恋のかけひき
マルキ・ド・サド/澁澤龍彦(訳)
目 次
ファクスランジュ あるいは 野心の罪
ロドリグ あるいは 呪縛の塔
オーギュスチィヌ・ド・ヴィルブランシュ あるいは 恋のかけひき
寝取られ男 あるいは 思いがけぬ和解
司祭になった夫
ロンジュヴィルの奥方 あるいは 仕返しをした女
二人分の席
プロヴァンス異聞
哲学者の先生
復 讐
エミリー・ド・トゥールヴィル あるいは 兄の惨酷
司祭と臨終の男との対話
解 説
[#改ページ]
ファクスランジュ あるいは 野心の罪
ド・ファクスランジュ夫妻は、年に三万五千リーブルあがる土地を三十所有し、平素はパリで暮していた。夫妻には自分たちの結婚の一粒種に、まるで青春の女神の再来とでもいう風に美しい、娘がただ一人あるきりだった。ド・ファクスランジュ氏はかつては軍務に服していたが、若くして退役し、以後はもっぱら家庭内の用事と、娘の教育についての配慮とだけに日を送っていた。まことに温和な人で、これといった才幹はなかったが、すぐれて善良な性格の持主だった。夫人の方は、歳《とし》は夫君とわずかしか違わず、まず四十五から五十といった所だが、いますこし慧《さと》い頭をもっていた。ともあれ、結局この夫妻の間には、悪意とか不信などよりも、はるかに多く無邪気さや信頼が充ちていたのだった。
ド・ファクスランジュ嬢は十六の歳を迎えたばかりであった。どこか一種あの物語めいた容貌《ようぼう》を備えており、顔立ちのどの部分にも一つの気品があらわれていて、真白い肌《はだ》、綺麗な青色の眼、心持ち大きいが美しく引締った口元、身軽ですんなりとしたからだつき、それにまた髪の毛がこの世のものならず麗《うるわ》しかった。彼女の心もその性格に似て優しく、悪いことなどは到底できそうもないばかりか、そのようなことが世の中に行われていると信じることさえできかねた。言ってみればそれは、優雅女神《カリテス》の御手で飾られた無邪気、天真爛漫《てんしんらんまん》であった。その上ファクスランジュ嬢には教養があった。両親は彼女の教育のためには何物も惜しまなかった。彼女は英語とイタリア語とを見事に話し、いろいろな楽器を奏し、微細画《ミニアチウル》を器用に描《か》いた。また彼女は一人娘ではあり、従っていつの日かは、大したものではないまでもとにかく家産をひとりで受継ぐ定めになっていたので、有利な結婚を待たなければならなかった。そしてこのことが又この一年半来というもの、両親の唯一の心配の種だったのである。ところで、このファクスランジュ嬢の心がことごとくを挙げて恋に打込むのには、何も彼女を生んでくれた人たちの承認を待つまでもなかった。もう三年以上も前から、彼女は自分で自分の想いがどうにもならなかったのである。彼女とは多少|親戚筋《しんせきすじ》にあたり、そういう名目でしばしば彼女の家にやって来たド・ゴエ氏というのが、この可憐な少女の愛の対象であった。彼女は誠心誠意、こまやかな愛情でもって彼を愛していたが、それはどんな不行状によって腐ってしまった老人の心にも、あの貴重な感情を呼びさまさせずにはおかない態《てい》のものだった。
ゴエ氏はたしかにこのような幸福に値した。二十三歳の年齢と、颯爽《さつそう》たる風姿と、なかなかの美貌《びぼう》と、さらにこの美しい従妹と徹頭徹尾共感するように作られた素直な性格とに恵まれていた。龍騎兵の士官だったが、さほど金持ではなかったので、彼には沢山の持参金つきの娘が必要だった。それは丁度、最前述べた通り、相続人ではあるが莫大《ばくだい》な財産家の娘ではない彼の従妹に、富裕な男が必要なのと同じ事であった。そこでいきおい二人とも、自分たちの結婚の意志は決してかなえられないだろうし、互いに胸を焦がす恋の炎も、いたずらに嘆息のうちに消えて行くのだということは、ちゃんと分っていたのである。
ゴエ氏は、ファクスランジュ嬢の両親に、その娘に対する気持をいまだかつて明したことがなかった。どうせ拒絶されるだろうと思っていたからで、親たちの言い分を聞かされる時に自分が置かれる状態には、彼の自尊心が我慢ならなかったのである。その千倍も内気なファクスランジュ嬢の方とて同様、そのことには一言も触れまいと注意していた。かくして、淡い折目正しいこの恋は、この上もなく濃やかな愛の絆《きずな》に結ばれながら、暗黙のうちにひそかに育って行った。どんな事になろうと、二人はいかなる勧誘にも屈せず、決して互いに離れ離れにはなるまいと固く約束し合う仲となっていたのである。
さて、われらの若き恋人たちの仲が丁度こんな風であった時に、ファクスランジュ氏の友人の一人が、最近人伝てに推薦された地方出のある男を、ぜひ御当家に紹介させていただきたいと言って来た。
「こんなことを申上げるのはほかでもございませんがね」とその男ベルヴァル氏は言うのであった、「何しろいま話したその男は、フランスに大した財産と、アメリカには広壮な大邸宅をもっておりましてね。目下フランスを旅行しているのも、パリで花嫁を探すのが唯一の目的なんだそうです。おそらくお嫁さんは新大陸へ連れて行くつもりでしょうな。私もこの点だけは心配なのですが、でもそれさえ無ければ、こういう条件がもし御当家においやでないなら、あらゆる点でお宅のお嬢さまのお気に召すこと請合いでございますよ。相手は三十二歳、まあ、とくべつ男前というわけではありませんし……眼には何か険があるようでもございますけれど、でも物腰は大へんに上品で、大そう教養が高い人だそうで」
「その方をお連れしてください」とファクスランジュ氏は言った。
そして自分の妻に向って、
「どう思うね、あなたは?」
「お会いしてみるのがいいでしょう。本当にふさわしいお相手だったら、あたしも心から賛成しますわ、そりゃあ、あの娘《こ》と別れるのはどんなに辛いか知れやしません……あんなに可愛がって来た子ですもの、いなくなればあたし、がっかりしてしまうでしょうけれど、でもあの娘の幸福は、決して邪魔したくありませんもの」
ド・ベルヴァル氏はこの第一回の話合いに大へん満足して、夫妻と日取りを決定し、次の木曜日にフランロ男爵が、ド・ファクスランジュ夫人の所で紹介されるということに手はずをきめた。
フランロ男爵はここ一月以来パリにいた。ド・シャルトル館の最上等の部屋《へや》に住み、りっぱな貸馬車に二人の従僕、一人の部屋付き給仕、おびただしい宝石類、為替《かわせ》手形で分厚くふくらんだ紙入、それに美々しい衣装の数々をもっていた。彼はベルヴァル氏とは元来一面識もない間柄だったのだが、彼自身の言うところによると、このベルヴァル氏の親友と知合いだった。ところがこの親友というのがもう一年半もパリを留守《るす》にしているので、せっかく頼って来たフランロ男爵に、何の世話をしてやることもできない。この男の家を訪ねた男爵は、せっかくだけれども主人は留守だから、親友のベルヴァル氏のところへ会いに行ってみたらいいだろうと教えられた。このような次第で、男爵は紹介状を持ってベルヴァル氏をたずねることになったのである。そしてベルヴァル氏は、煩《はん》をいとわず紹介状を開いて見たばかりか、もし自分の友人がいたら尽してやったであろうような、一切の面倒をこの見知らぬ青年のために見てやったのである。
ベルヴァルは、男爵を推薦している田舎《いなか》の人たちを一人も知らなかった。友達の口から、その人たちの名前を聞いたことすらなかった。だが、友達の知っていることで自分の知らないことだって、いくらも有り得るわけだ。知らないからって、フランロに対する同情に故障が入るわけのものでもあるまい。要するに彼は私の親友の友達なんだから……この律儀《りちぎ》な男が心の中で、自分を進んで尽力するに至らしめた動機を正当化するためには、決してこれ以上のものを必要としなかった。
フランロ男爵の申出を引受けたベルヴァル氏は、そこで彼を到るところに案内した。散策に、観劇に、買物に、連れ立っていない二人に会うことはなかった。ベルヴァル氏にしてみれば、自分がフランロに対していだいている興味を正当化するためにも、またフランロをりっぱな婿殿と判断して、ファクスランジュ家に紹介してしまった手前定規《てまえじようぎ》を正当化するためにも、こうしていろいろな事実を明らかにしておくことが必要だったのである。
打合せておいた訪問の日、ファクスランジュ夫人は、娘にはその理由を言わないで、いちばん美しい装いで彼女を着飾らせた。そして、これからお会いするお客様の前ではできるだけ上品に愛想よく振舞うように、求められればはばからず自分の才知を駆使するように、そのお客様はある人に紹介された人で、ねんごろにおもてなしする必要があるのだから、と忠告した。
五時が鳴った。予定の時刻である。フランロ氏がベルヴァル氏に付添われてやって来た。申分ない服の着込みかた、この上ない端正な物腰、この上ない礼儀正しい容子《ようす》だったが、しかし前述したように、この人の顔貌《がんぼう》には何かしら直ちに気を許すことのできないようなものがある。で彼は沢山の巧みな身ぶりと、沢山の芸こまかな顔の表情によって、ようやくこの難点を隠すのに成功しているのであった。
会話がはじまる。くさぐさの問題が論議される。とフランロ氏は、もっとも高貴な育ちと、最高の教育をもった社交界人士らしく、あらゆる問題を論じるのだった。学問の問題が話題になれば、フランロ氏はすべての学問を分析するし、芸術の番になれば、フランロ氏は自分が諸芸全般に通じていて、かつて幾度か没頭しなかった芸術はなかったことを証明するといった調子……政治問題に関しても蘊蓄《うんちく》がふかく、この人は世界全体をぴたりと割付けてしまう。しかも以上すべての事柄を、衒《てら》いもせず、鼻にもかけず、いつも一種の謙虚な調子を混えてしゃべるので、まるでそれは相手の寛大さに甘えつつ、自分の言っていることは間違っているかもしれません、自分の提出する意見が絶対に正しいなどとおこがましいことはこれっぽっちも申しません、と断ってでもいるような風にとれるのである。やがて音楽が話題になると、ベルヴァル氏がファクスランジュ嬢に歌ってほしいと頼む。で、彼女があかくなりながら歌うと、二曲目にはフランロ氏が、肘掛椅子《ひじかけいす》の上にあるギターで、彼女の伴奏をするのを許していただきたいと願い出る。そして、さりげなく高価な指輪をその指にちらちら見せながら、可能な限りの優雅と端正さとをこめてこの楽器を爪弾《つまび》く。三曲目には、ファクスランジュ嬢は純当世風の節《ふし》を歌う。フランロ氏が大家の的確さでピアノを伴奏する。それから、ファクスランジュ嬢がローマ法王の文章を数行英語で読むことを促されると、待ってましたとばかりフランロ氏は英語で彼女と会話を交わして、自分がこの言葉を完全に身につけていることを証明してみせる。
とかくするうちにこの訪問は終ったが、男爵はその行動から、ファクスランジュ嬢に対する気持をあます所なく表明しておった。そこでこの娘の父親は、新しい知人にすっかり夢中になってしまって、次の日曜日の晩餐《ばんさん》に来てもらう親しい約束を交わすまでは、いっかなフランロ氏を離そうとしない始末だった。
ファクスランジュ夫人の方は、御亭主ほど取りのぼせはしなかったので、夕刻この人物について論じ合った時、夫の意見と完全に一致しはしなかった。彼女の言によれば、自分はあの方を一目見たときから、何かぞっとするようなものを感じたので、もしあの方が娘をほしいと言って来たら、とても不安を覚えずに娘を差上げるわけには行かないだろうというのであった。夫はそれに対して、いや、フランロは素晴しい男だよ、と反駁《はんばく》して言うことには、あれ以上にりっぱな教育を受けることも、あれ以上に上品な物腰をとることも、できないよ。容貌がどうだと言うんだね? 男の場合、そんなことにこだわるべきかね? そりゃ、お前が何も心配なんぞしなくたって、フランロが縁組したいと言って来なけりゃ、それっきりさね。だがもしたまたま彼がそれを望むとしたら、これほどの相手を取逃すことは確かに狂気のさただろうよ。うちの娘は、これほど羽振りのいい相手をまた見つけてもらうまで、待っていなけりゃならんのかね?……しかしながらこうした言い分もすべて、用心ぶかい妻を承服させはしなかった。妻が言うには、顔は心の鏡であって、フランロの心がもしその表情に相応のものなら、自分の可愛い幸福な娘を嫁にやるべき男では絶対にないことは確かなのであった。
晩餐の日がやって来た。フランロは前回よりも一層装いをこらし、一層奥ゆかしく、一層愛想よくして、みなを楽しませ喜ばせた。食事がおわると、ファクスランジュ嬢、ベルヴァル、それからもう一人参会者の男を混えて、トランプがはじまった。フランロは全然ついていなかったが、しかも彼はその役を驚くほど気前よく演じ、失い得るものをことごとく失った。実はこれこそしばしば社交界で好感をいだかれる秘訣なのだ、わが主人公は決してこのことに無知ではなかったのである。やがて音楽会になったが、フランロ氏は、二、三種類の異なった楽器を奏することができた。日程の最後はフランス座であったが、そこで男爵は公然とファクスランジュ嬢に手を貸した。そしてその日は別れた。
一ヵ月はこのようにして何の音さたもなく過ぎ去った。両方で慎重を期していたのである。ファクスランジュ家としてもやみくもに飛びつきたくはなかったし、フランロの方でもまた、この話をどうしてもまとめたかったので、せき過ぎて元も子もなくするのを怖れていたのである。
とうとうベルヴァル氏があらわれた。今度は正式に仲人《なこうど》の役目で、格式通りファクスランジュ夫妻にこう申込んだ、ヴィヴァレ地方の出身で、アメリカに莫大な財産を所有し、結婚の意向を示しておられるフランロ男爵は、過日ファクスランジュ嬢に目を止められ、この可憐な娘御の御両親に、何らかの希望をいだくことが許されるかどうかたずねることを私に依頼されました、と。
最初の回答は、表向きはファクスランジュ嬢が結婚に気を使うにはまだ若すぎるというのだった。二週間後に、男爵は晩餐に呼ばれた。その席上で、フランロ氏は説明しなければならなかった。彼はこう言った、自分はヴィヴァレに三つの土地をもっているが、それは各々一万五千リーブルあがる土地の十二倍の価値をもっている。また自分の父はアメリカに渡り現地生れの白人女と結婚して、百万近い財産をもっていたが、両親とももういないので自分がこの財産を相続した。ところがまだ財産を見たことがないので、結婚したらすぐ妻を伴ってアメリカに行くつもりである、と。
最後の一句がファクスランジュ夫人の気に入らなかったので、彼女は危惧《きぐ》の念をもらした。するとこれに対してフランロは、当節では人はまるでイギリスヘでも行くようにアメリカに渡っている、それに旅行は自分にとってどうしても必要だとはいえ、せいぜい二年で終るし、終ればまた妻をパリに連れて帰るつもりである、だから残された問題は、ただ母娘の別れということだけだけれども、しかし自分の気持ではパリに定住するつもりはないので、どのみちいずれは別れなければなるまい。何しろ自分は、パリではみなと調子を合せていなければならないので、財産のおかげで大きな顔をしていられる故郷でと、同じ愉快な気持で暮すわけにはなかなか参りませんよ、と答えるのであった。それから他のこまごまとした問題に移ったが、この最初の会見の終りにのぞんでは、こういう場合にきまってそうするように、フランロに、誰か田舎にいる人で、彼の身元照会をしてみることのできる知人の名前を挙げてはもらえまいかという願いが出された。フランロは、しかしこの身元保証の提案にちっとも驚かず、それはそうした方がよいだろう、いちばん簡単で手っ取り早いと思える方法は、大臣官房に行って問合せることだと言いさえした。そこでファクスランジュ氏は、なるほどというわけで、翌日早々に大臣官房へおもむき、直接大臣に話合ってみると、大臣は、現在パリにいるド・フランロ氏は確かにヴィヴァレ地方出身者のうちで、もっとも家柄がよく、もっとも金持でもあろう男の一人にちがいないと太鼓判を押した。でファクスランジュ氏はこの縁組に一段と気乗りを覚え、この素晴しい話を妻のもとにもち帰ると、一刻も遅れたくなかったので、すぐその夕刻にファクスランジュ嬢を呼び寄せて、フランロ氏をお前の夫にと申渡すのであった。
二週間以来というもの、この可憐な少女は、自分のために結婚の計画が運ばれていることに気がつかないわけではなかったが、乙女心にあり勝ちな一種の気まぐれから、その虚栄心が恋心を沈黙させていた。フランロの贅沢《ぜいたく》と豪奢《ごうしや》とに目がくれて、彼女の心は知らず知らずのうちに、ゴエ氏よりもフランロの方に傾いて来ていた。何事も人に決められた通り、家族の言う通りに従いますときっぱり言いかねまじい有様で。
ゴエの方でも、何が起っているのか知らないでいるほど無関心ではなかった。早速恋人のもとに飛んで行ったが、彼女が示す冷淡さに途方に暮れた。そこで彼は身を焼く恋の炎に駆り立てられるままに、情熱の限りをつくして彼女をかき口説き、もっとも優しい愛情と、もっともきびしい非難とをこもごも混ぜながら、いったいこんな死ぬほどの苦痛を自分に与える心変りがどうして生じたか、自分にはよく分っています、あなたがこんなひどい不実をしでかしてくださる方だとはついぞ夢にも思いませんでしたのに、と愛する女に泣いて訴えた。涙がこの青年の血の出るような訴えに、効果と力とを添えた。ファクスランジュ嬢もこれには心を動かし、自分の弱さを告白し、二人はそこで、すでに犯された過《あやま》ちを償うためには、ゴエ氏の両親に一肌脱いでもらうより以外に手はないと相談する。こうして覚悟がきまると、青年は父親の足もとに叩頭《こうとう》して、従妹との結婚の承諾を得てくれるよう哀願し、もしそうしてくれなければ永久にフランスを棄ててしまうと公言する。そうまでされて、ゴエ氏も心を動かされ、翌日早速ファクスランジュ家におもむき、娘御をいただけまいかと申込む。お話は有難いが、もう遅い、実は先約があるので、とこう言われる。同情から動いたので、もともとあまり同意できないこの結婚に障害が入ったとしても本心ではさして困らないゴエ氏は、帰って息子に、この知らせを冷たく言聞かせ、同時に、従妹の幸福の邪魔をするというような考えはやめたがよいことを忠告する。
若いゴエは憤然として、父親の言葉に耳もかさない。早速ファクスランジュ嬢のもとに駆けつけるが、彼女の方は絶えず恋心と虚栄心との間を迷っていて、今度は前よりもはるかに思いやりに欠けたばかりか、この恋人に、前日自分のした決心はあきらめてもらおうと骨折るのであった。ゴエ氏は平静に見せようと努力する。自制する。従妹の手に接吻を与えると、失意の気持をいだいて、家を出る。ともあれこの失意たるや、彼女以外の女は決して愛さないと恋人に誓うことがようできないためのものではなく、むしろ彼女の幸福の邪魔をしたくないと思うがゆえに、隠さねばならないだけそれだけ痛ましい限りのものであった。
この間にもフランロは、ベルヴァルの扇動によって、手ごわい恋仇《こいがたき》が何人もいることだから、今こそ本気になってファクスランジュ嬢の心を攻め落すべき時だと知らされて、いよいよ自分が愛されるためのすべての手段を実行に移すのであった。で、彼が未来の妻に高価な贈物をするというと、彼女は両親とともに、将来夫と見なすべき男のこの贈物を喜んで受取った。またフランロはパリから二里の場所に素敵な家を借りて、許婚者のために一週間ぶっ続けて愉快な饗宴《きようえん》を張った。このように休みなしのまことに巧妙な誘惑に加うるに、すべてをまとめるに必要なまじめな手続をもってして、間もなく彼は可憐な女主人公の気持をすっかりなびかせ、もってその恋仇を顔色なからしめたのであった。
けれどもファクスランジュ嬢にはまだ想い出の折節があって、思わず涙が流れるのであった。彼女は、子供の頃《ころ》からあんなに愛して来た男、あの初恋の人をこんなにして裏切ることの恐ろしい後悔の念に胸を痛めていた……「いったいあの方が、あたしのこんなつれない仕打ちに値するほどの何をしたというのかしら?」と苦しい気持でみずから問うのだった。「あの方が、あたしを愛さなくなったとでもいうの?……いいえ、そんなことはないわ。じゃ、あたしが裏切ったんじゃないの!……そうよ、それも誰のためかと言えば、……あたしが少しも知らない男のため、あたしを豪奢で誘惑した男のため……そしてあたしが自分の恋を犠牲にしてまでつかんだこの栄光を、将来きっと高く支払わせるに違いない男のためなのよ……ああ、あたしをそそのかすむなしい甘い言葉……いったいそんなものが、ゴエのあの優しい愛の告白や、永遠にあたしを愛すると言ってくれたあの神聖な誓いや、さては心からなるあの涙などに匹敵するものかしら? おお神様、もしあたしが欺かれようとしているのだとしたら、どれほど後悔しなければならないことでしょう!」ところがこんな想いの間にも、家では神々しい結婚式のことが話題になり、フランロの贈物はますます彼女を美しく飾り立てる。で、彼女はこんな悔恨の想いなどはどこかへ忘れてしまうのであった。
ある夜、彼女は夢の中で、自分の許婚者が猛獣に姿を変えて、死体のいっぱい浮んでいる血の河の中に自分を投げ込むのを見た。彼女は夫に救いを求めて空しく声を挙げたが、夫は耳もかさなかった……と、突然ゴエがあらわれて、自分を河から引っ張りあげると、そのまま自分を置いて行ってしまう……目が覚めた……この怖ろしい夢のせいで、彼女は二日間病床に就いた。だが三日目に、晩餐会が催されて、この血なまぐさい幻想が追い払われると、もうファクスランジュ嬢は、そんないわれのない |夢で(〔原註〕)苦しんだ気持を、自分自身に対して悔むほどに、フランロの甘言にまるめられていた。
とうとうすべての準備がととのい、あとはもう、早くに事を結着させることを急いだフランロが、日取りを定めるばかりになっていた頃、ある朝、わが女主人公は彼から次のような手紙を受取った――
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一面識もない気違いじみた男が、あんなにも私の楽しみにしておりました今宵《こよい》の晩餐会にて、ファクスランジュ夫妻とその最愛の娘御と御一緒するの幸福を、私から奪い取ってしまいました。その男の言うところによると、私こそ彼の一生の幸福を奪い取ったのだそうで、彼は私に決闘をしかけ、剣の一突きをくれましたが、私はその仕返しを四日のうちにしたいと思っております。しかし目下のところは二十四時間の養生を余儀なくされている身です。今宵願っておりましたごとく、お嬢さまに新たなる愛の誓いを申上げられませぬことは、私にとりまして何たる痛恨事でありますことか……
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[#地付き]ド・フランロ男爵
この手紙はファクスランジュ嬢にとって、すぐにぴんと来るものだったから、彼女は事の次第を急いで家族に知らせた。そうして、その行為を、昔の恋人の身の安全を慮《おもんぱか》ってした当然の行為だと信じた。彼女にしてもその恋人が、つい数日前あれほどひどく辱《はずか》しめられた相手、ほかならぬ彼女自身のために、このように身を危険にさらしたのだと思うと寝覚めがわるかった。だから結局、このまだ幾らか彼女に愛されていた男の向う見ずなやり方は、フランロの支配力をかなり激しくぐらつかせはしたのだけれども、しかし、もし一方が手を出した場合は他方は生命を失っていたのであるし、また目下のところファクスランジュ嬢はすべてをフランロのために都合のよいように解釈するといった、甚《はなは》だ困った状態にあったので、従ってゴエはどっちにしてもまずいことをやったのであり、フランロは同情される立場にあったのは致し方ない。
ファクスランジュ氏が事の次第を知らせにゴエの父親のところへ駆けつけている間に、ベルヴァルとファクスランジュ母娘がフランロの見舞いに行くと、彼はしゃれた部屋着を着て長椅子に腰かけ、三人を迎えたのであったが、その顔にあらわれた衰弱ぶりがまた、前には不快と思えたものを同情に代えるかとも見えた。
ベルヴァル氏とその被保護者とは、諸般の事情を利用して、ファクスランジュ夫人の気持をせき立てようとするのであった。あの決闘事件は後々まで尾を引くかもしれない……もしあの男がいつまでもあきらめ切れなかったとしたら、フランロはパリを去らなければならなくなるかもしれない……そのほかにもベルヴァル氏の友情とフランロの巧みな口弁とが、いろいろな理由を見つけ出して、これをもっともらしく振りかざすのは易々たることだった。
ファクスランジュ夫人は完全に説き伏せられてしまった。家族同様フランロの外観にすっかり魅了され、夫にはうるさく攻め立てられ、また娘はこの婚姻に心から満足なのだとばかり信じ込んでしまうと彼女は、もうこの縁組にいささかの異議を差挟む気もなくなった。そこで夫人はこの訪問を終えるに際して、フランロに、彼の健康状態が外出を許すようになったその最初の日が、結婚式の日となるでしょうと約束した。術策家の恋人はファクスランジュ嬢に、ひょんなことから係合いになった恋仇の身の上について、思いやりある同情を示した。ファクスランジュ嬢はいとも愛想よくその心配を打消したが、それでもフランロに、今後どのようなやり方ででも決してゴエを追求しないことを約束させずにはおかなかった。フランロは約束し、この日はそれで別れた。
ゴエの父の家では、すべて片がつこうとしていた。息子は自分が恋に目がくらんで、覚えず暴力をふるったことを認めた。しかし自分としても、あのようにファクスランジュ嬢に嫌われ見限られてしまった以上、もう彼女の気持を無理じいするようなことはしないつもりだと言明した。でファクスランジュ氏もようやく安堵《あんど》して、それからはもう、一刻も早く式を挙げることしか念頭になかった。だがまずそのためには金が必要だ。フランロ氏は直ちにアメリカヘ渡りさえすれば、その財産を立て直すも増やすも意のままである。で、彼が妻の持参金の利殖を計ろうというのも、こういう事情によった。四十万フランで手が打たれた。これはファクスランジュ氏の財産に大穴をあけた。しかし、一人娘のことではあるし、いつかは又そっくりもどって来るはずのものだから、二度とはないこんな機会に犠牲になる必要があったのだ。売払ったり、抵当に入れたりして、結局その金額が用意されたのは、フランロの受難の日からは六日目、初めてファクスランジュ嬢に会った日からは約三ヵ月後のことだった。やがて花婿となる日が来ると、友人たちや、一族のすべてが集って、契約書が署名され、翌日地味に式を挙げること及び二日後に妻と金を持って旅行に立つことなどが決められた。
この運命を決する日の夕刻、ゴエ氏は人を介して従妹に、指定する場所での密会を承知してほしいと頼んだ。その場所は、ファクスランジュ嬢が容易に足を運べる場所であるのを彼はよく知っていた。彼女の拒絶にあって、彼は二度目の使いを送ったが、そのときは、もし自分の言わんとしていることを聴き入れないつもりなら、重大な結果が生ずるおそれがあると確言させさえした。わが不実なる女主人公は、目がくらんでいたとはいえ、昔の恋人を憎むこともできかねたので、ついに負けて約束の場所へとおもむく。ゴエは従妹の姿を認めると早速、
「私がここへ来たのは、お嬢さん」と言葉をかける、「私がここへ来たのは決して、あなたやあなたの御家族の方たちがあなたの生涯の幸福と呼んでおられるところのものを、邪《さまた》げるためではございません。ただ私は自分が信奉している誠実の美徳にかけて、どうしてもあなたがだまされていることをお知らせしないではおられないのです。いいですか、あなたが結婚なさった相手は詐欺師ですよ。きっとあなたを略奪して、この世でもっともみじめな女にしてしまう気なのですよ。あいつは色事師で、あなたはだまされているんです」
この言葉を聞くとファクスランジュ嬢は従兄にこう言った、そんなにひどい言葉で人様を中傷するからには、明々白々たる証拠があがっているのでしょうね、と。
「まだ証拠はつかんでおりません」とゴエは言った、「それは僕も認めます。でも目下問合せ中ですから、近いうちに分るでしょう。あなたのもっとも親しい者のために、御両親から猶予をいただいては下さいますまいか」
それを聞くとファクスランジュ嬢は微笑しながら、
「いとしい御従兄さま」とこう言った、「それがあなたの掛引だぐらい、ちゃんと分りますわ。御忠告は口実にすぎません。あなたのおっしゃる猶予だって、策略にすぎません。あたしを思い止まらせようたって、もう今となっては無理なんです。ですから、正直に計略だと告白しておしまいなさいな、許してさしあげますわ。でも、もうすべてが結着してしまったという時に、いわれなくあたしを不安にするようなことはどうかなさらないで下さいましね」
ゴエ氏は無論のこと、実際にちゃんとした確証をもっているわけでもなく、ただ時をかせぐことしか狙《ねら》いはなかったので、恋人の膝《ひざ》に取りすがって、「おお、僕の熱愛する君よ」と叫ぶのだった、「墓の中まで愛しつづけるだろう君よ。僕の一生の幸福も君次第なんだ。だのに君は、永久に僕から去って行こうとする……正直に言えば、いま僕のしゃべったことは単なる疑惑にすぎないんだ、けれどもこの疑惑は、僕の心をいっかな離れず、君と別れなければならない絶望よりもさらに強く、僕の心を悩ませる……どうか君、お願いだから、幸福の絶頂にいながらも、あんなに楽しかった僕たちの幼い日のことを想い出してはくれないか……君が永久に僕のものだと誓ってくれた、あの懐《なつか》しい時代を……ああ、楽しかった時は過ぎてしまった、そして苦しみの時がこれからずっと続こうというのだ! いったいこの僕が、君のこんな仕打ちに値するような何をしたというのだろう? え、薄情な君よ、何をしたというのか、言ってくれないか? どうして君は、こんなに君を熱愛している男を袖にするんだろう? あの男、僕の愛情から君を奪ったあの人非人が、僕と同じほども君を愛しているとでもいうの? 僕と同じほども長いこと君を愛して来たとでもいうの?」
涙が不幸なゴエの両の眼からあふれ落ちた。彼は熱愛する女の手を力をこめて握りしめ、唇と心臓の上にかわるがわる押当てるのだった。
感じ易いファクスランジュ嬢がこれほどの激情に動かされないでいることは困難だった。思わず数滴の涙をこぼして、「いとしいあたしのゴエ」と言葉をかけていた、「信じてちょうだい、あなたは永久にあたしのいとしいひとよ。あたしは家族の言うことを聞かなければならないの。あたしたちがいつまでも一緒にいることができないのは、あなたにもよく分っておいでだったではありませんか」
「僕たち、待つべきだったんだ」
「でもそれじゃ、親たちを踏みつけにして、自分の幸福を築くことになりません?」
「そんなつもりじゃない、でも、僕たちはまだ待ってもいい年齢だったはずだよ」
「で、誰があたしにあなたの誠実を請合ってくれたかしら?」
「君の性格さ、……君の魅力、それから君のなかのすべてさ……君のような女を相手に、心変りなんてことはあり得ない……ねえ、まだ君が僕を少しでも愛していてくれたら……逃げよう、地の果てまでも……僕を愛してくれれば、僕について来られるはずだよ」
「そんな無茶なこと、とてもあたしにはできないわ。さあ、気を鎮《しず》めて、あたしのお友達。あたしを忘れてちょうだい。それが残されたいちばん賢明な方法なのよ。千人もの美人があたしに代ってあなたを慰めるわ」
「裏切りの上に侮辱までしないでくれ。僕に君を忘れろと! この僕に君を失ったことをあきらめろと! いや、君だってそんなこと、信じてやしないのさ。僕がそんな卑劣な男だなどと、一瞬間だって信じられるわけがないじゃないか……」
「ねえ、あなた、あたしたちは不幸すぎるわ、別れなければならないのよ。すべてはあたしたちを救いようもなく苦しめるだけですもの。不幸に苦しんでいるのは、あなただけじゃないわ……別れましょう、それがいちばん賢明だわ」
「では仕方がない! あなたの言う通りにしよう。あなたと話をするのも、これが生涯の最後というわけだ。まあ仕方がない、あなたの言う通りにします。ところで、あなたに二つの頼みごとがあるんだけれど、それまで断るほどあなたはつれないひとかしら?」
「いったい何なの?」
「君の髪を一束と、少なくとも君が幸福かどうかを知らせるために毎月一回僕に手紙をくれるという約束を、もらいたいのさ……もし君が幸福なら僕は安心していられる……だがもしあの人非人が君を不幸にしていたら……いいですか、僕を信じてくれたまえ……僕は地獄の底までも君を取り返しに行くつもりだからね」
「どうかそんな心配で御心をわずらわせないでほしいわ、御従兄さま。フランロはそれは親切な人よ。あたし、あの方の心の中に誠実と、優しい心づかいと、それからあたしの幸福のための配慮としか、見たことありませんわ」
「ああ、その幸福というやつも、僕と一緒でなければ決してあり得ないと、昔の君なら言ってくれたはずなのになあ! でも、まあ仕方がない、頼みごとは承知してくれますね?」
「ええ、いいわ」とファクスランジュ嬢は答えて、「はい、これがお望みの髪よ。それからあたしが必ずお手紙書くこと信じてちょうだい。お別れしましょう。そうしなければなりません」
この言葉を言ってしまうと彼女は恋人に手を差伸べたが、この不幸な女はそれで自分の不幸が前より癒やされたと信じてしまうのであった。だがその手がかつて愛した男の涙でしとどぬれたのを感じると、嗚咽《おえつ》が胸にせまって来て、彼女はそのまま肘掛椅子に倒れて意識を失ってしまった。この一場面はファクスランジュ嬢の親しい女友達の家で行われていたので、その女が急いで飛んで来て彼女を介抱した。ふたたび眼を開いたとき、彼女が見たのは、絶望の涙で自分の膝を潤している恋人の姿だった。そこで彼女は恋人を元気づけ励まして、しゃんと立たせると、「さようなら」とこう言った、「さようなら、この人生の最期まで永遠にあなたをお慕いする女を、どうぞいつまでも愛していて下さい。あたしの過ちはどうかもう責めないで。もう遅いのです。あたしは誘惑され……ずるずると深みにはまってしまったの……あたしの心はもう義務のことしか考えられなくなってしまったの。でもあの方が要求しない感情なら全部永久にあなたのものよ。あたしの後を追わないで。さようなら!」
ゴエは打ちひしがれた気持で家に帰った。ファクスランジュ嬢も胸のうちに憩《いこ》いを探し求めたが、空しい努力でしかなかった。心を引裂かんばかりの悔恨の念を何とかして鎮めようとしたが、かえって自分ではどうにもならない一種の不吉な予感が生じるばかりだった。そうはいうものの、結婚式の当日、披露宴の席で美しい衣装に飾り立てられると、この気まぐれな心はたちまち安堵した。そうして自分を永遠に縛りつける婚姻の宣誓の言葉を口にした。すべてが彼女の目を奪い、その日一日は何もかも彼女の心を魅了した。かくして夜になると、彼女は怖ろしい初夜の犠牲を行使して、自分にふさわしいただ一人の男から永遠にその身を隔ててしまったのである。
翌日は出発の準備に専念した。次の日、両親の愛撫をいやというほど受けて、フランロ夫人は持参金四十万フランとともに夫の馬車に乗込み、ヴィヴァレ地方に向けて出発した。フランロの言うところによれば、六週間このヴィヴァレ地方にいて、その後にアメリカ行きの船に乗ることになっていた。ラ・ロシェル港から出る船に、前もって席が取ってあるとのことだった。
われらが新郎新婦の一行は、フランロ氏の馬丁が二人と、子供の時から新婦の側仕えで、死ぬまで一緒にいてくれと家族の者に頼まれて付いて来た小間使が一人とであった。目的の場所に着いたら、無論また新しい使用人を幾人か傭うはずであった。
リヨンまで休みなしの行程だったが、この町へ着くまでは、少なくとも歓びや楽しみや、さては愉快な旅行気分が二人の心についてまわった。ところがリヨンヘ来ると、何もかもが一変した。りっぱな人たちがそうするように、フランロは家具付ホテルヘは投宿しようとはせずに、ラ・ギョティエール橋の向うの一軒のいかがわしい宿屋に泊ろうとしたのである。そして夕食がすむと、二時間後には馬丁の一人に暇を出し、もう一人の従僕と一緒に辻馬車に乗込んだ。妻と小間使とは、積荷と一緒に荷馬車に乗せて、あとをついて来させ、そうしてその夜は、町から一里以上も離れたローヌ河畔の淋《さび》しい一軒の居酒屋で泊ることになったのである。
こうしたやり方にフランロ夫人はびっくりして、
「いったいあなたは、あたしをどこへ連れてお行きになるつもりなの?」と夫にきいた。すると夫は荒々しい調子で、
「分ってるじゃありませんか、奥さん」と言うのであった……「僕があんたを放っぽって行くとでも思ってるんですか? あんたの言草を聞いてると、まるで悪漢の手中にいるのを怖がってるみたいですよ。僕たちは明朝船に乗らなければならない、だから、なるべく近くにいた方が便利なので、いつものように河岸に泊ったまでのことなのだ。船頭たちはすぐそこで僕を待ってるし、こうすれば、よほど時間を無駄にしないで済むのですよ」
フランロ夫人は口をつぐんだ。一行は居酒屋に着いたが、それは中へ入るとみしみし揺れるあばら屋であった。しかし、この気味わるい酒場に住む、それよりもっと気味わるい女主人が、自称男爵フランロにこう言うのを聞いたときの不幸なファクスランジュの驚きは、そもいかばかりであったろう――
「おや、お前さんかい、〈お山の大将〉。えらいこと待たせたじゃないか。そんな娘っ子をひとり探して来るのに、いったいそれほど手間どらなきゃならなかったのかね? ま、それはいいけど、お前さんが出てってから、ずいぶん変ったことがあったわよ。あの〈がっちり野郎〉も、昨日テロオで首っ吊りになっちゃったし……〈どじ踏み〉はまだ牢屋《ろうや》んなかさ。今日あたりもしかしたら殺《ばら》されてるかもしれない。でも、心配は御無用さね、誰もお前さんのことはしゃべっちゃいないし、あちらじゃ万事都合よく行ってるらしいから。最近も捕物があって六人も死んだらしいけど、お前さんの身内は一人もいなかったってよ」
総身のわななきが不幸なファクスランジュをとらえた……一瞬間でも彼女の身になってみたまえ、読者諸君、そして眩《まど》わしの幻影が突然消えてなくなるということが、やさしい繊細な魂にどんな恐ろしい効果を与えるものか、考えてみたまえ。彼女の困惑を見てとると、夫は近寄って来て、
「奥さん」ときっぱり言渡すのであった、「もう隠している時でもありますまい。御覧の通り、僕はあなたを欺きました。ところでこのあばずれ女にろくでもないことをしゃべられると困るので」と言って小間使を見ながら、ポケットから一挺のピストルを取り出して、彼女の頭を一撃のもとに撃抜くと、「悪く思わんでください、奥さん。こいつの口を二度と割らせないようにするためには、こうするよりほかないんだから……」
それからすぐ両腕に、ほとんど気を失いかけている妻を抱きとめて、
「あなたの身に関しては、奥さん、何にも心配はいりませんよ。あなたには充分|鄭重《ていちよう》な扱いしかしないつもりですからね。いつでもあなたは僕の妻であるという特権によって、到るところでわがまま一杯に振舞うことができるでしょう。僕の仲間たちは、頭目の妻として必ずあなたを尊敬するでしょう」
われわれの物語の主人公である女性がこの上なく悲嘆にくれた有様にあったので、その夫はありったけの気づかいを払った。で彼女はやや元気を取りもどしたが、今さきフランロがその死体を河の中に投込ませたばかりの、例の親しい小間使の姿がもうそこに見えなかったので、ふたたびさめざめと泣き出した。
「あの女がいなくなったからって、心配することは少しもありません」とフランロが言った、「彼女をあなたのそばに残しておくわけには行かなかったのですよ。しかし彼女がもうそばにいなくても、何の不自由もあなたに負わせないように僕が気を配りましょう」
そして哀れな妻がやや安堵のいろを取りもどしたのを見ると、
「奥さん」とこう続けた、「僕だってもともとこんな商売に生れついたわけじゃ決してないんですよ。僕をこうした苦難と罪悪の境涯に飛込ませたのは賭博なんです。でも、フランロ男爵と名乗ってあなたの前に出たのは、決して嘘や偽りではございません。この名前と称号はもともと僕のものでした。青年時代を軍隊で過し、三歳の時から相続していた財産を、二十八の歳までに、そこですっかり使い果してしまいました。破産してしまうのにはこの短い期間で充分だったわけです。ところで、僕の財産と称号の相続に立会った男は現在アメリカにいるので、数ヵ月間パリで昔の身分を名乗ったとしても、誰もそのことには気がつくまいと僕は信じた次第です。果してこの詐称は期待以上の大成功でしたね。あなたの持参金は僕に十万フランの出費をしいたとはいえ、御承知のように僕はそれによって、十万エキュと一人の美人、生涯何物にも増して大事にすることを僕が誓ったところの、一人の愛する妻をば手に入れたのです。ですから、さあ気を取直して、僕の話の続きを聞いてください。破産の憂目《うきめ》にあうと、僕はフランスの中部地方を荒し回る盗賊の一団に身を投じ(これは賭博熱に憑《つ》かれた青年への不吉な戒めともなりましょう)、この一団の中で幾度か無鉄砲な荒仕事をやっているうちに、やがて二年もすると頭《かしら》と認められるようになりました。そこで僕は根城を変えて、ヴィヴァレ山中の、人のまったく住まぬ狭い谷間に移り住みましたが、そこは発見される可能性がほとんどないばかりか、法の威力も及ばない土地でした。僕がいま住んでいるのは、こんな場所なのですよ、奥さん。僕があなたに差上げようという身分は、こんなものなのですよ。つまり、そこがわが一党の本拠というわけで、そこから各所へ別動隊が派遣されるのです。北はブルゴーニュ、南は地中海沿岸まで、また東はピエモン国境地帯から、西はオーベルニュ山岳地方の彼方《かなた》まで、わが別動隊は長駆します。僕は四百人の部下を号令していますが、生きるため、金持になるためには、みな僕と同様勇敢で、千度の死をも冒す覚悟をもっています。ただし襲撃の際は、ほとんど殺人はやりません、万一殺しそこねた時に足がつくおそれがあるからです。われわれは怖ろしくない相手は生かしておくが、怖ろしい相手はわれわれの隠れ家に強制的に連れて来て、ここではじめて彼らの持ち物一切と、役に立つ情報を一切引出した後に、ばっさり斬り殺します。われわれの戦法はいささか残酷のようですが、なにしろわれわれの安全がそこに掛っているのですからね。いったい、若い頃過ちを犯して財産を蕩尽《とうじん》してしまった青年が、四十年も五十年も悲惨な状態で碌々と生きて行くという、世にも怖ろしい報いを受けなければならないのを、黙って見ているような政府が果して正しい政府と言えるでしょうか? たった一度の思慮を欠いた行いが、青年の地位を剥奪《はくだつ》し、青年の名誉を永遠に汚してしまうものなのでしょうか? ただ運がわるかったというだけのことで、堕落するか鎖につながれるかする以外の道が、ふさがれてしまってよいものでしょうか? 世間が悪人をつくるのは、こんな風な原理によってなのですよ、奥さん。御覧の通り、僕がその生きた証拠です。いかにも賭博では相手のものを身ぐるみまではぐ権利は少なくとも許されておりませんが、しかしですね、もし賭博を取締る法律が効力を失い、逆に賭博が公認されたりして、例の緑いろの賭博台の片隅で一人が相手をおとし入れる状態、つまりそれも一種の犯罪なのですが、そういう状態がどのような法律によっても禁止されなくなった場合には、森の中で旅人の着物をはぐという、ほとんど前者に相等しいこの犯罪をも、同様に厳しく罰することはできなくなるわけです。結果が同じものである限り、手段の違いなどにいったい何ほど重要な意味があるのでしょう? パレー・ロワイヤルであなたの金を巻上げる賭博の胴元と、ブーローニュの森で財布を出せと言う〈お山の大将〉との間に、あなたはどれほど大きな違いがあるとお考えになりますか? 同じことですよ、奥さん。この二つの間に設け得る唯一の現実的な差異というものは、賭博者の方は臆病者として盗みをはたらき、もう一人は大胆不敵に事を行うと言うにすぎないのです。
