魔の沼
ジョルジュ・サンド作/宮崎嶺雄訳
目 次
はしがき
一 作者から読者へ
二 野良仕事
三 モーリス爺さん
四 腕っこきの百姓ジェルマン
五 ギエット婆さん
六 ピエール坊
七 荒野のなか
八 大きな槲《かしわ》の木蔭で
九 夕べの祈り
十 寒いのに
十一 星空のもとで
十二 村の伊達女
十三 主人
十四 老婆
十五 村へ帰る
十六 モーリスのおかみさん
十七 マリー
付録
解説
[#改ページ]
はしがき
「麻打ち夜話」という題のもとに一まとめにするつもりだった一連の田園小説に着手して、まずこの『魔の沼』を書いた時、私は一定の方式や、文学上の革新的な野心などなんにももっていなかった。何びとも自分一人で革新を行い得るものではないし、革新というものは、特に芸術の世界でなど、なんということもなくいつの間にか人類全体がそれをなしとげてしまうような、それというのも世間みんながそれに参加しているからであるような、場合があるのだ。
しかし、これも田園風俗を描いた小説に関する場合には当てはまらない。そういう小説は、あらゆる時代を通じ、あらゆる形のもとに、ある時は華やかに粉飾され、ある時は気取りを凝らし、ある時は素朴なままに、常に存在していたのである。私は前にも言ったことがあるし、ここでもう一度言っておかねばならぬが、夢想の田園生活というものは、いつの時代にも都会の理想であったし、官廷の理想でさえあった。文明人を原始生活の魅力に連れ戻す自然の傾向に従ったからといって、私はなんら目新しいことをしたわけではない。私は別に新たな文章をものしようとも、自分のために新たな手法を捜そうとも思わなかったのである。それにもかかわらず、多くの新聞でそういうふうに断じられたのであるが、しかし私は自分の意図のいかなる点をとり守るべきかということについては、誰よりもよく自分で知っており、最も単純な思いつき、最もありふれた事情こそ、芸術作品の生みの親たるべき唯一の霊感であるというのに、批評家たちがそんなにまで気を廻すのには、いつもながら驚かされるのである。
特に『魔の沼』の場合は、私が序章のなかで述べている事実、すなわち私の心をうったホルバインの一枚の版画と、それと同じ時、種蒔きの季節にまのあたり見た現実の一つの光景と――これが私を駆って、自分の毎日歩き廻っていた微々たる風景を舞台とする、このささやかな物語を書かせたところのすべてなのである。いったい何を書こうとしたのかと問われるなら、私は甚だ心惹かれる極めて単純なものを書こうとしたのだが、それが思うように成功しなかったのだと答えよう。単純なもののなかにある美を、私ははっきりと見、はっきりと感じはしたが、しかし見ることと描くこととは別なのだ。
芸術家の望み得る最上のことは、目のある人々をして、自分と同様、眺めさせるように仕向けることである。で、諸君も、単純なものに目をとめていただきたい。空や野や木立や、そして何よりもその善良な面、真実な面における農民の姿を見ていただきたい。それらのものは、幾らかは私のこの本のなかでも見られるであろうし、自然のなかではまた遥かによく見られるであろう。
ジョルジュ・サンド
一八五一年四月十二日 ノアンにて
[#改ページ]
一 作者から読者へ
汗水たらして
ともしい暮らし
永い苦労のあげくには
それ、死神のお迎えじゃ
ホルバイン〔十六世紀前半のドイツの画家。偉大な肖像画家であるが、また連作壁画「死の舞踏」および「死神幻像」の作で知られる〕の一枚の作品の下部に記された古いフランス語のこの四行詩には、その素朴さのうちにも深い哀しみがこもっている。版画の画面は、畑のまんなかで鋤《すき》を押している一人の農夫を描いたものである。広い野が遠く連なり、その間にみすぼらしいあばら家が幾つか見えている。日は丘の向うに沈もうとしている。烈しい労働の一日が終るところである。百姓は年老いて、かがまったようなからだつきをし、ぼろをまとっている。彼が前方に向って追い立てている四頭のひき馬は、痩せて疲れきっている。鋤の刃はでこぼこだらけの、なかなかいうことをきかぬ土のなかにはまりこんでいる。この『汗と辛労』の場面のなかで、一つの存在だけが、快活軽快な姿である。それは一個の幻想的な人物で、鞭《むち》をもった骸骨が、おびえた馬のわきについて畝《うね》のみぞを走りながら、馬を鞭うって、つまりその老農夫の畑鋤きの助《す》け役を勤めている。それはすなわち死神であり、つまり、『死神幻像』と題する、陰惨であると同時におどけた、一連の哲学的宗教的な主題のうちに、ホルバインが比喩的な意味で登場させた妖怪の姿なのである。
この連作、というよりむしろ全体が一つの大画面をなすというべきこの作品では、死神がすべてのページでその役割を演じつつ、すべてを結ぶ糸ともなり、全体を貫く思想ともなっているのであるが、ホルバインはそのなかに、君主、高僧、恋人、賭博者、酔漢、尼僧、娼婦、盗賊、貧民、武人、道士、ユダヤ人、旅人など、彼の時代および我々の時代のおよそありとあらゆる人間を登場させている。そして、あらゆるところで、死神の妖怪の姿が、あざ笑い、おびやかし、勝ち誇っている。
ただ一枚の画面にだけはその姿が見えない。それは富者の門口の寝藁《ねわら》の上に横たわったラザロ〔聖書ルカ伝中の人物。癩病やみの乞食であったが、彼が施しを乞うていた富者が地獄へ落されたのと反対に、死後天国へ運ばれる〕が、おそらくその身に失うべき何ものももたず、その生は事前の死にほかならぬからであろうが、死神などはこわくないと宣言している画面である。
文芸復興期《ルネサンス》の半ば異教的なキリスト教のこの禁欲主義《ストア》的な考え方は、果して人の心を慰めるものであり、宗教的な心の持主たちはそこに各自の利益を見出すであろうか? 野心家、ぺてん師、暴君、遊蕩児など、およそ生を誤り用いている尊大な罪びとたちは、死神にその髪の毛をつかまれていて、もちろん思い知らされることになるであろう。しかし、盲人や乞食や、狂人や貧しい百姓などは、単に彼らにとって死は悪しきものではないという反省だけで、永い間の彼らの悲惨が償われるであろうか? そんなはずはない。どうしようもない哀しみ、恐るべき宿命の感じが、この芸術家の作品の上に重くのしかかっている。それはさながら人類の運命に投げつけられたにがい呪詛《じゅそ》の言葉のようである。
これは確かに、ホルバインが眼前に見ていた社会の、悲痛な諷刺であり、真実な描写である。罪悪と不幸――これが彼の心をうったところのものである。しかし、われわれ別の世紀の芸術家は、そもそも何を描くべきであろうか? 死という思想のなかに、現在の人類の報酬を求め、不正への懲らしめ、苦悩への償いとして、死の姿をもち出すべきであろうか?
そうではない。われわれが用があるのは、もはや死ではなく、生なのである。われわれはもう墓場の虚無も、しいられたあきらめによって買い求められた救いも信じない。われわれは生が稔《みの》り多きものであることを望むが故に、それがよきものであることを望む。もう貧しき者が富める者の死を喜んだりすることがないように、ラザロはその寝藁を棄て去らねばならぬ。ある人々の幸福が犯罪的な、神に呪われたものとなったりすることがないように、すべての者が幸福にならねばならぬ。農夫が麦を蒔いている時、彼は自分が生の営みのために働いていることを承知しているのであって、死神が自分と並んで歩いていることを喜んだりしているのではないようにしなければならぬ。要するに、死はもう繁栄に対する懲罰でもなく、困窮に対する慰めでもなくなるようにしなければならぬ。神が死を定め給うたのは、生を罰するためでもなく、償うためでもない。なぜなら、神は生を祝福し給うたのであって、墓というものは、幸福にならせたくない人々を送りこむことの許される、一つの避難所などであってならないのである。
現今の一部の芸術家たちは、彼らの周囲にあるものに重々しい視線を向けつつ、貧窮の悲嘆やみじめさ、すなわちラザロの寝藁を描くことに専心している。これはなるほど芸術と哲学の領域に属することには違いない。しかし、困窮というものをそんなに醜く、そんなに卑しく、時には実に悪習に満ちた犯罪的なものに描くことによって、果して彼らの目的は達せられ、その効果たるや、彼らの望むように有益なものがあるであろうか? その点については、われわれは敢えてどちらとも言わぬ。ある人々は、富裕な生活という脆い地盤の下にうつろな口を開いているその深淵を示すことによって、彼らは悪しき富者を怯えさせるわけであり、それはちょうど「死の舞踏」の時代に、ぽっかり口をあけている墓穴や、今にもそのおぞましい両腕の中にこっちのからだを抱きしめに来ようとしている死神の姿を、富者に見せつけたのと同じことであると言うかも知れない。
今日、人々が富者に見せつけるのは、彼の家の戸口を合鍵であけている盗賊の姿であり、彼の寝息をうかがっている人殺しの姿である。打ち明けて言うが、貧乏人なるものを脱獄囚や追剥ぎの姿で示すことによって、どうして富者をその蔑視する人類と和解させ、彼の恐れている貧乏人に対してその苦しみに感じやすくさせることができるのか、われわれにはよくのみこめないのである。ホルバインやその先行者たちの版画にある、歯を噛み鳴らし、ヴァイオリンをかき鳴らしている醜悪な死神も、そういう姿で現われては、よこしまな者どもを改心させ、犠牲者たちを慰め得るよしもなかったのである。この点で、われわれの文学は、いささか中世や文芸復興期《ルネッサンス》の芸術家たちと同じやり方をしているのではなかろうか?
ホルバインの描いた酒飲みたちは、死という考えを払いのけようとして、一種もの狂おしい様子で彼らの杯に酒をつぎ、死神は、彼らの目には見えない姿で、そのとりもち役を勤めている。今日の悪しき富者たちは、百姓一揆という考えを払いのけようとして、要塞と大砲を要求し、芸術はその百姓一揆が、いろんな方面で暗中にうごめきながら、現在の社会状態に襲いかかる時を待っている姿を、彼らに見せつける。中世の教会は、贖罪の赦しを金で売ることによって、地上の権勢者の恐怖に答えた。今日の政府は、多数の憲兵や獄卒、銃剣や牢獄の費用を富者たちに払わせることによって、彼らの不安を静めているのである。
アルブレヒト・デューラー〔十六世紀初頭のドイツの画家〕、ミケランジェロ、ホルバイン、カロ〔十七世紀前半のフランスの版画家〕、ゴヤ〔十八世紀末のスペインの画家〕などは、彼らの世紀と彼らの国のさまざまの悪について、力強い諷刺をものした。それは不朽の作品であり、動かすべからざる価値をもった歴史的な画面である。従ってわれわれも、芸術家に対して、社会の傷口の深さを測り、それをわれわれの眼前にむき出しにして見せる権利を、否定しようというつもりはない。しかし、そもそも恐怖とおどかしの画面以外に、現在書くべきことはないのであろうか? 人々の才能と想像力によって今や流行となった、人生の不公平の神秘を探ろうとするこの文学において、われわれは、劇的効果の鮮かな極悪人よりも、やさしく快い風貌をもった人物の方を愛するのである。後者は改心を発意し、また実現することができるが、前者は恐怖を起こさせ、そして恐怖は利己主義を治癒するのではなく、これを増大させるのである。
われわれは、芸術の使命なるものは感情と愛のための使命であり、今日の小説は素朴な時代の比喩や寓話に代るものであって然るべきだと信ずる。そして芸術家たるものは、その描くものが喚び起こす恐怖を軽減するための、幾らかの用心と和解の方策を提案するなどという任務よりは、もっと広汎な、もっと詩的な任務をもっているのだと信ずる。芸術家の目的は、彼の関心の的たる事物を愛させることであるべきであって、必要とあればそれを多少美化しても、私は別に咎めようとはしないであろう。芸術は実証的な現実を研究するものではない。それは理想上の真実を探求するものであり、『ウェークフィールドの牧師』〔イギリスの作家ゴールドスミスの一七六六年作の小説〕は『極道好みの百姓』〔ルチ・ド・ラ・ブルトンヌの一七七六年作の好色小説〕や『危険な関係』〔ラクロの一七八二年作の好色小説〕よりは、精神のためにより有益な、より健康な書物であったのである。
読者には、こんな考察を述べたてたことを許していただかねばならぬが、どうかこれは序文のようなものとして受け取っていただきたい。これからお話するささやかな物語のなかには、そんな考察などは全然ないのであって、しかもそれがまことに短い、まことに単純な物語なので、あらかじめその言いわけをしておく意味で、強烈な物語について私の考えるところをお話しておく必要があったわけなのである。
一人の農夫のことから、私はつい長々とこんな脇道にそれた議論をしてしまったのであった。最初私がお話するつもりでいて、いよいよこれからお話しようとするのも、まさしくまた一人の農夫の物語なのである。
[#改ページ]
二 野良仕事
私は、ホルバインの描いた農夫の姿を、深い哀愁の思いに駆られながら、永い間眺めていたのであったが、やがて野外を散歩しながら、田園の生活と農耕者の運命について独り思いふけったのである。しぶしぶながら稔りの宝をもぎ取らせてくれるこの大地のふところを堀り返すことに、自分の精力と生涯を使いはたすということは、しかもこの上もなく黒い、この上もなく粗末な一きれのパンが、一日の終りに、かくもつらいその労働にあてがわれる唯一の報酬、唯一の利得であるということは、確かに心のめいることに違いない。
地面を蔽っているこの豊かな産物、この稔り、この果実も、高く茂った草のなかで肥え太っているたくましい家畜のむれも、ある幾人かの人々の所有物であって、大多数の人々にとっては疲労と奴隷状態をもたらす道具なのである。有閑階級の人間というものは、一般に、畑も牧場も、自然の景観も、素晴らしい家畜も、それ自身として愛するということはないのであって、それらはやがて彼の用に供するために金貨と化すべきものなのである。有閑階級の人間は、田園の滞在のうちにちょっと空気と健康を求めにやって来て、それから、その家来どもの労働の成果を消費するために大都会に帰って行く。
一方、労働に服する人間の方は、あまりにも重荷に喘ぎ、あまりにも不仕合せであり、あまりにも未来に怯《おび》えているので、とても野外の美と田園生活の魅力を楽しむどころではない。彼にとってもまた、黄金色の畑、美しい牧場、すばらしい家畜は、金貨の袋を表わしているのであるが、その金貨の袋たるや、彼の必要を満たすに足りない僅少の分け前しかもらうことができず、しかもそれにもかかわらず、御主人様を満足させるために、そしてその領土内でつましくみじめに暮らす権利を与えられる代償として、毎年その呪わしい袋をいっぱいにしなければならぬのである。
しかもそれにもかかわらず、自然は永遠に若く、美しく、恵み豊かである。人間が思いのままにそこに生長させておくあらゆる生きもの、あらゆる植物の上に、自然は詩と美しさとを降りそそがせる。自然こそは幸福の秘密を握っているものであり、何びともその秘密を自然の手から盗みとることはできなかったのである。最も幸福な人間とは、自分の労働に十分な心得をもっていて、自分の手で働き、自分の知力を行使することに心の満足と自由を味わいとりながら、心と頭を通じての生活も十分営んで、自分の仕事の成果を理解し、神の仕事の成果を愛する余裕をもち得る、そういう人間であろう。
芸術家は、自然の美の観照と再現において、この種の楽しさを味わう。しかし、この地上の楽園を埋め尽す人々の苦難を見ては、正しく人間的な心をもった芸術家は、みずからその楽しさを味わいながらも心をかき乱されるのである。幸福は、頭と心と腕とが、神慮に見守られつつ、一体となって働きながら、神の仁慈と人間の心の恍惚たる喜びとの間に清らかな調和が存在するというようなところにこそ、あるであろう。その時こそ、鞭を片手に畝《うね》のなかを歩いている、みじめな見苦しい死神の代りに、寓意画の作者は、鋤き返されたばかりの畝の上に、お清めを受けた麦粒をたっぷりと蒔いている、光り輝く天使の姿をその傍らに描くことができるであろう。
しかも、田園の人間にとっての、甘美な、自由な、詩的な、勤勉な、簡素な生活という夢想は、これを空想の世界に追放せねばならぬほど、考えにくいものではない。ウェルギリウス〔紀元前一世紀のローマの詩人〕の悲しくも甘美な言葉――「幸《さち》なるかな、田園の人、みずからその幸を知りせば!」〔『農耕詩』中の一節〕は、遺憾の思いを表わした言葉である。しかし、遺憾の言葉というものはすべてそうであるが、それはまた一つの予言でもある。いつかは農夫もまた、美を表現することはともかくとして(これはその場合たいして問題でないであろう)、少くとも美を感じる上で、一個の芸術家であり得る日が来るであろう。この神秘な詩的直観が、農夫の心のうちではすでに本能の状態、おぼろげな夢想の状態となっていないと、人々は思うのであろうか? 今日すでに多少の生活のゆとりに守られている人々、そして極度の不幸にすべての道徳的知的生長を圧し殺されてしまっていない人々、そういう人々の場合には、感じられ賞味された純粋な幸福が、単一な状態のままで存在しているのである。それにまた、悲嘆と労苦のただなかから、詩人の声がすでにあげられたとすれば、腕の労働は精神の働きを排除するなどと、どうして言い得ようか? 疑いもなく、この排除は、過度の労働と深刻な窮乏がもたらした、一般的な結果なのである。しかし、人間が適度にかつ有効に働くようになった時には、質の悪い労働者と下手な詩人しかいなくなるだろうなどと、言ってはならぬ。詩的なものを感じることに高雅な楽しさを味わいとる人間は、たとい生涯に一行の韻文を書かなかったとしても、まさに一個の詩人なのである。
私の考えはこんなふうな歩みを辿っていたのであるが、人間の教育可能性に対するこの信頼が、外部の影響によって私の心のなかで強められていたことに、私は気がつかないでいた。私は、百姓たちが近づいた種蒔きの用意をしている、畑の縁を歩いていたのであった。労働の舞台は、ホルバインの画のそれのように広々としていた。全体の眺めも広々としていて、秋も近く、やや赤ばんだ緑の大きな連なりが、鮮かな褐色をなした広い地面を縁どり、その地面には、最近の雨でところどころの畝間に細長い水溜りが残っていて、細い銀糸のように日に輝いていた。明るい暖かい日で、鋤の刃で打ち返されたばかりの土からは、ほのかな蒸気が立ち昇っていた。畑の上手の方では、がっしりした背中ときびしい顔つきはホルバインの描いたものにそっくりであるが、服装には別に貧窮の影も見えない一人の老人が、重々しい様子で昔風の鋤《アロー》を押していた。その鋤を引いているのは、薄黄色い毛色をした、二頭のおとなしい牡牛だったが、背が高く、やや痩せ気味で、角は長く彎曲していて、それこそ牧場の長老というような風格があり、つまり年功を積んだ働き手ともいうべき一対で、永い間馴染み合った結果、このへんの田舎の呼び慣らわしで「兄弟牛」といわれるようになった老牛の仲間であった。そして、こういう「兄弟牛」というものは、自分の相棒がいなくなってしまうと、新しい相棒と一緒には働こうとせず、悲しみにやつれて死んでしまうのである。
田舎を知らない人々は、軛《くびき》の相棒に対する牛の友情などということは、作り話だといってきめつける。そういう人々は、牛小屋の奥へ来て、自分で見ればいいのである。痩せて衰えきった哀れな牛が、不安そうに動き廻るしっぽで痩せさらばえた横腹を打ちながら、差し出される食糧に対して厭わしげに軽蔑したように鼻息を荒くし、眼はいつも戸口の方へ向けたまま、自分の隣りのあいた場所を脚で引っ掻き、自分の相棒がつけていた軛《くびき》や鎖を嗅ぎ廻し、そうしては絶えず哀れっぽい鳴き声でその相棒を呼び続けているのである。牛飼は言うであろう――「つまり、牛を二頭なくしたようなもんだ。こいつの兄弟は死んじまったし、こいつはもう働きゃしない。屠殺するにしたって、まずふとらせることができなくっちゃね。ところが、こいつはなんにも食べようとしないし、そのうち飢え死にしちまうんでさ」
年老いた農夫は、黙々として、無駄な努力を避けながら、ゆっくりと仕事をしていた。柔順な二頭の牛も、その老人と同様、一向急ぐ気配もなかった。しかし、脇目もふらず働き続け、手馴れた力をたゆみなく出し続けたお蔭で、老人の畝は、少し離れたところで、老人のほど逞しくはない牛四頭を使いながら、もっと堅くて石ころの多い土脈のところを耕している、彼の息子の方に劣らぬ速さで、掘り起されて行った。
しかし、それに続いて私の注意を引きつけたものは、それこそまさしく素晴らしい見ものであり、画家にとって崇高な主題となるべきものであった。耕地の向うのはずれで、堂々たる様子の一人の若者が、すばらしい曳き牛の一隊を操っていたのである。くすんだ毛色に、燃えるような赤褐色の光沢の黒のまじった、若牛が八頭、毛のちぢれた短い首はまだ野生の牡牛の匂いがし、大きな眼は人に馴れず、動作は荒々しく、その働きぶりはいらいらと急調子で、軛《くびき》と刺し針に今なおいらだち、新たに負わされた支配の手に、怒りに身を顫わせながら、やっと服従しているのである。これはつまり「つけ初め」の牛といわれているものである。八頭の牛を扱っている男は、これまで放牧地としてほったらかされていて、幾百年を経た大木の根株だらけの一角を開墾する仕事にかかっていたのであって、これはまったく闘技者にふさわしい仕事であり、彼の精力と若さ、そしてほとんど野生そのままの八頭の牛をもってしても間に合いかねるほどの仕事であった。
六つか七つぐらいの、天使のように美しい男の子が一人、仕事着の上から肩にかけた子羊の毛皮が、さながら文芸復興期の画家たちの描いた少年時代の洗礼者ヨハネを思わせるような姿で、鋤と並んで畝《うね》のなかを歩きながら、あまり鋭くない刺し針のついた、長い軽やかな竿で、牛の脇腹を突っついている。雄々しく誇らしげな牛たちは、少年の小さな手のもとで身を顫わし、軛《くびき》や額を縛りつけた革帯を軋ませながら、烈しい震動を轅《ながえ》に伝えるのであった。木の根に引っかかって鋤の刃が動きがとれなくなると、農夫は力強い声を張りあげて、一頭一頭牛の名を呼びながら声をかけるのであるが、しかしそれはけしかけるというよりも、むしろなだめようとしているのであった。というのは、この突然の抵抗に苛立った牛どもは、盛んに躍りあがったり、その蹄《ひづめ》の割れた大きな足で土を掘り崩したりしているし、もし声と刺し針で、若者が前の四頭を抑えるかたわら、少年が後の四頭を制御しなかったならば、たちまち脇の方へ突進して、鋤を畑じゅう引きずり廻してしまうからである。少年もいっぱし声を張りあげて、こわい声を出そうとしていたが、それがどうしてもその天使のような顔とおんなじのやさしい声にしかならないのであった。
そのすべての光景が、あたりの景色も、若者も、少年も、軛《くびき》につけられた牡牛も、力強くあるいはやさしい、美しさに溢れていた。そして、大地の征服されるこの強烈な闘争にもかかわらず、そこには、ものみなの上に漂う深い平穏と温和の感じがあった。障害が突破されて、牛どもがまた一律な調子でおごそかな歩みを続けだすと、農夫も、荒々しい態度を装っていたのは、ちょっと体力の鍛錬に体内の活動力を発散させたに過ぎず、たちまち単純な心の持主らしい晴朗さを取り戻して、父親らしい満足の眼を子供の方へ投げかけ、子供も振り返ってそれに微笑み返すのであった。そしてやがて、この若い一家の父親の男らしい声が、この地方の古い伝承として、すべての農夫に無差別にではなく、働き牛の元気をかきたて維持する術に最も習熟した農夫たちだけに伝えられる、荘重ななかにも哀調を帯びた歌を唱いだした。
この歌は、おそらくその起原は神聖なものと考えられ、かつては神秘な力をもつものと信じられていたのであろうが、今日でもまだ、こういう家畜どもの元気を保ち、その不満を静め、その永い労役のしんき臭さを紛らしてやる効力があるものと見なされている。牛を見事に操って申し分なく真っ直ぐな畝《うね》を作ることができ、地中の鋤の刃をちょうどうまく抜いたり刺したりして牛どもの苦労を軽くしてやるというだけでは、まだ十分でない。牛に歌を唱って聞かせることができなければ、決して完全な農夫とは言えないのであって、これはまた特別な嗜好と能力とを必要とする、まったく別個な一つの心得なのである。
この歌は、実をいうと、任意に中断してはまた続ける、一種の朗詠にすぎない。その不規則な形と、音楽芸術の規則にはずれた歌調のために、どうにも書き写しようのないものである。しかし、それだからと言って、これが美しい歌であることには変りがなく、しかもそれが伴奏を奏でるその労働の性質にも、牛の動作にも、田園の地の静けさにも、それを朗誦する人々の純朴さにも、実にぴったりしていて、土の労働に無縁などんな天才も到底作り出せるものではなく、またこの地方の「腕っこきの百姓」以外のどんな唱い手も到底まねることのできないものである。一年のうち、野良にも畑鋤き以外にこれといって仕事も動きもないような時期には、この快く力強い歌があたかもそよ風の声のように立ち昇り、その独特の音調がそよ風とどこか似た感じを与えるのである。各節の最後の音が、信じられないほどの息の長さと強さで長々と顫《ふる》わせられながら、ことさら調子をはずして四分の一音だけあがる。いかにも原始的な感じであるが、しかしその魅力は言い難いものがあり、ひとたびそれを聞き慣れると、この時刻、この場所で、調和をかき乱すことなしには、他の歌声があがり得るとは考えられないのである。
そういう次第で、私は、同じような場面でありながら、ホルバインの絵と鮮やかな対照をなす一幅の絵を、眼前に見ていたわけであった。みじめな老人の代りには、若々しく撥剌とした男。痩せ衰え、疲れきった四頭の曳き馬の代りには、逞しく血気に満ちた八頭の牡牛。死神の代りには、美しい少年。絶望のイメージと破壊の観念の代りには、鋭気の眺めと幸福の思想。
その時である。あのフランス語の四行詩、
汗水たらして、云々
と、ウェルギリウスの「|幸なるかな《オ・フォルチュナトス》……|土を耕す者《アグリコラス》」とが、ともども私の心に浮かび、そしてこんなにも美しい一組の男と少年とが、こんなにも詩的な情況のなかに、力強さと一体になった豊かな優美さをもって、壮大と厳粛に満ちた仕事を遂行するのを見ていると、私は抑えきれぬ尊敬の念と入りまじって、深い憐憫の情を感じたのであった。幸なるかな、土を耕す者! それは確かにそうに違いないし、もし私の腕が突如として逞しくなり、私の胸が強壮になって、そんなふうに自然を肥やし歌うことができ、しかも色と音との諧調、音調の繊細さと輪郭の優美さなど、一言で言えば事物の神秘な美しさというものを、私の眼は見ることをやめず、私の頭は理解することをやめないならば、そして特に、不滅の荘厳な創造の根源にあった、神々しい感情と交流を保つことを私の心がやめないならば、私がこの農夫の境遇に身を置いたとしても確かに幸福であるだろう。
しかし、遺憾ながら、この男はかつて美の神秘を理解したことがないし、この少年はいつになってもそれを理解することはないのである……! 私は決して、彼らがその御する家畜にまさるものでないとも、彼らの疲労を紛らし、心労を静めてくれる一種の恍惚たる啓示を時に経験することがないとも、信じる者ではない。私は彼らの気高い額の上に主の烙印を見るのであって、つまり彼らは、金を払ったために土地の所有者となっている連中よりも、遥かにふさわしい地上の王者に生れついているのである。彼ら自身そのことを感じている証拠には、彼らをほかの土地に移せば悪い結果を生ぜずにはすまず、自分たちの汗の泌みこんだその土地を彼らは愛し、本当の百姓は、兵役に服して、自分の生れ落ちた時からの野良を遠く離れていると、国恋しさのために死んでしまうのである。しかしこの男には、私のもっている楽しみの一部――空が広々と包括するところの広大な寺院の労働者たる彼にこそ当然与えられて然るべき、非物質的な楽しみが欠けている。彼には自分の感情を知るという能力が欠けている。彼を母親の胎内にある時からすでに奴隷の身分にきめてしまった者どもが、彼から夢想を奪うことができないままに、考察力を彼から奪ってしまったのである。
さて、それでどうかと言えば、現在あるがままの、不完全な、永遠に子供たるべき運命を担った状態においても、彼はなお知識に感情を圧し殺されてしまった人間よりは立派なのである。自分たちを彼よりも上にあるものと己惚れ給うな、彼に命令する正当にして時効にかからぬ権利を授けられていると信じている人々よ。諸君が陥っているその恐るべき誤謬こそ、諸君の頭が心を殺してしまい、諸君は人間のうちで最も不完全な、最も盲目な人間になっていることを、証明しているのだ……! 私は諸君の精神のにせの明晰さよりは、まだしも彼の精神のその単純さを愛する。そして、もし私が彼の生活を語らねばならぬとすれば、諸君が諸君の社会律の冷酷と侮蔑によって彼の追いやられるかも知れぬ汚辱を描くことを手柄とする以上に、私はむしろそのやさしく感動的な面を強調することに大きな喜びを感じるであろう。
私はこの若者とこの美しい少年を知っていたし、その身上話も知っていた。というのが、彼らにも身上話はあったし、どんな人間にもめいめいの身上話というものはあって、自分の生涯の物語というものには、もしそれがはっきり理解できていたら、誰でも興味をもつべき筈だからである……。百姓であり、単なる野良の男ではあるが、ジェルマンは自分の義務と愛情だけはちゃんと心得ていた。彼はそれを素朴に、あけすけに私に話してくれたことがあり、そして私は興味をもってそれに聞き入ったものであった。彼が畑を耕すのをずいぶん永い間眺め尽してしまった時、私は、たといそれが彼の鋤車で作る畝《うね》と同じように、単純で一直線で飾りがない物語であるにしても、どうして彼の身上話が書かれないということがあるだろうと、心のなかで自問したのである。
来年は、この畝《うね》は新たな畝に埋められ、蔽われるであろう。大部分の人間の足跡は、人類という畑のなかに、このようにして刻まれ、また消えて行く。僅かばかりの土がこれを消し去り、そしてわれわれの作った畝は、墓地のなかの墓のように、次から次へ続いて行く。農夫の畝も、有閑人の畝――これはともかく名前をもち、しかも万一何か風変りなこと、あるいはばかげたことによって世間に多少の評判をたてれば、後世に残る名前をもっている、有閑人の畝《うね》――と同等の価値があるのではないだろうか……?
