テンペスト
ウィリアム・シェイクスピア作/大山俊一訳
目 次
第一幕
第二幕
第三幕
第四幕
第五幕
解説
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登場人物
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アロンゾー……ナポリ国王
セバスチャン……その弟
プロスペロー……ミラノ公国の正統君主たる大公
アントーニオー……その弟、同公国を横領した君主
ファーディナンド……ナポリ国王の息子
ゴンザーロー……忠実な年老いた顧問官
エイドリアン……ナポリの貴族
フランシスコー……ナポリの貴族
キャリバン……奇形の野生人奴隷
トリンキュロー……道化師
ステファノー……酔っぱらいの執事
船長
水夫長
水夫たち
ミランダ……プロスペローの娘
エアリエル……空気の精霊
アイリス
シアリーズ
ジューノー
水の妖精たち
刈り手たち
〔プロスペローに仕える他の妖精たち〕
場所
〔海上の船〕無人島
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第一幕
第一場 海上にある船
〔すさまじいあらしの音(舞台上、雷鳴は横に倒したはしごの上に石を転がしたり、樽の中に大砲の弾《たま》を転がしたり、稲妻は火の上に火薬や松やにを撒いたりして効果を出す)、雷鳴、稲妻。船長と水夫長登場〕
【船長】 水夫長!
【水夫長】 ここです船長。どうかしましたか?
【船長】 よおし。水夫たちに言ってくれ。頑張ってくれ、さもないと浅瀬に乗り上げてしまうぞ。さあ動け、動け。
〔水夫たち登場〕
【水夫長】 おおいみんな! 元気を出せ、元気を出せ! 頑張れ、頑張れ! 上檣帆《じょうしょうはん》を下ろせ!〔風下側の岸に流されるのを防ぐための定法〕船長の笛に注意しろ。おのれあらしめ、息が切れるまで吹きやがれ、船が動けるあいだは吹きやがれ!
〔アロンゾー、セバスチャン、アントーニオー、ファーディナンド、ゴンザーロー、その他登場〕
【アロンゾー】 水夫長用心深くな。船長はどこだ? 皆を励ましてくれ。
【水夫長】 どうか下におって下さい。
【アントーニオー】 船長はどこか? と聞いているのだ水夫長。
【水夫長】 船長の笛の音が聞こえんのですか? 仕事の邪魔です。船室におって下さい。あらしの手助けになりますぞ。
【ゴンザーロー】 まあまあ君、腹を立てんで。
【水夫長】 海だって腹を立てているんだ。退《の》いた退《の》いた! このほえたてる大浪が国王の名前など気にするもんか! 船室へ行った行った! 問答無用! 邪魔だて無用!
【ゴンザ】 よろしい、だがどういうお方をお乗せしているかは忘れんようにな。
【水夫長】 いや〔怒り心頭に発した水夫長〕、わっしにとってわっし自身より可愛い者はこの船には一人も乗っとりません。あんたは宮中顧問官、もしあんたがこれら四大元〔当時宇宙は火、空気、水、土の四大元、四要素から成り立っていると考えられていた。ここではつまり浪風のこと〕に沈黙するよう命令し、この目の前のものを鎮めるよう操作出来るんなら、わっしらは二度とロープを手にしませんや〔つまり船乗りをやめること〕。あんたの威力を試してみなさるがいい。それがだめなら、今まで生きのびたことを有難く思い、まさかの時に備えて船室でお祈りしていなさるがいい。みんな元気を出せ! 退《の》いて下さいというに!
〔退場〕
【ゴンザ】 この男なら安心だ。この男には溺死の相はないようだ。奴の人相は完全に絞首台だ。〔当時の格言に「絞首台行きの者は溺れて死ぬことなし」というのがある〕「運命」の女神よ、どうか奴の絞首刑を確固不動にして下さい。奴の運命のロープをわが船の錨《いかり》の鎖《くさり》として下さい、この船のは一向に役に立ちませんから。もし奴が絞首刑に生まれついてないとすると、状況はわれわれにとりまことに悲惨だ。
〔水夫長登場〕
【水夫長】 中|檣《しょう》を下ろせ。頑張れ、もっと下ろせ、もっと。大|檣帆《しょうはん》で風に乗れ。〔中で叫び声)くそ、喧《やかま》しい奴らめ! 彼奴《きゃつ》らの声はあらしより、船の号令よりなお高い。
〔セバスチャン、アントーニオー、およびゴンザーロー登場〕またかね? ここに何の用があるんです? 仕事を放り出して溺れろってんですかい? 沈没したいとでもいうんですかい?
【セバスチャン】 畜生、お前の喉笛なんか疫病にかかりやがれ! おのれ、があがあがなりたてる罰当《ばちあた》りめ、薄情な犬《いぬ》め!
【水夫長】 そんなら自分でやんなさい。
【アント】 絞り首だ、犬め、絞り首だ。この下種《げす》野郎、喧《やかま》しい無礼者め! われわれは溺れることをお前らのように怖れてはおらんぞ、
【ゴンザ】 受け合ってもよろしい、こ奴は溺死しません、たとえこの船がくるみの殻《から》ぐらいの強さしかなく、水|洩《も》れ女のように洩れ易くても。
【水夫長】 船は詰め開き、詰め開きだ。両方の帆で海へ出ろ、岸から離せ。
〔水夫たちずぶ濡れで登場〕
【水夫たち】 もうだめだ。お祈りだ、お祈りだ! もうだめだ!
【水夫長】 ええい、俺たちの国はみんな冷たくならなきゃいかんのか?
【ゴンザ】 王様も王子様もお祈りをされている。われらもご一緒しよう。われらの運命も同じなのだから。
【セバス】 もう我慢が出来ない。
【アント】 酔っぱらいどもに命を託して完全にだまされた。この大口の飲ん兵衛め、お前なんか溺れっ放しにして、上げ潮に十回も晒《さら》してやりたい。〔海賊は下げ潮の時に海岸で絞り首にされ、三回の上げ潮で晒された。腹を立てたアントーニオはそれを十回にした〕
【ゴンザ】 でも奴はやっぱり絞り首になります。たとえ海の水すべての一滴一滴がそれに反対だと誓い〔浪、風の吠えるような音〕、いかに大口あけて彼奴《きゃつ》を飲みこもうとしようとも。〔内側で騒がしい音〕
「神よ御慈悲を!」
「船が裂ける、船が裂ける!」
「さらば妻よ、子供たちよ!」
「さらば兄弟!」
「船が裂ける、船が裂ける、船が裂ける!」〔水夫長退場〕
【アント】 みんな王と一緒に沈もう。
【セバス】 王にお別れを言おう。〔アントーニオー、セバスチャン退場〕
【ゴンザ】 こうなったら一千キロの海をやってもいい、荒地でいいから一エーカーの土地が欲しい、のび放題のヒース、茶褐色のハリエニシダ、何が生えていてもいい。すべては上天なる御心《みこころ》のままにさせ給え、ただ何としても乾いた死に方だけは是非したい。〔退場〕
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第二場 島。プロスペローの岩屋の前
〔プロスペローとミランダ登場〕
【ミランダ】 お父上、もしお父上の魔法の力でこの荒海が、このように唸《うな》り声をあげているのでしたら、お静めになって下さい。海が大空の頬にまでとどいて火を打ち消されなければ、天は焦《こ》げくさい真っ黒なタールを今にもどしゃ降りに降らせようとしています。あの方たちが苦しむのを見て、私も一緒に苦しみました。ほんとうにすてきなお船、きっとどなたかお偉いお方をお乗せしていたのでしょうが、すっかりばらばらになってしまいました。ああ、あの叫び声はわたしの胸を強く打ちました。可哀想にみんなお亡くなりです。わたしが何かの神様で力があったら〔以下プロスペローが説明するように、実は一場のあらしはプロスペローの魔法の力で起こされたものだった!〕、海があんなふうに、あの素晴しいお船もろとも乗り組んでいた方たちを呑みこんでしまう前に、わたしは海を大地の中に沈めてしまったでしょうに。
【プロスペロー】 気を落ち着けるのだ。もう恐《こわ》がることはない。哀《あわ》れみ深いお前の心に伝えよ、何の被害も起きてはおらんのだ。
【ミラン】 何という悲しい日!
【プロス】 被害は無いのだ。わしがしたことはすべてお前のためを思ってのことだ。可愛いお前、わしの娘のお前のためにしたことだ。そのお前は、自分がどういう身分のものであるかを知らないし、またこのわしがどこからやって来たものか、またこのひどい岩屋の主人たるこのわしが、ただのプロスペロー以上のもの、単なるお前の父親以上のものだということをお前は全く知らない。
【ミラン】 もっと知りたいなどという思いに悩まされたことは、一度もございませんでした。
【プロス】 今こそお前により多くを知らせるべき時が来たのだ。手を貸して、この魔法の衣《ころも》を脱がしてくれ。そうだそれでよい。〔マントを下に置く〕
わが魔術よ〔いま脱いだ魔法の外套に向って言う〕、そこに休んでおれ、さあ目を拭《ふ》いて。気をとり直すのだ。あの難破船の悲惨な光景は、その方《ほう》の心の中の憐れみの情を真底から動かしたが、あれはわしの魔法の術であらかじめ安全な処置が講じられておって、誰《だれ》一人として――いや、お前が叫び声を聞き、沈んで行くのを見たあの船の乗組員たちには、髪の毛一本失くしたというような被害を蒙《こうむ》った者も、一人もおらんのだ。さあ、おすわり。いまこそ、お前はもっと知らなければならんのだ。
【ミラン】 お父上はこれまでもたびたび、私の身の上話をお始めになりましたが、おやめになり、「待て、まだ早い」と仰《おっ》しゃって、わたしがいくらお聞きしても、その甲斐《かい》がございませんでした。
【プロス】 いまやその時がやって来たのだ。この瞬間こそがお前にその耳を開《あ》けよと命じているのだ。素直になって、言うことをよく聞くがよい。思い出せるか、わたしたちがこの岩屋にやって来る前のことを? それはとても出来んだろうな。その時お前は満三歳にもなっていなかったのだから。
【ミラン】 いいえ出来ますとも、お父上。
【プロス】 どうして出来る? 何か家とか人とかを覚えているか? 何でもいい、今なお、お前の記憶に残っているものの、姿、形について話してごらん。
【ミラン】 ずっと以前のことで、記憶によって保証された絶対確実な事実というよりは、むしろ夢のようなものでございますが、私にはかつて四人か五人の女性が付き添ってはおりませんでしたでしょうか?
【プロス】 その通りだ、だがもっと多勢だ、ミランダ、しかしどうしてそのことがお前の心の中に生きておるのか? 時の暗黒の過去と深淵の中に何かまだほかに見えるか? ここへ来る前のことを何か覚えているというのなら、どうしてここへ来たかも覚えておるだろうが。
【ミラン】 でもそれは覚えておりません。
【プロス】 十二年前は、いいかミランダ、十二年前は、お前の父はミラノ公国の大公で、権力のある君主だったのだ。
【ミラン】 するとあなた様は、私の父ではございませんの?
【プロス】 お前の母は貞女の鑑《かがみ》だった〔いぶかるミランダを確実に納得させるため、プロスペローの持って回った言い方〕。その母が言ったことに、お前はわしの娘。そしてお前の父はミラノ公国の大公。そしてその唯一の世継ぎ、王女はわしに劣らぬ高貴の血統。
【ミラン】 まあ何ということでしょう! いたいどういう悪巧《わるだく》みに会って、私たちはお国からここに参ったのでしょう? それともそれが幸いだったのでしょうか?
【プロス】 両方だ、その両方だ。お前の言う通り、悪巧みによってわれわれは国から連れ出された。が幸いにも、天の加護を得て当地に参ることが出来た。
【ミラン】 おお胸も張り裂けます、よくは覚えておりませんけれど、私がお父上にどんなに御苦労をおかけしたかと思うと! どうぞその先を。
【プロス】 わしの弟で、お前の叔父、アントーニオーという呼び名だが――いいか、よく聞くのだ、実の弟ともあろう者が、かくも卑劣な裏切り行為をしようとは! この世でお前の次にわしが心から愛し、国の政治のすべてを任せておいたその弟だが――当時わがミラノ公国は数ある公国の中で第一位にあったのだ。そしてプロスペローは大公の筆頭――格式において、そのように取り沙汰されていたのだ。学芸の道においては、まさに比肩する者はおらなかった。それがわしの主たる研究だったので、国政はすべて弟に任せきりであった。かくして極秘の研究に心を奪われ、そのことに夢中になって、わしは国政に次第に疎《うと》くなっていた。お前の卑劣な叔父は――わしの言うことを聞いておるか?
【ミラン】 はい、一生懸命。
【プロス】 いかにして国民の請願を認可し、それを却下し、誰を昇任し、また誰を出過ぎたかどで牽制《けんせい》するかを一度マスターしてしまうと、彼《かれ》弟はわしがかつて任命した者をまた新たに任命し直した。つまり職務を変更したり、または新しい任務につかせたりしたのだ。役人と役職の両方の鍵を手に入れると、彼は国中の人々の心をすべて、己《おの》れの耳に心地よい旋律に同調するようにセットした。かくして彼《かれ》弟は今やわしという王者の幹をすっかり覆いかくして、わしの緑の樹液をすっかり吸い取ってしまった。聞いていないな?
【ミラン】 お父上、聞いております。
【プロス】 頼む、よく聞いてくれ。
かくしてわしは世間的な実務をすべて等閑《なおざり》にし、隠遁の生活および精神の向上に専念しておった――かくも完全に公の生活から身を引いてしまったということを除けば、世間の評価など遥かに超絶した事柄によって〔魔術〕精神の向上に専念しておったのだが――それが邪《よこしま》な弟の中に悪なる性《さが》を目覚めさせてしまった。そして弟に対するわが信頼は、善良なる親に不良の子が生まれるように、その信頼ほどに大いなる、しかしそれとはまさに正反対の裏切りを弟の中に造ってしまったのだ。事実わが信頼には限界がなく、際限なき信任であったのだ。彼《かれ》弟はかくして王公然として、わしの収入がもたらすもののみならず、わしの権力が取り立てることが出来るものはすべて手に入れて、ちょうど嘘《うそ》を繰り返し言っているうちに、いつか自分の嘘を信じこんでしまって、自分の記憶力を真実に対する罪人――嘘《うそ》つきに仕立て上げてしまった人のように、彼はほんとうに自分が大公だと信じてしまった。わしの代理となり、すべての実権を握って、外見上、大公の職権を行使していたのだから――彼奴《きゃつ》の野心はますます増大して――聞いているのか?
【ミラン】 お話をうかがっていると聾《つんぼ》の耳も治《なお》りましょう。
【プロス】 彼が演じた大公の役柄と、彼がその役柄を演じた大公自身とのあいだの区別を無くすため、彼は何としてもミラノの絶対主権者となる決心をした。わしなどは可哀相に、わしの書斎だけで公爵領は十分、大公としての実務の能力はわしには全く無いものと彼は今考えている。ナポリ国王と同盟関係を結び、――彼奴はかくも覇権を渇望しておったので国王に年ごとの貢《みつ》ぎ物を送り、国王に忠誠を誓い、ミラノ大公の小冠をナポリ国王の王冠に隷属させ、いまだかつて屈伏したことのない公国を――ああ、哀れなミラノよ! およそこの上なき卑屈に屈従せしめた。
【ミラン】 おお何ということを!
【プロス】 彼が結んだ条約とその結果とを考えて、その上で言って欲しい、こんな男が果して弟といえるかどうか。
【ミラン】 わたしのお祖母《ばあ》様のことを立派なお方と考えなければ、わたしは罰あたりになります。いい方のお腹《なか》からだって悪い子供は生まれます。
【プロス】 ところでその条約だ。このナポリの国王とわしとはすでに長年にわたっての仇敵だったので、弟の願いにすぐに耳を傾けたのだった。その願いというのは前もって条文に定めた忠誠を尽くす件、およびその額はどれほどか知らぬが貢ぎ物を送る件に対し、その交換条件として彼《かれ》ナポリ国王はわしおよびわし一族を、直《ただ》ちに公国から根絶《ねだ》やしにし、美《うる》わしのミラノ公国をそのすべての栄誉と共に、わしの弟に授与するというものだった。そこで陰謀を行なうための軍隊が徴集され、ある真夜中――前もって決められていた――弟アントーニオーはミラノの城門を開け放《はな》った。そして暗闇の死の静けさの中で、そのことのために傭《やと》われた手先どもは、わしと泣き叫ぶお前とを城外へ追い出したのだ。
【ミラン】 何と哀れな! その時どんなに泣いたかわたくしは覚えていまケんので、もう一度いま泣き直すことにいたします。その時のことは、わたしの目から涙を絞り出します。
【プロス】 いま少しお聞き。その上で今われわれに起こっている現在の状況をお前によくわからせてあげよう。そうでないとこの物語はいたって要領を得ないものとなるだろう。
【ミラン】 どうしてその人たちは、その時わたくしたちを殺さなかったのでしょう?
【プロス】 娘よ、よく聞いてくれた。わしの話からすれば、その質問は当然だ。実は連中にはそれが出来なかった。わが国民がわしに対して深い愛情をいだいていたからだ。また血|腥《なまぐさ》いことで手を汚《よご》すことをあえてしなかったのだ。そうせずに彼らの汚《けが》わらしい意図を、より奇麗な色で上塗りしたのだ。要するに、彼らはわれわれを急がせてボートに乗せ、はるか沖合に出た。そこには綱具も、|ろくろ《ヽヽヽ》も、帆も帆柱も何もない、さすがの鼠さえ本能的に逃げ出してしまうような、骸骨のような腐れ小舟が用意してあった。われわれはそれに乗せられて――海に叫べども海はわれわれに吼《ほ》えかえすばかり、風に溜息をつけば、風はわれわれに同情して、溜息のお返しをし、その愛情はかえって災《わざわ》いを増すばかり。
【ミラン】 まあ、その時わたしは、どんなにかお父上に迷惑だったことでしょう!
【プロス】 いや、最高天使〔厳密には第二の高位の天使――ケルビム〕だった。わしを救ってくれたのはお前だった。わしが重荷に呻《うめ》いて、
塩からい涙の雫《しずく》で海の面を飾っていたときに、お前は天与の「堅忍」の力を体一杯に受けて、にっこり微笑《ほほえ》んでいた。それがわしの心の中に、
何が起ころうともそれを持ちこたえてゆくだけの不屈の心意を振い起こしてくれた。
【ミラン】 どうやって岸に着いたのでしょう?
【プロス】 いと高き天意によってだ。何がしかの食糧はあった、それに飲料水も。それは当時この計画の長を仰せつかっていたナポリの高潔の士ゴンザーローがその慈悲の心から、高価な衣類、下着類、日用の道具類、必需品などと共に――それは以来大変に役に立ったものだが――われわれに与えてくれたものであった。そして同様にやさしい親切心から、わしがわしの書物を心から愛していたことを知って、わしの蔵書の中から、わしが公国よりも大事にしていた数巻をあてがってくれた。
【ミラン】 そのお方にいつか是非お目にかかれますように!
【プロス】 さあこれでわしは立つが〔マントを取り上げる〕そのまま坐っていて、われらの海の悲しみの結末をお聞き。われわれはここ、この島に着いた。そしてここでわしはお前の教師となり、ふつうの王女たちとは比較にならぬほど多くのものをお前の身につけさせた。そういう王女たちは無駄な暇《ひま》つぶしの時間ばかり多く、それに教師たちもわしほどは気を使わない。
【ミラン】 神々様、どうかお父上にお礼を! それでお願いがございます――そのことがまだ大変に気になっているんですもの――どうしてお父上は、この海のあらしをお起こしになったのでしょう?
【プロス】 これだけは知っていて欲しい。まこと不思議な運勢の回《まわ》り合わせで、寛大な「運命」の女神は――今やわが幸運の女神なのだが――わしの敵どもをこの岸におびき寄せてくれた。そしてわしは先見の明で、わしの運勢の絶頂が最高の幸運の星にかかっているということを知ったのだ。もしわしがその星の力を求めることなく、それを無視するようなことがあれば、わが運勢は以後ずっと下降することになっているのだ。さ、これで質問はお止めなさい。お前はすっかり眠くなったのだ。さわやかな眠りなのだから、そのままお休み。お前は眠らずにはおれないはずだ。〔ミランダ眠る〕
さあ来いエアリエル、やって来い。わしの用意は出来ている。来いエアリエル、やって来い。
エアリエル〔四大元の一「空気」に属する強大な力を持つ天使、精霊〕登場。
【エアリエル】 御主人殿ご機嫌よう! 恐《こわ》いお方、ご機嫌よう! 何なりとお前様の思召《おぼしめ》し通りにいたそうとやって参りました。空飛ぶことでも、泳ぐことも、火の中に飛びこむことも、カールした雲に乗ることも、ご命令のままにエアリエルとその一党は、すべて御意志《みこころ》のままに動きます。
【プロス】 精霊よ、お前はわしが命じたあらしをすべて細大もらさず実行したか?
【エアリ】 はい、寸分たがわず。わたしは王様の船に乗りこみました。そして舳先《へさき》と思えば、
中甲板、中甲板と思えば後甲板、いたるところの船室で、わたしは焔《ほのお》〔つまり稲光と雷鳴〕の恐しさで皆を打ちのめしました。時には分かれて、一時に方々で燃やしてやりました――上檣《じょうしょう》で、帆桁《ほげた》で、また第一斜檣で、別々に燃え上がって、それからまた集まって一緒になりました。恐しい雷鳴の先ぶれ、ユピテル神の稲妻もわたしのあっという間の、目にもとまらぬ早業には及びもつきませんでした。劫火《ごうか》と、鳴りとよもす硫黄の轟音《ごうおん》は大力無双の海神ネプチューンを取り囲み、その大|海原《うなばら》もために打ち震えるごとく、さよう、その恐しい三叉鉾《みつまたほこ》も揺れ動くかに見えました。
【プロス】 でかしたエアリエル! それほどの騒動なら、いかに確固不動の人といえども理性を失わなかった者はあるまいな?
【エアリ】 一人として気違いがかかるような熱病にうなされ、何か向こう見ずの無鉄砲をやらかさない者はおりませんでした。水夫のほかは全部、泡立つ海に飛びこんで、わたしの焔で燃え上がっていた船を見捨てました。王子ファーディナンドが髪の毛を逆立てて――その時は髪の毛ではなく葦のようでしたが――跳びこんだ最初の人でした。そして「地獄は空《から》だぞ。悪魔は全部ここにいる」と叫びました。
【プロス】 それでこそわしの精霊だ! だがこれは岸の近くだろうな?
【エアリ】 すぐ近くでございます。
【プロス】 だがエアリエル、みな無事なのだろうな?
【エアリ】 髪の毛一本失くしちゃいません。皆の体を浮かせていた服にも汚《よご》れ一つ付くどころか、かえって前より新しくなったというもんです。それからお言いつけ通り、皆をいくつかのグループに分けて島に分散しておきました。王子だけは一人別にして、離して上陸させておきました。島のどこか辺鄙《へんぴ》な一隅で、数々の溜息の連続であたりの空気を冷やし、こんなふうに悲しそうに腕を組んで、坐っているのを見届けて戻りました。
【プロス】 王の船と、水夫たちはどう始末したか言え。それから同じ船団のほかの船は全部どうした?
