フラニーとズーイ
[#地から2字上げ]サリンジャー
[#地から2字上げ]鈴木武樹 訳
目次
フラニー
ズーイ
解説
あとがき
[#改ページ]
フラニー
日射しこそ|眩《まばゆ》かったが、土曜日の朝はまたオーバー向きの天気に戻っていて、この週ずっと続いていたダスター向きの天気ではなく、みんな、呼び物つきの週末まで陽気はこのままでいてくれるだろうという当てがはずれた――この週末はイェールとの試合なのだ。駅では若い男たちが二十何人か、デートの相手が十時五十二分で着くのを待っていたけれども、そのうち六、七人しか、寒い、吹きっさらしのプラットホームには出ていなかった。残りは、帽子もかぶらずタバコの煙に包まれて、ふたり、三人、四人と、暖房がきいた待合室のそこここに小さく固まって話しこんでいたが、その声にはほとんど例外なく、いかにも大学生らしい自信たっぷりの響きがあり、まるでだれもかれも、会話の番が回ってくると勢いこんで、なにかたいへんな論点にこの場かぎりで決着をつけてしまうのだ、とでもいうかのようだった――外部の非大学世界が何世紀ものあいだ、|小癪《こしゃく》にも、か否かはべつとして、へたくそにいじくりまわしてきたものにだ。
レイン・クウテルは、内側にウールの裏張りがボタンで留めてあると、すぐに知れるバーバリ・レインコートを着て、あの吹きっさらしのプラットホームに出ている六、七人の中のひとりになっていた。それともむしろ、彼らのひとりでもあれば、ひとりでもなかった。というのは、ほかの連中の会話の射程からはわざと外に出て、背はクリスチャン・サイエンスの無料書架にあずけ、手袋をはめていない手は両方ともコートのポケットに突っこんでいたのだ。彼はエビ茶色のカシミヤのマフラーを巻いていたけれども、それは首のところがせりあがっていたので、ぜんぜんといっていいほど、寒さを防ぐたしにはなっていなかった。彼はとつぜん、いくらか無意識に、右手をコートのポケットから出して、マフラーを直しはじめたが、まだ直しおわらぬうちに、気を変えて、その同じ手をコートの内側に持ってゆき、上着の内ポケットから手紙を抜きだした。そして、さっそく、口をかるく開いたまま読みはじめた。
その手紙は薄い青の便せんに書かれて――タイプで書かれて――いた。いじくりまわされて香の抜けた気配があるところを見ると、これまでもういくどとなく封筒から抜きだされては読まれているようだった。
[#地から2字上げ]火曜日、だと思うけど
[#ここから2字下げ]
いとしいレインさま
今夜は寮の中がぜんぜんばかばかしいくらいにやかましくて、自分で自分の考えている声が聞きとれないくらいなので、このお手紙を解読していただけるかどうか、あたしにはぜんぜんわかりません。だから、もしなにか誤字でもしたら、お願いですから、大目に見てくださるようお願いします。これはついでだけど、ご忠告を守って、このごろは辞書にとても頼るようになりましたから、もしそのためにあたしの文体がギクシャクしているようだったら、それはあなたのせいです。ところで、たったいま、すてきなお手紙を受け取りましたけど、あたしはあなたのことが|千《ち》|々《ぢ》に砕けんばかりに、気も狂わんばかりに、エトセトラ好きなので、この週末が待ちきれないくらいです。クロフト館にはいることができないのはとても残念ですが、ほんとうは、どこにいたって、暖かくて、ナンキンムシがいなくて、あなたにときどき、つまり一分ごとにお会いしさえすれば、あたし、かまいません。あたしはこのごろはつまり、おかしくなりかけているのです。こんどのお手紙は、あたし、すごく大好きで、とくにエリオットのところはそうです。どうやらあたしは、詩人はサッポー以外、|軽《けい》|蔑《べつ》しはじめているみたいです。彼女を気違いみたいに読んでいるのですけど、俗っぽい批評はよしてね。あたし、もし優等を|狙《ねら》うことにして、あたしのアドバイザーに当てられているあの低脳がいいと言ったら、学期論文は彼女をやるかもしれないくらいです。「優美なアドニスが死にかけているけど、キュテレィア、どうしたらいいの? 自分で自分の胸をたたいてね、おとめたち、チュニスを引きさくのよ」これすてき[#「すてき」に傍点]じゃない? 彼女もいつもそうしたふう[#「ふう」に傍点]なのよ。あなた、あたしのことを好き? あのひどいお手紙の中では一度もそう言ってくださらなかった。あたし、あなたンどうしようもないくらい超男性的で加黙(字は?)だったら、あなたのこと憎むわよ。ほんとうにあなたが憎いからじゃなく、体質的に、強い無口な人には反発するの。べつにあなたが強くないってことではなくて、あたしの言う意味、わかってくださるわね。ここはどんどんやかましくなっていくので、自分で自分の考えている声がほとんど聞きとれないくらいです。とにかくあたしはあなたが好きで、この手紙は速達で出して、あなたがうんと早く受け取れるようにしたいと思います――もしこの気違い病院の中で切手が見つかったらの話だけど。あなたが好きよ、あなたが好きよ、あなたが好きよ。この十一か月であたしあなたと二回しか踊ってないことを、あなたはほんとうにわかっているのかしら? ヴァンガードであなたがとっても酔っぱらっていたあのときは別にしてよ。どうもあたし、どうしようもないくらい自意識過剰になってるみたい。それはそうと、こんどのパーティ、入り口に出迎えの列があるようなおおげさなのだったら、あたし、あなたを殺してしまうから。土曜日までね、あたしのお花!
[#ここで字下げ終わり]
[#地から2字上げ] キスキスキスキス ありったけの愛をこめて
[#地から2字上げ] キスキスキスキス フラニー
[#ここから2字下げ]
追伸 パパがレントゲンを病院からもらってきて、あたしたちはみんな、とってもホッとしています。|腫《しゅ》|瘍《よう》ですけど、悪性なのではないのです。ゆうべ母と電話で話しました。ついでだけど、あなたによろしくとのことでしたから、あの金曜日の夜のことでは気を楽にしていていいです。あたしたちがはいってきたのを、聞きつけてさえいないと思うわ。
追々伸 あなたに書くときのあたしったら、とっても非知的で、おばかさんみたい、なぜかしら? 分析してみてくださってもけっこうよ。こんどの週末は、最高に楽しみましょうね。つまり、できたらこんどだけは、なんでもかんでも、とくにあたしを、トコトン分析するようなことはしないってこと。あなたが好きよ。
[#ここで字下げ終わり]
[#地から2字上げ] フランスィズ(彼女の署名マーク)
レインはこのときは、手紙をおおよそ半分ほど読みすすんだときに、じゃまをされ――侵入をされ、妨害をされた――相手はレイ・ソレンスンという名の、がっしりとした体格の大学生で、いったいあのリケルっていうやろうはなにを言ってるのか、わかるか、と聞いてきたのだった。レインもソレンスンも近代ヨーロッパ文学二五一にいて(四年生と大学院の学生しか聴講できない)、月曜日にリルケの『ドゥイノの悲歌』の第四の歌が当たっていたのだ。レインはこのソレンスンとはわずかしか付きあいがなかったが、彼の顔と態度には漠然とした絶対的な嫌悪の情をいだいていたので、手紙をしまって、わからないけど、だいたいは理解できたと思う、と言った。「ついてるな」と、ソレンスンは言った。「運のいいやつだ」その声には、活気は最少限、こもっているだけで、あたかも、レインのところへ話しにきたのは、退屈まぎれかいずようのなさか、そのどちらかからで、どだい人間的な話しあいにきたのではない、とでもいったふうだった。「ちくしょう、寒いなあ」彼はそう言って、ポケットからタバコの箱を出した。レインは、ソレンスンのラクダのコートの、|襟《えり》の折返しのところに、もう消えかけてはいるが、それでもこちらの気を散らすには十分な濃さで、口紅の跡がひとすじ付いているのに気がついた。どうやら、もう何週間か、たぶんは何か月も付いている、といった感じだったが、彼はソレンスンと、そのことを注意してやれるほどの知りあいではなかったし、また、こんなことは彼にはどうでもよいことだった。そのうえ、列車が近づいてきていた。ふたりは半分くらい左を向いて、こちらへやってくる機関車と向きあった。それとほとんど同時に、待合室に通じるドアがバターンと開いて、中で暖まっていた連中が列車を迎えに出てきたが、彼らは大部分、火のついたタバコを少なくとも三本は、どの手にも持っている、といった印象だった。
レインは、列車がはいってきたとき、タバコに火をつけた。それから、列車を迎えに出るのにはまだ慣れていなくて、おそらくはごく試験的にしかプラットホームに入れてもらえない、といった連中が大勢いるものだが、その連中と同じように、彼も、これから到着する人間について自分がどう感じているかを、しごくあっさりと、たぶんは美しくさえ、洩らしかねない表情はことごとく顔から消そうと心がけた。
フラニーはいちばん最初に列車を降りた娘たちに混じって、プラットホームの、遠い北のはしに止まった客車の中から出てきた。レインはたちまち彼女を突きとめ、顔をどうにかしようとしてなにを心がけていようと、それとはうらはらに、腕が片方、宙にサッと伸びたのが、余すところのない真実だった。フラニーはそれにも、また彼にも気づいて、|大仰《おおぎょう》に手を振りかえしてきた。彼女が、毛あしを短かく切ったアライグマのコートを着ているのを見て、レインは、そちらにむかって足ばやに、だが冴えない顔つきで歩きながら、このプラットホームであのフラニーのコートのことをほんとうに知っている[#「知っている」に傍点]のはおれだけだと、われとわが心に、興奮を押さえ押さえ言いきかせた。彼は以前、人に借りた車の中で半時間かそこいらフラニーに接吻したあと、まるで彼女のからだそのものの、これ以上ないくらいに望ましい有機的な延長だとでもいうみたいに、そのコートの襟の折返しに接吻したのを思いだしたのだ。
「レイン!」と、フラニーが彼にむかってうれしそうに呼びかけてきた――それに彼女は、顔から表情を消したがる人種ではなかった。彼女は両腕で彼に抱きついて、接吻をしてきた。それはプラットホーム型の長い接吻で――始まりはごく自然だが、フォロースルーしているうちに当人たちは周囲を気にしはじめ、そして、唇を動かすと、ひたいをコツンと一発やるような類のものだった。「手紙、受取った?」彼女はそう聞いてから、ほとんど息もつかずに付けくわえた。「まるで|凍《こご》えたみたいな顔つきよ、かわいそうに。どうして中で待たなかったの? あたしの手紙、受取った?」
「どの手紙?」レインはそう言いながら、彼女のスーツケースを持ちあげた。それは紺色で、皮で白くふちどりがしてあり、たったいま列車から運びさられたばかりの、ほかのスーツケースの中にも、半ダースほど、これと似たのがあった。
「受取[#「受取」に傍点]らなかったの? 水曜日[#「水曜日」に傍点]に出したのよ。けしからんわァ! あたし、自分でわざわざ郵便局まで持っていったのに――」
「ああ、あれか。もらったよ。これしか、カバンは、持ってこなかったの? その本はなんだい?」
フラニーは自分の左手を見おろした。彼女は小さな黄みどり色の、クロース|綴《と》じの本を持っていた。「これ? ああ、ちょっとしたものよ」と、彼女は言った。そして、ハンドバッグをあけると、本をその中へ押しこみ、それからレインのあとについて、長いプラットホームをタクシー乗り場のほうへ歩きだした。彼女は腕を彼にあずけて、話は、全部ではないまでも、ほぼひとりじめした。最初はまず、カバンの中にある服のことで、それにはアイロンをかけなくてはいけないということ。人形のおうちに向くみたいな、ほんとにかわいい小さなアイロンを買ったのだけど、持ってくるのを忘れちゃった、と彼女は言った。列車には、どうやら、知った女の子は三人きゃいなかった――マーサ・ファラ、ティピ・ティベット、それにエリナなんとかだけど、この子たちとはむかし、寄宿学校にいたころ、エクセタかどこかで会ったことがあるのよ。ほかの人はみんな(と、フラニーは言った)、スミスそのものばかりで、ただ、完全にヴァサ=タイプがふたりと、完全にベニントンかサラ・ローレンス=タイプがひとりいただけだわ。そのベニントン=サラ・ローレンス=タイプは、列車に乗ってるあいだじゅう、ずっとトイレにいてね、彫りものか絵かなにかしてたか、それか、まるで服の下にタイツでも着てるみたいだった。レインは少し速すぎるくらいの足どりで歩きながら、わるかったな、クロフト館に入れてやれなくて――はじめから見込みはなかったんだがな、もちろん――けどね、かわりに入れてやった、こんどのとこは、とてもよくて、くつろげるよ、と言った。小さいけど、きれいで、いうとこなしだ。きっと気にいるよ、と彼が言うと、フラニーはたちまち羽目板の白い下宿屋を思いうかべた。一面識もない女の子が三人ひと部屋。とにかく、そこへ最初に着いたひとりが、ごつごつしたソファーベッドを手にいれ、ほかのふたりは、マットレスがものすごくいい感じのダブルベッドを分けあうことになる。「すてき」と、彼女は勢いこんで言った。男性族に共通の愚かしさに、とくにレインのみたいな愚かしさに、付きまとわれている男にたいする焦らだちを隠すのは、ときにはおおごとだ。それで思いだしたが、ニューヨークである雨の夜、芝居がはねた直後に、レインはどうかと思われるほどよけいなおせっかいを、道ばたで、見も知らぬ男にやいて、ほんとに厭らしいあのタキシードの男にあのタクシーを譲ったのだった。そのとき彼女はそれをべつにどうとも思わなかった――つまり、まあまあ自分が男で雨の中でタクシーを拾わなくてはいけないというのはたまらないことだろうから――で、彼女がいま思いだしたのは、レインが歩道の車道ぎわのほうをふり向いて事を知らせたときの、あのほんとにいやらしい険しい目つきだ。ところで、そんなことやらなにやらを考えているのが奇妙にうしろめたくて、彼女は彼の腕をことさらすこし締めつけて|媚《こ》びを売った。彼らはふたりして車に乗りこんだ。白い皮でふちどりされたあの紺色のカバンは運転手の隣に乗せた。
「カバンやなにかは、きみの泊まるとこへ置いてって――なに、戸口から放りこむだけさ――それから、めしでも食おう」と、レインは言った。「腹ペコで死にそうだ」彼は身を乗りだして運転手に行き先を告げた。
「あーあ、うれしいわ、会えて!」フラニーは、車が動きだすと、そう言った。「ひとりで寂しかったわァ」この言葉が口から出たとたんに、彼女は、これはぜんぜん心にもないことだ、と気づいた。またうしろめたさを感じて、彼女はレインの手を取り、固く、熱烈に、彼と指を絡みあわせた。
やく一時間後に、二人はシックラというレストランの、ほかの席からはわりあい離れたテーブルにむかって腰をおろしていたが、そこは下町で、この町の大学生のうちでも、主として、知的な少数派のあいだで高く買われている店だった――さしずめ、イェールかハーバードの学生だったら、いかにも自然らしさを装ってデートの|舵《かじ》をモリやクローニンからそらす、といった連中だろう。シックラでは、まあ言ってみれば、この町のレストランのうちただ一軒だけ、ビフテキが「こんなに[#「こんなに」に傍点]厚く」はない――親指と人さし指との開きぐあいは一インチ。シックラは「エスカルゴ」だ。シックラは、大学生とそのデートの相手が両方ともサラダを注文するか、それともふつうは両方ともしないか、そのどちらかだという店で、その理由はニンニクを使った味つけだった。フラニーとレインはふたりともマティニを飲んでいた。飲みものがはじめふたりのところへ運ばれてきたとき――十分か十五分まえのことだが――レインは自分の分を味見してから、からだを椅子の背にあずけてつかのま部屋の中を見まわしながら、自分が(だれもぜったい|反《はん》|駁《ばく》されない自信が、彼にはあったにちがいない)しかるべき場所で、非の打ちどころのないほどしかるべき様子をした娘といっしょにいることに、それと感じられるほどの幸福感を味わった――群をぬいてきれいなばかりでなく、ますますいいことには、まったく決まりきったみたいにカシミヤのセーターとフラネルのスカートではない娘とだ。フラニーはこの瞬間的な、ちょっとした露出を目にとめても、それを額面どおりに受けいれて、それ以上だとも以下だとも取っていなかった。しかし、なにか、前からずっと続いている心理配合のために、彼女は、それを目にとめたこと、それをかぎつけたことにうしろめたさを感じる気になり、自分で自分に宣告を下して、レインがそのさき続けた会話に、没頭をことさら装いながら聞き耳をたてることにした。
レインのこのときの話し口は、自分はもう会話をたっぷり十五分かそこいら独占しているから、これで、自分の言葉がぜったいに間違いようのない正調を射あてたと思いこんでいる人間のそれみたいだった。「つまり、ずばりと言えばだよ」と、彼は言っていたのだ。「あいつに欠けてると言っていいのは、睾丸性さ。おれの言う意味、わかる?」彼は修辞的な効果を狙って身をかがめ、受けいれのよい聴衆であるフラニーのほうに乗りだしながら、からだを支える前腕はそれぞれマティニの両側に置いていた。
「なにが欠けてるって?」と、フラニーは言った。まず咳ばらいをしなければ、口がきけなかった。もうずいぶん以前から、彼女はひとこともものを言っていなかったのだ。
レインはためらった。「男らしささ」と、それから言った。
「はじめから聞えてたのよ」
「とにかく、それがそのレポートのモチーフだったんだよ、いわば――おれがかなり微妙な言い方ではっきりさせようとしたものなのさ」レインはそう言って、自分の話の筋道を綿密そのものに追った。「つまり、ちくしょう[#「ちくしょう」に傍点]おれ、正直、思いこんでたのさ、あれは、ぜんぜん、くそうだつがあがらんだろうってな。だから、それがさ、上にあのくそ〈A〉が、六フィートもある字で書かれて戻ってきたときはな、ほんと、もうすこしでぶったおれるとこだったぜ」
フラニーはまた咳ばらいをした。どうやら、自分で自分に下した、純謹聴と言うあの判決の服役状態は十分らしい。「どうして?」と、彼女は聞いた。
レインはかすかに、キョトンとしたみたいだった。「どうして、なんだい?」
「どうして、うだつがあがらんだろうなんて、思ったの?」
「いま言ったばかりじゃないか。いま言いおわったばかりじゃないか。あのブラグマンてやつはな、たいへんなフローベリアンなんだ。でなくても、すくなくとも、おれはそう思ってた」
「まあ」と、フラニーは言った。彼女はほほえんだ。それから、マティニをすすった。「これ、すてきね」彼女はグラスを見つめながら、言った。「二十対一かなんかじゃなくて、ほんとによかったわ。あたし、いやなのよ、完全に全部、ジンていうのは」
レインはうなずいた。「とにかく、そのくそレポートはたぶんおれの部屋に置いてあると思う。この週末に、折りでもあったら、読んでやるよ」
「すてき。聞きたいわァ」
レインはまたうなずいた。「つまり、おれはなんにも、世界をくそおどかすようなことかなにかは言っちゃいないんだ」彼は椅子の中でからだの位置をずらした。「だけど――これはわからんけどな――おれに言わせりゃ、フローベールはどうしてまた[#「どうしてまた」に傍点]あんなにノイローゼみたいに|適確な言葉《モジュスト》に取りつかれたのか、その意味をおれが強調したのは、そんなに悪くはなかったと思うよ。つまり、いま現在、わかっていることと照らしあわせるとさ。べつに精神分析だとか、そんなふうなまやかしやなんかじゃないんだけれど、たしかに、ある程度まではな。おれはフロイト主義やなにかじゃないけどさ、だけど、なかには、フロイト的だとだけ言ってすますことのできんものだってあるさ、しかもそのまま見のがすってことはな。つまり、ある程度まで、おれはこう指摘したって、ぜったい間違いじゃないって思うんだけれど、ほんとにちゃんとした連中でだれひとり――トルストイにしたって、ドストエフスキーにしたって、シェイクスピアにしたって、こんりんざい――あんなふうに、言葉をくそしぼりだすようなことはしなかったぜ。ただ書いた[#「書いた」に傍点]だけさ。おれの言う意味、わかる?」レインはフラニーの顔を、いくらか期待をこめて見つめた。彼には、彼女はとくにかくべつ熱心に耳を傾けているみたいに思われたのだ。
「そのオリーヴ、食べるの、どうするの?」
レインは自分のマティニのグラスをチラッと見やり、それからフラニーのほうに顔を戻した。「いいや」と、彼は冷ややかに言った。「ほしいのかい?」
「いらないのならね」と、フラニーは言った。そしてレインの表情から、これはまずい質問をしたと気づいた。そのうえもっと悪いことには、彼女はとつぜん、オリーヴがぜんぜん食べたくなくなり、そんなものをどうしてほしい[#「ほしい」に傍点]などと言ったのか、われながらふしぎに思えてきた。けれども、どうしようもないので、レインがマティニのグラスを差しだしてくると、そのオリーヴをもらって、いかにもうまそうに食べつくした。それから、テーブルの上のレインの箱から紙巻きを一本、抜きとった。彼はそれに火をつけてくれ、そのあとで自分のタバコにもつけた。
このオリーヴの飛びいりがあったあと、沈黙がひとしきりテーブルを覆った。レインがこれを破ったわけだが、それは、彼ときたら、殺し文句はいっときも胸にしまっておけないたちだったからだ。「あのブラグマンのやつ、そのくそレポートをおれはどっかで出版すべきだなんて、言いやがる」と、彼は唐突に言ったのだ。「だけど、どうだかなあ」それから、まるで、とつぜん消耗した――というよりむしろ、自分の知性の結実を貪欲に求めて世界がいろいろと要求を出してくるために枯渇した――とでもいうみたいに、彼は顔の脇を手のひらで揉みはじめて、われしらず|粗鈍《そ ど ん》に、片方の目から眠気をすこし除いた。「つまりだ、フローベールだとかそういった連中のことを書いた評論なんて、くそがつくほど二束三文なんだ」彼は思案して、ちょっぴり|不《ふ》|機《き》|嫌《げん》な顔つきを見せた。「実際のとこ、おれは思うんだけど、フローベールについては、ほんとうに透徹した仕事ってのは、まだ一つもない、ここ数――」
「あなたの口ぶりったら、講義助手みたい。ねえ、そっくりよ」
「なんだって?」と、レインは、意識して平静に言った。
「あなたの口ぶりったら、講義助手そっくりよ。ごめんなさいね、だけど、そうなんだもの。ほんとにそうなんだもの」
「おれが? 講義助手って、どんな口ぶりなんだい、聞くけど?」
フラニーは、相手がいらいらしていることも、それがどの程度なのかも、わかったが、しかし、さしあたっては、自己非難と悪意とを等量、感じて、思っていることを言ってしまいたい気になった。
「そうねえ、このあたりじゃどんなだか、知らないけど、あたしの[#「あたしの」に傍点]とこじゃ、講義助手って、先生がいなかったり、神経衰弱でお忙しかったり、歯医者かどこかへ行ってたりするとき、クラスを取りしきる人のことよ。ふつうは大学院の学生かなにかだわ。とにかく、ロシア文学のコースだったらねえ、カラーがボタンダウンのワイシャツさんを着て|縞《しま》のネクタイはめて、はいってきてよ、ツルゲーネフのこと、半時間ぐらい、けなしはじめるのよ。それから、それが終わると、ツルゲーネフをすっかりだいなし[#「だいなし」に傍点]にしてくれてしまうとね、スタンダールかだれか、自分が修士とるのに論文、書いた作家のことをしゃべりだすの。あたしの大学じゃあ、イギリス文学科にはその講義助手さんが十人ぐらいいてね、あっちこっち走りまわっちゃあ、なんでもだいなしにしてくれてるんだけど、その人たち、みんなとっても頭が切れるもので、ものもろくに言えないと同じくらいよ――ごめんなさい、矛盾していて。つまり、もしいっしょに、議論するとね、その人たちったら、ただ、ものすごく優しい[#「優しい」に傍点]顔つきしか――」
「きみ、きょうはくそ|憑《つ》きものがしてるみたいだぜ――ええ? とにかく、いったいぜんたいどうしたっていうんだ?」
フラニーは手ばやくタバコの灰を落して、それからテーブルの上の灰皿を一インチ、そばに寄せた。「ごめんなさい。あたし、ひどいの」と、彼女は言った。「この週ずっと、とっても破壊的な気持になってるのよ。ひどいの。あたしって、いやァね」
「きみん手紙、そうばかに破壊的にも見えなかったぜ」
フラニーはまじめくさってうなずいた。彼女はテーブルクロスの上に、日光の暖かそうなしみが、ポーカーのチップほどの大きさで付いているのを見つめていた。「気を張らされて書いたからよ」
レインがそれにたいしてなにか言いかけたところへ、ボーイがとつぜん現われて、マティニのからのグラスをさげにきた。「もう一杯、ほしい?」と、レインはフラニーに聞いた。
答えは得られなかった。フラニーはあの日光の小さなしみを、一心不乱に見つめており、まるで、その中に寝ころぶことを考えているみたいだった。
「フラニー」と、レインはがまんして言った――ボーイのためを思ったからだ。
彼女は顔を上げた。「ごめんなさい」それから、ボーイが片づけて手に持っている、からのグラスを見た。「ほしくないし。ほしいし。あたし、わからない」
レインは高笑いをして、ボーイを見つめた。
「どっちなんだい?」
「ほしいわ」彼女は元気さを増したみたいだった。
ボーイは立ちさった。レインは彼が部屋を立ちさる後ろ姿を見つめ、それからフラニーのほうを振りむいた。彼女は、ボーイの持ってきた新しい灰皿のふちで、タバコの先の灰を尖らせているところで、口はかるく開いていた。レインは一瞬、焦らだちの増すのを感じながら、彼女を見つめた。きっと、自分がまじめにデートしている相手の娘のうちに、超然とした気配がすこしでも現われると、憤りと恐怖とを感じるからだろう。いずれにせよ、彼がまちがいなく気にかけていたのは、フラニーのこの|憑《つ》きもののために週末がすっかりだめにされるのではないか、ということだった。彼はふいに前かがみになって、両腕をテーブルの上に置き、まるでこの問題にけりをつけてやるぞ、ぜったい、とでもいった様子だったが、フラニーのほうが彼より先に口をきいた。「あたし、きょうは気分が冴えないわ」と、彼女は言ったのだ。「きょうはどうかしてる」気がつくと、彼女はレインのことを、まるで、知らない男みたいに眺めていた――それか、リノリウムの銘柄を広告するポスターを、地下鉄の電車で通路ごしに見ているみたいに。彼女はまたちょっぴり、不実とうしろめたさとを感じ、それがなんだかこの日の日課みたいに思えたので、それに反発するつもりで、腕を伸ばして自分の手を彼の手の上に覆いかぶせた。それから、ほとんどまもおかずにその手を引っこめ、こんどは灰皿からタバコをつまみあげた。「すぐにこんなじゃなくなるから」と、彼女は言った。「ぜったい約束するわ」彼女はレインにほほえみかけ――ある意味では誠心誠意――そしてこの瞬間にほほえみかえしていたら、そのあとに続いた幾つかの出来事を、ほんのわずかな程度には、すくなくとも柔らげることはできたかもしれないのだが、レインはいっしょうけんめい、自分の超然の銘柄を気どるのに忙しくて、ほほ笑みかえすことをしなかった。フラニーはタバコをひといき吸った。「まだこんなに時期おくれかなんかじゃなかったら」と、彼女は言った。「そうして、ばかみたいに、優等[#「優等」に傍点]を狙おうなんて決めてなかったら、あたし、英語からおりちゃうところなんだけどな。わからないけど」彼女は灰を落した。「あたし、学者ぶった連中や、うぬぼれやのぶちこわし屋どもにはもううんざりしていて、悲鳴をあげちゃいそうだわ」彼女はレインの顔を見た。「ごめんなさい。よすわ。誓ってもいいけど、……。ただね、もしすこしでも勇気があったら、あたし、ことしはぜんぜん大学へ戻らなかったでしょうよってこと。わからないけど。つまりね、なにもかもみんな、まるでばかばかしいくらいの茶番なのよ」
「すごい。こいつはほんとにすごい」
フラニーはこの皮肉は当然の報いだと思った。「ごめんなさい」と、彼女は言った。
「やめろよ、そのごめんなさいは――ええ? どうもきみは、自分がひでえ大ざっぱな割りきり方をしてるのに、まだ気がついてないみたいだぜ。もし英文科の連中がみんな、そんなふうな、たいへんなぶちこわし屋どもだとしたら、たぶん、ぜんぜん違った――」
フラニーが口をはさんだが、声はほとんど聞きとれなかった。彼女は彼の木炭色のフラノの肩ごしに、店の向こうのほうの、どこか、茫漠とした所を眺めていた。
「なんだい?」と、レインは聞いた。
「わかってるって、言ったの。あなたの言うとおりだわ。あたし、どうかしてるのよ、それだけ。あたしのことは気にしないで」
しかしレインは、決着がついて自分の勝ちになるまでは、議論をとちゅうでほうりだせないたちだった。「つまり、ひどいってこと」と、彼は言った。「どんな職業にだって、無能な連中はいるさ。つまり、基本的なことだよ、これは。まあ、このくそ講義助手のことは、ちょっとやめようや」彼はフラニーを見た。「おれの言うこと、聞いてる、ええ?」
「ええ」
「きみんとこのくそ英文科にゃ、このアメリカでもいちばんの連中がふたりもいる。マンリアス。エスポシト。ちくしょう、あいつらがおれたちんとこのここに[#「ここに」に傍点]いるといいんだけどさ。すくなくとも、あいつらは詩人だよ、ぜったい」
「ちがうわ」と、フラニーは言った。「そのこともあるのよ、とってもひどいっていうのには。つまり、あの先生らったら、ほんとの[#「ほんとの」に傍点]詩人じゃないのよ。詩を書いて本にしてもらったり、名詩集に入れてもらったりする人だってだけのことで、詩人だとは言えないわ」彼女は顔の色が青ざめはじめているように見えた。ふいに、口紅までこころもち薄くなり、まるでクリネックスをいま押しつけたばかりだとでもいったみたいだった。「もうこの話はやめにしましょうよ」彼女はほとんどうわのそらでそう言うと、タバコの燃えさしを灰皿の中で押しつぶした。「あたし、ずいぶんどうかしてる。この週末をのこらずだいなしにしそうだわ。ことによったら、この椅子の下に落とし戸があって、あたし、消えてしまうかもよ」
ボーイがそそくさとやってきて、二杯目のマティニをふたりの前に一つずつ置いていった。レインは指を――これはほっそりとして長く、だいたいいつでもなんとなく目についた――グラスの足の周囲に掛けた。「なんにもだいなしに[#「だいなしに」に傍点]しちゃいないよ」と、彼は物静かにいった。「おれはただ、いったいなにがどうなんだか、それに興味を持ってるだけさ。つまり、きみは、くそボヘミアン・タイプになるか、死ぬか[#「死ぬか」に傍点]、こんりんざい、そのどっちかじゃなくちゃいかんと言うわけか、ほんとの詩人[#「ほんとの詩人」に傍点]になるためにゃ? どんなのがいいっていうんだ――だれか、ウェーヴの髪でもしたやろうか?」
「ちがうわ。ねえ、もうやめにできない? お願い。あたし、ものすごく気分が冴えないし、それに、だんだん、ひどい――」
「おれは、こんな話、みんなやめにしたほうが、たのしくてたまらんだろうな――うれしいだろうな。ただ、言うだけいってくれよ、どんなのがほんとの詩人[#「ほんとの詩人」に傍点]なんだかさ、よかったら。感謝するだろうぜ。ほんとにするよ」
フラニーのひたいの、髪の毛の生えぎわのあたりでは、汗がかすかに光っていた。それはただ、部屋が暖かすぎる、というだけのことだったかもしれないし、胃袋がおかしくなっているのかも、あるいは、マティニがききすぎたということかもしれない。いずれにしても、レインはこれには気づいていない様子だった。
「わから[#「わから」に傍点]ないわ、ほんとの詩人て、なんなのか。レイン、このことはもうやめてくれるといいんだけどな。あたし、本気よ。とっても気分がへんで、おかしくて、あたし、もう――」
「よしきた、よしきた――いいよ。楽にしろよ」と、レインは言った。「おれはただ、できたら――」
「これだけはわかるわ、それで全部よ」と、フラニーは言った。「もしあなたン詩人なら、それはなにかすてきなことをするんだわ。つまり、一ページかなんか済ましたら、そのあとに、なにかすてきなものを残してくれるでしょうね。あなたン言ってる連中ときたら、すてきなものなんか、一つも、これっぽっちだって、残してくれやしない。それよりかたぶんはもうちょっとましな連中はね、ただ、こっちの頭の中へはいってきて、そこになにか残してくことはできるけど、そんなことするだけで、なにか残してくその残し方、知ってるだけで、詩[#「詩」に傍点]になるってわけのものじゃないわ、ほんと。ただ、なに、か、おそろしく魅力のある、構文のおちょうず[#「おちょうず」に傍点]っていったとこね――こんな言い方して、ごめんなさい。マンリアスやエスポシトなんかっていう連中は、かわいそうに、そんなふうだわ」
レインは、何か言うまえに、まず時間をかけてタバコに火をつけることにした。それから、「てっきり、きみはマンリアスが好きなものと思ってた。じっさいさ、ひと月かそこいら前のことだけど、たしか、きみは、あの人ってすてきよって言ったし、それに――」
「そりゃ好きよ。あたしね、人がただ好きになるってことにいやけがさしてるの。ほんとに、だれかいるといいんだけどな、尊敬できそうな、……。ちょっと、ごめんなさいね?」フラニーはとつぜん、手にハンドバッグを持って突ったった。顔いろはまっさおだった。
レインは立ちあがり、口をすこしあけながら、椅子を後ろにずらした。「どうしたんだい?」と、彼は聞いた。「だいじょうぶ? どっか悪いのかい?」
「すぐ帰ってくるわよ」
彼女は道順を聞くこともせずに部屋を出ていった――まるで、ここのシックラでは前に何度か食事をしたことがあるから、どう行ったらよいか、ちゃんとわかってる、とでもいうみたいに。
レインは、ひとりテーブルにむかって、タバコを吸ったり、マティニをチビリチビリやりながら、フラニーが戻ってくるまでそれをもたせようとしたりした。しかるべき場所にしかるべき、あるいは、しかるべき様子の、女の子を連れてきているという、半時間まえに感じたあの幸福感は、どう見ても、いまではもうすっかり消えてしまっていた。彼は目をやって、毛あしを短かく切ったアライグマのコートが、坐り主のいないフラニーの椅子の背に、すこし斜めにかかっているのを眺め――駅では、これと|馴《な》じみなのは自分だけだという気持のために、あれほど自分を興奮させたのと同じコートだ――、こんどはそれを、徹底的とさえ言えそうな不満をいだきながら、じろじろ見た。絹の裏張りの皺が、どうしたわけか、彼をいらだたせるようだった。彼はそれを見るのをやめて、自分のマティニのグラスの足を見つめはじめたが、その顔つきは、困惑したふうな、なんとなく不当な陰謀を企まれた、といった感じだった。一つだけ、確かだった。週末が、まちがいなく、くそ奇妙な始まり方をしはじめているのだ。その瞬間に、だが彼はふとテーブルから顔を上げて、だれか自分の知っている人間が部屋の向こうのほうにいるのに気づいた――同級生で、女の子を連れている。彼は椅子に坐ったままからだをすこし起こすと、顔の表情を整えて、満面の懸念と不安といったものから、ただ相手の女の子がトイレに出かけただけで、例によって、置きざりにされた自分は、そのあいだ、タバコを吸ったり、退屈そうな――できれば格好よく退屈そうな顔つきをしたりするほかない、といった男の表情にした。
シックラの店の婦人用化粧室は、店そのものと同じくらいな大きさで、ある特別な意味では、ほとんど負けぬくらいにいごこちがよかった。フラニーが中にはいったときは、係もいなければ、どうやら、使っている人もいなかった。彼女は一瞬、立ちどまって――あたかもここが、どういうものかランデヴーの場所になっている、とでもいったみたいに――タイル張りのゆかの中央に立った。彼女の眉にはもう汗が|数《じゅ》|珠《ず》つながりになり、口はしどけなく開き、顔色は店にいたときよりもなお青ざめていた。
それから彼女は唐突に、ひどく足ばやに歩きだして、七つか八つある仕切りの中で、いちばん遠くて、いちばん人にけどられそうもない所へはいると――さいわい、コインを使わなくても戸はあいた――、ドアを閉めて、すこし苦労はしたものの、どうにか、鍵をちゃんとした位置に持ってきた。そしてそのような状態には、見たところぜんぜんかまわずに、彼女は腰をおろした。両|膝《ひざ》をおもいきりきつく締めあわせて、まるで自分のからだをもっと小さな、もっと密な固体にしようとでもするみたいだった。それから、両手を垂直に、目にかぶせて、|踵《かかと》を強く押しつけ、あたかも、視覚神経を麻痺させて、影像をことごとく一つの空隙にも似た黒の中に|溺《おぼ》らせてしまおうとでもするようにした。伸ばした指は、震えてはいたけれども、あるいは、震えていたためかえって、妙に優雅に、美しく見えた。彼女はその緊張した、ほとんど胎児みたいな姿勢を一時的に一瞬、続け――それから泣きだした。たっぷり五分は泣いたのだ。こうして悲しみと惑乱とがひとしおけたたましく現われでるのをすこしも押さえようとはせずに、破裂咽喉音をありたけ振りしぼって泣く彼女の声は、ヒステリックな子供が、いくぶん閉じた|喉《こう》|頭《とう》|蓋《がい》の奥から息を吐きだそうとするとき出すあれだった。それでいて、ついに泣きやんでみると、彼女はただ泣きやんだだけで、ふつう猛烈な呼吸困難に伴う、あのつらい鋭利な息の吸いこみは見られなかった。彼女が泣きやんだところは、まるで彼女の心の中で極性の瞬間的な変化が生じたみたいだった――肉体にたいして即時的な鎮静効果を現わす変化が。彼女は頬に涙をつたわらせてはいたが、まったく表情のない、ほとんど空漠とした顔つきをしながら、ゆかからハンドバッグを拾いあげると、中を開いて、あの小さな薄緑いろの、クロース綴じの本を取りだした。それを膝に――というよりむしろ両の膝がしらの上に――載せ、それを見おろし、それを見つめおろした、まるで、小さな薄緑いろの、クロース綴じの本にとっては、ありとあらゆる場所のうち、そこがいちばんだ、とでもいうように。たちまち、彼女はその本を取りあげて、胸の高さに持ってゆき、そして、自分のからだに押しつけた。――きつく、また、ほんのつかのま。それからそれをハンドバッグに戻すと、立ちあがって、仕切りの外に出た。冷たい水で顔を洗い、上の棚からタオルを一枚、取って、それで水を拭きとり、口紅をつけなおし、髪に|櫛《くし》を入れて、その部屋を出た。
彼女が、人がおもわずはっとするほど美しい顔になって、店の中を元のテーブルのほうへ歩いてゆくその様子は、イェール対プリンストンの週末にいかにもふさわしく隙のない女の子、と言ってぜんぜんおかしくなかった。彼女がキビキビした足どりで、ほほえみながら自分の席に戻ると、レインはナプキンを左手に持って立ちあがった。
「まあ。ごめんなさい」と、フラニーは言った。「死んだと思った?」
「死んだなんて、思わなかったさ」と、レインは言った。彼は彼女の後ろに回って、椅子を引いてやった。「いったいどうしたんだか、わけがわからなかったぜ」彼はまた自分の椅子に戻った。「くそ、時間はあんまりないんだぞ」彼は腰をおろした。「もう、だいじょうぶかい? 目がちょっと血ばしってるぜ」彼は彼女をなおのこと、しげしげと見つめた。「いいんだろうな、え?」
フラニーはタバコに火をつけた。「もう気持ちよくなったわ。生まれてからね、あんなに妙なぐあいにふらふらしたこと、ほんと、一度もないわ。注文した?」
「待ってたんだよ」レインはそう言って、あいかわらず彼女をしげしげと見つめた。「どうしたんだい、とにかく? 胃か?」
「ちがう。そうとも、ちがうとも言えるわ。わからないのよ」と、フラニーは言った。そして、皿の上のメニューを見おろして、手にはとらずに目で選びはじめた。「ほしいっていえば、チキン・サンドだけだわ。それから、ミルクでしょうね。……あなたは、ほしいもの、なんでも注文していいわよ、だけど。つまり、エスカルゴでもオクトパスなんかでもね。オクトパイね、複数は。あたし、ほんとにちっともおなかすいてない」
レインは彼女を見て、それから、薄い、いわくありげな煙をひとすじ、自分の皿におおげさに吹きつけた。「これじゃあ、ほんとにお人形さんの週末になりそうだぜ」と、彼は言った。「チキン・サンドか、いやはやだな」
フラニーは困惑した。「あたし、おなかすいてないのよ、レイン――ごめんなさいね。困ったわァ。ね、お願い。あなたは、ほしいもの注文したらいいじゃない? そうしたら、あなたが食べてるあいだ、あたしも食べるから。だけど、食欲、出せって言われたって、出せないわよ」
「よしきた、よしきた」レインは首を伸ばして、ボーイの注意をうながした。そして、そのすぐあとで、フラニーのチキン・サンドとミルクと、自分の食べるエスカルゴと食用ガエルの足と、それからサラダをひと皿、注文した。ボーイが行ってしまうと、彼は腕時計を見て、言った。「それはそうと、これから、一時十五分と半とのあいだに、テンブリッジへ行くことになってるからな。遅れるとだめなんだ。ウォーリは好きだろ」
「その人、知りもしないわ」
「二十回くらいは会ってるぜ、じょうだんじゃない。ウォーリ・キャムベルだ。ちくしょう。いちど会ったら会ったことが――」
「ああ。思いだした、……。ねえ、だれか、会った人のこと、すぐに思い出せないからって、あたしのこと、憎[#「憎」に傍点]んじゃいやよ。とくに、その相手がほかのみんなみたいな顔してよ、口のきき方も、服の着かたも、態度も、ほかのみんなみたいだったらね」フラニーは声をとぎらせた。なんだか、これはあげあしとりであばずれみたいに聞こえて、どっとばかりに自己嫌悪を感じ、そのため、まったく文字どおり、ひたいにまた汗が出はじめたのだ。しかし彼女の声は、心とはうらはらに、また勢いづいた。「べつに、あの人にいやなとこかなにかがあるっていうわけじゃないのよ。ただ、ここ四年ずっとね、どこへ行っても、ウォーリ・キャムベルみたいな連中とばっかし会ってるってこと。あたし、そういった連中のことなら、ああ、これから、あいそよくなりだすんだなって、わかるし、ああ、これから、だれか、寮にいる女の子のことで、なにか、いやらしいゴシップを始めだすんだなって、わかるし、ああ、これから、この夏はなにをした? なんて聞きだすんだなって、わかるし、ああ、これから、椅子を引きよせて、それに後ろまたぎになって、おそろしく、おそろしくよ、低い声で自慢話をしだすなって、わかるのよ――それかさ、おそろしく低い、さりげない声で、名士引用癖を始めるなって。つまりね、身分とかおカネとかのある階層にはよ、不文律があって、名前を出したとたんにその人のこと、なにかおそろしくくさすようなこと言いさえすれば、いくらでも好きなだけ名士の名前、出していいってことになってるのよ――たとえば、あいつは私生児だとか、|色《いろ》|狂《ぐる》いだとか、しょっちゅう麻薬つかってるだとかなにか、いやなことをね」彼女はまたとぎれた。一瞬、静かになって、指で灰皿を回したりしながら、目を上げてレインの顔つきを見るようなことはしないように気をつけた。「ごめんなさい」と、彼女は言った。「べつにそのウォーリ・キャムベルその人のことじゃないのよ。あなたがあの人のこと口に出したもんだから、その人にかみついてるだけよ。それに、あの人ったら、夏休みはイタリアかどこかだったっていう人みたいな顔してるもんだから」
「あいつ、この夏休みはフランスだったよ、ご参考までにな」と、レインは言った。「きみの言う意味はわかるよ」彼はすばやくそう付けくわえた。「だけど、きみは、どうもくそ――」
「わかったわ」フラニーは大儀そうに言った。「フランスね」彼女はテーブルの上の箱からタバコを一本、抜きだした。「べつにウォーリだけじゃないのよ。女の子のことだってあるわ、ほんと、つまりね、もしあの人が女の子だったとしたら――たとえば、うちの寮のだれかね――どこかの劇団の劇場で夏じゅう背景かいてたでしょうね。それか、ウェールズをサイクリングしたり。それか、ニューヨークでアパート借りてよ、雑誌か広告会社の仕事したり。それが、みんなみたいな人って、意味よ。みんながするのはみんな、そんなに――わからないけど――悪くはないし、いやみでも、ばかげてもいないわよ、かならずしもね。だけど、とってもちっぽけで、無意味で――悲しくなるみたい。それに、いちばんいけないのはよ、もしあんなふうに、ボヘミアンかなにか、いかれたふうにやるならね、ほんと、ほかのみんなとおんなじくらい、画一化するわけよ、ただ、しかたは違うけど」彼女は口を閉じた。それからかるく首を横に振ったが、その顔はまっさおで、ほんの一瞬、彼女はひたいに手を当てた――どうやら、汗をかいているかどうか、見るためというより、むしろ、まるで自分が自分の母親ででもあるかのように、熱があるかどうかを調べるためみたいだった。「気分がとってもおかしいのよ」と、彼女は言った。「気でも狂うんじゃないかしら。もう狂ってるかもね」
レインは誠心誠意、気づかわしげに彼女を見つめた――物珍しげにというよりはむしろ気づかわしげにだ。「顔いろがものすごく悪いぞ。ほんとにまっさおだ――わかってるかい?」と、彼は聞いた。
フラニーは首を横に振った。「だいじょうぶ。すぐにだいじょうぶよ」ボーイが、注文したものを持ってやってきたので、彼女は目を上げた。「まあ、このエスカルゴ、すてきィ」彼女はちょうどタバコを口に持ってゆくとちゅうだったが、火はもう消えていた。「マッチはどうした?」と、彼女は訊いた。
ボーイが行ってしまうと、レインは彼女に火をつけてやった。「吸いすぎだぜ」と、彼は言った。そして、エスカルゴの皿の脇の、小さなフォークをつまみあげたが、それをまだ使わないうちに、フラニーの顔を見た。「心配だなあ。じょうだんじゃなくさ。二週間、会わずにいるうちに、いったいどうしちまったんだ?」
フラニーは彼を見つめ、それから、肩をすくめるのと同時に首を横に振った。「べつに。ぜんぜんべつによ」と、彼女は言った。「お食べなさいよ。そのエスカルゴ、お食べなさいよ。冷たいうちなら、すごくうまいわよ」
「きみ[#「きみ」に傍点]も食えよ」
フラニーはうなずいて、自分のチキン・サンドを見おろした。ところが、ぐっと、かるい吐きけを感じたので、すぐにまた顔を上げて、タバコをひといき吸った。
「芝居はどうだい?」レインは、エスカルゴに精を出しながら聞いた。
「知らないわ。あたし、もうはいってないの。やめたのよ」
「やめた?」そう言って、レインは顔を上げた。「あの役に夢中だと思ってたのに。どうしたんだい? だれか、ほかのやつに取られたのか?」
「ううん、ちがう。あの役はちゃんとあたしだったわ。それがいやなのよ。ねえ、それがいやなの」
「へえ、どうしたんだい? まさか、あの科を全部、やめたわけじゃないだろうな?」
フラニーは、「やめたの」というようにうなずいて、ミルクをひとくちすすった。
レインは口の中のものを噛んで、飲みこんで、それから言った。「え、なんだって? きみはくそ、芝居に熱中してるとばっかり思ってたのにさ。そのことっきゃ、いつだってきみは話し――」
「ただやめたのよ、それだけのこと」と、フラニーは言った。「わずらわしくなりはじめたものだから。自分がなんだかとってもいやらしい、くだらないエゴ過剰病みたいに思え出したのよ」彼女は思案した。「自分でもわからないの。どうも悪趣味みたいに感じられたのね、まあ――芝居したいって思うことが、まず第一に。つまり、エゴが多すぎるってわけ。そして、あたし、自分がとてもいやだったわ、お芝居をやってるとき、そのお芝居が終わって楽屋にいると。あんなふうにエゴばっかりが、おそろしく情けぶかくてねんごろな[#「ねんごろな」に傍点]気持ちになってさ、そこらじゅう走りまわってるなんて、だれかれかまわずキスしたり、メーキャップつけたままでどこへでもいったりするかとおもえば、友だちが楽屋へ会いに来たりすると、ものすごく、わざとらしくなくしよう、あいそよくなろうってするんだもの。あたし、ほんとに自分がいやになったわ。……それに、いちばんまずかったのは、あたし、たいてい、自分がいまやってる芝居の中にいるってことが、まあ、恥ずかしくてしかたがなかったのね。とくに夏のシーズンは」彼女はレインを見た。「でも、役はいい役だったのよ。だから、そんなふうな顔して見ないでよ。そんなことじゃないの。ただね、恥ずかしかっただろうな、きっと、ていうこと、もし、そうね、だれか、あたしの尊敬する人ン――たとえば、うちの兄たちがね――来てさ、あたしが、あてがわれたせりふ、しゃべるの聞いたらよ。あたし、いつも、何人かには手紙かいて、見に来ないでくれって、頼んでたのよ」彼女はまた思案した。「このあいだの夏の『プレーボーイ』のピギーンは別だったけど。つまり、あれはほんとにいいお芝居になるところだったのに、そのプレーボーイやったあのでくのぼうのおかげでさ、おもしろくなるはずなのがだめになっちゃって。すごく叙情的だったのよ――ばかね、叙情的にもほどがあるわ!」
レインはもうエスカルゴを食べおえていた。そして、ことさら無表情を装って腰かけていた。「あいつ、評判はものすごかったじゃないか」と、彼は言った。「きみ、おれんとこへその批評、いくつか送ってよこしたんじゃなかったか」
フラニーはためいきを|吐《つ》いた。「わかったわよ。もういいわよ、レイン」
「ちがうったら――つまり、きみはこの半時間さ、まるでこの世で自分だけだっていうみたいにしゃべってるぜ、とにかく、くそセンスのあるのはな、批評の才があるのはな。つまりさ、いちばんちゃんとした批評家のうちのだれかがよ、この男は演技がすごかったと思や、たぶんそうだったんだよ、たぶんきみは間違ってるんだよ。そういうこと、思ったことあるかい? きみはべつにまだ到達しちゃいないんだよ、成熟した、老成した――」
「才能だけしかない人間としちゃ、すごかったというわけよ。もしね、あのプレーボーイをちゃんとやろうとしたら、こっちは天才でなくちゃいけないの。どうしてもね――それだけで、あとはどうしようもないのよ」と、フラニーは言った。それから背をすこしそらして、口はちょっとあけたまま、片手を頭のてっぺんに持っていった。「なんだか、とってもぼやんとして、おかしな気分だわ。わからないわ、あたし、どうしたのかしら」
「きみは、自分で自分こと[#「自分こと」に傍点]、天才だと思ってるの?」
フラニーは頭から手をおろした。「ねえ、レイン。お願いだわ。そんなこと、言わないで」
「おれ、べつになにも――」
「とにかく、気が狂いかけてることだけは確かだわ」と、フラニーは言った。「あたし、ほんとにいやけがさしてるのよ、このエゴ、エゴ、エゴには。自分のにも、ほかのみんなのにもよ。あたし、みんなにいやけがさしてるの、なにか地位につきたいとか、なにか目につくことがなんか、したいとか、人に関心もたれるような人間になりたいとか、そういった人にはね。むしずがはしるわ――そうよ、そうなのよ。だれがなんて言おうと、あたし、かまわないわ」
レインはそれを耳にすると、眉を吊りあげて、椅子に深く掛け、自分の目的を達するのにそれだけつごうがいいようにした。「ぜったい、人と競争するのがこわいってわけでもないんだな?」彼はわざとらしく穏やかに言った。「おれにはこのこと、そんなによくはわからないがさ、とにかく、かけてもいいけど、いちおうの精神分析家だったら――つまり、ほんとに有能なやつだったらな――たぶん、いまの言葉を――」
