愛の妖精
ジョルジュ・サンド作/篠沢秀夫訳
目 次
愛の妖精
解説
ジョルジュ・サンドの文学
『愛の妖精』について
作品鑑賞
年譜
あとがき
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……麻打ち男は、たっぷりと夕食をたいらげてから、白ぶどう酒のつぼを右に、ひと晩中パイプをくゆらせられるだけのたばこの箱を左にして、私たちに次の物語をしてくれた。
(一八四八年九月、『愛の妖精』への序文)
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愛の妖精
一
コッス村のバルボおやじは暮らしむきが悪くはなかった。その証拠《しょうこ》に村会議員になっていた。畑を二つ持っていて、家族の食べ料になっていたし、おまけにもうけも上がっていた。自分の草刈り場から荷車が何台もいっぱいになるほど、『まぐさ』がとれ、小川のそばにあって少々『あし』がじゃまになっている分を除けば、これはこの土地で第一等といわれる『まぐさ』だった。
バルボおやじの家は、かわら屋根のりっぱな普請《ふしん》で、高台に立って風通しもよく、みいりのいい菜園《さいえん》と一日で耕すには六人も人手がいるぶどう園がついていた。それからしまいに、納屋《なや》のうしろには、この土地でく|だもの畑《ウーシュ》と呼んでいるみごとな果樹園があって、くだものが、『すもも』でも『黒桜んぼ』でも、『なし』でも『ななかまど』でも、しこたまあふれていた。それにまた、その囲いになっているくるみの木立は二里四方ではいちばん古く、いちばん太かった。
バルボおやじは度胸のいい男で毒がなく、ひどく家族思いだが、だからといって隣近所や村の人達を踏みつけにするわけではなかった。
バルボがもう三人の子持ちだったとき、バルボのおかみさんは、五人分のものはたっぷりあるし、なにしろもう年だから急がなくてはとでも思ったらしく、すっぱりと一度にふたり生んでしまった。まるまるとした男の子ふたりだった。そして、どっちがどっちだか、ほとんど見分けがつかないほど同じようだったので、『|ふたつっ子《ベッソン》』、つまり完全に似ている種類の双生児《そうせいじ》だと、すぐにわかった。
サジェットばあさんが生まれたふたりを前掛けで取り上げてくれたが、最初に生まれた子の腕に針で小さな十字をつけるのを忘れなかった。ばあさんのいうには、リボンだの首輪だの、まぎれやすいものでは兄の権利をなくしてしまうかもしれないからだった。こどもがもっとしっかりしてきたら、けっして消えないようなしるしをつけなくてはいけない、ということだった。それはそのとおり守られた。上の子はシルヴァンと名がついたが、まもなくシルヴィネにした。名づけ親になってくれた長兄と区別するためだった。下の子はランドリと呼ばれ、洗礼のときにもらったとおりの名だった。名づけ親になった叔父は小さいころからランドリッシュと呼ばれつけていたからだった。
バルボおやじは、市《いち》からもどって来たら、ゆりかごの中に小さな頭が二つ見えたので、いささかびっくりした。
「へへえー、これじゃゆりかごが小さすぎるな。あしたの朝はこれを大きくしなくちゃならん」
習ったわけではないのに指物《さしもの》仕事が少しできたので、バルボはこれまでも家具のなかばは自分でこしらえていた。このほかはべつに驚かず、妻のせわをしに行き、おかんをしたぶどう酒を大コップで飲ませると、おかみさんはますます元気になった。
「おまえもよく働いてくれるな、これじゃわしもがんばらなくちゃいかん。養うこどもがふたり増えたんだからな。どうしてもほしかったわけじゃないんだが。こうなると、野良《のら》仕事や馬だの牛だののせわを休むわけにゃいかんぜ。心配ないよ、働くさ。だけどこのつぎは三人も生まないでくれよ。そいじゃ手にあまるからな」
バルボのおかみさんは泣きだした。バルボおやじはひどく困った。
「いいから、いいから。気に病むなよ、おまえ。しかるつもりで言ったんじゃないぜ。反対だよ、お礼のつもりなんだ。あの子たちはかわいいし、がっちりしてる。五体健全だ。わしは喜んでるんだぜ」
「ああ、神さま」と女房はいった。「そりゃあ『だんな』さんがあの子たちのことで責めてなさるんじゃないのはわかってますよ。だけどあたしは気がもめるんです。なにしろ『|ふたつっ子《ベッソン》』ほどあぶなっかしくて育てにくいものはないっていいますからね。両方で痛めあって、たいていはいつも、どっちかひとりが死なないと片方が丈夫でないんですからねえ」
「そりゃそうだ。だがほんとかね? なにしろ『|ふたつっ子《ベッソン》』ははじめてだからね。めったにあるこっちゃない。だけどサジェットばあさんが来てる。あの人ならこういうことをよく知ってるから、教えてくれるだろう」
サジェットばあさんは、呼ばれると、答えてくれた。
「よく聞きなさいよ。この『|ふたつっ子《ベッソン》』たちはちゃんとりっぱに生きのびるよ。ほかのこども衆より弱いわけじゃないよ。わたしゃもう五十年も産婆《さんば》をしてるんだからね。この郡のこどもならみんな、生まれるのも、大きくなるのも、死ぬのも見てきたんだからね。だからふたごを取り上げるのも初めてじゃないよ。第一、似てるからって、からだに悪いことはないのさ。わたしがあんたと違うぐらい似てないふたごもあるよ。そうするとよく一方が強くて片方が弱いのさ。だからひとりが生き残ってもうひとりが死ぬのさ。だけどあんたの子たちを見なさい。どちらもまるでひとり息子みたいにかわいくてしっかりしてるよ。だから母親の胎内《たいない》で痛めあったりなんかしなかったのさ。ふたりとも安産で、母親をあまり苦しめなかったし、自分たちも苦しまなかったじゃないか。みごとにきれいな子たちで、りっぱに育ってゆくさ。だから安心しなさいよ、バルボのおかみさん。この子たちが大きくなるのをながめるのが楽しみになるよ。で、このままで育てば、毎日見てる人たちとあんたのほかにはふたりを区別できる人はあまりないだろうね。卵からかえった二羽のしゃこのひなみたいだねえ。ほんとにかわいくて、よく似ているから母鳥にしか見分けがつかないんだよ」
「いいことを言ってくれたねえ!」とバルボおやじは頭をかきながら言った。「だがわしが聞いた話じゃ、『|ふたつっ子《ベッソン》』はたがいに愛情が深すぎて、離ればなれではもう生きてゆかれない、少なくともふたりのうち、ひとりは悲しみで衰えて死んでしまうんだそうだが」
「そりゃほんとにほんとうさ」サジェットばあさんは言った。「だけど経験を積んだ女の言うことだから、よくお聞きなさい。いいかげんに聞いて忘れてしまってはいけないよ。だって、あの子たちが一人まえになるころまでこの世にいてあんたがたに意見するわけにゃゆくまいからね。あんたがたの『|ふたつっ子《ベッソン》』がおたがいに相手がわかるようになったらすぐに、いつもいっしょにしておかないように気をつけなさい。片方に留守居《るすい》をさせて、もう一方を野良へ連れ出しなさい。片方が釣りに行くときには、もう一方は狩りにやりなさい。ひとりが羊番《ひつじばん》をするときには、もうひとりは牧場へ牛を見に行くがいい。一方にぶどう酒を飲ませるなら、片方には水をやり、またときにはその反対にするんだよ。しかるにしても、おしおきをするにしても、ふたりいっしょにしてはいけないよ。同じなりをさせてもいけない。一方が丸い帽子なら片方は『つば』つきにして、上《うわ》っぱりはことに同じ青でも色が違うようにしなさいよ。つまり、思いつくだけの手をつかって、ふたりがたがいに相手と自分をごっちゃにしたり、相手がいないと気がすまなくなったりしないようにすることだよ。まあこうは言ったけど、馬の耳に念仏《ねんぶつ》ってことになるのじゃないかと気がもめるね。だけど、言ったとおりにしないと、今にひどく後悔することになりなさるだよ」
サジェットばあさんの話は、まったくみごとだったので一同信頼した。言われたとおりにすると約束し、りっぱな贈り物をして帰した。それに、『|ふたつっ子《ベッソン》』たちを同じ乳で養ってはいけないと、くれぐれも言われていたので、急いで乳母《うば》を捜した。
だが土地ではぜんぜん見つからなかった。バルボのおかみさんは、こどもふたりとは思っていなかったし、ほかのこどもたちはみんな自分で育てたので、まえもって用意してはいなかったのだ。バルボおやじは乳母を求めて近在へ出かけねばならなかった。そしてその間、こどもたちを飢えさせておくわけにいかないので、やはり乳を与えていた。
この地方の人々はそう早くは心を決めない。いかに物持ちでも、いつでも少しは価切《ねぎ》らなくてはならない。バルボ家が払うだけのものを持っているのをみんな知っていたし、母親がもう若い盛りではないのだから乳《ち》のみ子ふたりでは身が持たないだろうと思った。だからバルボが見つけた乳母たちはいずれも一か月十八フラン、つまり町の人に対してときっちり同じに要求した。バルボおやじは十二か十五フランしか出す気がなかった。百姓にとっては、それでも高いと思っていた。
あちこち走りまわり、少し口論さえしたが、なんにも決まらなかった。あまり急ぐ話でもなくなっていた。というのは、こんなに小さい子ならふたりでも母親を疲れさせるわけがないし、それにどちらもとても元気で、ひどく静かで、あまり泣かないので、家の中はほとんど幼児がひとりのようにめんどうがなかった。一方が眠っているときは、もう一方も眠っていた。父親がゆりかごを直しておいたので、ふたりが一度に泣きだすと、ゆすってやり、ふたり同時にしずめてやるのだった。
とうとうバルボおやじはある乳母と十五フランで話をつけ、手つけの五フランを払うばかりとなった。するとかれの妻が口を出した。
「そんなこと! あんた、一年に百八十とか二百フランもつかうなんてわけがわかりませんよ。まるであたしたちがだんな衆や奥がたさまみたいに。あたしが自分のこどもたちにも乳をやれない年だっていうみたいじゃありませんか。ありあまるほど乳が出るんですよ。うちの子たちはもうひと月になってるし、元気じゃないかどうか見てごらんなさいな! ふたりのうちひとりにあのメルロのおかみさんを乳母にする気でしょうが、あの女はあたしの半分も丈夫でもなきゃ健康でもありませんよ。あの女の乳はもう出はじめてから十八か月にもなってるし、うちののような小さい子によくはありません。
サジェットさんは『|ふたつっ子《ベッソン》』を同じ乳で養わないようにって言いましたよ、ふたりがあんまりたがいに愛情を持ちすぎないようにってね。あの人の言ったことはほんとうですよ。でもね、あの人はこうも言ったでしょう。ふたりに同じようにせわをみるようにって。なんていっても『|ふたつっ子《ベッソン》』はほかのこどもとすっかり同じに丈夫じゃないんだからって。ひとりのためにもうひとりを見捨てなきゃならないんだったら、ふたりがなかよしになりすぎたほうがよっぽどましです。それにどっちの子を里子に出すっていうんです。ほんとのことを言うと、どっちの子を手放すにしても、同じくらいつらいんです。たしかに上の子たちもみんなかわいかったけれど、どうしたわけだか、今度の子たちは、いままでに抱いた子のうちでいちばんかわいく、いちばんいい子に思えるんです。なんだかわからないけれど、ふたりをなくすような心配がいつもして。
お願いですから、この乳母の話はもう考えないでください。ほかのことはみんなサジェットさんの言いつけどおりにしましょう。乳のみ子がたがいに愛情を持ちすぎるなんてことがあるでしょうか、乳離れするころになっても、自分の手と足を区別できれば上できだっていうのに?」
「おまえの言うことはまちがっちゃいないよ」バルボおやじは答えて、妻をながめた。たしかにめったに見られないほど、まだみずみずしく頑丈だった。「だけどそうは言っても、子どもたちが大きくなるにつれておまえのからだが衰えたらどうする?」
「心配しないで」とバルボのおかみさんは言った。「十五の娘時分と同じに食欲があるし、それに、精がつきはてたと思ったら、けっしてかくしておかないって約束しますから。そのときになってから、坊やをひとり里子に出してもおそくはないでしょう」
バルボおやじは、よけいな出費をしないことに賛成なのは同じだったから、折れて出た。バルボのおかみさんは、こぼしもせず苦しみもせず、『|ふたつっ子《ベッソン》』たちを養い、おまけに、体質がよほどよかったのか、『|ふたつっ子《ベッソン》』たちの乳離れの二年後に、きれいな女の子を産みさえした。ナネットという名をつけ、やはり自分の乳で育てた。だがそれはやはり無理で、最初のこどもを育てていた長女が末の妹に乳を与えて、ときどき助けてくれなかったら、とてもしまいまでやれなかっただろう。
このようにしてバルボ一家はふくらんでゆき、やがて小さな叔父さん、小さな叔母さん、小さな甥《おい》に小さな姪《めい》がうようよして、どっちがやかましくてどっちがおとなしいなどと、言いあうこともない次第となった。
二
『|ふたつっ子《ベッソン》』たちはほかのこどもたちより弱くもなく、らくらくと育ってゆき、おまけに気だてがやさしくできがよく、歯の生えかわりや背の伸びるときにも、普通のこどもほどには熱で苦しんだりしなかった。
金髪で、大きくなって色が変わることもなかった。血色よく、大きな目が青く、撫《な》で肩で、背中は真直ぐにしゃんとして、同い年の連中よりも背も高いし大胆《だいたん》なので、コッスの部落を通る近在の人はみな、立ち止まってふたりをながめては、その似ているのに感心し、立ち去るときにこう言うのだった。「なんとまあ、とにかく、りっぱな若い衆がそろったもんだ」
そのせいで、早くから、『|ふたつっ子《ベッソン》』たちは、じろじろ見られたり、問いただされたりするのになれて、こども時代にも恥ずかしがったり、面くらったりしなかった。だれにでもなつき、このあたりの子がするように知らない人を見ると茂みの中へかくれたりはせず、だれにでも顔をあわせるが、いつも行儀《ぎょうぎ》よく、そしてうつむいたり、もじもじしたりせずに聞かれたことに返事をするのだった。
最初に見ると、ぜんぜん区別がつかず、卵をひとつ見て、またもうひとつ見るような気がするのだった。だがしばらくの間ふたりをよくながめていると、ランドリのほうがちょっとばかり背が高く頑丈で、髪の毛が濃く、鼻も大きく、目もいきいきしているのがわかるのだった。それに額も少し広く態度がはっきりしていたし、それにまた、兄には右のほおにあるしみが、左のほおにあってずっとめだつのだった。だから村の人たちはふたりをちゃんと見分けていた。けれどもちょっと時間がかかったし、日暮れとか、少し離れているときなどは、ほとんどみんながまちがえるのだった。
おまけに『|ふたつっ子《ベッソン》』たちはまったく同じ声をしていたし、よくまちがえられるのをちゃんと知っているので、わざわざ思い違いを知らせたりせずどちらの名まえでも返事をしていたから、なおさらだった。バルボおやじ自身がときどきわけがわからなくなった。サジェットばあさんがまえにいったとおり、けっしてまちがえたりしないのは母親だけで、暗闇《くらやみ》だろうが、ふたりの姿がやっと見えたり、話しているのがやっと聞こえる遠くからだろうが、まちがえないのだった。
まったく、どちらもそれぞれ値うちがあった。ランドリのほうが兄より陽気で勇敢な気性だとしても、シルヴィネはとても『しんがやさしく』、とても気がまわって、弟よりかわいがらないなどということはとてもできなかった。三か月の間は、ふたりがあまりなじみあわないように気をつけた。いなかでは風習に反することを三か月も続けるのはたいへんなことだ。しかし、ひとつには、そうしてもききめがあったとはとても思われなかったし、またいっぽう、司祭さんが、サジェットばあさんはもうろくしている、神様が自然の掟《おきて》におまかせになったものを人間が手を加えるわけにはゆかないと言ったのだ。そこで、だんだんに、守ると約束したこと全部を忘れていった。上からかぶる幼児服を初めて脱がせて、半ズボンでミサに連れて行ったとき、ふたりには同じラシャの布地の服を着せてあった。というのは母親のスカートが二着の服になったからで、型も同じだった。村の仕立屋は型を二つも知ってはいなかったのである。
もの心がつくようになると、色についてもふたりは同じ趣味を持っているのがわかった。ロゼット伯母さんが、ふたりにネクタイをお年玉にくれようとしたときにも、家から家へペルシュ産の馬〔北フランスのペルシュ地方は昔、馬の産地として名高かった〕でやって来る行商《ぎょうしょう》の小間物屋《こまものや》の荷から、ふたりともリラの色をした同じネクタイを選んだ。伯母さんは、いつもおそろいにしたいというつもりからなのかとたずねた。だが『|ふたつっ子《ベッソン》』たちはそこまで考えていたわけではなかったのだ。シルヴィネは、小間物屋の荷にあるネクタイでこれがいちばんきれいな色で、いちばんいい柄《がら》だと答え、そしてすぐにランドリもほかのネクタイはみんなへんだと言いはった。
「じゃあ、わしの馬の色はどう思うかね?」行商人がにこにこして言った。
「とってもきたないよ」ランドリが言った。「よぼよぼの『かささぎ』みたいだ」
「ぜんぜんきたないよ」シルヴィネが言った。「まるでもう羽根の抜けかけた『かささぎ』だね」
小間物屋は、わけ知りげな顔をして、伯母さんに言った。
「わかるでしょう、このこどもたちは目の働きまで同じなんですよ。ひとりに赤いものが黄色に見えれば、すぐにもうひとりも赤いものを黄色に見るってわけでさ。そうだからって、そのことでさからってはいけないんですね。だってよく言うでしょう、『|ふたつっ子《ベッソン》』たちが同じ版木《はんぎ》の二つの絵だって思い込むのをじゃましようとすると、ふたりともばかになって、自分で何を言ってるのか、もうわからなくなるってね」
小間物屋がこんなことを言ったのは、リラ色のネクタイは染めが悪くて、一度に二本売ってしまいたいからだった。
その後もすべて同じぐあいで、『|ふたつっ子《ベッソン》』たちはあまり同じなりをしているので、ますます、まちがえることが多くなり、そしてこどもっぽいいたずらなのか、それとも司祭が手直しのきかないといった自然の掟《おきて》の力なのか、ひとりが木ぐつのさきをこわすと、すぐにもうひとりが同じ側の木ぐつをかくのだった。ひとりが上衣とか帽子を破くと、おくれずに片方が破れめをまねするので、まるで同じことがこちらにも起こって破けたようだった。それから、『|ふたつっ子《ベッソン》』どもは、わけを聞かれると、笑いこけて、ずるがしこくも知らんふりをするのだった。
よいことか悪いことか、この愛情は相変わらず年とともに深まり、少しは理屈のいえる年ごろになると、片方がいなければ他のこどもたちと遊んでもつまらないと、言い交わすようになった。そして父親が片方を一日じゅう自分のそばに置き、他方を母親と残らせてみたのだが、ふたりはあまり悲しげで顔色が悪く仕事も根《こん》が続かないので、病気かと思うほどだった。そしてその晩ふたりが顔を合わせると、手に手を取って、外をぶらつきまわり、なかなか帰って来ようとしないのだった。それほどふたりでいるのが楽しかったのだし、また、こんな苦しみをさせたことで両親に対して少しすねていたからでもあった。
こんなことをしてみるのは、もうこれでおしまいになった。というのは、はっきり言えば、父も母も、それに叔父も叔母も、兄や姉妹も、『|ふたつっ子《ベッソン》』たちに少しあまやかしすぎるくらいの愛情を持っていたからだ。ほめられるものだから、じまんにしていたし、それに、実際、ふたりの子はみにくくもなく、ばかでもなく、意地悪でもなかったからだ。ときどき、バルボおやじは、こんなにいつもいっしょにいるくせがついては、おとなになったらどうなることかと心配になり、また、サジェットばあさんのことばを思い出して、ふたりをからかって、ねたみあわせようとやってみた。ふたりがちょっとしたあやまちをすると、たとえばバルボはシルヴィネの耳を引っぱって、ランドリにはこう言った。
「今度はおまえだけ許してやる。ふだんおまえのほうが聞きわけがいいからな」
だが、シルヴィネは耳が燃えるように痛くても、弟が許してもらえたのを見てがまんしているし、ランドリは自分がお仕置きを受けたように泣きだすのだった。
また、ふたりともが欲しがっていた何かをひとりだけにやってみた。だがすぐに、おいしい食べ物なら分けてしまうし、そうでなくておもちゃとかガラクタ道具なら共有にしたり、貸したり、返したりして、自分のもの、おまえのものという区別なしにしてしまうのだった。ひとりの行ないをほめて他のひとりは公平に扱わないふりをしてみても、このもうひとりのほうは、『|ふたつっ子《ベッソン》』の仲間がおだてられ、愛撫されるのを見ると喜び、得意にさえなって、自分も相手をほめ、愛撫し始めるのだった。
結局、ふたりの心でもからだでも引き離そうとするのはむだなほねおりで、それにかわいがっているこどもの気にさからうのは、こどものためにであれ、人のあまりしたがらないことだから、やがてすぐになりゆきを神のみ心のままにまかせるようになった。別なふうに言えば、こういうようにちょっとからかうのが遊びになったので、『|ふたつっ子《ベッソン》』はふたりともまったくそれにひっかかりはしなかった。ひどく悪がしこく、ときには、放っておいてもらうために、口論し、けんかするふりをするのだった。けれどふたりのほうからすれば、これはふざけているだけで、上になったり下になったりの取っ組みあいでも、たがいに少しでも痛い思いをさせる気はなかったのだ。ふたりがもめているのを見て驚いて寄って来る人がいると、ふたりはかくれてしまい、その人のことをさんざん笑う。そうすると一つ枝の上の二羽の『つぐみ』のようにさえずり歌う声が聞こえて来るのだった。
これほど似てい、これほど愛着を持っていても、神は、天にも地にもまったく同じものは何ひとつお作りにならなかったのだから、ふたりが別々の運命に従うようになさった。そこでまわりの人々にも、これは、神さまのみ心によってそれぞれ別々のふたつの生命であり、それぞれの気質によっても違いのあることがわかってきた。
このことは苦しみによってしかわからなかった。そしてこの苦しみは、ふたりがそろって最初の聖体拝受〔最後の晩餐で、イエスがパンを「わがからだ」、ぶどう酒を「わが血」といったことから、イエスの肉と血を象徴するパンとぶどう酒をいただくキリスト教の儀式。聖餐に同じ〕をすませたあとでやって来た。バルボおやじの家族は、せっせとかわいいこどもたちをこの世に送り出すふたりの姉娘のおかげで、人数がふえていた。長男のマルタンは、しっかりしたりっぱな若者だが兵隊に出ていた。娘の聟《むこ》たちはよく働いたが、実りはいつもいいわけではなかった。この地方では、風害があったり、取り引きのうまくゆかないことがあったりして悪い年が続き、百姓衆のふところからは出てゆく金のほうがはいってくる金より多かった。そういうわけで、バルボおやじは家の者を全部てもとに置くだけ豊かでなかった。そこで『|ふたつっ子《ベッソン》』たちをよそへ奉公に出すことを考えなければならなくなった。
プリッシュ村のカイヨおやじが牛飼いにひとり引き受けようと申し出た。耕す土地はかなりあるし、自分の男の子たちはこの仕事には大きすぎるか年がゆかないかだったからだ。バルボのおかみさんは、夫が最初にこの話をしたとき、こわくてこわくて、たいへんに苦しんだ。まるで、自分の『|ふたつっ子《ベッソン》』たちにこんなことが起こるとは夢にも思っていなかったみたいだった。そのくせ、ふたりが生まれてからずっとそのことを心配していたのである。だが夫にたいそう従順だったので、何も言えなかった。父親もやはり自分でも心配していたので、おだやかに事を運ぼうとした。初め、『|ふたつっ子《ベッソン》』たちは泣き、そして三日間というもの、食事のときしか姿を見せず、森や畑をさまよって過ごした。両親にはひと言も口をきかず、言われたようにする気になったかと聞かれても、なにも答えなかったが、ふたりだけのときには、いろいろ意見を交わしていたのだった。
最初の日は、ともどもに嘆き、力ずくで引き裂かれないかとでも思っているように腕と腕を組みあっているばかりだった。けれどバルボおやじがそんなことをするわけがなかった。百姓の知恵というもので、しんぼうが第一、つぎには、時がすべてを解決してくれると信じていたのだ。だから翌日、『|ふたつっ子《ベッソン》』たちは、ぜんぜんうるさくされないし、自分たちでやがてわかるだろうと思われているのを見て、おどかされたり罰せられたりするのよりも、父親の意志に恐れおののいた。
「やっぱり言われたとおりにするほかはないんだよ」ランドリが言った。「どっちが行くか決めなきゃいけない。だって自分たちで決めるようにされたんだし、それに、カイヨおやじはふたりとも雇うわけにはゆかないって言ったんだからね」
「出て行こうと残ろうと同じことじゃないか」シルヴィネは言った。「だって別れなきゃならないじゃないか。よそへ行って暮らすことだけが問題じゃないんだよ。おまえといっしょに行けるなら、家のことなんか忘れてしまうのに」
「口で言えばそうさ」ランドリは続けた。「だけど両親のところに残るほうは、慰められるし、いやなことも少ないんだよ。なにしろもうひとりのほうは、『|ふたつっ子《ベッソン》』にも、おとうさんにもおかあさんにも会えないし、家の畑も家の牛や馬たちも、いつも楽しみにしていたものが何も見られなくなるんだからね」
ランドリはこれをかなり決心のついた様子で言った。だがシルヴィネはまた泣きだした。というのは、弟ほどの決断力がなかったからだ。そして一度にすべてを失い、すべてから別れるのだと考えると、苦しくて苦しくて涙が止まらないのだった。
ランドリも泣いていた。だが兄ほどではなかったし、泣き方も違っていた。というのはいちばんつらい苦しみは自分で引き受けようとやはり思っていたからで、兄がどのくらい苦しみに耐《た》えられるかを見て、そのうえの苦しみはさせないようにしようと考えていたのだ。ランドリはシルヴィネが、よその土地へ行って暮らし、生家でない家庭にはいるのを、自分よりずっとこわがっているのがわかった。
「ねえ、にいさん」ランドリは言った。「別れることに決心がつけられたら、おれが行ったほうがいいと思うよ。そうだろう、おれのほうがちょっと丈夫だからね。いつだっていっしょに病気になったっけが、熱はいつでもにいさんのほうがおれよりひどかったよね。離ればなれになったら、おれたちは死ぬかもしれないってよく人が言ってるさ。だけど、おれは自分は死なないと思うね。けどにいさんのことはなんとも言えないんだ。だからおかあさんといっしょにいてもらったほうがいいんだよ。慰めてくれるだろうし、せわをみてくれるからね。だいたい、そうとはあまり思えないけど、家でおれたちに差別をつけてるとしたら、いちばんかわいがられてるのは、にいさんだと思うよ。おれだってにいさんがいちばんいい子で、いちばん『しんがやさしい』と思ってるんだ。だから家に残ってよ。おれが出て行くよ。おたがいに遠く離れるわけじゃないんだ。カイヨおやじの土地は家の土地の続きだ。毎日会えるさ。苦労は平気だよ、気がまぎれるからね。それでにいさんより足が速いんだから、一日の仕事が終わったらすぐに、にいさんに会いにかけて来るよ。にいさんはあまりすることがないんだから、散歩がてらにおれの仕事してるところへ会いに来てよ。にいさんが外に出ておれが家にいるよりも、そのほうがずっと気が楽なんだ。そういうわけだから、家に残ってよ、お願いだ」
三
シルヴィネは聞き入れようとしなかった。父、母、妹のナネットに別れたくない気持ちはランドリより強かったのだが、自分のだいじな『|ふたつっ子《ベッソン》』に重荷を背負わせることを思うと、気も狂わんばかりだった。
いろいろ言いあったあげく、わらでくじびきをした。するとランドリが当たった。シルヴィネはこのくじではだめだと言いだし、銅貨で裏か表かをやりたがった。表が三度シルヴィネに出て、出て行くのはやはりランドリだった。
「そらね、これが運命なんだよ」ランドリが言った。「運命にさからっちゃいけないってこと、知ってるだろう?」
三日めに、シルヴィネはもっともっと泣いた。だがランドリはほとんど泣かなかった。出て行くということを初め考えたときには、たぶんランドリのほうが兄よりずっと苦しんだのだ。自分の決心の強さが自分でわかっていたし、両親にさからってもむだだということをはっきり知っていたからだ。だが、自分の苦しみのことをあれこれ考えたせいで、その苦しみから抜け出るのも早く、いろいろと割り切った考えができてきた。ところがシルヴィネは、嘆いてばかりいたせいで、割り切ってしまう勇気が出なかった。
そういうわけで、ランドリがすっかり出て行く覚悟がついているのに、シルヴィネは弟を出て行かせる決心がまだぜんぜんできていなかった。
それにランドリのほうが多少兄より自負心が強かったのだ。これまであまり、別れて暮らせるようにならなければ半人まえの人間にしかなれないぞといわれてきたので、ランドリは、もう十四歳だという誇りを持ち始めていたせいもあって、もうこどもではないところを見せたい気持ちがあった。いつもランドリが先に立って兄を説き伏せ、引っぱって行くのだったが、これは、最初に木のてっぺんにのぼって鳥の巣を見つけに行ったときから、まさにこの日までずっとそうだった。だからランドリは今度もまた兄の気をうまくしずめた。夕方家へ帰ると、父親に、兄と自分はいいつけに従う、くじ引きをしたら自分、ランドリがプリッシュ村の大きな牛どもを追いに行くことになったと、はっきり言った。
バルボおやじはふたりの『|ふたつっ子《ベッソン》』たちを、もう大きくて頑丈なのに、両方のひざの上に抱き上げ、このように言って聞かした。
「なあこどもたち、おまえたちはもう、ものの道理がわかる年ごろになったんだ。言うことを聞いてくれたのをみればわかる。おとうさんはうれしいんだよ。いつも言うように、おとうさんやおかあさんを喜ばせるのは、天にいらっしゃる神さまを喜ばせることなんだよ。そうすれば神さまはいつかはごほうびをくださるんだ。ふたりのどちらが先に言いつけに従う気になったかは聞くまい。だが神さまがご存じだ。先に言いだした者も、それに耳を傾けたものも、神さまは祝福してくださるだろうよ」
そこでバルボは『|ふたつっ子《ベッソン》』たちを母親のところへ連れて行き、ほめてもらおうとしたが、バルボのおかみさんは泣くまいとするのにせいいっぱいで、何も言ってやれず、ただ、ふたりを抱きしめて接吻してやった。
バルボおやじはまぬけではなかったから、ふたりのうちどちらのほうが勇気があり、どちらのほうが人なつっこいかよくわかっていた。せっかくできたシルヴィネの覚悟をさましたくはなかった。というのは、ランドリは自分自身については決心がついているが、ただひとつのこと、つまり兄の苦しみでぐらついてしまうかもしれないと、バルボおやじは見てとっていたからだ。だから、並んで寝ている兄のほうはゆすらないように気をつけて、夜明け前にランドリを起こした。
「さあ、おまえ」バルボはできるだけ低い声で言った。「おかあさんに見つかるまえにプリッシュ村へ出かけにゃならんぞ。なにしろおかあさんは悲しんでるんだから、お別れをしないほうがいい。わしがおまえを新しい主人のところへ連れて行こう。荷物を持ってやるよ」
「にいさんにさよならをいえないの? 黙って出かけたら、きっと怒るよ」ランドリはたずねた。
「シルヴィネが目を覚まして、おまえが出かけるのを見たら泣くだろうし、おかあさんの目を覚まさせてしまうぞ。おまえたちが悲しんでいるのを見たら、おかあさんはおかあさんで、またもっとひどく泣くだろうよ。さあ、ランドリ、おまえは勇気のある男の子だ。おかあさんを病気にさせたくはないだろう。すべきことはしっかりやり抜くんだ。いいな。なんの気配《けはい》もなしに出かけなさい。今晩にもきっとにいさんをおまえのところへ連れて行ってやるし、あしたは日曜だから、夜明けからおかあさんに会いに来られるよ」
ランドリはけなげに服従し、あとも振り返らず家の戸口を出た。バルボのおかみさんはそんなによく眠りこんでいたわけでも、心が静かだったわけでもなく、夫がランドリに言ったことを全部聞いていた。夫がもっともだと思ったので、かわいそうにバルボのおかみさんは身動きもせず、ただ、寝台のとばりを少しあけてランドリが出かけるのを見ただけだった。胸が張り裂けそうだったので息子を抱きしめようと寝台から飛び降りたが、『|ふたつっ子《ベッソン》』たちの寝台の前へ来ると立ち止まった。そこにはシルヴィネがまだぐっすりと眠りこんでいたのだ。哀れな少年は三日以来、そしてほとんど三晩泣き明かしたので、疲れ果てていたし、そのうえ、少し熱さえあったのだ。だから、枕の上で、転々と寝返りを打ち、大きなためいきをついてうめいていたが、それでも目が覚めなかったのだ。
そこで、バルボのおかみさんは、今はひとりになってしまった自分の『|ふたつっ子《ベッソン》』をまじまじと見ると、出て行くのがこの子だったらもっとつらかったろうと、つい思ってしまった。ふたりのうちで、確かにこの子のほうが感じやすい子だったのだ。気性があまり激しくないせいか、神様が自然の掟の中で、恋愛にせよ友情にせよ、愛し合っているふたりのうち一方が、いつでも他方より心を捧げるように決められたせいなのだろうか。バルボおやじは、愛撫《あいぶ》や気遺《きづか》いよりも働きぶりや勇気のほうを尊重していたから、ランドリをちょっとばかりひいきめに見ていた。だが母親はやさしくあまったれなほうをちょっとばかり好んでいた。それはシルヴィネだったのだ。
バルボのおかみさんは、だから、青ざめやつれたこの哀れな子をじっと見て、この子をもう奉公に出したりしたら、たいへんにかわいそうなことになっただろうと考えた。それにランドリのほうは苦労にたえられるくらいしっかりしているし、そのうえ『|ふたつっ子《ベッソン》』や母親に愛着があるといっても、ひどい病気になるほど苦しみはしないだろう。
「あの子は自分のつとめをしっかりとわかっている子なんだ」とバルボのおかみさんは考えた。「だけど、いくらなんでも、心が少しきついんでなかったら、あんなふうに、平気で、振り返りもせず涙も流さずに出て行きはしないだろうに。二歩と歩かないうちにひざまずいて神様に勇気をお与えくださいと祈らなくてはいられないだろうし、わたしが眠ったふりをしているにせよ、寝台のそばに来て、たとえ一目見るなり、とばりの端に接吻するだけでもしてくれるでしょうに。ランドリって子はまったくの男の子なんだわ。いきいきとして、はねまわって、働いて、違う場所へ行ってみたい、ただそれだけなんだわ。けれどこっちの子は心が女の子のようだ。あんまりやさしくておとなしいから、どうしたって目の中に入れても痛くないほどかわいくなってしまうのよ」
バルボのおかみさんはこんなふうにひとりで考えながら寝台へもどったが、いっこうに眠れなかった。
いっぽう、バルボおやじは、プリッシュ村の草刈り場や牧場を越えて、ランドリを連れて行った。ちょっとした高みがあって、そこを下《くだ》りだせば、もうコッス村の家々が見えなくなる所まで来たとき、ランドリは立ち止まって、振り返った。胸がいっぱいになって、『しだ』の上にすわりこみ、もう一歩も先へ進めなくなった。父親は何も気づかずに先を急ぐようなふりをした。少ししてから父親はランドリをやさしく呼んで、話しかけた。
「さあ夜が明けるぞ、ランドリ。陽が昇る前に着こうっていうんだから、道をはかどらせにゃ」
ランドリは立ち上がった。そして、何があっても父の前では泣くまいと自分に誓っていたので、エンドウ豆ほども大きな涙が目にたまっていたのを引っこめた。ナイフを落としたようなふりをし、苦しみを顔に見せないでプリッシュ村に着いたが、その苦しみはけっしてなまやさしいものではなかったのだ。
四
カイヨおやじは、『|ふたつっ子《ベッソン》』たちのうちでいちばん頑丈で働き者のほうを連れて来てもらったのを見ると、ひどく喜んで迎え入れた。心痛なしでは事が決まるわけがなかったのはよくわかっていたし、それに、人によくつくす気のいい男で、バルボおやじと大の仲好しでもあったので、若者をほめそやし、気を引きたてようとできるだけ心を配った。人心地をつけてやろうと、さっそく、パンを浸した肉汁とぶどう酒のつぼを出させた。なにしろ、心を痛めているのがありありと見えていたのだ。それからランドリを連れて牛をつなぎに行き、どういうふうにやるかを教えた。実際には、ランドリはこの仕事に新米ではなかった。というのは父がみごとな二頭ぞろいの牛を持っていて、それを手ぎわよくつないで引いたことがよくあったからだ。
カイヨおやじの大きな牛どもは、この地方の牛では最も手入れがよく、えさもよく、力強いのだから、見たとたんにランドリはこんなみごとな家畜を自分の突き棒で追うのだと思って、むらむらと得意な気持ちが起こった。それに、自分が不器用でもなまけものでもなく、第一、何も新しく教わることなどないというのを見せられるのがうれしかった。父親も息子をほめるのを忘れなかった。そして野良へ出かける時間が来ると、カイヨおやじのこどもたちが、息子も娘も、大きいのも小さいのも、ランドリに接吻しにやって来、いちばん下の娘はランドリの帽子にリボンで一枝の花をつけてくれた。奉公の最初の日で、迎え入れる家族にとってはお祭り日のようなものだからである。
バルボおやじは、息子と別れるまえに、新しい主人のまえで、ランドリにお説教をし、何ごとについても主人を満足させ、牛どもを自分自身の持ち物のように世話するように、言って聞かせた。それから、ランドリはいっしょうけんめいやりますと約束したあとで、野良仕事に出かけ、一日じゅう落ち着きはらってりっぱにつとめを果たし、たいへんに空腹になってもどって来た。というのは、これほど激しく働くのは初めてだったし、ほどよい疲れは何よりも心の苦しみを直す薬だからであった。
けれども、『|ふたつっ子屋敷《ベッソニエール》』のシルヴィネにとってもこの日を過ごすのはもっとつらかった。
さて、ここで一言しなければならないが、コッス村にあるバルボおやじの家と屋敷は、ふたりのこどもたちが生まれてから、こういう名まえがついたのだった。それに、そのすぐあとで、家にいた手伝い女が、女の『|ふたつっ子《ベッソン》』を生み落としたせいもあった。こちらの『|ふたつっ子《ベッソン》』たちはすぐ死んだ。
さて、百姓というものはじょうだんやあだ名が大好きな連中なので、この家と土地は『|ふたつっ子屋敷《ベッソニエール》』という名がついたのだった。そして、シルヴィネとランドリが姿を現わすといつでも、こどもたちはまわりをかこんではやしたてるならわしだった。
「『|ふたつっ子屋敷《ベッソニエール》』の『|ふたつっ子《ベッソン》』やあーい!」
さてそこで、この日、バルボおやじの『ふたつっ子屋敷』には大きな悲しみが満ちていた。シルヴィネが目を覚まして、自分のそばに弟が見えないのを知ると、何が起こったか察しはついたが、ランドリがこんなふうにさよならもいわずに出て行ってしまったとは、とても信じられなかった。そして、悲しみの中でも、弟に向かって腹がたってきた。
「ぼくが何をしたっていうんだろう」とシルヴィネは母に言った。「ランドリの気に入らないようなことをしたんだろうか? いつだってランドリの言うとおりにしていたのに。それにおかあさんのまえで泣かないようって言ったから、泣かないようにしていたんだよ、頭が割れそうになったのに。もう一度ぼくを元気づけるように話してくれるし、いつもふたりで話しあったり遊んだりした麻畑のはしっこで朝食を食べようって言ったのに。そうしてからでなきゃ出て行かないって言ってたのに。荷物こしらえてあげようと思っていたし、ぼくのナイフのほうがいいからあげるつもりだったんだ。じゃあ、おかあさんは、ゆうべぼくに何も言わないでランドリの荷物をつくってやったんですね。だからぼくにお別れをしないで行ってしまうのを知ってたんですね?」
「わたしはおとうさんのおっしゃるとおりにしたんだよ」と、バルボのおかみさんは答えた。
そして考えつくかぎりのことばでシルヴィネを慰めた。シルヴィネは何も聞き入れようとしなかった。母親も泣いているのに気がついて、やっと、母に接吻して、苦労をふやしてすまなかった、弟がいない埋《う》め合わせに、おかあさんといっしょにいますと、しきりに約束した。
けれど、母親が鶏《にわとり》のせわとせんたくにとりかかって、そばを離れるとすぐ、シルヴィネはプリッシュ村のほうへ走りだした。どこへ行くのか考えもせず、ただ、雄鳩《おばと》が方角など気にもせず雌鳩《めばと》のあとを追うように、衝動に追われるままになっていたのだ。
もどって来る父親に出会わなかったら、プリッシュ村まで行ってしまっただろう。父親はシルヴィネの手を取って、連れもどし、こう言った。
「今晩行ってみよう。働いている間は、ランドリをてまどらせてはいけない。それでは主人が喜ばないだろう。それに家のかあさんが気を病んでいるんだろう。おまえが慰めてくれるものとわしは思っているんだよ」
五
シルヴィネはもどって来て、小さい子のように母のスカートにかじりつき、一日じゅうつきまとい、絶えまなくランドリのことを話し、まえによくいっしょに歩いた場所を、たとえどんな片隅でも、また通ると、どうしてもランドリのことを思わずにはいられなかった。夕方、シルヴィネは父が連れて行ってくれると言うので、プリッシュ村へ行った。『|ふたつっ子《ベッソン》』を抱きしめに行けると思うとシルヴィネは気狂いのようになり、早く出かけたいのが気になって、夕食に手がつかないほどだった。きっとランドリが迎えに出てくれるだろうとあてにし、走りよってくれるものとばかり思いこんでいた。だがランドリは、そうしたい気持ちは強かったのだが、ぜんぜん腰を上げなかった。一種の病気のように思われている『|ふたつっ子《ベッソン》』の愛情のせいで、プリッシュ村の若い衆や男の子たちにからかわれるのがこわかったのだ。
そういうわけで、シルヴィネはランドリが今までもずっとカイヨ家にいたかのように、食卓について食べたり飲んだりしているところへやって来てしまった。
だが、ランドリはシルヴィネがはいって来るのを見ると、とたんに心が喜びで踊り上がり、自制しなかったら、少しでも早くシルヴィネを抱きしめようと食卓もベンチもひっくり返してしまうところだった。
だが、それはできなかった。なにしろ主人の家の人びとはランドリをもの珍しげにながめ、この仲のよさには何か新奇なものがあると思って、土地の小学校の先生の言う、自然界のふしぎを発見するのを楽しみにしていたからだ。
だから、シルヴィネが身を投げかけて来て、泣きながら接吻し、小鳥が巣の中で兄弟と押しくらをしてからだを暖めるようにきつく抱きしめたとき、ランドリはほかの人たちのてまえ、腹だたしかったが、それでもやはり自分としてはうれしかった。だが兄よりもまともな様子をしていたかった。そこでときどき兄にもっと気をつけるように合図したが、これはひどくシルヴィネを驚かし、怒らせた。
それからバルボおやじがカイヨおやじと一杯《いっぱい》やって話しこみだしたので、ふたりの『|ふたつっ子《ベッソン》』たちはいっしょに外へ出た。ランドリは人目につかずに兄に愛情を示したかったのだ。だがほかの男の子たちが遠くから様子をうかがっていた。そしておまけに、カイヨおやじのいちばん下の娘の、ソランジュちゃんが、まったく紅雀《べにすずめ》のようにいたずらでもの好きで、榛《はん》の林の中まで、ちょこちょこついて来て、そっちのほうを見ても、てれくさそうににやにやするだけで、いっこうに帰ろうとはしないのだった。なにしろ、何か珍しいことが見られると思いこんでいたのだ。そのくせ、この兄弟の仲のよさにはどんな変わったことがあるのかわかっていはしなかった。
シルヴィネは、弟が自分を迎えた落ち着きはらった態度に驚きはしたが、会えたのがあまりうれしかったので、そのことで文句を言うなど思いもつかなかった。
翌日、カイヨおやじに仕事をぜんぜんしなくてもいいと許しを得たので、自由のからだだと思い、朝も明けないうちにひどく早く出かけたので、これでは兄はまだ寝床にいるだろうと思った。
だがシルヴィネはふたりのうちでは寝坊だったのに、ランドリが『|くだもの畑《ウーシュ》』の柵《さく》を通った瞬間に目を覚まし、まるで何者かが『|ふたつっ子《ベッソン》』がそばまで来ているぞといってくれたかのように、はだしで走りだした。ランドリにとって完全な満足の一日だった。自分の家族と家を見るために、毎日は来られず、来るのはごほうびのようなものだと知っているからには、なんともうれしいことだった。
シルヴィネは一日のなかばまでは自分の苦しみをすべて忘れた。朝食のとき、ふたりで昼食を食べられるぞと思った。だが昼食が終わると、夕食が最後の食卓になるのだと考えて、もう不安になりだし、落ち着かなくなって、心から『|ふたつっ子《ベッソン》』の世話を見、かわいがり、食べものでもいちばんいいところ、パンの皮、サラダ菜の中のほうとかをやった。
それからまるでひどく遠い所へ行ってしまう、かわいそうな子ででもあるかのように、ランドリの着物やはき物のことに気を配った。実際には、自分こそいちばん悲しんでいるのだから、ふたりのうちでも自分のほうがかわいそうなのにはまるで気がつかなかった。
六
休みでない日々もおなじように過ぎ、シルヴィネは毎日ランドリに会いに行き、ランドリのほうでも、『|ふたつっ子屋敷《ベッソニエール》』のほうへ来たときにはシルヴィネに会いにちょっと立ち寄った。ランドリはますます自分の立ち場をわきまえていったが、シルヴィネはまったくそうではなく、心に傷を負ったように、日を数え、時間を数えて暮らしていた。
シルヴィネに道理を説いて聞かせることができるのは、この世にランドリしかいなかった。だから母親もランドリに頼んで兄の気持ちをしずめるようにしむけさせた。なにしろ、日に日にシルヴィネの心痛は増していくのだった。もう遊びもせず、命じられなければ働きもしなかった。まだ妹のおもりはしていたが、ほとんど話しかけもせず、あやそうなどとはまるで考えず、ころんだりけがしたりしないように見ているだけだった。だれも見ていないと知るとすぐに、ひとりでどこかへ行ってしまい、どこにいるのかわからないほどうまく姿を消してしまうのだった。
ランドリと遊んだり話しあったりしたところなら、堀《ほり》でも、生垣《いけがき》でも雨水の流れた掘れみぞでも、いちいちはいりこんだ。いっしょにすわった木の根に腰を降ろし、二羽のあひるの子のように水をはね返したことのあるどの小川にも足を入れるのだった。ランドリが小さい『なた』で滑《なめ》らかにした木の棒だとか、投げ石や火打ち石に使った小石を見つけたりすると、うれしいのだった。そういうものを集めて、ときどきやって来て手に取ってながめようというので、さもだいじな物のように木の洞《ほら》や『えんどう』豆のさやの下にかくすのだった。いつでも昔を思い出し頭の中をほじくって、過ぎ去った幸福のごくささいな思い出のすべてを見つけ出そうとするのだった。
はたから見ればつまらぬことであったろうが、シルヴィネにはそれだけが生きがいだったのだ。こうやってがまんしている日々が続くことを考える勇気がなかったので、これから先のことはまるで気にかけなかった。過ぎ去った日々のことしか思わず、絶えまない夢想にふけって、やつれ衰えていくのだった。
ときどきシルヴィネはランドリの姿が見え、声が聞こえるような気がし、返事をするつもりでひとりごとをいっていた。あるいは、どこでもかまわず眠りこんで、弟の夢をみているというありさまだった。そして目を覚ますと、ひとりぼっちだからと泣き、涙を流れるにまかせておさえようともしないのだった。しまいには疲れが悲しみをすりへらし、打ち負かしてしまうだろうと思っていたからだ。
ある日、シャンポオの若木林までさまよって行ったとき、雨の季節に林から流れ出る小川が今はほとんどかれていて、そこに水車がひとつ残っているのを見つけた。これはこの地方のこどもたちがよく木《こ》っ端《ぱ》で作るもので、なかなかじょうずにできているから、水の流れでよくまわり、ときにはかなり長い間、ほかのこどもたちにこわされたり大水に流されたりしなければ、そのままでいるのである。シルヴィネが見つけたのは何ひとつ欠けたところのない水車で、これは二か月も前からそこにあり、人気《ひとけ》のない場所だったので、だれも見もせず、こわしもしていないのだった。
シルヴィネはすぐにこれがランドリの作ったものだと見分けがついた。作ったときには、いつかふたりで見に来ようと約束したのだった。だがそのことはそれ以来頭に浮かばず、その後も別な場所にふたりで水車はたくさんこしらえたものだった。
だからシルヴィネはこれが見つかったのがひどくうれしく、少し下のほうの川がそこまでさがった所へ持って行って、まわるのをながめ、ランドリが手で回転を始めさせるのをひどくおもしろがっていたのを思い起こした。それから、今度の日曜日にランドリとここへ来て、ふたりの水車が頑丈でよくできていたから、長くもったのを見せようと楽しみにして、水車をそのままにして帰った。
