オセロー
ウィリアム・シェイクスピア作/大山俊一訳
目 次
第一幕
第二幕
第三幕
第四幕
第五幕
解説
あとがき
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登場人物
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オセロー……ヴェネチア陸軍に仕える将官。キプロス島派遣軍軍司令官、兼総督。ムーアの貴族出身
ブラバンショー…ヴェネチア元老院議員。デズデモーナの父
キャッシオー……オセロー靡下の部隊長
イァーゴー………オセローの副官、旗手
ロダリーゴー……ヴェネチアの紳士
ヴェネチア大公
他の元老院議員たち
モンターノー……前キプロス島総督(オセローの前任者)
グラシアーノー…ブラバンショーの弟
ロドヴィーコー…ブラバンショーの親類
道化……オセローに仕える
デズデモーナ…ブラバンショーの娘。オセローの妻
エミーリア……イァーゴーの妻
ビアンカ……高等売春婦。キャッシオーの情婦
水夫、使者、伝令、役人たち、紳士たち、楽士たち、および従者たち
場所
第一幕 ヴェネチア
第二幕〜 第五幕 キプロス
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第一幕
第一場 ヴェネチア 街路にて
〔イァーゴー、ロダリーゴー登場〕
【ロダリーゴー】 ちぇっ! もうわかったよ、まったく不親切きわまる、
ぼくの財布《さいふ》の紐《ひも》を完全に自分のものにしてきたお前がだ、イァーゴー、
このことを知っていながら、しかもこのぼくに話してくれなかったとは。
【イァーゴー】 くそっ! 君は俺《おれ》の言うことを聞こうとしないじゃないか。
こんなことになると、万が一にも俺が想像していたというんなら、
いくらでも憎め、この俺を。
【ロダリーゴー】 お前は言ったな、
このぼくに、
前々からお前はあの男が嫌いだったと。
【イァーゴー】 軽蔑しろ、この俺を、
俺《おれ》が|あいつ《ヽヽヽ》を嫌わんというんなら。
町のお偉方三人が、
まっすぐに彼奴《きやつ》のところへ出向いて、頭を下げて頼んでくれたのだ、
この俺様を彼奴《きやつ》の部下の隊長にしてくれと。
事実、誓って言うが、
俺には俺の値ごろがよくわかってる、隊長の値打ちは十分だ。
ところがあの野郎|奴《め》、傲慢にも手前《てめえ》の計画にうぬぼれ上《のぼ》せやがって、
軍隊用語ではち切れんばかりのハリボテ言葉で、
例の町方の連中を何のかのと婉曲話法《えんきょくわほう》よろしく言いぬけやがる。
それで要するにだ、
俺の調停役連中の訴訟《そしょう》は却下。彼奴奴《きやつめ》ぬかして曰《いわ》く、
「隊長人選の件はすべて最終的に決定いたしました」だと。
ところでその男、何者だと思う?
驚くなかれ、実戦の|じ《ヽ》の字も知らぬ机上《きじょう》作戦の大家、
マイケル・キャッシオーという名の男、出は商人《あきんど》の町フィレンツェ、
美人女房もらって、大方、一生苦労して暮らすへなちょこ野郎、
野戦ではたかが一個小隊の指揮も取りかねる、
戦闘部署に関しては、ずぶの|とうしろ《ヽヽヽヽ》、
何のことはないおぼこ娘、
唯一《ゆいいつ》の取り柄が学《がく》の問《もん》、
それくらいのことなら長|裾《すそ》引きずったトーガ姿の議員だって、
彼奴《きやつ》以上のことはある。実地をともなわぬ口先だけの空談義《からだんぎ》、
それがあいつの軍人精神てやつだ。それがどうだ! 部隊長様ってわけだ。
そしてこの俺《おれ》は、ロードス島、キプロス島、その他諸所の戦いで、
キリスト教徒といわず、異教徒といわず、彼奴《きやつ》の目の前で戦ったこの俺は、
この貸し方、借り方、簿記専門のそろばん野郎の後塵《こうじん》を拝して、
ただおとなしく、満足していなけりゃならんというわけだ。
彼奴《きやつ》はまんまとあの男の隊長におさまることになっている、
そしてこの俺様は、おお桑原《くわばら》! ムーア閣下の副官ときた!
【ロダリーゴー】 誓って言うが、あの男の首つり役になった方がずっとましだ。
【イァーゴー】 いや仕方がないさ。これも軍隊勤めの因果《いんが》というものだ。
立身出世はこれみなすべてコネ、しかして情実、
一番の次は必ず二番と跡継ぎが決まっていた
年功序列は昔の夢だ。さあ、とくと君の頭で判断してくれ給え、
いったいこれでもこの俺《おれ》があのムーアを大事にしなけりゃならんという、
そんな筋合いがどこにあるのか?
【ロダリーゴー】 ぼくなら真っ平ご免こうむりたいね。
【イァーゴー】 いや、そうムキになり給うな。
俺が彼奴《きやつ》に仕えているのは、実はこっちの用件のためなのだ。
人間誰しも親分になれるものではないし、親分は誰しもが
いい家来に恵まれるというわけでもない。いやでも目につくだろう、
義理がたく七重八重《ななえやえ》に膝を折り曲げてる有象無象《うぞうむぞう》ども、
鞠躬如《きつきゅうじよ》としておのれの奴隷の身分に甘んじ、得々として
一生を過ごす輩《やから》。主人の言いなりになるロバではないか。
それでもらうものはたったの飼い葉だけ。年をとりゃあ売りとばされる。
そんなバカ正直は真っ平ごめんだぞ! これとは違った連中もいる、
上辺《うわべ》や顔つきだけはもっともらしい忠義|面《づら》をしてはいるが、
内心忠義を尽くしている相手は他ならぬ手前《てめえ》自身、
主人に忠勤を励むと見せたはただの見せかけばかりで、
結構自分の腹を肥やしている。贅沢《ぜいたく》な衣裳が着られるようになると、
こんどは自分が主人公様々。こういう連中には何がしの根性がある。
俺《おれ》様はまさにこんな類《たぐ》いだと言いたいね。何故《なぜ》って君、
君がロダリーゴーであることは確かなことだが、同様に確かなことは、
この俺がムーアなら俺はイァーゴーでは絶対ないということだ。
彼奴《あいつ》に仕えてはいるが、俺が仕えてるのは実はこの俺様自身、
最高審判者たる神に誓っていい、愛だとか義務だとかは俺は真っ平だ、
ただ俺自身の個人的な思惑《おもわく》のために、そういうフリをしているだけのことだ。
何故ならば俺の表面的な行動が、俺の心の奥底の
真実の動機と意図《いと》とを外面的な形ではっきりと、
指し示すものというならば、やがては俺の心《しん》の臓《ぞう》を
この袖口にくっつけて、間抜けな小鳥どもに突っ突かせる、
そんな羽目になること必定《ひつじょう》だ。……俺は俺でなくなってしまう。
【ロダリーゴー】 このままうまくやれるというんなら、あの唇の厚い奴め、
何とつきの回った奴だろう!
【イァーゴー】 彼女《あれ》の父親を呼び起こせ、
彼奴《あいつ》をたたき起こせ。後《あと》を追いかけて、ムーアの奴の楽しみに毒を射せ!
町中に奴のことをふれ回れ。彼女《あれ》の親戚縁者をたきつけて、
肥沃な風土に安閑として住みついている彼奴《きやつ》に
蝿《はい》をわんわんたからしてやれ。たとえ彼奴《きやつ》の喜びは喜びとしても、
せめて何がし色彩を失《な》くすような小うるさい邪魔の類《たぐ》いを、
何か彼奴《きやつ》にしかけてやれ。
【ロダリーゴー】 ここがあの女《ひと》の家だ。一つ大声でどなってやろう。
【イァーゴー】 やれやれ! 魂消《たまげ》るような声でがなりたてろ!
ちょうど建てこんだ町中で、真夜中、不始末から起きた火事の火を、
始めて見つけたときのようにだ。
【ロダリーゴー】 おおい! ブラバンショー! ブラバンショーさん、おおい!
【イァーゴー】 起きた起きた! おおい、ブラバンショー! 泥棒、泥棒、泥棒だ!
ご用心、ご用心、お宅の戸締まりは? 娘さんは? 金袋は?
泥棒だ! 泥棒だ!
〔ブラバンショー、内舞台二階の窓に登場〕
【ブラバンショー】 かくも騒々しい呼び声で人を起こす理由は何だ?
何用でここへ参ったのだ?
【ロダリーゴー】 議員殿、ご家族は皆さんご在宅でしょうか?
【イァーゴー】 お宅のドアの鍵《かぎ》は?
【ブラバンショー】 おい、何故そのようなことを訊《き》く?
【イァーゴー】 えい、いまいましい! お宅に泥棒が入ったのですぞ! さあ議員のガウンを!
あなたの心臓は引き裂かれ、あなたは魂の半分を失くしてしまったのです。
今の今、たったの今、年よりの黒の雄羊一頭が
お宅の白の雌羊に乗っかっているのです。起きた、起きた!
鐘だ、鐘だ! 高いびきで眠りこけてる町の連中をたたき起こせ!
でなきゃあ、あの黒い悪魔が、あなたの孫を造っちまう。
さあ起きた、起きた!
【ブラバンショー】 おい、気でも狂ったか?
【ロダリーゴー】 元老院閣下、わたしの声がおわかりでしょうか?
【ブラバンショー】 わしにはわからん。何者だお前は?
【ロダリーゴー】 ロダリーゴーと申します。
【ブラバンショー】 ますますもって来て欲しくない奴!
お前にはわしの家のまわりをうろついてはならぬと堅く申しつけておいた。
明々白々な言葉で、このわしがはっきりと言うのをお前は聞いたはずだ、
わしの娘はお前にはやらぬと。しかもまたこの狂気の振舞《ふるまい》、
晩飯と気違い水を腹いっぱいたらふく詰めこんで、
わしの眠りをさまたげて、あわよくばこのわしに
一泡《ひとあわ》吹かせようとの魂胆か。
【ロダリーゴー】 いや、申し上げます、聞いてください……
【ブラバンショー】 だがこれだけはしかと念頭におけ。
わしの地位からすれば、わしの考え方一つで、このことに関して
お前らに思い知らせるのはいとも簡単だということを。
【ロダリーゴー】 なにとぞお腹立ちなきよう!
【ブラバンショー】 泥棒が入ったとか何とか言っていたが? ここはヴェネチアだ。
わしの家は田舎《いなか》の一軒家ではないぞ。
【ロダリーゴー】 ブラバンショー閣下、
わたくしがここに参りましたのは、まこと誠実にして純粋な気持からです。
【イァーゴー】 えい、いまいましい! 閣下ときたら勧めるのが悪魔だったら、神様にお祈りすることだってお断わりになる、そういうお方だ。われわれは閣下、あなたのためにやって来たのに、閣下はわれわれを悪党だとお思いになっている。娘さんをアフリカのバーバリ馬に乗っからせておこう、そういうおつもりだ。お孫さんにひんひん嘶《いなな》かせようっておつもりだ。|い《ヽ》|とこ《ヽヽ》は競走馬に、|はとこ《ヽヽヽ》はスペイン小馬になさろうっておつもりだ。
【ブラバンショー】 何というみだらな奴だ、お前という人間は。
【イァーゴー】 いや、わたしという人間は、あなた様の娘さんとあのムーアとが、いま背中二つの|けだもの《ヽヽヽヽ》を演じている真最中だということを、あなた様に申し上げに参ったもの。
【ブラバンショー】 お前は悪党だ。
【イァーゴー】 あなた様は元老院議員。
【ブラバンショー】 お前の責任だぞ、ロダリーゴー。わしはお前のことはよく知っとるぞ。
【ロダリーゴー】 いかなる責任もとります、閣下。だがお訊ねいたします、
もしこれが閣下自身の思《おぼ》し召《め》し、とくとご考慮の上でのことならば、
(どうもわたしにはそのように思えるのですが)、あの美しいお嬢さんを
この夜《よる》の夜中、ものうい眠りに誘いこむ真夜中に、
お供はと言えば後にも先にもただの一人、傭《やと》いゴンドラの
しがない船頭たった一人で、淫乱《いんらん》きわまりないムーアの
汚らわしい両の腕の中へ運ばれたのが……
閣下が、もしこのことをご存じで許可になられたのなら、
われわれは閣下に厚かましくも出すぎたことをいたしたことになります。
だがこのことをご存じでないというのなら、あえて作法の点から申し上げて、
われわれは閣下からまこと不当なお叱りを受けたことになります。
われわれがあらゆる礼儀・作法の道から逸脱して、
かくして閣下を愚弄《ぐろう》しているのだなどとは、ゆめお考えにならないでください。
お嬢さんは、もし閣下がお許しを与えていないというなら、
もう一度申し上げますが、大変な親不孝を働かれたことになります。
義理も、器量も、頭《あたま》も、財産も、すべてを投げすてて、
一よそ者と……国を捨てて定住する場所も無く、ここかしこと
流浪の旅を続ける一よそ者と心から結ばれたのです。ただちにお調べください、
もしお嬢さんがご自分のお部屋、またはお屋敷のどこかに居られたら、
閣下をこのように欺き奉ったことに対し、なにとぞ正当な国法のお裁きを
このわたくし奴《め》に下されんことを願い奉ります。
【ブラバンショー】 明かりをつけろ!
|ろうそく《ヽヽヽヽ》を持って来い! 家中の者をみんな呼び起こせ!
夢見が悪かった、こんなことが起こるのではないかという予感はあった。
事実だという気持が、もうわしを強くしめつけている。
明かりだというに! 明かりだ!
〔内舞台二階より退場〕
【イァーゴー】 じゃ、うまくやり給え、俺《おれ》は行かにゃならぬ。
ここに居れば当然のことながら、ムーアの反対側の証人に立たされるが、
それは俺の立場上どう見ても適当でないし、うまくもない。
俺はよく知っているのだ。こんどのことが差し障《さわ》りとなって、
いかに彼奴《きやつ》がいためつけられても、国は奴をクビにはできない。
奴なしでは国の運命が危殆《きたい》に瀕《ひん》するからだ。やつ奴《め》は今乗船するところだ、
目下激戦中のキプロス戦争に、是が非でも参戦するよう、
鳴りもの入りで要請されたのだ。この戦いを生きのびるための
この大仕事を托すべき人材は、奴を措《お》いては
他に絶対に見当たらぬからだ。その点をとくと考慮すれば、
実は俺《おれ》は彼奴《きやつ》を嫌うこと地獄の苦しみ以上なのだが、
この世のくらしのことを考慮して、
彼奴《きやつ》が好きだという愛情の旗じるしを掲げにゃならぬ。
もちろんお印《しるし》だけのことだ。確実に奴をつかまえて欲しいから言うが、
追手の連中はサジター館へ誘導してくれ給え。
俺は奴とそこに居ることにしよう。うまくやれよ。〔退場〕
〔ブラバンショー、服を着て、松明《たいまつ》を持った召し使いたちと共に登場〕
【ブラバンショー】 遺憾ながら間違いは事実だ。彼女《あれ》が居らぬ。
わしに残されたこれからの惨《みじ》めな余生は、
もはや苦痛以外の何ものでもない。ところでロダリーゴー、
お前は彼女《あれ》をどこで見かけたのだ?……おおかわいそうに、あの娘は!……
ムーアと一緒だと言ったな?……父親などにはなるものではない!……
それが彼女《あれ》だと、どうしてお前にわかった? おお彼女《あれ》がわしを騙《だま》すなど、
想像もおよばぬことだ! 彼女《あれ》は君に何と言った? もっと|ろうそく《ヽヽヽヽ》だ!
親戚はみな起こせ! 二人はもう結婚してしまったと君は思うか?
【ロダリーゴー】 まちがいなくそうだと思います。
【ブラバンショー】 おお神よ! どうやって家を脱け出たのだろう?
骨肉のあいだの不幸!
世の父親方よ、これからは娘さんたちの上辺《うわべ》だけで、
その心を信用なさいますな。何か魔法の薬があるのではないか?
その力で、うら若い乙女ごころが惑わされるのではないだろうか?
ロダリーゴー、君はこれまでにこんなものについて
読んだことはないか?
【ロダリーゴー】 ございますとも、読んだことがあります。
【ブラバンショー】 弟を呼べ。おお、君が娘をものにしていればよかった!
追手の半分はこっち、あとの半分はあっちだ。君にはわかっているか、
どこへ行けば娘とムーアをつかまえることができるか?
【ロダリーゴー】 しっかりした護衛を付けて、わたしに従《つ》いてこられれば、
大丈夫あの男を狩り出すことができると思います。
【ブラバンショー】 頼む案内してくれ。家ごとに呼び出しをかけよう。
たいていはわしの命令に従うはずだ。者ども、武器を取れ!
それから夜警のものも数人呼び起こせ。
さあ参ろうロダリーゴー君、君の骨折りには必ず礼をするからな。〔退場〕
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第二場 ヴェネチア サジター館前
〔オセロー、イァーゴーおよび松明《たいまつ》を持った従者たち登場〕
【イァーゴー】 なるほど実戦の場ではわたしは人を殺しもしましたが、
計画的な殺しなどということは絶対にやりません。
良心の呵責《かしゃく》ということを考えます。自分のためとはわかっていても、
わたしにはそれを実行する悪が欠けているのです。もう何度思ったことか、
あの男の、ここ助骨《あばらぼね》の下をぶすっと一突きしてやろうかと。
【オセロー】 放っておくがよい。
【イァーゴー】 いや、なりませぬ。彼奴《きやつ》はべらべらと、
まったく腹の立つ、下品きわまることをしゃべりまくったのです、
人もあろうに閣下に対してです。
わたしは神様ではありませんので、彼奴《きやつ》のことを堪《こら》えるのに
大骨《おおぼね》を折りました。ですが閣下、お願い申し上げます、
閣下のご結婚は大丈夫でしょうね? どうか肝に銘じておいてください、
あの大立て者はヴェネチア市民に大変に人望があり、
その発言力は非常に強大で、大公と同等以上の
権力を持っているということです。閣下を離婚させることもできますし、
法の適用をでき得る限り厳格に実施して、法が許す範囲内で、
最大限の拘束と苦悩とを閣下に課することだって、
あの人にはできるのです。
【オセロー】 やりたいだけの嫌がらせ、やらせるがよい。
わたしがこれまでヴェネチアの国に尽くした功績は、
あの人の苦情を黙らせるに十分であろう。これはまだ公にはしてないが、
自らを誇ることが名誉だとわかったときには、
わしは大いに宣伝あい勤めよう……わたしはこの体《からだ》、命を、
王族から受け継いでいるのだ。それに私自身の価値からしても、
得意で言うのでは決してないが、このたびわたしが手に入れた幸運ぐらいは、
受けて当然だと言い得るのだ。というのは、いいかイァーゴー、
あの素晴《すばら》しい女《ひと》、デズデモーナをわたしが愛しているのでなければ、
何を好きこのんでこれまでの、家に煩《わずら》わされないわしの自由な生活を、
束縛と拘束で|がんじがらめ《ヽヽヽヽヽヽ》などにさせるものか。
大海のすべての宝物をくれたってご免こうむる。
〔キャッシオー、松明《たいまつ》を持った夜警たちと共に登場〕
おい見よ、あれは何の明かりだ?
【イァーゴー】 親父《おやじ》が動いているのです、その仲間どもと。
閣下は中にお入りになっていた方が。
【オセロー】 いや見つかった方がよいのだ。
わたしの行動、わたしの地位、それに一点|疚《やま》しい所のないわたしの良心が、
いやでもこの身の証《あか》しを立ててくれる。例の人たちか?
【イァーゴー】 ヤヌスに誓って、違うと思います。
【オセロー】 大公のご家来衆か?
それに隊長もか?
神よ、夜の祝福を皆それぞれの上に垂れさせ給わんことを!
諸君、何用だ?
【キャッシオー】 将軍、大公が閣下によろしくとのことでございます。
それから閣下がただ今即刻、大公のもとに出頭あられるようにとの、
大公のご要請であります。
【オセロー】 何用だと君は思う?
【キャッシオー】 何事かキプロスからの用件、と愚考いたします。
火急を要する事柄でございます。わが艦隊は、
すべて今宵のことでございますが、次々とくびすを接して、
数多《あまた》の伝令をたて続けによこして来て居ります。
そして議員の大部分は非常呼集で召集され、
すでに大公の官邸にお集まりです。閣下にも緊急召集令が出ております。
官舎の方にはおられないことがわかりましたので、
元老院は三組もの捜索隊を町中に駆り出して、
閣下をお探ししていたところであります。
【オセロー】 君に見つかってよかった。
ちょっと一言《ひとこと》、家《いえ》に言いおいて行きたいと思う。
それから一緒に参ろう。〔退場〕
【キャッシオー】 旗手、閣下はここで何をされていたのだ?
【イァーゴー】 驚きました、あの方は今晩たいそうな陸船《おかぶね》に乗りかかったんです。
この略奪品《りゃくだつひん》、もし法で認められたとなりゃ、これでもう一財産です。
【キャッシオー】 言うことがわからぬが。
【イァーゴー】 結婚されたのです。
【キャッシオー】 誰と?
〔オセロー登場〕
【イァーゴー】 つまり、その……さあ大将、参りましょうか?
【オセロー】 同道いたそう。
【キャッシオー】 それ、閣下を探す別の捜索隊の一組が。
〔ブラバンショー、ロダリーゴー、松明《たいまつ》や武器を持った夜警たちと共に登場〕
【イァーゴー】 ブラバンショーです。将軍、ご用心を。
あの方は腹に一物あって参ったのです。
【オセロー】 おい、とまれ!
【ロダリーゴー】 閣下、例のムーアです。
【ブラバンショー】 奴《やつ》をとり押えよ、泥棒だ!〔双方とも剣を抜く〕
【イァーゴー】 おいロダリーゴー! さあ来い、俺《おれ》が相手になってやる。
【オセロー】 きらめく剣は鞘《さや》におさめよ、夜露に錆《さび》つくではないか。
議員閣下、閣下は武器をもってしてよりも、むしろ御年《おとし》をもって
ご命令あるべきお方と所存いたしますが。
【ブラバンショー】 おのれ汚らわしい盗人奴《ぬすっとめ》、わしの娘をどこへ隠した?
お前は悪魔だ、お前は娘を魔術にかけたに相違ない!
思慮分別のある人間なら誰にでも訊ねてみるつもりだが、
もしも娘が魔法の鎖《くさり》で縛られていたのでなければ、
かくもか弱く、美しく、しあわせいっぱいの乙女が、
かねがね結婚を大変に嫌がって、そのためわが同族の
金持ちの眉目秀麗《びもくしゅうれい》の若者をもあえて避けていたのが、
いったい何故《なにゆえ》に、世間中のものわらいとなって、
両親のあたたかい庇護《ひご》の下を去って、お前ごとき、感じがいいどころか
見てもぞっとするような、黒ずんだ男の胸にとびこんでゆくものか。
世界に判断させるがよい、まこと自明の理ではないか、
お前は娘に忌《い》まわしい悪魔の呪文をしかけたに相違ないのだ。
彼女《あれ》の心の動きを鈍《にぶ》らせるような薬か毒を盛って、
若くして、か弱い乙女心を惑わしたのだ。是非とも糾明《きゅうめい》させてやる。
たしかにそうだ、考えるだに明々白々の事実だ。
かくしてわしはここに汝《そち》を拘束、抑留することにする、
世をあざむくものとして、法に認められざる
御法度《ごはっと》の術をとりおこなうものとしてだ。
彼奴《きやつ》を取り押えよ。万一抵抗するようなことがあれば、
断乎思い知らしてやるがよい。
【オセロー】 その手を控えい!
わたしに味方しようとする者も、その他の者も。
戦うべきときかどうか、それは人に指図《さしず》されるまでもなく、
わたし自身でよくわかる。仰《おお》せの非難におこたえするために、わたしはどこへ出向けばよろしいのでしょうか?
【ブラバンショー】 牢獄だ、
定期の法廷開廷の日まで、正規の公判の手続き完了の日まで、
そこで待つがよい。
【オセロー】 その通りにしたらどういうことになりますか?
それで果たして大公が承服なさいますでしょうか?
現に緊急を要する、国家の重大問題が発生し、
わたしを呼び出すための大公の使者が、多数
わたしのところに参っているのですぞ。
【夜警】 その通りでございます、閣下。
大公は会議をお始めです。閣下ご自身にもお迎えが、
出されたに相違ありませぬ。
【ブラバンショー】 なに? 大公が会議だと?
この夜の夜中にか? いいからその者を引っ立てい!
わしの事件もただごとではない。大公ご自身にしても、
また同じく国政に参与している同僚議員の誰にしても、
今回のこの不都合な事件、まったく他人事《ひとごと》とは思えまい。
もし万が一にもこのような悪行が罷《まか》り通るというのなら、
国の政治は奴隷や異教徒どもの思うがままだ。〔退場〕
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第三場 ヴェネチア 会議室
〔大公、元老院議員たち(明かりをつけたテーブルに坐っている)、および従者たち登場〕
【大公】 これらの報告にはいずれも、信憑性《しんぴょうせい》を与えるべき
一貫性というものが欠けている。
【議員一】 さよう、いずれも矛盾《むじゅん》している。
わたしへの書信では、戦艦は百と七隻となっている。
【大公】 わたしのは百四十隻。
【議員二】 わたしのは二百隻です。
しかし、これら報告書は正確な数については完全には符合していませんが、
(こういう場合は、多く推察で報告するものですから、
多少の誤差はむしろ普通ですが)どれも一致して確認していることは、
トルコ艦隊が、キプロスへ向かって進航しているという事実です。
【大公】 さよう、公正に判断して、それは十分考え得ることだ。
報告書に食い違いがあるといって安閑《あんかん》としてはいられない、
主要な問題点に関しては事実として認めざるを得ず、
まこと気がかりである。
【水夫】 〔舞台内側で〕伝令! 伝令! 伝令!
【役人】 艦隊からの使いです。
〔水夫登場〕
【大公】 さあ、用件は?
【水夫】 完全装備成ったトルコ艦隊がロードス島へ向かっております、
この旨をここで、政府責任者にご報告申し上げるよう
アンジェロー閣下のお申しつけであります。
【大公】 この進路変更についてはどう考えられるか?
【議員一】 それはあり得ません、
常識では考えられないことです。これは単なる偽装《ぎそう》です、
われわれの注意を誤った方向に牽制《けんせい》するのが目的です。ここでわれわれは
キプロスがトルコ人に対して持っている重要性を考え、
かつ、次の事実をいま一度確認しておく必要があります。
つまり、キプロスはトルコ人にとりロードスより遙かに重要な
関心事であるばかりでなく、遙かに軽微な戦闘で攻略できるということです。
と申しますのは、キプロスには見るべき防禦《ぼうぎよ》施設はこれといって無く、ロードスを固めているような堅固な要塞《ようさい》設備は、
キプロスにはまったく欠けているのです。このことを考慮すれば、
トルコ人が自分らにとってまず第一に重要な事柄を後《あと》まわしにし、
簡単で得るところ多い企てを捨てて顧みず、
利益少なく危険多いことにあえて手を染め、手を焼くほど、
それほど無分別だとわれわれは考えてはなりません。
【大公】 その通りだ、ロードスへ向かっているのではないと確信する。
【役人】 また報告が参りました。
〔使者登場〕
【使者】 恐れながら申し上げます、大公閣下、トルコ艦隊は、
ロードス島目指して予定の進路を航行しておりましたが、
そこで予備艦隊と合流いたしてござりまする。
【議員一】 そうだろう、そうだと思っていた。何隻ぐらいと思う?
【使者】 三十隻ほど。そして今や取り舵《かじ》いっぱい、もと来たコースを
こんどはどう見ても明らかにキプロス目指して
進行しております。以上、殿下が心から信頼される、
殿下の忠勇なる臣下、モンターノー閣下より、
大公殿下に対し奉り衷心《ちゅうしん》より忠誠のまことを披瀝《ひれき》すると共に、
このご報告を申し上げ、このご承認かた願いあげ奉ります。
【大公】 キプロスへ向かっていることは確実だ。
ところでマーカス・ルチーコスは町にいなかったか?
【議員一】 いまフィレンツェです。
【大公】 では書面を送って欲しい、大至急便でだ。
〔ブラバンショー、オセロー、キャッシオー、イァーゴー、ロダリーゴー、役人たち登場〕
【議員一】 ブラバンショーと勇敢なるムーアが見えた。
【大公】 勇敢なるオセロー、われわれはただちに貴下を使わねばならない、
われらキリスト教徒共通の敵トルコの征伐《せいばつ》にだ。
(ブラバンショーに)あなたもいらっしゃっていたのですか、ようこそ。
実は今宵、あなたのご意見、ご助力を仰ごうと思っていたところでした。
【ブラバンショー】 わたくしもです、大公殿下、なにとぞお許し願いたい。
わたくしが起き出て参ったのはわたくしの職責のためではなく、
またご用と聞いてでもございません。また国の大事を思って
その一念からでもございません。実はわたくし、個人のことながら、
どっと溢《あふ》れ出る堰水《せきみず》のごとき大きな悲しみに打ちひしがれ、
そのため他の悲しみごとはすべてそれに呑《の》みこまれてしまう始末、
しかも今なお、どういたすこともできませぬ。
【大公】 それはいったい何事?
【ブラバンショー】 娘が! おおわたしの娘が!
【一同】 亡くなられた?
【ブラバンショー】 ええ、わたしにとっては。
娘は惑わされてわたしの手から盗まれたのです、
そして大道野師《だいどうやし》から仕入れたいかがわしい薬で、娘は汚されたのです。
低能でもなし、めくらでもなし、五感も満足だし、
人の本性をかくも途方もなく迷わせるものは、
魔法以外には考えられないことです。
【大公】 この忌まわしい手段によってあなたの娘さんの本性を惑わし、
あなたの手から娘さんをかどわかしたものは、
その者が何人《なんびと》であろうと、冷厳なる法の定めを
貴殿自身が納得《なっとく》のゆくよう、いささかも仮借《かしゃく》することなく適用し、
すべからく極刑に処されたい。さよう、余自身の息子《むすこ》が
この件の被告であろうとも、
【ブラバンショー】 ありがたき仕合わせに存じます、大公殿下。
ここにその男がおります、このムーアがそれです。
何か国事に関する事柄で殿下の特別のご命令で
当所に出頭している由に存じますが。
【一同】 それはまことに遺憾だ。
【大公】 (オセローに)これに対し、君の立場からの言い分は?
【ブラバンショー】 ありません、ただこれだけが事実です。
【オセロー】 最も威厳ある、最高権力者たる、わが尊敬する元老院議員諸卿、
わが、いとも高貴にして、嘖々《さくさく》たる名声に輝く大家諸賢、
わたくしがこの老人の娘を連れ出したということは
たしかに事実であります。結婚したことも事実であります。
わたくしが人の意に背《そむ》いて行なったことの全|貌《ぼう》はすべてこの範囲内で、
これをいささかも超えてはおりません。わたくしは言葉は粗野であり、
泰平の世のやさしい言葉というものに恵まれておりません。
と申しますのは、このわたくしの両の腕は、七歳の力を付けて以来、
この九か月ほどを除いては、その全部の能力を、
野営の天幕を張った戦場で発揮して参ったからであります。
それでこの広い世間については、戦争、戦闘の技《わざ》に関することを除いては、
わたくしに申し上げられることは皆無でございます。
それゆえ、わたくし自身のために弁じるに当たって、わたくしの立場を飾るなどは
思いもよりません。ただ皆様方のご寛容を得て、
わたくしはわたくしの愛の筋道のすべてを、いささかも装飾することなく、
卒直に述べさせていただくのみです。……
どのような薬で、どのような呪《まじな》いで……
どのような「悪魔への呪文《じゅもん》」で、またどのような魔術の力で、
(と申しますのは、今そのような嫌疑《けんぎ》をかけられておりますので)
あの方の娘の心をとらえたかを。
【ブラバンショー】 大胆なところなど決してない娘、
大変にもの静かで、穏やかな心の持主なので、
自分自身の心の動きにも顔を赤らめるような娘、そのような娘が……
人情も、年も、国も、外聞も、何もかも無視して……
彼女《あれ》が見るのも恐《こわ》がったものと恋におちるとは!
これぞ片輪の、足りぬものだらけの分別の見本といえる。
「完全なるものもかくして自然のすべての掟《おきて》に逆らい、
人の道に背《そむ》くものなり」と言うだけは言うが、当然の帰結として、
どうしてこうなったのかと、老獪《ろうかい》きわまる地獄のやり口を
見きわめねばならない羽目になる。したがってわたしは重ねて断言します、
何か、血液に強力に作用する混ぜものか、
あるいはそういう目的にそうような呪文《じゅもん》をかけた何かの薬で、
娘に働きかけたに相違ありません。
【大公】 そう断言しても証拠とはならない、
そのような世間によくある、そう見えるだけという、
論理の糸のすり切れた着物、見すぼらしい見せかけだけの口実だけでなく、
より確実にして明白な証拠がオセローに対し提出されるのでなければ。
【議員一】 オセロー、君に訊ねる、
君は陰険にして有無を言わせない邪悪な方法によって、
このうら若い乙女の心を手なずけ、それを汚したのであるか、
それとも自分から申し込んで、心と心の触れ合った恋人同志の、
美しい愛の語らいでそうなったのであるか?