【エアリ】 港の中でご安泰です、王様の御船は。いつかあんたが、いつも|あらし《ヽヽヽ》に悩まされているバーミューダ諸島から露《つゆ》〔露は魔術に必要なまじないで、真夜中に集めなければならない〕を取って来いと、真夜中にわたしを呼び起こしたあの深い入江に、あそこに隠しときました。水夫たちは全部甲板の下に閉じこめときました。連中はひどい労働に加えて、わたしのまじないのお蔭で、ぐっすり眠ってました。船団のほかの連中については、分散しておいたのが、またみんな一緒になりました。そして悲しい気持を胸にして、地中海の波に乗って、故郷ナポリへと向かってます。みな王の船が難破して、王ご自身もお亡くなりになるのをその目で見たと信じています。
【プロス】 エアリエル、お前の任務は完全に果たされた。だがまだまだ仕事がある。いま昼の何時《なんどき》だ?
【エアリ】 お昼をすぎたぐらいのところかな。〔不服なエアリエルはわざと時間をぼかしている〕
【プロス】 二時にはなっていよう。〔プロスペローは厳格に時間を言う〕今から六時までのあいだの時間は、われわれ二人とも最も大切に使わねばならない。
【エアリ】 まだ仕事があるんですかい?〔魔術師が手下の精霊達を自由にコントロールすることは非常にむずかしかった。そして魔術師は伝統的に非常に強圧的に出た〕わたしに骨を折らせるんなら、あんたが約束したことをよーく思い出して欲しいね。そいつはまだ果たされていないんだから。
【プロス】 どうした? すねているのか? お前が要求できるものとは一体何だ?
【エアリ】 自由が欲しい。
【プロス】 まだ期限が来とらんのにか? もう言うな!
【エアリ】 お願いだ、これまでずっと立派に尽くしてきたことを忘れんで欲しい。嘘《うそ》をついたこともないし、へまをやらかしたこともなし、不平も文句も言わずに勤めて来たんだ。まる一年、年季を縮めてくれると約束したじゃないか。
【プロス】 お前は忘れたか、どんな苦しみからわしがお前を自由にしてやったかを?
【エアリ】 いいえ。
【プロス】 いや忘れている。それでお前は大層なことと思っているのだ、海底のどろどろを踏んだり、北から吹き寄せる鋭い風に乗って走りまわり、霜で真っ白に焼き上がっている大地を通る血管の中で〔つまり地下水の流れ〕わしの仕事をすることを。
【エアリ】 そうは思っておりません。
【プロス】 おのれ悪意の固《かた》まりめが! お前は嘘《うそ》をついているのだ。お前は忘れたか、あの汚《けが》らわしい魔女のシコラックスを? 年齢《とし》と悪企みとで輪のように曲ってしまった奴を? お前は彼女《あれ》を忘れたか?
【エアリ】 いいえ。
【プロス】 忘れているのだ。彼奴《あいつ》はどこで生まれたか? 話せ、言ってみろ。
【エアリ】 アージール〔アルジェリアの昔の呼び名〕でございます。
【プロス】 そうだったかな? わしはな、月に一度はお前が何であったかを繰り返さねばならん。さもないとお前はそれを忘れてしまう。この呪われた魔女のシコラックスは、数々の悪事と、人の耳にはとても入れられぬ恐ろしい妖術のために、お前も知っているだろう、アージールから追放されたのだ。ただ一つの理由から命だけは助けられたのだ。そうではなかったか?
【エアリ】 その通りでございます。
【プロス】 この青い目をした鬼ばばは、身重でここへ連れて来られた。そして水夫たちにここで捨てられた。奴隷のお前は、お前自身の言うところによれば、その時|彼奴《あいつ》の召使いであった。そしてお前は彼奴《あいつ》の卑《いや》しい、汚《けが》らわしい仕事をするにはあまりにも繊細な精霊だったので、彼奴の弾圧的な命令をつい突っぱねてしまって、ついに彼奴はお前よりもっと力の強い手下どもの助けを借りて、何をもってしても宥《なだ》めることのできない烈しい怒りのうちに、裂かれた松の木の中にお前を閉じこめた。その裂け目の中にお前は十二年ものあいだ押し込められて、苦しみ続けておったのだ。そのあいだに彼奴は死に、お前はそこに残された。そこでお前は呻《うめ》き声を出し続けた――絶え間なく、水車の水受けが水を打つように。当時この島は彼奴がここで産み落とした鬼子――鬼ばばから生まれた斑《まだら》の餓鬼を除いては、人間様の形をしたものには誰にも住んではもらえなかった。
【エアリ】 そうです、息子のキャリバンです。
【プロス】 頭の悪《わる》い奴《やつ》め、わしはそう言っておるのだ。わしが今使っておるあのキャリバンのことだ。わしがお前を見つけた時、お前がどんな苦しみの中にいたか、お前が一番よく知っている。お前の呻き声は狼《おおかみ》をさえ吠《ほ》えさせ〔恐しさで〕、常に怒り狂っている熊の胸にも深く入りこんだ。その苦しみは地獄に落とされた者に与えられるもので、シコラックスはその呪いを元に戻すことが出来なかった。わしがここへ来てお前の呻き声を聞き、その松の木の口を開けさせて、お前を救け出したのはわしの術だった。
【エアリ】 有難いと思ってます。
【プロス】 これ以上まだぶつぶつ言うんなら、樫の木を引き裂いて、その瘤々《こぶこぶ》の胴体の中にお前を挟みこんで、さらに十二年のあいだ吠え続けさせてやってもいいぞ。
【エアリ】 勘弁して下さい。命令には柔順にしたがい、精霊の仕事を立派にやってのけましょう。
【プロス】 そうせい。そうしたら二日後にはお前を放免してやるぞ。
【エアリ】 それでこそ見事わが御主人! 何をやるんですか? 何だか言ってください。何をやるんですか?
【プロス】 さあ海の精・人魚のような姿になって来い。お前とわし以外は誰の視界にも入ってはならぬ。ほかの誰の目にも見えてはならぬ。さあそういう|よそおい《ヽヽヽヽ》をしてここへ戻ってくるのだ。さあ行け! 真面目にやるのだ。〔エアリエル退場〕
さあ目をお覚ましミランダ、目をお覚まし! お前はよーく眠った。目をお覚まし!
【ミラン】 お父上の世にも不思議なお話を聞いて、わたしの目蓋《まぶた》は重くなりました。
【プロス】 さあさあ、眠気を振り払うのだ。奴隷のキャリバンを訪ねてみよう。奴はいい返事を絶対にしない。
【ミラン】 あれは悪ものです。わたしはあれを是非見たいとは思いません。
【プロス】 だが今のところ、彼奴《あいつ》なしではすまされない。奴は火を起こしたり、薪《たきぎ》を取って来たり、わしたちのためになるいろいろのことをしてくれている。おい、こら、奴隷! キャリバン! おい土《つち》くれめ、おい! 何か言え。
【キャリバン】 〔奥で〕薪は奥にうんとある。
【プロス】 出て来いと言っているのだ! お前にほかの用事があるのだ。出て来い、おい泥亀《どろがめ》奴! まだか?
〔エアリエル、人魚の姿で再登場〕
見事な変身! まことお前は器用だな、エアリエル。よく聞いてくれ。
【エアリ】 ご主人様、間違いなくそういたします。〔退場〕
【プロス】 おい、毒を持った奴隷め、お前は悪魔自身が鬼ばばのお前のお袋《ふくろ》に生ませた奴《やつ》だ、出て来い!
〔キャリバン登場〕
【キャリ】 俺《おれ》のお袋が、鴉《からす》〔凶の鳥〕の羽根で恐ろしい毒の沼から掃き集めただけの毒露の滴《したた》りが、お前ら二人に降りかかれ! 南西の風に強く吹かれて〔病毒をもたらすと考えられた〕お前らは体じゅう水ぶくれで一杯になれ!
【プロス】 そんなことを言って、いいか、今夜は恐しい|けいれん《ヽヽヽヽ》で、刺すような横腹の痛みで息《いき》も出来ぬようにしてやるぞ。ハリネズミに、あの真夜中の広漠の時、連中が働けるあいだじゅう、精一杯のことをさせてお前を苦しめさせてやるぞ。蜂の巣のように体じゅうを刺され、その一つ一つが、その巣を作った蜜蜂に刺されたよりひどく痛むのだぞ。
【キャリ】 俺は夕食を食わねばならんのだ。この島はお袋のシコラックスが俺に残したもので、俺のものだ。それをお前が俺から取り上げた。お前が最初に来た時には、この俺を撫でて、大事にしてくれた。いちご入りの水をくれたものだ。それから昼と夜とに燃える大きな明かりを何と呼び、小さな方を何と呼ぶかを教えてくれた。それでその時は俺はお前が大好きで、島の模様の全部――真水の泉、塩水のたまり、地味の痩せたところ、肥えたところ――を教えてやった。そんなことをした俺がいまいましい! シコラックスのまじない全部――ひきがえる、かぶと虫、こうもり、みんなお前さんに降りかかれ! 俺はお前さんのたった一人の国民だが、最初は俺が俺さまの王様だったんだ。その俺をお前は、この固い岩の中に押しこめて、島の残り全部をこの俺から取り上げてしまったんだ。
【プロス】 おのれ大嘘つきめ、お前を動かせるものは親切心ではなくて、鞭《むち》だけだ! わしはお前を、汚らわしい限りだが、人間らしい心づかいで待遇してやった。そしてわし自身の岩屋に泊めてやった。そのお前はわしの娘の操《みさお》を奪おうとした。
【キャリ】 おおほお〔キャリバンの感嘆詞!〕、おおほお! 惜しいことをした! お前が俺の邪魔をしたのだ。でなけりゃあ、この島中をキャリバンの子供で一杯にしたんだが。
【ミラン】 忌わしい奴隷めが!〔以下のセリフをプロスペローのものとする読み方もある〕悪いことからは何でもすぐにその刻印を押されやすいのに、善いほうのは受け付けようとはしない。わたしはお前を憐れんで、お前が話ができるように骨を折った。一時間に何か一つ、今はこれ、次にはあれと教えてやった。お前が――この野蛮人奴が! お前自身で考えていることもわからずに、ただ野獣のようにわめき散らしていた時に、お前の言いたいことをわからせる言葉をお前に授けてやった。だがお前の卑しい本性は、それを覚えはしたが、善良な人間が到底一緒には暮らせないような何かをその中に持っていた。だからこそお前は当然の報いとして、この岩の中に閉じこめられた。お前は牢屋よりももっと重い刑で処罰されて当然だった。
【キャリ】 あんたは俺に言葉を教えてくれた。それで得をしたことは呪いのやり方を覚えたことだ。あんたの言葉なんか教えやがって「赤」の疫病にでもかかって死んじまえい!
【プロス】 鬼ばばの種奴《たねめ》、行け! 薪《たきぎ》を取りに行ってこい。急げ――それがお前の身のためだぞ――もっとほかの仕事が控えておるのだ。この悪奴《わるめ》、肩をすくめているのか? もしもわしが命令したことを怠けたり、またはいやいやながらやったりしたら、例の|けいれん《ヽヽヽヽ》で締めつけてやるぞ。お前の骨という骨を痛みで一杯にして、お前の呻《うめ》き声で獣《けもの》たちが震え上がるようにしてやるぞ。
【キャリ】 や、やめてくれ頼む。〔傍白〕言うことを聞かなきゃならん。奴《やつ》の術は滅法強く、俺のお袋の神様のセティボスさえも手なずけて、この神様を家来にしちまうほどなんだ。
【プロス】 わかったか奴隷め、行け!〔キャリバン退場〕
〔エアリエル、見えない(観客にはもちろん見える。舞台上の約束で「見えない」ことになっている黒外套をまとって登場)で笛を吹き、歌いながら登場。ファーディナンド従《つ》いて登場。以下、エアリエルの歌〕
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さあおいで浜の黄色い砂の上、
手に手を取って、
お辞儀をしてキスしたら
海の荒浪しずかになごむ。
ぴちぴち躍れそこここで。
可愛い精霊は折り返しを歌え。
さあ聞いて、聞いて!〔折り返し、舞台の方々で〕
バウ・ウァウ
番犬たちが吠えている。〔方々で折り返し〕
バウ・ウァウ。
さあ聞いて、聞いて! そら
恰好いいおんどりの名調子、
鳴くよ〔方々で折り返し〕
コッカー・ディドル・ドゥー
[#ここで字下げ終わり]
【ファーディナンド】 この音楽はどこから? 空中かそれとも地中からか? もう聞こえない。これはたしかに、この島の何神様《なにがみさま》かに捧げられたものに違いない。岸辺の土手に坐ってわが父王の難破を繰り返し泣き悲しんでいたら、この音楽が浪の上を渡って、わたしの傍にしのびより、その妙《たえ》なるしらべで、海の怒りもわたしの悲しみも共にしずかにやわらげてくれた。それからその後を追ってやって来た、いや、その音楽がわたしを惹きつけた。が、もう消えた。
いや、また始まった。
〔エアリエル歌う〕(難破して死んだと思われている父ナポリ王アロンゾーが、「海の変化」によって、高貴なものに変えられたことを述べる)
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父はたっぷり五尋《いつひろ》の海の底。
骨は珊瑚《さんご》になりかわり、
かつての両の目は今は真珠。
打ち果てるべきその体、
「海の変化《へんげ》」をすべてに受けて、
珍しい、高貴なものに変えられた。
時間ごと海の人魚が弔鐘《かね》鳴らす。
〔折り返し〕ディン・ドン。
さあ聞いて、ほら、ディン・ドン・ベル。
[#ここで字下げ終わり]
【ファー】 あの歌は溺れたわが父王を弔《とむら》っているのだ。これは決して人間|業《わざ》ではない。また地上に存在する音楽でも決してない。こんどは頭上に聞こえている。
【プロス】 お前の目の縁飾《ふちかざ》りを付けた窓掛《カーテン》を上げて〔「目を開けよ」ということ〕、向うに何が見えるのか言ってごらん。
【ミラン】 何でしょうあれは? 精霊でしょうか? まあ何と辺りを見回していることでしょう! ほんとうに素晴らしいお姿ですこと。でもあれは精霊ですわ。
【プロス】 いや娘、あれは物を食べるし、眠るし、われわれと同じような感覚を持っているのだ。お前の見ているあの粋《いき》な男は、難破船にいた者だ。美を食い荒らす虫、すなわち悲しみに痛めつけられていなければ、あの男は十分いい男だ。仲間たちを失くしてしまって、それを見つけ出そうとしてうろうろしているのだ。
【ミラン】 あの人は神様のようなお方と言っていいわ。この地上では、あんな高貴なお方ににはお目にかかったことがありません。
【プロス】 〔傍白〕うまく行っているぞ、わしが心から願っている通りに。精霊、見事だ。お返しに二日以内に自由にしてやるぞ。
【ファー】 間違いなくこの音楽が捧げられている女神様だ! お願いでございます、どうか、貴女《あなた》様はこの島にお住みの方なのかどうかお教え下さい。それから貴女様の前でわたくしはどう振舞えばよいのか、何かよい指示を与えて下さい。私が最もお尋ねしたいことは――あえて最後に申し上げますが――おおあなたはこの世の不思議! 貴女《あなた》は娘さんですか、違いますか?
【ミラン】 不思議でも何でもありません。間違いなくただの娘〔女神ではなく〕でございます。
【ファー】 おや、同じ言葉を話す! わたくしはこの言葉を話す者の中で最高の地位にいる者です、その言葉の話される所にいればですが。
【プロス】 どういうことか? 最高位とは? ナポリ王がそれを聞いたらお前はどういうことになるか?
【ファー】 わたくしは今はたった一人、あなた様がナポリ王のことをおっしゃるのを聞くとは不思議。王はわたくしの言葉を聞いているのです。わたくしが涙を流しているのはつまりそのためで、わたくし自身がナポリ国王です。わたくしはこの目で――以来涙が乾いたことはありませんが――父王が難破するのを見たのです。
【ミラン】 おお、お可哀相に!
【ファー】 そう、事実なのです。それから貴族たち全部。ミラノ公爵とその素晴らしい息子さん〔つまりアントーニオーの息子〕もご一緒です。
【プロス】 〔傍白〕ミラノ公爵とそのもっと素晴しい娘は、そうではないとお前さんを論破できるんだが、今はまだその時機ではないだろう。会ったばかりで二人は目と目を交わして恋におちた。ういやつエアリエル、お返しにお前を自由にしてやるぞ。
〔ファーディナンドに〕一言《ひとこと》君と話したい。君は何か間違いをしでかしているようだ。その一言だけ言っておく。
【ミラン】 お父上、なぜそんなにひどいおっしゃり方をなさるのですか? このお方はわたしがお会いした三番目の男の方です。そして深く恋い慕うようになった最初の人です。どうかお父上、憐れと思召《おぼしめ》して、わたしと同じようにお考えになって下さい!
【ファー】 あなたが乙女で、どなたかと約束とまで行っていないのなら、私はあなたをナポリの国の王妃としたい。
【プロス】 待ち給え! もう一言《ひとこと》言いたいことがある。〔傍白〕二人はお互いに完全に参ってしまっている。だがこの性急な選び方は、何としても阻止しなければならない。手軽に手に入れたものはその価値のほうも手軽にされる。
〔ファーディナンドに〕もう一言《ひとこと》、いいか、よく聞け、お前はお前自身のものだと称している身分を僭称《せんしょう》しているのだ。そしてスパイとしてこの島に入りこみ、これをわしから横領し、島を支配しようとしているのだ。
【ファー】 違います、男の名誉にかけて誓います。
【ミラン】 こんなすてきなお姿に悪いものが宿ろうはずがありません。もし悪霊がこのように美しい家を持てるというんなら、善いものたちも一緒に住みたいと努力するでしょう。
【プロス】 〔ファーディナンドに〕わしについて来い。〔ミランダに〕彼のために弁じるな。彼奴《あれ》は裏切者だ。〔ファーディナンドに〕来い。
貴様の首と足とを一緒にして械《かせ》で引っくくってやるぞ。飲み水には海の水を飲ませてくれる。食べ物には淡水の小川で取れる二枚貝、萎《しな》びた木の根、それにかつては木の実の揺りかごだった外側の殻《から》。ついて来い。
【ファー】 いや、このような仕打ちとは、私は断固対決します。わたしの敵が力でわたしを圧倒するまでは。〔剣を抜くが、呪文で動けなくされる〕
【ミラン】 お願いお父上、そのように余りに性急にあの方をご判断なさらないで下さい。あのお方は高貴なお生まれで、決して臆病者ではございません。
【プロス】 何だと! おい、わしの足が〔頭でなくて〕わしの教師だというのか? 剣を収めろ謀叛人奴《むほんにんめ》! 形ばかり作って、決して打ちこもうとはしない。お前の良心がそれほどまで罪の咎《とが》を意識しているのだな。構えるのはやめろ。ここでわしはこの杖〔魔法の杖〕でお前の武装を解き、お前の剣を落とすことができるのだ。
【ミラン】 お願いお父上。
【プロス】 どけ! わしのガウン〔つまり魔法のガウン〕に手をかけるな。
【ミラン】 どうか憐れみを。わたしがあの方の保証人になります。
【プロス】 黙れ! それ以上一言でも言うと、お前を憎みはしないが、わしはお前をきつく叱らねばならん。何だ! お前は大|嘘《うそ》つきの弁護士にでもなろうというのか? 泣くな! お前はあの男ほどの好男子はほかにはいないと思っているが、まだあの男とキャリバンだけしか見てはいないのだ。馬鹿だな! 大抵の男に比べればこの男はキャリバンだし、この男に比べれば大抵の男は天使だ。
【ミラン】 ではわたしの好みは最低で結構でございます。わたしはこの方以上にすてきな方にお会いしたいとは思いません。
【プロス】 〔ファーディナンドに〕さあ、言うことをきけ。お前の筋肉は幼い時の昔に戻ってしまったのだ。それで少しの力もないのだ。
【ファー】 その通りだ。わたしの力は、まるで夢でも見ているかのようにすっかり縛られてしまっている。父上の死、体中の力が無くなってしまったこの弱々しい感じ、友人たち全部の難破、それにいまわたしが屈服させられているこの男の威《おど》し、どれもわたしにとっては取るに足らぬことだ。牢屋の窓から一日ただの一度だけでいい、この娘御が拝《おが》めれば。世界中、隅から隅まですべての場所を自由な人々が勝手に使えばいい。有り余る広大さをわたしはそのような牢屋の中に持つ。
【プロス】 〔傍白〕うまく行っている。
〔ファーディナンドに〕さあどうだ。〔エアリエルに〕エアリエル見事だ、うまくやったぞ!〔ファーディナンドに〕ついて来い。〔エアリエルに〕お前にはまだほかにやってもらうことがある。
【ミラン】 元気を出して下さい。父は言葉づかいから想像されるよりは、ずっといい性質の人なのですから。いまのようなことは、ついぞ起こったことがありません。
【プロス】 お前は自由にしてやるぞ、峯を渡る風のようにな。だがそれまでは、わしの命令はすべて確実に実行するのだぞ。
【エアリ】 仔細にいたるまで。
【プロス】 〔ファーディナンドに〕さあついて来い。〔ミランダに〕奴の弁護をするでない。
〔全員退場〕
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第二幕
第一場 島の他の場所
〔アロンゾー、セバスチャン、アントーニオー、ゴンザーロー、エイドリアン、フランシスコーその他登場〕
【ゴンザーロー】 お願いでございます。どうか元気をお出し下さい。お喜びになって当然でございます――われわれも皆そうなのですが――生き残るということは、死んでしまうより、遥かにいいことでございますから。悲しい事柄は世の常のことでございます。いつの日も、どこかの水夫の妻、どこかの船の船長、その荷主の商人が、われわれと全く同じく悲しい思いをしています。ですがこんどのような奇蹟について――この命拾いのことを申しているのです――われわれのように話すことのできる者は、何百万のうちほんのわずかの者でしょう。ですからよろしく分別されて、悲しみを喜びで相殺《そうさい》されますよう。
【アロンゾー】 頼むから黙っていてくれ。
【セバスチャン】 〔アントーニオーに傍白〕慰みの言葉も王には冷《さ》めた|おかゆ《ヽヽヽ》だ。〔以下セバスチャン、アントーニオーがゴンザーロー、エイドリアンをからかうくだりは散文で書かれている。散文は、宮廷人の韻文に対して、下々の人の会話、リアルな卑近な会話など、その使用目的は多岐を極めるが、いずれも演劇効果のために的確に区別して使用される〕
【アントーニオー】 〔セバスチャンに傍白〕家庭訪問の牧師は〔貧乏人、病人を見舞う教区牧師。よく「冷めた|おかゆ《ヽヽヽ》」を持ってきた!〕そんなことで絶対やめるもんか。
【セバス】 〔アントーニオーに傍白〕それ、奴は知恵の時計を捲いている。いまに鳴るぞ。
【ゴンザ】 〔王に〕陛下――
【セバス】 〔アントーニオーに傍白〕ひとーつ。数えろ。
【ゴンザ】 ふりかかるすべての悲しみを受け入れていれば、その受け入れ人には――
【セバス】 金が入る。
【ゴンザ】 そうです悲《カネ》しみが入ります。ご自身でお考えになっている以上に真実をおっしゃいました。
【セバス】 いやこちらが思っている以上に、君が抜け目なく考えたのさ。
【ゴンザ】 〔王に〕でございますから陛下――
【アント】 何と言葉の無駄遣いをする男だ!
