美徳の不幸
マルキ・ド・サド/澁澤龍彦(訳)
目 次
美徳の不幸
前口上
ジュスチーヌとジュリエットのこと
ジュリエットのこと
ジュスチーヌの物語の発端ならびに収税請負人デュブール氏のこと
高利貸デュ・アルパンのこと
女賊ラ・デュボワのこと
男色家ブルサック侯爵のこと
外科医ロダンのこと
森の修道院サント・マリーのこと
財布泥棒のこと
律儀な紳士ダルヴィルのこと
贋金つくりのこと
名判官S…氏のこと
男爵夫人デュボワのこと
豪商デュブルイユのこと
ベルトランのお内儀のこと
神父アントナン師のこと
ジュリエットとジュスチーヌの再会のこと
雷のこと、ならびに納め口上
悲惨物語
解 説
[#改ページ]
美徳の不幸
前口上
哲学の勝利とは、天意の定めた目的に達すべく、人間にしてたどらねばならぬ小暗き道に叡知《えいち》の光をかかげることであり、またその上で、なにか案内書のごときものを作りなして、横暴な支配者であるとかいう神の気まぐれに永遠に翻弄《ほんろう》されるがままなるこのあわれな二本足の存在に、天意を体した者が実地に踏み行なうべき道すじを教えてやったり、さては、二十ほどもちがった名前をもらっているくせにいっこうその正体のはっきりせぬ、あの運命という妙ちきりんな気まぐれ者の犠牲者にならないための予防策をば教えてやったりする、さようなことであろう。
ところで、もしも社会的慣習から出発したわれわれが、教えられたとおりこれに対する尊敬の念をけっして捨てなかったがために、かえって他人の非道によってろくでもない目にばかりあいつづけ、一方悪いやつはうまいことばかりしている、というような不幸なことが起こったならば、こうした悲しむべき事態に直面してもなお超然としていられるほど確固たる勇気を持ちあわせない人は、すなわち必ずや、流れに棹《さお》さすよりもこれに身をまかす方がましだと考え、美徳は誰がなんと言おうとも、悪徳に対して抗すべき十分な力を持たないときは、貧乏くじでしかないと言明し、そうしてまた、完全に腐敗しきった世間においては、いちばん安全な道はみなと同じように行動することだと言明しはしないか? 一歩進めて、もしそういう人がさらに学問を深め、ものにした知識をひけらかすような挙に出た場合には、彼らはかの「ザディーグ」(ヴォルテールの小説)のなかの天使ジェスラッドとともに、必ずや、善を生ぜしめないところの悪はない、と言いはしないか? さらにまた彼らは調子にのって、こうも言いはしまいか、すなわち、悪しき世界の不完全な構成においては、善の量と悪の量とが相ひとしいのであるから、この平衡を維持するためには善玉と悪玉とが、同じ数だけ存在することが必要である、したがって大局的に見れば、とりたてて善玉でなければならない理由もなければ悪玉でなければならない理由もない、よしんば不幸が美徳をくるしめ、隆運がしばしば悪徳にともなうものとしても、自然の意思には係わりのないことなので、ほろびゆく善人の仲間入りをするよりも、栄えゆく悪人の味方になった方がはるかにましである、と?
事ほどさようであるからして、この哲学の危険な屁理屈に負けないように心がけることが肝心であり、また、美徳が不幸をもたらす例をみて堕落した一個の魂にしてから、そこばくの良心がそこに影をとどめていさえすれば、それは美徳ひとすじに進んだ魂が、かがやかしい栄光とよろこばしい報いとを受けた場合とひとしく確実に、ふたたび善のふところに立ち返らしむることができるという事実を、江湖に知らしむることが肝心であろう。美徳を敬愛して人後におちない心やさしき多感な女人がかずかずの不幸にくるしみ悩むさまと、一方、生涯を通じて美徳を軽蔑《けいべつ》した女人がはなばなしい幸運をつかむさまとを、二つながらあわせ描くことは、申すまでもなく酷なことである。しかしながらこの二つの描写の下絵から、ひとつのよき意図があらわれ出るとすれば、かかるものを衆目にさらしたからとて一概に責めらるべきであろうか、かかる事実を明らかにしたからとて、なにか身にやましさをおぼえるべきであろうか? 天の秩序に従うべき、有益な教訓をそこに読み取るほどの賢者にとっては、さりながら、この事実は、ただ天の謎《なぞ》のほどけてゆく一段階にすぎないのである、ともすると天はわれわれをみずからの義務に立ち返らせるために、われわれの中でもっともりっぱに義務を果たしたと思われる者をさえ打ちこらすことがあるということを、警告するものにすぎないのである。
ざっとかくのごとき自覚が作者の手に筆をとらしめた。されば、作者が悲しいあわれなジュスチーヌの不幸のために、一掬《いつきく》の同情をまじえたささやかな関心を読者諸子にお願いするのも、この間の微意を汲んでいただいての話である。
ジュスチーヌとジュリエットのこと
ロルサンジュ伯爵夫人といえば、なにより婀娜《あだ》っぽい美貌《びぼう》と、おびただしい不行跡と悪辣《あくらつ》手段とによって富をきずいた、あのヴィナスの寺院の尼僧にも見立てたい女人のひとりであったから、それこそシテエルの島の記録保管所でも捜さなければ見つからないようなはでな称号をいっぱい持っていたことだが、そんなものはいかほどはでだとしても、ひとえに本人のいけずうずうしい言動と、周囲の者のお人好しな盲信とが作りあげ維持している虚名というものだろう。髪は栗いろ、大そう活発で、体つきはすんなり、すばらしく表情にとんだ黒い瞳《ひとみ》と、あふれる才気と、わけても当世流の無信仰を体していたが、これこそ仇《あだ》し心にぴりりとした刺激をそえ、よほど用心してかからなければ、男たちは言い寄ることもできかねた。しかし彼女はりっぱな教育をうけていたので、もとはサン・トノレ街の大そう裕福な商家の娘、それが彼女より三つ年下の妹といっしょに、パリ有数の由緒《ゆいしよ》ただしい修道院で育てられ、十五の歳《とし》までりっぱな教師にも保護者にも、またよい書物にも才能にも事欠きはしなかったのである。ところが若い娘の徳操に決定的な影響をもつこの時期に、すべてが一朝にして失われるにいたった。すなわち怖ろしい破産が彼女の父をある手痛い窮地に追いこんだので、彼にとってこの不幸な運命をのがれる唯一の道は、娘たちを妻に託して急遽《きゆうきよ》イギリスにわたる以外にはなくなり、妻は妻で悲しみのあまり、夫の出奔後八日にして死んでしまったという事件が起こったのである。のこった親族はせいぜい二、三人であったが、娘たちの身のふりかたについて協議した結果、おのおのに約百エキュの分け前をあたえて、修道院から解放してやり、この金でなんでも自分の好きなことをさせてやったがよかろうということに話がきまった。
ロルサンジュ夫人は当時ジュリエットという名前であったが、そのころから性格も気性も三十歳の現在、つまり作者がこれから語ろうとしている逸話のあった時期とほとんどかわりがないほどにませて[#「ませて」に傍点]いたから、親子生き別れの悲しい境遇なんぞには一瞬間もくよくよせず、自由になった楽しみにただひたすら有頂天になっているようであった。しかるに妹のジュスチーヌ、これはまだ十二歳になったばかりであったが、心のやさしい、ひどく感受性の強い、陰気くさい淋《さび》しい性格の娘で、姉が手練手管にたけているのに反し、単純素朴善意のかたまりのようなのが後になって悪人の術中に陥るもとになったのだけれども、ただもう悲しい境遇がおそろしくて仕方がなかった。
この娘はジュリエットとはぜんぜんちがった容貌の持ち主だった。つまり姉の顔だちに人が小細工と媚態《びたい》の技巧を読みとれば、妹のそれには含羞《がんしゆう》と臆病とを愛《め》ずるといった按配式である。処女らしい風姿、思いやりにみちた大きな青い瞳、まばゆいばかりの白い肌《はだ》、ほっそりと華車《きやしや》な体つき、やるせもなげな声音《こわね》、象牙《ぞうげ》の歯、それにみごとな金髪と、ざっとまあ、かくのごときがこの愛くるしい妹娘の素描であって、その飾りけのない美しさ感じのよい顔つきは、これを描かんとする絵筆をようのがれられないほどに微妙かつ巧緻《こうち》な趣をおびていた。
さて彼女ら姉妹は、どこでもいいから好きなところへ行って、百エキュでもって身をかためるようにと申しわたされて、修道院を出てゆくのに二十四時間の猶予をあたえられた。ジュリエットは、自由の身になるのがうれしくて、一度はジュスチーヌの涙をふいてやったけれども、相手がいっこう泣きやまないのを見ると、もう慰めることはあきらめてぶつぶつ言い出した。あんたはばかよ、若くてきれいな娘が飢え死したなんて聞いたことないわ、と彼女は言って、隣の娘が家出をして今では総徴税請負人の囲い者になって、パリじゅうを馬車で乗りまわす豪奢《ごうしや》な生活をしている例を引いてやった。ジュスチーヌは、しかしこの悪い女の例が気にくわず、そんな真似《まね》をするくらいならいっそ死んだ方がよいと言い、姉と一緒に暮らすことをきっぱりと断わったものだが、やがてジュリエットはその妹に言ったとおり、あこがれの背徳の生活に飛びこんで行った次第である。
そこで、ふたりの姉妹は自分たちの気持ちがこうまで食い違っていたので、また会う約束もせずにそのまま別れてしまった。みずから口にしていたように貴婦人になることを夢みていたジュリエットにとっては、一介の小娘の糞真面目《くそまじめ》な年寄りくさい言動が、妹とはいえ辛気《しんき》くさくてやり切れなかったから、もう会いたいとも思わなかったし、一方ジュスチーヌについて言えば、進んで男たちの放蕩《ほうとう》の慰みものになろうとしている堕落した人間と付き合ってまで、みずからの道心を危うくしたいとは思わなかったわけであろう。で、おのおの伝《つて》をもとめて、きめられたとおり翌日から修道院を去って行った。
子供のころ母のお抱えの女裁縫師にかわいがられたジュスチーヌは、この女なら自分の運命に同情してくれるかもしれないと思った。そこで尋ねて行って、困っていることを話し、仕事を見つけてもらおうとしたところ、すげなく断わられた。
――おやおや、とこのあわれな小娘は考えた、世間へ出た第一歩からして、このとおり思うにまかせぬ結果になろうとは……いったいあの女、昔はあたしを愛していてくれたはずなのに、どうして今ではあたしをつきかえすのかしら?……ああ、そうだ、それはあたしが孤児《みなしご》で貧乏で……もう世間に身寄りも何もないからだ……世間のひとは、寄るべのある者をしか大事にしないのだわ。
そう思うとジュスチーヌは、今度は小教区の主任司祭のところへ行って、なんとか相談に乗ってもらおうとした。ところが慈悲ぶかいはずの聖職者は、思わせぶりたっぷりに、こう答えただけだった。すなわち、小教区の住民は重い税金にあえいでおるから、お前さんがご喜捨にあずかることはむずかしかろう、したが、わしのために奉公してくれるというなら、よろこんで宿を貸してもあげようが、と。けれどもこう言いながら、この聖者は彼女の頤《おとがい》の下に手をのばして、宗門の人にあるまじき、はなはだ猥《みだ》りがわしい接吻をあたえようとしたので、ジュスチーヌにはこの坊さんの下心がすっかり読めてしまい、いそいで身を引くと、こう言った、「お坊さま、あたしには喜捨も女中の職もいりません。これでも昨日までは、人様のお情けにすがって生きてゆくなど思いもよらなかった身分の者でしたので、まだそこまで落ちぶれるには早すぎますよ。あたしはただ、自分が歳も若く不幸な身の上だもので、あなたさまになにかご忠告をうかがわせてもらえたらと思ったまでのことで。ところがあなたさまはその代償に、罪なことをお求めなさろうとする……」すると司祭はこの言葉に憤慨して、扉をあけると、荒々しく彼女を追い出した。そこで、天涯《てんがい》孤独の身となった最初の日から、二度までも追い払いを食ったジュスチーヌ、とある家の前に来ると、出ていた貼札《はりふだ》を読んで、さっそくそこに案内を乞うて、小さな家具つきの一間を借り、前金をはらって部屋に落ち着くと、あらためて自分の置かれたみじめな境遇と、不幸な星が早くも彼女と係り合いにさせずにはおかなかった幾人かの相手の、紙のごとく薄い人情とを思って、せめて思うさま嘆き悲しんだことではあった。
ジュリエットのこと
ここでちょっと、ジュスチーヌをあの薄暗い宿屋の一室に置き放しにしておいて、話をジュリエットにもどし、できるだけ手短かに、いかにして彼女があの身軽な地位から脱け出して、近々十五年の間に、三十万リーヴル以上の年金やら、おびただしい宝石やら、またパリにも田舎《いなか》にも二、三の城館《やかた》をもつ、爵位のある地位にまでのしあがり、そうして目下のところは、国家参事官ド・コルヴィル氏、声望一世をおおい、やがて内閣入りを約束されている男の、愛情と富とを一手にかち得るまでに至ったのであるかを説明することを、作者に許していただきたい……申すにおよばず、それは茨《いばら》の道であった……とまれ疑う余地もなく、こういった小娘たちが出世街道を進むのは、もっとも厚顔無恥にして峻烈きわまる修業によらざるはないのである。たとえば今日、某々公爵の枕席《ちんせき》にはべっているご婦人も、かつて世に出たばかりのころは、その若さと未経験のゆえに、名もなき放蕩無頼の徒の手中におちいり、かくていまに至るまで、その身に汚辱のしるし[#「しるし」に傍点]を刻印されているやもしれぬのである。
さて、ジュリエットは修道院を出ると、そのまままっすぐある女のもとにおもむいたが、それは例の堕落した隣の女友達にかねてその名前を聞いていて、住所をおぼえていたからであった。こうして風呂敷包みを小わきにかかえ、そまつな服をしだらなく着、女学生のように初々《ういうい》しいすがたで、その絶世の美貌とともに、ここ淫蕩《いんとう》の巣窟《そうくつ》へと大胆にもやって来たジュリエットは、女主人に身の上話を語って聞かせて、言うことには、数年前あたしの友達をお世話してくださいましたように、どうかあたしのこともよろしくお頼みします云々……すると、
「お前さん、いったいいくつになるの」とビュイソン夫人がきくのであった。
「あと少しで十五になります、マダム」
「そいで、いままで誰とも……なかったの?」
「ええ、そりゃもうマダム、誓ってそのようなことは……」
「だってあんた、修道院といえば、お坊さんもいるこったろうし……尼さんも、お友達もいることでしょうが……あたしとしても、たしかな証拠がないぶんにゃ」
「証拠をごらんになるかならぬかは、マダムのお考えひとつですわ……」
そこでビュイソン夫人はへんな眼鏡《めがね》をかけて、みずから品物の状態をとっくり検証におよんだが、やがて満足したように、ジュリエットにこう言った。
「ま、いいだろう。お前さん、ここにいるがいいよ。そいで、あたしの言うことをよくきいてね、お華客《とくい》さんにはくれぐれもねんごろに、主人のあたしには清潔、倹約、素直の徳をまもり、朋輩にはまた礼儀ただしく、そうして男たちにはたんと辣腕をふるっておやりよ。そうすりゃ今から二、三年で、あんた、りっぱな箪笥《たんす》と、鏡台とそれに女中がひとりついた部屋にあんたを住めるようにしてあげるわ。うちで習いおぼえた技術は無駄じゃないことよ。よそへ行ったって、りっぱに通用するものですからね」
それからビュイソン夫人はジュリエットの風呂敷包みに手をかけて、その中にはお金がはいっているの、ときくので、ジュリエットがつい正直に百エキュもっていることを白状してしまうと、この親切なママさんは包みを引ったくって、若いお弟子《でし》に説諭をたれるのであった。あたしがいいように使ってあげるからお金はこっちへおよこし、若い娘がお金なぞ持ってる必要はない、どうせよからぬことの種《たね》になるにきまってるんだから……当節のように腐敗した世の中では、頭のいい利口な娘は、罠《わな》におちこみそうな危険をできるだけ避けるようにするものですよ云々……説教がおわると、新入りは朋輩の女たちに引き合わされ、自分の部屋をきめられて、翌日から、その初物《はつもの》を売りに出された。そうして四ヵ月間、同じ品物は八十人あまりの男たちに、つぎつぎと同じ水揚料で転売されたのであるが、この苦しい修業の末にジュリエットはやっと平《ひら》の修道尼僧としての鑑札を受けたのであった。この時から彼女は名実ともに青楼の歌妓《うたいめ》としての列に入り、骨の折れる色道の苦労を朋輩とわかち持って、あらたな修業にはげみはじめた……最初のうちこそ二、三の脱線があったとはいえ概して自然の道に従っていたジュリエットも、この第二の修業期では、自然の掟《おきて》を完全に忘れ去った。不自然な技巧、道ならぬ快楽、暗い陰惨な放蕩、あやしい奇態な嗜好《しこう》、恥ずべき斑気《むらき》、これはすべて、健康を冒すことなく享楽したという気持ちのあらわれであると同時に、また歓楽のはてに空想力を鈍磨させた彼女の、もはや荒淫によってしか慰めを得られず、乱倫によってしか満足を得られない一種危険な飽満の結果でもあった。
ジュリエットはこの第二の修業期間中に、その道心を完全に堕落させ、悪徳に一籌《いつちゆう》を輸して、その品位を完膚なきまでに下落せしめた。彼女は自分が悪のために生まれて来た女であれば、せめて大悪におもむきたい、同じ悪事をやらかすにしても労多くしてなかなか効少なく、かえって三下《さんした》に見られるあの小悪人の地位にうじうじしているのはまっぴらだ、と思うのだった。で、彼女はひとりの年取った放蕩貴族にほれられると、はじめのうちはちょんの間[#「ちょんの間」に傍点]遊びのために彼女を家に招くことしかなかったこの男に、とうとう引かせて自分のために一軒豪華な家を建ててもらうほどの腕の良さを示したが、やがて彼女のすがたは芝居小屋や遊歩場に、あのシテエル騎士団の青いリボンを下げた男たちと肩を並べて、ちらほら見られるようにさえなったものである。こうして彼女はしだいに注視の的、話題の中心、羨望《せんぼう》の的になって行ったが、この莫連女《ばくれんおんな》の手管のうまさときたら、四年間に三人の男を破産させてしまったほどで、それもいちばん貧乏な男が十万エキュの年金所持者だったというのだから恐れ入る。これだけでも彼女が名声を馳せるには十分で、当時の人々の無定見ぶりはかくのとおり、これら莫連女のひとりがこれ見よがしに道義人倫にもとった振舞いをすれば、それだけ男たちにたいする株がぐんとあがる次第で、あたかも堕落と退廃の程度が男たちの彼女らにたいする価値判断の目安でもあるかのようだった。
ジュリエットが二十の歳に達したばかりのとき、ロルサンジュ伯という、四十がらみのアンジュー州出の殿様が、これは彼女に大そうな熱の入れかたで、ついに自分の爵位を名乗らせることに決めたのであったが、もともと彼女を囲うほどの財産に恵まれていなかったためと知れた。で一万二千リーヴルの年金を彼女の名義にし、八千におよぶ残りの資産は、自分が先に死んだら彼女のものにするという約束をした上で、さらに家や召使や僕婢《ぼくひ》をあたえ、またある種の世間的な体面をつくろうよう心掛けてやったので、二、三年にして彼女の前身はきれいに世間から忘れ去られるに至った。しかるに、由緒正しいその生まれとおのが受けたよき教育との自覚をすっかりどこかへ忘れてしまったジュリエット、悪い書物と悪い助言者とによって堕落の道に引きずりこまれ、ただ快楽をむさぼり爵位を得、いっさいの羈梏《きこく》を脱することにばかり性急だった悪者のジュリエットは、このとき、その夫の命をちぢめてやろうという、それは罪悪的な考えに思いふけったものである……いや、思いふけったばかりか、それは十分ひそかな方法で実行されもしたわけで、悪運つよくこの女、無事に詮索をのがれてじゃまなこの夫の屍《しかばね》とともに、その怖《おそ》ろしい大罪の犯跡をも湮滅《いんめつ》することを得たのであった。
こうしてふたたび自由を取り戻し、しかもいまや伯爵夫人であるジュリエットことロルサンジュ夫人は、また昔の習慣にもどったのだけれども、今度はいくらか自分の分限というものを考えるようになったので、前ほど無軌道はやらなくなった。もう囲女《かこいめ》ではなく、りっぱな晩餐会《ばんさんかい》など催して、ブルジョアも宮廷人もそこへ呼ばれることを無上の光栄としていたくらいの、彼女は金持ちの未亡人であったからだが、それでも二百ルイの金でころんだり、月に五百ルイで身を売ったりする生活は依然もとのままだった。で二十六の歳までますますはなばなしい戦歴を積み、身代をつぶさせた相手は外交官が三人、総徴税請負人が四人、司教が二人、大勲位章の受勲者が三人という内訳であった。ところで人間ひとつ罪を犯すということ、ことにもそれがうまくいったときには、なかなかそれだけでやめられないものであるように、このあばずれ女ジュリエットも、最初の大悪に味をしめてかさらに二つ三つとこれに匹敵する罪に手を染めていったが、そのひとつは、彼女の情夫のひとりがその家族に内緒でかなりの金額を彼女に預けていたのを、首尾よく盗むために犯した醜い罪であり、もうひとつは、彼女の熱愛者のひとりが自分が死んだら第三者の手で分割払いによって、彼女に支払われるようにと遺言状に認めていた十万フランの遺贈金を、尚早に手に入れるために犯したところの罪である。
この悪業非行にかてて加えてロルサンジュ夫人は、二度三度と嬰児《えいじ》殺しの罪を犯していた。美しい身体をそこなうまいとする気づかいや、二つの情事を相手のおのおのに勘づかせまいとする配慮やが、彼女に幾度も流産させる覚悟を決めさせた。そしてこの罪もまた、他の多くの世にかくれた罪と同様、この悪辣で野心的な女をして、日々あらたなる鴨《かも》に食いつかせ、着々と罪を重ねては財をなさしめることを妨げるものではなかった。だから、一般に罪には繁栄がつきもので、この上なく綿密に予謀された悪事や退廃の中ですら、人間が幸福と呼ぶものはりっぱにその存在を主張し得るものだということは、遺憾ながらあまりにも真実でしかないようだが、しかし、ひるがえって、この残酷な宿命的真実を、やがて作者が以下にその実例をあげて示すであろうように、あくまで美徳をば追い求める実直者の立場からながめてみるに、それは必ずしも怖ろしいものではなく、さほど善人の魂をいらだたせるものでもないのである。まこと、罪の繁栄は見かけ上のことでしかなく、かかる成功には神の懲罰がくだってしかるべきであるが、またそれを抜きにしても、そもそも罪を犯した者は心の奥底に一匹の虫を飼っているので、それがたえず彼の心をしくしくかんで、よしんば幻影にしろ身辺の幸福を楽しむことをさまたげ、かえってその幸福を生んだところの記憶のみをなまなましく掻き立てるということになるのである。一方、美徳を苦しめる災禍にたいしては、運命に悩む不幸者は慰めとして信仰をもっており、その純潔から汲むひそかな喜びが、人間社会の不正をただちに埋め合わせするのである。
さて、ロルサンジュ夫人の方の事情がほぼこんなぐあいであったとき、ド・コルヴィル氏といって、先刻作者がのべたように声望一世をおおっていたところの、五十歳の政治家がことごとくをあげてこの女のために尽くそう、一生涯自分のそばから彼女を離すまいと決意をかためたわけなのである。ロルサンジュ夫人の方から水を向けたのか、事を運んだのか、知恵をめぐらしたのか、まあその辺は分明でなかったが、とにかくコルヴィル氏はそうして思いをとげて、四年このかた、どこから見ても正式の妻のように彼女と暮らしていたものだが――あたかもそのころ、モンタルジの近傍に彼が妻のために最近買ってやったばかりの風光|明媚《めいび》な土地があったので、そこへおもむいて、この夏の幾月かを過ごそうという相談がふたりの間できめられた。で、とある六月の夕、いい陽気にさそわれてふたりは町まで散歩に出たところ、疲れてしまってもう歩いてかえるのも億劫《おつくう》になり、ちょうどそこにリヨン通いの駅馬車のとまっている一軒の旅籠《はたご》があったので、ここから誰か使いの者を馬で城館《やしき》につかわして、車を差し向けるように手配しようと、ふたりはそこの中庭に面したうす暗い涼しい広間に通って、一休みしていると、最前の駅馬車が中庭に入って来た。こういうとき、所在なさに雑多な駅馬車のお客を観察することに束の間の気晴らしを求めるのは、誰でもよくやる自然のことで、ロルサンジュ夫人もやっぱり、その愛人といっしょに立ちあがって、宿屋の中庭に入って来た駅馬車のお客を見物しようとしたのである。ところが車の中にはもう誰もいないと見えたとき、ひとりの乗馬憲兵が幌《ほろ》のうちからひらりと飛びおりると、同じく車上に足をふんばってかまえた同僚の手から手へと、二十六、七歳くらいの、インド更紗の粗末な外套《がいとう》にくるまれ、囚人のように縄目《なわめ》を受けたひとりの少女が、手渡されて抱きおろされたのである。ロルサンジュ夫人の口をもれた恐怖と驚きの叫び声に、娘はふりかえって、そのやさしい品のよい顔と、痩《や》せぎすにすらりとのびた躯《からだ》つきとをかいま見せたのであるが、もうこれでコルヴィル氏もその愛人も、このいたましい娘に格別の関心を寄せないわけにはいかなくなってしまった。で、コルヴィル氏は近づくなり憲兵のひとりに、いったいこのみじめな女は何をしたのかね、ときくというと、
「なんでもたしかな話で」と憲兵は答えて、「三つか四つの重い罪で訴えられているんだそうです。窃盗、殺人、放火というところですかな……しかし率直に申して、わたしも仲間もこの囚人を運んでいる間じゅう、ちっともいやな感じは受けませんでしたね。それはもうおとなしい、神さまみたいに正直な女《ひと》なんで……」
「ふんふん」とコルヴィル氏はうなずいて、「ことによると、地方裁判所がよくやるあの誤審というやつかもしらんよ。で、犯罪のおこった場所は?」
「リヨンから三里ほどのところにある一軒の宿屋でして、はい。裁判はリヨンで行なわれました。これからパリへ行って判決の是認を受けて、リヨンへまたもどって来ると、今度は処刑というわけです」
そばへ来てこのやりとりを聞いていたロルサンジュ夫人が、小声でそっとコルヴィル氏に、この娘の不幸にまつわる物語を彼女自身の口から聞いてみたいという意向をもらしたところ、コルヴィル氏も同じ気持ちであったので、娘の係官にふたりの身分を明かしてその旨たのんでみると、彼らも反対はしなかったので、そこで今夜はモンタルジの宿屋に泊まることにして、気楽な部屋をひとつ予約し、隣室には憲兵たちを寝かせることにした。コルヴィル氏が責任をもって女囚をあずかるというので、彼女は縄目をとかれてロルサンジュ夫人とコルヴィル氏との部屋に招じ入れられ、監視の警官たちはその隣で食事をして寝てしまった。そこでこのあわれな女に食事などをあたえていると、ロルサンジュ夫人はますます彼女にたいする激しい興味をかられてきて――
「この女はたぶん無実にちがいないのに、こんな囚人のような扱いを受けているんだわ、それなのにあたしは、きっと彼女よりずっと悪いことをしているにちがいないこのあたしは、栄耀栄華をきわめている」――とまあ、おそらくこんなふうなことを考えたわけなのだろうけれども――この娘がふたりの示す好意や同情にややおちつきを取り戻し、やや気持ちがなごんできたらしいのを見てとると、ロルサンジュ夫人は彼女を促して、あんたみたいに正直で賢そうな様子の娘さんがいったいどんな事件にかかわって、そんなあられもない有様になってしまったのか、ひとつ話して聞かせてちょうだいと切りだした。
するとこの美しい女囚は伯爵夫人に向かって、奥さま、あたしの身の上話をお聞かせ申しあげることは、罪咎《つみとが》のない者が不幸になるという、まことにおかしな驚くべき実例を奥さまに示すことになるのでございまして、それはとりもなおさず神さまの非を責めること、神さまをうらむこと、つまり、罪のようなことでございましょうか、ですからあたしとても……
とここまで言うと、この気の毒な娘の両の眼から、おびただしい涙がぽろぽろ流れたものであるが、ひとしきりそうしてさめざめと泣くと、やがて彼女はその悲しい物語を語りはじめたので、読者諸子よ、さて次なる章をごらんください。
ジュスチーヌの物語の発端ならびに収税請負人デュブール氏のこと
あたしの名前は、どうか伏せさせておいてくださいまし奥さま。あたしの生まれは、名門とは言えないまでも、由緒正しい家柄でして、もとよりこのような情けない境涯に落ちるいわれもなければ、これほどの不幸に見舞われる理由もさらになかったのでございます。まだほんの幼いころに両親を失くしましたあたしは、のこされたわずかな身寄りを後楯《うしろだて》に、相応な口過ぎの職を期待することもできようかと思い、堅気でない渡世には目もくれずに、なけなしの財産をしらずしらず食い減らしておりました。貧乏になればなるほどあたしは軽んじられ、救いの手が必要になればなるほど、それを得る望みは薄くなりましたが、逆に恥ずべき不名誉な援助を提供される機会はそれにつれて多くなりました。
かかる逆境にいて、あたしはたくさんの辛《つら》いことをなめ、たくさんの怖ろしいことどもにつぎつぎと出あいましたが、そのなかでまず奥さまにお話してごらんに入れようかと存じますのは、都でもっとも富裕な収税請負人のひとりであるデュブール氏の家であたしの身に起こった事件でございます。紹介されたところでは、このひとの人望と富とは必ずやあたしの不幸な身の上を慰藉《いしや》するに足るはずのものでした。ところが、この助言をたれてくれた人は、あたしをだますつもりであったのか、さもなくばデュブール氏の心の酷薄さ、その品性の下劣さを知らなかったのでした。控室で待つこと二時間の後、あたしはようやくデュブール氏の私室に招じ入れられましたが、氏は齢のころ四十五歳ばかりで、今しも臥所《ふしど》から出て来たところらしく、肌もあらわに寝乱れた、だぶだぶの服をまとっております。結髪の支度ができていたのに、彼は部屋つきの下僕をひきさがらせて、あたしに用件を問いただしました。
「ああ、旦那さま」とあたしは答えて、「あたしはまだ十四歳にも達せぬうちに、不幸な人生の裏表を知りつくしてしまった哀れな孤児でございます」
とこう申しまして、あたしは自分のつらい境遇やら、口過ぎの職の見つけにくいことやら、そのためになけなしの財産を費《つか》い果たしてしまった事情やら、苦い拒絶を幾度も受けたことやら、さては、住込みや内職をしてなめねばならなかった針仕事の苦労、そしてなんとかして生きる手だてを見つけてほしいという現在の希望に至るまで、縷々《るる》説明に及んだのでした。デュブール氏はあたしの話をじっときいていたかと思うと、やがて、お前はいつも身持ちをよくしていたかの、とたずねます。
「思い切って身を持ちくずしていたら」とあたしは答えました、「こうまで貧乏の土壇場に追いこまれはしなかったでしょう」
すると彼はこれにたいして、「娘よ、お前は何様《なにさま》のつもりか知らんが、いくら金持ちだからといって、なんの役にも立たん者を誰が喜んで扶助すると思うかね?」
「ご奉公を、旦那さま、あたしはただご奉公をさせていただきたいと申しあげておるだけでございます」
「奉公奉公といって、お前のような小娘に家の中で何ができるものか。わしが言ったのはそんなことじゃない。どだいお前は、望みどおりの地位にありつけるような年齢でもなく風采《ふうさい》でもない。ただ道楽者の家でなら、まあばかばかしい行儀作法なんぞ知らなくとも、相応な身の上を望むことはできるかもしれない。お前が目がけるべきは、そこ以外にはないね。お前が麗々しく見せびらかす純潔なんてものも、この世ではなんの役にも立たぬしろものさ。見せびらかすだけの骨折り損というもので、そんなものでは一杯の水すら恵んでもらえはしない。われわれのように施し物をしようというほどの人間は、ポケットから取り出す金の埋め合わせをいつも考えておる。つまり施し物とは、しないですめばこれに越したことはなく、すればもっとも気色のわるくなるものだな。そうとすれば、いったいお前のような小娘が、相手の所望するままに自分のすべてを差し出す所存でなくて、どうしてこの施しの代償がなし得られるものかね?」
「ああ旦那さま、それでは人間の心には、もう親切も誠実もないものなのでしょうか?」
「めったにない、そんなものはめったにないな。人は無償で他人のために奉仕するという、あのばかげた夢からはじきにさめるものだ。たぶん自尊心が束の間満足されるのだろうが、これほど夢のようなものはなく、喜びと同時にそれは消え失せるものなので、やがて人はもっと現実的なものを求めるようになる。だから、たとえばお前のような小娘には、らちもない施しをして、いたずらに自尊心を満足させるよりは、その前借金の当然の権利として、お前の体で遊べるだけの快楽をかすめとることの方がずっとおもしろいと思うわけだ。気前がよくて寛大で、高潔な人士であるという評判も、わしにとっては、お前の体からしぼりとることのできる快楽の、もっとも陰微な刺激にまさるものではない。そしてこれはわしと同じ趣味をもつ同年輩の男のほとんどすべてが賛成することだといえば、いかなお前さんもわかるじゃろう、わしが自分の所望するすべてにお前が服するという条件によってのみ、お前を救ってやると言っているのがもっともの次第だということが……」
「なんとむごいこと、旦那さま、なんとむごいことでしょう。それでも旦那さまは、天の罰が怖くはございませんか」
「おぼこなやつめ、よく覚えておくがいい、天の罰などというものは、およそこの世でもっともわれわれに縁の薄いものだよ。われわれがこの地上で行なっていることは、天の気に入ろうと入るまいと、われわれを懸念させるには足りないものだ。天が人類の上にふるう偉力の弱小なることを先刻承知のわれわれは、だからびくともふるえず、日々天を軽んじている次第さ。われわれの情熱は、天の意図をもっともみごとに裏切るとき、さもなくばせめては、世のばか者どもがたしかにこうだと信じていることの裏をかくとき、言い知れぬ愉悦をおぼえるのだよ。いかさま天などというものは、強者を束縛するためにぺてん師が考え出した架空の鎖にすぎないものでな」
「でも旦那さま、そのような道徳の律する世の中では、不幸なものはすべて亡びてしまわなければなりますまい?」
「亡んだってかまうものかね。フランスには必要以上の人間がいることだし、すべてを大局的に見る政府というやつは、国家さえ無事ならば個人なんぞには洟《はな》もひっかけないものさ」
「でも、子供は父親に虐待されるとき、やはり父親を尊敬するものでしょうか?」
「子だくさんの父親にとって、なんの扶助にもならない子供たちの愛情なぞ何だろう!」
「では、生まれ落ちると同時に圧し殺されていた方がよかったのですわ」
「まあそんなところかな、だがこれは政治問題だ、お前なぞの理解に及ぶところではないからして、これはこのくらいにしておこう。それより、おのれしだいでどうともなし得る運命を、なぜ嘆くのだ?」
「どうともなし得る、めっそうな!」
「まず幻影をすてることだな、自尊心の作りなす幻影のみをいつまでも後生大事にしているようじゃ、それはだめだ……だが、この問題もしばらくおくとしよう。われわれはいま目の前に見える問題だけを直視しよう。お前はこの幻影がよほど大事らしい、そうだろう? ところがわしはそんなもの屁とも思わぬから、この幻影はお前にまかせよう。よいか、そしてわしは、お前に義務を課そう、その義務によってお前は過不足なく正当な報酬を受ければよい。すれば義務は単なる義務でなくなろうというものだ。わしはお前をうちの女執事の側仕えとしよう。お前は彼女に奉公するのだ、そして毎朝わしの面前で、お前はこの女とわしの部屋つきの下男とにこもごも身を任せるのじゃ……」
ああ奥さま、このけがらわしい言葉をあなたのお耳にどうお伝えしましょう……あたしはとっさにはなんのことかわからず、ぼうとしておりましたのですが、やがてその意味がわかるともう口惜しくて口惜しくて……二度とくりかえすのも恥ずかしい思いでございます……よろしくご想像くださいまし……この無慈悲な男、デュブール氏はあたしに何人かその道の大家の名をあげました。そうしてあたしにその生贄《いけにえ》になれと申すのでした……
「さて、わたしがお前のためにしてやれることはこれだけじゃ」とこの腹黒い男は野卑なしぐさで立ちあがると、なおもこうつづけます、「この毎朝の儀式はいつも大そう永《なが》くかかり、しかも大そう困難な仕事であるからして、わしはその代償に二年間の扶養をお前に約束する。お前は現在十四だといったな、十六になったら、どこへ幸運をさがしに行こうとお前のかってだ、ただしそれまでは、お前は着物をあたえられ、食物を供され、月々一ルイ支給される身に甘んじなければならぬ。まあ給金としてはいい方だよ、お前の前任者にはそんなやりはしなかった。もっともそいつは、お前が手をつけずに大事にしているその純潔とかいうものには、持ち合わせがなかったのでな。だからわしも、前任者の受けていた給金より一年に五十エキュ近くも余分の金額を、とくにお前に支払おうというわけさ。どうじゃな、ここが思案のしどころだ、よくよく考えてみるがいい、わしはお前を貧乏から救ってやろうというのだよ。お前の住んでいるこの不幸な国では、暮らすに足るだけのものをもたない人は、これをかせぐために苦しまねばならない、お前だってそのとおりだよ、しかるにお前はわしのおかげで、人々の大多数よりもよい暮らしができようというのだ」
ざっとかくのごとき破廉恥な言葉が、この人非人の情欲をかきたてたと見えて、デュブール氏は荒々しくあたしの襟首《えりくび》をつかまえますと、さあ、最初のお勤めをはじめよう、いま言ったことをわしが実地にやって見せてやろう、と言いました……しかしあたしの不幸は、あたしに勇気と力とをあたえたのでした。男の手を振り切って戸口の方へかけ出すと、
「ああ、虫酸《むしず》が走るような男だ」と逃げながら叫びました、「いまに見ていなさい、こんなにまでお前に侮辱された天はいまにきっと、しかるべくお前を罰せずにはおかないだろうから。お前の残忍な振舞いは天罰に値します。お前は金持ちである資格もない、あんないやしいお金の使いかたってありはしない。お前は空気を呼吸する資格もない、お前の野蛮な行ないは世界じゅうの空気を濁してしまいます」
人間の酷薄さと穢《けが》らわしさとがあたしをして、暗い悲しい反省に沈まざるを得なくするので、あたしは悲しい気持ちを抱いて家に帰ったわけですが、そのとき、幸運の光が一瞬あたしの目の前にさして来たように思われました。あたしが部屋を借りている家の女が、前からあたしの困窮を知っていたのですが、行ないの正しいひとなら喜んで世話しようという家がやっと見っかったと、これは耳よりの話を持って来てくれたのです。
「まあうれしい、奥さん」とあたしは夢中になって彼女に飛びつきました、「願ってもない条件ですわ、そりゃもう、大喜びでお引き受けいたします」
高利貸デュ・アルパンのこと
あたしが奉公することになった家の主人は年とった高利貸で、ひとの噂《うわさ》では、彼は質屋をやってもうけたばかりか、見つからない自信さえあれば事あるごとに法網をくぐり、盗みをさえ働いて金をためたということでした。カンカンポワ街のさる建物の二階に、みずから妻と呼んでいた年増女《としまおんな》とともに彼は住んでいましたが、この女がまた亭主に負けずおとらず性悪なのでした。
「よろしいかな、ソフィー」とこの吝嗇漢《りんしよくかん》があたしに言います(ソフィーというのはあたしが用いた偽名でした)「この家でいちばん必要とされる道徳は、正直というものだ……もしもお前さんがここからびた一文でもくすねたら、おれはお前さんをしばり首にして、忘れるなよソフィー、しばり首にして、二度と生きかえれないようにしてやるからな。おれたち夫婦が老後を安穏に暮らしているものも、これすべてたゆまぬ勤労と節約の贈り物なのだ……ときに、お前さんは大食らいかな?」
「一日に少量のパンと水さえあれば、旦那さま」とあたしは答えました、「それに少し余裕のあるときはスープもたしなみます」
「スープだって、とんでもないことをぬかす阿魔だ、スープだって!……」と吝嗇漢はその妻にむかって、「どうだい婆さんや、贅沢《ぜいたく》なご時世になったもんじゃないか、ぶるぶる……一年も前から飢死しそうになって奉公先をさがしていたという御仁が、スープをたしなむとはねえ! 毎日曜日にかつがつ一回スープにありついて、おれたちは四十年がとこ徒刑囚みたいにあくせく働いてきたというのに。お前さんなんぞは、そうさな、一日にパン三オンス、川の水を瓶《びん》に半分、それでたくさんだよ。一年半ごとにゃ女房の古くなった着物でペチコートもこしらえてやろうさ。そして年末になって、お前の奉公ぶりが気に入ったら、お前の倹約ぶりが家風に合うようだったら、要するにお前のやりくり算段が少しでも家を繁盛させているようだったら、給金として三エキュやろう。
うちの仕事はたくさんはない、お前さんひとりの手でじゅうぶん足りる。一週間に三回、この建物の六つの部屋をきれいに拭《ふ》き掃除《そうじ》すること、おれと女房の寝床をこしらえること、お客さんの取り次ぎをすること、おれの鬘《かつら》に粉をふりかけること、女房の髪を結うこと、犬と猫と鸚鵡《おうむ》の世話をすること、煮たきの番をすること、台所道具をきれいにすること、女房が炊事のときに手伝いをすること、それから残りの時間は下着や靴下や帽子や、その他日用品などのつくろいにあてること、どうだ、何でもないだろう、ソフィー。それでもまだ多くの時間が残るだろうが、それはお前のものだよ、お前自身のために使っていい、お前の着る下着や上着のつくろいもしなきゃなるまいからね」
奥さまにはすぐとご想像がおつきになりましょうが、なにぶんこういうところへ奉公するには、極度にみじめな状態に甘んじる覚悟がなければならないのです。仕事の量はあたしの齢《とし》ごろではとても手にあまるものでしたし、あたしの力ではとても引き受けきれないものでした。とはいえあたしは彼らの施しを受けて生きる以外になにができたでしょう? あたしは不平を言いたい気持ちをぐっとおさえて、その晩からこの家に住みこむことになりました。
ところで奥さま、いまのあたしの悲惨な境遇を思えば、なにより奥さまの慈悲心をゆさぶることがあたしの先決問題でなければならないわけなのですけれども、ここでちょっと短い時間を借りて、あえてあたしは奥さまをおもしろがらせてさしあげようかと存じますが、いかがなものでございましょう。あたしがこの家でつぶさに見聞したけちんぼう[#「けちんぼう」に傍点]の種々相を悉皆《しつかい》ご披露に及べば、奥さまもきっと興がられるにちがいないと思いますので――。ああ、とは言いますものの、この家に来てから二年目にあたしを待ち受けていたあの怖ろしい事件のことを考えますと、やっぱりおもしろおかしい話ばかりもしてはいられない、怖ろしい話をすまさぬうちは……と気がせかないでもありませんが、まあともかく、お話いたしましょう。この家では、なんと驚くまいことか奥さま、明かりというものをけっしてつけないのです。ご主人の部屋もお内儀《かみ》さんの部屋も、うまい具合に街燈の方を向いておりまして、それでべつに明かりをつけなくてもよい仕掛けになっているのです。床にはいろうとするときも、この人たちはけっして明かりを用いないのでした。下着などというものも、この人たちはぜんぜん使用しません。旦那さまの背広にも、奥さまの着物にも袖《そで》などというものはなくて、ただ古い布地をちょっと縫いつけた小さな袖みたいなようなものがあるだけです。そしてそれをあたしが毎土曜日の晩に洗濯《せんたく》して、日曜日に着られるようにするのでした。シーツもナプキンもありません、これは洗濯するのがめんどうなことではあるし、わが家には高価すぎる品物だ、とあたしの尊敬すべき主人デュ・アルパン氏の言いぐさではありました。またこの家では酒というものを飲みません、そしてデュ・アルパン夫人のいわくには、清澄な水こそ最初の人類が用いた天然の飲料であるというのです。パンを切るときにはいつも、その下に籠《かご》を置いて、こぼれ落ちる屑《くず》を受けるのでした。食べられるパン屑をひとつも残さず拾い集めて、日曜日にこれを酸っぱくなった少量のバターで揚げるというと、それが安息日のお皿にのせられるというわけです。
衣服も家具も減るといけないから、絶対にたたいたりしてはならないのでした。ただ羽箒《はねぼうき》でかるくさっさっとはくだけでした。旦那さまの靴も鋼鉄の二枚張りで、結婚式の当日にはいたものを夫婦ともどもいまだに大事に長持ちさせているという有様でした。しかし、それよりなにより奇妙な習慣は、一週間に一度という割合で必ずあたしが実行することを仰せつかったある仕事でした。この家には、壁紙のぜんぜん張られていないかなり大きな部屋があって、あたしはこの部屋の漆喰の壁土を、ある分量だけ小刀でがりがり削り落とし、次にこれを目のこまかいふるい[#「ふるい」に傍点]にかけて選り分けなければなりませんでした。こうした手順によって得られたものが化粧用の白粉となって、あたしは毎朝それを旦那さまの鬘や奥さまの髷にふりかけるのでありました。
でも、このいやしい夫婦のふけっていた醜行が、いまあたしのあげたようなことだけだったら、まだまだよかったのです。自分の財産を減らすまいとする欲望はごく自然のものでございますから。しかし、他人の財物までわが手に横領しようとなると、これはもう自然どころではない。日ならずしてあたしは、デュ・アルパン氏が金持ちになったのは、こうした道ならぬやり方によったのでしかないことを知らされるに至りました。あたしたちの住んでいた階の上の階に、かなり裕福な暮らしをしている、大へんな変わり者がおりました。美しい宝石をどっさり持っていましたが、あたしの主人は、隣に住んでいるためか、それとも自分の手を一度通したことのあるためか、この男の動産にくわしく通じておりました。で、よくこんなことをお内儀さんと語り合っては残念がっていたものです。あの金の箱は三十ルイか四十ルイはしたはずだよ、ああ、代訴人がもうちと知恵のあるやつだったら、あの箱、間違いなくおれのものになっているんだがなあ……そのうちとうとう彼は、一度かえしたその箱があきらめきれなくなったと見えて、これを盗むことを思い立ち、のみならずその役目にあたしを命じたのです。
デュ・アルパン氏はそこであたしに大演説をぶって、盗みとは公正な行為であるばかりか、社会においては有益なものですらある。なぜなら富の不平等が全面的に狂わせている一種の平衡状態をそれは回復するものであるから、などと主張しました。それからあたしに合鍵をわたして、これで三階の部屋の扉をあけ、鍵のしまっていない事務机の中に例の箱があるはずだから、それを取って来い、大丈夫危険はない、と言いました。そして、これは大事な仕事だから、向こう二年間一エキュだけ余分に給金をあげよう、とも言いました。
「おお旦那さま」とあたしは叫びました、「こともあろうに、ご主人が召使を悪に引きずりこもうなんて! あなたがあたしの手にお持たせになった武器は、そのままあなたに向けることだってできますわ、もし旦那さまのお説にしたがって、あたしがうちのものを盗みましたなら、いったい旦那さまは、どう筋道立ててあたしをお咎めなさいます?」
デュ・アルパン氏はあたしの返事に大そう驚いて、それ以上しつこく強制はしませんでしたが、ひそかにあたしに怨みを抱いた様子で、こう言うのでした、あれはお前をためすつもりだったのさ、お前があの提案にうまうまと乗らなかったのはまことに賢明であったよ、もしお前が誘惑に負けてでもいたら、おれはお前をしばり首にしちまっていただろうよ……こうしてあたしはその場はほめられたのですが、それからというものは同じような誘いを受けるたびに、そしてそれをそのつどきっぱりと断わるたびに、二重の危険、二重の災禍を感じないわけにはいきませんでした。しかし、いずれにしてもどちらか一方をえらばなければならなかったのです。つまり、誘われた罪を犯すべきか、あるいはがんとしてはねつけるべきか……もう少し経験を積んででもいたら、きっとあたしは、即刻この家を逃げ出していたことでしょう。けれど、あたしの几帳面な性格がもたらす生まじめな行為は、すべて不幸という形で報復されるべく、運命はすでに決まっていたもののようです。それゆえ、あたしは脱走の考えなど及びもつかず、ただ黙々とみずからの運命に従うよりなかったのでした。
こうして一ヵ月ばかり過ぎ去りました。つまり、あたしがこの家に来てから二年目でございます、その間デュ・アルパン氏は、かつてあたしがした拒絶のことなどは、おくびにも出しませんでしたし、怨んでいる様子などこれっぽっちもあらわしませんでした。ところがある晩、あたしが仕事を終えて、二、三時間の休息を楽しむために自室に引きさがっておりますと、突然扉がばたんと内側に倒れるので、ぎょっとして見ると、デュ・アルパン氏が一人の警視と四人の夜警隊員とを伴って、あたしの寝台のすぐ近くに立っているではありませんか。
「さあ警視どの」とあたしの主人が言います、「職務を遂行してくだされ、このあさはかな女めが一千エキュのダイヤを盗んだのでして。ダイヤはこの部屋の中にあるか、この女めが持っているか、どちらかに決まっておりますわい」
「あたしが盗んだなんて、旦那さま」とあたしはもうおろおろ寝台の脚《あし》もとに身を投げて、「盗みなどということをあたしがどれほど嫌っておりますことか、そんなことあたしにできっこないことは、誰よりも旦那さまがよくご存じのはずですのに」
しかしデュ・アルパン氏は大声あげてあたしの訴えを封じてしまって、なおも室内の捜査を命じるのでした。いまいましい指輪はあたしの敷布団の下に発見されました。否応ない証拠があらわれた以上、抗弁の余地はありません。あたしは即刻逮捕され、縄を打たれ、あさましく裁判所の牢屋《ろうや》につれて行かれました。申し開けばいくらでも言うことはあったのですが、一言も耳をかしてはもらえませんでした。
お金もなく保護者もない薄幸な娘の裁判は、フランスでは手間どるわけでありません。貧困と美徳は相いれないものと信じられているのですから、わが国の法廷では、薄幸は被告人にとって完全なひとつの証拠なのです。不当な偏見が支配していて、罪を犯す蓋然性《がいぜんせい》のある者が現実に犯したことになってしまうのです。道徳観念はその人の身を置いている生活状態によってはかられます。称号と財産とが、あたしたちの心の正しさを証明してくれないかぎり、あたしたちはいかほど心正しい者でありたいと望んでもだめらしいのです。
いくら弁明しても無駄でした、さしあたり形式にしたがって弁護士をつけてはくれましたが、あたしがどんな理由をあげても役に立ってはくれませんでした。あたしの主人は、ダイヤモンドはお前の部屋で発見されたのだから、お前が盗んだのは明白だと言って、あたしの罪を鳴らしました。あたしがデュ・アルパン氏の怖ろしい人柄を引証して、あたしの身に起こったことはすべて彼の復讐《ふくしゆう》の結果でしかなかったこと、自分の秘密をにぎり尻っぽをつかんだ女を厄介払いしたい魂胆でしかなかったことなど証明しようとしますと、それはあたしのふらちな捏造《ねつぞう》であるとされました。なぜならデュ・アルパン氏は、四十年来そんな怖ろしいことはとてもできない潔白な人として知られているというのです。そしてとうとうあたしは、犯した罪をあくまで否認したかどで、死刑に服さねばならない立場に追い込まれてしまいましたが、このとき、ある思いがけない事件が持ちあがってあたしは自由な身となり、次いでまたもや、あらたな逆境に落ち込まねばならないはめに立ちいたったのです。
女賊ラ・デュボワのこと
ラ・デュボワと呼ばれる四十女は、あらゆる種類の極悪非道によって名を知られていましたが、この女もやっぱり、いずれ死刑の判決を受けることになっていました。もっとも、この女の罪状は確認されておりましたのに、あたしの方は罪などこれっぽっちもあるはずがなかったのですから、少なくとも彼女の方が死刑になる値打ちはございましたろう。それはともかく、この女はあたしにある好意を抱いていたようで、やがてもう二、三日であたしが刑場の露と消えなければならないという、そんなある晩、彼女はあたしにむかって、今夜はどうしても寝ないで起きていなさい、そんなに気取っていないで、あたしといっしょにできるだけ牢屋の戸口に近いところにいなさいよと、言葉をかけてくれたのです。
「十二時から一時までのあいだに」とこの女賊はつづけました、「この獄舎に火事がおこるのよ。むろんあたしのさしがね[#「さしがね」に傍点]さ。焼死人のひとりやふたりは出るかもしれないけれど、そんなことにかまっちゃいられないからね。たしかなことは、あたしが脱走することさ。共犯のお友達が三人、あたしたちと合流するわ。請合ってあんたを自由の身にしてあげるわよ」
あたしの無罪を罰そうとした天は、いま、あたしの保護者となってあらわれた女の罪をば、こうして助長するのでした。火事がおこりました。むごたらしい劫火《ごうか》でした。十人の焼死者が出ました。でも、あたしたちは無事に逃げおおせて、その日のうちに、ボンディの森にすむある密猟者の藁屋根の家にたどりつきました。この男もまたちがった種類の悪人でしたが、あたしたちの一味とは昵懇《じつこん》な間柄でした。
「さ、これであんたは自由なのよ、ソフィーちゃん」とそのときラ・デュボワが言いました、「あんたはいま、自分の好きな種類の生活を自由に選ぶことができるのよ。でも、あたしに一言いわしてもらえるなら、もうこれからは善根を積もうなんて考えは、すっぱり諦めることね。いままでろくな目が出なかったんだから、あんたもよくわかったでしょうけれど。所を得ないお上品さというものが、あんたを絞首台の足もとにみちびいたのさ。そして極悪の罪が、あたしをそれから救ったのだわ。よく考えてごらん、善が世の中でなんの役に立つか、そして善のために犠牲になることが、いかにばかげているか……あんたは若いし綺麗だわ、もしあんたさえその気になれば、あたしはブラッセルへあんたを連れて行って、身のふりかたを考えてあげるわよ。ブラッセルはあたしの故郷さ。二年間でりっぱな身分に仕立ててあげるわ、ただし、断わっとくけど、あたしがあんたを幸福にみちびいてあげようてのは、美徳の細道を通っての話じゃありませんよ。あんたぐらいの齢の子が早く出世したいと思ったら、手をかえ品をかえして策を講じなきゃね……わかった、ソフィー?……わかったら早く決心してちょうだいよ。あたしたち、逃げなきゃならないんだから。そういつまでものんびりしてはいられないんだから」
「ああ、マダム」とあたしはこの恩人に言いました、「あなたには大へんお世話になっています、あなたはあたしの生命を救ってくださった、でもあたしは、悪いことをして自分の生命を救ったことをじつはふかく悲観しているのです。こう申せばおわかりでしょうが、もしあたしが悪事に荷担しなければならないとすれば、それを行なうよりはむしろ死ぬ方をえらびましょう。あたしは自分の心につねに芽ばえてくる道徳的観念に一身をゆだねたがために、いままでどれくらい危険をおかしてきたかしれません。でも道徳の棘《とげ》がどんなにわが身を刺そうとも、あたしはあの虚偽の栄光、一瞬の罪をともなう危険な幸福よりは、この方をむしろ選びましょう。あたしの身内には、幸いなことに、けっしてあたしを見すてることのない信仰心というものがございます。もし神があたしの人生行路を苦難にみたしめたもうならば、それはよりよい世界でこのあたしをさらに手厚く償わんがためでございましょう。こう考えれば、あたしの悲しみは慰撫され、あたしの嘆きは癒《い》やされます。あたしは逆境の中で強くなり、神意によってあたえられた不幸に敢然と立ち向かうことでございましょう。けれど、もしあたしが罪を犯して、自らの心を汚しておりますならば、この喜びは立ちどころに消えてなくなり、あたしはこの世でさらに怖るべき境涯に落ちることを心配しつつ、またあの世では天を汚した者にたいする懲罰があたしを待っていることに、慄然《りつぜん》として思いをいたさねばなりますまい」
「そんなばかくさい考えにとりつかれているようじゃあ、いずれ施療院へゆく始末になるわ、あんた」とラ・デュボワが眉根を寄せて言いました、「あたしの言うことを信じて、天の裁きなんぞうっちゃっときなさい、いいこと。あんたは天の罰とか死後の報いとかいうけれど、そんなものはみんな、あたしたちが学校を出たとたんに忘れてしまえばいいものなのよ。そんなばかげた信仰は一度社会へ出たら、みんな根だやしにしてしまわなければだめなのよ。金持ちの酷薄さは貧乏人の悪事を正当化するわ。もしも金持ち連中の財布のひもが、あたしたちの必要に応じて解かれるなら、博愛が彼らの心に満ちわたるなら、そりゃあたしたちも道徳心を固めるようになるでしょうよ、でも、あたしたちの堪えねばならぬ不幸が、信仰が、屈従が、さらにあたしたちの隷属状態を倍加することにしか役立たないかぎり、あたしたちの罪は彼らが作ったものといってもよいでしょう。あたしたちがもし負わされた軛《くびき》を少しでも楽にするためにこの罪を実行することを避けるとしたら、なんというお人好しでしょう。
自然は人類をすべて平等に生んだのよ、ソフィー。だから、もし運命がかってにこの普遍的法則の第一案を狂わせるならば、運命の気まぐれを是正して、強者の手からその横領物を取り戻さねばならないのは、ほかならぬあたしたち自身なのよ……あの金持ち連中、裁判官、司法官といった輩《やから》が、道徳についてお説教するのを見たり聞いたりするのはおもしろいわ。いかさま、生きるための必要高の三倍もありあまっている人たちが、盗みをはたらくなんて考えられないことでしょうし、おべっか使いや従順な奴隷たちに取り巻かれている人たちが、殺人をたくらむなんて夢のような話でしょう。肉欲に酔いしれ、こってりした料理の山に取りかこまれている人たちは、控え目に淡泊であれと言われても、実際の話なんのことかわからないでしょうし、嘘をつく必要がちっともないのに率直であれと言われても、大きに困惑するばかりでしょう。
ところがあたしたちときたら、ソフィーちゃん、あたしたちときたら、愚かにもあんたが偶像視しているあの残酷な神とかいうもののために、草むらの中の蛇のように地べたをはいずりまわる宿命を負わされているのよ、貧乏だというだけの理由でさげすまれ、弱者であるというだけの理由で恥ずかしめられ、地球上どこへ行っても結局苦痛と困難にしか出あわないようにされてるのよ。それでもあんたは、わたしたちが罪を犯すことを当たり前だと思わないの、罪の手だけがあたしたちの生活の扉をひらいてくれ、あたしたちの生活をからくも維持し存続させてくれるというのに? それでもあんたは、あたしたちが永遠に屈従と圧迫とに甘んじつつ、支配階級の栄耀栄華を横目に見ながら、自分たちのためには困苦と衰弱と悲嘆、欠乏と涙、汚辱と絞首台とを、後生大事に抱えていなければならないというの?
とんでもない、ソフィー、そんなばかなことがあるもんですかね。あんたの尊敬している神の摂理とやらは、あたしたちを軽蔑するために作られているのか、さもなければ心ならずもあたしたちを軽蔑しているのか、どちらかよ。……ともかくその摂理というやつをとっくり考究してみるがいいわ、ソフィー、そうして早く悟るがいいわ、神の摂理そのものが悪を必要とする立場にあたしたちを追いこみ、同時に悪を行使する可能性をあたしたちに残しておいてくれたのだからして、この悪はまさしく善と同様神の法則に役立つものであり、神の摂理は善におけると同様悪においても価値をあらわすものであるということをね。神があたしたちのために創《つく》ってくれた状態は平等なのだから、それを乱そうとする者がそれを回復しようと努める者より罪があるとも言えたものじゃないわ。両者とも当たり前な衝動によって事を行なっているのではあるし、両者とも、この衝動にしたがい、目をつぶって享楽しなければならない運命を負っているのですからね」
あたし、告白いたしますが、もしそのときあたしの気持ちが多少ともぐらついたとすれば、それはこの話上手な女の誘惑にのせられてのことでございます。けれども、あたしの心の中で彼女の詭弁《きべん》とたたかっていた、それよりもっと強い声が最後にあたしを決心させました、どんなことがあっても誘惑には屈すまいと。
「ふん、そんならまあかってにするがいいわ」とラ・デュボワは言いました、「あたしもお前さんをみじめな境遇にほったらかしとくことにするよ。だがねえ、そんなようじゃ、かりにお前さん本懐をとげて縛り首になったとしても、最後まで罪をまぬかれたとしても、かならず美徳を犠牲にする宿命からのがれられっこないわ。ま、せめてあたしたちのことについて口を割らないように気をつけてちょうだい」
こうしてあたしたちが議論しているあいだも、三人のラ・デュボワの友達は、密猟者といっしょに酒盛りをしておりました。酒というものが一般に犯罪者の罪悪感を忘却させ、しばしばいまのがれて来たばかりの危険の縁にもう一度ひとを誘う功徳《くどく》をもっているものであるように、この悪漢たちも、さんざん慰みものにして楽しまずには自分らの手中からよもやあたしをのがすまいと考えたようでした。彼らの性行や習慣や、そのときあたしたちのいた薄暗い家屋や、絶対に見つかる心配はないという確信や、まわっていた酔いや、さてはあたしの年齢、おぼこさ、風采などが一丸となって、彼らの欲望に油をそそいだのでした。男たちは食卓のまわりに立ちあがり、仲間うちでなにやら話し合っていたかと思うと、ラ・デュボワに相談を持ちかけました。その一挙一動には、あたしをこわさで震えあがらせるようなものものしさがありました。やがて相談の結果、あたしはそこを出て行く前に、四人の男の手から手へ渡されねばならない仕儀に決定されました。否も応もありません。ただし、もしあたしが進んでこの申し出を受け入れるなら、彼らと別れた後どこへでも好きなところへ行かれるように、四人がめいめい一エキュあたしにくれるというのです。そしてもし、あたしを自由にするのに暴力を用いなければならないなら、秘密の露見をふせぐため、あたしの肉体を楽しむであろう四人のうちの最後の者があたしの胸に短刀を突き刺し、その後にあたしは木の根もとに埋められてしまうだろうというのです。
考えてもごらんくださいまし奥さま、このいまわしい申し出があたしにどんな激動をあたえたか……あたしはラ・デュボワの足もとに身を投げて、どうかもう一度あたしを救ってくださいと懇願しました。が、この女賊は笑って相手にしてくれません。あたしにとって身の毛もよだつほどな怖ろしい事態も、彼女にとっては一場のあさましい観物《みもの》でしかなかったのです。
「まあ、可哀そうに」とラ・デュボワは言いました、「でも、そんないい体をした四人もの色男さんのご用を便じてさしあげるなんて、ちょっとすてきじゃないの、あんた! パリじゃ、いまのあんたのような立場に身を置きたいばっかりに、大枚を散じるご婦人がごまん[#「ごまん」に傍点]といるんですからねえ……ところで」と彼女はしかし、しばらく考えてから付け加えました、「このごろつき[#「ごろつき」に傍点]たちもあたしの言うことならきくんだけれど、そうねえ、あんたの覚悟しだいで、なんならお慈悲を願ってあげてもいいわよ」
「ああ、マダム、どうすればよろしいんでございます?」とあたしは涙ながらに叫びました、「お命じになってください、あたし、なんなりといたします」
「あたしたちについて来ること、覚悟をきめて仲間になること、あたしたちのように悪いことが平気でできるようになること、この三つと引きかえに、あんたの身柄を保証してあげるわ」
あたしはせっかく定まった決心をここでぐらつかせるべきではないと思いました。もし彼女の言うことをきけば、さらにあらたな危険にあたしはあうことになりましょう、そうですとも、しかし、何といってもその危険は、いま目前にある危険ほどさし迫ったものではなく、避ければ避けられるはずのものでず。ところが今あたしを脅かしている目前の危険は、これはどうしてものがれることができません……
「どこへなりと参ります、マダム」とあたしはラ・デュボワに言いました、「約束いたします。どうかこの人たちの乱暴からあたしをお救いください、いつまでもあなたのおそばを離れませんから」
「ちょいと、お前さんたち」とラ・デュボワは四人の無頼漢どもに声をかけました、「この娘《こ》はいまから仲間だよ。あたしがそう決めた。だから、今後彼女に乱暴をくわえることはなりません。そうでもしなけりゃ、最初の日から商売がいやんなっちまうよ。お前さんたちにゃわからないかい、この娘の年格好とご面相とがどんなにあたしの仕事の役に立つことか? ひとつ、うんと利用してやろうじゃないか、あたしたちのお楽しみの犠牲にしてしまうのはもったいないね……」
しかし男たちの情欲は、いかなる呼びかけもこれを鎮めることが不可能なほどに猛《たけ》り狂っておりました。彼らは今にもあたしをなにしようとしていたので、はたの声なぞに耳をかす余裕はなかったのです。四人が四人とも、どう見てもゆるしてくれそうにはない興奮したけしきで、ラ・デュボワにむかって異口同音に、たとえこの場で絞首台にぶらさがろうと、あの娘をおれたちのものにしなければ気がすまないと喚くのでした。
「おれがまず先番を」と彼らのひとりが言うなり、あたしの胴にかじりついて来ると、
「なんの権利があって手前が先になるんだ」と二番目の男は仲間をつきとばし、その手からあたしを荒々しく奪い取る。すると、
「こう、おれをさしおいて」と三番目の男が言います。
かくして喧嘩はだんだん白熱してまいりました。四人の猛者《もさ》たちは髪の毛をつかみ合い、地をのたうち、毬《まり》のようになってころげまわりました。一方あたしは幸いにも、この思いがけない事態の到来によって、脱走の好機にめぐまれました。ラ・デュボワが組んずほぐれつする男たちのあいだをけんめいに裂こうとしているすきに、あたしは足のつづくかぎり駆けて森の中へ逃げこんだので、一瞬にしてあの家は視界から消えました。もう大丈夫だと思うと、あたしはその場にひざまずいて、
「神さま」と思わずこう言っておりました、「あたしの保護者にして案内者にまします神さま、なにとぞあたしの不運をあわれみたまえ、あたしの弱さ、あたしの潔白をみそなわせたまえ。ああ、あたしはいかばかりの信頼をもって、あなたさまのうちにあたしの希望のすべてをつないでおりますことか……なにとぞあたしを苦しめるかずかずの災いから免れしめたまえ、しからずんば、せめて死によって恥多き生よりのがれ、すみやかにあなたさまの御許《みもと》に参らしめたまえ」
祈りこそ、逆境にある者にとって、もっとも甘い慰めでございます。祈りを終えるや、ひとはさらに強くなっております。あたしは勇気にみちて立ちあがりました。おりからあたりは暗くなりかけておりましたので、あたしは雑木林の中にはいって、そこで一晩危険をさけて過ごそうと思いました。思ったとおりそこは安全な場所で、あたしは最前からの疲れと困憊《こんぱい》とのおかげで、十分安眠をむさぼることができました。朝の光にめざめたとき、すでに太陽は高くのぼっておりました。不幸な人々にとって、どうにもならない悲しいとき、それはめざめのときです。感覚の休息、想念の平静、人の世の不幸の一刻の忘却、それらがいっしょくたになって、さらになまなましく不幸を思い出させ、さらに堪えがたい重みを不幸に付加するのです。
――ああ、何ということだろう、とあたしは思いました。この世の中には、自然によって野獣と同じ状態に生きることを運命づけられた人間がいるのだわ! 実際、茅屋《ぼうおく》にかくれ、人目をしのんで生きている現在のあたしにしてから、野獣とどれほどの違いがあるというのかしら? こんな情けない運命だと知ったら、いっそ生まれて来ない方がよかった!