【オセロー】 お願いいたします、
サジター館へのお迎えを出してデズデモーナを呼んでください、
そして父親の面前で、わたくしについて彼女に聞いてください。
もし万が一その答えでわたくしが有罪と判《わか》りましたら、
わたくしが皆様方よりお受けしている信頼と役職とを
ただちに剥《は》ぎ取られることはもちろん、わたくしの生命に対しましても、
なにとぞ、極刑の判決を賜わりますよう。
【大公】 デズデモーナを連れて参るよう。
【オセロー】 旗手、皆さんを案内せよ。場所はお前が一番よく知っている。
〔イァーゴーと二、三の従者退場〕
それでは彼女が参りますまで、ここでわたくしが天に向かい、真実をもって、
わたくしが身につけた悪徳の数々を告白いたすと同様に、
同じく真実を天に誓って、議員諸賢のお耳に達したく存じます、
いかにしてわたくしが、この麗《うるわ》しい女性の愛を得るに成功し、
そして彼女がわたくしを得るに成功したかを。
【大公】 話すがよい、オセロー。
【オセロー】 彼女の父親はわたくしを好いて、たびたびわたくしを呼んでくれました。
いつもわたくしの一生の物語を、これまでわたくしが経験した
数々の戦闘、包囲戦、突発事件などを年代の順に
話して欲しいと頼みました。
わたくしは子供の頃のことから、この話をして欲しいと頼まれた
そのときまでのことを余すことなく物語りました。
その中でわたくしは世にも悲惨な出来事や、
海上や陸上でのおどろくべき事件について物語りました。
死をおかして城壁を破り、間一髪死をまぬかれたことや、
傲慢不遜《ごうまんふそん》な敵の手に捕えられて、奴隷に売られ、
それから身代金を払って逃げ帰ったこと、
それから諸国遍歴中、どう身を処したか、
巨大な洞窟や人跡《じんせき》まれな不毛の砂漠、
険《けわ》しい石切場や岩山、天にもとどく山々、
そういうことを話す機会を得ました……話はそんな工合に進みました。
それから互いに他を食い合う食人種、
アンスロポファジァイ族のこと、それから肩の下に首が生えている
人間のことについて話しました。こういう話に熱心に、
いつもデズデモーナは耳を傾けておりました。
しかし家事のため、よく中座しなければなりませんでした。
するとそれをできるだけ手っ取り早く片づけて、
またやって来て、むさぼるような耳を傾けて、
わたくしの話に聴き入っておりました。それを見て取ったわたくしは
一度、ものになるようないい機会をとらえて、うまい工合に、
わたくしの一生の物語を是非してくれとわたくしに、
心から頼みこむように彼女を仕向けました。
それまでにも断片的にはすでに聴いていたのですが、
全部を通してではなかったのです。わたくしは承知しました。
そして、わたくしが若いときに経験、苦労した
ある悲惨な出来事について話をして、彼女にたびたび
思わず涙を流させるようにいたしました。物語が終わると、
彼女はわたくしの労苦に対して数限りなく溜息をもらしてくれました。
彼女は誓って申しました、ほんとうに不思議で、ただただ驚くばかり、
かわいそうで、かわいそうでたまらないと申しました。
いっそ聞かなければよかったと彼女は申しました。しかし彼女は、
自分もこのような男性に生まれればよかったと言いました。彼女は感謝して、
もしわたくしの友人で彼女を好きな人がいたら、
その人にわたくしのこの物語をするよう教えてあげなさい、
きっとうまくゆくと言いました。この機会をわたくしは逃しませんでした。
彼女はわたくしが経験した数々の危険の故にわたくしを愛してくれました、
そしてわたくしは、わたくしに同情してくれたそういう彼女を愛しました。
これがわたくしが使った魔法のすべてであります。
彼女が見えました。彼女の証言をお聞きください。
〔デズデモーナ、イァーゴー、従者たち登場〕
【大公】 この話なら、わしの娘も心を奪われるだろう。
ブラバンショー君、
こう切りさいなまれた事態は、丸く納めるよりほかにない。
折れた剣でも徒手よりはまし、
ということだ。
【ブラバンショー】 お願いでございます、娘のいうことをお聞きください。
もしも娘の方からも半ばは言い寄ったと申すなら、
わたしは不当にあの男に非難を降りかけたことになるが、もしそうなら、
願わくば破滅がこの頭上に降りかかりますよう! さあこちらへ、どうぞ。
ここにおる人々の中で、一番に服従の真心を捧げねばならないのは、
どこの、どの人にか言ってみなさい。
【デズデモーナ】 尊敬するお父上様、
今やわたくしのお務めの道は、二つに分かれたというほかはありません。
わたくしが生まれて、そしてこれまでにしていただいたのはお父上のお蔭です。
そして生まれてこれまでにしていただいたお蔭で、お父上をいかに敬うべきか、
お父上こそがわたくしのお務めの主であることがわかりました、
これまではお父上の娘でしたから。が、ここにわたくしの夫がおります。
かって母上は、母上の父よりもお父上を大切になさって、
お父上第一のお務めをなさいましたが、それとまったく同様にわたくしは、
わたくしの第一のお務めをわたくしの夫たるムーアにつくすと、
今ははっきりと申し上げられます。
【ブラバンショー】 では、さらばだ! 以上で終わります。
大公殿下、なにとぞ国政に関する議事を進行してくださいますよう。
こんなことなら、実の子より養子の方がましだった。
ムーア、ちょっと来給え。
わしはここで、是が非でもこれをお前にやってしまいたい。
それは、すでにお前のものになっているのでなければ是が非でも、
お前のものにはさせないのだが、まことお蔭様です、
ほかに子供が無かったことを心の底から喜んでいる。
お前の駆け落ちで、子供たちに足枷《あしかせ》をはめておくような
暴君にもなりかねないからな。殿下、以上でわたくしは終わります。
【大公】 ここでいつものあなたのまねをして、格言めいたことを言わしてもらおう。
あるいは、この恋人たちがあなたの気に入るようになる
踏み台、足がかりにならぬともかぎらぬ。
希望ありて悲しみはあり。最悪の事態おこり、
万策つきて悲しみは終わる。
過ぎ去りし悲運を泣き悲しむは、
新しき悲運を呼び集める至近の道。
とどめる術《すべ》なきものを「運命」が取り去るとき、
忍耐はよくその災害を嘲笑《あざわら》う。
盗まれて微笑《ほほえ》む者は、盗賊の上前をはねるもの。
甲斐《かい》なき涙を流す者は、われとわが身を盗むなり。
【ブラバンショー】 されば受けて、キプロスのトルコ人よ、われを欺け、
微笑ある限り、われらそれを失わず。
格言をよく堪《こら》得る者とは、他に堪える憂いなく、
その御利益《ごりやく》のみを心安らかに承《うけたまわ》り得る者なり。
されど悲しみへの支払いに忍耐へ借り入れを申しこむ者は、
格言と悲しみと、その両者を堪えざるべからず。
格言は悲しみを甘くするも、苦《にが》くするも、
いずれの側にも強くして、要するに曖昧《あいまい》にして模糊《もこ》。
されど所詮《しよせん》、言葉は言葉。心傷める者が
耳から癒《いや》されたという例を未だ耳にせず。
恐れながら大公殿下、なにとぞ国政の議事進行をお願いいたします。
【大公】 トルコ人は最強の艦隊を編成してキプロスに向かっている。オセロー、該地区の軍備は君が一番よく知っている。現地には、その熟達した手腕がすでに万人に認められている総督が派遣されてはいるが、重大事項決定の主権者ともいうべき世論は、一致して君の方がより安全だという声を大きくしている。したがって、気の毒だが、君のピカピカの新しい仕合わせも、この激烈にして、喧噪《けんそう》きわまる作戦行動で泥まみれにしてもらわねばならぬ。
【オセロー】 元老院議員諸卿、習慣とは恐ろしい力を持つもの、
戦場における石と鋼《はがね》の堅い寝床をも、柔らかい綿毛の
選《え》り抜きの|しとね《ヽヽヽ》としてしまいました。わたくしという人間には、
困苦欠乏というものに対する生まれつきの、
すばやい適応性があるのだとあえて自認しています。
それでトルコ人とのこの戦い、たしかにお引き受けいたします。
それにつきましては大公殿下、恐れながらお願いしたき儀《ぎ》がございます。
ほかでもございません、妻に対するしかるべきご配慮、切にお願いしたいと存じます。
妻の家柄に見合う生活上の諸便宜、召し使いを含めて、
住居および経済的な待遇に関するしかるべきお取り決めを、
是非お願いいたしたく存じます。
【大公】 もし希望なら、
父親の家においてもらってはどうだ?
【ブラバンショー】 わたくしは絶対にご免こうむります。
【オセロー】 わたくしもです。
【デズデモーナ】 わたくしもでございます。父の所には
できれば住みたくはありません。父の目のふれる所におりまして、
父に腹立たしい思いをさせたくはございません。大公殿下、
わたくしがこれから打ち明けて申し上げることに、なにとぞお耳をお貸しください。
そして、言葉は拙《つたの》うございますが、殿下の暖かいお許しのお言葉を
是非いただきとう存じます。
【大公】 何だか言ってみなさい、デズデモーナ。
【デズデモーナ】 わたくしがこのムーアを愛し、苦労を共にしたいと願ったことは、
わたくしの卒直この上ない大胆な行動、運命にお見舞いした大旋風が、
世間中に響きわたらせたことでしょう。わたくしの心は、
ほかならぬ主人の本質的な美点に捧げられたのでございます。
わたくしはオセローの顔を、その心の中に見たのでございます。
そしてその栄誉と勇敢な行動に対してわたくしは、
わたくしの魂と運命とを、現在と未来とを捧げたのです。
それで議員の皆様方、もしこのわたくしが後に残されて、
何の役にも立たぬ怠《なま》け者の羽虫、そしてあの人が戦争に行きますなら、
わたくし共の聖なる愛の営みは、すべて奪われてしまうのです。
そしてわたくしは、大切な夫が留守のため、そのあいだ中、
重い重い気持で暮らすのです。どうか夫と共に行かせてくださいますよう。
【オセロー】 どうか妻のいうことをお聞き届けくださいますよう。
天もご照覧あれ! わたくしがこのようなお願いをいたしますのは、
わたくしの欲望の味覚を喜ばせようなどというためでは決してありません。
また情欲に屈してでもありません……若さの欲望などというものは、
わたくしにあってはもう枯渇《こかつ》……わたくしだけの満足のためでもありません。
ただただ妻の心に惜しみなく寛大でありたいと願うためであります。
しかして天よなにとぞ禁じ給え。万が一にも皆様方が、わたくしが妻同道のため、
皆様方の重要にして大切なお仕事を疎《おろそ》かにするなどと
お考えになることを! 否、羽を付けた恋の神キューピッドの
軽い翼《つばさ》の浮気心が、淫欲三昧《いんよくざんまい》のあげくの果てのものぐさで、
わたくしの視覚その他の諸器官を盲目、無力にし、
その結果、夫婦の戯れがわたくしの勤務を損《そこな》い、汚すようなことがあれば、
わたくしの兜《かぶと》は台所の鍋《なべ》にして、主婦どもに使わせてもらって結構です!
そしてありとあらゆる、不名誉きわまる中傷、漫罵《まんば》を、
わたくしの名声に向かって大挙突進させてくださるように!
【大公】 奥さんは残すとも、行くとも、君自身が好きなように
決定し給え。ところで事態は緊急を要するのだ、
大至急これに対処しなければならない。君は夜《よる》に出発だ。
【デズデモーナ】 夜《よる》にですか?
【大公】 今夜にだ。
【オセロー】 承知つかまつりました。
【大公】 明朝九時に、またここで落ち合うことにしよう。
オセロー、誰か将校を一人残しておいてくれまいか、
それに任命書を君のところへ届けさせたいのだ。
その他連絡しておきたい君に必要な重要事項、
および関連事項もある。
【オセロー】 殿下、旗手を残したいと存じます。
男一匹、彼は誠実で信頼するに足ります。
わたくしも彼に任せました、妻のエスコートを。
そのほかわたくしの出発後、殿下が必要と思《おぼ》し召されることは
すべて彼に托されまするよう。
【大公】 そうするがよい。
では諸君、おやすみなさい。(ブラバンショーに)ブラバンショー殿、
「美徳は心地《ここち》よき美しさを欠くことなし」というが、
あなたの婿殿《むこどの》は色は黒いが、まことにきれいだ。
【議員一】 ごきげんよう、ムーア殿、デズデモーナをよろしく頼むぞ。
【ブラバンショー】 ムーアよ、彼女《あれ》から目を離すな、もしお前に目があるなら。
彼女《あれ》は父親を騙《だま》したのだ、お前をも騙すだろう。
〔大公、元老院議員たち、役人たち、その他退場〕
【オセロー】 彼女《あれ》が誠実であることには命をかける! 実直なイァーゴー、
妻のデズデモーナはお前に頼んでゆかねばならぬ。
お前の妻君によく面倒を見させるよう、くれぐれも頼んだぞ。
そして都合の良いときを見計らって、後《あと》から連れて来てもらいたい。
おいで、デズデモーナ。お前と過ごせる時間はもう一時間しかないのだ、
二人だけのこと、世間の雑用、それから軍の指令など、
いろいろとすることがある。時間はあくまでも守らねばならぬ。
〔ムーアとデズデモーナ退場〕
【ロダリーゴー】 イァーゴー。
【イァーゴー】 何だね、お偉いの?
【ロダリーゴー】 どうすればいいとお前は思う?
【イァーゴー】 そりゃあ、寝床へ入って寝るんだね。
【ロダリーゴー】 ぼくは今すぐにでも身投げがしたいよ。
【イァーゴー】 おやんなさい、だがもう絶対構っちゃやらんぞ。このバカ殿様!
【ロダリーゴー】 生きてることが苦痛のときは、生きてるなんて愚劣だ。だから死に神がわれわれのお医者であるときは、死んでもいいという処方|箋《せん》をもらうんだ。
【イァーゴー】 おお何たる恥|曝《さら》し! 俺《おれ》は世間というものをこれまで、四・七の二十と八年も見てきた。そして物心ついて損得の区別がつくようになって以来、自分自身というものを大事にする奴とは、とんとお目にかかったことがない。たかが夜鷹《よたか》の一羽や二羽、それに惚《ほ》れたから身投げするのどうの、俺様ならいっそ人間の商売やめて狒々《ひひ》にでもなった方がましだ。
【ロダリーゴー】 ぼくはどうしたらいいんだ? こんなに惚れこむなんてまったくの恥だということは、このぼくも認める。だがそれを直す強い性格というものが無いんだな、このぼくには。
【イァーゴー】 強い性格だと? くだらん! われわれがこうだとか、ああだとかいうのは、みんなわれわれ自身にあることなんだ。われわれの体《からだ》はわれわれの庭だ、われわれの意志はその庭師だ。だから|いらくさ《ヽヽヽヽ》を植えようが|ちさ《ヽヽ》を蒔《ま》こうが、|やなぎはっか《ヽヽヽヽヽヽ》を残して|たちじゃこう《ヽヽヽヽヽヽ》|そう《ヽヽ》を取り除こうが、草花を一種類だけ植えようが、いろいろと植えようが、怠けて駄目にしようが精を出して肥やしをやろうが、つまりだ、これを統制する力、能力はわれわれの意志にあるのだ。もしわれわれの生活の天秤《てんびん》の一方に、欲情と釣り合う理性の皿がなけりゃあ、われわれの生まれつきのお下劣な血気が、まこと途方もない結果にわれわれを連れてゆくことになる。ところがわれわれには理性というものがあって、たけり立つ情念、うずく情欲、手綱《たづな》無しの色情を冷《さ》ましてくれるのだ。君の言う恋だの愛だのは、いいとこ、その芽生えか接ぎ穂というところだ。
【ロダリーゴー】 そんなはずはない。
【イァーゴー】 単なる血気のはやり、意志がそれを認めたにすぎん。さあ、男らしくし給え! 身投げするって? どうしても投げるんなら、猫か盲目《めくら》の仔犬にするんだ! 俺《おれ》は君の友だちだとはっきり宣言した。白状するが、君の面倒見がいいから、切るに切れない大綱で俺は君に結びつけられているんだ。今ほど俺が君のお役に立てるときはない。君の財布《さいふ》に金を入れとくんだ。この戦争に付いてゆくんだ。恐《こわ》い|つけ《ヽヽ》鬚《ひげ》でその人相を変えてな。いいか、君の財布に金を入れとくんだぞ。デズデモーナのムーアへの愛情が長く続くはずはないじゃないか。君の財布に金を入れとくんだ。ムーアの愛情も同じこった。思えば無茶な始まりだった。やがて同じ結末が必ずやってくる。君の財布に金を入れとくんだ。こいつらムーア人は気が変わり易い。君の財布をいっぱいにしとくんだ。今は|いなご《ヽヽヽ》|まめ《ヽヽ》のようにうまいと言ったって、すぐにコロシントみたいに苦《にが》いと言い出す奴さ。女の方はもっと若いのに乗り換えるに決まってる。彼奴《きやつ》の体《からだ》に飽きがくると、こりゃ選択を誤ったと気がつくだろう。乗り換えなくちゃいかんのだ、乗り換えなくちゃ。だから君の財布《さいふ》に金を入れとくんだ。是が非でも地獄へ落ちなきゃ気がすまんというなら、身投げなどしないで、もっとマシな方法でやってくれ。できるだけ金を工面《くめん》するんだ。神聖な結婚の誓いと言ったって、外道《げどう》の野蛮人と|ずるさ《ヽヽヽ》この上ないヴェネチア女の口約束だ、地獄の悪魔全部に助けられりゃ、この頭《あたま》で破れぬほど堅いわけがない。大丈夫あの女を楽しませてやる。だから金を工面するんだ。身投げする奴なんか糞《くそ》くらえ! まったくの筋違いというもんだ。身投げして女を手に入れないでいるくらいなら、大いに楽しんで縛り首になった方がずっとマシだ。
【ロダリーゴー】 大船に乗ったつもりでいれば、君はぼくの力になってくれるんだね?
【イァーゴー】 俺《おれ》のことは心配ない。さあ金の工面だ。これまで君には何度も言ったが、また何度でも繰り返して言うが、俺はあのムーアが憎いんだ。恨みはこの心《しん》の臓《ぞう》に達している。君だって同じことだ。ひとつ共同してこのお互いの恨みを晴らそうじゃないか。もし君が彼奴《きやつ》の女房を盗めれば、君自身もお楽しみだし、俺は俺で大いに愉快だ。「時」のお腹《なか》にはやがて生まれ出てくるいろんなことがあるのだ。回れ右! 前へ進め! 金の用意! このことについてはまた明日話そう。ではまた。
【ロダリーゴー】 明日|朝《あさ》どこで会おう?
【イァーゴー】 俺の宿で。
【ロダリーゴー】 じゃ早くゆくよ。
【イァーゴー】 わかった、わかった、さよなら。……いいかね、ロダリーゴー?
【ロダリーゴー】 何だね?
【イァーゴー】 もう身投げはやめだよ、いいかね?
【ロダリーゴー】 気は変わったよ。
【イァーゴー】 わかった、わかった、さよなら。君の財布《さいふ》にたっぷり金を入れとくんだ。
【ロダリーゴー】 手持ちの土地はみんな売るよ。〔退場〕
【イァーゴー】 こうして俺《おれ》は、いつも、俺のカモを俺のサイフにしてやるんだ。
こんな間抜け相手に暇をつぶして、しかもいっこうに
おもしろくも、儲《もう》かりもしないというんなら、これまで溜《た》めた
俺様の知識に傷がつくというもんだ。俺はあのムーアが憎いんだ。
それに世間では彼奴《きやつ》は、俺のベッドのシーツの中で、
この俺のやるべき仕事をやらかしたとの評判だ。ほんとかどうか知らないが、
だがこういう問題では俺は、単に疑惑があるというだけで、
あたかも誠実な事実に基づくごとく行動してやるんだ。彼奴《きやつ》は俺を買っている。
ますますもって彼奴《きやつ》に対する仕事はやり易いというものだ。
キャッシオーはハンサムな男だ。……ええと、そこでだ……
彼奴《きやつ》の地位をもらって、その上|俺《おれ》様の意志を満足させて
二重の悪を働くには……どうすりゃいい。どうすりゃいい? ええと……
しばらくしたらオセローの耳を騙《だま》してやろう、
あの男があなたの奥さんとあまり仲が良すぎるとな。
あの男は男前がいいし、人好きのする質《たち》だから
すぐに怪《あや》しまれる、女をよろめかすようにできている。
あのムーアは卒直で、寛大な性質の男だ。
だから人を見れば正直だと思いこむ、単に外見がそう見えるだけでも。
そしていとも簡単に鼻っ面《つら》で引き回されてしまう、
まるでロバだ。
わかったぞ! いい考えがある! あとは地獄と夜が、
この生まれてくる怪物をこの世の明るみに出してくれるだけだ。〔退場〕
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第二幕
第一場 キプロスの港 広場
〔モンターノー、二人の紳士登場〕
【モンターノー】 岬《みさき》から見渡して何か海上にみとめられますか?
【紳士一】 なにひとつみとめられません。海は逆巻《さかま》く怒濤《どとう》です。
天と大海原とのあいだには帆影《ほかげ》ひとつ
見当たりません。
【モンターノー】 陸《おか》では風がひどくやかましかったようだ。
城壁がこんな強い風で揺さぶられたことはかつてなかったことだ。
もしこの風が海上でも同じように荒れ狂っていたとすると、
どんな堅牢《けんろう》な樫《かし》の木造りの大船でも、山なす怒濤が当たって砕ければ
船の接ぎ目が持ちこたえまい。この嵐で何か起こったのではあるまいか?
【紳士二】 トルコ艦隊が霧散霧消。
と申すは、ののしりわめく海岸にしばし佇《たたず》んでごらんなさい、
風に叱りとばされた大狼は、雲に石をたたきつけているようです。
風に煽《あお》られた大狼のうねりは、高い恐ろしい|たてがみ《ヽヽヽヽ》を立てて、
燃え続ける小熊座に水しぶきをあげ、常に定位置まもる
北極星の、あの衛星たちの火をも打ち消すようです。
このように荒れ狂う大海の大混乱をわたくしは
見たことがありません。
【モンターノー】 もしトルコ艦隊が、
待避して港湾に入っていなければ、全部沈没だ。
艦隊がこの|あらし《ヽヽヽ》を乗り切ることは不可能だ。
〔第三の紳士登場〕
【紳士三】 諸君ニュースだ、戦争は終わりました。
あの激しい|あらし《ヽヽヽ》はトルコ艦隊に壊滅の打撃を与え、
ために彼らの企図《きと》は完全に挫折《ざせつ》です。ヴェネチアからの味方の船が、
大部分のトルコ艦隊の見るも無惨な難破と、
その損害の状態を見届けて参りました。
【モンターノー】 なに? それは事実か?
【紳士三】 その船はすでに入港しています。
ヴェロウナで建造された船で、マイケル・キャッシオーが
上陸いたしました。勇武の誉れ高いムーア、オセロー靡下《きか》で、
隊長を勤めている人です。ムーア自身は海上ですが、
キプロスの全権を委任され、当地へ向かっております。
【モンターノー】 それはよろこばしいことだ。立派な総督だ。
【紳士三】 ところがそのキャッシオーは、トルコ艦隊の壊滅については
大変によろこんでいますが、他方ひどく真面目《まじめ》な面持《おもも》ちで、
ムーアが健在なることを心から祈っています。というのは二人は、
この嫌な、烈しい|あらし《ヽヽヽ》で別れ別れになったからです。
【モンターノー】 ご健在を心から祈る。
わたしも彼の部下だったことがある。あの方は
完全な軍人のような|天晴れ《あっぱ》れな命令の仕振りだ。海岸へ行こう、さあ!
勇敢なるオセローにわれらの視線を投げかけるはもちろん、
入ってくる船をよく見よう、海の青さと空の青さが
まったく見分けがつかなくなるまで、
瞳《ひとみ》をこらして見守ろう。
【紳士三】 さあ、そういたしましょう。
刻一刻、別の船がどんどん入港してきて
いるでしょうから。
〔キャッシオー登場〕
【キャッシオー】 感謝に堪えません、この勇武の島の勇者たる閣下が、
かくもムーアを称賛してくださるとは! おお天よ、
願わくば風浪の猛威から彼を守り給え!
危険きわまる海上でわたくしは彼を見失ってしまったのです。
【モンターノー】 乗船した船は立派ですか?
【キャッシオー】 堅牢そのものの材質造りで、操舵手は
大変な熟練者にして嘖々《さくさく》たる名声の所有者です。
したがってわたくしは不当に楽観はしていませんが、
ことさら悲観もしていません。〔舞台内で「船だ! 船だ! 船だ!」という叫び声〕
〔使者登場〕
【キャッシオー】 あの騒ぎは?
【使者】 町は藻抜《もぬ》けの殻《から》です。人々は海岸の崖ふちに総立ち、
幾重にも列を作って、口々に「船だ!」と叫んでいます。
【キャッシオー】 わたくしの希望的観測だと総督の船だが。〔大砲の音〕
【紳士二】 乗組員が礼砲を撃《う》っています。
【キャッシオー】 とにかく味方であることはたしか。
お願いします、出かけて行って、
到着したのが誰であるか真相を知らせてくださるよう。
【紳士二】 承知いたしました。〔退場〕
【モンターノー】 ところで隊長殿、貴殿の将軍は奥さんがおありですか?
【キャッシオー】 あれほど運のいい人はほかに居りません。あの方は、いかなる描写も、
また、いかなる途方もない誇張も及びがたい美人を手に入れられました。
称賛の|あや《ヽヽ》を尽くした奇想天外の美辞麗句もはるか及ばず、
「自然」が彼女に着せた純粋美の極致の|ころも《ヽヽヽ》には、
いかなる名匠も筆を擱《お》きます。
〔紳士二登場〕
どうでした? 入港したのは何方《どなた》ですか?
【紳士二】 イァーゴーとかいう方です、将軍の旗手をしている。
【キャッシオー】 実に運よく、順調に到着したものです。
|あらし《ヽヽヽ》自体も、高浪も、また|わめき《ヽヽヽ》立てる強風も、
何の罪もない船を水中で待ち伏せする裏切者ども……
水路に根をはる大岩、集まり積もった砂の瀬も、
いずれもあたかも美の感覚を持つごとく、しばし
その死の本性を忘れて、お通し申し上げたのだ、
天女デズデモーナを。
【モンターノー】 どういうお方ですか、それは?
【キャッシオー】 いま申し上げた、われらが総指揮官の指揮官です。
大胆なイァーゴーのエスコートに任されていたのですが、
運よく、われわれが想像していたより七日間も早く到着されました。
偉大なる神ユピテルよ、願わくばオセローを守り給え、
いと強き息吹の力もてその帆に順風を送り給え、
かくしてオセローがその立派な船でこの港を祝福し、
デズデモーナの両腕の中に愛のせわしい息遣《いきづか》いをおこし、
意気|阻喪《そそう》したわれらの士気をふたたび燃え立たしめ、
全キプロスによろこびをもたらすことができますように!
〔デズデモーナ、イァーゴー、エミーリアおよびロダリーゴー、従者たちと登場〕
ご覧なさい!
船のお宝が海岸に降りられました!
キプロスの方々、夫人にご挨拶《あいさつ》をなさってください。
奥様、ようこそお着きになられました! 天のお恵みが
奥様の前も、後ろも、そして右左《みぎひだり》両の側も、
御身《おんみ》のまわりをぐるり取り囲みますよう!
【デズデモーナ】 ありがとう、勇敢なるキャッシオー。
主人について何かニュースがございますでしょうか?
【キャッシオー】 まだご到着になりませんし、何も消息を得ていませんが、
ご無事で、もう間もなく当地に着かれることと存じます。
【デズデモーナ】 でしょうが、おお心配です! どうして別れ別れに!
【キャッシオー】 海と空とのあいだの大いなる闘争が、
われわれを離れ離《ばな》れにしてしまったのです。
〔舞台内側で「船だ! 船だ!」大砲の音〕
おや、お聴きなさい、船です!
【紳士二】 乗組員が砦《とりで》に挨拶を送っているのです。
この船も味方です。
【キャッシオー】 ニュースを探ってください。〔紳士二退場〕
旗手君、ようこそ。(エミーリアに)ようこそ奥さん。
ねえイァーゴー君、僕の流儀で念入りにやったからって、
心を痛めないでくれ給え。こういう工合に大胆に
礼儀をつくすのが、僕の習ったエチケットなんだから。〔エミーリアにキスする〕
【イァーゴー】 隊長殿、彼女《これ》がそんなに唇をさし上げると、
やかましい舌の方はこっちがたんまり頂戴してるんですが、
そのうちげんなりしますぞ。
【デズデモーナ】 可哀相《かわいそう》に、この人はものも言えません!
【イァーゴー】 その実、大変おしゃべり。
それはわたしが眠たくなったときいつもわかるんです。
なるほど、わたしも認めますよ、奥様の前では、
彼女《これ》はちょっとばかり例の舌を心の中にしまいこんでます。
そして心の中ではますますひどい山の神。
【エミーリア】 そんなこと言われる覚えなんかない。
【イァーゴー】 よし、覚悟しろ! お前さんは家の外で絵に描《か》いたよう、
居間にいれば鐘の音、台所へ行けば山猫、
悪事をなすときには聖者、腹を立てると悪魔、
家事には怠け者で、ベッドの中では働き者。
【デズデモーナ】 まあ嫌な人、お口の悪い人!
【イァーゴー】 いや、事実です、そうでないならわたしは嘘つき、トルコ人だ。
お前さんは起きれば怠ける、寝れば働くというわけだ。
【エミーリア】 あんたにはわたしの賛歌は書かせません。
【イァーゴー】 そうだ、やめてくれ。
【デズデモーナ】 わたしを誉めなきゃならなくなったら、何て書いてくれるの?
【イァーゴー】 おお、奥様、それだけはご勘弁を。
わたくしという人間は、悪口を言う以外に|取り《ヽヽ》|柄のない人間《ヽヽヽヽヽヽ》ですから。
【デズデモーナ】 さあ、やってごらんなさい。港へは誰か行っているんでしょうね?
【イァーゴー】 はい、行っております。
【デズデモーナ】 (傍白)わたしは楽しくはないけれど、そう見せかけて、
ほんとうのわたしの気持ちをかくしておくのです。
さあお前、どんなふうに誉めてくれるの、このわたしを?
【イァーゴー】 いまかかっていうところです。が、わたしの想像力は
鳥モチが荒布にくっついたようで、わたしの頭から離れてくれません……
ムリすると脳味噌も何もかも引っ張り出しちまう。さあ、わたしのミューズが
産気づいた。生まれました、この通り、
色が白くて頭がよければ……色白《いろじろ》で利口なら、
色白は役に立ち、知恵がそれをさらに役立てる。
【デズデモーナ】 上手に誉めたこと! もし色黒で頭がよければ?
【イァーゴー】 たとえ色は黒くとも、もしも彼女が利口なら、
その色黒によく似合う、色白の男を手に入れる。
【デズデモーナ】 だんだんひどく、悪くなる!
【エミーリア】 色が白くてバカならば?
【イァーゴー】 色白の美人がバカだったことはない、
転んでもただは起きない、跡継ぎチャッカリ拾ってる。
【デズデモーナ】 こんなのは居酒屋でおバカさんを笑わすための、いつものバカバカしいヘリクツ談義だわ。不器量でバカな女《ひと》には、どんなひどい賛歌ができて?
【イァーゴー】 どんなに不器量で、おまけにバカであろうとも、
汚い遊びとなりゃ同じこと、色白、利口の美人と少しも変わることはない。
【デズデモーナ】 まあ、ひどい無知! 一番悪いのを一番誉めるなんて。けど、ほんとうに素晴らしい女《ひと》にはお前、どんな賛歌をあげるの?たとえばその人の素晴らしさに圧倒されて、どんな悪意を持った人でもそれを認めざるを得ないような女《ひと》には?
【イァーゴー】 常に変わらず美しく、しかもそれをいささかも誇ることもなく、
自由に表現できる弁舌を持ち、しかもいささかも喧噪《けんそう》にわたることもなく、
金に不自由することなく、しかもいささかも華美ならず、
「さあ、しましょう」と言いながら、しかもやりたいことを差し控える、
腹を立てさせられて、いざその恨みを晴らすときとなると、
屈辱感はじっとおしとどめて、不快感を吹き飛ばし、
鱈《たら》の頭を鮭《さけ》の尻尾《しつぽ》と取り違えるほどに
おつむが弱いということは決してなく、
じっくりと考えはするが、その心の中は決して明かさず、
男どもが後ろについていることは知っていても、決して後ろを振り向かず、
こんな女《ひと》がいるとしたら、こんな女《ひと》こそは……
【デズデモーナ】 どうだっていうの?
【イァーゴー】 バカ者どもに乳をふくませ、家計簿づけをやらすに限る。
【デズデモーナ】 まあ何て片輪《かたわ》で、力の抜けた結論なんでしょう! エミーリア、あの人はあなたの夫だけど、あの人の言うことなんか聞かないでね。どうキャッシオー、あの人くらい下品で、みだらなおしゃべり屋さんはないわね?
【キャッシオー】 奥様、彼は物事をずばり言う男なんです。おそらくは学者としてより軍人としての彼の方が、お気に召すことと存じます。
【イァーゴー】 (傍白)彼奴《あいつ》め女の手を握ってやがる。そうだ、その調子、そこでひそひそ話を! こんなちっぽけな蜘蛛《くも》の巣で、キャッシオーほどの|どでかい《ヽヽヽヽ》蝿《はえ》を掴《つか》まえてやるぞ。そうだ、そこでお顔を見合わせて、にっこり笑って! そのお前の宮廷作法とやらをワナにして、その中にお前自身をおとしいれてやるんだ、君の言うとおり、まったくその通り! そんなつまらんことをして隊長の職を奪われるんだったら、そんなにたびたび三本指にキスなんかしなけりゃよかったのに……それ、またまた紳士ぶってそれをやる。よろしい! キス満点! お辞儀もお上手! まったくその通り。その指またまた口へ持ってゆくのかい? いっそ、その指がかん腸器の管《くだ》だとよかったな!〔舞台内側でラッパの音〕
〔大声で〕ムーアです! あのラッパはよく聞き覚えています。
【キャッシオー】 たしかにその通りだ。
【デズデモーナ】 お迎えに参りましょう。
【キャッシオー】 ご覧ください、お見えになりました!
〔オセローと従者たち登場〕
【オセロー】 おお、麗《うるわ》しの戦士《つわもの》よ!
【デズデモーナ】 わたしの大事なオセロー!
【オセロー】 ここに目の前に君を迎えることは、大いなる幸いであることはもちろん、
大いなる驚きでもある。おお、わたしの心のよろこび!
|あらし《ヽヽヽ》の後《あと》に、いつもこのような静けさが来るというなら、
風よ吹け、死人をも呼び起こすまで吹き荒れよ!
そして揉《も》みに揉まれる船をして、オリンパスの峰のごとき
高浪の山に登らしめよ、そしてふたたび一落千丈、天国から
奈落の底へ落としめよ! 今この瞬間に死するとも、
それこそ至上の幸いというべきである。何となれば
わたしの心はいま絶対無比の幸福の中にあるのだから、
これに比するよろこびは今後の未知の運命において、
またと来ることはおそらくはない。
【デズデモーナ】 天よなにとぞ禁じ給え、万が一にも
われらが愛とよろこびが、われらの日々がますます日数を重ねるごとく、
いや増しに増すことが遮《さえぎ》られることを!
【オセロー】 なにとぞその様に、恵み深き力よ!
この仕合わせを十分に言い表わすことはわたしにはできない。
ここにつかえてしまう。よろこびが余りに多すぎるのだ。〔二人キスする〕
そしてこれが、そしてこれが、万が一にも二人の心におきる
最大の不和でありますように!
【イァーゴー】 (傍白)おお、今のところ調子がいいぞ!
だが、いまにこの音楽を奏でている音締《ねじ》めを緩《ゆる》めてやるぞ、
仰せの「実直者」イァーゴー様の名にかけてな。
【オセロー】 さあ、城へ参ろう。
さて諸君、われらの戦いは終わった。トルコ軍は海中に没した。
この島のわたしの旧知の諸君はどうしておられるか?