【アロン】 頼む、もうやめてくれ。
【ゴンザ】 ではもう終りにいたします。ですが――
【セバス】 奴は絶対に止まらない。
【アント】 奴とエイドリアンとどっちが先に、さあ賭けた賭けた! ときを作《つーく》るか?
【セバス】 老いぼれ雄《お》ん鳥。〔ゴンザーロー〕
【アント】 ひよっこ雄《お》ん鳥。〔エイドリアン〕
【セバス】 決まった。何を賭ける?
【アント】 雌《め》ん鳥が一度に孵《かえ》す卵全部、はっはっはっ!
【セバス】 勝負!
【エイドリアン】 この島は無人のように見えますが――
【アント】 はっはっはっ!
【セバス】 それで賭けは支払い済みだ。
【エイド】 人も住めず、ほとんど人を寄せつけないように見えますが――
【セバス】 それでも――
【エイド】 それでも――
【アント】 どうしてもそれから逃げられない。
【エイド】 気候はきっと微妙で、柔和で、心地よい節度を持っているに違いありません。
【アント】 節子〔原語temperanceには「気候」と「テンペランス」(女性の名前)の二意がある〕は絶妙な女だったな。
【セバス】 そうだ、しかも巧妙だったぞ、奴流に薀蓄《うんちく》を傾けて言うとな。
【エイド】 空気はここではかぐわしい息吹きをわれわれに送ってくれています。
【セバス】 まるで空気に肺があるようだな、しかも腐ったやつだ。
【アント】 それとも沼地でいい匂いをつけられて、とでも言おうかな。
【ゴンザ】 ここには生活に役に立つものがすべてございます。
【アント】 その通り、生きるための手段を除いてな。
【セバス】 そんなものはなんにもない、あってもほんの僅かだ。
【ゴンザ】 ご覧なさい、草があんなに元気よく生い茂っているではありませんか! あの青さ!
【アント】 地面は間違いなく赤茶けている。
【セバス】 その中に緑一点。
【アント】 奴の描写は完全な的外れでもないが。
【セバス】 そうさ。奴は事実をまるで取り違えているだけのことだ。
【ゴンザ】 ですが驚いたことには――到底信じられないことですが――
【セバス】 ほんとうの驚きはみんなそうに決まってる。
【ゴンザ】 私どもの衣類は正真正銘、海につかってびしょぬれになりましたが、それにもかかわらず、塩水で汚れるどころか真新しく染めかえられて、つやつやの新品のままでございます。
【アント】 奴のポケットの一つでも物が言えたら、奴は嘘をついてると言うんじゃないかね?
【セバス】 その通り。でなきゃあ、奴のポケットは嘘をかくしおおせることになる。
【ゴンザ】 私どもの衣類は、王の姫君クラリベル様がチュニス王とご結婚の際、アフリカで初めて着用した時と少しも変らず、まるで真新しいように思われます。
【セバス】 あれは素晴らしい結婚だったよ、〔もちろん大皮肉〕だからわれわれの帰り路も万々歳だった。〔もちろん大皮肉〕
【エイド】 チュニスはかつてこのような美の鑑《かがみ》を王妃に迎えたことはありませんでした。
【ゴンザ】 未亡人のダイドーのとき以来なかったことです。
【アント】 未亡人だと! やめてくれ! どうして未亡人なんだ? 未亡人のダイドーだと!〔ウェルギリウス『アエネイス』にある物語。トロイア滅亡後、カルタゴに渡ったアエネアスはそこの女王ダイオーと恋に落ちた。一方は未亡人、片方はやもめであった。のちユピテルの命令でアエネアスは去り、ダイドーは焼身自殺した。ダイドーはたしかに未亡人だったが、この悲恋物語の主人公を恋人と言わずあえて「未亡人」と言ったゴンザーローの気取りがアントーニオーの気にさわった〕
【セバス】 ついでに|やもめ《ヽヽヽ》のアエネアスと言ってたらどうだ? 君はどんなに騒ぐことだろう!
【エイド】 未亡人のダイドーとおっしゃいましたか? そうだと、そのことを考えなくてはなりません。ダイドーはカルタゴの人で、チュニスの人ではございません。
【ゴンザ】 今のチュニスというのはかつてカルタゴでした。〔チュニスとカルタゴは遠く離れてはいないが別の町〕
【エイド】 カルタゴですと?
【ゴンザ】 たしかにカルタゴです。
【アント】 こ奴の言葉はあの魔法の竪琴《たてごと》以上だな。〔オウィディウスによれば、アンフィオンはその竪琴を奏でてテーベの町の城壁を造り上げた。ゴンザーローはチュニスとカルタゴをごっちゃにしたのだから、新しい町を造り上げたことになる〕
【セバス】 奴は城壁を造り上げた、それに家々までもだ。
【アント】 お次はどんな不可能を易々《やすやす》とやらかすんだろう?
【セバス】 この島をポケットに入れて持ち帰り、りんごだと言って息子にくれるだろうよ。
【アント】 そしてその種子を海に播《ま》いて、もっともっと島を造るだろう。
【ゴンザ】 そうなのです。
【アント】 おやちょうどいいタイミング。
【ゴンザ】 陛下、私どもは、わたしどもの衣類の話をしておりました。それが、今は王妃であられる陛下のお姫様のチュニスでのご結婚の時と全く同じで、この通り真新しいと話しておりました。
【アント】 そしてあの国ではかつてない王妃の鑑《かがみ》だったということも。
【セバス】 未亡人のダイドーは是非除いてくれよ。
【アント】 未亡人のダイドー? そうだ未亡人のダイドー。
【ゴンザ】 わたしのこの上着は初めて着た時と変らぬ真《ま》新しさではございませんか? 比較的に言ってですが。
【アント】 「比較的に言って」とはうまく釣り上げたな。
【ゴンザ】 お姫様のご結婚の時に着たあの時のことですか?
【アロン】 お前はわしの心に一向に食欲がないのにかかわらず、わしの耳にこのように言葉をつめこんでいる。娘をあんなところへ嫁がせるのではなかった! あんなことをしたからこそ、その帰り道に息子を失くし、またこのわしにしてみれば娘も失くしてしまったのだ。イタリアからこうも遠く離れていては、もう二度と娘に会うこともかなうまい。ナポリとミラノを受け継ぐおおわが世継ぎよ、どんな得体の知れない魚がお前を餌食にしているのだろうか?
【フランシスコー】 陛下、王子はご存命と存じます。わたしは王子が強いバック・ストロークで大浪を打ちおろし、その浪の背に乗っておられるのを見ました。王子は逆《さか》巻く怒涛を払いのけ、両の足でそれを強く踏みつけました。目の前に大きくうねる荒浪をブレストで押し切りました。王子は挑みかかる大浪の上に、勇敢にもいつも頭を出しておられました。そしてご自分の素晴しい両の腕《かいな》を櫂《かい》として、力強いストロークで岸に向かって進みました。岸はあたかも腰を屈《かが》めて王子を助け上げるように、その浪に削られた断崖の端《はし》を深々と下げたのでした。王子が安全に上陸されたことは疑う余地がありません。
【アロン】 いや、いや、亡くなったのだ。
【セバス】 この大きな損失は自業自得とお考えになるのがいいと思います。あなたはわがヨーロッパをあなたの娘さんによって祝福することをどうしても承知されず、こともあろうにアフリカ人と|つるませた《ヽヽヽヽヽ》。とにかく娘さんはあなたの目の届かぬところへ追放されているのですから、あなたがそのための悲運を泣き悲しむのは当然です。
【アロン】 頼む、黙っていてくれ。
【セバス】 われわれは全員であなたの前にひざまずき、ほかの方法をとるよう懇願しました。娘さんご自身も、進まぬ気持と父親への孝行とのあいだにはさまって、秤《はかり》のどっちの端《はし》が下がるか決めかねた。王子はいなくなられました、おそらくは永遠に。ミラノ、ナポリ両国はこんどの一件で、非常に沢山の未亡人をかかえることになりましょう。連中を喜ばすためにわれわれが連れて帰る男の数よりは遥かに多い。みなあなたの責任ですぞ。
【アロン】 わしに最も身近な損失も、わしの責任だ。
【ゴンザ】 セバスチャン殿、おっしゃることは真実には違いありませんが、やさしさに欠け、また時宜《じぎ》を得ておりません。薬を塗るべき時にあなたは痛みどころをこすってしまっている。
【セバス】 よく言うよ。
【アント】 外科の大先生よろしくだ。
【ゴンザ】 セバスチャン殿、あなたのお心の曇っている時は、われらの心もすべて曇りでございます。
【セバス】 曇りの天気、鳥打日和《とりうちびより》?
【アント】 本曇り。
【ゴンザ】 私がこの島を|おさめる《ヽヽヽヽ》ということになりましたら――
【アント】 |いらくさ《ヽヽヽヽ》の種子を播《ま》くだろう。
【セバス】 さもなきゃ|すかんぼ《ヽヽヽヽ》か|ぜにあおい《ヽヽヽヽヽ》。
【ゴンザ】 そして島の王様ということになりましたら、私は何をするでしょう?
【セバス】 酒《ワイン》が無いから、酔っぱらいにはならなくてすむだろうよ。
【ゴンザ】 その国では私はすべてあべこべの政策で、あらゆることを実施したいと思います。いかなる種類の商取引も私は決して認めません。役人の肩書も認めません。学問は施されるべきでなく、富も、貧しさも、それから奉公人制度も一切無くし、契約も、相談も、境界線つまり個人の土地の境い目も、耕作も、葡萄畑《ぶどうばたけ》も一切無くし、金属、穀物、それに酒《ワイン》の使用をすべて禁止し、職業は無く、男はみんな、みんな何もすることもなく、女もこれまた全く同じ、ただ純真でそして純潔、王権というものもなく――
【セバス】 だが奴は島の王になろうとしている。
【アント】 奴の国家論のおしまいは始まりを忘れている。
【ゴンザ】 万人が平等に使用すべきものは、人間が汗を出すことも骨を折ることもなく、すべて『自然』〔地上のすべてのものを創造する万物の創造主〕が造り出すべきであり、反逆も凶悪な犯罪も、剣も、槍も、短刀も、鉄砲も、いかなる戦いの道具の必要性も、私は一切無くします。ただ『自然』が自らの力によって、五穀|豊穣《ほうじょう》、ゆたかな実りをわれわれにもたらしてくれ、わが純真な国民を養ってくれます。
【セバス】 奴の国では国民は結婚はしないのかな?
【アント】 そりゃしないね。みんな何もすることもなく、淫売と悪者ばっかりだ。
【ゴンザ】 こういう完璧さをもって私は統治したいと考えております。かの「黄金時代」〔神話の原始時代〕を凌駕《りょうが》するような。
【セバス】 神よ陛下を護り給え!
【アント】 ゴンザーロー万歳!
【ゴンザ】 それから――陛下お聞き下さってますか?
【アロン】 頼む、もう止めてくれ。お前の話すことはわしには無意味だ。〔以下「無意味」論争〕
【ゴンザ】 陛下の仰しゃることはもっともでございます。それから私はこの方々たちに奉仕するのをこととして参りました。この方々は非常に敏感にして活溌な肺臓をお持ち合わせで、機会あるごとに無意味なことを笑い興じておられました。
【アント】 われわれが笑い興じていたのはあんたなのだ。
【ゴンザ】 そのわたしはこういった馬鹿馬鹿しいお笑いにかけては、皆さんに比べて全く無意味な者めにございます。ですからどうぞお続け下さい、無意味なものを笑い続けて下さい。
【アント】 一本痛烈にやられた!
【セバス】 生憎《あいにく》と峰打ちだった。
【ゴンザ】 皆様方は素晴らしくお元気でいらっしゃる。お月様が何の変哲もなく五週間も同じ軌道を回ったら、皆さんはきっとお月様をその軌道から摘み上げてしまうことでしょう。
〔エアリエル(見えない姿で)笛で荘重なメロディーを奏でながら登場〕
【セバス】 是非ともそうしたいね、そうしたら月を明かりにして鳥|叩《たた》きに行きたいよ。〔夜、くさむらなどで眠っている鳥を、明りを照らして眩惑させ、枝葉の付いた木の枝(棒)などで叩き落とす猟の方法〕
【アント】 いや閣下お怒りになってはいけません。
【ゴンザ】 いや怒りません、受け合います。そのようなひ弱なやり方でそれがしの思慮分別を賭けようとはゆめ思いませぬぞ。ひとつ大いに笑って私を眠らせてくれませんか? ひどく目蓋《まぶた》が重くなりました。
【アント】 お休みなさい、よーくお聞きなさい。
〔アロンゾー、セバスチャン、アントーニオー以外全部眠る〕
【アロン】 おや、みんなもう眠ってしまった! わしもみんなと一緒に目を閉じて、くさぐさの思いを眠らせてしまいたい。どうやらわしの目もそんな工合になってきた。
【セバス】 どうか陛下、その重い眠気にさからわないで下さい。眠気が悲しみを見舞うのはごくまれのこと、見舞いに来た時は大きな慰めとなります。
【アント】 陛下、われわれ二人で、お休みのあいだじゅう身をお守りし、お身の安泰をはかることにいたします。
【アロン】 かたじけない。ひどく眠くなってきた。
〔アロンゾー眠る。エアリエル退場〕
【セバス】 何という不思議な眠気にみんな取りつかれてしまったのだ!
【アント】 この島の気候のせいだ。
【セバス】 それならなぜわれわれの目蓋も沈んで来ないのかね? わたしは一向に眠気を感じないのだが。
【アント】 わたしもだ。わたしの頭は活溌に動いている。みんな申し合わせたように横になってしまった。まるで雷《かみなり》にでも打たれたようにぶっ倒れてしまった。どうする? ねえセバスチャン、いやこれ以上言うまい。だがあんたの顔を見ると、あんたがこれからどうなるか、それがわたしにはわかるように思う。現在の状況がそれをあんたに告げ、そしてわたしの強い想像力には、王冠があんたの頭の上に落ちかかるのがよく見える。
【セバス】 ねえ、君は眠っているのではないか?
【アント】 あんたはわたしの言うことが聞こえないのか?
【セバス】 聞こえている。だが全くの寝言にすぎんよ。君は眠ったままで何かを言っているんだ。君は何のことを言っていたんだ? まったく世にも不思議な休み方だ。両の目をぽっかりと開けたままで眠っている。立ったままで、話しながら、動きながら、しかもぐっすりと眠っているのだから。
【アント】 高貴なるセバスチャン殿、あなたこそあなたの幸運を眠らせているのです――いや死なせている。目が覚《さ》めているのに目は閉じている。
【セバス】 君はずい分はっきりと|いびき《ヽヽヽ》をかくな。君の|いびき《ヽヽヽ》は意味深長だ。
【アント】 わたしはいつになく真面目なんだ。あんただってわたしの言うことを聞く気なら、そうでなくてはならない。そうすればあんたは三倍も大物になれるのだ。
【セバス】 だが僕は淀んだ水だ。〔決心が出来ない〕
【アント】 どう流れればいいか教えよう。
【セバス】 そうしてくれ、僕の生来の怠け癖は、下げ潮がいいと宣《のたま》っている。
【アント】 ああ、あんたはこうして茶化しているあいだに実は計画をどんどん進捗《しんちょく》させ、服を脱がせているあいだに実は服をどんどん着せているのだということがあんたにわかってもらえたら! 事実、下げ潮の人は自分の恐怖と怠慢のゆえに、いつも海の底近くを走りまわっているのだ。
【セバス】 どうかその先を言ってくれ給え。君の目と頬のたたずまいを見ていると、何か重大な事柄を告げているようだ。そしてそれを外に出すために、文字通り生みの苦しみを味わっているようだ。
【アント】 実はこういうことです。この記憶力いとも弱き大臣《おとど》は、このお方は亡くなって、土中に葬られれば、その記憶力同様、人々の追憶にはほとんど残らないそういう御仁なのだが、いまここで王をほとんど説得した――この御仁は「説得」が服を着たような人で、ただそれだけが仕事なのだが――王の息子は生きていると。王の息子が溺れていないというんなら、ここで眠っているこのお方〔王〕は、いま泳いでいるんだといえるだろう。
【セバス】 王子が溺れていないなんて、そんな希望は持てんよ。
【アント】 その「希望の持てぬ」ところから、あなたは何と大きな希望が持てるだろう! 一方で希望が持てぬということは、他方では高い希望が持てるということ――大いなる「野心」さえそれ以上の物は〔ナポリの王冠〕見出し得ないし、得たとしてもそうだと断定することは難しい――そんな大きな希望が持てるということだ。われわれはファーディナンドは溺死したと認めよう。
【セバス】 そうだ溺死した。
【アント】 では言って欲しい、ナポリの次の世継ぎは誰なのか?
【セバス】 クラリベルだ。
【アント】 それはチュニスの王妃となった女《ひと》。人が一生涯かかって旅行しても、さらにその先三十マイルに住んでいる女《ひと》。太陽が飛脚にならなければ――月の中の男では遅すぎる〔かつて西洋では月の中に薪を持ち犬を連れた男がいると想像していた〕――生まれたての赤ん坊の|あご《ヽヽ》がごつくなって鬚《ひげ》が生えて、剃刀《かみそり》で剃《そ》るようになるまで、ナポリから便りをもらうことの出来ぬ女《ひと》。その女《ひと》の所からの帰り途《みち》、われわれはすべて海に呑まれてしまった、もっともある者はまだ役柄《やくがら》があると岸に投げ出され、そんな運勢の回《まわ》り合わせで、もう一幕演じることになった。これまでのことは序の口で、これからのことは、すべてあんたとわたしの演技次第だ。
【セバス】 何という誇張だ! 君は何を言っているのだ? なるほどわたしの兄の娘はチュニスの王妃だ。そしてナポリの世継ぎでもある。その二つの城のあいだには、確かになにがしの距離はある。
【アント】 その距離の一尺一尺は大声で叫んでいるようだ、「どうやってクラリベルは俺たちを一つ一つ渡って、ナポリへ帰るのか? チュニスにとどまれ、そしてセバスチャンの目を覚ませ」ねえ、いま連中を捕えているこの眠りは、死とまったく同じでしょう。つまり連中はいま最悪の状態にいるのだ。眠っているこ奴《やつ》に劣らず、ナポリを統治できる人間はいるのだ。このゴンザーローに負けず劣らず潤沢に、そしてまるっきり不必要におしゃべりのできる貴族もいるのだ。このわたしだってやろうと思えば、|人まねからす《ヽヽヽヽヽヽ》をあいつぐらいのおしゃべりには調教できる。ああ、あんたがわたしと同じような気持ちを持ってくれたらなあ! こいつらが眠ってることは、あんたの出世のために何と役に立つことか! 言ってることがおわかりか?
【セバス】 わかったように思う。
【アント】 それであんたの考え方では、あんた自身のこの幸運をどのくらい有難いと思ってますか?
【セバス】 思い出した、君は兄さんのプロスペローを追い出したのだ。
【アント】 その通り。それで、見給え、この服が何とわたしによく合っていることか。以前よりずっと優雅になったではないか。兄の召使いは、当時はわたしの同僚だった。それが今はわたしの家来だ。
【セバス】 だが君の良心は?
【アント】 それです。そいつはどこにいるんです? それがかかとの|あかぎれ《ヽヽヽヽ》なら、きっとわたしにスリッパをはかせるでしょうよ。わたしの胸には、そんな神様がいるとは思われない。わたしとミラノの国のあいだには、三十もの良心があるが、そいつらがお節介をやく前に、砂糖を塗って、溶かしちまえ!〔良心の苦《にが》さを砂糖で甘くして〕ここに君の兄貴が眠っている。もしこれが外見上そう見えるように、つまり死んでいるというなら、いま寝床にしている土となんら変わるところはない。その君の兄をわたしはこの意のままになる剣の切っ先三寸で、永久に寝かせてしまうことができる。同時にあんたはこうやって、〔槍で刺す動作〕この時代ものの肉の塊《かたまり》、「思慮分別」居士《こじ》を永遠《とわ》の眠りにつかせることができる。かくしてこやつはもうわれわれのすることにとかく言うこともない。ほかの連中はヒントを与えれば万事われわれの言う通り。猫にミルクだ。われわれがこの時間がいいと言えば、連中はどんな仕事にだって時計の針を合わせるさ。
【セバス】 ねえアントーニオー君、わしは君の先例に従うことにしよう。君がミラノをものにしたように、わしはナポリを手に入れよう。さあ剣を抜け、その一撃で、その方がわしに支払っている年貢の一切を免除してつかわそう。そしてわしナポリ王はその方を大切に可愛がってつかわそう。
【アント】 一緒に抜こう。わたしが腕を振り上げたら、あんたもそうやって、それをゴンザーローに打ち下ろすのだ。
【セバス】 ああ、もう一言《ひとこと》だけ。〔二人、舞台の片隅に退いて話す〕
〔エアリエル(見えない姿で)音楽、歌と共に登場〕
【エアリエル】 わたしの主人は魔法の力で、お友だちのあなたの遭遇している危険を予知し、わたしをここにつかわした――でないと、その計画が失敗してしまうので――この人たちを生かしとくために。
〔ゴンザーローの耳もとで歌う〕
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鼾《いびき》をかいて寝ているうちに、
目を見開いた悪企み
その機会をばねらってる。
お命大事とお思いならば、
眠気をはらってご用心。
さあ起きなさい、起きなさい!
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【アント】 では一緒に手っ取り早くやっつけよう。
【ゴンザ】 〔目を覚ましながら〕上天の天使たちよ、なにとぞ国王を護り給え!〔他の者たち目覚める〕
【アロン】 おや、どうした? おい、起きているのか?――なぜ抜剣しているのだ? 何故《なにゆえ》そのような恐しい顔をしているのだ?
【ゴンザ】 なにごとですか?
【セバス】 ここでお休みのところを警護しておりましたところ、今しがた、あたりにこだます恐しい唸《うな》り声がいたしました、牛のような、いやライオンのような。お目覚めではありませんでしたか? わたしの耳は恐怖で打ちのめされました。
【アロン】 わしは何も聞かなかった。
【アント】 ああ、あれは怪物の耳をも仰天させる轟音《ごうおん》でした。大地震でした! たしかにあれはライオンの大群が、一時に吼《ほ》え上げたに違いありません。
【アロン】 ゴンザーロー、その方は聞いたか?
