閨房哲学
マルキ・ド・サド/澁澤龍(訳)
目 次
道楽者へ
第一の対話
第二の対話
第三の対話
第四の対話
第五の対話
第六の対話
最後の対話
あとがき
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道楽者へ
老若男女を問わず一切の放蕩者《ほうとうもの》よ、諸君だけに、作者はこの作品を捧げよう。この作品の教えによって、諸君の精神を涵養《かんよう》するがよい。諸君の情欲もそれにつれて生き生きとするだろう。そもそも、この情欲というものは、無味乾燥な道学先生にとっては怖ろしいもののごとくだが、実のところ、自然が自然の目標に人間を到達せしめんがために用いる手段にすぎない。この楽しい情欲の声以外のものに、耳を藉《か》すな。情欲の源こそ、諸君を幸福にみちびいてくれる唯《ただ》一つのものなのだから。
淫奔《いんぽん》な女人よ、遊び好きなサン・タンジュ夫人を諸姉の手本とするがよい。夫人にならって、快楽の神聖な法則に反するもの一切を軽蔑《けいべつ》せよ。夫人は一生涯、この神聖な法則に縛られていたのだ。
途方もない美徳と不愉快な宗教の、愚かにして有害な桎梏《しつこく》に永く捉《とら》われていた若い娘たちよ、情熱的なウージェニイを手本とするがよい。そして、莫迦《ばか》な両親に教え込まれた愚劣な訓戒の一切を、ウージェニイに負けずに素早くぶちこわし、足でもって踏みにじれ。
それから諸君、愛すべき遊蕩児《ゆうとうじ》よ、若い頃《ころ》から欲望だけを頼りとし、気まぐれだけを掟《おきて》としてきた君たちは、あの厚顔無恥なるドルマンセを手本とするがよい。遊蕩生活の華々しい道を進もうとするならば、諸君もドルマンセのように、徹底的にやらなければいけない。ドルマンセの教えを拳々服膺《けんけんふくよう》して、次のことを理解しなければいけない、すなわち、いやしくも男一匹として、このみじめな地球の上に誕生してしまったからには、せいぜい己れの趣味と気まぐれの範囲を拡大し、あらゆるものを快楽のために犠牲にして、辛い人生に幾らかでも薔薇色《ばらいろ》の彩りを添えようと努力すべきである、と。
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第一の対話
サン・タンジュ夫人、ミルヴェル騎士
サン・タンジュ夫人
こんにちは、あたしの弟。ところで、ドルマンセさんはどうなさったの。
ミルヴェル騎士
四時きっかりに来るでしょう。晩飯は七時だから、もちろん、それまでお喋《しやべ》りする時間はたっぷりあるよ。
サン・タンジュ夫人
ねえあなた、あたし、少しばかり後悔しているのよ、あたしの好奇心やら、また今日のためにもくろんだいろんな淫《みだ》らな計画やらについてね。まったくあなたは、あんまり寛大すぎるわ。あたし、もっと分別をもたなきゃいけないと思ってるのに、そう思えば思うほど、ますます頭がかっかっとして、みだらな血が騒いでくるの。あなたは、あたしの言うことを何でも聞いてくれるものだから、あたしはあたしで、ますます悪い女になって行くんですわ……二十六にもなれば、もう信心ごころが起きていてもいいはずなのに、あたしときたら、まだどんな女にも負けないくらい浮わついた気持でいるのよ……あたしが心の中で何を考え、何をしたいと思っているか、さあ、それは誰にも分らないわ。あたし考えたのよ、あたしも女たちを相手にしていた方が賢明のようだし……自分の欲望を同性に対してだけ向けていれば、もうあなた方殿方のことは考えなくて済むようになるだろうって。でもそんなこと、夢想にすぎなかったわ。どんなに快楽から遠ざかろうとしても、あたしの心には、前よりもっと生き生きした快楽のすがたが浮かんでくるばかりなんですもの。あたしみたいに淫蕩《いんとう》に生まれついた者は、どんなに自制しようと思っても無駄だってことが、よく分ったわ。激しい欲望がむらむらと起って、すぐ自制心なんか挫《くじ》けてしまうの。
結局、あたしは両棲類《りようせいるい》なのね。だって、あたしはすべてのものを愛し、すべてのものを楽しみ、あらゆる種類のものを一つに結びつけたいと思っているんですもの。でも正直いって、あたしがあの風変りなドルマンセさんとお近づきになりたいなんて考えるのは、ほんとに気違い沙汰《ざた》かもしれないわね、だって、あなたのお話によると、あの方はこれまで一度も世間の習慣通りに女と寝ることはできなかったというし、根っからの男色家で、同性を熱烈に愛しているばかりでなく、いつも男相手に味わっているお気に入りの楽しみが与えられるという特別の条件でなければ、女のいうことは絶対に聞かないというんですもの。
でもね、あなた、まあ一つ、あたしの気まぐれを聞いてちょうだい。あたしはね、そのユピテルみたいなお方のガニュメデスになりたいと思ってるの。あたしも一緒に、そのお方の趣味や乱行を楽しみ、そのお方の不品行の犠牲になりたいと思ってるの。あなたも御存知のように、これまであたしが身を任せた相手は、あなたのほかには、うちで使ってた召使の一人だけよ。あなたに対しては、喜ばせてあげようという気持からだけれど、召使に対しては、ただあたしがお金を握らせて、欲得ずくで相手をつとめさせただけのことなのよ。でも今日は、あたし、ひとの歓心を買う気持や気まぐれからではなく、ただ自分の趣味から心をきめたの……今まであたしが何されたやり方と、今日これから何されるやり方とのあいだには、きっと思いもよらない違いがあると思うわ。あたし、それが知りたいのよ。ねえ、お願いですから、あの方がいらっしゃる前に、あの方のお姿がちゃんと頭の中に思い浮かべられるように、ドルマンセさんてどんなひとだか、くわしく話して聞かせてちょうだい。だってあたしは先日、よその家でちょっとお見かけして、ほんのしばらく御一緒にいたことがあるきりなんですもの。
ミルヴェル騎士
ドルマンセはね、姉さん、ついこのあいだ三十六になったばかりですよ。背が高くて、大へんな美貌《びぼう》の持主だ。眼は生き生きと輝いて、とても頭がよさそうに見える。だがその表情には、おのずから幾らか酷薄な、幾らか意地わるなところが出ているね。歯は驚くほどきれいで、身体《からだ》つきや身のこなしには、幾らかなよなよしたところがある。それはもちろん、いつも彼が女のような物腰をしているからさ。態度はすばらしく粋《いき》で、声も美しく、いろんな才能に富んでいるが、とりわけ豊かな思想の持主ですよ。
サン・タンジュ夫人
まさか神を信じてはいらっしゃらないでしょうね。
ミルヴェル騎士
おいおい、何を言うんです! あの男ときたら、世にも有名な無神論者で、極めつきの背徳漢ですよ……いや、まったくあの男ときたら、申し分なく完全に堕落し切った、この世でいちばん邪悪な、いちばん悪辣《あくらつ》な人間だな。
サン・タンジュ夫人
まあ素敵! あたし、きっと夢中になってしまうわ。それで、あなた、その方の御趣味は?
ミルヴェル騎士
まあお聞きなさい。あの男にとっては、ソドムの快楽は、しかける方になってもされる方になっても、ひとしく貴重なものなのだ。あの男は、ただ男だけしか快楽の相手に選ばない。もっとも時には女を相手にすることもないわけではないが、それはもっぱら女が進んで彼と性を取り代える場合だけに限られる。僕は彼に姉さんの話をして、姉さんの気持もあらかじめ知らせておいた。すると、彼はさっそく承知してくれて、今度は彼の方から、あなたに対する条件を持ち出した。前もって言っておきますけれど、もし姉さんがあの男に、条件外のことをさせようとすれば、彼はきっぱりと断わるでしょうよ。彼の言ったことは、こうだ、「僕が君の姉さんとしようと思うのは、一種の放縦……一種の乱行といったようなもので、めったに身を汚すようなことじゃない。もっとも、多大の慎重を要することだがね」
サン・タンジュ夫人
まあ身を汚す[#「身を汚す」に傍点]ですって! 慎重[#「慎重」に傍点]ですって!……ああした風流な殿方たちの使う言葉って、あたし大好きよ! あたしたち女同士のあいだでも、そんな風な特別な言葉があって、それもやっぱり、自分たちだけが知っている一定の快楽以外のものに対する、心底からの嫌悪《けんお》をあらわした言葉なのよ。そりゃそうと、あなたはあの方の自由になったんじゃない? あなたのそのきれいな顔と、二十という若さがあれば、きっとああいう方を誘惑することもできるはずだと思うわ!
ミルヴェル騎士
僕はべつにあの男との乱行を、姉さんに隠す気はないよ。あなたぐらい利口な女が、そんなことを非難するはずもないからな。ありていに言えば、僕は女の方が好きなんだ、僕は。あんな奇妙な楽しみにふけるのは、ただ感じの悪くない男からしつこくせがまれる時だけさ。そうなると僕は、どんなことでもやってのけるのだ。僕には笑止千万な例の尊大ぶりなぞ、これっぽっちもないから、くちばしの黄色い軽薄な連中のように、そんな風な要求を持ち出すやつは、返事代りにステッキでぶん殴ってしまえなどとは考えない。いったい、人間が自分の趣味をどうこう変え得るものなのかね。風変りな趣味をもってる人間は、憐《あわれ》んでやる必要こそあれ、決して侮辱してはならないのだ。そういった連中の罪は、要するに自然の罪なのだからな。彼らが他人と違った趣味をもって生まれてきたというのは、ちょうどわれわれが蟹股《がにまた》で生まれてきたり、ちゃんと伸びた脚をもって生まれてきたりするのと同じように、彼らの力ではどうにもできないことだったのだ。
それにまた、ある男が相手の身体を楽しみたいという欲望をもらしたからといって、その男は果して不愉快なことを言ったことになるのかね。むろん、そんなことはあるまい。それはつまり、相手をほめたことだからだ。もしそうだとすれば、どうしてそれに対して侮辱や軽蔑を浴びせてやらなければならないのだ? そんな風な考え方をするやつは、ただ大馬鹿者だけさ。道理をわきまえた人間が、この問題について僕と違った意見を吐き得るはずはない。だが、世の中にはいまいましい阿呆《あほう》ばかりが多くて、もし誰かが、あなたは快楽の相手には持ってこいだなどと言おうものなら、すぐに失礼なことを言うといって腹を立てる。おまけにそうした連中ときたら、自分たちの権利を侵害しそうなものに対していつも嫉妬《しつと》の焔《ほむら》を燃やす、女たちに取り巻かれてすっかり骨抜きにされ、まるで自分たちがその平凡な権利を守るドン・キホーテでもあるかのような気になっている。そして、そんな権利なんか少しも認めない連中を、ひどい目にあわせるのだ。
サン・タンジュ夫人
ああ、あなた、接吻《せつぷん》してちょうだい。もしあなたがそういう考えのひとでなかったら、姉弟の縁を切ってたところだわ。でも、もう少しくわしく話して下さらない、あの方の身体について、それから、あなたと一緒にした快楽について?
ミルヴェル騎士
ドルマンセ君はね、僕の友達のひとりから、僕が立派な一物の所有者であることを知らされていたんですよ。そこで彼はV…侯爵に頼んで、自分と僕とを食事の席に呼んでもらうことにした。ひとたび席を同じくしてしまえば、もう持ち物を見せないわけには行かなかった。最初は好奇心からだけのようだった。美しい尻《しり》が僕の目の前にさし出され、どうか楽しんでくれと僕は懇望された。やがて、この瀬踏みには、好奇心どころか趣味だけが動機になっているのだということが僕にも分った。侯爵も一枚加わって……
サン・タンジュ夫人
二人のあいだに挟《はさ》まれていたんじゃあ、よっぽど楽しい思いをしたことでしょうね。そういうのが、いちばん素敵だという話ですもの。
ミルヴェル騎士
たしかに、場所としてはいちばんいい。しかし何と言っても、そんな乱行よりは僕は、女を相手にする快楽の方がずっと好きですがね。
サン・タンジュ夫人
それではね、大好きなあたしの弟、今日のやさしいお心遣いに対するお返しとして、愛の女神よりももっと美しい若いおぼこ娘を、あなたの自由にさせてあげますわ。
ミルヴェル騎士
ほんとかい! それじゃ姉さんは、ドルマンセと一緒に……女をうちへ呼んだんですか?
サン・タンジュ夫人
教育してやる必要があるのでね。去年の秋、あたしの主人が湯治に行ってるあいだに、修道院で知り合った娘《こ》なんだけれど。修道院ではあたしたち、何にもできなかったし、何にもしようとはしなかったの。だって、あんまり人目がうるさいんですもの。でもあたしたちは、一緒になれる時がきたら、できるだけ早く一緒になろうって約束したの。あたし、ただもう欲望で頭がいっぱいだったので、それを静めるために、その娘の家族と知り合いになったの。その娘の父親がまた道楽者でね……あたし、誘惑してやったものだわ。
でもとうとう、その娘がやってくるのよ。ああ待ち遠しいわ。あたしたち、二日間一緒に暮らすことになってるの……楽しい二日間をね。その間にあたし、精いっぱい教育してやるつもりだわ。ドルマンセとあたしと二人がかりで、あの娘の可愛らしい小さな頭に、猛《たけ》り狂う淫蕩の学問を残らずつめこんでやるつもりよ。あたしたちの情炎で、あの娘を燃えあがらせ、あたしたちの哲学であの娘を養い、あたしたちの欲望をあの娘に吹きこんでやるつもりよ。理論ばかりでなく、実際のことも少しは教えてやりたいと思うわ。理論を述べたら、そのあとで証明してやりたいと思うわ。それであたし、あなたにはシテエル島の桃金嬢《ミルト》の刈入れを、ドルマンセにはソドムの薔薇の刈入れを、お願いすることにしたのよ。あたしは同時に二つの楽しみをすることになるんだわ。つまり、一方では自分自身が道ならぬ快楽にふけり、他方ではあたしの網にかかった可愛らしい無邪気な娘に、いろんな教訓を与えたり、いろんな趣味を吹きこんだりするというわけよ。どう、騎士さん、この計画は、さすがにあたしが考え出しただけのことはあるでしょ?
ミルヴェル騎士
姉さんでなければとても思いつけないね。じつに素晴らしい計画だよ。僕は誓って、姉さんがきめてくれた楽しい役目を、立派に果たしてみせるよ。まったくもって、あばずれだねえ。まあどんなに楽しんで、姉さんはその娘を教育することか! その娘を完膚なきまでに堕落させ、その娘の若々しい心の中から、かつて家庭教師が植えつけた美徳と宗教の種子を、一粒残らずほじくり出してしまうことに、まあどんな悦《よろこ》びを見出すことか! 実際それは僕から見ても、悪辣をきわめているよ。
サン・タンジュ夫人
あの娘を腐敗させ堕落させ、あの娘の頭から、間違った道徳原理を根こそぎ刈り取ってやるためなら、あたし、何ものをも惜しいとは思わないわ。あの娘、そうした間違った道徳のおかげで、もう馬鹿になっているかも分らない。二人の教育で、あの娘をあたしと同じくらい悪者で……同じくらい不信心で……同じくらい不品行な女にしてやりたいと思うの。ドルマンセさんがいらっしったら、早速このことを、あらかじめお話しておいてちょうだい。あの方の背徳の毒液が、あたしの注ぎこむ毒と一緒になって、あの娘の若々しい心の中に流れ入り、あたしたちがいなかったら芽生えるかも分らない美徳の種子を、残らずたちまち根こそぎにしてしまうように。
ミルヴェル騎士
あの男以上にあなたの目的にかなう人間を見つけ出すのは、到底不可能でしたよ。無宗教、不敬、非人道、道楽などといったお題目が、ちょうど昔有名なカンブレエ大司教の口から、神秘な説教の言葉がそれからそれへと流れ出たように、あの男の口をついて出るのだ。あの男は最大の誘惑者であり、腹の底まで腐敗した人間であり、危険きわまりない男だ……ああ、どうかあなたの生徒が、教師の心づかいを受け容れてくれるように。そうすりゃ、その娘がじきに堕落してしまうことは請合いだよ。
サン・タンジュ夫人
あたし、あの娘をよく知っているけれど、そうなるまでには大丈夫そんなに永くかからないはずよ……
ミルヴェル騎士
しかしね、姉さん、姉さんは両親のことをぜんぜん心配していないのかい。もしその小娘がうちへ帰ってから、何もかも喋ってしまったら?
サン・タンジュ夫人
心配御無用よ。あたし、お父さんを誘惑したんですもの……お父さんはあたしのものよ。今さらあなたに、ぶちまけて言うこともありますまい。あたし、お父さんが黙って眼をつぶっていてくれるようにと思って、身を任せてやったの。もちろんお父さんは、あたしの考えなんか知りやしないけど、わざわざ他人の腹を探るようなひとでもないわ……それはもう大丈夫よ。
ミルヴェル騎士
じつに凄腕《すごうで》だねえ!
サン・タンジュ夫人
確実に事を運ぶには、そうしなければね。
ミルヴェル騎士
ではひとつ、お願いだから、その娘がどんな娘だか聞かせてくれないかな。
サン・タンジュ夫人
名前はウージェニイって言うの。お父さんはミスティヴァルというひとで、市でもいちばん裕福な収税請負人の一人、齢《とし》は三十六くらいね。お母さんは三十二そこそこで、娘はまだ十五だわ。奥さんが信心ぶかいと同じくらい、ミスティヴァルの方は道楽者よ。でもウージェニイのことなら、あたしがどんなに骨を折って、あの娘のすがたを描き出して見せたところで、どうせ無駄でしょうよ。あたしにはとてもそれだけの腕がありませんもの。ただ、あなたにしろあたしにしろ、今まで一度だって、あんなに綺麗《きれい》な娘は見たことがないにちがいないと言うだけで、我慢していただきたいわ。
ミルヴェル騎士
でもせめて、いちいち詳しくは描けないにせよ、ざっとでいいから描いて見せてくれないかな。相手のだいたいの顔でも知っていれば、これから自分が捧げ物をする女神さまのことを、それだけよく想像できるわけだからな。
サン・タンジュ夫人
じゃ、申しましょう。その娘の髪は栗色《くりいろ》で、握れば掌の中に入ってしまいそうだけれど、伸ばせばお尻の下まで届くくらいなの。顔色はまばゆいほど白く、鼻はいくらか鷲鼻《わしばな》で、眼は黒檀《こくたん》のように黒く輝いてるわ! ああ、あの眼に抵抗するなんて、とてもできやしない……あの眼のおかげであたしがどれだけ馬鹿の限りをつくしたか、あなたにはとても想像がつきますまい……あの眼のまわりの美しい眉毛《まゆげ》を、一目でいいから見せてあげたいわ……それから眼の縁《ふち》の可愛らしい眼瞼《まぶた》もね! 口はとても小さくて、歯がすばらしく綺麗で、みずみずしいったらありゃしない! 首から肩にかけての嫋《たお》やかな線が、ぞっとするほど色っぽくて、顔をふりむける時の上品な感じにも、ついうっとりさせられるわ。ウージェニイは年齢の割りには大柄で、十七くらいに見えることもある。すらりとした身体つきは典雅で、繊細で、胸もとの美しいことったら……それにあの二つの可愛いお乳! 覆えば手の中に隠れてしまいそうだけれど、その手ざわりのよいこと……みずみずしいこと……白いこと! そのお乳に接吻しながら、幾度あたしは無我夢中にさせられたか知れないわ。あたしの愛撫《あいぶ》を受けて、あの娘が上気して行くところをあなたに見せたかったわ……つぶらな両の瞳《ひとみ》を見ると、あたしには、あの娘の心の裡《うち》が手に取るように解《わか》ったわ! でもねえ、そのほかのことはあたし知らないの。もちろん、知ってることだけで判断してもよいとなれば、オリンポス山にだって、あの娘ほど美しい女神はいなかったにちがいないと思うけれど……あら、あの娘がきたようだわ。足音が聞える……しばらくあたしたちだけにしておいてちょうだい。顔を合わさないように、庭から出て行ってね。そしてお約束の時間には間違いなくね。
ミルヴェル騎士
あなたが今描いてくれた絵姿を見るためにだけでも、間違いなくやってくるよ。ええ畜生! こんな状態で出て行かなけりゃならんとは! さよなら。せめて一つだけ接吻してくださいね、それまで待たなきゃならないんだから。(夫人は彼に接吻し、ズボンの上から彼の一物に手をふれる。それから青年は大急ぎで出て行く)
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第二の対話
サン・タンジュ夫人、ウージェニイ
サン・タンジュ夫人
あら、いらっしゃい、お嬢ちゃん。首を長くして待ってたのよ。あんたがあたしの心の裡を読めば、このあたしの気持はすぐお解りのはずよ。
ウージェニイ
ああ、おばさま! あたし、もう永久に来られないんじゃないかと思いましたわ、一刻も早くおばさまに抱いてほしかったのに。家を出る一時間前に、事情が急に変ってしまって、あたし気が気じゃありませんでしたの。お母さんが、この楽しいお招《よ》ばれにどうしても反対だと言い出したんです。お母さんの意見では、あたしくらいの年頃の娘がひとりで外を出歩くのは、よくないんだそうですわ。でもお母さんは、一昨日お父さんにひどくいじめられたあとだったので、お父さんが一睨《ひとにら》みすると、もう何も言えなくなってしまいました。それでとうとう、お父さんがあたしに約束して下さったことを、しぶしぶ承知したわけなんですの。そのあとで、あたしようやくこちらへ駈《か》けつけました。与えられた期間は二日です。明後日になったら、お宅の女中さんと一緒に馬車に乗って、どうしても帰らなければなりませんわ。
サン・タンジュ夫人
まあ、何て短かい期間なの! お嬢ちゃん。そんなに短かい間に、あなたが否応《いやおう》なくあたしの心に呼び起す感情の一切を、語りつくすことができるかしら……それにまた、あたしたちたくさんお話しなければならないのよ。まだあなたに言ってなかったかもしれないけれど、じつは今度の滞在中に、あたし、めったなひとには教えられないウェヌスの秘伝をあなたに伝授してあげようと思っていたの。そのためには二日で足りるかしら?
ウージェニイ
まあ! そんなお話ひとつも知らなかったにしても、あたしここにずっと居たいわ。いろんなことを教えていただくために、お宅へ伺ったんですもの、せいぜい物識《ものし》りになってからでなければ、帰りたいとは思いません。
サン・タンジュ夫人(ウージェニイに接吻して)
おお、いい子ちゃんねえ! 二人でいろんなことをしましょうねえ! でも、それはそうと、あなたお食事をしたくはない? お稽古《けいこ》は永くかかるかもしれないのよ。
ウージェニイ
おばさま、今のあたしの望みは、おばさまのお話を聞くことだけ。お食事はここへ来る前に済ませましたの。ですから、晩の八時まではお腹の空《す》く心配もありませんわ。
サン・タンジュ夫人
それじゃ、あたしの寝室へ移りましょう。ここよりずっとくつろげるわ。召使にはもう言い渡してありますから、大丈夫、誰もあたしたちの邪魔をしにくる者はないはずよ。(二人は抱き合ったまま寝室へ行く)
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第三の対話
舞台は心地よき寝室
サン・タンジュ夫人、ウージェニイ、ドルマンセ
ウージェニイ(寝室に思いもかけなかった男がいるのを見て大いに驚き)
まあ、どうしましょう! おばさま、ひどいわ!
サン・タンジュ夫人(彼女もやはり驚いて)
いったい、どうしたわけですの。あなたは四時にいらっしゃるはずだと伺いましたが?
ドルマンセ
あなたにお目にかかる幸福をできるだけ早めたいと思いましてね、奥さん。じつは、あなたの弟さんにお会いしたんです。弟さんの御意見によると、あなたがお嬢さんにお授けになるお講義には、どうしても僕の立会いが必要だというんですな。授業の行われる教室が、たぶんこの寝室にちがいないということは、弟さん先刻御承知でした。で、弟さんはひそかに僕をここへ案内してくれたんです。まさかあなたがそのことに異を唱えるとは思わずにね。弟さんの方は、理論的な勉強が終ってから実地教育に当られるつもりらしく、のちほどお見えになるでしょう。
サン・タンジュ夫人
それにしてもドルマンセ、悪ふざけはいい加減に……
ウージェニイ
そんなこと仰言《おつしや》っても、あたしはだまされませんわ、おばさま。みんなあなたの差金《さしがね》なんでしょう……せめて一言あたしに相談してくださればよかったのに……今あたしは恥ずかしさでいっぱいなんですの。もうあたしたちの計画もみんな駄目よ、きっと。
サン・タンジュ夫人
何を言うの、ウージェニイ、こんな馬鹿ないたずらを考え出したのは、あたしの弟なのよ。とにかく、こんなことでびくびくしちゃあ駄目だわ。ドルマンセは、とても魅力のある殿方として知られている方だし、あなたの教育に必要な哲学上の知識もうんとお持ちの方だから、あたしたちの計画には無くてならないひとですわ。それに、この方のお口の堅いことときたら、あたしと同じに絶対確実よ。ですから、あなたはこの方に気を許してもいいの。あなたをしっかり教育して、幸福と快楽のいっぱいな人生に、あなたを連れ出してくれることができる方なのよ。あたしたちみんなで手に手を取って、そんな楽しい人生を進みましょうね。
ウージェニイ(赤くなって)
でもやっぱり、あたし恥ずかしくって……
ドルマンセ
まあ少し気持を楽にしなさい、可愛いウージェニイ……羞恥心《しゆうちしん》なんて時代遅れの美徳です。そんなものは、きれいさっぱり捨ててしまった方が、よっぽど気持がさばさばしますよ。
ウージェニイ
でも慎しみというものが……
ドルマンセ
それも古くさい習慣だ。今日では誰もそんなものには洟《はな》もひっかけませんよ。第一、不自然きわまりない! (こう言いながらドルマンセはウージェニイをつかまえ、腕に抱きしめ、接吻する)
ウージェニイ(身をもがきながら)
やめてください、あなた! いくら何でも、あたしに対して遠慮がなさすぎますわ!
サン・タンジュ夫人
ウージェニイ、いいこと、こんな素敵な殿方の前で、あたしたちお互いに猫《ねこ》をかぶるのはやめましょう。あたしだって、あなたより余計にこのひとを知ってるわけじゃないのよ。でも見ててごらんなさい、あたしこのひとに身を任せるから! (夫人はドルマンセの口にみだりがましく接吻する)さあ、あんたも真似《まね》してごらん。
ウージェニイ
はい、喜んで真似しますわ。おばさまのおやりになることですもの。(彼女はドルマンセの自由になる。ドルマンセは彼女の口に舌をさし入れ、熱烈な接吻を与える)
ドルマンセ
ああ、ほんとに可愛らしい娘だね!
サン・タンジュ夫人(彼女もウージェニイに接吻して)
ねえ、いたずらっ娘《こ》さん、これでもあたしがあなたを騙《だま》してると思う? (ここで、ドルマンセは二人の女を腕に抱きすくめ、十五分ばかり彼女たちの口を吸う。彼女たちも互いに口を吸い合ったり、ドルマンセの口を吸ったりする)
ドルマンセ
ああ、前戯だけでも陶然とした気分になる! みなさん、僕の言うことをちょっと聞いてください。今日は非常に暑い。くつろいだ恰好《かつこう》になろうじゃありませんか。その方がお喋《しやべ》りするのにも都合がよい。
サン・タンジュ夫人
賛成。あたしたち薄絹のガウンを着ましょう。ガウンはあたしたちの身体のうちの、欲望を起させるような部分だけを隠しておいてくれるでしょう。
ウージェニイ
ほんとにおばさま、次から次へと、いろんなことをさせるのね!……
サン・タンジュ夫人(ウージェニイの着替えを手伝いながら)
でも面白いでしょ、いかが?
ウージェニイ
さあねえ、とにかくずいぶん際どいわ……まあ! また接吻なさるの!
サン・タンジュ夫人
可愛いおっぱい! まるで咲いたばかりの薔薇の花ね。
ドルマンセ(ウージェニイの乳房を眺めつつ、それには手をふれずに)
でも、それよりもっとはるかに貴重なものが、まだどこかに隠れていそうだね。
サン・タンジュ夫人
もっと貴重なものですって?
ドルマンセ
そうさ。そうともさ。(こう言いながら、ドルマンセはウージェニイをうしろ向きにして、彼女のお尻を見ようとする)
ウージェニイ
あ! いけません、後生ですから。
サン・タンジュ夫人
駄目よ、ドルマンセ……まだそれをあなたに見られちゃ困るわ……見たが最後、あなたはすっかり昂奮《こうふん》してしまって、頭に妄想《もうそう》がちらちらするようになり、もう冷静に理論を述べることもできなくたってしまうでしょうからね。あたしたち、あなたに講義してほしいのよ。ぜひ講義してちょうだい。その御褒美《ごほうび》として、あなたは桃金嬢《ミルト》の花を摘むがいいわ。
ドルマンセ
よし分った。しかし、このお嬢さんに実地教育として道楽の第一課を教えこむには、まず奥さんが進んで、奥さんの身体を僕に貸してくれなければ困るよ。
サン・タンジュ夫人
お安い御用ですわ。はい、ごらんください。これがあたしの素裸の姿です。あたしの身体について、どうかお好きなだけ論じてくださいませ!
ドルマンセ
ほう、じつにきれいな身体だな! 美の女神たちに化粧してもらったウェヌスの姿態もかくやとばかりだ!
ウージェニイ
まあおばさま、どこもかしこも、何てきれいなんでしょう! ひとつひとつ、あたしに自由にさわらせてちょうだい。あたしに接吻させてちょうだい。(彼女は実行する)
ドルマンセ
何という素晴らしい肉体構造だろう! ウージェニイ、そんなに熱中しちゃいけない。差し当って僕があなたに要求するのは、注意して話をよく聴けということだ。
ウージェニイ
はい、聴きますわ、聴きますわ……でもおばさまが、あんまりきれいで……あんまりふっくらしていて……あんまりみずみずしいんですもの! ああ、何て素敵なんでしょう、ね、あなたもそうお思いになりません?
ドルマンセ
そりゃもちろん彼女はきれいさ……きれいだとも。でもあなただって、彼女に劣らずきれいに違いないと僕は信じているよ……さあ、それでは僕の話を聴きたまえ、可愛い生徒さん。もしおとなしく僕の話を聴かなければ、いいかい覚えておいで、僕は教師たる者の権限を行使して、あなたを罰してやるからね。
サン・タンジュ夫人
そうだわ、そうだわ、それがいいわ、ドルマンセ。あたし、この娘をあなたにお任せします。もしおとなしくしていなければ、きつく叱《しか》ってやってね。
ドルマンセ
叱るだけで我慢していられるかどうかね。
ウージェニイ
おお、こわい! それじゃ、あたしがおとなしくしていなければ、どうすると仰言《おつしや》るの?
ドルマンセ(ウージェニイの口に接吻したまま、くぐもり声で)
折檻《せつかん》してやるのさ……懲戒してやるのさ。この小さな可愛いお尻をぶって、頭の犯した過ちを懲《こ》らしめてやるのさ。(薄絹のガウンの上から、ウージェニイのお尻を叩く)
サン・タンジュ夫人
それはいい考えだわ。でも、そんな身振りなんかしなくてもいいことよ。早くあたしたちの授業を始めましょう。さもないと、ウージェニイと一緒に楽しむ短かい時間が、前戯のうちにどんどん過ぎてしまうわ。そして肝心の教育は、いつになっても捗《はかど》らないわ。
ドルマンセ(サン・タンジュ夫人の身体に手をふれて、肉体の各部分をひとつひとつ見せながら)
では始めます。この丸い肉の塊りについては、今さら僕が説明するまでもありますまい。あなたも僕と同じくらいよく知っているはずですからね。「胸乳」とか「乳房」とか「おっぱい」とか呼ばれていますが、意味はどれでも同じです。ところで、これを用いると、快楽の時に大きな効果があらわれます。男は楽しみながらこれを眼の下に眺めます。撫でたり、いじくったりすることもあります。ここを享楽の最後の場所としている者さえあります。……
…………………………
ウージェニイ(やや落着きを取りもどす。女たちはガウンをまとって、長椅子《ながいす》の上に半ば寝そべり、ドルマンセは女たちのそばで、大きな肘掛《ひじかけ》椅子に腰をおろす)
でも美徳にはいろんな種類がありますわ。たとえば、信仰心なんかもその一つですが、あなたは信仰心というものを、どうお考えになります?
ドルマンセ
宗教を信じない者にとって、信仰心などという美徳が、いったい何になるね。それに、誰がいったい宗教を信じることができるのかね。まあ一つ順序立てて論じてみよう、ウージェニイ。あなたが宗教と呼んでいるのは、つまり人間とその創造者とのあいだに結ばれる一種の契約であって、至高の創造者から与えられた生命に対する感謝を、一つの礼拝を通して、人間が神に捧げることによって成立するものではないかね。
ウージェニイ
それ以上うまく定義することはできませんわ。
ドルマンセ
よろしい! ところで人間というものは、ただ自然の不可抗的な計画によって、この世に生まれてきたものにすぎず、地球そのものと同じくらい、この地球上に古くから存在しており、樫《かし》の樹《き》や、ライオンや、また地球の内部に包蔵されている鉱物などと同じように、地球の存在によって必然的に生じた単なる一つの産物にすぎないということが、証明されている。また、愚かな連中が万物の唯一の作者であり、創造者であると見なすところの神なるものは、要するに、人間理性の限界を越えるものにすぎず、理性がすっかり盲目になった瞬間に、この理性の作用を助けるために捏造《ねつぞう》された幻影であるにすぎない、ということも証明されている。さらにまた、神が存在するなどということは不可能であり、愚かな連中が何の根拠もなく好んで神のせいにしているものは、じつは、つねに活動している自然がそれ自身で手に入れたものにすぎないのだ、ということも証明されている。よしんばこの怠惰な神が存在するにしても、この神があらゆる存在のうちで、最も滑稽《こつけい》きわまりない存在であることは確実である。なぜかと言えば、神が仕事をしたのはたった一日で、それ以来幾百万世紀というもの、まったく軽蔑《けいべつ》すべき無活動状態に陥ってしまっているからだ。また、もし神が多くの宗教によって描かれているようなものであるとするならば、神こそ世の中で最も憎むべきものであるにちがいない。なぜかと言えば、神はその全能の力によって悪を阻止し得るにもかかわらず、依然として地上に悪がはびこるのを許しているからだ。要するに、こういうことはすべて証明できることであり、異論の余地なく確実なことなのだ。とすれば、いいかねウージェニイ、この愚劣で、不完全で、凶悪で、しかも軽蔑すべき創造者なるものに、人間を結びつける信仰心は、いったい、どういうわけで必要不可欠な美徳なのだろうか?
ウージェニイ(サン・タンジュ夫人に向って)
まあ! それではおばさま、神の存在は本当は絵空ごとでしかないとおっしゃるんですの?
サン・タンジュ夫人
もちろんですとも、いちばん浅ましい絵空ごとだわ。
ドルマンセ
神を信じるためには、馬鹿になることが必要だよ。ある者にとっては恐怖から、またある者にとっては弱さから生まれるこの忌まわしい幻は、いいかねウージェニイ、地上の組織のためには無用の長物というか、むしろ百害あって一利なきものというべきだろう。なぜかというに、本来正しかるべき神の意志が、自然の法則特有のもろもろの不正と調和することは、先《ま》ずもってあり得ないだろうからさ。神はつねに善を欲するはずなのに、自然はその法則に役立つ悪への償いとして善を欲するだけなのだ。また神はつねに活動していなければならないはずなのに、自然にとってはこの永遠の活動がひとつの法則なのだから、この点でも自然は永遠に神と競争し対抗していなければならないだろう。しかしひとはこう言うかもしれない、神と自然は同じ物であると。が、どうも、これは没論理じゃないだろうか? 創造されたものが創造者と等しいなんて、あり得ないことだよ。時計と時計屋が同じだなんてことが、いったいあり得るだろうかね? しかし、とそのひとは続けて言うかもしれない、自然などというものはない、すべてが神なのだと。どっちにしろ馬鹿げた話さ! 宇宙には当然二つのものがある、創造者と創造された個体がそれだ。さて、この創造者とはそもそも何であるか? これこそ解決しなければならない唯一の難問であり、解答しなければならない唯一の疑問なのだ。
もしも物質が、われわれの関知せぬそれ自身のいろいろな結合によって、活動し滅亡するものであるとするならば、もしも運動が物質に固有のものであるとするならば、要するに物質のみがそのエネルギーによって、あらゆる天体、その景観がわれわれを驚異せしめ、一定不変の運行がわれわれの胸を畏敬《いけい》と讃美の念で一杯にするあのあらゆる天体を、無限の空間の中に産みつくり、支え保ち、揺り動かすことができるのだとするならば、こうした事どもに縁もゆかりもない一つの創造者というものを、いったいどうしてまた、ほかに探す必要があるだろうかね? つまりこのような活動力は、活動する物質にほかならない自然そのもののうちに、本質的に含まれているものなのだよ。あなた方の神とかいう絵空ごとで、果して何事かを解き明かすことができますかね? けだし、その証明を僕にして見せることのできる人は先ずおりますまいよ。よしんば僕が物質に内在する諸能力について誤った観念を抱いているにもせよ、少なくとも僕は、差し当ってただ一つの困難に撞着《どうちやく》するだけのことだ。あなた方の神を僕の前に持ち出したところで、全体どうなるというのだ? 困難がもう一つ余計にふえるだけさ。僕に理解できないものがあるからといって、なおさら理解できないものを持ち出してそれを認めろという手はないだろう? 僕があなた方の怖ろしい神を吟味《ぎんみ》したりその姿を描き出したりするのにも、やっぱりキリスト教の教理を借りなければならないとでも言うのかね? では、キリスト教が僕に描いてみせてくれる神とはどんなものか、一応あらためてみようか……
僕思うに、このけがらわしい宗教の神というやつは、今日一つの世界を創造したかと思うと、明日はその出来栄えを後悔するといった態《てい》の、およそ無定見で野蛮なやつでないとしたらいったい何だ? 決して人間を自分の思う通りに仕込むことのできない、力の弱いやつでなくて何者なのだ? 神から出たにもせよ人類は、却《かえ》って神を支配しているよ。神の意志にそむき、そのために地獄の苦しみを嘗《な》めることだって、人類にはできるのだから! 神様としたことが、何とまあ意気地のない、何とまあ情ないことだろうね! われわれの眼にふれるありとあらゆるものを創造することができたというのに、人間一匹思い通りに作りあげることができなかったとは! しかしあなたはそれに対してこう答えるかもしれない、もし神が人間をそんな風に立派に作りあげてしまったら、人間の価値というものをどこに求めたらいいのだろう、とね。じつに愚劣な議論だよ。第一、人間がその神にふさわしく立派にあらねばならぬ必要が、どこにあるだろうか? もしも人間をまったく善良に作りあげさえしたら、人間は決して悪事をはたらくことができなかっただろうに。そうしてこそ初めて、人類創造という仕事は、まことの神の事業というに辱《はずか》しからぬものであったはず。人間に選択を許すということは、人間を試みることだ。ところで神は、端倪《たんげい》すべからざる先見の明をお持ちなのだから、その結果がどうなるかというようなことは、いちいち分っていたはずだ。そうしてみると、神は自分でつくった人間を好んで堕落させているということになる。何という怖《おそ》ろしい神だろう、この神様というやつは! 何という非道《ひど》いやつだろう! むしろわれわれの憎悪と容赦なき復讐《ふくしゆう》を受けてしかるべき極悪人だよ! しかもそいつは、神としての最高至上の勤めには満足しないのか、改宗させるために人間を大洪水《だいこうずい》で溺《おぼ》れさせたり、業火で焼き殺したり、呪《のろ》いを唱えて禍いを被《こうむ》らせたりする。
しかし、そうまでしても、人間を変えることはさっぱりできない。だからこの醜態な神よりももっと力強い存在たる悪魔[#「悪魔」に傍点]が、相変らずその勢力を失わず、相変らずその創造者を見くびって、もって神の仔羊たる人間どもをさまざまに誘惑し、絶えず堕落せしめることもできるというわけだ。われわれにはたらきかけるこの悪魔の力に打ち克つことは、何物をもってしても不可能だ。するというと、あなた方が口をすっぱくして唱えるあの恐ろしい神は、このときいったい何を考えているのかしら? 神にはひとりの息子《むすこ》がある、どんな交渉から生まれたものかとんと僕は知らないが、ともかく一人息子だ。何のことはない、人間は自分が媾合《こうごう》するものだから、自分たちの神も同じようにやる[#「やる」に傍点]ことを望んだわけさ。神は自分自身のこの尊い部分を天国から下界へつかわした。ひとびとは想像した、この崇高な神の子はおそらく天上の光に乗って、儀仗《ぎじよう》の天使たちに取り巻かれて、全世界の衆目を集めながらその姿をあらわすのだろうと……しかるに、何ぞはからん、救世主として地上へやってきた神が姿をあらわしたのは、ユダヤの淫売婦《いんばいふ》の腹の中であり、汚ならしい豚小屋の中だったとは! これが実に世に伝えられる神の子の素姓だとは! それはそうと、彼の光栄ある使命によって、いったいわれわれ人類は救われるのだろうか。
ここでちょっと、この男の生い立ちをたどってみることにしよう。彼は何を言い、何をしたか? われわれはこの男からどんな崇高な使命を授かったか? どんな霊妙な教えを彼は告げたか? どんな教義を規定したか? 要するに、どんな行為の裡に彼の偉大さは発揮されたか?