ねえデズデモーナ、君はキプロスで大いに歓迎してもらえるよ、
わたしは島の人々には大いに可愛がってもらっていたのだ。おや、これは失礼、
わたしは要《い》らねおしゃべりをしすぎた。余りのよろこびのために、
つい我を忘れてしまった。おいイァーゴー君、頼みがある、
港へ一走りして、わたしの荷物を降ろしてきてくれ。
船長を砦《とりで》の方へ、お前が案内して来てくれ。
あの方は立派な方だ。高潔なお人柄に対して、
丁重な敬意を払わねばならない。さあ、デズデモーナ、
もう一度言おう、キプロスへよく来てくれた。
〔イァーゴーおよびロダリーゴーを除いて全員退場〕
【イァーゴー】 (退場する従者に)港で待っていろ、すぐに行く。(ロダリーゴーに)もし君に勇気があるなら(聞くところによれば、下種《げす》も恋をすると生まれつき以上に高尚になるそうだが)、俺の言うことを聴け。隊長は今夜、衛兵司令所で当直につく。まず第一に、いいかよく聴くんだ、デズデモーナは明らかにあの男が好きになったのだ。
【ロダリーゴー】 あの男が? いや、そんなことはあり得ない。
【イァーゴー】 その指《ゆび》をこうして、そして人の言うことを素直《すなお》に聴くんだ。いいかよく聴けよ、あの女は最初どんなに激しくムーアを愛したか、それもたかが大ボラと荒唐無稽の作り話のために? そんなおしゃべりであの女の愛が長持ちするだろうか? 君の分別ある心で考えてはいかん。あの女だって目の保養は要《い》るさ。あんな悪魔をながめて何の楽しみがある? はやる血気が、夫婦生活のお楽しみでやがて鈍《どん》になると、それをもう一度燃え上がらせ、新しい欲望を満足させるためには、外見が奇麗《きれい》だとか、年令、風俗、美感で一致点があるとかがなくてはならぬ。ムーアにはこれがなにひとつ無い。こういう必要条件に欠けている以上、あの女はそのデリケートな気難《きむずか》しさから、やがて自分がペテンにかけられたと気づき、ムーアが鼻につくようになり、|むかつく《ヽヽヽヽ》ようになり、やがて見るのも嫌だというようになる。ここで身のふり方を教えてくれるのがほかならぬ本能自身、お決まりの第二の選択という羽目にあいなる次第だ。そこでよろしいか、これが間違ってないとなると(これこそ最も明白にして無理からぬ想定だが)、この幸運の階段で、キャッシオーくらい高いところにいる奴がほかにいるか? 大変に口達者なおしゃべり野郎で、手前《てめえ》の陰険で卑劣きわまるみだらな情欲を満足させるため、上辺《うわべ》だけのいんぎん丁重《ていちょう》な見せ掛けを身につける以外に良心の無い男。そりゃ、おらん! そりゃ、おらん! ちょっとも気の許せぬ、ずる賢い奴、日和見《ひよりみ》主義者。ホンモノのチャンスが回って来てくれなくとも、手前《てめえ》で刻印を押してニセモノを造り出せるだけの目のある男。まるで悪魔のような野郎だ! かてて加えて、野郎はハンサムで、若くて、危《あぶな》っかしい|おぼこ《ヽヽヽ》娘どもが血道をあげるようないい条件は全部|揃《そろ》ってる。まるで疫病《ペスト》だ、完璧な悪党だ! そしてあの女はもうあの男に目をつけているのだ。
【ロダリーゴー】 ぼくにはあの女《ひと》がそんなだとは信じられない。あの女《ひと》はすべていい点ばかりで、天使のようなお方だ。
【イァーゴー】 何が天使のようなお方だ! あの女が飲むワインはぶどうでできてるんだぜ。天使様だったら何でムーアなんかに惚《ほ》れるもんか。あきれた天使だ! あの女があの男の手のひらをいじくりまわしているのを見なかったかね? あれに気がつかなかったかね?
【ロダリーゴー】 いや、それは知っている。だがあれは挨拶《あいさつ》にすぎんじゃないか?
【イァーゴー】 色気だ、この手に誓ってもいい! 汚らわしい情欲と情念の物語の目 次、意味|深《しん》な序の口だ。お互いの息《いき》が抱き合うように、二人は唇を近づけ合っていたではないか。けしからん了見《りようけん》なんだ、ロダリーゴー! この親密な間柄がこのまま進展してゆくと、最も重要な主要体操、つまり両者の合体という結論に達するのも間近《まぢか》だ。ペッ! だがお願いだ、わたしの言う通りに動いてくれ給え。わたしが君をヴェネチアから連れてきたのだ。今夜、君は当直につくのだ。勤務割当は君に付けておく。キャッシオーは君を知らない。わたしは君から余り離れずにいるよ。何かいい機会を見つけてキャッシオーを怒らすのだ、大声を張り上げるとか、彼奴《きやつ》の軍人精神にケチをつけるとか、そのときの都合次第で君がいいと思うどんな方法でもいい。
【ロダリーゴー】 そうだな。
【イァーゴー】 いいかね、あの男は短気で、ムカっ腹を立てる男だ。たぶん指揮|杖《じょう》で君を殴《なぐ》りつけようとするだろう。是非そうなるようにケシかけて欲しい。というのは、ただそれだけのことから、キプロスの連中を大騒動に捲きこんでやろうと思うのだ。そしてその慰撫《いぶ》工作は、キャッシオーを罷免《ひめん》する以外には本調子が出ないようにしてやる。そうすりゃ、わたしが君にすすめる方法によって、君の希望への道はずっと近くなること受け合いだ。そしていろんな障害物も、最も効果的に取り除いてみせる。それがある限りは、われわれの成功の望みはまったく無いからな。
【ロダリーゴー】 何とかいいチャンスに持ってゆけさえすりゃ、必ずやってみせる。
【イァーゴー】 保証するよ。すぐに砦《とりで》で会うことにしよう。俺《おれ》は陸揚げされた彼奴《きやつ》の荷物を取りに行かなくてはならない。うまくやれよ。
【ロダリーゴー】 さようなら。〔退場〕
【イァーゴー】 キャッシオーがあの女に惚《ほ》れてることは、十分信じられる。
あの女が彼奴《きやつ》に惚れてることも、あり得ることだし、信じてもいい。
ムーアは(俺はあの男がどうにも我慢がならないが)
節操ある、情の深い、高潔な人柄の男だ。
それであの男がデズデモーナにとって、この上なくいい亭主になることは、
まず間違いないと思っていい。ところでこの俺《おれ》もあの女に惚《ほ》れている。
欲情一本からというのではなく
(もっともそのくらいの罪なら、
俺もその気《け》がまったく無いとは言えないが)、
半ばは俺の復讐心《ふくしゅうしん》を鱈腹《たらふく》満足させてやりたいのだ。
というのはあの助平ムーア奴《め》、すでに何度か俺専用の場所へ、
跳びこんだという疑いがあるからだ。そのことを思うと、
猛毒で|はらわた《ヽヽヽヽ》の中を掻《か》きむしられるようだ。
それで、妻には妻、彼奴《きやつ》めと五分五分になるまでは、何がどうあろうと
絶対に俺のこの心を満足させることはできないし、またそうはさせぬ。
もしもヴェネチアのこの屑《くず》犬奴が……あまり猟を急《せ》くので
いま紐《ひも》で縛ってあるのだが……けしかけにのってくれれば、
マイケル・キャッシオーを確実に押えこんでやるぞ。
悪|辣《らつ》きわまるやり方で彼奴《きやつ》をムーアに中傷してやるのだ、
(どうやらキャッシオーも俺のナイト・キャップをかぶったらしいからだ)
ムーアに礼を言わせ、この俺に親愛の情を抱かせ、褒美《ほうび》を出させてやるのだ。
「よくぞこの俺《おれ》を、まるで途方もないロバに仕立て上げて、
平穏にして静かなるべきところを首尾よく計《はか》って、
気違いにまでしてくれた」とな。いい考えがある、だがまだ未整頓だ。
悪行の素顔は、それが実際に使われるまでは見られないものだ。〔退場〕
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第二場 キプロス 街路にて
〔オセローの伝令官登場。布告を読む。人々|従《つ》いて出る〕
【伝令官】 わが高貴にして勇敢なる将軍、オセロー閣下のご意向をここに申し伝える。ただいま入手した、ある確実な情報によれば、トルコ艦隊はここに完全に壊滅した。よって各人それぞれ大いに祝意を表するように。踊りを踊るなり、花火に打ち興じるなり、各自それぞれの趣味、嗜好《しこう》によって大いに飲みかつ楽しんでよろしい。このめでたい知らせに加えて、今宵は将軍ご結婚のお祝いでもあるからである。以上を将軍のご意向としてここに布告する。炊事場《すいじば》、食糧倉庫はすべて開放され、現在時五時より十一時の鐘まで飲み放題、食い放題が許される。天よ、キプロスの島とわが高貴なるオセロー将軍に御《み》恵みを垂れさせ給え!
〔退場〕
[#改ページ]
第三場 キプロス 場内の広間
〔オセロー、デズデモーナ、キャッシオー、従者たち登場〕
【オセロー】 ねえマイケル、今宵の衛兵はしっかりと頼むよ。
楽しんでも良識の羽目を外《はず》さぬという、例の栄《は》えある節度を
お互い肝に銘じておこうではないか。
【キャッシオー】 すべてイァーゴーが指示することになっております。
ですが、わたくし自身も目を離すことなく、
十分気をつけることといたします。
【オセロー】 イァーゴーはまこと実直者だ。
ではマイケル、お休み。明日朝、できるだけ早く、
わたしに報告してくれ給え。さあおいで、デズデモーナ、
買い入れは済んだ、あとは実りを待つだけだ。
わたしと君と、二人の儲けがあがるのはこれからだ。
お休み。〔オセロー、デズデモーナ、従者たちと共に退場〕
【キャッシオー】 やあ、イァーゴー。もう不《ふ》寝番《しんばん》の勤務につかなくちゃならんね。
【イァーゴー】 いや、まだ一時間はいいですよ、隊長。まだ十時前です。将軍は奥さんのデズデモーナ可愛さのあまり、こんなに早く引き上げて行ったんです。無理もありませんや。まだ一晩も二人だけでたっぷり堪能《たんのう》したことはないんですから。しかも奥さんはユピテルのお相手も勤まるくらい精力絶倫ときている。
【キャッシオー】 あの方は世にも素晴らしいお方だ。
【イァーゴー】 結構、では「お二人のベッドに幸いあれ!」だ。さあ、隊長、一杯用意してあります。外にはキプロスの大物が二匹、色黒のオセローのために是非祝杯をあげたいと言っております。
【キャッシオー】 いや、今晩はやめとこう、イァーゴー君。わたしは酒に弱く、しかも悪酔いするんだ。良俗という点では、もっとほかのもてなし方があって当然しかるべきだと思っているくらいなんだ。
【イァーゴー】 おや、大事な友人たちですぜ。ほんの一杯だけ! あとはわたしが代わりに飲んであげましょう。
【キャッシオー】 もうすでにたった一杯だが飲んできたのだ、水割りでね。見給え、もうここんとこが回転しっぱなしだ。不幸にしてこれがわたしの欠点なんだが、その弱点をこれ以上いためつけようとは思わんのだ。
【イァーゴー】 おや、大の男が! 今晩は祝賀会ですぜ。大物たちが待ってます。
【キャッシオー】 どこにだ?
【イァーゴー】 その戸口です。どうか呼んでやってください。
【キャッシオー】 そうするとしよう、気はすすまんのだが。〔退場〕
【イァーゴー】 何とか宥《なだ》めすかして、一杯でいいから彼奴《きやつ》に飲ませられれば、
すでに今夜きこしめしたのと合わさって、
彼奴《きやつ》は間違いなく怒りっぽく、喧嘩《けんか》っ早くなるだろう、
まるで娘っ子の飼っている犬みたいに。ところでわが傷心のロダリーゴーは、
恋に破れて危うく裏表《うらおもて》さかさまになるところだったが、
今宵こそはデズデモーナ様の御為《おんため》とばかり、大きな杯《さかずき》を底の底まで
何杯も傾けつくしておった。そして彼奴《きやつ》も不寝番《ふしんばん》だ。
キプロスの三人の若者も、……気位が高くて傲慢《ごうまん》で、
いささかなりとも名誉が傷つけられたという疑いだけでも|かっと《ヽヽヽ》する、
まさにこの戦争《いくさ》っ早い島の気質の代表者と言える連中だが……
今宵すでに|なみなみ《ヽヽヽヽ》と注《つ》いだ杯《さかずき》で相当調子を上げておいた。
この連中も不寝番《ふしんばん》につく。ところでこの酔っ払いの群れの中で、
キャッシオー奴《め》に何かことを構えさせてやらねばならぬ、
この島中が大騒ぎになるような。
〔キャッシオー、モンターノー、紳士たち、酒を持った従者ども登場〕
おっと、連中がやって来る。
万事この俺《おれ》様の夢通りになってくれさえすれば、
風も潮もすべてよし、俺様の船は順風に帆を上げて突っ走る。
【キャッシオー】 いゃあ、参った、大きなやつで飲まされた。
【モンターノー】 いゃあ、とんでもない、小さいやつだ。一パイントそこそこだ、わしも兵隊、嘘《うそ》は言わんぞ。
【イァーゴー】 おおい、酒だ!
〔歌う〕
杯を当てて鳴らそう、カチリン、リン。
杯を当てて鳴らそう、カチリンコ。
兵隊だって人の子だ。
ああ束の間のこの世の命。
だから兵隊、飲もうじゃないか。
おおい、酒を持って来い!
【キャッシオー】 いゃあ、参った、素晴らしい歌だ!
【イァーゴー】 わたしゃこれをイギリスで覚えました。あそこの連中の酒の強さはまさに天下一品。ご存じデンマーク人だろうが、ドイツ人だろうが、はたまた太鼓腹《たいこばら》のオランダ人だろうが……おおい、飲め飲め!……イギリス人の比では到底ないね。
【キャッシオー】 イギリス人はそんなに酒飲みの達人かね?
【イァーゴー】 そりゃもう、連中はデンマーク人なんかいとも簡単に飲みつぶしてしまいまさあ。ドイツ人を打ち負かすのに汗をかく必要もありません。連中が干した杯《さかずき》に酒を注《つ》いでいるあいだに、オランダ人はゲーッとなってしまいます。
【キャッシオー】 われらが将軍のために乾杯!
【モンターノー】 ようし、隊長、引き受けた。その乾杯わしがタイになろう。
【イァーゴー】 おお麗《うるわ》しのイギリスよ!
〔歌う〕
スティーヴン王は、そりゃあお偉いお殿様。
ズボンときたら、たったの一クラウン。
それでも六ペンス高いと思《おぼ》し召し、
服屋は「ろくでなし」とお小言頂戴。
王様は身分の高いお偉いお方、
そしてお前はしがない身分。
見栄が過ぎれば国は亡びる。
だからお前、古い外套きておいで。
おおい、酒だ!
【キャッシオー】 いゃあ、参った、こいつは前のやつより数等絶妙だ。
【イァーゴー】 もう一度お聞かせしましょうか?
【キャッシオー】 いや、結構、そんなふうにケチる奴は、その地位にふさわしからずとわしは考えとる。とにかく、神はすべてをご照覧だ、救われなきゃならん人間もありゃ、救われちゃならん人間もある。
【イァーゴー】 隊長殿。その通りであります。
【キャッシオー】 拙者自身はといえばだ……将軍およびお偉方には申し訳ないが……拙者は救われたいと希望しとるんだ。
【イァーゴー】 わたしもそうです、隊長。
【キャッシオー】 そうか、だが、貴公には悪いが、この俺《おれ》様の方が先だ。隊長の方が旗手より先に救われることになっとるんだ。いや、このことはもうやめとこう。さあ任務につくとしようぜ。神よわれらが罪を許し給わんことを!諸君、厳格に衛兵勤務に服務しようぜ。諸君、本官はいささかも酔っとらんぞ。いいか、ここにいるのがわしの旗手。これがわしの右手、こっちが左。わしは酔っとらんぞ。大丈夫しっかり立てるぞ、大丈夫しっかり話ができるぞ。
【一同】 大丈夫この上なし!
【キャッシオー】 さようか、されば大いに結構。されば拙者が酔っているなどとは、ゆめ考えてはならんぞ。〔退場〕
【モンターノー】 衛兵詰所へ参ろう、諸君。さあ、衛兵を立てようではないか。
【イァーゴー】 ご覧になったでしょう、先に出かけたあの男。
彼はシーザーの右腕となって指揮をするのにも、
十分ふさわしい軍人なのです。だがご覧の通りのあの欠点。
あれで長所はまさに帳消し、酔ってるときとそうでないときとが
ちょうど同じで彼岸《ひがん》の中日。彼のためにはまことに残念。
オセローは全幅の信頼を彼においてはおりますが、
何かの機会にふとあの病気が出て、島中を揺さぶらなければいいがと、
心から案じておりまする。
【モンターノー】 それにしてもあの男はたびたびああなのか?
【イァーゴー】 あれが眠りにつく前の、いつもの序の口なのです。
もし酒が彼の揺り籃《かご》をゆすっていなければ、時計の二《ふた》まわりは
不寝番《ふしんばん》についても平気な男なのですが。
【モンターノー】 将軍にはこのことを言って、
しかるべく注意を喚起しておくべきだろう。
将軍はたぶん気がついていないのだろう。さもなければ
根が善良な方だから、キャッシオーの上辺《うわべ》だけの美点を珍重して、
悪いところは見ていないのではないだろうか?
〔ロダリーゴー登場〕
【イァーゴー】 (ロダリーゴーに傍白)おや、どうした、ロダリーゴー?
隊長のあとをつけてくれ、頼む、さあ行くんだ!〔ロダリーゴー退場〕
【モンターノー】 まこと遺憾千万、あのムーアの名将ともあろう者が、
自身に次ぐ第二の地位ともいうべきものを、
人もあろうに根深い病根を持った者に任そうとは。
ムーアに直接そうだと伝えるのが、誠意ある行為というものだと思うが。
【イァーゴー】 いや、わたしはご免です、たとえこの島全部をもらっても!
わたしはキャッシオーが大好きで、あの病気を治すためなら、
どんな骨でも折るつもりです。
〔内側で叫び声、「助けてくれ! 助けてくれ!」〕
おや、何だ! あの声は?
〔キャッシオー、ロダリーゴーを追って登場〕
【キャッシオー】 畜生! このごろつき奴《め》、この悪党|奴《め》!
【モンターノー】 どうしたんです、隊長?
【キャッシオー】 下種《げす》がこの俺《おれ》に説教するというのか? おのれ下種奴、打ちのめして、酒|瓶《びん》の中に押し込んでくれる。
【ロダリーゴー】 打ちのめす?
【キャッシオー】 おのれほざくか、ごろつき奴《め》が!〔ロダリーゴーを打つ〕
【モンターノー】 いや、隊長殿、その手を控えられたい。
【キャッシオー】 お放しくだされい、さもなくば貴殿の脳天に一発お見舞い申すぞ。
【モンターノー】 おいおい、君は酔っているのだ。
【キャッシオー】 酔ってるだと!〔二人戦う〕
【イァーゴー】 (ロダリーゴーに)さあ行け! 外に行って反乱だと呶鳴《どな》るんだ!
〔ロダリーゴー退場〕
いけません、隊長殿、後生です、お二人とも!
誰か、おおい! 隊長! お願いです! モンターノー殿! お願いです!
皆さん、助けてください! すばらしい不寝番《ふしんばん》になったもんだ、いやまったく!
〔鐘が鳴る〕
鐘を鳴らすのはいったい、どこのどいつだ? 畜生|奴《め》、おおい!
町中が起きてしまうではないか。後生です隊長、やめてください!
一生の恥になりますぞ。
〔オセローと武器を持った従者たち登場〕
【オセロー】 何事が起こったのだ、これは?
【モンターノー】 畜生! まだ血が止まらぬ。
この傷ではきっともう助からん。
【オセロー】 やめい! やめぬと命は無いぞ!
【イァーゴー】 やめてください! 隊長、お願いです、モンターノー殿、ご両人!
場所柄ということを忘れてしまっては困ります!
やめてください! 将軍の声です。やめてください、恥です!
【オセロー】 おい、どうしたのだ、これ! いったいどうしてこうなったのだ?
われわれはトルコ人になり果ててしまったのか? そして天が
トルコ人にも禁じ給うたことを、われとわが身にしかけているのか?
キリスト教徒の恥だ、このような野蛮ないさかいはやめよ!
おのれの怒りのため相手を切りさいなまんと、こんど剣を動かすものは、
その命が惜しくないものと見る。動いたら命は無いぞ。
あのやかましい鐘をやめさせよ! 島中が驚いて、
いつもの島でなくなってしまうではないか。どうしたのだ、諸君?
律義《りちぎ》者のイァーゴー、心配の余りお前の顔には生気が無いようだが、
話せ、張本人は誰か? わしのためを思うなら話せ、命令だ。
【イァーゴー】 わたくしには存じません。ほんの今しがた、今の今まで友達で、
まるで親しく、その間柄たるや、まさにこれから床につかんとする
花嫁と花婿《はなむこ》同然だったのです。それがどうです、今はもう……
何かの星の力を受けてすっかり気が狂ってしまったかのように……
抜き身の剣で、互いの胸をねらってわたりあい、
血の雨を降らしているのです。このばかばかしい諍《いさか》いが
いったいどうして始まったのか、わたくしには申し上げられません。
喧嘩《けんか》半ばでやっと駆けつけることができたこんな足なんか、
いっそ栄《は》えある戦闘で失くしてしまっていればよかったんです。
【オセロー】 いったいどうしてマイケル、こうも我を忘れてしまったのだ?
【キャッシオー】 なにとぞお許しくださいますよう! わたくしには申しあげられません。
【オセロー】 モンターノー殿、貴殿は平素はいんぎん丁重な方だ。
お若いわりに謹厳にして、しかも穏健であられることは、
世間一般のひとしく認めるところ。貴殿のお名前は
世の人士の評価の口ぶりでは、まことに大いなるものだ。
それがいったいどういう訳です、その評判の腹をかくも断ち割って、
高い名声の血を惜しみなく流し捨て、それで手に入れたものが
夜の無法者という悪名だけとは? この点をしかと返答されたい。
【モンターノー】 オセロー殿、わたしは深手を負って危険なのです。
そして話をするとそれが傷むので申し上げられませんが、
わたしの知っていることのすべては、あなたの部下のイァーゴーが、
話してくれるはずであります。わたくし自身は今宵言ったこと、したことで、
間違ったことは何一ついたしてはおりませぬ。
もっとも、自分を大切にするということがときによっては悪徳となり、
暴力で襲われたときにわれとわが身を守ることが、
それが罪だというなら話は別ですが。
【オセロー】 ええいっ、上天に誓って言うが、
血気の衝動が、より安全なわたしの案内役を御し始めている。
そして激しい感情の熱気が、わたしの最良の判断力を暗まして、
懸命に主導権を握ろうとしている。わたしがひとたび動けば、
あるいはこの腕を上げさえすれば、貴殿らのいかなるものも、
わたしの懲戒の一撃で打ち倒されてしまうのだ。是非とも話せ、
この忌《い》まわしい争いごとが何故始まったのか、誰が惹《ひ》き起こしたことか?
そしていずれかがこの事件で有罪だと認められた上は、
たとえそれがわたしと同時に生まれた二子《ふたご》であったとしても、
わたしは一切容赦せぬ。何たることだ! 戦闘状態の真っ只中の町で、
人心いまだ荒《すさ》び、戦々恐々たる状態にあるとき、
夜の夜中、衛兵所で、警備のために詰めているその衛兵が、
内輪同志で、しかもわたくしごとが原因で喧嘩《けんか》をしでかすとは!
空恐ろしくもあり、まこと怪《け》しからぬ。イァーゴー、誰が始めたのだ?
【モンターノー】 もし贔屓《ひいき》関係で縛られたり、職務がら相結託したりして、
いささかなりとも事実を歪《ゆが》めて申すようなことがあれば
お前は軍人ではないぞ。
【イァーゴー】 そう急所をつかないでください。
マイケル・キャッシオーにあえて非礼を働くくらいなら、
これこの舌をわたしの口から切り取ってもらった方がましです。
ですが、われとわが身に言いきかせております、真実を言っても
決してあの方を傷つけることにはならないのだと。実はこうなのです、将軍。
モンターノーとわたしが話をしておりましたところへ、
一人の男が大声で助けを求めて参りました。
そしてそのあとをキャッシオーが、是が非でも思い知らしてやるのだと、
抜き身を構えて追って参りました。そこで将軍、このお方が
キャッシオーのところへ割って入り、剣を収めるよう頼みこんだのです。
わたしはわたしで、その大声でわめく男を追いかけました。
そいつの騒ぎで町中が恐慌を来たすといけませんので……
事実はそうなってしまったのですが……ところが彼奴《きやつ》は足が速く、
意に反して捕り逃がしてしまいました。わたしは直ぐに引き返しました。
丁々発止の剣の音、それにキャッシオーが大声で
ののしりわめくのが聞こえましたので。こんなことはかって無いことで、
今宵初めてのことです。わたしが戻って参りますと……
これはほんのわずかの間のことでしたので……依然として二人とも
しっかりと組みになって、打ち合い、突き合いをしておりました。
閣下ご自身が二人を引き分けられたのは、ちょうどそのときであります。
この件につきましては、これ以上はご報告できません。
ですが所詮《しよせん》人間は人間、どんなに立派な人でもときに我を忘れます。
たとえキャッシオーが少しばかり、こちらの方に悪いことをしたとしても、
それはちょうど、腹たちまぎれに好意を持っている人をなぐるようなもの。
しかもキャッシオーはあの逃げて行った男から、
到底我慢のできかねるような、何か途方もない、
ひどい仕打ちを受けたに違いありません。
【オセロー】 わたしにはわかっている、イァーゴー、
律義《りちぎ》もののお前は同情心から、この事件を取りつくろい、
キャッシオーを庇《かば》っているのだ。キャッシオー、わたしはお前を贔屓《ひいき》にしている。
だが、もうこれ以上わたしの部下にしておくことは、絶対ならぬ。
〔デズデモーナ、侍女たちと登場〕
見よ、わが愛する妻までも起こしてしまったではないか!
お前は断乎見せしめにしてやる。
【デズデモーナ】 どうしたのでございますか?
【オセロー】 もう済んだのだデズデモーナ、さあベッドへお帰り。
(モンターノーに)貴殿の傷はわたし自身の手で介抱いたしたい。
お連れしてくれ。〔モンターノー連れて行かれる〕
イァーゴー、町中をよく注意して見回って欲しい。
そしてこの忌《い》まわしい喧嘩《けんか》沙汰に驚いている人々を静めてくれ。
さあ行こうデズデモーナ。心地よい安らかな眠りも、
いさかいごとで覚まされてしまう……これが軍人の生活というものなのだ。
〔イァーゴーとキャッシオーを除き、全員退場〕
【イァーゴー】 隊長! 傷を受けたのですか?
【キャッシオー】 そうだ、もうどんな手当てを受けても駄目だ。
【イァーゴー】 そんな、とんでもない!
【キャッシオー】 名声、名声、名声だ! おお俺《おれ》はすっかり名声を失くしてしまった! 俺は俺自身の不滅のものを失くしてしまったのだ。もう|けだもの《ヽヽヽヽ》も同然だ。名声、イァーゴー、名声をだ!
【イァーゴー】 わたしは根が正直、てっきりどこか体《からだ》に傷を受けたものとばかり思ってました。そのほうが名声などよりずっと傷みます。名声などというものは|いいかげん《ヽヽヽヽヽ》なもので、最も当てにならぬ付属品です。何の業績がなくても簡単にもらえもするし、また何の咎《とが》が無くても失くしもする。あなた自身が名声を失くしたと考えなければ、名声などはいささかも失くしていないのです。隊長、あなたも男でしょう!将軍のご機嫌を直す方法なんかいくらでもあります。腹立ちのあまり、今のところ投げとばされたにすぎません……何か憎しみからというより、むしろ政策的な罰です……ちょうど威勢高のライオンをひるませるために、何の罪もない犬っころを打ちのめすようなもの。もう一度お願いしてごらんなさい、許してくれるにきまってます。
【キャッシオー】 軽蔑してくださいと願ったほうがずっとましだ、あんな立派な軍司令官を欺いて、こんなくだらぬ、飲んだくれの、不謹慎きわまる部下でいるよりは。酔っぱらう! 訳のわからぬことを囀《さえず》る! 喧嘩《けんか》口論する! 威張りちらす! 罵詈《ばり》|ざんぽう《ヽヽヽヽ》する! おのれの影を相手に大言壮語する! おお、汝目に見えぬ「酒の精」! もしお前にまだ呼び名が無いというなら、お前は悪魔と呼んでやる!
【イァーゴー】 あんたが抜き身で追いかけたあの男、いったい何者ですか? あんたに何をしでかしたのです?
【キャッシオー】 俺《おれ》にはわからん。
【イァーゴー】 そんなことはないでしょう?
【キャッシオー】 いや、いろんなことを覚えてはいるが、何一つはっきりとは。喧嘩はした、だが何でしたのかは皆目わからん。おお神よ、おのれの口中に敵をふくんで脳味噌を盗まれてしまうとは! 喜んだり、楽しんだり、騒いだり、拍手かっさいしているうちに|けだもの《ヽヽヽヽ》に変えられてしまうとは!
【イァーゴー】 そりゃあ……ですが、もうすっかり大丈夫です。いったいどうして、こうもよくなったのでしょうか?
【キャッシオー】 酔っぱらい悪魔の思《おぼ》し召しが変わって、向かっ腹悪魔に席をゆずったというわけだ。一つの欠点・弱点は必ずお次を連れてくるものだ。正直言って、われながらこの身が嫌になる。
【イァーゴー】 まあまあ、あんたはあんまり堅物《かたぶつ》すぎる。時節柄、場所柄、この国の現状から考えて、こんなことが起こらぬに越したことはない。だが現実にもう起こってしまった以上、あんたの身のためになるようベストを尽くすべきです。
【キャッシオー】 もう一度復職を願い出てみよう……俺《おれ》は飲んだくれだと言われるにきまってる! この俺に大蛇、ヒュドラほどの数多くの口があったって、この一言《ひとこと》が全部の口をふさいでしまう。つい今しがたまで分別あった男が、たちまちのうちにバカ者になり、あっという間に|けだもの《ヽヽヽヽ》になってしまう! おお何たる奇々怪々事! 度を過ごした杯《さかずき》の一つ一つには呪いがかかっている、そしてその中味は悪魔だ。
【イァーゴー】 まあまあ、いい酒は使いようによっては大変に便利な奴ですよ。もうこれ以上悪口は言わないことです。ところで隊長殿、わたしはあんたが好きだということは、あんたもよくご存じのこととわたしは思ってますが。
【キャッシオー】 その件はよくよくわかっている。この俺が酔っぱらったとは!
【イァーゴー】 あんただって、誰だって、生きてる人間なら酔っぱらうにきまってる。さあ、これからどうしたらいいか、言ってあげます。今や、われらの実の将軍は、将軍の奥さんなのです。わたしはそのことがそうだと、次の点から言えるのです。すなわち将軍は奥さんの万能、魅力にすっかり惚れこんで、ためつ、すがめつ、それを賛美することに我を忘れ、夢中になっているのです。だから何でも心置きなく奥さんに打ち明けるに限ります。もとの地位に戻してもらうよう、奥さんの助力を執拗《しつよう》にせがむことです。あの方は大変に寛大で、親切で、何でもすぐにしてくれる、天使のような気立てだから、何か頼まれると、その善良な性質から、それ以上のことをしないと何か悪いことをしたと考える、そんなお人です。あんたとあの方の主人との間の外《はず》れた関節に、是が非でも副《そ》え木を当てて欲しいと頼むんです。そうすりゃあ、わたしの全財産を何に賭《か》けてもいい、二人の間柄が以前以上に強いものになること受け合いです。
【キャッシオー】 なるほど、いいことを言うな。
【イァーゴー】 すべて隊長を思う真心と、心底からの親切心からこれを言うのです。
【キャッシオー】 それは卒直に認める。明日朝早くデズデモーナ様にお願いして、何とか取り計らっていただこう。ここでうまく行かなければ、俺《おれ》の運勢もこれまでだ。
【イァーゴー】 その通りです。ではおやすみなさい隊長。わたしは衛兵につかねばなりません。
【キャッシオー】 おやすみ、イァーゴー、お前は何という誠実な男だ。〔退場〕
【イァーゴー】 という訳で、俺の役柄を悪党だというのはどこのどいつだ?
俺がする助言はすべて、卒直にして誠実この上なく、
どう考えたって理にかない、これこそはまさに、
ムーアの機嫌を取り戻す方法ではないか? 人の言葉に素直に耳を傾ける
あのデズデモーナのことだから、誠実な願いごとで説き伏せることは
まことにもって簡単なことだ。あの女は、恰《あたか》も自在|無碍《むげ》なる四大元のごとく、
実り豊かに生まれついている。そしてしかもあの女にとっては、
ムーアを動かすことは……贖《あがな》われた罪のすべてのあかし、しるし、
つまりあの男の洗礼を取り消してしまうことだって……
あの男の魂はあの女への愛で完全に|がんじがらめ《ヽヽヽヽヽヽ》にされているのだから、
何をやらせようと、思いとどまらせようと、すべて意のまま気まま、
欲望の趣くままにあいつのだらしない男心を操《あやつ》って、
あの女はまるで神様のような働きだ。だからどうしてこの俺《おれ》様が、
キャッシオーに忠告してやって、直接そのためになるような
平行線を教えてやって、何が悪党だ? これが地獄の神学というものだ!
悪魔が陰険きわまる悪事をそそのかす時には、
最初はまず天上の装いを借りて誘惑するものだ、
いまこの俺様がやってるように、というのはあのバカ正直者|奴《め》が、
おのれの運勢の建て直しをデズデモーナに懸命に頼みこみ、
そしてあの女が彼奴《きやつ》のために熱心にムーアに懇願しているあいだに、
俺《おれ》はあのムーア奴《め》の耳にこういう毒を注《つ》ぎ込んでやる……
あの女が彼奴《きやつ》の復職を願っているのは、実はおのれの欲情のためなのだと。
そうしておけば、彼奴《きやつ》のために骨を折れば折るほど、
あの女はムーアの信用を台無しにしてしまうという寸法だ。
こうして俺は、あの女の美点を変じて黒点となし、
その人の良さを網にして、彼奴《きやつ》ら全部一人残さず、
一網打尽《いちもうだじん》にしてくれる。
〔ロダリーゴー登場〕
おや、どうしたロダリーゴー?
【ロダリーゴー】 この狩猟、ぼくはここまで追いつめては来たが、直接に獲物にとびかかる猟犬じゃなくて、まわりで吠えたてる勢子《せこ》犬どもの中の一匹という格好だ。金はほとんど費《つか》い果たしちまったし、今夜はとてつもなくぶん殴《なぐ》られた。この調子じゃあ結局のところ……苦労してどっさり経験は積ましてもらって、とどのつまりは頭の方はちょっとばかりは利口になるが、財布《さいふ》の方はすっからかん、かくしてもと来たヴェネチアへまたご帰還ということか。
【イァーゴー】 辛抱のできない連中の何とあわれなことよ!
どんな怪我も、徐々によくなる以外に治《なお》りようは無いではないか?
わかっているとは思うが、われわれの仕事は頭でやるので、
魔法ではないのだ。そして頭の仕事はたっぷり時間が必要なのだ。
万事うまくないって? キャッシオーは君を殴《なぐ》った、
そして君はそのちょっとした傷のお蔭で、キャッシオーを首にした。
ほかのことも陽《ひ》に当たって立派に育って行くが
最初に花を咲かせた実が最初に熟するものだ。
いましばらくの辛抱だ。これは驚いた、もう朝か!
楽しんだり仕事をしたりしていると、時のたつのを忘れる。
戻り給え、君の泊まっているところへ帰り給え。
帰れ、と言ってるんだ! 以後のことはあとでまた知らせる。
さあ、消えるんだ!
〔ロダリーゴー退場〕
二つのことをしなければならぬ。
まず女房に言って、キャッシオーのために奥さんに頼みこませることだ。
女房をけしかけてやろう。
同時に俺《おれ》はムーアを引き離しておいて、
キャッシオーが奥さんにせがんでいるその真最中に、
お連れ申してやろう。そうだ、その手だ!
妙案も冷やしたり、出し遅れたりしては台無しだ。
〔退場〕
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第三幕
第一場 キプロス 城の前にて
〔キャッシオーと楽士たち登場〕
【キャッシオー】 師匠たち、ここで演奏してくれ給え、礼は十分はずむ。
何か短いものを。それから「将軍おはようございます」と挨拶《あいさつ》してくれ。〔演奏する〕
〔道化登場〕
【道化】 これはこれは師匠《ししょう》たち、お道具がナポリ帰りというわけで? 話し声がみんな鼻にかかってるね?
【楽士一】 ええ、どういうことでしょうか?
【道化】 ねえ、これは管楽器、つまりブーブー鳴らす道具だろう?
【楽士一】 さようでございます。その通りでございます。
【道化】 じゃあ、その傍《そば》には一品《いつぴん》がぶら下がっているな。
【楽士一】 どこの傍に逸品《いつぴん》が下がっているのでございますか?