「競争するのなんか、こわいこと、ないわよ。まるっきりその正反対だわ。わからないの? 競争したくなるんじゃないかってことがこわいのよ――それであたし、演劇学科をやめたんだわ。あたし、それはいやなくらいにすぐ、ほかのみんなの価値、認めちゃうものだから、それでいて拍手喝采されたり、人に、ああでもないこうでもないって、熱っぽく噂されるのが好きなものだから、それで事がおかしくなるのよ。そのことがはずかしいのよ。そのことにいやけがさしてるのよ。完全にエゴを捨てるだけの勇気がないのに、いやけがさしてるのよ。自分にも、ほかのみんなにも、いやけがさしてるのよ、とにかく、なんでもいいから大当たりを取りたいなんて思ってる人にはね」彼女はひと息つくと、とつぜんミルクのコップを持ちあげて、それを口に持っていった。「このことには気がついてたわ」そう言って、彼女はコップを下に置いた。「つい近ごろのことなのよ。歯がへんなのよ。カチカチいうの。おとといはもうすこしでコップ、噛みわりそうになったわ。あたし、まちがいなく気違いになってて、自分でそれに気がついてないのかもね」ボーイがレインのところへ食用ガエルの足とサラダを持ってきたので、フラニーは目を上げて、そのボーイの顔を見た。向こうも目を伏せて、彼女の、手つかずのサンドウィッチを見た。そして、お嬢さんはもしかして別のご注文でも? と訊いた。フラニーは、ありがと、いいわ、と言った。「あたし、食べるのがとても遅いだけよ」ボーイは、といっても若い男ではなかったが、一瞬、彼女の青白い顔に、汗の浮いた眉毛に目を止め、それから一礼して立ちさった。
「これ、使うかい、ちょっと?」レインが唐突にそう言った。手には、四角く折りたたんだ白いハンカチを持って、差しだしていた。その声には、同情するような、いたわるような調子があって、ちょっとひねくれて、なにげない調子で言おうとしたのとはうらはらの結果になった。
「どうして? なんに使うの?」
「汗かいてるからさ。汗というほどでもないけど、つまり、ひたいがほんのすこし汗ばんでるのさ」
「そお[#「お」に傍点]う? まあ、いやね! ごめんなさい」フラニーはハンドバッグをテーブルの高さにまで持ってくると、それをあけて、中をかきまわしはじめた。「クリネックス、どこかに持ってきてるんだけどな」
「おれのハンカチ使えよ、なあ、おい。どうって違いはないじゃないか?」
「だめ[#「だめ」に傍点]――あたし、そのハンカチ好きだから、汗まみれになんかしたくないわ」と、フラニーは言った。彼女のハンドバッグの中はゴチャゴチャしていた。そこで、もっとよく見るために、彼女は中のものをいくつか外に出して、テーブルクロスの上の、まだ手のついていないサンドイッチの真左に置いた。
「あったわ」と、彼女は言った。そして、コンパクトの鏡を見ながら、手ばやく、かるく、クリネックスを眉に当てた。「まあ。あたしったら、お化けみたい。こんなあたしに、よくがまんできるわねえ?」
「なんだい、その本?」と、レインは聞いた。
フラニーは文字どおり跳びあがった。それから、テーブルクロスに目を落として、そこに小高く乱雑に積みあげられているハンドバッグの中身を見つめた。「なんの本て?」と、彼女は言った。「これのこと?」彼女はその小さなクロース綴じの本をつまみあげて、またハンドバッグの中へ戻した。「列車の中で見ようと思って、持ってきただけのことよ」
「見てみようじゃないか。なんなんだい、それ?」
フラニーはその声が聞こえないみたいだった。そして、またコンパクトをあけて、鏡の中をもう一度、チラッとのぞきこんだ。「まあ」と、彼女は言った。それから、そこにあるものをみな――コンパクト、札入れ、クリーニングの伝票、歯ブラシ、アスピリンの小さな|罐《かん》やら、金メッキのマドラを――またハンドバッグの中へ片づけた。
「どうして、いまの金のマドラ、たわいもなく持ちあるいてるのか、あたし、自分でもわからないのよ」と、彼女は言った。「とってもセンチな男の子にもらったのよ、二年のとき、誕生日の贈り物だって言ってね。どうやら、すごくすてきで、ひらめきのある贈り物だとでも思ってたらしくてね、その子ったら、包み、あけるあいだじゅう、じいっとあたしの顔、見てたわ。いつも、捨てよう捨てようって、思ってるんだけど、どうしてもそれができないの、これ持って、お墓にはいるんだわ、きっと」彼女は思案した。「その子ったら、いつでもにこにこ笑いかけてきてはね、それをしょっちゅう持ちあるいてりゃァ、いつもいいことがあるよ、だって言ってたわ」
レインは食用ガエルの肉をパクつきはじめた。「なんだったんだい、あの本は、とにかく? それか、くそ秘密かなにかなのか?」と、彼は聞いた。
「バッグの中の、あのちっちゃな本のこと?」と、フラニーは言った。そして、彼が二本のカエルの足を、一本ずつに分ける様子を見まもった。それから、テーブルの上の箱からタバコを一本、抜きとって、それに自分で火をつけた。「いやね、それが、わからないのよ」と、彼女は言った。「『巡礼者の道』とかいうの」彼女はレインの食べるのを一瞬、見まもった。「図書館から借りだしたんだけど。あたし、今学期は宗教学概論、取っててね、それ教えてる教授が、名前あげたもんだから」彼女はタバコをひといき吸った。「もう何週間て、借りっぱなしだわ。いつだって、返すの忘れるんだから」
「著者は?」
「知らない」と、フラニーはこともなげに言った。「だれか、ロシアのお百姓らしいわ」彼女はレインがカエルの足を食べる様子を見まもりつづけた。「どこにも名前が出てないのよ。話の始めから終わりまで、とうとう名前はわからずじまい。ただ言っているのは、自分はお百姓で、いま三十三で、片腕がなえてるってことだけだわ。それから、妻は死んでるってこと。全部、一八〇〇年代のことよ」
レインはたったいま、注意をカエルの足からサラダに移したばっかりだった。「いいものかい?」と、彼は言った。「なにが書いてあるの?」
「それが、わからないの。奇妙なのよ。つまり、本筋は宗教の本なのよ。ある点では、どうも、おそろしく狂信的だとも言えそうだけど、ある点では、そうでもないの。つまり、話のはじめはね、そのお百姓――巡礼者ね――聖書ではいったいどういう意味で、たえず祈れと言うのか、それを探りだそうとするわけ。ね。休むことなくって、いうでしょ。『テサロニケ書』かどっかで。それでそのお百姓はね、うちを出て、ロシアじゅうを歩いてまわるのよ、だれか、たえず祈るにはどうしたらいいか、それを教えてくれる人、捜してね。それから、そういうときは、どう言ったらいいのかも」フラニーは、レインがカエルの足を解きほぐす、その解きほぐし方に、激しく興味をそそられているみたいだった。彼女は彼の皿に目をすえつけたまま、言った。「持ちものといえば、パンと塩を詰めたリュックサックだけよ。それで、そのうちに長老っていう人に出会ってね――なにかこう、ものすごく宗教的にえらい人なのよ――そうすると、その長老は、『ピロカリア』っていう本のこと、教えてくれるわけ。どうやら、これはものすごくえらい坊さんたちがね、グループで書いたものらしくて、その人たち、ほんとに奇妙きてれつなお祈りの仕方、説いているのよ」
「じっとしてろよ」と、レインは二本のカエルの足にむかって言った。
「とにかく、それでその巡礼はね、そういった、とっても神秘的な人たちが、そうしろって言うとおりの、お祈りの仕方、おぼえるのよ――つまり、それやなにかを、みんな完全にできるようになるまで、やりつづけるってわけ。それから、ロシアじゅうをまた歩きまわりはじめてね、いろんな種類の、ものすごくふしぎな人にみんな会って、この奇妙きてれつな方法でお祈りする仕方を教えるのね。つまり、これがほんとにこの本の中身、全部よ」
「まずい話だけど、おれ、いまに、ニンニクの臭いがプンプンするようになるぜ」と、レインは言った。
「その人、この旅の途中でね、ひと組の夫婦に会うんだけど、それがまた、生まれてから読んだうちで、あたしがいちばん好きな人物なの」と、フラニーは言った。「その人ン、どこかの田舎の道、歩いてるとね、リュックサックを肩にかついでさ、ちっちゃな子供ンふたり、あとから追っかけてきてね、大きな声で言うのよ、『お乞食さん! お乞食さん! うちのママんとこへ来なよ。ママはお乞食が好きなんだから』って。そこで、その子らといっしょにうちへ行くと、このほんとに[#「ほんとに」に傍点]感じのいい人――その子らの母親がね、あわてふためいて――うちの中から出てきてよ、どうしても聞かないの、その|穢《きた》ない古ぼけた長靴、脱ぐの手つだってやるとか、紅茶を出してあげるとか言ってね。そのうちに父親も帰ってきてよ、この人もどうやら乞食や巡礼が好きみたいで、それからみんなして、食事を始めるわけ。それで、その食事の最中に、巡礼がね、いまいっしょに食事をしているこのご婦人たちは、みんな、いったいどういう人なんだって聞くと、夫のほうが、『みんな、うちの召使いだけど、食べるときはいつもわたしら夫婦といっしょだ、キリストにかけては同じはらからだから』って言うの」フラニーはとつぜん、腰かけたまま、ちょっとからだをまっすぐにした――気まずい様子で。「つまり、あたし、その巡礼が、このご婦人たちはだれだって、そう訊くとこが好きなのよ」彼女はレインがパンのスライスにバターを塗る様子を見まもった。「とにかくそのあと、この巡礼はそこに泊まるわけだけど、夜おそくまで、その夫のほうといっしょに、例の、たえず祈る方法っていうのを話しあうのよ。そのやり方を教えてやるのね。それから、朝になると、このうちを出て、出かけるのよ、そのさき、また、ちょっとした、珍しいことずくめの旅にね。いろんな人に、みんな会ってよ――つまり、それがこの本の中身、全部なの、ほんと――その人たちみんなに、あの特別なやり方でお祈りする方法、教えるの」
レインはうなずいた。そして、フォークを横にして、サラダを切りわけた。「どうにかして、この週末、暇があるといいな、さっき話した、あのくそ論文をザッと見てもらえるだけのな」と、彼は言った。「わからんけどさ。たぶん、あんなもの、タネにして、つまらんことはせんな――つまり、出版するとかなんとかってことはさ――けどな、きみにはそう、ザッと目を通してもらいたいな、ここにいるうちにさ」
「いいわねえ」と、フラニーは言った。彼女は、彼がまたパンのスライスにバターを塗る様子を見まもった。「あなた、この本が好きになるかもしれないわよ」と、彼女はとつぜん言った。「とっても単純なのよ、つまり」
「おもしろそうだな。きみ、そのバターはいらないんだろ?」
「ええ、つけていいわよ。貸すわけにはいかないの――期限がもうとっくに過ぎてるから――けど、あなたんとこの図書館にも、たぶんあるわよ。きっと、あるわ」
「きみはぜんぜん、そのくそサンドウィッチに手、つけてないぞ」と、レインがとつぜん言った。「わかってるのかい?」
フラニーは目を落として、たったいま置かれたばかりだとでもいうみたいに、自分の皿を見た。「すぐ食べるわ」と、彼女は言った。それから一瞬、じっとして、タバコを喫うことはせずに、左手に持ったまま、右手でミルクのはいったコップの底のあたりを固く握りしめた。「聞きたい? その特別なお祈りの方法っていうの――長老が教えてくれた」と、彼女は聞いた。「それ、ほんとに、まあおもしろいのよ、ある意味ではね」
レインは、残った最後の二本のカエルの足にナイフを入れた。そしてうなずいた。「もちろんさ」と、彼は言った。「もちろんだよ」
「じゃ、話すけど、さっき言ったみたいにね、その巡礼――例の単純なお百姓はね、聖書で、休むことなく祈るべきだと言うとき、それはどういう意味か、知ろうと思って、ただそれだけのために巡礼に出るのね、そうすると、その長老に会うのよ――もう前に言った、あの、宗教的にとても偉い人、『ピロカリア』を何年も何年も研究している人にね」フラニーはとつぜん口を閉じて、考えこみ、筋道をたてようとした。「それでね、その長老はまず最初にイエスの祈りを教えてくれるのよ。『主なるイエス・キリストよ、われに慈悲をたれさせたまえ』と、こうなの、つまり。そうして、これが、お祈りをするとき使うにはいちばんいい言葉だって、言うの。とくに慈悲[#「慈悲」に傍点]っていう言葉はね。なぜって、これはほんとに広大無辺な言葉で、いろいろなことを意味することができると、そういうわけなのよ。つまり、ただの慈悲[#「慈悲」に傍点]という意味だけじゃないのね」フラニーは言葉を切って、また考え込んだ。彼女はもうレインの皿ではなくて、彼の肩ごしに遠くを眺めていた。「とにかく」と、彼女は続けた。「長老は、巡礼に言うのよ、もし今のお祈りを繰りかえし繰りかえし言いつづければ――はじめは、ただ唇[#「唇」に傍点]でするだけでいいのよ――そうすれば、最後にはけっきょく、そのお祈りがひとりでに動きだすようになるってね。しばらくすると、なにかが起こるのよ。なんだかはわからないけど、なにかが起こって、その言葉は、お祈りする人の心臓の音と正確に合うようになってね、そうするともう実際に、休むことなくお祈りしているようになるってわけ。するとそれが、ほんとにものすごい、神秘的な効果を、こっちの考え方、全部に及ぼすのね、つまり、それがこの話の要点[#「要点」に傍点]の全部なの、とにかく。つまり、それをするのは、考え方の全部を清めてね、なにもかもがいったいどういうことか、それについて完全に新しい概念を手に入れるためなのよ」
レインはもう食事を終えていた。そして、フラニーがまたひといき継いだので、椅子の背にもたれかかって、タバコに火をつけ、彼女の顔をじっと見つめた。彼女はあいかわらず放心したように、正面を彼の肩ごしに見つめるだけで、彼がいることにはほとんど気づいていないみたいだった。
「だけど、肝心なことは、最高に肝心なことはね、最初それを始めるときは、自分のしてることを信じて[#「信じて」に傍点]さえいなくてもいいってこと。つまり、たとえ、このことについてはなにからなにまで、おそろしくまごついていてもよ、それでまったくよろしいってわけ。つまり、それでだれかやなにかを侮辱する[#「侮辱する」に傍点]ことはないってわけ。言いかえるとね、最初、始めるときは、一つでもなにか信じよとは、だれにも言われないのよ。自分がなにを言ってるのか、それさえ考える必要はないって、長老は言ったのね。はじめに|要《い》るのは、ただ量だけってわけよ。そうすれば、そのうちにそれがひとりでに質になる。それ自身の力かなにかのおかげでね。長老が言うには、神の名ならどんなものでも――とにかくどんな名でもね――この特別な、自動的な、それ自身の力を持っていて、こちらがまあ始めさえすれば、その力が働きはじめるんですって」
レインは椅子に腰かけたまま、すこし前かがみになってタバコを吸いながら、目は細めてじっとフラニーの顔に向けていた。彼女の顔はあいかわらず青ざめていたが、ふたりがこのシックラの店に入っていらい、その顔がいま以上に青ざめていた瞬間は、ほかに幾度かあった。
「じっさい言って、それはまったく道理に合うことだわ」と、フラニーは言った。「なにしろ仏教の念仏の宗派でもね、ナム=アミダ=ブツって、何回も何回も言いつづけると――その意味は、ありがたや、ブッダとかそんなふうなものね――おんなじことが[#「おんなじことが」に傍点]起こるんですもの。すっかりおんなじ――」
「むきになるなよ。そう、むきになるなよ」と、レインは口をはさんだ。「とにかく、ほら、もうじき指をこがすぜ」
フラニーは下を向いて、自分の左手を|須《しゅ》|臾《ゆ》のまチラッと見てから、まだ火のついているタバコの吸いさしを灰皿に落とした。「おんなじことは『無知の雲』の中でも起こっているわ。神[#「神」に傍点]っていう言葉だけでね。つまり、ただ神って言葉を言いつづけるだけでね」彼女はレインの顔を、以前、幾度か見たときより、いっそうまともに見た。「つまり、問題はね、いったい生まれてから、あなた、これ以上に魅力のあることを聞いたことある――ある意味でね? つまり、とてもじゃないけどできないのよ、これはまったくの偶[#「偶」に傍点]然の一致にすぎないと言って、そのうえ、これを見すごしてしまうということはね――そこが、これの魅力的なとこよ。すくなくとも、それが、ものすごく――」彼女は言葉をとぎらせた。レインは|執《しつ》|拗《よう》に椅子の中でからだの位置をずらしていたが、その顔に現われた表情は――主として眉が吊りあがっていたのだが――彼女が非常によく知っているものだった。「どうしたの?」と、彼女は聞いた。
「きみはじっさい、そんなたわごとを信じてるの、え?」
フラニーはタバコの箱に手を伸ばして、一本、抜きだした。「信じたとか信じなかったとか、そんなこと、言ってないわよ」と言って、彼女はテーブルの上をジロジロ見て、剥ぎとりマッチを捜した。「魅力があるって言ったのよ」彼女はレインに火をつけてもらった。「ただ、おそろしく奇妙な一致だなって思うだけ」と、彼女は煙を吐きだしながら言った。「どこへ行っても、そういった忠告にぶつかるっていうことはね――つまり、そういった、ほんとに偉い、ぜったい|贋《にせ》ものでない、宗教的な人間に出会ってよ、みんな、神の名をたえず繰りかえせばなにかが起こるって言うってことね。インドだってもよ。インドじゃ、オウム[#「オウム」に傍点]について瞑想せよって言うわ、というのもつまり、けっきょくは同じことで――ほんとはね――そうして、そっくり同じ結果が起こると思われてるのよ。だから、つまり、それを合理的にだけ片づけるってわけにはいかないのね、なんにも――」
「なんだい、その結果っていうのは?」と、レインはそっけなく言った。
「なあに?」
「つまり、そのあとに来るって思われてる、その結果っていうのは、なんだいってこと? 同時性ってやつやらチンプンカンプンやら、そういったことはみんなさ。心臓でもおかしいのかい? きみが知っているかどうか、知らないけどさ、きみは自分でできるかもしれんのだよ――人間は自分でできるかもしれんのだよ、ずいぶんとな、ほんとうの――」
「だんだん神を信じるようになってくるのよ。心の、どこかまったく非肉体的なとこでなにかが起こってよ――つまり、ヒンズー教徒が、アートマンの住む場所ってとこね、宗教概論とってればわかるけど――神が見えるのよ。それだけのこと」彼女はタバコの灰をぎごちなく振りおとした――灰皿のありかを一瞬、見失って。彼女はその灰を指でつまみあげて、灰皿に入れた。「だけど、神ってだれで、なんなのか、なんて、あたしに聞いちゃいやよ。つまり、あたし、知らないのよ、神が存在するかどうかはね。まだ小さかったころは、思ってたものだけど――」彼女は言葉を切った。ボーイが、皿を下げてメニューをまた出すために、やってきた。
「デザート、ほしい? それか、コーヒーでも?」と、レインが聞いた。
「あたしはこのミルク、飲んでしまうわ。だけど、あなたは、なにかお食べなさいよ」と、フラニーは言った。ボーイが、彼女の皿を、手つかずのチキン・サンドを載せたまま、下げたところだった。彼女には、彼の顔を見あげるだけの勇気はなかった。
レインは腕時計を見た。「あれッ。時間がないぞ。これで試合にまにあったら、もうけものだぜ」彼はボーイを見あげた。「ぼくにだけコーヒー、すまんけど」彼はボーイの立ち去る姿を見つめ、それから、両腕をテーブルに突いたまま、からだを前に乗りだして、腹はくちいし、コーヒーはじきに来るはず、というわけで、すっかり気を楽にして言った。「そうだな、おもしろいよ、とにかく。そういったことはぜんぶ、……。どうもきみは、心理学のいちばんの初歩までも、無視してるようだぜ。つまり、おれ、思うんだけど、そういった宗教的な体験ってのにはみな非常にはっきりした心理的な背景があるのさ――おれの言う意味、わかるよな。……話はおもしろいよ、だけど。つまり、それを否定はできんてこと」彼はフラニーのほうを見やって、彼女にほほえみかけた。「とにかくな。言いわすれてるといかんけど。おれ、きみが好きだ。そのことはいってあったっけか?」
「レイン、またちょっとごめんなさいね?」と、フラニーは言った。そして、その言葉をまだみなまで言いおわらぬうちに、もう立ちあがっていた。
レインもまた、ゆっくりと立ちあがり、そのあいだ彼女から目を離さなかった。「だいじょうぶかい、おい?」と、彼は聞いた。「また気分でも悪くなったのかい?」
「ちょっとおかしいだけ。すぐ戻ってくるわよ」
彼女はキビキビした足どりで店の中を歩いて、前に行ったときと同じ道順をたどって行った。だが、部屋のいちばん奥にある小さなカクテルバーのところで、まったく唐突に立ちどまった。バーテンが――シェリーのグラスを拭いているところだったが――彼女を見た。彼女は右手をカウンターに載せ、それから頭を垂れて――伏せ――そうして左手をひたいに持ってゆくと、指の先をそこに軽く触れた。すこしふらつき、それから気を失って、ゆかに崩れた。
五分ちかくたって、フラニーはようやく完全に正気を取戻した。支配人の部屋のソファーに寝かされ、レインがそばに腰かけていた。その顔は、心配そうに彼女の顔を覗きこみながら、いまではこれまた、いちじるしく青ざめていた。
「どうだい?」彼は、いくらか病室向きの声で言った。「すこしはよくなったかい?」
フラニーはうなずいた。そして一瞬、顔のうえの電燈がまぶしくて目を閉じ、それからまた開いた。「ここはどこなのって、言わなくちゃいけないの?」と、彼女は言った。「ここはどこなの?」
レインは笑った。「支配人の部屋さ。みんな走りまわって、アンモニアだの、医者だの、なにかを、捜してくれてるよ。どうも、あいにくとアンモニアを切らしてるらしい。気分はどう? じょうだんでなくさ」
「いいわよ。ばかみたいだけど、いいわよ。あたし、うそでなく気絶したの?」
「はでにな。ほんとにいかれたのさ」と、レインは言った。そして、彼女の手を取った。「いったい、どうしたっていうんだい、とにかく? つまり、とっても――さ、な――とってもちゃんとしてたみたいだったのにさ、この前の週、電話で話したときは。朝めしでも食べなかったのかい?」
フラニーは肩をすくめた。目はキョロキョロと部屋の中を見まわした。「困ったわ」と、彼女は言った。「だれかがあたしをここへ運ばされたわけ?」
「バーテンとおれさ。ふたりして、まあ、抱えこんだってとこだよ。おかげで、びっくりしたのなんのって、じょうだんでなくな」
フラニーはつくづくと、まばたき一つせずに天井を見つめながら、握られた手はそのままにしていた。それから、レインのほうに顔を向け、身動きのきく手で、彼の袖のカフスを押しもどそうとでもするみたいなしぐさをした。「いま何時?」と、彼女は聞いた。
「そんなこと、どうでもいいよ」と、レインは言った。「べつに急いじゃいないんだから」
「あのカクテルパーティ、行きたかったんでしょう」
「そんなもの、くそくらえだ」
「試合も、もう遅いの?」と、フラニーは聞いた。
「いいか、そんなもの、くそくらえだって、言ってるじゃないか。これからきみの部屋へ帰ってさ、なんていったっけ――青戸館だ――そうして、ちょっと休むんだな、それがまず第一だ」と、レインは言った。そして、腰かけたまま、彼女にちょっとからだを寄せ、かがみこんで、キスを、ほんの短くした。それから、振りかえって戸口のほうを見やると、またフラニーに顔を戻した。「午後は、からだを休めるんだな。それだけさ、することは」彼はつかのま、彼女の腕をさすった。「そのあとで、まあ、ちょっとしてから、もしきみン、ちゃんと休めてたら、なんとか二階へ上がれるだろう。たぶん、裏に、くそ階段があるさ。あれば、見つけてみせるよ」
フラニーはなにも言わなかった。彼女は天井を眺めた。
「なあ、どのくらいになると思う?」と、レインは言った。「あの金曜日の夜って、いつごろのことだっけか? もうえらく前で、先月の初め、じゃないか?」彼は首を横に振った。「よくないよ。くそがつくほど長いあいだ、飲まなすぎたんだな。がさつな言い方すれば」彼はフラニーの顔をなおさらしげしげと見おろした。「ほんとに、気分、よくなったのか?」
彼女はうなずいた。それから、顔を彼のほうに向けた。「ものすごくのどがかわいた、それだけよ。ねえ、お水をすこしいただけるかしら? やっかいじゃなくって?」
「あたりまえじゃないか! だいじょうぶか、ちょっとひとりにしても? おれがなにするつもりか、わかってるな?」
フラニーはそのあとのほうの質問には、首を横に振った。
「だれかに水を持ってこさせてやるのさ。それから、ボーイ長をつかまえて、アンモニアはいいと言ってな――そうして、ついでに勘定を払う。それから、車もちゃんと用意してくるよ、外へ出てから、そこらじゅう捜しまわらんでもいいようにな。五、六分かかるかもしれんぜ、なにしろ、車はたいがい、試合に行くやつらをあてにして、そっちのほうを流してるだろうからな」彼はフラニーの手を離して立ちあがった。「いいか?」
「けっこうよ」
「ようし、すぐ戻ってくる。動くなよ」彼は部屋を出ていった。
ひとり残って、フラニーはじっと横になりながら、天井を見つめた。唇が動きだし、声にもならない言葉をもぐもぐやって、そのまま動きつづけた。
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ズーイ
いま手もとにある事実がおそらくはみずから弁じてくれるだろうが、しかし、その弁じ方たるや、案ずるに、事実がふつうそれをする場合よりいくらか俗悪である。そこで、均衡をとるために、われわれは例の、たえずあらたに人を刺激する、あの反感のたね――著者の、型どおりの序文をもって始めることにする。わたしがいま心にいだく序文は、わたしのいかなる狂暴な夢も及ばぬほどにくどくて熱烈なものであるばかりか、そのうえなお、耐えがたいまでに個人的なものでもある。もし、あつらえむきの運に恵まれて、それが実現するなら、これは、事実上、強制的な、ガイドつきの機関室見物旅行にもたとえられ、そのガイドとは、かくいうわたしで、古ぼけた、ジャンセン製の海水着を着て案内に立つ、といったところであろう。
単刀直入に最悪のことを言えば、わたしがこれからただちに提供するのは、じつは短編物語などではぜんぜんなく、一種の、散文の家庭映画であって、そして、そのフィルムの長さをすでに知る人たちは、これのために精密な配給計画を練るのには強く反対すると、助言してくれている。その反対派とは――これを暴きたてるのはわたしの特権でもあれば頭痛のたねでもあるが――三人の花形俳優たち自身をもって構成されており、うち、ふたりは女性で、ひとりは男性である。まず最初に主役の女優を取りあげることにしたいが、彼女は、思うに、むしろ簡単に、ものうげなインテリ=タイプだといって紹介されるのを好むであろう。この映画には、彼女が鼻をかむ十五分か二十分の場面があるが、わたしがもしそれをどうにかして――ちょんぎって、だとわたしは推測するが――くれさえしたら、万事、非の打ちどころがないほどうまく行っただろうにと、そう彼女は考えているのだ。彼女が言うには、だれか女が鼻をかみつづけるなどとは、見るだけでもむしずがはしるのだそうである。このアンサンブルの、もう一方の女優は、ほっそりとした、たそがれた感じの腰元役で、わたしが、いわば、古ぼけた部屋着を着たままの姿で彼女を撮影したということに反対なのだ。このふたりの美人たちは、どちらも(そう呼んでほしいと|仄《ほの》めかされているから、しかたがない)、概して搾取的な、わたしの目的にたいしては、それほど|甲《かん》|高《だか》い異議も唱えてはいない。理由はおそろしく単純なのだ、じっさい。もっとも、わたしにとっては、いくぶん赤面の理由ではあるが。彼女らは経験から、きつい言葉や|譴《けん》|責《せき》の言葉を聞くと、わたしはその最初のひとことで泣きだす、ということを心得ているのだ。ところが、ほかならぬ主役の男優のほうこそ、わたしにたいして、この映画の製作を中止するようにと、もっとも雄弁に訴える、その当人なのである。自分の[#「自分の」に傍点]感じでは、筋を左右しているのが神秘主義、あるいは宗教的な神秘化であり――とにかく、自分にははっきりとわかっているのだが、目障りなほどに透けて見える、ろくでもない超越的な要素であり、これは、自分に言わせれば、作者の職業的な破滅の日時を促進するに、早めるにすぎないのではないかと心配だ、というわけだ。人々はすでにわたしについてはかぶりを振りはじめており、わたしが神という単語を、この先また、ともすればすぐ、専門的に用いるならば、もっとも、おなじみの、健康なアメリカ的間投詞としてなら話は別だが、それはかならずや、悪質な名士引用癖のうちでも最たるものだと、また、わたしがいちずにうらぶれはじめている、なによりの兆候だと、取られる――というよりむしろ、確認される――だろう。これはもちろん、正常な小心者、わけても小心な物書きにたいしてはだれにでも、気おくれをもたらす類のことである。そして、じっさいにもたらすのである。だが、ただ、気おくれだけだ。なぜなら、反対点というものは、たとえどれほど雄弁であろうと、それの妥当性に比例してしか有効でないからだ。ありていを言えば、わたしは散文の家庭映画を、十五のときから、断続的に製作しつづけてきている。『偉大なるギャツビー』の中のどこかで(これは、わたしが十二のときのわが『トム・ソーヤー』だった)、語り手の少年は、みんな自分のことを、すくなくとも一つは、例の基本徳目を持っていると思うものだと言い、さらに進んで、どうやら自分のは、なんとまあ、〈正直さ〉である、と言っている。わたしの[#「わたしの」に傍点]は、どうやら、神秘的な物語と愛の物語との相違が識別できることだ。いいね、わたしの当座の提供品は神秘的な物語、あるいは、宗教的な神秘作用を持つ物語じゃ、ぜんぜんないのだ。つまり、これは複合的な、あるいは複式の、愛の物語――純粋で複雑なものなんだ。
画竜点睛といけば、筋の運びそのものはだいたい、かなり冒涜的な共同作業の結果である。後続する(ゆっくりと、しずしずと後続する)事実は、そのほぼすべてが、もともとは、おそろしく間隔のあいた割賦払いの形で、そして、わたしにとっては、いささか胸の張りさけそうな、幾度かにわたる隠密の会合において、わたしに与えられたものであり、その与え主はあの三人の登場人物たちであった。その三人のうち、ひとりとして――これも付けくわえておくことが大切だが――細部の簡潔さあるいは出来事の要約という点にかんしては、目立つほどに|天《あま》|翔《か》ける才能をまったく示さなかった。これこそまさに欠点だが、どうも、その欠点は、この最終版にまで持ちこされそうである。それについては弁解できないのが残念だが、それでもその説明はぜひともしてみる。われわれは、四人とも全部、血縁の徒で、いずれも密儀的な家族語を話しており、これは、二点間の最短距離が全円に近い弧であるような、一種の意味論幾何学である。
最後に助言をひとこと――わがやの|苗字《みょうじ》はグラスだ。すぐに、グラス家の末の男の子がとほうもなく長文の手紙を(これはこの書物の中にまるごと[#「まるごと」に傍点]印刷されるはずだと、まちがいなく約束できる)読んでいるところが目に触れるだろうが、その差出し人は、いま生きているうちではいちばん年上の兄、バディ・グラスである。その手紙の文体は、聞くところでは、かくいう語り手の文体、あるいは文章の癖と、通りいっぺんよりもかなり以上に似かよっているとのことで、一般の読者はまちがいなく、その手紙の筆者とわたしとは同一の人物だとの性急な結論にとびつくことだろう。きっととびつくだろうし、また、どうも、とびつくべきじゃないかと、わたしは思う。しかしながら、われわれはこのバディ・グラスをここから先は、第三人称のままにしておこうではないか。すくなくともわたしは、彼を第三人称の外に連れだすだけの十分な理由は、なに一つ持ちあわせていないのであるから。
一九五五年十一月のある月曜日の十時三十分、ことし二十五歳になるズーイ・グラスは、なみなみと湯をたたえた浴槽の中に坐りこんで、四年前の手紙を読んでいた。それは、いつ終わるともしれない感じの手紙で、レターヘッドの刷りこんでない黄いろの便箋に数枚にわたってタイプで書かれており、彼はその手紙を、二つの乾いた島みたいな両膝に当てがって、どうにかこうにか支えていた。その彼の右手では、湿っている感じのタバコが、作りつけの、|琺《ほう》|瑯《ろう》びきの|石《せっ》|鹸《けん》受けのはしに、うまくバランスを取って載せてあり、火は明らかにちゃんとついている様子で、彼はときどき、それをつまみあげては、一服か二服、吸うのだが、そのときも、目を手紙から上げる必要はほとんどなかった。灰はそのつど、直接か、それとも、便箋をつたって、浴槽の水の中に落ちるのだった。彼はこのだらしのない状態には気づいていない様子であった。それでも彼は、湯の熱が自分のからだにたいして脱水作用を及ぼしはじめていることには、たとえほんのすこしにしろ、はっきりと気づいている様子だった。彼がそうして坐りこんで手紙を読む――あるいは再読する――時間が長びけば長びくほど、手首の背をひたいと上唇とに押しあてる回数はそれだけしげくなり、その時の無意識の度はそれだけ弱まってきていたのだ。
ズーイのうちには、早いうちに確認しておいてもらうが、複合性、重複性、分裂性があるので、一件書類めいた短評をすくなくとも二つは、ほかならぬこの場所に入れておかねばならぬ。まず手始めに、彼は小柄な青年で、からだは極端に|華《きゃ》|奢《しゃ》だった。後ろから見ると――とくに脊椎骨が目にはいるときは――彼はまあだいたい、食うに事欠く、大都会の子供だといっても通用したことだろう(からだを太らせ、日にあたるため、夏ごとに慈善キャンプに送りだされる、あの連中だ)。そば近く寄ると、顔の全体にしろ、横顔にしろ、彼はずばぬけてハンサム、目ざましいハンサムだ。彼のいちばん上の姉は(彼女は謙虚にも、ここでは「タカホーの主婦」だとしてもらいたいと、言っている)わたしに頼んできて、彼を描写するときは、「モンテ・カルロのルーレット・テーブルのきわで、あんたの腕に抱かれて死んだ、目の青い、ユダヤ=アイルランド系のモヒカン族の斥候兵」に似ている、と書いてほしいとのことだ。もっと一般的な、地方的な度合が明らかにもっと少ない見方はこうである――彼の顔は、ハンサムすぎる(目にもあやな、とは言わぬが)ことだけはかろうじて免れており、それは、一方の耳が他方よりわずかによけい突きでているためだ。わたし自身は、この二つとは非常に異なる意見を持っている。わたしは、確かに、ズーイの顔は、まったく美しい顔だというに近かったと思う。そうであるから、それはもちろん、空疎不敵な、だいたいのところが麗々しい評価を受けがちで、その評価たるや、れっきとした芸術品の場合と同種のものであった。あと、どうしても言っておかねばならぬと思うのは、百にものぼる毎日の脅威のうちのどの一つでも――自動車事故、鼻かぜ、朝めしの前の嘘――彼の豊潤な美貌を、一日あるいは一秒で、損なうか、すさませるかしたことだろう、ということだ。しかし、けっして減じられることのないもの、すでにきわめて明らさまに示唆されているとおり、ある種の、永遠の喜びであるものとして、正真正銘のエスプリが彼の顔いちめんに焼きつけられていた――とくに目のあたりがそうで、そこでは、このエスプリは、しばしばアルレッキーノの仮面と同じ程度に人目を引き、ときには、それよりはるかに人惑わせなこともあった。
職業からいえば、ズーイはテレビジョンの俳優――主演男優で、もう三年とすこし、それを勤めていた。彼は、なるほど「引っぱりだこ」で(そして、彼の家族のもとに届いた、漠然としたまたぎきの報告によれば、みいりも多く)、テレビに出る若い主演男優のうちでは、おそらく、その点に関して彼の右に出るものはあるまいと思われたが、ただしこれは、同時にハリウッドあるいはブロードウェイのスターでもあって既製の全国的な人気を持つれんちゅうは別にしてのはなしだ。しかし、たぶん、これら二つの陳述はどちらも、|推《すい》|敲《こう》を加えなければ、過度なまでにきわだった、憶測の糸を、つむぎだしかねない。じつのところ、ズーイが芸能人として正式かつ本格的に初舞台を踏んだのは七歳のときのことだった。彼は下から数えて二番目の子供で、彼の兄弟・姉妹はもともとは七人(*)おり――男が五人に女がふたり――それらは全部、子供のころ、かなりぐあいよく開いたま[#「ま」に傍点]を置いて定期的に、『これは賢い子だ』と題される、全国的なネットワークに流されていた、子供のクイズ番組に出演していた。ほとんど十八歳の年齢差が、グラス家の最年長のシーモァと最年少のフラニーとのあいだにはあり、そのことがかなりな程度にまで役だって、この一家は、『賢い子』のマイクロフォンの前に、一種の王朝的な席順を確保することを許されていたわけだが、この番組は十六年とすこし続いたのであった――一九二七年から一九四三年の中盤まで、つまり、チャールストンの時代とB一七の時代とを結ぶ期間だ。(こういったデータはすべて、わたしの思うところでは、ある程度まで本題と関連しているのである)この番組における彼ら個々の全盛期のあいだにどのような懸隔と歳月とがあろうと、だいたい言えるのは(留保はほとんど、しかも真に重要なのは一つも付けずに)、この子供たちは七人とも全部、莫大な数の、猛烈にブッキッシュな質問と猛烈にこった質問とが交互に出されるのにたいして――聴取者から送られてきたものだ――|溌《はつ》|剌《らつ》たる、|自若《じじゃく》とした態度で、電波をとおしてうまく答えていたということで、これは商業放送においては特異なことと見なされていた。子供たちにたいする大衆の反応はしばしば熱烈で、生まぬるいことは一度もなかった。概して、聴取者は奇妙にかたくなな二派に分かれ、その一方が、グラス兄弟というのは鼻もちがならぬほど「お高くとまった」がきどもの集まりで、生まれたとき水につけるかガス室に入れるかして殺してしまうべきだった、と言うかと思えば、もう片方は、あの子たちこそ、まごうことなき少年才子、少年学者で、羨むにたるほどではないまでも、並はずれた種類の連中だ、と言うのであった。こう書いている今とて(一九五七年)、往時の『賢い子』の聴取者で、あの七人の子供たちひとりひとりの、個々それぞれに水ぎわだった解答ぶりを数多く、まったくもって驚異的なまで正確に、記憶している人たちがいる。この当の、痩せほそりつつあるとはいえ、いまもってなお奇妙に同人めいたグループの中で、一致して信じられているのは、グラス家の子供たち全部のうちでは長男のシーモァが、遠く二十年代の後半から三十年代の前半にかけて出演していたあれが「いちばん」聞かせた、もっとも一貫して「賞賛もの」だった、ということである。シーモァに次いでは、ズーイ――この、一家の末の息子が、一般に、ひいき、あるいは魅力の順からいけば第二位に来る。そして、われわれはいまここでは、ある独特の意味において実際的な関心をズーイに寄せているわけだから、こう書きそえてもいいと思うが、『賢い子』の前=解答者としての彼は、自分の兄弟・姉妹たちのあいだにあって(あるいは、を|凌《しの》いで)、ひとりだけ、生き字引き的な特色を示していた。この子供たちは七人とも全部、その、放送に出演していた歳月をつうじて、ときどき、異常早熟児にたいして特別の興味をいだく類いの児童心理学者あるいは職業的な教育家の|好《こう》|餌《じ》となったものだ。異常早熟児という大義名分で、あるいはそれをタネにされて、ズーイは、グラス家の兄弟・姉妹、全部のうちでも、文句なく、もっとも|貪《どん》|婪《らん》に調べあげられ、インタビューされ、そして詮索された子供であった。非常に注目すべきことには、わたしの知るかぎりでは一つとして例外なく、彼が臨床心理学、社会心理学、新聞売店心理学などの、明らかに異なる分野で得た経験はいずれも高くつくものばかりで、あたかも、彼が調べを受けた場所というのは一様に、きわめて伝染性の強い種々の不安あるいは、単にありきたりの旧弊な細菌が密集していた、とでもいった様子であった。たとえば、一九四二年(当時、軍隊にいた、いちばん上のふたりの兄たちは始めから終わりまでこれに不賛成だったが)、彼はある単独の調査グループの手で、ボストンで、前後五回にわたってテストされている(それらの面接は大部分、彼が十二のとき行われたものだが、そのおりの列車旅行が――全部で十回――なんらかの形で彼を引きつけた、すくなくとも初めのうちはそうだった、ということはじゅうぶんに考えられる)。この五回のテストの主な目的は、どうやら、ズーイの早熟な知能と想像力との淵源をできれば単離して研究する、ということにあった。五回目のテストのあとで、この研究対象は、鼻かぜを治すためのアスピリンを二、三錠、裏に住所の印刷された専用封筒に入れてもらって、ニューヨークへ帰ったのだが、その鼻かぜはけっきょく気管支肺炎であることがわかった。それから約六週間のちに、長距離電話がボストンから夜の十一時にはいって、ふつうの公衆電話の中へコインがつぎつぎに落ちてゆく音といっしょに、だれのともつかぬ声が――察するに、ふざけた学者口調を出そうという意図はべつになかったらしいが――グラス夫妻に、おたくの息子さんのズーイ君は、十二歳だというのにもう、使うようにしむけてやれさえすれば、メリ・ベイカァ・エディにまったく匹敵するほどの、英語の|語《ご》|彙《い》を持っている、と伝えたのであった。
[#ここから2字下げ]
(*)脚注なる美学上の悪魔は、入れるならちょうどここではないかと、どうもわたしには思われる。このあと最後までで、これら七人の子供たちのうち、直接的に見聞きされるのは、いちばん下のふたりだけである。しかしながら、残りの五人、年長の五人は、かなり頻繁に筋をのそのそ出たりはいったりすることになるだろう――ちょうど、バンクォーの幽霊が五人、といったぐあいに。そこで、読者が最初にあたって、まず、お知りになりたいことだと思うが、一九五五年現在では、グラス家の子供たちのうち最年長のシーモァはすでに七年まえに死んでいる。彼は自殺したのであって、それは、フロリダで、妻といっしょに休暇を過ごしている最中のことだった。生きていれば、彼は一九五五年で三十八になったところである。二番目の子供のバディは、学生便覧的な語法を使えば「専属作家」として、ニューヨーク州北部のある女子短期大学に勤めていた。彼はひとりきりで、かなり名の売れたスキー場から四分の一マイルほど離れた、小さな、防寒設備もなければ電気設備もない家に住んでいた。三番目の子供のブー=ブーは結婚していて、三人の子供の母親であった。一九五五年十一月には、夫といっしょに三人の子供をつれてヨーロッパ旅行をしていた。年の順でいけば、双子のウォールトとウェイカァがブー=ブーのつぎに来る。ウォールトはこの十年すこし前に死んでいた。占領軍の一員として日本にいたとき、突発的な爆発事故にあって死んだのである。彼の十二分かそこいら年下の弟、ウェイカァはローマ=カトリックの司祭で、一九五五年の十一月にはエクアドルにいて、イエズス会のある種の会合に出席していた。
[#ここで字下げ終わり]
話をもとに戻すと、ズーイが一九五五年十一月のこの月曜日の朝、いっしょに持って浴槽に入来した、あの長い、タイプ書きの、四年前の手紙は明らかに、この四年のあいだに、ひそかなおりを見はからってあまりにもたびたび封筒の中から取り出されて広げられ、また畳まれた様子で、その結果、概して|ぞっとしない《ウンアベティートリヒ》外観を呈していたばかりか、じっさい、何か所かが、たいていは折り目にそって、引きさけていた。この手紙の筆者は、すでに述べたとおり、ズーイの、いま生きているうちではいちばん上の兄であるバディだった。手紙の内容そのものは事実上、無限の長さで、びっしりと書きこまれ、お説教口調で、繰りかえしが多く、自説を譲らず、忠告がましく恩きせがましく、やっかいで――そのうえ、うんざりするほど、愛情が満ちみちていた。つづめて言えば、これはまさしく、受取り人が、望むと望まないとにかかわらず、しばらくはズボンの尻ポケットに入れて持ちまわる、といった、あの類いの手紙だったのだ。しかもある型の職業的な作家たちが、次のようなぐあいに、一字一句、転写したくなるような手紙であった。
[#地から2字上げ]五一年三月十八日
[#ここから1字下げ]
ズーイさま、
たったいま、けさ母さんから来た長い手紙を解読しおえたばかりだが、書いてあるのはみな、おまえのことと、アイゼンハワー将軍の微笑のことと、『デイリー・ニューズ』に載っていた、エレベーターのシャフトに落ちたとかいう男の子のことと、いつになったらおれはニューヨークにある電話を取りはらって、いまいるここのいなか[#「いなか」に傍点]に一つ引いてもらうのか――そこにはほんとうに電話がいるのだから――ということばかりだ。まったく、手紙を、目には見えない傍点をつけて書けるのは、世界中であの人だけだ。ベシィさまか。おれは五百語のタイプの手紙をあの人から、まるで時計仕掛けみたいに三か月目ごとに受取るわけだが、言ってくるのは、おれのあの古ぼけた個人電話のやつのことで、「おカネ」を毎月、もうだれも使い[#「使い」に傍点]にやってきやしないようなものに払うのは、いかにばかげているかというのだ。これはじっさい、たいへんな大嘘だ。町に行くと、おれはきまって、昔からの親友のヤマと――例の死の神だ――腰をすえて何時間も話をすることにしており、そのおしゃべりのためには個人電話がどうしても要り用だ。とにかく、おれは気を変えていないと、そう言っておいてくれないか。おれはあの古ぼけた電話を、情熱的に愛している。あれは、シーモァとおれがこれまでにベシィのキブツ全域の中で手に入れた、たった一つ、真の私有財産といえるものなのだ。またおれにとっては、まいとし、くそ電話帳の中にシーモァの名が載っているのを見るのが、内面の調和を保つためには欠かせない。おれはGの項をゆうゆうと拾い読みするのが好きだ。いい子だから、さっきのことづてを伝えてくれ。言葉どおりそのままではなく、うまくだぞ。ベシィにはな、ズーイ、できるときには、もっと親切にしてやれよ。べつに、あの人がおれたちの母親だからというわけじゃなく、疲れているから、というだけのことだと思う。三十かそこいらを過ぎればもっと親切になるだろうけど――その年になれば、だれにしろすこしはペースが落ちるものだ(おまえでさえも、たぶんな)――しかしいまは、もっといっしょうけんめい努めろよ。アパッシュ・ダンスの踊り手の男のほうがパートナーにたして見せるみたいな、あの、いとおしさあまって残忍になる、といった態度であの人を扱うのでは、まだじゅうぶんじゃない――ところでそれは、ついでだが、あの人にはわかっているのだぞ、おまえはどう思っているか、知らないけれども。おまえは忘れているが、あの人はレスとだいたい同じくらい感傷で気をよくする人なのだ。
おれの電話のことはさておくとして、ベシィの今度の手紙は実際はズーイの手紙だ。おまえに手紙を出して、「人生はまだ先が長い」のだから、もしおまえが、本格的な俳優生活にはいるよりさきに、まず博士を|狙《ねら》わないとしたら、それは「罪悪」だと、言ってくれ、というわけだ。なにで博士をとってほしいか、べつに言っていないが、おれの憶測では、どうやらギリシア語より数学らしいぜ、|穢《きた》ないシミくんよ。とにかく、どうやら、おまえがどうかいうことがあって俳優として一家をなせなかった場合に「撤退する」ところを作っておいてほしいということらしい。これは非常に堅実なことだろうし、また、たぶん実際にそうだろうけど、しかしおれは、そんなことを言うべきだという気にはなれない。おれには、家族をひとりのこらず――おれ自身をも含めて――望遠鏡の逆のはしから覗く日がときどきあるが、たまたまきょうはそんな日だ。じっさい、おれはけさ、郵便受けのところで、ベシィという名が封筒の差出し人の住所の上にあるのを見て、これはだれだか、それを知るのにずいぶんと苦労させられた。もっともな話で、『上級小説二四―A』のおかげでおれは短編小説を三十八もしょいこまされ、週末に見るため、涙ながらに、うちまで引きずるようにして帰ったからだ。そのうちの三十七までは、「作家になりたくてしかたがない」内気で孤独ごのみな、ペンシルヴァニア・ダッチのレズビアンが主人公で、|淫《いん》|蕩《とう》な作男がそれを一人称で物語る、というところだろう。方言でだ。
当然おまえは知っていることと思うけれども、おれは年来ずっと、自分の文学淫売室を大学から大学へと移すばかりで、いまだに文学士すら取ってはいない。もう一世紀も前のことみたいに思われるが、どうも、おれが学位を取らなかったのには、もともと、二つの理由があったようだ。(頼むから、じっとしていてくれ。おまえに手紙を書くのは何年ぶりかのことだぜ)一つにはおれは、大学時代、スノッブそのもので、それも、昔の『賢い子』の卒業生で、未来のイギリス文学終身研究生ならさもあらんという底のものだったが、それでおれは、自分の知るかぎりの、ろくに学のない学者やラジオのアナウンサーや教育バカどもがしこたま取っている学位なんか、いらないということにしたのだ。それから、二つには、シーモァが、ふつうのアメリカ人ならたいてい、やっとハイスクールを出るか出ないかの年ごろに博士を取っていたので、その点で彼に追いつくにはもう遅すぎたから、おれはなにも取らぬことにしていたのだ。もちろん、また、おれはおまえぐらいの年のとき、自分が教える羽目に落ちいろうとは考えてもいなかったし、もしおれのムーサイたちがおれを扶養しそこなったあかつきにはどこかへレンズ磨きにでも出かけようと思っていた――ブーカァ・T・ワシントンみたいにな。もっとも、どんな特別な意味においてもおれは学問上の後悔はしていない。とくべつに暗澹とした日になど、おれはときどき自分自身に言いきかすことはある――もし、できるうちに、学位を幾つかしょいこんでいたら、いまごろは、『上級小説二四―A』などという、いかにも大学たらしい、救いがたいものなど教えていないかもしれない、とな。だが、それはたぶんたわごとだ。カードの配列にインチキがあって(まったく当然のことだと、おれは思う)、職業的な審美家はみな損をするようになっており、そして、間違いなく、おれたちはみな、暗い、口かずの多い、教師的な死を迎えるのがあたりまえで、遅かれ早かれ、そういう死に方をするのだ。
もちろん、おまえの場合はおれと大いに違うと思う。とにかく、おれは、実際にベシィの味方だとは思っていない。もし「安全保障」が、おまえのほしいもの、か、ベシィがおまえのためにほしいものだとするなら、文学士の肩書きさえあれば、すくなくとも、それが資格になって、おまえはいつだって、この国の侘しい男子高校ならどこででも、また大学でもたいていは、対数表を配ることができるさ。その一方、おまえのお得意のギリシア語は、おまえが博士でないかぎり、かなりな大きさのキャンパスではどこへ行っても役にたたない、というのが、おれたちの住む、金ピカ帽子の、金ピカ大学帽の世界の実情だ。(もちろん、おまえはいつだってアテナイへ引っこせるさ。日の照る古きアテナイか)だが、そのことを考えれば考えるほど、いよいよおれは、おまえが学位をもっとたくさんだなどとはくそくらえだと思う。実際のところ、知りたければ言うが、どう考えても、おまえはくそがつくほどもっとぴったりの俳優になっていたところなのに、シーモァとおれが、『ウパニシャッド』だとか、『金剛経』だとか、エックハルトだとか、そのほか、ありとあらゆる、おれたちの昔の恋人をみな、ほかにもまだある推薦課外図書といっしょに、まだ小さかったおまえの中に投げこんだりしてなあ。当然、俳優というのはかなり身軽に飛びあるいてしかるべきだ。おれたちは子供のころ、あるとき、Sとおれとですてきな昼めしをジョン・バリモァといっしょに食べたことがある。あの男はとてつもなく頭がよかったし、知識も豊富だったが、格式ばった教育なぞという厄介な重荷の下でおしひしがれてなどぜんぜんいなかった。このことに触れるのはなぜかというと、おれはこの週末、いくらか尊大な東洋学者と話をしていて、その途中、非常に深い、形而上的な、会話の|凪《なぎ》が続いていたとき、その男に、おれには弟がひとりいて、そいつは、失恋を克服するために、『ムンダカ・ウパニシャッド』を古典ギリシア語に翻訳しようとした、と言ったからだ。(相手は呵々大笑したぜ――例のあの東洋学者に一流の笑い方でな)
