リア王
ウィリアム・シェイクスピア作/大山俊一訳
目 次
第一幕
第二幕
第三幕
第四幕
第五幕
解説
年譜
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登場人物
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リア王………ブリテン王
ゴナリル……リア王の娘
リーガン……リア王の娘
コーディリア……リア王の娘
コーンウォル公爵……リーガンの夫
オールバニ公爵……ゴナリルの夫
ケント伯爵
グロスター伯爵
エドガー……グロスターの息子
エドマンド……グロスターの庶子
フランス王
バーガンディ公爵
カラン……廷臣
オズワルド……ゴナリルの執事
老人……グロスターの借地人
侍医
道化
将校……エドマンドの配下
紳士……コーディリアの従者
伝令使
コーンウォル家の召し使い数人
その他リア王に仕える騎士たち、将校たち、伝令たち、および従者たち
場所 ブリテン
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第一幕
第一場 リア王宮殿 謁見《えっけん》の間
〔ケント、グロスターおよびエドマンド登場〕
【ケント】 王はコーンウォル公爵よりオールバニ公爵をご贔屓《ひいき》と私は思っておりました。
【グロスター】 いつもそんなふうに見えていました。ですが今、いざ王国の分割という段になってみますと、王は果してどっちの公爵を最も大切になさっておられるのか、外からは一向に見当がつかなくなってしまいました。と申しますのは、お二方《ふたかた》の取り分がまこと均衡《きんこう》を得ていて、どんなに綿密に調べてみたところで、お互いの取り分が相手のより優《まさ》っているということにはならないからです。
【ケント】 ここにおられるのはご子息ではございませんか?
【グロスター】 さよう、種付けはわたしの責任でして。それを認めることで今までずいぶんと恥ずかしい思いをしてきましたので、今ではもう馴《な》れっこになりました。
【ケント】 どういうことかピンと来ませんが?
【グロスター】 いや、この若者の母親にはピンと来ましてね。お腹がピンと真《ま》ん丸に張りつめたんでさあ。つまりは亭主と一緒に寝る前に、息子《むすこ》がすでに乳母車《うばぐるま》というわけでした。道を踏み違えたという臭《にお》いがしませんか?
【ケント】 その結果がこんな立派な息子さんなのですから、踏み違えなかったほうがよかったなどとは申されません。
【グロスター】 ですがわたしには正規の息子が一人ございます。そいつはこれより一年ほど年上ですが、だからと言ってそいつのほうが可愛いというわけではありません。こいつは呼ばれもしないうちに厚かましくもしゃしゃり出て来ましたが、ですが別嬪《べっぴん》でしたねえ、こいつの母親というのは! こいつをこしらえるときにゃあ、そりゃあ実にいい目に会いました! それでこの父《てて》無し子は是非とも認知してやらねばならんのです。エドマンド、このお方を存じておるか?
【エドマンド】 いえ存じませぬ。
【グロスター】 ケント閣下だ。以後わしの尊敬する友人として閣下をお覚え申しあげるのだ。
【エドマンド】 なにとぞよろしくお願い申し上げます閣下。
【ケント】 可愛がらねばならんな。できるだけ顔を見せ給え。
【エドマンド】 ご愛顧にそうべく全力を尽くしたいと存じます。
【グロスター】 これは九年間も外国におりました。また出かけねばなりませんが。国王がお見えです。
〔ファンファーレ。小冠を捧げる従者、リア王、コーンウォル、オールバニ、ゴナリル、リーガン、コーディリアおよび従者たち登場〕
【リア王】 グロスター、フランス王とバーガンディ公とをこれに案内《あない》せよ。
【グロスター】 かしこまりましてございます陛下。
〔グロスターおよびエドマンド退場〕
【リア王】 その間を利用して、予は予の暗黙の意図を明かすこととしよう。
そこの地図を取ってくれ。このとおり、予は予の王国を
三つに分割した。そして予の動かすべからざる確固たる決心は、
すべての煩《わずら》いと仕事をば予の老齢から振り払い、
これを若き力に譲り与え、かくして予は、
肩の重荷を下ろして「死」に匍《は》い寄りたいのじゃ。
予が息子《むすこ》コーンウォル、それに、同じく予が心から愛する息子オールバニ、
予は後日の紛争の種を今取り除いておくために、
予の娘たちそれぞれへの分配財産を公にしておこうという、
断固たる決意をここに致した。フランス王およびバーガンディ公爵は、
共に予の末娘の心を射止めようと競《きそ》い合っているライヴァル同志、
すでに予の宮廷に愛の逗留《とうりゅう》をなすこと久しいが、
ここにその答えも出されよう。娘たち、言ってくれ、
予はここに、国家の主権も、国土の領有権も、
政務の煩いも、すべて予自身から剥《は》ぎ取る所存ゆえ、
そちたちのうちいったい誰が一番予を愛してくれると言い得るか?
親の自然の愛情に、さらに子としての真心が加わっている処《ところ》に、
当然のことながら、予の最大の恵みが拡《ひろ》がることができるように。
ゴナリル わが長女、まず言うがよい。
【ゴナリル】 お父上に対する私の愛情は言葉などでは到底言い表わせません。
物を見る両の眼《まなこ》よりも、広々とした身の自由よりも、もっともっと大切に、
豊かとか珍しいとか、およそ価値づけられる物の比でもなく、
素質、健康、美貌《びぼう》、名誉に恵まれた人生にいささかも劣ることもなく、
かつて子が見せた、父親が見|出《い》だしたどんな愛情にもいや増して、
息《いき》の根も、言《こと》の葉も、すべて言い表わすことのできないような愛情で、
すべてありとあらゆるものの比較を越えて、私はお父上を愛します。
【コーディリア】 〔傍白〕どう言ったらよいのか? ただ愛するだけ、あとは黙ってなさい。
【リア王】 この全境界線のうち、まさにこの先よりこれまで、
欝蒼《うっそう》としてほの暗い影を落とす森あり、地味肥えた沃野あり、
水量豊かに流れる河あり、囲い広き牧草地あり、
そちをこの地域の領主とする。そちとオールバニの子孫に、
これを永遠に与えることとする。予の二番目の娘、
コーンウォルの妻、予が最も愛するリーガンはどう言ってくれるか?
【リーガン】 私も私の姉と地金はまったく同じものでございますから、
値打ちも姉と同じものと考えます。真心こめて申し上げますが、
姉はお父上に対する私の愛の真実を、まさにそのまま言い表わしております。
ただ、あれではまだ言葉が足りません。私はあえて申しますが、
いかに繊細な感覚の尺度を以《もっ》てしても喜びと認めないわけにはゆかないような、
そのような真実の喜びも私自身にとりましては皆憎い敵であります。
私はお父上陛下を愛し奉ることにおいてのみ、ただそれだけに
至上の幸福を感じております。
【コーディリア】 〔傍白〕次は可哀相なコーディリア! でも、そうでもない。お父上に対する私の愛の真心は、
私が舌先で言い表わせるよりずっと比重が重いにきまっているのだから。
【リア王】 そち並びにそちの子孫が永久に相続するものとして、
予の麗《うるわ》しの王国の、この広大な三分の一の領域がある。
広さにおいても、価値においても、またその楽しみにおいても、
ゴナリルに与えたものに些《いささ》かも劣る処はない。さてコーディリア、予の喜びよ、
予の一番末の、一番小さい娘ながら。その若い愛を求めて、
フランスの葡萄《ぶどう》とバーガンディのミルクとが、
何かと関心を得ようと競《せ》り合っている。君はどう言ってくれるかね、
姉たちのよりずっと裕福な残り三分の一を引き当てるために? さ、言いなさい。
【コーディリア】 何もございませんお父上。
【リア王】 「何もない」だと?
【コーディリア】 何もございません。
【リア王】 「何もない処からは何も出ず」だ。もう一度言うがよい。
【コーディリア】 不仕合わせなことではございますが、私には私の心を
口の中にまで引き上げることはできません。私はお父上陛下を
親子の定めに従って愛し奉ります。それ以上でもなく、以下でもございません。
【リア王】 どうしたのだコーディリア! その言葉は少し言い直せ。
さもなくばそちの財産は台無しになってしまうかもしれぬぞ。
【コーディリア】 お父上、
お父上は私に生命《いのち》を与え、私を育て、愛してくださいました。
私はそれに対してしかるべく、相応にお返しを致したいのでございます。
つまりお父上の命に従い、お父上を愛し、お父上を最も尊敬いたしたいのです。
いったい姉上たちは、お父上だけを一途《いちず》に愛されると言うなら、
なぜ夫ある身となられたのでしょうか? おそらくは、私が結婚すれば、
私との結婚の誓いをその手に収《おさ》めねばならない主人は、私の愛情の半分を、
私の心づかいとお努《つと》めの半分を持ってゆくことになるでしょう。
間違っても私には、姉上たちのような結婚は絶対にできません、
お父上だけを一途に愛するなんて。
【リア王】 ただそれだけだというのか、そちの本心は?
【コーディリア】 はいお父上。
【リア王】 こんなに若くて、しかもこんなに頑《かたく》ななのか?
【コーディリア】 こんなに若いからお父上、真実を申すのです。
【リア王】 ではそうせい。そしてその真実とやらをそちの持参金とするのだ。
何となれば、ここに、太陽の聖なる輝きにかけて、
冥府の女神ヘカティと夜の極秘の儀式にかけて、
われわれがそれによって生存し、また存《あ》ることをやめる、
上天なる天体の下界へのすべての影響力にかけて、
わしはここに、すべての父親としての心づかい、
親族関係、血縁関係の一切ことごとくを断ち切り、
以後そのほうを永久に、わしの心にとっても、わし自身にとっても、
まったくの他人と見なすことを宣言する。野蛮極まるスキチア人でさえ、
または、おのが食欲を満たすためにその子供まで貪《むさぼ》り食うという奴《やつ》ばらでさえ、
かつてはわしの娘であったそのほうに比べれば、同じく隣人としてこの胸に
ごく近しくかき抱き、憐れみの情けをばかけてやり、
援助の手をも差し伸べたい。
【ケント】 畏《おそ》れながらわが君……
【リア王】 黙れ、ケント!
龍王とその瞋恚《しんい》とのあいだに介入するのはやめよ。
わしは彼女《あれ》を一番愛しておった。それで老後は彼女《あれ》の孝養に
すべて任せるつもりでおった。退《さが》れ! もう二度と姿を見せるな!
誓って言うが、わしはここに彼女《あれ》の父親の心から彼女《あれ》を取り除いてみせる、
さもなくばわしの墓場に安らいはない! フランス王を呼べ! 誰かおらぬか!
バーガンディ公爵を呼べ。コーンウォルおよびオールバニ公爵、
二人の娘たちの取り分にさらに第三の領地を加えなさい。
彼女《あれ》は自分では「率直」と呼んでいる「高慢」と結婚すればいいのだ。
両公爵には共々《ともども》、わしの権力、最高の位たる王位、
それに王位にまつわるすべての偉大なる栄誉を、
ここに付与するものである。予自身は一か月毎、
そちたちの扶持《ふち》によって召し抱えられたる、
予専従の家来百人を従えて、交互にそちたちの邸宅に
逗留《とうりゅう》することといたしたい。予は国王たる名目と、
それにふさわしい格式だけは引き続き保持するが、王国の統治権、
収入、その他もろもろの実権はあげて、愛する息子《むすこ》たちよ、
お身らのものである。そのことをここに実証するために、
ここなる小冠はお身ら二人の共有とするがよい。
【ケント】 王統たるリア、
わたしはこれまで常に、わが国王として崇《あが》め奉り、
わが父親として心から愛し、わが主君として付き従い、
わが祈りにおいてはわが偉大なる守護者として思い続けてきたが……
【リア王】 弓は繞《たゆ》み、弦《つる》は引かれた。矢を避けい!
【ケント】 たとえその鏃《やじり》がわたしのこの胸の防《あた》りを射抜こうとも、
矢を放ってもらったほうがまだましだ。リアが正気でない以上、
ケントよ、臣下の礼を尽くすには及ばぬ。ご老体、どうしようという魂胆なのだ?
権力が追従《ついしょう》に身を屈するとき、忠節は恐れおののいて、
あえて物も言えぬとでも思っているのか? 権威が愚行に走るときには、
直言こそが武士の名誉。王国の主権はそのままにしておけ。
そして、とくと熟慮を重ねた上で、この恐るべき軽率さを
思い止まるのだ。わたしはこの意見に一命をかけている。
末娘だからといって父親への愛情が一番末ということはない。
また声が低いので空《くう》に|こだま《ヽヽヽ》しないといったって、
心が|うつろ《ヽヽヽ》とは限るまい。
【リア王】 ケント黙れ! さもなくば生かしてはおかぬぞ!
【ケント】 わたしの命など、おまえさんの敵《かたき》に賭けた掛け金くらいにしか、
わたしはいつも考えてはいないのだ。お前さんの安全が眼目なのだから、
それを亡くすからといって何の恐れることもない。
【リア王】 二度とその方を見たくない!
【ケント】 よーく見るのだリア。そしてわたしを、お前さんの目が狙《ねら》いをつける
白一点の的《まと》として常に留めおくのだ。
【リア王】 いざアポロにかけて……
【ケント】 いざアポロにかけてリア、
どれほど誓ったとて神々は耳をかすまいぞ。
【リア王】 おのれ下種奴《げすめ》、不信心者|奴《め》が!
〔剣に手をかけながら〕
【オールバニとコーンウォル】 陛下、何卒《なにとぞ》お堪《こら》えを!
【ケント】 さあ良医を殺せ、そして謝礼は汚らわしい病毒に
くれてやれ。コーディリアの分の分割を取り消せ。
さもなくば、この喉《のど》が噪音を立てることができ得る限り、
王の所行は誤りだと言い続けようぞ。
【リア王】 聞け! 叛逆者《むほんもの》!
いささかなりとも忠誠心があるならわしの言うことを聞け!
そのほうは、予がかつてそうしたことは断じてないのにも拘《かかわ》らず、
予をして予の誓いを破らせようと迫り、かつは高慢心を無理無体《むりむたい》にかきたてて、
予の性格から、また予の地位からして到底耐え得ざる処であるにも拘らず、
予の決定と予の権力とのあいだにあえて介入せんとしたが、
予の王権が依然として健在である以上、そのほうの当然の報いを受けよ。
五日間を限って猶予《ゆうよ》期間としてそのほうに許す、そのあいだに
世のあらゆる艱難《かんなん》、難儀に対して身を守るよう備えるのだ。
そして六日目には、そのほうのその憎むべき背中をば、
予が王国に向けるのだ。もし万が一にも続く七日目に
その方の追放された胴体が予の王国内で発見されたら、
即刻その場で死刑だ。行け! 主神ジュピターに誓って、
この決定が取り消されることはあり得ぬぞ。
【ケント】 さらば国王よ、どうあってもそんなふうでありたいと決めた以上、
自由は国外に逃れ去り、国内にあるのはただ追放のみ。
〔コーディリアに〕神々があなたをその隠れ場所へお連れくださるよう!
あなたのお考えは正しく、仰しゃったことも最も正当です。
〔ゴナリル、リーガンに〕そしてあなた方の大きなお言葉が実行されますように!
愛の言葉から実ある行為が育ちますように!
かくしてケントは、皆さん! 皆さん方すべてにお別れを告げ、
新しい国で、これまでどおりの古い生き方で自分の道を開きます。〔退場〕
〔ファンファーレ。グロスターがフランス王、バーガンディ公爵、その他の従者たちと共に再登場〕
【グロスター】 陛下、フランス王ならびにバーガンディ公がお見えになりました。
【リア王】 バーガンディ公爵、
予はまず、ここなるフランス王と共に予が娘を競《きそ》われた
あなたに向かってお尋ねいたしたい。彼女《あれ》にただちに付けるべき持参金として、
いったい最小限どれほどを所望なさっておられるか?
そしてそれが満たされねば求婚は中止されるのか?
【バーガンディ】 至高なる国王陛下、
私は陛下がご内示になされた以上は所望いたしませんし、
また陛下がそれを減らされることもないと所存いたしますが?
【リア王】 公爵殿、
彼女《あれ》が予にとり大事なものであったときには、予も高価なものと考えていました。
だが今や彼女《あれ》の値は下がりました。それ、そこに立っています。
その小さい、見かけだけの実体らしきものの中にある何ほどかが、
あるいはその全部が、予の不興をも付け加えて、
ただそれだけで公爵殿、もしお気に召されるならば、
さあ、そこにおります。彼女《あれ》を差し上げます。
【バーガンディ】 何とお答えしてよろしいやら。
【リア王】 友人も無く、新しく予の憎しみの申し子となり、
予の呪いを持参金とし、予の勘当《かんどう》をきつく申し渡され、
こんな欠点ばかりを背負った娘、それを承知でもらってくれますか?
それともおやめになりますか?
【バーガンディ】 陛下、なにとぞご容赦《ごようしゃ》くださいますよう、
このような条件では、いただくと決定するわけには参りませぬ。
【リア王】 ではおやめなされ。何となればこのわしを創り給うたお力に誓って申すが、
彼女の財産は以上で全部です。〔フランス王に〕フランス国王、
あなたには、平素のご交宜《こうぎ》から、わしが憎んでいるものを差し上げるなんて、
そんな道に外《はず》れたことはできません。ですからお願い申します、
造物主たる「自然」の女神さえ、自分のものと認めることを恥じるような、
こんなつまらんものにお心をとめることなく、もっと立派な娘さんに
愛情を向けられますように。
【フランス王】 これはまた何とも不可思議千万に存じます、
つい今の今まで最もご寵愛《ちょうあい》になったお嬢様が、
平素ご賞賛の的《まと》、ご老後のまたとない良薬、
最良のもの、最愛のものであるお嬢様が、このわずか一瞬のうちに、
かくも幾重《いくえ》にも捲《ま》きつけられた愛の絆《きずな》を剥《は》ぎ取られるほど、
それほどの大悪事を犯されようとは! お嬢様の罪は必ずや、
それを極悪無道の大罪とせざるを得ない非道のものであるに違いありません。
さもなければ、かねてから明言されていたお嬢様へのご愛情自体が、
疑わしいものだったに違いありません。そのようなことは、
いかなる道理があろうとも、奇蹟でも起こらない限りは、
私の心に植え付けることは絶対に無理です。
【コーディリア】 お願いでございます陛下、
(もし私に心にも無いことをべらべらと喋《しゃべ》りたてる、
言葉の才能が無いためでございましたら……真に心に思うことは、
私は口に出す前に実行してしまいますので)どうかおっしゃってください、
私が陛下のご寵愛を失いましたのは決して悪の汚《けが》れのためではなく、
人殺しのためでも、この身を汚したためでもなく、
操《みさお》を売ったためでも、この身の恥になる行ないをしたためでもなく、
実は無いほうが私がずっと豊かになれるもの、それが私に無いためだと……
いつも物欲しそうな目、私は持ち合わせていなくて、
ほんとうに仕合わせだと思う弁舌……もっともそれを持ち合わせていないために、
私はお父上のお気に入りになり損ってしまったのですが、
【リア王】 お前など、
気に入る、入らぬの問題ではない。生まれなければよかったのだ。
【フランス王】 ただそれだけのことですか? したいと心では思っても、
それを得てして口には出さずにしまう口数少ない性格、
ただそれだけのことですか? バーガンディ公爵、
お嬢様に何とおっしゃいますか? 問題の中心点から遙《はる》か外《そ》れてしまった
いろいろの打算が入り混《ま》じって参るようでは、
愛は愛でなくなってしまいます。お嬢様をご所望なのですか?
お嬢様ご自身が持参金なのです。
【バーガンディ】 恐れながら国王陛下、
陛下ご自身がおっしゃった領地だけでもご下賜《かし》願えませんでしょうか?
そういたしますれば、ここにコーディリア様の御手を取らしていただいて、
バーガンディ公爵夫人といたします。
【リア王】 何もやらぬ。わしは誓った。この気持は絶対に変わらぬ。
【バーガンディ】 ではお気の毒ですがコーディリア様、お父上を失くされた以上、
ご主人もなくされることに相成ります。
【コーディリア】 バーガンディ公爵とはおさらばです!
財産上の思惑があの方の愛情の元である以上、
私はあの方の妻にはなれません。
【フランス王】 世にもうるわしいコーディリア! あなたこそは最も貧しくて最も豊かな者、
見捨てられて最も選ばれた者、蔑《さげす》まれて最も愛された者なのだ!
あなたとあなたの美徳の数々を、ここに私はしかとこの手で捕えます。
投げ捨てられたものを私が拾い上げたとて何の違法にもなりますまい。
おお何たる不思議! 皆のものが冷たく疎《うと》んじているのに、
私の愛情は熱い思いでますます燃えさかるばかり。
国王よ、あなたの持参金なしの娘御は私と運命を共にすることになりましたが、
今や予の、予がフランス国民の、予が美《うる》わしのフランスの王妃と相成りました。
水多きバーガンディのすべての公爵たちがかかっても、
この値打ちがわからない、貴重な乙女《おとめ》を私から買い取ることはできない。
さようならを言いなさいコーディリア、みんな思いやりのない人たちだが。
ここは失くしますが、もっといい所を見つけ出すためです。
【リア王】 フランス王、娘はそのほうが手に入れた。そのほうのものだ。何となれば、
予はこんな娘を持った覚えはない。もう永久に、二度と、
彼女《あれ》の顔を見たくはない。この上はさっさと立ち去れ!
予が好意、愛情、祝福の言葉などは何もない!
さあ参ろうバーガンディ公爵。
〔ファンファーレ。リア王、バーガンディ、コーンウォル、オールバニ、グロスターおよび従者たち退場〕
【フランス王】 姉上たちにお暇《いとま》をなさい。
【コーディリア】 お父上の宝石である姉上たち、涙ながらにコーディリアは
お別れをいたします。姉上たちがどういう方々かは私はよく知っています。
でも、姉妹《きょうだい》として、姉上たちの欠点をありのままに名指すことなどは、
私には到底できません。お父上をどうかお願いいたします。
さきほどおっしゃった愛の真心にお父上をお任せします。
でも、何という悲しみ! お父上のご寵愛《ちょうあい》を得ていたならば、
もっと素晴らしい処へお父上をお連れしたかったものを。
では姉上方、ご機嫌よう。
【リーガン】 わたし達のすることに偉そうな口はおききでない。
【ゴナリル】 精々勉強して、
旦那さんのご機嫌をとることね。あなたを拾ってくれたのは、
ほんのお情けの心から。あなたは服従心を出し渋った。
それであなたのお父上への仕打ちを旦那さんから仕返しされても当たり前。
【コーディリア】 巧みに折りたたんだ偽善心も、やがては「時」が解きほごします。
「時」は過ちを隠しはいたしますが、いつかはあざ笑い、恥をかかせます。
ご繁栄をお祈りします!
【フランス王】 さあ行こう、わがうるわしのコーディリア!
〔フランス王およびコーディリア退場〕
【ゴナリル】 ねえ、わたし達にすぐに関係してくることで、わたし、言っておかなければならないことが沢山《たくさん》あるわ。父上は今晩ここを発《た》つと思うけど。
【リーガン】 それは絶対たしかだわ。まず姉さんの処よ。来月はわたしの処だわ。
【ゴナリル】 ねえ、あの年になると何て気が変わり易いんでしょう。これまで見てきたところでは相当なものだわ。父上はいつも末の妹を一番可愛がっていたのに。それを追い出してしまうなんて、余りにも軽率すぎるわ。
【リーガン】 年のせいね。でも今までだって、自分のことはほとんどわかっていなかった。
【ゴナリル】 一番調子がいい元気なときだって、ひどく短気だったわね。だから今の年から考えると、長いあいだかかって植え付けられた性格的な欠点ばかりか、それに加えて老衰と癇癪《かんしゃく》持ちから来る、手がつけられない我が儘《まま》をも覚悟しなければならないわね。
【リーガン】 こんどのケントの追放の場合のような、わけのわからない唐突な気紛《きまぐ》れに、これからいつもお目にかかりそうね。
【ゴナリル】 父上にはまだフランス王との公式のお別れの儀式が残っているわ。ねえお願い、二人で力を合わせましょうよ。もしこんどのような調子で権威主義を振り回されたんでは、せっかくの隠居もありがた迷惑だわ。
【リーガン】 その点はよくよく考えとかなくてはね。
【ゴナリル】 いや、行動に移すのよ、何かをね。しかも熱が冷めないうちに。〔退場〕
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第二場 グロスター伯爵居城 一室
〔エドマンド手紙を持って登場〕
【エドマンド】 「自然」よ、お前こそが俺《おれ》の女神だ。お前の法則に従うことだけが、
俺《おれ》のすべての生き甲斐《がい》だ。いったいなぜこの俺が、
疫病《えきびょう》にも等しい習慣などというものに左右されて、
世間などというしかつめらしい煩《わずら》わしさに邪魔されなければならんのか?
つまりは兄貴より十二か月、あるいは十四か月なにがし、
後から生まれ出たためなのか? なぜ私生児なんだ? 何がシセイジだ!
この満足な五体、まこと申し分ないでき映《ば》えを見ろ!
気性《きしょう》はこの上なく立派、姿、顔立ちも父親そっくり、
まともな母親の子とどこがどう違うんだ? だのに世間はいったいなぜ、
私生児の烙印《らくいん》を焼きつけるんだ? 何がシセイジだ! 何がシセイジだ!
人目しのんだ熱い恋の喜びの中から生まれ出たわれわれこそが、
より見事なでき工合《ぐあい》、エネルギーが満ち溢《あふ》れているのだ。
たいくつで、くたびれて、あきあきしたベッドの中で
寝ているのか起きているのかわからんような状態で、
堕性《だせい》で造られた世のマヌケどもとはワケが違うんだ。という訳で、
さあ来いエドガー、本妻の息子《むすこ》よ! お前の土地はいただきだ!
親爺《おやじ》の愛情は、本妻の息子だろうと私生児だろうと、
何の区別もありはしない。本妻の息子! いい言葉だよ!
よかろう、本妻の息子さん、この手紙がうまく行けば、
そして俺様の計画が成功すれば、私生児のエドマンドさんが、
本妻の息子をやっつけてしまうんだ。大きくなるぞ! 大モノになるぞ!
もろもろの神々よ、いざわれら私生児のためにピンとおっ立ってくれ!
〔グロスター登場〕
【グロスター】 ケントはかくして追放! フランス王は憤激して帰還!
国王は昨夜ご出立! 王権はご縮少! ご給与を受けられる窮屈なご身分! すべては藪《やぶ》から棒《ぼう》だった! おやエドマンド、ここで何を? それは何だ?
【エドマンド】 いやお父上、何でもございません。〔手紙を隠しながら〕
【グロスター】 どうしてそのように懸命に隠そうとするのだその手紙?
【エドマンド】 いえお父上、別に何も変わったことはございません。
【グロスター】 お前が読んでいた紙は何だ?
【エドマンド】 何でもございませんお父上。
【グロスター】 何でもない? それならなぜそんなに大急ぎでポケットにしまいこむ必要があるのだ? もともと何でもないものならば、そんなふうに隠す必要があるわけがない。見せなさい、さあ。何でもないものならば、別に眼鏡の必要もあるまい。
【エドマンド】 お父上、お願いです。勘弁してください。まだ全部は目を通していませんが、兄さんからの手紙です。私が読んだ限りでは、お父上がお目を通されるのには相応《ふさわ》しくないものと思います。
【グロスター】 その手紙を渡すのだ!
【エドマンド】 これを渡さないでも、渡しても、どっちにしてもお父上の気分を害することになる。私が一部理解した限りでは、この内容は当然お咎《とが》めを受けるべきものと思います。
【グロスター】 さあ見せるのだ、見せるのだ!
【エドマンド】 ねえお父上、兄さんのために弁じますが、兄さんはこれを私の人格を試すため、味見《あじみ》をするために書いたんだと思います。
【グロスター】 〔読む〕「敬老などという政策めいた慣習があるために、僕らの人生の最良の時は苦々しいものとなり、財産は、もらっても十分味わえない年寄りになるまで、僕らの手には入らない。僕は年寄りの無暴な弾圧を、まったく意味のない、馬鹿馬鹿しい束縛と感じるようになってきた。これは彼らに力があるからではなく、僕らが易々諾々《いいだくだく》とそうさせているからにすぎない。この件につきもっと話したいので、僕の処へ来て欲しい。もし父上が僕が起こすまで眠っていてくれるなら、父上の収入の半分は永久に君のもの、そして兄エドガーからは生涯の愛をかち得るのだ。エドガー。」驚いた! こりゃ陰謀だ! 伜《せがれ》のエドガーが! 彼《あれ》が自分の手でこんなことが書けようとは思えぬが! 彼《あれ》が自分の心で、頭でこんなことが考え出せようとは思えぬが! これを手に入れたのは何時《いつ》か? 誰が届けたのか?
【エドマンド】 届けられたのではございませんお父上。そこがそのうまいところなんです。私の部屋の窓のところに投げこんであったんです。
【グロスター】 筆蹟は兄のものに相違ないな?
【エドマンド】 内容がいいことでしたらお父上、これは兄さんのものに間違いないと誓って申し上げるのですが、その点で、これが兄さんの筆蹟だなどと私はどうしても思いたくはないのです。
【グロスター】 彼《あれ》のものだな?
【エドマンド】 兄さんの手です。でも兄さんの本心ではないと思います。
【グロスター】 これまでもこの件について、お前に瀬踏《せぶ》みをしたことがあるのか?
【エドマンド】 ございませんお父上。でも、息子《むすこ》が完全な年令に達し、父親が老衰したら、父親は息子に後見される身となり、息子がその収入を管理するのが適切だと、よく主張しているのは耳にしました。
【グロスター】 おお悪党め、悪党めが! まぎれもなく手紙にある意見だ! おのれ忌《けが》らわしい悪党めが! 自然の道に反した、おのれ憎《に》っくき、畜生にも似た悪党め! いや畜生よりもなおひどい! さあ、あいつを探して来い。彼奴《きやつ》をひっ捕えてくれる。おのれ人非人《にんぴにん》の悪党め! 彼奴《きやつ》はどこだ?
【エドマンド】 よくは存じませんお父上。兄上に対するお怒りを鎮《しず》められて、兄上自身からその意図《いと》のより確実な証拠を引き出すようにされれば、お父上はまこと安全な道をとられることになりますが。それに反して、兄上の真意を誤解して、ただ乱暴に兄上に立ち向かっては、お父上ご自身の名誉に大変な傷がつき、兄上の孝心をも微尽《みじん》に砕いてしまうでしょう。兄上のため、あえてこの私の命を賭けて誓います。兄上はお父上への私の気持を試すためにこれを書いたので、別に危険な意図があったのではありません。
【グロスター】 そう思うか?
【エドマンド】 もしお父上が適当とご判断あそばしますならば、私どもがこの件について話し合っているのをお聞きになれる所へお父上をお連れ申します。どうかその耳で確かめられて、ご満足のゆくようになさってください。善は急げ、今晩にも。
【グロスター】 彼《あれ》がそんな化物であるはずがない……
【エドマンド】 それがそうなんです。間違いありません。
【グロスター】 あんなにも心から可愛がり、大事にしてやった父親に対して。まさに驚天動地のことだ! エドマンド、彼奴《きやつ》を探し出してくれ。わからぬように奴《やつ》の本心を探ってほしいのだ。やり方はすべてお前の才覚《さいかく》に任せる。事の決着をつけるためには、わしの身分などどうなってもかまわん。
【エドマンド】 すぐ探し出します。何とか方法を見つけて事を運びます。そして仔細《しさい》ご報告申し上げます。
【グロスター】 つい先ごろの日蝕や月蝕はわれわれにとってまことに不吉な前兆だ。自然科学的にはこうだ、ああだと説明はつくが、現実に人間自然界は次々に起こる災害に傷みつけられている。愛情は冷え、友情は地に落ち、兄弟は相せめいでいる。町には暴動、田舎《いなか》には反目、宮中には謀叛《むほん》、親子の定めは微尽《みじん》に砕けた。息子《むすこ》の悪党にも予言は的中した。子は親に逆《そむ》き、国王は人間自然の道から逸《そ》れ、親は子と対立している。昔は実によかった。今や陰謀、不誠実、反逆、その他ありとあらゆる致命的な悪行が、われわれが墓場にたどりつくその日まで、喧《やかま》しくわれわれのあとをつけてくる。エドマンド、悪党|息子《むすこ》を探し出せ。お前の損になるようにはせんぞ。用心してやれ。それにしても、あの高潔にして誠実そのもののケントが追放されたとは! しかもその罪名が「正直」だとは! まこと奇怪至極だ。〔退場〕
【エドマンド】 まつたくもってバカバカしくも傑作な世の習わしと言うべきだ。運勢があやしくなってくると、大抵は自業自得《じごうじとく》、身から出た錆《さび》でありながら、自分の不運を太陽や月や星のせいにする。まるで悪者になるのも必然性。バカになるのも天の命令、下種《げす》や泥棒、謀叛者になるのも生まれたときの星座の工合、飲んだくれや大ホラ吹きになるのも姦通《かんつう》をやらかすのも、すべて星の力だと言わんばかりだ。悪いのは自分自身のくせに、すべては神が強制したのだと言う。まつたくもって見上げた言い逃れだ、山羊《やぎ》のような助平根性のくせして全責任を星になすりつけるとは! 俺の親父とおふくろとは龍座の尻尾《しつぽ》の下で|おつながり《ヽヽヽヽヽ》になった。生まれたときの星座は大熊座だ。だから俺は当然の結果として野蛮で助平だということになる。バカな! 親父とおふくろが|つるんで《ヽヽヽヽ》いるときに、たとえ清純なること乙女《おとめ》のごとき星が天の一角にきらめいたとしたって俺が俺であることに変わりはないんだ。あ、エドガーだ……
〔エドガー登場〕
ちょうどいいときにやって来た、昔の喜劇の幕切れよろしくってところだ。とてつもなく塞《ふさ》いで、瘋癲乞食《ふうてんこじき》、ベドラムのトムのように溜息つくのが、俺様の登場の合図だ。おお! このあいだの日蝕月蝕がこのころの不協和の前兆なんだ。ファ、ソ、ラ、ミ。
【エドガー】 どうしたんだエドマンド! 何をそう真面目《まじめ》に考えこんでいるんだね?
【エドマンド】 ねえお兄さん、このあいだの日蝕月蝕は何の前兆かという、このごろ読んだ予言のことを考えているんです。
【エドガー】 そんなことで忙《せわ》しくしているのか?
【エドマンド】 それが実は、書いてある予言が不幸にもだんだんと実現しているんです。たとえば子供と親のあいだの不和だとか、死、飢饉《ききん》、昔からの友情の解消だとか、国の分裂だとか、国王や貴族に対する脅迫、呪いだとか、根も葉もない相互不信、友達の追放、軍隊の消滅、結婚の解消等々その他数知れず。
【エドガー】 もうどのくらい占星術に凝《こ》っているのかね?
【エドマンド】 お父上に最近お会いになったのはいつですか?
【エドガー】 つい昨夜《ゆうべ》のことだが?
【エドマンド】 お話をなさいましたか?
【エドガー】 そう、二時間ほど一緒にね。
【エドマンド】 ご機嫌でお別れでしたか? お父上のお言葉にもお顔色にも、ご不興の様子はございませんでしたか?
【エドガー】 全然なし。
【エドマンド】 ようく考えてみてください、何かお父上のお気に障《さわ》ることをされたに違いありません。それでお願いです、しばらくのあいだご不興の熱が冷めるまで、お父上の前には現われないでください。今のところカッカ頭に来ているので、お兄さんの体に危害を加えるくらいのことではとても治《おさ》まりますまい。
【エドガー】 どこかの悪党が僕に悪さをしたんだ。
【エドマンド】 そうだと思います。それでお願いです、お父上の烈《はげ》しいお怒りのテンポが緩《ゆる》むまで、何とか我慢して身を隠していてください。私の言うことを聞いて、私の部屋に一緒にいてください。適当なときにそこからお連れして、お父上が話しているのを聞けるようにいたします。さあ、いらっしゃってください。これが私の鍵《かぎ》です。外出するときは武器を携帯してください。
【エドガー】 武器を携帯するだって?
【エドマンド】 お兄さん、私はすべてお兄さんのためによかれと申し上げているのです。誓って申します、お兄さんに好意を持っている人なんか一人もいゃあしません。私はこの目で見、この耳で聞いたことを申し上げているのです。ただし相当割引いてます。ほんとうのことなど、とても恐ろしくて言えません。お願いです、いらっしゃってください。
【エドガー】 すぐに連絡してくれるね?
【エドマンド】 このことではお兄さんのために全力を尽くします。〔エドガー退場〕
人を信じ易い親父と品性高尚な兄貴、共に生まれつき
人に危害を加えるなどということから凡《およ》そかけ離れているので、
絶対に人を疑うということがない。そのマヌケな正直さこそ、
俺の策略にとってはこの上なく上等な乗り心地! 仕事の目鼻はついた。
生まれが悪いから駄目というなら、頭で土地を手に入れてやる。
こっちの思うとおりにさえなりゃあ、何がどうなろうとかまうことはない。〔退場〕
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第三場 オールバニ公爵居城 一室
〔ゴナリルとその執事オズワルド登場〕
【ゴナリル】 お父様の阿呆《あほう》を叱ったからと言ってお父様は、うちの身分ある者を殴《なぐ》ったというのね?
