をとるのだ。そしてこういう風《ふう》に、わしが顔をおおったその時に、その剣で突くのだ。〔ビンダラス彼を刺す〕シーザー、お前は復讐《ふくしゅう》を果たした。お前を殺したその同じ剣で。
〔死ぬ〕
【ピンダラス】 さあ、おれは自由の身になった。だがこんな風にして自由になりたくはなかった。もっと自分の思うままにできたらと思う。おお、キャシアス様! ピンダラスはこの国から遠くはなれた所に逃《のが》れることにいたします。一人のローマ人にも出会わないような所へ。
〔退場〕
〔ティティニアスとメッサラ再び登場〕
【メッサラ】 これが運命の浮き沈みというものだ。オクテヴィアスはブルータスの軍隊によって打ちまかされ、一方、キャシアスはアントニーに敗北したのだ。
【ティティニアス】 この報告はキャシアスを十分慰めることができよう。
【メッサラ】 どこでキャシアスと別れた?
【ティティニアス】 すっかり力を落としている彼は彼の奴隷《どれい》ピンダラスといっしょにこの丘の上にいたが。
【メッサラ】 あそこの地面に横たわっているのは彼じゃないか?
【ティティニアス】 生きているような気配はないぞ。おお、何ということだ!
【メッサラ】 キャシアスじゃないか?
【ティティニアス】 まさしく キャシアスだ、メッサラ。だがキャシアスはもうこの世にはいない。おお沈みゆく太陽よ! 汝《なんじ》が深紅《しんく》の光の中に沈んで、夜となるごとく、キャシアスも深紅の血に染まって横たわっている。ローマの太陽は沈んだ。われらの日は暮れた。雲よ、霧よ、危険よ、来たれ! われわれの仕事は終わった。わたしの使いの結果を誤解して、彼はこんなことになってしまった。
【メッサラ】 好い結果を誤解して、彼はこんなことをしてしまった。おお、憎んでもあまりあるあやまちよ! 憂鬱《ゆううつ》から生まれたものよ!なぜ汝は、惑わされやすい人間の心に、実際にはない物事をみせるのだ! おお、あやまちよ、すぐにみごもるが、けっして幸福な誕生にはいたることなく、汝をみごもった母親を殺してしまうのだ!
【ティティニアス】 おい、ピンダラス! ピンダラス、どこにいる?
【メッサラ】 ピンダラスを捜してくれ、ティティニアス、その間にわたしはブルータスに会って、この知らせで彼の耳をつきとおしてこよう。あえてつきとおすと言おう。なぜなら彼をつきとおす剣や毒矢のほうが、このみじめな光景の知らせよりも、まだしも歓迎されるだろうからな。
【ティティニアス】 いそいで行ってくれ、メッサラ。その間にわたしはピンダラスを捜し出そう。
〔メッサラ退場〕
なぜ君はわたしを使いに出したのだ、勇敢なキャシアス。わたしは君の味方に会ったのではないか! 彼らはわたしのひたいに、勝利の花環をかざってくれたではないか? 君にもそれを伝えてくれと言ったのではないか。君は彼らの歓声を聞いたはずだ。ああ、君はすべてを誤解してしまったのだ! だが、今こそ、この花環を君のひたいに受け取ってくれ。君の親友ブルータスがそれを君に与えよと命じた。今わたしはそれを果たそう。ブルータスよ、早く来てくれ! そしてわたしが如何《いか》にケイアス・キャシアスを尊敬しているか見てくれ。神々よ、どうか許したまえ! これがローマ人のやり方なのだ。さあ、キャシアスの剣よ、ティティニアスの心臓を見つけてくれ。
〔死ぬ〕
〔ラッパの音。メッサラ、ブルータス、ケイトー二世、ストレートー、ヴォラムニアス、ルーシリアス登場〕
【ブルータス】 メッサラ、どこだ、どこに彼の遺骸《いがい》があるのか!
【メッサラ】 そら、あそこに。ティティニアスが悲しみなげいています。
【ブルータス】 ティティニアスの顔はあお向けだ。
【ケイトー】 彼は殺されている。
【ブルータス】 おお、ジュリアス・シーザー、汝《なんじ》はまだ強いのだ! 汝の精霊はこの世の中を歩き回って、われわれの剣を、われわれ自身の内臓につきつけさせる。
〔低いラッパの音〕
【ケイトー】 勇敢なティティニアス! ほら、彼は死んだキャシアスに冠をかぶせている。
【ブルータス】 彼ら二人のようなローマ人がいまだかつていたであろうか? ローマ人の最後の人、キャシアス、さらば! 君のような人間を二度とふたたびローマが生みだすことは不可能だ! 友人諸君! 今君たちが見ているよりももっともっと多くの涙をわたしはこの死人に負うているのだ。わたしは償《つぐな》いの時を見つけよう、キャシアス、償いの時を見つけよう。だから、さあ、サソスに彼の遺骸を送ろう。彼の葬儀をわれわれの陣営内で行なうことはやめよう。士気をくじいてしまうといけないから。ルーシリアス、さあ、行こう。ケイトー、行こう。みんなで戦場に行こう! ラベオとフレイヴィアス、部隊を前進させろ! まだ三時だ! ローマ人諸君よ、夜になるまでにわれわれはもう一戦をたたかい、われらの運命を決しよう。
〔退場〕
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第四場 戦場の別の場所
〔ラッパの音。ブルータス、メッサラ、ケイトー、ルーシリアス、フレイヴィアス登場〕
【ブルータス】 いま一度、いま一度! 同胞よ、諸君の頭をもたげているがよい。
【ケイトー】 だれが意気|そそう《ヽヽヽ》するものがありましょうか、そんな卑怯《ひきょう》者が? だれかおれといっしょに来るものはないか? おれは戦場じゅうに名前をふれ歩こう。おお、われこそはマーカス・ケイトーの息子《むすこ》だぞ! 暴君の敵、ローマの味方だ! われこそはマーカス・ケイトーの息子だ!
〔兵士たち登場。戦闘〕
【ルーシリアス】 われこそはブルータス! マーカス・ブルータスだ! ブルータス、ローマの味方、ブルータスを見知りおけ! おお、若く高貴なケイトー、お前もやられたか! おお、ティティニアスにも劣らぬりっぱな最期《さいご》だ! ケイトーの息子《むすこ》として名誉ある死に方だ!
【兵士一】 降服しろ! さもないと殺すぞ!
【ルーシリアス】 降服する時は死ぬ時だ! お前がすぐにもおれを殺したい理由は十分あるのだ! ブルータスを殺せ! そして彼の死をお前の名誉にせよ!
【兵士一】 殺してはならぬ。たいせつな囚人だ!
【兵士二】 おい、道を空《あ》けろ! アントニー閣下に報告だ、ブルータスを捕《とら》えた。
【兵士一】 おれが報告に行く。あ、指揮官が来られた。
〔アントニー登場〕
ブルータスが捕《つか》まりました。ブルータスが捕まりました、閣下。
【アントニー】 どこにいるか?