【ゴンザ】 わたしの名誉に誓って陛下、わたくしはハミングを、しかもまこと不思議なハミングを耳にいたしました。それで目が覚め、陛下をゆさぶり、お呼び申し上げました。目を開いてみますと、お二人が剣を抜いておいででした。――何か音がしておりました。それはたしかでございます。警戒態勢をとるか、さもなくばここを立ち退《の》くのが良策と存じます。わたしどもも剣を抜きましょう。
【アロン】 ここを立ち退こう、先導してくれ。あわせてわが哀れな息子を、さらに探し続けよう。
【ゴンザ】 天よ、なにとぞ王子様をこれら猛獣どもから護り給え! 王子様は間違いなくこの島におられるのだから。
【アロン】 先導してくれ。
【エアリ】 主人のプロスペローにわたしがしたことを知らせよう。では国王よ、くれぐれもお大事に、息子さんを探して下さい。〔全員退場〕
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第二場 島の他の場所
〔キャリバンが薪の束を担《にな》って登場。雷の音が聞こえる〕
【キャリバン】 太陽がふわふわ沼、湿地帯、海辺《うみべ》の沼などから吸い上げるあらゆる毒気は、すべてプロスペローに降りかかれ! そして彼奴《あいつ》をじわじわと病気で攻めたてろ! あいつの精霊どもは俺の言うことを聞いている。それでも俺は呪わずにはいられない。だがそういう奴らだって、彼奴《あいつ》が命令しなきゃ、この俺さまをつねったり、はりねずみのお化けを見せて俺をおどかしたり、泥んこに突き落としたり、松明《たいまつ》に化けて真っ暗闇の中で俺を迷い子にしたりはしない。だが奴《やつ》はことごとに、つまらんことで奴らをこの俺さまにけしかける。ある時は猿公《えてこう》になって、歯をむき出して、ぎゃあぎゃあほざき、あげくの果ては俺に噛みつきゃがる。そのお次ははりねずみ、俺が裸足《はだし》で歩く道にころころと転がりゃがって、俺が歩くと針をぴんぴんと立てやがる。またある時はマムシどもに捲きつかれ、二またに分かれた舌で、しゅうっしゅうっとおどかされ、俺は全く気が狂いそうだ。
〔トリンキュロー登場〕
それ見ろ、それ見ろ! あいつの精霊の一人がやって来た。薪の運び方が遅いので、俺をいじめようっていうんだろう。べたっと伏せていてやろう。そうすりゃ奴も俺に気がつくめえ。
【トリンキュロー】 ここには悪い天気から身を守る藪《やぶ》も茂《しげ》みもない。だのにまたあらしが一丁でき上がりつつある。風の中にその歌声が聞こえてる。あそこに見えるあの黒い雲、あの大きな奴は、中味の酒を今にもぶちまけそうな、どす黒い革の酒ぶくろのようだ。さっきのように雷が鳴ったら、いったいどこに頭をかくしたらいいんだろう? あそこのあの雲は桶を引っくり返したような、どしゃ降りをふらすに違いない。こりゃ何だ? 人か魚《さかな》か? 死んでるのか生きてるのか? 魚だ。こいつは魚のような臭《にお》いがする。大変な年代ものの魚のような臭いだ。その――何と言おうか――干鱈《ひだら》だな、それもあんまり新しくはない。奇妙|奇天烈《きてれつ》な魚だ! 前に行ったことがあるイギリスにいま俺がおって、これを看板に描《か》かせたら、お祭り見物のバカ者どもで、銀貨一枚を出し惜しみする奴は一人もおらんだろうよ。あそこではバケ者バケてバカ儲け。奇妙な獣《けもの》なら何でもバカ儲け。跛足《びっこ》の乞食にゃ小銭もやらんが、インディアンの死骸ならその十倍の金も惜しまない。人間のような脚をしてやがる! 鰭《ひれ》は腕のようだ! 驚いた、温《あった》かい! 魚だと思ったが、もうそういう考えはおっ放《ぱな》す、もう紐はほどいてやる。こいつは魚じゃない。島の者だ、ついさっきの雷でやられた。
〔雷鳴〕ああ、あらしがまたやって来た! 一番の良策はこやつの上衣の中にもぐりこむことだ。近くに、ほかに隠《かく》れる場所はない。窮すればおかしな奴と添い寝するもんだ。あらしの最後の一滴がたれてしまうまで、ここに隠れていよう。
〔ステファノー酒壜《さかびん》を持って歌いながら登場〕
【ステファノー】 海はごめんだ、もうごめん、
ここで死ぬんだ、陸《おか》の上で――こいつは人間さまの葬式の歌にしちゃ、しょぼくれすぎてる。ういっ! わがお楽しみはここにあり。〔飲む〕
〔歌う〕
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船長、水夫、水夫長にこのわたし、
砲手にその相棒、みんなが惚れた。
マル、メグ、メアリアン、マージェリ。
それなのにケイトにゃ誰も目もくれぬ。
それもそのはず、彼奴《あいつ》の舌にゃ棘《とげ》がある。
いつも水夫に「くたばれ!」と怒鳴る。
彼奴《あいつ》はタールやチャンの臭いには惚れないで、
洋服屋にゃ痒《かゆ》いところはどこでも掻《か》かせた。
さあみんな、海だ、彼奴《あいつ》はくたばれ!
こいつもしょぼくれた歌だ、
だが、わがお楽しみはここにあり。〔飲む〕
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【キャリ】 俺をいじめないでくれ、
【ステファ】 こりゃどうしたことだ? おお! ここにいるのは悪魔か? 見世物用の野蛮人やインディアンで俺をたぶらかそうってのかい? お前の四本脚なんかにおどかされるために、俺さまは溺れ死ぬのを助かったんじゃねえぞ。「四本足で歩くこの世きってのハンサム男」だって、この男に道をゆずらせることはできん、とずっと言われてきたこの俺が。またそれを言わせてみせよう、ステファノー様が鼻で息して生きてるあいだは。
【キャリ】 精霊が俺をいじめてる、おお!
【ステファ】 こりゃ四本脚を持った島の怪物で、見たところ|おこり《ヽヽヽ》にやられているらしい。いったいこ奴はどこで俺さまの言葉を覚えたのだろう? そのことだけでも、少しは楽にしてやろう。こいつを元気にして、飼い馴らして、一緒にナポリへ行けば、この世のいかなる立派な帝王に対しても贈物となり得よう。
【キャリ】 お願いだ、俺をいじめないでくれ。もっと早く薪を運ぶから。
【ステファ】 こ奴《やつ》はいま発作にやられている。だからまともには話ができん。俺の壜《びん》のを飲ませてやろう。こ奴が今までワインを飲んだことがなけりゃ、発作を静める方向へ持ってけるだろう。こいつを元気にして、飼い馴らせられたら、こいつを元に一つ儲けまくってやろう。こ奴《やつ》を買う奴には出させてやるぞ、しこたまな。
【キャリ】 お前はまだ俺をほんのちょっぴりしか痛めていない。もうすぐやるんだろう、お前が震えてるから俺にはわかっている。いまプロスパーの魔法がお前にかかっているんだ。
【ステファ】 さあさあ、口をああんしろ。これを飲めば、ねえ|にゃん《ヽヽヽ》君〔「酒は猫をしゃべらせる」という格言がある〕、お前は口をきけるようになる。口をああんしろ。これを飲めば震えを一ぺんに震い落とす。いいか、しかもしこたまだ。お前にはお前のほんとの友だちがわからんのだ。もう一度|顎《あご》をああんしろ。
【トリン】 あの声にはたしか聞き覚えがある。あの声は間違いなし――だが奴は溺れ死んでしまったんだ。するとこいつらは悪魔だ。おお神様、お護り下さい!
【ステファ】 脚が四つで、声が二つ――何て器用な怪物だ! お前の声は、いいか、友だちを賞《ほ》めるためであり、後《うしろ》の声は口汚くののしり、くさし専門だ。奴がこの壜の酒全部を飲んで元気が出たら、奴の|おこり《ヽヽヽ》をおっ払《ぱら》えるだろう。さあ、そのくらいでいい! もう一つの口に注いでやろう。
【トリン】 ステファノーじゃないか!
【ステファ】 お前のもう一つの口は俺の名を呼んでるのか? 神様、お慈悲を、お慈悲を! こいつは悪魔だ、怪物なんかじゃありゃしない。俺は逃げる、長柄のスプーンなんかここにはねえ。〔悪魔と食事をするものは、その危害が届かぬように、長柄のスプーンが必要〕
【トリン】 ステファノー! もしお前がステファノーなら、俺に触《さわ》ってくれ、そして話しかけてくれ。俺はトリンキュローなんだからな――恐《こわ》がるなよ――お前の親友のトリンキュローだよ。
【ステファ】 お前がもしトリンキュローなら、出てこい。短いほうを引っ張るぞ。どっちかがトリンキュローの脚だとすれば、こっちのほうがそれだ。ほんと、お前は正真正銘トリンキュローだ! いったいどうしてお前はこんな月の化物の糞《くそ》なんかになったんだ? こいつはトリンキュローを放《ひ》り出せるのか?
【トリン】 俺は、こいつは雷に打たれて死んだものと思っていた。だがステファノー、お前は溺れ死んだのではなかったのか? そうだな、お前は溺れ死になんかしていないと思うよ。あらしはもう過ぎ去ったのか? 俺はあらしが恐くて、死んだ化物の上衣の下に隠れていたんだ。じゃステファノー、お前は生きているんだね?〔まだ半信半疑で、ステファノーをぐるぐる回しながら言う〕ああステファノー、二人のナポリ人が助かったんだ!
【ステファ】 頼む、そんなに俺をぐるぐる回《まわ》さんでくれ。俺の胃は落着きが悪いんだ。〔もうワインが回って、胃の腑もぐるぐる回っている!〕
【キャリ】 〔傍白〕精霊でないというんなら、この人たちは立派なものに違いない。あれは素晴らしい神様で、天のお神酒《みき》を持っている。俺はこの人に跪《ひざまず》こう。
【ステファ】 どうやって脱出したのか? どうやってここへ来たんだ? この壜によって誓え、どうやってお前はここへ来たんだ? 俺は水夫どもが船から投げ出した酒樽に乗って助かったんだ、この壜によって誓う! この壜はこの岸に投げ出されてから、木の皮でもってこの手で作ったものだ。
【キャリ】 その壜によって俺は誓う、お前さんの忠実な臣下になることを。この酒はこの世のものとは思えんからな。
【ステファ】 さあ、〔酒壜をさし出しながら〕それでどうやって脱出したのか誓って言え。
【トリン】 岸に泳ぎ着いたのさ。家鴨《あひる》みたいにな。誓って言うが、俺は家鴨《あひる》みたいに泳げるんだぞ。
【ステファ】 さあこの聖書〔酒壜〕にキスしろ。君は家鴨《あひる》みたいに泳げるかしらんが、鵞鳥《がちょう》ってとこがいいとこだ。〔馬鹿、愚鈍の象徴〕
【トリン】 おおステファノー、この|て《ヽ》の酒がまだあるか?
【ステファ】 樽ごとあるぞ。俺の酒倉は海岸の岩の中にある。そこにワインが隠してある。どうした、月の化物! |おこり《ヽヽヽ》はどんな工合だ?
【キャリ】 お前さんは天から落っこちたのではないか?
【ステファ】 月からだよ、そいつは間違いない。俺は昔々その昔、月の中の男だった。
【キャリ】 俺はお月さんの中にお前さんを見かけたことがある。お前さんを崇拝しているんだ。俺んとこのお嬢さんがあんたと、あんたの犬と、あんたの柴《しば》のことを教えてくれたよ。
【ステファ】 さあ、そいつを誓え、聖書にキスしろ。〔またまた酒をすすめる〕すぐまた新しいやつで一杯にしてやるぞ。誓え。
【トリン】 このすばらしい日の光にかけて誓って言うが、こいつはまこと浅薄きわまる怪物にすぎんかった。俺はこんなものを恐がっていたのか! まったくの弱虫怪物じゃないか! 月の中の男だと! 何と哀れな、馬鹿正直な怪物なんだ! いいぞ怪物、その飲みっぷり、まったくのはなし。
【キャリ】 島の地味の肥えたところを隅々まで案内しよう。あんたの足にキスもしよう。お願いだ、俺の神様になってくれ。
【トリン】 この日の光にかけて誓って言うが、こいつは何という嘘《うそ》つきで酒食らいの怪物なんだ! 神様が眠っていりゃ、こいつは酒樽を盗むんだろう。
【キャリ】 あんたの足にキスをする。あんたの臣下たることを誓おう。
【ステファ】 じゃやれ、跪《ひざまず》いて誓え。
【トリン】 この仔犬の頭の知恵しかない怪物には笑い死にさせられるよ。何というしょぼくれた怪物だ! たたきのめしてやりたい気持だが――
【ステファ】 さあ、キスしろ。
【トリン】 この怪物が酔っぱらっていなけりゃね。まったく嫌らしい怪物め!
【キャリ】 一番いい泉を教えてやろう。いちごを取ってきてやろう。魚も取ってきてやろう。それに薪も十分に持ってきてやろう。いま仕えてるあの暴君なんか疫病にかかってくたばってしまえっ! もう奴《やつ》には薪なんか運んではやらんぞ。俺はお前さんについてゆく。お前さんは世の不思議だ。
【トリン】 この哀れな酔っぱらいを世の不思議に祭り上げるなんて、何というばかばかしい怪物だ。
【キャリ】 お願いだ、|山りんご《ヽヽヽヽ》の生えてるところへ案内させてくれ。それから俺のこの長い爪でピーナツを掘ってやるよ。|かけす《ヽヽヽ》の巣も見せてやる。すばしこい|きぬ《ヽヽ》猿〔食用〕をどうやって罠《わな》にかけるかも教えてやろう。ふさふさとなっている榛《はしばみ》の実のある所へも連れていこう。時々は岩のあいだから|こじゃくちどり《ヽヽヽヽヽヽヽ》の雛《ひな》〔大変な美味のものとされていた〕を取ってきてやろう。俺と一緒に行かないか?
【ステファ】 頼むから、もうおしゃべりはやめにして案内してくれ。トリンキュローよ、国王とわれわれのすべての仲間は溺死してしまったんだから、ここに余は、この島の主権をうけ継ぐこととする。さあ、この壜を持て。トリンキュロー君、すぐにまた一杯にしておいてくれよ。
【キャリ】 〔酔っぱらって歌う〕
さらば主人よ、いざさらば!
【トリン】 怪物の遠吼え、怪物の酔っぱらい!
【キャリ】
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魚取りの堰《せき》ももう造らない。
薪ももう運ばない。
頼まれたって。
盆も磨かない、皿も洗わない。
バン、バン、キャ、キャリバンは
新しい主人見つけた、新しい家来やとえ。
自由だ、今日こそ万歳! 万歳、自由だ!
自由だ、万歳、自由だ!
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【ステファ】 おお何と素晴しい怪物だ! 案内してくれ。〔全員退場〕
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第三幕
第一場 プロスペローの岩屋の前
〔ファーディナンド、一本の丸木を担ぎながら登場〕
【ファーディナンド】 ある種の楽しみは骨の折れるものであるが、その労苦を喜びが相殺《そうさい》してくれる。卑賤な仕事も、ある種のものは、高貴なる心を持てば耐えられる。かくして貧しい事柄も多くは豊かな結末に向かうことになる。今のこの卑《いや》しい仕事はわたしにとっておそらくは最も嫌な、またきついものとなっていたに違いない、いまわたしが仕えている姫が、死せる者に生命を与え、わたしの労苦を喜びとしてくれていなければ。おおあの女《ひと》は粗野な父親に比べてみると、十倍もやさしい。あの父親は頑固にでき上がっている。わたしは厳しい命令で、この何千本もの丸木を運んで、これを積み上げなければならない。わたしが働いているのを見て、あのやさしい姫は涙を流し、こんな卑しい仕事をこんなお方がなさった例はないと言ってくれている。忘れていた〔仕事をするのを〕、だがこういう嬉しい想いはこの仕事を楽しいものにさえしてくれる、何もしていない時がかえって一番忙しい。
〔ミランダ登場、次いでプロスペロー(離れて、ミランダには見えない)登場〕
【ミランダ】 まあお願いです、そんなにひどくお働きにならないで下さい。あなたが積めと命令されているこんな丸木なんて、いっそひと思いに稲妻が燃やしてしまえばいい! どうぞそれをお置きになってお休み下さい。これが燃える時には、あなたに苦労をかけたと涙を流すでしょう。〔|やに《ヽヽ》を出して〕父は研究に集中しています。どうか今のところはお休み下さい。この三時間は安全です。
【ファー】 おおやさしい姫よ、わたしが精を出してするよう言われた仕事をおわる前に日が暮れてしまいます。
【ミラン】 あなたがお掛けになられたら、そのあいだはわたくしが丸木を運びます。それをわたくしに下さい。積み場所へわたくしが持って参ります。
【ファー】 とんでもないお姫様、わたしが怠けて坐っていて、あなたがこんな卑賤なことをなさるくらいなら、わたしはこの筋肉を引き裂き、背骨をへし折った方がよほどましです。
【ミラン】 そのお仕事があなたにふさわしいのなら、わたくしにとっても同じこと。いえわたくしなら、もっとずっと楽にいたします。なぜって、わたくしは進んでそれをやりますが、あなたは否々《いやいや》なさるから。
【プロスペロー】 〔傍白〕可哀相にお前は恋の病《やまい》に罹《かか》ったのだ! その病《やまい》はここまで拡がってしまったのだ。
【ミラン】 あなたはお疲れのようですわ。
【ファー】 姫よ、そんなことはありません。あなたが傍《そば》におられれば、たとえ夜でもわたしにとってはさわやかな朝です。お願いがあります――主な理由はそれをわたしのお祈りの中にはめこみたいためですが〔指輪の宝石のように〕――お名前は何と仰しゃいますか?
【ミラン】 ミランダです。――おお、お父上、わたしはご命令に背いてそれを言ってしまいました!
【ファー】 わが崇拝するミランダ! まことに崇拝、賛嘆、驚異の極致! この世界にとって最も大切なものの値打ちがある! 沢山の女性の方を、わたしはこれまで好意の眼《まなこ》で眺めて来ました。そしてその言葉のハーモニーがわたしの余りにも愚直な耳を|とりこ《ヽヽヽ》にしたことも少なくありません。ある美点のために、ある女性が好きになったこともあります。しかし何かしらの欠点があって、それがその女《ひと》の持っている最高の美徳と相容れず、その美質を駄目にしたり、またはその引き立て役になってしまう。そうでない完璧な方には、わたしはかつてめぐり合ったことがありません。ところがあなたは、おおあなたは、かくも完全無欠、完全無比! あらゆる人間の最上のものだけからでき上がっている!
【ミラン】 わたしは女性の方を一人も存じません。また女の方のお顔も覚えておりません。ただわたしの鏡にうつったわたしの顔だけは別ですが。またわたしは男の方と呼べるお人にはあなたと、それからわたしの父以外には、これまでお会いしたことはありません。ほかの方はどんなお姿なのか、わたしには全くわかりません。ですが、わたしの操《みさお》にかけて――それはわたしのお嫁入りの時の宝石ですが――この世であなた以外にはお相手が欲しいとは思いませんし、またどう想像してみましても、あなた以外にわたしが好きになれるような人のすがたを考えることは到底できません。でも、わたし何か余りにもとりとめのないおしゃべりをしてしまい、父の命令もすっかり忘れてしまいました。
【ファー】 わたしは、地位で言いますと、王子なのです、ミランダ。いや今こそ国王だと思っています。そうでないことを心から願う!――それでこの丸木運びの奴隷仕事は、肉バエがわたしの口に卵を産みつけるのと同様に、耐えられないのです。わたしの心の声を聞いて下さい。あなたとお会いしたその瞬間、わたしの心はあなたの足下に飛んで行きました。そして奴隷となって、そこに止《とど》まっているのです。あなたがいるからこそ、わたしはこうして丸木運びでいられるのです。
【ミラン】 わたしを愛していらっしゃる?
【ファー】 おお天よ、おお大地よ、わたしの発言の保証人となって欲しい! そしてもしわたしの言うことが真実なら、わたしが誓うことも好意的な結末で飾って欲しい! もし不実なら、わたしに約束されているいかなる最上の幸運も災《わざわ》いに転じて欲しい! わたしはこの世にある、ありとあらゆるものの限界を超えて、あなたを愛し、貴び、敬《うやま》います。
【ミラン】 わたしはお馬鹿さんですね。嬉しいことを泣いたりなんかして。
【プロス】 〔傍白〕世にもまれな二つの愛情の美しい出合いだ! 天よ、二人のあいだに育つ愛情に恵みの雨を降らせ給え!
【ファー】 なぜお泣きになるのです?
【ミラン】 わたしが至らぬ者だからです、それで差し上げたいと心から願っているものを、差し出す勇気がございません。まして頂くことなどは到底できません、たとえそれが無ければ死んでしまうにしても。でもつまらない事ですわね。それは自分自身を隠そうとすればするほど、ますます大きくなってしまいますもの。内気な恥じらいなど消えておしまい! 飾らない、清らな天真らんまんの心よ、わたしを助けておくれ! もしわたしと結婚なさりたいのなら、わたしはあなたの妻です。そうでないのなら、わたしは一生乙女で、あなたの下女。あなたの連れ合いとなることは、あなたはおことわりになれますが、わたしはあなたの下女となります。あなたがそれを希望されようと、されなかろうと。
【ファー】 わが最愛の姫、こうして〔跪《ひざまず》く〕永遠の愛を誓います。
【ミラン】 ではわたしの夫になってくださるのですね?
【ファー】 はい。それを心から望んでいます。ちょうど捕らわれの身が自由を熱望するように。さあ誓いの握手です。
【ミラン】 わたくしの心をこめて。ではごきげんよう、半時間後にまたお会いします。
【ファー】 何度ごきげんようを言っても言い切れない!