【オズワルド】 さようでございます奥様。
【ゴナリル】 夜となく昼となく、父は私を困らせる。一時《いつとき》とたたぬうちに、
次々と新手《あらて》の厄介事《やっかいごと》に火をつけてまわるので、
うち中みんなが気まずくなった。もう我慢ができない。
父の従者たちは乱暴になり、父自身はほんのつまらぬ事の一つ一つに、
われわれを叱りつけている。狩りから戻って来たって、
口などきいてやるものか。気分が悪いと言っておきなさい。
これまでのような父へのサーヴィス、いささか手を抜いたとて、
一向にかまうことはない。その責任の一切はこの私が取ることにする。
【オズワルド】 老王のお帰りでございます。もの音が聞こえます。〔角笛の音〕
【ゴナリル】 何でもいいからげっそりしてさぼっているようにしていなさい、
あなた方全部。それで一悶着《ひともんちやく》起こって欲しいのです。
それが気に入らないというのなら、妹のところへ行けばいい。
ところがその妹だって、心は私と一つに定《き》まっている、
命令されることなどは真っ平ご免。ほんとうに仕方のない年寄り、
とっくに譲ってしまった国王の権力を、まだまだ何とか
振りまわしたくて仕方がない! 誓って言うけれど、
老いぼれは二度目の赤ん坊。甘やかすのもいいが、
度が過ぎていい気になったとわかったら、引き締めなければなりません。
わたしの言ったこと忘れないように。
【オズワルド】 承知いたしました奥様。
【ゴナリル】 それから父の従者の騎士たちにも冷淡にしているように。
そのために何が起ころうと、かまわない。皆にそう伝えるように。
こうして、ある機会が生まれるといい、言いたいことを言ってやる。
必ずそうなるようにしてみせる。すぐ妹に手紙を書いて、
私のこの方針を取らせましょう。夕食の用意をするように。〔退場〕
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第四場 同 広間
〔ケント変装して登場〕
【ケント】 これであと他人の声色《こわいろ》までうまく使いこなせて、
自分の言葉がごまかせさえすれば、姿、顔貌《かおかたち》をかき消してまで、
身を粉にして努力している目指す結末にいたるまで、
わが善意を貫き通せるのだが。ところで追放の身のケントよ、
死罪の宣告を受けているその場所で、奉公することができるなら、
そう願わずにはいられないが、お前が心から愛しているご主人も、
お前を役立つ男と思《おぼ》し召されることだろう。
〔角笛の音。リア、騎士および従者たち多数を従えて登場〕
【リア王】 ただちに夕食だ。一刻も待たんぞ。さあすぐに用意をいたせ。〔一人の従者退場〕おい! お前は何だ?
【ケント】 男でございます。
【リア王】 何をして|口すぎ《ヽヽヽ》しておるかというのじゃ? 予に何用があるのじゃ?
【ケント】 ご覧のとおりの者と申して決して|言いすぎ《ヽヽヽヽ》ではございません。私|奴《め》を信用してくださるお方に忠実にお仕えし、誠実なお方を心から愛し奉り、賢明にして口数少ないお方にお付き合いをお願いし、神の審判を恐れ、万止むを得ないときには断乎戦い、そしてお魚は食べません。
【リア王】 お前は何者だ?
【ケント】 大変に誠実な心を持った奴。そして王様と同じくらいの貧乏人。
【リア王】 国王は国王の割には貧乏だが、その割でお前が国民で貧乏だというなら、なるほどお前は底抜けに貧乏だ。何が所望《しょもう》なのだ?
【ケント】 ご奉公。
【リア王】 誰に奉公したいのだ?
【ケント】 あなた様。
【リア王】 此奴《こいつ》、わしを知っているのか?
【ケント】 存じません。でもあなた様の立ち居ご振舞《ふるま》いには、何か旦那様とお呼びしたくなるようなものがございます。
【リア王】 何だそれは?
【ケント】 威厳《いげん》。
【リア王】 どのような奉公がそちにはできるのだ?
【ケント】 守るべき秘密が守れます。馬に乗ることも、走ることもできます。よくできた話も話|下手《べた》で打《ぶ》ちこわし、簡単明瞭なメッセージをズバリそのまま伝えます。ふつうの人にできることなら、私|奴《め》にも資格があります。私の一番のとりえは真面目《まじめ》なことです。
【リア王】 年はいくつだ?
【ケント】 歌がうまいからって女に惚《ほ》れこむほど若くはなし、さりとて何が何でも女に現《うつ》つを抜かすほど年をとってもおりません。数えて四十八の年を背負っております。
【リア王】 従《つ》いて来い。そのほうにわしへの奉公をさし許す。食後になってもそのほうに嫌気がささないようならば、簡単にはもう暇《いとま》はやらぬぞ。食事だ、おおい! 食事だ! 小僧はどこへ行った? 道化は? お前行って阿呆をここへ呼んで来い。〔一人の従者退場〕
〔オズワルド登場〕
おいおいお前、娘はどこにいる?
【オズワルド】 失礼いたします……〔退場〕
【リア王】 あの男は何と言っているのだ? あの間抜けを呼び戻せ。〔騎士一名退場〕阿呆はどこにいる、おおい! 世界中が眠りこけているようだ。
〔騎士再登場〕
どうしたのだ! あの野良犬はどこだ?
【騎士】 彼《あれ》が申しますには陛下、娘御はご不例《ふれい》の由にございます。
【リア王】 あの奴隷|奴《め》はなぜ戻って来んのだ、わしが呼び戻したというのに?
【騎士】 陛下、彼奴《きやつ》ははっきりと申しました、来たくはないと。
【リア王】 来たくはないと!
【騎士】 陛下、どういうことか私にはよくはわかりませんが、私の考えでは、今や陛下はこれまでのような礼儀作法、愛情をもって待遇されてはおられません。公爵自身および陛下の娘御はもちろん、一般従者たちのあいだにいたるまで、親切心が大いに削減《さくげん》されたことは明らかであります。
【リア王】 何とお前はそう考えるか?
【騎士】 もし私奴が間違っておりましたなら陛下、何卒《なにとぞ》お許しくださいますように。ただ陛下が冷遇されていると考えますと、職責上黙ってはおられませんので。
【リア王】 お前の言うことを聞いて、実はわしも思い出した。わしも最近|微《かす》かながら疎遠《そえん》にされていることには気づいておったのだ。だがそれも故意に意図《いと》された不親切ではなく、いずれかと言えば自分本位の邪推だと、自分自身を責めていたのだ。そのことは今後よく注意することとしよう。ところで阿呆はどこへ行った? もう丸《まる》二日も彼《あれ》を見ないが?
【騎士】 末の姫君がフランスへ発《た》たれてからは、阿呆はすっかり元気がなくなりました。
【リア王】 もうそれは言うな。わしも十分気づいておる。おい、娘のところへ行って、わしが話があると言ってくれ。〔一人の従者退場〕おい、お前は阿呆を呼んで来い。〔一人の従者退場〕
〔オズワルド再登場〕
おお君、君! こっちへ来てくれ。わしを誰だと思うかね?
【オズワルド】 奥様のお父上。
【リア王】 「奥様のお父上」だと! 公爵家の下種《げす》めが! おのれ素性もわからぬ犬|奴《め》! 奴隷|奴《め》! 野良犬|奴《め》!
【オズワルド】 私はそのようなものではございません陛下、お言葉を返して失礼ながら。
【リア王】 わしを睨《にら》み返そうというのか、このごろつき奴《め》が!〔オズワルドを殴りながら〕
【オズワルド】 殴って欲しくありません、陛下。
【ケント】 足もすくって欲しくないだろう、このケチなフットボール気違い奴《め》!
〔足をすくって倒しながら〕
【リア王】 おい、礼を言うぞ。お前はよくやる。可愛がってやるぞ。
【ケント】 さあ立ち上がって消えて失《う》せろ! 身のほどを知ったろう。とっとと消え失せるんだ! その大きな図体《ずうたい》でもう一度転がりたけりゃ、そこにおれ。だが消えたほうが身のためだぞ! どうした、お前は正気か?〔オズワルド退場〕そう、それでよし。
【リア王】 役に立つ可愛い奴、心から礼を言うぞ。さあ、お前のサーヴィスに手付けを渡しておく。
〔ケントに金を与える〕
〔道化登場〕
【道化】 わたしもその人を雇いたい。さあわたしのトサカ帽あげますよ。
【リア王】 おやどうしてたんだ可愛い奴! 元気かい?
【道化】 ねえ、わたしのトサカ帽もらっといたほうがいいよ。
【ケント】 なぜかね阿呆?
【道化】 なぜかって? だって人に好かれないほうの側につくんだから。いや、風の向くままに笑顔を見せられんようじゃあ、お前さんじきに風邪《かぜ》ひいちゃいますぜ。さあ、このトサカ帽もらっとくこってす。だってこのおっさんは、娘二人は追い出して、三番目は心ならずも祝福したんですぜ。お前さん、もしこの人に従《つ》いて行こうってんなら、このトサカ帽かぶるに限る。おや、叔父さん! わたしにトサカ帽が二つと娘が二人あるといいんだが!
【リア王】 なぜなんだね?
【道化】 娘たちに財産をみんなくれてやったって、トサカ帽二つだけはとっときます。さあわたしのを一つあげましょう! 娘さんたちに頭を下げて、もう一つをおもらいなさい。
【リア王】 これ、言葉に気をつけろ。鞭《むち》だぞ。
【道化】 「真実」は犬小屋につないどく小犬です。鞭打たれて追い出されなけりゃいかんのです。奥方の雌《めす》犬様は炉端でぬくもり、臭いやつを一発やらかしているというのに。
【リア王】 わしにとっては何たる苦しみ!
【道化】 これ、そのほうに小唄を一つ教えて進ぜようか。
【リア王】 やれ。
【道化】 よく聞いてなさいよ叔父さん。
有り金全部を人に見せるな。
知ってること全部を人に喋《しゃべ》るな。
有り金全部を人に貸すな。
馬で行けるなら歩いて行くな。
耳にしたこと全部を信じるな。
一度の勝負に全部を賭《か》けるな。
酒と女はきっぱりと断て。
その上、家にじっとしていりゃあ、二〇シルの元手でその一〇割、
一〇シルの倍|稼《かせ》ぐなんかは朝飯前。
【ケント】 こりゃあ中味は何にもないな阿呆。
【道化】 じゃあ弁護料なしの弁護士の弁護ってところ。あんたもわたしにゃ何《なん》にもくれないね。叔父さん、何にもない処からは何にも儲《もう》かりませんかね?
【リア王】 そりゃそうじゃ。何にもない処からは何も出ようはずはない。
【道化】 〔ケントに〕ねえ、あの人の土地の地代だってそうなるって、あの人に言ってくれませんか。あの人は阿呆の言うことは絶対に信じないんだから。
【リア王】 苦々《にがにが》しいことを言う阿呆だ!
【道化】 これお前、苦《にが》い阿呆と甘《あま》あい阿呆の区別がわかるか?
【リア王】 いやわからない。教えてくれ。
【道化】 お前さんの土地を譲《ゆず》るよう、
お前さんに勧《すす》めたあの殿様が、
わたしの傍《そば》へやってくる。
お前さんが代わりに立ってみてご覧。
さあさあ甘いのと苦いのと、
両方の阿呆はこれこのとおり!
斑《まだら》の阿呆がここに一人、
そしてもう一人はそれそこに!
【リア王】 何だわしが阿呆だというのか?
【道化】 お前さんは他の肩書きは全部|譲《ゆず》ってしまったじゃないか。残ってるのは持って生まれた阿呆の肩書きだけなんだ。
【ケント】 これは完全な阿呆というわけではございませんな陛下。
【道化】 そりゃそうです。殿様やお偉方がわたしにそうさせてくれんのです。もしわたしが阿呆全部の専売特許を取ったとすりゃあ、連中はそれを分けろ分けろときかんでしょう。ご婦人方だってそうなんです、絶対にわたしに阿呆全部を独占させちゃあくれません。
引《ひ》っ手繰《たく》っていきますよ。叔父さん、卵を一つくれないか、代わりに王様の冠《かんむり》を二つあげよう。
【リア王】 どういう冠《かんむり》二つなんだ?
【道化】 そりゃあ、卵を真ん中で二つに割って、その中味をば平らげて、それ、二つの冠とござい! お前さんが冠を二つに断ち割って、その両方をやっちまったとき、つまりお前さんは|ぬかるみ《ヽヽヽヽ》を、ロバをおんぶして渡ったってわけだ。お前さんが黄金《きん》の冠をやっちまったとき、お前さんのそのつんつる天の金ピカ頭は、中味はかんからのからだったってわけだ。こちとらがたとえ|阿呆らしく《ヽヽヽヽヽ》しゃべったとしても、鞭をもらうのはそりゃそのとおりだ間違いないと、まず気がついた当のご本人さ。〔歌う〕
阿呆がこんなにシケた年はない。
まともな奴が間抜けになって、
知恵の使いようをご存じなくて、
まるでエテ公の身のこなし。
【リア王】 いつからそんなに歌を歌うようになっスんだ?
【道化】 お前さんが娘さんたちをお前さんのおふくろさんにしたときから、ずっと練習してたんだよ叔父さん。だってお前さんが娘さんたちにお仕置きの鞭《むち》を渡し、お前さんがズボンを下《お》ろしたら、〔歌う〕
みんなはどっとうれし泣き。
わたしゃ悲しくって涙で歌った、
こんな王様がかくれんぼう遊び、
阿呆の仲間入りしようとは。
叔父さん、お前さんの阿呆に嘘《うそ》のつき方を教えてくれる先生を一人雇って欲しいな。嘘のつき方を覚えたいんだ。
【リア王】 嘘をつけば鞭で打たせるぞ。
【道化】 いったいお前さんと娘さんたちの親子関係はどうなってるんだろうね? 娘さんたちはほんとうを|つ《ヽ》いたとわたしを打《ぶ》たせ、お前さんは嘘をついたとわたしを打《ぶ》たせる。ときにゃあ、黙ってるってわたしゃ打《ぶ》たれる。阿呆にだけはなりたくないな。でも叔父さん、お前さんにはなりたくないな。お前さんは知恵の両方から皮をむいちゃったんで、中味は何《なん》にも残っちゃいない。それ、片っ方の皮がおいでなすった。
〔ゴナリル登場〕
【リア王】 どうした娘! なぜそのように恐《こわ》い顔をしているのだ? 汝《そち》は最近どうもそのような顔をしているときが多すぎるが。
【道化】 娘さんの恐い顔なんか気にしなくてよかった時分は、お前さんはステキな奴だった。それが今じゃマルだ、ゼロだ。わたしのほうが今のお前さんよりはまだマシだ。わたしは阿呆だが、お前さんは何でもありゃしない。〔ゴナリルに〕はいっ、ごもっとも、沈黙を守ることにいたします。お顔にそう書いてあります、何もおっしゃいませんが。しっ、静かに。
パンの中味も皮も捨てちゃう奴は、
すべてに飽いて、しかも何がし欲しくなる。
こちら、豆を出しちまった莢《さや》えんどう。
【ゴナリル】 お父上、お父上お抱《かか》えの何でもし放題《ほうだい》の阿呆ばかりか、
その他《ほか》の傲慢《ごうまん》無礼なご家来の者たちも含めて、
四六時中、文句、喧嘩《けんか》口論のし続け、言い続け。あげくの果ては、
ひどい乱暴|狼藉《ろうぜき》。わたしにも忍耐の限度というものがあります。お父上、
わたしはお父上にこのことをはっきりわかっていただけば、
それが確かな解決方法と考えておりました。それが今は不安です、
最近わかった事ですが、お父上自身の話しよう、なさりようから考えて、
お父上はこの乱暴路線を助けていらっしゃる、これを承認して
大いにけしかけていらっしゃる。もしもこの事が事実だとすると、
お父上の過ちは非難を免れません。またその対策も断固講じます。
国の安寧《あんねい》と幸福とをひたすら祈念するあまり、
それが発動するとあるいはお父上を侮辱《ぶじょく》することになるかもしれません。
それは場合が場合なら家の恥ですが、万やむを得ないこの事態、
賢明な処置と認められることでしょう。
【道化】 だから叔父さん言わんこっちゃない、
歌にもあるよ。
生垣雀《いけがきすずめ》が郭公鳥《かつこうどり》可愛がりすぎて、
その雛鳥《ひなどり》に頭をかじられた。
かくして消えたりローソクの火、残るわれらは闇の中。
【リア王】 汝《そち》は予《よ》の娘か?
【ゴナリル】 知恵はまだしっかりとしていることは私にはよくわかっているのです。
それを十二分に働かせて欲しいと思います。そしてこのごろ、
正気のお父上をすっかり変えてしまった脱線状態を、
追い払って欲しいのです。
【道化】 車が馬を挽《ひ》いてりゃあさかさまだってことは、間抜けのロバにだってわかるじゃあないか。「いいぞ姐《ねえ》さん! わたしゃお前に惚《ほ》れました。」
【リア王】 誰かここにリアを知る者はおらぬか?
ここにおるのはリアではない。
リアがこんなふうに歩くか? こんなふうに話すか? リアの目はどこにある?
頭の働きが鈍ったか、それとも知恵の働きが
麻痺してしまったか……そもそも目が覚めているのか? そうではあるまい。
このわしがいったい誰だか、誰かわしに教えてくれる者はおらんか?
【道化】 リアの影法師。
【リア王】 それが是非とも知りたいのだ。何となれば
国王の象徴、知識および理性から判断して、
わしに娘があったというわしの考えは誤りであったから。
【道化】 そういうお前さんを娘さん達は、言うこと聞く叔父さんにしようって訳さ。
【リア王】 奥方様、お名前は?
【ゴナリル】 お父上、この俄《にわ》か作りの当惑の仕方も、
最近の数々のご乱行とまったく同一種類のものです。お願いです、
どうか私の考えを正しくわかっていただきたいと思います。
お父上は年を取り、大事にされておりますが、それだけに賢《かしこ》くあるべきです。
いまお父上は百人の騎士と郷士たちを連れていらっしゃいます。
みなひどく乱暴で自堕落、おまけに大変に恥しらず、
お蔭で私どもの屋敷中全部がそれに汚染されて、
まるで乱痴気《らんちき》酒場同然です。奢《おご》った口と淫蕩《いんとう》なセックスとで、
典雅たるべきこの宮廷はまるで居酒屋、まるで連れ込み宿
同然となっています。早急に対策を講じなければならないことを、
何よりもこの浅ましい状態が物語っています。そこで要望いたします、
ご家来の数をいささか削減していただくことを。
お聞き届けなくても勿論《もちろん》、私の思うようにいたすつもりではおりますが。
そして居残るものは、銘々《めいめい》自身の、そしてお父上の身のほどを心得て、
あくまでもお父上の年令にふさわしい付き人となって、
お父上にお供《とも》するようにしていただきます。
【リア王】 地獄と悪魔に食われろ!
わしの馬に鞍《くら》をおけ。わしの従者どもを集合させろ。
おのれこの出来損い奴《め》が! お前などの世話にはならんわ。
わしにはまだもう一人の娘がおるわい。
【ゴナリル】 お父上は家の者を殴られる。乱暴なご家来たちは、
ずっと目上の者たちを顎《あご》で使っている。
〔オールバニ登場〕
【リア王】 後悔先に立たざる者は悲しき哉《かな》! おお貴公来られたか?
そもそもこれは貴公の意志なのか? 何とか言ってくれ。馬の用意をせい。
おのれ恩知らず奴《め》、石の心を持った悪魔奴!
汝《そち》がわしの血を分けた実の娘であるだけに、
海の怪物よりなお恐ろしい。
【オールバニ】 お父君、なにとぞお怺《こら》えくださいますよう。
【リア王】 〔ゴナリルに〕この汚《けが》らわしい鳶奴《とんびめ》! お前は嘘《うそ》をつく。
わしの家来はすべて選り抜き、まれに見る素質の持ち主たちだ。
臣下たるものの勤めに関しては、その仔細《しさい》すべてを承知しておる。
そしてその栄誉ある名をいかにして維持しようかと、
日夜心を砕いているのだ。おお、ごく些細《ささい》な過《あやま》ち、
それがコーディリアでは何と醜く見えたことだろう!
それが、まるで何かの機械仕掛けのように、わしの自然の心組みを、
その固有の場所からねじり取り、わしの心からすべての愛情を引き抜き、
憎悪の苦汁だけを増やしてしまった。おおリア、リア、リア!
〔頭を叩きながら〕こいつめが、こいつめが大事な判断力を追い出して、
こんなバカをしでかしてしまった。皆の者、さあ行くんだ、行くんだ。
【オールバニ】 陛下、私に罪はございません。私には陛下がなぜそのように
お怒りなのか、皆目見当もつかないのですから。
【リア王】 そうだろうねオールバニ殿。
聞け、「自然」よ、聞け!
「自然」の女神よ、聞け!
もしもこの生きものに子供を生ませようという、
そんな意図《いと》があるのなら、
それは断じて中止して欲しい!
彼女《あれ》の腹は完全な不妊症にしてしまってくれ!
彼女《あれ》の子供を生む機能がすっかり乾《ひ》上がるようにしてくれ!
そして堕落し切った彼女《あれ》の体《からだ》からは、彼女《あれ》の名誉になるような
立派な子供など決して生まれんように! もしどうしても子供を生まねばならん、
というのなら、その子供を極道者にしてくれ! 一生涯、
極悪無道の親不孝で彼女《あれ》を困らせぬいてくれ!
その子供のために彼女《あれ》の若い額《ひたい》は苦労の皺《しわ》をよせ、
流れ落ちる涙は彼女《あれ》の頬に深い溝を掘り、
母親のすべての心づかい、親切心は、何もかも、
みんな世の嘲《あざけ》り、蔑《さげす》みの的にしてしまってくれ! それでこそ彼女《あれ》も、
恩知らずの子供を持つことが、蛇の歯よりもいかに厳しいか
思い知ろうぞ! さあ参ろう、参ろう!〔退場〕
【オールバニ】 わが崇《あが》める神々、どうしてこのようなことが?
【ゴナリル】 そんなことをわかろうとして骨を折りなさるな。
どうせ老いぼれているのです。我が儘《まま》、気儘、
好きなようにさせましょう。
〔リア再登場〕
【リア王】 何たることだ! わしの家来五十人、
一撃の下にばっさりとは!
まだ半月とたたぬのに!
【オールバニ】 いかがなさいましたか陛下?
【リア王】 訳《わけ》を言おう。〔ゴナリルに〕生と死とにかけて誓って言う!
まつたくもって恥ずかしい、汝《そち》ごときがこの大の男を揺り動かす力を持ち、
ために斯《か》くも熱い涙がわしの体から無理無体に絞り出され、
汝《そち》ごときに名をなさしめようとは! 悪疫と病魔が降りかかれ!
父親の呪《のろ》いは手当不能の深い傷口となって、
汝《そち》のあらゆる感覚を突き通せ! 年老いた、愚かな両の目よ、
この件について二度と涙を流したら、お前らを抉《えぐ》り出してしまうぞ。
そしてお前らが無益に流した涙と一緒にして、
捏《こ》ね上げてしまうぞ。そうか、こうまでなってしまったか?
何かまうもんか! 放っておけ。わしにはもう一人の娘がおる。
彼女《あれ》は間違いなく親切で、やさしく仕えてくれる。
彼女《あれ》が汝《そち》のこのような仕打ちを耳にしたならば、その爪で
汝《そち》のその狼のような顔を引っ掻《か》いてくれるだろう。見ていろよ、
わしは必ずや取り戻してみせるぞ、わしが永久に捨てたと
お前が思っているわしの元の姿を。〔リア、ケントおよび従者たち退場〕
【ゴナリル】 おわかりでしょう?
【オールバニ】 あなたには大いなる愛情を抱《いだ》いてはいるがゴナリル、
そう一方的にはわたしはなれない……
【ゴナリル】 お願い、それ以上もうおっしゃらないで。オズワルド! ちょっと!
〔道化に〕ねえ、阿呆よりむしろ悪党のお前さん、旦那の後《あと》をつけなさい。
【道化】 リアの叔父さん、リアの叔父さん、ちょっと待って! 阿呆と一緒に行ってらっしゃあい!
狐一匹|掴《つか》まれば、
それとあんな娘っ子、
吊《つ》るし首台行きは間違いねえ、
俺の帽子で絞め縄買えりゃあ。
かくして阿呆はついて行く。〔退場〕
【ゴナリル】 この男はいい後《うし》ろだてを持っているからなのです。騎士が百人!
百人もの完全武装の騎士たちを、いつも父に仕えさせておくなんて、
ほんとうに賢明かつ安全なやり方だわ! それで夢一つ見ても、
噂《うわさ》一つ聞いても、気紛《きまぐ》れ一つ、文句一つ、気に入らないこと一つ起こっても、
父はその百人の武力で自分の老いぼれ、|もうろく《ヽヽヽヽ》を守ることができ、
わたくし共の生命を危険にさらすことができるのです。オズワルド!
【オールバニ】 さあ、君は取り越し苦労をしているようだ。
【ゴナリル】 信用し過ぎよりはまし。
心配な危害は、いつ身にふりかかるかといつも心配しているよりも、
いつもさっさと取り除きたいもの。父の心はわかっています。
父が言ったことは妹への手紙に書いておきました。
わたしがこれだけ不都合さをはっきりさせても、妹が依然として
父と百人の騎士とを扶養《ふよう》して行くというのなら……
〔オズワルド再登場〕
おやオズワルド!
妹への例の手紙は書いてくれたんだろうね?
【オズワルド】 はい奥様。
【ゴナリル】 何人かを連れて早速に馬で発《た》ちなさい。
わたしがとくに心配している点を十分に妹に伝えるように。
そしてその点を確認するためならば、あなた自身の意見を
さらに付け加えても差し支えはない。さ、出かけなさい。〔オズワルド退場〕
そして急いで帰りなさい。いいえ駄目ですあなた。
この人情のミルクで一杯のやさしいやり方は、
わたしは咎《とが》めはいたしませんが、でも、失礼ですが、
危険ではあるが寛大だと誉められるよりもむしろ、
知恵が無さすぎると公然と非難されるでしょう。〔退場〕
【オールバニ】 君の目がどのくらい見通せるか、わたしにはよくわからぬが、
よくしようと骨を折って、かえってしばしば駄目にする。
【ゴナリル】 でも、あなた……
【オールバニ】 いいよ、いいよ、結果を待つとしよう。〔退場〕
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第五場 同 中庭
〔リア、ケントおよび道化登場〕
【リア王】 この手紙を持って一足先にコーンウォルの処へ行け。手紙の内容に関しての質問以外には、何事も、たとえ知っていても、娘には言わないでくれ。一生懸命急がぬとわしのほうが先に着いてしまうぞ。
【ケント】 お手紙お渡しするまでは一睡もしない覚悟です。〔退場〕
【道化】 もし人間の脳みそが踵《かかと》についていたら、脳みそもやっぱり|しもやけ《ヽヽヽヽ》になるかね?
【リア王】 そりゃなるさ。
【道化】 それなら、どうか元気をお出し。お前さんの知恵は踵にだって無いんだから、|しもやけ《ヽヽヽヽ》になってスリッパはくこともない。
【リア王】 はっ、はっ、はっ!
【道化】 もう一人の娘さんは、お前さんの娘さんにふさわしく扱ってくれるってことがわかりまさあ。だってあの人は、野生|林檎《りんご》と普通の林檎がそっくりのように、外見はここのによく似てますが、わたしにゃよおくわかってるんです。
【リア王】 何がわかってるんだね?
【道化】 野生|林檎《りんご》はどれを取っても同《おんな》じ味がするように、あの人もここのと同《おんな》じ味がするでしょうってことが。お前さん、なぜ鼻は顔の真《ま》ん中にあるのかわかる?
【リア王】 いや。
【道化】 そりゃあ両の目を鼻の両わきにおくためです。鼻で嗅ぎ出せないものを見つけ出せるという訳でさあ。
【リア王】 彼女《あれ》には悪いことをした……
【道化】 牡蠣《かき》は何《ど》うやって殻を作るかご存じか?
【リア王】 いや。
【道化】 実はわたしもご存じない。ですが、蝸牛《かたつむり》はなぜ家を持っているかはご存じです。
【リア王】 なぜだね?
【道化】 そりゃあ頭を入れるためでさあ。娘たちにやってしまって、自分の角の隠し場を失くすためじゃありません。
【リア王】 わしは父親本来の愛情というものを忘れよう。あんなにもやさしい父親だったのに! 馬の用意はできたか?
【道化】 お前さんのロバたちが用意しに行きました。七つ星が七つ以上はない訳は、まこと尤《もっと》もらしい理屈と言えるね。
【リア王】 八つないからか?
【道化】 そのとおり。お前さん立派な阿呆になれますよ。
【リア王】 力ずくでも取り戻してやるか! おのれ恩知らずの怪物|奴《め》!
【道化】 叔父さん、もしお前さんがわたしの阿呆なら、年でもないのに老《ふ》けてると言って打《ぶ》たせるだろうね。
【リア王】 それはどういうことだ?
【道化】 利口にならんうちは年を取っちゃいかんということです。
【リア王】 おお慈悲深き天よ、わたしを気違いに、気違いにならせないでください!
どうか正気のままにおいてください。わたしは気違いになりたくない!
〔紳士登場〕
おいどうした! 馬の用意はできたか?
【紳士】 できました陛下。
【リア王】 さあ阿呆参ろう。
【道化】 今は生娘《きむすめ》のお嬢さん方、わたしのことを笑ってますが、
いつまで生娘でおれるやら、男のシロモノちょん切りゃ別だが。〔退場〕
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第二幕
第一場 グロスター伯爵居城 中庭
〔エドマンド、カラン、舞台左右より別々に登場〕
【エドマンド】 やあカランご機嫌よう。
【カラン】 閣下もご機嫌よろしゅう。今しがたお父上にお会いし、コーンウォル公爵と公爵婦人リーガン様が今晩、ご一緒にここへお越しの由《よし》申し上げたところです。
【エドマンド】 どうしてそういうことに?
【カラン】 いやわたしも存じません。ですが世間の噂《うわさ》話はお聞き及びのことと存じますが? いや噂とまで言えないかもしれません、まだ耳打ちの域を脱しておりませんから。
【エドマンド】 いや聞いていない、どういう噂か話してくれ給え。
【カラン】 コーンウォル、オールバニ両公爵のあいだで、恐らくは近く戦争が起こるだろうということはお聞き及びで?
【エドマンド】 一言《ひとこと》も聞いていない。
【カラン】 でもそのうちにお聞き及びのことと存じます。ではご機嫌よう、失礼します。〔退場〕
【エドマンド】 公爵が今宵《こよい》ここへ来る! ますますいいぞ! いや最上級にいい!
これでは自分から俺《おれ》の計画に入りこんで織り上がるという恰好だ。
親父《おやじ》は兄を捕えるためにすでに番兵を配置した。
そしてこの俺様には一つ慎重に手懸けねばならん仕事がある。
そいつをやらかさにゃあ。どうか運よく手際《てぎわ》よく参りますように!
兄さん、一言《ひとこと》話したいことが。下りて来てください。兄さん!
〔エドガー登場〕
父上が見張っています。さあ兄上、ここから逃げてください。
兄上の隠れ場所を密告されてしまったのです。
幸い今なら夜蔭《やいん》に乗じることができて好都合です。
兄上は何かコーンウォル公爵の悪口をおっしゃいませんでしたか?
公爵がここへ来られるのです、この夜|更《ふ》けに、大急ぎで。
それにリーガン様もご一緒です。兄上はあの方の側について
何かオールバニ公爵の悪口をおっしゃいませんでしたか?
ようく考えて見てください。
【エドガー】 絶対間違いない、一言《ひとこと》も言ったことはない。
【エドマンド】 お父上が来られたようです。お許しください。
示しあわせていることがバレないように、兄上に剣を抜かねばなりません。
兄上も剣をお抜きなさい。防禦《ぼうぎょ》のふりをするんです。さあ勇敢にやってのけなさい。
参ったか! お父上の処に来るんだ。明かりだ、おおい! ここだ!
兄上お逃げなさい! 松明《たいまつ》! 松明《たいまつ》! じゃお元気で!〔エドガー退場〕
俺が血を流していれば、俺が必死に戦ったと〔片腕に自分で傷をつける〕
みんなが考えてくれるだろう。酔っぱらいがふざけて、
これ以上のことをするのを見たことがある。お父上! お父上!
待て、待て! 誰か助けてくれ!
〔グロスターおよび松明《たいまつ》を持った従者たち登場〕
【グロスター】 さあエドマンド、悪党はどこだ?
【エドマンド】 ここ、この暗闇に、抜き身の業物《わざもの》を提《ひっさ》げて立っていました。
何か忌《い》まわしい呪文《じゅもん》をつぶやきながら、月の女神に
どうか守り神になってくれと願《がん》を掛けていました。
【グロスター】 それで何処《どこ》におるのじゃ?
【エドマンド】 ほらお父上、こんなに血が!
【グロスター】 悪党は何処におるのじゃ?
【エドマンド】 こっちのほうに逃げて行きました。とても無理だと覚《さと》りまして……
【グロスター】 後《あと》を追え、それっ! 彼奴《きやつ》を追え!〔従者たち数人退場〕
何がとても無理なのだ?
【エドマンド】 私を説き伏せてお父上を殺させようとしたことがです。
ですが私は言ってやりました。復讐《ふくしゅう》の神々は、
親殺しの大罪には手持ちの雷すべてを落としてこれを罰するものだと。
そして親と子とはどれほど幾重にも、また強い絆《きずな》で、
お互いに結ばれ合っているものかを話しました。そこで要するに、
兄は私が自然の道理、人の道に反したその計画に、いかに
身の毛がよだつほどに反対であるかを見てとると、恐ろしい「突き」のかまえで、
鞘《さや》をはらった抜き身をもって、まったくの素手《すで》、丸腰の私に攻めかかり、
これこのとおり、わたしのこの手にこんな深傷《ふかで》を負わせました。
それから兄は、あたかも進軍ラッパに鼓舞されたような私の士気、
正義は我にあるという凜々《りんりん》たる私の勇気、断固たる私の対決姿勢を見て、
あるいは私のたてたすさまじい物音に驚天したためか、
一目散に逃げ失せました。
【グロスター】 いかに遠くへ逃げようとて、
この国中におる限り、彼奴《きやつ》は必ずひっ捕えてみせる。
そして見つかり次第……片づけろ。わが主君である公爵閣下が、
わが栄《は》えある最高の恩人であるご領主が、今宵《こよい》お成りだ。
公爵のご威光をお借りして、わしは次の布告を出したい。
すなわち、あの残忍な卑怯者《ひきようもの》を見つけ出して刑場に引き立てた者は、
われわれの心からなる感謝と恩賞に与《あず》かり、
彼奴《きやつ》をかくまう者は、死刑だと。
【エドマンド】 兄のそういう考えをやめさせようと説得しましたが、
兄の決心は非常に固いことがわかりましたので、私は強い言葉で
兄の本心をバラしてやるぞと威《おど》してやりました。兄の答えはこうでした。
「財産も分けてもらえぬ妾《めかけ》の子のくせに! ことによるとお前は、
もし俺《おれ》が万一お前と対決するようなことになっても、
親父《おやじ》がお前に何らかの信用をおいていれば、何らかの徳、価値があれば、
世間がお前の言葉を信じてくれるとでも思っているのではないか? とんでもない。
俺が反対の証言をすれば……こんどもそうしようと思うが……
そうさ、たとえお前が正真正銘《しょうしんしょうめい》の俺の自筆の証拠を持ち出したって、
すべてはお前の差し金、お前の企《たくら》み、お前の策略にすることができるのだ。
俺が死んで得をするのはお前だという考えは非常に生まれ易く、
それがお前の心を動かしてやらせたんだと
世間が考えないとお前が思うんなら、それは世間を
愚弄《ぐろう》するというものだ」
【グロスター】 おお人の道に背《そむ》いた、奇怪至極な悪の固《かた》まり奴《め》!
彼奴《きやつ》はこの手紙、自筆とは認めぬと言ったのだな? 彼奴《あいつ》はわしの子ではない。
〔行進曲ふうの喇叭《らっぱ》の音〕
それっ! 公爵閣下の喇叭の音だ。何故《なにゆえ》のご入来かは存ぜぬが。
港という港は閉鎖してしまったから、あの悪党は逃げられっこはない。
公爵閣下もそれをお許しになられるに違いない。なお、彼奴《きやつ》の肖像画を
遠近を問わず、いたる所に手配しておこう。国中が
彼奴《きやつ》に注意することができるように。それからわしの領地だが、
お前は自然のままの、親孝行者だ。何とかお前が相続できるよう
骨を折ることにしよう。
〔コーンウォル、リーガンおよび従者たち登場〕
【コーンウォル】 やあグロスター殿! 私はたった今ここへ参ったのだが、
ここへ来て実に奇怪千万なニュースを耳にしました。
【リーガン】 もしそれが事実とすれば、その罪人は
いかなる厳罰に処しても十分とは言えません。どうしましたグロスター殿?