男色家ブルサック侯爵のこと
こうして悲しい物思いに打ち沈んでいると、涙はとめどもなく流れました。ようやく泣きやんだとき、あたりで物音がするのにあたしははっとしました。一瞬、獣か何かだろうと思いましたが、やがてそれが明らかに二人の男の声であることに気がつきました。
「さあおいで、きみ」と彼らのひとりが言っております、「ここまで来りゃあ、もう大丈夫だろう。あのいやらしい因業婆も見てはいないし、ぼくはせめて一刻心ゆくばかり、きみといっしょにあの貴重な快楽を味わいたいんだよ……」
ふたりの男はひたと相寄りました。その位置はついあたしのいる場所と目と鼻のあいだでしたので、あたしは彼らの言葉のひとつのこらず……彼らの動作のひとつのこらずを……まざまざとこの目で見、この耳で聞いた次第でございます。
ああ奥さま、とソフィーは話を中断して、こう言うのだった、いったい今までにあたしはこんなに苦しい、描写はおろか耳にすることさえ恥ずかしくてできないほどな、こんなに苦しい立場に身を置いたことがあったでしょうか?……自然と法律とをふたつながら犯しているこの怖ろしい罪、かつて神の裁きの手が幾度となく加えられたあの大悪、それは一口にいえば、あたしのような無経験な者にはなんとも了解に苦しむ醜行というほかありませんでした。しかもそれがあたしの目の前で、あらゆる淫靡《いんび》な技巧と、もっとも玩味しつくされた退廃の趣味がそうさせるのでもあろう、一見行為そのものとは無関係なように見える、あらゆる奇怪な道草を食いながら、ながながと展開されたものでございます。
ふたりの男のうちの一方、相手を自由にしている方は、二十四歳くらいでしたろうか、若やいだ顔に、なかなか身だしなみもよく、かならずや良家の子弟にちがいないと推測されました。相手はその男の若い従僕であるのか、年のころは十七、八、大そうな美貌の主でございます。情景はこの上なく醜く、いつ果てるとも知れませんでした。見つかってはならぬと体をかたくしておりましたので、あたしにはその間の時間がなおさら堪えがたく思われました。
やがてこの醜行の当事者たちは、さすがに食傷したとみえて、立ちあがると、もと来た道を帰りはじめます。そして、あたしのすがたをうまく隠してくれていた灌木のしげみのそばに、主人の方の男が近づいて来ましたが、まずいことにあたしの帽子が葉しげみの上に出ておりまして、彼はそれを目ざとくも見つけてしまったものです。
「ジャスマン」と男はその若きアドニスにむかって、「ぼくたち見つかってしまったよ、ごらん……あんなところに娘っ子がひとり、なんというけしからぬやつだろう、ぼくたちの秘儀を盗み見しておった! お前、行ってあのいたずら者をしげみの中から引きずり出しておいで。なにをしようとしてるんだか知れたもんじゃない」
あたしは引きずり出されるのを待たず、すぐさま自分で隠処《かくれが》を飛び出すと、男たちの足もとに身を投げ出して、「おお旦那さま」と彼らの方へ双腕《もろうで》をさしのべました、「どうぞおあわれみください、あたしはあなたがたがとてもご想像もおよばないくらい、あわれな運命にもてあそばれて来た女なのでございます。あたしの境遇に匹敵し得るみじめな境遇がたんとあろうとは存じませぬ。こんなところにひそんでいたからといって、どうかあたしにご疑念を抱かれませぬよう。それはあたしのやましい下心のせいではさらさらなく、あたしの不運のせいなのでございますから。なにとぞあたしを苦しめる不幸の数をこれ以上ふやすことなく、むしろ苛酷な運命をのがれる手立てをこそお与えくださいまして、身にあまるあたしの不幸を取り除いてくださいますよう」
あたしをその手中にとらえた男は、ブルサック氏という名前で、心底からの遊蕩児《ゆうとうじ》でありましたから、したがって同情心などというものは毛ほども持ち合わせてはおりませんでした。過度に官能を酷使すると、人間のうちに慈悲心などというものがすっかり影をひそめてしまうことは、不幸にしてあまりにも当たり前な事実です。で、そのもっとも普通の結果は、ひとを冷酷にいたします。人間の偏奇な嗜好の大部分が魂のなかに一種の無感動の状態をしいるのか、あるいはその嗜好が神経のかたまりに刻印する激動が、人間の行動において感受性を鈍らしめるのか、いずれにせよ職業的遊蕩児というものは、めったにあわれみぶかい人間ではあり得ないのです。ところで、いまあたしがその性格を示した一群の人びとに通有な、こうした冷酷という特徴のほかに、ブルサック氏には、女性に対する一種の抜きがたい嫌悪、女性を特徴づけているすべてのものに対する一種の根ぶかい憎悪というものがあって、それはあたしごときがいかにしゃちほこ立ちして同情心をよびさまそうとしてみても、無理な話なのでした。
「それにしても、そんなところでお前はなにをしているんだ、森の雉鳩《きじばと》よ」と男はあたしの訴えをぜんぶ聞いてしまうと、あわれを催すどころかますます冷淡な声音で言うのでした……「本当のことを言いなさい、お前はぼくとこの男がしていたことを見たんだろう、え?」
「いいえ、旦那さま」とあたしはとっさに叫びましたが、真実をいつわったという自責の念はいっこうに感じませんでした……「嘘ではございませぬ、あたしはただあなたがたがお二人して草の上にすわっていらっしゃるのを見たきりでございます。お話していらっしゃるのだとばかり思っておりました。ほんとに、それだけでございます」
「では信じよう」ブルサック氏は答えて、「お前は案外おちついているからな。もしお前がそれ以外のことを見ているのだったら、あの茂みの中から飛び出して来られるわけがない……ときにジャスマン、ちょうどいいからここでひとつ、この田舎娘の身の上話をゆっくり拝聴に及ぼうじゃないかね。そして話がおわりしだい、この女をあそこのふとい樫《かし》の木に縛りつけて、その体をぼくらの山刀のためし斬りに使うというのはどうだい」
ふたりの若者は腰をおろすと、あたしにもそば近く来てすわるように命令しました。そこであたしは、生まれ落ちてから今まであたしの身に起こった事柄を逐一ありのままに物語りました。話しおわると、
「それではジャスマン」とブルサック氏が立ちあがっていうのでした、「いい機会だ、一生に一度だけぼくらは正義の士になろうじゃないか、え。公平無私なテミスの女神が、このあばずれに罪の宣告をなさったんだ。女神さまの意図がむざむざと裏切られているのは見るにしのびない。女神さまにかわって制裁を加えてやろう。そうだとも、ぼくらがしようとしていることは、悪いことであるどころか、りっぱなことだよ、きみ、物事の秩序を回復するという……そうだともさ、ぼくらは不本意ながら、ちょいちょいこの秩序を乱しているのだから、せめて機会に恵まれたときぐらいは、勇んでこれを回復すべく努力しようじゃないか」
こうして無慈悲な人たちはあたしをぐいぐい引き立てて、あらかじめ指定された木の方へとつれてゆくのでした。泣こうが喚こうが、さらに心を動かすような人たちではありません。
「こっち向きにして縛ろう」とブルサックはあたしのお腹を木の幹に押しつけて、下僕に命ずるのでした。
彼らの靴下どめも、ハンカチも、すべて動員されました。またたくまに、あたしはぎりぎりと縛りつけられてしまいましたので、もう手脚をちょっと動かすことさえならなくなりました。それが終わると、悪人どもはあたしのスカートをはらりと落とし、肩の上までシュミーズをたくし上げました。あたしは彼らがその手に山刀を持っているので、これはあらわなあたしのお臀《しり》をめった斬りにするつもりにちがいないと信じこみました。すると、まだ一突きも受けぬうちに、
「もうこれで十分だろう」とブルサックの声がして、「これで十分、彼女はぼくらの力を知ったろう、ぼくらの支配下に屈せざるを得ないだろう……」それからあたしの縄目をほどきながら、「ソフィー、着物を着なさい」と、こうつづけるのでした、「神妙にして、ぼくらについて来なさい。ぼくらといっしょにいれば、わが身の不運をかこつことはないよ、いいかい。ぼくの母さんが部屋女中をひとりほしがっている。お前さんを紹介してあげよう……いま聞いた身の上話を信用することにして、お前さんの身持ちのよさを保証してやろう。けれども、もしお前がぼくの好意をいいことにして、ひとの信頼を裏切るようなことをしでかしたら、いいかいよくごらん、きっとこの木がお前の死の床になるからね。よく覚えておくがいいよ、ここはぼくらの住んでいる城館からつい一里ばかりの近くなので、お前さんはちょっとした落度でもすぐここへ連れて来られることになるんだよ」
ようやく着物を着ると、あたしはこの恩人になんと感謝の気持ちをあらわしてよいかわかりませんでした。で、恩人の前にひれ伏すと、その膝をかき抱いて、きっと身持ちをよくしますと誓ったものでした。けれども、あたしの苦痛に無感動だったこの男は、あたしの喜びにたいしてもやはり無感動でありました。
「さあ行こう」とブルサック氏が言います、「お前のための口きき役はお前の身持ちだよ。それだけがお前の運命を良いようにはからってくれるのさ」
あたしたちは道をいそぎました。ジャスマンとその主人とは道々談笑しておりましたが、あたしはだまってつつましくふたりのあとにつきしたがいました。小一時間ばかりゆくと、ブルサック伯爵夫人の城館が見え出しましたが、その全体の豪壮なたたずまいから察するに、あたしがこのお邸でつかねばならない役目は、かならずや、デュ・アルパン夫妻の家での女中頭の地位よりもはるかに収入《みいり》のよいものにちがいあるまいと思われました。台所で待っていると、ジャスマンが大そう親切に食事の世話をしてくれました。その間ブルサック氏は母親の部屋へあがって行って、あらかじめあたしの話を伝えてくれたのでしょう。やがて半時間もすると、いよいよ紹介するために自身であたしを連れに降りてまいりました。
ブルサック夫人は四十五歳で、まだ大そう美しく、その態度と話しぶりには多少の厳格さがないではありませんでしたが、あたしには大へん誠実な、とりわけ大へん情のあるお方に見えました。二年前に死んだ夫君はさる高貴な家柄の出で、彼女はただ門閥という財産のみを目当てに結婚したのでした。そんなわけで、若いブルサック侯爵が望みをかけている身代も、じつはもともとこの母のものなのでした。彼が父から受けたものといえば、かつがつ生活を維持するに足るだけのものだったのです。ブルサック夫人はなおその上にかなりの年金を受けてはいましたが、その息子の不規律な、そして莫大な額にのぼる浪費にはなかなかどうして足りるどころではありません。とにかくこの家には、少なくとも六万リーヴルの年金が入ってきておりました。そしてブルサック氏には兄弟も姉妹もありませんでしたから、彼を兵役につかせることもできなかったわけです。そういう彼にとって、洗練された遊興のじゃまになるいっさいのものが、言おうようない煩《わずら》わしさの種だったとしてもふしぎはないわけで、どんな束縛も彼にはがまんのしかねるものでした。伯爵夫人とその息子とは、一年の三ヵ月をこの地で過ごし、残りの月をパリで過ごすことにしていましたが、絶望に沈むことなく遊興の中心を離れることのできない男にとっては、母の要求によっていっしょに暮らすこの三ヵ月さえもが、堪えがたい不如意の生活でありました。
ブルサック侯爵は、先ほど語ったと同じ話をもう一度母に語るように、あたしに命じました。そしてあたしが語りおえると、ブルサック夫人はこう言うのでした。
「お前のあどけなさ無邪気さを見れば、お前に罪のないことはよくわかりますよ。ただあたしは、はたしていまの話のとおり、お前がその名前を言った男の娘であるかどうか、それが知りたいと思いますね。というのは、もしその話が本当なら、あたしはお前のお父さんを知っているからです。あたしがお前に興味をひかれる理由もひとつにはそこにあるかもしれない。デュ・アルパンの家での事件については、あたしの年来の友人である大法官に頼んでみて、なんとか事を決着させるようにはからってあげましょう。大法官はフランスでいちばん清廉な方です、お前が無罪を証明しさえすれば、きっともう何のわだかまりも残さないように、大手をふってパリの街《まち》を歩くことができるようにしてくれますよ……けれども、いいですか、ソフィー、あたしがお前に約束したことは、すべてお前の身持ちの良さのご褒美《ほうび》なのです。だから、あたしがお前に恩着せがましいことをするのも、結局はみんなお前のためになることなのですよ」
あたしはブルサック夫人の足もとに身を投げて、かならずご満足のゆくご奉公ぶりをお見せしましょうと約束したことでした。そしてそのとき以来、あたしは新しい部屋女中としてこの家に住みつくことになったのです。三日目に、かねてブルサック夫人がパリに問い合わせてあったあたしの身元に関する情報がとどきましたが、それはあたしの期待していたとおりのものでした。こうしてあたしの心のうちにいつしか不幸の意識はすべて雲散霧消して、それにかわるに甘美な慰安が、期して待たれるものとなったかに見えました。けれども、何としたことでしょう。あわれなソフィーはけっして幸福にはなれないものと、それはあたかも天の配剤のごとくでありました。よしんば平穏の一刻にたまたま逢着したにせよ、それはその後につづくさらに苛烈な時を用意するためのものでしかなかったのでした。
パリに帰るや、ブルサック夫人はさっそくあたしのための訴訟の仕事に乗り出しました。裁判所長官はあたしに面会を希望し、あたしの語るところを熱心に聴取してくれました。デュ・アルパンの手のこんだ悪事は認められ、結局あたしは、牢獄の火事に乗じて逃げたにしても、その事件とは無関係だったことが納得されました。かくしてあたしの訴訟記録は覆滅《ふくめつ》され(そのように教えられました)、当該事件に関係した裁判官は、もう別の手続きをとる必要のないことを認めました。
こうしたやりかたを見るにつけ聞くにつけ、あたしがいかばかりブルサック夫人に愛着していったことか、容易に想像されましょう。まさしく彼女こそ、あたしに対してあらゆる種類の善意をつくしてくれた人ではなかったでしょうか? これほど親身も及ばぬ奔走をしてもらって、どうしてこの女主人に末長くわが身を託することを思わないでいられましょうか? ところが、どういうものか若いブルサック侯爵は、あたしと母とがあまり親密に心を寄せ合うのを喜ばないふうでした。先刻もふれたあのすさまじい侯爵の放蕩はといえば、田舎からパリに出て来て以来、この青年のますます無分別に耽溺《たんでき》していたところでしたが、日ならずしてあたしはそれ以外に、彼が伯爵夫人に対して抱いている済度しがたい憎悪の感情をも知ることができました。夫人が息子の乱行を諫止するために、あるいはこれに異を立てるために、あらゆる手をつくしたというのは本当でした。しかし、どうやら彼女のえらぶ手段はいつもあまりに厳しすぎるようで、その結果侯爵はますます激高して、前よりいっそう熱中して乱行にふけってしまうのでした。で、気の毒な伯爵夫人がこの無益な干渉から身を退くときは、はからずも息子の度しがたい憎悪の対象になっているといった按配です。
「ぼくの母さんが自分からお前のために働いたんだと思ったら大まちがいだよ」と侯爵はしばしばあたしに向かって言うのでした、「いいかい、ソフィー、もしぼくがしょっちゅうしつこく言ってなかったら、母さんはお前に約束したことなんか忘れちまっていただろうよ。母さんはなんでも自分の力でできたような顔をしているけれど、じつはぼくが居なきゃどうにもならなかったんだ。だから、あえて言えば、お前が感謝しなければならない相手は、ぼくだけなんだよ。そのことを十分認識すれば、ぼくがお前になにか恩返しを要求するとしても、まんざら不当なことではあるまい。しかし、お前がどんなに美人だからといって、ぼくは別に下心があってお前をどうにかしようなんていうんじゃないぜ……そうだとも、ソフィー、ぼくがお前に期待する奉公は、そんなものとはぜんぜんちがった種類のものさ……ま、お前にもいずれ、ぼくのしてやったことがどれだけ大きかったか、よくわかる時が来るだろう、そのときこそ、ぼくはお前の心の中に、当然ぼくが期待していいものを期待するつもりだよ」
この演説はあたしにはなんだかよく意味が通らなかったので、どう答えていいかわかりませんでした。それでもあたしはやみくもに、そしておそらくは嬉々として、彼の要求に答えているのでした。
奥さま、ここで一言あなたのお耳に入れておかなければならないことがございます。それはほかでもございませんが、あたしが生涯でただ一度、良心の呵責《かしやく》を受けなければならなかったところの、現実に犯した過《あやま》ちのことでございます……過ちと申しましたが、それはなんともたとえようのない、まあ一種の狂気とでも申しましょうか……けれど、罪とまではいきませぬ、さよう、あたしだけが報いを受ければよかった、単なる過失でございます。深淵はあたしの足もとに、知らぬ間に口をあけておりました、そこにあたしを引きずりこむために、公正なる神の御手が働いていたとは思われません。あたしは自分自身のうちに打ち克ちがたく蟠踞《ばんきよ》していた愛慕の衝動によってブルサック侯爵にひきつけられるわが身を覚ゆることなしに、彼のすがたに接することができなくなりました。彼の女ぎらい、退廃趣味、常人とかけはなれた道徳……そんなことは百も承知二百も合点でしたが、それでもあたしは鬱勃《うつぼつ》たる胸の思いをどうしても鎮めることができませんでした。もし侯爵があたしの生命を所望したならば、あたしは千度も一身をなげうって、まだまだ足りぬと思ったことでしたろう。むろん彼は、あたしが心の底ふかく秘めていたこの感情を知るよしもありません……恥ずべき放蕩に身をあやまった、かわいそうなソフィーの愛するひとは、無情にも、彼女が毎日こぼしていた涙の原因を知ろうともしませんでした。とはいえ、なんとかして侯爵の気に入るようにつとめようと、まるで主人の言葉のかかるのを待っているかのようなあたしの態度には、いかな彼とて気づかないわけにはまいりませんでした。この分ならなんでも自分の意のままに動くだろう、と彼が予想したのも無理からぬことです……こうしてあたしはあさはかにも、あたしの慎しみぶかさが許すかぎり、彼の悪事に進んで手を貸し、伯爵夫人の目をかすめるような仕儀にまで無分別をこうじさせてしまったものです。
こうしたあたしの振舞いぶりは、多少とも侯爵の信任を得させました。あたしにとっては、彼に関係あるもののすべてがなんとも貴重なもので、実際はいささかの愛情をも示してくれはしなかったのに、盲目になっていたあたしの心は、必ずしも彼が自分に無関心ではないのだと信ずるがごとき己惚《うぬぼれ》さえ抱きました。ともあれ、度を過ぎた彼の放埒ぶりが、そのつどただちにあたしの目をさまさずにはおきませんでした。実際その乱行のひどいことといったら、家の中はいつもあのいやらしい風体をした召使でいっぱいでしたし、その上彼は大ぜいの与太者を家の外にも傭っていて、自分から彼らのところへ出向いて行ったり、毎日のように自宅に呼び寄せたりしている有様です。こうした道楽が、その醜悪ぶりもさることながら、安くつくものでないことは当然でしたので、侯爵はそれによってはなはだしい散財をしているのでもありました。あたしは何度かつけつけと、彼の素行上の不都合なところをいちいち指摘してやりました。そういうとき、彼はいやな顔もせずにあたしの話をきくと、最後にこう言うのでした、身内に跳梁する悪徳を矯正しようたって無理な話だ、それはさまざまな形のもとに生まれかわり、生涯のいろんな時期によって数多《あまた》に枝分かれするんだ、だから十年ごとにつねに感覚は新鮮になり、この悪徳に一度取りつかれた人びとは、墓の中までこれと付き合ってゆかなければならないんだ、と……けれどもあたしが息子のことで胸を痛めている彼の母の話をすると、にわかに侯爵の態度は一変するのでした。すでに自分のものになってもよい財産が、いまだに彼女のような女の手の中にあることにたいする、それは怨みと、腹立たしさと、いらだちと、焦燥以外の何ものでもありませんでした。それはまたあの尊敬すべき母にたいする、もっとも根ぶかい憎悪でもあり、自然の感情にたいするもっとも明らかな反抗でもありました。これを要するに、ひとがその個人的嗜好において、あの聖なる器官の法則をかくも判然と破ることができたとき、この最初の罪につづいて起こる必然的結果は、他のすべての法則をも侵してはばからない怖るべき力である、ということにもなるのでしょうか?
時としてあたしは信仰を方便として使いました。いつも信仰によって慰められていたあたしは、この倒錯者の魂のなかにも信仰の楽しさをみちびき入れてやろうと志しました。もしもあたしが信仰の魅力を彼にあたえてやることに成功するならば、そうした絆《きずな》によって彼の心をとらえることだって、案外できるかもしれない……しかし侯爵は、そんな望みをいつまでもあたしに抱かせておいてはくれませんでした。キリスト教のもろもろの聖跡に対する公然の敵であり、教義の純粋性に対する狷介《けんかい》な攻撃者であり、神の存在を否定する強引な論客であるブルサック侯爵は、あたしの手引きで回心《かいしん》するどころか、逆にあたしを堕落の道に誘いこもうとするのでした。
「あらゆる宗教がいんちきの[#「いんちきの」に傍点]原理から出発しているんだよ、ソフィー」と彼はあたしに申します、「あらゆる宗教が造物主の礼拝を必要なことと見なしている。ところで空間の無限の野にただよっているこの永遠の世界が、もしもそのまわりに浮遊する他のすべての星々と同様、けっしてその始まりをもたず、またけっしてその終わりをもつはずがなく、またすべての自然の産物が、それ自身を拘束する法則の単なる結果にすぎず、自然の作用およびその永遠の反作用が自然の本質に固有の運動にすぎないとすれば、いったいお前たちがなんの根拠もなくその力を認めている自然の支配者というものは、どうなるんだね?
よく覚えておくがいい、ソフィー、お前の認めている神というやつ、それは一方からいえば無知の産物であり、また他方からいえば専制主義の産物なんだ。強者が弱者を鎖につなごうとしたとき、神こそこの苦役の鉄鎖を神聖化するものであると主張したのは強者だった。貧すれば鈍するの譬《たと》えのとおり、弱者はこれを真に受けて信じてしまった。そんなわけで、あらゆる宗教がこの最初の作り話のいまわしい発展であり、それはしたがって、必ずひとを小ばかにしたようなところがある。だいたい詐欺師とばか者との象徴をふくんでいない宗教なんて、ひとつもありゃしない。理性に怖気《おじけ》をふるわせる、あらゆる神秘のなかには、自然を侮辱する教義と、失笑以外のなにものをもさそわない醜悪きわまる儀式とがある。ぼくは物心ついて以来、ソフィー、このおそろしい宗教というやつを毛嫌いしてきたよ。足で踏みにじってやろうと心にきめたものだよ。ぼくの目の黒いうちはけっして信用すまいと誓いを立てたよ。お前もばかになりたくなかったら、ぼくの真似をすることだな」
「おお旦那さま」とあたしは侯爵に答えました、「あなたはそんなふうにしてこの不幸な女から、彼女の唯一の慰めである信仰すらも奪いとって、彼女を絶望にしずめてしまおうとなさるのですか。信仰の教えるところにかたく執着しているこのあたし、信仰に加えられる攻撃はすべてこれ悪しき自由思想と偏見の結果でしかないと確信しているこのあたしには、生涯で知ったもっとも甘美な思想を、そんなおぞましい詭弁の犠牲にしてしまう気にはとてもなれません」
あたしはこのほかにも、理性のおもむくままに、心情のあふれるままに、いろいろと説得につとめましたが、侯爵はただにやにや笑っているばかりでした。威勢のよい雄弁術で裏打ちされ、あたしなんぞありがたいことに読んだこともない本の知識で支えられた、堂々たる彼の議論は、そのつどひとたまりもなくあたしの主張をくつがえしました。道徳心と信仰とにみちみちていたブルサック夫人は、息子が無神論の逆説で自己の奇癖を合理化していることを知らないわけではなく、よくそのことについてあたしに愚痴をこぼしたもので、周囲の女たちよりもあたしにいくらか良識を認めてくださっていたのでしょうか、好んであたしにご自分の悲しみを打ち明けられるのでした。
しかしながら、母親にたいする息子の悪辣なやりかたはいよいよひどく、だんだん露骨の度を加えてまいりました。自分の快楽に資するために、うさんくさい無頼漢を母親の周囲に大ぜい集めたりするばかりか、あたしに向かっては、もし母がこれ以上自分の趣味に口出しする気なら、彼女自身の目の前でこの趣味を実演してやって、いかにそれが楽しいものであるか納得させてやろう、というようなことまで臆面もなく言い出すしまつでした。こうした言葉、こうした態度はあたしを苦しめました。あたしは自分の魂を食い荒らすこの不吉な情熱の火を消そうとして、自分自身の内部から、この災いの根源を引っぱり出そうとしても見ました……けれども、恋の病いがたやすく快癒するものでしょうか? 結局どんなにもがいて見ても、胸の炎をいよいよ激しく燃えあがらせる役にしか立ちませんでした。ブルサックを憎むようにならなければいけないと思ったときほど、この不実な男が恋しく思われたことはありませんでした。
明け暮れおなじ悲しみにさいなまれ、おなじ喜びに慰められて、この家に来てからすでに四年の月日が流れました。ちょうどそのころ、侯爵の腹ぐろい誘惑の手がついにその怖ろしさの全貌をあたしの目の前にあらわしたのです。あたしたちはそのころ田舎におりました。部屋女中のひとりが亭主の仕事の関係で、その夏はパリにとどまることになったので、伯爵夫人の身のまわりにはあたし一人しかおりませんでした。あの晩のこと、しばらく前に主人の部屋を退去して来たあたしが自室のバルコニーでほっと息をつきながら、あまり暑いので寝る気にもならないでいると、いきなり侯爵があたしの部屋の扉をほとほと叩いて、少しの間でいいから自分の話をきいてくれと頼むのです……ああ、あたしにしてみれば、自分の不幸の張本人ともいうべき、憎んでもあきたらない男でしたが、それでもその頼みごとを拒絶するにはあまりにも、あたしはこのつれない男との逢瀬《おうせ》を貴重なものに思っていたらしいのです。部屋にはいると彼は、用心ぶかく扉をしめ、あたしのそばにあった長椅子に倒れるようにすわって、
「きいておくれ、ソフィー」とやや当惑げに切り出しました、「これを打ち明けるとなると、ぼくには相当重大な覚悟が必要だ。まず約束しておくれ、これからぼくの話す話をけっして誰にももらしはしないと」
「ああ旦那さま、ご信任を裏切るようなことがどうしてあたしにできましょう?」
「もしお前に打ち明けたがためにぼくの計画が水泡に帰するとしたら、お前はどんな目にあうかわからないぞ」
「あたしのいちばんの悲しみは、そのご計画が水泡に帰することでございましょう。どんな脅迫もこれにまさるものではございません」
「それでは言うが……ソフィー、ぼくは母さんの生命を無きものにしようと企んでいるのだ、そしてそれを果たすためにぼくの選んだのがお前の手だ」
「なにをおっしゃいます旦那さま」とあたしは恐怖にたじたじとしながら叫びました。「どうしてまた、そんなおそろしい企みがあなたのお心にきざしたものでございましょう? あたしの生命をおとりくださいませ、旦那さま、それはあなたのものでございます、存分になさってくださいませ、あなたさまのおかげであたしはこうして生きているのでございますから。けれど、そんな、考えただけでもぞっとする、おそろしい罪の荷担者に、このあたしをしようなんて、どうかそれだけは思いとどまって……」
「まあききなさい、ソフィー」とブルサック氏は静かにあたしを引き寄せて、「ぼくもたぶんお前がいやがるだろうとは思っていたよ。しかしお前は利口だから、ぼくが条理をつくして説明してさえやれば、きっとわかるだろうと思うのだ、いいかい、お前が途方もない罪だと思っていることも、じつはまったく単純なことにすぎないんだ。いま、あまり哲学的とは言えないお前さんの眼には、ふたつの大悪が見えるのだろう、すなわち、同胞の殺戮《さつりく》と、その同胞が特に母であるという場合の罪と。ところで、この殺人、人間の破壊という問題だが、いいかいソフィー、これはまったく根も葉もない空想なんだ。どだい破壊力というものが人間には与えられていないんだよ。まあせいぜい物のかたちを変えるぐらいが関の山だね。絶滅する力なんて人間にはありゃしない。さて、すべて物のかたちは自然の眼には同等である。無限の変化が繰り返される巨大な坩堝《るつぼ》のなかでは、いっさいのものは消滅するということがない。そこに投げこまれる物質のすべての部分が、たえず異なった形状のもとに再生される。だから、よしんばこれにわれわれがどんな攻撃の手を加えようとも、直接に損傷をあたえたり、侵害したりすることはできるわけがないのだ。むしろかえってわれわれの破壊は自然の力を活発にし、自然のエネルギーをたもつ働きをする。自然の力を弱めるなんてことは不可能なのだ。
さあ、こう考えてみれば、今日ひとりの女を形づくっている肉のかたまりが、明日さまざまな何千匹もの虫の形になって再現したからとて、永遠の創造者たる自然にとっては、どうでもよいことじゃなかろうかね? それでもお前は、われわれ人類の構造の方が蛆虫《うじむし》の構造よりも自然にとって貴重なものであるから、したがって自然は人類にもっと関心を払うべきだなんぞと、世迷言《よまいごと》をぬかすつもりかね? ところでもし自然の万物に対する愛着(というよりはむしろ無関心)の程度がすべて同一であるとするならば、ひとりの人間の罪と呼ばれる行為が他の人間を蠅や萵苣《ちしや》に変化せしめたとて、それがいったい自然にどう響こう? むろん、もし誰かが人類の優秀性というものをぼくに縷々《るる》説明に及んでくれて、人類というものはかくも自然にとって大切なものだから、その破壊は必ず自然の法則を刺激するのだと筋道立てて論証してくれるならば、そりゃぼくだって、そのときは人間の破壊がまぎれもない罪だと信じもしようさ。しかしだね、もっとも深くきわめた自然の研究が、この地球こそ自然の作品中もっとも不手ぎわなしろもので、その上に成長するいっさいのものが自然の眼には同一の価値しかもたないとぼくに証明してくれるならば、ぼくは絶対に、ひとつのものが他の多くのものに変化したからといって、それで自然の法則が侵されたというふうには考えないね。むしろこう考える、つまり、すべての人間、すべての植物、すべての動物は同じ方法によって成長し発達し自滅するが、けっしてまことの死に出あうことはなく、単なる変化を受けるにすぎない、つまり、すべては無頓着に生育し自壊し生殖し、一瞬ある形のもとにあるかと思えば、次の瞬間にはもう違った形をとるというふうに、主体の意志によって一日のうちに何回となく変化することもできるが、それによって自然の法則のどれひとつ、一瞬間たりとも影響を受けるということはあり得ない、とね。
だがしかし、ぼくが殺《ばら》そうと思っているのは、ぼく自身の母なのだ、腹のなかにぼくを抱えていたこともある存在なのだ。ちぇ、それがどうした、そんなくだらない理由でぼくが思いとどまるものかね? ぜんたい母というのは何様《なにさま》のことだろう? そいつが淫《みだ》らな思いに燃えて、ぼくという人間の元である胎児をはらんだとき、そいつはぼくのことを考えていてくれたのかね? そいつが快楽にふけったというので、ぼくはそいつに感謝しなければならないのかい? それに、子供をつくるのは母親の血ではない、父親のみの血だよ。雌の腹はただ結実し、保存し、細工をするだけで、なにものも供給しはしない。だから、ぼくは父親の生命に危害を加えようなどとは考えたこともないが、母親の生命なら、糸をぷつんと切るのと同じくらい簡単に断てると思っている。もし子供の心が母に対する感謝の気持ちで動かされるということがあり得るならば、それは物心ついて以来、われわれにたいする母の態度の良かったことに係わりあろう。われわれが母親のいつくしみを受けてさえいれば、われわれは彼女を愛することもできようし、また愛すべきであろう。だがもし彼女にむごい扱いしか受けていないなら、いかなる自然の法則による係累《けいるい》もないこの女に、われわれはなにもお世話をこうむっていないばかりか、すべてはあげてこの女を葬り去れと命ずる、そしてその呼び声こそ、人間をしてじゃまになるものいっさいを追い払わないではいられなくさせる、あのエゴイズムの本然の力なのだよ」
「おお旦那さま」とあたしは侯爵がすっかりこわくなって、こう答えました、「あなたは自然の無関心ということをおっしゃいますが、なんと申してもそれはあなたの僻《ひが》み心の結果ではございますまいか。まあちょっと、ゆがんだお心でなく、まっすぐなお心でお考えになってくださいませ。そうすれば、あなたの権柄ずくな自由思想的議論がいかに無法なものであるか、そのまっすぐな心がよく教えてくれるはずでございます。まことにこの心こそ、理非を決する裁きの庭、あなたの貶《おとし》める自然が人びとに教えをたれ、尊敬をあつめるところの聖殿ではございませんか? そしてこの聖殿に、あなたのお考えになるような罪の恐怖が刻みつけられるとすれば、これはどうしても咎むべきではございませんか? なるほどあなたによればそんな恐怖は欲情の炎で一ぺんに掻き消されてしまうかもしれませんが、しかしそれでもあなたはみずからご満足なさるより早く、一度消えた恐怖がふたたび芽ばえ、後悔という圧倒的な呼び声となって跳梁しはじめるのをお気づきになるはずでございます。
あなたの感受性が大きければそれだけ、お受けになる傷手《いたで》も大きいことでしょう……毎日毎夜、あなたの目の前には、あなた自身の非道な手が墓場のなかに追いおとした、あのやさしい母上のすがたがあらわれることでしょう。あなたの耳は、少年時代の魅惑であったなつかしい名前をまだ呼びつづけている、悲しげな母上の声を聞くことでしょう……寝《い》ねがての夜に、彼女はしのんで来るでしょう。夢寐《むび》の間にも、あなたを悩ましつづけるでしょう。あなたに引き裂かれた傷痕を、血ぬられた手でひらいて見せることでしょう。そのとき以来、地上に幸福の影は一瞬間たりとも、あなたのためには差さないでしょう。ありとあらゆるあなたの快楽は腐臭をはなち、ありとあらゆるあなたの思想は混濁してしまうことでしょう。あなたがその力を甘く見ていた天の裁きの手は、破壊された生命にたいする復讐として、すべてのあなたの余生を陰惨なものにしてしまうことでしょう。大悪を犯したという死ぬほどの悔恨が、あなたを責めて、とてもこの大悪を楽しむことなぞは及びもつかないでしょう」
この最後の言葉を口にしながら、あたしは落涙してしまいました。侯爵の膝にとりすがって、もしそのようなみにくい迷いからさめてくださらなければ、あたしは一生涯尼になって暮らしましょう、どうかお考え直しくださいと哀願しました。しかしあたしはやがて、泣き落としなどのきくひとでないことを思い知らされました。感情のないひとではないとはいえ、罪がその弾性《ばね》をこわしていたのでした。狂暴な情熱は、もはやそこに罪しか支配していないのでした。侯爵は冷淡に立ちあがると、
「ぼくの目算はみごとにはずれたね、ソフィー」と言いました、「ああぼくはお前にたいすると同じくらい、自分自身にたいしても腹が立つよ。まあしかたがない、ほかの手段をえらぶさ。お前はぼくから多くを失って、しかもお前の女主人のためにはなにも利することができなかったわけだよ」
この脅迫はあたしの考えを一変させてしまいました。すなわち、もし誘われた犯罪を引き受けないならば、あたし自身非常な危険にあうとともに、あたしの女主人も確実に殺されてしまいます。一方、共犯になることを承諾すれば、あたしはあたしの若主人の怒りから身を避けることができ、かつその母上の命をも必ずや救うことができるでしょう。一瞬、あたしは頭のなかでこのように考えをまとめると、ただちに自分の役まわりを変えることにいたしました。とはいっても、あんまり束の間の豹変《ひようへん》はかえってあやしまれるにちがいないので、長いことぐずぐず渋っておりました。侯爵にその詭弁を根気よく繰り返させるよう仕向けてやりました。そうしてあたしがだんだんと、いうことをきく以外には道はないといった様子を見せはじめると、侯爵はあたしを説き伏せたと信じたようでした。あたしは自分の弱さを彼の話術の力で正当化しました。とうとうあたしがすべてを承諾するふうをしてみせますと、侯爵はあたしの首に飛びついて来ました……ああ、あたしの弱い心がこの男にたいしてあえて抱いた感情のいっさいを、もしこの極悪非道な企みがぶちこわしにしていなかったら……まだこの男を愛していることがあたしに可能であったなら……どんなに喜びにみちてあたしは彼の抱擁を受けもしたことですか……
「お前はぼくが抱きしめた最初の女だよ」と侯爵はあたしに言いました、「ぼくは真実、心からお前を抱きしめるよ……なんていい子だろう、お前は。それだから哲学の光はお前の心を照らしたのだね。だいたいこんな可愛いお前の頭が、いつまでも迷妄《めいもう》の闇に取り残されていてよいわけがない」
こうしてさっそくあたしたちは行動の手はずをととのえました。侯爵がまんまと欺かれていてくれるので、彼がその計画を詳述したり方法を説明したりするたびごとに、あたしはある種の嫌悪の表情をつねに隠しおおせることができました。しかし、なにより彼の目をごまかすことを成功せしめたのは、不幸な境遇の中であたしが習得した、あのいつわりの表情でした。手はずはこう決まりました、おそくとも二、三日中に、あたしが便利のよい時を見はからって、伯爵夫人が毎朝飲む習慣だったココアの茶碗のなかに、侯爵から渡された小さな毒薬の袋をたくみに投入する……あとのことは心配するな、と侯爵はあたしに言いました。食扶持二千エキュを約束するから、ぼくのそばで飼い殺しになるもよし、どこか好きな土地へ行って暮らすもよし……そうして彼は約束に署名してくれましたが、この恩恵をいかにしてあたしに享受させてくれるかについては、なにも明確にしてはくれませんでした。で、その晩はそれなり別れました。
とかくするうちに、奥さま、乗りかかったあたしのこの身の上話、あなたもきっとその結末を今やおそしと待っておられるにちがいないこの物語を、中断せざるを得ないほどにそれは奇怪な、あたしの係わり合ったこの残忍な男の性格をよくあらわした、ある出来事がもちあがりました。あたしたちが密談した翌々日のこと、侯爵の許にある手紙が来て、ひとりの伯父《おじ》さんが急に死んだので、まったく思いがけない遺産、すなわち年金八万リーヴルが彼のものになったと知らせて来たのです。
――何としたことだろう、とあたしはそれを知ったとき思いました、いったい正義の神はこんなぐあいにして、極悪の陰謀を罰するのだろうか? 八万リーヴルどころか、あたしはそれよりもずっと少ない利益を拒否したがために、あやうく生命を失う危険にさらされた。しかるにこの男は身の毛もよだつおそろしいことを企らんだがために、いまや順風の帆掛船といった按配ではないか。
けれどもあたしはすぐに、神にたいするこの暴言を後悔すると、ひざまずいて赦《ゆる》しを乞いました。そうして、せめてこの思いがけない遺産が侯爵の計画を思いとどまらせてくれればよいと考えました……とんでもない見当ちがいでした、ああ!
「すてきだ、ソフィー」とその晩さっそくブルサック氏はあたしの部屋にとんで来て、「まるで星が降るようにいいことずくめだ。だからお前に何度も言ったろう、幸運を招致するには悪事をめぐらすにかぎるって? まったく幸運の道がすらすらとひらけるのは、悪人にたいしてだけでもあるかのごとくだ。八万と六万で、しめて十四万リーヴルがぼくの快楽のお膳立てをしてくれるとは、へへ、こたえられないね」
「まあ旦那さま」とあたしは気脈を通じている関係上、あんまり驚くわけにもいかず、こう答えました、「思いがけない財産が手にはいったのに、それでも殺害をお急ぎになりますか、辛抱してお待ちになっては?」
「待てと? ふん、待てるものなら苦労はしない……だってお前、考えてもごらん、ぼくはもう二十八だよ。この齢まで待つだけだって、なみたいていのことじゃないよ。いいかい、われわれの計画はそんなことではなんら変更を受けないんだ、だから……よろしく頼むぜ……すべてがすんだら、パリへ引きあげる前に愉快に遊ぼう。明日か、おそくとも明後日には、やってくれよ。ぼくはもうお前に早く給金をやりたくて、むずむずしてるんだから」
この罪へのはげしい熱中ぶりにあたしは怖れをなしましたが、一生けんめい気どられないようにして、前夜の役まわりを守りつづけました。しかしあたしの胸の思いは、ために冷めはて、あたしはもはやこの度しがたい悪逆非道の男に恐怖以外のものを感じなくなったようです。
とまれあたしの立場はこの上なく厄介でした。もし約束を履行しなければ、侯爵はやがて一ぱい食わされたと感づくでしょう、またもしブルサック夫人に密告した場合には、悪事の露見が彼女にどんな処置をとらせたにせよ、やはり侯爵はみずから欺かれたことをさとり、おそらくはただちにより確かな手段をえらんで必ず母親を亡きものとし、またあたしにたいしてはあらゆる報復を加えるべく画策するでしょう。あたしには正義の道が残されていたとはいえ、うかうかとこの道を選ぶわけにもいかないのでした。しかしあたしは、かりにどんなことになろうとも、やっぱり伯爵夫人にすべてを言ってしまおうと決心しました。考えられるすべての方法のなかで、それがいちばんよいと思われたので。
「奥さま」とあたしは、最後に侯爵と会った日の翌日、こう切り出しました、「じつはあたし、奥さまのお耳に入れておきたいことがあるのですが、これを話すとあたしの身にも重大な影響が及んでまいりますので。どうかお驚きにならないでくださいまし、そして、あなたの息子さまが無法にも企んでおられまする事の次第をお知りになっても、なにとぞ息子さまに面とむかってはお怨みのいろをあらわされませぬよう、奥さまの名誉にかけて誓っていただきとう存じます。さもないとあたし、お話し申しあげるわけにはまいりません。むろん奥さまはご自由に行動し、いちばんよいと思われる処置をおとりになればよろしいのでございます、けれど、このことは誰にもおもらしなさいますな。約束してくださいませ、さもなければあたし、なにも申しあげられません」
ブルサック夫人は、またなにか息子がどえらいことを仕出かそうとしているなと思ったのでしょう、あたしの要求したとおり、誓いをなさいました。そこであたしは一部始終を夫人に明かしました。不幸な母親はこの没義道《もぎどう》なたくらみを知ると、涙にくれて、
「人でなし!」と叫びました、「いったいあたしはいままでに、あの子の幸福のため以外になにをして来たというのかしら? あの子の悪徳を懲戒し、矯正しようとこころみたとしても、あの子の幸福と平和のため以外のどんな理由がひとをあんなに厳しくさせ得るものかしら? 今度あの子のもとに舞いこんだ遺産にしたって、あたしでなくて誰の配慮がそこに及んでいるというのだろう? あたしがそれを黙っていたのは深い考えがあってのことなのです。極道め! おお、ソフィー、あの子の凶悪ぶりをもっとよくあたしに納得させておくれ、もう疑うことができなくなるまでに……あたしはいま、自分の心にいっさいの自然の感情を押し殺してしまうことが必要なのだから……」
そこであたしは、侯爵からわたされた毒薬の袋を伯爵夫人に見せました。あたしたちはその少量を一匹の犬に嚥下《のみくだ》させ、鎖につないでしばらくじっと見ておりますと、はたして二時間ほど経て犬はおそろしい痙攣《けいれん》とともに絶命しました。もはや疑うことのできなくなった伯爵夫人は、ただちにとるべき手段を決して、毒薬の残りを自分によこすようあたしに命じると、それから彼女の一族であるソンズヴァル公爵あてに一通の手紙をしたためて、時をうつさず飛脚を走らせようとしました。手紙には、すぐに秘密警察におもむいて、彼女がまさに陥らんとしている奸計をその筋に逐一訴え、息子にたいする勅命逮捕状を出すようにしてもらいたい、逮捕状が出たら警視をひとり伴って当地に駆けつけ、できるだけ早く自分の命をねらっている人非人の魔手から自分を救ってもらいたい……ということが書いてありました。しかし、しょせんこうした手順もむなしく、かの憎むべき罪は遂行され、美徳は凌辱《りようじよく》されて大罪の足下にあえなくも屈する運命ではあったのです。
あたしたちの実験台になったあわれな犬が、いっさいを侯爵に暴露してしまったのです。犬の鳴き声を聞きつけると、それが母の愛犬であったのを知っていましたので、侯爵はしきりに犬はどうしたとか、どこへ行ったとかたずねるのでした。きかれた人々は、もとより事情を知らないのでなんとも返事ができません。このときから彼は疑念を抱いたようでした。なにも言いはしませんでしたが、あたしは彼が不安そうに、いらいらしながら一日じゅうなにか待っている様子を見ました。あたしはこれを伯爵夫人に報告しました。ともかく、ぐずぐずしている時ではありません、なすべきことはただひとつ、飛脚をいそがせ、その使いの目的を秘すことのみです。伯爵夫人は息子にむかってこう言うのでした、大急ぎでパリへ使いをやって、お前の受けた伯父の遺産をソンズヴァル公爵に管理してもらうよう頼んでおきました、さもないと、あるいはめんどうなことにならないとも限らないからね……それからこうも言いました、公爵には事情を報告かたがたここへ来るようお誘いしておきました、もし必要ならばお前といっしょにあたしも出かけなければなりますまいから……
侯爵は生来ひとの顔いろを見抜くのに長じておりましたので、一目で母の面上にあらわれている当惑の表情と、狼狽《ろうばい》しきったあたしのそぶりとを見て取ったようでした。が、素知らぬ顔で、いよいよ警戒おさおさ怠らぬ態勢をかまえました。気に入りの稚児さんを二、三人連れて、ちょっと散歩に行って来ると言うなり、城館を出はずれ、飛脚がどうしても通らなければならない場所に張り込みをはじめました。飛脚は伯爵夫人よりも彼になびいていたので、難なく文書を侯爵に手渡してしまいました。そこであたしの裏切り――たぶんそう呼んだことでしょう――をはじめて確認した侯爵は、飛脚に百ルイ与えて、もうこれからはけっして邸に顔を出すなと命令するなり、ふたたび家に帰ってまいりました。心中|忿懣《ふんまん》やる方なく、とはいえけんめいにこれをおさえて、彼はあたしに会うと、例のごとく甘いことを言いました。そして、公爵が来てしまってはまずいから、明日こそはきっと決行するようにとあたしに注意して、まるでいつもと変わりなく、平然と寝につくのでした。
もしこの呪うべき犯罪があらゆる努力にもかかわらず、やがて侯爵があたしに教えてくれたように、首尾よく成就されてしまったものとすれば、それはあたしがこれからお話するような仕方で行なわれたにちがいありません……ブルサック夫人はその翌朝、いつものようにココアを召しあがりました。ココアはあたしの手しか経なかったので、それに混ぜものがあったとはとうてい信じられません。ところで、午前十時ごろ侯爵が台所へ入ってまいりました。ちょうど料理人頭しかいなかったのに、侯爵はその男に、すぐ庭へ出て行って桃の実をもいで来いと命じました。男は料理の最中無理なことをおっしゃると言って断わりましたが、侯爵はどうしてもすぐに食べたいと、しきりにわがままをいってきかず、ついにはぼくが竈《かまど》の番をするよとまで申します。で料理人が出てゆくと、侯爵は昼食の皿をひとつひとつ吟味して、伯爵夫人の大好物であった朝鮮あざみ[#「あざみ」に傍点]の若蕾の皿に、おそらく彼女の生命の糸を断ち切ることになった宿命的なあの薬物を投入したのでしょう。昼食になる、伯爵夫人はきっとこの不吉な皿を食う、かくして悪事は完成される……むろん、これらはすべてあたしの臆測でしかありません。事件が不幸な結果を見て後に、ブルサック氏からきかされたことは、ただ彼の目的が達成されたということだけでした。そうしてみると、あたしの助力は結局、彼に事を首尾よくはこばせる手だてを提供したようなものではありませんか。しかしまあ、こんな寝覚めのわるい推測はこれくらいにしておきましょう。それより、あたしがついにこの悪事に荷担せず、ばかりかもらしてしまったことでこうむらねばならなかった罰の、じつにむごたらしいやり方をお話いたしましょう……昼食がすむと、侯爵はつとあたしのそばへ寄って来て、
「ねえ、ソフィー」といやに冷静な、ねちねちした調子でこう言葉をかけるのでした、「ぼくたちの計画を成功させるのに、いままでの方法よりもずっと確実な方法が見つかったよ。だけど、これには詳しい説明がいるんだ。それでお前の部屋に行きたいんだが、なにせそうしょっちゅう足踏みしていては、まわりの目がうるさいからね……今日の五時きっかりに、公園の角にいてくれないかな。そこでぼくと落ち合って、いっしょに散歩しようじゃないか、その間にぼくが一件を委細説明に及ぶから」
神慮の贈り物か、ばか正直のせいか、それともお先まっ暗だったのか、この申し出をあたしは承知してしまいました、自分を待っていた怖ろしい不幸についてはかねて何の知るところもなく……伯爵夫人の手配がもれるはずは絶対ないと確信していたので、あたしは侯爵がこれを見破ったとはついぞ思いもおよびませんでした。とはいえ、あたしの中に一抹の不安な感情があったことは否めません。
悪事の約束には偽誓も美徳となる
とはわが国の悲劇詩人の言った言葉でございます。しかし、偽誓に頼ることを余儀なくされた感じやすい繊細な魂にとっては、偽誓はつねに醜いものでございます。あたしの役まわりはあたしを不安でいっぱいにしました。が、それも永くはつづきませんでした。侯爵のあくどいやり方は、あたしの不安な気持ちにふれないような話題をえらぶことによって、手もなくあたしを安堵させました。気味のわるいほど陽気な、腹蔵ない態度で彼はあたしに話しかけました。こうしてあたしたちが森の中にさしかかるまで、彼はいつもあたしと一緒のときそうするように、笑ったり冗談を言ったりする以外にはなにもしませんでした。あたしが彼をうながして、この会見のそもそもの目的であった問題に話を持って行こうとすると、彼はそのつど、もう少し待て、まだぼくたちは見られているかもしれない、まだ安全とは言えない、などと言うのでした。いつしかあたしたちは、あたしたちがはじめて出あったあの灌木の茂みと、あの大きな樫の木のあるところに来ていました。さすがのあたしもこの場所をふたたび目にしては、そぞろ総身に戦慄《せんりつ》の走るのをどうすることもできません。あたしの無思慮と、あたしの運命のすべての酷烈さとが、その時あらゆるかたちをとって、あたしの目の前にあらわれたかに思われました。しかも、ご想像ください、かつてあたしをあれほど怖ろしい危険に直面させた、その不吉な樫の木の根もとに、侯爵の腹心として通っている二人の若い稚児さんのすがたを見かけたとき、あたしの恐怖のさらにいかばかりいやまさったか……あたしたちが近づくと、彼らは立ちあがって芝草の上に、綱や、牛の陰茎の筋でつくった鞭《むち》や、その他あたしをぞっとさせたいろいろな器具を投げ出しました。侯爵はあたしを呼ぶに、もはやもっとも卑猥《ひわい》な、もっとも聞き苦しい言葉をしか用いず、
「すべた……」云々とののしりました。「この茂みを覚えているかね、いつかこの中からおれはお前を獣のように引きずり出したことがあるが? 死んじまえばよかったものを、命拾いさせてやるためにな……この樹を覚えているかね、もしおれの親切をおれが悔やむようなことになったら、もう一度ここへ連れて来るぞといって、かつてお前をおどしたことがあるが?……おれを裏切る気持ちがありながら、なぜ母にたいする陰謀にお前は荷担することを承知した? 命の恩人にたいする奉仕の義務をおろそかにして、それでもお前は美徳に奉仕したと思っているのか? 避けがたい二つの悪のあいだに身を置いて、なぜそのうちの憎むべき方を選んだ? お前はおれの要求したことを単に断わりさえすればよかったんだ。それを事もあろうに、おれを裏切るために承諾するなんて、何ということだ」
そう言って侯爵は、飛脚の文書を途中で奪い取ったいきさつや、やっぱり自分の思ったとおりだったということを語りました。それから、
「お前の偽善はいったい何をしたというのだ? 見下げ果てたやつめ」とつづけました、「自分の命を的にしても、お前にゃおれの母ひとりの命が保てなかったじゃないか。事はすでに終わったのだよ。おれは帰ってから、おれの目算がまんまと大当たりをとったのを楽しみに見物できるだろう。ところで、お前を罰してやらにゃならん、美徳の道必ずしも最良の道でないこと、この世には美徳のための告げ口よりも、悪のための共謀がこのましい場合もあるのだということを、お前にとっくり教えてやらにゃならん。それにしても、いったいお前は、おれという人間をいいかげんよく知っていたろうに、なんだっておれを愚弄するような真似ができたんだろうな? おれの心が快楽に資するためにしかけっして認めないあわれみの情、あるいは、おれがつねに足下に踏みにじって来た信仰の原理、そんなもので、おれの行動を抑制できるとでも思ったのかな?……それとも、お前は自分の美貌を恃《たの》んでいたのかな?」と彼は刺すような冷たい皮肉の語調で、こう付け加えました、「よかろう、おれはお前のその美貌が、偽善のヴェールを白日のもとにあばかれたその美貌が、ただにおれの復讐心をあおり立てる役にしか立たないものであることを、いまから思い知らせてやるぞ」
こう言うと彼はあたしに答えるすきを与えず、あふれ流れるあたしの涙の滝を見てもさらに心を動かさず、あたしの腕をぎゅっとつかんで、手下のところへ引き立ててゆくと、
「さあ」と言いました、「これがおれのお袋を毒殺しようとした女だ。いや、ひょっとしたら、すでにこいつ、おれの予防策の裏をかいて、先刻大それた罪をなしとげているのかもしらんのだ。だから、本来ならば裁判所に引き渡してしまうにしくはないのだが、裁判はこいつの命をあっさり奪ってしまうだろう、それではおれとしておもしろくない、おれとしては、できるだけ永く苦しませてやるために、こいつの命を残しておいてやりたいのだ。さあ、早くこいつを裸にして、向こうむきにこの樹に縛りつけてしまえ、応分の折檻を加えてやろう」
命令は発せられるとほとんど同時に実行されました。あたしはみるみる口にハンカチの猿ぐつわをかまされ、樹を抱きかかえるようなぐあいに肩と脚をしばりつけられましたが、体の他の部分は縄目をかけられず、これは鞭打を加えるのにじゃまになるからでした。侯爵はふしぎなくらい興奮して、鞭をつかむと、打ちおろす前にあたしの顔いろをじっとうかがいました。あたかもその眼で、あたしの面上をおおっていた涙と苦痛と恐怖のいろをむさぼるかのような様子で……やがて、あたしのうしろ三歩ほどの場所に彼がまわったかと思うと、いきなりあたしは背中の中央から腓《こむら》までを力まかせに打擲《ちようちやく》されるのを感じました。が、あたしの加害者はすぐに打つ手をやめると、いまなぐりつけたばかりの傷口のひとつひとつに荒々しくその手を触れました……手下のひとりになにか小声で言っているようでしたが、あたしにはわかりませんでした。しかしそのうちあたしの頭はハンカチですっぽりくるまれてしまい、もうあたしは彼らが何をやっているのだか全然見えなくなりました。けれどもまだ終わっていたのではなく、彼らは先ほどの血なまぐさい場面をふたたび演ずる前に、あたしのうしろでしきりに何かやっておりました……「そうだ、それがいい」と侯爵の言う声が聞こえました。何がいいのだかあたしにはわかりませんでしたが、この言葉が発せられると同時に、鞭打ちは前よりもいっそう猛烈に開始されました。やがてそれがまたやむと、傷を受けた個所にふたたび手が触れられ、ひそひそ話す声が聞かれました……稚児さんのひとりが大声で「こんなぐあいでよろしいでしょうか?」と言っていましたが、あたしにはなんのことやらわからず、ただ侯爵がそれに答えて、「もそっと近く……」と言っていました。つづいて三回目の攻撃が前よりもさらに激烈なやり方で加えられ、その間ブルサックはこの言葉を二、三度断続的に繰り返しつつ、「ほら、ほら、わからんかい、ふたりとも、おれはこの場でこいつをぶち殺しちまいたいんだよ」などと、聞くにたえない悪罵《あくば》さえまじえて言うのでした。その声がだんだん大きくなったかと思うと、この酸鼻をきわめた情景もやっと終わりを告げ、またもやひそひそ声がしばらくつづきました。そして、なにか動いている気配とともに、あたしをいましめていた縄目がぷつんときられるのを感じました。そのとき、あたりの芝草をひたしていた自分の血を見て、あたしは自分がいまどういう状態にあるかをさとりました。そばには侯爵しかおらず、手下のすがたは見当たりません……
「どうだ、女郎《めろう》」と侯爵は、欲情の高潮の後に来る、あの一種の倦怠のふぜいで、あたしを見ながらこう言葉をかけました、「美徳をおこなうのもなかなかどうして、高くつくということがわかったろう? 二千エキュの扶助料は百回の鞭打ちと引き合うかな?」
あたしは意識を失いそうになって、樫の木の根かたにふらふらと倒れかかりました……侯爵はそれでもまだ飽き足らず、あたしが弱っているのを見て残忍な興奮をおぼえたものらしく、あたしを地面に踏みつけ押し殺さんばかりに圧迫をくわえて来ました。
「おれはこれでも人情に厚い方だから、お前の命を奪うようなことはしやしない」と二、三度繰り返しました、「今度こそはいくらなんでも、おれの親切に報いる方法をまちがえぬよう気をつけろよ……」
それからあたしに立ちあがって着物を着るよう命令しました。いたるところ血の海でしたので、たった一枚残された着物が染みになっては大へんと、思わずあたしは草をちぎってふこうとしました。侯爵はその間ぶらぶら歩きまわりながら、自分だけの考えにふけっている様子で、あたしのことなんかまるで忘れてしまったようでした。あたしは肉がはれあがり、血が止まらず、ひどい苦痛に堪えていたので、ほとんど着物を着ることもならない有様でした、それでもこの残酷な男、あたしをこれほどのむごたらしい状態に至らしめたこの怪物、つい数日以前だったら喜んであたしが自分の生命を捧げたかもしれない、このあたしのかつての恋人は、どんな気まぐれなあわれみの情からあたしに手を貸してやろうという気にもならなかったようでした。で、あたしが用意を終えますと、近寄って来て、
「どこへでもお前の好きなところへ行ったがよかろう」と言うのです、「お前のポケットにゃまだ金があるはずだよ、おれは手をつけた覚えはないし……ところで、忠告しておくが、パリのでも田舎のでも、おれの邸には二度と顔を出さない方がいいぞ。なぜならお前は今後おれのお袋の下手人として世間に通ることになるはずだから。まだお袋の息があったら、おれは彼女にもそのむねふくめて、お前にたいする怨みを墓のなかにまで持って行かせてやるつもりだよ。家じゅうが下手人はお前だと思うだろう。おれは裁判所に告訴もしよう。そうなれば、以前の訴訟のこともあるし、パリはお前にとっていよいよ住みがたい街になるだろう。訴訟といえば、お前はあれはもう済んだものと思ってるらしいが、じつはどうして、うやむやになったきりなんだよ。もう終わったといったのは、お前をだますためだったんだ。だから、逮捕状はまだ無効になってやしない。お前の素行がどんなであるか試してみるために、ああいうことを言っておいたまでなのさ。そういうわけで、お前はいま、一つどころか二つまでもの訴訟事件と係り合いになっているのだよ。そしてその相手というのは、もうあのいやしい高利貸だけではなく、金も力もある人間、このおれなのだ。お慈悲で助けてもらったのをいいことに、余計な中傷でもしようものなら、おれは地獄へまでもお前を追いかけて行くだろう」
「おお旦那さま」とあたしは答えました、「あたしに対してどんなにきびしくなさっても、あなたさまにたいして事を構えるなぞ、あたしにはとうていできませんことですから、その点は少しもご心配には及びませんわ。前にそういうことがあったとしましても、それはあなたの母上の命にかかわりあることでした。いま、不幸なソフィーひとりが問題であるとき、どうしてあたしにそのようなことができましょう。さようなら旦那さま、あなたの無慈悲があたしに苦悩をもたらしましたように、あなたの罪があなたに幸福をもたらしますように。どのような運命に神があなたを導かれようと、あたしのつまらない命のあなたが恩人であるかぎり、あたしはこの命をあなたのために祈ることにのみ費《つか》いましょう」
侯爵は顔をあげました、さすがにこの言葉を聞いては、あたしをまじまじと見つめないわけにはいかなかったようです。そして、そのときあたしが涙をいっぱい浮かべて、やっと立っているのを見ると、彼はたぶん自分もほろりとしそうになったのでしょう、いそいで傍をはなれると、もうあたしの方を振り返りもしませんでした。彼のすがたがすっかり見えなくなると、あたしは地面にがっくり頽《くずお》れて、体じゅうの痛みに身をゆだねつつ、涙で草をぬらしました。
「ああ神さま」とあたしは声をあげました、「すべてはあなたのお望みのままです、無辜《むこ》の者が悪人の餌食となるのも、御意のままでございます。主よ、あたしをご利用ください、あなたがわれわれ人類のために耐え忍んだあの苦痛にくらべては、まだまだあたしの不幸など物の数ではございません。熱愛するあなたのためにあたしの耐えている不幸が、他日、弱者がその憂悶《ゆうもん》のなかでつねにあなたを目的とし、その苦痛のなかであなたを称えるときに約束される、あの褒賞に値する人に、あたしを高めてくれますように!」
夜がやって来ましたが、あたしは立っているのがやっとなくらいで、どこへ行くこともできません。四年前、茂みのなかに寝ていたときも、たしかこれほど不幸ではなかったはずだと、あたしはそのときのことを思い出しました。なんとか身体を引きずって行って、前と同じ場所に横たわりはしましたが、まだ血のしたたっている傷口は痛いし、心は悲しく、気はふさぎ、考えられる限りもっともみじめな夜をあたしはそこで過ごしました。夜明けになると、それでも若いあたしの体力と気力はやや回復しましたが、あのおそろしい城館の近所がこわくてしかたがなかったので、早々にその場をあとにし、森を出はずれ、どこでもいいから足の向いた方で最初にぶつかった部落にたどりつこうと、肚《はら》をきめました。そうしてあたしは、パリから約六里はなれたクレエの村にさしかかりました。外科医の家をたずねると、村人が教えてくれました。医者にたのんで包帯をしてもらい、事情をこう語りました。恋愛事件でパリの生家を飛び出したものの、運わるくボンディの森で悪漢の手中に落ち、この態たらくではございます……医者は、村の書記に供述するならばという条件で、あたしの手当てを引き受けてくれました。あたしは承知しました。おそらくあたしは捜査されていたのでもありましょうが、そんな噂《うわさ》はいっぺんもあたしの耳にはいってはきませんでしたので。医者は、傷が治るまでなら自分の家にいてもよいと言い、技術をあげて手当てしてくれたので、一ヵ月とたたないうちにあたしは完全にもとの身体になっておりました。
外を出歩けるようになって、まずあたしが考えたことは、すばしこくて頭のいい娘を村からひとり捜し出して、これをブルサックの城館に使いにやり、あたしが出奔してから以後すべてがどんなぐあいになったかを聞きにやらせてみようということでした。が、この手順を思い立たせたのは、あながちあたしの好奇心のせいばかりではない、たしかにこの危険な好奇心は二の次でした。むしろ第一の理由は、伯爵夫人の邸で稼いだお金がわずかながらあたしの部屋に残っていたことでした。身につけては六ルイしか持っておりませんでしたが、城館には三十ルイほども残して来ていたのでした。いかに無慈悲な侯爵とて、当然あたしのものであるべきこの金をしも拒みはいたしますまい。一たび怒りもおさまれば、二度とあたしに仇をなすことはあるまい、とあたしは信じておりました。で、あたしはできるだけ哀れっぽい手紙を書きました……なんともはや、哀れっぽい手紙で、おそらくわれにもあらず、いまだにこの不実な男の情にすがって、あたしの悲しい心は訴えているのでした。あたしは自分のいまいる場所を用心ぶかく秘して、お邸に残して来たあたしの着物とわずかなお金とをかえしてもらいたいと、手紙のなかで侯爵に懇願しました。二十歳くらいの大へん元気な、大へん機転のきく百姓女が、あたしの手紙を持って城館へゆき、あたしの調べて来てほしい細々としたことにいちいち情報を得てもどって来てくれることを約束しました。あたしはこの女に、どこから来たかを隠すように、あたしについては絶対になんにも語らないように、また、この手紙は十五里もの遠方からそれを持ってやって来たある男から渡されたのだと言うように、注意をあたえました。こうしてジャネット――それがあたしの使者の名前でした――は出発し、二十四時間後にあたしあての返事を持ってまいりました。ところで、あたしが受け取ったその手紙をお見せいたします前に、奥さま、例のブルサック家で起こったその後の出来事をまずお知らせした方がよいかと存じます。
ブルサック伯爵夫人は、あたしがお邸を出奔した日に、急にひどく加減がわるくなられ、その日の晩に早くも亡くなられました。パリから城館へは誰ひとり来ず、身も世もあらぬ悲嘆に沈んだ侯爵(とんでもございません!)は、母がたしかに同じ日に家を出奔した、ソフィーという名の部屋女中に毒殺されたにちがいないと主張しました。ただちにこの女中の捜査が開始され、見つかりしだい絞首台に送られることになりました。なおまた侯爵は、母の遺産によって自分でも思いがけないほどの大金持ちになりました。ブルサック夫人の金庫や宝石類は、誰もそのすべてを知りませんでしたが、侯爵をして、年金を別にしても、債券や現金で六十万フラン以上の所得を獲《え》さしめました。噂では、侯爵は一生けんめい悲しそうなふりをしていましたが、それでも喜びは隠しきれなかったもののようです。侯爵によって死体解剖が要求され、そのために親類縁者たちが招かれましたが、彼らは不幸な伯爵夫人の運命をいたみ、このような大罪を犯した女は憎んでもあまりあると結語した後、なにごともさとらず、異議なくこの若い跡つぎにその大罪の収穫をゆだねてしまいました。さて、ジャネットとこのような話をまじえたのはブルサック氏自身で、いろいろと質問をしたそうですが、ジャネットはいかにもはきはきと率直に答えましたので、彼もそれ以上追求することなく、返事をしたためることにしたそうです。