じっさい思うんだけど、俳優としてのおまえはこの先いったいどうなることやら、それがわかると、いいのだが。おまえは生来の俳優だよ。確かに。われらがベシィですら、そのことは知っている。そして、どう見ても、おまえとフラニーしか、わがやに顔のいいのはいない。だけど、どこで俳優をやるつもりなのだ? そのことは考えたことがあるか? 映画? もしそうだとしたら、おれは震えあがるほど心配なのだが、おまえはすこしでも体重がつくと、若手俳優の例にもれず、うまくすかされて、賞金ボクサーと神秘家、ガンマンと恵まれない子供、カウボーイと「人間の良心」、等々といったものの、平均的なハリウッド的アマルガムに寄与させられることになるだろう。おまえはあんな規格品的な客寄せ用の感傷もので満足する気か? それともなにか、もうすこし、広大無辺なものを夢見る気か――|たとえば《ツウムバイシュピール》『戦争と平和』のテクニカラー作品でピエールかアンドレイをするとか、ただし、おもわず息をのむような戦場の場面は入れても、性格描写のニュアンスは全部、除外し(これは小説的で、写真向きではないという理由でな)、アンナ・マニャーニに思いきってナターシャの役をやらせ(なに、この作品を高級で「正直な」ものにするためさ)、ディミートリ・ホプキンの豪華な伴奏音楽を入れ、男どもにはひとりのこらず、間欠的に、口の上下の筋肉をわななかせて、自分たちがたいへんな情緒的ストレスに陥っていることを示させ、封切りはウィンタ・ガーデンで、フラッドライトを浴びながら、モロトフと、ハミルトン・バールと、デューイ知事が、名士が劇場にはいってくるたびに彼らを紹介する。(名士というのは、つまりもちろん昔からのトルストイ愛好家のことだ――ダークセン上院議員、ジャ・ジャ・ガボール、ゲイロード・ホーザァ、ジョージィ・ジェセル、ホテル・リッツのチャールズ。)こんなのはどうだい? それから、もし芝居をやるとしたら、おまえはそれについて、なにか幻影をいだく気か? いったい、ほんとうに完璧な上演というものを見たことがあるのか、そうなあ『桜の園』の? あるなどとは言うな。だれだって、ないのだから。「入神の」上演とか、「満足のいく」上演だとかはあるかもしれないが、完璧なものはぜったいない。ぜったいに、チェホフの才能に見あうような演技が、ニュアンスの一つ一つ、独自の表現の一つ一つにいたるまで正確に、舞台のひとりひとりによって行われる、などということはないのだ。おまえのことでおれはさんざん心配させられているのだぞ、ズーイ。悲観的なのは許してくれよ、口調はべつとしてもな。だが、おれにはわかっているのだ、おまえが事にたいして要求するところのどれほど多い人間かな、こしゃくな、小僧めが。それにおれは、劇場でおまえの隣に腰かけるという、とんでもない経験までしているのだぞ。おれには非常にはっきりわかるのだが、おまえは演劇その他にたいして、ほんとうにはありもしないものを要求している。頼むから気をつけてくれよ。
きょうのおれはおかしいことにしておこう。おれがノイローゼ患者みたいになってる原因は、三年前の、ちょうどきょう、シーモァが自殺したことだ。遺体をもらいうけるためにフロリダへ行ったとき、なにがあったか、おまえに話したっけかな? おれは腑抜けみたいに、飛行機の中でたっぷり五時間も泣いたよ。ときどき、慎重にベールを直しては、通路の向こう側の連中に見られないようにしてな――こちら側の座席はおれひとりで、たすかった。飛行機の着陸する五分くらいまえに、おれは後ろの座席の話し声に気がついた。女の声が、ボストンのバックベイを全部に、ハーバード広場をだいたい、盛りこんだみたいな口調で、こう言っていたんだ。「そうしてそのあした[#「あした」に傍点]ね、あの子のあのいたいけなからだから、膿を一パイントも取ったのよ」それだけしか、おれは聞いたのを覚えていないが、それから五、六分たって飛行機を降りると、その「娘を亡くした未亡人」が、バーグドァフ・グドマン仕立ての喪服に全身、身を包んで、おれのところへ来たわけだけど、そのとき、おれときたら「場違いな顔つき」をしていてな。ニヤニヤ笑っていたのだ。で、それこそまさに、きょうのおれの気持ちなんだ、べつにちゃんとした理由があるわけでもないけどな。理性的にはそんなことはないと思うのだが、どうしても、このあたりのどこかすぐ近くで――道を行ったところの最初の家、かもしれん――質のいい詩人が死にかけているいっぽうでは、また、このあたりのどこかすぐそばで、だれかが滑稽にも自分のいたいけなからだから膿を一パイントも取ってもらっている、といった気がするわけで、おれは悲哀と|有頂天《うちょうてん》とのあいだを永遠に行きつ戻りつ走っているというわけにはいかんのだ。
先月、学部長のウーンコヒリが(この名前を出すと、フラニーはたいてい笑いだす)、例の生ま皮の牛鞭を下に隠す微笑を浮かべながら、おれに近づいてきて、そのためおれはいまでは、学部の教職員や、彼らの細君たちや、何人かの、息がつまりそうなほどに深遠タイプの学生たちを相手に、金曜日ごとに禅と大乗仏教の講義をする羽目に陥っている。いや、たいへんな放れわざで、間違いなく、おれはこれのおかげでついには地獄に、東洋哲学の講義を開かせてもらうことになるだろう。要するに、おれはいまでは四日でなくて五日、キャンパスにいることになり、また、自分の仕事は夜したり週末にしたりで、気ままに物を考える時間はほとんどまったくないほどだ。というのはおれ一流の愁訴の表現で、言いたいのはつまり、折さえあればおまえやフラニーのことをちゃんと気にかけてやるのだが、だいたいのところ、思いどおりに頻繁にはそれができないということだ。おれがほんとうにおまえに言おうとしているのは、ベシィの手紙と、おれがきょう、こうして灰皿の海の中に腰をおろしておまえにこれを書いているのとは、まったくなんの関係もないということだ。あの人はおまえとフラニーとにかんする優先情報を毎週、おれのところへ送ってくるが、おれはそれをどうこうすることは一度もなく、したがってこれはそれがもとじゃないのだ。この手紙のきっかけになったのは、おれがきょうこの町のスーパーマーケットで経験したことなのだ。(行変えにはしないからな。おまえが煩わしいだろうから)。おれは肉売り場に立って、子羊のあばら肉を厚切りに切ってもらっていた。若い母親が女の子をつれて、やはりそばで待っていた。その女の子は四つぐらいで、暇つぶしに、ガラスの陳列窓に背を寄せかけて、無精ひげの生えたおれの顔をじっと見あげていた。おれはその子に、お嬢ちゃんみたいにかわいい子には、おじさん、きょうははじめて会ったみたいだな、と言ってやった。これの意味がその子には通じて、女の子はこっくりをした。きっと、ボーイフレンドがおおぜいいるな、とおれは言った。また、前と同じようなこっくりが返ってきた。ボーイフレンドは何人いるの、と、おれは聞いた。その子は指を二本、上げた。「ふたり!」と、おれは言った。「おおぜいいるんだねえ。その子たちの名前はなんていうの、恋人ちゃん?」甲高い声で、その子は言った。「バビとダラスィ」おれは子羊の肉を引っつかんで走った。しかし、それこそまさに、この手紙のきっかけだったのだ――それと比べれば、哲学博士と俳優家業とのことでおまえに手紙を書けとベシィが強く言ってきたことなど、もののかずではない。そのことと、俳句ふうの詩が、シーモァがピストル自殺したホテルの部屋にあったこと。それは鉛筆でメモシートに書きこんであった。「飛行機の少女は/人形に似た首をめぐらせて/わたしを見る」この二つのことが頭にあって、おれは車をスーパーマーケットからうちにむかってはしらせているとちゅうに、とうとうやっとのことで、おまえに手紙を書いて、その中で、なぜSとおれはあんなに早くから、また高飛車に、おまえとフラニーとの教育を引き受けたのか、そのわけを話そうと思ったのだ。おれたちはまだ一度も、このことをおまえたちに言ってやったことはない。肉売り場のあの女の子はもういないし、また、飛行機で会った、あの小さな人形の上品な顔もはっきりとは思いうかべることができない。そして、職業作家であることには付きもののあの恐怖と、それから、それに伴う、例の、言葉の悪臭が、おれをいたたまれない気持ちに追いやりはじめている。それでも、やってみるだけはやってみることが、おそろしく重要であるようだ。
おれたち子供たちのあいだの年齢の差は、いつだって、不必要に、またいじわるく、おれたちの問題を増やしていたようだ。かならずしも、Sと双子とブー=ブーとおれとのあいだではなく、おまえとフラニーと、Sとおれとの、二つのコンビのあいだにな。シーモァとおれとがもう両方ともおとなになっていた――兄貴のほうはもうずっと前に大学までも出ていた――ようやく、おまえとフラニーが両方とも、字が読めるようになった。その段階では、おれたちは、自分たちの好みの古典をおまえたちふたりに押しつけるということについてすら、まだ差しせまった気持ちにはなっていなかった――とにかく、あの双子やブー=ブーにたいしてしたときみたいな熱意をいだいてはな。学者に生まれついている者を無知なままにしておくことはできんとわかっていたし、また心では、どうやら、ほんとうにそうしたいと思っていたわけでもなさそうだったが、しかしおれたちは、子供時代、物知りだったり賢い子供ぶったりしていた人間が、長じては教職員休憩室的な学者になるという例を扱う統計を見て、神経質になった、ギョッとしさえしたのだ。それよりずっとずっと重要なのは、だけど、シーモァはそのころもうすでにこういうことを信じはじめて(そしておれも、自分にその要点がわかる範囲では彼に同意して)いたことだ――つまり、教育は、どのような名前のものであろうと、知識の追求などではなくて禅が言うように無知の追求から始められても、やはり甘い香りがするし、たぶんはそのほうがずっと甘い香りがする、と。鈴木博士がどこかで言っているが、純粋な意識――サトリ――の境地にあるというのは、「光あれ」と言う以前の神とともにあることだ。シーモァとおれは、この光はおまえとフラニーから隠しておいたほうがよいかもしれない、と思っていたのだった(すくなくとも、おれたちにできるかぎりはな)、それから、いろいろな、下等な次元の、もっと当代ふうな照明効果――もろもろの美術や科学や古典や語学――もみなな、すくなくともおまえたちふたりがどちらも、精神がありとあらゆる光の源を会得した境地にあるとはなにか、それを把握することができるまでは。おれたちは、この境地についてすこしでも、あるいはなんでも知っているような人間たち――聖者たちや|阿《あ》|羅《ら》|漢《かん》たちや|菩《ぼ》|薩《さつ》たちやジヴァンムクタたち――について自分たちが知っているかぎりのことを、すくなくとも(つまり、おれたち自身の「限界」が介入して来る場合は、だが)おまえたちに教えてやれたら、すばらしく建設的なことだろうと、思っていたのだ。つまり、おまえたちがどちらも、イエスや釈迦や老子やシャンカラチャルヤや|慧《え》|能《のう》やスリ・ラマクリシュナ、等々というのはだれで、またなんなのかをまず知ってから、ホメーロスやシェイクスピアについて、ブレイクやホイットマンについてでさえ、もちろん、ジョージ・ワシントンと彼の桜の木や、半島の定義や文の解剖の仕方についても、知りすぎるほど知って、あるいはすこしでも知って、ほしいと、思ったのだ。それが、とにかく、案だったのだ。こういったこと全部と並んで、どうやらおれの言わんとしているところは、Sとおれが家庭ゼミナールを定期的に開催していたあの時代のことを、とくに形而上学の講義を、おまえがどれほど激しく恨んでいるか、おれはちゃんと知っている、ということだ。おれはほんとに思うのだが、いつか――望むらくはおれたちがどちらもへべれけに酔ってるとき――そのことを話せるといいのだが。(ところで、おれに言えるのはただ、シーモァもおれも、あんなに昔のころは、おまえが大きくなったら俳優になるなどとは、思ってもいなかった。思って当然だったのだが、もちろん、だけど思わなかった。もし思っていたら、絶対、Sはそのためになにか建設的なことをやろうとしただろうな。たしか、どこかに、俳優のために厳密に構想された、|涅《ね》|槃《はん》や他の東洋哲学やのための特別な予備課程があるにちがいないから、きっとSはそれを捜してくれたと思う)この段落はここで閉じるべきだが、繰りごとがやめられない。おまえは、これから書く話にはへきえきすることだろうが、どうしてもそれは書かねばならぬ。たぶんおまえは知っていることと思うが、おれには、Sが死んだあと、ときどき泊まりに行って、おまえとフラニーが元気でいるかどうか、見てやろうという、殊勝な気持ちがあった。おまえは十八だったから、おまえのことはひどくは心配していなかった。もっともおれは、自分の教えるあるクラスの、ゴシップ好きのへなちょこ娘から、おまえはどこかへ出かけていっていちどきに十時間も瞑想にふけるというので、大学の寮では有名だと、聞いていて、それには考えさせられたがな。だが、そのころ、フラニーは十三だった。けれども、おれはどうしても動けなかった。うちへ帰るのがこわかったのだ。べつに、おまえたちがふたりとも、涙を流しながら、部屋の向こうに陣取って、マックス・ミュラーの『東洋秘録全集』を一揃い、一冊また一冊と、おれをめがけて発射してくるのではないかと、それがこわかったわけではない。(そんなことにでもなれば、おれはマゾヒスティックな恍惚境に浸れたことだろうよ、たぶん)そうではなくて、おれは質問がこわかったのだ(非難よりもずっとな)、おまえたちふたりが、おれにしかけてくるかもしれんと思って。いまでもはっきり覚えているが、おれは葬式のあと、まるまる一年を過ごすまでは、ぜんぜんニューヨークに帰らなかった。そのあとでは、らくな気持ちで誕生日や休暇に出かけていって、この分では、質問といっても、おれのこの次の本はいつ終わるのかとか、ちかごろスキーはやったかとか、等々といったところだろうと、おおよその見当がつくようになったものだ。そのうえ、おまえたちはふたりとも、ここ何年かのあいだ、週末になるとよくこっちへ来ては、しゃべってしゃべってしゃべりまくったものだが、それでいておれたちは、ひとことも言わないという約束ができていた。きょう、はじめて、おれはほんとうに、言ってしまいたい気持ちになったのだ。おれは、このくそ手紙に深入りすればするほど、いよいよ自分の確信について、勇気を失ってゆく。だが、誓って言うけれども、おれは完全に伝達可能な真理の(小羊の肉の部門のだ)、ちょっとした影像を、きょうの午後、あの子供が自分のボーイフレンドの名前はバビとダラスィだと教えてくれたとたんに、得たのだった。あるとき、シーモァがおれに言うには――市内縦貫バスの中でな、場所もあろうに――すべからく正統な宗教研究というのは、男の子と女の子、動物と石、昼と夜、暑さと寒さとのあいだの相異、幻の相異を失念するところまで行かねばならないのだそうだ。このことが、とつぜん、あの肉売り場のところで、おれの心を打って、おれは、時速、七十マイルでうちまで車をとばしてかえって、おまえのところへ手紙を出すことが、生死にかかわる問題であるような気になったのだ。ちくしょう、じっさい、おれは、あのスーパーマーケットのあそこのところですぐに鉛筆を引っつかんで、うちに帰るなんてことは考えなければよかったと思う。たぶん、それでも結果は同じだろうがな、もっとも。ときとしておれは考えるのだが、おまえはおれたちのだれよりも完全にSのことを許しているんじゃないかな。ウェイカァが、あるとき、このことについて、とてもおもしろいことをおれに言ったことがある――実をいえば、おれはあいつの言ったことをオウム返しに繰りかえしているだけなのだ。あいつの言うには、おまえだけしか、Sの自殺について腹を立てなかったし、また、おまえだけしか、Sが自殺したことをほんとうに許してはいないのだと。残りのおれたちは(と、あいつは言っていた)、外づらでは腹を立てず、内づらでは許していなかった。これは、真実であるにもまして真実かもしれん。どうして、おれにわかろう? おれにいま確かだとわかっているのは、ただ一つ、おれはあのとき、おまえに、なにか、楽しい、胸のわくわくするようなことを知らせてやるつもりだったということだけで――それも、紙の片面にダブルスペースでな――そして、うちに着いたら、もうそれは大半、消えてしまって、それとも全部、消えてしまって、あと残っているのは、書くふりをすることだけだと、わかったのさ。博士や俳優生活について、おまえに講義する。なんとまあ煩わしい、なんとまあおかしなことで、これがシーモァだったら、なんとまあ、ニヤニヤ笑いに笑ったことだろう――そうして、たぶんは、おれにむかって、また、おれたちみんなにむかって、そんなことは気にするなと、きっぱり言ったことだろうな。
もういい。やれよ[#「やれよ」に傍点]、ザカリ・マーティン・グラス、いつでも、どこでも、気のむくままにな、なにしろ、おまえは、どうしてもそうせずにはいられないと思っているのだから――だけど、全力をつくして[#「全力をつくして」に傍点]するのだぞ。とにかくおまえが、舞台の上でなにかすばらしいこと、なにか、名前さえまだ付いていないみたいな、人を喜ばすようなこと、なにか、演技力の要求を超えてそのかなたに至るようなことをすれば、Sとおれはふたりして、タキシードと、模造ダイヤで飾った帽子とを借りて、キンギョソウの花束を抱えながら、しずしずと楽屋口へ行ってやろう。いずれにせよ、たいして役にもたたぬかしれぬが、おれの愛情と支持とは、あてにしていろ――たとえどれほど離れていようとな。
[#ここで字下げ終わり]
[#地から2字上げ]バディ
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例によって、おれが全知に色目を使うのはばかげているが、しかし、余人はさておき、おまえだけは、おれの、ただたんに利口だというだけに終わる部分にたいして丁重であるべきだ。何年かまえ、作家志望としての、いちばん初期の、いちばん、駆けだしの時代に、おれはあるとき、新作の小説をSとブー=ブーとに読んできかせたことがある。それがすむと、ブー=ブーはそっけなく(だが、シーモァのほうを見やりながら)この小説は「利口すぎる」と、言った。Sはかぶりを振りながら、おれのほうにニコニコ笑いかけて、利口さというのはこの男の持病だ、この男の義足だと言い、それから、一座の注意をそこに向けるのは、およそ考えられるかぎりの悪趣味だ、と言った。びっこの人間がおたがい同士するように、なあ、ズーイ、おれたちも、おたがいに、|慇《いん》|懃《ぎん》と親切とを尽くそうじゃないか。
[#ここで字下げ終わり]
[#地から2字上げ]愛の多くをこめて B
この四年まえの手紙の、最後の、下になったページは、一種、色あせたコルドバ皮の色に変色し、二か所で、折り目にそって引きちぎれていた。ズーイは、読みおわると、少しばかり気をつけながら、手紙を元どおりの順序に戻した。そして、二枚の紙を横に立て、乾いた膝がしらの上に軽く二、三度、落として、そのはしを揃えた。そして、眉をひそめた。それから快活に、まるで、この手紙を読むことは、神かけて、もう永遠にない、とでもいうように、それを|木《もく》|毛《もう》みたいに封筒の中へ詰めこんだ。そのあとでは、この厚い封筒を浴槽のヘリに載せて、それでちょっとした遊びを始めた。指を一本使って、その中身のはいった封筒を浴槽のふちの上で、前後にはじきながら、どうやら、湯ぶねの水に落とさずにそれを動かしつづけることができるかどうか、調べているみたいだった。これをたっぷり五分も続けているうちに、彼はついにその封筒をはじきそこねてしまい、あわてて手を伸ばしてそれを掴みあげざるをえなかった。これでこの遊びは終わりだった。彼は拾いもどした封筒を手に持ったまま、からだを湯の中に低く深くずらして、膝も両方、沈めた。それからぼんやりとして、一、二分のあいだ、浴槽の足の向こうの、タイル張りの壁をじっと見つめたあと、こんどは、石鹸受けのタバコをチラッと見やり、それをつまみあげ、そして一、二度、ためしにそれを長く吸ってみたところが、火はもう消えていた。彼は、まったく唐突に、浴槽の湯を四方に撥ねちらしながら、また起きなおり、濡れていない左手を浴槽の外側に垂れさがらせた。タイプライターで打った台本が、おもてを上にして、バスマットの上に落ちていた。彼はそれを拾いあげて、湯舟に、いわば乗せた。彼はそれをつかのま見つめ、それから例の四年まえの手紙を、ふつうホチキスがいちばんよくきいている、台本の真ん中あたりに插んだ。それから、その台本を、いまではもう濡れている両膝の、湯の表面から一インチかそこいら上に寄せかけて、ページをめくりはじめた。そして、九ページまで来ると、台本を雑誌スタイルに折って、読みはじめた、というより調べはじめた。
「リック」の役に、|芯《しん》の柔らかい鉛筆で濃く太く、下線が施してあった。
【タイナ】(憂鬱そうに)ねえ、あなたァ。あなたァ。あたしって、あなたにとってはあまりいい女じゃないわね?
【リック】それは言うなよ。それは言うなったら、わかったか?
【タイナ】ほんとのことなんだもの、だって。あたしは厄病神だわ。おそろしい厄病神なんだわ。もしあたしがいなかったらスカット・キンケドはもうとっくの昔に、あなたをブエノス=アイレス勤めにしてくれていたわ。そういったことを、あたしがみな、だめにして。(窓のほうへ行く)あたしって、ブドウをだめにするあの小ギツネの仲間だわ。まるで、自分が、おそろしく凝ったお芝居に出てくる人物みたいな気がする。おかしなことに、あたしは凝った人間じゃないけど。あたしって、なんでもないんだわ。ただあたしってだけのこと。(振りむく)ねえ、リック、リック、あたし、こわい。あたしたちは、どうしちゃったの? 自分で自分たちがもう見つからないみたい。手を伸ばしに伸ばしてみるんだけど、そこには、あたしたちはいないのよ。あたし、すっかりおびえてるの。おびえてる子供みたいなの。(窓の外を見る)この雨、きらいだわ。ときどきね。自分がこの雨の中で死んでいるのが見えるのよ。
【リック】(物静かに)おまえ、それは『武器よさらば』のせりふじゃないか?
【タイナ】(憤然として振りむく)出てってよ、ここから。出てって! 出てってよ、ここから――あたしがこの窓から飛びおりないうちに。わかった?
【リック】(彼女をあわてて引きとめる)まあ、聞けよ。きれいなお月さま。かわいい、子供みたいな、お芝居きどりの――
ズーイのこの本読みは、突然、母親の声に妨げられた――しつこい、擬似=建設的な声に――バスルームの外から、彼に話しかけてきたのだ。「ズーイ? まだお湯につかってるの?」
「ああ、まだつかってるよ。どうして?」
「ほんのちょっぴり、中にはいりたいんだけど。持ってきてやったものがあるのよ」
「おれ、湯につかってるんだぜ、ほんと、ね、母さん」
「ほんの一分[#「一分」に傍点]よ、ね。シャワー=カーテンをお引きよ」
ズーイは、いままで読んでいたページをなごりおしそうに見やったあと、台本を閉じて、浴槽の外側に落とした。「ほンとに、ちくしょう」と、彼は言った。「ときどきね、自分がこの雨の中で死んでいるのが見えるのよか」ナイロンのシャワー=カーテンが――緋色で、カナリヤ=イエローのシャープやフラットや音部記号が模様についている――浴槽の、足のほうに引きよせられて、その上のほうは、プラスチックの輪でクロムの横棒に渡してあった。ズーイは腰を据えたまま、そのカーテンに手を伸ばすと、それを浴槽いっぱいに引いて、外から自分が見えないようにした。「もういいよ。ちくしょう[#「ちくしょう」に傍点]。はいるんなら、はいりなよ」と、彼は言った。その声は、いかにも俳優じみたマンネリズムがなくて、どちらかといえば震えすぎるくらいに震えていた。彼の声は、彼がそれを抑制する気がないときは、容赦なく「透る」のであった。何年かまえ、まだ『賢い子』に出演する子役だったころの彼は、繰りかえし繰りかえし、マイクロフォンから距離を置くようにと忠告されたものだった。
ドアが開き、グラス夫人が――中肉中背の女でヘヤーネットをかけている――からだを横にしてバスルームにはいってきた。彼女の年のころは、いついかなる状況にあってもおそろしく見きわめがたかったが、こうしてヘヤーネットをかけているときはとくにそうだった。彼女が部屋にはいるときは、ふつう、からだばかりでなく声もともなった。「わからないねえ、どうしておまえみたいに、こういつまでもお湯につかっていられるのか」彼女はすぐさま、自分の後ろでドアを閉めたが、そのしぐさは、自分の子孫のために、湯あがりのあとの気圧差を敵として長い長い戦いを遂行してきている人間のそれだった。「からだにだってよくないよ」と、彼女は言った。「いったいどのくらい、そこでそうしてお湯につかってると思うの? きっかり四十五――」
「わかってるよ! わかってるってば、ベシィ」
「なにがわかってるのよ、わかってるって?」
「いま言ったとおりさ。まあ、思わせといてくれよ、おれには――母さんがそこの外に立って、何分か、数えてなんかいなかったんだとね、おれの――」
「だれも何分[#「分」に傍点]か、数えてなんかいなかったさ、おまえ」と、グラス夫人は言った。彼女はもうせかせかしていた。バスルームの中へ、小さな楕円形の、白い紙に包んで金糸をからげた包みを持ちこんできていたのだ。それの中身は、ざっと見て、「希望」ダイヤか、あるいは洗浄器具か、そのくらいの大きさみたいであった。グラス夫人は目を細めてそれを見ながら、指で金糸をつまんだ。結び目がとけないのでこんどは歯をそれに当てた。
彼女はいつもどおり、部屋着を着ていた――彼女の息子のバディは(作家で、それゆえ、カフカが同じく、われわれに語っているとおり、りっぱな人間ではなかった)これのことを、死亡通知まえの制服と呼んでいた。作りはだいたいのところが、白ぼけた濃紺の日本着物であった。彼女はアパートメントの中では、ほとんど変わることなく一日じゅう、これを着ているのだった。神秘的な様相を呈する|襞《ひだ》がたくさん付いていたので、この服はまた、たいへんなヘビースモーカーでもあれば素人大工でもある彼女の、七つ道具の貯蔵場所の役割をも果たしていた。尻のところには、超大型のポケットが二つ、付けくわえてあって、そこにはたいてい、タバコの箱が二つ三つと、剥ぎとりマッチが何個かに、ドライバー、釘抜きのついた金槌、もとは息子のだれかのものだったボーイスカウト・ナイフ、|琺《ほう》|瑯《ろう》びきの蛇口の握りが一つか二つ、それに、螺旋ねじや釘や|蝶番《ちょうつがい》や、ボールベアリングの付いた脚輪が一揃い、はいっていた――これらがすべていっしょくたになって、グラス夫人がこの大きなアパートメントの中を動きまわると、たえず微かにチャラチャラ音をたてていた。ここ十年かそれ以上のあいだ、彼女の娘たちはふたりして何回か、この古つわ者の着物を捨てるべく共謀しているのだが、力およばぬのであった。(彼女の結婚した娘のブー=ブーは、この着物には、屑かごに捨てさるまえに、鈍器で|止どめの一撃《タウドグラース》を加えなければいけないのかもしれない、とほのめかしていた)もともとはどれほど東洋的な感じを与えるようにデザインされていようと、この化粧着は、グラス夫人が、|彼女のうちで《シェゼル》、ある種のタイプの観察家に与える、唯一の衝撃的な印象をすこしでも|殺《そ》ぐものではなかった。グラス一家の住む、東七十番街のアパートは、古いけれども、絶対、やぼくさくはなくて、そこの年輩の女の住人たちは、だいたい三分の二は毛皮のコートを持っており、日のよく照る週日の朝などは、この建物を出てから半時間かそこいらすると、すくなくとも、その様子から察するに、ロード・アンド・テーラとか、サクスとか、ボンウィト・テラとかいった百貨店のエレベーターを出はいりするところが見かけられそうであった。このきわだってマンハッタン的な土地にあっては、グラス夫人は(口さがない連中から見ればぜったい)いくらか爽やかな目ざわりになっていた。彼女は、まず第一に、まるで、これまでこの建物を出たことはけっしてけっして一度もない、とでもいった様子をしており、もし仮りに出るとしても、そのときの彼女は黒いショールをはおっていることだろうし、また、向かう方角も漠然とオコネル街界隈というだけで、その目的たるや、アイルランド人とユダヤ人との血が半分ずつ混じっている、自分の息子たちのひとりの死体をそこで請求することであり、その息子はと言えば、なにかの写しまちがいから、ブラック・アンド・タン派の連中についいましがた射殺されたばかりだ、といったところだろう。
ズーイの声がとつぜん、けげんそうに高まった。「母さん? いったいぜんたい、そこでなにをしてるんだい?」
グラス夫人はもう包みを開けて、いまでは、練り歯磨の箱の裏に印刷された細字を立ち読みしているところだった。「ちょっとお願いだから、おまえのその口にはボタンをはめといておくれ」と、彼女は言った――なかばうわのそらで。それから、洗面キャビネットのほうへ歩いていった。それは洗面ボウルの上の壁に取りつけてあった。その鏡のついた戸を開いて、満員の棚を調べる彼女の目――というよりむしろ、名人的な横にらみ――は、仕事いちずな洗面キャビネット園芸家のそれだった。彼女の目の前には|贅《ぜい》|美《び》を凝らした列を作って、一群の、いわば、黄金の薬剤、プラス二、三の、専門的には比較的場ちがいないろんなものが載っていた。それらの棚に収容されているのは、ヨードチンキ、マーキュロクローム、ビタミンのカプセル、塗蝋絹糸、アスピリン、アナシン、バファリン、アージロール、マスタロル、エクス=ラクス、マグネシア乳液、サル・ヘパティカ、アスパガム、ジレットのかみそりが二枚、シークの安全かみそり器が一つ、シェービング・クリームのチューブが二本、折れてすこし破れた写真で、よく肥えた、黒と白とのぶちの猫がポーチの手摺りの上で眠っているところを写したのが一枚、櫛が三本、ヘヤーブラシが二つ、ワイルドルットの髪油が一瓶、フィッチのふけとり薬が一瓶、小さな、レッテルの貼ってない、グリセリンの座薬の箱が一つ、ヴィックスの鼻滴薬、ヴィックスの塗布薬、カスチール石鹸が六本、一九四六年のミュージカル・コメディー(『おれにはさん[#「さん」に傍点]づけをしろ』)の切符の半券が三枚、脱毛クリームのチューブが一本、クリネックスが一箱、貝殻が二枚、使いふるしらしい紙やすりが一組、クレンジング・クリームが二瓶、|鋏《はさみ》が三つ、爪やすりが一個、曇りのない青のおはじきが一つ(すくなくとも二十年代におはじきをしたことがある者になら、「純もの」として知られているもの)、開いた毛穴を収縮させるためのクリームが一つ、毛抜きが一本、娘ものあるいは女ものの腕時計の、バンドの取れたシャーシー、重炭酸ソーダがひと箱、女子寄宿学校のクラス指輪で、縞メノウに欠けのあるのが一つ、「スタペト」がひと瓶――それから、思いもよろうとよるまいと、とにかくそのほかいろいろなものがたくさん、だった。グラス夫人は腕をサッと上に伸ばして、いちばん下の棚からなにかを一つ取ると、それを、鈍い金属的な音といっしょに屑かごの中へ投げこんだ。「このごろみんなが大騒ぎしてる、あの新しい練り歯磨をすこし、ここへ入れといてやるからね」彼女は、後ろはふり向かずにそう告げたあと、言ったとおりのことをした。「あの気違いじみた歯磨粉を使うのは、もうやめにしてほしいね。きれいな|琺《ほう》|瑯《ろう》|質《しつ》をみんな、おまえの歯から取っちまうんだから。おまえはきれいな歯をしているよ。せめて、まともな――」
「だれがそんなこと、言ったんだい?」浴槽の波だつ音が、シャワー=カーテンの向こう側でした。「いったいぜんたいだれが、きれいな琺瑯質をみんな、おれの歯から取っちまうって、言ったんだい?」
「わたしだよ」グラス夫人は自分の庭に最後の批評的な|一《いち》|瞥《べつ》を与えた。「まあ、お願いだから、使っておくれな」彼女はサル・ヘパティカのまだあけてない箱を、伸ばした手の指を移植|鏝《ごて》がわりに、軽く突いて、ほかの常緑樹たちと一列に並ばせ、それからキャビネットの戸を閉めた。そして、水の栓をひねった。「だれなんだろうねえ、手を洗っておきながらそのあとでボウルをきれいにしとかないのは?」と、彼女は不機嫌に言った。「うちは全部、おとなばかりのはずだけど」彼女は水圧を強めて、ボウルをてばやく、だが、すみからすみまで、片手で洗った。「どうやら、おまえはまだ妹には話してないみたいだね」彼女はそう言って、シャワー=カーテンのほうをふり向いた。
「ああ、まだ妹には話してないね。もういいかげんに、出てってくれたらどう?」
「どうして話してないんだね?」と、グラス夫人は強く尋ねた。「いいことじゃないと思うけどね、ズーイ。ちっともいいことじゃないと思うよ。とくべつ頼んでおいたじゃないかね、どうか行って見てきてほしいって、なにか――」
「まず第一にだよ、ベシィ、おれはまだ一時間まえに起きたばかりだぜ。第二にだよ、あいつ、ゆうべ、おれと二時間もたっぷり話したばかりだからな、きょうまた、おれたちのくそだれかと腹をわってなんか話したがるもんか。それから第三にだよ、もし母さんがこのバスルームから出てってくれないなら、この|穢《きた》ならしい、くそカーテンに火をつけてやるから。ほんとだぜ、ベシィ」
この三つの説明点の中途で、グラス夫人は耳を貸すのをよして、腰をおろした。「ときどきね、もうすこしでバディを殺しちまいたくなることがあるよ、電話を引かないんでね」と、彼女は言った。「くだらない。大の男が、よくもまあ、あんな暮しができるものだよ――電話もなければ、なんにもなくて? だれひとり、あの子のプライバシーを侵そうなんて思わないのにねえ、もしどうしてもそうしてほしいんならよ。だけど、どう考えたって、隠者[#「隠者」に傍点]みたいに暮らすことはないと思うんだけどね」彼女はいらだたしげにからだを動かして、足を組んだ。「無用心ってことだってあるわよ、ほんとに! 思ってもごらんよ、あの子が足を折るとか、そんなふうなことがあったときを。あんなふうに、森の奥のほうでさ。わたしゃそのことをしょっちゅう気に病んでるんだから」
「そうかねえ? どっちのことを気に病んでるんだい? 足を折ることかい? それとも、引いてほしいのに電話を引かないことかい?」
「両方だよ、おまえ、言っとくけど」
「まあ……よせよ。よせよ、時間の無駄使いは。ばかだなあ、ベシィは。どうしてそうもばかなんだろ? バディのことならわかってるじゃないか、ほんとに。森の二十マイルも奥にいてさ、足を両方とも折って、背中にはさ、くそ矢が突ったっていたって、兄さんのことだ、自分のほら穴に這いもどるさ、だれか、るすのあいだに、兄さんの靴カバーをはいてみようと思って、忍びこんできはしないかどうか、確かめるためだけにな」短かい、楽しそうな、それでもいくらか残忍な高笑いがカーテンの後ろで響いた。「嘘は言わんよ。兄さんはな、プライバシーをものすごく大事にするから、どこにしろ、森の中なんかで死にっこないさ」
「だれも、死ぬことなんて、言っちゃいないよ」と、グラス夫人は言った。そしてヘヤーネットを軽く、必要もないのに直した。「けさはひと朝じゅう、あの子のとこから来る道のとこに住んでる、ほら、あの人たちにね、電話をかけっぱなしさ。電話口にさえ、出てくれないんだから。腹がたつねえ、あの子に電話もかけられないなんて。いくどもいくども頼んだのにさ、あのいかれた電話を、シーモァとふたりして使ってたあの前の部屋から持ちだせってね。それに、非常識じゃないのよ。ほんとになにかあってよ、電話がいるとき――。腹がたつねえ。ゆうべは二度もかけて、けさは四回ぐらい――」
「そう〈腹がたつ、腹がたつ〉って言って、いったいなにがさ? だいいち、あの道のとこのよその連中がさ、どうしておれたちの言うままにならにゃならんの?」
「だれも、だれかがわたしらの言うがままになるなんてこと、言ってやしないじゃないの、ズーイ。そうなまいきな口をきくんじゃないよ、おまえ。言っとくけど、わたしゃ、あの子のことでは、とっても気に病んでるんだから。それにこんどのことはみんな、バディの耳に入れとかなくちゃいけないと思うよ。言っておくけどね、もしこんなときにあの子に連絡しなかったら、あの子はきっと、一生、わたしを許さないと思うよ」
「いいよ、それなら! どうして大学に行ってみないの、そんな近所の連中になんか、迷惑かけずにさ? とにかく、こんな時間じゃ、兄さん、あのほら穴になんかいないと思うよ――そのくらいのこと、わかってるじゃないか」
「ちょっと、その声をもっと低くしてもらえないものかねえ、おまえ。だれも、つんぼなんかじゃないんだから。言っとくけどね、大学へも行ってきたんだよ。経験からわかってるけどさ、そんなことしたってぜったい、なんの役にもたたないことぐらいはね。あの子の机の上にことづてを置いてくれるくらいのもので、とにかくあの子が、どこにしろ、研究室のそばになんか寄りつかんと、わたしゃ思うね」グラス夫人は唐突にからだをこごめて体重を前にかけたが、立ちあがることはせず、手を伸ばして、洗濯物の|籠《かご》の上からなにかを摘まみあげた。「手ぬぐいはそっちにあるの?」と、彼女は聞いた。
「言うんなら、手ぬぐいじゃなく、タオルだよ。とにかく、たった一つお願いだからさ、こんちくしょう、ベシィ、おれをこのバスルームでひとりにしておいてくれないかなあ。それだけが、おれのしてほしいことさ。もしおれがだよ、通りすがりの、でぶっちょのアイルランドのバラをひとりひとり連れこんで、この場所を満員にしたかったら、こっちからそう言ってると思うぜ。さあ、さあ。出てってくれよ」
「ズーイ」と、グラス夫人はこらえて言った。「きれいな手ぬぐいを手に持っててやるんだよ。ほしいのか、ほしくないのか、どっち? ほしいか、いらないかだけでも、言っておくれな」
「あーあ、ちくしょう! ほしいよ。ほしいよ。ほしいよ。世界じゅうでいちばんな。こっちへ投げてよこして」
「投げるのはいやだよ。手に渡してやりたいね。いつだって、なんでもかんでも投げるんだから、このうちじゃ」グラス夫人は立ちあがって、シャワー=カーテンのほうへ三歩、近づき、それから、からだから切りはなされた手がそのタオルを取りに出るのを待った。
「百万べんもありがとだ。さあ、とっとと消えてくれよ。もう十ポンドも、体重が減ったぜ」
「あったりまえですよ! そのお湯の中につかってるさね、顔の青くなるまででもね。そうすりゃ――これはなに?」興味しんしんの様子でグラス夫人はからだをこごめ、台本を拾いあげた。彼女がまだ部屋にはいってこないまえ、ズーイが読んでいたあれだ。「これが、ルサージュさんの送ってきた、新しい台本なの?」と、彼女はきいた。「ゆかの上にあるこれ?」答えは得られなかった。それはまるで、エヴァがカインに、外のあそこで雨に打たれているのはおまえのあのすてきな新しい|鋤《すき》じゃないのかどうかと、たずねたみたいであった。「台本を置くにゃ、最高の場所だこと、ねえ、おまえ」彼女はその台本を窓のほうへ移動させて、注意ぶかくラジエーターの上に載せた。それから、濡れているかどうか、検査するみたいな様子で、それを見おろした。窓のブラインドはおろされていた――ズーイは浴槽読書を、天井の、三球式の電燈からの光で、全部、したのだった――が、しかし、微かな朝の光がブラインドの下のほうに、台本の表紙の上に忍びこんでいた。グラス夫人は頭を片方にかしげて、表題を読みやすくすると同時に、キモノのポケットから、キングサイズのタバコの箱を取りだした。『心は秋のさすらいびと』と、彼女は読みあげ、つくづくと考え、声に出して言った。「珍しい題だこと」
シャワー=カーテンの向こう側からの反応は、すこし遅れはしたものの、嬉しそうだった。「なんだって? どういう題だって?」
グラス夫人はガードをすでに立てていた。彼女はバックアップの構えにはいり、ふたたび火のついたタバコを持って、腰をすえた。「めずらしいって、言ったんだよ。美しいとか、なんとかは、言わなかったからね、だから――」
「へええ。朝はそうとう早く起きないと、なんでも、ほんとにパリっとしたものは全部、やりすごしちゃうものなんだぜ、ベシィちゃん。自分で、自分の心ってなにか、わかってるだろう、ベシィ? あんたの心はどんなだか知りたいかい? あんたの心はだよ、ベシィ、秋のガレージさ。どうだね、これは、いかす題だろ、え? ほんと、たいがいの連中は――たいがいの、事情にうとい連中はだ――このうちにゃ、くそ文才のあるのはシーモァとバディだけだと思ってやがる。おれは物を考えるとき、一分でも腰をおろして感覚的な文章だとかガレージのことだとか、考えるとき、毎日でも、投げすててるのさ、おれの――」
「わかったよ、わかったよ、おまえ」と、グラス夫人は言った。テレビ・ドラマの題についての趣味や、一般に彼女の美学が、たとえなんであろうと、とにかく、一つの|燦《きらめ》きがその目に現われた――燦きにすぎなくはあったが、しかしその燦きは――自分の、末の、ハンサムな息子のいばり方を、ひねくれたふうにだとはいえ、いかにも目ききらしく味わっていることの現われだった。その燦きのおかげで、彼女がこのバスルームにはいってきたときからずっとその顔に出ていた、全面的に消耗したような、そして明らかに特別の懸念を浮かべた表情は、ほんの数分の一秒ほど、追放された。しかし、彼女はほとんどまをおかずに防御の姿勢に立ちかえった。「その題がどうしたっていうの? とっても珍しい題ねえ。おまえ! おまえはなんだって、珍しいとも、美しいとも、思わないんだから。わたしゃ、一度だって聞いたことはないよ、おまえが――」
「なんだって? だれがなにしないんだって? いったいなにを、おれが美しいって思わないって?」小型の津波の音がシャワー=カーテンの向こう側で聞こえ、まるでいくらか怠惰なイルカがとつぜん芸を始めたみたいだった。「いいかい、あんたがおれの人種だとか、信条だとか、宗教だとかについてなにを言おうと、おれはかまわんよ、おでぶちゃん、だけど、おれが美にたいして敏感じゃないなんては言わないでおくれよ。そこが、おれのアキレスの|踵《かかと》なんだからな、忘れないでくれ。おれにはだよ、なんだって美しいんだ。ピンクの日没をおれに見せてみろよ、そうすりゃあ、おれはふにゃふにゃになるさ、ぜったい。なんだってだ。『ピーター・パン』だってな。『ピーター・パン』で、カーテンが上がるまえだってもよ、おれは、水たまりみたいにくそ涙が出るんだ。それなのに、母さんはいけしゃあしゃあと、おれにむかって言うんだからな、おれは――」
「ねえ、お黙りよ」と、グラス夫人は言った、呆然として。彼女は、大きな溜め息をついた。それから、緊張した表情で、タバコを深く吸いこみ、鼻から煙を出しながら言った――というより、むしろ噴出した――「あーあ、あの子をどうしたらいいのか、それがわかったらねえ?」彼女は深く息を吸った。「まったく、もう|綱《つな》のはしまで来てるわ」彼女はシャワー=カーテンに、レントゲン線みたいな一瞥を与えた。「おまえたちときたら、だれひとり、なんの役にもたたんのだから。だれもよ! おまえたちの父さんは、どんなことでもこんなふうに話すことすら、いやがるんだから。それはわかってるでしょ! あの人だって、心配してるのよ、もちろん――顔を見ればそれくらいわかるわ――だけど、どうしても、事とまともに向きあおうとしない」グラス夫人の口もとが引きしまった。「あの人は、わたしが知ってからずっと、一度だって、事とまともに向きあったことはありゃしない。かわったことや、不愉快なことは、みんな、ひとりでに消えていくと思ってるのよ――ラジオをひねって、どこかのまぬけ小僧が、歌でも始めりゃ、それでね」
吠えるみたいな高笑いがひと声、閉めきられているズーイのもとで起こった。それは彼一流のバカ笑いとほとんど区別がつかなかったが、それでも、そこには一つの相違があった。
「ええ、そうですとも!」と、グラス夫人は言いはった――滑稽味は混じえずに。それから、腰かけたまま身を前に乗りだして、問いつめた。「正直いって、わたしがなに考えてるか、知りたいかい? ええ?」
「ベシィ。ちくしょう。あんたはとにかく、おれに聞かせるつもりなんだから、どうっていうことないじゃないか、おれが――」
「わたしはね、正直いって、こう考えてるのさ――ほんとよ、これは――わたしは正直いって、考えてるんだけど、あの人はね、いまもって、おまえたち子供らのみんなの声をまたラジオで聞きたいって、思いつづけているのよ。本気で言ってるんだからね、これは」グラス夫人はまた深く息を吸った。「ラジオをひねるそのたびごとにね、正直いって、どうやら、あの人は、ダイヤルを『賢い子』に合わせて、おまえたち子供らがみんな、ひとりずつ、また問題に答えるのを聞きたいと思うらしいのよ」彼女は唇を締めつけて、言葉を休め、われしらず、つぎの強調にそなえた。「いいね、おまえたちみんなをよ」そう言ってから、彼女は唐突に、姿勢をちょっとまっすぐにした。「シーモァとウォールトもはいるの」彼女は、てばやく、しかしたっぷりと、タバコを吸った。「あの人は完全に、過去に生きてるのね。そう、完全にね。テレビだって、まずぜったい見ないんだからね、おまえが出てなきゃ。だけど、笑わないでおくれよ、ズーイ。おかしいことじゃないんだから」
「いったい、だれが笑ってるっていうの?」
「ああ、これはほんとのことだよ! まったく、ちっともわかっちゃいないんだから、フラニーがほんとにどうかしてるって、ことなど。そう、なんにもね! ゆうべ、十一時のニュースのすぐあとで、あの人なにをきいてきたと思う? フラニーにミカンやったらどうだ、だって! あの子は、あそこで何時間て横になって、ちょっとでもなにか言や、目がとびでるくらい泣きわめいたり、なんだかわけのわからんことをぶつぶつ言ったりしてるっていうのに、父さんときたら、あの子にミカンやったらどうだなんて、思ってるんだからね。殺してやりたいくらいのものだったわ。このつぎ、あの人が――」グラス夫人はとつぜん声をとぎらせた。そして、シャワー=カーテンをじっと見すえた。「なにが、そうおかしいの?」と、彼女は問いつめた。
「べつに。べつに、べつに、べつに。おれはミカンが好きだな。よくわかったよ、それで、ほかにだれが、あんたの役にたたんのだって? おれ。レス。バディ。ほかにだれだい? あらいざらい、言っちまえよ、ベシィ。遠慮するなよ。それが、このうちの家族の、たった一つ、やっかいなとこさ――おれたちは、なんでも|瓶《びん》づめにしておきすぎるんだ」
「まあ、おまえったら、えらくおかしな子だねえ」と、グラス夫人は言った。そして、時間をかけて、ほつれ毛の小さな房をヘヤーネットのゴムの下に押しこんだ。「あーあ、二分か三分でいいから、バディをあのいかれ電話に出せるといいんだけど。たったひとりの人間なんだからねぇ、こんどのおかしなことについては、のこらずわかってるはずの」彼女は思案した――明らかに恨みがましい様子で。「降ればいつもどしゃぶりか」彼女はタバコの灰を、丸めた左の手のたなごころの中に、軽く叩いて落とした。「ブー=ブーは十日までは帰らないと言うし。ウェイカァには、こわくてこのことは話せないだろうしね、たとえ、どうしたらあの子がつかまえられるか、それがわかっていてもよ。こんな家族は、生まれてからまだ一度だって、見たことがありゃしない。ほんとよ。おまえたちはみんな、とても知能が高くて、なんでもできる――おまえたち子供らはみんなね――それでいて、いざというときにはひとりとして、ものの役にたちゃしない。ひとりとしてね。わたしゃ、ほんのちょっとばかしいやけがさしてきてね――」
「どんないざ[#「いざ」に傍点]なんだい、いったい? どんないざというときに? おれたちになにをしてほしいんだい、ベシィ? あそこへ行って、フラニーの身代わりになるのかい?」
「ちょっと、そんな言い方はおよし! だれも、だれか、あの子の身代わりに生きてやれなんて、言ってやしないよ。ただね、だれかに、あの居間へ行って、なにがなんなのか、それを見つけだしてほしいのよ、それだけ、してほしいわけ。ただね、いつになったらあの子は大学へ帰って、あと一年を終える気でいるのか、それを知りたいだけなのよ。ただね、いつになったらあの子は、なにか、半分でも栄養になるものを自分の胃に入れる気でいるのか、それを知りたいだけなのよ。あの子ったら、土曜の夜に帰ってきてから、まずなんにも食べてやしないんだから――そう、なんにもよ! わたしはね――半時間もたたない前に――あの子に、おいしいチキンスープを飲ませてやろうとしたのよ。ちょうどふた口、食べて、それだけよ。きのうは、食べさせてやったものを全部、あげ[#「あげ」に傍点]てしまってね、まずは」グラス夫人の声はそこで止まり、ふたたび装填するあいだだけ――いわば――休んだ。「あの子の言うにはね、たぶんあとでチーズ・ハンバーグを一つ食べるわ、だって。いったいなによ、このチーズバーガーってのは? どうやらあの子はね、いままでひと学期じゅうずっと、チーズバーガーとコークだけで生きてきたみたいよ。このごろじゃ、大学では、女の子にそういったものを食べさせるのかねえ? わたしにだって一つだけはわかってるよ。わたしならぜったい、あの子みたいにへたばった子に食べさせることはしないねえ、同じ食べものでも――」
「そうそう、そのとおり! チキンスープか、じゃなきゃ無、ということにするんだな。つまり、断固としてやるってわけさ。あいつがどうしても神経衰弱になるって、きかないんなら、おれたちはせめて、そうやすやすとはなれんようにしてやらなくちゃ」
「まあ、そうなまいき[#「なまいき」に傍点]いうのはやめておくれよ、おまえ――ほんとに、おまえのその口ったら! ご参考までに言っとくけどね、あの子が自分のからだに取りこむ食べものの種類がよ、こんどのこのおかしなこと全部と大いに関係があるっていうのは、ぜんぜん考えられないことじゃないと、思うねえ。子供のころですら、まず、むりじいしなきゃ、あの子に、野菜だとかいう、からだにいいものに、手をふれさせることさえ、できなかったじゃないか。自分のからだを際限もなく、年がら年じゅう痛めつづけるってわけにはいかないんだから――よしんば、おまえがどう思おうとね」
「まったく、おっしゃるとおりだよ。まったく、おっしゃるとおりだよ、あんたが、いきなりずばりと、事の核心にとびこむそのとびこみ方にゃ、ほとほと感心するよ。おれは、いちめん鳥肌だっちまって。じっさい、あんたは勘をひらめかせてくれるよ。燃えたたせてくれるよな、ベシィ。自分がなにをしたか、あんたはわかってるのかね? 自分がなにをしたか、はっきり知ってるのかね? あんたは、あのくそ問題、全部に、新鮮な、新しい見方を与えてくれたのさ。おれは大学で、キリストの|磔《たっ》|刑《けい》について、論文を四つ、書いた――五つだけどな、ほんとは――ところが、それはどれもこれも、どうもなにかが欠けてるみたいで、おれは不安になって、半気違いも同然だったんだ。それが、いま、なにかわかった。いま、はっきりしたんだ。キリストをぜんぜん別の見地から見るようになったんだ。あいつの不健康な狂信。あのりっぱで正気で、保守的な納税者のパリサイびとに、あんなふうな無礼をしてさ。ああ、胸がわくわくしてくるぜ! あんたはその、単純な、きいっぽんな、わからずやみたいなやり方でな、ベシィ、どうしても見つからなかった、新約聖書全体の主調音を鳴りひびかせたんだぜ。食事の間違いか? キリストはチーズバーガーとコークで生きてたんだ。おれの見るところ、どうやらあいつは食わせてたんだな、家――」