僕の心に浮かぶのは、まず第一に、少しも知られていないその少年時代と、この悪童がエルサレムの寺院の坊主どもにしてやったにちがいない、きわめて淫らなある種のお勤めと、次に十五年間の逃亡だ。この山師は行方《ゆくえ》をくらまして十五年、その間エジプト学派のあらゆる妄想にかぶれて、やがてこれをユダヤに持ち帰ったらしい。そしてユダヤに姿をあらわすやいなや、彼はわれこそは神の子であり、父なる神と等しきものである、などとほざき、かくしてその狂気沙汰がはじまるのだ。あまつさえ彼はこの神の子との組合わせに、さらにもう一つ聖霊と称する化物をつけ加えて、この三つの位は一体にして分つべからざるものであると断言する! この嗤《わら》うべき玄理《まやかし》がわれわれの理性に奇怪に響けば、いよいよこの下司な男は、それを受け入れることの功徳《くどく》を主張し……それを棄てることの危険を力説する。神であるにもかかわらず、ひとの子の腹に宿って肉身となったのは、全人類を救済するためであり、やがて自分によって行われるであろう目覚ましい奇蹟の数々は全世界を承服させるであろうと、この男は断言する! ひとの伝えるところによれば、事実このいかさま師は、酔いどれどもの夜食の最中に、水を葡萄酒《ぶどうしゆ》にすり替えたり、沙漠《さばく》では、彼の信者たちがひそかに用意しておいた食物を降らせて、何人かの悪党の飢えを癒《い》やしたりしたらしい。相棒の一人が死んだふりをすれば、このペテン師は蘇《よみがえ》らせもした。そうこうするうちに彼はとある山の頂きにのぼり、そこでわずか二、三人の仲間を前にして、当節ならいかに盗人猛々《ぬすつとたけだけ》しい香具師《やし》でも赤面しないわけには行かないような、子供だましの手品をやってみせた。
その上このごろつき[#「ごろつき」に傍点]は、自分を信じない者をば憑《つ》かれたような激しさで呪い、自分の言葉に耳傾ける馬鹿者には、すべて天国を約束する。彼が何ひとつ書きものを残さなかったのは、一丁字を識《し》らなかったがためであり、あまり喋ってもいないのは、愚鈍だったがためであり、ほとんど仕事らしい仕事をしていないのは、懦弱《だじやく》だったがためなのだ。そこで、ごく稀《まれ》ながら幾度か彼のぶった煽動《せんどう》的な演説に、すっかり業を煮やした役人たちは、とうとうこの大法螺吹《おおぼらふ》きを十字架にかけてしまった。十字架にかけられる前に、彼は自分についてきた乞食《こじき》どもに向って、お前たちが自分を祈る度毎《たびごと》に、自分は地上へ降りてきて、お前たちに食を恵んでやるぞと保証する。こうして彼はされるがままに死刑に処せられる、しかるに彼があえて父御さんと称しているところの、例の至上の神とやらは、自分の息子に何ら救いの手すら伸ばさない。おかげで彼は、頭目として辱しくない悪党だったにもかかわらず、まるで三下《さんした》野郎のような死にざまをするわけだ。すると彼の腰巾著《こしぎんちやく》どもが集まって言うことには、「さあ大変、おれたちは破滅だぞ。ここでひとつ大芝居を打って、わが身の安泰を計らないことにゃ、おれたちの希望はすべて失われてしまうぞ。そうだ、イエスを守っている番兵たちを酔っぱらわせて、死骸《しがい》をこっそり盗み出そう。そしてイエスが蘇ったと吹聴《ふいちよう》してやろう。これなら慥《たし》かにうまく行く。この詐術をうまく信じ込ませることさえできれば、おれたちの新しい宗教は、しっかと大地に根をおろして、ぐんぐん世の中に弘《ひろ》まり、やがては世界中のひとびとを惹《ひ》きつけることだってできるだろう……さあ、一か八かひとつやってみようじゃないか!」そんな次第で、この芝居は打たれ、みごと大当りをとったのさ。押しの一手というものが、悪党にとって何物にも替えがたい手段だとは、よく言ったものさね! 死骸が盗み出されると、馬鹿者どもは女や子供をも混えて、声を限りに奇蹟を叫んだ。だがしかし、これほどふしぎな驚異がつい目の前で行われたばかりのこの町、神の血が流されたこの町のひとびとは、誰ひとりとしてこの神を信じようとはしなかったし、たったひとりの改宗者すら出さなかった。そればかりではない、こうした事実は後世に伝えられるだけの値打さえなかったらしく、どんな歴史家もこれについては何も語っていないのだ。ただこの山師の弟子《でし》たちだけが、自分らのペテンを何とか利用したいと考え、気永にその時期を待っていた。
これからの問題は、今までよりもはるかに重大だ。幾多の年月が流れ去ったのち、彼らはさらに見え透《す》いたペテンを使い出した。つまり彼らは、ペテンの基礎の上に、あやふやな不愉快きわまる教義をでっち上げたのだ。人間には目先の変化を喜ぶ癖がある! ローマ皇帝の専制政治に疲弊し切っていた当時のひとびとにとっては、革命はあたかも必要なものとなっていた。ひとびとはペテン師どもの言葉に耳を傾けはじめ、みるみるうちにこの宗教は拡まって行った。誤謬《ごびゆう》の歴史はすべてこうした過程において作られるものだ。やがてウェヌスとマルスの祭壇は、イエスとマリアのそれに取って代られた。山師の生涯《しようがい》は、出版されて本になった。この無味乾燥な物語は、多くのお人好しをたぶらかした。ひとびとはその本の中で、御当人が考えたこともないような無数の事柄を、イエス自身に言わせた。その妙ちきりんな言葉の幾つかは、やがて彼らの道徳の基礎となった。この新しい宗教は貧者のために教を説いたものなので、慈善が第一の美徳とされるようになった。さまざまの珍妙な儀式が、秘蹟《サクラメント》という名で呼ばれて制定されたものだが、その中でももっとも恥知らずで悪《にく》むべきものはというと、どんな罪ふかい生臭坊主でもその儀式を行いさえすれば、ある種の呪文《じゆもん》の効き目によって、一かけらのパンの中に神を呼び寄せることができるという、あの馬鹿馬鹿しい儀式だった。もしも当時のひとびとが、この軽蔑に値する宗教に対して軽蔑以外の武器を用いなかったとしたならば、僕思うにこんな愚劣なお祭りは、産ぶ声をあげた途端ぐらいに、木《こ》っ端微塵《ぱみじん》にやっつけられていたに相違ないのだ。それなのにひとびとはこれを迫害するというへま[#「へま」に傍点]をやった。この宗教がどんどん発展して行ったのもそんなわけで道理というべきだ。
今日といえども、みんなで寄ってたかって嘲笑《ちようしよう》を浴びせてやれば、この宗教は没落するにきまっている。頭のいいヴォルテールは、嘲笑以外の他の武器を決して使おうとはしなかった。さればこそ彼は古今の作家の中で、自分こそもっとも多く自説の信奉者をもち得た作家であると誇ることができるのだ。つまりだね、ウージェニイ、神と宗教の歴史とはざっとこんなものだということさ。こうしたお伽話《とぎばなし》にいったいどんな価値があるものか、それさえ分ったら、早々に君自身の決心を固めることだね。
ウージェニイ
あたし、なにも迷ったりはしなくてよ。そんな嫌《いや》らしい空想のお話なんぞ、十把《じつぱ》一からげに軽蔑しますわ。神だって、あたしにはもう、ただ怖いものでしかありませんわ。もっともあたしまだ弱いためか、それとも無知なためか、まだ神を棄て切れないでいるんですけれど。
サン・タンジュ夫人
あたしの前ではっきり誓ってちょうだい、もうこれからは神のことなんぞ決して考えません、気にもかけません、一生涯片時もお祈りなんぞいたしません、二度と神の許《もと》には帰りません、て。
ウージェニイ(サン・タンジュ夫人の胸に飛び込んで)
ああ! あたし、おばさまの腕のなかでお誓いしますわ! だっておばさまが、そうおっしゃってくださるのは、あたしの幸福のためを思ってなのでしょう? 今後ああした懸念《けねん》のために、あたしの心の平和が乱されることのないようにと、心配していてくださるためなのでしょう? あたしにだってそれはよく分りますもの。
サン・タンジュ夫人
もちろん、あなたのためを思ってのことよ。
ウージェニイ
でもドルマンセ、あたしたちはたしか美徳というものの分析から、宗教の検討に入って行ったのでしたわね? もう一度、出発点にもどっていただきたいの。いったい宗教というものの有りようは、たしかに馬鹿げたものにはちがいないけれど、その宗教の中には、宗教によって規定されていて、それを信奉すればあたしたちが幸福になれるというような美徳が、はたして、幾らかでもないものでしょうか。
ドルマンセ
よろしい! では検討してみよう。たとえば、純潔という美徳を例にとってみようか。あなたの人柄全体がその生き写しのように見えるが、あなたの目にはもう何の価値もない美徳だよ。ところで、あなたはいったい、自然のあらゆる衝動に抵抗しなければならないという義務を、遵守《じゆんしゆ》することができるかね。自然の衝動を、ひとつも瑕《きず》がないという無益かつ愚劣な名誉のために、犠牲にすることができるかね。曇りない心でよく考えて、返事をしてごらん。こうした不合理かつ有害な魂の純粋性のなかに、それとは対照的な悪徳のもつ快楽のすべてを、あなたは見出すことができると思うかね。
ウージェニイ
いいえ、飛んでもない。あたし、断じてそんなもの欲しいとは思いませんわ。純潔でありたいなんて気持は少しもなく、逆に悪徳の方にとても強く惹かれますわ。でもドルマンセ、慈善とか親切とかいうものには、涙もろい性質のひとびとを幸福にする力があるのではないかしら?
ドルマンセ
いやいや、ウージェニイ、そんな美徳は遠ざけるべきだよ。恩知らずな人間をつくり出すのが落ちなんだからね! それに、誤解しないでほしいが、親切心などというものは、真の魂の美徳というよりはむしろ、傲慢《ごうまん》という一つの悪徳なのだ。ひとが他人を助けてやるのは、要するに虚栄心からであって、ただ一筋に善行をしたいという気持からでは断じてないね。もし自分のした施しが、思ったほど世間の評判にならなかったとすれば、そのひとはきっと腹を立てるにちがいない。それにまたこの行為が、一般に考えられているほどよい結果を生むものだなどとは、まかり間違っても想像しちゃいけないよ、ウージェニイ。つらつら僕の見るところでは、この行為は、あらゆる欺瞞的《ぎまんてき》行為のなかでも最大のものだね。それは貧乏人を救済に慣れさせて、彼らの元気を沮喪《そそう》させてしまう。他人からの慈善を当てにしていられるあいだは、貧乏人はもう働こうとはせず、慈善がぱったり途切れてしまうと、今度は泥棒をするか人殺しをするかだ。乞食を絶滅しろという声が、各方面から挙がっているようだが、一方でひとびとは、乞食をふやすためにあらゆる手段をつくしているわけだ。部屋の中に蠅《はえ》を入れまいと思うならば、蠅を惹きつける砂糖なんか、部屋のなかに撒《ま》きちらしておいてはいけない。それと同様に、もしフランスから貧乏人を一掃しようと思うならば、どんな施し物をも与えてはならず、とりわけ養育院などは全部つぶしてしまう必要がある。そうすれば不幸な境遇に生まれた者は、そうした有害な救済策から絶縁されたために、あらん限りの勇気をふるい起し、自然から与えられたあらゆる手段を用いて、自分が生まれたみじめな状態から脱出しようと努力するだろう。もう諸君につきまとって迷惑をかけたりするようなことはあるまい。だから、あの厭《いと》わしい養育院などというものは、情け容赦もなくぶっつぶしてしまうに限るのだ。諸君は厚かましくも、あの貧乏人のふしだらの結晶をば、養育院の中にかくまってやろうとしている。それこそは怖るべき汚水溜《おすいだめ》であって、諸君の財布のみを当てにしている不愉快な新しい人間の群を、毎日のように社会に吐き出している有様だ。いったい、そんな人間の面倒をそれほどまでに見てやって、何の役に立つのだろうか、と僕は質問したいね。フランスの人口が減少するのを心配している、とでも言うのだろうか。だったら、そんな心配は捨てたがいい。
フランス政府の最大の弱点の一つは、人口があまりにも多すぎるということだ。過剰な人口は国家の富をなすどころではない。あり余る人口は、ちょうど余計な枝のようなもので、さんざん幹の養分を吸い取ったあげく、ついには幹を枯らしてしまうことになるのが落ちなのだ。いかなる政府においても、人口が生活の資源よりも優勢な場合には、きまってその政府は衰えてしまうものだということを想起するがよい。フランスの場合をよくよく考えてみれば、まさにその通りだということが分るだろう。その結果は、はたしてどうなるか。火を見るよりも瞭《あき》らかだ。われわれよりももっと賢明なシナ人は、過剰な人口によって悩まされるのを、そのまま黙って見すごすようなことは決してしない。シナには、放蕩《ほうとう》の恥ずべき結晶を迎え入れるための収容所なんてものは、どこにもありやしない。放蕩の忌わしい結晶など、人間の排泄物《はいせつぶつ》と同様に棄てられてしまうのだ。貧乏人の収容所なんてものは、どこにもなく、シナ人はそんなものを考えたことさえないのだ。そこでは、すべての人間がはたらき、すべての人間が幸福である。貧乏人の元気を沮喪させてしまうようなものは何ひとつなく、めいめいがネロのように「貧乏とは何のことだね?」と言うことができるのだ。
ウージェニイ(サン・タンジュ夫人に)
ねえ、おばさま。あたしの父も、ドルマンセさんと全く同じ考えの持主ですわ。父は今まで一度だって、慈善事業というものに手を出したことがないんです。そして母が慈善事業にお金をつかうのを、いつも怒っているんです。母は「母の会」にも入っていれば、「博愛協会」にも入っていましたの。母の関係していなかった団体なんて、あたし知りませんわ。でも父はむりやり母に、そんな団体からすっかり手を引かせてしまって、二度とそんな馬鹿げた真似をするようなら、ほんの少しのお金しか自由にさせないと、はっきり言い渡してしまいました。
サン・タンジュ夫人
およそそんな風な協会ほど滑稽で、しかも有害なものはないわ、ウージェニイ。今あたしたちの暮らしている世の中が、これほど怖ろしい混乱に陥っているのも、つまりは、そういった慈善団体とか無料寄宿学校とか養育院とかのせいなのよ。もうこれからはお願いだから、あなたも決して他人に施しなんぞしないでね。
ウージェニイ
心配御無用よ。もうずっと前に、あたし父から同じことを要求されているんです。親切なんて、どだい、あたしにはまるで興味がないんですもの。父の命令であろうと、あたし自身の心の動きであろうと、おばさまのお望みであろうと……そうしたことに背《そむ》くような心配はありませんわ。
ドルマンセ
僕たちが自然から享《う》けた感受性の配当分は、決して無駄なことには使わない方がよい。そんなことをした日には、感受性は発達するどころか萎縮《いしゆく》してしまう。他人の不幸が、いったい僕に何の関係があるというのだ? 自分に関係ない人間のことまで心配してやらなくても、自分自身の苦労でもう手いっぱいじゃないか! 感受性の炉が、ただ僕たちの快楽のみを燃え上らせてくれればそれでよいのだ。すべて快楽をそそるものに対しては、どこまでも敏感でなければならないが、それ以外のものに対しては、絶対に不感不動であることが必要だ。こうした精神状態からは、当然一種の残酷さが生ずるが、しかしその残酷さにも、時には無上の快味が伴わないわけではない。ひとは四六時中悪事ばかりしているというわけには行かない。悪事の与える快楽を味わうことができない時には、せめて、決して善をしないという、ぴりっとした些《ささ》やかな悪意によって、この感情の埋め合わせをするがよい。
ウージェニイ
まあ素敵! あなたのお講義は、どうしてあたしをこうも熱中させるんでしょう! もうこうなったら、たとえ殺されるような破目になっても、あたし決して善いことなんかしないだろうと思いますわ!
サン・タンジュ夫人
それじゃ、もし悪事を目の前に突きつけられたら、あなたは喜んでこれを実行する用意があるとでも?
ウージェニイ
それを言わないで、おばさま。そのことについては、あたしの勉強がすっかり終ってしまってから御返事するわ。ねえ、ドルマンセ、今までのお話をまとめてみると、この世では善をしようが悪を犯そうが、もうそんなことはどうでもいいことのような気がしてならないんです。大切なのは、ただあたしたちの趣味なり気質なりだけじゃございませんかしら?
ドルマンセ
おお、そうだとも! もちろんだよ、ウージェニイ。この悪徳とか美徳とかいう言葉は、純粋に地方的な観念を与えるものでしかないんだ。よしんばあなたにとってどんなに奇妙な行為に思われようと、この世の中には、真に罪に価する行為なんてものは一つとしてないし、また現実に美徳と名づけ得るような行為だって、一つとしてありゃしない。すべてはわれわれの習慣と、われわれが住んでいる土地の気候次第なのだ。ある場所では罪と考えられていることも、そこから数百里離れた他の場所では、しばしば美徳と考えられる。地球の北半球で美徳とされていることも、南半球へ行けば逆に罪となることがある。どんな怖ろしい極悪事でも賞讃されなかったことはないし、どんな立派な美徳でも貶《おとし》められなかったことはない。こうした純粋に地理的な差異から、われわれは人間を尊敬したり軽蔑したりしているわけなので、それは要するに大したことではなく、いずれも馬鹿馬鹿しい軽佻浮薄《けいちようふはく》な感情にすぎない。だからわれわれは、そうした感情を一切超越して、たとえ他人から軽蔑されても、その行為が幾らかでもわれわれに快楽をもたらすものであれば、少しも怖れず喜んでその軽蔑を甘受するという境地まで行かなければならないのだ。
ウージェニイ
でもこの世の中には、誰からも不法な行為と考えられていて、そのために世界中どこへ行っても罰せられるような、それ自体危険にして邪悪な行為というものが、どうしてもあるはずだと思われますけれど?
サン・タンジュ夫人
そんなものがあるもんですか、あんた、一つだってありゃしないわ、盗みだって、近親|相姦《そうかん》だって、また殺人や親殺しだって。
ウージェニイ
まあ! そんな怖ろしい罪が、どこかでは許されていたんでしょうか?
ドルマンセ
そうだとも。ある場所では、そういう罪こそ立派な行為として、尊重され、賞讃され、もてはやされていたし、そうかと思うと、人道とか無邪気とか慈善とか純潔とか、そういったわれわれが美徳と考えている一切のものが、別の場所では、世にも醜い行為のように見なされていたのだよ。
ウージェニイ
あの、お願いですから、そういったことを一つ残らずあたしに説明してくださいません? それらの罪のひとつひとつを、簡単に分析していただきたいと思うの。いかがでしょう、まず第一番には娘たちの放縦について、それから次には人妻の姦通《かんつう》について、おばさまの御意見をうかがわせていただきたいものですわ。
サン・タンジュ夫人
では、いいこと、ウージェニイ。娘が母親のお腹から外へ出るやいなや、その瞬間から両親の意志の犠牲になって、最期の息を引き取るまでそのままの状態でいなければならないというのは、どう考えても馬鹿な話だわ。だいたい人間の権利が幾多の努力の末にようやく確立され、地球の上も狭くなったというこの御時世に、若い身空の娘さんが相も変らず、自分たちは家庭の奴隷であると思いこんでいなければならないって法はない。娘たちに対する家庭の圧力が、ぜんぜん根も葉もないものであることは、分り切っていることなんですものね。こういう面白い問題については、自然の意見を聴いてみるのが早道よ、自然に一層近い動物同士のあいだの法則が、差し当ってあたしたちのよいお手本になってくれるでしょう。いったい動物のあいだでは、父親の義務というものが、最初の肉体的要求の後までも永く及ぶものかしら? 雄と雌との享楽の結果として生まれた者は、それぞれの自由と権利の全面的な所有者ではないかしら? 子供がひとり歩きできるようになり、ひとりで食べて行けるようになれば、もう親たちは子供を忘れてしまうのではないかしら? そして子供の方でも、自分たちを生んでくれた者に対して、何らかの義務を感じているものかしら? いいえ、そんなことはない、もちろんよ。それでは人間の子供たちだけが、どんな権利で、自然の義務でない義務を強制されているのかしら? もしそれが父親の貪慾《どんよく》ないし野心でないとしたら、いったい誰がそんな義務をこしらえあげたのかしら? さあ、そこで訊《き》くけれど、感情の上でも理性の上でも一人前になりはじめた若い娘が、こうした束縛に服従させられているというのは、果して正しいことであるかどうか? そうした鎖を縛りつけるのは、したがってただ偏見のみではないかしら? 十五、六にもなったいい娘さんが、抑えつけなければならない欲望の焔にわが身を焼かれて、地獄のそれよりもっとひどい責苦のなかで身悶《みもだ》えしながら、あたら青春を不幸にしてしまうと、さらに女盛りの年頃までも醜い親の欲得のためにこれを犠牲にして、ついには愛される価値のまるでない男や、嫌《きら》われるためにのみ生きているような男と本意ならずも結婚して親を悦《よろこ》ばそうとしている姿ほど、あわれにも滑稽なものはないわ。おお、いやだ、いやだ! でもウージェニイ、こんな窮屈な関係は、もうじき消滅してしまうでしょうよ。女の子も分別がつく年頃になったら父親の家から解放して、国家的教育を与えた上で、十五になったらもう自分の好きなことは何でもさせてやらなければいけない。悪徳に陥ったからって、それが何なのさ、構うことはないじゃないの!
自分に言い寄るすべての男を幸福にしてやろうという、心構えのできた若い娘のする奉仕の方が、人目をはばかって一人の亭主だけにこっそり与える奉仕よりも、ずっと立派なものではないかしら? 女の運命は、牝犬や牝狼《めすおおかみ》の運命と同じようであるべきだわ。すなわち、女は自分を欲するすべての男のものにならなければならない。女を個々の婚姻という不合理な絆《きずな》で縛ることは、明らかに自然が女に負わせる目的を侵害するものだわ。
どうか世のひとすべてに眼を覚ましてもらいたいわ、彼らがすべての個人の自由を保証して、不幸な娘たちの運命を忘れないでくれるようになればいいと思うわ。でも、もし世のひとに忘れられてしまうほど気の毒な境遇にいるのだったら、娘たちの方こそ進んで因習と偏見より高いところに身を置いて、自分たちを縛ろうとする恥ずべき鉄の鎖を、思い切って足下に踏みにじってやるくらいでなくちゃ。そうすればやがては、世間の慣習や世論をも、打ち負かすことができるようになるでしょう。男たちの方だって、そうなればより自由になるのだから、したがってより賢明になったわけで、そのように振舞う娘たちを軽蔑することがどんなに不正なことであるか、また、自然の衝動に屈服するという行為も、因襲的なひとびとの間でこそ罪と見なされもするが、自由なひとびとの間ではもはや罪ではあり得ないことを、身にしみて感じるようになるでしょう。
ですからね、ウージェニイ、これらの公認済みの道徳原理から早く脱け出しておしまいなさい、そしてどんな代価を払っても、あなたの鉄の鎖を絶っておしまいなさい。愚かな母親のくだくだしい忠告なんぞは、てんから軽蔑してやるがいいわ、当然憎悪と軽蔑を感じてしかるべき相手ですものね。もしも道楽者のあなたのお父さんがあなたに食指を動かしたら、ちっとも遠慮することはないわ、せいぜい楽しませておやりなさい。でもお父さんを楽しませるのもいいけれど、お父さんに縛られては駄目よ。もしもお父さんがあなたを奴隷にしようなんて考えたら、早速その軛《くびき》を絶っておしまいなさい。お父さん相手にそういうことをした娘さんは、一人二人じゃなくってよ。やっちゃいなさい、要するに、やっちゃえばいいのよ。あなたがこの世に生を享《う》けたのも、そのためなんだから。快楽に対しては、力と意志以外に何の制限も要らないわ。時と所と相手とを選んでいるようでは駄目よ。すべての時すべての場所、そしてすべての男をあなたの快楽に役立てなければいけないわ。貞操だなんて、そんなこの世のものとも思われぬ徳を守っていようなら、その権利を侵された自然がたちまち数知れぬ不幸でもってあたしたちを罰しにくるわ。でもまあ、世間の法律がまだ現在のようなものである間は、あんまり大っぴらには事を行わないことね。それが浮世の義理というものよ。でももちろん、あたしたちが世間態《せけんてい》のために余儀なくされるこうした痛ましい純潔は、内証でこっそり埋め合わせをするに限るわね。
だから若い娘は、自由な社交界の婦人で、ひそかに快楽を味わせてくれることのできるような、いい女友達をひとり、どうしても見つけるように努力すべきだわ。またそういうひとが見つからないときには、自分のまわりにうろうろしている百眼巨人《アルゴス》のような眼の利くひとたちを一生懸命誘惑して、その人たちに自分に淫売をさせてくれるよう頼み込み、そうして自分の体を売って得た身代金《みのしろきん》はそっくり、そのひとたちに提供すると約束すればいいわ。そうすればこの百眼巨人《アルゴス》たち自身か、あるいは彼らが見つけてくるだろう謂《い》わゆる女衒[#「女衒」に傍点]と称される女たちが、すぐにその若い娘の目的を遂げさせてくれるでしょうよ。ところでそうなったら、兄弟とか従兄弟《いとこ》とか、友達とか両親とかいった、自分の周囲の者すべての目をくらますことが必要ね。何なら自分の行状をかくすために、ぜんぶのひとに身をまかせるがいいわ。つまり必要とあらば、自分の趣味や愛情を犠牲にすることさえしなければならないというわけよ。はじめのうちはいやいやながら、ただ策略のためにのみやっている密通も、こうしてだんだん身を入れているうちには堪《たま》らなく面白くなってくるわ、そうなったらもう占めたもの、いよいよ檜舞台《ひのきぶたい》に乗出した[#「乗出した」に傍点]というわけよ。しかしそうなった以上、子供時代の偏見にふたたび立ち戻るようなことは絶対に禁物よ。脅迫とか、諫言《かんげん》とか、義務とか、美徳とか、信仰とか、忠告とか、そういったすべてのものを足で踏みにじってやることが必要ね。もう一度自分を鎖で縛りつけようとするもの、一口に言えば、淫蕩の懐に自分を引渡すまいとするものすべてをば、頑《がん》として拒否し軽蔑することが必要ね。
放蕩の前途には不幸がたくさん横たわっているなどと、そんな予言めいた訓戒を強いるのは、親の無法というものよ。なるほど茨《いばら》はいたるところに生えているけれど、薔薇の花は悪徳の道の、茨の上にこそ咲いているものじゃないかしら。美徳の泥だらけの小径《こみち》だけには、いかな自然も決して花を咲かせやしないわ。ただこうした悪徳の道の第一歩で警戒しなければならない唯一の障害があるとしたら、それは男たちの意見よ。でもちょっと頭のいい娘なら、少し考えただけですぐに、そんな軽蔑すべき意見なんか、ぜんぜん黙殺してしまうことができるようにならないかしら? ひとに尊敬されるなんていう快楽は、いいことウージェニイ、ただある種の連中にしか相応しない精神的快楽でしかないわ。ところがやること[#「やること」に傍点]の快楽ときたら、すべてのひとに満足を与えるのよ。そしてその蕩《とろ》かすような魅力は、世間の思惑を軽んじることによってあたしたちの身に避けがたくついてまわる、あの空《むな》しいひとびとの白眼など、一ぺんで帳消しにしてしまうほど力づよいものだわ。だから物の道理をわきまえた多くの女たちは、そんな世間の白眼などどこ吹く風と、却ってそこに慰みの種を見つけて面白がってるくらいよ。ですからさ、やっちゃいなさい、ウージェニイ、ね、やっちゃいなさいよ。あなたの身体はあなたのもの、あなただけのものなのよ。世界中であなただけが、その身体を享楽する権利も、また自分の気に入ったひとに享楽させる権利も持っているのよ。
あなたの一生のうちでいちばん楽しかるべき時代を、せいぜい利用しなさいよ。あたしたちが快楽に耽《ふけ》ることのできる、この楽しい年月は、それは短かいのよ! もしあたしたちが仕合わせに十分享楽の時を送っていたら、お婆さんになってからでも甘い思い出に慰められたり、楽しませられたりすることができるわ。ところが、もしその時代を無駄にすごしてしまったら、どうでしょう?……にがい悔恨や手痛い未練があたしたちの胸を掻《か》きむしり、その上さらに老いの苦悩が重なって、近づく不吉な死の影を涙と苦悶のうちに待たねばならないことになるでしょう……あなたは不道徳なことに夢中になれるかしら? まあ、そうお! いい子ちゃん、あなたが人類の記憶に残りたかったら、そうすることよ。ルクレチアのような貞女はじきに忘れ去られてしまったけれど、テオドラとかメッサリーナのような淫婦は、もっともしばしば人生の楽しい話題になっているわ。だからさ、ウージェニイ、この世であたしたちに花の冠をかぶせてくれるばかりか、墓の中へ行ってまで、こうしてひとびとの賞讃をかち得る希望を残しておいてくれる生活の方が、ずっといいじゃないの? この世でただぼんやり阿呆のように暮らした上に、死んだ後までも軽蔑と忘却しか約束されない生活なんぞより、ね、この方がずっといいじゃないの?
ウージェニイ(サン・タンジュ夫人に)
まあ! 大好きなおばさま、あなたの誘惑的なお話は、何てあたしの頭をぼうとさせ、あたしの魂を魅するのでしょう! あたし、何て言っていいか分らない気持ですわ……あの、おっしゃってくださいな、あなたは、あたしがそうしてほしいと申し出れば……(もじもじしながら)あたしに淫売させてくれるような女のひとを、紹介してくださることがおできになって?
サン・タンジュ夫人
あなたがたんと経験を積むようになるまでは、そういうことに関しては、あたしだけを頼りにしていればいいことよ、ウージェニイ。そういう面倒は、あたしに任しときなさい、場合によったら、尻拭《しりぬぐ》いでも何でもしてあげるから。そこで、まずあたしの弟と、あなたを教育してくださるこの立派なお友達とに、最初に身をまかせたらいいと思うの。お代りはそのあとで探してあげる。ちっとも心配することはないのよ、あなた。あたし、快楽から快楽へと、あなたを飛びまわらせてあげるわ、無上の悦楽の海に、あなたを沈めてあげるわ。もうこれっきり、いやと言うほど楽しませてあげるわよ!
ウージェニイ(サン・タンジュ夫人の胸のなかに飛びこんで)
ああ! おばさま、あたし大好き。あたしくらい素直に言うことを聴く生徒は、きっとどこにもいないでしょう。でも、いつかおばさまとお話したときに、たしかあなたは、若い女がふしだらな生活に飛びこむと、あとで結婚した夫にそれを気どられまいとしても、なかなかむずかしいとおっしゃったようでしたけれど?
サン・タンジュ夫人
それはその通りよ、あなた。ところがここに、そんな裂け目なんぞすっかり塞《ふさ》いでしまう秘訣《ひけつ》があるの。それをこれから伝授してあげましょう。そうすればあなたは、かりにアントワネットのようにいろいろやってきた身だとしても、あたしが責任をもって、生まれてきた時と同じくらい純潔|無垢《むく》な身体にしてあげるわ。
ウージェニイ
まあ! うれしいわ、おばさま! それじゃ、どうぞお講義をつづけてください。女は結婚生活でどう身を処したらよいものか、さ、はやくあたしに教えてくださいな。
サン・タンジュ夫人
いいですか、女というものは、娘であろうと人妻であろうと後家さんであろうと、要するにどんな境遇にあろうとも、朝から晩まであのことをされる以外には、どんな目的も、どんな仕事も、どんな欲望も、有《も》つべきではないわ。自然が女というものを創《つく》ったのも、ひとえにこの目的のためなんだから。で、こうした趣旨を達成するためにこそ、あたしは子供のころの偏見を残らず足で踏みにじるよう要求したり、家庭の命令には断々乎《だんだんこ》たる不服従を、両親の忠告には頭くだしの軽蔑を云々《うんぬん》したりするわけなのだけれどね、ウージェニイ、ここまでいえば、断ち切らねばならないあらゆる束縛のなかでも、いちばん早くに廃止してしまう必要のあるものが、たしかに結婚の束縛だってことは、あなたにもお分りでしょう。実際、考えてごらんなさいよ、ウージェニイ、生まれた家なり寄宿舎なりから出たばかりの、まだ西も東も分らない無経験な若い娘が、まだそれまで一度も見たことのない男の手に、有無を言わさずさっさと引き渡され、祭壇の下で、不当な服従と貞節――だってそうでしょうが、心の底では、そんな約束なんか一思いに破ってやりたいと、たいていの女が考えるんですもの、ますますもって不当じゃありませんか――つまりそういう服従と貞節とを、祭壇の下で無理やりその男に誓わせられるのよ。いったい、ウージェニイ、世の中にこれ以上おそろしい運命というものがあるかしら? それでも、夫が妻の気に入ろうが入るまいが、また妻に対して愛情あるいは礼節をもっていようがいまいが、ふたりは結ばれてしまうのが落ちなのね。そして妻の名誉は結婚式のときの誓言にかかっていて、もし彼女がそれを侵せば、名誉はたちまち形なしになってしまうのよ。だから妻たるものは、身を滅ぼすか、それとも死ぬまで軛《くびき》を引きずっているかしなければならない、たとえ苦痛のあまり死のうとも。やれやれ! 何ということでしょう、ウージェニイ。いいえ、いいえ、あたしたちがこの世に生まれてきたのは、そんな死様《しにざま》をするためじゃ断じてないわ。そんな不合理な法律は男が勝手に作ったもので、あたしたちはそんなものに従う義務はぜんぜんないわ。それじゃ離婚すればいいじゃないかと言うの? どういたしまして、それだってやっぱり駄目ですよ。最初の縁組であたしたちの手を逃れた幸福を、二度目の縁組ではもっと確実につかむことができると誰が言えて?
だからあたしたちは、こんな不合理な夫婦の絆《きずな》という束縛に対しては、こっそり埋め合わせをするに限るわ。だいたいこういったことでは、あたしたちのふしだらは、たとえそれがどんなに甚だしいものであったところで、自然を凌辱《りようじよく》するどころか、却って心から自然に奉仕することでしかないということは慥《たし》かなんですものね。自然だけがあたしたちにそういう欲望を吹き込んでくれたんだから、その欲望に屈服することは取りも直さず自然の法則に従うことよ。あたしたちは自然に反抗することによってのみ、自然を凌辱したことになるわけよ。姦通だなんて、男たちはこれを一つの罪のように見なして……その罰として、あたしたち女の命を奪うようなひどいことまでしたけれど、実を言うとね、ウージェニイ、姦通とは、あたしたちが自然から授かった権利を行使することによって、これを自然に返済することでしかないのよ。そしてこの権利だけは、世の亭主関白といわれる輩《やから》がどんな奇策を弄《ろう》そうと、決してあたしたちから奪うことのできないものなのよ。けれども世の亭主たちはこんなことを言うわ、お前のふしだらの結晶を、われわれ夫婦の子供として可愛がったり接吻したりしなければならないとしたら、これは怖ろしいことではなかろうか? とね。たしかルッソオもそう言って反対したわ。そしていかにもこれだけは、姦通を否定し得る唯一のやや尤《もつと》もらしい議論のようだわ。でもね、妊娠の懸念なしに放蕩にふけることだって、実にたやすい限りではありませんか? そしてまた、よしんば不用意から妊娠したところで、闇《やみ》から闇に葬ってしまうのは、もっと容易なことではありませんか? でもこの点にはあとでもまた触れるから、今は問題の根本のみを論じることにしましょう、議論なんてものは、最初はいかにも尤もらしい仰々しさを有っているものだけれど、その実とりとめない影のようなものにすぎないってことがよく分るわ。
まず第一に、あたしが夫と一緒に寝て、夫の腎水《じんすい》があたしの花心の奥に流れこむ以上、たとえあたしが同時に十人の男と寝たとしても、やがて生まれる子供が夫のものでないと証明するものはどこにもないわ。それは夫のものでないかもしれないし、と同時に夫のものであるかもしれないわ。そしてそれがどんなにあやふやであったとしても、(なにせ彼はこの子を生むのに妻と力を分け合ったのだから)夫はこの生まれた子を自分のものと認知するのに躊躇《ちゆうちよ》することはできないし、またしてはいけないはずだわ。夫の子であるかもしれないという可能性がある以上、それは当然夫のものになるべきよ。こんなことを疑って不幸になるような男だったら、妻がいかほど貞女であったにしても、やっぱり不幸は免れられないわ。なぜって、もともと女というものには信頼を置けるものじゃなし、十年間貞淑な妻が一日で貞淑を破ることだって、あり得るかも分らないじゃないの。だからもしその夫が疑いぶかいひとであれば、何でも彼でも疑うにきまっているわ。そしてそういうひとにとっては、自分の抱いている子供が果して本当に自分の子であるかどうかは、永遠に確信がもてないでしょう。そこで、もしその夫が何でも彼でも疑わずにはいられないようなひとだったら、時にはその疑いを正当なものにしてやったって、一向|差支《さしつか》えないことじゃないかしら。だって、その夫が精神的に幸福であったり、あるいは不幸であったりするためには、そのことはぜんぜん関係しないのですもの。だから結局、そうしてやった方がいいというわけよ。ところであたしに言わせれば、そういう疑いぶかい夫は、完全に間違っているわ。たとえば妻の道楽の結晶を可愛がってやる夫がいたとしたって、そのひとのどこがいけないの? 夫婦の財産は共通のものじゃないの? そうとすれば、その財産の一部を分けてもらう権利のある子供を、あたしが家庭の内に連れ込んだからといって、どこがわるいと言うの? その子が将来分けてもらうのはあたしの財産であって、あたしの優しい夫の財産に手を出そうなんて言うんじゃ、ぜんぜんないわ。その子の受継ごうという財産は、あたしの持参金の一部と見なさるべきものなので、その子にしてもあたしにしても、夫のものは何ひとつ奪うわけじゃないわ。ところがもしその子が夫の子であるという場合、いったいどんな資格で、その子はあたしの財産の分け前にあずかることができるというの? 要するにその子があたしのお腹《なか》を痛めた子だからというわけじゃないの? そうですとも! おたがい血を分けた間柄であればこそ、財産の分け前にもあずかろうというのよ。その子はあたしのものだからこそ、あたしは自分の財産の一部をその子に分け与えねばならないのよ。それなのに、どうしてあたしが非難を受けねばならないの? 夫だって、それを楽しめばいいのだわ。――しかしお前は自分の夫を欺いた、ひとを欺くということは悪いことだ――こんなことを言う人があったら、あたしは答えてやるわ。――いいえ、それはおたがい様よ、それだけのことですわ。あたしの方こそ最初に騙されて、無理やり縁組させられたんじゃないの。あたしはただそれに復讐《ふくしゆう》しただけの話よ、これ以上当然のことってないでしょう?――とね。すると相手はまた――しかしお前の夫の名誉は現実に汚されたじゃないか――と言うかもしれない。これに対しては、――それこそ偏見というものですよ! と答えてやるわ。あたしの道楽はあらゆる点で夫とは無関係のもので、あたしの失敗はあたしだけに係《かかわ》りのあることよ。だいたいこのいわゆる、夫に恥をかかすというような考え方が、百年も昔の考え方で、今日このような迷妄《めいもう》にとらわれているひとはまずいないでしょう。あたしの夫があたしの乱行によって名誉を汚されることのないのは、あたしが夫の乱行によって決して名誉を汚されることのないのと同じよ。あたしはたとえ世界中の男と寝たとしても、夫に擦《す》り傷ひとつ負わせたことにはならないのよ! だから、このいわゆる夫の損害というものも、実は現実にあり得べからざるお伽話のようなものでしかないわけね。ここに二つの場合があるわ、夫が乱暴で嫉妬ぶかい男である場合と、優しい男である場合と。最初の仮定においては、あたしが何よりしなければならないことは、できるだけ夫の仕打に復讐してやることね。ところが第二の仮定では、あたしはたとえどんなことをしても、夫を苦しめることができないでしょう、なぜって、もし夫が度量のある立派なひとだったら、あたしが快楽を味わっているのを見れば、きっと自分も幸福な思いになるに相違ないからよ。つまりやさしい男だったら、自分の熱愛している女が幸福でいるのを見れば、誰しも楽しい思いになるのが当然じゃなかろうか、ということよ。――しかし逆にお前が夫を愛している場合に、夫が同じようなことをしてもお前は平気かね?――こう訊《たず》ねるひとがあったら、あたしは答えてやるわ。――やれやれ! 事もあろうに自分の夫に嫉妬しようなんて、何という情ない女でしょう! もし夫を愛しているのなら、夫から与えられるもので満足すべきであって、かりにも夫を拘束しようなんてすべきじゃないわ。そんなことをしたってうまく行かないばかりか、夫から嫌われる始末になるのが落ちですものね。だからもしあたしに分別があるなら、夫の乱行なんかで絶対に泣いたりわめいたりはしなくてよ。夫の方でもあたしに対して同じように振舞ってくれればいいわけで、そうすれば家庭に波風は立ちません、とね。
さあ、それでは今までのところをまとめてみましょう――たとえ姦通の結果がどうあって、夫のものではない子供を家庭の中に連れこむことになろうとも、もしその子が妻の子供でさえあれば、当然その子は妻の持参金の一部を分配してもらう権利があるわ。そしてその場合、夫はかりに事情を知らされたにせよ、その子供を妻の最初の結婚の際の子供として認知しなければならない義務があるわ。もし夫が何にも事情を知らなければ、不幸になることもあり得ない、なぜなら、自分の知らない悪事で不幸になることはあり得ないから。だから、姦通がその後ひき続いて行われず、夫もそれについて何も知ることがなければ、この場合、どんな法学者もそれを罪として証明することはできないわ。つまり姦通はそれが犯された瞬間からすでに、その事実を知らない夫にとっては、完全に無関係な行為であり、またそれを楽しんだ妻にとっては、完全に有益な行為でしかないわけよ。もし夫が姦通を発見したとしても、その姦通はもはや悪事とは言えないわ。だって、つい今しがたまでは悪事じゃなかったんですもの、発見されたからといって、急に性質が変るなんてことはあり得ないわ。夫が発見したということが、すべての災いのもとでしかないのよ。だからこの罪は夫だけの負うべきもので、妻には何の責任もあるはずがないわ。昔、姦通を罰したひとびとは、だから冷血漢とか、横暴な男とか、嫉妬ぶかい亭主とかいった連中で、彼らは何でも自分本位に考えたから、ただもう自分たちの気に障《さわ》るということだけで一切のものが罪になると、不当にも考えていたのよ。まるで個人的な侮辱も当然一般的な罪でなければならず、また自然と社会に害を与えるどころか、明らかにその両方に役立つような行為まで、自分たちには当然罪と呼ぶことができると言うようにね。ところで、この弁護するにたやすい姦通ということが、別段そのために罪になることはないにしても、妻にとっていささか厄介な問題になる場合もないわけじゃないわ。というのはつまり、たとえば夫が不能者であったり、人口増殖に反対の趣味をお有ちの仁であったりした場合よ。妻の方が楽しんでいるのに、夫の方が少しも楽しめないという場合に、妻の不品行がより目立つのは言うまでもないことですからね。しかし、だからといって妻は遠慮すべきかしら? いいえ、もちろん遠慮は要らないわ。ただひとつ注意すべきことは、子供をつくらないようにすること、そしてもし注意したにもかかわらず、結果に裏切られるようなことになったら、かならず流産させることね。もしも夫の倒錯的な趣味のせいで、やむを得ずみずから夫の冷淡さの埋め合わせをしなければならない場合にも、まず妻はその夫の趣味を、よしんばそれがどのような性質のものであろうとも嫌がらずに、満足させてやることが必要よ。そしてその後に、このような親切がいかに相手に対する理解にみちたものであるかを、思い知らせてやって、それから自分の与えたものの代償として、完全な自由を要求することね。すると夫は拒否するか、あるいは承認するかするでしょう。もしもあたしの夫の場合のように承認したら、一層の思いやりと親切とをもって夫の気まぐれをいたわってやりつつ、自分は自分で思う存分楽しめばいいわけよ。またもし夫が拒絶したら、垂幕《たれまく》をうんと厚くして、その影でこっそりすればいいわ。もし夫が不能者なら、別れればいいわ。でも、とにかくいかなる場合にせよ、心ゆくまでうんと楽しまなければ駄目よ。いかなる場合にせよ、いいこと、うんとしなければ駄目よ、あたしたちはそのためにこそ生まれてきたんですもの。あたしたちはそうすることによって、自然の法則を実践することになるんだから。自然の法則に反する人間の法則なんて、どんなものであろうと軽蔑されるためのものでしかないんだから。婚姻の絆《きずな》などという馬鹿馬鹿しい絆のために、欲望の赴くところに自由に身をまかせることもできず、ただ妊娠とか、夫の不名誉とか、あるいはさらにもっとくだらない、自分の評判に染《し》みがつきはしないかなどという心配のために、したいこともできないでいる女くらい、お人好しで融通の利かないものはないわ! あなただってもうよく分ったでしょう、え、ウージェニイ、そんな女がどれくらいお人好しだか……そんな女が、どれくらい滑稽な偏見のために、自分の幸福とあらゆる生活の喜びとを、卑屈にも犠牲にしているか……ああ! 思い切って勝手なことをしてしまえばいいのに! そうしたからって、ちっとも不都合なことがあるわけでもないのに! いったい空々しい少しばかりの名誉や、やくざな宗教的希望が、そういう女のそれだけの犠牲を償ってくれるものかしら? いいえ、そんなことは決してない、美徳だって悪徳だって、お棺のなかへ入ってしまえばすべて一緒くたになってしまうものよ。死んで四、五年もすれば、世間の口は、あるひとびとをけなす以上にあるひとびとを賞めもしなくなるわ。そんなものよ! まったくの話、そんなものよ、楽しい目もみずに暮らした不幸な女は、可哀そうに何の報いも得ることなく、最後の息をひき取るのよ。
ウージェニイ
ほんとうに、あなたのおっしゃる通りですわねえ、おばさま! あなたのおかげで、あたしの偏見はすっかり追っ払われてしまったわ! あなたのおかげで、お母さまに詰めこまれた間違った教訓は、すっかり打ち壊されてしまったわ! ああ! あたし、あなたに教えていただいたことをすぐにも実行に移すために、明日にもできたら結婚したいと思うわ。あなたのお教えは、何て魅力的なんでしょう! 何て真実味があるんでしょう! もうあたし、とても気に入っちゃったわ! でも、あなたに教えていただいたことのなかで、一つだけ心配なことがあるんです。あたしにはどうしても理解しかねることなので、ぜひおばさまに説明していただきたいと思うんですけれど。おばさまのお話によりますと、あなたの旦那さまは、快楽の時に子供の生まれるような方法は用いなかったそうですね。いったい、どんな風にしたんでしょうか?