「そら、これがその問題の手紙でございます」と言ってソフィーはポケットから一件を引っ張り出し、「この手紙、奥さま、あたしの弱い心には、それは時に必要でさえありました。今後とも最期の息を引き取るまで、けっしてなくさないつもりでございます。まあちょっと、読んでごらんくださいませ、ぞっとしないではおられませんから」
そこでロルサンジュ夫人は、わが美しき女主人公の手から手紙を受け取り、次のごとき文面を読んだ次第である。
――母上毒殺の容疑者が、その憎むべき犯行の血もまだかわかぬうちに、私あてに手紙をよこすとはなんたる厚かましさだ! 居場所を隠したのは上出来だった、見つかったらただではすまなかったと思え。その上なにがほしいというのだ?……金や着物がどうしたというのだ? 残していったものがあったにしても、そんなものはお前がこの家にいる間じゅうと最後の悪事をはたらいた際とに盗んだもので帳消しではないか? もうこんな要求は二度としないことを忠告する。さもないと、お前のかくれている場所が知れるまで、手紙の取次人を拘留しておくことがあるかもしれぬ――
「では、話を続けてちょうだい」とロルサンジュ夫人は手紙をソフィーにかえして、「それにしても、何というひどいやり方でしょうね……金がありあまっているというのに、いくら悪事に協力しなかったからって、ひとが正当に稼いだものも与えないなんて、聞いたこともない卑劣なやり方だわ」
なんとまあ奥さま、とソフィーはふたたび話の続きをはじめるのだった、この無情な手紙を見て、あたし、二日間を泣きの涙で暮らしました。断わられたのはまだしも、そのあまりにひどいやり方がたまらなかったので。
――それじゃああたしは罪人なのだわ、とあたしは心の中で叫びました。それじゃああたしは、正義の女神の命令を尊重したばっかりに、二度までも裁判所のお尋ね者になってしまったのだわ……でもいいわ、なにも後悔することはないんだから。たとえどんなことが起こったって、あたしの魂が清浄であるかぎり、道徳的|呵責《かしやく》も後悔も感じる必要はないんだから。あたしは正義と美徳の感情に耳かたむけすぎたという以外には、なんの過ちをも犯さなかったのだし、この感情は永久にあたしを見すてることがないでしょうから。
外科医ロダンのこと
ところであたしには、侯爵から聞いた捜査がはたして実際におこなわれているとは、信じがたかったものです。いっこうそんな気配はなし、第一、もしあたしが裁判所にあらわれたら何より困るのは彼なのですから、じつは彼の方こそあたしの存在をはるかにもっと怖れているのにちがいないと想像されました。かりにあたしの居場所が知れたとしても、なにも脅迫されて震えるにはおよばないのではないか……そう思うと、あたしは自分がいまいる場所にとどまって、多少なりともお金がたまって遠くの土地へ行くことができるようになるまで、できるだけここを動くまいとする気になりました。あたしが厄介になっていた外科医の名前はロダン氏といい、うちで働く気はないかと、自分の方から持ちかけてくれました。三十五歳の気むずかしい、粗野で乱暴な性格のひとでしたが、その名高い評判は全国に知れわたっており、仕事に大へん熱心で、家にはひとりの女っ気もなかったので、たまたま家事と自分の身辺の世話をしてくれる女が見つかって、非常に喜んでいる様子です。一年に二百フランと、それからお客さんの心づけをいくらか、彼はあたしに約束してくれました。あたしは万事を了承しました。ロダン氏は、あたしの肉体の隅々にまで精通しておりましたから、あたしがまだ男を知らない身であることも、むろんのこと承知しておりましたし、つねに純潔に身を守りたいというあたしの極端な願いも、先刻見抜いていたようです。で、彼はこの問題についてはけっしてあたしを困らせるようなまねはしないと、約束してくれましたので、その結果あたしたちのあいだには相互の協定が成立しました……だがあたしはこの新しい主人に少しも気を許してはいなかったので、かりにも身元を明かすようなことはしませんでした。
こうしてこの家に来てからはや二年が過ぎ去りました。その間けっして苦労がないわけではなかったけれど、それでもあたしはやや落ち着きを取りもどし、かつての苦い日々をほとんど忘れたかに見えました。そのころのことです、あたしの心から発するたった一つの美徳といえども、やがてその身を不幸で悩ます結果にならなければ気がすまないらしい神が、束の間あたしの身を置いていた、そのはかない幸福からあたしをさらって、またしても新たな不幸におちいらしめようとしたのは――。
ある日、家にひとりでいたあたしが、用事のために部屋から部屋を駆けずりまわっていると、どうやら地下倉の奥からでももれてくるらしい、うめき声が聞こえるようです。ふしぎに思って近づいて見ると……なおよく聞こえます、若い娘の声のようで、しかし扉はぴったりしまっていて、あたしと彼女とのあいだは遮断されている。彼女のかくれている場所へはいってゆくことは不可能でした。さまざまな考えが、そのときあたしの頭をかすめました……こんなところで何をしているのだろう、この女は? ロダン氏には子供はひとりもない、妹とか姪《めい》とかを世話しているという話も聞きません。極端に規則的な生活をしているのを現にあたしは見ているので、この娘が彼の放蕩の犠牲者であるとは信じがたいことでした。それではいったいなんのために彼女は閉じ込められているのかしら? わからないと思うとよけい好奇心がむらむらとわいてきて、あたしはとうとうこの娘に、そこでなにをしているのか、そしてあなたは誰ですかと、思い切って質問を発してみました。すると、「ああ、お嬢さま」と気の毒な女の子の涙ながらに答えるには、「あたしは森の樵夫《きこり》の娘です。まだ十二歳でございます。この家に住まっております旦那さまが、お友達とふたりで、昨日あたしの父のいない留守に、あたしをさらったのでございます。ふたりであたしを縛って、糠袋《ぬかぶくろ》につめこまれると、袋の底であたしは声も立てられませんでした。それから馬の背に乗せられて、昨夜この家につれて来られますと、すぐにこの穴倉へ投げこまれました。あたしをどうしようというのか、それまでは見当もつきませんでした。が、やがて彼らはやって来ると、あたしを裸にして、あたしの身体を診察しはじめ、齢はいくつかなどときくのでした。するうち、この家の主人であるらしい男が、友達にむかってこう言いました、こんなに怖がっているようじゃあ、手術は明後日の夕方に延ばした方がいいだろう、少し落ち着かせてからにした方が実験はうまくゆくよ。それにしてもこの娘には被験者[#「被験者」に傍点]に必要なすべての条件がじつによくそろっているねえ……」
こう言ってしまうと娘は口をつぐみ、いっそう悲しげに泣きはじめました。あたしは彼女の気を鎮めてやって、きっと力になってやることを約束しました。ロダン氏といい、その友人といい、りっぱな外科医でありながら、いったいこの可哀そうな娘をどうする気なのか、あたしはほとほと判断に苦しみました。すると、この被験者[#「被験者」に傍点]という言葉が、あたしは今までしばしば他の機会にこの言葉の語られるのを聞いていましたので、ふとある疑いをあたしに抱かせました。もしかしたら彼は、この不幸な子供を解剖に付そうという、おそろしい意図をもっているのではないか……しかしこのおそろしい判断を是認する前に、あたしはなおよく事情をさぐらねばならぬと思いました。ロダンは友達と連れ立って帰ってくると、いっしょに夕食をし、あたしを遠ざけました。あたしは言うことをきくふりをして、近くにかくれておりました。こうしてやがてふたりの会話が、彼らの意図しているおそろしい考えをあますところなくあたしに明かすことにはなったのです。
「解剖学というものは」と彼らのひとりが言っていました、「ぜひとも十二、三歳の被験者を使って、切開された部分の神経に痛みがふれる瞬間をこそしらべて見なければ、けっして完全に究明されたとはいえないね。くだらない顧慮が医術の進歩を阻んでいるとすれば、こんな愚劣なことはない……まったくの話、ひとりの犠牲者が一万人を救うことになるとすれば躊躇逡巡《ちゆうちよしゆんじゆん》はおかしくはないか? 法律によっておこなわれる殺人と、われわれの手術において執行されようとしている殺人とは、なにか種類がちがうのかね? だいたいこの賢明な法律というもののそもそもの目的が、千人を救うために一人の犠牲者を出すということじゃないのかい? だとすれば、われわれを阻むものはなにもないわけだ」
「うん、ぼくもそう思うね」と相手が答えました、「ひとりでやれる勇気があったら、もうとっくの昔にやってたことだがな……」
奥さまにお伝えできる会話はこれくらいでございます。なにぶん話が医術のことに限られていたので、あたし、よくおぼえておりません。それに、こう聞いてしまったからには、もうどうあってもあの不幸な医術の犠牲者を助けてやりたいと思う気持ちであたしはいっぱいになってしまったのです。それは、もちろんあらゆる点から見て貴重な医術ではあるのでしょう。しかし、そのために罪のない者が犠牲にならなければならないとすれば、やはりあたしには高くつきすぎるような気がいたしました。友達が帰ると、ロダンはあたしには何も言わずに寝につきました。翌日はこの残酷な犠牲の執行される日でありました。彼はその日、昨夜のように友達と飯を食うから夕方までには帰ると言って、つねのごとく外出しました。彼が一歩家を出るや、あたしはもう自分の計画のこと以外には目もくれませんでした……この計画には、さいわい神の御加護がありました、とはいえあたしには、その神の御加護が、本当のところ、罪のない犠牲者を救うためのものであったか、それとも、不幸なソフィーの同情から出た行為を罰するためのものであったか、どうもよくわかりません……あたしはただ事実を述べるだけでございます。奥さまよろしいようにご判断くださいませ。あたしとしたことが、あの端倪《たんげい》すべからざる神の御手にもてあそばれ苦しめられて、いったい神さまはあたしをどうなさるおつもりなのか、いえ、もうさっぱりわからなくなってしまったので。ですからあたしの言えることはただ、自分が神の意図に助力を惜しまなかったばっかりに、かえって手ひどく神の罰を受けねばならなかったということだけでございます。
さてあたしは地下倉へ降りて行って、もう一度あの娘に呼びかけてみますと……相変わらず同じ訴え、同じ恐怖を彼女はもらします。あたしは娘に、彼らはこの牢屋を出たとき鍵《かぎ》をどこへ置いたか知らないかときいてみました……「さあ、存じません。けれど、たぶん持って出たんじゃないかしら……」と娘は答えます。あたしは必死になって鍵をさがしました。すると、砂のなかでふとあたしの足に触れたものがあるので、かがみこんで見ると……それが鍵です。扉をあけると、気の毒な娘はあたしの膝に取りすがって、感謝の涙であたしの手をぬらしました。あたしは、自分の冒している危険を知らず、自分を待っている運命をかえりみる余裕もなく、ただこの娘を逃がしてやることしか考えませんでした。さいわいにも、村を出るまで誰にも会わず、森の小径《こみち》に連れて来ると、あたしは娘に接吻し、さあ早く帰ってお父さんを喜ばしておあげなさいと、まるで彼女の幸福をわが事のように悦《よろこ》びつつ、それから飛ぶようにして家に立ち帰りました。
やがて時が来ると、例のふたりの外科医は、いまわしい計画に着手するのをたのしみに、相たずさえて帰宅しました。陽気な、そしてまたおそろしい早い夕食をさっさと切りあげると、ふたりはさっそくに地下倉へ降りて行きました。あたしは自分のしたことを隠すために、錠《じよう》をこわしておくことと、鍵を元の場所にもどしておくこと以外にはなんの手を打っても置きませんでした。娘が自分ひとりで脱走したと思わせるためです。が、あたしの相手はそんなことでだまされるようなお人好しではありませんでした……ロダンはかっと激高して、いきなりあたしに飛びかかると、あたしの体を小突きまわしながら、押しこめておいた子供をどうしたと詰問しました。最初のうちこそ知らぬ存ぜぬで通しておりましたが……なんとしてもあたしの生まれつきの率直さが、とうとうあたしに泥を吐かせてしまいました。そのとき、この二人の男の口をついて出たものすごい、ひどい悪態のかずかずは、聞いたこともないようなものでした。ひとりがあたしを逃がした子供のかわりにしようと言えば、もうひとりは、いや、もっとおそろしい刑罰をくわえてやらにゃ腹の虫がおさまらぬと言います。そうしてこういう間にも、一方から他方へあたしは押しこくられつ突きかえされつ、やがて意識を失って地面へ昏倒《こんとう》するまでめちゃめちゃに殴打されました。こうして怒りが幾分おさまると、ロダンはあたしに活を入れました。で、あたしが意識を取り戻すと、彼らはあたしに裸になれと命令します。あたしは震えながら命令に従いました。そして彼らの望むとおりのすがたになりますと、ひとりがあたしをつかまえ、もうひとりがメスをふるって、あたしは両足の指を一本ずつ切られ、それから向きを変えさせられて、奥歯を一本ずつ抜かれました。
「まだ終わりではないぞ」とロダンが火のなかに焼鏝《やきごて》をくべながら、「もともと笞刑《ちけい》を受けておれのところへころがりこんで来た女だ、今度はおれが烙印を押して突き出してやろう」
こう言うと、ああ、むごたらしい、彼は友達にあたしをつかまえさせておいて、まるで泥棒にでもするように、赤熱した鉄印をあたしの肩のうしろに押し当てました……「いまに見ていろ、売女《ばいた》、ぬぐっても消えない汚辱の文字があらわれてくるぞ」とロダンは興奮して言います、「この汚辱の印を見せれば、なぜおれがお前を早々に追っ払ったかも、十分納得ずくで申し開くことができるというものだ」
こう言うと、ふたりの友達はあたしを連れて外へ出ました。夜でした。彼らは森の入口にあたしを引っ張って来ると、残酷にもそこにあたしを置き去りにして行ってしまいました。行ってしまう前に、もしお前がその恥ずべき体でおれたちを訴えでもしようなら、とんだ藪蛇《やぶへび》になるのが落ちだろうと匂わせました。
これがあたしでない誰か他のひとだったら、こんな子供じみた脅迫にびくびくしはしなかったでしょう。あたしの受けた体罰が裁判所の仕業では全然ないことを証明しさえすれば、何の怖れるところもなかったはずなのですから。けれどもあたしの気の弱さ、あたしの世間知らず、それにまた、パリやブルサックの城館でさんざんなめたつらい思いへの恐怖心は、一途《いちず》にあたしをかっとおびえさせるのでした。で、あたしは受けた傷が少しでもよくなりしだい、この不吉な土地を早々に退散することをのみ念じていました。悪人たちは自分でつくった傷にていねいに包帯を巻いてくれましたので、翌日の朝には傷はもう大分よくなっていました。一本の立木の下で、生涯にそう幾度とはない恐怖の夜を過ごした後、あたしは日の出とともに歩き出しました。足の傷のため早くは歩けませんでしたが、なんとしてもこのいやな森の付近を早く遠ざかりたいという思いは急で、この最初の日から、翌日、翌々日と日を重ねるうちに、それでも四里ばかりの道のりを進みました。が方角もわからなければ、道をきくこととてしなかったので、なんのことはないパリの周辺をぐるぐるまわっていたのでした。こうして歩き出してから四日目の晩に、あたしはやっとリューザンに着きました。この道を行けばフランスの南部地方に出ると知って、行ってみることに決心しました。あの遠隔の土地へ行けば、故国で得ようとして得られなかった平和と休息が、あるいはあたしのために待っているかもしれないと夢想して――
とんでもない目算ちがいでした! まだまだあたしは悲しい思いをうんとこさ経験しなければならなかったのでした! が、それはまあともかくとして……ロダンの家でのあたしの給料は、ブルサックの家のにくらべると段違いに安かったことは安かったが、あたしはこの家で自分の金の一部をしまっておくということをしませんでした。つまり、運よくあたしは有金ぜんぶを身につけて持っておりました。ブルサック家から持って来たものと、外科医の家で働いて得た金と、都合十ルイに達する金がそれでした。あたしはこれほど不幸なときでも、この虎の子を奪われなかっただけ、まだ仕合わせと思い、せめてその金でいつか適当な職を見つけることもできようかと、甘い考えにふけったものです。あたしの体に焼きつけられた汚辱の文字は、表むきには目につきませんから、あたしは永久にこれを隠しおおせることができるかのような気になり、烙印があたしの生計のさまたげになろうなどとは考えもしませんでした。当時あたしは二十二歳、ほっそりとやせてはいましたが、すこぶる壮健な身と、それが災いのもとであったとはいえ、賛仰の目でしか見られなかった美貌と、そして、いつもあたしのじゃまにはなったが捨て切れなかった、ある種の美徳とにめぐまれておりました。ともあれそれがあたしの内心の慰めとなり、やがては神がなんらかの褒美、でなければせめては不幸の終焉《しゆうえん》を、この身にもたらすであろうという希望をあたしに抱かせるのでした。
希望と勇気に胸ふくらませて、あたしはサンスまで道程を進めましたが、ここへ来て、まだ治りきっていなかった足がひどく痛んで来たので、やむなく二、三日逗留することにいたしました。が痛みの原因については誰にも明かさず、かつてロダンの家でこんな傷のときにつかっていた薬があったのを思い出し、薬局で求めて自分でぬりました。一週間も休んでいると、足の傷は全快しました。サンスの町で、あるいはなんらかの職にありつけたかもしれなかったのですが、なにしろあたしはただ遠くへ行きたいという思いにかられておりましたから、ここでは職をさがそうともせず、ドーフィネ州にでも行けば何とかなるだろうぐらいの気持ちで、またまた道中をつづけました。子供のころ、この地方の話をずいぶん聞かされましたので、何となくここがよいところのように想像されたわけです。はたしてそうであったかどうかは、後ほどお話いたしましょう。
人生のいかなる時いかなる場合においても、宗教心があたしのもとを去ったことはありませんでした。自由思想家の得意がる詭弁などは、確信から生ずるというよりも、むしろ道楽から生じるものであるとして、あたしはこれを軽蔑しつつ、対するに良心と心情と、この二つをもって抗弁に必要ないっさいのものと見なしておりました。ときにあたしの不幸から信仰の義務を等閑にせざるを得ない場合があったにせよ、機会が来ればすぐとあたしはこの罪をつぐないました。さて、忘れもしない六月七日のこと、そのときあたしはオセールの町を出発して、二里ばかりも来ていたかしら、あたかも炎暑ようやく頭上にきびしく、あたしは街道からやや左手にそれた、茂みにおおわれた小高い丘にのぼって涼をとり、二時間ばかり昼寝でもしようと思い立ちました。ここなら旅籠《はたご》よりも安く、大道よりも安全というわけで。で、丘にのぼり、一本の樫の木の下に腰をおちつけて、パンと水といったそまつな弁当をつかい、それから心地よい午睡に身をゆだねました。そうして二時間以上も安らかな時を楽しんだでしょうか、眼をさましてあたしは、街道の左手に相変わらず見えている風景を、うっとりとながめわたしたところ、目路《めじ》はるかにひろがった森のまん中に、つつましく空にそびえている一堂のささやかな鐘楼が、それでもあたしのいるところから優に三里はあったでしょうか、ぽつんと見えるのに気がつきました。
――なんと心をなごませる侘住《わびず》まいだろう、とあたしは思いました。ほんにうらやましい! きっとあそこには、信仰に一身をささげ、おつとめ一すじに打ちこんだ修道女か、あるいは隠遁《いんとん》の聖者たちが、罪がたえず無辜《むこ》と戦ってそれに打ち克とうとしているこの危険な現世を見かぎって、しずかに暮らしているのにちがいない。あらゆる美徳があそこにすんでいるのにちがいないわ。
と、このような思いにとらわれている時しも、あたしと同じ年格好の若い娘が、数頭の羊をともなって、やおら眼前にすがたをあらわしました。そこでさっそく、あそこに見える住まいはなんですかとたずねてみると、娘の答えて言うには、あれは四人の隠者の住まっている聖フランチェスコ派の修道院で、お坊さま方はそれは質素な、節制を守った信仰生活を送っていらっしゃいます、ということでした。また、
「一年に一度、村人たちは奇跡の聖処女さまを拝みに、あそこへおまいりします。信仰のあついひとには願いごとがなんでもかなうと申します」とも、この少女は言いました。
そう聞くと、あたしはもう一刻も早くその聖母さまとやらの足もとにひざまずいて、ご加護を仰ぎにゆきたい気持ちでいっぱいになってしまって、この娘に、あたしといっしょにこれからお参りに行く気はないかとさそってみました。すると彼女は、母さまが家で待っているからそういうわけにもいかないが、道は簡単だから教えてあげると言い、また、院長さまはこの世でもっともりっぱな、もっとも徳の高いお方だから、あなたを歓待してくださるばかりか、もし必要な場合には救いの手をすらさしのべてくださるでしょう、とも言いました。
「院長さまは神父ラファエル師とおっしゃいます」と彼女はつづけました、「イタリア人ですが、フランスで永いこと生活なさいました。親戚であるローマ法皇さまにすすめられた多くの名誉職をかたく辞退して、好んでああした孤独の生活を送っていらっしゃいます。もと名門の出で、やさしく親切な、熱意と信仰心の旺盛な、この地方では聖者とあがめられている、五十がらみのお方でございます」
森の修道院サント・マリーのこと
この羊飼い女の物語にさらにあたしの気持ちはあおりたてられて、もうこの上はどうしてもあの修道院におまいりして、怠っていたお勤めの、せめて万分の一でもお返ししなければと、気おいたちました。あたし自身が施しをしてもらいたいような境遇でしたのに、この娘にあたしはいくらか包んでやりました。こうしてあたしは、森の修道院サント・マリー――それがくだんの僧房の名前でしたが――参詣の途につきました。丘をおりると、もう鐘楼は見えず、道しるべになるものといっては森しかありません。あたしは最前の娘に修道院までの道のりがどれくらいあるか、ぜんぜん聞いてもおかなかったのですが、やがて気がついてみると、あたしの見当はとんでもない方向ちがいのようでした。でもあたしはへこたれず、森の入口に来て、まだ日没までには大丈夫間があると見てとるや、日のあるうちにはきっと目ざす修道院に到達できるという、ほぼたしかな目算のもとに、森のなかにはいって行きました……しかし、なにはあれ人跡未踏の森でございます。一軒の家もなく、道といってはあるかないかの凸凹道で、あたしは当てずっぽうにたどって行くほかありません。
せいぜい三里も行けば目的地に着くだろうとたかをくくっておりましたのに、丘をおりてからすでに五里、まだなんにも見えません。太陽もようやくあたしを見すてて沈もうとしておりました。そのときです、あたしは自分のいるところから一里とはない近くで、たしかに鐘の音を聞きました。音のする方にむかっていそいで行くと、道はややひろくなり……小一時間の果てに、やっと垣根のようなものが見えだしたかと思うと、まもなく修道院の建物が見えました。これほど荒涼とした住まいはございません。付近にはいかなる住居もなく、いちばん近い家で六里以上もはなれております。どこから見ても、三里以上ある森でかこまれています。つまり、修道院はこの森のいわば底に位置しているのでした。だから、そこへゆくのにあたしはだいぶ坂をおりねばなりませんでした。さきほど丘をおりると同時に鐘楼が見えなくなったのも、こんな理由からだったのです。庭番の修道士の小屋が母屋《おもや》の壁に接していて、それが受付になっていました。あたしがここに住む修行者に、院長にお目通りできるかどうか尋ねると、彼はあたしの用向きを問いました。あたしは答えて……信仰の義務と誓いが自分をこの敬虔《けいけん》な隠遁所にみちびきましたゆえ……もし束の間なりとも聖処女さまのお足もとに、奇跡の御像のお住まいになるこの僧房の院長さまのお足もとに、幸いにして身を投げることを得ますれば、ここまで足を棒にしてやってまいりましたかいがあるというものでございます、と申しました。
修道士はあたしに休んでいるように言い置いて、僧房の内へ入って行きました。すでに夜でもありましたし、また彼のいうところでは、ちょうど坊さまたちの夕食時でもありましたので、ちょっと長くかかるだろうということでした。が、やがて彼はひとりの坊さんを連れてふたたび姿をあらわすと、
「こちらはクレマン神父」とあたしに紹介して、「会計を取り扱っておられる方です。あなたのお望みが院長さまをわずらわすに足るものであるかどうか、検分に来られたわけです」
クレマン神父は四十五歳、がっしり肥った、見上げるような巨大漢で、くらい獰猛《どうもう》な眼《まな》ざしと、きびしい塩辛声の持ち主なので、近づいて来るなりあたしは、慰められるどころか慄《ふる》えてしまいました……さよう、そのときあたしをとらえた無意識の身慄いは、止めようとして止められるものでなく、過ぎ去ったあたしの不幸のすべての思い出が一瞬にしてよみがえって来る態のものでした。
「ご用向きはなんじゃな?」とこの法師はつんけんした調子で、「いまは、教会に来る時間かな? お見かけしたところ、仔細ある身らしいが……」
「お坊さま」とあたしは平伏して申しました、「神の家の門戸はいついかなる時でもあたしたちのために開かれているのだと、あたし、信じておりました。熱意と憧憬《どうけい》にみちて、山坂道を遠しとせず、ここまで駆けてまいりました。できますことなら、どうか懺悔《ざんげ》をさせていただきとう存じます。そうしてあたしの本心がおわかりくださいましたなら、この聖殿の奥に鎮座まします奇跡の御像のお足もとに拝跪《はいき》いたします資格があたしにもございますかどうか、おっしゃってくださいませ」
「お言葉だがな、懺悔の時間はもうとうに過ぎておりますわい」と坊さんは語調をやわらげて、「いまは夜ですに、あなたをどこへお通ししてよいものやら? ここにはあなたをお泊めする場所もない、朝来ていただければよかったのじゃ」
そこであたしが朝来られなかった理由をのべますと、彼はそれ以上なんとも答えず、院長に知らせにゆきました。数分後、本堂の扉があくと、院長みずから庭番小屋の方へやって来て、いっしょに堂内にはいるよう声をかけてくれました。ラファエル神父とはどんなひとか――これもさっそく奥さまにお伝えしておきましょう――彼は先刻申しましたとおり、齢は五十がらみでしたが、どう見ても四十としか見えません。痩身鶴のごとく、顔容は気高く柔和で、ややイタリア語なまりがあるとはいえ十分りっぱなフランス語をしゃべり、そうしてやがて奥さまもあたしの話が進展するうちに、さてこそと思いあたる節々を見いだされますように、内心の陰険さを外面のもったいぶった鄭重《ていちよう》さで隠しているといったふうな男でありました。
「わが子よ」とこの修道僧は愛想よく言いました、「いまは時間はずれではあり、われわれはこんなにおそく信者をお迎えする習慣はもたないのじゃが、わしは特にあなたの懺悔を聞いて進ぜよう。その後に、今夜一晩あなたをお泊めする方法を講じて、明日は聖母さまの御像を拝めるようにしてあげましょう」
こう言うと、法師は告白室のまわりの燈火をぱっと灯《とも》して、あたしにそこへすわれと言い、坊さんたちに戸をぜんぶしめさせて本堂を退出させると、さあ安心してわしに懺悔をするがよいと言うのでした。表面いかにも優しげなひとでしたので、クレマン神父を見て感じた恐怖もいまは跡かたなく消え去り、あたしは院長の前に叩頭して、すっかり心の底を打ち明けました。あたしのおろかな正直さと依頼心とは、自分に係わりあるいっさいのことをこの男にさらけ出してはばかりませんでした。あたしの過ちのすべて、災難のすべてを細大もらさず打ち明けたばかりか、あの憎むべきロダンの家で押された屈辱の烙印のことまで告白してしまいました。
ラファエル師はこの上なく熱心にあたしの話をききました。たえず同情と興味とを示しながら、ある個所では根掘り葉掘りつっこむことさえいたしました。そして彼の質問は主として次の点に集中されました。
一、あたしがパリ生まれの孤児だというのは本当かどうか
二、あたしが家族も友達も保護者もなく手紙を書くべき相手もないというのはたしかであるかどうか
三、あたしがこの修道院に来たいという意向をもらした相手は羊飼女だけであるか、また、帰りにこの女と会う約束をしなかったかどうか
四、あたしが二十二歳の処女だというのはたしかであるか
五、ここへ来るまで誰かにつけられるというようなことはなかったか、修道院へ入るのを誰にも見られなかったかどうか
法師は気さくな様子でふんふんとうなずきながら、この質問にことごとく満足すると、
「ではよろしい」と言って立ちあがり、あたしの手を取って、「さあおいで。今晩はもう聖母さまを拝むにはおそすぎるが、明日こそは、御像の足もとに親しくひざまずかせて、しずかな満足を味わわせて進ぜよう。今夜はさしずめ、夕食をして寝ることを考えた方がよさそうじゃ」
こう言うと、あたしを聖器安置室の方へ連れて行きました。
「あの……」とあたしはそのとき、自分でおさえることのできない不安に胸をしめつけられて「あの、神父さま、御堂のなかに……寝させていただくのでございますか?」
「それじゃあどこへ寝ようというのかね、美人の巡礼さんや」と法師は答えると、聖器室にいたる回廊の扉を押しあけて、あたしを御堂のなかに連れ込んでしまい、「なにかね、お前さんは、四人の修道士といっしょに一晩すごすのがそれほど心配なのかね?……ま、いまにわかりますじゃ、わしらは見かけほど無骨者でもなければ、美しい娘子を楽しむことを知らんわけでもないことがな……」
この言葉はあたしをぎょっとさせました。――ああ、それでは、とあたしは内心で考えました、それではあたしはまたしても、尊い信仰生活のそばに近づきたいという善き感情の犠牲者になってしまったのだろうか? またしても、罪人のように罰されようとしているのだろうか?――かかる間も、あたしたちは暗がりのなかを進んでゆきました。やがて回廊のつきあたりに来ると、そこに一個の階段が立っていて、法師はあたしを先に立ててのぼろうとしました。あたしがほんの少し逆らうと、
「このすべた」と、猫なで声から一ぺんに権柄ずくな怒声に早変わりして、「この期《ご》におよんで、しりごみする気かね? ふん、泥棒の巣窟に連れて行かれるよりも、四人の修道士にかこまれている方が、お前にとってどれほど幸福であることか、いまにわかるぞよ」
恐怖の種がこう矢つぎ早にふえてゆくと、あたしはもうひとつひとつの言葉にびくびくしているひまもありませんでした。最前の言葉にふるえおののく隙もないうちに、またまた新しい恐怖の種があたしの五官をとらえに来ました。扉が開くと、驚くまいか、あたしの眼の前には一個のテーブルを中心に、三人の法師と三人の若い娘と、都合六人が言語に絶する不作法な様子ですわっているのです。娘たちのうち二人は全裸で、のこる一人は、今しも男たちの手で着物を剥ぎとられようとしておりました。法師たちもほぼ同じような恰好で……
「やあ、お友達」と室に入るなりラファエルが言いました、「わしらの人数に不足していた一人を、すなわちここに連れてまいったよ。まずはわしに紹介の労をとることをゆるされよ、これ真にふしぎというべき現象じゃ。なぜかと申すにこの娘、一個のルクレチアにして、かつ双肩に不身持女の烙印を押されておる。ほれ……」となにか意味ありげな、猥《みだ》りがましい身振りをして、「ほれ……よいか、お友達、これぞ明々白々なる生娘の証拠じゃ」
哄笑がこの奇態な歓迎会場の四隅にどっとひびきました。あたしが最初に見た例のクレマンは、すでにかなり酩酊《めいてい》の態で、それではさっそく事実を検証せねばならぬと喚き立てました……ところで奥さま、この場に居合わせた男女がいったいどのような人物たちであったかを奥さまにお伝えしておくためには、どうしても話をここでちょっと中断せざることを得ませんね、ではあたしの身の上はしばらく不問にして、話をそっちへ移しましょうか。
ラファエルとクレマンはもうすでにじゅうぶんご承知でしょうから、すぐと他のふたりに取りかかりましょう。この修道院の三番目の神父アントナンは、四十歳の小男でしたが、やせて干からびて、火のような気質、相貌《そうぼう》はサチュロスに似て、熊のごとく毛深く、その執拗《しつよう》で性悪なことといったら並ぶものなき、一種気ちがいじみた道楽者でした。また最年長者のジェローム神父は、六十歳の老遊蕩児で、凶暴性においてはクレマンととんとんでしたが、飲むにかけては一段と猛者《もさ》でした。普通の快楽には鈍くなっているので、情欲の仄《ほの》めきを掻き立てるためには、ある種の荒《すさ》んだ、嫌悪をもよおすばかりな技巧に頼らざることを得ないといった男でした。
いちばん若い娘はフロレットで、ディジョンの生まれ、やっと十四歳ばかりの、この町の大ブルジョワの娘だったのが、おのれの道楽に利用し得るものなら何によらず金と力に物を言わせて逃がしはしないラファエルの、手下どもにさらわれて、ここへ連れて来られたのでした。栗いろの髪に可愛らしい双眸《そうぼう》、顔立ちはきりりとして大そう色気がありました。コルネリーは十六歳くらい、金髪の、男好きのする顔立ちの娘で、肌はまばゆいばかり、それにすらりとした体つきがこの上もなくみごとでした。オセールの生まれで、酒造商の娘でしたが、ラファエルそのひとの罠《わな》にかかってまんまと誘拐されたのでした。オンファルは大柄な三十女で、大へん感じのよい優しげな顔と、きわだった体の線と、壮麗な髪と、こよなく美しい乳房と、なんとも言いようのない多情な眼とにめぐまれておりました。彼女は裕福なジョワニーの葡萄《ぶどう》栽培家の娘で、十六歳のとき、前途有望なある青年の妻になるところだったのを、その結婚の前夜に、ジェロームが奇策を弄してその家からおびき出し、そのままかっさらって来たのでした。あたしがこれからいっしょに暮らすことになった仲間たちは、ざっとこのような人々の集まりでありました。あたしが美徳の棲家《すみか》に相違ないと夢想したその場所は、尊い隠遁所とは似ても似つかぬ、ざっとかくのごとき腐敗と汚行の場所ではあったのです。
さて、このおそろしい一座の中央に連れて来られると、あたしはただちに了解させられました、ここで身を処する最善の道は、あたしの同僚をまねて従順になることだ、と。「どうじゃ」とラファエルが言いました、「運わるくお前のさまよいこんだ場所が、ひとの近づき得ないこの山間の巣窟であるとわかってみれば、もういくらじたばたしても無駄なことは容易に察しがつくだろう。話によると、お前はたくさんのつらいことをなめたそうじゃが、身持ちのよい娘にとっていちばん大きな災難がいまだにお前の不幸の目録に欠けておる。お前くらいの年齢で、いまだに生娘であるということは当たり前のことかな? これ以上持ちこたえられるとしたら、それは一種の奇跡ではないかな?……ここにいるお前の仲間たちも、わしらのために用を便じなければならないと知ると、最初のうちはやはり、お前のように気取っていたものだよ。しかし、それが結局痛い目を見ることでしかないと悟ったときは、やがてお前さんもばかでなけりゃそうするだろうように、ついにわしらの意志に唯々として服するようになったのじゃ。
だいたい、ソフィー、現在のお前の立場で、どうして自分の身を守ることができると思うね? 誰が見ても明らかなとおり、お前はいま世界じゅうから見すてられておるのじゃからな。それにお前自身の告白によれば、お前には親もなければ友もないという。とすれば、この人里離れた無人の境で、お前はあらゆる援助を絶たれ、あらゆる人の世から隠蔽されて、しかも、よもやお前を見のがすつもりはもうとうない、四人の道楽者の手中にあるというわけだ……さあ、いったい誰に助けを求めるね? お前がさかんにお祈りしていた、あの神さまにかね? ところでその神さまは、お前のその熱中を利用して、抜け目なくお前を罠に追い落としたのではなかったかな?
さ、ここまで言えばお前にもわかるじゃろう、いまやわしらの手中からお前を奪回することのできるものは、神の力でもなければ人の力でもない。また、それは可能な物事の秩序のなかにあるのでもなければ、奇跡の分野にあるのでもない。いかなる種類の方策も、お前があんなに誇りにしているその純潔を、もはやこれ以上永く保たせることは不可能であり、いかなる手段も、要するに考え得べきあらゆる意味とあらゆる仕方とにおいて、わしら四人がともどもこれからふけろうとしているあの肉の放蕩三昧《ほうとうざんまい》の、お前が餌食となることを妨げることはできないのじゃ。さ、着物を脱ぎなさい、ソフィー、あきらめに徹することが、わしらの好意をかち得るもっとも早い道じゃ。もしいうことをきかないなら、すぐにもお前は、それは痛い恥ずかしい目にあわなければなるまいぞ。そうすればわしらはますます腹の虫がおさまらなくなって、お前はわしらの乱暴狼藉をまぬがれることもできまいぞ」
このおそろしい長広舌を聞かされては、もうどんな抜け道も残されてはいないのだ、と観念せざるを得ませんでした。けれど、こうしたぎりぎりの状態で、藁をもつかみたくなるのが人情ではございますまいか。ラファエルの足もとに身を投げて、あたしはどうか自分をいまのままの状態にしておいてくれと、心のかぎり根かぎり哀願しました。にがい涙は法師の膝をしとどに潤しました。心情の命ずるがままに、泣きながらあたしは、なるべく悲壮な様子を見せるように努力しました。が、涙は悪事や道楽をいっそうそそるものでしかないことを、あたしはまだ知りませんでした、この怪物どもの心を動かそうとして試みることはすべて、いやが上にも彼らの欲望に油をそそぐことにしかならないことを、あたしはまだ知りませんでした……ラファエルはいらだたしそうに立ちあがると、
「アントナン、この乞食娘をつかまえろ」と、眉根を寄せて言いました、「わしらの目の前で、すぐ裸にしてしまえ。そして憐憫《れんびん》が権利を主張し得るのは、わしらのような者どもの許ではないことを、とっくり教えてやれ」
アントナンはやせて筋だらけな腕であたしをつかまえると、おそろしい悪態と身ぶりとをこもごも見せながら、二分ばかりであたしの衣服をすっかり剥ぎとり、一座の目の前にあたしをまる裸にしてしまいました。
「これは造化の傑作じゃ」とジェロームが感嘆の声をあげました、「たとえ天地がひっくりかえったって、わしは三十年来こんな美人は見たことがないと断言できる」
「しばらく待たれよ」と院長が言いました、「規則どおりの手続きを踏もうではないか。わしらの歓迎会の公式をご存じじゃろうが、お友達。彼女も一つ残らず全部の手続きを受けねばならぬ。そしてその間、他の三人の女たちは、いつでも必要に応じてわしらの欲望を掻き立てることができるよう、わしらのまわりに控えておらねばならぬ」
人々は車座になると、すぐさまあたしをそのまん中に据えました。こうして二時間以上、あたしはこの四人の破戒僧のために、賛辞やら批評やらこもごも受けながら、ためつすがめつ、いじくりまわされたことでした。
この最初の儀式で、とわが美しき女主人公はこのときまっかになって言い出すのだった、どんな淫《みだ》らな場面がこまごまと展開されたかは、どうか奥さま、省略させていただきとうぞんじます。まあ、道楽者がこのような場合に考えつきそうな狂態を、いろいろご想像くださいませ。彼らはあたしの仲間とあたしとを、つぎつぎと、比較対照しては、あれこれ論じ合ったとお思いください。でも、奥さまがどんなに想像をたくましゅうなさっても、せいぜいお考えになれることは、この最初の大饗宴《だいきようえん》で行なわれたおびただしい狂態の、ほんの一部にすぎないのではないかしら? さらにまた、やがてあたしが受けねばならなかった怖ろしいかずかずの仕打ちにくらべてみれば、それはもう、九牛の一毛でもございましょうか。
「さて」とラファエルが欲望にじりじりしながら、もう矢も楯もたまらぬふぜいで、「それでは人身御供をささげましょうかな。用意はよろしいか、おのおの方。みなさんお好きなやり方で、たんと可愛がってやるがよいぞ」
そう言ってこの悪辣な坊さんは、あたしをソファーに押しつけて、そのいまわしい快楽のために都合のよい姿勢をとらせると、アントナンとクレマンにあたしを抑えつけさせました……かくしてこのイタリア人の破戒僧ラファエルは、あたしの純潔を奪うことなく破廉恥に思いをとげました。ああ、なんという外道《げどう》ぶりでしょう! まるでこの好色漢たちは、その卑しい趣味の選択において、自然の道を忘れることをもって誇りとしているかのような按配でした……
院長の醜行を見ながら、自分もいろいろなことをやっていたクレマンは、やがていきりたって、あたしにせまって来ました。彼はあたしに、自分はけっして院長よりも乱暴者ではなく、また自分が敬意を表そうとしている場所は、やはりあたしの美徳をそこなうような場所ではないことを宣言しました。そうしてあたしをひざまずかせ、この姿勢のままあたしにぴったり身を寄せて、ある場所にけしからぬ欲情を行使したわけなので、あたしはクレマンの犠牲がそこに捧げられている間じゅう、声も立てられず、その無法ぶりをうらむことさえできないのでした。
次はジェロームの番です。彼の供物を捧げる場所もラファエルのそれと同じでしたが、彼は奥の院までは達せず、前庭に詣でるだけで満足すると、描写もかなわぬほどあくどい、子供だましのような道草を食って堪能しました。それからジェロームは、むかしあたしがデュブールの家で危うくその被害者になろうとし、ブルサックの手にかかって完全にそうなった、あの野蛮な方法によってはじめてその欲望の補いをつけたものでした。
「さあ、最後の総仕上げじゃ」こう言って最後にアントナンがあたしをつかまえました、「さあおいで、娘っ子。われらが同輩の不調法なあしらいの、わしが埋め合わせをして進ぜよう。みなさん粋狂じゃによって、あの結構な初物を、わしが摘むまで残しておいてくださったよ……」
ともあれ、これはまあ何というしつこさでしたろう……手をかえ品をかえとはこのことで……とうていそのすべてを奥さまにお伝えすることはできかねます。四人のなかではいちばんまともな趣味の持ち主でしたが、この悪漢、色好みの点では最たるものでしたから、ともすると彼が自然の道からはずれず、まともな自然崇拝を受け容れているのも、表面さほどとも見えないその退廃ぶりが、あたしの身に加えられあらゆる乱暴によって、埋め合わせされているのかもしれませんでした……ああ、あたしもかつてこのような人間の快楽というものについて、思いを至してみたことがないわけではありませんでしたが、それにしても、あたしの考えていたそれは、人間を慰めるために自然があたえたもの、愛と洗練とから生まれたもの、そして要するに、かかる感情を鼓吹する神そのものとひとしく、純潔無垢なものでした。人間があたかも野獣のごとく、その配偶《つれあい》を恐怖せしめて楽しむなど、あたしにはとても信じられないことでした。信じられないとはいえ、しかしあたしは現にそれを経験したのです。アントナンの乱暴ときたら、あたしの処女の自然に裂ける痛みが、この危険な攻撃のなかで、耐えねばならない一番小さな痛みであったほどに、猛烈きわまるものでした。しかもその発作の頂点に、彼は狂ったような声で絶叫しながら、あたしの身体のあらゆる部分に滅多打ちを加えたばかりか、あげくには血なまぐさい虎の愛撫さながら咬みついてもきましたので、一瞬あたしは、あたしを食いつくしてしまわなければやまない何か野獣の餌食にでも自分がなったかのような錯覚にとらわれたことでした。で、この凶行が一段落つくと、あたしはほとんど正体もなくぐったりして、犠牲の執行された祭壇の上に打ち倒れました。
ラファエルが女たちに命じてあたしを介抱させ、食物を与えてくれましたが、言い知れぬ悲しみがこのとき発作のようにあたしの心に襲いかかりました。すなわち、あたしがそのために幾度となくわが身を犠牲にして守り抜いた、あの純潔という唯一の宝がとうとう失われてしまった、そしてあたしは、自分がもっとも多く心の慰藉と救済とを期待した人々によって、逆にわが身を穢《けが》されるという結果になってしまった、かかる思いが、あたしを堪えがたくしたのでした。あたしの涙はおびただしく流れ、あたしの泣き声は広間にひびきわたり、床をころげまわって髪の毛をかきむしり、どうか自分を殺してくれと加害者たちに頼みました。もとより悪人たちはこのような愁嘆場に心を動かすような人々ではなく、あたしの悲嘆をなだめ慰めるよりはあたしの同僚たちとともに新たな快楽にふけることの方にいそがしかったわけですが、それでもあたしの泣き声がよほどうるさくなったのでしょうか、彼らはやがて、あたしを泣き声の聞こえない場所に連れて行って休ませることに一決しました……ところが、オンファルがあたしを連れて行こうとすると、あきれたことにラファエルはまたしてもあたしを見て淫心をそそられたらしく、実はもうそのときあたしは惨憺たる有様になっていたのですけれど、ともかくもう一度自分の生贄《いけにえ》にあたしをしなければ気がすまないと言うのです……そしてさっそく実行に移ったのですが、その情火はさらに激しい燃焼の必要があったとみえて、首尾よく事を完了するためにはジェロームと同じ残忍な方法を用いなければなりませんでした……いやはや、なんという乱行でしょう! かほどのむごたらしい肉体的苦痛をひとに与え得るためには、もしかしたらこの道楽者たちは、あたしが感じていたと同じくらい激甚な精神的苦痛の危機を一瞬みずから選ぶほどに、野蛮な人たちではなかったのかしら?
「おお、そうじゃ」とアントナンがやはりあたしに手を出して、「われらが院長の手本に従うほど仕合わせなことはない。悪事を二度繰り返すほど痛快なことはない。苦痛は快楽を用意してくれるということじゃ。この可愛い娘っ子は、疑いもなくわしを天下の果報者にしてくれるじゃろう」
泣こうが叫ぼうが、無駄でした。あたしはふたたびこのあさましい人々の無礼な欲望のなぶり物になりました……それからようやく、彼らはあたしを解放してくれました。
「もしこの姫御前《ひめごぜ》がご入来《じゆらい》あそばしたとき、わしが最初に口をきいた相手でなかったら」とクレマンが言いました、「わしの情欲にたった一度用を便じさせたくらいでは、なかなか放すどころではないんだが。しかし、次の機会を待ったとて損をするというわけではなし」
「わしも同意見じゃ。次の機会を待とうよ」とジェロームは、あたしがそばを通ると、自分の力のほどを見せびらかすようにこう言い、「だが今宵はみなさんもう寝ようではござらぬか」と本音を吹きました。
ラファエルもこれには同意見であったので、さしもの大饗宴もここで終わりを告げ、ラファエルは寝所にフロレットをはべらせ、みなもそれぞれ引き揚げて、お開きになりました。あたしはオンファルの監督のもとに置かれました。この年かさなハレムの女官は同僚の世話役らしく、あたしを女たちの共同の部屋へ案内してくれましたが、その部屋は一種の四角な塔になっていて、その四隅にあたしたち四人の寝台が一つずつ置いてあるのでした。娘たちが部屋に引きあげるときも坊さんの一人は必ず後からついて来て、寝るときは二重三重の閂《かんぬき》で部屋をしめきるのでした。今夜の当番はクレマンでしたが、ひとたび門ががちゃんとしめられると、逃げ出すことは絶対に不可能なので、それというのがこの部屋には便所兼洗面所の小部屋へ通じる扉以外に出口とてなく、その小部屋の窓も寝室と同じく、細目の鉄格子がぴったりはまっていたからなのです。またこの部屋には家具らしい家具もなく、安っぽいインド更紗のカーテンをめぐらした寝台のそばに、一脚の椅子とテーブルとがあるきりで、小部屋にはいくつかの木の箱と、穴をくりぬいた椅子と、洗浄器と、化粧用の共同テーブルが一脚あるきりでした。でもそれをあたしが確かめたのは翌日のことで、最初の晩はなんにも目にはいらないくらいしょげかえり、苦痛の念に堪えていることで精いっぱいでした。
――ああ情けない、とあたしは思いました、まるであたしの美徳は必ず苦しみをともなわなければ発露することができないかのようだわ! それではいったい、神さま、あたしがこの修道院にお祈りをしに来ようと思ったことは、いけないことだったのでしょうか? 天を侮辱することでもあったのでしょうか? それともあたしが期待しなければならなかった、これが当然の報いだったのですか? おお、わけのわからない神さま、どうか一瞬なりともあたしの目を開かしめてくださいませ。いったいあなたはあたしが天の法則に楯つくことを、お喜びになるのかならないのか?……
こんなことを考えていると、にがい涙はあとからあとから滝のように流れるのでしたが、もう夜のしらじら明けも近いころ、オンファルがあたしの寝台のそばに寄って来て、「ね、あんた、元気をお出しなさいな」と言うのです。
「はじめのころは、あたしもあんたみたいに泣いたもんだわ。でも今じゃ、馴れっこになっちゃった。あんたも今にそうなるわ。それに、最初はとくにこわいのよ、なにしろあたしたちを責めさいなむあの極道者の果て知れぬ欲望を一生満たしつづけなければならず、そればかりか、このけがらわしい棲家《すみか》で自由は奪われ、ずいぶん手荒なあつかいを受けつづけなければならないかと思うと……でもね、後に来た者が苦しんでるのを見ると、自分の不幸を少し忘れるわ」
あたしは悲しい思いの下から、それでもなお、今後自分をどのような不幸が待っているのであるか、この同僚にたずねてみずにはおられませんでした。するとオンファルは、あたしの寝台のそばにすわって、
「それじゃ、あなたを信用して話してあげるけれど、けっして人にしゃべったりしないでちょうだいよ、いいこと……あたしたちの不幸の最たるものは、明日はどうなるかわからないという運命の定めなさよ。かりにここを出されても、さてそれからどうなるか、それは誰にもわからないの。あたしたちがひそかにつかんだ証拠によれば、ここの坊さんたちによって秘跡を授けられた処女たちは、もうけっして娑婆《しやば》へは出られないらしいの。坊さんたち自身がそれとなく、この隠れ家こそあたしたちのついの墓場だということをほのめかすんですものね。でも毎年二、三人ずつ、娘たちがここを出て行かない年はないわ。いったい出て行った娘たちはどうなるのか? お払い箱になるのか? 坊さんたちにきくと、時にはそうだと言うこともあるし、ちがうと言うこともあるの。けれどもたしかなことは、あたしたちのためにこの修道院を告訴して、あたしたちの解放につくそうと約束してここを出て行った娘たちが誰ひとりとして、この約束を守ってくれなかったということ。坊さんがこの告訴をもみ消してしまうのか、それとも娘たちにそうすることをできなくさせてしまうのか? 新来の娘たちにきいてみても、出て行った娘たちの消息はいっこうにわからないの。
いったい彼女たちはどうなってしまうのでしょう? あたしたちが心配でならないのは、そこなのよ、ソフィー、あたしたちの堪えがたい日々をさらに悩ましくしているのは、明日をも知れぬこの運命の定めなさなのよ。あたしがここに来たのはもう十四年も前だけれど、五十人以上の娘たちがここを出て行くのを見たわ……どこへ行ってしまったのでしょう? なぜあたしたちのために尽力してくれることを誓いながら、みんながみんな約束を反故《ほご》にしたのでしょう?……あたしたちの人数は四人ときまっているの、でもそれはこの部屋だけの話よ。というのが、あたしたちの確信しているところでは、この僧院には一対の相対する塔があって、もうひとつの塔にもやはり同人数の女がいるらしいの。坊さんたちの言行から判断するに、どうもそう思われる節が多々あるわ。でも、かりにそんな女たちがいるにせよ、見たことは一度もない。そしてそう思われるなによりの証拠は、あたしたちが二日つづけてはけっしてお勤めをさせられないということね。昨日あたしたちは使われたんだから、今日はお休みのはずだわよ。ところがあの道楽者たちときたら、一日として禁欲の日がないんだから恐れいるわ。おまけに、あたしたちのお払い箱にはてんで正当な理由がないの。年齢も、容貌の変化も、疲れも、やつれも、要するに彼らの気まぐれ以外のなにものも、あたしたちがお暇を出される決定的な理由にはならないの。もっとも暇といったって、あたしたちにはそれをどんなふうに利用することができるのか、皆目わからないんだけれどね。
ここには去年の夏まで七十歳の老嬢がいたわ。なんと六十年間ここに囲われていたわけ。その女がいるあいだ、あたしが知っているだけでも、十六歳にも満たない娘が十二、三人も出たり入ったりしたわ。さらわれて来た日の三日後に出て行ったのもあれば、一月後のもあり、そうかと思うと何年もたってから出て行く娘もあった。このことについては坊さんたちの意思、というより気まぐれ以外になんの定まりもないの。あたしたちが下手にどんなまねをして見てもそれはだめ。彼らの欲望に進んで応じようとした娘が六週間後にお払い箱になった例もあれば、陰気くさい変わった娘が何年というあいだ囲われていた例もある。だからあなたのような新参者に、ここでの身の持し方というようなものを教えても、しょせんは無駄なことなのよ、彼らの気随気ままにはなんのよりどころもなく、ちっとも当てにはならないんですものね。
一方、坊さんたちの顔ぶれは、ほとんど変わりがない、ラファエルがここへ来たのは十五年前だし、クレマンがここへ住むようになったのは十六年前、ジェロームは三十年前、アントナンは十年前からそれぞれこの僧房におさまってるの。あたしが着任を見たのはこのアントナンだけで、彼はひどい荒淫のすえ六十歳で死んでしまったさる老修道士の後任として来たわけ……例のフロレンス生まれのラファエルは、ローマ法皇の近親だというのでたいへん勢力があるの。奇跡の聖処女がこの修道院の声価を高めるようになったのも、口うるさい連中に僧房内部の実情をのぞき見することを禁じてしまったのも、みんなこのラファエルが来てからなのよ。もっともこの修道院の創立はそれより以前、およそ八十年の昔といわれているけれど、代々の院長がそろいもそろって、自分たちの道楽のために都合のよい一定の秩序を守りとおして来たわけで、当代随一の破戒坊主のひとりともいうべきラファエルがここへ赴任する気になったのも、もちろんかかる事情を知っていたればこそなのだし、彼の心算ではできるだけ長い間この隠密の特権を維持しようというのでしょう。当地はオセールの司教管区に属していますが、司教さまは事情を知っているのかいないのか、ついぞここへ姿をあらわすのをあたしたちは見たことがない。そもそも八月末の祭礼の時をのぞいては、ほとんど参詣人もなく、まあせいぜい一年に十人来るか来ないか……でも、ときに行きずりの他国者が二、三人ひょっこりあらわれたりすると、院長はそれはていねいに彼らをもてなし、いかにも苦行と信心の一筋に打ちこんだ修道士のごとく見せかける配慮を忘れない。で、彼らは喜んで帰ると、あっちこっちでこの修道院のありがたさを吹聴する。で、この悪人どもの醜行は正義の網をのがれ、人々の良き信頼と信仰との上にぬくぬくとその身を全うする……
けれどそんなことより、ここでのあたしたちの身の持し方くらいむずかしいものはないわ。ちょっとでも規定を犯したら、もう大へん、けんのんこの上なしよ。この点については、少しくわしく話してあげた方がいいようね」とあたしの先輩は語りつづけました、「なにしろここでは『知らなかったものですからどうぞご勘弁を』なんて言いぐさは弁解にもなんにもならないんですからね。知らなきゃ同僚に教わるか、それとも自分ひとりで覚えるかしなければならないの。ここではあらかじめ何ひとつ教えておかないで、しかもことごとに罰するの。そして折檻の方法はいつでもきまって鞭。この気に入りの懲罰が彼らの快楽になくてならない添えものであることは、火を見るよりも瞭《あき》らかだわ。あんたは昨日、なんの落度もないのに折檻されたわね、今日はきっとなにかへま[#「へま」に傍点]をやって折檻されるわよ。四人が四人ともあの野蛮な奇癖の持ち主なので、みんなで順ぐりに懲罰執行人を交替するの。それに毎日当番というのがあって、それは女部屋の姐《ねえ》さんの報告を聞いたり、あたしたちの夕食のときにどんなことが起こったかを警官みたいにいちいち調べて過失を糾問したり、みずから懲戒の手を下したりする役目なの。さて、今度は細目にわたって話しましょう……
あたしたちは毎日必ず九時に起きて着物を着なければならないの。十時には朝食としてパンと水がはこばれる。二時にはかなりおいしいポタージュと、一切れの茹肉《ゆでにく》と、一皿の野菜と、時には少量の果物《くだもの》と、四人で一本の葡萄酒という献立の昼食が出るわ。夏でも冬でも毎日きまって晩の五時には当番があたしたちの部屋へ来る、そしてその時、当番は姐さんの報告を聞くの。ところで姐さんのしなければならない報告は、同室の娘たちのひとつひとつの行動からはじまって、不平不満や反抗的言辞が一言でももらされたか否か、起床は規定の時間どおり守られているか、結髪はきちんと清潔に行なわれているか、食事は十分とっているか、逃亡の計画などがたくらまれはしなかったか、等々にまで及ぶのよ、報告は正確でなければならず、もしそうしなかったならばあたし自身が罰されるはめになるの。
それから当番はあたしたちの部屋に入って来て、いろんなことを検査してまわるの。それがすむと、あたしたちの一人か、時によっては四人ぜんぶと、戯れないで出て行くことはめったにないわ。当番が出て行ってしまうと、晩餐会《ばんさんかい》の日でなければ、もうそれからは自由時間で、あたしたちは本を読んでもおしゃべりをしても、あたしたち同士で遊んでも、また寝たければ寝てもかまわない。けれど、もしその晩が坊さんといっしょに食事しなければならない晩餐会の日なら、鐘の音とともにあたしたちは仕度をして、当番の坊さんが連れに来たら、すぐあの大広間――あんたも見たでしょう――に降りて行かなければならないの。そこでまず行なわれるのが、前回の晩餐会のとき以来の罪状を記入した閻魔帖《えんまちよう》を読みあげる儀式。罪状というのは、たとえば晩餐会の席上、あたしたちが坊さんにかしずくやり方がおろそかであったとか、冷淡であったとか、心づくしが足りなかったとか、従順でなかったとか、あるいは体が清潔でなかったとか、そんなことと、それから、姐さんの報告にもとづいた二日間の自室における行状簿とから成り立っているの。違反者はひとりずつ広間の中央に進み出る、すると当番が罪状をのべ刑を科する。それから、彼女たちの姐さんか、姐さんが違反者であるときは次位者の手によって服を脱がされる。そうすると当番の坊さんが罰を加えるわけだけれど、その罰たるや、一度受けたら死ぬまで忘れかねるほどな、じつにものすごいやり方で、それがまた一日として休む日もなく執行されているんだから、なかなか坊さんたちも楽じゃないわ。
さてそれが終わると、やがて大乱痴気騒ぎがはじまる、こうなるともうあんたにいちいち説明してあげることもむずかしいわ。そもそもこんな奇怪な情熱がどこの世界にあるものかしら?……ともあれ、あたしたちにとっていちばん大事な心得は、何事によらずけっして拒まぬこと……相手に好意を持たせることね。むろんそれでも、この方法がどんなに良いといっても、いつも絶対安全というわけにはいきませんよ。乱痴気騒ぎの最中に出されるご馳走は、あたしたちも食べていいのだけれど、いつもの食事とくらべたらおいしいこと贅沢なこと天地雲泥の相違。こうして大饗宴は坊さんたちがほろ酔い機嫌になったころふたたびはじまり、深夜にいたってお開きになる、そうすると坊さんたちのめいめいは夜伽《よとぎ》のためにあたしたちの一人を指名する。えらばれた娘は主人の部屋へ寝に行き、翌日になってあたしたちの部屋へ帰って来る。帰って来たとき、部屋はきれいに片づき、寝台も衣裳もすぐ使えるようになっているの。時によると起き抜けの朝っぱらから、まだ朝食もとらぬのに、修道士のひとりがあたしたちの誰かを自分の部屋に来させようとするようなことがある。そんなとき、あたしたちを呼びに来て、修道士の部屋まで連れて行く役目をするのは、年とった一人の納所《なつしよ》坊主で、用がすむと坊さんは自分であたしたちを送りかえすか、さもなければ同じこの納所坊主に案内させるかするというわけ。
あたしたちの部屋を片づけたり、あたしたちを案内したりするその納所坊主は、あんたもそのうちお目にかかるでしょうけれど、七十歳の老爺で、片目で跛足《びつこ》で唖《おし》という怪物よ。彼を助けて家の中の用事を引き受けている人が、そのほかにもまだ三人いて、一人は専門の厨番《くりやばん》、一人は神父さんたちの部屋を片づけたり、庭を掃除したり、台所の手伝いをしたりする雑役夫、いま一人はあんたがはじめてここへ来た時に見たはずの門番よ。でもあたしたちに見られるのはこの四人のうちの一人、つまりあたしたちの世話をする納所坊主だけで、この男にはどんなつまらない蔭口でもきいたが最後、それが重い科《とが》となるんだから気をつけたがいいわ。院長はときたまあたしたちを見に来るの。いずれあんたも実地に覚えるでしょうけれど、そのときはたいていちょっとした儀式のようなものがあって、間違えたりすると大へん、なにしろ罰するのが楽しいらしい彼らは、なんとかしてあたしたちの間違いを発見しようと鵜《う》の目|鷹《たか》の目なんだから。ラファエルがあたしたちの部屋に来るときに、何か下心がないということはめったにないわ、そしてこの下心がいつもきまって、あんたも昨夜でとっくり承知したように、それは残酷で気まぐれなの。それからまたあたしたちはいつも家の中に閉じこめられているので、一年じゅうのびのびと空気を吸う機会もないの、ここには広いお庭もあるというのに……でもお庭には柵がないんだわ。つまりそれも、ここで行なわれているいろいろな悪事の世俗的あるいは宗教的な裁判の結果が坊さんたちによく知れていればこそ、あたしたちの逃亡が非常に気になるので、なんでもこうきちんきちんと厳格にやっているんでしょう。あたしたちにはお祈りをあげることすら許されていないのよ、神さまの話をすることはおろか、考えることさえ禁じられているの。神さまの話こそいちばん重い、いちばんたしかな罰に値する罪なの。
あたしが教えてあげられるのは、このくらいのところよ」と、あたしたちの姐さんはつづけました、「あとは実際にぶつかってみて、おいおいとわかってゆくでしょう。さ、元気をお出しなさいな。娑婆のことはもうこれっきり、あきらめておしまいなさい。ここを出た娘が二度と娑婆の光を拝めたためしはないんだから」
この最後の言葉にぞっとするような不安を覚えましたので、あたしはオンファルにむかって、それではいったいお払い箱になった娘たちはどうなってしまうのでしょう、どうかあなたのご意見をかくさずに聞かせてくださいと頼みました。すると、
「お答えしたいのはやまやまだけど」と彼女が言います、「その意見がいつもふらふら、一喜一憂している有様なのでね。そりゃまともに考えれば、お払い箱になったあたしたちの行きつくところは墓場しかないでしょうよ。けれど、藁さえつかみたい気持ちが、いつもこのあまりに不吉な確信をくつがえそうとするのだわ。
あたしたちが解雇を言い渡されるのは、きまって朝なのよ」とオンファルはつづけました、「朝食の前に当番の坊さんがやって来て、たとえばこんなふうに言うの、『オンファル、荷物をまとめなさい、当修道院はお前を解雇する。夕方になったら連れに来るぞよ』そう言うと行ってしまうの。解雇された娘はそこで同僚たちに別れの接吻をし、何度も何度も約束するの。きっとみんなのお役に立つわ、その筋に訴えて、ここで起こっているいっさいの悪事をぶちまけてやるわって。やがて時間が来ると坊さんがやって来て、娘は出て行くの。そしてそれっきり、彼女の消息はまるでわからなくなってしまう。その日が晩餐会だとしても、別にふだんと変わりはなく、ただそんなときあたしたちに気のつくことは、坊さんたちが一様に情欲に飽満していて、やたらに酒ばかり飲み、あたしたちには用がないと言わんばかりで、これはありがたいんだけれど、枕席のお相手も欲しがらないのはなんだか気味がわるいくらい」
「でも」とあたしは姐さんにいろいろ教えてもらったことを感謝しながら、こう言いました、「たぶんあなたが今までに交渉を持った娘さんたちは、意志が弱くて約束を果たすことができなかったのですわ……ね、あたしとあなたと約束しません? まずあたしが世界じゅうの聖なるものにかけて、この汚辱をほろぼすか、しからずんばここで死ぬか、二つに一つをえらぶことをあなたにお誓いしますわ。あなたの方も同じ約束をしてくださるかしら?」
「もちろんよ」とオンファルは言下に答えました、「でもそんな約束をしても無駄にきまってるの。あんたよりもっと年かさで、もしかしたらもっと正義感に燃えていたかもしれない娘たちが――この地方のりっぱな家柄の出で、むろんあんたより金も力もあり、そしてあたしのために必ず一身をなげうってくれるはずだった娘たちが――やはり同じ誓いをやぶったのですからね。だから、あんたには悪いけど、あたしの冷静な経験から按ずるに、約束をしたって無駄なことなのよ。当てにする気にはならないのよ」
あたしたちはそれから修道士たちのひとりひとりの性格と、あたしたちの同僚のそれとを噂にのぼせました。
「ヨーロッパ広しといえども」とオンファルが言いました、「ラファエルやアントナンほど危険な人物はないでしょう。背信、陰険、邪欲、執念ぶかさ、残忍、そして不信心が彼らの生まれつきの性質で、これらの悪徳に耽溺しているときにしか、彼らの眼には喜びのいろが絶えて見られない。いちばん乱暴に見えるクレマンが、まあ中ではもっとも善良な男で、彼が手に負えないのは酔っぱらっているときだけ。だからそういうときは、なるべく係り合いにならないように気をつけることね、さもないととんだご難よ。ジェロームといえば、彼ももちろん乱暴者で、つかまれば平手打ち、足蹴、げんこ打ちは当然まぬかれないのだけれど、ひとたび情欲の火が鎮まれば、まるで羊のようにおとなしくなってしまうところは、先の二人が裏切りと残酷によってしか活気づかない点とはどうやら根本的にちがうのね。
娘たちについては」と姐さんは話をつづけて、「大して言うことはないわ。フロレットは意気地のない子で、やることもひとの言いなりしだい。コルネリーは情にあつく感じやすい子だけに、誰がなんと慰めても自分の運命を悲しむことをやめないわ」