【ルーシリアス】 いや、アントニー、ブルータスは安全だ。あえて断言するが、如何《いか》なる敵も、けっして、高貴なブルータスを生け捕《ど》りにすることはできない。神々よ、どうかそのような大きな恥辱《ちじょく》から彼を守りたまえ! 生きているにせよ、死んでいるにせよ、あなたがブルータスを見つける時、彼はブルータスらしい、彼らしい姿で見つけられるであろう。
【アントニー】 これはブルータスではない。だがたしかに、価値において彼に勝《まさ》るとも劣らないりっぱな者だ。この男を安全に保護しろ、できるだけ丁重《ていちょう》にしてやれ。わたしはこのような男を敵にまわすよりは、むしろ味方にしておきたかった、さあ、行け! ブルータスの生死のほどを確認するのだ! そして、オクテヴィアスのテントにいるわれわれの所まで、すべて事の成り行きを知らせてくれ。〔退場〕
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第五場 戦場の別の場所
〔ブルータス、ダルダニアス、クライタス、ストレートー、ヴォラムニアス登場〕
【ブルータス】 さあ、わずかばかりの生き残りの友よ、この岩の所で一《ひと》休みしよう。
【クライタス】 スタティリアスは合図の松明《たいまつ》をかざしていましたが帰ってまいりません。捕|りょ《ヽヽ》になったか殺されたか。
【ブルータス】 腰をおろしてくれ、クライタス。殺すというのが合いことば、これが流行になってしまった。クライタス、聞いてくれ。
〔ささやく〕
【クライタス】 え? 私《わたくし》がでございますか、だんな様? そんな事はとんでもございません。
【ブルータス】 では黙れ、けっして他言するな。
【クライタス】 死んでもいたしません。
【ブルータス】 きいてくれ、ダルダニアス。
〔ささやく〕
【ダルダニアス】 私《わたくし》にそんな事ができますでしょうか。
【クライタス】 おお、ダルダニアス!
【ダルダニアス】 おお、クライタス!
【クライタス】 どんなひどい要求をブルータスは君にしたのか?
【ダルダニアス】 彼を殺してくれと言うのだ、クライタス。あのように考えこんでいる。
【クライタス】 今あの高貴な身体《からだ》は悲しみでみたされているのだ、その目からもそれがほとばしり出ようとしている。
【ブルータス】 ここへ来てくれ、ヴォラムニアス。ちょっときいてくれ。
【ヴォラムニアス】 話とは何ですか!
【ブルータス】 こういうことだ、ヴォラムニアス。シーザーの亡霊がわたしの所へ幾度かあらわれた。夜のやみにまぎれて。一度はサルディスにおいて、そして昨夜はここフィリパイの戦場にあらわれた。わたしは自分の死の時が来たのがわかるのだ。
【ヴォラムニアス】 そんな事はない。
【ブルータス】 いや、たしかにそうなのだ、ヴォラムニアス。君は世の中がどのように動いているかわかるはずだ。われわれの敵は徹底的にわれわれを打ち負かした。
〔低いラッパの音〕
もう今では、敵が押し寄せてくるのを待つよりは、自分で飛び込んだほうがよいのだ、ヴォラムニアス。君もおぼえいるだろう。われわれはともに学校に通った。その昔の友情のよしみで、お願いだ、わたしが走って行くから、剣の柄《つか》をもっていてくれないか?
【ヴォラムニアス】 友だちとしてそんな事はとてもできない。
〔ラッパの音つづく〕
【クライタス】 お逃げください! だんな様、逃げて。もうぐずぐずしてはなりません。
【ブルータス】 さようなら、君にも。さようなら、ヴォラムニアス。ストレートー、お前はさっきから眠りつづけているが、お前にもさようならと言おう。さあ、同胞諸君! わたしの心はよろこびでいっぱいだ。いまだかつてこの一生において、わたしを裏切った人は一人もいないからだ。この敗北によって、わたしは、オクテヴィアスや、マーク・アントニーが、卑劣な手段で得る勝利によって到達するよりはるかにすばらしい栄光を得るだろう。では、諸君、ここで最後の別れを言おう。ブルータスのことばは、彼の生涯の物語をほとんど綴《つづ》りおえたからだ。わたしの目の上には、すでに夜のとばりが落ちかかり、わたしの肉体は休息を求めている。この時をかち得るために苦しみ努力して来たのだが。
〔ラッパの音、舞台裏で「逃げろ、逃げろ」という声〕
【クライタス】 お逃げください、だんな様、逃げてください。
【ブルータス】 おお、ゆけ、わしも後からゆく。
〔クライタス、ダルダニアス、ヴィラムニアス退場〕
お願いだ、ストレートー、お前はお前の主人のところにとどまれ。お前はなかなか評判のいい男だ。お前の生活にはなかなかりっぱな所がある。さあ、おれの剣をもって立て、そして顔をそむけろ! おれが走って行くから。いいか、ストレートー!
【ストレートー】 まずその前にお手をください。さようなら、だんな様。
【ブルータス】 さようなら、ストレートー。シーザー! いまこそ永久に安らかであれ! わたしはこの男の半分ほどの善意もなしに君を刺した。
〔ブルータス、彼の剣に走りかかって死ぬ。ラッパの音。退却。オクテヴィアス、アントニー、メッサラ、ルーシリアス及び軍隊登場〕
【オクテヴィアス】 この男は何者だ?
【メッサラ】 わたしの主人ブルータスの召使いです。ストレートー、ご主人はどこだ?
【ストレートー】 あなたがつながれている束縛から逃《のが》れて自由の身になられました。征服者たちも、だんな様を火葬にすることしかできません。だんな様はご自分でご自分を征服されました。だんな様の死によって、名誉を手に入れる方はございません。
【ルーシリアス】 さすがはブルータスだ。感謝するぞ、ブルータス。このルーシリアスのことばを証明してくれたのだ。
【オクテヴィアス】 ブルータスに仕えていた者すべてをわしは丁重《ていちょう》に扱うつもりだ。おい、お前はわしに仕える気はないか?
【ストレートー】 はい、もしメッサラ様がご推せんくださいますなら。
【オクテヴィアス】 メッサラ、そうしてくれ。
【メッサラ】 ご主人の死に方は、ストレートー?