さ、落ちついてください、奥さん。僕はあなたにこの上ない安らぎの生活を、僕の家で送ってもらうつもりなのです。仲間の女房たちもいますから、茶飲友達もできるでしょう……もっとも、大して面白くはないかもしれない、何しろその女たちときたら、あなたとはまるで身分も見識も違うのですからね。でもあなたの言うことは何でも肯くでしょうし、あなたを楽しまそうとみな一生懸命になることでしょうから、結局気晴しぐらいにはなるでしょう。僕の領地でのあなたの役割については、またそこへ着いてから説明しましょう。今晩は何よりもあなたをゆっくり休ませて差上げることを考えましょう。明朝早くに出発できるように、少し休まれた方がよろしい」
フランロは宿の女主人に、妻にはできるだけの面倒を見てくれと命じて、彼女をこの年増女《としまおんな》と一緒に残したまま行ってしまった。年増女は相手がフランロ夫人だと気がつくと、にわかに調子を変えたものであるが、手作りの葡萄酒《ぶどうしゆ》で割ったスープを飲むように無理にすすめられると、フランロ夫人は女主人の機嫌を損ねないように数滴を我慢して呑込《のみこ》んだ。そしてあとは一人にしておいてくれと頼んで、ようやくほっと落ちつくと、この気の毒な女性はたちまち懊悩《おうのう》にわれとわが身を委ねたのである……
「ああ、あたしの愛しいゴエ」と彼女は嗚咽しながら叫ぶのであった、「神様の御手が、あたしのあなたに為《な》した裏切りを罰したもうたのよ! あたしは永遠に破滅です。あの人里離れた山奥の隠れ家で、世間から埋もれてしまうのです。あたしを打ちひしぐ不幸の数々をあなたにお伝えすることも、もうできなくなるでしょう。よしんばお便りすることは差止められないにしても、あなたに対してあんな仕打ちをしてしまったあたしに、どうして今の境遇を書きつづる勇気がございましょう? まだあなたの同情に値するあたしでしょうか?……ああ、お父様……それに、尊敬するあたしのお母様、あなたの涙があたしの胸をぬらしたのに、思い上って酔っていたあたしは、あなたの涙にも冷淡でした。いかにしてあたしの恐ろしい運命を、あなた方にお知らせしたらよいものでしょう?……いくつになるまで、ああ神様、あたしはこんな怖ろしい人たちと一緒に暮して行かなければならないのでしょう? あと何年間、あたしはこの怖ろしい罰に堪えていることができるでしょう? ああ、あたしを誘惑しあたしを欺いた人、あなたは何という極悪人でしょう!」
ファクスランジュ嬢(今となっては夫人と呼ぶのも気がひけるので、こう呼ぶことにするが)は、数々の暗い思いや、悔恨や、気づかいなどで、このあばら屋に一晩|怏々《おうおう》と寝もやらずにいたが、やがてフランロがやって来て、夜明け前に乗船するから起きてくれと頼まれた。乞われるままに、日除《ひよけ》帽子に頭をかくして、彼女は舟に乗込んだが、この帽子が彼女の悲しみのいろや涙をば、それらの悲しみや涙をつくった当の残忍な男の眼から隠していた。小舟の中には、木の枝や葉でつくられた小屋がちゃんとできていて、彼女はそこでゆっくり休むことができた。一方フランロは、彼の弁護のためにこれだけは言っておかねばならないが、フランロは、痛ましい様子の妻が多少の休息を必要としているのを見てとると、邪魔をしないで彼女を一人きりで憩わせておくことにした。悪人の魂のうちにも、誠実の跡はあるものであり、また美徳というものは、もっとも堕落した人々でさえ多くの場合敬意を払わないではいられないほどの、ある種の価値を人間の眼にあらわすものなのである。
みんなが自分を大事にしてくれていることを覚ると、この新妻は、それでもやや気が鎮まるのであった。今の境遇では、とにかく夫とうまく折合って行く以外に方法がないと思って、彼女は夫に感謝の気持を示そうとするのだった。
小舟はフランロの手下どもによって導かれた。彼らの交わす言葉は、まるで何のことやら分らないしろものだった! 悲しみに打ちひしがれたわが女主人公には、ぜんぜん通じなかった。その日の夕刻、ヴィヴァレ山麓《さんろく》の、ローヌ河西岸に位置したトゥルノン市近郊に到着した。頭と部下の男たちは、その夜も前夜と同様、この近在にあって彼らだけが知っている、あやしげな居酒屋で夜を過した。その翌日、人がフランロに一頭の馬を連れて来ると、彼は妻とともにこの馬に乗り、二頭の騾馬《らば》が荷物を運び、武装した四人の男がこの一行を護衛した。彼らは山を越え、近づきがたい小径《こみち》を通って、この地方の内部へと踏込んで行った。
わが旅人の一行は二日目の夜ふけて、約半里平方ほどの、八方に近寄りがたい山々が迫っている、小さな高原に到着したが、そこへはフランロが用いた唯一の間道からしかたどりつくことができないのであった。この間道の入口には、十人の盗賊が詰めている見張所があって、彼らは一週間に三回交替で、夜昼つねに監視をつづけていた。一歩高原に踏みこむと、野蛮人部落のような、百個ばかりの小屋から成っている、小さな村落が眼前にあらわれた。家々の中心には、高い塀《へい》をめぐらした、二階建ての、かなり綺麗な一軒の住居があったが、それは頭の家であった。頭の住いでもあり、城砦《じようさい》でもあり、また同時に商品や武器や捕虜を入れておく場所でもあった。二つの深い、かつ天井の高い穴蔵があって、それがこうした用途に当てられていた。そしてその上には、一階に小さな三つの部屋、調理室と居間と小さな客間とがあり、またその上の二階には、隊長の妻のための、なかなか快適な一部屋と、宝物を蔵《しま》っておくための秘密室とが隣合って建てられていた。大そうがさつな一人の下男と、料理番をつとめている小娘とが、この家の使用人の全部だった。もちろん他の家には、それさえもいなかった。
疲労と悲しみにやつれ果てたファクスランジュ嬢は、最初の晩はそうしたものが一切目に入らなかった。指し示されたベッドにたどりつくのがやっとであった。衰弱の果てにうとうととまどろみつつ、少なくとも翌朝までは平穏でいることができた。
翌朝、頭は妻の部屋に入って来ると、
「さあ、ここがあなたのお住いですよ、奥さん」と言った、「御約束した三つの美しい地所や、期待しておられたはずのアメリカの大邸宅とは、これはいささか違いますけれども、でもまあ、安心してください、あなた、僕たちだっていつまでもこんな商売はやってませんからね。この商売をはじめてまだ長いことはありませんが、御覧の通りのあの小部屋が、もうすでにあなたの持参金も合せて二百万近い金を隠しているのです。四百万になったら、アイルランドに渡って、あなたと一緒に豪勢に暮しましょう」
「ああ、でもあなた」とファクスランジュ嬢は滝のように涙をこぼしつつ、「そのときまで、天があなたを無事に生かしておいてくださるでしょうか?」
「ああ、そんなこと」とフランロは言うのであった、「そんなこと、僕たちは考えてもみませんね。僕たちの金言は『木の葉のこわい者は森へ行くべからず』と言うんです。どこでだって、人間死ぬときは死ぬんですもの。絞首台の危険があったって、ちゃんばらで斬られる危険もありますよ。だいたい危険の伴わない状態なんて一つもありゃしない。危険と利益とをじっくりにらみ合せて、その結果決意を固めるのが賢明な人間というものです。われわれをおびやかす死は、われわれがほとんど係り合うことのないあの世の世界に属する出来事です。あなたは名誉ということを挙げて反駁なさるかもしれない。しかし、世間の人たちの偏見はそんなものとっくに僕から奪ってしまいましたよ。すなわち、僕は破産したので、もはや名誉など持つべくもない人間なのです。僕は札つきの悪人というわけなのです。とすれば、いまさら名誉などに束縛されてびくびくするよりも、人間のあらゆる権利を享楽することによって……要するに自由であることによって、むしろ進んで悪人になる方がずっとましではないでしょうか? たとえ罪のない人でも、世間から爪弾きされれば悪人になってしまうのは当り前のことです。どっちみち汚辱によって軛《くびき》か犯罪しか選べない人が、前者を捨てて後者に就いたからと言って何のふしぎもありません。立法家連中は、もし犯罪の量を少なくしたいと思うなら、自分たちの汚職をやめればいいんだ。神なんてものさえ作り上げることのできた国民に、絞首台が壊せないとはおかしいじゃないか。人間を導くのに、こんなりっぱなお伽話《とぎばなし》の神聖な馬銜《はみ》があるというのにねえ……」
「でもあなた」とここでファクスランジュ嬢が言葉をはさんだ、「あなただって、パリではまともな人間って様子をなさってらしたではありませんか?」
「あなたを手に入れるためにはそうする必要があったのです。成功してしまえば、もう化けの皮は要りません」
こうした話ぶりや動作は、この不幸な女を恐怖させずにはおかなかったが、彼女は前にした決心を決してひるがえそうとはしなかったから、夫に少しも逆らわず、かえってこれを称揚するような風さえ見せた。で夫は妻が大分落ちついたと思って、村の中を少し歩いて見ないかと誘った。彼女は同意して、部落内を方々歩きまわって見た。そのとき男たちは四十人ほどいたきりで、あとの残りは遠征中だった。つまり、この人たちが峡道を守る見張所に交替で詰めているわけだった。
フランロ夫人は到るところで最大の尊敬と鄭重のしるしを受けた。七、八人の若くて美しい女たちにも会ったが、彼女らの態度物腰は結局、この女たちとフランロ夫人との間のあまりにも大きな身分の隔たりを明すものでしかなかった。とはいえ夫人は相手をあしらうに、相手から受けたと同じ鄭重さをもってした。この散歩がおわると、食事だった。頭は妻とともに食卓についたが、彼女はとてもこの晩餐の席に連なるほどの辛抱はしかねたので、旅の疲れを理由に断ったところ、彼も強制はしなかった。食後にフランロは、自分は明日から遠征に行かねばならないので、その前にいろいろ教えておくべきことがあると言って、その妻にこう語りはじめた――
「お伝えするまでもないと思うが、奥さん、ここではあなたはどんな相手に手紙を書くこともできないんですよ。まず第一に手紙を書くための用具があなたには厳密に禁制品ですからね、ペンも紙もあなたは見つからないでしょう。万一僕の目をごまかすのに成功したとしても、部下は誰もきっとあなたの手紙は引受けますまい。それに、そんなことをしようものなら、ずいぶん痛い目にあうかもしれませんよ。むろん、僕はあなたを大いに愛してはいますがね、奥さん、でもわれわれの商売|気質《かたぎ》としては、つねに感情が義務に従属するのです。まあこんなところが、われわれの社会の他所《よそ》と比べてすぐれている点でしょう。だいたい世間には、愛情というものによって閑却されてしまわない義務などはありません。ところがわれわれの社会では、それがまったく反対なのです。この地上に、われわれの社会の約束を無視させることができるような女など一人だっていやしません。なぜならわれわれの生活は、われわれが生活において実行する確固たる方針に依存するものだからです。奥さん、あなたは実は僕の二度目の妻なのですよ」
「ま、何をおっしゃいます?」
「もう一度言いましょう、あなたは僕の二度目の妻なのです。あなたの前の妻は手紙を書こうとしました。だが彼女の書き綴った文字は自らの血によって消されました。他ならぬその手紙の上で、彼女は絶命したので……」
この身の毛もよだつばかりの物語と、聞くだに怖ろしい脅迫とを前にして、彼女の胸のうちはいかばかりであったか、御想像願いたい。しかし彼女はよく堪えて、自分はあなたの命令に背《そむ》く意志などは毛頭ないとはっきり言い切った。ところが、
「僕の言いつけはそれだけじゃない」とこの人非人は続けて言うのであった、「僕がここにいないとき、すなわち留守中は、あなたが一人で采配を振うのです。われわれ仲間の間にどれほど信頼があったとしたところで、われわれが利害関係で結びついている限りは、部下たちよりもむしろあなたに僕が信頼を置くのは当然でしょう。さて、そういうわけだから、僕が捕虜たちをここに送って来たら、あなたは自分で彼らの着物をはがせて、目の前で斬り殺させてしまわなければなりません」
「あたしが?」とファクスランジュ嬢は恐怖でたじたじとしながら、こう叫んだ、「あたしがこの手を罪なき人の血に浸すんですって! ああ、そんな怖ろしいことをあたしにさせるくらいなら、いっそあたしの血を千度も流させてください!」
「まあそうおっしゃるのもあなたの弱さだとして、最初のうちは大目に見ておきましょうが」とフランロは答えた、「でもやっぱり、あなたにその仕事を免れさせてあげるわけには参りません。それとも、仕事を引受けるより、すべてを失ってしまう方がよいというのですか?」
「その仕事は、あなたの仲間の人たちだってやれるじゃございませんか?」
「もちろん、彼らだってやりますよ、奥さん。でも、あなただけが僕の手紙を受取るので、捕虜を幽閉するか殺すかというようなことは、僕の意を体したあなたの命令にまたねばならないのです。手を下すのはむろん部下たちですが、僕の命令を伝えねばならないのは、やはりあなたです」
「おお! ではどうしてもあたしを勘弁してはくださらないので……」
「なりません、奥さん」
「では、せめてその恐ろしい場面に立会うことだけでも許していただけますわね?」
「結構です……しかし着物をはぐことと、それを倉庫にしまい込む仕事は、絶対あなたに引受けてもらわねばならん。どうしてもとおっしゃるなら、最初のうちは猶予しましょう。最初の時には、捕虜と一緒に誰か確かな男を一人寄こすように配慮しましょう。だがいつまでもそんなことをしちゃいられませんよ。その次からはあなたが自分でやるように努力しなければいけません。何事も馴《な》れですよ、奥さん、人間馴れることのできないものなんてありゃしません。ローマの貴婦人たちは、猛獣相手に闘う剣士が彼女らの足下に倒れて死ぬのを喜んで見たではありませんか? 剣士たちが優雅な身ぶりで倒れるのを一途《いちず》に願ったほど、残忍性を嵩《こう》じさせていたではありませんか? あなたも自分の務めに馴れていただきたいものです」とフランロはさらに続けて、「あそこに、死刑の時を待っている六人の男たちがおりますから、やつらを殺させに行きましょう。それを見れば、あなたも恐ろしいことに少しは馴れるでしょうからね。そうして二週間もたてば、僕があなたに課する務めなんぞはもう何でもなくなるでしょう」
ファクスランジュ嬢はこの怖ろしい光景に立会わないために、あらゆる努力を試みた。どうかそのようなことはやめてほしいと、夫に嘆願してもみた。がフランロは、どうしてもそれが必要だと言うのであった。今後妻の務めの一つともなるべきことに、できるだけ早く彼女の眼を馴れさせて、余計な心労を感じないで済むようにさせてやるのが、彼にはぜひとも必要なことに思われたのである。六人の不幸な男たちが引立てられ、哀れな妻の目の前で、フランロ自身の手で残忍に殺されたが、その処刑の間に彼女は気を失ってしまった。ベッドに運ばれ、付添人の介抱でまもなく生気を取りもどすと、彼女はとうとうこう悟るに至った、結局自分は夫の命令の手足にすぎないのだから、自分の良心が罪を負わねばならないことはないはずだ、それにまた、他所の人たちが大勢捕虜になって来るのなら、たとえ彼らが縛に就いていたにしても、その人たちを救けて自分も一緒に脱出することだってできるかもしれない、と。そこで彼女は翌日、残酷な夫に向って、あたしのやり方にいつか満足なさることもあるでしょうと約束した。夫はその夜を妻と一緒に過したが、それは彼女の体具合のためにパリ以来絶えてなかったことだった。その翌日夫は妻に、もしあなたがりっぱに振舞ってくれるなら、僕もなるべく早くこの商売から足を洗って、少なくとも晩年の三十年はあなたを幸福に安楽に暮せるようにして差しあげるつもりです、と明言して、妻を残して遠征に発って行った。
この泥棒ばかりの真ん中にたった一人で取残された自分のことを考えると、ファクスランジュ嬢はぞっとしないではおられなかった。
「ああ!」と彼女は心のうちで思った、「もしもあたしが運悪くこの悪漢たちにへんな気でも起させたら、彼らが思いを遂げるのをいったい誰が止めてくれるだろう? もしも彼らが頭の家を略奪しあたしを殺して逃げようとでも思ったら、誰がそれを鎮めてくれるだろう?……ああ、神様」と滝つ瀬のごとく涙を流しながら、彼女はこう考えつづけた、「あたしが幸福になれる手段といったら、こんな恐怖にまみれながら生きているほかないあたしの生命を、一刻も早く絶ってしまうことではないかしら?」
とはいうものの、この若い魂にも徐々に希望がわき、極度の不幸にかえってそれは一層強くなって、フランロ夫人はやがて自分がうんと勇気のあるところを見せてやろうという気になったものである。この決意こそ最上のものでなければならないと信じて、彼女はそこに忍従したまでであった。で、彼女は見張所を視察したり、ひとりで部落中の家を一軒一軒まわって見たり、何らかの命令を下してみたりした。そして至るところで尊敬と恭順に出会った。女たちが彼女を訪ねて来ると、夫人はねんごろに彼女らを迎えて、何人かの語る身上話を興味ぶかく聴きもした。それによると、彼女らもファクスランジュ同様、誘惑され、かどわかされてここへやって来たので、最初のうちこそ真面目だったのが、次第に孤独と罪悪とによって堕落して、ついには結婚した相手の男と同じ残酷な人間になってしまったとのことだった。
「おお神様」と時々、この不幸な女は考えた、「どこまで人間というものは浅ましくなり得るものなのだろう。あたしもいつかは、この不幸な女たちとそっくりになってしまうというようなことが、いったいあり得るのだろうか!……」
やがて彼女は家に閉じこもり、涙をこぼし、悲しい運命を嘆いて暮すようになった。うっかり口車に乗せられて、みずからの身を地獄に追い落してしまったことについて、彼女は自分を決して赦さなかった。こうしたことがまたすべて彼女の想いを恋しいゴエに導くので、血の涙が彼女の眼から流れるのであった。
八日ばかりがこうして過ぎたとき、四人の捕虜を連れた十二人の別動隊が帰って来て、彼女は夫からの書状を受けとった。書状をひらきつつ、彼女は身ぶるいした。そこに書いてあることを予感して、一瞬彼女はこの不幸な人たちを殺させるよりは、むしろ自分自身が死のうかという考えに傾いたほどであった。捕虜は四人の青年で、その面貌《めんぼう》には生れの良さと教養とが読みとれた。夫の手紙はこう伝えていた。
――四人の中のいちばん年かさな男は土牢《つちろう》に入れておきなさい。こやつは僕に手向ったばかりか、部下を二人まで殺した男です。但し、こやつの生命はそのままにしておくこと。いずれ僕が釈明を求めなければならないのでね。残りの三人は即座に殺させておしまいなさい……
別動隊の隊長がフランロの腹心であることは、前にも夫から聞いて知っていたので、彼女は彼にこう言った、「あたしの夫の命令は分っておいででしょう……命ぜられた通り、おやりなさい……」
そしてこの言葉を低声《こごえ》で言ってしまうと、その絶望と涙とを気どられないために、急いで自分の部屋に身をかくしに行った。だが折悪しく彼女は、頭の家の前で殺された犠牲者の断末魔の叫びを聞いてしまったのである。感じ易い心はついに堪え切れず、彼女はそのまま気を失った。我に返ると、しかし彼女は前にした決心を思い出し、ふたたび元気を振い起した。自分の決断以外に何の頼るべきものもないことが彼女には分っていたのである。で、ふたたび家を出て、盗品を倉庫に収めさせたり、村を見回ったり、見張所を視察したり、要するに翌日頭のところへ帰って行く副官が、自分について夫に有利な報告をするように振舞った……彼女を責めないでいただきたい。死か、しからずんばかく身を処するか、その間にどんな方法が彼女に残されていたろう?……それに、人間は希望をもてばもつだけ、自殺ができなくなるものなのだ。
フランロは予想以上に長く家を明けた。やっと一ヵ月の末に帰って来たが、その間二度も妻に捕虜を送ってよこし、彼女はそのたびに同じように振舞った。やがて莫大な金をもって頭が遠征からもどった。律儀な妻がそれをなじると、彼はありとあらゆる詭弁で正当化しようとするのだった。そして最後に、
「いいかね、奥さん」とこう言った、「僕の論拠はアレクサンドル大王や成吉思汗《ジンギスカン》や、その他あらゆる有名なこの世の征服者のそれと同じなんですよ。彼らの論理も僕と同じものでした。ただ彼らは三十万人もの配下に号令していたが、僕はたった四百人を号令しているにすぎない。僕に罪があるとすれば、そこですよ」
「そりゃそうかもしれませんけれど、あなた」とフランロ夫人は、今はもう理性よりは感情に訴えるべきだと信じて言った、「でももしあなたがあたしに何度も言ってくださるように、真実あたしを愛しておられますのなら、将来あなたと並んで断頭台にのぼるあたしの姿を想像して、不憫《ふびん》に思し召すことはございませんか?」
「何もそんな悲しい末路を想像することはありませんよ」とフランロは言った、「僕たちの隠れ家は見つかりっこないんだし、僕の遠征中は心配ない人ばかり残しておくし……でも、万一僕たちがここで発見されたとしても、他人があなたに指一本でも触れる前に、憶えていてください、僕はきっとあなたの頭を撃抜いているでしょう」
頭はすべてを点検してみたが、すべてが妻を満足に思う種にしかならなかったので、すっかり感心して彼女をほめちぎり、一層よく面倒をみてやるように部下たちに言い含めて、ふたたび出発した。この二度目の留守の間も、気の毒な妻は同じ心配、同じ振舞い、同じ悲惨な事件に立会わねばならなかった。それが二ヵ月以上もつづき、ようやくその末に、フランロはまた本拠に帰って来て、前より一層その妻に満足した。
こうして、この哀れな女性が圧迫と恐怖のさなかで、涙と絶望を糧《かて》として暮すようになってから約五ヵ月が経った。そのとき、罪なき者を決して見捨てはしない天が、とうとう全く思いもうけぬ事件によって、彼女をその不幸から救い出すことにはなったのである。
十月のことであった。フランロとその妻とが家の戸口の葡萄棚の下で一緒に夕食をしていると、突然、十二、三発の銃声が見張所から聞えて来た。
「裏切者が出たんだな」とフランロはただちに食卓を離れ、すばやく武装して、「さあピストルです、奥さん。あなたはここにいらっしゃい。もしあなたに近づいて来るやつを殺すことができなかったら、そやつの手に落ちる前に自分で自分の頭を撃抜きなさい」
言うなり、村に残っていた部下を大急ぎで集めて、峡道の防禦へとみずから飛んで行った。しかし時すでに遅く、見張所を突破した二百騎ばかりの龍騎兵が、手に手にサーベルを振りかざして平地になだれ込んでいた。フランロは一隊とともに銃火を交えたが、隊形を整えることができず、たちまち押返され、部下の大部分は軍刀にかけられ、馬蹄《ばてい》に踏みにじられた。彼自身も捕えられ、取巻かれ、人質になった。二十騎が彼の監視をしている間に、残りの別動隊は隊長を先頭に、フランロ夫人のところへ駆けつけた。すると、彼女は何というむごたらしい状態にいたことか! 髪を乱し、絶望と恐怖にゆがんだ顔をして、一本の立木にもたれた彼女は、法律の番人の手に落ちるよりは進んでみずから生命を絶とうと、今しもその心臓にピストルの銃口を当てているところであった……
「しばらく、しばらくお待ちください、奥さん」とそのとき、指揮をしていた士官が馬から飛びおり、すばやく彼女の足元に身を投げかけて武器を取りあげようとしながら、こう叫んだ、「まあお待ちください。あなたの不幸な恋人をお忘れですか? いまあなたの前に跪いているのが、その恋人です。天の御加護によって、あなたをお救いに参った者です。その武器をお捨てなさい。そしてあなたの胸の中に飛込んで行くことを、このゴエにお許しください」
ファクスランジュ嬢は夢かと思った。が次第に、自分に話しかけている男のことがはっきり想い出されてくると、そのまま彼女に向って広げられた両腕の中にどっと倒れかかった。この光景は見ている人すべての涙を誘った。
「さあ、時間を無駄に致しますまい、奥さん」とゴエが従妹に元気をつけるように、こう言った、「急いでこの土地を出ましょう。あなたにとっては、たぶん見るも恐ろしい土地でしょうから。だがその前に、あなたのものを取返して行きましょう」
そう言ってゴエは、フランロの財宝を納めてある部屋に踏込んで、従妹の持参金四十万フランと、部下の龍騎兵たちに分け与えるべき一万エキュとを取出し、残りには封印を付し、盗賊に監禁されていた捕虜たちを一人のこらず解放してやり、部下の八十騎をこの部落の駐屯軍として残すと、他の騎兵とともに従妹のいるところへ取って返して、それから直ちに彼女を促して出発した。
山峡の道にさしかかった時、彼女は囚われのフランロの姿を認めて、思わずゴエにこう言っていた、
「あの気の毒な人に、あたし、特赦をお願いしたいのですけれど……あたしはあの人の妻です……それに、なんと申したらいいでしょう、あの人の愛の証《あか》しを胸のうちに抱いているだけに、あたしは一層つらいのですわ……あの人の態度はあたしには終始誠実でした」
「奥さん」とゴエが答えた、「この事件においては、何も私の自由にはならないのです。私にはただ部隊の指揮権があるというだけで、私もまた上司の命令を受けなければならない立場なのです。あの男は、もはや私の権限内にはありません。もし逃してやったとすれば、私自身の首があぶなくなります。峡道を出たところで、この地方の長官が私を待っています。たぶん長官があの男を処置することになるでしょう。私としては、断頭台の方ヘ一歩でも行かせないようにする以外に、どうすることもできないのです」
「おお! あなた、ではこの人を逃してやってください」とこの健気《けなげ》な妻は叫んだ、「あなたの可哀そうな従妹が、涙ながらのお願いです」
「そんな筋の通らぬ同情に目がくらんでは駄目ですよ、奥さん」とゴエが言った、「この不逞《ふてい》な男は決して行状を改めはしないでしょう。この一人の男を救うことは、五十人以上の生命を失わせることでしょうからね」
「その通り」とこのときフランロが口を出した、「その通りだよ、奥さん。この人はまったく、僕と同じくらい僕というものをよく御存知だね。罪悪は僕の本性なんだ。僕はもう一度罪悪に飛びこむ以外には生きて行くつもりはないよ。けれど、僕はいま生きたいなどとはちっとも思わない。屈辱的でないのは死だけだからね。さあ、一生のお願いだ、もし僕に同情してくれるやさしい人があるならば、どうか龍騎兵の手で僕を銃殺する認可を与えていただきたい」
「君たちのうちの誰が、その役を引受けてくれるね、諸君」とゴエが部下にきいた。
だが誰一人として動く者がなかった。いかにもゴエの部下はフランス人[#「フランス人」に傍点]であったので、死刑執行人[#「死刑執行人」に傍点]たり得べくもなかったのだ。
「では僕にピストルをくれたまえ」と悪漢が言った。
従妹の嘆願にいたく感動していたゴエは、そこでフランロに近づいて、その望みの武器をみずから彼に手渡した。すると、何という背信行為だろう! ファクスランジュ嬢の夫は望みの品を手にするや、時を移さずゴエをねらって一撃……だが幸いにも弾丸は当らなかった。この行為は龍騎兵たちを怒らせ、彼らを報復の挙に駆り立てた。怒りに燃えてフランロに飛びかかり、瞬時にして殺害してしまった。ゴエが従妹をその場から連れ去っていたので、彼女はこの怖ろしい光景をほとんど見ないで済んだ。大急ぎで峡道を通過すると、山峡の向う側では一頭のよく馴れた馬がファクスランジュ嬢を待っていた。ゴエ氏は早速長官に戦闘の模様を報告した。乗馬憲兵隊が見張所を占領し、龍騎兵隊は引上げた。そしてファクスランジュ嬢は恩人に保護されつつ、六日後には両親の懐に帰り着いていた。
「さあ、あなたがたの娘さんをお連れしましたよ」とこの親切な男はファクスランジュ夫妻に言うのであった、「それから、これが盗まれたお金です。ところでお嬢さん、私の言うことをよく聴いてください。そうすれば、私がなぜあなたに関することでしなければならなかった説明を、いまに至るまで延ばしていたかがお判りになると思います。私があなたに示した疑念は、なるほど最初はただあなたを引留めておきたいばっかりに申したことにすぎませんでした、が、やがてあなたがお発ちになると、それは激しく私を責立てるものとなりました。で私は、あなたを誘惑した男を追求し、その人物を徹底的に洗うためにあらゆることを試みました。うまい具合にすべて成功し、私の勘は一つもはずれませんでした。やがてあなたを取りもどせる確信がつくと、その時はじめてあなたの御両親に事の次第をお知らせしました。あなたが身に負った軛《くびき》を断切って差しあげるため、同時にまた、あなたを欺いたあの悪漢からフランス全体を解放するために、私は軍の指揮権を願い出て許されました。そして、私は目的を果しました。ですがお嬢さん、これは何の私心があってやったことでもございませんよ。あなたの過失と不幸とが、私たち二人の間に、永遠の垣根を築いてしまったのです……あなたは、私を失ったことをきっと悔まれるでしょう……私を懐しく思い出されるでしょう……あなたの心は、私を拒絶したという思いに一生縛られることでしょう。そこで私は報復したことにもなりましょうか……さようなら、お嬢さん、私は血の絆と愛の絆とに対する責任を二つながら果しました。もはやあなたとは永遠にお別れするばかりです。そうです、お嬢さん、私は発ちます。ドイツで行われている戦争が、私に名誉か死かをもたらしてくれるでしょう。武勲を樹《た》ててあなたにお目にかけられるものならば、私も一途に名誉を望むことでしょう、しかし今となっては、もはや死をしか私は求めは致しますまい」
この言葉とともに、ゴエは去って行った。どんなに人が頼んでも、一度去った彼は二度とふたたび姿を見せなかった。半年の後、ハンガリア戦線のトルコ軍部隊で、はげしい前哨戦の合間に彼が戦死したという知らせがあった。
ファクスランジュ嬢の方はというと、パリにもどって間もなくのこと、この結婚がなせる不運の子を生み落したが、両親はその子に莫大な養育費を付けて、とある養育院に預けてしまった。産褥期《さんじよくき》が済むと、彼女は父母にカルメル派修道尼院に入って尼になりたいからとしきりに頼んだのであるが、両親はどうか自分たちの老後の生活から、娘と一緒に暮す慰めを取上げないでほしいと彼女に懇願したので、彼女も折れて同意した。けれども彼女の健康は日増しに衰えて、悲しみのために疲れ、涙と苦悩に打ちしおれ、悔恨に憔悴《しようすい》し果てて、四年の後には極度の衰弱によって死んで行った。親たちの貪欲《どんよく》と、娘たちの野望との、これはまた痛ましくも不幸なる実例であった。
この物語の教訓が、あるいは人を善に導き、あるいは人を聡明に到らしむることができるものならば、まこと醜悪なる一事件も、いずれは人類の幸福に役立ち得べきものであって、作者もまたこれを後の世に語り伝えるのに要した労力を、決して惜しいと思うものではないのである。
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〔原註〕 夢とは隠れた心の働きであるが、人はそれを本来の役目において見ようとしない。人間の半数が夢を軽蔑し、あとの半数がこれを信仰している。しかしながら、余が次に述べんとするような場合においては、夢の語るところに耳傾け、さらにそれに従いさえしても、何ら不都合なことはないはずである。すなわち、われわれがある事柄の結果を待つときや、事柄の結果がわれわれに対してどんな風に継起して来るかが終日われわれの頭を占めているときには、必ずと言っていいほどその夢を見るものである。そしてそういうとき、もっぱらその対象に没頭しているわれわれの精神は、前日にはさほど何度も考えてみなかったようなその事件のさまざまな局面の一つを、しばしばわれわれに見せてくれる。だからそのような場合、期待される事件の結果の数の中に、夢が提示した結果をひとつ組入れて、それに基づいて行動したとしても、そこには格別哲学に反する迷信もなければ不都合もない、要するにいかなる誤謬もないはずである。それは余には、叡智《えいち》の増進にほかならないと思われる。というわけは、結局この夢たるや、目下問題になっている事件の結果に関する、精神の一努力であって、その努力がわれわれに事柄の新局面を開示するからであり、またこの努力は、眠っているときと眼覚めているときとを問わず為されるものだからである。夢とはつねに、人の心に到来する一つの思案であれば、それに従って行為することは決して一から十まで無分別ではあり得ず、また迷信だと非難さるべきものでもない。先人たちの無知は、たしかに夢をひどくばかばかしいものにしてしまった観があるが、哲学だって同様に数々の暗礁がなかったと誰が信じることができよう? 自然を分析しつくさんとするわれわれは、一塊の黄金をつくり出すために身を滅ぼす化学者に似ている。不要なものは削除しよう、だが何もかも葬り去ってしまうのは禁物だ。けだし自然界には、われわれが決して見破ることのできない、奇異な物事が多々存在するのである。
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ロドリグ あるいは 呪縛の塔
スペイン王ロドリグは、快楽の種類をさまざまに変化あらしめる術にかけては、すべての王たちのあいだに並びなき技量の持主であり、またその楽しみをわがものとする手ぐちにおいては、無造作きわまる豪の者であった。王位をば法網を潜るにもっとも安全的確な武器のひとつででもあるかのごとくに見なしていた彼は、これを手に入れるためにあらゆる横車を押し通した。王位をわがものとするために、ひとりの子供が邪魔だとなると、彼はこの子供をさえ平然と追放しようとした。しかしながら、この不幸な子供、――すなわち、この子供の伯父にして後見人なるロドリグは更にその弑逆者《しいぎやくしや》たらんとしたわけだ――ドン・サンシュの母なるアナジルドは、さいわいにも息子の身にふりかかった陰謀を事前に察知し、うまく難を避けることに成功した。すなわち彼女はアフリカに渡り、スペイン王位の正系継承者たる息子をモール人に引渡し、王位|簒奪者《さんだつしや》の罪ある意図をば彼らに訴えて、その保護を懇願したわけである。そして、この願いが聴き届けられようとしていた矢先、彼女は不幸な子供とともにこの世を去ってしまったのである。
いまやロドリグは、わが身の安泰を害《そこな》う虞れのある一切のものから完全に解放されて、もはやおのれの快楽のためにしか心を労さない。たとえば、色情をそそるべき対象を身辺にますます殖やすために、家来たちの娘を一人のこらずその宮廷に呼び寄せることを案じた。人質をとって家臣の専横をおさえるという口実は、実はその悪だくみを秘《かく》すためのものでしかない。彼らがすこしでも躊躇逡巡《ちゆうちよしゆんじゆん》の色を見せたり、子供の返却を要求したりすれば、たちどころに国事犯の烙印《らくいん》を押され、死をもってこの官命抗拒を贖《あがな》わねばならぬ。かかるむごたらしい王の支配下においては、破廉恥に身を処するか、それとも二心をいだくか、二つに一つを選ぶよりほかなかった。
かくして数多くの少女が、この君主の退廃せる宮殿を美々しく彩《いろど》ることにはなったのであるが、そのなかで、フロランドと称する十六歳ばかりの、あたかも花々のさなかに匂う一輪の薔薇《ばら》のごとく、朋輩《ほうばい》のあいだに一頭抜きんでて美しい少女があった。彼女はジュリアン伯の娘、伯はロドリグの命によって、アナジルドの交渉を牽制《けんせい》すべくアフリカに派遣されていた将軍である。それにしても、ドン・サンシュとその母の死が伯の行動を反故《ほご》にしていたのであるから、当然伯は国に帰っていてよいはずであった。そして、フロランドが美人でさえなかったら、そうなっていたに違いないのである。ところでロドリグは、この美少女を一目見るなり、伯の帰還が彼の欲望の達成のためには邪魔になるに相違ないと悟った。で、彼は信書を送って伯をそのままアフリカにとどまらしめ、どうやらこの不在によって保証された幸運を急いで享楽せんものと、とるべき手段も選ばず、とある一日、フロランドを王宮内に伺候《しこう》せしめたのであった。が、情愛の実をつくすよりも女の最後のものを奪うことにのみ性急なロドリグは、いったん彼女をわがものとしてしまうや、もう別のつまみ食い[#「つまみ食い」に傍点]をしか念頭にのぼさぬ有様であった。
よしんば加害者が、ともすると、いち早くその凌辱《りようじよく》を忘れ去るものだとしても、傷つけられた方は少なくともこれを永く記憶する権利がある。
傷心のフロランドは、わが身に降ってわいたこの不幸をいかに父親に知らせてよいか分らず、そこで、歴史家によって伝えられた巧妙な一つの寓意《アレゴリイ》を用いて、こう、伯爵へ手紙をしたためた。
「日ごろお父様があれほど大切にせよとおっしゃっていたわたくしの指輪が、ほかならぬ王様の手で割られてしまいました。王様は手に短刀をお持ちになってわたくしに躍りかかるや、この宝石をこわしておしまいになったのでございます。大事な宝をなくしてしまって、わたくし、どんなに悲しみましたことやら。どうかお父様、この怨みを晴らしていただきとう存じます」けれども彼女は手紙の返事を得る前に、悩みに悩んだ末死んでしまった。
一方、伯爵は娘の真意を読みとった。ふたたびスペインに渡り、家来たちを集めた。彼らは伯に忠勤を約した。またしてもアフリカに舞いもどるや、伯はモール人を語らって復讐《ふくしゆう》の同志とした。かかる極悪非道をなし得る王であれば、それだけに打破るも易かるべし、とモール人相手に言うのであった。またスペインの弱さを証拠立てたり、この国の人口の減少して行くことや、臣民の君主に対する憎悪の模様などを述べ立てたりもした。そしてあげくには、怨みに燃える心が思いつかせあらゆる方便を利用したりもした。で、相手は伯に力を貸すことを躊躇しなかった。
当時アフリカのこの地方を支配していた皇帝ムサは、まず最初、伯の言を確かめるために、小部隊をひそかに派遣した。この部隊はいきり立った伯爵の配下と合流し、その援助を受けたが、さらにこの計画を強固にしなければならぬと信じたムサが別の部隊を送ったので、またたく間に層一層有力になって行った。いつの間にやらスペインはアフリカ軍で満ち満ちた。それでもロドリグはまだ安穏無事を楽しんでいた。とはいえ、いったい彼に何ができるというのか? 一兵一城とてない彼に? 軍備は全部取払われていた。それというのが、君主の人民いじめの際に彼らが利用し得る逃げ場をスペインの土地から一切取除いておくためだったのである。かてて加えて、不幸にも、国庫には一文の収入《みいり》すらない。
さるあいだも、危険は刻々迫ってくる。不幸な君主は王位失墜の前夜にあった。あたかもそのとき、彼がふと思い出したのは、トレードの近傍にあって「呪縛《じゆばく》の塔」と呼ばれているところの、ある古代の建造物であった。大方の意見によれば、そこには莫大な宝が埋蔵されているとのことであった。王はその宝を手に入れようという考えに、飛立つ思いで塔の前にやって来た。が、いかんせん、真っ暗な塔の内部には入ることができない、というのは、数千の錠前を取付けた鉄の扉が、断固として余人の侵入を拒絶しているのであった。どうやら今までそこに足を踏入れた者もないらしい様子である。それに、この恐るべき扉の上方には、次のようなギリシア文字が読みとれた、「死を怖るる者は近寄るなかれ」と。ロドリグはちっとも怖れなかった。彼にとっては、現在の自分の境遇のみが関心事であった。軍資金を発見するという、それ以外の一切の希望は思案の外にあった。彼は鉄扉を打ち壊させるや、勇躍して塔のなかに踏込んだ。
階段を二段のぼると、一人の怖ろしい巨人が彼の面前にあらわれた。剣先をロドリグの鳩尾《みぞおち》にぴたりと擬して、
「止れ」と叫ぶのであった、「塔のなかを見て回りたければ、お前ひとりで見て回れ。何びともお前につき従うことはまかりならぬ」
「よかろう、おれは平気だよ」とロドリグは言い、従者をそこに残して、なおも一人で進むのだった。「おれにとっては救いか、しからずんば死が必要なのだ……」
「おそらく、お前はそのどちらにもぶつかるだろう」と化けものは答えた。すると、うしろで扉がひどい音を立てて閉まるのだった。
王は、一言も言葉をかけずに先に立って進む巨人のあとを追った。そうして、八百段以上も階段をのぼったであろうか、やがて無数の燭台《しよくだい》に照された一つの大広間に達した。そこには、ロドリグのために殺された不幸な犠牲者たちが一堂に会していた。彼はおのおの、ロドリグに宣告されたむごたらしい刑罰を受けていた。
「この不幸な者どもを覚えているか?」と巨人がきいた。「罪深い暴君は、時によると、こんな風な有様をまのあたりに見なければならぬのだ。二度目の罪は最初の罪を忘却させる、暴君は同時にひとつしか、犯した罪を知らぬのだ……だから、こんな風にすべてが一緒にあらわれると、よっぽどのしたたか者も怖ろしさに震えあがるというわけだ。さあ、お前がもっぱら情欲を満足させるために、お前自身の手で流した血の河を見るがいい。どうだ、怖くないか? おれは一言でこの不幸な者どもを全部自由の身にしてやることもできれば、一言で、お前を彼らの手に引渡してしまうこともできるのだよ」
「好きなようにするさ」とロドリグは横柄に言った、「はばかりながら、おれは怖気《おじけ》をふるうために、こんな遠くまでわざわざやって来たわけじゃないんだ」
「では、おれについて来い」と巨人は語を継いだ、「お前の勇気はお前の大罪に匹敵するわい」
ロドリグはそこから第二の広間に通った。と、この部屋には、ロドリグの破廉恥な快楽の犠牲となって貞操を蹂躙《じゆうりん》された娘たちがことごとく集っていた。ある者は自分の髪の毛をかきむしり、ある者は我とわが身を短刀で突かんとし、また何人か、すでにみずから命を断って、血の河の波間にただよっている者もあった。王は、この不幸な女たちの中からフロランドが、彼に犯された日のままの姿格好をして、しずしずと立ちあがるのを見た……
「ロドリグよ」と彼女は王に向ってこう呼びかけた、「そなたの恐るべき罪が、そなたの王国に敵を招き入れたのじゃ。父はわたしの復讐をしてくれた。が、その父さえが、わたしに名誉と生命とを返してくれることはできかねた。わたしはそれを二つながら失ったのじゃ。みんなみんな、そなたのためにな……そなたはいずれもう一度わたしにあうだろう、ロドリグよ、だがその宿命の時を怖れるがよいぞ。そのときこそ、お前の生命の最期のときなのだから。このわたしだけが、いまそなたの目の前にいる不幸な女たちのすべてに代って、そなたに復讐する名誉を担っているのじゃ」
横柄なスペイン人はぷいと顔をそむけて、案内者とともに第三の室へ入って行った。
この部屋の真ん中には、「時」の神の姿をかたどった一個の巨大な彫像があった。像は手に棍棒を持って、時々刻々、床をたたいていた。その響きのものすごさは、天地も鳴動するかと思われた!