けれど翌日になると、待ちきれないで、ひとりで来てしまった。ところが、川べりは水を飲みにきた牛どもの足跡でめちゃくちゃに踏みつけられていた。その朝、若木林で放牧していたのだ。少し先へ行ってみると、牛どもは水車を踏みつけて、破片もあまり見当たらないほどにこなごなにしいた。そこでシルヴィネは心が重くなり、『|ふたつっ子《ベッソン》』に何か災難が起こったに違いないと思って、だいじょうぶかどうか確かめようと、プリッシュ村まで走って行った。
だが、ランドリが、ひまをつぶして主人の不興を買うのをきらって、日中シルヴィネの来るのを好まないのに気がついていたから、働いているところを遠くからながめるだけにし、自分の姿を見られないようにした。何を考えて走って来たのか言わなければならなくなったら、恥ずかしい思いをしただろう。で、シルヴィネは何も言わずにもどったし、このことについては、ずっとあとになってからしか、だれにも話さなかった。
シルヴィネが青白くなり、よく眠れず、ほとんど食も進まないので、母親は気をもみ、どうやって慰めたらいいのかわからなくなってしまった。いっしょに市場へ連れて行ってみたり、父親とか叔父たちと牛市場へやってみたりした。だが何ひとつとしてシルヴィネの気を引きもせず楽しませもしなかった。
そこでバルボおやじは、シルヴィネには言わないでおいて、カイヨおやじに『|ふたつっ子《ベッソン》』をふたりとも奉公人にしてくれないかと説得してみた。だがカイヨおやじの返事は、バルボおやじももっともだと思ったようなものだった。
「まあ、ちょっとの間、ふたりとも引き取ったと思いなさい。そりゃ長続きしませんよ。なぜってわしらのような者にゃ、奉公人ひとりでいいところへふたりはいらないんだからね。一年もすれば、やっぱりひとりはまた別な所へ奉公に出さにゃなるまいよ。
それにね、もしシルヴィネがどうしても働かされるような所にいたら、あんなにぼんやり考えてはいなくなるだろうし、もうひとりのほうみたいにちゃんと自分のつとめを果たすようになるとは思いませんかね? おそかれ早かれ、そういうことになるんですよ。それにあんたが思うとおりの所に奉公に出せるってわけでもない。だからいずれは、あのふたりがもっと遠くに引き離されて、週に一度、月に一度しか会えないようになるものなら、今からもう、いつもふたりくっつきあっていないように慣らし始めたほうがよかろうよ。
だからそんなこと言ってないで、もう少しものの道理を考えなさいよ。こどもの気まぐれにあんまり気を使ってはいけない。なにしろあんたのおかみさんと、ほかのこどもたちが、あんまり言うとおりにして猫《ねこ》かわいがりした子なんだから。いちばんつらいことはもうすんだんだ。あとのことにはきっとあの子も慣れるよ。あんたがゆずりさえしなければね」
バルボおやじは降参した。そして、たしかにシルヴィネは弟に会えば会うほどもっと会いたがるのに気がついた。で、この次の聖ヨハネ祭〔六月二十四日。キリスト教以前からの夏至の祭りが起源となっている。昔はこの日に奉公人を新しくやとった〕にはシルヴィネを奉公に出そうと決心した。そうすればランドリに会うことが少なくなって、しまいにはほかの連中と同じように暮らすくせがつき、あまりの仲のよさに押しひしがれて熱を出したりやつれたりしなくなるだろうというわけだった。
だが、そんなことはまだバルボのおかみさんには話さないほうがいいのだった。というのは、そんふうな話をちょっとでも切り出すと、からだじゅうの涙を振りしぼるからだった。いつでもそんなことをしたらシルヴィネは死んでしまうと言うのだった。だからバルボおやじはすっかり手をやいていた。
ランドリは、父と主人、それに母からも頼まれていたので、いつも忘れずに兄をさとしていた。だが、シルヴィネは少しも言いわけをせず、なんでも約束し、そのくせ自分を押えられないのだった。シルヴィネの苦しみの中には口には出さないが、ある別なものがあった。言わないのはどう言っていいか、わからないからだった。じつは、心の奥底に、ランドリに対するすさまじい嫉妬《しっと》が芽ばえていたのだ。
だれもがランドリを尊重し、新しい主人たちがまるで自分の家の子のようにやさしく扱っているのを見ると、シルヴィネも、今までにないほどうれしいのだった。だが、そのことが一方ではシルヴィネを喜ばしてはいても、他方では、ランドリが、シルヴィネに言わせれば、あまりにもこの新しく知りあった人たちの愛情に答えすぎているのを見ると、悲しくなったし、腹もたつのだった。どんなにやさしくしんぼう強く呼ばれるにせよ、カイヨおやじにひと言呼ばれると、ランドリは主人の意のままに、いそいそとかけつけていって、父も母も兄も放り出してしまうのだ。愛情よりも自分のつとめを欠かすまいとする。これほどの仲よしの相手ともう少しいっしにいたいというときなのに、シルヴィネだったらとてもそうはできないと思うほど、急いで主人に服従するのだ。
そうなると、シルヴィネの心の中には、今までは味わったことのない悩みがはいりこんだ、つまり、自分だけがランドリを愛しているので、ランドリのほうはそれほどでないのだ、それにこれまで気づかなかったが、いつだってそうだったに違いない、という悩みである。それとも、少しまえから、よそで、シルヴィネよりも自分に合う、そしてもっとおもしろい人たちに出会ったので、ランドリの愛情がさめたのではないかとも、思い悩むのだった。
七
ランドリには兄のこの嫉妬心がわかるわけがなかった。なにしろ、ランドリとしては、生まれてから何ごとであれ嫉妬心を持ったことがなかったのだ。シルヴィネがプリッシュ村にやって来ると、ランドリはおもしろいものを見せるつもりで、大きな雄牛ども、みごとな乳牛たち、それにたくさんいる羊だの、それからカイヨおやじの農場の大がかりな取り入れを見せて歩くのだった。というのも、ランドリはこういうものをみんなだいじなことだと思っていたからだ。それもうらやましいからではなく、野良仕事や家畜を育てることが好きで、野原にあるすべてのものの美しさや実りを好んでいたからだ。草飼い場に連れて行く若駒《わかごま》が手入れもよく、脂《あぶら》がのって毛並みが輝いているのを見るのが楽しみだったし、また、どんなつまらない仕事でも心を入れずにするのはがまんできなかったし、神様からの授《さず》かりもののうちで、生命があり実を結ぶものなら、なんであれ、軽く見て投げやりにし、おろそかにするのがいやなのだった。
シルヴィネから見るとそんなことはみんな、どうでもよかった。そして自分にとってはなんでもないものごとに、弟がそんなに心を奪われているので、びっくりするのだった。これらすべてのせいで心が暗くなり、ランドリにこう言うのだった。
「この大きな雄牛たちにひどく感心してるようだね。もうぼくたちの仔牛たちのことは考えもしないのかい。すごく元気がいいけれど、ぼくたちふたりにはとってもおとなしくてかわいかったじゃないか。おとうさんよりもきみが結《ゆ》わえたほうがおとなしくしていたじゃないか。ぼくたちの乳牛はどうしているか聞きもしないんだね。あれはとてもいいミルクを出すし、ぼくが食べ物を持って行くと、ほんとに悲しそうにしてぼくを見るんだよ。まるでぼくがひとりぼっちなのがわかるみたいなんだよ。もうひとりの『|ふたつっ子《ベッソン》』はどこにいるのって聞きたそうにするみたいなんだ」
「あれはたしかにりっぱな牛さ」ランドリは言うのだった。「けれどもここの乳牛たちを見てごらんよ!乳をしぼるのを見たら、こんなにたくさんのミルクを一度に見たことがないってきっと言うぜ」
「そうかもしれないさ」シルヴィネは言いつのるのだった。「だけど、うちの牛のクリームやミルクくらいにいいクリームで、いいミルクかってことになったら、そりゃもうそうじゃないに決まってるよ。だって『|ふたつっ子屋敷《ベッソニエール》』の草はここらの草よりいいからね」
「とんでもない!」とランドリは言う。「川っぷちの『あし』の生えた原っぱと、カイヨおやじのりっぱな草場とを取り代えようって言われたら、おとうさんは喜んで交換すると思うよ」
シルヴィネは肩をすくめて、やり返す。
「そんなばかな! あの『あし』の原っぱにはね、きみたちんところの木全部よりりっぱな木が生えているんだよ。それに、『まぐさ』にしたって、あんまりないにしても、ものがいいんだ。刈り入れたときには、帰り道の間ずっと香をたいているみたいにいいかおりがするじゃないか」
このように、なんでもないことで、ふたりは言い争うのだった。というのも、ランドリはだれでも自分が現に持っているものがいちばんいいのだという考えだったし、いっぽうシルヴィネは、自分の持っているもののことも他人の持ち物のことも考えず、ただ、プリッシュ村のものをけいべつしているだけだったのだ。根のないこんなことばを取り交わしているその底には、一方にはどこであれどんなふうにであれ、働き、生活することを喜ぶこどもがい、他方には、弟が自分と離れていながら一瞬でも、気が休まり平気でいられるのが理解できないこどもがいる、ということであった。
ランドリがシルヴィネを主人の菜園に連れて行って、しゃべっているときでも、接木《つぎき》の枯れ枝を折り取るとか、野菜のさまたげになる雑草をむしるとかで話をやめると、それがシルヴィネの気にさわるのだった。ものごとをきちんとしたり、他人のためにつくすことばかりいつも考えていて、弟の息ひとつ、一言一句にも気を使っている自分のようにはしてくれないのだ。そんな気持ちになっていることはぜんぜんおもてに出しはしなかった。こんなにすぐ気を悪くするのは、自分でも恥ずかしかったからだ。だが別れるときになると、よくこんなことを言うのだった。
「どうだい、きょうはもうぼくにはうんざりだろう。きっともうたくさんなんだろう。ぼくが会いに来ると時がたつのがおそくていやなんだろう」
ランドリはこういういやみがなんのことなのかわからなかった。悲しくなってしまって、今度はこっちが兄にそのことで文句を言うのだったが、兄は自分の気持ちを説明しなかった。説明しようもなかったのだ。
かわいそうなシルヴィネが、ランドリの心を奪っているどんなささいなことにも嫉妬しているとしたら、ランドリが愛着を示している人たちには、なおさらだった。ランドリがプリッシュ村のよその若者たちと仲間になり、きげんよくしているのががまんならなかったし、ランドリがソランジュちゃんの世話をやいて、かわいがったり遊ばせてやったりしていると、妹のナネットちゃんを忘れてしまったのか、と責めるのだった。シルヴィネにいわせれば、ナネットちゃんは、こんなみっともない子より百倍もかわいいというわけだった。
だが、心を嫉妬がむしばむにまかせていれば公平にすることはけっしてできないものだから、ランドリが『|ふたつっ子屋敷《ベッソニエール》』に来たとき、シルヴィネの気持ちでは、ランドリは小さい妹にあまりかまいすぎるように思えるのだった。シルヴィネはランドリが妹のことにしか注意を払わず、自分といっしょではもうたいくつして、どうでもよくなっているのだ、と責めるのだった。
しまいには、シルヴィネの愛情はだんだんと、あまりにしつっこくなり、気分があまり陰気になったので、ランドリもそれが苦になりだし、あまりしょっちゅうシルヴィネに会うのがうれしくなくなってきた。自分は運命を受け入れてしっかりやっているだけなのに、それをいつも責められるので、少しうんざりしてきた。まるでシルヴィネは、ランドリが自分より幸福な気持ちでいると、それだけ自分が不幸になるというようだった。ランドリには察しがついて、愛情というものは、あまりに強いと、病《やまい》になることがあるのを、シルヴィネにわからせようとした。シルヴィネは耳を貸そうとしなかったし、そんなことを言うのはひどい意地悪だとさえ思った。そのせいでときどきランドリにすねて見せ、何週間もプリッシュ村に行かず、そのくせ行きたくて死ぬ思いをしていた。それでも無理にがまんして、意地を張るべきでないことに意地を張っていた。
売りことばに買いことば、腹だちに対して腹をたてているうちに、兄を正気づけようとしてランドリの言うもっともな率直な意見を、いつも思くとってしまうシルヴィネは、あまりに不平がひどくなって、あれほど好きだった相手が憎くなったと思うことがあるようにさえなり、とある日曜日に、ランドリといっしょに過ごすのがいやで家をあけてしまった。ランドリのほうはいつでも日曜には必ずやって来るのだったのに。
このこどもっぽい意地悪はランドリをひどく苦しませた。ランドリは楽しさとにぎやかさが好きだった。なにしろ日々に強くなり、すっきりして来ていたからだ。どんな遊びでも、身のこなしも目のつけ所もよく、一番だった。だから日曜ごとにプリッシュ村の陽気な若い衆と離れて一日じゅう『|ふたつっ子屋敷《ベッソニエール》』で過ごしに来るのは、兄のためにする、ちょっとした犠牲だったのだ。来てみたところで、コッス村の広場に遊びに行くことはおろか、そこらを散歩しようとさえシルヴィネには言えないのだった。
シルヴィネは、からだも心も弟よりずっとこどものままで、考えることはただひとつだった。つまり、ランドリだけを愛すことで、またランドリからも同じように愛されることだった。そして、いつも言っていることだが、『ふたりの』場所へふたりだけで行きたがるのだった。たとえば、もう年に似あわなくなった遊びを以前よくしに行っていたすみっこやかくれた場所である。そういう遊びというのは、柳の枝で小さな荷車だとか水車だとか、小鳥を取る『わな』をつくったり、そうでなければ小石の家とかハンカチ大の畑をこしらえたりすることだった。こどもたちはこういう畑でいろいろと、耕したり種まきしたり土をならしたり、草をむしって穫《と》り入れたり、見よう見まねで、百姓仕事を小型にして、働いているつもりになるのだった。こうやってたがいに、一時間ほどの間に、耕作から穫り入れまで土地にかかるいっさいの手間《てま》を学んでしまうのである。
こんな遊びはもうランドリの気に染まなかった。今ではもう同じことを大がかりに自分でやったり、手助けをしているのだし、牛六頭引きの大きな荷車をあやつるほうが、犬のしっぽに小枝でつくった小さな車を結びつけるより気に入っていたのだ。村の頑丈な若い衆と力くらべをしたり、球ころがしをしに行くほうがよっぽどよかった。なにしろ、今では三十歩のところから大きな球をころがしてうまく柱にあてられるようになっていたのだから。
シルヴィネは行ってみるのを承知したとしても、自分ではやらずに、なんにも言わずに隅にひっこんで、すぐにたいくつするし、ランドリがあまり遊びにおもしろがって熱中するようだと、すぐにいらいらし始めるのだった。
それにランドリはプリッシュ村で踊りを覚えたのだ。シルヴィネがまったく受けつけなかったので、ランドリも踊りを覚えるのがおそかったのだが、もう、よちよち歩きのころから踊っていた連中と同じくらいうまくなっていた。プリッシュ村ではブウレ踊り〔このベリ地方に古くからある陽気なフォーク・ダンス〕の名手と思われていたし、踊るごとに相手の女の子に接吻する習慣はまだ好きではなかったが、もうこどもではなくなったと見られると思うので、娘たちに接吻すると満足だった。そのうえ、娘たちがおとなにするように、もう少し気を入れてしてくれたらいいのにとさえ思うのだった。だが娘たちはまだそうしてはくれず、大きい娘たちになると笑いながらランドリの首をつかんで引き寄せるので、それが少しいやだった。
シルヴィネはランドリが踊っているところを一度見たが、それがまたシルヴィネの最大のうらみのひとつとなってしまった。ランドリがカイヨおやじの娘たちのひとりに接吻するのを見て、あまり怒ってしまったので、シルヴィネは嫉妬で泣き、そんなことはまったく汚らわしくてキリスト教徒のすることでないと思ったほどだった。
こういうわけで、ランドリが兄への愛情のために自分の楽しみを犠牲にしても、いつだって楽しい日曜日を過ごすわけにはいかなかった。それでも、シルヴィネがその気持ちをわかってくれるだろうと考えていたし、兄を喜ばせると思えば多少のたいくつはいやではないので、欠かさずにやって来たのだ。
そこで、この一週間けんかをふっかけておきながら、仲直りするのがいやでシルヴィネが家をあけているのを見ると、今度はランドリが悲しくなり、家を離れてから初めてさめざめと泣きだして姿をかくしてしまった。両親に自分の苦しみを見せるのが相変わらず恥ずかしいし、それに両親も苦しんでいるかもしれないのにまた苦しみをふやしてはいけないと思ったからだ。
だが、もしどうしてもどちらかが嫉妬するのだとしたら、ランドリのほうがシルヴィネより権利があると言えよう。シルヴィネのほうが母にかわいがられていたし、バルボおやじにしたところで、ひそかにランドリのほうを好んでいたにせよ、シルヴィネのほうにやさしくしたし、気も配っていた。弱々しくて聞きわけがないこの哀れなこどもは、またずっとあまやかされていたし、これ以上苦しませないように気をつかわれていたのだ。こちらは家にいられるのに、もうひとりの『|ふたつっ子《ベッソン》』はよそに出てつらいめに会うのを引き受けているのだから、シルヴィネのほうが運がいいわけなのだ。
気のいいランドリも、初めて、この理屈に頭がゆき、兄はまったく自分に対して正当でないと気づいた。それまでは気だてのよいランドリは兄が悪いとは思いたくなかったし、兄を非難するどころか、心の中で、自分があまり健康で、あまり仕事や楽しみに熱中するのを自ら責めていたし、兄のようにやさしいことばを言えないし、細かい心づかいがないのを悪いことだと思っていた。だが今度ばかりは、愛情にそむくようなことは自分ではぜんぜんしていないと言えた。というのは、この日やって来るために、プリュシュ村の若者たちが週の間ずっと相談していた、すばらしい『えび』釣りの仲間になるのをあきらめたからだった。若い衆たちはいっしょに来ればきっとおもしろいと言ってくれたのだ。だからランドリとしては強い誘惑に打ち勝ってやって来たわけで、この年ごろではこれはたいへんなことだった。
思いっきり泣いたあとで、自分からそう離れていないところでだれかがやはり泣いていて、ひどい苦しみがあるときにいなかの女たちがよくするように、ひとりごとを言っているのを耳にして、立ち止まった。それが母親だとすぐにわかったので、ランドリは走り寄った。母親は、むせび泣きながら、言っていた。
「ああ神様、どうしてあの子はこんなに心配をかけるんでしょうか! わたしはもうきっと死んでしまいます」
「ぼくのことなの、おかあさん、心配をかけてるっていうのは?」とランドリは母の首に飛びつきながら言った。「もしぼくなら、おしおきをしてください。でも泣かないでよ。どんな気に入らないことをしたかわからないけど、それでもあやまりますから」
このとき、母親は、自分がよく考えていたようにはランドリの心がきつくないのがわかった。母親はランドリを強く抱きしめて、悲しさのあまり何を言っているのか自分でもよくわからないままに、嘆いていたのはシルヴィネのことで、ランドリではない、そしてランドリについてときどき思い違いをしていたから、これからはその埋め合わせをするつもりだ、けれどもシルヴィネは気狂いになるのじゃないかと思って心配なのだ、なにしろなんにも食べずに夜明け前に出て行ったきりなのだから、とまくしたてた。
陽《ひ》は落ちようとしていた。そしてシルヴィネはもどって来ない。ひるごろ、川べで見かけた人がいるという。結局のところ、バルボのおかみさんはシルヴィネが命を断とうと川に身を投げたのではないかと心配していたのだ。
八
シルヴィネが命を断とうと思ったのではないかというこの考えは、母親の頭のなかからランドリの頭へ、『くも』の巣に『はえ』がひっかかるように簡単に伝わった。そしてランドリはたちまち兄を捜しに出かけた。走りながらもひどく悲しく、心のなかで思うのだった。(おかあさんがまえにぼくの心がきついとしかったのは、きっとそのとおりだったんだ。だけど、今このときは、こんなにおかあさんやぼくを悲しませるからには、にいさんの心はひどくねじくれてるに違いない)
いたるところ走りまわったが見つからず、呼んでみても返事がなく、みんなに聞いてみたがなんの手がかりもなかった。とうとう『あしっぱら』のすぐそばに出た。そっちのほうにシルヴィネが好んでいた場所があるのを思い出したので、はいって行ってみた。その場所というのは榛《はん》の木が二、三本、川の流れで根こそぎにされてできた大きな裂けめで、倒れた木は根を上に突き出して水の中に横倒しになっていた。バルボおやじはその木を引き上げようとはしなかった。倒れぐあいのせいで、根に大きな土固まりがまだついているのが都合よかったので、木がだめになるのを承知でそのままにしてあった。というのは、冬になると水流が『あし』の草場にひどい害をし、毎年、土地をひと固まりけずってしまうからだった。
で、ランドリは『地割れ』のほうへ近づいた。つまり、この『あし』の草場のその場所を兄とランドリはそう呼んでいたのだ。一方の隅にふたりで小さな段々の道をつくっており、これは石と『根っこ』……つまり地上に突き出して若木を出している太い木の根のことだが……の上に芝ふの固まりをしいてあったが、そんな所までまわり道はしていられなかった。早く『地割れ』の底に降りようとして、ランドリはできるだけ高い所から飛び降りた。川岸には枝が茂り、ランドリよりたけの高い草が生えていて、シルヴィネがそこにいたとしても、はいって行かなければ目につかないほどだったからだ。
さて、ランドリは、ひどく緊張して飛びこんだ。というのは、やはり頭の中に母親が言ったこと、つまり、シルヴィネが命を縮めようとしているという考えがあったからだ。木の茂みという茂み、草むらという草むらを全部かきわけ、シルヴィネを呼ぶと同時にいっしょにいるに違いない犬に口笛を吹いた。なにしろ一日じゅうその犬は家にいなかったし、犬の若主人もそうだったのだ。
だがいくら呼んでも捜してもむだだった。地割れの中でランドリはひとりぼっちだった。いつでもものごとをきちんとし、やるべきことはなんでも気がつくこどもだったので、岸べをみんな見まわって、何か足跡がないか、ふだんは見当たらない土のくずれがないか調べた。そうやって捜すのはもの悲しかったし、それにむずかしいことだった。というのはランドリはこの場所を一か月以上見ていなかったし、自分のてのひらのように知っているとはいうものの、いつでもちょっと変わった所がないというわけにはいかなかったからだ。右岸全体に芝ふが生え、それに地割れの底には砂地に『あし』と『すぎな』が一面に茂っていたので、足跡くらいの大きさのくぼみでは見分けようがなかった。けれども何度もまわってみているうちに、奥のほうに犬の足跡が見つかり、フィノにせよ、または同じくらいの大きさの犬にせよ、丸くなってうずくまったらしく草の倒れている場所さえあった。
これはランドリを考えこませた。そこでランドリはもう一度水ぎわを調べに行った。ま新しく土のくずれた所があって、まるで人が飛びこむか滑るかしたときにできたように思えた。こんな所はよく、川にいるねずみが掘り返したり、かきまわしたり、かじったりするのだから、こうとはっきり決められはしないのに、ランドリはひどく心配になって、足がふらつき、まるで神に祈るようにひざをついてしまった。ひどく心を悩ましているこのことをだれかに知らせに行く力も気もないままに、しばらくそのままになり、大粒の涙を浮かべて、にいさんをどうしてしまったのかとたずねているかのように川をみつめていた。
だが、その間にも、川は静かに流れ続け、両岸からたれさがって水に浸っている枝にしぶきを上げ、くすくすとあざけり笑っているように小さな音をたてて流れ去った。
あわれにもランドリは不幸なことが起こったという考えに取りつかれ、打ち負かされて、正気でなくなってしまったほどだった。なんのしるしにもならないようなことを見ても、もう神さまも何もないような気持ちになってしまうのだった。そして、心に思った。(この川のやつ、意地悪だから何も言わないで、にいさんを一年も沈めたままで、ぼくを泣きっ通しにさせるんだ。ちょうどこのへんがいちばん深いんだ。草刈り場がくずれだしてから、ずいぶんたくさんの木の根が落ちこんだから、もし人が落ちたらどうしたって出て来られやしない。ああ、なんてことだ! にいさんはあそこに、ここから二歩の所の水の底にいるのかもしれないんだ! それなのにたとえ、ぼくが飛びこんでみても、木の枝や『あし』にかくれて見えないだろうし、見つけられないんだ!)
そう考えると、ランドリは兄を悲しんで泣きだし、またうらみごとも言った。これほどの苦しみは生まれて初めてだった。
そのうちに、ファデばあさんと呼ばれている未亡人に相談しにいくことに気がついた。『あしっぱら』の端の、浅瀬へ下がる道ばたの家に住んでいるのだった。この女は、ささやかな菜園と小さな家のほかには、田畑も財産もなかったが、食べるに困ってはいなかった。なにしろ、この世のいろいろな病気や災難についてたいへんなもの知りで、ほうぼうから相談にやって来るからだった。『おまじない』をやってくれるのだが、この『おまじない』を使えば、『けが』だの、『くじき』とか、ほかの手足の故障がなおるということだった。たしかにそんなふうに思わせていたのだ。なにしろファデばあさんがなおしてくれるのは一度もかかったことのない病気で、たとえば、胃がはずれたとか腹膜《ふくまく》が下がったとかいうものだった。わたしとしてはそんな病気はどれもほんとうに信用したこともないし、人々が言っているようなこと、たとえば、どんなに老いぼれて食の足りない悪い牛のからだにでも、よい牛の乳を移せるなどということも、やはりたいして信じていなかった。
けれど、ファデばあさんが知っていて、このへんで『血冷え』と呼んでいる冷え症に使っているよい薬とか、切り傷、やけどにすばらしくきく膏薬《こうやく》とか、熱のあるとき調合してくれる水薬などについては、たいへんもうかっているのは疑いなかったし、医者まかせにしておいたら死んでしまったような人をおおぜいなおしているのも確かだった。少なくとも自分でそう言っているし、助けてもらった人はファデばあさんを信用しているほうが無難《ぶなん》だと思っていた。
いなかでは物知りはどうしても、ちょっと魔法使いがかっていると思われるので、多くの人は、ファデばあさんは口で言うよりもたくさんのことを知っているのだと思っていた。そして、なくなった物でも人でも、見つけ出す能力があると考えていたのだ。つまり、頭がよく、理屈も通り、人の力の及ぶことならさまざまな苦しみから救ってくれるので、人の力の及ばないほかのことでも救ってくれると思いこんでいたのだ。
こどもというものは、どんな話でも好んで耳を傾けるものなので、それにプリッシュ村ではコッス村よりも人間がひどく信じやすく簡単にできていたので、ランドリは人の言っていることを耳にしたことがあった。ファデばあさんは何か麦粒みたいなものを水に投げて呪文を唱え、溺《おぼ》れた人の死体を見つけ出してくれるというのだった。麦粒は水に浮き、水に従って流れ、それが止まった所に必ず哀れな人の死体が見つかるのだ。聖餐《せいさん》のパンも同じ効能があると思っている人が多いし、この目的のために聖餐のパンを取っておかない水車小屋はあまりない。だがランドリにはその用意はなかったし、ファデばあさんは『あしっぱら』のすぐそばに住んでいたのだし、それに悲しみというものはあまり分別をわきまえないものだ。だからランドリはファデばあさんの住まいまで駆けつけ、自分の悩みを打ち明け、いっしょに『地割れ』まで来て、おまじないで、生きているにせよ死んでいるにせよ、兄を見つけ出してみてください、と頼んだのだ。
けれどファデばあさんは、自分の評判を別なほうに向けられるのは好まなかったし、それにただでは腕まえを見せる気もなかったので、ランドリをあざけって、かなりつっけんどんに追い払いさえした。ひとつには、昔、『|ふたつっ子屋敷《ベッソニエール》』では、女たちがお産をするたびに自分に頼まないでサジェットばあさんを頼んだのが気に入らなかったからだった。
ランドリは、生まれつき気位が高かったから、ほかのときだったら文句を言ったり怒ったりしただろうが、あまり力を落としていたので、ひとこともいわずに地割れのほうへ引き返した。心の中で水にはいろうと決意していたのだ。まだもぐれも泳げもしなかったのに。
だが、うなだれて、地面に目を落として歩いていると、だれかが肩をたたくのを感じた。振り返って見ると、ファデばあさんの孫娘だった。これはこの土地で『ちっちゃなファデット』と呼ばれていた。ファデという名字《みょうじ》〔やみ夜や雨夜に湿地・墓地などで燃える青い火。きつね火ともいう〕のせいでもあったが、いっぽうこの子もやはり少し魔法使いじみているという意味もあった。
ご承知のとおり、ほかの土地ではフォレ(鬼火)というが、ファデとかファルファデというのは、かわいいけれどちょっといたずらな小鬼のことだ。それにまた、この地方では妖精のことをファドと呼ぶ。あまり信じているわけではないのだが。とくに小さな妖精という意味にせよ、女の小鬼という意味にせよ、だれもがこの子を見ると鬼火を見るような気がした。それほど小がらでやせて、髪がもじゃもじゃで、物おじしなかったのだ。ひどくおしゃべりで、ひどくからかい好きなこどもで、ちょうちょうのように目まぐるしく、駒鳥《こまどり》のようにもの好きで、こおろぎのように色が黒かった。
さて、ファデットをこおろぎにたとえたのは、器量がよくないということを言うためで、どうしてかというと、ひねこびた野原のこおろぎは、炉辺《ろへん》のこおろぎよりずっとみっともないからだ。けれど、こどものころ、こおろぎを木ぐつの中に入れて、怒らせたり鳴かせたりしたことを思い出していただければ、こおろぎというのはけっしてばかみたいな顔はしていないし、腹がたつよりおかしくなるものだということがおわかりでしょう。
だから、コッス村のこどもたちは、よそのこどもたちよりぬけているわけではないし、よそのこどもたちと同じに、似ているところを見つけたり、ほかのものになぞらえたりするので、ファデットのことを『こおろぎ』と呼んでいたのだ。怒らせたい気持ちもあったし、またときには一種の親しみからでもあった。というのは、悪がしこいので少しこわくはあったのだが、ファデットのことをきらっていたわけではなかったからだ。なにしろ、ありとあらゆるお話をしてくれたし、発明の才があって、いつでも新しい遊びを教えてくれるのだった。
けれどこんな呼び名やあだ名のことばかり話していると、洗礼のときついた名まえを忘れそうだし、それにあなたにしても、きっとあとになるとほんとうの名まえを知りたいとお思いになるでしょう。ほんとうはフランソワーズという名まえだった。いろいろ名まえを変えるのを好まないファデばあさんがいつもファンション(フランソワーズの愛称)と呼んでいたのは、そのせいだった。久しく前から『|ふたつっ子屋敷《ベッソニエール》』の人たちとファデばあさんとの間に気まずいことがあったので、『|ふたつっ子《ベッソン》』たちはファデットにあまり話しかけなかったし、それになんとなくへだたりを持っていて、すすんでいっしょに遊んだこともなく、ファデットの弟の『ばった』ともそうだった。
『ばった』は姉よりもっとぶあいそうで意地悪で、いつでも姉のそばにくっついていた。ファデットが待っていてくれずに走りだすと、腹をたて、からかわれると石を投げようとし、つまらないことにもむきになって怒り、もともとは陽気で笑うことの好きなファデットをも怒らせてしまうのだった。
ファデットがこんなに快活な娘だったのに、ファデばあさんの評判が評判だから、人々は、ことにバルボおやじの家の者は、『こおろぎ』や『ばった』と仲よくすると、悪いことが起こると思っていたのだ。それでも『こおろぎ』も『ばった』も、いっこうに平気で話しかけ、ことにファデットは、どんな遠くからでも『|ふたつっ子屋敷《ベッソニエール》の|ふたつっ子《ベッソン》』がやって来るのが見えると、あらゆる種類の悪ふざけやじょうだんを浴びせかけるのだった。
九
さて、不意に肩をたたかれて、少しむっとして振り向くと、ファデットがいて、そのすぐうしろを、『ばった』のジャネがびっこを引きながらついて来ていた。ジャネは生まれつき腰骨のぐあいが悪くて、足が不自由だった。
初めランドリは相手にしまいとして、そのまま行こうとした。ふざけてなどいる気分ではなかったからだ。だがファデットはもう一方の肩をたたいて言った。
「狼だぞお! 狼だぞお! 意地悪|ふたつっ子《ベッソン》! 半分人間! おまえの半分なくなった!」
ランドリはからかわれたり、ばかにされたりして、そのままにしている気分ではなかったので、もう一度振り返ると、ファデットのほうに拳固《げんこ》の一撃を加えた。ファデットがうまく体をかわさなかったら、痛いめを見たことだろう。なにしろランドリはもう十五歳になるところだし、手のおそいほうではなかったのだ。
いっぽう、ファデットは十四歳になろうというのに、十二としか思えないほど、きゃしゃで小さく、指一本ふれてもこわれてしまいそうだった。
だがファテットはひどく用心深くて、すばしっこいので、ぼんやりなぐられてはいなかった。腕ずくでは力で負ける分を身の軽さとずるさで埋め合わせていた。うまく脇へとびのいたので、危ういところでランドリは、ふたりの間にあった太い木にげんこつも顔もぶつけてしまいそうだった。そこでランドリは怒りたけって言った。
「いやな『こおろぎ』め、ぼくみたいに悲しい思いをしている人を怒らせるなんて、よっぽどの人でなしだぞ。よくも長い間、半分人間だなんて言ってからかったな。きょうというきょうは、おまえもおまえのきたない『ばった』も四つにたたき割ってやるぞ。ふたり合わせてもりっぱな人間の半分の半分にしきゃならないくせに」
「そうでございますとも、『|ふたつっ子屋敷《ベッソニエール》』の『|ふたつっ子《ベッソン》』さま、川岸の『あしっぱら』のおとのさま」ファデットは相変わらずあざわらいながら言った。「あたしとけんかするのはご損でございますよ。おとのさまの『|ふたつっ子《ベッソン》』のことをお知らせしようと思って来たのに。どこに行けば見つかるか教えにまいりましたのに」
「ああ、それじゃ話は別だ」ランドリはたちまち怒りを忘れて言った。「もし知ってるなら教えてくれよ。恩に着るよ、ファデット」
「今ごろファデットなんて言ったっておそいわよ。『こおろぎ』は、今は何も教える気にならないわ」少女はまたもやり返した。「さっきひどいこと言ったじゃないの。それにひどくぶたれるところだったわ。あんたがでぶでのろまだから助かったけど。自分ひとりで捜しなさい、あんたの『|ふたつっ子《ベッソン》』のばか兄貴を。どこにいるか、ちゃんとご存じなんでしょうからね」
「意地悪娘、おまえの言うことなんか本気にしてばかだったよ」ランドリは背を向けてまた歩きだしながら言った。「にいさんがどこにいるか、おまえだって知りゃしないんだ。それにおまえなんかおばあさんより物知りじゃないんだ。おばあさんのほうだってうそつきばばあで、たいしたもんじゃないんだからな」
だが、ファデットは、やっと姉に追いついて灰色の荒布のスカートにぶらさがった『ばった』の手を引いて、ランドリを追いかけだし、相変わらずあざわらい、自分がいなければ『|ふたつっ子《ベッソン》』は見つかるわけがないと言い続けた。あんまりしつっこいので、ランドリは、ファデットを追っぱらえないし、ファデばあさんが何かの魔法を使って、もしかしたらファデット自身が川の鬼火としめし合わせてシルヴィネを見つけさせないかもしれないと思ったので、『あしっぱら』の向こうをまわって家へ帰ることにした。
ファデットは牧場の囲いのところまでついて来た。そこでランドリが柵を飛び越えると、ファデットは柵の横木に『かささぎ』のようにとび乗って、叫んだ。
「じゃあさようなら、なさけ知らずの『|ふたつっ子《ベッソン》』ちゃん、にいさんを放りっぱなしにしてね。夕食まで待ったってむだよ。一日じゅう待っても、あしたになっても会えやしないわよ。だってあの人は今いる所にかわいそうに石のように身動きしないでいるわ。それに嵐がやって来るわよ。今夜も木が何本も川に落ちるでしょう。そして川がシルヴィネを遠くの、遠くのほうに連れて行って、もうけっして見つからなくなるでしょう」
聞くまいとしても耳にはいってしまう、このぶきみなことばで、ランドリはからだじゅうに冷たい汗をふき出させてしまった。そのことばを全面的に信じたわけではないのだが、とにかくファデ一家は悪魔と話が通じているといううわさなのだから、なんでもないとは言いきれないのだった。
ランドリは立ち止まって、言った。
「さあファンション、ぼくを放っておいてくれるか、それともにいさんのことでほんとのことを何か知ってるなら言ってくれ。どうなんだい?」
「それで、何をくれるの? 雨が降りだすまえににいさんを見つけさせてあげたら?」
ファデットは柵《さく》の横木の上に立ち上がり、飛び立とうとするかのように両腕をはばたいて言った。ランドリは何をやると約束したらいいかわからなかった。それに、いいかげんなことを言ってかねをいくらか引き出そうとしているのではないかと思い始めた。けれど木々の間を吹く風と、うなり始めた雷《かみなり》に気づくと、体内を熱のように恐怖が走った。嵐がこわかったのではなく、実際、この嵐が急に、そしてしぜんとは思えないやり方でやって来たからだった。ありうることは、心配にまぎれて、川岸の木立のうしろに嵐が来ているのに気がつかなかったということだ。おまけに二時間も谷底にいて、上がって来るまでは空が見えなかったのだから、なおさらだ。
けれど、とにかく、ファデットが言うまで嵐に気がつかなかったし、また、そのとたんに少女のスカートが風にふくれ上がったのだ。乱れた髪が、いつもぐらぐらにかぶっている帽子から飛び出し、片方の耳の上におおいかかって、たてがみのようになびいた。『ばった』は強い風のひと吹きで、つばつき帽子を飛ばされ、ランドリも飛ばされそうな帽子をやっとのことで押さえたのだった。
それから二分もしないうちに、空はまっ黒になり、そして、横木の上に立ちはだかったファデットは、ランドリにはふだんの二倍も大きく見えた。言わねばならないが、ついにランドリはこわくなったのである。ランドリは言った。
「ファンション、にいさんを返してくれたら降参するよ。きっと見かけたんだろう。どこにいるか知ってるんだろう。いい子にしてよ。ぼくを苦しめて何がおもしろいんだか、わけがわからないよ。やさしいところを見せておくれよ。そうすれば、見かけや言うことよりずっといい人なんだなって思うからさ」
「あんたなんかのために、どうしていい子にならなきゃいけないの?」少女はやり返した。「なんにも意地悪したことないのに、いつだって悪い子扱いしているじゃないの! 『|ふたつっ子《ベッソン》』なんかにどうしてやさしくしなきゃいけないの? ふたりとも『おんどり』みたいにいばり散らして、これっぽちもやさしくしてくれたことなんかないくせに!」
「ねえ、ファデツト」ランドリは続けた。「何かあげるって約束してほしいんだろ? 早くほしいものを言えよ、必ずあげるから。ぼくの新しいナイフがほしいか?」
「見せて」ファデットは言って、かえるのようにランドリのそばへはね降りた。
そしてナイフを見ると、悪くはなかったし、ランドリの名づけ親がこの前の市《いち》で十スウも出したものだったから、一瞬心を引かれた。だがすぐに、これでは少なすぎると思いついて、ランドリの白い小さなめんどりで、鳩ぐらいの大きさしかなく、指の先まで羽根の生えているのを、くれるかどうかたずねた。
ランドリは答えた。
「ぼくの白いめんどりをあげられるかどうかは約束できないよ。だっておかあさんのものだからね。でも頼んでみるって約束するよ。それにおかあさんはいやだって言わないよ、確かに。シルヴィネが見つかりさえすれば喜んでなんでもごほうびにくれるよ」
「いいわ!」とファデットは言った。「じゃあ、鼻黒の仔山羊《こやぎ》がほしいって言ったら、バルボのおかみさんはくれるかしら?」
「おい、おい、なんだってそんなにもったいぶるんだい? いいかい、これだけ言えばじゅうぶんなんだ。もしにいさんが危い所にいて、きみが今すぐにぼくを連れて行ってくれたら、ぼくの家にいるめんどりでもひよこでも山羊でも仔山羊でも、おとうさんもおかあさんもきみにお礼にくれないものなんてないよ。まちがいないんだから」
「まあいいわ。どうなるか見てましょう」と言って、ファデットは、かさかさな小さな手を『|ふたつっ子《ベッソン》』のほうへ差し出し、約束のしるしに握手をしようとした。ランドリは握手はしたが、少し震えずにはいられなかった。なにしろ、この時、ファデットの目はきらきらと光って、まるで小鬼そのものだったからだ。
「今は何がもらいたいか言わないわ。まだはっきりわからないの。でも今約束したことを覚えていてね。もし約束を破ったら、『|ふたつっ子《ベッソン》』のランドリの言うことは信用できないって、みんなに言うわよ。ここでさよならを言うけど、わたしの気に入るものをもらいに、あんたに会いに行く気になるまでは、なんにも請求しないんだってことを忘れないでね。そうなったらおくらせたり残念がったりしないでくれるのよ」
「いいとも、ファデット! 約束したよ! 話はついた!」
ランドリはファデットのてのひらをたたいて言った。
「いいわ!」とファデットは、ひどく誇らしげに、うれしそうに言った。「この足で川岸にもどるのよ。羊の鳴く声が聞こえるまで川を下るの。すると茶毛の仔羊が見える、そのすぐそばにおにいさんがいるわよ。あたしの言ったとおりでなかったら、約束は取り消していいわ」
さてそこで、『こおろぎ』は、『ばった』を小脇にかかえこみ、それが気にいらなくて『うなぎ』のようにもがいているのもかまわず、茂みの中へ飛びこんだ。するとランドリにはもうふたりの影も形も見えず、声も聞こえず、まるで夢をみていたようだった。ちっちゃなファデットにからかわれたのかもしれないなどと考えて時を過ごしたりせずに、ランドリは一気に『あしっぱら』の奥まで駆けつけた。『地割れ』まで来たが、降りて見ないで行き過ぎようとした。というのは、ここはもうじゅうぶんに調べてシルヴィネがいないのは確かだったからだ。だが、そこから遠ざかろうとすると、仔羊の鳴くのが聞こえた。
(うまいぞ!)とランドリは思った。(あの子はこうなると言っていたっけ。仔羊の声がするから、にいさんはあそこにいるんだ。けれど生きてるか死んでるかはわからないんだ)
そこで『地割れ』に飛びこみ、茂みの中へはいった。兄はそこにはいなかった。だから水の流れに従って、仔羊の声をたよりに十歩ほど行くと、ランドリは向こう岸に兄がすわっているのを見つけた。上っぱりの中に小さな仔羊をかかえていて、それが、ほんとうに、鼻の先からしっぽの端まで茶色だった。
シルヴィネが確かに生きているし、顔つきからも衣服からも、けがもなければ引き裂きもないらしいので、ランドリはまったく安心し、心の中で神様に感謝し始めたが、この幸福を得るために悪魔の知識を借りたおわびをすることには気がまわらなかった。だが、シルヴィネはまだランドリが目にはいらず、ここでは小石をかむ水音が高いので、ランドリの足音も聞こえた様子がなかった。
ランドリはシルヴィネを呼ぼうとしたが、はっとして声をのみ、兄をながめた。驚いたことに、ファデットが予言したとおりの姿だったのだ。激しく風の吹きまくる木立のまん中で、石のように動かずに。
けれどだれでも知っていることだが、大風の吹く時、この川の岸にいるのはあぶないのだ。川岸はどこも下のほうがえぐれていて、嵐になれば、たいていは、『はしばみ』の木が何本か根こそぎにならないことはない。『はしばみ』というのは、ひどく太くて古いものでなければ、いつも根が浅いので、嵐の時にはいきなりからだの上に倒れかかって来ることがあるのだ。だがシルヴィネは、ほかの人と比べて、ひどく軽はずみでも向こう見ずでもないのに、あぶないということにぜんぜん気づいている様子がなかった。しっかりした納屋の中に避難しているのよりもっと、あぶないなどと考えてはいなかったのだ。
一日じゅううろつきまわり、あてどもなくさまよって疲れ果てていたし、さいわいにも川にはまっておぼれなかったにせよ、悲しみとうらみの気持ちにおぼれてしまっていたのは確かだから、そこに切り株のようにうずくまってしまったのだ。水の流れに目をすえ、顔は蓮《はす》の花のように青白く、日にさらされてあえぐ小魚のように口にしまりがなく、髪は風に乱れきって、抱いている小羊のことも忘れ果てていた。
この小羊は草場をさまよっていたので、かわいそうに思ったのだった。だが、小屋へ連れもどしてやろうと上っぱりの中に抱きはしたが、途中でどこの羊か聞くのを忘れてしまった。ひざの上に抱いてはいたが、鳴くにまかせて耳にもはいらないのだった。哀れな小羊としては悲しげな声で訴え、大きな澄んだ目でまわりを見まわしているのだが、同類が声に答えてくれないのでびっくりしていた。そして自分の牧場も母親も小屋も見当たらないし、このまっ暗で草ぼうぼうの場所で、ごうごうという水の流れをまえにして、すっかりおびえているらしかった。
十
ランドリがシルヴィネと川でへだてられていなかったら、この上考えてなぞいず、すぐにシルヴィネの首にとびついたことだろう。だが川幅は流れのどこでも(新時代のいい方をすれば)四、五メートル〔十八世紀末に制定されたメートル法は、一八四八年当時は、まだあまり普及していなかった〕を出ないにしても、ところによっては幅と同じくらい深くえぐれていたのだ。けれどシルヴィネがこちらに気づいていないので、ランドリはどうやって兄を夢みからさまそうか、どうやって説き伏せて家へ連れ帰ろうかと考えるひまがあった。なにしろ、シルヴィネはすっかりすねているのだから、家へ帰りたがらないとしたら、またほかへ行ってしまうかもしれないのだ。そうなってから追いつこうとしても、急に浅瀬や渡り橋が見つかるわけではないのだ。
ランドリはしばらくの間、心の中で思案し、四人まえも分別があり用心深い父だったらこういう場合どうするだろうかと考えてみた。そしてバルボおやじならおだやかになにくわぬ顔で話しかけ、シルヴィネに、どんなに心配したか気づかせないようにするだろうと、うまいところに気がついた。これはシルヴィネにあまりひどく後悔させないためだし、それに、いつかまたすねたときに同じ手を使わせないためだった。
そこでランドリは、日暮れに茂みの中を通る羊飼いたちがするように、『つぐみ』寄せの口笛を吹き始めた。その口笛でシルヴィネは顔を上げ、弟を見つけて、恥ずかしくなり、まだ見られていないと思って、急に立ち上がった。するとランドリは今気がついたようなふりをし、あまり大きな声を出さずに言った。川音は話が聞こえないほど高くはなかったからだ。
「やあ、シルヴィネにいさん、そこにいたの? 朝からずっと待っていたんだよ。ずっと出かけてるんだってわかったから、夕食までこのへんを散歩しに来たんだ。夕食になればにいさんが家に帰ると思ってね。ここで会えたんだからいっしょに帰ることにしよう。両側から川を下って、『丸石の浅瀬』でいっしょになろう(これはファデばあさんの家のそばにある浅瀬だった)」
「さあ行こう」とシルヴィネは小羊を抱き上げて言った。小羊はなじみが深くないので自分からついて行こうとしなかったからだ。そしてふたりとも相手を見る勇気が出ないままに川に沿って下って行った。なかたがいしていたときのつらさ、そして、また会えたうれしさ、その両方の気持ちをふたりとも顔に出したくなかったからだ。
ときどき、ランドリが、兄のすねた気持ちに気がつかないふりをしようとして、歩きながら、ひとこと、ふたこと、話しかけた。まず、どこでその茶色の小羊をつかまえたのかたずねたが、シルヴィネはあまりはっきりとは答えられなかった。ひどく遠くへ行ってしまったし、通った場所の名をわからなかったなぞと白状したくなかったからだった。そこでランドリは、兄が困っているのを見て、言った。
「話を聞くのはあとにしよう。風がひどいからね。川っぷちの木の下でぐずぐずしちゃいられないよ。いいことに、『おしめり』が来るようだから、風もおいおいしずまるだろうけど」
そして、心の中では、こう思った。(それにしても、雨が降りだすまえにシルヴィネが見つかるって、こおろぎが言ったのはほんとうだったな。たしかに、こういうことでは、あの娘はぼくたちよりずっとわかっているんだな)
ランドリはぜんぜん考えておかなかったが、ファデばあさんとは、こちらは頼むし、向こうは耳も貸さずに断わるしで、たっぷり十五分は話していたし、その家から出てから出会ったファデットが、じつは、この話をしている間にシルヴィネを見かけたのかもしれなかった。しまいにランドリもそのことに気がついた。だがどうしてあの娘はランドリに声をかけた時、何を心配しているのかわかっていたのだろうか? ばあさんとやりあっている時にはいなかったのに?