〔ファーディナンド、ミランダ別々に退場〕
【プロス】 すべてが不意の出来ごとだった二人ほどには、わしは喜ぶことはできない。だがわしの喜びはこれに優るものはない。魔術の仕事にさらにとりかかろう。このことに関連して、夕食前にやっておかねばならぬことがまだ沢山に残っている。〔退場〕
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第二場 島の他の場所
〔キャリバン、ステファノー、トリンキュロー登場〕
【ステファノー】 言うんじゃないぞ。〔樽が空になったなどと〕――樽が空になったら、水を飲んでやる。それまでは水など一滴も飲まんぞ。さればだ、敵艦隊に突っ込め、そして乗っ取れ。おい下男の怪物、俺に乾杯しろ。
【トリンキュロー】 下男の怪物だ! 島の見世物だ! この島にはたった五人しかおらんということだ。俺たちはその三人だ。もしほかの二人も俺たちのような|おつむ《ヽヽヽ》ん状態だと、この国はぐるぐる回りだ。
【ステファ】 飲め、召使いの怪物、飲めと言ったら飲め。お前の目はお前の頭の中にほとんど坐っているぞ。
【トリン】 頭でなけりゃどこに坐らせるんだい? 尻尾《しっぽ》に目がついてたら、それこそ素晴しい怪物になれるんだが。
【ステファ】 俺の怪物下男は、舌が酒の中で溺れちまった。わが輩はだ、海が束になって来たって溺れんぞ。岸にたどり着くまでに、百と五マイルも行きつ戻りつ泳いだんだ。この日の光にかけて、お前は、いいか怪物、俺の部隊長にしてやるぞ、さもなきゃ旗手〔原語には男性性器をおっ立てるの意がある〕になっておっ立て。
【トリン】 隊長がよかろうよ、旗手って恰好じゃないわい。
【ステファ】 われわれは走らんのだよ〔原語には小便をするの意も〕、怪物君。
【トリン】 歩きもせんだろうよ。ただワン公のようにごろり横になってワンワン、チンチンと行きたいところだが、何も言わんだろうよ。
【ステファ】 おい化物、もしまともな化物なら、一度くらい何か言え。
【キャリ】 閣下ご機嫌はどうだ? お前さんの靴を舐《な》めさせておくれ。俺は此奴《こいつ》にゃ仕えんぞ。此奴《こいつ》は強くなんかありゃしねえ。
【トリン】 この嘘つきめ、何も知らん怪物め。俺はいつだって警官と格闘できるんだぞ。おいへべれけの魚野郎、おい、一体俺が飲んだくらい飲める男に臆病者がいるかというんだ? お前は半分魚で半分怪物だから、怪物のようなひどい嘘をつくのか?
【キャリ】 ほら、こんなに俺を馬鹿にしている! 放っておくのか殿様?
【トリン】 「殿様」だと! 怪物がこんなに人間に似て、しかも馬鹿であろうとは!
【キャリ】 ほら、ほら、また! お願いだ、奴を噛み殺してくれ。
【ステファ】 トリンキュロー、言葉づかいを慎《つつし》め。命令に従えぬというなら――そこに樹があるぞ!〔その樹に吊《つる》すぞ!〕この気の毒な怪物はわしの家来だ。奴を侮辱することは許さん。
【キャリ】 殿様、ありがとう。俺がお前さんに頼んだお願いごと、もう一度言うから聴いてくれるか?
【ステファ】 ああ、いいぞ、跪《ひざまず》いて話すがよい。わしは立つぞ。トリンキュローもそうせい。
〔エアリエル(見えない姿で)登場〕
【キャリ】 前にも言った通り、俺は暴君に仕えている。奴は魔法使いだ。その魔術の力で俺をだまし、この島からこの俺様を追い出した。
【エアリエル】 この嘘つき奴《め》め。
【キャリ】 〔トリンキュローに〕この嘘つきめ、おのれ、この道化猿め! お前なんかうちの勇敢な殿様が殺してしまえばいいんだ! 俺は嘘はつかん。
【ステファ】 トリンキュロー、このうえ奴の話の邪魔をすると、この手に誓って、お前の歯を二、三本へし折ってやるぞ。
【トリン】 いや、俺は何も言わんぞ。
【ステファ】 じゃ口をつぐんで、もう何も言うな。〔キャリバンに〕さあ続けろ。
【キャリ】 いいかな、彼奴《きゃつ》は魔術の力でこの島を乗っ取ったんだ。この俺さまから乗っ取ったんだ。もしお殿さんのお前さんが、彼奴に敵《かたき》を討ってくれたら――お前さんなら必ずやれると思う、こっちの方〔トリンキュロー〕じゃやれんけど――
【ステファ】 それは絶対確かなことだ。
【キャリ】 お前さんは島の殿様にして、俺は家来になってやる。
【ステファ】 ところでどうやってそれを実現するのだ? お前は俺を彼奴のいる所へ連れてゆけるか?
【キャリ】 できるとも、できるともさ殿様。彼奴が眠っているところを引き渡すから、彼奴の頭の中に釘を打ちこめるよ。〔旧約聖書「士師記」のヘベルの妻ヤエルによるシセラの殺害を示唆する〕
【エアリ】 この嘘つきめ、お前などにできるもんか。
【キャリ】 何という斑《まだら》の間抜けだ〔道化は斑の着物を着ている〕この男は! おのれうす汚《ぎた》ないつぎはぎ細工め! 殿様お願いだ、此奴《こやつ》をぶんなぐってやってくれ、酒壜を此奴から取り上げてくれ。それがなくなりゃ、奴は塩水以外に飲み水はねえ。どんどん湧き出る泉なんか、奴には決して教えてやらんからな。
【ステファ】 トリンキュロー、これ以上突っ走ると危ない目にあわすぞ。怪物の言葉を一言《ひとこと》でも邪魔をしてみろ、この手に誓って、慈悲の心なんかもうお払い箱だ、干鱈《ひだら》のように打ちのばしてくれるぞ。〔干鱈は固《かた》いので食べる前に打ちのばす〕
【トリン】 どうしてだ、俺が何をしたというんだ? 俺は何もしてはおらんぞ。俺は離れていることにしよう。
【ステファ】 奴が嘘つきだとお前は言わなかったか?
【エアリ】 この嘘つきめ。
【ステファ】 俺が嘘つきだと? これでも喰《く》らえ。〔トリンキュローを殴《なぐ》る〕これが嫌なら、もう二度と嘘つきだなどと言うな。
【トリン】 嘘つきだなんて俺は言わんぞ。酔っぱらって、耳まで聞こえなくなったのか? いまいましいのはその酒壜だ! こんなことになったのは酒のせいだ。お前の怪物なんか赤痢にかかってくたばってしまえ! おまえの指なんか悪魔にとりつかれてしまえ!
【キャリ】 はっ、はっ、はっ!
【ステファ】 さあ話を続けろ。――〔トリンキュローに〕おいもっと離れていろ。
【キャリ】 此奴《こいつ》をたんまりぶん殴ってくれ。しばらくしたら、俺もぶん殴ってやる。
【ステファ】 〔トリンキュローに〕もっと離れていろ。〔キャリバンに〕さあ先を話せ。
【キャリ】 ええと、さっき言ったように、午後には昼寝をするのが彼奴《あいつ》の習慣だ。そんな時に、まず彼奴《あいつ》の本を取り上げてしまえば、奴の頭を叩き割ることができる。棍棒《こんぼう》で奴の脳天を叩きつぶすことも、棒杭《ぼうくい》を奴の腹に突き刺すことも、ナイフで奴の喉笛をかっ切ることもできるんだ。ようく覚えておくんだ、まず彼奴の本を手に入れることだ。本無しでは彼奴は俺とおんなじ、全くの低能で、精霊一人命令できんのだから。精霊どもはみんな俺と同じで、心の底から奴を憎んでる。間違いなく本を、本だけ焼くんだぞ。奴は素晴しい「道具」を持っているんだ――「道具」というのは奴の言葉だが――奴は家を造ったとき家じゅうをそれで飾るんだろう。それから、一番深く考えなければならんことは、奴の娘の美しさだ。奴自身も自分の娘のことを天下一品と称している。俺はおふくろのシコラックスとあの娘以外にゃ女というものには会ったことがないが、あの娘はシコラックスなんぞよりは遥かにすぐれている、一番大きいもんと一番小さいもんの違いだ。
【ステファ】 そんなに素晴しい娘《こ》か?
【キャリ】 そうだ殿様、あの娘はお前さんのベッドに相応《ふさわ》しい、保証するよ。沢山の子供をぞろぞろ生みつけてくれるよ。
【ステファ】 怪物、その男は断然殺してやる。奴の娘と俺は国王と王妃だ――神よ余らにご加護を! トリンキュローとお前は副国王に取り立ててやる。トリンキュロー、この筋書は気に入ったか?
【トリン】 抜群だ。
【ステファ】 握手しよう。君を殴って悪かった。だがこれからは一生、舌の動きは慎重にしたまえ。
【キャリ】 半|時《とき》とたたぬうちに彼奴《きゃつ》は眠ってしまうだろう。その時にやっつけるかね?
【ステファ】 うん、俺の名誉にかけてな。
【エアリ】 このことを主人に知らせよう。
【キャリ】 お蔭で楽しくなった。面白くてたまらねえ。愉快にやろうぜ。ついさっきお前さんが教えてくれた輪唱ってやつで、がなりたててくれんかね?
【ステファ】 お前の頼みなら、怪物、道理のあることなら何でもやってやるぞ、道理のあることならな。――さあトリンキュロー、歌おうぜ。
〔歌う〕
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奴らを舐《な》めろ、奴らを嬲《なぶ》れ、
それ奴らを嬲れ、奴らを舐めろ!
思想は自由。
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【キャリ】 ありゃ節回《ふしまわ》しが違うぞ。
〔エアリエル小太鼓と笛でその節を奏でる〕
【ステファ】 こりゃ何だ?
【トリン】 こりゃ俺たちの輪唱だが、演奏者は姿|無氏《なし》だ。
【ステファ】 もしお前が人間なら、その姿で現われて来い。もし悪魔なら勝手にしやがれ。
【トリン】 ああ、どうかわたしの罪をお許し下さい!
【ステファ】 人間死ねばすべて帳消し。さあ来い。どうかご慈悲を!〔やはり恐くてくじけた〕
【キャリ】 お前さん恐がっているのかい?
【ステファ】 なに怪物め、恐がってなんかいるものか。
【キャリ】 恐がることなんかないよ。この島は楽《がく》の音《ね》で一杯なんだ。いろんな音色《ねいろ》や美しい調べで、楽しませてはくれるが害はない。時にはびいんびいんと鳴る幾千もの絃楽器が俺の耳もとで鳴っているし、またある時には歌声がして、たまたまそれが長い眠りから覚めたばかりの時であったとしても、またまた俺を眠らせてくれる。するとその夢の中で雲が大きく口を開《あ》けて、沢山の宝物が今にも俺の頭の上に落っこちそうになっているように見えるんだ。それで夢から覚めて、もう一度夢が見たいと俺は泣いた。
【ステファ】 こいつは俺さまにとって素晴しい王国になりそうだ。ただで音楽が聞けるんだからな。
【キャリ】 プロスペローをやっつけてしまえばだ。
【ステファ】 すぐに片づけてやる。その話は覚えておくぞ。
【トリン】 音がだんだん向こうへ行ってしまう。後《あと》をつけよう、仕事はその後《あと》だ。
【ステファ】 怪物、案内しろ、後《あと》からついて行く。この太鼓たたきに会ってみたい。調子がますます強くなる。
【トリン】 〔キャリバンに〕行こうぜ。俺はステファノーについて行く。〔退場〕
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第三場 島の他の場所
〔アロンゾー、セバスチャン、アントーニオー、ゴンザーロー、エイドリアン、フランシスコーその他登場〕
【ゴンザーロー】 マリア様にかけて、私はもうこれ以上歩けません。この老骨が痛みます。真《ま》っ直ぐな道や曲りくねった道、まったく迷路の中を通って来たようです。なにとぞお許しを得て、休ませていただきとう存じます。
【アロンゾー】 ご老体、無理もない、かくいうわたし自身も疲労のとりこになってしまって、
精神が朦朧《もうろう》として来た。坐って休むがよい。もうこれでわたしは希望を捨て去ろうと思う。これ以上、希望に甘えているわけには参らない、このように探し回ってはいるが。彼《あれ》は溺れ死んでしまったのだ。海はわれわれの無駄な陸上の捜索をあざ笑っている。さあ息子はもう行かせよう。〔もう探すのはやめよう〕
【アントーニオー】 〔セバスチャンに傍白〕王がこんなに絶望しているとは全くうれしい。一度しくじったからといって、やろうと決心したことを決して思いとどまるな。
【セバスチャン】 〔アントーニオーに傍白〕次のチャンスはきっと完全に捕えてみせる。
【アント】 〔セバスチャンに傍白〕そいつを今晩にしよう。連中は旅に疲れ切っていて、元気な時のようには厳重な警戒体勢をしいていないだろうし、またそういうことはとてもできんだろうからな。
【セバス】 〔アントーニオーに傍白〕今晩やるよ、もう何も言わんでくれ。
〔厳粛で不思議な音楽。プロスペロー(見えない姿で)舞台の天辺に登場〕
【アロン】 何という美しい楽の音だ? みんな耳をすませ!
【ゴンザ】 何とも不思議な美しい音楽!
〔いくつかの奇妙な姿のもの(神話とか中世の動物寓話集からの動物だろうと言われている)軽い食事をのせた食卓を運びながら登場。優雅な挨拶の所作をしながらその回《まわ》りを踊る。王たちに食事をするようすすめながら退場〕
【アロン】 天よ、ご加護の天使をわれらに遣わし給え! 今ここにいたのは何だ?
【セバス】 生身《なまみ》の人形芝居です。さあこうなったら何でも信じるぞ、この世に一角獣〔エリザベス朝の書きものによく出て来た巷間伝説の中心的存在〕ってものが実在しているということも、アラビアに不死鳥の玉座になっている一本の木があって、現に今、一羽の不死鳥〔エジプト神話で、五百年または六百年ごとに死んで、自らを焼いた灰から再び生まれ出るという霊鳥〕がそこに君臨しているということも。
【アント】 わたしはその両方を信じる。そのほかどんな信じがたいことでも、わたしのところへ来るがいい、それはほんとうだと誓ってやるぞ。旅行家は嘘《うそ》をつくなんて断じて嘘《うそ》だ。
【ゴンザ】 もしナポリで今このことを話して、誰がわたしの言うことを信じるでしょうか? わたしがこの目で、島でこんな住民を見たと申しても――たしかにあれは島の住民に違いないのですから――いとも風変わりな姿をしてはいますが、だが、いいですか、あの者たちの作法はわれわれがお目にかかる人間種族の多くのものより、いや、おそらくはそのどれよりも立派で上品です。
【プロスペロー】 〔傍白〕誠実な顧問官ゴンザーローよ、よくぞ言った。ここにおる者のうちのある者は悪魔よりなおひどいのだ。
【アロン】 あの姿、あの身振り、それにあの楽の音はただただ感嘆するばかりだ。あのものたちは口をきくことはしていないが――一種独特のすばらしい無言の表現をしている。
【プロス】 〔傍白〕賞《ほ》めるのは全部見てのお帰りにしてくれ。
【フランシスコー】 みんな奇妙な風に消えて行きました。
【セバス】 何かまうことはない、連中は食べ物は残していったんだから。それに腹がへった。――ここにあるものお召し上がりになりませんか?
【アロン】 いや、わしはいい。
【ゴンザ】 陛下、真実ご心配にはおよびません。私どもが子供の時には、いったい誰が信じたでしょう? まるで牛のように喉を垂れ下げて、肉の袋をぶらぶら、ぶら下げている山国の人がいるだなんて? また胸に頭が生えているそんな人間がいるだなんて? それが今ではどうですか、どんな五倍賭け屋だって、そんな証拠をどしどし持ち帰っているではありませんか?〔当時、遠距離の旅に出るとき、賭けをした。無事に帰れば五倍の額をもらえたが、帰らなければ没収された〕
【アロン】 では始めよう、食べてみよう、たとえこれがわしの最後の食事となっても。何かまうことはない。人生の最良の時はもう過ぎ去ってしまったのだ。弟よ、大公よ、さあ始めよう、余《よ》と共に食べるがよい。
〔雷鳴と稲妻。ハーピー(ギリシア神話に出てくる怪物、ハルピュイア。顔は女で、鷲のようなくちばしを持ち、神が人間に復讐するために遣わされたものだった)の姿をしたエアリエル登場。食卓の上で羽|撃《ばた》きし、巧妙な仕掛けで卓上の食物が消える〕
【エアリエル】 お前たちは三人の罪人《つみびと》だ。そのお前たちを運命の女神が――この下界とその中にあるすべてのものを懲悪《ちょうあく》の道具として意のままに駆使する女神が――いくら呑んでも飽くことを知らぬ海にお前たちを吐き出させた。人《ひと》一人住んでいないこの島にだ。――お前たちは仲間の人々と一緒に住むには、不適切であるからだ。〔三人剣を抜く〕
わたしはお前らを気違いにした。人はまさにそういう無暴の勇気で自ら首を括《くく》り、自ら溺れて死ぬのだ。〔三人斬りかかるが魔法で動けぬ〕
愚か者めが! わたしとわたしの仲間たちは運命の女神の使者なのだ。すなわちお前らのその剣が造られている四大元それ自身なのだ。お前らにわたしの羽根に生えている羽毛一本たりとも抜き取れるというんなら、大声たてて傲然《ごうぜん》と吹きわたる風に傷を負わせることもできようぞ。またいくら斬りつけても立ちどころに口を塞いでしまう水も殺すことができようぞ。わたしの仲間たちはみな一様に不死身なのだ。たとえ傷を負わせることができるとしても、お前たちのその剣はもう、お前たちの力では到底持ち上げることができないくらい重くなってしまっている。――だが思い出すがよい――実はそのことが今のわたしの仕事なのだが――お前たち三人はミラノから善良なるプロスペローを追い出して、プロスペローおよびその何の罪もない子供を海に流した――海はそれにお返しをしたのだが――その邪悪な行為に対して上天なる大いなる力は――今は猶予しているが、決して忘れているのではない――海と岸と、さよう、その手になるすべての創造物を怒らせて、お前らの平和を掻き乱したのだ。アロンゾーよ、お前の息子は天の御力《おちから》がお前から奪ったのだ。そしてわたしを通して予言している、だらだらと長引く半殺しの破滅が――ひと思いに死ねれば他のどんな死に方もこれよりましだが――一歩一歩お前ら及びお前らの行くところ必ずつきまとうと。そのお怒りからお前らを守るものは――このわびしい島で、このままではお前らの頭上にそれがふりかかるのは必定のことだが――心からなる悔恨と、今より以降の清純なる生活以外にあり得ない。
〔エアリエル雷鳴の中に姿を消す。それから静かな楽の音に合わせて、奇妙な姿のものまた登場し、顔をしかめ、顔をゆがめながら踊る。そして食事を運び去る〕
【プロス】 天晴れだエアリエル、まことに素晴しくハーピーの役割を演じたぞ。食べ物もわが心も見事にひっさらったぞ。お前の言わねばならなかったことで、わしが言っておいたことを、お前は何一つ漏らさなかった。同様にわしの小役たちも実物さながらに、まれに見る的確さでもってそれぞれの役目を果たしてくれた。わしの高度の魔術が働いて、これらわしの敵《かたき》どもはすべて完全な錯乱状態に縛《しば》りつけてある。連中は今やわしの掌中にある。それで連中はこのままの状態において、そのあいだにわしは若いファーディナンド――奴らは溺死したと思っているが――それからその恋人、つまりわしの大切な娘を訪ねよう。〔退場〕
【ゴンザ】 聖なるものの御名《みな》にかけて、陛下、何故《なにゆえ》そのようにお目を据《す》えておられるか?〔三人の罪人だけがエアリエルの声をきいている〕
【アロン】 おお恐しい、恐しいことだ! 浪という浪が口をきいて、あのことを〔自分の過ち〕全部わたしに告げたように思えた。風があのことをわたしに歌ったように思えた。そして雷《かみなり》があの奥深い、物凄い声ではっきりと言ったように思えた、プロスペローの名を、わたしの過ちを低音で繰り返し奏でた。だからわたしの息子は海底のぬるぬるの泥の中にやすんでいるのだ。それでわたしはどんな測量器よりももっともっと深くに息子を探して、そこでわたしは泥に埋《う》もれて息子と共にやすみたい。
【セバス】 一度に悪魔一人なら、束になって来たって一人ずつ片づけてやる。
【アント】 助け太刀は引き受けた。
〔セバスチャン、アントーニオー共に剣を持ち、錯乱状態で退場〕
【ゴンザ】 お三人とも全部精神が錯乱してしまわれた。それぞれの大きな罪が、ずっとあとになって効くように盛られた毒のように、今、お三人の精神に噛みつき始めた。皆さんお願いです、皆さんはわたしより柔軟な関節をお持ちだ。すぐあとを追って下さい。あの狂乱状態では何をしでかすかわかりません、どうかお三人を止《と》めて下さい。
【エイドリアン】 ではあとから来て下さい、お願いします。
〔全員退場〕
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第四幕
第一場 プロスペローの岩屋の前
〔プロスペロー、ファーディナンドおよびミランダ登場〕
【プロスペロー】 余りにも厳格にわしは君を罰しすぎたかもしれぬが、それは君が受ける償いで十分埋め合わせはつくはずだ。何となればわしは、ここにわし自身の生命《いのち》の三分の一を、つまり言いかえれば、これまでのわしの生き甲斐のすべてを君にゆずったのだから。それをわしは今、あらためて君の手に渡す。君が経験したすべての苦労は、君の愛情を試す以外の何ものでもなかったのだ。君はまこと見事にその試練に耐えた。ここに上天もご照覧あれ、このわしからの貴い贈物を汝《そち》に与えることを差し許す。ファーディナンドよ、わしが娘のことを大いに自慢するといってわしをわらってくれるな、いずれ君にも、娘への讃辞はいかなるものも娘の真価に追いつくことなく、そのうしろを跛行《びっこ》引き引き従《つ》いてゆくのだということがわかろう。
【ファーディナンド】 たとえそれが神託に反しても。
【プロス】 ではわしの贈物として、また君自身が立派に購《あがな》ったものとして、わしの娘を受け取るがよい。だがしかし、あらゆる聖なる儀式の数々がすべて滞りなく、神聖な形式をふんで執《と》り行なわれるその以前に、もし君が娘の処女帯を解くようなことが万が一にもあったなら、この結婚の契りを実りあらしめる聖なる甘露を天は決して降らすことなく、そればかりか不毛の憎悪が、苦々《にがにが》しい眼差《まなざし》をした軽蔑と喧嘩・諍《いさか》いが、お前たちの平安なるべき共寝《ともね》の床に、花ならぬ忌《い》まわしい雑草を撒き散らし、お前ら二人が心から結婚を呪うようにしてやるぞ。だから心して、結びの神の明かりがお前たち二人を明るく照らすようにするのだ。〔結婚の神ハイメンは通常明りを持っていた〕
【ファー】 私は現在いだいているような愛情を持ち続け、安らかな日々、立派な子供たち、それに長生きをすることを心から願っておりますが、それだけに、いかなる真暗闇の巣窟、いかなる快適この上ない場所、私共の内なる悪霊が掻《か》き立てるいかなる強力な誘惑も私共の純潔を邪淫にとろけさせ、かくしてわが祝儀の日のはやる気持を鈍らせるようなことは断じてさせません。その日こそは私は日の神の車を引く馬が足を痛めたのではないか、あるいは「夜」の神が地下で鎖に繋《つな》がれてしまったのではないかと思うでしょう。〔結婚の床を待ちわびて、早く夜が来るように〕
【プロス】 よく言った。では坐って、娘と話をしたまえ。娘は君自身のものだ。おい、エアリエル! 忠実なる下僕《しもべ》エアリエル!