【ストレートー】 私《わたくし》が剣を持って立っておりますと、だんな様がそれを目がけて走って来られました。
【メッサラ】 オクテヴィアス、ではこの男を家来にしてやってください。私の主人に最後の奉公をしたのですから。
【アントニー】 この人こそは、すべての者の中でもっとも高潔なローマ人だった。彼以外の反逆者たちは、偉大なるシーザーへの憎しみのあまり事を起こした。彼だけは、ただただ国家に対する崇高な尊敬すべき考えをもち、人々の福祉のために、反逆者の一味に加わった。彼の生涯は高潔であった。彼の中にはすべての素質がまことに美しく調和し融合していたので自然の女神《めがみ》も立ち上がって、全世界に向かい、「この人こそはりっぱな人物であった」と言うほどであった。
【オクテヴィアス】 徳高い彼にふさわしく彼を扱うことにする。すべての敬意と、葬式の儀礼をつくして取りおこなう。今夜はわしのテントの中に彼の遺骸《いがい》を置こう。あくまでも軍人らしく、りっぱな儀式をもってしよう。戦闘を中止するよう命令をくだせ。さあ、われわれも行き、この幸い多き勝利の日の栄誉をわかち合おうではないか。
〔退場〕
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解説
〔時代的背景〕 シェイクスピアが『ジュリアス・シーザー』を書いたのは大体一五九九年か一六〇〇年、『ハムレット』より少し前であろうと推定される。トマス・プラターというスイス人の旅行者が一五九九年の秋をロンドンですごした折りに、二つの芝居を見たと記している。そして彼は次のように述べている。「九月二十一日の午後二時ごろ、わたしと仲間の者たちは川をわたって、|わらぶき《ヽヽヽヽ》屋根の芝居小屋で、皇帝ジュリアス・シーザーの悲劇のすばらしい上演を観《み》た。登場人物は十五人ほどで、劇が終わった後、いつも彼らがやるように、二人が男の服装をつけ、二人が女の服装をつけて、優雅な、巧妙なダンスが行なわれた」これがシェイクスピアの『ジュリアス・シーザー』であり、地球《グローヴ》座で上演されたものであろうと推定される。ジュリアス・シーザーの悲劇はシェイクスピア以前にもしばしば英国で上演されていた。この劇の原典であるプルタークの『英雄伝』の英訳がサー・トマス・ノースによって出されたのが一五七九年で、これが当時非常によく読まれていたらしい。ノース訳『英雄伝』はシェイクスピアの劇にも非常に大きな影響を与えている。この劇はそのころ一般大衆に親しまれていた題材をとり入れて書かれたものである。
この劇がちょうど十六世紀から十七世紀へ移り変わる時に書かれたということにわれわれは注目しなければならない。ロンドンに出て来たばかりの若いシェイクスピアが書き上げた『タイタス・アンドロニカス』や『リチャード三世』などと比較してみると、われわれはシェイクスピアが人間としても劇作家としても成長して来た|あと《ヽヽ》をたどることができる。エリザベス朝の華《はな》やかな英国から、世紀末、さらに十七世紀の英国へと、時代は移り変わり、旧《ふる》い世界観、自然観、人間観から新しい考えへの転換、新旧思想の対立、相剋《そうこく》などがみとめられ、『ジュリアス・シーザー』には、初期の劇にはみとめられなかったような懐疑や幻滅の気配もうかがわれる。『ハムレット』と共通な思考の形式や論理の展開の中にも、われわれはこの偉大な劇作家シェイクスピアが生きて来た時代を感じとることができる。
〔ジュリアス・シーザーの位置づけ〕 故郷ストラットフォードを後にシェイクスピアがロンドンに出て来て、劇団の一員として生活をはじめたころ、英国演劇は固有の伝統の上に古典劇の主題、形式、技巧を学びとって新しい発展の機運を見せていた。文芸復興の時代精神と古典語学習、研究の意欲によって、英国演劇は新しい独自の発展の可能性を求めていったのである。若いシェイクスピアは懸命にプロウタス、テレンスの喜劇を学び、セネカの悲劇を学んだのである。いわゆる習作時代と呼ばれている頃から円熟期にいたるシェイクスピアの悲劇作家としての成長発展をたどってみる時、われわれはあらためて、『ジュリアス・シーザー』の果たしている役割と、この劇の持つ意味の大きさに気づくのである。シェイクスピアはセネカ悲劇の伝統や技巧を十分に理解し、取り入れながらも、これを単なるセネカ風の復讐《ふくしゅう》劇にはしなかった。四大悲劇の第一作、『ハムレット』において、シェイクスピアは悲劇の本質を人間の意識の中に求めてゆき、新しい悲劇観への意図《いと》と意欲を示したが、同じような事がこの劇についてもみとめられる。四大悲劇において確立されたシェイクスピアの悲劇の世界のあらゆる萌芽《ほうが》がこの『ジュリアス・シーザー』にあると言っても過言ではあるまい。
シェイクスピアはいかなる種類の劇を書く時にも、人間への強い興味と関心を示している。彼の初期の喜劇の技巧の中にも、いわゆるロマンティック・コメデイの中にもみられる彼の深い人間理解の態度は、『ジュリアス・シーザー』を契機として、新しい悲劇観に連なって行った。そしてプルタークの『英雄伝』は彼にとってまさに適切な素材であったし、主題や表現の面でも、シェイクスピアに多くのものを与えてくれたのである。シェイクスピアはこのような素材を用いて、彼の劇を創り上げたのであるが、彼は『ジュリアス・シーザー』の劇の中で何を描こうとしたのであろうか? その主題はシーザーの暗殺であり、ローマの内乱である。当時の人々がよく知っていた物語である。しかし、この劇は、このような史実や物語を単に劇化したものではない。シェイクスピア批評家のウィルソン・ナイトは言う、「この劇の単純さはただ表面だけの単純さである。厳密に分析してゆくと、この劇はその繊細《せんさい》さと複雑さを示すようになり、これがこの劇の解釈を困難にしてゆくのである」と。
この劇の表題が示しているように、これはジュリアス・シーザーの悲劇である。輝かしい武勲と栄光と勝利を得ながら、反逆者たちに暗殺され、親友にさえ裏切られたシーザーの悲劇である。ところがこの悲劇の主人公シーザーは、この劇の前半において、ローマの指導者としてはおよそふさわしくないほど、欠点だらけ、弱点だらけの人間に描かれている。肉体的にも精神的にも欠陥《けっかん》だらけの人間であり、虚勢をはっても現実の伴わない人間、迷信に左右される弱い人間に描かれているシーザーは、高潔の士ブルータスとまことに対照的である。このようなシーザーに対するキャシアスの不満も、われわれには容易に納得《なっとく》できる。理想君主のイメージからはあまりにも遠いシーザーの姿がまずわれわれに強く印象づけられる。シェイクスピアはこの劇の中であまりにも弱い人間としてのシーザーを描き出そうとしているのであろうか? 否、決してそうではない。なぜならばこの劇において、アントニーの演説や悲嘆のことば等によって、シェイクスピアはジュリアス・シーザーを理想君主のイメージにもどしているからである。また、戦場で、二度ブルータスの前にあらわれるシーザーの亡霊もわれわれは問題にしなければならない。そしてわれわれはこの劇においては、言葉や雰囲気《ふんいき》がいかに芝居を複雑にしているかをはっきり認めるのである。