【道化】 そりゃあブーブー鳴るところの傍《そば》にきまっている。さあ師匠たち、この金を受け取ってくれ。それで、将軍は君らの音楽が大変に気に入ったので後生だからもうこれ以上音を立てないでくれとの仰せだ。
【楽士一】 よろしゅうございます、わかりました。
【道化】 聞こえない音楽というのがあるんなら、そいつをやってくれ。だが聞くところによると、音楽を聞くことには、将軍はあまり関心はないようだ。
【楽士一】 あいにく、そういう音楽は持ち合わせがございません。
【道化】 じゃあ、その笛は君の袋の中にしまっとき給え、もう用はない。さあ、行くんだ、空中に消えて失くなれ!〔楽士たち退場〕
【キャッシオー】 おい、おわかりかな、実直なお人?
【道化】 実直なお人はわかりませんが、お前さんならわかりまさあ。
【キャッシオー】 その洒落《しやれ》の剣はおさめてくれないか。これは僅かだが受け取っておいてくれ。将軍の奥さんに仕えるご婦人が起きていたら、キャッシオーという者がちょっとお話したいことがある、と伝えて欲しいのだ。やってくれるか?
【道化】 そのお人なら起きてまさあ。もしそのお人が当方へおいでになる気がありんなさるなら、さよう通告いたさぬでもないぞよ。
【キャッシオー】 頼む、君はいい友だちだ。〔道化退場〕
〔イァーゴー登場〕
よいところへ来た、イァーゴー。
【イァーゴー】 おや、寝なかったんですね?
【キャッシオー】 それはそうだ。われわれが別れる前すでに、
夜が明けていた。イァーゴー、わたしは勇を鼓《こ》して、
君の奥さんを呼びにやった。わたしの頼みは、
デズデモーナ様に何とかしてお会いできるよう
取り計らって欲しいということだ。
【イァーゴー】 彼女《あれ》をすぐによこしましょう。
そしてムーアは邪魔にならぬよう、何とか方法を講じて
離しておきましょう。二人が心置きなく用件を
話し合えるように。
【キャッシオー】 君の好意に心から礼を言う。〔イァーゴー退場〕
フィレンツェ人だって
あれほど親切で実直な男には会ったことがない。
〔エミーリア登場〕
【エミーリア】 おはようございます、隊長さん。このたびのご不興、
心からお気の毒に存じます。でも万事きっとよくなりますわ。
将軍と奥様はそのことについてお話し合いになっておられます。
奥様はあなた様のために強くおっしゃっています。ムーアが答えて言うには、
あなた様が傷を負わせた人はキプロスで有名なお方、
偉い親戚関係のおありの方、賢明な処置として、あなた様を免職する以外に
方法は無かった、とのこと。でもはっきりと言ってます、
ムーアはあなた様が好きで、他人の手を煩《わずら》わすまでもなく、
自分からすすんでしかるべき機会をとらえて、あなた様を
またもとに戻したいのだと。
【キャッシオー】 だからお願いしたいのです、
もしあなた様が賛成してくれ、それができるものなら、
ごく短いあいだで結構、デズデモーナ様と二人だけで
話し合う機会を造ってください。
【エミーリア】 どうぞお入りください。
あなた様の胸の中、心ゆくまでお話し合いできるようなところへ、
ご案内申し上げましょう。
【キャッシオー】 心の底から恩に着ます。〔退場〕
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第二場 キプロス 城中の一室
〔オセロー、イァーゴー、および紳士たち登場〕
【オセロー】 イァーゴー、この書面を船長に渡して欲しい。
そして彼を通じて、元老院へのわたしの忠誠のまことを伝えてもらいたい。
さて、その件も済んだし、わたしは城塞《とりで》を視《み》て回っている。
そちらの方へ来てくれ。
【イァーゴー】 承知いたしました。将軍、そういたします。
【オセロー】 諸君当地の要塞を見て回ることにいたそうか?
【紳士たち】 御意のまま、よろこんでお伴《とも》いたします。〔退場〕
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第三場 キプロス 城中の庭園
〔デズデモーナ、キャッシオー、およびエミーリア登場〕
【デズデモーナ】 キャッシオーさん、安心していらっしゃい。あなたのため、
わたしにできることなら何でもしてあげますから。
【エミーリア】 奥様、そうしてあげてください。実のところ夫もこのことを
わがことのように心配しているのでございます。
【デズデモーナ】 ほんとうに実直な人ね。心配しないで、キャッシオー、
主人とあなたとを、またもとのような親しい間柄に、
きっとしてみせます。
【キャッシオー】 寛大なお取り計らい心から感謝いたします。
わたくしマイケル・キャッシオー、この身はいかになりましょうとも、
今後永久に奥様の忠実なる下僕《しもべ》であることを誓います。
【デズデモーナ】 わかってるわ。ありがとう。あなたは主人を好いていてくれるし、
もう長いあいだの付き合いだし、安心していていいですわ。
主人は奇妙によそよそしくしてはいますが、それはただ単に
世間の手前そうしていなければならないだけのこと。
【キャッシオー】 はい、ですが奥様、
その世間の手前と申すのも、あまり長い間続いていたり、あるいはあまりに安っぽい、水っぽいご馳走を|たらふく《ヽヽヽヽ》食べさせられたり、
またあるいは新しい環境の下で、全然予期せぬ事態を生み出したりしていますと、
わたくしは不在で、わたくしの地位は誰かが代わっておりますし、
わが将軍もわたくしの真心からの勤めを忘れられてしまうでしょう。
【デズデモーナ】 そんなことを心配しないで。ここエミーリアの前で、
あなたが復職できることを誓います。大丈夫です。
一度友情を誓った以上、わたしはどこどこまでも
それを守りぬきます。主人は絶対に休ませませんわ、
夜通し頑張っても言うこときかせ、根負けさせてやります。
主人のベッドは学校、食卓は懺悔《ざんげ》場にしてやります。
あの人のすることには何でも、キャッシオーのお願いごとを
持ち出すことにいたします。ですからキャッシオー、元気を出してください。
だってあなたの弁護士になった以上、この件を投げ出すくらいなら、
死んだ方がましですもの。
〔オセロー、イァーゴー登場〕
【エミーリア】 奥様、旦那様がいらっしゃいました。
【キャッシオー】 奥様、わたくしは失礼いたします。
【デズデモーナ】 あら、ここでわたしが話すのを聞いていて。
【キャッシオー】 奥様、今はだめです。すっかり上がってしまって、
とてもわたくし自身のことなどは。
【デズデモーナ】 ではご随意になさって。〔キャッシオー退場〕
【イァーゴー】 へん! これは気に入らん。
【オセロー】 何と言ったかな?
【イァーゴー】 いえ将軍、何も。それとも……いえ、別にわたしは存じません。
【オセロー】 いま妻と別れて行ったのはキャッシオーではなかったかね?
【イァーゴー】 キャッシオーですって、将軍? とんでもない、考えられません、
将軍が来られるのを見てあの方が、まるで何か罪でも犯したかのように、
こそこそと逃げ出してゆくなんて。
【オセロー】 たしかにあの男だったと思う。
【デズデモーナ】 どうなさいました、あなた?
わたし、いまここで、頼みごとがあるという方とお話してました。
あなたのご機嫌を損じてすっかり悲観しているお方です。
【オセロー】 誰のことだ、それは?
【デズデモーナ】 つまり、あなたの部下の、隊長キャッシオーです。ねえあなた、
もしわたしにあなたを動かすだけの取り柄、力がございますならば、
あの方の恭順、和解のお願いをすぐお聴き容《い》れになってください。
あの方はあなたを心底から好いているお方です。過ちを犯すとすれば、
それはあくまで知らずにやったこと、たくらんだことでは決してありません。
これが誤りなら、わたしには誠実なお方の顔を見る目は無いことになります。
お願いです、呼び戻してあげてください。
【オセロー】 いまここから出て行ったのだな?
【デズデモーナ】 その通りでございます。あまりに意気銷沈していましたので、
その悲しみの一部がまだわたしに残っていて、わたしも共に
悲しんでいるほど。ねえあなた、お願いです。呼び戻してあげてください。
【オセロー】 いまは駄目だ、デズデモーナ。いつか別の時に。
【デズデモーナ】 でも、ごく近いうちにしてくださる?
【オセロー】 君の頼みだ、できるだけ早く。
【デズデモーナ】 今晩、お夕食の時に?
【オセロー】 いや、今晩は駄目だ。
【デズデモーナ】 では、あしたのおひるに?
【オセロー】 ひるは家では食べない。
城塞《とりで》で将軍たちと会うことになっている。
【デズデモーナ】 あら、それならあしたの晩、でなければ火曜日の朝、
さもなければ火曜のひる、それとも夜《よる》、それも駄目なら水曜の朝。
ねえ、お願い、はっきりと定《き》めてください、でも三日以上は
こえては駄目よ。あの方はほんとうに後悔しているのです。
それに、だって、あの方の過ちは、わたくし共ふつうに考えれば……
戦時には最も優れている者を見せしめにしなければならない、
と言われてはいるそうですが……内々のお叱りを受けるほどのものでも
ございますまい。いつ、あの方をお呼びしてよろしゅうございますか?
はっきり言って、オセロー。わたし自分では思いますのよ、
あなたがわたしにおねだりなさることで、わたしがお断わりしたり、
渋ったりすることがあるかしら? ありまして? マイケル・キャッシオーよ?
あなたが結婚申し込みにいらっしゃった時に一緒に来たお方、
わたしがあなたのことを悪く言ったとき、何度も何度も
あなたの肩を持ったお方。そのお方を復職させるのに
そんなに面倒がかかるなんて! ほんとう、わたしいざとなれば……
【オセロー】 もうおやめ。来たい時に来させてよろしい!
君の頼みは何も断われんよ。
【デズデモーナ】 あら、そんなにおっしゃる程のことでもございませんわ。
こんなこと、あなた手袋をおはめになってとか、
おいしいご馳走を召し上がってとか、暖かくしていらっしゃいねとか、
つまり、ほかならぬあなたの御身《おんみ》のため、あなたご自身のためになることを、
お願いしているようなものじゃありませんか。いやだわ、何かお願いして
あなたの愛情をほんとうに試そうと思う時には、
それはそれは重大で、難しいお願いにしてさし上げますわ、
とってもお許しいただけないような。
【オセロー】 君の頼みは何も断われん!
だから、そのお返しに、こっちの頼みも聴いてくれ、
しばらくのあいだ一人にしておいてくれないか。
【デズデモーナ】 とてもお断わりはできませんわね、じゃ、あなた。
【オセロー】 では、デズデモーナ。すぐに行くからな。
【デズデモーナ】 エミーリア、いらっしゃい。どうぞお気の向くままになさって。
あなたがどうであろうと、わたしはおっしゃる通りにします。〔デズデモーナとエミーリア退場〕
【オセロー】 何という可愛い奴だ! これでお前を愛さぬというなら、
俺《おれ》の魂なんか破滅してしまえ! お前を愛さぬ時が来るとすれば、
それこそこの世は再び混沌だ。
【イァーゴー】 あの、閣下……
【オセロー】 何を言いたいのだイァーゴー?
【イァーゴー】 マイケル・キャッシオーは
閣下が奥様に求婚された時に、そのことを知っていたでしょうか?
【オセロー】 知っていた、始めから終わりまで。なぜ聞くのだ?
【イァーゴー】 いえ、ただ私自身が納得《なつとく》がゆきたいためです。
それ以上の他意はございません。
【オセロー】 お前自身の云々《うんぬん》というのは何だイァーゴー?
【イァーゴー】 わたしは彼が奥様と知り合いだったとは思いませんでした。
【オセロー】 いや、そうだったのだ、われわれの間をたびたび往き来してくれた。
【イァーゴー】 本当ですか!
【オセロー】 「本当ですか」だと? そうだ、本当だ。その点に何か問題があるのか?
あの男は誠実ではないのか?
【イァーゴー】 「誠実」ですか?
【オセロー】 「ですか」だと? そうだ、「誠実」だ。
【イァーゴー】 閣下、わたくしの存じております限りでは。
【オセロー】 どう思うのだ?
【イァーゴー】 「思う」ですか?
【オセロー】 『「思う」ですか』だと! たしかに、こいつは俺《おれ》の言うことを
|おうむ《ヽヽヽ》返しに繰り返している。まるで頭の中に何か怪物でもいるようだ、
恐ろしすぎて人にも知らせられないような。お前、何かあるのだな。
たったいま聞いたぞ、お前は「これは気に入らん」と言ったな、
キャッシオーがわたしの妻と別れて行ったとき、何が気に入らなかったのだ?
それから、あの男はわしの求婚のことの顛末《てんまつ》を、
すべて知っていると言ったら、「本当ですか!」と大声を立てたな。
そしてお前はその頭の中に、何かしら恐ろしい考えを
すっぽりとしまいこんだかのごとくに両の眉《まゆ》をひそめ、
深い|しわ《ヽヽ》をよせていたではないか。もしこのわしを愛してくれているなら、
お前の考えを明かしてくれ。
【イァーゴー】 閣下、わたしが閣下を愛することは閣下も知り給う。
【オセロー】 わしもそうだと思っている。
そして、お前はわしへの愛と誠実の心でいっぱいであり、
もの言う時はまず言葉を慎重に吟味するということを知っている。
だからこそ、お前のこのような口ごもりは、ますますもってわしを驚かせる。
こんなことも、信頼するに足らぬ不誠実な輩《やから》なら
日頃よくあるトリックだ。だがしかし、心の正しい人間にあっては、
これこそは心の内からの働き、ついあらわれ出《い》でる遷延《せんえん》、遅延《ちえん》、
人の情意で抑制はできぬものだ。
【イァーゴー】 マイケル・キャッシオーにつきましては、
彼は誠実な人だとわたしは思う、とあえて誓ってもいいです。
【オセロー】 わたしもそう思う。
【イァーゴー】 人たるものはよろしく見掛け通りなるべし。
つまり、そうでない連中はそういう見掛け倒しはやめて欲しいと思います。
【オセロー】 たしかに、人たるものはよろしく見掛け通りなるべし、だ。
【イァーゴー】 それなら無論、キャッシオーは誠実な人だとわたしは思います。
【オセロー】 いや、これにはまだ何かある。
どうだ、お前が心の中であれこれと思案するその言葉で、
このわしに話しかけてくれないか。どんな悪いことでもよい。
歯に衣着《きぬき》せずに話してくれ。
【イァーゴー】 閣下、なにとぞお許しください。
わたくし、職務上のことなら何なりとご命令のままですが、
奴隷でさえ持っております権利を捨て去るわけには参りませぬ。
心の内を言えとおっしゃいますが、それが汚《けが》らわしく不実だったらどうします?
たとえば、どんな宮殿にだって、時には汚《きた》ないものが
侵入してくるものです。どんな純粋な心の持主が裁いても、
何か不浄の思惟《しい》が法廷、公判の席に入りこみ、
正義、合法の思考と同席するというようなことが
よくよく起こりがちのことなのです。
【オセロー】 お前はお前の友だちを裏切ることになるのだぞ、イァーゴー、
もしお前が、いささかなりともお前の友だちが不当な扱いをされていると知りながら、
しかもそれをお前の友だちの耳に入れなければ。
【イァーゴー】 お願いでございます。
わたくしの推測はおそらく間違っているのでございますが……
白状いたしますと、わたくしには元々生まれつき人の過ちを詮索《せんさく》し、
よくわたし自身の猜疑心《さいぎしん》から、ありもしない過失を捏造《ねつぞう》してしまうという
悪いくせがございますので……なにとぞふかくご思慮あって、
このように不完全きわまる揣摩臆測《しまおくそく》をなす者にお気をとめられることなく、
このような断片的にして不確実この上ない観察から、
あえて自ら煩《わずら》わしさを造り出す愚は決してなさいませんように。
閣下の御心の安らいのためにも、御身のためにも、
またわたし奴《め》の男の面目、誠実心、分別のためにも、
わたくしの心をお知らせ申す訳には参りませぬ。
【オセロー】 お前は何を言いたいのだ?
【イァーゴー】 「すべて良き名声は」ですよ閣下、「男にもせよ女にもせよ、
それぞれの魂の内なる、命の宝石」と申します。
わたしの財布《さいふ》を盗む奴はケチな盗人《ぬすっと》。何がしの値打ちはあるが知れたもの。
わたしのだったものが彼奴《きやつ》のになる。要するに天下の回りもの。
ところが、わたしの名声というものをチョロマカス奴は、
自分には何の得にもならぬものをわたしから盗《と》ってゆき、
わたしを本当の貧乏にしてしまうのです。
【オセロー】 是が非でもお前の心を知ってやる!
【イァーゴー】 それはなりませぬ。たとえわたしの心が閣下の手中にありましても。
ましてそれをわたくしが保管しておりまするあいだは。
【オセロー】 何だと!
【イァーゴー】 閣下、どうかご用心ください、嫉妬《しつと》だけは!
これは緑の目をした怪物で、食べている獲物を
もてあそぶのです。妻を寝取られてもまだ仕合わせと言えるのです、
それを知ってはいても、日々の一刻一刻が、おお何たる地獄の苦しみ、
心から愛し、しかも疑い、疑惑をいだいて、しかも熱烈に愛する者には!
【オセロー】 おお何たる無惨!
【イァーゴー】 「貧しくとも満ち足りたる者は豊かなり、まこと豊かなり」
ですがその富も、いかに際限なくあろうとも、貧しさは冬枯れ同然、
いつ、それを失くすのではないかと常に心配している者にとっては。
おお神さま、われわれ同族のものの魂をなにとぞお守りくださいますよう、
嫉妬から!
【オセロー】 なぜ、なぜそんなことを言うのだ?
お前はわしがこれからは嫉妬に明け暮れするとでも思っているのか?
満ち欠ける月の変化を常に新しい疑惑をもって
追い続けるとでもいうのか? とんでもない! 一度疑うということは
一度にそれを解決してしまうということだ。お前が想像するような、
そんな吹けば飛ぶようなカラ憶測にかかずらって、
それに鋭意専心するくらいなら、いっそ生まれ変わって
山羊《やぎ》にでもなった方がましだ。わしは嫉妬《しつと》心などおこさんぞ、
妻が美しい、食がすすんで健康、人付き合いがよい、
話し上手、歌も、音楽も、踊りも上手だなどと言ったって、
元々《もともと》美徳のあるところ、これらはさらに美徳の花を添えるもの、
この俺《おれ》が魅力の点でいささか欠ける処があると言ったって、
妻の不義を心配したり疑ったりするようなことは絶対ない。
なぜなら妻は目があって、それでこの俺を選んだのだ、大丈夫だイァーゴー、
俺はよく見てから疑う。疑う時には証明する。
そして明確な証明の上に立てば、結論はただ一つ……
それを最後に愛をあきらめるか、さもなければ嫉妬をやめるかだ!
【イァーゴー】 それで安心しました。と申しますのは、これで、もっと卒直に
閣下に対していだいているわたしの忠誠のまことを、
表わせることに相成ったからであります。それで義によって申し上げます、
なにとぞお聴きください。まだ証拠があって申し上げるのではないのですが、
奥様にお気をつけください、キャッシオーと一緒にいる時にご注意ください。
着眼の仕方は、つまり、疑ってもいないが安心してもいないというふうに。
わたくしは閣下の寛大にして高貴なるお人柄が、
その生まれながらの善良さの故に欺かれることは許せません。用心してください。
わたくしはわれわれ同国人の気質をよく知っています。
ヴェネチア女は浮気をしても、神様にゃ申し上げるが
亭主殿には絶対明かそうとはいたしません。連中の最良の良心は
それをやらんというのではなく、わからんようにやるということなのです。
【オセロー】 ほんとうにそうなのか?
【イァーゴー】 あの方はあなたと結婚して、父親を欺いたのです。
そしてあなたの顔が怖くて、ふるえ上がっている時に、
実はそれを心から愛していたのです。
【オセロー】 その通りだった。
【イァーゴー】 では十分ではないですか?
あんなに若くて、あんなふうなフリをすることができて、
それで父親の目をも樫《かし》の木目《もくめ》ほどにしっかりと縫い合わせ、
お蔭で父親は魔術とばかり思いこみ……いやこんなことを言ってはなりません。
閣下どうかお許しくださいますよう、これと申すも
閣下の御為《おんため》を思う一念だけからであります。
【オセロー】 その恩は一生忘れぬぞ。
【イァーゴー】 お身受けしたところ、いささかご気分を害されたようですが?
【オセロー】 いや何の、何の。
【イァーゴー】 ほんとうに、そうではないかと心配です。
申し上げましたこと、どうか閣下に対するわたくしの敬愛の念からだと
お考えくださいますよう。ですが明らかにお気に障《さわ》られたご様子。
わたくし奴《め》の言葉、どうか単なる疑惑の域にとどめおかれますよう、
無理無体に総体的な問題点、広範囲な領域へと拡張されることなど、
絶対なされませんよう。
【オセロー】 そんなことはせん。
【イァーゴー】 もしもそのようなことをなさいますと閣下、
わたくしの言葉はわたくしが思いもかけなかったような悪い結果に、
落ちこむことに相成ります。キャッシオーは立派な友人です……
閣下、お気に障《さわ》られたご様子ですが。
【オセロー】 いや、たいしたことはないぞ。
デズデモーナは誠実、貞節としか考えられない。
【イァーゴー】 いつまでもそうでありますように! そうお考えでありますように!
【オセロー】 だがしかし自然の道は、えて踏みはずし勝ち……
【イァーゴー】 そうです、そこなんです! つまり卒直に申し上げますが、
誰が考えても心の向くのが当然と考えられる、
同じ国の、同じ顔色の、同じような家柄からの
数ある結婚の申し込みは見向きもしないで……
ふん! 何かくさい、淫乱の情欲の臭《にお》いがするようだ、
不似合いもはなはだしい、まこと不自然きわまる考え方……
いやお許しください、わたくしは何も絶対的に、
確実にあの方のことを申し上げているのではないのです。
もっとも心配はしています、いつ、まともな判断力が戻って来て、
あなたと彼女を取り巻くハンサムな連中とを比べやしないかと、
そしてあるいは後悔するのではないかと。
【オセロー】 ではこれで、ではこれで!
さらに何かわかったら、是非知らせて欲しい。
君の奥さんをおだてて見守るようにしてくれ。一人にしてくれイァーゴー。
【イァーゴー】 では閣下、ご免ください。〔行きかける〕
【オセロー】 なぜ俺《おれ》は結婚したのだ? あの律気《りちぎ》ものは、たしかに、
彼が口にした以上のことをまだまだ見、知っている。
【イァーゴー】 〔戻って来て〕閣下お願いでございます。この件に関しましては、
なにとぞもうこれ以上ご詮索なさいませんよう。成り行きに任せてください。
キャッシオーは有能で、その職務を完全に遂行することはたしかですから、
彼が元の地位に戻ることは適切と思われますが、
ですが閣下、もし彼を、しばらくの間で結構、遠ざけておいてくだされば、
それで彼という男、そのやり方というものがおわかりと存じます。
奥様が復職をいかに強引に押してこられるか、いかに強硬に、
また熱烈にせがんでこられるかをよくよくご注意ください。
それで沢山のことがわかります、それまでは、どうせわたしなどは、
いらぬ苦労をする|おせっかい《ヽヽヽヽヽ》屋とでも考えておいてください……
自分でもそうではないかとおそれる理由は十分あるのですが……
そしてどうぞ閣下、奥様は何のやましい処はないものとお考えください。
【オセロー】 心配するな、俺《おれ》にも自制心はある。
【イァーゴー】 ではもう一度ご免ください。〔退場〕
【オセロー】 この男はまことに誠実この上ない。
それに対人関係に関する該博な知識を持ち、すべて人情の機微を
知りつくしている。もしあの女が到底俺の手には負えぬ鷹とわかったら、
たとえ彼女《あれ》をつなぎとどめる皮ひもが、俺の心の琴線であろうと、
口笛吹いて放してやろう。風下へ飛ばしてやって
勝手に獲物をあさらせてやろう。おそらくは俺は色が黒いから、
それに優男《やさおとこ》どもが持っている優美、いんぎんな
挙措《きょそ》応対の能力に欠けているから、あるいは俺もすでに年、
もう人生の下り坂……と言ってもたいしたことではないのだが……
彼女《あれ》は去《い》ってしまったのだ。こんな恥辱はない。俺の唯一の救いは
あいつを憎むこと以外はない。おお何たる結婚の呪い!
可愛い女どもが自分のものだと言葉では言えても
彼らの気持ちはままならぬ! いっそ|ひきがえる《ヽヽヽヽヽ》にでもなって、
どこかの地下牢の蒸気でも吸って生きていた方がましだ、
愛するものの片隅だけをわがものにして、他はすべて
他人用だなんて! だが所詮《しよせん》これこそは身分高き者の受ける災い、
この点での彼らの受ける特権は、身分低き者より遙かに少ない。
これは死と同じに、避けることのできない運命なのだ。
この額に生えた二股《ふたまた》の角の災いは、われわれが生を受けたその時から、
すでに定められた運命なのだ。デズデモーナがやってくる。
〔デズデモーナとエミーリア登場〕
もし彼女《あれ》が不義をしたというなら、おお、その時は天は自らを愚弄《ぐろう》するものだ!
俺はそんなことは信じたくない。
【デズデモーナ】 どうなさいました、あなた?
お食事の用意はできましたし、お招きになった
町のお偉方も、みなあなたのお出でを待っておられます。
【オセロー】 わしが悪かった。
【デズデモーナ】 どうしてそのような弱々しいお話ぶり?
ご気分でもお悪いのでしょうか?
【オセロー】 額《ひたい》のところがひどく痛むのだ、これここのところが。
【デズデモーナ】 きっと夜勤をなさったためです、すぐによくなりますわ。
繃帯《ほうたい》をきつくしてさし上げます、一時間もすれば
よくなります。
【オセロー】 君のハンカチでは小さすぎる。
〔オセローは頭のハンカチを払いのける。デズデモーナそれを落とす〕
捨てておきなさい。さあ、一緒に中へ入ろう。
【デズデモーナ】 お気分が悪いなんて、ほんとにお気の毒ね。〔オセローとデズデモーナ退場〕
【エミーリア】 うれしい、いいものが見つかったわこのハンカチ、
これはムーアから奥さんへの最初の贈りもの、
気紛《きまぐ》れな夫はこれを盗んでくれと、ずっと前から
わたしにしつっこくせがんでた。でも奥さんは大切にしていて……
いつも肌身から離してはならぬというムーアの呪文にかかって……
始終身近に持っていて、それにキスしたり、
話しかけたりしてらっしゃった。この刺繍《ししゅう》を写し取らせて、
イァーゴーにあげることにしよう。
いったいそれを何に使うのか、わたしにゃ一向にわからない。
わたしゃただ、気紛れなあの人を喜ばしてやりたいと思うだけ。
〔イァーゴー登場〕
【イァーゴー】 どうした? ここで一人で何をしてるんだ?
【エミーリア】 がみがみお言いでないよ。お前さんにいいものがあるんだから。
【イァーゴー】 俺にいいもの? そんなもの誰だって持っているシロモノさ……
【エミーリア】 いやらしい!
【イァーゴー】 バカな女房を持つということだよ。
【エミーリア】 おや、それだけ? ところでわたしには何くれる、
例のハンカチをあげると言ったら?
【イァーゴー】 どのハンカチだ?
【エミーリア】 どのハンカチだだって!
それ、ムーアが最初にデズデモーナにやったあれよ、
お前さんがわたしに盗めとたびたび言ったじゃないか。
【イァーゴー】 そいつを盗んできたというのかい?
【エミーリア】 とんでもない。あの方が、ついうっかり落としたのを、
ちょうど運よくあたしがここにいて、それを拾ったという訳さ。
ごらん、これがそうよ。
【イァーゴー】 女房でかした! それを俺《おれ》によこせ。
【エミーリア】 これをいったい何にお使いだい? 是が非でもくすねてこいと、
えらく御執心《ごしゅうしん》だったけど。
【イァーゴー】 お前なんかの知ることか!〔ひったくる〕
【エミーリア】 何かごく大事なことに使うんでなかったら、
わたしに返しておくれよ。お気の毒に奥様はそれが無いことに気がつけば、
気が違ってしまうかもしれない。
【イァーゴー】 知らん顔をしているのだ。僕はこれが入り用なんだ。
さあ、一人にしといてくれ。〔エミーリア退場〕
このハンカチ、キャッシオーの宿に落としておいてやろう。
そして彼奴《きやつ》に見つけさせてやるのだ。吹けば飛ぶような些細《ささい》なことでも、
嫉妬《しつと》深い者には聖書の文句にいささかも劣らぬ、
確かな証拠となるのだ。こいつは一つ役立たせてやるぞ。
ムーアの奴め、俺《おれ》の薬が効いてきて、すでに変わってきてやがる。
危険な観念という奴は、その本質から考えて一種の毒、
最初のうちは決して口に苦いとは感じられないのだが、
これが血液にほんの僅かでも作用すると、
まるで硫黄の鉱山《こうざん》同然、ぱっと燃え上げる、そういった毒なのだ。
〔オセロー登場〕
俺の言った通りだ。
それ、彼奴《きやつ》がやって来る! |けし《ヽヽ》だろうが、|ま《ヽ》|んだらげ《ヽヽヽヽ》だろうが、
あるいはそのほかの世界中どんな睡眠薬を飲んだって、
昨日までのような安らかな眠りは、もうお前には
絶対に来させない。
【オセロー】 へん! けしからん! 俺に不義をしただと?
【イァーゴー】 おや、どうなさいました閣下? そのことはもうおやめください。
【オセロー】 さがれ! 行け! お前はこのわしを拷問台《ごうもんだい》にかけているのだ。
誓って言う、いっそ大いに欺《だま》されたるがよし、
なまじ僅かばかりを知るよりは。
【イァーゴー】 どうなさったというのです閣下?
【オセロー】 俺《おれ》の目を盗んでの逢《あ》い引きには俺は何も感じなかった。
俺は見なかったのだし、思いもしなかったし、何の苦しみもなかった。
晩にはよく眠れたし、のんきだったし、元気だった。
彼女《あれ》の唇にキャッシオーのキスなど気づかなかった。
盗まれた者は、盗まれたことに気がつかなければ
知らさないがよい。その人は盗まれたことにはならぬのだ。
【イァーゴー】 そううかがってお気の毒に存じます。
【オセロー】 たとえこの陣地に駐屯するすべての者が、一土工兵にいたるまで、
彼女《あれ》のすばらしい肉体を味わったとしても、俺は仕合わせだったろう、
俺さえ何も知らなかったら。おお、その平静なる心も
今や永遠におさらばだ! さらば満ち足りたる心よ!
さらば羽根飾りつけたる甲冑《かつちゅう》に身をかためし軍隊よ! しかして野心をも
すばらしき美徳と化する大いなる戦いよ、おお、さらば!
さらば嘶《いなな》く軍馬、瀏亮《りゆうりよう》と高鳴るラッパの音、
士気を鼓舞するドラムの音、耳をつんざく笛の音、
威風堂々の軍旗、しかして武人たる者の特質のすべて、
栄《は》えあるいくさの壮観、威容、盛儀!
しかしてその荒々しき喉元《のどもと》もて、不死身の主神、
ユピテルの恐ろしき喧噪《けんそう》の武器、電鳴にも紛《まご》う汝巨砲よ、
さらば! オセローの仕事はもう終わりだ!
【イァーゴー】 こんなことってあるでしょうか閣下?
【オセロー】 おのれ悪党|奴《め》、俺の女房が淫売だと証明するのだぞ、必ず!
必ずだぞ。しかと目に見える確実な証拠を出すのだ。
さもなくば、人間の永遠なる魂にかけ、誓って言うが、
お前など犬に生まれたがよかったのだと、この俺の
烈しい怒りを思い知らせてくれる!
【イァーゴー】 それほどまでに?
【オセロー】 しかとそうだとこの目に見せろ。さもなくば少なくとも証明するのだ、
その証拠にはいささかの疑いをかけ得るきっかけもスキも
無いということを……さもなくばお前の命は無いものと思え!
【イァーゴー】 閣下……
【オセロー】 もしもお前が彼女《あれ》を中傷し、この俺《おれ》を苦しめるのだというのなら、
今後祈りは一切無用だ。憐憫《れんびん》の情はすべて捨て去れ。
恐怖の頭上に、さらに恐怖を積み重ねろ。
ために天は泣き、大地は驚愕《きょうがく》するごとき行為をあえてやれ。
お前が何をしようとも、地獄へ落ちる大罪は、
これ以上大いなるものは無いからだ。
【イァーゴー】 おお神よ、み恵みを、ご加護を!
閣下はそれでも人間ですか? いったい心が、理性がおありですか?
もうおさらばです! 私の役を取り上げてください。おお哀れな道化、
一枚看板の「誠実」を懸命に演じ続けてきて、しかも悪役になろうとは!
おお何たる奇々怪々の世の中! 用心しろ、用心しろ、世の人々、
卒直で誠実であることは決して安全ではないのだ。
ご教訓まことに恭《かたじけ》なく存じます。今日よりは、
友人を愛することはやめにします。友情はこんな不都合を生むのですから、
【オセロー】 いや、待て。お前は誠実でなけりゃならん。
【イァーゴー】 いや、利口でなけりゃならんのです。誠実なんてのは道化役、
懸命に働いて、しかも元も子も失くしてしまうのです。
【オセロー】 誓って言うが、
わしの妻は貞節だと思える、だがそうでないとも思える。
お前は正しい人間だと思える。だがそうでもないと思える。
是が非でも何か証拠が欲しい。月の女神の面《おもて》のように、
清らに輝いていた彼女《あれ》の名は、今は俺《おれ》のこの顔のように汚《よご》されて、
真っ黒になってしまった。紐《ひも》はないか、ナイフはないか?
毒はないか。火は、息の根とめる流れはないか?
もうこの世は我慢がならぬ。白か黒か、何としてでも納得《なつとく》がしたい!
【イァーゴー】 お見受けしたところ閣下は、完全に激情に呑《の》まれてしまわれたようで。
閣下に申し上げたのが悪かったのだと悔やまれてなりません。
閣下は納得したいと仰せられるんで?
【オセロー】 したいのではない。是が非でもするのだ。
【イァーゴー】 そりゃできるでしょう。だがどうやって、どうやって納得《なつとく》します?
見物人になってバカの大口を開けて眺めたいとおっしゃるんで?
奥さんが乗っ取られるのをご覧になるんで?
【オセロー】 おのれ地獄へ落とさずには!
【イァーゴー】 連中をそういう眺めに持って行くことは、そりゃ骨の折れる
大変に難《むずか》しいことだと思います。重なり合っているところを、
自分の目のみならず人の目が眺めるなんて、
とんでもないことです! とすると、何を、どうすりゃいいんです?
どう申せばいいんです? どこで納得がいかれるんです?
これを閣下がご覧になれることは万が一にもございません、
たとえ連中が山羊《やぎ》のように助平で、猿のように大|熱々《あつあつ》で、
さかりのついた狼《おおかみ》のように絡《から》み合い、酔っぱらった阿呆《あほう》のように
まるっきり間抜けでもです。ですがいいですか、お聞きください、
もしも真実の扉へ直接《じか》に通じておりまする、
確実な状況上の証拠がございまして、それでもし
閣下のご納得がゆきますならば、それを申し上げてもよろしゅうございます。
【オセロー】 彼女《あれ》が俺《おれ》を裏切ったという生《なま》の理由を話すのだ。
【イァーゴー】 この役柄わたしは気乗りがいたしません。
ですが、閣下に対する愚かなる誠実と敬愛の念に駆られて、
この問題、ついここまで深入りしてしまいました以上、
話しましょう。実は最近、キャッシオーと同じ部屋に泊まったことがありました。
ひどい歯痛に悩まされましてわたくしは、一向に
寝つくことができませんでした。
世の中にはよく、心のしまりが無くて、寝ているあいだに
自分のことをいろいろと口に出す手合いが居りますが、
キャッシオーがそれなんです。
あの男は寝言でこんなことを言うんです、「可愛いデズデモーナ、
お互い気をつけようね、ふたりのことは秘密にしとこうね!」
それから閣下、あの男、このわたしの手をぎゅっと握りしめて、
大声で「おお可愛い奴!」と言い、きつい、きついキスをこのわたしに。
まるでわたしの唇に生えてるキスの大木を、根こそぎ
引っこ抜かんばかりの勢いでした。それからその脚を
わたしの股の上に乗せ、深いタメ息、キス、そして大きな声で言いました、
「お前をあのムーアなんかに渡した運命に呪いあれ!」
【オセロー】 おお不|埒《らち》千万、不|埒《らち》千万!