〔エアリエル登場〕
【エアリエル】 わが強力無双の旦那様、何用でしょうか? 馳《は》せ参じました。
【プロス】 その方とその方の下僕《しもべ》たちは、その務めをまこと立派に果たした。それでいま一度あのような巧妙な仕掛けを、その方たちにやってもらわねばならんのだ。あの連中を――連中を統制する力をお前に与えよう――ここへ連れて来い。動作を敏捷《びんしょう》にさせるのだ。実を言うとわしは、この若いカップルの目に、わしの魔術の何がしの見せ場を演じて見せてやらねばならんのだ。これは約束で、二人はそれを大いに期待しておるのだ。
【エアリ】 すぐにですか?
【プロス】 そうだ、まばたきする間《ま》にだ。
【エアリ】 「さあ」「行け」と言って、二度|息《いき》をして、「そうだ、そうだ」と言い終えぬうちに、一人一人みな爪先で踊りながら、顔しかめ、顔ゆがめ、ここへ参ります。旦那さん、私が好きかね、お嫌いかね?
【プロス】 心から気に入ったぞ、可愛い奴めエアリエル、わしの呼び声が聞こえるまでは、近寄らんでくれ。
【エアリ】 いいです、よくわかりました。〔退場〕
【プロス】 〔恋する二人に〕いいか約束は守るのだ。情欲の手綱《たづな》を余り緩《ゆる》めすぎてはならんのだぞ。いかに堅い誓いでも、血気に燃え上がる火の前では藁《わら》も同然だ。もっと自制せよ。さもなくば、君たちの誓いには「お休み」を言いたい。
【ファー】 お誓いします。私の胸の上の、この純白の冷たい処女雪は、情熱の座といわれる私の肝臓の熱も冷《さ》ましてくれています。
【プロス】 よろしい。さあ来い、エアリエル! 一人足りなくてもいかん、多すぎるほど連れて来い。さあ出て来い、早速にだ! おしゃべりはならん! すべて目でやれ! 静かに!〔静かな楽の音《ね》〕
〔アイリス登場〕(以下、イギリス古来の仮面無言劇。十五世紀イタリアの宮廷仮面劇などから発展したもので、お祭り、とくにクリスマスなどに町の人が動物の精になって仮面をかぶり、実りを主題とする音楽、ダンスに興じた。アイリスは虹の女神で、神々の使者)
【アイリス】 いとも恵み深き豊穣の女神シアリーズ〔ケレス〕よ、そなたの沃野《よくや》、小麦、らい麦、大麦、そらまめ、からす麦、えんどう実るそなたの沃野。草食む羊どもの住む牧草豊かなそなたの山々、それにその羊どもを冬に養う乾草で覆われたなだらかな牧場。水の流れで浸食され、小枝細工で補修したそなたの河堤《かわづつみ》――露しげき四月がそなたの命によりそれを飾り上げるのは、清らなニンフたちに清純の冠《かんむり》を作るため。さらにそなたのえにしだの森――恋に破れて、一人わびしさをかこつ男の好む木陰を宿す森。剪定《せんてい》おわり手入れ行きとどいたそなたのぶどう畑。それにそなたが新鮮な空気を吸いに出かける、草一本生えぬ不毛の険しい岩場のある海岸。――大空の王妃ユーノー〔ユピテルの妻で結婚の女神〕は、その虹の懸け橋、お使いとなっているのがこのわたし、そなたがこれらもろもろの場所を離れて、王妃殿下と共に〔ユーノー降りてくる〕ここ、この草原へ来て、この場所へ来て、王妃と共に遊べと命じられている。王妃の孔雀は全速力で飛んで来る。来たれ豊穣の女神シアリーズよ、王妃ユーノーをお迎え申そう。
〔シアリーズ登場〕
【シアリーズ】 ようこそ見えられた、七色のメッセンジャー、未だかつてユピテルの妻の命に背いたことの決してなき使者よ、そなたはそのサフラン色の翼《つばさ》もて、わが花の上に爽やかな雨、甘き蜜の雨を降り注ぐ。そしてそなたはその青き弓の両端もて、〔つまり虹をかける〕わが鬱蒼《うっそう》たる森林地帯と草木の育たぬ丘陵地とを王冠をもって飾り上げる、わが栄えある大地の豊かなスカーフとなって。そなたの女王がこのわたしをここ、この背丈低き草の緑地へと呼び出されたのは一体|何故《なにゆえ》か?
【アイリ】 まことの愛の契りを祝うため。そして祝福されたる恋人たちに、何がし贈り物を気前よく振舞うため。
【シアリ】 言って欲しい、大空の弓なるアイリス、そなたは知っているのだろうから、ヴィーナス〔ウェヌス〕とその息子が、いま王妃のもとにいるのかどうか? 連中は謀《はか》って、冥府《よみ》の王ディスがわたしの娘を捕える方策を考えたのだから、〔冥府の王ディスはシアリーズの娘プロセルピナを王妃にしようとして誘拐した〕あの女とあの盲目《めくら》の息子との忌まわしい交わりは、わたしは誓って断《た》ち切った。
【アイリ】 彼女と一緒になるという心配は無用。わたしは女神ヴィーナスが雲を切ってペイフォス〔キュプロスにあり。ヴィーナスの聖地〕へ飛ぶのを見た、息子のキューピッド〔クピド〕ともども鳩に引かれた車に乗って、初め彼らはここで、ハイメン〔結婚の神〕の松明《たいまつ》がともされるまでは、絶対に共寝のことは行なうまいと誓い合ったこの若者と乙女とに、何か猥《みだ》らな秘術を施さんとした。だがすべては無駄であった。軍神マルスの情熱の恋人〔ヴィーナス〕はペイフォスへ帰ってしまった。気むずかしい息子のキューピッドはその矢を折って、もう二度と矢を放つことはせじ、雀と遊んで、ただのふつうの子供たらんと誓った。
【シアリ】 最高の女王、王妃ユーノーが来られた。妃の足どりでそれとわかる。
【ユーノ】 豊穣《ほうじょう》の女神なるわが妹よ、機嫌はいかが? さあ共々にこの二人がこれからますます栄え、素晴しい子宝に恵まれるよう祝福しに行こう。〔皆で歌う〕
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名誉と富と結婚の仕合わせ、
長き生命《いのち》と繁栄と日々の喜び、
常に汝《そち》たちの上にあるように!
ユーノーは汝《そち》たちを祝って歌う。
[#ここで字下げ終わり]
【シアリ】 大地の実り、豊かな恵みがあるように、納屋と穀物倉は空《から》になること絶えてなく、
葡萄はふさふさとその蔓《つる》に実り、木々は豊かな実りに枝もたわわになるように。春はいかに遅くとも、秋の取り入れの終わりには、汝たちのもとに来れかし! 飢饉、困窮は汝《そち》たちを避けて通れ。シアリーズの汝《そち》たちへの祝福はそれが願い。
【ファー】 これは世にも荘厳な眺めです。しかも人の心を魅惑する格調がある。あえて申しますが、これは精霊と考えてよいのでしょうか?
【プロス】 精霊だ、わしの心の中にあるくさぐさの思いを演じるために、その棲処《すみか》からわしが呼び出したものだ。
【ファー】 いつまでもここに住まわせて下さい。かくも驚嘆すべき父君――しかも賢明にあらせられる――この島はまさに楽園です。
〔ユーノーとシアリーズが囁き合い、アイリスに仕事の合図をする〕
【プロス】 娘よ、今はしずかに!〔何かを言おうとしたミランダに向かって〕ユーノーとシアリーズが真顔《まがお》で囁き合っている。まだ何かあるらしい。しずかに、黙っているのだ、さもないと魔法の術が破れてしまう。
【アイリ】 うねり曲って流れる小川に住み、あしの冠《かんむり》をして、常に変らぬ清らで初《うぶ》な顔つきをしているナイアド〔ギリシア・ローマの神話で川、泉、湖、沼などに住む美しい少女の姿をした水の精。その他に森の精ドライアド、海の精にニアリードなどある〕という名のニンフたちよ、さざ波立つ河の流れを離れて、この緑の原に来て、お呼び出しに答えなさい。ユーノーが命じているのです。さあ、純潔のニンフたち、ここへ来て真実《まこと》の愛の契りを祝う手助けをしておくれ。ゆめ遅れてはなりませんぞ。
〔何人かのニンフたち登場〕
八月に疲れし、日に焼けた刈り手たちよ、畑の畝《うね》から離れてここへ来て、楽しく遊べ。一日お休みにして麦藁帽子をかぶり、このニンフたちと一人一人組んで、村の踊りを踊りなさい。
〔数人の刈り手たちそれぞれふさわしい装《よそお》いで登場。ニンフたちと優雅に踊る。その終わりのころ、プロスペローは急にはっとして口を開く。(プロスペローは呪いを破る)そのあと不思議な、虚《うつ》ろな、乱れた楽の音と共に一同元気なく退場〕
【プロス】 〔傍白〕わしの命を狙った獣《けだもの》のキャリバンとその一味どもの極悪非道の陰謀を、すんでのことでわしは忘れるところだった。連中が企《たくら》んだ時刻がそろそろやってくる。〔精霊たちに〕よくやった! 退がれ、もうよい!
【ファー】 これは不思議だ。お父君は何か感情的になられて、ひどく心を動かされておられる。
【ミランダ】 これまで、これほどまでに父上がお怒りになり、腹をお立てになったのを見たことがありません。
【プロス】 君はひどく困惑しているように見えるぞ、〔プロスペローはすぐ平静をとりもどす〕何か不安で一杯のようだ。さあ、元気を出すのだ。われらのショーは終った。これらの役者たちは、わしがさっき言ったように、すべて精霊だ。そして空気の中へ溶けこんでしまった、淡い空気の中へ。そして、この幻《まぼろし》の見世物に基礎の骨組みが無いように、雲を頭にいただく高い塔も、華麗なる宮殿も、荘重なる寺院も、この大いなる地球の座自体も、さよう、それを占拠しているすべてのものも溶け去って、今しがた消え去った実体なき幻《まぼろし》のショーのように、あとには一|抹《まつ》の雲も残さない。われわれは夢を作り上げる材料のようなものだ。われわれのささやかな一生は、一眠りで大団円。君、わしは気持が高ぶっているのだ。わしの弱点を怺《こら》えてくれたまえ。年老いたわしの頭が乱れているのだ。わしの欠点などいささかも気にせんで欲しい。気が向いたら、わしの岩屋に入って、そこでしばらく休んでいてくれたまえ。わしは一廻りか二廻り歩いて、高鳴る胸を鎮めて来るから。
【ファーとミラン】 では父上、おやすらぎのほどを。〔退場〕
【プロス】 考え得る最高の速さで来い。ありがとう、エアリエル、来い。
〔エアリエル登場〕
【エアリ】 お考えのとおりにいたします。ご用は何でしょうか?
【プロス】 精霊、わしたちはキャリバンに出合うよう用意せねばならぬ。
【エアリ】 はい、承知いたしました、わが主人。わたしがシアリーズ役を演じてた時、そのことを申し上げようと思っておりました、が、お怒りになりはしないかと止めました。
【プロス】 あの悪党どもと最後に会った時のことを、もう一度言え。
【エアリ】 申し上げたように、連中は飲んで真っ赤になっていました。勇気りんりん、顔に息《いき》を吹きかけたと言っては空気を素手で殴《なぐ》ったり、足にキスしたなと言っては地面を叩いたりしてました。それでも連中は、その悪陰謀《わるだくみ》に熱中してました。そこでわたしが小太鼓をたたくと、連中はまだ人を乗せたことのない仔馬のように耳を立て、眼蓋《まぶた》を上げ、鼻を上に向けてました、まるで音楽を嗅いでるように。連中の耳にさらに術にかけておきましたので、母牛《おやうし》の鳴き声を慕う仔牛のように、わたしの後《あと》について来ました。歯のある|いばら《ヽヽヽ》、鋭い|えにしだ《ヽヽヽヽ》、突きささる|はりえにしだ《ヽヽヽヽヽヽ》、|とげ《ヽヽ》のあいだを通り、弱い脛《すね》はとげだらけでした。あげくの果てに連中を、あなたの岩屋の向こうの、汚ないものが一面に浮かんだ池の中に置いてきました。そこに顎《あご》までつかって踊り狂い、そのためその汚ない池は、連中の足よりもっとくさくなりました。
【プロス】 よくやった可愛い奴。お前の見えない姿はまだそのままにしておくのだ。わしの家にある安《やす》ピカの衣装をここへ持って来い。それを囮《おとり》にしてこの盗人《ぬすっと》どもを掴《つか》まえるのだ。
【エアリ】 承知しました、行ってきます。
【プロス】 悪魔め、〔キャリバンのこと〕生まれながらの悪魔め、その自然の性《さが》には教育というものが決して張りつかぬ。気の毒と思ってしたわしの骨折りは、すべて、すべて完全に無駄だった。そして年と共に彼奴《きゃつ》の体はますます醜くなり、同時に心も腐って行く。わしは奴等がほえ、わめくまで、徹底的に苦しめてやる。
〔安ピカの衣装などを担いでエアリエル再登場〕
さあ、それをこのしなの木に掛けよ。
〔プロスペローとエアリエル居残る、姿は見えない。キャリバン、ステファノー、およびトリンキュロー全部ずぶ濡れで登場〕
【キャリバン】 お願いだ、静かに歩いて下さい、めくらのもぐらもちに足音を聞かれんように。もうあいつの岩屋に近いんだ。
【ステファノー】 怪物、お前の精霊〔エアリエル〕は何も悪いことはしないとお前は言うが、きつね火でわれわれをからかったではないか。
【トリンキュロー】 怪物、俺は体中が馬の小便臭くて、おかげで俺の鼻は大変にお冠《かんむり》だ。
【ステファ】 俺のもそうだ。わかったか怪物。もし貴様が俺さまの機嫌をそこねるようなことがあれば、いいか――
【トリン】 お前なんか故怪物大明神。
【キャリ】 殿様お願いだ、俺が言うことを聞いておくれ。腹を立てんでおくれ、いまお前さんを獲物のところへ連れて行くが、こんな災難なんか立ちどころに目隠《めかく》しされちまわあ。だから静かに話してくれ。まだ真夜中のように、しいんとしてる。
【トリン】 そうだ、だが俺たちの徳利を池ん中に失くしちゃうなんて――
【ステファ】 武士の不名誉、不面目であるばかりでなく、おい怪物、計り知れん損失だぞよ。
【トリン】 そのほうが俺にとっては、ずぶ濡れよりもずっと大事だ。だが怪物、これがお前の言う悪さをしない精霊だ。
【ステファ】 俺は徳利を取りに武者修行だ、耳の上まで水につかったってかまうもんか。
【キャリ】 なにとぞわが君、お静かに。そこに見えるでしょう。あれが岩屋の入口だ。音を立てんでお入《はい》りなさい。あの素敵な悪さをやりなさい、この島を永久にお前さんのものにし、このキャリバンを永遠にお前さんの足|舐《な》め屋〔つまり家来〕にするあの悪さを。
【ステファ】 さあ握手だ。血|腥《なまぐさ》い思いが湧いて来たぞ。
【トリン】 おお国王ステファノー! おお比類なき君! おお天晴れステファノーの君!〔プロスペローとエアリエルが掛けておいた安ピカ衣装を見て、トリンキュローは当時流行していた民謡の一節を思い出す〕これはこれは何という洋服箪笥が!
【キャリ】 放《ほお》っておけ、馬鹿者め、そんなものはくだらんものだ。
【トリン】 おや怪物め! こちとらは古着屋のお得意さんだ。おお国王ステファノー!
【ステファ】 その服を脱げ、トリンキュロー。その服は絶対にこの俺さまが着るのだ。
【トリン】 御意《みこころ》のままにいたします。
【キャリ】 この馬鹿者め、水|腫《ぶく》れになって溺れてしまえい! いったいこんなくだらん無用の長物に夢中になってどういうつもりなんだ? 放っておけ。まず殺しを先にやるんだ。もし彼奴《きゃつ》が目を覚《さ》ますと、足の爪先から頭の天辺まで、体中を抓《つね》って襞《ひだ》をつけ、この俺たちが不思議な安ピカ素材にされちまう。
【ステファ】 静かにしていろ、怪物。しなの木の奥さん、これは私の上着じゃありませんか? さてこれで上着はしなの木の下、腰の下、もう一つおまけに赤道直下。さて上着君、君は毛が脱けて、禿の上着になりそうだな。〔赤道地方を航海する水夫は新鮮な食物が無いため、熱または壊血病で毛が抜けると考えられていた〕
【トリン】 うまい、うまい。俺たちは大工の使う垂直、水平の下で、尺度通りに盗んでやるってのはどうですかい、閣下?
【ステファ】 その洒落は賞《ほ》めてつかわす。着物一枚とらすぞ。わしがこの島の王であるあいだは、頓智に秀《ひい》でた者には必ず賞を取らせるぞ。「垂直、水平の下で」はまずは頓智一本! というところだ。もう一枚着物を取らすぞ。
【トリン】 怪物、さあお前の指に鳥もちつけて、ほかの着物を取り持って行け。
【キャリ】 俺はそんなものはいらねえ。ぐずぐずしていると、俺たちはみんな貝から変わった鵞鳥〔当時そう信じられていた〕か、額《ひたい》の狭い哀れな|えてこう《ヽヽヽヽ》にされちまうぞ。
【ステファ】 怪物、指に力を入れろ。これをわしの酒樽のある所へ持って行くのを助けるのだ。言うことをきかなけりゃあ、わしの王国から追い出すぞ。さあ、これを運ぶのだ。
【トリン】 これもだ。
【ステファ】 そうだ、これもだ。
〔猟師がやって来る物音が聞こえる。犬、猟犬の形をしたいろいろの精霊が登場して三人を追いまわす。プロスペローとエアリエルが犬たちをけしかける〕
【プロス】 それ「マウンテン」、それ!
【エアリ】 「シルヴァー」! あっちだ「シルヴァー」!
【プロス】 「フュアリー」「フュアリー」! そこだ、「タイラント」やっつけろ!〔いずれも犬の名〕
〔キャリバン、ステファノー、およびトリンキュローら追い出される〕
さあ、わしの小鬼どもに命令して連中の節々《ふしぶし》を徹底的に痛めつけて、苦しさの余りぶるぶる|けいれん《ヽヽヽヽ》させてやれ。年寄りの神経痛のように筋をうんと短くしてしまえ。奴らの体中をつねって豹や山猫よりももっと沢山の紫の斑点を造ってやれ。
【エアリ】 それ連中は呻《うめ》き声をたててます。
【プロス】 しこたま追いたててやれ。今のところは、わしの敵どもはすべてわしの意のままだ。もうすぐわしの仕事もすべて終りだ。そうなれば、空の自由はもうお前のものだ。いましばらくのあいだついて来て、わしの仕事を続けてくれ。
〔退場〕
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第五幕
第一場 プロスペローの岩屋の前
〔魔法の衣を着たプロスペローとエアリエル登場〕
【プロスペロー】 さてわが企ても、どうやらふっ切れるようになった。わが魔術は暴発することもなく、わが精霊どもは従順。そして時はその荷物を着実に担《にな》って行ってくれている。〔万事時間通りに好調に行って、もう余す時間も、仕事も残り少なくなった〕何時《なんどき》になるか?
【エアリエル】 六時になります。その時間になったら旦那様、わたしどもの仕事は終るとおっしゃいました。
【プロス】 たしかにそう言った、最初にわしがあらしを惹き起こした時にな。ところでエアリエル、王とそのお供どもはどうしておる?
【エアリ】 お命じになった通りに、閉じこめてございます。最後にご覧になったあのままにしてございます。捕虜どもは全部、岩屋の風よけになっている|しな《ヽヽ》の木の林の中にいます。連中は解放されるまでは身動きがとれません。王も、その弟も、旦那様の弟君も、三人とも依然錯乱状態におります。そしてあとの連中は、涙を一杯ためて、失意のどん底で、三人のことを泣き悲しんでいます。がその中でもとくに旦那が「天晴れ老ゴンザーロー」とお呼びなさった方がそうです。涙が髭《ひげ》を伝わり落ち、まるで茅葺《かやぶき》の屋根から落ちる冬の雨だれのようでした。旦那の魔術は大変強く効《き》いてますので、いま連中をご覧になったら、お気持ちは必ずややさしくおなりになるでしょう。
【プロス】 そう思うか?