それではひとつ、「腕っこきの百姓」ジェルマンの畝《うね》を、できるものなら、忘却の無の世界から救い出してみるとしよう。彼はそのことをなんにも知らないであろうし、一向気にかけもしないであろう。しかし、それを企てることによって、私は幾らかの喜びを味わい得るわけである。
[#改ページ]
三 モーリス爺さん
「おい、ジェルマン」と、ある日、舅《しゅうと》がジェルマンに言った。「お前、やっぱり、もう一度女房をもらう気にならなきゃだめだぜ。お前があの娘のやつに死に別れてから、もうかれこれ二年になるし、総領息子はもう七つだ。お前もそろそろ三十になるんだぜ。なにしろこの土地じゃ、男が三十の坂を越すと、もう一度世帯をもつのにゃ、年をとりすぎてるってことになるんだからな。お前にゃ立派な子供が三人もあるわけだが、今までのところは、それで別に困らされるってこともなかった。婆さんと嫁がせいぜいあの子たちの面倒をみて、ちゃんと可愛がってもいたしな。ピエールのやつはもうすっかり手が放れたようなもんだ。今じゃもうなかなか器用に牛も追う。おとなしく牧場で羊の番もするようになったし、馬を水飲み場へ連れて行くぐらいの仕事はできるようになった。だから、困るのはあの子のことじゃない。だが、あとの二人の方が――これもみんな可愛く思ってることにゃ決して違いはないんだが、あの頑是ない二人の子が今年は相当気苦労の種になって来る。嫁はもうすぐお産だし、おまけにまだもう一人小さいのをかかえてる始末だ。今度生れるのが生れたら、嫁はもうお前んとこのソランジュの世話なんかみてられなくなっちまうし、ましてシルヴァンの世話なんかとてもみられやしない。なにしろまだ四つにもならないし、昼も夜もちっともじっとしてないんだからな。お前に似て元気のいいたちなのさ。いずれ立派な働きものになるこったろうが、しかし今のところはどうにも手に負えない子供だからな。肥溜《こえだめ》の方へ駆けだしたり、馬や牛の足もとへ跳びだしたりする時なんか、婆さんがつかまえようにも、足が追っつかない始末だ。それに、嫁が今度もう一人生み落したとなると、そのすぐ上のやつが、少くみてもその先一年ぐらいは、婆さんの手をふさぐことになって来るわけだ。そこで、お前の子供たちのことが心配になって来るし、どうも手に余るってわけなんだ。おれたちとしちゃ、子供の世話が届かないっていうのは、いやだしな。それに、目が届かないために、あの子たちの身にひょっと間違いでも起こった時のことを考えると、それこそ気の休まる時がない。そこで、どうしても、お前には二度目の女房、おれにはもう一人の嫁ってものが、入用になって来るというわけだ。まあ、ひとつ、考えてみてくれ。もう何度も言ったことだが、時はたつばかりだし、月日は待っちゃくれないからな。お前の子供たちのためにも、せっかく家のなかがうまく行くようにと思ってるおれたちのためにも、一日も早く女房をもらうのが、お前のつとめってもんだぜ」
「そりゃあね、お父っつぁん」と婿の方は答えた。「お父っつぁんがどうしてもっていうんなら、まあ、お父っつぁんの気のすむように、そうするより仕方があるまいがね。だが、わしは隠す気にもなれないんだが、こいつはわしとしちゃとてもつらいことで、それこそ身投げをしろって言われるのとおんなじくらい、ちっとも気の進まないことなんだ。なにしろ、どんな女をなくしたかはわかっていても、どんな女が見つかるかはわかったもんじゃないんだから。わしの女房は、まったく立派な女房だった。器量よしで、やさしくて、けなげで、お父っつぁんおっ母さんにもよくすりゃ、亭主にもよく、子供にもよくするし、野良でも家のなかでもよく働いて、針仕事も上手だし、とにかく何をやらしてもよくできる女だった。しかも、お父っつぁんの方ではあいつをくれるし、わしの方ではあいつをもらうってことになった時にゃ、万一死に別れるようなことがあったら、あいつを忘れちまうなんてことは、お互い約束した覚えがないんだからね」
「お前がそう言うのは、やさしい心から言ってくれることさ、ジェルマン」と、モーリス爺さんは言葉を続けた。「お前があの娘のやつを可愛がって、仕合せにしてやってくれたことは、おれもよく知ってるし、お前があいつの身代りになって死神を納得させることができるものなら、それこそ現在カトリーヌは生きていて、お前の方が墓のなかにはいってたに違いないさ。あいつは確かに、それぐらいお前に可愛がられてもいい女だったし、お前があきらめきれない気持なら、おれたちにしたってあきらめきれない気持なんだ。だが、おれはなにもあいつのことを忘れちまえと言ってるんじゃない。神様のおぼしめしで、あいつはおれたちのそばを離れて行っちまったが、おれたちは一日としてあいつにその気持を知らせないことはないくらいに、お祈りをしたり、心のなかで思ったり、言葉や行いに表わしたり、みんなであいつの思い出を大事にしながら、あいつが行っちまったことを悔み続けてるんだ。だが、もしあいつがあの世からお前にものをいうことができて、あいつの気持を伝えるとすりゃ、きっと、あとに残された子供たちのために、母親を捜してやってくれと言うだろう。だから、つまりは、立派にあいつの代りになれるような、そういう女を捜し当てりゃいいんだ。こいつはなかなかなまやさしいことじゃあるまい。だが、まるで見込みのないことでもないわけだ。そこで、おれたちがそういう女を見つけてやったら、きっとお前はおれの娘を可愛がったとおんなじに、その女を可愛がるようになるさ。なにしろ、お前は律儀な人間だし、その女がおれたちのために尽して、お前の子供たちを可愛がってくれりゃ、きっとそいつを有難く思うはずだからな」
「わかったよ、お父っつぁん」と、ジェルマンは言った。「お父っつぁんの考え通りにするよ、これまでだっていつもそうして来たんだがね」
「いや、まったく、そいつは確かにその通りだ。お前は、こっちが家のかしらに立つ人間として親切気と分別から言うことを、いつでもよく聞いてくれたよ。だからまあ、今度の女房はどんな女がいいか、一緒によく考えてみようじゃないか。まず第一に、若い娘をもらうってことは、おれは反対だな。こいつはお前の場合には不向きだよ。若い娘ってやつはどうしても性根がしっかりしてないもんだ。それになにしろ、三人の子供を育てるっていうのは大変な仕事だし、ましてそれが自分の腹を痛めた子じゃないとなるとなおさらのこったから、こいつはどうしてもよっぽど利口で、やさしくて、働きものの女でなくちゃだめだ。女房も大体お前と同じくらいの年恰好でなけりゃ。とてもそれだけの分別はあるまいし、そんな務めを喜んで引受けやしまい。向うにしてみりゃ、お前は年をとりすぎてるし、子供たちは年がいかなすぎると思うだろう。そこで女房はぶつぶついうし、子供たちは子供たちで苦労するってことになる」
「そこなんだ、わしの心配するのは」と、ジェルマンは言った。「万一、あの子たちが、邪慳にされたり、嫌われたり、ぶたれたりするようなことにでもなったら、それこそ……」
「そんなことはありっこないさ」と、爺さんが答えた。「なにしろ、この土地じゃ、悪い女の方がいい女より少いくらいだし、こっちがよっぽどどうかしてでもいなけりゃ、注文通りの女を引き当てないなんて筈はないさ」
「そうだな、そう言えば。いくらもいい娘がいるよ、この村にも。ルイーズだの、シルヴェーヌだの、クローディーだの、マルグリットだの……とにかく、どれだって、お父っつぁんのいいって言う娘なら……」
「まあ、まあ、ちょっと待ってくれ。そういう娘たちはどれもみんな、若すぎるか、家が悪すぎるか……さもなきゃ器量がよすぎるんだ。というのが、なにしろ、こいつも考えとかなきゃならんこったぜ、お前。器量よしの女ってものは、いつもほかの女たちみたいに身持ちが確かとはきまってないからな」
「そいじゃ、不器量ものをもらえっていうわけかね?」と、ジェルマンはちょっと心配になった様子で言った。
「いや、不器量ものはいかん。なにしろ、その女房にもまた子供ができるだろうし、何がいやったって、不器量で貧相でひ弱な子供をもつぐらいいやなことはないからな。そうじゃなく、まだ若々しくって、からだが丈夫で、しかも器量よしでも不器量ものでもないっていうような女が、お前にはちょうどうってつけなわけだ」
「そのぶんじゃ」と、ジェルマンはちょっと淋しそうに笑いながら言った。「お父っつぁんの注文通りの女房なんて、それこそ特別に誂えでもしなきゃ。おまけに、それも貧乏人じゃだめだっていうんだし、金持の娘となると、こっちが男後家なんかじゃ人一倍つかまえにくいわけだし」
「それが、向うも後家だったらどうなんだい、ジェルマン? つまり、子供のいない後家さんで、相当の財産もあるっていうようなのさ」
「さし当り、わしにはそんな心当りがないんだがね、このきんぺんじゃ」
「そりゃおれにしたってそうなんだが、しかしほかの土地になら、そういうのがいるぜ」
「誰か目当てがついてるんだね、おとっつぁんには。そいじゃ、さっそくそいつを言ってくれよ」
[#改ページ]
四 腕っこきの百姓ジェルマン
「うん、実はちょっと目当てをつけてる女があるんだ」と、モーリス爺さんは答えた。「レオナールのとこの娘で、ゲランって男の後家なんだが、フールシュに住んでるんだ」
「その女も土地も、わしは知らないんだがね」と、ジェルマンはもう観念してそう返事をしたが、気は沈むばかりだった。
「名前はカトリーヌっていうんだ。死んだお前の女房とおんなじさ」
「カトリーヌか……。なるほど、そいつはわしにも嬉しいことだろうがね、あのカトリーヌって名前を口に出させられることになるのは。だが、それにしても、万一その女を、もう一人の方とおんなじぐらい好きになれなかったら、こいつはそれ以上につらいことになるわけだ。お蔭で余計にしょっちゅうもう一人の方を思い出させられることになるだろうからね」
「大丈夫、きっと好きになるさ。なかなかちゃんとした、情の深い女なんだ。おれはもう永いこと会わないが、その頃も不器量な娘じゃなかった。だが、もう若いとは言えない。三十二だからな。実家《うち》はなかなかよくって、みんなちゃんとした連中だし、財産としては八千か一万フランぐらいの土地をもってるんだが、そいつを売り払って、世帯をもった先で別の土地を買ってもいいってつもりらしい。というのが、これもやっぱりもう一度縁づくことを考えてるわけなんだが、そこでまあお前とうまが合いさえすりゃ、お前の方の事情を不足に思うようなことは、まずない筈なんだ」
「そいじゃ、もうすっかり話がついてるのかね?」
「うん、あとはお前たち二人の気持だけっていうわけだ。だから、そこんところを、当人同士近づきになって、お互いにはっきりさせてみることさ。その女のおやじっていうのは、おれには幾らか縁続きになるんで、ずいぶん懇意にして来た間柄なんだ。お前もよく知ってるだろう、レオナールのおやじさんは?」
「うん、市《いち》でお父っつぁんと話してるのを見かけたこともあるし、それから、この前の市の時には、朝飯を二人で一緒に食ったりしてたっけね。すると、その話だったんだね、あんなに長々とと話し合ってたのは?」
「その通りさ。あの男はお前が牛を売るところを見てたんだが、それがなかなかうまかったってわけで、男ぶりも悪くないし、なかなか働きのありそうな、しっかりした人間らしいって言ってたぜ。そこでおれの口から、お前がどんな人間かってことを話してやって、おれたちに対してどんなふうだったかってことも、八年このかた一緒に暮しながら働いている間、それこそただの一言も、不機嫌になったり腹を立てたりした口ぶりは見せたことがないって話してやると、あの男もその娘をお前と一緒にさせようって気になったわけさ。こいつはおれとしても、正直に言って悪くない話だっていうのが、なにしろ相手は評判も悪くない女だし、実家《うち》もちゃんとしたもんだし、それに家の暮し向きもいいらしいのがわかってるんだからな」
「お父っつぁんの口ぶりだと、暮し向きってことを多少考えてるわけだね」
「そりゃそうさ。おれはそいつを考えるよ。お前もそいつを考えるんじゃないのか?」
「まあ、考えると言ってもいいがね、お父っつぁんを喜ばせるつもりで。しかし、お父っつぁんも知ってることだが、わしって人間は、うちの稼ぎのなかで、どれだけが自分の取りぶんだとか、取りぶんでないとかいうことは、一向気にかけない方だからね。分け前をきめるなんてことはどうもはっきりわからなくて、そういうことにはてんで頭が働かないんだ。畑のことならわしも知ってるんだがね。牛だの、馬だの、鋤扱いだの、種蒔きだの、麦打ちだの、秣《まぐさ》刈りだのってことなら知ってるのさ。羊や、葡萄や、野菜や、小銭稼ぎの仕事や、蜜蜂の方なんかは、これはお父っつぁんも知ってる通り、義弟《おとうと》の方の受持ちで、わしはあんまり手を出さないからね。金のことと来たら、わしはそれこそ覚えが悪くて、お前のだおれのだなんて言って口争いをするんなら、いっそ全部向うへ渡しちまった方がいいと思うくらいだ。うっかりすると、間違ったり、自分の取りぶんでもないものをよこせなんて言ったりしそうだし、おまけにその勘定が手軽でわかりやすくなかったりした日には、それこそどうやったって、ちゃんと勘定できっこないんだから」
「まったく、あいにくなもんだな。だからこそ、おれも、お前には頭のしっかりした女房をもってもらって、おれが死んだらその女房が代りをやれるようにしておきたいと思うんだ。お前は、おれたちお互いの間の勘定ってものを、ついぞはっきり頭に入れようとしないんだが、そんなふうじゃ、おれっていう人間がいなくなったら、うちの倅《せがれ》のやつといざこざを起こさないとも限らないからな。今のところは、おれが二人の間に立って話をつけて、めいめいの取りぶんをきめてやってるからいいようなもんだが」
「まあ、ぜひ長生きしてもらいたいもんだがね、お父っつぁんには。だが、お父っつぁんの死んだあとのことなんか、心配することはないよ。わしが義弟《おとうと》と口争いをするなんてことは、ありっこないんだから。わしはジャックをお父っつぁんとおんなじように信用してるし、それにわしにはもともと自分の財産ってものはなく、わしのみいりっていうのはすべて死んだ女房の方から来てるんで、そっくり子供たちのものなんだから、わしは安心してていいわけだし、そいつはお父っつぁんだって、おんなじことだ。ジャックとしたら、まさか自分の子供たちのために姉の子供たちの身を剥ぐようなことをしようとは思うまいし、なにしろどっちの子供も、まるでおんなじように可愛がってるんだからね」
「そいつは確かにお前の言う通りさ、ジェルマン。ジャックってやつはなかなか親思いの、兄弟思いの方だし、嘘の言えない人間だからな。だが、ジャックにしたって、お前より先に、お前の子供たちが成人しないうちに死んじまうかも知れないし、一家のうちというものは、年の満たない連中をほったらかしにしないようにいつも心がけて、ちゃんとかしらに立つ者が、しっかり口添えをしてやったり、お互いの揉めごとにきまりをつけてやったりできるようにしとかなきゃならんもんだ。さもないと、それこそ三百代言なんて手合がはいりこんで来て、みんなをいがみ合わさせたあげくには、訴訟沙汰で身代を食いつぶされてしまうようなことになる。そんなわけだから、男にしろ、女にしろ、ここでもう一人の人間をこの家へ入れようと思う場合には、その人間がいつかは、子だの、孫だの、婿だの、嫁だのっていう、それこそ三十人もの連中の、身の指図をしたり財産を預かったりするようになるかも知れないってことを、考えておかないわけにはゆかないんだ。
なにしろ、家族ってやつはどれだけふえるかわからないもんだし、巣のなかがあんまりいっぱいになりゃ、どうしても巣分けをしなきゃならないことになって、みんなてんでに自分の蜜を持って行こうとする。お前を婿に来てもらった時にも、娘のやつは裕福だし、お前の方は貧乏だったが、あいつがお前にきめたことを、おれはちっとも咎《とが》めたりはしなかった。お前は働きものだと睨《にら》んでいたし、おれたちみたいな野良暮しの人間にとっちゃ、何よりの財産といえば、お前の腕のような二本の腕と、お前の心のような心だってことを、ちゃんと知ってたからさ。男がそれだけのものをもって一家のうちへはいって来れば、男としちゃ十分なものをもって来たことになる。
だが、女となると、こいつはまた話が違う。女が家のなかでやる仕事ってやつは、財産を守るっていうだけのもんで、そいつをふやす助けにはならないんだ。それに、現在お前は子もちの身で女房を捜してるんだとすると、これも考えとかなきゃならんこったが、これから生れる子供たちは、先妻の子供たちの相続ぶんからはなんにも分けてもらえないんだし、万一お前が死んだら、女房の方で多少でも財産をもってないことには、それこそみじめなことになっちまうぜ。それからまた、お前に子供ができて、家のなかの人数がふえるとなると、その子供たちの食い扶持にだって多少のものはかかるわけだからな。万一それがこっちだけにかかって来るとなりゃ、そりゃあ無論、おれたちで養ってやるし、それで愚痴なんかこぼしゃしないさ。だが、そのために、みんなの暮しがそれだけつまることになるだろうし、お蔭で前の女房の子供たちもおんなじように不自由な思いをさせられるわけだ。家のなかの人数がやたらにふえちまって、それにつれて身上がふえるってことにならなかったら、それこそどんなに一生懸命働いたところで、いずれは貧乏がやって来る。まあ、こういうのが、おれの意見なんだ、ジェルマン。そこをよく考えて、なんとかゲランの後家に気に入られるように、ひとつやってみるんだな。なにしろ、ああいう切り廻しのうまい、財産のある女がこの家へ来てくれりゃ、すぐにも家の助けになるし、先のことも安心できるわけだからな」
「そういうことにするよ、お父っつぁん。なんとかその女の気に入るようにやってみるよ、こっちもせいぜいその女が好きになるようにして」
「それには、当人に会ってみなきゃならんし、まずこっちから訪ねて行かなきゃな」
「あっちの村へ? フールシュへかね? フールシュっていうのは、ここからはよっぽどあるんじゃないかね。こんな季節に遠出をする暇なんか、とてもありゃしない」
「色恋ずくの縁談なら、暇つぶしも観念しなきゃならんがな。しかし、もともと分別ずくの縁談で、別に気紛れなんてこともなく、自分が何を望んでるかちゃんと心得ている二人の人間同士のことなら、話はすぐ片づいちまうさ。明日は土曜だ。昼間の畑仕事を少し早目に切りあげて、昼飯のあと二時間ばかりしたら出かけるんだな。フールシュに着くのは夜になるだろう。ちょうど月の明るい時だし、道もいいし、このへんの道のりにして三里以上はないしな。ル・マニエの近くなんだ。それに、どうせ馬に乗って行けばいいんだから」
「歩いて行ったっていいんだがね、こんな涼しい時候だし」
「そうさ。だが、あの牝馬はなにしろ立派なもんだし、婿がねを目指す男が、ああいう見事な代物に乗って来れば、一段と男ぶりもあがって見えようというもんだ。服も新しいやつを着て、猟の鳥かなんか、相当の手土産をレオナールのおやじに持ってくんだな。おれから言われて来たと言って、おやじさんとも話してみて、日曜はいちんち娘と一緒に過ごすのさ。そうして、いやか応かの返事をもって、月曜の朝帰って来ればいい」
「じゃあ、そういうことにするよ」と、ジェルマンは平静な様子で答えた。そのくせ、まったく平静な気持でもなかったのだ。
ジェルマンは、これまでずっと、働きものの百姓らしく、身持ちよく暮して来たのだった。二十歳《はたち》で結婚して、生涯にたった一人の女しか愛さなかったのだし、やもめになってからは、生来元気に溢れた陽気なたちであったにもかかわらず、ほかの女などとは誰一人、冗談を言い合ったり、ふざけ合ったりしたことはなかった。心底からの哀惜の念を忠実に心にもち続けていたわけで、こうして舅の言葉に従ったとはいうものの、それにはやはり不安な悲しい気持ちがまじっていたのだった。しかし、舅は昔から分別正しく家のなかを治めて来た人だったし、一家の共同の仕事というものに心から忠実で、従って家長という、その仕事を一身に代表しているような人物にも心から忠実だったジェルマンは、もっともな道理や家内一同の利害などということをもち出されてみると、それに楯つくことができようなどとは思いもよらなかったのだ。
そうはいうものの、気持はやっぱり沈んでいた。これまでの月日にも、こっそり女房のことを思って泣かぬ日はほとんどなかったくらいだし、独り暮しの淋しさが次第に身に沁みだして来ながらも、その悩みから逃れたいと思うよりは、また新しく別な女と夫婦の縁を結ぶことにおじけをふるう気持の方が強かった。思いがけなく恋でもすれば、自分の心も慰められるかも知れないと、ぼんやり心のなかで考えていたが、恋が心を慰めてくれるというのはそういう場合しかないのだ。恋というものは、こっちが捜している時には見つからない。予期していない時に向うからやって来るものだ。モーリス爺さんに、言い聞かされたその縁談の冷静一方の計画も、まだ見ぬ相手の女のことも、ひょっとすると、その女が分別があるとか、身持ちがいいとか、いろいろ聞かされたその美点までもが、ジェルマンにとっては思案の種だった。そこでジェルマンは物思いに沈みながら、その場を立ち去って行ったのだったが、物思いに沈むといっても、考えと考えとが互いにしのぎを削るほど沢山の考えはもっていない人々の常で、つまり、反抗や自分本位の考え方に心のなかでいろいろ理由をつけてみるようなこともせず、ただおぼろげな苦しみを身に感じながら、しかもどうせ受け容れるより仕方のない不幸に刃向おうとはしないという態度だった。
やがてモーリス爺さんは小作地の百姓家へ帰って行き、一方、ジェルマンは、日が落ちてからすっかり暮れてしまうまでの間、一日の最後の時間をつぶして、家の建物に続く囲い地の垣に羊どもが穴をあけてしまったのを塞ぐ仕事にかかっていた。倒れた茨の木を引き起こしては、その根元を土くれでおさえてやっていると、そばの藪では鶫《つぐみ》のむれがしきりにさえずっていて、ジェルマンが行ってしまったらさっそくその仕事ぶりを調べに来ようと好奇心を燃やしているらしく、まるで早く早くとせきたてて鳴いているようだった。
[#改ページ]
五 ギエット婆さん
モーリス爺さんが家へ帰ってみると、近所に住む一人の婆さんが、火種にする燠《おき》をもらいがてらやって来て、おかみさんと話しこんでいた。このギエット婆さんというのは、ここの畑から銃弾《たま》の距離にして二つがけぐらいのところにある、ひどくみすぼらしいあばら家に住んでいた。そのくせ、実にきちんとしていて、しっかりした女だった。家はみすぼらしいが、いつも綺麗に掃除をしてよく片づいているし、丹念につくろってある服の様子にも、貧乏暮しはしていても自尊心をなくすまいとしている気持が現われていた。
「晩がたの火種をもらいに来なすったのかね、ギエットのおかみさん」と、爺さんは声をかけた。「ほかに入用なものはないかね?」
「いいえ、別に」と、婆さんは答えた。「別になんにも、今のところは。あたしはなにしろおねだり好きの方じゃないんでね、懇意な人たちの親切につけあがるようなことはしたくないんですよ」
「まったく、それに違いない。だからまた、友達連中の方じゃ、いつでもあんたの力になろうって気でいるのさ」
「おかみさんとおしゃべりをしてたんですがね、それで今、お訊きしてたとこなんですよ、ジェルマンさんがいよいよまた嫁をもらう気になりなすったかどうかと思って」
「あんたなら、おしゃべりをする人でもなし」と、モーリス爺さんは答えた。「あんたの前で話したって、人の口を気遣うことはないわけだ。そこで、婆さんとあんたに言うわけだが、ジェルマンはすっかり気持がきまったよ。明日、フールシュの村へ出かけるのさ」
「そりゃよかったね!」と、モーリスのおかみさんは叫んだ。「あの娘《こ》もほんとに可哀そうな子だったよ。どうかまあ、あの子とおんなじぐらい気立てのいい、働きものの女が見つかってくれりゃいいけど!」
「へえ、フールシュへ行きなさるの?」と、ギエット婆さんが口を挟んだ。「こりゃまたどういうんでしょうね! それだと、あたしにはとてもいい都合なんですよ。で、さっき何か頼みたいことはないかって言って下すったから、お願いするんですけど、ひとつ頼まれていただきたいことがあるんですがね」
「さあ、さあ、言ってみなさい。あんたのお役に立つことなら、こっちはそれを望んでるんだから」
「ジェルマンさんに、うちの娘を一緒に連れてっておもらいしたいんですがね」
「どこへ? フールシュへかね?」
「フールシュじゃないんですがね。オルモーなんですよ。今年の年季が変るまでずっとあっちへ行ってることになったもんですから」
「なんですって!」と、モーリスのおかみさんが言った。「娘さんを手放しなさるのかね?」
「あの子ももう奉公に出て、幾らかのものは稼いでもらわなきゃならない年頃ですからね。あたしとしちゃ随分つらいことですし、あの子にしたってそれはおんなじなんですがね。聖ヨハネ様のお祭〔六月二十四日。農村で奉公人を傭い入れる日〕の時分には、二人ともどうしても別れる決心がつかなかったんですよ。でも、また聖マルタン様のお祭〔十一月十一日。やはり奉公人を傭い入れる日〕が近くなったんで、オルモーの農家に羊番のいい口が見つかったもんですから。そこの農家の御主人が、このあいだ、市《いち》の帰りにここを通りかかったんですがね。うちのマリーが村の共同牧場で羊を三匹、番してるところを見たわけなんですよ。『おい、娘さん、てんで暇そうじゃないか』って、こう声をかけて来たんですってさ。『羊三匹の羊番じゃ、まるで遊んでるようなもんだ。どうだ、ひとつ百匹ぐらいの番をしてみる気はないかね? よかったら、連れてってやるぜ。うちじゃ、羊番が病気になっちまって、親もとへ帰るんでね。一週間以内にうちへ来てくれりゃ、来年の聖ヨハネ様までの給金に五十フラン出すぜ』ってね。あの子はその時はことわったんですけど、夕方うちへ帰って、あたしがこの冬をどうして越そうかとしょんぼり思い悩んでいるのを見ると、ついそのことを考えずにはいられなくなって、それをあたしに話したわけなんですよ。なにしろこの冬は、長くてきびしい冬になりそうですし、鶴や雁もいつもよりたっぷり一月も早く空を渡って行ったくらいですからね。あたしたちは二人とも泣きましたよ。でも、最後にやっと気をとり直しました。そうして、お互いに自分の胸にこう言いきかせたわけなんですよ――あたしたちの僅かばかりの土地からあがるものじゃ、一人の口を過ごすのがやっとの有様だとすると、どうしたって二人がこのまま一緒に暮すわけには行かないんだからってね。それに、マリーだってその年頃になってるんですし(もう十六になりますからね)、あの子もやっぱりほかの娘さんたちとおんなじようにして、自分で働いてたべて、苦労してる母親の手助けをしてくれるのが当り前だっていうわけでね」
「ギエットのおかみさん」と、百姓かたぎをそのままに、モーリス爺さんは言った。「その五十フランの金さえありゃ、あんたの苦労を助けて、娘さんを遠くへやらずにすむようにしてあげられるんなら、まったくの話、それぐらいの金はなんとかしてあげられないことはないのさ。そりゃあ、五十フランっていえば、わしらの身分のものにとっちゃ、ちょっとこたえる金高じゃあるがね。だが、何ごとによらず、人情もたいせつだが、分別ってことも考えなきゃならんからな。あんたも、この冬の難渋は逃れたからといって、それから先の難渋を逃れるわけにはゆかんのだし、娘さんの決心をするのが延びれば延びるほど、娘さんもあんたも、よけい別れるのがつらくなるだろう。マリー坊もいつの間にか大きくなって、からだもしっかりして来たが、うちにいたって、別にすることもないわけだ。どうかすると、そのためになまけ癖がついたりしないとも限らんし……」
「なにね、その方は、あたしは別に心配してませんがね」と、ギエット婆さんは言った。「マリーはそりゃあ働きもので、そのことじゃ、それこそお金持の、たいした家のうちを切り廻してる娘さんにだってひけはとりませんよ。いっときだって、手を遊ばせとくようなことはなくて、仕事のない時なんか、うちんなかのがらくた道具をふいたり磨いたりして、まるで鏡みたいに光らしちまうんですからね。ほんとに掛け値なしに言って、そりゃあいい子なんですし、お宅へ羊番に入れていただけたら、そんな遠い土地の、見も知らない人のとこなんかへやるよりは、どんなによかったか知れないんですがね。この前の聖ヨハネ様の時に、あたしたちが決心をつけられてたら、傭っていただけたんでしょうけど。でも、今じゃお宅でもすっかり人を入れちまいなさったし、来年の聖ヨハネ様が来るまでは、そんな御相談もできないってわけですよ」
「そりゃもう、ギエットのおかみさん、そのことなら、わしは喜んで承知するよ。そうなれば、わしとしても嬉しいことだからな。だが、まあそれまで、差し当り何かきまった仕事を覚えて、奉公の味に慣れとくのも、娘さんとしちゃ悪くはあるまい」
「ええ、そうなんですよ。どっちみち、もうきまってしまったんですからね、オルモーのその農家から今朝またそう言って来たんですよ。で、承知の返事をしておいたんですから、あの子はどうしても行かなきゃならないんです。ところが、行くったって道も知らない始末ですし、そんな遠いとこへたった一人でやるなんてこともしたくないんですよ。お宅のお婿さんが、明日、フールシュへ出かけなさるなら、あの子を連れてっていただけるかも知れないってわけなんですがね。なんでも、あの子が行くことになってる村のすぐそばだそうじゃありませんか、人から聞いた話ですけど。なにしろ、あたしはあんな方へは一度も行ったことがないもんですから」
「すぐそばだし、そりゃ婿のやつに連れて行かせるよ。それくらい、当り前のこった。それどころか、一緒に馬のうしろに乗せてってあげてもいいぜ。そうすりゃ、靴もいたまないってもんだ。あ、ちょうど、飯に帰って来たよ。おい、ちょっと、ジェルマン。ギエットのおかみさんとこのマリー坊が、オルモーに羊番に行くことになったんだ。お前、一緒に馬に乗せて、連れてってくれるだろうな」
「ああ、いいよ」と、心に屈託はありながら、隣人のために尽すことならいつでもいやとは言わない性分で、ジェルマンは答えた。
われわれの社会なら、十六の娘を二十八の男にことづけるなどという、そんなとんでもない考えは、母親の頭に到底浮かびようがない。なにしろジェルマンは、実際まだ二十八にしかなっていなかったし、このへんの人々の考え方からすると、結婚ということを考える場合にはもう年寄り扱いにされるにしても、それでもまだこの土地で一番の美男子だった。十年も野良仕事を背負い続けて来た百姓なら大抵そうなってしまうのだが、ジェルマンはその労働にも一向やつれもたるみもしていなかった。まだあと十年百姓をしても、年寄りに見えることはなさそうな元気だったし、年ということに関する先入見がよっぽど深く頭に沁みこんでいない限りは、ジェルマンが色つやもみずみずしく、眼はいきいきと五月の空のように青く、ばら色の唇に見事な歯並をのぞかせ、まだ牧場の外へ出されたことのない若駒のようにきりりとしなやかなからだつきをしていることが、若い娘の眼につかぬはずはなかった。
しかし、風俗の純潔ということは、大都会の腐敗した風潮から遠く離れた一部の田舎では、それこそ神聖な伝統になっているのであって、しかもベレールの村のすべての家々のなかでも、モーリス一家はとりわけ律儀な、心掛けの正しい一家として知られていた。ジェルマンは嫁捜しに行くのだった。マリーは、その嫁捜しの相手として考えるには、年も若すぎるし、家も貧乏すぎるし、ジェルマンがよっぽど『人でなし』か『悪性もの』でない限り、マリーに対して罪深い考えなど起こそう筈はなかった。だから、モーリス爺さんは、ジェルマンがこの綺麗な娘を馬のうしろに乗せるのを見ても、ちっとも心配などはしなかった。ギエット婆さんにしても、マリーを妹のつもりで礼儀正しく扱ってやってくれなどと頼んだりしたら、ジェルマンに悪いことでもしたような気がしたことだろう。マリーは、母親や友達仲間の娘たちとそれこそ二十遍も抱きあったあげく、涙ながらに牝馬の背に乗った。ジェルマンは、自分でも悲しい気持になっていたし、それだけになおさらマリーの悲しみに同情が湧いて、重々しい顔つきで旅立って行ったが、一方近所の人たちは、それに対して何の邪念ももたず、可哀そうなマリーに手を振って別れの挨拶をするのだった。
[#改ページ]
六 ピエール坊
『葦毛』は若くて、堂々としていて、逞ましく元気な馬だった。二人の人間を楽々と載せて、耳をぴったり伏せ、轡《くつわ》を噛み鳴らしながら、いかにも凛《りん》とした威勢のいい牝馬らしい足どりで進んで行った。長牧場の前を通りかかって、自分の母親(こっちの方は『親葦毛』といって、それに対して一方を『若葦毛』といっているのだが)の姿に気がつくと、牝馬はお別れの合図に一声いなないた。親葦毛は足かせを鳴らしながら、柵のそばへ寄って来ると、娘のあとを追って、牧場の縁の方を駈けて来ようとした。それから、娘の方がどんどん早足で駈け出したのを見ると、今度は自分の方で一声いなないて、そのままじっと考えこむように、いかにも不安そうな様子で鼻面を空に向けたまま、口いっぱいに頬張った草を食うことも忘れてしまっていた。
「あいつ、可哀そうに、いつになっても自分の生んだ子を覚えてるんだな」と、マリーの悲しい気持を紛らしてやろうとして、ジェルマンは言った。「それで思ったこったが、おれは出かける前にピエールのやつにキスしてやらないで来ちまった。まったくしようのないやつだよ、どこかへいなくなっちまってやがって! ゆうべ、自分も一緒に連れてってくれってせがんで、床にはいってからも一時間ぐらいは泣いてたのさ。今朝になってもまだ、一生懸命、なんとかおれを口説き落そうとかかってたっけ。そいつがまた、なかなかずるくって、うまくもって来やがるのさ! だが、いよいよどうしてもだめだとわかると、大将、すっかりむくれちまった。そのまま畑の方へ跳び出して行ったきり、とうとう一日じゅう姿を見せなかったのさ」
「あたしはちょっと見かけたんだけど」と、マリーは一生懸命涙をおさえようとしながら言った。「スーラの子供たちと一緒に切株林の方へ駈けて行ってたけど、よっぽど前から家を出たきりなんじゃないかって、あたしもそう思ったのよ。だって、とてもおなかがすいてるらしくて、藪のコケモモや桑の実をとって食べてるんだもの。あたしのおやつのパンをあげたら、こう言うのよ――『ありがと、マリーお姉ちゃん。今度うちへ来たら、おれ、おせんべをあげるよ』だって。ほんとに、可愛いったらないわ。あんな可愛い子があって、いいわね、あんたも!」
「うん、まったく可愛いやつさ」と、ジェルマンは答えた。「あいつのためなら、どんなことでもしてやらないじゃいられまいと思うよ。あいつのおばあさんが、おれよりゃ分別があったからよかったようなものの、さもなきゃ、おれはあいつを連れて来ないじゃいられなかったところさ、あいつがあのちっぽけな胸も張り裂けんばかりに、おいおい泣くのを見てるとなあ」
「だからさ、なぜ連れて来なかったのよ。ちっとも邪魔になんかなりゃしなかったじゃないの。望み通りにさえしてやれば、とても聞き分けのいい子なんだもの!」
「今日行く先じゃ、あいつを連れてっちゃ邪魔になるらしんだ。とにかくまあ、うちのおやじさんはそういう意見なんだ……。おれとしちゃ、だが、向うがあいつに対してどんなあしらいをするか、かえって見といた方がいいように思うんだがな。それに、あんな可愛い子なら、好きになってもらえるにきまってると思うし……。だが、うちの連中の言うのには、のっけからそんな、家内の世話のやけるところを見せつけちゃまずいっていうんだ……。なんだってまた、こんなことをお前なんかに話しちまったのかな、マリー。お前にこんな話なんかわかりっこないんだし」
「ううん、そんなことないわよ、ジェルマン。あたし、知ってるのよ、あんたがおかみさんをもらいに行くんだってことは。おっ母さんが教えてくれたの、このことは、村でもこれから行く先でも、誰にも言っちゃいけないって言って。でも、大丈夫、安心していいわ。あたし、一言もしゃべりゃしないから」
「その方がいい。まだ話がきまったわけじゃないんだから。ことによると、おれじゃ向うの女の気に入らないかも知れないしな」
「そんな気の弱いこと言っちゃだめよ、ジェルマン。いったいどうして、あんたじゃ気に入らないなんてことがあるのよ」
「どうだかわかるもんか。おれには子供が三人もあるし、こいつは女にとっちゃ重荷だからな、それが自分の腹を痛めた子供じゃないってことになると!」
「そりゃあ、そうだわ。でも、あんたんとこの子供たちは、よその子供と違うんだもの」
「そうかな?」
「みんな器量よしで、まるでちっちゃな天使みたいだし、それにとても躾けがよくって、あんないい子たちはそれこそどこにも見つからないわ」
「シルヴァンのやつなんか、あんまり手を焼かせない方でもないぜ」
「そりゃ、あんなに小さいんだもの! やんちゃになるより、なりようがない年頃なのよ。でも、とても利口だわ!」
「利口っていえば、利口だな。それに、気の強いことと来たら、乳牛だろうが、種牛だろうが、ちっともこわがらないし、ほっといたらもう馬の背にでも、兄貴と一緒に這い登りかねないんだからな」
「あたしがあんただったら、あのお兄ちゃんの方を連れてくわ。あんな可愛い子があるっていうんで、それこそあんたもすぐ好きになってもらえるに違いないんだもの」
「うん、向うの女が子供好きならな。だが、万一子供嫌いだった日にゃ!」
「女で、子供が嫌いなんて人あるかしら」
「たんとはないだろうと思うがな。だが、とにかくそういう女もあるんだし、おれとしちゃ、それがどうも気がかりでね」
「じゃあ、あんた、ちっとも知らないの、その女《ひと》を?」
「お前が知らないのとおんなじさ。それに、会ってみたからって、今よりよく知ってることになるかどうかあやしいもんだ。どうも疑ぐり深いたちじゃないんでね、おれは。相手にうまいことを言われると、それをまに受けちまうんだ。だが、これまでもう何度となく、あとで後悔させられるような目に会ってるし、なにしろ、口で言うことと、することとは別だからな」
「とても立派な女《ひと》だっていうじゃないの」
「誰が言ったんだい? うちのおやじさんだな」
「ええ、あんたのお舅さんよ」