〔新しい悲劇の確立へ〕 シーザーの亡霊を登場させることによって、シェイクスピアは明らかにセネカ悲劇への関心を示している。『リチャード三世』などにみられるセネカ風の復讐《ふくしゅう》の主題と技巧がこの劇においても認められる。しかし、この劇がシーザーの復讐を中心主題とするというような単純な解釈でわれわれは満足することはできない。時代の移り変わりと、劇作家としてのシェイクスピアの円熟とが、新しい悲劇観を創《つく》り出して行った。これは新しい型の復讐劇への意欲であると言ってよいかもしれない。人間に対する深い理解とその複雑な悲劇性の展開は新しい悲劇の世界を創造して、『ジュリアス・シーザー』から『ハムレット』へ、さらに『マクベス』へと展開してゆくのである。
〔ブルータス論〕 『ジュリアス・シーザー』の主人公はブルータスで、これはブルータスの悲劇であるという見方も成立する。ことにこの劇の後半においては、悲劇の主人公は明らかにブルータスであるということができる、そしてブルータスの悲劇の萌芽《ほうが》はこの劇の前半においてもすでに見られる。第二幕   第一場、眠れぬままに庭園をさまようブルータスの苦悩の中に、彼の悲劇はすでにそのきざしを見せている。暗殺以前のシーザーの弱点や欠陥《けっかん》とは対照的に描かれてゆくブルータスの高潔さは、シェイクスピアの円熟した後期の悲劇の主人公、たとえばマクベスなどに見られるものであると言えよう。批評家ウィラード・ファーナムの言う「逆説的高潔さ」である。これはブルータスの性格をシーザーの性格と対照させてゆくばかりでなく、ブルータスの悲劇を最後までささえてゆくものである。しかもシェイクスピアはブルータスの性格の中にも矛盾《むじゅん》的、対照的な要素を巧みに描き出している。ブルータスはすべてローマのために行動し、正義のためには死をもいとわない人物であった。名誉を重んじ、おのれを捨てて生きる高潔の士であった。しかし彼とても一個の人間、彼は彼なりの弱点と欠陥《けっかん》をもっていた。このようなブルータスを描いてゆく時、シェイクスピアの人間理解の深さ、その巧みな表現が心憎いまでによく示されている。
ブルータスの悲劇を展開してゆくのは、彼の独善的な態度である。彼はストア哲学を信奉《しんぽう》し、すべてを理づめで割り切って行こうとした。ブルータスは彼自身の判断が正しいと信じ切っていたし、彼自身の理性を信じていた。ブルータスは現実にうとく、実際的な判断を下すことができなかった。これは単にブルータスが理想主義者であるということではない。ブルータスは自分の独善的な考えで、理念的な世界があたかも現実であるかのようにふるまった。いや、むしろ、彼にとっては理想、理念の世界はぎりぎりの現実であるとしか思えなかったのである。彼は自分のつくり上げた現実の中で、自分がもっとも正しく行動していると信じ、彼の周囲の人々もまた彼と同様にふるまうべきだと考えるようになった。そしてそこにブルータスの悲劇がつくり出された。抽象概念と現実とをはっきり区別することのできなかったブルータスは、キャシアスその他の人々の経験や現実にもとづいた忠告をしりぞけた。ブルータスにとっては彼自身の独善的な立場だけが唯一《ゆいいつ》の現実であったからである。自分自身に対する過信、ひとりよがりな態度がけっきょくブルータスを悲劇のどん底に追い込んでしまった。シェイクスピアはこのような矛盾《むじゅん》を含んだブルータスの性格をまことに巧みに描き出して彼の悲劇を完成させている。
〔キャシアス〕 ブルータスの性格はシーザーと対照的に描かれているが、キャシアスの性格とも対照的である。キャシアスはブルータスよりもずっと現実的であり、エピキュリアンであり、実際家であった。ブルータスが理性によってすべてを割り切って行こうとするのに反して、キャシアスは現実的な常識と経験と感情で判断を下してゆく。彼はブルータスに対して限りない尊敬と深い友情の気持ちを抱いている。このような彼のブルータスに対する気持ちが、けっきょくはキャシアスを破滅に導いてゆくのである。シェイクスピアはキャシアスを描く時にも、彼の性格のさまざまな面を複雑に示してゆく。不満分子的なキャシアス、エピキュリアンのキャシアス、友情にあついキャシアス、勇敢なキャシアス、人間的なキャシアスがこの劇の進行につれて描き出されてゆくとき、『ジュリアス・シーザー』のもつ複雑なおもしろさが展開されてゆくのである。
〔ポーシァとカルパーニア〕 ポーシァとカルパーニアも対照的に描かれた女性たちである。ケイトーの娘としての誇りをもつブルータスの妻ポーシァは聡明な妻であり、立派な女性である。彼女は夫ブルータスに対して強い愛情と説得力をもっている。夫の秘密を知った後の彼女の夫の身を案じて焦燥《しょうそう》と苦悩にさいなまれるあたりの描き方にシェイクスピアはまた、細やかな人間理解の態度を見せている。燃える石炭を口にふくんで悲壮な死をとげるポーシァにも、シェイクスピアはブルータスの妻として、一人の弱い女性として、カルパーニアとの対照としての人間を描き出してゆく。シーザーの妻カルパーニアの描き方は、ポーシァの場合とはちがっている。迷信的な彼女の考えで、夫がキャピトルへ行くのをとどめようとするが、それもけっきょく成功せずシーザーは出かけてゆき、暗殺されてしまう。シェイクスピアは、しかし、カルパーニアにはポーシァのような人間性を与えてはいない。彼女にはポーシァのような苦悩はない。彼女はポーシァと対照的であり、また、シーザーとも対照的であるが、それはポーシァを描き、シーザーを描くための手段であると言ってもよい。ここでもわれわれはシェイクスピアの人物描写の複雑な方法と劇的効果と役割とを認めることができる。
〔アントニーの役割〕 この劇においてもう一人の重要な人物がある。それはマーク・アントニーである。そしてわれわれはまずアントニーのこの劇における扱い方と役割は、他の人物、シーザーやブルータスやキャシアスとはまったく異なっていることに気づくのである。有名な演説の場を中心として、アントニーがブルータスと対照的に描かれているということはできよう。しかしいかなる意味で対照的であるのか?ここでわれわれは、シーザーやブルータスやキャシアスの場合にはかなり細かい性格描写がなされているのに、アントニーの場合にはほとんどそれがなされていないことに注目する。遊びが好きで、享楽的なアントニーというような表現が他の人物の口の端《は》にのぼるが、これもこの劇では何も決定的な効果をもっていない。同じくプルタークの『英雄伝』を素材とした『アントニーとクレオパトラ』の主人公アントニーの性格描写はこの劇では全然見られない。なぜであろうか? われわれはこの劇におけるアントニーの役割をもう一度はっきり認識する必要がある。シェイクスピアはこの劇において、アントニーの言葉、演説、雄弁に重点をおいており、それが周囲の人々に及ぼす影響や効果を重要視しているのである。アントニーはその雄弁によって、この劇の中で雰囲気《ふんいき》をつくり出し、大衆の感情に訴え、彼らの心を目まぐるしいまでに変化させる力を持っている。『アントニーとクレオパトラ』においてはアントニーにはブルータスやマクベスのような「逆説的高潔さ」が与えられているが、ここではまったく異なった役割と意味が与えられている。アントニーは彼自身の性格の複雑さや矛盾《むじゅん》などによってではなく、それを聞く者たちに影響を与え、雰囲気《ふんいき》をつくり出す彼の言葉とその表現の展開によって、この劇において非常に重要な独自の役割を果たしているのである。