【エアリ】 わたしが人間でしたら、そうだろうと思います。
【プロス】 わしとて同じだ。空気にしかすぎんそのほうが、彼らの苦しみに憐れみの情をいだくというのに、喜怒哀楽を彼らと全く同様に敏感に感じる彼らの同族、同類であるこのわしが、そのほうより自然の情に動かされんなどということがあり得るか? 連中の悪辣《あくらつ》なやり方は骨身にこたえてはいるが、激しい怒りは押さえて、より高貴な理性の側にわしはつくようにしている。より稀《まれ》な行為は復讐よりも徳にある。連中が後悔しておる以上、わしの心の唯一の方向は、もうこれ以上渋面をし続けることではない。連中を放免してやれエアリエル、わしは魔術を解くことにする。皆の者を正気に戻し、元通りにしてやろう。
【エアリ】 みんなを連れて参りましょう。〔退場〕
【プロス】 汝精霊たちよ、〔以下五十行まで元はローマ詩人オウィディウスの『転身物語』によっている〕丘、小川、水をたたえた湖、森の精霊たちよ、砂浜に足跡を残さず下げ潮の海神ネプチューンを追い、また海神戻るときには飛んで逃げ戻る汝精霊たちよ、汝小なる準精霊たちよ、月夜の下、牧草地に緑の酸い「妖精の輪」を作る、牝羊も口にせぬ毒草を作る準精霊たちよ。真夜中のきのこを作ることが大きな楽しみで、荘厳な入《い》り相《あい》の鐘が鳴るのを聞いて、小躍《こおど》りしてよろこぶ者たちよ。そのほうたちの力を借りて――お前たちは大悪魔ならぬ小悪魔ではあるが――わしは真昼の太陽を薄暗くし、猛威ふるう大風を呼び起こし、緑の大海原と紺碧の大空のあいだに|とよもす《ヽヽヽヽ》戦《いくさ》を惹き起こし、恐しく轟きわたる雷鳴に火を放ち、主神ユピテルの守り木である樫の木を、主神自身の火の玉で引き裂いた。岩根がっしりとした堅固なる岬をも、わしはその根元から揺り動かした。松や杉の大木を根こそぎ引き抜いた。墓はわしの命令を受けて、その中に眠る者たちを目覚めさせ、口を開け、わが大いなる術によって、その者たちを吐き出させた。だがこの手荒な魔術を、わしはここに誓って抛棄《ほうき》する。そしてある天来の妙音が奏でられるよう依頼したら――今まさにそれをするところだが――連中の感覚に働きかけてわが意図するところを行なうために、この大空の魔の楽の音はそのためにあるのだが、わしはこの魔の杖を折って、地中|幾尋《いくひろ》のところにそれを埋め、かつて海底を測るいかなる鉛のおもりも達したことのないような深い海の底に、わしはこの本を沈めよう。〔崇巌な楽の音〕
〔エアリエルまず登場。続いて狂乱の体《てい》のアロンゾーがゴンザーローに、同様のざまのセバスチャンおよびアントーニオーがエイドリアンおよびフランシスコーに伴われて登場。全員プロスペローが作っておいた「魔法の輪」に入り、呪文にかかって立ちつくす。プロスペローそれを見て話し出す〕
崇高な楽の音よ、錯乱した心にとっての最高の治療者よ、今やその方の〔アロンゾーに対して〕頭蓋の中で煮えたぎり、何の用にも役立たぬその方の脳髄を癒《い》やして欲しい! そこに立っているのだ、君たちは呪文にかかっているのだから。ゴンザーローよ、まことに立派だ、男の誉《ほま》れだ。わたしの目は、汝《そち》の目の様子を見て同情のあまり、同じ涙の滴《しずく》を落とす。呪文は速やかに雲散霧消しよう。そして朝が、暗闇を溶かして、こっそりと夜にしのび寄って行くように、皆の者の高まりつつある正気の気は、今よりはまだはっきりとしていた理性を覆っていた無知の毒気を追い払い始めている。おおゴンザーロー、わたしの真の命の恩人であり、仕える主君には忠実なる臣下たるわが親愛なるゴンザーローよ! その方の心からなる厚誼《こうぎ》には、言葉と行為との両方で十二分に酬いたい。アロンゾー、その方はわしとわしの娘とに残酷極まる仕打ちをした。その方の弟はそれをますますそそのかす者となった。セバスチャン、その方は今そのために良心の苦悩と呵責《かしゃく》とを受けている。骨肉を分けたわしの弟よ、お前は野心をいだいて、あわれみと人情とを投げ捨ててしまい、セバスチャンとぐるになって――奴はそのために最も強い良心の呵責にさいなまれているのだが――ここで君らの国王を殺そうとした。わしはその方をあえて許す、まこと人の道、自然の情には反したその方だが。皆の者の理解力は大分水位が増して来た。やがて上げ潮ともなれば、皆の理性の海岸もすぐに潮で一杯に満たされるだろう、今は汚ならしく、どんよりと濁っているが。誰もまだわしの姿を見た者はなく〔プロスペローの姿はまだ魔法の衣で見えない〕見たとしてもわしとわかるまい。エアリエル、岩屋にあるわしの帽子と剣とを取って来てくれ。わしは魔法の衣《ころも》を脱ごう。そして以前のようにミラノ大公として皆に会おう。精霊、さあ急げ、もうすぐお前は自由にしてやるぞ。
〔エアリエル歌いながら、衣《ころも》替えを手伝う〕
【エアリ】
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蜜蜂が蜜を吸ってる所で蜜を吸い、
黄花《きばな》九輪桜の鐘形の花に寝て、
梟《ふくろう》が鳴く時までもそこに寝る。
蝙蝠《こうもり》の背中に乗って飛んで行く、
夏の後《あと》を追って陽気に、楽しく。
陽気に、楽しく今こそ暮らそう、
木の枝に下がる花の木蔭《こかげ》で。
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【プロス】 エアリエル、何という可愛い奴だ! お前がいなくなると淋しくなる。だが、お前は必ず自由にしてやるぞ。そう、そう、そう、それでよい。〔衣替えを手伝うエアリエルに〕その見えない姿のままで、国王の船の所へ飛んで行け。そこへ行けば、水夫たちが甲板の下、船倉の中で眠っているのが見つかるだろう。船長と水夫長とは起きている。連中をこの場所に無理矢理にでも連れてくるのだ。大急ぎだ、頼んだぞ。
【エアリ】 わたしの前に立ち向かう空気を全部飲みこんで、あなたの脈拍が二つと鼓動を打つ前に戻ります。
【ゴンザーロー】 あらゆる苦痛、苦悩、驚異、そして驚嘆がここには宿っている。上天の御力《おちから》よ、なにとぞこの恐しい国から、わたくし共もお導き出し賜わらんことを!
【プロス】 国王陛下。この屈辱のミラノ大公、プロスペローを御覧下さい。生き身の君主が陛下にご挨拶申し上げているということを、より確実におわかりいただくために、かく陛下を抱擁申し上げ、陛下および供奉《ぐぶ》のご一同様に私どもの心からなる歓迎の意を表わし奉ります。
【アロンゾー】 その方が真にミラノ大公なるか否か、はたまた、ついさき頃わしが見せられたような、このわしをたぶらかすための妖怪変化の類いのものであるか、わしにはわからない。汝《そち》の脈拍は、血肉を持ったものと同じ鼓動を打っている。そしてその方に会って以来、わしの心の病《やまい》は快方に向かっている、その病はどうやら狂気がその原因だったらしいと案じているのだが。このことは――もしこれが事実だとすれば――世にも不思議な説明が必要となる。その方の公国に対するわしの権利はわしはここに抛棄する。そして心からわしの犯した過誤に対して許しを乞う。だが一体いかにして、プロスペローは生き長らえて、ここにおられるのか?
【プロス】 〔ゴンザーローに〕まず畏友ゴンザーロー、高潔なるご老体を抱かしてもらいます、そなたの誉《ほま》れは測り知れず、また際限がありません。
【ゴンザ】 これが夢か現実か、|それがし《ヽヽヽヽ》にはしかとはわかりかねます。
【プロス】 あなたにはまだ、この島の幻の味が忘れられないと見える。それで確たる事実も信じようとは決してなさらぬ。皆さん、ようこそ!
〔セバスチャンとアントーニオーに傍白〕君ら二人組の殿方は、もしわしがその気になれば、この場で国王陛下のご不興《ふきょう》をこうむるようにすることもできる。君らが謀叛人だと証明することもできる。だが今は詮議《せんぎ》立てはすまい。
【セバスチャン】 〔傍白〕〔アントーニオーへ〕あれは悪魔がしゃべっていることだ。
【プロス】 そのような事はしない。一番の悪者であるあなた様については、弟と呼ぶことさえむかついてくるのだが、その方の悪辣《あくらつ》極まる誤ちもわしは許す――ことごとく。そしてわが公国をその手から取り戻すことにする。その件については、その方に異存あるとは思えぬが。
【アロン】 その方が真にプロスペローであるならば、その方が生存し得た経過を詳細に示して欲しい。いかにしてここで会うことができたのか、三時間ほど前に当海岸において難破し、その時わしは失《な》くしてしまったのだ――その思い出の切《き》っ先が何と強烈にわが胸を突き刺すことか!――わが大切な息子ファーディナンドを失《な》くしてしまったのだ。
【プロス】 お気の毒です。
【アロン】 その損失は取りかえしがつかぬ。「忍耐」も彼女《そ》の力では治せぬと言っている。〔女性として擬人化されている〕
【プロス】 わたしの考えでは、国王は彼女《そ》の御力を請い願わなかったのでは。実はわたしはそのご慈悲によって、同じような損失に無上のお援けを得ているのです。わたしは今は安らかです。
【アロン】 同じような損失だと!
【プロス】 損失の大きさも同じ、時も同じくごく最近です。そしてわたしが受けた損害に耐えるべくわたしに与えられた方法は、あなたがご自身を慰めるべく利用できるものに比べれば、まことはるかに貧弱なものです。というのは、わたしは娘を失くしました。
【アロン】 娘さんを失くされただと! おお天よ! 二人が共に、国王および王妃としてナポリで生きていてくれたら! できることならこのわたしが、いま息子が横たわっているどろどろの海底に泥にまみれて埋もれていたい。娘御はいつ失くされた?
【プロス】 つい先頃のあらしでです。お見かけしたところ、皆さんはこの出会いにひどく驚かれているようで、理性など大口開けてあんぐり飲みこんでしまい、自分の眼が果たして正しく機能しているのか、言っていることなど果たしてまともな人間の言葉なのか、まったく半信半疑の様子です。ですがいかにあなたが正気の感覚を奪われておられようとも、わたしは間違いなくプロスペローであることをお認め下さい。ミラノ公国から追われた正真正銘のミラノ大公です。まことに不思議なことながら、この海岸に、あなたが難破されたこの海岸に上陸し、この島の領主となりました。だがこのことについてはこれだけにしておきます。これは今後、日を追って語る長い物語で、朝飯の話題ではなく、また初めてお会いした時にふさわしくもございません。さあ、ようこそいらっしゃいました。この岩屋がわが宮廷です。ここに供奉《ぐぶ》する者はわずかで、外に国民などおりません。どうか中をご覧下さい。わたしの公国領をお返しくださったのですから、わたしはそのお礼に素晴しいものを差し上げましょう。少なくともわたしが公国領をいただいたくらいに、ご満足いただけますような不思議なものをお目にかけましょう。
〔ここでプロスペローはチェスに興じているファーディナンドとミランダを見せる〕
【ミランダ】 あなた、それはずるいわ。
【ファーディナンド】 いや、世界中をくれると言ったって、わたしはそんなことはしないよ。
【ミラン】 いいのよ、沢山の国を手に入れるためだったら断固わたしを攻めて。わたくしはそれを|ずる《ヽヽ》とは申しませんわ。
【アロン】 これがもしこの島の幻《まぼろし》だったら、一人の大事な大事な息子を、わたしは二度失くすることになる。
【セバス】 世にもまれな最高の奇蹟!
【ファー】 たとえいかに荒れようとも、海は慈悲深い。わたしはいわれもなしに海を呪《のろ》っていた。
【アロン】 さあ〔ファーディナンドひざまずく〕喜ぶ父親のあらゆる祝福がそなたの回りをすべて取り囲むように! さあ立って、どうしてここへ来たかを話してくれ。
【ミラン】 まあ不思議! 何と沢山の立派な人たちがいらっしゃることでしょう! 人間って何て美しいんでしょう! こういう方たちがいらっしゃるなんて、何て素晴しい新世界!
【プロス】 お前には新しい世界だ。
【アロン】 お前がチェスを楽しんでいたこの相手はどういう娘御かね? 君たちが知り合いになったといってもせいぜい三時間たらずだと思うが。このお方がわれわれを引き離し、そしてまたこのようにわれわれを一緒してくれたお女神様かね?
【ファー】 父上、このお方は地上の人間です。
が、天上の永遠なるご摂理によって私のものとなった女性です。私がこの女《ひと》を選んだ時には父上のご意見を聞くことはできませんでしたし、また父上がご存命だったとも思いませんでした。このお方は、ここにおられるご高名はかねがねうかがってはおりましたが、お会いするのは今が始めての有名なミラノ大公のご息女です。実は大公の御力でわたくしはここに第二の人生を始めることができ、このご婦人が大公をわたしの第二の父親としてくれるのです。
【アロン】 わしはご婦人の第二の父親だ。だが自分の子供の許しを乞わねばならぬとは、何とも奇妙に聞こえてならぬ!
【プロス】 まあまあ大公、そこまでにしておいて下さい。われらがくさぐさの追憶に、過ぎし悲しみの重荷を負わすことはやめにしましょう。
【ゴンザ】 私は心で泣いておりました、それでものが言えませんでした。上天なる神々よ、なにとぞご照覧あれ、この一組にカップルに祝福された王冠をお授け給わらんことを! 私どものをここに相|集《つど》うようにお導き下さったのは、神々ご自身だったのですから。
【アロン】 ゴンザーロー、わしも心からアーメン〔「そうあれかし」の意味のヘブライ語〕を唱える。
【ゴンザ】 ミラノ大公がミラノから追放されたのは、その子孫がナポリ国王になるためだったのでしょうか? おお、世のなみの喜びなど比較にならぬ大いなる喜び! 宮殿の不滅の円柱に、黄金の文字で次のように彫りつけましょう。ただ一度の航海でクラリベルはその夫をチュニスで見つけ、その弟ファーディナンドは自分が行方不明になったその場所で妻を見つけ、プロスペローはその公国をこのささやかな島に見つけ、そしてわれわれ自身は気がついた時には、いずれもが正気を失くしていた。
【アロン】 〔ファーディナンドとミランダに〕さあ握手を。君たちに仕合わせを願わぬ者がいれば、永《とこし》えの悩みと悲しみがその者の胸を打ち縛れ!
【ゴンザ】 どうぞそのように! アーメン!
〔エアリエル再登場。船長と水夫長呆然たる体《てい》でついて登場〕
おやご覧下さい陛下、陛下ご覧下さい、われわれのグループがまだおります。私はかつて予言いたしました。陸《おか》に絞首台があるぎりは、こ奴は溺れ死ぬことはできんと。おい、神をののしる非道者め、船上では神を冒涜《ぼうとく》して神の恩寵を海に投げ捨てるが、陸《おか》では罵詈《ばり》ざんぼうせんのか? 陸《おか》に上がると口が無くなってしまうのか? 報告があるなら言え。
【水夫長】 最高の知らせは、王様とご一同様がご無事だったとわっしらにわかったことです。その次はわっしらの船が――つい三時間ほど前には船体が真っ二つと皆に言われておったのが――まるで初めて出帆した時のように、堅牢そのもの、出発準備完了、装具の類も完備しておることです。
【エアリ】 〔プロスペローに傍白〕ご主人、これはわたしが出かけた時に全部やっておいたのです。
【プロス】 〔エアリエルに傍白〕さすがわしに仕える精霊だけのことはある!
【アロン】 これらはすべて尋常一様の出来事ではない。不思議な事が起こると、さらに不思議な事が続いて起こる。その方らはいかにしてここへ参ったのか?
【水夫長】 はっきり目を覚ましていたという自信がありますれば、一生懸命お話しもいたしましょうが、わっし共は死んだように寝こんで、どうしてかわかりませんが――船倉にぴしゃり閉じこめられておりました。そこで、つい今しがた、うなり声、金切り声、泣きわめく声、鎖のがちゃがちゃという音など不思議ないろいろな音が、まだその外にも全く恐しい各種各様の音がして、それでわっしらは目が覚めました。そしてすぐに体が自由になりました。すると目の前に王者のような、立派な、素晴しいわっしらの船が、完全に装備した状態であらわれました。船長はそれを見て小踊りしてよろこびました――ところが一瞬のうちに、お聞き下さい陛下、まるで夢を見ているように、ほかの連中から引き離されてわっしらは、茫然たる状態でここへ連れてこられました。
【エアリ】 〔プロスペローに傍白〕うまく行ったでしょう?
【プロス】 〔エアリエルに〕素晴しい、真面目ですばやい奴め。お前は自由にしてやるぞ。
【アロン】 これはかつて人間が踏みこんだいかなる迷路より不思議千万だ。そしてこの事の中には自然の理法では到底動かすことのできない、それ以上のものがある。何かご神託の御力によって、われらの考え方を正して行かねばならぬ。
【プロス】 国王陛下、このことの不思議をあれこれと余りにお考えすぎて、御心を悩まされることのなきよう願います。いずれごく近いうちに機《おり》を見て、これらの出来事のすべてについて、陛下に十二分に御納得いただけますよう、わたくしが陛下に内密にご説明申し上げます。その時までどうぞ御機嫌うるわしく、何事もすべてよくお取り下さいますよう。〔エアリエルに〕エアリエルよここへ来い。キャリバンとその仲間たちを自由にしてやるのだ。呪文を解いてやれ。〔エアリエル退場〕
陛下どうかなさいましたか?〔人数が足りなくて何か不安そうにあたりを見回すアロンゾーを見て〕陛下はお忘れになっておられるかもしれませんが、お伴の者でまだ何人かの若者の姿が見えません。
〔エアリエル、盗んだ衣装を身につけたキャリバン、ステファノー、トリンキュローらを追い立てて再登場〕
【ステファノー】 人はすべて他人様のおんために尽すべし。何人《なんぴと》も己れのために意を使うなかれ。所詮すべては運命にあらざるはなし。――勇気を出せ、わが親愛なる怪物君、勇気を出せ!〔隅の方にちぢこまっているキャリバンに言う〕
【トリンキュロー】 もしわしの|おつむ《ヽヽヽ》につけてる二つのスパイ〔目のこと〕が信頼できれば、こりゃすばらしい眺めだぞ。
【キャリバン】 おおセティボスの神よ、何という素晴しい精霊たちだ! わたしの旦那は何とご立派ないでたちだ! これは困ったことになった。またひどいお仕置きを受けそうだ。
【セバス】 はっ、はっ! このものどもは一体何ものですか、アントーニオー殿? 金で買えるんでしょうね。
【アントーニオー】 たぶんそうだろうよ。一方は明らかに魚だからな。だから間違いなく買えるだろうよ。
【プロス】 皆さん、この連中がつけている紋章だけでもご覧下されば、彼らがほんものかどうかおわかりでしょう。この不恰好な奴の母親は魔女でした。それも非常に力の強い魔女で、月をも支配して、潮の満干を自由にあやつり、月そのものの力は持っておりませんでしたが、同等の力を行使してました。この三人はわたしのものを盗んで着ているのです。そしてこの半悪魔が――奴は悪魔の私生児なので――この連中と組んで、わたしの命を取ろうと企らみました。このうちの二人は皆さんもご存じのはずのご家来衆で、この暗闇の子はそれがしの下僕であると認めます。
【キャリ】 こりゃ捻《ひね》り殺されてしまうぞ。
【アロン】 この男はわしの大酒飲みの執事のステファノーではないか?
【セバス】 奴は今でもへべれけです。いったいどこで酒を手に入れたんだろう?
【アロン】 それにトリンキュローも十分出来上がって千鳥足だ。連中はどこでこのように強い酒を手に入れたのだろう? 顔が真っ赤だ――どうしてお前はこんなアルコール漬けになったのだ?
【トリン】 この前お目にかかってからずっとこんな工合です。それで骨の随までしみこんでしまったんだと思ってます。ですから蝿《はえ》も寄りつかず安全この上なし。
【セバス】 おいステファノー、どうした?
【ステファ】 おお触らんでくれ。わたしはステファノーではなくて|けいれん《ヽヽヽヽ》だ。〔一説によればステファノーはナポリ方言で「胃」の意味あり、その連関でなら胃けいれん〕
【プロス】 おいお前はこの島の国王になろうと思っておったのだろうが?
【ステファ】 そうなったらひどいことになっておったでしょう。
【アロン】 こんな不思議な物は今まで見たこともない。〔キャリバンを指さして〕
【プロス】 こ奴は姿も無様《ぶざま》ながら、礼儀作法も同様、全くなっておりません。おい、わしの岩屋へ行け。お前の仲間どもも一緒に連れて行け。わしの許しを得たいと思うなら、それだけ岩屋を奇麗にしておくのだ。
【キャリ】 はい、そうします。これからは利口になって、神の恩寵を求めよう。こんな酔っ払いを神様などと思いこんで、こんな間抜けの阿呆を拝《おが》むなんて、俺は何という二倍、三倍、幾層倍の大馬鹿者の驢馬《ろば》だったのか!
【プロス】 さあ行け!