「やめておくれな、もう」と、グラス夫人は口をはさんだが、その声は、静かな中にも危険をはらんでいた。「あーあ、おまえのその口に、おしめでもかぶせてやりたいもんだ!」
「ヘイ、ヘイ、ホー。おれはただ、上品に、バスルーム向きの話をしようとしてるだけじゃないか」
「おまえはほんとにおかしいよ。あーあ、おまえはほんとにおかしい! おあいにくなことにね、おまえ、わたしはおまえの妹のことを、神さまを見るのとほんとにちょうどおんなじようには、見ちゃいないからね。わたしは変わってるかもしれないけど、おあいにくなことに。おあいにくなことに、ぜんぜんくらべものになんかなりはしないと、思ってるよ、神さまと、勉強しすぎてへばった女の子の大学生とはね――宗教の本やらなにやらを読みすぎくさって! あの妹のことなら、おまえはわたしとおんなじぐらい、ちゃんとわかってる――それとも、わかっててほんとよ。あの子はいまおっそろしく感じやすくて、これまでだってずっとそうだったんだよ、おまえしってることじゃないかね」
バスルームは一瞬、奇妙に静まりかえった。
「母さん? そこに腰かけてるのかい? まるで、そこに腰かけてタバコを五本かそこいらふかしてるみたいな感じだぜ。ええ?」彼は待った。しかし、グラス夫人は、返答をしないことにしたようだった。「いやだなあ、おれ、あんたに、そこに腰かけられているのは、ベシィ。このくそいまいましい湯の中から、出たくてしょうがないのに」
「あいよ、あいよ」と、グラス夫人は言った。また新しい懸念の波がその顔の上を通りすぎた。彼女はかたくなに背を伸ばした。「あの子はソファーにあのいかれたブルームバーグをつれこんでるんだよ」と、彼女は言った。「健康にも悪いのにねえ」彼女は大きく溜め息をついた。もう五、六分の間、タバコの灰を、すぼめた左手のたなごころに載せているのだった。彼女はようやくその手を伸ばして、立ちあがる必要などぜんぜんなかったので、そのまま屑かごの中にそれをあけた。「いったいどうしろっていうのか、わからなくてねえ」と、彼女は告げた。「かいもくわからないのよ。ほんと。このうちはすっかりめちゃくちゃになってる。ペンキ屋は、あの子の部屋はもうあらかた終えちまってて、おひるがすんだらすぐにでも居間のほうへ移りたいって言いだすだろうし。わたしゃ、あの子を起こしたほうがいいのかどうか、わからないんだよ。あの子ったら、ほとんど眠っちゃいないからね。ほんとに、気がへんになりそうだよ。いったいどのくらいになるか、おわかりかい――このまえ、手があいてこのうちにペンキ屋にはいってもらってからね? そろそろ二十――」
「ペンキ屋! ああ! それでわかりかけてきたぞ。おれ、ペンキ屋のことはすっかり忘れてた。ねえ、どうしてここへはいってもらわないの? ここなら、あいたとこはいくらでもあるぜ。連中、いったいおれのこと、どんなあるじだって思うか、知れないぞ――バスルームにも入れないで、おれが――」
「ちょっと、黙ってておくれでないかえ、おまえ。わたしゃ、考えごとしてるんだから」
まるで、言われたとおりにする、とでもいうみたいに、ズーイは唐突にタオルを使いはじめた。ほんの短かい間合いのあいだ、このバスルームの中では、タオルのパシャパシャいう音しか聞こえなかった。グラス夫人は、シャワー=カーテンから八フィートか十フィートくらい離れたところに腰をすえて、タイルのゆかの向こうにある、浴槽の手まえのバスマットをじっと見つめていた。手に持ったタバコは、最後の半インチのところまで燃えてきていた。彼女はそれを、右手の二本の指のあいだに挟んで持っているのだった。明らかに、彼女のその持ち方を見ていると、最初に強烈に受けた(そして、いまもってなお申し分なく正しいと言いうる)あの印象――つまり、目に見えない黒いダブリン・ショールが彼女の肩にかかっている、といった印象は、ある種の文学的な地獄へ吹きとばされてしまいそうだった。彼女の指は、異常に長くて形がいいばかりか――たとえば、ごく一般的に言って、中肉中背の女の指としてはとても考えられないほどに――そのうえ、いわば、いくらか威厳のある震えをその特色としていた。つまり、廃位の憂き目にあったバルカンの女王か、あるいは、いま引退した、かつての人気者の高等娼婦ならかくもあらんといった優雅な震えだったのである。そして、なにもこれだけが、例の黒いダブリン・ショール=モチーフと矛盾していたわけではなかった。ベシィ・グラスの足については、人がおもわずびっくりして眉毛をいくらか吊りあげるような事実があったのである。この足は、どのような基準に合わせても、みめがよく、いちどはまったくの広範囲にわたって認められていた大衆的な美人――ボードビリアンか、踊り子か、非常にかろやかな踊り子のものだったのだ。その二本の足は、彼女が腰かけてバスマットを見つめている今は、左が右の上になって組みあわされ、くたびれた白のテリクロスのスリッパが、伸びた爪さきからいまにも落ちそうな気配であった。足首から先は異常なまでに小さくて、踵はさらにもっと細く、そして、たぶんはこれがもっとも注目すべきところなのだが、ふくらはぎはいまもって引きしまっており、どうみても、これまでに結節ができたことは一度もない様子だった。
いつもの癖よりもさらにもっとずっと深い溜め息が、――ほとんど、生命力そのものの一部分とさえ言ってよいほどだった――とつぜん、グラス夫人の口をついて出た。彼女は立ちあがって、タバコを洗面ボウルのところまで持ってゆくと、水道の水をその上にかけ、それから、火の消えた吸いさしを屑かごの中に捨てて、また腰をおろした。彼女がわれとわが身にかけた内省の呪文は依然、破られていず、その様子は、まるで、いま腰かけている場所から一歩も動かなかった、とでもいうみたいであった。
「もう三秒かそこいらで、おれ、出るよ、ベシィ! いいかい、ちゃんと予告してるんだぜ。気が合っているのをだいなしにするようなことはよそうじゃないか、なあ、おい」
グラス夫人は、また前のように青いバスマットを見つめながら、この「ちゃんとした予告」に、うわのそらでうなずいた。そしてその瞬間に、もしズーイが、ただ形だけではなく、彼女の顔を、とりわけその目を見たとしたら、強い衝動を、一時的にせよなににしろ感じて、ふたりのあいだで交わされた会話のうちの、自分の持ち分を大部分、撤回するか、再構成するか、変更するかしたいと――それを柔らげるか、穏やかにしたいと、思ったかもしれない。他方ではまた、そう思わなかったかもしれない。一九五五年には、グラス夫人の顔、とくにその巨大な青い目から、なにか、完全にもっともらしいことを読みとるのは、きわめて危ない仕事だったのである。かつて、数年まえには、彼女の目だけしか、ふたりの息子の死んだニュースを(人にたいしてにしろ、バスマットにたいしてにしろ)洩らすことのできるものはなかったのだが――ひとりは自殺して(これは彼女の秘蔵っ子で、もっとも複雑に目盛りを打たれた、もっとも親切な息子だった)、ひとりは第二次世界大戦で殺されていた(彼女の、たったひとり、ほんとうに気楽な息子だった)――かつてはベシィ・グラスの目だけが、こうした事実を報告することができた、それも、雄弁に、また、彼女の夫にしろ成人した子供たちのだれにしろ、正視することは、ましてや受けいれることは、耐えられないような細部にたいして情熱を燃やしながら、報告することができたのだが、いま、一九五五年には、彼女は、それと同じ、おそろしいケルト的な能力を、たいていは表口のところで、こんど来た配達の小僧は子羊の足を夕食にまにあうように持ってこなかったとか、だれか、遠いハリウッドのスターの卵の結婚生活が破綻を来たしたとかいうニュースを洩らすのに用いがちであった。
彼女は、新しいキングサイズのタバコにまた唐突に火をつけ、ひといき吸って、それから立ちあがりながら、煙を吐きだした。「すぐに戻ってくるからね」と、彼女は言った。その強い言葉は、はからずも、約束みたいに響いた。「出るときは、いいからバスマットをお使い」と、彼女は付けくわえた。「そのために、そこに置いてあるんだからね」そして、バスルームを出ると、ドアをしっかりと締めた。
それは、いわば、クイーン・メリー号が、まにあわせのドックに数日はいっていたあと、そう、ソローのウォールデン湖から、はいってきたときと同じくらい突然に、また、いじわるく出ていった。とでもいえそうなところであった。シャワー=カーテンの向こう側では、ズーイが数秒、目を閉じ、あたかも自分の小さな舟が船跡にはまりこんで危なげな揺れ方をしている、とでもいうみたいな様子だった。それから彼は、シャワー=カーテンを押しあけて、しまっているドアのほうをじっと見つめた。そうして見つめる目つきは重々しくて、安堵が実際にその大半を占めているとは言えない底のものだった。それは、ほかのなににもまして、ある種の――べつにそれほど逆説をてらうわけではないが――プライバシー愛好家の目つきで、この男たるや、ひとたび自分のプライバシーが侵害されると、その侵害者が、いまみたいに、一、二、三とばかりにすっと立ちあがって出ていくのは、かならずしも容認できない、というわけである。
それから五分とたたないうちに、ズーイは、濡れた髪の毛に|櫛《くし》を入れたあと、はだしのまま洗面ボウルの前に立った――濃い灰色の、ベルトレスの、シャークスキンのズボンをはいて、洗顔用のタオルをむきだしの肩にかけていた。ひげ|剃《そ》り前の儀式は、すでに挙行ずみであった。窓のブラインドは半分まで上げられていた。入口のドアは、湯気を外に出して鏡がくもらないようにするために、細目にあけてあった。火をつけて、ひとくち吸ったあとのタバコが一本、簡単に手を伸ばして取れるように、洗面キャビネットの鏡の下の、|磨《す》りガラスの棚の上に載せてあった。このときズーイは、ひげ剃りブラシの先端にシェービング・クリームを、ちょうどしぼりだして付けおわったところだった。彼は、そのクリームのチューブを、蓋はかぶせずに、琺瑯びきの背面の中の、どこか目につかない所へしまいこんだ。それから、洗面キャビネットの鏡のおもてを、キュッキュッいわせながら、手のひらであちこちこすって、|靄《かすみ》をだいたい拭きとった、つづいて、顔にシェービング・クリームを塗りはじめた。彼のこのクリームを塗る技術は、普通とは大いに異なっていた――もっとも、その精神においては、実際にひげを剃る技術と同一のものであったが。つまり、クリームを塗りながら鏡の中を見ることは見るのだが、ブラシの動いているところは見まもらずに、そのかわり、まっすぐ自分の目に見いるわけで、その様子はさながら、この目は、自分が七つか八つのころから戦いつづけている、ナルシシズムとの内密戦争における中立地帯、無人地域だ、とでもいうかのようであった。二十五歳になっている今では、このちょっとした戦略はだいたいのところ反射的になっているといっていいほどで、それはちょうどベテランの野球選手が、打席にはいると、その必要があろうとなかろうと、バットでスパイクを軽く叩くのに似ていた。それでいて、この数分まえの、髪の毛に櫛をおとしたときには、彼は、鏡からはそれこそ最小限の援助を受けるだけで、それをしたのだった。そして、それよりまえに、からだを拭いたときには、等身大の鏡の前にたちながら、その中を覗きこむことすらせずに、それをやりおおせたのだった。
彼がちょうど顔にクリームを塗りおえたとたんに、母親の姿がとつぜん、鏡の中に現われた。彼女は、彼の二、三フィート後ろにあたる戸口のところで、片手をドアのノブに掛けて立っていた――部屋の中へもう一度はいりこむのを、うわべだけためらっている、とでもいった図だ。
「いやあ! これはまた、嬉しくも好ましき、突然のご入来ですな!」と、ズーイは鏡の中に向かって言った。「ま、おはいり、おはいり!」彼は笑い、というより爆笑して、それから洗面キャビネットをあけ、中から安全かみそりをおろした。
グラス夫人は物思いに沈みながらはいってきた。「ズーイ」と、彼女は言った。「わたしゃ、ずっと考えてたんだよ」彼女がいつも腰をおろす器具はズーイのすぐ左手にあった。彼女はすぐに、その場所にからだを沈めはじめた。
「だめだよ、腰をおろしちゃ! まず、あんたにうっとりさせてくれよ」と、ズーイは言った。浴槽の外に出て、ズボンをはき、髪の毛をとかしたことが、どうやら彼の気分を高めたみたいであった。「そうたびたび、このわれらが礼拝堂に客が来るわけのものじゃないからな、来たときには、なるべくその連中に気分を――」
「まあ、ちょっと静かにしておくれよ」グラス夫人はきっぱりとそう言いながら、腰をおろした。そして、足を組んだ。「わたしゃ、ずっと考えてたんだよ。おまえ、どんなものだろう、ウェイカァをつかまえてみるのがいいかしらねえ? わたしゃ、だめだと思うけど、おまえとしてはどんなもんだろ? つまり、わたしに言わせればね、フラニーにいま要るのは、ちゃんとした精神病のお医者なんだよ、司祭とかなんとかじゃなくてね――だけど、これは間違ってるかもしれないよ」
「いや、いや。だいじょうぶ、だいじょうぶ。間違ってはいないよ。あんたが間違ったためしは、一度だってないんだから、ベシィ。あんたの持ちだす事実は、嘘か、誇張か、そのどちらかだけど、間違ってたことは一度だってありゃしない――だいじょうぶだよ。だいじょうぶだよ」嬉々としながら、ズーイは安全かみそりを濡らして、ひげを剃りはじめた。
「ズーイ、わたしゃ、おまえに頼みごとをしてるんだよ――ちょっと、その冗談はやめにしておくれでないかね、え、お願いだから。ウェイカァと連絡をとったら、どんなもんだろうって、きいてるのよ? あの、ピンチョトとかなんとかいった司教に電話をかければ、たぶん、すくなくともどこへ電報を打ったらいいかぐらいは、教えてくれると思うんだけどねえ、もしあの子がまだ船のやつに乗ってるのならさ」グラス夫人は手をのばして、金属の屑かごを自分のすぐそばまで引きよせ、それからそれを、火をつけたままこの部屋に持ちこんだタバコの、灰皿がわりに使いはじめた。「フラニーに、あの子と電話で話したいかどうかって、きいてみたんだよ」と、彼女は言った。「もし、わたしがつかまえてやったらね」
ズーイはかみそりをてばやくゆすいだ。「なんて言ってた?」と、彼はたずねた。
グラス夫人は、腰かけている姿勢を直して、ちょっと逃げるように右へ移した。「だれとも話したくないって、言うのよ」
「へーえ。そんなことにはごまかされないよな? そんなふうにあっさり答えられても、おれたち、そのままうのみに聞きいれることはせんよな?」
「ご参考までに言っておくけどね、おまえ、わたしゃ、きょうは、あの子がどんなこと、答えてきても、聞きいれはしませんからね」と、言って、グラス夫人は勢力をまた盛りかえした。それから、ズーイの、泡だらけの横顔に言いきかせた。「だれだって、女の子が一つ部屋に四十八時間も寝てて、泣きわめいたり、ぶつぶつひとりごと言ったりしてれば、その子に、なにかに答えてもらおうなんてするもんですか」
ズーイは、これには口をはさまずに、ひげを剃りつづけた。
「わたしのきいたことに答えておくれよ、お願いだから。ウェイカァに連絡、とるべきだと思うのかい、思わないのかい? わたしゃ、とらないほうがいいと、思うんだけど、はっきりと言って。あの子ったら、とっても情にもろいからねえ――司祭だからかどうかは、知らないけどさ。ウェイカァのとこへ、雨が降りそうだって言ってごらん、もう目は涙でいっぱいになるんだから」
ズーイはこの言いぐさを、鏡に映った自分の目で楽しんだ。「まだ、望みは捨てたもんじゃないよ、ベシィ」と、彼は言った。
「そうねえ、もしバディを電話には呼びだせなくて、おまえまで助けてくれないっていや、わたしゃ、自分でなにかしなくちゃならんだろうねえ」と、グラス夫人は言った。そして、にがりきった顔つきをして、長いあいだ、タバコを吸いつづけた。それから――「もしこれが、なにか純粋にカトリックの問題だとか、そんなものだったら、わたしゃ、自分であの子を助けてやれるかもしれないんだけどねえ。わたしだって、なにもかもみんな、忘れちまったわけじゃないからね。ところが、おまえたち子供らは、だれひとり、カトリックとして育ったわけじゃなし、わたしにしたって、ほんとはわからないんだよ――」
ズーイはその話の腰を折った。「どうかしてるよ」そう言って、彼は彼女のほうに、泡だらけの顔を向けたのである。「どうかしてるよ。まったくどうかしてる。そのことは、ゆうべ言っただろ。このフラニーの問題は、純粋に、非宗教的なものだって」彼はかみそりを水につけて、あいかわらずひげを剃りつづけた。「まあ、おれの言葉を聞けよ、頼むから」
グラス夫人は彼の横顔をまじまじと、食いいるように見つめた――まるで、彼の言葉はこのさきまだ続くかもしれない、とでもいうように――が、続かなかった。ついに彼女は溜め息をついて、言った。「だいたいのとこ、当座は満足するんだけどねえ、もしあのいやらしいブルームバーグをソファーから外に出してしまえればね。あんなもの、健康にだって悪いですよ」彼女はタバコを吸った。「それから、ペンキ屋はどうしろっていうのか、それだってわかりゃしない。いまごろはもう、あの子の部屋をあらかた終えてしまって、居間へはいりたくてうずうずしはじめてるよ」
「ねえ、このうちで、問題をかかえてないのは、おれだけだぜ」と、ズーイは言った。「で、それはどうしてか、わかるかい? いつだって、おれは憂鬱だったり、自分のすることがわからなかったりするとさ、まあ、人に何人か、このバスルームへはいってきてもらって、それから――そうな、いっしょになって、事にケリをつけてもらうからさ、それだけのことだよ」
グラス夫人はすんでのところで、このズーイ一流の問題処理法のために、|鉾《ほこ》先をそらされてしまいそうになったが、しかし、きょうという日は、ありとあらゆる楽しみごとは押さえつけねばならぬ日だった。彼女は一瞬、彼の顔を見つめたが、そのうちに、ゆっくりと、新しい表情がその目の中に集まってきた――機略縦横の、悪賢い、それでいていくらか絶望気味の表情が。「ねえ、おまえ、わたしゃ、おまえが考えてるかしれないほどにはバカじゃないんだよ」と、彼女は言った。「おまえたちはみんな、とっても隠しだてをするもんだから、どの子もどの子もね。まあ、じつを言うとね、知りたきゃ言ってあげるけど、わたしは、こんどのこと全部の裏にあるものを、おまえが考えてるよりはたくさん、知っているんだよ」言葉を強めるために、唇を押しあわせながら、彼女は、ついてもいないタバコのかすを、キモノの膝から払いおとした。「ご参考までに言っておくけどさ、わたしゃ、たまたまね、あの子がきのういちんちじゅう、うちの中で持ちあるいてた、あの小さな本さ、あれが、こんだのこと全部の根っこだってことがわかったのさ」
ズーイは後ろをふり向いて、彼女をチラッと見た。その顔はほくそえんでいた。「どうして、それがわかったんだい?」と、彼は言った。
「どうでも|いい《・・》じゃないかね、どうしてわかったって」と、グラス夫人は言った。「どうしても知りたいんなら言うけど、レインがね、いくどか、電話をかけてきたのさね。フラニーのこと、おっそろしく心配してね」
ズーイはかみそりをゆすいだ。「だれだね、いったい、そのレインて?」と、彼はきいた。まごうかたなく、それは、まだ稚気を残している青年がよく口にする質問で、こういう男は、ときとして、ある種の人間の、苗字ばかりか、名前のほうまで自分が知っていることを、認めたい気にならないことがあるのだ。
「だれだか、ちゃんと知ってるじゃないかね、おまえ」と、グラス夫人は言葉を強めながら言った。「レイン・クウテルだよ。もう一年もまえから、フラニーのボーイフレンドさね。わたしが知ってるだけでも、おまえはあの子に、すくなくとも六回は会ってるからね、だれだか知らないだなんて、おとぼけでないよ」
ズーイは文字どおり、笑いを爆発させた――まるで、明らかに、自分自身のも含めて、なにか|衒《てら》いが見破られるのをみるのは楽しい、といったふうだった。彼はひげを剃りつづけたが、あいかわらず嬉しそうだった。「そういうときは、フラニーのいい人[#「いい人」に傍点]って言うんだよ、ベシィ」と、彼は言った。「ボーイフレンド[#「ボーイフレンド」に傍点]じゃなくてな。どうして、あんたはそう時代おくれなんだろな、ベシィ? どうしてだね? ええ?」
「どうでもいいじゃないかね、なぜわたしがこんなに時代おくれでも。知ったら、興味が湧くかもしれないから言うけど、あの子は、フラニーが帰ってきてから、五回か六回、うちへ電話をかけてよこしてるんだよ――けさなんか、おまえがまだ起きないうちに二度もね。あの子はとっても優しくて、フラニーのことをおそろしく気にかけて、心配してくれてるんだよ」
「だれかさんたちとは違ってね、え? ところで、あんたを幻滅させるのはいやだけどさ、おれ、あいつと何時間もいっしょにいたことがあるけど、ぜんぜん優しくはないぜ。二枚目のくわせ者さ。ついでだけど、このあたりにいるだれかさん、|腋《わき》の下か、ちくしょう、|脛《すね》を、おれのかみそりで剃ったな。それか、落っことしたか。先っちょのほうがてんで――」
「だれも、そのかみそりになんか、さわらなかったよ、おまえ。どうしてあの子が、二枚目のくわせ者なんだね、うかがうけどさ?」
「なぜだって? そうだから、そうなのさ、それだけだよ。たぶん、そのほうがとくだからさ、一つだけ、教えてやれることがある。もしあいつが、とにかくフラニーのこと、心配してるとすりゃ、おれ、賭けてもいいけど、おそろしく安っぽい理由があるんだぜ。あいつが心配してるのはな、たぶん、あの日、フットボールのくそ試合を、しまいまで見ずに外へ出るのが気にいらなかったもので、それだからさ――たぶん、その気にいらないのをそぶりに出してな、フラニーは目が鋭いから、それに気づいているとわかってるもので、それで心配してるのさ。おれ、ほんとに目に見えるようだぜ、やっこさんが、フラニーをタクシーに乗せて、列車に乗せて、それから、ハーフが終わらんうちに試合に戻れそうかどうかって、思案してるとこがな」
「あーあ、おまえとは話もできやしないね! ほんと、わたしったらこんりんざい、できやしないよ。なのに、どうして話をしようなんて、するんだろうねえ。おまえはバディにそっくりだよ。だれでもみんな、なにか特別な理由があって、なにかするんだと、思ってるんだから。人間ていうのは、なにか自分に得のいく不潔な理由がべつになくったって、だれか人に電話をかけることはあるってことが、おまえには考えられないのね」
「そうさ――十中八、九はな。そうして、あのレインのやつは、その例外じゃないんだ、ほんと。いいかい、おれはな、あいつと、ある夜、フラニーが外に出るしたくしてるあいだに、こんちきしょう、二十分も話したことがあって、それで、あいつはとんでもない脳たりんだって、言うんだぜ」彼は思案にふけって、かみそりを動かす手を止めた。「いったいぜんたい、あいつ、おれになにをしゃべってたと思う? なにか、ひどくこっちの気を引くようなことさ。なんだっけ? ああ、そうだ。そうだった。あいつは、子供のころ、毎週、フラニーとおれの放送、聞いてたって、言ってたんだ――それで、あいつはなにをしてたと思う、やっこさんはさ? フラニーをたねにして、おれをおだてあげてたのさ。わけなんかまったくなくて、ただ、人に取りいって、自分のお熱い、ちっぽけな、アイヴィー・リーグの頭をひけらかすためだけだったのさ」ズーイは舌を出して、それを唇と唇のあいだで、音をできるだけ押さえ、柔らげながら、ブルルと鳴らした。「フフン」と言って、彼はまたかみそりを使いはじめた。「フフンだって、言うんだよ――大学で同人雑誌やってるみたいな、白靴はいた大学生なんて、ひとりのこらずな。正直なペテン師ってのがいたら、いつでも、出してみせてくれよ」
グラス夫人は、彼の横顔に、長いあいだ、妙に物がわかったみたいな視線を向けた。「あの子は、まだ大学も出てない子供だよ。おまえったら、人をいらいらさせる子だよ」と、彼女は言った――ごく平静に(彼女としてはだ)。「おまえは、だれかが好きになるか、ならないか、そのどちらかしかないんだから。好きになればなったで、話はひとりじめにして、だれにだってひとことも口をはさませないんだから。嫌になれば――たいていはそうだけどね――なったで、まるで死に神そのものみたいに腰をすえこむだけで、相手にしゃべるだけしゃべらせて、穴にはまりこませるんだから。わたしゃ、ちゃあんとそれを見てるんだよ」
ズーイはからだをすっかり後ろに向けて、母親を見た。彼がからだを後ろに向けて母親を見た、このときのしぐさは、まさに、時として、年として、彼の兄や姉たちがみな(そして、とくに兄たちが)、これまで、からだを後ろに向けて彼女を見てきたそのしぐさとそっくり同じであった。ただ単に、客観的な驚嘆の念をいだきながら、一つの真理が――たとえ断片的であろうとなかろうと――ふつうはたいてい、測りしれないほどの、偏見や決まり文句や紋切り型の山みたいに見えるものの中から、浮かびあがってくるのを見る、というだけではない。そればかりか、賞賛や愛情や、とりわけ感謝の念を、いただきながら、なのである。そして、奇妙に見えようと見えまいと、とにかくグラス夫人は、きまってこの「貢ぎ物」を、それが捧げられるときには、威風堂々と受入れるのであった。自分をそのような目で見てくれた息子なり娘なりを、慈悲ぶかく、慎ましやかに見かえしたものである。いまも彼女は、この慈悲ぶかい、慎ましやかな顔つきをズーイに贈った。「そうなのよ」と、そう言う彼女の声には、非難はまったくなかった。「おまえにしろ、バディにしろ、自分の嫌いな人にむかって話す話し方というのをまず知らないんだから」彼女は、そのことをじっくりと考えた。それから、「好きでない人にね、ほんとは」と、言いなおした。そして、ズーイのほうは、あいかわらず彼女を見つめながら立ちつくしているだけで、ひげは剃っていなかった。「いいことじゃないよ」と、彼女は言った――重々しく、悲しそうに。「おまえは、むかしバディがおまえと同じ年ごろだったころに、そっくりそのままになりかけてるよ。お父さんだって、もう気がついてるんだから。おまえったら、二分で人が嫌いになったら、それでその人とはもう永遠におしまいなんだよ」グラス夫人はぼんやりと、青いバスマットが、タイルのゆかの向こうに広げてあるのを眺めた。ズーイは立ったままできるだけ静かに構えて、彼女の気分をこわさないようにした。「この世の中じゃ、生きていけませんよ、そんなに人の好き嫌いが強くちゃね」グラス夫人はバスマットにむかってそう言うと、それからまたズーイのほうを見て、長いあいだ、じっと見つめたが、そこには、あるとしてもほとんどわずかしか、道徳は含まれていなかった。「このこと、おまえはどう考えてるかは、別にしてよ、おまえ」
ズーイは、彼女をまじまじと見かえしたあと、ニヤリと笑って、また顔を後ろに戻し、鏡の中でひげを吟味した。グラス夫人は、その彼を見まもりながら、溜め息をついた。そして、からだをこごめると、金属の屑かごの内側にこすりつけて、タバコの火を消した。それとほとんど同時に、新しいタバコに火をつけて、できるだけ辛辣な口調で言った。「とにかく、おまえの妹は、すばらしい子だって、言ってるよ。レインはね」
「そいつはただ、セックスがそう言わせてるだけだよ、な」と、ズーイは言った。「その声なら、わかってるんだ。そうさ、その声なら、ちゃんとわかってるんだよ!」クリームの泡の最後の部分も、もう彼の顔とのどから剃りとられてしまっていた。彼は批評するように、片手でのどにさわり、それからひげ剃りブラシをつまみあげて、自分の顔の戦略的な部分にまたシェービング・クリームを塗りはじめた。
「ようし、わかったよ、で、レインは電話でなにを言いたいっていうんだい?」と、彼はきいた。「レインの話だと、フラニーの病気の後ろには、なにがあるっていうんだい?」
グラス夫人は腰かけたまま、熱っぽくちょっとからだを前に乗りだして、言った。「そう、レインの言うにはね、あれはみんな――こんどのことは全部よ――あの子がしょっちゅう持ってる、あの小さな本と関係があるんだって。ね。あの小さな本をさ、あの子ったら、きのうはいちんち読んでは持ちあるいてたわ、どこへでも――」
「その小さな本のことなら、知ってるよ。さあ、その先」
「そう、あの子の言うには、レインの言うにはね、あれはおそろしいくらい宗教くさい本なんだと――狂信的とかなんとか、そんなふうなんだよ――それで、あの子はそれを大学の図書館から借りだしたんだけどね、いまじゃ、どうも自分のものだと思ってるらしい――」グラス夫人は言葉を切った。ズーイは彼女のほうを、いくらか脅しぎみに、敏捷に振りかえった。「どうしたんだね?」と、彼女はきいた。
「どこから借りだしたって言ってた?」
「図書館からだよ。大学の。どうして?」
ズーイは頭を横に振って、また洗面ボウルの方を向いた。それから、ブラシを下に置いて、洗面キャビネットをあけた。
「どうしたの?」と、グラス夫人は強く尋ねた。「それがどうしたんだね? どうしてそんな顔するの、おまえ?」
ズーイは返事もせずに、替え刃の新しい箱を開いた。それから、かみそりから刃をはずしながら言った。「ばかだなあ、ベシィ、あんたは」彼は、かみそりから刃を抜きとった。
「どうしてわたしがひどいばかなんだね? ところで、おまえ、きのう新しい刃をはめたばかりじゃないの」
ズーイは、顔は無表情のまま、新しい刃をかみそりの中にセットして、もういちど、仕上げのつもりで顔をあたりはじめた。
「わたしゃ、きいてるんだよ、おまえ。どうしてわたしがひどいばかなんだねって? あの子は、あの小さな本を大学の図書館から借りだしたんじゃないの、ちがう?」
「ちがう、そうじゃないよ、ベシィ」と、ズーイはひげを剃りながら言った。「あの小さな本の題はね、『巡礼、おのが道を続ける』って言ってさ、『巡礼の道』っていうのの続編で、あいつはこっちのほうも、持ちあるいてるけど、この本は両方とも、シーモァとバディの、前の部屋から持ちだしてきたんだ――いつともしれん昔から、シーモァの机の上に載ってたのをな。ンとに、こんちくしょう」
「まあ、こんなことで悪態をつくもんじゃないよ! そんなにひどいことかね、あの子があれを大学の図書館で借りて、うちへ持ってきたのかもしれないって、考える――」
「そうともさ! ひどいことだよ。ひどいことさ、あの本は両方とも、シーモァの、くそ机の上に、もう何年も載ってたんだからな。気のめいる話だよ」
思いもかけないような、奇妙に非戦闘的な調子が、グラス夫人の声にはいりこんだ。「わたしゃ、あの部屋には、できれば、はいらないようにしてるんだよ、そのぐらい、わかってるじゃないか」と、彼女は言ったのだ。「見ないようにしてるんだよ、シーモァの古い――あの子のものはね」
ズーイはすばやく言った。「わかったよ、ごめん」それから彼は、彼女の顔は見ずに、そのうえ二度目の仕上げはまだすっかり終わってはいなかったのに、タオルを肩から取って、まだ顔に残っているクリームの泡を拭きとった。「このことは、しばらくおあずけにしようや」と言って、彼はタオルをラジエーターの上に放りだした。するとそれは、あのリックとタイナの台本の表紙の上に着地した。彼は安全かみそりを、ねじをゆるめて、水道の蛇口の下に突きだした。
彼のあの詫びの言葉は混じりけのないもので、グラス夫人もそれはわかっていたが、しかし、それをうまく利用したいという気持ちには逆らえなかった――たぶん、その希少価値のゆえにだった。「おまえは、親切なとこがないねえ」と言いながら、彼女は彼が安全かみそりをゆすぐのを見つめた。「ちっとも親切なとこがないよ。ズーイ。おまえだってもういい年になったんだから、たとえ自分は気分が悪くても、せめて他人には、すこしは親切にするようにしなくちゃ。バディならね、すくなくとも、たとえ気分が――」彼女は息をのむのと同時に、ギクッと身を引いた――ズーイのかみそりが、新しい刃もろとも、大きな音を立てて、金属の屑かごの中へ落ちたからだ。
どうやら、ズーイはわざとかみそりを屑かごの中へぶちこんだのではなくて、左手をとつぜん、力をこめて振りおろしたので、かみそりが吹っとんだというだけのことらしかった。とにかく確かなのは、彼がわざと手首を洗面ボウルのふちに当てて痛い思いをしたわけではない、ということだった。「バディ、バディ、バディか」と、彼は言った。「シーモァ、シーモァ、シーモァか」彼が母親のほうを向くと、彼女はかみそりのたてた物音にギクリとしてびっくりはした様子だったが、べつに|怯《おび》えてはいなかった。「あの連中の名前を聞くと、おれはむかついて、のどを切りそうになるんだ」彼の顔は青ざめてはいたが、ほとんど無表情というに近かった。「このうちは、くそ、そこいらじゅう、幽霊の匂いばかりだ。死んだ幽霊につきまとわれるんなら、まだしも、半死半生の幽霊につきまとわれるってのは、くそ[#「くそ」に傍点]がつくほど腹がたつよ。ほんとに、バディのやつ、もう覚悟を決めてくれればいいのに。あいつはなんでも、シーモァのやったことはみんな、やってる――それが、やりたがってる。なら、いったいどうして、自殺して、けりをつけないんだ?」
グラス夫人が、一度だけ、目をしばたたいたので、ズーイはすぐさま彼女の顔から目をそらした。そして、からだをこごめて、屑かごの中からかみそりをつまみあげた。「おれたちはかたわなんだ、ふたりともな、フラニーとおれは」そう言いながら、彼は立ちあがった。「おれは二十五のかたわで、あいつははたちのかたわで、それもこれも、あのふたりのやつらのせいさ」彼はかみそりを洗面ボウルのふちに置いた。ところが、かみそりはそうぞうしい音をたてて、ボウルの中に転がりおちた。彼はすばやくそれを拾いあげると、こんどは、指でしっかりと握りしめた。「その兆候は、フラニーのほうがおれよりちょっと遅く出たわけだけど、あいつだってかたわなんだから、そのことは忘れないでくれよ。誓ってもいいけど、おれ、あいつらふたりを殺す気になったら、まつげ一本、動かさずに殺して見せるぜ。あの大先生どもめが。あの偉大なる解放者どもめが。ちくしょう。おれはもう、だれかといっしょに昼めしを食っても、ろくな会話も続けられなくなった。おそろしく退屈するか、おそろしくくそ説教じみた話をするか、そのどちらかだものでな、相手の野郎がちょっとでもまともなやつだったら、椅子でおれの頭を殴りかかってきそうなくらいだ」彼はとつぜん洗面キャビネットをあけた。それから、うつけたみたいに、その中を何秒か、まるでなんのために開いたか忘れたとでもいうように、じっと見つめたあと、濡れたかみそりを、そのまま、それが元あった棚の一つに載せた。
グラス夫人は、その彼を見まもりながら、ひっそりと腰をすえ、彼女の指先ではタバコが燃えつきかけていた。彼女は、彼がシェービング・クリームのチューブにキャップをかぶせるのを見まもった。溝がなかなか合わないようだった。
「べつにだれかのためにするわけじゃないけど、おれ、くそ食卓につくとな、いまでも、きまって、まずなによりも、口の中で四大誓約を唱えちゃうし、それに、お望みのもの、なんだって賭けてもいいけど、フラニーだって、おんなじだよ。あの連中は、こういうくそ訓練をおれたちに――」
「四大なんだって?」と、グラス夫人は口を挟んだが、しかし気は使っていた。
ズーイは洗面ボウルの両側のふちに手をそれぞれかって、胸をすこし前にそらせ、目は琺瑯びきのキャビネットに漫然と向けた。からだはほっそりとしていたにもかかわらず、この瞬間の彼は、洗面ボウルでいまにも床を突きやぶりかねない気配で、じじつそれができそうだった。「四大誓約さ」と言って、彼は恨みがましく目を閉じた。「〈生きとし生ける者がどれほど無辺であっても、わたしはそれらを救済することを誓約する。|煩《ぼん》|悩《のう》がどれほど無尽であっても、わたしはそれらを絶つことを誓約する。ダルマのかずがどれほど無数にあっても、わたしはそれらを学ぶことを誓約する。ブッダの真理がどれほど無上のものであっても、わたしはそれに到達することを誓約する〉なあ、チームよ。きっと、おれはできる。まあ、仲間に入れてみてくれよ、監督」彼の目は閉じたままだった。「ちくしょう、おれはこれを、毎日、三度三度のめしのときに唱えてきたんだぜ、とうの年からずっとな。それを言わなきゃ、食えないんだ。いちど、ルサージュと昼めしを食ってたとき、言わずにおこうとしたことがあったっけ。そうしたら、くそハマグリがのどにつかえてゲエーッときやがった」彼は目をあけて眉をしかめたが、奇妙な姿勢は崩さなかった。「もう、出てったらどうだい、ベシィ?」と、彼は言った。「本気で言ってるんだぜ。沐浴をじゃませずに終わらしてくれよ、頼むから」彼はまた目を閉じて、もう一度、いまにも洗面ボウルでゆかをぶちぬきそうな気配を見せた。頭はわずかに下げていたが、それでも、かなりな量の血が顔から抜けていた。
「おまえ、結婚してくれるといいんだがねえ」と、グラス夫人は唐突に、物思わしげに言った。
グラス家の人間はみな――わけてもズーイはとくに――グラス夫人のこの種の論理の飛躍には慣れていた。それがいちばんみごとに、もっともおごそかに花咲きひらくのは、まさにこのように、感情がぱっと燃えあがったさなかでのことだった。ところが、このときのズーイはすっかり不意を突かれた感じだった。彼は爆発的な音を出したが、それは大部分が、鼻をとおって出た、笑いとも、笑いの反対ともつかないものだった。グラス夫人はすばやく、また心配そうに、からだを前に乗りだして、そのどちらなのか、知ろうとした。それはとにかく笑いだったので、彼女はほっとして、からだを元に戻した。「そう、ほんとなんだよ」と、彼女は言いはった。「どうしてしないの?」
ズーイは姿勢を|弛《ゆる》めて、折りたたんだリンネルのハンカチをズボンの尻のポケットから取りだし、それをひと振りして開いてから、鼻をかむのに使った、一度、二度、三度と。そして、そのハンカチをしまいながら、言った。「おれは、列車に乗るのが好きすぎるんだ。もう窓ぎわの席には坐れなくなるものな、結婚したら」
「そんな理由があるものかね?」
「れっきとした理由だよ。行ってくれよ、ベシィ。おれをじゃましないでくれよ。どうして、楽しいエレベーターにでも乗りに行かないの? ところで、指が焼けこげそうだぜ、そのくそタバコを消さないと」
グラス夫人はまた屑かごの内側にこすりつけてタバコを消した。それから少しのあいだ静かに腰をかけて、タバコの箱とマッチのほうに手を伸ばすことはしなかった。彼女はズーイが櫛をおろして、髪の毛をまた分けるのを見まもった。「床屋へ行ったらよさそうなものなのに、おまえ」と、彼女は言った。「まるきり、いかれたハンガリー人かなにかが、プールから上がってくるときみたいになりかけてるよ」
ズーイは、はた目にそれとわかるくらいにほほえんで、しばらく櫛を使いつづけたが、そのうちにとつぜん振りむいた。彼は櫛をちょっと母親のほうにむけて振ったあと、言った。「それからもう一つ。忘れないうちにな。いいか、よく聞いてくれよ、ベシィ。もしこれからもまだな、ゆうべみたいに、フィリィ・バーンズの、精神分析の医者に電話をかけてさ、フラニーのために呼ぼうなんてつもりでいるなら、一つだけ、考えてくれ――それだけさ、頼みっていうのは。精神分析のおかげでシーモァがどうなったか、それだけは考えてくれよ」彼は、自分の言葉を強めるために、ひと息ついた。「いいね? 考えてくれるかい?」
グラス夫人はとたんに、その必要もないのにヘヤーネットを直して、それからタバコの箱とマッチを取りだしたが、しかしただ、それを一瞬、手に持ったというだけのことだった。「ご参考までに言っとくけどね」と、彼女は言った。「わたしゃ、なにも、フィリィ・バーンズの、精神分析のお医者に電話をかけて、あの人を呼ぼうなんてつもりじゃいませんよ。ただ、そうしてみようかねって言っただけさね。だいいち、あの人は、ちゃんとした精神分析のお医者じゃないからね。たまたま、カトリックの、信心がとっても厚い、精神分析のお医者だっていうだけの話で、それだったら呼んだほうが、ただ漫然と、そこらに腰かけて、あの子を見てるよりはいい――」
「ベシィ、おれはいま忠告してるんだぜ、ちくしょう。おれにはどうだっていいんだ、あいつが、仏教の信心がとっても厚い獣医だってもな。もしだれかを呼ん――」
「なにも皮肉をいうこともないじゃないかね。わたしゃ、フィリィ・バーンズのことなら、あの人がちっぽけな子供だったころから、知ってるんだから。おまえのお父さんとわたしはね、あの人の親たちと、何年って、同じ番組に出てたんだから。それでわたしゃ、たまたまちゃんと知ってるんだけど、精神分析のお医者にかよったおかげであの子はすっかり見違えるみたいないい人間になったんだよ。わたしゃ、話してたんだけどね、あの子の――」
ズーイは櫛を洗面キャビネットの中に叩きこんでから、いらだたしげに、そのキャビネットの戸をバタンと閉めた。「あーあ、あんたはほんとにばかだよ、ベシィ」と、彼は言った。「フィリィ・バーンズか。フィリィ・バーンズはな、みじめったらしい、インポの汗っかき野郎でさ、四十を越してるのに、何年も、ロザリオと『バライエティ』を一冊、枕の下に入れて寝てるようなやつだなんだ。おれたちときたら、昼と夜ほども違うことを、二ついっぺんに話してるぜ。なあ、いいかい、ベシィ」ズーイは母親のほうにすっかり向きなおると、彼女を念入りに見つめながら、片手の手のひらは琺瑯びきの表側に当てがって、それでからだを支えるみたいにしていた。
「聞いてるのかい?」
グラス夫人はまず新しいタバコに火をつけてから、言質を与えることにした。それから、煙を吐きだして、落ちてもいないタバコの屑を、膝から払いのけながら不機嫌そうに言った。「聞いてますよ」
「よしきた。おれはいま、とってもまじめなんだぜ。もしあんたが――いいな、聞けよ。もしあんたが、シーモァのことを、考えられん、考える気はないっていうんなら、さっさと、ものもろくに知らんような精神分析の医者を呼んでくるがいいさ。そうしたらいいじゃないか。だれか、分析屋を呼びこめばいいじゃないか、いろいろと、人をまともにする経験をつんでるやつをな――テレビを見る楽しみだとか、毎週、水曜日に『ライフ』を読むだとか、ヨーロッパ旅行だとか、水爆だとか、大統領の選挙だとか、『タイムズ』の表紙だとか、ウェストポート=オイスターベイPTAのいろいろな仕事だとか、とにかく、なんでもいいから、ごたいそうに正常なことならな――あんたは、そうすればいいんでさ、そうしたら、誓って言うけど、一年とたたんうちに、フラニーはフーテン病院にはいってるか、両手で、燃えるみたいに熱い十字架を捧げもってさ、どっか、くそ砂漠の中へさまよいこんでるか、そのどっちかに決まってる」
グラス夫人は、落ちてもいないタバコの屑を、また少し、払いおとした。「わかったよ、わかったよ――そんなに逆上しないでおくれよ」と、彼女は言った。「ごしょうだから。だれも、どこへも電話なんかしてやしないんだから」
ズーイは洗面キャビネットの蓋をぐいと引きあけ、中をじっと見つめ、それから爪やすりを取って、また蓋を閉めた。そして、|磨《す》りガラスの棚のはしに置いてあったタバコを摘まみあげて、吸ってみたが、火はもう消えていた。彼の母親は、「ほら」と言って、自分のキングサイズのタバコの箱と剥ぎとりマッチを彼に渡した。
ズーイはその箱の中から一本、抜きだし、それを口にくわえてマッチをするというところまで行ったが、想念の圧力のために、タバコに実際に火をつけることは不可能になり、マッチを吹きけして、口からタバコをはずした。彼はちょっと、いらだたしげに頭を横に振った。「おれにもわからんけど」と、彼は言った。「どうも、精神分析の医者が、町のどっかにきっといると思うんだがなあ、フラニーに向くようなのがさ――おれ、そのことをゆうべ考えたんだ」彼はかすかに顔をしかめた。「だけど、たまたま、おれはひとりも知らんからさ。精神分析の医者で、とにかくフラニーの役にたちそうなのがいるとすりゃ、そいつはかなり特別なタイプじゃなきゃならんだろうからな。おれにはわからんよ。そいつは、まず第一に、自分は神の恩寵を受けたからこそ、精神分析を研究するっていう霊感を得たんだと、そう信じてなくちゃいかんだろう。それから、神の恩寵を受けたからこそ、くそトラックにもひかれずに、開業の免許を取れたんだと、そう信じてなくちゃいかんだろうな。それから、神の恩寵を受けたからこそ、とにかく、くそ患者を助けるだけの知能に生まれつき恵まれたんだと、そう信じてなくちゃいかんだろうな。いい分析医で、こういった線にそった考え方するやつなんて、おれ、ひとりも知らないぜ。もし、あいつのとこへ来るのが、だれか、とんでもないフロイト主義者か、とんでもない電気医者か、それか、ただ、とんでもない月並みなやつだったとしたら――だれか、自分の眼識と知能にたいしてだな、いかれた、神秘的な感謝の気持ちすら、なんにも、持ってないやつだとしたらだ、あいつは、分析してもらったあとじゃ、シーモァよりもっとひどいことになってるぜ。心配で、どうかなりそうだよ、それを考えると。まあ、このことはやめにしようや、もしよかったらな」彼はじっくりとタバコに火をつけた。それから、煙を吐きだしながら、そのタバコを、磨りガラスの棚の、前の火が消えたタバコが載っているところへ置き、かすかに緊張の弛んだ姿勢を取った。彼は爪やすりを爪の下にあてがって動かし始めた――爪はもうすっかりきれいになっていたのだが。「もし、おれにむかってぶつぶつ文句を言わなきゃな」と、彼は、ちょっと息をついでから言った。「あの小さな本には、二冊とも、なにが書いてあるか、教えてやるよ、フラニーが持ってるあれにさ。聞きたいかい、どう? 聞きたかないって言うんなら、おれはべつに好きこのんで――」
「ああ、聞きたいね! もちろん、聞きたいさね! いったい、わたしが――」
「よしきた、じゃあ、ちょっと、おれにぶつぶつ文句を言うのはよしてくれよ」ズーイはそう言って、腰のあたりを洗面ボウルのはしにあずけた。そして、あいかわらず爪やすりを使いつづけた。「あの本はさ、どっちも、ロシアのある百姓の話だよ、世紀の変わり目前後のな」そう言う彼の言葉には、そっけないほど平板な声のわりには、いくらか物語めいた響きが聞かれた。「そいつは、ひどく単純な、ひどく気のいいやっこさんで、手が片方、なえてる。そのおかげで、もちろん、こいつは、フラニーにうってつけの人物になるわけだけどな――なにしろ、あいつの心ときたら、くそ施療院みたいなとこがあるからな」彼はからだをくるりと後ろに回して、磨りガラスの棚からタバコをつまみあげると、ひといき吸ってから、また爪を磨きはじめた。「まず最初、その百姓は、自分には女房と農場があるという。ところが、兄きが気違いで、こいつのおかげで、農場を焼かれて――そのあとで、どうやら、女房にも死なれたらしい。いずれにしても、この百姓は巡礼に出るんだ。で、こいつは一つ、問題をかかえている。ものごころついてからずっと、聖書を読んできてるわけだけど、『テサロニケ書』に〈たえず祈りなさい〉ってあるのはどういう意味か、それを知りたがってるんだな。その一行につきまとわれてるってわけさ」ズーイはまたタバコに手を伸ばして、ひといき吸い、それから言った。「『テモテ書』にも、同じような文句がもう一つある――〈男はどんな場所でも祈ってほしい〉というやつさ。それから、キリスト自身も、じっさい、〈失望せずにつねに祈る〉べしって言ってる」ズーイはしばらくのあいだ黙って爪やすりを使っていたが、その顔の表情は奇妙に陰気くさかった。「それで、とにかく、百姓は、だれか教えてくれる人間を見つけに、巡礼を始めるわけさ」と、彼は言った。「どうやってたえず祈るのか、また、それはどうしてなのか、教えてくれる人間をな。やつは、歩きに歩きに歩いて、教会から教会へ、寺院から寺院へと行っては、あれやこれやの牧師に聞いてみる。そのうちにとうとう、どうやら、そういったことを全部、知ってるらしい、単純な、年寄りの坊主に出会う。その年寄りの坊主の言うには、たった一つ、いつでも神に受入れてもらえて、神にも〈望まれて〉いる祈りの文句があって、それは〈イエスの祈り〉っていうんだそうだ――〈主なるイエス・キリストよ、われを哀れみたまえ〉っていうやつさ。じっさいは、その祈りの文句をみな言うと、〈主なるイエス・キリストよ、われを哀れみたまえ、この惨めなる罪びとを〉っていうわけだけど、あの巡礼の本のどっちでも、お祈りの名人たちはだれひとり、ぜんぜん強調しないんだな――ありがたいことにさ――その〈惨めな罪びと〉っていうとこは。で、とにかく、その年寄りの坊主は、説明してくれるんだ、もしこの祈りの文句をたえず言いつづけていると、どういうことが起こるかってな。それから巡礼に実地の指導をすこししてやってから、うちへ送りかえす。そうして――てっとりばやく言えばさ――しばらくたつと、この巡礼のやつはその祈りがうまくできるようになる。ちゃんと覚えるわけだ。こうなると、この新しい精神生活にすっかり気をよくして、こいつはロシアじゅうにのこのこ出かけていく――深い森を通り、町や村をいくつも通りっていうみたいなぐあいにさ――そのあいだ、みちみち歩きながら、いまの祈りの文句を口に出したり、偶然、出くわす連中にひとりひとり、その文句はどうやって言ったらいいかも教えたりしながらな」ズーイはぶあいそうに顔を上げて、母親を見た。「話、聞いてるのかい? 太っちょのドルーイド婆さん?」と、彼はたずねた。「それとも、ただ、おれの豪勢な顔を|睨《にら》んでいるだけかね?」
グラス夫人は憤然として言った。「もちろん、聞いてますよ!」