【イァーゴー】 いえ、これはただあの男の夢だったんで。
【オセロー】 だがこれは過去にそういう経験があったことを示すものだ。
【イァーゴー】 たかが夢でも、忌《い》まわしい疑惑十分てとこですね。
それに、それ自体では不十分な他の証拠を、
固め上げるのに大いに役立つというものです。
【オセロー】 彼女《あれ》を八つ裂きにしてくれる!
【イァーゴー】 とんでもない、落ちついてください。まだ何も見た訳ではありません。
奥さんは潔白かもしれませんよ。ただお尋ねしますが、
閣下は奥さんが苺の刺繍《ししゅう》のしてあるハンカチを
よくお持ちになっているのをご覧になったことはございませんか?
【オセロー】 そういうのをわしは彼女《あれ》にやったぞ。わしの最初のプレゼントだ。
【イァーゴー】 それは存じませんでした。ですが今日、そんなハンカチで……
間違いなく奥さんのものです……キャッシオーが
鬚《ひげ》を拭《ふ》いているのを見かけました。
【オセロー】 そしそれがあのハンカチなら……
【イァーゴー】 もしそれがあのハンカチなら、あるいはとにかく奥さんのなら、
他の証拠もあることですし、奥さんはたいそう不利ということに相成ります。
【オセロー】 おお、おのれ下種《げす》めが、幾千万の命を持っておれ、
恨みを晴らすに、たった一つではあまりに僅少、貧弱すぎる。
今こそわかったぞ、すべては事実だ。見ろ、イァーゴー、
俺の愚かしい愛のすべては、こうして天に吹き散らしてやる。
行ってしまった。
立ち上がれ、暗黒の「復讐《ふくしゅう》」よ、そのうつろな洞穴《ほらあな》から!
譲りわたせ、おお愛の神よ、わたしの心の中の汝《そち》の王座を
暴虐無類の「憎悪」に! 腫《は》れ上がれ、わが胸よ、汝《そち》の中身は
毒蛇の猛毒でいっぱいなのだ!
【イァーゴー】 無理からぬこととは思いますが、お鎮まりください。
【オセロー】 おお、血だ、血だ、血だ!
【イァーゴー】 どうか堪《こら》えてください。お心変わりすることもあるかもしれません。
【オセロー】 断じてないぞイァーゴー。かのポンティック海の氷の水が、
滔々《とうとう》と迸《ほとばし》り流れていささかも滞《とどこお》ることなく、
ただまっしぐらにプロポンティック海へ、
そしてヘレスポント海峡へと注ぎこむように、
まさにそのごとくに俺《おれ》の血に餓えた思いは、いともすさまじい勢いで流れ去り、
断じて後《うし》ろを振り返ることはなく、水|嵩《かさ》減って優しい愛の心に戻ることもない、
渺茫《びょうぼう》たる復讐《ふくしゅう》の大海にすべて呑みこまれてしまうまでは。
いざ、彼方《かなた》なる大理石模様の大空にかけて、
聖なる誓いのしかるべき儀式の法にのっとり、
ここに誓いの言葉を申し述べる。〔ひざまずく〕
【イァーゴー】 立たないでください。〔ひざまずく〕
とこしえに輝く大空の明かりよ、われらすべてを取り巻く
全宇宙の諸大元よ、何卒証《なにとぞあか》しを立てさせ給え、
ここにイァーゴーはその全知、全心、全能力をあげて、
辱めを受けたオセローのために捧げんことを、
何卒証《なにとぞあか》しを立てさせ給え! ご命令を得れば、
いかに残虐なる仕事といえども、それが閣下の御為《おんため》となれば、
わたくし奴《め》にとりましては慈悲の行ない同然であります。〔二人立ち上がる〕
【オセロー】 かたじけない。
単に口先だけの礼ではなく、心の奥底から汝《そち》の好意を受け入れ、
ここで、ただちに汝《そち》を試してみることとする。
ここ三日のうちに、わしはお前の報告が聞きたい、
キャッシオーは生きておらぬと。
【イァーゴー】 わたしの友人はもう死んだも同然です。
言いつけ通りにいたします。ですが奥様は生かしてあげてください。
【オセロー】 彼女《あいつ》は地獄へ落とせ! おのれ淫蕩女め、地獄へ落とせ!
さあ、一緒にここを出よう。わしは引き下がって、
あの美しい悪魔に手っ取り早く死をもたらす、
何らかの方法を考えることとしよう。これからはお前が隊長だ。
【イァーゴー】 わたくし奴《め》は永遠に閣下のものでございまする。〔退場〕
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第四場 キプロス 城の前にて
〔デズデモーナ、エミーリアおよび道化登場〕
【デズデモーナ】 ねえお前、隊長のキャッシオーさんの御宿泊《ごしゆくはく》の場所を知らない?
【道化】 隊長さんのシュクハクの場所なんか言えませんや。
【デズデモーナ】 どうしてなの?
【道化】 隊長さんは軍人さんでさあ、その軍人さんの四苦八苦《シクハツク》の場所だなんて言おうものなら、立ち所にズブリやられまさあ。
【デズデモーナ】 呆《あき》れた。隊長さんはどこにお泊りなの?
【道化】 隊長さんの御宿泊《ヽヽヽ》の場所を申し上げるこたあ、つまりあっちの四苦八苦《ヽヽヽヽ》の場所を申し上げることでさあ。
【デズデモーナ】 それ、何のことなの?
【道化】 つまりわっちは御宿泊《ヽヽヽ》の場所を存じないということでさあ。だからその場所を造っちまって、隊長がどこそこに御宿泊だと申し上げるこたぁ、つまりわっち自身の喉が四苦八苦《ヽヽヽヽ》ってことになりますんで。
【デズデモーナ】 隊長の居場所を尋ねて回り、その情報に大いに「教化」してもらったら?
【道化】 「教養問答」と参りましょう。隊長さんのため、一つ世間を回りましょう。つまり、問いを出せ、さらば答えは与えられん、というわけでさあ。
【デズデモーナ】 隊長を探して、ここへ来るようお言いなさい。隊長にいいように主人に話しときましたから、万事よくなると思うって言っておくれ。
【道化】 その件ならば人知のおよぶ範囲内。さればこのことをなすこと、いざや試みん。〔退場〕
【デズデモーナ】 もしかすると、どこかであのハンカチ亡くしたのかしら?
【エミーリア】 わたしは存じませんよ、奥様。
【デズデモーナ】 ほんと、いっそ財布《さいふ》を失くした方がよかったわ、
どんなにたくさんのお金が入っていても。主人のムーアは
真実の心の持主、嫉妬《しつと》深い連中が持っているような
下品な性格のお人では絶対ないからいいが、そうでなければこれは、
よからぬ考えを起こすに十分だわ。
【エミーリア】 旦那様は嫉妬深くはございませんか?
【デズデモーナ】 誰? 主人? そんな気持はあの人が生まれた所のお日様が、
みんな吸い取ってしまったらしいのよ。
〔オセロー登場〕
【エミーリア】 あら、旦那様がいらっしゃいました。
【デズデモーナ】 もうあの人の所を離れないわ、キャッシオーが
呼び戻されるまでは。あなた、ご機嫌いかが?
【オセロー】 いいよデズデモーナ。(傍白)おお知らぬふりをする難《むずか》しさ!
君はどうだ、デズデモーナ?
【デズデモーナ】 いいですわ、あなた。
【オセロー】 手を貸してごらん。これは湿ってるね。
【デズデモーナ】 まだ年もとっていませんし、悲しみも知りませんもの。
【オセロー】 これは実り豊かで、寛大な心をあらわしている。
熱い、熱い、そして湿っている。君のこの手は
自由からの隔離《かくり》、断食《だんじき》と祈祷《きとう》、
厳しい修行と敬謙な礼拝を必要としているという手だ。
それ、若い、汗だくの悪魔がここにいるからな、
よく謀叛《むほん》を起こすやつだ。これは実にいい手だ、
気前がいい手だ。
【デズデモーナ】 ほんと、そうおっしゃってもいいわ、
だって、わたしの心をさし上げたのはこの手ですもの。
【オセロー】 気が大きい手! 昔は心があって手をさし出したものだ。
ところが今の新しい流儀は手だけで、心は無い。
【デズデモーナ】 何のことをおっしゃってるのかしら。それより、例のお約束!
【オセロー】 何の約束かねお前?
【デズデモーナ】 わたしキャッシオーにここへ来るように使いを出しましたの。
【オセロー】 わしは悪い風邪をひいて鼻水が出て困っている。
お前のハンカチを貸してくれ。
【デズデモーナ】 さあ、どうぞ。
【オセロー】 わしがやったのをだ。
【デズデモーナ】 いま持っておりませんわ。
【オセロー】 持っていない?
【デズデモーナ】 ほんとうに持っていません。
【オセロー】 そりゃあいかん。
あのハンカチは、
さるエジプト女がわしの母親にくれたものだ。
その女は魔法使いで、人の心はたいていは読みとれた。
それがお袋《ふくろ》に言った、そのハンカチを身につけているあいだは、
お袋には魅力があって、親父《おやじ》の愛情を完全に
自分に惹《ひ》きつけておくことができる。だがもしそれを失くしたり、
あるいは人にやったりすると、親父の目は
お袋をうとましいものと見るようになり、親父の心は
新しい愛人を漁《あさ》るのだと。お袋は亡くなるとき、それをわしにくれた。
そしてわしが妻を娶《めと》るような巡り合わせになったときには、
それを妻にやれと言った。わしはそうした。だからくれぐれも注意して欲しい、
君のその大事な目と同じに、それを大切なものとして欲しいのだ。
それを亡くしたり、人にやったりすることはまさに身の破滅、
とりかえしのつくことではない。
【デズデモーナ】 そんなことってありますかしら?
【オセロー】 事実だ。あの布には魔法がかかっているのだ。
織ったのはさる巫女《みこ》……太陽が年ごとの軌道をめぐること二百|度《たび》、
その年月をこの世の中で数え重ねたその巫女《みこ》が、
精霊乗り移り予言の力を身に受けて、それを織り上げた。
その絹を吐いた蚕《かいこ》の虫は清められて神に捧げられたものだ。
その糸を、熟達した秘法の名手が、乙女の心臓から絞った
魔の体液で染め上げたのだ。
【デズデモーナ】 まあ! ほんとうにそうなのでしょうか?
【オセロー】 正真正銘の事実だ。だからよく注意して欲しいのだ。
【デズデモーナ】 それならそのようなもの、いっそもらわなければよかった!
【オセロー】 何だと! どうしてだ?
【デズデモーナ】 どうしてそのようにぶっきらぼうに、急《せ》いておっしゃいますの?
【オセロー】 失くしたのか? もう無いのか、さあ言え、見失ってしまったのか?
【デズデモーナ】 神様、どうすればよいのでしょう!
【オセロー】 何と言った?
【デズデモーナ】 失くしはしません。
でも失くしたって別に……
【オセロー】 どうだというんだ?
【デズデモーナ】 失くしはしないと言ってるのです。
【オセロー】 じゃ取って来い、見せろ。
【デズデモーナ】 そりゃ見せられますわ。でも今は駄目です。
こんなふうにして、実はわたしのお願いをはぐらかすおつもりなんでしょう。
お願いです、キャッシオーをもう一度受け入れてあげてください。
【オセロー】 あのハンカチを取ってこい! 俺《おれ》は不安になってきた。
【デズデモーナ】 ねえ、あなたったら!
あんな立派な方は、またといるものではありません。
【オセロー】 あのハンカチだ!
【デズデモーナ】 お願い、キャッシオーのことをおっしゃって!
【オセロー】 あのハンカチだ!
【デズデモーナ】 あの方は一生涯あなたのためを思い、
それにすべてを賭《か》けて一すじに生きてきた方です、
いつもあなたと苦楽を共にして来た……
【オセロー】 あのハンカチだ!
【デズデモーナ】 ほんとうにあなたって悪い人。
【オセロー】 おのれ畜生!〔退場〕
【エミーリア】 これでこの人は嫉妬《しつと》深くないというんですか?
【デズデモーナ】 こんなことは初めてなの。
たしかにあのハンカチは何か不思議な力があるのだわ。
あれを失くしてしまって、ほんとうに悲しいわ。
【エミーリア】 男なんて、一年や二年じゃわかりません。
男は所詮《しよせん》みんな胃袋、あたしたちはみんな食べもの、
あたしたちをがつがつ食べますが、お腹がいっぱいになると、吐き出すんです。
〔イァーゴーとキャッシオー登場〕
ほら、キャッシオーとうちの人が!
【イァーゴー】 ほかに方法はありません。是非とも奥さんにやってもらうのです。
これはちょうどいいところへ! さあ、奥さんに頼みこむんです。
【デズデモーナ】 おやキャッシオー、ご機嫌よう。何かありまして?
【キャッシオー】 奥様、前にお頼みした件です。どうかお願いでございます、
奥様の有力なお力添えで、なにとぞいま一度《ひとたび》、
このわたくし奴《め》に生命《いのち》をお与えくださいますよう。そしてわたくしが
心からのお勤めを捧げ奉る閣下のご愛顧を、
再び得させてくださいますよう、もうこれ以上待てません。
もしもわたくしの罪が大変に致命的なもので、
過去の勤めをもってしても、今の悲しみをもってしても、
また将来いかに忠勤を励むと誓っても、二度と
閣下のご愛顧を贖《あがな》うことができないというなら、
せめてそのことだけでも知らせていただければわたくしはありがたいのです。
そうなれば無理にでも諦めの衣《ころも》をわが身に着せて、
いずれ何かほかの人生航路に身を閉じ込めます、
運命の女神も何か施してくれるでしょう。
【デズデモーナ】 おお、こんなにも身分高いお方が!
わたしの執《と》り成《な》し、どうも今のところ調子がよくありません。
主人はいつもの主人ではないのです。主人とは思えぬ心の変わりよう、
見たところいつもの主人と変わっていないのですが。
すべての聖なる天使よご照覧あれ、誓って申します!
わたくしはあなたのために最善をつくしたのです。
それなのに、主人の機嫌をすっかりそこねてしまいました。
思うことを言いすぎたのです。しばらくは辛抱していなければなりません。
わたしにできることはいたします。いや、もっとやりますわ、
自分のためなら到底やらないようなことも。それで我慢してくださいね。
【イァーゴー】 閣下はご立腹なのかな?
【エミーリア】 今しがたここから出て行かれましたが、
たしかに、何か奇妙に動揺していらっしゃいました。
【イァーゴー】 閣下が怒ることがあるのかな? わたしはかって見たことがある、
大砲が閣下の戦列で炸裂《さくれつ》、あたりの兵士を空中に吹き飛ばし、
まるで悪魔の仕業《しわざ》のように、閣下のご兄弟を吹き消した、
閣下の腕からもぎ取ってだ……それでも閣下は平然としておられた。
何か重大なことがあるに違いない。閣下にお会いしてみよう。
もしほんとうにご立腹だというなら、きっと何かわけがある。
【デズデモーナ】 お願いします、そうしてください。〔イァーゴー退場〕
何かお国の問題だわ、
ヴェネチアから知らせがあったのか、それともここキプロスで、
何か未遂の陰謀のあることがわかり、
あの人の清らかな心を濁したのだわ。こんな時には、
男の本性は、もともと大きな問題を扱うのが仕事なのに、
小さなことに口やかましく文句をつけるもの。ほんとにその通りだわ。
だって、わたしたちの指に痛いところができると、
ほかの何でもないところにまで、その痛い感じが
伝わって行くじゃないの。そうよ、男は神様じゃないと考えなくちゃ。
結婚したてみたいな生真面目《きまじめ》さを要求したって
そりゃ無理だわ。エミーリア、わたしってほんと駄目ね、
わたし心の底で、あの人の不親切さを裁いていたのだわ、
戦陣にある者としてはおよそ不親切この上なしだったわ。
でもこれでわかったわ、わたしは主人に偽証《ぎしょう》をそそのかしていたのよ。
主人は不当に告発されていたんだわ。
【エミーリア】 おっしゃるようにお国の問題でありますようお祈りします。
奥様についての思惑《おもわく》や、気まぐれの嫉妬《しつと》心では
絶対ありませんように。
【デズデモーナ】 あら、嫌だ! 疑われるようなことは何もしていないわ。
【エミーリア】 でも嫉妬深い人はそんなお答えでは承知しませんよ。
連中は何か訳があって嫉妬するというんじゃなくて、
嫉妬深いから嫉妬するというだけのことなんです。嫉妬は
自分で自分に|たね《ヽヽ》を植え、自分で自分を生む怪物なんです。
【デズデモーナ】 神様、どうかそのような怪物をオセローの心から遠ざけてください。
【エミーリア】 神様、あたしもそうお祈りします!
【デズデモーナ】 主人を探してきます、キャッシオー、この辺にいて頂戴ね。
もしご機嫌がよかったら、あなたのお願いを切り出して、
それがうまく行くよう全力をつくしてみますわ。
【キャッシオー】 奥様のご好意、心から感謝いたします。〔デズデモーナとエミーリア退場〕
〔ビアンカ登場〕
【ビアンカ】 こんにちは! キャッシオーさん。
【キャッシオー】 おや、こんなところで何を?
元気なんだろうね、わたしの美しいビアンカ!
実はちょうどいい、わたしも君の家へ行くところだったんだ。
【ビアンカ】 キャッシオー、あたしもちょうどあなたのお宿へ行くところでした。
ねえ、一週間もお見えにならなかったじゃない? 七日七晩もよ!
二十の八倍、百六十たす八時間よ! しかも待つ身のこの辛《つら》さ、
時計の時間の、そのまた二十の八倍倍、百六十倍も長いわよ!
数えるだけでもうんざりだわ!
【キャッシオー】 許しておくれビアンカ。
このあいだ中ずっと、鉛のような重い気持で押しつぶされていたんだ。
だが、いつかもっと、邪魔の入らぬ時を見計らって、
このご無沙汰の詫びは是非つける。ねえ、ビアンカ、〔デズデモーナのハンカチを渡して〕
この刺繍《ししゅう》の模様を写してくれないか?
【ビアンカ】 まあキャッシオーったら!
どこでこんなものを? また新しい別口からもらったのね。
来もしないで、さんざん辛《つら》い目に合わしといて、この始末、
こんなことになってたってわけ? いいわよ、いいわよ。
【キャッシオー】 これ、やめないか!
そんな嫌ったらしい邪推は悪魔の口へ投げこんでおくれ、
きっとそこからもらってきたんだから。君は焼いているんだな、
そのハンカチは誰か女からもらった、何か記念のプレゼントだろうって。
違うんだ、誓ってもいいビアンカ。
【ビアンカ】 それならいったいそれは誰のなの?
【キャッシオー】 それがわからないんだ。わたしの部屋で見つけたんだ。
その刺繍がとても気に入った。取り返される前に、きっとそうなるに決まっているが、模様を写しといて欲しいのだ。
これを持って行って、やってくれないか。今日のところは帰ってくれ。
【ビアンカ】 帰ってくれですって? どうしてさ?
【キャッシオー】 実はわたしはここで将軍が来るのを待っているんだ。
それで女と一緒に居るところを見られてはためにならないし、
わたしも嫌だ。
【ビアンカ】 ねえどうして? 訳を言って頂戴。
【キャッシオー】 君が好きでないからじゃない。
【ビアンカ】 好きなんじゃないからでしょう!
ねえお願い、すこしその辺まであたしを送ってって。
そして今晩はきっと早く来るって約束して頂戴。
【キャッシオー】 あまり遠くまでは送って行けないよ、
ここで待ってなくちゃならないんだから。だが、すぐ行くよ。
【ビアンカ】 いいわ。ここはあたしが譲らなくちゃね。〔退場〕
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第四幕
第一場 キプロス 城の前で
〔オセローとイァーゴー登場〕
【イァーゴー】 どうしてもそうお考えで?
【オセロー】 そうお考えだと?
【イァーゴー】 まさか!
内証でキスするだなんて?
【オセロー】 絶対に許すことは相成らん。
【イァーゴー】 または、お友だちと素っ裸で一緒に寝るだなんて?
一時間か、それとももっと。別に悪いことをする気じゃないにしても。
【オセロー】 素っ裸で一緒に寝るだと? それで悪いことをする気はないだと?
それこそ悪魔を欺《あざむ》く偽善《ぎぜん》というものだ。
いかに気持ちが綺麗《きれい》でもそのようなことをあえてするとは、
それは悪魔が彼らを試し、そして彼らが天を試すものだ。
【イァーゴー】 何もやらかさんということなら、些細きわまる間違いじゃないですか。
ですが、もしわたしが家内にハンカチをやったとしますと……
【オセロー】 すると、どうなる?
【イァーゴー】 つまり、そうすれば、ハンカチは家内のもの、家内のものなら、
それをどこのどいつにやろうと、それは家内の自由と存じますが。
【オセロー】 しかし妻はおのが名誉の守護者でもある。
おのが名誉をくれてしまってよいものか?
【イァーゴー】 女房の名誉なんてものは目に見えるものじゃありません。
実際には持ってない連中が、結構持っているような顔をしています。
ですが、ハンカチのことになりますと……
【オセロー】 誓って言うが、わしはそのことを忘れてしまっていたいのだ!
お前は言った……おお、わしの記憶の上をまたそれが通りすぎる、
まるで疫病《ペスト》患者の家の上を大鴉《おおがらす》が飛びまわって、何か不吉な出来事を
すべての者に知らせるようだ! 彼奴《きやつ》がわしのハンカチを持っていたとな。
【イァーゴー】 さよう、それがどうかいたしましたか?
【オセロー】 あまりよいことではない。
【イァーゴー】 いいじゃありませんか、あの男が閣下に何か悪さをするのを
わたしが見たと言ったって? またあの男が言うことを耳にしたと言ったって……
世間にはよくいるもんです、自分自身で執拗《しつよう》に申し込んで、
またあるいは相手の女の方からの熱い情けにほだされて、
女を口説き落としたか、それとも女を満足させてやったのか、いずれにしても
ぺらぺらと喋《しやべ》らずにはおれない連中が……
【オセロー】 彼奴《きやつ》が何か言ったのか?
【イァーゴー】 そうなんです閣下。ですがご安心なさってよいです、
そんなことは言わないと逃げをはれるくらいのことなんです。
【オセロー】 何と言ったのだ?
【イァーゴー】 たしか、何かをしたと……何をしたのか存じませんが。
【オセロー】 何をしたのだ? 何を?
【イァーゴー】 寝たと……
【オセロー】 彼女《あれ》と一緒にか?
【イァーゴー】 一緒にとでも、乗ったとでも、何とでも。
【オセロー】 彼女《あれ》と一緒に寝たと? 彼女《あれ》に乗ったと? 乗ったというのは、彼女《あれ》が口車に乗せられたことだと取ることもできる……だが一緒に寝たとは! おのれ何たる汚《けが》れ! ハンカチ……白状……ハンカチ! 白状させ、それから寝床の中の咎《とが》で縛り首だ……まず縛り首だ、それから白状だ! こう考えると俺《おれ》は震えがとまらない。体中がこんなに陰《かげ》りのある、烈しい気持で覆《おお》い包まれてしまうのは、何かがある証拠だ。この俺がこんなに震え上がるのは言葉だけのせいではない……ぺっ! 鼻と鼻、耳と耳、唇と唇か! そんなことがあり得ようか? 白状するか? ハンカチだ! おお悪魔が!〔失神して倒れる〕
【イァーゴー】 もっと効《き》いてくれ、
俺さまの薬、効いてくれ。信じやすいバカ者はこうして掴《つか》まるんだ。
多くの立派な、貞淑な奥方様たちだってすっかり同じことだ、
何の罪も無いのに、辱《はずか》しめを受けるんだ。どうなさいました! 閣下!
閣下、わかりますか! オセロー!
〔キャッシオー登場〕
やあ、キャッシオー殿!
【キャッシオー】 どうしたのかね?
【イァーゴー】 閣下が|てんかん《ヽヽヽヽ》の発作をおこされたのです。
これで二度目です。昨日も一度おこされました。
【キャッシオー】 こめかみの辺《あた》りをこすってあげ給え。
【イァーゴー】 いいえ、いけません。
昏睡《こんすい》状態にある時にはそのまま安静にしておかねばなりません。
さもないと口から泡をふいて、すぐあばれ出します、
狂暴性の気違いになって。それ! 気がつかれました。
しばらくあちらの方へ行っていてくださいませんでしょうか。
閣下はすぐによくなられます。閣下が行ってしまわれた後で、
重要な用件で、隊長、あなたに話したいことがあります。〔キャッシオー退場〕
いかがですか、将軍? 頭に傷はございませんか?
【オセロー】 お前はこの俺《おれ》をなぶるのか?
【イァーゴー】 閣下をなぶる? とんでもない、誓います。
わたしは閣下が男らしく運命に耐えられることを心から願っているのです。
【オセロー】 角のはえた男は怪物だ、けだものだ。
【イァーゴー】 すると賑《にぎ》やかな町にはけだものがたくさんいることになります、
それにお上品な怪物もたくさんに。
【オセロー】 彼奴《きやつ》は白状したのか?
【イァーゴー】 ねえ閣下、男らしくしてくださいよ。
いやしくも結婚のくびきをかけられれば、どんな鬚男《ひげおとこ》だってみんな、
閣下と一緒の車を引いているんです。何百万といるんです、
自分だけのものと思いこんで、しかもその実
他人様と共有の寝床に寝ている連中が。閣下の場合はまだいい方です。
おお、これこそ地獄の苦しみ、悪魔にとり最上のなぶりもの、
安心しきったベッドの中で悪女を舐《な》めまわし、
しかも貞女と思いこんでいようとは! いや、わたしなら事実を知りたい。
実態がわかれば、女をどうすればよいかがわかります。
【オセロー】 おお、お前は頭がいい! たしかにそうだ。
【イァーゴー】 しばらく離れていてください。
そして何としても忍耐の枠内にとじこもっていることです。
さきほど悲痛のあまりここに倒れていた時に……
あなたほどの方にはまこと似合わしからぬ発作と言えますが……
キャッシオーがここへやって来ました。あの男は追っ払って、
あなたの失神については何とか言い繕《つくろ》っておきました。
あの男にはすぐに戻って来い、わたしが話があると言ったところ、
その通りにすると約束しました。ここで一つ、身をかくしていて、
あの男の顔の隅々にあるあざけり、冷笑、はっきりとした軽べつの表情を、
観察だけしてみるということをやってみませんか。
例の話をあの男にもう一度しゃべらせてみせますから……
どこで、どんなふうに、どれほどたびたび、どれほど前から、そしていつ、
彼奴《あいつ》があんたの奥さんと会い、またこれから会うことになっているか。
いいですか、彼奴《あいつ》の身振りをよおく観察するだけですよ。そう、我慢第一!
でないとあんたは完全に癇癪《かんしゃく》のとりこになり、
男の|お《ヽ》の字も無いことになっちまいます。
【オセロー】 いいか、イァーゴー、
俺《おれ》は誰よりも巧妙に我慢してみせてやるぞ。
だが、よく聞けよ、誰よりも血|腥《なまぐさ》いということをもな。
【イァーゴー】 それで結構です。
ですが、万事感情を押えて、をお忘れなく。下がってて下さいませんか?〔オセロー下がる〕
さてキャッシオーにビアンカのことをきいてやろう。
|てめえ《ヽヽヽ》の色恋を売って、それで|てめえ《ヽヽヽ》のパンと着物を買ってやがる、
あのあばずれ女《あま》のことだ。あいつはキャッシオーにいかれている。
うんとこさ男を騙《だま》したあげく、たった一人に騙される、
これが女郎の因果というものか。キャッシオーの奴め、
あの女のことを耳にしたら最後、どうしても
笑いの虫がとまらない。それ、奴《やつ》がやって来た。
〔キャッシオー登場〕
奴がにっこりするごとに、オセローはますます気が狂う。
そうりゃ、根が理屈好きでないあの男のことだ。嫉妬《しつと》に燃えて、
気の毒だがキャッシオーの笑い、身振り、浮ついた動作を
全部まちがって取るに決まっている。やあどうですか、隊長殿?
【キャッシオー】 その肩書で呼ばれるとますますつらいよ、
それが無くなって死ぬ思いなんだから。
【イァーゴー】 デズデモーナさんにうまく頼むんですね、絶対大丈夫です。
ところでその願いごと、もしビアンカの力でどうにでもなるんだったら、
あんたなら忽《たちま》ちうまくゆくんだが!
【キャッシオー】 ああ、可愛い奴《やつ》!
【オセロー】 (傍白)見ろ、奴めもうあんなに笑っている!
【イァーゴー】 女があんなに男に惚《ほ》れたのを見たことがない。
【キャッシオー】 ああ、可愛いあいつ! ほんとうに俺《おれ》に惚れているらしい。
【オセロー】 (傍白)こんどは申しわけ程度に打ち消して、あとは笑いとばしおる。
【イァーゴー】 ねえキャッシオー?
【オセロー】 (傍白)ここで彼奴《きやつ》に話させようとしているんだな。
畜生め! うまいぞ、うまいぞ!
【イァーゴー】 あの女はあんたと結婚すると言いふらしていますぜ。
そのおつもりなんですか!
【キャッシオー】 はっはっはっ!
【オセロー】 (傍白)うぬ、勝ち誇っているのか、勝ち誇っているのか?
【キャッシオー】 俺があの女と結婚する! 何だと、商売女とか! 頼むよ、俺の頭にももう少し同情してくれ。それほど腐っているとは思わんで欲しいな。はっはっはっ!
【オセロー】 (傍白)そうか、そうか、そうか、そうか。勝者は笑うか。
【イァーゴー】 実のところ、あんたがあの女と結婚するという噂《うわさ》がとんでいる。
【キャッシオー】 頼む、ほんとのことを言ってくれ。
【イァーゴー】 これがほんとでないというなら、わたしは悪党です。
【オセロー】 (傍白)それで全部か? よかろう。
【キャッシオー】 それはあの猿めが勝手に言いふらしていることだ。あの女はこの俺《おれ》にべた惚《ぼ》れで、しかも自惚《うぬぼ》れなもんだから、俺が結婚してくれるものと自分で思いこんでいるんだ。俺が約束した訳じゃない。
【オセロー】 (傍白)イァーゴーが俺に合図をしている。例の話を始めるんだな。
【キャッシオー】 あの女は今しがたここにいたんだ。どこへでもくっついてくるんだ。このあいだも海岸でヴェネチアの連中と話してたんだが、あのおもちゃがやって来て、嘘《うそ》じゃない、こんな工合に首にぶら下がって……
【オセロー】 (傍白)「おお、お懐《なつ》かしいキャッシオー様!」とでも言ってるんだろう。あのジェスチャーを見ればそれくらいのことはわかるぞ。
【キャッシオー】 こう、俺にぶら下がったり、もたれかかったり、そしてさめざめと泣いたり。こう俺を引き寄せたり、引っぱったり! はっはっはっ!
【オセロー】 (傍白)ここで彼女《あれ》がどんなふうに、彼奴《きやつ》を俺の部屋に引きずりこんだかを話してるんだ。おお、お前のその鼻、ここに犬がいたらくれてやりたい!
【キャッシオー】 そう、彼女《あれ》とはもう手を切らなくちゃね。
〔ビアンカ登場〕
【イァーゴー】 おやおや! その人がやって来た。
【キャッシオー】 どこにもいる|いたち《ヽヽヽ》というやつにすぎん! そうだ、香水つきの。いったいどういうつもりなんだ、こんなふうについてまわって?
【ビアンカ】 あんたなんか悪魔か、その|おふ《ヽヽ》|くろ《ヽヽ》がついてまわれだ! さっきあたしにくれたあのハンカチは、いったいどういう訳よ? あれを受け取るなんて、あたしもとんだおバカさんだったわ。あたしがあの刺繍《ししゅう》を写さなくちゃいけないんだって? あれをあんたの部屋で見つけて、誰が落としたかわからないとは、えらくうまく作ったわね! きっとどこかの浮気《うわき》女がくれたものよ。それをこのあたしに写せですって? さあ! こんなのあんたのお馬にあげなさい。どこで手にお入れかしらないけど、あたし写すことなんか真っ平よ。
【キャッシオー】 どうしたんだ、ねえビアンカ、どうしたんだ?
【オセロー】 (傍白)たしかに、あれは俺《おれ》のハンカチに違いない!
【ビアンカ】 今晩夕食に来るなら来てもいいわよ。来ないっていうんなら、もういつ来たってお呼びでないよ。〔退場〕
【イァーゴー】 追いかけるんだ、追いかけるんだ!
【キャッシオー】 そうだ、追いかけなくちゃならん。さもないと町で|がなり《ヽヽヽ》たてるからな。
【イァーゴー】 夕食はあっちで?
【キャッシオー】 そう、そうするつもりだ。
【イァーゴー】 じゃ、わたしもそっちへ参るかもしれません。是非話したいことがあるんで。
【キャッシオー】 是非そうしてくれ給え、頼むよ。
【イァーゴー】 さあさあ、わかった、わかった。〔キャッシオー退場〕
【オセロー】 〔前へ出て〕どうやって彼奴《あいつ》を殺したらいいだろう、イァーゴー?
【イァーゴー】 あの男が自分の悪《わる》さを笑いとばすのを見ましたか?
【オセロー】 おお、イァーゴー!
【イァーゴー】 それから例のハンカチも?
【オセロー】 あれは俺《おれ》のだったか?
【イァーゴー】 この手にかけて、間違いなくあんたのです。それにおわかりでしょう、彼奴《あいつ》が愚かなお方、あんたの奥さんをどのくらいに値ぶみしているか! 奥さんはハンカチを彼奴《あいつ》にやったんです、それを彼奴《あいつ》はあの売女《ばいた》めにくれてやったんですから。
【オセロー】 俺はあの男を何年がかりかで首を絞《し》め、嬲《なぶ》り殺しにしてやりたい!……あの立派な女が! あの綺麗《きれい》な女が! あのやさしい女が!
【イァーゴー】 いけないな、それは忘れなくちゃ。
【オセロー】 そうだ、あんな女は今宵こそ、腐って、死んで、地獄へ落ちろ。生かしとくわけにはゆかん。俺の心は石に変わり果てた。こうして打てば、痛むのは手の方だ。おお、世界広しといえども、あのように綺麗《きれい》な奴はまたとおらん! あの女なら帝王と共に寝て、帝王に命令ができるだろう。
【イァーゴー】 いけないな、そんなふうに言っては。
【オセロー】 彼女《あいつ》は縛り首だ! 俺はあの女のありのままを言っているだけだ。何とうまい針仕事! 何とすばらしい音楽の才! おお、彼女《あれ》が歌うのを聞けば、野生の熊もその本性を忘れるだろう! かくも高く、そしてゆたかな知性と創造力!
【イァーゴー】 だから、ますますもって悪いというんです。
【オセロー】 そうだ、何千回でも何万回でもそうだ! だが、それにしても、何と気高い生まれ!