【アロン】 あちらへ行って、そのつまらぬものを、もとあった所においてくるのだ。
【セバス】 いや盗んだ所へでしょう。
〔キャリバン、ステファノーおよびトリンキュロー退場〕
【プロス】 陛下およびお付きの皆様を、むさくるしい所ですが、わたくしどもの岩屋へお招きしたいと存じます。そこで今宵|一夜《ひとよ》、ゆるりとご休息をお取りいただき、その時間の一部を拝借させていただき――必ずや時の経つのも忘れてしまうようなお話をいたしたく存じます。わたくしの一生の身の上話、お耳に入れたく存じます。そして明日の朝には、御船《みふね》へとご案内いたし、そしてナポリへと――わたくし共の心から愛するこの二人の結婚の式が厳《おごそ》かにとり行なわれるのを、わたくしもできればこの目で見たいと願っているナポリへと、ご出発下さい。わたくしはそれから、わがミラノへと退出いたし、そこにて一に二人のこと、二に二人のこと、そして三にわが死を見つめて暮らします。
【アロン】 楽しみだな、あなたの身の上話が聞けるのは。事の不思議に、わが耳目《じもく》も聳動《しょうどう》させられよう。
【プロス】 事のすべてを申し上げます。またお約束いたします。平穏な海とめでたき順風を、
そしてすぐに海路遠く隔《へだ》たってしまった王の船団に追いつくことのできる速い船足を。〔エアリエルに傍白〕エアリエル、可愛い奴、それはお前の仕事だぞ。そのことがすみ次第、お前の固有の宇宙の大元へ自由に戻れ、元気でやるのだぞ! 皆さん、さあどうぞこちらへ。〔全員退場〕
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エピローグ〔閉幕の辞〕
〔プロスペローが述べる〕
今や私の魔術はすべて破れ、私の力は誰の力も借りない、自分だけのまことに弱いもの。今や私はここに留《とど》めおかれるか、またはナポリへ送られるか、真実みなさま次第です。公国は私の手に戻り、欺《あざむ》きし者は許された以上、みなさまの呪文でこの私をこの不毛の島におく事だけはひらにご容赦願います。そしてみなさま方の御手を借りての拍手の御力で、なにとぞこの私めの呪縛をお解き下さい。みなさま方のご好意の息《いき》で私の船の帆を一杯にふくらませて頂かねば、みなさま方をおもてなそうとした私の企てはすべて失敗です。今や命令すべき精霊もなく、魔法を行なう術もなく、みなさまのお祈りによって救われるのでなくば、私の終末は絶望あるのみでございます。そのお祈りは上天に達し、慈悲のお耳にあらしとなって吹き荒れて、すべての罪のお許しを。皆みなさま様がよろず罪からの許しを願われるように、ご寛容のほど願います、どうぞ私めにもこれにて自由を。〔退場〕
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解説
〔四大悲劇時代から最後期の作品時代へ〕
『ハムレット』(一六〇一〜二)『オセロー』(一六〇四)『リア王』(一六〇五〜六)『マクベス』(一六〇六)などのシェイクスピアのいわゆる四大悲劇時代から、『シンベリン』(一六一〇)『冬の物語』(一六一一)『あらし』(一六一一)などの最後期の作品時代への展開は、その演劇技巧の完熟は当然のことながら、作者シェイクスピアの宇宙観、自然観、人間観の深化、展開といえる。
四大悲劇時代のシェイクスピアの焦点は主人公の精神的な苦悩とその行動にあった。理想と現実とのギャップに自らの主体を打ちつけ、ためにその主体は狂気と死との境を彷徨《ほうこう》する羽目におちいった。最後期の作品では作者シェイクスピアの態度は著しく芸術的に離脱したものとなっている。悲劇的な人間的苦悩はもちろんある。しかしその苦悩と最後まで徹底的に抗争するのではなく、それは結局のところ大いなる人間の精神生活の一部でしかないものとなっている。最後期のシェイクスピアが描いた人間のイメージは、その理想と現実のギャップに苦悩する人間ではなく、その相剋のレヴェルを超越するものであった。相剋ではなく和解であった。死、狂気ではなく再生、復活であった。
これは現実と理想からの逃避では決してない。より高い次元に立つことによってすべてを許容、受け入れることである。そのことによって人間の精神を狂気と死とに追いやる苦悩も、しょせんはすべてをしろしめしたもう天なる神の摂理以外の何ものでもないことを知る。あるものはただ天上界、自然界、および人間界の美しい調和のみ。シェイクスピアが四大悲劇から『アントニーとクレオパトラ』などのいわゆるローマ劇を経て最後期の作品群で到達した人間理解、人間像はこのようなものであった。
〔『あらし』の制作年代〕
『あらし』の制作年代は比較的正確に決定することができる。この劇は一六一一年十一月一日に宮廷で演じられたという記録がある。宮廷で演じられる前に、おそらくは民間の劇場(当時のブラックフライヤーズ Blackfriars)で上演されていたものと考えられる。次にこの劇の中の細目は明らかに、当時ヴァージニアへの移民途中あらしで遭難した船(Sea Adventure 号)の乗組員の記録から多くのヒントを得ている。この移民団は一六〇九年に出帆したが、途中その旗艦、Sea Adventure 号はあらしに遭遇、総督ゲイツおよび他の乗組員は幸いにバーミューダ島で九か月を送った後、無事ヴァージニアに到着することができた。総督以下の遭難を信じていた英国朝野は、この生還のニュースに湧き立つた。一六一〇年にその乗組員の一人が「バーミューダ島発見記」という遭難記を発表した。続いて同じく乗組員の一人であったストレイチーが「ヴァージニア植民地宣言」を発表した。このセンセーショナルなニュースに、当時のイギリスの人びとがどれほど熱中したかは容易に想像できる。観客の精神風土に敏感なシェイクスピアがこの重大トピックを見逃すはずはない。これらのことから、『あらし』は一六一〇年の秋から一六一一年の初め頃のあいだに書かれたものと推定できる。
『あらし』の原本については的確なものはあまり知られていない。『あらし』の原本としてまず提起されたのは、一六〇五年に亡くなったヤーコブ・アイラーというドイツ人の「美わしのジデア」であったが、似ているのは大まかな筋書だけで、登場人物の性格描写など全く違っており、シェイクスピアの直接の原本とは認めがたい。むしろアイラーの作とシェイクスピアとは、まだ発見されていない古い共通の原本から出ているのではないかという考え方の方が妥当とも考えられる。否、『あらし』の原本が今日なお明確に決定されていない以上、この作の大部分は何かの原本によらない、シェイクスピア自身の想像力の産物だと考えることも可能である。前述のような当時の人びとの耳目を驚かした遭難記は、劇作家シェイクスピアの食指をも十分動かしたに相違ない。それに悲劇というものに飽いて、何か遠い夢の国の物語のようなものに憧れていた当時の人びとにとって、絶海の孤島の物語は格好な題材ではなかったか。そしてこの島のぬしとして魔術師をおけば、当時のシェイクスピアがいだいていた超越的な人間像を表現するのに、これまた格好な筋書ではないか。島のぬしと他の人びととの悲劇的な摩擦―和解―再生という筋書が考えられる。しかもこの物語では和解、再生の最後の部分に焦点が合わされねばならない。シェイクスピアの『あらし』におげる創作意図はこのようなものだったと考えられる。
〔仮面劇について〕『あらし』の創作意図についてもう一つ考えなければならないものは、当時の人びとの仮面劇(masque)に対する興味である。当時人びとはマスクの持つ抽象、装飾、音楽に大変な興味を持った。十七世紀には観衆の中心は次第に上流社会の紳士淑女へと移ってゆくが、ここでもマスクがさかんであった。宮廷仮面劇がこれである。もちろんシェイクスピアはこの時代的風潮をよく知っていた。『あらし』は前述のごとく宮廷で演じられたのである。この作にマスク的技法が多分に取り入れられたのは当然のことだった。第四幕の初めの部分のマスクは誰でもすぐ気がつくだろう。しかしこの作では、その他いたるところにマスク的技法、効果が取り入れられている。まず第一幕第一場の最初のト書きに「すさまじいあらしの音、雷鳴、稲妻」とある。第二幕ではエアリエルはしばしば「壮重なメロディー」または「音楽と歌」を伴って登場している。第三幕でプロスペローが登場するときにも「厳粛で不思議な音楽云々」の長いト書きがついている。そしてそういう技法はずっと続いている。このような音響効果や、随所に見られる珍奇な扮装は、いずれも当時の宮廷マスクの特徴である。シェイクスピアはこれを巧みにドラマの中に取り入れ、それをその本質的なものとしている。つまりシェイクスピアはここではもはや悲劇を書いているのではない。簡単に言えば、この芝居には始めからショー的な要素が非常に多いのである。シェイクスピアの『あらし』における意図はこのあたりからも明確だといえる。
〔寓意的解釈および自伝的解釈について〕
『あらし』が作者シェイクスピアの内面的なものの表現であるという考え方にも、いろいろなものがある。そのうちまず挙げられるのがアレゴリー的解釈と、作者シェイクスピアの自叙伝的な表現と解釈する方法である。前者によれば、作中の登場人物はそれぞれみな、ある抽象的な価値を表現することになる。つまりプロスペローは「最高度の理性」、エアリエルは「空想」、キャリバンは「動物の理解力」、ミランダは「女らしさ」、ファーディナンドは「若さ」をそれぞれ表現していると考えるのだ。『あらし』にはたしかにそういう寓意的な傾向はある。しかしそれがこの作の全部でないことは容易に見いだすことができよう。自伝的解釈についても全く同じことが言えよう。プロスペローはシェイクスピア自身であるという考え方にも、たしかに一面の真理はある。しかしそれは複合的な多面性を持つこの作の芸術性を包含するものでは決してない。プロスペローはあくまでも作中の一登場人物である。プロスペローが作者シェイクスピアの自伝的な表現だと考えられるのは、『あらし』をシェイクスピアの全作品の展開のコンテックストにおいて考えた時のみである。しかもその自伝的人間像はあくまでもシェイクスピアの芸術的人間像にとどまるということであり、またわれわれにとって最も重要なのはそういう作者の芸術的な人間像であって、いわゆる自叙伝的な人間像では決してない。
〔『あらし』の悲劇性〕
最後期の芝居は和解、再生の静謐《せいひつ》な世界だと言った。しかしそれは悲劇的な苦悶、その影が全くないということでは決してない。この芝居の過去、背後にはたしかにそういう影がある。プロスペローがアントーニオーに王位を奪われたのは、彼が魔術の勉強にこって国政をないがしろにしたからである。アントーニオーがミラノの公国をほしいままにした罪の一半は彼自身にあるのだ。プロスペローは過去において誤ちを犯したということをわれわれは見逃してはならない。プロスペロー自身このような「時の暗黒の過去と深淵」(一幕二場)を回顧して次のように言っている。
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当時わがミラノ公国は数ある公国の中で第一位にあったのだ。そしてプロスペローは大公の筆頭―格式において、そのように取り沙汰されていたのだ。学芸の道においては、まさに比肩する者はおらなかった。それがわしの主たる研究だったので、国政はすべて弟に任せきりであった。かくして、極秘の研究に心を奪われ、そのことに夢中になって、わしは国政に次第に疎くなっていた。
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プロスペローが国を奪われたのは、彼が国王としての秩序を破ったからである。そして「極秘の研究」を極めたとはいえ、それにも限界があることは当然である。かくしてこの劇でも一幕の初めの部分に、わずかながら悲劇の影が射し込んでいる。
〔調和、和解、再生の主題〕
プロスペローは国を追われたが、天意によってその島に無事に到着する。この時の彼の心の中はいささかも乱れてはいない。全宇宙の秩序、調和を達観した平静があるだけなのだ。
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そのまま坐っていて、われらの海の悲しみの結末をお聞き。
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プロスペローにはこれだけの心の余裕がある。彼はアントーニオーの悪逆な行為を「かくも卑劣な裏切り行為」と怒ってはいるが、その心の平静は失ってはいない。より一段上のレヴェルにいて、それを平静に見守っていると言ってもよい。ハムレット的な悲劇的相剋のレヴェルにいるのではなく、それに主体をぶちつけるのでもなく、一段上のレヴェルに超越して、和解、調和の世界を達観しているのだ。その意味ではプロスペローはその魔術の力によって、彼自身神々のレヴェルに上昇しているといえる。
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まことに不思議な運勢の回り合わせで、寛大な「運命」の女神は――今やわが幸運の女神なのだが――わしの敵どもをこの岸におびき寄せてくれた。そしてわしは先見の明で、わしの運勢の絶頂が最高の幸運の星にかかっているということを知ったのだ。もしわしがその星の力を求めることなく、それを無視するようなことがあれば、わが運勢は以後ずっと下降することになっているのだ。
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ここにハムレットの、リア王の悲劇はない。以後プロスペローがどのような苦悩、憤怒を経験しようと、われわれ読者、観衆は一向に悲劇感を経験しない。われわれの興味はプロスペローがいかにその全能者ぶりを発揮するかにある。これは悲劇ではなく、いわば一種のショーである。素晴しいショーである。
この劇では悪、その他の悲劇的なものはすべて劇の背後におかれていると言ったが、この劇の中にもちろん悪はあるのだ。ナポリ国王アロンゾーを殺してその王国を奪取しようとしているセバスチャンとアントーニオー、プロスペローを殺して島をわがものにしようと企らむキャリバン、ステファノーおよびトリンキュローなどがそれである。プロスペロー自身も彼らの悪辣な陰謀を心から憤っている。しかしここでは悲劇は起こらない。プロスペローは彼流に全能なのである。われわれのここでの興味はこのような陰謀に遭遇するプロスペローの意識の内面的な葛藤ではなくして、全能者プロスペローがその魔術を利用して、いかに巧みに彼ら悪人どもを征伐するかにある。プロスぺローはその魔術を利用して、ファーディナンドと娘ミランダのために、妖精たちによる結婚祝賀舞踏宴をその洞穴の前で催しているとき、ふとキャリバンおよびその一党の陰謀を思い出して、苦り切って言う。
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君はひどく困惑しているように見えるぞ。何か不安で一杯のようだ。さあ、元気を出すのだ。われらのショーは終った。これらの役者たちは、わしがさっき言ったように、すべて精霊だ。そして空気の中へ溶けこんでしまった、淡い空気の中へ。そして、この幻の見世物に基礎の骨組みが無いように、雲を頭にいただく高い塔も、華麗なる宮殿も、荘重なる寺院も、この大いなる地球の座自体も、さよう、それを占拠しているすべてのものも溶け去って、今しがた消え去った実体なき幻のショーのように、あとには一抹の雲も残さない。われわれは夢を作り上げる材料のようなものだ。われわれのささやかな一生は一眠りで大団円。
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これは美しくかつ壮大な抒情詩である。中世文学独特の「無常感」を美しくも歌い上げたものといえる。賊どもを退治する段になっても、プロスペローの心の中は平静である。このような抒情的激発にその心をまかせている。それはすべてを達観、超越した余裕あるものの叡知の言葉である。シェイクスピア=プロスペローというのではない。こういう人間を描くにいたったシェイクスピアの芸術的人間像の完熟をわれわれはこよなく賞でる。
悪人どもはやがてプロスペローの魔術にかかって、すべてとりこになってしまう。それまでのエアリエルの縦横の活躍、鳴りもの入りのスペクタル等々はこの劇のショー性を十分に発揮している。今やプロスペローは悪人どもを完全に征伐し終えた。彼の力は全能の神のそれに近い。
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汝、精霊たちよ、丘、小川、水をたたえた湖、森の精霊たちよ、砂浜に足跡を残さず下げ潮の海神ネプチューンを追い、また海神もどるときには飛んで逃げ戻る汝精霊たちよ、汝、小なる準精霊たちよ、月夜の下、牧草地に緑の酸い「妖精の輪」を作る、牝羊も口にせぬ毒草を作る準精霊たちよ。真夜中のきのこを作ることが大きな楽しみで、荘厳な入り相の鐘が鳴るのを聞いて、小踊りしてよろこぶ者たちよ。その方たちの力を借りて――お前たちは大悪魔ならぬ小悪魔ではあるが――わしは真昼の太陽を薄暗くし、猛威ふるう大風を呼び起こし、緑の大海原と紺碧の大空のあいだにとよもす戦を惹き起こし、恐しく轟きわたる雷鳴に火を放ち、主神ユピテルの守り木である樫の木を、主神自身の火の玉で引き裂いた。岩根がっしりとした堅固なる岬をもわしはその根元から揺り動かした。松や杉の大木を根こそぎ引き抜いた。墓はわしの命令を受けて、その中に眠る者たちを目覚めさせ、口を開け、わが大いなる術によって、その者たちを吐き出させた。
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プロスペローは魔術の力によって世の醜悪なるものすべてを矯正しえた。人間界、自然界、天上界のもろもろの創造物はそれぞれのところを得て、全宇宙は依然として美しい調和、秩序の中にその正しい運行を続けている。プロスペローの意識の中では理想と現実とは完全に一致、調和している。当時の思想の言葉で言えば、プロスペローは新プラトン派的な考え方の代弁者だとも言える。人間は理性の力によって感覚、物質の世界から、精神、イデアの世界に上昇し、全能者、神々のレヴェルまで達することができる。プロスペローはこの点で、イギリス・ルネサンスの一つの理想的な人間像だったと言える。
ただしわれわれはプロスペローを余りに理念化してはならない。プロスペローをプラトニックなイデアの化身と考える結果は、彼をして人間の世界から離脱せしめ、遠く雲の上の神々のレヴェルにおいてのみ彼を考えやすい。しかしこれは当時の人びとのプラトニックな思弁を無視した考え方である。この時代の人びとにとっては、思想と共に実際の世界が重要だった。思想と行動は一致するものと考えた。ここにプロスペローの現実界への復帰が始まる。プロスペローはその魔術によって悪者を退治したあとは、また現実へと下降して来る。彼にとって大切なのはあくまでも人間界であって、神々の世界では決してない。世の中がまた理想の世界、秩序の世界に戻ったとき、プロスペローはこれ以上魔術の力を必要とするだろうか。彼はここで魔術の杖を折る。
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だがこの手荒らな魔術を、わしはここに誓って放棄する。そしてある天来の妙音が奏でられるよう依頼したら――今まさにそれをするところだが――連中の感覚に働きかけてわが意図するところを行なうために、この大空の魔の楽の音はそのためにあるのだが、わしはこの魔の杖を折って、地中幾|尋《ひろ》のところにそれを埋め、かつて海底を測るいかなる鉛のおもりも達したことのないような深い海の底に、わしはこの本を沈めよう。
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魔術を棄てたプロスペローはまたミラノ公国へ帰る。公国を追われた時よりも一段と高いレヴェルにまで高揚されて人間界へ戻って来た。一度神々のレヴェルに達した彼は、神々の叡知を持ってまた人間社会の現実、実際のレヴェルに下降して来たのだ。人間の真の叡知とはこのようなものであろう。
このように超越した立場で現実生活に戻るとき、プロスペローは悪人どもを罰する気になるだろうか。
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連中の悪辣なやり方は骨身にこたえてはいるが、激しい怒りは押さえて、より高貴な理性の側にわしはつくようにしている。より稀な行為は復讐よりも徳にある。連中が後悔しておる以上、わしの心の唯一の方向は、もうこれ以上渋面をし続けることではない。連中を放免してやれエアリエル、わしは魔術を解くことにする。皆の者を正気に戻し、元通りにしてやろう。
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プロスペローの心は一段上に超越することによって、現実と和解している。彼の意識は悲劇時代の主人公の意識が、理想的な調和と醜悪な現実とのギャップと徹底的に闘争して、最後には発狂か死にいたったのとは違って、平静な主体性を持ち続けている。アントーニオー、セバスチャンらのいる現実界は醜悪なものだ。しかしプロスペローにとって今やこの世界は限りなく美しい。
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まあ不思議! 何と沢山の立派な人たちがいらっしゃることでしょう! 人間って何て美しいんでしょう! こういう方たちがいらっしゃるなんて何て素晴しい新世界!
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というミランダの人間界、宇宙界讃美の言葉は、とりもなおさずプロスペローが再び見いだした人間界、自然界、宇宙界の理想、調和の姿だと言える。
〔キャリバン〕
『あらし』においてシェイクスピアは、全宇宙の創造物を代表するように 登場人物をあらゆる面から選んだ。プロスペローは人間界のレヴェルにはいるが、理想と行動の完全に一致した理想的な人間である。いわば天使たちの持つ叡知のレヴェルに達したものだ。彼の召使のエアリエルもこのようなレヴェルにいると言えよう。他の貴族たちは人間界の普通のレヴェルを示すものである。怪物キャリバンは理性を持ち合わせない最下等のレヴェルにいる。動物的な感覚世界に生きる存在である。これは人間界を除いた地上界、動物界のレヴェルを代表するものだ。プロスペローは初めキャリバンを可愛がった。そしてミランダ共々彼を教育して人間の水準に持ち上げようとした。ミランダは言う。
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わたしはお前を憐れんで、お前が話ができるように骨を折った。一時間に何か一つ、今はこれ、次にはあれと教えてやった。お前が、――この野蛮人めが! お前自身で考えていることもわからずに、ただ野獣のようにわめき散らしていた時に、お前の言いたいことをわからせる言葉をお前に授けてやった。
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しかしその努力も結局は無駄であった。「畜生のキャリバン」は依然として「畜生」であった。彼に人間の理性を植えつけることはできなかった。プロスペローも言う。
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悪魔め、生まれながらの悪魔め、その自然の性《さが》には教育というものが決して張りつかぬ。気の毒と思ってしたわしの骨折りは、すべて、すべて完全に無駄だった。
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彼は悪魔だった。キャリバンにとっては人間の最下等とも言うべきステファノーも神様であった。
以上は大部分のシェイクスピア批評家の公式的な見解であり、それは正しい。しかしここで彼キャリバンのために一言付け加えておきたい。これはキャリバンのため、作者シェイクスピア自身のために非常に重要なことだ。プロスペローは「わしの骨折りは、すべて、すべて完全に無駄だった」と吐き出すように言っているが、果たしてその通りだろうか。三幕二場で酔っぱらったステファノー、トリンキュロー、キャリバンの三人はエアリエルの奏でる小太鼓と笛の音に耳をそばだてている。ステファノー、トリンキュローは恐がっている。キャリバン曰く、
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恐がることなんかないよ。この島は楽の音で一杯なんだ。いろんな音色や美しい調べで、楽しませてはくれるが害はない。時にはびいん、びいんと鳴る幾千もの絃楽器が俺の耳もとで鳴っているし、またある時には歌声がして、たまたまそれが長い眠りから覚めたばかりの時であったとしても、またまた俺を眠らせてくれる。するとその夢の中で雲が大きく口を開けて、沢山の宝物が今にも俺の頭の上に落っこちそうになっているように見えるんだ。それで夢から覚めて、もう一度夢が見たいと俺は泣いた。
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まことにユーモラスにして、見事な抒情詩人キャリバンの登場ではないか! また二幕二場で薪の束を担って登場するキャリバンの呪いの言葉に耳を傾けよ。
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太陽がふわふわ沼、湿地帯、海辺の沼などから吸い上げるあらゆる毒気はすべてプロスペローに降りかかれ! そしてあいつをじわじわと病気で攻めたてろ! あいつの精霊どもは俺の言うことを聞いている。それでも俺は呪わずにはいられない。だがそういう奴らだって、あいつが命令しなきゃ、この俺さまをつねったり、はりねずみのお化けを見せて俺をおどかしたり、泥んこに突き落としたり、松明に化けて真っ暗闇の中で俺を迷い子にしたりはしない。だが奴はことごとに、つまらんことで奴らをこの俺さまにけしかける。ある時は猿公《えてこう》になって、歯をむき出して、ぎゃあぎゃあほざき、あげくの果ては俺に噛みつきやがる。そのお次ははりねずみ、俺が裸足で歩く道にころころと転がりゃがって、俺が歩くと針をぴんぴんと立てやがる。またある時はまむしどもに捲きつかれ、二またに分かれた舌で、しゅうっ、しゅうっとおどかされ、俺は全く気が狂いそうだ。
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これはまた見事な叙事詩人キャリバンの登場ではないか! 『ヴェニスの商人』のシャイロック、『リア王』のエドマンドの格調に比較して何ら遜色がない!
さらにプロスペローのキャリバン教育が、プロスペローの言葉とは裏腹に、まぎれもなく大きな効果を発揮していることは、前の引用に続くステファノー、トリンキュロー、キャリバンの三人組のセリフのやりとりに明白である。キャリバンは上の引用のように、まず詩の形でこのシーンを始める。次いで散文の形でしゃべる。しかし後半の彼のセリフは詩形をなしていると見える。「見える」と言ったのは、このあたりからの彼のセリフは、現在のシェイクスピア学者でも、ある者は詩形、ある者は散文形と考えているように、まことにデリケートな線を行っているのだ。キャリバンが明確な詩形に戻っても、他の二人はもちろん散文である。ステファノーやトリンキュローの悪党的なリアリズムの中にあって、第一義的には悪党のキャリバンのセリフは、常識的には当然散文がふさわしい。それが詩形にもアレンジできるということは、彼のセリフの形、内容が同じ悪党ながらステファノー、トリンキュローより高次のディメンションにあるということだ。ということはつまり、キャリバンはどうしようもない悪党ながら、彼にはステファノー、トリンキュローなどの人間悪党の輩にない、単なる動物レヴェルにない何ものかへの憧れのようなものがあるように思える。このことは人間のレヴェルにありながら徹底的に悪党のリアリズム、散文のレヴェルに留まっているステファノー、トリンキュローらの下向き志向とは、まさに逆の上昇志向を示しているということである。ステフアノー、トリンキュロー共に悪党であり、共に道化的要素が強い。キャリバンも当然その系譜に連なるといえる。そのキャリバンをプロスペローは口をきわめて罵倒しているが、作者シェイクスピアはキャリバンに単なる動物、怪物、悪党を越える何か人間的な願望を与えることによって、この最下等のものにも一抹の愛情を示していると考えられる。シェイクスピアが最後に到達した人間像の一端を示しているように思われてならない。
〔作者シェイクスピア〕
『あらし』の主人公プロスペローは作者シェイクスピアではない。プロスペローはあくまでも『あらし』の中の一登場人物である。ただし『まちがいの喜劇』『タイタス・アンドロニカス』『ヘンリー六世』『リチャード三世』などのいわゆる習作時代の初期の作品から、『真夏の夜の夢』『ロメオとジュリエット』などのいわゆる抒情的作品時代、『リチャード二世』『ヘンリー四世』などの歴史劇の時代、『ヴェニスの商人』『お気に召すまま』『十二夜』などのいわゆる浪漫的喜劇時代、『以尺報尺』『トロイラスとクレシダ』などのいわゆる問題劇時代、それと重なる『ハムレット』『オセロー』『リア王』『マクベス』などのいわゆる四大悲劇時代、『アントニーとクレオパトラ』などのローマ劇時代を経て、最後に『冬の物語』『あらし』などのいわゆる最後期の作品時代に到るシェイクスピアの人間観、自然観、宇宙観の展開、その劇作態度の完熟の足跡をたどると、そこには作者シェイクスピア自身の明確な人間像が浮き彫りにされているのをわれわれは見いだすことができる。『あらし』の主人公プロスペローが作者シェイクスピア自身を映し出しているというのは、このような展開の展望においてのみ言えることであり、われわれが人間シェイクスピアを見いだすことができるのはこの観点からだけである。(訳者)