サン・タンジュ夫人
あたしの亭主はね、あたしと結婚した時にもうお爺さんだったのよ。結婚の初夜から、彼は自分の風変りな趣味をあたしに知らせてくれて、自分の方でも、あたしの浮気の邪魔は決してしないと約束してくれたわ。あたしは彼の言いつけに従うことを誓って、その時以来、二人はいつもこの上ない自由の生活を楽しんでいるというわけよ。あたしの亭主の趣味というのはね、とても奇妙な手続を踏むのですけれど、つまり、あたしが彼の顔の上に馬乗りに跨《また》がって、彼の口のなかにうんこをしなければならないの。そして、彼はそれを呑《の》みこむのよ!
ウージェニイ
まあ、何て異常な趣味なんでしょう!
ドルマンセ
この世の中に、異常などと呼ばれ得るものは一つもないよ、ウージェニイ。すべては自然から由来しているのだからね。自然は人類を創造したとき、その顔をひとりひとり違えて造ったように、その趣味をもひとりひとり違えて造ったのさ。だから、僕たちは千差万別な人間の容貌《ようぼう》に驚くより以上に、人間の趣味の多種多様なることに驚く必要はない。今おばさまが話してくれたような趣味も、あなたは知るまいが、現在かなり流行しているのだよ。とくにある年齢のひとに多いが、おびただしい数の人間がこの趣味に熱中している。どうだね、ウージェニイ、あなたに対して、もし誰かがこの趣味を要求したら、あなたはそれを断わるかね?
ウージェニイ(赤くなって)
ここであたしが教わっている原則にしたがえば、あたしはどんなことを要求されても断われないのではないかしら? でも、せめて初心者の戸惑いに免じて、許していただきたいわ。なにしろ、あたしがこんなみだらなことを耳にしたのは、これが初めてなんですもの。まず、あたしは理解しなければなりません。でも、あたしの先生方はたぶん、問題の解決から方法の実行までは、自分たちが命令しさえすれば、一跳《ひとと》びで跳び越せる距離だろうぐらいに確信していらっしゃるのでしょうね。それはともかく、おばさま、あなたは旦那さまのお気に入るような心使いを示してあげる約束をなさって、あなたの自由を手に入れたと仰言《おつしや》るのね?
サン・タンジュ夫人
ええ、全面的な自由をね。あたしは亭主に何の干渉も受けず、自分で自分のやりたいことをすべてやったわ。でもあたしは恋人なんか一人もつくらなかった。恋人をつくるには、あまりに快楽を愛していたのね。だいたい一人の男に愛を捧げる女なんて、あわれなものよ。女を破滅させるには、一人の恋人で十分だわ。ところが、毎日のように繰り返される淫蕩の場面は、それが終ると同時に、沈黙の夜のなかに消えてしまうのよ。あたしはお金持でしたから、若い男たちにお金を払って、あたしの身分を明かさないで彼らと寝ることもできたわ。美貌の下男たちを周囲に集めておくこともできたわ。彼らは秘密を守れば、あたしと一緒に快楽を味わうことができ、一言でも喋れば、たちまちお払い箱になるということを承知していたわ。あたしがこうした方法で、どんな逸楽の奔流に身を沈めたことか、あなたには想像もつかないでしょう。あたしを見習おうとするならば、すべての女がこうした身の処し方をすべきだと思うわ。結婚してから十二年、あたしはたぶん一万人ないし一万二千人の男たちと寝た筈《はず》よ。それでもあたしは社交界で、身持の正しい女と見られているのですからね! 恋人なんかつくったら、その女はもう駄目よ。
ウージェニイ
その教えは、いちばん確実ですわね。あたしもきっと、その教えを守るようにしますわ。おばさまのように、お金持の男のひと、とくに変った趣味をもった男のひとと結婚するように心がけますわ……でも、おばさま、あなたの旦那さまは御自分の趣味にひたすら執着していて、そのほかのことは少しも要求なさらないのですか?
サン・タンジュ夫人
十二年このかた、あたしがメンスの時をのぞいては、彼は一日も自分の趣味に反するようなことはしなかったわ。メンスの時はね、彼が自分で望んで家へ置くことにした、とてもきれいな娘があたしの代りを勤めるの。それはもう万事うまく行ってるわ。
ウージェニイ
でも、旦那さまはそれだけで我慢していられるかしら? 家の外でも、べつの女のひとを相手に、快楽にさまざまな変化をつけることが必要なんじゃないかしら?
ドルマンセ
その通りだよ、ウージェニイ。この奥さんの御亭主ときたら、なにしろ当代随一の道楽者だからね。いま奥さんがあなたに話してくれたような淫猥《いんわい》な趣味のために、彼は一年に十万エキュ以上の金を使っているんだよ。
サン・タンジュ夫人
打ち明けて言えば、そんなところね。でも彼がどんな不行跡をしようと、あたしにはどうでもいいことだわ。だって、そのおかげで、あたしも大っぴらに不行跡ができるんですものね。
ウージェニイ
それではお聞きしますけれど、おばさま、あなたが初物を捧げた幸運な男のひとは、どなたですの?
サン・タンジュ夫人
あたしの弟よ。弟は子供の頃から、あたしを熱愛していたの。あたしたちはごく幼い時分から、よく一緒に楽しんだものだったわ。もっとも、その時分は目的を達しませんでしたけれど。あたしは、結婚したら弟に身をまかせることを約束していたの。その約束は、ちゃんと守ったわ。幸いなことに、あたしの亭主はあたしの身体に少しも傷をつけなかったので、弟はすべてを自分の手に入れたわ。あたしたちは今でもこの関係をつづけているけれど、それによってお互いが迷惑するようなことは決してないわ。それどころか、あたしたちは二人とも、それぞれ最も素晴らしい逸楽の海に浸っているのよ。あたしたちはお互いに利用し合うことだってあるわ。あたしは弟に女のひとを世話してあげるし、弟はあたしに男のひとを紹介してくれるの。
ウージェニイ
おもしろい取りきめね! でも近親相姦は罪じゃないかしら。
ドルマンセ
自然の最も楽しい結合、自然が最善をつくして僕たちに命じたり勧告したりする結合を、いったい、どうして罪だなどと考えることができるかね。まあちょっと理論的に考えてごらん、ウージェニイ。この地球が遭遇した数々の大きな不幸のあとで、人類は近親相姦による以外に、どうして子孫をふやすことができたかね。その実例や、はっきりした証拠までが、キリスト教徒の崇拝する書物のなかに、ちゃんと書いてあるじゃないか。アダムやノアの家族が、はたしてそれ以外の方法で、存続することができただろうか。世界中の風俗習慣をほじくり返して、よくしらべてごらん。そうすればあなたは、近親相姦というものが到るところで公認され、家族の紐帯《じゆうたい》を強固にするために作られた賢明な法律として、尊重されていることに気がつくだろう。恋愛というものが要するに、似た者同士のあいだに生まれる感情だとすれば、兄と妹、父と娘のあいだの恋愛ほど完璧《かんぺき》なものが、はたして他にあり得るだろうか。われわれの風習のなかで、近親相姦が禁止されているのは、ある特定の家族の勢力があまりにも強くなるのを懸念する気持から生まれた、納得しがたい一つの政策のためなのだ。だが僕たちは、人間の利己心あるいは野心からのみ生まれたにすぎないものを、自然の法則だなどと考えるほど馬鹿ではない。
ひとつ、胸に手をあててとっくり考えてみよう。僕が物識り顔の道学先生にいつも要求しているのも、それなんだ。実際、この胸という神聖な器官の語るところに、素直に耳を傾けてみよう。そうすれば、われわれは、家族同士の肉体的な結合ほど快適なものはないということを、どうしても認めずにはいられまい。兄の妹に対する、父親の娘に対する感情に目をふさぐのは、よしたがいい。彼らは互いにそうした感情を、合法的な愛情のヴェールによって偽り隠しているが、そんなことをしたって無駄なのだ。矢も楯《たて》もたまらぬ恋慕の情こそ、彼らを燃え上らせる唯一の感情なのであって、それこそ自然が彼らの胸のうちに刻みこんだ、唯一のものなのだ。だから、この楽しい近親相姦を、何らの怖れるところもなく、二倍にも三倍にも殖やすがいい。われわれの欲望の対象が、われわれに身近なものであればあるほど、これを享受する楽しさは、いよいよ増大するものだということを信じよう。
僕の友達のひとりは、自分自身の母親とのあいだに儲《もう》けた娘と一緒に、いつも暮らしている。その男は、ほんの一週間前に、自分とこの娘との交渉の結果として生まれた、十三になる男の子の童貞を汚したばかりだ。もう五、六年もすれば、今度はその男の子が、自分の母親と結婚するかもしれない。僕の友達もそれを切に望んでいるのだ。つまり、彼は自分がしたようなことを彼らにもさせて、やがてその結婚から生まれるであろう果実を、さらに自分が味わおうという魂胆らしいのだ。僕にはちゃんとそれが分っている。彼はまだ若いから、その希望には可能性が十分だ。どうだい、ウージェニイ、こうした結合を悪と認める偏見のなかに、もし幾らか真実なものが含まれているとすれば、この真面目《まじめ》な友人は、いったい、いかなる近親相姦と罪悪の数によって我が身を汚したことになるのだろうか? 要するに僕は、こうしたことについては、いつも次のような原理から出発することにしている。すなわち、もしも自然が男色の享楽や、近親相姦の享楽や、自涜《じとく》などを禁じているとすれば、われわれがそれらの行為にあれほどの快楽を発見することを、いったい自然は黙って許しておくだろうか、と。自然がほんとに自分を傷つけるものを、黙って見逃しておくはずはないからね。
ウージェニイ
ああ、すばらしいあたしの先生! あなたのお教えを受けて、よく分りましたわ。この世の中には、罪なんて無いも同然なのね。ですから、かりに愚かなひとたちにとって、あたしたちの欲望がいかに奇妙|奇天烈《きてれつ》に見えようとも、あたしたちは心静かに、どんなことでもしたい放題のことができるわけなのね。愚かなひとたちは、あらゆることに腹を立てたり心配したりして、浅墓にも、社会的な制度を神聖な自然の法則のごとくに勘違いしているのだわ。それにしても、この世の中には、たとえ自然によって定められたものにせよ、やはり絶対に許すことのできない、どう見ても罪悪だとしか考えられないような、ある種の行為というものが、どこかにあるんじゃないでしょうか。もちろんあたしだって、あなたと同じように、奇妙なものを作り出したり、いろんな気質をあたしたちに与えたりするこの自然というものが、時にはあたしたちを残酷な行動にみちびいて行くことがあるということは、はっきり認めたいと思いますわ。でも、もしあたしたちがそんな風にどんどん堕落させられて、この奇怪な自然から受ける衝動のままに、たとえば同胞の生命に危害を加えるというようなことをしたと仮定しますと、その行為はやはり、一つの犯罪と言われても仕方がないんじゃないでしょうか。
ドルマンセ
どうしてどうして、そんな議論はとても承服できないね、ウージェニイ。だいたい破壊ということは、自然の根本的な法則の一つなのだから、どんな破壊といえども罪にはなり得ないのだよ。これほど自然に役立つ行為が、どうして自然を侮辱し得よう? しかも人間が破壊と思いこんでいるものは、実は一つの幻想にすぎないのだ。殺人は決して破壊ではない。殺人を犯す者は、ただ形態を変えるにすぎない。彼は人を殺すことによって、さまざまな要素を自然に返してやるわけだ。すると自然は巧みな手で、たちまちそれを材料として、別のものを作り上げる。ところで創造ということは、創造する者にとっては、まさに楽しみ以外の何ものでもないのだから、つまるところ殺人者は、そうした楽しみの一つを自然に与えてやっているわけになる。彼が自然に材料を提供すると、自然がただちにこれを利用する。だから、世の馬鹿者どもが愚かにも非難する殺人という行為も、宇宙の代理人たる自然の目からみれば、一つの立派な功績にほかならないのだ。殺人を罪悪と見なすのは、われわれ人類の思い上りだ。人間こそは宇宙における最高の存在とうぬぼれて、われわれは愚かしくも、この至高の存在に対して加えられるあらゆる傷害が、あたかも当然大きな犯罪でなければならないかのごとくに空想するのだ。もしこのすばらしい人類がついに地球上から消滅すれば、自然もやはり滅びるだろうとわれわれは考え勝ちだが、その実、人類の完全な破滅は、われわれが自然から譲り渡された創造の能力をふたたび自然に返還することであり、人類が繁殖しつつ自然から奪った一つのエネルギーを、ふたたび自然に返却することでしかないのだ。
それにしても、何という矛盾したことだろう、ウージェニイ! だってさ、野心満々たる君主は、その遠大な計画を邪魔する敵を、勝手気ままに、しかもいささかの懸念もなしに殺戮《さつりく》することができるんだぜ。また残酷で勝手で権柄《けんぺい》ずくな法律というやつも、同じようにあらゆる時代を通じて、幾百万という人間を殺すことができるんだぜ。ところが、力の弱い不幸な個人であるわれわれは、ただ一人の人間をさえも、自分たちの復讐や気まぐれの犠牲とすることができないんだ! 世の中に、およそこれほど野蛮な、奇怪至極なことがあるだろうか。だから僕たちは、深い秘密の幕のかげで、この不条理さに対して思いきり復讐でもしてやるよりほかに、どうすることもできないのだよ。
ウージェニイ
たしかにそうだわ……おお、あなたの教訓は何て誘惑的なんでしょう、何て甘い味がするんでしょう! でも、正直に仰言ってくださいましな、ドルマンセ、あなたは、時々そうした種類の欲望を満足させたことがおありになるんじゃありません?
ドルマンセ
まあ、自分の不行跡をあなたの前にさらけ出すことだけは、勘弁してもらいたいね。数からいっても種類からいっても、僕はどうしても赤面しないわけには行かない。たぶん、いつかそのうちには、何もかもあなたの前で白状するだろうよ。
サン・タンジュ夫人
この悪党さんはね、たびたび法律の生殺与奪権を巧みに操って、御自分の情欲を満足させるために利用しているのよ。
ドルマンセ
どうか僕に対するお咎《とが》めはそれだけにしておいてください!
サン・タンジュ夫人(彼の首っ玉に飛びついて)
すてきな方! あたし、あなたを崇拝してよ! あなたのようにありとあらゆる快楽を味わうには、才智と勇気とが必要だわ。無智と愚昧《ぐまい》のあらゆる束縛を断ち切る名誉が与えられているのは、ただ天才だけよ。接吻してちょうだい、あなたが大好き!
ドルマンセ
ところでウージェニイ、率直に答えてもらいたい。あなたは今までに、誰かが死んだらいいと願ったことはなかったかね。
ウージェニイ
ええ、ありますわ、ありますわ! あたし毎日目の前に、大嫌いなひとを見ているんですの。もうずっと前から、そのひとが死んだらどんなによかろうかと考えていましたの。
サン・タンジュ夫人
あたしが当ててみましょうか、そのひとを?
ウージェニイ
誰だとお思いになる?
サン・タンジュ夫人
あなたのお母さま。
ウージェニイ
おお! あたしの赤くなった顔を、おばさまの胸で隠させてちょうだい。
ドルマンセ
いたずら娘め! 今度は僕が、君を愛撫でさんざん苦しめてやろう。君の心と頭脳の強さには、そのくらいの御褒美《ごほうび》が必要だ。(ドルマンセは娘の身体中に接吻の雨を浴びせ、娘のお尻を軽くぴしゃぴしゃ叩いてやる。そのうち、昂奮がおさまると、ドルマンセは次のように続ける)それはそうと、ウージェニイのすばらしい空想を、僕たちが実現してやってもいいじゃないか。
サン・タンジュ夫人
ウージェニイ、あなたが自分のお母さんを憎んでいるように、あたしも昔はあたしの母が大嫌いだったのよ。でもあたしはぐずぐず躊躇したりなんぞしなかったわ。
ウージェニイ
実行に移すにも、あたしには手立てがなかったんですもの。
サン・タンジュ夫人
むしろ勇気と言ったらいいでしょう。
ウージェニイ
無理ですわ! あたしまだ子供だったんですから。
ドルマンセ
それじゃ、現在の君にはやる気があるんだね、ウージェニイ?
ウージェニイ
ありますとも……手立てさえ調《ととの》えてくだされば、何だってやる気ですわ!
ドルマンセ
それじゃ、きっと手立ては調えてやるよ、ウージェニイ。僕が約束する。ただし、それには一つだけ条件がある。
ウージェニイ
どんな条件ですの? どんな条件だって、あたしには受け容れる用意がありますけれど。
ドルマンセ
おいで、おてんば娘、僕の腕の中へおいで。もう我慢ができない。いいかい、僕が君に約束する贈物のお返しには、君の可愛いお尻がほしいんだよ。悪事には悪事をもって報いるべしというからな! さあおいで!
…………………………
ドルマンセ
やれやれ! くたくたに疲れてしまった。せめて数分間、一息つく余裕をあたえてほしいね。
サン・タンジュ夫人
男のひとというのは、いつもこれなのよ、ウージェニイ。自分の欲望さえ満たしてしまえば、もうあたしたちの方を見向きもしなくなるのよ。肉体が消耗すると、女に対する嫌悪の情が起り、やがて軽蔑の念が生じるというわけなのね。
ドルマンセ(冷淡に)
これはこれは、手きびしいね! (彼は二人の女に接吻する)たとえ男の肉体がどんな状態にあろうと、あなた方は二人とも、つねに愛すべき御婦人さ。
サン・タンジュ夫人
でもね、気を落す必要はないわ、あたしのウージェニイ。男のひとが満足したからという理由で、あたしたち女を無視する権利があるとすれば、あたしたち女にも、男のためにさんざん肉体を酷使されたとき、やはり彼らを軽蔑してやる権利があっていいのじゃないかしら? ティベリウス帝がカプリ島で、自分の情欲を満たすために用いた女を片っぱしから殺していたように、アフリカの女王ヅィングァも、彼女の恋人たちを次々に血祭りにあげていたのですからね。
ドルマンセ
そういう種類の放蕩は、じつに単純明快なもので、僕にもよく理解できるがね。しかし、僕たちのあいだでは、かりにも行われるべきことではないよ。「狼は共食いをしない」という諺《ことわざ》もあるくらいだ。平凡なことだが、正しいことだよ。だから皆さん、僕を怖れる必要はまったくない。僕はあなた方に、悪いことをたくさんさせてあげるつもりだが、僕があなた方に対して悪いことをする気遣いは、絶対にない。
ウージェニイ
そうよ、そうよ、おばさま。あたしが保証してもいいわ。ドルマンセさんは、あたしたちに対する権利を悪用したりなんか絶対にしない方だわ。あたしは彼の道楽者としての誠実を信じているわ。それこそ最高の誠実よ。それはそうと、あたしたちの家庭教師をもう一度お講義の方へ連れもどしましょうよ。そして、あたしたちが実習に移る前に熱中していた大事な計画を、もう一度検討してみましょうよ。
サン・タンジュ夫人
まあ! おちびさん、あなたはまだそんなことを考えているの! あれはあなたの興奮した頭のなかから生まれた、妄想《もうそう》だとばかり思っていたわ。
ウージェニイ
そうではなくて、あれはあたしの心の底からの衝動なのよ。あの罪悪を完成しなければ、あたしの心は満足しないのよ。
サン・タンジュ夫人
おお、よしよし、そうかそうか! でもね、赦《ゆる》しておあげなさい。だって相手はあなたのお母さんでしょ?
ウージェニイ
だからどうだっていうの?
ドルマンセ
ウージェニイの言う通りだよ。そもそも、このお母さんなる女は、ウージェニイを生んだとき、彼女のことを考えていたのだろうかね? この女が男と寝たのは快楽のためであって、娘をつくろうという目的があったわけでは、よもやあるまい。そうだとすれば、ウージェニイはこの点に関する限り、自分の好きなように行動してよいわけだ。彼女には全面的な自由をあたえるべきだし、たとえどんな過激な行動に走ろうと、咎むべき理由はまったくないということを保証してやらねばなるまい。
ウージェニイ
あたし、お母さんが大嫌いなのよ。ぞっとするほど嫌いなのよ。嫌いな理由はいくらでもあるわ。どんな犠牲を払ってでも、お母さんの生命を奪ってやらなくちゃ!
ドルマンセ
そうか、それだけ固い決心でいるのなら、あなたの願いはいずれ叶《かな》えられるだろう、ウージェニイ。僕が保証するよ。ところで、行動する前に、あなたにとって何よりも必要となる筈の忠告を一言、言わせてもらおう。それは何かといえば、絶対に秘密を洩《も》らすなということ、それから一人で行動せよということだ。共犯者くらい危険なものはない。僕たちにいちばん親しく結びついていると思われる人間を、つねに警戒しなければいけない。「共犯者はもつべきではない。さもなければ、利用したらただちに抹殺《まつさつ》すべきである」とマキアヴェルリも言っている。それだけではない。あなたが抱いているような計画を遂行するためには、嘘《うそ》いつわりが絶対に必要だよ、ウージェニイ。あなたは殺すべき相手に手を下す前に、まずその相手に、今までより以上に接近しなければいけない。そして相手に同情したり、相手を慰めたりする風をよそおわなくてはいけない。甘い言葉で歓心を買い、悲しみや悩みを共にし、いかにも相手を愛しているかのように見せかけるのだ。そうすれば、やがて相手も信じこむようになる、伊達《だて》や酔狂でこんな真似はとてもできない、とね。ネロはアグリッピーナを船の上で愛撫したが、この船には、やがてアグリッピーナを水の底に沈める仕掛がしてあった。このお手本を真似て、あなたの心に思い浮かぶありとあらゆる瞞着《まんちやく》の手段を用いるがよい。ふだんから嘘をつくのが女の習性であるとすれば、こういう場合にこそ、その習性を大いに発揮してもらいたいものだね。
ウージェニイ
そのお教えはよく覚えておいて、いずれ実行に移しますわ。ところで、あなたが女に用いることをお勧めになった嘘という問題ですけれど、これを深く掘り下げていただけませんか。あなたは、嘘をつくことがこの世で絶対に必要であるとお考えになっていらっしゃいますの?
ドルマンセ
人生において、これ以上必要なことはないと思うね。それが絶対に欠くべからざるものであるということは、確実な真理が証明してくれるよ。つまり、すべての人間がこれを用いている、ということだ。そこで訊くが、嘘つきばかりの社会で、まじめな人間が必ず失敗するということは、分りきったことではないだろうか。もし世人の主張するように、美徳が市民生活において何らかの役に立つということが本当ならば、大部分の市民がそうであるように、意志も力もいかなる美徳の素質も持たない平凡な人間は、競争者によって奪われた幸福の分け前を少しでも自分の方に獲得するために、どうしても嘘をつかざるを得ない破目に追いやられるのではないだろうか。それに、現実問題として、社会人に必要とされるのは、果たして美徳であろうか、それとも美徳の見かけであろうか? 見かけだけで十分だということは、疑うべくもないだろう。見かけさえ備わっていれば、必要なものすべてが備わっているということだ。社会人というものが、互いに軽く触れ合って生きているだけのものだとすれば、ただ表面を見せるだけで十分ではないか? さらにまた、美徳の実践が、美徳を所有している者にしかほとんど役立たないということも、確かなことだろう。その他の者は、ほとんど何の利益もそこから引き出せないのである。したがって、僕たちとともに生活しなければならない者が美徳の所有者のごとく見えさえすれば、実際に彼が美徳の所有者であろうとなかろうと、大して問題ではなくなるのだ。
それに、嘘という手段は、ほとんどつねに成功を保証する手段でもある。嘘の手段を所有する者は、商売や取引の相手に対して必ず有利な地歩を占める。つまり、うわべを飾って相手の目をくらまし、まんまと相手を説得してしまうのだ。こうなれば、もうしめたものだ。たとえ僕が自分はだまされたと気がついても、自分を責める以外に、どこへも苦情の持って行き場がない。くやしいから泣き言も言わないでいると、相手はますますいい気になる。僕に対する相手の支配力は、こうしてだんだん大きくなる。彼のやることはいつも正しく、僕のやることはいつも間違う。彼は前進し、僕は後退する。彼は富み栄え、僕は破産する。要するに、彼はいつも僕の上に立っていて、やがては世論をも掌握してしまう。こうなったら、もう僕はどんなに声を大にして叫んでも駄目だ。世間のひとは、もう僕の声などにてんで耳を傾けなくなってしまう。そういう次第だから、僕たちはつねに大胆に、途轍《とてつ》もない嘘をつくように心がけよう。嘘こそ、あらゆる幸福、あらゆる恩恵、あらゆる名声、あらゆる富の鍵《かぎ》だと思わなければいけない。他人をだましたというささやかな良心の呵責《かしやく》などは、悪人になるという刺激的な快楽によって、いつでも埋め合わせのつくものだからね。
サン・タンジュ夫人
この問題については、これで十二分に説明されつくしたと思うわ。ウージェニイもすっかり納得し、不安な気持をしずめ、元気をふるい起したことでしょう。思いのままに行動することができるようになるでしょう。そこで、次の問題として議論しなければならないのは、あたし、淫蕩の分野におけるさまざまな男の気まぐれではないかと思うのよ。この領域は、じつに広大無辺であるにちがいないわ。ひとつ、やってみましょう。今、あたしたちの生徒は実践の手ほどきを受けたばかりだから、今度は理論の面も忘れないために。
ドルマンセ
淫蕩的な男の情欲の細かい部分に関する説明を、若い娘の教育のテーマとしてよいかどうかは疑問でしてね、奥さん。とくにウージェニイのように、娼婦《しようふ》を職業として生きるわけでもない娘さんにとっては、なおさらのことですよ。彼女はやがて結婚するわけだが、結婚した場合、その旦那さんがそうした趣味の持主であるかどうかは、十に一つの可能性です。そういう相手にうまくぶつかれば、旦那さんの操縦は自由自在であり、夫婦仲も至極円満に行くでしょう。一方、そうでない場合には、嘘をついたり、ひそかに埋め合わせしたりしなければならなくなる。まあ、この短かい言葉にすべてが含まれているわけだ。しかし、それでも、ウージェニイが淫蕩の行為における男の趣味について、どうしても分析してほしいというのならば、僕は、これをごく簡略に検討してみるために、三つの部門に分けたいと思う。すなわち、鶏姦[#「鶏姦」に傍点]、涜聖の趣味[#「涜聖の趣味」に傍点]、および残酷趣味[#「残酷趣味」に傍点]だ。このうち最初の情欲は、今日ひろく世間に行きわたっている。すでに説明済みの部分もあるが、いくつかの考察をこれに加えてみよう。まず、鶏姦は能動および受動の二組に分けられる。少年であれ婦人であれ、栽尾する者が能動的鶏姦を行う。栽尾される場合には、彼は受動的鶏姦者である。しばしば問題にされるのは、この二つの鶏姦を行う方法のうち、いずれがより多く快感を伴うかということである。むろん、それは受動的鶏姦の方にきまっている。なぜかといえば、この場合、ひとは前の感覚と後の感覚とを二つながら楽しみ得るからである。性を交換するということは、まことに楽しいことであり、淫売婦の真似をするということは、えも言われぬ歓喜なのである! 僕たちを女として扱ってくれる男に身をまかせ、この男を自分の恋人と呼び、自分を彼の情婦と呼ぶことは、何とも言えない快楽があるのである!
けれども、いいかねウージェニイ、僕たちはここで、もう少し狭い範囲に問題を限定しよう。すなわち、男に姿を変え、男の真似をして、あの甘美な快楽を味わおうとする御婦人に話題をしぼるのだよ。さっき、僕はこうした種類の攻撃にあなたを慣れさせてやったろう、ウージェニイ? 僕の見るところでは、どうやらあなたは、やがてこの方面にすばらしく上達を示しそうな感じだ。僕の忠告を理解してくれるものと信じるが、今後とも、あなたがこの方面に驥足《きそく》をのばすことを期待するよ。これこそシテールの島の最も心地よい場所なのだからね。そこで、この種の快楽しかもはや味わうまいと決意した御婦人のために必要な、二、三の注意をこれから述べることにしよう。まず第一には、あなたが栽尾されているとき、つねに吉舌を刺激するのを忘れないでいることだ。この二つの快楽ほど、見事に調和するものはないのだからね。それから、こうしたやり方で栽尾された直後、ビデを使ったり、布で拭いたりしてはいけない。割れ目はいつまでも開いている方がよいのだ。やがて清潔の配慮など忘れてしまうほど、甘美な快感の余韻が残る。この感覚がいつまで長びくか、僕たちには想像もおよばない。それから、このやり方で楽しんでいる最中、酸っぱいものは食べないようにしなければいかんよ、ウージェニイ。それは痔《じ》を刺激して、插入《そうにゆう》の際に苦痛を伴わしめるからな。大勢の男に続けて尻のなかに埒《らち》をあけられるのも、よいことではないね。この腎水の混淆《こんこう》は、想像力にとっていかほど楽しくとも、健康のためには決してよくないのだ。放射液はその都度、体外に排出した方がよろしい。
ウージェニイ
でも、もしその放射液が体内に入るべきものだとすれば、そんなことをして棄ててしまうのは、罪悪ではないかしら?
サン・タンジュ夫人
何を言っているの、お馬鹿さんね! どんな方法を使ったにしろ、男の精液を通路から外らそうとすることは、ちっとも悪いことじゃないわ。なぜかといえば、繁殖は少しも自然の目的ではないからよ。それはせいぜい自然の寛容でしかないわ。あたしたちは子供などつくらない時の方が、自然の意志をはるかに忠実に履行しているのよ。ウージェニイ、あなたも、この繁殖といういやらしい行為の断固たる敵になってちょうだい。そして結婚してからも、あの信用のおけない液体を、たえず遠ざけるようにしてちょうだい。この液体は、ひとたび生長すれば、あたしたちの身体の格好を悪くし、あたしたちの快楽の感覚を鈍らせ、やがてあたしたちを萎《しな》びさせ、老けこませ、病気にするだけのものですからね。あなたの夫にも、この液体を空費する習慣をつけさせるがいいわ。捧げ物を神殿に捧げないようにするために、ありとあらゆる道を提供してやってね。夫にはいつも、自分は子供が嫌いなんだ。どうか子供を生ませないようにしてほしい、と頼んでおくべきよ。この条項をしっかり守ってちょうだいね。はっきり言っておくけれど、あたしは子供を生むということがぞっとするほど嫌いなのでね、もしあなたが妊娠するようなことがあったら、すぐに絶交するわよ。それでも万一、あなたに落度があったわけではないのに、不幸にして妊娠してしまったというような場合には、最初の七週間か八週間のうちに、あたしに知らせにいらっしゃい。あたしがうまく堕《お》ろしてあげるから。嬰児《えいじ》殺しだなんて、気にする必要はありませんよ。そんな罪は、何の根拠もないものですからね。自分のお腹のなかにいるものを生かそうが殺そうが、あたしたちの勝手じゃありませんか。必要な時に下剤を飲んでお腹のなかを掃除《そうじ》するのも、胎児という一種の物質をお腹のなかから厄介払いしてしまうのも、大して変りはないことだわ。
ウージェニイ
でも、もし子供の月が満ちていたら?
サン・タンジュ夫人
かりに月が満ちて生まれたって、殺していけないという法はないわ。赤ん坊に対する母親の権利よりも確実な権利は、この世にない筈よ。世界のすべての民族が、この真理を認識していたわ。いやしくも理性のある者には、自明の真理だったのよ。
ドルマンセ
その権利はね、やはり自然から由来しているもので……争うべからざるものだよ。こうしたことに関する愚かな誤ちは、すべて宗教理論のでたらめさに原因があるのだ。神を信じていた馬鹿者どもは、人間の生命も神から由来するのだと考え、胎児は成熟の状態に達すると、神から放射された小さな魂が、これに生気を吹きこみに来るのだと信じていた。この馬鹿者どものあいだで、胎児の破壊が重大な罪と見なされねばならなかったのは、当然であったろう。なぜかといえば、彼らにとって、胎児は人間のつくったものではなく、神のつくったものだったからだ。それは神に属するものだった。だから、勝手に処分すれば、罪になるのは当然だった! けれども哲学の光がこうした迷夢をすべて一掃し、神の幻影が足下に踏みにじられ、生理学の法則や秘密にふかく通暁した僕たちが生殖の理論を進歩させ、あの肉体のメカニズムが麦の種子の生長作用と同じく、少しも驚くべきことではないということが明瞭《めいりよう》になって以来、僕たちは、人間の過失を自然のせいにするようになった。人間の権利の範囲を拡大して、要するに僕たちはいやいやながら造ったものや、偶然に生じたものは、どう処分しようと僕たちの自由であると考えるようになった。父や母になりたくない人間を、無理にならせようとするのは不合理であると考えるようになった。この世に一人の新しい人間が殖えようが減ろうが、大して重要なことではないと思うようになった。一言をもってするならば、たとえ生命があたえられていようとも、僕たちがあの肉の塊りを勝手に処分して差支えないのは、ちょうど僕たちが自分の指から勝手に爪を切除したり、自分の身体から瘤《こぶ》をえぐり取ったり、自分の腸から消化物を排出したりして差支えないのと同じようなものだ、と考えるようになった。なぜかといえば、これらはいずれも僕たちの内部から生じたものであり、僕たちに属するものであって、僕たちは自分のなかから生じたものは、絶対に自分の所有物と認めてもよいからである。すでに殺人行為がこの世に大して重大な影響を及ぼすものでないということは説明してあるし、ウージェニイ、これだけ話せば、あなたにもよく分るだろう、嬰児殺しは、たとえその子がすでに分別のつく年頃になっていたとしても、やはり一般の殺人行為と同様、まったく取るにたらぬ些末事《さまつじ》にすぎないということがな。だから、この問題にふたたびもどるのは無駄だ。あなたのすぐれた精神が、僕の証明の足らないところを補ってくれるだろう。地球上のあらゆる民俗の風俗の歴史を読めば、この嬰児殺しの習慣が普遍的であることはすぐ分るし、この大して珍らしくもない行為を悪だなどと考えることが、いかに馬鹿げているかはたちまち納得されると思うよ。
ウージェニイ(まずドルマンセに向って)
もう口では言えないくらい、すっかりよく解ったわ。(次にサン・タンジュ夫人に向って)ねえ、おばさま、教えてくださらない? あなたも、さっきあたしに勧めて下さった、胎児をひそかに堕ろすというお薬を、何度かお使いになったことがあるのじゃなくって?