「よしきた――おれは、ここに、興ざましはいてほしくないからな」ズーイは一つ大きくバカ笑いをしたあと、タバコを吸った。そして指と指とのあいだにそのタバコをあずけたまま、爪やすりを使いつづけた。「あの二冊のうちの一つは、『巡礼の道』っていってな」と、彼は言った。「だいたいのところ、その巡礼のやつが、道の途中で出くわす冒険の話さ。だれに会うとか、その会った連中になにを言うとか、その連中がなにを言うとかな――何人か、おっそろしくいい連中にも会うんだぜ、ついでに言っとくけど。あとのほうの『巡礼、おのが道を続ける』は、だいたいのところ議論でさ、対話の形であの〈イエスの祈り〉のわけや目的を書いてる。その巡礼や、教授や、坊主や、それから隠者みたいなのがみんなして会ってな、いろいろなことあげつらうんだ。で、それだけのことさ、そこにあるのはな」ズーイはチラッと目を上げて、つかのま、母親を見たあと、爪やすりをさっと左手に移した。「この本は両方ともさ、目的は、聞きたきゃ、言うけど」と、彼は言った。「どうやら、だれかれとなく目を覚まさせて〈イエスの祈り〉をたえず口にするのはどうしても必要で、ごりやくがあるって気づかせることらしいな。まず手はじめは、資格のある教師が監督してて――まあ、キリスト教のグールーってとこがな――それから、ご本人がそれをある程度、覚えたあとじゃ、自分ひとりで続けろってわけだ。それで、いちばんの眼目はさ、その文句はべつに信心ぶかい野郎どもや大袈裟居士どものためにあるんじゃないってことだな。くそ寄進箱をさ、あけるのにいっしょうけんめいになってもいいから、それをあけてるあいだも、この祈りを唱えろっていうのさ。悟りは祈りといっしょに来るわけで、それより前に来るんじゃないって、いうのさ」ズーイは眉根をひそめたが、そのひそめ方は学究的だった。「ほんというと、こういうことだ――つまり、遅かれ早かれ、この祈りの文句は、まったくひとりでにだよ、唇と頭から下におりて、心臓の真ん中に来てさ、そこで、本人の中でひとりだちして働きだしてだ、心臓の鼓動とまったく歩調を合わせると、こうなのさ。そうしてそれから、この祈りが一度、心臓の中でひとりだちすると、その本人は、いわゆる、事物の真相にはいると、こう考えられてる。このテーマは、ほんとは、あの二冊のどっちにも出てはこんけど、東洋流の言い方をすりゃ、人間のからだには、チャクラっていう、微妙な中心が七つあってさ、心臓といちばん密接に結びついてるのはアナハータって呼ばれてるわけだけど、こいつはものすごく敏感で力が強くてさ、こいつを動かすと、こんどはこいつがもう一つの中心を動かすんだ、眉毛と眉毛のあいだにあってアジナって呼ばれるやつをな――こいつはほんとは松果腺か、それか、むしろ、松果腺のまわりにある霊気なんだな――そうすると、どうだ、神秘家れんちゅうのいわゆる〈第三の目〉ってやつが開けてくる。これは新しいものじゃないよ、ぜったい。べつに、この巡礼のやつの仲間れんちゅうから始まったっていうわけじゃない。インドじゃさ、何百年前のことか知ったことじゃないけど、これはジャパムっていう名でもう知られてることだ。ジャパムってのは、神に人間がつけた名前をどれでもいいから、一つ、繰りかえすことさ。それか、神の化身のどれかの名前をな――専門的に言ってほしけりゃ、|権《ごん》|化《げ》のだ。こういうことさ、つまり、もしその名をたっぷりと長いあいだ、たっぷりと規則的に、しかも文字どおり心臓の中から、口に出して唱えれば、遅かれ早かれ、答えが得られるというわけだ。正確には答えじゃないな。反応だ」ズーイはふいに後ろを向いて、洗面キャビネットをあけると、爪やすりを元の場所に戻し、ひどくずんぐりとしたオレンジ棒を取りだした。「だれだ、おれのオレンジ棒を食いつぶしてるのは?」と、彼は言った。そして、手首を、汗の出ている下唇につかのま軽く押しあて、それからオレンジ棒で爪の付け根の甘皮を押しもどしはじめた。
グラス夫人はタバコをひといき吸いながら、その彼を見まもり、それから足を組んで、強い口調で訊いた。「それが、あのフラニーのしてることだって言うのかい? つまりさ、それがあの子のしてることかね、いったい?」
「と、おれは思うよ。そんなこと、おれにきかずに、あいつにきけよ」
短い沈黙が、それも、うさんくさい沈黙が生じた。それからグラス夫人が唐突に、そして、いくらか大胆にきいた。「どのくらいのあいだ、それはやるものかね?」
ズーイの顔が嬉しそうにパッと明るくなった。彼は彼女のほうに向きなおって言った。「どのくらいって? ああ、長くはないよ。ペンキ屋れんちゅうが、あんたの部屋にはいりたいって言いだすまでさ。そうなると、聖者さまだの菩薩さまだのが行列つくって、はいってきてな、手にはチキンスープの鉢を持ってるぜ。ホール・ジョンソン聖歌隊が、その後ろで歌をはじめるし、カメラが何台も動きだしてな、けっこうな老紳士が腰布一枚で、山や青空や白雲を背景にして立ってるとこに狙いをつけてさ、そうすると、落ちついた表情がみんなの――」
「わかったよ、もうやめておくれでないかね」と、グラス夫人は言った。
「そうか、ちくしょう。手を貸してやろうと思っただけなのにな。おや、おやだ。おれ、いやだったんだよ、あんたにさ、宗教生活にはとにかく――な――とにかく、不便がいくつか付きまとうと、そんな印象、受けて、向こうへ行かれるのがな。つまり、宗教生活にはいやらしい精進だとか辛抱だとかが付きまとうと、そう思うもんだからさ、これにはいっていかない連中が大勢いるんだ――わかるな、おれの言うこと」明らかに、この話し手はいまや、極めつきの味を楽しみながら、自分の長広舌の山に差しかかりはじめたようだった。彼はオレンジ棒を、母親にむけて振った。「おれたちがさ、ここの礼拝堂、出たらすぐにな、おれがいつも嘆賞おくあたわざる本を一冊、おれからもらってくれよ。きっと、それを読めば、おれたちがいま言いあった、けっこうなお題目にいくつか、触れてあるさ。『神はわが道楽』っていうんだ。著者は、ホーマァ・ヴィンセント・クロード・ピアスン二世博士。その小さな本、読めばさ、たぶんわかると思うけど、このピアスン博士はだ、はっきり言ってるよ、自分は二十一歳のとき、毎日、すこしずつ時間をさきはじめたってな――朝に二分、夜に二分だと思った、たしか――そうしたら、最初の年[#「最初の年」に傍点]が終わってみたらだ、神のとこをこうしてちょっとずつ非公式に訪れてるうちに、年収は七十四パーセントも上がったのだと。たしか、もう一冊、余分なのがあるから、もしあんたがご親切にも――」
「あーあ、おまえって子は手に負えんよ」と、グラス夫人は言った。だが、もぐもぐと口の中で。彼女の目はまた、古なじみのあの青いバスマットを部屋の向こうに捜しだした。彼女が腰かけたままじっとそれを見つめているあいだ、ズーイは――ニヤニヤしながらも上唇には汗をぞんぶんにかきながら――オレンジ棒を使いつづけた。ついにグラス夫人が、プレミアム付きの溜め息をまた一つ、ついてから、ズーイのほうへ注意を戻すと、彼は、爪の甘皮を押しながら、からだをくるりと半分、回して、朝の日射しのほうを向いた。それで、彼の珍しいくらいに貧相な、むきだしの背中の、線や広がりを見物しているうちに、彼女の目つきはしだいに放心から覚めてきた。ほんの数秒のうちに、じっさい、彼女の目は、暗くて重苦しいものをみな捨てて、ファン・クラブ的な玩味をたたえて燃えているように見えてきた。「とっても肩幅が広くて、すてきになってきたじゃない」と、彼女は声に出して言ってから、息子の腰のあたりに手を伸ばした。「心配してたんだけどね、あんなふうにバーベルで気違いじみた練習してさ、からだがどう――」
「よせよ、ええ?」ズーイはひどくつっけんどんにそう言いながら、身を引いた。
「よせよって、なにを?」
ズーイは洗面キャビネットの蓋を引きあけて、オレンジ棒を元の場所に戻した。「よせよって、ただそれだけのことさ。おれのくそ背中なんかに、うっとりするなよ」彼はそう言って、蓋を閉めた。そして、タオル掛けにぶらさがっていた黒い絹の靴下を一足、掴みあげると、それをラジエーターのところまで持っていった。それから、ラジエーターの上に、熱いのもかまわず――それとも熱いからか、腰をおろして、靴下をはきはじめた。
グラス夫人は、かなり遅ればせに鼻を鳴らして、言った。「おれの背中になんか、うっとりするなよって――わたしゃ、それが好きなんだよ!」だが、彼女は侮辱を感じ、ちょっとばかし傷つけられもした。彼が靴下をはくのを見まもるその目には、無礼にたいする怒りと、洗濯のすんだ靴下があればすぐに穴を捜すという、数十年らいの癖を持つ人間の、しまつにおえない関心とが、こもごも入りまじって現われていた。そのうちに、とつぜん、また、音のいちばん大きな溜め息を一つ、つきながら、立ちあがると、彼女は、しかつめ顔をして義務に促されるがままに、ズーイがいまあけたばかりの、洗面ボウル地域へ移っていった。彼女がまずした、いかにも殉教者然とした雑事というのは、水道の蛇口をひねって水を出すことだった。「使いおわったら、キャップはきちんと元に戻すことを、覚えてほしいものだねえ」と、彼女はことさらいやみたっぷりに聞こえるような口調で言った。
ラジエーターのところで、靴下に靴下どめをあてていたズーイは、顔を上げて彼女を見た。「くそパーティが終わったら、そこからさっさと出てくことを覚えてほしいものだな」と、彼は言った。「こんどこそは、本気だぜ、ベシィ。一分くらいは、ここでひとりになりたいものだよ――失礼にあたるかもしれんけどな。だいいち、おれは急いでるんだぜ。二時半までにゃ、ルサージュの事務所へ行かにゃならんし、その前にまず、下町で二つ三つ、用をすましたいんだ。さあ、行こう――いいね?」
グラス夫人は雑用の手を休めて振りむくと、彼を見て、ここ何年らい、子供たちをだれかれとなく焦らだたせつづけているような種類の質問をした。「行くまえに、お昼でもどうだね、いやかい?」
「おれ、下町で軽く食うんだ。いったい、靴はもう片方、どこへ行っちまったんだ?」
グラス夫人は彼を見つめた、しげしげと。「おまえ、出かけるまえに、妹に口をきいてくつもりなのか、どうなの?」と彼女は問いただした。
「わからんよ、ベシィ」ズーイは、はためにもそれと知られるほどためらったのち、そう答えた。「もう、そんなこと、きくのはやめてくれよ、頼むから。ほんとに、どうしてもけさ、あいつに言いたいことがありゃ、言うよ。もう、なんにもきかないでくれよ」靴を一方だけはいて、|紐《ひも》を結び、もう片方は見あたらないので、彼はとつぜん四つんばいになると、片手をラジエーターの下に突っこんで、あちこち動かした。「ああ、こんなとこにいたのか、このやろうめ」と、彼は言った。小さな、バスルーム用の体重計が、ラジエーターのわきに立っていた。彼は、見つかった靴を手に持ったまま、その上に腰をおろした。
グラス夫人は、彼がそれをはくのを見まもった。しかし、靴紐を結びおわるまで、待つようなことはしなかった。彼女は部屋を出ていったのだ。だが、ゆっくりと。その動き方はどこか、彼女らしくもなく、無気力で――ほとんど足を引きずるようで――それがズーイの気を散らした。彼は顔を上げてかなり注意ぶかく彼女のほうを見やった。「もう、わからなくなったよ、おまえたち子供らは、いったいどうなっちまったことやら」グラス夫人は口の中でもぐもぐとそう言ったが、後ろを振りむくことはしなかった。それから、タオル掛けの一つのまえで立ちどまると、タオルを一枚、まっすぐに直した。「むかし、ラジオのころは、おまえたちみんな、小さくて、みんな、おまえたちみんな、あんなに――りこうで、たのしそうで、そして――かわいかったのに。朝も、昼も、夜もさ」彼女はからだをこごめて、タイルのゆかから、どうやら、長くて、神秘的なブロンド味がかった、人間の毛らしいものをつまみあげた。そして、それを持ったまま、わずかに遠回りをして屑かごのところへ行くと、こう言った。「なにがいいんだか、ぜんぜんわからんねえ――いろんなこと知って、おっそろしく利口になったところで、そのおかげで幸せになれないのならよ」彼女はズーイには背を向けたまま、また戸口のほうへ動きはじめた。「すくなくともねえ」と、彼女は言った、「おまえたちがむかしはみんな、おたがい同士、あんなに優しくて、むつみあっていたんで、それを見るのが楽しみだったのにねえ」彼女はドアを開きながら、首を横に振った。「楽しみだったよ」彼女はきっぱりとそう言うと、自分の後ろでドアを閉めた。
ズーイは、その閉まったドアを見やりながら、深く息を吸ってゆっくりと吐きだした。「ひけ[#「ひけ」に傍点]のせりふも、ちゃんと言ってくじゃないか、え、おい!」と、彼はその後ろから呼びかけた――ただし、それはもういいかげんたってからのことで、彼は、自分がなにを言っても、その声は、廊下を遠ざかってゆく彼女のところまではぜったい聞こえまいと、そういう自信が持てたからにちがいない。
グラス家の居間は、ペンキを塗りかえる準備など、およそできていないというに等しかった。フラニー・グラスがソファーの上で、アフガンをからだに掛けて眠っていたし、ゆか一面に敷きつめた|絨毯《じゅうたん》は、取りのけてもなければ、壁ぎわのあたりでめくりあげてあるわけでもなく、そして家具は――一見、家具の倉庫で――いつもどおり、静的=動的に配置してあったのだ。部屋は目立つほどの大きさではなく、マンハッタンのアパートの基準から見てさえ、そうであったが、しかし、そこに蓄積されている調度の類は、ヴァルハルに持ってゆけば、そこの宴会場に、見た目にいごこちのよさそうな感じを与えたかもしれない。まず、スタインウエイのグランドピアノがあり(しじゅう蓋が開いている)、ラジオが三つに(一九二七年型のフレッシュマンと、一九三二年型のストロムバーグ=カールスンと、一九四二年型R・C・A)、二十一インチ型のテレビが一台、卓上型の蓄音機が四台(その中には、一九二〇年型のヴィクトローラがあり、これのスピーカーはいまだにそっくりそのまま、上に載っている)、タバコ台や雑誌台がたんまりあり、規格サイズのピンポン台が一つに(うまいぐあいに、折りたたんでピアノの後ろにしまいこまれている)、坐りごこちのいい安楽椅子が四つに、坐りごこちのよくない椅子が八つと、十二ガロン入りの熱帯魚の水槽(あらゆる意味において、容量いっぱいに水を入れられ、四十ワットの電球が二つ、それを照らしている)、ふたりがけのラヴシート、フラニーが占領しているソファー。からの鳥籠が二つに、桜の木の書き物机、フロア・スタンド、卓上スタンド、ブリッジ・スタンドなどの電気スタンドがそれぞれ幾つかずつ、ひと揃い置かれ、こういった電燈類は、雑然とした内面表象の上いちめんに、|漆《うるし》の木のように突きでていた。腰の高さの本棚が紐飾りのように壁の三面をふちどり、その棚はいずれも、本をてあたりしだいに詰めこまれて文字どおりたわんでいた――子供の本、教科書、古本、読書クラブの本、および、この家の、ここほどは公共的でない、ほうぼうの別室[#「別室」に傍点]から溢れでた、さらにいっそう異成分的な要素の強いもので。(『ドラキュラ』がいまでは『パーリ語初歩』の隣に並び、『ソムの少年連合軍』が『旋律のいなずま』の隣に並び、『甲虫殺人事件』と『白痴』とが同居し、『ナンスィ・ドルーと秘密の階段』が『恐怖と戦慄』の上に寝かしてあった)よしんば、意志強固で、なみでない勇気に恵まれた、ひと組のペンキ屋たちが、これらの本棚を扱うことができたとしても、そのすぐ後ろにある壁そのものは、どれほど自尊心の強い職人をも、自分の組合員証を返上したい気持ちにしたことだろう。それらの本棚の上の段と、天井から一フィートたらずのあたりとのあいだでは、漆喰は――目に見えるところは、水泡の浮かぶ、ウェッジウッド的な青だ――ほぼ完全に、ごく大ざっぱに言えば「壁掛け」とでも呼べそうなものに覆われていた、というのはつまり、額ぶちにはいった写真が幾つかと、黄ばみかけている放送会社の会長の私信、ブロンズや銀の額などがひとかたまりになったものや、なんとなく証文めいた感じの文書と、形も大きさもさまざまな、トロフィみたいなものとが雑然と伸びひろがっているところなどを指すのであって、これらはすべて、一九二七年から一九四三年の後半に至るまでのあいだは、『これは賢い子だ』と呼ばれる全国放送のラジオ番組は、放送されるたびごとに、ほとんどいつも、その解答者の中にグラス家の七人の子供たちのひとり(そして、たいていはふたり)を加えていた、という恐るべき事実を、なんらかの形で、|証《あか》しだてているのであった。(バディ・グラスは、いま三十六で、現存する、この番組の最年長の前=解答者であるが、その彼は、じつにしばしば、自分の両親のアパートメントのこの壁を引合いに出しては、あれこそ、商業主義的な、アメリカの幼年期、思春期にたいする、一種の視覚的な賛歌であると称していた。そして、自分が田舎から訪ねてくる度合は非常に少なくて、間隔もあきすぎている、というのは遺憾だと、よく言っては、たいていはものすごく長々と、自分にくらべて自分の弟や妹たちは、その大部分がいまもってなおニューヨークあるいはその近郊に住んでいるわけだから、はるかに幸せだと、言ってきかせるのであった)この壁の装飾計画の発案の親は、じつは――グラス夫人は無条件に精神的な是認を与えながらも正式の同意は永遠に差しひかえていたのだが――レス・グラス氏、つまり、七人の子供たちの父親にして、かつ、往年の国際的なボードビリアンでもあれば、疑いもなく、劇場ふうレストラン「サージ」の壁面装飾の、根づよい、熱っぽい賞賛者でもあった男である。グラス氏の、装飾家としての、おそらくはもっとも入神の大当たりは、フラニー・グラス嬢がいま眠っているソファーのすぐ背後の上のあたりに現われている。そこには、ほとんど近親相姦的なまでに密着させて並べながら、七冊の、新聞や雑誌の切り抜きのスクラップブックが、その綴じ目のところを、腕木で直接、壁に打ちつけてあったのである。これら七冊のスクラップブックはすべて、明らかに、来る年も来る年もそこに貼りつけられたまま、この家族の、昔からの親友たちや、とびいりの来客たちによっても、また、察するに、あの臨時の、時間雇いの掃除婦によってもいつ熟読され、熟視されてもいいようになっていたのであった。
一言ふれておかねばならぬが、グラス夫人はこの朝、もっと早いころに、やがて到着するペンキ屋たちにそなえて、形ばかりのしぐさを二つ、やっておいたのだった。この居間には、玄関の廊下からでも、食堂からでも、どちらからでもはいれて、この二つの入口のどちらにも、ガラスのはまった両びらきのドアが付いていた。朝食のすぐあと、グラス夫人はこのドアから、|襞《ひだ》の付いた、絹のカーテンを剥ぎとったのだった。そして、のちほど折りを見て、ちょうどフラニーが紅茶茶碗にはいったチキンスープを味見しているみたいな振りを装っていたとき、グラス夫人は窓の敷居の上に、まるで野生の雌山羊みたいに敏捷によじのぼって、上下式の窓から、三つとも全部、重たいダマスク織りのカーテンを剥ぎとったのだった。
この部屋は、たった一面、南側だけが、外に面していた。四階だての、私立の女子学校が、路地を隔てた、すぐ正面に立っていた――鈍重な、いくらか超然として得体の知れない感じのする建物で、午後の三時半前後までは、生気のみなぎることはめったになく、その時間になると、三番街や四番街の、公立学校の子供たちがやってきて、そこの石段の上で、ジャックストーン遊びやストゥープボール遊びをするのだった。グラス一家は五階、つまり、この学校の建物より一階、高いところにアパートメントを借りていたから、この時間になると、太陽は学校の屋根の向こうの、上のほうから、はだかの窓を通してこの居間の中へ射しこんできていた。日光は、この部屋にとってはまったくありがたくなかった。調度の類が古くて、本来的に不器量で、記憶と感情がこびりついているばかりか、この部屋そのものが、過去の年月、無数のホッケーやフットボールの(「タッチ」ばかりかタックルもする)試合の競技場として用いられていたから、家具のどれを取っても、ひどい刻み目や切り傷がついていない足は、ほとんど一本もないくらいであった。目の高さにもっとずっと近いところにもまた、傷跡があって、それらは、すさまじいほどに多種多様な飛行物体に由来するものだった――お手玉や、野球の硬球や、おはじきや、スケートのキーや、石鹸や、そして、さらには、一九三〇年代初期の、あるはっきりとした日づけを持つ日には、空飛ぶ、首のない陶器の人形、といったぐあいだ。しかしながら日光は、おそらくは絨毯にたいして、もっとも特別にありがたくないものだった。それは元来は、ポートワインの赤色だった――そして電燈の光で見ればあいかわらずそうだ――ところがいまでは、その特徴といえば、どこか|膵《すい》|臓《ぞう》みたいな形をした、色あせた斑点が無数についていることで、それらはすべて、一連の室内ペットたちが残した、非感傷的な形見だった。この時刻になると、太陽はこの部屋の中へ、遠く、深く、冷酷無残にも、テレビのところまでも照りこんできて、まばたき一つしないキュクロープスの目に、四角く照りはえるのだった。
グラス夫人は、もっとも霊感ゆたかな、もっとも垂直な思索の幾つかを、小間物入れの箪笥の敷居の上でする癖があり、この朝も、その思索の結果、自分の末の娘をソファーに寝かせて、敷き布にも掛け布にもピンクのパケール木綿のシーツを使い、その上から、薄い青色をしたカシミヤのアフガンを掛けてやったのだった。フラニーはいま、左を下にして、ソファーの背と壁とに顔を向けながら眠っているところで、その|顎《あご》はただ、あたりにいくつか転がっているクッションの一つに軽く触れているだけだった。口は閉じていたが、しかし、ただそれだけのことだった。ところが、上掛けの上に出た右手は、閉じているだけではなく、きつく握りしめられていた。指はこぶしを固め、親指は中に入れ――その様子はまるで、はたちのくせして、彼女はまた、育児室のあの無言の、ボクサー的な防御の構えに返ったかのようだった。そして、ここのソファーのあたりでは、このことにはどうしても触れておかねばならぬのだが、太陽は、部屋の残りの部分にたいしてはきわめて不愛想であるにもかかわらず、美しい振るまいぶりを見せていた。フラニーの髪の毛をまともに照らしていたのだ――これは漆黒で、きわめてかわいらしくカットされ、三日に三回は洗われているのだった。日光は、じっさい、アフガンの上にくまなく|漲《みなぎ》っており、その薄い青色のウールにあたって戯れる、暖かい、|眩《まば》ゆいばかりの光は、それだけでもう、眺める価値が十分にあった。
ズーイは、バスルームからほとんどまっすぐここへ来て、火のついた葉巻を口にくわえながら、かなり長いあいだ、ソファーの、足のほうに立ちつくしながら、最初はいっしょうけんめい、いま着てきたばかりのワイシャツの|裾《すそ》をズボンの中に押しこんでいたが、そのうちにこんどはカフスのボタンをはめにかかり、そのあとでは、ただ立って眺めているだけだった。そして、葉巻きの後ろにしかめつらを擁している、その様子は、まるで、例の、人をはっとさせるような照明効果が、その趣味のほどはとにかく疑わしいものだと自分が考えている、ある舞台監督の手で作りだされた、とでもいうかのようだった。彼の顔つきの異常な優美さと、年齢と、全体的なからだつきとにもかかわらず――服を着れば、彼は、若い、標準以下の体重しかないダンサーだといっても、簡単に通用したことだろう――葉巻きは、そんなに目につくほど、彼に不似合いでもなかった。一つには、かならずしも鼻が短かくなかったからだ。また一つには、ズーイの場合、葉巻きは、いかなる意味あいにおいても、若げの気どり、といったものではなかったからだ。彼は十六のときに葉巻きを吸いはじめており、そして規則的に、一日に一ダースも吸うようになったのは――大部分は、値のはるパナテラだったが――十八のときだったのだ。
ヴァーモント大理石のコーヒー・テーブルの、長方形でかなり細長いのが、ソファーのすぐそばに、これと平行して置かれていた。ズーイは唐突にそちらのほうへ歩みよった。そして、灰皿と、銀のシガレット・ボックスと、『ハーパーズ・バザー』を一冊、脇にずらすと、冷たい大理石の表面の、その狭い場所にいきなり腰をおろして――ほとんど上から覗きこむようにして――フラニーの頭や肩と向きあった。彼は、青いアフガンの上の握りこぶしをつかのま、見つめ、それから、葉巻きを手に持ったまま、ほんとうにそっと、フラニーの肩を掴んだ。
「フラニー」と、彼は言った。「フランスィズ。行こうぜ、おい。いちんちのうちでいちばんいい時間をこんなとこでむだにすることはないぜ。なあ、行こうぜ、おい」
フラニーはギクリとして目を覚ました――ガクンとだ、じつは――まるで、このソファーがちょうどいま、ひどい|瘤《こぶ》かなにかの上を通りこした、とでもいうかのように。彼女は、片手を突いてからだを起こし、そして言った。「ひやぁっ」彼女は朝の日の光を、目を細めて見た。「どうして、こんなに日があたるの?」彼女はズーイがいることに、まだ完全には気づいていなかった。「どうして、こんなに日があたるの?」と、彼女は繰りかえした。
ズーイは彼女をしげしげと見つめた。「おれが行くとこにゃ、どこにでも日がついてくるのさ」と、彼は言った。
フラニーはまだ目を細めながら、彼をじっと見た。「どうして、あたしを起こしたの?」と、彼女は訊いた。彼女はまだ、眠けが重く残っているので、心底から怒気を含んだ声は出せなかったが、明らかに、なにか不法なことをされたとは、漠然と感じているようだった。
「うん、それは、まあ、こうさ。ブラザー・アンセルモとおれのとこに、新しい教区があてがわれてな。ラブラドールにさ。それで、おれたち、思ってるんだけど、おまえが祝福してくれたら、それから、おれたちは――」
「ひやぁっ?」フラニーはそう言って、手を頭の上に載せた。彼女の髪の毛は、こいきに短かくカットしてあったから、眠ったあとでも、じっさい、ほとんど乱れていなかった。彼女はその髪を――見物にとっては幸いなことにも――真ん中あたりで分けていた。「あーあ、ものすごくこわい夢、見ちゃった」と、彼女は言った。彼女はちょっと起きなおり、それから、片手で、ドレッシング・ガウンの、|襟《えり》の折返しを直した。それは注文仕立ての、タイシルクのドレッシング・ガウンで、ベージュの地に、こまかいピンクのボタンバラを、模様にかわいらしくあしらったものだった。
「先を言えよ」と、ズーイは葉巻きを吸いこみながら、言った。「解釈してやるからさ」
彼女は身震いした。「ほんと、こわかったわ。ひどいくも[#「くも」に傍点]なのよ。あんなにくもの出てくる、いやな夢みたの、生まれてはじめてよ」
「くも[#「くも」に傍点]だって、え? そいつは、おもしろい。ものすごく意味ありだ。おれも、チューリヒで、ものすごくおもしろい例を聞いてな、何年か前に――おまえにそっくりそのままの若いやつがさ、実際のとこ――」
「ちょっと、黙っててよ、忘れちゃうじゃないの」と、フラニーは言った。そして、熱心に虚空に見いった――いやな夢を思いだそうとするとき、人がよくするあれである。彼女の目の下には半円ができており、ほかにも、激しく悩む若い娘には付きものの、さらにいっそうひそやかな兆候がいくつか現われていたが、それにもかかわらず、彼女は、だれの目にもかならずや、第一級の美人に映ったことだろう。彼女の肌は美しく、目鼻だちは優美で、このうえなくはっきりとしていた。目は、ズーイのそれとほぼ同じで、まったく驚くべきほどに青みを帯びていたが、彼の目よりはたがいに離れており、いかにも妹の目というにふさわしかったし――また、それらは、いわば、ズーイの目と違って、それを覗きこむのが一日仕事だということはなかった。四年かそこいらまえに、彼女が寄宿学校を卒業するとき、兄のバディは、壇の上の卒業生の席から彼女が自分のほうに歯を見せたのを見て、われとわが心に向かって気味のわるい予言をしたことがあったが、それは、彼女は十中八、九、から咳ばかりしているような男と、ある日、結婚するにちがいない、というのであった。というわけで、そういうところも彼女の顔にはあったのだ。
「ああ、そうだ、やっと思いだしたわ!」と、彼女は言った。「ほんとに、ぞっとするようなのよ。あたし、どこかのプールにいてね、人がわんさと集まって、あたしをいつまでも水にもぐらせつづけるのよ、底に沈んでるメダリャ・ドロ・コーヒーの罐を拾ってこいっていうわけ。浮かびあがると、そのたびにまた沈ませるのよ。あたしは泣きながらね、みんなに言いつづけるの〈あんたたち[#「あんたたち」に傍点]だって、水着、着てるじゃないのよ。どうして、ちっとはもぐってみないの?〉ってね。だけど、みんな、ただ笑って、ものすごい悪口、言ってるだけでね、それで、あたしはまたもぐるのよ」彼女はふたたび身震いした。「あたしの寮にいるあのふたりの女の子もそこにいたわ。ステファニィ・ローガンと、ほとんど知りもしないような女の子がね――じつをいうと、あたしがいつも、ものすごく気のどくに思ってる人よ、ひどい名前の子だものだからね。シャーモン・シャーマンていうの。この人たち、ふたりとも大きなオール、持っててね、それでもって、あたしが水の上に出るごとに、叩こうとしてね」フラニーはつかのま、両手で目をおおった。「ひやぁっ!」彼女はかぶりを振った。それから、思案した。「その夢で、たったひとりだけ、ちょっとでもわけがわかったのは、タッパァ先生ね。つまり、この先生だけは、そこにいた人のうちで、たしかに、あたしをほんとに嫌ってるのよ」
「おまえを嫌ってるってえ? 興味しんしんだな」ズーイの葉巻きは口の中にあった。彼はそれをゆっくりと指のあいだに移したが、その様子はまさに、夢判断の専門家が、目前の件にかんしてはまだ事実が全部、揃っていない、と考えるときに酷似していた。どうやら、彼はご満悦の態であった。「なぜ、おまえを嫌うんだい?」と、彼はきいた。「絶対に率直になってくれんと、いいか、おれの腕が――」
「あの人があたしを嫌うのはね、あたしがあのいかれた、あの先生の宗教ゼミにはいってても、ちっとも笑いかえしてやらないからよ、あの人に魅力が出てきて、オクスフォードらしくなってる最中にもね。あの先生、貸与契約かなんかで、オクスフォードから来てるんだけどさ、おそろしく気のどくなくらい自己満足してる、ペテン師のじいさんでね、髪の毛ときたら、荒れほうだいで、羊の毛みたいにまっ白なの。きっと、まずお手洗いに行って、髪をめちゃめちゃにしてから、授業に来るのよ――正直、そう思うわ。自分の教えてることには、これっぽちも情熱がなくてさ。エゴなら、あるわ。情熱は、ないの。それはそれでいいんだろうけどね――つまり、それはべつに珍しいことでもないでしょうからね――だけど、ちょっちゅう、それとなく、ばかみたいにほのめかすのよ、自分は〈悟った人間〉でさ、そういう自分がこの国にいるってことを、あんたがたは、幸福だと思わにゃいかんてね」フラニーは顔をしかめた。「あの人が、たった一つ、熱をいれてすることはね、ほらを吹いてないときによ、だれかが、ほんとはパーリ語なのに、これはサンスクリットだって言うとき、それを直してやることだけだわ。あの先生、ちゃんと、知ってるのよ、あたしがあの人にはがまんできないでいるってことをね! あたしがあの人にどんな顔するか、見てみるといいわ、あの先生に見られてないときよ」
「そいつは、プールでなにしてたんだ?」
「それよ、問題なのは? なんにもしてなかったの! ぜんぜんなにもよ! ただ、あたりに突ったって、ニヤニヤ笑いながら、見てるだけだったわ。そこにいたうちじゃ、いちばんひどいのよ」
ズーイは、葉巻きの煙ごしに彼女を見ながら、気のない様子でいった。「おまえ、ひでえ顔してるぞ。わかってるのか?」
フラニーは彼を睨みつけた。「ひと朝じゅう、そこに腰かけてるのもいいけどさ、そんなことは言わずにおいてよ」と、彼女は言った。それから、こう付けたした――真顔で。「また、あたしのとこへつっかかりはじめないでよ、朝っぱらからさ、ズーイ、お願い。本気よ、ねえ」
「だれも、おまえにつっかかりはじめてやしないぞ、おい」と、ズーイは言ったが、あいかわらず気の乗らない口調だった。「たまたま、ひでえ顔をしてるって、それだけのことさ。どうして、なにか食わないんだ? ベシィが言ってるぞ、チキンスープが向こうにできてるってな、おふくろの――」
「だれだっていいわ、もしチキンスープのことをもう一度でも口に出したら――」
ところが、ズーイの注意はもうほかにそれていた。彼は目を伏せて、日のあたっているアフガンが、フラニーのふくらはぎと踵をおおっているあたりを見つめていたのだ。「これはだれだい?」と、彼は言った。「ブルームバーグか?」彼は指を一本、伸ばして、アフガンの下で、かなり大きく、奇妙なぐあいにもそもそふくらんでいるものをそっと突ついた。「ブルームバーグ? おまえか?」
そのふくらんでいるものが動いた。フラニーもいまではそこに目をすえていた。「どうしても出ていかないのよ」と、彼女は言った。「きゅうに、ぜんぜん気違いみたいに、わたしにまつわりつきだしたのよ」
ズーイが指先で調べまわすのに刺激されて、ブルームバーグは唐突に伸びをすると、それから、トンネルの中をゆっくりと這いあがって、フラニーの膝の無防備地帯に向かいはじめた。ところが、猫の無愛想な頭が日射しの中に現われたとたんに、フラニーはその腋の下を抱えて、抱きあげ、自分から適当な距離、離しながら、親しげに挨拶をした。「おはよう、ブルームバーグちゃん!」そして、目と目とのあいだに熱烈なキスをした。猫は迷惑そうに瞬きをした。「おはよう、でぶっちょの、臭い猫さん。おはよう、おはよう、おはよう!」彼女はキスまたキスをしたが、それに報いる愛の波は、雄猫のほうからはいっこうに湧きおこってこなかった。猫は、愚かにも、かなり激しくもがいて、フラニーの鎖骨のほうへとびうつろうとした。このブルームバーグは、非常に大きな、灰色にぶちのはいった去勢された雄猫だった。「この様子ったら、情がこまやかじゃない?」彼女はびっくりしていた。「こんなに情がこまやかなのは、きょうがはじめてよ」彼女はズーイを見つめて、おそらくはこの言葉の裏づけを求めたのだが、葉巻きの後ろの、ズーイの表情は、あいまいだった。「なでてやってよ、ズーイ! ほうら、この顔のかわいらしいことったら。なでてやってよ」
ズーイは手を伸ばして、ブルームバーグの山型の背を一度、二度と、さすったあと、そこでやめると、こんどはコーヒー・テーブルから立ちあがり、部屋の中をぶらぶら歩いて、ピアノのほうに向かった。このグランドピアノは、壁に横づけにされて、大きく蓋を開きながら、黒々とした、スタインウェイの巨大さに浸って立っており、置かれた場所はソファーのちょうど真向かいで、長椅子はフラニーの真正面にあたっていた。ズーイはその長椅子に試験的に腰をおろして、それから、いかにも興味ぶかげな様子で、譜面台の楽譜を見た。
「この子ったら、|蚤《のみ》だらけでね、じょうだんどころの騒ぎじゃないのよ」と、フラニーが言った。そしてすばやくブルームバーグを掴まえると、むりやり膝に乗せて、御しやすい姿勢をとらせた。「ゆうべは十四匹も見つけたわ。片側だけでね」彼女はブルームバーグの尻を強く押さえつけて、それからズーイのほうを見た。「台本はどうだったのよ、とにかく?」と、彼女はきいた。「ゆうべになって届いたの、え?」
ズーイはそれには答えなかった。「ちくしょう」彼はそう言いながら、あいかわらず譜面台の上の楽譜を見ていた。「だれが、こいつ、出したんだ?」その楽譜の題は、『そんなにいやみになることないじゃない、ベービー』というのだった。おおよそ四十年も前のものだ。セピア色をした、グラス夫妻の写真の複製がその表紙を飾っていた。グラス氏はシルクハットに、|燕《えん》|尾《び》|服《ふく》を着こみ、グラス夫人のほうもそうだった。ふたりとも、写真機にむかって、眩ゆいばかりにほほえみかけているところで、どちらも、散歩杖にもたれて身を乗りだしながら、足を大股に開いていた。
「なによ、それ?」と、フラニーはきいた。「ここからじゃ、見えないわ」
「ベシィとレスさ。『そんなにいやみになること、ないじゃない、ベービー』」
「まあ」フラニーはクスクス笑った。「レスは回想[#「回想」に傍点]に耽ってたわよ、ゆうべ。あたしのためにね。おなかでもいたいんだと思ってるんだわ。その長椅子の下の楽譜、一枚のこらず、みな出してたわよ」
「おれが知りたいのはだよ、いったいぜんたい、おれたちはどうして、ちくしょう、このジャングルの中へ落ちこんじゃったのかってことさ――はるばると、この『そんなにいやみになることないじゃない、ベービー』からな。おまえ、答えを出してくれよ」
「だめだわ。やってみたけどね」と、フラニーは言った。「台本はどうだったの? 来たの? 兄さん、言ってたじゃない、だれだったかが――ルサージュさんとかなんとかいう人よ――門衛にあずけていくことになってるってね、その人が――」
「来たよ、来たよ」と、ズーイは言った。「おれ、その話はいやなんだ」彼は葉巻きを口にくわえると、右手で、高音部のキーを鳴らしながら、オクターヴで『キカンジュー』という題の歌を弾きはじめた――これは、どうやら明らかに、ひところ人気が出ていた曲で、どうも、彼がまだ生まれないうちに、その人気は衰えてしまったらしい。「来たどころじゃなくてさ」と、彼は言った。「ディック・ヘスがな、ゆうべ一時ごろ、うちへ電話をよこしてさ――おれたちがひと悶着おこしたすぐあとにな――一杯やりたいから会ってくれと、頼んできたよ、あいつめ。そのうえ、サン・レモでだとよ。あいつ、いま、ヴィレッジの中を探ってるさいちゅうさ。いやはや!」
「ピアノのキーはおとなしく叩いてよ」と、フラニーは彼を見つめながら言った。「そこに腰かけてる気なら、あたしが監督になってやるわよ。いまのが、あたしの監督命令の第一号よ。ピアノはおとなしく叩いてよ」
「まず第一にだぜ、あいつはおれが飲まないのを知ってる。第二には、あいつは、おれがニューヨークの生まれなことを知ってるから、おれのがまんできないことがたった一つあるとすりゃ、それは雰囲気[#「雰囲気」に傍点]だっていうこともわかってる。第三に、あいつは、おれがあのくそヴィレッジから、だいたい七十ブロック、離れたとこに住んでることも知ってる。それから第四に、おれはあいつに三回も、いまおれはパジャマにスリッパでいるんだぞと、言ってやった」
「キーはおとなしく叩いてよ!」フラニーはブルームバーグを|撫《な》でながら、監督するように言った。
「だけど、だめだ、待てない、だと。すぐ、おれに言わんといかんて言うんだ。非常にだいじなことだ。じょうだんじゃないぞ、これは。一生に一度ぐらい、言うこと聞いて、タクシーに飛びのって来いよ」
「行ったの? 蓋もおとなしく閉めてよ。それが命令第二号よ、あたしの――」
「そうさ、もちろん行ったさ! おれには、意思のくそ力なんてないんだ!」と、ズーイは言った。彼は鍵盤の蓋を閉めた――いらだたしげではあったが、おとなしく。「おれのいかんとこは、ニューヨーク生まれじゃないやつは信用せんことだ。問題にせんのだよ、連中がいったいどのくらい前からここに住んでようと、そんなことはな。おれは、いつだって、はらはらしてるんだ、やっこさんたち、車にひかれるんじゃないか、なぐられるんじゃないかってな、いっしょうけんめい、二番街で、アルメニア料理の店かなにかを探ってるさいちゅうにさ。それか、なにか、くそいまいましいものをな」彼は不機嫌そうに、葉巻きの煙をひとすじ、『そんなにいやみになることないじゃない、ベービー』の表紙に吹きつけた。「それで、とにかくおれは向こうへ出かけたよ」と、彼は言った。「そうしたら、ディックのやつがいてな。しょげきって青ざめきって、だいじな知らせとやらでふくれきってたよ、きょうの午後までは待てないとかいうな。青いジーパンはいて、ぞっとするみたいな、スポーティな上着、着こんで、テーブルに向かってたのさ。〈デモインからの亡命者、ニューヨークに〉っていうとこだ。殺してやりたいくらいだったぜ、じっさい、誓ってもいいけどな。ひどい夜だった。おれはそこに、たっぷり二時間は腰かけどおしで、そのあいだ、あいつはしゃべりまくりゃがってな、おれのこと、なんて、高慢ちきなやろうだとか、おれのうちのこと、精神異常のやつと、精神病と紙ひとえの天才どもを、なんてよく出す家族だとかさ。それからな、おれをすっかり分析しおわって――それにバディも、それにシーモァもだ、どっちにも一度も会ったこと、ないくせしやがって――頭の中で、まあ袋小路みたいなものにはいりこむとな、つまり、その夜、それからあとは、精力的なコレットていうとこでいくか、小男のトマス・ウルフていうとこでいくか、決めかねるとこまで来るとさ、ふいにテーブルの下から、かしら文字の組合せのついた豪勢なアタッシェ・ケースを引っぱりだしてな、新しい一時間ものの台本をおれの腋の下に突っこんできやがった」
彼は片手で空気にお突きをくれて、あたかも、この問題はもうおしまいだ、とでもいうそぶりを見せた。しかし、彼がピアノの長椅子から立ちあがるところは、いかにも不承ぶしょうな様子だったので、それは、ほんとうにこれでおしまいだという合図の身振りでは、ぜったい、なかった。葉巻きは口にあり、手はどちらも尻のポケットにあった。「もう何年となく、おれはバディが、俳優のことをぺちゃくちゃぺちゃくちゃ、まくしたてるのに耳を貸してきた」と、彼は言った。「ちくしょう、おれだって、耳に何杯も、〈おれの知ってる作家〉どものことを、あいつに聞かせてやることはできるさ」彼は一瞬、放心して立ちつくしたが、そのうちに、あてどもなく動きはじめた。まず、一九二〇年型のヴィクトローラのそばで立ちどまり、それをぼんやりと眺め、それから、おもしろ半分に、二度ほど、そのラッパ=スピーカーにわめきこんだ。フラニーは、彼を見まもりながら、くすくす笑ったが、彼のほうは眉をひそめて、また動きだした。そして、熱帯魚の水槽のところまで来ると――これは一九二七年型のフレッシュマン・ラジオの上に載せてあったのだが――唐突に身をかがめながら、口にくわえた葉巻きを抜きとった。彼はいかにも気がかりな顔つきをして水槽の中を覗きこんだ。「おれのブラック・モリィ、全部、死にかけてるぜ」と、彼は言った。それから、機械的に、水槽の脇にある餌入れのほうに手を伸ばした。
「ベシィが、けさ食べさせたばかりよ」と、フラニーが注意した。彼女はあいかわらずブルームバーグをさすりつづけ、あいかわらずこの猫を、アフガンの外側の、微妙で扱いにくい世界の中へ、自分が助けて、むりやり連れこもうとしていた。
「飢えてるみたいだぜ」ズーイはそういいはしたものの、手は餌入れから引っこめた。
「こいつめ、おそろしく引きつったみたいな顔してるぞ」彼は指の爪でガラスをトントンやった。「おまえにいりようなのはな、チキンスープだぜ、おい」
「ズーイ」フラニーはそう言って、彼の注意を引いた。「それで、いまはどういうことになってるの? あんた、新しい台本を二つも持ってるんでしょう。ルサージュがタクシーで置いてったのは、なんなのよ?」
ズーイはしばらく、さかなを覗きこみつづけた。それから、とつぜん、だが、明らかに内面の衝動に促されて、絨毯の上に大の字に寝ころがった。「ルサージュが送ってきたやつではな」と、彼は足を組みながら言った、「おれは、リック・チャルマーズ、やることになってるんだ、ぜったい一九二八年型の上流階級コメディでな、フレンチ社のカタログからそのままとったやつさ。たった一つ、違ってるとこは、花々しく現代的にされてることだけだ、チンプンカンプンの言葉をわんさと使ってな、コンプレックスだとか、抑圧だとか、昇華だとか、作者が分析医のとこから持ちかえったみたいなことを、あれこれ論じてさ」
フラニーは、彼のからだのうち、自分に見える部分をじっと眺めた。彼の足の裏と踵しか、彼女が坐っている場所からは見えないのだった。「それで、ディックののはどうなの?」と、彼女はきいた。「もう読んでみたの?」
「ディックのやつじゃな、おれはバーニになるんだ、感受性の強い、地下鉄の若い車掌でな、いままで読んだうちじゃいちばん勇気があってな、くそ型やぶりなテレビ・ドラマさ」
「へええ? ほんとにいいの?」
「いいとは言わなかったぞ、勇気のあるって、言ったんだ。ここでいっしょに待っててみるさ、な。あれが放映されたら、そのあしたの朝はな、ビルじゅう、みんな、歩きまわっちゃァ、だれかと会うたびに、相手の肩たたいて、おたがいに、すばらしかったって、騒ぎたてあうからな。ルサージュ。ヘス。ポメロイ。スポンサーども。勇気ある連中、全部。それがみな、きょうの午後、始まるんだ。まだ始まってないとしたらだけどな。ヘスがルサージュの事務所へ行って、こう言うんだ、『ルサージュさん、新しい脚本が手にはいりました――主人公は若い、感受性の強い、地下鉄の車掌で勇気と誠実の匂いがプンプンしてます。なにしろもう、存じあげているんですから、〈甘くてぐっと来る〉台本のつぎには、〈勇気と誠実〉のある台本がお好きだってことぐらいはね。こいつは、いまも申しましたとおり、その両方の匂いがプンプンしてますよ。人種のるつぼにぴったりのタイプでいっぱいです。センチメンタルです。場所によっては、ちゃんと荒れています。そうして、その感受性の強い地下鉄の車掌が自分のかかえる問題に打ちひしがれてですね、〈人類と小市民〉とにたいする信頼を打ちこわされる、ちょうどそのとき、九つになる姪が学校から帰ってきまして、この若い叔父に、あるけっこうな、専売特許の愛国主義哲学を授けるわけです――アンドルー・ジャクソンの、奥地の出の細君このかた、はるばると、子孫や公立第五六四小学校をとおしてわたしどものところまで伝えられてきたあれですよ。これがはずれるわけがありませんよ! 足が地についていますし、単純ですし、いかさまですし、そのうえ、申し分なくありきたりで平凡ですから、まちがいなく、あの欲ばりで神経質で学のないスポンサーさまたちに理解され、愛されますよ』ってな」ズーイは唐突に起きあがって、坐りこんだ。「おれ、風呂にはいったばかりで、豚みたいに汗が出る」と、彼は注釈をつけた。彼は、立ちあがり、そのついでに、つかのま、あたかも心ならずもといったそぶりで、フラニーのほうをチラッと見やった。そして、目をそらそうとしかけたが、けっきょくそれはできずに、彼女の顔をいっそうしげしげと見るだけに終わった。彼女は頭を垂れて、目は、膝にいるブルームバーグに据えつけながら、あいかわらずこの猫をさすりつづけていた。しかし、そこには、前とどこか変わったところがあった。「ああ」ズーイはそう言って、ソファーに近づいた――明らかに、悶着を狙っているみたいであった。「お嬢さんの唇は動いてるぞ。お祈りが始まりかけてるな」フラニーは顔を上げなかった。「いったいぜんたい、なにしてるんだ?」と、彼はきいた。「逃げ場を見つけてるわけか、おれの、民衆芸術にたいする非キリスト教的な態度からさ」
フラニーは、そうすると、目を上げて、瞬きをしながらかぶりを振った。それから、彼に笑いかけた。彼女の唇は、じっさい動いていたのであり、いまも動いていた。
「おれに笑いかけるの、やめてくれよ、頼むから」ズーイは穏やかにそう言うと、彼女のそばを離れた。「シーモァは、いつもそんなふうに、おれのとこへ笑いかけやがった。ここのくそうちの中には、笑うやつばっかり、うじゃうじゃいやがる」本棚の一つ前まで来ると、彼は一冊だけ、不揃いになっている本を、親指ですこし押して、きちんと直してから、そこを通りすぎた。そのあとでは、こんどは、この部屋の、まん中の窓のところまで行ったが、その窓のこちらには、あいだに窓腰掛をはさんで、さくらのテーブルが置かれており、そこは、グラス夫人が勘定書きを清算したり手紙を書いたりする場所になっていた。彼はフラニーに背を向けて立って、窓から外を眺めながら、手は両方ともまた尻ポケットに入れ、葉巻きは口にくわえていた。「おまえ、知ってたっけか、おれがこの夏、フランスへ行って写真をとるかもしれんていうこと?」と、彼はいらいらした口調できいた。「そのこと、話したっけか?」
フラニーは興味ありげな顔をして、彼の背中を見やった。「ううん、聞いてないわ!」と、彼女は言った。「本気の話? なんの写真を?」
ズーイは、道の向こうの、マカダム張りの、学校の屋根を見やりながら、言った。「いや、話しだすと長くなるけどな。フランス人のやつがひとり、こっちへ来ていてさ、そいつが、おれがフィリップで作ったアルバム、聞いたんだな。おれ、二、三週間まえに、そいつと昼めし、食ったんだ。正真正銘の流れ者だけどな、まあ、ちょっと人好きのするやつで、どうやら、いまじゃ向こうでモテモテらしい」彼は片方の足を窓腰掛に掛けた。「まだ、なに一つ、決まってやしないんだ――なに一つ、ぜったい決まりゃせんのだよ、ああいう連中とはな――だけど、おれ、どうやら、あいつを半分、たぶらかしたよ、例のさ、ルノルマンの小説をタネにしてな。写真を一枚、とるって気にさせることはできたらしいぜ。おまえのとこへ送った、あれさ」
「そうなの! まあ、すばらしいじゃない、ズーイ。もし行くとしたら、いつごろ行くつもりなの?」
「すばらしかないよ。それがまさに問題さ。それをやるのは楽しい、そりゃそうだよ。ちくしょう。そうともさ。だけど、おれ、こんりんざい、いやなんだ、このニューヨークを出るのはな。じつのとこ、おれは嫌いなんだ――船にならなんにでも乗ってく、いわゆる創造家タイプってやつは、なんでもな。理由はなんだろうと、くそっくらえだ。おれはここで生まれたんだ。ここで、学校へ行ったんだ。ここでくるまにひかれたんだ――二度[#「二度」に傍点]もな、それも、ちくしょう、おんなじ通りでさ。おれは、ヨーロッパになんか、やる仕事はないんだ、まったく」
フラニーはつくづくと、彼の白い、ブロードのワイシャツの背を眺めた。しかしながら、彼女の唇はあいかわらず、無言のまま、なにかを呟やいていた。「じゃあ、なぜ行くの?」と、彼女はきいた。「そんなふうに思ってるんならよ」
「なぜ行くってか?」ズーイは、後ろも向かずにそう言った。「おれが行くのはな、だいたいのとこ、朝、かっかして腹をたてて起きてな、夜、かっかして腹をたてて寝るのに、こんりんざい、飽きあきしたからさ。おれが行くのはな、できものだらけの、哀れっぽい野郎どもをな、知ってるかぎり、批評してるからさ。そのこと自体はな、それほど気にもならんけど。すくなくとも、おれはな、批評するときは、ざっくばらんに批評してるさ、それに、わかってるんだ、いつか、自分の下した批評にな、遅かれ早かれ、どういう形にしろ、とにかく年貢を納めることにきっとなるってな。そんなことは、たいして気にもならんさ。だけど、おれはなにか――こんちくしょう――なにか、下町の連中の士気にかかわるようなことしてるわけで、そいつはもうこれ以上、手をこまねいてみてるわけにはいかんのさ。おれがなにをしてるか、ちゃん[#「ちゃん」に傍点]と言ってやろうか。おれはみんなに感じさせてるんだ、おまえらはほんとうはなにかいい仕事をしたいなんて思っちゃいなくて、ただ、自分の知ってるみんなから、いい仕事だと思われそうな仕事を果たしたいと思ってるだけだってな――批評家どもから、スポンサーどもから、大衆から、自分の子供の教師からさえな。それが、おれのしてることさ。それが、おれのしてる、いちばん悪いことだ」彼は、学校の屋根の方角にむかって眉をひそめ、それから、指先の何本かで、自分のひたいから汗をすこし拭った。そして、フラニーがなにか言うのを耳にすると、唐突に、彼女のほうを振りむいた。「なんだ?」と、彼は言った。「聞こえない」
「べつに。〈おや、まあ〉って、言ったのよ」
「どうして〈おや、まあ〉だ?」と、ズーイはいらだたしげにきいた。
「べつに。あたしに突っかからないでよ、お願いだから。あたし、ただ考えごとしてるだけじゃない。ただね、兄さん、土曜日にあたしと会ってくれたらよかったのにって、そう思ってるだけよ。それなのに、みんなの士気をなしくずしに崩すなんて話をしてさ! あたしは、あの日、レインの一日を、完全にだいなしにしちゃったっていうのに。あの人に頼ってさ、一時間ごとに気を失ってただけじゃなくてね、そのうえ、あそこまではるばるとよ、すてきで、和気あいあいとした、まともな、カクテルまじりの、たぶんはきっと楽しいフットボールの試合を見に行ったくせして、あの人の言う、それこそひとことひとことに、あたしったら、突っかかるか、反対するか、それか――まあ、どうでもいいけど――とにかく、めちゃめちゃにしちゃったのよ」フラニーはかぶりを振った。彼女はまだブルームバーグをさすっていたが、目は放心していた。例のピアノが彼女の焦点であるらしかった。「あたし、どうしても、自分の思ってること、たとえ一つでもね、胸にしまっておけなかったの」と、彼女は言った。「ほんとにひどかったわ。あの人と駅であった、その瞬間から、だいたいもうね。あたし、からみにからみにからみはじめたのよ、あの人の言うことにも、高く買うことにも、みんなね、それに――ただ、なにもかもに。なにもかもなのよ。あの人、フローベールのこと、試験管の中で作ったみたいな、たわいもない論文に書いてさ、それをとってもいばって、あたしに読ませたがったんだけどよ、それがあたしには完全にもう英文科的で、押しつけがましくて、大学くさく聞こえたもので、あたし、ただ――」彼女は言葉を切った。それから、また頭を横に振った。するとズーイは、あいかわらず彼女のほうに半ばからだを向けたまま、目を細めて彼女を見た。彼女の顔の青さかげん、いわば、手術のあとみたいなその顔いろは、起きがけよりもまたひどかった。「ふしぎなくらいよ、あの人があたしのこと、撃たなかったのが」と、彼女は言った。「もし撃ってくれてたら、ぜったい、おめでとうって、言ってやったとこなんだけど」