だが、自分が『あしっぱら』に行く途中、何人もの人に兄のことをたずねたから、だれかがファデットのまえでその話をしたかもしれないのには、今度は、思いつかなかった。それに、この小娘は好奇心を満足させることならなんでも知りたがって、よく立ち聞きをするから、ばあさんとランドリの話の終わりのほうを聞いていたというのも、ありうることだったのだが。
シルヴィネはシルヴィネで、やはり、どうやって、弟や母に向かってした自分のひどいやり方を説明したものかと考えた。というのも、まさかランドリが気づかぬふりをしているとは思わなかったし、今までうそをついたことも、『|ふたつっ子《ベッソン》』にかくしごとをしたこともなかったから、どんな作り話をしたらいいやらわからなかったのだ。
だから浅瀬を渡るときには、ひどく困り果てていた。そこまで来たものの、うまく言い抜けるようなことを何も考えついていなかったからだ。シルヴィネが岸に上がるとすぐにランドリが抱きしめた。そうすまいと思っても、ランドリはいつもよりずっと心をこめて抱きしめてしまった。けれど、物をたずねるのは控えた。答えようがないのがわかっていたからだ。そして家に連れもどりながら、ふたりの心にかかっていることとは別のことについてあれこれ話しかけた。
ファデばあさんの家の前を通ると、ランドリはファデットに会えないものかと見まわし、お礼を言いにいきたい気持ちが起こった。だが戸口は閉まって、おばあさんに鞭《むち》で打たれてわめいている『ばった』の声しか聞こえなかった。悪いことをしようがすまいが毎晩やられているのだった。
この腕白小僧が泣くのを聞いて、シルヴィネは心を痛め、弟に言った。
「ここはほんとにいやな家だ。いつだってわめき声やなぐる音が聞こえる。あの『ばった』くらい悪い子で、ずるがしこい子はいないってことは確かにそうだ。それに、『こおろぎ』だって二文の値うちもないよ。でもあの子たちはかわいそうなもんさ。おとうさんもおかあさんもなくて、あんな魔法使いのばばあの世話になってるんだから。あのばあさんはいつだって意地が悪くて、なんにも許してくれないんだ」
「家じゃあんなふうじゃないね」ランドリが答えた。「おとうさんからもおかあさんからもぶたれたことなんてちっともないし、こどもっぽいいたずらをしかられるときでも、とてもやさしく、きちんとしたやり方だから、隣近所の人たちに聞かれることなんかないし。こんなふうにあんまり幸福なんで、自分たちがどんなにしあわせか気づかないこどもがいるんだよ。けれど、あのファデットは、この世でいちばん不幸で、いちばんひどいめにあっているこどもなのに、いつも笑っていて、何ひとつこぼし話もしないんだ」
シルヴィネは自分のことを言われているのがわかり、自分のあやまちを悔やんだ。今朝からもう二十回もそれに気づいていたし、家へ帰ろうとしたのだった。だが恥ずかしさで足が止まってしまったのだった。このときになって胸がいっぱいになり、何も言わずに泣いた。だがランドリのほうはシルヴィネの手を取って言った。
「ひどい雨になるよ、シルヴィネにいさん。早がけで家へもどろうよ」
そこでふたりは走りだし、ランドリはシルヴィネを笑わそうとし、シルヴィネはランドリを喜ばせようと、無理に笑って見せるのだった。
けれども、家の中へはいる段になると、シルヴィネは、父にしかられるのではないかと恐れて、納屋にでもかくれたいと思った。だがバルボおやじは、おかみさんほど大げさに考えてはいなかったので、シルヴィネをからかっただけだった。そして妻にもどういう態度がかしこいか、さとしてあったので、バルボのおかみさんも、心配していたのをシルヴィネに見せまいとつとめた。それでも、火をたっぷり燃やしてふたりの『|ふたつっ子《ベッソン》』たちをかわかして夕食を出してやるのであわただしく立ち働いている間に、シルヴィネは母親が泣いた様子だし、ときどき自分のほうを不安と苦しみのまじった目で見るのに気がついた。母親とふたりだけだったら、あやまりもしたろうし、そばに行って母の心が静まるまで慰めただろう。だが父親はすべてベタベタするのは好まなかったし、それに、疲れてどうすることもできなかったので、夕食後、何も言わずに床につかざるをえなかった。一日じゅう何も食べていなかったのだ。そこでひどく腹をすかせて、夕食をのみこむと、まるで酔っぱらったようになり、弟に服を脱がせてもらい、床につかせてもらうのがやっとだった。弟のほうは寝台の端にすわって兄のそばにい、兄の手を握りしめていた。
シルヴィネが眠りこんだのを見ると、ランドリは両親に別れを告げたが、母親がいつもより愛情をこめて抱きしめてくれたのにまるで気がつかなかった。相変わらずランドリは、母親が兄に対するほど自分を愛してくれるわけがないと思いこんでいたのだ。それだからといって嫉妬するのではなく、自分はあまりかわいくないし、自分にふさわしい愛情の分けまえをもらっているのだと考えていた。それでがまんしていたのは母への尊敬からでもあり、『|ふたつっ子《ベッソン》』への愛からでもあった。シルヴィネのほうが自分よりも母の愛撫や慰めが必要だからだ。
翌日、シルヴィネは、バルボのおかみさんが起きる前に寝台にかけ寄って、心のありったけをぶちまけて、自分の後悔と恥ずかしさを打ち明けた。しばらく前からどんなに不幸な気持ちだったか、それもランドリと別れているからよりもランドリが少しも自分を好いてくれないと思ったからなのだと、話した。そして母親に、どうしてそんな一方的なことを考えたのかと問いただされると、わけを話すのがうまくゆかなかった。というのも、そういう気持ちはシルヴィネの心にある病《やまい》のようなもので、どうしようもなかったからだ。
母親は、顔に出しているよりもずっとよくシルヴィネの気持ちがわかっていた。女の心というものは、そういう種類の悩みにたやすく取りつかれるものだし、母親自身、ランドリが勇気とけなげさを見せて、あまりに落ち着いているのを見て、しばしば苦しい思いをしたことがあったからだ。だが今度ばかりは、嫉妬というものはどんな愛情においても、たとえ神様がおすすめになる愛情においても、悪いことだと気がついたので、シルヴィネのそういう気持ちを助長するのはさし控えた。そこで、ランドリに悲しい思いをさせたこと、それにランドリが不平も言わず、驚いたふうも見せないでいるしんせつさを言って聞かせた。シルヴィネもそれは認め、弟は自分よリもりっぱなキリスト教徒だと言った。これからは元気になると約束し、固く決心した。そしてほんとうにそうする気になったのだった。
そして、うわべは、慰められ、満足したようでも、それに母親がシルヴィネの涙をぬぐってくれ、嘆きの訴えには力づけるようなことばでさとしてくれたのに、また、ランドリに対してすなおに正しくふるまおうと全力をつくしたにもかかわらず、心ならずもシルヴィネの心にはにがにがしい固まりが残った。シルヴィネはどうしても、こう考えてしまうのだった。(ランドリはぼくたちふたりのうちでいちばんキリスト教徒らしいし、いちばん正しいのだ。おかあさんがそう言うし、それはほんとうだ。だけど、ぼくがランドリを愛しているようにランドリがぼくを愛していたら、あんなふうに平気でいられるわけがない)
そして、川のほとりでシルヴィネを見つけたときのランドリの、落ち着きはらった、ほとんど無関心な様子を思い起こすのだった。ランドリが自分を捜しながら『つぐみ』寄せの口笛を吹いていたのを思い出すのだった。こちらはしんけんに川に身を投げようと思っていたのに。
とにかく、家を出るときにはそんな考えはなかったにせよ、夕方になってきて、こんなふうにすねてしまって、生まれて初めて弟を避けてしまったことを弟がけっして許してくれないだろうと考えると、一度ならず死んでしまいたくなったのだった。(こんなひどいことをランドリがぼくにしたのだったら、ぼくはもう絶対に心の静まることがないだろう。ランドリが許してくれたのはうれしいけれど、こんなに簡単に許すとは思ってもみなかったんだ)とシルヴィネは考えるのだった。そうして、この不幸な少年は、自分の心と戦いながら、ため息をつき、ため息をつきながら自分の心と戦うのだった。
けれども、わたしどもが少しでも神の心にかなうよい気持ちさえ持っていれば、いつでも神は報いを与え、助けてくださるのだから、シルヴィネもその年のうちは、ずっと聞きわけよく過ごすようになった。弟に口論をしかけたり、すねたりすることをやめ、やっとおだやかに仲よくするようになり、あれほどいろいろと心の悩みで痛めつけられた健康も回復し、丈夫になった。父親も、ひとりでくよくよさせておかないほうが元気になるのに気がついて、まえよりシルヴィネを働かせた。
だが両親の家でする労働などは、他人の家で働くのとは、きびしさでは比べものにならない。だから、骨身を惜しまず働くランドリは、その年のうちに、力も身のたけも『|ふたつっ子《ベッソン》』の片割れよりもずっとまさってきた。前からふたりの間に見られた小さな違いはますます目だつようになり、それがふたりの心から出て、外見にあらわれた。
ふたりが十五になると、ランドリはどうどうとした若者になり、シルヴィネはかわいらしい少年のままで、ずっとかぼそく、色も白かった。だからもうふたりを取り違えることもなかったし、あいかわらず兄弟のように似てはいたが、見たところではもう『|ふたつっ子《ベッソン》』のようではなかった。シルヴィネより一時間おくれて生まれたので弟ということになっているランドリのほうが、初めて見る人には、一つか二つ年上に見えた。バルボおやじは、まったくのいなかの人らしく、なによりも力と上背《うわぜい》を尊重していたので、ますますランドリをかわいがるようになった。
十一
ファデットとの一件があってからしばらくの間、ランドリは自分がした約束がいくらか気にかかっていた。心配から救ってくれたそのときには『|ふたつっ子屋敷《ベッソニエール》』にあるいちばんいいものをなんでもやるように父母に頼むつもりだった。だが、バルボおやじがシルヴィネのすねたのを重大に取らなかったし、ぜんぜん心配もしなかったのを見ると、ランドリは、ファデットがごほうびを請求しにやって来たら、父親が追い出して、ファデットのごりっぱな魔術やランドリがした大げさな約束をからかうのではないかと、心配になった。
こう考えるとランドリは心の中で恥ずかしくなった。そして悲しみが消えるにつれて、あのとき起こったことに魔法があるのだと思ったりしたのは、ばかなことだったと考えるようになった。ファデットにいっぱい食わされたのかどうかは、確かだとは思わなかったが、疑えば疑えるような気がしたし、こんなにたいへんな結果になる約束をしたのが正しかったと父に承知させるだけの、りっぱな理由が思いつかなかった。いっぽうでは、また、心から神かけて誓ったのだから、これほどの約束をどうして破れるものかも見通しがつかなかった。
だが、ひどく驚いたことには、事件の翌日も、その月も、その季節にも、『ふたつっ子屋敷』でもプリッシュ村でも、ファデットの話はまるで耳にしなかった。この娘はカイヨおやじの所へ来てランドリに話したいと言っても来なければ、バルボおやじの所に何ひとつ請求しに来るのでもなかった。そしてランドリが野原で遠くからファデットを見かけると、少女は少しもランドリのそばへやって来なかったし、注意を向けているふうもなかった。これはこの少女のやり方に反していた。というのは、ファデットはだれのあとでも追いまわしていたからだ。好奇心からじろじろ見るのであれ、きげんのいい連中と笑ったり遊んだりふざけたりするのであれ、きげんのよくない人をからかい、あざけるためであれ、そうだったのだ。
だがファデばあさんの家は、プリッシュ村にもコッス村にも隣り合っていたのだから、いつかは道でランドリがファデットと顔が合わないわけにはゆかなかった。そして道が広くないときには、通りすがりに肩をたたいたり、何かひとこと言わずにはすまないものだ。
ある夕方のこと、ファデットが相変わらず弟の『ばった』をおともにして、鵞鳥《がちょう》の群れを追って家へもどろうとしていた。いっぽう、ランドリは牝馬《めすうま》どもを牧場からプリッシュ村へと、のんびりと連れ帰すところだった。それがばったりと、『こぶ山』の十字架から『丸石の浅瀬』へ降りる小道で正面からぶつかってしまった。両側がすっぽりと崖《がけ》になっていたから、たがいに避けようがなかった。
ランドリは、あの約束を果たせとさいそくされるのが心配なのでまっ赤になり、ファデットにつけ入られたくなかったので、遠くから見かけるが早いか手近の牝馬に飛び乗り、早足をさせようと木ぐつで馬の腹をけった。だが牝馬どもはみんな足かせがつけてあったので、ランドリが乗った馬も、そのせいでほかの馬より早く進みはしなかった。ランドリは、ファデットのすぐそばになると、まともに顔を合わす勇気がなく、仔馬たちがついて来ているかどうかを見るかのように、振り返るふりをした。
正面に向き返ったときには、ファデットはもうすれ違っていたし、何も声をかけなかった。こちらを見たかどうか、目か笑顔かであいさつをうながしたかどうかさえ、わからなかった。目にはいったのは『ばった』のジャネだけで、相変わらずへそ曲がりの意地悪で、石を拾ってランドリの牝馬のあしに投げつけた。ランドリはむちで一発くらわしてやりたかったが、足を止めて姉のほうと口論になるのがいやだった。そこで気がつかないふりをし、うしろを見ずに立ち去った。
このあとランドリがファデットに出会ったときは、いつもだいたい同じふうだった。だんだんとランドリは大胆《だいたん》になって真正面から見てやった。というのは、時とともに分別がつくようになって、あんなささいなことでそんなに気をもまなくなってきたからだった。
だが、あるとき、勇気を出してじっとファデットを見つめ、何を言い出されても平気だというつもりになったのだが、驚いたことに、少女はわざとそっぽを向いてしまったのだ! まるで以前ランドリがファデットを恐れていたのと同じに、今度は向こうがこっちを恐れているように。ランドリとしてはこれですっかり自信がついたが、いっぽうでは、根が正直だったので、魔法にせよぐうぜんにせよ、ファデットが与えてくれた喜びにぜんぜんお礼を言わないのは、ひどく自分がまちがっているのではないかと、思った。今度出会ったら話しかけようと決心した。そして、その折が来たとき、あいさつをして話をしようと、自分のほうから少なくとも十歩は近寄ったのだ。
だが、ランドリが近づくと、ファデットはつんとして、ほとんど怒ったような様子をした。そして、やっとランドリのほうを見はしたが、いかにもけいべつした目つきなので、ランドリはすっかりあわててしまって、ついに声もかけられなかった。
これがその年、ランドリがファデットとすぐそばで出会った最後だった。というのは、その日から、ファデットは、なんともわからない気まぐれから、ランドリをひどく避けて、遠くのほうから見かけただけでも、わき道にそれたり、よその地所にはいったり、ひどい遠まわりをしてまでランドリに会うまいとするほどだった。ランドリは自分の恩知らずなやり方をファデットが怒っているのだと思った。
だがファデットをいやなやつだと思う気持ちがあまりに強いので、自分のあやまちをつぐなう気にどうしてもなれなかった。ファデットというのは普通の娘のようではなかったのだ。生まれつき気の弱いほうではなく、それどころか、もう少し気が弱くてもいいのではないかと思うほどだった。なにしろ人に悪く言われたり、からかわれたりするようなことをわざとするのが好きで、それというもの、しっぺい返しをして、いつでも手痛く相手をやりこめるだけの口だっしゃだったからだ。ファデットがふくれているのなぞ見たためしがないし、もう十五になるし自分が何か変わったと思い始めているだろうに、娘らしい気位があっていいはずだと、人々は悪く言っていた。いつでもいたずら小僧のようにふるまうのだ。
それにまた、よくシルヴィネをいじめ、まだときどき我を忘れて夢想しているのを見つけると、じゃまをして、かっとさせるのが大好きだった。道で出会うといつでもつきまとって、『|ふたつっ子《ベッソン》』兄弟とからかい、ランドリはちっともシルヴィネを好きじゃなくて、苦しんでいるのをばかにしている、と言ってはシルヴィネの心を苦しめるのだった。
だからあわれにもシルヴィネは、ランドリよりずっと、ファデットを魔法使いだと思いこんでいるせいもあって、自分の考えを言い当てられてびっくりし、ほんとうに心の底からファデットをきらってしまうのだった。この娘とその家族をすっかりけいべつして、ファデットがランドリを避けるように、シルヴィネはこの意地悪『こおろぎ』を避けた。
シルヴィネに言わせれば、この娘はおそかれ早かれ、身持ちが悪く、夫を捨てて結局兵隊どものあとについて行った母親のようになってしまうのだ。その母親というのは、『ばった』が生まれてすぐ、酒保《しゅほ》の女〔昔の軍隊で、酒など売る馬車に乗って行軍について戦地まで行く女〕になって行ってしまい、そののち、なんの便りもないのだった。夫は苦しみと恥ずかしさで死んでしまい、年とったファデばあさんがふたりのこどもたちの世話をしなければならなくなったのは、そういうわけなのだった。そして、ファデはあさんは、けちはけちだし年もとっているから、しつけをしたり身ぎれいにさせたりするわけでなく、ひどい育て方だった。
ランドリはシルヴィネほど気位が高いわけではなかったが、こういう種々の理由でファデットに嫌悪《けんお》を感じていた。そしてこの娘とかかわりができたのを後悔し、そのことをだれにも知られないように用心していた。それを『|ふたつっ子《ベッソン》』にさえかくした。そのことで抱いている不安を打ち明けたくなかったのだ。そしてシルヴィネのほうでも、自分に対するファデットの意地悪いしうちを全部かくしていた。自分の嫉妬を言い当てられたのを言うのが恥ずかしかったからだ。
だが時は流れて行った。『|ふたつっ子《ベッソン》』たちの年では、肉体においても精神においても変化してゆくから、週は月のようで、月は年のようだった。やがてランドリはあのできごとを忘れ、ファデットの思い出で多少心を悩ましたあとでは、まるで夢でもみていたかのように、もうそのことは考えもしなかった。
ランドリがプリッシュ村に来てからもう十か月ほどたった。カイヨおやじとの契約の時期である聖ヨハネ祭が近づいて来た。このよい人はランドリにすっかり満足していたので、手放すよりも給金を上げてやろうと心を決めていた。ランドリには願ってもないことだった。家の人たちの近くにいられるし、ひどく気の合っているプリッシュの連中とまたつきあえるのだ。
それに、カイヨおやじの姪《めい》のひとりが好きになり始めていた。それはマドロンという名で、まったくみごとな娘ぶりだった。年はひとつ上で、ランドリのことをまだ少しこども扱いにしていた。だがそういうことは日々に少なくなって来て、年の初めにはランドリが遊びや踊りで接吻するのを恥ずかしがっているとからかったものだが、年末には、けしかけるどころか顔を赤らめ、馬小舎《うまごや》とか干し草置き場ではふたりきりでいないようになった。
マドロンはけっして貧しくはなかったし、ふたりの結婚は時がたてば、うまく行くはずのものだった。両家ともこの土地では評判がよく、重く見られていた。ついには、カイヨおやじは、ふたりのこどもたちがたがいに求めあい、また、気にしあい始めたのを見て、バルボおやじに、いっしょにしてやったらりっぱな夫婦になるだろうから、長くつきあわせてよく知りあっても悪いことは少しもないと、話した。
そこで、聖ヨハネ祭の一週間前に、ランドリはプリッシュ村に、シルヴィネは両親の家にとどまることに決まった。というのもシルヴィネにかなり分別がもどって来たし、バルボおやじが熱を出したことがあって、この子も野良仕事にひどく役だつようになれたからだ。それにシルヴィネは遠くへやられるのが恐ろしかったので、この危惧《きぐ》がこの子にはよく働いたのだ。というのは、だんだんに、ランドリに対する愛情のゆき過ぎに打ち勝つようにつとめたし、少なくともあまり外に表わさないようになったからだ。『|ふたつっ子《ベッソン》』たちが週に一、二度しかもう会わなくなったのに、『ふたつっ子屋敷』には平和と満足がもどって来た。
聖ヨハネ祭はふたりにとって幸福の一日だった。そろって町へ出かけ、町や農家の奉公人の雇い入れ市《いち》だの、広場でくりひろげられるお祭りの催し物を見た。ランドリは、きれいなマドロンと一度ならずブウレを踊った。そしてシルヴィネもランドリを喜ばそうとして、踊ってみた。あまりうまくやってのけたとは言えなかった。けれど、マドロンは、シルヴィネにとても気をつかっていたので、手を取って向かい合いになり、足さばきを教えてくれた。そしてシルヴィネは、こうして弟といっしょにいられるものだから、これからは踊りをちゃんと覚えて、今まではランドリのじゃまをしていたが、いっしょに楽しむようにしようと約束した。
シルヴィネは、マドロンに対しては嫉妬を感じなかった。この娘に対してランドリが慎み深かったからである。それにマドロンはシルヴィネのきげんを取り、元気づけてくれるのだった。マドロンのほうではシルヴィネとなら気がおけなかったのだ。事情をよく知らない人だったら、『|ふたつっ子《ベッソン》』のうち、この娘が好きなのはシルヴィネだと思ったことだろう。ランドリが生来、嫉妬などきらいでなかったら、やきもちをやいたかもしれない。けれどたぶん、ランドリがいかにむじゃきでも、なんだかわからない何かが、マドロンがこうするのは自分の気に入るためで、自分ともっといっしょにいたいせいなのだと、心の中でランドリに告げていたのだ。
聖アンドッシュ祭の日までは、三か月ほどというもの、すべてがよいことずくめだった。これはコッス村の守り聖人の祭りで、九月下旬にあるのだった。
この祭日はふたりの『|ふたつっ子《ベッソン》』にとっては、聖堂の大きな『くるみ』の木の茂みの下で踊りやあらゆる種類の遊びがあって、いつでも、にぎやかな楽しいお祭りだったのだが、それが、ふたりにとって、思ってもみなかった新しい悩みを持って来てしまった。
カイヨおやじが、翌日早朝から祭りが見られるように、『ふたつっ子屋敷』へ前の晩から泊りに行く許しをくれたので、ランドリは、夕食前に出かけ、翌日にしか来ないだろうと思っているシルヴィネを驚かせられると思って、ひどく喜んでいた。それは日が短くなりだし、夜が早く来る季飾だった。ランドリは昼間ならこわいなどということはけっしてなかった。けれど、夜ひとりで道を行くのが好きだったとしたら、年に似合わないし、またこの土地の人間でもないことになったろう。とりわけ秋にはそうだ。この季節は魔法使いや鬼火が霧にかくれていたずらやわるさをするのにぐあいよくなり始めるからだ。
ランドリは、牛どもを引き出したり連れもどしたりして、どんな時刻でもひとりで出かけるのに慣れていたので、この晩もほかの晩以上にたいして心配してはいたかった。けれど、夜道でだれもがするように早足で歩き、大声で歌を歌った。というのは、人間の歌声は悪いけものや悪人たちのじゃまをし、遠ざけると、知っていたからだ。
ちょうど、あの、丸い小石が大量にあるのでそう呼ばれている『丸石の浅瀬』のところまで来たとき、ズボンのすそを少しまくった。かかとの上まで水が来るかもしれなかったからだ。そして向こう見ずにはいって行かないように用心した。というのは、浅瀬はななめについていて、右側にも左側にもあぶない穴があるのだった。ランドリは浅瀬をよく知っていたから、まちがえるはずはなかった。それに、向こう側に、おおかた葉の落ちた木々の間に、ファデばあさんの家から来る小さな明りが見えていた。そしてこの明りを見ながら、そちらのほうへ少し歩きさえすれば、あぶないところへ出る気づかいはまったくないのだ。
それでも、木々の下はあまりに暗かったので、ランドリははいるまえに浅瀬を棒で探ってみた。いつもより水かさが多いので、びっくりした。一時間以上も前に開いてある水門の音が聞こえるので、なおさらだった。けれど、ファデットの家の窓のともしびがよく見えるので、思い切ってはいった。だが、二歩も行かないうちに水がひざの上まで来たので、引きさがった。もう少し川上、もう少し川下とためしてみたが、どちらも、もっと、えぐれがひどかった。雨が降ったわけではないし、水門は相変わらず水音を立てている。これはまったく驚くべきことだった。
十二
ランドリは考えた。「これは『荷車道《にぐるまみち》』のところで道をまちがえたにちがいない。だから、そのせいで、ファデットのろうそくが右に見えるんだ。左に見えるはずなのに」
そこで『うさぎの十字架』まで引き返し、方角がわからなくなるように目をつぶって、ぐるぐるまわった。まわりの木や茂みをよく見きわめてから、道が違っていないのを確かめ、川べりにもどった。だが浅瀬のぐあいはよさそうに思えたのに、三歩と進めなかった。というのは、正面に見えるはずのファデットの家の光りが、急にほとんどうしろに見えたからだ。岸にもどると、その明りは、あるべきところにあるように思えた。別の方向にななめに取ってまた浅瀬にはいると、今度は、水がほとんど腹まで来た。それでも、穴にはいったので明りのほうへ歩けば出られると思って、先へ進み続けた。
結局立ち止まってしまったが、それでよかったのだ。穴はますます深くなり、肩まで来てしまった。水はひどく冷たく、あともどりしようかと思って、一瞬じっとしていた。なにしろ、光は場所を変えたように見えたのだ。おまけに、それが、動き、走り、はね、岸から岸へ渡り、ついには水に映《は》えて二重になり、翼を拡げてたゆたう鳥のようにじっとして、松やにのはぜるようなパチパチという小さな音をさせるのだった。
今度ばかりはランドリもこわくなって、気が変になりそうだった。なんでも、この火ほど人を化《ば》かすものはないし、これほど意地悪なものもないという話だった。見る人をまどわせて、水のいちばん深いところへおびき寄せ、例のやり方でパチパチと笑い、かかった人の苦しみをあざ笑って喜んでいるというのだった。
ランドリはぜんぜん見ないように目を閉じ、急いで向きを変え、なんでもかまわず穴を渡り抜いて、岸にもどった。草の上に身を投げ出し、やはりその踊りと笑いを続けている鬼火を見つめた。まったく気味の悪い見ものだった。『かわせみ』のように飛ぶかと思うと、ぜんぜん見えなくなったりした。そうかと思うと牛の頭ほども大きくなり、今度はねこの目のように小さくなった。そしてランドリのまわりを走り、目がくらむほど早くまわった。とうとう、ランドリがついて来ないと見て、『あし』の間に行ってはねまわり、腹をたててランドリの悪口を言っているようだった。
ランドリは身動きしようとしなかった。逃げもどったところで鬼火から逃げられるわけには行かないからだった。だれでも知っているように、鬼火は走る者のあとをしつっこく追って来て、気が狂ってしまうまで通せんぼをし、ひどい難所へ追い落としてしまうのだ。ランドリが恐れと寒さで震えていると、うしろのほうで低い柔らかい声で歌っているのが聞こえて来た。
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鬼火、鬼火、鬼火ちゃん、
ろうそくつけて、笛吹いて!
あたしは頭巾《ずきん》に合羽《かっぱ》の鬼娘、
おともに連れた鬼火ちゃん。
[#ここで字下げ終わり]
そしてたちまち、ファデットが、鬼火に恐れも驚きもせず、いそいそと川を渡ろうとして、暗がりにすわったランドリにぶつかった。そして身を引き、まるで男の子のように悪態をついた。いちばん口の悪い男のように。
「ぼくだよ、ファンション〔鬼火という言いかたを避けた呼び名。本名のフランソワーズの愛称〕」とランドリは立ち上がりながら言った。「こわがらないでもいいよ。意地悪くしたりしないから」
こんなふうに言ったのも、鬼火と同じくらいファデットがこわかったからだ。あの歌を聞いたし、鬼火とぐるになっているのをみてとったのだ。鬼火はファデットの前で気が狂ったように踊りはね、会えてうれしいというふうだった。
ファデットは、しばらく考えこんでから言った。
「『|ふたつっ子《ベッソン》』の坊や、ちゃんとわかってるわよ。そんなおせいじ使うのは、こわくて死にそうだからでしょ。のどの奥で声が震えてるわよ。まるで家のおばあさんみたいだわ。どう? 弱虫さん。夜は昼間ほどいばってないのね。あたしが来なきゃ川が渡れないんでしょ。きっとそうよ」
「まったくだよ。今上がって来たところなんだ」ランドリは言った。「おぼれそうになっちまったよ。きみは渡れるかい、ファデット。浅瀬がわかるかい?」
「何よ! わかるかですって? あんたがこわがっているものはそんなことじゃないでしょ」ファデットは笑った。「さあ、手を出しなさい、おばかさん。鬼火ってあんたが思ってるほど意地悪じゃないのよ。こわがる人にしかいたずらしないんだわ。あたしなんか見慣れてるし、鬼火と友だちなのよ」
そう言ったと思うと、ランドリが考えもつかなかったほどの力で腕を引っぱり、浅瀬へ引きこんで走りだし、歌った。
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あたしは頭巾に合羽の鬼娘、
おともに連れた鬼火ちゃん。
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ランドリとしては、鬼火に囲まれているよりこの小さな魔法使いとつきあうほうが気楽というわけでもなかった。それにしてもどうせ悪魔に出会うなら、あんなうすきみの悪い、つかまえどころのない火の形でよりも、自分と同じ人間の形をしているほうがましだと悪ったので、さからわずにいたが、ファデットがうまく案内してくれた。足もぬらさず小石の上を歩いているのに気づき、すぐに安心した。だがふたりとも足早に歩いて、鬼火に空気の流れをつくってやってしまったので、相変わらずこの『大気現象』につきまとわれた。これは村の学校の先生がそう呼んでいるのだ。先生はこういうことはよくごぞんじで、ぜんぜんこわがる必要はないと、おっしゃっている。
十三
きっと、ファデばあさんもこのことはよく知っていて、こういう夜の火はなにもこわいことはないと孫娘に教えてあったのだ。それとも、『丸石の浅瀬』のまわりにはよく鬼火が出るし、ランドリがこれまでそばでよく見たことがないというのはまったくの偶然なのだから、たぶんこの娘は見慣れているうちに、この火を起こす精霊はぜんぜん意地悪でないし、しんせつにしようとしているだけだと考えるようになったのだろう。鬼火が近寄るにつれてランドリが全身を震わせているのに気づいて、娘は言った。
「ばかねえ、この火は燃えてないのよ。すばしっこくしてつかまえてみれば、火傷《やけど》なんかしないのがわかるわよ」
(ますます悪いや)とランドリは思った。(燃えてない火なんて、どんなものかわかるじゃないか。神さまがお作りになったもんじゃないんだ。だって神さまの火はあたためたり、燃やしたりするためのものなんだからな)
だが、ファデットに自分の考えを伝えはしなかった。そしてぶじに向こう岸に着いてみると、もうファデットを置き去りにして、『|ふたつっ子屋敷《ベッソニエール》』へ逃げ帰りたくてうずうずした。しかし根が恩知らずではなかったから、お礼を言わずに別れるつもりはなかった。
「これで二度も助けてもらったね、ファンション・ファデ〔愛称と名字でちゃんと呼んだことになる〕。このことは一生忘れないってことを言っておかなきゃ。きみが来たときには、まるで気狂いみたいになってたんだからね。鬼火に化《ば》かされてまいってたんだ。いつになっても川は渡れなかったろうし、さもなきゃ、はいったぱなしになっちゃうとこだったよ」
ファデットは答えた。
「あぶなくもなんともなく渡れたわよ、きっと。あんたがそれほどばかじゃなければね。十七になるところで、もうすぐあごにひげがはえようっていう大きな男の子が、あんなにこわがるなんて考えたこともなかったわ。あんなとこ見ちゃっていいきみだわ」
「どうしていいきみなんだい、ファンション・ファデ?」
「だって、あんたなんか大きらいだからよ」と少女は、さげすんだ口調で言った。
「じゃあ、なんでぼくのこと大きらいなんだい?」
「だって、けちなやつなんだもん」とファデットは答えた。「あんたも、あんたの『|ふたつっ子《ベッソン》』も、おとうさんもおかあさんもみんなそうよ。お金持ちっていばっちゃって、世話になっても当たりまえだって顔してるじゃないの。あんたは恩知らずに育てられちゃったのね、ランドリ。それは男としちゃ、臆病《おくびょう》の次に悪いことなのよ」
ランドリはこの少女の非難でたいへん恥ずかしく思った。ぜんぜん的《まと》はずれではないと認めたからだ。そこでランドリは答えた。
「ぼくが悪いんだからね、ファデット。ぼくだけを責めてよ。にいさんだっておとうさんだっておかあさんだって、だれも家ではきみが前にぼくを助けてくれたのを知らないんだよ。だけど今度はみんなに話すし、きみの好きなだけ、ごほうびがもらえるよ」
「なによ! またいばるのね」とファデットはやり返した。「だって物をやればもうそれで気がすむつもりなんでしょ。あたしがおばあさんと同じだと思ってるのね。ちょっとおかねさえやれば、不正直でも意地悪でもがまんすると思ってるのね。あたしは違うわ。あんたの贈り物なんかいりもしないし、ほしくもないのよ。あんたの家でくれるものなんか、みんなばかにしてやるわ。だって、一年も前にたいへんな苦労から助けてあげたのに、ひとこともお礼もいわず、やさしいことばもかけるつもりのない人なんですからね」
「悪かったよ。はっきりそう言うよ」とランドリは言ったが、ファデットがすじみちたてて話すやり方を初めて聞いて、びっくりしていた。「だけどそいつは少しはきみも悪いんだぜ。にいさんを見つけさせてくれたのは、ちっとも魔法じゃないんだ。ぼくがきみのおばあさんと話している間に、にいさんを見かけたにちがいないんだ。それに、ぼくがしんせつでないって責めるけど、きみだってほんとうにしんせつな気持ちがあったんなら、ぼくをじらして苦しめたりしないで、それに、あとで困るような約束をさせたりしないで、すぐに言ってくれてもよかったじゃないか。『草刈り場を下って行けば、川岸で見つかるよ』ってね。そう言ったからって損はしないのに、ぼくが心配しているのをからかったじゃないか。だからさ、せっかくのしんせつも値うちが下がったわけだよ」
ファデットは、いつも口答えがす早いのに、しばらくじっと考えていた。それから、言った。
「なるほどね。なんとかしてありがたく思うまいとしてるのね。あたしがあんな約束をさせたから、もうなんにも負いめがないと思いたいのね。だけど、もうひとこと言いますけどね、あんたの根性はきつくて、ひねくれてるわよ。だって、あたしがあんたからなんにももらいたがっていないし、恩知らずを責めているわけでもないってことが、わからないんだもん」
「そりゃそのとおりだよ、ファンション」ランドリは本気で言った。「ぼくが悪いんだ。わかってたんだよ。恥ずかしく思ってたんだ。きみに話しかけなきゃいけなかったんだ。そうする気はあったんだよ。だけどあんまり怒った顔をして見せるから、どうしたらいいか、わからなかったんだ」
「でも、もしあのさわぎの次の日に、友だちらしいことばをかけに来てくれたら、ちっとも怒ったりしなかったのよ。あたしがお礼なんかほしがってないのがすぐにわかったでしょうし、お友だちになれたわよ。だけど今はもうだめだわ。あなたさまのこと悪く思ってるんですからね。放っておいて自分で鬼火をしまつさせとけばよかったんだわ。お休みあそばせ、『ふたつっ子屋敷』のランドリ……着物をかわかしにお行きなさい。ご両親に言ってちょうだいね、『こじき娘の『こおろぎ』がいなかったら、ほんとうに今夜はずいぶん川で水をのんだところだった』ってね」
こう言うと、ファデットはランドリに背を向けて、歌いながら家のほうへ歩きだした。
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思い知ったか、おばかさん、
『|ふたつっ子屋敷《ベッソニエール》』のバルボさん。
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今度という今度は、ランドリは心から悪かったと、悔《く》やんだ。もっとも、この娘にどんな種類にしても友情を感じたわけではなかった。なにしろ、人のよさより頭のよさが先に立っていて、そのあくどいやり方は、おもしろがっている人たちにも、やはり気にいられないという子なのだから。だがランドリはまっすぐな心の持ち主だったので、良心にとがめることをそのままにしておきたくなかった。ファデットのあとを追って行き、合羽《かっぱ》のすそを引いて呼びとめた。
「ねえ、ファンション・ファデ」とランドリは言った。「どうしたってこのことは、ふたりの間で話をつけて、けりをつけなきゃいけないよ。きみはぼくのことを不満に思ってるし、ぼくも自分のことが不満なんだ。ぜひとも、望みのものを言ってくれよ。あすのうちに持って行ってあげるから」
「あたしの望みはこれっきり、もうあんたに会わないことよ」ファデットはひどくそっけなく答えた。「それに、持ってきたものはなんだって、必ずあんたの鼻面にたたきつけてやるから」
「埋め合わせをしようとしてるのに、ずいぶんひどいことばだぜ。贈り物がいらないにしたって、何かきみの役にたつことがあるだろう。きみのためにいいようにしようと思っているだけで、悪くしようなんて思ってないのを、わかってほしいんだよ。さあ、きみの気のすむようにするには、どうしたらいいか言ってくれよ」
「じゃあ、あたしにあやまって、お友だちになってと頼む気はないのね?」ファデットは立ち止まって、言った。
「あやまるんなんて、そりゃ無理だよ」ランドリがそう答えたのは、そろそろ年ごろなのに、分別なくふるまうので小娘だと思われているような娘のために、自尊心をねじ曲げるなど、とてもできなかったからだ。「きみと友だちになるって言ったって、きみの気性がへんちくりんだから、とても信用できないんだよ。だから、すぐあげられるもので、あとで返してもらわなくてもいいようなものを、言ってくれよ」
「それじゃあね」とファデットは澄んだ声でぴしゃりっと言った。「あなたの言うとおりにしましょうよ、『|ふたつっ子《ベッソン》』のランドリ。あたしはあやまってと頼んだのよ。あなたはそれはいやだと言う。こうなったら、前に約束したことを果たしてもらいます。あたしの言うとおりに、その日のうちにするってことだったわね。その日は、あす、聖アンドッシュのお祭り日。してもらいたいことはこう。あたしとブウレを踊ること。ミサのあとで三回、夕方のお祈りのあとで二回、お告げの鐘のあとで、二回、全部で七回です。それに一日じゅう、起きてから寝るまで、ほかのだれともブウレを踊らないこと。嫁入り前の娘とも、嫁入りした女とも。もしそうしてくれなかったら、あなたは三つのうんといやしい根性を持っていることになります。恩知らず、臆病、それに約束を守れないこと。お休みなさい。あす、お御堂《みどう》の入口で最初に踊れるように待ってるわ」
そしてファデットは、ランドリが家までついていったのに、ひもを引いて扉を開け、すばやくはいりこんで戸を閉め、かけがねをかけてしまったので、『ふたつっ子』はひとことも返事ができなかった。
十四
ランドリは、はじめ、ファデットの考えがあまりきみょうに思えたので、腹がたつより、笑いたくなった。ランドリは思った。(やれやれ、あの子は意地悪というより気狂いだね。それに思ったより欲がないよ。だってあんなお礼じゃ家が破産するわけがないからね)
だがよく考えているうちに、この借りを返すのは思ったよりむずかしいのに気がついた。
ファデットはきわめて踊りじょうずな娘だった。野原や道ばたで、羊飼い相手に踊りはねているのを見たことがあった。まるで小さな悪魔のようにはねまわるので、拍子を合わせるのに苦労するほどだった。けれど、あまりに器量が悪いし、日曜でさえ、へんなかっこうをしているので、ランドリの年ごろの若者はだれも踊りの相手をしようとしなかったし、人の見ている前ではなおさらだった。せいぜいぶた番か、最初の聖体拝受のすんでいない少年たちがさそってもいいと思うだけで、土地の美女たちは踊りの仲間にファデットを入れたがらなかったのだ。だからランドリはこんな踊りをしなげればならないと思うと、まったくなさけなくなった。そして、きれいなマドロンに、ブウレを三回約束させられていたのを思い出したときには、その三つのブウレを申しこまずにいなければならないのだから、マドロンがこの侮辱《ぶじょく》をどうとるだろうかと、考えこんだ。
寒いし、腹も空いていたし、それに鬼火がやはり追いかけて来るのではないかとこわかったので、あまりものを考えず、うしろも見ずに早足に歩いた。家に帰るとすぐ、着物をかわかし、夜の暗さで浅瀬が見当たらず、水から出るのに苦労した、と話した。だが、こわくなったのを話すのが恥ずかしく、そして、鬼火のこともファデットのことも話さなかった。
あすはとても早いのだから、このいやな出会いの結果を気に病んでなどいられないと思って、床についた。けれど横になっても、寝つきはひどく悪かった。五十以上も夢をみた。ファデットが鬼火に馬乗りになっているのだ。その鬼火が大きな赤いおんどりのような形をし、一本の『あし』で、骨でできた『がんどう』〔昔、夜道を歩くのにブリキ製の容器にろうそくを入れてさげたもの〕にろうそくを入れたのを持っていて、その光が『あしっぱら』一面に拡がるのだった。そうするとファデットが山羊ほどもあるこおろぎに変わって、こおろぎの声で歌いかけてくるのだが、その歌がランドリにはわからず、ただ、こんなことばが、なん度も聞こえて来るのだった。
……こおろぎ、妖精、笹、合羽、鬼火、ふたつっ子、シルヴィネ……
しまいには頭が割れそうになり、鬼火の光があまり激しくちらついていたので、日を覚ましたときに、まだそのせいで目が『ちゃかちゃか』していた。これはあまりまじまじと太陽や月の通り道をながめたとき、黒、赤、または青の玉粒がまるで目の前にあるように見える、あれだ。
ランドリはこの寝苦しい夜のあとではすっかり疲れてしまって、ミサの間ずっと眠りこけた。司祭さまのお説教をひとことも聞かなかったほどだった。せっかく、これ以上はできないほどみごとにアンドッシュ聖人さまの高徳とご利益をほめたたえていたのに。
教会から外へ出るとき、ランドリはあまりぐったりしていたのでファデットのことを忘れはてていた。だがファデットは、出口のところで、きれいなマドロンと並んで立っていた。マドロンとしては、最初の踊りは自分のものと思いこんで待っていたのだ。だがランドリがマドロンに話しかけようとして近寄ると、どうしても『こおろぎ』が目にはいり、『こおろぎ』は一歩まえに進み出て、前代未聞のずうずうしさで大声を出した。
「ねえ、ランドリ、ゆうべ最初の踊りにさそってくれたわね。約束破ったりしないでしょう」
ランドリは火のように赤くなった。マドロンが、こんなひどいめにあって、ひどく驚き、またひどく怒って赤くなるのを見て、ランドリはファデットにはむかう勇気が出た。
「おまえといっしょに踊ると約束したかもしれないね『こおろぎ』」とランドリはファデットに言った。「だけど、前から約束したひとがいるんだよ。最初の約束を果たしてから、おまえの番にしてやるからね」
「だめよ」ファデットは落ち着きはらって答えた。「もの忘れがひどいのね、ランドリ。あたしより前に約束した人なんかいないわ。あたしが果たしてもらいたいって言っている約束は去年からのだわ。それもゆうべ確かめてくれたんじゃないの。マドロンがきょうあんたと踊りたいんだったら、あんたとそっくりな『|ふたつっ子《ベッソン》』がここにいるじゃない? あんたのかわりに踊ればいいわ。どっちでも同じよ」
「『こおろぎ』の言うとおりよ」とマドロンは、シルヴィネの手を取りながら、つんとして言った。「そんなに古い約束をしたんなら、守らなきゃいけませんわ、ランドリ。わたしはおにいさんと踊ったっていいんですから」
「そうだ、そうだ、そりゃ同じことだよ。四人で踊ることにしようよ」とシルヴィネは、なにも気づかずに言った。
人々の注意を引かないようにするためには、そうするよりほかなかった。そして『こおろぎ』は、得意げに軽やかにはね始め、ブウレ踊りがこれほどよく折りめがつき、これほど熱気を帯びたことはないほどだった。もしファデットがこざっぱりしたおとなしい娘だったら、見るだけでも楽しみだったろう。なにしろすばらしい踊り方だったし、これほどの軽やかさと、姿のよさなら、どんな娘でもほしいと思わない者はなかった。だがあわれな『こおろぎ』はいかにも着付けが悪く、いつもより十倍も、みっともなかった。
ランドリは、あまりマドロンのことが気になって、そっちを見る勇気もなく、踊り相手に目をやったが、いつものぼろを着ているのよりずっと醜く思えた。きれいに見せようというつもりで着飾ったのが、吹き出したくなるようだった。
帽子ときたら、しまいこみすぎて黄色くなり、おまけに、この地方の新流行はちんまりとしてうしろがまくれているのに、ファデットのは両側に大きなビラビラした耳おおいが下がっているし、帽子のうしろの飾りリボンは首までぶら下がり、まるでファデばあさんみたいで、樽《たる》みたいに大きい頭が棒みたいに細い首に乗っているというふうになっていた。スカートはてのひらふたつほどたけが短かすぎるし、この一年でひどく大きくなったので、すっかり日焼けした細い腕が、まるで二本の『くも』の足のようにそでからにょっきりとはみ出していた。それでもまっ赤な前掛けをしていて、それが得意らしかったが、これは母親のもので、十年も前から若い娘はもうつけていない胸当てをはずすということにファデットは気づいていなかったのだ。というのも、ファデットは、おしゃれすぎる娘たちの仲間ではなかったし、むしろおしゃれの点ではたりなかったのだ。男の子のように暮らし、なりふりかまわず、遊びやいたずらばかりしていたのだ。だから、まるで着飾った老婆みたいだった。そして、貧乏のせいではなく、祖母のけちのせいでの、この身なりの悪さと、そして自分自身の趣味のなさのために、ファデットは軽蔑されたのだった。
十五
シルヴィネは、ランドリがファデットなどに気まぐれを起こしたのを、ふしぎに思った。自分としてはランドリがそうなのよりずっと、この娘がきらいだったのだ。ランドリはこのことをなんと説明してよいやらわからず、穴にでもはいりたい気持ちだった。マドロンはきげんが悪いし、ファデットの勢いにつられて足だけ動かしていたものの、三人とも顔は悪魔の葬式にでも出ているように陰気だった。
最初の踊りがすんだかと思うとランドリは逃げだし、自分の家の『|くだもの畑《ウーシェ》』に行ってかくれた。けれど、すぐに、ファデットが『ばった』をおともにして、ランドリを引っぱり出しにやって来た。『ばった』ときたら、帽子にくじゃくの羽根とまがいの金のふさをつけているものだから、いつもより猛《たけ》りたって、わめき散らしているのだ。おまけに、ファデットより小さいおてんば娘の一団がついて来ていた。というのも同じくらいの年の娘たちはファデットとあまりつき合わないからだった。ファデットが拒絶された場合に証人にしようとして、この『めんどり』大部隊を連れて来ているのを見ると、ランドリは観念した。そしてファデットと『くるみ』の木立の下へ行ったが、なんとか人目にたたずに踊れる片すみを捜そうとした。
さいわいなことに、マドロンもシルヴィネもそちら側にはいなかったし、村の人もいなかった。ランドリはこの機会を利用して義務を果たし、三番めのブウレまでファデットと踊ってしまおうとした。ふたりのまわりには、よその村の者ばかりで、たいしてこちらを気にしていなかった。
踊り終わるが早いか、ランドリは走ってマドロンを見つけに行き、木陰の屋台でフロマンテ〔牛乳で煮た小麦のかゆ〕を食べようと誘った。けれど、マドロンはほかの若者たちと踊って、その連中におごってもらうことになっていたので、ちょっとばかり得意そうにことわった。ランドリはすみっこにひっこんで、目にいっぱいの涙を浮かべた。というのは、怒って、つんとしているせいで、マドロンは今までになかったほどきれいに見えたし、だれもがそれに気がついているというふうだったからだ。ところがマドロンは、そういうランドリを見ると、急いで食べ終わり、テーブルから立ち上がって、聞こえよがしに言った。
「あら、晩のお祈りの鐘よ。あとでだれと踊ろうかな?」
マドロンは,ランドリのほうを向いていた。『ぼくと!』と言ってくれるものと思っていたのだ。けれどランドリが口を開かないうちに、ほかの若者たちが申しこんでしまい、マドロンは、非難のまなざしも投げずに、新しいお取り巻きに囲まれて、晩のお祈りに行ってしまった。
晩のお祈りがすんだかと思うと、マドロンは早々とピエール・オバルドオといっしょに出て来た。ジャン・アラドニーズ、エチエヌ・アラフィリップもついて来た。そして三人がかわるがわるマドロンと踊った。なにしろ美人で、資産家の娘だから、相手に困りはしなかった。ランドリはそのマドロンを横目でながめ、そしてファデットは教会に残って、ほかの人たちのあとで長々とお祈りをしていた。いつの日曜日にもこうだったので、人によっては、たいへん信心深いからだと言うし、また、そうやって悪魔とのつき合いをかくすためだと言う人もいた。
ランドリは、マドロンを見ているとつくづくなさけなかった。マドロンはランドリのことなど、さらさら気にかけていないようだし、はしゃいで、いちごのように赤く上気した顔をしているし、ランドリに恥をかかされた埋め合わせをじゅうぶんにしていた。ランドリにしてみれば、なにもわざわざ恥をかかせたわけではなかったのに。
するとそのとき、今まで一度も頭に浮かばなかったことに気がついた。つまり、マドロンには、どっちかと言えば、男にこびる心があるのではないか、それに、いずれにせよ、自分がいなくてもあんなに楽しそうなのだから、自分にはあまり気がないのだ、ということだ。
悪いのはランドリだということは、少なくとも見かけでは、確かだ。だがマドロンは、ランドリが木陰で悲しそうにしているのを確かに見たのだし、これについてはランドリが何か申し開きをしたいことがあると、気をまわしてくれてもよさそうなものだ。それなのにマドロンはそんなことはこれっぽっちも考えず、ランドリの心は悲しみではり裂けそうなのに、ひとりで仔《こ》山羊《やぎ》のように、はしゃいでいるのだ。
マドロンが三人のおつきを満足させると、ランドリはそばに寄って行った。こっそりと話して、できるだけうまく申し開きをしようと思ったのだ。どうやってわきへ連れ出したものやらわからなかった。なにしろまだ、女相手には勇気の出ない年ごろだったのだ。だからうまいことばがぜんぜん出てこないので、手を取ってついて来させようとした。するとマドロンは半分は怒っているけれど半分は許している様子で、言った。