「そんならそれで、まあ、いいさ。だが、おやじさんだって、その女を知ってるわけじゃないんだ」
「だからさ、あんたはもうじきその女《ひと》に会うわけだし、それこそよく見てみればいいじゃないの。そうすりゃ、なんとか、見そこないをしないようにだってできるわよ、ジェルマン」
「そうだ。なあ、マリー、お前もちょっとその家へ寄ってくれると有難いんだがな、まっすぐオルモーへ行っちまう前にさ。お前はなにしろ利口だし、ふだんからいつも気のきく方だし、なんでもよく気のつくたちだからな。お前が見てて、ちょっと考えものだっていうようなとこが何か目についたら、そうっとおれに教えてくれよ」
「あら、だめよ、ジェルマン、そんなこと御免だわ! それこそ見そこないでもしたら大変じゃないの。それに第一、うっかり言ったことがもとで、あんたがこの縁談をいやだなんていうことになったら、あんたんとこのお父さんやお母さんに怨まれるわ。そうすりゃ、それだけでもあたしとしちゃずいぶんつらいことになるわけよ、かりにあたしの大事なおっ母さんが、つらい思いをさせられるようなことにならないですむとしても」
二人がそんな問答を続けていた時、『葦毛』がふっと耳を立てて跳ねあがったと思うと、そのまま今来た道を引っ返して、そこの藪蔭に近づいた。その藪のなかに何かがいて、やっとその正体がわかって来た様子だが、最初はそれに怯えたものらしかった。ジェルマンが藪の方をのぞいて見ると、そこの溝の中に、槲《かしわ》の木の枝払いをした枝がまだ青々と厚く重なっている蔭に、何かがいるのが見えたので、たぶん子羊だろうと思った。
「どっかの羊が迷子《まいご》になったんだな」と、ジェルマンは言った。「それとも死んでるのかな。ちっとも動かないぜ。ひょっとすると誰か捜してるかも知れないな。とにかく、ちょっと見てみなきゃ」
「羊じゃないわ」と、マリーが叫んだ。「子供が寝てるのよ。ピエール坊だわ、あんたんとこの」
「あきれたな!」と、ジェルマンは馬からおりながら言った。「まあ、見てやってくれよ、この悪たれを! こんなに家から離れた、溝のなかなんかで寝てやがって、蛇にでも出くわしたらどうするんだ!」
ジェルマンが子供を抱きあげると、子供は眼をさましてにっこり笑いかけ、いきなり相手の首に抱きつきながら、こう言った――
「お父ちゃん、おれ、連れてってくれるね!」
「そら、これだ! まだ、おんなじことを言ってやがる! 何をしてたんだ、こんなとこで、悪いやつだ」
「お父ちゃんが通るのを待ってたんだよ」と、子供は答えた。「ずうっと道の方を見てたんだけど、あんまり永く見てるうちに、とうとうねむくなっちまったんだ」
「そんなことをして、おれが気がつかずに行っちまったら、お前は一晩じゅう外にいなきゃならなかったんだぞ。そうして、狼に食われちまうんだ!」
「大丈夫だい! ちゃんと気がつくにきまってるんだもの、お父ちゃんは!」と、ピエールは信じきった様子で答えた。
「よし、そいじゃピエール、さあ、お父さんにキスして、さよならを言うんだ。そうして早く家へ帰らないと、みんなお前をほっといて、先に晩飯を食っちまうぞ」
「そいじゃ、連れてってくれないんだね」と叫ぶと、子供はもう眼をこすりながら、今にも泣きだしそうな様子を見せた。
「そいつは、おじいさんとおばあさんが、いけないと言ってるじゃないか」と、ジェルマンは、自分の権威は一向頼みにならぬ人間みたいに、年寄り夫婦の権威を楯にとった。
しかし、子供はなんと言っても聞こうとしなかった。もうおいおい泣きだしながら、マリーを連れて行ってやるんなら、自分だって連れて行ってもらえない筈はないと言うのだった。そこでそれを言い聞かせるために、なにしろ大きな森を通らなきゃならないし、森には沢山悪い獣がいて子供を取って食うんだからとか、『葦毛』は三人も人を載せるのはいやだって言ってるし、それは家を出るときからちゃんと自分でそう言ってたんだとか、これから行くところには小さな子供なんか寝るとこも食べるものもないんだとか、いろいろ言ってみた。そういう何よりの理由を幾ら並べたててみせても、ピエールを納得させるわけにはゆかなかった。しまいには草の上へひっくり返って、そこを転げ廻りながら、お父ちゃんはもうおれを可愛がってくれないんだから、連れてってくれないんなら、昼になっても夜になっても家へは帰らないと言って、泣きわめいた。
ジェルマンの心は、父親でありながら、女親のようにやさしく、気弱だった。女房に死なれたことや、自分の手ひとつに子供たちの面倒をみなければならなかったことや、それからまた、母親のない可哀そうなこの子たちはうんと可愛がってやらなければならないのだという考えや、結局そういうことがジェルマンをそんなふうにしてしまったのだった。で、今もその心のうちには実に苦しい戦いが起こって、しかもそれが自分の心弱さを恥かしく思い、その乱れた気持を一生懸命マリーに隠そうとしていただけに余計苦しかったわけだが、それこそ額には汗が滲み、自分も今にも泣き出しそうに、眼の縁が赤くなった。最後にはとうとう怒りだそうとしてみた。ところが、自分の心の堅固なところをよく見てもらおうとでもするような様子で、ふとマリーの方を振り返ってみた途端、そのやさしい娘の顔がいちめん涙に濡れているのを見ると、ジェルマンももうすっかり気が挫けてしまって、まだ叱ったりおどしたりしながらも、どうにも涙を抑えることができなくなってしまった。
「ほんとに、あんたは情がなさすぎるわ」と、とうとうマリーが口を開いて言った。「あたしなんか、こんなに悲しがってる子に向って、とてもそうは突っ張りきれないわ。ねえ、ジェルマン、連れてってやりなさいよ。この馬だって、大人二人に子供一人ぐらい、しょっちゅうのっけてるんだもの。ほら、あんたんとこの義弟《おとうと》さんなんか、あたしよりずっと重い筈のおかみさんと一緒に、子供も連れて、いつも土曜日にはこの馬で市《いち》へ出かけて行くじゃないの。あんたの前のとこに乗せて行けば大丈夫だわ。それに、この子に悲しい思いをさせるくらいなら、あたしなんか一人で歩いて行ったっていいわ」
「それだけなら、なんでもないんだがな」と、ジェルマンは答えたが、実は自分でもマリーの意見に説き伏せられたくてたまらなかったのだ。「『葦毛』は強い馬だし、乗せるだけなら、あと二人でも乗せられるさ、背中に場所さえありゃあな。だが、道中、この子をどうするんだい? やれ、寒いの、腹がへったのって言うだろうし、それに、今晩とあした、誰がこいつの世話をやいて、寝かしたり、顔を洗わせたり、服を着かえさせたりしてやるんだい? まだ会ったこともない女に、そんな厄介をかける気にはなれないし、だいいち向うにしたって、のっけからいやに無遠慮なもんだと思うに違いないさ」
「それを気持よくしてくれるか、いやな顔を見せるかで、その女《ひと》の人柄がすぐわかるわけじゃないの。そりゃあもう確かよ、ジェルマン。それに、もしその女《ひと》がピエールちゃんの世話をいやがるようだったら、あたしがそれを引受けるわ。あした、あたしが服を着かえさせに行って、それから野良へ連れてってやるわ。そうして一日じゅう遊ばせてやって、なんにも不自由な思いなんかさせないようにするわ」
「それじゃあお前がたまらないじゃないか、こんな子供のお相手で! それこそずいぶん世話がやけるぜ! しかも一日じゅうじゃ、なにしろ永いからな!」
「それどころか、かえって楽しいわ、その方が。そうすれば話相手もあるわけだし、それほど悲しい気持にならないで、新しい土地で暮す最初の一日を過ごせるわけだし。なんだか、まだ自分の村にいるような気がするだろうと思うわ」
子供は、マリーが自分の味方をしてくれる様子を見ると、マリーのスカートにしがみついて、しっかりつかまったまま、てこでも放そうとせず、無理に引き離そうとすれば、それこそ痛い思いをさせなければならないくらいだった。やっと父親の気が折れたのを見てとると、日にやけたちっちゃな両手でマリーの手をつかんで、嬉しさにこおどりしながらそれにキスし、そして子供が自分の願いを満たそうとする時の、いかにもひたむきな性急なやり方で、ぐいぐいマリーを引っ張って牝馬の方へ行こうとした。
「もういいの、いいの」と、その子を抱きあげながら、マリーは言った。「さあ、もうそんなに胸を顫わせないで……まるで小鳥みたいに心臓が躍ってるじゃないの。夜になって、からだが寒くなったら、あたしにそう言うのよ、ピエールちゃん、あたしの合羽でくるんであげるから。さあ、お父ちゃんにキスして、駄々をこねたお詫びをなさい。これからはもう決してしませんからって! ほんとに、もう決してよ、いいこと?」
「うん、そうだろうとも、その代りいつでもわがままを通してやるって約束でな、なあ、そうだろう?」と、自分のハンケチで子供の眼をふいてやりながら、ジェルマンは言った。「まったく、マリー、お前のお蔭で甘やかしちまうよ、この小僧を……。それにしても、ほんとに、お前は気立てのいい娘だな、マリー、この前の聖ヨハネ様の時、どうしてうちの羊番に来てくれなかったもんかなあ。そうすりゃ、お前に子供たちの面倒をみてもらえたろうし、おれとしちゃ、その世話賃に相当な給金を出しても、こうして女房を捜しに出かけたりするよりゃましだったんだがな。そんな女房なんて、どうかすりゃ、子供を嫌わないってだけで、よっぽど恩を着せた気になりかねないんだから」
「そんなにものごとを悪くばっかり考えるもんじゃないわ」と、ジェルマンが山羊皮張りの大きな荷鞍の前に息子をのっける間、馬の轡を抑えてやりながら、マリーは答えた。「万一おかみさんが子供嫌いだったら、来年あたしを傭ってちょうだいよ。そうすれば、大丈夫、あたしが上手に子供たちのお相手をして、そんなことまるで気がつかないようにしてあげるわ」
[#改ページ]
七 荒野のなか
「ああ、そうだ」と、五六歩あるきだしてから、ジェルマンが言った。「この坊主が帰らなかったら、うちじゃなんと思うこったろうな。それこそ、祖父《じい》さんたちが心配して、方々捜し廻るぜ」
「この先の街道で、道普請をやってる人夫さんに、そう言えばいいわ。この子を連れてくからって言って、うちの人たちにそう言ってくれるように、ことづけを頼むのよ」
「違いない。ほんとに、マリー、なんでもよく気がつくんだな、お前は。おれは、ジャニーがあすこにいる筈だなんてことは、てんで頭になかったよ」
「それにちょうど、あの人の家はあんたんとこのすぐそばなんだもの。ことづけを忘れるなんてことはないわ」
で、ちゃんと心配のないように、そのことづけをすましてしまうと、ジェルマンはまた馬に速足《はやあし》を出させたが、ピエールはもうすっかり喜んでしまって、今朝からまだ昼飯を食べていなかったことにもすぐには気がつかなかった。しかし、馬に揺られているうちに、だんだんすき腹がこたえて来て、やがて一里半ばかり行った時分には、欠伸《あくび》を始めるやら、顔色が悪くなるやら、とうとう腹がへって死にそうだと言いだした。
「さあ、そろそろ始まった」と、ジェルマンは言った。「どうせそんなこったろうと思ってたんだ。それこそいくらも行かないうちに、この先生がわめきだすにきまってるんだから、やれ腹がへったの、咽喉が渇いたのって」
「咽喉も渇いたよ!」と、ピエールは言った。
「よし、そいじゃ、ひとつ、コルレーのルベック婆さんの酒場に寄るとするか。『あけぼの』なんて、看板だけは素晴らしいが、みすぼらしい店さ! いいだろう、マリー、お前もちょっぴり飲むことにしろよ」
「あら、いいのよ、あたしはなんにもいらないわ」とマリーは答えた。「あんたがピエールちゃんと一緒になかへはいってる間、あたし、馬の番をしてるわ」
「まあ、そう言わないでさ、こいつはおれの気持なんだ。お前は今朝おやつのパンをピエールのやつにくれたっていうし、まるっきりなんにも食べてないじゃないか。うちへ来ても、一緒に昼飯を食おうともしないで、泣いてばっかりいたし」
「だって、ちっとも食べたくなかったんだもの、あんまり胸がいっぱいで! ほんとに、嘘は言わないわ、今でもまだものを食べようなんて気はちっともしないのよ」
「無理にでも食べるようにするんだな。さもないと病気になっちまうぜ。これからまだずいぶん道のりがあるわけだし、向うへ着いて、『今日は』も言わない先にパンをねだるような、がつがつしたことじゃ困るからな。おれの方もひとつ手本を見せてやるよ、おれだってたいして食べたかないんだが。まあ、それでも、なんとか食べられないことはないさ。それが、実をいうと、おれも昼飯は食ってないんだから。お前とお前のおっ母さんが泣いてるのを見たら、こっちも胸がつまっちまってな。まあ、いいから、そうしろよ。『葦毛』は入口んとこに繋いどくことにするから。さあ、おりてくれ、おりるんだよ」
そこで三人ともルベック婆さんの店にはいったわけだが、するとふとっちょでびっこの婆さんがどうやらうまく立ち働いて、十五分とかかからずに、なかなかうまそうなオムレツと、黒パンと、薄口の赤葡萄酒とを出してくれた。
百姓というものは食事を急がないものだし、おまけにピエールは恐ろしくよく食ったので、ジェルマンがいよいよまた出かけようと思い立つまでには、たっぷり一時間はたってしまった。マリーは、初めのうちはただお愛想に食べていただけだった。が、そのうちに、少しずつ食欲が出て来た。なにしろ、十六という年では、そういつまでなんにも食わないでいられるものではないし、それに田舎の空気というやつは有無をいわせぬ力で働きかけて来るものだ。ジェルマンがいろいろと親切な言葉をかけて、慰めたり、元気をつけたりしてやろうとしたことも、やはりそれだけのききめがあった。マリーは自分でも努めて、七カ月ぐらいすぐにたってしまうのだからと心に言いきかせるようにし、やがて自分の家と村に帰れた時の幸福を考えるようにしようとした。なにしろそのことは、モーリス爺さんもジェルマンも同じはらで、自分を傭ってやろうと約束してくれているわけだった。ところが、やっとマリーが陽気になりかけて、ピエールを相手にふざけたりしだした時、ちょうどまた間が悪く、ジェルマンは、酒場の窓からその美しい谷間の景色をマリーに眺めさせることを思いついた。小高いところにあるこの場所からは、谷間がすっかり見渡せ、それが実に綺麗で、青々として、豊かな眺めだった。マリーはのぞいて見て、ここからはベレールの村の家なども見えるだろうかと尋ねた。
「見えるとも」と、ジェルマンは答えた。「おれんとこも、お前のうちだって見えるぜ。ほら、小さくぽっつりと灰色のものが見えるだろう、ゴダールんとこの大ポプラのあたりにさ、鐘楼の少し下の方に」
「あ、見えたわ、ほんとに!」と、マリーは言ったと思うと、途端にまた泣きだした。
「悪かったな、また思い出させちまって」と、ジェルマンは言った。「どうもへまばっかりやってるな、今日は! さあ、マリー、出かけるとしようぜ、日が短くなってるし、一時間もすりゃ月が出るだろうが、その時分になると冷えて来るからな」
三人はまた道中を始めて、広い『羊歯《しだ》っ原』を突っ切って行ったが、あんまり馬に速歩《はやあし》を出させて娘と子供を疲れさせても困るし、ジェルマンは『葦毛』をそう急がせるわけにゆかなかったので、街道を出はずれて森にさしかかった頃には、もう日が暮れてしまった。
ジェルマンはマニエまでの道はよく知っていた。しかし、シャントルーブの森の本道を通らずに、いつも市《いち》へ行く時には通らない道だが、プレールと墓地山の方から降りて行った方が近道だろうと思った。これがとんだ思い違いで、森へはいるまでにまた少し時間を損してしまった。おまけに、森にはいるのに変な方からはいってしまって、しかもそれに気がつかなかったものだから、結局フールシュの方に背を向けて、アルダント寄りにずっと上手の方へ登ってしまうことになった。
その時、はっきり方角をわからせないようにしたのは、夜になると同時に湧き起こって来た霧だった。秋の夜によくあるような霧で、それが白い月明りのせいで、また一層かすんで見まちがい易くなるのだった。森のなかのあき地のあちこちにできている大きな水溜りから、恐ろしく濃い水蒸気が立ち昇っていて、『葦毛』がその水溜りを渡る時にも、馬の足が水を撥ね返す音と、ぬかるみから足を抜くのに苦労している気配とで、やっとそれとわかるくらいだった。
そのうちやっと真っ直ぐないい道がみつかったので、ずうっとその道を行きつくして、さてここはどこだろうと見廻してみた時、ジェルマンははっきり道に迷ってしまったことに気がついた。というのは、モーリス爺さんが道を教えてくれた時の話では、森を出はずれたら、ひどく急なちょっとした丘を下って、広い牧場を突っ切ってから、浅瀬伝いに二度川を渡らなければならないと言っていた。おまけに、川にはいる時には、季節の初めに大雨が降ったので多少|水嵩《みずかさ》が増しているかも知れないから用心するように、と言い添えたくらいだった。下り坂も牧場も川も見えず、ただ白々と雪野原のような荒野が続いているばかりなので、ジェルマンは馬をとめて、あたりに人家はないかと見廻し、誰か通りかかるのを待ってみたが、道を教えてくれそうなものはまったく見当らなかった。
そこでジェルマンは今来た道を引っ返して、また森の中へはいった。しかし、霧はますます深くなり、月の光はすっかりぼやけ、道はひどく、ぬかるみは深くなっていた。二度も、『葦毛』は危く倒れそうになった。なにしろ三人も乗っているので、さすがの『葦毛』も気力が弱って来て、まだ自分で木に衝き当ったりはしないくらいの見分けはついていたにしても、乗っている人間が、ちょうど頭の高さぐらいに道いっぱいに張り出している太い木の枝にぶっつからないようにすることまではできなかったし、それが非常にあぶなかった。ジェルマンはそんな枝の一つにぶっつかったはずみに、帽子をとられてしまい、それを捜し出すのに大骨を折った。ピエールはすっかり寝入ってしまって、まるで粉袋のようにぐったりとなっているし、ジェルマンはそのためまったくの腕の自由がきかなくなって、馬を助《す》けてやることも、自由に引き廻すこともできない始末だった。
「どうも魔法でもかけられてるんじゃないかな」と、馬をとめながら、ジェルマンは言った。「なにしろ、森ったって道に迷うほど大きな森じゃなし、酔っ払ってでもいるんなら別だが、さっきからもう少くとも二時間ぐらいはぐるぐる廻り歩いてるのに、まだ森の外へ出られないんだからな。『葦毛』のやつはたった一つの考えしか頭にないんだ。つまり、家へ帰ることしか考えていないもんだから、そのせいでこっちも道に迷っちまうんだ。家へ帰るつもりなら、こいつのするなりにさしときさえすりゃいい。だが、ひょっとすりゃ、ゆっくり寝られるとこのつい鼻の先まで来てるかも知れないっていうのに、それをあきらめてまた長い道中を引っ返すなんてことは、それこそよっぽどどうかしてなきゃできやしない。そのくせ、おれはもうどうしていいかわからないんだ。なにしろ空も見えなきゃ、地面も見えない始末だ。いつまでもこのいまいましい霧のなかにいたら、この子が熱でも出しゃしないかって心配もあるし、万一馬が前へつんのめりでもすりゃ、それこそおれたちの下敷きになって潰れちまわないとも限らないからな」
「無理に頑張らない方がいいわ、これ以上」と、マリーが言った。「馬をおりようじゃないの、ジェルマン。その子をこっちへよこしてよ。あたし抱いてくぐらい平気よ。それに、あたしの方が上手に抱いてられるわ、合羽がずれてからだがむき出しになったりしないように。あんたは馬の口をとって、引いて行ってよ。馬をおりて、地面がそれだけ近くなれば、もっとはっきり見えるかも知れないわ」
この方法も、馬から落ちるのを防ぐのに役立っただけで、霧はいちめん地を這うように拡がって、じくじくした地面にまるでへばりついているようだった。歩くにもひどく歩きづらかったし、間もなく二人はへとへとになってしまって、大きな槲《かしわ》の木の蔭になっている乾いた場所へ出たところで、足をとめた。マリーは汗びっしょりになっていたが、愚痴ひとつこぼさず、ちっとも気を揉んだりはしなかった。ただもう子供のことだけを考えている様子で、砂の上に腰をおろすと、子供を自分の膝の上に寝かした。一方ジェルマンは、『葦毛』の手綱を木の枝に結えつけておいてから、あたりの土地の様子を調べにかかった。
ところが、この道中にうんざりしきっていた『葦毛』は、いきなり腰を一振りして、手綱を振りほどき、腹帯を切ってしまったと思うと、ことのついでに、五六っぺんも頭より高く後足を蹴上げておいて、それこそ誰のお世話にならなくても自分の道はわかると言わんばかりに、若木林のなかを一散に駆けだして行ってしまった。
「やれやれ」と、なんとかその馬をつかまえようとしながら、とうとう取り逃してしまうと、ジェルマンは言った。「いよいよこれで馬なしになっちまったし、これじゃ、ちゃんといい道に出られたところで、なんにもなりゃしない。川を歩いて渡らなきゃならんことになるからな。それに、このへんの道がこんなに水溜りだらけになってるところを見ると、牧場の方なんかもう間違いなく水浸しになってるこったろう。そうかと言って、ほかに道も知らないし。こうなったら、この霧がはれるのを待つんだな。そういつまでこいつが続く筈はないし、一時間か二時間もすりゃ大丈夫だろう。そうして、あたりがはっきり見えるようになったら、どこでもいい、この森の近くにある家を捜すとしよう。だが、今は、とてもここからは抜け出せないぜ。窪地だか池だか、なんだか知らんが、この前の方にあるんだ。うしろの方だって何があるか、てんで見当もつかない始末だし、なにしろ、どこをどう通って来たか、わからなくなっちまってるんだからな」
[#改ページ]
八 大きな槲《かしわ》の木蔭で
「じゃあ、いいわ、しばらく待ってみることにしましょうよ、ジェルマン」と、マリーが言った。「ここならちょっと小高くなってるし、場所も悪くないわ。この大きな槲の木蔭にいれば、雨も通さないし、焚火だってできるわ。ちょうど古い根株が幾つも手にさわってるんだけど、みんなぐらぐらになって、うまく乾いてるから、きっとよく燃えるわ。あんた、大丈夫、火打ち道具は持ってるわね、ジェルマン? さっきパイプに火をつけたりしてたんだから」
「持ってたのさ! 火打ち道具は荷物袋に入れて鞍につけてあったんだ、向うの女んとこへ持って行く鳥と一緒に。ところが、あの馬の畜生め、何もかもすっかり持ってっちまいやがった。おれのマントまで持ってっちまいやがって、きっと木の枝に引っかけて、落っことすか破くかしちまうんだろう」
「嘘よ、ジェルマン。鞍もマントも荷物袋も、みんなそこに、あんたの足もとに転がってるじゃないの。『葦毛』は腹帯が切れちまったもんだから、逃げ出すはずみに何もかも振り落して行っちまったのよ」
「うん、なるほど、違いない!」と、ジェルマンは言った。「そうすると、なんとか手探りで枯木を少し見つけられりゃ、からだを乾かすことも、あったまることもできるわけだ」
「そんなこと、造作もない話だわ」と、マリーは言った。「そこいらじゅう枯木だらけで、踏んづけるたんびに音がしてるんだもの。だけど、まずその鞍をこっちへよこしてよ」
「鞍なんかどうするんだい?」
「この子の寝床を作ってやるのよ。ううん、そうじゃなく、ひっくり返しにして。それなら、転げ落ちることもないわ。それに、馬の背中のぬくもりで、まだあったかだし、ちょっとこの両側に石をかってちょうだい、ほら、その石よ、そこに見える!」
「そいつが見えないんだがな、おれには! お前の眼は、まるで猫みたいなんだな!」
「そら、これでできたわ、ジェルマン! あんたのマントをよこしてよ、あんよの先をくるんでやらなきゃ。そうして、あたしの合羽をからだの方へかけてやって。どう、これなら、うちの寝床に寝てるのと変らないくらいじゃないの! まあ、さわってみてよ。このあったかそうなこと!」
「うん、なるほど! お前、子供の世話はうまいもんだな、マリー!」
「別に感心するほどのことじゃないわ。さあ、今度は、荷物袋から火打ち道具を出してよ、あたし、焚き木の用意をするから」
「こんな木じゃ、火がつきっこないよ、とてもしめってやがって」
「なんでも心配ばかりしてるのね、あんたったら! あんただって、羊番をしたことがあるんでしょう。野原で雨のまっ最中にどんどん焚き火をした覚えがありそうなもんだわ」
「うん、そいつは羊番の子供たちなら、みんな器用にやるこったがな。だが、おれは、歩きだすとから、牛追いばっかりやらされて来たもんだから」
「そのせいで、あんたは腕の力が強い代り、手先の方はあんまり器用じゃないのね。さあ、いよいよ焚き木の用意ができたと。まあ、見てたらいいわ、燃えだすかどうか! 火打ち道具をこっちへ貸してよ、それから羊歯の枯葉を一握りと、さあ、これで大丈夫! 今度は吹いてちょうだい。あんた、肺病じゃないわね?」
「そうじゃないつもりだがな」と言いながら、ジェルマンは鍛冶屋の鞴《ふいご》のような勢いで吹きたてた。
やがて、ぱっと焔が燃えあがったと思うと、初めは赤い火煙をあげていたが、そのうちにとうとう青味がかった焔になって、槲の木蔭に高く燃えあがり、押し寄せる霧の流れを押し返しながら、まわり三メートル四方ぐらいの空気を次第に乾かして行った。
「さて、それじゃ、あたしは、ピエールちゃんのそばに坐ることにするわ、寝ているからだの上に火の粉が落ちたりすると困るから」と、マリーは言った。「あんたは、そばから焚き木をたして、どんどん燃やしてよ、ジェルマン! こうしてれば、大丈夫、熱にとりつかれたり、風邪をひいたりなんかしっこないわ」
「まったく、お前は頭のいい娘だな」と、ジェルマンは言った。「それに、火を起こすののうまいことと来たら、まるで夜なかに出て来る魔法使いの娘みたいだ。お蔭でこっちはすっかり生き返った気持だ。これで元気も出て来たよ。なにしろ、足は膝までずぶ濡れだし、このまま明け方までこうやってるんだと思うと、さっきはずいぶんむしゃくしゃしてたのさ」
「そんなふうにむしゃくしゃしてると、なんにもいい考えが出て来ないもんだわ」と、マリーはそれを引き取るように言った。
「そいじゃ、むしゃくしゃするなんてことはちっともないのかい、お前は?」
「ないわよ、それこそどんな時だって! そんなことしたって、なんになるの?」
「そりゃあ、なんになるもんでもないさ、確かに。だが、どうしたってむしゃくしゃせずにいられるもんじゃないからな、いやなことがある時は。それにしても、お前なんか、いやなことは幾らでもあったろうにな。なにしろ、いつも仕合せに暮して来たわけじゃないんだし」
「そりゃ、そう言えば、ずいぶんつらい思いをして来たわ、おっ母さんもあたしも。その間にはずいぶん悲しいこともあったけど、でも、どんな時だって気を落したりはしなかったわ」
「おれだって、働くぶんには、どんな仕事だろうとひるみゃしないさ」と、ジェルマンは言った。「だが、貧乏したら、きっといやになるだろうな。なにしろ、まだ何ひとつ不自由な思いってものはしたことがないんだから。女房のお蔭で金持になれて、今でもそのまま暮してる。あの家で働いてる限りは金持でいられるわけだ。まずこいつは、これからもずっと変ることはあるまい。だが、誰にでも、人それぞれの苦労ってやつはあるもんだ! おれはまた別のことでつらい思いをしたよ」
「ほんとにね、おかみさんをなくしたんだもの、こんな気の毒なことはないわ!」
「なあ、そうだろう」
「ほんとに、あたしだってどんなに泣いたか知れないわ、あの時は! そりゃあ、ほんとにいい人だったんだもの! ねえ、もうその話はやめようじゃないの。また泣きだしてしまいそうだわ。なんだか悲しいことばかり思い出しちまうんだもの、今日は」
「そう言や、あいつもお前がえらく好きだったぜ、マリー! お前とお前のおっ母さんにはとても感心してたっけ。なんだ、泣いてるのか? だめだなあ、せっかく泣くまいと思ってるのに、こっちは……」
「泣いてるじゃないの、そのくせ! やっぱり一緒に泣いてるじゃないの! 男が、死んだおかみさんのことを思って泣いたからって、ちっとも恥かしがることなんかないわ。いいから、幾らでも泣きなさいよ! あたしだっておんなじなんだもの、それを悲しく思う気持は!」
「お前は気立てのやさしい娘だな、マリー。お蔭でこっちもいい気持で泣かしてもらえるよ、お前と一緒だと。だが、お前、もうちっと火のそばへ足を出したらどうだ。お前も、スカートなんかびしょ濡れじゃないか! そうだ、おれがそっちと入れ代って、坊主のそばへ坐ろう。もっと火に当るようにしろよ、そんなふうにしてないで」
「これで結構あったかいわ」と、マリーは答えた。「あんたも坐りたかったら、このマントのはじっこのとこに坐ればいいわ。あたしはこのままでとてもいい工合よ」
「実際、これなら、そう悪くもないな」と、マリーのすぐそばに腰をおろしながら、ジェルマンは言った。「ただ、腹のすいてるのが、ちっと苦になるくらいのもんだ。もう九時ぐらいにはなるんだろうが、あのひどい道を歩くんでえらく難儀したもんだから、すっかりからだが参っちまった。どうだ、お前も腹がすいてないか、マリー?」
「あたし? ううん、ちっとも。あたしはそういつも、あんたたちみたいに、日に四度も食べてなんかいないんだもの。晩御飯を食べないで寝ることだって何度あったか知れないんだから、また一度ぐらいそんなことがあったからって、別に驚きゃしないわ」
「すると、ずいぶんちょうほうなわけだな、お前みたいな女房なら。ちっとも金がかからなくってさ」と、ジェルマンは笑いながら言った。
「あたし、女房なんかじゃなくてよ」と、マリーはジェルマンの考えがどんな方に動きだしたかも気がつかないで、無邪気に言った。「あんた、夢でも見てるの?」
「うん、どうやら夢でも見てるらしいよ」と、ジェルマンは答えた。「たぶん腹が減ったせいだろうな、なんだかわけのわからんことを言ったりして!」
「まあ、ずいぶん食いしん坊ね、あんたったら!」と、自分の方も少し陽気になりながら、マリーは言った。「じゃ、いいことを教えてあげるわ。たった五時間か六時間、あんたがどうしても食べないでいられないっていうんなら、あんたの荷物袋に、ちゃんと鳥があるじゃないの。おまけに、それを焼く火もあるし」
「しめた! そいつはいい考えだ! だが、向うのおやじさんにせっかくの土産物がなくなっちまっちゃな」
「鷓鴣《しゃこ》が六羽に兎が一匹あるんでしょう。まさかそれみんなはいらないと思うけど、いくらあんたがおなかいっぱい食べたって」
「だが、こんなところでどうやって焼くんだい、金串も串置きもなくってさ。それこそ炭みたいに真っ黒焦げになっちまうぜ」
「大丈夫よ」と、マリーは言った。「あたしが上手に灰をかぶせて焼いてあげるわ、ちゃんといぶり臭くないように。あんた、野原で雲雀をとったことはないの、そうして石に挟んで焼いて食べたりしたことはないの? あ、そうだっけ! あんたは羊番をしたことがなかったんだったわね。そいじゃ、まあ、羽根をむしってよ、この鷓鴣の。だめ、だめ、そんなにむやみにしちゃ! 皮までむしれちまうじゃないの!」
「お前、ひとつ、そっちのやつをむしって見せてくれよ、どんな工合にやるもんか」
「二羽も食べるつもり、そいじゃ? あきれた大食いさんね! そら、これでどっちもむしれたわ。それじゃさっそく焼くとしましょう」
「これじゃ、酒保《さかば》のおばさんぐらい申し分なくやってのけられそうだな、お前は。だが、あいにく、お前には酒保がついてないんだし、おれはこの沼の水を飲むよりしようがないってわけだ」
「葡萄酒がほしいっていうんでしょう? ね? ひょっとしたらコーヒーもほしいんじゃない? まるで市《いち》のお休み場にでもいる気なんだから! ひとつ、酒場の亭主でも呼んでみたらどう――おい、リキュールを持って来い、ベレールの腕っこきのお百姓様に! って」
「ちぇっ! ひどいやつだ、おれをからかってやがる。そんなら、お前は葡萄酒なんか飲まないっていうのか、かりにここにあったとしても?」
「あたし? あたしはさっきルベックお婆さんのとこで、あんたと一緒に飲んだわ。生れてからこれが二度目だったけど。でも、あんたがお利口さんにしてるんなら、あたし、一壜出してあげるわ、ほとんど手つかずの、しかもまだ上等のを」
「なんだって、マリー。そいじゃ、お前はいよいよ魔法使いってわけか?」
「あんた、あんな馬鹿な真似をするんだもの、ルベックお婆さんに二本も注文したりして。一本の方はあんたがピエールちゃんと二人で飲んで、もう一本はあたしの前に置いてくれたけど、あたし、ほんの一ったらし口をつけただけだったのよ。それだのに、あんたったら、よく見もしないで二本分払ってしまうんだもの」
「それで?」
「それでね、あたし、まだ飲んでない方の壜を自分の手提籠に入れて来たのよ、あんたやピエールちゃんが途中で咽喉が渇くだろうと思ったもんだから。そら、これよ」
「まったく、お前みたいに頭の働く娘は、出会ったことがないぜ。どうだい、まあ、この娘は! そのくせ、あの酒場を出る時には泣いてたんだのにな! それでもちゃんと、自分のことより人のことを考えてたんだからな。なんだぜ、マリー、お前を女房にもらう男は、どうしてばかな男じゃないぜ」
「あたしもそう願いたいわ。ばかな男じゃ、あたしだっていやだもの。さあ、鷓鴣をおあがんなさいよ、ちょうど焼けごろだわ。それから、パンはないけど、栗で我慢しといてちょうだい」
「いったいどこでまた、栗なんかまで手に入れたんだい?」
「よっぽど不思議そうね! 道々、途中の枝になってたのを取って来たのよ。ポケットがいっぱいになるまで詰めこんで来たわ」
「で、その栗も焼けてるのか?」
「それくらいの気がきかなくってどうするの。火が燃えだしたら、すぐそのなかへ入れといたわ。野原じゃ、みんないつでもやってることよ」
「よし、わかった。そいじゃ、ひとつ、一緒に晩飯をやるとしようぜ! お前の無事を祈って、いっぱい飲ましてもらおう。それと、お前にいいお婿さんがみつかるように祈ってな……それこそ、お前の望み通りのお婿さんが見つかるように。お前、どんなのが望みなんだ、ちょっと言ってみろよ」
「そう言われたって困るわ。そんなこと、まだ考えたことがないんだもの」
「へえ、ちっともかい? ほんとに一度もかい?」と、ジェルマンは言うと、いかにも野良で働く人間らしい元気な食べっぷりで食べ始めながら、それでも一番いいところを切り取ってはそれをマリーに勧めるのだったが、マリーはどうしてもそれを食べようとせず、栗を五つ六つ口に入れただけだった。
「そいじゃ、きくが、どういうんだい、そりゃ?」と、マリーが一向返事をする様子もないのを見て、ジェルマンは言葉を続けた。「お前、まだ嫁に行くことを考えたこともないのかい? もう年頃じゃないか、それにしても!」
「ほんとは、そうかも知れないけど」と、マリーは言った。「でも、あたし、あんまり貧乏なんだもの。世帯をもつにはどうしても百エキュぐらいはなくちゃならないし、あと五六年は働いてそれを溜めなきゃ」
「可哀そうにな、お前も! うちのおやじに百エキュもらえりゃ、そいつをお前にやるんだがなあ」
「それこそ真っ平だわ、せっかくだけど。だって、そうじゃない? そんなことをしたら、あたしがなんて言われるか知れやしないわ!」
「どう言われるっていうんだい? おれは年をとりすぎてるし、お前を女房にもらうわけにはいかないってことは、わかってるんだからな。そんなら、なにも変に気を廻されることはないわけだぜ、その、おれが……つまり……お前と……」
「あら、ちょっと、見てよ! ピエールちゃんが目を覚ましたわ」と、マリーが言った。
[#改ページ]
九 夕べの祈り
ピエールはむっくり起きあがると、いかにも不審に堪えぬという面持であたりを見廻した。
「まったく、いつだってこうなんだからな、この先生は、何か食ってる気配が聞えると!」と、ジェルマンは言った。「それこそ大砲の音がしたって目を覚ましゃしない。そのくせ、こいつのそばでちょっとでも口を動かそうもんなら、途端にぱっと目をあきやがる」
「あんただってきっとそうだったんだわ、この年頃には」と、いたずらっぽい笑顔を見せながら、マリーは言った。「どうしたの、ピエールちゃん、寝台の天蓋はどこへ行っちまったかと思ってるの? それが青い葉っぱになってるのよ、今晩は。でも、あんたのお父ちゃんは、ちゃんといつも通り晩御飯を食べてるわよ。あんたも一緒に食べる? あんたのぶんは、ちゃんと食べないで残しといたわ。きっとあんたが食べたいっていうだろうと思ったのよ」
「おい、マリー、お前もぜひ食べてくれよ」と、ジェルマンは叫んだ。「おれはもう食べないことにするから。こんなにおればかりがつがつと、遠慮会釈もなく食っちまって……。それでお前の方は、おれたちのために食わずに我慢してるなんて、そんな法はないし、こっちが恥かしくなっちまう。さあ、そうしてられちゃ、こっちも胸がつかえちまうじゃないか。お前が食べないんなら、ピエールにも食べさせないことにするぜ」
「いいから、ほっといてよ、こっちのことは」と、マリーは答えた。「あんたにあたしたちのおなか工合が自由になるわけじゃないんだから。あたしのおなかは今日は塞がってるんだし、その代りピエールちゃんの方は、それこそ狼の子みたいにおなかをすかしてるんだわ。ほら、ちょっと見てよ、この食べっぷりを! これじゃ、この子もきっと働きもんのお百姓さんになるわ!」
なるほど、ピエールはやがて父親に恥じない息子ぶりを見せて、まだ碌に目も覚めず、自分が今どこにいるのか、どうしてそんなところへ来たのか十分納得もいかないうちに、盛んにむしゃむしゃ食べ始めた。それから、すっかり腹がくちくなってしまうと、ふだんと違ったことに出会った場合、子供にはよくあることだが、急にいきいきと活気づいて来て、いつもよりもずっと頭の働きがよく、いろんなことに興味をもち、なかなか理屈をいうようになった。ここはいったいどこなのかときいてみて、それが森のまんまんなかだとわかると、少しこわくなったらしかった。
「悪いけだものいるの、この森?」と、ピエールは父親にきいた。
「ううん、いやしないさ」と、父親は言った。「なんにもこわいことなんかないよ」
「そいじゃ、お父ちゃん嘘をついたんだね、お父ちゃんと一緒に大きな森の中へ行ったら、狼にさらわれるなんて?」
「どうだい、こいつ、いっぱし理屈を言うじゃないか?」と、ジェルマンは返事に困って言った。