「そいつは、ゆうべ聞いたじゃないか。新しくもない回想なんて、けさはごめんこうむるよ、な」ズーイはそう言って、また窓の外を眺めはじめた。「だいいちだぜ、おまえは、自分のほうがどうかしてるときにかぎって、自分じゃなくて、まわりの物や人間に文句を言いだすんだからな。おれたちは、どっちもそうだ。おれだって、ことくそテレビにかんしちゃ、おんなじこと、するんだから――自分で気がついてるよ。だけど、そいつは間違ってる。要はおれたち[#「おれたち」に傍点]なんだよ。おまえにはいつもそう言ってるだろ。おまえはどうして、このことになると、くそ物わかりが悪くなるのかなあ?」
「この事になると、あたしがくそ物わかりが悪くなるんじゃなくて、兄さんがいつまでも――」
「要はおれたち[#「おれたち」に傍点]なんだよ」と、ズーイは、彼女にはいさいかまわず、そう繰りかえした。「おれたちは奇形児なんだ、それだけのことさ。あのふたりの野郎どもが、うまいぐあいに早くからおれたちを掴まえてさ、奇形な物の測り方する奇形児にしたてたんだ。おれたちは〈入れずみ女〉でな、あれから一生のあいだ、一分でも心の安まることはないんだ、ほかのやつらもみんな、入れずみするまではな」いくらか不機嫌な表情をして、葉巻きを口に持ってゆくと、彼はそれからひといき吸ったが、火はもう消えていた。「そのうえさ」と、彼はすぐに言った。「おれたちには『賢い子』コンプレックスがある。おれたちはな、いまもって、ほんとはまだぜんぜん、放送をやめちゃいないんだ。だれひとりな。おれたちは、話すんじゃなくて、まくしたてるんだ。会話をするんじゃなくて、解説をするんだ。すくなくともおれは[#「おれは」に傍点]そうだな。だれか、耳のかずをまともに持ってるやつと、ひとつ部屋へはいるとな、そのとたんに、おれは千里眼[#「千里眼」に傍点]になるか、それとも帽子ピンになるかだ。〈退屈の王子〉にな。たとえば、ゆうべ[#「ゆうべ」に傍点]だ。例のサン・レモでな。おれはずっと祈りつづけてた、ヘスが自分の新しい台本の筋のこと、話しませんようにってな。向こうがそれを持ってることぐらい、おれは百も承知だったんだ。ここの場所から出るときは、きっと新しい台本を持って帰らされるってことぐらい、百も承知だったんだ。それで、おれは祈りつづけてた、ヘスのやつ、口で試演することだけは、よしてくれるようにってな。あいつはばかじゃない。あいつにはわかってるんだ、おれは口を閉じていられるような男じゃないってことがな」ズーイはとつぜん、鋭く振りかえり、足は窓腰掛にあいかわらず載せつづけたまま、剥ぎとりマッチを一つ、母親の書き物机の上から拾いあげ、いや、引ったくりあげた。それから、窓のほうに向きなおると、学校の屋根を眺めながら、葉巻きをまた口に入れた――が、すぐに離してしまった。「あのばか[#「ばか」に傍点]がとにかく」と、彼は言った。「あいつの間抜けさかげんときたら、こっちが悲しくなるくらいだぜ。テレビに出るようなやつは、みんな、おんなじさ。それにハリウッドもな。それにブロードウェイもな。あいつときたひにゃ、センチメンタルならなんでも甘くて、残酷ならなんでもリアリズムのかけらで、荒れごとになるやつならなんでも、れっきとしたクライマックスだと思ってやがるけど、そのクライマックスの行きつく先は、じつは――」
「そう言ってやったの?」
「もちろん、言ってやったさ! いま言ったばっかりじゃないか、おれは口を閉じちゃいられないんだと。もちろん、言ってやったさ! おれは、あいつをそこに腰かけさせたままな、死んでくれればいいって思いながら、出てきたんだ。それか、おれたちのうちのどっちかが死んでくれればいいってな――じっさい、おれのほうだとよかったと思うよ。とにかく、ちゃんとした、サン・レモからの出方をしてきたわけだ」
ズーイは足を窓腰掛からおろした。それから、後ろを振りむいて、緊張と同様とをこもごも顔に出しながら、母親の書き物机から椅子を引きだして、それに腰をおろした。そして、ふたたび葉巻きに火をつけたあと、腕をどちらもサクラの表面にあずけたまま、しんねりむっつりした様子で、背をかがめて、身を前に乗りだした。彼の母親が文鎮がわりに使っているものが、インク壺の脇に置いてあった――小さなガラスの玉が黒いプラスチックの台座に載っていて、その玉の中では雪だるまがシルクハットをかぶっている。ズーイはそれをつまみあげて、ひと振りし、それから、どうやら、雪けむりが渦まくのを眺めている様子だった。
フラニーはその彼を見ながら、いまでは片手を顔に目かくしみたいに当てがっていた。ズーイが、この部屋に射しこんでくる日光の、いちばん太い光線の中に腰かけていたからだ。彼女は、もし彼を見つづける気だったら、ソファーの上でからだの位置を変えることもできたのだが、そうしたら、自分の膝の上で眠っているらしいブルームバーグを起こすことになりかねなかっただろう。「兄さん、ほんとに胃潰瘍があるの?」と、彼女はふいにきいた。「母さんが言ってたわよ、兄さんは胃潰瘍があるって」
「ああ、できものはあるさ、まちがいなくな。いまはカリュガだ、な、おい、鉄の時代さ。十六を過ぎてて胃潰瘍のないやつなんて、みんな、くそスパイだ」彼は雪だるをまた、前より激しくひと振りした。「それでておかしなことにな」と、彼は言った、「おれはヘスが好きなんだ。それが、すくなくとも、あいつが自分の芸術的な貧乏ったらしさをな、おれののどに押しこもうとせんときは、好きだってこと。すくなくとも、あいつは、ぞっとするみたいなネクタイはめて、パッドのはいったおかしな背広、着てるんだ――あの、不安そのものみたいな、超保守的で超画一的な気違い病院のまんまんなかでな。それに、おれはあいつのうぬぼれが好きなんだ。あいつはものすごくうぬぼれが強いんで、じっさいは謙虚なのさ、あのいかれた野郎はな。つまり、あいつはもうはっきりと、テレビは自分にぴったりのものだと思ってるんだな、自分のでかい、見かけだけは勇気のある、型やぶりな[#「型やぶりな」に傍点]才能にな――こいつはもう、一種、いかれた謙虚さみたいなものさ、よく考えてみる気になりゃな」彼は、ふぶきが静まるまで、ガラスの玉を睨みつづけた。「ある意味じゃ、おれ、ルサージュも好きさ。あいつの持ってるものは、なにからなにまで極上品さ――オーバーも、二船室のヨットも、ハーバードへ行ってる息子の成績も、電気かみそりも、なにからなにまでな。あるときな、あいつ、おれに夕飯、食わせてやるって、うちに連れてったときさ、門道でふいにおれを立ちどまらせやがって、きくんだ、『まだ覚えてるか、あの死んだキャロル・ロンバード、映画のさ』ってな。それから、女房に会ったらびっくりするぞって、言うんだ、キャロル・ロンバードに生きうつしなんだそうだ。それがあるんで、おれ、あいつのこと、死ぬまでだって、好いてやるんだ。もっとも、あいつの細君ときたら、ほんとに退屈な、胸が大きいだけの、ペルシャ人みたいな顔したブロンドだったけどな」ズーイは唐突に振りかえって、フラニーを見た。彼女がなにか言ったからだ。「なんだって?」と、彼はきいた。
「そうね!」と、フラニーは繰りかえした――顔いろは青白かったが、明るくほほえんでいて、どうやら、自分も死ぬまでルサージュのことを好いてやるのが運命だ、とでもいったふうだった。
ズーイは黙って、しばらくのあいだ葉巻きをふかした。「なにがディック・ヘスのことでおれを|気《き》|鬱《うつ》にするかっていうとだな」と、彼は言った、「なにがおれを、こんなに、悲しませるでも、おこらせるでも、なんでもかまわん、とにかくいまみたいな気分にするかっていうとだな、あいつがルサージュに作ってやった最初の台本が、まあ、かなりよかったってことさ。まあ、よかったんだ、じっさい。あれが、おれたちが映画に出た最初だった――おまえは見なかったろうけどな、学校かなにかへ行ってて。おれの役は、その中じゃ、農家の息子で、親父とふたりきりで暮らしてるのさ。その子は、農家なんかいやだと、そう思いこんでてな、親父とふたりして、これまでだって、暮らしをたてるのにひどい苦労してきてたものでさ、それで、親父が死ぬと、牛はみんな売って、でかい町へ行って暮らしをたてるんだと、でかいことを計画する」ズーイは雪だるまをまたつまみあげたが、こんどはひと振りしなかった――ただ、台座を持って、くるりと回しただけだった。「いいとこも、少しはあったぜ」と、彼は言った。「おれは、牛をみんな売ってから、しょっちゅうまきばへ行っちゃあ、牛を捜すんだ。それから、女の子といっしょに別れの散歩に出かけるときな、でかい町へ出かけるすぐまえのことだけどさ、おれはその子の足を、しょっちゅう、がらんとしたまきばのほうへ向けたがる。それから、そのでかい町に出て、仕事につくと、暇な時間は全部、家畜置場のあたりをうろついて過ごす。そのうちにとうとう、そのでかい町の本通りで、交通が混雑してるまんまんなかでな、車が一台、左に曲がったかと思うと、そのまま牛になっちまう。おれは、ちょうど信号が変わるとき、そのあとを追っかけて、ひかれる――四方八方から踏みにじられる」彼は雪だるまをひと振りした。「足の爪を切りながらじゃ見ていられんていうほどのものでも、たぶんはなかったさ、だけどな、すくなくとも、リハーサルが終わったら、スタジオからうちまでこそこそ帰りたいような気持ちにゃ、ならなかったぜ。新鮮なことはじゅうぶん新鮮でな、すくなくとも、そうして、まちがいなくあいつのものだった、台本によくあるみたいな、陳腐な傾向のものじゃなかったんだ。じっさい、おれ、あいつはもういちどくにへ帰って、元気になるといいと思うんだ。じっさい、みんな、くにへ帰えりゃいいと思うぜ。おれはもう、死ぬほどうんざりしてるんだ、みんなの生活の中でかたき役になってることにゃな。ちくしょう、いちど見てみるといいぜ、あのヘスとルサージュが、新しい芝居のこと話してるとこをな。それか、なんでもいい、新しいなに[#「なに」に傍点]かのことをな。あいつらは、おれが出てくまでは、豚みたいに楽しそうにしてやがる。それ見ると、おれはまるで、あの憂鬱な野郎どもになったみたいな気がしてくるんだ――シーモァの好きだった荘子が、みんな気をつけろと言ってるあいつらにな。〈いわゆる、さかしげな男たちがびっこをひきひき姿を現わしたら、注意しなさい〉か」彼はじっと腰かけて、雪の粉が渦まく様子を見つめた。「おれ、横になってそのまま死ねたら幸福だろうなって、思うことがときどきある」
フラニーはこのときは、絨毯の向こうのほうの、ピアノに近いあたりの、日に焼けて色の|褪《あ》せたところを見つめながら、唇をはっきりと動かしていた。「おかしな話ね、とっても――考えられないくらいだわ」そう言う彼女の声はこのうえなく微かに震えていた。ズーイは彼女のほうを見やった。彼女は口紅をぜんぜん付けていなかったので、青白いのがよけいに目立った。「兄さんの言ってること、一つ聞くたびに一つ思いだすのよ、土曜日にね、レインがあたしのこと、探りはじめたとき、あたしが言いだしかけてたことを。マティニや、エスカルゴや、いろんなもの、食べたり飲んだりしてるさいちゅうにね。つまり、そっくりおんなじことで頭を悩ましてたわけじゃないけど、どうも、おんなじような種類のことで、おんなじような理由があったみたい。すくなくとも、そんなふうな感じだわ」ブルームバーグがこの瞬間、彼女の膝の上で立ちあがり、猫というよりはむしろ犬みたいに、ぐるぐる歩きまわって、眠るのにもっと気にいった場所を見つけようとしはじめた。フラニーはうわのそらで、だが案内役らしいしぐさで、両手をそっと猫の背に置きながら、話しつづけた。「あたし、ほんとに、自分で自分にね、大声で、気違いみたいに言うとこまで行っちゃったのよ。そのこうるさい、あげあしとりみたいな、非建設的な言いぐさ、もうひとことでも聞いたら、いい、フラニー・グラス、あんたとあたしはそれでおしまいよ――ほんと、おしまいよってね。そうしたら、しばらくは、そんなにひどくなくなったわ。まるひと月かそこいらはね、すくなくともよ、だれかが、大学くさくてインチキみたいに聞こえることか、天まで届きそうなくらいエゴがプンプンしていることか、なにかそんなふうなこと、言っても、そのたびにあたし、少なくともそのことについては口を閉じたわ。映画に行くか、ずっと図書館にこもるか、気でも狂ったみたいに、〈王政復古期の喜劇〉のことだとか、そんなこと、レポートに書きはじめたりしたんだけど――それでも、すくなくとも、しばらくは自分の声、聞かずにすむっていう喜びはあったわ」彼女はかぶりを振った。「そのうちに、ある朝よ――どたどたっと、また始まっちゃった。ひと晩じゅう眠れなくて、どうしたわけかね、それで八時にフランス文学があったものだから、とうとう起きだして、服、着て、コーヒー、作って、それからキャンパスの中、歩きまわりだしたの。ほんとにしたかったのは、バイクをおそろしく長いあいだ乗りまわすことだったけど、自転車置場からバイク出すとこ、みんなに聞かれそうだったものだからね――いつだってなにかが落ちてくるんだから――それで、ただ文学の校舎へ行って、腰かけるだけにしたわ。長いあいだ腰かけてたんだけど、そのうちにとうとう立ちあがってね、エピクテートスの言葉、黒板じゅうに書きはじめたの。前のほうの黒板、いちめんに書いちゃった――あんなに覚えてたなんて、自分でも知らなかったわ。それをあたしが消したころになってね――よかったわ!――みんなが来はじめた。だけど、あんなことして、子供みたいね、とにかく――エピクテートスったら、きっと、あんなことされて、あたしをぜったい憎んでるわよ――だけど、……」フラニーは口ごもった。「あたし、わからない。ただ、だれか、すてきな[#「すてきな」に傍点]人の名前、黒板に書いてあるのを見たかっただけよ。とにかく、あれがあたしにまた始まったのね。それでいちんちじゅう突っかかってたわ。ファロン先生のとこへ突っかかったりね。レインのとこへ突っかかったりね、電話で話したとき。タッパァ先生のとこへ突っかかったり。だんだん悪くなる一方だった。おんなじ部屋の友達にまで、突っかかり始めたのよ。アーあ、かわいそうに、ヘヴったら! あたしったらね、あの人のこと掴まえてよ、おかしな目つきしてあたしのこと見るわね、まるであたしがこの部屋から出てくことに決めてくれればいいって、そう思ってるみたいじゃないって、そう言っちゃったの――そうすれば、半分くらいは愉快で正常な人が、代わりにはいってこられるから、すこしは落ちつくって、そう思ってるみたいねってね。あれはまあ、ひどかったわ! それで、いちばんまずかったのはね、あたし自分で自分が退屈な人間だってわかってたこと、自分がどれだけ人を憂鬱にしてるか、ううん、人の気持ちを傷つけてさえいるかって、わかってたことよ――だけど、どうしてもやめられなかった! どうしても、突っかからずにはいられなかったのよ」いくぶんか放念したような顔つきをしながら、彼女はしばらく口を閉じ、そのあいだに、ブルームバーグの落ちつかない尻のあたりを押さえつけた。「いちばんひどかったのは、教室にいるときだったわ、だけど」と、彼女はきっぱりとした口調で言った。「あれがいちばんひどかったわ。どうしたのかっていうとね、あたし、こんなこと、考えていたのよ――そうしたら、その考え、捨てられなくなってね――つまり、大学っていうのは、これまた、この世の中で、うすのろな、中身のない場所でよ、〈地上に宝をたくわえる〉ことに専心してるっていうこと。つまり、宝はたからなのよ、ぜったい。どこが違うっていうの、その宝がおかねだろうと、財産だろうと、教養だろうともよ、ただの知識だろうと? これはみんな、あたしには、まったく同じことに思えたのよ、包みさえ取ってしまえばね――いまだって、そう思えてるのよ! ときどき、あたし、思うんだけど、知識ってね――それが知識のための知識ならよ、とにかく――いちばん悪いものじゃないかしら。いちばん弁解の余地がないものよ、きっと」フラニーは神経質そうな手つきで、その必要はべつにぜんぜんなかったのに、片手で髪の毛を後ろに押しもどした。「たぶんよ、あたし、あんなふうにすっかり気鬱にさせられるようなことはなかったと思うわ、もしほんのときたまでもいいから――ほんのときたまでもね――すくなくとも、なにか、こっちのため思って、ちょっと、おざなりでもかまわないから、仄めかすものがあってくれさえしたら、知識は知恵[#「知恵」に傍点]に通じるんだってことをね。それで、もし通じないんだとしたら、知識なんて、うんざりするような、時間の浪費だわ! だけど、そんな仄めかしはぜったいないのよ! なにかヒントみたいなものでさえ、キャンパスの中で小耳に挟むことはぜったいないんだから――知恵は知識の目標[#「目標」に傍点]であるはずだっていうことについてのね。知恵[#「知恵」に傍点]って、単語が口にされるとこだって、まず聞けない! おかしなこと、聞かせてほしい? ほんとにおかしなこと、聞かせてほしい? 大学にだいたい四年ちかくいてよ――これは絶対の真理なんだから――大学にだいたい四年ちかくいてよ、いま覚えてるうちで、たった一度だけ、知恵のある人間[#「知恵のある人間」に傍点]ていう言葉を聞くだけでも聞いたのはね、一年のときの政治学の時間よ! それも、どんなふうに使われたと思う? それの使われたのはね、ある、ごりっぱな、まぬけの元老の話が出たときでね、そいつったら、株でひと財産、作ってよ、それからワシントンへ行ってロウズヴェルト大統領の顧問になったんですって。嘘いわないわよ! 大学に四年もいてよ、だいたい! べつに、みんながみんな、同じ目に会ってるなんて、言ってやしないけど、それでもあたしは、仰天しちゃうわ、そのこと考えると、ほんと、死にたいくらいのものだわ」彼女は言葉を切って、どうやらまた、ブルームバーグのめんどうを見ることに専念しはじめた様子だった。彼女の唇は、いまでは顔の色とほとんど変わらなくなっていた。それとどうじに、ほんの微かに、ひびわれてもいた。
ズーイの目は彼女に向けられており、これまでもずっとそうだった。「ちょっと、ききたいことがあるんだけどな、フラニー」と、彼は唐突に言った。彼はまた書き物机のおもてに顔を戻し、眉をひそめ、それから雪だるまをひと振りした。「おまえはあの〈イエスの祈り〉で、いったいなにをしてるつもりなんだ?」と、彼はきいた。「そいつが、おれのゆうべ知りたかったことさ。おまえに、出ていけって言われないうちにな。おまえはいま、宝を積みあげるって言ったな――カネや、財産や、教養や、知識や、などなど、などなどをな。さっきの〈イエスの祈り〉のこと、先に進めるまえに――まあ、しまいまで言わせろよ、な、頼むから――〈イエスの祈り〉のこと、先に進めるまえに聞くけど、おまえ、なにか宝を積みあげるようなこと、しかけてるんじゃないのか? そういったほかの、もっと物質的なものと、なにか、くそがつくほど同じくらい、取引のできるものをさ? それとも、それが祈りだっていうことで、ぜんぜん様子が違ってくるとでもいうのか? というのは、つまりだな、いったいぜんたい、ぜんぜん様子が違ってくるとでもいうのか、おまえには、だれがどっちの側で宝を積みあげるかでさ――こっちの側か、あっちの側かでな? 泥棒どもがはいってこれない側、エト・セトラでか? それで様子が違ってくるわけか? 待て[#「待て」に傍点]よ、ちょっとな――まあ、おれが終わるまで待てよ、頼むから」彼はしばらく、ガラスの玉の中の小さな大吹雪を見まもった。それから――「おまえがあの祈りにしがみついてる、そのしがみつき方にゃ、なにか、おれをぞっとさせるようなものがあるな、じつをいうと。おれはいっしょうけんめい、おまえにあれを口にさせまいとしてると、おまえはそう思ってるな。そうか、そうじゃないか、そいつはおれにもわからんよ――そこが、このくそ議論の分かれる点だがな――だけど、とにかくおれは、はっきりとさせてもらいたいんだ、いったいぜんたい、おまえはどういう動機があって、あれを口にしてるんだかな」彼はためらったが、それは、フラニーに割りこむチャンスを与えるほど長いあいだのことではなかった。「簡単な論理の問題だけどな、ぜんぜん違いはないと思うぜ、おれの見るとこじゃ、物質的な宝にがっついてるやつと――知的な宝にでもな――それから、精神的な宝にがっついてるやつとではな。おまえの言うとおり、宝は宝だし、こんちくしょう、それに、おれにはさ、歴史に出てくる世間ぎらいの聖者のうち、九十パーセントはな、根本的には、おれたち残りの人間とそっくりおんなじくらい、欲がふかくて魅力のないやつらだ」
フラニーはできるだけ冷ややかに、声はかすかに震わせながら、言った。「もう口をはさんでもいい、ズーイ?」
ズーイは雪だるまを手から離すと、鉛筆を拾いあげて、いじりはじめた。「いいよ。いいよ。はさめよ」と、彼は言った。
「わかってるのよ、あたしには、兄さんの言ってることは全部ね。あたしが自分で考えなかったようなことは、一つだって言ってないわ。兄さんは、あたしが〈イエスの祈り〉からなにかを手にいれたがってるって、言うけど――つまり、このお祈りのおかげで、あたしは、兄さんの言葉、借りればよ、ほんと、そっくりおんなじくらい、欲が深くなってるわ、黒てんのコート、ほしがってる人とね、それか有名になりたがってる人、それか、いかれた名声みたいなもの、ポタポタしたたらせたがってる人とね。そんなことはみな、わかってるのよ! ンとに、兄さんたら、あたしのこと、どんな種類の低能だと思ってるのよ?」彼女の声の震えは強まって、いまではほとんど、ものを言う障害にすらなっていた。
「よしよし、まあ、気楽にいけよ、気楽に」
「気楽になんか、なれないわよ! 兄さんがあたしをこんなに気ちがいみたいにしたくせして! いったいこのいかれた部屋の中で、あたしはなにをしてると思ってるの――気ちがいみたいに体重、減らしたり、ベシィとレスをまったくばかみたいに心配させたり、うちじゅうを上に下に大騒ぎさせたり、なにかしてよ? あたしがいくらか正気でなくたって、どんな動機があって、あのお祈りをするかぐらい、考えられるっては思わないの、兄さんは? そのことが、いまちょうど、あたしをこんなに悩ませてるんじゃない。あたしが自分のほしいものをえりごのみするからって――いまの場合だったら、啓発か、それとも平和かっていうとこね、おカネや、名声や、評判や、そういったものではぜんぜんなくてよ――かならずしも、このあたしという人間が、ほかのみんなとおんなじくらい利己的で身がってだってことにはならないわよ。どっちかっていや、あたしのほうがもっとそうなくらいよ。あたし、ご有名なザカリ・グラスに、そんなこと言ってもらわなくったって、けっこうだわ!」ここで、彼女は明らかに声をつまらせ、ブルームバーグにまたいっしょうけんめい気をつかいはじめた。察するに、涙が差しせまっている様子であった――もう、途中まで来ているとまでは言わぬにしても。
ズーイは、書き物机の上に身をかがめながら、鉛筆を強く押しつけて、小さな吸い取り紙の広告面の「O」の字を、つぎつぎに塗りつぶしていた。そして、少しのま、これを続けてから、鉛筆をインク壺のほうに放りだした。彼は、銅の灰皿のタバコ載せに置いてあった葉巻きをつまみあげた。もう二インチくらいしか残っていなかったが、それでも、葉巻きはあいかわらず燃えつづけていた。彼はそれを深く吸った――まるで、そうでもしなければ酸素が出てこない世界かなにかで、吸入器みたいなものを吸うようにして。それから、ほとんど自分に無理じいするみたいな様子で、またフラニーのほうを見やった。
「こんや、バディを電話に出させてもらいたいか?」と、彼はきいた。「だれかと話をしたほうがいいと思うがな――おれにゃ、ちくしょう、こういうことは向いてんからな」彼は、じっと彼女を見つめながら、待った。「フラニー。どうだい、それは?」
フラニーの頭はうなだれていた。彼女は、ブルームバーグの毛を探って、|蚤《のみ》を探しているみたいで、じっさい、指はせわしなく毛の房を引っくりかえしていた。たしかに、いま彼女は泣いてはいるのだが、それはいわば、きわめて局部的な泣き方であった。涙は出ているのだが、音は出ていなかったのだ。ズーイはまる一分かそこいら、彼女を見まもり、それから、まるきり優しくというのでもなかったが、しかしべつに押しつけがましくもない口調で、言った。「フラニー。どうだい、それは? バディを電話に出させようか?」
彼女は頭を横に振っただけで、上げることはしなかった。そして、蚤を捜しつづけた。それから、すこしたったあとで、このズーイの言葉に答えたが、その声はそれほどはっきりとは聞きとれなかった。
「なんだって?」と、ズーイはきいた。
フラニーはまた同じ言葉を繰りかえした。「あたし、シーモァと話したいの」と、言ったのだ。
ズーイは彼女をしばらく見つめつづけたが、その顔は本質的には無表情だった――ただ一つ、いくらか長いめの、きわだってアイルランド的な上唇に、汗の筋が一本、浮かんでいるのを割りびけば、であるが。それから、彼一流の唐突さで、元を向くと、「O」を埋める仕事をまた始めた。しかし、彼は鉛筆を、ほとんどすぐさま下に置いた。そして、書き物机から立ちあがり――彼にしてはいくらかゆっくりと――葉巻きの吸いさしを持ちながら、先ほどの、窓腰掛に片足で立つ姿勢をまたとった。もっと背の高い、もっと足の長い男なら――たとえば彼の兄たちならだれでも――もっとずっと楽に、足を上げることができたかもしれない、伸ばすことができたかもしれない。しかし、ズーイの足がひとたび上がると、彼はもう、ダンサーの身のこなしを保持しつづけている、とでもいった印象を与えた。
最初は断続的に、やがては直射的に、彼は自分の注意をあるちょっとした場面に引きつけられていった――それは、窓の五階したの、道の向こう側で、作者にも監督にも演出家にも煩わされず、崇高に演じられているものだった。かなり大きな|楓《かえで》の木が一本、私立の女子小学校の前に立っており――道路の、その運のいい側に生えている四、五本の木のうちの一本だ――ちょうどこの瞬間に、七つか八つの女の子がその後ろに隠れるところだったのである。彼女は濃紺の、両前の上着を着て、アルルにあるヴァン・ゴッホのベッドの赤い毛布とほぼ同じ色合いのタモシャンタ・ベレーをかぶっていた。そのタモシャンタ・ベレーは、じっさい、ズーイのいる、地の利を得た視点から見ると、ペンキのひと|刷《は》|毛《け》に似ていないこともなかった。その子からおよそ十五フィートほど離れたところでは、彼女の犬が――ダクスフントの子で、緑色の皮の首輪と紐とを付けていた――彼女を捜してあたりを嗅ぎまわりながら、半狂乱の態でぐるぐる円を描き、その後ろからは、革紐が地面を引きずってついてゆくのであった。犬は、こうして女主人と離れているのは、つらくて、どうにも耐えられない、とでもいった様子で、ついに彼女を捜しあてても、ほっとするどころの騒ぎではなかった。再会の喜びは、どちらにとっても測りしれないほどだった。ダクスフントが小さく吠えて、それから、上半身を恍惚と震わせながら、頭を前にむかって下げると、女主人のほうは、なにごとか叫びかけながら、その木を取りまいている針金の柵をいそいで跨ぎこして、犬を抱きあげた。彼女は、このゲームの隠語を使って、言葉豊富に犬を賞めあげると、それから下におろして、皮紐を手に取り、こうして少女と犬は西の、五番街と中央公園の方角へ元気よく歩きだして、ズーイの視界を去った。ズーイは反射的に、片手を、ガラスとガラスとを仕切る桟にかけ、あたかも、その少女と犬が消えてゆく姿を見まもるために、窓を上げて身を乗りだそうとでもしたかのようだった。しかし、それは葉巻きのほうの手で、一瞬、長くためらいすぎた。彼は葉巻きを吸った。「こんちくしょう」と、彼は言った。「この世にゃ、いいものがあるよ――いい[#「いい」に傍点]ことがな。おれたちはみんな、ひどい低能だから、脇道にそれてばっかりいる。いつも、いつも、いつも、まわりに起こることを、ちくしょう、いちいち、自分の不潔な、ちっぽけなエゴのせいにしてしまうんだからな」彼の後ろでは、ちょうどそのとき、フラニーがあけすけに鼻をかんだ。この爆烈音は、あれほど美しくて繊細な感じの器官からはまず考えられないほど大きかった。ズーイは振りかえって、彼女を見た――いくらか非難がましく。フラニーは、クリネックスを何枚かしきりに使いながら、彼を見た。「あれ、ごめんなさい」と、彼女は言った。「鼻をかんじゃいけない?」
「もうすんだのか?」
「ええ、すんだわ! ンとに、なんていううちなの。鼻をかむだけでも、いのちがけなんだから」
ズーイは窓のほうに顔を戻した。それからちょっと葉巻きをふかし、目は学校の校舎の、コンクリート・ブロックの模様を追った。「バディがむかし、なかなか物わかりのいいこと、おれに言ったよ、何年かまえにな」と、彼は言った。「それ、なんだったか、おれ、まだ覚えてるかなあ」彼はためらった。すると、フラニーは、あいかわらずクリネックスを使いながら、彼のほうを見やった。ズーイがなにかを容易に思いだせないようなときがあると、そのためらう様子は彼の兄や姉妹たちの関心をきまって引きつけ、ときには彼らにとって娯楽的な価値を持つことすらあった。彼のためらいぶりたるや、ほとんどいつでも、もっともらしく見えたのだ。たいていの場合、それは、彼が『賢い子』のレギュラー解答者として過ごした、あの五年にわたるまさに人格形成期からの直接的な持越し品で、あの時代のズーイは、自分が|真《しん》|摯《し》な興味をいだいて読んだもの、あるいは聞いたものをすら、ほとんどなんでも即座に、だいたいは一期一句、引用するという、いくぶん化け物じみた能力を見せびらかしているみたいに思えるというより、むしろ、ちょうどその番組に出演するほかの子供たちと同じように、眉間に|皺《しわ》を寄せて、時間がなくて立ち往生しているみたいに見せる癖を身につけようとしていたのだった。いま、彼の眉間には皺が寄っていたが、それでも、こういったときの習慣よりはいくぶんか早口に、あたかも、かつての共同解答者であるフラニーが自分のこういったところをすでに見ぬいたと悟ったかのように、まくしたてた。「バディの言うにはな、人間ていうのは、丘のふもとでさ、のどを切られて、血を流してだんだん死にかけてるときでもだ、かわいい女の子だろうと、ばあさんだろうと、きれいな壺を頭の上にうまく載せてさ、バランスを取りながら通りかかったら、寝ているからだを、片腕、突いて起こしてな、その壺が丘の向こうへぶじに消えてくところを見おくれるようじゃなくちゃいかんのだそうだ」彼はそのことをじっと考えこみ、それから穏やかに鼻を鳴らした。「あいつがそれをやるとこ、見たいものだよ、あの野郎めがな」彼は葉巻きをひと口、吸った。「このうちの連中はだれもかれも、自分のくそ宗教をみんな違った包みの中へ入れてやがる」そう言う彼の口調には、明らかに、畏怖の念が欠如していた。「ウォールトは猛烈なやつだったな。ウォールトとブー=ブーが、このうちじゃいちばん猛烈な宗教哲学を持ってた」彼は葉巻きを吸ったが、その様子はまるで、おもしろがる気はないのについおもしろがっているのを、そうすることで相殺しようとでもするかのようだった。「ウォールトがな、あるとき、ウェイカァに言ってたよ、このうちの連中はだれもかれも、これまでの前世に、いろいろとほかの動物だったころさ、きっと、くそがつくほどうんとカルマを積んできたにちがいないってな。あいつは理論を持ってるんだ、ウォールトは――つまり、宗教生活とか、それに付きものの苦しみとかはな、きたならしい世界を作ったと言っては、なまいきにも神を責める連中にさ、神がけしかけてよこすものにすぎんていうわけだ」
聴衆の発する共感の忍び笑いが、ソファーのほうから聞こえた。「それは初耳だわ」と、フラニーは言った。「で、ブー=ブーの宗教哲学っていうのはなに? あの人に、そんなものあるなんて、知らなかったわ」
ズーイはしばらく、なにも言わなかったが、それから――「ブー=ブーの? ブー=ブーはな、アッシュさんがこの世を作ったんだと、信じこんでるのさ。あいつはそれを、キルヴァトの『日記』から仕入れたんだ。キルヴァトが自分の教区の小学生にな、だれがこの世を作ったのかってきいたら、そのがきどものひとりは、『アッシュさんです』って、そう答えたからさ」
フラニーは喜んで、その気持ちを声にも出した。ズーイはふり向いて彼女を見つめ、それから――予測のつかない若者だ――非常に気づまりな顔をし、それはあたかも、軽拳と名のつくものはすべて、ふいに慎むことにした、とでもいう様子であった。彼は窓腰掛から足をおろして、葉巻きの吸いさしを、書き物机の上の灰皿に入れると、窓のそばを離れた。そして、両手を尻ポケットに入れたまま、部屋を横切ってゆっくりと歩きはじめたが、心中では、行き先を決めていないふうでもなかった。「ええい、ちくしょう、もう行かなきゃいかん。昼めしの約束がある」彼はそう言ったあと、すぐにからだをこごめて、熱帯魚の水槽の内部を、ゆったりと、持ち主然とした態度で調べはじめた。彼は指の爪でガラスの表面をコツコツ執拗に叩いた。「おれが五分も目を離すと、みんなもう、おれのブラック・モリィを死なせちゃうんだから。大学へいっしょに持ってっとけばよかったぜ。そのくらいのこと、わかってたんだがな」
「まあ、ズーイったら。もう五年もまえから、そんなこと言ってるわよ。どうして、新しいの、買わないの?」
彼はガラスをコツコツ叩きつづけた。「おまえたち、大学生どもはみんなおんなじだ。固きこと釘のごとしだ。あいつらはただブラック・モリィだったっていうだけじゃないぞ。おれたちは、ものすごく仲がよかったんだ」そう言いながら、彼がまた、絨毯の上に大の字に寝そべると、彼のほっそりとした胴体は、一九三二年型のストロムバーグ=カールスン卓上ラジオと、中身が溢れるほど詰まった、楓材の雑誌入れとのあいだに、かなりぴったりと納まった。また、彼のスポーツシューズの裏と|踵《かかと》しか、フラニーには見えなくなった。ところが、彼は寝そべるがはやいか、すぐにまっすぐに起きなおったので、彼の頭と肩がとつぜん視野に飛びこみ、洋服箪笥の中から死体が転げでてきたみたいな、不気味で|滑《こっ》|稽《けい》な効果にいくぶん近い感じがした。「まだお祈り、してるのか、ええ?」と彼は言った。それからまた、ふいに視野から下に消えた。彼はしばらくじっとしていた。それから、ほとんど聞きわけられないくらいにだみ声のかかったメイフェア口調で――「グラスさん、ちょっとよろしかったら、ひとこと申しあげとうございます」これにたいする、向こうのソファーからの応答は、明らかに不吉な沈黙だった。「よろしかったら、お祈りをおっしゃればよいし、ブルームバーグとお遊びになればよいし、お気のままにタバコをお吸いになればよいから、ただ五分だけ、じゃまなさらずに黙ってらしてくださいよ、ね。それから、できれば、涙など出さずにね。いいかい? 聞いてるのか?」
フラニーはすぐには答えなかった。そして、両足を、アフガンの下で、からだに引きつけた。それから、眠っているブルームバーグも、いくらか自分のほうへ引きよせた。「聞いてるわよ」そう言って、彼女は足をいっそうからだのほうに引きつけた――ちょうど、要塞が、包囲攻撃を前にして、橋を引きあげるように。彼女はためらい、それからまた口を開いた。「なんでも好きなこと、言っていいわよ、口ぎたない言葉、使わなきゃね。あたし、けさは、能力検定、受けるみたいな気分じゃないもの。ほんとよ」
「能力検定じゃないよ、能力検定じゃないよ、な、おい。それに、たった一つだけ、おれのしないことがあるとすりゃ、それは、口ぎたない言葉を使うことさ」話し手の両手は胸の上で優しく組合わされていた。「ああ、すこしはずばずば言うことだってあるさ、ときにはな、そう、状況が許せばだ。だけど、口ぎたない言葉は、ぜったい使わん。おれはだよ、とにかく、いつだってわかってたんだから、蝿をもっとたくさんつかまえるためには――」
「ほんとだって言ったでしょう、ねえ、ズーイ」と、フラニーは彼のスポーツシューズに話しかけるみたいに言った。「それに、ちゃんと起きてよ、ところで。このうちでゴタゴタが持ちあがると、あたし、いつもとってもおかしくって――だって、そういったことはいつだって、ちょうど兄さんがいま寝てるそこの場所から始まるんだもの。そうして、いつだって、そこにいるのは兄さんなんだわ。ねえ。ちょっと起きてよ」
ズーイは目を閉じた。「うまいぐあいにな、おれには、おまえが本気で言ったんじゃないってこと、わかってるんだ。心底からじゃないってな。おれたち、どっちも、わかってるじゃないか、心の奥底じゃ――ここがくそ、この化け物屋敷ぜんぶで、たった一つ、神聖な土地だってことが。ここはたまたまな、おれがむかし兎を飼ってたとこだ。そうして、あいつらは聖者[#「聖者」に傍点]だった、二匹ともさ。じっさい、妻帯しない兎っていや、あいつらだけだった、世――」
「ねえ、うるさいわよ!」と、フラニーはいらいらして言った。「さあ、始めてよ、始めるんなら。あたしの頼みたいのはね、ただ、せめてもうちょっと気をきかしてほしいってこと、ちょうどいまのあたしみたいに――それだけよ。兄さんは、まちがいなく、いちばん思いやりのない人よ、生まれてからあたしの知ってるうちで」
「思いやりがないだと! ぜったい違う。あけすけなのさ。陽気なのさ。血気さかんなんだ。血の気が多いんだ、たぶん、欠点なくらいにな。だけど、だれにしろ、ぜったい――」
「あたしは、思いやりがないって言ったのよ!」フラニーは彼を遮った。かなりの熱気はこめながらも、おもしろがることはすまいとしながら。「いつか、病気にでもなって、自分で自分を見舞いに行ったらいいわ、兄さんて、どのくらい思いやりのない人間か、わかるから! 気分がふつうじゃないとき、兄さんぐらい、そばに置きたくない人って、ほかにぜったいいないわ、生まれてから知ってるかぎりね。だれかが風邪引いたときでも、兄さん、なにするか、自分でわかる? その人のこと、見るたびに、いやな目つきするのよ。兄さんぐらい、つれない人って、あたし、ほかにひとりも知らないわ。そうなのよ、兄さんて!」
「わかった、わかった、わかった」と、ズーイはあいかわらず目を閉じたまま言った。「完全な人間なんていないぜ、な、おい」べつになにをしなくても、声を裏声にまで高めるというよりはむしろ、柔らげて細くするだけで、彼は、自分たちの母親がふたことみこと、注意の言葉を落とすときにそっくりだと、フラニーがいつも思う、あの聞きなれた声色を出すことができるのだった「おれたちはな、お嬢さん、ほんとうは心にもないことをたくさん、熱くなってしゃべっては、そのあしたになると、おそろしく後悔する」それから、彼は一瞬、顔をしかめて、目をあけ、数秒のあいだ天井を見つめた。「だいいち」と、彼は言った、「おれは思うんだけど、おまえは、おれが例のお祈りをおまえから取りあげるかなにかする気でいると、そう思ってるんじゃないか。そんなことはせんさ。そんなことはしないよ。おまえは、そのソファーに寝て、その憲法の前文を、これから死ぬまで唱えてたって、かまわんよ、おれとしてはな。だから、おれがいまする気で――」
「すてきな始め方じゃない。すてきよ」
「なんだって?」
「ねえ、うるさいわよ! さあ、続けたり、続けたり」
「おれが言いかけてたのはな、あのお祈りにゃ、おれはぜんぜん反対じゃないってことだ。おまえがどう思おうとな。あいつを言うこと、考えついたやつは、なにもおまえが最初じゃないからな。おれは、むかし、ニューヨークじゅうの軍もの払いさげ店へ行ってさ、巡礼タイプのいいリュックサックはないかと、捜してみたことがある。そいつにパン屑を詰めて、ちくしょう、国じゅうを歩きまわってみてやれと思ったのさ。そのお祈りを言いながらな。その言葉を広めながらな。そういったことをみなだ」ズーイはためらった。「こんなこと、言いだしたのは、もちろん、おれもむかしは、〈おまえそっくりの感激屋の若者〉だったなんてことを、おまえに教えるためじゃないぞ」
「なぜ言いだすの、じゃあ?」
「なぜ言いだすって? それはな、三つ四つ、おまえに言いたいことがあるからだけどさ、それを言う資格はおれにはないんじゃないかってことも、ひょっとしたらありうるんだ。なにしろ、おれもむかしは、どうしてもそのお祈りを唱えたいと、おれ自身、そう思ったことがあるけど、やらなかったというわけさ。ことによったら、おまえがそれをやりかけてるんで、おれはちょっと、やきもちをやいてるのかもしれん。ありうることだよ、じっさい。だいいち、おれは大根役者だからさ。ことによったら、おれはくそっ嫌いだということかもしれんな、だれかがマリアをやるっていうのに、自分がマルタをするのはさ。はっきりしたことなんか、だれにわかるものか?」
フラニーは答えないことにした。その代わり、ブルームバーグを自分のからだにいっそう引きよせて、この猫を、奇妙な曖昧なしぐさでかるく抱きしめた。それから、兄のいる方角を見やって言った。「兄さんはブラウニーね。自分でわかってた、それ?」
「まあ、おせじはやめとけよ、な、おい――そのうちに引っこめなくちゃいけなくなるからな。それに、おれはまだ、言いかけてるとちゅうだぞ、おまえがこのことをやるやり方のどこが気にくわないかな。資格があろうとなかろうとさ」ここでズーイは、うつけた様子で、|漆《しっ》|喰《くい》の天井を十分かそこいら見つめ、それからまた目を閉じた。「だいいち」と、彼は言った、「おれは、こういった『椿姫』みたいな常套手段は嫌いなんだ。まあ、口をはさむなよ、いまは。もちろん、おまえがいま分解しかかってたりなにかしてるのは当然のことだとわかるさ。それを芝居だなどとは思っちゃいない――そんなことは言っちゃいんよ。それに、無意識に同情、求めてるからだとも、思っちゃいない。それか、なにか、そんなふうなことだとはな。だけど、それでも言うけど、おれは、そういったことは嫌いだな。ベシィがかわいそうだ、レスがかわいそうだ――それに、まだ気がついてなきゃ言うけど、おまえは、ちょっとばかし信心くさくなりかけてるぞ。世界じゅうのどのくそ宗教にもな、信心するのは正しいってことを証明する祈りなんて、ないんだ。おれはなにも、おまえが信心ぶかい[#「ぶかい」に傍点]って言ってるんじゃないんだ――だから、まあ、じっとしてろよ――そうじゃなくて、おれはな、こういったヒステリー騒ぎはくそおもしろくもないって、言ってるんだ」
「それでおしまい?」フラニーは、坐ったままひどく目だつほどからだを前に乗りだしながら言った。震えが彼女の声にまた戻っていた。
「そうだ、フラニー。さあ、いいぞ。おまえは、おれの話を最後まで聞くって言ったな。いちばんひどいことは、もう言っちまった、と思うよ。ただ、おれがおまえに言おうとしてるのはだ――言おうとしてるんじゃなく、言ってるのはだ――これじゃどう見たって、ベシィとレスに気のどくだってことさ。あのふたりは、震えあがってるぜ――自分でも知ってるはずだけどさ。ちくしょう、ゆうべ、レスはな、寝るまえにさ、いっしょうけんめい、おまえんとこへミカンを持ってってやろうとしてたんだぞ、知ってたか? くそっ、あのベシィでさえ、ミカンの出てくる話なんて、がまんがならないってさ。それに、おれだってそうだ。もしおまえがな、こんどの衰弱騒ぎをまだこのさき続ける気ならな、おれはくそがつくほど、おまえに大学へ帰ってもらいたいよ、その衰弱もっしょにな。あそこなら、おまえはここみたいに、赤ん坊じゃいられんものな。それに、あそこなら、ぜったい、ひとりだって、おまえのとこへどうしてもミカンを持ってきたいなんて言うやつ、いんからな。それに、あそこなら、おまえが洋服箪笥の中へタップ[#「タップ」に傍点]シューズをしまっとくことはないからな」
フラニーは、このとき、いくぶん盲めっぽうに、しかし音はたてずに、大理石のコーヒー・テーブルの上の、クリネックスの箱に手を伸ばした。
ズーイはいまでは、ぼんやりと、漆喰の天井についたルートビールのしみを見つめていたが、それは、ほかならぬ彼が十九年か二十年まえに水鉄砲で作ったものだった。「それから、もう一つ、おれが気がかりなのはさ」と、彼は言った。「これまた、きれいなことじゃない。だけど、あとすこしで終わりだからな、できたらもうちょっとがんばってみてくれ。おれがほんとに嫌いなのはだ、あのつまらん、苦行服でも着てるみたいな、殉教者生活さ、おまえが大学でこっそりやってるな――あのつまらん、うすぎたない十字軍戦争だよ、ほかの人間全部を相手に戦ってるつもりでいるあれさ。だけど、おれが考えてるのは、おまえがたぶん、こんなこと考えてるんだろうと思ってることとは違うからな、ちょっと、口をはさむのはやめてくれ。つまり、だいたい、おまえが銃を構えて狙ってるのは、高等教育の制度だと思う。まあ、とびかかってくるなよ――だいたいのとこ、おれはおまえに賛成なんだから。だけどな、おれは、おまえがしてるみたいな|絨毯《じゅうたん》爆弾は嫌いなんだ。この点についちゃ、おれはおまえに九十八パーセント、賛成だよ。だけど、残りの二パーセントが、おれを死ぬほど脅すんだ。おれが大学のころ、教授がひとりいてな――たったひとり[#「ひとり」に傍点]にゃ違いなかったよ、そりゃ、だけど、このひとりがえらい、えらいやつでさ――おまえの言ってることには、かならずしも当てはまらんがな。そいつはエピクテートスじゃなかった。だけど、エゴ気違いじゃなかったし、学部の人気男でもなかった。控えめな大学者だったんだ。それだけじゃない、そいつの言うこと聞いてるとな、教室の中だろうと外だろうと、いつだって、ほんものの知恵がすこしは混じってるようだった――ときには、うんとな。そういうやつに、いったいなにが起こると思う、もしおまえが、そのおまえの革命ってやつ、始めたらさ? それ、考えるだけで、おれはたまらなくなるぜ――ちくしょう、話を変えるか。おまえがこのところわめきちらしてる、あのほかの連中ていうのが、これまた、違うなにかなんだな。あのタッパァ教授さ。それから、あの、おまえがゆうべ話してた、もうふたりの間抜けども――マンリアスと、それにもうひとりのあれさ。ああいった連中なら、おれ、何ダースって知ってるし、ほかのだれだって知ってるさ、そうして、たしかに、連中は害がない。だけど、やつらはくそがつくほど致命的だ、じっさいはな。ちくしょう。連中は、手に触れるものならなんでもかんでも、完全に学問くさく、役立たずにしちゃう。それか――もっと悪いけど――祭式みたいに[#「祭式みたいに」に傍点]な。おれの考えじゃ、やつらはだいたい、非難されて当然だよ、なにしろ、無知な低能をわんさと作りだしちゃァ、まいとし六月になると、卒業証書、持たせて、国じゅうにばらまくんだからな」ここでズーイは、あいかわらず天井を眺めながら、しかめつらをすると同時に頭を横に振った。「だけど、おれが嫌いなのはだ――それに、シーモァやバディだってもな、おんなじように嫌ったと思うけどさ、じっさい――そういう連中のこと話すときのおまえの口ぶりだ。つまり、おまえは、そういったやつらに代表されるものを軽蔑してるわけじゃないんだな――やつらそのものを軽蔑してるんだ。くそ個人的すぎるぞ、フラニー。ほんとだぜ。たとえばだよ、あのタッパァのこと、話してるときのおまえのめはな、ほんと、ちょっと、人殺しをするときみたいにギラギラしてるぞ。あいつはまずトイレへ行って、髪の毛かきみだしてから教室へ来るとかいう、あの騒ぎぶりは、みんな、どうだ。ああいったことは、みんな、どうだ。たぶん、そいつはそういうこと、するんだろう――そいつのことでおまえが話してくれた、ほかのこと全部と、よく合う話だものな。おれは、合わんて言ってるんじゃない。だけどだよ、な、おい、おまえの知ったことじゃないじゃないか、あいつが自分の髪の毛、どうしようと。この人の気どり癖はちょっとおかしいと、そう思っておけば、ある意味じゃ、それですむことだろう。それか、自分に、ちょっと、悲壮な、ばかげた魅力を付けにゃならんほど自信がないんだなって、気のどくに思ってりゃさ。ところが、おまえ[#「おまえ」に傍点]がそのこと話すときときたら――おれ、冗談を言ってるわけじゃないぞ、な――まるで、そいつの髪の毛が、自分の個人的なくそいまいましい敵みたいな話し方だ。これはよくない[#「よくない」に傍点]ぞ――自分でも知ってるはずだけどさ。もしも、例の制度[#「制度」に傍点]に戦争しかけるつもりならだよ、まあ、りっぱなインテリの女の子らしく射撃をするんだ――敵がそこに[#「そこに」に傍点]いるという理由でな、そうして、やつの髪型だとか、くそいまいましいネクタイだとかが気にいらんと、そういう理由じゃなくてだ」
そのあとに、沈黙が一分かそこいら続いた。それを破るのは、ただ、フラニーが鼻をかむ音だけだった――放埒な、長々しい詰まった[#「詰まった」に傍点]かみ方で、四日まえから鼻かぜをひいている患者を思わせるものだった。
「おれがかかった、あのいまいましい胃潰瘍、あれもこれも、まったくおんなじことさ。おれがどうしてあんなものになったか、知ってるか? それか、少なくとも、そのわけの九割をさ? それはな、ものごとをちゃんと考えてないときのおれって、テレビのことでも、ほかのなんのことでも、自分の感情を個人的なものにしちまうからさ。おまえとまったくおんなじことしてるわけだけど、ただ、おれのほうが年をくってるから、それがよくわかるだけだ」ズーイは口を休めた。それから、視線をルートビールのしみに釘づけにしたまま、息を鼻で深くついた。指はあいかわらず、胸の上で組んでいた。「いま、いちばんあとで言ったことがな」と、彼は唐突に言った。「たぶん、爆発を起こすんだな。だけど、しようがないのさ。それがいちばんのキーポイントだ」彼は天井の漆喰に、つかのま、相談をかけるみたいにし、それから目を閉じた。「おまえは覚えてるかどうか、知らないけど、あるとき、おまえは、ここでな、おい、新約聖書からの、子供っぽい離反を宣言したことがある、それも、何マイル四方に聞こえそうな声でな。みんな、そのときはくそ軍隊にはいってたからさ、耳を貸してたのは、おれっきゃいなかった。だけど、おまえは覚えてるか? とにかく、そのこと、覚えてるか?」
「あたし、まだとうになったばかりだったじゃないの!」と、フラニーは言った――鼻にかかった、いくぶん物騒な声で。
「おまえがいくつだったかぐらい、知ってるさ。おまえがいくつだったかぐらい、ちゃァんと知ってるよ。なあ、フラニー。おれがこんなこと持ちだしてるのはな、いまさらおまえを咎めようっていうつもりからじゃないんだぞ――くそっ。ちゃんとした理由があるから持ちだしてるんだ。おれが持ちだしてるそのわけっていうのはだな、子供だったおまえにイエスのことなんかわかってたはずないと思うからだし、いまだってわかってるはずないと思うからさ。おれ、思うんだけど、おまえは頭の中で混同してるぞ、イエスを、ほかの宗教の人物の五人か十人ぐらいとな。だから、おれにはわからないんだ、だれがだれで、なにがなんだか、知りもしないくせに、いったいどうして、あの〈イエスの祈り〉を続けることができるのかがな。とにかくおまえは、なんであの離反が始まったか、覚えてるか? 覚えてるのか、覚えてないのか?」
返事は来なかった。ただ、鼻をかなり激しくかむ音だけ。