「あら、ランドリ、やっと踊ってくれるのね?」
「踊るんじゃないんだよ」とランドリは答えた。うそがつけないたちだし、約束を破る気もなかったのだ。
「どうしても聞いてもらいたいことがあるんだ」
「なによ! 秘密の話なんて今度にしてよ」と、マドロンは答えて手を引っこめた。「きょうは踊って、楽しむ日よ。まだ足を使いきってないわよ。『こおろぎ』と踊って足がだめになっちゃったなら、帰って寝ればいいでしょ、わたしはまだいるわ」
それからマドロンは、踊ろうとやって来たジェルマン・オドウの申しこみを受け入れてしまった。そしてマドロンがランドリに背を向けようとしているとき、ランドリは、ジェルマン・オドウが自分のことをマドロンにこう言っているのを聞いた。
「あいつはこのブウレを踊ってもらえると思ってたらしいね」
「踊ってあげないわけじゃないわよ」マドロンは頭をゆすって言った。「だけど、まだあの人の番じゃないわ」
このことばにランドリはひどく驚いた。そして踊っているそばにじっと立って、マドロンの様子をこまごまと見つめた。けっしてみだらとは言えないが、あまりに高慢で人もなげなので、ランドリはくやしくなってきた。そこでマドロンがそばにもどってきたとき、ランドリは少しばかにしたような目で見た。マドロンも意地になってきた。
「どうしたのランドリ? きょうは踊り相手が見つからないの? また『こおろぎ』のお相手するよりないわね」
「喜んでするさ」ランドリは答えた。「だって、きょうの祭りでいちばん美人てわけじゃないが、踊りはいちばんうまいんだからな」
そう言ってのけて、ランドリは教会のほうへ行ってファデットを見つけ、踊りの群れへ引きこみ、マドロンの目の前で、続けざまにブウレをふたつ踊った。『こおろぎ』が得意になって喜んだのはまったくのみものだった。きげんのよさをかくすどころか、いたずらそうな黒い目をますます輝かせて、とさかのついた『めんどり』みたいに、大きな帽子をかぶった小さな頭をしゃんと押し立てているのだった。
だが、悪いことに、その勝ち誇った様子が、五、六人のいたずら小僧たちをくやしがらせた。この連中はふだんファデットと踊っていたのだ。そして今はもう近寄れないので、いつもはファデットの前で小さくなり、踊りがうまいので重く見ていたのに、ファデットを非難し始め、いばっていると悪く言い、すぐそばで、ささやき始めた。
「見ろよ、『こおろぎ』を! ランドリ・バルボをうっとりさせたつもりだぜ!」「こおろぎ娘!」「ばった娘!」「鬼っ子!」「ばけねこ!」「やせっぽち!」「ぜんそく持ちめ!」などと、こんなふうな悪口をファデットに浴びせたのだ。
十六
そのうえ、ファデットがそばに来るたびに、そでを引っぱったり、足を出してころばせようとしたりした。なかには、むろんいちばん年少で物をわきまえない連中だが、ファデットの帽子の耳おおいをたたいて、帽子の向きを変えてしまうのがいた。そして、「でか帽子! ファデばばあのでか帽子!」と、はやしたてるのだった。
あわれな『こおろぎ』は、なん度か、右に左になぐりつけたが、それがかえって自分に人々の注意を引きつけることになってしまった。やがて村の連中が、とやかく言いだした。
「おやおや、こおろぎ娘をごらんよ。きょうはなんて運がいいんだろう! ラ塔hリ・バルボがひっきりなしに踊ってくれるなんて!」
「踊りがうまいのは確かだがね、まるで美人ぶって、『かささぎ』みたいにきどってるのは、どうもね」
また、ランドリに向かって、こんなことを言うのもいた。
「へえ、魔法にかけられたんかね。あの子しか目にはいらないなんて! それとも自分で魔法使いになるつもりかい? 狼《おおかみ》をつれて野良に出るのかね?」
ランドリはくやしくて息がつまりそうだった。が、シルヴィネは、ランドリほどりっぱで尊敬すべき人はいないと思っていたのだから、そのランドリがこんなに多くの人の笑いものになっているのを見ると、本人以上にくやしかった。おまけに、よその村の人たちまで口を出して、わけをたずね始め、「いい若い衆じゃないか。それにしても、まわりじゅうでいちばんまずい娘にむちゅうになるなんて、どうしたのかね」などと言いだした。マドロンは勝ち誇った顔つきでやって来て、人々がからかうのに耳を傾け、自分まで、無情にも口を出した。
「どうしようもないわよ。ランドリはまだ小さいこどもですからね。あの年ごろじゃ、話し相手さえいれば、山羊の顔だか人間の顔だか目にはいらないのよ」
するとシルヴィネはランドリのうでをとり、低い声で言った。
「向こうへ行こうよ、ランドリ。けんかを買わなきゃならなくなるよ。皆、調子に乗ってるんだ。それにファデットが侮辱《ぶじょく》されれば、それはきみに振りかかってくるんだよ。あの子と四度も五度も続けて踊るなんて、きょうはいったいどうなっちゃったのか、わけがわからないよ。まるで笑いものなりたがってるみたいだ。こんな遊びはもうやめてよ、お願いだから。意地悪をされたり、ばかされるのは、ファデットにはいいさ。自分からされたがってるんだよ。それが好きなんだよ。けれどぼくたちはそんなことは好きじゃない。さあ、行こう。お告げのお祈りがすんだころもどって来ようよ。そしてマドロンと踊るんだよ。あれはちゃんとした娘だからね。だから言ったじゃない、あんまり踊りにむちゅうになると、とんでもないことをしでかすぞって」
ランドリはシルヴィネについて二、三歩行きかけたが、どっとはやしたてる大さわぎを耳にして振り向いた。見ると、マドロンやほかの娘たちが取り巻きの若者たちをけしかけてファデットをからかわせ、それを見て調子に乗ったいたずら小僧どもが、ファデットの帽子をたたき落としたところだった。少女は長い黒髪を背中までたらし、怒りと悲しみでもがいていた。というのも、今度ばかりは、これほどひどいしうちをされるようなことはなにも言っていなかったからだ。いたずら小僧が棒の先にかけて持ち去る帽子を取りもどすこともできず、あまりのくやしさに、泣いていた。
ランドリは、これは確かに悪いことだと感じた。そして生来の善良な気質が不正を見て猛《たけ》りたち、小僧を捕えて、帽子を取りもどし、奪った棒でしたたか尻をたたきすえ、ほかのこどもたちの中へ割ってはいると、こどもたちは、ランドリの姿を見ただけで逃げ出した。そしてファデットの手を取り、帽子を返してやった。
ランドリのす早さとこどもたちのこわがりぶりは、見ている人たちをひどく笑わした。ランドリをほめそやしていたのだが、マドロンがひやかすような態度に出たので、同じ年くらいの少年たちや、年上の若者の何人かが、ランドリを笑いものにするような顔をした。
ランドリはもう恥ずかしくなどなくなっていた。勇気と力に満ちていたし、なんともはっきりは言えないが、一人まえの男の気持ちとして、人々の目の前で、自分の選んだ踊り相手が、醜かろうと美しかろうと、こどもだろうとおとなだろうと、いじめられるのを放っておかないのが、自分の義務なのだと感じた。マドロンの一派が自分を見るやり方に気がついて、ランドリはまっすぐにアラドニーズとアラフィリップのまっ正面に行き、こう言ってのけた。
「どうだい、おまえたち、なにか言うことがあるのか? おれがこの娘に気をつかうからって、何が気に入らないんだい? それに気に入らないにしても、なんでわきを向いて、こそこそ言うんだい? おれは目の前にいるじゃないか? おれが目にはいらないのかい? このへんでおれがまだ小さい子だって言ってたな。だけどおとなにせよ大きいこどもにせよ、おれに面と向かって言ったやつはひとりもいないじゃないか。待ってるから言ってみろってんだ。この小さいこどもが踊り相手にした娘を、いじめられるかどうか見ようじゃないか」
シルヴィネは弟のそばを離れなかった。こんなけんかをひきおこしてしまったのは賛成できなかったが、いつでも助太刀する気がまえだった。
そこには『|ふたつっ子《ベッソン》』たちよりも頭だけ背の高い若者が四、五人いた。けれどふたりがこれほど意気ごんでいるのを見ると、それに実際のところ、こんなつまらないことでなぐり合うのは考えものだし、連中はなにも言わず、たがいに顔を見合わし、だれかランドリとやり合う気があるかたずね合っているようだった。だれも進み出なかった。ずっとファデットの手を放さなかったランドリは言った。
「早く帽子をかぶれよ、ファンション。踊ろうぜ。帽子を取りに来るかどうか、ためしてやるんだ」
ファデットは涙をぬぐいながら言った。
「いいの。きょうはもうたくさん踊ったわ。あとはもうすんだことにするわよ」
「いや、いや、もっと踊らなくちゃいけない」
勇気と誇りで火のようになったランドリは言った。「ぼくと踊るときみがばかにされるなんてことを言わせないようにしてやるんだ」
ランドリはファデットをまた踊りに引き入れた。そしてだれもへんな口をきかず、みょうな目つをしなかった。マドロンとそれにつきまとう連中は、ほかへ行って踊った。そのブウレが終わると、ファデットはひどく小声でランドリに言った。
「これでもういいわ、ランドリ。あなたのやり方がうれしかったの。あの約束はもうすんだわ。家へ帰ります。今夜は好きな人と踊ってちょうだい」
そして、ほかのこどもたちとけんかしていた弟を連れもどし、す早く立ち去ってしまったので、ランドリはファデットがどっちのほうから引きさがったのかさえ、わからなかった。
十七
ランドリはシルヴィネと家へ夕食に行った。そして、きょうのできごとにシルヴィネがひどく気もんでいるので、前の晩、鬼火とどれだけ戦ったか、ファデットが、勇気からか魔法からか、救ってくれ、お礼に聖アンドッシュの祭りで七回踊ってくれと言ったことを話して聞かせた。ほかのことはぜんぜん話さなかった。前の年、シルヴィネが溺《おぼ》れたのではないかとどんなに心配したかは、けっして言うまいと思っていたからだ。そしてそのほうがかしこいやり方だった。なにしろ、こういうよくない考えを起こすこどもというものは、まわりの人が気にしたりその話をしたりすると、すぐにまた始めるものなのだ。
シルヴィネは、約束を守ったのはよいことだと言い、そのためにいやなめに会っただけにランドリをますます尊敬すると言った。だが、ランドリが川で出会ったあぶないめを思ってぞっとしたのに、ファデットに対してはすこしも感謝の気持ちが起こらなかった。ファデットとはひどくそりがわないので、ぐうぜん通りかかったとも、しんせつさから助けてくれたのだとも、考える気にならなかった。シルヴィネは言った。
「あいつだよ。あいつが鬼火とぐるになって、きみの気を狂わせて溺れさせようとしたんだよ。けれど神さまがそんなことはお許しにならなかったんだ。きみはそのときだってその前だって、死ななきゃならないほどの罪はなかったからね。そこで、『こおろぎ』は根性が悪いから、きみの人のいいのと、ありがたがってるのにつけこんで、あんな約束をさせたんだ。きみが困るのも、ひどいめに会うのもちゃんと知ってたんだよ。あれはひどい根性曲がりの娘だよ。女魔法使いは皆悪いことが好きなんだ。いい魔法使いなんてひとりもいないよ。マドロンやきみのいちばんいい知り合いと、けんかになってしまうのをちゃんとわかっていたんだよ、あいつは。それになぐり合いをさせたがっていたんだぜ。あのときも神さまが守ってくださったからよかったけれど、そうでなきゃ、ひどいけんかになって、いやなめに会ったかもしれなかったよ」
ランドリは、いつも喜んで兄の考えるとおりに考えるので、きっとシルヴィネの言うのが正しいのだと思い、逆らってまでファデットをかばわなかった。ふたりは鬼火のことを話し合った。シルヴィネは見たことがなかったので、めずらしがって話を聞いたが、見たいとはすこしも思わなかった。けれど母親には鬼火の話はしなかった。考えただけでもこわがってしまうからだった。父親にも話さなかった。鬼火なぞ頭からばかにしていて、もう二十回以上も見ていて、まったく平気なのだった。
踊りは真夜中まで続くことになっていた。だがランドリは、マドロンにほんとうに腹をたててしまったのが気を重くし、ファデットが自由にさせてくれたのをさいわいに踊る気にもならず、兄が牧場へ牛を連れもどしに行くのを手伝った。そうすると、プリッシュ村へ行く道のなかばまで来たし、頭も痛かったので、『あしっぱら』にかかる所で兄にさようならを言った。シルヴィネは、また鬼火かファデットかが、わるさをするといけないと心配し、『丸石の浅瀬』は絶対に通らないようにと言った。できるだけ遠まわりをして、水車小屋のわきの橋を渡って行くように、ランドリに約束させた。
ランドリは言われたとおりに、『あしっぱら』を通り抜けないで、ショオムワの丘に沿った小道を下って行った。お祭りのせいでこのあたりまで物音がただよっていたから、こわいことはなんにもなかった。かすかながらも聖アンドッシュ祭りの笛の音や踊り手たちのざわめきが聞こえていたし、お化けは村じゅうが皆寝しずまらなければわるさをしないとランドリは知っていたのだ。
丘のふもとの、石切り場のそばへ来たとき、うめいて泣いている声が聞こえた。はじめは『しぎ』かと思ったが、近づくにつれて人間のうめき声のように思われたので、同じ人間相手なら勇気に欠けるところのないランドリだし、まして人助けならなおさらだから、勇敢に石切り場のいちばん低い川へ降りて行った。
だが泣いていた人物は、ランドリのやって来る音を聞くと、黙ってしまった。
「だれだい、そこで泣いてるのは?」ランドリはしっかりした声でたずねた。返事がなかった。
「だれか、病気なのかい?」もう一度ランドリはたずねた。
何も答えがないので、行ってしまおうかと思った。が、そのまえに見るだけ見ておこうと思って、あたり一面にごろごろしている石や茂った『あざみ』の間を見まわした。すると、月が昇り出した明るみで、地べたに長々と、あおむけに寝そべった人間が見えた。死んでいるように動かず、それとも死にかけているのか、ひどい悲しみで身を投げ出して人目につきたくないのか、まるで身動きひとつしなかった。
ランドリはこれまで死人を見たことも、さわったこともなかった。もしかしたら死人かもしれないと思うと、もう、どぎまぎしてしまった。けれども、同じ人間には助けを出さねばならないと考えたので、ぐっとこらえ、決然と、寝ている人間の手をさわってみに行った。が、その人物は、見つけられたと知って、ランドリがそばへ行くと、半身に起き上がった。そのときランドリは、それがファデットなのに気がついた。
十八
ランドリとしては、いつでも途中でファデットに出会わないわけにはいかないのかと、うんざりした。だが、悲しんでいるようなので、かわいそうな気がした。そしてふたりはこんなふうに話し合ったのである。
「なんだ、『こおろぎ』、泣いてたのはきみかい? だれかがまたぶったのかい? 追いかけられたのかい? それで悲しくて、かくれてるのかい?」
「ちがうわ、ランドリ。あんたがあんなにりっぱにかばってくれてからは、だれにもいじめられなかったわ。それにあたしはだれのこともこわくないの。泣きたいからかくれてたのよ。それだけよ。だって悲しみをひとに見せるほどばかなことはないんだから」
「だけど、どうしてそんなにひどく悲しんでるんだい? きょう意地悪をされたからかい? あれは少しきみのせいもあるぜ。だけどもう仕返しはしたんだし、あんなことはもうしないほうがいいよ」
「ランドリ、どうしてわたしのせいだって言うの? あなたと踊りたいってお願いしたのが悪いことなのかしら? わたしだけがほかの娘と違って、楽しい思いをしてはいけないのかしら?」
「そんなことじゃないよ、ファデット、ぼくと踊ろうとしたのを責めてるんじゃないよ。きみがしてほしいと言ったことをしたんだし、きみに対してすべきことをしたんだ。きみが悪いのはきょうに始まったことじゃない。それに悪いとしたら、ぼくにじゃなくて、きみ自身に対してだよ。自分でわかってるだろうに」
「それがわからないのよ。わたしが神さまをうやまっているのと同じくらいほんとうに、わたしにはどこが悪いかわからないのよ。自分自身のことなんか考えたことがないし、気がとがめるのはただ、あなたにいやな思いをさせたことだわ。そんなつもりじゃなかったのに」
「ぼくの話はよそう、ファデット。ぜんぜん恨んでなんかいないんだから。きみの話をしよう。きみは自分の悪いところがわからないのだから、真心から友だちとして、きみの悪いところを言ってもいいかい?」
「ああ、ランドリ、お願いするわ。あなたにいいことをしたんだか悪いことをしたんだかわからないけど、そうしてくれるのがいちばんいいごほうびか、さもなきゃいちばんいい罰だと思うわ」
「じゃいいね、ファンション・ファデ。そんなにすじの通った話し方をするし、生まれて初めておとなしくすなおになったのだから、どうしてきみが、十六の娘にふさわしい尊敬を受けられないかを、話してあげよう。それはね、きみの顔つきやしぐさに、女らしさはちっともなくて、まるで男の子だからだよ。身のまわりに気をつけないからだよ。まず初めにさっぱりと身づくろいをしていない。着物とことばづかいで自分を醜くしてるんだ。こどもたちが、『こおろぎ』よりよっぽどひどいあだ名できみを呼んでるじゃないか。『おとこおんな』って呼んでるんだよ。どうだい、十六歳でまだぜんぜん娘らしくないなんて、いいと思うかい? 『りす』みたいに木に登る。裸馬に飛び乗って、まるで悪魔が乗ってるみたいに走らせる。強くてす早いのはいいことだ。何もこわがらないのもいいことだ。けれどそれは男にとっての長所なんだ。女にとっては、できすぎるのは、できが悪いんだ。
それにきみはめだちたがっているように見えるよ。するとめだつからいじめられる。狼を追うようにきみを追いたててさわぐんだ。きみは頭のまわりがいい。きみは意地の悪い口答えをして、やっつけられる当人のほかの人たちを笑わせる。ほかの人たちより頭のまわりが早いのは、やはりいいことだ。けれどあんまりそれを見せつけていると、敵を作ってしまうものだ。きみはせんさく好きで、いろいろな人たちの秘密を知ってしまって、気にいらないことがあると、それをその人に向かってあばきたてるんだ。それできみはこわがられている。そしてだれでも、こわいもののことを憎むもんだよ。意地悪を倍にして返すもんだ。
おしまいに、きみは魔法使いかどうかしらないが、とにかく物を知ってるよ。だけどまさか悪魔に身を売ったんじゃないだろうね。ところが、意地悪する人をこわがらせようとして、きみはそんなふりをするんだ。そうすると、いつだって、ひどい評判がたつが、それはきみが自分でつくってるんだ。これできみの悪いところは全部だ。こううわけなんだよ、ファンション・ファデ。みんながきみとうまくゆかないのは、きみのこういう悪いところのせいなんだよ。このことを少し考えてごらんよ。そうすりゃ、きみがもう少し世間なみにすれば、頭のできが世間なみ以上なのも、人たちが喜んでくれるはずだって、わかるだろう」
ファデットは『|ふたつっ子《ベッソン》』のことばにうやうやしく耳を傾けていたが、まじめな顔で答えた。
「ありがとうランドリ、いつもみんなにしかられてるのと同じことだったけど、ほかの人たちよりずっと、まじめに、やさしく言ってくれたのね。で、今度はわたしが答えたいの。だから、ちょっとの間、わたしのそばに腰かけない?」
「場所があんまりよくないな」と、あまりファデットとかかわり合う気もないし、やはり、ファデットに気を許すと魔法にかけられるといううわさが気になっていたランドリは、言った。
ファデットは言った。
「場所がよくないだなんて、あんたがたお金持ちはぜいたくだからよ。外ですわるときには、きれいな芝ふがいるのよ。あんたがたの牧場や果樹園でどんないい場所でも気持ちのいい木陰でも、よりどり見どりなんだわ。だけど自分の物は何もない人は、神さまにそんなにおねだりしないのよ。行きあたりばったりの石を枕にするんだわ。いばらだって足に痛くないし、空にも地面にもきれいでかわいいものをいっぱい見つけるのよ。神さまがおつくりになったものは皆正しくてやさしいってことを知っているひとには、いやな場所なんてないのよ、ランドリ。あたしは、魔法使いじゃないけど、あんたがふみつぶすどんなつまらない草でも何に役だつか知っているのよ。草のききめを知っていれば、よくながめるし、においや形をばかにしたりしないわ。こんなことを言うのはね、ランドリ、庭の花や石切り場のいばらと同じに人間の心にもあてはまることをこれから話してあげたいからなの。それはね、見かけがきれいでもなく、よさそうでもないものは、ばかにしてしまうものだってことなのよ。そのせいで、せっかく役にたつし慰めになるものを、むだにしてしまうんだわ」
「どういう意味だか、よくわからないな」と、ランドリは、少女のかたわらに腰をおろしながら、言った。
そしてふたりはしばらく黙っていた。ファデットが、ランドリにはまるでわからない考えに気を奪われていたからだ。ランドリのほうは頭が少しこんがらがっていたが、この少女の話すのを聞いているのがなんとなく楽しかった。というのは、このときのファデットの話し方ほどみごとな話し方も、これほどやわらかい声も聞いたことがなかったからだ。
「ねえ、ランドリ」ファデットが口を切った。「あたしは、悪口を言われるどころか、かわいそうに思ってもらいたいものだわ。自分自身に向かって悪いところがあるにしても、ほかの人たちに、ほんとうに悪いことなんてしたことがないのよ。もし世間が公平でまともに考えてくれたら、わたしの顔がまずいとか着物がひどいなんてことよりも、あたしの気だてのいいところに目を向けてくれるはずだわ。
あたしが生まれてからどんなめに合ったか、考えてみてよ。知らないんだったら、話してあげるわ。おかあさんのことは、悪く言わないわ。だれもが非難してはずかしめてるけど、本人が弁護しようにもいないんだし、あたしだってどうにもできないわけよ。おかあさんがどんな悪いことをしたのか知らないし、どうしてそういうことをしたのかも知らないんだもの。わかる? 世間てひどく意地の悪いものよ。おかあさんがあたしを捨ててしまうとすぐに、あたしがまだひどく悲しんでいるのに、ほかのこどもたちは遊びやなんかのほんのつまらないことでもあたしに気にいらないことがあると、自分たち同士では許し合うくせに、あたしのおかあさんのことを責めて、あたしに恥ずかしい思いをさせたのよ。あんたの言うような分別のある娘だったら、小さくなって黙っていたでしょうね。自分まで悪く言われないためには、おかあさんの側につくのをやめて、悪く言われるままにしたほうが安全だと思ってね。
だけど、あたしはね、そうはできなかったの。押さえられなかったのよ。おかあさんはいつだっておかあさんよ。世間で言うような人にせよ、また会えるにせよ、もう消息がわからないにせよ、あたしの心のあるったけの力でいつまでもなつかしく思うわよ。だから、浮気女の子、酒保《しゅほ》女の娘なんて言われると、自分のことじゃなくて腹がたつの。あたしのこと悪く言われてることにはならないのはわかってるわ。あたしはなにも悪いことしてないんですもの。あのかわいそうなおかあさんのために、あたしは怒るのよ。守ってあげるのがあたしの義務ですからね。それで、守りきれないし、どうやっていいのかもわからないから、仕返しをするのよ。言われて困るようなことをすっぱ抜いてやるのよ。思く言われてるその人より、ほかの連中だってましなわけじゃないって思い知らしてやるのよ。あたしがせんさく好きで無礼だって、ひとの秘密を探ってあばきたてるって言われるのはそのせいなんだわ。たしかに神さまはあたしをせんさく好きにお作りなったわ。もし、かくれていることを知りたがるのがせんさく好きになるんならね。
だけど、みんながあたしにしんせつに人間らしくしてくれたら、あたしだって、まわりのひとを苦しめてまでせんさく癖を出そうとはしないわ。おばあさんが教えてくれる人間のからだを治す秘法を覚えるだけに喜んで熱中していたわ。花も草も石も『はえ』も、自然の秘密はみんな、気をまぎらわせて、楽しませてくれたでしょうよ。あたしはぼんやり考えたり、あちこち歩きまわるのが好きなんですから。いつもひとりでいて、たいくつってものを知らなかったと思うわ。だって、あたしのいちばん楽しみなのは、ひとがぜんぜん行かない所へ行って、いっぱいいろんなことをぼんやり考えることなのよ。利口で目先のきくつもりでいる人たちがぜんぜん話題にしないようなことばかりよ。
それなのにあたしが世間の人たちとつきあうようになったのは、自分で覚えたちょっとした知識でお役にたちたいからよ。おばあさんだって、なにも言わないけど、あたしの覚えたことをうまく使ってるのよ。ところがよ、同じ年くらいのこどもたちのけがや病気を治してあげても、お礼なんか抜きで薬を教えてあげても、まともにありがたがられるどころか、魔法使い扱いされたじゃないの。用があるときにはとてもやさしく頼みに来た人たちも、あとになると、折さえあればあたしに意地悪を言うのよ。
そりゃもう腹がたったわよ。からだを悪くさせてやることだってできたのよ。だって、からだにいいものも知ってるけど、害になるものも知ってますからね。でもあたしは恨み深くないの。だからことばで仕返しをするのよ。口に出かかって来ることばをその場で言ってしまうと気が楽になって、そのあとではもうぜんぜん考えないし、神さまのお命じになるとおり、許してしまうの。
身なりやしぐさに気をつけないってことだけど、それはあたしが自分を美人だと思うほど気狂いじゃないってことだわ。だって、だれも見る気にもならないぐらい不器量だって自分でわかってるんですもの。みんなが、よくわかるように、しょっちゅうそう言ってくれたわ。神さまが不公平にお作りになったものに対しては、どのくらいひとたちがつらく当たって、ばかにするかわかってるから、ひとたちの気を悪くするのがあたしには気にいっていたのよ。あたしの顔は神さまと守り天使さまにはちっともいやがられないんだと思って、自分で慰めていたわ。このおふたかたに、あたしは顔のことでもんくを言わないんですから、あちらでもあたしの顔にけちをつけないわよね。
だから、あたしは、『やあ、毛虫だ! きたないやつだな。ああ、なんてみにくいんだろう! 殺しちゃわなくちゃ!』なんて言うひとたちとは違うのよ。あたしは神さまのお作りになったみじめな生き物をふみつぶさないの。毛虫が水に落ちたら、葉っぱを差し出して助けてあげるわ。ところがそのせいで、みんなはあたしが悪い虫が好きだ、魔法使いだって言うのよ。かえるをいじめたり、蜂《はち》のあしをむしったり、こうもりを生きたまま木に釘づけしたりするのを好きじゃないから魔法使いだって言うのよ。かわいそうな虫けらを見ると、あたしは言うの。『醜いものは皆殺さなければいけないんなら、あたしもおまえと同じに生きる権利がないんだわ』ってね」
十九
ランドリは、ファデットが自分の醜さについて謙虚に、また、落ち着いて話すその口ぶりに、なんともわからず感動して、石切り場の暗闇でよく見えないファデットの顔を思い出しながら、おせじを言うつもりはまったくなしに言った。
「だけどファデット、きみは自分で思ってるほどへんじゃないよ。そう言ってるだけかもしれないけど。きみよりずっといやな感じのが大勢いるけど、だれにももんくを言われてないぜ」
「もう少しましにしても、もう少しまずくても、どっちみち、あたしがきれいな娘だなんて言えないでしょう。ねえ、慰めようなんてしないでよ。あたしはべつに悲しんでるわけじゃないんだから」
「だってさ、きみがほかの娘たちのように着飾って、いい帽子をかぶれば、どうなるかわからないじゃないか? みんなが言ってるぜ、鼻がそんなに短くなくて、口がそんなに大きくなくて、はだがそんなに黒くなければ、きみはなかなか悪くないだろうってね。だって、やっぱりみんなが言ってたことだけど、このへんの土地できみの目ほどの目はないからね。そんなにあけすけで、からかうような目つきをしてなければ、その目でやさしく見てもらいたくなるだろうよ」
ランドリは、こんなふうに、あまり自分の言っていることを深く考えずに話していた。ファデットの欠点と長所を思い出そうとむちゅうになっていたのだ。そして、そういうことに注意を向け、興味を持ったのだ。つい少しまえまでは夢にも思わないことだったのに。
ファデットはそれと気がついたが、そんな気ぶりは見せなかった。利口すぎて、真に受けようとしなかったのだ。
「あたしの目は、よいものならやさしく見るし、そうじゃないものは、あわれんで見るのよ。だから、あたしの気にいらない人に気にいられないのは平気だわ。だから、どうして、ちやほやされてるきれいな娘たちが、だれにでも愛敬《あいきょう》をふりまくのか、あんまりわからないのよ。まるでだれでも自分の好みに合うみたい。あたしがもし美人だったら、そういうふうに見られたくないし、あたしに合う人にしか愛敬よくしないわ」
ランドリはマドロンのことを思い出した。だがファデットはその考えをたどるひまを与えず、次のように話を続けた。
「さあランドリ、ほかの人たちに対してのあたしの悪いところっていうのはこれで全部よ。つまり、自分の醜さに、あわれみやおなさけを願わないってことなのよ、醜さをかくそうとして、ごてごて塗《ぬ》りたてないで人まえに出るってことなのよ。それで世間の人たちは気を悪くして、あたしがしんせつにしたことはあっても、意地悪はけっしてしたことがないのを忘れてしまうんだわ。それに、身のまわりに気を使おうとしたって、どこからちゃんとした身なりをするおかねが出てくるの? 自分のおかねがないからって、あたしがこじきをしたことがあって? おばあさんが、住まいと食べ物のほかに何か少しでもくれるっていうの? おかあさんが置いて行った古着をうまく作り直せないからって、あたしのせいかしら? だってだれもそういうことを教えてくれなかったんですもの。十歳のときから、だれにも愛されずやさしくもされずに放っておかれたんですもの。
あんたは今言わないでおいてくれたけど、世間の人は、こうも言ってあたしを悪く思ってるわ。十六になって奉公に出られるんだから、お給金で身なりも整えられるのに、なまけるのと、ぶらつくのが好きでおばあさんのところにしがみついてる。おばあさんのほうじゃあたしのことべつに好きでもないし、手伝い女を置くくらいのおかねはあるのにって」
「まあね、ファデット、そりゃほんとうのことじゃないのかい?」とランドリは言った。「きみが働きたがらないのを、ひとはとがめてるんだよ。きみのおばあさんだって、聞く人があればだれにでも、きみのかわりに手伝い女を置いたほうが得だって言ってるぜ」
「おばあさんがそう言うのは、こごとを言ったり、こぼしたりするのが好きだからよ。そのくせ、あたしが出て行くって言うと引き止めるのよ。口に出したがらないけど、あたしが役にたつのを知ってるからなの。もう十五の娘のようには目や足がきかないから、水薬や粉薬をつくる草を捜しに行けないんだわ。なかにはうんと遠くの、あぶない場所へ行かなきゃならないのもあるのよ。それに、さっき言ったように、あたしは自分でおばあさんの知らないききめを見つけ出すのよ。あたしが薬をつくると、よくきくのでおばあさんはびっくりしてるわ。家の羊だって、あまりりっぱだから、入り会い地にしか草飼い場のない家にこんな羊たちがいるのを見て、皆びっくりしてるじゃない。ね、おばあさんはだれのおかげで、羊の毛がこんなにいいか、山羊の乳がこんなにおいしいのか、わかってるのよ。だから、あたしにいてもらいたいのよ。あたしにかかる費用よりずっと値うちがあるわけよ。あたしはおばあさんが好きよ、どなられるし、なんにもくれないけど。だけど、出て行けないのには、もうひとつわけがあるの。よかったら話すわ、ランドリ」
「うん、言ってごらんよ」と、ファデットの話に、ランドリは、まったく聞きあきない気持ちがした。
「それはね、あたしのおかあさんは、あたしが十歳にもならないのに、かわいそうなこどもをひとり、あたしの腕に残して行ったってことよ。醜くて、あたしと同じに醜くて、もっと不幸な子よ。生まれつきのびっこだし、弱くて、病気ばかりして、ひねっこびてて、いつもきげんが悪くて、わるさばかりしているのも、いつだってからだのかげんが悪いからなんだわ。かわいそうな子! それにみんながからかって、のけものにして、悪くしてしまうのよ、あたしのかわいそうな『ばった』、おばあさんが手荒くどなりつけるし、あたしがかわりにお仕置きするふりをしてかばってやらなければ、ひどくぶちすぎてしまうわ。
だけどあたしはいつでも、ほんとうにぶってしまわないようにとても気をつけてるの。あの子はそれを知ってるのよ。だから、悪いことをしたときには、走って来てあたしのスカートのかげにかくれて、言うの。『おばあちゃんにつかまる前にぶって!』って。だからまねごとにぶってやると、あの子はうまく泣きわめくふりをするわ。
それに、あの子の世話をみるのもあたしよ。かわいそうだけど、いつもぼろを着ないようにさせとくわけにはゆかないわ。だけど布が手にはいれば、あの子の着物にしてやるの。それに病気になればあたしが治してやるのよ。おばあさんだったら殺してしまうでしょうね。だってこどもの世話がぜんぜんできないんだもん。つまり、あたしがあの子を生かしてやってるのよ。あのいたずらっ子はあたしがいなかったら、とても不幸になるし、あたしがどうしても死なないように助けることができなかったおとうさんの隣へ、地面の下へ行っちゃうのよ。あんなふうに、からだが不自由で人好きのしない子なんだから、生かしておいても本人のためになるのかどうかわからないわ。
でも、これは押さえられない気持ちなのよ、ランドリ。仕事を持って、いくらか自分のおかねを手に入れて、今のみじめさから抜け出すことを考えると、かわいそうで心がはり裂けそうになって、いけないことだと思うわ。まるで、あたしがかわいそうな『ばった』の母親みたいに、それに、あの子があたしのせいで死んでしまうみたいに。
さあ、これであたしの悪いところもたりない点も全部だわ、ランドリ。今はもう、神さまのお裁きを受けるばかりよ、あたしは、誤解している人たちのことは許しているの」
二十
ランドリはファデットのことばを、ずっと、ひどく気を入れて聞いていた。どの言い分にも反論する余地がなかった。しまいには、弟の『ばった』のことを話した口ぶりを聞くと、まるで、突然、ファデットに友情を感じたような気がしたし、世間全体を向こうにまわしてファデットの味方をしたいようにさえ思った。
「そういうわけなら、きみのことを悪いと言うやつのほうがずっと悪いわけだよ、ファデット。だって、きみが言ったことはみんなもっともなんだから。きみがこんなに気だてがよくて、分別があるとはだれも思っていないだろうよ。どうして、あるがままの自分をひとに知らせないんだい? そうすれば悪く言われなくなるだろうし、公平に扱ってもらえるだろうに」
「もう言ったでしょう。好きでない人には好かれたくないって」
「だけどぼくには話したってことは、それは……」
そこでランドリは口をつぐんだ。自分が言いかけたことばにすっかりびっくりしていた。そして言い直した。
「それは、ほかのやつよりぼくのことを重く見てくれるってわけかい? だけど、きみにちっともしんせつでなかったから、ぼくのことをきらってると思ってたんだがな」
「少しきらってたのはほんとよ」と、ファデットは答えた。「そうだったとしても、きょうからはそうじゃないわ。どうしてだか話してあげましょう。あんたのことを高慢だと思っていたのよ。だって、あんたはそうだわ。だけど、あんたは義務のために高慢さを押さえられたのよ。だからますますりっぱなんだわ。それに、あんたは恩知らずだと思っていたのよ。ところが、高慢になるように育てられたからしぜんに恩知らずになってるのに、あんたは約束に忠実で、どんなことになろうと、約束を守ったんだわ。それから、おしまいには、あんたのこと臆病だと思ってたの。そのせいで、ばかにしていたのよ。だけど、ただ迷信のせいなんだってわかったの。はっきりした危険に立ち向かうときには、りっぱに勇気が出て来るのね。
きょうは、ひどく恥ずかしい思いをしているのに、ちゃんとあたしと踊ってくれたわね。それどころか、晩のお祈りのあとで教会まで迎えに来てくれたんだわ。あのときには、お祈りをしたあとで、心の中であんたを許していたのよ。もうこれ以上苦しめる気はなかったのよ。意地悪なこどもたちから守ってくれたのね。大きい男の子たちにかかって行ったのね。あなたがいなかったら、あたしはひどいめに会わされた。
それから、今夜、あたしの泣くのを聞いて、やって来て、つき合ってくれて、慰めてくれたわ。こういうことみんな、あたしが忘れるなんて思わないでね、ランドリ。あなたの一生の間、あたしがちゃんと覚えいるっていう証拠を見せてあげるわ。今度はあなたが、なんでも好きなことを、いついかなるときでも、あたしにしてほしいって言ってね。だから、まず初めに、あたしにはきょうあなたにひどい悲しみをさせたってことがわかってるの。そうよ、わかってるわ、ランドリ。あなたの気持ちを当てるぐらいの魔法は使えるわよ。けさはまだわかっていなかったけど。いい? あたしは意地悪なんじゃなくて、いたずらっぽいんだってこと信じてよ。あなたがマドロンのこと好きなんだって知っていたら、あたしと踊ってって無理じいして、マドロンとけんかさせたりしなかったってことよ。
そりゃたしかに、あなたがきれいな娘さんを放り出して、あたしのような不器量娘と踊ってるのを見るのは、おもしろかったわ。だけど、それはあなたの自尊心をちょっとつっついてやるだけのことだと思っていたのよ。だけどそのうちに、あなたはほんとうに心に傷を受けたんだってことがわかってきたわ。見まいと思ってもマドロンのほうをいつも見ていたでしょう。マドロンが怒ったので、あなたは泣きそうだったでしょう。それがわかると、あたしも泣いたわ、ほんとよ。あなたがマドロンの取り巻き連中とけんかしようとしたとき、あたし泣いてしまったわ。あなたは後悔の涙だと思ったのね。ここであなたがあたしを見つけたとき、また大泣きに泣いていたのもそのせいなのよ。だからあなたに悪いことをしてしまったのをつぐなうまでは、また泣いてしまうわ。今になっててみれば、こんなにやさしくってりっぱな人なのに」
ランドリは、ファデットがまた涙を流し始めたのにすっかり心を打たれて、言った。
「じゃ、かりに、きみが言うようにぼくがだれかのことを好きで、きみのおかげでけんかしてしまったとしたら、ぼくたちを仲直りさせてくれるってわけ?」
「まかせといてよ」とファデットは答えた。「あたしだってばかじゃないから、ちゃんと申し開きをしてあげるわ。マドロンに何もかもあたしが悪いんだってわからせるわ。あたしのことをすっかり打ち明けて、あなたを雪のように潔白にしてあげるわ。もしマドロンがそれでもあした仲直りしないんだったら、もともとあなたのことを好きでなかったんだし……」
「なにもぼくが残念がることはないってわけさ。実際の話、あの子はぼくのこと好きだったことはないんだから、きみはむだ骨を折るよ。だからそんなことしないでいいよ。ぼくがちょっと悲しい思いをしたのなんて、気にするなよ。もう治っちゃったよ」
「そういう悲しみはそう早くは治らないものよ」とファデットは答えた。が、思い直して、つけ加えた。「とにかく、そういう話だわ。くやしいからそんなこと言ってるんでしょう、ランドリ。そんなつもりで今夜寝ても、あしたというものがあるんだし、あのきれいな人と仲直りするまでは、やはりとても悲しいにきまってるわ」
「そうかもしれないけど、今現在は、正直な話まったくなんともわからないし、とにかくあの子のことは考えてないよ。きみがぼくにあの子をすごく好きなんだって思いこましてるみたいな気がするよ。それに、もしそうだったとしても、ちょっぴりだけ好きだったんで、もうほとんど覚えてないような気がするな」
「へんなのねえ」と、ファデットはため息をついて言った。「あんたたち男の子が言う、好きだっていうのはそんなことなの?」
「なんだい、女の子だって似たようなもんじゃないか。すぐ怒るし、ゆき当たりばったりの男で埋め合わせをしちゃうんだ。だけどこんな話はぼくたちにはまだわからないことなのかもしれない。少なくともきみはそうだよ、ファデット。いつだって恋人たちをからかってるんだからね。マドロンと話をつけてやるなんて言って、今でもまだぼくをからかってるんじゃないかい? 頼むからそんなことしないでくれよ。だって、マドロンがぼくに頼まれたんだと思い違いするかもしれないぜ。それにぼくがマドロンといい仲だって言いふらしてると思って、気を悪くするかもしれない。好きだなんてまだひとことも言ってないし、第一、ぼくがあの子のそばにいたり、いっしょに踊ったりするのが楽しかったとしても、それを口に出して言う勇気が出るほど、いいそぶりはしてくれなったんだよ。だからさ、その話はよしにしよう。その気ならマドロンは自分できげんを直すよ。きげんが直らなかったにしたって、ぼくはべつに死ぬわけじゃないしさ」
「そのことではね、あなたが何を考えてるか、あなたよりあたしのほうがわかってるのよ」と、ファデットはさらに言った。「あなたが好きなのをマドロンにことばにして言ったことがないってのはほんとうでしょうよ。だけどよっぽど単純でなかったら、あなたの目でそれはわかってるはずよ。ことにきょうはそうよ。あたしがあなたがたのけんかの種だったんだから、仲直りのもとにならなきゃいけないんだわ。それにあなたが好いているのをマドロンに知らせるいい機会よ。あたしがやらなければいけないんだし、あなたがけしかけたんだなんて、もんくを言われないようにじょうずにやるわよ。ねえ、ランドリ、このファデットを、このきたない『こおろぎ』を信じてよ。心の中は外側ほど醜くないのよ。あなたを苦しめたのを許してちょうだい。だってそのせいで結局あなたには、とてもいいことがあるんですからね。今にわかるわ、美人に好かれるのが楽しいとすれば、まずい女の友情を得るのは役にたつってことが。だってまずい女ってものは私欲がないし、なにしても怒ったり、うらんだりしないんだから」
ランドリはファデットの手を取って、言った。
「きれいだろうと醜かろうと、きみの友情はとてもいいもんだってことがもうわかってきたような気がするよ。あんまりいいもんなんで、それにくらべたら恋なんてくだらなくなるくらいだ。きみはとっても気だてがいいね。今やっとわかったよ。だってぼくはきょうきみにひどいことをしたけど、ぜんぜん気にしないんだからね。きみはぼくがきみにやさしくしたって言うけれど、ぼくとしてはひどく不当にふるまったと思ってるよ」
「どうしてなの、ランドリ? なんのことだかわからないわ……」
「それはね、ファンション、踊りのときに一度も接吻しなかったってことだよ。なにしろ習慣なんだから、ぼくの義務だったし、権利だったのにね。きみのことを、わざわざかがみこんでまで接吻しない十歳の小娘みたいに扱ったわけだよ、ぼくとほとんど同い年なのに。一歳と違わないんだ。きみを侮辱したんだよ。きみがそんなにやさしい娘じゃなかったら、気がついたはずだよ」
「そんなこと考えもしなかったわ」とファデットは言い、立ち上がった。自分がうそをついているのがわかったし、それをおもてに表わしたくなかったからだ。そしてむりに陽気なふりをして、言った。
「あら、聞いてごらんなさい。こおろぎが麦の切り株の中で鳴いてるわ。あたしの名まえを呼んでるのよ。それにあっちのほうではふくろうが鳴いて、空の時計で星が指してる時刻を教えてるわ」
「ぼくにもよく聞こえるよ。もうプリッシュ村に帰らなくちゃいけない。だけど、さよならを言うまえに、ぼくのこと許してくれないかい?」
「だってあなたのこと怒っていないんだもん、許すことなんかないわ、ランドリ」
「いいや、あるとも」と、ランドリは言った。ファテットが恋と友情のことを話してから、なんだかわからないが、ひどく心を動かされていたのだ。そのことを話すファデットの声が、それにくらべたら、茂みの中でうつらうつらしながらさえずる『うそ』の声もざらざらなほど、柔らかかったのだ。
「あるともさ、許すことがあるよ。つまりさ、昼間しなかったから、そのおわびに今接吻しなきゃいけないって言ってよ」
ファデットはかすかに震えた。それからすぐにきげんのいい調子を取りもどした。
「ランドリ、自分が悪かったからって、罰を受けてつぐなおうって言うのね。そんなこと! もういいことにするわよ。不器量娘と踊っただけでじゅうぶんよ。接吻までするなんて、あんまり義理がたすぎるわ」
「ねえ、そんなこと言わないでよ」と、ランドリは叫んで、ファデットの手を取り、ついで腕全体をつかんだ。
「きみに接吻するのが罰だなんて、そんなこと思ってないよ……もしぼくにされるのがいやで、気にいらないんならべつだけど……」
そして、こう言い放ってしまうと、ランドリはむやみにファデットに接吻したくなり、承知してくれないのではないかという危惧《きぐ》で身が震えた。
「聞いてよ、ランドリ」と、ファデットは持ちまえのやさしい声であやすように言った。「あたしが美人だったら、場所も時も悪いし、かくれたみたい接吻するなんていやって言うわ。それとも浮気娘だったら、反対に、時も場所もいいと思うでしょう。あたしの醜さも夜にまぎれてるし、だれもいないからあなたは気まぐれを起こしても恥ずかしくないしね。でも、あたしは浮気娘でも美人でもないんだから、あたしはこう言うわ。ちゃんとした友情のしるしに握手してちょうだい。あたしはあなたの友情だけでうれしいの。今までにそういうこともなく、これからもほかの人の友情をほしいと思わないんだから」
ランドリは言った。「いいさ、心から握手するよ。いいね、ファデット。でも、ぼくがきみに持ってるような、いちばんちゃんとした友情だって、接吻して悪いことはないんだよ。この友情のしるしをいやだって言うなら、まだぼくに何かうらんでるんだと思うぜ」
そして不意に接吻しようとした。ファデットはさからった。そしてランドリが無理じいしようとするので、ファデットは泣きだした。
「放してよ、ランドリ。そんなにいじめないで」
びっくりしてランドリはやめた。また泣いているのを見て、ひどく悲しくなったが、それがまた、うらめしくもあった。
「わかったよ」ランドリは言った。「ぼくの友情だけがほしいんだなんて言っても本気じゃないんだね。だれかともっと仲がよくて、ぼくと接吻できないんだろう」
「そうじゃないわ、ランドリ」と、ファデットはすすり泣きながら言った。
「だって、あたしを見もしないで夜接吻したら、昼間会ったときにあたしをきらいになるんじゃないかって心配だもの」
「ぼくがきみのこと、見たことがないって言うのかい?」ランドリはいらだって言った。「今だって見えないって言うのかい? おいでよ、月の明りのほうへおいでよ。よく見るから。不器量かどうかしらないけど、きみの顔が好きなんだよ。だってきみのこと好きなんだからね。それでいいじゃないか」
そして、ランドリはファデットに接吻した。初めは震えていたが、次にまたたいへんに熱を入れてするので、ファデットはこわくなった。ランドリを押しもどして、言った。
「もういいわランドリ、もういいわ! まるで怒って接吻してるみたいね。それともマドロンのこと考えてるみたい。あしたマドロンによく話してあげるから、あしたはあたしとするよりずっとうれしくマドロンと接吻できるわよ」
そう言って、ファデットは、石切り場の囲いをす早く抜け出して、いつもの足早さで走り去った。
ランドリは気がへんになったようで、追いかけて行きたくなった。三度もそうしようとしたが、思い直して川のほうへ降りて行った。それから悪魔が、まわりをふらついているような気がして、ランドリも走りだし、プリッシュ村まで足を止めなかった。
翌日、夜明けに牛の世話に行ってえさをやったり、なでさすったりしながら、ショオムワの石切り場でのファデットとした話し合いを心に思い浮かべていた。たっぷり一時間は話していたのに、そのときにはほんのつかの間のように思えたのだった。これから始まるきょうの日と、まったく違っていたきのう一日の心の疲れと、眠気で、まだ頭が重かった。いつも見なれていたような、醜く、身なりの悪いあの娘の姿が目にちらついて、きのう感じたことがわけがわからず、なんだかこわくなってくるのだった。ファデットと接吻したくなったことや、胸にきつく抱きしめたときのうれしさ、まるでファデットを心から愛したみたいだったこと、突然この世でこんな美人でかわいらしい娘はないと思えてしまったことも、ときには夢をみたのではないかと思った。
「どうしたって、あれはうわさのとおり魔法使いなんだ。そうじゃないなんて言ってるけど」と、ランドリは考えた。「だって、ゆうべはたしかに魔法にかけたんだからな。今までに、あの女悪魔が二、三分の間ぼくに起こさせた激しい愛情は、両親にも兄弟にも、マドロンはもちろんだが、『|ふたつっ子《ベッソン》』のシルヴィネにも感じたことがないぞ。あのときのぼくの心の中をもし見たら、シルヴィネは嫉妬に食い殺されてしまっただろう。なにしろ、ぼくがマドロンに持ってた気持ちぐらいではシルヴィネにもちっとも打撃じゃなかったけれど、ファデットのそばでちょっとの間そうなったみたいに、一日だけでも気が狂ったようにむちゅうになっていたら、ぼくはふぬけになって、この世にファデットのほかには女の子はいないと思ってしまうだろう」
そしてランドリは、恥ずかしさと疲れといらだちで、息がつまる思いがした。牛の飼い葉おけに腰をおろして、あの魔法使いに、勇気も理性も健康も取られてしまったのではないかと思って、ぞっとした。
だが、夜が明けて来て、プリッシュ村の働き手たちが起きて来ると、きたない『こおろぎ』と踊ったことでランドリをからかいだした。そしてファデットのことを、ひどく醜くて、育ちが悪く、身なりがひどいと、あまりからかうので、ランドリはもう恥ずかしくて、あなにでもはいりたくなった。みんなが見て知っていることばかりでなく、知られたくないと思っているゆうべのことも恥ずかしかったのだ。
けれどランドリは腹はたたなかった。プリッシュ村の連中はみんな友だちだったし、からかうといっても悪意はまったくなかったからだ。それどころか、ファデットはみんなが思っているような人間ではない、もっとずっとましなんだ、とても役にたつことだってできると言い返す勇気さえ出た。そうすると、ますます笑われた。
「母親のことはなんにも言わないよ」と連中は言った。「だけどあの子は、何も知っちゃあいないんだ。もし牛が病気になっても、あの子の治療を受けろなんてすすめないね。あれは秘密の治療なんかちっとも知らないおしゃべり娘なんだぜ。だけど、どうも男の子をたぶらかす秘密は知ってるらしいな。おまえは聖アンドッシュの祭りではあの子にくっついて離れなかったからな。気をつけたほうがいいぜ、ランドリ。今に『めすこおろぎ』の『おすこおろぎ』、女鬼火に男鬼火なんて言われる。悪魔がおまえのあとをくっついてまわるよ。おばけがおれたちのシーツを引っぱりに来て、馬のたてがみに結びめをつくるようになるぞ。そうなったら、おまえに悪魔払いをしなくちゃならないからな」