こうしていろいろ教えてもらうと、あたしは最後にこうたずねてみました。先ほどの話では、あたしたちと同様に不幸な女たちが収容されている塔がもう一つあるらしいと聞いたが、はたしてそれが本当かどうかたしかめることは絶対に不可能なのだろうか、と。
「あたしはほとんど確信しているけれど」とオンファルは言いました、「もしそういう女たちがいるとしても、それを知るには、修道士たちの不用意にもらす言葉の端をつかまえるか、あるいは、たぶんあたしたちと同じくその女たちの世話もしているにちがいない例の唖の納所坊主のそぶりから嗅ぎつけるか、それ以外にはないでしょうね。でも、それには相当な危険がともなうわ。それにまた、どっちみちあたしたちが救われることがないのなら、あたしたちのほかにお仲間がいるかいないか確かめてみたところで、それがなんの役に立つというの? だから、もしあんたが、どういう証拠からそんなもっともらしいことを言うのかとたってきくなら、あたしはただ坊さんたちの不用意にもらす多くの言葉が、証拠以上にあたしたちを納得させてくれるというしかないわ。一度こんなことがあった。ラファエルと寝た日の翌朝、部屋を出たあたしが、ラファエル自身にともなわれて自分の部屋に帰ろうとしているとき、彼は気がつかなかったのだけれど、例の唖の納所坊主がたしかにあたしたちの同室の仲間ではない十七、八の大そうきれいな娘をつれて、アントナンの部屋へ入ってゆくのをあたしはこの目で見たの。納所坊主は気がつくとすぐに娘をアントナンの部屋に押し込んでしまったのだけれど、あたしの目の方が早かった。でも、べつだん小言ひとつ言われず、すべてはそのままに過ぎてしまったわ、もしこのことが知れたら、おそらくただじゃすまなかったでしょうけれど。だから、あたしたちのほかにも女たちがいるというのは、たしかなことなのよ。あたしたちが坊さんと食事をするのが一日置きなら、そのあいだの日はきっと、あたしたちと同じだけの人数いるに相違ない、その女たちが晩餐にはべる日なのよ」
ここまで言うと、フロレットが昨夜を過ごしたラファエルの部屋からもどって来ましたので、オンファルはようやく話をやめました。坊さんと過ごした夜の話をおたがいに語り合うことは厳禁されておりましたから、あたしたちが眼をさましているのに気がついても、フロレットはただお早うと言うだけで、すぐに疲れきったからだを寝台に横たえて、いつもの起床の時間である九時までぐっすり寝こみました。おセンチなコルネリーはあたしのそばに寄って来て、じっとあたしを見つめながら、
「ほんとにねえ、あなた、あたしたちはなんて不幸な身の上なんでしょう!」と言うのでした。
朝食が運ばれて来ると、仲間の女たちは無理にでもあたしに少量を食べさせようとするので、あたしは彼女たちの気がすむように少し食べました。平穏無事に一日が過ぎ、やがて五時になると、オンファルの言ったとおり、当番がはいって来ました。その日はアントナンで、彼はにやにや笑いながら、ゆうべはなかなかおもしろかったろうとあたしにききますので、あたしがだまって涙のいっぱいたまった眼を伏せますと、
「じきに慣れる、じきに慣れるよ」とからかうように言って、「娘たちの教育には当修道院がフランスじゅうでいちばんじゃからのう」
それから点検がはじまり、アントナンはオンファル姐さんが両手でさし出す罪科帖を受けとりました。彼女はひとのよい娘ですから、閻魔帖に書きこむこともようできないで、いつも異状なしと報告するのです。アントナンは出て行く前に、あたしのそばに寄って来ました……あたしはがたがた震え、またしてもこの怪物の餌食になるのかと思うとぞっとしました。しかし考えてみればここにいる以上、不断にあたしはその危険にさらされていなければならず、今日助かったとしても明日はまぬかれがたいでしょう……でもまあ、とにかくその場は荒っぽい愛撫だけですみ、アントナンはあたしを捨ててコルネリーに飛びかかって行きましたが、その間、彼はそこに居合わせたあたしたち三人に、そばへ来て手伝うように命じるのでした。こうして利用できるものすべてを利用し、やがて快楽に満腹すると、昨夜あたしを相手にして行ったような、つまり、ありとあらゆる野蛮と退廃の周到きわまる委曲をつくして、アントナンはこの不幸な女との情事を了えたのでした。
こうした集団的愛撫はしばしば行なわれ、たとえば坊さんのひとりが娘たちのひとりと戯れているとき、残った三人はたいていいつもそのまわりに群がって、あらゆる部分の感覚を喚び起こしてやったり、快楽があらゆる器官からその体内に侵入するようにしてやったりするのが、いわば習慣となっておりました。さて、あたしはもう二度と繰り返さぬつもりで、こんな汚らわしいことをくだくだとしゃべりましたが、あたしのつもりでは、それはここで展開された醜行のいかに破廉恥なものであるかを一つ一つ強調するためではありませぬ。一斑を見ることはとりもなおさず全貌を知ることですから、あたしはこの修道院に滞在していた永い期間を通じて、これからはただ主要な事件だけをあなたさまに語って聞かせ、くだくだしい委曲はいっさいこれを省こうかと存じます。その日は晩餐会の日ではなかったので、あたしたちはのんびりしていられました。同僚たちは一生けんめいであたしを慰めてくれましたが、どんなやさしい言葉もあたしの悲嘆をやわらげてはくれず、しょせん彼女たちの努力は徒事でした。自分の不幸を語り聞かされればそれだけあたしの気持ちはつらくなるようでした。
翌朝九時になると院長が、その日当番ででもあったのでしょうか、あたしの顔を見に来て、オンファルにむかって、どうじゃな、この娘《こ》はもうあきらめがついた様子かな、とたずねました。そうしてろくすっぽ返事も聞かないで、部屋の中にごたごたと置いてある箱のひとつをあけて、中から女の着物を何枚も引っぱり出すと、
「お前さんは無一物じゃによって、わしらは着物をやらにゃなるまいと思案したよ。もっともお前さんのためというより、それはわしらのための方が大きいのじゃから、礼を言うにゃ及ばない。わし個人としては、こんな、やくたいもない着物を着せることには、ぜんぜん反対意見なのじゃ。娘たちは獣のように素裸のままで奉公させといた方が、よっぽど便利じゃろうと思うのだが、なにせここの神父さんたちは、贅沢ではでごのみなお人じゃて、ま、気のすむようにさせておるのじゃ」
こう言って、寝台の上に何枚もの部屋着や、五、六枚のシュミーズや、いくつかのボンネットや、ストッキングや、それから靴やをどさりと投げ出して、あたしに着てみろと言うのでした。あたしが召替えているあいだ、彼はそばで見ていて、ありとあらゆる無作法な接触をこころみました。三着のタフタの部屋着と、インド更紗の一着があたしにぴったり合うと、ラファエルは、ではこれはお前に渡しておこう。当分これで間に合うだろう、ただし、これはあくまで修道院のものなのだからして、お前がここを出て行くとき、まだ使えるようだったら、ちゃんと返して行かなければいけないと言いました。そうこうするうち、あたしが着たり脱いだりしているのを見て、ラファエルは思いをさそわれたらしく、あたしにこの間したような仕ぐさをもう一度せよと命ずるのでした。あたしは、どうかそれだけはと頼みたい気持ちでしたが、彼の目の中にたちまち怒りと熱狂のいろを見るにおよぶと、結局最後には服従しなければならないのだと思い、あきらめて言われたとおりの姿勢をとりました。道楽者は三人の娘をまわりにかしずかせて、常のごとく、道徳と宗教と自然とを無視したやり方で思いを遂げました。あたしはラファエルを大へん満足させたらしく、晩餐会の時にはひどくちやほやされ、その晩いっしょに過ごす相手として、あたしに白羽の矢が立ちました。同僚たちが引きさがると、あたしはラファエルの私室におもむきました。
奥さま、あたしはもういまさら、つらかったことや苦しかったことをあなたさまにお話しようとは思いませぬ。奥さまご自身いやというほど、お心のうちに描きなされたことでもございましょうから。それに、そうした退屈な描写は、おそらく後につづく場面をも色あせさせてしまうものでございます……ラファエルの部屋は数寄《すき》をこらした、なまめかしい感じのする瀟洒《しようしや》な部屋でありました。この独居を住み心地よい、かつまた享楽に適した部屋にするのに何ひとつ欠けたものはありませんでした。あたしたちが部屋に閉じこもると、ラファエルはまずみずから裸になり、あたしにもその真似をすることを命じ、永いあいだかかって欲望を掻き立てさせ、次いでみずから同じ方法によって燃えあがりました。こうしてあたしは一晩のうちに、色事の手ほどきをもっとも上手に受けたある種の社会の女たちと完全に同じくらい、放蕩の極意を伝授されたといっても過言ではないでしょう。ひとつ技をマスターすると、すぐまた他の技を習わせられました。でもあたしは、教えられたとおりを実行に移すどころではありませんでした。相手はちっとも手かげんなど要求しはしなかったのに、あたしはたわいなく涙をぽろぽろこぼして嘆願せざるを得ませんでした。が相手はあたしの訴えなど鼻の先でせせら笑って、あたしの動作に残忍な注意の目を光らせているうち、ついにあたしが完全に意のままになったと見るや、二時間たっぷりかかって、前例のない酷遇をあたしの身に加えました。こうした行為のために予定された部分ばかりでは満足せず、ところきらわず、あらゆる場所に彼の攻撃は及びました。およそ意想外な場所、もっとも敏感な球体、どこといってこの凌辱者の憤怒をまぬかれるところもない有様で。そして、その眼が貪婪《どんらん》にむさぼる被害者の苦痛の徴候とともに、逸楽の戦慄《せんりつ》が波のように走るのでした。最後にラファエルは、
「さあ寝よう」と言いました、「もうお前さんにはじゅうぶんじゃろう。わしはまだまだ平気だが。こういう聖なるお勤めにかけては、わしはいっさい疲れるということを知らない。すべてこうしたことは現実のもろもろの欲望の影でしかないのじゃ」
あたしたちは寝間に入りましたが、道楽者のラファエルはまたじつに荒《すさ》んだ趣味の持ち主で、一晩じゅうあたしをそのよこしまな快楽の奴隷としたものです。こうした乱行の合間に、しかしあたしは一瞬の沈静を見てとると、機を逸せず質問の矢を放ちました。いつかこの修道院から外へ出ることが、あたしにできるものかどうか……
「それはむろんできる」とラファエルは答えて、「そうでなかったら、何のためにお前はこんなところへ来たんだ? わしら四人が合議の上、お前に暇を出すことにきまったら、その時からもうお前は確実に自由の身じゃ」
「でもそんなことをしたら」とあたしは彼の口からなんとかして秘密をさぐり出そうという魂胆で、「あたしよりも若く不謹慎な娘が、いつ何時《なんどき》ここで起こっている出来事をばらしてしまうか知れないではありませんか?」と鎌《かま》をかけてみました。すると院長は、
「ばかなことを申せ」と言います。
「ばかなことですって?」
「おお、そうじゃとも」
「いったいそれはどういう……」
「ふん、それはわしらの秘密じゃから説明はできない。できないが、ただこういうことは言える、それはつまり、不謹慎であると否とを問わず、お前はかりにここを脱出しても、ここで起こっている出来事をばらすなんてことは絶対にできない……」
こう言うと、話題を変えることを荒々しく強要されて、あたしは口をつぐまざるを得ませんでした。朝の七時に、あたしは納所坊主に案内されて自室にもどりました。オンファルの言葉と、ラファエルから聞き出したこととを総合してみると、いやでもあたしは、ここを去った娘たちの身の上に、それはおそろしい運命が待ちかまえていること、そして彼女たちが約束を守らなかったのも、つまりはお棺の中に閉じこめられ、あらゆる手段を奪われて死んでしまったからにほかならないことを、憮然《ぶぜん》としてさとらないわけにはいきませんでした。あたしはいつまでもこの怖ろしい考えに慄えが止まらぬ思いでしたが、ようやくかすかな希望を振るい起こし、無理にこの考えを追い散らすと、それからは仲間たちと同じようになるべく考えないことにしました。
一週間たつと、あたしは坊さんたちの部屋を一巡しました。この間あたしは、彼らのひとりひとりによってかわるがわる行使される種々さまざまな気まぐれやら醜行やらによく堪える、一種悲惨な能力を身につけました。とはいえ、ラファエルと同じく誰も彼もが、逸楽の炎を掻き立てるには極端な蛮行を演じなければならなかったので、あたかも彼らの腐敗した心は常人とはまったくちがった器官でもあるかのよう、快楽が成就するのは、もっぱらその器官の行使によるかのようでありました。
アントナンはあたしをいちばん悩ませた男で、彼が興奮の極に錯乱状態に達すると、どこまで凶暴性を発揮するか知れたものではありません。この鬱勃たる偏執にいざなわれた錯乱のみが、彼を快楽に到達せしめ、快楽を味わうときにその炎をたもち、またそれのみが、逸楽の最後の総仕上げをなし得るのでありました。それにしても、他の坊さんたちとちがって、彼の用いるやり方が少しも変則的でないにもかかわらず、女たちが妊娠したなどという話をいっかな聞かないのがいかにもふしぎで、あたしは同室の姐さんに、いったい彼はどんな方法で妊娠を防いでいるのだろうかときいてみました。すると、
「蒔いた種は自分で始末してるわ」とオンファルが申します、「お腹がふくらんで来たなと思うと、彼はあたしたちにある煎じ薬を、三日間つづけて大きなコップに六杯も飲ませるの。そうすると四日目にはもうご乱行の結実はあとかたもなくなっているの。ついこのあいだも、コルネリーがそうしたばかりよ。あたしにも三回ばかり、そんなことがあったわ。でも、あたしたちの健康にはそれは少しも悪影響を及ぼさないばかりか、かえって前よりいっそうぐあいがいいほどよ。
とにかく、あんたもご存じのように」とあたしの同僚はつづけました、「そうした心配があるのはアントナンだけなのよ。ほかの坊さんはみんな変則だから、その点ちっとも心配はないわけよ」
それからオンファルは、みんなの中ではクレマンが何といってもいちばん楽な相手ではないか、とあたしに同意を求めました。あたしは嫌悪と反感とに反吐《へど》を催しそうになって、
「おお」と答えました、「誰がいちばん骨の折れない相手かなんて、あたしにはとても言えたものじゃありませんわ。誰も彼も、みんなやりきれない相手ばかりなんですもの。もうどうなってしまってもいいから、ここを出て行きたい……」
「もしかしたらその願いは」とオンファルがつづけました、「遠からずかなえられるかもしれないわ。なぜって、あんたがここへ来たのは、偶然でしょう、つまり飛び入りってわけよ。あんたが来る八日前に、ひとりの娘がお払い箱になったばかりだったの。それなのにまだ入れかえの手続きもとられていない。だいたい新入りをここに紹介加入させるのは、必ずしも彼ら自身じゃないの、彼らは高いお金を払って、商売熱心な人身売買の周旋屋をやとってるんだわ。だから、きっと近いうちに新入りが来るんじゃないかとあたしは思うのよ。そうすれば、あんたの願いはかなえられるでしょ。それにね、もうすぐお祭があるの。お祭になれば、必ず坊さんたちには何人かの獲物が舞いこむわ。懺悔を利用して若い娘を誘惑するとか、監禁するとかして、お祭のときには必ずと言っていいくらい、可愛らしい女の子が何人か引っかかるものなのよ」
やがて、その名代のお祭とやらがやって来ました。そのとき、坊さんたちがいかにたけだけしい無信仰の冒涜《ぼうとく》ぶりを示したか、奥さま、とてもあなたさまのご想像にはおよびますまい。彼らは事もあろうに、自分たちのお寺の評判をいやが上にも高めるために、目に見える奇跡を行なおうとたくらんだのです。で、あたしたちの中でいちばん小さくいちばん年若いフロレットに、聖処女マリアの扮飾をさせ、胴体の中央を見えないように紐でしばりつけて、ひとが聖体のパンを供えたなら、おごそかにその胸を高くあげるようにと、彼女に言い含めたものです。もし一言でも口をきいたり、失態を演じたりしたら、厳罰に処するからさよう心得ろとおびやかされているので彼女は、あわれにも精いっぱいの努力で役目をつとめました。で、この詐欺は予期どおりの成果をおさめ、善男善女は奇跡だ奇跡だとしきりにありがたがって、ご喜捨をたんまり置くと、今更にこの聖母さまのご利益を確信して家路につくといった次第でありました。
あまつさえ、この破戒僧たちはその冒涜ぶりをさらに完璧《かんぺき》にするつもりか、あんなにもフロレットを崇高に見せていたその衣裳のままで、彼女を晩餐会に引っぱり出すことを案じると、おのおの寄ってたかって、同じ衣裳の上から、その奇態な出来心に彼女を屈従せしめることに醜い情熱を燃やしました。しかるに、ひとたび罪の欲望に身をまかすと、とめどがなくなるのが彼らです。で今度は衣裳を脱がせて、大きなテーブルの上に腹這いに寝かせると、その頭の上に蝋燭をともし、救世主イエス・クリストの絵すがたをのせ、かくしてこの不幸な女の尻の上で、聞くだにおそろしい密儀をば執り行なうにいたったのです。あたしはこのすさまじい光景を見るに堪えかねて、気を失いそうになりました。するとラファエルがそれを見つけて、今度はあの娘を祭壇に使おう、すれば少しは慣れるじゃろう、というのです。たちまちあたしはつかまえられ、フロレットと同じ場所に引き据えられました。こうしてこのけがらわしいイタリア人は、さらに残忍な、さらに罰当たりな秘術をつくして、いまさきあたしの同僚の尻の上に行使したと同じい醜行を、今度はあたしの尻の上で執り行なったものです。正体なくのびてしまったあたしを、人びとは部屋にはこんで行かなければなりませんでした。あたしは部屋で三日三晩、苦い苦い涙を流して、われにもあらず片棒かつがされてしまったあの怖ろしい罪をくやみつづけました……いまでもそのことを思うと、奥さま、あたしの胸は掻きむしられるばかりでございます。涙なくして思い出すことはできませぬ。信仰はあたしにおいて自然の感情の流露でございます、これをそこない犯すものは、すべてあたしの心臓から血を噴き出させずにはおきません。
ともあれあたしたちが期待していた新入りは、お祭で集まった娘たちの中からは、選ばれなかったもののようで、あるいはもう一つの後宮《ハレム》の方に編入されたのかもしれませんが、あたしたちの部屋にはとにかく誰も来ませんでした。こうして数週間がたち、あたしがこのいとわしい僧房に入来してから六週間目のことでした。ラファエルが午前九時ごろあたしたちの塔にあらわれたのです。そのとき彼は大へんいきり立った様子で、眼には一種血迷ったいろが読み取れましたが、あたしたち全員を点検すると、ひとりひとりに、その気に入りの姿態を取らせ、とりわけオンファルの前に永く立ちどまりました。そうしてしばらくじっと、同じ姿勢の彼女をながめていましたが、やがてひそかに、みずから情欲をあおり立てると、例のお気に入りの奇矯な行動に移りましたが、思いを遂げることなく中絶しました……それから彼女を立たせ、一刻、けわしい目つきでにらみすえると、凶悪の相を顔のおもてにまざまざとあらわして、こう言いました。
「これまでの奉公ぶりを多として、今日かぎり当修道院はお前を解任することにした。暇を取らすから仕度をせい。夕方になったら、わしが自身で迎えに来る」
そうして相変わらずけわしい顔つきで、なおも彼女をじろじろ見ていたかと思うと、にわかにぷいと部屋を出て行ってしまいました。
ラファエルが出て行くや否や、オンファルはあたしの腕の中に飛びこんで来て、
「ああ」と涙ながらに言うことには、「こわいこわいと思いながらも、期待していた時が、とうとう来たのだわ……神さま、あたしはどうなるのでしょう」
あたしは彼女の気を鎮めてやるために、できるだけのことをしましたが、さらにそのかいはありません。彼女はもし自分になんらかの手段がのこされていたら、必ずあなたがたを自由の身にしてあげるために、悪人どもにたいして訴訟を起こすつもりだと強く誓ってくれました。その彼女の気持ちをあたしは少しも疑うものではなかったが、まず彼女がいかに奔走してくれたにせよ、実現は不可能だろうと思わないわけにはいきませんでした。一日は常のごとく過ぎて、六時ごろ、ラファエルがやって来ました。オンファルにむかって、ぶっきらぼうに、
「さて、用意はよいかな?」
「はい、神父さま」
「ではさっそくまいろう」
「あの、お友達にお別れの接吻をしてもよろしゅうございますか」
「ええ、それには及ばぬ」と坊さんは彼女の腕を引っぱって、「待ってる人がいるのじゃ、さあ、わしについて来なさい」
そこでオンファルが、自分の衣類を持って行ってもかまわないだろうか、とたずねると、
「だめだめ」とラファエルは答えて、「みんな修道院のものじゃないか? 第一、そんなに持って行く必要はない」
それから、言い過ぎたとでもいうように、こう言い直しました。
「みんな持って行っても無駄になるばかりじゃよ。それよりお前のからだに合った、よく似合う服を自分で作ったらよかろう」
あたしは坊さんに、せめて修道院の門までオンファルを送って行ってはいけないかときいてみましたところ、ラファエルは物も言わずにぐっとあたしを一にらみしましたが、その目つきのおそろしいこと酷薄なこと、思わずたじたじと後へすさったあたしは、もう重ねて問う気にはなれませんでした。不幸な同僚は不安と涙でいっぱいな眼をあたしにちらと投げて、出て行きました。するとあたしたち三人はこの別離がもう無性に悲しくて悲しくて、なんにも手につかぬ有様です。三十分後にアントナンがあたしたちを晩餐会に連れに来ましたが、ラファエルがやっと席にあらわれたのは、あたしたちが呼び出されてから約一時間もの後でした。ラファエルはひどく興奮した様子で、ときどき仲間の坊さんと低声に語り合っているようでしたが、それ以外にはべつにふだんと変わった点も見られません。ところが、あたしはあることに気がつきました。それは、以前にオンファルも言っていたことですが、その晩あたしたちがいつもよりずっと早くに退出を命ぜられ、坊さんたちが常になくめちゃくちゃに飲み、そうして欲情を高進させることをかたくみずから控えている、といった事実です。このことからどんな結論が出て来るか? 場合が場合だけに、あたしはあらゆる徴候に気をつけて、いろいろと推理してみました。が悲しいかな、あたしの才知では、とてもそこまで見抜くことができません。おそらく、そのときあたしと一緒に胸さわぎを感じたわけでもない奥さまには、とてもこの妙な感じはおわかりになるまいと思います。
あたしたちは四日間オンファルの便りを待って暮らしました、最初のうちこそ、彼女の誓った約束の、よもや反故にはなるまいことを信じていましたが、時がたつにつれて、それをもむなしい期待であった、きっと残酷な手段で彼女は、あたしたちを助ける手だてを奪われてしまったのにちがいない、と思うようになりました。そしてついには絶望し、不安は激しくなりまさる一方でした。ところが、オンファルが去ってから四日目のこと、恒例によって晩餐会に呼ばれたあたしたち三人は、部屋に入ったとたん、ひとりの新しい娘が、これは外から通じている扉を開いて入って来たのを見て、あっと驚いてしまいました。
「みなさん、こちらがこのたびオンファルの後任として当修道院に参った娘御じゃ」とラファエルはあたしたちに紹介すると、「どうかひとつ妹のように、仲よく暮らしてやってくだされ。そして彼女の運命をみなさんめいめいのお力で、慰めてやってくだされ……それからソフィー」とあたしの名を呼んで、「お前は中でいちばん年かさだから、姐さん株ということにしよう。姐さんの職務は知っておるな。万々抜かりなくつとめてくれ」
あたしはよっぽど断わろうかと思いましたが、それができず、またしても自分自身の希望と意志とをこの不愉快な男のために犠牲にして、いっさい彼の意に副うことを同意し約束してしまいました。
そのとき、新入りの娘の上半身から、その胴体と頭部とをおおっていた半外套とヴェールが取り去られ、そこではじめてあたしたちはこの十五歳ばかりの、この上なく愛くるしい上品な娘を見ることができたのです。その眼は涙にぬれていたとはいえ、毅然《きぜん》としていて、彼女はそれを優雅にあげて、あたしたちのひとりひとりにそそぎましたが、あたしはこんなに哀愁のこもった眼ざしをそれまで見たこともありません。自然にカールして、肩までふさふさと垂れた、灰いろがかった豊かな金髪、みずみずしく朱いろの唇、気高い造作をもった顔、それにまた、全体になにかしら人を魅するものがあるので、何びともこの娘を見たら思わずしらずその方へ惹《ひ》きよせられずにはいられないといった感がありました。後刻彼女自身から聞いたところによると(彼女にはこれ以後多く触れないつもりですから、ここに合わせ述べておきますが)、彼女はその名をオクタヴィといい、リヨンのさる豪商の娘で、パリで教育を受けていたのが、最近その女家庭教師といっしょに両親の家へ帰って来る途中、オセールとヴェルマントンのあいだで闇討《やみうち》をかけられ、無理無態にこの修道院にさらわれて来てしまったので、乗っていた馬車はどうなったか、連れの女の消息も知れず、穴倉のような部屋にたったひとりで一時間も閉じ込められ、もうだめかと思っていると、やがて連れ出されてみんなの前にあらわれた、というわけなので、まだそのときは坊さんたちの誰とも一言も、彼女は口をきいてはいないような有様なのでした。
で、四人の道楽坊主は、一瞬|恍惚《こうこつ》としてこの魅力の主の前で、ただ感嘆久しゅうするばかりでしたが、いかさま美の支配力というものは偉大なものでございますね、堕落の極にある悪人が、後悔なくしては犯されない一種の宗教めいた感情で、これを詠嘆せざるを得ないのですから。けれど、いま話題の悪人、つまりこの坊さんたちは、まあなんという罰当たりなのでしょうか、そんな束縛も大して彼らをへこますものではありませんでした。
「さあお嬢さんや」と院長が言います、「はやく見せておくれ、自然がお前の顔の上にふんだんにばらまいた美しさが、顔以外の部分にもはたしておよんでいるのかどうか」
そしてこの美少女がなんのことかわからず赤面していると、乱暴者のアントナンはその腕をぐいとつかんで、二度と口にできないような野卑な言葉で、「わからぬかい、お澄ましさん、院長さまは早う裸になれとおっしゃっているのじゃよ」とどやしつける……またしても涙が、またしても抵抗が、繰り返される……がそれも束の間、クレマンがやにわに彼女をつかまえると、みるみる、この愛くるしい女の子の恥じらいを隠しているものは身ぐるみ剥がれてしまいました。
オクタヴィにおいて、慎しみがかくしていた美しさは、強制手段が見せることをゆるした美しさに遠く及びませんでした。これほど白い肌、これほどみごとにととのった肉体はまたとないでしょう。しかるに、このみずみずしさが、清浄無垢が、繊細が、いまや野人どもの餌食になろうとしている……あたかも自然がかくおびただしい恵みをたれたのは、野人どもによってそれが凌辱されるためでもあったかのように。
人々は彼女のまわりに車座になり、彼女は前にあたしがしたように、車座のなかをあちこち逃げまわりました。燃えあがったアントナンはもうがまんならぬ様子です。かくて生まれたばかりのこの魅力に残酷な凌辱の計画が企てられ、犠牲の奉納が裁決され、神の足下に香がたかれました……やがて、ころはよしと見てとったラファエルが、もう待ちきれぬ態にて、犠牲者をとらえると、望みどおりの姿勢に彼女を置き、自分だけの力では足りぬと思ったのか、クレマンにたのんで彼女を抑えつけました。オクタヴィは泣き叫びましたが、誰も耳もかしません。にくらしいイタリア人の目は情火でぎらぎら輝いております。こうして攻撃の立場を確保すると、彼はまるでできるだけ抵抗を少なくするためのように、じっと通路をうかがっておりました。なんの方策も用いなければ、なんの予備行為も行なわないのです。侵略者と反抗者とのあいだには大きな不釣合があったのに、侵略者の方はさらに意に介しません。ついに、犠牲者の悲痛な叫びがあたしたちに敗北を知らせました。それでも傲《おご》り高ぶった勝利者には同情も何もあったものではありません。相手がお慈悲をねがうそぶりを見せるほど、ますます彼は荒々しい攻撃の手を加えます。こうして不幸な娘はあたしと同じく、処女を奪われることなく破廉恥に凌辱されました。
「いやはや、勝利を得るのにこんなにてこずったことははじめてじゃ」とラファエルが立ちあがりながら言いました、「生まれてはじめて、わしは取り逃がしたかと思ったよ」
「わしはここから攻めてやろう」とアントナンは彼女を押えつけたままで、「城塞にはひとつならず突破口があるものじゃ。おぬしはようやくそのひとつを占拠したのじゃて」
そう言って、勇ましく闘《たたか》いの場にのぞみましたが、これはあっけなく占領をおえました。そして、ふたたび呻《うめ》き声が聞かれると、
「しめたり、しめたり」とこの怪物はよろこぶのでした、「この哀訴を聞くまでは、わしはとても勝利が信じられなんだ。わしは相手の涙によってのみ、勝利の証《あか》しをつかむのじゃ」
「そのとおり」と今度はジェロームが、手に笞《むち》を持ってあらわれて、「わしもこの姿勢をくずすまい。これがいちばんわしの意にかないますじゃ」
そしてつくづくとながめ、手を触れているうちに、おそろしい笞がひゅうひゅうと風を切りはじめます。見るまにあの美しい肉は色をかえ、なまなましい淡紅色が百合《ゆり》のような純白の肌に点々とちらばりました。けれどもしこの行為に、少しでも手かげんが加わるなら、一瞬間でも愛憐の情がさしはさまれるなら、それはこの行為の鉄則から言って許しがたい罪となるのです。憎体《にくてい》な修道士は手かげんしません。生徒が不平をもらせば厳しい先生はますます厳しくなる、それと同じ筆法で、彼の目には優しみの影さえさしませんでした……まもなくこの美しい肉体には、彼の蛮行の跡をとどめない部分は一ヵ所もなくなりました。と、最後に、この醜い快楽の血のしたたる形骸の上で、ジェロームは情火を鎮めたのです。
「わしはみんなのように乱暴なことはしないよ」と最後にクレマンが、美少女を両腕に抱きすくめ、その珊瑚《さんご》の唇に不潔な接吻をあたえながら、「わしが供物をする神殿は、これここじゃ……」
そうしてなおも五、六回、ヴィナスの傑作かとも思われるその絶美な唇におのれの唇を重ねているうち、しだいに燃えあがってきたクレマンは、この不幸な娘に、彼の無上の快楽である醜行をしいるのでした。快楽のめでたい器官、愛神のもっとも安穏な隠れ家は、かくて蛮行に汚され果てました。
その後はあなたさまもご存じの、いつかの夜のような有様になりましたが、この少女の若々しい美貌と年齢とがさらに狂態に油をそそいで、乱行はいっそうつのるばかり、したがって彼女が部屋に送り返されて、数時間せめてもの休息を得ることができたのも、坊さんたちの憐憫というよりは飽満の結果でしかありませんでした。あたしはこの最初の晩くらい、できることならオクタヴィを慰めてやりたいと思いましたが、いかんせんアントナンがあたしを離さず、いっしょに夜を過ごさねばならなくなって、かえってあたしの方こそ慰めてもらいたい立場になってしまいました。あたしはけっして、アントナンの気に入られたというわけではありませんが(どうも適当な言葉がございません)、あいにくと、彼の欲情をそそり立てることに人一倍すぐれていたのでしょうか、かなり前から、一週間に四、五晩、彼の部屋で夜を過ごさないことはめったにありませんでした。
翌朝自室にかえると新入りが泣いているので、むかしあたしが姐さんに慰められたとおりのことを言ってやりましたが、やっぱり彼女もあたしと同様、いやそれ以上に、そんなことで慰められはしませんでした。これほどな運命の激変は容易なことでは慰められません、この娘にしてからが、ふかい信仰心やら、美徳やら、誠実やら、貞操やらをその身に兼ね具えていたのであれば、なおのこと現在の状態が堪えがたいものとはなるのです。みずから好んで彼女をさらって来たラファエルは、幾晩もぶっ通しで彼女と過ごしましたが、そうなると彼女もだんだん、仲間たちの例にもれず、いつの日か不幸の終わる日を待ち望むはかない希望によって、われとわが不幸を慰める術《すべ》をおぼえるのでした。いつかオンファルの言ったように、古参が必ずしも先にお払い箱になるのではなく、坊さんたちの気まぐれないしはある外部的検査の結果によっては、一週間も二十年と同じようにお払い箱の期限となることがある、というのは本当でした。オクタヴィはここへ来てから六週間とたたぬのに、ある日ラファエルによって、出発の日が来たことを通告され……オンファルと同じ約束をして消えて行きましたが、あたしたちはその後彼女がどうなったか、これもオンファルと同様わからずじまいです。
約一月間、オクタヴィの補充はありませんでした。そしてあたしがオンファルのように、この修道院にいる娘はあたしたちだけではない、他の建物にもきっと同人数の娘が隠されているにちがいないと確信するようになったのは、この期間のうちにです。けれどオンファルの場合ただそういう疑問を抱いただけなのにくらべると、あたしの場合はずっとはっきりしていて、これはもう確実ということができます。では、それを以下にお話しましょう。ラファエルの部屋で夜を過ごしたあたしが、例のごとく朝の七時に部屋を出て行こうとしますと、まだ見たこともない、あたしたちの納所坊主と同じくらいいやらしい一人の老爺が、十八か二十くらいの絵に描いたような、とにかくあたしにはとても美人に見えた、一人の大柄な娘を伴って、突然、廊下にあらわれました。ラファエルはしかしあたしを連れて行かなければならず、やむなく彼らをそこに立ち止まらせたので、あたしはいやでもこの娘と真っ向から相対さないわけにはゆかなくなり、老爺は娘をあたしの眼からどうして隠してよいかわからず、
「お前、この娘をどこへ連れて行くのだな?」という院長の怒りをふくんだ声に、この取りもち屋は、
「あなたさまのお部屋にでございます、院長さま」ともうおろおろ。「猊下《げいか》はお忘れでございますか、昨晩私めに与えられたご命令を……」
「九時にと言ったはずじゃ」
「いえ、七時と申されました、御前さまは御ミサの前に連れてまいれと申されました」
そしてこの間じゅう、あたしははじめて見る同僚から眼を離しませんでしたが、相手の方も同じ驚きでしげしげとあたしを見つめておりました。
「ま、よかろう」とラファエルはあたしと彼女とを二人ながら部屋に招じ入れると、扉をしめ、納所坊主を外に待たせておいて、「いいかね、ソフィー」と切り出しました、「この娘があちらの塔で、お前さんと同じ役目についている、つまり姐さんじゃな。姐さん同士が知り合っておくのに、なんの不都合もありはしない、そうじゃとも。ひとつ、馴染をふかめるために、このマリアンヌを素っ裸にして見せてやろう」
このマリアンヌという女は、よほどずうずうしい娘と見えて、すぐに自分で着物を脱ぎました。ラファエルはあたしに欲望を掻き立てることを命じると、あたしの見ている前で、この女を自分の気に入りの快楽に従わせ、たちまち満足すると、
「これでわしの望みは遂げられたのじゃ。夜ひとりの娘と過ごせば、きっと朝は別の娘が欲しくなる。わしらの嗜好は飽くことを知らない。供物をあげればあげるほど燃えあがる。まあどれも似たようなものにはちがいないが、たえず新しい魅力を頭のなかで想像するのじゃな。そして、わしらの欲望がその一つの魅力に満足する時は、すなわち同じ欲望が他の魅力によって燃えあがる時なのじゃ。……お前たちはふたりとも信用できる娘じゃ。今日のことは誰にもしゃべるなよ。ではソフィー、行ってよろしい。爺に案内してもらえ。わしはまだこれから、お前の同僚ととりおこなう密儀がのこっている……」
あたしは要求された秘密を守ることを約束して、そこそこに立ち去りましたが、これでこの道楽者たちのほしいままな快楽に奉仕している娘があたしたちだけでないことを、確認した次第です。
ほどなくオクタヴィの後任がやって来ました。まだ十二歳の、子供子供した可愛い百姓娘でしたが、オクタヴィにくらべてはずっと落ちました。二年前から、あたしは最古参になっておりました。フロレットもコルネリーも、オンファルのように便りすることを約束しては、しかもそれを果たさずに、相ついで出てゆきました。彼女たちの後任はすぐに補充されました。フロレットのかわりには十五歳のディジョン娘、若さと未熟さとが唯一の取得といった、下ぶくれの肥っちょ、またコルネリーのかわりには、きわめて由緒正しい家に育ち、一風かわった美貌を持つオータンの町の娘。この娘は十六で、アントナンのご執心をあたしからそらせてくれたのはいいのですが、やがてあたしはさとりました、アントナンの寵《ちよう》を失ったということは、ひいてはその他の坊さんたちからも日ならずして信用を失おうとしていることだと。こう思うと、わが身の運命を左右する坊さんたちの移り気が、今さらにあたしをぞっとさせました。たしかに、それは解雇の前触れでした。そして、このむごたらしい解任が死刑宣告にほかならないことをあまりにも確信していたあたしは、もうそうなると、一瞬間も生きた空はありません。まったく、一瞬間もです! なんという不幸でしたろう。あたしは考えました、それでもまだ生命に執着すべきだろうか、もしかしたら生命を捨てることこそあたしの身に起こり得る最大の至福なのではなかろうかと。
こう思うとあたしの心は大分落ち着き、天運を待つ諦めもつきましたので、けっして信用を取り戻そうとあくせくしたりはしませんでした。そこで、態度がわるいといっては折檻され、やり方が下手だといっては小言をちょうだいし、罰を受けない日は一日としてありませんでしたが、ひたすらあたしは天に祈り、判決の日を待ったものです。おそらく判決は間近に迫っていたのでしょう、がそれより先に、幸か不幸か、同じ手口であたしを迫害するのに厭きたらしい神さまが、あたしをこの目前の深淵から救いあげて、今度は別の深淵に沈めようとなさいました……しかし話は順序立てた方がよろしいでしょう、まずあなたさまにお話しなければならないのは、いかにしてあたしがこの名うての道楽者たちの手を脱することができたか、そこのところの経緯《いきさつ》でございます。
ところで今度もまた、悪が栄えるという嘆かわしい実例に、あたしは逢着しなければなりませんでした。生まれてこのかたさような例をしか見たことがないので、ともするとあたしを苦しめる者、恥ずかしめる者、虐げる者は、必ずその大悪の褒賞を受けることになっているかのよう、また神さまは美徳の無益なことを一生けんめいにあたしに示そうとしているかのようでもございました。が、この不吉な教訓にあたしはいささかも惑わされず、よしんば頭上に剣がぶらさがっていたにもせよ、つねに何より大切な、あの心の声に従うことをもって本分としてまいりました。
ある朝ひょっくり、あたしたちの部屋にアントナンがやって来て、ローマ法皇の身内であり配下である神父ラファエル師が、このたび法皇の命により、聖フランチェスコ教派の管長に指名された、と通告しました。
「それからわしはな、リヨンの修道院長に昇進したよ、お前たち」と彼はあたしたちに言い、
「新任の神父がふたり、わしらの後を襲うことになっている。たぶん今日日《きようび》のうちに来るじゃろう。どんなやつかわしは知らんが、ことによったらお前たちは、家へ送り返してもらえるかもしらんし、あるいは今までどおりかもしらん。それはどうとも言えないが、ただお前たち自身のためと、後にのこったふたりの神父の名誉のために、一言忠告しておくことがある、それは、わしらの行状をけっしてくわしくはしゃべらぬこと、不都合と認められないことだけしか明かさぬことじゃ」
あたしたちにとってもそれはうれしい知らせでしたが、この修道士の望むところを拒否するわけにはやっぱりゆきかねました。で、その言いなりに約束しますと、道楽坊主はあたしたち四人に最後のお別れをしたいというのです。やがて近づく不幸の終わりをかいま見たことが、あたしたちに最後のお勤めをじっと我慢して堪える力をあたえてくれました。あたしたちは彼のいうことをなんでもうなずきました。で、彼は永久にあたしたちと別れるために、部屋を出て行きました。いつものように昼食が供され、二時間ばかりもすると、クレマン神父が、年ごろといい人品といい卑しからざるふたりの修道士を連れて、あたしたちの部屋へやって来ました。
「なんと申されようと、あなた」と彼らのひとりがクレマンに言います、「かように度を越した乱行が、しかもこれほど永いあいだ、神に見咎められもせずにつづいていたとは、驚くべきことですな」
クレマンは卑屈な様子で、すべての非をみとめながらも、けっしてこれは自分たちが始めたことではない、自分たちが受けついだときにすでにこういう状態にあったのだから仕方がない。なるほど女たちは何人も取り替えたけれども、この交替もじつは既定の習慣だったので、要するに自分たちは、前任者によって指示された慣例に従ったまでのことなのだ、と弁解しました。
「まあ、よろしい」と新院長らしい男(実際そうだったのです)はつづけて、「しかしとにかく、あなた、こんなけしからぬ道楽は一刻も早くつぶしてしまわにゃなりませんな。世間の人が聞いたら何といって激高するでしょう。修道士としての身の持しかたを、ひとつ胸に手を当てて、とっくり考えていただきたいものです」
それからこの神父さんは、あたしたちにそれぞれの希望をききました。でみんなが、それぞれ故郷に帰りたいとか、家に戻りたいとか、答えますと、
「承知しました、みなさん」と彼は言いました、「もし道中お金が必要だったら、それもあげましょう。ただ気をつけていただきたいことがある、それはみなさんがここを出て行くとき、二日くらいの間をおいて、一人ずつこっそり、徒歩で出発することです。そうして、この修道院での出来事を誰にも明かさないことです」
あたしたちは約束しました……が、院長は約束だけでは満足せず、聖体のおそばで誓いを立てることをすすめましたので、あたしたちも異議なくそこへ行き、祭壇の下で、院長により、本修道院にておこった出来事は今後永久けっして口外しないことを誓わせられました。むろんあたしもそのとき皆といっしょに誓いをしたわけですから、今こうしてしゃべっているのは何だかその約束を犯すもののようですが、奥さま、あたしはこのやさしい神父さまの要求した約束の一字一句に拘泥《こうでい》するよりも、むしろその誓いの意義を重んずるもので。つまり、この神父さまの目的は、修道院を裁判沙汰などにしたくないということにあったので、あたしが奥さまにこんなお話をしても、教会の秩序に不都合な結果が起こるはずがないことはわかりきっておりましょう。
仲間たちはあたしより先に出発しました。新院長が着任してから、あたしたちは四人いっしょに会うことを禁じられ、別れ別れになっていましたから、ふたたび相見る機会はありませんでした。グルノーブルへ行くことを希望して、あたしは旅費を二ルイ頂戴し、ここに来たとき着ていた着物を返してもらいましたところ、ポケットにまだ八ルイ残っておりました。このおそろしい悪徳の巣窟を、ようやく願い叶って、しかもこんなに都合よく、こんなに思いがけない手順で脱出できるかと思うと、あたしはもう雀躍《こおど》りせんばかりにうれしく、森の中にわけ入り、ふたたびオセール街道に出たわけですが、思えば三年前ここを去ってから、われと進んであの艱難《かんなん》に身を投ずるはめになったので、数えてみるとあたしはもうあと数週間で二十五歳になるのでした。
あたしがまず何よりも先にしなければならないと思ったことは、神の前にひざまずいて、不本意ながら犯してきたかずかずの罪をここにあらためて謝することでした。あたしはよろこんで打ちすてて来た、あのいまわしき僧房の汚れし祭壇の前でしたよりも、数等倍身を入れて祈りました。悔恨の涙があたしの眼から下り、
――ああ、とあたしは思いました、かつて熱烈な信仰心にいざなわれて、この同じ道を去って行ったとき、あたしはまだ純潔だった。それが無惨にも裏切られて……いま、なんという情けない様にあたしはなっているのだろう!
しかしこうした暗い反省よりも、自由の身になった喜びの方がさすがに大きく、あたしは気を取りなおして道をいそぎました。ところで奥さま、もう話も大分長くなりますことで、さぞかしお疲れになったことでもございましょうから、奥さまさえよろしければ、こまかいところは抜きにして、あたしの人生の針路を変えたほどな、大事と思われる出来事だけを拾ってみようかと存じます。
財布泥棒のこと
リヨンに数日逗留したとき、たまたま泊まっていた宿のお内儀《かみ》にある外国新聞を見せてもらいましたが、ちらと眼を走らせてあっと驚いたことには、またしても悪が驕《おご》り栄え、あたしの不幸のもとをつくった張本人のひとりが名声の絶頂にのうのうと居すわっているではありませんか。あたしのせいで獲物を取り逃がしたというわけで、あたしをひどく罰したあの人非人すなわちロダンは、この新聞の報ずるところによれば、きっとまた何か別の犯罪を犯してフランスにいられなくなったのでしょう、最近ではスウェーデンにおちついて、かなりの高給を食《は》む王家の侍医頭に任命されたとのことでした。
――ああ、なんて悪運つよいやつだろう、とあたしは思いました、神さまも物好きだこと、悪いやつを栄えさせておいて、不平もおっしゃらずにひとりで悩んでおられる。まるで煩悶《はんもん》と苦労とは宿命的な善人の持ち分だとでも言わんばかり!
三日の後にリヨンを発《た》ったあたしは、ドーフィネ地方に行きさえすればなにかきっといいことがある、というとりとめない望みを抱いて、街道沿いに旅をつづけました。あたしの旅は例によって徒歩、ポケットには二枚のシュミーズとハンカチがあるきりでしたが、さてリヨンから二里ばかりも来ると、ひとりの老婆が苦しげな様子であたしに声をかけ、なにかお恵みをとしきりに乞うのです。生まれつき同情心に厚いあたしは、ひとに恩を施すことが何物にも替えがたい魅力なので、さっそくに財布を取り出して、その中からいくらか出して老婆にあたえようとしました、がこの憎むべき女はそれより早くあたしの財布をかっさらうと、老いさらばえた見かけに似合わず、力強いこぶしの一撃をあたしの鳩尾《みぞおち》のあたりにどんとくれて、あたしを引っくり返しました。そしてあたしが立ちあがると、もう老婆のすがたは眼の前になく、そこから百歩ばかり離れたところに、四人の無頼漢のような男に取り巻かれた彼女が、威嚇的《いかくてき》な身ぶりであたしを近寄らせまいとしているのを見るばかりです……
「やれやれ、なんてことでしょう」とあたしは舌打ちしました、「善根を積もうとすればたちまち手きびしい不幸の報いが来るのなら、あたしは手も足も出ないじゃないの」
実際そのときは情けなくて、精も根もつき果てるかと思われました。いま考えても気が咎める次第ですが、あたしはもう少しでやけ[#「やけ」に傍点]になるところでした。二つのおそろしい誘惑があたしの眼の前にちらちらしました、いっそこのまま、いまあたしの財布を奪ったあの掏摸《すり》の仲間にでもはいってやろうか、それともリヨンにもどって自堕落な生活でもはじめようか……ありがたいことにあたしは誘惑に屈しませんでした。よしあたしの心にふたたびともされた希望の灯が、さらに恐ろしい不幸の先触れでしかなかったとしても、それでもあたしはそのときあたしを誘惑から守ってくれた神さまに感謝いたします。今日あたしに無実の罪を着せて、断頭台にみちびいた不幸の鎖は、疑いもなくあたしに死をもたらすことでしょう、しかし誘惑に屈して恥と後悔と醜名とを得るよりも、それははるかにあたしにとってしのぎやすい苦痛ではございます。
律儀な紳士ダルヴィルのこと
ヴィエンヌの町では、グルノーブルへの旅費をつくるために、とうとう身につけていたわずかな衣服をも金に替えるという、それは泣くに泣けない悲しい旅でございましたが、あと四分の一里ほどで目ざすグルノーブルへ着くというころ、ふと街道の右手にひらけた原っぱの方を見やると、馬に乗ったふたりの男が、むごたらしくも三番目の男を、その馬の脚にかけて踏みにじっている光景が目に入りました。踏みつけられた男が死んだようにぐったりしてしまうと、馬上のふたりは全速力を駆って逃げてしまった……このひどい有様を見て、あたしは涙ぐむほど哀れを催しました。
「ああ気の毒に」とあたしは思いました、「世の中にはあたしよりもっと不幸なひともいるんだわ。何といってもあたしには、健康と力がのこっている、パンを稼ぐこともできる。けれどあのひとは、もしお金持ちでなくて、あたしと同じような境遇のひとだったら、これからさき一生|片端《かたわ》で暮らさなきゃならなくなるかもしれない」
――迂闊《うかつ》に同情心を起こすのは禁物だ、いまもそのひどい報いを受けたばかりではないか、とあたしは二の足を踏みましたが、それでも自分の気持ちには抗しかねるのでした。あたしはこの瀕死《ひんし》の男に近づくと、持っていた少量のアルコール飲料をふくませて、息を吹き返させました。眼をひらいたこの男が最初にしたことは、感謝の身ぶりでした。それを見るとあたしはなおも手当を尽くしてやらないわけにはいかなくなり、これっきりしか残っていないシュミーズの一枚をこの男のために引き裂いて、いくつもの包帯をつくり、それで傷口から流れ出る血を止めてやったり、あるいはあたしが疲れたとき元気回復のために飲もうと携えていた、小瓶の中の少量の酒を飲ませてやったり、その残りで打撲傷を洗ってやったりいたしました。
やがてこの気の毒な男は元気を取り戻しました。みたところ、服装などはずいぶん粗末な方だし、馬車にも乗らない旅をしているようでしたが、どうやら相当な財産家であるらしく、最前の難儀でかなりの損害を受けていてさえ、証券だの指輪だの時計だの、その他いろいろな宝石類だのを所持しておりました。口がきけるようになると男はさっそく、自分を助けてくれた親切な天使であるあなたは、いったいどういうお方で、感謝の意を表するには自分はどうしたらよいだろうかと、あたしに問うのでした。そこであたしはまたもや、愚かにも、このひとはあたしに感謝しているんだ、よもやあたしにしっぺ返し[#「しっぺ返し」に傍点]することはあるまいといちずに信じてしまい、このひととなら、あたしの腕の中で涙をこぼしたこのひととなら、あたしの不幸をともどもわかち持つ甘い喜びに、安心して浸ることもできようかと、自分の不幸の物語の一部始終をそっくり彼に語って聞かせたのです。男は興味ぶかげにきいていましたが、やがて最後の破局が来てあたしの話が終わりますと、現在のあたしのひどいみじめな状態にはじめて気がついたように、
「少なくとも私は」と叫ぶのでした、「あなたの最前のご親切に報いることができるだけ、幸福というものですな。私はダルヴィルと申しまして、ここから十五里ばかりの山中に大そう美しい城館《やかた》をもっていますが、もしあなたがご同道してくださるなら、その一室を提供してもよい。けれどもただもらってはあなたの気がすまないとおっしゃるなら、私の家であなたが必要とされる理由をご説明いたしましょう。私には妻がありまして、信用のできる女中をひとり求めております。じつは最近、不始末をした者を追い出しましてな、代わりにあなたをというわけです」
あたしはつつましくお礼をのべると、いったいあなたさまのような身分のある方が、どうしてまた供も連れず危険な一人旅をしておられたのか、どうして先刻のように、悪人どもに襲われるはめになったのかとたずねてみました。するとダルヴィルは、
「私はこのとおり多少肥りすぎの傾向があり、また若くて元気なものですから、もう大分前から、拙宅からヴィエンヌまでをこんなふうに歩いて通う習慣にしているのです。健康と財布と一挙両得ですな。ま、しかし、幸いにして私は金持ちですから、別に無駄づかいを気にしなければならぬ身分ではないのでして。それはいずれ拙宅にお越しくださればおわかりのことです。ところで先ほど私が係わり合っていたふたりの男ですが、あれはけちな田舎の小貴族で、素寒貧なんです、ひとりは護衛兵、もうひとりは憲兵、つまりふたりとも詐欺師てわけですな。先週ヴィエンヌのさる家で賭をやって、私はやつらに百ルイ勝ちました。ところがやつら賭金など持っちゃいないのです。で私はやつらの口約束を信用して、今日ここへ来ると、このあいだの借金を返してもらおうとした……するとやつらがどんな返済をしたか、それはあなたもごらんのとおりです……」
あたしはこの律儀な紳士に、それは重ね重ねのご不幸で、とお悔みを言いました。ダルヴィルは、そろそろ出かけましょうかと促すと、
「あなたの介抱のおかげで、大分よくなったような気がします」と言いました、「まごまごしてると夜ですよ。ここから二里ばかりのところに旅館があるはずですから、そこへ行きましょう。そして明朝は馬を使えば、たぶんその日の晩に私の家に着くことができましょう」
天の助けかとも思われたこの申し出を、あたしは断然受けることにきめると、ダルヴィルを支えて歩かせ歩かせ、人によく知られた往還はこれを避けて、もっぱら狭い間道を一路アルプスの山並みめざして進みました。二里ばかりゆくとはたして、ダルヴィルの言ったとおり宿屋が見つかったので、あたしたちはそこで楽しく夕餉《ゆうげ》をしたため、食後には旅館の女主人に引き合わされたりして、その夜は彼女のとなりに寝かせてもらい、翌朝二匹の貸し騾馬《らば》に乗り、宿屋の番頭をひとり徒《かち》で付き添わせて、山並みさしつつドーフィネの国境にさしかかりました。しかるにダルヴィルの傷は、全道程を休みなく行くことにはまだ堪え切れず、あたしもまた長旅には不慣れのため、ふたりともへとへとになってしまいましたので、ヴィリウという町に馬をとめ、そこで案内人の親切な介抱を受け、翌日また同じ方向に旅をつづけました。
贋金つくりのこと
夕刻四時ごろ、あたしたちは山麓《さんろく》につきました。そこからは道はほとんど通行不可能のような状態でしたが、ダルヴィルは従者にたのんで、もしものことがあると困るからぜひ付いて来てくれと言い、あたしたちは隘路《あいろ》にさしかかりました。そうして四里ばかり、黙々として、山道を迂回しながら少しずつ登っているうち、人里からも街道からもはるかに離れてしまったので、あたしは世界の果てに来てしまったような気がし、言おうようない心細さにわれにもあらずとらえられるのでした。峨々《がが》たる岩山のあいだに迷い込んでしまったときなぞは、あのサント・マリー修道院の森の曲がりくねった通い路を思い出し、さびしい場所に来るといつも感じる嫌悪の情が、このときもぞっとあたしを身ぶるいさせました。やがてものすごい懸崖《けんがい》のふちに張り出した一郭の城館が見え出しましたが、それは切り立った岩山の先端にちょこなんとのっているようで、真っ当な人間の住居というよりは幽霊かなにかの住居といった感じです。おまけに道らしい道も通じているようには見えず、まあ山羊《やぎ》ぐらいがどうにか往来できるかしら、そこらじゅう石ころだらけで、それでもあたしたちはぐるぐる迂回しながら登って行ったものです。ダルヴィルは、あたしがこの城館を見て肝をつぶしていると、
「あれが私のうちですよ」と事もなげに言いましたが、こんな索漠としたところにいったいひとが住めるものだろうか、と驚きあやしむあたしの素ぶりに、住めるからこそ住んでいるのさ、と今度はひどく乱暴に答えます。
あたしはこの物言いにむっとするとともに、怖気をふるいました。不幸のなかで暮らしていると、どんな小さなことでも気になるものです。あたしたちの運命を左右している人のもらす言葉のちょっとした抑揚が、そのつどあたしたちを一喜一憂させるのです。とはいえ今さら尻ごみするわけにもいかなかったので、なにくわぬ顔をしておりますと、やがて迂回に迂回をかさねた末、この古びた廃館があたしたちの眼前にのっとあらわれるのでした。するとダルヴィルは騾馬を乗り捨て、あたしにも降りるように言い、二頭とも宿屋の番頭に返してしまうと、金を払い、もう帰ってよろしいと命令しましたが、これがまたあたしを非常にいやな気分にさせたのでした。ダルヴィルはあたしの戸惑った表情を見てとると、
「どうしたんだね、ソフィー」と声をかけて、あたしとならんで歩きながら、「ここだって、フランスの国外というわけじゃないんだぜ。この城館はドーフィネ州の国境山中にありとはいえ、やはりれっきとしたフランス領には変わりないんだ」
「それはそうでしょうけれど」とあたしは答えました……「よくこんな物騒な場所に定住なさる気になれたものですね」
「なに、物騒だと、ばかを言え」とダルヴィルは、家に近づくにつれて、陰険な目つきをあらわにして、「ここが物騒な場所であるものか。もっとも、醇風美俗の場所でないこともたしかだがな」
「まあ旦那さま、おどかさないでくださいまし、それじゃあいったい、これからあたしたちの行くところは……」
「これからお前の奉公しに行くところは、贋金《にせがね》つくりの家さ。わかったか、このぽんつく[#「ぽんつく」に傍点]め」と言うとダルヴィルは、あたしの腕をぎゅっとつかんで、むりやりに跳ね橋を渡らせましたが、橋はあたしたちが渡ってしまうとすぐまた跳ねあがりました。そうして中庭に人ると、「そら、この井戸をごらん」とダルヴィルはあたしに、門のそばにある大きな深い雨水溜めを示しましたが、そこでは鎖につながれた裸の女がふたりして車を動かしては、貯水槽に水を汲み入れておりました。
「あれがお前の仲間、これがお前の仕事さ。日に十三時間、精出してこの車を回していればよし、怠けでもすりゃ、そのたんびにしかるべく打擲《ちようちやく》されると思え。一日の給食は黒パン六オンスとそらまめ一皿だ。自由になろうなんぞと、ゆめさら思うなよ、ここへ来たのが運のつきなのだ。もし疲労の果てにくたばれば、それそこの、井戸のとなりにある穴の中に投げ込まれる。もうすでに三、四十人がとこ投げ込まれているのだ。お前の後釜《あとがま》にゃ事欠くまいよ」
「後生でございます、旦那さま」とあたしはダルヴィルの足下に身を投げ出して、「どうか思い出してくださいまし、あたしはあなたさまの命を救ってさしあげたのですよ。それに、つい先刻までは、あなたさまもあたしに感謝しておられるようだったじゃございませんか、ほんとに、こんなことになろうとは思いもかけぬことで」
「お前さんは感謝というものでおれを束縛することができたつもりらしいが、そもそもこの感謝の念とはなんだ、とおれはききたいね」とダルヴィルは反問して来ました……
「理屈を言うならもっとうまく言うがいい、おばかさん。いったい、おれの生命を救ってから、お前さんはどうしたんだ? 自分ひとりで旅をつづけることと、おれといっしょに来ることとのあいだで、お前さんは後者を、みずからの気持ちの動きにしたがって選んだのじゃないか? だから、言ってみればお前は、進んで自分の好きなことをしたまでの話だろう? そして、お前が自分の意志でかってにしたことなら、おれがそのことでお前に恩返ししなきゃならん理由はどこにあるんだ? だいたいおれのような豪奢《ごうしや》な暮らしをしている男がさ、百万以上もの大金持ちになって、これからヴェニスで気楽に暮らそうとしている男がさ、お前ごとき貧乏人に負目《おいめ》をつくるほど身を落とすなんて、お前さん、考えられるかね?
お前はなるほど、おれの生命を救ってくれたよ、しかし一たびお前が自分のために行動したとなれば、その時からおれはもうお前には何の負目もないのだ。さ、働くがいい、奴隷めが、働くがいい! そうして、文明というものが自然の制度をくつがえしつつも、その法則まで奪うことはできなかったことを知るがいい。自然は当初に、強者と弱者とをつくったのだ。そして自然の意図は、あたかも羊がライオンに、虫けらが象につねに支配されているごとく、弱者はつねに強者に支配されるということだった。むろん、人間のずるさや知恵は個人の地位というものを変化させた。すなわち人間の身分を決定するものは、今日もはや腕力ではなく、富が生むところの力である。もっとも富める者がもっとも強い者となり、もっとも貧しい者がもっとも弱い者となる。しかし権力の基礎となるもろもろの動機をのぞけば、弱者にたいする強者の優位はやはり依然として自然の法則の中にあり、弱者をつなぐ鎖は富者あるいは強者の手にするところであって、それが弱者あるいは貧者を圧《お》しひしぐという、この関係は相も変わらぬものなのだ。
ところでお前の要求する感謝の念だがね、ソフィー、自然はそんなものの価値をみとめてやしないよ。自然の法則の中には、ある者が他人の世話をするという快楽にふけったがために、その世話を受けた者が相手に行使し得る権限を譲歩しなければならない、などという定まりはないのだ。いったい動物が、感謝などという感情を楯にとるのを、お前さん見たことがあるかね? だから、おれが財力および腕力でお前さんを支配するとき、おれの権限をお前さんに押しつけるのは当然というものだよ。なぜってお前はあくまでお前自身のために働いたのだし、おれに奉仕したことだって、結局は自分のためにする方便だったのだものな。
だが、よしんば奉仕が対等に果たされたとしても、一たび頭をもたげた自尊心は、けっして相手の感謝報恩によってくじかれるものではなかろう。つまり他人から奉仕を受けた者は、永久に屈辱的な地位にとどまらなければならないのではないか? そして一たび受けたこの屈辱は、どんな弁償によってもけっして相手を十分に報いることができないのではないか?――一歩進めて、優越者の地位に立つことは、自尊心をくすぐる快楽なのではないか? 恩をほどこす者には、自尊心ならざる何か別のものが必要とされるべきではないか? もし相手の自尊心をくじかざるを得ない態の恩恵が、相手にとって重荷でしかないならば、いかなる権利によってこの恩恵に報いることを相手に強要することができるのか? なぜおれは、恩人の眼がおれを見るごとに、進んでみずからを卑しめることに甘んじなければならないのか?
かるがゆえに忘恩というものは、悪徳ではなくて、あたかも親切が弱者のもとにあって美徳と見なされ得るように、みずから恃《たの》むところの強い者にあっては、まごうかたなきひとつの美徳なのだ。奴隷がその主人に親切を乞いねがうのは、これを必要とするからだが、一方主人はその気まぐれと本然の気質とによってみちびかれているので、自分の役に立つこと、あるいは自分の気に入ることにしか応じる必要がない。それが自分の楽しみだというのなら好きなだけ恩恵を施すがいいが、楽しんだ上にさらに相手に要求するなどとあっては、もってのほかだ」
こう言うとダルヴィルは答えるすきを与えず、すぐさま二人の下僕に命じてあたしをとらえさせ、衣服を剥ぎとり、ふたりの女といっしょに鎖につないでしまったので、あたしは長い旅の疲れを癒やすひまさえなく、その晩から作業につかねばなりませんでした。ところがこのつらい車井戸の仕事についてから十五分とはたたないうちに、一日の仕事をおえた贋金つくりの一味徒党が先頭に頭《かしら》を立てて、あたしを見るためにぞろぞろ井戸のまわりにやって来ると、てんでにあたしをからかったり、あわれな肉体に罪なくして押された例の汚辱の烙印に関して、無遠慮なことを言ったりしはじめました。あたしのそばに近く寄って、あたしの身体じゅうを乱暴になでまわしながら、意地のわるい冗談を飛ばしたりする者があるかと思うと、また白日のもとに隠し切れないあたしの肉体のあらゆる部分について批評を加えたりする者もありました。
このつらい一場がどうやら過ぎると、人々はあたしのそばをやや遠ざかりましたので、何がはじまるのかと思っているとダルヴィルが、そのときまで手近な場所に投げ出されてあった、馬車屋の用いる鞭を拾いあげ、渾身《こんしん》の力をこめてあたしの身体じゅうを五回六回痛打しながら、
「お前が勤めを怠るときは」とこう言うのです、「よくおぼえておけ、こういう目にあわしてやるから。今回はなにもお前が怠ったというわけじゃないがね、怠る者がどういう目にあうかを見せてやるまでさ」
一打ちごとにあたしの皮膚はかすめ取られました。いままでブルサック侯爵の手からも、残忍な修道士たちの手からも、こんなに激烈な苦痛をあたえられた例とてはなかったものですから、あたしは雨とそそがれる笞《しもと》の下で身もだえしつつ、かん高い叫び声をあげないわけにはいきませんでした。するとそれが、あたしの身もだえと呻きとが、この有様を見物している怖ろしい人々の群れを呵々大笑させるのです。そこであたしは今さらのように、復讐や破廉恥な肉欲の衝動によって行動している人間というものが、他人の苦痛をよろこぶことができるなら、単なる自尊心の満足や奇怪な好奇心以外に別に動機らしい動機もなくして、同じ快楽を味わえるほどに強につくられた別誂えの人間というものが居たっていいはずだ、という冷酷な事実を思い知りました。これを要するに、人間とは生まれつき性悪なのです、逆上しているときと冷静なときとを問わず、そうなのです。いつの場合においても、だから相手の不幸は当人にとって、呪いにみちた快楽になるのです。
牢獄のように閉ざされた、三部屋にわかれた暗い茅屋がこの井戸のそばに立っていましたが、あたしを鎖につないだ下僕のひとりは、これがお前の部屋だと言って、その一つをあたしに示しました。あたしは給食の水と、そらまめと、パンとを受け取ってから、その部屋に入りました。ここで、あたしはやっとくつろいで、自分の置かれた立場の怖ろしさをしみじみ考えることができました。
――いったいぜんたい、とあたしは自問しました、身内におぼえた感謝の念を圧し殺してしまうほど野蛮なひとがあるものかしら? あたしがもし正直な相手に感謝しなければならない立場だとしたら、それは嬉々としてこの美徳にふけったことでしょうに……そもそも感謝という感情が人間に忘れられてしまうことが、あり得るものかしら? この感情を冷酷に圧し殺してしまえる人は、だから、やっぱり怪物というよりほかないんじゃないかしら?
涙ながらに、このような思いにふけっていると、いきなり土牢の扉があくので、見るとダルヴィルです、一言半句の挨拶《あいさつ》もなく、照らしていた蝋燭《ろうそく》を床に置くと、野獣のようにあたしに襲いかかって来ました。そして、あたしのこころみる必死の抵抗を邪慳《じやけん》にはねつけると、有無を言わせずその欲望に屈服させようとしますが、あたしの心は依然かたくなな抵抗をつづけます。が彼はそんなことには頓着せず、一方的に野蛮な満足を得ると、ふたたび蝋燭をもって、扉をしめて、出て行きました。
――やれやれ、とあたしは思いました、これ以上極端な暴行というものがあるだろうか? いったいこれでは、森にすむ野生の動物ともえらぶところがないではないか?