「そうか、おれは覚えてるぜ、たまたまな。『マタイ伝』の第六章だ。あれはものすごくはっきりと覚えてるぞ、な、おい。おれがどこにいたかさえ、覚えてる。自分の部屋でホッケーのスティックのやつに絶縁テープを巻いてるとな、そこへおまえがバターンとはいってきた――大騒ぎをしながらな、聖書を開いたまま持って。イエスはもう嫌いだ。陸軍のキャンプのシーモァに電話かけて、そのことぜんぶ、話してもいいかどうか、教えてくれって、おまえは言ってた。で、おまえはどうして、イエスがもう嫌いになったのか、知ってるか? 教えてやるよ。そのわけはな、一つは[#「一つは」に傍点]だ、イエスがユダヤ教の会堂にはいっていって、テーブルと偶像を全部、あたりいちめんに放りだしたのは気にくわんていうんだ。ものすごく失礼で、ものすごく不必要な[#「不必要な」に傍点]ことだってな。ぜったい、ソロモンかだれかだったら、そんなことはしなかったと思うとさ。それから、おまえが気にいらんていってた、もう一つ[#「もう一つ」に傍点]はだ――そこんとこをおまえは聖書で開いてたわけだけどな――例のあのくだりだ、〈空の鳥を見よ。まかず、刈らず、倉に収めず。しかるになんじらの天の父はこれを養いたもう〉これには文句はない。これはすてきだ、これは気にいったんだそうだ。ところが[#「ところが」に傍点]、イエスがそれと同じ口の下から、〈なんじらはこれよりもはるかに優るるものならずや?〉って言うと――あーあ、そこが、フラニーちゃんの逃げ出すとこさ。そこが、フラニーちゃんが聖書を冷たく袖にしてまっすぐブッダのとこへ出かけるとこさ、こっちのほうは、あの天のごりっぱな鳥たちをみんな、差別待遇するようなことはせんものな。おれたちが湖で飼ってた、あのかわいい、すてきな若鳥やがちょうをみんな。まあ、あのころはとうだったなんて、また言うなよ。おまえの年なんか、おれのいま言ってることとはぜんぜん関係ないんだから。とうとはたちといったって、そのあいだにゃ大きな違いはないんだ――とうと八十だってな、このことについちゃァ。おまえはいまもって[#「いまもって」に傍点]イエスのことを、自分が思うほどにゃ愛せずにいる、ああ言ったとかこうしたとか、すくなくともそう書かれてるいくつかのことを、したり言ったりしたイエスはな――そうして、このことは、自分でもわかってるはずだ。とにかくおまえは体質的に、テーブルを放りだすような、神の子は、愛することも理解することもできないんだな。人間は、人間はだれでもよ――たとえタッパァ教授だろうとな――神にとっては、どんなに柔らかい、なにも力のないイースターの若鳥より価値があるなんて、そんなこと言う、神の子は、おまえは体質的に、愛することも理解することもできないんだな」
フラニーはいまでは、ズーイの声の音とまともに向きあい、からだをまっすぐ起こしながら、クリネックスの紙を丸めて手に握りしめていた。ブルームバーグはもう彼女の膝にはいなかった。「兄さんは、できるわね」と、彼女は金切り声で言った。
「おれ[#「おれ」に傍点]ができようとできまいと、それは問題外だ。もっとも、そのとおり、じつをいや、できるけどな。こんなことに立ち入る気はせんけど、おれはすくなくとも、一度もしたことないぜ、意識的にだろうと無意識にだろうとな、イエスをアッシジの聖フランチェスコに変えて、もっと愛すべき[#「愛すべき」に傍点]人間にしようなどとはな――それこそ、キリスト教世界の九十八パーセントが、どうにかしてするんだと、これまでいつも言いはってきたことさ。そのほうがおれの名誉になるってからじゃない。おれはたまたま、アッシジの聖フランチェスコみたいなタイプには引かれんまでのことさ。だけど、おまえは違う[#「おまえは違う」に傍点]。そうして、おれの見るとこではだ、それが、おまえがいまそのちょっとした神経衰弱にかかってる理由の一つだよ。とくに、うちでそれにかかってる理由だよ。ここは、おまえにゃおあつらえむきにできてる。サービスはいいし、熱いのやら冷たいのやら、生きた幽霊がたんまりいる。これ以上、便利なとこがまたとあるものか。おまえはここでなら、そのお祈りを口にして、イエスも聖フランチェスコもシーモァもハイジのあのじいさんも、みんな一つに丸めこむことができるものな」ズーイの声がとぎれたが、それはほんのつかのまのことだった。「それがわからんのか? 自分がどんなにあいまいに、どんなにいいかげんに、物を見てるか、それがわからんのか? ちくしょう、おまえにゃ最低のとこなんか、ぜったいないのに、それでておまえは、いま、最低の考えに首までつかってる。いっしょうけんめい祈ってるその祈り方が最低の宗教だっていうだけじゃなくてな、自分でわかってるにしろわかっていないにしろ、おまえのかかってるその神経衰弱だって最低だ。おれはこれまでにな、ほんとの神経衰弱ってやつに、いくつかお目にかかったことがあるけど、それにかかってた連中は、場所なんか、えりすぐってやしなかったぜ、自分らが――」
「やめてよ、ズーイ! やめてよ!」と、フラニーは、|啜《すす》り泣きながら言った。
「ああ、やめるよ、じきにな、いまじきにな。さて、ところでだ、おまえはどうしていま[#「いま」に傍点]神経衰弱にかかってるのかね? つまりさ、もしおまえに、全力をつくせば虚脱状態になれるだけの力があるのならよ、その同じエネルギーをどうして、丈夫で元気なままいられるように使わないんだ? よしよし、これじゃァ、おれのほうが理不尽になってるな。おれはいま、ものすごく理不尽になってる。だけどだ、おまえのこのくそこなまいきさはどうだ、生まれつき、忍耐心なんか、おれにはほとんどないも同然だというのにさ! おまえはだよ、自分の大学のキャンパスを一度、ぐるっと見まわしてな、それから世の中[#「世の中」に傍点]、それから政治、それから、夏劇団をひとシーズン、それから、ひとかたまりのとんまな大学生どもの会話に耳を貸してな、それだけで決めてるんだ――なにもかもエゴ、エゴ、エゴで、女の子にたった一つできる知的なことっていや、寝ころがって、頭を丸めて、〈イエスの祈り〉を唱えて、自分をりっぱで幸せにしてくれる、ちょっとした神秘的な経験がほしいと、神に頼むことだけだってな」
フラニーは金切り声をあげた。「ねえ、だまってくれない、お願いだから!」
「すぐだ、すぐだ。おまえはしょっちゅう、エゴのこと、しゃべってる。ちくしょう、なにがエゴでなにが違うか、それを決めるにゃ、キリストその人が必要なんじゃないか。いまここにあるのは神[#「神」に傍点]の宇宙だぜ、な、おい、おまえのじゃないんだから、なにがエゴでなにが違うか、そのことで決定的なこと言えるのは神だけだ。おまえのお気にいりのエピクテートスはどうだ? それか、おまえのお気にいりのエミリ・ディキンソンは? このおまえのエミリには、詩を書きたい衝動が起こるたびにだな、ただ腰をおろして、その不潔な、利己的な衝動が消えつくすまで祈りを唱えていてほしいと、おまえはそう思うのか? 思わんさ、もちろん、思わん! ところが、友だちのタッパァ教授のエゴは、取っぱらってしまいたがってる。それとこれとは違う。たしかにそうかもしれん。そうかもしれんよ。だけど、とにかくエゴ一般のことをキーキー言うのはやめろよ。おれに言わせりゃァだよ、おまえがじっさい知りたいって思うのならだけどさ、この世の中の不潔さはな、半分は、自分のほんとのエゴを使ってない連中の引きおこすものだ。おまえの言うタッパァ教授を例にとってみろ。おまえの言うことからすればだな、とにかく、おれはどんなもの賭けてもいいくらいだけど、そいつの使ってるもの、そいつのエゴだとおまえが思ってるもの、それはぜんぜんそいつのエゴなんかじゃなくて、なにか別のもの、ずっと穢なくて、ずっと本質的じゃァない能力なのさ。ことに、おまえはもう長いこと学校、行ってるんだから、事の真相ぐらい究めてもいいころだぜ。いちど引っかいてみろよ、無能な学校の教師を――それか、このことでなら、大学の教師でもな――そうすりゃ、二回に一度はな、一流の自動車修理工か、石工のやつかが場違いなとこにいるってことがわかるぜ。ルサージュをとってみろよ、たとえば――おれの友だちで、おれの雇い主で、おれの、マディソン街のバラさ。あいつのエゴが、あいつをテレビにはいらせたと、そうおまえは思うだろう? そうでございましたともさ! あいつにはもう、エゴはないぜ――むかしはあったとしてもな。エゴなんかバラバラに引きさいて、道楽また道楽にしちまったのさ。あいつにはな、おれが知ってるだけで、すくなくとも三つは道楽がある――そうしてそいつはみんな、あいつの地下室にあるでっかい仕事部屋に関係してる、千ドルもかかったとかでな、中にはいっぱい、電気道具やら万力やら、その他もろもろが詰まってるやつだ。自分のエゴをほんとに使ってる人間はな、自分のほんとのエゴをさ、くそ道楽なんかに使う時間はなんにもないはずだ」ズーイはふいに言葉を切った。彼はあいかわらず寝たまま、目を閉じ、指を非常に固く、胸の上、シャツの上で組んでいた。ところがこのとき、顔をむりに歪めて、いかにも苦しげな表情を装った――明らかに、自己批判の一つの形だ。「道楽か」と、彼は言った。「いったいどうして道楽の話なんかになっちまったんだ?」
フラニーの啜り泣く声は、サテンの枕でほんのわずか柔らげられていたが、この部屋で聞こえる物音といえば、ただそれだけだった。ブルームバーグは、いまではピアノの下に坐ってその日光の島の上で、絵にかいたようなしぐさで顔を洗っていた。
「いつだってかたき役だ」と、ズーイは、いくらか切り口上に言った。「なにを言っても、まるでおまえのその〈イエスの祈り〉にケチつけるみたいに聞こえるな、けど、そうじゃないんだぞ、ちくしょう。おれがケチつけてるのはな、それを使ってる、そのおまえの理由と場所と使い方だ。おれは信じたい――ぜひ信じたいよ――おまえがそれ、使ってるのはさ、なんだろうと、とにかく、生活の義務か、それか毎日の義務か、そういったことをする代わりじゃないってな。もっとも、それよりなお悪いことにゃな、おれにはわからんのだよ――神かけてわからんのだ――いったいどうして、理解することすらできんイエスに祈れるのかがな。それに、どうしても許せんのはだ、おまえは宗教哲学をさ、おれとまったくおんなじくらいの量、じょうごの口から食わせてもらってるってことからするとだな――どうしても許せんのは、おまえがイエスを理解しようとはせんことだ。そりゃァ、すこしは許せるかもしれんよ、もしおまえがさ、ものすごく単純な人間か、例の巡礼みたいにな、それか、くそがつくほどやけっぱちになってる人間か、そのどっちかだったらな――ところが、おまえは、単純じゃないしさ、な、おい、それほどやけくそにもなっちゃァいない」ちょうどこのとき、ズーイは、ゆかに寝ころんでからはじめて、目はあいかわらず閉じたまま、唇を上下、固く押しあわせた――まったく、括弧つきで実際を言えば、母親の癖そのものだ。「いいか、フラニー」と、彼は言った。「もしその〈イエスの祈り〉を唱えるつもりならな、すくなくともイエスにむかって唱えろよ、聖フランチェスコとシーモァとハイジのじいさんを一つに引っくるめたものにむかってじゃなくてさ。イエスのことを心に思うんだ、唱えるときはな、それもイエスだけをだぞ、それも、ありのままのイエスをだぜ、こうあってほしかったっていうイエスじゃなくてな。おまえはとにかく、事実というものとはまともに向きあわないんだから。事実とまともに向きあわんという、この同じくそ態度がな、まず第一、おまえをいまのめちゃくちゃな精神状態に追いこんだものだからさ、それがあっちゃ、ぜったいそこから抜けだせやせんぞ、おまえは」
ズーイは唐突に、両手を、いまはすっかり湿ってしまった顔に載せ、そこに一瞬、置いてから、また離した。そして、また組合わせた、彼の声はふたたび立ちなおって、ほぼ完全に会話の調子になった。「おれがへきえきする、ほんとにへきえきするのはな、ぜんぜんわからんことだ、いったいどうしてみんな――子供でもなきゃ、天使でもなく、あの巡礼みたいな運のいい単細胞でもないくせしてさ――新約でしゃべったり顔みせたりするのとはほんのちょっとばかし違うイエスに平気で祈りなんか捧げたい気になるのかがな。ンとに! イエスっていうのはな、聖書に出てくるいちばん知的な人間さ、それだけだ! 旧約だろうと新約だろうと、どっちにも、学者ども、預言者ども、秘蔵っ子ども、ソロモンども、イザヤども、ダビデども、パウルどもがいっぱいいるよ――だけどな、悲しい話、イエスのほかに、なにがどうなってるか、だれがわかってたっていうんだ? だれもいやしないさ。モーセだって違う。モーセだなんて言うなよ。あれはりっぱな人間で、神とすばらしい接触の仕方、しつづけてたし、ほかにもいろいろとな――だけど、そこがまさに眼目なんだ。モーセは接触しつづけなくちゃならなかったのさ。ところがイエスのほうは、神と離れることなんかありえないと悟ってた」ズーイはここで両手を打ちあわせた、たった一度だけ、大きな音はたてずに、それも、ついわれしらずに、だ。彼の手はまた胸の上で、ほとんど、いわばその拍手がまだ鳴りおわらぬうちに組合わされた。「あーあ、ンとに、たいした頭さ!」と、彼は言った。「ほかのだれがだぜ、たとえば、口を閉じられたと思う、ピラトにああして説明、求められたときさ? ソロモンじゃだめだ。ソロモンだなんて言うなよ。ソロモンなら、ああいったときにゃ、ふたことみこと、手ぎわのいいこと、言っただろうな。ソクラテスだったら、ぜったいなにも言わなんだとは思えんぜ、ああいったことだったらな。クリトンかだれかがあの男をうまく脇に押しやってさ、記録に残していいような、えりぬきの言葉をいくつか、考えさせたと思うな。だけど、だいたいのとこ、ほかのなには措いてもだよ、聖書の中で、イエスのほかにいったいだれが知ってた――知ってた――おれたちは〈天の王国〉をいっしょに持ちあるいてるんだっていうことをさ、心の中にな、ただ、おれたちはあんまりばかで、センチメンタルで、想像力がないもんだから、そこが見えないだけだってな。神の子にならなきゃ、そういったことはわからんのさ。どうしておまえは、こういったことに思いつかんのだ? ほんとだぞ、フラニー、おれは本気で言ってるんだぜ。イエスのこと、まったくありのままに見んかぎりは、〈イエスの祈り〉の眼目は、すっかり見のがすことになるんだ。イエスが理解できなきゃ、イエスの祈りだって理解できやしないさ――祈りなんか、ぜんぜん自分のものにはならん、ただ組織化されたお題目かなにかが手にはいるだけだ。イエスっていうのは、ぜったい最高の達人でな、ある恐ろしく重要な使命を持ってたのさ。キリストは聖フランチェスコじゃないぞ、余裕たっぷりで、祈祷書の聖歌をそそくさといくつも作ったり、鳥ども[#「鳥ども」に傍点]に説教したり、フラニー・グラスの心にぴったりみたいな、うれしいことをほかにいろいろしたりするような人間じゃなかったんだ。おれはいま本気で言ってるんだぞ、ちくしょう。どうしてそれに気がつかないのかなァ? もし神がだよ、だれか、聖フランチェスコみたいな、たえず人に好かれる性格の人間にさ、新約の中のあの仕事させたかったら、そいつを選んだだろうよ、きっと。ところが事実はそうじゃないんだから、神はいちばん優秀な、いちばん切れる、いちばん愛情ゆたかな、いちばんセンチメンタルでない、いちばん人まねの少ない名人を選んだのさ、自分の選べる範囲全部の中からな。で、そのことを見そこなったらだよ、誓ってもいいけど、おまえは〈イエスの祈り〉の眼目はすっかり見そこなってることになるのさ。あの〈イエスの祈り〉にはな、目的が一つ、あって、しかも、たった一つしかない。それを言う人間に〈キリスト意識〉を授けることだ。なにかちょっとした、いごこちのいい、いかにも、信心ぶかそうな場所を作りあげることじゃないんだ――そこでかれか、しんねりむっつりした、尊い、こうごうしい人物と逢いびきしてな、腕に抱えてもらって、義務っていう義務からはみな解放してもらって、自分につきまとう不潔な|厭世的感傷《ヴェルトシュメルツ》やタッパァ教授どもはみんな遠ざけて二度と戻れないようにしてもらおうなんて場所をな。だから、ぜったい、もしおまえに知性がたっぷりあってさ、そのことがわかっていながら――わかってるはずだぞ――それでてわかるのはどうしてもいやだっていうんならだな、それならおまえはあのお祈りを悪用してるんだ、それを使って、人形と聖者はふんだんにいてもタッパァ教授はひとりもいないような世界を求めてるんだ」彼はとつぜん起きなおり、からだをまえに、ほとんど美容体操みたいにすばやく突きだして、フラニーを見た。彼のワイシャツは、耳慣れた文句を使えば、しぼれるほど濡れていた。「もしイエスの意図がだな、その祈りを使う目的は――」
ズーイは言葉を切った。そして、ソファーの上でうつぶせに寝そべっているフラニーのほうを見やると、ほんの一部分だけ押さえつけたみたいな、苦悩の呻きが彼女のほうから聞こえてくるのが、たぶんはこのときはじめて、耳にはいった。たちまち、彼は顔色が青ざめた――フラニーの容態を気づかって青ざめたのであり、また、察するに、失敗がとつぜん、それには付きものの、あの頭が痛くなるみたいな匂いを部屋じゅうに充満させたので青ざめたのである。ところが、その青白さは、奇妙なぐあいに純粋の白だった――つまり、罪や卑劣な悔恨の緑や黄いろが混じってはいなかったのだ。それは、動物が、動物ならなんでも、気ちがいみたいに好きな男の子が、自分のかわいがっているウサちゃん好きな妹に、誕生日の贈りものを――掴まえたばかりのコブラの子を、首のまわりに赤いリボンを蝶ネクタイみたいに、ぶきように結んで入れた箱をくれてやって、妹の顔をひとめ見たとたんに、その男の子の顔に出る、あの標準的な血のけのなさだった。
彼はフラニーの顔をたっぷり一分、見つめて、それから立ちあがったが、その様子には、いくらか、彼に似つかわしくないほどぶきように、からだの平衡を失したみたいなところがあった。彼は非常にゆっくりとした足どりで、母親の書き物机のほうへ、部屋をまっすぐ横切って歩いていった。そして、向こうに着いた様子からすると、彼は明らかに、まったくなんということもなくそこまで行ったのだった。彼は机の上のものにはまったく馴じみがないみたいなふうで――上に印刷してある「O」を彼が黒く塗りつぶしたあの吸い取り紙にも、葉巻きの燃えさしを捨てたあの灰皿にも――そこで後ろを振りかえり、またフラニーを見た。彼女の啜り泣きはちょっと静まっていた、というより静まったように思われたが、からだは、前と同じような、哀れっぽい、うつぶせに寝そべった姿勢をとっていた。一方の腕は、曲げられてからだの下になって――からだの下に押さえつけられており、それは見るからにひどく窮屈そうな様子だったが、ほとんど痛そうではなかった。ズーイは彼女から目をそらし、それからまた、勇気を出して彼女を見た。彼はひたいを、手のひらでひと拭いし、その手をポケットに入れて拭いてから、言った。「ごめん、フラニー。ごめんな」しかし、この形式的な詫びの言葉はフラニーの啜り泣きをただ、ふたたび激しく、ふたたび大きくしたにすぎなかった。彼はじっと、十五秒か二十秒のあいだ彼女を見つめた。それから、廊下のほうの出口から部屋を出て、自分の後ろでドアを閉めた。
塗りたてのペンキの匂いが、いまではもう、居間の外いちめんに強く立ちこめていた。廊下自体はまだ塗られていなかったが、新聞紙が固木のゆかのはしからはしまですっかり敷きつめられていたので、ズーイは足を一歩、踏みだしたとたんに――優柔不断な、目がくらんだみたいな一歩だったが――ゴムの踵の足跡を、スポーツ欄の、スタン・ミュージュアルが十四インチもある|川《かわ》|鱒《ます》を持ちあげている写真の上に残した、それから、五歩目か六歩目で、あやうく、母親とぶつかりそうになった。彼女は寝室から出てきたところだった。
「もう出かけたと思ってたのに!」と、彼女は言った。腕には、洗濯をして畳んだ木綿のベッドカバーを抱えていた。「さっき聞こえたみたいだったけど、玄関の――」彼女は言葉を切って、ズーイの様子全般をためつすがめつした。「どうしたのよ、それは? 汗かい?」と、彼女はきいた。そして、返事を待たずにズーイの手を掴むと、彼を引っぱって――まるで|箒《ほうき》みたいに彼をあしらって――ペンキを塗ったばかりの寝室の中へ連れこんだ。「汗だよ、これは」そう言う声は、よしんばズーイの毛穴が原油を湧出させていたとしても、これ以上に|訝《いぶか》しそうな、非難がましい調子を響かせはしなかっただろう。「いったいぜんたい、いままでなにをしてたっていうの? お風呂にはいったばかしじゃない。いままでなにをしてたの?」
「もう遅れてるんだ、でぶちゃん。さあ。どっちかに寄れよ」と、ズーイは言った。フィラデルフィア作りの足付き洋服箪笥が廊下に出されていたので、これがグラス夫人のからだとあいまって、ズーイの通るのをじゃましているのだった。「だれだ、この化け物、ここへ出したのは?」と、彼はそれをチラッと見やりながら言った。
「どうしてそんなに汗かいてるの?」グラス夫人はまずワイシャツを見、それから息子の顔を見て強くたずねた。「フラニーと話したのかい? いままでどこにいたの? 居間かい?」
「ああ、ああ、居間だよ。だからさ、ついでだから言うけど、もしおれがあんただったらさ、ちょっと中へはいってみるとこだぜ。あいつ、泣いてるよ。とにかくおれが出てきたときはな」彼は母親の肩を軽く叩いた。「さあ、な。本気で言ってるんだぜ。そこどいて――」
「あの子が泣いてるって? また? どうして? なにがあったの?」
「おれは知らんよ、こんりんざい――あいつの『プーさん』の本、隠してやったのさ。さあ、さ、ベシィ、どいてくれよ、頼むから。急いでるんだ」
グラス夫人はあいかわらず彼を見すえながらも、通すことは通してやった。そして、それとほとんど同時に、居間に足を向けたが、そのすばやさたるや、振りかえって、彼のところへ肩ごしにこう呼びかけるのが精いっぱいというところだった。「シャツを替えるんだよ、おまえ!」
ズーイは、この言葉が聞こえていても、そのそぶりは見せなかった。彼は廊下のいちばん奥まで行くと、自分の寝室にはいった。それは、むかしは自分の双子の兄たちと三人して使っていたものだが、いま一九五五年現在では、彼ひとりのものだった。しかし、彼はその部屋にはものの二分といなかった。そして、出てきたときも、前と同じ、汗ばんだシャツを着ていた。とはいえ、彼の様子にはどこか、微かながらもかなりはっきりとした変化があった。彼は、また仕入れてきた葉巻きに、火をつけた。そのうえ、どうしたわけか、白いハンカチを畳まないまま頭にかぶって、どうやら、雨か、あられか、硫黄を避けるとでもいったふうだった。
彼は廊下を横切って、以前、いちばん上のふたりの兄が、ふたりして使っていた部屋にはいった。
ズーイがこうしてシーモァとバディの昔の部屋に、既成の演劇用語を使えば、〈足をふみいれる〉のは、ほとんど七年ぶりのことだった。もっとも、数年まえに、ぜんぜん無視していいような、ちょっとした出来事はあったけれども――つまり、彼はそのとき、置きわすれたか〈盗まれた〉かした、テニスのラケットのプレスを捜そうとして、このアパート全体をちくいち捜索したのだった。
彼は中にはいると、ドアをできるだけしっかりと閉めたが、その彼の表情には、錠に鍵が欠けているのはいかにも不服だ、といった様子がそれとなく出ていた。彼は、こうして戸を閉めきったあとでも、部屋そのものにほとんど一顧も与えなかった。そのかわり、くるっと振りむくと、またドアと向きあって、そこに釘で情け容赦もなく打ちつけてある、かつては純白だったビーバーボードをしげしげと見た。それは巨大なしろもので、だいたいドアそのものと同じくらい長くて、幅も同じくらい広かった。これを見れば、だれでもおそらく、この白さ、滑らかさ、広さでは、この板はひところ、墨とブロック字体の文字とを求めて悲しげに泣きわめいていたはずだと思ったことだろう。もしそうだとすれば、それはたしかにそのかいがあったというものだ。その板の、目に見える表面はすみずみまで飾りたてられていた――四つの、いくらか豪奢な感じのする欄に分けられ、その一つ一つに、世界のさまざまな文字からの引用が書きこまれていたのだから。それらの文字はこまかかったが、しかし、場所によってはちょっと装飾がかっていたとはいえ、墨くろぐろと、丹念に読みやすく書かれ、そのうえ、しみも消した跡もなかった。仕事ぶりは、板の下のほうの、ドアの敷居の近くでも手は抜かれていず、そのあたりでは、ふたりの書家たちが、それぞれ代わるがわる腹ばいになったことは明らかだった。また、引用句やその原作者を、なんらかの範疇やグループに配列しようという試みも、まったくなに一つ行われていなかった。それだから、それらの引用を上から下まで、一つの欄から次の欄へと読みすすむのは、洪水地帯に作られた緊急基地の中を歩きまわるのにいくらか似ており、そこには、たとえば、パスカルが、淫らなところはすこしもなく、エミリ・ディキンソンといっしょに寝かされているかとおもえば、また、いわば、ボードレールの歯ぶらしとトマス・アケンピスの歯ぶらしとが並んでぶらさがっている、といったふうだった。
ズーイは、そのじゅうぶんそばまで行って立つと、左手の欄のいちばん上の書きこみを読み、それから下のほうへ読みすすんでいった。その顔の表情、あるいは無表情から見ると、彼は、駅のプラットホームに立ちつくして、暇つぶしに、広告板に貼ってある、『ショル博士の足あて』の広告を読んでいるところだとも言えそうだった。
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おまえには、行為する権利はあるが、しかしそれは、その行為そのものを目的とする場合に限られる。行為の結果にたいしては、おまえはなんの権利もない。行為の結果を求める欲望がけっして、おまえの、行為する動機であってはならない。また、無為に屈してもいけない。
いかなる行動も、心を至高の|主《あるじ》に据えつけて行なえ。結果にたいする執着を放棄せよ。成功にさいしても不成功にさいしても、心を平等に保て〔書道家のひとりが下線を施してある〕。なぜなら、気分のこの平等こそ、ヨーガと呼ばれるのであるから。
結果を心配しつつなされた行為は、そのような結果を心配せずになされた行為よりはるかに劣るものである、すなわち、自己放棄の平静さにおいて。ブラフマンの知識をよりどころにせよ。結果を求めて利己的に行為するものたちは哀れむべきかな。
――『バガヴァッド・ギーター』
それは生ずることを愛した。
――マルクス・アウレリウス
かたつぶりそろそろ登れ富士の山
――一茶
神たちにかんして言えば、そもそも神なる者の存在そのものを否定する者たちがいる。また、神なるものは存在するが、行動することも、関心を持つことも、なにごとかを深慮することもない、と言う者たちもいる。あるいは、神なるものに存在と深慮とを帰せしめはするが、その深慮はただたんに、偉大なこと、天上的なことにのみ及び、地上にある者には一つとして及ばない、とする一派もある。あるいはまた、天上の事物とどうよう、地上の事物も認めはするが、それは一般的に言えるのみで、個々のものそれぞれにかんしてではない、とする一派もある。さらにはまた、オデュッセウスやソクラテスはこの部類にはいるが、こう呼ぶ者たちもいる――「われ、動けばかならずなんじの知るところとなる!」
――エピクテートス
愛の関心とクライマックスとが訪れるのは、ひと組の男女が、ともに面識はないのに、東に戻る列車の中で語りはじめたときだ。
「で」と、グルート夫人が言った。というのはその一方が彼女だったのだ。「グランド=キャニヨンはいかがでした?」
「たいした洞窟ですよ」
「まあ、おもしろいおっしゃり方!」と、グルート夫人は答えた。「それじゃあ、なにか弾いてくださいな」
――リング・ラードナァ
神は心を、観念ではなく苦痛と矛盾とを用いて教化する。
――ド・コサード
「パパ!」キティは金切り声をあげて、彼の口を両手で塞いだ。
「いや、わしはなにも……」と、彼は言った。「わしはとっても、とっても嬉しいのだ。ああ、わしはなんてばかなんだ・」
彼はキティを抱きしめ、彼女の顔に口づけし、それから手に、また顔にして、そのあと、彼女の頭の上で十字を切った。
すると、レーヴィンは、キティが彼のたくましい手にいかにもゆっくりと優しく口づけするのを見て、これまでほとんど未知に等しかったこの男にたいして、新しい愛情が全身に湧きおこるのを感じた。
――『アンナ・カレーニナ』
「先生、わたしたちは民衆に、寺院の中の像や絵姿を崇拝するのは間違いだと、教えてやるべきです」
ラーマクリシュナ――「それがおまえたちカルカッタの人たちに一流の流儀だ――教えたり説教したりしたがる。自分は乞食のくせして、何百万となく与えたがる。神は、自分が像や絵姿の形で崇拝されていることを知らずにいるとでも思っているのか? もしまんがいち崇拝者が間違いを犯しているとしても、神はその男の意図を知らずにいるとでも思うのか?」
――『スリ・ラーマクリシュナの福音』
「おれたちのほうへ来ないかね?」と、わたしは最近、ある知人にそう言われた――この男とは、真夜中すぎに、とあるコーヒー店でひとりでいたとき、偶然、出くわしたわけだが、そのときはもう、店にはもうあらかた人影はなかった。「いやだ」と、わたしは言った。
――カフカ
人間たちと席を同じくしているという、この幸福。
――カフカ
フランソワ・ド・サールの祈り――「はい、父よ! はい、いつでも、はい! です」
|瑞《ずい》|厳《げん》は毎日、声を出して自分に「先生」と呼びかけた。
それから自分で自分にむかって「はい」と答えた。
すると、それからこう言いだすのだった、「覚めろ」
また彼は答えた、「はい」
「そうしてそのあとでは」と、彼はつづけて言った。「他人に瞞されるなよ」
「はい。はい」と、彼は答えた。
――『無門関』
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ビーバーボードの文字はじっさい小さかったので、この最後の書きこみは、その欄の上から五分の一まででじゅうぶん収まっていたため、ズーイは、同じ欄の前を動かずに、|膝《ひざ》も曲げずに、もう五分かそこいら読みつづけることはできただろう。だが、そうはしなかった。彼は、べつに唐突にでもなく、後ろに向きなおり、歩いていって、兄のシーモァの机の前に腰かけた――まるで毎日していることだとでもいうようなしぐさで、小さな椅子を引きだして。それから葉巻きを、火のついたほうを外に出して、机の右はしに置き、両肘を突いてからだを前にこごめ、それから、顔を両手でおおった。
彼の後ろ側と左側では、カーテンの掛かった窓が二つ、ブラインドは半分、おろしたままで、中庭に面していた――これは、絵にもなににもならないような、煉瓦とコンクリートの谷で、洗濯女や御用聞きの少年たちが一日じゅう、いつとはなく、灰色の姿をしてここを通りぬけていた。この部屋そのものは、いわば、このアパートの第三主要寝室とでもいったところで、マンハッタンのアパートの、多少なりとも伝統的な標準からすれば、日あたりがよくもなければ大きくもなかった。グラス家の上のふたりの息子たちがここに移ったのは、一九二九年、それぞれ十二と十のときで、ここをあけたのは二十三と二十一のときのことだった。家具は大部分が|楓《かえで》材の「セット」になっていて、椅子型ベッドが二つに、ナイトテーブルが一つ、男の子向きに小さくできた、膝を締めつけがちな机が二つと、置き戸棚が二つ、セミ安楽椅子が二つ、といったところだった。ゆかには、家庭向きの、東洋風な部分絨毯が三枚、敷いてある。あと残りは、ほとんど誇張なしに、本だった。取りあげるつもりでいる本。永久に取りのこされる本。どうしたらいいか決めてない本。背の高い本棚がいくつか、部屋の三面の壁を裏張りしており、その詰まり方は、容量いっぱいだったり、容量超過をしたりしていた。余ったのは、ゆかの上に山と積み上げられている。歩く余地などはほとんどないくらいで、歩調ただしく歩く余地はまったくなかった。これがズーイではなく他人で、カクテルパーティー的な描写の文章を得意とする男だったら、チラッとひとめ見たところでは、まるでこの部屋にはむかし、十二歳の弁護士か研究員がふたり住んで奮闘していたみたいだ、と注釈をつけたかもしれない。そして、じっさい、ここに現存する書物その他をかなりじっくりと調査してでもみないかぎり、そのかつての居住者がふたりとも、この部屋の秀れて児童向きな容積の中で選挙年齢に到達したという確かなしるしは、あるとしてもほとんどないに等しかった。また、どちらの机の上にも、タバコの焼けこげがかなりな数、あった。しかし、これらよりもっと著しい、成年のしるしは――ワイシャツの飾りボタンやカフスボタンの箱とか、壁飾りの絵だとか、置き戸棚の上に溜まる、それぞれ語るところの多いガラクタとかは――すでに一九四〇年に、このふたりの若者が「枝わかれ」して自分たちでアパートを借りたとき、この部屋から取りはらわれてしまっていた。
ズーイは、顔を両手に埋ずめ、ハンカチのヘッドギヤーをひたいに深く垂れさがらせたまま、シーモァの古い机にむかって、つくねんと、だが眠ることはせずに、たっぷり二十分は腰かけていた。それから、ほとんどいっきに、顔の支えを取りはずして、葉巻きを摘まみあげると、それを口に詰めこんだあと、机の左側のいちばん下の引き出しをあけて、両手を使いながら、七インチか八インチの厚さの束になった、たぶん――そしてじっさいそうだったのだが――クリーニング屋がワイシャツに差しこむボール紙を取りだした。そして、その束を机の上の、自分の目の前に置いて、いちどに二枚か三枚ずつ、それをめくりはじめた。彼の手が止まったのは、じっさい一度きりで、そのときですら、ほんのつかのまのことだった。
彼が手を止めたのは一九三八年の二月の日づけで書きこみがあるボール紙のところであった。その青鉛筆で書かれた筆跡の持ち主は、彼の兄のシーモァだった。――
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わが二十一歳の誕生日。贈り物、贈り物、贈り物だ。ズーイと赤ちゃんは例によって、しもブロードウェイで買い物をした。ふたりがくれたのは、かゆがらせ粉のたっぷりはいった袋と、スカンク爆弾が三つはいった箱だ。この爆弾を、コロンビア大学のエレベーターの中か、どこか「ものすごく混む場所」かで、チャンスのありしだい落とせというわけだ。
おれのお楽しみにといって、ボードビルが何幕か。レスとベシィは、ブー=ブーがロビーの灰皿からくすねてきた砂の上で、すてきな、ソフトシュー=タップダンスをしてくれた。ふたりが終わると、Bとブー=ブーが、かなりおかしなしぐさでそのまねをしてみせた。レスはもうすこしで涙をこぼしそうだった。赤ちゃんは『アブダル・アバルバル・アミール』を歌った。Zは、レスにおそわった、ウィル・マホーニィの退場をしてみせて、本棚にぶつかり、猛烈におこった[#「猛烈におこった」に傍点]。双子は、Bとおれがむかしした、『バックとバブルズ』のまねをした。それも、完璧なまでに。すばらしかった。その途中、門衛が電話をかけてきて、だれかダンスでもしているのじゃないか、と言った。四階のセリグマンさんとかなんとかいう人が――
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そこでズーイは読むのをやめた。そして、トランプ・カードを立てて揃えるときみたいに、そのボール紙の束を机の表面に立てて、固い音を響かせながら、二度、トントンとやり、それから、その束をいちばん下の引出しに戻して、それを締めた。
彼はもう一度、机に|肘《ひじ》を突いてからだを前にこごめ、顔を両手に埋ずめた。そうして、こんどはそのままの姿勢で、ほとんど半時間ほど動かずにいた。
彼がまた動いたときは、まるで操り人形の糸がからだに付いていて、ぐいと、むきになって引っぱられたとでもいうみたいだった。彼はいかにも、このぐらいの余裕は見てもらっているといった様子で葉巻きをつまみあげると、目に見えない糸に振りまわされて、この部屋のもう一つの机――バディの机――の前に置かれた椅子のところへ行った。そこには、例の電話があった。
こうして新たな配置のもとに腰かけなおして、まず彼がしたのは、ワイシャツの裾をズボンの中から引っぱりだすことだった。彼はまるでこの三歩の旅で奇妙な熱帯地帯に踏みこんだとでもいうように、ワイシャツのボタンをすっかりはずしてしまった。つぎに、葉巻きを口から出したが、それは左手に移して、そのままそこに残した。そして、右手でハンカチを頭から取ると、それを電話の横に置いた――疑いもなく「準備態勢」といった置き方で。彼はそれから、ためらう気配はいささかも見せずに受話器を取り、市内の番号をダイヤルした。市内も市内、すぐ近くの番号を。ダイヤルしおえると、彼は机の上からハンカチを拾いあげて、それを送話口の上に、まったくしどけない、かなり高く盛りあがった形でかぶせた。彼は息をやや深くついて、待った。消えている葉巻きに火をつけることも、すればできただろうが、彼はそれをしなかった。
これより約一分半ほどまえ、フラニーは「おいしい、熱いチキンスープ」を持っていってやろうかという、母親の、この十五分間で四度目の申し出を、はっきりと震えの聞きとれる口調で断わったばかりだった。グラス夫人は、この最後の申し出をしたときはすでに立ちあがって――じっさいは、居間から半分、台所のほうへ出かかっており、その顔つきは、事態を楽観するのあまり、かなり厳しいものになっていたのだった。ところが、フラニーの声にまた震えが戻っているので、彼女は急ぎ足に元の椅子のところへ戻ってきたのだった。
グラス夫人の椅子は、もちろん、この居間の、フラニーのすぐ脇に置かれていた。しかも、おさおさ警戒おこたりなくといった様子で。十五分かそこいらまえに、フラニーが起きなおって櫛を捜す程度にまで回復したとき、グラス夫人はこの椅子を書き物机のところから持ってきて、コーヒー・テーブルにきちんと寄せて、そこに置いたのだった。この位置はフラニーの観察にはうってつけであるうえに、また、観察者を、大理石の表面に載っている灰皿に容易に手が届く場所に置くからだった。
グラス夫人は、また腰をおろすと、すぐにため息をついたが、それは、いつでも、どんな状況でも、チキンスープが断わられたとき出るため息だった。だが、彼女は、いわば、|哨戒艇《しょうかいてい》に乗って自分の子供たちの消化管なる運河を何十年となく巡航していたから、そのため息はいかなる意味においても敗北のしるしではなく、彼女は、それからほとんどまも置かずに、こう言った。「わからないねえ、滋養になるものはちっともからだに入れずにいて、どうやって力やらなにかをまたつけるつもりなのか。わるいけど、わからんねえ。おまえはちょうど――」
「お母さん――ねえ、お願い。もう二十回も頼んでるじゃないの。お願いだから、チキンスープのことは言わないでよ。それ聞くと、あたし、ほんとに吐きけがして――」フラニーは言葉を切って耳をすました。「あれ、うちの電話かしら?」と、彼女は言った。
グラス夫人はもう椅子から立ちあがっていた。彼女の唇はちょっと引きしまっていた。電話が鳴ると、どの電話でも、どこにいても、きまって、グラス夫人の唇はちょっと引きしまるのだった。「すぐ帰ってくるからね」と言って、彼女は部屋を出ていった。彼女はチャラチャラと、いつもよりもっと耳に響く音をたてていて、それはまるで、家庭用の釘を詰合わせてあるあの箱が、着物のポケットのどれかの中でばらばらに|毀《こわ》れている、とでもいうかのようだった。
彼女がこの部屋を留守にしたのは五分ほどのあいだのことだった。また戻ってきたときの彼女には、あの独特の表情が見られ、それは、長女のブー=ブーがかつて、次の二つのことのどちらか一方しか意味していないと説明したものだった――つまり、たったいま息子のうちのだれかと電話で話をしてきたということか、あるいは、世界じゅうの全人類のひとりひとりの臓腑がこんごまるまる一週間という期間のあいだ、衛生学的に言って完全に規則的に動くべく計画されているという報告を、このうえなく確かな筋からえたということかをだ。「バディが電話をかけてきたんだよ」彼女はそう告げながら、部屋にはいってきた。長年の慣習から、彼女は、自分の声に滑りこみかねない喜びのしるしは、どんな小さなものでも押さえつけるようになっていた。
このニュースにたいするフラニーの、目に見える反応は、熱狂とはかなりかけはなれたものだった。彼女は、じっさい、いらいらした様子すら見せていたのだ。「どこからかけてきてるの?」と、彼女は言った。
「そんなことは聞かなかったよ。まるで、ひどいかぜ引いてるみたいな声だしててね」グラス夫人は腰をおろさなかった。あたりをうろつくだけだったのだ。「さあ、いそいで、お嬢さん。あの子は、おまえと話したいんだってさ」
「そう言ったの?」
「そう言ったともさね! いそいで、さあ、スリッパをはいて」
フラニーはピンクのシーツと薄い青のアフガンの中から外へ抜けでた。そして、青白い顔をして、明らかに時間かせぎのつもりで、ソファーのはしに腰をおろし、それから母親の顔を見あげた。足はスリッパを求めて、あたりを探っていた。「なんて言ってやったの?」と、彼女はそわそわしながら言った。
「まあ、頼むから、電話に出ておくれでないかね、お嬢さん」と、グラス夫人は話をそらすようにして言った。「まあ、急いでおくれな、ごしょうだから」
「どうやら、兄さんに、あたしは死にかけてるとかなんとか、言ったみたいね」と、フラニーは言った。これには返事がなかった。彼女はソファーから立ちあがったが、その物腰には、手術を受けたあとの、回復期の患者に見られるような虚弱さはなく、ただ、かすかに、臆病で用心ぶかくしているような形跡が見られただけで、まるで、かるく目まいがするのを予期して、ひょっとしたらむしろ期待している、とでもいったふうだった。彼女はスリッパをずりうごかして足もとを確かにしたあと、コーヒー・テーブルの奥から、重い足どりで、化粧着のベルトをほどいたり結びなおしたりしながら出てきた。一年かそこいらまえ、兄のバディにあてた手紙の中の一節で、彼女は、不当なまでに自己非難めいた調子で、自分自身の容姿のことを「非の打ちどころがないほどアメリカ的だ」と評したことがあった。その彼女を見まもっているうちに、グラス夫人は、これがまた、たまたま、若い娘の容姿や若い娘の歩きぶりについてはたいへんなうるさ型だったから、ほほえむ代わりに、唇をちょっと引きしめた。ところが、フラニーの姿が見えなくなると、たちまち彼女はソファーに注意を向けた。明らかに、その顔つきから察するに、彼女には、この世でなにが厭だといって、ソファーを、それも、上等な、ケワタガモの綿毛を詰めたソファーが、寝る目的で造作されていることほど厭なことはないようだった。彼女はコーヒー・テーブルをぐるっと回って、このテーブルとソファーとのあいだにできた通路にはいると、目に見えるかぎりのクッションに、臨床的な打診をほどこしはじめた。
フラニーは、通りすがりに、廊下の電話は無視した。どうやら、廊下をさらに先まで歩いていって、両親の寝室にある、この電話よりも家族の受けがいい、もう一つの電話のほうを使うことにしたらしかった。廊下を進んでゆく彼女の歩きぶりには、目だつほど奇妙なところはなにもなかったとはいえ――彼女はぐずぐずもしていなければ、それほど急いでもいなかったのだ――それにもかかわらず、彼女は、進むにつれて、おそろしく奇妙なぐあいに変身しはじめた。ひと足ごとに、目に見えて若がえっているみたいだったのだ。おそらく、途中で折れている長い廊下、プラス涙の余波、プラス電話のベルの音、プラス塗りたてのペンキの匂い、プラス足もとの新聞紙が――おそらくは、こういったものすべての総計が、彼女にとっては、新しい、おもちゃの乳母車に等しかったのであろう。いずれにしても、彼女が両親の寝室の戸口に行きついたころには、彼女の、注文じたての、タイシルクの化粧着は――たぶん女子寮ではシックで最高に性的だとされているものすべての象徴なのだ――まるで、子供の、ウールのバスローブに変わってしまったみたいであった。
グラス氏夫妻の寝室は、ペンキを塗ったばかりの壁が悪臭を放って、鼻に痛いほどだった。家具は部屋の真ん中にひとまとめにされて、キャンバスを掛けてあった――古ぼけて、ペンキのしみがついた、有機体じみた感じのキャンバスだ。ツインの寝台もまた、壁から引きはなされていたが、それらには、グラス夫人が自分で用意した、木綿のベッドカバーが掛けてあった。電話は、いまではグラス夫人のベッドの枕の上に置いてあった。どうやらグラス夫人もまた、廊下の、他人の耳につきやすいほうの電話より、こちらを選んだのだった。受話器は受け台からはずれたまま、下に置かれて、フラニーを待っていた。それは、人間とほとんど変わることなく、自分の存在をなんとか認めてもらおうとして、人頼みしているみたいであった。そこまで行きつくためには、その受話器を救済するためには、フラニーはまず、ゆかの上の、かなりの量の新聞紙をかきわけて、からのペンキバケツをよけて進まねばならなかった。ついに向こうまで行きつくと、彼女は受話器を拾いあげることはせず、ただ、ベッドの、そのそばに腰をおろして、それを見つめ、それから目をそらし、そうして髪の毛を後ろに押さえただけだった。ふだんならベッドと並べて置いてあるナイトテーブルも、いまではそのすぐ脇まで動かされているので、フラニーはすっかり立ちあがることをしなくても、そこに手が届いた。彼女は、それをおおっている、とくに汚れた感じのキャンバスの下に手を入れて、その手をあちこち動かしていたが、そのうちにとうとう、捜しているもの――陶器のシガレット・ボックスと、銅のホールダーにはいったマッチ箱を見つけた。彼女はタバコに一本、火をつけて、それから電話のほうに、もう一度、長い、極度に気づかわしげな視線を向けた。ここで断っておけば、死んだ長兄のシーモァは例外として、彼女の兄たちは全部、たくましいとは言わないまでも、非常に力づよかった。時が時だけに、どうやらフラニーは、だれのものにせよ、とにかく兄たちのどれかの特質だけでも――話の中身は言わずもがな――聞くことにためらいを感じたようだった。それでも、彼女はタバコを神経質にスパスパやってから、いくらか勇を|鼓《こ》して、受話器を取りあげた。「もしもし。バディ?」と、彼女は言った。
「もしもし、かわいこちゃん。どうだい――だいじょうぶか?」
「元気よ。兄さんは? なんだか、かぜ、引いてるみたいな声よ」それから、すぐには答えがないのを見て――「ベシィったら、何時間も、かいつまんでわけを話してたんでしょう」
「ああ――まずはな。そうでもあるし、そうでもない。わかってるじゃないか。ほんとにだいじょうぶなのか、かわいこちゃん?」
「元気よ。だけど、兄さんの声、おかしいわ。ひどいかぜ引いてるか、電話のつながりぐあいが悪いか、どっちかよ。いまはどこなの、とにかく?」
「おれのいるとこか? ちゃんと、おれのいるべきとこにいるさ、お嬢ちゃん。ちょっとした幽霊屋敷にな、道のはずれの。どうでもいいじゃないか、そんなこと。まあ、話せよ」
フラニーは落ちつかなく足を組んだ。「いったい、なにを話したいっていうの、わからないわ」と、彼女は言った。「どんなこと、ベシィがしゃべったのよ、つまり?」
電話の向こうで、まったくもっていかにもバディらしい沈黙が生じた。それはまさに|馴《な》じみのもので、この種の沈黙は――年が進んでいるだけあってほんのすこし豊かになってはいたが――フラニーと、いま電話の向こうにいる|名手《ヴィルトウォーソ》とがまだ小さな子供だったころ、このふたりの忍耐心をともによく疲れさせたものであった。
「そうだなあ、どんなことしゃべったか、ものすごくはっきりしてるってわけにはいかんぞ、かわいこちゃん。あるとこを過ぎるとな、ベシィが電話でしゃべるのをいつまでも聞いてるっていうのは、ちょっと不作法な話だからな。チーズバーガーを食べるって話は聞いたよ、確かにな。それから、もちろん、巡礼の本のこと。そのあとはな、ただ電話を耳にあてて腰かけてたっていうだけさ、うわのそらでな。そのくらい、わかってるじゃないか」
「まあ」と、フラニーは言った。彼女はタバコを、電話の手のほうにいそいで持ちかえると、あいたほうの手をまた、ナイトテーブルの、キャンバスの覆いの下に伸ばし、小さな、陶器の灰皿を見つけだして、それをベッドの、自分の脇に置いた。「おかしな声してるわよ」と、彼女は言った。「かぜ引くかどうかしたの?」
「気分はすごくいいさ、かわいこちゃん。ここにこうして腰かけてな、おまえと話してると、気分はすごくいい。おまえの声、聞いてると、楽しくなるよ。口ではとても言えんくらいにな」
フラニーはもう一度、片方の手で髪の毛を押さえて、後ろに撫でた。彼女は、ひとことも言わなかった。
「お嬢ちゃん? ベシィが言いおとしたこと、なにか、ありそうかい? とにかく話したいんだろ?」
フラニーは指で、ベッドの上の、自分の脇にある、ちっぽけな灰皿の位置をかすかに変えた。「そうね、あたし、ちょっとしゃべりづかれしちゃった。正直いうとね」と、彼女は言った、「ズーイがこの朝ずっと、あたしのとこにいたのよ」
「ズーイが? どうだい、あいつは?」
「どうだいって? 元気よ。とびきりね。殺してやりたいくらいだわ、ほんと」
「殺して? どうして? どうしてだい、かわいこちゃん? どうして、うちのズーイを殺してやりたいんだ?」
「どうして? ただそうしてやりたいだけよ、それだけだわ! あの人ったら、とことんまで破壊的なんだもの。あんなにとことんまで破壊的な人って、生まれてからまだ会ったこともないわ。あんなこと、ぜんぜん必要ないのに! あるときはね、あの〈イエスの祈り〉に徹底的に攻撃しかけてきてよ――たまたまそのお祈りに、あたし、興味もったんだけどね――こっちを、まるで、それに興味もつだけでもう、なにかノイローゼの間抜けかなにかみたいな気分にさせるのよ。それでいて、その二分もあとにはね、もうイエスこそ、この世で自分が尊敬するたったひとりの人だっていうようなこと、まくしたててくるのよ――ほんとに最高の精神の持ち主だとかなんとかね。あの人ったら、ほんとに移り気だわ。つまり、ぐるぐるぐるぐる回ってるのよ、いやらしい輪をいくつか作っちゃね」
「そいつを話せよ。そのいやらしい輪っていうのを話せよ」
ここでフラニーは、焦らだちをすこし爆発させるという誤ちを犯した――タバコの煙を吸いこんだばかりだったからだ。彼女はむせかえった。「それを話す! そんなことしたら、まるいちんちかかるわよ、ほんとに!」彼女は片手をのどもとに当てて、食道と気管とを間違えたことから来る不快さが通りすぎるのを待った。「あの人はまあ怪物よ!」と、彼女は言った。「そうよ! ほんとに怪物だってわけじゃないけど――あたし、わからないわ。あの人ったら、なににつけても、おそろしく辛辣なのよ、宗教についても辛辣だわ。テレビについても辛辣だわ。バディ兄さんとシーモァ兄さんについても辛辣だわ――あの人ったら、兄さんたちふたりがあたしたちを奇形にしたんだって、しょっちゅう言ってるわ。あたしにはわからないけど。あの人ったら、すぐ移るのね、一つの――」
「どうして奇形なんだい? あいつがそう考えてるってことは、知ってるさ。そうか、そう考えてるって考えてることはな。だけど、どうしてだか、言ったか? あいつの言う奇形っていうのの定義はなんだい? あいつはなんて言ってる、かわいこちゃん?」