【グロスター】 おお! 奥方、年老いた私の心臓は張り裂けます。張り裂けます。
【リーガン】 何ですと! 私の父の名付け子があなたの命を狙《ねら》ったのですか?
私の父が名付け親になった、あなたの子供のエドガーが?
【グロスター】 おお! 奥方、奥方、口に出して申し上げるのも恥ずかしゅうございます。
【リーガン】 あの人は私の父にかしずいている乱暴者の騎士たちと
仲間ではないのですか?
【グロスター】 わたしは存じません。とにかくひどすぎます、ひどすぎます。
【エドマンド】 実はそうなんです奥方様。あの人はあの連中と一緒でした。
【リーガン】 それなら親不孝をしたとしても何の不思議もない。
老人の財産を自由、勝手に始末できるようにしようと、
連中があの人をそそのかしたにきまっています。
実は今晩今しがた、姉から便りをもらいましたが、
連中のことがいろいろと書いてありました。そしてもし連中が
私の家に泊まりに来たら、私は留守をしていたほうがいいという、
注意書きまでついておりました。
【コーンウォル】 わたしも是非そうするよ、リーガン。
エドマンド、君はお父上に親孝行の一幕を
見せて上げたそうだね。
【エドマンド】 子としての義務を果したにすぎません。
【グロスター】 こいつが彼奴《きやつ》の企らみを発《あば》いてくれたのです。ご覧くださいこのとおり、
彼奴をひっ捕えようとして傷を受けたのです。
【コーンウォル】 追っ手は出してあるね?
【グロスター】 はっ、公爵閣下。
【コーンウォル】 あの男が掴《つか》まったら、二度と危害を加える懸念《けねん》など
絶対に無いようにしてやろう。思いどおりの計画で逮捕して欲しい。
そのためにはわが力をいかように利用してもかまわない。エドマンド、君については、
今回の君の有徳にして従順の行ないはまことに立派、
その天晴《あっぱ》れさによって、君を今後わが家臣の一人として取り立てたい。
かくのごとき深い信頼に応《こた》え得る性格を今後は大いに必要とするのだ。
君をその第一号として採用する。
【エドマンド】 無調法《ぶちょうほう》ながら、
真心をもってお仕えもうします。
【グロスター】 忰《せがれ》のためにお礼を申し上げます。公爵閣下。
【コーンウォル】 われわれが貴殿を訪れた理由《わけ》はご存じあるまいが……
【リーガン】 かくも時間|外《はず》れのときに、黒い夜の目にやっと糸を通すようにして参ったのです。
実はグロスター殿、是非ともあなたの助言を承《うけたま》わらなければならない
緊急、重要な事態が二、三、出来《しゅったい》いたしたのです。
私どもの父からと姉からとの両方から手紙が参り、
ともに悶看《もんちゃく》が起きた由書いて参りましたが、それに対する返事は、
私どもの家から離れてするのが一番よいと考えたのです。それぞれの使いは、
ここから飛ぶよう待機しています。ご老体、
どうかお心を静かに持たれ、
われらのこの事態に関して、
必要な助言を私どもに与えてくださるようお願いします。
今すぐ、この場でです。
【グロスター】 心得ましてございます奥方様。
お二方ともようこそいらっしゃいました。〔ファンファーレ。退場〕
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第二場 グロスター伯爵居城前
〔ケントとオズワルド左右から別々に登場〕
【オズワルド】 やあお早よう、君はこの家の者かね?
【ケント】 そうだ。
【オズワルド】 馬はどこにつないだらいいかね?
【ケント】 泥《どろ》んこの中だ。
【オズワルド】 頼む、わたしが嫌いでないなら教えてくれ。
【ケント】 お前なんか好きじゃない。
【オズワルド】 よし、それならわたしも君なんかに用はない。
【ケント】 そのうちお前を窮地に追いこんで、絶対に用ありにしてやる。
【オズワルド】 なぜこんな扱いをするのだ? わたしはお前など知らんのに。
【ケント】 俺《おれ》は貴様を知ってるんだ。
【オズワルド】 わたしを何だと思ってるんだ?
【ケント】 けちな三下《さんした》、下種《げす》、台所で余り物をありがたく頂戴《ちょうだい》している奴さ。下賤で高慢ちき、浅薄で乞食根性、お仕着《しき》せ三枚のきたきり雀《すずめ》、年たった百ポンドのにわか紳士、うす汚《ぎた》ない毛の靴下《くつした》はいた三下野郎だ。肝臓は白百合の臆病者、何かというとすぐに裁判沙汰の弱虫小僧、妾《めかけ》の子、自惚《うぬぼ》れ鏡を覗《のぞ》きっ放《ぱな》しのニヤケ野郎、何にでも口を出したがるお節介屋《せっかいや》、いっぱし口やかまし屋を気取る碌《ろく》で無し。持ち物といえばトランクたった一個の乞食奴隷。仕事となればよろこんでポン引きにもなり下がる奴で、下種《げす》と乞食と臆病者とポン引きのかけ合わせ以外の何者でもなく、おまけに雌《めす》の野良犬の総領|息子《むすこ》で相続人とくらあ。さあこの俺からありがたくも頂戴したこの肩書き、一字だって削ってみろ、ぴいぴい泣きわめくまでぶん殴《なぐ》ってやるから。
【オズワルド】 いったいお前は何という非道《ひど》い奴なんだ、お前が知りもせず、またお前を知りもしない人にこんなに悪口を言おうとは!
【ケント】 お前は何という鉄面皮《てつめんぴ》な下郎《げろう》なんだ、この俺を知らんとぬかそうとは! 王様の前でお前の足をすくってぶん殴ってやったのは、たった二日前のことじゃあないか? さあ抜け、碌で無し! 夜じゃあるが、月が出ている。降る月の光とお前の微塵《みじん》切り、いっちょう素晴らしい料理を作ってやろう。〔剣を抜く〕
おのれ賤《いや》しい妾腹奴《めかけばらめ》! 床屋に入り浸《びた》りのニヤケ野郎|奴《め》、抜け!
【オズワルド】 退《の》け退《の》けお前などに何の用もないわ。
【ケント】 抜け、この下種奴《げすめ》! お前は王様のためにならぬ手紙を持って来て、例の道徳劇の人形芝居に出てくる、「虚栄」の奥方の味方よろしく、奥方の父君の王権に歯向かおうというわけだ。抜け、この下郎|奴《め》! さもないとその向こう脛《すね》に、調理用の賽《さい》の目を入れてくれるぞ抜け! この下種|奴《め》! さあ来い!
【オズワルド】 おおい、助けてくれ! 人殺しだ! 助けてくれ!
【ケント】 さあ掛《か》かって来い! この乞食奴隷! かまえろ、下郎|奴《め》、かまえるんだ。このニヤケ奴隷|奴《め》、掛かって来い!〔ケント剣の峰でオズワルドを打ちすえる〕
【オズワルド】 おおい助けてくれ! 人殺しだ! 人殺しだ!
〔エドマンド細身を抜いて登場〕
【エドマンド】 おいどうしたんだ! いったいなにごとだ? 共に退《ひ》け!
【ケント】 おいお若えの、何なら事《ヽ》はお前さんとかまえたっていいんだ。さあ来い、お若い大将、鷹狩りの鷹同様、肉の味を教えて手ほどきをしてやろう。
〔コーンウォル、リーガン、グロスターおよび下僕たち登場〕
【グロスター】 武器だの! 兵器だの! いったいここで何事が起こったのじゃ?
【コーンウォル】 静まれい! さもなくば命はないぞ。二度と掛かってゆく者は死罪にするぞ。何事が起こったのだ?
【リーガン】 姉上からと国王からの使いの者たちだわ。
【コーンウォル】 争いの原因は何だ? 言え。
【オズワルド】 息が切れて閣下、物が言えません。
【ケント】 無理もない。ありったけの勇気を奮《ふる》ったんだからな。この臆病者の下種奴《げすめ》、お前なんか自然の女神だって「わたしが造ったんじゃない」とおっしゃるわ。「仕立屋造りの人間」がいいとこだ。
【コーンウォル】 奇妙なやつだなお前は。仕立屋が人間を造るか?
【ケント】 さようです、仕立屋が造るんです。石切り工だって絵かきだって、二年も奉公すりゃこんな下手糞《へたくそ》にゃできませんや。
【コーンウォル】 もう一度尋ねる。なぜ喧嘩《けんか》になったのだ?
【オズワルド】 この老いぼれの乱暴者は閣下、命だけはこの胡麻塩髭《ごましおひげ》に免じて助けてやったのですが、……
【ケント】 何だと、この父《てて》無し子|奴《め》、アルファベットの余り字の|Z《ゼツト》野郎|奴《め》! 閣下もしお許しが戴ければ、この潰《つぶ》し不十分の悪党|奴《め》、十二分に踏み潰してモルタルにし、便所の壁にでも塗ってしまいたい。胡麻塩髭に免じてだと? この尻尾《しっぽ》振りの|せきれい奴《・・・・め》!
【コーンウォル】 黙らぬか!
この|けだもの《ヽヽヽヽ》同然の下郎|奴《め》! 儀礼というものを弁《わきま》えぬか!
【ケント】 弁《わきま》えてはおります。ですが、「怒りに道理あり」です。
【コーンウォル】 なぜお前は怒っているのだ?
【ケント】 こんな奴隷野郎が剣を吊《つ》っていることです、誠実心のカケラすらも
持ち合わせてはおらんくせに。こんなふうに表面にっこり笑っている悪党がよく、
鼠《ねずみ》のように、固く織りなして容易には解けない聖なる愛の絆《きずな》を、
ぷっつり二つに噛《か》み切るのです。主人の胸の中で
理性に謀叛する情熱を、どれもこれもみなやさしく撫《な》でてやるのです。
火に注ぐ油、冷たいムードには雪というわけです。
主人の気分の風の、向くまま、吹くまま、
ノーと言うも、イエスと言うも、|かわせみ《ヽヽヽヽ》の嘴《くちばし》同様風向き次第。
何もわからんのは|わん公《ヽヽヽ》と同じ、ただ主人の後にくっつくだけ。
そんな発作を起こした様な顔をしやがって、疫病《ペスト》にかかってくたばっちまえ!
俺の話を笑いやがったな? まるで俺が阿呆だとでも言わんばかりに?
鵞鳥奴《がちょうめ》! お前なんかセアラムの野原でふんづかまえたら、
カミロットの家までガーガー泣かせっ放しで追いこんでやるぞ。
【コーンウォル】 こら老いぼれ! 気でも狂ったか?
【グロスター】 どうして喧嘩《けんか》になったのだ、それを言え。
【ケント】 およそ正反対と言って、この下種《げす》野郎とわたしくらい、
同情、共感の念が湧かず、全然ソリの合わんのも珍しい。
【コーンウォル】 なぜ「下種野郎」と呼ぶのだ? いかなる過ちがあったというのだ?
【ケント】 奴の面《つら》が気に入らんのです。
【コーンウォル】 多分わしのも、これも、彼女《あれ》のも気に入らんだろうな。
【ケント】 閣下、率直であることが私の念願ですので
正直に申し上げます。もっと上等なのを見て参りました、
いま私の目の前に立っている胴体にくっいている
どの顔よりも。
【コーンウォル】 こいつはたしかに一癖ある男だ。
その率直さを賞められて、小生意気な無遠慮さを
ことさらに気取り、柄にもないポーズを無理に装う奴だ。
「私には世辞を言うことはできません、私にはとても。
正直で率直な人間ですので、真実以外は言えません」などと。
世間がそれを受け入れればそれでよし。駄目でも正直者に変わりはない。
こういう種類の下種どもをわたしは知っている。連中は率直を売り物にして、
内実は実に卑劣な策略、腐れ切った企《たくら》みを抱《いだ》いているのだ。
バカ正直に勤めを果たすことにのみ汲々《きゅうきゅう》としている、
家鴨《あひる》のような低姿勢の木端《こっぱ》役人、束になったって敵《かない》っこない。
【ケント】 恐れながら閣下、誠心誠意、真実の真心より申し上げ奉ります。
閣下の偉大なるご尊容、ご勢運の下、お許しを得て……
そのご威光は輝く日の神の額《ひたい》に燦《さん》然ときらめく、
火の花環にも似て……
【コーンウォル】 そりゃまた何のつもりなのだ?
【ケント】 閣下の大変お気に召さぬ私の話し振りを止めようというわけで。閣下、私はおべっか使いなどでは決してありません。率直を売物にして閣下を|たぶ《ヽヽ》|らかした《ヽヽヽヽ》奴こそ明々白々の悪党、おべっか使いです。私としましては、そんな者には決してなりたくありません、もっとも私自身といたしましては、私に対する閣下のご不興の心を和《やわ》らげ申し、私|奴《め》に「そんな悪党になれ」とでもおっしゃるくらいに仕向けるべきだとは存じますが。
【コーンウォル】 この男にいかなる不都合をいたしたというのだ?
【オズワルド】 何をした覚えもございません。
この人の仕える王様が、最近何かの誤解から、
たまたま私に打ってかかられたことがありました。そのときこの人は
王と組んで、王の不興にたらたらのお世辞をならべたて、
後ろから私の足をすくいました。倒れたところで意気揚々と悪口雑言、
男の中の男という恰好のいいところを十二分に披露し、
かくして大いに面目をほどこし、王様からお賞めの言葉をもらいました。
実はわざと負けているのをやっつけていたにすぎませんのに。
それからこの|ど偉い《ヽヽヽ》手柄にすっかり味をしめ、
またここで抜いてかかったという次第です。
【ケント】 エイジャックスの御大《おんたい》だって
こんな|ごろつき《ヽヽヽヽ》や臆病者にかかっては阿呆同然!
【コーンウォル】 足枷《あしかせ》台を持って来い!
おのれこの頑固な老いぼれ奴《め》! 嘘つき爺奴《じじいめ》!
大いに教育してやろうぞ。
【ケント】 物を覚えるには年を取りすぎています。
私のためなら足枷を持って来るのはおやめなさい。私は王に仕える身分です。
そのお使いで私は当所に参上いたしているのです。
王の使者を足枷にはめたとあっては、わが主君たる
王のご威厳に対し奉っても、王ご自身に対し奉っても
少なからず礼を失し、余りにも無作法にすぎましょうぞ。
【コーンウォル】 足枷を持って来い!
この私《わし》の命と栄誉にかけて命じる、この男は正午《ひる》まで台に座《すわ》らせておけ。
【リーガン】 正午までだなんて! 夜まで座らせましょう。それから夜中《よるじゆう》もずっと。
【ケント】 いいですか奥方、たとえ私がお父君の犬だったとしても、
そんな扱いをなさってはなりません。
【リーガン】 これ、父上お抱《かか》えの下郎故《げろうゆえ》そうするのだ。
【コーンウォル】 此奴《こやつ》は姉上が言っておられるのとまったく同類の
悪党下郎だ。さあ、足枷《あしかせ》台をここへ持って来い。〔足枷台運び出される〕
【グロスター】 閣下お願いです。どうかそれだけはお止めください。
この男の過ちは大いなるものがあります。それに対してはその主たる国王から
お咎《とが》めのあることでしょう。閣下のこの種のご懲罰《ちょうばつ》は、
最も身分|卑《いや》しく、あさましき輩《ともがら》が、こそ泥《どろ》その他の
ごくありふれた軽犯罪を犯したときに適用される、
そういう種類のものであります。必ずや王はお怒りになられます、
王の使者がかくも軽々しく扱われ、つまり王自身が
かくも制約を受ける身だという事を。
【コーンウォル】 その責任はわしが負おう。
【リーガン】 父よりも、姉上のほうがよほど気分を害されることでしょう。
所用で家臣をつかわしたのに、それが侮辱《ぶじょく》され、
襲撃されたと聞いたなら、その男の脚を台に嵌《は》めい!
〔ケント足枷台に嵌められる〕
さ、あなた参りましょう。
〔グロスターおよびケントを残して全員退場〕
【グロスター】 気の毒だと思うよ。だが公爵のご意向なんだ。
公の気性は、世間周知のように、一度こうと決めた以上は、
金輪際《こんりんざい》曲げられんし、止《と》められんのだ。そのうち頼んでやろう。
【ケント】 いや、やめてください。一睡もせず無理な旅をしてきましたので、
しばらくは眠ってすごし、あとは口笛でも吹いてましょう。
善人の運勢もときには「踵《かかと》が|ちびる《ヽヽヽ》」と申します。
ご機嫌よう!
【グロスター】 このことでは公爵が悪い。えらいことになることだろう。〔退場〕
【ケント】 国王よ、あなたも「天の御《み》恵みの場所から日照りの真《さ》中へ」という、
例のごくありふれた諺《ことわざ》が真実だということを、
認めなければなりません。
この下界を照らす天上の|かがり火《ヽヽヽヽ》よ、もそっと近づいてくれ。
お前の明かりのありがたい力に助けてもらって、
この手紙をとくと読みたいのだ。逆境、悲運のときにこそ
奇蹟はよく起こるもの。この手紙はコーディリア様のものだ。
姿を変えたこの俺の動向を、運よくも、
知らされたものに違いない。それで時機を見て、
この途放もない状態から……損失には救済の方法を
講じられようとしておられるのだ。疲れ果て、しかも寝不足、
願ってもないことだ、両の目よ、どうか見てくれるな、
このあさましい|ねぐら《ヽヽヽ》の様《さま》を。
運命の女神よお休み。もう一度|微笑《ほほえ》んでください。運命の輪を回してください!
〔眠る〕
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第三場 同じ場所
〔エドガー登場〕
【エドガー】 俺《おれ》には逮捕状が出ているそうだ。
幸い木の虚《うろ》の中にかくれて、追手《おって》を逃れた。
港という港は塞《ふさ》がれている。どこもかしこも見張りが
最高の警戒態勢をしいていて、この俺を捕えようと
目を光らせている。逃げられる限りは、
何とか生きのびたい。そこで思いついた。
貧窮《ひんきゅう》のどん底、人間がいかに軽蔑《けいべつ》すべきものになろうとも、
これほどまで獣《けもの》同然の姿に落ちこもうとは想像もできないような、
この上ない浅ましい、みじめな恰好《かっこう》をしよう。顔には泥を塗りたくろう。
腰にはぐるり毛布を捲いて、髪は妖精のもつれ髪、
そして大胆に、一糸まとわぬ素っ裸の晒《さら》し者になって、
天の下、吹きすさぶ風、もろもろの困苦に耐えてやろう。
この地方にはいいものがある、いい先例がある。例の気違い病院の
ベドラムの乞食どもだ。大声でわめきちらし、
寒さで痺《しび》れて感覚の失くなった素肌の腕に、
針、木串《きぐし》、釘、|まんねんこう《ヽヽヽヽヽヽ》の小枝などを突き刺し、
そんな恐ろしい体《てい》たらくで、貧しい百姓家から、
けちな貧乏村から、人里離れた羊小屋、粉屋から、
ときには気違いの呪《のろ》い文句で、ときにはお祈りの言葉で、無理矢理に施し物を
ねだっている。可哀相なターリゴッドでござい! 可哀相なトムでござい!
これでまだ何がしの望みがある。エドガーでは断じてない。〔退場〕
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第四場 グロスター伯爵居城前
〔ケント足枷台にいる。リア、道化、および紳士登場〕
【リア王】 合点がゆかぬ、なにゆえ彼女《あれ》たちがこんなふうに家を空けたのか、
そして何故わしの使いを返さぬのか。
【紳士】 私が伺いましたところでは
つい前夜までは皆様方には、
このようなご移転について
何もお考えは無かった由でございます。
【ケント】 ご機嫌よろしゅうご前様!
【リア王】 おや!
いったいお前はこの辱《はずか》しめを楽しんでおるとでもいうのか?
【ケント】 滅相《めっそう》もございません。
【道化】 おやおや! ひどい靴下|留《どめ》をはめている。馬は頭《あたま》で繋《つな》がれ、犬と熊は頸《くび》で、猿は腰で、そして人間どもは脚《あし》で繋がれるんだな。人間は脚が強くて落ちつかんと、木の靴下をはかされるんだ。
【リア王】 かくもはなはだしく汝《そち》の身分を取り違え、このような目に合わせたのは
いったい何者じゃ?
【ケント】 あの方とあの方のお二人です。息子《むすこ》さんとお嬢さんです。
【リア王】 いや違う。
【ケント】 いや違いません。
【リア王】 違うと言っているのだ。
【ケント】 違わないと言っているのです。
【リア王】 いやいや違う。あれ達はそんなことはせん。
【ケント】 いや皆さんがなさったのです。
【リア王】 主神ジュピターにかけて誓って言う、それは違う。
【ケント】 その妻ジューノウにかけて誓って言います、違いません。
【リア王】 あれ達が
そんな事をするはずがない。できようはずも、しようと思うはずもない。
殺しよりなお悪い、国王の使者と知って斯《か》くのごとき乱暴を働くとは。
さ、答えよ、予の使者である汝《そち》が、いったいいかなる理由から
このような仕打ちを受け、また連中がこんな仕打ちを汝《そち》に加えたのか、
できるだけ手短《てみじか》に話せ。
【ケント】 御前、私が公爵邸に参りまして、
御前からのお手紙を皆様にお渡しいたしましたとき、
私がひざまずいて礼を尽くしたその場所から、
私がまだ立ち上がりもしないところへ、湯気を立てた一人の使者が参り、
急ぐあまりに煮え立って、半《なか》ば息《いき》は切れ、喘《あえ》ぎ喘《あえ》ぎ、
その主人ゴナリル様からのご挨拶を申し述べ、
私の迷惑などかまえばこそ、一通の手紙を差し出しました。
それをお二方《ふたかた》はすぐにお読みになり、その内容から、
御家人《ごけにん》衆を呼び集められ、すぐ馬上の人となられました。
私には従《つ》いて来るよう命じられ、手紙の返事は待て、
そのうちにするとおっしゃいました。大変に冷《つめ》たいご態度でした。
そしてここへ参ってもう一人の使者に会いましたが、
そいつが実は、いつぞや陛下に対し奉り大変生意気千万にも
ご無礼な振舞いをして見せた、例の奴でありまして、
そんな奴がここで歓迎されているのを見て私は大いに気分を害し、
思慮分別もさりながら、何よりもまず男一匹である私は、剣を抜きました。
彼奴《きやつ》は大きな、臆病声をたてて家中の者どもを呼び起こしました。
陛下の息子《むすこ》さんとお嬢さんとは、私のこの過ちにはご覧のとおりの辱《はずか》しめが
最も適当だとお考えになりました。
【道化】 冬はまだ過ぎ去ったわけではない、雁がそんなふうに飛んでるようでは。
親父ボロ着りゃ
子供は目つぶる。
親父金持ちゃ
子供は親孝行。
運の女神は名うての女郎、
貧乏人にゃ戸を開けぬ。
だがどっこいお前さんは娘さんたちのお蔭で、年がら年中|カネ《ヽヽ》シミ(悲しみ)というカネには困りゃせんわい。
【リア王】 おお! 例の「おふくろ」が心の臓にまでふくれ上がってくる。
|疳の癪《ヒステリカ・パツショー》よ! 下がれ、おのれこみ上げてくる悲しみ奴《め》!
お前の居場所は下だ。ここに来ている娘はどこにおる?
【ケント】 伯爵殿と一緒におられます、この奥でございます。
【リア王】 だれも従《つ》いて来るな。ここにおれ。〔退場〕
【紳士】 いま話された以外には間違いはされなかったのですね?
【ケント】 何もしていない。
いったい国王のご家来衆の数がかくも少ないわけは?
【道化】 そんな質問をするようじゃあ、お前さん足枷台にはめられたって無理もないわい。
【ケント】 なぜだ阿呆?
【道化】 わたしたちゃお前さんを蟻《あり》のところへやって、冬にゃ仕事は無いんだってことを教育してもろおうと思うよ。鼻の向くほうへ行く奴は誰だって、盲《めくら》でさえなけりゃ、目で見て行くもんだ。盲だって鼻がありゃあ、二十人のうちたったの一人だって、腐りかけたものを嗅ぎ分けられん奴はない。大きな車の輪が丘を転《ころ》がり落ちるときは、掴《つか》んだ手はさっさと放せ、さもなきゃ首根っこをへし折られちまう。だが大きな奴が上がって行くときにゃ、お前さんも一緒に引き上げてもらうんだな。利口な奴がもっといいことを教えてくれたら、わしの今の教えは返してくれよ。こいつを守って欲しいのは下種《げす》野郎だけだ、阿呆が教えることだからな。
欲得|目当《めあ》てで主人に仕え、
恰好いいばかりにお伴《とも》する奴は、
雨が降り出しゃ逃げ支度《じたく》、
おぬしゃ|あらし《ヽヽヽ》の中にただ一人。
だが俺は居残る、阿呆は行かぬ。
利口な奴は勝手に行かせろ。
逃げる野郎は阿呆になるが、
阿呆は下種《げす》にならぬ、神かけて。
【ケント】 何処でそんなことを覚えたんだ阿呆?
【道化】 足枷台の中なんかじゃないよこの阿呆。
〔リア王、グロスターと共に再登場〕
【リア王】 わしと話すのを断るだと? 病気だと? 疲れているだと?
夜通し旅をしただと? 単なる言い逃れにすぎんことはわかっとる。
親に背《そむ》き、親を見捨てた明らかなしるしだ。
さ行ってもっといい返事を持って来い。
【グロスター】 親愛なる陛下、
陛下も公爵閣下の火のような烈しいご気性はご存知のはず、
いったんこうとお決めになられた上は、お気持は梃子《てこ》でも動かず、
確固不動であられます。
【リア王】 ええい! おのれ糞|奴《め》! 畜生|奴《め》! くたばりゃがれ!
火のようだと? 気性がどうしたというのだ? おいグロスター、グロスター、
わしはコーンウォル公爵とその妻と話しをしたいと言っておるのだぞ。
【グロスター】 はい陛下、お二方《ふたかた》にそのようにお伝え申しました。
【リア王】 お伝え申しただと! いったいそのほうわしのことがわかっておるのか?
【グロスター】 はいわかっております陛下。
【リア王】 国王がコーンウォルと話したいと申しておるのじゃ。愛する父親が
その娘と話したい、娘たちにその礼を尽くせ、わしも尽くすと言っておるのじゃ。
両人に申し伝えただと? おのれ、畜生|奴《め》!
火のようだと? 火のような公爵だと? そのカッカッした公爵に告げるがいい……
いや、待て。ことによると気分が勝《すぐ》れんのかもしらん。
工合が悪いと、健康のときには当然果たさねばならんような務めでも、
何かとおろそかにしがちなものだ。人の性は圧力を受けると、
肉体はおろか精神までも苦しめずにはおかず、
ついに我を忘れてしまうのだ。わしは堪《こら》えよう。
それにわしが、余りにも性急な衝動に駆られて、
完全な健康状態にもない病人の不例の発作《ほっさ》を、健康人のことと取ったことも
腹立たしいかぎりじゃ。〔ケントを見て〕
ええい糞《くそ》、おのれ! いったいなぜ
この男はここに座っておらねばならんのだ? この仕種《しぐさ》から考えると、
公爵と彼女《あれ》がこのわしを疎外《そがい》し、会わんようにしているのは、
まさにトリックだと言わざるを得ない。この男を枷《かせ》から出してくれ。
さ、公爵と彼女《あれ》のところへ行って、わしが話しがあると言ってくれ、
いま、すぐにだ。連中に命令するのだ、ここへ来てわしの言う事を聞くのだと。
さもなくば、連中の寝室のドアの前で太鼓を打ち鳴らし、
そのやかましさで眠りを打ち殺すぞ。
【グロスター】 何としても皆様方のあいだが万事うまく参りますよう!〔退場〕
【リア王】 おお! わしの心臓が、わしの心臓がこみ上げてくる! いいから下がれ!
【道化】 いくらでもやかましく言うがいいよ叔父さん。まるで物語に出てくるロンドンの気取った女料理人ってところだ。鰻《うなぎ》のパイ造りに、こねた粉の中の鰻のトサカを棒でこづいて「頭を引っ込めなさい、お跳《は》ねさん、引っ込めなさい!」だってさ。お馬さんへのほんとうの親切心から、飼い葉にバターを塗ってやったのがその女のお兄《あに》いさんさ。
〔グロスターがコーンウォル、リーガン、従者たちと共に再び登場〕
【リア王】 ご両人お早よう。
【コーンウォル】 陛下ご機嫌よろしゅう!〔ケント足枷を解かれる〕
【リーガン】 陛下お目にかかれて嬉しゅうございます。
【リア王】 そうじゃろうとわしは思うよリーガン。どう考えたってわしには、
それ以外に考えようはない。もし汝《そち》が嬉しくないとでも言うんなら、
汝《そち》の母親の墓などは二度と詣《もう》でてはやらんぞ。そんな娘の母親は
不義を働いたに相違ないからじゃ。〔ケントに〕おお! 自由になったか?
このことについてはまた別のときに話そう。愛するリーガン、
汝《そち》の姉は娘でない、ひどい女だ。
おおリーガン! 彼女《あれ》は
禿鷹《はげたか》の様な、鋭い歯を持った「忘恩」をここに縛《しば》り付けおった。〔心臓を指しながら〕
汝《そち》に説明する言葉も無い。汝《そち》には到底信じることもできんだろう、
いかに極悪無道のやり方で……おおリーガン!
【リーガン】 父上、お願いです、落ちついてください。きっと父上には、
姉上のほんとうの価値というものがおわかりにならぬのです、
姉上が孝行をしないという事ではありません。
【リア王】 何だと? どういうことじゃ?
【リーガン】 私にはどうしても考えられないのです、姉上がいささかなりとも
父上への孝養を怠ったとは。もし万が一姉上が、
父上の家来たちの乱暴を押えたというようなことがあったとしても、
それは明白な理由、しかるべき目的があってのこと、
姉上が非難されるべきことではありますまい。
【リア王】 おのれ彼女《あいつ》にはわしの呪いがふりかかれ!
【リーガン】 父上! 父上はもうお年です。
父上の体力はまさにその限界の極限に達しているのです。
父上は当然、父上のことが父上自身よりよくわかっている
誰か思慮分別ある人の才覚にすべてをまかせ、
そういう人の意見に従うべきです。ですからお願いします、
是が非でも姉上のところへ戻っていただきたい。
悪かったと姉上に詫びをおっしゃい。
【リア王】 彼女《あれ》に許しを乞うのか?
いいか、よく見ろ、これがわが王家にふさわしいかどうか?
「わが娘よ、わたしがもう年だということを認めます。
年寄りは役にたちません。こうして跪《ひざまず》いてお願いします、〔跪きながら〕
どうか着物と寝床と食べ物を恵みくださいまするよう」
【リーガン】 父上、おやめなさい。みっともないったらありゃしない。
姉上のところへお戻りなさい。
【リア王】 〔立ちあがりながら〕いや絶対に戻らん。
彼女《あれ》はわしの家来の数を半分に削りおった。
恐ろしい顔つきをしてわしを睨《にら》みつけ、その舌で
わしの心臓をぶちのめしおった。彼奴《あやつ》は蛇じゃ。
天上に貯えられたありったけの懲罰が降りかかれ、
この恩知らずの頭の上に! 汝《なんじ》疫病を伝染させる大気よ、不具《かたわ》にしてくれ、
彼女《あれ》から生まれてくる子供達の骨を萎《な》え凋《しぼ》ませて!
【コーンウォル】 やめなさい父上、やめなさい!
【リア王】 汝《なんじ》素早き稲妻よ、人の目を眩惑《げんわく》する汝《そち》の火災を、
彼女《あれ》の軽蔑し切った目の中に射込んでくれ。彼女《あれ》の美しさを汚《けが》してくれ、
強力な太陽に吸い上げられた汝《なんじ》湖沼に立ちこめる霧よ、
下《お》り立って彼女《あれ》を|かさぶた《ヽヽヽヽ》で覆《おお》ってくれ!
【リーガン】 おお桑原《くわばら》桑原! 私のこともそういうふうに呪うのですね、
頭にカッカ来るときは。
【リア王】 いやリーガン、わしが汝《そち》を呪うようなことは絶対にない。
汝《そち》は生まれつき温和な気立てだから、むごたらしい仕打ちなどに
よもや心を向けることはあるまい。彼女《あれ》の目つきは険《けわ》しいが、お前のは
優しく、決して燃えてはおらん。汝《そち》はよもや
わしの楽しみに愚痴をこぼしたり、わしの家来の数を削ったり、
性急な言葉で受け答えをしたり、わしの手当てを減らしたり、
要するに、わしを来させないように入口に閂《かんぬき》を通すようなことは、
汝《そち》はよもやすまい。汝《そち》は姉と違ってよく弁《わきま》えておる、人間、自然の道を、親に対する子の務めを、
親に対する礼節の行ないを、親の恩に報いるべきことを。
わしがそのほうに王国の半分を与えたことを汝《そち》は
よもや忘れはしまい。
【リーガン】 お父上、要件をおっしゃって。
【リア王】 わしの家来を足|枷《かせ》にはめたのは何者じゃ?〔行進曲ふうのラッパの音〕
【コーンウォル】 あのラッパは?
【リーガン】 あれは姉上です、手紙どおりです、すぐこちらに見えると、
姉上の手紙にありました。
〔オズワルド登場〕
姉上も参られましたか?
【リア王】 この奴隷|奴《め》! 此奴《こやつ》めが気易く借りおるお仕着せの慢心は、
此奴の仕える気紛れ女の贔屓心《ひいきごごろ》に居すわっているのじゃ。
消え失《う》せろ下種奴《げすめ》!
【コーンウォル】 どういうことでしょうか陛下?
【リア王】 わしの召し使いを足枷にはめたのは誰じゃ? リーガン、もちろん
其方《そなた》などの知らんことじゃろう。誰だ、やって来るのは?
〔ゴナリル登場〕
おお天の神々よ、
もし老人を哀れむ心がおありなら、もしよろずみそなわす有難きお力が、
親への孝養をよみし給うなら、もし私|奴《め》同様お年を召されているならば、
何卒《なにとぞ》ご自身の問題となされますよう! 使いを出されて私|奴《め》にご加担を!
〔ゴナリルに〕
恥ずかしくないのか、この鬚《ひげ》を見ても?
おおリーガン! 汝《そち》は此奴《こやつ》を手を取って迎えてやるのか?
【ゴナリル】 手を取って何が悪いのでしょう? 私が何《ど》ういう悪事を働きましたか?
たとえ無分別からそう考え、老衰の余りそう言われたとしても、
そのすべてが悪事とは限りません。
【リア王】 おおこの胸、よく張り裂けぬ!
まだ持ち堪《こた》えておるか? わしの家来がなにゆえ枷《かせ》にはめられる仕儀に相成った?
【コーンウォル】 私がはめました。ですがあの男の乱暴|狼藷《ろうぜき》、
あれではまだまだ優遇しすぎです。
【リア王】 おぬしが! おぬしがやったのか?
【リーガン】 お願いです父上、父上は弱いのですから、それらしくしていてください。
姉上のところへお戻りになり、ご家来衆を半分に減らして、
この一月がまるまる満期になるまで姉上の処にご逗留《とうりゅう》になられたら、
それから私どものところへいらっしゃってください。
私はいま家から離れておりまして、父上をお迎えして
歓待するのに必要な何の準備もいたしておりません。
【リア王】 彼奴《きやつ》のところへ戻れだと? そして家来五十人に暇《ひま》を出せだと?
いや、それくらいならむしろ、今後屋根の下に住むことを一切絶ち、
外気の敵意に戦いを挑《いど》んで真っ向から立ち向かい、
狼や梟《ふくろう》の類《たぐ》いと仲間になり、貧乏のはげしい苦痛を味わったほうが
ずっとましじゃ! 彼奴《きやつ》のところへ戻れだと?
そんなくらいなら、わしの末娘を持参金なしで嫁にした、
あの激しい気性のフランス王の王座の前に跪《ひざまず》き、
まるで足軽《あしがる》よろしく、かつがつ露命をつなぐだけの年金の下付を、
三拝九拝して願い奉ったほうがよっぽどましじゃ。
彼奴《きやつ》の処へ戻れだと?