「そりゃピエールちゃんの言うのがもっともだわ」と、マリーが口を入れた。「あんたはちゃんとそう言ったんだもの。ピエールちゃんはそれを忘れないで、ちゃんと覚えてたわけよ。でもね、ピエールちゃん、あんたのお父ちゃんは決して嘘なんかつかないのよ。大きな森はあんたが寝てるうちに通っちまったの。今いるのは小さな森だから、悪いけだものなんかいないのよ」
「小さな森は大きな森からずっと離れてるの?」
「だいぶ離れてるわ。それに、狼は大きな森から外へは出ないのよ。それからまた、万一出て来たら、お父ちゃんがやっつけちまうわ」
「マリーちゃんもやっつける?」
「ええ、あんたと二人でね。だって、ピエールちゃんも加勢してくれるんでしょう? こわがったりしないわね、ピエールちゃんは? 狼なんかどやしつけてやるわね!」
「うん、そうさ」と、ピエールは得意になって、勇ましい身構えをしてみせながら言った。「狼なんかやっつけてやる!」
「まったく、うまいもんだな、子供を相手にしゃべることは」と、ジェルマンはマリーに言った。「お前みたいに上手に言って聞かせられる者はまあないだろうな。もっとも、そう言えば、お前はついこの間まで自分も子供だったんだし、おっ母さんによく言われたことを覚えてるわけだ。おれはそう思うんだが、年が若ければ若いほど、年端のゆかない連中とうまくいくんじゃないかな。三十にもなって、おまけに子供の母親になるってことがどういうことかも知らないような女が、小さい子供たちを相手に上手におしゃべりをしたり、言い聞かせたりできるようになるのは骨が折れるんじゃないか、どうも心配だよ」
「別にできないって筈はないじゃないの、ジェルマン。どうしてまたその女の人のことっていうと、あんたは悪い方にばかり考えるのか、あたしにはわけがわからないわ。きっとあんたも思い直すに違いないわ!」
「そんな女のことなんか、どうにでもなっちまえばいいんだ!」と、ジェルマンは言った。「おれはもうこのまま思い直して、二度とそんなことは考えないことにしたいよ。知りもしない女なんかに、いったいなんの用があるっていうんだ」
「お父ちゃん」と、ピエールが言った。「なぜ、今日は、お父ちゃん、女房、女房ってばかり言ってるの? お父ちゃんの女房は死んじまったんじゃないか……」
「可哀そうに! そいじゃ、お前、まだ忘れないんだな、死んだお母ちゃんのことを?」
「うん。お母ちゃんは白い綺麗な木の箱に入れられて、おばあちゃんがそのそばへおれを連れてって、ちゃんとキスしてさよならを言いなさいって言ったんだもの……! お母ちゃんの顔は真っ白で、とても冷たかったよ。そうして、毎晩、叔母ちゃんが、神様にお祈りをしなさいって言うの、お母ちゃんが天国の神様のとこへ行って、からだがあったかくなりますようにって。お母ちゃんほんとに天国にいると思う、もう今は?」
「行ってるだろうよ、たぶん。だが、やっぱりお祈りはするんだぞ、お母ちゃんには、お前がお母ちゃんを思ってることが、それでわかるんだから」
「おれ、今、お祈りをしよう」と、ピエールは言った。「お祈りをするのを忘れてたよ、今晩は。だけど、一人じゃちゃんと言えないんだ。いつでもちょっと文句を忘れちまうんだもの。マリーちゃんに一緒にやってもらわなきゃ」
「ええ、ピエールちゃん、一緒にやってあげるわ」と、マリーが言った。「さあ、ここへ来て、あたしのそばへ膝をつくの」
ピエールはマリーのスカートの上に跪《ひざまづ》くと、小さな手を合せながら、お祈りの文句を唱え始めたが、初めのうちはよく気をつけて熱心に唱えていた。初めの方の文句はよく知っていたからだ。それから、次第にゆっくりとたどたどしくなり、最後には一言一言マリーが口うつしするのをそのまま繰返すだけになってしまった。毎晩、お祈りの文句がそのへんまで来ると、もうねむくてたまらなくなって、どうしてもしまいまで覚えることができないのだった。今晩もやっぱり、一生懸命心を集中している努力と、自分の口で唱えている言葉の単調な調子とが、いつもとおんなじききめを現わして、おしまいの方の言葉などはとぎれとぎれにやっとのことで唱えた始末で、それも同じことを三度も繰返して教えてもらったあげくだった。頭はだんだんうなだれて、マリーの胸に凭れかかって来た。握り合せていた両手は指がゆるんで、やがて離れたと思うと、ぐったりと膝の上に滑り落ちた。野宿の焚火のあかりのなかで、ジェルマンは、若い娘の胸に抱かれて寝入ってしまった、天使のようなわが子の姿を、じっと見つめた。娘はその子を両腕でかかえ、その金髪の髪の毛を自分の吐く清らかな息で温めてやりながら、自分もまたうやうやしい思いに浸りきって、心のなかでカトリーヌの霊のために祈り続けているのだった。
ジェルマンは深く心を動かされ、マリーのその様子に尊敬と感謝の念をそそられた自分の気持を、なんとかうまく口に出して伝えたいと思ったが、しかし自分の感じていることを十分に言い表わせるような言葉はなんにも見つからなかった。で、そのままマリーのそばへ寄って、相変らずマリーの胸に抱きしめられたままのわが子にキスすると、そのピエールの額からなかなか唇を放せなかった。
「そんなにきつくキスしちゃだめよ」と、そっとジェルマンの顔を押しのけながら、マリーは言った。「目を覚ませちまうわよ。あたしがこのままそっと寝かしつけちまうわ、もうこの通り、また天国の夢を見始めてるんだから」
ピエールはおとなしく寝かしつけられたが、荷鞍の山羊皮の上に寝かされると、自分は『葦毛』の背中の上で寝ているのかと尋ねた。それから、大きな青い眼をぱっちりあけたと思うと、いっときその眼で上の木の枝の方をじっと見据えたまま、まるで眼をあいたまま夢でも見ているか、それとも、昼間のうちいつのまにか心に忍びこんでいた考えが、寝る間際になって急にはっきり心に浮かんで来たのを、じっと思いつめてでもいるかのような様子だった。
「お父ちゃん」と、ピエールは言った。「おれにもう一人お母ちゃんをもらってくれるんなら、おれ、マリーちゃんがいいな」
そう言うと、返事も待たずに、そのまま眼をつぶって、寝てしまった。
[#改ページ]
十 寒いのに
マリーはピエールの奇妙な言いぐさを別に気にもとめず、それをただ自分に対する好意のしるしと見ただけのようだった。そして、ピエールのからだを丁寧にくるんでやり、焚火の火をかき立てると、近くの沼の上に居すわってしまった霧が一向晴れそうな様子もないので、ジェルマンに向って、火のそばに場所を作って一寝入りするように勧めた。
「あんたももうねむたくなってるのがわかるわ」と、マリーは言った。「だって、すっかりだまりこんじまって、じっと焚火の燠《おき》ばっかり見つめてるじゃないの、さっきピエールちゃんがしてたみたいに。さあ、いいから寝てちょうだい。あたしが起きて、ピエールちゃんとあんたのために見張りをしててあげるから」
「お前こそ寝ろよ」と、ジェルマンは答えた。「おれがちゃんと二人とも気をつけててやるから。おれは、こんなにねむくないことは、ついぞなかったくらいなんだ。それこそ何十って考えることがあって、頭んなかがいっぱいなんだ」
「何十なんて、そりゃまたずいぶん沢山あるのね」と、ちょっと冷かすような口ぶりで、マリーは言った。「それこそどんなに大勢いるか知れないんだから、一つでも考えることがあれば仕合せっていうような人が!」
「じゃあ、いいさ。まあ、何十なんて考えごとはおれにはできないかも知れないが、とにかく一つだけは、一時間ばかり前からずうっと頭を離れない考えがあるんだ」
「あたしがそれを当ててみせましょうか、そればかりじゃなく、その前に考えていたことも」
「よし! いいとも。わかってるならそいつを言ってみろよ、マリー。お前の口から言ってみてくれ。その方がおれも嬉しいんだ」
「一時間前には」と、マリーは言った。「あんたは食べることを考えてたんだわ……そうして今は、寝ることを考えてるのよ」
「おい、マリー、おれは、そりゃ、ただの牛追いさ。だが、まったくお前と来たら、おれを牛だと思ってるぜ。娘のくせにそんな意地悪を言って、つまりおれと話をしたくないんだろう。もう寝ろよ、そんなら。その方がよっぽどましだろうぜ、気の浮かない男をつかまえてかれこれ難癖をつけてるよりゃ」
「話がしたいんなら、しましょうよ」と、ピエールのそばに半ば横になって、荷鞍に頭を凭せかけながら、マリーは言った。「あんたはしきりにくよくよ考えだしてるのね、ジェルマン。それじゃあ、男のくせに、あんまり意気地があるとは言えないわ。あたしだってどんなに言いたいことがあるか知れないのに、一生懸命我慢して、自分のつらい思いをじっとこらえてるのよ」
「うん、そうだろうな。だから、つまりそのことが、おれも気になってるんだよ、お前が可哀そうな気がして。お前は親の手もとを離れて、荒野と沼地ばかりのひどい土地でこれから暮そうというわけだ。そんなとこじゃ秋の瘧《おこり》やみなんかにもかかるだろうし、羊を飼ってもあんまり儲けにならない土地がらで、こいつは律儀に羊番を勤めようって娘には、なんて言ってもいやなことだしな。おまけに見ず知らずの連中のなかにはいって、とても親切にはしてもらえないかも知れないし、お前の値打ちなんかわかってもらえやしまい。まったくの話、そいつがおれには、それこそ口に出してる以上に苦になって、いっそこのままお前をおふくろさんのとこへ連れて帰りたい気がするよ、フールシュへなんか行かないで」
「あんたの言ってくれることはとても親切な気持なんだけど、でも、分別のある話じゃないわ。近しい人間のためを思うからって、気を弱くしたりしちゃだめよ。あたしが今度こういうことになったのについても、悪い方のことなんか聞かせたりしないで、反対にいい方のことを聞かせてくれるのが本当だわ、あのルベックおばあさんのとこでおやつを食べた時、言ってくれたみたいに」
「そう言われたって仕方がないさ。あの時にはそれがそんなふうに思えたんだし、今じゃそれがまた別なふうに思えるんだから。お前は亭主を見つけた方がいいよ」
「そんなことできっこないんだもの、さっきも言った通りよ。どうせできっこないことなんだから、そんなこと考えてもみないわ」
「だが、まあ、もしそいつが見つかったとしたら、どうなんだ? お前が、どんな男が望みなのか言ってみてくれりゃ、おれだって誰か思いつかないもんでもないさ」
「思いつくだけじゃ見つけたことにはならないわ。あたし、それこそなんにも思ってみたりしないわ、どうせそんなこと無駄なんだもの」
「金持の男を見つけようって気はないのかい?」
「ないわ、ほんとにちっとも。なにしろ、こっちはヨブみたいに貧乏なんだもの」
「だが、その男が裕福な身分なら、お前だって、ちゃんとした家に住んで、ちゃんとしたものを食べて、ちゃんとしたなりをしていられるのは、まんざらいやでもあるまい? おまけにその家のものがみんな律儀な連中で、ちゃんとおっ母さんの面倒もみさせてくれるんだとしたらさ?」
「あら、そういうことになれば、そりゃもちろんだわ! おっ母さんの面倒をみてあげるってことは、あたしの何よりの願いなんだもの」
「で、もしそういうのがあったとして、その場合、男の方がそれほど若くなくても、お前、そうむずかしいことは言わないかい?」
「あら! 悪いわね、ジェルマン。それだけは、あたし、どうしても注文をつけたいのよ。年寄りなんかいやだわ!」
「年寄りっていうんじゃ、まあ、そうだろうがな。だが、例えば、おれぐらいの年の男じゃどうだい?」
「あんたぐらいの年でも、あたしには年をとりすぎてるわ、ジェルマン。あたし、バスチアンぐらいの年がいいのよ。そりゃあ、バスチアンはあんたみたいにいい男ぶりじゃないけど」
「バスチアンの方がいいっていうのか、あの豚飼いの?」と、ジェルマンはいまいましそうに言った。「あんな、自分の追い廻す豚そっくりの眼をしたやつがか?」
「眼ぐらい我慢するわ、年が十八ってことで」
ジェルマンはむらむらと妬《ねた》ましい気持がこみあげて来た。
「そうか」と、ジェルマンは言った。「すると、なんだな、お前はバスチアンに気があるってわけだな。変った思いつきだよ、まったくの話!」
「ほんと、変った思いつきだわね。それこそ」と、声をたてて笑いながら、マリーは答えた。「きっと変った御亭主ができるわ。どんなことでも、こっちの思うままに信じこませることができるわ。それがね、せんだって司祭様のとこの裏庭で、あたし、トマトを拾ったのよ。で、あの人に、これは真っ赤な素晴らしい林檎なんだって言ってやったら、あの人、それこそむしゃぶりつくようにしてかぶりついたわ。その時のしかめ顔ったら、見せてあげたかったわ! ほんとに、見られた顔じゃないの!」
「すると、あいつが好きでもないんだな、そうしてからかったりするようじゃ」
「そんなことは別に理由にはならないわ。でも、あたし、あの人は嫌いよ。妹になんか邪慳だし、それにむさくるしいんだもの」
「そいじゃ、誰かほかに気をひかれてる男はないのか?」
「そんなこときいて、どうするのよ、ジェルマン?」
「別にどうもしないさ。ただ、言ってみただけさ。きっと、なんだろう、そんな小娘みたいな顔をして、お前、もうちゃんと心にきめたいい人があるんだろう」
「うそよ、ジェルマン、それこそ大違いだわ。あたし、まだそんな人なんかないんだもの。そりゃあ、この先そういう人ができないとも限らないわ。でも、どうせあたし、少しお金をためてからでなきゃお嫁には行けないんだから、結局ずうっと遅くなってから、年寄りの人のとこへ行くことになるんだわ」
「そんならさ、今すぐ年寄りのとこへ行ったらどうだ」
「そうはいかないわ! 自分が若い娘でなくなってしまえば、そんなこと別に構わないだろうけど、今は、話が違うわ」
「なるほど、わかったよ、マリー、お前はおれなんかいやなのさ。そいつはもう見え透いてら」と、ジェルマンはつい怨みがましく、しかも自分の言葉をよく考えてみもせずに、言った。
マリーは返事をしなかった。ジェルマンはその顔をのぞきこんだ。見ると、マリーはもう眠っていた。ちょうど子供が口ではまだおしゃべりをしているのにもう寝入っていたりするのとおんなじで、とうとうねむけに負けて、まるで雷にでも打たれたようにがっくりと眠りに落ちてしまったのだった。
ジェルマンは、自分の最後の言葉にマリーが気がつかないで、まあよかったと思った。自分でも思慮のある言葉ではなかったと気がついたし、そこでマリーの姿にくるりと背を向けると、なんとか気持をまぎらして、ほかのことを考えようとした。
しかし、いくらそうしようとしてもどうしてもだめで、そのまま眠ることも、今しがた自分が口に出したことよりほかに考えを向けることもできなかった。焚火のまわりを二十遍も廻り、その場を離れては、また立ち戻って来る、というようなことを繰返していた。そのうちにとうとう、まるで火薬の粉でも飲んだみたいに興奮して来て、少年と少女の上に枝をさしかけているその木の幹によりかかると、二人の寝姿をじっと見守った。
「どうして今まで気がつかなかったのか、わけがわからない」と、ジェルマンは考えるのだった。「このマリーって娘はそれこそ土地でも一番綺麗な娘だ……! 血色はたいしてよかないが、まるで野ばらみたいにみずみずしい可愛らしい顔をしてる! どうだ、あの口もとの可愛いこと、それからあのちっちゃな鼻の恰好のよさ……! 年の割に背は高くないが、その代りまるでちっちゃな鶉《うずら》みたいなからだつきで、ちっちゃな河原鶸《かわらひわ》みたいに身が軽い……! このへんじゃ、大柄でふとったいやに血色のいい女を、どうしてあんなにもてはやすのか、どうもおれにはわからない……。死んだ女房は、どっちかっていえば痩せぎすで蒼白い方だったが、おれには何より気に入りの女房だった……。この娘はまるでほっそりしているが、そのくせ別にからだが弱くもないようだし、見た目の可愛らしいことはまるで白い子山羊みたいだ……! それに、このやさしそうな清らかな様子はどうだ! それこそ気立てのよさがありありと眼に出てるじゃないか、こうして眼をつぶって寝てる時でさえ……! 頭の才覚と来たら、こいつはどう見ても、死んだカトリーヌのやつよりは上だし、この娘が相手なら退屈するなんてことはありゃしない……。陽気で、利口で、働きもんで、情が深くて、おまけに面白いと来てる。ちょっと考えてみても、これ以上の娘は望めそうもない気がするんだが……」
「だが、こんなことをいくら思ってみたところで、どうなるんだ?」と、ジェルマンは無理にマリーの姿から眼をそらそうとしながら、また考えるのだった。「うちのお父っつぁんはそんな話にはてんで耳を借してはくれまいし、家じゅうでおれを気違い扱いするこったろう! それに第一、御当人のこの娘が、おれなんかいやだって言うに違いない! おれじゃ年をとりすぎてるってわけだ。さっきちゃんとそう言ってたからな……。この娘は財産のことなんか考えないんだ。この先まだ貧乏暮しで苦労することもなんとも思ってないし、たといみすぼらしいなりをしようが、年に二三カ月は食うものも食わずにいようが、いつか自分の胸の思いがかなって、好きな亭主と添いとげることができさえすりゃ、そんなことはなんでもないと思ってるんだ……。なるほどその通りだ、まったく! おれだって、この娘とおんなじ身になりゃ、やっぱりそうするに違いない……。現に今だって、自分の思う通りにやれるんなら、こんな一向ぱっとしない縁談なんかに引っ張りこまれたりしないで、それこそ自分の気ままに好きな娘をもらうんだがな……」
ジェルマンは一生懸命心に分別をつけ、自分の気持を静めようとしたが、そうすればするほど、その気持は抑えきれなくなるばかりだった。とうとう、その場から二十歩も向うへ離れて行って、霧のなかへまぎれこんだりもした。と思うと、今度は突然、寝ている二人のそばにいつの間にか跪いていたりするのだった。一度などは、マリーの頸に片腕をかけて寝ているピエールにキスしようと思って、すっかり間違えてしまい、そのためマリーは火のように熱い息が自分の唇にかかるのを感じて、はっと目を覚すと、ジェルマンの心のうちにどんなことが起こっているかなどということは知る由もなく、ただ茫然と怯えたようにジェルマンの顔を見つめた。
「つい見えなかったんだ、お前たちの姿が!」と、大急ぎで身を引きながらジェルマンは言った。「もう少しでお前たちにつまずいて、痛い目に会わすとこさ」
マリーは無邪気にもその言葉を信じて、また寝入ってしまった。ジェルマンは焚火の反対側に席を変えると、マリーが眼を覚ますまではそこを動くまいと神に誓った。そして立派にその誓いを守り通したが、しかしそれには相当骨が折れた。そのまま気が狂ってしまうんじゃないかとさえ思った。
とうとう、夜中の十二時ごろ、霧が晴れて、ジェルマンの眼にも、木の間ごしに星の瞬くのが見えるようになった。月もそのまわりを包まれていた靄から抜け出して、濡れた苔の上にダイヤの粒を撒き散らし始めた。槲の木立の幹のあたりは相変らずしんしんとした闇に包まれていた。しかし、少し向うのあたりの白樺の白い幹は、まるで死装束をつけた幽霊が行列でもしているような姿を見せていた。焚火の火が沼の水に映っていた。蛙どもも、どうやらその火影に慣れて来て、時々思い出したように、か細いおどおどした鳴き声をたてていた。白っぽい地衣類が一面についている、ごつごつした老樹の枝は、まるで痩せしなびた大きな腕のように、この三人の頭上に突き出て、枝と枝とを差し交していた。まことに景色はいいが、しかし実に淋しくて陰気な場所なので、ジェルマンはこんなところで独り思い悩んでいるのがとうとうやりきれなくなって、一人ぽっちのたまらない所在なさをまぎらすために、歌を唱ったり、沼のなかに石を投げたりし始めた。それはマリーの眼を覚まさせようというつもりもあった。で、やがてマリーが起きあがって、空模様を眺めているのを見ると、さっそくマリーに向って、また出かけることにしようと言った。
「あと二時間もしたら、明け方近くなって、ひどく冷えこんで来るから、焚火ぐらいしたって、とても我慢できるもんじゃない……。今なら、はっきり道もわかるし、どこか家でも見つけて入れてもらうか、さもなきゃせめて納屋みたいなもんでも見つかりゃ、これから夜の明けるまで、屋根の下で過ごせるわけだ」
マリーには別段これという考えもなかった。で、実はまだねむくてたまらなかったのだが、ジェルマンの言うままに一緒に出かけることにした。
ジェルマンは息子のピエールを、眼を覚まさせないようにそっと自分の腕に抱きあげると、マリーに向って、自分のそばへ寄って一緒にマントのなかへはいるようにと言った。マリーが、ピエールのからだを包んでやった自分の合羽を、どうしても取ろうとしないからだった。
ジェルマンは、ちょっといっとき気がまぎれて陽気になっていたのだが、マリーのからだをそんなに身近に感じると、また分別が怪しくなって来た。二三度などは、急にそのそばを離れて、マリーを一人で歩かせておいたりした。そうしてはまた、マリーが自分の足について来るのに苦労しているのを見ると、じっと待ってやって、ぐっと自分の方へ引き寄せ、あんまり強く抱きしめるので、マリーの方はちょっとびっくりして、口には出さないが少しむっとしたくらいだった。
二人はどっちの方角からやって来たものやら一向わからなかったので、現在どんな方角に向って歩いているのかもわからなかった。そんなわけで、二人は結局もう一度森をすっかり登りきって、またも最初の淋しい荒野の前に出てしまい、そこでまたその道を引き返すと、永い間ぐるぐると歩き廻ったあげく、やっと木の間ごしに明るい火影を見ることができた。
「しめた! 家があるぞ」と、ジェルマンは言った。「しかももう起きてるらしい、火が焚きつけてあるんだから。すると、もうよっぽどの時間なのかな?」
しかし、それは家ではなかった。さっき野宿した時の焚火を出かけ際に土をかけて消して来たのが、そよ風に煽られてまた燃え出していたのだった……。
二時間も歩き廻って、結局最初の出発点へ戻って来ていたのである。
[#改ページ]
十一 星空のもとで
「いよいよこいつはあきらめた!」と、ジェルマンは地団太を踏みながら言った。「きっと魔法にかかっちまったんだ、それに違いない。このぶんじゃ、すっかり明るくなってからでなきゃ、ここから出られないぞ。どう考えても、こいつは何か魔のついてる場所に違いない」
「まあ、いいじゃないの。癇癪を起こしたって仕方がないわ」と、マリーが言った。「それより、とにかくどうするかきめなくちゃ。焚火をもっとどんどん焚くようにすれば、ピエールちゃんはしっかり合羽にくるまってるから、ちっとも心配はないし、一晩ぐらい外で明かしたからって、あたしたち、まさか死にもしないわよ。荷鞍はどこに隠しといたの、ジェルマン? そこの大きな柊《ひいらぎ》の木立のなか? 考えなしな人ね! さぞ楽なこってしょうよ、出して来るのが!」
「おい、頼む、この子を。ちょっとこいつを抱いててくれ。こいつの寝床を茨藪《いばらやぶ》から引っ張り出さなきゃ。お前じゃ、手に棘《とげ》でもたてるといけないや」
「もうすんだわ。ここにあったわ、寝床は。棘の三つや四つぐらい、なにも刀で突かれるわけじゃなし」と、マリーはかいがいしく答えた。
マリーはまたピエールを寝かす段取りにかかったが、ピエールの方は今度はぐっすりと寝入っていて、寝ている間に一道中して来たこともちっとも気がつかなかった。ジェルマンは焚火にどんどん木を足したので、あたりいちめん森じゅうが輝き渡らんばかりだった。しかし、それでもマリーはどうにも凌ぎきれなくなって、なんにも口に出して言いはしなかったものの、もう立っていることもできない有様だった。顔は蒼ざめ、寒さとからだの弱りこみのためがたがた顫えていた。ジェルマンはそれを温めてやろうとして、自分の腕に抱いてやった。そうしているうちに、不安と同情と、どうにも抑えられない愛情の衝動とで胸がいっぱいになって来て、変な気持は消えてしまった。すると、まるで打って変ったように舌がほぐれて来て、恥かしさなどはどこかへ行ってしまった。
「なあ、マリー」と、ジェルマンは言った。「おれはお前が好きなんだ。だのに、お前に好きになってもらえないんで、ほんとに情ないよ。もしお前がおれの女房になってもいいって気なら、舅だろうが、親類だろうが、近所のものだろうが、たとい誰になんと言われようと、おれはどんなことをしたってお前と添いとげるよ。おれにはちゃんとわかってるんだ。お前なら子供たちをきっと仕合せにしてやってくれるだろうし、死んだおふくろの思い出をたいせつにするようにもさせてくれるだろうし、そうすりゃおれも気が咎めるようなこともないから、心からむつまじく暮せるわけだ。おれは昔からお前が好きだったんだが、今じゃもうお前に夢中になっちまって、かりにお前がこれから一生涯自分のしたい放題をさせろって言ったって、おれはそれこそ即座にそいつを約束するよ。なあ、頼むから、おれがどんなにお前を思ってるか、そこをよく見てくれよ。そうして、おれの年のことなんか忘れるようにしてもらいたいんだ。まあ、三十の男が年寄りだと思うなんて、こいつは世間の考えが間違ってるんだ。それに、おれはまだ二十八なんじゃないか! 若い娘は、十も十二も年上の男と一緒になりゃ、なんとか言われやしないかと心配する。土地のしきたりにはずれてるからってわけだ。だが、話に聞くと、ほかの土地じゃそんなことは別に気にしないそうだ。それどころか、若い娘にはしっかり頼りになる男をっていうんで、ずぶの若者なんかよりゃ、かえって分別の確かな、十分気性の練れた男を添わせたがるってこった。若いもんじゃどうぐれないもんでもないし、いい人間だと思ってたのが、しようのないやくざ者になっちまわないとも限らないってわけだ。それに、年の多い少いばかりで、人間の年はきまるもんじゃない。こいつはからだの強さと元気さによるんだ。働きすぎたり、貧乏しすぎたり、それとも不身持だったりして、からだを磨り減らしてしまった男は、二十五にもならないうちに老いこんでしまう。それにひきかえ、このおれは……。だが、お前ちっとも聞いてないんだな、マリー」
「聞いてるわよ、ジェルマン、あんたの言うこともよくわかってるわ」と、マリーは答えた。「ただね、あたし、いつもおっ母さんに言われてたことを考えるのよ。それはね、つまり、女が六十にもなった時、亭主が七十だの七十五だのって年で、ちゃんと働いて食わしてくれることができないようじゃ、ずいぶんみじめだってことなの。自分でもせいぜいからだを加減して休めるようにしなきゃならなくなって来るような年になって、亭主がよぼよぼになっちまって、その介抱をしなきゃならないってわけよ。そうなりゃ、最後は野垂れ死にだっていうの」
「親の身になりゃ、そう言うのは無理もないと、それはおれもそう思うよ、マリー」と、ジェルマンは言った。「だが、結局、それじゃ、花の盛りの若い時代をまるっきり棒に振っちまうことになるし、そうしちゃ、先の用心ばかりして、もう何をすることもできなきゃ、どんな死に方をしようがどうでもいいような年になった時、自分がどうなるかなんてことを心配してるわけだ。だが、おれなら、年をとってから飢え死にするなんて気遣いはありっこないさ。今から多少のものを溜めとくぐらいのことはできるし、なにしろ死んだ女房の親たちと一緒に暮してるんで、うんと稼ぎはしても、ちっとも使うことはないんだ。それに、おれはお前をそれこそ可愛がるだろうしさ、お蔭で年もとらずにすむだろうぜ。人間ってやつは仕合せな気持でいると、いつまでも年をとらないっていうからな。第一、お前を思うことにかけちゃ、おれはバスチアンなんかより若いって気がするんだ。なにしろ、別にお前を思っちゃいないんだから、あいつは。まるで頓馬でまだ子供だし、お前がどんなに綺麗で気立てがよくて、みんなが嫁にもらいたがるような娘かなんてことは、てんでわかりっこないんだ。
なあ、マリー、そんなにおれを嫌うことはないぜ。おれは性悪な男とは違うんだ。死んだカトリーヌもちゃんと仕合せにしてやったし、あいつは死ぬまぎわに神様に向って、おれのことじゃ嬉しい思いしかしたことがないって言ってくれたよ。そうして、代りの女房をもらうように勧めてくれたのさ。そんなあいつの亡霊が今晩自分の子供に何か言ったらしいよ、さっきピエールの寝入り際に。お前、聞かなかったか、ピエールの言ったことを? あの小さな口をぶるぶる顫わして、眼は何かおれたちに見えないものが見えるように、じっと宙を見つめてたっけ! きっとおふくろの姿が見えてたに違いない、そりゃもう確かなことさ。だから、あれはおふくろがあの子にそう言わせたんだぜ、死んだおふくろの代りにはお前がいいって」
「ねえ、ジェルマン」と、マリーは意外な話にすっかり驚いて、じっと考えこむようにしながら、答えた。「あんたはちゃんと真面目に話してくれたし、あんたの言うことは何もかもみんなその通りに違いないわ。あたしだって、そりゃあんたを好きになれば確かにいいに違いないと思うわ、それでお宅の小父さん小母さんがあんまりがっかりなさるようなことさえなければね。でも、こればっかりは自分でどうしようもないのよ、どうしてもあんたじゃ気が進まないんだもの。そりゃ、あたし、あんたは好きよ。でもね、あんたの年ってことを考えると、別に年をとってあんたがみっともなくなってるわけでもないんだけど、あたし、どうしても気おくれがしちまうの。自分からみて、あんたはなんだか叔父さんか名づけ親っていうような人みたいな気がするのよ。こっちはいつも目上の人に対するようなつもりでいなきゃならないし、あんたの方じゃ、あたしを女房とか対等の相手とかいうよりも、まるで小娘扱いにするような時がありそうな気がするの。それと、やっぱりお友達仲間に笑いものにされるかも知れないし、そんなことを気にするのはくだらないことだけど、それでもせっかくの婚礼の日になんだか気がひけて、ちょっと悲しくなってしまうだろうと思うわ」
「そんな子供みたいな理屈ばかり並べて! お前の言うことはてんで子供の言いぐさじゃないか、マリー!」
「だから、そうなのよ、あたしは子供なのよ」と、マリーは言った。「つまり、それだから、あたし、あんまり分別のある男の人は気おくれがするのよ。あんただって、その通り、あたしじゃ年が若すぎるってことがちゃんとわかってるんじゃないの、あたしの言うことに分別がないって、さっそくもう文句をつけてるくらいだもの! あたしには、自分の年以上の分別なんかもてやしないわ」
「なんてこった、まったく! 我ながら情なくなるよ。どうしてこうへまで、自分の思ってることがうまく言えないのかな!」と、ジェルマンは叫んだ。「マリー、あんたはおれが嫌いなのさ、それがはっきりしたところだ。おれなんかばかで気がきかなくてしようがないと思ってるのさ。ちっとでもおれを好きに思ってくれてりゃ、そうまではっきりおれのあらが眼につくことはない筈だ。だが、あんたはおれが好きじゃないんだ。つまりそうなのさ!」
「だからって、そりゃあたしのせいじゃないわ」と、マリーは答えたが、ジェルマンが自分のことをもうお前と言ってくれなくなったのに少し気を悪くしていた。「あんたの話を聞きながら、一生懸命その気になろうとしてるんだけど、そうすればするほど、あたしたち二人が夫婦になるなんてことは、なんだか考えられなくなって来るんだもの」
ジェルマンは返事をしなかった。じっと両手で頭をかかえこんだまま、泣いているのか、拗《す》ねているのか、それとも寝てしまったのか、マリーにはわからなかった。マリーとしては、ジェルマンがこんなに陰気な様子をして、しかも心のなかでいったい何を思いめぐらしているのかわからないのが、ちょっと心配だった。しかし、それ以上話しかける勇気はなかったし、さっきからのことがあんまり意外でもう一度寝る気にもなれなかったので、そのままじっと夜の明けるのを待ちわびながら、絶えず焚火の工合を見たり、ピエールの様子に気をつけてやったりしていたが、ジェルマンの方はピエールのことなどもう思いだしもしない様子だった。
しかし、ジェルマンは眠っていたのではなかった。自分の身の上を思い返してみていたわけでもなく、あきらめて気を取り直そうとか、なんとかして口説き落そうとか、思いめぐらしていたわけでもなかった。ただ苦しみ悩んで、やるせない思いに胸も潰れんばかりだったのだ。こんなことなら、いっそ死んでしまった方がよかったと思ったくらいだった。何もかも自分にとって思わしくないことになって来そうな気がしていたし、もし自分で泣くことができたのだったら、それこそちっとやそっとの泣き方ではすまなかったに違いない。しかし、その悲しみには、自分で自分に腹が立つような気持がちょっとまじっていたし、そのため自分で嘆くこともできず、また嘆こうともせず、それこそ息がつまりそうな気持だったのだ。
やがて夜が明けて、野山のいろんな物音がそれを知らせるように聞え始めると、ジェルマンは手に埋めていた顔をやっとあげて、立ち上った。見ると、マリーもやっぱり寝ないでいたことがわかったが、自分の心遣いの気持を表わすような言葉はなんにも言ってやれなかった。すっかり気を落してしまっていたのだ。そこで、『葦毛』の荷鞍をまた藪のなかに隠して、荷物袋を肩に担ぐと、息子のピエールの手をとりながら――
「さあ、そいじゃ、マリー」と、言った。「ひとつ出かけるとして、とにかく行くところまで行っちまおう。どうだ、オルモーまで送ってくことにするかい?」
「一緒にとにかく森を出ちまって」と、マリーは答えた。「その上ではっきり場所がわかったら、それぞれ自分の行く方へ別れて行くことにしようじゃないの」
ジェルマンは返事をしなかった。マリーがオルモーまで連れて行ってくれと頼まなかったので気を悪くしたわけだったが、そのくせ、自分のきき方が、わざわざ断らせようとするような調子だったことには気がつかなかった。
二百歩ばかり行ったところで一人の木樵《きこり》に出会うと、それですっかり道がわかって、大きな牧場を通り抜けてしまったら、一人はそのまま真っ直ぐに、一人は左の方へ行きさえすれば、二人それぞれの今日の泊り場へ行き着けると教えてくれた。それに、その二つの村はすぐ隣り合せで、オルモーの農場からはフールシュの村の家が手にとるように見え、逆にフールシュの方からもおんなじように向うがよく見えるということだった。
そこで、木樵に礼を言って、そのまま先へ歩きだすと、木樵がまた呼びとめて、あんたがたは馬をなくしやしなかったかと尋ねた。
「立派な葦毛の牝馬が一頭、わしのうちの庭先にはいり込んでるのを見つけたんでね。たぶん狼にでも追いたてられて、逃げこんで来たんだろうな。うちの犬がいやに『夜鳴き』をしてたと思ったら、夜が明けてみると、ちゃんと馬の姿をしたやつが納屋の下にいたわけさ。今でもまだいるよ。これから一緒に行ってみて、もしその馬だったら、連れて行きなさるがいい」
その前にまず『葦毛』の特徴を言ってきいてみると、確かにその馬は『葦毛』に違いないことがわかったので、ジェルマンは荷鞍を取りに引き返すことにした。するとマリーが、それではピエールは自分がオルモーへ一緒に連れて行くことにして、ジェルマンがフールシュの家へひとまず顔出しをすましてから、迎えに来るようにしてはどうかと言った。
「ピエールちゃん、少しよごれちまってるわ、ゆうべあんなふうだったので」と、マリーは言った。「あたし、ちゃんと服のよごれを落して、顔も綺麗に洗って、頭にも櫛を入れてあげるわ。そうしてちゃんと綺麗ないい子になった上で、今度縁組みをする家の人たちに引き合せることにすればいいわ」
「誰が言った、おれがフールシュへ行くつもりだなんて」と、ジェルマンは少し癇癪気味で言い返した。「たぶん、行かないかも知れないぜ!」
「だめよ、ジェルマン、どうしても行かなくっちゃ。ちゃんと行くのよ」と、マリーは言った。
「早くおれをほかの女と一緒にさせたくてしようがないんだろう、そうなりゃ、おれにうるさくされないで、安心していられると思って?」
「いやだわ、ジェルマン、そのことはもう考えっこなしにしましょうよ。あんなこと、夜なかにひょっと思いついただけのことだわ、あんな難渋のあげくで、あんたも頭が少しどうかしてたもんだから。でも、今はもう分別を取り戻さなくっちゃ。あたし、ちゃんと約束するわ、あんたの言ったことなんかすっかり忘れて、決して誰にも話さないようにするわ」
「なに、話したきゃ話したっていいさ! おれはふだんから二枚舌を使ったことのない人間だ。お前に言ったことは、嘘も偽りもない真面目な話だし、誰の前へ出たってちっとも恥かしいところはないんだから」
「ええ、それはね。でも、もし今度のお嫁さんが、こうして自分のとこへやって来る最中に、あんたがほかの女のことなんか考えたってことを知ったら、きっとあんたにいい気持はもたないわ。だから、これからはもう、自分の口に出す言葉に気をつけなきゃ。人前なんかでそんなふうにあたしの顔を見つめたりしちゃだめよ、そんなまるで変な眼つきをして。それに、モーリスおじいさんだって、あんたが自分のいいつけに背く筈はないと思ってるんだもの、あたしのせいであんたが自分のいう通りにしなかったなんてことになったら、それこそあたしに対してどんなに腹をたてるか知れないわ。じゃあ、さようなら、ジェルマン。ピエールちゃんはあたしが連れてくわ、あんたをどうしてもフールシュへ行かせるようにするためにね。つまり人質にとっとくわけよ」
「お前、そいじゃ、マリーと一緒に行くつもりか?」と、ピエールがマリーの手に縋りつきながら、はっきりとそっちの方へついて行こうとするのを見て、ジェルマンは言った。
「うん、お父ちゃん」と、ピエールは、自分の手前を気にする様子もなく話し合われたことがらをちゃんと聞いていて、それを子供なりに呑みこんだらしく、答えた。「おれ、マリーお姉ちゃんと一緒に行くよ。お父ちゃん、お嫁さんをもらっちまったら、迎えに来とくれよ。だけど、おれ、マリーちゃんにいつまでもおれのお母ちゃんになっててもらうんだ」
「ほら、見ろよ、ちゃんとそうしてもらいたがってるんだぜ、この子だって!」と、ジェルマンはマリーに言った。「なあ、いいか、ピエール」と、そのあとを付け足すように、「お父さんはそうしてもらいたいと思ってるのさ。マリーがお前のおっ母さんになって、いつまでもお前と一緒にいてもらいたいと思ってるんだ。ところが、マリーの方でそれはいやだっていうんだ。ひとつ、お前からそう言って承知させてくれ、お父さんが言ったんじゃだめなんだから」
「うん、大丈夫だよ、お父ちゃん。おれがきっと承知させてやるよ。マリーちゃんはいつだっておれの言うことを聞いてくれるんだもの」
ピエールはマリーと一緒に行ってしまった。ジェルマンは一人とり残されて、ますます気は滅入り、心は迷うばかりだった。
[#改ページ]