サン・タンジュ夫人
二度ばかりね。そして、いつも結果は成功だったわ。でも正直に言うけれど、あたしの場合は早期に用いたのよ。ところが、あたしの知ってる二人の御婦人は、五ヵ月くらいで同じ薬を用いて、やっぱり成功したという話だわ。だから、もしもの場合にも安心していていいわよ、あなた。でも、そんな薬が必要となるような事態を招かないように、注意することが何よりね。それがいちばん確かだわ。さあ、それではこの娘さんに約束しておいた、淫蕩の細かい説明の続きをまた始めましょう。ドルマンセさん、お願いしますわ。今度は涜聖の趣味についてよ。
ドルマンセ
僕の思うに、ウージェニイはもう宗教の迷夢から覚め切っているので、馬鹿者どもの信仰の対象を愚弄《ぐろう》したりして遊ぶことが、取るにたらぬことだなどと、わざわざ説明してやる必要はないんじゃないかな。実際、この趣味は取るにたらぬ趣味で、禁制を破ることが面白くてたまらぬ、ごく若い連中の頭を熱中させるだけのことしかない。それは一種のささやかな復讐ともいうべきもので、想像力を刺激し、しばらく僕たちを楽しませてくれる筈だ。けれども、やがて僕たちの愚弄している宗教の偶像が、全くけちくさい絵や彫刻でしかなく、何の役にも立たないがらくたであるということが身に沁《し》みて解ってくると、この快楽は、じつに面白味のない、気の抜けた快楽のように思われてくる。聖遺骨だとか、聖者像だとか、聖体パンだとか、十字架だとかを冒涜《ぼうとく》するという行為も、哲学者の目には、もう異教の像を破壊することと同じにしか見えないのだ。そして、ひとたびこれらの忌わしいがらくたを軽蔑してしまえば、もうそれ以上こんなものにわずらわされず、ほったらかしておくよりほかはない。ただ、冒涜的言辞だけは自分のために取っておくがよい。もちろん、この冒涜的言辞に、より以上の現実性があるというわけではない。すでに神を信じてもいないのに、神の名を罵《ののし》ってみても仕方がないではないか。とはいえ、ここで問題なのは、快楽に酔ったような気分でいるとき、露骨な卑猥《ひわい》な言葉を発するということであり、この冒涜的な言葉が、想像力をひどく刺激するということなのである。遠慮する必要は少しもない。最高の破廉恥な表現で、これらの言葉を飾り立て、できるだけ世人を顰蹙《ひんしゆく》させてやるがよい。世人を顰蹙させるということは、まことに楽しいものだからだ。そこにはささやかな自尊心の勝利があり、この行為には、軽蔑すべきものは毛頭なかろう。打ち明けて言えば、奥さん、それは僕のひそかな快楽の一つでもあるのだよ。これ以上はげしく僕の想像力を刺激する精神的快楽は、めったにないね。
ウージェニイ、あなたもひとつ、やってごらん。それがどんな結果をもたらすか、すぐに分るだろう。たとえば、あなたが自分と同じ年頃で、まだ宗教の迷いのなかにとらわれて生きている娘さんと一緒にいるとき、ひどい不道徳な話をべらべら喋りはじめるのだ。放蕩や不品行の話を得意然と披瀝《ひれき》するのだ。まるで娼婦のような身ぶりをして、乳房をちらと見せてやったりするのだ。もし人目につかぬ場所へ行ったら、みだりがわしくスカートをからげ、あなたの肉体の秘密の部分をぱっと見せてやるのだ。そして、あなたもやってごらんなさいと命令する。甘言を弄したりお説教したりして、相手の偏見の馬鹿馬鹿しさを悟らせてやるのもよかろう。そして相手を悪に染まらせる。男みたいに、大声で罵る。もしも相手があなたより年下だったら、力ずくでつかまえて、その身体をもてあそんでやるがよい。そして、みずから手本を示してやるとか、助言をあたえるとか、要するに相手を最も早く堕落させ得ると思われる手段を総動員して、彼女を悪の道にひきずりこんでやるのだ。男と一緒にいる時でも、やはり自由気ままに振舞うがよい。不信心や破廉恥な言葉をさかんに喋るのだ。男がみだらなことを言っても決して嫌がったりせず、むしろ彼らを喜ばせるようなものを、ひそかに与えてやるがよい。ただし、体面にかかわるようなことは慎んでな。男たちに身体をさわらせてやったり、男たちの身体をそそり立てたり、さては彼らにお尻を貸してやったりするぐらいは、差支えなかろう。しかし、いわゆる女の名誉は結婚前の処女性にあるので、この部分はそう簡単に触れさせてはいけない。ひとたび結婚したら、下男を相手にするがよい。恋人をつくるのは禁物だ。あるいはまた、金を払って確実な若い男を相手にするのもよい。こうすれば、一切が秘密のヴェールでかくされ、あなたの評判に傷がつくことはもうなくなる。あなたは他人に疑われる心配もなく、あなたの好きなことを何でもやる秘訣をつかんだわけだ。では、次に進もう。
残酷の快楽は、僕たちが分析する予定でいる三番目の快楽だ。この種の快楽は、今日、男たちのあいだできわめて普通に見られる。この快楽を正当化するために彼らが用いる論拠は、次のごとくである。すなわち、彼らの言うところによると、われわれは感動を受けることを望む。それこそ、快楽にふけるすべての男の目的であり、われわれは最も積極的な手段によって、この感動を受けたいと思う。この点から出発すると、われわれの行動が、われわれに奉仕すべき人間の気に入ろうが入るまいが、そんなことは問題ではない。問題は、ただできるだけ激烈な衝撃によって、われわれの神経の塊りを揺り動かすことのみである。ところで、疑うべくもないことは、快楽よりも苦痛の方がずっと激しく感動をあたえるということであり、他人の身に生じたこの苦痛の感覚によって、われわれの身に惹起《じやつき》される衝撃は、より以上に力強い震動をあたえるということである。この衝撃はわれわれの内部で、より以上に力強く鳴り響き、より以上に激しく動物精気を循環せしめる、すると動物精気は、動物精気に特有な逆行の運動によって、身体の下の方の部分に方向づけられ、やがてそれが快楽の器官を刺激し、器官をして快楽の準備を整えしめるというわけである。快楽の効果は、女性においてはつねに当てにならないものである。醜い男や老人が、この効果を生ぜしめるのは非常に困難である。彼らは精力が衰えているから、その身に受ける衝撃もきわめて力弱いのである。そういうわけで、彼らはむしろ苦痛を選ぶ。苦痛の効果は確実であり、苦痛の震動はもっと強いからだ。
だが、このような趣味に病みつきになった男たちに向って、次のように反対を唱えるひとがいるかもしれない。すなわち、この苦痛は隣人を苦しめるものだ。自分自身の快楽のために、他人に苦痛をあたえるのは慈悲深い行為であろうか、と。これに対して、道楽者は次のように答えるだろう、すなわち、快楽の行為においては自分がすべてであり、他人は無であると考える習慣をもった者は、自然の衝動にしたがって、自分が感じないことよりも、自分が感じることの方を選ぶのが当然であるという信念をもっている、と。さらに彼らは、次のように言うかもしれない、すなわち、隣人の身に生じた苦痛は、われわれにどんな作用を及ぼすであろうか。われわれはそれを苦痛と感じるであろうか。感じはしない。いや、それどころか、われわれがいま証明したところでは、この他人の苦痛によって、われわれの身に快感さえ生じるのである。しからば、われわれに全く関係のない人間を、どうしてわれわれはいたわってやらねばならないのか。他人の苦痛によって、われわれが悲しくなるわけでもなし、むしろそれによって、われわれの身に絶大な快感が生じるのが確実であるというのに、どうしてわれわれは、他人に苦痛をあたえることを避けねばならないのか。自分よりも他人を愛せよと勧告する、自然の衝動をわれわれは一度でも感じたことがあるだろうか。この世界では、誰でもみんな自分のために生きているのではないか。「自分にしてもらいたくないことを他人にもするな」というのが自然の声だと主張する者もある。しかし、この馬鹿げた意見は断じて人間の意見であり、しかも弱者の意見である。強者は決してこんな言葉で語ろうとはしない。こんな言葉を流行《はや》らせたのは、その愚かな理論のために始終迫害されていた、初期キリスト教徒たちだ。彼らは自分たちの声を聞いてくれる者のために、次のように叫んでいた、「われわれを焼き殺すな、われわれの皮を剥《は》ぐな! 自分にしてもらいたくないことを他人にもするな。これが自然の教えだ!」と。馬鹿を言ってはいけない! 自然はつねにわれわれに楽しむことを教え、それ以外のいかなる衝動、いかなる勧告をもわれわれに押しつけはしなかった。その自然が、どうして次の瞬間には、もしも他人に苦痛をあたえるような場合には、みずから楽しんではいけないなどと、全く矛盾したことを主張するであろうか。そうだとも、ウージェニイ、こんな主張を真に受けてはいけないよ。われわれすべての母である自然は、いつも自分のことだけ考えていればよいとわれわれに教えているのだ。自然の声ほどエゴイストなものはない。自然の声のなかに、われわれがはっきり聞き分けるのは、あらゆる他人を犠牲にして、みずから快楽を求めねばならぬという、万古不易の聖なる意見だ。しかし、他人が復讐するかもしれない、と諸君は言うだろう。まさにその通りだ、強い者がつねに正しいのだ。だからこそ、永遠に戦争と破壊の原始的な状態が、いまだに続いているわけだ。自然はそのために人間を創《つく》ったのだし、そういう状態に人間を置いておく方が、自然にとっては都合がよいのだ。
以上のような議論が、つまり道楽者の議論だよ、ウージェニイ。僕は自分の経験と研究に基づいて、これに足りないところを補おうと思う。それは、残酷とは悪徳とは縁遠いものであって、自然が僕らの内部に刻みつけた最初の感情である、ということだ。子供は分別のつく年齢に達するよりもはるか以前に、玩具《がんぐ》をこわし、乳母《うば》の乳首を噛《か》み、愛玩用の小鳥を絞め殺す。残虐性は動物にも刻印されている。このことはすでに言ったと思うが、自然の法則は人間におけるよりも動物において、一層はっきり読み取れるのだ。また、文明人よりも一層自然に近い野蛮人のもとに、残虐性は明らかに認められる。この故に、残虐性は頽廃《たいはい》の結果であるという議論は、道理に反するであろう。繰り返して言うが、そういう理論は嘘っぱちなのである。残酷は自然のものであって、僕たちはすべて、残酷の一定量をもって生まれてきたのであり、これを修正するのは教育のみである。しかし教育は自然のものではなく、栽培が樹木を害するように、自然の神聖な効果を害するものだ。果樹園のなかで、自然の管理にゆだねられた樹木と、人為的に手を加えられ、強制的にねじ曲げられた樹木とを比較してみるがよい。どちらがより美しく、どちらがより立派な果実を生ずるかは一目瞭然《いちもくりようぜん》であろう。
残虐性とは、まだ文明によって堕落させられていない人間のエネルギーにほかならない。だから、それは一つの美徳であって、決して悪徳ではない。諸君の法律とか、刑罰とか、習慣とかを廃止してしまえばよいのである。そうすれば、残虐性はもはや危険な結果を及ぼさないことになろう。なぜなら、残虐性は、同じ手段によってただちに斥《しりぞ》けられるならば、もはや効果を発揮し得ないからである。それが危険なのは、文明の状態においてのみである。なぜなら、被害者はほとんどつねに、自分に対して加えられる侵害を斥けるべき力も手段も持っていないからである。けれども非文明の状態においては、もし残虐性が強者に対して加えられるならば、それは強者によって斥けられるであろうし、もし残虐性が弱者に対して加えられるならば、それは自然の法則によって強者に屈服する弱者をひとり傷つけるにすぎず、結局、いかなる不都合な事態をも生じないということになる。
男の淫蕩な快楽における残虐性については、ここでは分析しないことにしよう。彼らがふけるさまざまな乱行は、ウージェニイ、あなたにもおよそ察しがついているだろう。その燃えるような想像力によって、あなたは容易に理解するにちがいない、確固としたストイックな魂においては、残虐性は限りがないものであるということをね。ネロや、ティベリウスや、ヘリオガバルスは、淫心をそそるために子供を生贄《いけにえ》に捧《ささ》げた。レエ元帥や、コンデ公の叔父《おじ》であったシャロレエ伯も、淫楽のために殺人を犯した。前者は法廷の訊問《じんもん》で、自分は幼い男女の子供たちに対して加える拷問の快楽より以上の力強い快楽を知らなかった、と告白した。ブルターニュの元帥の城の一つには、七百人ないし八百人の犠牲にされた子供たちの屍体《したい》が発見された。今もあなたに説明した通り、すべてこうしたことは、人間の頭で考えられることなのだよ。僕たちの体質、器官、血液の流れ、動物精気のエネルギー、こういったものが物理的な原因となって、同時に全く対照的な人物、たとえばティトゥスとネロだとか、メッサリーナとシャンタルだとかいった人物を生み出すのだ。だから、悪徳をもって生まれたからといって悔やむ必要もないし、美徳をもって生まれたからといって得意になる必要もない。僕たちを善良に生んでくれた自然を讃《ほ》める必要もないし、僕たちを邪悪に生んでくれた自然を責める必要もない。自然はその目的、その計画、その必要にしたがって動いているにすぎないので、僕たちはそれに服従するしかないのだ。さて、僕はこれから女の残虐性について検討しようと思う。女は、その器官の感受性が過度に強いので、つねに男よりも残虐性が激しいのだ。
一般に、僕たちは二つの種類の残虐性を識別する。その一つは、愚鈍から生ずる残虐であって、理性も分析能力もなく、かかる状態に生まれた人間は野獣にひとしい。このような残虐性は、どんな快楽をも生ぜしめるものではない。なぜかといえば、このような傾向にあるひとは、いかなる探求心にも欠けているからだ。もっとも、こういう人間の兇暴性は、さして危険ではないだろう。彼から身を避けることが比較的容易だからだ。もう一つの種類の残虐性は、器官の極端に激しい感受性の結果であり、極端にデリケートな性質のひとにしか認められないものだ。その限度を越した残虐性も、彼らのデリカシイの洗練の結果でしかない。その過度な繊細さが原因となって、あまりにも早く磨滅したデリカシイをふたたび目覚めさせるために、彼らはありとあらゆる残酷な手段を使うのである。残虐性にこのような相違があることを知っているひとは、まことに微々たるものだ! このことを痛感しているひとは、ほとんどいないのだ! にもかかわらず、かかる相違は厳として存在するし、このことに疑問の余地はないのだよ。
さて、女に最もしばしば認められるのは、この第二の種類の残虐性である。まあ、ちょっとしらべてみたまえ。彼女たちをかかる行為に赴かしめるのは極度の感受性であり、彼女たちを残忍な悪人たらしめるのは、想像力の極端な活動であり、精神の活力だということが分るだろう。それかあらぬか、彼女たちはおしなべて美人である。そして彼女たちが悪事の計画を思いめぐらすとき、彼女たちの頭を夢中にさせるのは、必ずこの種の残忍な行為なのだ。不幸にして、わが国の風俗はきびしく、というよりもむしろ無味乾燥なので、彼女たちのこの残虐性に対して、適当な栄養分を供給することができない。そこで、彼女たちは人目を忍び、かくれて悪事を行わねばならず、自分たちの道楽を、これ見よがしな慈善行為によって隠蔽しなければならないのであるが、じつは心の底では、こんな慈善行為など彼女たちは毛嫌いしているのだ。最大の注意をはらい、用心に用心を重ね、何人かの腹心の友達の手を借りて、厚い垂幕のかげで、彼女たちはひそかに自分の道楽にふけることしかできない。この道楽にはいろんな種類があるので、それだけに、自分の欲望を満たし切れない不幸な女もたくさんいる。それがどんなものか知りたければ、彼女たちに残酷な見物《みもの》があることを知らせてやるがよかろう。決闘とか、火事とか、戦争とか、剣闘士の試合などがあることを知らせてやれば、彼女たちは大喜びで飛んでくるにちがいない。けれども、こういう機会は、彼女たちの熱望に応《こた》えるほど多くあるわけではない。だから彼女たちはいつも欲求不満をもてあまし、深刻に悩んでいるのだ。
この種の女たちを一瞥《いちべつ》してみよう。アンゴラの女王ヅィングァは残忍無類の女で、恋人に自分の身体を楽しませたあと、彼らを次々に殺して行った。しばしば彼女は目の前で兵士たちを闘わせ、勝った者に褒美として自分の身体をあたえた。その残忍な心を満足させるために、彼女は、三十歳以前に妊娠した女をすべて乳鉢《にゆうばち》のなかで挽《ひ》きつぶして楽しんだ。支那の皇后ゾエは、目の前で罪人を処刑するのを見るのが何よりの楽しみだった。罪人がいない時は奴隷を代りにし、処刑のあいだ、夫とともにたわむれ、犠牲者の断末魔の苦悶と同時に埒をあけるのだった。犠牲者に加える拷問の種類を洗練させ、あの有名な青銅の円柱を発明したのは彼女である。それは空洞になった円柱で、なかに犠牲者を閉じこめてから、赤く熱するのである。ユスティニアヌス帝の皇后テオドラは、去勢する場面を見るのが好きだった。メッサリーナは目の前で男たちを手淫させ、彼らをへとへとに困憊《こんぱい》させ、そのあいだ自分で手なぐさみしていた。フロリダの女たちは、亭主の陽物を大きくさせ、その亀頭の上に小さな虫をとまらせた。こうして彼らに恐ろしい苦痛を味わわせたのである。この拷問のために、彼女たちは男を縛りつけ、できるだけ巧く拷問を成功させようとして、一人の男のまわりに大ぜい集まったものである。スペイン人がやってくると、彼女たちは、この野蛮なヨーロッパ人が自分たちの亭主を殺しているあいだ、亭主の身体をしっかり押さえていた。ラ・ヴォワザンやブランヴィリエのような女は、罪悪を犯す快楽のみのために毒殺した。
要するに、歴史に一わたり目を通せば、女の残虐性に関する事件はいくらでも出てくるということだよ。彼女たちがこうした衝動を身におぼえるのは、自然の傾向のためだと言ってもよかろう。残酷な男たちが欲望を満たすために用いる、能動的な鞭打《むちうち》の方法を、彼女たちも用いる習慣をつければよいと思うね。もちろん、何人かの女はすでに用いているが、まだ僕が希望するほど、女たちのあいだで、この方法はひろく用いられてはいない。女の残忍性にこうして救済手段をあたえてやれば、社会のためにも有益だろうと思うのだがね。こういう救済手段がないからこそ、彼女たちは別の手段で、その残忍性を満たそうとするのだ。そして世間に毒液を流し、その夫や家族を悲しませる結果になるのだよ。機会のあるごとに慈善行為を拒絶したり、不幸なひとたちに手をさしのべることを冷たく突っぱねたりするのも、この残忍性の発露にはちがいない。そういう行為に自然に赴かざるを得ない女たちもいる。しかし、これらは効果の薄い行為であって、彼女たちの感じている強烈な欲求を満たすには、とても及ばない。むろん、そのほかにも手段はいろいろあるだろう。感受性の豊かな残忍な女が、その強暴な情熱を鎮め得るような手段がね。けれども、それは危険なものだよ、ウージェニイ。僕はそれをあなたに勧めようとは思わない……おや、どうしたね、お嬢さん? 奥さん、どうです、あなたの生徒の様子は!
ウージェニイ(手なぐさみしながら)
ああ、どうしたらいいんでしょう! あなたのお話を聞いていると、頭がぽうっとしてしまう……
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第四の対話
ドルマンセ、ウージェニイ、サン・タンジュ夫人
ウージェニイ
あたし、少しばかり心配なことがあるんです。というのは、今あなた方がなさったような男同士の戯れについてなんですけれど、前からそれは大きな罪だと聞かされておりましたの。ねえ、ねえ、ドルマンセさん、あなたの哲学では、こういう罪はいったいどういうことになりますの。とても怖ろしい罪なんじゃないかしら?
ドルマンセ
まず一つの立場から出発しよう、ウージェニイ。それは、およそ淫蕩のなかには何ひとつ恐るべきものはない、という立場だ。なぜかといえば、淫蕩によって動かされるということは、同時に自然によって動かされるということでもあるからだ。この上もなく異常な、この上もなく奇怪な行為だって、また人間のつくったあらゆる法律、あらゆる制度(天国の法律や制度は論外である)に明らかに抵触するように見える行為だって、決して怖ろしいものではないよ。自然界で説明のつかないような行為は、一つだってないのだからね。あなたが今言った行為だって、もちろん同じことだ。それについては、例の聖書という、無知なユダヤ人がバビロン流謫《るたく》のあいだに編集した、退屈な物語のなかに世にも奇妙な伝説が書き残されている。しかし、ソドムやゴモラのような都市、というよりもむしろ小さな村が、業火によって滅ぼされたのは、そうした道はずれな行為に対する天罰であった、という説にいたっては、もちろん誤りであり、まったく信じられない話だ。有りようは、これらの町が、古代の火山の噴火口の上に築かれていたので、ちょうどイタリアの諸都市がヴェスヴィオ火山の熔岩《ようがん》によって埋没されたように、火山の爆発によって滅びたというにすぎない。奇蹟の種を明かせば、ざっとこんなものさ。それにもかかわらず、昔のひとは、この単純きわまりない事件から、不幸なひとびとに対する業火の刑罰という、まことに野蛮なお伽話《とぎばなし》をでっち上げた。じつはヨーロッパの一部に、こんな自然な気まぐれに耽《ふけ》った不幸なひとたちは、大勢いたのだがね。
ウージェニイ
まあ! 自然な気まぐれですって?
ドルマンセ
そうだとも、もちろん自然なものだよ。自然というものは、そもそも二足の草鞋《わらじ》を決して穿《は》かない。つまり、一方でさかんに煽《あお》り立てながら、また一方で煽り立てられた者を罪に落すというような矛盾したことはしないのだ。そのような習慣に病みつきになった人間が、どうしてもそうせずにいられないような衝動を受けるのは、要するに彼らの器官のせいなのであって、それ以外の理由はない。が、そうした趣味を禁止したり罰したりしようとする連中は、それが人口増殖に害があるなどと主張する。愚かなやつらだよ! こういう馬鹿者どもは、たぶん明けても暮れても人口増殖のことばかり考えていて、それに反することはすべて、犯罪だとしか考えられないのだろう。では、いったい自然が、この人口増殖という問題に、確かに彼らが言うほど大きな必要性を感じているだろうか。この浅ましい繁殖から人間が遠ざかるたびに、自然は侮辱されたと確かに感じるだろうか。自然の運動とその法則について、よく納得がいくまで、しばらく考察を進めてみよう。もしも自然というものが、もっぱら創造するのみで、決して破壊しないものだとすれば、あのくだらない詭弁家《きべんか》連中と同様、僕もまた、あらゆる行為のうちで最も崇高なものは、たえず生産するよう努力することだと信じるかもしれない。そして生産を拒否することは、当然一つの罪悪でなければならないという考えに、あるいは同調するかもしれない。しかし自然の営みをほんのちらりと眺めただけでも、破壊は創造とひとしく、自然の計画に必要だということが明瞭にはならないだろうか。自然の営みのうちで、破壊と創造とは互いに密接に結ばれているので、一方が他方の力を借りないでは何事も作用し得ないということ、破壊なしには、何ひとつ新たに生まれることも再生することもできないということは、火を見るよりも瞭《あき》らかではなかろうか。これを要するに、破壊は創造と同様、自然の法則の一つなのだ。
さて、この原理を認める以上、創造することを拒んだからといって、どうしてそれが自然に対する侮辱になるのだろう。かりにその行為のうちに悪を認めるにしても、破壊の悪にくらべたら、物の数ではあるまい。しかも破壊こそは、いま証明したばかりのように、自然法則の一つにほかならないのだ。ところで、僕は一方では、自然から与えられたあの遺精という偏向を認めざるを得ないし、また一方では、それが自然にとって必要なものであり、そうした偏向に身をまかすのは、とりも直さず自然の目的に参加することだということを考えざるを得ない。とすると、この場合、罪悪はいったいどこにあるのだろうか? それでも世間の馬鹿者どもや人口増殖論者(この二つは結局同義語であるが)は、こう言って反対するかもしれない。すなわち、われわれの腰の中に貯《たくわ》えられている腎水は、もっぱら繁殖のために用いられるべきであって、それ以外のいかなる目的にも使用すべきではない。その目的を誤ることは、自然に対する冒涜である、と。しかし、この説が間違っていることは、すでに僕の証明済みなのだ。何となれば、この遺精というものは、破壊にすら及ばない些細なことであって、また遺精よりももっと重大な破壊にしても、それ自体罪でも何でもないからである。第二に、自然が腎水というものを、絶対かつ全的に繁殖のために用意したものだという説も、明らかな間違いである。もし本当にそうだとすれば、腎水が繁殖以外の場合に流出するのを、よもや自然は許さないはずだろう。ところがわれわれの経験はその逆を証明している。われわれは好きな時、好きな場所で、勝手に腎水をもらしているではないか。それに自然は、媾合なしに腎水が失われることにも反対するはずだろう。ところがわれわれは夢の中や追憶の中で、よく腎水をもらすことがあるのだ。それに自然は、必ずやこの貴重な液体をひどく惜しんで、腎水が繁殖の壺《つぼ》以外のものに流れこむのを決して許さないはずだろう。われわれが腎水を別の場所に捧げるならば、必ずや自然は気をわるくして、われわれに快楽を感じさせてくれないはずだろう。われわれが自然に侮辱を加える時でさえも、なお自然が喜んでわれわれに快楽を与えてくれるだろうなどと考えるならば、それはよほど虫のいい考え方だと言わねばなるまい。
もっと議論を進めてみよう。もしも女が子供を産むためだけのものであり、もしも出産ということが、自然にとってそれほど大切なことであるならば、女の長い一生のうちで、子供を産むことの可能な期間が、たった七年間にすぎないというのは、いったいどういうわけだろうか。おかしな話ではないか! 自然は繁殖を熱望していて、この目的に沿わないものは、すべて自然に対する冒涜であると言いながら、そのくせ女の百年の寿命のうちで、出産のために作られた性が物の役に立つ期間を、たった七年間と定めたのだ! 自然は人口増殖をしか望まないと言いながら、その人口増殖に役立つべく男に与えられた種子が、男の好き勝手にどんどん失われて行くのである! しかも男はその種子を有効に使う時と同様、無駄に浪費する時でも同じような快楽を感じて、少しも不都合をおぼえないのだ!……
そういう次第だから、諸君、もうそんな馬鹿げた話を信ずるのは止めにしよう。理性のある人間なら、そんな話を聞いただけでもぞっとするはずだ。そうだ! よくよく考えてみれば、男色家や千鳥の好きな女たちは、自然に背いた行為をしているどころか、自然にとって厄介千万な子孫を生み出すことにしかならない媾合という行為を頑強に拒否して、じつは自然のために奉仕しているのだ。お互いに誤解しないようにしよう。この繁殖ということは、さっきも言った通り、自然の掟などではさらさらなくて、せいぜいのところ、自然の寛大さのあらわれでしかないのである。ああ、人類が地球上から消え去ろうが絶滅しようが、自然にとってそれがどうだというのだ! もしもそんな不幸が起れば、すべてが終りになるだろうなどと考えている高慢ちきなわれわれを、自然はせせら笑っているにちがいない。いや、人類が滅びたところで、自然はそんなことに気がつきさえしないだろう。もうすでに滅亡した民族だって、いくつもあるではないか。ビュッフォンがそんな民族をたくさん挙げている。つまり、そんな惜しむべき滅亡に対しても平然と口をつぐんでいる自然は、要するに気がついてさえいないのだ。人類全体がほろびたとしても、そのために空気が清らかさを失うということはないし、星の輝きが減ずるということもないし、また宇宙の運行が狂うということもないだろう。
それにしても、われわれ人類はこの世できわめて有益なものだから、人口増殖のために努力しない者や、人口増殖を妨げる者は、当然犯罪者として扱われなければならない、などと信じこんでいる手合くらい愚かなものはない。それほどまでに盲目になるのは、お互いにやめようではないか。われわれよりももっと分別のある国民の先例が、われわれの謬見《びゆうけん》を認識させることに役立ってくれる。すなわち、このいわゆる男色の罪は、かつて世界中いたるところに数多くの寺院をもち、数多くの信者を集めたのだ。ギリシア人は、男色をいわば一つの美徳にして、「美しい尻のウェヌス」という名のもとに、一つの彫像をつくった。ローマはアテナイにひとを遣わして法律を学ばせるとともに、この崇高な趣味をも自国に輸入した。
ローマ皇帝の支配下で、この趣味がいかに発達を見たかは、われわれのよく知るところだ。それはローマの数々の傑出した人物に庇護《ひご》されて、世界の端から端にまで弘《ひろ》められた。そしてローマ帝国が崩壊すると、法王庁の中に避難所を見つけ、イタリアのさまざまな芸術の中に姿をあらわした。やがてわれわれの国が文明開化の光に浴しはじめると、この趣味は、われわれの国にもやってきた、新しい半球が発見されると、そこにも男色はちゃんと存在していた。キャプテン・クックは新世界に錨《いかり》をおろしたが、そこでも男色は大いに流行していた。もしわれわれの気球が月世界に達することがあれば、そこでもやっぱり男色が発見されるだろう。甘美な趣味よ、自然と快楽の子であるお前は、必ずや人間の赴く到るところに姿をあらわすにちがいない。そしてお前を知った人間はいたるところで、お前のために祭壇を築くだろう! おお、諸君、玉門よりも尻の孔を楽しむことを好んだからといって、その男が死罪に値する人非人だなどと考えなければならないとすれば、まずもって、これに過ぎたる迷妄《めいもう》はどこにもあるまい! 同時に愛する者と愛される者の二役をつとめ、二つの快楽を提供してくれる若い男の方が、ただ一つの快楽しか約束してくれぬ若い娘よりも、はるかに好ましく見えたとしてもふしぎはあるまい。それなのに、みずから異性の役目をつとめようとする者が、悪人呼ばわりされ、人非人呼ばわりされるのだ! いったい、それならなぜ自然は、こんな快楽を感じるような人間をつくったのだ?……
さあ、どうだね、可愛い天使よ、君はもう宗旨を変えたかね。男色を罪悪だなどと考えることは、もうやめたかね。
ウージェニイ
かりに男色が罪悪であったところで、それがいったい何でしょう? 罪悪というものの無意味さを、あなたは教えてくださったのじゃなかったかしら? もう今では、あたしの目には、罪のある行為なんてほとんどないようなものですわ。
ドルマンセ
この世の中には、何事であれ罪のある行為なんてないんだよ、お嬢さん。どんなに怖ろしい行為でも、われわれに都合のよい面をもっているものじゃないかね。
ウージェニイ
そういえば、たしかにその通りですわ。
ドルマンセ
よろしい。ところでそうなれば、もうそれは罪悪とは言えなくなるんだ。なぜかと言うに、一方を傷つけることによって他方に役立つものが罪悪であるためには、自然の目からみて、傷つけられた側のものが、役立たれた側のものよりも、より貴重であるということが証明されなければならないからだ。ところで自然の目には、すべての個人が平等であるはずだから、そのような依怙贔屓《えこひいき》を自然がするということは考えられない。したがって、一方を傷つけることによって他方に役立つ行為などというものは、自然にとっては全くどうでもよいことなのだ。
ウージェニイ
でも、もしその行為が最大多数の個人を傷つけて、しかもあたしたちには、ほんのちょっぴりの快楽しか与えないというような場合には、そんな行為を犯すことは大へん恐ろしいことじゃないかしら?
ドルマンセ
そんなことがあるものか。なぜなら他人が感じるものと、われわれが感じるものとの間には、どんな比較も成り立たないからだ。他人がどんなに大きな苦しみの量を感じようとも、われわれにとっては何でもないが、われわれの感じる快楽は、それがいかにわずかであっても、われわれの心にぴんと触れるものがある。だから、われわれはいかなる犠牲を払おうとも、われわれの心を全く動かさないような他人の不幸の大きな量よりも、むしろわれわれに深い喜びを味わせてくれる僅《わず》かな量の快楽を、当然選ばなければならない。しかしまた逆に、われわれの器官の特異性や、変った肉体構造のせいで、他人の苦痛がわれわれの快感となるような場合もある。これはよくあることだが、もちろん、そんな場合には、他人の苦痛をあきらめて空しい思いをするよりも、むしろ他人の苦痛を大いに楽しむことの方を、選ばなければならないのは申すまでもない。われわれのあらゆる道徳的誤謬の源泉は、キリスト教徒が不幸と苦悩の時代に発明した、あの友愛の絆というやつを愚かしくも認めたことに発する。他人の憐《あわ》れみを乞《こ》わねば生きて行けなかった彼らが、すべての人間は兄弟なりという説をつくりあげたのは、たしかに下手《へた》なやり方ではなかった。こういう仮説が大っぴらに通用するようになれば、救済を拒むわけには行かなくなるだろうからね。
しかし、こんな教義を認めることは到底できない。人間は、すべて孤独で生まれてきたのではなかったろうか。いや、もっとはっきり言えば、すべての人間は互いに敵同士であって、互いに永久の闘争状態に置かれているのではないだろうか。もしそうだとすれば、いわゆる友愛の絆によって要求される美徳なるものが、実際に自然の中に存在するという仮説は、果してどういうことになるのであろう? もしも自然がそれらの美徳を人間に吹き込んだものとすれば、人間は生まれながらにして美徳の衝動を感じるはずでなければなるまい。すなわち憐憫《れんびん》とか、慈悲とか、人道とかいうものは、生まれながらの自然の美徳となるはずであって、それらに抵抗することは不可能となるはずであろう。そして野蛮人の原始的な状態は、われわれが現に知っている状態とは全く反対なものとなっているはずであろう。
ウージェニイ
でも、たしかにあなたの仰言る通り、自然は人間を互いにばらばらに孤立させて、この世に生み出したものかもしれませんけれど、少なくとも人間同士はいろいろな必要から、互いに近づき合い結ばれ合って、どうしてもそこに幾つかの関係をつくり上げなければならなかったのではございませんか。たとえば結婚から生まれた血縁関係だとか、恋愛や、友情や、感謝の念から生まれた関係だとかいった……いくらあなたでも、こうした関係は尊重なさるのではないかと思いますけれど?
ドルマンセ
ベつだん尊重してはいないね、正直に言えば。しかしとにかく、それらの関係を分析してみよう。それらの一つ一つにわたって、ざっと目を走らせてみよう。
いいかね、ウージェニイ、よく考えてごらん。たとえば、僕が種族の維持のためとか、あるいは財産の整理のためとかいった目的で、誰かと結婚しなければならなくなったとすると、その場合、僕と僕が結婚する相手とのあいだには、決して解消することのできない、神聖な関係ができ上るとでもいうのだろうか。そもそも、そんなことを主張するのは、ずいぶんと馬鹿げたことではないだろうか。むろん媾合の行為がつづく限り、僕だってその行為を共にするためには、相手の必要を感じるだろうさ。しかしその行為が実行されてしまえば、相手と僕とのあいだには、いったい何が残るというのだね? 相手の女なり僕なりが、この媾合の結果として、どんな義務に縛りつけられねばならないのだね?
親子の絆というものも、両親が年をとってから子供に見棄てられるのを恐れる気持から生じたもので、われわれの子供時代に両親がいろいろと面倒をみてくれるのも、つまりは晩年になってから、同じように世話をしてもらいたいからにほかならないのだ。すべてこういったことに誤魔化されていてはいけない。われわれは何ひとつ両親のおかげを蒙《こうむ》ってなぞいないのだ……これっぱかりも蒙ってはいないのだよ、ウージェニイ。両親があくせく働いたのは、僕たちのためというよりはむしろ自分たちのためなのだから、僕たちは当然両親を憎んでもいいわけだし、もし両親のやり方が気に食わなければ、追っ払ってしまったっていいわけだ。両親が僕たちによくしてくれる限りは、両親を愛すべきでもあろうが、その際の彼らに寄せる愛情も、他の友人たちに対する愛情より以上に強いものであってはいけない。なぜかと言うに、出生の権利は何物にも邪魔されず、何物によっても束縛を受けないばかりでなく、熟慮反省してよくよく考えてみるならば、われわれはその出生という事実のうちに、ただ自分たちの快楽のことしか念頭になく、しばしばわれわれに不幸かつ不健全な生活しか与えない両親に対する、憎悪の理由しか見出すことができないからだ。
あなたはいま恋愛の絆のことを口にしたね、ウージェニイ。願わくは、あなたがそんなものを知らないで一生を送るように! ああ、あなたの幸福のために言うのだが、どうか永久に、そんな感情があなたの胸に忍び寄ることがありませんように! そもそも恋愛とは何だろう? 僕の見るところでは、そんなものは単に、美しい対象が僕たちに与える効果のようなものにすぎない。なるほどその効果は僕たちを夢中にさせ、僕たちを燃え上らせるかもしれない。その対象を手に入れれば僕たちはそれで満足する。またもし手に入れることができなければ、僕たちはがっかりする。しかしそうした感情の基礎になるものは、いったい何だろうか? いわく、欲望である。またそうした感情に伴なってくるものは何だろうか? いわく、狂気である。というようなわけで、われわれはこの感情の動機だけをしっかり守り抜き、結果の方は捨て去るようにしなければならない。動機とは、相手を手に入れることだ。こいつは、うまくやって成功するよう努めよう。もっとも慎重にやることが肝心だ。そして一旦相手を手に入れたら、大いに楽しむべしだ。もし成功しなかった場合には、みずから慰むべしだ。似たような相手は星の数ほどいるし、もっと上等な相手だっているんだから、失恋の痛手はすぐ消える。男だって女だって、すべて似たようなものだ。かように、健全な頭脳をもって考えれば、どんな恋愛だって手に負えないようなものは一つもない。
ああ、理性の働きをすっかり奪い取って、われわれを盲目同然にしてしまい、熱愛する相手がいなければ生きている甲斐《かい》がないとまで思わせる、あの恋愛の陶酔境くらい、ひとを欺くものは世にもあるまい! いったい、それでも生きていると言えるだろうか。むしろそれは、人生のあらゆる楽しみを進んで捨て去ることではないだろうか。狂気の結果にきわめてよく似た、実体のない快楽よりほかには幸福を味わおうともせず、われわれを焼きつくす燃えるような一種の熱病のなかに、いつまでも止まっていようとすることではないだろうか。もしもわれわれが熱愛する相手をいつまでも愛し、相手を永久に棄てないでいられるのが確実であるならば、これまた狂気の沙汰《さた》にはちがいないが、まだしも許せることではあろう。しかし、そんなことが果してあり得るだろうか。永遠に裏切られることのない結合の例を、われわれは数多く見ているだろうか。数ヵ月間楽しめば、たちまち相手の正体が分ってしまって、われわれは相手の祭壇の上で燃やした香のことを思い出し、赤面するのが落ちなのだ。どうしてそれほどまでに相手に気を惹《ひ》かれたのか、われながら理解に苦しむような場合さえ、しばしばあるものだ。
おお、遊び好きな娘たちよ、でき得る限り君たちの肉体を僕らにまかせるがいい! 心ゆくまで楽しむがいい! それこそいちばん大事なことだ。が、心して恋愛からは遠ざかりたまえ。博物学者のビュッフォンが言っている。よきものはただ肉体のみ、と。彼がすぐれた哲学者として論じているのは、そればかりではなかった。僕もまた繰り返して言おう、楽しみたまえ、しかし決して恋してはならない、と。恋をして身動きができなくなってしまってはいけない。愁歎や、溜息《ためいき》や、秋波や、恋文などの中でやつれ果てるばかりが能ではない。肝心なのは、やることであり、やる相手を何人も取り替えることであり、とりわけただ一人の男にいつまでもしがみついているがごとき愚を、断乎《だんこ》として排することである。それというのが、この変らぬ恋愛の目的は、君たちを一人の男に縛りつけ、君たちが自由に他の男に身をまかせるのを妨げることにあるからであって、こんな残酷なエゴイズムは、いずれ君たちの快楽にとっても不吉なものになることは間違いないからである。女というものは、ただ一人の男のために作られたものではない。自然はすべての男のために女を作ったのだ。女はただこの神聖な自然の声にのみ耳を傾けて、自分を欲するすべての男に、相手かまわず身をまかせるべきだろう。女はつねに娼婦であるべきであって、決して恋人なんかになってはいけない。恋愛を避け、快楽を讃美しなければいけない。そうすれば、彼女の人生には、つねに薔薇《ばら》の花のみが咲き誇るだろう。僕たちにその花々を惜しげもなく与えてくれなければいけない。
ちょっと、ウージェニイ、君の教育係を引き受けてくださった素敵な御婦人に、質問してごらん、女が男と楽しんだら、そのあとで男をどういう風に扱うべきかということを? (オーギュスタンに聞えないように小さな声で)今日奥さんはオーギュスタンとお楽しみをしたわけだが、果して奥さんは、このオーギュスタンとの関係に深入りする気がおありだろうか? たぶん、オーギュスタンが別の女に奪われそうになったら、奥さんはさっさと新しい男をつくり、もう前の男のことなんか考えもしないだろう。そしてまた新しい男に飽き、この男を棄ててしまった方が面白く遊べると思ったら、奥さんは二ヵ月とたたないうちに、進んで彼を犠牲にするにちがいないと思うんだがね?
サン・タンジュ夫人
おっしゃる通り、ドルマンセはあたしの胸の裡《うち》を見事に説明してくれたわ。ウージェニイ、あなたは彼が今言ったことを信じていいのよ。女の胸の裡というのは、すべてそういったもので、あたしたちも今までその奥に隠れているものを引っぱり出そうと努力していたわけだったのよ。
ドルマンセ
さて、僕の最後の分析は、友情の絆と感謝の絆というわけだね。友情の絆がわれわれにとって有益である限り、これを尊重することについては、僕にも異議はない。われわれの役に立つ限り、友人は大切にすべきだろう。しかしもう利用価値が何もなくなったら、友人なんか忘れてしまうべきだ。ひとはただ自分自身のためにのみ、他人を愛すべきなのだ。他人のために他人を愛するというのは、一つの欺瞞《ぎまん》にすぎない。自然がわれわれ人間に吹きこむのは、何かの役に立つべき衝動や感情であって、それ以外のものではない。自然ほどエゴイストなものはないので、自然の法則の命ずるところを行おうとすれば、やはりわれわれもエゴイストになるほかないのだ。
次に感謝について言えば、いいかねウージェニイ、これこそ確かにあらゆる絆のなかでも、いちばん力の弱いものだよ。たとえば他人がわれわれに親切をつくしてくれるのは、果してわれわれのためを思ってのことだろうか。冗談じゃない、ウージェニイ、それは虚栄心とか、自尊心とかから出た行為にすぎないよ。とすれば、そんな風に他人の自尊心の玩具になるのは、屈辱的なことではないだろうか。また他人から世話を受けるというのは、さらに一層屈辱的なことではなかろうか。他人から受けた恩恵ほど重荷になるものはない。そこには中間策というものがないのであって、受けた恩恵を返すか、それとも自分の品位を下げるか、どちらかだ。誇りの高い人間は、したがって恩恵の重荷に堪えることが到底できない。あまりにも恩恵が重すぎてやりきれないので、逆に恩恵を与えた人間に対して、嫌悪の情のみを抱くに至る。
さあ、そこで君の意見をたずねるわけだが、自然がわれわれに与えた孤独の人生を補ってくれる絆とは、いったい、どんなものだろうか。人間同士の関係をつくり上げるべき絆とは、どんなものだろうか。われわれはどういう名目で、それらの絆を愛し、いつくしみ、われわれ自身よりも絆の方を選ばなければならないのだろうか。どんな権利があって、絆の不遇を回復してやらねばならないのだろうか。馬鹿馬鹿しい宗教の不合理な法典の中に示された、親切だとか、人道だとか、慈善だとかいった、美しいばかりで無益な美徳の数々は、いったい、われわれの心の中のどこに芽生えてくるものなのだろうか。どうせ詐欺師や乞食連中によって説かれた宗教なんだから、彼らの役に立つ美徳、ないしは彼らの行動を是認する美徳が提唱されたのは、まあ止むを得ない仕儀だったかもしれないがね。さあ、ウージェニイ、これでもまだ君は、人間の心の中に何か神聖なものがあるということを認めるかね。われわれよりもああした美徳の方がやっぱり大切だと思う理由が、何か考えられるかね。
ウージェニイ
あなたのお講義にすっかり魅せられてしまって、頭では否定しようと思っても、心が先廻りして賛成してしまうんです。
サン・タンジュ夫人
それはね、そのお講義が自然から出発しているからよ。あなたが我にもあらず賛成してしまったのが、その何よりの証拠だわ。自然の胸から生まれ出たばかりのあなたが感じることが、どうして堕落の結果であるわけがありましょう?
ウージェニイ
でも、あなたがしきりに讃めそやす不品行の数々が、残らず自然の中にあるものでしたら、どうして法律がそれに反対するのかしら?
ドルマンセ
それは法律というものが個人のためにではなく、一般のために作られたものだからさ。だからこそ法律は、永久に個人の利益と対立し、逆に個人の利益は、永久に一般的利益と対立するのだよ。とにかく法律は、社会のためには有用だが、社会を構成している個人のためには、はなはだ都合のわるいものだ。なぜかと言えば、法律は個人を保護ないし保証するという名目によって、じつは個人の生活の大部分を束縛したり、制限したりするものだからだ。そこで法律を頭から軽蔑している賢明な人間は、ちょうど蛇《へび》や蝮《まむし》に対するように、法律のやることを黙って見ているわけだね。蛇や蝮というやつは、ひとを噛んだり毒を与えたりするけれども、その代り、場合によっては医薬として役に立つからな。つまり賢明な人間は、そうした毒のある動物からわが身を護るように、法律から身を護るのだ。そしていろいろと用心したり、秘密を守ったりして、たくみに法網をくぐるわけだよ。頭のいい用心ぶかい人間にとっては、そんなことは朝飯前の仕事だからね。いいかい、ウージェニイ、いろんな罪悪のことを空想すると、君の魂も燃え上ってくるようでなければいかんよ。僕らと一緒にいれば、安心して罪悪を犯すことができるのだと信じたまえ。
ウージェニイ
おお! その罪悪の空想なら、もうさっきからあたしの頭の中にあるんですの!
サン・タンジュ夫人
いったい、どんな気まぐれを思いついたと言うの、ウージェニイ? 大丈夫だからあたしに言ってごらん?
ウージェニイ(取り乱して)
ひとをやっつけたいの。
サン・タンジュ夫人
男のひと、それとも女のひと?
ウージェニイ
女のひと!
ドルマンセ
なるほどねえ! 奥さん、あなたは御自分の生徒さんに満足ですかな? じつに大した進歩じゃありませんか?
ウージェニイ(相変らず取り乱したまま)
やっつけてやりたいわ、おばさま、やっつけたい!……おお、神さま! それこそあたしの人生の願ってもない幸福でしょうに!……
サン・タンジュ夫人
でも、やっつけるって、いったいどんな目にあわせてやりたいというの!
ウージェニイ
ありとあらゆる目にあわせてやりたい!……この世でいちばん不幸な女にしてやりたいのよ! ああ、おばさま、おばさま、あたしを可哀そうに思ってちょうだい、もうどうにもならないわ……!
ドルマンセ
こんちくしょう! 何というのぼせ上りようだろう!……おいで、ウージェニイ、お前は素晴らしい女だよ……おいで、数え切れないほど接吻してやるから! (ふたたびウージェニイを腕に抱く)
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第五の対話
ドルマンセ、騎士、ウージェニイ、サン・タンジュ夫人
ウージェニイ
さあ椅子にかけて、しばらくお喋《しやべ》りしましょう。あたしもう精魂つき果ててしまいましたわ。どうぞお講義をつづけてください、ドルマンセ。そして何か、あたしの昂奮《こうふん》を鎮めてくれるようなことを仰言《おつしや》ってくださいましな。あたしの後悔を絶やしてくださいましな。あたしを励ましてくださいましな。
サン・タンジュ夫人
それがいいわ。実習のあとには、少しは理論が必要ですからね。そうしてこそ、完全な生徒ができあがるのよ。
ドルマンセ
よろしい! ところでウージェニイ、君が聞きたいというのは、どんな内容の話だね?
ウージェニイ
道徳観念というものが、果して国家に必要なものであるかどうか、国民の天才の上に何らかの影響をおよぼすものであるかどうか、そういったことが知りたいんです。
ドルマンセ
あ、そうそう、そう言えば、今朝出がけに「平等館」で、パンフレットを一冊買ったんだ。もし表題の通りのものだとすると、ちょうど君の質問にお誂《あつら》えむきの本であるはずだがね。出版されたばかりの本だぜ!
サン・タンジュ夫人
どれ見せて。(彼女は読む、「フランス人よ、共和主義者たらんとせばいま一息だ」)まあ、ずいぶん変った題だこと。ちょっと興味をそそられるわね。騎士さん、あなた声がいいから、これ読んでちょうだいな。
ドルマンセ
僕の思惑ちがいか、それともウージェニイの質問にぴったりお誂えむきか、どちらかだな。
ウージェニイ
ほんとにそうよ!
サン・タンジュ夫人
お前は席をお外し、オーギュスタン。これはお前には関係ないことですからね。でもあまり遠くへは行かないでよ。用事がある時は呼鈴《よびりん》を鳴らすから。
ミルヴェル騎士
では読みますよ。
フランス人よ!