それくらいならこのわしに、この|むかつく《ヽヽヽヽ》ゲスの奴隷になれ、駄馬になれと、
言い聞かせたほうがまだましじゃ。
〔オズワルドを指しながら〕
【ゴナリル】 どうなとご随意に。
【リア王】 お願いだ娘よ、どうかわしの気を狂わせんでくれ。
子供よ、もうお前には迷惑はかけん、達者で暮らせ。
もう二度と会うこともない、互いに顔を会わすこともない。
とは言え、それでも、汝《そち》はわしの血肉であり、娘だ。
いやむしろ、わしの体の病気の部分と言ったほうがよいかもしれん。
それでももちろん、わしの体の一部だとは言わざるを得ないわけだが。
汝《そち》はわしの腐った血に根を持った出来物じゃ。
吹き出物じゃ、腫《は》れあがった腫瘍《しゅよう》じゃ。だがわしは汝《そち》を叱るまい。
恥はいずれ汝《そち》の上にふりかかろうが、わしはそれを祈りはしない。
わしは雷《かみなり》を武器に持つ主神に、汝《そち》めがけて発射するよう頼みもせん。
または最高の審判者ジュピターに、汝《そち》のことを告げ口しようとも思わん。
改心できる時が来たらすればよい。気が向いたら善人になれ。
わしは怺《こら》えることができるぞ。わしはリーガンの処に逗留《とうりゅう》できるのだ、
わしと百人の騎士とは。
【リーガン】 そうばかりとは参りません。
私はまだ父上のお出でを予定していませんでしたし、お迎えいたす
しかるべき準備もいたしておりません。姉上の言う事を聞いてください。
なぜなら、父上の怒りに理性を混ぜ合わせて考える人々は、
父上が年だと考えて黙っているに違いないのですから。その結果は……
ですが姉上は自分のすべき事を知っているのです。
【リア王】 ほんとうにそうか?
【リーガン】 正真正銘《しょうしんしょうめい》そうだと誓います。何ですって! 五十人の家来ですって?
結構じゃありませんか? 何でそれ以上の必要がありましょう?
そうです。いや、それだけでも多過ぎます。費用の点でも、危険度の点でも、
こんなに大勢を抱えておくことは得策ではないからです。一つの家の中で、
大勢が二つの命令系統の下で、どうやって相《あい》和して行けるでしょうか?
大変にむずかしいことです。ほとんど不可能のことと言えます。
【ゴナリル】 父上はなぜ、妹が召し使いと呼んでいる者からの、
または私の召し使いからの世話をお受けにならないのですか?
【リーガン】 なぜですか父上? もし連中に何か不行き届きがあれば、
私どもが監督することができます。私の処へ来られるのでしたら、
どうもそういう危険性が迫っているようですが、
二十と五人だけお連れするよう強くお願いいたします。それ以上は、
場所もなし、認める事もできません。
【リア王】 わしは汝《そち》たちにすべてを与えた……
【リーガン】 それもちょうどよいときに。
【リア王】 汝《そち》たちをわしの後見役、わしの管理人とした。
だが、しかじかの数の家来を抱えさせるという
条件はつけておいた。何だと! わしはお前の家へ行くのに、
二十と五人だけしか連れては参れぬのか? リーガン、そう言ったのだな?
【リーガン】 念のためもう一度申します父上。それ以上は私は困ります。
【リア王】 悪い奴も、他《ほか》のがもっと非道《ひど》いとなると、
満更でもなくなるものだわい、最悪ではないということは、
どこか賞《ほ》める処があるということだ。〔ゴナリルに〕汝《そち》の処へ行くよ。
とにかく、汝《そち》の五十人は二十五人の倍じゃ。
それで汝《そち》の愛は妹の倍じゃ。
【ゴナリル】 お聞きなさい父上。
必要ならその倍も沢山《たくさん》のものが父上にお仕えしようと、
常に待機している屋敷内で、いったいなぜ二十と五人も、十人も、
いや五人も必要があるのでしょうか?
【リーガン】 一人だって必要があるでしょうか?
【リア王】 おお! 必要一点張りの議論はやめてくれ! どんなに卑《いや》しい乞食でさえ、
つまらんものではあろうが、あり余るほど豊かに持っている。
「自然」はわれわれに生きるに必要なもの以外は何もくれんというんなら、
人間の生活などは|けだもの《ヽヽヽヽ》同然まこと下らん限りだ。汝《そち》は貴婦人だ。
もしただ暖《あたた》かにしているだけで、それが汝《そち》に相応《ふさわ》しい豪奢《ごうしゃ》だと言えるんなら、
いいか、汝が豪勢に身につけているものなど何も要《い》りはせん。
それで少しも暖かくはならんからだ。だが真の必要というものは……
天よ、忍耐力を与え給え、わたしは忍耐力が必要なのです……
ここにご照覧あれ神々よ、この哀れな老人を、
年|老《お》いて悲しみ多く、いずれにせよ惨《みじ》め極まるこの老人を!
たとえもしこの娘どもの心を動かして父親に背かせているのが、
あなた方神々であるとしても、これをじっと怺《こら》えねばならぬなどと、
そこまで私を愚弄《ぐろう》しないでください。わたしを高貴なる怒りで奮《ふる》い立たせ、
女の武器である女々《めめ》しい涙で、わたしのこの男の頬を
汚させないでください! 何が、この恩知らずの鬼ばば奴《め》!
お前ら二人とも、何としても復讐せずにおくものか、
世界中があっと……絶対そうしてみせようぞ……
それが何であるか、わしにもまだわからんが
全地上を恐怖に陥《おとしい》れてやるのだ。お前らはわしが泣くと思いおろうが、
なに泣いてたまるか。
泣きたいことはいくらでもある。〔遠くに|あらし《ヽヽヽ》〕だがこの心臓が
幾千万に張り裂けても、わしは絶対に泣かんぞ。
おお阿呆! わしは気が狂いそうだ!
〔リア、グロスター、ケントおよび道化退場〕
【コーンウォル】 中へ入ろう。|あらし《ヽヽヽ》になりそうだ。
【リーガン】 この家は小さい。お爺さんと家来たちが泊まっても、
とても十分なことはできっこない。
【ゴナリル】 自業自得だわ。自分から安楽な生活から身を引いたんだから、
その愚かさを十分味わってもらいましょう。
【リーガン】 父上だけなら、よろこんで迎えてあげていいんだが、
家来なんか一人だってご免だわ。
【ゴナリル】 わたしもまったく同感。
グロスター殿はどこへ行ったのかしら?
【コーンウォル】 爺さんについて行きました。あ、戻って来ました。
〔グロスター再登場〕
【グロスター】 王様は激怒されておられます。
【コーンウォル】 どこへ行こうというんだろう?
【グロスター】 馬を呼ばれておられますが、どこへ行かれるのかは存じません。
【コーンウォル】 したいようにさせるのが一番だ。誰の言うことも聞かんのだから。
【ゴナリル】 グロスター殿、お引き止めなど決してなさいませんように。
【グロスター】 ああ情けない! 夜がやって来る。冷酷な風が
すさまじく吹き荒れている。このあたり数マイル、
草叢《くさむら》一つありはしない。
【リーガン】 グロスター殿! 依怙地《えこじ》な人間にとっては、
自分自身が原因で惹《ひ》き起こした災《わざわ》いの数々は、
すべてがその教師であらねばなりません。ドアをしっかり閉《し》めてください。
父には向《む》こう見ずの家来どもが|かしずいて《ヽヽヽヽヽ》います。
それに父は人の言葉にだまされ易い性《たち》なので、
連中が父に何をそそのかしているか、警戒するのが賢明です。
【コーンウォル】 ドアをしっかり閉《し》めてください。グロスター殿。今晩は荒れ模様です。
妻リーガンの言うとおりです。さ、|あらし《ヽヽヽ》を避けて中へ入りましょう。〔退場〕
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第三幕
第一場 荒野《ヒース》
〔雷鳴、稲光《いなびかり》をともなった|あらし《ヽヽヽ》。ケントと一人の紳士左右より登場〕
【ケント】 誰だそこにいるのは、このひどい空模様に?
【紳士】 この空模様同様、まったく心落ちつかぬ者です。
【ケント】 ああ、あなたか。国王はどこにおられるか?
【紳士】 怒り狂う「自然」の四大元、|あらし《ヽヽヽ》と戦っておられます。
世のすべてのことが変わるか、または終わるように、
風よ、大地を海の中へ吹き飛ばせ、逆巻《さかま》く波よ、
陸地より高く湧き上がれと命じておられます。
王が白髪を掻《か》き毟《むし》られると、
荒れ狂う暴風は|やみくもに《ヽヽヽヽヽ》腹を立て、怒り猛《たけ》り、
それを掻《か》っ攫《さら》って、まったくの形無《かたな》しにしています。
王は、人間という小なる世界におりながら、ここかしこと
相争う風、雨の|あらし《ヽヽヽ》に断固立ち向かい、これを出しぬこうとされてます。
今宵《こよい》子熊に、乳を吸い乾《ほ》された親熊でさえ巣にこもり、
ライオンでさえ、さらに餓えに苦しむ狼《おおかみ》でさえ、
その毛皮を濡《ぬ》らすまいとしているときに、帽子も被《かぶ》らずに走り回り、
さあどうとでもしろ、とどなってます。
【ケント】 だがお供《とも》をしているのは?
【紳士】 阿呆がいるだけです。
王の受けた心の痛手を、何とか
冗談で紛らわそうと骨を折ってます。
【ケント】 ところであなたはよく存じ上げているし、
それにお見かけした私の印象からあえて申すのだが、
一つ大事なことを頼まれてはくれまいか。実は仲|違《たが》いしているのだ、
オールバニ公爵とコーンウォル公爵とが。お互い
うまく繕《つくろ》っているから、その真相はまだ隠されてはいるが。
その両方に……よい星《ほし》運のお蔭で王位についたり、
高い位に登ったりする人々にはよくありがちのことだが……
見たところはただの召し使いだが、その実フランス側のスパイとなり、
国の情報を売っている輩《やから》がおるのです。連中が見聞きしたことすべてを、
両公爵の喧嘩《けんか》口論から、互いに相手を倒そうとする陰謀にいたるまで、
さては両公爵それぞれが気のよい老王を締めつけた
きつい手綱《たづな》の件にいたるまで。あるいはもっと深い処にある問題点、
おそらくはこれらの事柄すべてはその上辺《うわべ》の飾りにすぎぬと思われる……
だが、これは事実です、フランスから大軍が、
この分裂した島国へやって来るのです。それはすでに
わがほうの油断に乗じて、この国の最良の港々に
ひそかに上陸し、そして今まさにその軍旗を
公然と掲《かか》げようとしているのです。そこであなたにお願いだが、
一つこの私を信用してもらって、ドーヴァーまで
行ってくださるというわけには参らんだろうか?
お礼の点は保証いたします、
王様がいかに人倫、自然の道に反した、
気も狂うほどの悲しみを託《かこ》っておられるか、
そのいわれを正確に報告してくだされば。
私は血統も育ちも決して卑《いや》しき者ではありません。
それに何がしの知識、信頼するに足る情報をもとにして、
このことをあなたにお願いするのです。
【紳士】 もっと詳《くわ》しく伺いたいと存じます。
【ケント】 いや、それはやめてください。
私が今の私の外見《そとみ》以上の者であるということの証拠に、
この財布を開《あ》けてください。そしてその中のものは、
全部取って結構です。コーディリア様に会ったら……
必ずそうなると思いますが……この指輪を見せてください。
そうすればあなたがまだご存じないこの男が、
いったい誰なのか教えてくれましょう。ええい、何という|あらし《ヽヽヽ》だ!
王様を探しに行くとしよう。
【紳士】 では握手しましょう。おっしゃることはそれだけでしょうか?
【ケント】 一言《ひとこと》だけ。だがこれまで言ったことの中でこれが一番大事なこと。
あなたはこちらのほうで骨を折り、わたしはあちらを探すのだが、
もし王様を見つけたら、最初に王に出会ったほうが
大声で合図をすることにいたしましょう。
〔別々に退場〕
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第二場 荒野《ヒース》の他の部分
〔なお|あらし《ヽヽヽ》。リアと道化登場〕
【リア王】 吹け、風よ、お前の頬を引き千切れ! あばれまわれ! 吹け!
汝、天よりの豪雨よ、地におこる龍巻《たつま》きよ、ありったけの水を押し流せ、
高い塔も水浸しになり、風見車《かざみぐるま》も溺れ沈むまで!
電光石火、思想のごとき早業《はやわざ》を演じる硫黄《いおう》の火よ、
樫《かし》の木つんざく雷の先駆《さきが》けたる稲妻《いなずま》よ!
わしの白髪頭《しらがあたま》を焼き焦《こ》がせ! さらに汝、すべてを打ち揺《ゆ》るがす雷《かみなり》よ、
この大地の厚い真《ま》ん丸い腹を真《ま》っ平《たいら》にぶっ潰《つぶ》してしまえ!
万物を造り出す「自然」の母体など打ち壊《こわ》せ!
恩知らずどもを産み出す
造化の種《たね》なんかたった今打ち砕いてしまえ!
【道化】 おお叔父さん、お湿《しめ》りなんか無い御殿の聖水のほうが、こんな野外の雨水《あまみず》よりましだよ。
ねえ叔父さん、家《うち》ん中へ入って、娘さん達の祝福を受けたほうがいいよ。こんな夜ときたら、利口者だろうが阿呆だろうが、どっちにしたってかまってなんかくれないよ。
【リア王】 腹一杯吹きまくれ! 火よ、吹き出ろ! 雨よ、土砂降《どしゃぶ》りになれ!
雨も、風も、雷も、火も、
お前たちはわしの娘ではない。
お前たち宇宙の諸元は不親切だなどと責めはしない。
お前たちに王国を与えたことはなし、子供と呼んだこともない。
お前たちがわしに仕えねばならぬ義務はない。だからやれ、
どんな恐ろしいことでも気のすむまでやれ! どうせわしはお前らの奴隷、
一人の哀れな、老いぼれた、か弱い、さげすまれた老人じゃ。
だが、それにしても、わしはお前らをまこと見下げた手下どもと呼んでやるぞ、
あの邪悪極まる二人の娘どもとぐるになって、いと高い
天の彼方《かなた》で造られた大軍を、こともあろうにこの白髪頭の、
哀れな老人にさし向けようとは。おお何とも卑劣極まる!
【道化】 頭を突っこむ家のある奴は頭がいいよ。
頭《あたま》突っこむ家もないのに、
前垂袋《まえだれぶくろ》の家|探《さが》すようじゃ、
頭も|せがれ《ヽヽヽ》も虱《しらみ》だらけ。
これじゃ乞食の嫁さがし。
足指なんかを大事にして、
大事な心と同じにする奴は、
|まめ《ヽヽ》の痛さに泣かされて、
夜もおちおち眠られぬ。
なぜって、どんな美人だって、鏡に向かっていい顔しない奴なんていませんや。
〔ケント登場〕
【リア王】 いや、わしはあらゆる忍耐の模範となってやるぞ。
わしは何も言わんぞ。
【ケント】 誰だそこにいるのは?
【道化】 どっこい、ここにいらせられるはご前様と前垂袋《まえだれぶくろ》様、つまり利口者と阿呆とだ。
【ケント】 ああ! 陛下、ここにいらっしゃいましたか? 夜を好む動物でさえ、
このような夜は好みません。ひどく怒った夜空は
暗闇を彷徨《さまよ》うものさえも恐怖のどん底へ陥《おとしい》れ、
洞穴の中に閉じこもらせています。物心ついて此の方、
こんな大きな火の帯、こんな恐ろしい雷のとどろき、
吼《ほ》えたてる風と雨のこんなうめき声、かつて
耳にした覚えがありません。人間の体の出来では無理です、
とてもこんな苦しみ、恐ろしさは耐えられません。
【リア王】 わが頭上で、
この恐ろしい混乱を惹《ひ》き起こしている偉大なる神々をして、
今こそ、その敵を探し出させよ。震《ふる》え、おののけ、汝浅ましき者よ、
正義の鞭《むち》は受けずとも、その心に未《いま》だ世に洩らさぬ
極悪の罪を抱《いだ》く者よ。身を隠せ、汝|血塗《ちぬ》られし手よ、
汝|偽《いつわ》りの誓いを立てし者、および近親|相姦《そうかん》の罪を犯しながら、
しかも有徳を装《よそお》う者よ。おのれ身も千切れるまで烈しく揺れよ、
表面《うわべ》だけの良俗の仮面の下に、人の命をつけ狙《ねら》う
汝卑劣なる者よ。極秘に隠匿《いんとく》されしもろもろの罪よ、
汝をかくまう容《い》れ物の蓋《ふた》を剥《は》ぎ取れ、而《しこう》して
この恐ろしき召喚僧たちに慈悲を乞え。このわしは、罪を犯してもいるが、
それ以上に罪を犯されている人間じゃ。
【ケント】 ああ被《かぶ》りものもせずに!
おそれながら陛下、この近くに小屋がございます。
この|あらし《ヽヽヽ》を避ける何がしの役目は果たしてくれるでしょう。
そこでしばらくご休息くださいますよう。その間《あいだ》に私はあのむごい家へ……
なるほど石作りの家だが、石以上に冷酷無惨、
今も今しがた、陛下の御行き先を尋ねに参りましたところ、
私を家へは入れてくれませんでしたが……あそこへ戻って何としても、
連中に親孝行をさせましょう。
【リア王】 わしの頭はどうかなりそうだ。
おい阿呆どうした? 気分はどうじゃ? 寒いか?
わしは寒い。〔ケントに〕その寝床というのはどこじゃ?
貧乏というのはまこと奇怪千万な錬金術師、
下等なものも高貴なものにしてしまう。さあその小屋というのに参ろう。
可哀相な阿呆、可愛い奴、わしの心にはまだ残っている、
お前が気の毒だと、思える部分が。
【道化】 ちいっとばかり知恵ある奴は、
それヘイ、ホー、雨と風、
見合った運勢で我慢せにゃならぬ、
たとえ雨降り、雨降り続きでも。
【リア王】 まことじゃぞ小僧。さあその小屋に案内してくれ。
〔リア王およびケント退場〕
【道化】 こりゃあ淫売女の熱を冷《さ》ますにゃ恰好《かっこう》な晩だ。どれ、引っ込む前に、一つ予言と洒落《しゃれ》こむか。
坊主が必要以上に口数ばかりやたらと多く、
醸造業者《さかや》が原酒《モルト》を水で台無《だいな》しにし、
貴族が出入り服屋に親方よろしく流行を教え、
異端は焼かれず、やられるのは女郎買いばかりなら、
必ずやアルビオンの国全体に、
大混乱が起こるだろう。
すべての訴訟事件が正しく裁かれ、
借金背負った見習騎士がいなくなり、貧乏騎士もいなくなり、
悪口ざん言が人の口に上《のぼ》らなくなり、
掏摸《すり》が人|込《ご》みに来なくなり、
金貸しが野原で金を勘定し、
淫売宿の主人と女郎が教会を建てるなら、
命あってそんなご時勢に巡り合えるなら、
人間はまた足で歩くようになるだろう。
この予言はやがてマーリンがいたします、わたしはそれよりずっと前の人間なんですから。〔退場〕
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第三場 グロスター居城の一室
〔グロスターおよびエドマンド、松明《たいまつ》を持って登場〕
【グロスター】 ああ何たることだ! エドマンド、この親不孝なやり方はわたしは好かん。王をいたわってさし上げたいと公爵夫妻に願い出たところ、わしはわしの家屋敷への出入りを差し止められてしまった。もし二度と王のために弁じたり、嘆願したり、いかなる意味にせよ配慮などいたしたら、永久に勘気《かんき》を被《こうむ》るものと覚悟せよ、と申し渡された。
【エドマンド】 何たる野蛮、親不孝!
【グロスター】 もうよい、お前は何も言うな。両公爵は仲|違《たが》いをしている。しかもその上、もっと悪いことがある。わしは今宵《こよい》手紙を受け取った。それを口外することは危険千万。手箱に入れて錠《じょう》をかけておいた。国王が今お受けになっているような辱《はずか》しめに対しては、必ずや存分な報復がなされるだろう。軍隊の一部はすでに上陸している。われわれは王の側につくようにしなければならぬ。王を探して、内密にお助け申そう。王へのわしの好意が公爵に気づかれぬよう、お前は公爵の処へ行って、その相手をしていてくれ。もし公爵がわしのことを尋ねたら、わしは気分が悪く、もう寝たと言ってくれ。このために、たとえこの命を失うようなことがあっても……事実それ以下では決して済まぬと申し渡されているのだが……わがご主君、わが国王陛下は断じてお助け申さねばならぬ。さ、エドマンド、これからは驚くようなことが起こるぞ。頼む、くれぐれも気をつけてくれよ。〔退場〕
【エドマンド】 公爵に禁じられた、王に対するこの忠義立て、
すぐさま公爵に知らせてやるぞ。
それに例の手紙の件も。
これでたんまり褒美《ほうび》にありつけそうだ。そして親父《おやじ》が失くすものを、
是非とも俺《おれ》のものにしなければならぬ。いささかも欠けてはならぬ。
「年寄りが転べば、若者が立ち上がる」か。〔退場〕
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第四場 荒野《ヒース》 小屋の前
〔リア、ケントおよび道化登場〕
【ケント】 これがその小屋でございます。御前、どうぞお入りください。
この荒れ狂う屋外の夜の猛威は、人間の体では
到底耐えられません。
【リア王】 いや、放っておいてくれ。
【ケント】 御前お願いです、お入りください。
【リア王】 わしの胸を引き裂こうというのか?
【ケント】 引き裂いて欲しいのは私の胸です。御前お入りください。
【リア王】 お前はこの烈しく挑《いど》みかかってくる|あらし《ヽヽヽ》が膚《はだ》元まで侵すのを、
大変なことだと思っているのだな。お前にとってはそれはそうだ。
だが、よりひどい病いに苦しめられているときには、
ちょっとした病気などは感じないものだ。お前は熊が出れば逃げるだろう。
だがその逃げ道が怒濤|逆巻《さかま》く荒海以外にないとわかれば、
お前は断乎熊の口に立ち向かうだろう。心穏やかなときは、
体の感覚は繊細《せんさい》だ。わしの心に吹きすさぶこの|あらし《ヽヽヽ》は、
わしの五感からあらゆる感覚を奪い取ってしまう。後に残るは、ただ、
ここで烈しく高鳴っている心の鼓動だけだ。親不孝者|奴《め》が!
これではまるで、食べ物を運んだという理由で、この口がこの手を
引き裂くようなものではないか? だがわしはやるぞ、存分に罰してやるぞ。
いや、もう泣かんぞ、泣いてたまるか。こんな晩に、
このわしを閉《し》め出すのか? どしゃ降りに降れ。わしは耐えるぞ。
こんなひどい晩にか? おおリーガン、ゴナリル!
汝《そち》たちの年老いた優しい父親を……すべてを惜しみなく与えたのに……
おお! そっちは狂気のおる方角じゃ。それだけは避けたい。
そのことはもう思うまい。
【ケント】 御前様、どうかお入りください。
【リア王】 いや、お前こそ入ってくれ。わしにかまわず休んでくれ。
この|あらし《ヽヽヽ》のおかげでわしは、体に障《さわ》るもろもろのことを
くよくよと考えないで済むのじゃ。だが入るとしよう。
〔道化に〕さあ入れ。先に入れ。汝、貧しくて家なき者たちよ……
いや、お前は入るんだ。わしはお祈りをして、それから眠りたい。〔道化入る〕
貧しくて丸裸の哀れな者たちよ、おぬしたちいずこにあろうとも、
この情け容赦なく吹きつける|あらし《ヽヽヽ》をじっと耐えているのだが、
いかにして、頭には覆《おお》い隠すものもなく、腹は食べるものもなく空《す》きっ腹、
しかも穴だらけ、継《つ》ぎ接《は》ぎだらけのボロを着て、この悪天候の下いかにして、
その身を守ることができるのか?
おお! わしは今まで
余りにもそのことを考えなさすぎた。栄華《えいが》を尽くす者よ、これを薬とせよ。
お前自身が身を晒《さら》して、哀れな者たちが感じるものを身をもって感じよ。
お前が身につけている余分なものを脱ぎ捨てて彼らに与え、
もって天がより公平であることを示すために。
【エドガー】 〔内側から〕一尋《ひとひろ》と半《はあん》、一尋と半!
哀れなトムでござぁい!
〔道化が小屋からとび出してくる〕
【道化】 ここへ入っちゃいけない叔父さん、ここには化け物がいる。
助けてくれ! 助けてくれ!
【ケント】 さあこの手を握れ。誰だそこにいるのは?
【道化】 化け物だ、化け物だ。「可哀相なトムでござぁい」って言っている。
【ケント】 藁の中で|ぶつくさ《ヽヽヽヽ》言っているそのほうはいったい何ものであるか?
出て来い!
〔狂人の変装をしたエドガー登場〕
【エドガー】 あっちへ行け! 恐い悪魔がついてくる! 「|さんざし《ヽヽヽヽ》の痛い刺《とげ》に風が吹く。」おお寒《さむ》! 寝床に入って暖《あつた》まれ。
【リア王】 娘たちに何もかもやってしまったのか?
そしてこのような目にあっているのか?
【エドガー】 誰か哀れなトムに何かをくれないか? 恐《こわ》い悪魔に火の中やら焔《ほのお》の中、河の浅瀬やら渦巻《うずま》きの中、湿地やら沼地の上を引きずり回《まわ》されたこのトムに。悪魔|奴《め》はトムの枕の下にナイフを、お祈りの場所に首縊《くびくく》り縄《なわ》をおいといた。スープの傍《そば》に猫いらずを並べておいた。トムに高慢心を起こさせて、栗毛の早足馬《はやあしうま》に乗って四インチほどの橋を渡らせ、自分の影法師を、おのれ裏切り者と追いかけさせた。お前さん気をしっかり持ってくださいよ! トムは寒いよう。ああ歯がガタガタする! どうかお前さんを旋風《つむじかぜ》、星のたたり、憑《つ》き物からお守りください! 哀れなトムにどうか何かを恵んでください。恐《こわ》い悪魔がいじめます。それっ掴《つか》まえてやるぞ、それっ、それっどうだ、それっ。〔あらし吹き続く〕
【リア王】 何だと! この男の娘たちか、この男をこんなひどい目にあわせているのは?
何一つ残せなかったのか? 何もかも子供たちにやってしまいたかったのか?
【道化】 いや、毛布一枚だけは残しといた。さもなきゃ、見ちゃおられんわい。
【リア王】 いざ、過《あやま》ちを犯せし人間の頭上に避けられぬ定めとなって懸《か》かる、
空中に垂《た》れこめ漂《ただ》よう疫病のすべてが、お前の娘どもにふりかかれ!
【ケント】 この者には娘はございません。
【リア王】 死刑だ、この国賊め! 親不孝の娘どもにあらずして、
生ある人の性をかくも|どん底《ヽヽヽ》に突き落とせるものは、何もない。
見捨てられた父親たちがこんなふうに自分の体を、
いささかも容赦しないのが当世風の流行なのか?
正当な懲罰《ちょうばつ》だ! こんなペリカン娘どもを生んだのは
他《ほか》ならぬこの体なのだから。
【エドガー】 ピリコックがピリコックの丘に坐《すーわ》った。
ほーい、ほーい、ほい、ほい!
【道化】 こんな寒い晩にはみんな、阿呆か気違いになっちまう。
【エドガー】 恐《こわ》い悪魔に気をつけろ。親《おや》には従え。言ったことは確かに守れ。みだりに誓うな。契《ちぎ》り結んだ他人の連れ合いに手を出すな。贅沢《ぜいたく》な衣装なんかに気を使うな。トムは寒いよう。
【リア王】 これまで何をしておった?
【エドガー】 お付き人、心意気まことに高い。髪の毛はカールさせ、帽子には手袋をいくつか挟《さしはさ》み、わが奥方の情欲の相棒を相勤め、暗闇の情事を共にした。口を開けば出まかせに誓いを立て、しかも上天の神の美わしき御顔の前でそれを破った。寝ては女をモノにする手立てを考え、起きてはそれを実行に移した。酒をば深《ふか》く、サイコロをばこよなく愛し、女にかけてはトルコの王様もはるかに出しぬいた。心は不実、悪事は早耳、手は血|醒《なまぐさ》い。怠情なること豚のごとく、狡猾《こうかつ》なること狐のごとく、貪欲《どんよく》なること狼のごとく、狂暴なること犬のごとく、獰猛《どうもう》なることライオンのごとしだ。靴の鳴る音、絹ずれの音に現《うつ》つをぬかす勿《なか》れ。淫売宿には足を、女の子のスカートには手を、金貸しには証文を入れるな。そうして恐《こわ》い悪魔を追っ払え。さんざしの刺《とげ》には冷たい風が吹きやまぬ。ぴゅうぴゅう、ヘイ、ノ、ノニと言っている。おいドルフィン、おい小僧! さあさあ、彼奴《きやつ》を行かせてやれ。〔あらし吹き続く〕
【リア王】 お前は素肌《すはだ》でこの寒空《さむぞら》の極限に耐えているよりは、墓の中にいたほうがよい。人間とはこれだけのものか? この男をよく見ろ。お前は蚕《かいこ》に絹の借り、獣に毛皮の借り、羊に羊毛の借り、麝香猫《じゃこうねこ》に麝香の借りはない。そうだ! ここにいるわれわれ三人は堕落しとる。お前こそがずばりその物自体だ。粉飾なき人間はお前のように哀れな、裸の、二本足の動物にすぎん。取ってしまえ、取ってしまえ、こんな借り物! さあ、このボタンを外《はず》せ!
〔衣類を千切《ちぎ》り取りながら〕
【道化】 お願いだ叔父《おじ》さん、やめておくれよ。今夜は水泳をするような晩じゃないよ。こんなときに荒野にちっぽけな火が一つぐらいともったって、年寄りの助平|心《ごころ》ってところだ。ちょっとばかり火花を散らしたって、体の外《ほか》の部分は全部冷えきってしまってるんだ。それっ! 火が歩いてくる。
〔グロスターが松明《たいまつ》を持って登場〕
【エドガー】 こいつ奴《め》が恐《こわ》い悪魔の|フ《ヽ》リッバティ|ジ《ヽ》ベットだ。こいつは火消し合図の夕べの鐘に始まって、一番|鶏《どり》が鳴くまで出歩いているんだ。こいつは人を底翳《そこひ》にしたり、藪睨《やぶにら》みにしたり、三つ口にしたりする奴だ。実《みの》った麦穂を黒穂にしたり、地面の中の哀れな生きものを殺したりする奴だ。
ウィザルドが丘を三度お通りになった。
夢魔《ナイト・メア》と九人の使い魔にお会いになった。
降りろとおっしゃって、
誓いを立てさせなさった。
さあ消えて失《う》せろ、魔女|奴《め》、消えて失せろ!
【ケント】 御前いかがなさいました?
【リア王】 あれは何者だ?
【ケント】 誰だそこにいるのは? 何を捜《さが》し求めているか?
【グロスター】 そこにいるお前たちは何者か? お前たちの名は?
【エドガー】 哀れなトムでござい。食べてるものは泳いでる蛙、蟇蛙《ひきがえる》、お玉杓子《たまじゃくし》、守宮《やもり》に井守《いもり》。恐《こわ》い悪魔があばれると、心の中も荒れ放題、サラダ代わりに牛糞を食べる。年寄り鼠《ねずみ》、溝《どぶ》に捨てられた死んだ犬を鵜呑《うの》みにし、淀《よど》んだ水溜りにできた水棉《あおみどろ》を飲む。村から村へと鞭《むち》で追われ、そして足枷《あしかせ》の罰を受け、牢屋へとぶちこまれる。着るものは上衣が三枚、シャツが六枚、
馬もござれば、武器もござる。
されど七年の長年月《ながとしつき》、トムの馳走は
二十日鼠に大鼠、そのお仲間の小《ちい》ちゃな獲物。
俺のお付きに気をつけろ。しっー、スマルキン! しっー、悪霊奴《あくりょうめ》!
【グロスター】 何と! 陛下、もっとましなお供《とも》はおらんのですか?
【エドガー】 闇の国の王は紳士なるぞ。その名はモウドウ、さらにはマーフー。
【グロスター】 御前、われわれの血を分けた子供たちがあさましくも、
生みの親を憎むように成り果てました。
【エドガー】 哀れなトムは寒いよう。
【グロスター】 ご一緒に中へ入りましょう。私|奴《め》一臣下として、
お嬢様方のきついご命令にことごとく従うことは断じてできません。
私どもの門を閉じて、この恐ろしい|あらし《ヽヽヽ》の夜が
御前をしっかりと掴《つか》まえるようにせよとの厳命にございますが、
それがしここにあえて御前をお探し出し申し、
火と食事の用意のあるところへお連れ申そうとの所存にございます。
【リア王】 わしにまずこの学者と話しをさせてくれ。そもそも雷《かみなり》の元《もと》は何じゃ?
【ケント】 御前、どうかこの方のおっしゃるとおり、中へお入りください。
【リア王】 わしはこのテーベの学者と一言《ひとこと》話をしたい。
そのほうの主たる研究分野は何か?
【エドガー】 悪魔に先手を打って、害虫どもを殺すこと。
【リア王】 一言だけごく内密に伺いたいことがある。
【ケント】 是非ともお入りになるようもう一度お勧《すす》めしてくださいませんか。
お気が確かでなくなったようですが。
【グロスター】 無理もないではないか。〔|あらし《ヽヽヽ》吹き続く〕
娘たちが命をねらっているのだ。ああ、ケントは立派だった!
彼はこうなるだろうと言っておった、気の毒に追放されたが!
王は気が狂ったとお前は言うが、いいかよく聞けよ、
このわし自身も実は気が狂わんばかりなのだ。わしには息子《むすこ》が一人おった。
今は勘当してしまっているが、彼奴《きやつ》がわしの命をねらいおったのだ。
ごく、ごく最近のことだ。わしはな彼奴《きやつ》を可愛がっておった、
わしほどに息子を可愛がった親は外《ほか》におるまい。実のところ、
その悲しみでわしは心も砕けた。
何という晩だ今宵《こよい》は!
陛下お願いです……
【リア王】 おい、勘弁してくれと言っておるのじゃ。
学者先生、さあお相手を頼みますぞ。
【エドガー】 トムは寒いよう。
【グロスター】 さあお前は入れ、小屋の中へ。暖かにしているんだ。
【リア王】 さあ入ろう、みんなだ。
【ケント】 こちらです御前。
【リア王】 彼《あ》れと一緒じゃ!
わしは片時《かたとき》といえどもわしの学者と分かれたくはない。
【ケント】 逆らわないでください。その者を供《とも》にさせて上げてください。
【グロスター】 じゃあんたがお連れなさい。
【ケント】 さあ来い、皆と一緒に行くのだ。
【リア王】 さあ参ろうアテネの学者さん。
【グロスター】 喋《しゃべ》っちゃいかん、喋っちゃいかん。しいっ!
【エドガー】 若武者ローラン闇の塔に近づけり。
合言葉は常に……「へん! ふん!
ブリテン人の血が匂う」〔退場〕
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第五場 グロスター居城の一室
〔コーンウォルおよびエドマンド登場〕
【コーンウォル】 この家を出る前に必ず仕返しをしてやるぞ。
【エドマンド】 親子の情愛を曲げてまで忠義を尽くすことに世間が何と言うだろうと思うと、何となく空恐ろしい感じがします。
【コーンウォル】 今考えるとよくわかる、君の兄エドガーが父親を殺そうとしたのは、必ずしも彼の極悪な性質ばかりではなく、行動的な一つの長所でもあったことが。それが彼自身に内在して、憎むべき悪にけしかけたのだ。
【エドマンド】 正しいことをしていながら悔《く》やまなければならないとは、私の運命は何と意地悪なのでしょう! これが父の手紙です。これで父がフランス側の利便をはかるスパイであることがわかります。おお天よ! こんな謀叛《むほん》があろうとは! しかもその発見者がこの私であろうとは!
【コーンウォル】 一緒に奥方のところへ参ろう。
【エドマンド】 この書面のことが事実といたしますと、実に大変な大仕事を片づけなければならないことになりますね。
【コーンウォル】 事実にせよ誤りにせよ、これで汝はグロスター伯爵と相成った。ただちに逮捕《たいほ》できるよう、父の居場所を探し出せ。
【エドマンド】 〔傍白〕親父《おやじ》が王を幇助《ほうじょ》しているところを見つければ、親父の嫌疑《けんぎ》はますます濃くなる。〔コーンウォルに〕私はひたすら忠義の道に励むつもりでおります。たとえそれが孝行の道とどんなにひどい摩擦《まさつ》を起こしましょうとも。
【コーンウォル】 わしは汝《そち》を信じているぞ。父親以上の愛情をわしに期待してよいぞ。〔退場〕
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第六場 城に近接した農家の一室
〔グロスターおよびケント登場〕
【グロスター】 これでも外気よりはましだ。有難《ありがた》いと思って欲しい。さらにできるだけのことはして、何とかもっと快適にしたい。すぐに戻って来る。
【ケント】 王の精神力はすべて自制の力を失ってしまいました。ご親切に神々のお報《むく》いがございますように!〔グロスター退場〕
〔リア、エドガーおよび道化登場〕
【エドガー】 フラタ|レ《ヽ》ットウが俺《おれ》を呼んで、ネロが「闇《やみ》の湖」で釣《つ》りをしていると言っている。お祈りしなよ低能さん、そうして恐《こわ》い悪魔に用心するんだ。
【道化】 ねえ叔父《おじ》さん、気違いは紳士か郷士か、どーっちだ?