【イァーゴー】 さよう、気が多すぎる。
【オセロー】 いや、たしかにそうだ。だがそれにしてもイァーゴー、何たることのあわれさだ! おおイァーゴー、何たることのあわれさだ、イァーゴー!
【イァーゴー】 それほどだらしなくあの女《ひと》の罪を許すというんなら、いっそ悪さをする免許証でも出したらどうなんです。あなたさえ気にさわらないんなら、ほかの人には何の関係もないことなんだから。
【オセロー】 彼女《あいつ》を小間切れに切りさいなんでくれる! ほかに男がいたとは!
【イァーゴー】 おお、何たる汚《けが》れ、あの方にして。
【オセロー】 俺《おれ》の部下と!
【イァーゴー】 ますますもって汚らわしい。
【オセロー】 毒薬を持って来てくれイァーゴー、今晩だ。彼女《あれ》と議論する気持はもうない。彼女《あれ》の美しい体が俺の心をまた鈍らすといかんから。今晩だぞイァーゴー!
【イァーゴー】 毒薬でやってはなりませぬ。首を絞《し》めるのです、ベッドの中で。あの女《ひと》が汚したそのベッドの中で。
【オセロー】 いいぞ、いいぞ! その正義のやり方が気に入った。大いにいいぞ!
【イァーゴー】 それからキャッシオーにつきましては、わたくし奴《め》に始末をつけさせてください。夜中《よなか》までには委細報告いたします。
【オセロー】 いいぞ、最高だ!〔ラッパの音〕
あれは何のラッパだ?
【イァーゴー】 ヴェネチアからの使者でしょう、きっと。
〔ロドヴィーコー、デズデモーナおよび従者たち登場〕
ロドヴィーコーです。
大公のところから参った。ご覧なさい、奥様もご一緒です。
【ロドヴィーコー】 ご機嫌よう、オセロー将軍!
【オセロー】 閣下もご機嫌よう。
【ロドヴィーコー】 ヴェネチア大公ならびに元老院諸卿よりよろしく。〔手紙を渡す〕
【オセロー】 諸卿のご意見を伝えるこの手紙、謹んで拝誦つかまつります。〔手紙を開いて読む〕
【デズデモーナ】 で、どういう報《し》らせですの、ロドヴィーコーさま?
【イァーゴー】 お目にかかれてうれしゅうございまする、閣下。
ようこそキプロスへお成りになられました。
【ロドヴィーコー】 ありがとう。キャッシオー隊長はどうしてるかね?
【イァーゴー】 相変わらずでございます。
【デズデモーナ】 実は、あの方とうちの人とが、
おかしな仲違いをおこしているのです。でも万事きっとよくしてくださるわね。
【オセロー】 たしかだな?
【デズデモーナ】 何かおっしゃって?
【オセロー】 〔読む〕「この儀|不履行《ふりこう》ということこれなく、貴下の……」
【ロドヴィーコー】 お呼びではございません。将軍は手紙を読まれてる最中です。
将軍とキャッシオーとのあいだに何か意見の食い違いが?
【デズデモーナ】 これほど悲しいことはありません。二人を仲直りさせるためなら、
わたし何でもいたしますわ。だってキャッシオーは気に入ってるんですもの。
【オセロー】 うぬ、おのれ憎っくき!
【デズデモーナ】 何かおっしゃって?
【オセロー】 いったいお前は正気なのか?
【デズデモーナ】 まあ! お怒りになったのかしら?
【ロドヴィーコー】 手紙がお気に障《さわ》ったらしい。
文面はキャッシオーを軍司令官代理に任命して、
ご主人の本国帰還を命令しているらしいのです。
【デズデモーナ】 誓ってもいいわ、ほんとに嬉《うれ》しい!
【オセロー】 嬉しいだと!
【デズデモーナ】 何ですって?
【オセロー】 俺は嬉しいというんだ、お前が気が狂っていて。
【デズデモーナ】 まあ何ということを!
【オセロー】 この悪魔めが!〔デズデモーナをなぐる〕
【デズデモーナ】 こんなことをされる身に覚えはありません。
【ロドヴィーコー】 閣下、これはひどすぎます。ヴェネチアの人は到底信じますまい、
たとえわたしがこれを、この目で見たと誓っても。
償《つぐな》いをなさい。奥さんは泣いているのです。
【オセロー】 おお悪魔、悪魔め!
もしも大地が女の涙で子を孕《はら》めるというのなら、
この女の流す涙の一|滴《しずく》ずつはクロコダイルとなるだろう。
消え失《う》せろ!
【デズデモーナ】 お気に障《さわ》るのでしたら、わたしはここにはおりません。〔出て行きかける〕
【ロドヴィーコー】 ほんとうに従順なお方だ。
閣下お願いです、どうか奥さんを呼び返してあげてください。
【オセロー】 デズデモーナ!
【デズデモーナ】 何でございますか?
【オセロー】 彼女《これ》に何用でございますか、閣下!
【ロドヴィーコー】 誰が? このわたしがですか?
【オセロー】 さよう、あなたは彼女《あれ》を呼び返して欲しいと言った。
さあお望み通り、返ります、引っ繰り返ります、そしてまた元通り、
そしてまたまた引っ繰り返る。それから泣くのも上手、そう、泣くのも上手。
それにおとなしい、おっしゃる通りおとなしい、
大へんにおとなしい……さあさあ、涙を流した、流した!……
この手紙のことですが……おお、流す涙もうまく造ったものだ!……
わたしは帰国を命じられました……あっちへ行け!
すぐに呼びにやる。……閣下、わたしは命令に従い、
ヴェネチアへ戻ります。……ここから立ち去れというに!〔デズデモーナ退場〕
キャッシオーに代理を勤めさせます。ところで閣下、お願いがあります、
今宵是非、夕食をご一緒にいたしたく存じます。
ようこそキプロスへおいでくださいました。……ええい、山羊《やぎ》めが、猿めが!〔退場〕
【ロドヴィーコー】 これがかつての高潔なるムーアだろうか? わが元老院が挙《こぞ》って
万事に有能の士として推《お》した? これがいかなる感情の浪にも
いささかも動じることがなかったという人の性だろうか? いったいこれが、
いかなる災害、悲運の矢玉も擦《かす》り傷一つ負わせることができなかったという、
堅牢無比の人柄だといえるだろうか?
【イァーゴー】 随分と変わられました。
【ロドヴィーコー】 気はたしかなのだろうか? 頭がおかしいのではないか?
【イァーゴー】 ご覧の通りです。わたしの考えを申すことなどは差し控えます。
そうかもしれません……もし、あれでそうでないというんなら、
ほんとうにそうである方がずっとましだと思うんです!
【ロドヴィーコー】 何と、妻を殴《なぐ》るとは!
【イァーゴー】 ほんとうに、あれは悪うございました。ですがわたしは、
あれでお終《しま》いになればいいと心から願ってるんです。
【ロドヴィーコー】 いつもああなのか?
それとも手紙のことが頭に来て、こんな間違いを
はじめてやらかしてしまったということか?
【イァーゴー】 ああ悲しいことです!
わたしがこれまで見聞《みき》きして参ったことを申し上げることは、
わたくしの常日頃の誠意に反します。ご自身の目で観察なさってください。
わたしなどが喋《しやべ》らなくても、あの方のなされ方でよくわかります。
あとをつけられて、どうするかよく注意してください。
【ロドヴィーコー】 あの男を見損っていたとはまことに残念だ。〔退場〕
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第二場 キプロス 城の中の一室
〔オセローとエミーリア登場〕
【オセロー】 じゃ、何も見なかったのだな?
【エミーリア】 絶対に聞いたことも、怪しいと思ったこともございません。
【オセロー】 だが、キャッシオーと彼女《あれ》が一緒のところを見ているではないか。
【エミーリア】 でも、何も悪いことはございませんでした。あたしは、
お二人のあいだの話は一語もらさず聞いているんです。
【オセロー】 おい、絶対にひそひそ話をしなかったというのか?
【エミーリア】 はい、絶対に。
【オセロー】 席を外《はず》すというようなことも?
【エミーリア】 ございませんでした。
【オセロー】 彼女《あれ》の扇とか、手袋とか、仮面《マスク》とか、そんなものを取りに?
【エミーリア】 はい、絶対に。
【オセロー】 それはおかしいぞ。
【エミーリア】 旦那様、あたしは奥様が貞淑でいらっしゃるとあえて申し上げます。
あたしの魂をかけてもよろしゅうございます。もしそうでないと思《おぼ》し召すなら、
そんなお考えはおやめくださいませ。旦那様のお心を汚《けが》すものでございます。
もしだれか、くだらない人がこんなことを旦那様に吹き込んだのなら、
どうか蛇の呪いが天罰としてくだりますように。
なぜならば、もしも奥様が誠実で、貞淑で、真実でなかったとしたら、
世の中に幸福な男なんていません。どんなに潔白な妻たちも、
まことに汚《きた》ならしい限りです。
【オセロー】 彼女《あれ》にここへ来るように言ってくれ。さあ、
〔エミーリア退場〕
あの女もなかなか言いおるわ。だが、そのくらいのことが言えんようでは、
うまく淫売の取り持ちなどできんわ。おのれ、ずるがしこい淫売女め!
卑劣きわまる秘密の鍵《かぎ》をしっかりかけておきながら、
ひざまずいて祈ったりする奴だ、おれはそれをみたことがある。
〔デズデモーナとエミーリア登場〕
【デズデモーナ】 なにかご用でございますか、あなた?
【オセロー】 ねえ、ちょっとこっちへ来てくれないか?
【デズデモーナ】 何のご用ですの?
【オセロー】 わしに目を見せてくれ。
わしの顔を見ろ。
【デズデモーナ】 何かおそろしいことをお考えになっているのでは?
【オセロー】 (エミーリアに)おかみ! お前さん、いつものお役目頼んだぞ。
客と二人だけにしておいて、戸はぴったりとしめてくれ。
もしだれかやって来たら、咳《せき》ばらいか、声を立ててくれ。
さ、商売だ、お前さんの商売だ、さあ、行った、行った。〔エミーリア退場〕
【デズデモーナ】 お願いでございます。お言葉はどういう意味でしょうか?
お言葉のはげしいことはわかりますが、
その意味はわかりません。
【オセロー】 おい、お前は何だ?
【デズデモーナ】 あなたの妻、あなたのまことの、忠実な妻でございます。
【オセロー】 さあ、それを誓え、そして地獄へおちろ!
まるで天使のようなお前だから、悪魔どもでさえ恐れて、
お前を取り逃がさないものでもない。だから二重に呪われろ……
お前が貞淑であると誓え!
【デズデモーナ】 神様もよくそれをご存知のはずです。
【オセロー】 神様はお前が地獄同然の不義をしたとようくご存知だ。
【デズデモーナ】 だれにですか、あなた? だれとですか? どんな不義を?
【オセロー】 おお、デズデーモン、この悪魔! 行け、行け、行け!
【デズデモーナ】 おお、何という悲しみ! なぜあなたはお泣きになりますの?
その涙の原因はこの私なのでしょうか?
もしやあなたが、今度の本国への召喚の取り決めをしたのは、
わたしの父であるとでも疑っていらっしゃるのならば、
わたしをとがめないでくださいませ、あなたがわたしの父をお見捨てになるなら、
わたしも父を見捨てます。
【オセロー】 たとえ、神の意志が、
わしを苦しみや試練に会わせ、その神の意志が、
すべての苦しみと恥とを、わしのあらわな頭の上に降りそそぐとも、
わしを貧困の中に、口もとまで沈めつくそうとも、
わしとわしのすべての希望まで束縛しようとも、
わしはわしの心のどこかに、わずかながらも
一|滴《しずく》の忍耐を残しておくことができる。だが、ああ、
わしが世間の嘲笑の的《まと》となり、
世間の人にじりじりと、じっと指さされるようになろうとは!
だが、それもわしはがまんしてみせる。大丈夫、しっかりと。
だが、わしが自分の心をしまっておいたその場所、
わしの生命の流れがほとばしり、あるいは、または枯れ果てる
その泉、そこから、投げ出されてしまうとは!
その泉を、みにくい、汚《けが》らわしい|ひきがえる《ヽヽヽヽヽ》どもがつるんで殖《ふ》える
水たまりにしてしまうとは! 汝《なんじ》、若き、ばら色の唇の天使、忍耐よ!
かくなる上は汝の顔色を変えるのだ。
そうだ、地獄の形相《ぎょうそう》でにらむのだ!
【デズデモーナ】 あなた、わたしが貞節な妻であることを信じてください。
【オセロー】 いいとも、屠殺場《とさつば》に群がる夏の|はえ《ヽヽ》のようにな、
卵を生むとすぐにまたはらむあの|はえ《ヽヽ》だ。おお、おのれ毒草めが!
お前は見た目には美しく、よい香りもただよわせている、
ために、お前がいると感覚はうずく。お前など生まれて来なければよかった!
【デズデモーナ】 まあ、わたしが気づかずにどんな罪を犯したのでしょうか?
【オセロー】 この美しい紙は、この世にも見事な本は、
「淫売」と書くためにつくられたのか? 何の罪を犯したと?
犯したと? おのれ、札つきの売女《ばいた》めが!
お前の行状《ぎょうじょう》を口に出して言うだけで、このわしの頬《ほお》は
|ふいご《ヽヽヽ》のように熱《あつ》くなって、恥ずかしさを焼きつくして
灰にしてしまうわ。何の罪を犯したと?
天もそれには鼻をおさえ、月も目を閉じてしまうわ。
出会うものすべてにくちずけする淫《みだ》らな風も、
大地の底の洞穴にじっとひそんでしまって、
それを聞こうともしないわ! 何の罪を犯したと?
恥しらずの売女《ばいた》めが!
【デズデモーナ】 まあ、何てひどいことを?
【オセロー】 お前は淫売じゃないのか?
【デズデモーナ】 いえ、ちがいます、神かけて!
この身体を私の夫のために大切に守って、
汚《けが》らわしい不義の手に指一本ふれさせなかったのに、
それが淫売などとは、とんでもない、
【オセロー】 何だと! 淫売ではないと?
【デズデモーナ】 誓って、そのようなものではございません。
〔エミーリア登場〕
【オセロー】 そんなことがあるものか!
【デズデモーナ】 おお神よ、われらを許し給え!
【オセロー】 それは済まなかった、許してくれ。
わしはお前をオセローと結婚したヴェネチアの
ずる賢い淫売だと思いこんでいた。おい、おかみ、
聖ペテロとは正反対のお勤めで、
地獄の門をあずかっているおかみさん! そう、そう、お前だ!
われわれの仕事はすんだ、さあこれはお前の心づけだ。
鍵《かぎ》をあけてくれ、きょうのことは秘密にしといてくれよ。〔退場〕
【エミーリア】 まあ、このお方はいったい何を考えているのかしら?
どうなさいました、奥様? どうなさいました、奥様?
【デズデモーナ】 ほんと、夢心地だわ。
【エミーリア】 奥様、旦那様はどうなさったのでございますか?
【デズデモーナ】 え、だれですって?
【エミーリア】 旦那様でございますよ、奥様。
【デズデモーナ】 旦那様ってだれのこと?
【エミーリア】 奥様、あなたの旦那様でございますよ。
【デズデモーナ】 わたしには旦那様なんていないのよ。何も言わないで、エミーリア。
わたしは泣くこともできないわ、返事もできないわ、
だって返事をすればみんな涙で流されてしまいそう。お願い、今晩は、
わたしのベッドに結婚の時のシーツをしいてね、忘れないで。
それからあなたの旦那様を呼んで来て。
【エミーリア】 まあ、何てことになってしまったんだろう!
〔退場〕
【デズデモーナ】 そう、こんな扱いを受けるのも当然なんでしょう、当たり前なんでしょう。
あの人がわたしのちょっとした|あら《ヽヽ》を探し出して、
こんなにも咎《とが》め立てをするなんて、あたしがいったい何をしたというのだろう?
〔イァーゴーとエミーリア登場〕
【イァーゴー】 何のご用でございますか、奥様? どうなさいました?
【デズデモーナ】 何と言ってよいのかわからないのよ。幼い子供に教えてやる人は、
おだやかに教えて、やさしいことからやらせるもの。
あの人もそんなふうにあたしをお叱りになったのかもしれない。だって、
ほんとう、わたしはまだ叱られたことがないんです。
【イァーゴー】 奥様、どうなさったというのですか?
【エミーリア】 あなた、旦那様が奥様を淫売呼ばわりなさったのよ。
とてもひどいことを、口|汚《ぎた》ない言葉でおっしゃったの。
まともな人間ならとてもがまんできないようなことを。
【デズデモーナ】 わたしはそんな女かしら、イァーゴー?
【イァーゴー】 そんなってどんなです、奥様?
【デズデモーナ】 主人がわたしのことをそうだと言ったと、この人が言ったでしょう?
【エミーリア】 旦那様は奥様のことを淫売だっておっしゃった。酔っぱらいの乞食《こじき》だって、
自分の相手の女を呼ぶ時に、そんなひどい言葉は使いやしない。
【イァーゴー】 なぜ、そんなひどいことを?
【デズデモーナ】 わたしにはわからない。だけどわたしがそんな女でないことはたしかだわ。
【イァーゴー】 泣かないでください、泣かないでください。ああ、何ということだ!
【エミーリア】 奥様はたくさんの立派な縁談を断わられ、
ご自分のお父様も、お国も、お友だちもみんなお捨てになったのに、
淫売だなんて呼ばれて! これが泣かずにおられましょうか!
【デズデモーナ】 わたしの運が悪いのよ。
【イァーゴー】 何とひどいことを言われたもんだ!
どうしてこんなおかしな考えを持つようになられたのか?
【デズデモーナ】 それはだれにもわからない。
【エミーリア】 きっとこれは、だれか残酷この上ない悪党が、
だれか、おせっかいな、しさいありげに告げ口する悪党が、
だれか、ごまかして、だましてやろうとする卑劣な奴が、
よい職にありつこうとして、こんな悪口を考えだして言ったんだ、きっとそうだ!
【イァーゴー】 ばかな、そんな男がいるはずはないじゃないか!
【デズデモーナ】 もしもそんな人がいたら、神様どうか彼をお許しくださいまし!
【エミーリア】 許すなんてとんでもない! 地獄が骨まで食いつくしてしまえばいいんだ!
なぜ奥様のことを淫売だなんて呼ぶの? だれが相手だというの?
どこで? いつ? どんなやり方で? どんな証拠があるの?
あのムーアはだれか悪い、卑劣な奴にだまされたんだ、
だれか卑しい、名うての悪党、だれか汚《きた》ならしい奴に。
おお、天なる神よ、そんな奴らの正体をどうかあばいて、
すべての誠実な人間の一人一人の手に|むち《ヽヽ》を持たせ、
その悪党をまるはだかにして、世界中を東から西の果てまで、
追いつめて、|むち《ヽヽ》で打たせてください!
【イァーゴー】 大きな声を出すな!
【エミーリア】 おお、何とひどい連中! きっと、そんな卑劣な奴は
あんたの知恵まですっかり裏返しにしてしまって、
あんたに、あたしとムーアがあやしいなんて思わせたにちがいない。
【イァーゴー】 ばかなことを! よせ!
【デズデモーナ】 ねえ、イァーゴー、
もう一度あの人のきげんを直すにはどうしたらいいの?
イァーゴー、あの人に話してちょうだい。だって、ほんとうに、
どうしてあの人のきげんをそこねたかわからないのよ。ひざまずいて誓います。
かりそめにもあたしがあの人の愛情を裏切るようなことをしたら、
心の中ででも、実際の行動においてでも、
また、わたしの目や耳や、その他どんな感覚でも、
あの人以外の人によろこびを見出すようなことがあったら、
また、たとえあの人がわたしを捨てて、あの人とみじめなお別れをするようになっても、
いまわたしがあの方を愛していないとか、これまで愛していなかったとか、
またこれからさき愛さないというようなことが起こるとしたら、
どうかわたしからすべての慰めを取りのぞいてください! 残酷な仕打ちはつらいけれど、
あの人の残酷な仕打ちで、もう生きてゆく勇気もないけれど、
わたしの愛に変わりはありません。淫売なんて言えないわ、
そんな言葉を口にするだけでも身の毛がよだつわ、
そのためにどんな肩書きをもらうことができても、
どんなに世間的な虚栄心を満足させるためにでも、わたしにそんなことはできません。
【イァーゴー】 お気をしずめてください、一時の気まぐれでしょう。
国事の煩《わずら》わしさに、いらいらしておられたので、
奥様をお叱りになったのでしょう。
【デズデモーナ】 もしそれだけの原因なら……
【イァーゴー】 そうですとも、それにちがいありません。〔奥でラッパの音〕
お聞きなさい、音楽がお食事の時間を知らせています。
ヴェネチアから来られたお使いの方がお待ちです。
まいりましょう。泣かないでください。万事よくなりますよ。〔デズデモーナとエミーリア退場〕
〔ロダリーゴー登場〕
やあ、ロダリーゴー!
【ロダリーゴー】 君のぼくに対するやり方は納得《なつとく》がいかない。
【イァーゴー】 何が具合がわるいんだね?
【ロダリーゴー】 毎日のように君は策を弄して、ぼくをはぐらかしているじゃないかイァーゴー。というよりはむしろ、君はぼくにほんのわずかの望みの綱をも与えてくれないで、すべて都合の悪いようにぼくを邪魔している。ぼくは正直言って、これ以上がまんならない。正直言ってぼくは今までばかばかしい目に会ってきたが、これ以上黙ってがまんするなんてことはしないぞ。
【イァーゴー】 ぼくのことも聞いてくれないかロダリーゴー?
【ロダリーゴー】 いや、実の所、ぼくは君の言うことを聞きすぎたんだ。君の言うことと行ないとは全然ちぐはぐだ。
【イァーゴー】 そりゃあ、あまりひどい言いがかりだ。
【ロダリーゴー】 ほんとのことを言ったまでさ。ぼくは身代限りにするほど金を使い果してしまった。君はぼくから、どんな志操堅固な女だって堕落させるような立派な宝石を、デズデモーナにやると言ってまき上げてしまった。君はあの人がそれを受けとってくれたと言った。そしてぼくに、あの人がすぐにも関心をもってつき合ってくれると、期待とよろこびを持たせてくれた。だが、何も手に入らない。
【イァーゴー】 ああ、いかすじゃないか。たいへんに結構だ。
【ロダリーゴー】 結構だ? いかすじゃないか? 何がいかすもんか。結構なもんか。ぼくの考えでは卑劣だというんだ。ぼくがどんなに馬鹿な目に会わされているかがやっとわかって来た。
【イァーゴー】 たいへんに結構だ。
【ロドヴィーコー】 たいへんに結構なもんかと言ってるんだ。ぼくは直接デズデモーナに当たってみる。もしあの人がぼくに宝石を返してくれるなら、ぼくはもうあの人のことはあきらめる。筋ちがいの思いをあの人によせて申しわけなかったと後悔することにする。もし返してくれなかったら、君にその責任はとってもらうぞ。
【イァーゴー】 それだけ言えばもういいだろう。
【ロダリーゴー】 うん、だが言ったことは実際に必ずやってみせるぞ。
【イァーゴー】 おい、君にはなかなか勇気があるぞ、すっかり見直したぞ。さあ、握手だロダリーゴー君。君がぼくのことを悪く思うのも当然だが、ぼくはあえて主張する。今度の君の事件ではぼくは正しかったと思うんだ。
【ロダリーゴー】 そうは思えないね。
【イァーゴー】 そう思えないのも無理はないがね。君の疑いは分別と判断がないとは言えない。だがね、ロダリーゴー、もしも君がほんとに心の中に……ぼくには今こそそれがはっきりわかるんだ……ぼくが言うのは目的と勇気と勇敢さだが、それがあるなら、今夜それを見せてくれ。それで明日の晩デズデモーナを自分のものにすることができないようなら、ぼくをこの世の中から何らかの策略を弄して消してしまえ。ぼくの生命をとるような方法を考えろ。
【ロダリーゴー】 よろしい、それは何だ? 道理にかなったことなんだな?
【イァーゴー】 ねえ、君、ヴェネチアから特別の命令が来て、キャッシオーがオセローに代わることになったんだ。
【ロダリーゴー】 ほんとうか? それじゃオセローとデズデモーナはヴェネチアに帰るのか?
【イァーゴー】 いや、そうじゃない。オセローはモーリタニアに行くのだ。美しいデズデモーナももちろん一緒だ。何か事件が起きて彼の滞在が延ばされるようなことになれば別だがね、そしてそれにはキャッシオーを片づけちまえば決定的だがね。
【ロダリーゴー】 キャッシオーを片づけるってどういう意味だ?
【イァーゴー】 そりゃあ、オセローの代わりがつとまらないようにしてやるのさ。あいつの脳味噌をたたき割ることだ。
【ロダリーゴー】 それをぼくにやれって言うのか?
【イァーゴー】 そうだ、もし君にそれをやる勇気があればだ。それは君の利益であり、権利だ。今晩|彼奴《きやつ》はある女の所で食事をするはずだ。そしてぼくもそこへ行こう。彼奴《きやつ》はまだ自分が栄転したことも知らないんだ。もし君が彼奴《きやつ》の帰りを待ち伏せしていれば……その時刻はぼくが十二時から一時の間になるようにしてやるつもりだが……君は好きなように彼奴《きやつ》をやっつけられるじゃないか。ぼくはそばにいて助太刀《すけだち》してやるぜ。そうすりゃ、はさみ打ちということになる。さあ、おどろいてぽかんとしていないで、一緒に来てくれ。どうしても彼奴《きやつ》を殺さなくちゃならない理由をよく聞かせてやろう。そうすれば君にも、それをやらなけりゃならんわけがわかるだろう。さあ、ちょうど夕食の時刻だ。夜の更《ふ》けるのは早いぞ。さあ仕事に取りかかろう。
【ロダリーゴー】 もう少しよくわけを話してくれ。
【イァーゴー】 そうすれば納得《なつとく》が行くというのだな。〔退場〕
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第三場 城中の別の一室
〔オセロー、ロドヴィーコー、エミーリアおよび従者たち登場〕
【ロドヴィーコー】 どうかお願いですからこれ以上おかまいくださるな。
【オセロー】 いや、お気になさらぬよう。歩くことはわたし自身のためにもなることです。
【ロドヴィーコー】 奥さん、おやすみなさい。心からお礼を申し上げます。
【デズデモーナ】 閣下、ほんとうによくおいでくださいました。
【オセロー】 どうかおさきに。
あ、デズデモーナ……
【オセロー】 すぐにやすんでいてくれ。わしもじきに帰って来るから。それから召し使いたちを退《さが》らせておいてくれ。まちがいなくそうするのだぞ。
【デズデモーナ】 かしこまりました。〔オセロー、ロドヴィーコーおよび従者たち退場〕
【エミーリア】 いったいどういうことなんでしょう?
旦那様は前よりやさしいお顔でしたわ。
【デズデモーナ】 あの人はすぐに帰っていらっしゃるのですって。
わたしにはやすんで待っているようにとおっしゃったのよ。
そして、あなたには退ってもらうように。
【エミーリア】 あたしに退れですって?
【デズデモーナ】 そうおっしゃったの。だからお願い、エミーリア、
わたしに寝間着をもって来てちょうだい。そして退ってね。
今はあの人をおこらせてはいけないのよ。
【エミーリア】 奥様はあの方にお会いにならなければよかったと思いますわ。
【デズデモーナ】 わたしはそうは思わない。わたしはとてもあの人が好きなの。
だからあの人の頑固さや叱言《こごと》や不きげんな顔に……
お願い、ピンを外《はず》してちょうだい……あたしは惹《ひ》かれるわ。
【エミーリア】 お申しつけになりましたシーツをベッドにしいておきました。
【デズデモーナ】 もうどうでもいいの。ほんとうに、わたしたちの心って何て愚かなのだろう!
もしわたしがさきに死んだら、お願い、そのシーツの一枚で
わたしをくるんでね。
【エミーリア】 まあ、まあ、とんでもないことをおっしゃる!
【デズデモーナ】 お母様にはバーバリーという名の召し使いがいました。
その子が恋をしたのよ。だけどその恋人は浮気者、
その子を捨ててしまったの。その子は「柳」の歌をうたったわ。
ありきたりの歌だったけど、その子の運命をよくあらわしていたわ。
その子はその歌をうたいながら死にました。そして今夜はどうしてか、
その歌があたしの心から離れない。わたしは
首を片方にかしげて、あのかわいそうなバーバリーがしたように、
その歌を歌わずにはいられない。さあ、お願い、行ってちょうだい。
【エミーリア】 お部屋着をとって参りましょうか?
【デズデモーナ】 いいえ、いいの、ここのピンを外《はず》して。
ロドヴィーコーさんはご立派な方ね。
【エミーリア】 とてもすばらしい方でございますわ。
【デズデモーナ】 お話もとてもお上手《じょうず》だし。
【エミーリア】 あたしは、あの方の下唇にキスできれば、パレスチナまでも|はだし《ヽヽヽ》で歩いて行ってもいいと言うヴェネチアの女の人を知ってます。
【デズデモーナ】 〔歌う〕
あわれあの子はため息ついて、
シカモアのかげにただひとり、
みんなで歌おう、みどりの柳、
その手はその子の胸の上、頭は膝の上、
柳、柳、柳と歌おう。
清らかな小川のせせらぎは、
その子の嘆きに音《ね》を合わせ、
柳、柳、柳と歌おう。
つらい涙はしたたり落ちて、
かたい石をもとかすほど……
これはあちらにおいといて……
柳、柳、柳と歌おう。
さ、大急ぎでね、すぐにかえっていらっしゃるから……
〔歌う〕
みんなで歌おう、みどりの柳はわたしの花輪。
あの人をとがめちゃいけない、
つれなくするのも当たり前。
あ、そうじゃなかったわ。ちょっと、だれが戸をたたいているのかしら?
【エミーリア】 風でございます。
【デズデモーナ】 〔歌う〕
わたしはせめた、つれない人を。
だがその人は何と言った?
柳、柳、柳と歌おう。
わたしが浮気をしたならば、
お前もだれかと寝ればいい。
さあ、行ってちょうだい。おやすみ。目がかゆいのよ。
何か泣きたいことの起こる前ぶれかしら?
【エミーリア】 そんなことどこにもありません。
【デズデモーナ】 そんなことを聞いたことがあるの。ああ、男の人って、男の人って!
正直いってどう思うの……ねえ、エミーリア……
あんなふうにひどいことを言って自分の夫に恥をかかせる
女の人ってあると思う?
【エミーリア】 そんな悪い女もおりますわ、きっと。
【デズデモーナ】 世界を全部くれるといわれれば、あなたはそんなことできて?
【エミーリア】 まあ、奥様だったらなさいません?
【デズデモーナ】 とんでもないわ、お月様にかけて、
【エミーリア】 あたしだって、お月様にかけて絶対にいたしません。
もっとも闇《やみ》夜でしたらやるかもしれませんけど。
【デズデモーナ】 世界を全部くれるといわれれば、そんなことができると言うの?
【エミーリア】 世界は大きなものでございましょう?「些細な罪に、
大きな|ほうび《ヽヽヽ》」ですわ。
【デズデモーナ】 きっとあなたはそんなことしないと思うわ。
【エミーリア】 いえ、きっとあたしはすると思います。してしまってから取り消しますわ。きっと、愛の指輪一つ、リネンきれ少し、ガウン、ペチコート、帽子、ちょっとしたおこづかいなどもらったって、そんなことはいたしません。でも世界全部というのでしたらね。きっと、自分の夫を王様にするためでしたら、だれだって間男《まおとこ》くらいしますわ。そのために煉獄へ行ったって平気ですわ。
【デズデモーナ】 世界全部をくれると言われたって、わたしがそんなことするなんてとんでもないことだわ。
【エミーリア】 でも、悪いことっていうのは世界の中でのことですわ。奥様がお骨折りで世界全部をお手に入れたら、それはご自分の世界の中でのことでございますもの、ご自分ですぐいいようにおできになりますわ。
【デズデモーナ】 そんな女の人っていないと思うわ。
【エミーリア】 おりますとも、一ダースも。いいえ、もっと。連中が遊んでいたずらをして手に入れたその世界を一ぱいにするほどいます。
でも、もしも妻が堕落したら、それは自分のすべきことを、
怠《おこた》った夫のあやまちだと私は思いますわ。
だって自分たちのなすべき夫としての義務も果たさずに、
わたしたちのお宝をよその女に注ぎこんでしまったり、
ふきげんな、わけのわからない嫉妬《しつと》心を起こしたり、
あたしたちを縛《しば》ってみたり、またたとえばなぐったり、
以前からくれていたあたしたちの小づかいを減らしたりすれば……
そりゃ、女のほうだって腹が立ちますわ。もちろん女はやさしくあるべきだけど、
復讐《ふくしゅう》だってせずにはおきませんわ。夫たちに教えてやりましょう、
妻だって同じように感じるものだと言うことを。見たり、嗅《か》いだり、
甘いもの、からいものの味を区別したりすることは、
夫たちとまったく同じですわ。夫たちが自分の妻以外の女を相手にするというのは、
いったいどういうことなんでしょうか? 気晴らしでしょうか?
そうだと思います。それから浮気心もそうさせるのでしょうか?
そうだと思いますわ。そんな間違いをするのは心の弱さでしょうか?
そうだと思います。あたしたちにだって同じ浮気心はあります。
気晴らしもしたいと思います。心の弱さも持ってます、すべて男たちと同じです。
だから夫たちはもっと奥さんを大切にしなくては。さもないと、
あたしたちの悪さはみんな夫たちの悪さの故《せい》だと思い知らせてやりましょう。
【デズデモーナ】 おやすみ、おやすみ。神様どうか悪から悪をひき出すことなく、
悪によって、悪を改めるようお導きください!〔退場〕
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第五幕
第一場 キプロス 街路にて
〔イァーゴーとロダリーゴー登場〕
【イァーゴー】 ここだ、この屋台の後《うし》ろに立ってるんだ。奴はすぐ来る。
抜き身で構えて、急所を一突きにするんだ。
早く、早く! びくつくこたぁない。俺《おれ》がすぐ後ろについている。
これこそ一か八《ばち》かだ……そこのところをよく考えて、
しっかりと覚悟を決めてかかるんだ。
【ロダリーゴー】 すぐそばにいてくれ給え。やりそこなうかもしれないんだから。
【イァーゴー】 ここにいる。手の届くところだ。さあ勇気を出して足場を決めるんだ。〔下がる〕
【ロダリーゴー】 このことにあまり気乗りはしないんだが、
あの男の言う訳を聞けば、十分|納得《なつとく》はできる。
たかが男一人消えるだけのことだ。抜け! やったぞ!
【イァーゴー】 あの|にきび《ヽヽヽ》野郎め、鼻っ面《つら》をいやというほどこすっといたんで、
かっかっ頭に来てやがる。これで、彼奴《あいつ》がキャッシオーをやっつけても、
キャッシオーが彼奴《あいつ》をやっつけても、それとも相打ちになったとしても、
どのみち得をするのはこの俺《おれ》様だ。ロダリーゴーを生かしとけば、
デズデモーナにやるプレゼントだとごまかして、
まんまと彼奴《あいつ》からせしめた莫大な金や宝石の返却を、
彼奴《あいつ》は俺に強くせまる。
そうさせてなるもんか。もしキャッシオーが残れば、
彼奴《きやつ》の一生は毎日毎日が栄耀栄華《えようえいが》の連続で、
それではこの俺がいかにも無様《ぶざま》だ。それにあのムーア奴《め》、
このことを彼奴《あいつ》に漏《も》らさんとも限らん。そうなったら危険この上ない。
そうだ、彼奴《きやつ》は生かしとけん。だが待てよ、奴の足音だ!
〔キャッシオー登場〕
【ロダリーゴー】 奴《やつ》の歩きっぷりは知っている。奴だ。おのれ、悪党め、覚悟しろ!