ともあれ、こうして一睡もできぬうちに太陽がのぼり、土牢の戸があくと、あたしたちはふたたび鎖につながれ、悲しい仕事につかねばなりませんでした。ふたりのあたしの仲間は、二十五から三十くらいの娘で、苦しい仕事にやつれ、過重な肉体労働に体がひん曲がっておりましたが、かつての美しさの名残りがまだ残っておりました。体は美しくすらりと均斉がとれていて、ひとりはまだふさふさとしたみごとな髪の毛の持ち主でした。彼女らの悲しい物語によれば、ふたりともある時期にはダルヴィルの情婦であったわけで、ひとりはリヨン生まれ、ひとりはグルノーブルの出身であったのが、このおそろしい隠れ家に連れて来られ、それでも数年のあいだはダルヴィルと同じ格の待遇を与えられていましたが、やがて絞り取られた快楽の代償として、この屈辱的な仕事につくことを余儀なくされたのでした。
また彼女らの語るところによれば、ダルヴィルには現在もひとり大そう美しい情婦がいて、これはたぶんダルヴィルについてヴェニスに行くはずなのでした。最近スペイン国内に流したかなりの金額が、首尾よくイタリア向けの為替《かわせ》手形になってもどって来たならば、ダルヴィルはすぐにもヴェニスに立つつもりだったのです。彼はヴェニスへ現金を持って行くことを好まず、ぜったいに送金しませんでした。彼が贋貨幣を流そうとした取引店は、これから自分が住もうとしている国すなわちイタリアのそれではなかったのです。つまり、定住しようとする国以外の国家の発行する手形を持って、彼は当地におもむく気なのでした。こうすることによって彼の策略はいっかな露見せず、財産はつねに無事安泰というわけでした。とはいえ油断は一瞬たりとも禁物、当てにしている戻り手形は一にこの最近の取引にかかっているのであって、彼の財産の大部分がそこに投じられているのでありました。もしカジスの取引先が彼の贋ピアストルと贋ルイとを引き受けて、ヴェニスで支払われるべきりっぱな証券にして送り返して来たならば、彼の余生は多幸というわけでしたが、一方、もし詐欺行為が暴露した場合、彼は悪事を告発されて、当然絞首刑にならねばならないはずでした。で、あたしはこの顛末《てんまつ》を聞き知ると、
――まあ、と思わず心の中に思いました。神さまはきっと正義の味方をしてくださるわ、あんな非道な男が成功してたまるものですか、きっとあたしたち三人の仇を討ってくださるわ……
お昼ごろに二時間の休憩があたえられ、あたしたちはそれぞれ別々に自分の部屋に行って、ほっと一息つくと食事をし、二時にはまた鎖につながれて、そのまま夜まで車をまわしつづけましたが、夜になっても城館の内へはけっして入れてもらえませんでした。あたしたちが一年の五ヵ月間裸でいなければならない理由は、はげしい労働のために耐えがたい暑さをおぼえるためと、それから仲間たちの明言したところでは、残忍な主人がときどき加えに来る鞭打ちを有効にきかせるためのものでした。冬場にはズロースとぴっちりした肌着を与えられましたが、これは身体じゅうを窮屈にしめつけるような着物で、残酷な主人の鞭打ちに容易に肌身をさらすことができるような仕掛けでありました。
ダルヴィルはこの日はすがたを見せませんでしたが、深更に至ってあらわれ、昨晩と同じことをして行きました。そこであたしがこの機を利用して、つらい生活の改善方を懇願すると、この人非人の言うことには、
「なんの権利があってお前はそんなことを言うのだ? おれが一刻《いつとき》お前と乳くり合う気まぐれを抱いたからかね? だが、おあいにくさま、おれはお前になんらかの代償を要求されるような、やさしいあしらいを特に要求した覚えはないよ。そうとも、おれはお前になにも要求しはしない……おれの眼中にはただお前にたいして行使し得る権力あるのみ、結果は当然、相手のおれにたいする要求をも無効とするね。おれの行為には愛情なんぞこれっぽちもない、こいつ、おれの心のてんからあずかり知らぬ感情さ。おれが必要に迫られて女を使うのは、ちょうど物を入れる必要がある時に器《うつわ》を使うようなものでな、どだいおれの金と力とがおれの欲望に相手を屈従させるのに、愛情も尊敬もあったものではなかろう。要するにおれがすることはおれ自身にしか負目がなく、おれは女に服従以外の何物も要求しはしないのだから、したがっておれはいかなる感謝をも女にする必要がないというわけさ。いわば、森の中である男から財布を強奪した屈強の泥棒が、いま犯した悪事のお礼をしなければいけないというようなもので、女にたいする暴行の場合もこれと同断さ。それは第二の暴行をするための理由になるかもしれぬが、代償をあたえるための理由にはけっしてなり得ないね」
こう言い残してダルヴィルは、情をとげるが早いか、ぷいと出て行ってしまいました。そこであたしはまたしても考え込んでしまいましたが、それは奥さまもお察しのごとく、けっして彼の言葉に感心してからのことではございません。夕方になるとダルヴィルはあたしたちの仕事ぶりを見に来て、いつもの量だけ水が汲み上げられていないのを知るや、馬車屋の鞭をとって、あたしたち三人を血が出るまで打ち据えましたが(そしてあたしも他の者と同様容赦されませんでしたが)、それでもその晩、彼は前夜と同様の振舞いをしに、あたしのところへ忍んで来るのでした。
あたしは傷だらけにされた躯をみせて、もう一度、いつか自分の着物を裂いて、彼の傷を縛ってやったときのことを思い出させてやろうとしましたが、夢中で楽しんでいるダルヴィルはさまざまな罵詈《ばり》でこれに答えたきりで、いつものように思いをとげるや否やさっさと行ってしまったものです。こうしたことが一月あまりもつづいた後、あたしはやがて彼の欲望の玩弄物になる苦痛だけはせめてまぬかれることを得ましたが、生活は依然として変わりなく、とりわけ酷遇も受けなかったかわりに、とりわけ好遇も受けませんでした。
こんな情けない状態のままで一年ばかり過ぎたころ、この家にある知らせがつたわりましたが、それはダルヴィルの取引が成功して、望みどおりヴェニス向けの多額の為替手形が手に入ったばかりか、さらに数百万の贋貨幣を融資してくれれば、以下お望みだけ手形にして振り出すという、取引先の要請まで添えられた知らせで、これ以上思いがけない大当たりの成功はとても考えられません。神さまがあたしに見せてくださった、悪の栄え善の滅びる教訓の、これが新しい範例であり方式でありました。
旅の準備にいそがしかったダルヴィルは、出発の前日、夜更けてからあたしのところへやって来て――こんなことはもう大分前からなかったことですが――取引の成功の話や、旅立ちの話を自分であたしに語って聞かせるのでした。あたしは彼の足許に身を投げて、それではどうか自由の身にしてください、グルノーブルまでの旅費を少しくお恵みくださいと夢中になって頼みました。
「グルノーブルへ行って、お前はおれを訴える気だろう?」
「そんな、旦那さま」とあたしは相手の膝を涙でぬらしながら、「誓ってそんなことはいたしませぬ。それでもうそだとお思いでしたら、せめてヴェニスへでも連れて行ってくださいませ。おそらくヴェニスは、あたしの故国のように、不人情なひとたちばかりのいるところではございますまい。連れて行ってくださりさえすれば、あたし、すべての聖なるものにかけて誓いますが、けっしてご迷惑はおかけしません」
「おれはお前に施し物はおろか鐚《びた》一文やる気はないよ」とこの稀代の詐欺師は無情に言いました、「施しとか喜捨とかいうものはすべて、おれの性格にまったく合わないのでな、かりにいまの三倍おれが金持ちであったとしても、ひとりの赤貧者に半ドニエの金も恵みはしないだろう。こういう決意の上に打ち建てられた堅固な主義をおれはもっているわけで、この主義からはずれる気はもうとうないね。貧乏人は自然の秩序の中にいるのさ。不平等な力をそなえた人間というものをつくることによって自然は、われわれの文明が自然の法則をいかほど変化させようとも、この不平等が永久に残ることをみずから証明したのさ。
すなわち、前にも言ったと思うが、自然の秩序において、弱者が貧者に席をゆずったのだな。だから、貧者を救おうとすることは、確立された秩序を破壊すること、自然の秩序に抵抗すること、もっとも崇高な自然の調和の基礎をなすところの平衡を乱すことにひとしい。またそれは、危険な平等という旗印をかかげて、社会のために働きかけること、無為と怠惰とを奨励すること、もしも金持ちが貧民救済を拒否するならば、金持ちの私物を盗むがいいと貧者に教えること、そしてもしも貧民救済が実現すれば、働かずして救済を得る習慣を彼らにつけさせること、等々にひとしい……」
「ああ、旦那さま、何とまた冷たい主義でございましょう! あなたさまだって、昔からお金持ちでいらしったわけではございませんでしょうに?」
「もちろんさ、昔から金持ちでなんぞあるものか。だが、おれは運命を制御することをおぼえた、首っ吊りと施療院行きが関の山の、辛気くさい美徳の幽霊を足下に踏みにじることをおぼえた。宗教と慈善と人情とは幸運を熱望するすべての者にとって、確実な邪魔物でしかないことを早くから理解した。そしておれは、数ある人間の偏見の残骸の上に、おれの幸運を打ち建てた。おれは神と人間の掟を嘲笑し、行手に邪魔物としてあらわれる弱者はすべてこれを犠牲にし、他人の善意と信頼とをことごとく裏切り、貧者を滅ぼし金持ちを盗み、かくすることによって、おれの礼拝する神の鎮坐する険阻な寺院に登りつくことを得たのだ。しかるにお前はどうだ? どれだけおれと似ているかね? お前の幸運もかつてはお前の手中にあったのだ、しかし、お前の選んだ幻影にひとしい美徳なるものは、お前の払った犠牲を慰めてくれただろうか? もう遅い、あわれなやつめ、もうおそいよ。うんと泣くがいい、お前がわるいのだ、苦しむがいい。そして、幻影にとらわれた身にそれが可能ならば、せいぜい努力して、お前の盲信が失わせたものを取り返そうとするがいい」
翌日出発の前にこの悪漢は、またしても残酷と野蛮の一場をあたしたちにたいして演じましたが、それはかのローマ皇帝アンドロニクス、ネロ、チベリウス、ボヘミア王ヴィンセスラスの年代記にも例のないほどすさまじいものでした。みんなは彼の情婦も同行するものと思っていましたから、彼女のために出立の準備をしてやっておりますと、いよいよ馬に乗るという間ぎわになって、ダルヴィルはあたしたちの方に彼女を連れて来て、
「さあ、お前の持ち場だ、すべた」と言うなり、裸になることを命じます、「仲間たちにおれのことを思い出してもらうために、おれは自分がいちばんほれていると彼らに思われていた女を担保として残して行こうと思うのだ。ところで、ここには三人しか人数がいらない……そこで、ちょいと物騒な方法ではあるが、おれのピストルが物の役に立つか否かを、お前たちのうちの一人で試してみようと思う……」
こう言うと、手にした一挺に弾丸をこめ、車をまわしている三人の女たちのひとりひとりの胸にそれを擬して見てから、ようやくかつての情婦のひとりに狙いをさだめ、「それ」と一声、彼女の頭を撃ち抜いて、「よいか、おれの言葉を冥土《めいど》の土産《みやげ》にするがいい。閻魔《えんま》大王にこう伝えよ、この世の悪人中のもっとも富める者ダルヴィルは、もっとも誇りかに神の手と人の手とに挑戦するものである、とな」
不幸な女はすぐには事切れず、永いあいだ鎖の下でもがいておりました。まことに怖ろしい光景でしたが、人非人はそれをさも心地よげにながめておりました。最後に死んだ女をどけて、その位置に最前の情婦をつかせましたが、三、四回ぐるぐる車をまわさせてみたかと思うと、馬車屋の鞭で十幾つも彼女を打ち据え、それが終わると、この憎むべき男はひらりと馬に乗り、二人の下僕を従えて、永久にあたしたちの眼の届かないところへとっとと行ってしまったのです。
ダルヴィルが出発した翌日から、すべてが変わりました。後任者はおとなしい物わかりのよい男で、あたしたちを即刻解放してくれました。
「これあ、女のする仕事じゃないやね」と彼は親切に言ってくれるのでした、「こいつあ、牛か馬にやらせる仕事だよ。おれたちの商売は神さまに不敬をはたらくものじゃねえが、無報酬でなぐる蹴るたあ、ずいぶん罪なことにちげえねえ」
そして彼はあたしたちを城館の内へ入れてくれ、ダルヴィルの情婦には、べつに下心もなく、前に彼女が采配をふるっていた家事いっさいのめんどうをふたたび見ることができるように取りはからってやりました。おかげであたしは、一人になってしまった仲間といっしょに仕事場で貨幣の仕上げをやらされましたが、これは言うまでもなくずっと骨の折れない仕事で、おまけに快適な部屋とおいしい食事が支給されます。二ヵ月たつとダルヴィルの後任者――ローランという男でした――は、仲間が無事ヴェニスへ着いたことをあたしたちに知らせてくれました。ダルヴィルはヴェニスにおちつき、巨額の富を手に入れ、かつて思い描いていたとおりの繁栄を楽しんでいるとのことでした。
ところがダルヴィルの後任者の運命は、大ちがいでした。気の毒なローランは、あまりにも律儀者であったがために、あっという間に身をほろぼしてしまいました。ある日、城館内はひっそりと静まり、この良き頭《かしら》の指揮下に仕事がすらすらと順調に運ばれていたとき、突如として城壁が包囲され、架橋してない壕《ほり》が乗っ取られ、そうして悪人どもが防戦を考えるひまもあらばこそ、百騎あまりの乗馬憲兵隊によってみるみる家内が占領されてしまいました。手も足も出なかったわけで、あたしたちはひとり残らずけもの[#「けもの」に傍点]のように縄をかけられ、馬の尻にくくりつけられて、グルノーブルの町へ連れて来られました。
「ああ情けない」とあたしは町の門を過ぎるとき、こう思いました、「あそこへ行けばよいことがあるにちがいないと信じていたけれど、なんてばかなこと、それがこの町なのだわ……」
名判官S…氏のこと
贋金つくりの一味の裁判はまもなく判決を受け、全員が縛り首を言い渡されました。役人はあたしの肩に押された烙印を見ると、ろくに尋問もしないで、みんなと同じ宣告をくだそうとしました。が、そのときあたしは例の名高い司法官――この裁判所きっての名奉行であり、公平無私な愛される市民であり、見識の高い哲学者であり、かつまた、その善行と慈愛とによって、ミューズの母なる記憶の神ムネモシネーの殿堂に、尊敬すべき名が永遠に刻みつけられるべき名判官である――S…氏に最後のお慈悲を賜わることを願って、ゆるされたのでございます。話をきくほどに彼はあたしの誠実と、真実不幸な身の上とを納得してくれ、涙を流して同情してくださいました。……ああ、りっぱなお方、あたしのもっとも大事なお方、どうかあたしの心からなる敬意をあなたに捧げることをお許しくださいませ。不幸な娘の感謝の念は、あなたにたいするかぎりけっして重い負担にはなりますまいし、あなたにささげる義務の念は、永久に不幸な娘のもっとも甘い喜びとなることでございましょう。
このS…氏自身があたしの弁護士となってくれたので、あたしの訴えは聞き届けられ、あたしの嘆きは人々の同情を得、そうしてあたしの涙は鉄のような固い心をも融かし、人々の義憤を発せしめたものでした。それに処刑されようとしていた罪人たちの供述が、そろいもそろってあたしに好意的で、それがいっそうあたしの同情者の熱意に拍車をかけたのです。であたしは誘拐された者として無罪を宣告され、完全に汚名をそそがれ無実の告訴を取りさげられて、待ちに待った自由をそっくり購《あがな》うことができました。それだけでもありがたいのに、あたしの保護者はさらに、百ピストルに近い醵金をあたしのために募ってくれさえしました。あたしはようやく予感があたって、幸福がやって来たのだと思いました。そうしてもうこれっきり不幸はおさらばだと単純に信じかけようとしたとき、神さまは、まだまだそうは問屋が卸さないことを、おろかなあたしの目に見せつけてくださったのでございます。
男爵夫人デュボワのこと
牢獄を出たあたしは、イゼール川の橋の向かいにある一軒の宿屋に身を寄せましたが、この家は待遇がよいというもっぱらの噂でした。あたしはS…氏の忠告どおり、しばらくここに落ち着いて町の中に職をさがすか、もしそれができなければS…氏の紹介状をもらってリヨンに舞い戻るかするつもりで、この宿屋の「定食席」と呼ばれる共同食卓で食事をすることにしておりましたが、来てから二日目のこと、いつものようにここで食べていると、大へん身なりのよい、みずから男爵夫人と名乗る一人のよく肥えた貴婦人が、じろじろあたしを穴のあくほど見つめだしたのに気がつきました。それであたしもよくよく相手を見直すと、なんだか見たことのある人のように思われ、あたしたちはお互いにどちらからともなく接近して、まるで旧知の仲のように抱き合ってしまいましたが、さてどこで知り合ったものだかとんと思い出せません。すると肥った男爵夫人はあたしを傍らに引っぱって行って、
「ソフィーちゃん、あんたはもしや」と言い出しました、「もしやあんたは、十年前あたしがパリの監獄から救い出してあげた、ソフィーちゃんじゃなくって? あんたはデュボワを忘れてしまったの?」
言われて思い出しはしたものの、あたしにとってはこれはあまりうれしい出会いではなく、でもお礼だけはていねいに言いました。がなにしろ相手はフランス一の狡知《こうち》にたけた、名にし負うしたたか者のこととて、のがれる手だてはありません。いろいろと親切なことを言ってくれましたが、町じゅうが騒いでいたあたしの裁判には彼女も非常に関心をもっていたのだけれど、その話題の本人があたしだとは少しも知らなかったそうです。こうして、例によってあたしの薄志弱行は、乞われるままに彼女の部屋に連れて行かれ、そこで不幸な物語の一くさりを話して聞かせることになりました。聞きおわるとデュボワは、
「ね、いいこと」と言って、もう一度あたしに接吻して、「いやに心安立てするようだけど、じつはあんたに聞かせたいことがあるの、それはあたしが財産家になったので、何でもあんたのお役に立ってあげられるということよ。
ちょっと見てちょうだい」と言って彼女はここであたしに、金やダイヤモンドのいっぱい詰まった手筥《てばこ》をあけて見せて、「あたしの苦心の結果が、このとおりよ。でも、もしあんたみたいに美徳に媚《こ》びていたら、いまごろは縛り首か禁錮刑になっていたでしょうけれどね」
「まあ奥さま」とあたしはびっくりして、「もしこれがみんなあなたの悪事の結果だとしたら、最後には必ず正義の味方である神さまは、きっとあなたをいつまでもそこに安穏とさせてはおかないでしょう」
「ばかなことをおっしゃい」とデュボワが言います、「神さまがいつも必ず美徳の味方だと思ったら大間違いよ、あんたもせめて一度でも幸運をつかんでいたら、そんなばかな考えから足を洗えるだろうと思うけれど。たとえばある人がせっせと美徳を積んでいるあいだ、別のひとがさんざん悪事にふけっていたからといって、神の秩序が維持されることにはなんの変わりもないわ。神にとっては、悪徳も美徳も同等の量だけ必要なの。善を行使する個人も、悪を行使する個人も神にとってはまったく無差別無関心な存在にすぎないのよ。
ね、ソフィーちゃん、あたしの言うことを、もすこし注意してきいてちょうだい。あんたは頭がいいんだから、最後にはきっとあたしの言うことをわかってくれるはずだと思うの。いいこと、人間を幸福にみちびくものは、美徳と悪徳とのあいだの二者選一ではないわ、だって、美徳も悪徳と同じく、この世における一つの身の処し方にすぎないんですものね。だから、問題は一方を捨てて他方につくということではなくて、普遍的な道を切り開くことでしかないのよ。そしてその道からはずれる者はつねに間違いであるということね。もしも完全に道徳的な世の中だったとしたら、あたしもあんたに美徳を積むことをすすめるわ、そういう世の中ならきっといい報いがあることでしょうし、まちがいなく幸福が約束されることでしょうから。でも、完全に腐敗した世の中だったとしたら、あたしは絶対に悪徳しかすすめないわ。だって、みんなと同じ道につかない者は、どうしたって滅びるしかない、出あう者すべてと衝突するしかない、そしてもしその人が力の弱い人ならば、どうしたって踏みつぶされてしまうよりほかないんですもの。
法律が秩序を回復しようとするのも、人間を正道に連れ戻そうとするのも、だから無駄なことなのよ。なにしろ法律自身が欠点だらけで、拘束力がほとんどないんだから、踏み固められた悪の道から束の間ひとを遠ざけることができたとしても、またすぐ元のとおりになってしまうの。人間が大多数の利益によって悪の道につき従っているのに、大多数とともに悪化することを好まない連中が、すなわち大多数の利益に反して闘《たたか》うことになるのでしょうけれども、いったい他人の利益につねに反対している人が、どんな幸福を期待することができるものかしらねえ? 人間の利益に反するものは悪徳だとあんたは言うかもしれないけれど、悪玉と善玉とが同等の数から成り立っている世の中でなら、それはそのとおりでしょう、なぜならそういう世の中では、一方の利益が明らかに他方の利益とぶつかるから。しかし全面的に腐敗している社会では、もうそんなことはないわ、つまりそういう社会では、悪玉にしか害を及ぼさないあたしのいわゆる悪徳は、悪玉の中にもそれを償う他の悪徳を想定せしめるわけで、両者ともけっして不幸にはならないの。たとえ両者間の動揺は絶えることなく、相互の衝突と侵害とはやむことがないといっても、おのおのは失ったものを一瞬にして取り返すことができるのだから、すぐに幸福な立場に自分を回復することができるわ。悪徳は善玉にとってだけ危険なものなのよ。なぜならば弱い臆病な者は思い切って何もできないんだから。でも善玉がこの地上からすがたを消してしまえば、悪徳はもはや悪玉をしか損いようがないから、誰も困る者はいなくなり、さまざまな悪徳の花が咲き乱れ、妙な偽善者なんてものはいなくなるでしょう。
もしかしたら人は善行の功徳《くどく》というものを持ち出して、あたしの言うことに異を唱えるかもしれないわね。でも、どっちみちそれが詭弁であることに変わりはないわ、だって、善行の功徳なんてものは弱者のためにしか役に立たず、みずからのエネルギーで自足している人、みずからの巧知のみを運命の気まぐれに抗するための武器としている人には、不要なものなんですもの。あんたはたえず大勢のつき従う道に逆行して来たんだから、全生活が暗礁に乗りあげてしまったとしてもふしぎはないわ。もしあんたが流れに身を任せていたら、あたしのように港に着くこともできたでしょう。川の流れをさかのぼる人が、流れをくだる人と同じに早く行けると思って? 一方は自然に逆行することを欲し、他方は自然に身を任せる……ところで、あんたは二言目には神さまを持ち出すけれど、いったい神さまが秩序を愛し、美徳を愛する者であると誰があんたに証明するの? 神さまはたえず不正と無秩序の手本をあんたに示しはしなかった? 表面いかにも美徳を熱愛しているように見せかけておいて、その実、神さまは人間に戦争とペストと饑饉《ききん》とを送り、どこから見ても欠点だらけな一個の世界をつくったのじゃなかった? 神さま自身悪徳によってしか行動せず、神の意志と所業とにおいてはすべてが不正と腐敗と罪と無秩序でしかないのに、どうしてあんたは悪徳の持ち主である人間が神さまにきらわれると思うの?
それに、あたしたちを悪に引きずりこむ衝動は、あれは誰から授かったものなの? 神の手から授かったものじゃない? いったいあたしたちの意志や感覚で、神から受けたものでないものがひとつでもあるの? またさらに、神が無益なものへの傾向をあたしたちに与えようとは、考えられないことでしょう? そこで、悪徳が神に有用なものだとすれば、なぜあたしたちはこれに反抗しなければならないの? いかなる権限で、これを破壊すべく努力しなければならないの? 悪の声に抵抗しなければならない理由はどこにあるの?……世界がもう少し進歩すれば、やがてすべては正しい場所を回復するでしょう。法律家や司法官も、自分たちがきびしく弾劾《だんがい》し懲罰するあの悪徳というものが、いつも口にはしているがけっして報いのやって来ないあの美徳などよりも、時にはずっと大きな効用をもっていることを悟るようになるでしょう」
「でも奥さま」とあたしはこの堕落女に答えました、「あなたのおそろしい主義を実行するにはあまりに心弱いあたしなどの場合、たえず心に生まれる後悔の念をどう抑制したらよいのでしょう?」
「後悔なんて真昼の幽霊みたいなものよ、ソフィー」とデュボワは引きとって、「思い切って撲滅《ぼくめつ》してしまうことのできないほど心弱い人が口にする、それは阿呆らしい繰り言にすぎないわ」
「撲滅してしまうなんて、そんなことができるものでしょうか?」
「これほどやさしいことはないわ、ひとは慣れないことにしか後悔を感じないものよ。後悔するようなことがあったら、何度でもやり直してみるがいいわ。そうすりゃしまいにはそんな感情は消えてしまうわ。それでもだめなら、情欲の炎やはげしい我欲の衝動でこれに対抗してごらんなさい、みるみる影がうすくなってしまうわ。元来この後悔という感情は、罪そのものをあらわすものではなくて、ただこれを制圧できないほど弱い一個の魂をあらわすものでしかないのよ。たとえば、たった今この部屋を出ることを妨げるある愚劣な命令があるとすれば、かりにここを出ることが少しも悪いことでないことがたしかにわかっていたとしても、なお後悔なくしてこの部屋を出て行くことができない、といったようなものよ。
だから、後悔をあたえるものは罪だけであるといったような考えは、本当でないわ。罪というものがいかに空疎なもので、自然の全体的意図から見れば、それが必要でさえあるということを十分知れば、罪を犯すことで覚える後悔の情も容易に克服することができるでしょうよ。ちょうどこの部屋にとどまっていなければならないという不法な命令を犯して、この部屋を出るとき覚える後悔の情が、一度出てしまえば容易に消え去るものであるようにね。まず人間が罪と呼んでいるものの正確な分析からはじめる必要があるわ、そうして、彼らが罪というような言葉であらわしているものが、じつは人間の義務や民族的風習の侵犯にほかならず、フランスでいう罪なるものが、数百里のかなたでは必ずしも罪でないこと、全世界津々浦々であまねく罪と見なされるような行為は現実にはけっして存在しないこと、したがって、正しく罪の名に値するようなものは実際にはなく、すべては世論と風俗習慣によって左右されるものでしかないことを、納得する必要があるわ。
はたしてしからば、よそでは悪徳でしかない美徳を行なおうとして汲々としたり、ほかの土地では善行である罪をのがれようとしてけんめいになったりすることは、じつになんともばかばかしいことじゃないかしら。そこで、ちょっとあんたにきいてみたいことは、シナあるいは日本で美徳と見なされていることを、自分の快楽あるいは利害のために、フランスで犯して心ならずも罪人となった人は、いままでの考察をじっくり吟味した場合、はたして後悔の感情を抱き得る余地があるかどうかということね。はたしてこの人は、自分の身にあたえられた卑しい差別待遇に満足するかどうか、少しでもしっかりした考えの人だったら、後悔なんかこれっぽっちも感じないのではないか?……要するに、後悔というものが禁止のためにあるもの、抑圧の隙間から生ずるものにすぎず、けっして行為の結果ではないとすれば、これを自己の内に保存することは賢明な方法であるだろうか、これを撲滅してしまうことこそ肝心ではなかろうか、ということね。
後悔の念を喚び起こす行為と、後悔そのものとはべつに関係がないのだと思うことに慣れる必要があるわ。世界のあらゆる国々の風俗習慣を十分研究して、それによって行為の善悪を判定する必要があるわ。そして、この論究の結果としては、それがどんな行為であろうと、できるだけ頻繁に繰り返してみる必要があるわ。そうすれば、理性の炎はついに後悔などという、無知と無気力と教育の唯一の賜物である、この暗黒の衝動をたちまち亡ぼしてしまうことでしょう。
ソフィーちゃん、悪徳と罪とがつねに手に手を取って、一歩一歩あたしを幸福に導きはじめてから、もう三十年、いまようやくあたしはそこへ達したのよ。そして、もうあと一息で、あたしは生まれ落ちたときのみじめな乞食の状態から、年金五万リーヴル以上の富裕な身分にのしあがるところなのよ。でも、このめざましい生涯の遍歴において、一瞬たりともあたしが後悔のとげ[#「とげ」に傍点]にわが身を刺されたことがあったかしら? ないわ、そんなことは一度もなかったわ。そりゃそうよ、もしそうでなかったら、あたしはおそらく現在栄光の頂点にいるどころか、破滅のどん底に沈んでいて、人類をうらんだり、自分の不器用をなげいたりしていなければならなかったでしょうからね。でも、ありがたいことにあたしの心は当分現状に安んじているようだわ」
「あなたはそうでしょう、でも、あなたと同じ哲理に立って、一言あたしにも言わせてくださいませ。いったいあなたは、子供のころからさような偏見を克服することに慣れていなかった弱いあたしが、あなたとおなじく堅固な心をもたなければならないと、いかなる理由でおっしゃるのですか? あなたと同じようにはつくられていないあたしの精神が、あなたと同じ主義を採用しなければならないと、いかなる理由でおっしゃるのですか? 自然には善と悪の一定量があり、したがって若干の善行を行なう人々と、悪事にふける別の階級とがあるということは、あなたも認めておられるとおりです。ですから、あたしが善をえらぶのは、あなたの原理から言っても、自然なものではございませぬか? それともあなたは、あたしの心が命ずる規則からはずれよとでも、おっしゃるのでしょうか? あなたがご自分のたどった生涯の中に幸福を見つけられましたように、あたしもまた、あたしの遍歴した生涯から以外には、これを見つけ出すよすがもないのでございます。それからまた、法網がこれを犯す者を永いこと安閑とさせておくなどというご意見は、筋が通りません。ついこのあいだ、あなたご自身親しくその例をごらんになったばかりではありませんか? あたしがいっしょに暮らした十五人の悪漢は、たったひとり逃げのびた者があったとはいえ、十四人が不名誉な死にざまをいたしました」
「だから不幸だと言うの? じゃ聞くけど、まず第一に、道徳心をもっていない人に、不名誉がいったい何なの? すべてを乗りこえた人、名誉が偏見に、名声が幻影に、未来が幻覚にすぎない人にとっては、刑場の露と消えるのも、畳の上で大往生するのも、同じことじゃない? 世の中には二種類の悪人がいるわ、運が強くてふしぎな勢力があって、けっして悲劇的な最期をとげない悪人と、つかまったら百年目、もう助からない悪人と。そしてこの後者はたいていもと貧民の出で、ちょっと才気のあるやつなら自分の将来に『幸運』か『車裂き刑』かぐらいの見通しはきっともっているわ。そういう人は、運よく成功すれば望みのものを得られるが、しかしまた不幸にして失敗したとしても、もともと失うべき何物もなかったんだから、何を未練に思うこともないというわけよ。
だから法律はすべての悪人にとって、なんの意味もないものなのよ。だって、権力のある人はそんなもの屁とも思わないし、運のいい人はうまくこれをのがれるし、武器を取って闘うよりほかに手のない不幸な悪人にしたところで、けっしてこれを怖れているのではないわけだから」
「まあ。でも、たとえこの世で罪を怖れなかった人も、死後の世界では神の正義をまぬかれることはできないのじゃございませんか?」
「あたしはね、もし神というものが存在するならば、地上にこんなに悪がはびこるはずはないと思うのよ。また地上に悪が存在するならば、この混乱は神が必要によって生ぜしめたものであるか、しからずんば神の力をもってしても如何《いかん》ともすることのできないものなのか、どちらかだと思うのよ。だから、あたしはこんな弱虫か、さもなけりゃ意地わるな神というものをちっとも怖れず、平気でこれに挑戦したり、あざ笑ってやったりするわけなのよ」
「あなたのお話をきいていると、あたし、ぞっといたします奥さま」と言ってあたしは立ちあがり、「ごめんください、あたしもうこれ以上、あなたの不愉快な詭弁と涜神《とくしん》の言葉とを聞くにたえません」と出て行こうとしますと、
「ちょっとお待ち、ソフィー。理屈で負かすことができなけりゃ、せめて魂で誘惑してやろう。あたしはね、あんたが必要なんだよ。あんたの助力がね。まさかいやだとは言うまいね。ここに百ルイある、あんたの目の前にならべておくわ、うまく行けばそっくりあんたのものよ」
あたしは善行を欲する自分の生まれつきの傾向にしか耳をかさないつもりで、もしデュボワが罪を犯させようというなら全力をあげてこれを阻止しようと、いったい何のお話ですかと、短兵急に彼女にききました。すると彼女が、
「こうなのよ」と言って語り出した話は、「三日前からあたしたちといっしょに食事をしているリヨンの若い商人に気がつかなかった?」
「あの、デュブルイユさんのことですか?」
「そうそう」
「で?」
「あの男はあんたにほれてるよ。自分であたしにそう言ったわ。あの男はね、寝台のそばに置いてある、ごく小さな手筥の中に、金貨や証券で六万フランももっているのよ。だからあたしはあの男にね、うまくやれば、あんたがきっとなびくからと言ってやるわ。実際になびくなびかないは、どうでもいいことよ。あたしは彼に、あんたを町の外へ散歩につれ出して、そのあいだに話をつけたらいいでしょうと、けしかけてやるわ。あんたはただ男のうれしがるようなことを言って、できるだけ永く彼を外に留めておけばいい、そのすきにあたしが盗むからね。でもあたしは逃げやしないよ、まだグルノーブルにいるうちに、盗んだものはごっそりトリノへ送ってしまうのさ。
あたしたちはみんなに変な目で見られないように、できるだけのことをしなければね。デュブルイユといっしょに、捜査に協力するふりもしなければね。そうこうしているうち、あたしが出発するということをやっと言い出せば、彼もあやしみはしないわ。追っつけあんたも出発する、そしてピエモンで落ち合ったら、百ルイはあんたのものよ」
「やりますわ、奥さま」とあたしは、不幸なデュブルイユの身に加えられようとしているけしからぬ悪事を、どうしても未然に彼に知らせてやらなければならぬと思って、こう言いました。
それからこの女泥棒の得心を買うために、
「でも奥さま」と付け加えました、「もしデュブルイユが真実あたしにほれているのなら、あたしは男に告げ口するか身を売るかして、あなたの提供するちっとばかしのお金よりも、ずっと多くをせしめることだってできようはずじゃございませんか?」
「なるほどね」とデュボワは真に受けて、「たしかに、こいつは下手をすると、あんたの方が役者が一枚上かもしれない。まあ、いいわ」そう言ってペンをとって、「はいよ、千ルイの小切手だよ。これでもあたしの言うことがうなずけないかい?」
「どういたしまして、そんなことはございませんよ」とあたしは小切手を受けとると、「でも奥さま、こうしてあなたの言いなりになってしまったあたしの弱さ、あたしの罪を、せめてみじめな境遇のせいにしておいてくださいませな」
「あたしはね、あんたの精神を高めてやりたかったのよ」とデュボワは言いました、「でもあんたは、自分が不幸だと言われる方がお好きらしいわ。ま、どうでもいいさ。あたしのために働いてちょうだい。わるいようにはしませんから……」
豪商デュブルイユのこと
こうしてすべての手はずが整うと、その晩からあたしはデュブルイユの気をひくような態度をちらちら見せはじめ、たしかに彼があたしにある種の関心を抱いていることを知りました。
あたしの立場は困難きわまるものでした。もとよりあたしは、たとえ彼がいまの三倍の金持ちであったにしても、持ちかけられた悪事に荷担する意志などはさらさらなかったのですが、さりとて十年前に命を助けてもらった女を絞首台に送りこむことも、やはりできかねました。彼女を告発することなく犯罪を未然にふせぐことをあたしは考えましたが、その計画も相手がデュボワのような海千山千でなかったら、まず成功疑いなしというところでした。ところが、このにくらしい女の陰険な策謀は、あたしのせっかくの計画を根こそぎくつがえしてしまったばかりか、自分を裏切ったというかどであたしを懲《こ》らしめさえしたのですが、そこまで先は知らぬが仏、まあ、あたしの計画というのはこんなものでした。
予定の散歩をするという日、デュボワに招かれてあたしたちは彼女の部屋で食事をしましたが、食事がおわると、デュブルイユとあたしは門を出て、用意された馬車に乗りこもうとしました。そのときデュボワはついて来なかったので、あたしたちは馬車に乗りこむ前に、瞬間ふたりきりになる機会を得ました。で、あたしは大急ぎで、
「あの、ちょっとお耳に入れておきたいことがございます、どうかよくお聞きください、でもけっしてお驚きになりませんよう。そしてこれからあたしの申しあげることを、とくに厳重に守っていただきたいのです。この宿屋に、あなたの信頼できるお友達は、どなたかおられませんでしょうか?」
「うちの店の若い者がひとりおります、これはもう、私自身と同じくらい信用の置けるやつでして」
「ああ、それはよございました、ではさっそくその方に、あたしたちが散歩に出ている間じゅう、けっしてあなたのお部屋を立ち去らないでいるようにと、これから行ってお命じになってくださいませな」
「しかし、私はポケットにちゃんと部屋の鍵を持っておりますがね。なんでまたそんなに厳重を要しますか?」
「そんなことをおっしゃってる場合じゃありませんよ、あなた。どうかあたしの言うとおりにしてください、さもなければあたし、あなたとごいっしょいたしません。いまあたしたちが出て来た部屋の女は悪いひとで、あたしたちをいっしょに散歩に送り出そうというのも、そのすきにあなたの持ち物を盗む魂胆なのです。早く、あなた、あの女はあたしたちをうかがっておりますよ、何をするか知れたものではありませんわ。あたしはあなたに何にもしゃべらなかったようなふりをしましょう。あなたはいそいで鍵をお友達にあずけていらっしゃい、そうしてもしできたら、二、三人の加勢を連れて、あなたの部屋に頑張っているよう、あたしたちが戻って来るまで動かないでいるよう、よく頼んでいらっしゃい。あとは車に乗ってから説明いたします」
デュブルイユはあたしの意を解すると、手をにぎって感謝をあらわし、さっそく取って返して、あたしの勧告どおり手を打ちました。やがて戻って来て、あたしたちふたりは出発しましたが、道々あたしは自分の数奇な身の上話を語って聞かせました。あたしの尽力に必要以上の感謝を示したこの青年は、あなたの現状についてありのままを聞かせてほしいと言った末、しかし、どんな身の上話をうかがったにせよ、あなたに結婚の申し込みをしたいというこの私の気持ちが変わることはありますまい、と言うのでした。
「私たちは身分相応な相手ですよ」とデュブルイユはつづけて、「私もあなたのように商人の子です、ただ違うところは、私の商売がうまく行ったのに、あなたのお家は失敗した……私は運命があなたにたいして加えた損害を、償ってあげられるかと思うと大へんうれしいのです。よく考えてください、ソフィー、私はこれでも一本立ちの商人、誰の指図も受けない身です。あなたのおかげで助かった金額を、私はジュネーヴでちょっとした投資に使うつもりなんです。いっしょにジュネーヴに来てくださいませんか、向こうで結婚式をあげましょう。そして晴れてデュブルイユ夫人になって、リヨンに帰って来てください」
こんなうれしい申し出をされて、さすがにあたしもなかなか断わりにくかったのですが、やっぱり自分の性分として、相手にこんなことを言って悪かったかな、と思わせるような態度をとってしまうのでした。デュブルイユはそれをあたしの慎しみぶかさと思い、ますますしつこくあたしに迫ります……ああ、それにしてもあたしはなんという不幸な人間にできているのでしょう。目の前の幸福は、けっしてこれをつかみ得ないという悲哀を感じさせるためにだけ、あたしの前にあるもののようでしたし、あたしの不幸は天命によってはっきり定められていて、あたしは不幸に突き落とされることなく、たった一つの美徳の花も魂に咲かせることはできないかのようでありました! さて、とかくおしゃべりしているうちに、あたしたちはすでに町から二里ばかりのところへ来ていましたので、ここらで降りて、これからイゼール川のほとりの、木陰涼しい並木道をたのしく散策するつもりでおりますと、どうしたことか急にデュブルイユが、大そう気持ちがわるくなったとあたしに訴えるのです……とりあえず車を降りると、はげしい嘔吐が彼をおそいましたので、あたしはまたすぐ彼を車に乗せて、大いそぎでグルノーブルへ舞い戻りました。ところがデュブルイユはひどい状態で、部屋まで運んで行ってやらねばなりません。彼の命令によって部屋につめていた友達も、これには驚きました。あたしは彼のそばに付きっきりでおりました……やがて医者が来て、この気の毒な若者の症状がはっきりすることにおよび、仰天しました。なんと彼は毒を盛られたのです……この怖ろしい告知を受けるや、あたしはただちにデュボワの部屋にとんで行ってみました……もぬけの殻でした……自分の部屋に帰ってみると、あたしの衣裳箪笥《いしようだんす》は打ち壊され、しまってあったわずかなお金と衣類とはのこらず持ち去られておりました。そうして人々の話では、デュボワは三時間も前に駅馬車でトリノ方面に発ったということで……
これらかずかずの犯罪がデュボワの仕業であることには、疑う余地がありません。彼女はまずデュブルイユの部屋にあらわれたところが、人がいるのにおどろき怒り、ひるがえってあたしに復讐《ふくしゆう》を企てたのでしょう。その前に食事のときデュブルイユに毒を盛っているわけですが、それは盗みが成功した場合、この青年が犯人の追求よりも自分の生命の問題に多くかかずらわっていたならば、それだけ逃げるのに安全であるはずだし、また彼の死はいわばあたしの腕の中でおこった突発事であるので、あたしの方によけい嫌疑がかかるにちがいないと思ったためでしょう。あたしはデュブルイユの部屋にいそいで帰りましたが、人々はあたしを彼のそばに近づけてくれません。しかし、彼は友達にかこまれて息を引き取りつつも、しきりにあたしを弁護し、あたしの潔白を証明し、あたしを追求しないようにと言い残したそうです。そこで彼が眼を閉じるとすぐ友達がいそいで飛んで来て、そういうわけだから安心するようにと、あたしに伝えてくれるのでした……
けれど、ああ、どうしてあたしに安心できましょう、あたしが不幸の生涯を踏み出してから、はじめてやさしく救いの手を差し伸べてくれた、このたったひとりの男の死に、どうして苦い涙をこぼさずにおられましょう……どうしてもぬけ出ることのできなかった宿命的な貧乏のどん底に、またしてもあたしを追い落とした、あの憎むべき窃盗を、どうして嘆かずにおられましょう……あたしはデュブルイユの同僚に、友達にたいして企まれた犯罪と、あたし自身がこうむった災難とをすっかり打ち明けますと、彼はあたしに同情し、友達の死を大そう残念がりましたが、デュボワの計画を知りつつ訴え出ることをしなかったあたしの優柔不断を責めました。あたしたちはそれから、あの泥棒女が国外の安全地帯に落ちのびるにはせいぜい四時間しかかからないだろうから、追跡しても費用がかさむばかりで無駄だということや、もし訴えでもすればとんだ巻きぞえを食ったかたちになる宿屋の親爺が、自己弁護にやっきになった末に、グルノーブルで刑事裁判をのがれて人々のお情けで生きているとしか思われない誰かを、きっと怪しいとにらむにちがいない、ということなどを語り合いました。
この推測はまことにもっともで、あたしは大そう怖ろしくなりましたものですから、このまま恩人のS…氏に暇乞いもしないで、この町を逃げ出そうと決心しました。デュブルイユの友達もそれがいいだろうと言い、また、もしこの事件が蒸し返されて、自分が供述しなければならないときは、もちろん慎重にやるつもりだけれども、なにしろあなたは友達と最後の散歩をした相手であり、デュボワと関係があったのだから、多少巻きぞえになるのはやむをえないだろう、だからこそまたこんなに熱心に、グルノーブルを即刻出立することを忠告するわけでもあるのだが、いずれにしても自分の方からは絶対に、あなたに都合のわるいように立ちまわることはしないつもりだから安心してほしい、と言ってくれました。
ところでこの事件ぜんたいを考えてみると、あたしが犯人でないのが確かであると同様、犯人らしく見えるのも確かであれば、それだけにこの青年の意見ももっともであると思われ、またあたしのために有利なただひとつの証言――死にのぞんだデュブルイユがおそらくうまく説明できなかった消息――も、どうやらあたしが期待しているほど有力な無罪の証拠とはなってくれそうもないので、そんなことからも、あたしの決心は性急にきまったものです。であたしがその旨デュブルイユの友達に伝えますと、
「私の友達がねえ」と彼は言うのでした、「あなたの利益になるなんらかの処置を私に命じておいてくれたら、よろこんで私はなんでもしてあげたのですがねえ……せめてあなたがたが外出中、部屋を守るように忠告したのがあなたであると、一言私に言っておいてくれたら……ところが彼はそんなことはなにも言わないで、ただあなたは犯人でないからけっして追求してくれるなと、そればかり言っていたのですからねえ。
だから私としては、彼の言いつけを実行することだけに止まらねばならないわけなのですよ。お話によるとあなたも盗難にあわれたそうですが、私に何とかしてあげられる力があったら、そりゃ喜んでお役にも立ちましょうが、お嬢さん、なにぶん私は商売をはじめたばかりでして、まだ若造だものですから、身代もごく小さなもので、あのデュブルイユの財産の何十分の一も私のものではない、あれはぜんぶただちに彼の家族に返してしまわなければなりません。そんなわけですから、ソフィー、ごくささやかな贈り物しかしてあげられない私の立場を諒としてください。さあ、ここに五ルイあります。それから」と彼は、おなじ宿屋であたしもよく見かけた一人の婦人を部屋に招じ入れて、「こちらは私の郷里シャロン・シュル・ソーヌの正直な商人《あきんど》のおかみさん、リヨンに一日滞留して用足しをしてから、お国へ帰るんだそうです」と言ってあたしに紹介してから、
「ベルトランのおかみさん」と、今度は彼女に向かって、「この若い方をお願いしますよ。田舎に行きたいんだそうです。ひとつ、私のために一肌ぬぐと思って頼まれてください。この方を私たちの町に連れてって、身分相応な宿屋に紹介してあげてくれませんか。追ってお目にかかりしだいわけはお話しますが、ここのところは何もきかないであげてください……ではソフィー、さよなら……ベルトランのかみさんは今晩出発しますからね、いっしょにお行きなさい。あちらへ行ったら、ちっとはいい芽が出てくれるかもしれませんよ、私もいずれ近くあちらであなたにお目にかかりましょうが、そのときこそ友達デュブルイユのために善処してくださったことを心からお礼いたすつもりですから」
赤の他人にこうまで親切にされて、われにもなく涙をこぼし、あたしはありがたくその贈り物を受けましたが、他日返済することができるように、せめて一生けんめいに働くことを彼に誓いました。部屋を出がけに、「ああ」とあたしは思いました、「またしても善行があたしを不幸におとしいれたと思っていたら、今度ばかりは、このおそろしい悪の深淵に、なぐさめの影がさしたようだわ」……それっきり二度とこの若い恩人に会うことはありませんでした。青年とベルトランとが取りきめたように、あたしはデュブルイユの不幸があった次の晩に出発しました。
ベルトランのお内儀のこと
ベルトランのおかみさんは、一匹の馬に曳かれた小さな有蓋馬車をもっていて、あたしたちは車の中から代わりばんこにこの馬を御して行きました。この馬車にはおかみさんの家財道具やら、かなりの額の現金やら、まだ彼女の乳を吸っていた十八ヵ月の女の子やらが乗せられていましたが、やがてあたしはこの児にたいして母親におとらぬほどの愛情を抱いた結果、早くも身の不幸をまねく仕儀とはなりました。
ベルトランのおかみは頭も教育もないがらがら[#「がらがら」に傍点]女で、猜疑心《さいぎしん》つよく、おしゃべりで、やかましい金棒引きで、下層階級の女によくありがちな心のせまいひとでした。あたしたちは毎晩きまって家財道具一式を宿屋に運び込んで、おなじ部屋で寝ました。こうして別に変わったこともなく、リヨンに着きましたが、おかみさんが用足しをしていた二日のあいだに、あたしはこの町でちょいと珍しいひとに出あいました。宿屋の女中をひとり誘っていっしょにローヌ川の岸を散歩していると、急にむこうの方からこっちへ歩いて来るひとがあるので見ると、それこそ誰あろう、いまはこの町の聖フランチェスコ派の管長である神父アントナン師、奥さまも覚えておられるでしょう、かつてあたしの不吉な星がみちびいた「森の修道院」サント・マリーで、あたしの処女を奪った忘れもしない男ではありませんか――。アントナンは無遠慮にあたしに近寄って来ると、女中の前をもはばからず、わしの新居を見に来ないかな、そこで旧交をあたためるというのはどうじゃ、と言い寄ります。
「これは、ぽっちゃりした可愛い女子《おなご》じゃのう」とあたしの連れのことをこんなふうに言い、「そちらさんも、ご同様に歓待されること請合いじゃよ。わしらの家には、お前さんがた若い娘によく対抗し得る生きのいい男衆がいることじゃて」
この言葉にあたしはもうまっかになってしまい、とっさに、しらばくれてやろうかと思いましたが、それもうまくいかず、せめて連れの手前お手やわらかに願いたいと合図しても見ましたけれど、やっぱりその厚顔無恥をよう静めることはできず、ますますしつこく誘いかけてくるのです。結局どうしてもいっしょに行くのはいやだというと、あきらめて今度は住所をきき出しましたから、厄介ばらいしてやるために、ふいと頭に浮かんだ出たらめの住所を言ってやりました。アントナンはそれを手帖に書き留めると、いずれまたきっとお目にかかろうよと言いのこして、ようよう立ち去りました。
宿屋に帰る道すがら、連れの女中にあたしはこの坊さんと知り合った経緯《いきさつ》を可能な範囲で説明してやりましたが、あたしの説明にあき足らなかったのか、それともこの年ごろの娘に特有なおしゃべりのせいか、後になってベルトランのかみさんといざこざを起こしたとき、あたしはおかみさんがこの腹黒い坊さんとあたしとの関係をちゃんと知っているのを、彼女自身の言葉から判断しました。むろん、アントナンがあたしたちの前にあらわれることはなかったし、あたしたちはそれからすぐリヨンを発っていたのです……リヨンを発ってその日に着いたのが、ヴィルフランシュでした。そしてこの町で奥さま、今日《こんにち》罪人として奥さまの目の前にまかり出なければならない怖ろしい運命に、あたしは逢着したのです。いままで奥さまもごらんのように、何度となく不正な運命の荒波にもまれもまれて来ましたあたしも、今度という今度ほど致命的な苦境に陥ったことはなく、そして今回、この苦境のどん底にあたしを導いたのも、あたしの心中ぬぐいがたく染みついていた親切心以外のものではありませんでした。
とある二月の一日、ヴィルフランシュの町に着いたのはまだ六時ごろでしたが、あたしたちは翌日はもっと一日行程を伸ばしたかったので、その晩は早くに夕食をして早くに床につくことにしました。すると、床について二時間とたたぬうちに、もうもうたる煙があたしたちの部屋の窓から吹き込んで来るのに二人ともはっとして眼を覚ましました。火事は近所にちがいない……いや、それどころか、火の手はすでにぐんぐん怖ろしい勢いで迫って来ています。あたしたちは半裸体のまま部屋の扉をあけてみると、もうあたりはくずれ落ちる壁の音、砕け折れる棟木の響き、火炎に巻かれた人々のものすごい叫喚でいっぱいでした。すべてをなめつくそうとする炎の舌は、早くもあたしたちの方へ伸びて来て、外へのがれ出る暇もないかと思われたのに、あたしたちはどうにか屋外へ飛び出すことを得ましたが、気がついてみると周囲にはあたしたち同様半裸体の中には半分黒焦げになったような人たちが、逃げまどう群れにまじって助けを求めているすがたさえ見られるのでした……
そのとき、あたしは自分のことにばかり気をとられているベルトランのおかみさんが、娘を救い出すのをすっかり忘れていることに卒然と思い至ったのです。で、あたしは物も言わず炎をくぐって、すばやく部屋に取って返すと、煙のために目があいていられず、全身に火傷《やけど》をつくりながらも、いたいけな子供の小さな身体を抱きあげて、母親のところへ持って行ってやろうと駆け出しました。ところが、半分燃えつきた一本の大梁《うつばり》にもたれかかっていたあたしは、ふと足をすべらすと、思わず反射的に片手を前に突っ張らせるような動作をしてしまいましたが、この自然の衝動がたたって、抱いていた貴重な荷物を取り落とすのやむなきに至り、なんと無惨、小さな女の児は母親の見ている前で炎のなかに転がり落ちました。するとこの無法な女は、子供を救おうとすることにあったあたしの行動のそもそもの目的も、あたしがそのとき置かれていたやむをえざる状況も、てんで眼中になく、ただもう子供を失った苦痛にかっと激高して、お前さんは娘を殺したんだとばかり、がむしゃらにあたしに飛びかかって来てなぐりつけるのです。
そのうちに火勢も鎮まり、多くの救いの手があらわれたので宿屋はまず半焼にとどまりました。そこでベルトランのかみさんが何はともあれ部屋にもどってみると、彼女はみんなの中でいちばん被害の少ない方です。そういうわけで、娘はそのまま放っておけばよかったんだ、そうすればなんの危険もなかったんだ、と彼女はまたもや文句を言い出しましたが、さて家財道具はどうしたかと見ると、あにはからんや、それはきれいさっぱり盗み去られておりました! もうこうなると彼女は絶望と激怒に狂い立ち、お前さんこそ放火犯人だろう、火をつけたのはその機に乗じて盗みをはたらくためだったのにちがいないと声高にあたしを問いつめ、訴えてやると言っておどかし、しまいにはおどかしだけでなく実際に地方裁判所の判事に話をつけようという始末です。
あたしは無罪を主張しましたが、無駄でした、ベルトランは耳もかしません。呼ばれた司法官は遠方の人ではなかったので、この盗人《ぬすつと》たけだけしい女の要求によってすぐあらわれました……彼女はそこであたしに対する出訴を表明し、自分が正しく有力であることを裏づけるために、あることないことまくしたてました。あたしのことをグルノーブルで死刑になりそこなった身持ちのわるい女と言い、今度の事件はきっと情夫にそそのかされてやったことにちがいないというのでした。また話はリヨンの修道院にまで及びましたが、要するにそれらはどれもみな、絶望と復讐にいらだった心に思いつくかぎりの強引な中傷でありました。
裁判官は訴状を受理して、現場検証をしました。火は乾草のつまっていた物置から発したということで、何人もの人がその晩物置に入ってゆくあたしを見たと証言しました。そういえばたしかに、あたしは便所に行きたくて女中にきいたところ、よく教えてくれないので、その物置に迷い込み、あやしまれるに足るほどの時間をそこで過ごしているのでした。かくして訴訟手続きが規則どおり踏まれ、証人の意見はみな聴許されましたが、あたしが自己弁護のために主張することは一つとして採り上げられず、放火犯はあたしだということになってしまい、あたしには何人か共犯がいて、あたしがつけ火をしているあいだに彼らが盗みをはたらいたのだ、ということに一方的にきめられてしまいました。そしてそれ以上なんの説明もなく、あたしは翌日未明からリヨンの監獄にうつされ、囚人名簿には放火犯、嬰児殺し、窃盗犯と記入されました。
神父アントナン師のこと
思えばもうずいぶん長いあいだ、中傷と不正と不幸に慣れ親しんで来たあたし、子供のじぶんから徳操というものは、これを行なうに苦痛を伴うものと確信して来たあたしであってみれば、どんななまなましい苦痛もいいかげん麻痺して、何が悲しいのやらわからず泣くばかりであったとしても無理からぬことでした。とはいえ、この不幸な身の打ち沈められた深淵から、なんとしてでも脱け出したいとあらゆる手だてを摸索するのが、また苦しんでいる者の当然の思いであるように、ふっとあたしの頭に去来したのが神父アントナン師のことでした。よしんばそれがどんな卑しい相手でも、あたしを救ってくれるものならば会ってみたいと思い、あたしは彼を呼びました。アントナン師は自分を呼んでいるのが誰とも知らず、やってまいりましたが、あたしを見ると知らぬ顔の半兵衛をきめこみました。そこであたしが牢番に、この方はあたしがごく若いときに教えを仰いだ方で、きっとあたしを忘れていらっしゃるのでしょう、しばらく二人きりで話をさせてくださいと願い出ますと、牢番も神父もそれを可としました。坊さんと二人きりになるやいなや、あたしは彼の足もとにひれ伏して、どうかこの窮境からお救いください、あたしは無罪ですと訴え、また、二日前お会いしたときのあなたの野卑な言葉が、そのときいっしょにいた女のあたしにたいする心証をひどく害し、いまでは彼女は訴訟の相手方に組しているということも、隠さず言いました。坊さんはあたしの言葉をじっときいていましたが、やがてあたしが語り終えると、
「よくきけ、ソフィー」と言いました、「お前のわるいくせは、ひとがお前のくだらぬ偏見をちょっとでも侵すと、すぐかっとなることじゃ。いったい、お前の偏見がお前をどこへみちびいたか、胸に手をあててよく考えてみい。いまこそお前は、お前の偏見が破滅から破滅へとお前を追い立てる以外に、けっして役には立たなかったことを容易に知り得るはずじゃ。だからさ、生命《いのち》を助けてもらいたかったら、ここで一番ふんぎりをつけて、その偏見に従うことをやめなさい。わしはそれ以外に成功の道はないと思うよ。いいかね、ここにはフランチェスコ派の神父で、典獄の近親者がひとりいる。わしから話をつけておこう。お前はそいつの姪だということを言いなさい。そういうことにしておいて、なんとかそいつにとりなしてもらうがいい。わしが永久にお前を修道院に置いておくと約束すれば、訴訟手続きはきっと取りさげてくれるだろうと思う。お前は事件からすがたを消して、わしの手中に移されるわけじゃ。情勢が変わってお前を自由の身にしてやることのできる日が来るまで、お前をかくまってやるめんどうをわしが引き受けよう。したがそれまでの拘留期間、お前はわしのものじゃぞ。はっきり言っておくが、お前はわしの気まぐれに仕える女奴隷として、文句を言わずにわしの用を便ずるのじゃ。わかったかな、ソフィー、わしの言うことが? わかったらさっそくそのように決心するか、それとも絞首台をえらぶか……返事を待たせるなよ」
「あっちへ行ってください、神父さん」あたしはぞっとしてこう答えました、「あっちへ行ってください、あなたはあたしの苦しい立場につけこんで、死と汚辱とのあいだにあたしを立たせようとなさる、怖ろしいお方です。出て行ってください。無実のまま死んだ方がまだましです。死ぬならせめてやましいところなく死んで行きたい……」
あたしの拒絶はこの悪漢を燃えあがらせたらしく、彼はわざわざ、どのくらいその情欲がかきたてられているかをあたしに見せさえしました。のみならず、この恐怖と鉄鎖のさなか、あたしをうちひしごうと待ちかまえている獄門の苦しみの下で、彼は事もあろうに気まぐれな愛撫をたくらむのでした。あたしが逃げようとすると、彼は追い、ついに寝床代わりのきたない敷藁《しきわら》の上に、あたしは押し倒されてしまいました。そのとき、彼は情事を完全に遂行することができなかったのに、しかもなお気色のわるい愛撫の名残りが身体じゅうに染みついた感じで、あたしは彼の執念のものすごさを思い知らないわけにはゆきませんでした。
「よくきくがいい」とアントナンが身なりをつくろいながら、「お前はわしの援助をことわった、よろしい、わしはお前を見すてることにする。世話もしてやらなければ、じゃまもすまい。したが、もしもわしに関して一言でも不都合なことをもらしたら、即刻お前にいちばん重い罪をきせて、永久に身の証《あか》しを立てられぬようにしてやるから、さよう心得ろ。これからはよく考えてからものを言うのじゃな。いま牢番に話をつけるから、わしの言うことの意味をよく汲みとるようにせよ。それがいやなら、いますぐお前をなぶり殺しにさせてやる」
そう言って扉を叩いて、牢番を呼び入れると、
「いやなに、この娘は人違いをしましたのじゃ。彼女のいうのは、ボルドーに住まいおるアントナン神父のことじゃて、わしは彼女を昔もいまも見知りません。ただ、懺悔《ざんげ》を聞いてほしいというお望みじゃったから、それは聞いてあげました。ご承知のように、わしらの掟によって、懺悔の内容は申しあげられませんが……それではお二方、ご機嫌よう。またご用がおありしだい、いつでも参りまするぞよ」
アントナンはこう言い残してさっさと出て行ってしまいましたが、取り残されたあたしは、彼のずうずうしさと我儘《わがまま》とにあきれ果てるとともに、その狡猾《こうかつ》なやり方に、しばしあいた口がふさがりませんでした。
下級裁判所の仕事ほど、手っ取りばやく片づけられてしまうものはございません。だいたいが頭のない人や、融通のきかない堅人《かたじん》や、気違いじみた没理漢《わからずや》などの集まりなのですから、ちゃんとした人から見ればそのあほらしさはすぐに指摘されることなのですけれども、なにしろ問題が起こると同時に片が付いてしまうといったあんばいで。それだものですからあたしは、この倒産者の町の堂々たる裁判所を構成している八人から十人あまりのずんぐりむっくり[#「ずんぐりむっくり」に傍点]した親爺さんたちによって、たちまち満場一致で死刑を宣せられ、すぐさま判決の是認のためにパリへ送られるという有様でした。にがい苦しい反省が、そのときあたしの心をかきむしりにきました。
「いかなる呪われた星のもとに、あたしは生まれたのだろう」と思いました、「たったひとつ、よいことをしようと思えば、すぐそのあとから不幸がぞろぞろついて来るんだもの。あのなんでもわかっておいでの神さまは、正義の味方にちがいないとあたしは思うのだけれど、それがあたしの美徳をおこらしになり、そうかと思うと一方では、あたしをさんざん苦しめた悪人をほめあげているのは、いったいどうしたわけなのかしら? 子供のころ、あたしは高利貸に盗みを働くことをすすめられて、それを断わると、高利貸は金持ちになり、あたしはすんでのこと縊《くび》り殺されそうになった。山賊の仲間になるのを断わると、あたしは森の中で彼らに手込めにされそうになり、一方彼らは富み栄えた。またそれがもとになってあたしは放蕩侯爵の手中に陥り、その母を毒殺する計画に乗らなかったというので、侯爵から百回も鞭打ちされるうきめにあった。そこからのがれて外科医の家に行くと、今度はある怖ろしい罪悪を未然にふせいだというかどで、あたしは返報として彼に手足の指をもぎ取られ、烙印を押されて追い出された。おそらく彼の罪悪は遂行されて、外科医は財をなしたにちがいないと思われるのに、あたしはといえばパンを乞う身に落ちぶれた。それからいよいよ神聖な場所に近づいて、神に祈りをささげようと発心《ほつしん》すれば、それだけあたしは不幸にあったし、修道院で、聖なる秘儀を受けて身を清めようとすれば、おごそかな堂宇はたちまちおそろしい、あたしの恥辱と不名誉の舞台に一変した。そしてあたしを凌辱し傷つけた人非人は、いまや位階人臣をきわめ、一方あたしは貧窮のどん底に突き落とされた。それからみすぼらしい女を救ってやろうとしたところが、あたしはその女に盗まれ、気絶した男を助けてやろうとすれば、その男にあたしは駄獣のように井戸の車をまわす仕事にこきつかわれ、力が足りないといっては殴打された。それでその男はとんとん拍子に隆運をきわめ、あたしはというと、彼のところで力仕事をしすぎたためか死ぬるばかりに衰えてしまった。破廉恥な女がまたしてもあたしを悪事に引っぱりこもうとしたので、あたしはその犠牲者の財産を守り災難を免れしめようとしたところが、自分のわずかばかりの持ち物を二度までも失ってしまい、またその狙われた男は、せっかくあたしと結婚してくれようとしたのに、それもできずにあたしの腕の中で非業の死を遂げてしまった。火の中に身を挺して、自分の子でもない嬰児を救ってやろうとすれば、三度あたしは、テミスの剣の下に囚人《とらわれ》となった。そこでかつてあたしを恥ずかしめた悪漢に保護方を懇願して、あたしの不幸に同情してもらうことを期待したところが、この悪漢の援助にかけた代償は、またしてもあたしが恥辱をこうむらねばならない態のものだった……おお、神さま、これでもあたしにはあなたの正義を疑うことができないのでしょうか、もしあたしの迫害者たちの例にならって、あたしがつとに悪徳にこびてでもいたら、いったいあたしはこの上どんな怖ろしい災難にあっていたことでしょうか?……
このような呪いの言葉が、奥さま、運命の苛酷さに堪えかねて、われにもあらず口をついて出たときでした、あなたさまがあたしの身に慈悲と同情にみちみちた眼ざしを投げかけてくださいましたのは……こんなにも長いあいだご辛抱をわずらわしましたことを、幾重にもお詫びいたします奥さま。あたしとしたことが、傷口をつっついて悲しみを繰り返し、そうして奥さまの平らかなお気持ちをも乱してしまいました。結局、このむごたらしい波瀾《はらん》に富んだ物語からあたしたち二人の得ましたものは、そんなものばかりだったのでございましょうか……やがて日がのぼりますれば、護衛の者どもがあたしを連れにまいりましょう、どうか安らかに死に赴かせてくださいませ。もう死を怖れる気持ちはございませぬ、死こそはあたしの悩みを解き放ってくれるもの、順風に帆をあげた生活をしている幸運児にとってしか、それは怖るべきものではございませぬ。あたしのように屈辱しか抱きしめたことのない者、血まみれな足で茨《いばら》の上しか歩いたことのない者、憎むためにしか人間を知らなかった者、嫌悪するためにしかお天道さまを仰がなかった者、みじめな境涯に生まれたがために両親、財産、救済、保護、友達をすっかり奪われてしまった者、広い世界に渇をいやすべく涙しか知らず、身を養うべく煩悶《はんもん》しか知らない者……つまりそういう不幸な者にとっては、迫りくる死は、震えもせずに見つめることのできるもの、正義の神の御胸に抱かれた、波風立たぬ安全な港でもあるかのごとくに、待ち望むことのできるものでございます。この世で卑しめられ迫害された無辜《むこ》の者が、やがて天国でその涙の代償を求めることぐらい、神の正義にかけて、許されてよいことではございますまいか。
ジュリエットとジュスチーヌの再会のこと
実直なド・コルヴィル氏はこの長い物語を聞き終わって、いたく感動しないわけにはいかなかった。ロルサンジュ夫人といえども、(前に言及したとおり)若き日の乱行で感受性が大かた磨りへっていたとはいえ、物語を聞きおわると危うく失神しそうなほどになっていた。
「本当に」と夫人はソフィーに言った、「あんたの話を聞いていると、いやでもあんたにこの上ない同情を寄せないわけにはいかなくなるわねえ……でも本当のことを言っちまうと、あたしはね、そんなことよりも何よりも、一種説明のつかないふしぎな感情で自分があんたの方へぐいぐいひきつけられていくのを感じるの、あんたの不幸が自分自身の不幸のような気がしてくるの。ねえソフィー、あんたは名前をかくし、また生まれを隠しているけれど、お願いですから、あたしにそのあなたの秘密を明かしてはくれないかしら? こう言ったからとて、それがくだらぬ好奇心だと思われちゃ困るのだけれど。ああ、もしあたしの予感が当たっていたら……もしあんたがあたしの妹の、ジュスチーヌそのひとだったらねえ!」
「奥さま、なんとおっしゃいました……ジュスチーヌですって?」
「きっと今ごろはあんたくらいの年格好でしょう」