「あさましい王よ」とこの像が叫んだ、「不吉な運命の手にみちびかれて、お前もついにここまでやって来たか。かくなる上は、せめて事の真相を知るがよい。お前の王位はやがて夷《えびす》どもの手に横領されるのじゃ、お前の罪の懲罰のためにな」
たちまち場景一変して、円天井が消え失せた。ロドリグは吹きさらしに立ちつくした。すると、どこからともなく吹いて来た一陣の烈風が、彼をトレードの塔の上空はるかにさらって行った。案内者が彼のかたわらで、
「お前の運命を見るがよい」と言った。
すぐさま王は眼下にひろがる原野をながめやって、人民たちがモール人を迎え撃っている有様を見てとった。味方の敗北には歴然たるものがあり、逃げのびた者さえ数えるほどしかないようであった。
「さあ、これを見た上で、お前の決心がどう変ったか、ききたいものじゃて」と巨人が王に言った。
「おれは塔へもどりたいと思うばかりだ」とロドリグは横柄に答えた、「おれは塔のうちに秘められた宝を手に入れたいのだ。一か八かの運だめしをやって見たいのだ。こんなものを見せられたからって、おれはちっとも怖がりはせぬよ」
「なるほど、いい度胸だ」と化けものが言った、「それにしても、よくよく考えて見るがいいぞ。お前にはこれから先幾多の苛酷な試練が残されているのだ。今まではおれがそばにいたからよかったが、これからは一人でそれに堪えて行かねばならないのだぞ」
「矢でも鉄砲でも持ってくるがいいさ」とロドリグは言い放った。
「よろしい」と巨人は答えた。「しかし、このことだけは肝に銘じておけ、もしお前がすべての試練に打ち克って……めざす宝を手に入れたとしてもだ、それだけではまだまだお前の勝利はおぼつかない……」
「なんの、構うものか」とロドリグは言った、「一兵を動かすこともならず、むざむざ手をつかねて敵の侵攻を見送るよりは、おぼつかない勝利の方がまだしもだ」
言いおわる間もあらばこそ、一瞬にして彼の身はふたたびトレードの塔の、かの「時」の神の像の突っ立つ部屋に、案内者とともに舞いもどっていた。
「ここでお前と別れよう」と化けものが言った、「めざす宝の在処《ありか》はこの像にきくがいい。きっと教えてくれるだろう」そう言って消えてしまった。
「おい、どっちへ行ったらよいのだ?」とロドリグは像にきいた。
「人類の不幸のためにお前が生れた場所へ」と像が答えた。
「お前の言うことは少しも分らぬ、もっとはっきり言ってくれ」
「お前は地獄へ行かねばならぬのだよ」
「そんなら地獄への入口を開けろ、飛び込んで行ってやる……」
大地がゆらぎ、ぱっくりと口をあけた。ロドリグは我にもあらず、地表から一万丈以上もある大地の底へもんどり打って落込んだ。立ちあがって、目を開けて見ると、炎をあげて燃えている湖の畔《ほとり》に彼はいるのだった。湖上には鉄の小舟が、見るも怖ろしげな怪物を満載して浮んでいた。
「河を渡るのかい?」と、その怪物どもの一匹が彼に向って声をかけた。
「渡らなければならないのかね?」とロドリグがきいた。
「そうだ、宝を探すつもりならばね。宝はここから一万六千里はなれたチナルの沙漠の彼方にあるのだ」
「おれが今いるところは、いったいどこなんだ?」と王は質問した。
「一万八千もある地獄の河のうちの一つ、アグラフォルミクボス河の畔だ」
「それでは、おれを渡してくれ」とロドリグは言った。
近寄ってきた舟にロドリグはひらりと身を躍らせた。が、この舟は熱く焼けていて、そこに足をおろしたが最後、苦痛に身もだえせずにはいられなかった。舟は瞬《またた》く間に彼を向う岸へと運んだ。そこは相変らず暗い夜が領していた。この凄惨《せいさん》な地方は、かつて一度も、慈悲深い天体の恵みの光を受けたことがないようであった。ロドリグは渡し舟の船頭に道を教わって、休みなく燃え続けている垣根のあいだの一本の小径を、熱砂を踏んで進んで行った。ときどき、怖ろしい獣が垣根から飛び出してきたりして、まさにこの世ならぬ思いであった。やがて地勢がだんだん狭《せば》まってくると、とうとう目の前には一本の鉄の棒が、そこから二百尺以上もはなれた断崖《きりぎし》の向うがわへ、唯一の橋渡しとして懸っているにすぎない難所へ来てしまった。彼の立っている場所と向う岸とのあいだには、深さ六百丈の谷間がぽっかり口をあけている。谷底には火の河の支流が幾筋か流れていて、どうやらそこは水源地と知れた。ロドリグは一瞬この怖ろしい谷渡りを思って、ぞっとした。迂闊《うかつ》に渡りでもすれば死は必定であろう。ひとつとして彼の歩行の安全を保障するものはなく、ひとつとして身の支えになるものはないのである。彼は考えた、「すでに幾多の危難を乗越えて来たおれではあるが、ここでたじろげばやはり卑怯未練のそしりは免れまい……いざ、進もう」しかしながら、百歩と行かないうちに彼はすっかり落着きを失ってしまった。まわりを見るのが怖ければ眼を閉じたらよかったものを、彼は怖気づいた心であたりを見てしまった……と、たちまち平均を失って、無残や王は足下の谷底へどっと転落した……
数刻後、気絶からさめて彼はふたたび立ちあがったが、いったいどうして自分がここにこうして生きているのかとんと合点が行かない。実にふんわりと軽やかに、しかも運好く墜落したもので、それは何か魔力の賜物としか思われないほどであった。実際そうでもなければ、まだこうして息をしていられる道理がないではないか? ともあれ、知覚を取りもどした彼をまず最初に驚かしたものが、このおそろしい谷間にのっと立つ一本の大きな黒い大理石の柱で、その上にはこう書いてあった。「勇気を出せ、ロドリグよ。お前がここへ墜落したのは当然の結果だよ。いまお前が渡った橋は人生の象徴なのだ。危難に充ちた人生とは、そもそもこんなものじゃなかろうか? 有徳の士なら難なく目的地に達するものを、お前のような人非人にはいっかなそれができないのだ。だがまあよいわ、お前の勇気がお前をここまで深入りさせてしまった以上、今さら後に退くわけにも行くまいて。宝は今お前のいるところからわずか一万四千里の先にある。まずスバル星の北を七千里行き、さらに残りの七千里は土星に向って進むがいい」
ロドリグは火の河の畔を歩き出した。河は千差万別の形状をなして、この谷間をうねり流れていた。やがてその紆余《うよ》曲折した流れのひとつが、彼の行手に立ちふさがった。どうして渡ってよいか分らない。すると、一匹のおそろしいライオンがひょっこり彼の前にあらわれた……ロドリグはこの獣をじっと見つめながら、
「お前の背中におれをのせて、この河を渡ってはくれないか」と言った。
怪獣はすぐに王の足もとにきて体を低めた。ロドリグがその背中にのると、ライオンはざんぶとばかり河のなかに飛込んで、やすやすと向う岸まで彼を連れて行ってくれた。
「おれはお前の悪に報いるに善をもってしたのだぞ」とライオンは言いながら去って行った。
「それはどういう意味だ?」とロドリグはきいた。
「お前は百獣の王たるおれの身分に、お前自身の不倶戴天の仇敵を見とめたらしく、この世でさんざんおれを苦しめた。しかるにおれは、地獄でお前に奉仕してやった……よいかロドリグ、もしお前がお前の国を守り通すことができたら、このことを忘れるな、君主はおのれに仕えるすべての臣民に幸福をもたらすことができるとき、はじめて真に君主の名に値するのだということを。君主は人類を救うためにこそあるもので、人類をおのれの悪徳の道具にするためにあるのではない。神が人類をすべての動物の上に位置せしめたことを忘れるな。地上においてもっとも獰猛《どうもう》と目されている獣の、この親切な教訓を受けるがよいわ。事実はお前の方がよっぽど獰猛なのだぞ、なぜかというに、何よりやむにやまれぬ要求であるところの飢えのみが、われわれ獣の残酷の唯一の原因であるのに対して、お前の残酷は、もっとも憎むべき情欲に駆られたものであるからだ」
「百獣の王よ」とロドリグは言った、「お前の訓言は、おれの精神にとっては気に入るが、おれの心には全く気に入らない。それというのが、そもそもおれは、お前の非難する例の情欲なるものの虜《とりこ》としてこの世に生れてきた男であるからさ。情欲はおれより強くて、いつもおれを引きずって行くのだ。おれは自分の気質に打ち克つことがどうしてもできない男なのだ」
「では仕方がない、お前は破滅だ」
「それこそすべて生ある者の必然の運命ではないか。そんなことをおれが怖がるとでも思うのかね?」
「だが、あの世で何がお前を待っているか知っているか?」
「そんなことは、おれにとってはどうでもいいことさ。すべてに挑戦するのがおれの信条だ」
「では行け、だが忘れるな、お前の最期は近いぞ」
ロドリグは遠ざかった。まもなく火の河の岸辺は視界から失せて、頂き雲に届かんばかり、峨々《がが》としてそびえる岩山のあいだの、狭隘《きようあい》な間道にさしかかった。すると、突如この山から巨大な岩石のかけらが真っ逆さまに小径に落ちてきて、王の命をおびやかし、かつは歩行の邪魔をするのであった。ロドリグはしかし、これらの危険を物ともせず歩きに歩いた末に、とうとう、道しるべになるものとては何ひとつない、広漠たる荒野《あれの》の真ん中に来てしまった。疲労にめげ、飢えと渇《かわ》きにやつれ果てて、彼はとある小高い砂丘の上にばったり倒れ伏した。さしも強情な彼も、事ここに至っては、先ほど塔のなかに自分をみちびいたあの巨人に哀願せざるを得なかった。と、不意に眼前に人間の頭蓋骨が六つあらわれ、足下に血の河が滔々《とうとう》と流れ出した。そして、いかなる者の発する声であるか分明でない、ある未知の声が、
「暴君よ」と叫んだ、「見ろ、いまお前の目の前に流れているのは、かつて現世にあったお前が、欲望の渇きを癒やすに用いた血であるぞ。地獄に来たからといって遠慮するには当らない、同じ飲み物で渇きを癒やしたがよかろう」
ロドリグは、――傲慢《ごうまん》なロドリグは、怖れるどころかむらむらと反抗心をかき立てられ、やおら立ちあがってまた歩き出した。血の河はなかなか果てなかった。のみならず、王が進むにつれてだんだん河幅を増し、どうやらこの凄惨な沙漠で彼の道しるべをしてくれるらしかった。ややあって、ロドリグはこの河の上にうようよさまよっている亡霊どもの姿に気がついた……しかも、そいつらはことごとく見知った顔であった。つまりそいつらは、最初彼が塔のなかで見たあの不幸な女たちの亡霊だったのである。
「この河はお前の所業によって生じた河であるぞ」と彼女らの一人が叫んだ、「ロドリグよ、わたしたちは、ほかでもないわたしたち自身の血の上に……お前の手によって流されたこの不幸な血の上に……こうしてただよっているのだ。なぜお前はこの血を飲まない? 現世で飲み飽きたというのか? それとも、贅《ぜい》を尽したお前の宮殿から、ここ地獄へとやって来て、とたんに嗜《たしな》みが上品になったとでもいうのか? 悔むなロドリグ、暴君がおのれの罪のさまを目にするは、神の定めによる懲罰なのだ」
異様な大蛇が幾匹も河のなかから飛び出して来て、さなきだに怖ろしい、この河面にひるがえる醜い亡霊どもの乱舞に、一層の凄惨さを加えた。
まる二日間、ロドリグはこの血なまぐさい河岸に沿うて歩きに歩いた。すると、ようやく、かすかながら光が差してきて、どうやら荒野は尽きるかと見えた。とそこに、頂き天を摩す火山が荒野を区切ってぬっと立っていて、そのそばはなかなか通れそうもない。進むにつれてロドリグは、熔岩の流れに八方を取巻かれてしまった。噴火口から吐き出される巨大な熔岩の塊《かたま》りが、いきおい激しく雲の上まで飛びあがるさまを彼はまざまざと見た。もう道しるべになるものといったら、周囲に燃えさかる炎の明るさのみであった……彼は灰まみれになって、やっとのこと歩を運んでいた。
ついにふたたびロドリグは困《こう》じ果てて、例の化けものを連呼した、すると、
「山を越えろ」と、先ほど彼に語りかけた声と同じ声が、こう叫んだ、「山の向うがわへ行けば、お前の話相手が見つかるだろう」
何ということだ、山を越えろとは! 絶えず小やみなく岩石と炎を噴き出して燃えているこの山――おそらくこの山は、千丈以上もの高さがあるだろう。頂上に到るすべての道は、断崖《だんがい》に縁どられ、熔岩に浸されているのだ。ロドリグはしかし、勇気を振い起し、目的地への距離を目測した。そしてとうとう、剛毅《ごうき》な彼は頂上に歩を刻むことを得たのであった。多くの詩人輩が筆を尽したエトナ火山の描写も、ロドリグの見た山の物凄《ものすご》さに比べては物の数ではなかった。おそろしい火口の深淵《しんえん》は周囲が三里もあった。巨大な熔岩の塊りはロドリグを亡きものにせんとして頭上から雨霰《あめあられ》と降ってきた。大急ぎで彼はこのおそろしい火口を突っ切って、反対側に降りるかなりなだらかな坂道を見つけ出すや、一目散に駆けおりた。するとそこへ、途方もない大きさの、奇怪な名も知らぬ獣の群があらわれて、四方八方から彼を取巻いた。
「どうしようというのだ、お前たちは?」とスペイン人はきいた。「そんなところに突っ立って、道案内をしてくれるというのか、それとも、おれが通るのを邪魔しようというのか?」
「おれたちはお前の情欲の象徴だ」と巨大な一匹の豹《ひよう》が叫んだ、「それはおれたちに似てお前を悩まし、おれたちに似て、一生の終りまで見通すことをお前にさまたげたものだ。お前が情欲を制することができない以上、どうしておれたちに打勝つことができよう? 人間の来るところではないこの地獄くんだりまでお前を連れてきたのも、やはりお前の情欲であった。されば、お前はその度しがたき奴に従って、どこでもいい、運命がお前をさし招くところへ早々に飛んで行くより道はない。情欲めはお前に褒美を与えようと、お前を待っているだろう。だが、お前はこれから先、おれたちよりももっと危険な敵に出くわすぞ、そして多分、そいつの犠牲者になり果てるのだ。行け、ロドリグ、いざ行け。お前の足もとには花々が咲き乱れている。この野原をどこまでも行け。めざす目的地まではあと六百里だ……」
「あさはかな奴め!」とロドリグはどなった、「言葉は使いようだ、あの残忍な欲望がおれをこの世につなぎとめていたのだとも、言えば言えないことはない。情欲はこのおれを、代る代る悦ばせたり怖がらせたりしたものだ。おれはそいつの不吉な呼び声に耳を傾けたが、いっかなその意を解しはしなかった」
ロドリグはなおも前進を続けた。すると、だんだんと土地が低まってきて、いつの間にやら地下道の入口に来ているのだった。入口には扉があって、なかへ入れという意味の言葉が記されてあった。だが、奥深く入って行くにつれて道は次第に狭くなり、ついにロドリグは、幅一尺ばかりの、短刀の切っ先がにょきにょき突き出た細い通路にぶつかってしまった。短刀は頭上からもぶらさがっていて、無理に通ろうとすれば体中が切っ先に触れる。彼は一瞬のうちに自分が傷だらけになってしまったように感じた。やがて血みどろになって、さしも勇敢な彼もあわやへこたれるかと見えたとき、何やら頼もしい声が彼をはげまして、こう叱咤《しつた》した、
「しっかりせい、宝の見つかるときは近いぞ。宝に賭けたお前の一か八かの運命は、お前次第で決するのだ。それにしても、もしお前がこれまでに一度でも、針のような悔恨の念に刺されていたならば、――お前の身を誤らせたのはお前を取巻くおべっか使いどもだった――一度でも悔恨の念が、いまお前の身に突き刺さっているこの切っ先のように、お前の心を苛《さいな》んでいたならば、――おそらく今でもお前の財政はきちんとしていたろうし、お前の国庫は満ち足りていただろう、そしてお前としたことが、財政の紊乱《びんらん》を回復するために、こうして我とわが身を危険にさらすようなことをあえてする必要はなかっただろう。さあ行け、ロドリグ、お前に残された唯一の美徳、勇気と豪胆とを二つながら失うな。勇を鼓せ、行きつく果てはもはや遠くないぞ」
ようやくロドリグは、行手にかすかな明るみを見出した。いつとはなしに道幅が広くなり、切っ先は消えて失せ、彼は洞穴《ほらあな》の出口に来ているのだった。とそこに、急湍《きゆうたん》が走っていた。ほかに道とてないので、舟にでも乗らなければ立往生せざるを得ない。と思うと、一艘の軽舟がたちまち用意された。ロドリグはこれに飛乗った。平穏な一時《いつとき》が彼の逆運を慰撫しにやって来た。渡航中の運河はさわやかな果樹の緑陰におおわれていた。オレンジ、麝香《じやこう》葡萄、無花果《いちじく》、桃、胡桃《くるみ》、パイナップルなどが、一つ一つさだかには見分けもつかぬままに、彼の眼の前に生《な》りさがっていた。木々はその新鮮な食べものを競って彼に差出しているのであった。王はこれさいわいとばかり果物《くだもの》を取っては食べ、枝もたわわなこれらの木々に飛び交う百千鳥《ももちどり》の妙《たえ》なる音楽を楽しんだ。しかし、まだ彼に残されていたこのわずかな快楽も、一瞬にしてむごたらしい苦痛となり変らねばならなかったほどに、彼を乗せてこの聖なる水域を走る舟の速さときたら、筆舌に尽しがたいものがあった。進めば進むほど、その速さはいや増した。やがて、目くるめくばかりの高さを落ちる瀑布がロドリグの目の前にあらわれるや、彼は舟の速さの原因をようやくにして悟った。巻込まんとする激流のかよわい翻弄物にすぎない小舟は、いまや、ものすごい滝壺の底に落下しようとしているのであった。思案のいとまもあらばこそ、舟は五百丈有余の高さをあっという間にさらわれて、流れ落ちる水とともに、飛沫《しぶき》をあげてほとばしる漠々たる谷間に呑込まれてしまった。と、彼の耳に、先ほどからしばしば聞きなれたあの同じ声が、
「これよ、ロドリグ」と叫んだ、「過ぎ去った快楽の影像をお前は見たか? お前の渇きをつかの間癒やしたあの果物のように、それらはお前の眼の前に生れては消え失せた。逸楽はお前をどこへみちびいた? 傲慢な王よ、いまお前はそれを知っている、お前はあの小舟のように、苦悩の滝壺に飛込んでしまったのだ。よし一度は脱れ出ようとも、やがてふたたびお前はこの滝壺へもどって来ないわけには行かないだろう。さあ、頂き雲に隠れて見えないあの山の間の、狭隘な暗い道を行くがいい。その狭路を二千里ばかりたどった末に、お前は望みのものを得るだろう」
「やれやれ!」とロドリグは慨嘆した、「それではおれは、この苛酷な探検行のために一生を棒に振ってしまったわけか?」
塔のなかに足を踏み入れてから、実際にはまだ一週間ぐらいしか経っていなかったのであろうが、彼には二千年以上も前からこうして地の底を旅しているように思われた。とかくするうち、洞穴を出たときからずっと見えていた空が、次第に暗い雲の帳《とばり》でおおわれはじめ、凄《すさ》まじい稲妻が雲間に長い筋を描き、雷がごろごろ鳴りはじめた。雷鳴は王の行く手にそびえたつ高い山々に殷々《いんいん》とこだました。さながら天地を構成する四元素が崩壊寸前の危機にあるかのようだった。雷火はたえず四辺の岩々を撃ち砕いては、巨大な片々にして吹っ飛ばしていた。それが不幸なわが旅人の足もとにまで転がってきては、たえず通路をふさぐのであった。そのうち恐ろしい雹《ひよう》があらたにこの天災に加わって、さらに彼を攻め立てはじめると、もう一歩も進むことはならなかった。するとそのとき、いずれ劣らぬ怖ろしい形相をした数知れぬ幽霊が、燃えさかる雲間からぞろぞろと降りてきて、彼のまわりをひらひら飛び回るのであった。なおよく見ると、これらの亡霊はそれぞれ、ロドリグの手にかかって果てた人たちの面影をとどめていた。
「見ろ、おれたちはいろいろさまざまな面貌をしているだろう?」と彼らの一人が言った、「おれたちはお前の大悪に報復するために、お前の心がついに恐怖に囚われるときまで、こうしていじめてやりに来たのだ」
そのあいだも嵐《あらし》はいよいよ激しさを増し、渦巻く雷火はたえず天から襲い来たった。屈折しては八方に交差する稲妻の、斜めに地平線を截《き》るのが見られた。大地さえ所々方々から火の粉の龍巻を生み、それは天に沖するや、炎の雨となって二千丈の高みからばらばらと降ってきた。いまだかつて憤怒した自然が、これ以上に凄惨な光景を呈したことはなかった。
ロドリグは、とある岩の下に頭をかくして、祈るでもなく、後悔するでもなく、ただ天を嘲罵《ちようば》した。それから立ちあがり、あたりをながめ、一瞬にして出現した周囲の荒廃にぞっとしたのであるが、更にそこに悪罵の種を見出すや、
「無定見にして酷薄なやつめ!」と、彼は天をにらみながら言い放った、「混乱と災禍の手本が、この通り貴様自身の手によって示されているのに、何を楯に貴様は人類を非難するのだ?」
ふと見ると、道もしかとは認めがたくなっていた。「それにしても、おれはいったいどこにいるのだ?」と彼は続けた、「この荒廃のさなかにあって、おれはこれから先どうなるのだ?」
「お前がかくれていた岩の上に、一羽の鷲《わし》がうずくまっているだろう」と先ほどから聞き覚えのある声が、こう叫んだ、「あの鷲に近づいて、その背中に乗るがいい。鷲は一飛びで、お前の足がさっきから行き悩んでいた方へ、お前を運んで行ってくれるだろう」
王は言われた通りにした。三分も経たぬうちに、彼は大空の高みにあった。すると、彼を背中に乗せていた高潔な鳥が、
「ロドリグ」と声をかけた、「よく見るがいい、お前の己惚《うぬぼ》れは至当なものであったかどうか……お前の足下にある、あれが全地球なのだ。お前が支配していた貧弱な地球の片隅をよく見るがいい、お前の地位といい、お前の権力といい、またもってお前を高慢ならしむる何ほどのものがあるだろう? 蝸牛《かぎゆう》の角に鬩《せめ》ぎ合うあのたわいない専制君主どもが、永遠なる神の眼にいったいどう映ずるであろうか? よく覚えておくがいい、人類の奉仕を要求する権利は、高の知れた君主ごときにはないのだということを……」
ぐんぐん高くのぼって行ったロドリグは、ついに、無窮の空間に浮游する幾つかの遊星を認めた。そしてそれから、月、金星、水星、火星、土星、木星などが、いずれも地球のような一つの世界であることを、通りすがりに見てとった。
「けだかい鳥よ」と彼は言葉をかけた、「これらの世界には、われわれの地球と同じように、やはり人が住んでいるのだろうか?」
「地球の人間よりもずっとすぐれた者が住んでいる」と鷲が答えた。「彼らはあらゆる欲望において節度を守ることを知っているので、それらを満足させるために仲間同士で角突きあうようなことは決してないのだ。だから、そこには幸福な民しかおらず、暴君などというものは絶えて見られない」
「では、いったい誰がその民を統《す》べているのか?」
「彼らの美徳だ。悪徳をつゆ知らぬ人々には、法律も君主も不要なのだ」
「すると、その世界の人々は、わが地球の人類よりも多分に神の愛顧を受けているのだろうか?」
「神の前にはすべてが平等だ。元来、宇宙にばらまかれたこれら数多《あまた》の世界は、神の唯一の恵みの業によって生れ、二度目の業によって一挙に破壊されるべきものであれば、その栄光やその至福に多寡のあるはずはない。とはいえ、もしこれらの世界に住む人々の行いが神に対して冷淡であれば、神の方でも彼らをそれほど公平に扱う必要はないのではないか。正直者に対する報酬を、神がいつも頭の中におぼえていなければならない義理はあるまい」
わが旅人は、こうしてだんだん太陽に接近して行った。だから、もし王の身のまわりを包んでいた魔法の効力がなかったならば、放散する矢のようなこの太陽の光線にまともに耐えることは、彼にとって不可能であったにちがいない。
「この光り輝く球体は、どうやら他の星々より一段と大きな星に見えるが」とロドリグは言った、「大空の王者よ、この星について、おれに何か説明を与えてはくれないか、お前はこの星の上を自由自在に天翔《あまか》けることもできるのだろう」
「この至高なる光の中心は」と鷲が答えた、「わが地球から三万里ほど隔たったところにある。そしてわれわれは、現在、地球の軌道から隔たること百万里の一点にいるわけだ。どうだ、わずかの間にずいぶんと高く上ったものだろう。なにしろこの星は地球の百万倍も大きいのだが、その光は八分で地球に達するのだ」
「この星、近づくにつれておれは怖ろしいような気がしてくるが」と王はさらにたずねた、「いったいこの星は、いつも変らぬ実体を有しているのだろうか? 永久不変ということがあり得るだろうか?」
「そんなことはない」と鷲が答えた、「そもそもこの星は、回転する球状体の内部に時々刻々落下する幾多の彗星《すいせい》によって出来ている星なのだ。そしてこれらの彗星が、失った熱をつねに挽回する役目を果しているわけだ」
「おれの眼《まなこ》をおどろかしむるそうしたすべての天体の仕掛を、ひとつ委曲をつくして説明してはくれないか」とロドリグは続けて言った、「何しろ迷信家でおまけに根性曲りのわが司祭どもときた日にゃ、おれたちに荒唐無稽のことしか教えてはくれなかった、真理なんぞは薬にするほども、やつらの口からもれたためしはなかったものだ」
「舌先三寸で渡世している山師どもが、真理など口にのぼす道理がないではないか? まあ、おれの言うことを聴くがいい」と鷲は飛び続けながら、こう言った、「全遊星が惹《ひ》きつけられている引力の共通の中心は、ほぼ太陽の中心と称して差支えない。ところで、この太陽もまた、各遊星の引力に惹かれてはいるのだ。が、太陽が各遊星に対して及ぼす引力は、前者が質量において何層倍かすぐれているだけ、各遊星が太陽に及ぼす引力よりもすぐれているというわけだ。そしてこの至高の星は、多少とも遊星の引力を受けるに応じて、常住不断にその位置を変えている。この太陽のわずかな接近が、遊星相互のあいだに来たす変動を調整するわけだ」
「するというと」とロドリグが続けた、「この星の絶えざる変動が、自然における秩序を保っているというわけだな。要するに、天体の秩序を維持するためには、つねに無秩序が必要というわけだ。さように、世界において悪が有益なはたらきをするものならば、またどうしてお前はこれを抑圧せよなどと言うのだ? われわれの日々の無秩序から総体的な一つの秩序が生れ出ないと誰が断言し得よう?」
「いちばん小さな遊星の、そのまた小さな国の貧弱な国王よ」と鷲が叫んだ、「神の意思をあれこれ臆測するなど、お前のなすべきことではない。ましてや端倪《たんげい》すべからざる自然の法則を楯にとってお前の罪を弁明しようなど、沙汰の限りと言うべきだろう。お前には無秩序と見えるものも、自然が秩序に達するための一過程だと思えば大がい間違いないのだ。だから、そんなもっともらしい論理から、道徳的帰結をみちびき出すことはよしたがいい。自然を吟味した結果、お前の心に何か割切れないものが残ったとしても、それが確かに無秩序であるかどうかは少しも証明されはしない。それに、お前は自分の経験から、人間の罪が災いしかなし得ないことを承知しているはずだ」
「ところで、これらの恒星《こうせい》にもやはり人が住んでいるのだろうか、われわれが近づくにつれて、この球状体の限界は果しもなく拡がって行くようだが?」
「もちろん、人は住んでいる。たとえこの発光球体が地球から隔たること、地球から太陽への距離の四十万倍としても、まだまだそれより遠く、われわれの肉眼では認めがたい無数の星があるのであって、それらの星にもやはり、お前の見た恒星や遊星と同じく、人々が住んでいることに一向変りはないのだ。だが、おれたちもそろそろ限界に近づいた。おれはもうこれ以上、高く飛ぶわけには行かない」そう言って鷲は、再び地球に向ってぐんぐん舞いおりはじめた。「お前の見たものすべてが、ロドリグよ、お前に偉大な神の観念を与えるよすが[#「よすが」に傍点]ともなってくれれば幸いだ。罪がこの観念に近づくことをお前に禁じてしまってから、すでに久しい」
この言葉とともに、鷲はアジアの高山中の最高峰のひとつに、さっと舞いおりた。
「いまおれたちは、先刻お前を乗せた場所から千里ばかり離れたところにいるのだ」とユピテルの友なる鳥が言った。「さあ、ひとりでこの山を降りるがよい。お前の探しているものは、この山の麓《ふもと》にある。早く行かぬとなくなってしまうぞ」
ロドリグは、鷲がその上に彼をおろした、切り立つような岩から素早くおりた。山の麓に来て見ると、そこに、格子の閉まった一つの岩穴があった。そしてこの岩穴を、身の丈十五尺以上もある六人の巨人が守護しているのであった。
「ここへ何しに来たか?」と巨人の一人が詰問した。
「この岩穴のなかにあると聞いた金銀財宝を取りに来たのだ」とロドリグは答えた。
「それにはまず、そこへ行きつく前に、おれたちを六人とも打負かしてしまわなければなるまいぞ」と巨人が応じた。
「好敵手ござんなれ」と王は答えた。「さあ、おれに武器を貸せ」
楯持があらわれて、すぐさまロドリグに武具を装わせた。剛毅なスペイン人は勇気|凜々《りんりん》として、まず最初に向ってきた相手と撃ち合ったが、勝利を得るにはものの数分で十分だった。二番目の相手が近づいたが、これもまた、ロドリグに撃ち倒された。こうして二時間足らずの間に、ロドリグは一人残らず敵を打破ってしまったのであった。すると、
「暴君よ」と、先刻から時々聞えた例の声がまた叫んだ、「お前の最後の栄誉を楽しむがよい。スペインでお前を待っている結末は、おそらくこれほど華々《はなばな》しいものではないだろう。天運の命数はすでに尽きているのだ。岩穴の宝を手に入れたとしても、畢竟《ひつきよう》それはお前の破滅にしか役立たないだろう」
「何だと! ではおれの勝利はすべておれの敗北を招致するものでしかないというのか?」
「神の御心を専断するのはよしたがいいぞ。とにかく、神の命令は動かしがたいのだ。人知のよく及ぶところではないのだ。ただ、このことだけは知っておくがいい、思いがけない隆運は人間にとって、いつもその不幸の確実な前表でしかないのだ」
岩穴がぱっと開いた。ロドリグはそこに巨万の金銀を見出した。すると、軽い睡気が彼の五官をとらえた。そして、眼が覚めたとき、彼は呪縛の塔の入口にいるのだった。彼のまわりには、かつての彼の朝臣たちと、金銀を満載した車が十五輛ほど並んでいた。王は歓喜して旧友たちを抱擁した。そして、いままで自分は人間の想像を絶したことにぶつかり通しだったと、彼らに語って聞かせた。また、自分がいなくなってから、どのくらい時日が経過したかと質問すると、
「十三日でございます」と一人の家臣が答えた。
「こりゃどうじゃ」王は唖然とした、「おれには五年以上も旅を続けたような気がするが」
言いつつ、彼は一頭のアンダルシア馬に飛乗るや、ただちに敵の手に渡ったトレードの地を奪回すべく、馬を駆って塔をあとにした。ところが、彼が百歩と行くか行かないうちに、霹靂《へきれき》一声鳴りひびくのが聞えた。ロドリグが振返って見ると、かの古代の塔は、まるで一本の箭《や》のように、宙に舞いあがり飛んで行くところであった。王はしかし、依然として王宮に向って疾駆し続けた。頃はよかった、すべての州が蜂の巣を突ついたように浮足立って、すでにモール人にその城門を開いていた。ロドリグはただちに一大兵力を起し、みずからその先頭に立って敵に向い、コルドバの近くでこれを迎え撃った。戦闘は八日間継続した。言うまでもなく、かつて両スペインの地で行われたもっとも血なまぐさい戦闘であった。移り気な勝利の女神は、二十たびロドリグにほほえみかけ、二十たび、意地悪くもその微笑を跡かたなく消した。いよいよ戦闘の最後の日、ロドリグは手勢のありったけを糾合して、一挙に勝利の栄冠をわが手に握らんと画策した。そのときである、一人の勇士があらわれて、彼に一騎打の勝負を申し込んだ――。
「おのれ、何やつだ」と王は威丈高にたずねた、「特別の情けをもって相手となってやるからには、名を名乗れ」
「モール軍の隊長だ」と戦士は答えた、「いたずらに彼我の血を流すのもすでに厭《あ》いた。もうそんなことはやめにして、一挙に雌雄を決しようではないか、ロドリグ。民草の命が主権者の微々たる利害関係によって、こうまで犠牲にされてよいものか? 君主間に仲たがいが生じた場合は、彼ら同士がみずから決闘すればよいのだ。そうすれば、争いがこんなにも長びくことはないであろう。さあ、尋常に勝負しろ、スペインの勇者。貴公の槍と拙者の槍と、いずれが長いかお試しあれ。われら二人の勝れた方を、今日のいくさの勝利者としよう。異存はないか?」
「おお、もとよりじゃ」とロドリグは答えた、「おれとしても、有象無象の雑兵相手に久しく戦うよりは、しかるべき相手と戦って一挙に雌雄を決した方がどれだけよいか分らぬわ」
「しからば、貴公、このわたしが怖くないのか?」
「怖いどころか、そんな腰抜け侍は見たことがない」
「いかにもわたしは、かつて貴公のために一敗地にまみれた。ロドリグよ、しかし貴公は、もはや勝利の栄光に包まれたかつての日のスペイン王ではないのだぞ。貴公はもはや王宮の奥で、破廉恥な快楽に身をまかせては憔悴《しようすい》し、家来どもの血を流しては堪能し、娘たちの貞操を奪っては楽しんでいた、かつての日のスペイン王ではないのだぞ……」
この言葉とともに、二人の戦士はおのおの地歩を取ってさっと身構えた。全軍の眼がこの二人に注《そそ》がれた。彼らは近づき、はげしくぶつかり合い、火花を散らして応酬し合った。やがて、ついにロドリグは地上に撃ち倒され、無念の砂をかみ、あわや、この勇壮な敵に止めを刺されるかと見えた。そのとき戦士は彼に飛びかかって、相手の兜《かぶと》を持ちあげるなり、こう言った、
「息の絶える前に、そなたの勝利者の顔をしかと拝んでおくがいい」
「や、その顔は!」とスペイン人は驚きの声をあげた。
「ふるえているな、弱虫め。生涯の末期に、もう一度フロランドにあうだろうと、かつてわたしが言ったのをそなたは覚えているか? そなたの罪の汚れを受けた天は、そなたを懲《こ》らし息の根を止めに行くために、とくにわたしに黄泉《よみ》の国を脱け出すことを許し給うたのだ。見るがいい、かつてそなたの手によって貞操を奪われた者が、いまそなたの栄光、そなたの勝利を完膚なきまでに打砕くのだ。さあ、死ね、不幸というもおろかな王よ、そなたの例は、世の王侯に対するよい教訓じゃ。権力を固めるにはただ美徳のみによらねばならぬこと、そなたのように権威を濫用する者は、早晩天の裁きの庭においてその大悪の罰を受けねばならぬことを、それは何よりもはっきりと明すだろう」
スペイン軍は逃走した。モール人たちは国中を占領した。かくて彼らは一時期スペインに覇《は》を唱えたが、それもやがては、似たり寄ったりな君主の罪に起因した別の革命によって、今度こそ永久にスペインから追っ払われてしまったのであった。
[#改ページ]
オーギュスチィヌ・ド・ヴィルブランシュ あるいは 恋のかけひき
「ありとあらゆる自然の倒錯のうちで、古来もっとも論議の的となって来たもの、とんと理解は及ばぬくせに万事に首を突っ込み分析したがる例の半可通の哲学者輩にはもっとも奇態なる事実とされて来たもの、それこそは、ある種の体質、ある種の気質に生れついた女たちが同性に対していだくあの奇妙な愛慕の情ですよ……」とある日、親しい女友達のひとりに向ってこう語っていたのは、たまたま機会を得て作者が以下にその人となりを述べんとしているところの、ド・ヴィルブランシュ嬢であった。
「不朽の詩人サッフォ以前にも又その以後にも、こうした気紛《きまぐ》れな女たちの住んでいなかったようないかなる地方、いかなる町もこの地球上には存在しなかったのですし、それにこうした情熱の否応なくあらわれる以上、非難されて然《しか》るべきなのは女たちの自然に悖《もと》る罪よりも、むしろ自然の気紛れそのものであるように思われますのに、世間の人々は彼女たちを責めることをいっかなやめませんでした。だから、あたしたち女性に昔からそなわっていた隠然たる勢力というものがなかったならば、たとえばキュジャッス、バルトール、ルイ九世らのごとき有名な法律家たちは、もののあわれ[#「もののあわれ」に傍点]を知ったこれら不幸な女たちに対して火炙《ひあぶ》りの刑を設けることに考え及んだかもしれないわ。事実彼らは、同様に異常な素質をもって生れて来た男たちに対しては、そのような刑罰を加える旨のお布令《ふれ》を出すことに少しも躊躇しなかったのですからね。男たちにして見れば、もちろん歴とした理由から自分たち同士のあいだだけで欲望の満足を弁じ得ると信じていたのだし、繁殖にとって絶対必要な両性の混淆《こんこう》も快楽にとってはさして重要性を持たないはずだと考えていたわけなのでしょう。それにしても、よくぞ女に生れたものだわ……あたし、本当にそう思うの。ね、あなた……」こう言って美しいオーギュスチィヌ・ド・ヴィルブランシュはその女友達に接吻の雨を注ぐのであった。思いなしか、それはいささか怪しげな風情《ふぜい》の接吻であった。彼女は語を継いだ、