〔言葉の可能性への挑戦《ちょうせん》〕 シェイクスピアの劇からその言葉や表現のおもしろさを切り離して考えることはできない。当時の素朴な舞台において、俳優たちと観客とを結ぶものは|せりふ《ヽヽヽ》であり、それを理解し解釈する想像力であった。日常用語としても文学用語としても、ようやくその形を整《ととの》え、基礎を固めて来た初期近代英語に対する、作家たちや、一般大衆の関心には、注目すべきものがあった。当時の英国の人々の表現愛と、母国語の表現の可能性に対する確信が劇の生命をささえ、育てて行ったと言えるであろう。古典語の学習、古典修辞学の学習は、自分たちの言葉、英語に対する興味と関心をさらに大きくした。英語で書かれた修辞学書が次々と出版された。伝統的な古典修辞学の系譜を守り伝えようとするトマス・ウィルソンの『修辞学』も多くの人々に読まれた。またそのような正統派的な修辞学に対する批判や反動を示すピーター・ラムスの新しい『修辞学』も英訳され、これを奉じる多くの英国修辞学者たちがあった。さらにラムスの修辞学に対する反動、古典修辞学へ再び帰そうとする努力、そしてそれらの批判や反動から、新しい英国修辞学、論理学の基礎を確立しようとする多くの試みがあった。フランシス・ベーコンから、ジョン・ミルトンまで、英国の論理学、修辞学の歴史をになって行く多くの人々があった。
シェイクスピアは大学教育も受けなかったし、古典修辞学を学問として学んだこともなかった。しかし彼も時代の子であり、その豊かな想像力と言葉に対する大きな関心は、彼の作品の中で見事に示されている。ストラットフォードのグラマスクールで学んだであろう基礎的な修辞学の知識は、彼の才能とするどい感受性と、豊かな表現愛によって、彼の作品の中で、劇的効果を十分に発揮し、喜劇においても悲劇においても、劇の生命をになうものとなった。初期の悲劇の代表作である『リチャード三世』では、修辞的技巧はこの劇の悲劇の効果を高めるのに役立っている。バランスとコントラストのさまざまな修辞技巧が、時には悲劇の雰囲気《ふんいき》をつくり出して劇を進展させ、時には喜劇的な風刺や皮肉となって、劇に複雑さを与えている。主人公リチャード・グロスターの 第一幕   第一場の最初の登場の時からの技巧的な|せりふ《ヽヽヽ》の展開は、若いシェイクスピアが意欲的に英語の表現の可能性に挑戦《ちょうせん》して彼自身の独自な劇的効果をあげようとしていることを示している。グロスターがアンに求婚する場面はセネカ風の隔行対話《ステイコミシア》を英語の修辞法で巧みに展開させながら、その形式的な技巧によって風刺や皮肉の効果をも与えて、劇を盛り上がらせている。老王妃マーガレットの呪《のろ》いの言葉も形式的な反復の技巧によって、雰囲気をつくり出し、多面的な劇的効果をおさめている。この劇が単なるセネカ悲劇の模倣《もほう》におわらなかったのも、また単なる年代記的叙述の劇にとどまらなかったのも、シェイクスピアが言葉に対する興味と関心を非常にうまく活用しているためであると言えよう。
エリザベス朝の人々は貴族も一般大衆も言葉の技巧、言葉の遊びをたのしんだ。ジョン・リリーなどの宮廷劇のように、言葉の形式や技巧のおもしろさで展開されてゆく芝居は、とくに上流階級の人々のこの上ない娯楽であった。シェイクスピアもこのような宮廷劇を書こうとした。『恋の骨折り損』がその一例である。リリーのいわゆる誇飾体《ユーフユイズム》を模倣したり、風刺したりしながら、シェイクスピアは修辞技巧を巧妙に用いて、 登場人物相互間のそして 登場人物と観客の間の認識の|ずれ《ヽヽ》から生ずる笑いと喜劇の世界をつくり出して行った。言葉は劇作家シェイクスピアと彼の描き出した 登場人物と観客とむすんで彼の喜劇の基礎をつくったのである。『ヴェローナの二紳士』においてもシェイクスピアは言葉のもつ表現の可能性に強い確信をもって、彼自身の喜劇性をつくり上げ、展開させている。
『ロミオとジュリエット』においても、シェイクスピアは言葉の技巧のもたらす効果を非常に重要視している。二人の若い恋人たちの愛の言葉のやりとりも、われわれが想像する以上に言葉の形式、技巧に対して注意がはらわれている。この作品にはまた、いわゆる言葉の遊びが非常に多く用いられている。主人公たちの言葉にももちろんであるが、彼らをとりまくほとんどすべての脇役は、他の劇に見られないほどに言葉の遊びによって、彼ら自身の存在を生き生きしたものにしている。そこにかもし出される風刺やユーモアは、シェイクスピアの言葉に対する興味と、人間に対する理解と裏付けられて、この劇に独特の雰囲気《ふんいき》をつくり出している。
言葉と修辞の中から笑いを直感するのは、本質的には喜劇の態度である。初期の劇から示されて来たシェイクスピアの修辞技巧に対する興味と関心は作を重ねるに従って、だんだんと機械的な形式的なものから脱して、劇の本質と直接結ばれるようになって来た。『真夏の夜の夢』以後のいわゆるロマンティック・コメデイにおいて、この事がはっきりとみとめられる。表現の技巧は喜劇のレトリックと成って劇を展開させ、観客は劇の主題や内容ときりはなすことなしに、言葉や修辞の技巧からそれぞれの劇の喜劇性を把《つか》んでゆく事ができた。シェイクスピアは形式的な表現や修辞技巧や装飾的な文体を見事に喜劇の構成要素として使いこなしている。そしてこの場合、われわれが注意すべきは、喜劇の世界は表現の技巧のかもし出す笑いを直感することによって成立する事である。しかもシェイクスピアは技巧的な修辞と文体の中にごく単純で直接的な日常用語の表現をとり入れていっしょに用いることによって、この笑いの効果を一そう大きなものにしている。われわれはシェイクスピアのするどい感覚で用いられている言葉の魔術に完全に魅了されてしまう。
喜劇においても、悲劇においても、シェイクスピアが自由自在に言葉や修辞の技巧を駆使《くし》し、しかもその間に日常用語を交えて、劇を観客に身近なものにしながら複雑に展開させて行くようになったのは、ちょうど十六世紀から、十七世紀への転換期の頃であった。喜劇では『十二夜』が、悲劇ではこの『ジュリアス・シーザー』が、その時期を示す作品である。シェイクスピアの劇の言葉の発展のあとをたどって行くとき、『ジュリアス・シーザー』の果たしている大きな役割を忘れることはできない。シェイクスピアが積極的に言葉の複雑な可能性と取り組んで、これを彼の劇の本質に連ねて行く事に成功したのがこの劇においてである。