十二 村の伊達女
それでも、これまでの道中ですっかり服や馬具が乱れていたのをきちんと直し、そして『葦毛』に乗って、いよいよフールシュへの道を教えてもらうと、ジェルマンも、もうこうなってはあとへひくわけにはゆかないし、あんなに興奮したゆうべのことは身のためにならぬ夢だと思って忘れてしまわなければならないと、思案をきめた。
向うへ着いてみると、レオナール爺さんはちょうどその白壁の家の戸口へ出て、草色のペンキ塗りの立派な木の腰掛けに坐っていた。玄関口が六段続きの石段になっている様子で、この家には穴倉がついていることがわかる。裏の野菜畑と麻畑の塀は石炭と砂をまぜた荒塗りがしてある。なにしろ、なかなか立派な住居だ。うっかりすると、町の旦那衆の家と間違えそうなほどだ。
いずれ舅になる筈のレオナール爺さんは、自分の方から立って来てジェルマンを迎えると、ものの五分ばかり、家じゅうの人々の様子をあれこれと尋ねてから、さて自分の出くわした人間に、出かけて来た目的をそれとなく訊く時のきまり文句で、こう付け加えた――
「で、なにかね、こっちの方へはただ、ぶらっと出かけて来なすったわけかね?」
「ちょっとあなたに御挨拶にあがったんです」と、ジェルマンは答えた。「おやじからこの鳥を差し上げるようにことづかって来たんですが、これもおやじからのことづけで、わしがこちらへうかがったわけは、ちゃんとおわかりの筈だとお伝えしてくれってことでした」
「いや、なるほど、なるほど!」と、レオナール爺さんは言うと、笑いながら、突き出た腹のあたりをぽんと叩いた。「いや、なるほど、わかりましたわい、心得ましたて!」
そう言って、ちょっとまばたきをしてみせながら、こう付け加えた――
「あいにくあんた一人ってわけにゃ行かんのだよ、せっかく挨拶に来てもらっても。もう三人もさっきから来ていて、あんたとおんなじように待ってるわけさ。わしはたとい誰だろうと追い返すようなことはせんし、わしとしちゃ、誰がいいとか悪いとかいうことは、ちょっときめかねるわけでな、みんな恰好な相手ばかりなんで。しかし、まあ、モーリスさんのこともあるし、あんたんとこの畑はなにしろたいしたもんだし、あんたにきまってくれりゃ、わしとしても嬉しいわけさ。だが、娘はもう丁年を過ぎてるし、自分の財産は自分の自由にするわけだ。だから、とにかく自分の考えで、いいようにするだろうがね。まあ、なかへはいって、せいぜいこっちの人柄を見てもらうんだな。うまくあんたが籤を引き当てるように祈ってますぜ!」
「いや、ちょっと、せっかくですが」と、自分一人のつもりだったのに、こっちはあとからの追加だということなのでひどく面くらってしまって、ジェルマンは答えた。「わしは、お宅の娘さんにもうちゃんと申し込んで来てる人があるとは知らなかったんで。なにもほかの人たちとせり合いなんかするつもりで来たんじゃないんです」
「そんなことを言いなさるが、あんたがやっと今ごろやって来なすったからって」と、相変らず上機嫌な調子はなくさずに、レオナール爺さんは答えた。「それで、娘が手持ち無沙汰でいただろうなんて思ったら、とんだ大間違いですぜ。カトリーヌぐらい持ちものがありゃ、縁談相手はいくらでも集まって来るし、それこそきめるのに困るくらいさ。だが、まあ、いいから、うちんなかへはいんなさい。そうして、尻込みせずにやってみるんだな。とにかく、せり合ってみるだけの値打ちはある女だから」
そう言うと、がさつなはしゃぎようでジェルマンの肩を押しながら――
「さあ、さあ、カトリーヌ」と、家のなかへはいるなり叫んだ。「また一人おいでだぞ!」
ほかの求婚者たちもいる前で、陽気といえば陽気だが、いかにもむきつけなやり方で、こんなふうに後家さんに紹介されたので、ジェルマンはいよいよどぎまぎしてしまって、もうすっかり不愉快な気持になってしまった。ひどくぎごちない感じで、しばらくは、眼をあげて御本尊の女とその取巻き連を見ることもできないでいた。
ゲランの後家はなかなか顔かたちもよく、みずみずしさも褪《あ》せてはいなかった。しかし、その顔の表情と身装《みなり》とが、まず第一にジェルマンには気に入らなかった。人を人とも思わぬような、いかにも己惚《うぬぼ》れきった様子をしているし、三本もレース飾りのついた角《つの》頭巾といい、絹の前掛けといい、黒の絹レースの肩掛けといい、およそジェルマンの考えていた、真面目なきちんとした後家さんの姿とは似ても似つかないものだった。
こういう衣裳の凝りようや、砕けた物腰のせいで、実際はそうではなかったのだが、ジェルマンにはそれがまるで年寄りの不器量な女みたいに思われた。ジェルマンは心のなかで思った――こんな綺麗な衣裳飾りや浮き浮きした物腰は、あのマリーのような年頃や、ああいう才気の鋭い娘にこそふさわしいものだろうが、この後家さんと来たら、冗談を言っても気がきかなくってひどく蓮っ葉だし、なんの見さかいもなくやたらに立派な衣裳ばかり着込んでいる……。
三人の求婚者は、葡萄酒や肉の料理の並べてあるテーブルの前に坐っていたが、この御馳走は日曜の午前中ずうっとこの連中のためにそこに出してあるのだった。というのは、レオナール爺さんは自分の裕福ぶりを見せびらかすのが好きだったし、後家さんの方も自分の家の立派な食器類を並べたてて、年金暮しの奥さんみたいな御馳走をしてみせるのは、まんざら悪い気持ではなかったわけだ。ジェルマンは元来単純な、人を疑わないたちの人間だったが、その場の事情をなかなか鋭く見抜いて、みんなと杯を酌み交しながらも、生れて初めて油断なく受身の構えをとっていた。レオナール爺さんはジェルマンを無理やりに競争相手の男たちのなかへ坐らせたのだったが、自分もジェルマンと向い合って腰をおろすと、精いっぱいのもてなしぶりを見せながら、ジェルマンに特別懇ろな心遣いを見せた。鷓鴣の手土産は、ジェルマンが自分用に少々へずったりしてはいたが、それでもまだなかなかたいしたもので、十分それだけのききめがあった。後家さんもそれに心を動かした様子だったし、求婚者たちはふんというような眼つきでそれを眺めやった。
ジェルマンはこういう連中と一緒ではどうも落着かない気持で、せっかくの御馳走もあんまりはかばかしくは食べる気がしなかった。レオナール爺さんはそれをからかった。
「いやに浮かぬ顔をしてるじゃないか、あんたは。おまけに、杯とはてんで仲違いでもしたようなあんばいでさ。いくら惚れたからって、食うものも食えないようじゃだめだぜ。せっかくの色男が腹をへらしてたんじゃ、うまい言葉も出て来ないからな。ちょっと一杯やって、頭をはっきりさせた方がいいのさ」
ジェルマンは自分がもう惚れているなどと思われるのはたまらない気持だったし、いかにも自分の魅力には自信があると言わんばかりに、薄笑いを浮かべながら伏し目になった後家さんの、いやに気取った様子を見ると、こっちがもう参ってしまっているなどとはとんでもないと、はっきりそう言ってやりたい気がした。しかし、礼儀知らずみたいに見られても困るので、だまって微笑むだけで、じっと我慢した。
後家さんの取巻きの男たちは三人ともがさつ者のようにジェルマンには思われた。それでも後家さんの方で申込みを断りもしないでいるところを見ると、よっぽど金持ちの連中に違いない。一人はもう四十以上で、ほとんどレオナール爺さんとおんなじくらいでぶでぶしている。もう一人はめっかちで、まるで正体をなくすほど飲み過ごしていた。三番目の男は年も若く、男ぶりもかなりいい方だったが、しきりに気のきいたところを見せようとして、一向面白くもない洒落ばかり言うので、見ていて気の毒になるくらいだった。それでも後家さんの方はしきりに笑いこけて、そんなつまらない洒落をひどく嬉しがってるみたいだし、そんな様子からも、決して趣味のいい女とは見えなかった。
初めジェルマンは、後家さんがこの男に首ったけなのかと思った。ところが、そのうち気がついてみると、そういうジェルマン自身がどうやら特別眼をつけて誘いをかけられているらしく、もっと積極的に出てくれればいいと思われている様子だった。
やがてミサの時刻になったので、みんな食卓から立ち上って、一緒に出かけることになった。教会は、そこからたっぷり半道以上あるメールの村まで行かなければならなかったし、ジェルマンはひどくくたびれていたので、よっぽどその前に一寝入りする暇がほしいところだった。しかし、ふだんからミサは欠かしたことがなかったので、みんなと一緒に出かけることにした。
途中の道は人でいっぱいだったし、後家さんは三人の求婚者にかしずかれて、さも得意そうに、時にはこっちの男、時にはそっちの男と交る交る腕をとらせながら、ご大層にしなを作り、つんとすました様子で歩いて行った。後家さんにしてみれば、四番目の男も往き来の人たちの眼にずいぶん見せつけてやりたかったに違いない。しかしジェルマンは、そんなふうに世間みんなの見ている前で、一人の女にぞろぞろ数珠つなぎに引っぱられて行くのは、いかにも不体裁な気がしたので、自分はその連中からほどよく離れるようにして、レオナール爺さんを相手にしゃべりながら、なんとか話をみつけては爺さんの気をそらし、こっちの話に夢中にならせるように仕向けて、自分たち二人が前の一行と同じ仲間とは見えないように、うまくやりおおせたのだった。
[#改ページ]
十三 主人
やっと村へ着くと、後家は立ちどまって、ジェルマンとレオナール爺さんが追いつくのを待った。ぜひとも、同勢全部を引き連れて乗り込むことにしようと思ったわけだ。しかし、ジェルマンはそのおもわくの裏をかいて、レオナール爺さんのそばを離れると、顔見知りの連中に次々に話しかけながら、別の入口から教会の中へはいってしまった。後家は口惜しそうな顔をした。
ミサがすむと、後家は踊りの連中の集まっている芝生の中を意気揚々と歩き廻り、まず例の三人の男を次々に相手にして踊り始めた。ジェルマンは、その踊りぶりをじっと眺めていて、踊りはうまいにはうまいが、変に気取りすぎていると思った。
「さあ、どうしたんだね!」と、ジェルマンの肩を叩きながら、レオナール爺さんが言った。「うちの娘と踊ってやってくれないのかね? いやにまた内気なもんだな!」
「踊りはやらないことにしてるんです、女房に死なれてからは」
「それならさ! あんたはまた女房を捜してるんだし、服装《みなり》の方でも、気持の上でも、もう喪はあけたってもんだろう」
「そうはいきませんよ、それだけじゃ。それに、わしはもう年をとり過ぎたって気がして、踊りたいとも思わないんです」
「まあ、聞きなさい」と、レオナール爺さんはジェルマンを人影のないところへ引っ張って行きながら、言葉を続けた。「あんたは、うちへはいったとたんに気を悪くしなすったようだ、目当ての場所がもう寄せ手に囲まれていたもんだから。そりゃあ、あんたの気位の高いのはわかっている。だが、そいつはちょっと分別が足りないってもんだよ、あんた。うちの娘は男にちやほやされつけてるし、二年前に喪があけてからってものは、とりわけそうなんでな。あれの方からあんたに水を向けさせようったって、そいつは無理な話だ」
「二年も前から、縁談を受けられるようになっていて、それでまだきめる気にならないんですか?」と、ジェルマンは尋ねた。
「あれとしちゃ、別に急ぐつもりもないわけで、それももっともな考えだと思うのさ。あんな陽気な顔をしとるし、あんたなんかの眼にゃ、あんまりものを考えんたちのように見えるかも知れんが、どうしてそりゃあ分別のしっかりした女でな、自分のしていることはちゃんと心得たもんだ」
「わしにはそうは思えませんね」と、ジェルマンは素直に思ったままを言った。「なにしろ、ああして三人もの男をそばへ引きつけておくなんて、自分のしようと思うことがはっきりわかってるのなら、あのうちとにかく二人だけは余計な人間になって来るはずだし、どうか出かけて来ないでくれと言いそうなもんじゃありませんか」
「そりゃまたどうしてだね? あんたには、まるでわかってないんだよ、ジェルマン。あれは、あの年寄りにも、めっかちにも、若僧にも気がないのさ。こりゃもうわしにははっきりわかっていると言ってもいい。だが、あの連中を追い返したりすりゃ、このまま後家を通すつもりだと思われるだろうし、そうなるとほかの男も来なくなっちまうわけだ」
「いや、なるほど! あの三人は看板がわりというわけですね!」
「まあ、そういうわけだ。別に悪いことはないと思うがね、向うが好きでそうしてるんなら」
「人間には好き好きがありますからね!」と、ジェルマンは呟いた。
「あんたはそういうのは好きじゃないってわけだな。だが、なに、かりにあんたが四人のうちで一番気に入られたってことになりゃ、そこななんとでも話がつくさ。そうなりゃ、ほかの者は来させないことにしてもいいわけだ」
「ええ、まあ、気に入られたとすればですね! それで、それがはっきりわかるまで、いったいどれくらい、そうしてじっと待ってなきゃならないんでしょう?」
「そこはあんたの腕次第だと思うな。上手に口説いて、口説き落せりゃいいわけさ。これまでのところ、娘としちゃ、自分の生涯で一番楽しい時と言や、男にちやほやされて暮してる間だってことがちゃんとのみこめたわけだし、何人もの男をへいこらさせることができるっていう時に、なにもあわてて一人の男に身を献げることはないって気持なのさ。そんなわけで、そういう暮しが気に入ってる間は、それを楽しんでるかも知れないがね。だが、そういう暮しよりもあんたの方が気に入ったとなりゃ、そっちの暮しの方をおしまいにするってこともあるわけだ。まあ、とにかく、いや気を起さないことだね。日曜のたんびにやって来て、あれと踊るのさ。自分もちゃんと名乗りをあげてるってことをわからせるようにするのさ。その上で、あんたがほかの連中よりも感じもよけりゃ育ちもいいってことになりゃ、いずれはまあ、それを口に出して言ってもらえる日も来ようってもんだ」
「いや、レオナールさん、お宅の娘さんがしたいようになさるのは自分の勝手ですし、わしがかれこれ文句をつける筋合いはないわけです。しかし、わしが娘さんなら、ああいうやり方はしませんね。もっと素直に、はっきり自分の気持を見せるようにして、幾人もの男たちに無駄な暇つぶしなんかさせないようにしますよ。その男たちだって、こっちをばかにしてる女のまわりをうろうろしたりしてるよりゃ、まだ何かましな仕事があるに違いないんですから。しかし、まあ、お宅の娘さんはそれが楽しみで、それを喜んでいるとおっしゃるんなら、それは結局わしに関係のない話で、どうだっていいんです。ただ、ちょっとお話しとかなきゃならないことがあるんですがね、今朝からなんだか言いそびれてしまってたんです。なにしろ、あなたは最初からわしの用向きを取り違えておいでで、こっちはそれに返事をする暇もない始末ですし、そのあげく、あなたはまるで見当違いなことを考えるようになってしまったわけです。はっきり言いますが、わしがこちらへうかがったのは、お宅の娘さんを女房にいただきたいというつもりじゃなく、牛を二頭売っていただくつもりで来たのです。来週、市へお出しになるってことですが、たぶんこっちのほしいと思ってるような牛だろうからと、うちのおやじが言うもんですから」
「いや、わかった」と、レオナール爺さんは一向あわてる様子もなく答えた。「あんたは、うちの娘が男たちに取り巻かれてるのを見て、気が変ったというわけだな。まあ、いいようにしなさるがいい。一方の連中が惹きつけられるようなことが、一方の連中には気にくわんという場合もあるもんらしいし、それに、あんたはまだはっきり名乗りをあげたわけじゃないんだから、このまま話をひっこめたって不都合はないわけさ。もし本当にうちの牛を買う気なら、これから一緒に牧場の方へ行ってみるとしよう。そこでまあ話し合ってみた上で、取引きがまとまってもまとまらんでも、帰る前にとにかくうちへ寄って、一緒に飯を食ってもらいたいな」
「いや、わざわざ行っていただいたりしちゃ、すみません」と、ジェルマンは答えた。「あなたはこっちに御用がおありかも知れませんから。わしは、人の踊るのを見物ばかりして、なんにもしないでいるのが少し退屈になって来たところなんでね。一人でお宅の牛を見に行って来ますよ。そうして、のちほどお宅でお目にかかります」
そう言い捨てて、ジェルマンはその場を逃げ出すと、牧場の方へ歩いて行った。レオナールが遠くから自分の飼い牛のなかの何頭かを指で差し示してくれたので、牛はすぐわかった。モーリス爺さんが牛を買うつもりでいたのは事実だったし、手頃な値段で立派な牛を一番《ひとつがい》買って帰れば、今度の旅の目当てを自分から進んでぶちこわしてしまったことも、いくらか大目に見てもらえるだろうと、ジェルマンは思った。
ジェルマンは足早に歩き続けて、やがてオルモーからいくらも離れていないところまで来た。すると、ちょっと息子のところへ寄って抱きしめてやりたい気がして来たし、マリーの顔も見たくなった。そのくせ、マリーと楽しい世帯をもとうなどという望みはもうもっていなかったし、そんな考えはきっぱり振り捨ててしまっていたのだ。しかし、さっきから見たり聞いたりして来たすべてのこと――蓮っ葉で己惚れの強いあの女といい、ずるいくせに馬鹿で、自分の娘の高慢ちきで不徳義な暮しぶりをいい気になってさせているあの父親といい、まるで田舎の風習の尊さを汚すものという気のするあの都会めいた贅沢ぶりといい、愚にもつかぬ無駄な話でくだらぬ暇つぶしをさせられたことといい、自分のうちとまるで違うあの部屋の中の様子といい、それからまた何よりも、野良の人間がいつもせっせと働きつけている生活から離れた時に感じる、ひどく落着かぬ気持など、この二三時間のうちに味わわされたいやな思いや、工合の悪さが何もかも重なり合って、ジェルマンは、もうたまらなく、自分の息子と隣りの娘に会いたくなって来たのだった。かりにマリーが好きになっていなかったとしても、自分の気持を晴れやかにし、いつもの慣れた気分を取り戻すために、やっぱりマリーに会いたがったに違いない。
しかし、そのあたりの牧場をいくら眺め廻してみても、マリーの姿もピエールの姿も一向見当らなかった。そのくせ、時刻はちょうど羊飼いたちが原へ出ている時分だった。一つの『空《あ》き畑』のところに羊がたくさん群れていた。ジェルマンは、その羊の番をしていた少年に、これはオルモーの小作地の羊かと訊いてみた。
「そうだよ」と、子供は答えた。
「お前、ここの羊飼いなのかい? 男の子が羊の番をするのかい、この土地じゃ?」
「違うよ。おれ、今日だけ番をしてるんだよ、羊番の娘がいなくなっちまったんで。病気で帰っちまったのさ」
「だって、代りの娘が今朝来たんじゃないのか?」
「ううん、来ることは来たんだけどね、すぐ帰っちまったんだ、その娘も」
「なに、帰っちまった? その娘は子供を連れてなかったかい?」
「うん。小さな男の子を連れてたけど、その子は泣いてたよ。来て二時間ばかりしたら、二人とも行っちまったんだ」
「行っちまった? どこへ?」
「もといたとこへだろう、きっと。別に訊いてもみなかったけど」
「だが、いったいどうして行っちまったりしたんだ?」と、だんだん不安が高まって来る気持で、ジェルマンは尋ねた。
「そんなこと言ったって、おれが知るもんか!」
「給金のことでも折合いがつかなかったのかな? それにしても、そんなことは前から話がついてるはずだが」
「さあ、おれにゃなんにもわからないよ。ただ、二人がやって来て、また出て行くのを見たっていうだけなんだから」
ジェルマンは農場の方へ行って、小作人たちに尋ねてみた。が、誰もそのいきさつをはっきり説明できるものはなかった。ただ、それでも、農場の主人と話していたあとで、娘はなんにも言わず、泣いている子供を連れて、帰って行ってしまったということだけは確かだった。
「いじめでもしたのかね、うちの子を?」と、かっと眼を怒らしながら、ジェルマンは叫んだ。
「ありゃ、あんたの息子さんだったのかね。それじゃ? どうしてあの娘と一緒だったんだね? あんたはどこから来なすった? 名前はなんていうんだね?」
ジェルマンは、相手がこのへんの人間の癖で、こっちの訊くことに、返事の代りに別のことを訊き返しだしたのを見てとると、じりじりして地団太を踏みながら、主人に話したいから会わせてくれと言った。
主人はそこにはいなかった。農場へ来ても、一日じゅう農場にいるようなことは、ふだんからなかったのだ。今日も馬に乗って、どこへ行ったのか、どこかほかの農場へ出かけてしまったということだった。
「だが、とにかく」と、激しい不安に駆られながら、ジェルマンは言った。「娘がどうして行っちまったか、そのわけぐらいわからないもんだろうかね?」
小作人はちらりと女房の方を見て、妙な薄笑いを交し合ったが、それからジェルマンに答えて、自分はなんにも知らないし、そういうことは自分には全然わからない、と言った。やっとジェルマンは聞き出せたことは、娘と子供がフールシュの村の方へ歩いて行ったということだけだった。ジェルマンはフールシュへ駆けつけた。後家と取巻きの男たちはまだ帰っていなかったし、レオナール爺さんも御同様だった。女中が言うには、若い娘と子供がジェルマンを尋ねて来たが、知らない人たちだったので、うちへはあげないで、メールの村へ行くように言ってやった、ということだった。
「なぜまた、うちへあげようとしなかったんだね?」と、ジェルマンは向っ腹で言った。「この土地じゃ、ずいぶん人を信用しないんだな、人が訪ねて来てもうちへも入れないなんて」
「そりゃそうですよ!」と、女中は答えた。「このうちみたいに金持のうちじゃ、どうしたって用心しなきゃ。旦那様がたの留守中は、あたしが万事預かってるんですからね、そうやたらな人をうちへ入れるわけには行きませんよ」
「いやなしきたりがあったもんだ」と、ジェルマンは言った。「おれは貧乏人の方がよっぽどいいや、びくびくしながらそんな暮しようをするよりゃ。あばよ、ねえさん! こんないやらしい土地もあばよだ!」
ジェルマンは近所の家を訊いて廻った。みんな、羊番の娘と子供の姿は見かけたということだった。ピエールは、急にその場の話でベレールをたって来たので、みなりもきちんとせず、少し破けた上っ張りの上に、例の子羊の毛皮を引っかけているし、マリーの方も、これはまた当然なわけで、いつにしろひどくみすぼらしいなりをしているので、二人は乞食と間違えられたのだった。誰かがパンをやろうとした。娘は、腹をすかしていた子供のぶんに一切れだけもらって、それから子供を連れて大急ぎで立ち去ると、森の方へ行ってしまったということだった。
ジェルマンはちょっと考えこんだが、そこでオルモーの農場の主人がフールシュへ来はしなかったかと尋ねてみた。
「来ましたよ」と、相手は答えた。「その娘が行ってすぐ、馬に乗って通って行ったっけ」
「娘のあとを追っかけてるようだったかね?」
「ほう! じゃ、あの男を御存じですかい?」と、ジェルマンの言葉を受けて、村の酒場の亭主は笑いながら言った。「そうなんでさ。それに違いありませんや。なにしろ大変の色好みで、女の尻ばかり追い廻してる男なんでね。だが、この様子じゃ、あの娘はつかまらなかったと思うね。もっとも、結局、見つけられたにしても……」
「それだけ聞けばたくさんだ、有難う!」
そう言い捨てるなり、ジェルマンはそれこそ宙を飛んでレオナール爺さんの家の厩に駆けつけた。手早く『葦毛』に鞍をつけて、それに飛び乗ると、シャントルーブの森を目指していっさんに駆け出した。
不安と怒りで胸はわくわくし、汗が額から流れ落ちた。そうしては『葦毛』の脇腹を血の出るほど責めたてたが、しかも『葦毛』の方は、自分の厩へ帰るのだと見てとると、責めたてられるまでもなく、ぐんぐん走り続けたのだった。
[#改ページ]
十四 老婆
間もなく、ジェルマンは、沼のほとりの、ゆうべ一夜を明かしたあの場所へ出た。焚火はまだくすぶっていた。一人の老婆が、マリーの拾い集めておいた枯枝の残りを拾っていた。ジェルマンは馬をとめて、その婆さんに尋ねてみた。婆さんは耳が遠かったので、ジェルマンの尋ねたことを取り違えて、こう答えた――
「そうさ、お前さん、ここが魔の沼っていうんだよ。ふだんから悪いとこだって言われててね、そばを通る時にゃ、右手で十字を切りながら、左手で小石を三つ沼の中へ投げてから通らなきゃ駄目だよ。それが魔よけになるのさ。さもないと、沼のまわりを通った人間にゃ、きっと悪いことが起こるんだよ」
「そんなことを訊いてるんじゃないんだ」と言うと、ジェルマンは婆さんのそばへ寄って、精いっぱい声をふりしぼりながら怒鳴った――
「娘と子供が森ん中を通るのを見かけなかったかね?」
「ああ、そうだよ」と、婆さんは答えた。「子供が一人沼へはまって死んだよ!」
ジェルマンはからだじゅうがぞっとしてしまった。が、幸いにも、婆さんはこう付け加えた――
「それからもうよっぽどになるんだがね。そんなことのあった供養のために、立派な十字架を建てたりしたんだよ。だがね、一晩、ひどい嵐の時に、魔物どもがそれを沼へたたき込んでしまったのさ。今でもまだ先の方だけちょっと見えてるがね。運悪く、夜なかにここへ足をとめたりするものがありゃ、それこそ夜が明けるまでは、どうしたってここから出られやしない。いくら歩いても歩いても、たとい三百里も森の中を歩き通しても、やっぱりまた元のところへ戻ってしまうのさ」
ジェルマンはそれを聞くと、思うまいとしても、いろいろとあらぬ思いを掻き立てられずにはいられなかったし、老婆の言葉を完全に証拠だてるように、何か悪いことが起こるかも知れないという考えが、強く頭を揺り動かして、からだじゅうから血の気がひくような気がした。で、いくら訊いてもそれ以上のことは聞き出せそうもないとあきらめて、また馬に乗ると、あらんかぎりの声でピエールの名を呼びながら、森じゅうを駆け廻り始めた。口笛を吹いたり、鞭を鳴らしたり、木の枝を折ったり、自分の通っていることがわかるように森いっぱいにそんな音を響かせながら、そうしてはどこかで返事の声が聞えて来はしないかと耳をすました。しかし、聞えるものは、若木林のなかに散らばっている牝牛が鳴らす鈴の音と、どんぐりの取り合いをしている豚どもの荒々しい唸り声ばかりだった。
そうしているうちに、やっと最後に、うしろの方から、自分のあとを追っかけて来るらしい馬の足音が聞えて来たと思うと、ちょっとまるで町の旦那衆みたいな恰好をした、髪の毛は栗色で頑丈なからだつきの中年の男が、ジェルマンに向って、待ってくれと怒鳴った。ジェルマンは、オルモーの農場の主人というのはそれまでまだ会ったこともなかった。しかし、たけり立った気持の勘で、すぐに、こいつだなと見てとった。で、いきなりそっちへ向き直ると、頭のてっぺんから足の爪先までまじまじと見据えながら、相手が何を言い出すかと待ち構えた。
「小さな子供を連れた十五六の娘が、このへんを通るのを見なかったかね?」と、農場の男は、ありありと興奮の色を見せているくせに、努めてさりげない様子で尋ねた。
「それで、その娘になんの用があるんだね?」と、ジェルマンは怒りを隠そうともせずに言い返した。
「そんなことはあんたの知ったことじゃない、と、そう言ったってすむわけだが、しかし別に隠す理由もないから話すんだがね、その娘っていうのは、実は会ってもみずに、今年いっぱいの約束で羊番に傭った娘なのさ……。それが、やって来たのを見ると、あんまり年も小さすぎるし、からだもまだしっかりしてないし、とても農場の仕事は無理だって気がしたのさ。で、わしは娘を帰すことにしたわけだが、それでもここまでやって来た費用だけは払ってやろうとうしろ向きになってる間に、怒って行っちまったんだ……。それが、よっぽどあわてたと見えて、身のまわりのものや財布まで忘れて行っちまった。どうせ中身はたいしたもんじゃあるまいさ。まず、銅貨が二三枚ってとこだろう……! だが、とにかく、ちょうどこっちの方へ来る用もあったし、なんとかつかまえて、忘れ物も返してやり、払うものも払ってやろうと思ったわけさ」
ジェルマンは根が正直な人間だったし、その話を聞くと、確かにほんとらしいとは言えなくても、あるいはそうかも知れないとも思えるので、ためらわないわけにはゆかなかった。で、相手の顔をじっと穴のあくほど見つめたが、男はふてぶてしいのか、なんにも知らないのか、そんな眼つきを向けられても一向平気だった。
「よし、ひとつはっきり見届けてやろう」と、ジェルマンは心の中で思った。
そこで、怒りを押さえながら、こう言った――
「その娘は、実はわしの村のもんで、わしも知ってるんだが。きっとこのへんにいるんだ。一緒にもう少し行ってみましょう……たぶん見つかるに違いないから」
「それもそうですな」と、男は言った。「行ってみましょう……だが、しかし、この道のはずれまで行って見つからなけりゃ、わしはもうあきらめますぜ……アルダントの方へ行かなきゃならんので」
「ふん、逃がすものか!」と、ジェルマンは思った。「たとい一日一晩魔の沼のまわりを廻るったって、くっついててやるから!」
「あ、ちょっと!」と、急にジェルマンは叫んで、変なふうにざわついているエニシダの茂みの方をじっと見つめた。「おうい! ピエール! おうい、ピエールじゃないか?」
ピエールは、父親の声を聞きつけると、小鹿のように身を踊らして、エニシダの中から跳び出して来たが、しかし父親が農場の主人と一緒なのを見ると、おびえたように立ちどまったまま、どうしようかと迷っているふうだった。
「おい、ピエール! 来いよ、お父ちゃんだぞ!」と叫びながら、ジェルマンはその方へ馬を飛ばすと、いきなり馬から飛びおりて、子供を両腕に抱きあげた。「それで、どこにいるんだ、マリーお姉ちゃんは?」
「マリーちゃんもそこにいるよ。だけど、隠れてるの。その色の黒い、いやな小父さんをこわがってるんだよ。おれだって、こわいよ」
「なあに、大丈夫だ。お父ちゃんがついてるから……。おい、マリー! マリー! おれだよ」
マリーは枝をかきわけながらそろそろと這い出して来たが、ジェルマンのすぐうしろに農場の主人がついて来ているのを見ると、いきなり駆け寄って、ジェルマンに抱きついた。そしてまるで父親にでもするように、すがりつきながら――
「ああ、よかったわ、ジェルマン! あたしを庇ってくれるわね。あんたがいてくれれば、こわいことなんかないわ」
ジェルマンは思わずはっとした。そして、マリーの姿をじっと眺めた。マリーの顔は真っ蒼で、服は、狩人に追いつめられた牝鹿のように、身を隠す茂みを捜して藪の中を駈け廻ったので、茨《いばら》にひっかかって方々が破けている。しかし、その顔には恥じ入った様子も、棄て鉢な様子も見えなかった。
「御主人がお前に話があるっていうんだが」と、相変らずマリーの顔に気をつけながら、ジェルマンは言った。
「御主人ですって?」と、マリーはりんとした様子で言った。「あんな男、御主人なんかじゃありゃしないわ、それこそこれからだってもう決して……あんただわ、ジェルマン、あたしの御主人っていうのは。あたしを一緒に連れて帰ってちょうだい……。あんたが使ってくれるんなら、お金なんかいらないわ!」
農場の主人は、ちょっと待ちきれなくなったようなふりをして、進み寄って来た。
「やあ、娘さん! お前、うちへ忘れものをして行ったんで、持って来てやったぜ」
「いいえ、そんな筈ないわ」と、マリーは言い返した。「あたし、なんにも忘れものなんかしないし、あなたからもらうものなんてなんにもないわ……」
「まあ、ちょいと話を聞けよ、ここへ来て」と、農場の主人は言った。「少し話したいことがあるんだ、おれの方で……! さ、こわがらなくてもいい……ほんの一言いやすむんだ……」
「そんなら、構わないから、大きな声で言って下さいな……あたし、あなたと内証の話なんてないんだから」
「まあ、ここへ来て、お前の金だけでも、とにかく持ってってくれ」
「あたしのお金ですって? あなたからお金なんか受け取るいわれはなんにもないわ、有難いことに!」
「きっとそんなことだろうと思った」と、ジェルマンは小声で言った。「だが、構うことはないさ、マリー……あいつが何を言うつもりか、聞いてみたらどうだ……というのが、実は、ちょっとそいつが知りたいんだ。お前聞いて、あとで話してくれよ。これにはちょっとわけがあるんだ。さ、あいつの馬のそばへ行ってみろよ……おれはお前から目を放さないようにしてるから」
マリーが農場の主人の方へ二三歩進み寄ると、男は鞍の前輪の上に身をかがめながら、声を低めて――
「な、そら、このぴかぴか光る金貨をお前にやろう! だから、なんにも言うんじゃないぞ、いいか。お前はひ弱すぎて農場の仕事には駄目だと思ったからって、言っとくからな……。そうして、この話はもうこれっきりにしちまうんだ……。おれはまたそのうちお前のとこへ寄るからな。お前がそれまでなんにもしゃべらないでいたら、また何かやるよ……。その上で、お前がもっと分別のある気持になったら、ちょっとそう言ってくれさえすりゃいい。そうすりゃ、お前をまたうちへ連れて来てもいいし、さもなきゃ、日暮れに牧場かどこかで一緒におしゃべりをしたっていいぜ。その時は、どんなお土産を持って行こうか?」
「そら、お土産なら、これをあげるわ、あたしの方から!」と、マリーは声も高らかに言い返しながら、渡された金貨を、それもずいぶん手ひどく、相手の顔に叩きつけた。「御親切は幾重にもお礼を申しあげますわ。今度あたしどもの方へおいでの節は、どうぞお知らせ下さいな。村の若い衆が総出でお迎えに出ますわ。あたしどもの村では、貧乏な娘にうまいことを言う旦那衆が大好きなんですから! まあ、おいでになってごらんなさい、お待ちしてますわ」
「でたらめを言うな、つまらんことばかりほざいて!」と、男はかっとなって、おどすように棒を振りあげた。「根も葉もないことで言いがかりをつけて金を出させようったって、そうはいくもんか。こっちはちゃんと知ってるんだ、お前らのやり口は!」
マリーはおびえて後ずさりをした。が、その前にジェルマンが男の馬の轡に飛びついたと思うと、その轡を力いっぱいゆすぶりながら、こう言った――
「よし、わかったぞ、もう! これで前後のいきさつは十分はっきりしたわけだ……。おりろ! やい! おりないか! おりて、二人で話をつけるんだ!」
男はやり合いなどする気はなかった。馬に拍車を入れて逃げ出そうとし、ジェルマンの手を放させようと、棒でその手をなぐりつけにかかった。しかし、ジェルマンはそれをうまくかわすと、相手の足をつかむなり、鞍から引き摺りおろして、羊歯の茂みの上に突き倒した。男は起き直って、烈しく手向って来たが、とうとうジェルマンはそれを組み伏せてしまった。で、相手をしっかり抑えつけてしまうと、ジェルマンは言った――
「この意気地なし野郎! 貴様なんか、殴ろうと思やいくらでも殴れるんだ! だが、おれは手荒なことは好きじゃない。それに、どんなに叩き直したって、貴様の性根《しょうね》は直りゃしまい……。だが、それにしても、貴様がちゃんと膝をついて、この娘にあやまらないうちは、決してここを動かせないぞ」
農場の主人は、こういうことには慣れているので、すべてを冗談にしてしまおうとした。そして、自分が悪いことをしたと言ってもそうたいしたことじゃなく、ただ口で言っただけのことだし、あやまれというんならあやまってもいいが、その代り、娘にキスさせてもらった上で、どこか最寄りの居酒屋へ行って一杯やって、お互いに仲よく別れようじゃないか、などと言いだした。
「なさけない野郎だ!」と、相手の顔を地べたに押しつけながら、ジェルマンは怒鳴り返した。「もうちっとでも、貴様のいやらしい面つきなんか見ていたかないや。さあ、恥を知ってるんなら、ちっとは恥かしく思え。そうして今後おれたちの村を通る時にゃ、ちゃんと『|恥(*)よけ道』を通るように気をつけろ」
ジェルマンは男の持っていた柊《ひいらぎ》の棒を拾いあげると、自分の腕の力を見せつけるために、それを膝に当ててぽきりと折り、折れた切れ端をぽいと遠くへ投げ棄てた。
それから、一方の手では息子を、もう一方の手ではマリーを引き連れて、怒りに身を顫わせながら、その場を立ち去って行った。
*『恥よけ道』というのは、村の入口で本道からそれて、村の外側をずうっと廻って行くようになっている道である。人の侮辱を受けても当然だと恐れている者が、人目をよけるためにその道を通るものとされている。
[#改ページ]
十五 村へ帰る
それから十五分ののちには、三人はもう羊歯っ原の荒野のところを通り越してしまっていた。そして本街道を速歩《はやあし》で駈けさせながら、『葦毛』は古馴染みのものに出会うたびにいなないていた。ピエール坊は父親に向って、自分の頭でのみこめたなりに、あれからの出来事を話した。
「向うへ着いたらね、|あいつ《ヽヽヽ》が|マリーちゃん《ヽヽヽヽヽヽ》のとこへ話をしに来たんだよ、おれたち、すてきな羊がいるのを見ようと思って、すぐ羊小屋へ行ってたんだけど。おれは飼葉棚のなかへあがって遊んでたもんだから、|あいつ《ヽヽヽ》には見えなかったのさ。そうすると、あいつはマリーちゃんによく来たって言って、キスしたの」
「お前、キスなんかさせたのか、マリー?」と、腹立たしさにわなわな顫えながら、ジェルマンは言った。
「だって、それが普通の挨拶なのかと思ったんですもの、新しく来た者に対する土地のしきたりかなんかで。あんたのとこだって、新しく奉公に来た娘たちに、お祖母《ばあ》さんがキスしてやるじゃないの、これからはうちの娘にして、自分が母親代りになってやるっていうしるしに」
「そうすると、それからさ」と、自分のでくわした事件の話をするのがいかにも得意そうに、ピエール坊は言葉を続けた。「|あいつ《ヽヽヽ》が、なんだか悪いことをマリーちゃんに言ったんだね。ねえ、あれ、マリーちゃん、誰にも言っちゃいけない、思い出すんじゃないって言ったろう。だから、おれ、ちゃんとすぐ忘れちまった。だけど、お父ちゃんが、どんなことか、どうしても言えっていうんなら……」
「いい、いい、ピエール、お父ちゃんはそんなこと聞きたくない。お前もそんなことを覚えてるんじゃないぞ」