「おお、それではあなたはジュリエット、そうなのですね?」言うなり不幸な女囚ジュスチーヌは、ロルサンジュ夫人の腕の中に身をおどらせて、「ああ、お姉さま、会いたかった……神さま、さきほどはとんでもないことを申してしまいました、あたし、あなたさまの畏いお心のうちを疑ってしまいました……ああ、こうしてもう一度お姉さまを抱くことができたのですもの、あたし、これで死んでもそんなに不幸ではありません」
こうしてお互いの腕と腕と、しっかり抱き合ったふたりの姉妹は、もう語りもあえず聞きもあえず、ただ嗚咽《おえつ》と涙にむせぶばかり……コルヴィル氏もたまらずもらい泣きをしていたが、考えれば考えるほど、どうしてもこの事件に最大限の同情を寄せないわけにはいかなくなり、何やら期するところあってか、不意に室を出て、書斎に入って行った。
コルヴィル氏はそこで司法卿に書状をしたためて、薄幸な女ジュスチーヌの数奇な運命を哀切な筆致で訴えると、自分がこの潔白な女の保証人になるから、裁判がはっきりするまでいうところの被告は自分の城館に置いてもらいたいと要求し、さては裁判所の最高権威に彼女を紹介する労までこれを惜しまなかった。で手紙を書きおえると彼は、ふたりの乗馬憲兵にそれを渡して名を名乗り、ひとまずこの書状を持って行ってみるがいい、そして、それでもだめなようだったらもう一度彼女を引き取りに来るがいい、と言い添えた。ふたりの憲兵は相手がどういう素姓の男かわかると、自分たちの身を危うくすることもおそれずに、唯々としてこれに従った。かくして車は行ってしまった……
「さあ、もう大丈夫ですよ。可哀そうに」と言うとコルヴィル氏は、まだ姉に抱擁されたままでいるジュスチーヌのそばへ来て、「さあ、いま十五分ばかりの間に、あなたの運命が一変したところです。もうあなたは、この世で美徳はけっして報いられないとか、冷たい心の人にしか出あったことがないとか、言うわけにはいかなくなりますよ。私についていらっしゃい、あなたは私の囚人です、あなたの責任を負っているのは、いまではこの私だけなんだから」
そう言ってコルヴィル氏は、つい先刻自分のとった処置を言葉少なに説明した。すると、
「まあすてき、やっぱりあなたは傑《えら》いわねえ、大好きよ」と、ロルサンジュ夫人は恋人の膝にとりすがって、「これこそ、あなたの生涯の最大の美挙だわ。無実の罪に苦しむ者を助け、宿命の圧迫に泣く者を救う、これこそ、人間の心と法の精神とを本当に知っている人にしてはじめてなし得ることですわ……そうよ、あたしの妹、あたしの妹はあなたの囚人なのね……さあジュスチーヌ、さあ、はやく行って、あなたの恩人の足跡に接吻をしていらっしゃい、あのひとは他人のようにけっしてあなたを見すてたりはしない、それは公正な保護者ですから……」それからまたコルヴィル氏にむかって、「ねえあなた、よくって、あたしとあなたとの愛の羈《きずな》は、もちろん前から貴重なものではあったけれど、それがいま、こんなふうに人情の絆《ほだし》によっていっそう美化され、こよなく優しい尊敬の念によっていっそう緊密にされたんだから、これからはまあ、どんなにか貴重なものになることでしょう!」
こうしてふたりの女は争ってこの高潔な友の膝に接吻の雨をそそぎ、涙でこれをぬらしたことであった。やがて一行が城館に至ると、コルヴィル氏とロルサンジュ夫人とはいそいそとして、ジュスチーヌを不幸のどん底から安楽と贅沢《ぜいたく》の絶頂に押しあげてやる楽しみに熱中するのであった。もっとも滋味豊富な料理をたらふく食わせてやったり、いちばん上等な寝台に寝かせてやったり、家のなかでは召使を手足のように使わせてやったりして、ふたつのやさしい魂は、すべてに行き届くこまかい思いやりを示した……何日にもわたっていろいろの治療を受けさせ、風呂に入れたりお化粧させたり、見違えるようにきれいになった。彼女こそふたりの男女の偶像《アイドル》で、ふたりはわれがちに何とかして早く彼女の過去の不幸を忘れさせてやろうとつとめるのだった。ある種の配慮とともに、腕のいい技術家が家に呼ばれ、あのロダンの悪業のむごたらしい結果である恥辱のしるしを消すようにとの命を受けた。万事このように、ロルサンジュ夫人とその恋人の懇望《こんもう》にそって事が運ばれたので、すでに不幸な女のなごりは、愛らしいジュスチーヌの美しい顔からあとかたもなく消え、優雅な女のふぜいがそこにふたたび君臨するようになった。純白の頬に見られた鉛いろは、春の薔薇《ばら》いろに席をゆずり、あんなにも永いあいだ影をひそめていた唇の微笑は、一陽来復、喜びのほのめきとともにまたほころんだ。
雷のこと、ならびに納め口上
幸先よい知らせがパリから届くようになったのは、コルヴィル氏がフランスじゅうを総動員し、ことにもS…氏の奮起をうながしていたからで、S…氏はすでにコルヴィル氏に左袒《さたん》して、ジュスチーヌの不幸のために論陣を張る用意があると言って一同を安心させていた……とうとう最後に王の捺印《なついん》のある命令状が届いて、ジュスチーヌは、少女時代から不当にもずっと係り合いにされていた訴訟をまぬかれ、正しい市民としての資格をやっと取りもどし、また彼女にたいして冤罪《えんざい》を着せようとした国内すべての裁判所は今後永久に発言権を封じられるとともに、ドーフィネの贋金つくり一味の工房で差し押えられた彼女の所持金にたいする慰藉料として、千二百リーヴルの年金があたえられることになった。かようにうれしい通告を聞き知って、ジュスチーヌはそのまま息絶えんばかりに喜んだ。そうして幾日ものあいだ、暖かい保護者の手中に大事に守られつつ、うれし涙にかきくれる日を送っていたまではよかったが、そのころからにわかに彼女の気分が原因のわからぬまま一変してしまったのはどうしたわけか。暗い、不安な、沈みがちなふうになり、ときには姉たちのいる中でさえふっと涙をこぼしたりして、自分でもその涙の原因が説明つかないのであるとは……
「あたしは生まれつき、こんな、ありあまるほどの幸福が、性に合わないんだわ」と彼女はよくロルサンジュ夫人にもらしていた……「ああ! お姉さま、あたしじっとしていられない気持ちです」
それは取越し苦労というものですよ、とひとは彼女に言って聞かせたものだが、さらに効き目はなかった。むかし彼女が巻きぞえになった悪い相手で、いまなお怖るべき勢力を誇っている幾人かの人物がいたにはいたけれども、そういう人物の話はこれを禁句として、できるかぎり彼女にわるい思い出を喚《よ》び起こさないような注意が人びとのあいだで払われていたからして、彼女はただ安心していればよいのであった。にもかかわらず、いっさいは無駄骨でしかなかったのである。あたかもこのあわれな娘、ただ不幸にのみ運命づけられ、いつも頭上に貧乏神の手がさしかけられているのを気にしながら暮らさなければならないこの苦労性の娘は、やがて近づくべき最後の破滅をすでに予感しているかのごとくであった。
ロルサンジュ夫人はまだ田舎にいた。ころしも夏の末つ方で、その日は散歩の計画が立てられていたが、おり悪しくひどい雷雨が起こり、どうやらそれはだめになりそうであった。むしむしする暑さだったので、広間の窓々はすっかりあけ放しにしておかなければかなわなかった。稲妻がひらめき、雹《ひよう》が降り、風がひゅうひゅうと吹きまくり、ものすごい雷鳴がとどろいた……すっかりおびえたロルサンジュ夫人は――さよう、ロルサンジュ夫人ははなはだしく雷をこわがるくせがあったので――はやく行って窓をしめてきてちょうだいと妹にたのんだ。ちょうどそのときコルヴィル氏も部屋に入って来ていたが、ジュスチーヌは、なにはさて姉の気持ちを鎮めてやろうといそいで窓のところへ飛んで行って、一刻《いつとき》、押しかえす風の力にさからって窓をしめるのにけんめいになっていると、とたんに落雷がすさまじい音響とともに広間のど真ん中に彼女をのけぞらせたかと思うと、そのまま床の上で絶命させてしまった。
ロルサンジュ夫人が痛ましげな悲鳴をあげて、気を失った。コルヴィル氏が助けを呼び、すぐに人が集まって介抱の手がつくされたので、ロルサンジュ夫人はまもなく意識を取りもどしたけれど、あわれなジュスチーヌはもはや一片の希望さえつなぎ得ぬ態の、完膚ない衝撃を受けていた。雷は彼女の右の乳房から口へ抜けて貫通していたので、彼女は胸をまっ黒にこがし、顔は二目と見られぬ怖ろしい様に変形していた。でコルヴィル氏はすぐに彼女を運ばせようとしたが、ロルサンジュ夫人は落ち着きはらった様子で立ちあがると、しずかにこれを制して、
「いいえ、そのままにしておいてちょうだい」ときっぱりした調子で恋人に言った、「あたし、これでいよいよ覚悟がきまったわ、その覚悟をぐらつかせないためにも、このまましばらくこのひとを見ていたい。ねえ、あなた、お願いですからあたしの気持ちに反対なさらないでね、いまあたしはひとつの決心をしたんだから、たぶんこの世の何ものも思いとどまらせることのできない決心を……
ねえ、このひとの遭遇した言語に絶した不幸のかずかずは、それが不断に美徳を尊重した結果と言ってしまえばそれまでだけれど、何かひどく異常なものを感じさせはしないかしら、あなた。おかげであたし、いま、目から鱗《うろこ》の落ちるような思いなの。でもそう言ったからとて、あたしは何も、妹の身の上話のなかで妹をさんざ苦しめた悪人たちが、幸福の幻影のようなものを享受しているのを見て、それに目がくらんでしまったというのじゃけっしてないことよ。運命の気まぐれとは謎《なぞ》のような神さまのお心の底であって、謎を解くのはあたしたちの柄ではないけれども、それはけっしてあたしたちに道を踏み違えさせるようなことはないはずだわ。悪人の繁栄は神さまがあたしたちに与える試錬であって、いわば雷のようなもの、人の目をあざむくその光が一刻《いつとき》四辺を明かるませたにしても、それに目をくらまされた不幸な者を死の淵《ふち》に追いやることなしにはすまないという……いまあたしたちの目の前で起こったとおりよ。この不幸な娘の立てつづけの災難、怖ろしいひっきりなしの不幸は、きっと神があたしの不品行を悔悟《かいご》させ、あたしに良心の声を目覚ませ、そうしてついに神の御胸にあたしを走らせるために、とくにあたしに賜わった警告なのですわ。どんな怖ろしいお仕打ちを、あたしは神から待たなければならないでしょう……ああ、あたしの罪のかずかずをお知りになったら、あなたはきっと身ぶるいなさることでしょう……放蕩、不信仰、それにいっさいの道徳心の放擲が、あたしの人生の一齣一齣《ひとこまひとこま》に烙印されているのです……生きているあいだ非難されるような過ちはひとつとしてわれから犯さなかった女にしてから、あのようなお仕打ちを受けたのであってみれば、あたしはいったいどんな目にあわねばならないのでしょう。
別れましょう、あなた、いまこそ縁の切れ目ですわ……あたしたちを結びつけるものは、もう何もないのよ。あたしのことはどうか忘れてください、そうしてあたしが永遠の悔悟の気持ちから、われとわが身を汚した行ないをきっぱりと断つために、神の足もとに身を投げに行くのを許してください。あのおそろしい雷の一撃はやっぱり必要だったのですわ、あたしがこの世で悔悛《かいしゆん》を得るためにも、またできうべくんば来世で幸福を希《ねが》うためにも……さようなら、あなた、もう二度とお目にかかることはございますまい。あなたの友情から最後にあたしが期待したいことは、どうしてあたしがこんな気持ちになったのかを探り出すような、どんな種類の詮索もしないでいてほしいということです。あたし天国であなたをお待ちします。あなたの美徳はきっとあなたを天国に導くにちがいありませんもの。わが身の罪をつぐなうため、のこされた不幸な余生を難行苦行のうちに送ろうとしているこのあたしを嘉《よみ》して、いつの日か天国であなたとまたお会いできる機会を恵まれますように、神よ……」
こうしてロルサンジュ夫人はそうそうに馬車の仕度をさせると、ごくわずかな金を所持したのみで、残りはすべて奉納金とするようにコルヴィル氏に言い置いたなり、家を出てまっすぐパリへやって来て、そこのカルメル派修道尼院に身を投じたものだが、それから何年もたたぬ間に彼女は、その篤《あつ》い信仰心によっても、その聡《さと》い叡知《えいち》によっても、また極端な身持ちの正しさによっても、一院の模範となり鑑《かがみ》となったことであった。
ド・コルヴィル氏は一国の首相たり得る器《うつわ》であったから、その顕職をひたすら人民の幸福のため、君主の威光のため、またその友人たちの隆運のためにのみ利用すべく心掛けたことではあった。
さてこの物語を読みおえた読者諸子よ、願わくは、この世俗的快楽にあこがれて懲戒された女人とともに、この書からなんらかの有益なる教訓をば汲みとらんことを。願わくは彼女とともに、まことの幸福は美徳のうちにしかないことを、また神が地上で迫害される者を黙認しているのは、やがてもっとも甘美なる報いを天国において調《ととの》えんがためであることを納得せられんことを。
[#地付き]一七八七年七月八日
[#地付き]十有五日の末に脱稿す
[#改ページ]
悲惨物語
世のひとを教化し悪風をただすこと、これこそ作者が次なる物語のうちに提示せんとしている唯一無二の主題である。願わくはこの物語を読んで、読者よ、欲望を満たすために身勝手なことばかりするひとの足下には必ず大きなる危険がひそんでいるという事実を、つらつら納得していただきたい。いかに善き教育も、富も、才能も、はたまた天賦の素質も、自制心や品行の正しさや思慮分別がこれらを支え、これらを価値あらしめるに至らなければ、畢竟《ひつきよう》それはひとを錯誤の道に迷わせるものでしかないという真理を、料簡していただきたい。作者が次に語ろうとしているのは、要するにかような真理なのである。されば、作者が非道な罪のおそろしい容相を事細かに筆にしなければならないとしても、どうか許していただきたい。かような罪を赤裸々に示す勇気をもたなくて、どうして道ならぬ行ないを世人の目に嫌悪せしめることができようか、と作者は思うものである。
ひとりの人間のうちに、この人間を隆運にみちびくすべての資質がひとしく与えられているという事態は、きわめてまれである。天賦の素質に恵まれた人間には、たとえば財産という富が除外されており、また財産の恩恵をふんだんに享受している人間は、逆に天賦の素質からつれないあしらいを受けているのが通例である。神は人間ひとりひとりのうちに、あたかも崇高きわまりない天の配剤によるかのように、平均の法則こそ、宇宙の第一の法則、生長し呼吸し死滅する万物をひとしく支配する、根本法則であるということを示そうとしているかのごとくである。
パリに生まれパリに住み、年金四十万リーヴルと、この上なく優雅な容姿と、人好きのする美貌《びぼう》と、さまざまな才能とに恵まれたフランヴァルは、しかし、こうした魅力的な外貌《がいぼう》の下に、すべての悪徳をかくしていたので、やがてはこの悪への好みと習慣とが不幸にも彼をあれほど早く罪の淵へと追い落とすことにはなったのである。およそ筆舌につくしがたいほどに自堕落な脳中の妄念《もうねん》が、このフランヴァルという男の第一の欠陥であった。こうした妄念は一度とりつかれるとなかなか根治することを得ず、精力の衰えがさらにこれに油をそそぎ、不可能となればいよいよあの手この手を考え、齢《とし》とともに新たな邪念がわき、その執心は冷めるどころか、飽満すればするほどさらにあくどい巧者ぶりを発揮するという始末なので。
すでに述べたように、青春時代をいろどるすべての楽しみ、すべての才華をフランヴァルはありあまるほどもっていたが、道徳と宗教の義務に対してはこれをことごとく捨てて顧みなかったので、彼の家庭教師はどんな義務をこの子供に選ばせることも不可能であった。
なにしろ当時は、危険きわまりない書物が父親や家庭教師の手ばかりか、子供の手にも容易に入りやすい時代であり、神をも怖《おそ》れぬ学説が哲学という名で呼ばれ、無信仰が権威と見なされ、自由思想が神気と目されていた時代である。人びとは若いフランヴァルの才気を微笑をもって迎えた。眉《まゆ》をひそめたひとたちも、一瞬の後には、これを賞賛しないわけにはいかなかった。フランヴァルの父親は、当世流の詭弁《きべん》を一身に体したひとで、あらゆるこうした詭弁学説をしっかり身につけるように、みずから進んで息子を励ましさえした。息子の堕落を促すような書物をみずから進んで息子に貸し与えさえした。こういう事情であってみれば、どんな家庭教師だって、主家のひとたちの気に入られたいと思えば、主家の教育とは違った教育を授けることなぞ思いも及ばない道理である。
ともあれフランヴァルは、まだごく若いころに両親をなくし、十九歳当時、これもその後間もなく死んでしまった年とった叔父から、他日結婚を期して自分のものとなるべき財産をそっくり譲り受けた。
これほどの財産をもったフランヴァル氏に、結婚の相手がなかなか見つからないわけはない。縁談は降るように彼のまわりに集まったが、彼はとくに叔父に頼んで、なるべく自分よりも齢若く、できるだけ係累《けいるい》の少ない家の娘を選んでくれるよう、ねんごろに希望したので、年とった叔父は、若い甥の気持ちを満足させてやるために、大ぜいの候補者の中から資産家ファルネイユ家の令嬢に目をつけた。この娘は、まだ若い母親とふたり暮らしの身だったけれども、六万リーブルの年金と、十五歳の若さとに恵まれ、当時パリにあって並ぶ者なき縹緻《きりよう》よしとうたわれていた。愛の女神のごとき優雅な目鼻立ちの陰に、無邪気と淑《しと》やかさとを二つながら秘めた処女の容貌《ようぼう》、帯の下までふさふさと垂れたみごとな金髪、たおやかさと慎しやかさとが二つながら息づいている大きな青い瞳《ひとみ》、すらりと伸びたしなやかな姿態、百合《ゆり》の花のように白い肌《はだ》、薔薇《ばら》のように新鮮で才知にあふれたみずみずしさ、それに、書物や孤独を愛することに慣れた、やや淋《さび》しげな、やや静かに沈みがちな、とはいえ大そういきいきとしたロマンチックな気質――ざっとこういったものがこの類《たぐい》まれな美しい娘の身上であったが、かかる資質こそ、けだし自然の手によって不幸に運命づけられた人間にのみ賦与される特性であって、自然は彼女たちの不幸を幾分なりとも堪えやすいものにするために、暗澹たる悲痛なあの肉の快楽を与えることによって、彼女たちの不幸を慰撫し幸福の浮薄な喜びよりも、はるかに強烈でひりひりする涙の喜びを愛させようとするのであろう。
ファルネイユ夫人は娘の縁談の当時三十二歳、才色兼備といった婦人であったが、やや慎しみぶかく厳格に過ぎる傾きがあった。一人娘の幸福をいちずに望んでいた夫人は、この結婚についてパリじゅうの人びとの意見を尋ねたいと思った。しかし彼女には親類とてはなく、いいかげんなことを言う冷淡な友達しか相談相手がなかったので、娘に申し込んだ青年こそパリで見つけることのできる最もりっぱな結婚の相手に間違いなく、この縁談をのがしたらとんでもない失態だという友達の意見をすべて真に受けてしまった。そういう次第で、さっそく結婚式が行なわれ、若いふたりは世帯をもち、一緒に暮らすことになった。
若いフランヴァルの精神には、軽薄さとか、不身持ちとか、粗忽《そこつ》さとか、要するに男が三十歳前に一人前になることを妨げる悪徳の徴候は、みじんもなかった。自分で家計を見、秩序を愛し、一家を上手に切りまわしてゆくことを心得ていたフランヴァルは、一生の幸福を培うべき結婚生活のもくろみにおいて、必要とされる資格をすべてりっぱに具えていた。これを要するに、彼の悪徳なるものは、そんな種類のものではなかったのである。それは若気の無分別というよりも、むしろ中年の悪徳――技巧や策謀や、悪意や陰険や、利己主義や術策や、欺瞞《ぎまん》などの悪徳――であって、すべてそういった種類のものを彼は、作者が先に語ったところの美貌やら才能やら、さらには流暢《りゆうちよう》な弁舌やら、あふれる才知やら、魅力的な外観などによって内にふかく包み隠していたのである。作者がここに描かねばならないフランヴァルという男は、ざっとまあ、かくのごとき人柄であった。
ファルネイユ夫人の娘は、慣例によって、一緒になる前一月ばかり夫と交際したが、夫の表面的な美質にたちまち目がくらんでしまって、すっかりこの男を信頼してしまった。一日じゅうこの男をじっと見ていても飽きないほどで、彼女の熱中ぶりたるや大へんなものであった。で、人びとは、もし何か不慮の災いが彼女の生存の唯一の幸福(と彼女自身称していた)たる甘美な結婚生活を乱しに来たら、いったいこの若い婦人はどうなってしまうかしらんと、気づかわねばならないほどであった。
一方フランヴァルは、人生万般についてと同様、女のことに関しても一家言をもっていて、この愛らしい新妻を皮肉たっぷりにながめていた。
「女なんてものはわれわれ男の所有物で」と彼はつねづね言っていた、「奴隷のように使ってやらねばならない人間の一種さ。やさしく、従順で、おまけにずいぶんおとなしくなければならない。といって、おれは、われわれ男の放蕩《ほうとう》をまねた女の不行跡が、亭主たる者に不名誉の極印を押すという、あの愚かしい偏見に加担しているものではないよ。それは単に他人がわれわれの権利を奪おうとするのを好まないという、人間一般の考え方によるだけの話でね。それ以外は、全くどうでもよいことで、人間の幸福にはいかなる影響も及ぼすようなものじゃない」
このような考え方を抱いた亭主と一緒に住んで、女が薔薇色《ばらいろ》の幸福を期待すべくもないという事情は、容易に推察されるところである。貞淑で、情愛にみち、上品に育てられたフランヴァル夫人は、彼女をわが物としたただ一人の男の欲望の前に、みずから進んで慕い寄って来たわけで、最初の数年間というものは、自分のみじめな状態に気づくこともなく、甘んじて鉄鎖につながれていた。考えてみれば、自分が結婚生活のわずかな残りものしか拾ったことがないということは、すぐに気がついてよいはずであったけれども、その残りものにさえ十分満足していた彼女であってみれば、ただこの最愛の夫の幸福に必要だと自分が信じたものを何とかして整えてやりたいと思う以外に余念はなく、彼女のやさしい心に許された時日のうちに、それ以外のものに注意を向けることは、どだい無理な話なのであった。
とはいえ、フランヴァルが夫の務めをけっしておろそかにしてはいなかったという、その何よりの証拠は、フランヴァル夫人が結婚後一年すなわち十六歳の当時、その母親よりももっと美しい女児を生み落としたということである。父親はさっそくこの子にユージェニーという名前をつけた。ユージェニーはまことに造化の奇跡であり、またあえて言うなら、運命の悲惨事であった。
この子供が生まれるというと、彼女の上に最も醜い意図を抱いたらしいフランヴァルは、すぐさまこの子供を母親の手もとから離してしまった。七歳になるまで、こうしてユージェニーは、フランヴァルが昵懇《じつこん》にしていた女たちのもとに預けられた。この女たちは、フランヴァルに言い含められていたので、子供の健康に注意することと、読み書きを教えることしかせず、普通この年齢の娘たちが知っていなければならない宗教や道徳の訓育は何ひとつこれを伝授しようとはしなかった。
ファルネイユ夫人とその娘とは、この行為を非として、フランヴァル氏をしきりに責めたが、彼はてんとして恥じるところなく、自分の真意は娘を幸福にしてやることにあるので、人間を恐怖させるばかりが能でいっこう役に立つことのない愚かな妄想などは、娘に教え込ませたくないし、人間は自分の気に入ることだけを覚えればよいのであって、らちもない教説には無知であってもいっこうさしつかえないし、架空の存在などを信じるのは人生の平安を乱すもので、道徳上の真理も肉体上の美質も、そんなものではさらに獲《え》られはしないだろうと、こう答えるのであった。このような言説は、神の観念にあたうかぎり近づくことを心がけ、現世の快楽をすべて遠ざけていたファルネイユ夫人にとっては、この上なく厭わしいものであった。按ずるに、もともと信仰というものは、ある年齢や健康の衰退期に固有な精神の弱さである。情欲が立ち騒いでいる時期には、ひとは未来というものを自分にはあまり縁のない、非常に遠い不安としか信じることができない。しかるに自分の舌が思うように動かなくなり、一歩一歩死期に近づき、すべてがわれわれのもとを捨て去ろうとするや、ひとは子供のころにしばしば耳にした神というものの胸にふたたび身を投げかけようとする。哲学によれば、この人生の第二期の幻影もやはり妄想にすぎないのであるが、しかし少なくとも、これはさほど危険なものではなかろう。
フランヴァルの義母はすでに親族もなく、先に述べたようにその場限りの友達が何人かいるきりで、その友達にしてからが、若くて上品で姿のよい彼女の婿殿に対して苦言めいたことを言わせるには、あまりに腰の弱いひとたちだったから、ファルネイユ夫人は、手きびしい処置をとるよりも意見をするにとどめておく方が無難だろう、もしこの男に強いことでも言おうものなら、自分の身は破滅、そして娘は幽閉でもされかねない、と大そう分別くさく考えたことであった。できるだけの忠言はしたつもりであったが、それがいかなる首尾をも来たさないと知るや、彼女は黙ってしまったのである。
自分の優位を確信し、自分がひとに怖れられていることを先刻承知のフランヴァルは、やがてもうどんなことも遠慮や気がねをしなくなった。世間態をつくろうための薄い被衣一枚で素顔をかくして、彼は恐れげもなくその醜い目的に向かってまっすぐ歩き出したのである。
ユージェニーが七歳に達すると、フランヴァルは彼女を妻のもとに連れ帰った。生み落として以来わが子のすがたを絶えて見たことのなかった優しい母親は、どんなに愛撫しても飽き足りず、幾度となく接吻の雨を降らせ、涙の洪水で子供をぬらしながら、二時間もしっかり胸にかき抱いていた。母親は娘がどんな学問で養われているか、知りたいと思った。ところがユージェニーは、すらすら本が読め、溌溂《はつらつ》とした健康に恵まれ、天使のように美しく育てられているという以外に、どんな学問上の才識をも示さなかった。かくて、わが子が宗教上の初歩的な教理さえ知らないことがあまりにも明らかな事実として確認されたとき、フランヴァル夫人は、またしても新たな絶望にとらわれざるをえなかったのである。
「まあ何としたことでしょう、あなた」と夫人はフランヴァルに言った、「いったいあなたは、あの娘に現世の教育しかお授けにはならなかったのですか? あの娘だってあたしたちと同じように、束の間この現世に生を営んだ後、永遠の神の御許《みもと》に赴く身ですのに? よしんばあの娘が神の足下で幸福な来世を送るのに必要な知識を、あなたがいっさい禁じられたとしても、あの娘の運命には変わりはございませんわ。あなたはそういうふうにお考えになるのがお気に召しませんの?」
「たとえユージェニーが何の知識もなく、宗教の教理をひとつも知らなかったとしても、いいかね奥さん」とフランヴァルは答えた、「彼女がそれによって不幸になることはまずあり得ませんよ。というのは、かりにその教理が正しいとしても、神は無知なる者を罰するほど悪人じゃないだろうからね。またもしその教理が間違っているとすれば、そんなでたらめをあの娘に話して聞かせる必要がどこにあろう? その他の教育問題については、どうか私を信用してほしい、今日から私があの娘の家庭教師になろう。二、三年もすりゃあなたの娘は、同じ年ごろのどこの娘さんよりも優れた学問を身につけているにちがいないというものです」
フランヴァル夫人は、理性の雄弁に対抗するに心情の雄弁をもってして、自説を固執しようとした。数行の涙が彼女の気持ちをよく言いあらわした。しかしフランヴァルは、妻の様子にさらに心を動かされた気色もなく、その涙にさえ気づかぬふうであった。そしてユージェニーを抱いていた腕から引き離させると、妻に向かって、私の授ける教育がどうあろうと、もしお前があえてそれに反対するようなそぶりを見せたり、あるいは私の意図している教理と違った教理を教え込もうとしたりするなら、娘はお前の目から二度と見えないように、田舎《いなか》の城館のひとつに送ってしまって、けっしてそこから出さないようにしてしまうから、さよう心得ろと、言うのであった。夫の言うことを何でもうなずくように仕込まれていたフランヴァル夫人は、そこで口をとざさざるを得ず、どうかあたしの最愛の宝を引き離さないで下さい、娘の教育に関してはどんなじゃまだてもいたしませぬからと、涙ながらに約束するほかなかった。
この時からフランヴァル嬢は、父の部屋と隣りあった大そう小綺麗な部屋に、頭のよいひとりの女家庭教師と、その補佐役と、部屋付き女中と、遊び友達として選ばれた同じ年ごろのふたりの少女と一緒に、移り住むことになった。ペン習字と、素描画と、作詩法と、博物学と、朗読法と、地理学と、天文学と、解剖学と、ギリシア語と、英語と、ドイツ語と、イタリア語と、フェンシングと、舞踊と、乗馬術と、音楽の教師がそれぞれ選ばれた。夏でも冬でも、ユージェニーは毎朝七時に起床し、庭を駆け抜けて、朝食代わりの大きな黒パンの塊りを食べに行き、八時には家に戻って、父親の部屋で数刻を過ごし、父親と一緒にふざけたり、あるいは父親から社交界の遊びごとを教えてもらったりした。それから九時まで宿題の準備をし、九時になると最初の教師がやって来て、午後二時まで五時間授業を受ける。昼の食事は、ふたりの学友および女家庭教師と一緒に、家族とは別に供された。食事は野菜と魚と菓子と果物《くだもの》で、肉やポタージュや葡萄酒《ぶどうしゆ》やリキュールやコーヒーはけっして出されなかった。三時から四時までの一時間、ユージェニーは小さな学友と一緒に庭に出て遊び、テニスや、ボール投げや、九柱戯や、羽根つきや、幅跳びなどをした。少女たちは季節によって快適な服装をした。のびのびとした姿態を束縛するような服装はいっさいこれを廃した。胃や胸にとって有害であるばかりか、若い肉体の呼吸すらをも困難にし、肺に悪影響を与えずにはおかない、あの愚劣なコルセットの張鋼《はりがね》の中に、彼女たちは閉じこめられるうきめを免れた。四時から六時まで、フランヴァル嬢は二番目の教師の授業を受けた。一日にすべての授業を受けるわけにはいかないので、他の教師は翌日やって来た。一週に三回、ユージェニーは父親と連れ立って劇場へ行き、彼女のために一年間借り切った桟敷で芝居を観《み》た。九時に帰宅して夕食にする。夕食には野菜と果物しか供されなかった。十時から十一時まで、一週に四回、ユージェニーは学友たちと遊んだり、なにがしの小説本を読んだりして、それから床につく。その他の三日間は、フランヴァルが外で夕食をしない日なので、彼女は父親の部屋で夜を過ごすのであるが、この時間はフランヴァルが「ふたりの講話会」と呼んでいるもののために費やされる。つまり、父親がその娘のために道徳や宗教に関する自己の一家言を披瀝するのであった。彼は一方からは世間一般の考え方を開陳し、他方からは自分独特の考え方を展開して見せた。
あふれる才気と、浩瀚《こうかん》な知識と、いきいきした頭脳と、すでに燃えはじめていた情熱とをもって、父親の語るこのような学説が、ユージェニーの若い魂にどのような進歩をもたらしたかは、容易に想像されよう。しかし陋劣《ろうれつ》なフランヴァルは、単に娘の頭脳の訓練といった純粋な目的のみを持っていたわけではなかったので、彼の講話はともすると娘の心情を燃えあがらせるという結果に終わることがしばしばであった。あまつさえ、この憎むべき男は、娘を悦《よろこ》ばせる方法を知悉《ちしつ》していて、上手な手ぎわで彼女をたぶらかし、稽古にまれ遊びにまれ無くてはならぬ相手になったばかりか、彼女の気に入ることは何事によらずかなえてやるよう細心の気を配ったので、ユージェニーは、どんなはでなひとたちの集会の席にいてさえ、自分の父親ほどに好ましい人物はひとりも見いだせないほどであった。で、父親が意中を打ち明けるより以前に、早くもこの無邪気なかよわい娘は、その幼い心のうちに、父親に対する友情と感謝と情愛のありったけを抱懐していたわけで、やがてはその感情がこの上なく激しい恋心に変わってゆく必然の経過も目に見えていたのである。彼女にとってはこの世にフランヴァルしかおらず、フランヴァル以外の誰も眼中になく、もし彼から引き離されでもしようものなら、断固としてあらゆるものに反抗する用意があった。もしこの優しい心の友が自分に要求しようなら、彼女はみずからの名誉、みずからの美しさのみならず――そんなものは彼女の涙ぐましい盲目的崇拝の対象にとっては取るに足らぬものなので――みずからの血、みずからの生命そのものさえ捨てて惜しまぬ用意があった。
フランヴァル嬢が尊敬すべき不幸な母親に対する心の動きは、しかし、父親に対する場合とまったく異なった。父親は娘に向かって言葉たくみに、私の妻のフランヴァル夫人は、私が自分の心の赴くままに可愛いお前のためにしてやっているすべての配慮を、私から奪い取ろうとやっきになっているのだと説明し、この若い娘の心のうちに、彼女が母親に当然抱いてしかるべき敬慕と愛情の代わりに、むしろ憎悪と嫉妬心《しつとしん》をはぐくむべく腐心していた。
「ねえ、お兄さま」とユージェニーは時おりフランヴァルに向かって言った(父親は娘にこういう呼び方以外の名で呼ばれることを好まなかった)、「お兄さまが妻と呼んでいらっしゃるあの女のひとは、お話によれば、あたしを生んでくれたひとだそうですけれど、でも、ずいぶん気むずかしい方じゃありませんか。だって、いつも自分のそばにお兄さまを引きつけておきたがり、あたしがお兄さまと一緒に過ごす楽しい時間を奪い取ろうとしているのですもの。……ええ、ちゃんとわかっておりますわ、お兄さまはこのユージェニーなんかより、あのひとの方がよっぽどお好きなんでしょ? でもあたしは、お兄さまのお心をあたしから奪おうとするひとなんか、どうしたって好きにはなれませんわ」
「可愛いユージェニー」とフランヴァルは答えるのだった、「そんなことがあるものかね、この世の誰にしたところで、お前の魅力ほどに強い魅力をもっている者はひとりだっていやしないよ。あの女と私との絆《きずな》なんてものは、私の哲学的な見方からすれば、要するに習慣と社会的約束の結果なのであって、私たちを結びつけている情愛の絆は、そんなものではびくとも動じはしないのだ。……お前は永久に私のいちばん好きな女だよ。ユージェニー、お前は天使だ、私の生命の光だ、私の魂の中心だ、そして私の生存の原動力だよ」
「まあなんてやさしいお言葉!」とユージェニーは答える、「そのお言葉を、何べんも繰り返して下さいませな、お兄さま。お兄さまのやさしいお言葉が、どんなにあたしをうっとりさせますことか!」
そう言ってフランヴァルの手をとって、自分の胸の上にひたと押し当てて、
「ほら、ね、この胸で感じておりますのよ」と彼女は続ける。
「お前のやさしい言葉だけでもそれはよくわかるよ」とフランヴァルは答えて、娘をその腕の中に抱きしめる。……こうしてこの腹黒い男は、いかなる良心の呵責《かしやく》も覚えず、不幸な娘に対する誘惑を着々となし遂げつつあったのである。
そうこうするうちに、ユージェニーは十四歳に達した。あたかもその時である、フランヴァルがその罪の行為を犯そうと思い立ったのは……読者よ、この事実に慄然《りつぜん》とするがいい! それは次のようなぐあいに運ばれた。
彼女が十四歳に達した日――と言うより彼が決意を固めた日、と言った方がよかろう――ふたりは家族や邪魔者を周囲から遠ざけて、田舎にいた。フランヴァルはこの日、かつてウェヌスの寺院の生贄《いけにえ》に供されたギリシアの処女のごとくに娘を美々しく着飾らせると朝の十一時を期して、何やらん淫蕩的《いんとうてき》な一部屋に彼女を迎え入れた。薄紗によって日光をやわらげ、床いちめんに花々をまき散らした部屋である。中央に、薔薇の玉座が高々と設けてあった。フランヴァルはそこに娘をみちびいて、玉座に腰掛けさせると、
「ユージェニー」と言葉を切った、「お前は今日、私の心の女王さまになるのだ。私にひざまずいてお前を礼拝させておくれ」
「お兄さまが私を礼拝なさいますって? いいえ、それは困ります、だって、あたしにすべてを与え、あたしをこの世に生み出し、あたしを育てて下さったのがほかならぬお兄さまではございませんか?……ああ、それよりあたしにひざまずかせて下さい、お兄さまのお足もとこそあたしの身を置くべき唯一の場所、あたしの唯一の憧憬《どうけい》の場所なのですから」
「おお、やさしいユージェニー」とフランヴァルは、やがて彼の大願成就に一役買うべき花の蓐《しとね》に、娘と並んで腰をおろして、「もしお前が私に何かの負い目をこうむっているというのが本当なら、いやさ、もしお前の見せてくれる愛情が、口で言うほどに真心のこもったものであるのなら、お前はそれをこの私に納得させてくれることができるだろうね?」
「でも、どうすればよろしいのですの、お兄さま? はやくおっしゃって下さい。何なりとあたしにできることなら喜んでいたしますから」
「自然がお前の肉体に惜しみなく与えた、その美しさのすべてと、その魅力のすべてとを、今すぐ私のために犠牲にしてもらいたいのだよ、ユージェニー」
「でも、お兄さまは何をお望みですの? お兄さまは何なりと自由におできになる方じゃありませんか? お兄さまのお創《つく》りになったものは、もちろんお兄さまのものであって、他人が自由にできるものではございますまい?」
「だがな、お前は人間の偏見というものを知らないわけではなかろう?」
「お兄さまは偏見を美化したりなぞなさいませんでしたわ」
「つまりさ、私はお前の愛の告白なしに、その偏見を乗り越えたくないと思うのだ」
「お兄さまはあたしに偏見なぞ軽蔑《けいべつ》せよとおっしゃいませんでしたかしら?」
「それはそう言ったさ、しかし、私はお前に対して暴君にはなりたくないし、お前の誘惑者にはさらになりたくない。私はただ愛のみによって、自分の望む恩沢を手に入れたいと思うのだ。お前は世間の男たちを知っている。私は世間の男たちの魅力を、お前に隠したりなぞしなかった。お前の目に男たちを隠し、私ひとりしか見せないようにするなんてことは、私にはとてもできない卑劣な欺瞞であった。そこで聞くが、もしこの世界に、私より気に入った男がひとりでもいたら、どうか早くその男の名を言ってほしい。私はすぐ世界の果てまでも捜しに飛んで行って、お前の腕の中にその男を連れて来よう。私が望んでいるのは、要するにお前の幸福なのだ、いいかね、私の天使よ、私自身の幸福よりも、お前の幸福の方をずっと望んでいるのだよ。お前が私に捧げてくれようという甘美な快楽も、もしそれがお前の愛に値するものでなかったら、私にとっては何ものでもないだろう。さあ、ユージェニー、決心してほしい。生贄になる時が近づいた。お前は生贄にならねばならないのだ。だがその前に、お前自身の口から、生賛を捧げたいと思う男の名前を言ってくれ。もし私がお前の魂の悦楽に値しないなら、私はこの晴れがましい役目が約束してくれる快楽をさえすっぱりと諦めるつもりだ。私はいつもお前の魂にふさわしくありたいと願っている。もしお前の好きな男が私でないなら、お前のいちばん愛している男をお前の目の前に連れて来て、お前の心を虜《とりこ》にすることができなかった私が、せめてお前の愛情に値したいと願うばかりだ。お前の恋人になることが許されなければ、せめてお前の友達になりたいと願うばかりだ」
「あなたはあたしのすべてです、お兄さま、すべてです」とユージェニーは恋情と欲望に燃えあがって答えた、「あたしの唯一の熱愛の対象であるお兄さまをさしおいて、いったい誰にこの身を捧げてよいものでしょう? あたしを求めていらっしゃるお兄さまでなくて、この世の誰が、あたしの貧弱な魅力……すでにあなたの熱いお手がまさぐっている、この貧弱な魅力に、ふさわしいお方でしょう? あたしの身体を燃え立たせているこの情火をお感じになって、お兄さまにはおわかりになりませんか、あたしがあなたと同じほどに、いまお兄さまのおっしゃった快楽を一刻も早く知りたいものと焦れているのが? さ、お楽しみになって下さいませ。あたしのやさしいお兄さま、あたしのいちばん好きなお友達、あなたのユージェニーを犠牲になさって下さいませ。お兄さまのいとしいお手で生贄にされれば、ユージェニーは本望を遂げますでしょう」
ご承知のとおりフランヴァルは、巧妙無類な誘惑のためにのみ心情のこまやかさを粧《よそお》った男であるから、手もなく信じやすい娘を欺くことができた。一方からは詭弁の学説によって、あらゆる感化を受けやすい乙女の魂を養い、他方からは籠絡術《ろうらくじゆつ》によって、最後の瞬間に乙女の心をとらえ、かくていっさいの邪魔物が排除されるに及び、フランヴァルはその腹黒い征服をなし遂げ、父親としての立場が保護に委ねた処女性をば、かえってみずから蹂躪《じゆうりん》しおおせたのであった。
こうして幾日幾晩が、お互いの陶酔のうちに過ごされた。恋の楽しみを知り初める齢ごろにあったユージェニーは、身につけた哲学に励まされて我を忘れて、快楽にふけった。フランヴァルは彼女にあらゆる快楽の秘儀を教え、あらゆる方法を伝授した。彼が奉献の場所をふやせばふやすほど、娘は官能の魔力に縛られていった。できることなら、彼女は一度に千の浄院からでも捧げ物を受けたかった。恋人の荒《すさ》びようを不足に思って、これを責めたり、フランヴァルは何か自分に隠しているのではないだろうかと、あらぬ疑いをかけたりした。つまり、自分はまだ若く初心《うぶ》なので、フランヴァルを十分に悦ばすほど魅力がないのではないかと、わが身の至らなさを嘆いたのである。彼女がもっと達者になりたいという希《ねが》いは、かくて、恋人の恋情を燃え立たせる方法に未知の分野を残しておきたくないという、あわれにも健気《けなげ》な心根からであった。
やがてパリに帰ったが、この背徳漢を酔わせていた罪の快楽は、彼の肉体的・精神的機能をあまりにも心地よく揺すぶる態のものだったので、普通こうした情事は一回限りで忘れ去られてしまうのが常なのに、今度ばかりは、なかなか絆《ほだし》を断ちがたかった。で、彼は狂気のごとくにほれ込んでしまったが、一方この危険な火遊びがフランヴァル夫人を最も残酷な孤閨《こけい》の嘆に陥れてしまったのは当然の成り行きである。……ああ、これは何たる痛ましい犠牲者であろうか! フランヴァル夫人は当時やっと三十一歳、咲く花の匂うばかりな女盛りであった。悲しみにひしがれて、淋しげな翳《かげ》があるのは無理もなかったが、それだけにいっそう色気をそそった。わびしい失意のなかで、その眼はいつも涙をたたえ、美しい髪は雪花石膏の胸の上にしどけなく散らばっていたが、こうして彼女が不実な横暴な亭主の肖像画に、慕わしげに唇を押しつけているさまは、まさにミケランジェロ描くところの、苦悩のさなかにあるあの美しい処女にも似た。とはいえ、フランヴァル夫人はまだ自分の苦悩の全貌を知らされてはいなかった。その時まで彼女が悩んでいたことと言えば、もっぱらユージェニーの教育問題に関することであって、教えなければならない大事なことが娘に知らされていないばかりか、嫌悪するようにさえ仕込まれているということ、フランヴァルの軽蔑しているあの信仰のお務めを娘に果たさせることはとうていできそうもないこと、自分の娘に会える時間がごく短いこと、夫の特殊な教育の仕方がいずれ不幸な事態を招きはしないだろうかという漠たる懸念、それから最後に、フランヴァルの妻に対する奇態な好き心と、日々の冷たいあしらい、それだけであった。夫人は夫の欲望を察してその気に入るように努めるしか考えたこともなく、夫の関心をひくことにしか歓びを見いださなかったのである。……ああ、このように優しい繊細な魂が、もしすべてのいまわしい事態を告げ知らされたら、どんな苦悩の矢にむごたらしく刺し貫かれることでもあろう!
その間にも、ユージェニーの教育は着々と進んでいた。ユージェニー自身、十六歳まで勉強を続けたい意向をもらしていた。彼女の才能と、ひろい知識と、美しさとが日増しに生長するにつれて、フランヴァルはいよいよ離れがたくなった。今まで彼のこれほど愛した女がどこにもいなかったことは、容易に知れた。
フランヴァル嬢の日常生活は、講話の時間以外、表面的には何の変化もなかった。父親との差し向かいの時間は頻繁になり、しばしば深更にまで及んだ。ユージェニーの女家庭教師は事情の経緯《いきさつ》をすべて知っていたが、一本釘をさされていたので、秘密をもらしてしまう惧《おそ》れは万々なかった。食事の時間も多少変化があり、ユージェニーは両親と一緒に食卓につくようになった。フランヴァル家のような家では来客が多く、したがってユージェニーが食事の席にいれば、どうしても多くのひとたちに知られる機会ができ、嫁にと望まれる可能性も出て来るわけである。事実、彼女は多くのひとに望まれた。フランヴァルは娘の意中を知っていたから、こうした話にもべつだん驚く必要を認めはしなかったけれども、しかし、やがてこのような申し込みが積もり積もって、ついにいっさいの悪事が暴露する契機になろうとは、神ならぬ身の知る由もなかった。
フランヴァル夫人にとって娘との対話くらい楽しいものはなかったが、その機会はごく稀にしかなかった。ある日、このやさしい母親が、ユージェニーと対話中、コランス氏というひとがあなたを嫁にほしいと申し込んで来ていると、娘に告げた。
「ご存じでしょう、あなた、コランスさんを?」とフランヴァル夫人は言った、「あなたを愛しているんですって。あの方、とても若くて、感じのいい方ね。それにいずれお金持ちになる方だわ。ただ、あなたのご返事だけが心配なんですって。……ねえ、何てお答えしたものかしら?」
驚いたユージェニーは赤くなり、自分はまだ結婚するなんて考えたこともない、お父さまに御相談なさって下さい、お父さまのおっしゃるとおりにいたしますから、としどろもどろに答えた。
フランヴァル夫人はこの答えに他意があろうとは思われず、二、三日待ち遠しい思いをして、ようやく夫に話を切り出す機会を見つけると、コランス家の意向と若いコランス自身の気持ちを伝え、あわせて娘の返答ぶりを話して聞かせた。
フランヴァルはもちろん、すべての事情を先刻承知であった。けれどもそこは何食わぬ顔をして、
「奥さん」と冷たく言った、「ユージェニーのことについては、頼むから余計な口出しはせんでもらいたいな。私があなたの手から離してあの娘を育てたことを忘れてやしまい? とすれば、あの娘に関して私があなたの干渉をぜんぜん望んでいないことは、すぐと察しがつきそうなものだと思うがね。ま、忘れたとおっしゃるのならもう一度命令をし直してもよいが……今度こそ忘れないで下さいよ、いいですか?」
「でも、何てご返事したらいいでしょう、先様へはあたしが返事をしなければならないんですけれど?」
「お志はありがたいが、うちの娘には結婚生活を妨げる生まれながらの欠陥があると、さように申し上げればよい」
「でもあなた、そんな欠陥はありゃしませんわ。あなたはなぜそんな嘘をあたしに言わせるんですの? なぜあなたの一人娘が、結婚生活で味わおうという幸福を奪おうとなさるんですの」
「結婚生活の幸福とおっしゃいますがね、奥さん、あなたは結婚によって大へん幸福になりましたか?」
「すべての女があたしと同じように、旦那さまを自分のそばにつなぎ止めておけないで(彼女はここでほっとため息を吐いた)不幸になるものとは限りませんわ。それにまた、すべての旦那さまがあなたに似ているとも限りませんわ」
「猫かぶりで、嫉妬ぶかくて、横柄で、手練手管にたけていて、気違いじみた信心家、これが女です。陰険で、浮気で、残酷で横暴、これが亭主です。要するに地上の人間というのは、みんなそんなものです、奥さん、無いものねだりはやめましょう」
「それでも結婚しないひとはありませんわ」
「そのとおり、つまり馬鹿者か、のらくら者が結婚するのです。ある哲学者が言いました、『人間は自分が何をしているのかわからない時か、さもなければ、もう他にすることがない時以外はけっして結婚しない』とね」
「それじゃ人類なんぞ滅ぼしてしまった方がよいのでしょうか?」
「もちろんできればね、しかし、毒液しか出さない植物はなかなか根絶やしにはならないものです」
「そんなむごいことをおっしゃられたら、ユージェニーはさぞ悲しむことでしょう」
「この結婚はあの娘の気に入ったようですか?」
「あなたのご命令どおりにすると申しましたわ」
「ふん、なるほど、それでは奥さん、私はこの結婚を見送るようにとあなたに命令します」
そう言うとフランヴァル氏は、もうこの問題については二度と口にするなと妻に厳命して、出て行ってしまった。
フランヴァル夫人は夫と交わしたばかりの会話を、自分の母親に報告しないではいられなかった。すると、ファルネイユ夫人は世間知らずな娘よりも、愛欲の機微に鋭く通じていたので、そこに何かあやしいもののあることをただちに推測した。
ユージェニーは祖母にあまり会ったことがなかった。たまたま機会があっても、いつもフランヴァルの見ている前で、せいぜい一時間かそこらで会見は打ち切られた。さて、事情を知りたいと思ったファルネイユ夫人は、ある日婿殿のもとにひとを遣わして、孫娘に会いたいから連れて来るように、噂《うわさ》によれば孫娘は偏頭痛に悩まされているそうだが、もし午後中いっぱい彼女を私に預けさせてくれれば、そんな病気はすぐに追っ払ってあげるから、とこう伝言した。フランヴァルはそれに答えて、ユージェニーは別にどこも悪くはないけれども、お望みとあらばどこへでも連れて参りましょう、しかしあの娘が大そう熱心にきいている物理学の講義がありますため、そちらに出席するにはお宅にそう永いことおじゃまはできますまい、と辛辣な返事を送った。
ファルネイユ夫人の家に赴くと、夫人はさっそく、なぜあんな結構な縁談を破棄したのか私には解しかねます、とあからさまに非難の言葉を浴びせかけた。
「あなたのお話によれば、ユージェニーには結婚できないような欠陥があるということですが」と彼女は言った、「あなたはそれをユージェニー自身の口からあたしに説明し納得させてくれるのに、まさか事欠きはしないでしょうね?」
「ま、その欠陥の真偽はともかく」とフランヴァルは義母の強い言葉にいささか気押されて、「本当のところ、娘を縁づかせるのは私にとって相当な物入りでして、そんな出費を承知できるほど私はまだ年功を積んではいないのですよ。まあ二十五歳にもなれば、娘も自分でよいと思うことを実行するようになるでしょうがね。そんな齢になってまで、まだ父親を当てにされてはかないませんからな」
「あなたのご意見もお父さまと同じなの、ユージェニー?」とファルネイユ夫人が孫娘にきいた。
「すこし違うところがございますわ、お祖母《ばあ》さま」とフランヴァル嬢はきっぱり答えた、「お父さまは二十五歳になれば結婚してもよいとおっしゃいますけれど、あたし、お祖母さまとお父さまにここではっきり申し上げておきます、どうかあたしの一生を結婚なんぞということに利用なさらないで下さいませ。……あたしの考え方からすれば、結婚は人生の不幸にしか役立たないのでございますから」
「あなたくらいの齢でそんな考え方をするひとはいませんよ、ユージェニー」とファルネイユ夫人は言った、「どうもふたりのお話をきいていると、何か変なところがあるようですね。とにかくあたしはその変なところをはっきりさせなければ気がすみません」
「どうぞはっきりさせて下さい」とフランヴァルは娘を連れて帰りかけながら、「何でしたらあなたのご信任あついお坊さまにでもご相談になって、この謎をお解かせになったがよろしいでしょう。あなたのお力を総動員して、首尾よく謎がお解けになった暁には、ユージェニーの結婚に反対した私の意見が、はたして間違っていたか正しかったか、どうか忘れずに私の耳までご一言ください」
フランヴァルが義母に向かって皮肉に言った相談役の坊さんというのは――事件の進展に従ってすぐ後に登場して来るはずなので、ここに紹介しておくのが適当と思われるが――さる有徳の聖職者であった。
この人物は、ファルネイユ夫人とその娘とのいわば指南役であって、フランスにおける最も高徳な聖職者のひとり、清廉潔白で、慈悲ぶかく、純真と叡知とに満ちていた。クレルヴィル師といって、およそ生臭坊主らしいところがみじんもなく、穏和で人の役に立とうとする性情にあふれていた。貧乏人にとっては最も信頼し得る味方であり、金持ちにとっては誠実な友であり、不幸者にとってはよき慰め手であって、このりっぱな人格者は、あらゆる心のやさしいひとたちに愛される資格をことごとく具えていた。
相談を受けたクレルヴィル師は、いかにも良識あるひとらしく、まずこの事件に手をつける前に、フランヴァル氏が娘の結婚に反対する理由を明らかにしなければならないと答えた。事件の裏に情事がからまっているらしいことをファルネイユ夫人は再三臭わせたけれども――そして事実はまさにそのとおりだったのだけれども――慎重なクレルヴィル師は、そうした臆説をすべて排し、そんな想像はフランヴァル夫妻の名誉を傷つけるも甚だしいものだとして、いつも憤然として撥《は》ねつけるのだった。
「そんな、罪にひとしい嘆かわしいことが、奥さん」とこの清廉潔白な男は何度も言った、「とても本当とは考えられませんわい。いやしくも思慮分別ある人間が、廉恥心の羈束《きそく》と美徳の桎梏《しつこく》をみずから進んで踏みにじるなんて……私はそういう罪には極端な嫌悪を覚える方でしてな、この耳で聞いただけでもぞっとしないではおれませんわい。私たちはよくせきの場合でない限り、悪徳の疑いなどは抱くべきではないのです。つまりこの悪徳の疑いというものは、私たちの己惚《うぬぼ》れの結果であることがしばしばでしてな、私たちの魂の奥処で、自分と他人とを比較するという、きわめて偽善的な行為の結果であることが多いのです。私たちは自分だけいい子になろうとするために、ともすると他人の悪を性急に認めようとする。ですから奥さん、つらつら考えてみますると、真偽のいまだ判明せぬ事柄を性急に邪推したり、単に私たちの目に不可解な行為をしているだけのひとを理由もなく傷つけたりするよりは、まだしもひそかな悪事が暴露されずに行なわれている方が結構だと言わねばならないのです。事実そのひとは、私たちの己惚れが当推量している罪以外に、どんな罪をも現実には犯していないかもしれないのですからね。そんなぐあいに、こうした考え方はどんな場合にも必要です。ひとりの罪人を罰するよりも、この罪がひろがるのを防ぐ方がはるかに本質的な必要事ではございませんか? 罪人は暗闇《くらやみ》の中で手探りさせておいたとしても、しょせんは力つき、みずから滅びてしまうものです。醜聞は噂されればされるほど、確固としたものになり、語られれば語られるほど、同じ罪を犯しやすい傾向にあるひとを興奮させます。罪というものには理性の迷いが切っても切れないものなので、ある罪人が世間に知られれば、まだ世間に知られない罪人は、自分の方があいつよりも幸運だという愚かな迷いを抱きかねません。つまりそれは世間が気づかずして罪人に与えるところの助言であり、勧告であって、もしこうした軽率な噂がなかったならば、おそらくけっして犯しはしなかったであろうような大罪さえ彼らに犯させないとも限りません……噂というものを公正な行為と考えるのは、かように間違いでしてな……噂とは、要するに厳格さを誤解したもの、心の奥にかくれている虚栄心のあらわれ以外の何ものでもないのですわい」
そんなわけでクレルヴィル師は、この最初の話し合いの結果、フランヴァルが娘を結婚させたがらない理由と、ユージェニーが父親と同じ考え方をしている原因と、この二つの事情をはっきり確かめる以外には何も手をつけないことに決めた。こうした事実の動機を明らかにする以外には、どんな処置もとらないことに手はずを決めた。
「やれやれ。えらいことになったよ、ユージェニー」とある晩フランヴァルは娘に言った、「ご存じだろうが、私とお前とを引き離そういう計画が進められているらしいのだ。さてお前、やつらは成功したものだろうかね?……私の人生のいちばん楽しい絆は、やつらの手によってむざむざ断ち切られてしまうだろうか?」
「いいえ、いいえ……ご心配はいりませんわ、あたしのいちばん優しいお友達! お兄さまの楽しい絆は、お兄さまにとってと同様あたしにとってもこの上なく貴重なものですもの。お兄さまはあたしに少しも嘘を教えたりはなさらずに、ふたりを結ぶこの絆が、あたしたち人間の道徳に少しも反するものではないことを明かして下さいました。習慣というものは国々によって異なるものだし、そんなものには神聖なところがこれっぽっちもないので、あたしはちっとも怖れず習慣を乗り越え、この楽しい絆を望んだのでした。そしてこの絆を結んでいる現在、あたしは少しも後悔してはおりません。ですから、あたしがそれを破るなんて、そんな心配はいりませんわ」
「ああ、お前はそういうがね……コランスは私より若いのだよ。お前をひきつける魅力をあの男は残らず持っている……一時の迷いに引かされないようになさい、ユージェニー、お前は情熱に目がくらんでいるのかもしれんのだ。年齢と理性の火が幻影を吹き払ってしまったら、すぐに後悔が生まれるかも知らんのだ。そうなったら、お前は私をどんなに恨むことか。私自身だって、お前を苦しめたことを自分に許せやしないだろう!」
「いいえ、そんなことございませんわ」とユージェニーはきっぱり言った、「あたしはお兄さまひとりしか愛さないことを心に決めているのです。もしも夫を迎えねばならないとしたら、あたしは自分を世界一の不幸者と思うでしょう。それに」と彼女は熱っぽく続けた、「それに、もしお兄さまのようにあたしを愛する理由をふたつも持っていらっしゃる方でなくて、ただその時の感情や、せいぜいその時の欲望に愛の目安を置いているような、そんな見ず知らずの男のひとと一緒になり……もしも捨てられたり軽蔑されたりしたら、あたしはいったいどうなってしまうでしょう? 猫かぶり、信心家、それとも淫売婦? おお、いやです、いやです。それならいっそ、あなたの情婦になっていたい。あんな卑しい役目を社交界の男たちのひとりひとりに演じなければならないよりは、その方が百倍もいいわ。……でも、いったい、この陰謀の張本人は誰なのでしょう?」とユージェニーはとげとげしく言った、「お兄さまは知ってらっしゃるの? 誰なのです? あなたの奥さまね?……そうでしょうとも、執念ぶかい嫉妬心……それにきまってるわ、あたしたちを脅かす不幸の唯一の原因が、それなのよ……いえ、あたし、別にあの方を非難してやしないわ。当然なことですもの。よくわかるわ。あなたを失いたくなければ、そうするのが当たり前よ。あたしだってあの方の立場に立ってみれば、あなたの愛情を誰かに奪われようとしてみれば、それこそ何を考え出すか知れたものじゃありませんもの」
フランヴァルはひどく感動して、娘を千度も接吻した。すると娘は、この罪の愛撫に励まされてか、たけだけしい精神をいっそうはげしく働かせて、次のごとく、許しがたい破廉恥な考えを父親に語ったのである。それは、彼らふたりが警戒の目を免かれるための唯一の手段は、母親に恋人を持たせるしかないという、実の娘の口から出たとは思われない、聞くもおぞましい考えであった。この計画は、しかしフランヴァルの感興をそそった。けれどもフランヴァルは娘よりずっと性悪で、この若い娘の魂に、母親へのあらゆる憎悪の種を蒔こうとひそかに企んでいたので、そんな復讐《ふくしゆう》では手ぬる過ぎはしないか、妻に苦杯をなめさせられた夫がとるべき報復手段はまだほかにもたくさんあるのだがね、と答えた。
数週間がこうして過ぎたが、その間に腹黒い父親と娘とは、気の毒なフランヴァル夫人を絶望に陥れるべき計画の第一手段に着手した。まず手ひどい方法を試みる前に、さしあたり彼女に恋人を持たせる方法を採用するのが穏当だろう、そうすれば他人に噂の種をまくこともできようし、またもしそれが奏功すれば、フランヴァル夫人にしてから自分自身れっきとした罪の渦中にある身が、もう他人の罪などにかかずらってはいられなくなるにちがいない、とこう、彼らは考えたのである。で、フランヴァルはこの計画の実行のため、知合いの青年たちに一わたり目を向け、つらつら熟考の末、ヴァルモンという青年がまず最もこの任に適していると判断した。
ヴァルモンという男は三十歳、美貌と機知と、夢想的な性情の持ち主であるのに、まるで節操のない男だったから、こうした役目にはまことに打ってつけと言うべきだった。フランヴァルはある日彼を晩餐《ばんさん》に招き、食事が終わると、傍へ連れて行って、「ねえ君」と切り出した、「私はいつも君を、わが友たるにふさわしい男と信じて来たが、その考えの間違っていなかったことを、いま君は私に証明してくれられるだろうね? つまり君の友情の証拠を私は見たいのだよ……それも大そう変わったやり方でね」
「いったい何のお話です? とにかく説明して下さいよ。もちろん僕はあなたのお役に立ちたいと思ってはいますがね!」
「私の妻を、君はどう思うね?」
「お美しい方ですな、もしご亭主があなたでなかったら、とっくの昔に僕はあの方の恋人になっていたでしょうよ」
「そいつは奇妙だ、ヴァルモン。実は彼女は私にはてんで魅力がない」
「へええ?」
「いいかい、驚いちゃいけないよ……私は君の好意に甘えて、フランヴァル夫人の夫として特に君に頼むのだがね……君に彼女の恋人となってほしいのだ!」
「ご冗談を! 気でも違ったんですか、あんた?」
「とんでもない、正気だよ、もっとも私が昔から気まぐれで突拍子もないことをやらかす人間なのは、長いつきあいで君もよく承知してるところだろうが……私はね、美徳を失墜せしめてやりたいのだ、君の手を借りて、彼女を罠《わな》にかけてやりたいのだ」
「なんてむちゃな!」
「いや、むちゃどころか、理性の傑作さ」
「では、僕が奥さんとあれしても?……」
「かまわん、そうしてもらいたいのだ。もし君がいやだと言うなら、今日から君を友達と思わないことにする。もちろん私も手を貸す。いろいろと機会をつくるように努力する。君はただそれを利用すればいいんだ。で、首尾よく事が運んだ暁に、もし君がそうしてほしいと言うなら、私は君の足下にひざまずいて君の好意を鳴謝してもいい」
「フランヴァルさん、僕を甘く見ないで下さいよ。どうやら裏に何か不自然な事情ありと見たは、僕のひが目ですか?……すっかり話して下さらぬうちは、何事にも僕は手をつけたくありませんね」
「なるほど……だがね、君に話して大丈夫かな? いやさ、私は君の精神が、こういったことすべてを聞くに堪え得るほど強靭であるかどうか、それが心配なんだよ。まだ君の心には、偏見とか、時代遅れの騎士道精神とか、そういったものが残っているのじゃないかな? すべてを話して聞かされたら、君は子供のように慄《ふる》え出し、もう何もできなくなってしまうんじゃないか?」
「僕が慄えますって? あなたはいったい、僕を何だと思っているんです? 何も今更あなたに教えてもらわなくたって、ねえ、この世にいろいろな不義非道のあることぐらい、僕だって知ってまさあ。そうですとも、かりにどんな不自然な曲悪があったにせよ、そんなことで僕が一瞬間だって驚いたりなぞするもんですか」
「ヴァルモン、君は時々ユージェニーを見たことがあろう?」
「お嬢さんですね?」
「そう、あるいは、君さえかまわなければ、私の情婦と言ってもいい」
「ああ! なるほど、読めました」
「君がそんなに勘のよい男だとは知らなかったな」
「つまり、あなたが愛しているというわけで?」
「そうさ、ロトのようにね?……私は常日ごろ、聖書というものに多大の敬意をもって接し、その教えを身にしみて感じていたのでね、ついに聖書の英雄をまねして天国に到達したというわけさ! はっは、ピグマリオンの狂恋なんぞ、もう私を驚かすには足りないよ。……いったい君、この地球上が最初から、人間という有象無象に満ちあふれていたのかね? 地上に人の子をふやすためには、まずそれ[#「それ」に傍点]から始めることが必要だったのじゃないか? とすれば、当時において悪でなかったものが、現在どうして悪と呼ばれ得るのかね? べらぼうな話だよ! 私がこの世に住むという過失を犯したがために、私はあるひとりの美しい女によって誘惑される権利をみすみす捨てなきゃならんのかね? いっそう親しく結ばれてしかるべき絆が、ふたりを遠ざけねばならない理由になるのかね? 彼女が私に似ており、私の血につながっており、そして最も烈しい愛情を培うべき原因をことごとく具えているがために、私は彼女を冷たい目で見なければならないのかね? ふん、何というあきれた理屈だい! 何という愚かしさだい! そんな滑稽な桎梏は、馬鹿者たちに任せておこうじゃないか。やつらの魂は私たちの魂とできが違うんだから。美しいものの力とか、愛の神聖な権威とかいうものを、くだらない因襲的な人間はまったくご存じないんだ。昔、われわれの祖先たちは、太陽の光が夜の霧を地表から追っ払うように、そうした因襲的な考えを撲滅したものだ。私たちも踏みつぶしてやろうじゃないか、幸福の永遠の敵であるあの醜い偏見というやつを。それは時として人間の理性に甘くささやきかけるものだが、こいつの声をきいたが最後、最も楽しい快楽をもふいにしてしまうのは確実だよ……私たちは永遠に偏見を軽蔑してやらねばならないのだ」
「お説はよくわかりました」ヴァルモンは答えた、「僕だって、あなたのユージェニーがすばらしい情婦たり得ることを認めるのにやぶさかではありませんよ。母御さんよりずっといきいきした美しさがありますし、それは奥さまのようにあんなにやるせなく男心をそそる物思わしさはないかもしれませんけれど、何と言いますか、男を飼い馴らしてしまうような、抵抗しようとする者を屈服させてしまうような、あのぴりっとした色気がありますからね。一方がえも堪えなげなふぜいであるとすれば、他方は威丈高なふぜい……奥さまが許すものを、お嬢さんは進んで差し出すといった形です。そこにこそあのような魅力があるのでしょうな」
「だがね、私が君にやろうというのは、ユージェニーじゃない、その母親なんだよ」
「それで、つまりどういう理由から、そういうことになったのです?」
「妻の嫉妬さ。私をなやまし、私を追求するんだ。おまけに、ユージェニーを結婚させようと計画している。私の情事をおおいかくすためには、妻にも情事にかかずらわせてやらねばならぬ。そこで、君の登場をお願いするわけだ。君はしばらく楽しんでから、次に彼女を裏切る。彼女が君を抱いている現場を私が取り押える。私はそこで彼女を罰するか、さもなければ、この現行犯を担保《かた》にして、お互いの過失を丸くおさめる方途を見いだす、とこういうわけだ。ただし、愛情なんぞはいらないよ、ヴァルモン、冷静に彼女の心を虜《とりこ》にしてしまえばよいのだ。間違っても彼女の自由になんぞされるなよ。もし感情を混じえたら、私の計画はおじゃんだからな」
「心配ご無用。たぶんあの方こそ僕の心を燃え上がらせてくれる最初のご婦人でしょう」
こうしてふたりの悪人は手はずをきめ、近日中にヴァルモンが、フランヴァル夫人を口説きにかかることになった。そういっても、なにしろ口説き落としに必要ないっさいのものを利用すべき許可がおおっぴらに与えられているのだし……それに、この貞淑な婦人を復讐の手に委ねるべき最大の動機が、ほかならぬ亭主の娘への愛情だというのだから、まったくもって奇妙な話である。
この計画を聞き知ったユージェニーは、手を叩かんばかりにおもしろがった。もしヴァルモンが成功したら、ヴァルモンにとってもあたしにとっても、こんな愉快なことはない、あたしは母親の堕落をこの目で確認することができ、つねづねきつい言葉で非難していた快楽の魅力に、あの淑徳高き婦人が手もなく負けるのをながめることができるのだから、とこう、ユージェニーは言うのである。
かくしてついに運命の日がやって来ると、女のなかで最も貞淑にして最も不幸なフランヴァル夫人は、彼女の繊細な心に加えられ得る最大の痛手をこうむるとともに、怖ろしい夫が進んで実現に加勢した凌辱者《りようじよくしや》の手に委ねられ、その慰みものになろうという、この上ない恥ずかしめを自分自身の夫からこうむることになったのである。……何たる狂気の沙汰、何たる道徳の侮辱であろう! 自然はそもいかなる目的において、かほどまでに腐敗した人間の心を生み出したのであろうか!……