喜劇において、観客は言葉の技巧から笑いを直感すると述べたが、悲劇においては言葉の技巧は、観客を 登場人物の意識の中に引き入れて、彼らの性格を理解し、その苦悩や矛盾《むじゅん》を感じとる手段であった。観客はここでも劇の中に積極的に参画して、彼らの想像力によって、豊かに展開されるシェイクスピアの悲劇の大きさと広さとを理解することが必要であった。『ジュリアス・シーザー』はこのような点から、作を重ねるごとに円熟さを示してゆくシェイクスピアのさらに新たな言葉への挑戦《ちょうせん》であったと言い得る。そして彼はそのためにマーク・アントニーを用いたのである。殊更《ことさら》らしく丁重で、故意に形式的なアントニーの召使いの|せりふ《ヽヽヽ》にはじまるアントニーの舞台への登場にはじまって、この劇には新しい意味と、新しい解釈の可能性が加えられる。そしてシーザーの葬儀でのアントニーの演説はこの劇に決定的な特質を与えている。
〔劇の展開と演説の意味〕 シーザーの復讐《ふくしゅう》劇とするにはあまり幅の広いこの劇のスケールは主としてこの演説の場によって設定されている。そしてブルータスの悲劇とするにも、この演説の場はあまりに大きな位置を占めすぎている。シーザー暗殺の場がシーザーの悲劇の大団円《キヤタストロフ》であるなら、この葬送演説の場はブルータスの悲劇の開幕であると言えるかもしれない。シーザーの悲劇はローマにおける相反し矛盾《むじゅん》する二つの態度の相剋《そうこく》によってはじめられ、無知無批判な一般大衆もそれに加わってこれをクライマックスへと運んで行った。ブルータスの悲劇も、同じように動揺し、めまぐるしく変化してゆくローマの大衆によって裏づけられている。そしてこれら互いに相反し、相矛盾する二つの力の相剋を悲劇にしてゆくのが、この劇の言葉であり、表現であり、修辞の技巧である。そしてその中心になっているのがアントニーである。性格描写の面ではアントニーは必ずしもブルータスと対照的ではないが、彼ら二人の演説を比べてみると、まことに鮮やかな対照が見られる。シェイクスピアはこれら二つの演説に、当時の英国において批判や論争の中に形式を整《ととの》え、内容を変化させて行った英語修辞学や論理学への関心を示すことも忘れてはいない。
シーザーの葬儀の場。まずブルータスが祭壇にのぼる。そして演説をはじめる。これはつづいてなされるアントニーの演説とはまことに対照的である。ブルータスの演説は散文であるのに対してアントニーのは非常に調子の高い韻文である。彼ら二人の演説の全体の調子も互いに非常に異なったものになっている。シェイクスピアはいかなる意図《いと》をもって彼ら二人の演説をかくも対照的にしたのであろうか。シェイクスピアはブルータスの演説に対するヒントをまずプルタークから得ている、すなわちプルタークはブルータスが「ラケダイモン人のような短い簡潔な表現を用いて手紙を書いた」と述べている。シェイクスピアはブルータスの演説の脚本を書く時おそらく彼の手紙の簡潔な文体を思い浮かべたであろう。ジョン・パーマーは彼の『ブルータス論』の中で次のように述べている。「ブルータスは彼の聴衆の感情に訴えるようなことは決してしない。彼の演説は簡潔な対照法を用いて、彼が心に考えていることを正確に表現している。その論理はユークリッド的で、ととのった簡潔さはタキトゥス的である。彼の演説はそれを聴いている人々に集中した意識と注意力を要求する。一つ一つの文章はきちんと整った修辞学的調和のとれたもので、学者のグループ、哲学者たち、文学的思考や表現に慣れた人々に向かってなされるような演説である」ブルータスはまず皆に「最後まで静聴を願いたい」といって演説をはじめ、そして市民たちは彼の言うとおり、おわりまで彼の言葉に耳を傾けた。ブルータスの演説でも大衆の心を動かすことができたように思われた。
しかしそれはほんのつかの間のことであった。アントニーが演説をはじめた。ブルータスの演説が大衆の知性と論理的思考に訴えるものであるのに全く反して、アントニーの演説は大衆の感情に訴え、感情をかき立てるものであったからである。劇作家シェイクスピアはただ対照的に二人の政治家の演説を並べただけではなかった。彼はこの二つの対照的な雄弁を聞き手であるローマの市民たちの意識や感情との関係において巧みに展開した。ここにブルータスの独善的な態度はさらに強調され、ブルータスという一人の人間の悲劇はこの対照的な二つの演説の中にさらに発展する。ブルータスは私心のない立派な政治家であった。彼には彼のユートピアがあり、彼はそれを観念的に追求して行った。このユートピアのチャンピオンとしての彼の独善的な考え方、目の前のローマの一般大衆を自分と同じレベルにおいて考えることしかできないブルータスの悲劇が彼の演説の中に明らかにあらわれている。自分の立場だけが絶対正しいと思いこんで、他のレベルをみとめることのできない自己中心的な態度、これがブルータスの致命的な誤りであり、彼の悲劇を決定的にするものであった。これを十分に心得て、この弱点に乗じて成功を収めたのがアントニーの演説であった。
ブルータスの理づめの演説を聞いて一応納得し、暗殺されたシーザーを暴君だと思い込んだローマ市民たちの単純な群集心理に対抗するために、まずアントニーはブルータスの立場をたくみに用いた。言葉を切り出す時からブルータスの演説の調子を模倣《もほう》し、もじり、またブルータスにたいする賛辞、「高潔の士」の巧みなくりかえしは、しだいに皮肉と風刺を強めて行った。アントニーは決してはじめから高飛車な態度で大衆に対して自己主張することも、亡きシーザーをたたえることもしなかった。アントニーは他人の立場、群集の立場を十分に理解し、自分をそのレベルにおいて、ローマ市民たちの感情をしだいに高めていった。ブルータスが自分自身で理路整然と結論を引き出して行ったのに対してアントニーは聞き手の感情に訴えて、彼らに自分の思うとおりの結論を出させることに成功したのである。形式や伝統の中で融通《ゆうずう》性を失いがちな旧い論理学、修辞学の理論と実践に対して、新しい表現の論理をうちたてようとする文芸復興期英国の修辞学者たちに見られる意欲と共通なものがここにも認められると言ったら言いすぎであろうか。
ローマ市民たちの心がすっかり自分の方に引きよせられたと確信した時、アントニーの演説自体が非常に感情的なものに変えられる。そしてすでにブルータスやキャシアスたちに対してはげしい憤りを表わしている市民たちの心は暴動へとかりたてられてゆく。アントニーの演説の聞き手に与えるさまざまな効果、思慮、分別、理性、判断力に対する効果、さらに感情に訴えてゆく効果を描いてゆくシェイクスピアの言葉の妙味はわれわれを十分満足させてくれる。主体性のない市民たちをこの劇の最初から登場させている作者シェイクスピアの周到な配慮はこの場に到ってその効果を十二分に示している。この場の二つの演説は『ジュリアス・シーザー』の悲劇の重要なクライマックスであるとともに、この劇全体を動かしている言葉に対する作者のするどい感覚と意識がもっとも効果的にあらわれたものであり、この劇の特質は言葉とその変化にとんだ表現と技巧によって成り立っていると言ってもよい。