「あたしはこう思うわ」とソランジュちゃんまで口をだした。「この人、きのうの朝、くつしたを片ほう裏返しにはいたのよ。そうすると魔法使いが寄ってくるのよ。ファデットはきっとそれに気がついたんだわ」
二十一
日中、ランドリが、種をまいた畑に土をかぶせていると、ファデットが通るのが見えた。足早に歩いて、マドロンが羊にやる草をつんでいる林のほうへ向かっていた。もう半日働いたのだから牛どもを『くびき』から放してやる時間だった。牛を牧場に連れて行きながら、ファデットが、まるで草をふんでいないように軽やかに走って行くのを、ずっと見ていた。マドロンに何を言うつもりなのか、ひどく気になったので、畑のあぜの中で、『すき』の刃の上で暖めたスープが待っているのに、急いで食べに行こうとせず、静かに林に沿って近づき、ふたりの娘が何を語り合うか聞こうとした。ふたりの姿は見えなかったし、マドロンは低い声でぶつぶつ答えていたので何を言っているかわからなかった。だが、ファデットの声は、柔らかい上にはっきりしていたので、声を張り上げているのではないのに、ひと言残さず聞きとれた。
ファデットはランドリのことをマドロンに話していた。そしてランドリに約束したように、十か月まえ、ファデットの好みにまかせて要求することに服従するという言質《げんち》をランドリから取ったことを話していた。そのことをたいへんへり下って、やさしく説明するので、聞いていて気持ちがよかった。それから、鬼火のこともランドリがこわがったことも話さず、聖アンドッシュの前夜『丸石の浅瀬』を渡りそこねて溺れかかったことを物語った。つまり、あったことすべてを善意に見て説明し、今まで小さい子としか踊ったことのなかった自分が大きい少年と踊ろうとした気まぐれと虚栄心が、すべて悪いのだと、解きあかした。
するとマドロンは、怒りだして、声を荒らげて言った。
「それがあたしになんの関係があるの? 一生でも『|ふたつっ子屋敷《ベッソニエール》』の『|ふたつっ子《ベッソン》』たちと踊ってればいいじゃないの! いいこと、『こおろぎ』。そうしたって、あたしはなんとも思わないし、ちっともうらやましくないわ」
そこでファデットはまた言った。
「ランドリのことをそんなにつれなく言わないでね、マドロン。ランドリはあなたに心を捧げたんですから、受け入れてもらえなかったら、あたしには言えないほど苦しむことになりますわ」
そしてそのことのわけを話したが、それがまたみごとな言いまわしで、調子もやさしく、またひどくランドリをほめちぎるので、ランドリはこういうことばづかいを覚えておいて何かの折に使いたいと思うほどだったし、また、自分のことをこんなに認めてもらえるのがうれしくて顔が赤らんだ。
マドロンとしてもファデットのきれいな言いまわしに驚いたが、そうとおもてに出すにはあまりファデットのことをばかにしていた。
「ずいぶんべらべらしゃべるじゃない、いけずうずうしく。口先三寸《くちさきさんずん》でごまかすのをおばあさんに習ったみたい。だけどあたしは魔法使いなんかと話すのはいやよ。悪いことが起こるからだわ。だから、もう放っといてよ。なによ、角つき『こおろぎ』。恋人を見つけたんでしょ、取っておけばいいじゃない。だって、あんたのへんちくりんなご面相《めんそう》に気まぐれを起こす男は、これが最初で最後だよ。あたしはね、あんたのお古なんて、たとえ、王子さまでもごめんだわ。あんたの好きなランドリなんてばか者よ。それに、あたしから取りあげたつもりになってるあんたが、もう返してよこすなんて、ランドリもよっぽどつまらない人に違いないってことね。ファデットさえも鼻もひっかけない男なんて、あたしにとってなんともりっぱな恋人だこと!」
「もしそのことが気にいらないんだったら」と、ファデットは、ランドリの心の底までしみ入るような調子で答えた。「もしあなたが気位が高くて、あたしをおとしめてからでないと、物ごとをまっすぐに見られないって言うんなら、気のすむようにしてちょうだい。みじめな野原のこおろぎの意地も勇気もふみにじってちょうだい、きれいなマドロン。あたしがランドリをばかにしてると思ってるのね。そうでなければ、あたしがランドリを許してあげてなんて言うわけがないと思ってるのね。じゃあ、言うわ。それで気がすむんならね。もうずっとまえからあのひとのこと好きなんです。今までに思ったただひとりの人だし、きっとこれからも一生思い続けるわ。だけど、あたしだって分別もあり誇りもあるから、愛してもらうように仕向けようとは一度も思いませんでしたわ。あのひとがどんな人か知っていますし、自分が何かもわかっています。あのひとは美しく、裕福で、重く見られています。あたしは醜く、貧乏で、見くびられています。だからとてもあたしとはつり合わないのはわかっていますし、あなただってきのうのお祭りで、あのひとがどんなにあたしをいやがっていたか見たはずでしょう。さあ、これでもう満足してちょうだい。だって、ファデットがまともに見ることもできない人が、思いをこめた目であなたを見ているんですものね。ファデットを笑い物にして、あなたと取り合うことなどとてもできない人を取りもどして、ファデットを罰してちょうだい。あのひとを好きでそうするんでないにしても、あたしの生意気さをこらしめるためにでも、そうしてください。だから、ランドリがあなたのところへもどってあやまりに来たら、やさしく迎えて、少しは慰めてあげてくださいね」
これほどの忍従とこれほどの熱情にあわれをもよおすどころか、マドロンはひどくすげない態度に出て、相変わらず、ランドリなんてファデットにちょうどいい男だ、自分としてはあんな子はこどもすぎるし、ばかすぎると言い張って、ファデットを追い返した。
だが、マドロンは手ひどく拒みはしたが、ファデットがこれほどに自分を捨てたことは、やはりききめがあった。女の心というものは、こどもだと思っていた相手が他の女に重く見られ、もてはやされるのを見ると、たちまち一人まえの男に見えて来るというふうにできているのだ。ランドリのことなぞこれまでまじめに考えたことのなかったマドロンは、ファデットを追い返すとすぐにランドリのことをひどく気にし始めた。ランドリの恋心について話しじょうずなファデットの言ったことすべてをもう一度思い浮かべ、ファデットが自分に打ち明けるほどランドリに心を奪われていることを考えて、このあわれな娘に復讐をしてやれるのをひどく誇らしく思ったのだ。
夕方、マドロンは、プリッシュ村へ出かけた。自分の家からは、鉄砲玉の届く距離の二、三倍しか離れていなかった。そして、自分の家の牛が一頭、野良でおじの牛の中にまぎれこんだという口実で、ランドリの前に姿を見せ、そばへ来て話してもいいという目つきをして見せた。
ランドリにはそれはよくわかった。というのは、ファデットとつき合ってからというもの、ふしぎに頭が働くようになったのだ。(いよいよファデットは魔法使いだ)とランドリは思った。(マドロンのきげんを直してしまったんだからな。ものの十五分も話しただけで、ぼくが一年かかったよりたくさんのことをしてくれたわけだ。すばらしく頭がいいし、あんなに気だてのいい人間は神さまだってそうしょっちゅうお作りになるわけじゃない)
そんなことを考えながら、マドロンをながめていたが、それがあまりに落ち着きはらっているので、マドロンは、ランドリが話しかける決心がつかないでいるうちに引き上げてしまった。マドロンのまえで恥ずかしかったというわけではない。どうしてだかわからないが、恥ずかしさは消え去っていた。だがそれといっしょに、以前にあったマドロンに会ううれしさも、愛してもらいたい気持ちも、なくなっていた。
夕食が終わるとすぐ、床につくふりをした。だが、寝台と壁との間を抜け、壁伝いに忍び出て、まっしぐらに『丸石の浅瀬』へ向かった。その夜も鬼火がちらちらと踊っていた。鬼火がはねているのを遠くから見るとすぐ、ランドリは思った。(いいぞ。鬼火が出てるから、ファデットがいるちがいない)
そして浅瀬をこわがりもせず、まちがいもせずに渡り、まわりに目を配りながらファデばあさんの家まで行った。だが、かなり長い間待ったのに、光も見えず、音も聞こえなかった。みんな寝てしまっていたのだ。『こおろぎ』は祖母と『ばった』が眠ってしまってから、よく外へ出るから、そのへんをぶらついているのではないかとランドリは期待を持った。自分のほうでもぶらつき始めた。『あしっぱら』を横切り、ショオムワの石切り場へ行き、注意を引くように口笛を吹き、歌を歌った。だが出会ったのは切り株の中へ逃げ込む穴熊と木の上で鳴くふくろうばかりだった。帰るよりしかたがなかった。あれほど自分につくしてくれたよい友だちにお礼を言うこともできずに。
二十二
ランドリがファデットに会えないままに、その週は過ぎた。これにはランドリはびっくりしたし、また、心配にもなった。(また恩知らずだって思われるぞ)とランドリは考えた。(だけど会えないにしても、待ってなかったわけじゃないし、捜さなかったわけじゃないんだからな。石切り場でほとんど無理に接吻したので苦しめてしまったにちがいない。だけど悪気があったわけじゃなし、怒らせるつもりもなかったのに)
そしてその週の間ずっと、生まれてからそれまでにものを考えたのよりずっと多く、ものおもいにふけった。自分で自分が何を考えているのかはっきりしなかったが、考えにふけり、心が乱れた。働くにも自分にむち打たねばならなかった。というのは、りっぱな牛たちも、きらきら光る鋤《すき》も、秋の小ぬか雨にしめった美しい赤土の畑も、もはやランドリの目を喜ばせ、夢想を満たすことはなかったからだ。
木曜の夜、シルヴィネに会いに行った。すると兄もランドリと同じに心配げだった。シルヴィネはランドリとは違う性質なのだが、ときどき反射的に同じ気持ちになるのだった。まるで、何かあって弟の気持ちが乱れていると見抜いているようだったが、実際にはどうしたのか、まるでわかっていないのだった。マドロンと仲直りしたかときかれて、「うん」と言い、ランドリは初めてシルヴィネにわざとうそをついた。つまり、ランドリはマドロンにひとことも話していなかったのだが、いつかは話そうと思っていた。べつに急ぐことはなかったのだ。
とうとう日曜になった。ランドリははやばやとミサに出かけた。ミサの鐘の鳴る前に教会にはいった。いつもこのころにファデットが来るのを知っていたからだ。なにしろファデットは長々とお祈りをするので、それを悪く言っている人もいた。見ると、小がらな娘がひとり、聖母マリアの祭壇の前にひざまずき、後ろ姿を見せ、両手で顔をおおって、一心に祈っていた。たしかにファデットのかっこうなのだが、髪の形も様子も違っていた。ランドリは、のきしたにでもいるのかと思って出てみた。そこはこの土地で『こじきだまり』と呼んでいる。『つづれおもらい』、つまり標準語で言うぼろを着たこじきどもがお祈りのあいだ控えているからだ。
そのなかにファデットのぼろ着だけが見当たらなかった。ミサの鐘が聞こえたがまだ見つからない。ミサの序誦になって、祭壇で熱心に祈っている娘をさらに見ていると、やっと顔を上げた。なんとそれが『こおろぎ』だった。見たこともないなりと顔つきをしている。たしかにいつものみすぼらしい着物だった。セルのスカート、赤い前掛け、レースのない麻の頭巾も同じだった。だがこの週のうちに、すっかりせんたくして裁ち直し、縫い直してあったのだ。服のすそは長くしてあり、くつしたの上にほどよくたれ、そのくつしたはまっ白で、頭巾も同じく白く、それも流行の形で、きれいに結った黒髪にかわいらしくつけてあった。肩掛けは新しく、美しい柔らかな黄色で、それが濃いめのはだ色を引きたてていた。胴から腰へぐっと細くしたので、以前のように丸太に着物を着せたようなかっこうでなく、きれいな蜜蜂のようにすんなりとしなやかな腰つきだった。そのうえ、どんな花や草を調合したのか、一週間のあいだに顔と手を磨きあげたらしく、顔は白く、かわいらしい手は、春に咲く白い『さんざし』のようにさっぱりとして、柔らかかった。
これほど変わったファデットを見て、ランドリは、お祈りの本を落としてしまった。その音で、ファデットはすっかり振り返り、そのファデットを見つめていたランドリを、正面から見た。ファデットは、少し赤くなった。野の茂みに咲く小さなバラのような赤みだった。だがそれがこの娘をほとんど美しく見せていた。それに、これだけはだれももんくをつけたことのなかった黒い瞳が澄んだ輝きを見せ、まるで人が違ってしまったようだった。そしてランドリはまた考えた。(どうしてもこれは魔法使いだ。あんなに不器量だったのに、きれいになりたいと思えば、これこのとおり、奇蹟《きせき》でもってきれいになっちゃってるんだから)
そう思うとこわくてぞっとしたが、こわいといっても、そばへ行って話しかけたい気持ちのじゃまになるわけではなく、ミサが終わりになるまでずっと待ち遠しくて心臓が破裂しそうだった。
だがファデットはそれきりランドリのほうは見なかった。ミサのあとでも、いつものようにかけだしたり、こどもたちとふざけ散らしたりせずに、あまりにもしとやかに帰って行ったので、こんなに変わって、こんなによくなったファデットにだれも気がつくひまがなかったほどだった。シルヴィネが目を放さないので、ランドリはファデットのあとを追うわけにはゆかなかったが、一時間もすると、うまく抜け出し、はやる心に追いたてられて、今度はうまくファデットを見つけ出した。ファデットは、『憲兵《けんぺい》小道』と呼ばれている低くなった小道でおとなしく羊の番をしていた。昔、ただでもかなりきびしかった法律の定めに反して、貧乏な百姓たちに人頭税と賦役《ふえき》を押しつけたころ、王さまの憲兵がひとり、ここでコッス村の人たちに殺されたので、こういう名があるのだ。
二十三
日曜なので、ファデットは羊の番はしていたが、縫いものも糸くりもしていなかった。この土地のこどもたちが、ときにはひどくまじめに考えている静かな遊びに没頭していた。四つ葉のクローバを捜していたのだ。これはめったになく、捜し当てた者はしあわせになるのだ。
「見つかったかい?」と、ランドリは、ファデットのそばに寄って、言った。
「今までによく見つけたわ。でも幸福になるなんてうそね。三本も本の中にはさんであるけど、なんにもならないわ」
ランドリは、話をしようと、ファデットのわきにすわった。だが突然、きまりが悪くなった。マドロンのそばでもこんなにきまりが悪かったことはなかった。いろいろのことを言うつもりだったのに、ひとことも出てこなかった。
ファデットも恥ずかしそうにした。『|ふたつっ子《ベッソン》』はなにも言わないでいたにせよ、きみょうな目つきで自分を見つめていたからだ。とうとう、ファデットは、どうしてそんなにふしぎそうに自分を見るのかとたずねた。
「きっと、あたしが髪をきちんとしたからなのね」と、ファデットは言った。「あなたに言われたようにしたのよ。ちゃんとした娘に見えるようにするには、まずちゃんとした身なりをすることだって思ったの。だから人前に出る気がしないのよ。だってまた悪く言われたり、きれいに見せようとしてるけどうまくゆかないなんて言われるかもしれないから」
「言いたいことを言わしておけばいいさ」ランドリは言った。「だけどきみはどうやってそんなにきれいになったのか、まるでわからないね。きみがきょうはきれいだってことは確かだ。それがわからないやつは目がつぶれてるのさ」
「からかわないでよ。きれいなのはうぬぼれのたね、みにくいのは頭痛のたねって言うわ。あたしはひとにいやな思いをさせるのに慣れてきたから、今さら、ひとに好かれるなんて思いこんでばかになりたくはないのよ。でもこんなことを話しに来たんじゃないでしょう。マドロンが許してくれたかどうか、話してよ」
「マドロンの話をしに来たんじゃないぜ。許してくれたかどうか、知っちゃいないし、きいてまわりもしないよ。ただ、きみが口をきいてくれたのは知ってるぜ。とてもよく話してくれたんだから、ぜひともお礼を言わなくちゃあ」
「どうしてあたしが話したのがわかるの? あのひとが言ったの? なか直りしたのね、それじゃ?」
「なか直りなんかしないよ。あの子とぼくは、けんかするほど好きじゃないんだよ、おたがいに。話したのがわかったのは、マドロンがだれかに言ったから、ぼくの耳にはいったのさ」
ファデットはひどく顔を赤らめ、それがさらにこの娘をきれいに見せた。というのは、この日まで、ひどく醜い娘たちをも美しく見せるこのおそれと喜びの素直な顔色をけっして見せたことがなかったからだ。けれどもファデットは、マドロンが自分の言ったことを吹聴《ふいちょう》して、打ち明けてしまったランドリへの愛のことで自分を笑いものにしたのではないか、と心配だった。
「マドロンはあたしのことなんて言ってたの?」と、ファデットはたずねた。
「ぼくのことを大ばかだって言ったんだよ。女の子にもてないやつで、ファデットにさえもてないんだって。ファデットはぼくをばかにしていて、逃げまわって、一週間もぼくに会わないようにかくれていたんだって。ところがぼくのほうでは一週間ずっと、ファデットを見つけようとしてそこらじゅう走りまわったって、言ったんだ。だから笑いものになってるのはぼくなんだぜ、ファンション。だって、ぼくがきみのことを好きで、きみのほうはぼくをちっとも好きじゃないのを、みんなが知ってるんだからね」
「ずいぶんひどいことを言ったのね」と、ファデットはすっかり驚いて答えた。なにしろ、このときばかりは、ランドリのほうが一枚うわてだったのを見抜くほどに魔法が使えるわけではなかったのだ。
「マドロンがそんなにうそつきで、たちが悪いとは知らなかったわ。だけどそれは許してあげなくちゃね、ランドリ。だって、くやしいからそんなことを言ったのよ。くやしいってことは好きだってことよ」
「そうかもしれないね」ランドリは言った。「だからきみはぼくにはちっともくやしがらないんだね、ファンション。ぼくのことはなんでも許しちゃうんだ。ぼくのことはなんでもばかにしてるからなんだね」
「そんなことを言われるすじあいはないわ、ランドリ。ほんとよ。ぜんぜんちがうわ。そんなこと言ったなんてうそよ。そんな気狂いじゃないわ。マドロンに話したのは別のことよ。あのひとのためを思って話したんだけど、あなたのことを傷つけるようなことじゃなかったわ。それどころか、あたしがあなたのことを重く見てるのがわかるはずの話だったのに」
「ねえ、ファンション」ランドリは言った。「きみがなんと言ったとか、なんと言わなかったとかいう議論はもうよしにしよう。きみに聞いてみたいことがあるんだよ。きみはもの知りだからね。この前の日曜の晩、石切り場で、どういうわけか知らないけど、きみのことひどく好きになって、この一週間、ろくろく食べもせず、眠りもしなかったんだ。なにもかくしだてはしないよ。だって、きみみたいなりこうな娘には、そんなことしてもむだだからね。だから白状するけど、好きになったことを月曜の朝には恥ずかしく思ったんだ。こんな気狂いじみた気持ちにまたならないように遠くへ行ってしまいたいと思ったくらいだよ。だけど月曜の夜にはもう、またそんな気持ちになっていたんだ。だから夜になると浅瀬へ行ってみたんだ。鬼火もかまわずにね。鬼火のやつ、きみを捜すのをじゃましたいみたいだった。やっぱり燃えていたんだよ。例によって意地悪く笑ったけど、笑い返してやったよ。
月曜からは毎朝、ぼくはばかみたいさ。だってきみのことを気にいっているからってみんながからかうからね。夜になると毎晩、気狂いみたいだった。きみを好きなのが、恥ずかしさより強くなっちゃうんだ。おまけにきょう見ればきみはこんなにやさしいし、まともな身なりだから、だれでも驚いちゃうよ。こんなぐあいで二週間も続けば、ぼくがきみのことを好きなのも当たりまえだとひとが思うだろうし、おまけにもっときみに打ちこむやつだって出て来るぜ。そうなったら、ぼくなんかきみのことを好きだって言う値うちがないし、きみだってなにもぼくを好く義理もないわけだ。だけど、もし、このまえの日曜日のことを、聖アンドッシュ祭りのことを思い出してくれたら、石切り場で、ぼくが接吻させてくれって頼んだのも思い出してくれるだろうね。まるできみが不美人で意地悪だって評判なんかなかったみたいに心をこめて接吻したんだからね。ぼくにだって権利があるわけなんだよ、ファデット。そのとおりかどうか言っておくれよ。それとも反対に気分を悪くしたかどうかね」
ファデットはまえから両手で顔をおおっていたが、このとき何も答えなかった。ランドリとしては、ファデットがマドロンに話しているのを聞いたから、自分がファデットに愛されていると思っていたし、愛されているということが愛する気持ちを強くしたのも確かだったのだ。だが、この娘の恥ずかしげな、悲しげな様子を見ていると、なか直りの話し合いを成功させようとして、善意から、マドロンに作り話をしたのではないかと心配になってきた。それがまたランドリの恋心をつのらせ、苦しい気持ちになってきた。ランドリはファデットの両手を取って顔からはずした。見るとファデットは蒼白で、まるで死にそうだった。こんなに気も狂いそうにおもっているのに、どうして返事をしてくれないのかとたずねると、両手を振りしぼってため息をついたかと思うと、ファデットは地べたへくずれ落ちた。息がつまって気絶してしまったのだ。
二十四
ランドリはすっかりこわくなり、ファデットの手をたたいて、正気にもどらせようとした。その手は氷のように冷たく、木のようにこわばっていた。自分の手の中でこすって、暖めているうちに、ファデットは口がきけるようになり、こう言った。
「ランドリ、あたしのことからかったのね。だけど、じょうだんを言っちゃいけないこともあるのよ。だからもうあたしのことをかまわないで。そして、あたしに用があるときのほかは話しかけないで。そのときにはちゃんと役にたってあげますから」
「ファデット! ファデットったら! ひどいことを言うじゃないか。からかったのはきみだよ。ぼくのこときらってるくせに、そうじゃないようにおもわしたんだからね」
「あたしがですって!」と、ファデットは打ちしおれて言った。「あたしが何を思いこませたっておっしゃるの? あなたの『|ふたつっ子《ベッソン》』があなたに持っているような愛情をあなたにあげただけですわ。もしかしたらもっといいものかもしれないわ。だってあたしはやきもちをやかなかったし、あなたがほかの娘を好きになってもじゃまをしなかったし、それどころか、お助けしたんだわ」
「そりゃほんとうだ」ランドリは言った。「きみはぼくに神さまみたいによくしてくれたよ。きみにもんくを言うなんてぼくが悪かった。許してくれよ、ファンション。だけどぼくなりにきみをおもわしておいてくれよ。『|ふたつっ子《ベッソン》』や妹のナネットを愛すみたいにおだやかにはゆかないかもしれないけれど、もしきみがいやならもう接吻させてくれなんて言わないよ」
そして、よく考えてみると、たしかにファデットは自分におだやかな友情を持っているだけのような気がした。それにみえ坊でもほら吹きでもなかったから、ランドリは、自分のこのふたつの耳で、ファデットがきれいなマドロンに言っていたことをまるで聞いたことがなかったように、ファデットに対して自分に分がないように思い、ひどくびくびくしてしまった。
ファデットとしては、かしこい娘だから、ランドリが気狂いのようにすっかり恋してしまっているのを、ついに理解したのだ。それがあまりにうれしかったので、一瞬のあいだ気絶したようになってしまったのだ。だがこれほどす早く手に入れた幸福をあまりに早く失いたくなかった。この危惧《きぐ》のために、ファデットは、ランドリがもっと激しく自分の愛を求めるようにじらそうとしたのだ。
ランドリは夜になるまでファデットのそばにいた。もう取り入るようなことを言う勇気はなかったのだが、すっかり心を奪われ、ファデットを見、ファデットの話すのを聞くのがあまりうれしかったので、一瞬たりともそばを離れる気がしなかったからだ。いつも姉から遠く離れることのない『ばった』がやって来たので、ランドリは遊んでやった。やさしくしてやると、だれからも虐待《ぎゃくたい》されているこのあわれなこどもは、しんせつにしてくれるひとにはばかでもないし意地悪でもないのに、気がついた。
おまけに、一時間もするうちに、『ばった』はすっかりなついて、うれしがって『|ふたつっ子《ベッソン》』の手に接吻し、姉をファンションねえさんと呼ぶようにランドリにいさんと呼び始めた。そしてランドリは『ばった』に同情し、かわいそうになった。ファデばあさんのあわれなふたりのこどもに対して、過去の自分も含めて、すべての人に罪があったのだと気づいた。このふたりは、ほかの人たちのようにもう少し愛されさえすれば、ほかの人たちよりずっとりっぱになれるのだ。
次の日と、そのあとの日々も、ランドリはうまくファデットに会えた。夕方会えば少しは話し合えた。昼間には野原で行き会った。ファデットが仕事をなまける気もなく、そんなことを考えつく性質でもなく、長く立ち止まっていないので、ランドリは心をこめて、ふたことみこと話しかけ、目におもいをこめて見つめた。そしてファデットは、ことばづかいでも、着物でも、みんなに対する態度でも、ずっとしとやかにしていた。そうするとだれもがそれに気がついてきた。やがて、ファデットに対するみんなの口調や態度が変わって来た。ちゃんとしたことしかしないので、もう悪口を言われることがなくなった。そして悪口を言われないので、ファデットも、もうだれのことも悪態をついたりいじめたりしなくなった。
けれど、こちらが変わっても世間の意見はそう早くは変わらないもので、ファデットに対して、さげすみが敬意に、にくしみが好意に変わるのには、まだまだ時間がかかった。それがどう変わったかはまだ先の話である。今のところとしては、おわかりのように、ファデットがちゃんとしてきたことに人々はたいして気がつかなかった。
若者の育ってゆくのを寛大に見守り、村のみんなの父であり母であるような、四、五人のひとのいい老人や老婆たちが、ときどきコッス村のくるみの茂りの下に寄り合っては、まわりで球ころがしをしている若者や踊っているこどもたちをながめて、おしゃべりをしていることがあった。老人たちはこんなことを言うのだった。
「あの子はこのままならりっぱな兵隊になるよ。からだがよすぎるから検査ではねられるわけにはゆかないよ。あっちの子は父親みたいに目はしがきいて、りこうな男になるだろうよ。あの娘は母親似でしとやかな落ち着いた女になるね。リュセットはいい女中になるな。でぶのルイーズが来たよ。あれはあちこちの男に追いまわされるだろう。それからマリオンだがね、あれだって放っておけば、一人まえに分別がつくようになるよ」
そしていよいよファデットが品定めされる番になると、
「ひどく早く帰ってしまう娘だね。歌も歌わず踊りも踊らずにね。アンドッシュさまのお祭りこのかた、あまり見かけないよ。踊りのときにこどもたちに帽子を落とされたのがよほどこたえたと見えるね。だからあんな大きな帽子はやめにしたのさ。今じゃ前ほどみっともなくないみたいだね」
クウチュリエばあさんは、あるとき、こんなことを言った。
「しばらく前からあの子のはだが白くなったのに気がついたかね? 前は『うずら』の卵みたいな顔だったろうが。そばかすだらけでね。こないだよくそばで見たら、あんまり白くて、あおいぐらいだから、びっくりしたよ。だから熱でも出したのかいってきいたほどだったよ。今の様子を見ると、まるで見違えるようになりそうだね。そうならないともかぎらないよ。みっともない娘でも、十七、八になると美人になるってことがよくあったからね」
「それに分別がついてくるよ」と、ノーバンじいさんが言った。「女の子ってものは分別がついてくると、おしゃれも覚えるし、愛嬌《あいきょう》も出てくるものさ。もうそろそろ、『こおろぎ』だって、自分が男の子じゃないのに気がつくころだよ。まったくの話、村の恥じさらしになるほど、しまつに悪い娘になるかと思ったもんだよ。だけどあれも、ほかの娘たちのようにちゃんとして身を慎《つつし》むようになるだろうよ。あんなにひどい母親を持ったってことを忘れさせるようにしなきゃならないってことに、気がつくようになるんだろう。見ててごらん、今に母親のことをとやかく言わせない娘になるよ」
「神さまのおぼしめしでそうなるといいね」と、クウチュリエばあさんが言った。「だって放れ馬みたいな娘なんて、みっともないからね。ほんとにあたしもファデットには見所《みどころ》があると思うね。だってね、おとといばったり出会ったらね、前みたいについてまわってあたしの片足の悪いまねをしたりしないで、『こんにちは』って言ったし、あたしのかげんはどうかってきいたんだからね」
「いま話になってる娘ってのは、根性が悪いっていうより変わってるのさ」と、アンリじいさんが言った。「根は悪い子じゃないんだよ、そりゃもうたしかに言えるね。その証拠には、よくうちの孫どもを野良で子守りしてくれたもんだよ。娘がからだが悪かったもんでね。それがまったくのしんせつからなんだよ。それに世話もよくて、孫たちがもう離れたがらなかったもんだよ」
「うわさで聞いたんだが、ありゃほんとかね」と、クウチュリエばあさんがまた言った。「バルボおやじのとこの『|ふたつっ子《ベッソン》』のひとりが、この前のアンドッシュ祭りで、ファデットに熱をあげたそうじゃないか?」
「そんなばかな!」と、ノーバンじいさんが答えた。「そんなことまじめにとるもんじゃないよ。こどもの気まぐれさ。それにバルボの家の者は、ばかじゃないよ。こどもたちだってあの父親と母親に負けずりこう者さ。わかってるじゃないか」
このようにファデットのことがうわさにのぼったが、たいていのときはまるでファデットのことなどは考えもしなかった。ファデットがあれ以来ほとんど姿を見せないからだった。
二十五
だがファデットによく会って、ひどく注意を払っている者がいた。それはランドリ・バルボだった。心ゆくまでファデットと話ができないと、心が煮えたぎるようだったが、ちょっとの間でもファデットといっしょにいると、すぐに気がしずまり、しあわせな気持ちになるのだった。ファデットが分別を教えてくれ、いろいろと悩みを慰めてくれるからだった。
おそらくファデットは、多少、ランドリの気をひくための小細工《こざいく》をしていたのかもしれない。少なくとも、ランドリはときどきそう思った。だがそうする動機はまじめさから出ているのだし、ランドリが何度も何度も考え抜いてくれてからでなければ、その愛の求めに応じたくないというのだから、ランドリとしては、怒るわけにはゆかなかった。
ファデットとしても、ランドリの愛の激しさを自分をだますための見せかけと疑うわけにはゆかなかった。なにしろ、都会の人種より愛情においてしんぼう強いいなかの人にはあまり見かけない種類の愛情だったのだ。おまけにランドリはまさにほかの人たちよりしんぼう強い性格だった。こんなに燃えるような恋をするとは、だれも思ってもみなかったことだ。もしこのランドリの気持ちに気づいた人があったら(というのはランドリはうまくかくしていたから)、きっと、まったくどぎもを抜かれたにちがいない。
だがファデットは、ランドリがこれほど完全に、またこれほど早く自分に心を捧げてくれたのを見るにつけても、それがわらについた火ではないか、またそれに、自分自身この火をへたに取り扱ったら、まだ結婚する年になっていない若者たちにはまともには許されないところまで、ふたりの仲が進んでしまうのではないか、と心配だったのだ。少なくとも親たちや世間の言っていることはそうだ。なにしろ恋というものは待つことができず、一度それがふたりの若い男女の熱血の中にはいったら、はたから許されるのを待つなどは、奇蹟に近いのだ。
だが、ファデットは、見かけはほかの娘より長いあいだこどもっぽかったが、内面では、年に似合わぬ理性と意志を秘めていたのだ。なにしろファデットの心のおもいも血のさわぎも、ランドリにまさるともおとらなかったのだから、理性的にしていられたのは、ファデットがまったくのしっかりした気性でなければならなかった。ランドリを気狂いのように愛していたのに、みごとなつつましさで身を持《じ》していたのだ。なにしろ、昼も夜も、起きているときはいつも、ランドリをおもい、会いたいもどかしさと、愛撫したい欲求で身も細る思いだったのに、ランドリの顔を見るとたちまち、落ち着いた様子をして分別を説き、まだ恋のほのおなど知らないようなふりさえし、手を握るにしても手首から上にはさわらせなかったのだ。
そしてランドリは、よくふたりで人目につかぬ場所で会い、おまけに暗い夜などは、もうファデットの言うことをきかぬほどわれを忘れそうになってしまうのだった。それほど心を奪われていたのだ。けれどもファデットの気をそこねるのがひどく恐ろしく、それに同じ恋心で愛されているという確信がないので、ファデットに対して清らかな間がらを続け、まるでファデットが姉で自分が弟の『ばった』のジャネになったのと同じだった。
ランドリの気持ちをつのらせたくないので、気をまぎらせようと、ファデットは自分のよく知っていることがらをランドリに教えた。こういうことでは、頭のよさと生来の器用さで、おばあさんの教えたよりはるかによくわかっていたのだ。ランドリには何ひとつ神秘めかしておく気がなかったし、それにランドリが相変わらず多少魔法だとこわがっているので、ファデットは自分の知識の秘密には悪魔はぜんぜん関係ないのをわからせようと、できるだけ気を配った。
ある日ファデットは言った。
「ねえ、ランドリ、悪魔の力を借りるなんてわけにはゆかないわよ。精霊はひとつしかないの。いい精霊なのよ。だって神さまの力ですもの。魔王リュシフェール〔地獄の王〕なんて司祭さまが考え出したんだし、鬼なんていなかのおばあさんたちが考え出したんだわ。うんと小さかったときはあたしも本気にしたし、おばあさんのおまじないがこわかったわ。だけれど、あれはあたしのことをからかっていたんだわ。だってね、なにもかも疑っている人がいるとしたら、それはほかの人たちになにもかも信じさせている人だし、何があっても悪魔を呼び出すふりをしている魔法使いたちより悪魔を信じていない者はいないって、よく言うけど、そのとおりだわ。魔法使いは自分たちがぜんぜん悪魔を見たことがないのも一度だって助けを借りたことがないのも、ちゃんとわかっているんですもの。本気になって悪魔を呼び出そうとした単純な人だってそんなこと一度だってできたことがないわ。その証拠には『犬の切り通し』の粉ひきよ。おばあさんの話では、太いこん棒を抱えてほうぼう歩きまわって、悪魔を呼び出してこっぴどくたたきつけてやるって言ってたんですって。そして夜になると、こうどなっているのが聞こえました。
『やって来い、狼づらめ! 来ないのか、狂犬め! 出て来い、悪魔の鬼め!』
けれども鬼はぜんぜん出て来ませんでした。それだもんで、その粉ひきはまるでばかみたいにいばりくさりました。つまり、悪魔はおれに恐れをなしたんだって、言いふらしたわけ」
「だけどねえ」と、ランドリは言った。「きみが考えていることは、つまり悪魔はいないってことは、それだけでもうあまりキリスト教徒らしくない〔悪魔の存在は当時のカトリック教会の教義にはいっていた〕んじゃないかい?」
「そのことであたしが議論なんかできないわ」ファデットは答えた。「だけどもし悪魔がいるとしても、この世に出て来てあたしたちに悪をすすめたり、神さまにあげないようにあたしたちの魂を取ったりなんて、とてもできないと思うのよ。そんなにずうずうしくないはずよ。だってこの世は神さまのもので、そこにいる人間やものごとを治めるのは神さまだけなんですもの」
そしてランドリは、ばかげた恐れがなくなると、いかにもファデットが、考えることでもお祈りにしても、よいキリスト教徒なのに感心せざるをえなかった。それにファデットはほかの人たちよりりっぱな信仰心を持っていたのだ。神を熱烈な心で愛していた。というのは、なにごとにおいても鋭い頭の働きとやさしい心を持っていたからだ。
この神への愛をファデットが語ってくれるのを聞いていると、ランドリは、自分が、お祈りをしたり、おつとめを果たすことは習うには習ったが、それをわかろうとしたことがないし、うやうやしくしていたのもただ義務観念からだったのに気づいて、驚いた。ランドリとしてはファデットのようには、神への愛で心が燃えたことなどなかったのだ。
二十六
いっしょに話しながら歩きまわっているうちに、ランドリは薬草のききめとか、人間や動物の治し方を全部教わってしまった。やがて、カイヨおやじの牝牛が草を食べすぎて腹をふくらましてしまったので、動物の治し方をひとつためしてみた。獣医が、もう一時間ももつまいと言って見放してしまったので、ファデットにつくり方を習った水薬を飲ましてみた。こっそりとやったのだ。朝になって、作男たちがあんないい牝牛をなくしたとがっかりしながら、穴に埋めにやってくると、牛は起き上がっていて、飼い葉をかぎまわり、目の色もよくなり、はれもほとんどひいていた。
あるときは、若馬がまむしにかまれたが、ランドリは、やはりファデットの教えに従って、すぐに助けてやった。それからまた、プリッシュ村の狂犬病にかかった犬にも治療を試みた。犬は治って、だれのこともかまなくなった。ランドリはできるだけファデットとのつき合いをかくしていたし、自分の知識をひけらかしたりしなかったので、牛や馬が治ったのはランドリがたいへんよく世話をしているせいだということになった。けれどカイヨおやじは、農園主にせよ小作人にせよ、よい百姓はみんなそうなように、家畜のことはよくわかっていたので、心の中で驚いた。そしてこう言ったものだ。
「バルボおやじは家畜には腕がないし、運も悪い。なにしろ去年はずいぶん牛をなくしたし、それもこれが初めてじゃない。だがランドリは手ぎわがいい。それにこういうことは生まれつきのものだ。天分があるか、それともぜんぜんないか、どっちかだ。それでも農芸家みたいに学校へ行ったりするけど、生まれつき腕がよくなければなんにもなりゃしない。ところがランドリは腕がいいんだな。何をしたらいいか、頭に浮かんで来るんだ。たいした天分を持っているわけだ。こりゃ農園をうまくやって行くのに、かねよりずっと役にたつことだ」
カイヨおやじがいっていたことは、必ずしもお人好しで目先のきかない人間のことばではない。ただ、ランドリに天賦《てんぷ》の才があるとしたのはまちがいだったのだ。ランドリとしては教わった治療法をするのに入念でじょうずだという才能があっただけだ。けれど天賦の才ということは、お話だけではない。現にファデットがそうだ。おばあさんからちゃんと習ったのはごくわずかなのに、まるで自分でつくリ出すように、ある種の草とその使い方の中に、神さまがお与えになった効能《こうのう》を捜し当ててしまうのだった。それだからといって魔法使いなわけではなかった。そうではないと言っていたのはもっともな話で、ただ、ものごとをよく見、比較研究して実験する心を持っていただけだ。それこそ天分というもので、これはだれにも否定はできない。カイヨおやじはこの点で少しゆき過ぎていた。牛飼いや作男の腕がいいとか悪いとかすぐ決めるし、その男が牛小舎《うしごや》にいるだけで牛たちがよくなったり悪くなったりすると思っていたのだ。
けれども、あやまった信念の中にも必ず多少の真実はあるものだから、ゆきとどいた世話や清潔さや心をこめた仕事のやり方は、なげやりな方法や失敗で悪くしてしまうことをよくするだけの力はあると認めねばなるまい。
ランドリは家畜の世話に頭を使うし、そういうことが好きだったので、ファデットに対していだいていた愛情は、教えてもらったことをたいへんありがたく思ったことと、この娘の才能にひどく感心するせいで、ますます強まった。そのころになると、ファデットが散歩や話し合いをして、恋心から気をそらせるようにしてくれたことを、ランドリは大いに感謝したくなった。それに、放っておけばランドリがそうしただろうに、絶えまなく恋を語りきげんをとってもらうよりも、ファデットはランドリの利益になり、ためにもなることのほうを心にかけているのだとわかった。
やがてランドリはすっかりむちゅうになってしまった。もう、世間でたちも悪ければ育ちも悪く、不器量だと評判の小娘に恋しているのをひとに知られるのが恥ずかしいなどという気持ちは、足元にふみにじってしまった。用心していたのはまったくシルヴィネのためで、やきもちやきなのを知っていたからだし、現にマドロンをちょっと好きになったときも、シルヴィネはたいへんな苦労をしてやっとうらみがましさを押さえたのだった。今、ファンション・ファデに感じている恋心に比べたら、ほんのちょっとした一時の恋心で、静かなものだったのに。
だが、ランドリがあまりに恋に気を取られて慎重さを忘れるとしても、そのかわりに、ファデットは秘密好きのたちだったし、それにランドリを世間のもの笑いのたねにしたくなかったし、またなによりも、いとしいランドリを家族の者となかたがいさせたくなかったから、絶対に秘密にするようランドリに言っていたので、ことがあからさまになってしまうまで、ほぼ一年はかかった。ランドリはシルヴィネがあまり自分の行く先や、していることにいつも気をつけていないようにしむけた。それにこの土地は住民が少なく、谷間で仕切られ、林におおわれているので、人目を忍ぶ恋には絶好だった。
シルヴィネは、ランドリがもうマドロンにかまけていないのを見て喜んだ。まえにはランドリが内気なのとマドロンがつつましやかなのに安心してマドロンとふたりでランドリの愛情を分かち合うのを、しかたのない災難と思ってがまんしたものだった。
それなのに今、急にはランドリの心が自分から離れて女の子に向かうわけではないと考えるとうれしくなり、嫉妬心が消えて、祭り日や休日にランドリがかってなことをし、好きな所へ行くままにしておくようになったのだ。ランドリとしては行ったり来たりする口実には不足しなかった。とりわけ日曜の夜は早くから『|ふたつっ子屋敷《ベッソニエール》』を出て、プリッシュ村には真夜中にしか帰らなかった。都合のよかったのは、ランドリは『|道具ぐら《カルファニオン》』に小さな寝台をあてがわれていたことだ。
『|道具ぐら《カルファニオン》』などと言うと、みなさんにおこられるかもしれない。なにしろ学校の先生はこのことばを使うと気にいらず、『倉庫《カルファナオム》』と言い直させるのだから。けれど先生はことばはごぞんじでも実物はごぞんじないのだから、わたくしとしては、それは納屋《なや》の一部で、牛小屋と隣合わせになっていて、くびきだの、鎖だの、牛馬や野良仕事に必要ないっさいの鉄の道具やこまごまとしたものをつっこんで置く場所だと、説明してあげなければならなかったことがある。
こんなわけでランドリはだれも起こさずに好きな時間に帰って来られた。それにいつも日曜日は月曜の朝まで自由にできたのだ。というのは、カイヨおやじとその長男はとてもきちんとした男たちで、酒場にも行かず、休みごとに酒盛りしたりなどけっしてせず、そういう日には農園の世話と見張りを全部ふたりで引き受けるならわしだった。ふたりの言うことには、これは、週日に自分たちよりも働いている若い衆たちみんなが、神さまのお言いつけどおり、日曜には自由に羽をのばして楽しめるようにするためだった。
冬の間は、夜寒《よざむ》がひどくて野天で恋を語りにくくなるが、ランドリとファデットには『ジャコの塔』というよいかくれ家があった。これは小作人に貸すための古い鳩小舎で、もう何年も前から鳩はいないが、屋根も扉もちゃんとしていて、カイヨおやじの地所にあった。そしてカイヨは余分の作物をここにしまっておいた。鍵はランドリが持っていたし、場所はプリッシュ村のはずれで『丸石の浅瀬』から遠くなかった。それに囲いのついたレンゲ畑のまんなかなので、悪魔だってよっぽど頭が働かなければふたりの恋人の語らいをじゃましにやって来るわけがなかった。
小春日和《こはるびより》にはふたりは『|切り株《タイユ》林』の中へ行った。これは切り取られた若木の林のことで、この地方にはあちこちにある。今でもどろぼうや恋人たちにはよいかくれ家だが、わたくしたちの土地にはどろぼうはぜんぜんいないので、恋人たちが愛用して、わずらわされもせず、こわいこともないのだ。
二十七
だが、長続きする秘密というものはないのだ。
さて、ある日曜のこと、シルヴィネが、墓場の壁に沿って歩いていると、二歩と離れない所で話しているランドリの声を耳にした。壁の曲がり角の向こうだった。ランドリは静かに話していた。けれど、シルヴィネはランドリの話し方はよく知っていたから、よく聞こえなくともそれとわかったことだろう。
「どうして踊りに来たくないんだい?」と、ランドリは、シルヴィネには見えない人物に言っていた。「もう長いこと、ミサのあとで足もとめずに帰ってしまうじゃないか。きみと踊ったって悪く言われないよ。だってもうぼくは、きみとつき合っていないと思われてるんだからね。好きだからじゃなくて、礼儀からだと思うだろうよ。きみが長いこと踊らないから、まだ踊れるかどうかためしたいだけだってね」
「だめよ、ランドリ」と、シルヴィネにはけんとうのつかない声が言った。というのは、もう長いことシルヴィネはこの声を聞いていなかったからだ。ファデットはみんなから遠ざかっていたし、ことにシルヴィネにはそうだったのだ。
「だめよ、あたしに注意を向けさせてはいけないのよ。それがいちばんいいのよ。一度踊ったら、あなたは日曜ごとにまた踊りたくなるわ。それだけでもう、たいへんなうわさよ。いつも言ってることを本気にしてよ、ランドリ。あなたがあたしを好きなことがわかってしまったその日から、あたしたちは苦しめられるのよ。あたしを帰らせておいてね。それから半日は家のひとたちや、あなたの『|ふたつっ子《ベッソン》』とすごしてから、約束の場所へあたしに会いに来るのよ」
「だけどぜんぜん踊らないのはつらいなあ」と、ランドリは言った。「あんなに踊りが好きだったじゃないか。それにあんなにじょうずだったのに。きみの手を取って、ぼくの腕の中でくるくるまわらせたら、どんなに楽しいか! とても軽くて、かわいくて、ぼくとだけしか踊らないんだ!」
「そのそれをしてはいけないのよ。だけど踊れなくて残念なのはよくわかるわ、かわいいランドリ。どうしてやめてしまったのか、わからないわね。少し踊って来れば? あんたが楽しんでると思うとうれしいのよ。いつもよりしんぼう強く待ってるわよ」
「ああ、しんぼう強すぎるよ、きみは!」とランドリはあまりしんぼう強くない声で言った。「そんな、ぼくはね、好きでもない女の子と踊るくらいなら両足を切られたほうがましなんだ。百フランくれても接吻なんかしないぞ」
「それじゃあね、もしあたしが踊ったら、あなた以外の人とも踊らなきゃならないのよ。接吻もさせなきゃいけないのよ」
「帰って! 帰って! 早く帰って!」ランドリは言った。「ほかのやつなんかに接吻させたくないよ」
そのあとは立ち去って行く足音が聞こえるきりだった。立ち聞きしているのをランドリに見つからないように、シルヴィネはあともどりして、急いで墓場にはいりこみ、ランドリをやりすごした。
この発見は、短刀のようにシルヴィネの心をえぐった。ランドリがこんなに情熱的に愛している娘はだれなのか、調べてみる気もしなかった。そのためにランドリが自分を投げやりにした人物がいるのを知っただけで、もうたくさんだった。その人物はランドリの心のすべてを自分のものにし、それをランドリは『ふたつっ子』にかくして、何ひとつ打ち明けなかったのだ。
(きっとぼくに気が許せないんだ)と、シルヴィネは考えた。(それに、あれがこんなに愛している娘は、ぼくを警戒してきらうようにランドリにしむけてるんだ。家にいるといつもたいくつそうで、ぼくがいっしょに散歩しようとするとそわそわするのも、もう驚くことはない。ひとりでいるのが好きなのかと思って散歩もあきらめていたのに。だけど、こうなったら、ランドリのじゃまをしないように気をつけなくちゃいけない。何も言わないでおこう。ぼくに打ち明けたくないことをあばいたら、うらまれるからな。ひとりで苦しんでいよう。ランドリはぼくをやっかい払いできたと思って、喜ぶだろう)
シルヴィネは決心したとおりにした。必要以上に極端にさえなった。というのは、ランドリを自分のそばに引き止めようとしないばかりか、まったくじゃまをしまいと、先に家を出てひとりで『|くだもの畑《ウーシュ》』へ行ってものおもいにふけり、野原へ行こうとしなかったのだ。(だってさ)とシルヴィネは思った。(もし野原でランドリに出会ったら、様子をうかがってると思われて、じゃまもの扱いされるからね)
そして、もうほとんど治っていた昔の苦しみが、だんだんとひどく重く、しつっこくなってまた始まり、やがて顔つきからめだつようになった。母親がやさしく注意した。だが、十八にもなって十五の時と同じ心の弱さがあるのが恥ずかしかったので、悩んでいることをけっして打ち明けなかった。
そのおかげでシルヴィネは病気にならなかったのだ。というのは、神さまがお見捨てになるのは自分自身を見捨てた人間たちだけだし、苦しみをうちに秘めておく勇気のある人は、不平を鳴らす人より苦しみに強いからだ。あわれな『|ふたつっ子《ベッソン》』はいつも悲しげであおざめているようになった。ときどき、ちょっとした熱の発作を起こした。少しずつ大きくなってはいたのだが、からだはかなり弱く、ほっそりしているままだった。仕事はあまり長続きしなかった。けれどそれはシルヴィネのせいではなかった。仕事は自分のためにいいとわかっていたからだ。ふさぎこんでいて父親を困らせるだけでもすまないことだったので、仕事をなまけて父親を怒らせ、また損害をかけたくはなかったのだ。だから仕事に出かけたし、自分自身に対する怒りをこめて働いた。だからよく自分では耐えられないほど働いてしまうのだった。そして翌日はあまり疲れてしまって何もできないのだった。
「あれはどうしたって達者な働き手にはなれないね」と、バルボおやじは言っていた。「だけど自分にできることはしているよ。それにやれるときには我が身のことは考えないんだ。だからあの子をよそへ奉公に出したくないんだよ。しかられるのはいやなたちだし、神さまからさずかった力は弱いし、すぐに身をすりへらして死んでしまうからさ。そうなったら、一生、奉公に出したことを悔やむことになるからな」
バルボのおかみさんはこの考え方に大賛成で、できるだけシルヴィネを元気づけようとした。何人かの医者にシルヴィネの健康について相談したが、ある医者はだいじにしなければいけない、これからは牛乳ばかり飲ませなさい、なにしろこの子は弱いからと言い、またある医者はうんと働かせて、よいぶどう酒を飲ませなさい、なにしろこの子は弱いんだから強くしなければいけない、と言うのだった。
バルボのおかみさんはだれの言うことを聞いたらいいやらわからなかった。何人ものひとの意見を聞くとよくこんなことになるものだ。