それはともかく、予定どおりの芝居が打たれる前に、予備的な会話がしばらく交わされた。ヴァルモンはもともとフランヴァルとごく親しい間柄だったので、フランヴァル夫人はこの友達と二人きりになってもべつだん不審の念を抱くことはないはずだった。で、広間に三人集まっていると、やおらフランヴァルが立ち上がって、
「ちょっと失礼」と言った、「大事な用件を思い出した……あなたをヴァルモンと一緒に置いて行かねばならないが、奥さん」と彼は笑いながら続けた、「ヴァルモンはあなたの家庭教師に手ごろでしょう、おとなしい男ではあるし……しかし彼が身のほどを忘れたら、一言私に伝えて下さい。私だって、まだ夫たるものの権利を譲り渡すほどこの男を愛してはおらんからね……」
そう言って出て行った。
しばらくはフランヴァルの冗談から出た当たりさわりのない話題を交わしていたが、やがてヴァルモンは、ご主人がここ半年以来変わったように思われる、ともらした。
「しいて理由をきいてはみませんでしたが」とヴァルモンは続けた、「何か心配事のあるらしいご様子でした」
「確かなことは」とフランヴァル夫人は答えた、「あのひとの方こそ他人に心配ばかりかけている、ということですわ」
「何ですって? 何をおっしゃいます? では、ご主人と何かいさかいでもなさいましたね?」
「そんな程度でしたらまだよいのですけれど!」
「それは聞き捨てならない、どうかお話して下さい、あなた方ご夫婦に対する僕の熱意と変わらぬ愛情とは、奥さんもよくご存じのはずでしょう?」
「醜い放蕩の連続、素行のわるさ、要するにありとあらゆる不身持ちですわ……とてもあなたには信じられません。……結構な娘の縁談さえ断わってしまうのですもの」
するとこの時、抜け目ないヴァルモンは、いかにもすべての事情に通じていて、そのくせそれを説明するのがはばかられるといった、弱気な悩める男の態度で、黙って目をそむけたのである。
「まあ、あなたは」とフランヴァル夫人は言った、「あたしの申し上げたことにちっとも驚きませんのね? あなたが黙っていらっしゃるのは、ずいぶん変に見えますよ」
「ああ、奥さん、余計なおしゃべりをして愛している方を絶望させるよりは、僕はむしろ黙っている方を選びましょう」
「どういう意味ですの、それは? 説明して下さい、お願いですから」
「今まで知らなかったことを知って、いやな思いをされることを、奥さんはお望みなのですか?」と言ってヴァルモンが、この哀れな女の手を衝動的に握りしめると、フランヴァル夫人は気もそぞろになって、
「おお、あなた、一言もしゃべらないか、さもなければすっかり説明するか、どっちかにして下さい、お願いですわ……あなたは怖ろしい立場にあたしを追い込んでしまいました」
「奥さんが僕を追い込んだ立場の方がずっと怖ろしい」とヴァルモンは言って、恋情に燃えた眼《まな》ざしをじっと女の上にそそいだ。
「いったいどういうおつもりなんですの、あなた。まずあたしをびっくりさせ、あたしに知りたいという気持ちを起こさせておきながら、次にはあたしが苦しまなくてもよかったこと、苦しむはずもなかったことを思わせぶりに匂わせて、あなたは、こんなに烈しい心配の原因を知る手立てをあたしから奪ってしまおうとなさる……話して下さい、どうか話して。さもなければあたしは絶望に沈んでしまいます」
「そうまでおっしゃるならぜひもありません、隠し立てはいたしますまい、たとえそれがあなたのお心をこよなく傷ましめる結果になろうとも……奥さん、あなたはご主人がコランス氏の申し込みをすげなく断わった原因を、どうお考えになります?……つまり、ユージェニーのことですが……」
「え?」
「そうなんです、奥さん、フランヴァルはユージェニーを熱烈に愛しているんです。今では父親というより彼女の恋人なので、ユージェニーをあきらめるよりは、自分の生命を捨てる方を潔しとするほどです」
フランヴァル夫人はこの宿命的な真相を聞いて、気の遠くなるような動転を覚えずにはいられなかった。ヴァルモンがあわてて彼女を揺すぶって、正気を取り戻させると、
「それごらんなさい」と言った、「だから僕は言いたくなかったのです。たとえどんなことがあっても僕は……」
「かまわないで下さい、あなた、かまわないで」フランヴァル夫人は、見るも無残な混乱の態で、「こんな激しい打撃を受けた後では、一時ひとりになることが必要なんですから」
「でも、こんな状態の奥さんを置き放しにできますか! ああ、あなたのお苦しみは僕の心にもなまなましく響いてきますので、僕は、自分にもそのお苦しみを頒《わか》ち持たせて下さいとお願いしないではいられません。僕がつくったお心の傷である以上、僕が癒やして差し上げることをお許し下さい」
「何ということでしょう、フランヴァルが娘に恋している! あたしの腹を痛めた子が、こんなに残酷にあたしの胸を引き裂くなんて! こんな恐ろしい罪が、ああ、あなた、あり得るものでしょうか? いったいこのお話は本当なのですか?」
「疑わしい話なら、奥さん、僕は黙っていたでしょうよ。あなたをいたずらに心配させるより、何も言わないでいた方がどれくらいよいか知れませんもの。でも、この汚らわしい話を僕に確言したのは、ほかならぬご主人なのです、彼は僕に打ち明けてくれました。ああ、奥さん、何はともあれ、お願いですからもう少し落ち着いて下さい。今はこの話をはっきりさせることよりも、むしろこの醜関係を断ち切る手段が僕らには当面の問題です。ところで、この手段たるや、あなたひとりの胸のうち以外にはありません」
「ああ、早くそれを教えて下さいませ。こんな汚らわしい話はあたしをぞっとさせます」
「フランヴァルのような性格のひとは、奥さん、美徳の懐《ふところ》に連れ戻すことはできません。ご主人は女の淑徳というものをほとんど信じていないのです。女は虚栄心とか肉体的欲望とかの奴隷であって、女が僕たち男のために身を守るという行為も、ご主人の言によれば、男を喜ばそうとか引きつけておこうとかいう望みよりも、むしろずっと女たち自身の欲望の満足のためなのです。……ごめんなさい、奥さん、でも僕もこの点についてはご主人と同じ考え方をしていることを、奥さんにお隠しするわけには参りません。女が美徳でもってご主人の悪徳を矯正し得たなんて話を、僕は一度だって聞いたことがないんです。フランヴァルのやっているようなことは、ますます男の欲念を刺激し、あわせて奥さんの注意をもご主人の方へ向けさせる効果があります。つまりこの時、嫉妬とは確実な成果なのであって、この絶対に失敗することのない方法によって愛情を確保したひとは何人いるか知れません。ところで、あなたのご主人は、みずから破廉恥に軽蔑している美徳というものが、無頓着とか体質などよりも熟慮反省の結果であることをご存じですから、もしあなたが次第によっては美徳を放棄することもできるのだということをお知りになれば、いよいよ確かにあなたを美徳の信奉者と尊敬なさるでしょう。ご主人は今まであなたが恋人をおつくりにならなかったのは、あなたが誘惑される機会にいっかな恵まれなかったからだと、お考えになっておりますよ。ひとつここで、恋人をつくるもつくらぬもあなたしだい……ご主人の不身持ちや不当な軽蔑に対して、復讐《ふくしゆう》するもしないもあなたしだいであることを、証明しておやりなさるがいい。あなたの厳格な道徳からすれば、それもささやかなひとつの悪かもしれませんが、しかしどんな不都合がそれによって招来されるのでしょう、どんな男の意見があなたの堅固な道徳を変えられるのでしょう? あなたの崇《あが》めていらっしゃる美徳の女神に、ちょっとばかり違反したからといって、どんな異端の信徒たちがこの女神の聖殿を侵すことになるのでしょう? ああ、奥さん、僕はあなたの理性にのみひたすら訴えます。僕があえてお勧めする行動によってのみ、あなたは永遠にフランヴァルを取り戻し、永久にご主人をお手もとに引きつけておくことができるのです。もし反対の行動によるならば、ご主人はあなたのもとを逃げて行ってしまい、もう二度と戻っては来ないでしょう。そうですとも奥さん、僕はそのことを断言しますね。で、この際奥さんの執るべき道はただひとつ、ご主人を愛することをおやめになるか、それとも躊躇せず僕の言うとおり行動なさるか……」
フランヴァル夫人はこの演説に大そう当惑し、しばらくは答えることもできかねた。しかしやがてヴァルモンの視線に気がつくと、語を継いで、
「それにしても、あなた」とまずこう賢《さか》しげに言葉を切った、「あなたのご意見に従うとしても、いったいあたし、どこの殿方に色目をつかって、うちの主人を心配させてやったらよろしいのでしょう?」
「ああ、そのことなら何でもありません」とヴァルモンは叫んだ、「僕の敬愛する奥さん……あなたを世界でいちばん愛している男、初めてお会いした時からあなたを熱烈に恋している男、あなたのご命令なら死をもいとわぬことをお膝もとで誓う男が、お目の前にいるではありませんか」
「出て行って下さいませ、あなた、出て行って!」とこの時フランヴァル夫人は毅然《きぜん》として言った、「もう二度とあたしの目の前には現われないで下さい。あなたの策略は露見しました。あなたは主人にあられもない濡衣《ぬれぎぬ》を着せて、巧みに誘惑の魔手を伸ばそうとしたのですわ。よしんば主人に罪があるにせよ、あなたのおっしゃるような方法を採用するのは一瞬間だってあたしにはいやなことです。夫の非行が妻の非行を正当化するなんてことはけっしてありません。夫の非行はかえって妻をより貞淑にすべき動機とこそなるべきです。天の劫火《ごうか》を受けねばならない退廃の市《まち》にも、たったひとりの心正しき者が住んでいさえすれば、神は市をなめつくさんとする炎をそらして下さらないとも限りません」
フランヴァル夫人はこう言って出て行くと、ヴァルモンの従者に頼んで、すぐにここから引き取ってもらいたいことを伝えさせた。で、ヴァルモンはこの最初の駆け引きに惨敗して、すごすご帰って行った次第である。
フランヴァルの友達の策略は確かに見破られたとしても、彼のもらした言説には、この気の毒な夫人の懸念になお適合するものがあったので、彼女はあらゆる手段をつくして、この残酷な真相を究明することに意を決した。まずファルネイユ夫人に会いに行き、事の次第を逐一話し、それから家に帰って、次のごとき手段で真相究明に乗り出した。
古来、「召使は獅子身中の虫である」との説をなす者があるが、この説はまことに正しいように思われる。召使というものは、つねにうらやみぶかく、そねみぶかく、悪事をなしては自らの苦役を軽くすることしか考えず、われわれは彼らの悪事によって苦杯を喫することを余儀なくされるか、あるいはそれが言い過ぎなら、さしずめ彼らの慢心に一籌を輸することだけは免れないといった有様である。
フランヴァル夫人は、ユージェニーの女中のひとりを買収した。すなわち、十分な退職手当と、安楽な生活の保証と、善行に加担する心安さとが、あげてこの娘を行為に赴かせたのである。彼女は次の夜から、フランヴァル夫人の不幸を決定的なものたらしめるべき仕事に手をかすことに同意した。
運命の瞬間が来た。非運の母は女中に導かれて、不実な夫が毎晩婚姻の神聖と神の掟とを二つながら冒涜《ぼうとく》している部屋の、隣の小部屋に案内された。ユージェニーは父と一緒にそこにいた。おびただしい蝋燭《ろうそく》が隅の三角戸棚の上に灯《とも》され、これから始まる罪の情景を照らし出そうとしていた。祭壇が用意され、生贄《いけにえ》となるべき娘がそこに身を置くと、犠牲《いけにえ》を捧げる父親が近づいた。……フランヴァル夫人はこれを見ると、もう絶望と、愛ゆえの怒りと、勇気とに身も世も忘れ、仕切りの扉を押し破り、室内に飛び込んで行って、不義の男の足下にひざまずき、
「おお、あなた! 何という情けないことをして下さったのです」と涙ながらに叫んだ、「あんまりひどいではございませんか、つねに変わらずあなたを愛して来たあたしが、そんなひどい返報を受けねばならないなんて……あたしの涙を見て下さい、そしてどうかあたしの言葉をはねつけないで……あなた、あの娘のために祈ってやって下さいませ、あの娘は自分の弱さとあなたの甘言につい惑わされて、破廉恥な行ないと罪とのうちに幸福を捜し当てたと信じているのですから。……ユージェニー、ユージェニー、あなたは自分を生んでくれた女の胸の中に焼き鏝を突き刺そうとするの? もうこれ以上そんな大それた罪の共犯者になっているのは、どうかやめてちょうだい、あなたは罪の怖ろしさというものから目をふさがれているんです。おいで、さあ早く……母さんの腕は、あなたを抱こうと待ち構えているのですよ。不幸な母さんがこんなに一生けんめいに、女の操と自然の掟とを二つながら犯すことはどうかやめてちょうだいと、あなたの膝もとで懇願しているのが見えないのですか?……それでもあなた方があたしの言うことをきかないなら」とこの悲嘆にくれた女は、その胸に短刀を押し当て、「あなた方があたしの身に押そうとする汚辱の極印から免れるために、あたしがどんな手段をとるつもりでいるか、よく見て下さい。あたしの血はあなた方の身にまでほとばしり、あなた方はもうあたしの冷たい骸《むくろ》の前でしか、罪の行為にふけることができなくなるでしょう」
フランヴァルのかたくなな魂がこの情景によく耐え得たとしても、すでにこの悪人の性情をふかくご存じの読者諸子は、さして驚くこともないであろう。しかしユージェニーまでが、この母の言葉にちっとも動じなかったと聞いては、いかなる読者も信じかねる思いをされるにちがいない。
「お母さま」とこの堕落した娘は、この上なく冷たい皮肉な調子で言ったものである、「はっきり申しますけれど、あたし、あなたがあなたの旦那さまに加えた滑稽な非難は筋が通らないと思いますわ。あなたの旦那さまはご自分でしたいことをしているだけではございません? また彼がよしと認める以上、あたしの行為だって、あなたはどんな権利があってこれをお責めになるのですの? あたしたちがあなたとヴァルモンさんとのご乱行について、とやかく申したことがありまして? あなたのお楽しみをじゃましようとしたことがありまして? ひとつ、こうとおわかりなら、あたしたちのお楽しみをじゃましないでいただきたいわ、さもなければあたし、すぐにあなたの旦那さまにお願いして、どうしてもあなたがじゃまだてできなくなるような処置をとっていただくようにいたしますから、そのようにお心得おき願いたいものですわ……」
この時ついにフランヴァル夫人の忍耐は堰《せき》を切った。こうまで身のほどを忘れ、母親に向かってはしたない言葉を投げつける不肖の娘に対し、さすがの夫人も怒りを押えることができかねたのである。夫人は夢中になって身を起こすと、娘に向かって飛びかかって行った……けれども憎体《にくてい》なフランヴァルが夫人の髪の毛をつかみ、猛り狂う夫人を娘から遠ざけ、部屋から引きずり出すと、二階の階段から力まかせに突き落とした。夫人は階段を転がり落ち、女中部屋の扉の前に血だらけになって気絶してしまったが、おそろしい物音に目を覚ました女中が、急いで女主人を助けて、階段を降りて来た亭主の乱暴から彼女をかばったので、夫人は自室に落ち着き、そこに閉じこもり、女中に介抱されることになった。しかるに残酷非道の亭主は、今さきあのような乱暴を夫人の身にはたらいた直後だというのに、たちまちかのいむべき娘のもとに飛んで帰って、何事もなかったかのように悠々と夜を過ごしたものである。あたかもこの呪うべき汚辱の罪――一言をもってするならば、公開しなければならない必要に作者とて顔を赤らめざるを得ぬ態の――この大悪によって、最も獰猛《どうもう》な野獣よりもなお低い地位に、この男は失墜してしまったかのごとくであった。
不幸なフランヴァル夫人には、もはや一片の希望もなくなった。彼女の心に許され得る希望は、すでに影すらもなかった。あまりにも瞭《あき》らかな真実は、夫の心――つまり彼女の人生の最も甘美な幸福――が、彼女から奪われてしまったという事実であった。しかも、それが誰に奪われたかと言うに、当の自分を最も尊敬しなければならない相手……つまり実の娘なのである。そしてその娘が、今さき最も厚顔無恥な言葉を自分に浴びせかけたのである。夫人は、もしかするとヴァルモンの誘惑も、自分を罪に落とすために張られた憎らしい罠だったのかもしれない、幸いにして成功しなかったとはいえ、自分は今後無実の罪の濡衣を着せられ、不名誉の泥を塗りたくられて、それよりかもっと百倍も怖ろしい夫の罪の埋め合わせ、正当化のための口実にされるのかもしれない、とこう考えた。
それはまことにうがった推測であった。ヴァルモンの不首尾を聞き知ると、フランヴァルは今度は手を変えて、あからさまに逆宣伝することを思いたち、ヴァルモンをして、自分はフランヴァル夫人の恋人であると声高に吹聴させるに至った。それのみか、浅ましい恋文を偽造して、健気《けなげ》なフランヴァル夫人がどうしても承知しなかった醜関係を、実際にあったかのごとく見せかけるための悪辣な手段がとられた。
一方フランヴァル夫人は絶望に打ちひしがれ、体じゅうにたくさんの傷を受けて、重い病いの床に臥《ふせ》ってしまった。しかし薄情な夫は見舞いもせず、病状を聞こうとさえせず、家の中に病気の熱が充満しているので、娘を家に置きたくないという口実の下に、ユージェニーを連れて田舎へ発って行ってしまった。
ヴァルモンは夫人が病気のあいだ、何度も夫人の家の戸口に立ちあらわれたが、ただの一度も家の中へ迎え入れてはもらえなかった。やさしい母とクレルヴィル師に付き添われて、彼女は家の中に閉じこもったきり、誰にも会おうとしなかった。それでも四十日ほどたつと、力になってくれる親切な心の友に慰められ、手厚い介抱によって生命を取りとめたフランヴァル夫人は、ふたたび立って歩けるほどの状態になった。ちょうどそのころフランヴァルが娘と一緒にパリに戻って来て、ヴァルモンを呼び寄せ、フランヴァル夫人の一味が準備しつつあったと覚しい作戦計画によく対抗し得る戦術を練るべく、鳩首《きゆうしゆ》凝議した。
フランヴァルは妻の健康が回復したと見て取ると、夫人の部屋に入って行って、
「奥さん、あなたは」と冷たく言った、「私があなたの身分に敬意を払わなかったなぞとは思えた義理ではありませんよ。ユージェニーが控え目な態度を持していたのだって、はっきり言ってしまえば、あなたの母親としての身分を尊重したためにほかならないのですからね。あの娘はあなたから受けたあしらいに関して、あなたを相手どって訴えると言っています。娘の母親に対する敬意という問題について、あの娘がどんな考えを抱いているにせよ、いやしくも母たる者が、手に短刀を持って娘に飛びかかって行くなんて、考えられる限り最悪の状況だということは、あの娘にしてから十分承知のはずですからな。そんなふうな凶暴性というものは、奥さん、あなたの素行をお上の目に疑わせることになるばかりか、やがてはあなたの自由と名誉とを傷つけることにもなるにちがいないと思いますがね」
「あの娘からそんな言いがかりをつけられようとは、あたし、思いもよりませんでした」とフランヴァル夫人は答えた、「あの娘こそあなたの誘惑のままに、不倫と姦通《かんつう》と不品行と、自分を生んでくれた者に対する最も醜い忘恩の罪とを同時に犯しているというのに、かえってこのあたしが因縁をつけられねばならないなんて、まったく夢にも思わぬことでした。でも、そんなに厚かましく自分の罪を合理化しつつ無実の者を訴えるなどというまねが、あなたの入れ知恵なしにできることとは思えません」
「私はね、奥さん、あなたの乱暴の口実が、私に対して抱いている最も醜い疑いにあることを、知らないわけではありませんよ。しかし空想や妄想は、罪が現に行なわれたことを立証するものではない、あなたが頭の中で考えたことは、単に幻のようなものにすぎません。ところがあなたの行なった乱暴は、あいにくなことに、あまりにも現実な事実でしかありませんでした。あなたはユージェニーが、ヴァルモンとあなたとの情事に事寄せて発言した非難の言葉に、驚かれたようですが、奥さん、あの娘の言ったようなことはもう今ではパリじゅうの評判になっている醜聞なのですよ。あの逢引《あいび》きの話だって、知れ渡っていることだし、いろんな証拠だって、お気の毒ながら、ちゃんとそろっているのですからね。したがってヴァルモンとの一件をあなたに向かって喋々《ちようちよう》したところで、それは誹謗《ひぼう》などではさらさらなく、せいぜい軽率の罪でしかないというわけです」
「あたしがヴァルモンと逢引きをしましたって?」とこの貞節な夫人は、怒りに燃えて立ち上がって、「まあ、何てひどいことを! そんなでたらめを言い触らしたのはあなたですわ!(と涙を滝つ瀬のごとく流して)ほんとに盗人たけだけしいというのはあなたのことです! あたしが愛情の限りをつくしてあなたを大事にしたことの報いが、これなのですか? こんなに残酷にあたしを傷つけてまだ満足せず、あたし自身の娘を誘惑してさらに飽き足らず、あなたは、自分の罪を権柄ずくで正当化して、このあたしには死よりも怖ろしい罪の濡衣を着せようとするのですね。……(ふたたび言葉を継いで)あなたはあたしの情事の証拠を握っているとおっしゃいましたね、その証拠というのを見せていただきたいものです。公開して下さることを要求します。もしあたしに見せられないとおっしゃるなら、出るところへ出て否応《いやおう》なしに公表させてみせますよ」
「お言葉ですがね、奥さん、私は公開する気はもうとうありません。妻の情事をぶちまけて喜ぶ夫がどこの世界にいるものですか。夫は苦悶《くもん》し、できるだけ隠そうとするものです。けれどあなたにだけ見せるのなら、むろん私もいやとは申しません……(そう言ってポケットから紙入れを取り出して)まあすわりなさい奥さん」と言った、「こうしたことは冷静に吟味されねばなりません、怒りや逆上は事実の証明に百害あって一利なしです。だから、どうか落ち着いて下さい、冷静に検討しましょう」
フランヴァル夫人は、自分の無罪を確信していたけれど、夫のこうした態度をどう考えてよいかわからなかった。恐怖を混じえた驚きが、彼女をはげしい不安に投げ込んだ。
「さあ、これを見て下さい、奥さん」と言ってフランヴァルは紙入れの一方の口をあけて、「約半年前からヴァルモンとのあいだに取り交わされたあなたの手紙が、すべてここにあります。しかし、あの青年の軽率と不謹慎とを咎めてはいけません、あの男はあなたを裏切るにはあまりに誠実なやつです。けれどあの男の家僕のなかに、あの男よりずっと悪賢い者がいて、はからずも、あなたの貞淑とすぐれた美徳に関するこの貴重なる参考資料が、この私の手に落ちて来るに至ったというわけです。(そう言って、テーブルの上にひろげた手紙をぱらぱらめくりながら)おさしつかえなかったら」と続けた、「若い燕にすっかりのぼせ上がった人妻の、らちもない山ほどなおしゃべりの中から、比較的短くて要領を得ていると思われるものを一通選んで、あなたのために読んであげようと思うが、どんなものでしょう……まあ聞きなさい、奥さん。
うちのいけすかない旦那さまは今宵《こよい》、市外の別宅で夕食いたすはずでございます。あの気味わるい、私が生んだとも思われぬ娘、ユージェニーもたぶん一緒です。いとしい方、どうかご来宅あそばして、あのふたりの人でなし[#「人でなし」に傍点]が私に与えた悲しみのすべてをお慰さめ下さいませ。悲しみ、と申しましたけれど、現在あのひとたちが私になし得る最大の奉仕がこれではないかしら? あの醜い情事にふけっておればこそ、旦那さまも私たちふたりの間柄に気づくことがないのでしょうからね。ですから私としては、旦那さまがお好きなだけあの醜い絆を固く結んで下さればよい、そして、この世の誰よりもいとしいたったひとりの殿方と私とを結びつける絆が、いつまでも断ち切られずに続けばよいと念ずるのみでございます――。
いかがです、奥さん?」
「よくまあそんなことが!」とフランヴァル夫人は答えた、「あたし、ほとほと感心いたしました。日ごとにあなたは信じられないような才能をつぎつぎに増やして行くんですもの。これまでにも、あたし、あなたのうちにすぐれた才能はたくさん見つけておりましたけれど、文書偽造と誹謗の才までおありだとは、正直申して、今の今まで存じ上げておりませんでしたわ」
「ははあ! では否定なさる気だね?」
「ぜんぶ事実無根ですわ。こうなったら、黒白をつけてもらいましょう。鑑定人と判事を指名しましょう。そしてあなたの方さえ異存がなければ、あたしたちふたりのうち罪ある方に、最も厳しい刑罰を加えてもらうよう請求しましょう」
「何という厚かましい女だろう、そりゃ私だって、ひとりで悶々《もんもん》としているよりその方がよっぽどいいさ。やろうじゃないか、いいとも……ところで奥さん、問題はそれだけじゃありません」と言ってフランヴァルは、紙入れの別の部分を振って、「あなたがその美貌をもちながら、いけすかない亭主[#「いけすかない亭主」に傍点]に満足せず恋人をつくるというのは、まあ言ってみれば、無理からぬことでもありましょう。しかしあなたがその齢で恋人に金品を入れ揚げ、おまけにその出費が私にかさんでくると聞いては、いかな私とて黙ってはいられません。……とにかくここに十万エキュにおよぶ計算書がありますが、この中にはあなたの名で支払われたものや、ヴァルモンのためにあなたが勘定を仕切ったものもあります。まあちょっと、目を通していただきましょう」と言ってこの悪人は、幾枚かの勘定書を夫人の目の前に差し出したが、用心ぶかく彼女の手には取らせなかった。
[#この行1字下げ] ヴァルモン氏との示談により同氏の勘定にて宝石商ザイードに二万二千リーヴルの当決算書を支払いする
[#地付き]ファルネイユ・ド・フランヴァル
「馬商人のジャメには六千リーヴルか……これは昨今ヴァルモンが得意顔に乗りまわし、パリじゅうの賛美の的になっている、あの黒鹿毛の馬の代金ですか……それからこの三十万二百八十三リーヴル十ソルは、ええと、三分の一以上があなたの借金で、残りは堂々とあなたが支払ったことになっておりますな……いかがです、奥さん?」
「そんな見えすいた詐欺なんぞ、あんまりばかばかしくて、心配する気にもなれやしませんわ。あたしに関して根も葉もない作り話をでっちあげたひとたちをやり込めてやるには、ただひとつのことで十分です、つまり、あたしが支払ったと称するこの計算書の相手方の商人を出頭させ、はたしてあたしがそのひとたちと取引きをしたかどうか、彼らに誓わせてみればよいのです」
「もちろん彼らは誓うでしょうよ、奥さん。あなたの行状を進んで私に報告してくれたのも彼らなのですからね、一度自分で言明したことをくつがえすようなことは万々ありますまい。それに、彼らのひとりは、もし私がいなかったら、今日あなたに支払いのため呼び出しをかけるはずだったのですよ」
このとき不幸な女の美しい両眼から、苦い涙がどっとあふれ出た。張りつめていた気丈な心がついにくじけ、彼女はおそろしい徴候を伴った絶望の発作に陥ったのである。頭を周囲の大理石の壁板にぶつけ、みずから顔面に傷つけると、
「あなた」と叫んで、夫の足もとに身を投げ、「どうかお願いですから、あたしを殺すなり何なりして、こんな、じわじわ真綿で首を締められるような苦しみから解放して下さいませ。あたしの生存があなたの悪事のじゃまになるというのなら、いっそ一思いにあたしの命を取って下さい……生きながら墓場に葬られるような苦しみはたまりません……あなたを愛したのがいけなかったのでしょうか? こんなに残酷にあなたの愛情を奪うものに、反抗したのがいけなかったのでしょうか?……さあ、あたしを罰してください、ひどい方、さあ、その剣をお取りになって」と言って夫人は夫の剣に手をかけて、「さ、その剣であたしの胸を情け容赦なく突き刺して下さい。けれど、せめてあたしは、あなたの尊敬にふさわしい潔白な身で死んで行きたい、たったひとつの慰めとして、あたしが醜いことなどできる身ではないことをあなたに信じていただいて、墓場へ赴きたい、なぜって、あなたがご自分の醜行を秘すためにあたしの身に着せたのは濡衣でしかないのですから……」
こう言うと彼女は、ひざまずいた身をフランヴァルの足もとにのけぞらせ、その手を抜身の剣に血まみれにして、われとわが胸をえぐろうと試みた。その美しい胸ははだけられ、乱れた髪の毛は、滝つ瀬とそそがれた涙にしとどぬれて、床にたれた。これほど悲壮な、哀切な苦しみの表白はなく、彼女がこれほどやるせなげな、気高い面持ちを示したためしはかつてなかった。しかるにフランヴァルは彼女の動きを荒々しく妨げて、
「いや、奥さん、だめですな」と言った、「私が望んでいるのは、あなたの死ではない、懲罰です。あなたの悔悟を私は欲しているのです。涙なぞに私の心は動かされやしない。あなたは秘密がばれたので、やっきとなっているだけの話じゃありませんか。私はこうしてあなたの悪事をあばいて行くのが楽しみなのでね。せめてそれがあなたを改心に導けばよいと思っています。……今後私があなたに与えようとしている運命は、たぶんあなたを否応なく改心に駆り立てるでしょう、私はそうするための処置を取る以外には、何も望みませんからな」
「やめて下さい、フランヴァル」とこの不幸な女は叫んだ、「ご自分の不名誉を言いふらすようなことは、おやめになって。ご自分が裏切者、文書偽造家、近親相姦者、中傷者等々であることを世間に向かって吹聴するようなことは、どうか思いとどまって……あなたはあたしを邪魔者と思っていらっしゃる、それならあたしは出て行きます。どこかの修道院をたずねて行き、あなたの思い出をさっぱり記憶の底からぬぐい去って暮らすようにいたします……あなたは自由におなりになり、誰からも文句をつけられず、今までどおり悪事をはたらいていればよろしいのです……そうです、あたし、あなたを忘れましょう……できることなら、心を鬼にして……でも、あなたの悲しい面影があたしの心からいっかな消えず、ふかい心の闇の中まで追いすがって来るようだったら……ああ、それをしも圧しひしいでしまうなんて、あたしにはとてもできますまい、そんな努力はあたしの身に余ることでしょう、そうです、とてもあたしにはできますまい。むしろあたしは、われとわが無分別を罰しつつも、おそろしい墓場の中にまで、あれほどあなたと共にするのが楽しかった罪の祭壇を持って行きたいと希うことでしょう……」
この最後の言葉とともに、まだ回復後間もない彼女の衰弱した魂は飛び去り、気の毒な夫人は意識を失ってその場に昏倒《こんとう》してしまった。すでに絶望の針でさいなまれていた美しい薔薇色《ばらいろ》の頬に、冷たい死の翳《かげ》がひろがった。もはや生色を失った一個の塊りにすぎない彼女であったが、しかもなお、優雅な美しさが、慎しやかさが、貞潔さが、そしてあらゆる美徳の魅力が、そこに息づいているのは否めなかった。しかし極道の亭主は、黙ってその場を立ち去ると、罪ある娘とともに、悪徳が無辜《むこ》と不幸に打ち勝った戦慄《せんりつ》すべき勝利を楽しみに行ったものである。
一部始終を聞くと、フランヴァルの娘は狂気して嬉しがった。ああ、あたしもその場で見ていたかったわ、と娘は言った……でも、もっと嚇《おど》かしてやればよかったのに、ヴァルモンが母さんの厳格ぶりに打ち勝って、お兄さまがふたりの情事の現場を取り押えてやることができたら、どんなにおもしろかったか知れないのに。もしそんなふうになっていたら、いったい母さんにはどんな弁明の方法が残されていたかしら? どんな弁明もできなくなるようにしてやればおもしろかったのにねえ……とこう、ユージェニーは言ったものである。
一方不幸なフランヴァルの妻は、取りすがって泣くべき相手に母親しかもっていなかったので、間もなく自分の輓近《ばんきん》の悲しみの一部始終を彼女に報告した。ファルネイユ夫人は話を聞くと、卒然としてクレルヴィル師を思い出し、彼の年齢、地位、すぐれた人格をもってすれば、あるいは婿殿の心に何かよい感化を与えることができるかもしれない、とこう考えた。不幸ほどひとを過信させるものはない。ファルネイユ夫人はけんめいになって、クレルヴィル師にフランヴァルの乱行のあらましを知らせようと努め、この高徳の聖職者が最初のうちどうしても信じようとしなかったことを無理やり納得させると、最後にくれぐれも注意しておきたいことは、こうした悪人には理性に訴えるよりも、心情に訴える説得の方法が効果的だろうと、いかにもわけ知りらしい忠言さえ付け加えた。それから、父親と話をすませたら、ぜひユージェニーとも会見する機会をつくり、足下に深淵が口をあけているのにも気がつかない不幸なこの娘の蒙《もう》をひらき、できることなら、彼女を母親と美徳の懐に連れもどすべく、あらゆる手段を講じてほしいと頼んだことであった。
クレルヴィルが自分と娘とに会見を申し込んでいることを聞き知ると、フランヴァルはさっそく娘を呼んで、手はずをととのえ、ふたりともお話を拝聴すべくお待ち申しておりますと回答を寄せた。愚かにもフランヴァルは、この魂の導き手の説得力を見くびっていたのである。極道者はむさぼるように幻影をとらえ、拒否された真理の恩沢を手に入れようと夢中になるが、要するに彼らが小手先を弄して実現するものは、すべてこれむなしい真理の幻影でしかないのである!
さて、朝の九時に、クレルヴィルがやって来た。フランヴァルはいつも娘と一緒に夜を過ごす部屋に、この客人を迎え入れた。室内は想像し得るあらゆる高雅な趣味で飾られていたが、にもかかわらず、罪の逸楽を立証する一種の乱脈がそこに支配しているのが認められた。ユージェニーもそば近く控えて、やがて自分の番が来る時の準備のために、話を聞いていることになった。
「あなたの前にこうしてまかり出ますのも」とクレルヴィル師が言った、「おじゃまではないかと、実は心痛ひとかたならぬものがございましてな。あなたのようにこの世の快楽に明け暮れしておられる御仁《ごじん》には、私どものような職業の人間は、まあどちらかと言えば煙ったいものだそうで、ファルネイユ夫人の懇望もだしがたく、一刻あなたとお話し申しあげるお許しを願いましたものの、実を申しますと、内心大いに気が咎めておる次第でして」
「まあお掛けなさい。正義と理性があなたのお話のうちに満ちている限り、私にとって退屈はございませんよ。その点はどうかお心置きなく願いたいもので」
「あなたは、お美しく貞淑な若い奥さまに愛されておりながらも、もっぱらの噂では、その奥さまを大そう不幸な目にあわせておられるそうですが、いったい、生まれてから純真と無垢しか知らず、その悲しみをきいてもらうのに母親の耳しかもたず、かずかずの不行跡にもかかわらず、その旦那さまを熱愛してやまない奥さまが、そんな立場でいかばかり悲惨な思いをなめておられるか、容易にご推察のことと思いますが?」
「物事は単刀直入に行きたいものですな。どうやらあなたは回り道をしておられるらしい。そもそもあなたのご来宅の目的は何なのですね?」
「できますことなら、あなたを幸福にして差し上げたいと思いましてな」
「としますと、もし私が現に幸福であるなら、あなたは何も言うべきことがないというわけですか? 事実私は幸福なのですがね」
「罪のうちに幸福が宿り得ることはありません」
「なるほど、しかしですな、ふかい研究と熟慮反省の結果、何ものにも悪のひそむ余地を認めず、すべての人間の行動を自若とした無関心をもってながめるに至ったひとが、人間の行動はすべて、よかれあしかれ、つねに圧倒的なある力の必然的な結果であって、われわれが善と見なすものも悪と見なすものも、要するにその力がわれわれ人間の心にこもごも吹き込むもので、それを乱したり狂わせたりすることはけっしてできないのだと、さように料簡していたとするならば――よろしいですか、もしさような料簡のひとがいたならばです――その人物は、あなたも認められるように、たとえ私と同じように行動していたとしても、あなたがあなたの送っておられる人生で幸福を感じるのと同じように、やはり幸福であり得るだろうと申さざるを得ません。なぜかというに幸福とはひとつの理想であって、想像力の産物だからです。それは感動の一形式であって、人間の見方感じ方にのみ関係するものです。必要の満足ということを別にすれば、すべての人間をひとしく幸福にするものなどはひとつもありません。他人にはこの上なく不快なものが、あるひとを幸福にするという例は、われわれが毎日のように見聞しているところです。これを要するに、確固たる幸福などというものはどこにもなく、われわれにとっての幸福は、ただわれわれの器官や道徳原理にもとづいて、われわれがわれわれ自身のうちに形成するもの以外にはあり得ないというのです」
「確かにおっしゃるとおりです、しかし、精神がわれわれを誤らせる場合はあっても、良心がわれわれを錯誤の道に連れ込むことはけっしてない。良心こそ、自然がわれわれ人間すべての義務をそこに口授した書物とも言うべきものです」
「でもその不自然な良心とかいうものによって、私たちは自分の欲するとおり行動できるのでしょうか? 良心とは、曲げようと思えばどうにでも曲げられるもの、私たちの指がどんな形にでもすることのできる柔らかい蝋のようなものなのですか? もしその書物があなたのおっしゃるように確かなものであるとすれば、人間はいろいろさまざまな良心などもつことはできないわけですね? 地球上至るところ、あらゆる人間の行為は同じものでなければならないはずですね? ところが事実はどうでしょう? ホッテントット族はフランス人の怖がるものを見てやはり慄えるでしょうか? またこのフランス人が毎日やっているようなことは、日本へ行っても罰されずにすむようなことでしょうか? どういたしまして、あなた、とんでもないことですよ、この世には確実なものなどひとつもありはしません。賞賛や非難に値するものなど何もありはしません。褒賞や懲罰にふさわしいものなど、何もありはしないのです。ある場所で不正とされるものが、五百里離れた場所で合法的と認められるのに事欠くような場合は、まず絶対にあり得ないのです。つまり、一言をもってするならば、確実な悪とか一定不変の善とかいうものは、この世のどこにもないということです」
「そういう考え方はいけませんな、あなた、美徳は少しも幻影ではありませんよ。罪や美徳の正確な定義を決定し、人間の選択に応じて、そこに幸福を見出すことを確信するためには、物事がここでは善と見なされているがあちらでは悪と見なされているといったような理屈を知るだけでは何にもなりません。人間の唯一の至福は、その人間が住んでいる国の法律に最大限服従するということ以外にはあり得ないのです。法律を尊敬するか、さもなければ不幸になるかといったような場合にも、法律の侵犯ないし不幸のあいだに妥協の余地はまったくないのです。われわれがある物事にふけるとき、われわれを苦しめる不幸が生まれたとしても、そうした物事自体のうちから生まれたと見なすべきではなく、本質的に善であるか悪であるこの物事が、われわれのすんでいる風土の社会的慣習にどれだけ違反したかという事情のうちから生まれたと見なすべきです。シャン・ゼリゼを散歩するよりブルヴァールを散歩する方を好んだとしても、そこにはいかなる悪もあり得ようはずはありません。しかしブルヴァールを散歩することを市民に禁ずる法律が公布されていたとすれば、この法律にそむく者は、よしんばそれがどんなに単純なことにすぎないとしても、不幸の永遠の鎖につながれることを覚悟しなければなりますまい。なぜかというに、小さな制約を破る習慣は、やがてもっと重大な制約を破ることになりますし、こうしてひとつひとつ悪事を重ねて、ついには世界じゅうのあらゆる国で罰されねばならない罪、地球上のどんな辺鄙《へんぴ》な地方に住む人びとをもひとしく恐怖せしめるような罪に、しだいに手を染めて行くのが弱い人間だからです。人間にとって普遍的な良心というものがないとしても、われわれが自然から授けられ、自然の手がわれわれの義務をそのなかに刻みつけ、われわれが並みたいていでは消すことのできない、生活に依存した民族的な良心というものは必ずあるはずです。たとえば、あなたのご家族はあなたの不倫を難じておられる。いったい、どんな詭弁を用いてこの罪を合法化し、その醜さをやわらげたとしても、どんなもっともらしい理屈でこの問題をごまかし、どんな権威ある論拠によって他国の習慣を援用したとしても、やはりこの大罪が依然として大罪であることに変わりはないし、かりにどこかの国ではそうでないとしても、法律がこれを禁じている国では、確実に危険であるということは自明の理なのです。そしてこの大罪が後に最もおそるべき障害を招き寄せ、最も人間に忌み嫌われる罪を必然に結果することは、火を見るよりも明らかなのです。もしあなたがガンジス川の沿岸地方であなたの娘さんと契った場合には、この地方では近親相姦が許容されているので、それはまったく些細な悪でしかないでしょう。しかし、こうした結合が禁じられている国家において、あなたが人びとの目に……ご主人を熱愛しておられる奥さんの目に……ぞっとするような地獄図をかいま見させ、奥さんを絶望の墓場に追い落としてしまうがごとき行為は、言うまでもなく一個の極悪な行為であり、自然の最も神聖な絆を破らんとする大罪であります。あなたの娘さんは自然の絆によって、彼女が生命をうけた存在に結ばれ、あらゆるものの中で最も尊敬すべく最も神聖な感情を、この母親に抱かねばならないのです。しかるに何ぞや、あなたはこの貴重な義務を軽んじるよう娘さんをそそのかし、自分を生んでくれた母親を憎悪するよう娘さんをけしかけた。あなたはみずからそれと気づかずして、父親に対しても向けることのできる凶器を娘さんに与えてやった。あなたはいかなる宗教理論も娘さんに教えてやらず、あなたの罪の烙印の押されていないどんな原理も彼女に教示してやらなかった。したがって、もし他日あなたの娘さんがあなたの生命に危害を加えようとした場合、あなたはみずからの手でその凶器をといでやる以外に何ができるでしょう?」
「あなたの議論の仕方はご職業柄に似合わず大へん真実味がありますので」とフランヴァルは答えた、「私はついあなたを信頼したい気持ちに誘われます。もちろんあなたの嫌疑を私は否定することだってできますが、ここはひとつ、あなたの前でざっくばらんになって、いっさいの嫌疑を認めましょう、そうすればあなたも、私の妻の犯した過を同様に信じないわけにはいかなくなるでしょうからね、なぜって、私は妻の過を説明するのに、私の罪の告白を導き出そうとする同じ真理を利用するつもりなのですよ……ええ、神父さん、私は娘を愛しています、情熱的に愛しています。彼女は私の情婦であり、私の妻であり、私の妹であり、私の腹心の友であり、私の仲間であり、地上における私の唯一の神なのです。要するに心からの尊崇を獲得しうるあらゆる称号を彼女はもっており、私の心の尊崇はことごとく彼女の一身に集まっており、そしてこの感情は、私の生命のある限り続くにちがいありません。ですから私がこれを弁護するのは当然のことで、諦めるなんてとても考えおよばぬことです。
「ところで、娘に対する父親の第一の義務は、あなたもきっと認められることでしょうが、できるだけ多くの幸福の総量を彼女に与えてやることではないでしょうか? もし父親がこの幸福を彼女に与えてやれなかったら、父親は娘に対して債務を負わねばなりますまい。またもし父親が彼女を幸福にしてやることができたら、この父親には世間の非難を受けるいわれはもうとうありますまい。私はユージェニーを誘惑しもしなかったし、強制しもしませんでした。これは注意してよい大事なことです。この点をどうかお見のがし下さらぬようお願いします。私は彼女の目に世間というものをおおいかくしたりはいたしませんでした。結婚の幸福とともに、結婚の苦痛をも彼女に教えてやりました。そして自分の身をユージェニーに捧げ、選択の自由を残しつつ、反省の余裕を十分に与えてやりました。すると彼女は一刻もためらわず、自分はあなたと一緒にならなければけっして幸福をつかみ得ないだろうと言明したのです。つまり私は、娘を幸福にしてやるために、事情を十分呑み込ませた上で、彼女に最も好ましいと思われたものを与えてやったわけなのですが、いったいこれが悪いことなのでしょうか?」
「そんな詭弁はとても正当な理由にはなりませんよ。あなたは娘さんに、罪を伴わずして行ない得ない物事が幸福の対象になり得るなんてことを、教えてやるべきではありませんでしたね。ある種の果物《くだもの》がどんなに美しい外観をしているにせよ、その果肉の奥に死の毒が隠されていることを承知の上で、あなたはその果物を他人に与え、なおかつ後悔せずにいられますか? そんなことはないでしょう、あなた、もちろんですよ。あなたはあのいまわしい行為において、自分一個のためしか考えていなかったのです、そして娘さんを自分の共犯者にし、犠牲者にしたのです。いずれにせよあなたのやり方は許しがたいものです。……あなたが理由もなく苦しめている貞淑なやさしい奥さまは、あなたにとってどんな罪を犯しているのでしょう? あなたを溺愛《できあい》しておられるという以外に、いったいどんな罪を犯しているのでしょう」
「さ、そこなのですよ、あなた。私があなたの信頼を期待しているのは、この点に関してなのですよ。つまり私がいま自分の身に着せられた罪をあなたの前で率直に認めたからには、同じく率直なやり方で、私がこれからお知らせしようとする事実をもあなたに認めていただかなければならぬと、さように信ずるしだいでして」
そう言うとフランヴァルは、妻が書いたと称する贋の手紙と書付けとをクレルヴィルに示し、これが何よりの証拠物件ではないか、フランヴァル夫人とその相手の男との情事は、かくれもない天下周知の事実であると言明した。
クレルヴィル師はすべての事情を知っていたので、
「それごらんなさい、あなた」ときっぱり言った、「最初は取るに足らぬ過のつもりでいても、ひとたび悪の道に足を踏み切る習慣がついてしまうと、やがては人間最も極悪な罪と醜行のきわまでたどりついてしまうものだと、さっき私が申しあげたのは正しかったでしょうが? あなたはまず最初自分では大したことでないつもりの行為から始めたのですが、今ではその行為を隠蔽し合理化するために、あらゆる醜行を犯さねばならない立場に来てしまったのです。……さ、こうと私の言うことがおわかりなら、どうかそのけしからぬ偽造文書を火に投じて、もうそんな腹黒い企みはきれいさっぱり忘れることにして下さい」
「この手紙は本ものなのですよ、神父さん」
「いや、偽ものです」
「どうしても信じて下さらないならば、私も自分の行為を否認することにしますが、それでも結構ですか?」
「しかしですな、あなた、この手紙の本ものたることを信ずべき根拠は、ただあなた自身の言葉しかないのですよ、ところがあなたという方は、ご自分に向けられた非難を否定するのに最大の利害関係をもっている立場のひとではありませんか。もちろん私がこの手紙の贋ものたることを信ずべき根拠も、ただあなたの奥さまの告白しかないわけですが、あなたの奥さまもまた、この手紙の贋ものたるか本ものたるかを私に証言すべき最大の利害関係をもっているお方であるはずです。要するに私はこんなふうに判断するのですがね……つまり、人間の利己心というものは、あらゆる人間の言動の担い手、あらゆる人間の行為の原動力となるものだと言うのです。利己心の見いだされるところ、必ず真実の炎《ほむら》の燃えあがるのが私にはわかります。そしてこの原則はけっして私の心眼を曇らせず、現に私は四十年来、この心眼を用いてきているのです。ところで、あなたの奥さまの美徳は、このおぞましい中傷を万人の目に打ち消し去って余りあるものではないでしょうか? 彼女の率直、無邪気、そしていまだにあなたに対して燃やしつづけている愛情が、このような怖ろしい行為をよくなし得ると考えられるものでしょうか? いやいや、そんなはずはございません、彼女の美徳は罪に赴く性質のものでは断じてございません。あなたもどうせ悪企みをめぐらすのでしたら、もそっと効果をよく計算した上で、万々抜かりなく実行に移すのがよござんしたね」
「それは誣告《ぶこく》ですぞ、神父さん!」
「お気にさわったらごめんなさい。何しろ私は不正、中傷、放蕩《ほうとう》といったような悪徳が身の毛もよだつほど大嫌いでしてな、そんな汚らわしい話を聞いただけでも、つい身内がかっとなって、あらぬことを口走ってしまうのですわい。で、もう一度ぜひお願いいたしますが、どうかその手紙を燃やして下さいませんか……あなたの名誉とご休心のために、ぜひ灰にしてしまって下さい」
「あなたのような聖職についていなさる方が」とフランヴァルは立ちあがりながら言った、「こうも簡単に、不品行と姦通の弁護人になりきることができるものとは、ついぞ思いもおよびませんでしたよ。私の妻が現に私の顔に泥を塗り、私の名誉を台なしにしていることは、いまご説明申しあげたとおりです。しかるにあなたは彼女を盲信していて、私の妻を不実なふしだら女と見ることを好まず、かえって私を中傷者と称し、私の非を鳴らすことに汲々としておられる! ええ、よろしいですとも、出るところに出て黒白をつけてもらいましょう。フランスじゅうの裁判所が私の訴えに反響を示すでしょう。私は裁判所に証拠を呈出し、私の不名誉を公表しましょう、やむをえません。まあ今に見ていらっしゃい、私に対するこうまでふてぶてしい捏造《ねつぞう》の弁護にこれ努めたあなたという仁が、いかにお人好しで、しかも愚かであったかが、その時になってよくわかろうというものです」
「それでは私もおいとまいたしましょう」とクレルヴィルも立ちあがって言った、「あなたの精神の邪悪が、心情の性質まで悪化させていようとは思いませんでした。不法な復讐心《ふくしゆうしん》のために理性を失って、あなたは、狂気の沙汰とも思われかねない意見を冷静に主張することができるまでになっておいでのようです……さてさて! 私も今にしてようやく悟りましたよ、人間が最も神聖な義務を足下に踏みにじった場合、他のすべての義務をもやすやすとして破壊し去ることができるようになるのだということをね……したが、もし反省して、本心にお立ち返りになったら、どうかそのむね私までお知らせ下さい。あなたのご家族も、私自身も、いつでも大手をひろげてあなたを受けいれる用意があるのですから……では、ちょっとお嬢さんとお話することを許していただけませんか?」
「どうぞご随意に。しかしご忠告しておきますが、あなたが例のすばらしい天来の真実とやらをあの娘にひけらかすおつもりでしたら、どうかもそっと説得力のある方法、もそっとしっかりした方策を立ててからにして下さい、私なんぞにはその真実とかいうのが、残念ながら妄信と詭弁にしか見えなかったのですからね」
クレルヴィルがユージェニーの部屋に入って行くと、ユージェニーはこの上なくしゃれた、はでな部屋着を羽織って、訪問客を待っていた。自堕落と悪徳の結果ともいうべき、あの一種のみだりがわしさが、彼女の身ぶりや眼ざしを不敵に支配していた。天性の美しさが自然とその身に魅力を添える結果になっていたが、その美しさをしのいで、あらゆる悪徳をそそりたてるような、あらゆる美徳をひんしゅくせしめるようなものが寄り合っていた。
若い娘にはフランヴァルのように哲学的議論に深入りすることができなかったから、ユージェニーはもっぱら茶化すだけであった。だんだんと彼女は思い切った嬌態を示すようになった。しかし自分の誘惑がいっかな功を奏さず、この相手のような有徳な男には色仕掛けの罠《わな》などまったく無駄だということに気がつくと、彼女は巧みに自分の魅力あふれる肉体をおおっている薄衣の紐を切って落とし、クレルヴィルが見とがめるより早く、最もみだらな姿態をさらけ出し、
「あれ、いやらしいひと」と大声をあげた、「誰か来て、このひとを離して!」そして彼女の叫びに駆けつけた召使たちに向かって、「お父さまには内証にしておいてね、あたしが自分で公正なご意見をうかがいますから……何てことでしょう、このひとったら、あたしの純潔を奪おうとするのよ!……ごらんなさい、ほら、この痴漢のために、こんなはしたない格好になってしまったわ。慈悲ぶかい聖職者と言われるひとが、自分で神を凌《おか》しているのだから世話はありません。醜行と放蕩と婦人に対する誘惑が、要するに聖職者と呼ばれているひとたちの家常茶飯なのだわね。あたしたちは彼らの偽善にだまされて、いまだに愚かしくも彼らを尊敬しなければならないと思い込んでいるのよ」
クレルヴィルはこうした騒ぎにほとほと手を焼いたが、それでも困惑をかくしていた。そして、自分を取り巻いている召使たちをかき分けて、落ち着いた様子で引き退りながら、
「神よ、この不幸な女子《おなご》を見すてたまわざらんことを」としずかにつぶやいた、「できうべくんば、彼女の身を向上せしめたまわんことを……私もおよばずながら、この一家の者みなの心に美徳をよみがえらせるべく参ったものですが、神よ、今後は彼らが私に対し美徳の感情のみ抱くよう、お力添えをたまわらんことを……」
ファルネイユ夫人とその娘とが、あれほど期待をかけていた話し合いの結果は、このように惨憺たる結末に終わるしかなかった。彼女たちは悪人の心が罪によって染まる堕落というものに、あまりにも無知であったのである。悪人というのは、余計なお節介をされると、ますます激する。賢い教訓のなかにさえ、彼らは悪への慫慂《しようよう》を見いだすのにこと欠かない。
この時から、双方の争いはいよいよ先鋭化した。フランヴァルとユージェニーとは、フランヴァル夫人のいわゆる情事というやつを、もはや誰しも疑いを差し挟み得ないほど喧伝することにこれ努め、また一方ファルネイユ夫人は、その娘と共謀して、ユージェニーを奪い取ることをしんけんに合議した。で、そのむねクレルヴィルに打ち明けると、この誠実な男は、そんな思い切った手段に訴えるのはよろしくない、私はこの事件でひどい打撃を受けたので、ただ罪ある者の恩寵《おんちよう》を神に祈願するほか何もできはしない、私は一心に祈願するつもりであり、それ以外のいっさいの調停手段は御免こうむりたい、との返事であった。何という気高い心根であろう! 聖職者と呼ばれる有象無象のなかに、こんな気高いひとが混じっていようとは、実に稀有なことでないか? なぜこんなすぐれた人物が、色あせた法衣などをまとっているのであろう?……ともあれ、作者はフランヴァルの計画を述べることから始めよう。
ヴァルモンがふたたびやって来ると、ユージェニーの恋人は、
「君はばかだよ」と頭ごなしに言うのであった、「おれの弟子とも思われない不がいなさだ。もし今度の会見で、おれの女房とうまく事を運ばなかったら、おれは君の悪口をパリじゅうに言い触らしてやるぜ。いいかい、何とかして口説き落とすんだよ。絶対確実に口説き落とすんだ。おれの目が彼女の敗北を現実に納得することができるように……そして、あの気にくわない女から言い訳や弁解の手だてをいっさい奪い取ってやることができるようにな」
「でも、もし奥さんが言うことをきかなかったら?」とヴァルモンは言った。
「暴力を用いるんだ……おれはひとを遠ざけるよう手を打っておく……次第によっては、威したり脅迫したりするのもよかろう……ともかく君が首尾よく事を運べるようにできるだけのことはしてやるよ」
「それでは」とヴァルモンが言った、「ご提案はお引き受けしましょう、きっと奥さんを口説き落としてみせると約束いたします。しかし、ひとつだけ条件がある。これを呑んでくださらない限りは何事にも手をつけません。われわれのあいだでは嫉妬という感情はほとんど無きが同然ですが、これはあなたも先刻承知のはずですね。そこでひとつ、条件と申しますのは、ほんの十五分ばかりユージェニーとふたりきりでいる時間を私に与えてくださいというのです。もちろん僕があなたの娘さんと対座を楽しんでいるとき、僕がどう身を処するかはご想像の埒外です」
「しかしヴァルモン……」
「ご心配はよくわかります、しかしあなたが僕を友達と信じておられるなら、そんなご心配は無用というものです。僕はただユージェニーとふたりきりで会い、しばらく一緒にいる楽しみだけを望んでいるのですから」
「ヴァルモン」とフランヴァルはやや当惑げに言った、「君は自分の奉仕に少し高い値段をつけ過ぎてやしないか? そりゃ私だって、君と同様、嫉妬という感情の愚劣さは重々承知しているがね、しかし私はユージェニーを何物にも替えがたく愛しているのだよ。彼女の愛を失うくらいなら、自分の財産を譲り渡してもいいとさえ思っているのだよ」
「財産なんぞは欲しくはありませんから、ご安心願います」とヴァルモンは言った。
とはいえフランヴァルは、友人知己のあいだを見渡しても、このヴァルモンほど役に立ってくれそうな男はひとりもいないことをよく知っていたので、あくまで未練がましく、
「それにしても」とやや気色ばんで言った、「繰り返して言うが、君の条件は少し高価過ぎるよ。そんなやり方でしか私のために役に立ってくれられないのだとすると、君はもう私の感謝を期待するわけには行かなくなるぜ」
「へん、感謝なんてものは、正しい奉仕に対してのみ払われる報酬ですよ。僕の奉仕に対してあなたの心が感謝に燃えるいわれはありませんや。せいぜい二ヵ月で不和の種がまかれるぐらいが落ちでさあ。僕だって、人間てものがどんなものかぐらい知ってますよ……人間の気まぐれ、人間の邪悪、そしてそれらがひき起こすあらゆる結果が、どんなものかぐらいね。あらゆる動物のなかで最も質《たち》のわるいのが、人間という獣ですよ。何なりとあなたのお好きな立場にこの獣を置いてごらんなさい、そうした既定の事実からどういう結果が生じるか、僕はひとつだって見のがさずに指摘してみせるつもりですよ。ですから僕は、報酬を前払いしてもらうか、さもなければ何事にも手をつけないか、どちらかにしてもらいたいと言うのです」
「では承知した」とフランヴァルは言った。
「結構ですな」とヴァルモンは答えた、「あとはあなたの御意のままです。お望みの時に動き出しましょう」
「準備のために数日が必要だ」とフランヴァルは言った、「だがせいぜい四日もすれば、君の出馬の時は来よう」
ユージェニーはもとより、ヴァルモンによって提案されたこの計画を承諾することができかねるほどの、はにかみ屋として育てられたわけではさらさらなかったけれども、父親の嫉妬ぶかさは彼女とてよく承知していたし、それに、少なくとも自分が可愛がられているのと同じくらいには父親を熱愛してもいたので、例の話を聞き知ると、そんなふうに若い男とふたりきりになって、もしものことがあっては大へんと、ひどく気に病んだ。しかしフランヴァルは、ヴァルモンという男をよく知っているつもりであったから、たとえこの対面がヴァルモンの精神の糧《かて》にはなっても、情熱の危機を喚び起こす惧れはまず絶対にあるまいとたかをくくっていて、娘の心配を一掃してやり、準備万端ととのえた。
そうこうするうちフランヴァルは、義母の家に忍び込ませていた腹心の部下たちの報告によって、ユージェニーの身に大きな危険が迫りつつあること、ファルネイユ夫人がユージェニーを誘拐する命令を今にも出そうとしていることを聞き知った。フランヴァルはこの陰謀をクレルヴィルの差金にちがいないと合点した。で、ヴァルモンの計画はひとまずお預けにしておいて、取り急ぎこの陰謀の扇動者たる不逞な聖職者(実はとんでもないお門違いだったのだが)を厄介払いしてしまおうと決心し、配下の者に多額の金をばらまいた。金こそはあらゆる悪徳の強力な媒介物である。六人のいやしい隠密《おんみつ》が最後にこの仕事を買って出た。
ある晩、しばしばファルネイユ夫人の家で夕食するのを習慣としていたクレルヴィルが、たったひとりで夫人の家を辞去し、歩いて自宅に帰ろうとしていると、何者かにすっぽり袋をかぶせられ、有無を言わさず捕えられて、どことも知れぬ場所に連行された。自分たちは官憲だと言い、偽造の逮捕状を示されて、クレルヴィル師は駅馬車に詰め込まれ、アルデンヌの奥地の、フランヴァル所有の人里離れた城館の牢屋まで、大急ぎで運ばれた。土地の管理人には、この坊主こそ主君の身に危害を加えようとした極悪人だと紹介されて、この不幸な犠牲者に二度とふたたび日の目を拝ませないよう、厳重な注意が守られたのであったが、何ぞはからん、こんなに手荒に自分を扱った人びとに対してあまりにも寛容を行使しすぎたことが、この不幸な犠牲者の唯一の罪だったのである。
ファルネイユ夫人は絶望に突き落とされた。この事件が婿殿の計略から出たものであることは疑いようもない。クレルヴィル師を捜すための処置は、ユージェニー誘拐の仕事をいくぶん遅延させた。何しろファルネイユ夫人には友人も非常に少なく、信用するに足るひとは無能ときていたので、こんな重大な二つの目的を一度に果たすことはなかなか困難だった。それに、フランヴァルの強力な活動が人びとの目を欺いていた。そこで、いきおい官憲に援助を求めるかたちになったが、あらゆる捜査は無駄に終わった。フランヴァルは巧妙きわまる策を講じていたので、発覚の恐れは絶対になかった。フランヴァル夫人は思い切って夫にただすことができなかった。ふたりは最後の口論以来、まだ互いに口をきき合ってはいなかったのである。けれども好奇心が勝ちを制して、とうとう彼女は、あるとき亭主に向かって、あなたの悪企みはついに母からこの世で最上の友達をも奪い取ってしまったのですね、と質問の矢を向けてみた。すると極道の亭主は極力事実を否認し、あまつさえ、自分も捜査に一役買おうなどと心にもないことを申し出る始末である。ヴァルモンの計画を準備するためにも、クレルヴィル捜査にみずから一肌脱ぐ約束を妻に与えて、妻の心をやわらげておく必要があると思ったので、フランヴァルは信じやすい妻にやさしい言葉のありったけを並べて、今までは多少の不義理もあったか知れないが、やっぱり私が心底から愛しているのはお前なのだよ、と誓いを新たにするのであった。生命よりも大切な男に近寄られ、フランヴァル夫人はただもう嬉しく、心楽しく、腹ぐろい亭主のすべての欲望を許し、亭主の気に入るようにこれ努め、あれこれと意のままになって、共に快楽を分け合ったのであるが、女心のあさはかさ、この極道者の偏奇な欲望を正規の道に立ち返らせようという、彼女がこのとき当然しなければならなかった義務はいっかな忘れて顧みなかった。で、やがて彼女は苦悩と惨禍の淵に日ごとに深く身を沈めて行く仕儀とはなったのであるが、しかし、かりに彼女がこの正しい努力を果たしたとしても、成功の栄冠は彼女の頭上に輝いたであろうか? 万事につけ虚偽で固まったようなフランヴァルが、ある種の限度を越えるところにこそ魅力があるとみずから称している肉欲の行為において、ひときわ謙虚になるということがあり得ただろうか? むろん、彼は万事を裏切るという唯一の快楽のために、ぬけぬけと万事を約束したことでもあろうし、みずからの破廉恥な快楽にさらに偽誓の楽しみを付加するために、ひとが誓いを要求することをさえあえて厭いはしなかったであろう。
フランヴァルは事の成り行きに大いに意を安んじて、もはや他人のじゃまをすることしか考えなかった。執念ぶかく、粗暴で、烈しい彼の性格は、他人が自分を脅やかしていると見ては、どうあっても心の安心を獲なければ気がすまず、しかもその安心をふたたび失う可能性の最も多い方法を不器用にも選ぶのである。だから一度は安心を獲ても、すぐまた自分の精神的・肉体的能力のすべてを用いて、これを損ずることのみを心掛けてでもいるかのごとき按配で、したがってつねに擾乱《じようらん》が絶えず、あたかも他人をして自分に対して術策を用いることを使嗾《しそう》し強制しているか、さもなければ他人に対してみずから術策を弄しているか、どちらかの場合でなければ彼は夜も日も明けないかのごとくであった。
さて、ヴァルモンを満足させるべき手はずはすべて整った。ふたりきりの対座はユージェニーの部屋で、およそ一時ごろから始まった。
美しく飾られた部屋のなかで、台座の上にすっくと立ったユージェニーは、狩猟に疲れた若き土人娘といった格好で、一本の椰子《やし》の樹《き》の幹にしだらなくもたれていた。椰子の樹の高い枝葉が、おびただしく設けられた天井の燈火を隠していて、光の反映はこの美しい娘の魅力あふれる肉体の各所にのみ向けられ、技巧の粋をこらして、いやが上にもその美しさを引き立たせるように工夫してあった。この生きた彫像が立っている一種の小さな舞台は、満々と水を張られ、幅六尺もあろうかと思われる溝に取り囲まれていて、それが若き土人娘に近づくことを禁ずる濠《ほり》の用をなしており、彼女に接近する道はどこからも絶たれていた。この塹壕《ざんごう》の縁に、りっぱな一脚の椅子が置いてあって、手の届くところに一本の絹紐がたれている。すなわち紐を操作することによって、台座をぐるぐる回転させることができ、その上に立っている美しい娘の肉体をあらゆる側面からながめ、賛仰することを得さしめるように工夫がこらしてある。娘の姿態はどこから見てもやはりみごとであった。フランヴァルは舞台装置になっている一叢《ひとむら》の木立の陰にかくれて、自分の情婦と友達と、ふたりのすがたを同時に見ることができる位置にいた。約束によって、対座の時間は三十分と定められていた。ヴァルモンは席につくと、たちまち陶酔境に遊ぶ思いがし、こんな魅力的な女体はついぞ見たことがない、と後に述懐したものである。情熱の燃えあがりに我を忘れて、ひっきりなしに紐を操作すると、それに応じてさまざまな新しい美しさが彼の眼前に提供されるのである。さてどの姿態に自分は犠牲を捧げよう、どの格好が自分のいちばん気に入りの格好だろう、と考えてみても、ヴァルモンにはさっぱり見当がつかなかった。それほど、ユージェニーのすべての姿態は一様に美しかったのである! そうこうするうちに、時間はどんどん過ぎ去ってしまう。こういう時にはことのほか時間のたつのが早いのである。で、ついに幕切れの時間が鳴ると、ヴァルモンはぐったりしてしまった。燻香《くんこう》の匂いが女神の像の足もと、禁じられた内陣のあたりから漂い出し、紗の幕がおろされ、彼は退出しなければならなくなった。
「どうだね、ご満足かね?」とフランヴァルが出て来て言った。
「いや、すばらしいものですな!」とヴァルモンは感に堪えぬふぜいで、「それにしても、フランヴァルさん、ご忠告しておきますが、こんなことを他の男とさせてはいけませんよ。友達なればこそと、あらゆる悪心をぐっと抑えた僕の気持ちを、ゆめゆめ軽く考えますな」
「それはよくわかっているよ」とフランヴァルは柄にもなく深刻に答えた、「さあ、それではなるべく早く新たな行動に移ってくれ」
「まず明日は下準備といたしましょう……前置きの座談が必要ですからね……四日後には、大丈夫、間違いなくもの[#「もの」に傍点]にしていますよ」
こう約束が交わされ、ふたりは別れた。