【リア王】 国王だ、国王だ!
【道化】 いんや郷士、自分の息子《むすこ》が紳士になった郷士がそうだ。その訳は、自分より息子が先に紳士になった郷士は気違いだって言うじゃないか。
【リア王】 幾千もの者どもに真っ赤に燃える金串《かなぐし》持たせ、
しゅうっ、しゅうっと彼奴《きやつ》ら目掛《めが》けて攻めかからせ……
【エドガー】 恐《こわ》い悪魔が俺の背中に噛《か》みついている。
【道化】 狼《おおかみ》を飼い馴らすこと、丈夫な馬、少年の恋、それに遊び女の口約束などをまともに信じる奴は気違いだ。
【リア王】 必ずそうしてくれる、彼奴《きやつ》らを直《ただ》ちに法廷に召喚《しょうかん》してくれる。
〔エドガーに〕さあ、貴殿はここに坐れ、博学ならぶ者なき裁判官殿。
〔道化に〕賢者殿、貴殿はここだ。さて、お前ら牝狐《めぎつね》たち!
【エドガー】 ご覧よ彼奴《あいつ》が突っ立って睨《にら》んでる! 奥方殿、お宅は裁判に傍聴人がごいり用か?
川を渡っておいで、可愛いベッシー……
【道化】 〔歌う〕実はそのボートは水が洩る。
でも言うわけには参りません、
何故にお前さんとこへ参れませんと。
【エドガー】 恐《こわ》い悪魔が哀れなトムに夜鶯《ナイチンゲール》の鳴き声をして付いている。ホップダンスがトムの胃袋で白|鯡《にしん》二匹欲しいってごろごろ言っている。やかましい地獄の天使|奴《め》、お前などにやる食べ物なんかない。
【ケント】 どうなさいました御前? そのように呆然《ぼうぜん》とお立ちにならないでください。
横になって、蒲団《ふとん》の上でお休みになられませんか?
【リア王】 彼奴《きやつ》らの裁判が先だ。彼奴《きやつ》らを弾劾《だんがい》する証人を呼び入れい。
〔エドガーに〕法衣姿の裁判官殿、着席願いたい。
〔道化に〕それからその衡平《こうへい》なる裁判の同僚たる貴殿、
その側《そば》の判事席に着かれたい。〔ケントに〕貴公は特命判事、
貴公も着席願いたい。
【エドガー】 公平なる裁判を行なおう。
陽気な羊飼いさん、眠ってるか、起きてるか?
お前の羊は麦畑を荒らしてる。
お前の可愛いお口で吹き笛吹けば、
お前の羊は悪さをしまいに。
ごろごろ猫、こいつは灰色だ!
【リア王】 彼女《きやつ》をまず召喚《しょうかん》せい、ゴナリルをだ。わしはここに、この栄誉ある方々のお集まりの前で誓う、彼女《きやつ》は無惨《むざん》にも父親たる国王を足蹴《あしげ》にしたのだ。
【道化】 前へでなさい。名前はゴナリルだね?
【リア王】 そうでないとは言えまい。
【道化】 あっ失礼しました、お宅を椅子《スツール》とばっかり思ってました。
【リア王】 それにここにもう一人おる、その拗《ねじ》けた顔つきは
その心のでき工合をはっきりと示している。彼女《きやつ》を逃がすな!
武器だ、武器だ、剣だ、火あぶりだ! こんな処《ところ》にも賄賂《わいろ》があるか!
偽《にせ》裁判官、いったい貴公はなにゆえ彼女《きやつ》を法廷から逃がすのか?
【エドガー】 お前さん気をしっかり持ってくださいよ!
【ケント】 おお、お気の毒に! 御前、自制心はどうなされました?
御前がかねがね決して失《な》くすことはないとご自慢なさっていた自制心は?
【エドガー】 〔傍白〕涙めがあまりに王の肩を持ち始め、
私の偽装《ぎそう》の努力をすっかり駄目にしてしまう。
【リア王】 仔犬どもが、どれもこれも、
トレイも、ブランチも、スィートハートも、見ろ、みんなわしに吠《ほ》えかかる。
【エドガー】 トムが奴《やつ》らにトサカをぶっつけてやる。あっちへ行け、野良犬|奴《め》!
お前の口が白かろうが黒かろうが、
噛《か》めばその歯に毒があろうが、
恐ろしい猛犬《マステイッフ》、グレイハウンド、雑種犬《マングレル》、
猟犬《ハウンド》またはスパニエル、雌犬《めすいぬ》または探偵犬、
切り尾だろうが長|尻尾《しっぽ》だろうが、
トムはわんわん泣かせてみせる。
あいつらにトムのトサカをぶっつけたら、
みんなドアから跳《と》び出して、逃げて行ってしーまった。
歯がかたかたする。さあさあ! それっ、夜宮だ、市だ、町へ行こう。可哀相なトム、お前の角《つの》は干《ひ》上がった。
【リア王】 ではリーガンを解剖《かいぼう》してもらおう。その心臓のあたりはすべて干上がっておろう。そもそも自然にはこんな堅い心臓を造る何かの要因があるのか?
〔エドガーに〕そのほう、わしの百人の一人として召し抱えて仕わす。ただそのほうの着物の工合が気に入らん。ペルシャ風だと言うんじゃろうが、着替えるがよい。
【ケント】 陛下、ここに横になられ、しばらくお休みくださいますよう。
【リア王】 静かにしてくれ、静かにしてくれ。カーテンを引いてくれ。そう、それでよし。夕食は朝にしよう。
【道化】 それじゃわたしはお昼に寝よう。
〔グロスター再登場〕
【グロスター】 君、ここへ来給え。わが主、国王はどこにおられるか?
【ケント】 ここにおられます。ですがそのままに。王は正気を失われました。
【グロスター】 君、お願いだ、王様をその腕に抱いてくれ。
実は国王の命を狙《ねら》う陰謀があることを耳にしたのだ。
担架が用意してある。王様をそれにお乗せしてくれ。
そしてドーヴァーへ急いで欲しいのだ。あちらでは心からの歓迎と、
手厚い保護を受けられるようにしておく。ご主君を抱き上げてくれ。
もしそのほうが半時といえども無駄にするようなことがあれば、ご主君の命は、
そのほうの命、それにご主君をお助け申そうとするすべての者の命ともども、
失われることは必定だ。さあ抱き上げた、抱き上げた、
そしてわしの後について来るがよい。
急いでそのほうを、
途中入り用のものを渡す処へ連れてゆこう。
【ケント】 疲労|困憊《こんぱい》した体はよく眠る。
こうして休めば、せめて磨《す》り減らした神経にはよい貼り薬となるに違いない。
だがこれも、もし事情が許さなければ、癒すことは
大変困難なことになる。〔道化に〕さあ抱き上げるのに手を貸してくれ。
お前も後に残るわけにはゆかね。
【グロスター】 さあ、さあ、参ろう。
〔ケント、グロスター、および道化、王を抱き上げて退場〕
【エドガー】 身分高い人たちがわれわれ同様に苦しみをなめているのを見ると、
われわれの惨《みじ》めさなどほとんどわれわれの敵ではなくなる。
世の中の楽しいこと、仕合わせなものからすべて身を引いて、
たった一人で苦労する者が、心の苦労が最もひどい。
だが悲しみに仲間があり、苦しみに友があるときには、
心は相当な苦労でもそれを跳《と》びこえてしまうものだ。
今やわたしの苦しみなど何と軽く、怺《こら》え易いものに見えることか、
わたしの腰を曲げさせていたものが、国王の頭を下げさせているのだから。
王様は子故に、わたしは父故にだ。トム、さあ行け!
身分高い連中が立てる雑音に耳をすませ、そして名を名乗れ、
間違った考えからお前を汚《けが》している誤った世評が、
お前の正しさが証明されてその汚名を雪《そそ》ぎ、父との和解がなったとき。
今宵《こよい》はこれ以上何が起ころうと、王様が無事|逃《のが》れられますよう!
隠れていろ、隠れていろ。〔退場〕
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第七場 グロスター居城の一室
〔コーンウォル、リーガン、ゴナリル、エドマンドおよび従者たち登場〕
【コーンウォル】 〔ゴナリルに〕ご主人オールバニ公に早馬を。この手紙をお見せして欲しい。フランス軍は上陸した。〔従者どもに〕謀叛者《むほんもの》のグロスターを探し出せ。〔従者数名退場〕
【リーガン】 即刻縛り首。
【ゴナリル】 両の目を抉《えぐ》れ。
【コーンウォル】 処分は私にお任せ願いたい。エドマンド、姉上のお供《とも》を頼む。謀叛者の君の父親にわれわれがあえてしようとしている復讐《ふくしゅう》は、君が見るべきものではない。オールバニ公の処へ行ったら、大至急戦闘準備を完了するよう公に進言してくれ。われわれも同様準備する。こちらから早馬の伝令を出して、お互いの情報の交換をはかる。ではご機嫌よう、姉上。グロスター伯爵。
〔オズワルド登場〕
おやオズワルド! 国王はどこだ?
【オズワルド】 グロスター伯爵が王をここからお移しになりました。
王にお付きの三十と五、六人の騎士たちが、王を探し求めて、
懸命に王の後を追って来ましたが、
門の処で王に追いつき、
さらに数名のグロスター殿の御家人と一緒になり、
王と共にドーヴァーのほうへ参りました。向こうには
強力装備の友軍がいるのだと大言しておりました。
【コーンウォル】 奥様の馬を用意せい。
【ゴナリル】 二人ともご機嫌よう。
【コーンウォル】 エドマンドご機嫌よう。〔ゴナリル、エドマンドおよびオズワルド退場〕
謀叛《むほん》者のグロスターを探し出せ、
泥棒のように縛り上げて、わが前に連れて来い。〔他の従者たち退場〕
裁判の形式も踏まずにあの男の命に宣告を下すことは、
いかにも不当であることはわかっているが、
余りの怒りのため
万やむを得ず権力を行使せざるを得なかったとなれば、
人々は非難はしようが、干渉はできまい。誰だ? おのれ謀叛者か?
〔従者たちグロスターを捕えて再登場〕
【リーガン】 恩知らずの狐|奴《め》! 彼奴《あいつ》だ。
【コーンウォル】 彼奴《きやつ》のしなびた腕を縛りあげろ。
【グロスター】 お二方ともどういうお積《つ》もりでございましょう? よーくお考えください、
皆様方は私どもの客人なのですぞ。理不尽《りふじん》なことはなさらんでください。
【コーンウォル】 縛れと言っているのだ。〔従者たち縛る〕
【リーガン】 きつく、きつく。この汚らわしい謀叛者|奴《め》!
【グロスター】 あなた方は|まこと《ヽヽヽ》残酷きわまる、わたしは|まこと《ヽヽヽ》謀叛人などではない。
【コーンウォル】 この椅子《いす》に縛り付けろ。おのれ悪党|奴《め》、いまわからせてやる……
〔リーガンがグロスターの鬚《ひげ》を引っ張る〕
【グロスター】 御恵《みめぐ》み深き神々にかけて誓って申す、およそこれほどの恥辱《ちじょく》はない、
このわしを鬚《ひげ》で引っ張ろうとは!
【リーガン】 鬚はこんなに真っ白だが、こんなに腹黒いとは!
【グロスター】 奥方、何と残酷な!
そなたがわしの顎《あご》からむしり取る鬚の一本一本は、
やがて生き返って、そなたの罪を弾劾《だんがい》しようぞ。わたしは皆をもてなす主人役。
その主人の顔に盗賊の手をもってこのように乱暴することは
絶対にまかりなりませぬ。いったいどうしようというのですか?
【コーンウォル】 おい、最近フランス王から受け取ったという手紙は何だ?
【リーガン】 簡単明瞭に答えよ、真相はすべてわかっているのだ。
【コーンウォル】 さらに、最近王国に上陸した謀叛人どもと結托《けつたく》して、
いかなる陰謀を企てているのか?
【リーガン】 その者どもの手に
あの瘋癲《ふうてん》国王を渡したのだ。さあ言え。
【グロスター】 ある憶測から書かれたらしい一通の手紙は受け取っております。
しかしそれはいずれの側にも属さぬ中立の立場の者から参ったもので、
決して敵方からのものではありません。
【コーンウォル】 ずるい。
【リーガン】 しかも嘘《うそ》だ。
【コーンウォル】 いったいそのほうは国王を何処へ送ったのだ?
【グロスター】 ドーヴァーへです。
【コーンウォル】 なぜドーヴァーへ? その点について答えよ。
【グロスター】 〔傍白〕「熊いじめ」の杭《くい》に縛られているんだ、その一コースは我慢せにゃならん。
【リーガン】 なぜドーヴァーへ?
【グロスター】 なぜならわしは見るに忍《しの》びなかったのじゃ
そのほうの残酷な爪《つめ》が老王の両の目を抉《えぐ》り出すのを、
またそなたの獰猛《どうもう》な姉が聖なる国王のお体をその猪《いのしし》の牙《きば》で引き裂くのを。
老王が帽子も被《かぶ》らずに、地獄の闇の夜に耐えられた
あのような|あらし《ヽヽヽ》のときには、大海の逆巻く怒濤《どとう》も天に沖《ちゆう》し、
星明かりの火もために打ち消されてしまっただろう。
だがお気の毒にも老王は、さらに天にお力を貸されて雨をお降らしになった。
あのすさまじいときなら、門前で吠えているのがたとえ狼であったとしても、
「門番さん、門を開けておやり」とそのほうとても言うべきところだ。
どのような残忍な動物だとて情け容赦《ようしゃ》をしただろう。だが見ているがいい、
神々のお怒りは鷹《たか》、鷲《わし》のごとくに、斯《か》くのごとき子供らの上に襲いかかるぞ。
【コーンウォル】 それを見ることは絶対にさせんぞ。おい、椅子《いす》をおさえていろ。〔従者たちに〕
お前のこの両の目を、この足で踏みにじってやるわ。
〔グロスターの片方の目を抉《えぐ》り取り、足で踏みにじる〕
【グロスター】 年を取るまで長生きをしたいと願う者がいたら、
何とかこのわしを助けてくれ! おお残酷な! おお神々よ!
【リーガン】 片方がもう一方を嘲《あざけ》るだろう。残ったほうも。
【コーンウォル】 神々の怒りが見えるなどとぬかすなら……
【従者一】 お控えください御前!
私|奴《め》子供のときよりずっと御前にお仕え申して参りましたが、
ただ今このとき御前にお控えくださるようお諌《いさ》め申し上げることこそが、
御前に対する拙者|畢生《ひっせい》のご奉公と存じまする。
【リーガン】 どうした、この犬|奴《め》!
【従者一】 もしあなたが顎《あご》に鬚《ひげ》をはやしていたならば、この度《たび》の件については、
あなたの鬚を引張らずにはおかんのだが。
【リーガン】 どういうことだ?
【コーンウォル】 おのれこの悪党|奴《め》!〔両人剣を抜き戦う〕
【従者一】 いいぞ、さあ来い、怒りの上での剣がどういうことになるか。〔戦う。コーンウォル手|創《きず》負う〕
【リーガン】 〔他の従者に〕剣をお貸し。下郎がこんなにかまえくさって!
〔剣を取って従者一を後《うし》ろから刺す〕
【従者一】 おお殺《や》られた。御前まだ片方の目がおありだから見えるでしょう、
あのとおりあれに何がしの手|創《きず》を負わせました。おお!〔死ぬ〕
【コーンウォル】 これ以上見えんよう先手を打とう。出ろ、汚《けが》らわしいゼリー!
さあまだ光が見えるか?
【グロスター】 すべては真っ暗闇、慰《なぐさ》むものは何もない。息子《むすこ》のエドマンドはどこだ?
エドマンドよ、あらゆる親子の情愛の火花に火をつけて、
この恐ろしい仕打ちの仇《あだ》を打ってくれ。
【リーガン】 畜生|奴《め》、この裏切りの悪党|奴《め》が!
お前が名指しのエドマンドはお前を憎んでいるぞ。
実はエドマンドなのだ、
お前の謀叛《むほん》をわれわれに暴露してくれたのは。
あれは善人だからお前などに同情するものか。
【グロスター】 おおわしは愚《おろ》かだった! ではエドガーは謀《はか》られおったのか。
慈悲深き神々よ、なにとぞこの私|奴《め》をお許しを。そしてあれに仕合わせを!
【リーガン】 さあこいつを門の外へ突き出せ。そしてドーヴァーへの道を
鼻で嗅がせて行かせろ。
〔従者一人グロスターと共に退場〕
あなたどうなさいました? そのお顔色は?
【コーンウォル】 わたしは手|創《きず》を負った。一緒に来てくれ。
あの目無しの悪党をたたき出せ。この奴隷野郎は
糞溜《くそだめ》の中へ放《ほお》りこんでおけ。リーガン、出血がひどい。
実に悪いときに傷を受けた。手を貸してくれないか。
〔リーガンに助けられてコーンウォル退場〕
【従者二】 どんな悪事だって平気でやってやるぞ、
あれであの男がまともに生きられるんなら。
【従者三】 あれであの女が長生きをして、
そして最後に人並みに往生がとげられるというんなら、
女はみんな化物になって何でもやらかすだろう。
【従者二】 老伯爵に付いて行こう。そしてどこへ行かれるにせよ、
手を引いてくれるベドラムの乞食を見つけよう。|
瘋癲《ふうてん》乞食のことだから、
頼めば何でもしてくれよう。
【従者三】 そうし給え。私《わたし》は血が流れてる顔にあてる
リンネルと卵の白味を取ってくる。天よ、何卒《なにとぞ》あのお方をお助けください!
〔左右別々に退場〕
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第四幕
第一場 荒野《ヒース》
〔エドガー登場〕
【エドガー】 こういう恰好《かっこう》で大っぴらにバカにされているほうが、
内心バカにされながら上辺《うわべ》で煽《おだ》てられているよりはましだ。最悪であること、
「運命」の女神にどん底に投げ出されたような奴輩《やつばら》であるということは、
常に希望を持てる状態にあるということだ。
恐れることは何もない。
悲しむべき変化は栄華《えいが》から没落することだが、
最悪は必ずや笑いに戻るの理。されば姿なき空気よ、風よ。
わたしは汝《そち》を抱きしめて、心から汝《そち》を歓迎する。
汝《そち》が最悪の状態に吹きとばしたこの哀れな奴は
これ以上は何も汝《そち》に迷惑はかけぬ。待て、誰かやって来る。
〔グロスター、一老人に手を引かれて登場〕
父ではないか? 哀れな姿で手を引かれて! 何たる世の中、おお何たる世の中だ!
この世が憎くなるような、思いもかけぬ有為転変《ういてんぺん》に遇うことがなければ、
人は年を取っても絶対に死にたくはならんだろう。
【老人】 おお、お殿様!
私奴《わたくし》めは御家の家臣といたしましてご先代様時代より、
すでに八十有余年お仕え申して参ったのです。
【グロスター】 帰ってくれ、もう帰ってくれ。どうか帰ってくれ給え。
ご好意は辱《かたじけ》ないが、わしのためには何もならんのだ。
おぬしこそひどい目に会おうぞ。
【老人】 殿には行く先がお見えになりませぬ。
【グロスター】 行く先などはありはせぬ。だから目が無くても不自由はせんのじゃ。
目が見えたときには躓《つまず》いた。世間ではよく見られることじゃ、
仕合わせは得て油断を招き易く、どん底の逆境が
かえってわが身のためになる。
おお! 息子《むすこ》エドガー!
お前は謀《はか》られた父親の怒りの餌食《えじき》となってしまったのだが、
万一|命《いのち》あって汝《そち》を触《さわ》って見《ヽ》ることができたなら、
わしはまた目を授《さず》かったと言えるだろう。
【老人】 おい誰だ、そこにいるのは?
【エドガー】 〔傍白〕おお神々様! 「今こそどん底だ」などと誰が言えるだろうか?
どん底だと思ったらまだ下《した》があった。
【老人】 哀れな瘋癲《ふうてん》のトム奴《め》にございます。
【エドガー】 〔傍白〕まだまだこの下がありそうだ。「これがどん底だ」と
言えるあいだは、まだどん底では決してないのだ。
【老人】 おい、どこへ行くのだ?
【グロスター】 そいつは乞食か?
【老人】 瘋癲で、しかも乞食です。
【グロスター】 何がしの正気はあるのじゃろう。でなければ物乞いできる訳《わけ》がない。
昨夜の|あらし《ヽヽヽ》の最中《さなか》、わしはこんな男の姿を見かけたが、
そのとき、人間とは蛆虫《うじむし》のごときものだなと考えた。それから
息子《むすこ》のことが頭に浮かんだ。だがわしの心は、
そのときはまだ忰《せがれ》と仲直りできなかった。それからも忰《せがれ》については耳にした。
神々がわれわれに対するは、悪童が虫けらに対するようなものだ。
神々はわれわれを遊び半分に打ち殺す。
【エドガー】 〔傍白〕どうしてこうなったんだろう? つくづく情けない商売だ。
悲しみの人に道化役を演じなければならんとは、自分をも人をも苦しめて。
〔グロスターに〕今日は旦那様!
【グロスター】 そういうのは例の裸の奴か?
【老人】 さようにございます御前。
【グロスター】 ではどうか汝《そち》はもう帰ってくれ。だがもしもわしのために、
これから一マイルか二マイル、ドーヴァーへの道を、
わしたちを追いかけてくれる親切気があるんなら、昔からの誼《よしみ》で頼みがある。
この裸の奴に何か身に付けるものを持って来てやってくれ。
わしはこの男に手引きを頼みたい。
【老人】 いや情けないことにこの男は瘋癲《ふうてん》なのです!
【グロスター】 それは世の中が悪いのだ、瘋癲が盲《めくら》の手引きをするようでは。
わしが言ったとおりにしてくれ、さもなくば好きにするがいい。
とにかく帰ってくれ。
【老人】 わたしが持っている着物で一番いいのを持って参りましょう、
たとえそのためにどうなろうとも。〔退場〕
【グロスター】 おいっ、そこにいる裸の男、……
【エドガー】 哀れなトムは寒いよう。
〔傍白〕もうこれ以上は隠《かく》しきれない。
【グロスター】 さあここへ来てくれ。
【エドガー】 〔傍白〕だが隠さねば。おお、お気の毒に、両の目から血が。
【グロスター】 汝《そち》はドーヴァーへの道を心得ているか?
【エドガー】 畑でも屋敷でも、馬の道でも人様の道でも。哀れなトムは悪魔の奴に威《おど》されて正気を失くしてしまいました。どうか大家の息子《むすこ》さん、恐《こわ》い悪魔に取り付かれませんように! 哀れなトムには一度に五つの悪魔が取り付いた。助平の悪魔のオウ|ビ《ヽ》ディカット、闇の国の王ホビ|デ《ヽ》ィダンス、泥棒《どろぼう》のマーフー、殺しのモウドウ、鹿爪《しかつめ》らしい顰《しか》めっ面《つら》の|フ《ヽ》リバティ|ジ《ヽ》ベット、奴はわたしから出てって御殿奉公の腰元や女中たちに取り付いた。どうか旦那、奴らに取り付かれませんように!
【グロスター】 さあ、この財布を取っておけ。お前という奴はこれまでの天罰のお蔭で、
どんな「運命」の制裁でも黙ってそれを耐えてゆくようになってしまった奴だ。
わしが無惨《むざん》だということは、それだけお前を仕合わせにしよう。
天よ、常にかくあらせ給え! 有り余って暖衣飽食《だんいほうしょく》し、
天の掟《おきて》をさげすみ、自分が膚《はだえ》に感じないからといって
わかろうとしないような輩《やから》には、速《すみ》やかに天のお力《ちから》を感じさせ給え!
かくして天意は過剰の配分をやり直し、各人は
十分に持てるようになるだろう。汝《そち》はドーヴァーへの道を心得ているか?
【エドガー】 はい旦那様。
【グロスター】 そこには絶壁がある。その高い、突き出た岩頭から見下ろすと、
両岸を狭く仕切られた海峡に足元《あしもと》もすくむ思いだ。
その縁《ふち》のところへわしを連れて行って欲しい。
そうしたら汝《そち》が耐えている不幸をいささか償《つぐな》ってやることとしよう、
何かわしが身につけている豊《ゆた》かなもので。そこからは
手引きの用はなくなるはずだ。
【エドガー】 では腕をお借りして。
哀れなトムが手引きをします。〔退場〕
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第二場 オールバニ公爵邸の前
〔ゴナリルおよびエドマンド登場〕
【ゴナリル】 よくいらっしゃいました。どうしたことでしょう、
わが穏和なるご亭主殿が途中まで出迎えていないとは。
〔オズワルド登場〕
旦那様はどこ?
【オズワルド】 邸内にいらっしゃいます。ですが大変なお変わりようです。
上陸しました敵軍について公に申し上げましたところ、
公は|にっこり《ヽヽヽヽ》とされました。皆様方がいらっしゃる旨《むね》申し上げましたところ、
公には「碌《ろく》なことはない」とのご返事。グロスター謀叛の件、
それからそのご子息エドマンド殿ご忠勤の件につきまして、
公にお知らせ申しましたところ公は私をバカ者呼ばわりされ、
私はすべてを|あべこべ《ヽヽヽヽ》、裏返していると申されました。
最もお嫌いになるべきことが公には楽しいことのように見受けられます。
お気に召すべきことが、お気に障《さわ》る。
【ゴナリル】 〔エドマンドに〕ではお入りになってはなりませぬ。
断乎としてあえて事を起こそうとしないのは、夫が臆病心から
怖じ気づいているからなのです。夫は当然仕返しに結びつくべき事柄をも、
いっこうに恥とは感じたがらないようです。途中で話し合った私たちの思い、
多分|遂《と》げられることと思います。エドマンド、弟の処へ戻って、
兵隊の召集を急《せ》かせ、弟の軍隊を指揮してください。
私は夫と持ち物を交換し、私が夫の剣を持ち、
夫には私の糸巻き|ざお《ヽヽ》を与えましょう。ここにいる信頼できる家臣に
私たち二人の間を往復させましょう。近くお耳に入れることになりましょう、
もしあなたが自分の身のために断乎おやりになるというのなら、
あなたの奥方、あなたの恋人の命令を。これを付けて。何も言わないで。〔愛の贈物を渡しながら〕
ちょっと頭《あたま》を下げて。このキスは、もし言葉にすれば、
あなたの|やる気《ヽヽヽ》を大空一杯に拡げることになるでしょう。
よーくお腹の中にしまっとくのよ。ではご機嫌よう。
【エドマンド】 あなたのためなら戦火に死も辞せず。
【ゴナリル】 ああ私の一番大事なグロスター殿!
〔エドマンド退場〕
おお同じ男でこうも大きな違いがあるものだろうか!
あなたのような男にこそ女は仕えて当然なのだ。
うちの阿呆は間違って私《わたし》の体を占領している。
【オズワルド】 奥様、公爵です。〔退場〕
〔オールバニ登場〕
【ゴナリル】 前には口笛くらいは吹いてくださったのに。
【オールバニ】 おおゴナリル!
君は荒々しい風が君の顔に吹きつける塵《ちり》ほどの
価値もない。わたしは君という人間の人柄が恐ろしい。
生みの親、大本《おおもと》を|ないがしろ《ヽヽヽヽヽ》にするような性格は、
それ自身の枠内にとどめておくことは大変にむずかしい。
自分の生命《いのち》を養っている樹液の本、大木の幹から
自分を引き裂き、切り離せば、枝葉は枯れ萎《しぼ》むに決まっている。
かくして薪《まき》になり、果《はて》は焚《た》かるるなり。
【ゴナリル】 おやめなさい。そんな文句はバカ気《げ》てる。
【オールバニ】 英知も美徳も心|悪《あ》しき者には悪《あ》しざまに見える。
汚《けが》れた人間は汚れた味しかわからない。君らは何ということをやったのだ!
虎だ、娘ではない、君らは何ということをしでかしたのだ!
父親を、心の優しい老人を……首根っこの鎖《くさり》で引き回される熊でさえ、
手を舐《な》めて大いに敬意を表するだろうこの老人を……
何たる野蛮、何たる極道! その年寄りを気違いにしてしまった。
わが弟のコーンウォルがそのようなことを黙認したとは考えられない。
老王にあれほどの大恩ある男として、王侯貴族として!
もし天がこれら非道の罪人《つみびと》どもを非道《ひど》い目にあわせるために、
しかと目に見える形で天使たちをすみやかにお遣《つか》わしにならないようなら
必ずや起こる、
すべての人類が獰猛《どうもう》な動物となり、互いに相手を食い合うようなことが。
ちょうど深海の怪物のように。
【ゴナリル】 何という意気地《いくじ》なし!
頬っぺたは殴《なぐ》られるため、頭は恥をかくために付けておいでか。
お前さんが額《ひたい》に付けてるその目では、じっと怺《こら》えていていいことと、
名誉のため断乎立つべきこととの区別がつかない。お前さんにはわからない。
悪党が悪事を為終《しお》える前に処罰されるのを見て同情するなんて、
阿呆以外のすることではないということが。太鼓はどこにあるのです?
フランス王は戦火の響きなきわが国土に軍旗を翻《ひるがえ》し、
鎧《よろい》、兜《かぶと》に身を固めているのです。お前さんの領土は脅《おびや》かされ始めているのです。
それだのにお前さんときたら阿呆の説教よろしく、じっと坐って泣きわめくだけ、
「ああどうしてそんなことを?」などと。
【オールバニ】 おのれ悪魔|奴《め》、お前自身をよく見ろ!
もともと悪魔の異様な姿は恐ろしいが、それが女の姿で現われたときほど
恐ろしいものはない。
【ゴナリル】 ばかばかしい阿呆の戯言《たわごと》だわ!
【オールバニ】 姿は悪魔に変え、女の本性は隠しているお前だが、せめて恥を知って、
見せかけだけでもそんな悪魔顔をするな。もしも腹の立つままに
この両の手を動かしても、それがわしの体面に障《さわ》りがないというのなら、
今にもそのほうの肉と骨とをバラバラに引き離し引き千切り、
八つ裂きにしてくれるのだが。
そのほうは悪魔なのだが、
女の姿をしているばかりに助けておくのだ。
【ゴナリル】 おやおや、男だねえ……にゃあお!
〔使者登場〕
【オールバニ】 何事だ?
【使者】 おおオールバニ閣下! コーンウォル公爵がお亡くなりになりました。
家来の者に殺されたのです、グロスターの片方の目を
抉《えぐ》り出そうとなさいましたときに。
【オールバニ】 グロスターの目だと?
【使者】 小さいときから手塩にかけた家臣が、余りのことに激昂し、
公に真《ま》っ向《こう》から立ち向かい、大恩ある主人、
公爵に刃《やいば》を向けました。公は大変にご立腹になり、
その男にとびかかり、奥方とお二方で彼奴《こやつ》をご成敗になりました。
ですが公も深傷《ふかで》を負われ、そのため公ご自身も
その男の後《あと》を追われました。
【オールバニ】 これでわかった、天上には神々がおわしまして、
公正なる裁判官として、この下界のわれわれの罪を
かくも速やかに罰し給うのだということが。だがお気の毒にグロスター殿!
片方の目を失くされたと?
【使者】 両方、両方の目です閣下。
奥様、このお手紙は至急ご返事がご入用とのことにございます。
お妹様からでございます。〔手紙を差し出す〕
【ゴナリル】 〔傍白〕考えようでは、これは大変気に入った。だが妹が未亡人になって、
わたしのグロスターと一緒にいたんでは、わたしが夢に描いていた
お城はすべて駄目になり、わたしのこれからの一生はまるで台無しだ……
考えようでは、この知らせはそう悪くはない。
〔従者に〕読んでから返事を書きます。〔退場〕
【オールバニ】 連中がグロスター殿の目を抉《えぐ》ったとき、忰《せがれ》エドマンドは何処におった?
【使者】 奥様とご一緒にここへ参られました。
【オールバニ】 ここにはおらないが。
【使者】 はっ、おられません。お帰りになられるのにお会いしました。
【オールバニ】 彼《あ》れはこの悪事を知っておるか?
【使者】 はっ、閣下。グロスター殿を密告したのは実はあの方なのです。
そして父親の処罰がより自由に行なわれるように、
わざとその場を外《はず》されたのも実はあの方なのでございます。
【オールバニ】 グロスター殿、
わたしに命のある限り、貴殿が王に示された忠愛の情をありがたく思い、
その両の目の仇は必ず討って進ぜよう。〔使者に〕こっちへ来てくれ、
お前の知っていることをもっと話してもらいたい。〔退場〕
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第三場 ドーヴァー近くのフランス軍陣営
〔ケントおよび一紳士登場〕
【ケント】 フランス王がなぜこんなに突然に帰国されたのか理由を知りませんか?
【紳士】 何かお国に未解決のままにされたことがございました。そのことはこちらに参られて以来ずっとお気になさっておられたのですが、その後お国に大変な危機と危険を招く恐れ十分となり、王自身お戻りになられることが最高に重要かつ必要と相成った次第です。
【ケント】 総軍司令官としては何方《どなた》を残してこられたのでしょうか?
【紳士】 フランス陸軍元帥、ラ・ファー閣下です。
【ケント】 お願いした手紙が王妃を動かし、何か深くお悲しみの様子はございませんでしたか?
【紳士】 さようにございます。手紙を受け取られ、私の目の前で読まれました。
二度三度、溢《あふ》れる涙が王妃様のお美しい頬を
滴《したた》り落ちました。王妃様はご自身の感情に対しても立派に王妃、
それをしっかりと押《おさ》えておいでのようでした。ところがその感情は謀叛《むほん》して、
あの方の王様になろうとしているようでした。
【ケント】 おお! では感動されたのです。
【紳士】 度は過ごされませんでした。自制心と悲しみとがお互いに、
いずれがあの方を最も美しく見せられるかと競《せ》り合いました。
日向《ひなた》と雨が一度にやって来ることがあるでしょう。あの方の笑顔と涙が
まさにそれ。いや、一段と引き立っておりました。
真っ赤に熟した唇にほころんだ仕合わせそうな微笑《ほほえ》みは、何もご存じない様子、
両の目にいかなるお客が来ているか。その客人もやがて辞して行きました、
あたかも真珠がダイヤモンドから落ちるごとく、要するに、
悲しみは最も珍重されるべき希少《きしょう》価値のものとなるでしょう、もし誰でもが
あんなふうに似合いになれるなら。
【ケント】 あの方は一言《ひとこと》もおっしゃいませんでしたか?
【紳士】 いや、一言二言《ひとことふたこと》、「お父上」と込み上げる様におっしゃいました、
まるでそれに締め付けられているかのように、喘《あえ》ぎ喘《あえ》ぎ。
泣き声|絞《しぼ》って「姉上たち! 姉上たち! 女の恥です! 姉上たち!
ケント! お父上! 姉上たち! 何ですと? |あらし《ヽヽヽ》の最中《さなか》に! 真夜中に?
この世に慈悲はないものか!」そう仰しゃりながら、
あの神々《こうごう》しい御目から聖なる涙の雫《しずく》をはらはらと。
かくして泣き声は涙で浄《きよ》められ、あの方はご退出になられました、
悲しみはお一人で耐えられようと。
【ケント】 星の運勢です。
天上の星の運勢です、われわれの性格を決めるものは。
さもなければまったく同じ夫婦から生まれた子供たちが、
こうも違うはずがない。あの方とはその後お話はしませんか?
【紳士】 はい。
【ケント】 このことはフランス王ご帰国の前ですか?
【紳士】 いえ、後《あと》です。
【ケント】 ところでお気の毒にも乱心のリア王はこの町におられるのです。
時々調子のよいときには、われわれがどうなっているかを気|遣《づか》われておられますが、
コーディリア様とお会いすることは、いくらお願いしても
絶対にご承服ありません。
【紳士】 なぜでございましょうか?
【ケント】 君主のごとき強大な恥辱感が肘《ひじ》を張っているのです。ご自身の非道な仕打ち、
姫が当然受けるべき親の祝福を与えもせず、後《あと》はどうとでもなれと
外国へ追い出し、姫が与えられるべき貴重な権利を
犬の心をした姉姫たちに与えた……これらの事柄が
王の心を毒牙で突き刺し、燃える恥辱《ちじょく》の念が
王をコーディリア様から引き離しているのです。
【紳士】 お気の毒に、お年を取られて!
【ケント】 オールバニやコーンウォルの軍についてはお聞きおよびではないか?