「でも当節では、火炙りも軽蔑も嘲罵もなきが同然、あらゆる攻撃の鉾先《ほこさき》はすっかり鈍磨しているのであってみれば、こうまで完全に社会に対して無関係な、神に対して無頓着な、そして自然に対しては恐らく案に相違して有益なこの行為において、人がおのおの好きなように振舞うのは一向差支えない、至極当然なことじゃないのかしら?……これが堕落だとしても、何の怖れるところがありましょう?……そりゃ何事も達観しているような人の眼には、あるいはこうした現状は更に由々しい堕落の先触れであると見えるのかもしれないわ、でも、それが危険をもたらすべき性質のものであると、果して誰があたしに証明し得ましょう?……いったい、こうした男女の気紛れが世界を滅亡にみちびくとて、世間は心配しているのでしょうか? 彼らが貴重な人類を競売《せりうり》に供するからとて、また、彼らのいわゆる罪なるものが生殖を度外視することから人類を絶滅せしめるであろうとて、世間は心配しているのでしょうか? そこをよく考えて見る必要があるわ、そうすれば、すべてこうした被害|妄想《もうそう》は自然とは何のかかわりもないということ、自然は彼らを罪に落すどころか、幾多の例がわたしたちに証明している通り、逆に彼らを望み欲しているのだということが分るでしょうよ、だって、もしこうした被害が自然の怒りを招くものであったり、もし子孫繁殖が自然にとって一番大事なことであったりするならば、なぜ女はその人生の三分の一しかこれに奉仕することができないように作られているのでしょう、なぜ自然の子であるわたしたち人間の半数もが、その支配の手を脱して、自然の要求であるべきはずの子孫繁殖とは丸きり反対の趣味をもっていたりするのでしょう? むしろこう言えばよいのだわ、自然は種の繁殖を許す、しかし決して要求しはしないとね。どんな時代になっても自然が必要とする数以上の人類がきっといるわ。よしんば常住繁殖にたずさわらず、こうした慣習に従うのを毛嫌いする傾向の人々がいたところで、自然というものはそんなことに気を悪くするようなものじゃないわ。ああ、自然、この慈悲深き母をわたしたちは好きなようにさせておきましょう。自然の源は無限であって、わたしたちごときがどうしゃちほこ立ち[#「しゃちほこ立ち」に傍点]したところでこれを侵すことはできないのだということ、また、自然の掟を損うなぞという大それた罪は決してわたしたちの力の及ぶところではないのだということを、肝に銘じておきましょう」
以上御覧のとおりがオーギュスチィヌ・ド・ヴィルブランシュ嬢の論理の一斑である。齢《よわい》二十六歳にして彼女はすでに独り立ちの身となり、年金三万リーブルを自由にすることができたが、みずから決するところあって好んで結婚しなかった。彼女の生れは、名門と言えないまでもりっぱなものであり、インドで一身代築いた男の娘であった。この男は子供には彼女しか恵まれず、一人娘を嫁にやることもできぬうちに死んでしまった。この父親の存在を軽々に看過してはいけない、彼こそは先刻オーギュスチィヌが弁明にこれつとめたところのあの一種の気まぐれな趣味の所有者で、彼女が婚姻ということに対して表示していた嫌悪の情と徹底的に相通ずるものをもっていたのである。躾《しつけ》からか、教育からか、体質あるいは血の気からか(彼女はマドラス生れであった)、自然の啓示からか、理由はともあれヴィルブランシュ嬢の男嫌いは甚だしかった。すなわち、お上品な耳がサッフォ風《ぶり》という言葉によってその意を通ずるところの趣味に耽溺《たんでき》していた彼女は、同性との交渉においてしか快楽を見いださず、彼女が愛神《アムール》に対して懐いている軽蔑の念は姉妹神《グラス》との交渉においてしか償《つぐな》われ得なかったのである。
オーギュスチィヌは世の男性たちにとってはまことに惜しむべき損失であった。大柄な、絵にこそ描かれて然るべき肉体、栗色の、こよなく美しい髪、こころもち彎曲した鷲鼻、壮麗な歯並び、表情に富んだ輝かしい双眸《そうぼう》、そして肌理《きめ》こまかな雪の肌、これらすべてが一言にして言えば実に目覚しい一種の色気を形づくっていたので、当然のこと世の多くの男性たちは、これほど愛を捧げるにふさわしく生れついている彼女が、実はその愛をまったく受けつけない性《さが》の女であるのを知って、思わず限りない嗟嘆の言葉をこの忌まわしい趣味に対して浴びせかけないわけには行かないのであった。元来この趣味はきわめて単純なものなのだが、何にせよパフォスの祭壇に供えるに丁度頃あいなこの世の女人が一人むざむざ奪われることになるので、きまってヴィナスの寺院の信奉者たちをがっかりさせる態の結果にならざるを得ないのである。ヴィルブランシュ嬢はすべてこういった非難、こういった悪口をどこ吹く風と笑い飛ばし、相も変らずその気紛れに耽溺していたことだった。
「何がばかばかしいって、あたしたちが自然から享《う》けた性向を恥じるくらいばかばかしいことはないわ」と彼女は言うのであった、「風変りな趣味の持主を嘲笑することは、母親の胎内から片目か跛で生れて来た男や女を冷やかすのと同じくらい、ぜんぜん野蛮なことですよ。それでもこのもっともな原理を馬鹿者どもに説得するとなると、どうして天体の運行を止める企てにひとしいのだわ。自分にない欠点を嘲笑することには、自尊心を満足させる一種の快楽があるのね。そうしてこうした慰みは、人間、ことにも馬鹿な人間にとっては、言おうようなく心よいものと見えて、一度覚えたらなかなか棄てがたいらしいのね……それがまた悪口や、意地の悪い利いた風な言葉や、つまらない駄洒落《だじやれ》などを飛ばさせることにもなるのだけれど、とにかく社会、つまり人が退屈の故に集り愚かさの故に堕落する人間の集団にとっては、二、三時間愚にもつかぬことをしゃべり散らしたり、他人を傷つけて自己をひけらかしたり、またわが身の上には縁の遠い他人の忠節を攻撃しつつ揚言したりすることなどが、実に何とも甘美なことらしいのだわ……まるで暗黙のうちの一種の自画自賛というわけね……おまけにこうした代償を払って彼らは進んで烏合《うごう》の衆となり、個人――つまりその最大の欠点が一般の人間のような考え方をしない人間――を踏みつぶそうと徒党を組むのだわ。そして自分の持合せた精神というやつにげっぷが出るほど飽満して、自分の殻に閉じこもるわけだけれど、その実彼らはかかる振舞いによって、たかだか虚栄心と低能ぶりとを証明したにすぎないのよ」
ヴィルブランシュ嬢はこんな風に考えていた。もとより世間の思惑などにわずらわされまいとする決意は固く、ひとの噂《うわさ》など風馬牛で、超然として自足の生活を送れるほど十分財産に恵まれていた彼女であったから、一途に官能的生活をエピキュリアンらしく追うことを心がけ、みずから信ずるところの少なかった天上の福音とか、さらに彼女の意識には根も葉もないものと映じるばかりであった霊魂不滅の思想とかに至っては、一|瞥《べつ》だにくれようとはしなかった。そして志を同じくする女たちの小さなグループに取囲まれて、わが愛すべきオーギュスチィヌは歓ばしい快楽に無心に身を委ねていたことであった。
彼女に憧《あこが》れる男たちは大勢いたが、彼らはひとしくすげない扱いを受けるのみで、ついにこの女をものにすることには誰しも匙《さじ》を投げんばかりの形勢にあった。あたかもそのとき、フランヴィルという名の、身分財産ともに彼女とほぼ同じくらいな若い男が、これはもう気違いのように彼女にほれ込んでしまって、女のつれない仕打ちにも業を煮やさぬばかりか、難攻を誇る彼女の城塞《じようさい》といえども決してそのまま打棄てては置くまじと心底から誓いを固めてしまったのである。で彼はその計画を友人にもらしたところ、友人は彼を冷笑した。彼はきっと成功して見せると主張したが、彼らは馬鹿なことをと鼻であしらった。彼は計画に着手した。
フランヴィルはド・ヴィルブランシュ嬢より二つ年下で、ほとんどまだ鬚《ひげ》も生えておらず、極めてしなやかなからだつきと優しげな容貌と、それに類《たぐ》い稀れな美しい髪の毛とに恵まれていた。だから彼に少女の装《なり》をさせるというと、これが実によく似合ったもので、きまって男も女もまんまと眼を欺かれ、ある者はもうのぼせあがってしまい、ある者は自分の腕の見せどころとばかり、いずれにしてもさまざまな恋の口説《くぜつ》の一くさりをどっさり聞かされるほどであったから、ともすると彼は同じ一日のうちに、かのローマ皇帝ハドリアヌスに愛されたアンチノウスのごとき男にも、あるいはまた美女プシケにふさわしいアドニスのごとき男にも二つながらなることができたであろうと思われた。フランヴィルがヴィルブランシュ嬢を誘惑してやろうと思いついたのは、かかる扮装によってであった。さて彼が如何様《いかよう》に振舞ったかを、これから御覧に入れよう。
オーギュスチィヌのいちばん大きな愉《たの》しみのひとつは、謝肉祭《カーニバル》のあいだ男の服装をし、この彼女の趣味にいかにも似合った変装に身をやつしながら、あらゆる集会の席を跋渉《ばつしよう》することであった。かねて彼女の足どりを探らせ、それまで用心深く彼女の前に姿をあらわすことを厳に差控えていたフランヴィルは、ある日、目ざす愛人がその晩オペラ座の関係者たちによって催される入場随意の仮面舞踏会におもむくはずであること、そして、例によって彼女は龍騎兵大尉の服装で会に臨むことになっていることなどを聞き知った。そこで彼は女に変装して身を飾らせ、粋を凝らした入念なおめかしに、こってりと紅を刷き、仮面はかぶらず、彼自身よりははるかに美しからぬ妹たちの一人に付添われて、愛すべきオーギュスチィヌがひとえに好運を求めてやって来ているはずの集会へとおもむいた次第であった。
フランヴィルは広間をものの三回と回らぬうちに、早くもオーギュスチィヌの慧眼《けいがん》に識別されるところとなった。
「あの美しい娘さんはどこの方かしら?」とヴィルブランシュ嬢は連れの女友達に言うのだった……「ついぞ見かけた覚えもないわ。あんないい娘《こ》がどうしてまた、いままであたしたちの眼をこぼれていたのかしら?」
こう言い終りもせぬうちに、オーギュスチィヌは直ちに、フランヴィルが演じている贋《にせ》の令嬢と話を交えるためのあらゆる努力を試みた。が、フランヴィルは最初のうちは彼女からのがれ、身をかわし、避けるのであった。相手の渇望《かつぼう》する心をいよいよ激しく燃え上らせるための、これは手段である。そのうち、とうとうオーギュスチィヌは彼に近づいて、まず当り障《さわ》りのない言葉で会話を取結んだが、話題は次第に興味津々たるものになって行くのであった。
「広間はひどい暑さですねえ」とヴィルブランシュ嬢が言った。「踊りたい人には踊らせておいて、僕たちはあっちの部屋に少しく暑さを冷ましに行くとしませんか、遊んだり涼んだりできるお部屋があるんですよ」
「まあ!」とフランヴィルは相変らず相手を男と思い込んでいる風をして、「でもそんなわけには行きませんわ、連れは妹だけですけれど、もうじき母が将来あたしの夫になる人と一緒に来ることになっているのですもの。もしあなたと御一緒なところを誰かに見つけられでもしたら、それは大変なことになりますわ……」
「なあに大丈夫。そんな子供っぽい怖がりは早く卒業してしまわなければ駄目ですよ……いったいあなたはお幾つです、天使のようなお嬢さん?」
「十八ですわ」
「ふうん! 十八歳にもなれば、何でも自分の好きなことをしてよい権利があるはずでしょうがね……さあ、僕についていらっしゃい、何にも怖がることはありませんよ……」
フランヴィルは誘われるがままにつき従った。オーギュスチィヌは相変らず相手を娘とばかり思い込んだ様子で、広間に接した小さな部屋に彼を導き入れると、こう言葉を継いだ。
「ああ、あなたは何て美しいのだ……いったい、あなたはほんとに結婚なさるのですか?……何という残念なことだろう……それにしても、あなたにきまった相手というのはどんな奴だろう、きっと退屈な奴だろうな……ああ、運のいい奴もあればあるものだ、僕はその男の立場に立って見たいとつくづく思わずにはいられない! ねえ、あなたは、例えば僕が結婚してくださいと言ったならば、承諾してくださる気はおありでしょうか、率直におっしゃってください、美しいひと」
「ああ、あなたは御存知ですわ、若い娘に心のおもむくままの振舞いができるものでしょうか」
「ふん、そんなら拒絶すればいいのです、その横着者を。僕たちはもっとねんごろな仲になりましょう。そしてもしお互いに意気投合したら……僕たちが一緒になれないわけはないじゃありませんか? 有難いことに僕は誰の許可をまたなくてよい身の上なんです……まだやっと二十そこそこですが、財産は僕の自由になるので……ですからあなたさえ僕に御両親の信用を得させてくだされば、それこそ一週間のうちに僕たちは永遠の絆《きずな》で結ばれる身の上にもなれるのですよ」
おしゃべりしながら二人は広間を出た。オーギュスチィヌは元より尋常な愛を語ろうために獲物《えもの》をおびき出したのではなかったから、そこは抜け目なく、かねて舞踏会の主催者たちとのあいだに約束の上で、いつも彼女の自由に使用できるように取りきめてあった離れの一部屋に相手を導くだけの配慮は万々忘れなかった。オーギュスチィヌは扉を閉めると、やにわにフランヴィルを腕の中に抱きすくめた。
「ま、何をなさいます!」とフランヴィルは叫んだ、「あなたと二人きりじゃございませんか、それにこんな離れた場所で……離してください、離してください、お願いです。さもないと今すぐ人を呼びますよ」
「それができないようにしてあげる、神々しい天使よ」とオーギュスチィヌはその美しい口をフランヴィルの唇の上に押しあてながら、「さあ、叫んでごらんなさい、できるものなら叫んでごらんなさい。いくら叫んだって、薔薇《ばら》の香がするあなたの清らかな吐息が、さらに僕の心を燃え立たせるだけのことですよ」
フランヴィルは弱々しげに抵《あらが》った、何と言っても熱愛している相手から、かくも優しい最初の接吻を受けるとき、怒りを発することはなかなかできにくかったのであろう。かよわい抵抗ぶりに勇気を得たオーギュスチィヌは、さらに激しい攻撃の手を加えた。それはあの気紛れな趣味に耽溺しているデリケートな女性のみがひとりよく心得ている奔放自在な攻撃ぶりであった。ほどなく手が相手の体の上をさまよいはじめた。フランヴィルは征服される女の役を演じつつも、その手をやはり相手の体の上にさまよわせていた。互いの着物はすっかりはだけられた。そして指先がほとんど同時に、おのおののここぞと思う場所に向って伸びて行った……と、そのとき、いきなり自分の役目を変えたフランヴィルが、
「や、これはしたり、あなたは女なのですね……」と叫んだ。
「いやらしい人」とオーギュスチィヌは、もう義理にも錯覚をいだくわけには行かない男のもの[#「もの」に傍点]の上にその手を置いて、こう言うのであった、「何ということでしょう、さんざん苦労のあげくにやっと手に入れて見れば、こんな無頼漢だったとは……よっぽどあたしには運がないんだわ」
「いや、運がないのは僕の方だ」フランヴィルは衣紋《えもん》をつくろい、あからさまな軽蔑の念を顔にあらわして言うのだった、「僕は変装して男を誘惑するつもりだった。僕は男を愛し、男を求めているのに、たまたまぶつかったのがいやしい娼婦《しようふ》だったとは……」
「まあ失礼な、あたし娼婦なんかじゃありません」とオーギュスチィヌは言葉を荒らげた、「男を毛嫌いしている女が娼婦呼ばわりされる筋合はないわ……」
「何ですって、あなたは女のくせに男がお嫌いなのですか?」
「ええ、そうよ。あなたが男でありながら女を毛嫌いするのと御同様の理由でね」
「いや、そいつは奇遇だ。そうとしか言いようがない……」
「あたしとしては呪われた邂逅《めぐりあわせ》よ」とオーギュスチィヌは露骨に不機嫌な顔色を見せて言うのだった。
「まったくだ、僕としても実に厭気《いやけ》のする鉢合せだ」とフランヴィルはかんで棄てるように言い、「これで三週間僕の面目は丸つぶれだ。僕たちのあいだでは、女には絶対手を触れないという誓いが交わされているのですからね」
「あたしのような女に手を触れたからって、それで不名誉になることはないと思うわ」
「ふざけちゃいけませんよ、お嬢さん。そんな例外な理由がどこにあるものですか。悪徳があなたに特別な格づけをしているというわけでもなし……」
「悪徳ですって?……まあ、あなたはどの面《つら》さげてあたしを非難なさるの? 自分こそ恥ずべき行為の張本人じゃなくって?」
「まあまあ喧嘩はやめましょう」とフランヴィルは言った、「僕たちは二人とも酔狂な人間なんだ。いちばん簡単なのはこのままお別れして、二度と会わないようにすることですな」こう言いながら、フランヴィルは扉を開けようとした。すると、
「ちょっと待ってちょうだい」とオーギュスチィヌがその手を押えて言った、「あなたはきっと、あたしたちの珍妙な鉢合せをみんなに言い触らすおつもりなんでしょう、いかが?」
「そうかもしれません、いや、楽しみにしておる次第です」
「どうぞ御勝手に。よくしたもので、あたしは世間の噂なんぞ平気の平左よ。さあ出てお行きなさい、そして何とでも言い触らしたがいいわ……」
しかし彼女はふたたび男を押し止めて、微笑しながらこう言うのであった。
「それにしても、この事件はずいぶん妙だと思わない?……あたしたちは二人ともまんまと一杯食わされたわけなのねえ」
「ふん! こういう失敗は僕らのような趣味の者にとっては、あなたがたの場合よりも数倍深刻な打撃ですよ。満たされない思いのこの味気なさと言ったら……」
「お言葉ですけどねえ、あなた、あたしたちだってあなたがたのような相手にぶつかりゃ、少なくとも同じくらい味気ない思いをするのよ。実際、味気なさに変りはないわ……でも、この事件がとにかく愉快な事件だってことは、あなただって認めないわけには行かないでしょう……あなた舞踏会におもどりになるの?」
「さあ、どうしたものですか」
「あたしはもうもどらないわ」とオーギュスチィヌは言った、「あなたのおかげで色んな目にあって……すっかり気分がこわれてしまったわ……あたしもう寝ちゃうの」
「それがいいでしょう」
「ねえあなた、あなたにはあたしを家まで送って来てくださるだけの親切気はないこと? うちはすぐ近所よ。あたし車がないの。あなたはあたしを見棄てて行っておしまいになる気?」
「どう致しまして、喜んでお伴しますよ」とフランヴィルは言った、「僕らの趣味は慇懃《いんぎん》を尽すことを妨げるものではありません……手をおかししましょうか、さあ」
「ほかに借りる手がないときは、あなたのお手だって重宝させていただかにゃなりませんわね」
「僕としては、ただエチケットからおかししているにすぎないのですからね、間違えないでください」
二人はオーギュスチィヌの家の門口に着いた。フランヴィルは暇乞いをしようとした。すると、「ほんとにあなたは感じのいい方ね」とオーギュスチィヌが言った、「おや、あなたはあたしを道ばたに置去りにして行っておしまいになるの?」
「これは失礼」とフランヴィルは言った、「そんなつもりじゃありませんでした」
「ああ、女嫌いの殿方というのは不粋なものねえ!」
「それというのも、お嬢さん」とフランヴィルは彼女の部屋まで送って行きながら、「それというのも、僕としては一刻も早く舞踏会に取って返して、この一世一代の不覚を償いたいと思う心の切なるものがあるからなのです」
「一世一代の不覚ですって? じゃあなたは、あたしと出くわしたことをそんなに悔んでいらっしゃるの?」
「そうとは申しませんがね、でも僕たちはお互いにもっと好い相手を見つけることができたかもしれないでしょう?」
「そりゃそうね」とオーギュスチィヌはとうとう自分の部屋に入ってしまって、「そりゃそうだわ、特にあたしの場合は……あたし何だか気が気じゃないのよ、この不吉な回り合せがあたしの一生の幸福を台なしにしてしまうんじゃないかしらって……」
「何ですと、じゃあなたは御自分の感情に確信が持てないのですか?」
「昨日まではそうだったんだけれど……」
「ほう! あなたは御自分の信条を大切になさらないのですね」
「大切なものなんか何にもないわ、あなたはどうしてそうあたしをじらすの?」
「それじゃ僕は帰ります、お嬢さん、帰りますとも……これ以上永くあなたのお邪魔はしたくありませんから」
「いいえ、居てちょうだい、命令よ。一生に一度ぐらいおとなしく婦人の命令を聴いたっていいでしょう?」
「やむを得ませんな」とフランヴィルは女の意に添うために腰をおろした。「さっきも言ったとおり、僕は親切なので……」
「それはそうと、あなたぐらいのお年でそんな倒錯した趣味を持っていらっしゃるなんて、ずいぶん恥ずかしいことだとはお思いになりません?」
「あなたにしたって、そのお年で、そんな風変りな趣味をお持ちなのが決してごりっぱなこととは思いますまい?」
「ああ、それは問題が別よ。あたしたちの場合はね、慎み深さ、純潔の問題なのよ……何なら自尊心と言ってもいいわ。つまり、もっぱら征服欲からあたしたち女性を誘惑せんとする男性に身を委せることを怖れる気持よ……とはいえ女性にだって欲望がないわけじゃないんだから、あたしたちは結局あたしたち同士のあいだで補いをつけるということになるのだわ。それにまた、あたしたちは人目を忍ぶこともできるし、その結果しばしば一種の知恵が要求されて来るので、御覧のとおり、いつだって自然は満足し、礼儀はちゃんと守られ、風俗はちっとも乱れやしないわ」
「なるほど見事な詭弁ですね、そんな風に考えりゃ何だって正しいということになってしまうでしょうよ。いったい、そのあなたの理屈はわれわれ男性のための言訳にはならないものでしょうかね?」
「ぜんぜん駄目。あなたがた男性はまるで違った偏見を持っていて、女性の恐怖心には縁もゆかりもない存在ですもの。あなたがたの勝利はとりも直さずあたしたちの敗北……あなたがたは多くの女を征服すればするほど、ますます名声を高めるというわけ。だからあなたがたがあたしたち女性によって喚び起される自然の情をにべもなく突っぱねるとすれば、それは悪徳からか、堕落からか、それ以外にないわ」
「何だか僕はあなたのおかげで宗旨変えをしそうな気がしますよ」
「そうなってくれれば幸いだわ」
「でもあなた自身行いを改めなければ、僕を宗旨変えさせたところであなたに何の得るところがありましょう?」
「女性としての義務からよ。あたしは女を愛しているから、女性一般のために尽すことが嬉しいのよ」
「かりに奇跡があらわれたとしても、その効果はあなたが信じておられるほど全般的には及ばないでしょう。僕はよし改宗するにしても、せいぜい一人の女のためにだけしますね……試して見るために……」
「それは正しい原則ですわ」
「というのは、あらゆることを味わって見ずに一つの決断をすることには、必ず多少の偏見が伴うものと思うからです」
「まあ、あなた今までに女を知らなかったの?」
「一向にね。あなたとしたことが、偶然にしろこれほど確かな初物《はつもの》を手に入れたことはまずありますまい?」
「そう、ほんとにないわ……あたしの知っている女たちときたら、みんなこすっからくて嫉妬《しつと》深くって、手入らずかどうかさえ知る由もない始末よ……でも、あたしはまだ男を知ったことがない身ですわ」
「神かけて?」
「ええ。あたし男なんか見たくもないし、知りたくないの、あたしと同様風変りな一人の男を除いては……」
「僕が同じような誓いをしなかったのはまことに残念ですな」
「まあ、それ以上失礼な言い草があるかしら……」こう言ってヴィルブランシュ嬢はつと立ちあがり、御随意にお引きとりくださいとフランヴィルに言った。終始一貫冷静を持していたわが恋人は、そこで最敬礼をして出て行こうとしかけた。
「舞踏会におもどりになるの?」とヴィルブランシュ嬢は、こよなく激しい恋慕の情をこめて怨みがましく男を見やりつつ、素気なく言った。
「ええもどります、先ほども言ったと思いますが……」
「ではあなたは、あたしがせっかくあなたのために払った犠牲を無になさるのね」
「何ですって、あなたは僕のために何か犠牲を払ったとおっしゃるのですか?」
「あたしが家にもどったのは、不幸にもあなたという人を知って以来、もうほかの誰とも会いたくなくなってしまったからなのよ」
「不幸にも?」
「こんな言いかたをしなければならないのもあなた故だということがお分りにならない? そりゃあなた次第で、あたしだってもっと違った言葉を使うようになるかもしれないわ」
「そんなことをおっしゃって、あなたはそれと御自分の趣味とを、どう折合わすおつもりです?」
「愛しておりさえすれば、どんな趣味だって棄てることができるわ!」
「なるほどね、でもあなたには僕を愛することはできますまいよ」
「おっしゃるとおり、もしあなたがあのおぞましい習慣を、あなたのうちにひそんでいるあのおぞましい習慣を相変らず持ちつづけるなら……」
「それではもし僕がその習慣を棄てるなら?」
「あたしもすぐにあたしの習慣を愛の祭壇に捧げるわ……ああ! ひどいかた、女のあたしにこんなこと言わせるなんて……あたしの面目は形なしよ……」とオーギュスチィヌは涙にくれながら肱掛《ひじかけ》椅子によよと崩折《くずお》れた。そのとき、
「この世のもっとも美しい口から、僕は絶えて聞いたことのないもっとも甘美な愛の告白をかち得ました」とフランヴィルはオーギュスチィヌの膝もとに身を投げて言うのだった……「ああ! 僕の至上の愛の対象よ、僕はあなたを偽っておりました。どうか僕を罰しないでください。僕はあなたの膝もとで赦しを乞います。あなたが恕《ゆる》してくださるまでこうしております。あなたのおそばにいるのは、お嬢さん、もっとも実意ある、もっとも恋い焦がれた男なのです。僕はあなたの心の頑《かたく》なさを知って、これをわがものとするには是非ともこうした策略が必要だと信じたのです。僕は成功したものでしょうか、美しいオーギュスチィヌ? 罪深い恋人にお聞かせになった言葉を、いまあなたはこの罪咎のない恋人にお惜しみになるでしょうか?……罪深い恋人、そうです、僕はあなたを欺いたことで罪があるのです……しかし、ああ、あなただけにしか胸の炎を燃やさなかった男の魂のうちに、道ならぬ情欲が巣食っているなどとどうしてお考えになれますか?」
「悪いひと、あなたあたしをだましたのね……でもいいわ、許してあげるわ……それにしても、あなたはあたしのために何を犠牲にしたというのかしら、ひどいかた……これじゃあたし、もう昔のようにうぬぼれてるわけにも行かないわね。でもいいの、あなたのためなら、あたし何だって犠牲にするわ……そうそう、あたし、あなたの気に入るために、喜んであの不行状をあきらめるわ。実際、あたしたちの嗜好《しこう》もさることながら、虚栄がしばしばあたしたちをああした不行状におもむかせるものなのよ。あたしは自然の力の偉大さをつくづく感じるわ。今でこそあたしの心から厭わしく思っている偏癖、その偏癖故に、あたしは自然の力を抑圧していたのだわ。自然の威力に刃向うわけには行かないものね。自然はあたしたちをあなたがた男性のためにのみ造り、あなたがたをあたしたち女性のためにのみ造ったのね。自然の掟に従いましょう、自然は愛の器官そのものを通して、今日あたしにその掟を感得せしめたのだわ。自然の掟は今後あたしにとってさらに神聖なものになるでしょう。さあ、あたしの手を取ってちょうだい、あなた。あたしはあなたを真面目なかた、あたしの求婚者として生れて来た殿方だと信じるわ。もしあたしが一瞬間でもあなたの尊敬を失うようなことをしたというのなら、きっとあたし、親切や情愛の限りをつくしてわが身の非を償うわ。そして妄想の過失が必ずしも生れのよい魂を堕落させるとは限らないということを、あなたにきっと認めさせて見せるわ」
大願をきわめたフランヴィルは、美しい手に接吻し随喜の涙でこれをぬらしながら、ふたたび身を起すと、自分のために開かれた腕のなかに勇躍して飛込んで行った。
「おお、僕の人生のもっとも幸福な日よ!」と彼は叫んだ、「僕の歓喜に並ぶものとてはどこにもあるまい。僕はみずから善徳の懐に連れもどした女の心を、今後永久に僕のものとするだろう」
フランヴィルは何度も何度も、彼の至高の愛の対象たる女に接吻を与えて、別れを告げた。
翌日、彼はわが身の幸運をすべての友人たちに知らせた。ヴィルブランシュ嬢は結婚の相手としては上乗であったから、彼の両親はこの縁組を拒みはしなかった。彼はその週のうちに彼女を嫁に迎えた。情愛と信頼と、端正この上なき慎み深さと、厳格この上なき謙譲の美徳とが、ふたりの結婚生活を彩《いろど》った。かくて三国一の果報者となった彼は、もっとも放縦な娘をもっとも従順にしてもっとも貞淑な妻となし得る器量人ではあった。
[#改ページ]
寝取られ男 あるいは 思いがけぬ和解
育ちのわるい人々の最大の欠点のひとつは、つい締りなくぺらぺらと詰らぬことをしゃべったり、現に生きている人物の、しかも一面識とてない人の陰口をやたらに吹聴したりすることである。こうしたおしゃべりの結果としてどれほど多くの面倒が生じたか、われわれには想像もつかないのである。実際、口さがない馬鹿者に、面と向って自分に関係のあることの悪口をさんざん言われて見れば、どんなに育ちのよい人でも我慢しかねるのが普通であろう。世人は青年子女の教育において、かかる無遠慮軽率に対する戒めを十分に徹底させていない嫌いがある。世間とか、名誉とか、家柄とか、また人間のもろもろの付属物とか、そういった世渡りに必要なことどもを知らしむるための教育が十分行われていないようである。そしてその代りと言えば、分別のつく齢になると洟《はな》もひっかけなくなるような、愚にもつかないことどもをうんとこさ教え込むのだから世話はない。あたかも世間はフランシスコ派托鉢僧の教育に余念がないとでもいった有様だ。四六時中、神信心だの、心にもない礼儀作法だの、やくざな言行だのにばかりかかずらわっていて、道義の道には一向お構いなしである。これは決して言い過ぎではない、たとえば諸君がひとりの青年をつかまえて、社会に対するまことの義務とは何であるかときいて見るがよろしい、自己への義務、他人への義務、また幸福になるためにはいかに身を処すべきであるかなど質問して見るがよろしい。彼は諸君に答えるだろう、自分はミサに行くことを教わった、お祈りを唱えることを教わった、が、あなたのおっしゃるようなことはまるで教わったことがない、自分は踊りや歌を教わった、が、人間同士の生きかたについてはまるで教わったことがない、と。
さて、次に紹介する事件は、さいわい血を流すほどの大事には至らずに冗談で済みはしたものの、やはりこうした教育の至らなさが招いた不都合な事件ではある。されば読者諸子に今しばらくの御辛抱をわずらわして、ひとつこの事件を逐一語って見ることにしよう。
齢五十がらみのランヴィル氏はいわゆる粘液質と呼ばれる性格の男で、社交界に出ればきっと何か面白いことを言って一座の興を添えずにはおかない人々のひとりだった。機知にあふれた辛辣《しんらつ》な言葉と冷やかな話術でもって満座を哄笑させはするが、自分ではにこりともしない男。ひとりでむっつり黙っているかと思うと、急にその顔におどけた表情を作ったりする、彼こそは、頭のわるい退屈な饒舌家《じようぜつか》、つねに諸君に語り聞かせる話を用意していて、話し出す前からもう一人でにやにやしているといった風な、聴き手の額の皺《しわ》を一瞬間たりとも伸ばすことに成功せぬ、あの下手《へた》な饒舌家たちよりは、幾層倍もうまく仲間を楽しませる秘訣を心得ている人物であった。彼は徴税請負人組合でかなり大きな職に就いていた。かつてオルレアンで嫁を迎えたが、これが大へんな悪縁だったもので、その後心機を一転させるために、不貞の妻を当地に置去りにしてパリにのぼり、二万ないし二万五千リーブルの年金を食《は》みながら、さる美女を囲い、かつ親しい友人と交わって静かに暮しているのであった。
ランヴィル氏の情婦は正しく言えば処女《きむすめ》でなく人妻であったから、それだけに色っぽさが多分にそなわっていた。言うだけ野暮な話だが、姦通という一種ぴりっとした刺激はしばしば快楽に一層の味を添えるものなのだ。彼女は眉目《みめ》よき三十女で、稀れに見る肉体美の持主だった。平凡で退屈な夫と別れて彼女は田舎からパリヘ幸運をつかみに来たわけなのだったが、長いあいだこれとぶつかる機会に恵まれなかった。生来道楽者でつねに虎視眈々《こしたんたん》よき獲物をねらっている態《てい》のランヴィルが、こういう女をのがすはずはなかった。で、三年以来彼はこの女に、精神的物質的な多大の援助と心からなる待遇を与えて、かつての夫との不幸な結婚によって受けた若い女の心の傷手《いたで》をすっかり忘れさせてやっていた。ふたりとも似たり寄ったりの運命から結ばれた彼らは、相寄って慰め合っていたわけである。世に悪縁多く従って不幸が絶えないのも、欲に目がくらんだ愚かな親たちが、気質よりも財産を釣合わせて子供たちを縁組させるからにほかならないという――これは真理であるにもかかわらず世人の心を正すには至っていないが――この真理を、彼らは肝に銘じていたわけである。それが証拠に、ランヴィルはその女によくこう言うのだった、何の因果かお前は頓馬な亭主関白を、わたしは尻軽な女房を背負わされてしまったが、これがはじめからわたしたち二人一緒になっていたら、きっとこんなに長いあいだ茨《いばら》のなかをさまよわずとも、つい足もとに咲き誇る薔薇の花を摘むことができたろうに。
語るまでもない何かちょっとした用事があって、ある日ランヴィルは、ヴェルサイユと呼ばれるかの汚穢《おわい》と害毒にみちた村へ出掛けて行った。都でかしずかれるために生れて来た歴代の王たちが、王様王様と夜も日も明けぬ臣下たちのわずらわしさに堪えかねて、逃げて来るのがこの村である。野心、貪欲《どんよく》、復讐《ふくしゆう》、高慢の虜《とりこ》となった浅ましい人々の一群が、今を時めく人物に取入ろうとして、毎日のようにぞろぞろ集って来るのがこの村である。また、故郷へ帰れば大した羽振りを利かすにちがいないフランス華胄界《かちゆうかい》の選良が、忘却の雲間から一時《いつとき》浮びあがってはすぐまた消えて行くあのつまらない人物のひとりに面会を求めるために、控間で取次ぎの者にもみ手をしたり、卑しく門番の御機嫌を取結んだり、自分の家の食事よりもよっぽどまずい食事のお相伴を乞食のように嘆願したりしに来るのが、この村である。
さて、用事を済ますと、ランヴィル氏は例の溲瓶《しびん》と呼ばれている宮廷馬車のひとつに身を託したのであったが、そこで偶然にも相客となった男がデュトゥル氏であった。まるまると肥えたこの男は大へんなおしゃべりで、ひとを小馬鹿にしたような素振りをしていた。ランヴィル氏と同様徴税請負人組合の役人であったが、故郷オルレアンの管轄であった。ランヴィル氏の生地がやはりオルレアンであったことは先ほど述べたとおりである。会話がはじまった。しかしランヴィル氏は終始寡黙を守り決して自分の身分などをみだりに明かさなかったので、彼の方でまだほんの一言しゃべったかしゃべらないかのうちに、道連れの男の氏名、生国、用向きに至るまでこれを知りつくしてしまった。デュトゥル氏は自分に関することをすっかり明かしてしまうと、今度は世間話に鼻を突っ込みはじめた。
「ときに、あなたはオルレアンに居られたそうですな」とデュトゥルが言った、「たしか今そうおっしゃったと思いましたが?」