さいわいなことに、迷っているうちに、どの意見にも従わなかったので、シルヴィネは神さまがお決めになった道を進み、右や左にふりまわされなくてすんだ。あまりわずらわされずに、自分の小さな苦しみを抱えこんでいたのだが、やがてランドリの恋が大評判になり、ランドリが悩むことになると、シルヴィネの悩みもそれにつれて大きくなったのだ。
二十八
恋の花のありかをつきとめたのはマドロンだった。つきとめたのに悪意はなかったのだが、それを悪用したのだ。ランドリのことではもう気がすんでいた。それにランドリを好きだったのはわずかの間だったから、忘れるのにもそう苦労はいらなかった。けれどもかすかなうらみが心に残って、いつか仕返しをする機会を待っていた。まったく、女心には未練よりも恨みのほうが長続きするというのは、事実である。
ことの起こりは次のようであった。きれいなマドロンは、しとやかな様子と男の子たちに対するどうどうとした態度で評判だったけれども、実際はひどい浮気娘で、愛情においては、あれほど悪く言われ、ろくなものにならないと言われた『こおろぎ』の半分も、分別もなければ忠実でもなかったのだ。だから、ランドリを数に入れなくとも、マドロンはもう恋人を二人持ったことがあり、今は三人めに好意を示していた。それはマドロンの従兄《いとこ》にあたる、プリッシュ村のカイヨおやじの末息子だった。この青年にひどくはっきりした態度を示してしまったが、今まで色よい返事をしていたまえの男が見張っているので、どんなさわぎを起こされるかと心配で、それに新しい恋人とゆっくり語らえるかくれ家が思い当たらないので、従兄《いとこ》の言うままに、鳩小舎へ話をしに行くことにしたのだ。ところがまさにそこで、ランドリがファデットと、うしろめたいところのないあいびきを重ねていたわけだ。
カイヨの息子はこの鳩小舎の鍵を捜したのだが、ランドリのポケットの中にあるのだから見つかるはずがなかった。だれかに聞いてみる気にもなれなかった。鍵がいるわけのうまい理由がなかったからだ。だいたい、鍵のありかなどランドリのほかにはだれも気にしていなかった。カイヨの息子は、なくなってしまったのか、それともおやじの鍵束の中にはいっているのだろうと思って、えんりょなしに扉をこじあけた。だが、ちょうどその日に、ランドリとファデットがいたので、四人の恋人たちはたがいにはち合わせして、ひどく気まずい思いをした。それだけに、四人ともそれぞれ口をつぐんで、なにもうわさのたたないようにした。
けれどもマドロンには、嫉妬と怒りがまたもどってきた。今ではランドリは、土地でもいちばんの見ばえのする若者で、尊敬もされていた。そのランドリが、聖アンドッシュの祭り以来、ファデットにこれほどの変わらぬ愛を捧げているのを見ると、仕返ししてやろうという決心をしてしまったのだ。これについては、カイヨの息子には何も言うわけにはゆかなかった。まっとうな人間で、こんなことには手を貸すはずがなかった。
そこで仲間の、一、二の女の子の手を借りた。この娘たちは、ランドリがぜんぜん踊りにさそってくれないのを侮辱と感じて多少とも恨んでいたので、ファデットをきびしく見張り始め、わずかの間に、この娘とランドリの仲を見抜いてしまった。そしてふたりをうかがい、二度か三度いっしょにいるのを見るとすぐに、土地全体にたいへんなうわさをふりまいた。聞きたがる人にはだれにでも、ランドリがファデットといかがわしい関係だと言ったのだ。悪口というものには、耳を傾ける人がいないか、それをまたふりまく舌が足りないかどうかは、神さまがよくごぞんじだ。
すると、すべての若い娘たちがさわぎだした。というのは、男ぶりもよく財産もある若者が、ひとりの女性に関心を持ったとなるとまるで他のすべての女性への侮辱のようなもので、この女性に弱点があれば、絶対に容赦《ようしゃ》しないものだ。それにまた女どもが意地悪を始めると、す早いし、ひどいことまでするとも言える。
そこで、『ジャコの塔』でのできごとから二週間後には、塔の話もマドロンの名も出ないのに、こどももおとなも、老いも若きも、皆が『|ふたつっ子《ベッソン》』ランドリと『こおろぎ』のファンションの恋を知っていた。マドロンは用心しておもてに出ず、自分がこっそりと最初にあばいたことを、うわさで聞いたようなふりをしていたのだ。
そしてうわさはバルボのおかみさんの耳にまで達した。ひどく心配したが、夫に話そうとはしなかった。だがバルボおやじは、よそからそれを聞いてしまった。そして、シルヴィネは、弟の秘密をちゃんと守っていたのに、みんなが知ってしまったのを見て悲しんだ。
さて、ある晩、ランドリが『|ふたつっ子屋敷《ベッソニエール》』をいつものように早めに引き上げようとすると、父親が、母と長姉と『|ふたつっ子《ベッソン》』のいる前で、呼びかけた。
「家から引き上げるのをそんなに急ぐなよ、ランドリ。おまえに話があるからな。だがおまえの名づけ親が来るのを待っているんだ。おまえの行く末に家族の中でいちばん関係の深い人たちの前で、おまえから説明を聞きたいんだ」
そして、名づけ親であるランドリッシュ叔父が来ると、バルボおやじはこのように話した。
「これから言うことは、おまえに恥ずかしい思いをさせるかもしれないよ、ランドリ。わしだって、家族の前でおまえに申し開きをさせなければならないのは、少し恥ずかしい思いだし、ひどく残念なことだ。だがその恥ずかしい気持ちがおまえのためになって、気まぐれを治してくれればいいと思っている。このままではおまえの評判にも傷がつくからな。
どうも、この前のアンドッシュさまの祭りから、かれこれ一年も、なにかつきあいがあるようだな。最初のときも、ひとが話してくれたもんだ。なにしろ、祭りの一日じゅう、この土地でいちばんみっともなくて、いちばん不潔で、いちばん評判の悪い娘と、おまえが踊ってるなんてのは、考えもつかないことだからな。わしは、おまえがふざけているんだと思って、そんなに気にしなかった。そのふざけ方がよくないと思っていたんだ。悪い仲間とのつきあいはいけないが、みんなにきらわれている人たちをますます不幸にしたり、恥ずかしめるのは、もっといけないことだからだよ。おまえに何も言わないでおいたのは、翌日おまえを見たら悲しそうだったから、自分で気がとがめて、もう二度としないだろうと思ったからだ。ところが、一週間ほどまえから、まったく別の話を聞くじゃないか。ちゃんとした人たちから聞いたにせよ、おまえがわしにそう言うのでなければ、信用しないつもりだ。もしおまえを疑って悪かったというようなことになったら、それはわしがおまえのためを思ってのことだし、おまえの素行《そこう》を見守るつとめがあるからだと思ってくれ。もしこの話がうそだったら、そうと約束してくれて、おまえを悪く言うのはまちがいだとはっきりさせてくれれば、おとうさんはとてもうれしいよ」
「おとうさん」と、ランドリは言った。「なんでぼくを責めているのか、はっきり言ってください。そうしたら答えます。息子としてほんとうのことをちゃんと言わなければならないんだから」
「じゅうぶんわかるように言ったはずだぞ、ランドリ。ファデばあさんの孫娘とよくないつきあいをしているってひとが言うんだ。あのばあさんからして、かなりたちの悪い女だ。あの娘の母親が、夫もこどもも村も捨てて兵隊どものあとを追っていったのを数に入れなくてもそうだ。ひとの言うには、おまえはファデットとそこらじゅうぶらついてるということだ。そうだとすると、あの娘がおまえを悪い色恋ざたに引きこむんじゃないかと心配だ。そんなことになったら一生後悔することになるぞ。どうだ、なんのことかわかったか?」
「わかりました、おとうさん」と、ランドリは答えた。「だけど答える前にもうひとつ聞かしてください。ファンション・ファデとつきあうのが悪いっていうのは、あの家族のせいですか、それともあの子自身のせいですか?」
「どっちもどっちだ。あたりまえだ」
バルボおやじは初めに見せたよりきびしい態度で言った。ランドリが恥じ入るだろうと思っていたのに、落ち着いているばかりか、あとへ引かないというふうだったからだ。
「第一、身内に悪いところがあるのは、たいへんな傷だよ。うちのような尊敬されて評判のいい家族が、ファデ家と縁組みするなんてことはありゃしない。次には、ファデの娘そのものがだれにも重く見られてないし、信用されもしない。こどものときから見てるし、どんなものかはだれでも知っている。一年ほど前からずっとよくなって、小さい男の子連中とかけまわらなくなったし、だれの悪口も言わなくなったのは、話にも聞いたし、自分で二、三度出会って、知っているさ。いいかね、わしはちゃんと公平に見ているんだよ。
だが、それだけでは、あんなに育ちの悪かった娘がちゃんとした女房になるっていう保証にはならないね。よく知っているが、あのばあさんがばあさんだからな。ふたりでおまえをたぶらかすのじゃないかと思えるわけだ。おまえに約束をさせたりして、あとでやっかいを起こして恥ずかしい思いをさせようとしてな。娘が身ごもっているとさえ言った者がいるぞ。そんなことわしは軽々しく信じはしないがな。だがひどく心配なことだぞ。おまえのせいにして押してくるかもしれないし、裁判だの、ひどい悪いうわさだのになることもあるぞ」
ランドリは、話の初めから、慎重にしよう、おだやかに自分の気持ちを話そうと心に決めていたのだが、もうがまんがならなかった。火のようにまっ赤になり、立ち上がって、言った。
「おとうさん、そんなこと言ったやつらは犬みたいにうそつきだよ。ファンション・ファデにひとい侮辱だよ。つかまえたら、どうしてもあやまらせてやるぞ。あやまらなきゃ、相手になってやる。どっちが地べたにのびるか、とことんまでやってやるぞ。そいつらは卑怯者だって、キリスト教徒じゃないって言ってやってください。おとうさんにうそを教えたやつらに、ぼくの目の前で言いに来いって言ってください。ひどいめに会わしてやるから」
「そんなに怒るなよ、ランドリ」と、悲しみにうちひしがれてシルヴィネが言った。「おとうさんはきみがあの子に悪いことをしたなんて、ちっとも責めちゃいないよ。だけど、あの子がほかの連中とやっかいなことになっているくせに、昼も夜もきみと歩いて、つぐないをきみに押しつけようとしてるんじゃないかと、思ってるだけだよ」
二十九
シルヴィネの声を聞いてランドリは少し気がしずまったが、そのシルヴィネの言ったことばは聞きずてならなかった。
「にいさんはね、なんにもわかってないんだよ。いつだってファデットをよく思ってなかったし、ほんとうにはちっとも知っちゃいないんだ。ぼくのことをひとがどう言おうと、かまやしないさ。だけどファデットのことを悪く言われるのはがまんできない。ぼくの口から聞いておとうさんもおかあさんも安心してもらいたいんだ。ファデットほど正直でしとやかで、しんせつで、欲のない娘はこの世にふたりといないよ。身内が悪いのはあの子の不幸だけど、それなのにあんなにちゃんとしているんだから、ますます本人に値うちが出るんだ。それにキリスト教徒だったら、あの子の生まれの不しあわせを責めるなんて考えもつかないよ」
「そちらではわしのことを責めたい様子だな、ランドリ」と、バルボおやじも立ち上がりながら言った。これ以上出過ぎたことを言ったら承知しないということをわからせるつもりだった。「怒っているところを見ると、わしが思っていたよりそのファデットとやらに熱中しているらしいな。恥ずかしくもなければ後悔もしていないようだから、もう話すのはよそう。ただの若気のあやまちだってことをわからせるにはどうしたらいいか、そのうち考えておこう。今はもう、主人の家へもとるがいい」
「このままで別れちゃいけないよ」と、シルヴィネは、もう帰りかけたランドリを引きとめて、言った。「おとうさん、ランドリはおとうさんを怒らせたのが悲しくて、なにも言えないでいるんですよ。許してやって、接吻してやってください。そうでないと、ひと晩じゅう泣いてしまいますよ。おとうさんのきげんを悪くしたってことだけで、もうこたえすぎるほどこたえてるんだから」
シルヴィネは泣いていた。バルボのおかみさんも泣いていた。長姉もランドリッシュ叔父も泣いていた。かわいた目をしているのは、バルボおやじとランドリだけだった。だが心は重かったので、なだめられて接吻は交わした。父親はぜんぜん約束はさせなかった。色恋のことになると約束などあてにならないのを知っていたからだ。そんなことで親としての威厳《いげん》をふみつけにされたくなかったのだ。だがランドリに、話はこれで終わりではないし、また問題にするぞと、はっきりわからせた。
ランドリは怒りに燃え、また悲しい気持ちで立ち去った。シルヴィネはあとを追って行きたかった。けれど、そうする勇気が出なかった。ファデットのところへ行って悲しみを分け合うのだろうと思ったからだ。そして悲しく床につき、ひと晩じゅう、ため息ばかりつき、一家の不幸を思い悩んだ。
ランドリはファデットの家へ行って戸をたたいた。ファデばあさんはすっかり耳が遠くなっていて、一度眠りこんだらなにがあっても目が覚めなかった。そしてしばらくまえから、ランドリは、ことがあらわになった以上、夜にはファデばあさんとジャネが寝ている部屋でしかファデットとは会えなかったのだ。そこにいたところで、やはり危険は大きいわけで、このおいぼれ魔法使いはランドリが気にいらず、見つかったら、おあいそうを言って送り出してくれるどころか、ほうきでたたき出されるに違いなかった。
ランドリは自分の悲しみをファデットに語ったが、ファデットの態度はとても従順でけなげだと思った。初めファデットはランドリのためには、愛の誓いを取り下げてもう自分のことを考えないほうがいいと、ランドリを説き伏せようとした。だが、ランドリが悲しみ、ますますやけになってくるのを見て、末は楽しめるようになるからと力づけて、親に従うことを約束させた。
「ねえ、ランドリ」と、ファデットは言った。「こういうことになるんじゃないかとまえからずっと思っていたのよ、そうなったらどうしようかとよく考えたものよ。あなたのおとうさんはちっともまちがってないわ。あたしも恨んだりしません。だって、あなたのことをうんとかわいがってるからこそ、あたしのような値うちのない娘にむちゅうになってるのを心配するんだわ。だから、少しあたしに向かって高慢《こうまん》だし不公平なのは許してあげられるわ。だって、たしかにあたしは小さいときはひどかったし、あなただってあたしのことを好きになりだした最初の日には、そのことを責めていたんですもの。去年からは、あたしは悪いところを直したけれども、おとうさんがきょうおっしゃったように、信用してもらえるにはまだ時が足りないわ。だから、もう少し時がたたなければだめなのよ。そうすれば、だんだんと反感が消えるでしょうし、今皆が言ってるひどいうそもひとりでに消えるわ。あなたのおとうさんもおかあさんも、あたしがちゃんとした娘で、あなたを誘惑するつもりも、おかねを引き出すつもりもないのがわかってくれるわよ。あたしの愛情がまじめだと判断してくれるでしょうし、逃げかくれしないで会ったり話しあったりできるわ。だけどそれまではおとうさんの言うことを聞かなくちゃいけないのよ。まちがいなく、あたしに会うなっておっしゃるでしょうからね」
「そんな勇気はとっても出せないよ」と、ランドリは言った。「川に身を投げたほうがましだ」
「じゃあ、あたしが勇気を出すわよ、あなたのかわりに」と、ファデットは言った。「あたしが出て行くわ。少しの間、村を離れているわ。もうふた月も前から、町でいい働き口があるの。もうおばあさんはすっかり耳が聞こえなくて、もうろくしちゃって、薬を作ったり売ったりあまりしないし、相談を受けるわけにもゆかなくなってるのよ。それで、とてもしんせつなしんせきのおばさんがいて、ここへ来て暮らしてもいいって言ってるので、おばあさんの世話をしてもらえるし、あたしの『ばった』もね……」
このこどもを残して行くのかと思うと、ファデットの声は一瞬とぎれた。弟は、ランドリと同じに、ファデットがこの世でいちばん愛しているものだった。だがファデットは勇気を取り直して、言った。
「今では『ばった』も、あたしがいなくてもいいくらい丈夫だわ。もうじき最初の聖体拝受をするし、ほかのこどもたちと公教要理〔キリスト教の原理と秘蹟を説いた問答形式の本。最初の聖体拝受の準備としてカトリック教会で教える〕を習いに通うのがおもしろくて、あたしがいないつらさは忘れるわよ。あなたも気がついてるでしょうけど、あの子は聞き分けがよくなってね、ほかのこどもたちもあの子をあまりひどく怒らせなくなったし。つまり、そうしなくちゃいけないのよ、わかる、ランドリ? あたしは世間から少し忘れられなくちゃいけないのよ。だって、今のところは、村じゅうであたしのことをひどく怒ってやきもちをやいてるんだもの。一、二年遠くで過ごしたら、りっぱな口ぞえとよい評判をつくって帰ってくるわ。ここにいるより、よそのほうがそうなりやすいものね。そうなったらもういじめられないし、今までよりずっとなかよしになれるわよ」
ランドリはこの考えに耳を貸そうとしなかった。ただただ絶望しているばかりで、プリッシュ村へともどったが、その心の中は、どんな意地悪な人でも同情するような有様だった。
二日過ぎて、ランドリがぶどうの取り入れで桶《おけ》を運んでいると、カイヨの末息子が話しかけた。
「ランドリ、おれのことを恨んでるようだな。しばらく前から口をきかないじゃないか。ファデットとの仲をばらしたのはおれだと思ってるんだね。おれがそんなことをしたと思われちゃ心外だよ。神さまが天にいらっしゃると同じくらいほんとうに、おれはひとこともしゃべっちゃいないんだ。それにこんなやっかいなことになったのは、気のどくだと思ってるんだぜ。だって、いつだってきみのことは重くみていたし、ファデットの悪口を言ったこともなかったからね。それに鳩小舎の一件からこっちは、あの子をえらいとまで思ってるんだ。あの子だってしゃべることがあったはずなんだ。それがだれにももれてないんだから、ファデットは口がかたいよな。今度のさわぎのもとはマドロンだってことは、ファデットにもちゃんとわかってるんだから、仕返ししようと思えばできたはずなんだ。だけどそんなことはしなかったんだからね。やっとわかったよ、ランドリ、見かけだの評判だのはあてにならないもんだってことがね。意地悪娘で通っていたファデットが、いい娘だったんだ。いい娘って言われていたマドロンは裏切り者だったんだよ。ファデットときみを裏切ったばかりじゃないぜ、おれのこともだよ。このごろはあの子の浮気でひどい悩みさ」
ランドリはカイヨの末息子の申し開きを心よく受け入れた。そしてこの青年はランドリの悩みを心をつくして慰めてくれた。
「ほんとにひどいめにあったな、ランドリ」と、カイヨの末息子はしまいに言った。「だけど、ファデットのやり方がいいから慰めもつくというもんだ。きみの家族の心配をなくそうってんで、よそへ行くってのはいいことだ。今しがた、あの子にそう言ってやったよ。通りすがりにさよならを言っておいたんだがね」
「いったい、なんの話だ?」ランドリは叫んだ。「よそへ行くって? 行ってしまったって?」
「知らなかったのかい? ふたりで相談ずくのことだと思ってたよ。とやかく言われたくないから送って行かないのかと思ってね。だけど、たしかにファデットは出て行くんだよ。十五分ばかりまえに家の所を通ったし、手に包みを下げてたよ。シャトオ・メヤンに行くんだから、今ごろはヴィエユ・ヴィルか、さもなきゃユルモンの丘より先には行っちゃいないだろう」
ランドリは刺し針を牛の額革にひっかけて放り出し、走り続けに走って、ユルモンのぶどう畑からフルムレーヌ村へ下がる砂道で、やっとファデットに追いついた。
追いつくと、悲しみと急いで走って来たせいで、口もきけずに、道にくずれ落ちて横たわった。だが、行くならからだをふみつけて行かなきゃならないと、身ぶりで示した。
ランドリが少し人心地つくと、ファデットは言った。
「お別れの苦しみをさせたくなかったのよ、ランドリ。そんなことされちゃ勇気がなくなっちゃうじゃないの。男らしくしてね。あたしの勇気をなくさないでちょうだい。あなたが思ってるより勇気のいることなのよ。だって、今ごろかわいそうなジャネがあたしを捜しまわって泣いてるかと思うと、気がくじけてしまって、ちょっとなにかあったら、この岩角に頭をぶつけてしまいたくなっちゃうわ。ねえ、ランドリ、お願いだから、じゃまするかわりに助けてちょうだい。これがあたしのつとめなんですから。だってきょう行ってしまわなかったら、もう絶対に行かれないわ。そうしたらふたりとも、もうだめになってしまうのよ」
「ファンション、ファンション! たいした勇気がいるわけないじゃないか」と、ランドリは答えた。「ジャネが心残りなだけじゃないか。あの子はすぐしずまるよ。こどもだもん。ぼくの悲しみなんか考えてくれないんだ。ほんとうに好きになるってことがわかってないんだ。ぼくにはそんな気持ちを持ってないんだからね。ぼくのことなんかすぐ忘れてしまうんだ。そうしてもう帰って来やしないんだ」
「帰ってくるわ、ランドリ。神さまを証人にして言うわ。早くて一年、おそくて二年したら帰って来ます。あなたのことは少しも忘れないし、あなたのほかには友だちも恋人もつくりません」
「友だちはそうかもしれないさ。だってぼくほど、きみの言うなりになる男は見つかるはずがないもの。だけど、恋人ってことになると、わからないよ。だれが請《う》けあってくれるんだい?」
「あたしが請けあってるのよ!」
「きみにはわかってないんだよ、ファデット。ほんとうに好きになったことがないんだから。そういう気持ちになってしまったら、もうあわれなランドリのことなんか思い出しもしなくなるんだ。ああ! ぼくがきみを好きなのと同じしかたでぼくのことを好きだったら、こんなふうにぼくをおいて行くわけがないさ」
「そう思う? ランドリ」と、ファデットはランドリをじっと見つめて、悲しげに、そしてひどくしんけんに、言った。「きっと自分の言ってることがわかってないのね。あたしはね、ほんとうに好きだったらお友だちのときよりもきちんとするわ」
「じゃあね、ほんとうに好きだから行ってしまうんだったら、ぼくがこんなに苦しむはずがないじゃないか。そうなんだよ、ファンション。もしほんとうに好きでいてくれるんなら、きっと、悲しくってもうれしいだろうと思うよ。きみのことばを信じられるだろうし、先のことを楽しみにしていられるよ。きみみたいに勇気を出していられるよ、ほんとうさ……だけどほんとうに好きなんじゃないんだな。自分で何度もそう言ったじゃないか。ぼくのそばにいても涼しい顔していたから、ちゃんとわかってるよ」
「じゃあ、ほんとうに好きなんじゃないと思ってるの?」と、ファデットは言った。「たしかにそう思うのね?」
そして、ランドリを見つめ続けながら、ファデットは目に涙をいっぱい浮かべ、それがほおをつたい、ファデットはきみょうなほおえみを浮かべた。
「ああ、神さま! 神さま!」ランドリはファデットを抱きしめて、叫んだ。
「ぼくの思い違いだったらどんなにいいか!」
「まったく思い違いだとあたしは思うわ」と、ファデットは、涙の中に笑いながら答えた。「あたしが思うにはね、十三のときから、『こおろぎ』はランドリが好きだったの。ほかの男の子にはぜんぜん目もくれなかったんだわ。もうひとつ思うのはね、野原や道で『こおろぎ』がランドリにつきまとって、かまってもらいたくて、ばかげたことや意地悪を言ってたころは、自分が何をしてるのか、どうしてランドリにつきまとうのか、わかってなかったのよ。また思うんだけど、ある日、ランドリが悲しんでいるのを見て、シルヴィネを捜しに行って、川ばたで小さな羊をひざに抱いて考えこんでいるのを見つけたとき、『こおろぎ』がランドリに魔法使いぶって見せたのは、ランドリにありがたく思ってもらいたかったからなのよ。
それからまた思うんだけど、『丸石の浅瀬』で『こおろぎ』がランドリに毒づいたのは、ずっと口をきいてもらえなかったので、怒って、悲しかったからなのね。そして思うんだけど、『こおろぎ』がランドリと踊りたかったのは、気がちがったみたいに好きだったからで、じょうずに踊って好かれたいと思ったからなのよ。ショオムワの石切り場で泣いていたのは、ランドリにきらわれたのが残念で悲しかったからなんだと思うわ。それにまた思うには、ランドリが『こおろぎ』に接吻しようとして、『こおろぎ』がいやがったのも、ランドリがほんとうに好きだって言ってくれてるのに、『こおろぎ』がお友だちでいましょうって答えていたのも、あまり早くおもいをかなえてランドリの心を失うのがこわいからだったのよ。
そしてしまいに思うには、『こおろぎ』が、胸がはり裂けそうになっても出て行こうとしているのは、だれの目から見てもランドリにふさわしくなってもどってくるつもりだからなのよ。ランドリの家族を悲しませもせず、はずかしめもせずにランドリの妻になれるようにと思ってなのよ」
今度という今度は、ランドリはもう気が狂ってしまうのではないかと思った。笑い、叫び、そして泣いていた。ファンションの両手に、着物に、接吻を浴びせた。ファデットがさせておいたらつま先まで接吻したかもしれなかった。だがファデットはランドリを引き起こし、ほんとうの、恋人の接吻をしたので、ランドリは死んでしまいそうになった。なにしろこれはファデットから受けた最初のほんとうの接吻だし、ほかの娘としたこともなかった。そしてそのせいで気を失ったように道ばたに倒れている間に、ファデットは包みを拾い上げ、まっ赤になって恥ずかしげに、す早く逃け出し、ついて来てはいけないと叫び、必ず帰って来ると言った。
三十
ランドリは言われたとおりにし、ぶどうの取り入れにもどって行った。思っていたようには不幸な気持ちにならないので、自分でびっくりした。愛されているのを知るのはそれほど大きな安らぎであり、愛が大きければまた信頼も大きいものなのだ。あまりびっくりしたし、あまりうれしかったので、どうしてもカイヨの末息子にその気持ちを話さずにはいられなかった。若いカイヨもびっくりし、ファデットがランドリをおもい、またおもわれてからずっと、気持ちに負けてあやまちをしないでいられたのに感心した。
「あの娘にそんなにいいところがあるとわかって、おれもうれしいよ。だって、おれだって、あの子を悪く思ったことなんてないからね。それどころか、あの子がおれに目をつけてくれていたら、ぜんぜん悪い気持ちはしなかったと思うね。あの目のせいで、いつだって不器量どころかきれいに見えたよ。
それに少しまえから、あの子がひとに気にいられようとすれば、だれだって、日に日にきれいになってゆくのがわかったはずだよ。だけどあの子はきみだけが好きだったんだなあ、ランドリ。ほかの男にはきらわれなけりゃいいくらいの気持ちだったんだ。きみにだけほめられたかったんだよ。ほんとはああいう性質の女がおれには向いてるんだね。それに、ほんのこどもで小さかったときから知ってるけど、いつだって、心のやさしい人だって思ってたんだ。だれだって、ファデットのことをどう思うか、どんなことを知ってるか、良心に照らしてほんとうのことを言うことになったら、どうしたってファデットのいいことしか言えないよ。だけど世間てものは、二、三人がだれかのことを追いまわしだすと、みんながついて行って、なんのことだかあまりわかりもしないのに、石を投げて、悪い評判をつくってしまうようにできてるんだねえ。まるで、身を守ることができないものをふみつぶすのがおもしろいみたいにねえ」
カイヨの息子がこのように考えて話すのを聞くと、ランドリはひどく心が安まり、この日からこの若者と深い友情を結び、悩みを打ち明けては、いくらか心を慰めた。そして、ある日、このようにさえ言った。
「もうマドロンのことは考えるなよ。なんの値うちもありゃしないし、おれたちふたりに悲しい思いをさせたんだからね。おれとおない年なんだから、べつに急いで結婚することもないよ。ところでね、おれには妹があるんだ。ナネットっていってね、まるでもうきれいなんだよ。しつけはいいし、やさしいし、かわいいんだ。もうすぐ十六になるんだ。もっとちょくちょく家へ来いよ。おやじはきみのことを重く見てるよ。それにナネットの気心がわかってきたら、おれと兄弟になるのがいちばんだってことがわかるぜ」
「まったくの話、いやとは言わないね」カイヨの息子は答えた。「もしほかに話が決まってないんなら、日曜ごとに行くことにするよ」
ファンション・ファデが出て行った日の夕方、ランドリは、父に会いに行って、ファデットのけなげな決心を伝え、父がこの娘を見そこなっていたのをわからせ、また、将来のことは抜きにして今のところは父の言いつけに従うと言うつもりだった。ファデばあさんの家の前を通ると胸がいっぱいになった。だが、ファデットが出て行くことにならなかったら、自分が愛されているという幸福をこれからも長いこと知らずにいたろうと考えて、勇気を振い起こした。見ると、ファデットの親せきで名づけ親のファンシェットおばさんがいる。ファデットのかわりに、ファデばあさんとこどもを世話しにやって来たのだ。ファンシェットおばさんは『ばった』をひざに抱いて戸口にすわっていた。かわいそうにジャネは泣いていて床《とこ》につきたがらなかった。ファンションねえさんが帰って来ないから、と言うのだ。ファンションねえさんがお祈りをさせてくれて、寝つかせてくれるのだと言いはるのだ。ファンシェットおばさんはいっしょうけんめいなだめていたが、ランドリはその話し方がとてもやさしくて愛情に満ちているのを聞いて、うれしかった。
だがランドリが通りかかるのを見るやいなや、『ばった』はファンシェットおばさんの手から片足を引っかけそうにして飛び出し、走り寄ってランドリの足にまつわりつき、ランドリに接吻して、ファンションねえさんはどこへ行った、ファンションねえさんを連れて来て、とせがみたてた。ランドリは『ばった』を抱き上げて、涙にくれながら、できるだけのことを言って、慰めた。カイヨのおかみさんからバルボのおかみさんにことずかったみごとなぶどうのかごを下げていたので、ひとふさ与えようとした。だがいつもは食いしんぼうなジャネが、ファンションを捜しに行くと約束してくれなければ、なにもほしくないと言うのだった。しかたなく、ランドリはため息をついて、約束した。そうでもなければ、ジャネはとてもファンシェットおばさんの言うことを聞かなかっただろう。
バルボおやじはファデットがそんなたいへんな決心をするとは思ってもいなかった。それについては満足だった。だがやはり、そんなことまでしたのかと思うと、かわいそうな気がした。バルボおやじはそれほど公平で、心のやさしい人だったのだ。
「ランドリ、おまえのほうであの子とつき合うのをやめる勇気がなかったのは、残念だね。おまえが分別をわきまえてくれたら、おまえのせいであの子が出て行くこともなかったろうに。奉公先でつらい思いをしないといいが。それに、あの子がいないので、おばあさんと弟にさわりが出るようなことがないように祈ろう。なにしろ、あの娘のことは悪く言う人も多いが、かばう人もいくらかいるからな。家族のものにはやさしくてよくつくすのはたしかだという話だ。妊娠しているというのがでたらめだとしたら、そのうちにわかるだろう。そうしたら、ちゃんと弁護してやろう。もし万が一ほんとうだとしたら、おまけにおまえのせいだとしたら、助けてやるし、みじめなことにならないだけのことはしてやるよ。ただあの娘と結婚だけはするな。ランドリ、これがわしの言い分だ」
「おとうさん」と、ランドリは言った。
「おとうさんとぼくじゃ、このことの見方がぜんぜん違うよ。おとうさんが考えているようなことがぼくのせいであるとしたら、反対に、結婚させてくれと言うよ。だけど、ファデットはうちのナネットと同じに清らかなんだから、今のところは心配させて悪かったって言うだけにしておくよ。おとうさんが自分でおっしゃったように、あの子の話はもっとあとになってしましょう」
たしかに、バルボおやじとしては、これ以上言いはらないという条件をのむほかはなかった。慎重な人だからことを荒だてたくなかったし、今のところはこのくらいでがまんしておくよりなかったのだ。
このときからもう、『|ふたつっ子屋敷《ベッソニエール》』では、ファデットのことは話題にのぼらなくなった。名まえを言うのさえ避けた。ランドリのまえでうっかりファデットの名を口にすると、ランドリはまっ赤になり、それからあおくなるからだった。最初の日と同じに、ファデットのことをちっとも忘れていないことは、だれの目にも明らかだった。
三十一
ファデットの出発を知って、シルヴィネは、エゴイストの満足のような気持ちを味わった。これからはランドリが自分としかなかよくしないだろうし、だれのためにも自分を見捨てはしないだろうと喜んだ。だが事実はまったくそうならなかった。たしかにランドリは、ファデットの次にはこの世でいちばんシルヴィネを好きだった。だが、シルヴィネといっしょに長くいると愉快ではいられなかったのだ。というのは、シルヴィネはファンションに対する嫌悪からどうしても抜け出せなかったからだ。ランドリがファンションのことを話して、興味を持たせようとすると、たちまち、シルヴィネは気を悪くし、両親がぞっとするような、そして自分の心を傷つけるような、そんな考えにランドリがいつまでも取りつかれていると言って、非難するのだった。
ランドリは、やがて、もうシルヴィネにはファデットの話はしなくなった。だが、その話をしないでは一日も暮らせなかったので、カイヨの息子やジャネとつきあって時を過ごした。ジャネのことは散歩に連れ出しては、公教要理の復習をさせ、ものを教えたりして、手をつくして慰めていた。そして、この子を連れているときにひとに出会うと、からかう者もあった。それだけの勇気があればの話だが。
しかし、ランドリはなんであれ、ばかにされて、ただですますことは絶対になかったし、ファンション・ファデの弟に愛情を示すのを恥じるどころか誇りにしていたのだ。つまりこのようにしてランドリは、バルボおやじは頭がいいから、この恋愛問題にす早くかたをつけたのだなどと言いふらしている連中に抗議していたのだ。
いっぽうシルヴィネは、思っていたようには弟が自分にもどって来ないし、ジャネとカイヨの息子に嫉妬しなければならないざまにはなるし、おまけに、妹のナネットが、それまではとてもやさしい世話とかわいい心配でいつも慰めてくれ、喜ばしてくれていたのに、カイヨの息子といっしょにいるのをひどく喜ぶようになり、両方の家族がふたりの仲がいいのを認めているのを見て、自分の好きな人たちの愛情をひとりじめにしたいという性分だものだから、死ぬほど悩み始め、きみょうなゆううつにおちいった。心があまり陰気になって、喜ばせるにはどうしたらいいかわからない人物になってしまった。もうけっして笑わなかった。なにをしてもおもしろくなく、もうあまり働かなくなった。ひどく心身をすりへらして、弱ってしまったのだ。そろそろ生命のほどもあやぶまれだした。なにしろ、いつも熱があって、それがふだんより高いときには、筋道の通らぬことを口走って、両親の心を残酷に痛めつけた。家族の中では、いつだってかわいがられ、あまやかされているくせに、だれにも愛されていないのだと言いはるのだった。なんの役にもたたないのだから、死んだほうがいい、同情心から大目に見てくれているが、実際は自分は両親のやっかいものなのだ、自分をやっかい払いしてくれるのが神さまのいちばんいいお恵みだ、などと言うのだった。
ときにはバルボおやじは、こんなキリスト教徒らしからぬことばを聞いて、きびしくしかりつけた。が、なんの役にもたたなかった。またときには、バルボおやじは涙を流して、父の愛を信じてくれと頼むのだった。すると、ますます結果は悪かった。シルヴィネは、泣いて、後悔し、父、母、『|ふたつっ子《ベッソン》』に、家族全体に許しをこう。すると、この愛情の高まりが病んだ心にあまりに刺激を与えて、熱がさらにひどくなるのだった。
またも医者たちに相談した。たいしたことは教えてくれなかった。医者たちの顔つきを見ると、この病気はすべて『|ふたつっ子《ベッソン》』だということが原因だと判断しているのが、わかった。どちらかひとりが死ぬことになるし、もちろんそれは弱いほうだと考えていたのだ。ふろ屋のクラヴィエールばあさんにも相談した。サジェットばあさんは死に、ファデばあさんはもうろくしてこどもに帰ってしまったから、これは郡でいちばんのもの知りだったのだ。そつのないこのばあさんは、バルボのおかみにこう答えた。
「あんたのこどもを助ける道はひとつしかないね。それは女を好きになることだよ」
「ところが、それがきらいなんですよ」と、バルボのおかみは言った。「あんなに気ぐらいが高くておとなしい男の子ってあるもんじゃありませんよ。それに、弟のほうが恋にのぼせてからというもの、知っているかぎりの娘たちの悪口ばかり言ってるんですよ。その娘たちのうちのひとりが(悪いことにいちばんいい娘じゃなかったんですがね)、弟の心をぬすんでしまったってわけですね」
「いいかね」と、心の病《やまい》にもからだのさわりにも見る目をそなえている、このふろ屋のばあさんは言った。「息子さんのシルヴィネは、一度女が好きになった日にあ、弟をかわいがるよりもっと気狂いじみてかわいがるようになるよ。そりゃあもうはっきり言っとくよ。心に愛情がありあまってるんだね。それをいつも弟に向けていたから、自分が男だってことをほとんど忘れちまったんだよ。そのせいで神さまの掟《おきて》にそむいているんだ。男ってものは自分の両親よりも兄弟姉妹よりも、ひとりの女をかわいがるもんなんだからね。だけど心配することはないさ。いくらそっちのほうでおくれてるって言ったって、そのうちにしぜんにそなわったようにならないもんでもないよ。だから、あの子が好きになった女が、貧乏だろうと、不器量だろうと、性悪《しょうわる》だろうと、ためらわず結婚させてやりなさい。だってね、どう見たって、一生にふたりと好きな女ができそうにもないんだから。そういうことでは心が愛着強くできているんだよ。天変地異《てんぺんちい》でもなきゃ弟と少しでも離れるわけがないくらいだから、弟より好きになった女から引き離すのはもっとたいへんなこったよ」
ふろ屋のばあさんの意見は、バルボおやじにはひどくもっともに思えた。そこで、ためしにシルヴィネを、きれいで性質のいい年ごろの娘のいる家へやってみた。だが、シルヴィネはきれいな子で育ちもいいのに、どうでもいいといった悲しげな様子が、娘たちの心を少しも喜ばせなかった。娘たちがぜんぜん色よいそぶりを見せないので、内気なシルヴィネは、娘たちがこわいせいもあって、きらわれているのだと思ってしまうのだった。
そうすると、一家の親友であり、いつもよい忠告をしてくれるカイヨおやじが、別の意見を出した。
「いつも言ってたじゃないか、離しておくのがいちばんの薬だって。ランドリを見なさい。ファデットのことでふぬけたみたいになっていたっけが、ファデットが行ってしまっても、気がへんにもならず、からだをこわしもしないじゃないか。前にはちょくちょく悲しげに見えて、どうしてだかわけがわからなかったもんだが、今はそれほどでもないぜ。今じゃすっかり落ち着いておとなしくしてるようだよ。シルヴィネだって、五、六か月も、ランドリにぜんぜん会わなければ、同じようになるよ。ことを荒だてないでふたりを引き離すやり方を教えようか。
うちのプリッシュ村の農園はうまく行ってる。けれどそのかわり、アルトン村のほうのわしの地所はひどいことになってるんだ。なにしろ一年このかた、うちの小作人が病気で、なかなか直らないんだ。ほんとうにちゃんとした男だから、たたき出すつもりはまったくないんだよ。だけど、しっかりした働き手をひとり手助けにやれば、もともと疲れと精の出しすぎで病気になってるんだから、やつも治るだろうと思うんだ。
で、もしよかったらランドリをうちの地所へやって、節季《せっき》の残りのあいだ、いてもらってもいいんだ。シルヴィネには長い間じゃないことにして立たせるんだよ。それどころかほんの一週間だって言ってね。で、一週間が過ぎたら、もう一週間だって言っておいて、すっかり慣れてしまうまで、その調子でやるんだね。わしの言うようにしたほうがいいよ。あまりにだいじにし過ぎて、お山の大将にしてしまったんだから、いつもあの子の気まぐれに、はいはい言っていちゃ、よくないからね」
バルボおやじはこの忠告に従うつもりになっていた。だがバルボのおかみさんは震えあがった。それではシルヴィネが死んでしまうとおそれおののいたのだ。おかみさんと折り合いをつけるほかはなかった。おかみさんは、まずためしにランドリを二週間ばかり家において、シルヴィネが、弟といつも会っていたら治るかどうか見てくれと頼むのだった。もし反対に悪くなるようだったら、カイヨおやじの意見に従うと言うのだった。
そうすることになった。ランドリは喜んで許された期間を『|ふたつっ子屋敷《ベッソニエール》』で過ごしにやって来た。シルヴィネが働けないので、麦打ちの残りをするのにランドリがいるという口実で呼び寄せたのだ。ランドリは兄に気にいってもらうように、できる限り心を配り、しんせつにした。いつでもいっしょにいたし、同じ寝台で寝たし、こども相手のように世話を焼いた。最初の日は、シルヴィネもとても陽気だった。だが二日めは、自分といるとランドリはたいくつなんだと言いだし、ランドリがいくら言っても、その考えを直せなかった。三日めには、シルヴィネは怒りだした。『ばった』がランドリに会いに来て、ランドリが追い帰す気になれなかったからだ。
とうとう、一週間たつと、もうやめにするほかはなかった。シルヴィネがますます不当になり、わがままがつのって、つまらぬことで邪推《じゃすい》するようになったからだ。そこでカイヨおやじの思いつきを実行に移すことになった。ランドリは、自分の村や仕事や、家族や今の主人をたいへんに愛していたから、アルトンへ行って知らない人たちと暮らす気はあまりしなかったのだが、兄のためになるからと命じられることには、なんでも従うのだった。
三十二
今度こそ、シルヴィネは最初の日、死にそうになった。だが二日めはずっと落ち着いて、三日めには熱が取れた。まず、あきらめ、次には決心ができたのだ。一週間たつと、ランドリがいるよりいないほうがシルヴィネのためにいいのがはっきりした。心の中でひそかにしている嫉妬からの計算で、ランドリが出かけたことでほとんど満足できる理由を見つけ出したのだ。
(少なくとも)と、シルヴィネは考えた。(ランドリが行った土地では、だれも知っている人がいないのだから、すぐには新しい友だちをつくらないだろう。少したいくつになって、ぼくのことを考えて、なつかしくなるだろう。だからもどって来るときには、もっとぼくのことを好きになってくれるだろう)
ランドリがいなくなってからもう三か月たち、ファデットが村を去ってからはほぼ一年たったとき、突然ファデットが帰って来た。おばあさんが中気になったからだ。ファデットは心をこめて熱心に看病したが、病気のうちでも老齢は最悪なものだから、二週間ほどすると、ファデばあさんは意識のないままに息を引き取った。
その三日後、老婆の遺体を墓におさめ、家の中を片づけ、弟を着がえさせて寝かしつけ、ほかのへやへ引き取った名づけ親に接吻してから、ファデットは、かぼそい火を投げる残り火を前に悲しくすわり、炉ばたで歌うこおろぎに耳を傾けていた。こおろぎはこう歌っているようだった。
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こおろぎ、こおろぎ、こおろぎちゃん、
恋しい恋しい娘鬼火の鬼火ちゃん。
[#ここで字下げ終わり]
降りしきる雨が窓ガラスにはじけていた。ファンションは恋しいひとのことに思いふけっていた。するとだれかが戸口をたたき、声がした。
「ファンション・ファデ、いるかい? ぼくだよ、わかるかい?」
ファデットはす早く戸を開け、ランドリの腕の中に飛びこみ、かたく胸に抱かれた。なんとも言えずうれしかった。ランドリはファデばあさんの病気とファンションの帰村を聞き知ったのだ。どうしても会いたくなり、明け方に帰るつもりで夜やって来たのだ。ふたりはそこで、ひと晩じゅういろりばたで、しんけんに、そしてつつましやかに語り明かした。というのは、おばあさんが息を引き取った寝台はやっとぬくもりが消えたばかりだし、うれしさにわれを忘れるには時間も場所も悪いとファデットがランドリに注意したからだ。だが、そんなけなげな決心をしたにしても、ふたりいっしょにいて、たがいに前よりもっと愛し合っているのを感じてとても幸福だった。
夜明けが近づくと、ランドリはやはり勇気がなくなってきた。そして次の夜も会えるように納屋にかくまってくれと言い出した。けれど、いつものように、ファデットはランドリをさとした。もう長いこと別れて暮らすわけではないのだと知らせたのだ。ファデットは村に留まることを決めたのだ。
「それにはわけがあるのよ。もっとあとになったら教えてあげるわ。あたしたちの結婚のじゃまになるようなことじゃないのよ。ご主人から言いつかった仕事をやりとげに行ってね。おにいさんの病気を治すためにはもう少しの間、あなたが顔を見せないほうがいいのよ」
「それを言われると、きみと別れて帰るほかはないな」と、ランドリは答えた。「だって、シルヴィネにはひどいめに会ったからね。これからもまた苦労させられるんじゃないかな。きみはそんなにもの知りなんだからさ、ファンション、なにかシルヴィネを治す方法が見つからないもんかね?」
「言って聞かすよりほかはないわね」と、ファデットは答えた。「だって、あのひとのからだを悪くしているのは心なんですもの。心を直せばからだも直るわ。だけどあたしのことひどくきらいだから、あのひとに話をして、慰めてあげるおりがないのよ」
「だけどきみはそんなに頭がいいんだし、話し方もうまいし、その気になったらなんでも自分の言ったとおりに説き伏せる特別な才能があるんだから、一時間だけでもシルヴィネと話せば、効果があると思うよ。やってみてよ、お願いだから。つんつんされてもきげんが悪くてもしりごみしないでね。むりにでも聞かせるんだよ。ぼくのためにやってみてよ、ファンション。ぼくたちのことがうまくゆくためにもね。なにしろおやじの反対ということがたいへんなさしつかえだけど、少しは軽くなるかもしれないからね」
ファンションは約束した。そしてふたりは愛しているし、いつまでも愛し合おうと、百回もたがいにくり返してから、別れを告げた。
三十三
ランドリが村に来たことはだれにも知れなかった。もしだれかが見つけてシルヴィネに告げたとしたら、また病気になってしまっただろうし、ランドリが自分でなくてファデットに会いに来たことをけっして許さなかったろう。
それから二日して、ファデットはとても小ぎれいに着つけをした。もう文《もん》なしのすっかんぴんではなかったからだ。喪服は美しい上等のサージだった。コッス村の家並みを通りすがっても、ぐんと背が高くなっていたので、見る人が初めはそれとわからないほどだった。それに町ですばらしくきれいになって帰って来たのだ。食べ物も暮らしもよかったので、血色がよくなり、年にふさわしくふっくらとして来た。もう、女の服を着た男の子とまちがえられようもなく、見るからに快い、きれいなからだつきだった。恋心と幸福感が顔にも姿全体にも見てとられた。こういう風情《ふぜい》はなんとも説明できないが、見ればわかるものだ。つまり、ランドリが考えているように世界一の美女でないにしても、愛嬌も姿のよさもみずみずしさも、そしてたぶん男心をひきつける点でも、この土地いちばんの娘だった。
ファデットは大きなかごを腕にかけていた。そして『|ふたつっ子屋敷《ベッソニエール》』にはいって行き、バルボおやじに話したいと頼んだ。最初に出てきたのはシルヴィネだったが、顔をそむけてしまった。それほどファデットに会っていやな気持ちだったのだ。だがファデットがおとうさんはどこにいるかと、ちゃんとていねいに聞くので、シルヴィネも返事をしないわけにはゆかず、バルボおやじが大工《だいく》仕事をしている納屋《なや》に案内した。ファデットはバルボに、どこか内密に話のできるところへ案内してほしいと頼んだが、バルボは納屋の戸を閉め、ここならなんでも話したいことが言えるよと言った。
ファデットはバルボおやじのこの冷たいそぶりで、どぎまぎしたりはしなかった。わら束の上に腰をおろし、バルボも別なわら束の上にすわると、ファデットはこんなふうに話した。
「バルボおじさん、あたしの祖母はあなたをよく思ってなかったし、あなたはあたしをよく思っていらっしゃらないけれど、それでも、あたしがあなたのことを土地でいちばんの正しい、まちがいのない方だと思っているのに変わりはございません。そのことではだれでもそう思ってますし、うちの祖母だって、いばっているなんて悪口は言ってましたが、やはり同じようにあなたを認めていたんですわ。それに、ごぞんじのように、あたしはおたくのランドリと長いあいだのおつき合いでございます。ランドリがよくあなたのお話を聞かせてくれましたので、あなたがどんな方か、どんなにりっぱな方かは、だれよりもぞんじております。それですのできょう、お願いごとがあって、内密に打ち明けようと思ってまいりました」
「話しなさい、ファデット」と、バルボおやじは答えた。「わしは今までだれにでも頼まれごとをことわったことがない。もしわしの良心が許すことなら、わしをあてにしてもいいよ」
「こういうことなんです」と、ファデットは、かごを持ち上げ、バルボの足のあいだに置いて、言った。「亡くなった祖母は生前、病気のみたてをしたり、薬を売ったりして、思ったよりもたくさんおかねをもうけていたのです。ほとんど使いませんでしたし、ぜんぜん投資もしませんでしたので、床下の穴倉の中にどれだけ持っているのか、けんとうがつかなかったのです。よくあたしにその穴倉をさしては、『あたしがいなくなったら、あそこを開ければ、あたしの残したものが見つかるよ。おまえとジャネの財産になるんだよ。今なにもやらないのは、あとになってよけいに持てるようにだよ。だけど公証人〔民事の公正証書を作り、私署した証書を認める権限を持つ特殊な公務員〕なんかに手を出させるんじゃないよ。費用だなんて骨までしゃぶられちまうからね。手にはいったらじっと持っていて、一生かくしておくんだよ。年をとってから使うためにね。そうすりゃ不自由な思いはしないよ』と、申しておりました。
お葬式がすみますと、言われたとおりにいたしました。穴倉の鍵を開け、教えてもらった場所の壁のレンガをはずしました。そして、見つけましたものをこのかごに入れて持ってまいりました。よいとお思いになるやり方で投資していただくようにお願いしようと思いまして。それに法律の手続きもすまさなければなりませんが、よくわからないのです。あまり費用がかかってはたいへんですから、よろしくお願いできたらと思いまして」