「そんなら、おれ、また忘れちまうことにしよう」と、子供は言った。「そうすると、それからね、|あいつ《ヽヽヽ》がなんだか怒ったみたいな様子をしてね、マリーちゃんがもう帰るって言いだしたもんだから。それで、マリーちゃんに、なんでも好きなものをやる、百フランでもやる、なんて言ったのさ! そこで、今度はマリーちゃんの方も怒っちまったの。そうすると、向うはマリーちゃんのそばへ寄って来て、まるでひどい目に会わせようとするみたいな様子をしたんだよ。おれ、こわくなっちまって、泣きながらマリーちゃんに跳びついて行ったの。そうしたら、|あいつ《ヽヽヽ》が『なんだ、こりゃあ? どこから出て来やがったんだ、この小僧は? こんなもの、さっさと追い出しちまえ』って、そう言ったの。そうして、棒を振りあげて、ぶとうとしたの。だけど、マリーちゃんがそれをとめて、こう言ったんだよ――『お話はあとにしましょう。すぐ、これから、この子をフールシュへ連れてかなきゃなりませんから。そうしてから、また戻って来ます』って。そうして、あいつが羊小屋を出て行くが早いが、マリーちゃんはおれにこう言ったの――『さあ、逃げましょう、ピエールちゃん。こんなとこ、早く逃げ出しちまわなきゃ。あのおじさんは悪い人なんだから、ぐずぐずしてたらひどい目に会うばかりよ』ってね。そこで、納屋のうしろを廻って、小さな牧場のところを抜けて、フールシュまでお父ちゃんを尋ねて行ったんだよ。ところが、お父ちゃんはいないで、そこのうちじゃ、あがって待たせてもくれないんだ。そうすると、そこでまた|あいつ《ヽヽヽ》が、黒い馬に乗って追っかけて来たんで、それで二人はまたもっと逃げてって、とうとう森のなかへ逃げこんだの。すると、あとから、向うもそこへやって来てね、その足音が聞えるたんびに、こっちはじっと隠れてたんだ。そうしちゃ、向うが通ってしまうと、また駆けだしながら、うちまで逃げて帰ろうと思ってたの。そのうちに、今度はとうとうお父ちゃんが来て、おれたちを見つけてくれたんだよ。ほんとに、すっかりこの通りだったの。そうだね、マリーちゃん、なんにも言い落したことなんかないね?」
「ええ、ほんとよ、ピエールちゃん、すっかりその通りだわ。で、そうとわかったら、ジェルマン、あんた、あたしのためにちゃんと証人になってよ。村の人たちみんなにそう言ってよ――あたしがあそこに居つけなかったのは、しっかりした気持や働く気がなかったせいじゃないって」
「じゃあ、どうだい。マリー」と、ジェルマンは言った。「こっちもお前に頼みがあるんだがな、ひとつ自分の胸にきいてみてくれよ――女の難儀を防いで、無法者を懲らしめてやるっていう場合に、二十八の男が年寄りすぎるかどうか、さ! おりゃ、ちっとばかり知りたいもんだと思うよ――バスチアンにしろ、ほかの誰にしろ、おれより十も若いのが取柄の、可愛い若者なら、つまりピエールのいう|あいつ《ヽヽヽ》野郎に、たたき伏せられないですんだかどうかだ。ええ、どう思う、お前?」
「どうって、そりゃ、ジェルマン、ほんとにお蔭様だったと思うわ。この御恩は一生忘れないつもりだわ」
「それだけか、ただ?」
「あのね、お父ちゃん」と、ピエールが口を挟んだ。「おれ、マリーちゃんに言うの忘れてたよ、お父ちゃんに約束したことを、言う暇がなかったんだ。だけど、うちへ帰ってからちゃんと言うよ。お祖母《ばあ》ちゃんにも言ってあげるよ」
子供にこう約束されて、ジェルマンもそこでやっと思案の種を思い出した。さてこれから家の親たちにちゃんと話をしなければならないわけだが、ゲランの後家に対する不満をいろいろ話して聞かせるにしても、そんなに鋭く手厳しい見方をするようになったのは、わきからどんな考えがはいり込んで来たためかということは、言わないようにしなければならない。自分が仕合せで、得意な気持になっている時には、その仕合せを人にも認めさせようと強気に出ることも、なんでもない気がするものだ。しかし、一方からは肘鉄をくい、一方からは非難をあびせられるというのでは、あんまり嬉しい羽目とはいえない。
いいあんばいに、ピエールは家に着いた時は寝入ってしまっていたので、ジェルマンは目を覚まさせないように、そっと寝台の上に寝かした。それから、さっそく話にかかって、精いっぱい詳しく事情を話して聞かせた。モーリス爺さんは、家の入口の三脚椅子に腰かけたまま、重々しい顔つきでその話を聞いていた。そして、せっかく出かけて行ったのがそんな結果になったことは不満に思った様子だったが、しかしジェルマンが相手の後家さんの蓮っ葉なやり口を話して聞かせて、一年五十二日の日曜をそんな女の御機嫌取りに通い続けるなんて、それも一年通ったあげくそのまま突っ放されないとも限らないのに、いったいそんな暇が自分にあるだろうかと言うと、舅のモーリスはまったくだというように頷いてみせながら、こう答えた――
「お前の考えは間違っちゃいないさ、ジェルマン。そんなことができるもんじゃない」
そうして、それに続いて、ジェルマンが、けしからん主人からマリーがいやらしいことをされたり、ひょっとすると手ごめにされたりするのを救うために、大急ぎで連れて帰らなければならなかった事情を話して聞かせると、モーリス爺さんは今度もまた頷いてみせながら、こう言った――
「お前のしたことは間違っちゃいないさ、ジェルマン。そりゃ当然そうしなきゃならんとこだ」
ジェルマンがやっと話し終って、言えるだけの事情をすっかり話してしまうと、舅と姑《しゅうとめ》は、互いに顔を見合せて、言い合せたようにあきらめの吐息を洩らした。やがて、家長のモーリス爺さんは、立ちあがりながら呟いた――
「まあ、仕方があるまい! 神様の思し召しにまかせるさ! 愛情ってやつは無理に押しつけられるもんじゃないからな」
「まあ、こっちで晩御飯でもおあがりよ、ジェルマン」と、姑が言った。「話がうまくまとまらなかったのは、どうもあいにくだったがね。だけど、なにしろ、それもどうやら神様の思し召しがなかったせいだろうよ。またほかを捜してみるんだね」
「そうさ」と、爺さんが付け加えた。「婆さんの言う通りだ。またほかを捜してみるさ」
家のうちではそれ以上別に話にもならなかったし、翌日になって、ピエール少年が、あけがた、雲雀の声と一緒に起き出して来た時にも、前の二日間の異常な出来事から受けた興奮ももうなかったので、少年はその年頃の農家の子供に普通な無頓着な態度にまた逆戻りして、自分の頭の中であんなにいろいろ考えていたこともすっかり忘れてしまい、ただもう余念なく、弟たちと遊んだり、牛や馬を相手に大人のようにやってみせたりしていた。
ジェルマンも、また仕事に打ち込むようにして、なんとか忘れてしまおうとした。しかし、すっかり沈みきってぼんやり考えこんでいるようになってしまって、それにはみんなも気がついたほどだった。マリーには話しかけようともせず、マリーの方を見ようとさえしなかった。そのくせ、かりにマリーが今どこの牧場にいるか、どの道を通って行ったかと尋ねる者でもあったら、それが一日じゅうのどんな時刻だろうと、返事をする気にさえなれば、いつでもちゃんとそれを教えてやれたに違いなかった。
ジェルマンとしては、冬の間、マリーをうちで傭ってやってくれと親たちに頼む勇気はなかったのだが、それにしてもマリーが暮しに困るに違いないことはよく承知していた。ところが、マリーは一向困らなかったし、ギエット婆さんにはどうしたわけかとんと合点のいかないことだったが、婆さんのわずかばかりの薪の蓄えが一向減らないで、晩にほとんど空っぽにしておいた納屋が翌朝はまたいっぱいになっているのだった。小麦や馬鈴薯にしても同じことだった。屋根裏の物置の明り窓から誰だか忍び込んで来て、誰も目を覚まさないように、そしてなんの痕《あと》も残さないようにしながら、袋いっぱいのものを床にあけて行くのだ。婆さんはそれが心配でもあれば、嬉しくもあった。そして娘には、そんな奇蹟が自分のうちに起こっていることを人に知られたりしたら、それこそ魔法使いにされてしまうだろうからと言って、そのことは決して口に出さないようにいいつけた。婆さんとしては、これはたぶん悪魔のやっている仕事だろうと思ってはいたのだが、しかしなにもそうあわてて司祭様に家の内のお祓《はら》いをお願いして、その悪魔と仲たがいをしようとは思わなかった。これまでいろいろしてやったお返しにお前の魂をよこせと、魔王が言いに来てからでも、結構間に合うだろうと、心のうちで考えていたのだ。
マリーにはもっとよく本当のことがわかっていたが、しかし女房になってくれというあの話をまた蒸し返されるのが心配で、そのことを話し出す勇気がなかったし、ジェルマンに対しても、なんにも気がつかないようなふりをしていた。
[#改ページ]
十六 モーリスのおかみさん
ある日のこと、モーリス爺さんのおかみさんが、果物畑で婿のジェルマンと二人きりになったおり、いかにも親身な調子で、こう話しかけた――
「どうだね、ジェルマン、お前さん、どうも何か工合が悪いんじゃないかね。食べるものもふだんほどは食べないし、まるで笑顔を見せなくなって、日増しに口もきかなくなって来るばかりじゃないか。何かい、うちの誰かか、さもなきゃわたしたち夫婦が、こっちではちっとも気がつかず、そんなつもりもないのに、お前さんにいやな思いでもさせたのかい?」
「そんなことはないよ、おっ母さん」と、ジェルマンは答えた。「おっ母さんはいつだって、まるで生みのおふくろとおんなじによくしてくれてたし、それがおっ母さんにしろ、お父っつぁんにしろ、うちの誰にしろ、そのことでわしが不平をいったりしたら、それこそまるで恩知らずってもんだ」
「そうだとすると、なんだね、女房に死なれた悲しみがまたぶり返して来たんだね。月日がたてば薄らぎそうなもんだのに、お前さんのふさぎようと来たら、だんだんひどくなるばかりだし、こりゃなんとしても、お父さんがちゃんとことをわけて言いなすった通り、やっぱり二度目の女房をもらうんだね」
「そうなんだ、おっ母さん、そりゃわしもそう思うんだ。だが、おっ母さんやお父っつぁんがもらったらどうだって言ってくれたような女は、みんなどうも気の進まない相手なんでね。ああいう女たちに会ってみると、カトリーヌのことを忘れるどころか、かえって余計あいつのことを思い出しちまうのさ」
「そんなら、つまりさ、ジェルマン、そりゃお前さんの好みがわたしたちにはっきり呑み込めてなかったせいなのさ。だから、そこはこっちに手を貸すつもりで、ひとつありていに言ってくれるこったね。きっとどっかに、お前さんにぴったり誂え向きの女がいるに違いないのさ。神様はどんな人間をお作りになる時でも、ちゃんとその人間を仕合せにしてくれるようなもう一人の人間を、必ず作っておいてくださるんだからね。だからさ、お前さん、自分でこれこそと思う、そういう女がどこにいるか、もしわかってるんなら、さっそくそれをもらうことにするさ。その女が、器量がよかろうが悪かろうが、若かろうが年寄りだろうが、金持だろうが貧乏だろうが、そんなことは構やしない。お前さんが言いさえすりゃ、どんな相手でも承知するつもりで、お爺さんとわたしは、もう腹をきめてるんだよ。なにしろ、わたしたちとしちゃ、そういつまでお前さんのふさいだ様子を見ていたくないし、お前さんの気持が落着いてくれない限り、こっちもおちおち暮せやしないよ」
「おっ母さん、おっ母さんの言ってくれることはまったく神様みたいにやさしい気持だし、お父っつぁんだってそれはおんなじさ」とジェルマンは答えた。「だが、せっかく可哀そうに思って、そう言ってくれても、わしのふさぎの虫は癒《いや》してもらいようがないんだ。わしがもらいたいと思う娘は、わしなんかいやだっていうんだから」
「じゃあ、なんだね、あんまり年が若すぎるっていうような相手なのかい? 若い娘なんかに惚れこむっていうのは、お前さんの身としちゃ無分別だよ」
「だから、そう言ってるのさ、おっ母さん! 若い娘に惚れこんじまったなんて、まったくこいつは気違い沙汰だし、自分でもいいこととは思っちゃいない。もうそんなことは考えないことにしようと、一生懸命自分で心がけてるんだ。だが、働いてる時だろうが休んでる時だろうが、ミサの最中だろうが寝床の中だろうが、子供たちのそばにいる時だろうがおっ母さんたちと一緒の時だろうが、わしはいつもそのことばっかり考えて、ほかのことはなんにも考えられないんだ」
「すると、まあ、まるでまじないでもかけられたような工合なんだね、ジェルマン? そうなりゃ、それを治す道は一つしかない。その娘にひとつ考え直してもらって、お前さんのいうことを聞くようにさせるのさ。だから、これはひとつわたしが乗り出して、まとまる話かどうか当ってみなくちゃ。ちょっとわたしに聞かしておくれよ、どこの、なんていう娘なのか」
「そう言われたって、おっ母さん、とてもきまりが悪くて言えやしないよ、それこそ笑われるにきまってるんだから」
「なんで笑ったりするもんかね、ジェルマン。お前さんがつらい思いをしてる時なんだし、それ以上つらい思いなんかさせたくないと思ってるんだからね。ファンシェットじゃないのかい?」
「違うよ、おっかさん、てんで見当違いだ」
「ロゼットかい、それとも?」
「ううん、違う」
「さあ、はっきり言っておくれよ。村じゅうの娘の名をみんな言ってた日にゃ、きりがないからね」
ジェルマンはだまってうつむいたきり、返事をする決心がどうしてもつかなかった。
「それじゃ、まあ、今日はこれ以上聞かないことにしよう」と、モーリスのおかみさんは言った。「たぶん明日になれば、お前さんももっと打ち明けた気持になってくれるだろうよ。そうでなくても、弟嫁にでもきかせたら、もっと上手に聞き出せるかも知れないし」
そう言うと、婆さんは置いてあった籠をまた持ちあげて、灌木の茂っている枝の上に洗濯物を拡げに行った。
子供というやつは、相手がもう構ってくれないと見ると、やっと決心がついてはっきりするものだが、ジェルマンもちょうどそれとおんなじだった。すぐ姑のあとを追っかけて行くと、まるでからだを顫わせながら、実は『ギエット婆さんとこのマリー』だと、やっと相手の名を打ち明けた。
モーリスのおかみさんの驚きようは大変なものだった。考えるとしたら、それこそ一番最後に思いつくような娘だったからだ。しかし、おかみさんはやさしい心遣いを忘れなかったので、あきれたような声を出したりはせず、いろんな品定めも自分の胸のうちだけでやっていた。それから、自分がだまっているので、ジェルマンがすっかりしおれきっているのを見ると、自分の持っている籠をジェルマンの方へ突き出しながら、こう言った――
「なんだね、なにもそれだからって、手伝いぐらいしてくれたっていいじゃないか。さあ、このお荷物を持ってさ、一緒にやりながら話すとしようよ。お前さん、ほんとによく考えてみたのかい、ジェルマン? もうすっかりその気なのかい?」
「だってさ、おっ母さん、そんなこととはまるで話の筋が違うんだ。なんとかうまくいきそうな話なら、そりゃすっかりその気にもなれるがね。ところが、承知してもらえないにきまってるんだから、なんとかしてあきらめられるものならあきらめようと、そういう気になってるだけさ」
「どうしてもあきらめられなかったら、それが?」
「どんなことでも限りがあるからね、おっ母さん。馬の荷が重すぎりゃ、ぶっ倒れてしまうさ。牛だって、なんにも食うものがなきゃ死んじまうし」
「じゃあ、つまり、お前さんも死んじまうってことかい、この話がうまくいかなかったら? めったなことを言っておくれでないよ、ジェルマン! ほんとにいやさ、お前さんのような人がそういうことを言うのは。口に出して言うからにゃ、ほんとにそう思ってるんだから。お前さんはふだんとてもしっかりした方だし、頑丈な人間が気が弱くなるとあぶないよ。まあ、そうあきらめたもんでもないさ。わたしゃそんな筈がないと思うんだけどね、あんな貧乏暮しをしている娘が、お前さんに望まれりゃずいぶん身に過ぎた話だのに、それを断ったりするなんて」
「だって、実際そうなんだからね。はっきりいやだって言ってるんだ」
「それはどういうわけで、いやだって言うんだい?」
「おっ母さんたちにはいつもよくしてもらってたし、自分の一家はこちらのうちには大変御恩になってるから、自分のために裕福な縁組をやめさせたりして、おっ母さんたちに悪く思われるようなことはしたくないっていうんだ」
「そんなふうに言ってるんなら、そりゃあつまり心がけのいい娘だって証拠だし、あの娘《こ》とすりゃなかなか感心なことさ。だけど、そんなふうに言われたって、お前さんとしちゃ、一向あきらめる気になれないわけさね。だって、きっとこう言ってるんだろう、あの娘《こ》は――自分もお前さんが好きだし、わたしたちさえ構わなきゃ嫁に来てもいいって?」
「ところが、そこが一番始末が悪いんだ! わしなんかにゃてんで気がないって言うんだから」
「それがもし、自分の心にもないことを言って、お前さんの気持を自分からすっかり引き離そうってつもりだとすりゃ、こりゃそれこそ立派な娘だし、それほど大した分別がありゃ、年の若いことぐらいは目をつぶって、わたしたちだって仲よくやって行けるってものさ」
「そうか!」と、まったく思いもかけなかった希望の光に照らされたように、ジェルマンは言った。「そうだとすりゃ、あの娘としちゃ、実に考え深い、『ちゃんとした』やり方をしたわけなんだが! だが、そんなに分別が守れるっていうのは、やっぱりわしなんかじゃいやだからじゃないかな」
「ちょっと、ジェルマン」と、モーリスのおかみさんは言った。「いいから、お前さん、これから一週間の間、じっとおとなしくしてるって約束しとくれよ、くよくよしないで、昔通りにちゃんと食べて、寝て、陽気にしてね。わたしはおじいさんに話してみるよ。それで、おじいさんをうんと言わせたら、その上で、あの娘《こ》のお前さんに対する本当の気持をきいてみるさ」
ジェルマンはその通り約束して、そうして一週間たったが、その間、モーリス爺さんはジェルマンに向って、特別これという話は一言もしなかったし、別に何か気がついているような様子も見えなかった。ジェルマンは努めて落着いた様子をしていようと心がけたが、それでもやっぱり、顔色はますます蒼ざめ、心の苦しみは増すばかりだった。
[#改ページ]
十七 マリー
そのうちとうとう日曜の朝になって、ミサがすんで出て来ると、姑の方からジェルマンに話しかけて来て、この前果物畑で話し合ってからこっち、あの娘《こ》との話はどう進んだかと尋ねた。
「だって、ちっとも進みゃしないさ」と、ジェルマンは答えた。「こっちから話なんかしなかったんだから」
「それじゃまるで納得させようがないじゃないか、こっちから話してもみないんじゃ」
「これまで話したっていや、たった一度きりさ」と、ジェルマンは答えた。「一緒にフールシュへ行ったあの時のことだがね。で、それからこっちっていうもの、あの娘には一言も口をきいたことがないのさ。その時断られたのがとてもつらかったんで、またおんなじ文句を聞かされて、わしなんか嫌いだって言われるよりゃ、いっそだまってた方がましだと思ってね」
「そんならさ、今度はどうしても話してみなくちゃ。お父さんからもお許しが出て、そうしてもいいってことなんだから。さあ、ひとつきっぱりはらをきめておくれ! わたしの口からそう言うんだし、それでも不足なら、こりゃわたしがぜひそうしてもらいたいんだよ。だって、お前さんにしたって、そんなはっきりしないことで、いつまでそうしてられるもんじゃないんだからね」
ジェルマンはその言葉に従った。そして、しょんぼり首をうなだれながら、まるでうちのめされたような様子で、ギエット婆さんのうちへやって来た。うちにはマリーがたった一人炉ばたに坐っていたが、じっと物思いに沈んでいて、ジェルマンのはいって来た足音にも気がつかなかった。ふと目の前にジェルマンの姿を見ると、椅子から跳びあがらんばかりに驚いて、たちまち真赤になった。
「なあ、マリー」と、そのそばに腰をおろしながら、ジェルマンは言った。「おれがこうしてやって来たのは、お前にいやなことで、お前を困らせに来たのさ。そりゃよくわかってるんだ。だが、『うちのあるじとかみさん』(土地のならわしで、家長夫婦のことをそう言うのだ)が、ぜひお前にそう話をして、嫁に来てくれるように頼めっていうんだ。お前はいやだっていうんだろう、そりゃもう覚悟してるさ」
「ねえ、ジェルマン」と、マリーは答えた。「それじゃ、あんた、もうどうしてもあたしが好きだっていうの?」
「お前にゃ有難くないことだろうとはわかってるさ。だが、こいつはなにもおれの罪じゃないんだからな。万一、お前の気持が変ってくれるようなことでもありゃ、おりゃそれこそどんなに嬉しいか知れないし、おれみたいな人間が、そんなことになってもらえる値打ちはないにきまってるさ。おい、まあ、ちょっと、こっちの顔を見てくれよ、マリー。おれはそんなにひどい顔なのかい?」
「そんなことないわ、ジェルマン」と、マリーは笑いながら答えた。「あんたの方が、あたしなんかよりよっぽど綺麗だわ」
「からかったりしないでさ。どうか鷹揚《おうよう》な目で、ひとつ見てくれよ。これでもまだ、髪の毛一筋、歯一本、抜けちゃいない。この目を見てくれりゃ、どんなにお前を思ってるか、わかってもらえるだろう。さあ、この目をちゃんと見てくれよ、こいつは目の色にはっきり出てるんだし、娘なら誰だってそいつだけは読みとれる筈だからな」
マリーはいつも通りの、落着き払ったいたずらっぽい顔つきで、じっとジェルマンの目の中をのぞきこんだ。それから、急に顔をそむけたと思うと、わなわな顫えだした。
「ああ、なんてこった! おれがこわいんだな」と、ジェルマンは言った。「まるであのオルモーの男とおんなじみたいに思ってるんだな。お願いだから、おれをこわがったりしないでくれ。そんなことをされちゃ、おれがつらくってたまらない。いやらしいことなんか言やしないよ、おれは。無理やりキスしたりなんかしないし、もう帰ってもらいたいと思や、だまって戸口の方を指してくれさえすりゃいいんだ。なあ、どうなんだ、やっぱりおれは出て行った方がいいのか? そうしなきゃ、お前、顫えがとまらないのか?」
マリーはだまってジェルマンの方へ片手を差し出したが、しかし顔は振り向けようともせず、じっと炉の火の方へうつむいたまま、一言も口をきこうとしなかった。
「お前の気持はよくわかってるよ」と、ジェルマンは言った。「おれを可哀そうに思ってくれてるのさ。お前は気立てがやさしいからな。おれを不仕合せにするなんて悲しいことだと思ってくれてるんだ。そのくせ、やっぱりおれを好きになってくれることはできないんだろう?」
「どうしてそんなことばかり言うの、ジェルマン?」と、そこでやっとマリーは返事をした。「あたしを泣かせようっていうの?」
「そんなに胸を痛めさせて、お前の気立てのやさしいことはよく知ってるよ。だが、お前はおれが好きじゃないんだし、そうやって顔を隠してるのも、気に染まないでいやがってる顔つきをおれに見せちゃ悪いと思ってるんだ。ところが、おれの方じゃ、お前の手を握る勇気さえないんだ! あの森の中で、ピエールが寝ちまって、お前も寝入っていた時、おりゃもう少しでお前にそうっとキスしそうになった。だが、お前にそんなことをさせてくれと頼むくらいなら、それこそ恥かしさの余り死んじまったろうし、まったくあの晩の苦しかったことといったら、じりじり火炙りにされてるみたいだった。あの時からっていうもの、おれは毎晩お前の夢を見続けなんだ。そうしちゃ、それこそどんなに夢中でお前にキスしたか知れないんだ、マリー! ところが、お前の方は、その間、まるで夢も見ないで寝てたのさ。そこで、今、おれが何を考えてるかわかるかい? 万一お前が振り向いて、こっちがお前を見るのとおんなじ目つきでおれの顔を見てくれたら、そうしてその顔をこっちの顔のそばへ持って来てくれたら、おりゃそれこそ嬉しさの余りぶっ倒れて死んじまうだろうと思うよ。ところが、お前の方じゃ、万一そんなことが起こったら、それこそくやしくて恥かしくて、死んじまいそうだと思ってるんだ!」
ジェルマンはまるで夢でも見ているように、自分で何を言っているかも気がつかずにしゃべり続けていた。マリーは相変らず顫えていた。しかしジェルマンは、自分の方がもっとひどく顫えだしていたので、それも気がつかないでいた。突然、マリーは振り向いた。見ると、その顔は涙に泣き濡れて、じっと責めるような目つきでジェルマンを見つめている。哀れにもジェルマンは、それでもう最後のとどめを刺されたものと思ってしまい、そこで、はっきり引導を渡されるまでもなく、もう立ちあがって帰ろうとした。ところが、娘はそれを引きとめるように、いきなり両腕を拡げて抱きついて来たと思うと、男の胸に顔を埋めて、涙にむせびながら呟いた――
「ひどいわ、ジェルマン! まだわからないの、あたしもあんたが好きだってことが?」
ジェルマンはそれこそ気が違ってしまったかも知れなかったが、ちょうどそこへピエールが父親を捜しに来て、棒の馬に跨り、うしろに合乗りさせた妹に、駿馬のつもりのその棒を柳の枝でしきりに鞭うたせながら、まっしぐらに家のなかへ駈けこんで来たので、ジェルマンもはっと我に返った。そしていきなりピエールを抱きあげると、やがて女房になる筈の娘の手にその子を渡しながら、こう言った――
「そら、見てくれ。お前がおれを好きになってくれて、お蔭で仕合せになれるのはおれ一人じゃないぜ」
[#改ページ]
付録
一 田舎の婚礼
ジェルマンの結婚の物語はここで終るのであり、これはまったくこの通りに、腕っこきの百姓たる彼がみずから話して聞かせてくれたのであった。親愛なる読者のために、それをもっと上手に翻訳してあげられなかったことをお詫びしたいと思う。というのは、(昔の言葉でもそう言っていたように)私の『歌っている』この地方の農民の古風で素朴な言葉には、それこそまったくの翻訳が必要なのである。この連中は、私たちから見れば、あまりにもフランス語らしいフランス語を話しているわけであるし、ラブレーやモンテーニュ以来、国語の進歩が、昔の豊かさの多くのものを失わせる結果となった。すべて進歩とはそういうわけあいのものであり、それは観念しなければならない。しかし、それでもなお、鮮やかなイメージに富んだあの特有の慣用語法が、フランス中部の古い土地に広く行われているのを耳にするのは、やはり楽しいことである。しかもそれが、それを用いる人々の、何くわぬ様子で人をからかい、面白おかしく減らず口をたたくというような性格をまったくそのままに現わすものであるだけに、一層楽しく感じられる。
トゥーレーヌ州〔やはりフランス中部の州。ベリー州の西隣り〕では相当貴重な数にのぼる族長時代の言い廻しがそのまま保存されている。しかしトゥーレーヌ州はルネサンスの到来とともに、またそれ以来、大いに文明化された。城館や街道や異国人やさまざまの変動に、すっかり蔽い尽されてしまったのである。ベリー州は旧態依然たるままにとどまっていたし、私の信ずるところでは、ブルターニュやフランス最南方のいくつかの州についで、これこそ現在のところ見出され得る最もよく『保存された』地方である。ある種の風習は実に風変りで、もの珍しいものがあり、ここでもしある田舎の婚礼の模様――例えば私が数年前に楽しく参列することのできたジェルマンの婚礼の模様――を詳しく物語ることを許していただけるなら、またしばらく読者を楽しませることができるであろうと思う。
それというのも、是非もないことながら、何もかもあらゆるものが次第に失われて行くからである。私がこの世に生きるようになってからだけでも、私の村の人々の考え方や風習には、大革命以前の数世紀の間に見られた以上の変化が生じて来ている。私の子供時代にはまだ盛んに行われていたものだったケルト的、異教的、あるいは中世的な儀式なども、すでに半数は消滅してしまった。おそらくもう一、二年もすれば、このあたりの深い谷間の上にも鉄道の水平な路線が通じ、それこそ電撃のような速さで、私たちの古くからの伝承と、驚異に満ちた伝説とを持ち去って行ってしまうであろう。
それはちょうど冬の間の謝肉祭の頃のことで、このあたりの村では、婚礼をあげるのに一年中で一番ふさわしく、また都合のいい時期だった。夏はまるで暇などないし、農家の仕事というものはとても三日も遅らしてはいられない。しかもこれは、祝いごとのあとに残る精神的肉体的な酔い心地を解きほぐすのに多少とも苦労させられる追加の日数は、勘定に入れないでの話である。――私はちょうど台所の昔風な暖炉の広い上庇の蔭に腰をおろしていたが、その時急に、ピストルを打ち鳴らす音と、犬の吠える声と、風笛《バッグ・パイプ》のかん高い響きとが聞えて来て、花婿花嫁の行列の近づいたことを知らせた。やがてモーリス爺さん夫婦にジェルマンとマリーが、ジャックとその女房、双方の側の主だった親戚、花婿花嫁のそれぞれ一組ずつの名づけ親などに付き添われて、庭の内へ乗り込んで来た。
マリーは『引出もの』と呼ばれている婚礼の贈り物をまだ受取っていないので、自分のもっているつつましい衣類のうちで一番ましなのを着ていた。黒っぽい厚手の毛織の服に、派手な色どりで大柄な枝模様のはいっている白のネッカチーフをつけ、その頃は大変はやっていて今では見向きもされなくなってしまった赤いインド更紗製の『肉色』の前掛けに、純白の、そしていみじくも昔ながらのその形が、アン・ボーリン〔十六世紀初めのイギリス王ヘンリー八世の二度目の妃。不貞と反逆の嫌疑で斬首の刑に処せられた〕やアニェス・ソレル〔十五世紀初めのフランス王シャルル七世の籠姫〕の髪かたちを思い起こさせる、モスリンの頭巾――という姿である。
マリーはいかにもみずみずしくにこやかな様子をしていて、十分その気になってもいいだけのことはあるのに、少しも思いあがったようなところはなかった。ジェルマンはマリーと並んで、さながらラバンの石井戸でラケルに挨拶する若きヤコブ〔旧約創世記、二十九章十一節。イスラエルの始祖ヤコブがラバンの娘ラケルと婚約する〕のように、重々しく感動した顔つきをしていた。ほかの娘なら、どんな娘にしろ、もったいぶった様子をしたり、勝ち誇ったような物腰を見せたりしたことだろう。なにしろ、どんな階級の社会でも、器量だけのために望まれて嫁に行くというのは、とにかく相当なことなのだ。
しかし、娘の目は愛情に濡れ輝いていた。まったく見るからに、心から愛しきっていて、他人の思わくなど気にしている暇はないという様子だった。ふだんからの多少きっとしたような様子はそのまま残っていた。しかし、それこそまったく飾り気のない、まったく素直な気持が、その姿には溢れていた。その華々しさには少しも傍若無人なところなどなく、自分の力を意識したその態度にも、なんら自分をひけらかすようなところはなかった。私はこれほど可憐な花嫁ぶりをついぞ見たことがないのであるが、彼女は朋輩の娘たちに、『どう、嬉しい?』ときかれて、はっきりとこう答えたのだった――
「だって、そりゃきまってるわ! 神様のおはからいに対して、なんの不足もないわ」
モーリス爺さんが一同を代表して口上を述べた。慣例による挨拶と招待をしにやって来たわけである。爺さんはまず暖炉の棚に、リボンで飾った月桂樹の枝をくくりつけた。これは『回状』と呼ばれるが、つまり通知状である。それから爺さんは、招く客の一人一人に、青いリボン切れとばら色のリボン切れとをぶっ違いに重ねた、小さな十字の徽章を配った。ばら色は新婦、青は新郎を表わしているのである。招かれた客は男も女もこの徽章をとっておいて、婚礼の当日、女は角《つの》頭巾に、男はボタン穴に、それをつけなければならないのだった。これが招待状であり、入場券であるわけだ。
そうしておいて、モーリス爺さんは挨拶の言葉を述べた。そして、この家の主人と『そのともがら』一同――というのは、つまりそのすべての子供たち、すべての親戚、すべての友人、すべての召使たちのことであるが――を、結婚式と、『ふるまい』と、『催しごと』と、『踊りっこ』と、『それに引続くすべての行事』に招待した。爺さんは慣例通りに言うことを忘れなかった――「『お宅の名誉のために』『お呼びたてに』参じました」。われわれには言葉の使い方がまるで逆なように見えるが、元来は極めて正しい言い方である。それはつまり、その資格があると認められる人々に対して、そういう名誉ある扱いをするという考え方を示しているわけだからだ。
こんなふうにして、教区じゅうの家を次から次へ軒並みに、大変気前よく招待して廻るのであるが、それにもかかわらず、普通の礼儀としては、元来農民の間ではその礼儀が甚だ遠慮深くできているものであるし、結局、それぞれの家毎に、家の代表者としての家長と、村の大勢の代表者としての子供一人と、この二人の者だけがその招待に応じることになっている。
この招待の挨拶廻りがすむと、新郎新婦と親戚一同はモーリス爺さんの家へ引揚げて、一緒に昼食をした。
マリーは共同牧場で三匹の羊の番をし、ジェルマンはジェルマンで、まるで何事もなかったかのように畑仕事をした。
定められた婚礼の当日の前の日、午後の二時頃、楽隊がやって来た。これはつまり『笛師』と『ヴィエラ師』で、それがひらひらする長いリボン飾りをつけた風笛《バッグ・パイプ》とヴィエラをかかえながら、その場に合わせて何かの行進曲を奏して行くのである。そのリズムは土地の生まれでない者の足には少々間のびがしているが、この地方の粘っこい土と凹凸の多い道との性質には実によく合っている。若者や子供たちのうつピストルの音が、いよいよ婚礼の行事の始まることを知らせた。人々は次第に集まって来ると、景気をつけるために、家の前の芝生で踊りを始めた。やがて日が暮れると、人々は奇妙な準備を始めた。一同二組に分れて、すっかり夜になったところで、『引出もの』の行事にとりかかったのである。
それは、新婦の住居である、ギエット婆さんのあばら家で行われた。ギエット婆さんは自分の娘と、娘の友達や親戚の、若い綺麗な『羊番』の娘たち十二三人と、口が達者で受け答えが素早くて、古い慣習の厳格な守り手というような、押しのきく近所のおかみさんたち二、三人とを、自分の方へ連れて来た。それから、これも親戚や友達の、屈強な戦い手十二人ばかりを選んで来た。最後に、口のよく廻る、話上手なことではこれ以上の男はないという、この教区の『麻打ち』の爺さんが選ばれていた。
ブルターニュで『バズヴァラン』という、村の仕立屋の演じる役割を、このあたりの田舎では、麻打ち職人か毛梳き職人(この二つの職業を一人の人間が兼ねている場合も多い)が勤める。彼は、祝儀不祝儀を問わず、改まった儀式の席にはいつもなくてはならぬ人間である。それは彼が、何をおいてもとにかく物知りで弁の立つ男であるからであり、そしてこれらの場合に、太古以来行われて来たある種のしきたりを立派にとり行うためには、いつでも彼が気を配って音頭取りの口上を述べるのである。
方々廻り歩く職業というものは、その当人を自分の家のなかのことに集中させてはおかないくせに、いろんな家庭の内部にはいりこませるものだし、当然、おしゃべりで、面白くて、話上手で、歌も上手という人間ができあがるわけなのだ。
麻打ち職人はとりわけ懐疑派である。麻打ち職人と、それから、いずれあとで話が出て来る筈の、田舎でもう一つ別の役を勤めている人間、すなわち墓掘り人足とは、常にその土地での無信の徒である。彼らはさんざ幽霊の話をして来たものだし、そういういたずらな魔物どもがやらかすいろんなわるさもすっかり知り尽しているので、そんなものは一向こわくないのだ。墓掘り人足も、麻打ちも、幽霊も、それぞれ自分の仕事を営むのは、すべて夜に限られている。そしてまた、麻打ちがその鬼気を帯びた昔語りを物語るのも、やはり夜である。ここでちょっと話が脇道へそれることを許していただきたい。
麻がちょうど頃合に『こなれる』――つまり、流れの水に十分漬かった上で、『陸《おか》』で生乾きになると、人々はそれを母屋の庭へ持ちこむ。そして小さな束に分けて立てて置くのであるが、その茎の足の方は拡がって、頭の方は丸くたばねてある様子が、夕方などはそれだけでももういい加減白くちっぽけな妖怪どもが長い行列を作りながら、ひょろひょろの足で突っ立って、音もなく壁際を歩いてでもいるように見える。
ちょうど九月の末、夜もまだ暖かいくらいの頃、仄白い月明りのもとで、麻打ちが始まる。昼間のうちに、麻は竈《かまど》で温めておく。夕方、それを取り出して、熱いうちに打つのである。それには木の手動|桿《かん》のついた一種の組み台のようなものを使い、その手動桿を横溝の上に落すと、麻はこまかく潰れて、しかも切れないようになっている。田舎の方で、夜になってから、続けて短く三度響く、乾いたような急調子の物音が聞えるのは、つまりその時の音である。それから、ちょっといっときひっそりする。これは、握った麻束の茎の今度は別の部分を潰すために、それを入れ直す腕の動作をやっているのである。すると、また、三連音が繰返される。つまり、もう一方の腕が手動桿を動かしているわけで、ずうっとそれを繰返しながら、さしそめた暁の光に月影が薄れる頃まで続けられる。この仕事が続くのは一年に四五日だけのことなので、犬もそれに慣れるということがなく、遠く四方八方に向って哀れっぽく吠えたてる。
これは田舎でいろいろと、ただならぬあやしげな物音のする時期である。渡り鳥の鶴のむれが、昼間でもやっと肉眼で見分けられるほどのところを通って行く。夜は声が聞えるだけである。そして雲間にさまようその嗄《しゃが》れた啜り泣くような声は、さながら罪の責苦に悩む魂のむれが、天上への道を見つけようとしきりにあがきながら、うち克ち難い運命に強いられて、地上遠からぬあたり、人間どもの住居の周囲を飛び廻っている、その呼び声と別れの挨拶のように思われる。
というのは、こういう渡り鳥のむれは、その空の航海の途中で、異様なたゆたいやなんとも知れぬ不安に襲われるものなのである。時には、気紛れな風が上空でぶつかり合ったり、次々に変ったりして、追い風にはぐれることがある。すると、そんな風に道にはぐれた状態が昼間起こった場合には、列の先頭の隊長はしばらく風に身をまかせながら空中に漂い、それからくるりと向きを変えると、三角隊形をなしたその集団の後尾につくのであるが、それに対して仲間の者たちは鮮かな操練を示しつつ、やがてまたすべての者が隊長のうしろにきちんと隊形を整えるのが見られる。時には、空しい努力を続けた揚句、力尽きた先導者が、隊列を率いることを断念するような場合もよくある。すると、別の一羽が取って代って、今度は自分がやってみ、それからまた三番目の者に席を譲ったと思うと、これがうまく風の流れを探り当てて、威風堂々と行進を開始する。しかしそれまでに、どれほどの叫び、どれほどの非難、どれほどの苦言、どれほど多くの荒々しい呪い、あるいは気遣わしげな問いかけの言葉が、この翼ある巡礼たちの間に、われわれの知らぬ言葉で交されることだろう!