「もう昔のことですが、半年ばかりいたことがあります」
「じゃきっとランヴィル夫人という女《ひと》を御存知でしょう、オルレアン始まって以来の大淫婦《だいいんぷ》のひとりでしたがね?」
「ランヴィル夫人、なかなかの美人でしたろう?」
「いかにもその通りです」
「それなら知っています、社交界でお目にかかったことがありましたよ」
「なるほど。では申しますが、これは内々の話ですよ、実はわたしも彼女をもの[#「もの」に傍点]にしたことがあるんで。例によって三晩かぎりでしたがね。知らぬは亭主ばかりなりと言いますが、いやまったく、それはあの哀れなランヴィルのことですわい」
「すると、あなたはその亭主を知っていなさるのですか?」
「別にこれといって知っちゃいませんが、極道者でしてね、何でもパリで御存知の浮かれ女《め》や遊冶郎《ゆうやろう》の仲間になって、身代をつぶしたとかいう話でさ」
「わたしは彼を知りませんから何とも言いかねますが、しかし寝取られ亭主には同情を禁じ得ませんな。あなたはまさかそうではございますまいが?」
「どっちのことを言っておられるのです、寝取られですかい、それとも亭主ですかい?」
「お言葉ですがね、当節ではどっちをどっちと言いがたいくらい両者がぴったりと一致しておりますので、実際には区別もつかぬ始末ですわい」
「わたしは結婚している身です、結婚したにはしたんですが、不幸にも妻と折合いが悪うござんしてね、妻の性格がどうもわたしには気に入らんのです。で、わたしたち夫婦は合意の上で別居しましたよ。妻はサン・トールの修道院にいる親戚の尼さんと一緒に世を捨てて暮すため、パリに行きたいと申すのでした。現在彼女はその修道院にいるはずです。ときどきわたしに便りをくれますが、とんとこのところ会ってはおりません」
「奥さんは信心家なのですな?」
「とんでもない、そんな女でしたらまだよかったのですが」
「ははあ、なるほど。それにしてもあなたは、今よんどころない御用でパリに滞在なさっていらっしゃるというのに、奥さんのおからだの具合なぞ知りたいという気さえも起されないわけですか?」
「いや、その、実を言いますとね、修道院というやつをわたしは好かんのです。生来陽気で愉快なことの好きな性分でして、快楽を追って生き、仲間たちとの交際《つきあい》に明け暮れしているわたしです、何も修道院の応接室まで出向いて行って、少なくとも半年くらい続くあの憂鬱《ゆううつ》を持って帰ろうとは思いませんよ、あなた」
「しかし、妻というものは……」
「さよう、使用するときにだけ関心の対象となるものです。ともかくまじめな理由がふたりの間を遠ざけているときは、妻といえども、きっぱり手を引かねばなりません」
「それはまたつれないことをおっしゃいますな」
「どう致しまして。哲学ですよ……当世風の、理性的な考えかたというものです。これを認めるか、さもなけりゃ馬鹿になるよりほか仕方のないものです」
「そうしますと、あなたの奥さんには何か短所があったのですな? そこんところを説明していただけませんかね、たとえば肉体的欠陥とか、情愛に薄いとか、身持がわるいとか……」
「どれもこれもですよ、あなた、どれもこれも少しずつありましたね……まあしかし、その話はそれくらいにしておいてください、親愛なるランヴィル夫人に話をもどしましょうや。とにかく変ですなあ、オルレアンにおいでになって、しかもあの女《ひと》をお楽しみにならなかったとは……どうも解《げ》しかねますなあ……誰も彼も彼女をもの[#「もの」に傍点]にしたんですからね」
「誰も彼もということはないでしょう、現に御覧のとおり、このわたしがもの[#「もの」に傍点]にしなかったのですからね。わたしは人妻を好みません」
「それはずいぶん不粋なことで。では立入っておききしますが、あなたはどういう方と毎日を過しておいでです?」
「まず仕事を友としております、それから時々はちょいと綺麗な女と夕食などつき合います」
「あなたは結婚してはおられないので?」
「しておりますよ」
「では奥さんは?」
「田舎にいます、ほったらかしてあります、あなたがあなたの奥さんをサン・トールにほったらかしておくごとく」
「やあ、そうですかい、するとあなたもわが党の士というわけだ。どうです、言っておしまいなさい」
「亭主と寝取られとは同義の二語であると先ほどわたしは言ったでしょうが? 風俗の退廃、奢侈《しやし》逸楽の気風……こうしたことどもが女をば堕落させるのです」
「おお、まったくその通り、まったくその通りです」
「そのお答の仕様によると、あなたもなかなかわけ知り[#「わけ知り」に傍点]らしい」
「どう致しまして。するとまあ、何ですな、その大へん綺麗な女《ひと》というのが、お見限りの奥さんに代ってあなたをお慰めするわけなのですな?」
「左様です。――本当のはなし、とても別嬪《べつぴん》ですよ、何でしたらあなたに御紹介しましょうかね?」
「や、そいつは身に余る光栄ですな」
「そんな、あなた、四角張っちゃいやですよ……おや、とにかくおしゃべりしているうちに、これはもうパリですな。今晩は御用もおありでしょうからお誘いするのはよすとして、明日ですな、夕食時にきっとお待ちしておりますから、ぜひいらしってください、所書はこの紙に……」
と言ってランヴィルは、そこは抜かりなく偽名を使って、一通の封書を手渡した。それから彼は早速わが家へ帰り、偽名を頼りに訪ねて来る客人がたやすく家を探し当てられるように手配した。
翌日デュトゥルは約束通りやって来た。かねて手が尽されてあったので、偽名の住所を頼りに難なくランヴィルの家を見つけることができた。部屋に通されてまず手始めの挨拶が交わされたが、デュトゥルは期待していた女性の姿が見えないので、どうやらそわそわ落着かない様子だった。
「さてさてせっかち[#「せっかち」に傍点]なお人じゃ」とランヴィルが言った、「あなたがきょろきょろ何を探しているのか、わたしにはちゃんと察しがつきますよ……お約束の美人、あなたはもう美人のまわりをうろうろしたがっていらっしゃるのでしょう。オルレアンの亭主たちの鼻をあかして来たいつもの伝で、今度はパリの色男をも出し抜いてやろう、なんて思っていらっしゃるのでしょう。きっとそうに違いない。昨日さも愉快そうに話しておられたあの不幸なランヴィルと同じような目に、わたしをあわせたら、さだめしあなたは御満足なんだろう。え、図星でしょうが?」
言われてデュトゥルは色男ぶってやにさがり、たちまち鼻の下を長くした。会話はようやく弾んで来た。と、ランヴィルは、友人の手を取って、
「お出でなさい」と言った。「さあさあ女殺しさん、あこがれの女神があなたを待っている殿堂へ」
こう言いながら彼はデュトゥルを導いて、何やら淫蕩的《いんとうてき》な気分のこもった小部屋へと連れ込んだ。そこには、かねて示し合せて悪戯《いたずら》の手回しを整えていたランヴィルの情婦が、ビロードのトルコ式長椅子に、この上なく艶な姿態を横たえていた。しかもそれは、着はだけた裸身を薄いベールでおおっているのみの姿であった。美しく豊かな腰のあたりは隠すものとてなく、ただ顔だけが見られなかった。
「これは絶世の美人だわい」とデュトゥルは叫んだ、「それにしても、なぜわたしにお顔を拝ませてはくださらないのです、われわれは今トルコ皇帝の後宮《ハレム》にでもいるのですかい?」
「いいや。これはつまり羞恥心の問題です」
「羞恥心ですと?」
「いかにも左様。あなたにはわたしが自分の色女の腰と着物しか見せたがらないような、そんな野暮な男に見えますか? このベールをすっかりはいで、かかる美女を占有する幸福のいかばかりであるかをあなたに思い知らせてこそ、わたしも存分に男をあげるわけでしょうが?……この女はまだうぶ[#「うぶ」に傍点]で大へんつつましやかなので、こうしたことをひどく恥ずかしがるのです。べールで顔を隠すという特別条件付でやっと承諾した次第なのです。ところでデュトゥルさん、あなたは女の羞恥心とか微妙な感情とかがどのようなものであるかよく御存知でいらっしゃる、あなたのような当世流の粋人相手では、とてもこんなことでお茶を濁しただけでは済みますまいて……」
「では、きっと拝ませてくれるというのですね?」
「そうですとも、すっかりお見せしましょう。わたしほど嫉妬心と無縁な男もありません。ひとりで味わう幸福なんてものは、わたしには味も素っ気もないように思われます、楽しみを分ち合う人があってこそ、始めて無上の快味もわくというものです……」
言いつつランヴィルは、早速この金言を実行に移さんがため、紗《しや》の薄絹をしずしずと取り去って、すばらしく形のよい女の胸元を一瞬あらわにして見せた。デュトゥルはかっとのぼせあがった。
「へん、いかがです、これをどう思いますね?」とランヴィルが言った。
「ヴィナスの胸かと思われるばかりです」
「この真っ白な、むっちりとした乳房はどうです、まさに男の情火をかき立てるために造られたかのようではありませんか……さわって御覧なさい、さわって御覧なさいったら、あなた、眼で見ただけではなかなか分りませんよ。楽しむときにはありとあらゆる感覚を利用しなければならないというのがわたしの持論です……」
デュトゥルは震える手を近づけて、世にも見事なこの乳房を恍惚《こうこつ》としてまさぐった。彼はもう友達の示すこの気味の悪いほどの親切ぶりを怪しいと思う余裕さえ失っていた。
「もっと下の方へ行きましょうか」とランヴィルは、誰もこの不法な越境を妨げるもののないままに、軽いタフタのスカートを女体の中心部までまくし上げながら、「御覧なさい、この太腿《ふともも》はどうです、エロスの殿堂が壮麗な二本の円柱で支えられているといった風情でしょうが?……」
愛すべきデュトゥルは、ランヴィルが露《あら》わにして見せてくれるものを相変らずまさぐっていた……
「お察ししますよ、悪党さん」と親切な友達は続けて言った、「この霊妙な殿堂は美の神々が御手ずから軽やかな苔《こけ》でおおわれたものでして……いかがです、ここを押し開きたくてむずむずするでしょう、あなた、唇を押しつけたくてたまらないでしょう? ちゃんとお顔にそう書いてある」
すっかりのぼせあがったデュトゥルは、ただもう口をぱくぱくするだけだった、興奮のあまり声も出ず、返事の代りに血走った眼で訴えることしかできなかった。友達はうなずいて、彼を励ました、そこでデュトゥルの無礼な指は、男の欲望に応ずるかのように半開きになった殿堂の扉を愛撫した。許された神聖の場所へくちづけた彼は、しばしその味を楽しんだ。
「あなた」といきなりデュトゥルは言い出した、「もう我慢がなりません、わたしをこの家から追い出すか、さもなけりゃもっと先へ行かせてくれるか、どっちかにしてください」
「もっと先ですって? いったいどこへ行こうというのです?」
「ああ、あなたはわたしの気持をちっとも分ってくださらない、わたしはもうこの女《ひと》に夢中なんだ。これ以上我慢はしきれません」
「しかし、もし彼女が醜女《しこめ》だったらどうなさいます?」
「これほど神々しい魅力の持主が醜女だなんて、そんなことがあるものですか」
「では、もし彼女が……」
「たとえ彼女がどうであろうともです、彼女がどうあろうとも、もうわたしは辛抱できないのですよ」
「それじゃおやりなさい、あきれたお人だ、どうぞおやりなさい、そして本望をお遂げなさるがよろしい。したが、わたしの親切のほどはお分りでしょうな?」
「ああ、身にしみます……」
こう言ってデュトゥルは、さあ彼女と水入らずにさせてくれと言わんばかりに、その手でそっと友達を押しやった。
「わたしに席をはずしてくれというのですか? いいや、それは駄目です」とランヴィルは言った。「わたしがいては御用が便じられないほど、あなたは内気でいらっしゃるのですか? 男同士の間柄で、そんなにお体裁ぶることはないでしょう。わたしの面前でするか、しからずんばあきらめるか、これがわたしの方の条件です」
「こうなったら悪魔の面前ででもあえていといません」とデュトゥルは、もう矢も楯もたまらぬ風情で、一刻も早く女体の奥の院に蝋燭《ろうそく》を点《とも》そうとあせるのだった。
「よろしい」とランヴィルは冷やかに言った、「ところであなた、彼女は果して見かけ倒しだったでしょうか? こぼれる色香に誘われては見たものの、果してその甘美さは夢であったか現《うつつ》であったか?」
「ああ、どうしてどうして、こんな結構なのにはぶつかったことがない……それにしても、このいまいましいベール、この気に食わぬベールですが、これを取り去るわけにはいかないものでしょうか?」
「いいでしょう ただし、最後の瞬間にですよ、快楽の絶頂におけるあの瞬間、五体の感覚がしびれるような無上の快味に酔い痴れるとき……実際、彼女はそのくらい、いや時によるとそれ以上に、われわれを幸福にしてくれますからな……そういうとき、不意に女の顔を見るという悦びは、あなたの恍惚感を倍にも致しましょう。ヴィナスの肉体を享楽する悦びに、あわせてフローラの顔《かん》ばせをながめるという、筆舌につくしがたい一大歓喜を味わうことになるわけで。こうしてあらゆるものが寄り集って、あなたの幸福をいやが上にも高めるときこそ、心ゆくばかりあの悦楽の海に身を委すことができるというものです。男にとって、しみじみとした人生の慰藉というのは、そこにこそあるものです……よかったら合図をしてくださいよ……」
「おお、あなたは察しのよい方です」とデュトゥルが言った、「今の今、わたしは夢中なんです」
「そうらしいですな、ふうん、これはものすごい……」
「ものすごくもなりますよ、これじゃ……おお、あなた、あのすばらしい天国の瞬間がやって来る! 取ってください、このベールを取ってください、女神のお顔を拝みたい……」
「合点です」とランヴィルは紗の薄布をはがしつつ、「いいですか、天国と地獄は多分紙一重ですぞ!」
「や、こりゃどうじゃ! お前だったのか」デュトゥルは自分の妻の顔をそこに認めて、愕然《がくぜん》として叫ぶのであった……「それにしてもランヴィルさん、あなたは何というひどい悪ふざけをしでかしてくださったのか……このあま……」
「あいやしばらく、しばらくお待ちください。短気な人ですな、あなたは。こんなことになったのもみんなあなたのせいだというのがお分りにならんかな? よくお聴きなさい、識らない人と話をするときには、もそっと口に締りをつけねばいけません、たとえば昨日のわたしとあなたのような場合です。あなたがオルレアンでひどい目にあわした例のランヴィルという男は……何を隠そう、このわたしなのですよ。御覧のとおり、わたしはパリであなたに仕返しをしました。いや、実に見事にあなたはしてやられましたね、だってそうでしょうが、あなたはわたし一人を寝取られ亭主にしたつもりでいなさるようだが、実は自分自身をも、たった今寝取られ亭主にしたわけなのですから」
デュトゥルは、この懲戒を肝に銘じた、そして友人に手をさし伸べた、すべて身から出た錆《さび》だったと、覚ったのである。
「それにしても、この浮気女……」
「おやめなさい、彼女はあなたの真似をしたまでではありませんか? わたしたち男性には一切の自由を認めながら、女子《おなご》をば無慈悲に鎖でつないでおくそんな野蛮な法律があってよいものでしょうか? それでは片手落ちでしょうがね? 自分はパリやオルレアンでさかんに寝取られ男をこしらえているのに、いったいいかなる天地自然の権利によって、あなたは細君をサン・トールの修道院なんぞへ押込めようとなさるのです? それこそ不公平というものですよ。この可愛い御婦人、あなたは今まで彼女の真価を知らなかったようですが、彼女は新しい色事の相手を求めてパリヘお越しになったのです。無理もないことです。彼女はわたしを見つけました。わたしは彼女を幸福にしてやりました。あなたもランヴィル夫人を幸福にしてやってください、いいですとも、そして四人で幸福に暮そうではありませんか。運命の犠牲者がわれわれ男の犠牲者であっては困ります……」
デュトゥルは友人の言い分をいちいちもっともに思ったが、運命の神の悪戯は不可解なものである、再会した妻に彼はまるで気違いのように恋い焦れてしまった。洒脱《しやだつ》なランヴィル氏は、ぜひとも妻を返してほしいというデュトゥルの懇望をしりぞけるには余りに寛大な魂の持主であった。若い情婦もこれに同意した。かくしてこの風変りな事件は、運命の偶然と色恋沙汰の気まぐれとに関する珍無類な例証を人の心に刻みつけたことであった。
[#改ページ]
司祭になった夫
アヴィニョン伯爵領はメネルブの町と、プロヴァンス州はアプトの町とのほぼ中間に、ささやかなカルメル派の修道院があった。ひと呼んでサン・ティレールとなすこの修道院は、山羊《やぎ》でさえ草を食《は》みに来るのに難儀するほどな山の頂上に人里離れてぽつねんと立っていた。そしてこのささやかな僧房は、隣近所の同じカルメル派信徒団の堕落坊主どもの溜り場のごとき観を呈していた。すなわち、各修道者団は同信徒としてあるまじき行為を犯した者をここへ追放することになっていたのである。されば、かかる堂宇のもとに集った人々がいかほどけがれなき社会を営んでいたものか、この点からも容易に察せられることではあろう。酔漢、漁色家、男色家、賭博打、ここではほとんどがこのような敬虔《けいけん》な人々から構成されていた。この汚らわしい隠遁所では、ほとんどが世の爪弾《つまはじ》きになった身をぬけぬけと神に捧げている行者たちなのであった。サン・ティレールにほど近い二、三の城館、わずかに一里ばかり離れたメネルブの町、これらがわが善き修道士たちと交際のある社会のすべてだったが、彼らの僧衣職柄をもってしても、なお近隣在家の門がみな彼らのために開かれるという事情からは遠かったのである。
さて、この僧房に住む聖者のひとりガブリエル神父は、久しい以前からメネルブの町のさる人妻に横恋慕していた。その亭主というのは稀代の間抜けで、ロダン氏という名前であった。ロダン夫人は二十八歳ばかり、栗色の髪の小柄な女で、悪戯っぽい眼にまるまる肥ったお臀《しり》、どこから見てもまことに結構なお坊様のつまみもの[#「つまみもの」に傍点]といった風情の女であった。一方ロダン氏はというと、黙々として己が身代を築いた善人であったが、彼はかつて羅紗《らしや》を商っていたこともあり、町の司法官であったこともある。要するに善良なるブルジョワと呼ばれる態の男であった。彼はいとしい妻の貞操に絶大の信頼を寄せているわけでは決してなかったが、そのくせ、哲学者のように悟り澄ました気で、亭主の頭ににょっきり生えた角に対処するための良き方法は角が生えていることに気がつかない振りをすることだときめ込んでいた。かつて司祭になろうと思って学問したことがあったので、彼はキケロのようにラテン語を話すことができた。また、しばしばガブリエル神父と碁を打って興ずるのが彼の習わしだった。御機嫌取りのうまい神父は、人妻を得んとするならばまずその亭主にちょっとお世辞を使って置くべきであるくらいのことは元より心得ていたのである。まさしくガブリエル神父こそは、かの預言者エリヤの子供たちの種馬であった。一目でも彼を見た人なら、全人類が子孫繁殖の世話を安んじて彼に委ねられることを明言してはばからないだろう。いかさま無類の子沢山で、がっしりした双肩、一メートルもありそうな腰回り、黒々と日に焼けた顔、ジュピターのそれのごとき眉、六尺豊かの身の丈、それに嘘か本当か、とりわけカルメル派修道僧の目じるしとして、この地方でもっとも見事な騾馬《らば》のそれにも比すべき一物があった。いったい、いかなる女子《おなご》にまれ、かかる豪の者にぞっこん気を惹《ひ》かれぬ女子があろうものか? 果して彼はロダン夫人の気に驚くべくぴったりと叶った次第である。両親から婿として賜わった旦那のうちには、とても彼ほどの絶倫な能力は見出すべくもなかったのであるから無理もなかろう。ロダン氏は、前にも言ったように、万事につき見て見ぬ振りをする主義であったがやはり人並みに嫉妬心を起さないわけでもなく、むっつりとして彼女のそばを離れなかった。これは竿頭《かんとう》一歩を進めんとしている二人にとっては、煙たい存在であることを免れなかった。すなわち梨は熟《う》れて、触らば落ちんのけしきであったのである。直情なロダン夫人はまことに気前よく、その恋人に向って言ったのだった、欲情の火はもうこれ以上持ちこたえられないほどに燃えさかっているらしく思われます故、機会さえあればいつでも御相手致しましょうと。それに対してガブリエル神父は、こちらも御満足を行かせて進ぜる用意はいつでもできておりますると、抜目なくほのめかすことを忘れなかった……ロダン氏が是非ない用事で家を空けた寸秒の隙《すき》に、ガブリエルは、なかなか踏んぎりのつかない女の気でさえ一ペんに傾かせてしまう例のもの[#「もの」に傍点]を、可愛い恋人に見せさえしたのであった……あとはもう機会さえあればよかった。
ある日のこと、ロダン氏が遊猟の計画をたずさえて、サン・ティレールの友達のところへ朝餐《ちようさん》を呼ばれに来ると、ラネルトの葡萄酒を教本空けた後で、ガブリエルは、さてこそおれの思いを遂げるに絶好な形勢が到来したわいと思った。
「ああ、こいつは有難い」と修道士は友達に言った、「司法官殿、今日あなたにお目にかかれたとは大変有難い、わたしにとってはまことに時を得た御訪問でありました。実は重大な用事が出来《しゆつたい》しましてな、ひとつわたしの役に立っていただきたいのですが」
「どんなことですかな、神父さん?」
「あなたの町のルヌ(ウ)という男を御存知でしょうが?」
「帽子屋のルヌ(ウ)ですか?」
「いかにも左様で」
「で?」
「で、あいつにわたしは百エキュの貸しがあるのですよ。実はいま人から聞いたところによると、やつは破産しかけておるそうですな、わたしがこうしてしゃべっている間にも、伯爵領を出奔してしまうかもしれぬ……何としても駆けつけたいところなんだが、それができない……」
「何か邪魔がはいるのですか?」
「ミサがあるのですよ、困ったことにね、わたしが唱えなければならないミサが……まったくおミサなんぞ糞くらえだ、それより百エキュわたしの懐に収まってくれた方がよほど有難いのですがね」
「しかし、何とかそこを抜けられないものなのでしょうかね?」
「それなんですよ、ええ、何とかしなくてはなりません! ここにはわたしを含めて司祭が三人いるのですがね、毎日三度のおミサを挙げないというと、院長はわたしどもをローマの法王庁に告発してしまうのです。そのくせ院長は自分では決しておミサを挙げませんな。ところで、あなたがわたしの役に立ってくださるなら、ここに方法があるのですよ。ひとつ頼まれてくれませんかな、あなただけが頼りなのだから」
「そりゃ喜んで頼まれもしますがね、いったいどんなことなのですか?」
「いまここにはわたしと堂守の二人しかおりません、三度のミサのうち二つはもう済んでしまって、修道士たちはみな出払いました。だから替え玉をつかったところで誰も気がつくまいというわけですな。会衆もごくわずかでしょう、どうせ百姓の二、三人か、せいぜいあのお城館《やかた》住いのえらく信心深いお内儀《かみ》さんが一枚加わるぐらいのものでしょう……ここから半里ばかりのお城館に天使のごとき女人がおりましてな、お百度踏めば御亭主の道楽を直せるものと信じているらしいのですよ。はっは……ところであなたは司祭になろうとして御勉強なさったとかいうお話でしたろう?」
「その通りです」
「では、おミサの唱え方も習ったはずですな?」
「大司教はだしに唱えて見せますよ」
「おお、それはそれは」とガブリエルはロダン氏の首っ玉にかじりついて言うのだった、「神様の思し召しです。わたしの服をお着けなさい。十一時が打つまでお待ちなさい。ただいまは十時です。その時刻になったらおミサを唱えてください、どうか頼みます。わたしの朋輩の堂守は感心なやつで、決してわれわれを裏切ったりは致しません。ひょっとして替え玉を見破るやつがあったとしても、新来の修道士だと言いつくろってくれるでしょうし、気がつかないやつらはほったらかしておくでしょうよ。わたしはこれから一走りルヌウの野郎のところへ飛んで行って、やつを殺すか金を取返すか、どっちかしてやるつもりです。二時間でもどりましょう、それまで待っていてください。そのあいだ舌比目魚《したびらめ》を焼かせようと、卵を煎《い》らせようと、葡萄酒を抜かせようと、あなたの御自由ですわ。わたしがもどったら食事にしましょう、それから遊猟は……ええと、そうですな、遊猟はと……今度こそよい獲物にぶつかりますぞ、何でも最近この付近に角のある獣が出たそうで、わたしもぜひ引っ捕えて見たいと思いますね、たとえ領主と二十ぺんいざこざ[#「いざこざ」に傍点]を起すことになろうとも!」
「あなたの思いつきはなるほど結構に思われますが」とロダン氏は言うのだった、「それにしてもわたしがあなたのお役に立つためには、そうするよりほかにないんでしょうか、何だか罪深いことのような気がしてなりませんが?」
「罪ですと? 馬鹿なことをおっしゃい。そりゃああなた、普通に、ないしは下手にそんなことをしでかしゃ、罪にもなりましょうがね。しかし、何の権能もなしに事を行うなら、あなたが何を唱えたところで何も唱えないと同じことですよ。ま、わたしの言うことを信じなさい、わたしは罪障鑑裁家です、この手順にはいやしくも罪と呼ばれるようなものは、これんぼっちも御座りませぬわい」
「では、聖書の言葉も唱えなければなりますまいか?」
「どうして唱えていけないわけがありますか? そのような言葉もわれわれ聖職者の口から出てはじめて効能をあらわすものです、効能はわれわれのうちにおいて、しかくあるべきものです……たとえばですな、わたしがあなたの細君の下腹の上でこのような言葉を唱えたとしますと、あなたが夜ごと犠牲を捧げているあの御堂は神性に化身する、とまあこういうわけで……左様左様、化体《けたい》の効能を具えているのはわたしども聖職者だけなのです。あなたが百万だら繰返したとてどんな効験《しるし》をも降らしめることはできますまいよ。それに時によるとわたしどもでさえ作用がまったくないこともあるのです。つまり、この場合すべての働きをなすものは信仰ですな。一粒の信仰あらば山をも動かさん、知っての通り、キリスト様はこうおっしゃられた、信仰なきものは何事をもなし得ざるなり……たとえばわたしとしたことが、時にミサを挙げながら、わたしの指がひねくり回しているあの一かけの捏粉《こねこ》のことよりも、むしろ会衆のなかの娘や人妻のことに気を取られている場合が往々あるのですが、そんなときでも、あなたはわたしが何かの効験をあらわし得るものとお考えになれますか?……いやいや、そんな痴事を信じるくらいならいっそコーランを信じましょうて。ですからさ、あなたのミサもわたしのミサと大して変りばえは御座らぬ、大同小異ということですよ。さあ、そうとお分りなら、何も気にすることはありません、ひとつやってください、そして何より勇気をお出しなさい」
「ああ弱ったな」とロダンは言うのであった、「何しろ腹がぺこぺこなんですよ、お昼までにあと二時間!」
「誰があなたに食うなと言いました? それ、何なりとお取りなさい」
「でも、おミサを唱えなければならんのでしょう?」
「ちぇ、それがどうしたと言うのです? 空っぽの腹の中よりも満腹した胃袋の中にお降りになったからって、神様がさらにけがれるわけでもありますまい? おまんま[#「おまんま」に傍点]が上にあろうと下にあろうと、そんなことは犬にでも食われちまったがいいや、どっちだっていいことです。実際あなた、おミサの前に食事をするたびごとに、これをいちいちローマに御注進に及んでいた日にゃ、わたしは長の生涯を道ばたですり減らさにゃなりますまいよ。それにあなたは牧師じゃないんだから、わたしどもの法規に従うには及びません。あなたはただおミサの真似ごとをするだけなんで、本当のミサを挙げるわけじゃないのだ。それ故、あなたは事の前後を問わず、お好なことを何でもしてよいわけです。かりにあなたの細君が居合せたなら、いちゃついたって一向に構いませんよ。要するに問題は、わたしのようにやってもらうことなのです。式を挙げるとか犠牲を捧げるとかは、問題外ですて」
「そういうことなら」とロダンは言った、「やって見ましょう、御安心ください」
「やれやれ有難い」と及び腰のガブリエルは、堂守に友達をよろしく頼むと言い残すと、「わたしを信用しなさい、二時間できっともどって来ますからな」と喜び勇んであたふたと出て行った。
彼が大急ぎで司法官夫人の許に駆けつけた事情は察するに難くない。夫と一緒だとばかり思っていたガブリエルが突然やって来たのに驚き怪しんで、彼女はこの意外の訪問の理由を尋ねた。
「急いだり急いだり」と修道士ははあはあ息を切らしながら言うのであった、「ほんのわずかしか時間がないんだよ……一杯やったら早速仕事にかかるとしよう」
「でも、うちの旦那さんは?」
「ミサを唱えているよ」
「ミサを唱えているんですって?」
「そうだと言っておるに、しつこいね」とカルメル僧はロダン夫人を寝台の上に押し転がしながら、「そうだともよ、可愛いお前、わたしはお前の亭主を牧師にしてやったよ。やつめが聖なる秘儀を挙げている隙に、こちとらはひとつ取急いで俗界の秘儀とやらを執行《とりおこな》おうじゃないか……」
修道僧はたくましい力の持主だった。彼が女を手籠《てご》めにせんとしているとき抵《あらが》うことはむずかしかった。加うるに、かんで含めるような彼の口説きぶりにはあらたかな力があったので、ロダン夫人は手もなく参ってしまうのであった。頃日《けいじつ》二十二歳ばかりの田舎《いなか》気質《かたぎ》の悪戯娘を口説くのに疲れた色も見せなかったように、彼は手をかえ品をかえして夫人を攻めた。そこでとうとう完全に音《ね》をあげてしまった女は、こう言った、
「ねえ、いとしい人、もう時間が迫っているわ……お別れしなければなりませんわ。あたしたちの楽しみがおミサの間だけしか続けられないのだとすれば、あの人はもうずいぶん前に ite,missa est を唱えてしまったはずだわよ」
「まだまだ」とカルメル僧はなおもロダン夫人に向って御託を並べながら、「さ、いい子だから……まだ時間はたっぷりあるよ、もう一度やろう、もう一度な。あの新発意《しんぼち》めがわたしたちより早くに事を済ませられるものかね。さ、もう一度だ。わたしは断言するが、あの間抜け亭主、いまだに神様とねちょねちょやってるに違いないよ」
けれども別れなければならなかった。再度の媾曳《あいびき》の約束に手ぬかりはなく、新たな企みが二人のあいだに交わされた。そうしてガブリエルはロダンのところへ取って返した。ロダンは司祭のように巧者にミサの式を挙げたとのことだった。
「ちょっとつっかえたのは quod aures の個所だけでしたよ。わたしゃ飲むべきところを食おうとしちまったんでさ。で堂守が助け舟を出してくれましたね。ところで神父さん、百エキュは?」
「取返しましたよ。悪党め、小癪《こしやく》にも手向おうとしたのだが、わたしは熊手を取って野郎の頭といわず体といわず、がりがり引っかいてやりました」
食事も終ったので二人の友人たちは狩猟に出かけた。帰宅するとロダンは、ガブリエルのために一肌脱いだ経緯《いきさつ》を妻に語って聞かせた。
「おれはミサを挙げたよ」と肥った間抜け男は腹の底から笑いながら言うのであった、「そうともさ、おれはそれこそ正真正銘の司祭様のように、おミサを挙げたもんだ、その隙におれの友達は熊手でもってルヌウの肩をねらってたんだ……すごい業物《わざもの》を振りまわしてな、え、驚くまいかね、かあちゃんや、相手の顔をがりがり引っかいてたんだとさ。ああ、何ておかしな話だろう、実際間抜けなやつにゃ笑わせられるよ! ところでお前さんは、おれがミサを挙げてる隙に、何をしていたね?」
「それなのよ、あんた」と司法官夫人は答えるのだった、「どうやらあたしたちは天の啓示を受けたようよ。あたしたちはお互いにそれと気づかぬうちに、おのおの天の啓示に浴していたんだわ。つまりこうなのよ、あんたがミサを唱えている間に、あたしはね、天使ガブリエルが聖母マリアのところに『汝聖霊によりてみごもらん』とお告げに来られたとき、マリア様が天使にお答えになったというあの美しいお祈りの言葉を唱えていましたの。ほんとに、あんた、あたしたちは二人して同時にこんなよいことをしたんですもの、きっと救われること疑いなしよ」
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ロンジュヴィルの奥方 あるいは 仕返しをした女
封建諸侯がその領土でほしいままに暮していた時代、つまりフランス国内に無数の群雄が割拠していて、一人の君公の前に三万人もの奴隷が平身低頭するなどということは絶えてなかったあの華々しい時代の話である、シャンパーニュ地方はフィームの町の近傍に、かなり大きな采邑《さいゆう》をもつロンジュヴィル侯という殿様が、型のごとく領地の中央に城を構えて暮していた。侯には奥方があったが、それは栗色の髪をした大そうお侠《きやん》ないたずらっぽい女で、容色こそ十人並とは言え小粋《こいき》なところもある、何よりもひどく色好みの女であった。年齢のころは二十五、六であったろう。殿様もせいぜい三十くらいであった。十年前に一緒になった二人は、夫婦生活の屈託にいささか気晴しを求めたいという時期に来ていたわけで、こうした望みにできるだけ叶った相手をめいめい自分の身辺にさかんに物色していたのであった。ロンジュヴィルの町――いや、むしろ村落というべきだろう――には、彼らの求めに叶う相手はなかなか乏しかった。けれどもここに、十八歳ばかりの色気をそそる大そうみずみずしい一人の百姓娘が、とうとう殿様に気に入られる仕儀とは相成って、かれこれ二年以来まことに調子よく事が運んでいたのである。この可愛い雉鳩《きじばと》のような乙女の名前はルイゾンと言ったが、夜な夜な彼女は、殿様のお部屋の隣にある塔の内部《うち》にしつらえた忍び梯子《ばしご》からやって来て、旦那様と枕を交わし、朝になって奥方がお部屋に入って来られる前に、早々と退散するのであった。朝饗は御夫婦で摂《と》るのが習慣だったからである。
ロンジュヴィルの奥方は夫君の怪しからぬ振舞いを全然知らないわけではなかったが、自分の方でも同様のお楽しみをするのにはこれは甚だ気が楽であったから、何も言わないで大目に見ておられた。世に不貞の妻ほど優しいものはない、彼女らにとっては自分の不身持を隠すのが何よりの関心事であるので、あの貞女ぶった女のように、他人の不身持などに細かく気を使ったりするようなことはなかなかせぬものである。さて、奥方の相手はコラという名の近所の粉挽《こなひ》きであったが、これは十八か二十くらいの小僧っ子で、商売柄メリケン粉のように色白の、騾馬のように筋骨たくましく、田舎家の庭に咲き出た薔薇の花のように好もしい青年であった。彼もまたルイゾンのように、奥方のお部屋に隣合っている小部屋に夜な夜な忍び込み、城中の者がみな寝静まったころ、すばやくベッドの中にもぐり込むのが習わしであった。
この二組の男女のたわいない関係はまたとない安らぎの中にあった。だから、悪魔さえそれにちょっかい[#「ちょっかい」に傍点]を出さなかったならば、わたしは請合って言うが、彼らこそシャンパーニュ地方中の「鑑《かがみ》」として末長く人々の口の端にのぼされたに違いあるまい。