〔キャッシオーめがけて斬りつける〕
【キャッシオー】 その一突きが危うく命取りとなるところだった、
だが俺のこの上着、貴様が思うより上等なんだ。
貴様のを試してやる。〔剣を抜き、ロダリーゴーに傷を負わせる〕
【ロダリーゴー】 おお、殺《や》られた!
〔イァーゴーおどり出て、キャッシオーの脚に傷を負わせて退場〕
【キャッシオー】 生まれもつかぬ不具《かたわ》になった。助けてくれ! 人殺しだ、人殺しだ!〔倒れる〕
〔オセロー二階舞台に登場〕
【オセロー】 キャッシオーの声だ。イァーゴーが約束通りやったのだ。
【ロダリーゴー】 おお何という悪党なんだ、ぼくは!
【オセロー】 正《まさ》にその通りだ。
【キャッシオー】 おおい、助けてくれ! 明かりだ! 医者だ!
【オセロー】 奴《やつ》だ。おお天晴《あつぱ》れイァーゴー、お前の友人が受けた辱《はずか》しめに、
かくも義憤を感じてくれるとは何たる誠実、正義の士!
いい手本を見せてくれた。可愛い奴《やつ》め、お前のいとしい人は死んでいる。
そしてお前の惨《みじ》めな運命も大急ぎで近づいている。売女《ばいた》め、いま行くぞ。
俺の心の中から、お前の目の魔力も消え失せた。
不義に汚れたお前のベッドは、不義の血潮で染め上げてやるのだ。〔退場〕
〔ロドヴィーコーとグラシアーノー登場〕
【キャッシオー】 おおい! 不寝番はおらんか? 誰かおらんか? 人殺しだ、人殺しだ!
【グラシアーノー】 何か起こったのだ。あの声はただごとではない。
【キャッシオー】 おお、助けてくれ!
【ロドヴィーコー】 それっ、聞こえる!
【ロダリーゴー】 おお何というひどい悪党なんだ!
【ロドヴィーコー】 二人か三人|呻《うめ》き声をあげている。ひどく暗い夜だ。
これは何かの計略であるかもしれない。もっと助けが来るまでは
これに近づくのは危険と考えなくてはなりません。
【ロダリーゴー】 誰も来てくれないか? 出血でぼくは死んでしまう。
【ロドヴィーコー】 それっ、聞こえる!
〔イァーゴー松明を持って登場〕
【グラシアーノー】 誰か下着のままでやってくる、明りと武器を持って。
【イァーゴー】 誰だ? 「人殺し!」と呶鳴《どな》っているのは誰だ?
【ロドヴィーコー】 われわれは知らない。
【イァーゴー】 叫び声を聞かなかったか?
【キャッシオー】 ここだ、ここだ! 後生だ、助けてくれ!
【イァーゴー】 どうしたんだ?
【グラシアーノー】 ここにいるのはオセローの旗手だと思うが。
【ロドヴィーコー】 たしかにその通り。大変に豪胆な男だ。
【イァーゴー】 そんな情けない声を出しているのは、いったい誰だ?
【キャッシオー】 イァーゴーか? おお、俺《おれ》は不具《かたわ》にされた、悪党共にやられた!
何なりと早く助けを!
【イァーゴー】 おや、隊長! どこの悪党どもがこのようなことを?
【キャッシオー】 そのうちの一人はまだ近くにいると思う。
逃れることはできん。
【イァーゴー】 おお卑劣きわまる悪党どもめが!
(ロドヴィーコーとグラシアーノーに)そこにいるのは誰だ? ここへ来て手助けをしてくれ。
【ロダリーゴー】 おお、助けてくれ、ここだ!
【キャッシオー】 あいつがその一人だ。
【イァーゴー】 おのれ人殺しの下種《げす》め、悪党め!〔ロダリーゴーを刺す〕
【ロダリーゴー】 おお極悪無道のイァーゴーめ! おお人でなしの犬め!〔気を失う〕
【イァーゴー】 闇討ちをかける気か? 血に餓えた泥棒どもはどこだ?
どうしてこうも静かなんだこの町は! おおい! 人殺し! 人殺し!
〔ロドヴィーコーとグラシアーノー前に出る〕
お前たちはいったい何者だ? いい方か、悪い方か?
【ロドヴィーコー】 自分でよく見きわめて、いずれとも決め給え。
【イァーゴー】 ロドヴィーコー閣下で?
【ロドヴィーコー】 その通りだ。
【イァーゴー】 失礼いたしました。キャッシオーが悪党共にやられたんです。
【グラシアーノー】 キャッシオーが?
【イァーゴー】 どうです、兄弟?
【キャッシオー】 脚を真っ二つにやられた。
【イァーゴー】 おお、それは大変だ!
皆さん、明かりをお願いします。わたしのシャツでしばりますから。
〔ビアンカ登場〕
【ビアンカ】 ねえ、どうしたの? 大声で呶鳴《どな》ってるのは誰なの?
【イァーゴー】 大声で呶鳴ってるのは誰だ?
【ビアンカ】 おおあたしの大事なキャッシオー! あたしの可愛いキャッシオー!
おおキャッシオー、キャッシオー、キャッシオー!
【イァーゴー】 評判の淫売じゃないか! キャッシオー、あんたをこんなふうに
切りさいなんだのは、いったいどこのどいつか心当たりはありませんか?
【キャッシオー】 ない。
【グラシアーノー】 こんなことになってお気の毒だ。実は貴殿を探していたのだ。
【イァーゴー】 靴下留めを貸して欲しい。これでよし。ああ駕籠《かご》が無いかなあ!
ここから静かに運んであげたいんだが。
【ビアンカ】 ああ、気絶しちゃった! キャッシオー、キャッシオー、キャッシオー!
【イァーゴー】 皆さん、わたしはこの屑女《くずおんな》がこの件に、
いっぱいからんでいるのではないかとにらんでいるのですが……
しばらく我慢しててください、キャッシオーさん。……さあ、さあ。
明かりを貸してください。これはわれわれの知ってる顔だろうか?
おやっ、これはわたしの友人だ! 同国人のロダリーゴーだ!
いや、まさか。いや、たしかにそうだ。これは驚いた! ロダリーゴーだ!
【グラシアーノー】 何と、ヴェネチアの?
【イァーゴー】 その通りです。お知り合いですか?
【グラシアーノー】 知り合い? そうだ。
【イァーゴー】 グラシアーノー閣下で? これは失礼いたしました。
この血|腥《なまぐさ》い出来事にまぎれ、ついお見それいたしまして、
何とも申しわけございません。
【グラシアーノー】 君に会えてよかった。
【イァーゴー】 どうですか、キャッシオー?……おおい駕籠《かご》だ、駕籠だ!
【グラシアーノー】 ロダリーゴーが!
【イァーゴー】 そうです、そうです、あの男です!〔駕籠が運び入れられる〕
おお駕籠だ、よかった!
誰か、よくよく注意してここから運んで欲しい。
わたしは将軍の侍医を呼びに行ってくる。(ビアンカに)ところで、おんな、
そんなに世話をやくな。……キャッシオー、ここに殺されているのは、
わたしの親友だった。いったいどんな恨みがあったんだね。二人の間に?
【キャッシオー】 何もありっこない。第一そんな男はわたしは知らん。
【イァーゴー】 (ビアンカに)おい、青くなったな……早く家の中へ運んでくれ。
〔キャッシオーとロダリーゴー運び去られる〕
皆さん、ちょっとお待ちください……おいおんな、青くなったな?……
あの女のおびえた目つき、おわかりでしょうか?……
だめだ、いくら驚いた目つきをしたって、すぐにもっと吐かしてやる。……
あの女、ようくご覧ください。どうか注意して見てください。
おわかりでしょう、皆さん? いや、舌が用を足さなくなると、
罪はひとりでに喋《しやべ》るものです。
〔エミーリア登場〕
【エミーリア】 まあ、これはどうしたの? どうしたというの、あんた?
【イァーゴー】 キャッシオーがここで闇討ちを食わされたんだ、
ロダリーゴーとその同類に。一味は逃げてしまったが、
キャッシオーは瀕死《ひんし》の重傷、ロダリーゴーは死んだ。
【エミーリア】 まあ、あんな立派なお方が! キャッシオーさんが!
【イァーゴー】 女郎遊びの実《みの》りというべきだ。ねえエミーリア、
キャッシオーのところへ行って、今晩どこで食事をしたか聞いて来てくれ。
(ビアンカに)おい、それを聞いてふるえているな?
【ビアンカ】 あの人はうちで食べたわ。だけどそれでふるえてるんじゃないわ。
【イァーゴー】 おお、そうだったか? 命令だ、わたしと一緒に来い。
【エミーリア】 まあ……汚《けが》らわしい淫売!
【ビアンカ】 あたしは淫売なんかじゃない。あんた悪口言うけど、
まじめな暮らし方はあんたとおなじよ。
【エミーリア】 あたしとおんなじ? まあ汚らわしい!
【イァーゴー】 皆さん、気の毒なキャッシオーの手当ての様子を見に参りましょう。
(ビアンカに)来い、おんな。洗い浚《ざら》い吐いてしまうのだ……
エミーリア、城へ一《ひと》っ走《ぱし》りして来てくれ。
将軍と奥方に、ここで起こったことを知らせて欲しいのだ。
さあお供しましょう。(傍白)今宵こそは、
ことが成るか、それともすべてし損じるかの大事な瀬戸際だ。〔退場〕
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第二場 キプロス 城内の寝室
〔デズデモーナ、寝台に眠る。オセロー、明かりを持って登場〕
【オセロー】 すべてはそのことのためだ、すべてはそのことのためだ、わが魂よ。
そのことをわたしに名指すことをさせんでくれ、汚れを知らぬ天上の星よ!
すべてはそのことのためだ。だが彼女《あれ》の血を流すことはやめよう、
また、白きこと雪に数等優り、その滑らかなること
磨きあげたる大理石の像のごとき彼女《あれ》の肌を傷つけることはすまい。
だが彼女《あれ》は死なねばならぬ。さもなくばまた男を騙《だま》すだろう。
まずこの明かりを消す、そしてそれから彼女《あれ》の命の明りを消すのだ。
炎《ほのお》立てて燃え上がる明りよ、お前なら、よし一度消してしまった後でも、
しまったと後悔すれば、またもとのお前の明りを
取り戻すことができる。だが造化の妙を尽くした、
自然の最高の作品であるお前の明りは、一度消してしまえば、
その明りをもう一度ともしてくれるプロメテウスの火を、
いったいどこで探せばよいのか俺にはわからない。このバラは一度摘めば、
二度と生き生きと咲き匂わせるわけにはゆかない。
必ずや凋《しぼ》んでしまうのだ。枝にあるあいだその薫《かお》りをかごう。〔デズデモーナにキスする〕
おお何と香《かぐわ》しい息だ! 正義の女神もついへなへなと
その剣を打ち折ろうぞ! もう一度、もう一度。
死んだ後《あと》もこのままでいてくれ。そうなら俺《おれ》はお前を殺して、
その後《あと》でお前を愛してやる。もう一度、これが最後だ!
こんなにも可愛いものがこんなにも恐ろしいものだとは! 泣かずにはおれない。
だがこの涙は無慈悲の涙だ。この悲しみは神の悲しみだ。
愛すればこその愛の鞭《むち》だ。目を覚ました。
【デズデモーナ】 誰なの? オセローあなたなの?
【オセロー】 そうだ、デズデモーナ。
【デズデモーナ】 おやすみになりません、あなた?
【オセロー】 今夜はお祈りをしたか、デズデモーナ?
【デズデモーナ】 はい、いたしました。
【オセロー】 何かまだ神のお許しを受けていない
罪があることに気がついたら、すぐさま、
それを願うがよい。
【デズデモーナ】 まあ、あなた、それはいったいどういう意味ですの?
【オセロー】 いいからそれをやるのだ。簡単にだぞ。わしは離れていよう。
わしは準備も整わぬお前の心を殺そうとは思わぬ。
そうだ、そんなことは断じてしたくない! わしはお前の魂は殺したくない。
【デズデモーナ】 殺すとおっしゃっているんですか?
【オセロー】 そうだ。
【デズデモーナ】 それなら神様、
どうかわたしにお慈悲をお願いいたします!
【オセロー】 アーメン、わしもそう思う。
【デズデモーナ】 そうおっしゃるのなら、どうかわたしを殺さないでください。
【オセロー】 うむ!
【デズデモーナ】 でもやっぱりあなたが恐《こわ》い。だってあなたは恐ろしいんですもの、
そんなふうにぎょろりと見|据《すえ》てる時は、どうして恐いのかわからない、
だって悪いことをした覚えは無いんですもの。でもやっぱり恐い気がします。
【オセロー】 お前の罪を思え。
【デズデモーナ】 それはわたしのあなたへの愛情だけです。
【オセロー】 そうだ、そしてその故《ゆえ》にお前は死ぬのだ。
【デズデモーナ】 愛してるから殺すなんてそれは非道です。
ああ、どうしてそのように下唇をおかみになるんでしょう?
何か血|腥《なまぐさ》いお考えがあなたのお体をうちふるわしています。
これは何か恐ろしいことの前兆だわ。でもきっと違うわ、きっと違うわ、
わたしが目当てじゃありませんわね。
【オセロー】 黙って静かにしているのだ!
【デズデモーナ】 そうします……それで、いったい何事ですの?
【オセロー】 あのハンカチだ、わしがあれほど大事にし、お前にやった、
お前はあれをキャッシオーにやったな。
【デズデモーナ】 いえ、絶対にそんなこと! 誓います!
誰でも人をやってあの方に聞いてください。
【オセロー】 ねえお前、気をつけるんだ、
気をつけるんだ、偽《にせ》に誓いを立てんようにな。お前は死の床についてるんだ。
【デズデモーナ】 ええ、でもまだ死ぬのではありません。
【オセロー】 いや、すぐにだ。
だから、その罪をすべてかくさず白状するのだ。
その一カ条一カ条を誓いを立てて否認したとしても、
わしが呻《うめ》き悲しんでいるのには確固たる信念があってのことだ、
その確信は取り除くことも、押しつぶすこともできぬ。お前は死ぬのだ。
【デズデモーナ】 この上は、主よ、どうかわたしにご慈悲を!
【オセロー】 わしもそう祈ろう。
【デズデモーナ】 そしてあなたもご慈悲を! わたしはこれまで一度だって、
あなたに悪いことをした覚えはありません。キャッシオーを愛しただなんて!
ただ天もお認めになっている隣人一般への愛情以外では、
あの方を愛したことはございません。何もお贈りしたこともございません。
【オセロー】 上天に誓って言うが、俺《おれ》のハンカチを彼奴《あいつ》が持っているのを見たのだ!
おのれ偽《にせ》の誓いを立てた極道女! お前は俺の心を石にして、
俺のしようとしていることをただの復讐《ふくしゅう》のための殺人にしてしまう。
それは正義のための犠牲だと俺は思っていたのに。
俺はあのハンカチを見たのだ。
【デズデモーナ】 じゃああの方が拾ったのでしょう。
あげた覚えはありません。誰か人をやってここへ呼んでください。
あの方に真実のことを言わせてください。
【オセロー】 もう白状したのだ。
【デズデモーナ】 何をですか、あなた?
【オセロー】 お前を好きにしたと。
【デズデモーナ】 スキにした? 不義をしたということですか?
【オセロー】 そうだ。
【デズデモーナ】 そんなこと言うはずがありません。
【オセロー】 そうだ、奴の口は塞《ふさ》いだのだ。
実直者のイァーゴーがそれを始末してくれた。
【デズデモーナ】 おお、わたしが心配した通りだった。じゃ、殺されたのね?
【オセロー】 彼奴《きやつ》の髪の毛の一本一本に生命《いのち》があったとしても、
俺《おれ》のあくなき復讐《ふくしゅう》心はそれをみな殺しにしただろう。
【デズデモーナ】 ああ、あの方は騙《だま》され、わたしは破滅だわ!
【オセロー】 おのれ、売女奴《ばいため》! 彼奴《きやつ》のために俺の目の前で泣くのか?
【デズデモーナ】 おお、わたしを追い出して、あなた。でも殺さないで!
【オセロー】 やめぬか、売女|奴《め》!
【デズデモーナ】 殺すのは明日《あした》にして! 今夜は生かしといて!
【オセロー】 だめだ、逆らうのなら……
【デズデモーナ】 一時間半だけでも!
【オセロー】 すでに白状したからには待つことはならぬ。
【デズデモーナ】 一言《ひとこと》お祈りを言う間《ま》だけでも!
【オセロー】 もうおそい。〔彼女の首を絞める〕
【デズデモーナ】 おお主よ、主よ、主よ!
【エミーリア】 (内側で)ご主人様、ご主人様! もうしご主人様、ご主人様!
【オセロー】 声がしたぞ? まだ死んでおらんのか? まだ完全に死んでおらんのか?
残酷なこの俺《おれ》にも、まだ慈悲心はある。
お前をいつまでもその苦しみの中にとどめておこうとは思わぬ。
これでもか、これでもか。
【エミーリア】 (内側で)もうしご主人様、ご主人様!
【オセロー】 誰だ?
【エミーリア】 (内側で)おお、ご主人様、一言《ひとこと》申し上げたいことがございます!
【オセロー】 そうだ、エミーリアだ。……すぐ行く。……もう死んだ。
キャッシオーが死んだことを知らせにやってきたんだろう。
声はここだった。やっ、もう動かんのか?
墓石のように静かだ。……彼女《あれ》を入れてやるか?……いいかな?……
また動いたようだ。いや違う。どうしたら一番いいんだ?
彼女《あれ》が入ってくれば、妻に話しかけるにきまっている。
おお、妻、妻! それでも妻か? 俺に妻などはいない。
おお、何とも耐え難い! 何とうっとうしいことだ!
思うに、今や大いなる日蝕、月蝕が起きて天地|晦冥《かいめい》、
驚愕した大地はこの大異変に打ちふるえ、
大きな口を開けることだろう。
【エミーリア】 (内側で)お願いです、
お話したいことがございます、旦那様!
【オセロー】 お前のことを忘れていた。ああお入り、エミーリア。
お待ち、ちょっと。……カーテンを引かしてくれ。
どこにいるのだ?〔戸を開ける〕
〔エミーリア登場〕
今頃お前、いったいどうしたというのだ?
【エミーリア】 おお旦那様、あちらでひどい人殺しがございました!
【オセロー】 何だと? 今か?
【エミーリア】 つい今しがたです。
【オセロー】 これこそ月がその軌道から外《はず》れたのだ。
常日頃より地球にずっと近くやって来て。
それで人間どもを気違いにするのだ。
【エミーリア】 キャッシオーがロダリーゴーという、若いヴェネチア人を殺しました。
【オセロー】 ロダリーゴーが殺された?
そしてキャッシオーも殺されたのだな?
【エミーリア】 いえキャッシオーは殺されません。
【オセロー】 キャッシオーが殺されたのではない? さては殺しの調子が外《はず》れて、
妙《たえ》なる復讐《ふくしゅう》の音《ね》もこわされてしまったか。
【デズデモーナ】 おお、無実の罪で、無実の罪で殺された!
【エミーリア】 まあ! あの声は?
【オセロー】 あの声だと? どの声だ?
【エミーリア】 ああ、大変。あれは奥様のお声だ!
助けて! 助けて! 誰か! 助けて! おお奥様、もう一度おっしゃって!
デズデモーナ様! わたしの奥様! 何かおっしゃって!
【デズデモーナ】 無実の罪でわたしは死ぬの。
【エミーリア】 おお、誰がこのようなことをしたんです?
【デズデモーナ】 誰でもないの……わたし自身よ……さようなら。
親切なうちの人にもよろしくね……おお、さようなら!
【オセロー】 何故、どうして彼女《あれ》が殺されねばならんのか?
【エミーリア】 そんなことわかりません。
【オセロー】 彼女《あれ》が自分で言うのを聞いたろう、俺《おれ》がやったんではないと。
【エミーリア】 そうおっしゃいました。皆に事実をしらさなくてはなりません。
【オセロー】 彼女《あれ》は嘘つきだ、焦熱の地獄へ落ちたのだ!
殺したのはこの俺だ。
【エミーリア】 おお、そんなら奥様はなおさら天使、
あなたはなおさらどす黒い悪魔!
【オセロー】 彼女《あれ》は色に狂うようになった。淫売だったのだ。
【エミーリア】 よくもそんな奥様の悪口を! あんたは悪魔だ!
【オセロー】 浮気なること水のごとしだった。
【エミーリア】 あんたは火のようにせっかちよ、
あの方が浮気だなんて! おお、あの方は神様のように真実の方だった!
【オセロー】 キャッシオーが乗っかったんだ。それ以上はお前の主人に聞け。
おお、俺は地獄のどん底に落ちたってかまわん、
もし、なんら正当な事由もなくてこの極端な行動に、
この俺《おれ》が出たというなら。お前の主人がすべてを知っている。
【エミーリア】 うちの主人が?
【オセロー】 お前の主人だ。
【エミーリア】 奥様が不義を働いたと?
【オセロー】 そうだ、キャッシオーと。いや真っ平だ、もしあの女が真実なら、
天がこの俺に、まるまる一つの大きな黄玉でできている別世界を一つ
くれると言ったって、俺があの女を売ったりなんかするものか。
【エミーリア】 うちの主人が?
【オセロー】 そもそもの話をしてくれたのがお前の主人だ。
誠実な男で、汚《きた》ならしい行為にくっついている、
汚《けが》らわしい|ぬらぬら《ヽヽヽヽ》をこの上なく嫌う男だ。
【エミーリア】 うちの主人が?
【オセロー】 これっ、何でそう繰り返すのだ? お前の主人だと言っているのだ。
【エミーリア】 おお奥様、どこかの悪党が愛情をおもちゃにしたのです!
うちの主人が奥様が不義を働いたと言ってるんですか?
【オセロー】 そうだ。
お前の主人だと言っているのだ。言うことがわかったか?
わしの友人にしてお前の主人。誠実、誠実この上ないイァーゴーだ。
【エミーリア】 もしうちの人がそんなことを言ったんなら、そんな悪者の魂は
毎日少しずつ腐って永久に苦しめばいいんだ!心の底まで嘘の固まりだ。
奥様はあんたという一番|汚《きた》ならしい買物を、あんまり大事にしすぎたんだ。
【オセロー】 何だと!
【エミーリア】 殺すなら殺すがいいさ。
こんなことをしでかした以上、どうせお前は天国へ行く資格は無いんだ、
もともとお前があの奥様には資格が無かったと同じように。
【オセロー】 黙れ、身のためだぞ!
【エミーリア】 お前があたしに傷を負わせる力なんか、その傷を耐える
あたしの力の半分にも足りゃあしないんだ。おお何というバカ者! まぬけ!
泥にも劣る頭の悪さ! お前のしたことは……
お前の剣なんか気にしてはいない。お前に言ってやるんだ、
たとえそのためにいくつ命を失くしても。誰か! 助けて! 助けて!
ムーアが奥さんを殺した! 人殺し! 人殺し!
〔モンターノー、グラシアーノー、イァーゴーその他登場〕
【モンターノー】 何事だ? どうしたのです、将軍?
【エミーリア】 おお、あんた来たわね、イァーゴー。他人様がした人殺しの罪を
あんたが背負わなくちゃならないなんて、よくもそんなことしておくれだね。
【イァーゴー】 どうしたというのだ?
【エミーリア】 この悪党の言うことは間違いだと証言して頂戴、あんたも男なら。
この男は、奥さんが不義をしたとあんたが言ったと言ってるんだ。
まさかあんたはそんなことを言いやしないわね。そんな悪党じゃないわね。
言って! あたしの胸は張り裂けそう。
【イァーゴー】 わたしはわたしが思った通りを申し上げたのだ。あとは閣下自らが
そうらしい、事実だとお考えになった、ただそれだけのことだ。
【エミーリア】 でも奥さんが不義をしたなんてことはまさか言わなかったわね?
【イァーゴー】 言ったよ。
【エミーリア】 あんたは嘘をついたのね、憎むべき、忌《い》まわしい嘘を!
誓って言うけど、嘘だわ! 意地の悪い嘘だわ!
奥さんがキャッシオーと不義をしたと? キャッシオーとだって言ったんだね?
【イァーゴー】 キャッシオーとだと言ったんだ。ええい! その舌を魔法で縛れ!
【エミーリア】 あたしゃ縛らせないよ。喋《しやべ》らずにはいられるもんか。
奥さんはベッドの中で殺されているんだ……
【一同】 おお、とんでもない!
【エミーリア】 あんたの言ったことがこの人殺しをけしかけたんだ。
【オセロー】 いや皆さん、そう驚いた顔をなさるな。まさにその通りなのだ。
【グラシアーノー】 まこと不思議な事実だ。
【モンターノー】 おお、奇怪千万な行為!
【エミーリア】 何というひどいことを! ひどいひどいことを!
思い当たるわ、思い当たる! におっているわ! おお何とひどいことを!
あのときそうだと思ったんだが。この悲しみ……いっそ死んでしまいたい。
おおひどいことを、ひどいことを!
【イァーゴー】 おい気でも狂ったか? 命令だ、さっさと家へ帰れ。
【エミーリア】 皆さん、どうかわたくしに話をさせてください。
妻として夫に従うのは当然ですが、今は違います。
ことによると、イァーゴー、あたしゃあもう家には帰らない。
【オセロー】 おお! おお! おお!〔ベッドに倒れる〕
【エミーリア】 そうだ、そのまま転《ころ》がって吠えるがいいんだ!
お前はこの世で命あるもののうち一番美しい、
罪の無い人を殺してしまったのだ。
【オセロー】 〔起き上がって〕おお、彼女《あれ》は不義を働いたのだ!
叔父上、お見えになってることを存じませんでした。あれが姪御《めいご》です。
この両の手が息の根をいま止めたばかりです、ほんとうです。
いかに恐ろしい、冷酷な仕業《しわざ》とお考えになるだろうということも存じています。
【グラシアーノー】 可哀相《かわいそう》に、デズデモーナ! お父さんが亡くなっていてよかった。
お前の結婚が致命的だった。ただただ悲しみのあまり、
その年老いた命の緒は真っ二つに切れてしまったのだ。いま生きていて、
この有様を目の当たりにしたならば、いかなる絶望の挙にもいでかねまい。
さよう、おのが身をまもる守護神をも呪って、その身辺から払いのけ、
地獄の底に身を沈めよう。
【オセロー】 哀れではあります。ですが、イァーゴーが知っています、
妻はキャッシオーと恥ずべき行為を犯したのです、
何千回となく。キャッシオーはそれを自白しました。
しかも彼女《あれ》は彼奴《きやつ》の愛情の思《おぼ》し召しへのお返しとして、
わたしがはじめに彼女《あれ》に与えた二人の愛の|しるし《ヽヽヽ》、|あかし《ヽヽヽ》を、
彼奴《きやつ》にやってしまったのです。奴が使うのをこの目で見ました。
それはハンカチです。わたしの父が母に贈った、
古い形見の品です。
【エミーリア】 おお神様! おお天使様!
【イァーゴー】 畜生|奴《め》! 黙っていろ!
【エミーリア】 悪事は露見、悪事は露見! 黙っていろって?
とんでもない、あたしゃ吹きまくる北風のように喋《しやべ》りまくってやる。
天も人も悪魔も、みんなが束になって、
恥を知れ! 止めろ! と言ったって、あたしゃ喋ってやる。
【イァーゴー】 言うことを聞いて、家へ帰るんだ。
【エミーリア】 嫌だ。〔イァーゴー剣を抜く〕
【グラシアーノー】 恥を知れ!
女に剣を向けるのか!
【エミーリア】 おおムーア、お前は何て鈍感なんだ。お前の言うハンカチは、
あたしが偶然に拾って、うちの人にやったんだ。
何度も何度も、ご大層な大まじめな顔をして…
こんな小さなことに、ほんとに大げさすぎるとは思ったんだが……
盗んでくれとあたしに頼みこんだから。
【イァーゴー】 この汚《けが》らわしい淫売め!
【エミーリア】 奥さんがキャッシオーにあげたって? 違うわ、あたしが拾ったんだ。
それをうちの人にやったのよ。
【イァーゴー】 汚《きた》ならしい奴め! みんな嘘だ!
【エミーリア】 誓って申します皆様、あたしは嘘は申しません、嘘は申しません。
このまぬけな人殺し奴《め》! こんなバカがあんな立派な奥さんを
いったいどうしようというんだ?
【オセロー】 天には落雷に使う以外に
石の|たくわえ《ヽヽヽヽ》はないものか? おのれ、この大悪党|奴《め》!
〔イァーゴーに走りかかる。モンターノーがこれをとめる。イァーゴー後ろからエミーリアを刺し、退場〕
【グラシアーノー】 女が倒れた。奴が女房を殺したに違いない。
【エミーリア】 そうです、そうです。おお、奥様のお傍《そば》に寝かせて!
【グラシアーノー】 奴は逃げた、殺した女房を残して。
【モンターノー】 こいつはまったくの大悪党だ。この剣を取ってください、
いまムーアから取り上げたばかりのものです。
さあ、戸口を外から固めてください。絶対に奴を通してはなりません、
いざというときには殺しても。わたしは奴を追います、
絶対に許せぬ下種《げす》だから。〔モンターノーとグラシアーノー退場〕
【オセロー】 俺《おれ》は勇気も消え失せた。
もう、どんな青二才の小僧でも、俺から剣をもぎ取れる。
だが内実が失くなってしまったいま、武勇の栄誉が何になる?
すべて消えて失くなれ!
【エミーリア】 奥さん、あの歌は何の前兆だったかしら?
耳をすまして! 聞こえますか? あたしの役は白鳥です、
歌いながら死ぬのです。〔歌う〕「柳、柳、柳」
ムーア、奥様は潔白だったんだ。お前を愛してたんだ、残酷なムーア。
こうしてあたしの魂は天国へ、ほんとうのことを話したんだから。
こうして思った通りを話しつつ、あたしは死ぬの、あたしは死ぬの。〔死ぬ〕
【オセロー】 この部屋に、もう一握りの剣がおいてある。
スペインの名剣、氷の水で鍛え上げたやつだ。
おお、あった。叔父上、わたしはどうあっても外へ出ますぞ。
【グラシアーノー】 (内側で)そんなことをしようものなら、えらく高くつくぞ。
お前は剣が無いのだから、間違いなくひどい目に会うぞ。
【オセロー】 お入りになって、わたしを見てから話してください。
でないと、素手《すで》ではありますが、こちらから仕掛けますぞ。
〔グラシアーノー登場〕
【グラシアーノー】 どうしたというのだ?
【オセロー】 ご覧なさい、剣はあります。
これに優る|しろもの《ヽヽヽヽ》が軍人の腰に吊《つ》られたことは
かつてありません。わたしはこれまでに、
この腕一本とこの名剣とで、あなた方の力なら
優にその二十人分以上にも匹敵する大きな抵抗を、
難なく排除したこともありました。だが、これももう下らぬ高言!
誰もおのが運命を自在に操《あやつ》ることはできない。もうそんな力はありません。
ご心配にはおよびません、ご覧の通り剣は持っていますが。
ここがわが旅路の果て、ここがわが終着の地点、
わが人生航路の目指した最終の港なのです。
後退《あとずさ》りされるか? ひるまれるか? ご心配まったくご無用です。
このオセローなど、胸にさし向けたガマの茎一本、
へなへなと退《さが》ります。オセローは何処へ行かねばならんのだ?
〔ベッドのところへ行く〕
おおそうだ。お前の顔はどうなった? おお、お前は星運《ほしうん》が悪かった!
蒼《あお》い顔色! お前の下着と同じ色だ! 最後の審判の日に二人が出会ったら、
お前のこの顔を一目見て、俺《おれ》の魂は天上から投げ出され、
悪魔どもに引《ひ》っ攫《され》われてしまうだろう。冷たい、冷たいお前、
お前の貞操そっくりだ。
おお呪いに呪われた下種奴《げすめ》! お前たち悪魔ども、この俺を鞭《むち》打って、
この神々しい眺めのかなわぬところへ突き落としてくれ!
地獄の風の中に俺を吹き散らせ! 地獄の火の中で俺を焼け!
切り立つ底無しの火の海で俺を洗え!
おおデズデモーナ、デズデモーナ! 死んでしまった!
おお! おお! おお!
〔ロドヴィーコー、モンターノー、駕籠《かご》に乗ったキャッシオー、捕えられたイァーゴーおよび役人たち登場〕
【ロドヴィーコー】 軽率にしてこの上なき悲運に会った、件《くだん》の男はどこにおる?
【オセロー】 それはかつてオセローだった男、ここにおりますわたくしがそれです。
【ロドヴィーコー】 例の毒まむしはどこにおる? その悪党をこれに引き出せ。
【オセロー】 足もとを見れば、変わってもいない。悪魔は爪先が割れているというが……
あれは作り話か。お前が悪魔なら、斬っても死なぬはずだ。〔イァーゴーに斬りつける〕
【ロドヴィーコー】 剣を取り上げろ。
【イァーゴー】 血は出しましたが、殺されはしません。
【オセロー】 別に残念とも思わぬ。お前は生かしておきたい。
俺の感じでは、死ぬことはこの上ないしあわせだからな。
【ロドヴィーコー】 おおオセロー、かつてはかくも善良であった君が、
卑劣な下種《げす》の術策に落ちこんでしまった。
君に言うべき言葉もない。
【オセロー】 いや何とでも言ってください。
栄誉ある人殺しとでも何とでも、お気に召すように。
わたしは憎しみの故《ゆえ》にやったのではない、すべては栄誉のためにやったことだ。
【ロドヴィーコー】 此奴《こやつ》はその悪業を一部すでに白状した。
貴殿と彼奴《きやつ》は共謀してキャッシオー殺しを計画したものであるか?
【オセロー】 そうです。
【キャッシオー】 ねえ将軍、わたしには身に覚えはありませんが。
【オセロー】 それを信じる。そして心から君のお許しを願う。
どうかお願いだ、この半悪魔に聞いて欲しい、
いったい何故このように、わしの身をも心をもワナにかけたのであるか?
【イァーゴー】 俺《おれ》に何も聞くな。言うだけのことはもう言った。
これからはもう、一言も喋《しやべ》らない。
【ロドヴィーコー】 おい、お祈りも言わないか?
【グラシアーノー】 拷問《ごうもん》でその口を開けてやろう。
【オセロー】 そうだ、言わぬが花だ。
【ロドヴィーコー】 貴殿はご存じあるまいと思うから、
ことの次第を説明いたそう。これが殺されたロダリーゴーのポケットにあった手紙だ。
ここにもう一通。このうちの一通によれば、
キャッシオー殺しはロダリーゴーの手によって
実施さるべきものとある。
【オセロー】 おお悪党|奴《め》!
【キャッシオー】 野蛮にして凶悪きわまる!
【ロドヴィーコー】 さて、ここにもう一通、不幸、不満の手紙が、
これもあの男のポケットにあったものだが。これは思うに、
ロダリーゴーがこの地獄の悪党に送ろうとしていたもの。
が、どうやらそのうちに当のイァーゴーがやって来て、
彼奴《きやつ》に納得《なつとく》させられたらしいのだ。
【オセロー】 おのれ極悪無道の卑劣漢|奴《め》!
ところで君は、キャッシオー、どうやって妻のものだった
例のハンカチを手に入れたんだ?
【キャッシオー】 わたしの部屋で拾ったんです。
それで実は今の今しがた彼奴《きやつ》自ら白状したのですが、
奴はそれをわざと、自分の思いをとげる目的で、
そこに落としておいたのです。
【オセロー】 おお馬鹿だった! 馬鹿だった! 馬鹿だった!