【紳士】 確認されています、両軍とも進撃中なることが。
【ケント】 それでは、われらが主君リア王のところへ案内しましょう。
是非とも王のお側《そば》に仕えて欲しいと思います。ある重要な理由《わけ》があって、
私はしばらくのあいだ私の素性《すじょう》を隠していなければなりませんが、
私がはっきりと名を名乗るときには、このようにお知り合いになっていただいたこと、
決して後悔されるようにはいたしません。さあどうか、
ご同道を願います。〔退場〕
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第四場 同じ場所
〔鼓手、旗手らと共に、コーディリア、侍医および兵士たち登場〕
【コーディリア】 ああ、それは父上です! そう、今しがた会った者の話では、
大荒れの海のように荒れ狂い、大声で歌を歌い、
頭には延び放題の|からくさけまん《ヽヽヽヽヽヽヽ》や畔《あぜ》に生えた雑草で造った冠《かんむり》を乗せ、
それに|犬ごぼう《ヽヽヽヽ》やら毒人参、|いらくさ《ヽヽヽヽ》やら|たねつけ花《ヽヽヽヽヽ》、
毒麦、それにわれわれの食料品になる穀物のあいだに生《は》える
いろいろな役に立たない雑草を挿《さ》し加えて。
百人隊を遣《つか》わしなさい。
高く生《お》い茂る野山を隈《くま》なく徹底的に探させて、
父上をこの目の前にお連れするように。〔一士官退場〕人知を尽くせば、
父上の損《そこな》われた理性の力を回復することができるでしょうか?
父上の病いを直した者には、私のすべての物質的な富を与えましょう。
【侍医】 方法はございます奥方様。
われわれの生命の力を養う保母は安眠であります。
王はそれが不足しておられるのですが、それを誘い出すのにいい薬草が、
実は沢山《たくさん》にございます。そのすぐれた薬効は
苦しみの眼《まなこ》をも十分に閉じてくれます。
【コーディリア】 すべての有難き薬草よ、
すべての未だ知られざる、大地に育つ薬用植物よ。
私の涙で芽を吹いて欲しい! この善良なる人間の悩みを直す
手助けとなって欲しい! 探してください、探してください父上を。
乱心のまま放っておくと、必要な理性を失くしていますので、
お命にかかわるかもしれません。
〔使者登場〕
【使者】 申し上げます奥方様、
英国軍が当地を目指して進撃中でございます。
【コーディリア】 それは前からわかっておりました。それを迎え撃つ
わがほうの準備はできているのです。おお、お懐《なつか》しい父上!
わたくしが戦いに出かけますのもお父上、あなたのためなのです。
それでこそ偉大なるわがフランス王は、
わたくしの悲しみと涙ながらの願いを憐れに思い、聴き入れてくださったのです。
満々たる野心からこの軍を起こしたのでは決してありません。
ただただ父上を、懐しい父上を思うばかり。それに年老いた父上の権利。
早くお声を聞きたい、お会いしたい!
〔退場〕
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第五場 グロスター居城の一室
〔リーガンおよびオズワルド登場〕
【リーガン】 ですが、兄上の軍隊は出撃したのですか?
【オズワルド】 はい致しました。
【リーガン】 兄上|自《みずか》ら出陣しているのですね?
【オズワルド】 はい、それがやっとのことで。
お姉上様のほうがご立派な軍人でいらっしゃいます。
【リーガン】 エドマンド様はあなたのご主人とはお宅でお話はしなかったのですか?
【オズワルド】 なさいませんでした。
【リーガン】 姉上のエドマンド様への手紙は何だったのでしょう?
【オズワルド】 私は存じません。
【リーガン】 たしか、あの方は何か重要な要件で急いでここを立たれたのです。
大変な手落ちだった。グロスターの目は刳《く》り貫《ぬ》いたが
彼奴《あいつ》を生かしといたのは。
行く先々《さきざき》で人々の心を動かして、
われわれの敵を作っています。エドマンドが出かけたのはきっと、
父グロスターの無惨を憐れんで、いっそひと思いに
その闇夜の命を断《た》ってあげるため。それと合わせて
敵軍の勢力を探るため。
【オズワルド】 私はこの手紙を持ってお後《あと》を追わねばなりません。
【リーガン】 私たちの軍も明日は出発いたします。ここに泊まって行きなさい、
途中が危険です。
【オズワルド】 いえ奥様それはできません。
この手紙の件につき私は私の主人の奥様より特別の命令を受けております。
【リーガン】 どうして姉上はエドマンドに手紙を送るのだろう? その内容を
あなたが口で伝えるわけには行かないの? 多分、
何かがある……よくはわからないが。ねえ恩に着ますよ、
私にその手紙を読ませてくれないか?
【オズワルド】 いえ奥様そんなことをするくらいなら……
【リーガン】 お宅の奥様がご主人を愛してないということはわかっているの。
それは確かだわ。それにこのあいだここにいたときに、
姉はおかしな色目を、口ほどに物言う色目をエドマンド様に
さかんに使ってたわ。あんたが姉の胸の内を知ってるってことはわかってる。
【オズワルド】 私がですって!
【リーガン】 すべて承知の上で話してるんです。そうだってことはわかってるのです。
そこであんたに是非言っておきたい、よーく心に留めとくんです、
私は主人を亡くしました。エドマンドと私とでは話しがついているのです、
あの人はあんたの主人の奥さんより、この私と一緒になったほうが
ずっと好都合なんだと。あとは何なりとお察しのとおり。
あの人を見つけたらお願い、これを渡して頂戴《ちょうだい》。
そしてあんたの主人の奥さんがこれだけのことをあんたから聞くときには、
自分の分別心を呼び戻すよう是非言って欲しいの。
ではご機嫌よう。
もしあの盲目《めくら》の謀叛《むほん》者について何か耳にしたら、ねえいいね、
彼奴《きやつ》の首を刎《は》ねた者には出世が待ちうけているんだよ。
【オズワルド】 あの方に是非とも会えるように願ってます。そうしたら、
私がどっちの味方か必ずお見せ申します。
【リーガン】 ご機嫌よう。〔退場〕
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第六場 ドーヴァー近くの田舎
〔グロスターおよび土百姓姿のエドガー登場〕
【グロスター】 例の岡の頂上にはいつ着くのだろうか?
【エドガー】 今登っている処です。ご覧なさいこの骨の折れること。
【グロスター】 地面は平らのように思えるが。
【エドガー】 大変な急斜面です。
ほら、海の音がするでしょう?
【グロスター】 いや何も。嘘《うそ》は言わん。
【エドガー】 ああそれでは、外《ほか》の感覚まで駄目になってしまったんですね、
お目の痛みの故《せい》で。
【グロスター】 そうかもしれん、実のところ。
気の故《せい》かお前の声が変わったように思うが。前と比べると、
言いまわしも、内容もずっとよくなったようだ。
【エドガー】 感違いしているのです。わたしは着ている物以外は
何も変わってはおりません。
【グロスター】 口のきき方がずっとよくなったようだ。
【エドガー】 さあさあ、ここがその場所です。じっとしていてください。
こうして低い所を見下ろすと、何と恐ろしく、目が眩《くら》むようです!
崖の中腹を飛んでいる烏《からす》や紅嘴烏《べにはしがらす》などは何と
甲虫《かぶとむし》ほどの大きさもない。その下の部分の真ん中ぐらいの所には、
ぶら下がって浜芥《はまぜり》を取っている者がいる。恐ろしい商売だ!
どう見ても体《からだ》全体で、頭ぐらいの大きさにしか見えません。
海辺を歩いている漁師たちはまるで二十日鼠《はつかねずみ》。
そのむこうに錨《いかり》を下ろしている高いマストの船は、
それが積んでる艀《はしけ》同然、艀は浮標《ぶい》同然に小さくなって、
ほとんど目には留まらないくらい。ざわめく波頭は、
無数の無益《むやく》な小石に当たって砕けているが、
こう高い所では聞こえない。もう見るのはやめよう、
頭がまわり、目がくらんで、体ごと真っ逆様に
落ちるといけないから。
【グロスター】 お前が立っている所に立たせてくれ。
【エドガー】 手をお貸しなさい。さあ一歩でも踏み出せば
崖っ縁《ぷち》です。お月様の下、世界中をくれると言ったって、
ここで跳ぶことだけは真っ平ご免です。
【グロスター】 手を放してくれ。
さあこの財布もう一つ受け取ってくれ。中の宝石は
貧乏人がもらえば相当な身代だ。妖精たちよ神々よ、
それを増やしてそのほうにお恵みあらんことを! お前はずっと離れてくれないか。
わたしに暇乞《いとまご》いをして、そしてお前が離れて行く足音を聞かせてくれ。
【エドガー】 ではご機嫌よろしゅう旦那様。
【グロスター】 お前にも心からご機嫌ようと言いたい。
【エドガー】 〔傍白〕このように絶望の果ての父上を玩《もてあそ》ぶのも、
ただただそれを癒《いや》さんがため。
【グロスター】 〔ひざまずいて〕おお、お力ある神々よ!
わたくしはこの世を打ち棄てて、ここに御目の前で
わたくしの大いなる苦しみを心静かに振り落とします。
たとえこれ以上耐え得ることができて、大いなる神々の
逆らい難いご意志に背《そむ》き始めるというようなことはないとしても、
この老醜の身の余燼《よじん》、もういくばくもなく燃え尽きることは必定。
忰《せがれ》エドガーもしこの世にありとすれば、なにとぞ彼《あ》れに御恵《みめぐ》みを!
ではそのほう、さらばだ。
【エドガー】 遠くに離れました。ご機嫌よう。
〔グロスター前方に身を投げ、倒れる〕
だがわたしにもよくわからぬが、想像力とは何と強力に
生命《いのち》の宝《たから》を奪い去ることができるのだろう、生命《いのち》自体が
そのような窃盗《せっとう》に屈服するときには。思案にくれた元どおりの場所にいたとしても、
今ごろは思案がなくなっていたかもしれぬ。生きているのか、死んでいるのか?
〔傍に寄って〕もーし! お前さん! 聞こえますか? 口がきけますか?
事実こうして死んでしまうかもしれないのだ。いや気がついた。
あなたはどういうお方ですか?
【グロスター】 あっちへ行け、わしを死なせてくれ。
【エドガー】 あんたはまるで蜘蛛《くも》の糸か、鳥の羽根か、空気のようだ。
ふつうなら、あんな高い所から幾|尋《ひろ》も真っ逆様《さかさま》に落ちれば、
まるで卵のように微塵《みじん》に砕けてしまうんだが。だが息《いき》がある、
ずしり重たい体もある、血を流してもいないし、話もでき、まるで大丈夫だ。
帆柱を十本、一本一本を上に継ぎ合わせていったって、
あんたが真《ま》っ直《す》ぐ垂直に落ちた高さには及びもつかない。
あんたが生きてるのは奇跡《きせき》だ。もう一度|喋《しゃべ》ってみなさい。
【グロスター】 だがわしは落ちたのではないのか?
【エドガー】 ええこの白壁の崖のあの恐ろしい天辺《てっぺん》から。
高く見上げてみなさい。甲高《かんだか》い喉《のど》をした|ひばり《ヽヽヽ》も、
見えもしないし、聞こえもしない。いいから見上げてみなさい。
【グロスター】 ああ! わしは目が無いんじゃ。
不幸の窮《きわ》まりは例の最後の恩恵をも奪われているということか、
死によって自らの不幸に終止符を打つという? まだ何がしの慰《なぐさ》めがあった、
いかに無惨でも、死に神という暴君の怒りを出しぬいて、
その傲慢《ごうまん》な意図《いと》を打ち砕けるというときは。
【エドガー】 手をお貸しなさい。
さあ立って……そう……どうです? 脚の感じがありますか? 立てますね。
【グロスター】 残念じゃが立てる、よく立てる。
【エドガー】 こんな不思議なことはまたと無い。
崖の頂上であんたと別れて行ったのは、あれはいったい
何ものなんですか?
【グロスター】 哀れな、不仕合わせな乞食じゃよ。
【エドガー】 ここで下から見ていたところでは、彼奴の目玉は
まるで二つの満月のよう、それに鼻は千もついていて、
角《つの》は曲がりくねって、海をわたる波の|うねり《ヽヽヽ》のよう、
きっと何かの悪魔でさあ。だからあんたは運のいいおとっつぁんだ、
人間にできないことをやらかして人々の尊敬を集めている、
すべてをお見通しの神々がお前さんを助けてくだすったのだと考えなさい。
【グロスター】 そう言えば思い当たる。これからはじっと怺《こら》えよう、
どんなに苦しくとも、わしより先に苦しみ自身のほうが参って、
「もう沢山《たくさん》、沢山」と言って死んでしまうまで。お前さんの言う例のもの、
わしはてっきり人間と思っていた。たしかにたびたび言っていた、
「悪魔、悪魔」と。あいつがわしをあの場所に連れて行ったのだ。
【エドガー】 心配せずに、気を落ちつけていなさい。が、誰だここへ来るのは?
〔野の花などを付けた奇怪な出《い》で立ちのリア王登場〕
まともな感覚なら、その主《ぬし》をあんなふうには決して
着付けはしまい。
【リア王】 いや、金《かね》を贋造《がんぞう》したといってわしに手を触れることなんかできんぞ。わしは国王それ自体じゃぞ。
【エドガー】 おお胸も張り裂けるような光景!
【リア王】 その点では自然が人工の上じゃ。それ、入隊の前金だ。あの男の弓の扱い方はまるで案山子《かかし》だぞ。鏃《やじり》まで手一杯引いてくれ。それ、それ! 鼠《ねずみ》だ。しっー、静かに! この焼きチーズ一切れで掴《つか》まえてやる。さあ籠手《こて》を投げたぞ。巨人相手に一つ決着をつけてやる。鋒《ほこ》をかまえろ! おお! 鷹《たか》よ、でかしたぞ。的《まと》の真《ま》ん真《ま》ん中だ、真ん真ん中だ。ひゅう! 合言葉を言え。
【エドガー】 マヨナラ草。
【リア王】 通れ。
【グロスター】 あの声には覚《おぼ》えがある。
【リア王】 おやっ! ゴナリル、この白髪鬚姿《しらがひげすがた》で! みんながこのわしに、犬が主人にするように尻尾《しっぽ》を振り、わしには黒いのが生える前に、この鬚《ひげ》には白髪《しらが》があったと言いおった。わしの言うことには何でも「はい、はい」と調子を合わせおった! 「はい」も真実「はい」でなけりゃあいい神学とは言えんのに。いつか雨が降ってずぶ濡《ぬ》れになり、風が吹いて歯が|がたがた《ヽヽヽヽ》鳴ったとき、いくらわしが命令しても雷が一向に鳴りやまなかったとき、そのときわしには奴らがわかった。奴らを嗅ぎ出した。けしからん、奴らはみんな信用ならん。連中はこのわしが万能だと言った。じゃがそりゃあ嘘だ、わしにゃ瘧《おこり》一つ直せやせん。
【グロスター】 その声の特徴はわしはよく覚えている。
国王ではないのか?
【リア王】 そうじゃ、どこを取っても国王じゃ。
わしが一睨《ひとにら》みすれば、国民全部がふるえ上がる。
その男の命は許して遣《つか》わす。そのほうの咎《とが》は何じゃ?
姦通《かんつう》か?
ならば死刑にはならん。姦通で死刑などになってたまるか!
|みそさざい《ヽヽヽヽヽ》だってやっておるではないか。ちっぽけな金蝿《きんばえ》だって、
わしの目の前で欲情しおるではないか。
いくらでも交尾《つる》むがよい。グロスターの私生児のエドマンドだって、
正当な夫婦の床の中で生まれたわしの娘どもより、
父親に対してはずっと人間らしかったぞ。
情欲のままに突っ込め! 何しろ兵隊が足りんからな。
向こうで作り笑いしている奥方様を見よ。
あのお顔は、両のおみ足の真《ま》ん中は雪のように真っ白だと言わんばかり。
乙《おつ》にすまして貞女を気取り、色恋と聞いただけでも
|おつむ《ヽヽヽ》をお振りになっていらっしゃる。
だが、|においねこ《ヽヽヽヽヽ》だって、新しい牧草をたら腹食った馬だって、
そのすさまじい情欲にはとても敵《かな》わん。
腰から下のほうは、彼奴《きやつ》らはみんな半人半馬の怪獣じゃ、
上半身は紛《まぎ》れもなく女じゃが。
せいぜいバンドのところまでじゃ、神々の力が及ぶのは。
下は全部悪魔の縄張《なわば》り。地獄じゃ、暗闇じゃ。
硫黄の焼けつく奈落の底じゃ……燃え上がっている、……煮えたぎっている、
悪臭、腐乱《ふらん》、汚《きた》ない、汚い、汚い、ぺっ、ぺっ!
ねえ薬屋さん、麝香《じゃこう》一オンス欲しいんじゃが、
この胸の内を清めたい。
代金はここにおくぞ。
【グロスター】 おお! その手にキスさせて欲しい。
【リア王】 その前に拭かせてくれ、死臭が付いているからな。
【グロスター】 「自然」の女神の傑作もここに潰《つい》えた! 大いなる全宇宙も
かくして消耗し尽くして無に帰するか。拙者をご存じか?
【リア王】 汝《そち》の目はよう覚えておる。わしに色目を使いおるな?
いや、どんな悪さでもするがよい。「盲目《めくら》のキューピッド」。わしは惚《ほ》れんぞ。
この決斗状を読め。その書きぶりによく注意するんじゃぞ。
【グロスター】 その文字が全部太陽であったって、わしに読めるはずがない。
【エドガー】 〔傍白〕人伝《ひとづて》に聞いたのなら到底信じられん。だが事実。
この心も張り裂けそうだ。
【リア王】 読め。
【グロスター】 何ですと! 目玉の無いこの空っぽの目でですか?
【リア王】 おお、なるほど! あんたの言うのはそういうことか? 顔には目が無くて、財布には金が無いか? あんたの目は重症《ヽヽ》で、あんたの財布は軽少《ヽヽ》ってわけじゃな。それでも世の成り行きは見えるんじゃろう?
【グロスター】 感じでよーく見えまする。
【リア王】 何だと! お前は気違いか? 目が無くったって世の中ぐらい見えるもんだ。その耳で見い。見ろ、あそこにおる裁判官が、たかが泥棒なんかを叱りとばしておる。それ、よーく聞け。「さあ、こっちとこっちを取り替えて、どっちの手にあーるか? どっちが裁判官で、どっちが|泥ー棒《どーろぼう》?」汝《そち》は百姓の犬が乞食に吠えかかるのを見たことがあるじゃろう?
【グロスター】 はい、ございます。
【リア王】 それからその男が犬から逃げ出すのも? 見ろ、それが権力というものの大いなる姿じゃ。たかが一匹の犬もその役柄で、よく人を制し得るのじゃ。
こらっ、この碌《ろく》で無しのお巡《まわ》り奴《め》、その惨《むご》い手を控えろ!
何でその女郎に鞭《むち》を当てる? お前自身の背中を出せ。
お前はその女を鞭打っているが、お前自身その女を|もの《ヽヽ》にしようと、
熱々《あつあつ》に欲情しおるくせに。高利貸しをしている裁判官が掏摸《すり》を処刑する。
|ぼろ《ヽヽ》の着物の破れ目からは、些細《ささい》な悪も露見するが、
法服や毛皮のガウンからはすべてを隠す。罪に黄金の鎧《よろい》を着せよ、
さすれば正義の槍の堅《かた》き刃《やいば》も、その効《かい》もなく歯はこぼれる。
それを|ぼろ《ヽヽ》で武装せよ、小人《こびと》の差し出す藁《わら》一本も突き通す。
何人《なんびと》も罪はない、何人《なんびと》も、いいか、何人《なんびと》もだぞ。わしが保証してやる。
いいか、これはわしの言葉だ、告発者の口を封じる権力を持つ
このわしの言葉なのだ。〔グロスターに〕ガラスの目を入れるがよい。
そしてうす汚《ぎた》ない策士がするように、何も見えんでも
すべてはお見通しのような|ふり《ヽヽ》をせい。さあ、さあ、さあ、
靴《ブーツ》を脱がせてくれ。もっときつく、もっときつく。そうだ。
【エドガー】 〔傍白〕おお! 分別と不条理とが|ごち《ヽヽ》|ゃまぜ《ヽヽヽ》だ。
狂気の中に正気。
【リア王】 わしの不幸を泣いてくれるというんなら、わしのこの目をやってよい。
わしはそのほうをよう知っとるぞ。汝《そち》の名はグロスターじゃ。
堪《こら》えねばならん。われわれは泣きながらこの世に生まれて来たんじゃ。
そのほうも知っておろうが、初めてこの世の空気を嗅《か》ぐときには、
みんな|おぎゃあ《ヽヽヽヽ》、|おぎゃあ《ヽヽヽヽ》と泣きわめく。汝に説教をしてやる、聞け。
【グロスター】 ああ、何とも情けない!
【リア王】 われら生まれしときには、この阿呆どもの大いなる舞台に出でしことを、
大いに泣く。こりゃあいい型だ、台だ!
馬の部隊にフェルトの靴をはかせるなんてのは、
こりゃすばらしい戦術だぞ。是非とも実験せにゃならん。
そして娘婿《むすめむこ》どものところへ忍び込んだが最後、
そのときこそ、殺せ、殺せ、殺せ、殺せ、殺せ、!
〔紳士、数名の従者を伴って登場〕
【紳士】 おお! ここにおられた。お押《おさ》えしてくれ。陛下、
一番可愛がられておられる娘御が……
【リア王】 救援隊は来ぬか? 何だと! わしが捕虜になるのか? わしこそは
運命の女神に玩《もてあそ》ばれる、生まれながらの阿呆じゃ。丁重に扱ってくれ。
身代金は払ってつかわす。外科医を何人か呼んでくれ。
わしは脳髄に達する深傷《ふかで》を受けた。
【紳士】 何なりと仰せのままに。
【リア王】 助手《すけて》はおらんのか? わしだけか?
これでは大の男も塩辛涙で台無しにされてしまい、
この両の目は庭で水やる如露《じょうろ》同然ではないか。
まさに秋の日の塵押《ほこりおさ》えというとこじゃ。わしは恰好《かっこう》よく死んでやるぞ、
盛装した花婿《はなむこ》のように。おい! わしは愉快にやりたいんじゃ。
さあ来い、さあ来い、わしは国王じゃぞ、お偉方衆それをご存じか?
【紳士】 王統でいらっしゃいます。何なりと仰せのとおりにいたします。
【リア王】 ではまだ脈があるな。掴《つか》まえたいんなら、さあ来い。
走りながら掴まえてみろ。うしうし! うしうし!
〔走りながら退場。従者たち後を追う〕
【紳士】 身分最も卑《いや》しい下郎にしてもこれほど哀《あわ》れを誘う光景はないのに、
まして国王の身にしては言いようもない。お前さんにはもう一人の娘がある。
その娘御は世の呪いから人の性を再び贖《あがな》い戻そうとしているのだ、
二人の姉がもたらしたその呪いから。
【エドガー】 やあ今日は!
【紳士】 やあ今日は。何かご用ですか?
【エドガー】 何か戦争が近いというようなことをお聞きおよびではないでしょうか?
【紳士】 絶対に確かなこと、もう常識です。誰でも聞く耳あるものは、
そのように聞いています。
【エドガー】 ですが、ご好意に甘えてさらにお尋ねしますが、
相手の軍隊はどのくらい近くまで?
【紳士】 ごく近くまで来ています、しかも早足です。主力部隊の出現も
もはや時間の問題です。
【エドガー】 ありがとうございました。お尋ねしたいことは以上です。
【紳士】 王妃は特別のご用向きで当地にご滞在ですが、
妃の軍隊はさらに進撃しました。
【エドガー】 どうも有難うございました。〔紳士退場〕
【グロスター】 おお御恵《みめぐ》み深き神々よ、願わくばわが息を引き取らせ給え。
わたしの内なる悪霊がふたたびこのわたしを誘惑し、お召し以前に
死のうと考えることなど絶対なきよう!
【エドガー】 おとっつぁん立派なお祈りでした。
【グロスター】 ところであなた様はどういうお方で?
【エドガー】 この上なく哀れな男にございます、およそ世の不運に馴れっこになった。
これまでに経験した身を切られるような悲しみの数々で、
他人に対する思いやりの心を宿すようになりました。お手をお貸しください。
どこかお宿《やど》へお連れしましょう。
【グロスター】 心からお礼を申します。
天よ、ありとあらゆる御恵《みめぐ》みをこのお方に垂れさせ給え、
心からなる感謝の念にかてて加えて!
〔オズワルド登場〕
【オズワルド】 懸賞金付きのお尋ね者だ! ついてるぞ!
この目の無いお前の頭は、そもそもが俺の運勢を引き上げようと、
肉付けされたものなのだ。おのれ不仕合わせな老いぼれ謀叛者奴《むほんものめ》、
手っ取り早くこれまでの罪の決算をしろ。剣は抜いた、
お前をしとめずにはおかんぞ。
【グロスター】 願ってもないご親切、
満身の力をこめてやってください。
〔エドガーが二人の間に割って入る〕
【オズワルド】 おのれ不届きな土百姓|奴《め》、
何故《なにゆえ》あってこの札付きの謀叛者を庇《かば》い立てする? 退《さが》りおれ。
さもなくば此奴《こやつ》の不幸が伝染して、お前にも
取りつくぞ。その手を離すのだ。
【エドガー】 俺あ離さねえ、そんだけのことじゃ離さねえ。
【オズワルド】 離せ下郎、さもないと命が無いぞ。
【エドガー】 お願《ねげ》えです、どうか行きさっしゃってくだせえ、そんで気の毒な方たちさ通してくんろ。脅《おど》かされて命さ失くしていたら、俺《おら》が命なんかもう二週間も前《まえ》に吹っとんでいたんべえ。いけねえだ、年寄りの傍《そば》に近寄っちゃ。どかさっしゃいと言ってるだ、それでもどかねえというんなら、お前《めえ》さんの脳天と俺《おら》のこの棍棒《こんぼう》とどっちが強《つえ》えか試さなきゃなんねえだ。俺《おら》あ事《こと》をはっきりとしてえだ。
【オズワルド】 おのれ下種《げす》めが!
【エドガー】 お前《めえ》さんの歯さぶち抜いてくれるだぞ。さあ来《き》さっしゃい、お前《めえ》さんの剣ぐれえ物《もの》の数《かず》でもねえだんべ。
〔二人戦い、エドガーがオズワルドを倒す〕
【オズワルド】 下郎、お前はわたしを殺した。土百姓、この財布を取っておけ。
この先《さき》満足に暮らしたいと思うなら、わたしの体を葬ってくれ。
そしてわたしが身につけている手紙をグロスター伯爵、
エドマンド様にお渡し申してくれ。イギリス軍におられるから
是非とも探してくれ。おお! かくも思いがけぬときに死のうとは、
死のうとは!〔死ぬ〕
【エドガー】 わたしはお前をよく知っている。悪党ながらよく仕えた。
お前の奥方の悪行の数々《かずかず》にお前がした以上に悪の忠勤を励むことは、
おそらくは不可能に近いことだろう。
【グロスター】 何と! 彼奴《きやつ》は死んだのか?
【エドガー】 おとっつぁん腰を下《お》ろしてください。休んでいてください。
ポケットを探してみましょう。此奴《こやつ》が言った手紙というのは
あるいはこっちの役に立つかもしれぬ。死んでしまった。ただ残念なことは、
此奴《こやつ》が死刑執行人の手にかからなかったことだ。これかな?
ご免|蒙《こうむ》って封蝋《ふうろう》を破らせてもらおう。作法には適《かな》わぬが見逃してもらおう。
敵の心を知るためならば、その胸をも裂かねばならぬ。
まして手紙ぐらいなら。〔読む〕
「共に誓い合ったこと決して忘れないでください。あの人を斬《き》り捨てる機会は沢山《たくさん》にございます。あなたにその気さえあれば、時も場所も十分に提供されることでしょう。あの人が勝利を得て帰国するようなことになれば、もう打つ手は何もありません。そうなればわたしはあの人の捕虜《ほりょ》、あの人とのベッドはわたしにとっては牢獄。その嫌らしい|ぬくもり《ヽヽヽヽ》から、どうかわたしを救い出してください。そして場所を塞げてくださいね、あなたのお骨折にふさわしく。
あなたの妻、そう申したい……
心からの愛をこめて、
ゴナリル」
おお何処《どこ》までも際限なく拡がる女の情欲よ
己《おの》がいとも徳高き夫の一命を付け狙《ねら》う企《たくら》み、
そして交換だと、弟と! ここに、この砂の中に、
お前を埋《うず》めてやろう。凶悪《きょうあく》な色気違いどもの間《あいだ》を行き来した
罪深きメッセンジャーだったお前を。やがて時が熟したなら、
この忌《い》まわしい手紙を見せて、死の陰謀を企《たくら》まれたオールバニ公爵の
目をつぶしてやろう。あの方にとってはまことに仕合わせなことだ、
お前の死と用件とについてわたしが話すことができるのは。
【グロスター】 国王は気が違われた。いったいわしのあたまはなぜ不届きにも頑丈で、
かく立ち長らえて、このとてつもなく大いなる悲しみを
かくも敏感に感じとるのだ! 気が狂ったほうがずっとましじゃ。
そうなればわしの心は悲しみと分かれ分かれになって、
数々の嘆《なげ》き悲しみも乱心による妄想《もうそう》のおかげで、
何もわからなくなり果てる。
〔遠くでドラムの音〕
【エドガー】 手を貸しなさい。
遠くのほうで、ドラムを打つ音がするようだ。
さあ、おとっつぁん、親切なお人のところへ連れて行ってあげよう。〔退場〕
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第七場 フランス軍陣営のテント
〔コーディリア、ケント、侍医、紳士登場〕
【コーディリア】 おおケントどの、そなたの好意に報いるためにいったいわたしは、
どのくらい長生きをし、努力すればよいのだろう。わたしの一生は短すぎます。
そしてどんな尺度もそなたの好意を計る役にはたちません。
【ケント】 お認めいただいただけで、私はもう過分に頂戴いたしました。
私のご報告のすべては厳正なる事実であります。
付け加えも切りつめもなく、そのままです。
【コーディリア】 着替《きが》えをしてください。
その着物を見るとこれまでの難儀を思い出します。
どうかそれはお脱ぎください。
【ケント】 それは何ともご容赦願います。
いま自分を知られましては私のこれまでの計画が台無しです。
時いたり、私が適当と考えますまで、私|奴《め》をご存じないことにしていただければ、
この上ない仕合わせと存じます。
【コーディリア】 ではそのようにしてください。〔侍医に〕王のご容態は?
【侍医】 まだお休みでございます。
【コーディリア】 おお御恵《みめぐ》み深き神々よ、
この虐《しいたげ》られたお体のひどい傷口をお直しください!
この調子が外《はず》れて不協和音を出している心の弦《つる》をどうか調整してください、
この子供同然になってしまった父親の心の弦を!
【侍医】 王妃殿下、御意なれば、
国王をお起こし申しましょうか? もう十分お休みになられました。
【コーディリア】 ご判断にお任せしたいと思います。すべてお考えどおりに
進行していただいて結構です。お召し替えはしたのでしょうか?
【紳士】 はい致しましてございます。ぐっすりとお休みになっておられる陛下に
新しいお召物をお着せ申し上げました。
【侍医】 私どもがお起こし申すときには殿下、どうかお側《そば》にいらっしゃってください。
国王は必ず平常《いつも》のお気持になられます。
【コーディリア】 素晴らしいことです。
〔音楽。侍医カーテンを開ける。リア寝椅子に休んでいる〕
【侍医】 どうぞお近くへいらっしゃってください。さあ音楽をもっと大きく!
【コーディリア】 おお、お父上! 病気治癒の神がわたしの唇に
お父上のお薬をお付けくださいますよう! そしてこのキスが
二人の姉たちがもったいなくもお父上にお与え申した危害の数々を、
どうか直してくれますように!
【ケント】 何とおやさしい姫君様!
【コーディリア】 たとえほんとうの父親でないにしても、この雪の白髪を見れば、
哀れと思わなければならぬのに。いったいこれが
あの荒れ狂う|あらし《ヽヽヽ》に晒《さら》されようとしたお顔だったのですか?
あの轟《とどろ》きわたる、恐ろしい|かみなり《ヽヽヽヽ》に立ち向かおうとしたお顔だったのですか?
あっという間に縦横無尽に閃《ひらめ》く稲妻のこの上なく恐ろしい、
敏捷《びんしょう》な動きの真っ只中で、夜通しまんじりともせず……
可哀相に敵前の歩哨《ほしょう》同然!……この薄手《うすで》の兜《かぶと》で? 敵側で飼っている犬だって、
たとえそれがわたしを咬《か》んだ犬だとしたって、あんな晩には
わたしなら火の傍においてやったものを。可哀相にお父上は、
喜んで豚や寄る辺ない浮浪人どもと一緒に小屋にお泊りになったのですか?
飼料《かいば》用に細かく切った、黴臭《かびくさ》い一握りの藁《わら》の中で? 何とも情けない!
思えばお父上の一命が、分別と共に無くならなかったのが
不思議なくらいです。目を覚ましました。話しかけてください。
【侍医】 殿下からどうぞ。それが一番です。
【コーディリア】 御前いかがですか? 陛下ご気分はいかがですか?
【リア王】 あんたは非道《ひど》い、お墓の中からわしを取り出すなんて。
お前さんは天国のお方じゃ。だがこのわしは地獄で、
火の車に縛り付けられている。わしの流す涙は熔けた鉛となって
この身を焦《こ》がすのじゃ。
【コーディリア】 わたしがおわかりでしょうか?
【リア王】 あんたは精霊じゃ。どこで死になすった?
【コーディリア】 まだまだ遠い的外《まとはず》れ。
【侍医】 まだお目覚めではないのです。しばらくそっとしておいてあげてください。
【リア王】 わしは今迄|何処《どこ》におったのじゃ? ここは何処じゃ? 明るいのは日射しか?
わしはひどく騙《だま》されている。人がこんな目にあっているのを見れば、
わしは気の毒で死んでしまうだろうに。何と言ってよいかわからん。
これがほんとうにわしの手だろうか? 試してみよう……
ピンを刺せば痛い。いったいわしは今どういう状態におるのか、
たしかなことが是非知りたい……
【コーディリア】 おお、お父上! このわたくしをご覧ください。
そして御手をわたくしの上に差し伸べてわたくしを祝福してください。
〔コーディリア跪《ひざまず》く。リアも跪こうとする〕
いいえいけません父上。膝などおつきになっては。
【リア王】 どうかなぶらんでください。
わしは大変愚かな、耄碌《もうろく》した、一年寄りにすぎんのです。
年は二十の四倍と少し上、それより一時間も多くも少なくもありません。
それに率直に言って、
わしの心は完全な状態にはないのではないかと気づかわれます。
どうもあんたと、この人は知っているようにも思えるのですが、
でもはっきりはしません。というのは此処《ここ》が何処であるか
わしには皆目見当がつきかねるからです。それにどう知恵を絞ってみても、
この着物のことはどうしても思い出せません。また昨晩は
何処に泊まったのかもわかりません。どうか笑わんでください、
でも誓って言いますが、ここにおられるこのご婦人は
わたしの子供のコーディリアだと思うんだが。
【コーディリア】 そうなのです、そうなのです。
【リア王】 涙を流していなさるか? そうだ流していなさる。どうか泣かんでください。
あんたがわしに毒を盛るのならわたしはそれを飲もう。
あんたがわしを好いていないことはわかっている。姉たちは、
わしはよーく憶えておるが、わしをひどい目に会わせおったのだから。
あんたにはそれなりの理由《わけ》がある、連中には何もない。
【コーディリア】 理由など、理由などありません。
【リア王】 わたしはフランスにおるのですか?
【ケント】 ご自分の王国にいらせられます。
【リア王】 わたしを騙《だま》さんでください。
【侍医】 奥方様ご安心ください。ひどい錯乱状態は、
ご覧のとおり止まりました。ですがまだまだ危険なのです、
失われた断絶のときを一挙に埋め合わせようとなさることは。
奥へお入りになるようおすすめしてください。いま少し落ちつかれるまでは、
休ませてあげてください。
【コーディリア】 陛下ご退出になられませんか?
【リア王】 堪忍してくれなければ困る。
どうか頼みます、忘れて許してください。わたしは年寄りで愚か者。
〔リア、コーディリア、侍医、従者たち退場〕
【紳士】 コーンウォル公爵がそのようにして殺されたということは、依然として事実として受け取られていることですか?
【ケント】 確かなことです。
【紳士】 公爵の部下たちを指揮しているのは誰ですか?