「信用してもらうのはありがたいがね」と、バルボは、見たい気がしないわけでもなかったが、かごのふたを開けずに言った。「わしにはあんたのかねをあずかったり、財産の管理をする権利はないよ。あんたの後見人じゃないからね。きっとおばあさんの遺言《ゆいごん》があるだろう?」
「遺言はまったくないんです。法律上の後見人というと、母なんですの。ところがご承知のように長いこと消息が知れませんし、生きているか死んでいるかさえわからないんです。かわいそうな人ですわ。そのほかに親せきといったら、名づけ親のファンシェットおばさんだけですけど、りっぱな正直な人ですが、財産を管理するどころか、貯めておいて、握っていることだって、ぜんぜんできないような人なんです。しゃべりまくってみんなに見せずにはいられないでしょうし、へたな投資をするか、いろいろ口を出す人たちに振りまわされて、いつのまにか減らしてしまうことになるんじゃないかとこわいんです。だって、やさしいファンシェットおばさんは、おかねのかんじょうができるような人じゃないんですものね」
「じゃあ、まとまったかねなんだね?」と、バルボおやじは言った。すまいと思っても目がかごのほうへ行ってしまう。バルボはかごの柄《え》を取って、重さを計って見た。するとあまり重いのでびっくりして言った。
「これが鉄くずだったら、もう少しで馬に積むほどの重さだね」
悪魔のように気のまわるファデットは、バルボがかごの中を見たがっているのを察して、おかしかった。開けようとすると、バルボはそうされては自分の威厳をそんじると思ってとめた。
「わしには関係がないことだよ。あずかるわけにはいかないんだから、あんたの財産を見るわけにはいかないんだ」
「でもせめて、ちょっと助けていただかないと困るんですの、バルボのおじさん」と、ファデットは言った。「百より上を数えるとなると、ファンシェットおばさんと似たりよったりなんですもの。それに、古いのや新しいのや、いろいろなおかねの値うちがわかりませんし、自分がお金持ちなのか貧乏なのか、いったいほんとにはいくら持っているのか、おじさんにはお願いしなければ、自分でわからないのですから」
「じゃ見てみよう」と、もうがまんのできなくなったバルボおやじは言った。「それだけのことだったら、たいした頼みじゃないから、ことわるわけにもゆくまい」
そこでファデットはす早くかごのふたを両側に開け、大きな袋をふたつ引き出した。それぞれエキュ銀貨(五フラン)で二千フランはいっていた。
「こりゃ、かなりなもんだ」とバルボおやじはファデットに言った。「ちょっとした持参金だよ。嫁に欲しいというやつが何人も出てくるぞ」
「これで全部じゃないんです」とファデットは言った。「かごの底のほうにまだなにかよくわからないものがあるんですの」
そしてうなぎ皮の財布を取り出して中味をバルボおやじの帽子の中にあけた。昔の刻印つきのルイ金貨(二十フラン)が百枚あった。バルボおやじは目を丸くしてしまった。バルボが数え終わって、うなぎ皮の財布にしまうと、ファデットは同じ中味の二つめの財布を取り出し、それから、三つめ、またも四つめと取り出し、結局、金貨、銀貨、小銭とり混ぜて、かごの中には、四万フランにいくらも欠けない金額がはいっていた。
これはバルボおやじが建物として持っている資産より三分の一だけ多いことになり、いなかのひとは現金にして持っていることが少ないから、一時にこれほどのかねを見たのは、バルボも初めてだった。
どんなに正直で欲のない百姓でも、金の顔を見ていやな気がするとは言えなかった。だから、バルボおやじは、しばらくのあいだ、額に汗をかいていた。全部数え終わると、バルボは言った。
「千フランの四十倍になるには、エキュ銀貨が二十二枚足りないことになるよ。ということはつまり、おまえの分としてピストル金貨(十フラン)が二千枚というわけだ。そうなるとおまえはこのへんいちばんの持参金持ちになるよ、ファデット。それに弟の『ばった』は一生からだが不自由で足が悪くっても平気さ。馬車で地所を見まわればいいんだからね。喜ぶがいいよ。金持ちになったわけだし、早くいいおむこさんを見つけたきゃ、これをみんなに知らせたらいい」
「そのことは急ぎませんの」ファデットは言った。「反対に、お金持ちだってことは秘密にしておいていただきたいんです。こんな不器量者ですから、おかねのためにお嫁にもらわれたくないって気がするんです。性質がやさしくって評判がいいっていうことで結婚したいんです。今この土地では評判が悪いから、少しのあいだ、ここで暮らして、そんなことはないんだってことを認めさせたいものですから」
あきもせずかごをなめるように見ていたバルボおやじは、やっと目を上げて言った。
「不器量だって言うけどね、そんなことを思い出すのはばかげてると、こりゃもうはっきり言えるよ。町へ行ってすっかり見違えるようになって、今じゃほんとにかわいい娘で通るよ。悪い評判のことにしても、ほんとうでないなら、まあわしもそう思いたいがね、そうだったら、少し間をおいて財産のことはかくしておくのに賛成だね。なにしろかねに目がくらんで結婚したがる連中にはこと欠かないからね。そういう手合いは、初めっから、夫が妻に持つべき尊敬を持っていないんだからな。さて、この財産をわしの手にあずけたいということだが、それは法律にそむくし、あとになってわしだって疑いをかけられたり罪を着せられたりしかねないよ。悪口を言うひとはいくらでもいるからね。それにあんたの物はあんたが好きにしていいにせよ、弟さんの物を軽々しく投資することはできないわけだよ。わしにできることは、あんたのかわりに、ひとに相談してみることだよ。あんたの名まえは出さずにね。そうしたら、あんたのおかあさんとあんたの相続分をどうやって安全で得になるようにあずけられるか教えてあげよう。公証人の手は通さないさ。あれは全部が全部正直ってわけじゃないからね。だからこれはみんな持って帰りなさい。わしが返事をするまでかくしておきなさい。万一、共同相続人に当たるおかあさんの代理人が出て来たら、わしが出て行って、今数えた金額を証言してあげよう。それには忘れないように、この納屋の壁に書きつけておこう」
それがまさにファデットの望んでいたことだった。つまり、バルボおやじにどれだけの金額かをわからせればよかったのだ。金持ちになったのがバルボに対して少し誇らしかったのも、こうなったらもう、ランドリをくいものにしようとしているとは、まさかバルボも言えなくなったからだ。
三十四
バルボおやじは、ファデットがこれほど慎重なのを見て、また、抜けめがないのもわかったので、かねのあずけ方や投資のしかたよりも、ファデットが一年過ごしたシャトオ・メヤンでのこの娘の評判を調べるのを急いだ。というのは、このすばらしい持参金が心をそそって、親もとが悪いのはかまわない気になったけれども、息子の嫁にしようという娘の身持ちとなると、そうはゆかなかったからだ。そこで自分でシャトオ・メヤンに出かけ、たんねんに調べた。
ひとの話では、ファデットは町に来たときに身重でなかったし、町でこどもを生みもしなかった。それどころか、行ないはとてもよくてわずかの非難もする余地がなかった。年とった貴族出の尼さんに仕えていたのだが、召使いと言うより、話し相手としてかわいがられていたのだ。それほどこの娘のことを、行儀も身持ちも頭もいいと思っていたわけだ。尼さんはファデットが帰ったのを残念がり、この娘が完全なキリスト教徒で、しっかり者で、倹約家で、身ぎれいで世話はよく、それにやさしい気だてなので、二度と同じような娘は見つかるまいと言っていた。そしてこの老婦人はかなりお金持ちで、大がかりな慈善事業をしていたので、ファデットは病人の世話をしたり薬を調合したりして、みごとに助手を勤め、主人が大革命のまえに修道院で覚えたすばらしい秘法をいくつも学んだのだった。
バルボおやじはたいへん満足し、コッス村へもどって、とことんまで調べ上げるつもりになった。家族を集め、上の息子たちや、自分の兄弟や、親類の女たちに、物心ついてからのファデットの品行調査を内密にやってくれと頼んだ。ファデットについての悪口が全部こどもじみたことを根にしているのだったら、いっこうかまわないが、もしも、ファデットが悪い行ないや、みだらなことをしたのを見たと言える人が出て来たら、ランドリにファデットとつき合うなと言った禁止を続けるつもりだった。
調査はバルボの望みどおり、内密に行なわれた。持参金のことはうわさにならなかった。なにしろバルボは妻にさえもひとことも言っていなかったからだ。
さてその間、ファデットは自分の小さな家にひどく引きこもって暮らしていた。造作物や家具は何ひとつ変えなかったが、ただ、貧弱な家具をすっかり磨きたてて、鏡のように顔が映りそうなほどだった。『ばった』にきれいな服を着せ、人目にたたぬようにだが、『ばった』にも、自分やファンシェットおばさんと同じに滋養のある食べ物を与えたので、こどもにはめざましく効果があった。考えもつかなかったほど体格がよくなり、やがて健康状態もこれ以上言うことはないほどになった。しあわせになるとたちまち気だてもやさしくなった。もうおばあさんにしかられたり、おしおきをされることもなくなったし、ただただかわいがられ、やさしいことばをかけられ、しんせつにしてもらえるので、すっかりかわいい子になって、やさしくておもしろいこどもらしいことをいつも言うようになり、足の不自由なのと『しし鼻』はあいかわらずだが、だからと言ってもうだれにもにくまれなくなった。
そして、いっぽうファデットの身のまわりも、やり方もあまり変わり方が激しいので、悪口はあとかたもなくなり、多くの青年が、ファデットがいとも軽やかに優雅に歩いて行くのを見て、早く喪が明ければいいと願ったほどだった。そうすれば、ごきげんを取って、いっしょに踊ろうというのだった。
ファデットに対して考えを改めようとしないのは、シルヴィネ・バルボだけだった。家のものがファデットのことで何かたくらんでいるのはよくわかっていた。なにしろ、父親はどうしてもよくファデットのことを口に出すし、以前のファデットに対する悪口がうそだとわかるような知らせを受けると、ランドリのために大喜びし、自分の息子が無垢《むく》な娘に悪いことをしたなどと言われたりしてはやりきれないからなと言うのだった。
それに、近くランドリを呼びもどすということも話に出た。そしてバルボおやじはカイヨおやじにそれを認めてもらいたがっているようだった。結局、シルヴィネは、みんながもうランドリの恋愛にはそれほど反対でないのを悟らされたのだ。すると、また悩みが始まった。世間の評判は風向きしだいなもので、しばらくまえからファデットに好意を持ち始めていた。金持ちなのはだれも知らなかったが、ひとに気にいられるようになってきた。そのせいで、ますますシルヴィネには気にいらなくなった。ファデットは、シルヴィネにとって、ランドリへの愛情での敵手だったのだ。
ときどき、バルボおやじはシルヴィネのまえで、『結婚』ということばをもらすようになった。そして、『|ふたつっ子《ベッソン》』たちも、そろそろ結婚のことを考える年になるなどと言うのだった。ランドリの結婚ということは、いつでもシルヴィネにとって考えるだけでも悲しく、ふたりの離別の決定的打撃のように思えていたのだ。シルヴィネはまた熱を出し、バルボのおかみさんはまた医者たちに相談した。
ある日、バルボのおかみさんはファンシェットおばさんに出会った。心配ごとを嘆いて話すのを聞いて、ファンシェットおばさんは、どうしてそんなに遠くまで医者に相談に行って高い金を払うのか、すぐ近くにこの土地のだれよりもじょうずな治療師がいるじゃないか、おばあさんがしたようにおかねのためにやるのでなく、ただ神様と隣人への愛からだけで治してくれるのに、と言った。そして、ファデットの名をあげたのだった。
バルボのおかみはそのことを夫に話した。バルボもまったく異存はなかった。バルボの話では、シャトオ・メヤンで、ファデットはたいへんなもの知りという評判になって、主人の貴婦人と同じように、遠い所から診てもらいたい人たちがやって来たというのだ。
そこでバルボのおかみさんは、ファデットに、寝こんでいるシルヴィネを診に行って、助けてやってくださいと頼んだ。ファデットは、ランドリに約束したように、一度ならずシルヴィネに話す機会を捜していたのだが、いつでもシルヴィネはそうさせなかったのだ。だから重ねて頼まれるまでもなく、『|ふたつっ子《ベッソン》』に会いに走って行った。行ってみると熱を出して眠っているところだった。そこで、家族のものたちに、シルヴィネとふたりきりにしてくれるように頼んだ。治療師というものは秘密にことを行なうものだから、だれも反対はせず、部屋にも留まらなかった。
まずファデットは寝台からたれている『|ふたつっ子《ベッソン》』の手に、自分の手を重ねた。だがきわめてそっとやったので、シルヴィネはそれに気がつかなかった。眠りが浅いので、いつも、はえが飛んでも目をさますくらいだったのに。
シルヴィネの手は火のように熱かった。そしてファデットの手の中で、ますます熱くなった。シルヴィネはもがいたが、手を引っこめようとはしなかった。するとファデットはもういっぽうの手をシルヴィネの額にのせた。最初と同じにそっとしたのだが、シルヴィネはますますもがきだした。しかし、だんだんに静かになり、ファデットには、病人の頭と手が一分、一分とさわやかに冷たくなり、小さなこどものように静かに眠りだすのが、わかった。
このようにして、病人が目をさましかけるまでそばにいた。それから寝台のカーテンの外に身を引き、部屋を出、帰りがけにバルボのおかみさんにこう言った。
「息子さんを見に行って、何か食べさせてあげなさい。もう熱は引きましたから。けれどシルヴィネを治したいんだったら、あたしのことはけっして話さないでおいてください。今夜また来ます。容態が悪くなるのはいつもそのころだってお話でしたね。もう一度熱を下げるようにしてみましょう」
三十五
バルボのおかみさんは、シルヴィネの熱が下がっているのをみて、驚いた。急いで食事を与えると、多少の食欲を見せて、食べた。そして、六日も熱が取れず、何も食べようとしなかったあとだから、ファデットの知識のすばらしさにみんながうっとりした。なにしろ、病人の目をさましもせず、何も飲ませず、皆の考えではおまじないのおかげだけで、これほど快方にむかったというわけだ。
夜になると、熱がぶりかえした。ひどい熱だった。シルヴィネは眠りこけながら、悪夢にうなされてもがいた。そして目が覚めると、まわりをかこんでいる人たちをこわがった。
ファデットがまたやって来て、朝のように、一時間ほどシルヴィネとふたりっきりになり、頭をやさしく支え、火のように熱いシルヴィネの顔のそばで涼しい息をついているほかには、魔法など少しも使わなかった。そして、朝のように、ファデットはうわごとを押さえ、熱を取り除いてやった。そして引き取るときには、まえと同じに、自分が立ち会ったことはぜんぜんシルヴィネに話さないように念を押した。行ってみると、シルヴィネはすやすやと眠っていて、顔も赤くはなく、もう病気には見えなかった。
ファデットがどこからこんなことを思いついたのかはわからない。ぐうぜんに、弟のジャネの看病の経験から得たものなのだった。十度も死の瀬戸ぎわから救ったのだったが、ただ、手と息でさわやかにしてやり、また、高熱で寒気がするときには同じやり方であたためてやるだけの療法をしただけだった。
ファデットがばくぜんと考えていたのは、健康な人間の愛情と意志、それに、清らかでいきいきとした手の接触だけで、その人間に一種の天賦の才があり、深い信心があれば、病気を退けることができるということだった。だから、手でさわっているときにはいつも、心の中で神さまにりっぱなお祈りを捧げていたのだ。そして、弟のためにしたこと、また現にシルヴィネのためにしていたことは、これほどに親密でないひとやこれほどの大きな関心を持てないひとには、やってみようとはしなかった。というのは、この治療法の最も優れた点は、ファデットが心の中で病人に捧げる強い愛情であり、それがなければ神さまは病気を治す力を少しも与えてはくださらないのだと、ファデットは思っていた。
そしてシルヴィネの熱に術を使っているあいだ、ファデットは、弟の熱に術を使ったときに言ったと同じことを、お祈りの中で、神に語りかけていたのだ。
「神さま、わたしの健康さが、わたしのからだからこの病人のからだに移るようになさってください。そして、やさしいイエズスさまが、すべての人間の魂をあがなおうとご自分の命をあなたにお捧げになったように、わたしの命も取ってこの病人に与えるのが御心《みこころ》でしたら、どうぞお取りください。お願いしております病人の全快のかわりに、わたしの命をあなたにお返しいたします」
ファデットはこのお祈りの功徳《くどく》をおばあさんの臨終の床でためしてみようとずいぶん考えた。だが、その気になれなかった。この老婆の魂の中でもからだの中でも生命が消えかかっているように思えたし、それは年のせいと、まさに神の意志そのものであるしぜんの法則の働きによるのだった。そしてファデットは、もうおわかりのように、術をかけるときには悪魔の助けよりも信仰の方に頼るのだから、神さまがほかのキリスト教徒には奇蹟なしにはお与えにならないことをお願いして、神さまの御心にさからいはしないかとおそれていたのだ。
この治療がむだだったのか、それともすばらしかったか、いずれにせよ、三日のうちにファデットはシルヴィネの熱を退治した。そして、シルヴィネはどうしてそうなったか、わからずじまいになるところだったが、最後にファデットが来た晩に、少し早めに目を覚まし、ファデットが自分の上にかがんでいるのを見、そっと手を引っこめるのに気がついてしまった。
初めは幽霊かと思って、見ないように目を閉じた。だがそのあと母親に、ファデットが自分の頭にさわって、脈を取らなかったか、それとも夢をみたのかとたずねたとき、バルボのおかみさんは、やっと夫のもくろみを少し打ち明けてもらっていたので、シルヴィネがファデットをきらうのを思い返してほしい気持ちから、実際ファデットは三日のあいだ、朝に夜にやって来たし、秘密に治療してすばらしく熱を下げてくれたのだと、答えてしまった。
シルヴィネは少しも本気にしない様子だった。熱はひとりでに下がったんだし、ファデットのことばだの秘法だのは、ほらで気狂いざただと言いはった。何日かのあいだ、落ち着いてからだのぐあいもよかったので、バルボおやじはこの際に、弟のランドリが結婚するかもしれないという話を、それでも問題になっている娘の名はあげずに、少し話しておこうとした。
「ランドリの嫁になる娘の名まえをかくすことはないよ」とシルヴィネは答えた。「ちゃんと知ってるんだから。ファデットだろう、みんなあいつにすっかりだまされたんだね」
実際、バルボおやじの秘密の調査の結果はファデットにたいへんいいことばかりで、バルボはもうためらっていなかったし、ランドリを呼びもどしたくてしかたがなかったのだ。今や心配なのは『|ふたつっ子《ベッソン》』シルヴィネの嫉妬だけで、この悪いくせを直そうとして、ファデットがいなければランドリはけっして幸福になれないだろうと言った。するとシルヴィネは答えた。
「じゃあ、そうしてよ。だってランドリにしあわせになってもらわなくちゃいけないからね」
けれど、まだそうするわけにはゆかなかった。承知したかと思うとシルヴィネがすぐにまた熱を出したからだった。
三十六
いっぽう、バルボおやじは、さきごろまでの自分の不当な態度をファデットがうらみに思っているのではないかと心配になり、それにランドリがいないので気をまぎらそうとして、ほかの男に気が移りはしないかとも心配した。シルヴィネの看病で『|ふたつっ子屋敷《ベッソニエール》』に来たとき、ランドリのことを話してみようとした。ところがファデットは聞かないふりをしたので、バルボは弱り果ててしまった。
とうとう、ある朝、決心して、ファデットに会いに出かけた。
「ファンション・ファデ」とバルボは言った。「ひとつ聞きたいことがあるんだが、誠心誠意、ほんとのところを聞かしてもらいたい。おばあさんが亡くなるまえにもう、たいへんな遺産がはいるとわかっていたのかい?」
「はい、バルボのおじさん」とファデットは答えた。「うすうすわかっていましたわ。だって、よくおばあさんが金貨や銀貨を数えているのを見ましたし、大金が出て行くのは見たことがなかったんですもの。それにまた、ほかの娘たちからあたしのぼろ着のことをからかわれたとき、よくおばあさんがこう言ったものでした。『そんなこと気にしなさんな。あんな娘たちより、よっぱど金持ちになれるんだから。その気なら、足の先から頭のてっぺんまで絹ずくめにできるような日がいまに来るんだから』って」
「それでだね」とバルボおやじは続けた。「そのことをランドリに教えたかね? 息子があんたにむちゅうってふうなのは、そのかねのせいだなんてこたあ、ないだろうね?」
「そのことではね、バルボおじさん」とファデットは答えた。「いつだってあたしはこのきれいな目のせいで好かれたいと思っていましたの。だって、この目だけはだれにも悪く言われたことがなかったんですもの。あたしはそれほどばかじゃないから、ランドリに、あたしのきれいな目はうなぎ皮の財布の中にあるなんて、言ったりしませんわ。でもね、言ったところで、大丈夫だったんです。だってランドリはまじめに心から愛してくれていましたし、あたしが金持ちかみじめったらしいか、気にもしていませんでしたわ」
「それでね、ファンションや、あんたのおばあさんが亡くなってからのことだがね」とバルボおやじは続けた。「このかねの話を、あんたからもほかの人からも、ランドリが聞いてないとたしかに言えるかね?」
「言えますわ」とファデットは言った。「あたしが神さまを愛してるのとおんなじにたしかに、あたしのほかにあのことを知ってるのはおじさんだけです」
「で、ランドリの愛情の点だがね、ファンション、今でも変わらないと思うかね? おばあさんが亡くなったあとで、あいつが不実でないというしるしを受け取ってるかね?」
「そのことならいちばんのしるしを見せてもらいましたの」と娘は答えた。「だって、打ち明けて言いますと、おばあさんが亡くなって三日したら、ランドリが会いに来てくれましたもの。そしてこのまま悲しみで死んでしまうか、あたしを妻にするか、二つに一つだと誓ったんです」
「で、ファデット、なんて返事したんだい?」
「バルボのおじさん、そこまでは話さなくてもいいはずですわ。でもお気のすむようにお話しましょう。あたしが答えたのは、まだ結婚のことを考えるには間があるし、両親にそむいてあたしに言いよるような男には喜んで承知するわけにはいかないってことです」
そしてファデットがこれをかなり高飛車にそっけなく言ってのけたので、バルボおやじは心配になった。
「わしがとやかく問い正す権利はないがね、ファンション・ファデ。それにあんたがいったいうちのせがれを一生しあわせにしてやるつもりなのかどうか知らないがね。だけどあいつがひどくあんたのことを好きなのはわかってるし、あんたは自分というもののために好かれたいという考えなんだから、わしがあんたの立場だったら、こう思うだろうね。『ランドリ・バルボはあたしがぼろを着ていたときに好きになってくれた。みんながあたしをいやがってるときに、両親に誤解されてひどく責められるときに愛してくれたんだ。みんながきれいになるわけがないと思っていたときに、きれいだと思ってくれた。好きになったせいで苦しいめに会ったのに愛してくれた。そばにいても離れていても愛してくれた。あまりやさしいのであのひとのことを疑うわけにはゆかないし、ほかのひとを夫にしたいなんてけっして思わない』ってね」
「ずっとまえからそう思っていましたわ、バルボのおじさん」とファデットは答えた。「けれど、はっきり申しますが、あたしのこと恥ずかしく思ったり、息子がかわいそうだっていう弱気からだけで承知するような家庭にはいるのは、ほんとにいやですわ」
「もしそれだけのことでためらってるんだったら、決心してくれよ、ファンション」とバルボおやじは続けた。「ランドリの家の者はあんたを重く見てるし、来てほしいんだ。あんたが金持ちになったから気が変わったと思わないでほしい。あんたのことをいやがっていたのは貧乏のせいじゃない。悪い評判のせいだ。もしうわさがほんとうだったら、たとえランドリが苦しみで死んでしまおうと、わしはあんたを嫁と呼ぶのにけっして賛成しなかっただろう。けれど、こういううわさをみんなたしかめてみようとしたんだ。わざわざシャトオ・メヤンまで出向いたよ。向こうでも、この土地でも、ささいなことまで調べあげた。それで今では、ひとの言うことがうそだったのがわかったし、あんたは身持ちのいい正直な娘だとわかってるんだ。ランドリがひどく熱をこめて言っていたとおりの人だ。そういうわけでね、ファンション・ファデ、わしはあんたにせがれの嫁になってほしいと頼みに来たんだよ。あんたがいいと言うなら、一週間のうちにランドリはここへもどるだろうよ」
こうなるとは思っていたが、いざ申しこまれると、ファデットはひどくうれしくなった。だが、嫁入り先でいつまでも重く見られていたかったので、うれしいのを見てとられまいとして、控えめにしか返事をしなかった。するとバルボおやじはファデットに言った。
「わしや家のものに、まだ何かこだわってるようだな。この年をした男にあやまれって言うのはむりだよ。約束をするから、それで満足しておくれ。家のものはあんたを好きにもなるし、重くみるだろうよ。これまでだれのこともだましたことのないバルボおやじにまかせておくれ。さあ、なかなおりに抱き合おうじゃないか。あんたはわしを後見人に選んでくれたんだし、わしはあんたの父親になろうと思っているんだからね」
ファデットはもうこれ以上|我《が》を張れなかった。バルボおやじの首に両腕で飛びついた。そして老いたバルボの心は喜びに満ちた。
三十七
さっそく結婚契約〔婚約のときに、持参金の額や結婚後の夫婦財産の管理法(夫の名儀にするか、夫婦分割にするか)を決めること〕が取り決められた。婚礼はファデットの服喪《ふくも》がすむとすぐ行なうことになった。もう問題はランドリを呼びもどすだけになった。だが、その日の晩にバルボのおかみさんがファンションに会いに行き、接吻して祝福したとき、シルヴィネが弟の結婚が近づいたと聞いて、また病気になったので、直るかまたは気のしずまるまでもう何日か待ってほしいと頼んだ。
「まずいことをしましたね、バルボのおばさん」とファデットは言った。「熱が下がったとき、あたしの出て行くのを見たのは夢じゃなかったって教えちゃって。こうなったら、あのひとの気持ちがじゃまをして、眠っているあいだに直そうとしても、もうまえと同じわけにはゆきませんわ。あたしをいやがるだろうし、あたしがいると病気が悪くなるかもしれませんよ」
「あたしはそうは思わないね」とバルボのおかみさんは答えた。「だって、さっき気分が悪くなって床につきながら、『ファデットはどこだい? 直してくれたそうだね。もう来ないのかい?』って言ったからね。あんたをつれに行くんだと言ってやったら、うれしそうだったし、待ちかねるというふうだったよ」
「まいりましょう」ファデットは答えた。「だけど今度は別なやり方をしなくちゃ。だって、あたしがいるのを知らないときにうまくいっていたやり方は、どうしたってもうききめがありませんからね」
「で、薬とか道具は持ってゆかないの?」とバルボのおかみさんは言った。
「ええ。あのひとのはからだが病気じゃないんです。心が問題なんだわ。シルヴィネの心にあたしの心をはいりこませようとするつもりだけれど、うまくゆくとはまったく約束できません。約来できるのはランドリの帰るのをしんぼう強く待つし、シルヴィネを元気にするためにできるだけのことをしてからでなければ、ランドリに知らせを出すようにお願いしないということですわ。ランドリはとてもシルヴィネのことをほめていましたから、もどって来てうれしい思いをするのをおくらせても、許してくれるはずですから」
シルヴィネは、ファデットが寝台のわきに来たのを見ると、ふきげんそうで、どんなぐあいかと聞かれても返事をしなかった。ファデットが脈を取ろうとしても、手を引っこめ、顔を壁の方に向けてしまった。そこでファデットはシルヴィネとふたりだけにしてほしいと合図し、皆が出て行ってしまうと、ランプを消して、ちょうどこのとき満月だった月明りだけが部屋にはいるようにした。それからシルヴィネのわきにもどり、命令口調で話しかけた。するとシルヴィネはこどものように服従するのだった。
「シルヴィネ、両手を出して握らせなさい。そうして、ほんとのことを答えなさい。あたしはおかねをもらってあなたのじゃまをしに来たんじゃありませんよ。わざわざ看病に来たのは、あなたにいやな顔をされて、ありがたくも思われないためにじゃないんですよ。これからあたしがたずねることに気をつけなさい。それから自分が言うことにも気をつけなさい。あたしをだますわけにはゆかないんですからね」
「必要だと思うことはなんでも聞いてください」
『|ふたつっ子《ベッソン》』のシルヴィネは答えたが、昔はよく返事のかわりに石を投げてやった、からかい好きのファデットからこうもきびしく話しかけられて、あっけにとられていた。
「シルヴァン〔シルヴィネの洗礼名〕・バルボ、あなたは死にたがってるという話ですね」
シルヴィネは答えようにも心の中でちょっと、とまどってしまったが、ファデットが手を強く握りしめて、意気ごみの激しさを感じさせたので、ひどく混乱しながら言った。
「ぼくにはいちばん幸福なんじゃないかな、死んじゃうってのが。家族にとっては、ぼくは悲しみの種だし、やっかい者だってわかるからね。からだは悪いし、それに……」
「すっかり話しなさい、シルヴァン、あたしには何もかくしてはいけないのよ」
「心配性で変えようもないしね」シルヴィネはすっかり打ちひしがれて、言った。
「それに根性が悪いしね」ファデットは、シルヴィネが怒りと、またそれ以上に恐れを感じたほど、きつい調子で言った。
三十八
「なんでぼくのことを、根性が悪いって責めるんだい?」とシルヴィネは言った。「悪口を言うんだね、ぼくが防ぐ力のないのがわかってるときに」
「ほんとうのことを言ってるのよ、シルヴァン」とファデットはやり返した。「もっとうんと言ってあげますよ。あなたの病気なんてちっとも同情しませんわ。ぜんぜんたいしたことがないのがわかるくらいには、あたしは病気のことを知ってますからね。心配といえばせいぜい気が狂うぐらいのことよ。いっしょうけんめいそうなろうとしてるのね。あなたの意気地なしと悪意のせいで、どんなことになるか知りもせずに」
「意気地なしなのは責められてもいい。だけど悪意だなんて、身に覚えがないよ」
「言いわけなんてしないでください」ファデットは答えた。「あなたのことはね、あなた自身よりよく知ってるのよ、シルヴァン、意気地がないとごまかしをするものよ。そのせいであなたはエゴイストで恩知らずなんだわ」
「ファンション・ファデ、それほどぼくのことを悪く思ってるのは、弟のランドリが、きっと、ぼくのことをひどく話したからだね。ぼくのことをちっとも好きじゃないのをきみによくわからせたというわけだ。だって、きみがほんとにぼくのことを知ってるにせよ、知ってるつもりだけにせよ、ランドリを通じてのことに決まってるからね」
「そう来ると思ってましたわ、シルヴァン。口を開けば弟のことで不平を言って責めたてるんだってことは、よくわかってましたよ。だって、あなたのあのひとへの愛情はあまりきちがいじみて、めちゃくちゃだから、うらみつらみに変わってしまうのよ。そのことでは、あなたはもう半きちがいで、まったくいいところがないと思うわ。いいこと! はっきり言いますけど、ランドリは、あなたがあのひとを好きなのより一万倍もあなたのことを思っているのよ。その証拠には、あなたがどんなにあのひとを苦しめようと、何ひとつあなたのことを責めないじゃない。それなのに、あなたは、あのひとがなんでもあなたを立ててつくしているのに、なんでもあのひとにもんくをつけてるわ。これじゃあ、あのひととあなたの違いを見てとらずにはいられないじゃありませんか? だから、ランドリがあなたのことをよく言えば言うほど、あたしはあなたのことを悪く考えましたわ。だって、こんなよい弟のことを誤解するのは、よっぽど、ひねくれた心の持ち主に違いありませんからね」
「だから、ぼくのことをにくんでるんだね、ファデット? その点では思い違いしていなかったよ。ぼくのことを悪く言って、ランドリとの仲を裂いたのは、ちゃんと知ってるよ」
「それもそう来ると思っていたわ、シルヴァンさん。とうとうあたしを相手にまわしてくれるわけね。じゃあね、お答えしますけど、あなたは心のねじくれた、でたらめな人間よ。だって、いつでもあなたにつくして、心の中であなたをかばっていた娘を誤解して侮辱するんですからね。そのうえ、反対に自分はその娘に意地悪ばかりして来たのがわかってるくせに。その娘はね、この世で最大の、ただひとつの楽しみを、ランドリに会ってそばにいるという楽しみを、百回もがまんして、ランドリをあなたのところへやって、自分ではがまんした楽しみをあんたにあげたのよ。あなたになんの恩があるわけでもないのにね。いつだってあなたはあたしを目のかたきにしたわ。
いくら思い出してみても、あなたほどあたしにつらく当たって高慢ちきだった子には会ったことがないわよ。仕返しをしてやろうと思ってもよかったんだし、機会はいくらでもあったわ。そんなことはしなかったし、それどころかあなたに知られずに、意地悪をしんせつで返していたのは、キリスト教徒として、隣人を許すのが神さまの御心にかなうのだってことをよくわきまえていたからよ。
だけど神さまのことを話したところで、あなたはあまり聞きたくもないでしょうね。だってあなたは神さまの敵だし、自分の魂の救いをじゃましてるんですものね」
「ずいぶん言いたいことを言わしているぜ、ファデット。だけどそればかりはひどすぎるよ。キリスト教徒じゃないって非難するんだから」
「さっき、死にたいって言いませんでした? それがキリスト教徒らしい考えだ〔キリスト教では自殺は重大な罪であり、魂の救いを与えられないから、教会は葬儀をも拒否する〕と思ってるんですか?」
「そんなこと言わなかったよ、ファデット、ぼくが言ったのは……」
と言いかけてシルヴィネは口をつぐんだ。自分が言ったことを考えて、恐ろしくなったのだ。ファデットに指摘されてみると、不信仰なことに思えてきたのだ。
だがファデットは、考えるひまを与えず、どんどんとしかりつけた。
「思ってるのより口で言ったことのほうが悪いのかもしれないわね。だってあたしの考えでは、あなたはそれほど死にたいんじゃなくて、それより、そうまわりの人たちに思いこませて、家の中で大将になって、悲しんでるおかあさんを苦しませたいのよ。あなたが命を縮めたがってると単純に思いこんでいるランドリを苦しめたいのよ。あたしはだまされませんよ、シルヴァン。あたしはね、あなたのことをほかの人たちと同じに、いやほかの人たちよりずっと死ぬのをこわがってると思うし、あなたをかわいがっている人たちをこわがらせて喜んでるんだと思ってるのよ。死ぬつもりだっておどかすと、いちばんもっともな、いちばん必要なものごとがひっくりかえってしまうのを見て、喜んでるのよ。まったく、ひとこと言いさえすれば、まわりのことがなんでも自分の思いどおりになるのは、とても便利だし、気持ちがいいわね。そんなふうにして、あなたはここではみんなを支配してるのよ。
だけど、それは自然に反してるんだし、神さまのお許しにならないやり方でそうしてるんだから、神さまがお罰しになって、我《が》を張らずにおとなしくしていたらなるはずがないほど、あなたを不幸になさっているのよ。それだからあなたは楽しく暮らせるように生まれていながら、ゆううつに暮らしているんだわ。どうすればあなたが気だてのいい、おとなしい人になれたか、言ってあげましょうか、シルヴァン。両親がうんとつらく当たればよかったのよ。ひどく貧しくて、毎日のパンにもこと欠いて、そのかわりぶたれることは多いってふうにね。もしあなたがあたしやあたしの弟みたいに育てられたら、恩知らずになるどころか、わずかなことにも感謝するようになったでしょうね。
あら、『|ふたつっ子《ベッソン》』に生まれたせいだなんてかたづけないでよ。まわりであんまり、『|ふたつっ子《ベッソン》』の愛情は自然の掟《おきて》で、さからうと死んでしまうって言いすぎたのは知ってるわ。だからあなたはその愛情を極端に押し進めて、自分の運命に従ってるんだと思いこんだのよ。だけど、おかあさんのおなかの中で、もうそんな悪い運命を背負わせるほど、神さまは不公平じゃないわ。どうしても押えられないような考えをくださるほど、意地悪ではないわ。迷信家みたいに、克己《こっき》心や分別では押えられない悪い運命が、自分の血の中にあると思いこむなんて、神さまをそしることになるのよ。あなたが気狂いでないかぎり、その気になれば、嫉妬心を押さえられないわけがないと思うわ。だけどその気にならないのね。あなたの魂の中の悪をまわりのひとがあまやかしたものだから。それに、あなたは自分のつとめよりも気まぐれのほうがだいじなんですからね」
シルヴィネは何も答えなかった。そして、ファデットがなおも容赦なく批判するのを、黙って聞いていた。結局ファデットの言うとおりだと思い、言いすぎだと思ったのはただひとつの点だった。それは、ファデットがまるで、シルヴィネは自分の悪いところを押さえようとしなかったし、自分の身がってをちゃんと知っていたのだと、思っているようだった点だ。
実際には、シルヴィネはそうする気もなく、また、自分で知らないうちにエゴイストになっていたのだ。これはシルヴィネを苦しめたし、みじめな気持ちにした。自分の良心についてもっとよく知ってもらいたい思いだった。ファデットとしては、大げさに話していることは重々承知だった。やさしく慰めるまえに、シルヴィネの心をうんと痛めつけようと、わざとしていることだった。だから手荒いことばを使い、怒っているふりをするために、むりをしていたのだ。心の中では、シルヴィネがとてもかわいそうだったし、愛情も感じていたので、いつわっているのが苦しく、別れるときには、シルヴィネよりも、ファデットのほうが疲れきっていた。
三十九
実際には、シルヴィネは、見かけほどには、また、自分で思いたがっているほどには、半分も病気ではなかったのだ。ファデットは、脈をとったとき、まず熱が高くないのがわかったし、からだよりも心がずっと病気で、弱っているのを見抜いたのだ。だから、ひどくこわがらせて心の持ち方から直さなくてはいけないとファデットは考えたのだ。そして朝になるとさっそく、またやって来た。
シルヴィネはろくに眠っていなかったが、落ち着いていて、打ちひしがれたようだった。ファデットを見るとすぐ、手を差し出した。まえの晩、引っこめたのとは大違いだった。
「なぜ手を出すんですか、シルヴァン?」とファデットは言った。「熱を調べてもらいたいの? 顔を見ればもう熱がないのはわかりますよ」
シルヴィネは、出した手をさわってもくれないので、引っこめるのが恥ずかしく、こう言った。
「おはようって言うつもりだったんだよ、ファデット。それにこんなに世話をみてくれるのにお礼を言いたかったんだ」
「それなら、ご挨拶を受けるわ」ファデットはシルヴィネの手を取り、そのまま握って、言った。「誠実な気持ちならあたしはけっしてこばんだりはしませんわ。それにあなたはぜんぜん好意を感じてないのにそんなふりをするほど、腹黒くないと思うから」
シルヴァンは、すっかり目が覚めていたのに、ファデットに手を握っていてもらうのがひどくいい気持ちだった。そこでやさしい調子で言った。
「だけど、ゆうべはこっぴどくやられたね。それなのにどういうわけか、ちっともしゃくにさわらないんだよ。あれだけぼくにもんくがあるというのに、会いに来てくれたのがうれしいような気さえするよ」
ファデットはシルヴィネの寝台のそばにすわり、まえの晩とはうって変わった調子で話しかけた。とてもしんせつに、やさしく愛情をこめて話したので、シルヴィネは、ファデットがもっと怒っているのではないかと思っていただけに、ひどくほっとしたし、うれしくもなった。さめざめと泣き、自分のあやまちをすべて告白し、ほんとうに心をこめて誠実に許しを乞い、友情を求めたので、ファデットは、たしかにシルヴィネの心は頭で考えていることよりずっと善良なのだとよくわかった。シルヴィネが心を打ち明けるままにさせ、ときにはまた、たしなめもした。そしてファデットが手を放そうとすると、シルヴィネは取りすがった。ファデットの手が、病気と同時に心の苦しみもいやしてくれるように思えたからだ。
ファデットは、そうなってもらいたいと思っていたところまで、シルヴィネが直ったのを見て、言った。
「あたしは帰ります。そしたら起きるんですよ、シルヴァン。だってもう熱はないんですからね。あまえていてはいけませんよ。おかあさんはあなたの看病で疲れ果てているし、お相手をさせられて時間をつぶしてしまっているんですからね。
それから、あたしが言っておくから、おかあさんが出してくださるものを食べるんですよ。それは肉です。うんざりだって言ってるのは知ってます。このごろは野菜なんかしか食べないんでしょう? だけどいいから、むりをして、たとえいやでも、そんな顔はしないでおきなさい。栄養物を食べてるのを見たらおかあさんが喜びますよ。あなただって、いやなのを押さえて、そんな顔はしないでおけば、二度めにはそれほどでなくなるし、三度めにはまったく平気になるわよ。あたしがまちがってるかどうか、やってみなさい。
じゃあさようなら、またすぐに呼びに来させるようにしないでくださいね。自分でなりたくなければ、もう病気になるわけがないんですから」
「じゃ、今晩来てくれないの?」とシルヴィネは言った。「来てくれるものと思っていたのに」
「おかねをもらってるお医者じゃありませんわ。あなたが病気でないときには、あたしにはほかにすることがありますからね」
「そりゃそのとおりだね、ファデット。だけどきみに会いたいって言ったのを、またぼくのわがままだと思ってるんだね。そうじゃないんだ、きみと話してると心がやすまるんだよ」
「あら、あなたはふぬけじゃないんだし、あたしの家も知ってるでしょ。もうわかってるでしょう、あたしが結婚してあなたの妹になることは。それにもう気持ちの上でも妹と同じよ。だから、あたしのところへ話しに来ても、ちっとも悪いことはないのよ」
「行くさ、きみがそう言ってくれるんだから」シルヴィネは言った。「じゃあさようなら、ファデット。ぼくは起きるよ。ひと晩じゅう眠れずに悲しんでたから、ひどく頭が痛いけどね」
「その頭痛も直してあげましょう」ファデットは言った。「だけどもうこれでおしまいよ。今夜はよく眠らなくてはだめよ。いいですか?」
ファデットはシルヴィネの額に手を置いた。五分もすると、シルヴィネはすっかりさっぱりして心が安まり、もうまったく、痛みがなくなった。
「ああ、まったくぼくはまちがってたね」とシルヴィネは言った。「きみをいやがったりして。だってきみはすごい直し屋だよ。病気を祈り出しちゃうんだから。ほかのやつらはへんな薬を飲まして病気をひどくしちゃったのに、きみは手をふれるだけで、直しちゃうんだ。いつでもきみのそばにいられたら、けっして病気にもならないし、はためいわくにもならないようにしてもらえると思うな。だけどねえ、ファデット、きみはもうぼくのこと怒ってないかい? これからはもうすっかりきみの言うことを聞くって約束したのを信じてくれるかい?」
「信じますわ」ファデットは言った。「あなたが気を変えなければ、まるでふたごのようにあなたを好きになりますわ」
「ほんとにそのつもりだったらね、ファンション、ていねいなことばづかいはやめてくれないか。だってね、ふたごってものはそんなに他人行儀に話し合わないもんだよ」
「さあ、シルヴァン、起きてよ。食べて、しゃべって、散歩して、眠るのよ」立ち上がりながらファデットは言った。「これがきょうのあたしの命令よ。あしたからは、働いてよ」
「会いに行くよ」シルヴィネは言った。
「いいわ」とファデットは言って、友情と許しのこもった目でシルヴィネを見て出て行った。すると、急にシルヴィネは元気づいて、今までみじめな気持ちでごろごろしていた寝床から出たくなってきた。
四十
バルボのおかみさんは、ファデットの腕まえにいくら感心してもまだ足りない気持ちだった。そしてその晩、夫にこう言った。
「ねえ、この半年というもの、シルヴィネがこんなに元気なことってありませんわ。きょうは出されたものをみんな食べて、いつものようないやな顔もしませんでしたよ。それにもっとふしぎなのは、ファデットのことを神さまみたいに言ってるんですよ。これ以上ほめようがないほどほめるし、ランドリが帰って来て結婚するといいって言ってるんです。まるでもう奇蹟よ。あたしは夢をみてるのか、起きてるのかわからないくらいよ」
「奇蹟かどうか知らんがね」とバルボおやじは言った。「あの娘はたいへんに頭がいいよ。あの子を家に入れるのは、とっても行く末がいいとわしは思うね」
シルヴィネは、三日後に、アルトンへ弟を迎えに出かけた。まるでたいへんなごほうびのように、ランドリに喜びをまっさきに伝える役を、父とファデットにねだったのだった。
「しあわせというしあわせが、いっぺんにやってきたみたいだよ」とランドリは、シルヴィネと抱き合って、喜びで気絶しそうになりながら言った。「にいさんが迎えに来てくれて、それも、ぼくと同じくらいうれしそうなんだからね」
ふたりがそろって道草も食わずに帰って来たのは、言うまでもない。そして、ファデットとその弟のジャネを囲んで夕食のテーブルについたとき、『ふたつっ子屋敷』のひとたちほど幸福なひとたちはなかった。
半年の間、だれにとっても人生は楽しかった。というのは、若いナネットが、ランドリにとっては家族の次にいちばん仲のよいカイヨの末息子と婚約したからだ。そしてふたつの婚礼は同時に行なわれることに決まった。
シルヴィネは、なにごともファデットに相談しなければすまないほど、ファデットに愛情を持つようになり、なんでも言うとおりにするので、まるでファデットを姉のように思っているようだった。もう病気にならなかったし、嫉妬はもう問題にもならなかった。まだときどき悲しげに見え、夢想にふけっているように見えても、ファデットがたしなめると、たちまちにこやかになり、すなおになった。
ふたつの結婚式は同じ日に、同じミサのもとにとり行なわれた。費用に不自由はなかったのだから、すばらしい婚礼になり、生まれてこのかた浮かれたことのないカイヨおやじでさえ、三日めには少し酔っぱらった顔つきをしていた。なにものもランドリと一家じゅうの喜びをくもらすものはなかったし、村じゅうについても同じだった。というのは、バルボ家もカイヨ家も金持ちだったし、ファデットは両家を合わせたほどの金持ちで、みんなにちゃんとした引出物を配ったし、ほどこし物もりっぱにしたからだ。心の広いファンションは、まえに自分を悪く思っていたひとたちみんなに、意地悪をしんせつで返すことばかり考えていたのだ。
同様に、あとになって、ランドリがりっぱな地所を買って、自分と妻との知恵でこれ以上はないというほどみごとにきりもりしていたときに、ファデットはその地所の中にきれいな家を建てて、週日に四時間ずつ村の不幸なこどもたちを迎え入れ、弟のジャネといっしょに、こどもたちを教育し、正しい信仰を教えてやり、最も貧しいこどもたちには救いの手をさしのべた。自分が不幸な、放りっぱなしのこどもだったことを忘れずに、自分の生んだこどもたちには、早くから金持ちでもなく、かわいがられてもいないこどもたちにやさしくし、同情するようにしつけたのだ。
だが、家族の幸福の中で、シルヴィネはどうなったか? だれにも理解できないし、バルボおやじをひどく考えこませるようなことになったのだ。ランドリとナネットの結婚の一か月ほどのち、父親がシルヴィネにも相手を捜して嫁をもらうようにすすめると、結婚にはぜんぜん気が向かないが、しばらくまえから、どうしてもやりたいことがある、と答えた。それは、兵隊に志願するということだった。この土地のどの家でも男子はあまり多くはなく、畑を耕すのに手があまってはいないので、志願兵などはこれまでほとんどなかったのだ。だからだれもがこの決心にはびっくり仰天《ぎょうてん》したのだが、シルヴィネは、理由としては、気まぐれと、軍隊が好きになったからとしか言わなかった。そんなものが好きだとは、これまでだれも知らなかったのだ。父、母、兄、姉妹、そしてランドリも、言えることはただ、やめてほしいということだけだった。そしてとうとう、家族じゅうでいちばんの頭の持ち主で、いちばんいい意見をしてくれるファンションに相談するほかはなかった。
ファンションはたっぷり二時間、シルヴィネと話し合った。そしてふたりが出て来たのを見ると、シルヴィネは泣いたようだったし、ファデットもそうだった。だがふたりとも落ち着いて決心のついた様子で、シルヴィネはやはり決心を変えないと言い、ファデットはファデットで、シルヴィネの決心を認め、やがてはシルヴィネのためにいいだろうと予言したときには、もう反対をとなえるわけにはいかなかった。ファデットが口に出した以上に、このことについて何か知っているとはだれも確信は持てなかったから、これ以上さからうこともできず、バルボのおかみさんさえも、ひどく泣いたことは泣いたが、折れて出た。ランドリは絶望していた。だが妻のファデットは言った。
「シルヴァンを立たせるのは、神さまのおぼしめしだし、あたしたちみんなのおつとめなのよ。あたしはちゃんとわけがあってそう言ってるんだと思ってちょうだい。そしてこれ以上は何も聞かないで」
ランドリはできる限り遠くまでシルヴィネを送って行った。肩にかついで行った荷物をシルヴィネに渡したときには、まるで、自分の心を持って行ってもらおうと渡したような気がした。いとしい妻のところへもどったが、看病してもらわなくてはならなくなった。というのは、心の苦しみがたっぷり一か月も、ランドリをほんとうの病気にしてしまったからだ。
シルヴィネのほうでは、ぜんぜん病気にもならず、国境まで旅を続けた。ナポレオン皇帝の勝ちいくさの時代だったのだ。そして、兵隊暮らしなど少しも好きではなかったのに、よく気持ちを押さえたので、やがてりっぱな兵隊として認められるようになった。戦場では、まるで自殺する機会を捜しているひとのように勇敢だが、いっぽう、こどものようにすなおに規律を守り、同時に最古参兵のように自分のことにはきびしかったのだ。昇進するだけの教育を受けていたので、十年の間、疲れと勇気と善行を積み重ねて、大尉《たいい》となり、おまけに戦功十字勲章さえ受けた。