【キャッシオー】 それからさらにロダリーゴーはその手紙で、
例の衛兵勤務の折り、彼をそそのかしてわたしに喧嘩《けんか》を売らせたことで、
はげしくイァーゴーを詰《なじ》っています。かくしてわたくしは
免職と相成ったわけであります。あの男、ずっと死んだと思われていましたが、
今しがた口をきいて言いました……イァーゴーが彼に傷を負わせ、
イァーゴーが彼をけしかけたのだと。
【ロドヴィーコー】 貴殿はこの家を出て、われわれと同行されたい。
貴殿の職権、指揮権はすべて剥奪《はくだつ》された。
今後キャッシオーがキプロスを統轄《とうかつ》する。この下種《げす》に関しては、
此奴《こやつ》を大いに、且《か》つ長期間にわたって苦しめることができるような、
何か絶妙な懲罰の法があれば、それによって
此奴《こやつ》を罰したい、貴殿は貴殿の犯した罪状に関し、
ヴェネチア政府への報告がすむまでは、囚人として
厳重なる監視下におかれる。さあ、連行せよ。
【オセロー】 しばらくお待ちください! 行かれる前に一言《ひとこと》、二言《ふたこと》。
わたしは国に何がしの勤めを果してきました、皆さんもご存じの通り……
それについては申しません。ただお願いいたしたい儀は、閣下の報告書で、
この不幸な出来事に関して述べられる際には
どうかありのままのわたくしをお伝え願いたい。手心を加えたり、
悪意の中傷を加えることは一切無用に願いたい。とすれば、こうなります……
この男は、愛し方は賢明ではなかったが、愛しすぎるほど深く妻を愛した。
簡単には人を疑わぬ質《たち》だったが、はかられて、
完全に錯乱してしまった。愚かなインド人のように、
自らの手で、その種族全部にもかえられぬ貴重な真珠の玉を、
投げ捨ててしまった。そのうちひしがれた目からは、
かつて涙を流すことなどには全然不馴れだったその目からは、
アラビアのゴムの木からその樹液が流れ落ちるように、
とどめもあえず涙がふり落ちる。こう書いていただきたい。
そしてさらに付け加えていただきたい、かつてアレッポの町で、
敵意にあふれた、ターバン巻いたトルコ人が、
ヴェネチア人を殴《なぐ》り、ヴェネチアの国を罵《ののし》るのをみて、
わたしはその異教徒の犬の喉元を引っ掴《つか》んで、
やっつけました……こんなふうに。〔自らを刺す〕
【ロドヴィーコー】 おお無惨な最後!
【グラシアーノー】 すべての話し合いは駄目になった。
【オセロー】 俺はお前を殺す前、お前にキスをした。こうするよりほかはない……
自らを殺し、キスしつつ死んで行くのだ。〔ベッドに倒れて、死ぬ〕
【キャッシオー】 このことを恐れていたのですが、剣をお持ちとは知りませんでした。
大いなる心の持主であられたから。
【ロドヴィーコー】 おのれ、スパルタの犬め!
どんな苦痛、餓え、荒海より獰猛《どうもう》な奴だ!
この寝台の上の世にも悲惨な有様を、よおく見ておけ。
すべてお前のしたことだ。これを見れば目もつぶれる思いだ。
カーテンを引いてくれ。グラシアーノー、この家の管理を頼む。
それからムーアの財産を押収《おうしゅう》してください、
あなたが相続すべきものだから、それから総督閣下、あなたには
この地獄の悪党の裁判が残っている。
時、場所、懲罰の法を定めて、仮借《かしゃく》なくやって欲しい。
わたし自身はただちに乗船し、本国へ急ぎます。
この痛ましい出来事を痛ましい心で報告するために。〔全員退場〕(完)
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解説
シェイクスピアの生涯と作品
〔生誕の地ストラットフォード〕
ウィリアム・シェイクスピアはイギリス中部の州、ウォリックシャーの古い、美しい町ストラットフォード・アポン・エイヴォンの聖三一教会(ホーリー・トリニティ・チャーチ)で、一五六四年四月二六日に洗礼を受けた。生まれた日はふつう四月二三日とされている。ストラットフォードは古い町である。今でも「ローザー通り」(Rother St.)などという古い町名が残っている。「ローザー」は古代英語の「家畜」を意味する言葉から来たものである。ストラットフォードの町には今でも立派な肉屋が多い。この町の起源は正確にはわからないが、すでにローマ占領時代から六世紀ごろまでには立派な村であり、後にサクソン人に占領されて僧院などが建てられ、ノルマン人のイギリス征服(十一世紀)の頃までには町の形態ができ上がっていた。ストラットフォードという名前自体が大変に古い。ストラットはラテン語の「舗装した通り」、フォードは英語で「浅瀬」、町を流れるエイヴォン河はウェールズ語で「河」。したがってストラットフォード・アポン・エイヴォンと総称すればラテン語、英語、ウェールズ語の三ヵ国合成語である。美しいエイヴォン河畔、王立シェイクスピア劇場の筋向かいにあるのがアーデン・ホテル。アーデンは名作「真夏の夜の夢」の舞台となった、かつてはストラットフォードの近くにあった森の名であるが、これはケルト語の「大きな」と古代英語の「森」の合成語。古い、美しい町、森、河。町を出ればイギリス中部地方の、目を洗われるような牧場地帯、古い城。若いシェイクスピアの想像力を掻《か》き立てるものが、いたるところにあった。三百八十年くらい前、若いシェイクスピアが希望に燃えて、あるいは故郷ストラットフォードから追われるようにして上京したロンドンヘの道、そしてそれから三十年後、功成り名遂げて、すでに十二、三年前に手に入れておいたストラットフォードの家屋敷、ニュー・プレイスに隠退のため、故郷へ錦を飾った道は、今ならロンドンのパディントン駅を発《た》って、レミントン・スパアで乗りかえ、汽車で約二時間半の道のりである。
〔家系と生い立ち〕
シェイクスピアの血統はもともとはノルマン系といわれている。同族はウォリックシャー周辺に多い。父ジョン・シェイクスピアの家柄は郷士(yeoman)だったとされている。家の格式は貴族に近かったわけである。しかし祖父リチャード・シェイクスピアは近くのウィルムコウトWilmcote(ストラットフォードから一駅)の豪農スクワイア、ロバート・アーデンから五十エイカーの土地を借りているから、当時シェイクスピア家は家運隆盛とは言えなかったことは明らかである。ジョン・シェイクスピアのストラットフォードにおける最初の記録は、一五五二年四月、家の前の道路に汚物を置いて十二ペンスの罰金を課せられたことである。ジョン・シェイクスピアは一五五七年頃、前述の父親リチャードの地主ロバート・アーデンの娘メアリと結婚した。メアリは娘ばかり八人の末娘だったが、跡継ぎだったので、一五五六年父親の死とともに、ウィルムコウトの家屋敷など相当な財産を相続することになった。(ウィルムコウトのメアリ・アーデンの家は現在も立派に保存されている)
ジョン・シェイクスピアはストラットフォードに店を構え、農産物、材木、羊毛、皮革など手広く扱って成功した。のちに町の要職につくようになり、陪審員、治安官、罰金査定官、収入役、助役などを歴任したあと一五六八年には町長になっている。ジョンが成功したのは一時的な好景気のためだったのか、それとも彼自身に商才が無かったのか、羊毛の不振その他不明の事情で、一五七七年頃から家運が傾き始め、借金がもとで訴訟事件に顔を出すようになり、町の公の会合にも欠席しがちとなった。妻メアリが相続した財産も手放すようになり、ついに一五八六年には助役の職も剥奪《はくだつ》されるにいたった。一五九二年以降は借金のため教会にも行けなくなった。
メアリとジョンのあいだには八人の子が生まれた。われらの詩人ウィリアム・シェイクスピアは第三子で長男であった。ウィリアムの幼少時代は父の商売の成功のお蔭で幸福なものであった。おそらくは七歳で町の文法学校へ入り、当時の慣習に従っておそらく七年間くらいはそこで、ラテン語などの厳格な訓練を受けたものと思われる。ストラットフォードには古くからギルドによって設立された学校があったが、一五五三年エドワード六世によってギルドが廃止され、以後は「王立新学校《キングス・ニユー・スクール》」となった。教師たちはオックスフォードの卒業生で優秀であった。学校は町の子弟たちに無月謝で開放された。町の有力者ジョン・シェイクスピアの息子《むすこ》ウィリアムが、いかにしあわせな文法学校時代を送ったかは、容易に想像できる。ウェルギリウスを読み、オウィディウスに傾倒した当時のシェイクスピアの精進《しょうじん》ぶりが目に見えるようだ。後に学者詩人ベン・ジョンソンがシェイクスピアの古典の知識を評して、「僅少なラテン語と、さらに僅少なギリシア語」(little Latin and less Greek)と言ったことは有名なエピソードだが、これはあくまでも学者ジョンソンの尺度で言った言葉だと、これもごくふつうに解釈されているように考える以外にない。ジョンソンの言葉に対する解答はシェイクスピア自身の作品があるのみである。学校を終える頃、シェイクスピア家の家運に陰《かげ》りがみえ始めた。ウィリアムがオックスフォードなどへ進めなかったのはそのためであったか、それはわからない。ただわかっていることは、彼は独力で、実生活から、大学での学習以上のことを学びとった。それは彼の作品が示している。
〔結婚〕
学校の次は結婚である。シェイクスピアが通った場所はストラットフォードの彼の生家(ヘンレー通り)から約一マイル、歩いて約三十分のところにあるショッタリー(Shottery)。相手はそこの、これも同じく郷士の家柄のリチャード・ハサウェイの娘、アン・ハサウェイ(Anne Hathaway)。シェイクスピアが十八歳、アンが二六歳であった。記録の示すところによれば一五八二年十一月二八日、おそらくはハサウェイ家の知人と考えられているフルク・サンデルズおよびジョン・リチャードソンという二人の人が、シェイクスピアとアンとの早急な結婚をウースターのビショップに願い出ている。そうせざるを得ない事情があったのだろう。ふつうは教会で日曜毎に三回結婚予告をするのが当時の慣習であったが、シェイクスピアの場合はただの一回ですます特別の許可証を願い出ているのだ。そして記録ではそれより一日前の十一月二七日付で「ウィリアム・シェイクスピアとテンプル・グラフトンのアン・ホェイトレー」との結婚許可証がおりている! この「テンプル・グラフトンのアン・ホェイトレー」というのはアン・ハサウェイのことか、アンの家はショッタリーにあるが、この二重のミスはどうして起こったのか? 多くの学者たちが考えているように単なる書記の写し違いか? それともアンは故意にテンプル・グラフトンに居を移し、名前にも何かの工作を施してもらったのであろうか? 式はどこで挙げられたのだろうか? すべてはショッタリーのアン・ハサウェイの家を包む朝モヤのごとくに分明でない。ただ一つはっきりと分っていることは、翌年の五月二六日には長女のスザンナが生まれていることだ! おそらくはこういう厳粛なる事実の前に両家の人々は憤激し、サンデルズとリチャードソンの両人はハサウェイ家の名誉のために最後の方法、結婚の特別許可を願い出たものであろう。ストラットフォードのヘンレー通りからショッタリーまでの一マイル、若いシェイクスピアがどんなに真剣な顔をして通ったか、目に浮かぶようだ。
長女スザンナが生まれたあと一年九カ月して長男ハムネット、次女ジュディスの男女双生児が生まれた。そしてそれとともにわがシェイクスピアの伝記的な事実はまた、すべてショッタリーの霧に包まれてしまうのだ。
〔ロンドンのシェイクスピア〕
シェイクスピアはやがて妻子を故郷ストラットフォードに残して、単身ロンドンヘ上京するのだが、それがいつだったかは明らかでない。一五八七年か八年のことと推測されているが、一五八五年から次にシェイクスピアがロンドンに定着したことを示す記録のある一五九二年まで、つまりシェイクスピアの二十代の初めの七、八年は記録的には完全に失われている。故郷のストラットフォードかどこかで教師をしていたという推測もよく行なわれているが、要するに推測の範囲を出ない。ただはっきりと言えることは、シェイクスピアはこの時期において何らかの機会を利用して、何らかの劇団と関係を持ち、何らかの劇場での経験を積んで、のちの大劇作家への道は着実に踏んでいたということである。
次にシェイクスピアが記録の上で明確に登場してくるのは一五九二年である。当時マーロー(Christopher Marlowe, 1564〜93)などをはじめとして、いわゆる「大学出の才人」と呼ばれた数人の劇作家たちが活躍していたが、そのうちの一人のグリーン(Robert Greene, 1558〜92)が書いた「百万の後悔で買われた知恵一グロート」(一グロートは昔の四ペンス銀貨)に、明らかにシェイクスピアヘの言及と考えられる一文がある。成り上がり者の若い劇作家が珍重されて大学出の劇作家が無視されていることを、グリーンが病床からマーローらに訴えたパンフレットである。
「われわれの羽毛で美しく飾り立てた成り上がり者、虎の心を役者の皮衣《かわごろも》で包んで、諸君の第一人者にいささかも劣ることなく、立派に無韻詩を打《ぶ》てると思いこんでいる。まったくの何でも屋で碌《ろく》で無しのくせに、自分自身は国広しといえどもシェイク・シーンは俺一人とばかり思い上がっている」
これは明らかにシェイクスピアのことを言ったものである。シェイクスピアの活躍をねたんだものだが、言いかえれば、ことほどさようにシェイクスピアの活躍はすでに目覚ましかったということである。グリーンのこの文章の真意は諸般の情勢から考えて、シェイクスピアの『ヘンリー六世』三部作がグリーン自身か、あるいは他の劇作家の作品の剽窃《ひょうせつ》であることを訴えたものであるかもしれない。いずれにしてもこれはシェイクスピアがすでにロンドンの劇壇に定着したことを示す、十分な記録といえる。あとは「虎の心」の自由な獅子奮迅《ししふんじん》の働きをまつだけである。
〔シェイクスピアの作品……その思想と技巧の展開〕
シェイクスピアが劇作を始めたのは一五九○年頃からであるが、大体一五九四年くらいまでを一区切りとして考えることができる。ふつうに習作時代と呼ばれている時期である。この時期にシェイクスピアは歴史劇『ヘンリー六世』の三部作、『リチャード三世』『ジョン王』、喜劇『間違いの喜劇』、『ヴェロウナの二人の紳士』『恋の骨折り損』、悲劇『タイタス・アンドロニカス』などを書いた。『タイタス』は「大学出の才人」の一人キッド(Thomas Kyd, 1558〜94)の『スペインの悲劇』(一五八九年頃)に似た血の復讐劇である。舞台を赤い血潮で染め上げて、そのショッキングなスペクタクルで当時の観客の趣味と感覚をくすぐった。『間違いの喜劇』はラテン喜劇作家プラウトゥス(Plautus, c. 254〜c. 184 B. C.)の「人違い」のメカニズムを模したものである。二組の双生児が登場して「人違い」をおこし、かくして観客を大いに笑わせればよかった。『ヘンリー六世』三部作は壮大な主題の下に統一された大作だが、いずれかといえば歴史物語というべきものである。シェイクスピアの目と筆は、その材料を自由に駆使して、彼独自のドラマティックなヴィジョンを創り出すまでにはいたっていない。この時期のシェイクスピアの人間把握は、あくまでも外面的、機械的で、人間 の 内 面 を凝視《ぎょうし》するというようなことがない。ただそれだけに、たとえば『リチャード三世』に見られるように、若いシェイクスピアの行動面からの人間把握は、その強力なエネルギーでわれわれを圧倒せずにはおかない。
一五九二年から四年にかけてロンドンの劇場は、ペスト蔓延《まんえん》のため何カ月間も閉鎖され、俳優、劇場人たちは生計の資を他に探さなければならなくなった。シェイクスピアはこの時期に『ヴィーナスとアドウニス』、『ルークリースの辱《はずか》しめ』の二篇の物語詩を書いた。そしてそれをサウサンプトン伯に献呈している。おそらくは何がしの報賞金を受けたものと考えられる。そして彼の『ソネット集』の大部分も、おそらくはこの時期に書かれたものと考えられる。『ソネット集』はシェイクスピアの自伝的要索の多いものとよく言われ、ここに出てくる理想の男性像もサウサンプトン伯がそのモデルと言われている。しかし、こういう種類の書きものの性質上、その点をあまり強調することはできない。重要なのはここに描き出された感情の真実性、その詩の美しさである。この点で、シェイクスピアにとってはいわばベストの副産物ともいうべきこれらの詩篇は、英文学史上今後も永久にユニークな地位を持ち続けるだろう。
偉大な芸術家というものは、いかなる人生経験も決して無駄にしないものである。物語詩などに没頭していたシェイクスピアの次のドラマが、非常に詩的な作品になったのは当然のことだと言える。喜劇『真夏の夜の夢』、歴史劇『リチャード二世』、悲劇『ロミオとジュリエット』などのいわゆる「抒情的な」作品がいずれも一五九五年頃に書かれた。抒情的なアプローチによって、若いシェイクスピアの機械的な目が、まず人間の内面的なものへと向けられるようになった第一歩といえる。
次にシェイクスピアの絢爛《けんらん》たる喜劇時代(一六〇〇頃まで)がやってくる。喜劇『ヴェニスの商人』『じゃじゃ馬馴らし』『むだ騒ぎ』『お気に召すまま』『ウィンザーの陽気な女房たち』『十二夜』、歴史劇『ヘンリー四世、一部、二部』『ヘンリー五世』『ジュリアス・シーザー』などの名作、大作が次々と書かれた。『ヴェニス』のシャイロックに見られるように、喜劇の世界を書きながらもその中に登場してくる人物のあるものは、悲劇的なまでにその環境と密着して描かれた。登場人物が生きた個性と主体を確立したといえる。『ヘンリー四世』『ヘンリー五世』などでシェイクスピアが描いた士爵フォールスタッフは、悲壮なまでに悲劇的真実をたたえた喜劇的人間像の傑作といえる。「笑いの中に真実を」というのは、「英詩の父」チョーサー(一三四〇?〜一四〇〇)のモットーであったが、その文字通りの実践がシェイクスピアのこの時期の喜劇作品だったと言えよう。『ヴェニス』のシャイロックから『十二夜』のマルヴォリオヘの道は、シエイクスピアの次の時代が悲劇時代であることを示している。
燦然《さんぜん》と輝いたエリザベス朝の栄光も、世紀が終わりに近づくにしたがって、その翳《かげ》りをますます濃くして行った新しい世紀の始まりとともに、人々の精神風土が不安、幻滅に圧倒的に支配されていることは、もう疑う余地は無かった。不安の原因の一つは女王エリザベスの後継者の問題だった。これが明確になっていなければ、女王の死後内乱が起きることは必定である。人々は内乱の惨苦は、これまですでに、いやというほどなめさせられてきたのだ。しかも外にはカトリックのスペインが虎視たんたんとしている。一五八八年のスペインの侵略はいまだ記憶に新しい。国内の弱点が一度露呈されれば、外敵が|かさ《ヽヽ》にかかってくることは火を見るより明らかなことだ。一六〇一年二月、アイルランド遠征に失敗したエセックス伯の反乱事件は、おそらくは当時の人々を恐怖、不安、絶望のどん底に陥《おとしい》れたものだろう。やがて王位継承者も決定し、一六〇三年にジェイムズが即位するに及び、人々の不安は幾分かやわらいだように見えた。しかしそれも、ほんの僅かなあいだだけのことであった。新王の放縦な人柄、生活が明らかになるにつれて、国民の不安は以前にも増してひどくなった。ジェイムズ王を退位させようとする策動が次々に起こった。ことに一六〇五年の弾薬事件など、もしそれが成功すれば国家の全首脳部を一瞬にして葬ってしまうようなものだっただけに、当時それがいかに人々の耳目を聳動《しょうどう》せしめたものだったかは、容易に想像がつく。シェイクスピアの悲劇時代の到来である。
十七世紀の最初の十年間は大体シェイクスピアの悲劇の時代と言える。『ハムレット』『オセロー』『リア王』『マクベス』などふつうシェイクスピアの四大悲劇と称されている大作が相次いで書かれた。シェイクスピアの全作品の中でも最高の傑作の名のある作品揃いである。『アゼンスのタイモン』『アントニーとクレオパトラ』『コリオレイナス』などのいわゆる「ローマ劇」もこの時代の作品である。さらに『トロイラスとクレシダ』『末よければすべてよし』『以尺報尺』などの通常「問題劇」と呼ばれている「暗い喜劇」もこの時期の作品である。この時期のシェイクスピアは人間の内面、魂を深く凝視《ぎょうし》したといえる。初期の習作時代における彼の外面的、機械的な人間把握はついにここまで深化したといえる。シェイクスピアの描く人間はついに真の意味における個性、主体性を確立したといえる。われわれ読者、観客は悲劇の主人公の意識の内面の葛藤《かっとう》に直接に参画するようになる。ハムレット、オセロー、リア王、マクベスなどの悲劇は人間の悲劇である。われわれ人類が生き続ける限り、われわれはこの悲劇から逃れることはできない。シェイクスピアの作劇精神が最も高揚した時期、それをシェイクスピアが全エネルギー、最高のパッションを以て作品にぶちつけた時期……彼の悲劇時代はこう言いかえることができるだろう。いわゆる「ロマンス劇」と呼ばれる『ペリクレス』もこの時期の作品である。
「ロマンス劇」の登場をもってシェイクスピアはその最終の時代に到達する。狂乱怒濤の悲劇時代の後の平静、諦観《ていかん》の時代といえる。悲劇の死、終焉《しゅうえん》の主題の後の再生、復活の主題といえる。『シンベリン』『冬の夜ばなし』『あらし』などの作品がこの時代の作品である。シェイクスピアの諦観的、超越的な態度は『アントニーとクレオパトラ』などにすでにあらわれ始めているのだ。おそらくは他の劇作家たちの協力を得てでき上がったと考えられている歴史劇『ヘンリー八世』が、シェイクスピアの最後の作品である。一六一三年頃の作と考えられている。
シェイクスピアの生涯の活躍の場所はロンドンであったが、彼の心は常に故郷ストラットフォードに向けられていた。長男ハムネツトは一五九六年、故郷ストラットフォードに葬られた。スザンナ、ジュディスの二人の娘たちは一六〇七年、一六一六年それぞれ故郷で嫁いだ。『ヴェニスの商人』などを書いていた頃のシェイクスピアは、台本の収入、劇場の株収入などですでに相当に裕福《ゆうふく》だったと思われる。一五九七年彼はストラットフォードでも一番素晴しい家屋敷の一つだったニュー・プレイス(New Place)を六十ポンドで購入している。一六一六年三月、それまでの遺言書の内容をいささか変更し、財産の大部分を家族に残した。パーペイジ、ヘミングズ、コンデルなどの友人たちにも形見を分け、妻には「二番目にいいベツド」を与えている。そして最後の遺言書にサインしてからおよそ一ヵ月後、一六一六年四月二三日に亡くなり、洗礼を受けたストラットフォードの教会に葬られた。教会の記録の示す限り、われらの大詩人ウィリアム・シェイクスピアの生涯は、その結婚のスタイルがいささか変わっていた以外は、生まれた日に生涯を閉じるというように、まことに几帳面なものであった。一六七〇年、詩人の孫娘エリザベス(長女スザンナの一人娘)が亡くなって、詩人の血統は絶えた。
『オセロー』について
〔制作年代〕
悲劇『オセロー』は一六〇四年十一月一日宮廷で初演されている。おそらくはその年の初め頃書かれたものと一般に推定されている。『ハムレット』が書かれた少し後であり、『リア王』が書かれる少し前である。
〔筋書の出典〕
シェイクスピアはオセロー物語の筋書をチンティオ(一五〇四〜七三)の『ヘカトムミーティ』(『百話集』)(Hecatommithi, 1565)から採ったものと考えられている。この英訳が出たのは一五七三年だから、シェイクスピアはおそらくはこれを原語で読んだのであろう。この物語とシェイクスピアの『オセロー』を比較検討してみると、シェイクスピアの才能のあり方がよくわかる。チンティオの物語はシェイクスピアの作に見られるような深刻な性格の悲劇ではなく、陰謀、術策を中心としたメロドラマである。チンティオではまず主人公のムーアの勇気と軍事的能力が、ヴェネチアの人々に高く評価されていることが簡単に述べられている。彼はキプロスへの遠征軍の司令官に任じられる。彼はヴエネチアの貴婦人ディスデモナと結婚する。彼女はムーアの人間的な偉大さを尊敬するようになるのだが、シェイクスピアにあるように彼の勇ましい冒険談は述べられていない。この結婚に対するディスデモナの家族の反対についても、十分述べられてはいない。イァーゴーに相当する「旗手」は、シェイクスピアにおけるようにキャッシオーの地位の上での競争相手ではなく、ディスデモナに激しい恋情をいだいている。チンティオではキャッシオーは単に「(小)中隊長」と呼ばれている。旗手はディスデモナが彼に冷淡なのは、彼女が中隊長を愛してるからだと考える。旗手はディスデモナを激しく憎むようになる。たまたま中隊長は軍務上のある過失のために、司令官たるムーアからその地位を追われることになる。ディスデモナは中隊長のために大いに弁護する。旗手はこの時とばかり、ディスデモナと中隊長との不義の筋書を考え出し、それをムーアに告げる。そしてその真実性を証明するため、ディスデモナのハンカチを盗み取り、中隊長の部屋にすてておく。ムーアと旗手はディスデモナと中隊長を殺すことに考えが一致する。旗手はムーアの部屋の天井に割れ目があるのを利用して、ディスデモナを砂をつめた靴下で撲殺し、その上に天井を落とし、彼女があたかも不慮の災難で死んだように見せかけるのがいいと提案し、二人でそれを実行する。しかしムーアは、いざディスデモナを失くしてみると、悲しみのあまり気も狂いそうになる。そして旗手を追放してしまう。怒った旗手はムーアをディスデモナの殺人犯として告訴する。ムーアは終身国外追放となり、後にディスデモナの縁者に殺される。旗手はこの事件では直接に疑われなかったが、後に他の事件で捕えられ、拷問《ごうもん》にかけられて死ぬ。その死後彼の妻が、ディスデモナ殺害の一切を明らかにする。
シェイクスピアとチンティオの異なる点を追えば際限はない。チンティオではディスデモナはムーアと駆け落ちしていない。ディスデモナの家族はいやいやながらムーアとの結婚に同意している。結婚後二人はヴェネチアで仕合わせに暮らしている。キプロスに赴任《ふにん》する時、二人は一緒の船に乗っている。旗手の企みの目標はディスデモナで、ムーアではない……細目に関しての差異は列挙してゆけば際限がない。要するにチンテオィの物語はイタリアの典型的な悪玉の陰謀物語である。興味の中心は筋の通俗性にある。シェイクスピアの『オセロー』はずっと道徳的である。ずっと真実味に溢れている。的確で深遠な性格描写が作品の骨格となっている。ちょうど大作『ハムレット』が復讐を主題としながらも、当時の単なる復讐劇の枠を出て、複雑きわまる人間の悲劇を書くことに成功したように、チンティオの粗雑なメロドラマを種本にしながらもシェイクスピアは、単なる嫉妬《しっと》の陰謀劇の枠を出て、複雑にして深刻きわまる人間悲劇を描くことに成功したのである。チンティオとシェイクスピアを比較すれば、シェイクスピアの作劇術の秘密、当時のシェイクスピアの思想と芸術の一端を明確に把えることができる。
『オセロー』の種本を考える上で、詩人にして翻訳家ロバート・トフト(Robert Tofte 一六二〇年没)が『嫉妬の紋章』と題して訳した、イタリア人ヴァルキ(Varchi)の作を忘れることはできない。直接に筋書の上で影響を与えたのではないが、主題、思想的な背景の上で密接な連関性を持っている。ヴァルキの作はその英訳が出る前から評判となり、シェイクスピアはおそらくは原語で読んだものと思われる。ヴァルキは他のルネサンス思想家達と同様に、嫉妬を羨望との連関において各種のタイプに分析している。ヴァルキによれば嫉妬の原因には次の四つが考えられる。(一)に愛の 悦《よろこ》び、(二)に情熱、(三)に所有欲、(四)に名誉欲。ヴァルキ曰く、
最後に、嫉妬はその人の本性、育ち、その人が生まれて住んでいる国の流儀、慣習に従って、その人の名誉、栄誉欲から起こる。ことに最後の国別の点に関しては、人々の考えはまことに千差万別であり、国の慣習はまったく相反している。それで人々曰く、南方民族および熱帯地域に住む人間は非常に嫉妬深い。彼らは生まれつき愛情のことに傾倒し、熱中する傾向があるか、または妻や恋人が不義のけがらわしい汚点でけがされることをこの上ない不名誉、恥辱と考えるからである。このようなことは、これと反対の地方に住む人、北極地に住む人間たちはそう深くは心にとめない……
シェイクスピアの「オセロー」の緒論といってさしつかえなさそうである。
〔悲劇『オセロー』の特質〕
『オセロー』は数あるシェイクスピアの作品の中で、こういう題で要約することの、おそらくは最も困難な作品である。それほど複雑にして多様な面を持っている。嫉妬の悲劇と呼んでみても、それはほんの緒論にしかならない。イァーゴーの復讐の悲劇、性格悲劇……いろいろと呼び名はあろう。いずれも『オセロー』の悲劇の一斑《いっぱん》を表わしている以上、すべて間違いではない。しかしいずれも『オセロー』の悲劇全体を言い表わしたものとは言い難い。ただあるものはキプロスを背景として、オセローの家庭という狭い、狭い社会内で演じられる愛憎、嫉妬、激情、野心、純潔、誠実……の激しい人間ドラマ……
『オセロー』の悲劇がすべてこの狭い社会内で演じられるということ、その悲劇の主題、基本的なタイプを抽象的な概念で表現し難いということが、いささか逆説めくが、実はこの悲劇の特性と言ってよいと思われる。『ハムレット』でも、次の『リア王』『マクベス』でも、その悲劇が演じられる舞台は、ずっと広範囲の空間に広がっている。そしてその主人公たちの意識の内面で演じられる悲劇は、彼らを取り巻く形而下の世界と重要な連関性を持っている。エルシノアの城を取り巻く雲、霧はハムレットの心の中の雲、霧である。ヒースの魔女どもを包んでいる魔法の霧は、マクベスの野心の霧である。荒野にさまようリアに容赦なく吹きつける|あらし《ヽヽヽ》は、主人公リアの心の中の状態を象徴するものである。『オセロー』にはこの象徴性が無い。いや、「無い」というのはおそらくは誤りであろう。その象徴性はまったく異なったものである、というべきだろう。『オセロー』におけるこのあたりの連関性が、シェイクスピアの他の悲劇と比べていかなる特異性を持っているか、『オセロー』の悲劇の特性を解く鍵がここにあると思われる。『オセロー』の研究はこれからだ。
悪玉イァーゴーはこの作におけるシェイクスピアの傑作である。中世の道徳劇などに見られる伝統的な悪玉の歴史を背景に持ちながら、単なる抽象ではない、複雑な個性を持った、血の通っている生きた人間を創り出した。前にはドウヴァー・ウィルソン、最近ではG・K・ハンターに指摘されたように、「ムーア」というのは黒人《ニグロ》と解してよいだろう。「ムーア」には伝統的にそういう含蓄があるからで、その用例もきわめて多いからである。
『オセロー』の主題は魔法のハンカチに人工的に、複雑、巧緻に織りなされた魔法の刺繍のように、複雑に組み立てられているが、このハンカチの固有の持主はあくまでも主人公オセローであり、その魔法の主たる被害者もオセロー自身である。その観点からすれば、われわれ読者、観衆の一つの主要な関心事はあくまでも主人公オセローの魂の内面である。オセローの悲劇意識のタイプである。そしてこの点でもわれわれはシェイクスピアの貪欲な人間探求に目をみはる。前作『ハムレット』の主人公とはまったく正反対の意識タイプの主人公を創り出しているからだ。ハムレットでは「在るか、在らぬか」が常に問題だった。ウィッテンベルク大学学生ハムレットにとっては、この「二分法」的懐疑主義が彼の知的純潔のバロメーターだった。これを離れて彼の生きる道はなかった。それが彼の生命だった。ところがムーアの将軍オセローの心には、このハムレット的な懐疑の雲はただの一片も見出すことはできない。キプロスの空のように澄み切った彼の心にとっては、ひとたび疑惑の念を懐《いだ》くということは、ただちにそれを解決することだ。(三幕三場一七九〜八○行)彼にとっては「疑う」は「証明する」と同意語なのだ(同一九〇行)。もしオセローの心にハムレット的な懐疑の雲が、たとえ一度でも、一片でも浮かべば、彼の悲劇は絶対に存在し得なかった。逆に、もしハムレットの心にオセロー的な単一な方程式が一度でも成立していれば、ハムレットの悲劇はそもそもから起こり得なかった。人間の魂の内面にあらゆる角度から光を当てようとするシェイクスピアが、次に見出だすその秘密は何か? それが次の大作『リア王』における彼の課題である。
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あとがき
前の『マクベス』訳を終えてから、すぐこの仕事にかかったのだが、やはり思った以上に隙《ひま》がかかり、一年と二月《ふたつき》ほどでようやく筆をおくことができた。前訳同様、一番骨が折れたのはやはり、シェイクスピアの詩のイメージを伝えることであった。リズムを伝えることの無理は始めからわかっている。しかし詩的イメージだけは何としても移したい。そのためには訳文が少々生硬にすぎてもやむを得ない、とさえ考えた。シェイクスピアの「詩」を除いて、シェイクスピアはあり得ないからである。しかし希望は希望である。筆をおいて振り返って、いささかの自信も持ち得ない。
この訳ではイァーゴーを「副官」に昇格した。キャッシオーを「隊長」とした。これまでの日本訳はほとんどすべて「旗手」と「副官」となっているが、これは誤りである。シェイクスピアの種本、軍隊の常識から考えて、イァーゴーが副官にあこがれるのはおかしい。副官は指揮官のいわば秘書、当番の類いで、決して望ましい地位ではない。もともと副官と旗手とは同じものである。副官が戦場に出れば旗手となったものである。キャッシオーはオセロー靡下《きか》の「先任将校」「副司令官」「部隊長」「隊長」などと訳すべきものである。イァーゴーが副官となってオセローの秘書または当番となり、常にその周辺におり、自由にその家庭に出入りし、かくしてはじめて『オセロー』の悲劇が可能となるのだ。イァーゴーは本訳では待望の「副官」に昇任した。しかし彼の悲劇はその瞬間からまた始まっている!
かつてストラットフォードで開かれた国際シェイクスピア会議に出席した折り、BBCの放送記者に「シェイクスピアを日本語に訳すと、何パーセントぐらい訳せるか?」と訊ねられた。小生の答えは五十パーセントだった。最近日本を訪れたロンドン・シェイクスピア・グループのリーダー、ピーター・ポター氏とラジオでインタヴューする機会を持ったが、氏の意見は「シェイクスピアの心は訳すことができるから六十パーセント」だった。六十パーセントも訳せれば、訳者として商売冥利につきるといえるだろう。
〔テクストは主として G. L. Kittredge(ed.), Othello, Boston, 1941によった。特別の理由からではない。オハイオ州立大当時からの書きこみが小生にとっては意味があったからである。他にM. R. Ridley, Alice Walker and John Dover Wilson, Kenneth Muirの諸家の版も随時参照した〕
〔訳者紹介〕大山俊一(おおやまとしかず)
一九一七年生まれ。東京文理大英文科卒。オハイオ州立大学大学院卒M・A・ハーバード大学名誉研究員(一九六五〜六)。中世および近世英文学専攻。主著『シェイクスピア人間観研究』『ハムレットの悲劇』『複合的感覚』、訳書『ハムレット』『マクベス』『オセロウ』『リア王』その他。