【ケント】 聞くところでは、グロスターの妾腹の忰《せがれ》だということです。
【紳士】 噂《うわさ》では、勘当された息子《むすこ》のエドガーはケント伯爵と共にドイツにおるそうです。
【ケント】 噂は当てになりません。それよりは今は見張りを厳重にしなければなりません。敵軍は刻一刻と近づいています。
【紳士】 決戦は血なまぐさいものになりそうです。ご機嫌よう。〔退場〕
【ケント】 今日の戦いの成り行きで、よかれあしかれ、
わが生涯の目的、意図《いと》の決着がつく。
〔退場〕
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第五幕
第一場 ドーヴァー近くのイギリス軍陣営
〔鼓手、旗手を従えてエドマンド、リーガン、士官、兵その他登場〕
【エドマンド】 〔士官に〕公爵から承《うけたま》わって来い、決戦のご決意に変更はないかと。
あるいはその後何らかの理由で、これまでの方針を
変えられたようなことはないかと。公爵は気が変わり易く、
自分を責める質《たち》の人だ。公爵の最終的な意向を承わって来い。〔士官退場〕
【リーガン】 姉のところの家来に何か間違いがあったに違いない。
【エドマンド】 どうも気掛かりです。
【リーガン】 ところであなた、
あなたにもおわかりと思うけどわたしはあなたに好意を持っているわ。
ね、言って頂戴、ほんとうのことを、どんなに言いにくくてもほんとうのことを。
姉のこと愛してるんじゃないでしょうね?
【エドマンド】 ええ、でも恥ずべきことはしてません。
【リーガン】 でも兄以外は入ってはいけないところへは、あなたは絶対に
行ってはいないわね?
【エドマンド】 そんなことを考えるとあなたにケチがつきます。
【リーガン】 わたしは気掛かりなんです、あなたは姉とずっと結ばれていて、
乳繰《ちちく》り合っていたのではないかと。もうすっかり姉のものではないかと。
【エドマンド】 いや、わたしの名誉にかけてそんなことは。
【リーガン】 わたしは姉が絶対に我慢ならないの。ねえあなた、
姉と仲よくしないで頂戴ね。
【エドマンド】 心配はいりません。
そのご本人と主人の公爵殿のご入来!
〔鼓手、旗手を従えてオールバニ、ゴナリル、兵士ら登場〕
【ゴナリル】 〔傍白〕いっそこの戦い|しくじった《ヽヽヽヽヽ》ほうがいい、妹が
あの人と私の間《あいだ》を|しくじる《ヽヽヽヽ》くらいなら。
【オールバニ】 おおリーガン殿お会いできてよかった、お元気か?
〔エドマンドに〕実はこういうことを耳にしました、国王は娘御《むすめご》の処へ参られたと、
この国の苛酷な政治についに不満を爆発させた
他の者どもを従えて。わたしは大義名分の立ち得ぬようなところでは、
勇敢な振舞いに出たことは決してなかった。こんどのことに関しては、
われらはこれを見逃すことはできない、仏王はわが国土を侵略しているのだから。
尤《もっと》も正当にして重大な理由から止むを得ずわれわれと対決していると思われる、
国王とその従者たちを仏王は支援するためというなら話は別だが。
【エドマンド】 まことご立派なお話ぶり。
【リーガ】 なぜそんな議論をしているのです?
【ゴナリル】 すべての力を結集して敵に対抗すべきです。
そのような内輪《うちわ》の、個人的な事情からの|いさかい《ヽヽヽヽ》を
ここで問題にしても仕方がありませんもの。
【オールバニ】 では歴戦の強者《つわもの》どもを呼んで、
これからの戦《いくさ》の手筈《てはず》をばととのえることとしよう。
【エドマンド】 お泊りの幕舎のほうへただちに参ることにいたしましょう。
【リーガン】 姉上、私どもと一緒にいらっしゃるんでしょう?
【ゴナリル】 いいえ。
【リーガン】 ご一緒するのが一番都合がよろしいわ。ねえそういたしましょう。
【ゴナリル】 〔傍白〕へえだ! そんな謎はわかっている。〔リーガンに〕参りましょう。
〔一同退場しようとする処へ変装したエドガー登場〕
【エドガー】 閣下はこんな賤《いや》しい男とお話なさったことはございませんでしょうが、
一言《ひとこと》お耳に入れたき儀がございます。
【オールバニ】 〔一同に〕後《あと》から追いつきます。
〔エドマンド、リーガン、ゴナリル、将兵、従者ら退場〕
〔エドガーに〕話すがよい。
【エドガー】 戦闘を開始される前に、この書面をご開封ください。
首尾よく勝利をおさめられた暁には、これを持参したる者を呼び出すため、
喇叭《らつぱ》を吹き鳴らさせてください。それがし賤しい者にございますが、
その中に申し述べられておりますことの事実なること、
真剣勝負をもちましても証明してご覧に入れます。もし武運|拙《つた》なく
敗戦となりましたるときは、閣下のこの世にてのお仕事もそれにて終わり、
また策略陰謀も立ち消えでございます。ご幸運を祈ります!
【オールバニ】 手紙を読み終えるまで止《とど》まってくれないか。
【エドガー】 それはできません。
時いたりましたなら、どうか伝令に呼び出しをかけさせてください。
そのときにはまた姿を現わします。
【オールバニ】 そうか、では元気で行け。
〔エドガー退場〕
手紙はよく読んでおく。
〔エドマンド再登場〕
【エドマンド】 敵軍は目前に迫りました。戦闘準備を整えられたい。
これがわが方の綿密なる斥候《せっこう》活動により判明した
敵方の現有勢力の予想です。しかし今は閣下の早急なる行動が
緊急に必要とされているのです。
【オールバニ】 その要請に応《こた》えたい。〔退場〕
【エドマンド】 俺《おれ》は姉のほうにも妹のほうにも両方に愛を誓った。
どっちも互いに相手を警戒している。ちょうど一度毒蛇に刺されると、
以後極端に毒蛇を警戒するように。どっちをものにしてやろうか?
両方か? 片方か? それともどっちもやめるか? 両方生きていては、
どっちも楽しむという訳にはゆかん。後家《ごけ》のほうを取りゃあ、
姉のゴナリルは頭《あたま》に来て、気が狂ってしまうだろう。
姉のほうにしたって、勝ち札を手に入れることはまずむずかしかろう、
亭主がまだ生きてるんだから。そこでだ、うまく使ってやるんだ、
奴の戦争における名声と手腕を。それが済んだら、
奴をお払い箱にしたがっている女に、奴を早急に
始末させればいい。彼奴《きやつ》はリアおよびコーディリアに
心からの同情を寄せているが、戦争が済んで、
二人ともがわれわれの捕虜になった時点では、
あの男が連中を許すようなマネは絶対にさせん。俺《おれ》にとって大事なことは、
俺自身を守ることで、リクツをこねまわすことでは金輪際ない。〔退場〕
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第二場 両陣営の間《あいだ》の野原
〔内側にて突撃前進の喇叭《らっぱ》の音。鼓手、旗手を従えてリア、コーディリア、その部隊登場。そして退場。エドガーおよびグロスター登場〕
【エドガー】 さあおとっつぁん、この木陰は恰好の憩《いこ》い場所だ、
しばらく休んでください。正しい者が栄えるよう祈《いの》りなさい。
もしあたしが二度とあんたのところへ戻って来られたら、
きっといい報らせを持って来る。
【グロスター】 あなた様に神の御恵みを!〔エドガー退場〕
〔突撃前進の喇叭の音。後《のち》に軍の退却。エドガー再登場〕
【エドガー】 逃げるんだお年寄り! さあ手をお貸しなさい、逃げるんだ!
リア王とその娘御とは捕虜となられた。
さあ手をお貸しなさい。参りましょう。
【グロスター】 いやもう行かん。人はどこででも果てることはできる。
【エドガー】 何と! また悪い考えが出たんですか? 人は耐えねばならない、
この世からの退場を、この世への入来を耐えたように。
熟することがすべてだ。さあ参りましょう。
【グロスター】 それもまた道理だ。〔退場〕
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第三場 ドーヴァー近くのイギリス軍陣営
〔勝利者として、鼓手と旗手とを従えてエドマンド、捕虜としてリア王およびコーディリア登場。将兵その他〕
【エドマンド】 だれか将校たちをして彼らを引っ立たしめよ。
彼らを裁くことになっている上司からの命令あるまで、
よく監視するのだぞ。
【コーディリア】 心が正しくとも最悪の事態を招いたのは、
何もわたくしどもが最初ではありません。非道の扱いを受けた王よ、
お父上のことを思うと「運命」のどん底に投げ出されたと気が滅入ります。
わたしだけならあの嘘つきの女神など睨《にら》み返してやるのですが。
あの娘たち、あの姉妹たちに会ってみましょうか?
【リア王】 いや、いや、いや、いや! さあ牢屋へ行こう。
われわれ二人だけで籠《かご》の鳥のように歌おうではないか。
そなたがわしの祝福を願うときには、わしは跪《ひざまず》いて
そなたの許しを乞おう。そうして生きてゆこうよ、
お祈りをして、歌をうたって昔話をして。金色の蝶々を
大いに笑い、気の毒な奴輩《やつばら》が宮廷のうわさ話をするのを
聞いてやろう。そしてその連中の話し相手ともなってやろう。
誰が敗けて、誰が勝って、誰が登用されて誰がお払い箱になったとか。
そしてあたかも神々のスパイのごとくになって、すべての物事の秘密が
わかっているようなふりをしてやろう。そして壁にかこまれた牢屋の中で、
月の力で上げたり下げたりする潮同様の、
お偉方連中の党派、派閥《はばつ》の動きを余所《よそ》に生き長《なが》らえよう。
【エドマンド】 引ったてろ。
【リア王】 このような生《い》け贅《にえ》に対しては、おおコーディリア、
神々はおん自《みずか》らの手で香をたいてくださるのだ。わしはそなたを掴《つか》まえているな?
二人を引き離そうとする奴は天から稲妻を持って来て、
狐のようにわれわれをここから燻《いぶ》し出さねばならん。涙をお拭きなさい。
連中の不吉な栄耀栄華《えいようえいが》は彼奴《きやつ》らを、肉も皮も食い尽くさずにおかんぞ、
そのときまでわれわれが泣かされてたまるか。彼奴《あいつ》らが先に飢え死にするんじゃ。
さあ行こう。
〔リアおよびコーディリア警護されて退場〕
【エドマンド】 おい隊長、ここへ来い。いいかよく聞け。
この書面を受け取れ。〔書面を渡す〕連中の後《あと》を追って牢屋へ急ぐのだ。
すでにわしはそのほうを一段階は取り立てた。もしそのほうが、
この書面の命じるとおりを実行すれば、そのほうはさらに栄達、
出世街道を進むことになる。いいか、よく考えるのだ、人の運勢は
時勢の動きと共にある。情け心を出すことは
武士《もののふ》たるにふさわしくない。そのほうの重大なる任務については、
とかくの議論の余地はない。さあどっちにする、やるつもりか、
それともわしの処を出て行くか。
【将校】 いたします閣下。
【エドマンド】 すぐかかれ。そして為《し》終えたら自分こそ天下の仕合わせ者と考えてよい。
いいか……よく聞け、すぐにだぞ、わしが書いたとおりに
実行するのだぞ。
【将校】 わたしとても荷車引いたり、乾麦食べて生きるわけには参りません。
人間のやることならいたします。〔退場〕
〔ファンファーレ。オールバニ、ゴナリル、リーガン、将兵たち登場〕
【オールバニ】 今日は実に勇猛果敢なご気性を示された。
それに「運命」の女神も貴殿に加担された。捕虜とされたのは
他《ほか》ならぬ本日の戦闘の主たる目標であったご両人である。
そのお二人のお引き渡しをここに貴殿にお願いしたい。両人の当然の酬いと、
またわれわれの身の安全とを平等に考慮して、
両人の扱いを決めたいと考えるからです。
【エドマンド】 実はわたしは、
あの惨めな老王はどこかしかるべきところに閉じこめて、
監視を付けておくようにするのが適切と考えました。
その高齢には何か魔力があり、その国王として称号にはなおさらの力があり、
一般民衆の心を容易に味方に惹《ひ》き付けてしまうからです。
あまつさえわが徴募した兵隊どもは平気でその鋒先《ほこさき》を転じて
その指揮者たるわれわれの目に向けるようになります。王妃も閉じこめました。
その理由はまったく同じです。その両人とも、明日、
あるいはそれ以降の時点で、お裁きの法廷が開かれるときは、
いつ何時《なんとき》たりとも出頭させるようにしてあります。現時点では、
われわれは血と汗にまみれています。友は友を失い、
いかなる正義の旗印もこの戦争の熱気の中では、
戦争の痛手を蒙《こうむ》った人々からは呪われています。
コーディリアとその父の問題は、より適当な場所において
扱われてしかるべきものと考えます。
【オールバニ】 まこと失礼ながら、
拙者貴殿をこの戦争においては単なる一部下と考えており、
兄弟とは考えておりませんぞ。
【リーガン】 それは妾《わらわ》の意向で決まることでござりまするぞ。
そこまで言われるなら、その前に妾《わらわ》の気持をお尋《たず》ねあってしかるべきであった、
と思われまする。エドマンド殿は妾《わらわ》の軍隊を統率なされたお方です。
私の地位に帰属する権威を行使し、私個人の代行者でありました。
かくのごとき直接の代表権をもってすれば、エドマンド殿は断乎立ち上がって、
われこそはあなたの兄弟だと宣言できまする。
【ゴナリル】 そう熱々《あつあつ》にならないで。
このお方が人並み優れていらっしゃるのはご自分の力のお蔭です。
あんたがお上げになった肩書のせいではありませんよ。
【リーガン】 私が授けた
もろもろの権利によってこそ、このお方は最上位のお方と肩を並べるのです。
【オールバニ】 このご仁があんたのご亭主になれば、それこそ最高に上等というわけだ。
【リーガン】 「道化はしばしば予言者なり」
【ゴナリル】 そんなことをあんたに言った目は、藪睨《やぶにら》みにきまってる。
【リーガン】 ゴナリル殿、わたしは気分が悪い。でなければ腹に居《す》えかねた
怒りの言葉を浴びせ掛けて応酬してやるのだが。将軍、
わたしはあなたに、わたしの軍隊も捕虜も財産も差し上げます。
みんなご自由にお使いください、このわたしも。この女の城はあなたのもの。
全世界よ証人となれ、わたしはここにあなたを
わが夫、わが主人と決めまする。
【ゴナリル】 ほんとにモノにするおつもりかい?
【オールバニ】 〔ゴナリルに〕それを親切ごかしに止《と》める権利はあんたにはないよ。
【エドマンド】 〔オールバニに〕あんたにもないよ、閣下。
【オールバニ】 ところが妾腹君、わしにはあるのだ。
【リーガン】 〔エドマンドに〕太鼓を鳴らし、私の権利はあなたのものという証《あか》しをなさい。
【オールバニ】 待てしばし。理のある処に耳傾けい。よいかエドマンド、
わたしは汝《そち》をここに大叛逆罪で逮捕する。然してその共犯者として、
この金ピカの毒蛇を。〔ゴナリルを指して〕
あんたの要求については、妹御よ、
わたしはわたしの妻の利益代表としてそれを拒否する。
実は妻こそはこの殿御と結婚をする約束をしているのだ。
そしてわたしはここに夫として、そなたの婚約に異議を申し立てる。
どうしても結婚したいというなら、このわたしに申し込め。
妻はもう婚約をしているのだ。
【ゴナリル】 とんだ茶番劇!
【オールバニ】 グロスター、そのほうは武装しておるな。喇叭《らっぱ》を吹き鳴らさせろ。
そのほうの憎むべき、明々白々な、数々の大罪を、
紛れもなくそのほうが犯したと証言する者がこの場に現われなければ、
かく申す拙者《せっしゃ》が相手になってやる。〔革手袋を投げる〕
さあよいか、たったの今、
貴様の心の臓に思い知らしてやる、貴様こそはまさに
わたしがここで宣言したとおりの悪逆無道の大悪人だと。
【リーガン】 苦しい、おお苦しい!
【ゴナリル】 〔傍白〕苦しくないというんなら、もう毒薬なんか信用しない。
【エドマンド】 よし受けて立つ。〔革手袋を投げる〕
このわたしを叛逆者呼ばわりをする輩《やから》は、
どこのどいつだろうか、彼奴《そやつ》こそは文字どおりの大悪党、大|嘘《うそ》つきだ。
喇叭《らっぱ》を吹き鳴らして呼び出せ。あえて近づいて来る奴には、
どいつも、こいつも、やって来る奴みんなに、
この俺《おれ》の真実と栄誉の証《あか》しを立ててやる。
【オールバニ】 おおい伝令!
【エドマンド】 〔自分の軍隊に〕伝令、おおい伝令!
【オールバニ】 自分自身の力だけを頼るがよい。貴様の軍隊は
もともとわたしの名儀で徴募したものだから、
わたしの名儀で解雇した。
【リーガン】 苦しくて死にそうだ!
【オールバニ】 この人は工合がよくない。わたしの幕舎へ運んでくれ。
〔リーガン介抱されて退場〕
〔伝令登場〕
伝令ここへ来い……喇叭《らっぱ》を吹き鳴らし……
それからこれを読み上げろ。
【将校】 喇叭手、吹け!〔喇叭の音〕
【伝令】 〔読む〕もしこの軍隊に名を連ねる者高位高官の者にして、自称グロスター伯爵エドマンドに対し、彼こそは数々の謀叛《むほん》を重ねし大罪人であると主張せんとする者は、第三回目の喇叭の音と共に名乗り出よ。彼エドマンドも勇敢に自衛するものなり。
吹け!〔第一回目の喇叭〕
もう一回!〔第二回目の喇叭〕
もう一回!〔第三回目の喇叭〕
〔内側より応答の喇叭〕
〔エドガー武装をし、喇叭手を先にして登場。兜《かぶと》のため顔はわからない〕
【オールバニ】 その者に問いただせ、喇叭の呼び出しに応じて現われたるは、
そもそもいかなる所存からであるか。
【伝令】 いかなるお方であられるか?
ご姓名は? ご身分は? またこの呼び出しに応じられた
そのわけは?
【エドガー】 それがしの名は失くなったものとお考えありたい。
謀叛者《むほんもの》の牙《きば》にかかって噛《か》み取られ、虫に食われて朽《く》ち果てた。
されど身分に関しては、手合わせのため参った
件《くだん》の相手同様、いと高い。
【オールバニ】 その手合わせの相手と申すは?
【エドガー】 グロスター伯爵エドマンドと名乗りしはいずれなるか?
【エドマンド】 拙者《せっしゃ》がそうだ。汝《そち》の言い分とはなにか?
【エドガー】 そのほうの剣を抜け。
もしそれがしの言い分にして貴族たるそのほうの心性を害するものあれば、
そのほうの剣をもって事の正邪を決めい。わしも抜くぞ。
見よ、かくすることこそ武士としてのわが名誉、わが誓い、
わが本分の持つ特権と心得る。われこそはここに天下に宣言する……
そのほうがいかに権力、地位、若さを誇り、卓越しおろうとも、
そのほうに勝利者の剣、鋳型《いがた》の熱《ねつ》いまだ冷《さ》めやらぬ幸運、
いかなる武勇、剛胆《ごうたん》があろうとも……そのほうは叛逆者である。
いやしくも神々に対し、兄弟に対し、父親に対し不義、不信、
ここにおられる高位にして傑出されたる公爵閣下のお命を付け覗う陰謀者、
そのほうこそはまさに頭の天辺《てっぺん》から足の裏、その足の裏の埃《ほこり》にいたるまで、
体中《からだじゅう》|毒いぼ《ヽヽヽ》だらけの|ひきがえる《ヽヽヽヽヽ》同然、汚辱この上ない叛逆者である。
かりそめにも「否」と言ってみよ、そのときこそはこの剣、この腕《かいな》、
それにそれがしの全精魂を傾けて、そのほうの心の臓に、
わしが話しかけているその心の臓に、そのほうこそは大の嘘《うそ》つきだという、
明確な証拠を突き刺してやる。
【エドマンド】 汝《そち》の名をまず聞くのが順序だが、
見たところ汝《そち》の外観は十分立派で勇ましく見え、
しかも汝《そち》の言葉使いには何か育ちの良いものが感じられる。
武士道の掟《おきて》に従えば当方にいささかの落ち度もなく当然、
この申し出を拒絶してよいのだが、わしはそれを潔《いさぎよ》よしとせず、そういう考えを一蹴《いっしゅう》する。
汝の叛逆者呼ばわりの言いがかり、断乎汝の頭上に投げ返し、
地獄同然に忌《い》まわしい汝《そち》の大嘘でその胸を圧しつづけてやろうぞ。
叛逆者の汚名もわしを素通りして一向にわしを傷つけざるによって、
わしのこの剣をもって汝《そち》の胸に立ちどころに血路を開き、
その汚名を汝の胸の中に永遠に留めてくれるわ。喇叭手、吹け。
〔戦闘準備の喇叭。二人戦う。エドマンド倒れる〕
【オールバニ】 殺してはならぬ、殺してはならぬ!
【ゴナリル】 グロスター、謀《はか》られたのです。
戦いの定めによれば、あなたは名も知れぬ輩《やから》などを
相手にする必要は毛頭なかったのです。あなたは負けたのではありません、
ペテンにかけられたのです、騙《だま》されたのです。
【オールバニ】 お黙りなさい奥方。
さもないとこの手紙であんたの口に栓をしますぞ。
〔エドガーが倒れたエドマンドを刺そうとする。オールバニそれをとめる〕
お止《や》めください。
〔ゴナリルに〕この呼びようもないような悪党|奴《め》、己《おの》が罪業を読むがよい。
〔ゴナリルが手紙を引《ひ》っ手繰《たく》ろうとする〕
いや、引っ手繰ることも裂くこともなりませぬ奥方殿。身に覚えがあるのだな?
【ゴナリル】 かりにそうだとしても法律は私の思うまま、あんたの思うようには参らない。
いったいこの私を訴えられる者がいると思うの?
【オールバニ】 何とも呆れ果てた!
この手紙を知っているのだな?
【ゴナリル】 わたしが知っていることなんかお聞きでない。〔ゴナリル退場〕
【オールバニ】 後《あと》を付けよ。自暴自棄になっているから監視の要がある。〔将校退場〕
【エドマンド】 あんた方がわたしを糾弾《きゅうだん》したことはたしかにやった。
そればかりではない。もっと多くをやらかした。時が経《た》てばわかるだろう。
すべては終わった。わたしもそうだ。だがいったいそのほうこそは何者だ?
かくも幸運にもこのわたしを仕留《しと》めるとは? 貴族の出《で》だというなら、
あえてそのほうを許しもしようが、
【エドガー】 この辺《あた》りで互いに名乗って罪を許し合おう。
わたしは血統においてエドマンド、汝《そち》に劣る処はいささかもない。
勝る処ありとすれば、その分だけ汝《そち》のわたしに対する罪は重いのだ。
わたしの名はエドガー、そのほうの父親の正統の息子《むすこ》だ。
神々は公正であられる。われわれの不義の快楽で、
われわれを苦しめる道具を作られる。
そのほうを暗い、不義の場所で生ませたその人は、
お蔭でその目を失くさせられた。
【エドマンド】 言うとおりだ、そのとおりだ。
「運命」の輪はぐるり一回転した。わたしは今やどん底だ。
【オールバニ】 〔エドガーに〕君の動作には何か王侯貴族の持つ高貴さというものが、
たしかにあるように思えた。君にあらためて挨拶がしたい。〔互いに抱擁する〕
誓って言うが、君もしくは君のお父上を憎んだというようなことはかつてない。
それが嘘《うそ》だというなら悲しみでこの胸も張り裂けよ!
【エドガー】 閣下、わかっております。
【オールバニ】 今まで何処に隠れておられた?
お父上の災難はどうしてお知りになりました?
【エドガー】 それを介抱していてわかりました。聞いてください概略の話を。
話をし終えたら、おお! この胸も張り裂けよ!
身近くわたしの後をつけた残酷な勘当の布令から、
何とか逃げのびるために……おお捨てがたき人生!
たとえ死の苦しみを刻々なめようとも、それでも
たちどころに死ぬよりはまし……気違い乞食のボロを身に付けたり、
犬でさえ蔑《さげす》むような出《い》で立ちに身をやつしたりすることを
覚えました。そしてそんな姿でわたしは父に出会いました。
両の目は刳《く》りぬかれ、血ぬられた二つの指輪同然、
その宝石は今や亡く! それから父の案内役となりました。
父の手を引き、ために乞食もし、望絶の果ての自殺から救ってもやりました。
ですが鎧《よろい》をつけた、つい小半時《こはんとき》前まで、決して……
おお、それが間違いでした!……わたしの素性を明かしませんでした。
こういう結果になることを望みながらも確信は持てぬまま、
わたしは父の祝福を頼みました。そしてわが巡礼の一部始終を
父に物語ってやりました。ですが傷《いた》み切った父の心は
気の毒に、その衝撃に耐えるにはすでに余りに弱く、
喜びと悲しみの激情の両極端にさしはまれて、
にっこり笑って|こと切れ《ヽヽヽヽ》ました。
【エドマンド】 話を聞いてすっかり感動した。
そしてわたしも何か良いことをと思うようになった。ですが話の続きを。
お見受けしたところ何かもっと話したいことがありそうだから。
【オールバニ】 いやもっとあっても、もっと悲しいことなら、黙っていてください。
これまでの話を聞いて、わたしはもう涙で、押し流されそうですから。
【エドガー】 悲しみを好む人ならともかく、そうでない人々には、
多分これで悲しみは峠を越したと思えるでしょうが、まだあるのです。
それはもし余りに委細を尽くして話せば、悲しみは更に大きく、
前の極限を更に越えることになりましょう。
わたしが大声で泣き喚《わめ》いておりますと、一人の男の人が参りました。
その人はわたしのひどい乞食姿を見て、口きくのも汚《けが》らわしいとばかり、
わたしを避けていましたが、やがてその惨《みじ》めさを堪《こら》えていたのが、
このわたしだとわかると、たくましい限りのその両腕で、
わたしのこの首すじを引っ捕《とら》え、天をも擘《つんざ》くばかりに
大声で泣き叫び、父の遺骸の上にその身を投げかけ、
リアと自分自身の世にも哀れ、聞くも哀れな
悲しい物語をいたしました。それを物語っているうちに、
そのお方の悲しみは更に強大となり、終《つい》に生命の弦《つる》も切れそうになりました。
そのときです、瀏亮《りゅうりょう》たる喇叭の音が二度鳴り響くのが聞こえました。
それで気を失ったそのお方をその場に残して参りました。
【オールバニ】 でそのお方は誰ですか?
【エドガー】 ケント伯、追放されたケント伯爵です。変装をして、
敵にまわった王に付き添って、奴隷でさえ快しとしないような
ご奉公をなさいました。
〔一人の紳士が血だらけのナイフを持って登場〕
【紳士】 助けてくれ、助けてくれ!
【エドガー】 どういう助けだ?
【オールバニ】 さあ言え。
【エドガー】 その血だらけのナイフは何だ?
【紳士】 まだ温《あたた》かです、血煙を立てています。
いま胸から抜き取ったばかり、あの方の……おおあの方は亡くなられました。
【オールバニ】 誰が亡くなったのだ言え。
【紳士】 閣下の奥方様にございます。お妹君は奥方様の手にかかって
毒殺されました。奥様が自白なさったのでございます。
【エドマンド】 わたしはその両方と婚約しておった。こうなれば
三人一度に結ばれることになる。
【エドガー】 ケント殿が見えました。
〔ケント登場〕
【オールバニ】 二人の遺骸をここへ移せ、生きていようが死んでいようが。
〔紳士退場〕
上天のこのお裁きにわれわれは打ち震《ふる》えはするが、
二人を哀れむ気持は起こらない。〔ケントに〕おお! これがそのほうか?
時《とき》が時《とき》故、型どおりの挨拶を互いに交わしている暇《いとま》は
もちろんない、残念ながら。
【ケント】 わたくしがここに参りましたのは、
わが国王、わがご主君に永《なが》のお別れを申し上げるためでございます。
王はここにはおられませんか?
【オールバニ】 大変なことを忘れていた!
言えエドマンド、王はどこだ? コーディリアはどこだ?
ケント殿、ご覧なさいこの有様を。
〔ゴナリルとリーガンの死骸が運びこまれる〕
【ケント】 ああ! なぜこんなことが?
【エドマンド】 何と言われようとエドマンドは可愛がられた。
一人がもう一方を、このわたしのために毒殺し、
その後で自殺したのだ。
【オールバニ】 そのとおりだ。顔に何か掛けてやれ。
【エドマンド】 息が切れそうだが、もう暫《しばら》く息が欲しい。何か良いことがしたい、
わたしの本性にも似ず。大急ぎで使いを出して欲しい、
一刻の猶予《ゆうよ》もならん、城へだ。わたしの命令書は
リアとコーディリアの命に関してだからだ。
愚図愚図《ぐずぐず》していては駄目だ、早くやれ。
【オールバニ】 走れ、走れ! 走るのだ!
【エドガー】 誰のところへ参るのでしょうか?〔エドマンドに〕係りは誰だ?
取り消し命令の証拠になる物を持たせろ。
【エドマンド】 よい処に気がついた。この剣を持って行け。
それを隊長に渡せ。
【エドガー】 急いで行け、命をかけてだぞ。〔将校退場〕
【エドマンド】 隊長はあんたの奥さんとわたしから命令書を受け取っている。
コーディリアを牢屋の中で絞め殺し、そして彼女が、
自殺という非難すべき行為をあえてしたのは彼女自身の絶望から、
というふうにする手筈《てはず》になっていた。
【オールバニ】 神々よ何卒《なにとぞ》彼女を守らせ給え!
この男しばらくあちらへ運んでおけ。
〔エドマンド運び出される〕
〔リアが絶命したコーディリアを両の腕に抱いて再登場。将校その他続く〕
【リア王】 吠《ほ》えろ、吠えろ、吠えろ! おお! お前らは石の心の持ち主だ。
わしにもしお前らの舌と目とがあったなら、それを使って
この大空の円《まる》天井をおし潰《つぶ》してやるのだが。とうとう去《い》ってしまった。
人が死んでしまった時と人が生きている時と、わしにはよくわかる。
とうとう死んでしまった、大地のように動かない。鏡を貸してもらえないか。
もし息《いき》がかかって鏡が曇ったり、汚《よご》れたりすれば、
それはつまり、娘がまだ生きているということだ。
【ケント】 この世の終わりとはこのことか?
【エドガー】 それともその写し絵か?
【オールバニ】 大宇宙も落ちよ、天体の運行も止《と》まれ。
【リア王】 この羽毛《はね》が動く。娘は生きている! もしそうなら、
わしがこれまで耐えてきたすべての悲しみは、
これで償われることになる。
【ケント】 〔跪《ひざまず》いて〕おおわがご主君!
【リア王】 あっちへ行ってくれ。
【エドガー】 ケント伯爵です、陛下よくご存じの。
【リア王】 疫病にでもとっつかれろ! お前らはみんなひと殺しだ、謀叛者《むほんもの》だ!
もう少しで娘の命を救えたのに。これですべては駄目になってしまった!
コーディリア、コーディリア! 待ってくれ今しばらく。おやっ!
何と言ったのじゃ? この人の声はいつも物静かで、
やさしく、そして低かった……女にとっては素晴らしいものじゃ。
そなたの首を絞めた奴隷めは、このわしが殺してやった。
【将校】 そのとおりでございました、王がそ奴を殺されました。
【リア王】 殺したろうが?
昔はわしも肉に食いこむフォールチョン剣を振り回して、
連中を蜘蛛《くも》の子のように追い散らしたものだ。だがもう年だ。
この苦労の数々で腕もすっかり鈍《にぶ》ってしまった。君は誰だ?
わしの目は極上というわけにはゆかんのだ。だが待て、すぐにわかるだろう。
【ケント】 もし「運命」の女神が、最初色目を使い、後《のち》に棄てた二人の例を誇るなら、
お互いその一人ずつを見ているのです。
【リア王】 どうもはっきり見えない。君はケントではないか?
【ケント】 そのとおりにございます。
陛下の下僕《しもべ》のケントにございます。陛下の下僕《しもべ》のカイアスはどこにおりますか?
【リア王】 あれはいい奴だ。わしは君にはっきりそう言える。
あれはよく剣を使いたがり、しかも手が速《はや》かった。奴は死んで腐ってしまった。
【ケント】 いやご主君様、実はわたくし奴《め》がその男にございます……
【リア王】 そうか、すぐ見とおすようにしよう。
【ケント】 陛下が最初お変わりになったころ、ご凋落《ちょうらく》のころからずっと、
陛下の悲しい御足取りの後《あと》について参りました。
【リア王】 よく来てくれた、歓迎する。
【ケント】 余人ならぬその男です。でもすべては陰気、暗鬱《あんうつ》で恐ろしい限りです。
陛下の上の娘御たちは自らの手で破滅を招かれました。
そして絶望の果てのご最後でした。
【リア王】 そうだ。わしもそうだと思う。
【オールバニ】 王はご自分でおっしゃっていることがわからないのだ。したがって
われわれが名乗り出ても無駄なのだ。
【エドガー】 まったく無益です。
〔将校登場〕
【将校】 閣下、エドマンドが亡くなりました。
【オールバニ】 この際そんなことは些細《ささい》なことだ。
諸卿ならびに貴族諸君、ここで予が考えを申し述べておく。
この落魄《らくはく》の果ての偉大なるお方に対しては、能《あた》う限り
お力になってさし上げたい。予自身に関しては、予はここに、
老陛下ご在世ある限りは、予が統治の絶対権を
老王にお譲りするものである。
〔エドガーおよびケントに〕君たちには、君たちの固有の諸権利に加えて、
君たちがこれまでたてた戦功に十二分に報いるよう
論功行賞を行ないたい。すべて友軍の士は、
その功績に応じた報酬を受け、すべて敵対行動を取ったものは、
応報の苦杯を嘗《な》めることとなろう。おお! 見よ。見よ!
【リア王】 可哀相にわしの阿呆は首を絞められた! もう、もう生きてはいない!
いったい犬、馬、ねずみにさえ命があるというのに、
なぜお前には息がないのだ? お前はもう帰っては来ない、
決して、決して、決して、決して、決して!
頼む、このボタンを外《はず》してくれ。どうも有難う。
見給えこれを。ほらこの顔を、ほら、この唇を、
ほら、ほら!〔死ぬ〕
【エドガー】 息を引き取られた! 陛下、陛下!
【ケント】 胸も張り裂けよ、張り裂けてくれ!