笑ってはいけません、読者諸子よ、わたしが「鑑」という言葉を使ったからとて決して笑ってはいけません。美徳と同様、人目に立たぬ控え目な悪徳は模範となり得るものなのである。他人に迷惑をかけないで道ならぬ行いをするのは、巧妙な手際を要するだけにまた楽しいことではあるまいか? それに、実際のところ、悪いことも人に知られていなければ、いったいどんな不都合を来たす心配があるというのか? 読者よ――胸に手をあててよく考えて御覧《ごろう》じろ――なるほど彼らの行いはふしだら[#「ふしだら」に傍点]なものであるかもしれない、しかしながら、当今われわれの目にふれる現代の風俗絵巻よりはまだしもこの方が好ましくはないか? 毎月公然と男妾《おとこめかけ》を取変えたり、下男に身を委せたりしているパリの公爵夫人、また、紅白粉《べにおしろい》で身をやつし、内証子を生んではやつれ、黴毒に侵されては肉体の腐れて行くあのけがらわしい高等淫売に、一年に二十万エキュも入れ揚げる当節のパリ紳士――そうした人たちと比べて見るとき、可憐な百姓女の美しい双腕に満ち足りた思いでそっと抱かれるロンジュヴィル侯や、優しい粉挽き男の胸に身を投げては誰も知らない幸福を味わう気高い奥方は、何とはるかに好ましい人々ではないだろうか? だからわたしは言うのである、この四人のエロスの寵児《ちようじ》たちに悪魔が不和の毒液をそそぐことさえなかったならば、微笑《ほほえ》ましい彼らの仲ほど穏やかにして賢明な男女の関係は又となかったであろうと。
しかしながら、世の横暴な亭主たちの多聞にもれず、ロンジュヴィル侯もまた、自分ばかりが好いことをして、妻が好い目を見るのを望まない甚だ勝手な了簡の亭主であった。ロンジュヴィル侯はまるで鷓鴣《しやこ》のように、頭かくして尻かくさず、つまり自分の情事だけは誰も知るまいと思っていた。彼は妻の情事を発見して、けしからぬことだと思った。手前の不身持が妻の浮気に十分なる権利を与えていたにもかかわらず、理不尽にも彼はいきり立つのであった。
嫉妬深い心は復讐を思い立つのに手間取らなかった。ロンジュヴィル侯は何も言わずに、自分の顔に泥を塗った不埒《ふらち》な奴を片付けてしまおうと心に決めた。
「おれくらいな身分の男に妻を寝取られたというのならまだしもだが……」と彼は考えるのだった。「粉挽き男に寝取られるとは!……ああ、コラの奴もコラの奴だ、粉がひきたけりゃどこにだって磨臼《すりうす》はあるだろうに、何もおれの女房の磨臼に手前の種子《たね》を注ぎ込まなくたってよかりそうなものじゃ……」
さて、当時の専制諸侯は怒ると途方もなくむごたらしいことをしたもので、時には封建制度が許容していた臣下に対する生殺権さえ濫用したものであるが、ロンジュヴィル侯は事もあろうに、城の回りの満々と水を張った堀の中にコラを投げ込んでくれようと思い立った。
「クロドミール、おるか」と彼はある日のこと主膳を呼んだ、「お前はこれから料理場の若衆どもと一緒に、奥方の寝台を汚した不届者を成敗するのじゃ」
「かしこまりました殿様」とクロドミールは答えた。「何でしたらそやつの首を斬り落して、乳呑豚《ちのみぶた》のように料理してお膳に添えましょうか」
「その儀には及ばぬ」とロンジュヴィル侯は言った。「奴を袋に押込んで、石を詰めて、そのまんま城の堀の底深く沈めてしまえばよい」
「では左様に取りはからいましょう」
「うん。だがまずその前に、奴を引っ捕えねばならぬ。まだ奴をつかまえてはおらぬのじゃ」
「きっとつかまえて見せまする殿様、取逃がしたら百年目、きっとつかまえて見せまする」
「奴は今晩九時に来るはずじゃ」と屈辱を受けた亭主は言った。「奴はたぶん庭からやって来て階下の広間を通り、礼拝堂の側の小部屋へと隠れるじゃろう。わしが寝込んだと思って奥方が奴を自分の部屋に引入れに来るまでは、奴はそこにじっとうずくまっているはずじゃ。ここまでは奴の計画通りにさせておくのじゃぞ。その間われわれは辛抱して待伏せておらねばならぬわい。そして奴がうまく隠れたと思って安心したところを、すかさず引っ捕えるのじゃ。それから後はうんと水を飲ませて、奴めの熱を冷ましてやるばかりじゃ」
念の入った計画もあればあるものである、気の毒にもコラは、あわや魚の餌食《えじき》になるかと思われた。しかし世の中には、主君の命をこれ畏《かしこ》しと口をとざして秘密を守る家来ばかりがいるわけではない。左様、殿様はあまり多くの人々に意をもらしすぎた、そして彼は裏切られたのである。料理場の若衆の一人はかねてより奥方を敬愛すること甚だしく、いずれ粉挽き男とともに彼女の御贔屓《ごひいき》にあずかりたいという下心があったのであろうが、何せこの男、尋常なら嫉妬から恋仇の不幸に快哉《かいさい》を叫ぶべきところを、奥方様の一大事とばかりただもうかっとなってしまって、あわてくさって今しがた謀《はか》られた計画の一部始終を注進しに駆けつけたのである。そこで彼は御褒美として奥方から接吻一つと金貨二エキュを頂戴したが、彼にして見れば接吻の方がずっと有難いものではあった。
ロンジュヴィルの奥方は、彼女の情事に加担していた女中と二人きりになると、早速こう言い出した。
「まったくうちの旦那様は勝手な人だこと……こっちが黙ってりゃいい気になって、したい放題のことをしているくせに、せめてわたしがあの人のために毎日なめさせられているひもじい思いの埋合せをすりゃ、それがお気に召さないんだわ。ああ! もう我慢がならない、ねえお前、わたしは我慢がならないんだよ。聴いておくれジャネットや、お前、わたしのために一肌ぬいでおくれかい、コラを救うため、うちのいまいましい旦つく[#「旦つく」に傍点]に一杯食わせてやるための計画に乗っておくれかい?」
「もちろんでございますとも。奥様はただお命じになればよろしいんですわ。わたくし、何でも致します。ほんとにまあ、あのコラはそれはいい子なんですもの、あんなに腰が強そうで、あんなに水々しい顔色をした男の子って、わたくし見たことありませんわ。よろしゅうございますとも奥様何なりとお命じくださいませ。何をしたらよろしいんでございます?」
奥方は言った。
「すぐコラのところへ行って、これからはわたしの知らせがない限り決してお城へは来るなと告げて来ておくれ。それからわたしからの頼みだと言って、彼がお城へ来るときいつも着ていた服を一揃い借りて来ておくれ。服を手に入れたら、今度はうちの旦つくの思いもののルイゾンに会いに行くんだよ。いいかいジャネット、ルイゾンに会ったら旦那様からの伝言《ことづて》だと言って、お前が前掛の中に持っているコラの服を出して、お城へ来るときはこれを着て、いつもの道は決して通らずに、庭から入って中庭を抜ければ階下《した》の広間があって家の中に出られるから、旦那様が尋ねて来るまで礼拝堂の側の小部屋に隠れていろって、そう言っておくれ。彼女はきっとこの突然の変更を怪しんで訳をきくに相違ないから、そのときはお前、奥さんの嫉妬が原因なんだと言っておやり。すべてをお知りになった奥さんがいつもの道に待伏せを置いているんだってね。怖がるようだったら安心させてやらなきゃいけないよ。何か品物でもやってね。今晩はぜひ来てもらわないと困るんだって、よく念を押しておくんだよ。つまり、奥さんの嫉妬からいろいろ面倒なことが起ったので、それについて旦那様から重大な話があるんだって、そう言ってやればいいわ……」
さて、勇んで出掛けたジャネットは二つの使命を完全に果して帰って来た。で、晩の九時に、不幸なルイゾンはコラの衣服を着て小部屋にひそんでいる仕儀に相成った。何にも知らない料理人たちは奥方の恋人を引っ捕えてくれようと手ぐすねひいて待ちかまえていた。
「それ行け」とロンジュヴィル侯は家来たちに言うのだった。主従は先刻からおさおさ怠りなく見張りを続けていたのである。「それ行け。お前たちも見たな、たしかに奴じゃろう?」
「相違ございません殿様。どうして、のっぺりした野郎です」
「すばやく戸を開けるのじゃ、叫び声を挙げられぬように手拭《てぬぐい》を頭にかぶせてしまえ、そうして袋の中に押込んだら、遠慮はいらぬ、すぐさまたらふく[#「たらふく」に傍点]水を飲ませてやれ……」
計画はまんまと大当りだった。囚われの小娘は不愍《ふびん》にも口をしっかりふさがれていたので、身の証《あか》しを立てることすらできなかった。人々は袋の中に彼女を包み込み、その底に大きな石を入れ、捕獲の現場である小部屋の窓から堀の中へざんぶと投げ込んでしまった。かくして仕事は終り人々は引上げて行った。そこでロンジュヴィル侯は、今宵もやがて姿をあらわすことになっていた情婦《いろおんな》を迎えるため、実はその当人があっけなく粉挽き男の身代りになってしまったとは夢にも知らず、急いで自分の部屋に取って返した。
夜はしんしんと更《ふ》けわたる。いつになっても彼女はあらわれない。あたかも月の光は美しく照り映えている、そこでロンジュヴィル侯は、胸のうち甚だ穏やかならず、つい自ら恋人のもとに出向いて彼女の来られない訳を確かめてやろうと思い立った。彼は城を出た。その留守中、着々と手を打っていたロンジュヴィルの奥方は、夫の部屋にやって来て寝台に入って寝て待っていた。ロンジュヴィル侯はルイゾンの家で、彼女がいつもの通り家を出たこと、確かにお城に行ったらしいことを聞き知った。しかし変装のことについては、ルイゾンは家の者にも打明けずに人目を忍んで脱け出していたので、侯は何も聞き知ることができなかった。殿様が城にもどると、部屋に残して来た蝋燭の火は消えていた。そこで明りをつけるつもりで、寝台のそばに近寄って燵石《ひうちいし》を取りあげようとすると、かすかな寝息が聞えるではないか。てっきりこれは自分が外出していた間にルイゾンがやって来て、部屋の主がいないので待ちくたびれて寝てしまったのに違いない、可愛い奴め、と侯は少しもためらわず、すぐと蒲団《ふとん》にもぐり込み、いとしいルイゾンにいつも使っていたような甘い言葉とともに妻を愛撫しはじめた。
「ずいぶん待たせたじゃないか、可愛いお前……いったいどこに居たんだね、いとしいルイゾンよ……」
「浮気者!」とそのとき、奥方は隠し持っていた龕灯提灯《がんどうちようちん》をぱっと照らして言った。「もうこれであなたの御乱行は疑う余地がございません。よく御覧なさい、わたしはあなたの妻ですよ、いやしい蓮葉女《はすつぱおんな》じゃないんですよ。わたしというものがありながらあなたは……」
「奥さん」と夫はそのとき少しもあわてず、こう言った。「何をしようとわしの勝手じゃなかろうか、あなた自身もわしを裏切っている以上……」
「わたしがあなたを裏切りましたって? いったいどういうことでしょう? ぜひ伺いたいわ」
「コラとの一件をわしが知らないとでも思っているのかね? わしの領内の賤しい土百姓の一人とあなたは……」
「わたしが?」と奥方は威丈高《いたけだか》に答えた。「……これほどまでにわたしを辱しめて、あなたは……あなたは夢でも見ているんですわ、お言葉のような事実は兎《う》の毛ほどもございません。どうしてもそうだとおっしゃるなら、証拠を出してごらんなさい」
「なるほどもっともな言い分だ、しかし奥さん、今となってはそれもむずかしい、というのは、わしに恥をかかせたその慮外者を今さきわしは堀の中に投げ込ませてやったばかりなのだから。あなたも二度とこの世では奴の顔を拝めまい」
「まああきれた」と奥方はいよいよずうずうしくなって、つけつけと言うのだった。「可哀そうに。もしその男があらぬ疑いから水に投げ込まれたのだったら、それこそあなたは飛んでもない罪なことをしたもんですわ。けれど又、その男がお城にやって来たという理由だけでお仕置きされたのだとしたら、きっとあなたは人違いをしたのではないかしら、なぜって、コラはお城に足を踏み入れたことなぞありゃしませんもの」
「冗談じゃない奥さん、このわしが嫉妬に目がくらんだとでも言うのかね?」
「論より証拠と行きましょう、あなた。それがいちばん手っ取り早いわ。御自身でジャネットにお命じになって、阿呆らしい嫉妬の濡衣《ぬれぎぬ》を着せられているその百姓を探しにやったがいいわ。そうすればお分りになりますよ……」
殿様が承知したのでジャネットは出掛けて行った。そして間もなく、よろしく言い含められたコラを連れてもどって来た。ロンジュヴィル侯は彼を見て夢ではないかと目をこすった。それではいったい先刻堀に投げ込んだ奴は誰なのだろう、早く行って見て来い、と侯はみなの者を立たせた。人々は現場にはせつけた、しかし、堀の底から引上げられたのは一個の冷たい屍《むくろ》でしかなかった。殿様の眼前に供されたその屍は、あわれやルイゾンの亡骸《なきがら》であった。
「おお神よ!」と殿様は叫んだ、「未知なるものの手がこの災いをなさしめたのだ。その手を導いたのは正しく天の配慮だった。出来てしまったことについて苦情は言うまい。奥さん、この間違いを生ぜしめた張本人があなたであろうと、はたまた他の誰であろうと、わしはそれの詮議立てはすまい。あなたはこれで気苦労の種がすっかりなくなったわけだ。ついてはわしの方も気苦労の種をなくしてほしいものだ、今すぐコラにこの国から出て行ってもらいたい、どうだろう承知してはくれまいか?」
「お言葉までもありません、大賛成ですわ。あなたと一緒に、あの人に出て行ってもらうよう取りはからうことに致しましょう。わたしたちの間にふたたび平和が回復するように、愛情と尊敬がふたたび権利を取りもどして今後とも失われることのないように……」
というようなわけで、コラは国外へ出て行き二度とあらわれなかった。ルイゾンは手厚く葬られた。そしてそれからというものは、ロンジュヴィルの殿様と奥方ほど琴瑟《きんしつ》相和した夫婦はシャンパーニュ地方でもなかなか見られなかったということである。
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二人分の席
サン・トノレ街に住む大そう綺麗なさる町家の女房で、年の頃は二十と二つばかり、ぽってりと脂《あぶら》がのって艶《つや》っぽく、水々しい膚《はだえ》がこの上なく見る眼をさらった女があった。肥り気味とはいえどこからどこまで恰好《かつこう》のよいからだつきに、あふれる才気とかいがいしさとが更に魅力を添えていたが、この女房、厳格な夫婦契りの道から言えば御法度《ごはつと》の、さまざまな快楽にもなかなか旺《さか》んな嗜《たしな》みがあり、発心《ほつしん》して一年以来、ふたりの情夫をこしらえて亭主の力の至らなさを補っていた。亭主というのは年寄った醜男《ぶおとこ》で、てんで彼女に嫌われているばかりか夜のお勤めさえ碌々果すことができず、又たまにうまく行ったときでも、旺盛なドルメーヌ夫人――わが町家の美人女房はしかく呼ばれていた――の飽くことなき要求をば鎮めることはなかなかにむずかしかった。
ところで、彼女がふたりの情夫に振りあてた媾曳《あいびき》の時間割ほど具合よく折合っているものはなかった、すなわち、若い軍人のデ・ルーはいつも晩の四時から五時までの間にやって来る、そしてその後、五時半から七時までに、稀代の色男である若い商人のドルブルーズがやって来るという仕掛である。他の時間をあてることはできぬ相談で、ドルメーヌ夫人がのうのうとしていられるのはただこれらの時刻の間だけだった。朝はお店番をしなければならず、晩にもやっぱり時々はお店に顔を出す必要があった。そうでなければ亭主が帰って来て、商売の話など交さなければならないのだった。とはいえドルメーヌ夫人がその女友達のひとりに打明けて語ったところによると、彼女はこうして矢継早につかの間の快楽を味わうのを結構満足に思っているらしかった。
「こんな風な手はずにしているとね、情熱の炎は絶えっこないわ」と彼女は主張するのであった。
「快楽から快楽へと身を委せることくらい素敵なことはないのよ、第一、はじめからやり直すという世話が要らないでしょう……」
さしずめドルメーヌ夫人は、色情の興奮をもっとも巧みに計算する類《たぐい》まれな女人であった。彼女のように快感を分析することのできる女人がそうざらにいるものではない。彼女が熟考の末に、ふたりの情夫をもつことは一人の場合よりもはるかに優るという結論を得たのも、一にその生れながらの賢《さか》しさの賜物である。たしかに二人であろうと一人であろうと、近所の手前などは大して問題にはならない、一日に何度も出たり入ったりする男はどうせ他人の目には同じ男に見えることだろうし、紛《まぎ》らわしくてかえって好都合でさえある。さらに快楽について言えば、二人と一人とでは何という相違であろう! また、ドルメーヌ夫人はとりわけ妊娠を怖れていた。と言っても、御亭主はまかり間違っても彼女のお腹をふくらませるがごとき無分別はしないはずだったから、彼女はやはりこの点についても、二人の情夫をもつ方が一人の場合よりも妊娠の危険率が少ないに違いないと計算していたのである。ふたつの子種はかたみに殺し合うに違いない、と彼女はまるで解剖学者気取りの思想をほしいままにするのだった。
さて、この具合よく折合っていた媾曳の秩序が、ある日ついに乱されるに到った。今までお互いに顔を合せたことのなかった二人の情夫が、何ともおかしな形でばったり出あう仕儀になってしまったのである。先番のデ・ルーのやって来た時間が大分遅かった、そこへ持って来てどう魔がさしたのか、後番のドルブルーズがちょっとばかり早目に来てしまった、というわけである。
聡明なる読者諸子は、このふたつの些細な手違いから必ずや一場の不吉な鉢合せが生ずべきことを、直ちに推察されるであろう。まさにそれは事実となったのである。ともかくも事の顛末《てんまつ》を語るとしよう。できうべくんばありったけの礼節と慎しさとをもって話を進めよう、こうした話題はすでにそれ自体きわめて猥《みだ》らなものであるのだから。
いかにも気紛れな出来心から――と言っても人間には大ていそんな気持があるものだが――愛戯における男の立場に少々疲れを覚えたわが青年軍人は、ちょっとここで女の立場を演じて見たいという気を起した。つまり、愛人の腕のなかに深々と身を投ずる立場から、自分が愛人を受けとめる立場に姿態を変えて見たいと思った。一口に言えば、下のものを上にのせるという寸法である。この姿態の転位によってドルメーヌ夫人は、いつも生贅《いけにえ》の供えられている祭壇の上に身を屈ませて、カリピィジュのヴィナスさながら、裸形の身をその情夫の体の上に重ねてのせた。そして、秘戯いまや酣《たけなわ》なるこの部屋の戸口の方へ向けて彼女は、かのギリシア人が件《くだん》のヴィナス像において熱烈に崇拝した部分、いや何も例を遠くに求めずとも昨今パリで幾らでもその崇拝者を見出し得るところの、一言で言えばなかなか美妙な体の一部分をばむき出しにして見せていたのである。案内も乞わずにずんずん入って来るのが習わしだったドルブルーズが、いつものように鼻歌など歌いながらあらわれたとき、彼女はかかるあられもない姿態をとっていたので、彼は出あいがしらの背景に、真に淑《しと》やかな女性なら決して見せるべきでないと言われているそのものを一瞬にして見てしまった。
余人の目には又となく面白い観物《みもの》でもあったろう、が、ドルブルーズはさすがにたじたじとなった。
「何というざまだ、この売女《ばいた》……」と彼は叫んだ、「貴様がこのおれにくれようてのは、そんな野郎の取残したお余りなのか……」
女というものは危機にのぞむと、えてして思案よりも行動で見事にその場を切り抜けるものだが、このときのドルメーヌ夫人がまさにそうだった。彼女は不貞《ふて》くされてやろうと腹をきめ、相手に身を委せたままの姿勢を少しもくずさず、第二のアドニスに向ってこう言い放った。
「わからず屋ねえ、あんたは。何もぶつぶつ言う筋はないじゃあないの。あんたは空いている場所ですりゃいいのよ。よく御覧なさい。ちゃんとお二人分の席があるんだから……」
ドルブルーズは彼女のこの平然たる応酬に噴き出さざるを得なかった。そして女の意見に従うのがもっとも自然な道だと考え、遠慮なく言われた通りにすることにした。で、三人とも首尾よく目的を果したということである。
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プロヴァンス異聞
フランスにペルシャの使節がやって来たのは、御承知のようにルイ十四世の御代である。なにしろこの王様ときたら、あらゆる国々の人を好んでその宮殿に招いたもので、招かれた人々は、ひとしくその栄華に感嘆し、地球の両端をおおう並びなき権勢の一端に浴した光栄を後生大事に自国へ持ち帰るという風であった。ペルシャの使節はマルセイユに上陸すると、この地でさかんな歓迎を受けた。このことを伝え聞いたエックス高等法院のお役人衆は、やがて自分たちの町にも使節は来るであろうが、そのときはマルセイユの奴らにゆめ後れをとるまいぞ、と考えた。彼らは大した理由もなしに、自分らの町がマルセイユの上位であると思い込んでいたのである。彼らはそこでいろいろな計画をめぐらしたが、その第一の案として、ペルシャ人に祝辞を述べたがよかろうということになった。といっても、プロヴァンス語でしゃべるのなら造作もないが、それでは使節には珍糞漢《ちんぷんかん》で分るまい、はて困った……そんなわけで、裁判所会議が開かれた。裁判所会議を開くには大した理由を要しなかった、百姓どもの訴訟問題、芝居小屋でのごたごた、とりわけて女郎屋の喧嘩沙汰《けんかざた》、そんなものが十分な理由になった。いかさまフランソワ一世の治世当時のごとく、人を屠《ほうふ》り家を焼き、不幸な住民の血をしたたか流すことがこの地方でできなくなって以来、無為徒食をしていたお役人衆にとっては、こんなつまらないことが大問題であったのである。
そんなわけで、会議が開かれた――が、どうして祝辞文を翻訳したらよかろうという問題ではたとつまずいたなり、名案はいつになっても浮ばなかった。きまって黒いジャケツを着ている鮪《まぐろ》商人の部落には、フランス語をしゃべる者は一人としていないが、もしやペルシャ語をよくする者はいないだろうか?……とにもかくにも祝辞文は完成した、三人の高名な弁護士が六週間を費して書き上げたのである。最後にようやく、部落の者か町の者か分明でなかったが、永らくレヴァントに住みついてお国言葉と同じくらい流暢《りゆうちよう》にペルシャ語を操《あやつ》ることのできる一人の水夫が見つかった。彼は召抱えられて教育を受け、役目を仰せつかり、祝辞を覚え、達者な手並でこれを翻訳した。いよいよ当日が来ると、彼は法院長の着る古めかしい胴着を着せられ、法廷のいちばん大きな鬘《かつら》を借り受け、威風堂々たるおえら[#「おえら」に傍点]方をうしろに随えて、目指す使節の前へ進み出た。彼らはめいめい自分の役割を心得ていた、祝辞奏上人はうしろに随う同勢に、決して自分から眼を放してはいけない、自分のする通りを真似するようにと、くれぐれも言い含めておいた。使節は公設遊歩場の真ん中へ来て歩を止めた。ここで双方が相まみえる手はずになっていたのである。水夫はまずお辞儀をした、ところが、今までこんなものものしい鬘を頭にかぶった例《ためし》とてなかったので、頭をさげた途端に、その被《かぶ》りものをば大使閣下の足もとへころころと落してしまった。何から何までこの男の真似をするという約束であったから、並いるお役人たちもすぐさまその鬘をかなぐり棄て、疥癬《かいせん》に罹《かか》ったような薄汚い禿頭《はげあたま》をペルシャ人の方へ向けて、一せいに平身低頭した。水夫はちっとも驚かず、鬘を拾ってかぶり直し、朗々と祝辞を誦《ず》しはじめた。その読み方たるや実にうまいものであった。で、使節はてっきり彼を同国人と信じ込んでしまった。使節の心頭にむらむらと怒りが発した。
「やあ、たわけめ」と彼はサーベルに手をかけて叫んだ、「わが国語をしかく巧みに使うとは、読めたぞ貴様の素姓、マホメットの教えに背きし者と見たは僻目《ひがめ》か。貴様の罪の懲《こ》らしめに、今すぐ素ッ首もらってやるから覚悟しろ」
気の毒な水夫は必至になって申し開いたが、さらに無駄であった、使節は耳もかさなかった。水夫はそこで身振りをしたり宣誓したり、大童《おおわらわ》の態たらくであった。しかも彼の仕草はひとつ残らず、うしろに控えて御座る一群のアレオパゴス判官どもによって、すぐさま活溌に真似され繰返されるのであった。ついに万策尽きてしまった水夫は、何とかしてこの苦境をのがれるためには、問答無用の歴とした証拠を見せるにしくはなしと考えた。それはズボンのボタンをはずし、生れ落ちてから割礼というものを受けたことのない確かな証拠を使節の目の前に示すことであった。すると、またしてもこの仕草はただちに大勢の真似するところとなった。四、五十人も居並んだプロヴァンスのお役人衆は、一せいにズボンの前の合せ目をずりさげ、包皮をその手に持ちそえて、水夫とともに、このなかには聖クリストフのごときキリスト教徒でないものは一人も御座いませぬとばかり、身の潔白を明し立てる騒ぎとは相成った。方々の窓から儀式の有様を見物していた御婦人がたが、このあきれた身振狂言《パントマイム》をながめて、どんなに噴き出したいのを我慢するのに苦労したことか察するに難くない。さて、事ここに至って疑うべからざる証拠に得心した特派使節は、なるほど祝辞奏上人には罪はなかった、それどころか、何とおれはズボンの町にいるのだわいと、つくづく思ったことだった。で、肩をそびやかしてその場を立ち去ったわけだが、内心ひそかにこう考えたに違いないのである――ふん、こいつらがいつも断頭台《ギロチン》をおっ立てているのも考えて見れば不思議はないわい、よくしたもので、能なしにふさわしい厳格主義がこの畜生めらの持ち分なのじゃから。
さて、この新式の教理問答《カテシズム》のありようを一幅の絵にしたら面白かろうとは誰しも思うことである。そしてすでにさる青年画家の手によって、それは活写されてあったのであるが、裁判所はこの田舎の芸術家を追放し、その写生画を火にくべて処分してしまった。いずくんぞ知らん、この写生画には役人たち自身の姿が描かれてあったが故に、彼らはほかならぬ彼ら自身を焼いたのである。
――われわれは愚か者の名を甘受しよう、ともったいぶったこのお役人衆は言うのであった、何も好き好んでというわけではないが、われわれがこの不名誉な呼び名を全フランス中に披露してからすでに長い年月が流れている。しかしながらわれわれは、この絵が愚か者の名を後世にまで伝えるとあらば、いかさまこれを黙許できないのである。後世人はかかる下賤なことはいち早く忘れ、メランドルやカブリエルの大虐殺のみをいつまでも記憶にとどめるであろう。屍《しかばね》の名誉のためには、驢馬《ろば》となるよりは虐殺者となった方がまだましである、と。
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哲学者の先生
われわれが教育に当って、児童の頭に詰込むべき学問は多々あるが、そのなかでもキリスト教の教義というやつ――なるほどそれはおよそ教育と名のつくものの最も崇高な部門かもしれないが――稚《おさな》い子供の頭にはどうして容易に入り込めないしろものだ。たとえば十四、五歳の幼い子供をつかまえて、「父なる神」と「神の子」とは一にして二にあらず、子は父と同体であり父は子と同体である、などと説得することは、いかにそれが人生の幸福に必要欠くべからざるものであるとしても、代数学を覚えさせるよりははるかに難事と言わねばならぬ。だからこれを首尾よく教え込むためには、どうしてもある種の形而下的表現、ある種の具体的説明を用いなければならない。これは間々|正鵠《せいこう》を失する場合がなきにしもあらずだが、幼い子供に神秘な物事を理解させるには持って来いの方法である。
幼いネルスイユ伯爵の家庭教師、デュ・パルケ法師ほどにこの方法にかけて深く通暁している者はいなかった。ネルスイユ伯爵はまだ十五歳くらいであったが、稀に見る美貌《びぼう》の可憐児であった。
「法師さま」と毎日のようにこの小伯爵は先生に言うのだった、「同体論はほんとにむずかしくて僕にはとても歯が立ちません。二人のひとが一つの体になることができるなんて、どうしたって僕には分りっこないような気がしますね。先生、お願いですから、この教義がよく分るように説明してくださいませんか、せめて僕の歯が立つようにしてくださいませんか」
実直な法師は教育熱心であった。この生徒がいつの日か頼もしい若者になるための、あらゆる援助を与えてやることをもっぱらわが意としていた法師は、そこで小伯爵の逢着した難問を除去してやろうと、なかなかに面白い方法を考えついた。人間性に即したこの方法は成功すること必定と思われた。彼はまず十三、四の女の児を自分の家に連れて来て、まだほんのいとけないその児を大いに教育して、一日若い生徒と添え合せたのである。
「さあどうだね」と法師は小伯爵に言った、「同体論の教義がこれで分ったろう、二つの体が一つでしかない場合もあるものだということが訳なくお分りだろう?」
「ああ、先生、ほんとですね」と可愛い子供は夢中になって言った、「もうすっかり訳なく分ります。この教義が天国の神さまのお楽しみのすべてだと言われたって、もう僕は不思議には思いません、だって二人が一人になるお遊びはこんなに素敵なんですもの」
数日経て小伯爵は、もう一度授業をしてくださいと家庭教師に頼むのだった。彼の言うところによると、教義のなかにまだはっきり分らないところがあるから、もう一度この前したようなことをして実地に説明してほしい、というのであった。過日お稽古の現場に立会って生徒と同様愉快な思いをした法師は、そこで親切にもふたたび女の児を連れて来て、二度目の授業をはじめたのであったが、最初と違って今回は、幼い配偶《つれあい》と同体になったネルスイユ小伯爵の可愛い腰つきを見てすっかり興奮してしまい、もはや第三者として福音の比喩を説明する己の立場にあきたらなくなってしまった。説明のために手を伸ばして可愛い肉体をなでまわしているうちに、ついに体中がかっかと熱くなって来てしまったのである。
「どうもちと速くやりすぎるようじゃて」とデュ・パルケ法師は小伯爵の腰をおさえて言った、「運動に弾みがつきすぎるのじゃ、だから交りがこんなに浅くて、肝心の教義は一向具体的な象徴に高まらないのじゃ……どれ、わしもやって見ようか、ほれ、こんな具合にな……」と言ってこのずるい坊さんは、生徒が女の児に貸しているようなあんばいに、その一物を男の児に貸してやったのである。
「わあ、何て気持の悪いことをなさるんです先生」と男の児は言った。「これも教義のお勉強なのですか、こんなことをしたって僕の勉強の役には立たないような気がしますけれど?」
「ええ、仕方のない小童《こわつぱ》じゃ」と法師はほくほくしながら口ごもった、「分らぬかい、お前さんには、こうしてわしが教えているのに?……それそれ、三位一体じゃよ……今日のお稽古は三位一体じゃよ。あと五つか六つこうしたお稽古をつづけて行けば、お前さんもやがてソルボンヌ大学の博士になれるというもんじゃて」
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復 讐
その昔オワズ河ソンム河の岸辺を流して歩いたかの有名な吟遊詩人の一族の後裔《こうえい》でもあろうか、ピカルディ地方にさるブルジョワの名家があった。この地方のブルジョワどものだらしない暮しぶりはここ十二、三年来今世紀のさる大作家の筆によって明るみに出されたところであるが、私の言うその温厚篤実な一ブルジョワは、多くの文豪を輩出させたので著名なサン・カンタンの町で、妻とともに恥ずかしくない暮しをしていたものである。なおこの町の修道院には、彼の三親等の従姉妹《いとこ》に当る女が修道女として暮していた。この従姉妹というのは栗色の髪の小柄な女で、熱っぽい瞳や反り鼻が小粋《こいき》に可愛らしく、からだつきはすんなりとしていた。二十二歳にして彼女は心に悩みをおぼえ、四年このかた修道院にはいっていた。ペトロニィユ教姉というのがその法名であったが、声の綺麗な彼女は抹香臭《まつこうくさ》さよりも多情な性質においてはるかに勝《まさ》っていた。一方わがブルジョワ氏はデスクラポンヴィルという名前の、二十八歳ばかりの快活な肥大漢であったが、この従姉妹にぞっこんほれていて、デスクラポンヴィル夫人にはそれほど熱がなかった。それというのも既に十年間共寝して来た夫婦であって見れば、十年の習慣が媾合《まぐわい》の情火を翳《かげ》らせていたのも無理からぬことであった。デスクラポンヴィル夫人といえば――彼女の人となりも描いて置かねばなるまい、そうでもしなければ当節の読者は許してくれそうもない。何しろ描写一点張りの御時世である、屏風絵師《びようぶえし》が少なくとも六つの画材を見出すほど華やかな場面に充ちていなければ悲劇も受けぬという御時世である――ところでデスクラポンヴィル夫人だが、彼女はいささか野暮な薄茶の髪の女であった。しかし色はあくまで白く、瞳も結構美しく、肉《しし》おきもまた豊かで、好者《すきもの》のあいだに普通まるぽちゃ[#「まるぽちゃ」に傍点]と呼ばれる態の女であった。
現在までデスクラポンヴィル夫人は、不実な夫に復讐《ふくしゆう》する方法があろうなどとは夢想だにしたことがなかった。八十三年間同じ夫と暮して浮気ひとつしなかった彼女の母と同様に貞淑であったデスクラポンヴィル夫人は、世の罪障鑑裁家たちが姦通と名づけ、春風|駘蕩《たいとう》たる通人輩があっさり色事と呼んだところの、あの大それた罪なぞ頭に浮べたことすらなかったほど、世間見ずでもありまた無邪気でもあったわけである。しかしながら、夫に不貞をされた妻というものは、たちまちにしてその怨みに報ゆるに復讐の一念をもってする。誰でも残債があるのを好まぬごとく、女とはいえ返報したいと思わないはずはない。これ、彼女に非難さるべき点の少しもないゆえんである。
デスクラポンヴィル夫人はついに、親愛なる背の君が従姉妹のところに少々足繁く通いすぎることに気がついた。で彼女は悋気《りんき》の鬼となり、機会あらば詮索に余念がなかった。そしてとうとうサン・カンタンの町で夫とペトロニィユ教姉との情事ほど公々然たる情事は少ないという事実を探知するに到った。さてこそ自分の眼に狂いはなかったと、デスクラポンヴィル夫人はついに夫に向ってこう言明した、あなたのお振舞いはわたしの心を引裂きます、そのようなお仕打に値するようなことをわたしがしたとでもおっしゃるのでしょうか、どうかあなたの不身持を改めてください、と。
「おれが不身持だって?」と夫は冷淡に答えた、「いったいお前は、おれが救霊を得るために修道女の従姉妹と寝てるんだってことが分らんのかね? 聖なる情事においては人の魂は洗い清められるものだよ。それは神と一体化し、精霊を身内に入らしめることなんだ。考えても御覧よ、神様に身を捧げた人と関係したからって、何が罪なものかね? 尼さんたちは関係したものみなを清めてくれるのさ。だから彼女たちと交渉をもつことは、一口に言えば、天国への道が開かれるということなんだ」
デスクラポンヴィル夫人は夫の屁理屈《へりくつ》に大分不満であったが、何とも言わないでいた。しかし内心では、今に自分こそもっと弁舌爽やかな理屈をこねて、夫にほえづらかかせてやりましょうと誓ったことだった……よくしたもので、女というものはいつでもその気になりさえすれば据え膳で食える[#「据え膳で食える」に傍点]のである。多少とも容色に恵まれていさえすれば、また何をか言わんや、あっちからもこっちからも間男が降るようにわいて来る次第である。
さてこの町に、ボスケ法師と呼ばれるある小教区の助任司祭が住んでいた。三十がらみの好色漢で、いつも女の尻を追い回してはサン・カンタンの亭主という亭主の顔に泥を塗って歩いていた。デスクラポンヴィル夫人はこの助祭によしみを示しはじめた、助祭の方もまたいつとはなくデスクラポンヴィル夫人によしみを示し、ついにはふたりとも完全によしみを通じ合ってしまったので、お互いに頭から足の先までひとつも間違えずに相手の姿を思い描き得るほどの仲となってしまった。一ヵ月たって、あわれなデスクラポンヴィル氏を冷やかしに友達がやって来た。彼は常々自分があの助平助祭の毒牙を免れている唯一の亭主であること、サン・カンタンの町で自分の顔だけがまだあの悪漢に汚されていないことを自慢していたのである。
「そんな馬鹿なことがあるものか」とデスクラポンヴィルは、事の次第を話して聞かせる友達に向って言うのであった、「おれの女房はルクレチアのように貞淑なんだ、そんな寝言を百万べん繰返したっておれは信じやしないぞ」
「論より証拠だ」と友達のひとりが言った、「来て見りゃ分るよ、自分の眼で確かめるまでは信じかねもしようさ」