共和主義者たらんとせば
いま一息だ
宗 教
余は諸君に偉大なる思想を提供せんとするものなれば、どうか諸君は余の言葉に耳傾け、余の言葉を三思熟考していただきたい。よしんばすべてが諸君の気には入らないとしても、少なくともそのうちの幾つかは、諸君の心に残るであろう。そうしてそれが何らかの意味で叡智《えいち》の光の増進に貢献することができれば、余としては甚《はなは》だ満足であろう。あえて歯に衣《きぬ》着せず申せば、目的に到達せんとするわれわれの努力の遅々たるさまに、余は非常にもどかしい思いをしている。われわれの目的が今また挫折《ざせつ》せんとしているのを目《ま》のあたりにして、余は非常なる不安を感じている。そもそも世人は、今後さまざまな法律が制定された暁に、この目的の達し得られることを信じているのであろうか? そのような甘い想像を抱いている方があるとすれば、どうかそれはやめていただきたい。いったい、宗教なくして法律が何の用をしよう? われわれには一つの祭祀《さいし》が必要である、しかもこの祭祀は、共和主義国家の性格にふさわしくつくられた祭祀であって、ローマのそれをふたたび踏襲するがごとき愚挙は断じてこれを斥けねばならない。われわれは現在、宗教は道徳の上に依存すべきであって、道徳が宗教の上に依存すべきではないと確信しているものであるが、さればこそ、かかる時代に必要とされる宗教は、道徳的観念に適したもの、道徳的観念の発展とも必然的結果ともいうべきものであって、しかもそれは魂を高め、今日魂がその唯一の偶像として崇《あが》めているところの、あの貴重な自由の高さに、この魂を永久に保ちつづけることのできるものでなければならない。
ところで、余は問いたい、ティトゥスの奴隷の宗教や、ユダヤの腹黒いペテン師の宗教は、いままさに再生の途についた自由にして戦闘的な国民に、果してふさわしいものと考えることができるかどうか? 否、わが同国人よ、断じて否である。諸君はそのようなことを信じてはならない。もしもフランス人が不幸にして、今後ともキリスト教の迷夢に埋もれているならば、一方では、僧侶《そうりよ》たちの傲慢《ごうまん》と横暴と専制と、さらにこれら不純な群の中にたえず新しく生まれかわるさまざまな悪徳とが、また一方では、この無価値にして荒唐無稽《こうとうむけい》な宗教の教義と秘蹟とがもつ低劣さ、目的の卑小さ、俗悪さなどが、共和主義者の魂の誇りをみるみる弱めて、やがては、たったいま彼が力いっぱい打ち砕いたばかりの軛《くびき》の下へ、ふたたび彼を連れもどすことにもなろう! 忘れてならないことは、このたわいもない宗教が、わが国の暴君どもの手にしたもっとも有効な武器の一つであったということである。そしてこの宗教の教義の第一条ともいうべきものが、「カエサルのものはカエサルに返せ」であった。だがわれわれはすでにカエサルを王座から追放したのである、そしてふたたび彼を王座に据えることを欲しないのである。フランス人よ、いたずらな甘い考えに耽ってはいけない、聖職者の精神が宣誓という手続を踏んだからといって、ただちにあのかつての聖職者の陰険な精神と異なったものになるわけはないのである。つまり、いっかな改まることのない職掌柄の悪徳というものがある。諸君の僧侶たちは、今でこそ貧しく、今でこそ宣誓をしたばかりではあるけれども、おそらく十年とはたたないうちに、ふたたびあのキリスト教と、その迷信と、その偏見とを利用して、かつての大帝国をひとびとの魂の上に打ち建てるかもしれず、ふたたび諸君を国王に隷属せしめるかもしれないのだ。なぜなら国王の権力はつねに他の権力を支持してきたのであるから。こうなれば諸君の共和主義国家の建設は、基礎を失って崩壊するよりほかあるまい。
おお、大鎌《おおがま》を手にせる諸君よ、迷信の樹に最後の一撃を加えよ。枝葉を刈り取るだけで事足れりとしてはいけない、強力な伝染性の作用をもつ植物は根こそぎ完全に引き抜いてしまわなければいけない。くれぐれも諸君の心に銘記せよ、諸君の自由と平等の制度は、キリストの祭壇の司祭たちとは、あまりにも露骨に対立するものであれば、おそらく彼らのうちの一人たりとも、決して心からこの制度を採択する者はいないであろうし、もしも彼らにして、民衆の信仰心の上にふたたび幾らかの支配力を振るい得るようになれば、この制度をくつがえすべく努力しない者は、やはり一人としていないであろうということを。現在彼らが追いこまれている窮境と、華やかなりしかつての栄華の夢とを引き較べてみて、一朝事あらば、取りあげられた信頼と権威とをふたたび回復するために、どんなことでもしようと思っていないような僧侶が果してあるだろうか? そうなればまた弱い臆病《おくびよう》な連中のどれだけが、この野心満々たる坊主どもの奴隷にたちまちなってしまうことだろう! いったいなぜに諸君は、かつて存在したもろもろの不都合事が、もう一度復活し得る可能性があるということを考えないのであるか? キリスト教会の揺籃期《ようらんき》においてもまた、僧侶たちは今日かくあるがごとき状態にあったのではなかったか? 彼らがどこに行きついたかは、諸君みずからがよく承知している。ところで、何が彼らをそこまで導いたのであろうか? 宗教そのものが彼らにもたらした手段によってではなかったか? 果して然《しか》りとすれば、諸君がこの宗教を徹底的に禁圧しない以上、つねに同じ手段によって宣教に従事するひとびとは、又してもたちまちにして同様の目的を達してしまうであろう。かるが故に、他日諸君の事業を破壊する虞れのあるものを、今のうちから一切絶滅してしまうに如《し》くはなしと言うのである。諸君の仕事の成果に浴するのは、ほかならぬ諸君の甥《おい》たちでしかないのだから、われわれが幾多の辛酸を嘗《な》めた末にようやく脱出した無秩序《カオス》のなかへ、ふたたび彼らを突き落しかねまじいこの危険な芽生えを一切残さないことこそ、諸君の彼らに対する義務であり、誠実ではないかということを考えていただきたいのである。
すでにわれわれの偏見は一掃され、すでに国民はカトリックの不条理な教えをかなぐり棄てている。すなわち、すでに国民は多くの寺院を廃止し、偶像をひっくり返し、彼らのあいだで結婚はもはや市民的な行事でしかなくなっている。破壊された懺悔所《ざんげしよ》は市民の集会所に用いられ、自称信者の面々も使徒伝来の晩餐会《ばんさんかい》から脱け出して、小麦粉の神々を鼠《ねずみ》どもの噛《かじ》るにまかせている。フランス人よ、ここで立ちどまってはいけない。全ヨーロッパが、その眼をくらましている目かくしにすでに片手をかけて、諸君がその額から目かくしを取り除いてくれる努力をば待っている。急ぐべし、諸君。そして諸君のエネルギーを抑圧するために大騒ぎをしている聖地ローマ[#「聖地ローマ」に傍点]に、何人かの改宗者を出さしむる暇を与えるな。その震えている横柄な頭を仮借するところなく叩きのめせ。そうすれば自由の樹は、二ヵ月とたたないうちに、聖ペテロの住居の残骸《ざんがい》の上に黒々とした影を落し、カトオやブルトゥスの灰の上に厚かましくも建てられたキリスト教のすべての軽蔑《けいべつ》すべき偶像は、その勝ち誇った枝葉でこんもりと包みかくされてしまうであろう。
フランス人よ、余は繰り返して言う、ヨーロッパは諸君の手によって、同時に王笏[#「王笏」に傍点]と香炉[#「香炉」に傍点]とから解放されるのを待っていると。国王の圧制からヨーロッパを解放するには、同時に宗教的迷信の束縛を断ち切ることなしには不可能であることを、諸君、考えてほしい。すなわち両者の絆は互いにあまりにも密接にからみ合っているので、そのうちの一つの存続を許せば、たちまち諸君は、根絶するのをおろそかにした方の支配下にふたたび陥らざるを得ないであろう。共和主義者が膝《ひざ》を屈しなければならないのは、もはや架空の人物の足下でもなければ、腹黒い詐欺師の足もとでもない。共和主義者の唯一の神は、いまや、勇気[#「勇気」に傍点]と自由[#「自由」に傍点]でなければならない。キリスト教が宣教をはじめるとともにローマは滅びた。もしも、キリスト教が依然として尊敬を集めているならば、フランスも早晩破滅するであろう。
この不愉快な宗教の馬鹿馬鹿しい教義、おそるべき秘蹟、奇々怪々な儀式、実行できないような道徳などを注意して吟味してほしい。そうすればこの宗教が果して共和国にふさわしいものであるかどうか、諸君にはすぐ分るであろう。いったい諸君は、いまイエスの愚昧《ぐまい》な司祭の足もとに膝まずいたばかりの一人の男の意見に、むざむざとこの余が同調するだろうことを本気で信じられようか? 否、断乎として否である。かかる卑しい男はどこまでも卑しく、その愚劣な見解をもって、旧制度の残虐を固執するであろう。もしもこの男が、かつてわれわれの愚かにも受け容れていた宗教と同様にくだらない一つの馬鹿げた宗教に屈することのできるような人物なら、彼はもはや余に法律を課することも、叡智の光を伝えることもできないであろう。余はもはや偏見と迷信の奴隷としてしか、この男を目さないであろう。
この真理を了解するために、われわれは、依然としてわれわれの祖先の気違いじみた祭祀に執着している一部のひとびとの上に、一瞥を投げてみよう。すぐに分ることは、こういうひとたちが要するに、現在の制度の不倶《ふぐ》戴天の敵であって、王党員[#「王党員」に傍点]ならびに貴族[#「貴族」に傍点]という、まさに軽蔑を受けて然るべきこの階級も、すべて彼らと一つ穴の貉《むじな》でしかないということだ。王冠をいただいた強盗に仕える奴隷諸君は、お望みのままに、捏粉《ねりこ》の偶像の足もとに膝まずくがよかろう。泥でつくられた魂のためには、そんな偶像が恰好《かつこう》の礼拝物であろう。すなわち王に仕える連中は神々を崇めないわけには行かないのである。しかしわれわれフランス人は、われわれ同胞は、かかる軽蔑すべき軛《くびき》の下に今なお屈辱の姿勢をとっているとはいえ、ふたたびその奴隷とならんよりは、むしろ千度も死ぬ方を選ぶであろう! われわれは祭祀の必要を信じているのであるから、何ならローマ人の祭祀を模倣《もほう》しよう。行動、情熱、英雄、かかるものがローマの祭祀の礼拝物であった。かかる偶像こそが、魂を高め、魂を感動させるものであった。そればかりではない、それらは魂に、尊敬される者の美徳を伝えた。ミネルヴァの崇拝者は智慧《ちえ》のある者になろうとした。マルスの祭壇に額《ぬか》ずく者の心には勇気があふれていた。これら偉大なひとびとの崇める神々のなかにはひとつとして、力の欠けた神はなかった。彼らは自分の胸のうちに燃えている火を、彼らを尊敬するひとの胸のうちにも移し伝えた。ひとびとは他日自分も尊敬される身になりたいという希望をいだいていたから、せめて自分が手本としている相手と同じくらいには立派になりたいと願っていたことだった。しかるに、ひるがえって、キリスト教のくだらない神々のうちにはいったい何が見出されるだろうか? 全くもってこの馬鹿げた宗教は、いったい何を諸君に提供するのであろうか? ナザレの下手糞《へたくそ》な詐欺師は、何か偉大な思想の萌芽《ほうが》を諸君にもたらしたであろうか? その不潔な嫌らしい母親である、不身持なマリアという女は、何らかの美徳を諸君の心に吹きこんだであろうか? そうして諸君は、その天国に居ならんでいるという聖者たちのうちに、偉大さや、雄々しさや、あるいは美徳の何らかの模範を見出すことができるであろうか? この愚劣な宗教は、実際偉大な思想に対しては何ひとつ寄与するところがなかったので、いかなる芸術家も彼らの建設した記念碑の中に、この宗教のもっている象徴を使うことができなかったのも道理である。ローマにおいてさえ、法皇の宮殿の装飾の大部分は、異教《パガニスム》にそのモデルを仰いでいる。しかも世界のつづくかぎり、ひとり異教のみが偉大な人間の芸術的創作欲を燃えあがらせることを得るであろう。
いったい純粋な有神論のなかに、われわれは偉大と高貴を動機づける何らかのものを発見することができるだろうか? ひとつの空想を採用することが、われわれの魂に共和主義的美徳にとって欠くべからざるエネルギーを与えて、われわれにそれらの美徳をいつくしませ、それらを実行させることになるであろうか? かかる妄想はやめにしよう、かかる幻影からわれわれは目を醒《さ》ましているはずである。現今では無神論のみが、正しく理窟を言うことのできるすべてのひとにとっての唯一の学説である。人間の蒙昧《もうまい》が啓発されるにつれて、だんだんと次のことが明るみに出されてきた、すなわち、運動は物質に固有のものであるから、この運動を起させるに必要な原因というものは空しい存在にならねばならない。すべて存在するものは本質的に運動するものであるから、運動を与える支配者は不要となった、というわけである。また次のことが明るみに出されてきた、すなわち、最初の立法者たちによって抜け目なく創り上げられたこの架空の神という存在は、要するに彼らにとっては人間を縛りつけるための一つの手段にすぎなかったのであり、しかも彼らはこの幽霊に語らせる権利を自分たちだけの手に独占して、われわれ人間を奴隷にせんとする奇怪な法律を支持するようなことをしか、この神に語らせまいとする配慮を忘れなかったのである。
リクルグス、ヌーマ、モオゼ、イエス・キリスト、マホメットなどといった、われわれの思想上のこれら専制君主、これら大詐欺師たちは、いずれも自分たちのつくり上げた神々と、自分たち自身の法外な野心とを結びつけることを心得ていた。しかも彼ら、神々の裁可とともに人心を収攬《しゆうらん》することに確信をもっていた彼らは、ひとも知るごとく、つねに都合のよいことだけしか神に問いかけないよう、また自分たちに役立ち得ると思われることだけしか、神に答えさせないよう用心していたのである。されば今日われわれは、それらのペテン師どもの説いた無益な神や、その滑稽《こつけい》きわまる信仰から生ずるところのすべての宗教的陰謀を、一切軽蔑しなければならない。もはやそのような子供だましの玩具で、自由な人間の機嫌《きげん》をとることはできないのである。われわれが全ヨーロッパに向って宣伝している原理のなかには、したがって、祭祀の全面的撤廃という一項が当然ふくまれていなければならない。われわれは王権の破壊だけで満足してはいけない、一切の偶像を永遠に粉砕しなければならない。迷信と王権主義との間には、ただの一歩しかない。申すまでもなく、戴冠式の際に国王が誓ういちばん重要な項目のひとつは、彼らの王座をもっとも支持する政治的基盤のひとつとして、当時の支配的宗教を擁護することであったから、それも道理と言うべきではあった。ともあれこの王座が、幸いにして永遠に打ち倒されてしまった以上、われわれはその支柱となっていたものをも、同様に少しも怖れず、撲滅すべきではないか。
しかり、市民諸君よ、宗教は自由の政体には縁もゆかりもないものである。諸君とて、そのことは先刻承知のはずである。自由人は、キリスト教の神々の前には決して身を屈しないであろう。その教義、その儀式、その秘蹟|乃至《ないし》その道徳は、決して共和主義者の気に入るものではなかろう。もう一息である、諸君はすでにあらゆる偏見を破壊することに努力してきたのであれば、それがふたたび勢いを盛り返し得るような、たったひとつの偏見の存続をも許してはならない。もしも諸君の存続を許した偏見が、確かにその他のすべての偏見の温床であるならば、それらがふたたび勢いを盛り返すことは、火を見るよりも瞭らかであるべきではないか。
宗教が人間に有用なものであるなどと考えることは、もうよそう。よき法律さえあれば、われわれは宗教なしに済ますことができるのである。しかし、とあるひとは言うかもしれない、民衆にとっては宗教は必要である、宗教は民衆を楽しませ、民衆を抱擁してくれるものだ、と。よろしい。しからば、自由人にふさわしい宗教をわれわれに与えよ。異教の神々をわれわれに与えよ。われわれは喜んでユピテルを、ヘラクレスを、パラスを崇拝するであろう。しかしながらわれわれはもはや、拡がりを有《も》たないくせにしかもその広大無辺な自己のうちに万物を包容しているような神、万能でありながら決してみずからの欲することを実現できない神、この上もなく善良でありながらただひとの不平をしか買わないような神、秩序の友でありながらその支配下は一切が混乱でしかないような神、そうしたものをもはや欲しないのである。さよう、われわれはもはや、自然界を混乱させる神、無秩序の父であって、人間が怖ろしいことに熱中しているときに彼を動揺させるような神を、もはや欲しないのである。このような神を見るとき、われわれは怒りに身の打ち顫《ふる》えるのをおぼえる。われわれはこのような神を、永遠に忘却の淵《ふち》に追放してしまわなければならない。よしんばかの恥知らずのロベスピエールが、この忘却の淵から神を救い上げようとしたことがあったにせよ。
フランス人よ、この見下げ果てた幽霊に代うるに、かつてローマを世界の支配者たらしめたあの威風堂々たる偶像をもってせよ。キリスト教のあらゆる偶像を、われわれが国王の偶像を扱ったがごとくに扱うべし。すでにわれわれは、かつて暴君どもを支えていた礎石の上に、自由の標識を掲げたのである。同様にわれわれは、かつてキリスト教徒によって崇拝されていたあのやくざ者の基石の上にも、偉大な人間たちの銅像を打ち建てよう。農民に対する無神論の効果を危ぶむことをやめよう。農民たちはすでに、真の自由の原理とまったく矛盾するカトリック教撲滅の必要を感じているではないか? カトリック教の祭壇や司祭館が破壊されるのを、彼らは恐怖も苦痛もなしに眺めているではないか? ああ、諸君、彼らが自分たちの滑稽な神を棄てる日の近きにあることを信じたまえ。やがて彼らの家のいちばん目につく場所には、マルスやミネルヴァの像が、自由の像が、置かれるであろう。年毎のお祭が、年々歳々そこで行われるようになるであろう。王冠は国家にもっとも功労のあった市民に授与されるであろう。人里離れた森の入口には、ウェヌスやヒュメーンやアモルなどを祭った鄙《ひな》びた寺院が建てられて、恋人たちの尊崇を受けるであろう。そこでは優雅女神《カリテス》の美しい手によって、誠実という美徳に冠がかぶされるであろう。
この冠を授けられるためには、ただ愛情を捧げるだけでは事足りない、さらにそれに値するだけの功労がなければならない。英雄的資質、才能、人間愛、偉大な魂、いかなる試錬にも耐え得る愛国心、これらのものこそ、恋する男がその愛人の足もとで明かさなければならない魂の資格である。そしてこれこそ、かつて身のほど知らずな馬鹿者が要求した、家柄とか財産とかいう資格よりも、はるかに価値あるものであろう。かつてわれわれが心弱くも帰依《きえ》した宗教からは、ただ罪悪しか生まれなかったけれども、こうしたものの崇拝からは、少なくとも何らかの美徳が咲き出るであろう。こうした崇拝は、われわれの奉仕する自由とも見事に調和するであろう。有神論というものが、その本質において、われわれの奉仕する自由の不倶戴天の敵であるのに反して、この崇拝は、自由を活気づけ、維持し、またこれを燃えあがらせるものであろう。
異教の偶像が東ローマ帝国時代に破壊されたとき、一滴の血でも流されたであろうか? 民衆の愚かさによって準備された革命は、ふたたび民衆を奴隷とせずには措《お》かなかったとしても、何らの支障もなしに遂行されたではないか。いったいわれわれは、哲学上の事業が専制政治の事業よりも困難だからと言って、これを怖れていてよいだろうか? 諸君が蒙《もう》を啓《ひら》いてやることを憚《はばか》っているかの民衆を、今もって空想的な神というものの足下に縛りつけておこうとするのは、僧侶のみである。彼らをして民衆から遠ざからしめよ、しからば目かくしは自然に落ちるであろう。諸君が想像しているよりもはるかに賢明な民衆は、暴政の鉄鎖から解放されたように、やがては迷信からも解放されるであろうと信じよ。民衆を束縛するものがなくなるからといって、もし諸君がかかる事態を怖れるとしたら、何という馬鹿げたことだ! ああ、市民諸君よ、民衆を信じよ。法律という現実的な剣さえ彼らの歩を阻むことはできなかったのに、ましてや彼らが子供の頃から軽蔑していた地獄の刑罰などという精神的な恐怖に、彼らがたじろぐであろうか。これを要するに諸君の有神論は、多くの大罪を犯させただけで、その一つといえども決して阻止することはできなかったのだ。
もしも情欲というものが真実ひとを盲目にするばかりか、われわれの眼のまわりに雲を呼び寄せて、周囲の危険を見えなくさせてしまう効果をもっているものだとすれば、たとえば諸君の神の語り告げるあの刑罰のように、われわれ自身からはるか遠くにあるものが、情欲の上につねにぶら下っている法律の剣さえ散らすことのできないこの雲を、いったいどうして散らすことができると考えられるか? さらにまた、神という観念を援用することによって課されたこの軛《くびき》が、もはや無用のものであることが証明され、そのさまざまな結果に徴してそれが危険ですらあることが明らかにされた場合には、果してそのような神の観念が何の役に立つのであるかと余は訊《き》きたい。どんな理由からわれわれは、かかる無用な存在を永びかせることを主張すべきであるのか?
あるひとはこう言うかもしれない、われわれはまだ、そんなにてきぱきとわれわれの革命を強化することができるほどには、十分成熟してはいないと。ああ! 市民諸君よ、一七八九年以来われわれの辿《たど》ってきた道は、今後辿るべく残された道とは比べものにならないほど、困難きわまるものであった。バスチィユの陥落以来われわれはあらゆる方面に世論を喚起すべき必要に迫られたが、今後余の示唆《しさ》する方面には、それほどまでの労を要しないのである。民衆は、不埒《ふらち》な国王を栄光の頂点から断頭台の脚もとに引きずりおろしたばかりか、あのわずかな年月の間に多くの偏見に打ち克ち、多くの愚劣な束縛を打破することさえできたほどに、賢明でもあり、また勇気にみちてもいたのである。されば彼らが、国王の幻影よりもっと儚《はかな》い一つの幻影を、社会の幸福と共和国の繁栄とのために進んで犠牲にするであろうことは、当然考えられてよいことではないか。
フランス人よ、まず最初の打撃を与えるべきは、諸君の役目である。そしてその余は、諸君の民衆教育の成果がなしとげるであろう。とまれ速やかにこの仕事に取りかかる必要がある。民衆教育こそ、諸君のもっとも重要な仕事の一つにならねばならぬ。とりわけその基礎には、宗教教育においてまったく閑却されていた、あの本質的な道徳がなければならぬ。諸君が諸君の子供たちの稚《おさな》い頭を悩ましていた、あの馬鹿馬鹿しい神さまに関するお話の代りには、すぐれた社会的原理をもってこなければならぬ。子供たちはくだらないお祈りなぞを唱えることを学ぶ代りに、十六になったらそれを忘れることを名誉とし、そうして社会に出て行くための義務を教えられねばならない。かつて諸君がほとんど口にしたこともなかった、美徳というものを愛することを子供たちに教えよ。美徳は諸君の宗教的訓話によらなくとも、十分子供たちの個人的な幸福を培うことのできるものだ。そしてこの幸福とは、われわれが自らかくありたいと願うと等しく、他人をも幸福にしてやることによって成立するのであることを、彼らに教えてやらねばならぬ。もしも諸君がこれらの真理を、愚かにも前車の轍《てつ》を踏んで、キリスト教的幻影の上に据えるようなことをしたならば、諸君の子弟たちはこの真理の基底のたわいなさを認めるやいなや、きっとその建物全体をぶち壊して、一気に悪の道に走るであろう。なぜなら彼らはほかならぬ自分たちのぶち壊した宗教が、今まで悪の道に走ることを彼らに禁じていたのであると思うだろうから。これに反して、人間個人の幸福はもっぱら美徳によるものだとして、一途《いちず》に美徳の必要を理解させるならば、彼らは利己心から真面目な人間になるだろう。そしてこの法則こそ、すべての人間を支配する、未来|永劫《えいごう》もっとも確かな法則であろう。したがって、こうした民衆教育に宗教的訓話を混えることを、諸君は最大の注意をもって避ける必要がある。われわれが養成せんとしているのは自由人であって、卑しい神の礼拝者ではないということを、決して忘れてはならない。
素朴《そぼく》な哲学者は新しい弟子たちに、人智のおよばざる自然の崇高さというものを教えてやらねばならない。また彼は、神に関する智識は人間にとってともすると危険であり、決して人間の幸福に役立つものではないことや、理解できないことの原因として、それより一層理解できないものを持ってきたからといって、人間がそれだけ仕合わせになるものでもないことや、また、自然を理解するよりも自然を楽しみ、自然の法則を尊重することの方がはるかに大切であること、自然の法則は賢明かつ単純であって、すべてのひとの心に間違いなく吹き込まれているものであるから、自然の衝動を識別するには、ただ自分の胸に問うてみればよいこと、等々を証明してやらねばならない。もしも弟子たちが、創造者について話してほしいと言ってどうしても肯《き》かないなら、次のように答えてやればよい、すなわち、この世の物事はつねに現在あるがままの状態にあり、決して初めもなければ終りもないのであるから、いくら空想を逞《たくま》しくしてその起原にさかのぼって見たところで、何も説明されず何物にも行き当らない、つまりそれは人間にとって無益かつ不可能なことでしかないと。われわれのいかなる感覚に作用を及ぼすのでもない存在について、真実の観念をもてと言われてもそれは無理というものであることを、彼らに話してやらねばならない。われわれの有するすべての観念は、われわれにはたらきかける対象物の表象である。ところで明らかに対象物のない観念であるところの神の観念は、いったいわれわれに何を表象するのであろうか? さらにこう言ってやるがいい、このような観念は、原因のない結果と同様決してあり得ないものではないか? 原型をもたない観念とは、空想以外の何であるか? さらに諸君はこう続けてやるがいい、ある博士たちは、神の観念は内在的なものであって、人間は母親の胎内にいる時からこの観念をもっているのであると主張する。しかしそれは誤りである。なぜならすべての原理は一つの判断であり、すべての判断は経験の結果である。しかも経験は感覚の練習によってのみ得られるものだ。とすれば、宗教的原理は瞭《あき》らかに何物にも作用を及ぼさず、人間に内在するものではまったくない。いったい、と諸君はこう続けてやるがいい、もっとも理解しがたい事柄が人間にとってもっとも大事なことであるなどと、どうして理性のあるひとびとに納得させることができたものか? つまりそれは民衆が、非常なる恐怖を与えられたがためである。人間は恐怖にとらえられると、理性的な考えができなくなってしまうからである。民衆が理性を疑うことを、とりわけ強く勧告されたのも道理である。頭が混乱しているとき、人間は一切を信じ、しかも一切を検討しない。無智と恐怖こそ、あらゆる宗教の二つの大きな基礎である、とこう、諸君は弟子たちに説明してやらねばならぬ。
人間は自己と神との関係をはっきりさせることができないとき、宗教に結びつこうとする顕著な傾向がある。人間は肉体的にも精神的にも、暗黒の中にいることを極度に恐れる。恐怖はやがて習慣となり、ついには一つの要求と変ってくる。希望も恐怖もない時には、何かしら自分に欠けているものがあるかのように思いこむまでに至る。そういうとき、人間は道徳の効用を想い起すがいい。諸君はこの重大問題について、教訓よりは多くの実例を、書物よりは多くの証拠を、彼らに与えてやるようにするがいい。すれば諸君は、彼らを善き市民たらしめることができるであろう。善き戦士、善き父親、善き夫たらしめることができるであろう。もはやいかなる隷属的観念もその胸に浮ぶことなく、いかなる宗教的恐怖もその精神を乱すことがなければ、諸君は彼らを一層自国の自由を大切にする人物たらしめることができるであろう。そのときこそ、真の愛国心がすべてのひとの魂において溢出《いつしゆつ》するであろう。それは及ぶかぎりの力強さと、及ぶかぎりの清らかさとにおいて、ひとの魂を支配するであろう。なぜならそれこそ魂の唯一の大切な感情となり、もはやそれ以外のいかなる観念もそのエネルギーを弱めることはなくなるだろうからである。そうなれば、諸君の次の世代はまさに安泰である。諸君の事業は彼らの手で強化されて、やがては全世界の法則となるであろう。だが、もしも恐怖や臆病さの故にこの勧告が実行に移されず、すでに破壊したと信じられていた建物の土台がいつまでもそのままに放置されていたならば、事態はどうなるであろう? 必ずやひとびとはその土台の上にふたたび建物を築き上げて、以前と同じ巨像をそこに据えるであろう。しかもそれは以前と事違い諸君の力をもってしても、また次の世代の力をもってしても、到底破壊することの不可能なほど頑強《がんきよう》に固著せしめられるであろう。
宗教が専制政治の根源であることを疑ってはいけない。あらゆる専制君主の最初のものは僧侶であった。ローマの最初の王と最初の皇帝であったヌーマとアウグストゥスとは、ともに司祭の職にあったひとである。コンスタンティヌスとクロヴィスは、君主と言わんよりむしろ神父であった。へーリオガバルスは太陽の司祭であった。すべての時代、すべての世紀を通じて、専制主義と宗教とはかかる密接な関連を有してきたので、前者がつねに権力をもって後者の利益をはかるという瞭らかな理由によって、一方を破壊すれば必ず他方も挫《くじ》かれざるを得ないことが証明されているのである。とは申せ余は決して虐殺や国外追放を主張しているのではない。このような恐怖手段は、一瞬たりとも思い耽ったことのないほどに、余の意図するところからはるか遠くにあるものだ。しかり、断じて虐殺や追放は行うべきではない。かかる残虐な方法は、国王ないし国王の真似をした悪党どものものである。恐怖を行使した連中を恐怖せしめるのに、彼らと同じ方法を用いてはならない。暴力は偶像に対してのみ用いるべきである。偶像に奉仕する連中に対しては、ただ嘲笑のみをもって答えてやればよろしい。ユリアヌスの嘲罵《ちようば》はネロの用いたすべての刑罰よりも、キリスト教に対して大きな損害を与えたのである。されば諸君、ありとある神の観念を永久に破壊しよう。そうして神の司祭たちをば兵士として更生させよう。すでに彼らのうちの幾人かは、兵士になっている。共和主義者にとってもっとも神聖なこの職業に、彼らが進んで愛着をもつようにせねばならぬ。そしてもはや彼らをして、われわれの唯一の軽蔑の的であるところの、例の空想的な存在やお伽話のような宗教を語らせてはならぬ。
それでもまだわれわれのところへきて神や宗教のことを語るお目出たい香具師《やし》どもがいたならば、その頭目をひっとらえて、フランス中の大都会の辻々《つじつじ》でさらし者にして、頭から軽蔑と嘲罵の泥を浴びせかけてやることだ。二度までも同じ罪に陥る者の受けるべき刑罰は、永遠の牢獄《ろうごく》でなければならない。それからまた、人類の心と記憶とから、幼少の頃に詰めこまれたあの怖るべき玩具をすっかり奪い取ってしまうために、この上もなく激越な涜神《とくしん》の言葉や、この上もなく無神論的な著作が公然と世に出る認可を得る必要がある。最後には、かように重大な問題についてヨーロッパ人を啓蒙するにもっとも役立つような作品を競作させて、この問題をとことんまで論証させ、同胞の手にあの宗教の亡霊を刈り取るための大鎌と、それらを憎むための正しい心しかもはや与えないような作者を選んで、その者に国家から莫大な賞金を授与してやるがよい。そうすれば、半年とたたないうちにすべては片づき、諸君の卑しい神は虚無の中に埋もれてしまうであろう。しかもそのためには諸君は、つねに公正な態度を持し、他人の評価に気をつかい、法律の剣をつねに恐れ、かつ真摯《しんし》な人間として振舞わねばならない。なぜなら祖国の真の友は、国王の奴隷のように、決して荒唐無稽なものによって導かれてはならないからである。これを要するに共和主義者を導くべきものは、よりよき世界への取りとめない希望でもなければ、また、自然がわれわれに与えた災禍より一層大きな災禍を怖れる気持でもない。共和主義者の唯一の案内者は、ちょうど後悔が彼の唯一の軛《くびき》であるように、美徳というものだ。
道 徳
すでに有神論が共和政府に少しもふさわしからぬものであることが証明された上は、次にフランスの道徳もまたそれ以上に、これにふさわしからぬものであることを明らかにする必要があるように思われる。道徳こそやがて発布さるべき法律の根拠となるものだけに、この問題は一層重要である。
フランス人よ、諸君はすでに十分啓発されてきたのであれば、新しい政府が新しい道徳を必要とすることを理解しないわけはなかろう。自由なる国家の市民が、専制君主の奴隷のように振舞うとしたらおかしなことだ。すなわち両者のあいだの利害得失、義務および相互関係の差異が、何よりもまず、この世におけるまったく違った生活様式を決定するのである。王の政府の下ではきわめて重大なものと見なされていた無数の些細な過失や社会的軽罪は、国王たちがみずからの威信を保ち近づきがたい存在となるために、その臣下に多くの束縛を課する必要から、当然要求されねばならなかったものであるが、すべてそういったものは新しい政府の下ではまったく無効となるであろう。また弑逆罪《しいぎやくざい》とか不敬罪とかの名で知られていたその他の大罪も、すでに国王も宗教も存在しなくなった共和国政府の下では、同様に消えて無くならねばならない。信仰の自由と言論出版の自由とを認めながら、市民諸君よ、行動の自由を認めないのはほとんど不合理というべきで、政府の基盤に直接打撃を加えるものを除けば、その余は処罰すべき犯罪の数もごく限られたものになるはずであることを想わないわけには行かない。それというのも自由と平等とを基礎とした社会においては、事実上犯罪行為なるものはきわめて少数になるからで、つらつら問題を詮議《せんぎ》してみると、犯罪行為とは要するに法律が排斥するところのものをそう呼ぶにすぎないのである。つまり、自然はわれわれ人間の素質に応じて、あるいは更に哲学的な言い方をすれば、個々の人間の素質が有する必要に応じて、悪徳と美徳とをひとしく人間に賦与《ふよ》しているので、この自然が人間に吹きこむものこそ、何が善で何が悪かを正確に規定するための、もっとも確かな尺度となるべきだと言うのである。ともあれ、かかる重大な問題についての余の考えをさらに詳述するために、現在まで犯罪行為と呼ばれて怪しまれもしなかった、人間生活に付随するさまざまな行為をひとつひとつ分類して、次にそれらを共和主義者の真の義務とじっくり照らし合わせて[#「照らし合わせて」に傍点]みることにしよう。
人間の義務は古今を通じて、次の三つの異なった関係において理解されてきた――
その一、人間の信仰心および軽信が神に対して課する義務。
その二、同胞に対して履行しなければならない義務。
その三、最後に、自分自身に対してのみ関係を有する義務。
確かなことは、いかなる神といえどもわれわれの生活に介入するものではなく、またわれわれ人間は植物や動物と同様、自然の必要とする生物として、存在しないわけには行かないから此処《ここ》にこうして存在しているのであってみれば、たしかにいま挙げた義務の第一のもの、すなわちわれわれがかつて不当にも、神に対して負うべきであると信じこまされてきた義務は、この確信の前に一挙にして吹き飛ばされてしまうにちがいない。またそれとともに、一切の宗教的犯罪、不敬罪[#「不敬罪」に傍点]とか涜聖[#「涜聖」に傍点]とか涜神[#「涜神」に傍点]とか無神論[#「無神論」に傍点]とか、これら漠然《ばくぜん》とした数え切れないほどの名前で知られてきた一切の犯罪、一言にしていえば、アテナイ人が不当至極にもアルキビアデスを罰し、フランス国家があの不幸なラバアルを罰したところの一切の犯罪もまた、同時に消えて無くなるにちがいない。世にも奇怪なことと言えば、自分たちの神についても、またその神の要求するところについても、自分たちのごく狭い見解でしか推測することのできない連中が、何とおこがましくも、自然のなかで何が、彼らの空想の所産であるあの滑稽な幽霊を満足させ、また何がこれを怒らせるかを決めようとして、躍起になっている図である。そこで余が希望したいことは、あらゆる宗教を無関心に放置するにとどまらず、進んでこれを軽蔑し嗤《わら》いものにしてやることだ。御苦労さまにもどこぞの寺院に集まって、神にお祈りを捧げているような連中は、舞台の上の喜劇役者と同様に見なされて、みんなが面白がってその所作を見物しに行くような風にでもなれば結構だ。もしも諸君がそういう風に宗教を見ないならば、宗教は又しても厳粛なものになって、われわれの手に負えなくなってこよう。そしてやがては世論をかばい、ひとびとは宗教について論争するよりも、むしろ宗教のためにくだらぬ御託をならべるようになる。またそうなれば、平等は一宗教に与えられた特権ないし保護のために必ずや犠牲にされて、ほどなく政治の分野から姿を消すであろう。神権政治[#「神権政治」に傍点]は再建されて、ほどなく貴族政治[#「貴族政治」に傍点]を復活させるだろう。だからして余は何度となく繰り返すのである、フランス人よ、神を廃せ、もしも諸君がその不吉な支配の手によって、ふたたびあの専制政治の恐怖のなかに突き落されることを望まないならば、神を廃せ、と。ただし諸君が神を絶滅するために執るべき手段は、ただ嘲笑のみである。もしも諸君がいたずらに腹を立てたり、仰々しい態度をとったりしようものなら、神はあらゆる危険をぞろぞろ引きずってふたたび立ちあらわれるだろう。かっとのぼせて偶像をひっくり返してはいけない、ふざけながら叩《たた》きつぶすのである。そうすれば世論はおのずから下火になるであろうというものだ。
宗教的犯罪に対してはいかなる法律も発布さるべきでないことが、以上で十分証明されたと思う。なぜなら空想的存在を攻撃することは、何物も攻撃しないことと同じであって、諸君にその優秀性をはっきりと証明し得ないような宗教を侮辱したり軽蔑したりする者を罰するなどに至っては、これに越した無定見はないからである。そうしたことは、必ず一党一派に与《くみ》することであって、そうなれば諸君の新政府の第一の信条たる平等の基礎も、いきおいぐらつくことになるであろう。
では次に人間の第二の義務、同胞との結びつきの義務に移ろう。この部門はすべてのうちでもっとも範囲の広いものだ。
キリスト教の道徳は、人間の同胞に対する関係がきわめて曖昧《あいまい》で、その基礎は多くの詭弁にみちているので、われわれは到底それらを認めることができない。けだし、原理を確立しようという場合には、詭弁をその基礎とすることは厳に避けねばならないのである。まずキリスト教の馬鹿げた道徳によれば、われわれは隣人をば己れ自身のごとく愛さなければならない。たしかに、贋物《にせもの》が美の資格を具えることができるとしたら、これほど美事なことはあるまい。しかし何と言おうと、己れ自身のごとく同胞を愛するなどということは、一切の自然の法則に反することであり、われわれの全生活を導くものはただ自然の声のみであるべきなのであるから、そんなことはあり得る道理がないのである。われわれはただ自然から与えられた兄弟として、友として、同胞を愛すればよいのである。共和国においては、人間相互間の距離がなくなって、同胞の絆は一層緊密になるべきであるから、それだけわれわれは仲良く暮らせるはずである。
人類愛、博愛、慈善などが、したがってわれわれ相互間の義務を規定するものでなければならない。個人個人は、自然から与えられたエネルギーの単なる程度に応じて、それぞれにこれらの徳を実現するものでなければならない。だが、よしんば人一倍冷淡でつむじ曲りの人間が、この誰あって感動しない者のない結びつきの中に、みなの感じるような楽しさを見出し得なかったとしても、これを咎めたり、とりわけ罰したりすることは慎しまねばならない。けだし、諸君も同感と思うが、普遍的法律を規定しようなどとすることは、この場合瞭らかな不条理なのである。こういったやり方は、兵士たちの全員に同じ寸法で仕立てられた軍服を着せようとする大将のやり方と同じくらい、馬鹿げたことである。めいめい違った性格の持主である人間を同じ法律に服従させようなどとすることは、怖るべき不正と言わねばならない。要するに、一人に向くものが他人に向くとは限らないのである。
もちろん人間の数だけ法律をつくることの不可能なことは、余といえども認めざるを得ないけれども、しかしそもそも法律なるものは、どんな性格の人間でも、万人が容易に服従できるような、きわめて寛大な、きわめて数少ないものであってもよいわけであろう。そしてこの数少ない法律が、どんなさまざまな性格の人間にも容易に適用され得るがごときものであるべきことを、余は重ねて要求するものである。むろん、法律を導く者の精神は、法律を犯した個人を多少なりとも罰するものであるべきことは、言うを俟《ま》たない。けれども世間には、ある体質にまったく効かない薬があるように、ある種の人間にはまったく実行不可能な徳というものがあるということも明らかである。だから、もし諸君が、法律を守ることの本来できない人間を法律で罰するとしたら、これ以上の不正があるであろうか? そうした場合に諸君が犯す不公平は、盲人に色彩を見分けることを強要するときのそれにもひとしい、罪なことではないだろうか?