【エドガー】 しっかりなさってください陛下。
【ケント】 御魂《みたま》をお悩まし申してはなりません。往かせてさしあげようではないか。
この冷酷な世の拷問《ごうもん》台にこれ以上お乗せしようとする者を、
陛下はきっとお怨《うら》みになろう。
【エドガー】 完全に|こと《ヽヽ》切れました。
かくも長らえられたのが不思議なくらいです。
お命をば無理矢理《むりやり》に手に入れられていたのです。
【オールバニ】 ご遺骸をお運びしてくれ。われわれのさし当たっての仕事は、
国を挙げて喪《も》に服することである。
〔ケントおよびエドガーに〕
わが心の友である両君、
この国の統治に参画し、この血に塗《まみ》れた国の状態に手を貸してくれ給え。
【ケント】 わたしには間もなく出立せねばならない長《なが》の旅路が控えております。
ご主君がわたしをお呼びです、お断わりはできません。
【エドガー】 この悲しみの時勢の重荷はわれわれみなが背負わねばなりません。
今は感じたことを率直に言うべきで、慎重に考えてなどいるべきときではありません。
一番年を取った人たちが一番苦しんだ。われわれ若い者は、
これほどの目には会わないだろうし、長生きもすまい。〔葬送の曲と共に全員退場〕(完)
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解説
『リア王』について
〔テクスト〕シェイクスピア『リア王』は一六〇七年十一月二十六日、書籍出版組合(Stationers' Register)に登録された。出版は一六〇八年の「|第一、四折版《ファースト・クオート》」が最初であった。四折版というのは全紙を二度折ったものでふつう九・五×一二・五インチくらいの大きさである。この「第一、四折版」は一応おおやけに認められたものであったが、そのテクストそのものには疑わしい箇所が多くあった。ある学者はこれは台本の保管者が、記憶を元にして口述したものと考えている。またある学者は劇団総員が地方巡業の折りに、その記憶から口述したものと考えている。また速記者が上演中のものを速記したという説もある。またアリス・ウォーカー女史などは、ゴナリルとリーガンを演じた二人の少年俳優がシェイクスピア直筆の原稿に近づくことができ、それを出版社の者に口述、それにさらに自分たちの憶えているセリフ、その他を付け加えたものという仮説をたてた。「第二、四折版」も一六〇八年という「第一」と同じ年号が付いているが、これは売らんかなの商魂のためで、実は一六一九年に出されたものであった。実質的には「第一」のコピーに過ぎないものだった。シェイクスピアの最初の全集、一六二三年の「|第一、二折版《ファースト・フォリオ》」のテクストにも多くの問題がある。これは「第一、四折版」(それにおそらくは第二、四折版)と、劇団の舞台用台本との両方を校合して作られたものと考えられている。「二折版」もそれ自身の弱点を持っている訳である。「二折版」にある約百行ほどが「四折版」にはなく、また「四折版」の約三百行ほどが「二折版」には欠けている。大作『リア王』は内容的にも多くの、大きな問題点を含んでいるが、テクストの面でも同じように多くの、大きな問題をかかえている。
〔制作年代〕『リア王』を書くに当たってシェイクスピアは、ハースネット(Samuel Harsnett)の『カトリック連中の驚くべきペテン告発』(三幕四場参照)に多くを負っているが、これが書籍組合に登録されたのが一六〇三年三月である。次に前述の「第一、四折版」の扉に「クリスマス休暇、聖スティーヴンスの夜、ホワイトホールにて国王陛下の御前にて上演」とあり、この宮廷上演は一六〇六年のクリスマスとわかっているから、『リア王』の制作年代はまず一六〇三年三月から一六〇六年クリスマスの間と定めることができる。次に考えるべきは一幕二場八四行以降でグロスターが言及している日食、月食のことである。実際に一六〇五年十月二日に皆既日食が、それより少し以前同年九月二七日に部分月食が起こっている。日、月食はこれだけではなく、それ以前にも数回起こっているが(例えば一六〇一年には六月と十二月に月食、続いて日食が起こっている)、グロスターの言及はすぐ近くの一六〇五年のものと考えるのが妥当と思われる。とすれば『リア王』の制作年代は一六〇五年おそくか、あるいは一六〇六年初めということになる。しかしシェイクスピアが次の大作『マクベス』を書いたのが一六〇六年夏ということがほぼ確実である以上、『リア王』は一六〇五年冬に書かれたと考えるのが妥当であろう。シェイクスピアの超人的なエネルギーがこれら二大作をほとんど同時期に制作した、と考えるなら話は別であるが。
〔典拠〕他の作品におけると同様に、シェイクスピアは『リア王』においても多くの先人の作に負っている。なかんずく一六〇五年夏に出版された作者不詳の作『レーア王とその三人の娘の年代記劇』に負うところが多い。そのあらましを次に述べる。
「敬虔なキリスト教徒である英国王レーア(Leir)は退位を決意し、三人の娘を結婚させて王国を娘の夫たちに分割することにする。二人の姉娘たち、ゴナリル(Gonerill)とレイガン(Ragen)にはすでに求婚者(コーンウォル王およびカンブリア王)がいるが、末娘コーデラ(Cordella)には結婚する気持ちがさらにない。レーアは一計を案じ、愛情テストをすることにする。自分に対する愛情が一番深いと思われる末娘は、必ずや自分の意に添う返事をし、自分の言う通りに結婚してくれるだろう、というのが彼の計算である。その計略は見事に失敗する。姉娘たちは最上級の美辞麗句を並べたててお追従を言うのだが、それに反発するコーデラの答えはまことに素っ気ないものだった。
私には私の尽くすべき孝養を言葉でうまく描き出すことはできません。
私は私の行動がそれを表わしてくれるものと願っております。
が、お父上、いやしくも子が父親に対していだくべき愛情、
それをば私はお父上に対して持っているのでございます。
ここにおいてレーアは烈火の如くに怒り、もはや親でも子でもないとコーデラを勘当してしまう。年老いた忠臣ペリラス(Perillus)は王を諌めようとするが、逆に王にたしなめられてしまう。かくしてルーアはゴナリルをコーンウォルに嫁がせ、そこに寄寓することにする。
シーンが変わって、ガリヤの国王はかねてからレーーア王の美しい三人娘の評判を耳にしていたが、それを確かめようと巡礼に変装してブリテンヘやって来ている。そして噂《うわさ》が真実ならその一人と結婚したいと思っている。宮廷への途中、偶然、勘当されたコーデラに会う。彼女はお針女に身をやつしている。
私は針仕事をやってみようと思っているのでございます。
そしてこれからのくらしをこの指先で立ててゆこうと思っています。
ガリヤ王はこのコーデラに一目惚れしてしまう。そして二人は教会へ急ぐ。
レーアはコーンウォル王家に身を寄せているが、次第に厄介者扱いされ、ゴナリルは自分と夫とのあいだのトラブルの火付役はいつも父親だとわめき出し、家から追い出そうとする。レーアは泣く泣く、今はカンブリア王妃のレイガンのもとへ行く。コーンウォル王(シェイクスピアのケントに似る)はゴナリルを諫めて父王を呼び戻そうと使者を出すが、ゴナリルはその使者を途中で呼び止め、買収し、父王の悪口を存分にレイガンに伝え、できれば人目につかぬ場所で父王を亡き者にするよう言い付ける。使者は王とペリラスをとある森で見付け、彼らを殺そうとする。時あたかも烈しい雷雨が彼らを襲い、使者はあらしの恐怖と良心の呵責《かしゃく》とで殺しを思い止まる。
レーアはついにコーデラを試してみようと決める。ペリラスと共にフランスヘ渡るが、途中追いはぎに会い無一文となる。危うく飢え死にしそうになっているところを、運よくコーデラに助けられる。彼女は今は仕合わせであったが、父を思っていつも心が暗かった。夫ガリヤ王がそれに同情し、気を紛らすために共にピクニックに来てのことであった。レーアはその悲しい物語をし、コーデラは父の祝福を求める。レーアはひざまずいてコーデラの許しを乞う。ガリア王は姉娘たちの悪行に復讐を誓う。ガリヤ軍は無血でイギリスに上陸し、イギリス国民に迎えられ、レーアは復位する」
以上が『レーア王』の筋書の大要だが、このごく大まかな筋書からだけでも、シェイクスピアはこれに取材しながらも、またいかに大きく離れているかがよく分かるだろう。筋書、性格描写、時の問題、キリスト教的雰囲気……両者の異同の細目について比較検討すれば、シェイクスピアの心と芸術についてなお多くの興味ある数々のポイントを見出だすことができるだろう。『リア王』製作に当ってシェイクスピアが拠《よ》った典拠は『レーア王』のみではない。『リア王』の脇筋となっているグロスター一家の筋書はシドニー(Sir Philip Sidney 1554-86)の『アーケイディア』(Arcadia 1550)に拠っている。例のホリンスヘッド(Holinshed ?-1580)の『歴代記』(Chronicles 1557)にも拠っている。「コーディリア」という愛らしい名前はスペンサー(Edmund Spenser 1552?-99)の『仙界女王』(Faerie Queene 1590-96)から取ったものだろう。しかしシェイクスピアの他のすべての作品の場合におけると同様、この場合も典拠はあくまでも典拠、シェイクスピアの『リア王』が全然別のものであることは言を俟《ま》たない。如上の人口に膾炙《かいしゃ》した諸材料を自在に駆使して、さらにそれをシェイクスピア的にアレンジ、脚色し、以て画龍点睛《がりょうてんせい》、いわゆる四大悲劇の中でも特に「大悲劇」と呼ばれる偉大な作品としたものは何か。
〔『リア王』の特質と問題点〕『リア王』の筋書は非常に簡単といえばいえる。昔、小学校の教科書に「忘恩」の物語として載ったほどである。また最近では「老衰して判断力を失った老国王の悲劇」というような見方がよく行なわれている。そういう観点からの演出も時々見られる。また『リア王』は「新旧二つの自然観、人間観、宇宙観の相剋の悲劇」というような批評原理も提出され、最近の『リア王』批評に大きな影響を与えている。『リア王』をキリスト教的救済の芝居とする考え方も多く行なわれているが、キリスト教徒の多い国、ところでは当然のことだろう。またこれとは反対に『リア王』を完全な「脱宗教の悲劇」とする考え方もある。『リア王』は王リアの「自己発見の歴史」と見る批評家もいる。簡単なものから複雑なものまで実に千差万別である。そして言えることは、これらの見方のいずれもが、たしかに『リア王』の一側面を捕え得ているということである。さらに大まかな言い方をすれば、『リア王』はこれら多くの問題点、視点のすべてを含んだ巨大な複合体というようにも言い得るかもしれない。そういう意味では、『リア王』のような大作では、いかなる批評、解説も不当な単純化にすぎず、『リア王』という巨大なエネルギーの坩堝《るつぼ》に投げこまれる一要素にすぎないといえるかもしれない。
評価の面でも同様に千差万別である。『リア王』に最も激烈な攻撃の矢を放ったのはトルストイであった。彼は『リア王』はスタイル、性格描写などもろもろの点で全く真実性に欠けると酷評を下した。そしてシェイクスピアの作品よりむしろ、シェイクスピアが種本とした『レーア王』の方が傑作であるとまで言った。シェイクスピア以来のおそらくは最大の文豪であり、シェイクスピアのリアとほとんど同年令くらいだったトルストイが、何故このような酷評をしたのかは想像する以外にないが、両大家の才能の違いを比較検討することは大変に興味深い。トルストイおよび彼以前のロシアの批評家には『リア王』の宗教性の欠如を非難するものが多いが、両者の態度の根本的な差違はこのあたりがその出発点であるかもしれない。『レーア王』はそれなりの魅力を持った物語的芝居である。荒野におけるレーアとコーデラ再会のシーン、最後のフランス軍上陸のエピソードなどのリアリズムは今読んでも興味深い。所々に見られる神への祈祷、感謝のセリフなど、この芝居の宗教的基盤については疑う余地はない。シェイクスピアの『リア王』では「神」でなく異教の「神々」である。しかもその神々はわれわれを、あたかも子供が虫けらや蚊とんぼを殺す如くに、慰め半分に打ち殺す(四幕一場)。コーディリアの安全を神々に祈念するオールバニの目の前に、リアがそのコーディリアの亡骸《なきがら》を抱いて登場してくる!(五幕三場)『リア王』と『レーア王』とは全く違った芝居である。『リア王』の「神々」とはいったい何か? コーディリアの亡骸を抱いて登場し、そのコーディリアに息《いき》があるかのような錯覚を持って死んで行ったリアに、いかなる意味にせよ、宗教的な意味において果して救いがあると言えるのか?
『リア王』は余りにもペシミスティックである。悲劇のどん底に来たと思い、これ以下は無いのだからこれからは上がる一方だとエドガーが言うそばから、その目の前に両の目をくり抜かれた父親グロスターが老人に手を引かれて出てくる(四幕一場冒頭)。『リア』の悲劇は|底なし《ヽヽヽ》である。これをこのまま舞台に乗せてよいか? 狂気のリアの「模擬裁判」のシーン(三幕六場)、グロスターが両眼を抉《え》ぐり取られるシーン(三幕七場)、グロスターが崖から飛び降りるシーン(四幕六場)など、余りに非現実的、余りに残酷、このまま上演したら悲劇のクライマックスで観客は笑い出してしまうのではないか? この点でエリザベス朝の観客がいかなる反応を示したか? その点についてはわれわれは明確なことは言えない。しかしその点で、シェイクスピアの『リア王』は間もなく別人によって書き直されたという事実、そしてその後イギリスで上演されていた『リア』は実はこの別人の『リア王』だったという事実は、この辺りの事情を解明する上で一つの手懸りを提供していると言えよう。その別人というのはテイト(Nahum Tate,1652-1715)で、その改作『リア王』は一六八一年から、マックレディ(W・C・Macready,1793-1873)がシェイクスピアのオリジナルを上演した一八三八年まで、実に百五十年間ものあいだイギリスの『リア王』は実はテイトの『リア王』だった。
テイトの『リア』は今から考えると愚劣の一語に尽きる。しかし今の愚劣の一語も百五十年の歴史を抹消することはできない。『エリアの随筆』のラムが見た『リア』も、十八世紀英文壇の大御所ジョンソン博士が見た『リア』も、実はテイトのものだったわけである。テイトの改作は一言にして言えば、王政復古後の当時の好み、感性に適合せしめたものと言える。コーディリアとエドガーを恋人同志にし、英雄恋愛詩を好んだ当時の観客の趣味に合わせた。そのためフランス王は不要であり、コーディリアはフランスには行かず、テイトが創作した腰元と共にヒースを彷徨する。道化は偉大な悲劇には低俗すぎるとしてすべてカット。最後にリアは復位し、コーディリアはエドガーと結ばれてハツピー・エンディング。総じてテイトは優れたメロドラマ作家だったといえるようだ。王を求めて腰元と共にヒースを彷徨《さまよ》うコーディリアがエドガーと会い、二人が結ばれるシーンなどはなかなか興味深い。エドマンドは二人の刺客を金貨で買収し、コーディリアら二人を小屋におびき寄せ、そこで彼女を犯そうとするのだが、そこに運よくエドガーが登場し、二人の悪党どもを六尺棒で追い払うという筋書である。シェイクスピアが使った種本がもともとメロドラマティツクなものであったのだから、テイトはそれをまた元のメロドラマに戻したとも言えるわけである。
シェイクスピアが使った種本には無くて、シェイクスピアの『リア王』だけにあるものに、道化と狂気の二つがある。いずれもシェイクスピアのこの悲劇の重大な構成要素をなしているもので、これらの持つ演劇機能、効果を分析すれば、あるいはこの大悲劇の本質、原型というようなものに迫り得ると言えるかもしれない。『リア王』の狂気については、道化、エドガーおよびリアの三者三様の狂気を挙げる批評家もいる。いずれも常軌を逸脱しているという点では同じである。しかし重要なのはもちろん主人公リアの狂気である。彼自身の「自然」観によって代表されるプトレマイオス的旧体制の宇宙観、人間観は、エドマンドの「自然」観(一幕二場冒頭)によって代表される新体制のそれに仮借ない攻撃をかけられる。その熾烈な摩擦、軋轢《あつれき》、相剋に捲き込まれる老王リアの意識には死か狂気かのいずれか以外に途《みち》はない。「在る」か「在らぬ」かの二分法の迷路に彷徨し、その不可能な二者択一に主体を打《ぶ》ち当てたウィッテンベルクの大学生ハムレットは偽《いつわ》りの狂気をよそおった。老王リアは二者並存の矛盾に主体を打《ぶ》ち当てるというようなことはしなかった。|あらし《ヽヽヽ》の荒野にただ巨像の如くに咆哮《ほうこう》し、そして狂気に追いこまれた。『リア王』は主体の悲劇、性格の悲劇ではない。自然そのものの悲劇、「自然」の女神自身の悲劇、否それ以前に全宇宙森羅を統括した神々の悲劇、その意味では喜劇と言えよう。
エドガーは魔物に取り付かれているという想定である。そしてリアに取り付いた迷蒙の魔物を懸命に追い払おうとしている。道化はある時は文字通り阿呆となり、ある時は「賢明な阿呆』となり、ある時は老王を慰め、ある時はあえて苛酷な現実を直視させて彼を目覚めさせようとする。彼は本質的に破壊的でさえある。道化の歴史的な系譜をたどれば中世道徳劇の「悪」「悪魔」などに行きつく。その方面の要素、性格を強調する研究は多い。しかしシェイクスピアの『リア王』の道化で一番大切なことは、道化はあくまでも道化だということだ。この点で過大評価したり、センチメンタライズすることは、『リア王』の悲劇の本質を見誤ることだと言える。壮大な自然の悲劇、人間性の悲劇、人間社会の悲劇の中の一機能であるにすぎない。
リア王一家とグロスター公一家の悲劇の並列、交錯の見事さはただ感嘆のほかはない。「何《ナッシング》もございません」「無からは何物も生ぜず」などの言葉、イメジを両プロットに交錯させての詩的、演技的技法はまさに神技と言える。リア自身のセリフに見られる巨大な詩的エネルギーは主人公リアの性格を巨大なるものにし、作全体を「偉大なる」悲劇としている。主人公リアを老衰、脳軟化した、長屋のお爺さんのように考えるのは、『リア王』のテクストを全く無視したものと言わざるを得ない。そしてその巨大な詩的エネルギーに無限の深みを与えているのが、「目が見えた時にはつまずいた」(四幕一場十九行)というような恐ろしいパラドックス。
グロスターは目が見えた時は若気《わかげ》の過ちをし(エドマンドはその結果)、エドガーとエドマンドの本質を見誤り、目を失って始めて心の目が見えるようになった。リアもまた黙り。『リア王』の逆説は荒大なヒースの地表にできた裂け目とでも言い得るか。人間性のもつ真実の無限の神秘さを以てわれわれに迫る。
最後に、この巨大な悲劇的苦悩を経た巨大な性格リアに、果してそれにふさわしい救いはあったか? これこそシェイクスピア批評の開祖とも言われるA・C・ブラッドレー以来のすべての批評家の課題であった。そしてその結果は「救いあり」とするものと、「なし」とするものとの二つに大きく分かれるという、これも大悲劇にふさわしい悲劇的な評価の分かれ方を示している。キリスト教的見方をする者に前者が多いのは当然である。最近の批評家には後者のものが多い。いずれも正しいと言える。これは決して単なる折衷論ではない。『リア王』にキリスト教的神があるというのは、『リア王』に宗教性が無いと言うのと同様に誤りだからである。過大な単純化は不必要かつ危険である。
悲劇『リア王』は性格悲劇ではない。それはシェイクスピアはすでに『ハムレット』でやったことだ。さりとて善玉と悪玉とが紙芝居的に登場する中世の道徳劇の焼き直しでもない。リアは旧体制の王権のシンボルのみでは決してない。血肉を具えた生きた魂である。ただその悲劇を描くシェイクスピアの目は、『ハムレット』の場合などよりは、対象からさらに一歩離れて焦点を合わせている。アプローチの相違である。全篇を通読して、何か巨大なエネルギーの塊《かたまり》が薄暗闇の中で吼《ほ》えているような、巨大にして激烈な印象を得る。宗教の衣《ころも》を脱がされて、徹底的なまでに赤裸に洗い出された人間リアの悲劇は、やはり「偉大なる」人間の悲劇であった。宗教の衣を脱いだシェイクスピアの実験は、かえってわれわれ日本人にはわかり易く、その主人公はわれわれの共感を呼び易い。おそらくは十七世紀の始め、一六〇五〜六年頃こそは、シェイクスピアにとってこのような実験をする最適の精神風土であったのだろう。次いでシェイクスピアは、義兄弟にあたるデンマーク王クリスチャン四世を迎え、いわゆる「王様の芝居」『マクベス』を書くが、それを最後にストラットフォードの白鳥は暗鬱な悲劇の世界を飛び立って、その泡を集めてヴィーナスが誕生したという地中海の明るい世界、『アントニーとクレオパトラ』などのローマ劇の世界に根城《ねじろ》を移すことになる。しかし、その前に、ジェイムズ王朝時代始めのシェイクスピアの悲劇に、ここで総括的な一瞥《いちべつ》を与えておこう。
ジェイムズ王朝時代始めのシェイクスピアの悲劇について
ジェイムズ一世の治世は一六〇三年から一六二五年であった。シェイクスピアは一六一三年には創作活動をやめていたから、ジェイムズ王朝時代のシェイクスピアの劇作活動は一六〇三年〜一三年の十年間ということになる。このあいだにシェイクスピアは『ハムレット』以後の『オセロウ』『リア王』『マクベス』の三大作、ローマ劇、最後期のロマンス劇、それに『アゼンスのタイモン』『ヘンリー八世』などを書き、一六〇九年には彼の十四行詩集『ソネット集』が出版されている。
〔一般世相と劇作家たち〕総括的に言ってこの時代は、一般世相は比較的に安定し、作家たちは文芸活動に比較的に集中し得た時代と言える。シェイクスピアの劇団はわが世の春を謳歌していた時代であった。一六〇三年以降シェイクスピアの劇団は「国王一座」(King's Men)となったがその座頭俳優ともいうべきバーベッヂ(Richard Burbage,1567頃-1619)も、座付作家のシェイクスピアも共に家紋を許された「紳士」(gentleman)の身分であった。シェイクスピアが故郷ストラットフォードに「新町屋敷」(Great House of Mew Place)を購入したのは一五九七年のことだったが、一六○二年五月には同じ故郷に一二七エイカーの広大な耕地および牧場用地を購入している。一六〇七年六月には長女スザンナがストラットフォードで名医の評判の高かった医師のホール(John Hall)と結婚している。シェイクスピアの劇団のライヴァル劇団であった「海軍大臣一座」(Lord Admiral's Men)(ジェイムズ王即位と共に「皇太子一座」と改名)の座頭俳優アレン(Edward Alleyn,1566-1626)も、経営者ヘンズロウ(Philip Henslowe,1616没)も共に「紳士」の身で紋章を許されていた。
劇作家としてはマーロー(Christopher Marlowe,1564-93)、グリーン(Robert Greene,1558-92)キッド(Thomas Kyd,1558-94)などはすでに亡く、リリー(John Lyly,1554頃-1606)は創作活動を終えていた。同時代の劇作家としてはベン・ジョンソン(Ben Jonson,1572-1637)が最盛期を迎えていた。彼の『万人万様の気質』(Every Man in his Humour,1598)の演出にはシェイクスピアも加わった。彼の『セジェイナス』(Sejanus,1603)はマーストン(John Marston,1576-1634)の『不満分子』(The Malcontent,1604)などと共に、当時流行のいわゆる「諷刺劇」、「暗い喜劇」、「不満分子劇」の代表的なものであり、続くウェブスター(John Webster,1580?-1634)の悲劇、チャップマン(George Chapman,1560頃-1634)の喜劇、ミドルトン(Thomas Middleton,1570-1627)、ターナー(Cyril Tournour,1577頃-1626)などに大きな影響を与えた。暗い諷刺のムードが当時の劇作の主流であった。当時のシェイクスピアがその流れと無関係であるはずは無かった。
当時の比較的安定した社会情勢、物質的な繁栄と、この暗鬱な諷刺ムードとは一見まことに奇妙な取り合わせであった。この比較的に安定した社会状態に、一つ青天の霹靂《へきれき》のような大事件が起こった。一六〇五年十一月五日にその一部が公表されたいわゆる「火薬陰謀事件」(Gunpowder Plot)である、これはジェイムズ王の治世に不満をいだくイエズス派のカトリック教徒の陰謀であったが、もしこれが成功すれば国王および多数の高位高官、国会議員が一挙に葬られるという大陰謀事件であった。幸か不幸か、一カトリック教徒の密告することにより事件は未然に発覚して事なきを得たが、これは全イギリス人の耳目を聳動《しょうどう》するに十分であった。シェイクスピアはこのあたりの事情を『リア王』の次の大作『マクベス』に織りこんだが、ジェイムズ王朝はこのように安定と不安定、満足と不満足、楽観と悲観とがまことに奇妙に混ぜ合わさっていた時代である。社会的、物質的安定は人々に自らを内省する余裕と自信とを与えた。そして同時に存在した政治的、精神的不安定はその余裕と自信とを懐疑と諷刺、自意識と詭弁の世界へと導き入れた。豪放なエリザベス朝的演劇エネルギーは次第にジェイムズ王朝のデリケートな人情機微劇に洗練されていった。新しい意識構造、新しい演劇感覚の誕生であり、新しい演劇スタイルの創造であつた。
〔転換期の演劇感覚〕新しい演劇スタイルの創造は当時の劇場のスタイルと切り離して考えることはできない。イギリスにおける劇場の発達の歴史から考えれば、当時たとえば「エリザベス朝の劇場」というような一定したものはなく、いろいろな形態の劇場が共存、混在していたということは容易に理解できよう。宿屋の中庭を利用したいわゆる「宿屋劇場」(inns)、貴族や宮廷の広間を利用したもの(halls,court chambers)、「大衆劇場《パブリツク・シアター》」(Public Theatre)、それに一般の劇場よりもいささか程度のよい「私設劇場《プライヴエイト・シアター》」(Private Theatre )などがあった。重要なのはもちろん「パブリック・シアター」と「プライヴェイト・シアター」の二つである。前者は観客席に張り出した舞台の上部だけに屋根がある露天劇場である。後者は現代の劇場におけるように舞台の前面に枠、アーチをつけたいわゆる「額縁《がくぶち》舞台」(picture frame)を備えた屋内劇場である。後者の方が設備が良いから入場料はもちろん高い。前者が一ペニーから一シリングの入場料を課したのに対し、後者は六ペンスからニシリング六ペンスを課した。入場料が高ければ当然|客種《きゃくだね》は変わってくる。「パブリック」の観衆が飲み、食い、あげくの果ては刃傷沙汰の一般大衆であったの対し、「プライヴェイト」の方のは衣《きぬ》の裳裾《もすそ》をなびかせた淑女、その手を引く紳士たちであった。観客がレディス・アンド・ジェントルマンなら芝居の内容も当然その趣味、嗜好に合った高尚なものになってくる。前者の演劇感覚がエリザベス朝的な頑健な演劇エネルギーの爆発であったのに対し、後者のそれは複雑にして巧緻、あくまでも繊細な演劇技巧の駆使であった。シェイクスピアの作品を純粋に機械的にジェイムズ王朝時代の作品として区分するならば、『オセロウ』(一六〇四年頃)以降の作品がこれに該当する。『リア王』(一六〇五〜六年)がそれに続く。前者は一六〇四年にホワイトホール宮殿でジェイムズ王の前で上演され、後に「パブリック・シアター」の「地球座」(The Globe)で上演されている。後者は一六〇五年に「地球座」で上演され、翌年には宮廷で上演されている。
一六○八年以降シェイクスピアは「地球座」と共に、「プライヴェイト・シアター」の「黒衣托鉢僧座」(Blackfriars)とも関係を持つようになった。これはシェイクスピアの才能と作品の展開の上で非常に重要な転機を示すものであった。単に使用劇場の転換を意味したものではない。シェイクスピアの作品自体の一大転換期を画するものであった。『オセロウ』『リア王』はその意味でエリザベス朝からジェイムズ王朝への過渡的な転換期の作品と言える。よく言えば両時代の特性を兼ね備えた盛り沢山な芝居であった。悪く言えば「どっちつかず」的作品であったとも言えるかもしれない。しかし問題はいずれの時代に属するかではない。偉大な作品かどうかということである。こういう精神風土の一大転換期、人間意識の一大流動期に、シェイクスピアの才能、感覚はいかにそれを感じ、表現したのであろうか。
〔シェイクスピア悲劇のジェイムズ王朝的性格〕ジェイムズ王朝はたしかに一六〇三年からである。したがってシェイクスピアのジェイムズ王朝的作品といえば『オセロウ』に始まるというのが常識である。しかしそういう胎動は一六〇三年新王が即位してから突如として始まったというのではなく、『ハムレット』あたりからすでにその兆候は表われ始めていたと言った方がより妥当だろう。事実『ハムレット』の主題ともいうべき「在るか、それとも在らぬか、それが問題だ」(三幕一場五六行)は、人間の意識の王国に対するエリザベス朝的な壮大な挑戦であると同時に、ジェイムズ王朝的な意識過剰、詭弁の要素、傾向がたしかにある。ハムレットがこの世に「在れ」ば、当時の理想的な君主、武士の鑑《かがみ》として当然父王の仇を討たねばならない。しかし当時国王を殺すということがどういう意味を持っていたか? 神が任命した国王を討つことは当然討つ者ハムレットの死を意味する。その意味では「在る」はつまり「在らぬ」を意味する。しかし武士の大儀に殉《じゅん》じてこの世に「在らぬ」ことは、実は悠久の大義に「生きる」ことではないのか? その意味では「在らぬ」は「在る」である。ハムレットがその主体を打《ぶ》ち突けて悩んだ二者択一の問題は、実は同時にイコールの方程式も成立し得るのだ。AかBか? そして同時にAはイコールB! 何たる複雑さ、何たる矛盾、何たる論理の持ち回りであろうか。「宮廷人の、武士の、学者の目、舌、剣」(三幕一場一五五行)とオフィーリアに言われたエリザベス朝の理想君主ハムレットにも、ジェイムズ王朝的思弁の影がすでに射しかかり始めているのだ。
続く『オセロウ』についてはどうか? 主人公オセロウはムーア人である。ムーア人はトルコ人などと共に伝統的に悪人、マキャヴェリ的悪玉として扱われて来た。シェイクスピア初期の作『タイタス・アンドロニカス』のエアロンがそうである。前述のマーローでもそうである。ウェブスターでもそうである。ところが一六〇四年頃のシェイクスピアは、この確固たる伝統に敢然と挑戦した。ムーア人オセロウは悪人では決してない。デズデモウナは大公たちに懸命に説いている。
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わたくしの心は、
ほかならぬ主人の本質的な美点に捧げられたのでございます。
わたくしはオセロウの顔を、その心の中に見たのでございます。
(一幕三場二四六〜四八行)[#ここで字下げ終わり]
そしてシェイクスピアは悪党的要素をあげて悪玉イァーゴウに結集した。しかしそのイァーゴウも決して悪党づらをしているわけではない。外観と実体との違いを目のあたりにした善人オセロウはただただ当惑するのみである。
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足もとを見れば、変わってもいない。悪魔は爪先が割れているというが……
(五幕二場二八六行)
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ジェイムズ王朝人シェイクスピアはすでに伝統を一ひねり、二ひねりしているのである。
伝統のジェイムズ王朝的ひねりということについては、そもそもこの作の二人の主人公、オセロウとデズデモウナ自身の社会的身分がそうである。中世からの伝統的な概念によれば、悲劇とは「偉大なる王侯君主の没落」を扱うものであった。ハムレット然り、リア王然り、そしてマクベスもまた然りである。ところがオセロウは偉大な人間には相違ないが、身分はたかが外国人傭兵である。将軍、総司令官といっても要するに一時的な任務のためにその地位に任じられたので、恒久的にその地位に就いたのでは決してない。その劣等感がオセロウの嫉妬心と結び付いてもいるのである。デズデモウナもまた然り。父はヴェニスの元老院議員のブラバンショウだが、その娘となれば「王侯貴族」では決してない。要するにこの二人は、ジャック・アンド・ベティとは言わないまでも、王侯貴族などという高い身分のカップルでは決してない。むしろごくふつうの平民の二人である。その意味ではシェイクスピアは『オセロウ』で、まことに新しい「下世話」的な主題を開拓しているといえるのである。これは一つにはイタリアからの影響でもある。しかしとにかくジェイムズ王朝人シェイク人ピアの漸新な実験であったには違いない。ごくふつうの人間であるが故にその思弁が全宇宙を飛翔することもない。その言葉が著しく象徴的な含蓄を持つということもない。この新しい土俵はシェイクスピアになお数多くの新しい可能性を提供したはずである。
『リア王』ではどうか? その点についてはすでにこの作の「特質と問題点」の項である程度述べたので、ここでは特にジェイムズ王朝的特質として顕著な『リア王』の「パラドックス」について考えてみることにする。一幕一場の例の王国分割のシーンの後、フランス王はリアに抗弁するが、続いてコーディリアは自分の舌足らずについて次のように弁じている。
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どうかおっしゃってください、
……
実は無いほうが私がずっと豊かになれるもの、それが私に無い為だと……
いつも物欲しそうな目、私は持ち合わせていなくて、
ほんとうに仕合わせだと思う弁舌……
(一幕一場二二〇〜二六行)
[#ここで字下げ終わり]
無い方がますます豊かというパラドックス。それを受けとめたフランス王はそれを更に念入りに述べたてている。
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世にもうるわしいコーディリア! あなたこそは最も貧しくて最も豊かな者、
見捨てられて最も選ばれた者、蔑《さげす》まれて最も愛された者なのだ!
(一幕一場二四四〜四五行)[#ここで字下げ終わり]
このパラドックスはやがて全篇の主題に拡張される。グロスターもリアも、肉眼の目が見えるあいだはいろいろとあやまちを犯し、失明しあるいは狂気になって始めて心の目が開くようになる。グロスター曰く「目が見えた時にはつまずいた」(四幕一場一九行)。また曰く「それは世の中が悪いのだ、瘋癲《ふうてん》が盲《めくら》の手引をするようでは」(同四七行)。『リア王』はリアとグロスターのパラドックスの二重奏の悲劇といえる。この一ひねり、二ひねりが当然の観客の新しい演劇感覚にぴったりと来たものであることは言を俟《ま》たない。
このパラドックスは当然、次の大作『マクベス』の冒頭の魔女たちのモットーに連なると考えてよい。
[#ここから1字下げ]
きれいは汚なく、汚ないはきれい。
(一幕一場一一行)
[#ここで字下げ終わり]
『マクベス』のパラドックスは門番のいう「ぼかし屋」の論理であり(二幕三場七行)、『マクベス』の悲劇はこれに悪乗りした男の悲劇である。『マクベス』あたりになるとジェイムズ王朝も相当に板に付いたという感じだ。しかしジェイムズ王朝人としての作家シェイクスピアの最も重要なポイントは、シェイクスピア自身はこの「ひねり」に悪乗りするようなことは決してなかったということだ。エリザベス朝人シェイクスピアだろうが、ジェイムズ王朝人シェイクスピアだろうが、彼にはいつも人間性《ヒユーマニティ》の背骨が一本しっかりと通っていた。そのことが同時代の数多くの作家たちとシェイクスピアとをはっきりと区別していた。
(大山俊一)
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年譜
一五六四 四月二十三日頃、ストラットフォード・アポン・エイヴォンにおいてウィリアム・シェイクスピア生まる。四月二十六日、ウィリアム受洗。
一五八二(十八歳) 十一月二十八日、ウィリアムはアン・ハザウェイと結婚。
一五八三(十九歳) 五月二十六日、長女スザンナ受洗。
一五八五(二十一歳) 二月二日、ウィリアムの双生児、ハムネット(男)とジュディス(女)受洗。
一五八七(二十三歳) この頃ウィリアムはロンドンに出る。
一五八九(二十五歳)『ソネット集』の大部分を書く。
一五九〇(二十六歳)『ヘンリ六世』第二・第三部を書く。
一五九一(二十七歳)『ヘンリ六世』第一部完成。
一五九二(二十八歳) 三月三日、『ヘンリ六世』第一部上演。『リチャード三世』『まちがいつづき』完成。
一五九三(二十九歳)『ヴィーナスとアドニス』登録出版。『タイタス・アンドロニカス』『レイプ・オヴ・ルークリース』登録。『ヴェローナの二紳士』完成。『じゃじゃ馬ならし』上演。ウィリアム、彼の劇団の再編成にあたって株主として参加する。十二月二十八日、『まちがいつづき』上演。
一五九五(三十一歳) 十二月九日、『リチャード二世』上演。『真夏の夜の夢』完成。
一五九六(三十二歳) 父ジョン、紋章( Coat of Arms )を許される。
一五九七(三十三歳) ウィリアムはストラットフォードのニュー・ブレイスを六十ポンドで買い入れる。クリスマスに『恋の骨折損』上演。『ロミオとジュリエット』の第1四折判出る。
一五九八(三十四歳)『ヘンリ四世』第一部登録。『むださわぎ』『ヘンリ五世』完成。
一五九九(三十五歳) 九月二十一日、『ジュリアス・シーザー』上演。『お気に召すまま』完成。
一六〇〇(三十六歳)『ヘンリ四世』第二部登録。『ヴェニスの商人』第1四折判出る。『ハムレット』『ウィンザーの陽気な女房たち』完成。
一六〇一(三十七歳) 一月六日、『十三夜』宮廷にて上演。父ジョン死す。九月八日埋葬。『トロイラスとクレシダ』完成。
一六〇二(三十八歳) 七月二十六日『ハムレット』登録、『ハムレット』オクスフォード、ケムブリッジにて上演。『末よければすべてよし』完成。
一六〇三(三十九歳)『お気に召すまま』宮廷において上演。『ハムレット』第1四折判出る。
一六〇四(四十歳) 十一月一日、「国王一座」により『オセロウ』上演さる。十一月四日、『ウィンザーの陽気な女房たち』上演。十二月二十六日『以尺報尺』上演。『ハムレット』第2四折判出る。
一六〇五(四十一歳) 一月七日、『ヘシリ五世』上演。二月十日、『ヴェニスの商人』上演。『リア王』完成。
一六〇六(四十二歳) 十二月二十六日、『リア王』宮廷において上演。『マクベス』『アントニーとクレオパトラ』完成。
一六〇七(四十三歳) 六月五日、娘スザンナはドクター・ジョン・ホールと結婚。『コリオレーナス』『アセンスのダイモン』完成。
一六〇八(四十四歳) 母メアリー死す。九月九日埋葬。『ペリクレース』執筆。
一六〇九(四十五歳)『ソネット集』出版。『シムベリン』完成。
一六一〇(四十六歳) ウィリアム、ストラットフォードに引退。『冬の夜ばなし』を書く。
一六一一(四十七歳) 十一月一日、『テムペスト』宮廷において上演。
一六一二(四十八歳) 王女エリザベス結婚の祝いのために「国王一座」によってシェイクスピアの作品が多数上演された。
一六一三(四十九歳) 六月二十九日、『ヘンリ八世』上演。
一六一四(五十歳) ウィリアム、ロンドンヘ。
一六一六(五十二歳) 一月、遺言書を書く。二月十日、次女ジュディス結婚。三月二十五日、遺言書に署名。四月二十三日、ウィリアム死す。四月二十五日埋葬される。
〔訳者紹介〕大山俊一(おおやまとしかず)
一九一七年生まれ。東京文理大英文科卒。オハイオ州立大学大学院卒M・A・ハーバード大学名誉研究員(一九六五〜六)。中世および近世英文学専攻。主著『シェイクスピア人間観研究』『ハムレットの悲劇』『複合的感覚』、訳書『ハムレット』『マクベス』『オセロウ』『リア王』その他。