ところがなにぶんにも、あのようにすばらしい対面を終えた直後だったので、ヴァルモンは、フランヴァル夫人をだますどころの騒ぎではなく、そんな考えはどこかへ消し飛んでしまって、ただもうひとりの女に恋々としてしまったのであるが、これはもちろん友達に正面切って告白できた義理ではなかった。つまりユージェニーの面影は、諦めきれないほど深く彼の心に焼きついてしまって、彼はどんな代価を払っても、この女を妻にしなければならぬと覚悟を決めてしまったのである。つらつら考えてみると、父と娘との情事といった障害さえなければ、コランスに匹敵するほどの財産家である自分が、同じく正当の資格で結婚を申し込めない理由はどこにもないのである。だから、花婿の候補としてまかり出れば、拒絶されるいわれはないのだし、ユージェニーの不倫な関係を断ち切るために自分が熱意を示せば、それが成功した場合には、家族の希望にもかなうことになって、めでたく憧憬の対象をフランヴァルの手中から奪い取ることもできようし、自分の勇気と術策をもってすれば成功疑いなしと、まあ、こんなふうに想像したのである。こうした熟慮をめぐらすには二十四時間で十分であった。一夜明けると、ヴァルモンはこうした考えを頭にいっぱい詰め込んで、フランヴァル夫人の家に赴いた。来訪はあらかじめ通知してあった。ご承知のとおり、夫との最前の交渉で夫人の心は大分ほぐれており、悪賢い夫の老獪《ろうかい》な術策にうまうまと乗せられていたので、もうヴァルモンの来訪を断わりきれなくなっていた。もちろん夫人は、フランヴァルが持ち出した手紙のことや、情事の噂などを取り上げて、ヴァルモンに会うことにきつく反対した。しかしフランヴァルが何の底意もなげな様子で、ふたりの関係が事実無根であることを衆目に示す最も確かな方法は、平常どおり友達に会うことではなかろうか、もし拒絶したらかえって疑いを証明するようなものではないか、と言って妻を説得した。フランヴァルの意見によれば、妻が自分の潔白を証明する最上の方法は、関係があったと噂された当の男友達と青天白日の身で会い続けていることではないか、というのである。もちろんこれは詭弁《こじつけ》であった。フランヴァル夫人もその点には十分気がついていた。が、彼女はヴァルモンの弁明を聞きたいと思った。そうした気持ちは、夫の怒りを買うまいとする気持ちとひとつになって、彼女の眼から、この青年に会うことを思いとどまらせるべき理性的な顧慮のいっさいをおおいかくしてしまった。そこで、いよいよヴァルモンはやって来た。フランヴァルは大急ぎで外出してしまって、またしても、ふたりは差し向かいになった。釈明は熱心に長々と続けられるはずであった。しかしヴァルモンは思いあまって、すべての話を端折ってしまい、単刀直入、核心に入って行った。
「この前お会いした時には、まことに罪ぶかい男として奥さんの前にまかり出たものですが、今日という今日、僕はまったく生まれ変わったつもりなので、奥さん、どうかもう以前の僕のことはお忘れになって下さい」とヴァルモンはせき込んで言った、「あの時はご主人の悪事の共犯者でしたが、今日はその矯正者なのです。ともかくも僕を信用して下さい、奥さん。今日ここへ参りましたのは奥さんをだますためでも罠にかけるためでもないことを、名誉にかけてお誓いいたしますゆえ、どうか僕の申し上げることをお心に留めていただきたいのです」
そう言って彼は、贋手紙や贋計算書の一件を話し、みずから悪事の片棒かついだことを幾重にも詫び、それからフランヴァル夫人の身の上に新たな魔手が伸ばされようとしたことも打ち明け、いつわりない自分の気持ちを信じてもらうために、ユージェニーに対する感情をも進んで告白し、どうして自分がそんな気になったのかも、洗いざらいぶちまけた。そして事態を阻止するためには、何よりもまず、フランヴァルの手からユージェニーを取り上げて、ファルネイユ夫人の所有地のひとつであるピカルディの田舎へ彼女を連れて行ってしまうのが得策だろうと進言し、もしそうした援助の手を差し伸べることを僕に許して下さるなら、その代わりとして僕に自分が助け上げた女性と結婚することを約束していただきたい、と申し出た。
ヴァルモンの告白には真実の色がありありと見えたので、フランヴァル夫人はすべてを信じないわけにはいかなかった。ヴァルモンは娘にとってはりっぱな結婚相手である。悪評を流したあとで、そもそもユージェニーはこれほどりっぱな縁談を期待し得るだろうか? ヴァルモンはすべてを引き受けると言う。あのいまわしい醜関係をやめさせる方法が、そもそも他にあるだろうか? それに、自分と夫とのあいだの目の上の瘤《こぶ》とも言うべき、あの不倫な父娘の関係さえ取り除かれるなら、あるいは夫の愛情もどうかして自分の方へ向いて来ないものとも限らないではないか? そんなふうにあれこれと思案して、夫人はついに決心し、ヴァルモンの提案を呑んだものである。しかし条件として、けっしてみだりに夫と争わないこと、ユージェニーを祖母のもとに届けたら、ヴァルモンは外国へ行って、フランヴァルがようやく落ち着きを取り戻し不倫な恋の破綻《はたん》をあきらめ、ついに娘の結婚を承認するようになる日まで、ずっと外国に留まっていることを約束させた。ヴァルモンはいっさいの条件を承知した。そこで今度はフランヴァル夫人が、実は私の母も以前からそういう意図を懐いているので、今ふたりで決めた計画に彼女が反対することはまずないだろうと、ヴァルモンを安心させた。青年は、不埒な友達の要求に応じて心ならずも行なった夫人への非礼をふたたび陳謝して、彼女の家を辞去した。翌日から、ファルネイユ夫人は事情を知らされてピカルディ地方へ発って行ったが、一方、相変わらず快楽の果て知らぬ泥沼におぼれていたフランヴァルは、すでにクレルヴィルに対する杞憂《きゆう》が失せた上に、ヴァルモンをてんから信用していたので、仕掛けられた罠に進んで落ち込むはめになった。今まで多くのひとが自分の仕掛けた罠に落ちるのを見て、快哉《かいさい》を叫んで来た彼ではあったが、やはり自分の番ともなれば、たあいもないものである。
時にユージェニーは、およそ半年ほど前から芳紀十七歳を迎えていたが、しばしばただひとりで、もしくは数人の女友達と連れ立って、外出する習慣を身につけていた。ヴァルモンが友達との約束によって、フランヴァル夫人を口説きにかかろうという日の前日、ユージェニーはたったひとりで、フランス座へ新しい芝居を観《み》に行った。帰りもやはりひとりで、彼女はこれからある家に赴いて、そこで父親と逢引きをし、一緒に夕食をしようと……時しも馬車を駆ってサン・ジェルマン界隈《かいわい》を過ぎたころ、不意に十人ばかりの覆面をした男が、ばらばらと走り寄って、馬車を止め、扉をひらき、ユージェニーを引きずり出して、駅伝馬車に詰め込んだ。馬車の中にはヴァルモンがいて、叫び声をあげられないように万全の処置を講ずるや、大至急で飛ばすことを命じたので、みるみるうちに馬車はパリの町を出はずれてしまった。
けれども、まずいことに、ユージェニーの従者と馬車とを片づけておかなかったので、フランヴァルはただちに注進を受けることになった。ヴァルモンは迂闊にも、フランヴァルが手を打つまでには最少限二、三時間はかかるだろう、その間に自分たちは安全な場所へ逃げおおせればよいと、計算していたのである。ファルネイユ夫人の所有地へ着きさえすれば万事おわれりと、しごく安易に考えていたのである。所有地には信用の置ける女がふたりと、駅伝馬車とが待っていて、ユージェニーを国境付近の、ヴァルモンさえ知らない僻地《へきち》の隠れ家へ運んで行くことになっていた。そしてヴァルモン自身はただちにオランダへ渡り、すべての事情が好転するまで、その地に待機していることになっていた。しかしながらこの周到な計画も、悪人のおそるべき姦計の前に、もろくも挫折するという運命を見たのである。
フランヴァルは注進を受けると、一刻も猶予せず、駅伝馬車の溜り場へ行き、夕方六時以後どの方向に馬車が行ったかを問いただした。七時にベルリン馬車がリヨンへ向かい、八時に小型馬車がピカルディ地方へ向かったとの返事であった。フランヴァルはためらわなかった。リヨンへ向かったベルリン馬車なんぞはどうでもよい。問題はファルネイユ夫人の領地のある地方へ向かって行った馬車である。こんなことがわからなかったら気違いだ……そこで、彼は手ばやく馬車に八頭の良馬をつなぎ、みずから車中の人となり、従者にはそれぞれ小馬を与え、彼らが引き具をつけているあいだ、ピストルを買って弾丸をこめ、恋情と絶望と復讐心とに駆り立てられるまま目的地に向かって矢のように飛んで行った次第である。サンリスで駅馬を継ぎ代えたとき、めざす馬車はいましがた出発したばかりであるとの報を受け、フランヴァルはなおも急ぐことを命じた。やがて、不幸にして、彼らは追いついた。主従はピストルを手にして、ヴァルモンの小型馬車を止めた。逆上したフランヴァルは、怨敵《おんてき》のすがたを認めるや、相手が身を守る隙も与えず一発のもとに脳天を射ち抜いた。そして息もたえだえになっているユージェニーを奪い取り、彼女とともに自分の馬車に打ち乗って、朝の十時前にはもうパリに舞い戻って来ていた。フランヴァルは何よりもまずユージェニーの身を気づかった。……あのいまわしいヴァルモンめが、もしや機会を利用して彼女の肌に手を触れはしなかったろうか? ユージェニーはまだ自分だけのものだろうか? ふたりの情愛の絆は傷つけられはしなかったろうか? しかし、娘は父親を安堵させた。ヴァルモンは自分の計画を打ち明けることしかせず、やがて彼女と一緒になれる期待に胸いっぱいで、純潔な誓いを捧げるべき祭壇を進んで汚すがごとき挙には出なかったとのことである。ユージェニーの誓言は、かくてフランヴァルを安堵させた。……それにしても、妻はいったいこの策謀を知っているのだろうか? 彼女もこれに関係しているのだろうか?……ユージェニーはそのこともヴァルモンから聞き知っていたので、すべてが母の陰謀であることを断言して、最も口ぎたない言葉で母をののしった。そしてフランヴァルが自分のために一肌脱いでくれるのだとばかり信じていた、あの口説き落としの会見こそ、実はヴァルモンの最も厚顔無恥な裏切りの一場だったことを彼女は父親に証言した。
「畜生!」とフランヴァルは激怒して叫んだ、「やつがたとえ千の命を持っていたとしても、おれはそれを片っぱしから残らず奪い取ってやらにゃ気がすむまいぞ……女房のやつも女房のやつだ! おれが死ぬほど嬉しがらせてやっていたのに……あの女め、先立ちになっておれを裏切りおった! 虫も殺さぬ面をしやがって……美徳の天使が聞いてあきれる……ええい、裏切り者めが! 貴様の悪事がただですむと思ったらとんだ大間違いだぞ……おれの復讐は血を見なければおさまらんぞ、必要とあらば、おれがこの唇で貴様のまっ黒な血をすすってやるぞ。……ああ、ユージェニー、お前は静かにしておいで」とフランヴァルは凶暴な発作をやわらげて言った、「そうだ、お前は静かにしておいで。休息が必要だ。あちらへ行って、しばらくお休み、私が寝ずに番をしてやるからな」
ところで、ファルネイユ夫人の方でも、途中に密偵を配置しておいたので、すべての事情を探知するのに手間どりはしなかった。孫娘がふたたび奪回され、ヴァルモンが殺害されたことを聞き知ると、彼女は大急ぎでパリへ戻って来て、煮えくり返るような思いで、ただちに親族会議を召集した。親族たちの意見によると、殺人罪の結果フランヴァルの家長としての権限は当然ファルネイユ夫人の掌中に帰するが、家門の信用は一朝にして丸つぶれになるだろう、だから噂をもみ消さなければならず、不名誉な裁判沙汰をひき起こすことのないように、婿殿を安全な場所へ移すよう適当な処分を請願しなければなるまい、とのことであった。フランヴァルはこの意見と処分の話を伝え聞き、早くも事件が発覚したことをさとったが、義母がこの事件によってひたすら自分の失墜を望んでいることを知ると、時を移さず、ヴェルサイユへ飛んで行って、大臣に会い、すべての事情を打ちあけたところ、大臣の言うには、一刻も早くスイスとの国境になっているアルサス地方の、フランヴァルの所有地へ行って身をかくしたがよい、という返事であった。そこでフランヴァルはただちに自宅へ戻り、大臣の忠告どおりアルサス地方のヴァルモルへ、即刻出発しようと意を決したが、このまま自分ひとりで出かけてしまったのでは念願の復讐が果たせない、妻の裏切りを罰してやることができない、それに、ファルネイユ夫人が自分の手から奪い取ろうと陰にまわってしきりに策動している財産や私物をみすみす失ってしまうことになる、とこう考えて、ぜひとも妻と娘を逃亡の道連れにしようと決心した。……しかし、フランヴァル夫人は言うことをきくだろうか? この事件の原因となった裏切りの罪を身にしみて感じているはずの彼女が、夫と一緒に家を離れることを承知するだろうか? 裏切られた夫の腕に怖れげもなく身を託す気になるだろうか? フランヴァルにはこの点がはなはだ心もとなかった。で、彼女の胸中をさぐってみるつもりで、妻の部屋に入って行くと、はたして妻はすでに事件の全貌《ぜんぼう》を知っていた。
「奥さん」と彼は冷静に話しかけた、「あなたは実に軽はずみなことをして、私を不運のどん底へ突き落としてくれましたな。それはもちろん私だって、あなたの行為をどんなに遺憾に思っていようと、その原因が正しいものであったということは認めますよ。あなたをああした行為に赴かしめた原因は、まごうかたなく、娘と夫とに対する愛情だったのですからね。それに、もとはと言えば私から出たことなのだから、何もあなたの軽率ばかりをとやかく言うべき筋あいはないでしょう、それはよくわかっています、私のいとしい妻よ」と言うと彼は夫人の膝に取りすがって、「ねえ、お願いだから、ここで仲直りをしようじゃないか、今後なにものによっても乱されることのない平和をふたりの間に築き上げようじゃないか。私は仲直りを提唱しに来たのだよ。仲直りのしるしに、あなたの手に渡すものがあるのだ……」
そこでフランヴァルは夫人の足もとに、ヴァルモンへの恋文と称する例の贋手紙の束をどっさり置いて、
「さあ、これを焼いておくれ、ひとつ残らず、お願いだ」と空涙をうかべて、「嫉妬が私にこんなことをさせたのだ、許しておくれ。私たちのあいだから、気まずさを追い払ってしまおう。私は大それた罪びとだ、今こそ告白しよう。しかし、あのけしからぬヴァルモンめが、あなたを口説き落とすために、私を実際以上にわるく告げ口しはしなかったろうか?……私があなたに厭きたようだとか、あるいはまた、私にとってこの世でいちばん貴重で、いちばん敬愛すべき相手があなたでないかのような、そんな口ぶりをあの男はしなかったろうか? ああ、愛する天使よ、もしあの男がそんな汚らわしい悪口を言っていたのだとすれば、私はそんなぺてん師、そんないかさま野郎をこの世から葬ってしまったことに少しも後悔する必要は認めないよ!」
「まあ、あなた」とフランヴァル夫人も涙にくれて、「あなたはご自分がどんな怖ろしいことをあたしに対して企てたか、ご想像になれまして? あんな残酷なことをされたあとで、いったいあたしはどうあなたを信用したらよいのでしょう?」
「私はいつまでもあなたに愛していてもらいたいのだ、女のなかで最もやさしく最も思いやりのあるあなたというひとに! 私は自分の才知が幾多の罪を犯させたことを悔やんでいるが、わるいのはこの才知だけであって、自分の心は永遠にあなたの支配からのがれず、あなたを裏切ることなんかできはしないことを、信じてもらいたいのだ……そうだとも、私をこんなに矢も楯もたまらずあなたに近づけるものは、私のわるい下心なんかではない、それをあなたに知ってもらいたいのだ……いとしい妻から離れれば離れるほど、私は悪心をいだく志をすべてのものの中から失って行くように思われた。快楽も、欲望も、私の移り気が妻とともに捨てたものを取り返してはくれなかった、妻によく似た女の胸の中さえ、私は現実の妻をなつかしく思わないではいられなかった。……おお、いとしい崇高な女よ、あなたの魂のような魂を、私はどこに求めたらよいのだ? あなたの腕の中でのみ手に入れることのできた恩沢を、どこで味わったらよいのだ? そうだ、私は自分の過のすべてを捨てることをここに宣言しよう。……これからはあなたひとりのためにのみ、私は生きて行こう、傷《いた》めつけられたあなたの心の中に、罪によって破滅させられた愛情をふたたび取り戻すためにのみ……もう私の心の中には記憶としてしか罪というものはないのだ」
つねに変わらず熱愛してきた男の口から、こうまでやさしい愛の言葉を聞いては、フランヴァル夫人たるもの、たまったものではない。どだい熱愛している人間を本当に憎むなどということができるものだろうか? こんなに繊細な感じやすい女の魂が、自分の足もとで後悔の涙にくれて哀願している相手のすがたを、冷然と見ていることができるものだろうか? 果然、彼女の咽喉《のど》からすすり泣きがもれて出た……
「あたしだって」と夫人は夫の手を胸の上に押し当てて、「あたしだって、あなたへの愛を片時も失念したことはありませんでしたよ、ひどい方! あたしこそ、あなたのおかげで、理由もなく絶望させられていたのですわ! ああ、あなたがあたしにお与えになったすべての禍い、あなたの愛情を失ったのではないかという怖れが、そしてまた、あなたに疑われているのではないかという懸念が、すべての中で最も痛烈な苦しみであったことは神さまもご存じです。……その上さらにあなたはあたしを傷つけるために、どんな手段をお選びになったのでしょう? あたしの娘ですわ!……あなたは娘の手を使って、あたしの心臓を突き刺したのですわ……自然があたしに、この上なく親しいものとして与えた娘を、あなたは憎ませようとなさったではありませんか?」
「ああ」とフランヴァルはなおも激しくこがれるふぜいで、「その娘をあなたの膝もとに連れて来よう、娘も私と同じように、罪と破廉恥とからすっぱり手を切るようにさせよう。……私と同じように、みずからの過を詫びるようにさせよう。私たち三人、今後はお互いの幸福のためにしか心をわずらわさないようにしよう。私はあなたに娘を返す、あなたも私に妻を返してくれ。そして三人でここから逃げよう」
「逃げる! それはまたどうして?」
「例の刃傷沙汰が噂にのぼっているのです……明日にでも私は逮捕されるかもしれない……友達や大臣や、そのほか大ぜいのひとが、ヴァルモルへ高飛びすることを勧めています……私と一緒に逃げてくれませんか、いとしい妻よ! それとも、私がこうしてあなたの足もとに私の罪を詫びているとき、あなたは私の願いを拒絶して私の心を引き裂こうというのですか?」
「あなたのお話を聞いて、あたし、ぞっといたしました……何なのです、その刃傷沙汰というのは?」
「殺人罪と呼ばれるものです、しかも決闘ではありません」
「まあ! その犯人があなたなのですか!……是非もありません、何なりとお命じになって下さい、あなた。必要ならば、地の果てまでもあなたのあとについてまいります。ああ、あたしほど不幸な女があるものでしょうか!」
「むしろ不運な女と言うべきでしょう、というのは、今後私は余生をあげて、今まであなたがなめつづけて来た不運を幸運に変えることに捧げようと決心したのですからね……愛し合ってさえいれば、草ぶかい田舎だって天国ではありませんか? それに、そんなことがいつまで続くわけではありません、知らせを受けた私の友人たちが善処してくれるはずですからね」
「では母にも……母にも会って頼んでみましょうか?」
「ああ、しかし、それはよくよく用心する必要がありますよ。確かな証拠によれば、お義母《かあ》さんはヴァルモンの家族を突ついているそうですから、……それにお義母さん自身も、私の破滅を望んでいなさるそうだから……」
「そんなばかなことはありませんわ、そんな怖ろしい当て推量をなさるのはおやめになって下さい。ひとを愛することしか知らないお母さんの魂が、そんな悪意など抱けるわけはございませんもの……あなたはいつもお母さんをわるく思っていらっしゃるのね、フランヴァル?……どうしてあたしのようにお母さんを愛することができないのでしょう! お母さんの腕の中にさえ抱かれていたら、あたしたちは地上の幸福のすべてを見いだすことだってできたはずですのに! お母さんこそ、あなたの生涯の過誤のために天が送ってよこした天使なのですわ。あなたの愛情に向かっていつも開かれていた彼女の胸を、あなたはすげなく押しのけたばかりか、無分別と気まぐれと、忘恩と不義とによって、自然があなたのために与えてくれた最良最善の友をみすみす自分から捨てたのではありませんか。さあ、それでもあたしが母さんに会ってはいけないとおっしゃるの?」
「いけません、くどいようですが、繰り返して申します。……今は時間が貴重なのです! あなたがお母さんに手紙を書き、筆をつくして私の悔悛を述べ立てれば、おそらくお義母さんも私の改心を信じ、おそらく私もいつかはお義母さんの好意と愛情をかち得る日が来るでしょう。すべてが丸くおさまり、私たちがふたたびお義母さんの胸の中へ、彼女の許しと慈愛とを求めに行く日も来るでしょう。……しかし、今は時間が貴重なのです、私たちはすぐ出発しなければならない、今この瞬間にそれが必要なのです。馬車が私たちを待っています」
フランヴァル夫人は気押されて、もう何にも逆らおうとはせず、旅の仕度にとりかかった。フランヴァルの気持ちを満足させてやろうと思えば、彼の命令に唯々諾々と従うよりほかないのである。不実な男はさっそく娘のところへ飛んで行くと、彼女を母親の前に連れて来た。猫かぶりの娘は父親に劣らず巧みに、母親の前にひれ伏し、涙を流して許しを乞うた。で、フランヴァル夫人は娘を抱擁し、悦びの涙にむせんだ。どんな傷手《いたで》を子供から受けようと、女の身にして母たることを忘れるのは至難の業である。自然の呼び声は感じやすい女の魂のうちに絶対的な威力を誇っているものなので、子供の眼にうかんだたった一粒の涙さえ、二十年間にわたる過や非行を忘れさせるのには十分なのである。
かくて三人はヴァルモルへと出立した。旅立ちには極度の敏速を必要としたので、信じやすいフランヴァル夫人の目には、供回りの従者の人数の少ないこともべつだん怪しむに足る理由にはならなかった。悪事は人目を避け、人目を怖れるものである。悪事の安全は秘密の暗い影のうちにのみ保たれるものなので、悪人は行動を起こすとき必ずこの暗い影のうちに身を包み隠すのである。
田舎ではすべてが順調であった。妻は不断の世話と親切と、注意と尊敬と、愛の証拠のありったけをそそぎ、夫はそれにこたえて、激しい愛撫のありったけを尽くしたので、不幸なフランヴァル夫人は実に夢のような思いであった。まるで世界の果てのような、物淋しい僻地であったが、フランヴァル夫人には夫の心をしっかりつかんでいるという自信があったし、娘は娘で、母親の膝もとで絶えず彼女を喜ばすことしか考えていなかったから、夫人の幸福は察するに難くなかった。
ユージェニーの部屋と父親の部屋とは、もう隣合いではなかった。フランヴァルは城館のはずれの部屋に起居し、ユージェニーは母親の部屋のすぐ近くに住んだ。パリではすべてがおそろしい乱脈のうちにあったが、ここヴァルモルへ来てからは、最高度の礼節と規律正しさと慎しさとが一家を支配した。しかし、毎夜フランヴァルは妻の枕もとに通っては、この純潔と無邪気と愛情の化身のような女の胸にふかぶかと抱かれつつ凶々《まがまが》しい復讐《ふくしゆう》の希望をひと知れず育てていた。女のなかの最も繊細な女が、あの素朴な熱烈な愛撫を惜しげもなく与えるのに、悪の道にあくまで一徹な夫は、残酷な心をやわらげられた様子もなく、愛情の炎のなかで復讐の炎を燃え立たせるのであった。
しかしながら、あれほど激しかったユージェニーに対するフランヴァルの執心が、そう簡単に冷めてしまうとは信じられない。毎朝、母親が化粧しているあいだ、ユージェニーは庭の奥でひそかに父親と会っては、当面の行動に必要な意見をきいたり、さらに、彼女が母親にすっかり譲ってしまう気はもうとうなかった寵愛《ちようあい》のしるしをば父親の手から受けたりするのであった。
この僻地にやって来てから一週間ばかりたったころ、フランヴァルは友人の手紙によって、ヴァルモンの家族が追求の手をゆるめず、事件が真に重大な様相を帯びて来たことを知った。あいにくなことに目撃者が大勢いたので、決闘事件だと称してすますわけにはいかなかったのだそうである。またさらに手紙には、ファルネイユ夫人が相手方の先頭に立って、婿殿の自由を奪い、フランスから強制的に立ち退かせ、別れ別れになっている娘と孫とのふたりを自分の庇護の下に立ち帰らせようと、絶えず積極的に運動していることも報じてあった。
フランヴァルはこの手紙を妻に見せた。すると妻は、母の気持ちをしずめるため、母の見解を変えさせるために、即刻筆をとって、夫は不運な事件以来心を入れかえているので、自分は毎日幸福を楽しんでいると書いた。それから、どんな手段をとるにせよ、自分と娘とをパリに帰らせようとする試みはすべて無駄におわるだろう、自分は夫の事件が落着するまでヴァルモルを去るまいと決心したのだから、と書いた。そして、もしも相手方の悪意ある判事の非常識が、夫の名誉を傷つけるような判決を与えた場合には、自分は夫とともに国外に亡命することをもあえて辞さないだろうと、脅迫がましいことさえ書き加えた。
フランヴァルは妻に感謝した。しかし彼は、近づきつつある運命を黙って待っている気はさらになかったので、ユージェニーを妻のもとに残して、しばらくの間スイスに逃亡することを決意し、運命が明らかになる日までけっしてヴァルモルを去らないでいてくれと妻に懇願した。そして、もしも事件が無事に解決するようだったら、パリに帰るためにすぐまたここに戻って来ようし、またもしその逆だったら、どこか安全な場所へ行って暮らすための方法をふたりで協議するために、いずれにしても必ずここへ戻って来ることになるから、それまで待っていてほしいと言い添えた。
こんなぐあいに話はきまったが、フランヴァルはいまだに妻とヴァルモンとの軽はずみな行ないを根に持っていて、自分の逆運の唯一の原因が妻であるという考えを片時も忘れなかったばかりか、彼女に対する復讐のみを執拗《しつよう》に念じているしまつだった。で、覚悟がきまると、フランヴァルはさっそくひとを遣わして、庭の奥で待っているから会いに来るようにと娘に伝えさせ、娘がやって来ると、ふたりして人気のない離れ家の中に閉じこもり、ユージェニーに向かって、これから命ずることに何でも絶対的に服従することを誓わせた後、彼女を抱擁して、次のようなことを言い出したのである。
「私たちは離れ離れになってしまうかもしれないよ……もしかしたら永久にね……」
そして涙にくれたユージェニーを見て、
「まあ落ち着いてききなさい、私の天使よ」と語を継いで、「私たちの幸福が生きるも死ぬも、お前しだいなのだし、私たちがフランスで、あるいは他国で、今までと同じように幸福に暮らせるかどうかも、お前しだいなのだから。ところで、ユージェニー、私たちの不幸の唯一の原因がお前の母親だということは、お前も十分よく呑み込んでいると思うが、どうだね? 知ってのとおり、私は復讐の考えを片時も忘れたことがないのだよ。女房にはむろん、この考えは秘密だが、お前はその動機をよく承知だし、それに賛成もしているし、女房の目をおおう目かくしをつけるために私の助力もして来たことだ。そこで、私たちはいまや最後の段階に来たわけだ。あとは行動に移すのみだ。それにはお前の沈着な決意が必要である。お前が沈着に事をなし遂げさえすれば、私の安心も永遠に保証される。私の言うことがわかるかね、ユージェニー、お前は頭がよいから、私がこれから言おうとしていることを聞いても、よもや驚くことはあるまいと思うが……そうだ、ユージェニー、行動しなければならないのだ。一刻の猶予もならない。悔いるところなく、事に当たらねばならない。そしてそれにはぜひともお前の手を借りねばならないのだよ。お前の母親はお前を不幸にすることを望み、みずから求めて婚姻の絆をけがし、妻たる者の権利を失った。その時以来、彼女はもうお前に対してただの女にすぎないばかりか、終生変わることのない仇敵にすらなった。ところで、われわれ人間の魂のなかに最もふかく刻み込まれた自然の法則というものは、できうべくんば、われわれに対して陰謀を企てた人間を進んで厄介払いしてしまいたいという願望だろう。われわれを動かし、絶えずわれわれを鼓舞するこの神聖な法則は、隣人に対する愛情よりも、われわれ自身に対する愛情をまず第一義的に重んずるものなのだ。まずわれわれが第一で、他人はその次、これが自然の運行というものである。したがって、他人がわれわれの不幸ないし破滅を唯一無二の祈願の対象としていることが明らかになった場合、われわれはすでに彼らに対してどんな尊敬も、どんな思いやりも抱いてやる必要がないのは言うまでもなかろう。もしそれ以外のやり方で行動するならば、それはわれわれ自身よりも他人を愛するということであって、実にばかばかしい限りと言うべきだろう。さて、それでは次にお前のとるべき行動を示し、この行動を決定すべき動機について説明を加えよう。
「実は私は逃亡しなければならなくなったのだ、その理由はお前も知っていよう。そこで、お前を残して行かねばならないのだが、一ヵ月ほど前母親に買収された私の女房と一緒にお前を置いて行けば、女房はきっとパリにお前を連れて帰るだろう。しかし帰ったところで、つい最近あらぬ噂を立てられたばかりのお前の身では、もう結婚させることもできないだろうから、あのふたりの血も涙もない女どもは、お前をむりやり修道院に押し込めて、一生涯わが身のはかなさと失われた快楽を嘆き悲しんで暮らさねばならない境涯にお前を追いやることは必定だろう。何しろ私を追いかけまわし、私をぎゅうの目にあわせようと敵方に回って策動しているのが、ほかでもない、お前の祖母なのだからね。してみれば、彼女たちのこのような策動に、お前を取り返すこと以外の他の目的はあり得ようもなく、彼女たちの手に取り返されたお前がきっと幽囚のうきめにあうことは、これまた必定ではなかろうか? 私の裁判がごたごたすればするほど、私を苦しめようとしている相手方は、力と威信を盛りあげるにちがいない。ところで、疑うべくもない明らかなことは、お前の母親がひそかにこの相手方の先頭に立っていることで、私がいなくなれば彼女はすぐに相手方と合流することになるだろう。そしてこの相手方が私の破滅を望んでいるのは、もっぱらお前を女の中の最も不幸な女にすることによってなのだよ。だからこそ急いでやつらの勢力をくじいてやらねばならないわけだが、フランヴァル夫人をやつらの仲間から引き抜いてやることこそ、やつらに加えることのできる最大の痛手なのだ。いったい、これ以外の処置が考えられるだろうか? もしも私と一緒にお前を連れて行ったらどうか? お前の母親は不安になって、たちまち自分の仲間のもとへ帰ってしまうだろう。そしてそうなったら、いいかねユージェニー、私たちはもう一瞬間も平静な時を過ごせなくなるにちがいない。私たちは捜索され、至るところで追求され、もうどんな地方も安全な隠れ家を提供してはくれず、地球上のどんな神聖犯すべからざる避難所も、血まなこになって私たちを追いかけまわす悪魔どもの土足に踏み荒らされないものはなくなってしまうだろう。お前は、専制主義と暴政のおそろしい凶器が、金貨によって人心を収攬し、悪意によって鼓舞されるとき、いかなる距離にまでその刃先を伸ばすものであるか、知らないことはあるまい? ところが逆にお前の母親が死んだ場合には、お前以上にフランヴァル夫人を愛し、フランヴァル夫人のためにのみいっさいの行動をしているファルネイユ夫人は、自分を私の敵方に与《くみ》させる現実的な唯一の根拠が喪失するのを見て、いっさいの策動を断念し、もう私の敵方をそそのかしたり、扇動したりするようなこともしなくなるだろう。そこで、差し当たって私たちは二つに一つを選ばねばならないわけだ、つまりヴァルモンの事件が落着して、私たちがパリに帰ることにもう何の支障もないような事態をつくり出すべきか、それとも事件がいよいよ悪化して、私たちが外国へ行かねばならなくなり、外国でファルネイユ夫人の攻撃を避けて暮らすことに満足を求むべきか、というわけだ。もちろんファルネイユ夫人はお前の母が生きている限り、私たちの不幸のみを目ざして働きつづけるだろう、というのは、もう一度繰り返して言うが、彼女は娘の幸福が私たちふたりの没落以外にはないと固く信じているのだからね。
「どんな方面から私たちの立場をながめようと、私たちの平和を妨げるフランヴァル夫人の憎むべき存在が、私たちの幸福のための最も大きな障害になっていることは、火を見るよりも明らかなことだよ。
「ユージェニー、ユージェニー」とフランヴァルは娘の両手をとって、熱心に続けた、「愛するユージェニー、お前は私を愛しているね……たとえどんな怖ろしい行為であろうと、私たちの利益に密接に結びついた行為であれば、お前はよもやこの行為を恐れて、みすみす愛する者を永久に失うようなことはあるまいね? おお、愛するやさしい友よ、決心しておくれ、お前は二つに一つを選ぶしかないのだ。しかも、いずれを選ぼうとも、お前は親殺しになり、罪の短刀で心臓を突き刺すことを免れるわけにはいかないのだ。つまり、お前の母親を殺すべきか、それともこの私を見すてるべきか……ああ、次第によっては、お前はこの私を殺すことにもなりかねないのだよ……そうだとも、お前なしでどうして生きて行かれるものかね? 私のユージェニーを失って、どうして私がおめおめ生きていられると思うかね? この腕の中で味わった快楽の思い出に、私の官能に、永久に禁じられたあの甘美な快楽に、どうして私が堪えられるだろう? お前の罪は、ユージェニー、いずれの場合を選ぶにせよ同じことだ。とすれば、お前を憎み、お前の不幸のためにのみ生きている母親を殺すべきか、それともお前のためにのみ生きている父親を殺すべきか? さあ、とくと選んでくれ、ユージェニー、選んでくれ。もしお前の宣告が私に下るなら、ためらうことはない、恩知らずな娘よ、私の心臓を思うさま残酷に引き裂いてくれ、愛し過ぎたことが唯一の罪とも言うべき私の心臓をな。私はお前から下される一撃を心から祝福して、私の最期の息をお前の愛のために吐き出すだろう」
フランヴァルはここで娘の返答をきくために話を止めた。ふかい思いが娘を迷わせているようであった。しかし、ついに彼女は父親の腕の中に飛び込んで、
「おお、お兄さま、あたし一生あなたを愛します!」と叫んだ、「お兄さまは、あたしの決心を疑っていらっしゃるの? あたしの勇気をお信じにならないの? すぐあたしの手に短刀を持たせてちょうだい。そうすれば、あなたの安全をおびやかすような女は、あたしの一撃の下にたちまち斃《たお》れてしまうでしょう。さあフランヴァル、教えて下さい、あたしがどう身を処したらよいか、ご指示を与えて下さい。そしてあなたは早々と出発なさるがよろしい、あなたの安全のためには、それが必要なのですから……お留守のあいだ、あたしは実行します、すべてをあなたにお知らせします。でも、事件がどんな成り行きになろうと、あたしたちの敵がすっかり敗北してしまったら、どうかこの城館にあたしをひとりで捨てておかないで下さい……あたしを迎えに来るか、さもなければ、あたしの方から会いに行けるように、きっと居場所を教えて下さいね」
「かわいい娘よ」とフランヴァルは、みごとに手なずけた恐ろしい娘を抱き締めながら、「やっぱり思ったとおり、お前は私たちふたりの幸福のために必要な愛情と、しっかりした精神とを、ちゃんと持っていておくれだったね。……さ、この箱をお取り……この箱の中に毒薬がはいっているのだよ」
ユージェニーは不吉な箱を受け取ると、ふたたび父親の前で誓いを立てた。こうして手筈がきめられたが、それはユージェニーが裁判の結果を待って、もし父親に有利な判決ならば、計画を中止し、不利な判決ならば、そのまま実行するということであった。旅立ちの準備がなされ、フランヴァルは妻に別れを告げに行ったのに、涙をこぼすほど不敵にも真に迫った悲しみの表情をつくって見せたので、天使のように純情な妻はまんまと欺かれ、いじらしい愛撫をもって報いたほどであった。それから、裁判の結果がどうあろうとも、娘とともにアルサスに留まっていることをくれぐれも約束させた上で、この悪人は馬に飛び乗ると、永いこと自分の罪で汚した純潔と美徳のもとを去って行った次第である。
フランヴァルはスイスのバーゼルに行って、そこを仮の居所とした。これは追跡の目をくらますためと、同時にヴァルモルからできるだけ近い距離にいて、自分が不在のあいだ手紙によってユージェニーに思いどおりの処置をとらせようという、魂胆からであった。バーゼルとヴァルモルのあいだは約二十五里あり、二つの町のあいだには「|黒い森《シユワルツワルト》」が茂っていたが、交通はかなり容易で、フランヴァルは一週に一度娘からの手紙を受け取ることができた。万一を見込んで巨額の金を携えて行ったが、現金よりも手形の方が多かった。ともあれ、スイスの話はあとまわしにして、フランヴァル夫人の方へ物語を戻そう。
このすぐれた婦人の心根ほど、純粋にして誠実なものはない。彼女は夫の次の命令が来るまで、この片田舎に留まっていようとしんけんに考えていたのである。この彼女の決意をひるがえさせ得るものとてはなく、おかげでユージェニーは毎日安堵の胸をなでおろしていた。娘にとってこれほど信頼すべき母親はなかったのに、あわれむべし、ユージェニーはこの操正しい母親を信頼するどころか、規則正しい手紙の往来によって不正の種を養っていた父親フランヴァルとつねに悪事を分かちつつ、世に自分の母ほど大きな敵はないといちずに思い込んでいたのである。けれども母親の方は、この恩知らずな娘が心中ひそかに隠していた抜きがたい母への反感を追い払う努力をするでもなく、ただひたすら愛情と友情にのみ訴え、楽しい夫の帰りを娘とともに待ちわびつつ、時にはユージェニーに感謝の言葉をかけられるほど、そしてあの幸福な悔悛の功徳をこのふつつかな娘に思い知らせるほど、好意と親切の限りをつくしたことであった。また時には彼女は、フランヴァルをおびやかしている不幸の原因が無辜の自分にあることを思って、いたく嘆き悲しんだ。といってもユージェニーにその気持ちを示すわけではなく、自分ひとりの胸にしまっておいた。そして娘をしっかり抱き締めながら、お母さんを許しておくれかい、と涙を流して何度もきくのである。ユージェニーのたけだけしい魂は、しかし、こうした天使のような振舞いに対しても依然かたくなであった。この堕落した魂は、もう自然の声に耳を傾けようとはせず、悪徳は彼女の心に通じるあらゆる道をとざしていた。母の腕から冷ややかに身を退いて、ユージェニーはともすると、そわそわした眼で相手をじっと見つめながら、しいて自分の心を励ますかのように、「何てこの女は顔と腹とが違うのだろう……何てこの女は陰険なのだろう……あたしを誘拐した日もやはりこんな愛撫をしたのだっけ」と心のうちに思うのであった。けれどもこの不当な非難は、悪心が義務の声に耳をふさぐ時に身を鐙《よろ》う陋劣な詭弁でしかなかった。フランヴァル夫人がユージェニーを誘拐しようとしたのは、娘自身の幸福のため、自分の安心のため、そしてまた、美徳の回復のためであって、それはよしんば彼女の行為をいつわっても許され得る性質のものである。このような欺瞞は、欺瞞された悪人の側からのみ非とされるものであって、べつだん美徳を損うものではない。ユージェニーはフランヴァル夫人に怖ろしい犯罪の意図を抱いていたからこそ、夫人の愛情にかたくなだったのであり、娘に面と向かっても悪意の片鱗さえなかった夫人には、どこから見てもまったく罪はなかったのである。
ヴァルモルに滞在してから一ヵ月ほどたったころ、ファルネイユ夫人から娘あてに手紙が来たが、それによるとフランヴァルの裁判はまったく旗色がわるくなり、ことによったら不名誉な判決が下されるかもしれないので、悪い噂を取り沙汰している世間の手前をつくろうためにも、急いでユージェニーを連れてパリに帰り、ファルネイユ夫人と一緒になって、裁判所を軟化させるべき処置をとり、夫のための証人になって、せめて危殆《きたい》にひんしている一家の名誉を救ってくれるよう努力してほしい、と書いてあった。
フランヴァル夫人は娘にどんな隠しごともしないことにしていたので、すぐこの手紙を彼女に見せた。ユージェニーは冷静に母親を見つめながら、この憂慮すべき手紙に対して母親がどんな決意をするつもりでいるかを質問した。
「どうしていいかわからないのよ」とフランヴァル夫人は答えた、「実際の話、こんなところにいたのでは、あたしたち何にもできないでしょう? お母さんの意見に従った方が、ずっと主人のためになるのではないかしら?」
「どちらにしようと、それはお母さまのかってよ」とユージェニーは答えた、「あたしは何にも口出しすることはないわ。あなたのおっしゃるとおりにいたします」
フランヴァル夫人は娘の冷たい返事のうちに、自分の意見が娘の気に入らなかったことを認めたので、今までどおり夫の命令を待っていようと思い、ユージェニーにもそう言った。しかし、フランヴァルの意志にはそむくとしても、やはりヴァルモルにいるよりもパリにいた方が、ずっと主人のためになることは確かだろうと、娘の顔色をうかがいながらも言うのであった。
かくして新しい月を迎えたが、その間もフランヴァルは妻と娘とに手紙を書くことをやめなかった。そしてこのふたりから、いかにも彼の思惑に媚《こ》びるような返事をもらっていたが、けだし、妻は夫の希望に懇切に従うことを念願としており、また娘は、事件が由々しい趣を呈し、フランヴァル夫人が母の勧告になびきそうな色を見せはじめるに及び、罪の計画に断固たる決意のほどを示すに至ったからである。「たとえあたしが」とユージェニーは手紙の中で書いていた、「あなたと離れて暮らしておりますあいだ、あなたの奥さまの心のうちに正しさと率直さだけしか認めることができませず、やがてパリのお友達が事件を有利に解決することができたとしましても、あたしはやっぱり今のあたしのお役目を引きつづきあなたに受け継いでいただきたいと存じます。そして、あたしたちが一緒に暮らすようになった場合、あなたはもしその方がよいとお思いになるなら、ご自分でそのお役目を実行なさればよろしいのですし、さもなくて、あたしが実行した方がよい、ぜひそうしてほしいとお思いになるなら、その時はあたしが責任を負いますゆえご安心下されたく……」
フランヴァルは娘の勧告に賛成するむね返書をしたためた。そしてそれがふたりの手紙のやり取りの最後になった。次の来信はもうなかった。フランヴァルは不安になった。郵便馬車の馭者《ぎよしや》にただしても満足な答えは得られず、彼は絶望した。不安のあまり、じっとしていられず、即刻みずからヴァルモルへ赴いて、はげしい不安を掻き立てる遅延の原因をつきとめようと思い立った。
忠実な従者をひとり連れて、フランヴァルは馬に乗った。誰にも見咎められないように、二日目の夜遅くに、ヴァルモルへ着く予定を立てた。ところが、東の方で「黒い森」に接しつつヴァルモルの城館を濃くおおっている、鬱蒼《うつそう》たる森の入口に達すると、武器を帯びた六人の男があらわれて、フランヴァルと従者との行手をさえぎり、財布を出せと強要する。この盗賊たちは相手が何者かちゃんと知っている様子で、訴訟事件の係り合いになっているフランヴァルが、紙幣入れや多額の金子を持たないで旅行をするはずはないと目星をつけているようであった。従者が抵抗しようとすると、ただちに射ち殺されて、馬の脚《あし》もとに伸びてしまった。フランヴァルは剣の鞘《さや》をはらい、地上に下り立って、盗賊たちに立ち向かい、たちまち三人に手傷を負わせたが、残る三人に取り巻かれ、剣だけは取り上げられずにすんだものの、所持品を残らず奪い取られてしまった。盗賊どもは劫掠《ごうりやく》をおえると、ただちに逃げ去り、フランヴァルはそのあとを追ったが、彼らは盗品もろとも馬を飛ばして雲を霞と落ちのびてしまったので、どちらの方向へ追ってよいものやらもう見当もつかない。
おりから気味わるい夜の闇が立ちこめ、寒風、霰《あられ》、その他あらゆる自然の要素が、一度に堰を切って、この惨めな男の上に降りそそがれるかのようである。あたかもこの不逞な男の罪に怒りを発した自然が、ふたたび彼を自然の懐に立ち返らせようと、あらゆる災禍の試練を与えることを欲したかのような按配であった。フランヴァルはほとんど半裸体にされてしまったが、剣だけは相変わらず後生大事に握ったまま、ヴァルモルの方向を目ざして、この不吉な場所を少しでも遠ざかろうと試みた。が、何はさてただの一度しか通ったことのない不案内な土地柄のこととて、東も西もわからぬまっ暗な森のまん中で、とうとう道に迷ってしまった。疲労にめげ、苦痛にあぐみ、不安にさいなまれ、嵐に悩み、ついに彼は地上に打ち倒れ、生涯に初めてこぼす涙を目に浮かべた……
「みじめなやつ」と彼は嗚咽した、「すべての禍いが寄り集まって、おれを良心の呵責で攻め立てようと、ひしめいているのだな……おれの魂を刺し貫こうとしているのは、あれは、不幸の神の御手にちがいない。悪徳の繁栄に目をくらまされていたおれには、今までそれが見えなかったのだろう……ああ、おれがむごたらしく傷めつけたお前、もしかしたら今ごろ、おれの狂愚と暴逆の犠牲になり果てるやもしれぬお前! いとしい妻よ……お前の存在に輝いていたこの世界は、まだお前を手離してはいないだろうか? 神の御手はおれの蛮行を食い止めて下さったか?……ユージェニー! あさはかな娘よ、おれの奸悪な手管にもろくも負けたお前……自然はお前の心を和らげてくれたろうか? おれの支配力とお前の弱さの残酷な結末を未然に防いでくれたろうか? それとも、もう手遅れか? ああ神よ……」
このときにわかに、数知れぬ鐘の、うめくような荘厳な音が、どこからともなく聞こえて来て、悲しげに雲間に消えて行ったのに、フランヴァルは運命の怖ろしさをひとしお身にしみて感じ、ぞっとしたのである。
「あれは何の音だろう?」と立ちあがりながら、「残忍なおれの娘、彼女が死んだのだろうか? 運命の復讐か? 地獄の復讐の女神が仕事をおえたのか?……それともあの響きは、おれの死の予告か? おれはどこにいるのだ? もう一度鐘を聞かせてくれ! おお、神よ、罪びとを誅したまえ……召したまえ!」
それから地にひれ伏して、
「偉大なる神よ! 今あなたに祈りつつある人びとの声とともに、私の声をも聞き届けさせたもうことを!……私の後悔をよくよく見そなわせたまいて、あなたの力を見くびっておりました私を許したまえ……そして私の願いをかなえさせたまえ……あなたに捧げます最初の願いを! 至高なる神よ、こいねがわくは美徳を守り、この世にあって最も美しくあなたに似たる者をば保護したまえ。あの音が、ああ! あの凶々《まがまが》しい鐘の音が、私の懸念している音ではありませぬように……」
こうして半狂乱になったフランヴァルは、もう何をしているかもわからず、どこにいるかもわからず、支離滅裂な言葉をきれぎれに吐き散らしながら、あてどもなく道をたどって行ったが……ふと、何物かの声を聞き、われに返って耳をそばだたせると、それは馬に乗ったひとりの男である。
「どこのお方か知らないが」とフランヴァルは叫んだ、「どこのお方であるにせよ、苦痛のため道に迷ったみじめな男だ、あわれんでくれ。私は自殺をする覚悟なのだから……どうしたらよいか教えてくれ、救ってくれ、もしあなたが人間ならば、思いやりのある人間ならば……私は自分で自分をどうしてよいかわからないのだ」
「や、これは!」とフランヴァルのよく知った声が答えた、「何としたことじゃ! あなたがこんなところにいようとは……さ、少し離れてください」
その男は……さよう、クレルヴィル師であった……運命がこのみじめな男の生涯の最も悲惨な時に送ってよこしたのは、フランヴァルの鉄鎖をのがれて来たこの高潔な聖職者であった。クレルヴィル師は馬から下りると、その宿敵の腕の中にどっと身を投げかけて来た。
「あなたでしたか!」とフランヴァルは相手を胸に掻き抱きながら、「あなたには、どんなに非難されてもしかたがないほど、さんざん悪いことの限りをつくしました……」
「まあそんなことを言わずと、あなた、落ち着きなさい。今は私もわが身を縛っていた不幸からは遠く離れておりますわい。神があなたのお役に立つことを私に許された以上、もう私は、あなたのためになめさせられた以前の不幸の思い出なんぞ、さっぱり忘れましょうて……さ、お役に立って進ぜよう、あなた、少々きびしいが必要な処置じゃ……おすわりなされ、この糸杉の根かたがよろしかろう。今のあなたの玉座は、このいまわしい糸杉の葉より以外にはない。それにしても、フランヴァルさん、何とまあ、私は大へんな苦労をしたものでしたよ!……お泣きなさい。涙があなたの心を軽くしてくれる。まだこれからもっと苦い涙をあなたの眼から絞ってあげねばなりません。快楽の日々は過ぎたのです。夢のように消え失せたのです。あなたにはもう苦悩の日々しか残されてはいない……」
「おお、そのお言葉、私にはよくわかります……ああ、また鐘の音が……」
「鐘の音は気の毒なヴァルモルの住民の、敬心と祈願とを神の御足もとに届けようとしているのでしょう……彼らが心を入れかえた一個の天使を迎えるのは、神の思し召しによって、同情と哀惜を寄せるためでしかありませんでした……」
このときフランヴァルはやにわに剣先をわが胸に擬して、みずからの生命の糸を断ち切ろうとした。だがクレルヴィルがこの凶暴な発作を押し止めて、
「いけません、いけません」と叱咤《しつた》した、「必要なのは死ぬことではない、償いをすることです。私の言うことをききなさい。あなたに言わねばならないことはたくさんある。落ち着いてきくことが肝心です」
「では、ぜひもありませぬ、お話し下さい。うけたまわりましょう。私の胸に徐々にふかく短刀を突き込まれるがよろしい。他人を苦しめようとした胸は、押しつぶされるのが当然の報いです」
「私に関することは手短かに話しましょう」とクレルヴィル師は言った、「あなたに押し込められた幽囚の生活も、数ヵ月たつと、牢番の同情をひくことになりまして、かなり楽になりました。私のために牢番は扉をあけてくれましたし、私はとくに最大限の心づかいをもって、あなたが私に加えられた不正な暴挙を秘しておくことを彼に言い含めました。ですからあの男は、フランヴァルさん、今後ともけっして口外しはしないでしょう」
「おお、それほどまでのお心づかいを……」
「まあ黙ってお聞きなさい、まだ他にも言うことがたくさんあるのだから。パリに帰ると、私はあなたの不幸な事件と出奔とを知り、ファルネイユ夫人とともに涙にくれました。夫人はあなたが考えておられるよりずっと真摯《しんし》な方ですぞ。私はこのりっぱな夫人と一緒になって、フランヴァル夫人に、ユージェニーをパリに連れて来るよう勧誘しました。アルサスにいるよりパリにいた方がはるかに有利だと思われたからです。しかるに、あなたはヴァルモルを離れることを奥さまに固く禁じられましたので、奥さまはあなたの命令どおり、そのむね私たちに知らせてよこし、主人の言いつけは破りたくないと申すのでした。もっとも奥さまも大分お迷いになったようです。……そうこうするうち、あなたの有罪が宣告されました、そう、あなたは罪人になったのです、フランヴァルさん。あなたは大道における故殺罪の犯人として、打ち首になることに決まりました。ファルネイユ夫人の懇請も、ご家族やお友達の奔走も、裁判所の権威をくつがえさせることはできませんでした。あなたは完全に敗北し、永遠に汚辱を宣せられ、名声も信用も台なしにしてしまったわけです。財産も残らず没収されました……」
ここでフランヴァルがふたたび狂暴な発作にとらわれたのに、
「落ち着きなさい、あなた、落ち着いてききなさい」とクレルヴィル師は引きとった、「罪の償いとして、しずかに私の話をきくことを要求します。後悔した以上はやたらに剣など振り回さないことを、神の名によって要求します。……さて、この時から私たちはフランヴァル夫人に手紙を書き、すべての結末を報告しました。ファルネイユ夫人は、奥さまにどうしてもパリに来てもらわねばならないことを知らせ、奥さまの出発を決心させるために私をヴァルモルへ差し向けました。ところが、不幸にして手紙の方が私より先に届いていたのです。私が着いた時は、すでに手遅れでした。あなたの恐ろしい陰謀がまさに図に当たっていたのです。フランヴァル夫人は瀕死の有様でした。……おお、あなた、何という極悪でしょう!……けれど今のあなたの状態を見ては、私もあなたの罪を鳴らす気にはなれません。やめましょう。……とにかく残らず話してしまいましょう。ユージェニーはこの有様を見るに堪えず、私がやって来た時には、すでに苦しい涙とすすり泣きによって後悔の情をあらわしておりました。……おお、このむごたらしい情景のいちいちの印象を、どうしてあなたにお伝えしたらよいものか!……苦痛の痙攣《けいれん》に顔をゆがめ、絶え絶えの息を吐きつづける奥さま……本然の情に目ざめ、号泣しながら、自分がわるかった、殺してください、死にたい、と哀訴するユージェニー……周囲の人びとの足に取りすがったり、あるいは母親の胸にぴったりくっついて、生気を吹き返させようとけんめいになったりする……涙で母親の体を温め、後悔で母親の心をやわらげようとする……このいたましい地獄図に私は目を打たれました。あなたの部屋に入って行くと、フランヴァル夫人は私に気がつき……私の手を握り、涙でこれをぬらして……ききとり難い言葉を二言三言もらしました。毒の痙攣で圧迫された胸から、かろうじて吐き出された言葉でした。何と言ったと思います!……あなたを許し、あなたのために神に祈ったのでした。とくに娘さんの恩寵を熱心に懇願しました。……いかがです、あなた、あなたに傷めつけられた方の最期の瞑想《めいそう》、最期の祈念は、やはり相変わらずあなたの幸福のためだったのです。さて、私はできるだけの手配をしました。使用人たちを促し、老練家として最も名の通った国手を呼びました。ユージェニーにはできうる限り慰めの言葉を惜しみませんでした、彼女の悲惨な状態を見ては、そうしないわけにはいかぬと思ったからです。が、すべては徒事でした、あなたの不幸な奥さまは、言うに言われぬ責苦のうちに、断末魔の痙攣とともに息を引きとられました……ところが、この悲しみのさなかに、あなた、私はかつて一度も見たことのない異様な情景を目撃したのです。それは人間の悔恨の情がもたらした思いがけない結果でした。ユージェニーが、母親の体の上にどっと身を投げたかと思うと、母親と同時に息絶えてしまったのです。私たちはただ気絶しただけなのだと思いました。しかし、そうではなかった、彼女のあらゆる身体機能は停止していたのです。その場の情景にひどい打撃を受けた彼女の器官は、母親が息絶えると同時に破壊されてしまい、ユージェニーは悔恨と苦痛と絶望の激甚な衝撃によって、本当に死んでしまったのです。……さよう、ふたりとも、あなたの手から奪われてしまったわけです。まだあなたの耳の中に余韻を残しているあの鐘の音、あれはつまり、このふたりの女人への弔鐘楽と思ってください。ふたりとも、あなたの幸福のために生まれて来た身でありながら、かえってあなたの大罪は、彼女たちの愛情を仇で返すことになった。その血なまぐさい面影は、墓の中まであなたにつきまとって離れないでしょう。
「ああ、フランヴァルさん、私は以前あなたにお会いして、あなたの情欲が落ち込んでいる深みから脱け出ることをお勧めしたことがありましたね? 私の考えは間違っていたでしょうか? 今でもあなたは美徳の帰依者《きえしや》を非難し、嘲笑することがおできになりますか? 要するに罪の周囲には、これほどの混乱と災禍のあることが明らかとなったのに、美徳の祭壇を崇敬するひとを、今でもわらうことがおできになりますか?」
クレルヴィル師はここで口をつぐみ、フランヴァルに視線を投げた。見ると、フランヴァルは苦悩のあまり石と化したかのようである。じっとすわった虚《うつろ》な目から、熱い涙がしたたり、唇にはどんな表情もあらわれていない。クレルヴィルが、なぜ半裸体の格好をしているのかと質問すると、フランヴァルはようやく夢から醒めたように、短い言葉で事情を説明した。すると、
「おお、そうでしたか!」とこの高潔な男は叫んだ、「それは不幸中の幸いです、少なくとも私はあなたの境遇を助けてあげられるのですから。バーゼルへあなたを捜しに行き、すべての顛末をお伝えして、私の持っているわずかなものをあなたに差しあげようと、実はこうしてやって来たわけなので……どうかこれをお納め下され。ご存じのとおり、私は裕福な身分ではないが……ここに百ルイあります。私の貯金でしてな、これで全部ですわい。まあ、いいから……」
「寛容なお方」とフランヴァルは、この類《たぐい》まれな誠実な友の膝に取りすがって、「これを私に下さる?……おお、あのように大事なものを失った身にとって、今さら何が必要でしょう? あなたは、それでは……あんなひどい目にあわせたこの私を……救いに飛んで来て下さったのですね……」
「どんな相手であろうと、そのひとが逆境に苦しんでいる時は、わるい思い出などぬぐい去るべきではありますまいか? そうした場合、その相手に対してなすべき復讐は、苦痛を軽くしてやるということ以外にはありません。まして、その相手が自責の念に苦しんでいるとき、どうしてこれをさらに苦しめることなどできるものですか? これが自然の声というものですよ、あなた。自然の声は、あなたがかつて考えておられたように、聖なる神の崇拝と矛盾するものでは少しもありません。なぜならば、前者が鼓吹する忠告は、すなわち後者の神聖な掟より以外のものではないからです」
「それにしても」とフランヴァルは立ちあがりながら言った、「このお金はいただけません。私はもう何の必要もない身です。神が私に残しておいてくれた最後の財産は、これです」と言って剣を示して、「この剣の使用法を、神は私に教えて下さったもののようです……(そしてなおも剣を見つめながら)……そうです、かつて私が暴言と中傷で妻を苦しめたとき、彼女がその胸を一思いに貫こうとして握ったのも、この同じ剣でした。この剣には、だから、もしかしたら天使のような妻の神聖な血痕が残っているかもしれません……その妻の血痕を消すためには、私の血が必要なのです……さあ、行きましょう。家のあるところへ来たら、私の最後の意志をあなたにお伝えするつもりです。その上で私たちは永遠にお別れしましょう……」
そこで彼らは歩き出し、どこか近くの部落に達する道を捜しはじめた。夜は依然として暗い帳《とばり》で森を包んでいた。……と、そのとき悲しい葬送の歌が聞こえはじめ、松明《たいまつ》の青白い光が、突然闇を一掃したかと思うと、敏感なひとたちにしか感じられない一種異様な無気味な色合をそこに投げかけた。鐘の音がますます高まり、まだ定かにはきき分けがたい陰々たる人声に、それが混じり合った。この時までやんでいた稲妻が、天空の間《あわい》にふたたび閃《ひらめ》きはじめ、物悲しい音響と雷鳴とが和して聞こえる。天の光芒《こうぼう》が雲間に蒼白《あおじろ》い筋を引くと、松明の無気味な光はときどき圧倒されて、この野辺送りの行列を墓場にみちびいて行く権利を、天と地とで相争っているかのごとくに思われる。いかさま自然の服喪に似て、恐怖を生み、悲嘆を息づかせる光景であった。
「これは何ですか?」とフランヴァルがおずおずときくのに、
「いや、別に」クレルヴィル師は友人の腕を取って、フランヴァルを別の道に連れて行こうとする。だがフランヴァルは、
「そんなことをおっしゃって、あなたは私に隠そうとしておられますね。私は見に行きます」と言って駆けて行って、そこに一個の真新しい柩《ひつぎ》のあるのを見てしまった。そこで彼は、
「ああ!」と叫んだ、「これは妻の……妻の柩にちがいない。神よ、私にもう一度妻の顔を拝ませて下さい」
不幸な男をなだめるのが不可能と見ると、クレルヴィルは神父たちに合図をして、黙って彼らを引き退らせた。取り乱したフランヴァルは柩の上に身を投げかけると、あらけなくも自分がいじめ抜いた女の骸《むくろ》を引きずり出し、腕に抱き、とある樹の根かたに置くと、絶望的な狂乱の発作で死体に取りすがって、
「おお、お前!」と我を忘れて叫ぶのであった、「私の蛮行がついに生命の火を消してしまったお前、いまだに私の熱愛してやまない可憐な対象よ、見るがいい、いまお前の足もとで、お前の夫は許しと免罪とをこいねがっているのだよ。しかも、それはお前を生きながらえしめるためではない、そうではなくて、お前の美徳に感動した天が、できうることなら、お前と同様お前の夫を許して下さることをお願いしているのだ……お前には血が必要だ、いとしい妻よ、お前の不幸が償われるためには、血が必要なのだ……もうしばらく待っておくれ……その前に、ああ、私の涙を見ておくれ、私の悔恨を見ておくれ。私もお前のあとを追おう、いたましい妻よ……だが、もしお前が私の魂のために祈ってくれなかったら、いったい誰がこの傷だらけな魂を受けいれてくれよう? 神の腕から斥《しりぞ》けられたように、お前の胸からも斥けられて、この私の魂は、怖ろしい地獄の責苦にあわねばならないのか、心の底から罪を悔悟している私の魂は? 許してくれ、妻よ、私の罪を許してくれ。そして私がいかにして罪を償うか、さあ、見てくれ」
この言葉とともにフランヴァルは、クレルヴィルの目をかすめて、帯びていた剣をさらりと引き抜くと、自分の身体を真っ向から二度も刺し貫いた。とたんに、汚れた血がさっと流れて、妻の死体にほとばしったが、それは罪の償いよりもむしろ冒涜というに似た。
「おお、お友達!」とフランヴァルは、クレルヴィルに向かって、「私は死んで行きます、後悔に包まれて死んで行きます……残った人びとに、私の哀れな最期と永遠の罪とをお伝え下さい、義務と自然の呼び声とを心中に押しつぶしてしまうほどに卑しいこの私という人間は、その醜い情欲の奴隷となって、かくあさましく朽ち果てるしかなかったのだと……どうかこの不幸な妻と柩を共にすることをお許し下さい。私が悔悟していなかったら、この願いは不当なものとして斥けられるところでしょうが、今は私も自分がそれに値するものと信じ、この末期の願いを要求する次第です。さようなら……」
クレルヴィル師は希望をかなえてやり、行列はふたたび動き出した。こうして永遠の比翼塚が、互いに愛し合い幸福を求むべく生まれた二人の夫婦をば、とこしえに葬ったのである。もし罪悪と醜い放蕩とが、夫婦のひとりの手をはたらかしめて、人生の薔薇色の幸福をことごとく蛇の毒に変ぜしめなかったならば、現世において彼らはすでに申し分ない幸福を味わうこともできたであろうものを――。
清廉な聖職者は間もなくこの怖ろしい悲劇の大詰めを事細かにパリに報告したが、誰もフランヴァルの死を悼《いた》むものはなく、かえって死んでよかったと評される始末であったのに、妻の死には聞く者こぞって涙を流し、嘆き悲しむことしきりであった。まさしく、人生の一歩ごとに不幸と苦悩にぶつかりつつ、しかも地上の美徳をこよなく敬愛し、いつくしみ育てたこの女人ほどに、男たちにとって貴重かつ愛惜おくあたわざる女人は絶えて類を見ないところである。
[#改ページ]
解 説
『美徳の不幸』(正しくは『美徳の不運』)について
本書は便宜上、『美徳の不幸』という邦訳題名で上梓されているけれども、一七九一年刊の "Les Malheurs de la Vertu" と区別するためには、むしろ『美徳の不運』という題名で呼んだほうが適当かとも思われる、サド侯爵が生涯に書いた三つの「ジュスチイヌ物語」のなかの、最初のエスキースともいうべき中編小説なのである。原題名は "Les Infortunes de la Vertu" である。
一七八七年六月末、バスティユ牢獄の「自由の塔」の三階の独房で、当時四十七歳の囚人サド侯爵は、眼病に悩まされながら、わずか半月ばかりの短い期間のうちに、「哲学小説」と副題のついた中編小説を一気に書き上げた。これが本訳書の原本である『美徳の不運』である。
のちにサドはこれに手を加え、多くのエピソードをつけ加えて、長編『ジュスチイヌあるいは美徳の不幸』(革命後の一七九一年に出版された)を完成し、さらにこれを厖大な量の大作にひきのばして、『悪徳の栄え』の前編である『新ジュスチイヌ』(一七九七年刊)とした。あとの二つは作者の生存中に刊行されたが、この最初の短い『美徳の不運』は、一七八九年のパリ市民のバスティユ襲撃の際、作者の手から紛失し、二十世紀にいたるまで、あえて陽の目を見ることのなかった作品である。私たちはこれを「原ジュスチイヌ」と呼んでいる。
しかし短いながら、この「原ジュスチイヌ」は、サド研究の先駆者たる故モーリス・エーヌが一九三〇年に初めてこれを世に紹介して以来(パリ国立図書館で初めてこの原稿を発見したのはアポリネールである)、現今では、サドの最も重要な著作の一つに数えられるようになっている。それはこの作品が、ややもすれば冗漫になりやすい他のサドの長編小説とは趣を異にして、抽象的で簡潔な構図のうちに、美徳と悪徳に関する作者一流の哲学をくっきりと浮かび上がらせた、文字どおりの小傑作となっているためである。
サドの思想に近づくのに最も適した、いわばサド文学入門のような本として、私はこの「原ジュスチイヌ」を若い読者に推奨したいと思う。
さて、この『美徳の不運』という中編小説の内容であるが、それについては多くを解説するまでもあるまいと思う。サド自身が副題に明示しているように、これは十八世紀風の、いわばヴォルテール風の「哲学小説」であって、その筋はまことに単純明快、そのテーマは、勧善懲悪の思想の完全な逆転である。
両親が破産して、一文なしになり、修道院を追い出された姉娘ジュリエットと妹娘ジュスチイヌのうち、ジュスチイヌのほうはまことに無邪気な、純情可憐な娘で、自分が心から信じている宗教と道徳の教えに従って、世の中を渡って行こうとするのであるが、次から次へと思いがけない災難にぶつかる。ジュスチイヌの目の前に現われる悪人は、けちんぼうの高利貸、同性愛の女賊、母親殺しの男色家、生体解剖をする外科医、修道院で放蕩にふける破戒僧、贋金つくり……などといった途方もない連中で、彼女はこれらの悪人の餌食《えじき》となり、鞭で打たれ、貞操を奪われ、焼き印を押され、彼らの手から手へと渡されるのである。それでも美徳を捨てられないジュスチイヌは、ついに想像を絶する不幸と悲惨のどん底にまで身を落とす。ようやく最後に、出世した姉ジュリエットの手で救われるが、その幸福も束《つか》の間《ま》、ある夏の日、雷に撃たれて、あえない最期を遂げてしまう。
サドは物語の随所に、自然について、神について、道徳についての彼独特の哲学を、悪人どもの口を借りて語らせているが、それはまだ後年の鍛え抜かれた、辛辣無比なサド哲学からはほど遠いものである。『新ジュスチイヌ』や『ジュリエット』のなかに見られるような、幻想的とも言いうるほどの残虐をきわめた血みどろのシーンも、この小説においては、まだ現われていない。この作品が、四十七歳の作者の小手しらべ、エスキースであるゆえんである。
『悲惨物語』について
『ユージェニイ・ド・フランヴァル、悲惨物語』"Eugenie de Franval, Nouvelle tragique" は、短編集『恋の罪』(一八○○年刊)にふくまれた作品で、サドがこれを執筆した時期は、一七八八年三月である。三月一日から書きはじめられ、六日間で一気に脱稿している。『美徳の不運』と同様、バスティユ牢獄におけるサドの最も旺盛な創作活動の時期に、この短編は誕生したわけである。
近親相姦の家庭悲劇を扱ったこの小説は、ラシーヌの『ブリタニキュス』を彷彿とさせる、冷たい古典悲劇的な額縁にぴったりおさまった傑作というべきであろう。モーリス・エーヌがこの小説を、サドの短編中第一等の傑作と折り紙をつけているのも、なるほどとうなずかれる。
主人公フランヴァルは、いわばサドの理想の父親像であって、サドの多くの長編小説に現われる、家庭を破壊する輝やかしい悪の英雄、父親というイメージの集約的表現である。母権制家族制度に対するサドの憎悪は甚《はなは》だしく、彼の作品では、美徳に身を捧げる母親は必ずはずかしめられ、逆に悪徳に加担する父親には、つねに尊敬すべき悪人の地位が約束される。長編『アリーヌとヴァルクール』においても、『閨房哲学』においても、この家庭の父と母の立場は変わらない。
『悲惨物語』の勧善懲悪的な結末は、『美徳の不運』におけると同様、作者のアリバイにすぎなかろう。この小説では、さらに父親の共犯者として、本来母親の庇護《ひご》の下にあるべき娘ユージェニイまでが、反家庭の側に左袒《さたん》してしまう。サドの反家庭と近親相姦の思想の結晶した、怖るべき傑作として味わうべきであろう。
一九七〇年三月
[#地付き]訳 者
[#改ページ]
本書には今日の人権意識に照らして不当・不適切と思われる語句や表現がありますが、作品執筆時の時代背景や作品が取り扱っている内容などを考慮しそのままとしました。作品自体には差別などを助長する意図がないことをご理解いただきますようお願い申し上げます。
[#地付き](角川書店編集部)
角川文庫『美徳の不幸』昭和45年4月10日初版発行