この最初の原理からただちに生まれてくるものは、申すまでもなく、寛大な法律をつくることの必要と、わけてもあの残酷な死刑を永久に廃止することの必要とである。けだし人間の生命を毀損《きそん》するがごとき法律は、到底運用しがたい、不正かつ不適法なものである。たしかに、のちほど言及するであろうように、人間が自然を侵犯することなく(この点を余はのちに証明する)他人の生命を毀損する自由を、このわれわれ人類の共通の母たる自然から、全面的に享《う》けている場合もないわけではない。しかし法律がそれと同じ特権を獲得することがあってはならない。なぜなら、法律は本来冷静なものであるから、殺人という残虐行為を人間において合法化する激情とは、およそ縁遠いものであるはずである。人間は自然から、かかる行為を大目に見てもらえるような感じやすい性質を享けているのであるが、法律はこれに反して、つねに自然と対立し、自然からは何ひとつ与えられていないので、したがって人間と同じ過失をみずからに認めることは許されない。すなわち、法律は人間と同じ動機をもっていないので、同じ権利をもつこともできないのである。人間と法律とのあいだに横たわるこの微妙|精緻《せいち》な区別こそ、今まで多くのひとびとによって見逃されてきたことであった。それというのも、物事をふかく考える人間の数が少なかったためである。とはいえ、余が話しかけている教養を積んだひとびとは、むろんのこと、この区別を認めてくれるであろう。願わくは、この区別が、準備されつつある新法典にも何かの形で取り入れられることを。
死刑を廃止しなければならない第二の理由は、それが決して犯罪を抑圧することはできないという事情による。断頭台を横目に見ながら、毎日のようにひとびとは犯罪を犯しているではないか。
つまるところ、この刑罰の廃止されねばならない所以《ゆえん》のものは、一人の人間を殺した廉《かど》でその人間に死を与えることほど、下手な計算はないということである。結局こうした処置で殺される人間は、一人どころか忽《たちま》ち二人になってしまうからだが、こんな算術を扱い馴《な》れているのは死刑執行人か馬鹿者だけである。
いずれにせよ、われわれが同胞に対して犯すことのできる大悪は、次の四つに大きく分けられる、すなわち、誹謗[#「誹謗」に傍点]と、盗み[#「盗み」に傍点]と、不品行[#「不品行」に傍点]によって他人を不快な目にあわせる罪と、最後に殺人[#「殺人」に傍点]とである。
こういった行為はすべて、君主政体の下では重い罪と見なされてきたものだが、共和国においてもそれはやはり重大な罪であろうか? これこそわれわれがこれから哲学の光に照らして、分析せんとしている問題である。このような検討が功を奏するのは、ただ哲学の光に照らし出すことによってのみだからである。ただし、断わっておくけれども、余に危険な改革者のレッテルなどは貼《は》らないでいただきたい。また、こういうものを書けばとやかく言われるのはやむを得ない仕儀かもしれないが、やれ余の言説には悪人の魂のなかの悔悛《かいしゆん》の情を弱める危険があるの、やれ余の道徳の寛大さは、同じく悪人の犯罪的傾向を煽り立てるという、甚だ重大な害があるのと騒がないでいただきたい。余はここに、自分が何らそうした邪悪な意図をもつものではないことを、正式に言明しよう。余はただ分別のつく齢になってから、つねに自己のうちに識別することのできた思想、あの恥知らずな暴君どもの専制政治とじつに永きにわたって対立してきた幾つかの思想を、諸君の前に披瀝《ひれき》せんとするのみである。故に、こうした偉大な思想にふれて堕落してしまうような輩《やから》には、用がない。哲学的見解の中からただ害悪しかつかみ取ることができず、何にふれてもすぐ堕落してしまうような輩は、相手にならない! そんな徒輩はもしかしたらセネカやシャロンの著作を読んでさえ、腐敗してしまうかもしれない! 余が相手とするのは決してそのような徒輩ではない、余はただ余を理解することのできるひとびとに向ってのみ語るのである。彼らこそ、何の不安もおぼえずに、余の文章を読んでくれるであろう。
虚心|坦懐《たんかい》に告白するが、余は誹謗《ひぼう》が悪事だなぞと思ったことはただの一度もない。とくにわが国のように、すべての人間が近い関係に結びついていて、互いに相手を識《し》り合うことに最大の関心をいだいている国では、それはなおさらのことである。ここに二つの場合がある、誹謗が真に邪悪な人間に向けられた場合と、それが有徳《うとく》な人間に加えられた場合とである。第一の場合、多くの悪事をなしたことで聞こえた人間について、多少悪口を言いすぎたとしても、それが何ほどのことにもならないのは諸君も認めるだろう。おそらくそうした場合には、実行されなかった噂《うわさ》の悪事が、実行された悪事を推測させるよすが[#「よすが」に傍点]ともなって、悪人の人となりはそれだけ都合よく暴《あば》かれたことになろう。
ところで、かりにハノーヴァーに悪性のインフルエンザが流行《はや》っているとして、その土地のきびしい気候にさらされればきっとこの熱に取りつかれるに違いないというとき、もし誰かが余をそこへ行かせないために、ハノーヴァーヘ行けばきっと死ぬよと余に語ったと仮定しよう。そうした場合、余はこの男に悪意を認めることができるであろうか? むろん、できはしない。なぜならこの男は、大きな災禍で余をおびやかして、小さな災禍から余を免れしめてくれたのであるから。
一方、誹謗が有徳の人物に向けられた場合であるが、彼はそうした場合にも一向驚かず、平気な態度で振舞うだろう、すなわち誹謗者の吐き出す毒はそのまま誹謗者自身の面上に戻《もど》ってくること必定である。誹謗は、かかる有徳な人士にとっては、浄化投票以外のものではなく、彼らの美徳はそれを通過するたびにますます輝きを増すのみである。だから全体としてみれば、それは共和国の美徳にとって有益ですらある。けだしこの感じやすい有徳者は、わが身が蒙った不当な中傷に発奮して、なお一層善行に身を入れることでもあろう。中傷などに少しもわずらわされないひとであっても、彼はそんなことを決して言われないような境地に達しようと努めるであろう。そして彼の善行はいよいよ力強い段階にいたるであろう。かくて誹謗者は、第一の場合においても、危険な人間の悪徳を誇張して見せることによって、十分良き結果を生ぜしめるものであったが、さらに第二の場合においても、美徳の全容をわれわれの目の前に発露せしめることによって、すぐれた結果をもたらすものと言うことができよう。
してみると、誹謗者が諸君の目に恐るべきものとして映り得るのは、たとえばとりわけ悪人を見きわめ、善人のエネルギーを増大せしめることが何より肝要とされる国家においては、そもいかなる点からであるかと余は問いたい。しかり、中傷に対してはどのような論難を加えることも慎しまねばならぬ。われわれはこれを一種の灯台として、また同時に一種の刺戟剤《しげきざい》として見なければならぬ。ともかくそれはきわめて有益な何物かである。その抱懐する思想がその従事しつつある事業と同様に偉大でなければならない立法者は、ただその結果が個人的にしか作用を及ぼさないような犯罪を研究すべきではない。彼が考察すべきは、集団的な結果をおよぼす犯罪である。こうして誹謗のおよぼす結果を観察するならば、彼はそこに何ら罰すべき罪を見出せないにちがいない。誹謗を罰する法律には、何ら正義の裏打ちができないにちがいない。反対に、もし彼が誹謗を奨励し、これに褒美を与えるならば、彼はもっとも正義潔白の士たることができよう。
盗みは、われわれの吟味しようとしている第二の道徳的犯罪である。
古代史に一わたり目を通すならば、われわれはギリシアのすべての共和国において、盗みが許可され奨励されていたことを知るであろう。スパルタおよびラケダイモーンは公然と盗みを援助していた。また別の国民は、これを兵士の美徳の一つと見なしていた。盗みが勇気や力や器用さや、一言にしていえば、共和国政府すなわちわが国に有用なあらゆる美徳を培うものであることは、これをもってしても明らかである。ここにおいて、余は偏見を去って敢《あ》えて問う、いったい富を平等化するはたらきをもつ盗みは、平等を目的とする国家においても、やはり大きな害悪であろうか? 言うまでもなく、否である。なぜかと言うにそれは、一方においては平等を維持することになり、また他方においては、各自にその財産を厳重に守らせることになるからである。かつてある国民は、各自にその所有物を大切にすることを教えるために、盗んだ者をでなく、盗まれた者を罰したということである。これこそ、われわれをより深い反省に誘うものである。
断っておくが余は、最近わが国民によって宣言されたばかりの所有権尊重の誓約を攻撃ないし破壊しようというのではさらさらない。しかしこの誓約の不当な点について、二、三の私見を述べることを許していただきたいと思うがどうであろう? そもそも、国家の全員によって宣言された誓約の精神とは、何であるか? それは市民のあいだに完全な平等を維持し、彼らすべてをして等しく所有権擁護の法律に従わしめることではないか? ところでひとつ諸君に訊きたいことは、何ひとつ所有していない者に、何でも所有している者を尊敬することを命ずるがごとき法律が、果して本当に正しいと言えるかどうかということだ。社会契約の要素とはいかなるものであるか? それはお互いが各自の守っているものを保証し維持するために、各自の自由と所有権とを幾らかずつ譲り合うことにあるのではないか?
あらゆる法律がこうした基礎の上に据えられている。つまり法律とは、自由を濫用《らんよう》する者に科されるべき刑罰の理由となるものである。それはまた課税の権限をも与えるものである。税金を課されても市民が不服を唱えないのは、彼が自分の与えるものによって残りの財産の保護されることを承知しているからである。しかしもう一度言うが、いったい何ひとつ所有していない者は、いかなる権利によって、何でも所有している者のみを保護する契約の下に縛られているのであろうか? 諸君が諸君の誓約に基づいて、金持の所有物を尊重することは一つの公正な行為であるとしても、何ひとつ所有しない者にこの財産尊重の誓約を押しつけるのは、不当なことではあるまいか? 貧乏人は諸君の誓約にいかなる利害関係をもっているのだろうか? いったい、諸君は、富という点で彼らとは天地|雲泥《うんでい》の差がある人間にのみ都合のよいことを、彼ら貧乏人にも約束させてしかるべきだと思っているのか? 全くもって、これ以上不当なことはない。誓約というものは、これを宣言するすべての人間に対して同じ功徳《くどく》をもっているものでなければならない。誓約を維持することに何らの利害関係をも持っていない者を、誓約で縛ることはできない。そんなものはもう自由な国民の契約ではないからである。そういうとき、誓約は弱者に対する強者の武器となり、弱者はこれに対してたえず反抗していなければならなくなる。これすなわち、最近国民によって要求されたばかりの、所有権尊重の誓約というものの本質的に含んでいるところの矛盾である。ここにおいては、金持が貧乏人を束縛しているという事情しかない。しかるに無考えな貧乏人は、お人好しにも無理やり約束させられたこの誓約のおかげで自分たちが、一向に自分たちに対してはしてもらえないことを相手に対してしてやっているという実情に、気がついていないのである。
ここまで言えば諸君にも、この野蛮な不平等ははっきり納得されたはずであるが、納得された以上、何ひとつ所有しない者が一切を所有する者から何かを盗んだからといって、これを罰するなどという不正は、もうこれ以上増大せしめないことが肝要だ。じつは諸君の不公平な誓約そのものが、盗む者の権利をかつてないほど正当にしているのであるから。諸君は不合理なこの誓約を押しつけて彼らに偽誓を余儀なくさせることによって、その結果彼らが赴かざるを得ないあらゆる犯罪を合法化しているのである。したがって諸君には、この自分が原因となって起った犯罪をば、罰すべき権利はもはやないのだ。泥棒を罰するということの恐るべき残忍性を理解させるためには、これ以上言う必要はないだろう。余が先ほど述べた、賢明な国民の法律を諸君も真似するがいい。すなわち、泥棒に盗まれるほど油断のある人間には罰を与えてやるがいい。だが盗む者に対しては、いかなる種類の刑罰をも宣すべきではない。諸君の誓約そのものが、盗みという行為を彼らに許しているのである。彼らはこの行為に耽ることによって、数ある自然の運動の中でもっとも根源的かつ神聖な運動、すなわち相手かまわず他人を食い物にして、己れ自身の生存を確保するという運動にしたがったまでなのである。
同胞に対する人間の義務というこの部門において、以上われわれの検討してきたもろもろの犯罪は、淫蕩《いんとう》から生まれる幾多の行為、そのなかでも特に、売淫[#「売淫」に傍点]、近親相姦[#「近親相姦」に傍点]、強姦[#「強姦」に傍点]および男色[#「男色」に傍点]など、他人に負うているものを侵害する傾向の著しい行為の裡にもっぱら見出される。道徳的犯罪と呼ばれるもの、つまり今引用したような行為のすべてが、国家という見地からみれば毒にも薬にもならないものだなどとは、間違っても考えないでいただきたい。国家の唯一の義務は、しかじかの方法によって、自己を維持するに必要な形式を保つことにある。共和国政府の唯一の道徳がこれである。
ところで共和国は、つねに周囲の国々の専制君主たちによって悩まされているのであるから、道徳的手段[#「道徳的手段」に傍点]では己れを維持することのできないことは当然である。なぜならこの場合共和国は、戦争に訴える以外に自己を保持する手段とてなく、しかも戦争以上に道徳的ならざるものはないからである。
そうとすれば、免れがたい状況によって不道徳[#「不道徳」に傍点]たらざるを得ない国家において、個人が道徳的[#「道徳的」に傍点]でなければならない理由はいったいどうして証明され得るだろう? いや、さらに突っこんで申すならば、個人は道徳的でない方が、はるかに望ましいのである。ギリシアの立法家たちは、国民を頽廃させることの必要性を完全に理解していた。それはつまり、国民の道徳的紊乱[#「道徳的紊乱」に傍点]が、国家の政府機関に有効な作用をおよぼして、その結果つねに政府というものにとって不可欠な反乱を生ぜしめるからで、国家は共和政府として完全に充足しておれば、必然に周囲のあらゆる国々の憎悪と嫉妬《しつと》とを掻《か》き立てるものなのである。この賢明な立法家たちの考えによれば、反乱は決して道徳的[#「道徳的」に傍点]状態ではないが、しかしそれは共和国というものの永久的状態でなければならない。したがって、政府機関の不道徳的[#「不道徳的」に傍点]な永久運動を維持しなければならないひとびとに向って、彼ら自身道徳的[#「道徳的」に傍点]人物たることを要求するのは、不合理でもあり危険なことでもあろう。なぜなら人間の道徳的状態は平和と静穏の状態であるが、これに反して人間の不道徳的[#「不道徳的」に傍点]な状態は、彼らをあの必要な反乱に近づける永久運動の状態だからで、共和主義者はつねに、みずからもその成員のひとりである国家を、この反乱状態に導かねばならないのである。
さて細目にわたるとして、まず第一に羞恥心、不純な愛情とは裏腹の、この臆病な感情をば分析してみるとしよう。もしも人間の慎しみぶかくあることが、自然の意図に沿ったことであるならば、よもや自然は人間を裸で生まれさせてきはしなかったであろう。われわれほど文明によって堕落させられていない多くの民族は、裸で暮らしていながら少しも恥ずかしいなどとは思っていない。着物を着るという習慣の唯一の根拠が、きびしい気候と女の媚態《びたい》であることには疑いを容れるべくもない。もしも欲望の効能を小出しにしないで、最初からあからさまに見せてしまっては、効能はただちに失われてしまうであろうことを女たちは感じた。その上、自然は彼女たちを、欠点のない存在としては決して創ってくれなかったので、これらの欠点を派手な装飾で隠せば、男の気に入られるためのあらゆる手段を、よりよく手に入れることができるだろうと考えたのであった。さような次第で、羞恥心なるものは、美徳であるどころか、実は堕落の最初の結果のひとつ、女の媚態の最初の手段のひとつにすぎなかったのである。
リクルグスやソロンは、羞恥心をなくすることの結果、共和国の法律にとって必要不可欠な不道徳的[#「不道徳的」に傍点]状態に市民を導くことができることを確信していたので、若い娘たちに裸で劇場へあらわれることを命じた。ローマもこの先例に倣《なら》い、フロオラの祭にひとびとは裸で踊った。すなわち異教的な祭祀の大部分はこのようにして執行されたのである。ある民族の許では、裸体はひとつの美徳とさえ見なされていた。ともかくも羞恥心をなくすることからは、種々の淫《みだ》らな傾向が生まれる、そしてこの傾向から生じたものが、これから分析しようとするさまざまないわゆる犯罪なるものを構成しているのであるが、その第一の結果たるものがすなわち売淫である。われわれは現在、かつてわれわれをとらえていた宗教的|誤謬《ごびゆう》の数々から解放され、おびただしい偏見をたたきつぶすことによって、一層自然に近しい存在となったのであるから、自然の声にしか耳を傾けないとしても当然である。世に罪なるものがあるとしたら、それは自然がわれわれ人類に賦与した傾向と闘うことというよりも、むしろその傾向に抵抗することというべきであることを、われわれは先刻確認している。また淫蕩というのはこれらの傾向から生まれた一つの結果であって、大事なことはわれわれの裡なるそうした情熱を消し去ることではなく、むしろ穏やかにこれを満足させる手段を決定することであることも、われわれは確かに承知している、したがってわれわれの義務は、この快楽に秩序を与え、自然の要求から淫蕩的な対象物に近づいて行く市民たちをして、何物によっても束縛を受けることなく、情欲の命ずるがままに心ゆくばかり、この対象と楽しみを分かち合うことができるようにしてやることでなければならない。けだしこうした情熱ほど、人間のうちに全幅の自由を要求する情熱は決してないのである。そこで、綺麗な家具つきの、どこからみても安全な、広くて衛生的な建物が、方々の町々に建てられる必要がある。そこでは、あらゆる年齢の、あらゆる性的傾向を具えた男女が、遊びにやってくる道楽者の気まぐれに応ずるべく控えている。そうして完全な服従が、ここにいる人間の守らねばならぬ規則である。どんな些細な拒絶でも、ただちに拒絶を受けた人間が自由にこれを罰することができる。この点については余はさらに詳述して、共和国のもろもろの道徳とこれを比較検討してみなければならぬ。余は随所で同じ論法を使ったので、約束を果たさねばなるまい。
先ほど余が言及したように、淫蕩の情熱ほど全幅の自由を要求する情熱はないが、同時にまたこれほど横暴な情熱も確かにないであろう。それだからこそ男は、命令したり、ひとを服従させたり、相手を満足させることを強制された奴隷たちに取り巻かれていたりすることを好むのである。そこで、自然が男の胸の奥に託したあの一定量の我儘《わがまま》を発揮するためのひそかな手段を、もしも諸君が与えてやらないならば、必ず男はこの欲望を行使するために、周囲の対象に八つ当りして、国家の秩序を乱すであろう。だから、もしも諸君がこの危険を避けたいと思うならば、無意識のうちにたえず男を悩まさないでは措《お》かないこの暴君的欲望に、自由なはけ口を与えてやることが必要である。もし諸君の配慮と彼の金とが、あたかもトルコ皇帝の近習か妾妃《しようき》のハレムのごときものを彼のために実現し、そこで小さな暴君ぶりを発揮することを可能にするならば、彼は満足してそこを出るや、この至極愉快に自分の色欲をみたすあらゆる手段を約束してくれる政府に対して、事をたくらもうなどとは毛頭考えないであろう。ところが逆に、これとは違った手続をとって、かつて横暴な大臣どもや淫奔《いんぽん》なサルダナパロスが考え出したあの滑稽きわまる束縛をば、この公衆の淫欲を満足させるに必要な対象たちに課したらどうか? たちまち男は諸君の政府に反感をいだき、諸君のひとりよがりの専制政治を憎んで、強いられた軛《くびき》を逃れようとするであろう。諸君の支配ぶりにうんざりして、つい最近そうしたように、又しても政府を変革しようとするであろう。
この間の事情に通暁していたギリシアの立法家たちが、ラケダイモーンやアテナイにおいて、いかに市民の放蕩《ほうとう》を扱ったかを見てみるがいい。彼らは市民に放蕩を禁ずるどころか、酔っぱらうほど満喫させたのである。いかなる種類の淫蕩も彼らには禁じられていなかったのである。神託によってこの世でもっとも賢明な哲学者と告示されたソクラテスでさえ、アスパシアの腕から、アルキビアデスの腕へと平気で移りながら、しかもギリシアの光栄たることには一向変りがなかったのである。さらに一歩を進めよう。よしんば余の思想がわが国現在の習慣といかに背反しようとも、余の目的は、もしもわれわれが一度承認した政府を存続させるつもりならば、急いでこれらの習慣を変える必要があるということを証明するにあるのだからして、余は次のごとき主張をここに提起するものだ、すなわち、堅気な女の売淫も男のそれと同様決して危険なものではない、したがってわれわれは女に対しても、上記の妓楼で淫行に耽ることを許すべきであるばかりか、彼女たちの専用のそれをも建ててやる必要がある。そしてそこでは、われわれ男のそれよりもはるかに激しい、彼女たちの気まぐれと肉体的欲望とが、男女いずれの性を相手としても満足させられるようでなければならぬ、と。
先《ま》ず第一に、諸君はいったいいかなる権利によって、女が自然の命令によって男たちの気まぐれに盲目的に服従しなければならないという事実から、目をそむけようとするのか? 第二には、彼女たちの肉体にとって無理であるばかりか、彼女たちの名誉にとっても絶対に無益な禁欲を、どうして女たちに強制しようとするのか?
余はこの二つの問題を別々に扱って行こうと思う。
言うまでもないことであるが、自然状態における女は共有物[#「共有物」に傍点]、つまり他の動物の雌と変りない長所に恵まれて、他の動物同様すべての雄に例外なく属すべきものとして、生まれてきたのである。そしてこれこそ疑問の余地なく、自然の最初の法則であり、人間がつくった最初の集団における唯一の制度であった。しかるに利害関係[#「利害関係」に傍点]と利己主義[#「利己主義」に傍点]と色情[#「色情」に傍点]とが、かくも単純素朴なこの最初の目的を堕落させた。人間は一人の女を所有することによってみずから富んだと思い、また彼女とともに家庭の幸福を築き得ると信じた。こうして余が指摘した最初の二つの感情が満足された。また、よりしばしばひとは他人の妻を掠奪《りやくだつ》して、これに愛着した。これが行動における第二の動機であって、いずれにしても、不正なことに変りはない。
いかなる所有行為も、自由な人間に対して行使されてはならない。一人の女を専有することは、奴隷を所有することと同様不正なことである。すべての人間は生まれながらに自由であり、平等の権利をもっている。この原則を決して忘れてはいけない。したがって男性にせよ女性にせよ、異性を専有すべき正当な権利は決して与えられてはいない。一つの性または一つの階級が、任意に他の性または他の階級を所有することはできないのである。純粋な自然法則にしたがえば、女は自分の身体を欲する者に対する拒絶の理由として、他の男に対する愛情を口実にすることさえできない。なぜならこの理由は一つの排他的行為となるからである。女がすべての男のものであることがはっきりしている以上、どんな男も一人の女の享楽を拒否されてよいわけはないからである。所有行為は不動産または動物に対してしか、行使されてはならない。われわれと同等の存在である人間に対しては、絶対に行使されてはならない。どんな種類のものを諸君が想像しようと、一人の女を一人の男に縛りつける絆は、すべてこれ不正かつ無意味なものである。
さてこうして、あらゆる女に対して無差別に意中を訴える権利が、自然から男に与えられていることが瞭らかになったならば、女を意のままに欲望に従わせる権利もまた、当然われわれに与えられていてよいことが瞭らかになるであろう。むろんその権利は、矛盾を恐れずに言うならば排他的なものではなくて、単なる一時的なものでなければならない。女を望む男の情熱に、女を屈服せざるを得なくするような、そんな法律を制定する権利をわれわれがもっていることも瞭らかである。強姦《ごうかん》すらこの権利の一つの帰結であるからして、われわれはこの手段をも等しく使用することができる。そう言えばたしかに自然は、女を欲望に屈服させるに必要な力を与えることによって、われわれがこうした権利をもっていることを証明したのではなかったか?
女がその身を守るために、羞恥心ないし他の男に対する関係を言草としてみても、それは無駄である。そういう無意味な方便は何にもならない。羞恥心というものがいかに不自然な軽蔑すべき感情であるかは、すでにわれわれの見てきた通りである。魂の狂気[#「魂の狂気」に傍点]と呼ぶことのできるあの恋愛にもまた、女たちの貞操を正当化する理由は見出すべくもない。だいたい恋愛は、ただ愛する者と愛される者の二人を満足させるだけで、それが他人の幸福に役立つなどということはあり得ない。しかるにわれわれに女が与えられているのは、利己的かつ特権的な幸福のためではなくて、万人の幸福のためである。すなわちすべての男はすべての女を平等に享楽する権利をもっている。したがって自然の法則によれば、いかなる男も一人の女の上に、自分だけの個人的権利を主張することはできないのである。前にふれた妓楼で、われわれの望むがままに身を売る義務を女たちに負わせ、もし拒絶するならばこれを強制し、もし言うことを肯《き》かなければこれを処罰するところの法律は、したがって、もっとも公正な法律であって、いかなる合法的ないし正当な理由も、これに対しては抗議することができないのである。
さような次第で、もしも諸君の発布する法律が正しいものであるならば、ある男はある女または娘を楽しみたいと思った場合には、その女を先述の妓楼へくるように誘うことができるようでなければならない。そしてそこで、このウェヌスの寺院の年増尼僧《としまにそう》に見守られながら、誘われた女は、大へん謙譲にしかも従順に、男が自分相手に耽りたがるあらゆる気まぐれを、たとえそれがどんなに奇妙かつ変則的なものであろうとも、男のために満足させてやるようにしなければならない。けだしどのような気まぐれにせよ、自然の裡にないものはなく、自然のものと認められないものはないのである。だからこの場合問題となるのは、もはや年齢を決定することだけであるが、余の考えるところでは、こうした制限は特定の年齢の娘を楽しみたいと思う者の自由を邪《さまた》げることにほかならないであろう。
ある木の実を食う権利をもっている者は、自分の好みに応じて、熟していようと青かろうと、その実を摘み取ることができる。しかしある年齢以下の娘は、男と接することによって必ず健康を害するものである、と言って余の説に反対するひとがあるかもしれない。だがこのような思いやりは、一顧に値するものでもない。諸君は一度享楽に対する権利をわれわれに与えてしまった以上、もうこの権利が享楽によって生ずる諸結果とはぜんぜん無関係であることを知るべきである。この時すでにこの享楽が、無理強いの享楽の対象となるべき相手にとって有益であるか有害であるかは、問題にならないのである。この目的のために女の意志を強制することが合法的であるばかりか、女自身も享楽の欲望を相手に起させたからには、あらゆる利己的感情から離れて、ただちにこの享楽に身を委《まか》さねばならぬとは、すでに余の証明したところではなかったか? 女の健康についてもまた同様である。女の年齢に対して切角思いやりをもったにしても、それがその女を欲望し、その女を我がものとする権利をもつ男の楽しみを破壊ないし減殺《げんさい》するものとすれば、かかる思いやりも意味がなくなってしまう。けだし自然および法律によって相手の欲望に一時的満足を与えるべく宣告された者が、どのような苦痛にあおうとも少しも問題にはならないのである。この詮議において問題となるのは、ただ欲望する者が満足するか否かということだけである。ところで物事はバランスが取れていなければならない。
さよう、バランスを取ることこそ、疑いもなく当面のわれわれの義務である。ということは、われわれがいまかくも残酷に男の奴隷として描いた女たちに対しては、明らかにその埋め合わせをしてやる義務があるということだ。そしてこれこそ、さきに余が提出した第二の問題に対する解答になるはずのものだ。
われわれも当然そうすべきであるように、もしもすべての女が男の欲望に従わねばならないことを認めるならば、もちろん女たちに対しても、同様にそのすべての欲望を十全に満足させることを許してやらねばならない。わが国の法律は、こうした見地に立って、彼女たちの烈しい肉体的傾向に便宜をはかってやるものでなければならない。われわれ男以上に豊かな諸傾向に恵まれている彼女たちが、もっぱらこれを抑えつける反自然的な努力の中にのみ、その名誉と美徳とを求められるとしたら、これほど馬鹿げたことはない。われわれは彼女たちを誘惑に対して脆《もろ》い存在たらしめようとしていながら、また一方においては、口説き落そうとするわれわれの努力の前に屈服したと称して彼女たちを罰するのであるから、この不公平な道徳たるや捨て置けないものがあろうではないか。われわれの道徳のあらゆる不合理性が、この怖るべき不公平の中によくあらわされているように思われる。いまその一端を垣間見《かいまみ》ただけでも、われわれはかかる道徳をより純粋なものに改めたいという止みがたい欲求を感じないわけには行くまい。
それ故に余は次のごとく主張する、女たちは淫蕩の快楽に対してわれわれ男よりはるかに烈しい傾向を享けているのであるから、あらゆる婚姻の束縛、羞恥心のあらゆる間違った偏見から完全に解放され、自然の状態に完全に立ち帰って、思うさま快楽に耽ることができるようにならねばならない、と。法律は彼女たちに、自分の気に入ったどんな男にも身をまかすことができるようにしてやらねばならない。相手が男であろうと女であろうと、肉体のあらゆる部分の享楽が、男におけると同様彼女たちに対しても許されるべきである。享楽を欲する男ならどんな相手に身をまかせてもよいという特別条項を設けて、彼女たちは自分を満足させてくれそうなすべての男をひとしく楽しむ自由をもたねばならない。
ところでひとつお尋ねしたい、こうした乱行からいかなる危険が生ずるか? 父親の不明な子供が生まれると仰言《おつしや》るか? 咄《とつ》、それがどうしたというのだ、祖国こそすべての人間の唯一の母であるべき共和国、生まれてくる者すべてが祖国の子であるような共和国に、われわれはいるのではないか? ああ! もともと祖国しか知らず、生まれた時から頼るべきは祖国のみと信じているひとびとは、どんなにか祖国を愛することができようか! 共和国のものであるべき子供たちを、諸君が家庭のなかに隔離しておく限り、よき共和国民は育たないと思わねばならぬ。同胞のすべてに分け与えるべき愛情の一定量を、家庭内の限られた幾人かのひとびとにのみ与えることによって、子供たちはともすると危険な家族たちの偏見を、やむなく受け容れるようになる。やがて彼らの思想や感情は孤立し、特殊なものとなり、国家の人間としての美徳は彼らにとって縁もゆかりもないものとなってしまう。こうしてついに自分の心情を、自分を生んでくれた親の許にすっかり託してしまうと、彼らはもはやその心情のうちに、自分たちを生活させ立派な人物として名を揚げさせてくれるにちがいない国家に対しては、いかなる愛着も湧《わ》かなくなってしまう、あたかもこの国家の恩恵が、親の恩恵よりも大切ではないかのように! このように子供たちに、ともすると祖国の利害とは大いに異なった家庭の利害を教えこむことがきわめて不都合なりとすれば、彼らを家庭から引き離すことこそ肝要である。そしてそのためには当然、余の提案する方法によらねばならない。つまりあらゆる婚姻の絆を断ち切ることによって、女の快楽からは、父親の認知が絶対に不可能な子供しか生まれないようにする。そうすればまた、子供たちが当然国家にのみ所属すべきであるのに、ひとつの家庭にしか所属させられないというような不都合な事態もなくなるであろう。
そこで、女のための遊郭が男のそれと同様、政府の保護の下につくられねばならない。そこでは、あらゆる種類の男女が選《よ》りどり見どり、彼女たちに供給されるであろう。そしてこの遊郭に頻繁《ひんぱん》に通うほど、彼女たちは尊敬されるであろう。女が自然から享けた欲望に抵抗することをもって、名誉とし美徳としたことくらい野蛮にして滑稽なことはない。男たちが女の欲望をたえず掻き立てながら、しかもこれを非難するくらい野蛮なことはない。若い娘は春に目ざめると同時に、家庭の絆から解放されて、もはや結婚のために何かを残しておこうなどという、けちなことは考えず(結婚などという制度は余の欲する賢明な法律によって廃止さるべきなので)、かつて同性を束縛していた偏見を低きに見て、例の目的のために設けられた遊郭において、その肉体的傾向が要求するあらゆる快楽にふけることができるようにならねばならぬ。彼女たちはそこでうやうやしくもてなされ、十分に満足を与えられるだろう。そして社交界にもどると、自分の味わった快楽を今日舞踏会や散歩の話でもするような調子で、おおっぴらに吹聴することができるようになるだろう。愛すべき女性諸君よ、君たちは自由になるだろう。君たちもまた男性同様、自然が君たちの義務とした一切の快楽にふけるようになるだろう。いかなる束縛をも受けつけないようになるだろう。いったい人間性のもっとも神聖な部分が、他人の干渉を許していてよいだろうか? 否! そのようなものは斥けねばならぬ、自然もそれを望んでいる。もはや君たちの肉体的傾向以外の干渉を許してはならない、君たちの欲望以外の法則、自然道徳以外の道徳を許してはならない。君たちの若さを色|褪《あ》せさせ、君たちの魂の神聖な飛躍を阻んでいたあの野蛮な偏見のなかで、もはやこれ以上長く苦しむのはよしたがいい。君たちはわれわれ同様自由なのであり、ウェヌスの歴戦の生涯は、われわれにおけると同様、君たちにも手の届くものなのだ。馬鹿げた非難など、もう恐れるな。学者ぶりと迷信とは、すでに影をひそめている。君たちが自分の愛すべき罪の故に顔を赧《あか》らめるのも、われわれはもう見ることができなくなろう。桃金嬢《ミルト》と薔薇の花を頭に飾った君たちに捧げるわれわれの尊敬は、君たちがその愛すべき罪をいかに多く犯したかということによってのみ左右されるだろう。
以上述べてきたところからすれば、もはや姦通という問題には検討を加える必要もなかろうかと思う。しかしとにかく今まで余の用いてきた論法にしたがえば、どんなつまらない問題にでも、一応目を通すのが順当だろう。古来の制度において姦通が罪と見なされていたとは、何という馬鹿げたことであったろう! もしこの世に不合理な何かがあったとすれば、それはたしかに夫婦関係の永続性ということであった。この関係の重苦しさを検討ないしは感得しさえすれば、それを軽くしようとする行為が決して罪ではないことが容易に判明するように思われる。先ほども述べたように、自然は男に対して授けている以上の烈しい体質、ふかい感受性をば女に対して授けているのであるからして、婚姻の軛《くびき》をより重く感ずるのは、むしろ彼女の方である。
愛欲の焔《ほむら》に身を焼かれた心優しき御婦人がたよ、今こそ臆《おく》せずに、君たちの当然の権利を取返すがいい。自然の衝動に従ったからとて少しも悪いことはないばかりか、自然が君たちを創ったのは、ただ一人の男のためではなくて、すべての男を無差別に喜ばせてやるためであったことを、はっきり納得するがいい。いかなる束縛も君たちの歩みを阻んではならない。ギリシアの共和国民を真似るがいい。彼らに法律を与えた立法家たちは、姦通を罪としようなどとは考えてもみなかった。ほとんどすべての立法家たちが、女たちの放蕩を認可していた。トマス・モルスは、その『ユートピア』のなかで、女の乱行が彼女たちにとって有益であることを証明しているが、この偉人の理想は必ずしも夢ではなかったのである。
タタール人のあいだでは、女は売淫をすればするほど、ますます尊敬される。彼女は首のまわりに不身持のしるしを公然とつけている。そしてそういう飾りをつけていない女は誰からも尊敬されない。ペグウではどの家庭でも、妻や娘がその土地へやってきた旅行者のために身をまかせる。また馬や車同然に、女たちを一日幾らで貸し借りする! 地球上のいかなる賢明な民族によっても、淫行が少しも罪と見なされてはいなかったことを、例を挙げて証明しようとした日には、何冊本を書いても書き足りないであろう。われわれが淫行に罪という名称を与えなければならなくなったのが、もっぱらキリスト教の詐欺師どものせいであることは、すべての哲学者がこれをよく承知している。むろん僧侶たちもわれわれに淫行を禁止するために、彼らなりの理由をもってはいたのである。つまりこのひそかな罪の鑑識と免罪の権利を自分たちの手に独占することによって、この禁止命令が女たちに対する絶大の支配力を彼らに与え、際限のない淫蕩の生活を自分たちに約束してくれることを期待したのである。彼らがいかにそれを利用したか、またもし彼らの信用が残らず失われてしまわなかったら、今後もいかにその権力を濫用《らんよう》するであろうかは、容易に想像されるところである。
しからば近親相姦は、さらに危険なものであるか? 否、もとより左様なことはない。それは家族の絆を拡張し、その結果、祖国に対する市民の愛着をより強くする。われわれは近親相姦が自然の基本的な法則によって、われわれのうちに吹きこまれているのを感ずる。自分の身内を相手に楽しむのは、つねに一層愉快なことであるように思われる。原始時代の制度は近親相姦を奨励していた。ひとは社会の起原のうちに、不倫を発見することができる。それはすべての宗教において祝聖され、すべての法律において保護されていた。世界中を漫遊するならば、われわれは不倫がいたるところで公然と認められているのを発見するであろう。胡椒《こしよう》海岸およびガボン河に住む黒人は、自分の妻を自分自身の息子と添え合わせる。ユダの長子は父親の女を娶《めと》らねばならなかった。チリ人は姉妹であろうと娘であろうとお構いなしに共寝をし、同時に母娘ふたりを相手に結婚する。これを要するに、近親相姦は友愛を基礎とするあらゆる政府の法律となってしかるべきものであると、余はあえて確言する。いったい、自分の母なり、姉妹なり、あるいは娘なりを楽しむことが罪になるなどと、どうしてそんな馬鹿なことが理性のある人間に信じられたのであろう? 自然の感情によっていちばん近づきやすい相手を、享楽の相手と見なすことが人間にとって罪となるのであるならば、これは憎むべき一つの偏見ではないだろうか? これではまるで、われわれにこれこれの人間をいちばん愛せよと命じた自然が、その口の下から、これこれの人間をあまり愛しすぎるのは禁物だと言っているようなものではないか。自然はある対象を愛したくなるような傾向を与えておいて、同時にその対象から離れることを命じているようなものではないか。こういう矛盾は実にくだらない。こういうことを信じたり受け容れたりすることのできるのは、迷信に陥った愚か者だけである。しかも余の提唱する女の共有社会は必然に不倫を生ぜしめるのであれば、このいわゆる罪なるものについては、もはや何をか言わんやである。その無意味なことはあまりにも明白であれば、もはやこれ以上くどくど述べる要はない。そこで、われわれは次に強姦の問題に移るわけであるが、これは傷害がはっきりしており、明らかに暴力が用いられるという点で、あらゆる淫蕩の罪のうち最たるもののように、一寸見《ちよつとみ》には思われる。しかしながら、このめったに起らぬ、しかも証拠立てるにきわめて困難な行為である強姦は、隣人に対して盗み以上の損害を与えるものでは決してないのである。なぜなら後者は所有物を侵犯するけれども、前者はただこれを破損せしめるにすぎないからである。それに、もし強姦犯人が次のようにうそぶくとしたら、諸君は何と言って反問するか、すなわち、自分の犯した罪などは実際ごく平凡なものにすぎない、いずれは結婚ないし恋愛が被害者の女に来らしめるであろうような状態に、自分は少しばかり早く彼女を立ち到らしめたにすぎないのだから……と?
それにしても男色は、むかしこの罪にふけった町々の上に天の劫火《ごうか》が降ったということだが、この罪ばかりは、どんな懲罰も決して重すぎるということはない奇怪な錯誤ではないだろうか? この問題について口を開けば、われわれの祖先があえて法律の名によって行った大量殺人を非難しなければならなくなるので、われわれとしても大へん辛いところである。しかし、たかだか諸君と趣味を同じくしない点がすべての罪にすぎないような不幸な人間を、あえて死刑に処するほど野蛮なことがあるであろうか? 近々四十年の過去には、まだ立法者の頭の低さがそんなところだったことを思うと、われわれは慄然《りつぜん》としないではいられない。だが市民諸君、安心していただきたい。こうした愚行はもはや二度と繰り返されはしないだろう。賢明な諸君の立法者が、諸君の期待を立派に果してくれるだろう。今日では、ある種の男たちのこうした弱点は完全に理解されているので、このような不品行が罪であるなどと考える者はいないし、また自然の方でも、われわれの腰の中に流れこむ腎水などには大して重きを置いてはいないので、われわれが好んでこの液体をどんな道から注ぎこもうとも、そんなことで腹を立てたりはしないのである。
しからばこの場合に、罪となり得るようなものは、いったい何であろうか? もしもそれが、肉体のあらゆる部分はみないちいち違っていて、清浄な場所もあれば不潔な場所もあるというようなことを主張しようとするのででもなければ、だいたいこの罪などということは、この場合問題になり得ないのではないか? そしてもちろんこうした非常識を押し進めることはできるわけがないのだとすると、この場合考えられる唯一のいわゆる罪なるものは、どうやら腎水の空費ということの中にのみありそうである。ところでこの腎水が自然の目からみて、たしかにそれほど貴重であるならば、これを空費して罪とならないのはおかしくはないか? もしそれほど貴重であるならば、自然は毎日のようにこれを空費させるであろうか? 夢の中や、妊娠した女を相手とする行為において、むざむざこれを空費することを許すであろうか? 自然が自然を侮辱するような罪の可能性を人間に与えていることを、われわれはよく想像し得るであろうか? 人間が自然の快楽を破壊することによって、自然よりも強いものになろうとしているのを、自然が黙って見ているなどということがあり得るであろうか? 推論するに当っては、理性の炬火《きよか》をつねに援用することが必要である、もしこれを怠るならば、われわれはいかなる愚蒙《ぐもう》の淵に沈んでしまうか知れたものではない。それ故にわれわれは、ここに断乎として、一人の女をどんな方法で楽しもうと一向差支えないこと、相手が娘であろうと少年であろうと一向に問題ではないこと、また、われわれのあいだには自然から授かった傾向以外のものは存在し得ないのみか、自然は賢明かつ合理的なものであるから、自分自身を凌辱《りようじよく》するかもしれないようなものをわれわれに授けるわけは絶対にないのだということを、ここに確信しようではないか。
男色の傾向は体質の結果であるが、われわれはこれを体質のせいだと言って済ますことのできない状態にいる。春に目ざめると同時に子供のうちからこの趣味を示し、長じても一向に直らない者もある。ともすると飽満の結果であることもあるが、しかしこの場合にしても、それが自然のものであることには変りはなかろう? すなわちあらゆる点からみて、それは自然の仕業であり、またあらゆる場合において、それは自然によって吹きこまれるものなるが故に、当然人間によって尊重されねばならない。だから、もしも正確な調査の結果、男色趣味が女色よりもはるかに多くの人間を動かすこと、この趣味のもたらす快楽の方がはるかにすぐれて強烈であること、そしてまた、それ故にこの趣味の信奉者の方が反対者より何千倍も多いことなどが証明された場合には、その結論として、この悪徳は自然を凌辱するどころか、却ってその目的に奉仕するものであり、また自然はわれわれが愚かしくも信じているほど、子孫の増殖ということに重きを置いていないのだということが分りはしないだろうか? ところで、世界中を遍歴してみると、何と多くの民族が女を軽蔑していることか! 跡継ぎとして必要な子供を得るためにしか、絶対に女を用いない民族もあるほどである。男同士が共同生活をする習慣のある共和国では、ますますこの悪徳が頻繁となるのは当然であろう。だからと言って、それが危険だということはない。もしそれが危険なものだと思われたら、ギリシアの立法家たちが果してそれを共和国に採り入れたであろうか? ところが彼らは、危険と見なさなかったばかりか、それを戦闘的国民に必要なものとさえ信じていたのである。プルタルコスは愛する者[#「愛する者」に傍点]と愛される者[#「愛される者」に傍点]とで組織された大隊について、感激をこめて語っている。彼らだけがあれほど長いあいだ、ギリシアの自由を護り得たのである。この悪徳は軍人たちの社会でとくにさかんであった。それによって軍人社会は強固になったのである。多くの偉大な人物がこの傾向をもっていた。アメリカが発見された当時は、全国この趣味の人間によって満ち満ちていた。ルイジアナでもイリノイでも、インディアンたちが女装して娼婦のように売淫していた。ベンゲラの黒人たちは公然と男を囲っている。アルジェのほとんどすべての淫売屋には、現今ではもう若い少年たちしかいない。テーベでは、少年愛を黙認するだけではあき足りず、法規によってこれを命じさえした。カイロネアの哲学者は若者たちの恋愛をはやらせないために、少年愛を法律で定めた。
ローマにおいて男色がいかに猖獗《しようけつ》をきわめたかは、われわれのよく知るところである。ローマの公民館では、少年が少女の服装をし、また少女が少年の服装をして、それぞれ淫《いん》をひさいでいた。マルティアリス、カトゥルス、ティブルス、ホラティウスおよびウェルギリウスなどは、まるで情婦相手のように、男たちに恋文を送った。またプルタルコスを読むと、女が男同士の愛に一切干渉を許されなかった事情が分る。クレタ島のアマジア人はむかし奇怪きわまる儀式をもって少年を誘拐《ゆうかい》したものであった。彼らのあいだで気に入った少年が見つかると、いつ何日に攫《さら》って行きたいということを少年の両親に通告する。少年は連れにきた男が気に入らない場合には、多少の抵抗もするが、そうでない時には、さっさと行ってしまう。そして誘惑者は用が済み次第、少年をその家に送り返すのであるが、けだし、この情熱も女に対する場合と同様、歓楽の果てには必ず厭《あ》きがくるものなのである。
ストラボンによれば、同じくこのクレタ島において、娼家に抱えられていたのは少年たちだけであった。ひとびとは公然と少年たちに淫をひさがせていた。
この悪徳が共和国においていかに有用であるかを証明するために、最後にもう一つ権威ある証拠をお見せしようか? 逍遥学派《ペリパトスは》のヒエロニュモスの言を聴《き》くがいい、彼はこう言っている、少年愛があまねくギリシアに弘まっていたのは、それがわれわれに勇気と力とを与え、暴君を放逐するのに役立っていたからであった。すなわち愛人同士のあいだで陰謀の計画が立てられると、彼らは仲間を売るよりはむしろ喜んで拷問に服した。こうして、彼らの愛国心は一切のものを国家の繁栄のための犠牲とした。ひとびとはこうした愛情の絆が共和国を確固不動たらしめることを信じていたから、進んで女を疎《うと》んじた。女ごときに執着するのは、共和主義者にあるまじき、専制主義者にふさわしき弱点であった。男色はつねに戦闘的国民の悪徳であった。カエサルの伝えるところによれば、ガリア人はとりわけ男色の常習者であった。多くの共和国が永いあいだ続けねばならなかった戦争は、男女の性を引き離して、この悪徳を普及させた。それが国家にきわめて有益な結果をもたらすことが知れると、ついには宗教さえがこの悪徳を祝聖した。ローマ人がユピテルとガニメーデスの恋を祝ったことはひろく知られている。セクストゥス・エンピリクスの確言するところによれば、この偏癖はペルシア人のあいだでも法律によって命じられていた。ここに至ってついに女たちも、嫉妬と屈辱とにたまりかね、亭主が少年たちから受けていると同じ奉仕を自分もしようと言い出した。そして何人かの亭主たちは、妻の言う通りにやってみたのであるが、期待通りの成果は得られないで、ふたたび元の習慣にもどったということである。
トルコ人も、マホメットがコーランのなかで祝聖しているこの悪習になかなか目がなかったものであるが、ごく年若い処女なら十分少年の代用になり得ること、また少女は水揚げ前にほとんど必ずこの試錬を受けるのが習慣であることなどを、それぞれ確言している。シクストゥス五世とサンチェスも、この放蕩を容認している。なかんずく後者はそれが繁殖に有用であって、こうした予備的行為を経て生まれた子供は、人並以上に体格がよくなるということを証明しようとさえしている。そこで、仕方なく女たちも、自分たち同士のあいだで補いをつけるようになった。むろんこの気まぐれも男たちのそれと同様、どこと言って不都合があるわけではない。なぜならその結果は出産の拒否ということだけであるし、また彼女らがいかにこの行為にふけっても、人口増殖に趣味をもつひとびとの勢力は、これとは比較にならぬほど強大なものだからである。ギリシア人は女たちのこの乱行に対しても、やはり国家的見地から支持を惜しまなかった。その結果、女たちはお互い同士で満足して、男との交渉はずっと減ったし、共和国の事業の邪魔をするようなこともなくなったわけである。ルキアノスはかかる放蕩がいかに女たちのあいだに拡大したかを伝えている。サッポーの詩のなかにこれを見出すのも、なかなか興味のないことではない。
要するに、すべてこうした奇癖のなかには、いかなる種類の危険もありはしないということである。かりにこの奇癖が嵩《こう》じて、あらゆる民族のもとにその実例が見られるように、畸形《きけい》や獣類を愛撫するまでに至ったとしても、別にそのことで何ひとつ不都合が生じる筋合のものではない。なぜなら風俗の頽廃《たいはい》は国家にとってしばしばきわめて有益なものなので、いかなる点からも、それが国家に害をおよぼすことはあり得ないからである。したがって、こうしたひとびとの弱点を抑えつけるような法律が、われわれの立法者の手から決してつくられないための保証として、われわれは彼らの十分なる良識と十分なる深慮とを期待しなければならぬ。まさしくこれらの弱点は人間の体質から由来しているものなので、そういう傾向をもっているからといって、生まれつきの片輪より以上に、これを罪人とすることは決してできないのである。
同胞に対する人間の罪を検討するこの第二の項目中で、最後に残ったのが殺人である。これを済ませたら、われわれはただちに自己自身に対する義務に移るとしよう。同胞に対して行い得る人間のあらゆる侵害行為中、何と言っても殺人がその最大の残虐行為であるのは、それが自然から与えられた唯一の財産、一度失ったら決して取返しのつかない唯一のものを、相手から奪うことであるからであろう。しかしながらこの場合、殺人がその犠牲者に与える損害自体はぬきにしても、なお幾多の疑問が生じるのである。
その一、この行為は自然の唯一の法則にのっとって、たしかに犯罪であるか?