しんしんと冴え返る夜に、これらの不吉な叫び声が、時にはかなり永い間、家々の上空を旋回し続けるのが聞えることがある。すると、こっちはなんにも目で見ることができないので、この啜り泣く大集団が大空の彼方に消えてしまうまでは、我にもあらず、一種心をともにするような怯えと不安とを感じるのである。
まだこのほかにも、一年じゅうのこの時期に特有な、それも主として果物畑で起こる物音がある。果物の摘み取りはまだすんでいないで、さまざまのもののはじける、聞きなれぬ無数の物音が、立木をまるで魂のあるもののように感じさせる。一本の枝が、突然生長の最終段階に達した果実の重みに、きしるような音をたててたわむ。あるいはまた、林檎が一つ、枝を離れたと思うと、いきなりこっちの足もとへ落っこちて来て、湿った土の上で鈍い音をたてる。すると、木の枝や草の葉をざわざわさせながら、こっちの目には見えない何かの逃げて行く音が聞える。それは農家の飼犬である。物知りたげにいつも落着かぬ様子でうろつき廻り、ふてぶてしい癖に臆病で、どこへでももぐりこみ、決して眠ってしまうことがなく、しょっちゅうなんだか知らんを捜し廻っているこの先生が、草叢に隠れてこっちの様子をうかがっていて、林檎の落ちた音に、石を投げつけられたのだと思って逃げ出すのである。
つまりこんなふうな夜、おぼろに霞んだ仄暗い夜々に、麻打ちはそのお得意の、いたずら好きの魔物や、白兎や、煉獄で苦しんでいる魂や、狼に姿を変えられた魔法使いや、四辻で開かれる魔女たちの夜の集会や、墓地の予言者役の梟《ふくろう》などに関する、不思議な冒険談を物語るのである。
私はそんなふうにして宵のうちの何時間かを、休みなく作業の続けられている『打ち台』を囲みながら過ごしたことを覚えているが、その『打ち台』の容赦なく打ちつけられる音が、麻打ちの話をその一番恐ろしいところで中断しては、ぞっとするような戦慄が血管の中を走るのを感じさせられたものだった。
また、よく、爺さんは、話をそのまま続けながら、麻をおし潰すことがあった。すると、四つか五つ、聞きとれない言葉ができてしまう。きっと恐ろしい言葉にきまっているし、私たちはそれをきき返す勇気はなかったが、その聞き落しのせいで、それでなくてもひどく不気味な、彼の話に漂う妖気に、一層ものすごい妖気が加わるのだった。女中たちが、もうずいぶん遅くなったからうちへ帰らなければ、子供たちの寝る時刻はとっくに過ぎていると、いくら注意しても無駄だった。女中たち自身がもっと聞きたくてたまらなかったのだ。そしてそのあとでは、どんなに恐ろしい思いで、部落を通りぬけて、うちへ帰ったことだろう! どんなに教会の玄関が奥深く、そして老樹の木蔭が濃く暗く見えたことだろう! 墓地と来ては、それこそ見る段ではなかった。そのわきを通りながら、目をつぶっていたものだ。
しかし、麻打ちは、教会の聖器係などと同じで、もっぱら人をこわがらせるという楽しみだけに打ち込んでいるわけではない。人を笑わせることも好きだし、恋愛や婚姻の詩《うた》を語らねばならぬ時になれば、必要に応じて軽口をはさんだり、感傷的になったりもする。これも彼が、一番古い時代からの歌語りを記憶のなかに拾いとどめて保存し、そしてこれを後世に伝えるのである。だから、婚礼の場合には、彼がちゃんと一役もっていて、次に述べるようにマリーの引出ものの受け渡しにその役を演じるのが見られるのである。
二 引出もの
一同が全部家のなかに勢揃いすると、方々の戸口と窓は、この上もなく用心堅固に、すっかりしめきられた。屋根裏の物置の明り取りの窓まで、突っかいものをして塞いだ。板だの台だの、木の根株だのテーブルだのを突っかいに置いて、入口という入口を塞ぎ、まるで籠城戦の準備でもするようだった。やがて防備を整え終ったこの家の内には、何かを待ち設ける、かなり厳粛な沈黙がみなぎったと思うと、そのうちにとうとう、遠くの方から、歌声や笑い声や田舎音楽の楽器の音が聞えて来た。
それは新郎の一行で、ジェルマンを先頭に、墓掘り人や親戚や友人や召使など、仲間うちでも一番したたかな連中がそれに付き添って、賑やかで屈強な供廻りを作っているのだ。
そのうち次第に家に近づくにつれて、一行は歩調を緩め、何やらしめし合せ、やがてぴったりと鳴りを静めた。家のなかに閉じこめられている若い娘たちは、窓に小さな隙間をこしらえておいたので、そこからのぞきながら、いよいよ彼らがやって来て、戦闘隊形を敷くのを見た。ちょうど冷たい糠雨《ぬかあめ》が降っていて、それがこの場面の皮肉な面白さを一層強めながら、一方家のなかの炉床では威勢よく火が燃え盛っていた。マリーの身になれば、しきたりによって行われるこの籠城戦の、それが恒例のゆっくりした手順を、できることなら縮めてほしかったかも知れない。自分の未来の夫がそんなふうに待ちくたびれさせられるのを見るのはいやだったが、しかしこの場合、彼女には口出しをする権利はなかったし、それどころか、味方の者たちの意地悪な手こずらせ戦法に、これ見よがしに自分も加わってみせねばならないのだった。
両方の陣営がこうして相対峙した時、鉄砲の一斉射撃が戸外の側から起こって、近所じゅうの犬が大騒ぎを始めた。家のなかの犬は、実際に襲撃して来られたのかと思って、吠えながら戸口の方へ突進するし、小さな子供たちは、母親たちが一生懸命なだめようとするかいもなく、泣きだしたり、顫えだしたりした。これらの場面はまことに巧みに演じられたので、よそから来た者などは結構いっぱいくわされて、野盗の一団に対して防禦の態勢をとることを考えたかも知れない。
さてそこで、新郎側の吟詠師であり口上方である墓掘り人が、戸口の前へ進み出たと思うと、同じ戸口の上方にある明りとりの窓のところに陣取った麻打ちを相手に、哀れっぽい声で、次のような問答を始めた。
【墓掘り】 のうのう! お頼み申す、なつかしい村の衆、神かけてのお願いじゃ、この戸をあけてくだされ。
【麻打ち】 そういうおぬしは何者じゃ。なんのつもりで、ぬけぬけと、なつかしい村の衆などと言いおるのじゃ? こちらはおぬしらなど知りはせんわい。
【墓掘り】 われらはまこと難渋致しおる律儀な者どもでござる。決して御心配な者ではござらぬ! どうぞなかへ入れてくだされ。氷雨《ひさめ》が降って、一同足も凍えんばかりでござる。はるばる遠方から帰って参ったもので、木靴も割れてしまい申した。
【麻打ち】 木靴が割れたとあれば、地べたを捜してごろうじろ。しだれ(柳)の切れっぱしぐらい見つかる筈じゃ。それで弓子(割れた木靴を補強するために取りつける小さな弓形の鉄片)を作るがよい。
【墓掘り】 しだれの弓子など、弱くて使えるものではござらぬ。冗談もほどほどに願いたいものじゃ。それよりも、この戸をあけてくだされ。見受けるところ、この家のうちには盛んに火が燃えておる様子。たぶん焼き串もかけてあることじゃろうし、うちじゅう、心と口を楽しませておられるところに違いござらぬ。さあ、あけてくだされ。哀れな巡礼の者どもじゃ。お慈悲をおかけくださらねば、このまま門口で死んでしまうかも知れませぬ。
【麻打ち】 はて、さて! 巡礼じゃと? それは初耳じゃ。して、どこを巡礼して参られた、ひとつうかがいたいものじゃ?
【墓掘り】 それは戸をあけていただいた上で申します。なにぶんにも大層遠方から参りましたので、そう申しても信用してはくださるまいゆえ。
【麻打ち】 戸をあけるだと? とんでもない! うっかりおぬしらに気は許せぬわ。すると、どうじゃ、サン・シルヴァン・ド・プリニーあたりからでも帰って参られたか?
【墓掘り】 サン・シルヴァン・ド・プリニーにも参りました。なれど、まだずっと遠くまで行って参りました。
【麻打ち】 しからば、サント・ソランジュまででも行って参られたか?
【墓掘り】 サント・ソランジュへは、勿論のこと参りました。なれど、まだもっと遠くまで行って参りました。
【麻打ち】 嘘をついてもだめじゃ。サント・ソランジュまでも行きはせなんだに違いない。
【墓掘り】 もっと遠くまで行って参りました。と申すのは、われらは今、サン・ジャック・ド・コンポステル〔スペイン西北端にある霊地コンポステラ大聖堂〕からの帰りなのでござる。
【麻打ち】 なにをたわけたことを言いだすやら? そんな教区は聞いたこともないわい。これで正体は知れた。おぬしらは悪者じゃ、追剥ぎじゃ、「やくざ」の嘘つきじゃ。世迷い言を並べるのはもっとよそへ行ってやるがいい。こうして用心堅固に備えたからには、一歩もなかへ入れはせぬぞ。
【墓掘り】 情なや! むごいお言葉、どうぞお慈悲をおかけくだされ! われらは巡礼ではござらぬ、いかにもお察しの通りじゃ。実は運悪く密猟を見つかって、番人に追われておるのでござる。現に憲兵がうしろを追いかけて来ておりまする。ここのまぐさ小屋にかくまってくださらねば、一同捕えられて、牢へ送られてしまいまする。
【麻打ち】 して、おぬしらが、今度はおぬしのいう通りの者じゃと、いったい誰が請け合うてくれるのじゃ? 一度もう嘘をついて、それがばれたわけじゃからな。
【墓掘り】 この戸をあけてくだされば、われらのしとめた見事な獲物をお目にかけまする。
【麻打ち】 それを今すぐ見せてもらおう。なにせ、まだ信用がなりかねる。
【墓掘り】 ひとつ、どこかの戸か窓をおあけくだされ。さっそく獲物をお渡し申す。
【麻打ち】 なんの、そうは行かぬわい! そんなとんまな真似はせぬ! 小さな穴からそっちの姿をのぞいて見とるのじゃ! じゃが、おぬしらのなかには、猟師の姿も獲物の姿も見えはせぬぞ。
ここで、ずんぐりふとって素晴らしい力持ちの、牛飼いの若者が、それまで人目につかないように紛れこんでいた同勢のなかからさっと進み出たと思うと、その明り窓の方へ、羽をむしって、大きな鉄串に刺し、藁束とリボンで飾った、一羽の鵞鳥をさしあげた。
「はて!」と、用心深く片腕を外に出して、その焼き肉用の鳥にさわってみてから、麻打ちは叫んだ。「これは鶉《うずら》でもなし、鷓鴣《しゃこ》でもない。野兎でも飼い兎でもない。どうやら、鵞鳥か七面鳥らしいしろものじゃ。いやはや、素晴しい猟師もあったものじゃわい! こんな獲物なら、さぞかし駈けずりまわる世話もなかったろうて! もっとほかへ行くがいいわ、ふざけた手合じゃ! おぬしらの嘘など、みんな見えすいとるわ。おとなしくうちへ帰って、夜食のこしらえでもするがよかろう。こっちの用意しとるものなど食べさせることじゃないわ」
【墓掘り】 さればと申して、いったいどこへ行って、この獲物を焼きましょうぞ? それっぱかりのことで、この大人数を走り廻らせるのは無駄なこと。それにまた、火も場所もありませぬ。こんな時刻では、どこの家も戸をしめて、みんな寝てしもうておりまする。お身たちだけが、家のなかで賑かに飲み食いしておられるのじゃ。よっぽど情け知らずの人間でなくては、われらを外で凍えさせてはおけぬ筈。悪いことは申しませぬ、この戸をおあけくだされ、もう一度のお願いじゃ。ものいりなどはかけませぬ。御覧の通り、焼肉の材料は持参しておりまする。ただ、それを焼くために、ちょっと炉のそばをあけて、火をお貸しくだされ、それだけで、もう満足して、おとなしく退散致しまする。
【麻打ち】 この家のなかには場所があり余っておるとでも、そうして薪には金がかからぬとでも、思うておいでめさるか?
【墓掘り】 焚火には、小さな藁束をここに持っておりますし、これで我慢致しまする。ただ、この家の炉に焼き串をかけることだけお許しくだされ。
【麻打ち】 そんなことは決してならぬ。おぬしらの様子からは、いやなやつと思うばかりで、一向哀れは催おさぬわ。察するところ、どうやら酒に酔うておるだけで、別になんにも困っておりはせんのじゃ。このうちへはいりたがるのは、つまりこっちの火と娘たちとをくすねようとの魂胆に違いない。
【墓掘り】 いくらまともにわけを話しても、聞き入れようとせぬからには、こっちも力ずくで押し入るばかりじゃ。
【麻打ち】 やるなら、やってみるがよい。こっちは十分戸締りはしてあるし、おぬしらなど恐れはせぬわ。そんな無礼を言いおるからには、こっちもこれ以上返答は無用じゃ。
そう言うなり、麻打ちは明り窓の戸を音高くしめると、梯子を伝って下の部屋へおりて来た。ついで麻打ちが花嫁の手をとると、男女の若者連中がそれに加わり、一同陽気に踊ったり喚いたりし始めた。同時に一方ではおかみさん連が、黄色い声を張りあげて歌をうたいながら、攻撃を試みる外の連中を小馬鹿にして、やれるならやってみろと言わんばかりに、どっと大きな笑い声をあげるのだった。
攻撃側は攻撃側で、これも躍起になって襲いかかっていた。戸口めがけてピストルをぶっ放し、犬を唸らせ、壁をどしんどしん叩き、鎧扉をゆすぶり、すさまじい喚き声をあげていた。しまいにはまったく耳も聞えなくなるほどの騒ぎとなり、埃と煙で人の姿も見えなくなる有様だった。
しかしながら、この攻撃は見せかけだけのものだった。その作法を破ってもいい時期はまだ来ていなかったのである。家のまわりを探り歩いているうちに、無防備の入口か、どこかあいている隙間でも見つけ出すことができれば、敵の裏をかいてそこからはいり込もうとしてもいいし、その場合には、焼き串を持っている若者が、その焼き肉を火にかけることに成功すれば、家の炉の占領がそれで確認されて、お芝居は終り、花婿は勝利者となるわけだった。
しかし、この家の出入り口はそういくつもないし、恒例の用心に手ぬかりなどある筈がなかったので、いよいよ揉み合いの始まる定めの時刻が来るまでは、掟を破って力ずくで押し入ろうとする者などは一人もなかった。
やがて一同いい加減跳ね廻ったり、喚いたりしてくたびれたところで、麻打ちは講和談判を始める気になった。そこでまた例の明り窓のところへ登って行くと、用心深くその窓をあけながら、すっかり気落ちしている攻撃軍に向って、挨拶代りの高笑いをあびせかけた。
「どうじゃな、そちの衆、だいぶへこたれておいでのようじゃが!」と、彼は声をかけた。「この家に押し入るぐらい、なんの造作もないと思うたに、いざかかってみれば、こっちの守りは固いというわけじゃ。じゃが、こっちもどうやらおぬしらが哀れになって参った。どうじゃ、おとなしくいうことをきいて、こっちの出す条件を承知する気にはならぬか」
【墓掘り】 言うてみてくだされ、どんな話か。さあ、どうすれば、炉のそばへ寄せていただけるのでござる?
【麻打ち】 歌をうたうのじゃよ、おぬしら。ただし、こっちの知らぬ歌で、しかもこっちがそれ以上の歌をうたい返せぬような、いい歌をうたうのじゃ。
「そんなことなら、お安い御用じゃ」と、墓掘りは答えた。
そして、力強い声でうたいだした――
――『半年前の春のころ……』
――『ひとり若草踏みながら』と、少し嗄れてはいるが、割れ鐘のような声で、麻打ちが応じた。「ふざけちゃ困りますぜ、能もなく、そんな古臭いしろものを歌って聞かせたりして。この通り、もう最初の一言で、こっちの声がかかる始末じゃ!」
――『ある公爵の姫君が……』
――『今日も今日とて婿さがし』と、麻打ちが応じた。「さあ、お次じゃ、お次じゃ、ほかにはないか! そんなのは、こっちもちっとばかり知りすぎとるわい」
【墓掘り】 こういうのはどうじゃ?
――『ナントからの長旅で……』
【麻打ち】 ――『疲れ果てたるおりからに! さても疲れたおりからに』
こいつはわしの祖母《ばば》の時代のしろものじゃ。さあ、もっとほかのを聞かしてもらおう。
【墓掘り】 ――『いつか一人で歩いてた……』
【麻打ち】 ――『あのなつかしい森の道!』芸もない歌をもち出したもんだ! この村じゃ小さな子供でも、わざわざその先をつける気にはなるまいて! やれやれ! それで全部か、そっちの知っている歌は?
【墓掘り】 なんの! まだいくらでも歌って、そっちがつまるまでやってみせるわ。
こんなふうにして戦いを続けながら、たっぷり一時間は過ぎた。なにしろ、互いに対抗し合うこの二人は、歌にかけては土地でも一番達者な人間であったし、二人の知っている歌の数もまったく無尽蔵と思われるので、これは一晩じゅうでも続いたかも知れなかった。しかもおまけに、麻打ちの方はちょっと人の悪いやり方をして、ある種の愁訴の歌など、十節も二十節も三十節もだまって歌わせておき、自分は沈黙していることによって、いよいよ降参したものと見せかけたりする。そこで、花婿側の軍勢では勝ち誇り、みんな声を張りあげて合唱しつつ、今度こそ敵方も音をあげるだろうと思っている。ところが、いよいよ最後の一節のなかほどへ来た時、麻打ちの爺さんの割れるような風邪声が、その先の文句をがなるのが聞えるのである。そうしては、そのあとで、麻打ちは叫ぶのだった――
「御苦労様に、そんなに長々と歌うことはなかったのになあ! こっちは赤児の時から知っている歌だ!」
それでも一二度は、麻打ちもむずかしい顔をし、眉を八の字に寄せると、ちょっと虚をつかれた様子で、注意深く耳をすましているおかみさん連の方を振り向いた。墓掘りの歌ったのが何か非常に古いものだったので、相手方の麻打ちはそれを忘れてしまっていたか、ひょっとすると全然知らなかったのかも知れない。が、その時たちまち達者なおばさん連が、ちょっと鼻にかかった、鴎のようにかん高い声で、見事にその折返しの文句を歌いだした。そこで墓掘りは、もう降参しろと責めたてられて、また別の歌をためしにかかるのだった。
どちらの側が最後の勝利を収めるか、それを待っていたのでは、あんまり永びいて困ってしまったことだろう。花嫁側では、もしこの花嫁にふさわしい贈り物を差し出すなら、勘弁してやろうと宣言した。
そこで、さながら教会の歌のように荘重な節廻しの、引出ものの歌が始まった。
外にいる男たちが、バスとバリトンの中間の声で、斉唱する――
[#ここから1字下げ]
あけてくだされ、この扉
マリー、いとしい人
美しい引出もの、献げようとて来たものを
はやはや、なかへ入れてくだされ
[#ここで字下げ終わり]
これに対して、女たちが、わざと調子をはずしながら、哀れっぽい声で、家のなかから歌い返す――
[#ここから1字下げ]
父さんは御機嫌ななめ、母さんは深いお嘆き
あたしは操《みさお》正しい娘
こんな時刻に、戸をあけはせぬ
[#ここで字下げ終わり]
男たちは、第一節と同じ文句を繰返し、四句目だけを次のように歌いかえる――
[#ここから1字下げ]
美しいハンケチ、献げようとて来たものを
[#ここで字下げ終わり]
しかし、花嫁になり代って、女たちは最初の時と同じように歌い返す。
少くとも二十節ばかりにわたって、男たちは引出もののあらゆる贈り物を次々に数えあげながら、最後の一句で必ず何か新しい品物の名前をあげるのだった。美しい『前垂れ』(エプロン)とか、美しいリボンとか、ラシャの衣裳とか、レースとか、金の十字架とかいうふうに、とうとう最後には『ピン百本』まで数えあげて、花嫁へ贈る質素な結納品を全部披露し終る。おかみさん連の拒絶は頑として変らない。が、最後に若者たちがやっと思案をきめて、『立派な花婿を献げよう』と言うと、おかみさん連は花嫁の方に向き直って、それに答えながら、男たちと一緒に歌うのである――
[#ここから1字下げ]
あけておあげよ、この扉
マリー、やさしい人
御立派な婿どのの、思いこがれて来たものを
さあさ、なかへ入れておあげよ。
[#ここで字下げ終わり]
三 結婚式
早速、麻打ちは、入り口の戸を内側から戸締りしてあった木の挿し釘を引き抜いた。これがこの時代にはまだ、私たちの部落の大抵の家では、錠前といえば唯一のものだったのだ。花婿側の同勢が花嫁の住居のなかになだれこんで来たが、これにもやはり闘争が伴うのである。というのは、家のなかに立て籠っていた若者たちの方では、麻打ちの爺さんや年寄りのおかみさん連中までが、炉ばたを防備しようとかかるわけである。焼き串を持っている若者は、味方の同勢に助けられながら、炉のなかに焼肉の串を突き立てることに成功しなければならない。この争いでは殴り合いはしないようにしているし、喧嘩腰になったりすることはないのだが、それにもかかわらずこれはまったくの戦闘だった。殴り合いはしない代り、押し合い揉み合いは猛烈を極めるし、こういう腕力の競べ合いには大いに自尊心が働くので、その結果は、表面笑いや歌声に包まれているように見えながら、その実もっと深刻なことになる可能性があった。
獅子奮迅の勢いで奮戦していた麻打ちの爺さんは、可哀そうに壁際に押しつけられ、大勢の者にぎゅうぎゅう押されて、とうとう息がつまりそうになってしまった。戦い手が押し倒されたはずみに、つい大勢の足で踏みにじられたり、焼き串にすがりついた手が血まみれになったりしたことも、一度や二度ではなかった。こんな争いごとはそもそも危険であるし、最近では相当重大な事故が何度も起こったので、ついに土地の百姓たちも、引出ものの行事がすたれるままに放任する決心をするに至った。確かその行事を最後に見たのは、フランソワーズ・メイヤンの婚礼の時だったと思うが、しかもその時でさえ、揉み合いはほんの見せかけだけのものだった。
ジェルマンの婚礼の時には、この揉み合いはまだ相当熱を帯びたものだった。ギエット婆さんの炉ばたに侵入しようとする側にとっても、これを守ろうとする側にとっても、そこには双方の面目という問題があった。
ばかでかい鉄の焼き串も、それを奪い合う逞ましい腕先に揉まれて、まるでねじ釘のようにねじれてしまった。誰かがピストルをうった拍子に、天上の吊し簀子《すのこ》に載せて蓄えてあった、わずかばかりの『紡錘《つむ》巻き』の麻に火がついた。この飛び入りの事件は一同の注意をそらしたので、一方で一部の者があわててこの小火《ぼや》を消しとめようとしている隙に、いつのまにかこっそり屋根裏の納屋によじ登っていた墓掘りが、煙突を伝っておりて来たと思うと、ちょうど例の牛飼いが炉のそばのところで焼き串を守護しながら、奪い取られまいとして頭上に差しあげた瞬間に、その焼き串をつかんだ。攻撃の始まる少し前に、おかみさん連が、そばで揉み合っているうちに炉のなかに倒れて火傷でもする者があってはいけないというので、ちゃんと用心して火を消しておいたのである。いたずら者の墓掘りは、牛飼いの同意を得て、そこでなんなくその勝利のしるしを手に入れると、それを炉の『火台』の上に横ざまに投げかけた。とうとうやっつけたわけである! もうそれに手を触れることは許されないのだった。墓掘りは部屋のまんなかに跳びおりると、焼き串に巻いてあった藁の残っている部分に火をつけて、焼き肉を焼く真似をした。というのが、鵞鳥はもうすっかりずたずたにされていて、ちぎれた肢体が床一面に散らばっている始末だった。
さてそこで、盛んに笑い声が起こり、自慢話の言い合いが始まった。みんなそれぞれに自分のいためつけられたあとを見せ合うのだが、それも友達の手でやられたという場合が多いので、誰一人文句をいったり、いさかいをしたりする者はなかった。麻打ちは、半ばのびてしまった恰好で腰をさすりながら、これくらいのことは屁とも思わぬが、しかし相手方の墓掘りのずるいやり方には文句があるし、このおれがああして半分気を失いかけてさえいなかったら、炉ばたをこうやすやすと攻め落されはしなかったのだが、と言っていた。おかみさん連が床を掃き、室内はすっかり片づいた。テーブルには新しく葡萄酒を入れ直した水差しが並べられた。一同揃って乾杯をあげ、そして一息入れたところで、花婿が部屋の中央に引っ張り出されると、一本の細い棒を持たされて、また新たな試練を受けなければならなかった。
揉み合いの最中に、花嫁は仲間の娘たち三人と一緒に、母親や名づけ親や叔母たちがそっと隠して、部屋の奥の方の隅にある床几に四人並んで腰掛けさせ、その上から大きな白いシーツをかけておいたのだった。三人の娘はマリーと同じ背丈の者が選ばれていたし、めいめいの角《つの》頭巾の高さもまったく同じだったので、そんなふうにシーツをすっぽり頭からかぶせられて、足もとまですっかり包まれていると、どれが誰だか全然見分けがつかなかった。
花婿は、棒の先でさわる以外は四人にさわってはならないことになっていたし、それもこれが自分の花嫁だと睨んだ娘を指す場合に限られていた。十分様子をみる時間は与えられていたが、それも目で見くらべるだけだったし、おかみさん連が花婿の両脇にくっついて、いんちきなどないように、厳重に見張っていた。万一、花婿が間違えると、その晩、花婿は自分の花嫁と踊ることができず、間違えて選んだその娘としか踊れないのである。
ジェルマンは、同じ一つの屍衣にくるまった亡霊どもというようなこの姿の前に立たされて、ひょっと間違えはしないかと、ひどく心配だった。また実際、そういうことはほかの連中の場合にはずいぶんあったし、なにしろいつでも入念な注意をもってぬかりなく準備されているのである。ジェルマンの胸は激しく動悸をうちだした。マリーは大きく息をして、シーツを少し動かすようにしてみたが、相手の娘たちもわざと意地悪くおんなじようなことをして、指でシーツを突きあげたので、蔽いの蔭にいる娘たちが、どれもこれもあやしげな合図をしていることになってしまった。角ばった角《つの》頭巾がみんな同じようにシーツの蔽いを支えとめているので、その襞のでき工合で額の形を見分けることも不可能だった。
ジェルマンは十分ばかりも思い迷ったあげく、目をつぶって、すべてを神の御心に任せると、当てずっぽうに棒を突き出した。棒はマリーの額にさわり、マリーは勝利の叫びをあげながら、シーツを遠くへかなぐり棄てた。ジェルマンはそこでマリーに接吻することを許され、それからその逞しい腕にマリーを抱きあげて、部屋のまんなかへ連れて行くと、マリーと二人で踊り初めの踊りをやり、みんなの踊りは朝の二時まで続いた。
それから一同はひとまず別れて、八時にまた集まることにした。近在の村からやって来た若い娘たちも相当あったし、とてもみんなを寝かすだけの寝床はなかったので、村内からよばれて来ていた女たちが、めいめい自分の寝床に二三人の仲間の娘たちを入れてやり、一方男たちの方は、ジェルマンの家へ行って納屋のまぐさの上でざこ寝をした。十分お察しのつくことだろうが、彼らはそこで碌すっぽ寝もしなかった。みんななにしろ互いにいたずらをし合ったり、ざれごとを言い合ったり、馬鹿話をし合ったりすることしか考えなかったわけだ。婚礼には最低三晩の徹夜は欠かせぬものとされているし、その徹夜を悔むものはないのである。
定められていた出発の時刻が来ると、うんと胡椒をきかした牛乳入りスープを飲んで食欲をつけた上で――というのは、婚礼のふるまいにはたっぷり御馳走が出る筈だったからであるが――一同はジェルマンの家の中庭に勢揃いした。もとの私たちの教区は廃止されていたので、村から半道ばかりのところまで、結婚式を挙げに行かなければならなかった。
よく晴れたさわやかな日だったが、道がひどく悪かったので、みんな馬を用意して、どの男も一人ずつ老若とりどりの女をうしろに相乗りさせた。ジェルマンは例の『葦毛』に乗って出かけたが、『葦毛』は綺麗に手入れをしてもらい、蹄鉄も打ちかえ、リボンで飾られて、盛んに勇みたっては、火のような鼻息を吐いていた。ジェルマンは義弟のジャックと一緒に、花嫁をそのあばら家まで迎えに行ったが、ジャックの方は親馬の『葦毛』に乗って行って、ギエット婆さんをそのうしろに乗せてやり、一方ジェルマンは、意気揚々と可愛い新妻を連れて、その中庭に戻って来た。
やがて賑かな騎馬行列が行進を始め、徒歩でついて来る子供たちは、走りながらピストルをうち鳴らしては、馬を驚かし、跳ねあがらせた。モーリスのおかみさんは、ジェルマンの子供たち三人と、それに楽士たちを引き連れて、小さな車に乗りこんでいた。この車が、楽器の音を響かせながら、行進の先頭に立っていた。ピエール少年の姿はすばらしく可愛らしくて、年をとったお祖母《ばあ》さんもそれが得意でたまらぬ様子だった。しかし、元気に溢れる少年は、そう永くはお祖母《ばあ》さんのそばにじっとしていなかった。これから難所にさしかかるために途中でちょっと行列をとめなければならなかった時に、少年は素早くぬけ出して父親のそばへ行くと、自分も『葦毛』の鞍の前へ乗せてくれとねだった。
「とんでもない!」と、ジェルマンは答えた。
「そんなことをしたら、変なことを言ってからかわれるにきまってる! 駄目だ、そんなことは」
「サン・シャルチエの人たちなんか、どう言おうと平気だわ」と、マリーが言った。「乗せてあげなさいよ、ジェルマン、後生だから。あたしには、婚礼の衣裳なんかより、ピエールちゃんの方がずっと自慢になるわ」
ジェルマンもその言葉に折れて、そこで三人一緒のすばらしい一組を作りながら、『葦毛』の勇み立つ早足に揺られて、行列に加わった。
事実また、サン・シャルチエの人たちといえば、非常に嘲笑好きで、その教区に組み入れられることになった近在の教区のことというと、多少からかい気味になりがちな方だったにもかかわらず、こんなに立派な花婿とこんなに綺麗な花嫁、それに一国の王妃さえ羨ましがらせそうな子供の姿を見ては、少しも笑おうなどという気は起こさなかった。ピエール少年は空色のラシャの上下揃いの服に、赤いチョッキを着ていたが、そのチョッキが実に可愛らしく短くて、ほとんど顎の下きりしかなかった。村の仕立屋が袖つけをうんときつく絞ったので、少年は小さな両腕を前へ廻すこともできないほどだった。それだけに、少年の得意そうな姿をいったらなかった!