デスクラポンヴィルは導かれるままに友達に従った。友達は彼を町から半里ばかり離れたもの淋しい場所へ引っ張って行った。そこは、ソンム河が花ざかりの生垣のあいだを清々《すがすが》しく流れていて、町の人々の快適な水浴場ともなっている場所であった。しかし媾曳は大てい人がまだ水浴に来ない時間に行われるに決っていた、だからあわれな夫は、貞淑なるべきわが妻と相手の男とが誰はばかるところなくこもごもやって来る様を見て、そぞろにやるせなさを覚えるのだった。
「どうだい」と友達がデスクラポンヴィルに言った、「面の皮がむずむずして来やしないかい?」
「何の何の」と言いながらもわがブルジョワ氏は思わず顔を手でさすって見るのだった、「彼女《あいつ》、懺悔《ざんげ》をしに来たのかもしれないよ」
「まあ終りまで見ていたまえ」と友達が言った……
手間はかからなかった、香ばしい生垣の恰好な木蔭に来るや、ボスケ法師はたちまち思いあふれた風情で、官能的な接触を妨げる一切のものを身ぐるみはぎ取った、そして、おそらく三十人目でもあろうか、善良なデスクラポンヴィルを町に住む大かたの寝取られ亭主の数に入れる厳《おごそ》かな仕事に取りかかったのであった。
「さあどうだ、これで分ったろう?」と友達が言った。
「帰ろうや」とデスクラポンヴィル氏は怒ったように言った、「分りすぎるほど分ったよ、糞坊主め、殺したってあきたらない野郎だ、いまに目にものを見せてくれるぞ。さあ帰ろう、君、このことは内証に頼むよ」
デスクラポンヴィルはほうほうのていで家にもどった。間もなく夜食の時間になると、優しき妻はあらわれて背の君の隣に坐ろうとした。
「ちょっと待った、お前さん」とわがブルジョワ氏が荒っぽい口を利いた、「おれは餓鬼の時分から親爺に誓ったもんだ、淫売と一緒には決して飯を食わぬとな」
「淫売ですって」とデスクラポンヴィル夫人はもの柔らかに言った、「驚くじゃありませんかあなた、わたしが何かいけないことでもしたとおっしゃるの?」
「やいやいどこまでしら[#「しら」に傍点]をきる、いけないことというのはだな、今日の午後、水浴場で町の助祭としていたことだ」
「あらまあ」としとやかな妻は答えた、「そんなことでしたの、あなたのおっしゃりたいのは、そんなことでしたのね」
「何だと、畜生、何がそんなこと……」
「でもあなた、わたしはあなたの御意見に従ったまでなのよ、あなたはこうおっしゃったんじゃなくって、宗門のお方と寝たってちっとも構うことはない、聖なる情事において人の魂は洗い清められるのだ、それは神と一体化することであり、精霊を身内に入らしめることである、一口に言えば、天国への道が開かれることなんだって?……そうですともあなた、わたしは言われた通りをしたまでよ、ですからわたしは聖女でこそあれ、淫売なんかではございません! それはそうともしあなたのおっしゃるように、お坊さんたちの中に天国への道を開くことのできる方がいらっしゃるのだとすれば、それはきっとあの助祭様だと思うわ、だってわたし、あんな大きな鍵をはじめて見たんですもの!」
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エミリー・ド・トゥールヴィル あるいは 兄の惨酷
家庭の中にあっては家族の名誉ほど大事なものはないのであるが、さればと言って、もしこの宝が輝きを失うに到ったというような場合、いかほどそれが貴重であればとて、名誉を守ることに汲々とした人たちが、心ならずも名誉を傷つけた気の毒な家族を迫害するという、面白からざる役割を進んで引受けてまでこれを償おうなどとすることは、果してどんなものだろうか? 不名誉をしでかした家族を痛めつけ苦しめることによって、自分たちが受けた損害(ともすると有名無実な)を賠償せしめようなどとする考えは、どう考えても道理をはずれたものではなかろうか? 心弱くも誤ちを犯した娘と、一家の懲罰者を気取ってこの不幸な女の迫害者となる家族の一員とは、理性の眼から見て、要するにいったいどちらが悪者であろうか? 以下、読者諸子の御高覧に供せんとする事件が、これなる疑問に解決を与えてくれれば幸いである。
国王代理官リュクスイユ伯爵は、齢《とし》の頃五十六か七で、ちょうどその時、ピカルディ地方の所有地のひとつに馬車で帰任するところであった。十一月も末の、日暮間近い六時の刻限であったが、コンピエーニュの森にさしかかると、今しも馬車の横切った街道にほど近いとある小路の角からでも聞えてくるのだろうか、ふと、女の悲鳴を耳にして、伯爵は馬車を停めさせた。馬車のそばを走っていた従僕に、いったい何事であるか見て来るように命令した。見て来た従僕の報告によると、十六か七になる少女が、傷口すらどこにあるのか見分けられないほど、おびただしい血にまみれて、助けを求めているということである。で、すぐさま伯爵自身も馬車を降り、そのいたましい女の許に駆けつけたのであるが、暗さのせいもあって、彼女の出血の個所を突きとめるのにはやはり伯爵も難渋した。だが娘の返事から、とうとうその傷口が、一般に刺《し》|※[#「月+各」、unicode80f3]《らく》の場所とされている腕の静脈にあることが分ると、さすがに伯爵も驚いた。そこで、伯爵はできるだけの介抱をしてやってから、「お嬢さん」とこう話しかけた、「ここであなたの御不幸の原因をお尋ねすることは、差しひかえましょう。またあなたにしても、いまはお話しなさるわけには参りますまい。まずは私の馬車にお乗りくだされ。目下のところは、ただ、あなたはできるだけ心をお鎮めくださればよろしい。私は私で、あなたをお救い申しあげることに専念致しましょう」こう言いながらリュクスイユ氏は、従僕に手伝わせて、この気の毒な娘を車中に助けあげると、ふたたび出発した。
娘は自分が救われたことに気がつくと、すぐに感謝の言葉を口ごもろうとしたが、伯爵は何もしゃべるなと彼女に注意して、こう続けた、「まあ明日までお待ちなさい、お嬢さん、明日まで。明日になったら、あなたの身の上に関すること一切を、ゆっくり聞かせていただきましょう。だが今日は、何ぶん私の齢の劫《こう》と、気の毒なあなたのお役に立てるという幸運とに免じて、あなたにこう命令することを許してください、あなたはただ御自分の気持をお鎮めなさることだけを考えておればよろしいと……」こうして一行は目的地に着いた。醜聞を避けるために、伯爵は娘に男の外套《がいとう》をかぶせて、邸のいちばん端にある便利な部屋に、従僕の手で彼女を運ばせた。そしてその晩夕食に彼を待っていた妻と息子ふたりの接吻をそそくさと受けると、直ちにふたたび彼女を見舞いに取って返した。
病人を見舞うとき、伯爵は外科医をひとり同伴した。診察してみると、娘は何とも説明のつかない一種の衰弱状態にある。顔いろの蒼《あお》さはほとんど、彼女の生命が風前の灯火《ともしび》の状態にあることを告げるかのようだった。とはいえ、どこにも傷はないのである。結局彼女の言うところを聞いてみると、この衰弱の原因は、三ヵ月以前から毎日のように絞り取られていた目に余る量の血液であることが分った。そうして彼女は、この人間業とは思われない驚くべき出血の原因を伯爵に語りかけようとして、またもや意識を失ってしまうのだった。医者は、病人を安静にしておく必要があること、気つけ薬と強壮剤を投与するほか手の施しようがないことを述べて帰って行った。
病人はその晩安眠したが、しかし六日たってもまだ、一身にまつわる事件の一部始終をその恩人に話して聞かせることのできる容態には到らなかった。七日目の夕方頃、その頃になってもまだ伯爵家の人々はみな彼女が家の中にかくまわれていようなどとはつゆ知らず、彼女自身も伯爵の周到な配慮のためにやはり自分が居る場所を知らないでいたのだったが、やっと彼女は伯爵に自分の言うことを聴いてくれるように、そして自分の告白しようとすることがいかなる誤ちであるにしても、どうか寛大な態度を持してくれるようにと頼むのだった。リュクスイユ氏は椅子に着くと、どんなことになろうとあなたに対する同情の念を失くすことはないと確言したので、わが美しき悲劇の主人公は、次のような不幸の物語を語りはじめたのである。
私の父はトゥールヴィル法院長と申しますが、その社会では非常に有名でもあり、顕職についてもおりますので、おそらくあなたさまも御存知ないことはなかろうと存じます。二つのとき修道院を出ましてから、私は決してこの父の家を離れたことがございませんでした。まだ幼い頃母を失くしましたので、父だけが私の教育の面倒を見てくれましたが、私はこの父が女としてのすべての嗜《たしな》みや心得を私の身につけてくれるのに、何事もいとわなかったと申すことができるのでございます。それからまた父は私にできるだけ恵まれた縁組をさせようと心がけておりましたが、こういった思いやりや心配や、おそらくまた多少偏愛とも言えるものが、そうです、要するにこういったことのすべてが、やがて私の兄たちの嫉妬を招くことになったのでございました。兄の一人は三年前から長官の職につき、二十六になったばかりでございます。もう一人は間もなく二十四で、これはごく最近参事官になりました。
今にして私は、自分がどれほど激しく兄たちの憎しみの的になっていたかを如実に知りましたが、その頃はまだ、そのようなことは思いもかけませんでした。兄たちのこうした悪感情に値するようなことは何ひとつした覚えはございませんので、私は自分が兄たちに対していだいていると同じ無邪気な愛情を、彼らも私に対していだいてくれるのだろうとばかり、甘い幻想のうちに暮しておりました。ああ! それこそ飛んでもない間違いだったのです! 私は自分のお稽古の時間を除いては、父の家で最大限の自由を享受しておりました。父は私の言動を信用していてくれましたので、何事によらず私を拘束するということをせず、おかげで私はもう一年半も前から、毎朝小間使の女中と一緒に、チュイルリーの高台だとか、私たちの住んでいる町のまわりの城壁の上だとかを散歩したり、あるいはまたこの女中と一緒に、父の馬車を使ったり歩いたりして、若い娘が他人様《ひとさま》の御宅の集りに一人で行くべきでないような時刻でない限りは、お友達や親戚の家に遊びに行くことも許されておりました。そして私の不幸のすべての元が、この忌まわしい自由にあったのだと申せば、なぜ私がこんなことまでお話し申すのかも、分っていただけましょう。ああ、こんな自由はもたない方がましというものでございます。
一年も前のこと、いまも申しあげました通り、ジュリーという名の小間使と連れ立って、チュイルリーのほの暗い小路を私は散歩しておりましたが、それはここが高台よりも人気がないように思われて、きれいな空気が吸えるような気がしたからでございます。で、私たちが散歩しておりますと、そこに六人の男が近づいて来て、どうやらその下卑た話しぶりから、彼らが私たち二人をいわゆる辻君と早合点したらしいことが知れました。私は大へん困惑してしまって、どうしてこの場を切り抜けてよいか分らぬままに、ちょうど折よくその場に通りかかった男、大ていいつも私と同じ時刻にひとりで散歩しているのによく出あっていたものでしたが、どこから見ても紳士としか思えない、その若い男のところに飛んで行って、救いを求めようと致しました。「もし、あなた」と私は彼の注意をひいて、こう申しました、「まだあなたさまとはお近づきにしていただいておりませんけれど、私、毎朝ここでお目にかかっておる者でございます。私の様子をごらんになれば、きっと分ってくださることと思いますが、私は浮いた女じゃございませんわ。どうかお願いですから、私を家まで送って来てくださって、あのならずものたちからお救いくださいませ」こう申しますと、××氏、この方のお名前は伏せさせておいてくださいませ、それ相当のわけがあるのですけれど、すぐに駆けて来てくださって、私を取巻いている与太者たちを遠ざけ、品のよい丁寧な態度で、彼らの思い違いを納得させますと、もう大丈夫ですよと、やっぱり丁寧な言葉で私にそう言い、それから私の腕を取ってすぐとチュイルリーの庭園から連れ出してくださいました。やがて私の家の門の前に近づきますと、「お嬢さん」とその青年は言いました、「ここでお別れした方が賢明のようですね。もしあなたをおうちまでお送りすれば、わけを話さなければなりますまい。そうすればきっと、今日から以後ひとりでお散歩に出るのがあなたにはむずかしくなりましょう。ですから、今日の出来ごとはお隠しになってください、そしていつものように、これからもまた、あの小路をお散歩にお出かけください、それがあなたのお楽しみなんだし、御両親もそれは許してくださっておられるのでしょう。私も一日だって欠かさず、あの小路に参ります。そこでもし、御身の安全がおびやかされるようなことがございましたら、いつだって生命をなげうってあなたをお助け致しましょう」こういった親切な忠告や、よく気のつく注意や、そのほかすべてのことが、その時まで思っていたよりはもう少し余計の関心をもって、私にこの青年を凝視させたのでした。青年が私より二つ三つ歳上であり、かつ魅力ある容貌《ようぼう》の持主であることを見てとると、私はお礼の言葉を述べながら顔があかくなりました。すると、やがて私の災いをもたらしたこの魅力の主も、やはりその貌《かお》を上気させましたが、それが抵抗する暇もなく私の胸を刺し貫いたことでございました。私たちはそれなり別れましたが、××氏の帰って行く様子から、私は彼が、いま私の身内に起ったと同じ感動を、やはり覚えたに違いないことを見てとったように思いました。父の家へ帰っても、私は十分気をつけてその日のことは一言ももらさず、翌日ふたたび、自分自身よりもはるかに強い想いに導かれて、同じ小路へとおもむきました。どんな危険がそこに待っていようと進んでこれを冒したい気持……そうです、あの方に助けていただく悦びがもう一度味わえるものなら、むしろそんな危険を望みさえしたい気持でございました。こんな風に私の気持を説明致しますと、何だかあんまり軽はずみのようで、ずいぶん驚かれることでもございましょうけれど、あなたさまは話の初めに寛容を約束してくださったのですし、これから私の物語が進んで行きますうちには、そういうことにたびたびぶつかることでもございましょう。私が己の不謹慎をあなたさまの目の前にさらけ出しますのも、これがただ一度ではなく、あなたさまの御寛恕《ごかんじよ》をお願い致しますのも、今回だけというわけには参りますまい。
××氏は私より六分遅れて小路に姿をあらわしますと、早速私を見つけて近づいて来るなり、「お嬢さん、私がまずおききしたいことは」とこう申しました、「昨日の事件が何か面倒なことになりはしなかったか、そしてあなたがそのことで、お心を痛めていらっしゃりはしないか、ということですが?」私はそんなことはないとはっきり答え、彼の忠告通りにしたことや、おかげでとても助かったこと、それから、毎朝こうして散歩に来る楽しみを誰にも妨げられずにいるのをとても嬉しく思っていること、などを話しました。××氏はこの上なく優しい調子で、「お嬢さん、あなたがお散歩をどれほど楽しみにしていらっしゃるにしても」と答えました、「ここであなたとお会いする幸福に恵まれた者は、おそらくあなた以上の楽しみを感じていますよ。それから昨日私は、お散歩ができなくなるような結果を招くことは、なるべくおっしゃらない方がよろしいと、不躾《ぶしつけ》なことを申しあげましたが、そのことについてはあなたは私に少しも感謝なさる必要はないのです。思い切って申しますが、あれはお嬢さまのためというよりは、むしろ私自身のためにやったことなので」こう言いながら彼の視線は、表情たっぷりに私の眼に向けられました……おお、こんな優しい殿方のために、後に私は自分の不幸を背負い込まねばならなかったのです! 私は慎みぶかく彼の言葉に答え、それから二人はいろいろなことを話しながら、相携えてチュイルリーを二回り致しました。別れる前に、××氏は、あなたは昨日僕にあんなにも楽しい護衛の役目を仰せつけてくださいましたが、まだお名前すら明してくださいません。お差支えなかったらどうかお聞かせ願えませんかと申すのでした。匿《かく》す必要はないと思ったので、私は名前を教えました。すると彼も身分を名乗り、その日はそうして別れました。こうして一月近くの間というもの、私たちはほとんど毎日のように会うことをやめませんでした。あなたさまも容易にお察しくださいますように、私たちがお互い胸の想いを相手に告白し、愛の証しを絶えず相手に誓い合うようになったのも、この月の間のことでございました。
そうこうするうち、やがて××氏は、公園よりもどこかもっと気兼ねの要らない場所で会ってくれないかと、しつこく申すようになりました。「でも僕はあなたのお父様の家にお伺いする勇気はありませんね、エミリー」と彼は申すのでした。「僕たちのことを少しも知らないお父様は、きっと僕がなぜあなたの家に引きつけられて来るのか、早速いぶかしがられることでしょう。こんなやり方は、僕たちの目論見《もくろみ》に力をかしてくれるどころか、おそらく大きな妨げとなりますね。ところで、もしあなたが、真実親切で同情心に厚い方で、僕が僕のあえてする要求の容れられない悲しみにがっかり意気消沈してしまうのを、見るに忍びないと思し召すならば、ここにひとつ、方法があるのですがね」最初のうちこそ、そんな方法は教えていただかなくともようございますと言っておりましたが、すぐ次には、私とても気弱くなってしまって彼にそれをききたださずにはおられませんでした。その方法というのは、週に三度、アルシス通りの流行装身具店主ベルセイユ夫人の家で、私たちがこっそり会うことでした。××氏の言うところでは、この夫人の慎みぶかさと親切さとは、自分の母親同様に安心できるのでした。「あなたは以前、アルシス通りにおばさまが住んでおられるとおっしゃいましたね。おばさまの家を訪ねるのなら、誰も文句は言いますまい。つまり、おばさまの家を訪ねるふりをして、実際はそこを早々に切りあげ、残りの時間をいま言った女の家で過すようになさればよいわけです。おばさまはあなたのことをきかれたら、実際にあなたがその日家に訪ねて来られたと答えるでしょう。だから、あとはただ、訪問の時間をうまく割振りするということだけに気をつければよいわけなんですが、しかし、あなたをみなが信用している以上、誰も不意に訪ねて来ようなんてする者のいないことは、まあ確かだと思ってよいでしょう」私がこの計画を思いとどまらせるために、そしてその不都合なることを彼に分ってもらうために、どんなにそれに反対したかは一切申しあげないことに致します。結局最後には彼の言うことをきいてしまったのである以上、私の無力な反抗をいちいちお話したとて、それが何になりましょう? 私は××氏に、彼の希望する通りを一切約束してしまいました。彼がジュリーに与えた二十ルイが、私の知らないうちに、この娘を完全に私たちの味方につけておりました。そういうわけで、私は我から進んでわが身の破滅に手をかす以外になすところを知りませんでした。そればかりか、その破滅をひときわ完全にするため、私の胸のうちを流れる甘い毒物にひときわ永くじわじわと酔うために、私はおばさまに偽りの告白をさえしたものです。それは次のようなものでした、私の友達のある若い婦人が(このひとにもあらかじめ意を通じてあったので、そのように答えてくれるはずだったのですが)一週間に三回フランス座の桟敷《さじき》に私を招待してくださると言っておりますが、私は反対をおそれてそのことをお父様にもようお伝えできないでおります。そこで、おばさまの家に来るということにしておきたいのですけれど、どうかおばさまからそのように保証していただけませんでしょうか、と。おばさまはちょっと困ったようにしておりましたが、私の懇願に反対し切れませんでした。で私たちは、ジュリーが私の身代りでやって来ること、芝居からの帰りがけに私がおばさまの家へ寄って彼女を連れ、それから二人して家へもどるようにすることなどを取定めました。私はおばさまに接吻の雨を注ぎました。何という宿命的な盲目の情熱でしたろう、私はおばさまが、私の破滅に手をかしてくれたこと、進んで死地におもむかんとする私の錯乱に、手引きを与えてくれたことを感謝したものでございました。
かくして、ベルセイユ夫人の家での私たちの逢瀬《おうせ》がはじまりました。夫人の店はりっぱで、住居は大そう瀟洒《しようしや》でしたが、四十がらみの夫人自身も私の目には大そう信頼の置けそうなひとに思われました。ああ、今にして思えば、それが間違いのもとだったのです、私はその女と私の恋人とを、あまりにも信用しすぎたもののようでした……今こそあなたさまに打明けて申しますが、彼は不実な男でございました……この不吉な家に通いはじめてから六度目の逢瀬のとき、彼は、力と甘言でまんまと私をたらし込み、私の弱さにつけ入ることによって、とうとう私を自分の情欲の対象とすることに成功し、私は私で、彼の腕に抱かれたまま、私自身の情欲の犠牲者となり果てたことでございました……無慈悲な快楽よ、すでにお前はどれほどの涙を私に流させたことだろうか、そしてまた今後とも、死のきわまで、どれほどの悔恨で私の心を引き裂くことでもありましょうか!
かような忌まわしい迷夢のうちに一年ばかりが過ぎて、私は十七の歳を迎えました。父は毎日のように縁談を私に伝えます。そのたびに私がどれほど慄《ふる》えねばならなかったか、お察しくださいませ。だがそのうち、とうとう、ある宿命的な事件が私を永遠の地獄の淵《ふち》に追い落し、二度とふたたびそこから浮きあがれないようにしてしまったのでございます。すげない神の摂理は、まるで身に覚えのない私の誤ちを、現実に犯された罪で報いようとするかのごとくでありました。あたかも、私たちが決して神からのがれることはできず、神は道を誤まる者をどこまでも追求なさるということを、また、神が私たち人間の懲罰に役立てるために徐々に整えるものは、私たち人間の夢想だにしない事件であるということを、それは私たちに思い知らせるかのようでありました。
××氏は、ある日私に、次のようなことをあらかじめ知らせて寄こしました、それは、のっぴきならない用件があって、いつも一緒に過す語らいの三時間をまるまる楽しむことができなくなった、けれども私たちの逢瀬の時間の切れる数分前には来られるだろうから、いつもの慣例を乱さないためにも、あなたはやはりいつもの時刻にはベルセイユ夫人の家に行っていた方がよろしい。そうでなくても、お父様の家に一人でいるよりは、二、三時間お店のマダムや売子たちと一緒に遊んでいた方が楽しいでしょうからね、とこう、知らせて寄こしたのです。私はマダムを大そう信頼しておりましたので、恋人の申し出に何の異議もなく、それではその日たしかに参りますけれども、あんまり待ちぼうけをさせないでね、と頼んで約束致しました。彼もできるだけ早く仕事を片づけて、やって来るからと断言するのでした。しかし、その日は私にとって怖ろしい日となりました!
ベルセイユ夫人はその日、いつものように私を自宅にあげてはくれず、お店の玄関口に迎え入れるのでした。そうして私を見るや否や、「お嬢さん」と切り出しました、「今晩は××さんが早くからここへいらっしゃれないので、大へん好都合ですわ。実はあのひとには言いにくい打明け話があるのでね。ちょうどあの方がいらっしゃらないのを幸い、ちょっと二人で表へ出ませんか」「でもいったい、どういうことなんですの、マダム?」と私はこの切出し方にいささか面くらって、こう聞き返しました。「いえね、大したことじゃございませんのよ、お嬢さん、何でもないことなんですけどね」とベルセイユ夫人は続けて、「まあそんなにびっくりなさらなくともようござんすよ。ほんのちょっとしたことなんですから。実はあたしの母があなたがたの媾曳《あいびき》に気がつきましてね。何しろ懺悔聴聞僧みたいに神経質でうるさい婆さんのことで、あたしが世話しているのも溜込んだ現なまのためだけなんですけれど、その母がもうこれ以上あなたがたをお迎えするのは断然やめてほしいと言うのですわ。どうも××さんには申しあげにくいのですがね。でも、あたしもいろいろ考えてみたんですよ。こんな風にしてみてはどうでしょう、あたしこれから早速あなたをあたしの友達の家へお連れします、あたしと同じ年格好の女で、あたしと同様に確実なひとですわ。で、その女にあなたを紹介致しますからね、もし彼女があなたのお気に召せば、あなたは××氏にそのことをお話しになって、大へん親切そうなひとだから二人の逢瀬はその女の家で行ったらいいということを、お勧めになればよろしいでしょう。またもしその女がお気に召しませんでしたら、まあそんなことは万々ないものと思いますけれども、どうせその女の家にはほんのちょっとの間しかいないのですから、××氏にはあたしたちのしたことは黙っておればよろしいのですわ。そのときはあたしの方からあの方に、もう宅をお貸しするわけには参らぬことを申しあげましょうし、あなた方はまたお二人で、何か他に、媾曳の方法をお探しなさいませ」
この女の言うことは大へんもっともなことでしたし、彼女の様子といい話しぶりといい実に自然で、私はそれに少しの疑いも不安もいだいておりませんでしたので、彼女の頼みを了承するのにどんな些細な遅疑すら覚えませんでした。私はただ、彼女の言う通り、彼女が私たちの世話をしてくれるのができなくなったのが大そう残念でしたので、心からその気持を彼女に示しました。それから二人して家を出ましたが、私の案内された家は、同じ通りにあって、ベルセイユ夫人の家からはせいぜい七、八十歩のところでした。大きな表門といい、通りに面した美しいガラス窓といい、どこからどこまで端正で清潔なそのたたずまいといい、外観からは何ひとつ私の気に入らない点は見つけ出せませんでした。にもかかわらず、内なる声が、私の心の奥底で、何か異常な事件がこの不吉な家の中で私を待ち受けているのだと、叫んでいるような気が致しました。階段を一段のぼるたびごとに、何とも言えない嫌悪感が私をとらえます。すべてが挙げて私にこう呼びかけているように思われました、「どこへ行くのだ、お前は。哀れな女よ。このようないかがわしい場所に近づいてはならぬ……」けれども私たちはその家に着いてしまいました。がらんとしたりっぱな控えの間を過ぎ、それから客間に通りましたが、私たちがドアを入ると、まるで扉の後に人でも隠れているように、たちまちそのドアが閉まるのです……私はぞっとしました。おまけにこの部屋はとても暗くて、辛うじて足を運んで行けるといった有様です。だが、それも三歩と進まないうちに、私はいきなり二人の女に取押えられてしまったように感じました。すると、広間に続いた小部屋の扉がぱっと開いて、そこに五十がらみの一人の男が、二人の女の間に挟まれているのが目に映りました。彼女たちが私をつかまえた女たちに向って「さ、はやくその娘《こ》の着物を脱がして、裸にして、ここへ連れておいで。素裸にしてしまわなきゃいけないよ」と大声で命令しました。女たちが私のからだに手をかけるまでは、私は茫然《ぼうぜん》としていて何のことか分らなかったものですが、ようやく事態に気がつくと、これはただ怖がっているよりも叫んで、助けを求めなければと思い、夢中で金切声をあげました。ベルセイユ夫人は百方手をつくして私をなだめながら、「ほんのちょっとの間のお勤めですよ、お嬢さん」と言うのでした、「いい子だから、もう少しおとなになさい。あなたはあたしに五十ルイ稼いでくれるんですよ」「恥知らず」と私は叫びました、「私の貞操を金で売ろうとするのね。もしいますぐこの家から出してくれないなら、あの窓から飛び降りますよ」「窓から飛び降りりゃ、うちの中庭に出るだけのことよ。すぐまたつかまっちゃうわ、お嬢ちゃん」とあの莫蓮女《ばくれんおんな》の一人が、私の着物をはぎとりながら、言いました、「だから、あたいの言うことをききなさい、あんたのいちばん賢い道は、されるがままになることよ……」ああ、あなたさま、この怖ろしい出来事の残りの細かい部分は、どうか省かせてくださいませ。私は見る間に裸にされ、残酷な方法で叫び声を封じられて、あの破廉恥な男の方へ引っ張って行かれました。男は私の涙をからかい、私の抵抗を楽しみつつ、不幸な犠牲者が絶望にもだえるさまを、心ゆくばかり自らの眼で確かめるかのごとくでした。二人の女はその間もずっと私を抑えていて、この人非人に私の身を任せる役目を続けておりました。しかしこの男は、何でも望みの行為をやろうと思えばできる状態にあったのに、みだらなある種の接触と接吻を試みただけで、私を犯すことなく、そのけがらわしい情欲の火を鎮めたのでありました。
人々はさっと私に着物を着せてくれ、ベルセイユ夫人の手にもどしてくれましたが、私は茫然自失、疲労|困憊《こんぱい》の極、涙も凍りつくような苦い厳しい懊悩《おうのう》に心を打任せずにはおられませんでした。私は夫人に怒りをこめた視線を投げかけました……すると、それはまだあの不吉な家の控えの間でしたが、夫人はひどい狼狽のていで、「お嬢さん、そりゃあたしだって、自分のしたことの醜さは重々分ってるんですよ。でも、勘弁してくださいな……そして、騒ぎを起そうなんて気になったら、その前によくよく考えてみてちょうだいな。あんたはこのことを××さんにばらす[#「ばらす」に傍点]としても、ひとに連れて行かれたなんて言い逃れは、無駄だということを覚ったがいいわ。こういった種類の誤ちは、ちょっくらちょっと赦せないものですからね。それにあんたは、あのひとに結婚してもらうように仕向ける以外には、あのひとに捧げてしまった貞操を償う道とてないんだから、あんたにとってあのひとほど大事な男はないわけでしょう、そういうひとと永久に仲たがいしてしまったら大へんよ。ところがもしあんたが今日のことをあのひとにしゃべっちまったら、あのひとは、絶対にあんたと結婚しっこないわ」「ひどい方、じゃどうしてあんな破滅に私を陥れたのです、どうして私が恋人を欺くか、さもなければ名誉と恋人と、二つながら失うかしなければならないような立場に私を追い込んだのです?」「まあそうおっしゃらないで、お嬢さん。できてしまったことは幾ら言っても、もう仕方がありませんわ。時間もないし、あたしたち、当面の問題だけを考えましょう。いいですか、もしあんたがしゃべればあんたは破滅です。もしあんたが一言ももらさなければ、あたしの家はいままで通りあなたがたの媾曳の場所となり、決してあんたは誰からも秘密をばらされたりはしないでしょう。つまりあんたはいままで通り恋人と付合って行けるわけですわ。あたしに復讐しようなんて、つまらない考えはためになりませんよ、なにしろあたしは尻っぽを握ってるんですからね、ええ、ちゃんちゃらおかしいと思うだけですよ。××さんがあたしに仇をしようたって、そうはさせないだけのものがこっちにはあります。だから、言っときますけどね、あたしに復讐しようなんて、つまらない考えは、かえってあんたにあらゆる不幸を招き寄せるだけのことですよ……」何という恥知らずな女に係合ったものだろうと私は思いましたが、彼女の理屈は不愉快ながら一々もっともなので、仕方なく私はこう言いました。「さあ、早く外へ出ましょう、マダム。もうこんなところに一瞬間だってぐずぐずしていたくはないの。あなたの言う通り、私、このことは一言ももらしませんから、どうか今まで通りにしていてくださいね。今日の醜行をあばいてしまわなければあなたとの関係は切ることができず、さりとて、それをあばけば私の身の破滅になるのですから、仕方ありません。あなたの言う通りに致しましょう。でも、せめて心の中では、思うさまあなたを憎み、それに値するだけあなたを軽蔑して差しあげますわ」私たちはこうしてベルセイユ夫人の家へもどりました……だがしかし、私たちの留守中に××氏がやって来て、マダムは急ぎの用事で外出中だしお嬢さんはまだ来ないと告げられたので、彼が私あてに走り書を残して立去ったという話を、店の娘の一人から聞いたとき、私は新たな不安に胸が締めつけられるのを感じました。渡された走り書の手紙には、ただ次のような簡単なことが書いてあるきりでした、〈あなたはいらっしゃいません。きっといつもの時刻にいらっしゃれなかったものと思います。今晩はお会いできません。お待ち致しかねます。それでは明後日に間違いなく〉
この手紙は、私の気持を少しも和らげてはくれませんでした。その冷たい調子が、何かわるい兆《きざし》のように思われました……待っていてくれたっていいのに、何て辛抱のないひとだろう……そんな想いが、あなたさまには御説明しにくいのですが、私を不安でいっぱいにするのでした。もしかしたら、私たちの足どりを感づいたのではないか、私たちの後を尾行したのではないか? もしそうだとしたら、私はもう駄目だわ……ベルセイユ夫人も私も同様心配になったらしく、みなにききただしました。それによると、××氏は私たちが出掛けてから三分後にやって来て、とても気懸りな様子であった、一旦引きあげて、それから三十分後にこの手紙を書きにもどって来た、ということでした。いよいよ不安はつのり、私はすぐ馬車を呼びにやりました……ところで、この卑しい女がどれほどまでに厚顔無恥な悪徳を身につけていたか、あなたさまにはとても御想像になれますまい。私が馬車に乗って出て行くのを見送りながら、彼女はこう言ったものでございます、「お嬢さん、何度も忠告するようですけれど、あのことは決して話してはいけませんよ。でも、万が一不幸にして××氏と折合いがわるくおなりでしたら……いいこと、引っ掛りがなくなったのを幸い、うんと遊んじゃいなさいな。その方が一人の恋人相手より、ずっと面白いんですよ。そりゃ、あなたがりっぱな家庭の娘さんだってことは、あたしもよく存じておりますけどね、あなたはまだ若いんだし、お小遣だって、たんとはいただいていないでしょ。それがあたしの言う通りにすりゃ、あなたみたいな綺麗な娘《こ》は、欲しいだけのお金を稼がせてもらえるのよ……それもね、そういうことをしてるのが何もあなた一人だけってわけじゃないの。沢山そういう女のひとがいてね、みんなそれがいい暮しをして、あなただってその気になればできないことはないんだけど、みんなそれぞれ伯爵さまとかいった人と結婚してるのよ。そういうひとの中には、自分からそういう生活に入って行ったひともいるけど、あなたみたいに、世話人の仲介であたしたちのところへ来たひとも沢山あるわ。あなたもさっきでよく分ったでしょうが、華客《おとくい》さんの中には、あなたみたいに小さい可愛い女の子を特に好むひとがいてね、そういうひとはもうまるで薔薇の花でも丹精するように、女の子をいたわり、その香をかぎ、決して萎れさせたりするようなことはしないわ。じゃ、さよなら、お嬢ちゃん。とにかく怨みっこなしにしましょう。場合によっては、あたしはまだあなたのお役に立てるんですからねえ……」私は嫌悪の眼《まな》ざしをこの女に投げつけて、返事もせずに大急ぎで外へ出ました。おばさまの家でいつものようにジュリーと落合って、家へもどりました。
××氏に事情を知らせる手だては、私にはございませんでした。週に三度も会っていましたので、私たちは手紙をやり取りする習慣をもたなかったのです。結局次の媾曳の時を待つしかありませんでした……あの方は私に、何とおっしゃるだろう?……そして私はそれに対して、何と答えたらいいのだろう? 今日の出来事は秘密にしておくべきだろうか? でもそれが露見することになった場合、かくすのはいちばん危険ではなかろうか? いっそのこと一切を告白してしまった方が、はるかに賢明な道ではないのか?……こうしたさまざまな想いが、言葉につくせぬ不安の状態に私を引入れるのでした。しかし、とうとう私は、ベルセイユ夫人の勧告に従うことに意を決しました、この秘密にいちばん利害関係をもっているのが彼女であるのは確かなのだから、彼女を真似てすべてに口をとざしてしまうにしくはない、とこう思った次第です……ああ、しかし、こんな思案がいったい私にとって何の役に立ったというのでしょう、私はその後もう恋人とは二度と会えず、やがて私の頭上に鳴り響こうとした雷火は、すでに到るところに火花をまき散らしていたのですから!