その二、政治の法則との関係に照らして犯罪であるか?
その三、この行為は社会に対して有害であるか?
その四、共和国政府においてそれはいかに見なさるべきであるか?
その五、最後に、果して殺人は殺人によって抑圧さるべきであるか?
われわれはこれらの疑問を、ひとつひとつ別々に検討して行こうと思う。もとより問題はきわめて重要であるから、ひとつひとつに多少長く手間どったとしても許していただきたい。あるいは余の思想は、幾分過激であるとの譏《そし》りを受けるかもしれない。しかしそれが何だろう? われわれは言論の完全な自由を獲得したのではないか? いまこそ人類に偉大なる真理を顕示すべき時である。彼らもそれをわれわれの口から期待している。誤謬はすがたを消さねばならぬ。ひとびとは、王の迷いから醒《さ》めたように、誤謬の迷いからも醒めねばならぬ。殺人は自然の目から眺めて、果して犯罪であろうか? これが第一の設問である。
もしも人間を自然界のあらゆる産物と同じ列に引き下げたならば、われわれは人間性の尊厳を傷つけることになるであろうか? しかしながら哲学者は、けち臭い人間の虚栄心などに媚《こ》びたりはしないものである。つねに真理の追求に熱心な彼は、自尊心という愚かな偏見の下から真理を見つけ出すや、これを把握《はあく》し発展させて、愕然《がくぜん》としているひとびとの前に大胆に示すのである。
人間とは何であるか? 人間と植物とのあいだ、人間とすべての地球上の動物とのあいだには、いかなる相違があるのであるか? 断乎として、いかなる相違もない。彼らと同様、この地球上に偶然発生した人間は、彼らと同様、繁殖し、生育し、衰亡して行くのである。人間もまた彼らと同様に老境に達すると、やがては、すべての動物がその器官の構造に応じて自然から割り当てられている寿命の切れ目にきて、彼らと同様に虚無のなかに消えて行くのである。だから、もしも人間と諸動物とのあいだのこうした類似が、哲学者の鑑識眼をもってしてさえいかなる相異点も認められがたいほどに、厳密に近しいものであるとしたならば、動物を殺すのは人間を殺すのとまったく等しい悪事であるか、さもなければ、どっちの場合も取るに足らないことであるか、そのどちらかでしかないだろう。両者のあいだの距離はただ、われわれの自尊心という偏見の中にしかないだろう。しかも皮肉なことに、自尊心という偏見くらい馬鹿馬鹿しいものはないときている! けれども問題を進めよう。諸君はいま、人間を破壊することも動物を破壊することも、まったく等しいことにすぎないのを認めないわけには行くまい。しかしながら、すべて生命ある動物の破壊ということは、かつてピタゴラス派のひとびとが左様に考え、現在でもガンジス河の岸に棲《す》むひとびとが考えているように、議論の余地ない一つの悪事なのではあるまいか? だがこの問題に答える前に、まず余が読者に思い起していただきたいのは、われわれが自然との関連においてしか問題を吟味しているのではないということだ。人間との関連については、後に考察するであろう。
そこで、余が訊きたいのは、いかなる自然の骨折や手数をかけさせたのでもない人間が、いったい自然にとってどれだけ価値ある存在たり得るかということだ。職人は自分の作品の価値を評価するのに、もっぱらそれを作るに要した労力および時間をもってしている。ところで人間は、自然に何らかの犠牲を払わせたであろうか? かりにそうだとしても、猿や象以上に犠牲を払わせたであろうか? 一歩進めて、自然の再生の原料となるのは果して何であるか? 生まれてくる存在はいかなるものから構成されているのであるか? それらを形成する三元素は他の肉体の始原的破壊から生じたものではなかろうか? もしすべての個体が永久的なものであるならば、自然が新しい個体を創り出すことは不可能になるのではなかろうか? もし存在の永遠性が自然にとって不可能であるならば、存在の破壊こそ自然法則のひとつとなるべきであろう。
ところで、もしも破壊というものが、自然にとって絶対にそれなしでは済まされないほど有用なものであって、死のもたらすこの無数の破壊のうちに材料を汲みとらないでは、自然は何物をも創造することができないのだとすれば、われわれが死という現象に結びつけている滅亡の観念は、この時からすでに現実性を失うに至りはしないか? すなわち、確認された滅亡なるものは、もはやどこにもあり得ないものとなるはずである。われわれが動物の生命の終焉《しゆうえん》と名づけているものは、じつは真の終焉ではなくて、現代のすべての哲学者が自然の第一法則のひとつと認めているところの、単なる一つの物質の変形ということになるであろう。だから、この否定しがたい原理によれば、死とはもはや単なる一つの形の変化、ある存在から他の存在への知覚し得ない一つの推移にすぎないものであって、これこそ、かのピタゴラスが輪廻《りんね》と称したところのものであろう。
一たびこれらの真理を認めた上で、しかもなお破壊を一つの犯罪なりと言いくるめることが諸君にはできるであろうか? 馬鹿げた偏見が棄て切れないで、変形を一つの破壊なりとあえて主張するであろうか? まさか、そのようなことはあるまい。なぜなら、諸君はそのような馬鹿げたことを云々《うんぬん》するためには、物質というものがある瞬間には運動を停止すること、ある瞬間には静止することを、証明しなければなるまいからである。ところで諸君はそうした瞬間を発見することは絶対にできないはずである。大きな動物が息を引き取った瞬間に、小さな動物が幾匹も生まれる。そしてこれら小動物の生命は、大動物の生命の一時的|睡《ねむ》りから生じる必然的かつ決定的な結果のひとつにすぎないのである。それでもなお諸君は、自然が小動物よりも大動物の方を気に入ると、あえて主張するであろうか? だがそのためには諸君は一つの不可能事、すなわち自然にとっては矩形《くけい》や正方形の方が、長方形や三角形よりも有用かつ好ましいものであるというがごとき不可能事を、証明しなければなるまい。そしてまた自然の崇高な意図によれば、無為と怠惰のうちに肥えふとるのらくら[#「のらくら」に傍点]者の方が、人間のために貴重な奉仕をしてくれる馬や、その肉が殊のほか美味であるばかりか、身体中すべて役立たないところのない牛などよりも、さらに有用だということも証明しなければなるまい。毒蛇の方が忠実な犬よりも必要であるということも、主張しなければなるまい。
ところで、こうした主張はどれも支持しかねるものであるから、ここでわれわれはどうしても次のことを認めないわけには行かないのである、すなわち、自然の作り出したものを滅亡させることはわれわれには不可能である、破壊行為においてわれわれのなし得る唯一のことは、単に形を変化せしめることであって、生命を滅ぼすということは確かに不可能なのであるから、よし年齢、性別、種類がどうあろうとも、ある一つの創造物に対するいわゆる破壊行為のうちに罪が生じ得るということを証明せんとする試みは、明らかに人力のよく企て及ばないところでなければならない。さらにこれらの主張から生まれる結論をまとめて、一歩議論を進めると、こういうことになる、すなわち自然の作り出すさまざまな物の形を変化せしめるという行為は、自然を侵すものではなくて、じつは自然に役立つ行為である、なぜなら諸君はかかる行為によって、自然の再建の基礎となる材料を供給するわけであり、もし諸君が破壊しなければ、自然再建の仕事は実行不可能に陥ってしまうからである。
やれやれ! そんな面倒な仕事は自然に任せておけばいいじゃないか、と言うひとがあるかもしれない。たしかに、そんなことは自然に任せておけばよいのである。けれども人間が殺人行為にふけるとき、彼は自然の衝動に従っているのである。すなわち人間に殺人をすすめるのは自然であって、同胞を破壊する人間は、自然から見ればペストや饑饉《ききん》と何ら異るところがない。ペストや饑饉を送るのはもとより自然の手であって、自然は自分の仕事に絶対必要な、あの破壊の原動力を早急に獲得せんがためには手段を選ばぬものである。さて、ここでしばらくわれわれの魂を、聖なる哲学の炬火によって照らし出してみようではないか。いったい自然の声以外のいかなる声が、個人的な憎悪とか、復讐《ふくしゆう》とか、戦争とか、つまり一口に言えば、こうした永遠の殺人のあらゆる動機を、われわれの心に誘いかけるのであろうか? だから、もし自然がそうしたことをわれわれにすすめるとすれば、それは自然がそうしたことを必要としているからにほかならないのである。してみれば、われわれはただ自然の目的に従って行動しているにすぎないのに、どうしてこれを自然に対する犯罪だなどと考えることができよう?
だがここまで言えば、大方の賢明な読者諸子には、殺人が決して自然を凌辱する行為ではあり得ないことが、分りすぎるほど分ったはずである。
次に、政治的に見て殺人は果して犯罪であろうか? あえて言うならば、残念ながらそれは却って、もっとも大きな政治の活動力にほかならないのである。ローマが世界の覇者《はしや》になったのは、相継ぐ殺人のおかげではなかったか? フランスが今日自由な国となったのも、おびただしい殺人の結果ではないか? むろんここで語っているのは戦争によって生じた殺人であって、それが叛徒《はんと》や秩序の破壊者によって犯された兇行でないことは、あらためて言うを俟《ま》たないだろう。こういう徒輩は、民衆の憎悪の的となっているので、一般の恐怖や憤激を煽り立てる必要のある時以外は、なるべく思い出さない方がいいのである。ところで、他国を欺くことのみを心がけ、他国民の犠牲の上に自国民の発展を期することのみを目的とする政治という科学より以上に、殺人を支持しなければならない人間科学があるであろうか? この野蛮な政治の唯一の賜物である戦争は、また同時に、政治がそれによって身を養い、力をたくわえ、支えを求めるところの手段でなくて何であろう? 破壊の科学でないとしたら、戦争とはいったい何であろう? 一方では公然と人殺しの技術を教え、もっともよくこの術に達した者には褒美を与えておきながら、他方では、ある特殊な事情で自分の敵を亡きものにした者を罰するとは、何と人間も出鱈目《でたらめ》をやるものではないか! 今こそかかる野蛮な錯誤から脱け出すべき時ではないか?
最後に、殺人は社会に対する犯罪であるか? 誰がいったい尤《もつと》もらしく、こんなことを想像することができよう? ああ! この人口過剰の社会にとって、人間ひとり殖えようが減ろうが、そんなことがどうだというのだ? 人間が死ぬと、社会の法律や風俗習慣が、それだけ腐敗するとでも言うのか? いったい個人の死が一般大衆に影響を及ぼしたことが、かつてあったであろうか? 有史以来の大戦争がおわって、人類の半数(いや、お望みなら全部と言ってもいい!)が死滅してしまった後でさえも、わずかに生き残り得た少数の人間は、どんな些細な物質的変化を感じることであろうか? 残念ながら、そのようなことはあり得ないのである。これを自然全体から見るならば、なおさらもって何の痛痒《つうよう》も感じはしないであろう。すべてを自己本位に造られたものと信じている高慢ちきな人間にして、もし全人類が絶滅したあとでも自然界が何ひとつ変化せず、星辰《せいしん》の運行さえ遅れもしないでいるのを見ることができたならば、彼はさぞかしびっくり仰天することであろう。では先へ行こう。
殺人は戦闘的な共和国においては、いかに見なさるべきであろうか?
まず、この行為の信用を貶《おと》しめたり、この行為を罰したりすることは、もっとも避くべきことであろう。共和主義者の誇りには、多少の兇暴性が必要とされる。もしも共和主義者が柔弱になり、元気を喪失するならば、たちまち彼は征服されてしまうだろう。そこでひとつ、きわめて奇矯《ききよう》な意見がこれから発表されるわけであるが、いかに奇抜でもそれは真実であることに変りがないので、余はあえて申し述べる。最初から共和制をとった国民ならば、ただ美徳だけを国の支えとすればよい。多きに達するためには僅少からはじめねばならないという、これは当然の理由である。けれどもすでに年老いて腐敗した国民、しかも共和制を採用するためにかつての君主政体の羈絆《きはん》を勇敢に振り切ろうとしている国民は、多くの悪によってしか自己を維持することができない。なぜなら彼らはすでに悪のなかに浸っているのだから。したがって、もしも彼らが悪徳から美徳へ、つまり兇暴な状態から穏和な状態ヘ一挙に移ろうとするならば、彼らはたちまち無気力になり、その結果確実な破滅が招来されるだろう。豊饒《ほうじよう》な土地から乾燥した砂地に移された樹は、果してどうなるだろうか? あらゆる精神的な観念は自然の物理学に準ずべきものであるから、農学と倫理学とのこうした比較も決してわれわれを誤らせるものではないのである。
もっとも独立|不羈《ふき》にしてもっとも自然に近い人間、野蛮人は、何の罰を受けることもなく、日々殺人行為にふけっている。スパルタやラケダイモーンでは、今日のフランス人が鷓鴣狩《しやこが》りにでも行くように、奴隷狩りに行ったものであった。殺人を歓迎する民族こそ、もっとも傑《すぐ》れた民族である。ミンダナオでは、人殺しをしようという人間は勇者の仲間に列せられる。仲間はさっそく彼をターバンで飾る。カラゴス人のあいだでは、この名誉ある冠りものを受けるためには、七人の人間を殺さなければならない。ボルネオの住民は、自分たちの手にかかった者はすべて、死んでから自分たちに奉仕すると信じている。スペインの信徒たちさえ、日に十二人アメリカインディアンを殺すことを、聖ジャック・ド・ガリスに誓ったものであった。タングウト王国では、強壮な青年をひとり選んで、一年のうちのある決まった日に、出遭った者すべてを殺してもよい許可を彼に与える! ユダヤ人ほど殺人の好きな民族があったろうか? 彼らの歴史のすべてのページには、あらゆる形式の殺人を見出すことができる。
支那の皇帝や役人たちが、時あって民衆を反逆させる手段を講じたのは、こうした手続から怖るべき殺戮《さつりく》を行う権利を手に入れるためであった。だからこの柔和で女性的な民族が、ひとたび暴君の軛《くびき》から解放されたとなると、今度は自分たちの番だとばかり、当然のことのように暴君たちを撲殺せずには措かなかった。このようにして殺人は、つねに必要なものとして彼らのあいだに採択されてきたのであって、ただそのたびに犠牲者が変ったと言うにすぎなかった。かつてある者の幸福であったものが、やがて他の者の幸福に取ってかわるという寸法である。
無数の国家が、公然と暗殺を黙認している。ジェノア、ヴェニス、ナポリ、それからアルバニアの全国で、暗殺は完全に許されている。カカオのサン・ドミンゴ河畔では、明らかにそれと分る一定の装いをした刺客が、命令一下諸君の名指した人物を、諸君の目の前で刺し殺す。インディアンは殺人に赴く前に士気を鼓舞すべく阿片を吸う。それから街の中央に躍《おど》り出て、出遭う者を片端から殺してまわる。英国の旅行家たちもこの狂癖をバタヴィアで発見したということである。
ローマ人以上に偉大で、同時にまた残虐な民族があったであろうか? また彼ら以上に永きにわたって、国家の栄光と自由とを維持した国民があったであろうか? 彼らの勇気を培ったのは、猛獣相手に闘う剣士の見世物であった。殺人を日常の娯楽とする習慣によって、彼らは勇敢な戦士となったのである。千人から千五百人ばかりの犠牲者が、毎日のように円形闘技場をいっぱいにした。すると見物席では、男よりもはるかに残虐を好む婦人たちが、優雅な身ぶりで倒れる瀕死者《ひんししや》の、断末魔の痙攣《けいれん》をもっとよく見たいとさえ要求するのであった。次いでローマ人は、矮人《こびと》たちが彼らの目の前でみずから首を斬って死ぬのを見ては楽しむという、新たな快楽に移った。しかし、やがてキリスト教が全世界に毒を流しつつ弘まってきて、ひとを殺すことは罪であるという思想をひとびとに信じこませるに及ぶと、暴君どもはやがてこの勇敢な国民を束縛したので、ついにこの世界の英雄たちも暴君の玩弄物《がんろうぶつ》になり果ててしまった。
世界中いたるところで、ひとびとが正当にも信じていたことは、殺人者、すなわち同胞を殺すことによって、公共的ないし個人的な復讐を遂げるまでに自己の感傷性を抑圧することのできた人間は、左様な人間であれば必ずや非常に勇気のある人間にちがいないから、したがって戦闘的共和国にとってきわめて有為な人物であるに相違ない、ということであった。中にはもっと兇暴な国民で、子供たちを、それも多くの場合自分自身の子供たちを、殺さなければ満足しない国民もあったものである。そしてそういう行為は一般に認められていて、時には彼らの法律の一部をさえなしていた。多くの野蛮な土民は子供が生まれるとすぐ殺してしまう。オレノコ河畔に住む土民の母親たちは、女の児は生まれれば必ず不幸になる、何となればこの地方の野蛮人は女だからといって決して容赦しないから、その妻になればきっと不幸になる、とこう確信しているので、生まれ落ちると同時に女の児は自分の手で殺してしまう。トラポバンおよびソピット王国では、畸形児はすべて両親自身の手によって殺されたものであった。
マダガスカル島の女たちは、一週間のある特定の日に生まれた子供たちを、野獣に食わせるために捨児にする。ギリシアの多くの共和国では、生まれた子供を慎重に検査して、将来国家の防衛に役立ちそうもないと認められた子供は、さっそく殺されてしまったものであった。彼らはこんな人間の屑《くず》を大事に育てるために、馬鹿馬鹿しく金をかけて養育院など建てる必要はないと考えていた。帝国の本拠がローマから他へ移るまで、子供を育てようなどとは思いもしなかったローマ人たちは、赤ん坊を塵捨場《ごみすてば》に捨てたものであった。古代の立法家たちは、子供を殺すことなどまるで意に介していなかったから、彼らの法典のどこを見ても、父親が家族に対して持つと信ぜられていた諸権利を約束するような文句はない。アリストテレスは堕胎をすすめている。要するに、祖国に対して熱烈な憧憬《どうけい》を抱いていたこれら古代の共和国民は、近代諸国民のあいだに見られるような、個人に対する憐憫《れんびん》の情というものをついぞ知らなかったのである。彼らはわが子を愛することが少なかった代りに、祖国をより多く愛していたのである。支那の町ではどこでも、毎朝通りで大変な数の捨児にぶつかる。夜明け方になると清掃車がやってきて、子供たちを浚《さら》って行き、穴のなかに埋めてしまう。時によると産婆自身が、取りあげた子供を熱湯の桶《おけ》のなかで窒息させたり、河に棄てたりして、母親の手数を省いてやる。
北京《ペキン》では子供を小さな藺籠《いかご》に入れて、これを運河に棄てる。この運河は毎日浚われるのであるが、名高い旅行家デュアルドの見積ったところによれば、そのたびに上がる籠の数は、日々三万を下らない。誰しも否定し得ない極度に重要にして、かつはなはだ政治的な問題は、共和国の人口に制限を加えるということである。君主政の国家においては、ぜんぜん反対の理由から、人口増殖を奨励しなければならない。すなわち暴君は奴隷の数によってのみ富むのであるから、彼らには絶対に人間が必要である。しかし共和国においては、人口過剰は疑うべくもなく、現実的な一つの悪徳である。とはいえ現代の政治家どもの言うことを鵜呑《うの》みにして、この人口を緩和するために共和国の命数を絶ってしまっては何にもならない。要は国家の幸福が規定している限度以上に、人口が膨脹し得る力を残してさえおかなければいいのである。各人が主権者である国民の数を、あまり殖やさないように気をつけたまえ。そして革命とは結局多すぎる人口の結果でしかないことを銘記したまえ。もしも諸君が国家の栄光のために、人間を破壊する権利を諸君の戦士たちに与えるならば、その同じ国家を維持するために、各個人に対しても同様それぞれの望むがままに、それぞれが養う力のない子供とか、または国家にとって何の役にも立たないような子供は厄介払いしてもいいという権利を与えてやるべきだろう。だからと言って自然が凌辱されることには決してならないから安心したまえ。また自分の邪魔をするかもしれない敵に対しては、自分の責任においてこれを厄介払いして差支えない権利を与えてやるべきだろう。けだし、それ自体において絶対に無害なこうした行為の結果は、諸君の人口を程よい状態に保ち、諸君の国家が顛覆《てんぷく》する危険をなくしてくれることにあるだろう。国家は豊富な人口のみによって強大になる、などという迷言は、王政主義者に勝手に言わせておけばよい。もしも人口が生活資源を上廻るならば、その国家はつねに貧しいであろう。だがもしも人口が適当な範囲を超えないほど、余計なものが切り捌《さば》かれていたならば、その国家はつねに繁栄するであろう。樹の枝があまり繁りすぎるとき、諸君は枝をおろすではないか? 幹を大事に守るために、多くの小枝を剪《き》るではないか? この原理から外れたすべての言説は、われわれが苦心惨憺して打ち建てたばかりの建物を、やがて根底からひっくり返してしまうであろう誤謬にみちた一つの妄説《もうせつ》である。さりながら人口を減少させるために除かねばならないのは、大人になった人間ではない。みごとに一人前になった人間の生命をちぢめるのは、正しいことではない。ところが世間にとって確実に無益な人間がこの世に生まれようとするのを邪げるのは、決して不正なことではない。人類は揺籃時代にすでに浄化されねばならない。決して社会の役には立ち得ないと諸君が予知した者は、社会という母親の乳房から引き離されねばならない。これこそ、人口を緩和させる唯一の手段である。すでに証明したごとく、あまりにも過剰な人口は、しばしばもっとも危険な弊害を招くものである。
さて、いよいよ結論を出すべき時がきた。
殺人は果して殺人によって禁圧さるべきものであろうか? 疑いもなく、否である。殺人犯に対しては、殺された者の友人または家族の復讐によって彼が蒙《こうむ》る惧《おそ》れのある刑罰以外は、いかなる刑罰をも絶対に課してはならぬ。気晴らしに人を殺したシャロレエに対して、ルイ十五世はこう言った、「余は汝《なんじ》の行為を赦すが、汝を殺す者をも同様に赦すであろう」と。殺人犯に対してつくらるべき法律のあらゆる根拠が、この素晴らしい名言の裡にある。
要するに殺人は怖ろしいことにはちがいないが、この怖ろしさはしばしば必要でこそあれ、決して罪ではないので、共和国においてはそれは黙認されてしかるべきものである。全世界がその実例を提供していることは、すでに余が示した通りである。にも拘《かかわ》らずこれを、死刑を受けるに値する行為と見なさなければならないだろうか?
次のジレンマに答えることのできる者が、この疑問に解決を与えるであろう。
殺人という犯罪は、果して犯罪であるか、それとも犯罪でないか?
もしも犯罪でないとしたら、犯罪でないものを罰する法律をどうして作るのか? またもし犯罪であるとしたら、同等の犯罪行為によってそれを罰するというのは、何という野蛮かつ愚劣な矛盾であろう?
最後に、われわれは自己自身に対する人間の義務について語らねばならない。哲学者はしかしこの義務を、それが自分の快楽あるいは生命維持に役立つものでない限り、決して採用しようとはしないから、彼にそうした義務の履行を求めることは元来無駄でもあり、またもし彼がその義務を疎《おろそ》かにしたからといって、これに刑罰を課することなどはさらに甚だしい無駄であろう。
このジャンルにおいて人間が犯し得る唯一の罪は、したがって自殺という行為である。しかし余はここで、この行為に罪という名を与えているひとびとの愚かさ加減を、わざわざ証明する気にはとてもなれない。だから、この問題について疑義を抱いている方があったとしたら、ルッソオの有名な手紙を読んでくださいと言うほかない。ほとんどすべての古代国家が、政治上からも宗教上からも自殺を認可していた。アテナイ人は最高法院で、自分が自殺しなければならない理由を述べて、しかるのちに自刃した。ギリシアのすべての共和国が自殺を黙認していた。古代の立法家の草案のなかには、自殺の項目がちゃんと入っていた。自殺は公衆の面前で行われ、ひとびとは当事者の死を一つの壮厳な見世物として見た。
ローマの共和国は自殺を奨励した。祖国に対するもっとも際立った献身のあらわれが自殺にほかならなかった。ローマがガリア人によって占領されるというと、元老院の主だったひとびとはこぞって死に赴いた。この同じ精神を受け継いだわれわれフランス人も、同じ美徳を採用した。一七九二年戦役の折、ひとりの兵士は戦友とともにジェマップの戦闘に参加することができないのを悲観して自殺した。われわれとても、つねにこうした誇り高い共和国民と同じ高さに身を持しているならば、必ずや彼らの美徳を凌《しの》ぐに至るであろう。人間をつくるものは国家である。あれほど永年にわたった専制主義が、われわれの勇気を完全に阻喪させてしまったのである。かつまた、われわれの道徳観念を腐敗させてしまったのである。われわれは生まれ変らねばならない。自由を獲得したフランス人の天才が、フランス人の性根が、どんな崇高な行為を果たし得るかを近き将来に見せてやらねばならない。すでに幾多の犠牲を払って獲得したこの自由を、われわれは生命財産を賭《と》しても堅持しよう。目的に達するためには、いかなる犠牲をも惜しんではならない。すでに欣然《きんぜん》と死地に赴いた者さえ数多くいるではないか。彼らの血潮を無駄にしてはいけない。団結せよ……今こそ団結せよ。しからずんば、われわれの苦心の成果は一切|水泡《すいほう》に帰すであろう。われわれのかち得た勝利の上に、堂々たる法律を据えよう。われわれの共和国の最初の立法者たちは、われわれがついに打倒したあの専制君主に対する奴隷根性がいまだに抜けないので、依然としてあの暴君にへつらってでもいるような、まことに腑甲斐《ふがい》ない法律しかわれわれに与えてくれなかった。彼らのやった仕事を作り直そう。要するにわれわれが働くのは、共和主義者のためだということを忘れないようにしよう。われわれの法律は、それによって支配さるべき民衆同様、穏健なものでなければならない。
以上によって余は、誤れる宗教に躍らされていたわれわれの祖先が犯罪と見なした無数の行為の空虚さ、無意味さをすっかり披露したつもりであるが、いま、最後に当って、今後に残されたわれわれの仕事を二、三言に要約してみよう。それはこうである、少数の法律を作ろう、ただし良い法律を。――桎梏《しつこく》を多くするのではない。問題は採用される桎梏に、永久不滅の性質を与えることだ。――われわれの発布する法律は、市民の安心と幸福、および共和国の繁栄以外の目的をもってはならない。とまれ、フランス人よ、諸君は諸君の国土から敵を追い払ってしまったならば、諸君の国是を宣伝するの血気にはやって、いたずらにその足を遠くまで伸ばすの愚をやめてほしい。諸君が諸君の国是を世界の涯《はて》まで弘めることができるのは、ただ兵戈《へいか》によってのみである。この決意を実行に移す前には、どうかくれぐれも十字軍の失敗を思い起していただきたい。敵がラインの彼方にあるときは、ひたすら諸君は国境を守り、決して国内を離れてはならない。諸君は商業を振興し、工場に活気と販路を与えるべきである。諸技術を再興せしめ、諸君の国のような国家にはきわめて必要な、農業を奨励すべきである。農業の精神こそ、他国の力を借りずに、万人をして自給自足せしめるところの精神であるはずだ。ヨーロッパの諸王座はみずから崩壊するに任せておけばよい。諸君がそこに干渉する必要もなく、諸君の実績と諸君の成功とが、やがてそれらの王座を瓦解《がかい》せしめるであろう。
こうして、もしも諸君が内に無敵の強さを擁《よう》し、治安の堅実と法の優秀性とによってあらゆる国民の模範となるならば、諸君の国を模倣しようとしない国家、諸君の国との同盟を名誉としない国家は、それこそ世界中に一つもなくなるであろう。だがもしも諸君が、諸君の国是を遠くまで押し弘めたいという無益な名誉心に駆られて、諸君自身の幸福を大事にすることを忘れてしまったならば、必ずや、一時の休止をまどろんでいたにすぎない専制主義がふたたび生命を取りもどし、内部の紛争が国を乱し、諸君の財政と兵力を疲弊せしめるであろう。その結果、何のことはない諸君は留守《るす》の間に国中をすっかり暴君どもに略取されてしまって、帰国するや早速彼らの鉄鎖に身を屈して繋《つな》がれねばならないという、そんな破目に陥らないとも限らない。諸君の希望するところはすべて、諸君が故国を離れずとも、十分実現されるのである。すなわち諸君が幸福でいるのを見るならば、他の国民も必ずや、諸君によって教えられた同じ道を通って、幸福をつかもうとするに違いないからである。
ウージェニイ(ドルマンセに)
まさしく賢者の書と呼ばれるべき本だわ。それにあなたのお説とそっくりなことが、とてもたくさん書いてあるので、何だかあたし、あなたがお書きになったのじゃないかと思ってしまったほどよ。
ドルマンセ
たしかにある点では、この本の思想は僕の考えとよく似ているね。なるほど、これは僕の話の繰り返しのような印象をさえ与えるな。
ウージェニイ
あたしはでも、そんな風には感じませんでしたわ。立派なことは幾度繰り返して聞いても、聞きすぎるということはありませんもの。それにしても、この本に書いてある思想のなかには、いくらか危険な部分もあると思いますけれど。
ドルマンセ
世の中に憐憫と慈悲心くらい危険なものはない。だいたい善意というものがいつもきまって一つの弱点となるのは、あさましい人間の忘恩と厚顔無恥とが、いつも善意にみちた真面目な人間を後悔させずにはおかないからだ。だから、もしも正しい観察力を具えた人間が、憐憫という感情のもつあらゆる危険を予測して、これを何ものにも動かされない毅然《きぜん》たる感情のもつ危険と比較してみたならば、前者の危険の方がよっぽど大きいことはすぐ分るはずだよ。
ところで、少々本題からはずれたようだね、ウージェニイ。ここらで、今まで述べられた事柄の全部から、あなたの教育に役立ちそうな意見をひとつだけ抜き出してみようか。そう、あなたは決してあなたの心の声に耳を傾けてはいけない、いいかね。なぜかと言えば、この心というやつは、われわれが自然から与えられた、いちばん下手糞な案内者だからさ。不幸の女神の猫撫《ねこな》で声には十分注意して、心の扉《とびら》を閉めることが必要だね。いかにもあなたの憐れを催すような様子をした人間に近づくよりは、むしろ悪党かお追従者か陰謀家に進んで施し物をするくらいの方がまだしもいい。この場合だと、裏切られても当り前だと思うから大したことはないが、前の場合だと、後味のわるいことおびただしい。
ミルヴェル騎士
ちょっとお嬢さん、頼むから僕にひとつこのドルマンセの持論を土台から検討し直して、できればそいつを論破することを許してもらいたいな。やれやれ、無慈悲な男だよ君は! だがその君にしてさえが、たえず君に情欲を満足させる手段をもたらしてくれる、あの巨万の財産を失って、貧困という堪えがたい不幸の中でたとえ数年間でも苦しんだとしてみたまえ、おそらく、その言説は今とは大分違っていただろうと思うよ。君の酷薄な意見によれば、貧乏人は自分がわるいから不幸になるのだと! だがまあ、一目でいいから、彼らに憐れみの眼を投げてごらん。彼らのいたましい窮乏の叫びを聞いて、頑《かたく》なになってしまった君の魂の火をもう一度|掻《か》き立ててごらん! 君がやわらかい羽根|蒲団《ぶとん》の寝台で、逸楽に疲れた肉体を物憂げに休めているとき、君の生活を維持するための辛い労働に打ちひしがれた彼らは、やっと少しばかり藁《わら》を集めて、地面の冷たさから身を守っているんだぜ。彼らは野獣同様、身を横たえるのに冷たい地面しかもっていないんだ。まあちょっと見てごらん、君が毎日君の肉欲をさかんにするために二十人ものコミュスの弟子たちによって調えられる、滋味豊かな料理に取り巻かれているとき、不幸な彼らは森のなかで、干からびた土地をほじくり返しては、木の根や草の実を狼《おおかみ》たちと奪い合っているんだ。シテエルの寺院のいちばん艶《つや》やかな女たちが、華やかに笑い戯れさんざめきながら、君の淫靡《いんび》な臥所《ふしど》へとしゃなりしゃなりお越しになるとき、見るがいい、貧弱な妻と添寝した気の毒な貧乏人は、涙のなかから摘み取った快楽に満足すると、もうそのほかの快楽のことなぞは考えることさえできないのだ。思ってもみたまえ、君がなんでもしたい放題のことをし、ありあまる物のなかで暮らしているとき、いいかね、そういうときでもだよ、イの一番の生活必需品に事欠いている、どうしようもないひとたちがいるんだ。そういうひとたちの悲惨な家庭というものを、ちょっと見てごらん。妻はふるえながらも優しく、共寝しているやつれた夫へのお勤めと、同時に自然が彼らの愛の結晶として与えた子供たちへの勤めとを、ふたつながら果たさねばならない。いったい、人情のある者ならゆめ忽《ゆるが》せにはできないこうした妻たるものの勤めを何ひとつ満足に果たすことのできない気の毒な彼女が、もしも君の前にやってきて、君が残酷にもやるまいとする余りものを乞い求めた場合に、君はその彼女の言葉をも慄《ふる》えないで聴けるつもりかね! 何というむごい男だろう、君は! 彼らだって君と同じ人間ではないか? 君の同類ではないか? それなのになぜ、君が享楽しているときに彼らは苦しんでいなければならないのだ?
ウージェニイ、ウージェニイ、せめてあなただけは、魂のなかの神聖な自然の声に耳をふさがないでいてください。あなたの魂を夢中にする情欲の焔から遠ざかりさえすれば、その自然の声はいつの間にかあなたを善行の方へ導いて行ってくれるでしょう。もちろん、この場合、宗教的原理を棄て去ることには僕も賛成だ。けれど、僕らの感受性から由来する美徳までも棄てろというのはいただけない。僕らがこの上なく甘美な魂の愉悦を味わうことができるのは、ただこれらの美徳を実行に移した場合だけなんですからね。あなたの精神のすべての過失も、たった一つの善行によって償われます。あなたの不行跡が心のなかに喚《よ》び起す後悔の情も、善行によって消し去られるものです。それはまたあなたの心の奥底に、時々あなたがそこで自分の身を反省してみることのできる、一種の神聖な隠れ家のようなものを作ってくれます。あなたはその隠れ家で、あなたの身を誤らせた罪の慰藉《いしや》を得ることもできましょう。ねえ、ウージェニイ、僕はまだほんの青二才だが、道楽者だし、不信心だし、おまけに精神のどんな放埒《ほうらつ》にもふけることができる。だが僕の心はまだ元のままだ、純潔だ。そして僕がどんな若気の誤ちを犯しても安んじていられるのは、まったくその純潔な心のためなんだよ。
ドルマンセ
なるほど、君はまだ若い。今の話で君はそれを証明したようなものだ。君には経験というものが欠けているな。いずれ、経験が君を大人にする日まで、僕は待つことにするよ。人間というものがどういうものか分ったら、君だってもう、そんなに人間のことをよくは言わなくなるだろうさ。僕の胸をこんなに涸《か》らしてしまったのも、人間どもの恩知らずなんだし、おそらく僕だって君と同じように持って生まれたに違いない、その不吉な美徳をこの通りぶちこわしてしまったのも、人間どもの不誠実なんだ。だからこういう具合に、一部の人間の悪徳が他の人間の美徳を危機におとしいれるのだとすれば、若いひとたちの心から早くそんなものを消し去ってやることこそ、われわれのなすべき当然の勤めではないだろうか? 君は後悔についてくどくど言ったっけね! だけど、罪という感情にまるであずかり知らぬひとの心に、そんなものがいったい存在し得るだろうか? 胸をさす悔恨がおそろしいのなら、そんなものは君の精神の原理で圧《お》しつぶしてしまえばいいのさ。ある行為が君にとっては結局どうでもよいことがはっきり分っている場合に、君はそういう行為を後悔することができるかね? 罪なんかどこにもないのだと信じているひとが、いったいどんな罪を後悔するというのだ?
ミルヴェル騎士
後悔の感情が生まれるのは精神からではない。後悔は心からのみ、生まれるものだ。頭の中でこしらえ上げた詭弁《きべん》などは、決して魂の衝動を抑圧することのできるものじゃない。
ドルマンセ
だがね、心というものは得て間違いやすいものだよ。なにしろ、それはいつだって精神の計算違いの表現でしかないのだから。精神を円熟させたまえ。そうすれば心なんてすぐ負けてしまうよ。われわれが正しく議論しようとする際に、いつもわれわれを迷わせるのは間違った定義だ。そもそも心っていったい何のことか、僕は知らないね。僕はただ精神のいくつかの弱点を、そう呼んでいるだけだよ。僕の胸のなかを照らしているのは、唯一無二の炬火、叡智の光のみだ。だから、健康でしっかりしているとき、僕は決して道に迷ったりはしないが、疲れて憂鬱《ゆううつ》であったり、気が弱くなったりしていると、きっと失敗をやるね。そんなとき僕は自分が人情もろくなったのだと思うが、しかし本当は弱い臆病な人間であったにすぎない。そこで、もう一度言うがね、ウージェニイ、この不実な感情のために、決して道を誤ったりしてはいけないよ。そんなものは、よく覚えておくがいい、魂の弱点でしかないんだ。人間が涙をこぼすのも、何かを怖れているからにすぎないのだし、国王が暴君になるのも、似たような次第によるわけだ。だから、そこな騎士殿の当てにならん忠言なんぞは、絶対に受けつけない方がいい。この男は、根も葉もない不幸を大袈裟《おおげさ》に吹聴して、あなたの心の窓を開いてやるなぞと言いながら、実はやがてあなたの心を馬鹿馬鹿しくも悩ます結果になる、本来あなた自身から出たものでもない数々の不幸を、あなたのためにでっち上げようとしているのだからね。そうだとも! ウージェニイ、僕の言うことを信じたまえ、無感動《アパテイア》から生まれる快楽の方が、感受性から生まれる快楽よりもずっと価値があるのだ。なぜって、後者は心のほんの一面に触れることしかできないが、前者はそのあらゆる部分をくすぐり、あらゆる部分を動顛《どうてん》させるのだから。これを要するに、普通以上に強烈な魅力をもっているばかりか、社会的羈絆の破棄と法律の全面的侵犯という絶大の魅力さえもっている快楽が、どうして世間一般で認められている貧弱な快楽と較《くら》べられようかね?
ウージェニイ
勝負あった。ドルマンセさん、あなたの勝ちよ! 騎士さんのお話はあたしの心にちょっときりしか触れませんでしたけれど、あなたのお話はあたしの心をすっかりとらえ、夢中にさせたわ! ああ! 騎士さん、あたし悪いことは申しません、女を説き伏せようと思ったら、美徳に訴えるよりもむしろ情熱に訴えるべきですわ。
サン・タンジュ夫人(ミルヴェル騎士に向って)
その通りよ、あなた。あたしたちを上手に楽しませてくれるのはいいけれど、お説教するという手はないわ。またそんなことであたしたちの気が変ると思ったら大間違いだわ。あたしたち、せっかくこの可愛いお嬢ちゃんの魂と精神に正しい教育を施してあげようと思っているのに、あんたは邪魔する気?