黒と金の飾り紐のついた丸い帽子をかぶって、そのほろほろ鳥の羽根飾りの中から孔雀の羽根が一本高々と突き出ていた。自分の頭よりも大きな花束が肩を埋め、そのリボンは爪先のあたりまでひらひらと揺れていた。土地の床屋兼|鬘《かつら》師でもある麻打ちが、頭にどんぶり鉢をかぶせておいて、その縁からはみ出した部分をすっかり刈り取るという、鋏の入れ工合を間違えないためには絶対確実な方法で、その髪の毛を丸く刈りこんでやっていた。こういういでたちをさせられた少年の姿は、長い髪を風に靡かせ、洗礼者ヨハネみたいな羊の毛皮をまとった姿よりは、どう見ても詩的でないことは確かだった。しかし、当人は一向そう思っていなかったし、みんながそれに見とれながら、まるで小さな大人のようだと言って褒めた。少年の美しさがすべてにうち勝っていたわけだし、実際また、少年の日のたぐいない美しさが、うち勝ち得ないものなどどこにあろう?
妹のソランジュは、二、三歳までの女の子がかぶる更紗の結え頭巾の代りに、生れて初めて角《つの》頭巾をかぶらせられていた。しかも、その頭巾といったら! それこそこの子の全身よりも、たけが高くて大きいと来ている。それだけに、当人はまったく自分が素晴らしく綺麗になったつもりでいたのだ! それこそ首ひとつ動かそうとせず、花嫁と間違えられそうだと思いながら、じっとからだを固くしていた。
末っ子のシルヴァンとなると、これはまだ赤んぼ服を着せられていたし、お祖母《ばあ》さんの膝で寝入ったまま、婚礼がどんなものかということさえ一向御存じない有様だった。
ジェルマンはいかにもいとしそうにその子供たちの姿を眺めていたが、村役場に着くと、自分の花嫁に向ってこう言った――
「なあ、マリー! おんなじ着いたにしても、今日はあの日よりいくらか嬉しい気がするよ。あのときは、シャントルーブの森からお前をうちへ連れて帰りながら、とてもお前がおれを好きになってくれることはあるまいと思ってたもんだ。おれはちょうど今とおんなじように、お前を抱いておろしてやった。だが、この子を二人の膝に抱いて、もう一度一緒に『葦毛』に乗るなんてことは、もう決してありっこないと思ってたんだ。なあ、おれはほんとにお前が好きだし、子供たちもとても可愛いんだ。お前がおれを好きに思ってくれるのも、子供たちを可愛がってくれるのもとても嬉しいし、うちの親爺さんたちがお前を好きに思ってくれるのも嬉しいのさ。お前のおふくろさんも大好きなら、友達連中も、今日来てくれたこの連中も、みんな大好きだし、まったくこの思いを満たすために、心臓が三つ四つほしいくらいだ。実際、一つじゃ少なすぎるよ、こんなに沢山の愛情と嬉しさをしまっておくのには! まるで胸が苦しくなるみたいだ」
村役場と教会の入口には、綺麗な花嫁を見ようとして、いっぱいに人だかりがしていた。まったく、どうして花嫁の衣裳のことを言わないでいたのだろう、それこそ実によく似合っていたのに! 薄いモスリンの角《つの》頭巾は一面に刺繍がしてあって、左右の垂れ布はレースで飾られていた。この時代には、農家の女は、それこそ一筋の髪の毛も外には見せないようにしていたものである。そして、その角《つの》頭巾の下には、頭巾を支えるために白の平打ち紐でぐるぐる巻きにした素晴らしい髪の毛が隠されているにもかかわらず、今日でもなお、帽子をかぶらずに男の前へ出ることは、無躾けな恥ずべき行為とされている。それでも、今では彼女らも、ちょっぴり垂れ毛を額の上にのぞかせるようになったし、それが彼女らの容貌を大変ひきたてている。
しかし、私は自分の若い頃の昔ながらの髪かたちをなつかしく思うのである。純白のレースが素肌からじかに続いている様子には、一種古めかしい貞潔さという趣きがあって、今よりも厳粛に見えたし、そういう装いが美しくうつる顔となると、その魅力といい、素朴な威厳といい、その美しさは何ものをもってしても表わし得ないほどであった。
マリーの時はまだこの髪かたちだったし、彼女の額の白く清らかなことは、白布の白さもそれをかげらせることはできまいと思われるほどだった。ゆうべ一睡もしていないにもかかわらず、朝の空気と、そして何よりも空のように澄みきった魂の内部に溢れる喜びと、さらにはまた青春のはじらいに包み隠されたほのかな情熱のゆらめきのために、その頬には、さながら初めて四月の日光を受けた桃の花のような、みずみずしい輝きがさしていた。
白いスカーフが、つつましく胸の前で重ね合せられているので、見えるのは、雉鳩《きじばと》のように丸みのある頸のあたりのきゃしゃな輪郭だけだった。萌黄色の薄手のラシャで作った簡単服が、ほっそりしたからだの線を浮き出させていて、その輪郭の美しさには非のうちどころがないように思われたが、しかしそれはまだまだ成熟し発達するに違いなかったし、なにしろ彼女はまだ十七になっていなかったのである。赤紫色の絹のエプロンをしめて、それにはちゃんと胸かけがついていたが、村の女たちがこの胸かけをやめてしまったのは考え違いで、これが胸もとにいかにも優美につつましやかな趣きを添えていたものだった。今日では、彼女らはそれにも増して誇らしげに例のスカーフをひけらかすのであるが、しかしその装いには、かつてその姿にホルバインの描く乙女の俤《おもかげ》を漂わせていた、昔ながらの貞潔さのかぐわしい香気はなくなってしまった。彼女らは、昔よりも色っぽく、あでやかになった。昔のいい趣味というのは、一種のきびしい固さのようなもので、それが彼女らのたまに見せる微笑を、一層深みのある、一層ゆかしいものにしていたのである。
贈り物の式の時になると、ジェルマンは慣例に従って、『十三銀』という、つまり十三枚の銀貨を、花嫁の手に握らせた。そしてその指に銀の指輪をはめてやった。その指輪の形は何百年来不変のものだったが、その後『縁結びの金指輪』というやつがこれにとって代ったのである。教会を出ると、マリーはそっとジェルマンにささやいた――
「これ、ほんとに、あたしのほしいと思ってた指輪なのね? あのお願いしといた指輪なのね、ジェルマン?」
「そうさ」と、ジェルマンは答えた。「カトリーヌのやつが、死んだ時に指にはめてたやつだ。同じ指輪で、二度の婚礼をしたわけだ」
「お礼をいうわ、ジェルマン」と、若い妻は心から深い感動のこもった調子で言った。「あたしもこれをはめたまま死ぬわ。もし、あんたより先に死んだら、そのままとっといて、ソランジュちゃんの婚礼の時に使ってちょうだい」
四 キャベツ
みんなはまた馬に乗り、大急ぎでベレールへ戻って来た。ふるまいの御馳走はすばらしく、踊りや歌をまじえながら、夜半まで続いた。老人連は、その間十四時間というもの、少しも食卓を離れなかった。墓掘りが料理番に廻って、しかもすばらしく上手にやってのけた。その方にかけては名うての男だったし、料理の皿を取りかえる合図には、毎度|竃《かまど》のそばを離れて来ては、踊ったり歌ったりしていた。そのくせ、可哀そうに、このボンタン爺さんは癲癇《てんかん》もちだったのである! まったく思いもよらなかったことだ。それこそ若者のように、元気で、丈夫で、陽気な男だったのだ。それがある日、宵の口に、持病の発作でのたうち廻りながら、溝の中で死んだようになっているところを、私たちは見つけたのだった。私たちはそれを手押し車に乗せてうちへ連れて来てやり、夜っぴて看病してやった。三日後には、爺さんはもう婚礼の席へ出て、鶫《つぐみ》のように歌い、子山羊のように跳ね廻り、昔の手ぶりで踊り狂っていた。どこかの婚礼の席をすますと、すぐその場から墓穴を掘りに出かけて、棺桶の釘をうつのだった。彼はその職務を神妙に果していたし、そのあと彼の晴れやかな気分には別にそれらしい影も見えなかったのだが、しかし心の底にはやはりその薄気味悪い印象が残っていて、それが発作の再発を早めることになったのである。
女房は中風で、もう二十年というもの、椅子に坐ったきりだった。母親は百四十にもなっていて、今もまだ生きている。だが、彼の方は、あんなに陽気で、気がよくて、面白い男だったのに、気の毒なことに、去年、自分の家の屋根裏の物置から床の敷石の上に落ちて、死んでしまった。おそらく、呪われた持病の発作に襲われて、いつもの通り、家人を怯えたり悲しませたりさせないように、まぐさのなかに身を隠していたのであろう。こうして、彼はいかにも悲劇的な経過で、彼自身と同じように異様な生涯を終えたのである。陰惨なことと馬鹿陽気なこと、恐ろしげなことと晴れやかなことの入り交った生涯であり、しかもそういうなかで、彼はいつも変りなく気立てのいい心と、愛想のいい人柄の持主であったのだ。
さて、いよいよ婚礼の三日目の行事にはいるわけだが、これは一番珍しい行事で、しかも今日までそっくりそのままに続けられて来ている行事である。初夜の床を見舞う焼き肉の行事のことは、ここでは話さないことにしよう。これはまあ相当馬鹿げた風習で、つまり花嫁の羞恥心をなぶり、それに立会う若い娘たちの羞恥心を打ち破ろうとするものである。それに、たぶんこれはどこの田舎にもある風習で、私たちのところでもなんら特別な点はなさそうに思う。『引出もの』の行事は花嫁の心と住居を我がものとすることの象徴であるが、それと同様に、『キャベツ』の行事は婚姻による子孫繁栄の象徴である。
結婚式の翌日の朝飯がすむと、この奇妙な催しものが始まる。これは元来ゴール起原のものであるが、それがやがて原始キリスト教を経ることによって、次第に一種の『聖詩劇』もしくは中世の茶番教訓劇のようなものに転化したものである。
二人の若者(仲間内で一番おどけ好きで、一番柄に合った二人)が、朝飯の間に姿を消して、衣裳をつけに行ったと思うと、やがて待つうちに、楽隊や犬や子供たちやピストルの音などを引き従えて戻って来る。二人は乞食の夫婦に扮して、亭主も女房も、よにもみすぼらしい襤褸《ぼろ》に包まれている。二人のうちでも亭主の方が一層むさ苦しい。不身持のために、そんなみじめなていたらくとなったのである。女房の方は、亭主のふしだらのせいで、不仕合せな落ちぶれた女になりさがったに過ぎない。
二人は『庭番と庭番の女房』という肩書きを名乗り、神聖なキャベツの守護と栽培を役目としている者だと称する。しかし、亭主の方にはまだいろんな称号があって、それがみんなそれぞれに意味をもっている。普通そんなに区別をしない場合には『藁《わら》男』と呼ばれるが、それは彼が藁または麻の鬘をかぶり、襤褸着では包みきれない裸を隠すために、足や胴の一部に藁を巻きつけているからである。それからまた、仕事着の下に藁やまぐさを忍ばせて、太鼓腹やせむしの瘤《こぶ》をこしらえている。『つづれ男』と呼ばれるのは、『つづれ』(襤褸)にくるまっているからである。最後に『外道《げどう》』というのは、また一段と意味の深い呼び方で、つまり彼は、その破廉恥と放蕩三昧とによって、キリスト教的美徳のすべてと正反対なものを一身に具現しているものと見なされているのである。
顔に煤や酒糟をなすりつけ、時にはグロテスクな面などをかぶった姿で、彼は乗りこんで来る。縁のかけたひどい素焼の茶碗か、木靴のお古を、紐で腰帯につるしたのが、酒の施しを求めるための道具となる。誰も施しを拒むものはいないし、彼はちょっと飲む真似をして、それから神酒をそそぐ儀式になぞらえて、その酒を地面にこぼす。そして一足毎に倒れては、泥のなかを転げ廻る。よにも見苦しく泥酔しきった様子をして見せる。哀れな女房はそのあとを追いかけ、抱き起こし、助けを呼び、よごれ果てた角《つの》頭巾からごわごわの房になってはみ出している麻の髪の毛をかきむしり、亭主のみじめな有様を嘆き、そして悲痛極まる非難の言葉を亭主にあびせかける。
「碌でなし! ほんとにどこまでみじめなことになるんだか、お前さんの不心得のお蔭で! いくら一生懸命糸を紡いで、お前さんのために身を粉にして、服をつくろってやったって、なんにもなりゃしない! すぐ破いたり、よごしたり、もうひっきりなしなんだから。あたしのちっとばかり持ってたものも食いつぶしちまうし、六人の子供は寝る家もなく、あたしたちは馬小屋のなかで畜生どもといっしょに寝起きしてる始末だ。とうとうこうして物乞いまでする身になっちまってさ、おまけにこれだって、お前さんがこんなぶざまな、みっともない、見さげ果てた有様じゃ、パンを恵んでくれる人だって、今にきっとぽいと投げてくれるようになるだろうよ、まるで犬にでもくれてやるみたいに。ああ、情けない! お願いじゃ、『客人衆』(皆の衆)、どうかわたしどもを憐れんでくだされ! わたしを憐れんでくだされ! なんの罪とがもないのにこんな身の上になって、ほんとに、こんなきたならしい、こんないやらしい亭主をもった女がどこにあろうか。さあ、ちょっと手を貸して、この人を抱き起こしてくだされ。そうしてもらわんことにゃ、車に轢かれて壜のかけらかなんぞのように潰されてしもうたら、それこそわたしは寡婦《やもめ》になってしまうのじゃ。そんなことになれば、この上の悲しみに、わたしはもう死んでしまうがな、誰に言わせても、それこそ願ってもない仕合せじゃろうと言われるんじゃが」
まずこういうのが、庭番の女房の役どころと、その繰言の次第であり、それがこの芝居の間じゅう続けられる。というのは、これはまったくの自由な即興劇、戸外で、路上で、野外を移動しつつ演じられる劇であり、途中で出くわす偶然の出来事をなんでも取り入れながら、この日三、四時間にわたって、婚礼の関係者も外部の者も、両家の客たちも往来の通行人も、すべての者がそれに参加する一つの喜劇であることは、これから述べるところによってもわかるであろう。主題は不変であるが、人々はその主題に数限りもなくさまざまの綾をつけ加えるのであって、つまりそういう才覚にこそ、我が国の農民の物真似の本能、道化た着想の豊富さ、言い廻しの自在さ、当意即妙の才、さらにはまた本来の雄弁ささえもが見られるのである。
庭番の女房の役をふられるのは、普通、痩せぎすで髯がなく血色のいい男で、しかも自分の役にいかにも真に迫った感じを出し、その道化じみた悲嘆の様子を十分自然にしこなして、見物をまるで実際のことがらのように面白がったり哀れがったりさせることができる男でなければならない。痩せて髯のないこういう男は、このあたりの田舎には珍しくないし、しかもおかしなことには、それが時には腕力にかけても一番めぼしい連中だったりする。
女房の不仕合せぶりが十分見届けられたところで、婚礼の人たちのなかの若い連中が、そんな飲んだくれの亭主なんかそこへほっといて、自分たちと一緒に面白くやろうじゃないかと勧める。そして女房の腕をかかえながら、引っ張って行こうとする。次第に女房も引きこまれて、陽気に浮かれだしながら、時にはこっちの男、時にはあっちの男というふうに、いろんな若い衆を相手に駈け廻っては、みだらな姿態を見せ始める。ここでまた一つ『教訓』が示されているわけで、すなわち亭主のふしだらは女房のふしだらを唆《そその》かし、誘い寄せるものだということである。
『外道《げどう》』はそのとき泥酔からさめると、自分の女房の姿を捜して、きょろきょろとあたりを見廻し、それから縄と棒を手に持つと、女房のあとを追いかける。みんなは彼をさんざ走り廻らせながら、さっと身を隠したり、あっちの男こっちの男とかわるがわるその女房を渡し合ったり、女房の気持をそらしてはやきもちやきの亭主の目を眩まそうとしたりする。亭主の『友達』の連中はしきりに彼を酔いつぶそうとする。最後にやっと亭主はその尻軽女房をつかまえ、そして殴ろうとする。夫婦生活のみじめな苦しみを茶化したこの芝居で、最も如実で観察の鋭い点は、嫉妬に駆られた亭主が、女房をとられた相手の男たちには決してかかって行かないことである。その連中に対しては甚だ慇懃で控え目であり、ひたすら不義を働いた女房だけを責めたてようとするのであるが、それというのも、女房は亭主に手向いはできないものとされているからである。
ところが、亭主が棒を振りあげて、浮気を働いた女房を縛ろうと縄を構えたとたんに、婚礼の男たち一同が跳び出して、夫婦二人の間に割ってはいる。『殴るでない! 自分の女房を決して殴るでない!』というのが、この場面で繰返し繰返し何度となく叫ばれるきまり文句なのである。人々は亭主から棒と縄を取りあげ、無理やり女房を許させて接吻させ、そしてほどなく亭主も、以前にも増して女房を可愛がるような素振りを見せるようになる。そして女房と腕を組み合って、歌ったり踊ったりしながらやって行くのであるが、やがてそのうちにまたしても酔いつぶれてしまって、地べたを転げ廻り始める。そこでまた女房の繰言が始まり、愛想づかし、浮気の真似、亭主のやきもち、はたの人びとの仲裁、仲通りと、同じことが繰返される。こういう話の運びには、まことに素朴な、下品とさえも言える教訓が含まれていて、それがいかにも中世起原らしいものを感じさせるのであるが、しかしこの教訓はやはり強い感銘を与える。
今日では十分に愛情あるいは分別をわきまえていて、そんな教訓など必要としない既婚の連中はともかくとして、少くとも子供や青年たちには十分感銘を与える。『外道』が若い娘たちを追いかけて、接吻しようとするような振りをしてみせると、娘たちはそれこそ怯えて、いやがって、決してお芝居ではない興奮ぶりで逃げ出す。『外道』のわざとよごした顔と長い棒(といっても別に危害を加えるわけではないのだが)を見ると、子供たちはきゃあきゃあ喚きたてる。最も幼稚ではあるが、しかしまた最も印象の強い風俗喜劇ともいうべきものである。
この笑劇がすっかり調子に乗ってもりあがって来たところで、一同キャベツを取りに行くことになる。釣台が運ばれて来て、鍬と縄と大きな籠とを持った『外道』がそれに載せられる。四人のたくましい男が、それを肩にかつぐ。『外道』の女房は徒歩でそれに付き添い、じっと考えこんだような重々しい様子で、『年寄衆』が一団となってそのあとに続く。それから、婚礼の行列が二人ずつ組になりながら、楽隊の音に歩調を合せて行進して行く。またピストルが鳴り始め、犬どもは、ひどくきたならしい『外道』がそんなふうにはなばなしくかつぎあげられて行くのを見て、前にも増して吠えたてる。子供たちは紐の先に吊した木靴を鳴らしながら、面白がってはやしたてる。
ところで、こんないやらしい人物に対して、こういう凱旋騒ぎをするというのは、いったいどういうわけであろうか? 行列は、結婚の多産のしるしである神聖なキャベツの獲得を目指して進軍して行くのであるが、しかもまるで正気を失ったこの酔っ払いだけが、その象徴的な作物に手を触れることができるのである。確かにそこにはキリスト教に先立つ時代の一つの秘儀がひそんでいるのであり、どうやらサトゥルヌス〔ローマ神話の農耕の神〕の祝祭か、ないしは古代の酒神《バッカス》祭の俤をしのばせるものがある。あるいは、この『外道』というのは、同時に極めて優秀な菜園師でもあるし、これこそほかならぬ、菜園と放蕩の神、プリアプスそのものであるかも知れない。そもそもプリアプスの神というものも、その起原においては、生殖の神秘そのものと同様に、貞潔で厳粛な神であったに相違ないのであるが、それが風俗の放縦化と思想の無軌道のために、いつのまにか次第に品位を失ったものとなりさがってしまったのである。
それはともかく、凱旋将軍のような行進の行列は花嫁の住居に到着し、その菜園に乗りこむ。その菜園で一番見事なキャベツを選び出すのであるが、これがまたなかなか手っ取り早くは行かないわけで、『年寄衆』が協議を行い、めいめい自分の一番適当と認めるキャベツのために弁じながら、果てしもなく議論を続けるのである。とうとう投票できめることになり、そこで選択がきまると、『庭番』が例の縄をそのキャベツの茎にゆわえつけ、そしてできるだけ遠く、菜園の一番はずれのところまで引きさがる。庭番の女房は、この神聖な野菜が、引き抜かれる際に傷がついたりしないように見張っている。婚礼の行事の『おどけ衆』――すなわち麻打ち、墓掘り、大工あるいは木靴作りなど(要するにみんないずれも土を耕さない連中であり、彼らは日々の生活を他人の家で過ごしているので、単純な農業労働に従う者よりも才気と弁舌があると目されており、また実際にそうである)が、キャベツを囲んで部署につく。一人が鍬を使って穴を掘るが、その深いことといったらそれこそ槲の木を切り倒すのかと思うようだ。もう一人は、本か厚紙製の『鼻鋏み』を鼻にのっけて、眼鏡をかけた恰好を作る。彼は『技師』の役目を勤めるわけで、そばへ寄ったり、遠くへ離れたり、ちょっと図面を引いてみたり、人夫たちを横目で睨んだり、あっちこっち線を引いたり、いろいろと勿体ぶってみせ、そんなことをしてはすっかり台なしになってしまうとどなり、勝手に思いつくままに仕事を中止させたり、やり直させたりしては、できるだけ時間を永びかせ、できるだけ滑稽になるように、仕事を指揮する。これはあるいはこの行事の古代からの形式に付け足されたもので、因襲的な農民がこの上もなく軽蔑する理論家一般への嘲笑を表わすか、それとも、土地台帳を正し、税金を割りふる測量技師、さらにはまた、共有地を街道にしてしまったり、農民にとって貴重な古くからの弊習を廃止してしまったりする土木課の役人、への憎しみを表わすものであろうか? とにかく、芝居のなかのこの人物は『測量屋』と呼ばれているし、つるはしやシャベルをふるっている連中に対して自分を我慢のならぬ人間に仕立てようと、あらん限りの知恵をしぼるのである。
キャベツの根を切らないようにして、どこもいためないように引き抜くために、十五分ばかりも、ああでもない、こうでもないと、とぼけた空騒ぎを続け、その合間にはシャベルですくった土を列席者の鼻先へぶっかけるのであるが(素早く身をよけないのは、そっちが悪いのである。司教だろうと王侯だろうと、土の洗礼を受けるより仕方がない)、そのあげくにやっと、『外道』の女房が前掛けを拡げ、そしてキャベツは見物一同の『万歳』の声のうちにおごそかに倒れる。そこで籠が運ばれて来ると、『外道』夫婦はあらん限りの丹誠と注意をこめながら、その籠にキャベツを植える。新鮮な土まわりに詰め、ちょうど町の花売娘たちが見事な椿の鉢植えにやるように、添え木や紐でしっかりと支える。添え木の先には赤い林檎を突き刺し、タチジャコウソウやサルビアや月桂樹の枝を周囲一面に突き立てる。そしてこの勝利の獲物を『外道』と一緒にまた釣台へ乗せると――『外道』はこの獲物をちゃんと水平に支えて、間違いが起こらないようにしていなければならない――そこでやっと一同は列を作り、行進の足どりで菜園を出て行く。
が、さて、花婿の家の門口を跨ごうとする時、同様にまた、それに続いて前庭へはいろうとする時、ある架空の障害が行手を塞ぐ。釣台をかついでいる連中はつまずいたようによろけ、かん高い驚きの声をあげ、あとへさがり、また前へ出、そしてあたかも何か打ち勝ち難い力に押し戻されるかのように、その重荷に圧し潰されてしまいそうなふりをする。その間、周囲の者たちは盛んに声をかけながら、牽き牛代りの男たちをけしかけたり、なだめたりする。「そうっと、そうっと、そら! そこだ、そこだ、しっかり! 油断するな、頑張って! もっと頭をさげて、門が低いんだぞ! ぐっとからだを寄せ合うんだ、門が狭いんだから! もうちょっと左。右だ、今度は! そら、元気を出して、ようし、いいぞ!」
豊作の年に、牛車が、まぐさや作物をむやみに積みすぎて、納屋の入口をはいるのに横が張りすぎたり、高さが高すぎたりする場合にも、ちょうどこれとおんなじである。やはりこんな工合に声をかけては、たくましい牛どもを抑えたり、けしかけたりする。そして同じような巧みさと力強い努力によって、豊かな稔りの山が崩れ落ちないように、農家の凱旋門をうまくくぐらせる。とりわけ『納め穂ぐるま』と呼ばれる最後の車には、そういう配慮が特に必要なのであるが、それは、これも野良の祝いごとで、最後の一うねからとった最後の麦束が車のてっぺんに積まれていて、その麦束も、牛の額も、牛追いの刺し棒も、花とリボンで飾られているからである。そういうわけで、このキャベツが、誇らかにまた苦労しつつ、家の中にかつぎ込まれるのは、つまりキャベツの表わす繁栄と多産の姿になぞらえているのである。
花婿の家の前庭に着くと、キャベツは釣台からおろされて、家または納屋の一番高い所に運ばれる。煙突とか、破風とか、鳩小屋とかいうように、ほかの棟より高いところがあると、どんな危険を冒しても、この厄介な荷物を住居の一番頂点まで運びあげなければならぬ。『外道』はそこまでついて行って、キャベツの籠をしっかりと据えつけ、どくどくと酒をかける。一方、ピストルの一斉射撃の祝砲と、『外道』の女房の嬉しそうに身をくねらせる身振りとが、据えつけの終ったことを知らせる。
同じ儀式がすぐまたもう一度始められる。花婿の家の菜園からまた一つキャベツが掘り取られ、新妻が夫のもとへ来るために見棄てて来た家の屋根に、そっくり同じ手順を費やして運びあげられる。この戦勝のしるしは、風雨に籠がこわれてキャベツが吹き飛ばされてしまうまで、そこにそのままにしておかれる。しかし、それが相当永く枯れないでいるので、村の『年寄衆』やおかみさん連がそれに呼びかけるように言う予言の言葉も、時には首尾よく的中することになる。彼らは言う――「いいキャベツだ。ちゃんと生きて、花を咲かしてくれろよ、ここの嫁さんが今年のうちに立派な赤児を生むようにな。あんまり早く枯れると、子供のできんしるしになって、せっかく家の屋根にのっかってても、縁起の悪いことになっちまうからな」
これらの行事がすっかりすむ頃には、日はもう暮れ方近くなっている。あとはもう、新婚夫婦の名づけ親たちを送って行くことだけである。この仮想の両親たちが遠くに住んでいる場合は、楽隊をつけて、婚礼の出席者一同、教区の境まで送って行く。そこまで行くと、またもや道ばたで踊り、それから名づけ親たちと接吻して別れる。『外道』とその女房も、芝居の疲れで一寝入りしに行かなければならぬほどでない場合には、その時はもう顔のよごれを落して、さっぱりと着替えをして来ている。
ジェルマンの婚礼の時には、この三日目のお祝いの日、真夜半になっても、まだみんなベレールの彼の家で踊り、歌い、飲み食いしていた。『年寄衆』は、テーブルに坐ったきり、どうしても帰る気になれないらしかったが、それも道理である。翌日、夜の明けそめになって、やっと足が立ち、頭がはっきりして来た始末だった。そこで、この連中がむっつりとした顔でよろめきながら、めいめい家へ帰って行く間に、ジェルマンは、若い新妻は日の出の頃までしばらく寝かしておくことにして、晴れ晴れと心も軽く家を出ると、牛を鋤に繋いだ。空高く昇りながら歌っている雲雀の声は、神のおはからいに感謝を献げる自分の心の声のような気がした。葉の落ちた木藪に光っている薄氷は、葉の出る前の四月の花の白さのように見えた。目にうつる自然のすべてが、彼にとってはなごやかで晴れ晴れとしていた。ピエール少年は、ゆうべ、さんざ笑ったり跳ね廻ったりしたので、牛を追う手助けをしには来なかった。しかし、ジェルマンはひとりきりでいることに満足していた。そして、これからまた耕そうとしている畝《うね》の間に跪くと、まだ汗に濡れている頬に涙が二筋流れて来たほど、心から深い思いをこめて、朝の祈りを唱えた。
遠くで、自分たちの村へ引き揚げて行きながら、少し嗄れてしまった声で、ゆうべの陽気な折返しの文句をまた歌い返している、隣りの教区の若い衆たちの歌声が聞えていた。 (完)
[#改ページ]
解説
ジョルジュ・サンド(George Sand)は前後四十五年の長期にわたって稀に見る多産な作家活動を続け、その作品は普及版全集で百十五巻という厖大な量に達しているが、文学史家は一般にこれをその作風によって四つの時期に区分している。第一期(二十八歳から三十三歳頃まで)は、処女作『アンディアナ』に続いて『ヴァランチーヌ』『レリア』『ジャック』等の作が書かれた時期で、おおむね不幸な結婚に苦しむ男女を主人公として、宗教と制度の束縛に対する叛逆と、情熱の神聖を説く作品によって占められている。これらの主題のなかにはすでに現代的意義を失った部分もあるが、しかしエレン・ケイその他二十世紀の女権論者の主張はことごとくそのなかに含まれていると言われるくらいで、女性の奴隷状態に対する反抗の声として今なお多くの読者を惹きつけるものをもつ。しかもこれら初期の作品には自伝的色彩が濃厚なだけに、サンドの長所たる詩的抒情的な才能が存分に発揮されており、変化に富むプロットと手堅い観察に助けられて、第三期の『田園小説』に次ぐ読者を獲得している。
第二期(四十一歳頃まで)は、彼女が新たな愛人たる社会主義者ミッシェル・ド・ブールジュの影響のもとに政治問題に熱中する時期で、社会主義の領袖ルドリュ・ロラン、ピエール・ルルー、アルマン・バルベス、ラムネー等の思想的感化を受け、『スピリディオン』『フランス遍歴の職人』『コンスュエロ』『アンジボーの粉ひき』『アントワーヌさんの罪』など、いわゆるユートピア社会主義的な傾向の強い社会小説が書かれた。これらの作品は、元来思想家型でない彼女が、従来の豊かな抒情的雰囲気を離れたために、全く観念の露出に終り、サンドの作品のなかでも最も芸術性の稀薄なものと言われる。しかし、このうち彼女生来の夢想的神秘的傾向が強く滲み出た『コンスュエロ』およびその続篇『ルュドルスタッド伯爵夫人』は、女性のための『ウィルヘルム・マイスター』ともいうべき雄大な理想小説で、アランなどはこの一篇だけでもサンドを不朽ならしめるに足ると激賞している。
第三期(五十二歳頃まで)は、サンドの感じやすい心が次第に苛酷な現実から目を背け、農村の淳朴な生活のなかに安らぎと美を見出そうとする時期で、この動向は「芸術家の目的は、彼の関心の的たる事物を愛させることであるべきであって、必要とあればそれを多少美化しても、私は別に咎めようとは思わない」という『魔の沼』の序章の言葉に端的に示されている。とくに一八四八年「二月革命」の幻滅的な結果と、それに引続く政治的動乱の惨禍とは、彼女のこの動向をますます固めさせることになり、『魔の沼』『捨て子フランソア』に続いて『愛の妖精』『笛師のむれ』と、いずれも彼女の郷里ノアン付近の平和な農村を舞台とする、のどかな牧歌風の小説四篇が生まれる。これがすなわち彼女の最良の作品としてサンドの「田園小説」と呼ばれているものである。
物語の筋立ての巧みさにおいて無比と称せられる彼女が、幼時の豊富な思い出と親しい観察とを駆使しつつ、簡素な心の美しさと安らかさとを描き出すこれらの作品は、まさに彼女の才能が初めてその本領を発揮した観があり、今日最も広く愛読されている。なおこの期には、彼女の精細な自伝として高く評価される『我が生活の歴史』の著がある。
第四期(七十二歳まで)は、いよいよ晩年に入ったサンドが、孫たちのよき祖母としてまた「ノアンの奥様」として村人に親しまれ、静かな余生を送りつつ、第三期の作風をさらに発展させて、フランス各地の自然や都市を背景とする優美な社交界の恋物語を次々に書き続けた時期で、『ボワ・ドレの名士たち』『ジャン・ド・ラ・ローシュ』『ヴィルメール侯爵』『一少女の告白』等「都会《まち》の牧歌物語」ともいうべき作品が数多く書かれている。しかしこれらの作品には、物語の巧みさと感情の優しさはあっても、「田園小説」のような生々した描写や的確な観察は見られず、今日ではほとんど忘れ去られているというのが実情である。
ここに訳出した『魔の沼』は「田園小説」の第一作である。サンドが『魔の沼』において「田園小説」に初めて筆を染めるに至った動機については、序文代りの冒頭の二章に詳しく述べられているが、これを文学史的に見れば、彼女もまた無意識のうちに当時のローマン主義文学一般の動向に従ったものと言えよう。奔放な想像力を生命とするローマン主義文学が、陰鬱な現実にあきたらず、より自由な飛躍を求めて次第に過去の世界に目を転じるに至ることは自然の勢いであり、歴史伝説や農村の伝統のなかに美しい夢を見出そうとする動きは当時極めて顕著なものがあったのである。しかしサンドの場合には、それと同時に社会主義の立場からの一つの動機が考えられる。人々が他階級の生活をよく知らないことが階級間の誤解と対立を激化していると感じていた彼女は、幾分でもその誤解を緩和するために、自分のよく知っている農民の姿を紹介することを一つの責務と考えたのであった。事実、『魔の沼』の少し前に発表された『ジャーヌ』で異階級のなかに置かれた農民の不自然な姿を描いたことが、やがて農民の本来の姿を捉えようとする意図を芽生えさせ、そこから「田園小説」が生まれたことを、作者みずから語っている。二章にわたる長い序文は、このささやかな牧歌物語に対して少しことごとし過ぎるようであるが、以上のようなサンドの思想的政治的立場からすれば、これだけの前置きはやはり必要であったに違いない。
四篇の「田園小説」はいずれも舞台をノアンの付近、アンドル河沿いの平和な農村にとっているが、サンドの幼時から親しんで来た土地だけに、随処に挿入されるちょっとした点景が実によく生きていて、それが作品の大きな魅力になっている。また題材の点でも「蔽い隠されていた恋の発見」という筋に四篇共通のものがあると、ルネ・ドゥミックは言う。事実、『魔の沼』のジェルマンも、『捨て子』のフランソアも、『愛の妖精』のランドリーも、『笛師のむれ』のエチエンヌとジョゼフも、最初は自分の心の動きに気がつかずにいて、やがて気がついた時には熱烈な恋に捉えられているのである。しかも、そうして相手の女性に次第に惹きつけられて行く男心の微妙な動きを描く時、サンドの筆はひときわ精彩を放って、それが各篇の言わば「さわり」の部分になっている。農民の姿は、酷悪な面が触れられていないために、多少美化されていると言えないこともないが、しかし決して不自然ではなく、特に『魔の沼』のモーリス爺さんや『愛の妖精』のバルボーなど、脇役の人物の描写には農民の一典型が見事に捉えられている。
四つの作品には一作毎に進展の跡が見られ、『魔の沼』の最も単純な物語から、『捨て子フランソア』『愛の妖精』と次第に筋の複雑さを増して、『笛師のむれ』ではベリー、ブルボネ二州に跨がる大ローマンにまで発展するのであるが、作中の方言の使用についても同じような進展が見られる。最初『魔の沼』に多少の方言を挿入したことについて、賛否交々の大きな反響があったが、サンドはこれに答える試みとして、次作『捨て子フランソア』では、農民と都会人に共通の言葉のみを用いて、農民の思想感情を表現しようとした。この試みは一応成功し、一種清らかな簡素美をもった作品を生み出したが、サンドはこれによってかえって農民の思想と方言の不可分性を痛感させられ、『愛の妖精』ではできるだけ方言を活用することに努め、『笛師のむれ』ではその方針をまた一層強化した。従って『魔の沼』と『愛の妖精』では、作者の語り方に著しい相違があり、前者ではまだしばしば作者自身が顔を出しているが、後者では作者は全く姿を隠して語り手たる「麻打ち」の老人になりきっている。『愛の妖精』の諸処に見られる素朴な観察めいた言葉は、作者自身のものではなく、語り手の「麻打ち」の言葉であることに注意しないと、とんだ読み違いをすることになる。この四篇を「麻打ち夜話」の題の下にひとまとめにするというサンドの計画はついに実現されないでしまったが、これを実現するためには最初の二作に相当手を入れる必要があったであろう。
『魔の沼』の終りについている「付録」の部分は、ジェルマンとマリーを登場させて一応エピローグのような形をとっているが、序文代りの冒頭の二章と同様、元来は物語の本筋と別に切り離して発表されたもので、物語だけを楽しもうとする読者ならば、省いても差し支えのない部分である。しかし、当時の農村風俗に関するこの精細な描写は、サンドの「田園小説」に豊かな背景を添えてその理解を一層深めるものであり、またその「田園小説」の生まれて来た基盤を明らかにするものとして興味が深い。(訳者)