前にも述べたように、シェイクスピアは簡潔な、直接的な表現や日常用語を、形式的、技巧的な修辞とともにまことに巧みに用いている。ブルータスの最後の言葉「シーザー! いまこそ永久に安らかであれ!」とか、アントニーが死んだブルータスをたたえて、「この人こそは、すべての者の中でもっとも高潔なローマ人だった」と言う簡潔な|せりふ《ヽヽヽ》のもつ劇的効果を見逃してはならない。言葉のあらゆる可能性を十分に認識したシェイクスピアは、簡潔な表現による強調を織りまぜながら、修辞的技巧や表現の論理を展開させて、この劇の独特な、複雑な意味を観客に示そうとしている。『ジュリアス・シーザー』を正しく理解するためには、われわれはその言葉に注目しなければならない。そして同時に、われわれは作者シェイクスピアの興味が、言葉にとどまってはいないことも知るのである。
この劇に対して単一的な解釈を与えることは無意味である。もちろん読者であり、観客であるわれわれはそれぞれ異なった解釈の態度や方向を持っている。しかしどのような角度からこの劇に近づいても、必ずわれわれは簡単に解決できない問題点に遭遇《そうぐう》する。そしてそのような時、われわれはもう一度テクストに帰ることが必要である。そして、シェイクスピアの言葉の豊かさ、複雑な使い方を理解するようにしたい。そのような努力をした時、『ジュリアス・シーザー』のもつさまざまの問題点の意味は前より明らかになるであろう。そしてこの劇を契機として、さらに四大悲劇へと円熟して行った劇作家シェイクスピアの姿をそこに認めることができるであろう。
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代表作品解題
シェイクスピアの伝記的資料はおどろくほど少ししか残されていない。シェイクスピア・マーロウ説、シェイクスピア・ベーコン説がとなえられるのでもわかるように、この偉大な劇作家の少年時代から生涯の終わりまでのさまざまなエピソードは、ほとんどが推定の域を出ないと言ってもよい。彼についてのもっとも確かな信頼し得る資料は三十数編の劇作とソネット集、数編の長詩である。その作品についても他の作家たちの手の加わっているもの、はっきりとシェイクスピアの作であるかどうかわからないものなどもあるが、初期から最後期までの作品全体を通して見てゆくと、そこにシェイクスピアという一人の作家の人間像が浮き彫りにされてくるように思われる。これがいちばん正しいシェイクスピアの姿である。ここでは限られたスペースで全作品の解題をすることは不可能であるが、その中からいくつか選んでみてゆくことにしよう。
ストラッドフォードからロンドンへ出て来たシェイクスピアは劇団に入り、演技もし、また座付き作家としての仕事もはじめた。ロンドンの町ではまだ古い中世風な奇跡劇や道徳劇が大衆の娯楽として行なわれていた一方、文芸復興の機運とともに古典劇が盛んに研究され、大学や法律学校では学生演劇の形式で古典劇が上演された。若いシェイクスピアは意欲的に古典劇の技巧を学び、それを彼の劇の中に大胆にとり入れて行った。プロウタスの喜劇をもとにした『まちがいつづき』や、セネカ風の悲劇『タイタス・アンドロニカス』などがその例である。しかし、習作時代のシェイクスピアも決して古典作家を無批判に模倣《もほう》することはなかった。旧い英国演劇の伝統と彼自身の豊かな才能によって、彼は彼独自の芝居をつくり上げることができた。
『リチャード三世』はシェイクスピアの悲劇の中でもっともセネカ的のものであると言えよう。醜《みにく》く生まれついた自分自身を呪《のろ》い、「おれは悪党になってやる」と大見得《おおみえ》を切ったグロスターは次々と悪事を重ねてゆく。自分の殺したエドワードの妻アンに巧みに求婚して成功し、甥《おい》たちを殺害して王位につく。自分の野心の達成と、自己の地位の安泰のためには手段を選ばないリチャードはやがてアンをも殺し、終始彼に忠実であったバッキンガムをも殺してしまう。彼はまさにマキァベリ的悪党である。野望は達したが彼は孤独、ついに追われる身となり、ボズワースの戦場に傷つき、「われに一頭の馬を持て、この王国を与えよう」と叫んで倒れる。セネカ風の悲劇の主題や技巧を鋭い感覚と表現の意識でとらえ、リチャードの人間性への配慮と関心も示しながらシェイクスピアはこの劇を書いている。
一五九二年から一五九四年の間はロンドンに疫病が流行したために劇場が閉鎖《へいさ》されてしまった。多くの劇作家たちはその活動をやめ、マーロウ、グリーンのようにその間に死んだ作家たちもあった。シェイクスピアは劇作をつづけ、詩も書いていた。そして一五九四年劇場再開後まもなく相前後して上演されたのが『真夏の夜の夢』『ロミオとジュリエット』および『リチャード二世』である。これらの劇はそれぞれ喜劇、悲劇、歴史劇と区別することができるが、その共通な特性として叙情性をあげることができる。シェイクスピアの人間理解がますます深まり、人間の感情や情緒が劇の中で大きな位置を占めるようになった。このあとにいわゆるロマンティック・コメディの時代がつづくのも当然の事と言えよう。人間の弱点や欠点、醜さなどをあたたかく抱擁《ほうよう》してそこからにじみでる笑いやユーモアを楽しんでゆく劇の数々が世に送られたのである。『ヴェニスの商人』『お気に召すまま』から『十二夜』まで多くの喜劇の傑作がそれである。
『リチャード二世』はむせぶような情緒と感情の中にみずからをほろぼしてしまった王の物語である。叙情と感情では王国は支配できなかった。王位をゆずり渡さねばならない時にもリチャードはみじめな自分の状態を感傷的に描写して行った。リチャード三世とはちがった意味でリチャード二世も理想君主ではなかった。最後に牢獄の中で刺客に立ち向かった時のリチャードは王らしい勇気をとりもどしたが、時すでにおそく、彼は獄中で殺された。あふれるような叙情性、これがこの劇の悲劇性をささえている。
シェイクスピアはいくつかの歴史劇を書いたが、その中に一貫しているのが、理想君主へのあこがれであったといえよう。そしてそれが劇の中で完成された姿と成ってあらわれているのが『ヘンリー五世』である。『リチャード二世』を叙情詩とするならば、これは叙事詩である。『ヘンリー四世』においてフォルスタフとともに破目《はめ》をはずしてあばれ回った王子ハルは、非のうち所のない立派な王に成長した。そのかげには、かつての彼の親友、愛すべきサー・ジョン・フォルスタフが王ヘンリーにも認められずに、みじめな死をとげたというようなエピソードもあるが、シェイクスピアはこの劇においては、理想の王ヘンリー五世を鋭い言葉の感覚と叙事詩的文体で書き綴って行くのである。
時は流れ、いつしか世紀末の幻滅がシェイクスピアの作品の中にもみとめられるようになった。華やかなエリザベス朝初期の思想はいつか懐疑的な要素をその中に含むようになった。新しい時代の新しい人間観、宗教観が人々の心を支配しはじめた。そして十七世紀を迎えるのである。人生を許容し、抱擁《ほうよう》する態度を守りつづけてきたシェイクスピアも、ベン・ジョンソンなどのように、風刺と暴露による笑いの喜劇を書くようになった。いわゆる問題劇と呼ばれるものがそれで、『尺には尺を』『終わりよければすべてよし』『トロイラスとクレシダ』などがこれに属する。ロマンティック・コメディの最後の作、『十二夜』にただよう物悲しい雰囲気にも世紀末から新しい世紀へとはげしくゆさぶられた時代の裏付けがみとめられる。『ジュリアス・シーザー』の書かれたのはちょうどこの時期にあたる。