ウージェニイ
邪魔ですって? いいえ、そんなこと、飛んでもないわ! おばさまのお説は、もう十分あたしの心を納得させているのですもの。馬鹿なひとたちが堕落と呼んでいる考え方も、今じゃもうしっかりとあたしの心の中に植えつけられているので、ちょっとやそっとじゃ元へもどる心配はございませんよ。あたしの心の中に、おばさまのお説はしっかりと支えられているのですもの、騎士さんの詭弁なんぞにはびくともするものですか。
ドルマンセ
彼女の言う通りだ。もうこんな話はやめにしよう、騎士君。君は間違いをしでかすだろうし、僕たちもこんな態度で君と話をしたくはないよ。
ミルヴェル騎士
賛成だ。僕たちがここに集まっているのは、いま僕が説明しようとした目的とは全く違った目的のためなんだからな。そのくらいのことは僕にも分るよ。まあ、せいぜいこの目的のために真っすぐ歩いて行くことにしよう。僕は自分の道徳を、君たちほど陶酔的ではなく、僕の話を落着いて聴けるひとのために取っておくことにしよう。
サン・タンジュ夫人
そうよそうよ、それがいいわ。ここでは、あたしたちのためにあなたの腎水だけを提供してくれればいいのよ。あなたの道徳は願い下げにしてほしいわ。それはあんまり柔弱で、あたしたちのような道楽者[#「道楽者」に傍点]には向かないわ。
ウージェニイ
あたし、とても気になってるんですけれど、ドルマンセさん、あなたが熱意をこめて称讃するあの残酷という感情が、あなたの快楽にいくらか影響を及ぼすことはないのかしら。もう今までに、そのことには気がついていたんですけれど、あなたは快楽の時とてもきびしい方ですわ。あたしも、そういう悪徳の傾向がいくらかあるんじゃないかと自分で感じるんです。このことについて、あたしの疑問を解くために、どうかお願いですから、あなたがどんな目であなたの快楽に役立つ相手を眺めていらっしゃるのか、おっしゃっていただけません?
ドルマンセ
そんなものは眼中にないね、お嬢さん。僕の快楽の相手が僕と一緒に快楽を感じていようといまいと、満足を感じていようといまいと、あるいは無感動であろうと、苦痛を感じていようと、僕が楽しい気分を味わってさえいれば、そのほかのことは僕には全くどうでもよいことだよ。
ウージェニイ
むしろその相手が苦痛を感じている方がよいのじゃありません?
ドルマンセ
もちろん、その方がずっといいね。このことはすでに言ったと思うが、僕たちの肉体に作用する反動が大きければ大きいほど、動物精気は快楽のために必要とされる方向に、より激しく、より速やかに決定づけられるのだ。まあ試みに、アフリカやアジアや、僕たちの南部ヨーロッパの後宮を点検して、これらの有名なハレムの主人たちをしらべてごらん。彼らは果して淫欲を起すとき、彼らに奉仕する人間どもにも快楽をあたえようと努力するかどうか。主人は命令するだけだよ。そうすれば相手は彼らに服従する。主人はみずから楽しむだけだよ。相手は彼らに応じようともしない。そして、ひとたび主人が満足すれば、相手は主人の前から引きさがるのだ。ハレムの主人たちのなかには、主人と一緒に楽しんだからといって、これを無礼だとして罰する者さえいた。アシェムの王は、王の面前にいることも忘れて快楽をむさぼった女の首を、情容赦もなく刎《は》ねさせた。しばしば王はみずから女の首を斬ることもあった。この専制君主は、アジアの最も非凡な王の一人だが、女だけに取り巻かれていた。女どもに命令するのに、身ぶりによる意志表示しかしなかった。その意味が分らないような女には、罰として最も残酷な死をあたえた。死刑はいつも王自身の手によるか、さもなければ王の面前で行われた。
すべてこうしたことは、いいかねウージェニイ、さきほどから僕があなたに説明している原理の上に基礎を置いているのだよ。快楽のとき、ひとは何を望むだろうか? それは、僕たちを取り巻くすべてのものが、ただ僕たちのことだけに没頭し、ただ僕たちのことだけしか考えず、ただ僕たちのことだけに心を配っていてほしい、ということだ。もしも僕たちに奉仕する相手がみずから楽しむならば、そのとき彼らは僕たちのことよりも、むしろ自分たちのことにより多く気を使うことになり、その結果、僕たちの快楽は乱されるのだ。淫心を燃やすとき、専制君主たらんと欲しない人間は一人だってあるまい。もし相手が自分と同じく快楽を得ていると思えば、それだけ快楽は減るものと思ってよかろう。快楽の時には、誰でも、ごく自然な自尊心の衝動によって、自分だけが世界でただ一人、現在感じているような快楽を感じることのできる人間だと思いたがる。相手が自分と同じように楽しんでいるのを見たと思えば、一種の平等の関係がそこに成立することになるわけだが、しかし、これは専制主義[#「専制主義」に傍点]によって感じる言うに言われぬ快楽の魅力を損ねるものだ。とにかく、他人を楽しませることが快楽だなどというのは、嘘っぱちだよ。それは快楽ではなくて、奉仕というものだろう。そして淫心を燃やす人間は、他人のために役立ちたいという欲望とは無縁の者だ。むしろ彼は悪事を行うことによって、力強い人間が力を行使する時に味わうあらゆる楽しみを感じる。つまり、そのとき彼は支配者であり、暴君[#「暴君」に傍点]であるわけだ。自尊心にとって、これは何という相違であろう! こうした場合に、自尊心が黙っているとは、とても考えられないからね。
快楽の行為とは、僕の思うに、他のすべての人間を自分のまわりに集め、同時に彼らを自分に従属せしめんとする情熱だよ。この支配欲というものは、自然界にひろく行きわたっているもので、たとえば動物の世界を観察してみれば、このことはよく分る。家畜として飼われている動物は、自由に生きている動物ほど子供を産まないものだ。駱駝《らくだ》などは、もっと極端な例だ。彼らは人間がいないところでしか繁殖しようとはしない。試みに、駱駝の夫婦をつかまえて、彼らを飼主の前につれてきてみたまえ。駱駝はただちに牝の前から逃げ出し、牝と別れてしまうだろう。もし自然に男の優秀性を認める気がなかったら、自然は男より女を弱く造りはしなかったろう。自然が女を弱き存在として造ったということは、とりも直さず、男がその生来の力を用いて、思いのままにあらゆる暴力を行使し、場合によっては拷問さえ用いてもよいということを、自然が認めていることの証拠ではないだろうか。快楽の発作が一種の狂気のごときものだとすれば、人類の母なる自然が、性交の際の態度を怒りのそれと見分けがたくしたのも道理ではなかろうか。身体壮健で、要するに逞《たくま》しい器官を備えた男が、どんなやり方であれ、その快楽の相手をいじめてやりたいと思わなかったとしたら、むしろ不思議ではなかろうか。しかし、僕はよく知っているが、世の中には男の感覚というものを一向に知らない愚かな男がたくさんいて、僕の主張する理論など、彼らはてんで理解することもできないのだ。まあ、こんな馬鹿者はどうでもよい! 僕が相手にしているのは、こんな話の分らない連中ではないからね。退屈な女の讃美者どもを、僕は彼らの高慢ちきな恋人たちの足もとに膝まずかせておこう。彼らは勝手に恋人から色よい返事をもらって、幸福な気分にでもなればそれでよいだろう。本来ならば征服すべき相手の、卑しい奴隷となっているのがお好きなような連中には、鉄の軛《くびき》を肩にかつぐという、つまらないお楽しみにでも耽らせておけばよい。自然はこの鉄の軛でもって、他人を苦しめる権利を彼らにあたえているのにねえ! 実際、こうした獣のような連中は、彼らの品位を落す卑しい生活に満足を見出しているのだから、僕らとしては、何をか言わんやだ。いくら言って聞かせても無駄なんだよ! でも、彼らに理解できないからといって、そのことを非難がましく言うのは、よしてほしいな。僕たちのように、逞しい魂と野放図な空想力とに恵まれて、こうした問題に関する道徳を確立することのできる者には、それこそ傾聴するに値する唯一の道徳なんだからね。……
[#改ページ]
第六の対話
サン・タンジュ夫人、ウージェニイ、騎士
サン・タンジュ夫人
ねえ、あたしの弟、あなたのお友達は、ほんとにまあ大した道楽者だわね。
ミルヴェル騎士
だからさ、ありのままに姉さんに話して聞かせた、僕の言葉に嘘はなかったでしょう?
ウージェニイ
あの方こそ、あたし、たしかに世界に比類のない方だと思うわ……ああ、おばさま、あの方は素敵だわ! お願いですから、あの方にちょいちょい会わせて下さいね。
サン・タンジュ夫人
あら、扉を叩く音がするわ……誰かしら……面会謝絶だと言っておいたのに……きっと急ぎの用事だわね。すみませんけど、騎士さん、行って見てきて下さらない?
ミルヴェル騎士
下男のラフルールが手紙を持ってきましたよ。ラフルールのやつ、手紙を渡すと、あなたに命ぜられた用事を思い出したと言って、そそくさと行ってしまいましたがね。いずれにせよ、なにか重大な、しかも緊急な用事のようでしたね。
サン・タンジュ夫人
へええ……いったい、どうしたってんだろう?……まあ、あなたのお父さまからよ、ウージェニイ!
ウージェニイ
父からの手紙ですって! ああ、これであたしたち、万事おしまいだわ!
サン・タンジュ夫人
気を落す前に、とにかく読んでみましょう。(彼女は読みはじめる)
「わが美《うる》わしの奥さまよ、小生の鼻持ちならぬ妻が、娘がお宅にお邪魔していることを聞き知って、不安のあまり、たった今、娘を取り返すべく家を出たと思し召せ。妻は頭のなかで、あらぬことをいっぱい空想しておりまする。かりに彼女の空想が現実だとしましても、小生としては一向に驚きませんが……どうかお願いですから、奥さま、妻の非礼をきびしく罰してやって下さいますよう。じつは昨日も、同じようなことで、小生は妻を懲《こ》らしめてやったのです。しかし、それだけではまだ不十分でございます。折入ってのお願いでございますから、彼女をきりきり舞いさせてやって下さいませ。たとえ奥さまが彼女をどのようにあしらおうと、小生には少しの不服もありませぬ。もう長いこと、小生は、この淫売めをもてあましておるのでございます。小生の申しあげることの意味が、お分りでございましょうか? どんなことをなさろうと奥さまの御随意なのです。それが小生の申しあげられることのすべてです。妻はこの手紙のすぐあとから、家を出る筈《はず》でございます。どうか御用意下さいませ。草々|頓首《とんしゆ》。なお、ウージェニイをみっちり教育してから、拙宅まで送り返して下さいますよう。小生は、彼女の初物を奥さま方に摘ませて差しあげたいのです。ただし、その代り、小生のためにもいささかのお力添えを賜わりたく、ここにお願い申しあげる次第でございます」
なるほどねえ! それごらんなさい、ウージェニイ、心配することなんか、ちっともないじゃありませんか? 高慢ちきな女が家へくるというだけの話だわ。
ウージェニイ
あの淫売!……ああ、おばさま、お父さまはあたしたちに白紙委任状をくださったのね。だから、あたしたちはどうしても、あの淫売にそれ相応のあしらいをしてやらなきゃなりませんわ。ね、そうでしょう?
サン・タンジュ夫人
接吻してちょうだい、いい子ちゃん。そういう頼もしいあなたを見ていると、嬉《うれ》しくなってしまうわ! でもまあ、落ちつきなさいよ。あたしたち、きっとあの女を容赦はしないって約束してあげるから。あなたは、誰かをやっつけたかったんでしょう、ウージェニイ? うまい具合に、自然と偶然とが、あなたに犠牲者をひとり授けてくれたというわけね。
ウージェニイ
だから、おばさま、その犠牲者をあたしたちでうんと楽しんでやりましょうよ。なぶり者にしてやりましょうよ!
サン・タンジュ夫人
ああ、一刻も早くこのニュースをドルマンセに知らせてやりたいわ。どうしたらいいかしら?
ドルマンセ (オーギュスタンと一緒にもどってきて)
いい時にきましたね、奥さま方。たった今そこで、あなた方の話はすっかり聞いてしまいましたよ。万事了解です……さあ、もうミスティヴァル夫人はいつやってくるか分らない……よろしいですか、あなた方は、彼女の旦那さまの願いを叶えてやる覚悟がおありですね?
ウージェニイ(ドルマンセに向って)
叶えてやる? いいえ、それどころじゃないわ、もっとそれ以上のことをしてやるのよ、あなた……ああ、たとえあなたがあの女をどんな怖ろしい目にあわせようと、あたしの勇気がくじけるなんてことは絶対にありませんから、安心してちょうだい! あの、あなたに一切の指導権をお任せしたいんですけれど、引き受けて下さるかしら?
ドルマンセ
おばさまと僕とに万事任せておきたまえ。あなたはただ命令通りに動いていればよい。僕があなたに要求するのは、それだけだよ……ああ、高慢ちきな女め! あんな女は見たことがないぞ!……
サン・タンジュ夫人
ちょっと、このままではまずいんじゃない? あの女を迎えるのに、あたしたち、もうちょっときちんとした恰好をしていた方がいいんじゃないかしら?
ドルマンセ
なに、かまうものかね。部屋に入った途端、自分の娘がここでどんなことをしていたか、いやでも自分の眼で分らせてやるべきだよ。僕たち一同、この上なくしどけない恰好をしていようぜ。
サン・タンジュ夫人
音がするわ、きっと彼女よ! さあウージェニイ、勇気をお出しなさい。あたしたちの教訓を忘れないでね……ああ、畜生、これからおもしろい場面がはじまるわ!……
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最後の対話
サン・タンジュ夫人、ウージェニイ、騎士、オーギュスタン、ドルマンセ、ミスティヴァル夫人
ミスティヴァル夫人(サン・タンジュ夫人に)
奥さま、何の予告もなしに、いきなりお宅へお邪魔してしまって、ほんとに申しわけございませんわ。でも聞くところによりますと、あたしの娘がこちらへ来ているというので。まだ独り歩きのできる年頃ではありませんし、奥さま、お願いですから、あたしに娘を返していただけませんか。不躾《ぶしつけ》なお願いのようで、気がひけますけれど。
サン・タンジュ夫人
不躾もいいところだわ、奥さま、あなたのお話をうかがっていると、まるで娘さんが悪者につかまっているようじゃありませんか。
ミスティヴァル夫人
ええ、そうですとも! お宅の御様子から判断する限り、ここにいらっしゃる方々は、あなたも、あなたのお友達も、みんな大へんな悪者だと判断して間違いないと思いますわ。
ドルマンセ
他人の家へくるが早いか、無礼なことをおっしゃいますね、奥さん。もし僕が、あなたとサン・タンジュ夫人とのあいだの親しい関係を正確に知らなかったら、はっきり申しますが、僕は彼女に代って、あなたを窓からほうり出させていたところですよ。
ミスティヴァル夫人
何ですか、窓からほうり出すとは? おぼえておいていただきたいものですわ、あたしのような女を窓からほうり出す人なんぞありません! あなたはどなたか存じませんけれど、あなたのお話ぶりや態度を見れば、たちまちお里が知れるというものですわ。さ、ウージェニイ、あたしと一緒に行きましょう。
ウージェニイ
せっかくですけれど、奥さん、お言葉に従うわけにはまいりませんのよ。
ミスティヴァル夫人
何ですって! 娘のくせに、親の言うことがきけないの?
ドルマンセ
ごらんの通り、奥さん、娘さんは断固としてあなたの言うことをききません。こんなことを許しておいていいものでしょうか。強情な娘さんを懲らしめてやるために、鞭《むち》がお入り用なら、持ってこさせますがね?
ウージェニイ
それも結構だけれど、あたしでなくて奥さんのために鞭が役に立つようなことになりはしないかしら?
ミスティヴァル夫人
何という口の減らない娘だろう!
ドルマンセ(ミスティヴァル夫人に近づいて)
まあまあ、お静かに。ここで口喧嘩《くちげんか》をしてはいけませんよ。僕たちはみんなでウージェニイを守っているんですからね。彼女に対して、あんまりひどいことを言うと、あとで後悔することになりますよ。
ミスティヴァル夫人
何ということでしょう! あたしの娘があたしに反抗するなんて。娘に対する親の権利を、娘に思い知らせることができないなんて。
ドルマンセ
お聞きしますがね、奥さん、その親の権利とは、いったいどんなものですか。あなたはそれが正しいと思い込んでいらっしゃるようですがね。あなたの旦那さまか、あるいは僕の知らない誰か男の人が、あなたの膣《ちつ》のなかに、やがてウージェニイを生み出すべき数滴の腎水を送りこんだとき、あなたは、ウージェニイを生んでやろうという気だったんですか? そうではありますまい。それなら、あなたの汚ならしい玉門に腎水が流れこんだからといって、今日、あなたの娘があなたに感謝しなければならない理由は、どこにありますか? おぼえておくがよろしい、奥さん、子供に対する父母の感情、また彼らを生んでくれた者に対する子供の感情ほど、空々しい幻想にすぎないものはない、ということをね。このような感情には、確固とした基礎が何もないので、ある土地ではそれが通用しているかと思うと、また別の土地では嫌悪されているという具合です。この地球上には、両親が子供たちを殺してしまう国もあれば、子供が自分を生んでくれた親たちを絞め殺してしまうような国もあります。もし親子の相互の愛情の働きが自然のものであったならば、血は水よりも濃いという言葉も、あながち根拠がないとは言えなくなりましょう。親子がお互いに相手を見なくても、相手を知らなくても、親はその息子をちゃんと見分け、愛することでしょうし、また逆に子供は、どんなに大ぜい人が集まっている場所ででも、その見たことのない父親をちゃんと識別し、父親の腕のなかに駈《か》けて行き、父親を愛することでしょう。しかし、現実はこの通りでしょうか? 現実には、親子のあいだには相互に根強い憎悪があるのみです。子供は物心がつくよりも以前から、すでに親の意志に服することに我慢のならぬものを感じます。父親は父親で、子供が近づいてくるのに堪えがたい思いをし、できるだけ自分のそばから子供を遠ざけようとします。そういう次第ですから、このいわゆる愛情の働きなるものは、まったく空々しい迷妄《めいもう》でしかありません。ただ利害関係のみがそれらを動かし、習慣や風習のみがそれらを支持しているのであって、自然が僕たちの心のなかに、それらの感情を刻みつけたわけでは決してないのです。いったい、動物がそれらの感情を知っているでしょうか。もちろん、知りはしません。ところで、僕たちが自然を知ろうとするとき、いつも参考にしなければならないのは、この動物なのです。
おお、世の父親たちよ! 君たちが君たちの情欲や利己心にまかせて、君たちの数滴の腎水からこの世に生まれ出た、君たちにとっては何でもない、あの子供という存在に対して不正なことをしようとも、そんなことをいちいち気に病むには及ばない。君たちは子供に対して、いかなる義務も負ってはいないのだし、君たちは子供のためにではなく、君たち自身のためにこの世に生きているのだから。遠慮などするのは馬鹿げている。君たちは自分のことだけを考えていればよく、自分のためにだけ生きていればよいのだ。それから子供たちよ、君たちは、もしまだ孝行などという感情が君たちの心に残っているとすれば、一刻も早くそんな感情から解放されるがよい。この感情の基礎は、全くあやふやなものにすぎないからだ。君たちがその血を享けて生まれた親という存在に対しては、君たちは、何の義務をも負うものではないということを信ずるがよい。憐憫、感謝、愛情、こうした感情のどれ一つとして、君たちが親に対して向けなければならないものはない。君たちをこの世に生み出した親たちは、これらの感情を君たちから要求すべき、たった一つの権利も持ってはいないのだ。何となれば、彼らは自分たちのためにだけ働き、自分たちで好き勝手なことをやっているからだ。だから、あらゆる愚行のなかでも最大の愚行は、いかなる点から見ても親たちに与える必要のない援助を彼らのために与え、焼く必要のない世話を彼らのために焼くことだろう。そんな規則を君たちに命ずるものは何もないのだ。もしひょっとして、習慣とか性格的な気質とかにより、そうしなければならないような義務観念にとらわれてしまったならば、そうした馬鹿馬鹿しい感情は思い切って押し殺すべきだろう。それは全く地方的な感情であり、気候風土に左右された習慣の結果であって、自然と矛盾するばかりか、理性ともつねに相容れないものだからだ!
ミスティヴァル夫人
まあ! でもあたしは、娘のために世話も焼きましたし、教育も与えてやったつもりですけれど……
ドルマンセ
ふん、あなたが世話を焼いたといっても、それは習慣あるいは見栄《みえ》のためでしかありませんね。あなたはただ自分が住んでいる国の風習の命ずるままに、彼女のために世話を焼いただけのことなので、ウージェニイとしては、むろん、あなたに何の恩義も受けてはいないわけですよ。それから教育ですが、彼女が受けた教育は非常に悪い教育だったにちがいない。なぜかといえば、僕たちは、あなたが彼女に教え込んだあらゆる道徳原理を、ここでもう一度そっくり練り直さなければならなかったからです。彼女の幸福に繋る道徳は一つも教えられていず、すべてが馬鹿馬鹿しい迷妄の道徳ばかりでした。あなたは彼女に神さまの話をして聞かせた。まるで神さまがこの世に存在するかのようにね。それから美徳の話をして聞かせた。まるで美徳が必要なものでもあるかのようにね。それから宗教の話をして聞かせた。まるですべての宗教的礼拝が、強者の詐欺と弱者の愚かしさの結果ではないかのようにね。それからあなたはイエス・キリストの話をして聞かせた。まるでこの無頼漢がぺてん師でもなく、悪人でもないかのようにね! それからあなたは、やること[#「やること」に傍点]は罪悪であると娘さんに教えたが、とんでもない、やること[#「やること」に傍点]こそ人生の最も楽しい行為ではありませんか。あなたはまた、娘さんに身持の正しさを教えた。しかし若い娘の幸福は、放蕩と不道徳のうちにこそあるものであり、女のなかで最も幸福な女は、疑いもなく、淫蕩と不身持に最も深くのめりこんだ女、そしてあらゆる偏見を徹底的に馬鹿にし、世間からどう思われようと一向に意に介さない女でなければなりません。そうですとも、奥さん、あなたの考えは間違っておいででした。あなたは娘さんのために何もしてやらなかったし、自然によって課せられたいかなる義務をも、彼女のために果たしておやりにならなかった。だから、ウージェニイがあなたに対して憎悪しか感じていないのも道理というべきです。
ミスティヴァル夫人
ああ、どうしたらいいでしょう! ウージェニイは堕落してしまった、そうにちがいないわ……ウージェニイ、あたしの可愛いウージェニイ、これが最後だから、あなたを生んであげたお母さんの頼みを聴いておくれ。命令ではなくて、お願いなんだよ。可哀そうに、あなたはここで怪物のような人たちに取り巻かれておいでだよ。どうか目をさましておくれ。そして、こんな危険な人たちの手から逃れ、あたしについておいで。さ、こうして膝まずいてお願いしますから! (彼女は膝まずく)
ドルマンセ
これはおもしろい。愁嘆場がはじまったぞ!……さあ、ウージェニイ、たんと同情してやれ!
ウージェニイ(半裸の姿で)
ほら、お母ちゃん、あたしのお尻を見せてあげましょうか……ちょうどあなたの口の高さにあるでしょう? 接吻してちょうだい。吸ってちょうだい。ウージェニイがあなたのためにしてあげられるのは、これだけよ……いかが、ドルマンセ、あたしはやっぱりあなたの生徒たるにふさわしい娘でしょ?
ミスティヴァル夫人(憎らしげにウージェニイを押しやりつつ)
ええ! 鬼め! 行っておしまい、もう金輪際、娘だとも思わないから!
ウージェニイ
それだけではまだ足りないわ。ついでに、あたしを呪《のろ》ってはいかが、お母ちゃん? そうすれば、もっと凄味《すごみ》が出るでしょうよ。それでもあたしは一向に動じませんけれどね。
ドルマンセ
おっと、奥さん、お手やわらかに願いますぜ。ひどいことをなさいますな。いま僕たちの目の前で、ウージェニイをずいぶん手荒に押しこくりましたね。前にも申しましたが、彼女は僕たちの保護下にあるんですよ。あなたの罪には、罰が必要ですな。どうか奥さん、あなたの乱暴な行為にふさわしい罰を受けるために、着物をぬいで裸になって下さいませんか。
ミスティヴァル夫人
着物をぬげ、ですって!
ドルマンセ
オーギュスタン、奥さんのために小間使の役をしろ。抵抗するかもしれないからな。(オーギュスタンは荒々しく仕事にかかる。ミスティヴァル夫人は身をもがく)
ミスティヴァル夫人(サン・タンジュ夫人に)
まあ、ひどい! いったい、ここはどなたのお宅なんですの? 奥さま、お宅でこんなことをさせておいて、よろしいんですの? こんなひどいあしらいを受けて、あたしが訴えないとでも思っていらっしゃるの?
サン・タンジュ夫人
訴えるなんて、あなたにできるわけがないのよ。
ミスティヴァル夫人
おお神さま! それじゃ、ここであたしを殺す気なのね!
ドルマンセ
殺していけないことはないでしょう?
サン・タンジュ夫人
みなさん、ちょっと待って。この魅力的な美人の身体をみなさんの目の前にさらけ出させる前に、彼女の身体がどんな状態であるかということを、一言みなさんに説明しておいた方がいいと思うわ。ウージェニイが今、あたしの耳もとですっかり話してくれたのよ。それによると、彼女は昨日、家事のことで何か小さな失敗をしでかして、旦那さまに思いきり鞭でぶたれたそうです……ですから、ウージェニイが断言するところによりますと、彼女のお尻には、だんだら染めのような模様がついているはずです。
ドルマンセ(ミスティヴァル夫人が裸にされると)
やあ、まさしくその通りだ! それにしても、こんなにひどく打たれた身体は見たことがないな……どうだい、このざまは! 前も後もやられているよ! しかし、それでも見事に美しいお尻だな。(彼はお尻に接吻し、手をふれる)
ミスティヴァル夫人
放して下さいませ、放して下さいませったら! さもないと、大声で助けを呼びますよ!
サン・タンジュ夫人(彼女に近づき、彼女の腕をつかまえて)
よくお聴き、すべた! 今こそお前にすべてを明かしてやろう。いいかい、お前はね、お前の御亭主そのひとによって、あたしたちのところへ送り届けられた生贄《いけにえ》なんだよ。お前は、お前の運命を堪え忍ばなければならないんだ。お前の運命を保証するものは何もないよ。さあ、どうなることだろうね? あたしだって知りゃしないよ! たぶん、お前はくびり殺されるか、車責めにされるか、八つ裂きにされるか、焼いた鋏《やつとこ》で挟まれるか、生きながら焼き殺されるかするだろう。お前に対する刑罰を選ぶのは、お前の娘の役目だよ。彼女がお前に判決を下すのさ。だけど、お前はそれまでにも、うんと苦しまなければならないよ、淫売め! ああ、そうだともさ、お前は数限りない拷問を受けた後に、はじめて血祭りにあげられることになっているのだからね。お断わりしておくけれど、いくら泣いても叫んでも無駄でしょうよ。この部屋で牛を殺したって、啼《な》き声が外に洩れる心配はないんだからね。お前の馬車も召使も、もうみんな帰ってしまったよ。もう一度言っておきますがね、奥さん、お前の旦那さまがあたしたちに、お前を自由にする権限をあたえてくれたんだよ。お前は娘を取り返すつもりで、愚かにも、自分の目の前に張られた罠《わな》に落ちてしまったのさ。いや、じつに見事に落ちたものだわね!
ドルマンセ
さあ、これだけ底を割って話せば、奥さんの気持も静まるだろう。
ウージェニイ
こんなにまで彼女の気持を考えてやるということは、つまり、思いやりがあるということね!
ドルマンセ(相変らず夫人の尻を撫でたり叩いたりしながら)
まったく奥さん、あなたにはサン・タンジュ夫人のような情のあるお友達がいて、結構ですねえ……今どき、こんな率直なことを言ってくれるお友達が、どこにいるでしょう? 彼女の話しぶりには、じつに真実味があふれていましたねえ!……おいウージェニイ、ここへきて、君のお母さんのお尻と君のお尻とを並べてごらん。僕が二つを比較してみるから。(ウージェニイ、言われた通りにする)ふうん、やっぱり君の方がきれいだよ。でも、お母さんのも悪くはないぜ、ほんとだとも。ちょっと、これを二つとも用いて楽しむ必要があるね……オーギュスタン、ここへきて、奥さんを押さえていてくれ。
ミスティヴァル夫人
ああ、どうしましょう! 何という乱暴な!……
…………………………
ミスティヴァル夫人(気を失いかけて)
お願いですから、勘弁して下さいませ……あたし、気分がわるくなってきました……気を失いそうですわ……(サン・タンジュ夫人が彼女を助けようとするが、ドルマンセは反対する)
ドルマンセ
いやいや、そのまんまにしておいた方がいい。気絶した女を眺めているのは、じつに淫欲をそそるものだからな。息を吹き返させてやるには、鞭でたたいてやればいいさ……ウージェニイ、君はここへきて、お母さんの身体の上に寝てごらん。君がしっかりした娘であるかどうかは、これで分ろうというものだ。騎士君、君は気絶したお母さんの胸の上にのっている、この娘さんを鞭で打ってやりたまえ。彼女は鞭で打たれているあいだ、オーギュスタンと僕とを両手でそそり立てる。それからサン・タンジュ夫人、あなたは、この娘を刺激してやりたまえ。
ミルヴェル騎士
しかしドルマンセ、君がやらせようとしていることは、実際、おそろしいことだぜ。自然と神と、それから人間の最も神聖な掟《おきて》とを、同時に傷つけることになるぜ。
ドルマンセ
騎士君がたびたび美徳の衝動を爆発させるのは、まことに愉快だね。いったい、僕らのしていることのどこに、自然と神と人間に対する冒涜があるというのかね? 道楽者をして行動に走らしむる原因は、君、自然のなかに在るのだよ。さきほどから君にもたびたび言った通り、自然はその平衡の法則を完全に維持するために、ある場合には悪徳を必要とし、ある場合には美徳を必要とする。そして自然は僕たちに、自然にとって必要な運動を交る交る行わせるのだ。だから、僕たちはこうした運動に身をまかせたからといって、ひとびとが想像するように、どんな種類の悪事をしたわけでもないのさ。神について申せば、いいかね、愛すべき騎士君、どうかお願いだから、神の罰などを怖れるのはやめにしてくれたまえ。この宇宙には、たった一つの原動力しかない。そしてその原動力とは、自然のことなのさ。奇蹟というよりも、人類の母なる自然の物理的結果と言った方がよいが、それらは人間によってさまざまに解釈され、いずれ劣らぬ珍無類な形のもとに、彼らによって神として崇められてきた。ぺてん師や陰謀家が、彼らの同胞の信じやすさにつけ込んで、その滑稽な空想の産物を普及することにこれ努めた。騎士君が神と呼び、これを冒涜することを怖れているものは、要するに、こんなものだったのだよ! さらに君は付け加えて、人間の掟とおっしゃいますがね、そんなものは、さっきから僕らの弄している駄弁によって、とっくに破られているよ。臆病なおめでたい男だね、君は。馬鹿どもが人道などと呼んでいるものは、恐怖とエゴイズムの結果として生じた弱さにすぎないということを、もう一度よく覚えておくがいい。こうした夢のような美徳は、弱い人間しか束縛しないものであって、克己主義と哲学と勇気とによってその精神を形成した者には、縁のないものだよ。
だから騎士君、何ものをも怖れず、何ものにも遠慮することなく、自分勝手に行動したまえ。こんな女を一人ぐらい殺したって、まだ罪悪と言えるかどうか、あやしいものだ。罪悪とは、人間にとって不可能なものだよ。自然は罪悪を犯したいというやみがたい欲望を人間に吹きこむが、なかなか用心ぶかく、自然の法則を乱すような行為には、人間を近づけないだけの才覚をもっている。ただそれ以外の行為は、僕たちには何でも許されている。自然も馬鹿ではないから、自然の運動の範囲内で、その活動を乱したり破壊したりする力だけは僕たちにあたえてくれた。自然の意図に翻弄《ほんろう》されるがままなる僕たちは、自然の暗示を受けて、宇宙を破壊したい衝動にさえ駆り立てられる。もし罪悪というものがあるとすれば、それはこうした自然の意図に抵抗することだろう。この世の悪人どもはすべて自然の気まぐれの代理人でしかないのだよ……さあ、ウージェニイ、それでは位置につきたまえ。おや、これは驚いた! 君は蒼《あお》い顔をしているね!
ウージェニイ(母親の身体の上に寝て)
あたしが蒼い顔をしていますって? とんでもないわ、そんなこと。ちゃんと見ればお分りのはずよ! (それぞれ位置につく。ミスティヴァル夫人は相変らず気を失っている。やがて騎士が埒をあけて、一同は位置を離れる)
ドルマンセ
やれやれ! この淫売、まだ息を吹き返さないぞ! 鞭だ、鞭だ! オーギュスタン、急いで庭へ出て、茨《いばら》の枝の束を取ってきてくれ。(待っているあいだ、彼は夫人に平手打ちをくわえたり、息を吹きかけたりする)まさか、ほんとに死んだのではないだろうな。何をやっても無駄だ。
ウージェニイ(口をとがらせて)
ここで死なれては、困るわ、あたし。この夏、喪服を着なければなりませんもの。せっかく美しい服をつくったばかりなのに!
サン・タンジュ夫人(ぷっと吹き出して)
まあ、あきれた娘《こ》だわ!
ドルマンセ(オーギュスタンの持ってきた茨の束を受け取って)
さあ、それでは最後の手段だ。鞭の効果をとっくり拝見しよう。(ミスティヴァル夫人は鞭で打たれるにつれて、息を吹き返しはじめる)どうだい、みなさん、僕の言った通り、鞭の効果たるや確かなものだろう?
ミスティヴァル夫人(眼をあけて)
ああ神さま! 一度死んだあたしを、どうして生き返らせて下さったのです? どうして人生の辛さを、もう一度あたしに味わわせようとなさるのです?
ドルマンセ(相変らず鞭をふるいながら)
ふん、それはだね、まだすべてが結着していないからさ。お前さんに対する判決を、お前さんの耳に聞かせてやりたいからさ。刑を執行してやりたいからさ……さあ、僕たちは犠牲者のまわりに集まろう。犠牲者は輪の中心に膝まずいて、自分に対して下される刑の判決を、ふるえながら聞くというわけだ。ではまずサン・タンジュ夫人から始めたまえ。
サン・タンジュ夫人
あたしは絞首刑を宣告するわ。
ミルヴェル騎士
僕は支那人がやるように、肉を切りこまざいてやりたいな。
オーギュスタン
わたしは、そうですな、生きながら車裂きの刑に処してやれば、もう文句はございません。
ウージェニイ
あたしはね、お母さんの身体中に、硫黄《いおう》のついたランプの芯《しん》を結びつけて、あっちこっちから火をつけてやりたいと思うの。
ドルマンセ(平然として)
よろしい。それでは諸君、僕が家庭教師の資格で、判決を少し甘くしてやろう。ただし僕が宣告する判決と、諸君のそれとは、いささか相違がある。諸君の判決には、まあ一種の悪ふざけみたいな効果しかなかったが、僕の下す判決は、現実に実行され得るのだ。僕は階下に一人の下男をつれてきたが、この男は、おそらくこの世に二つとない見事な一物の所有者なのだ。しかしその一物は、無残にも恐ろしい黴毒《ばいどく》に侵され、たえず黴菌を分泌している。僕はこの男を二階につれてこようと思う。彼はこの愛すべき御婦人の肉体の二つの入口から、その毒液を注ぎこむだろう。その結果、この忌わしい病気の影響は長くつづき、もう彼女は、娘の邪魔をすることなんか考えなくなるにちがいない。(全員が拍手|喝采《かつさい》する。下男が二階につれてこられる。ドルマンセ下男に向かって)ラピエール、この御婦人を物するがよい。彼女は至極健康な身体だ。お前が彼女を楽しめばお前の病気はきっとよくなるよ。効果は覿面《てきめん》だ。
ラピエール
みなさんの見ている前でですかい、旦那さま?
ドルマンセ
自分のお道具を見せるのが、お前は恥ずかしいのかね?
ラピエール
いえ、そんなことはございません。それはもう立派なものでございますから……では奥さま、どうか御用意下さいまし。
ミスティヴァル夫人
おお神さま、何という怖ろしい判決でしょう!
ウージェニイ
死ぬよりはましよ、お母さん。少なくとも、あたしがこの夏、喪服を着ないで済むことになりますからね!
ドルマンセ
ラピエールが仕事をしているあいだ、僕たちも楽しもうじゃないか。みんなでお互いに鞭で打ち合うことにしたらどうかね。サン・タンジュ夫人はラピエールを打つ。彼がしっかりミスティヴァル夫人を首尾するようにな。僕はサン・タンジュ夫人を打つことにしよう。オーギュスタンは僕を打つ。ウージェニイはオーギュスタンを打ち、彼女自身は、騎士の手で力いっぱい鞭を受ける。(一同は位置につく。ラピエールが前を済ませると、今度は主人は後にせよと下男に命ずる。下男はその通りする。すべてが終ると、ドルマンセは)よろしい。もう行きなさい、ラピエール。そら、十ルイやるぞ。やれやれ、これでよし! トロンシャンも行わなかったような接種の実験が、これで立派に完成したわけだ!
サン・タンジュ夫人
次に大事なことは、奥さんの血管のなかを流れている毒液が、外へ洩れ出ないようにしてしまうことだと思うわ。ウージェニイに、あなたの前門と後門とを丁寧に縫ってもらうことにしましょうよ。そうすれば、有毒なお汁は凝《かた》まってしまって、もう外へ発散しなくなり、すぐにあなたの骨をぽろぽろにしてしまうでしょうからね。
ウージェニイ
いい考えだわ! では早く、針と糸をあたしにちょうだい……さあお母さん、股《また》をひらいて。あたしが縫ってあげますからね。もうあたしの弟も妹も生まれてこられないようにね。(サン・タンジュ夫人がウージェニイに、太い赤い蝋引《ろうびき》の糸のついた、大きな針を渡す。ウージェニイが縫いはじめる)
ミスティヴァル夫人
おお神さま! 痛い!
ドルマンセ(気違いのように笑いこけながら)
やあ、これはいい考えだ! 奥さん、これはあなたのお手柄だよ。僕にはとてもこんな名案は思い浮かばなかったよ。
ウージェニイ(玉門の縁や、その内部や、腹や小丘をちくちく刺しながら)
まだ何にもしてはいないわよ。これはほんの小手しらべよ。
ミルヴェル騎士
この小娘はまあ、お袋さんを血だらけにしてしまう気らしい!
ドルマンセ
ああ、何という素晴らしい眺《なが》めだい! こういう遊びは、じつに気をそそるな! ウージェニイ、僕の気分をそそり立てるために、もっとどんどん突き刺してくれ。
ウージェニイ
お望みなら、百ヵ所でも二百ヵ所でも孔《あな》をあけてやるわ……ほら見てごらんなさい、あたしの針がどんなに活躍したか……お尻も、乳房も、傷だらけよ……ああ畜生、何て楽しいんでしょう!
ミスティヴァル夫人
ひどいひと、あたしの身体をずたずたにするつもりなのね! お前のような娘を生んだことを、あたし、恥ずかしく思うわ!
ウージェニイ
つべこべ言わないで、お母さん。さあ、これで終ったわ。
ドルマンセ(サン・タンジュ夫人のそばを離れて)
ウージェニイ、お尻は僕に縫わせてくれ。そこは僕が専門だから。
サン・タンジュ夫人
あんなこと言って、あなた、彼女をなぶり殺しにしてしまうんじゃないの?
ドルマンセ
それだって構うものかね! 僕たちはちゃんと文書によって、彼女を自由にする許可を得ているんだろう? (彼は彼女を腹ばいに寝かせ、針をとり、尻の孔を縫いはじめる)
ミスティヴァル夫人(金切り声をあげ)
ああ! ああ! ああ!……
ドルマンセ(肉に深く針を刺しながら)
だまれったら、すべた! さもないと、お前さんの尻をぐちゃぐちゃにしてやるぞ。
ミスティヴァル夫人
ああ、許してください、あなた。御勘弁くださいませ。あたし、死にそうですわ!
…………………………
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あとがき
マルキ・ド・サドの『閨房哲学』La Philosophie dans le Boudoir 全二巻が初めて出版されたのは、一七八九年の革命勃発から六年目、すなわち一七九五年のことである。この年にはまた、別の長篇書簡体小説『アリーヌとヴァルクウル』も出版されており、作者にとっては多産な年であった。
表紙には表題につづいて「『ジュスチイヌ』の作者の遺作」と書かれているが、むろん作者は当時現に生きていたのであり、これは四年前の『ジュスチイヌ』の成功をふたたび招来せんがための商業的政策であったと思われる。出版所はロンドンということになっており、巻頭には寓意的《ぐういてき》な扉絵が一枚と、エロティックな木版画が四枚挿入されていた。またエピグラフとして、「母親は娘にこれを読ませねばならぬ」と書かれていた。
異本について述べると、一八〇五年にやはりロンドン発行と銘打たれた『閨房哲学』が出ているが、これには「不道徳な教師たち」という副題がついている。しかしサドは当時シャラントン精神病院に監禁されていたので、この副題は、作品の内容をかなり正確に暗示してはいるものの、明らかに作者の意図によるものではない。この版には、十枚のエロティックな石版画が挿入されていた。そのほか十九世紀のあいだに何度も再刊された『閨房哲学』は、有名なプウレ・マラシの刊行本(一八六六年)をも含めて、いちいちこれをあげつらう価値もない粗悪なテキストのものである。
ただ、今世紀に入ってから「ポアチエの書誌学者ヘルペイ」なる者によって編まれた版(一九二三年)は、「サドポリスにて、サド研究会発行」と銘打たれ、原著の挿絵五枚を再録し、編者による研究論文『サド侯爵とサディズム』を冒頭に付した、きわめて忠実な翻刻版である。サドポリスはむろん架空の都市であり、書誌学者ヘルペイは、じつはアポリネエルとともに『国立図書館の危険書庫』を編集したルイ・ペルソオの匿名であった。
わたしが翻訳の底本として用いたのは、この選集すべての場合と同じく、ジャン・ジャック・ポオヴェール版(一九五四年)であり、訳出した量は全体のほぼ二分の一に当る。
さて、この『閨房哲学』は、サドの他の著作たとえば『新ジュスチイヌ』や『ジュリエット』のように、一種の恐怖にまで高まる強烈なエロティシズムの効果を全篇にわたって発揮しているものとは言いがたいが、その形式が対話体であるだけに、サドの反社会性の哲学が却《かえ》って最も攻撃的、論戦的な形で露呈されている稀有《けう》な著作と言うことができる。つまり、空想的な残酷の場面が少ない代りに、抽象的な思想のエキスを読者はたっぷり吸収することができるというわけである。
とくに第五章に含まれる「フランス人よ、共和主義者たらんとせば」と題された長いパンフレットは、もともと物語の主題とは関係なく書かれたもののごとくであり、社会的配慮によってメタフィジカルな議論の鋭鋒はやや鈍らされてはいるものの、依然としてサドの大革命に対する態度を知るには最も好適なものと言わねばならない。劃一《かくいつ》主義と教権主義に対する嫌悪がこれほど激烈にぶちまけられた例はなく、このパンフレットが、一八四八年の二月革命の際、匿名のプロパガンダとして再版されたのも故なしとしない。
もっとも、この『閨房哲学』全七章のうちに、残酷|淫靡《いんび》な場面やエロティックな会話が必らずしもないというわけではない。それどころか、ドルマンセの講義の隙には、例によって登場人物入り乱れての淫行が何度となく展開されるのであるが、本訳文では、そういう部分は、残念ながら割愛せざるを得なかった。
一九七六年十月
[#地付き]澁 澤 龍
本書には今日の人権意識に照らして不当・不適切と思われる語句や表現がありますが、作品執筆時の時代背景や作品の文学性などを考慮しそのままとしました。
[#地付き](角川書店編集部)
角川文庫『閨房哲学』昭和51年12月20日初版発行
昭和52年3月20日再版発行