フラニーはちょうどここで、この質問のナイーヴさに見たところやけぎみになって、片手でひたいを叩いた。彼女がここ五年か六年のあいだに、十中八、九、やったことのないことだ――たとえば、レクシントン街縦断バスに乗ってうちへ帰るとちゅう、スカーフを映画館に置きわすれてきたとき。
「定義はなんだいだって?」と、彼女は言った。「あの人ったら、どんなものにだって、四十かそこいらは定義を用意してるわよ! もしあたしの言い方が、ちょっと|蝶番《ちょうつがい》がはずれてるみたいだとしたらね、そのことがそれの理由よ。あるときはね――ゆうべみたいに――言うのよ、あたしたちが奇形なのは、基準をひと組しか持たんように育てられたからだってね。その十分あとにはよ、おれが奇形なのは、人といっしょに、ぜったい、酒、飲みたいと思わんからだって、言うのよ。たった一度だけ――」
「ぜったい、なにしたいと思わんて?」
「人といっしょに、お酒、飲みたいと。ああ、そういえば、あの人、ゆうべは外に出てね、あのテレビ作家といっしょに、下町で飲んだんだわ、ヴィレジかどっかでね。それが、事の始まりよ。あの人の言うにはね、とにかくどこかでいっしょに、ほんとにお酒、飲みたいって思う相手は、みんな死んでるか、来てもらえないか、そのどっちかだって。だれとも、お昼すら食べたくないって、いってたわ、うまくいったら(ヽヽヽヽヽヽ・)、相手がイエスその人だってことになる見込みがありそうにもないかぎりはね――それか、ブッダか、|慧《え》|能《のう》か、シャンカラチャルヤか、それか、そんなふうな人にね」フラニーはとつぜん、あの小さな灰皿の中でタバコを消した――手つきがいくらかぎこちなかったのは、もう片方の手があいていなくて、灰皿を押さえられなかったからだ。「ほかに、あの人、どんなこと、あたしに言ったか、知ってる?」と、彼女は言った。「あたしんとこへ、ああだこうだ、なにを言ったか、知ってる? あの人ったらね、ゆうべ、言うのよ、むかし八つのとき、台所でイエスといっしょに、ジンジャー・エールを一杯、飲んだことがあるんだってね。聞いてるの、兄さん?」
「聞いてる、聞いてる、……かわいこちゃん」
「あの人の話じゃね――これはそっくり、バディの言ったことよ――あの人の話じゃ、台所でテーブルに向かって、ひとりっきり腰かけて、ジンジャー・エール飲んで、塩クラッカー食べて、『ドンビーと息子』を読んでたらね、ふいに、もう片っぽうの椅子にイエスが腰かけてよ、ジンジャー・エールを小さなコップに一杯、飲ませてほしいって、言ったんですって。小さなコップよ、いい――そっくりこのままのこと、あの人、言ったのよ。つまり、あの人ったら、いろいろなことをそんなふうに言うんだけどね、それでて、自分には、あたしにたくさん、忠告したりなんかする資格がじゅうぶんあると、思ってるのよ! それで、あたし、こんなにおこれてくるんだわ! ほんとに、唾、吐きかけてやりたいくらいだわ! ほんとよ! まるで、気違い病院にいてね、患者がもうひとり、すっかりお医者[#「お医者」に傍点]みたいな身なりして、やってきてよ、こっちの脈かなんか、取りはじめたみたいで……・。ほんとにいやだわ。あの人ったら、ペラペラ、ペラペラ、しゃべるの。それで、しゃべってなきゃしゃべってないで、あの臭い葉巻きを吸っちゃ、うちじゅう匂わせてるんだから。あたし、あの葉巻きの匂いにゃ、もううんざりしてて、ほんとに、転げまわって死にたいくらいだわ」
「葉巻きっていうのはな、かわいこちゃん、底荷なんだよ。まったくの底荷だ。あいつはもし、しがみつく相手の葉巻きってものがなかったら、足が地面から浮いちゃうだろうよ。そうしたら、あのズーイくんには、もう二度と会えないわけだ」
グラス家の家族には、経験ゆたかな、言葉の曲乗り飛行士が何人かいたが、この最後のちょっとしたせりふを、電話で安全無事に言えるほど頭が系統的に働くのは、ただズーイだけだった。あるいは、この物語の語り手はそう言っておく。そして、フラニーもまたそう感じたのかもしれない。とにかく、彼女はとつぜん、この電話の向こうのはしにいるのはズーイだと気がついたのだ。彼女はゆっくりと、ベッドのはしから立ちあがった。「わかったわ、ズーイ」と、彼女は言った。「わかったわよ」
いくらかま[#「ま」に傍点]を置いてから――「なんて言った?」
「わかったわよ、ズーイッて、言ったのよ」
「ズーイ? なんだい、それは? フラニー? いるのか、そこに?」
「いるわよ、ちゃんと。もうやめてちょうだい、お願いだから。わかってるのよ、兄さんだってことは」
「いったいぜんたい、なんのこと、言ってるんだ、かわいこちゃん? なんだい、これは? そのズーイっていうのは、だれだい?」
「ズーイ・グラスよ」と、フラニーは言った。「ねえ、もうやめて、お願いよ。おもしろくもない。ちょうど、あたし、いまほんのすこし、気分が戻りかけてるのよ、半分――」
「グラスだって? ズーイ・グラス? あのノルウェー人のやつか? なにか、こう、がっしりしてて、ブロンドで、スポ――」
「わかったわよ、ズーイ。やめて、お願い。もういいったら、いいわよ。おもしろくも……・。聞く気があるんなら言うけど、あたし、ものすごく気分、悪いの。だから、なにか、とくに言いたいこと、あるんなら、お願いだから、早く言ってしまって、あたしをほっといてよ」この最後の、力をこめて発音された言葉は、途中で奇妙なぐあいに回避されてしまい、まるでそこに強調を置くつもりはそれほどなかった、とでもいうみたいだった。
電話の向こうのはしに、奇妙な沈黙が生じた。それから、それにたいするフラニーの奇妙な反撥。彼女はその沈黙によって、心を乱されていた。彼女はまた、父親のベッドのはしに腰をおろした。「兄さんだからって、電話を切ったりなんか、しないわよ」と、彼女は言った。「だけど、あたし――わからないけど――あたし、疲れたわ、ズーイ。あたし、疲れちゃったの、正直いって」彼女は耳をすました。しかし、応答はなかった。彼女は足を組んだ。「兄さんは、いちんちじゅう、こんなふうでいいかもしれないけど、あたしは、だめよ」と、彼女は言った。「あたしは、なんのことはない、聞き役なんだもの。あんまりぞっとしないわね。兄さんたら、人間はみんな、鉄かなにかでできてるとでも思ってるのね」彼女は耳をすました。それから、またしゃべりかけたが、咳ばらいをする声がしたので、やめた。
「人間はみんな、鉄でできてるなんて、思っちゃいんぜ、な、おい」
この惨めなほど単純な文章はフラニーの心を、沈黙が続いた場合よりもむしろ掻きみだしたくらいに思われた。彼女はすばやく手を伸ばして、陶器の箱の中からタバコを一本、つまみだしたが、それに火をつける用意はしなかった。「でもね、そう思ってるみたいよ」と、彼女は言った。それから耳をすました。そして待った。「つまり、なにか特別なわけがあって、この電話、かけてよこしたの?」と、彼女は唐突に言った。「つまり、あたしに電話かけなくちゃいけない、なにか特別なわけ、あったの?」
「特別なわけなんか、べつにないさ、な、おい、特別なわけなんかな」
フラニーは待った。そのうちに、向こうのはしがまたしゃべりだした。
「どうやら、とにかくおれが電話したのはな、おまえんとこへあの〈イエスの祈り〉さ、続けたかったら続けろって、言うためだったんだな。つまり、それはおまえの問題なんだからさ。あれはいいお祈りだよ、ちくしょう、だからな、他人にどうのこうの、言わせるなよ」
「わかってるわ」と、フラニーは言った。そして、おそろしく神経質な手つきで、マッチ箱のほうに手を伸ばした。
「おれはぜったい、おまえがあれを言うのをさ、ほんとにやめさせようとするつもりはないと思うよ、すくなくとも、そんなことはしなかったと思うぜ。わからんけど。おれは、いったいぜんたい、自分の心の中でなにが起こっているか、ちっともわからないんだから。一つだけ、間違いないと思ってることがあるけどな、もっとも。つまり、おれにはさ、ちくしょう、さっきみたいに、千里眼みたいな口のきき方する権威はな、ないんだ。このうちには、千里眼はありあまるほどいたものな。そのことが、おれには気になるんだ。そのことが、おれにはちょっと脅威なんだ」
フラニーは、そのあとに続いた僅かな沈黙を利用して、背をすこし伸ばし、まるで、ある理由があって、よい姿勢、あるいはいままでよりもよい姿勢は、取ろうと思えばいつでも取れるのだとでもいうみたいだった。
「そいつがちょっと脅威なんだけどな、だけど、縮みあがるほどのことでもないさ。そこんとこを、きちんとしとこうじゃないか。それは、縮みあがるほどのことでもない。というのは、おまえがある一つのことを忘れてるからだよ、な。つまり、おまえが最初、あのお祈りを唱えたいという衝動、呼び声を感じたときな、おまえはすぐには、世界じゅうのすみからすみまで捜して、師匠を見つけようとしなかった。おまえはうちに帰ってきたんだ。うちに帰ってきたばかりじゃない――くそ衰弱にかかりゃがった。だから、もしおまえがだな、このことをあるふうに見ればだ、おまえはとうぜん、ここのうちの低級な宗教会議にしか出る資格はないし、おれたちにしたってその程度のものしか、おまえのためには開いてやれん。この|瘋《ふう》|癲《てん》病院にはな、秘密の動機なんてやつは一つもありゃしないんだろうからな。とにかく、たとえおれたちがなんであろうと、いかがわしい人間じゃァないよな、おい」
フラニーはとつぜん、片手だけでタバコに火をつけようとした。ところが、マッチ箱の仕切りはうまく開いたが、棒をするときへまをして、箱をゆかに落としてしまった。彼女はいそいでからだをこごめて、その箱を拾いあげると、マッチの軸は散らばったままにしておいた。
「一つだけ、言っておきたいことがある、フラニー。一つきり、おれの知ってることだ。だけど、あわてるなよ。なにも、悪いことじゃァないよ。だけど、もし、おまえが望んでるのが宗教生活ならだな、いいかげんにもう知ってなくちゃいかんぞ――このうちで宗教的なことがあっても、おまえはいつだってそいつをやってやしないってことをな。おまえときたひにゃ、だれかさんがたっとい[#「たっとい」に傍点]チキンスープを持ってきてくれたって、それを飲んでやるだけの分別はないんだから――この瘋癲病院にいるだれかのとこへベシィが持ってってやるチキンスープっていうのはな、みんな、そういった種類のものなんだぞ。だからさ、まあ、言ってみろよ、まあ、言ってみろよ、な、おい。たとえおまえがさ、これからうちを出てな、世界じゅう捜しまわって、だれか師匠を見つけたところでだぜ――グールーのだれかか、聖者のだれかをな――そうして、そのおまえの〈イエスの祈り〉のちゃんとした唱え方を教えてもらったところでだぜ、それがおまえになんのたしになるって言うんだ? いったいぜんたい、聖者と会ったら、そいつが本物かどうか、どうやって見わけるっていうんだ、もしおまえがな、たっとい[#「たっとい」に傍点]チキンスープが、自分の鼻のすぐ前に来たって、それに気がつかずにいるようだったらさ? この答えを、おれに言えるか?」
フラニーはいまでは、ベッドのはしに腰かけたまま、いくらか異常なまでまっすぐに身を起こしていた。
「聞いてるんだぞ? おれは、おまえをあわてさせようってしてるんじゃないぞ。それとも、あわてさせてるか?」
フラニーはなにか答えたが、その答えはどう見ても声にはなっていなかった。
「なんだって? 聞こえないぞ」
「ううんて、言ったのよ。この電話、どこからかけてるの? いま、どこにいるのよ?」
「ああ、どこにいたって、どうという違いはないじゃないか。サウスダコタのピエールだよ、ちくしょう。いいか、聞け、フラニー――ごめんごめん、おこるなよ。だけど、聞けよ。もう一つか二つだけ、どうということもないこと、言っておきたいからな。そうしたら、もうやめるよ、間違いなくな。だけど、おまえは知ってたのか、ところで――このまえの夏、おれがバディといっしょに、おまえの夏芝居、見に出かけたのをさ。おまえがある晩、『西の国の伊達男』やってたの、見たのをな。おっそろしく暑い夜でな、たしか。だけど、おれたちが行ったの、知ってたか?」
返事が求められているみたいだった。フラニーは立ちあがり、それからすぐ腰をおろした。そして、灰皿を、まるで、おそろしくじゃまになる、とでもいうみたいに、自分のからだからわずか遠ざけた。「ううん、知らなかった」と、彼女は言った。「だあれもひとことだって――。ううん、知らなかった」
「そうか、行ってたんだぞ、おれたち。行ってたんだよ。それで、いいか、おい。おまえはうまかったよ。で、うまかったって、おれが言うのはな、つまり、うまかったんだ。あのメチャクチャなやつはな、おまえのおかげでもってたんだぞ。見物の中にいた、日焼けしたまぬけどもだって、そのことはわかってたさ。ところが、聞けば、おまえ、こんどは芝居と永久におさらばだっていうじゃないか――いろんなこと、聞いてるぞ、いろんなこと。それから、おれ、あのおしゃべりのことも覚えてるぞ、シーズンが終わって、おまえが帰ってきたとき、みやげにもってきたあの話さ。あーあ、おまえはおれをいらいらさせるよ、フラニー! わるいけど、そうだぜ。おまえは、驚くべき一大発見をしたんだよな、芝居の職業にゃ、傭兵どもや屠殺屋どもがうようよいるっていうな。おれの覚えてるとこじゃ、おまえは顔つきさえ、案内人が全部、天才じゃないっていうんで、がっくりきたとでもいったみたいだったぞ。どうしたんだ、おまえは、おい? 脳みそはどこにはいってるんだ? 自分は奇形の教育、受けてるんなら、すくなくとも、それ使えよ、それを使えよ、あの〈イエスの祈り〉を、きょうからこの世の終わりまで、唱えるのもいいけどさ、だけど、もしだよ、宗教生活でたった一つたいせつなのは、超脱だってことに気がつかなきゃな、一インチだって、先へ進めるもんか。超脱だよ、おい、超脱だけだ。欲望のなさだ。〈ありとあらゆる渇望からの断絶〉さ。ちくしょう、ほんとのとこ知りたきゃ、教えてやるけどな、この欲望というやつが、そもそも俳優を作るんだぜ。どうして、おまえのもう知ってることを、おれにしゃべらせるんだ? おまえはこれまでどっかで――もしそう言ってほしいんなら、前世の、くそっ、どれか一つでな――おまえは、俳優、いや女優になるだけじゃなく、うまい[#「うまい」に傍点]女優になりたいと渇望したな。そうして、いまじゃ、そのために、ニッチもサッチもいかなくなってる。自分のもろもろの渇望の結果を見すてて出ていくわけにはいかんからなあ。因果応報だよ、なあ、おい、因果応報さ。たった一つ、いまのおまえにできることはだな、たった一つ、おまえにできる宗教的なことはだな、芝居することさ。神のために芝居するんだ、その気があるならな――神の女優になるのさ、その気があるならな。それ以上にいいことなんて、あるものか? すくなくとも、やってはみれるじゃないか、その気があるならな――やってみたって、なんにも悪いことはない」ほんの僅かな沈黙が生じた。「急いだほうがいいぞ、もっともな、おい。ちくしょう、おれたちの砂時計の砂はな、こっちが後ろを振りかえるごとに、流れおちるんだぜ。おれは、口から出まかせ、言ってるんじゃないぞ。このくそいまいましい現象世界じゃな、くしゃみでもする暇ありゃ、それだけで運がいいってものさ」もう一度、まえよりも僅かな沈黙が生じた。「おれもむかしは、そのことで気を病んだものさ。だけど、いまじゃもう、そんなことはたいして気に病まん。すくなくとも、おれはいまもって、あのヨーリックのされこうべに惚れてるんだ。すくなくとも、いつだって、あのヨーリックのされこうべに惚れていられるほどの暇はあるのさ。死んだら、くそ、ご立派なされこうべがほしいものだよ、な、おい。おれは、ヨーリックの見たいな、くそ、ごりっぱなされこうべに憧れてるんだ。おまえにしたってそうさ、フラニー・グラス、おまえだってそうさ、おまえだってな。あーあ、ちくしょう、しゃべることが、なんのたしになるっていうんだ? おまえだってな、おれとそっくりおんなじような、くそ奇形の育て方、されてるのにさ、それでて、もしおまえがだよ、いまごろになってもまだわからないんだったらな、死んだあと、どんなされこうべがほしいのか、そうして、それを手に入れるにゃ、どうしにゃならんのかがさ――つまりだ、いまごろになっても、すくなくともまだ知らないんならな、女優なら芝居して当然だってことがさ、それだったら、いったい、しゃべることがなんのたしになるんだ?」
フラニーはいまでは、あいているほうの手のひらを顔の脇に押しつけながら腰かけていた、ちょうど歯がひどく痛むというみたいに。
「残りはもう一つ。それで全部だ。約束するよ。で、それはな、おまえがうちへ帰ってきたとき、わめいたりブーブー言ったりしてたことさ、見物のばかさかげんをな。五列目から聞こえてきたっていう、ほら、あのくそいまいましい〈へたくそな笑い声〉さ。まったく、そのとおりだ、そのとおりだともさ――たしかに、あれはガックリくる。そうじゃないとは言わんよ。だけどだな、そんなこと、おまえの知ったことじゃないじゃないか、ほんとは。おまえの知ったことじゃないんだぞ、フラニー。芸術家がたった一つ、気にかけるのはな、とにかく完璧を狙うことだ、それも、自分なりの流儀でな[#「自分なりの流儀でな」に傍点]、ほかのだれのでもなくてさ。おまえには、あんなこと、とやかく考える権利はないんだぞ、ぜったいな。ほんとの意味では、なんにもないんだ。おれの言う意味、わかるか?」
ひとしきり、無言が続いた。ふたりとも、いらだちやぎごちなさはそぶりにも出さず、それに耐えた。フラニーはあいかわらず、顔の脇がかなり痛むみたいで、そこに手を置きつづけたが、その表情には、不平がましいところは目だつくらいなかった。
向こうのはしから、声がまた聞こえてきた。「おれはまだ覚えてるぞ、おれがあの『賢い子』に、五回目に出たときのことな。おれ、何回か、ウォールトの代役やったんだ、あいつがギプスはめてたころな――あの、あいつがギプスはめてたときのこと、覚えてるか? それはとにかくとしてだ、おれはある晩な、放送のまえに文句を言いはじめてさ。おれがちょうど、ウェイカァといっしょに玄関、出かけたときさ、シーモァが、靴みがいてけって、言ったもんだからな。おれはカンカンになって、おこったんだ。スタジオに来てる見物人なんか、みんな低能だ、アナウンサーも低能だ、スポンサーどもも低能なんだから、おれはどうしても、そんなやつらのために、靴みがいてくことはないって、そうシーモァに言ってやったのさ。とにかくあいつらには靴なんか見えやしないじゃないか、あそこに腰かけてりゃァってな、言ったんだ。ところが、シーモァは、とにかく磨けって言うんだ。〈太ったおばさま〉のために磨いてけって言うんだ。おれはわからなかった、いったいぜんたい、兄貴のやつなにを言ってるんだかな、だけど、いかにもシーモァらしい顔つきしてたもんだから、それで、おれは言われたとおりにしたよ。そのあと、兄貴はとうとう、その〈太ったおばさま〉っていうのはだれのことか、言わずじまいだったけどな、おれは、それから放送に出るたび、靴を磨いてったよ――おまえといっしょにあの番組に出てたあいだじゅう、ずっとな、覚えてるかどうか知らんけど。磨かずに行ったことなんか、二回かそこらもないと思うぜ。その〈太ったおばさま〉のイメージはな、おそろしくはっきり、はっきりとさ、おれの心の中でできあがってった。ここのうちのベランダに、いちんちじゅう腰かけてさ、ハエを叩きながら、ラジオを音量いっぱいにして、朝から夜までかけっぱなしなのさ。おれ、たまらなく暑いだろうなって、思ったり、ひょっとしたらガンにかかってるかもしれないとか、それから――なにかわからんけど。とにかく、おれが放送に出るとき、どうしてシーモァが靴を磨けって言うのか、それがちくしょう、ものすごくよくわかったみたいな気がしてな。あれは、意味のあることだったんだ」
フラニーは立ちあがっていた。そして、手は顔から離して、電話を両手で抱えていた。「あたしにもそう言ったわ」と、フラニーは電話にむかって言った。「その〈太ったおばさま〉のために、おもしろくやれってよ、言ったことあるわよ、いつか」彼女は手を片方、電話からはずして、それを|須《しゅ》|臾《ゆ》のま、頭のてっぺんに置き、それからまた、電話を両手で抱えはじめた。「あたしは、その人のこと、ベランダにいるなんて、想像したことはないけど、とっても――ね――とっても足が太くて、とっても血管が出てて。ひどい枝編みの椅子に腰かけてたわ。その人も、ガンにかかっててね、もっとも、そうして、ラジオを音量いっぱいにして、いちんちじゅうかけてたわ! あたしのその人もよ!」
「そう、そう、そう。それでいい。さあ、ちょっとしゃべらせてくれよ、このあたりでな、おい。……聞いてるのか?」
フラニーは、極端に緊張した顔つきで、うなずいた。
「俳優がどこで芝居しようとさ、それはかまわん。夏劇団だっていいし、ラジオだっていいし、テレビだっていいし、くそっ、ブロードウェイの劇場だっていい、あそこなら、これ以上はないくらい流行の先端を行く、栄養たっぷりで、日に焼けた見物がいて、申し分なしだ。だけど、ものすごい秘密を話してやるけどな――聞いてるのか? そういったとこにはさ、シーモァの言うな、〈太ったおばさま〉でないようなやつは、ひとりもいん[#「ひとりもいん」に傍点]のだ。その中にゃ、おまえんとこのタッパァ先生もはいるんだぜ、おい。それから、ちくしょう、そいつのいとこどもも何ダースとなくな。どこにだって、シーモァの〈太ったおばさま〉でないやつは、ひとりだっていやしない。それがわからんのか? このくそいまいましい秘密が、まだわからんのか、おまえは? それから、わからんのか――いいか、聞け[#「聞け」に傍点]よ――わからんのか、その、〈太ったおばさま〉ていうのは、いったいだれのことか?・・・・・・なあ、おい。なあ、おい。そいつは、〈キリストその人〉さ。〈キリストその人〉だよ、おい」
嬉しさのあまり、どうやら、フラニーは電話を持っているだけで精いっぱいの様子だった――両手を使ってさえもである。
たっぷり半分かそこいらのあいだ、ほかにもう言葉は聞かれなかった、話はそれ以上もう続かなかった。それから――「もうしゃべれなくなったよ、おい」電話が受話器受けに戻される音がそのあとに続いた。
フラニーはかすかに息を吸いこんだが、受話器はそのまま耳にあてつづけた。接続が形どおり切れたあとに、もちろん、ダイヤルトーンが続いた。この音はどうやら、彼女の耳にはおそろしく美しく響くらしくて、まるで、原始的な沈黙そのものの代用品としてはこれに勝るものはない、とでもいったふうだった。しかし、彼女はまた、それに聞きいるのをやめるころあいも心得ていた様子であった――まるで、多少は問わず、とにかく世界じゅうの英知がすべて、とつぜん自分のものになった、とでもいうみたいに。電話を元に戻しおえると、彼女は、つぎにするべきこともまた、心得ているようだった。彼女は、タバコの道具を片づけ、それから、自分がいままで腰かけていたベッドから、木綿のベッドカバーを引きはがし、スリッパを脱ぎ、そうしてベッドにはいった。そして、深い、夢も見ないような眠りの中へ落ちこむまえの数分、ただ静かに横になって、ほほえみながら天井を見つめた。
[#地から2字上げ](完)
[#改ページ]
解説
「フラニー」について
[女であること] サリンジャーほど女の心の恥部を巧みに読者の前に呈することのできる作家は少ない。女であることは絢爛たる矛盾に生きることである。女であるということというのが言い過ぎなら、娘であることといってもよかろう。美しさと醜さをひとつの身体に秘めた双頭の蛇のようでいて、自己の内部的統一によって、美しさのみをよそおい、それを他人にも押し売りする。理性と感情がシャム兄弟のように背中合わせになって「ながら、自らは理性的であると相手に思いこませもする。肯定と否定の使い分けをしながら、結局は自己の肯定することのみを肯定する。この絢爛にして華麗ともいうべき矛盾に充ちた女は、二十世紀に至って、特にアメリカでは、歴史的に男女の人口比のアンバランスも手伝って、ますますその矛盾を展開したのである。男は名目的な強さを、社会的には与えられてはいるものの、実質的には|遊糸《かげろう》のような存在になってしまった。フラニーとレインを通して、サリンジャーはこの矛盾を突いている。睾丸性[#「睾丸性」に傍点]という卑猥な言葉がレインの口から洩れると、「なにが欠けているって?」とフラニーは問う。レインが「男らしささ」と標準の言葉に置換すると、「はじめから聞こえてたのよ」とフラニーはいう。ここには女であることのカラクリが巧妙に描かれている。卑猥な言葉を知っていても、知らぬふりをしておいて聞きだし、男にバツの悪さを味わわせるテクニックはサリンジャーならではの芸当である。マティニの中のオリーヴ――これはサリンジャーの小道具のひとつで、「バナナ魚にはもってこいの日」の中でも、シビルと母の会話の中に、さらに、シビルとシーモァの会話の中にも出てくるオリーヴを、「食べるか、どうする?」と問われると、フラニーは「いらないのならね」と答えておいて、その後で、「とつぜん、オリーヴがぜんぜん食べたくなくなって、そんなものをどうしてほしいなどと言ったのか、ふしぎに思えてきた」りするのである。この感情の移りやすさの中に、フラニー像が生き生きと読者に迫ってくる。しかも、サリンジャーはこの点で終止符を打つどころか、「レインがマティニのグラスを差しだしてくると、そのオリーヴをもらって、いかにもうまそうに食べつくした」と女の心理と行為のアヤをあばいて見せる。やがて、ボーイがからのグラスを下げにやって来ると、レインはフラニーに「もう一杯、ほしいか?」と尋ねる。フラニーは「ほしくないし。ほしいし。あたし、わからない」というものの、「どっちなんだい?」といわれるや否や、「ほしいわ」と決断する。サリンジャーの重層的な手法は読者を一頁一頁、絢爛たる矛盾の中へと深く入り込ませる。
このような断片的自己矛盾を具体的に展開させながら、サリンジャーはその救済の道をほのめかしている。それがいわゆる宗教への復帰であることはいうまでもない。ほのめかすと書いたのは、実はフラニーが実際に救済を得るのは次の「ズーイ」の終末に至ってからのことであるからにほかならない。しかし、この問題は、今すぐ解決することはできない。なぜならば、サリンジャーはフラニーの相手役レインを通して、男であることの実態をかなり烈しく書いているからである。
男であることは一体何であるのか。それを分析する前に、この作品の大きな伏線となっているフラニーのレイン宛の手紙について言及しておかなくてはなるまい。この手紙は、いわゆる恋文である。「気も狂わんばかりに好きなので、この週末が待ちきれないくらい」であるとか、「一分ごとにお会いしさえすれば、あたし、かまいません」と切実に恋心を訴えたりしてい個所がある。あるいは、「あなた、あたしのことを好き? あのひどいお手紙の中では一度もそう言ってくださらなかった」と、愛の強要をする。しかも、自らは「あなたが好きよ、あなたが好きよ、あなたが好きよ」と殺し文句を連発する。しかし、フラニーは「あたしね、人がただ好きになることにいやけがさしてるの。ほんとに、だれかいるといいんだけどな、尊敬できそうな、……」とさえ、レインの面前でいう。レインでなくても、読者でさえも、フラニーのこの気まぐれには手の下しようがないのである。台風のような手のつけられない凶暴性がうかがわれる。
その反面、この手紙には女の体臭が|滲《し》み込んでもいる。「もしなにか誤字でもしたら、お願いですから、大目に見てくださるようお願いします」と女らしく、しおらしいところを示したり、「この手紙は速達で出して、あなたがうんと早く受け取れるようにしたいと思います」と誠意を見せびらかしたりする。「あなたに書くときのあたしったら、とってもとっても非知的で、おばかさんみたい、なぜかしら?」というような追々伸の文句を読むと、着飾った、脂粉|芬《ふん》|々《ぷん》たる女の嬌笑が気味悪いようにこだま)してくるのをじかに感じるほどである。
このような書簡文を導入部において、読者を誘い込み、ひとつひとつイメージを破壊していくサリンジャーは非凡というより、恐ろしいほどの構成力の持ち主といわねばなるまい。フラニーを読了し、再び、この手紙に戻って、再読してみると、女であることの秘められた強さと|逞《たくま》しさとに読者は呆然とさせられるばかりである。
[男であること] 女の対極点に置かれるものが男であることは、自明の理である。サリンジャーはレインの言葉と、心理を追いながら、男であることの本質に迫ろうと試みる。男であることは、ひとりよがりのエゴイズムを軸として展開させられる。例えば、シックラというレストランに入ると、レインは「自分はもう会話をたっぷり十五分かそこいら独占しているから、これで、自分の言葉がぜったいに間違いようのない正調を射あてたと思いこんで」しまうのである。この自信は|己惚《うぬぼれ》でしかない。しかし、男は己惚を意識している場合も、していない場合も、それを否定し去ることはできない。したがって、レインは自分のレポートを|吹聴《ふいちょう》し、ブラグマン先生を非難しながらも、「あのブラグマンのやつ、ちくしょう、そのレポートをおれはどっかで出版すべきだなんて、いやがる」とお調子に乗ったあげく、「フローベールについては、ほんとうに透徹した仕事ってのは、まだ一つもない」と断言する。女は自分の作品を最高だと信じていても、最低であるような|口吻《くちぶり》で、その作品を推薦する。これに反し、男は自分の作品を最高だと信ぜずにはいられない。この衝動が男をエゴイズムへと走らせているのであろう。したがって、レインはフラニーと会話を取り交わしながらも、「自分の超然の銘柄を気どるのに忙しくて」フラニーのほほえみにもほほえみをもって応じることを|潔《いさぎよ》しとしないばかりか、「決着がついて自分の勝ちになるまでは、議論をとちゅうでほうりだせない」ことになってしまう。フラニーが化粧室へ立つと、さすがにレインも「半時間まえに感じたあの幸福感は、どう見ても、いまではもうすっかり消えてしまっていた」不安に襲われるものの、男の|見《み》|栄《え》で、「できれば格好よく退屈そうな顔つきをしたりするほかない」と自らにポーズを課するのである。
フラニーが化粧室から再び戻ってくる。冒頭のプラットホームの場面を第一幕とし、レストランを第二幕とすれば、ここからが第二幕第二場となる。サリンジャーはいよいよ男のエゴの摘発にかかるのである。フラニーのほうがレインより口が軽くなる。「自分がなんだかとてもいやらしい、くだらないエゴ過剰病みたいに思えだしたのよ」と、フラニーは芝居を断念した理由を開陳しはじめる。「あたし、ほんとにいや気がさしてるのよ、このエゴ、エゴ、エゴには。自分のにも、ほかのみんなのにもよ。あたし、みんなにいやけがさしてるの、なにか地位につきたいとか、なにか目につくことかなんか、したとか、人に関心をもたれるような人間になりたいとか、そういったひとにはね。むしずがはしるわ――」と叫ばんばかりに、エゴ否定を宣言する。しかし、これは女の虚妄であり、虫のよい|戯言《たわごと》でもある、社会的に分業の発達したこの二十世紀において、男は好むと好まざるとにかかわらず、生計の資を得る役割を負わされている。フラニーのように生きようとしても、|所《しょ》|詮《せん》それは無理な注文である。女のように自分の肉体の一部を次の世代に伝えることは男には不可能である。女は本能的にエゴではいられない。新しい生命を宿し、その生命を育て、自らの生命を失っていくことに生の歓びが与えられている、エゴに徹すれば新しい生命を宿すことも育てることもできない。男はそれに反し、エゴを喪失して、社会生活を営むことはできない。このエゴの衝突がいわゆる競争現象となって、男の世界を支配する。レインはフラニーのエゴ没却には賛成することはできない。「ぜったい、人と競争するのがこわいってわけでもないんだな?」とフラニーに問いかける。レインは自分のエゴをもほとんど意識できないし、フラニーのエゴとの対決にも共感できず、男性本能の競争意識を導入する。フラニーはこれに対して、「競争するのなんか、こわいこと、ないわよ。まるっきりその正反対だわ。わからないの? 競争したくなるんじゃないかってことがこわいのよ」と答える。この答えは一見矛盾しているようでいて、実は矛盾していない。エゴのない競争はありえない。フラニーはそれゆえ競争を避けようとしているだけである。しかし、女は一度競争をすれば、絶対に和解はしない。表面的に和解しても、内心では競争は死の果ての先までも続く。フラニーはその恐怖から|逃《のが》れたいといっているのである。これに対し、レインは明確には答えられないままに終わってしまう。男は競争の決着点を知っている。一つの競争で決着がつけば、また次の競争に取り組めるからである。フラニーからエゴ嫌悪を鋭く何回もいわれても、レインはそれに同意を示すことはできないままでいる。むしろ、「きみは、自分で自分こと[#「自分こと」に傍点]天才だと思ってるの?」というほど、男の己惚からしか相手を理解できないでいる。この断絶こそサリンジャーの描く人間関係の大きな主題である。
[断絶と救済] レインとフラニーが恋人同士でありながら二人の間には大きな溝がある。サリンジャーの描く、夫婦や男女の間には常にこの溝が存在していることは、シーモァとミュリエル、シーモァとシビルあるいは、レインとバーバラなどに見られるとおりである。それでは、この断絶は男女の間だけであろうか。そうではない。男であるとか、女であるとかいう生物的属性を超越して、断絶は深刻である。しかし、その断絶の救済がグラス家の兄弟たちの間には存在していることを|見《み》|逃《のが》してはならない。その救済が何によって可能になるのかというと、宗教への復帰である、フラニーでは、その復帰の現実が明瞭に語られているとはいい切れないが、復帰の論旨がフラニーの言葉によって語られている。まず、第一に断絶の姿を浮き彫りにしておこう。
人間と人間の間で意思や感情が完全に相通じ合うということはありうるものであろうか。言葉というものは元来、実体なり幻影のかなり正確な近似値とはなりえても、寸分の狂いなくそれらを表現することは不可能である。特に抽象的概念に関しては、完全な一致など望むべくもない。フラニーは例の恋文の中でも、「このお手紙解読していただけるかどうか、あたしにはぜんぜんわかりません」と伝達性の希薄さを認めている。この不安のかげりは、楽しかるべきレストランでの同席中に現実の重荷となって現われてくる。
レインが饒舌に走っている間に、「おれの言うこと、聞いてるな、どう?」と尋ねるほど、レインは自分の言っていることがフラニーに伝わっていない不安にかられさえもする。しかし、レインのほうも、フラニーのいうことを正確に把握しているわけではない。宗教的主題に入り、フラニーが熱を帯びて語りかける合い間に、レインは相槌を打つどころか、皿の上の蛙の足を食べようとして、ナイフとフォークを使いながら、「じっとしてろよ」といったり、「いやな話だけど、おれ、いまに、ニンニクの臭いがプンプンするようになるぜ」と無関心ぶりを発揮したり、「おもしろそうだな。きみ、そのバターはいらないんだろ?」などと食事に熱中する。このあたりは美事な出来栄えである。断絶の落差は大きい。それが対話だけで充分に表わされているのである。
フラニーの述べる救済の原理は極言すれば慈悲であり、超自然的秘蹟につながっている。しかし、サリンジャーはフラニーに、意見を述べさせるに先立って巧妙な仕掛けをするのである。まずプラットホームでレインとの出会いの場に、この導火線の尖端がのぞかれる。フラニーは自分の左手を見おろした。彼女は小さな黄みどり色の、クロース|綴《と》じの本を持っていた。「これ? ああ、ちょっとしたものよ」と、彼女は言った。そして、ハンドバッグをあけると、本をその中に押しこんでしまった。レストランの化粧室に入って、フラニーは五分間ばかりその本を読む。もし、レインがフラニーを化粧室へ逃避させないうちに、この本を二人の共通の話題にしていたら、二人の間ではまったく違った関係が生じたであろう。その後、フラニーが額の汗を|拭《ぬぐ》うために、クリネクスを捜す。このときハンドバッグの中のものをテーブルの上におく。その中に、この本も入っていた、そこでレインは、「なんだい、その本?」と尋ねる「フラニーは文字どおり跳びあがった」のである。なぜ、跳びあがったのであろうか。フラニーは、この本によって宗教への復帰を悟るわけであるが、その秘密をかくもたやすくのぞかれたおそれからかもしれない、とにかく、二人の間で、「なんだい、あの本は、とにかく? それが、くそ秘密かなにかなのか?」「バックの中の、あの小っちゃな本のこと?」というような対話が取り交わされる。このようにして主題へのアプローチが進展してゆくのである。
この書物は『巡礼者の道』とでもいう体験的宗教書であり、新約聖書「テサロニケ人への第一の手紙」もしくは「第二の手紙」を根本資料としたものであると解される。この「テサロニケ人への手紙」はパウロにより草されたものである。パウロは常に祈る人であり、第一、第二の両書簡を通じて、感謝と祈祷が主要なテーマとなっている。フラニーはこの祈祷を慈悲と関連づけ、さらに「仏教の念仏の宗派でもね、ナム=アミダ=ブツって何回も何回も言いつづける」と東方の宗教にまで延長する。これに対して、レインはあくまで知性的に神を把握しようとする。フラニーは「だんだん神を信じるようになってくるのよ。心のどこかまったく非肉体的なとこでなにかが起こってよ――」と断言する。レインはこれを承服しないばかりか、「きみは心理学のいちばんの初歩すら、無視しているようだぜ。(中略)宗教的な体験ってのはみな非常にはっきりした心理的な背景があるのさ――」と主知的な考えを披瀝する。受洗の恩寵を受けるか否かは秘蹟であるように、宗教によって救済されることには超絶を要する。論理的ないしは科学的解説によって、人は救済されうるものではない。サリンジャーはフラニーを通して、このことを主張しているのである。
フラニーはその後、再び化粧室へ行こうとして、カウンターのあたりで失神し、支配人室にかつぎこまれるが、正気に戻り、レインがタクシーを捜しに行くと、「唇が動きだし、声にもならない言葉をもぐもぐやって、そのまま動きつづけた」のであった、それは祈りであると断定することにまずあやまりはあるまい。
「ズーイ」について
[神秘小説と愛の小説] サリンジャーは「ズーイ」の巻頭において、本文中に序文を組み込むという風変わりな手法を用いている。その中で、サリンジャーは、この作品は短編物語ではなく、一種の散文の家庭映画であると述べている。これは、「大工よ、屋根の|梁《はり》を高くあげよ」に続いて中篇と称すべき、「ズーイ」のあり方を示したものである。映画という言葉には引っかかるが、これはサリンジャーの手法を検討するに当たって注目すべきことといえよう。サリンジャーは自ら戯曲を志したこともあるほどで、その作品は極度に地の文が切りつめられ、対話の文が多い。処女作の「若い人たち」にしても、短編の代表作ともいうべき「バナナ魚にはもってこいの日」にしても、戯曲化はきわめて容易である。この戯曲性は、映画化と結びつく。「ズーイ」を映画化して成功するかどうかは別問題として、かなり原作に忠実に映画化することは可能である。テレビの普及によって、人間に視覚的受容性が空間上の限定という条件付で、絵画の連続性を高めたことはいうまでもない。空間的飛躍はテレビや映画では、音楽や小説ほど自由ではない。また、画面と対話を一致させる構成が求められるようになる。サリンジャーがこのような読者の文芸作品の受容性の変化を敏感に|嗅《か》ぎ付け、それにアピールしようなどとはいささかも思っていないことは作品を読めば直ちに理解されるところである。しかし、この影響から無縁であるわけにはいられまい。散文の家庭映画ということは、対話の技を生かすことによって、鮮烈な効果を収めようとする試みであると思われる。
さらに、サリンジャーはこの手法とは別問題の主題論にまでこの序文の中で立ち入っている。「わたしの[#「わたしの」に傍点]は神秘的な物語と恋愛物語との相違が識別できることだ。いいね、わたしの当座の提供品は神秘的な物語、あるいは、宗教的な神秘作用を持つ物語じゃ、ぜんぜんないのだ。つまり、これは複合的な、あるいは複式の、愛の物語――純粋で複雑なものなんだ」と述べている。この作品を宗教小説から|截《せつ》|然《ぜん》と切り離して、愛の小説といい切れるかどうかは甚だ怪しい。むしろ、両者の要素が深く|絡《から》み合い、交わり合っていると解するほうが妥当である。だいたい、小説を主題によって、政治小説だの、宗教小説だの社会小説だとの分類することは、それだけでは大した意味はなく、文庫本の分類番号くらいの価値しかない。それではなぜ、サリンジャーがかかる見解をわざわざ序文的冒頭に置いたのであろうか。サリンジャーは宗教家ではない。文学者である。しかるに、その作品が宗教的色彩が濃いために、多くの批評家から、神秘主義者として批判を受けている。それに対する不満を表明したものと思われる。サリンジャーはあくまで、文学を主軸としていると主張したいのではなかろうか。
[象徴主義と前衛的技法のぼかし] サリンジャーの小説作法は習作時代とはかなり異なってきている。特に「ズーイ」ではこれまでもしばしば示してきた象徴主義をさらに、前衛的技法によってぼかしている。これが魅力といえば魅力だが、鼻についてくることもある。グラス家の兄弟たちについて解説をしたある個所は次のように叙せられている。「われわれは、四人とも全部、血縁の徒で、いずれも密儀的な家族語を話しており、これは、二点間の最短距離が全円に近い弧であるような、一種の意味論幾何学である」このくだりは、二つに切断して考えてもよかろう。密儀的な家族語を用いることは、共感覚の存在の支えを暗示しているわけで、ランボーの「母音のソネット」のごときものが、グラス家の兄弟姉妹たちによって創造されていたわけであろう。これは、「名ざすことは破壊することであり、暗示することこそ創造することだ」というマラルメの主張につながる。後半の二点間の最短距離を円弧だとする見解はきわめて前衛的な実験である。これはいったい何を意味するのであろうか。二点間の最短距離はいうまでもなく直線である。すなわち、人間を点として見れば、二人の人間が意志や感情を通じ合うもっとも簡潔な言語的方法は、イヌをイヌといい、ネコをネコということである。暗示的、象徴的になればなるほど通じにくいわけである。したがって、全円に近い弧は、家族語の象徴性がかなり高いことを暗示していると見てよいのではなかろうか。この象徴性の高まりこそ、前衛派の芸術運動を可能ならしめたものにほかならない。それゆえに、サリンジャーの小説作法には、象徴主義と前衛的技法のぼかしがあると題したわけである。
このぼかしが宗教にまで及ぶために、神秘主義的な傾向が濃厚になってくることは無理のないことである。フラニーがズーイによって救済される場合も、太ったおば様[#「太ったおば様」に傍点]がキリストその人であると明示されることで可能になった。いったい、太ったおば様[#「太ったおば様」に傍点]とキリストの間にどのような象徴的意味が秘められているというのであろうか。シーモァの生前、ズーイがテレビの「賢い子」番組に出演するとき、シーモァが靴をみがいて行けと命じたことがあった。このときズーイがそれに反対すると、シーモァは「太ったおば様」のためにみがけと忠告をしたことに由来する。フラニーにも同じ経験があった。これがキリストであるとわかって、二人はお互いに感激し、フラニーはレインとのデート以来のノイローゼから解放される。この太ったおば様[#「太ったおば様」に傍点]は原文では、the Fat Lady になっている。これがいかにしてキリストを暗示するかは英米の批評家も明らかにしていない。私見はいずれ訂正の要もあろうと思うが、Lady は聖母マリアとして古来用いられていることにまず注目したい。Fat には「豊穣の」という意味がある。キリストは一人子であるかもしれないが、キリストによって多くの人の永遠のよみがえりが可能となった。聖霊によってキリストを|身《み》|籠《ごも》ったマリアは、多産の聖処女であったわけである。したがって、キリストの母体としてのマリアを登場させ、キリストその人を暗示することは、密儀的な家庭語として成立可能と見なしえるのではなかろうか。
[芸術的主張] ズーイはフラニーに向かって「芸術家がたった一つ、気にかけるのはな、とにかく完璧を狙うことだ、それも、自分なりの流儀でな、ほかのだれのでもなくてさ」と|諭《さと》しているが、これはサリンジャー自身の芸術的主張である。完璧ということは、残滓のないほどに自己の作品を結晶体とすることである。果たして、散文形式においてそれを達成することは可能なことであろうか。主題を完全に昇華させ、表現の場、すなわち、文章において、残杯|冷《れい》|炙《しゃ》のない作品を創作しうるものであろうか。俳句のごとき短詩形ならいざ知らず、散文において、この理想を追求することは苛酷な要求ともいえる。しかし、サリンジャーはかかる見解を強力に支持している。しかし、自分なりの流儀[#「自分なりの流儀」に傍点]という点がひとつ大きな問題としてクローズアップされてくる。それは、あまりにもペイター的である、反エリオット的である。これを裏返すと、サリンジャーも芸術至上主義者の墓場に葬らねばならないことになろう。ペイターは、この世の芸術作品には快楽の他に比較しうるべきものもない印象をもって人を動かす性質があるので、芸術作品には価値があることを認め、さらに、「わたくしたちの教養がこれらの印象を感じる鋭敏性がその深さと多様性において増加するにつれて完全になる」と述べている。ペイターは「自分なりの流儀」が質的に高まり、完成されたときには普遍性を持つという含みをこの後で付言している。サリンジャーの場合の自分なりの流儀もけっして身勝手なものではなく普通に認められうる自己流と解すべきであろう。
さらに、これに先立つ個所で、サリンジャーは、ズーイをして、フラニーに向かって「たった一つ、いまのおまえにできることはだな、たった一つ、おまえにできる宗教的なことはだな、芝居することさ、神のために芝居するんだ、その気があるならな――神の女優[#「神の女優」に傍点]になるのさ」といわせている。この忠告には先刻の完全性と符合する論旨が見られる。芸術家が経済的に金を得るために創作したり、読者や観衆に媚びている状態で完全な作品を生み出すことができないというわけである。この掟もまた芸術家にはきわめて峻厳な戒律である。サリンジャーはこの作品で、バディを通し、あるいはズーイを通し、かなり明確に自己の所信を語っている。寡黙な作家にしては珍しいことといわねばならない。「ズーイ」に関しては、宗教問題、先行文学との問題など語るべきことは多いが、ここではサリンジャーの創作の精神と作法に視点をおいて取り上げた。
[#地から2字上げ](武田勝彦)
[#改ページ]
あとがき
これは、この文庫(角川文庫)の、同一の訳者によるサリンジャー・シリーズの第一冊である。
作品の解説はすでに武田勝彦氏の手によって詳しくなされているので、訳者が付けくわえるべきことはほとんどない。したがって、ここでは、「フラニー」の場合は、筋らしい筋のほとんどないこの作品の魅力は、テーマの形而上性とは裏腹に、その形而上性の現われる舞台そのもの、および、その形而上性と現実とのあいだにある反語的な関係、さらには、物語そのものの音楽的な構成と進行とにある、ということだけ指摘しておこう。
たとえば、いかにもアメリカの一般的な大学生らしい、レインの薄手な言葉づかい(とくに、頻繁に出てくる悪態[#「悪態」に傍点])、レストラン、シックラにかんする説明と描写――このような風俗的な要素が、些細なものであればあるほどそれだけいっそう微妙に、小説にたいしてある種の現実性を付与する、ということは、小説愛好家のつとに経験しているところだ。『巡礼の道』をめぐるフラニーの形而上的な思索がこのような日常性の中で表出してくることを差して、わたしは「反語的」と書いたのである。それと同時に、「フラニー」の舞台は一九五五年前後のアメリカであるが、そこに現われる服装、家庭用品、生活的な雑貨、等々が現在、わたしたちの周囲に見られるそれらと同じであるということ――この事実も、物語の理解と鑑賞とに大いに|裨《ひ》|益《えき》している、ということも付けくわえなくてはならないだろう。「ライ麦畠のキャッチャー」がわが国ではじめて紹介されたのは、一九五二年のことだが、その当時、「クリネックス・ティシュー」といえば「薄葉紙」としか訳しようがなかった、ということを考えれば、そのあたりの事情のおおよそは理解できるのではなかろうか?
また、構成の面からみれば、レインとソレンスンとの出会い、マティニを飲むレインとフラニー、フラニーのいちずな|口《こう》|吻《ふん》と食用ガエルの足を切りわけるレインの熱心さ、……と、いくつかのモチーフが|絡《から》みあい|縺《もつ》れあって進行する、その音楽性に読者の注意を喚起しておこう。わけても、フラニーが熱中して説明する宗教性のさなかに、レインがカエルの足にむかって「じっとしていろ」と叫ぶあの場面は、愛しあっているかと思われたこのふたりの心のあいだにある深淵を、反語的に鋭く|抉《えぐ》りだして見せる。にもかかわらず、それに耐えながら、最後まで心中を打ち明けつづけるフラニーの雄々しさと苦悶――しかし、作品の最後では、ついにこのあとのものが前者を圧倒してフラニーを絶望へと追いやる。その絶望の生なましさがいかに迫真的に、当時のアメリカ人の心を揺さぶったかは、この作品がフラニーの妊娠の物語と取られて話題を呼んだ、というエピソードにもっとも端的に現われている。
「フラニー」が絶望の診断書とすれば、一方、「ズーイ」は魂の救済の治療報告書である。ここでは、浴室の中の位置に象徴される、母親とズーイとの、とくに母親の側からの、末の息子にたいする隠微な関係、バディとズーイの、人生の先達と後輩との関係、父親の、ズーイたち七人の子供にたいする過去遡行的なイリュージョンが語られ、そしてそれらすべての、もろもろの状況の上に、あたかも全能の神のように、いまは亡い長男、シーモァの影が遍在的に漂っている。その中で、家族の風土を肉として、兄たちの苦悩を心として成長してきたズーイは、自分のすべてを尽くしてフラニーの救済にあたるのである。バディの声をいつわるズーイの電話がこの物語のクライマックスを形成しているわけだが、この形で表現された、妹にたいする彼の愛情は他のなににもまして感動的である。
翻訳にあたっては、まずなによりも、代々木ゼミナール、ランゲジ・ラボラトリの講師、D・A・ハリントン氏の友情あふれる協力を得た。心からなる感謝を捧げたい。そのほか、ハインリヒ・ベル、アンネマリー・ベルの共訳になるドイツ語版からも大いに教示を受けたし、原田敬一氏、野崎孝氏の日本語訳も、ケアレス・ミスや勘違いを取りのぞくうえで、あるいは表現上の技巧の点で、種々、活用させていただいた。お礼を述べさせていただく。
末筆ながら、訳者の身がってな依頼をこころよく受け入れて、解説を寄せてくださった武田勝彦氏の、いつもながらのご厚意には謝辞すら見いだしえぬことを、ここに記させていただく。
[#地から2字上げ]一九六九年九月十五日 荻窪にて(訳者)
◆フラニーとズーイ◆
サリンジャー/鈴木武樹訳
二〇〇三年四月二十五日 Ver1
144行
「きみは、自分で自分こと[#「自分こと」に傍点]、天才だと思ってるの?」
「自分のこと」と思いますが、底本は持っていないので修正見送り。