「ほんとに、もうもどって来てくれたらね!」とバルボのおかみさんは、シルヴィネから、両親とランドリ、それにファデット、つまりは家族じゅうの老いも若きもみんなへの愛情のこもった手紙が着いた日の晩に、夫に言った。「もう将軍になったも同じですよ。そろそろ休んでもいいころだわ!」
「もう昇進しなくても、今の階級でじゅうぶんだよ」とバルボおやじが言った。「百姓の家にはもうたいへんな名誉だよ!」
「ファデットがいまにこうなると言ったのはほんとうだったのね」バルボのおかみさんは続けた。「そうだわ、確かにそう言ったわ!」
「それでもやっぱりね」と父親は言った。「どうしてあいつがあんなふうなことを思いついたものやら、どうしてこんなに性質が変わってしまったのやら、どうしてもわけがわからないよ。あんなに静かな子で、安楽に暮らすのが好きだったのに」
「あんたね」と母親は言った。「このことじゃ、家の嫁は口で言ってる以上のことを知ってるんですよ。だけどあたしのような母親の目はくらませられないんだ。あたしもファデットと同じくらい、わけを知ってるつもりだよ」
「今ごろになってそんなことを言うのか?」とバルボおやじはまた言った。
「つまりね、家のファンションはたいへんな治療じょうずで、シルヴィネに術を使ったときに、自分が思ってた以上に、あの子の心を奪ってしまったんですよ。ききめが強すぎたのを知ると、引きもどすとか弱めるとかしようとしたのよ。けれどそうはできなかったし、シルヴィネは弟の妻のことをあまり考えすぎるのに気がついて、誠実さと道徳心が強いから出て行ったのよ。それでファンションは賛成したし、許しもしたというわけなんですよ」
「もしそのとおりだったらね」とバルボおやじは耳のところをかきながら言った。「あの子はけっして結婚しないんじゃないかと心配だね。だって、昔、ふろ屋のクラヴィエールばあさんが言ってたろう。あの子が女にむちゅうになったら、それほど弟にばかげて執着したりしないだろうってね。それから、こうも言ったよ、シルヴィネはね、あまり感受性が強すぎるし、情熱家だから、一生にひとりの女しか愛せないだろうってね」(完)
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解説
ジョルジュ・サンドの文学
ジョルジュ George という男のような名、サンド Sand という英語のような響きの姓の筆名で知られるこのフランスの女流作家は、まず、文学生活の初期に、詩人ミュッセ、音楽家ショパンとの恋愛で人を驚かした。だが今日になって見ると、サンドのなによりの特質は、その創作の流れるような自然さ、容易さにあると言える。この女性にとって、書くとは、呼吸すること、歩くこと、愛好していたベリ Berry 地方の田園を散歩することに近かったのだ。やわらかい感受性と、人間性への優しい理解力に富み、優れた知性に恵まれているが、思想的にはなんの独創性もない……こう言ったら、サンドが常に周囲からの影響に動かされて、変わって行ったことの必然性が理解できるだろう。
二十七歳に始まって七十二年の生涯のほとんど最期まで続くサンドの創作生活は、小説二十五、回想記七、戯曲五、書簡集三を生んだが、これを四つの時期に分けることができる。
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一 恋愛至上主義時代……『インディアナ』(一八三二)『モオプラ』(一八三七)が主な作品である。ルソオ、シャトオブリヤン、バイロンの作品の影響が強い。
二 人道的社会主義時代……『アンジボオの粉ひき』(一八四五)など。社会学者ピエール・ルルウとの交友が大きく作用している。民主主義的な政治運動にも参与する。
三 田園生活の抒情的描写……『魔の沼』(一八四六)など。ことに一八四八年の血塗られた革命に絶望して政治活動から手を引いて書いた本書『愛の妖精(ラ・プチット・ファデット)』(一八四九)は、この傾向を決定的にした。自らの真の才能を発見したと言えよう。その後『笛師の群れ』(一八五三)があり、今日も読まれている作品はこの時期のものである。すべてベリ地方に取材している。
四 晩年の楽天的物語……『ジャン・ド・ラ・ロシュ』(一八六〇)、『ヴィルメール侯爵』(一八六一)など。ベリ以外の地方や十七世紀に取材した、祖母が孫に語るような美しい、静かな物語である。
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〔生いたち〕
ジョルジュ・サンド、本名オロール・デュパン Aurore Dupin は、一八〇四年七月一日、パリに生まれた。父のモオリス・デュパン・ド・フランカイユはナポレナン帝国の将校で、オロール四才の時、一八〇八年、乗馬中事故死した。オロールはこの恐ろしい日を記憶してい、それが美々しい制服に身を固めた父の映像とともにいつまでもオロールの心に残った。この時から母と引き離され、中部フランスのベリ地方にあるノアン Nohant の城で父方の祖母のもとに育てられた。
オロールの名はこの祖母の名を取ったのであり、従ってこれはオロールの名づけ親にあたる。この全く貴族的な祖母はなによりも、フランスの元帥《げんすい》、モオリス・ド・サックス(一六九六〜一七五〇)の娘であることを誇りにしていた。大革命以前の十八世紀フランスでの最大の武将であり、また多くのはなやかな恋愛事件で知られていたこの将軍は、一方では機智にあふれた才筆の持ち主で、その多くの書簡が今日まで残っている。いわばフランス人物史の中に永遠に名をとどめるような人である。
ところで、このモオリス・ド・サックスは、スエーデン系の貴族の娘オロール・ド・グーニグスマルクが、東部ドイツのザクセン選挙侯(のちに選ばれてポーランド王)オギュスト二世との間に生んだ私生児である。つまり、この婦人から始まって一代おきにオロールという名が、引きつがれているのだ。祖母はこの家系について、ノアンの館の広間の壁に並ぶ肖像を前にして、何度となく孫のオロールに語ったのだった。祖母の考えでは、自分の父は著名なあの元帥であり、自分の祖母は「ほとんど」王妃だったのだ。
さて、家系の誇りはまだある(次頁のサンドの家系図参照)。サックス元帥の腹違いの兄弟、つまりオギュスト二世の正統の男子は、父と同じにザクセン選挙侯であり、のちに同じくポーランド王となったオギュスト三世である。そしてその娘、つまりオロールの祖母の従姉マリ=ジョゼフは、フランス王ルイ十五世の皇太子妃となった。すなわち、ギロチンにかかったルイ十六世の母である。祖母は若い時に、ヴェルサイユ宮殿で従姉の保護を受けた思い出を大事にしていたし、拝領の指環をオロールに見せるのだった。つまり祖母によれば、デュパン・ド・フランカイユ家は「王家と縁続き」だったのだ。
この点は幼いオロールにはどうでもいいことだった。正にルイ十六世の首をはねた大革命のあとを受けたナポレオン帝国の将校の娘であり、十一才の一八一五年まで続いた帝国時代では、皇帝ナポレオンの英雄ぶりに好感を持ちはしても、決して亡命貴族のような反感を持つはずはなかった。けれど王朝時代のはなやかさ、優雅さはオロールの想像力を刺激したし、常に「お話」を考え出して相手かまわず、または相手がなくとも、ひとりで物語っていたと言われる幼女時代の空想の源《みなもと》のひとつとして、先祖のイメージは大きな働きをしていたろう。
オロールの母について語る前に、父方の家系を図にして整理して見よう。
つまり、サンドの父モオリスは正統ではないが、血縁からすれば、ルイ十六世の『またいとこ』である。さて、図にソフィとなっているモオリスの妻は、ソフィ=ヴィクトワール・ドラボルドであり、パリのフルール河岸の鳥商人の娘である。このふたりは、ナポレオンが終身統領から皇帝になった一八〇四年五月の即位式の一か月後の六月に結婚届を出し、その直後の七月一日にオロールが生まれている。こう言えば、祖母のオロール・デュパン・ド・フランカイユ夫人がこの結婚を喜ばなかったことはよくわかるだろう。実際、反対であったし、激怒していたし、結婚を無効にしようとして、パリ市役所に運動さえしたのであった。だが孫娘への愛がすべてをまるくおさめた。とはいえ、一八〇八年の父モオリスの死とともに、オロールが母から引き離されて、祖母のノアンの館に移ったのは自然の勢いであった。
母ソフィは、結婚前に生んだ私生児、つまりソフィの異父姉にあたるカロリーヌとともに、以後パリに住む。曾祖父サックス元帥が王家の私生児であったのを含めて、オロールは私生児に囲まれている。ノアンの館によく出入りするイポリットという少年は、父が結婚前に村娘に生ませた私生児だったのだ。
正統の子だけが重きをなし、また子供より親中心に生活する当時の貴族の風習としては、このような事情をだれもかくそうとはしなかっただろうし、男女の愛憎の種々相の展開と結末は、幼いオロールの前に生々しく見えていたのである。
祖母と、父の家庭教師でもあったデシャルトル神父がオロールの教育掛りであったが、それよりも影響の強かったのは、ノアンの風物だった。一歩外に出れば、館のお嬢様オロールは、村娘、いや、村の男の子たちと変わらなかった。乱暴なものを含めて、田園の子供の遊びのすべてにふけったし、一方、『愛の妖精』のファデットのように、ひとり物思いに沈むこともあった。
ベリ地方は、森と谷、川と沼に恵まれた平野であり、麦と牧畜が盛んで、今日でも祭りの日には伝統的なブウレの踊りが見られ、婚礼はにぎやかに、手回し風琴の音のうちに何日も続く。ローマ時代から開けた土地であり、変化に富むが荒々しさの全くないこの風土に結びついたサンドの抒情には、ドイツ・ロマン派の陰うつさはないし、一年じゅう風にさらされた森深いブルターニュ半島に生まれ育ったシャトオブリアン(一七六八〜一八四八)の暗い激情に比べて、はるかに明るく、おだやかである。
〔少女時代〕
ノアンに住んだと言っても、母と絶縁していたのではない。そのころの習慣として、祖母は冬の社交シーズンをパリで過ごすことが多かった。芸術家肌であった父モオリスは女性の美については間違いをしなかったと言えよう。母は美しい人だった。幼いオロールはさらにその人柄にも美化したイメージを持っていた。ノアンで異母兄のイポリットと馬を並べて走らせているように、パリでは母の家で異父姉のカロリーヌと遊んだのである。本書のファデットの映像の中には幼いオロールの姿がかなり入っていると言えるが、オロールをファデットと同じような純然たる田舎育ちの娘と考えるのは間違いだろう。後年のサンドにとって、パリは田園と同じに幼時から親しんでいた場所であり、そのはなやかさに驚かされることはなかったのだ。
一八一五年、オロール十一才の時、ナポレオンはセント・ヘレナに流され、ルイ十六世の弟ルイ十八世が即位し、王政復古となる。宗教的ムードの復活に押されてか、一八一七年、十三才のオロールは急に宗教教育を受け、最初の聖体拝受をする。このころから、急激に読書を始め、ルソオ(一七一二〜一七七八)に熱狂し、空想の世界に閉じこもり、じゃまをされると激しく反抗する。偽善的な王政復古の時代には危険な徴候である。手におえないと見た祖母はオロールをパリの英人修道院の寄宿生にする。革命派の神父であったデシャルトルの合理主義的教育の影響もあって、信仰に入るのには抵抗を感じたが、祖母の監視を逃がれたのは、自我を主張するのに急なこの年ごろでは、限りなく嬉しいことであった。
やがて、修道尼たちの激しい宗教的熱情に魅力を感じ始める。オロールのあふれるような熱情と愛への期待が、何かのはけ口を求めていたのだとも言えよう。その意味で敬愛していたアリシア尼が、ひとり熱烈な祈りを神に捧げ、激情のあまり礼拝堂の石だたみになかば失神して倒れているのを見て、衝撃を受け、オロールは信仰に入る。このアリシア尼の記憶は長く残る。オロールの熱情は止まる所を知らない。ついに、修道尼になることを希望した。だが相談を受けた告解聴聞僧は、この少女の熱情を真に宗教的なものとは思わなかった。しらせを受けて驚いた祖母は、オロールをノアンに連れ戻す。修道院生活三年ののち、一八二〇年、オロール十六才の時である。
はじめひどく悲しんだオロールも、やがて、なつかしいベリの野原に楽しみを見出したし、祖母が青年たちの来訪を許したので、友人もできた。この中に、のちまでもつきあいを保つステファヌ・ド・グランサニュがいる。オロールは「男装」し、馬を走らせる。婦人は長いスカートのまま横ぐらで足を揃えて乗馬するこの時代には、スボンに長靴をはくことは人々の驚きの的となったのだ。そこには対象のない反抗心の発露があったとも言えるが、オロールほど男勝りに馬に乗れる場合には、ズボンの方が便利だという、簡単な理由もあったに違いない。
ジョルジュ・サンドとなってからのオロールの伝説的な男装も、このころの習慣の延長が根本にあり、パリ人士がそれに驚いたからこそ別な意味が生じたのである。はっきりした主義主張があってそうしたと考えるのは行き過ぎであろう。
修道院で制限されていた文学的読書がまた始まる。シャトオブリヤンの作品を知り、そのロマンティックな小説の主人公ルネに熱狂する。このような高貴でデリケイトな魂の持ち主こそ、オロールの憧れの人物だったのだ。多量に、早く書くこともこのころに始まった。多くの習作が書かれる。
一八二一年、ノアンに戻って一年して、祖母が死ぬ。母は、発作的にオロールを愛撫するが、いざそばにいられるとなると、面倒になるという人物である。祖母の死を悲しむオロールと同じ気持ちになれるわけでもない。結局、ノアンの領地はデシャルトル神父が管理し、オロールは知人デュ・プレシス家に引き取られる。
〔結婚生活〕
デュ・プレシス家の人たちとパリに滞在中、この家の知人カジミール・デュドヴァン男爵と出会う。南西フランスのガスコーニュ地方に広いぶどう園を持っている大佐の息子である。この青年と一八二二年、十八才でオロールは結婚する。夫は九才年長で二十七才であった。のちにあれほど性格不一致で苦しむことになるカジミールとの結婚に、なぜオロールは熱心だったのか? 南仏人らしく積極的な求愛に、選ばれたことへの少女らしい嬉しさから、気持ちが動いたのか? 他家に世話になっている状態から抜け出したかったからか? とにかく、カジミールが美男子だったことは間違いないようである。
夫婦はノアンに落ち着き、夫は領地の経営に才を示し、狩りに熱中する。翌一八二三年、長男モオリスが生まれる。このころからオロールのロマンティックな性状に対する夫の無理解が耐えがたくなって来る。一八二五年には、ノイローゼ状態を示し、ピレネ地方に転地療養する。そこで知ったオーレリアンと精神的な愛情に結ばれるが、少女時代の友人ステファヌ・ド・グランサニュに再会し、その求愛に負け、一八二七年暮れ、パリに旅行したさい、ステファヌの恋人となる。だが一時の激情が去ったあとでは、この出来事はオロールを悲しませる。自分の空想の女主人公たちの精神的な愛とは、あまりに遠い所に来てしまったからだ。翌二十八年九月、長女ソランジュが生まれる。生活の表面は変わらない。夫はステファヌと妻の仲を疑い、遊びだけの男友だちをも疑い出す。一八三〇年、七月革命の知らせのもたらした興奮のうちに、知人宅で、パリから帰省中の学生、当時十九才のジュール・サンドオを知り、恋に落ちる。オロールは二十六才である。
この年パリではユゴオの劇『エルナニ』の成功がロマン派の勝利をもたらした。もはや何物もオロールを引き止めない。夫が持っている行動の自由は妻にとっても「相互的」であるべきなのだ! 十一月の新学期にパリへ戻ったジュールのあとを追って、一八三一年一月、オロールはパリに出、ホテルの一室でジュールと暮らす。当時の貴族の婦人にとって夫婦生活と恋人を持つこととを両立させるのが良い趣味だったのに比べれば、これは過激なやり方であり、オロールを満足させるだけ十分にロマンティックである。
けれども、これは世間と断絶するような形で行なわれたのではないことに注意すべきだろう。夫は一定額の送金をし、オロールは夏にはノアンで過ごす約束だったし、パリにいる親類知人の手前は、あくまで家の都合でパリに滞在することにしてあったのだ。自由と、真実で完全な愛への欲求に絶えまなく追い立てられていたオロールは、だからと言って、周囲の人たちが構成する社会的しきたりを無自覚に破壊できる性質ではなかったのだ。〔多くのサンドの紹介書に、子供を連れてパリに出たことになっているが、実際には、ふたりともノアンに残したし、その後一時、長女ソランジュを引き取ったが、子供を決定的に引き受けたのは一八三六年離婚成立後である〕
〔文学生活の準備〕
ベリ地方出身者の紹介で『フィガロ』紙の編集長ラトウシュのもとで記事を書くことになったオロールは、法科学生だが文学的情熱に燃えている恋人のジュールと共同して、短編をいくつか書き、『フィガロ』以外の新聞雑誌にも発表した。この仕事は、扇子《せんす》に絵をかいて店に出すのと同時に生活費の不足分を補うために始められたのだが、すでにオロールの習性となっていた「書く」ということはここでその方向を見出したのである。
この年、一八三一年、刊行された小説『ローズとブランシュ』は、記事と同じく、J・サンド Sand と署名されていた。ジュールの姓 Sandeau をちぢめたふたりの筆名である。この作品はあまり評判にならなかったし、ラトウシュは圧制的な指導者でオロールに記事を何度も書き直させたし、知り合った小説家バルザック(五才年長)もオロールのことを一愛読者と思っていたにすぎない。この若い婦人の男装や奇抜な衣裳、またはその自由なふるまいは、徐々に文壇人のあいだで評判となっていたが、このようなことはオロールの内面的欲求と気まぐれから起こっていたのに、一度評判になると、オロール自身がそれにしばられるという矛盾を生み、それを自分で苦しむのだった。奇をてらって喜んでいるという一面的な単純さではオロールを理解できない。この点では、嫌われるとわかっていながら、意地悪をし、それを自分で悩むファデットの内面と極めて近いと言えよう。また、むしろ口べただったオロールに流行才女の姿を見るべきでもない。
夏、ノアンに帰ったオロールは書くことをやめない。男の圧制と女の屈従を描いたその小説は翌一八三二年『アンディアナ』として世に出る。これにはジュールは一筆も協力していない。
〔ジルジュ・サンドの誕生〕
『アンディアナ』の刊行にあたって、ラトウシュのすすめで、多少は知られて来たサンドの筆名を残し、オロールだけを指す名を考えることになった。そこでオロールは、ベリ地方で悪魔を意味するジョルジョン Georgeon をちぢめて、George とした。それにこれは男子名ジョルジュ Georges と比べると、語尾のSがなく、英語のジョージと同じ綴りになるが、古いフランス語やベリ方言では、女性名となるのである。
『アンディアナ』は圧倒的な好評を博し、それまでの文壇の知友から新しい尊敬を受け、交友も拡まったが、一方では、高圧的なラトウシュは、オロールの才を認めながらも、もはや思いのままの弟子ではないオロールを離れる。また、ジュールが洗濯女と愛を語っている現場を見てしまったオロールは、この若い恋人と訣別する。ジュールを恋人以上のもの、兄弟、同志とも考えていたオロールの受けた衝撃は大きかった。自分はもう幸福になれないのではないかという絶望がオロールを襲う。メリメ(二才年長)との奇妙な「実験」が行なわれる。常に決然として落ち着いているこの作家が「幸福の秘法を身につけていて、それをわたしに教えてくれるのではないか」(批評家サント・ブーヴへの手紙)と考えて、身を任かせたのだ。なぜなら「自由はわたしをむしばみ、わたしを殺す」からだ。実験は失敗に終わり、「一人の男に従属する喜び」は得られなかった。サンドは自由であるほかはないのだ。
〔情熱の文学〕
『ヴァランチーヌ』が、第一作の二か月後に発表される。愛のない結婚をした貴族の娘ヴァランチーヌが農民の青年との恋に落ち、義務と愛との間で苦しむ小説である。少女時代からのルソオの影響で、オロールは常に社会的不平等に悩んでいた。後年、政治的関心を持つ素地は皆無ではなかったのだ。オロールは書くことで自分を解放する。だが、書くことはさらに書くことを誘いだす。オロールはすでに第三作『レリア』を準備し、それは翌一八三三年に公表される。がその年の暮れ、オロールは新しい恋人、詩人ミュッセ(六才年下)とイタリアへの旅に出る。二十九才になろうとしているサンドはミュッセとの生活の中に再び熱情と幸福を見出したのだが、早くもこの旅行の途中でふたりの中は悪化した。ひとつには創作の仕方の違いが問題であった。サンドは毎日、書く。ミュッセは何か月も書かずにいられる……だが、三四年の一月、ヴェニスで病いに倒れたミュッセをサンドは献身的に看護する。若いイタリア人の医師パヂェッロのサンドへの感情は好奇心から同情へ、同情から愛情に変わり、サンドもこのイタリア人に愛を持った。ミュッセはすぐそれに気づいたが、詩人もこの医師に友情と理解を示し、医師の方も同様である。
この奇妙な、しかしロマンティックな三人の感情のあり方は、この年に刊行された『ジャック』に反映している。また『一旅行者の手紙』には、ヴェニスのローカル・カラーについて、パヂェッロの助言を受けている。喜びの中でも苦悩にさいなまれる時も、サンドの筆は軽やかに、早く、動いたのだ。三月、ミュッセはふたりを残して、パリに帰る。やがてサンドもノアンに帰り、そのあとを追ってパヂェッロはパリの病院に勤務してフランスにやって来るが、イタリア風の情熱は、フランスで見ると、こっけいになる。フランス人は真の愛情を抱いている時でさえ、人の目にこっけいに映ることを死ぬほど嫌うものだ。
一八三五年、一月から三月に渡るミュッセとの、二度目で最後の共同生活の試みは、失敗に終わる。サンドは逃れるようにミュッセのもとを去る。同年、ベリ地方の共和派の雄、弁護士ミッシェル・ド・ブウルジュを知り、その思想と雄弁に圧倒される。この弁護士はサンドに「人を傷つける」勇気を与え、夫デュドヴァン男爵との離婚訴訟を開始する。これは翌三十六年結着し、夫の権利下にあったノアンの館と領地を取り戻し、長男モオリスと長女ソランジュの養育権を得る。
この夏、一年前から招かれていたリストとその恋人アグウ伯爵夫人をスイスに訪れる。リストの曲に発想を得た小品『密輸者』を一夜で書き上げて、パリの新聞をにぎわす。十月帰京して、リスト一家とサンドは翌三十七年四月まで、同じホテルに暮す。美しいアグウ伯爵夫人のサロンはサンドの存在でさらに引き立ち、芸術家の集合所となったが、対照的なこのふたりの婦人の性格は、結局、友情に水をさす結果に終わった。
この年、母ソフィが死ぬ。サンドは想像していなかったほどの悲しみに襲われて驚き、肉親のきずなを深く信じる。場面をベリ地方に取った『モオプラ』が出る。荒々しい男の本能を高貴な魂の持ち主の女性が導くという主題のこの小説は、ロマンティックな設定のもとでのサンドの代表作となる。
〔政治的な時期〕
一八三八年に始まったこの理想主義的な社会主義の時期は、奇妙にも、ショパン(六年年下)との八年間の共同生活と重なっている。この年、子供たちを伴ってサンドは、ショパンと、スペイン領バレアレス諸島のマジョルカ島に滞在する。山の上の見捨られた修道院跡での生活は、不便で高くついたし、しばらくのうちに、ショパンの神経には耐え難くなった。土地の料理女の作るものは、ショパンの胃には受けつけられなかった。サンドは自ら調理台に立ち、かつ書きまくる。パリに戻ったふたりは、共通の部分の外に、ふたりそれぞれに仕事部屋となるあずまやを持った家に暮す。一八三九年以後は主にノアンに止まる。たえ間ないショパンとの衝突にも、今やサンドは優しく耐えて行く。社会学者ピエール・ルルウの影響のもとに、社会的な問題意識に燃えて作品を発表して行く。『スピリディオン』(一八三八)、『フランス一周の伴侶』(一八四〇)、『オラース』(一八四一)、『コンスエロ』(一八四二〜四三)、『リュドルスタット伯爵夫人』(一八四三〜四五)、『ジャヌ』(一八四四)、『アンジボオの粉ひき』(一八四五)『アントワヌ氏の罪』(一八四七)。「今や耳まで政治につかる」。
ルルウと共に一八四一年『独立時報《ルヴュ・アンデパンダント》』、一八四五年『社会時報《ルヴュ・ソシアル》』を創刊、前者に『ファンシエット』(一八四三)、後者に『百姓たち』(一八四六〜四七)を掲載する。
一八四八年、革命の報を聞くや、サンドはパリに出て、二十五才になろうとしている長男モオリスの宿に陣取り、書きに書く。友人たちに手紙を書き、週刊誌を発行し、革命臨時政府の発行する『共和国公報《ビュルタン・ド・ラ・レピュグリク》』に執筆する。これはフランス中の町々に貼られる壁新聞であった。だが共和国がプロレタリア革命へ暴走しようとすると、ブルジョワ的な革命政府は、急速に反動化し、『公報』十六号で、「革命の成果を極限まで押し進めるべきだ」と叫んだサンドは、以後『公報』への掲載を拒まれる。サンドの友人バルベスはさらに革命を起こそうとし、同志と市役所へ進撃するが、捕えられる。翌年の『愛の妖精』はこの人に捧げられた。そして、労働者の暴動は、血生臭い弾圧の中に押しつぶされる。熱狂的な理想主義は泥にまみれ、サンドは政治に深く失望する。
〔田園小説〕
すでに一八四六年、ベリ地方に取材した素朴な農民の物話『魔の沼』が発表され、四七年には『フランソワ・ル・シャンピ』がある。だが、革命に失望したサンドはノアンに帰り、つねに心を慰めてくれるノアンの風物の中での物語に、自分の方向を定めた。そこで書かれた『愛の妖精』は自分の心を慰めるためでもあり、また荒廃した世間の人々の気をまぎらせるためでもあった。四九年に発表されたこの作品は、五三年の『笛師の群れ』とともにサンドの代表作と見なされている。人間観察と農民への同情が、この時期には、恋愛と政治という外部への自己投射から身を引いたサンドを支えて、かえって豊かな内面世界をつくり出したと言えよう。結婚してノアンに住みついた長男モオリスは、良い農業経営家となり、サンドにふたりの孫を与えて、楽しませた。だが、まだサンドは完全な幸福とは遠かった。長女ソランジュの驚くべき浪費癖と虚栄心は結婚後ひどくなるばかりであり、サンドは娘の借金の支払いに追い回された。
一八四七年に始められ、一八五五年から翌年にかけて発表された『我が生涯の物語』も、執筆の動機は、娘の借金の支払いであった。とはいえ、この形の作品を構想したのは実に三十年近く前、一八二七年、デュドヴァンとの結婚生活が悪化して来たころにさかのぼる。いわば、この三十年間の全作品は、サンド自身の生活のその時その時の感情を反映して来たもので、それ自体がサンドの生涯の歴史であったのだ。
〔晩年の静かな物語〕
フロベール、ロシヤのツルゲーネフなど、新進の作家たちが、サンドに敬意を表しにノアンを訪れ、滞在して行く。土地の農民からは『ノアンの優しい奥様』と敬愛され、サンドは美化された、それだけに現実味の薄い物語を疲れを知らずに発表して行く(年表参照)。
一八七〇年、フリートリッヒ二世のプロシャと、ナポレオン三世のフランスは、宣戦を布告しあう。六十六才のサンドにとっては、戦争は馬鹿げたことだったが「それでもとにかくドイツ人を破らなくては」と極めて楽天的であった(フロベールへの手紙)。
だが列車輸送による兵力動員という近代的方法に成功したプロシャの前に、フランス軍は惨敗し、「これを見るために、わたしは生きのびたのか?」とサンドを嘆かせる。
第二帝国の崩壊、第三共和国の成立、パリ・コミューヌという激動の中にあって、サンドの往年の共和主義的熱情のよみがえりは見られなかったが、一八七一年の『一旅行者の戦中日記』では、「民族の偉大さは、物質的強大にあり、一人物の政策の中に実現すると考えるというあやまり」におちいっているドイツをむしろ哀れみ、その将来の危機を予言し、断固として、敗戦はフランスの魂を押しつぶすことはできないと言い切っている。
一八七六年(明治九年)六月八日、七十二才の誕生日を一か月前にして世を去った。吐き気に苦しめられたつらい臨終であった。フロベール、ルナン、デュマ等多くの文学者がつめかけていたし、社会的事件ともなったから、新聞記者の群れもノアンにかけつけていた。枕元には、書き始めた小説『アルビーヌ』のノートが残っていた。
思想において独創性がなく、他からの影響が強かったとはいえ、あらゆる時期を通じて、サンドの感情は真実だったし、影響を受けるにしても、以前からその傾向のなかった場合はない。どの場合にも、サンドにとって問題だったのは、愛と熱情であり、どのような思想の展開も、愛と熱情というサンド自身の内面性に戻って行き、主義主張の形で残ることはなかった。サンドが残したものは、そしてこれは結局すべての作家について言えることだが、その作品であった。
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『愛の妖精』について
〔作品の成立と背景〕
サンドの作品のうちで、後世で最も良く読まれ、また日本で古くから知られているこの田園の愛の物語は、意外にも、サンドの内面では、一八四八年の二月革命と、その反動化による、六月の労働者の暴動の血塗られた弾圧と結びついている。五月にすでに身の危険を感じてノアンに帰ったサンドは六月事件のあと『小さなファデット(プチット・ファデット)』すなわち、日本で『愛の妖精』として知られるこの作品に着手している。パリでは逮捕が続き、一万五千名が収監され、一般の裁判所ばかりでなく、軍事法廷も開かれる。三月に、「真の共和国」の成立を求めて、革命臨時政府に反抗したサンドの友人、バルベスも捕われている。九月には書き上げられたらしく、序文にはこの月の日付けが入っている。『スペクタトウール・レピュブリカン』誌に発表する予定だったが、この新聞が廃刊になったので、『クレディ』誌に十二月一日から連載された。これは社会主義的共和派の日刊機関誌であった。
この同じ十二月には、ナポレオン皇帝の甥《おい》であるルイ=ナポレオン・ボナパルトが第二共和国大統領に、圧倒的な勝利で選ばれる。反動的な支配階級にかつぎ出されたこの野心家は、その名前の栄光の故に、農民や都市の庶民の盲目的支持を受けたのだ。反動家たちは労働階級を押さえつけるために、強権政治を望んでいた。ルイ=ナポレオンは四年後一八五二年には、皇帝ナポレオン三世となる。『クレディ』誌などの共和派の人たちには、一八四八年十二月の選挙の時に、このことは目に見えていた。だが、パリも地方も、世を挙げて反動の時代である。社会主義者は対立候補を立てることもできない。ルイ=ナポレオンに反対するために『クレディ』誌は六月事件で労働者に対する発砲を命じたカヴェニャック将軍の立候補を支持するほかはなかった。サンドの理想主義は今や反動化した革命政府のじゃまになっている。
ノアンは今日でも人口六百の村にすぎないが、郡の役場のあるラ・シャトルでは、サンドが、小さい子供と六十歳以上の老人の首を切るつもりだ、神も家族のきずなも破壊するつもりだというデマが、しつように流される。百姓たちがノアンの館のまわりに押しよせて「共産党をやっつけろ!」と叫ぶ。そのくせ、サンドがバルコニーに姿を見せると、静まりかえり、帽子を脱いでおじぎをするのだった。
このような状況のもとに『愛の妖精』は書かれ、発表され、そして翌一八四九年に刊行されたのである。この作品は、政府に捕われている同志バルベスに捧げられた。動乱と失望の時期にあってこれは進歩的な人たちの心を慰めるものとして書かれた。
「現在の不幸への直接の言及、くすぶっている激情への呼びかけ……救いへの道はそこにあるのではない。優しい歌、ひなびた風笛の音、子供たちを寝つかせる物語の方が、虚構の色あいで強められた現実の苦しみの場景よりましなのだ」(一八五二年版への序文……一八五一年十二月二十一日)
〔『愛の妖精』の構成〕
一八四九年の初版の序文によると、これはベリ地方の『麻打ち男』が、夜なべに昔話をしたのがこの物語であるとされている。だからこの小説の地の文章はすべて、この『麻打ち男』のことばなのだ。けれどこの話者は物語の展開の中で役割りを持っているわけではなく、時々「わたしは……」と言い出すだけなので、しばしば作者は、自分がこのような形式を取ったことを忘れている。小説がカメラ・アイのような、純枠に客観的な描写手段となったのは、フロベールの『ボヴァリー夫人』(一八五七)が最初であり、それ以後でも、例えばフロベールの弟子のモーパッサンの短編でも、作者がだれかから聞いた話という形式は極めて数多い。そういう形を取っていなくとも、サンドの同時代の大作家、バルザックやスタンダールの小説では、作者が突然読者に話しかけることがめずらしくない。
ユゴオが晩年に書いた小説『レ・ミゼラブル』(一八六二)では、作者は筋と関係のない議論や説明を何章にもわたって展開する。だから、この作品でも、序文の話者の設定がなくとも、「わたくしは……」という部分は、作者の介入と考えても、不自然ではなく、序文をつけない版も多いので、この訳書でも序文は割愛した。
作品の時代は、大革命の直前からナポレオン一世の帝政時代にわたっていて、したがって、発表の年一八四九年(作者は四十五才)からは大体四十年前が物語の終わりの時点で、発端であるランドリ兄弟の誕生はその二十九年前となる。だが時代の影響を感じさせる要素は皆無である。社会的な事件から目をそらすための作品としては当然であろう。年代を決める手がかりは全くの巻末にシルヴィネが兵隊になったくだりで「ナポレオン皇帝の勝ちいくさの時代だったのだ」(本書四十章)という一行だけである。
シルヴィネがその後十年勤務して大尉になったことはわずか一ページで説明してしまっているから、この物語の本体の時間の経過は、ランドリの誕生から十九才で結婚するまでである。ナポレオンの勝ちいくさは一八一二年のロシヤからの退却まで続くのだが、サンドの頭の中には、ナポレオン軍の将校で一八〇八年に死んだ父の戦歴がきざみこまれていたのではないかと考えれば、シルヴィネが大尉になったのがこの年、ランドリの結婚はその十年前の一七九八年、従って生まれたのは、十九年前の一七七九年、まさにフランス大革命の十年前となる。
こう考えると、フランス史上の大変革の時代にしては、全く社会の動きとかけ離れた物語で、コッスとプリッシュという二つの部落の中だけが全世界となっているような感じがして来る。社会の現実の苦しみから離れたいというサンドの欲求がよく見て取られると言えよう。
〔『愛の妖精』の文学史上の位置〕
なんといっても、農村を舞台に人物は農民ばかりであり、それが本当の農民であるということがこの小説の新しさであった。十七世紀以来、羊飼いと女羊飼いの純粋な愛を主題とする「牧歌物語」は二百年の伝統を持っていたが、そこでは羊飼いは宮廷人と同じ優雅なことばを話し、宮廷人の模範となるような高貴な魂の持ち主だったのだ。本書では、町から帰ったあとのファデットの言動に極端な美化が見られるほかは、すべての人物について、農民の健康で正常な反応が、暖かい目で、正しく描かれていると言えよう。同じ田園小説の中でも、『フランソワ・ル・シャンピ』の筋立てのロマンティチックな異常さ、『魔の沼』と『笛師の群れ』の幻想性から見ると、はるかに農村の日常性に即している。
よく、ひと口に、バルザックの現実主義、サンドの理想主義と言われるが、バルザックは金銭、野心などの極めて現実に即した主題を扱いながら、極めて強烈な性格の人物を配して、現実を突き抜けているし、サンドは理想化された美しい感情を主題としていながら、全く日常的で自然な人物を描き出しているのだ。真に個有な才能を持った作家に、唯ひとつのレッテルをはるのが無意味におちいることがあるのがよくわかるだろう。
作品鑑賞
〔内容の分析〕
シルヴィネとランドリの双生児兄弟は深く愛し合っている。嫉妬の発作で姿をかくしたシルヴィネを探すランドリを、頭がいいが、みにくいと言われているファデットが助ける。通俗的な美少女マドロンにひかれていたランドリはファデットの真価を知って愛すようになる。ランドリの忠告と愛によってファデットは美しくなる。弟と同じにファデットを愛してしまったシルヴィネは、身を引くために兵隊になる。
この作品の第一主題は一卵性双生児(『|ふたつっ子《ベッソン》』)の異常な愛であり、第二主題は、頭の働きが年令に先行して女らしさを忘れた少女の、愛による女性への成長である。従って、第一主題では、シルヴィネ、第二主題では、ファデットが特異な性格の持ち主となり、両者をつなぐランドリは全く平凡で正常な青年である。だが、この作品の成功の理由は、ランドリをこのようなものとして書き切ったことと、三人にほぼ均等な重みを与えたことにあると言えよう。そして作品の魅力は、自分の気持ちを人に理解されないままに反発する、利発で同時に夢想的な少女ファデットの描写にあると言える。
元来、少女という存在は、男性作家には鬼門である。サンドを除けばバルザック以来、今日まで、フランス小説の伝統として、女主人公は成熟した女である。少女を主人公として成功した例は、近々十数年前の、女流作家フランソワーズ・サガンの『悲しみよ、こんにちは』(一九五四)に至るまで、絶無と言っていい。従ってファデットはフランス文学史上、忘れ難い人物像となっているのが理解できよう。中年になってもサンドの黒い瞳は印象的だと言われたし、少女時代からのおてんばも夢想癖も、この、黒い瞳のほかはみにくいと思われていた、いたずら娘ファデットの中にあるが、すでに言ったように現実のサンドの少女時代は、偉大な祖先の記憶と、パリ滞在と読書によって、ファデットよりはるかに広い世界を持っていた。いわばファデットは少女時代のサンドのノアンとの関わり合いの分身と言えよう。だが、町から帰って美しくなったファデットは、シルヴィネのわがまま病を直すくだりでは、読んで快よいにせよ、あまりに立ち優って、あまりに美化されている。また、ファデットが急に金持ちになるという遺産発見の設定は、現金を見て汗をかくバルボおやじという、農民の本性の巧みな描写を生んでいるが、安易な解決という非難をまぬがれない。筆が早いサンドには、投げやりとか、あきやすいという批評があるが、これもその例であろう。
〔ことばと文体〕
フランス人の評者で、この小説の第一パラグラフには、数行のうちに、「……(で)ある」とか「……(に)いる」という動詞「※」が、無神経に六回も使われていることから、サンドの投げやりな書き方を非難している人がある。この動詞は無色透明な感じがするから場合に応じて他の動詞に置きかえた方が文章に生彩を与えるとは、フランスの中学校の作文の教科書にもあることだ(「円柱が台石の上に『ある』」→「円柱が台石に『冠りとなる』」)。他の作品も考えれば、この評は当たっていないとは言えないが、この個所だけについて、書き出しからして投げやりだと言えるだろうか? これは一応、『麻打ち男』が物語っていることになっているのである。「※」(英語の be 動詞)が多いのは、教養のない百姓の話しぶりにふさわしくはないか?
言い回しは別として、この話者のことばは全くの標準語である。ベリ方言や古い言い方が出て来るのは、常に単語としてでしかない。
一卵性双生児を指す『|ふたつっ子《ベッソン》』、それからつくった『|ふたつっ子屋敷《ベッソニエール》』を除いては、登場人物は全く方言を話さない。感情の分析となると、ことにファデットは、現実とは思えない精密さで話す。これはこの作品から約三十年後の自然主義の時代、例えばモーパッサンの、田舎に場面を取った小説で、しばしばなまり(つまり発音)まで文字に写しているのとは大きな違いである。近くは、一九六三年に封切られて日本でも評判になった映画『わんぱく戦争』の原作『ボタン戦争』(ペルゴオ作一九一二)では、方言(単語)、言い回し、なまり(発音)まで写し出されている。だから、サンドの農民は、その姿ばかりでなく、ことばまで美化されているのだ。それに、祖母の貴族的な教育によって、サンドが大貴族の言動を描くのにも極めて巧みであったことを忘れてはならない。この作家は社会の両極端に暮す人たちを親しく知っていたのである。そして不道徳とののしられ、男おんなと言われたとしても、サンドは、終始、社交界に通用する人間であったし、その社会の口調がサンドの口調だったのだ。従って方言は単語だけの問題だから、あえて、それらしく訳して見た。
だがこの時代的制約を取り除いて考えれば、やはり『愛の妖精』は前時代の『牧歌調』と違って、本当の農民の考えと生活を映し出しているのである。サンドのしなやかで息の長い文章は、そのまま日本語にするとわかりにくくなり、途中で切ったり、別な所とつないだりしなければならないが、フランス語で読めば、なんの抵抗もなくなだらかに読める。多くの場合、サンドは『麻打ち男』が語っていることを忘れているらしいとはすでに言ったが、方言や古語を持ち出す時の外に、この百姓男の話しぶりを意識していると思われるのは、この小説の地の文に見られる、持って回ったような言い方や同じことを言っているに過ぎない循環論法だ。これは一種のユーモアの要素となる。例えば、ランドリがいなくなったシルヴィネを探すくだりで、シルヴィネの犬を口笛で呼ぶわけが、「なにしろ一日じゅうその犬は家にいなかったし、『犬の若主人もそうだったのだ』」(第八章)。また、村を出て行くファデットを追いかけたランドリが息を切らせている箇所で「『口』がきけるようになり、こう言った」(第二十四章)など、よく考えて見ると奇妙な意味上の重復が全編にある。サンドの他の田園小説と比べても、これは著しい特長であり、社会的現実から、ひいては自分自身からこの作品を引き離したかった制作当時のサンドの心理状態が、この作品の成功を生み出したと言える。
〔『愛の妖精』の受け取り方〕
フランスでも他の国でも、この物語は今日まで、広く若い人たちに愛好されている。あまり年の違わない少女マドロンとファデットに引き回される好青年ランドリは、少年たちの共感を得るし、ファデットは変動のはげしい思春期の少女の屈折した心理をそのままにたどって、涙の出るほどの感動を与えかねない。またシルヴィネのようなわがままはだれの心の中にも潜んでいるのだから、ファデットの優しい心理療法ぶりを読むと、自分が慰められているようにさえ思える。また、年配の人が読めば、昔を思って心温まる思いのするほかに、バルボ夫婦やカイヨおやじの、田舎のまっとうな人たちの心の動きに、洋の東西を問わずに似通ったものがあるのに気づいて、興味を持つだろう。このように、さまざまな立場の、ことなった年代の人たちが、それぞれに興味深く読むに耐えることが、良い文学作品の特色なのだ。
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年譜
一八〇四 七月一日、パリでモオリス・デュパンとソフィ・ドラボルドの娘オロールとして生まれた。
一八〇八(四歳) 父モオリス急死。以後一八一七年までベリ地方アンドル県ノアンの祖母の館に暮らす。
一八一七(十三歳) パリの英国人修道院の寄宿生となる。熱烈な信仰に入る。
一八二〇(十六歳) 修道尼を志願し、驚いた祖母によってノアンに連れ戻される。
一八二一(十七歳) 祖母の死。母が引き取らず、知人宅にあずけられる。
一八二二(十八歳) カジミール・デュドヴァン男爵と結婚。ノアンに住む。
一八二三(十九歳) 長男モオリス誕生。
一八二五(二十一歳) 夫との性格不一致からノイローゼになり、ピレネ地方に転地する。オーレリアン・ド・セーズという人物を知り、精神的な愛情に結ばれる。
一八二七(二十三歳) 年末、少女時代からの知人ステファヌの恋人となる。
一八二八(二十四歳) 九月、長女ソランジュ誕生。
一八二〇(二十六歳) 七月、十九才の法科学生ジュール・サンドオを知り、恋におちる。十一月、ジュールの帰京後、夫と年間六か月ノアンで暮らすことを条件に別居の談判をする。
一八三一(二十七歳) 一月、単身パリに出、ジュールとホテルの一室、やがて、屋根裏部屋に住む。新聞『フィガロ』の編集長ラトウシュの指導で記事を書く。ジュールと協同で『ローズとブランシュ』を書き、刊行する。
一八三二(二十八歳) ジョルジ・サンドの名で『アンディアナ』を発表し、一躍文名をたかめる。第二作『ヴァランチーヌ』刊行。ジュールの不貞を発見し、別れる。愛そのものへの絶望に苦しむ。
一八三三(二十九歳)『レリア』刊行。年末から翌年へかけて、ミュッセとのイタリア旅行。
一八三四(三十歳) ヴェニスの医師パヂェッロとの恋。ミュッセはひとり先にパリへ帰る。『ジャック』『一旅行者の手紙』刊行。
一八三五(三十一歳) 一月〜三月、ミュッセとの二度目の共同生活が失敗に終わる。夏、ベリ地方の共和主義指導者弁護士ミッシェル・ド・ブウルジュを知る。その助けにより、夫との離婚訴訟を始める。
一八三六(三十二歳) 離婚に成功、ノアンの館と土地の管理権を取り戻す。リスト一家とスイスで夏を過ごし、その後しばらくパリで同じホテルに住む。
一八三七(三十三歳)『モオプラ』刊行。母の死。予期しなかった大きな悲しみに打たれる。
一八三八(三十四歳) ショパンと共に、子供たちをつれ、マジョルカ島に滞在する。社会主義者ルルウの影響のもとに書かれた『スピリディオン』刊行。
一八四〇(三十六歳)『フランス一周の伴侶』
一八四一(三十七歳) ルルウと共に『ルヴュ・アンデパンダント』誌創立。『オラース』
一八四二(三十八歳)『コンスエロ』(四三年まで)
一八四三(三十九歳)『ルュドルフスタット伯爵夫人』(四五年まで)。『ファンシェット』(『ルヴュ・アンデパンダント』)
一八四四(四十歳)『ジャヌ』。アンドル県の共和派機関誌『アンドル偵察兵』誌に協力(四五年まで)
一八四五(四十一歳)『アンジボオの粉ひき』ルルウと共に『ルヴュ・ソシアル』誌創立。
一八四六(四十二歳)『百姓たち』(四七年まで『ルヴュ・ソシアル』)田園小説『魔の沼』
一八四七(四十三歳)『フランソワ・ル・シャンピ』一八四八(四十四歳) 二月革命。パリに出て革命政府の『共和国公報』に協力する。革命政府の急速な反動化により、公報十六号のサンドの過激な文が政府を刺激し、逮捕の危険を感じて、五月、ノアンに帰る。六月、軍隊による労働者の弾圧。九月、『愛の妖精』完成。十二月『クレディ誌』に連載開始。
一八四九(四十五歳)『愛の妖精』
一八五三(四十九歳)『笛師の群れ』
一八五五(五十一歳) 十月、『我が生涯の物語』『プレス』誌に翌年八月まで連載。長女ソランジュの負債支払いのための契約であった。
一八五六(五十二歳)『金色の森の美丈夫たち』(五八年まで)
一八五七(五十三歳)『田野説話』
一八五九(五十五歳)『彼女と彼』(ミュッセとの交渉記)
一八六〇(五十六歳)『ジャン・ド・ラ・ロシュ』
一八六一(五十七歳)『ヴィルメール侯爵』
一八七〇(六十六歳) 普仏戦争。ノアンにあって印象を書く。戦争を愚かなことと考えていたが、敗戦後、民族の魂の不可侵を叫ぶ。
一八七一(六十七歳)『一旅行者の戦中日記』
一八七二(六十八歳)『ナノン』
一八七四(七十二歳) 六月八日、ノアンに死す。準備稿『アルビヌ』を枕頭に残す。
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あとがき
『愛の妖精』の原題 La Petite Fadette (ラ・プチット・ファデット)は、「小さな(可愛いい)ファデット」という意味です。ファデットというのが、フランソワーズのあだ名で、多分に「鬼火」とか「妖精」という意味あいを持っているのは、本文をお誌みの方には、よくおわかりでしょう。(本文八章参照)
この本はわが国では、サンドの作品では、もっともよく知られたものです。『愛の妖精』という優れた訳題は古くから親しまれているので、そのままにしました。以前の訳では、最も近いものには昭和二十八年角川文庫版小林正氏訳があります。この訳の優れた点は、「彼」と「彼女」という三人称代名詞を一度も使っていないことです。たしかに、この二つの単語は、明治以来の直訳調が日常化したもので、本来の美しい日本語ではありません。今度の訳にも、この点は同じになっているのがおわかりでしょう。本文にも解説にも、「彼」や「彼女」は一度も出て来ません。これは、ひとつには、地の文章にも、話しことばのリズムを出そうとしたからです。日本語の話しことばの文脈では、「彼」とか「彼女」とか言うのは、ふつうではないからです。そして、この小説には、方言が使われていると言っても、いくつかの単語だけのことですから、日本の特定の方言ではなしに、原語の意味に従って、ことばを作りだして、方言の感じを出して見ました。この物語にある、やわらかな詩情を増すことに役立っているとしたら、さいわいです。
サンドの名と、伝説的な人物像は、いくつかの田園小説とともに早くから日本に知られ、若い人たちに親しまれて来ましたが、意外にまとまった紹介や研究が本になっていません。ですからここには特に日本語の参考文献を指示いたしません。むしろ、すぐ手に入るものとしては、本書の解説が日本語で書かれたものとしては最も詳しいのではありますまいか。フランスでは近年、女流研究者による良い本がいくつも出ております。作家の社会参加という全く今日的な課題から見ても、サンドの存在は、興味ある問題を投げかけます。この『愛の妖精』にしても、社会の動乱に意識的に背を向けることによって、すさんだ人心をやわらげ、獄中にある民主主義運動の同志を慰める(解説参照)という形で、一種の社会参加の作品なのですから。
本書の書かれた一八四八年、まして、舞台となる十八世紀末から十九世紀初頭の時代は、日本では徳川治下の太平の夢をむさぼっていたころです。この時代の日本文学は江戸にせよ大阪にせよ、いちじるしく都会的ですから、田園物語はまれでしょう。そして、世界最初の蒸気機関車による鉄道は、一八三二年、フランスで、ごく短い距離に実現され、本書の書かれたころにやっと、一般化が始まったことを考えれば、農村の一般庶民の活動の範囲がひどく限られていたことがわかります。これは皆さんのおじいさま、おばあさま、またはそのひと時代前の日本人の生活とかなり似ているといえましょう。このような形で、人間性の共通点を知るのは、貴重な体験です。
この訳はまず一九六六(昭和四十二)年、旺文社から刊行され今日も同社の「必読名作シリーズ」に入っていますが、今回電子テクストという新しい装いが加わることになり、訳者としては嬉しい限りです。
一九九六(平成八)年十一月 訳者
〔訳者紹介〕
篠沢秀夫《しのざわひでお》。学習院大文学部教授。一九三三年生まれ。学習院大仏文、東大大学院卒、フランス政府給費留学生、パリ大学文学部現代文学免状。文学言語の歴史としての文学史を追求、ことばの表現だけから文学作品を考える「文体学」を開発。訳書『至高者』(ブランショ)、『神話作用』(ロラン・バルト)、『女中たち』(ジャン・ジュネ)、著書『フランス文学案内』『入門フランス語』など。