『ジュリアス・シーザー』のすぐあとで書かれたと考えられるのが『ハムレット』である。四大悲劇の第一作であるこの作品には人間の意識の中に深く入りこんで、新しい悲劇観をうちたてようとする円熟したシェイクスピアの努力がみられる。王子ハムレットに復讐《ふくしゅう》を誓わせ、彼の懐疑と苦悩をさらに大きくし、彼の行動にも影響を与えてゆく先王ハムレットの亡霊には、セネカ悲劇の伝統から大きく飛躍したシェイクスピアの新しい悲劇への探求がある。「あるかあらぬか、それが問題だ」と独白するハムレットの暗示的な言葉にはそれ以後の悲劇の傑作につらぬかれている人間の意識の悲劇的な展開がみられる。
一六〇三年エリザベス女王は世を去り、ジェイムズ一世が王位についた。世紀末から新しい世紀へ、演劇にも時代的な影響ははっきりとみとめられる。旧い道徳観では規制できない人間の悪の問題もとり扱われた。シェイクスピアはいかなる時にも道徳や秩序の外に出る事はなかったが、彼の作品にも、いわゆる「逆説的高潔」さが多く描き出された。『アントニーとクレオパトラ』は道徳的な常識から判断するならば決して立派な恋人たちを扱ったものではない。しかし、われわれはシェイクスピアのアントニーの描き方、クレオパトラの描き方に、現実を超越してわれわれの感覚に強く迫って来る美しい崇高なものを認める事ができる。ローマとエジプトの二つの世界を完全な調和の中に融合して愛に殉じた二人の主人公の悲劇はまた、この作がつくられた当時の時代感覚をよくあらわした作品である。
四大悲劇の最後の作である『マクベス』にも、この「逆説的高潔さ」が示されている。魔女たちにそそのかされて、野心の|とりこ《ヽヽヽ》となり、次々と悪事を重ねてゆくマクベスは、リチャード三世のような悪役ではなく、もっと人間的な苦悩にさいなまれ、もっと自意識の強い人物として描かれている。われわれはマクベスやマクベス夫人にさえ、ふと同情の気持ちを持つことさえある。初期の悲劇にはとうてい見られなかったほど複雑な、人間の意識の悲劇である。
道徳観、秩序観で支配できるぎりぎりの境界線まで、観客の悲劇の意識は運ばれてゆき、観客はそこで苦悩し、探求する人間の姿に直面した。しかし忘れてはならないのは、演劇は大衆のもの、疲れた心をいやす娯楽であることである。そしてシェイクスピアもまた大衆のために書く、円熟した作家であった。観客は新しい劇を求めた。そして作者シェイクスピアはそれにこたえた。いわゆるロマンスと呼ばれる最後期の作品『シムベリン』『冬の夜ばなし』『テムペスト』が書かれた。これらの劇では悲劇は背景となり、そこからはじまる劇を支配するのは、和解と再生の主題である。
『テムペスト』はシェイクスピアの最後の作である。ミラノを追われ無人島に娘とともに漂流したプロスペロは、習い覚えた魔術によって暴風雨を起こして、自分をおとしいれて追いはらった人たちを難破させて島におびきよせる。娘ミランダは王子フェルディナンドと結ばれ、最後にはすべての人が和解し、プロスペロは魔法の杖を折って、皆とともにミラノに帰ることになる。この劇には悲劇の時代を経てシェイクスピアが創り上げた新しい象徴と寓意の美しい調和が見られる。さまざまの作品を書き、移り変わる時代を、いろいろな階層の観客とともに生きた偉大な劇作家シェイクスピアの豊かな才能の美しい集大成がこの作に見られるのである。
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あとがき
『ジュリアス・シーザー』と言えば、「ブルータス、お前もか!」と叫んで死んだシーザーの暗殺の場、シーザーの葬儀におけるマーク・アントニーの演説などがすぐ心に浮かんで来る。昔、英語の教科書にのっていたアントニーの言葉をよんだ時の感激、『ヴェニスの商人』のポーシァの「慈悲について」の言葉とともに、シェイクスピアを私に非常に身近なものにしてくれた。その頃にみた、どこかの大学の英語劇『ジュリアス・シーザー』でも、アントニーの雄弁が印象的であった、大学でシェイクスピアを読んだ時にも、この親近感がつねに心にあった。シェイクスピアを大学で講義するように成り、本格的にシェイクスピアと取り組むようになった時、はじめて私は『ジュリアス・シーザー』のむずかしさと本当のおもしろさを知った。シェイクスピアの全作品の発展のあとをたどる時、この劇の持つ重要性を今更のように知った。しかし、その時にも昔から持っていた親近感は消えはしなかった。
『ジュリアス・シーザー』の注釈を出したのは八年ほど前のことだが、その時にも私はまた改めてこの劇の複雑なおもしろさを見出した。表面的には単純な筋とその展開の背後にある、円熟したシェイクスピアの創作意欲によってくりひろげられてゆく彼の人間理解の態度が多面的な意味とつきない興味をこの作品に与えていることを知った。また、初期の劇では、いわば受身で、機械的であった表現とその技巧が、この劇においてはまことに巧みにシェイクスピア自身のものとして使いこなされている事をも知った。そして私の興味は複雑に交錯し展開してゆく主題や雰囲気や性格描写やそれらを効果的に運んでゆくシェイクスピアの言葉のおもしろさに向けられた。
シェイクスピアのこのような言葉のおもしろさを日本語に訳すことは非常に困難な仕事である。その成立と性格のちがう二つの国語の間にあるギャップをいつも訳者は感じないではいられないからである。原文に忠実であればよいのか、日本語として熟し切ったものに変えてゆくことが望ましいのか、翻訳者のだれもが経験するディレンマに私も苦しんだ。シェイクスピアでは彼の用いているイメージが大切である。そして特に『ジュリアス・シーザー』は修辞と文体によって悲劇のつくられてゆく芝居である。これをどうして日本語に効果的にうつして行けるであろうか? こんな問題に悩みながらも、私がこの仕事を続け得たのは、やはり昔から持っていたこの劇に対する親近感のおかげであるかも知れない。この訳を終えて感じた事は、この芝居のもつ複雑なおもしろさである。言葉でささえられてゆく悲劇でありながら、言葉におわらないこの芝居の問題点が前よりもっと明らかに私に示されたように思う。解釈と翻訳とを結ぶこれらの問題点の一つ一つに取り組んでゆかねばならない。
この訳についても解決し切れない不備、不満な点が多く残されている。できる限り今後それらを是正してゆく努力をしたいと思っている。そしてシェイクスピアの美しく、複雑な、生命力にあふれた英語を、少しでも正確に、その表現やイメージをこわすことなく大切にして日本語に訳して行きたいと願っている。
一九六八年八月(訳者)
〔訳者略歴〕
大山敏子(おおやまとしこ)一九一四年生まれ。東京文理科大英文科卒。近世英文学専攻。主著「シェイクスピアの心象研究」「シェイクスピアの喜劇」「女性と英文学」他。訳書「ヴェニスの商人」「ジュリアス・シーザー」「真夏の夜の夢」「お気に召すまま」「十二夜」「じゃじゃ馬ならし」など多数。