この事件のあった翌日、私の長兄は、私が毎週どうしてあんなに何回も、あんな時間に、しかもたった一人で外出するのか、と詰問しました。「おばさまの家の晩餐会《ばんさんかい》に招ばれて行くんですわ」と私は答えました。すると長兄は、「嘘をお言い。お前はもう一月も前から、あの家には足を向けてないよ、エミリー」「はい、お兄様」と私は慄えながら答えました。「それでは、ぜんぶ言ってしまいます。実は私のよく知っているお友達の一人サン・クレール夫人が、毎週三回私をフランス座の桟敷に呼んでくれているんですの。お父様に行ってはいけないとおっしゃられるのが心配で、私、本当のことが言えませんでした。でも、おばさまはそのことをよく御存知でいらっしゃいます」「そうか、お前は芝居に行っていたのかい」と兄が言いました。「そんならそうと僕に言えば、連れて行ってやったのに。その方がずっと筋道は簡単だったよ……それを身内でもない、しかもお前とほとんど同じくらい若い女と二人きりで行くなんて……」
「まあまあ、そうおっしゃるな」と言ったのは、兄の話の最中に近づいて来た、私の次兄でした、「お嬢さまにはそれがお楽しみなんだ。邪魔立てするという手はないさ……お婿さん探しだよ。芝居小屋に行きゃ、たしかに、お婿さんにゃわんさとぶつかるだろうじゃないか……」こう言って二人とも、すげなく私に背中を向けてしまいました。この会話は私をおびやかしました。けれど私の長兄はこの芝居の話を十分納得したようでしたから、私は彼をだましおおせたかと思い、もうこれ以上追及することはあるまいと考えました。それに、もし二人がさらにそのことについてきいたとしても、私を閉込めでもしない限りは、次の媾曳におもむくことを妨げ得るほどの障害は、どこにもないわけです。そして、媾曳におもむくことを私に禁ずるものがどこにもない以上、私は自分に関する恋人の疑いを晴らすことに、これからは一意専心すればよいことになったわけです。
父はと申しますと、相変らず私を溺愛《できあい》しておりましたので、私の誤ちなどにはいっかな気づこうはずもなく、どんなことにつけても私を拘束するようなことはようできませんでした。ああ、このような肉親を欺かねばならないとは、何とつらいことでございましょう。かかる裏切りの上に購《あがな》った快楽は、何と棘のごとくに心を刺す悔恨に充ちていることでもございましょう! 不吉な経験よ、残酷な情念よ、お前たちに頼みがある、お前たちは将来私と同じ立場に到るであろう娘たちを、私と同じ誤ちから、どうか守ってやってください。私の罪ぶかい快楽の代償であるこの苦しみが、せめて私のあわれな物語を聞いた娘たちを、地獄のふちで立ち止らせてくれることに役立てば幸いです。
運命の日がついにやって来ました。私はジュリーを伴い、例のごとく家を忍び出、おばの家に彼女を残して、大急ぎで馬車でベルセイユ夫人の家にやって参りました。馬車を降りました……家の中を領している静寂と薄暗がりとが、まず私を言おうようなく不安にしました……私の知った顔のひとは一人として見当りません。見たこともない老婆が一人(これがやがて私の不幸には欠かせない存在となるのでしたが)あらわれて、もうすぐ××さんはやって参りましょうから、このお部屋でお待ちなすってくださいと言うのです。そのとき、ぞっと総身に冷たいものが走って、私は意識を失いかけ、一言を言う気力もなくして、かたわらなる肘掛椅子にぐったり倒れてしまいました。すると、急に私の目の前に二人の兄が、手にピストルをもってあらわれて、「見下げはてた女め!」とまず長兄が叫ぶのでした、「よくもおれたちをまんまとだましおったな。ちょっとでも抵抗したり、叫び声をあげたりしたら、殺してしまうぞ。さあ、おれたちについて来い、おれたちはお前に教えてもらいたいんだ。名誉を汚した家庭と、身を任した恋人とを、二つながら裏切るにはどうすればよいかをな……」この最後の言葉を耳にすると、私は今度こそ完全に意識を失ってしまいました。そしてようやくふたたび知覚を取りもどした時、私は非常な速さで走っているに違いない四輪馬車の中にいたのでした。まわりには二人の兄と最前の老婆とがおり、私は両足を縛られ、両手をハンカチでくくられております。あまりの苦しさに、そのときまで堪えていた涙がどっとあふれ出しました。こんな状態で一時間あまりもいたので、もしそのとき私を苛《さいな》んでいたのがこの二人の冷血漢でなく誰か他のひとだったら、よしんば私がいかに罪ぶかい女であったにしても、きっと憐れを催したに違いありませんでした。道中、兄たちは一言も私に話しかけず、それで私も彼らを真似て押黙ったまま、私自身の苦悩の中に身を沈めておりました。
ついに翌朝十一時頃、私たちはクシーとノワイヨンの間にある、森の奥まった場所に建てられた長兄所有の城館《やかた》に着きました。馬車が中庭に入込みますと、兄は私に、馬と召使たちが遠ざかるまでそこを動くなと命令しました。で私が待っておりますと、やがて長兄が迎えに来て、「僕について来なさい」と乱暴に言いながら私の縛《いまし》めを解くのでした。私は慄えながら兄のうしろに従いました……ああ、私の幽閉に供されようとしているその凄然《せいぜん》たる場所を一目見たときの、私の恐怖たるやいかばかりであったことでしょう!……それは天井の低い、陰気でじめじめした、四方が格子で閉ざされた薄暗い一室で、満々と水をたたえた大きな濠《ほり》にのぞむたった一つの窓からしか、絶えて日の差込まない部屋でありました。「これがあなたさまのお住居でございます、お嬢さま」と兄たちが私に申します、「家名を傷つけたような娘さんは、まずこんな場所が手頃でござんしょう……お食事も、その他もろもろの待遇に準じて差しあげることに致しましょう。はい、ではこれを……」そう言って獣にでもやるように、一片のパンを私に差出して、なおも続けます、「それから僕たちの希望としては、永いことあなたを苦しめたくはない、また一方、ここもとを脱出の手立ては一切奪ってしまいたい、そういうわけなので、この二人の女に命じて……」と言いながら私にさっきの老婆と、もう一人城の中で初めて見かけた、前のとそっくりな老婆とを二人指さして、「……この二人の女に命じて、今後週に三回、つまりあなたがベルセイユ夫人の家で××氏と会っていた回数だけ、あなたの両腕に刺墨をさせることに致します。追い追いに、この療法があなたを死の淵へ導いて行くでしょう。それこそ、僕たちの望むところです、僕たちは、あなたのような出来損いを家庭内から追っ払ったと知るまでは、いかさま枕を高くして寝ることができないのです」この言葉とともに、彼らは女たちに私を捕えるよう命令を発しました。そしてこの悪人たちは(こんな言い方をするのをお許しくださいませ)……この残酷な人たちは、女たちに命じて一度に私の両の腕から血を取らせ、やがて私が意識を失ってしまうのを見届けるまでは、この荒療治をやめさせませんでした……
我にかえると、兄たちは自分らの野蛮な行いを、得意げに語り合っておりました。そして、まるで、あらゆる打撃で私を一ぺんに参らせてしまおうとでもするかのように、私の血を流した同じ瞬間に、私の心を引裂いて楽しもうとでもするかのように、長兄はポケットから一通の書簡を取り出して、それを私に見せながら、「読んでごらんなさいお嬢さま」と言うのでした。「これを読んで、あなたの不幸の種をまいた男のことを、とっくりお知りなさるがいい……」私は慄えながら手紙を開きました。私の眼は、辛うじてその呪いの文字を見分けるだけの力がございました。おお、神よ……私を裏切ったのは彼、私の恋人そのひとでした。以下にその残酷な手紙の内容を掲げましょう、一語一語が私の胸のうちに刻み込まれております血の文字でございます――
〈冠省。小生は愚かにも貴兄の妹御を愛し、その純潔を傷つけるの無謀をあえて致しました。しかし、小生は一切を償うつもりでございました。悔悟の念に苛まれた小生は、自己の罪を告白して、御尊父の足下に娘御をいただきにあがる心算でした。小生の気持はきっと分っていただけるに違いないと思い、貴兄らと義兄弟になるつもりでございました。しかるに、このような決心を致しましたその矢先に、小生の眼は、小生自身の眼は、小生のお付合い願っておりました女性が、誠実で純粋な愛情に導かれた媾曳を口実として、実は最も卑しい道楽者の不潔な欲望を満たしに行く一人の娼婦にすぎなかったことを確かめました。従って、もはや小生からはいかなる謝罪も期待しないでいただきたい、小生はもはや貴兄らに謝罪の義務を負ってはいないのです。小生はただ貴兄らに何の干渉も許さぬ自由と、また彼女には最も根ぶかい憎悪と最も確かな軽侮しか負ってはおりません。小生が貴兄らをだましているのか否か確かめることができますように、貴兄の妹御が身を持ち崩しに行かれました家の住所を、ここに御送付致します。不一〉
この呪いの文句を読み了えるとともに、私はまたしても半狂乱の状態に陥りました……「違います」と、私は髪の毛をかきむしりながら叫びました、「違います。おお、薄情者、あなたは私を愛していてはくださらなかったのね。もしわずかでも愛情があなたの心に燃えておいでなら、どうして私の言い分も聴かずに私を断罪してしまうことなどがおできになったでしょう。どうしてあなたを熱愛しているこの私が、あのような罪を犯したなどと御想像になれたでしょう……不実なお方、あなたこそ、毎日を小刻みに殺して行こうとする悪漢の手中に、私を追込んだ張本人ですわ……私はあなたに弁護してもらうこともできず……愛する者すべてにさげすまれて死んで行きます、我から進んで彼らを侮辱したこととてなく、いつも犠牲者にすぎなかったこの私が……おお、あんまりです、こんなことになるなんて、あんまりひどすぎますわ。私にはこんなひどいことに堪えて行く力はございません!」そう言って私は兄たちの足もとに身を投げて、私の言い分を聴いてくれるか、さもなければ私の血を最後の一滴まで流しつくして、即刻私を死なせてほしいと涙ながらに嘆願致しました。
兄たちが私の話を聴くことを承知してくれましたので、私は今までの経緯をすっかり語って聞かせました。しかし彼らは私を亡きものにする魂胆だったので、私の話を信用せず、前より一層ひどいあしらいを加えたのでした。とうとう最後に、さんざん私に嘲罵を浴びせかけ、二人の女に正確に命令を実行するように言い含めた後、二人の兄は、もうお前には生きて二度と会わないつもりだと冷たい捨《すて》台詞《ぜりふ》を残して、去って行きました。
彼らが行ってしまうと、二人の監視人はパンと水とを残して、私を部屋に閉込めました。でも私はこれでせめて一人になれたと思い、思うさま絶望に身を沈めることができましたから、幾らか不幸は薄れたようにさえ感じられました。私の絶望の最初の衝動は、私をして腕の包帯を取り、我とわが血を出しつくして死なせようとする行為に駆り立てました。だがしかし、私の恋人に身の潔白を明すこともできず、命絶えるという耐えがたい想いが、私の心をずたずたに引裂いて、ついに私はこの覚悟を思い切って実行に移しかねるのでした。やや落着くと、希望がふたたび訪れました……希望、それは苦悩のただなかに常に生れる慰め手であり、自然が苦悩と平均を保たせるために、またはこれを鎮静するために、私たち人間に贈ってくれる配与でございます……いいえ、と私は心中に思いました、あのひとに会うまでは決して死ぬまい。そのことだけに私は努力しよう。そのことだけを念じつづけて、私は生きて行こう。もし彼があくまで私をわるい女と思いつづけるなら、それからだって死ねるのだ、少なくとも、思い残すことなく、死ねるのだ。恋人を失ってしまえば、私はもう生きるということに何の魅力ももてないはずだから。
こうと覚悟が決ると、私はこの忌まわしい城館を脱出するためのあらゆる手段をもれなく試みてみようと思い立ちました。そうして四日の間はこの想いに慰められておりましたが、四日目に、私の監視人がまたあらわれて、食糧を置くと、また私の元気を少しく失わせるために、両腕に刺墨をやって、ぐったりしてしまった私をベッドに残して立去りました。一週間目にまたあらわれたので、私が女たちの足もとに身を投げて容赦を乞いますと、二人は私の片腕だけに刺墨をしたものです。こうして二ヵ月ばかり過ぎ、その間私は絶えず、片方の腕ずつ代る代る四日おきに血をとられたのでございました。気力が私のからだを持たせておりました。私の年齢と、この怖ろしい情況から脱出したいという執拗《しつよう》な願いと、そして消耗を回復し、私の決心を実行に移し得るために摂取していた多量のパンとが、挙げて私を鼓舞していたのでした。かくてようやく三月目になった頃、幸運にも壁に孔《あな》をあけて、その孔から隣の室に忍び出て、とうとうその城館を脱出することができた次第でございます。
私は何とかして歩いてパリに通じる街道にまで出たいと思いましたが、そのとき私の力は、あなたさまが私を見つけてくださった場所で全くつき果てて、私はあなたさまからまことに有難い御助力をいただいたわけでございまして、そのことにつきましては、私、あらん限りの感謝を心からあなたさまに捧げるものでございます。これでさらに、私を私の父の手に返していただけますれば、これに越した幸いはございません。父はきっとだまされているのです、私に身の潔白の、証しを立てることさえ許さず、私を罰しなさるほど没義道《もぎどう》なひとではないはずです。私は父に自分が心弱かったことをはっきり申しましょう。でも父は、私が物語の外見ほどには決してわるい女ではなかったことを、分ってくれるでしょう。あなたさまは御自身の力で、一人の哀れな娘の命を蘇《よみがえ》らせてくださったばかりか(その娘はいつまでもあなたさまに感謝しつづけることでしょう)、さらに不当に奪われたと信じられていた一家の名誉をも、これを取返してくださったのでございます……
エミリーの物語にじっと熱心な注意を傾けていたリュクスイユ伯爵は、やがて話がおわると、「お嬢さん」とこう切り出した、「あなたのお姿に接し、あなたのお話を聴いた上では、誰だってあなたにこの上なく強い同情の念を禁じ得ますまい。たしかにあなたは、他人《ひと》がそう信じたほどには罪ぶかい方ではないでしょう、けれどもです、あなたの行いの中には、あなた自身にさえ隠し切れないはずの、ある軽率さがありますね」「まあ! それは……」「いやいや、私の言うことをお聴きください。世界でいちばんあなたのお役に立ちたいと願っている男の申しあげることを、お嬢さん、まあお聴きください。あなたの恋人のやり方はひどいものです。ただに不当であるばかりか、疑いを解こうともせず、あなたに会いさえもしなかったのですから、それは残酷でさえあります。重ねて議論の必要はないと思われるほど腹を立てた場合、男は一般に女を棄てるものですが、しかしそれにしても、家族に訴えるなどということはしないものです。家族の名誉を傷つけ、卑劣にも彼女を亡きものにしようとする人たちの手に恋人を委ね、彼女に対する懲罰を扇動したりするようなことは、裏切られた男といえども、しないものです……ですから私は、あなたが愛しておられた男の行為は、どんなに責めても責め足りないと思います……しかしまた、あなたのお兄様の所業は、これにもましてはるかに無法であります。これこそはどう見ても残忍であり、こんな所業ができるのは死刑執行人くらいのものでございましょう。だいたいこの種の娘さんの誤ちは、あれほどの罰に値するものではありません。束縛は何の役にも立ちません。こういう場合には、ひとは内証にするものです。もとより誤ちを犯した者の血を奪ったり、自由を奪ったりするようなことは致しません。あのような醜いやり方は、それの犠牲者よりも、それを行った者の名誉をむしろはるかに傷つけるものでございます。結局自分たちの憎悪を満足させ、いたずらに大騒ぎを演じただけで、何の得るところもありません。一人の妹の貞操がどれほど大切だとは申せ、その生命は、私たちの眼から見ればまた別の価値をもっているものであるはずです。名は取返すことができますが、一度流した血はもとにもどりません。従ってその行為は、お上《かみ》に訴えれば必ず罰せられるであろうほどな、実におそろしいものと申せましょう。しかし、お上に訴えるなどという、あなたの迫害者を真似るに過ぎないような方法、私たちが黙っているべきことを表沙汰にすることにしかならないそんな方法は、私たちの採るべきものではございません。そこで私はぜんぜん別な方法で、あなたのお役に立つべく運動してみようと思うのですが、お嬢さん、まずそれには次の条件をあなたに呑んでいただくことがぜひとも必要だとお断りしておきましょう。すなわち第一の条件は、あなたがはっきりとあなたのお父様、おば様、ベルセイユ夫人、それにあなたをベルセイユ夫人の家に連れて行った男の住所を、私に書いてくださるということ、第二は、あなたに関係のあるひとの名前を思い切って私に言ってくださることです。特にこの条項は実に必須なことでありまして、隠さず申しあげてしまえば、もしあなたが私の要求するお名前をお匿しなさろうと頑張られるなら、私はどんなことでもあなたのお役に立ってあげることが絶対不可能になってしまうでしょう」
エミリーは当惑しながらも、まず第一の条件を正確に果しおえた。しかし、四人の住所をしたためた紙を伯爵に渡してしまうと、「それでは、あなたさまはどうしても」と顔をあからめながら言うのであった。「私をだました男の名前を言えとおっしゃるのでございますか?」「そうです、お嬢さん。それをおっしゃっていただかないうちは、私は絶対に何もできないのです」「それでは……仕方ございませんわ……申しあげましょう。その男の名前は……リュクスイユ侯爵でございます……」「何ですって、リュクスイユ侯爵!」伯爵は彼女の口から自分の息子の名前を聞くに及び、愕然《がくぜん》たる思いをかくし切れず、こう叫んだ。「何ということをしてくれたのだ、私の息子が……」それからやや落着きをとりもどして、こう言った。「きっとこの償いをさせましょう。お嬢さん……きっと償いをさせます。あなたは報復をなさるのです……どうか私の約束を覚えておいてください。では失礼……」
エミリーの最後の打明け話がリュクスイユ伯爵を思いがけない動揺におとし入れてしまったので、彼女は大そう驚き、何か自分がはしたないことをしてしまったのではないかと心配した。しかし伯爵が去りぎわにもらした言葉が彼女を安堵させた。むろん彼女には、これら一連の出来事のつながりもぜんぜん理解できず、自分がどこにいるのかさえ知らないのだったが、とにかく命の恩人のやってくれる手続の結果を辛抱づよく待ってみようと思うのだった。それに、その手続がとられていた間も、人々は彼女を介抱することを瞬時もやめなかったので、エミリーはやがてすっかり不安を忘れ、誰もが彼女のために働いてくれているのだと信じるようになった。
彼女がすべてを語った日から四日目に、伯爵が自身でリュクスイユ侯爵の手をとって、彼女の部屋に入って来るのを見たとき、エミリーは突然すべてが氷解したのを感じた。「お嬢さん」と伯爵が言った、「私はあなたの前に、あなたの御不幸の張本人と、過去の償いのためにあなたの足もとに跪いて結婚を申込みにまいりました男とを、二人ながら連れてまいりました……」この言葉とともに、侯爵は熱愛する女性の足もとに身を投げた。が、この事態はエミリーにとってはあまりにも思いがけないことだった。よくこの驚きに堪え切れるほどまだ体力のなかった彼女は、看病の女中の腕の中で気を失ってしまった。介抱の末、しかしようやく正気を取りもどした彼女は、自分がいま恋人の腕の中にいるのを知ると、「ひどい方」と、滝つ瀬のごとき涙にむせびつつ、「あなたを愛しておりました女に、あなたは何という苦しみをお与えになったことでしょう! あなたは彼女が、あなたのお疑いになったような、恥ずべき行いにふけることのできる女だと、真実お考えになったのでしょうか? あなたを愛しておりましたエミリーは、自らの弱さと他人の奸計の犠牲にこそなりましたけれども、決して不実な女になどなったことはございませんでした」
「ああ、僕の熱愛する者」と侯爵は叫ぶのだった、「どうか許してほしい、僕は間違いやすい見かけにだまされて、おそろしい嫉妬についかっとなってしまったのだ。今でこそ僕たちはすべてを信じることができるが、でもあの忌まわしい事件は、ああどうしても君を疑わずにはいられなくさせる見かけをもっているものではなかろうか?」「私を信じてくださるべきでしたわ、リュクスイユ。そうしたら、私があなたを欺くことのできるような女ではないことが分ったはずよ。あなたは絶望よりも、私があなたの心の中に吹込んだつもりだった愛情の方にこそ、より多く耳を傾けるべきでした。今度の体験は女としての私に、私たち女が恋人の信頼をなくするのは、ほとんどいつも愛しすぎるためだということ……ほとんどいつも、あまりにも早く身を任せすぎるためだということを、教えてくれました……おお、リュクスイユ、あなたは、もし私がもう少しゆっくりとあなたを愛していたなら、もっと上手に私を愛してくださったことでしょう。ですから、あなたは結局、私の弱さをお罰しになったのです。そして、あなたに私を疑わせたということは、結局、あなたの愛情を強固にするために必要なことでもあったのでしょう」
「二人とも、すべてを水に流すことだね」と伯爵が言葉をさしはさんだ。「リュクスイユ、お前の行いは非難さるべきだ。もしお前がいますぐその償いを申し出ず、お前の心に悔悟の意志が認められなければ、私は一生お前とは会わないつもりだ。昔の吟遊詩人も言っている、〈もしひと真によく愛せんか、いかに恋人の不行跡を耳に聞き、目に見たりといえども、なお己が目、己が耳を信ずべきにはあらず、己が魂にのみ耳傾くべし〉と」それから伯爵はエミリーに向って、「お嬢さん」とこう続けた、「私はあなたの快癒を辛抱づよくお待ちしましょう。私は息子の花嫁という資格においてしか、あなたの御両親のお宅にあなたをお連れしたくはございません。あなたの御不幸の償いのために、あなたの御両親が私と縁を結ぶことを承知してくだされば幸甚です。しかし、もしそれが不首尾に終った場合には、私はあなた方二人に私の家を提供しましょう。お嬢さん。そして二人の結婚式をそこで挙行すればよろしい。ひとがそれを認めようと認めまいと、私は最後の息を引取るまで、あなたを私のいとしい義娘《むすめ》と思い、りっぱな嫁と自慢いたすつもりでございますから……」
リュクスイユは父の首に飛びつき、トゥールヴィル嬢は恩人の手を握りしめて涙にくれた。だがこうした場面があまり永くなりすぎては、せっかくみなの熱心に望んでいる彼女の快癒の妨げになると思われたので、ひとは彼女をしばらくそっと一人にしておくことにした。
彼女がパリにもどってから二週間目の日に、とうとうトゥールヴィル嬢は床をあげて、馬車にも乗れるほどになったので、伯爵は彼女に、その純真無垢な心にも似た真白い服を着せた。まだ残っている蒼白さと衰弱のあとが彼女の魅力を一層目立たせていたが、伯爵はさらにこれに輝きを添えるために何物も惜しまなかった。かくして伯爵と、彼女と、リュクスイユとは、打ちそろってトゥールヴィル法院長の家まで出掛けて行ったものであるが、法院長は何ごとも予告を受けていなかったので、娘が入って来るのを見た時のその驚きたるや、甚だしいものであった。法院長と一緒に二人の息子も居合せたが、彼らの顔はこの予期せざる光景に怒りと驚きの表情を浮べていた。彼らは妹が脱走したのを知ってはいたが、どうせ森の中のどこかで野たれ死んだと想像して、安心していたらしかったのである。「法院長殿」と伯爵はエミリーをその父親に見せながら、「これが、あなたのお膝もとに私のお連れ申しましたる純潔無垢な娘御でございます……」エミリーが父の膝もとに駆寄った……「私はいまあなたさまに、娘御の御赦免をとくとお願いするものでございます」と伯爵が語をついだ、「彼女が真実お父様のお赦しに値しない方でありましたなら、私とてこのようなお願いは致すはずがございません。私がこうしてお願いに上りました以上、どうか娘御の潔白をお信じください。それに……」と伯爵は急いで続けた、「私があなたさまの娘御に対していだいております深い尊敬のいちばん確かな証拠は、息子の嫁に彼女をいただきたいと申す私の気持のうちにお汲みとりくださることができましょう。私たち両家の地位は幸い互いに縁組で結ばれることが可能であります。よしんば財産について私どもの方に若干の不相応があったとしましても、私としては自分の持っているものを全部売払っても、あなたの御息女に贈られるにふさわしいだけの結納金を息子のために作ってやるつもりでございます。左様な次第ですから、どうかひとつお心をお決めになってください。そうして、あなたさまのお約束をいただいた上で、この私にお宅をおいとまさせてください」
老トゥールヴィル法院長は、変りなく娘を熱愛していたし、真実善意の権化《ごんげ》のような仁ではあったし、それにまた、すぐれて慈悲ぶかい性格のためにもう二十年以上も前から、その官職を離れているというひとであったから、愛娘《まなむすめ》の胸を涙でぬらしつつ、伯爵に答えて、そのようなお志は有難い限りであり、むしろ自分の心苦しさは娘のエミリーがこの縁組に値しないのではないかということだ、と言った。そこでリュクスイユ侯爵が今後は自分から法院長の膝もとに身を投げて、自分の誤ちを許し、その償いをさせてくれるよう嘆願した。とうとう約束が成立し、話がきまり、双方ほっと安堵した。が、われわれの女主人公の兄たちだけが、このみなの喜びを共にすることを拒み、妹が彼らに接吻しようと近づいた時さえ彼女を斥けた。伯爵はかかる態度にいたく腹を立て、部屋を出て行こうとした彼らの一人を押止めようとした。すると、トゥールヴィル氏が伯爵に、「捨てておいてくだされ、どうかあれらのことは、捨てておいてくだされ。あれらはわしにひどい大嘘をつきました。したが、もしこの可愛い娘があれらの申しおったほど罪を犯していたというのなら、どうしてあなたが御子息にうちの娘をとおっしゃるわけがあろう? あれら兄弟はわしからエミリーを奪って、わしの余生の幸福を滅茶滅茶にしてしまおうとしたやつです……捨てておいてくだされ……」
そこでこの怪しからぬ兄弟が、怒りにまかせて怒鳴り散らしながら、その場を出て行くと、伯爵はやおらトゥールヴィル法院長に、その息子たちの蛮行のすべてと、その娘の誤ちの真相とを語り伝えたのである。法院長は、娘の誤ちと、それに対して加えられた罰との、いかにも途方もない懸隔を聞き知ると、もう二度と息子たちには会いたくないと言うのであった。伯爵は彼をなだめてどうかこのような悪い思い出は忘れてくれるようにと約束させた。八日後に結婚式は挙行されたが、二人の兄は出席することを承知しなかった。だがみなはすでに彼らを軽蔑していたので、二人が居合さなくとも一向に困りはしなかった。トゥールヴィル氏は、二人にできるだけおとなしくしているように、さもなければ身柄を幽閉してしまうから、と勧告するに止めた。そこで二人はおとなしくしてはいたが、それでも父親の寛大な処置を非難し、自分たちの乱暴なやり方を自慢するのをやめはしなかった。で、この痛ましい事件を聞き知った人々は、今さらながらその恐ろしい細々とした顛末に怖気《おぞけ》をふるいながら、心中こう思ったことであった――
まあ何ということだろう、いったいこれが、他人の罪を罰しようと夢中になったあまり、しらずしらず犯してしまった兇行というものだろうか! しかし考えてみればこのような醜行が、盲目のテミスの女神(ギリシア神話、裁判・正義の女神)のあの狂信的で愚かな手先どもの間に残っているというのも、もっともの次第だよ、何しろこの連中と来た日にゃ、馬鹿げた厳格主義の中で育てられ、子供の頃から気の毒なひとの叫びには頑《かたくな》になり、揺籃の頃から血にまみれ、すべてを責めすべてに容喙《ようかい》して、自分たちの隠れた醜行と公然たる汚職とを包みかくす唯一の方法は、頑固一徹な厳格ぶりを示すことだと信じ切っている連中なんだからなあ。しかもこの厳格ぶりたるや、連中を外観からは鵞鳥にも似させ、内心からは怖ろしい虎のようにもし、なおかつ自分たち自身を数多くの罪で汚すことによって、結局はただ馬鹿な人たちを欺くか、聡明な人たちには彼らの忌まわしい道徳原理や、軽蔑すべき人間やを嫌悪させるかに終るだけの厳格ぶりなんだからなあ。
[#改ページ]
司祭と臨終の男との対話
司 祭
迷妄《めいもう》の帳《とばり》を引裂いて、罪深い人間にその生前の悪行非行のむごたらしい絵巻をかいま見せるという、あの運命の末期に及んだからには、あなたもさぞや、かつて現身《うつしみ》の弱さ故にはしなくもふけり込んださまざまな不行跡をば、後悔しておられることじゃろうが?
臨終の男
仰せのとおり神父さん、わたしは後悔しております。
司 祭
よろしい、それならばじゃ、その有難い後悔を無にすることなく、残されたわずかの間のうちに、あなたがこの世で犯した過失一切の赦免をば、恵み深き神よりたまわるがよろしいぞ。そしてこの神の赦免たるや、かの聖なる贖罪《しよくざい》の秘跡を通じてのみ、はじめてよく与えられ得るものであることを知るがよいぞ。
臨終の男
わたしの言葉をどうお取りになったか存じませんが、わたしにはあなたのおっしゃることが丸きり分りません。
司 祭
何ですと?
臨終の男
わたしは後悔していると申しあげたのですよ。
司 祭
それはいま聞いたばかりじゃ。
臨終の男
ええ、でも、あなたはお聞きになっただけで、理解してはおられないようです。
司 祭
それはまた、どういうことかな?……
臨終の男
こういうことですよ、つまり……わたしは自然によって、大そう強い嗜好《しこう》とさかんな情欲とを与えられてこの世に生を享け、もっぱらそれらの嗜好に耽溺し、それらの情欲を満足させるために生きていたのでした。わたしという人間の創造に伴ってあらわれたこれらの欲望は、だから、自然の第一目的に付帯した必然的結果とでも言いますか、それとももっとあなたのお気に召すような言い方をすれば、自然が自然の法則によって、わたしという一個の人間に賦与したものの本質的な傾向とでも言うものにほかならなかったのです。それでわたしは今更ながら、自然の全能について認識が足りなかったことを、しかもそれのみを、つくづく後悔している次第なのです。わたしにとっての唯一の憾《うら》みは、自然がわたしのために授けてくれたもろもろの機能(あなたによれば罪悪的なものかもしれませんが、わたしにとっては全く単純素朴な機能です)を存分に役立たせ得なかった点にあります。ともするとわたしは自然の情に抗したものでした、それをわたしはいま後悔しているのです。あなたがた聖職者輩の馬鹿げた教義にすっかり目をくらまされていたわたしは、そんなものより実はずっと霊妙なある啓示によって、生れ落ちたときからちゃんとわたしの身に備わっていたはずの激しい欲望を、一切抑えようと努めて来たものでした、それをわたしはいま後悔しているのです。言って見れば、欲望の果実をたんまり採り入れることができたのに、その花しかわたしはあえて摘み取りませんでした……わたしの残念に思うのはまさにこの点なのですよ。ですから神父さん、飛んでもないお門違いなどなさらずに、どうかありのままのわたしを評価してください。
司 祭
どこまであなたは錯誤の道を踏み迷うのじゃ! どこまであなたは詭弁《きべん》の論理を推し進めるのじゃ! あなたは創造者の一切の能力を創《つく》られたもの、自然に帰しておられる。が、あなたを堕落させたあの嘆かわしい傾向は、その腐敗した自然[#「腐敗した自然」に傍点]が惹《ひ》き起すところの結果でしかないのですぞ。それがあなたにはちっとも分っていないので、かえって全能を自然の属性とするがごとき錯誤におちいるのじゃ。
臨終の男
神父さん――あなたの論理はあなたの精神と同様狂っておいでのようです。理屈をおっしゃるのなら、もっと正確におっしゃっていただきたい、さもなければ、わたしをして気楽に死なせてください。いったい創造者といい、腐敗した自然といい、あなたによればそれらはどういう意味になるのですかね?
司 祭
創造者とは宇宙の主じゃ。すべてを生み出し、すべてを創造したもうた方じゃ。また、その全能の力の単なる一作用によって、一切のものを包含しておられる方じゃ。
臨終の男
なるほど、そいつは確かに偉大な方ですね。ではおききしますが、なぜその方は、そんな大した力を持っておいでなのに、あなたのいわゆる腐敗した自然などというものをお創りになったのでしょうか?
司 祭
もし神が人間に自由意志を与えなかったならば、人間の価値というものは、どうなるじゃろう? 善を行い、悪を避ける可能性がこの世になかったならば、人間はどんな価値を享受したらよいのじゃ?
臨終の男
それではあなたのおっしゃる神様は、もっぱら人類をためすために、人類に試練を与えるためにすべてを曲げてつくろうと欲したわけなのですね。いったい、神様は人間というものをよく御存知なかったと見えますね? そんなことをして結果がどんな具合になるか、ちっとも分らなかったのでしょうか?
司 祭
もちろん、神様は人間を知悉しておられましたのじゃ、しかし、またしても神は、選択の価値をば人間に与えることを欲せられたのじゃ。
臨終の男
人間が自分で決めることなら、神が御存知でいたところで、それがいったい何の役に立つのでしょう? 神様は自分のことだけしか考えていないのではありませんか? あなたは神は全能だなどとおっしゃいますが、わたしに言わせれば、要するに神は自分のことだけしか考えておりませんよ、だって、人間に善を選ばせるのですもの。
司 祭
人間を見つめる広大無辺な神の眼ざしを、誰がよく理解し得よう? われわれの眼にふれるものみなを、誰がよく理解し得よう?
臨終の男
物事は簡単にすべきですよ、神父さん、原因をやたらに殖やしてしまったら、結果は混み入るばかりですからね。第一の問題が説明できないからといって、第二の困難を設定する必要がありますか? あなたは何でもことさら神様のせいにしようとなさるけれども、実は一切が自然の力によってひとりでにできたものかもしれないじゃありませんか? そうだとしたら、この世にいったい造物主などというものを探す必要がどこにあるんです? あなたが理解できないという原因にしたって、おそらくこの世でいちばん単純な事実でしょうよ。あなたの肉体を完全にしてごらんなさい、そうすれば、よりよく自然を理解することができましょう。あなたの理性を清浄にして、あなたの偏見を追っ払ってごらんなさい、そうすれば、もうきっと神様なんて要らなくなるでしょうよ。
司 祭
滅相な! わしはあんたをユニテリアン教徒じゃとばかり思っておった。――ともかく話せば分ると思っておったのじゃ。ところが、今にしてわしにははっきり分ったよ、あんたは無神論者なのじゃ。われわれが毎日のように接しているところの、創造者の存在に関する数限りない歴とした証拠をあんたが否定なさる以上――わしとしてあんたに言うべきことはもう何もない。盲人に光を取返させようとしても無理な話じゃからのう。
臨終の男
神父さん、事実をお認めなさい。二人のうちどっちが盲かと言えば、目かくしをはずそうとしている者より、目かくしを付けようとしている者の方が盲にきまっています。あなたはさかんにでっちあげ、捏造《ねつぞう》し、問題をこんぐらがらせます、ところがわたしと来たらぶちこわし屋[#「ぶちこわし屋」に傍点]で、何でも簡単にしなけりゃ気が済まないんです。あなたは誤謬《ごびゆう》に誤謬を重ねますが、わたしはそういったもの一切に抵抗します。いったい、われわれ二人のうち、どっちが盲でしょうかね?
司 祭
しからば、あんたは神を全然信じておらぬのかな?
臨終の男
信じておりません。それも、ごく単純な理由からです。つまり、理解できないものを信じることはできませんから。理解と信仰との間には、直接の関係がなければなりません。理解は信仰の第一の糧《やしな》いです。理解の及ばぬところでは、信仰は死に絶えます。それにもかかわらず、かかる場合に信仰せよと主張する者があるとしたら、その人は信仰を強制する者にほかなりません。それに、あなたにしたって、先ほどからわたしに説いてくださっているような神様を、本気で信じていらっしゃるのかどうか、すこぶる怪しいものですな――だってあなたは、それをわたしに説明することもできなければ、定義することもできない、したがって、理解していないというわけで――そして、理解していない以上、あなたはわたしをもうどんな筋の通った論法でもって応酬することもできない、つまり一口に言えば、総じて人間精神の埒外《らちがい》にあるものは、絵空ごとか無用の長物だというのです。で、あなたの神様も当然そのどちらかでしかあり得ないわけでして、第一の場合だとしたら、それを信じるわたしは気違いでしょうし、第二の場合だとしたら、馬鹿ということになりましょう。
ねえ神父さん、物質が動かないということを証明してくださいませんかね、そうすれば、わたしとしてもあなたの創造者を認めざるを得なくなりましょう。自然だけでは十分でないということを証明してくださいませんかね、そうすれば、造物主というものを仮定したあなたの気持も分るでしょう。ともかくそれを証明してくださらないうちは、わたしから何も期待しないでほしいものです。わたしは明証にしか服しません。感覚に由来するもののみをわたしは明証として受容れます。感覚が行きづまるところで、わたしの信仰もへなへなとくずれます。わたしは、目で見ることができるが故に、太陽の存在を信じます。わたしにとっての太陽とは、全自然の発火性物質の集合の中心です。またわたしはその周期的な運行を好むとしても、別段それを不思議とは思いません。よしんばわれわれの理解に遠く及ばないとしても、それはおそらく電気の作用と同じくらい単純な、一種の物理的作用にきまっているからです。ぜんたい、これ以上突っ込む必要がありましょうか? その上かりにあなたがわたしのために神様などというものをでっちあげてくださったにしても、そのことでわたしの考えが多少なりとも進歩したことになりましょうか? 作品を定義する努力が必要だとしたならば、作者を理解する努力もまた必要なんじゃないでしょうか?
したがって、あなたは例の絵空ごとの教訓において、なんらわたしのために尽してはくださらなかったわけです。あなたはいたずらにわたしの精神を錯乱させただけで、これに光をあててはくださいませんでした。ですから、わたしはあなたを憎悪こそすれ、感謝などこれっぽっちも致しませんよ。あなたの神は、あなたの偏見にかしずくためにあなた自身がつくりあげた一個の傀儡《でく》にすぎない。あなたがその神様を勝手に運用するのは、無論あなたの自由です、しかし、それが一たびわたしの自由な嗜好を妨げるとなると、わたしは黙っちゃいられない、そうでしょうが? わたしの弱い魂が平静と沈毅《ちんき》を必要としているときに、詭弁を用いてこれを脅かすようなことは、どうかなさらないでください。あなたの詭弁は、魂に納得を与えるどころか恐怖を与え、安らぎを与えるどころか、かえってこれをいらいらさせるのですからね。神父さん、わたしの魂は、あるがままの自然の意に適った魂、言い換えるならば、自然がみずからの目的と要求に従って形成した、わたしという人間の結果なんです。自然は美徳と悪徳とを、ひとしく人間に要求します。だから、自然がわたしを前者に向わせようとしたとき、当然わたしは美徳を積みましたし、後者を要求したときは、わたしは欲望を身うちにむらむらと感じ、どうしてもこれにふけり込まずにはいられなかったのでした。われわれの人間的な矛盾に、自然の法則以外の他の原因を求めてはいけません。また自然の法則には、自然の意志と要求以外の他の原理を求めてはいけません。
司 祭
さればこそ、この世の一切は必然性に基づいていると言うのじゃ。
臨終の男
まったくその通りです。
司 祭
しかも、一切が必然的であれば――それ故に、一切は正しい秩序に従っているのじゃ。
臨終の男
その通りです、誰がそれに異議を唱えましょう?
司 祭
さればじゃ、かかる正しい秩序を、全知全能の神の御手ならずして、誰がよく統御し得ようぞ?
臨終の男
火を点じると火薬が爆発するのは、必然性に基づいてはおりませんか?
司 祭
左様さ。
臨終の男
それじゃ、この火薬にあなたはどんな叡知をお認めになりますか?
司 祭
そんなものはありはせぬわい。
臨終の男
ですからさ、なにも叡知なんぞなくとも、必然的なものは幾らもあり得るのですよ。つまり、すべてがある第一原因から生ずるには違いないんですが、なにもその第一原因に理性や叡知を認める必要はないと言うんです。
司 祭
で、結局、何を言わんとしておられるのじゃな?
臨終の男
いかなる叡知のあるいは理性の原因に導かれずとも、すべてはあるがままに、あなたの目にふれるがままにあり得るということを、あなたに証明しようとしているのです。自然の結果には自然の原因を求めるべきです。先ほども言ったように、あなたの神のような、説明の必要が生ずるばかりで少しもそれ自身の説明にはならぬような、反自然的なものをそこに仮定する必要はありません。これを要するに、あなたの神は何の役にも立たないのですから、完全にやくざ[#「やくざ」に傍点]なものと言うべきです。やくざというのは無価値ということでして、無価値というのは、どうやらくだらない[#「くだらない」に傍点]ということになりますかな。そんなわけでして、あなたの神様が絵空ごとにすぎないということを納得するには、わたしはただもう、その神様が実にくだらないということを理解する推論さえ立てれば十分なんです。
司 祭
そういうことじゃとすると、今更あなたと宗教のお話をしてもはじまらないような気がするが……
臨終の男
そんなことはございませんよ、人間が宗教というものにどれくらい現《うつつ》を抜かし、宗教によってどれくらい腰抜けになったかという証拠を見るくらい、面白いことはありませんからね。いやまったく、その狂信ぶりときたら、まるで一種不可思議な放蕩三昧《ほうとうざんまい》ともいうべく、わたしなんかから見ると、そら恐ろしいようでもありますが、それでもやっぱり興味津々たるものがないわけじゃありません。神父さん、ひとつ率直に、ことにも利己心を抜きにして、わたしの質問に答えてはくださいませんか? もしわたしが、宗教を必要品たらしめるところのもの、すなわち神というものの不思議な存在に関するあなたがたの奇妙|奇天烈《きてれつ》な学説に眩惑されるほど情けない人間であるとしたならば、あなたはいったいわたしがどんな形式において、宗教的儀礼を行ったらよいとお思いになりますか? つまりブラーマの妄説と孔子の譫言《せんげん》と、どっちを信じた方がよろしいとお考えになりますか? それとも、黒ん坊の崇める大蛇を、ペルー人の尊ぶ天の星を、モーゼのいわゆる万軍の主を、敬うべきでしょうかね? マホメット教諸派のいずれに帰依《きえ》するのが適当とお考えになりますか? また、さまざまなキリスト教異端のうちのどれが、あなたの意見では、好ましいのでしょうか? 慎重にお答え願います。
司 祭
わしの返事はいつもはっきりしておるじゃろうが?
臨終の男
でも、それでは我田引水というものです。
司 祭
そうではない、自らの信ずるところを他に及ぼそうとすることは、自らと同様他をも愛することなのじゃ。
臨終の男
しかし、こんなとんちんかん[#「とんちんかん」に傍点]な議論をやっているところでは、われわれ二人どうもあまり愛し合ってはいないようですな?
司 祭
ではきくが、わが聖なる贖世主《しよくせいしゆ》のあらわしたもうた奇跡の数々に、誰が目をふさいでおられよう?
臨終の男
そんな奴は、あらゆる山師のうちでもいちばん下手糞《へたくそ》な山師、あらゆる偽善者のうちでもいちばんくだらない偽善者としか、わたしには思えませんや。
司 祭
おお! 神様、お聞きになりましたか? どうかお怒りにならないでくださいまし!
臨終の男
怒りゃしませんよ、あなた、大丈夫ですよ。なぜかって、あなたの神様は、不能者なのか分別くさいのか、まあそこはあなたのお好きなように考えてもらいましょう――とにかくわたしは、あなたに対する礼儀から百歩譲って、ここで神の存在を認めましょう。あるいはそれがお気に召さなければ、あなたの可憐な意志に副うために、とでも申しましょうか――ともかくそんなわけで、あなたの神様は、かりにあなたが愚かしくも信じておられるように実在したにもせよです、到底かのイエスが使ったような滑稽な瞞着《まんちやく》の手段を用いて、われわれを承服させることができるほどのやつじゃないんですよ。
司 祭
何をおっしゃる、数々の預言が、奇跡が、また殉教が、何よりの証拠ではござらぬか?
臨終の男
それ自体証拠を必要としているものを証拠として認めよなどと、あなたはいったい正気でおっしゃるのですか? 多少とも預言が証拠たり得るためには、まずその預言の確かに行われたという十分なる証拠があがらなけりゃならんでしょうが? ところでそいつが歴史に書かれている限りでは、わたしにとって四分の三はひどく疑わしいあらゆる歴史的事実と同様に、やっぱりこれも疑わしいと申さざるを得ません。かつまた、これらの歴史的事実が、それに利害関係のある歴史家の手によってしかわれわれに伝えられていないという、さもありそうな事情を付言するならば、わたしは更に大威張りで、この事実を疑う権利を享有するでしょう。それにしても、この預言が後からでっちあげられたものでないと、いったい誰が断言できますか? 正しい王様の支配下にめでたい御代が現出し、春には雨、冬には霜が降るといったような、実に単純至極な政治的意図の結果でないと、いったい誰が断言できますか? そしてもしすべてがこの通りであるとした場合、あなただってまさか、これほど証明される必要のある預言がそれ自体証拠たり得るなんて、そんな馬鹿なことはゆめゆめおっしゃるまいと思いますがね?
あなたの奇跡にしたところで、わたしはそんなもの屁とも思っちゃおりませんよ。山師たちが実行し、馬鹿者どもが信じたまでの話でさ。奇跡ということの事実性をわたしに心服させるおつもりだったら、まずあなたがそんな風に呼んでいるところの出来事が、まるっきり自然の法則に反するものであることをわたしに確信させてくださる必要がありましょう。なぜかというに、奇跡と見なされ得るものは、かならず自然の管轄外にあるものだけだからです。ところで、厳密な意味でいったい誰が、ここまでは自然の管轄内だとか、これから先は自然が侵犯されるとか、あえて断言し得るほど自然というものをよく知り抜いているのでしょう? いわゆる奇跡というやつを流布《るふ》するためには、二つのものさえそろえばよろしい、曰く、一人の手品師と、それを取巻く女の腐ったようなやつばらと。いや、ほんとの話、あなたの奇跡の原因をこれ以外のものに求めるのは愚ですよ。新しい宗教をつくったやつらは、みんなこれをやったんですから。そしてそのたんびに、それを信じた馬鹿どもがかならずいたんだから、実にどうも奇態千万というほかありませんな。あなたのイエスだって、別だんテュアナのアポロニウスより変ったことをしたわけじゃなかったんです。それなのに、誰もアポロニウスを神様にしようなんて考えるものはいやしません。最後にあなたのいわゆる殉教ですが、これこそあなたの論拠のなかでいちばん薄弱なものです。こいつをやるためには、気違いじみた狂信と、それを妨げる力さえあればいいんですから。さてこんな風に、あなたにも言い分があればわたしにもその反対の言い分があり、どこまで行っても切りがない以上、わたしとしても決して一方の言い分が一方のそれより良いなどとやみくもに信じたりは致しません。かえって両方ともくだらない言い分だと考えたくなるくらいです。
ああ! 神父さん、もしあなたの説く神様が真実この世に実在するのだとしたら、何も神の権威を確立するために、無理して奇跡をやったり、教義に殉じたり、預言をしたりする必要はないじゃありませんか? もしあなたのおっしゃるように、人間の心が神のつくったものであるとしたならば、それこそ、神がその教えを垂れるために選んだところの聖なる場所ではないのでしょうか? そして、一個の公平な神から発しているが故に万人にとって平等なこの教えは、ある抗しがたい方法で、万人の心にひとしく刻みつけられているはずです。世界中のありとあらゆる人間は、この微妙にして鋭敏な器官が相似ているのであって見れば、当然彼らが神に対して払うところの尊崇の念においても相似ていなければなりますまい。神を愛し、神を崇拝し、神に仕えるところの仕方は一つでなければなりますまい。彼らにとっては、神を無視することができなくなるばかりか、この宗教の秘密めいた様式に反撥することさえ不可能になるはずです。しかるに何ぞや、わたしの見るところでは、この世界には人々の数と同じくらい神様の数があり、人々の考えごとや空想が区々まちまちであるのと同じくらいに、神様に仕える仕方も区々まちまちである。実際わたしなんかにはどれを選んでよいか分らないほど沢山あるこうしたさまざまな見解も、あなたによれば、一個の公平なる神のつくりたもうたものなのでしょうか?
いやまったく神父さん、あなたはそんな風にあなたの神をわたしに示して見せることによって、実はあなたの神を侮辱しているんですよ。まあいいから、わたしにすっかり神を否定させてごらんなさい、たとえ神が存在したとしたって、わたしの懐疑心はあなたのそうした冒涜的《ぼうとくてき》な言辞ほど神を侮辱したことにはならないはずですから。理性に立ちかえることですよ、神父さん、あなたのイエスがマホメットより優れているのでもなければ、またマホメットがモーゼより優れているのでもなく、はたまたこれら三者が孔子より優れているというのでもないんです。なにしろ孔子は、前の三人が屁理屈をこねまわしていた間に、まがりなりにもある善い訓則を口授したのですから、それだけましと言うべきでしょう。しかしまあ、こういった人たちが総じて山師であるということには、変りはありませんよ。偉い哲学者は洟《はな》もひっかけませんでしたね。信じたのは下司だけです。こんなやつらは、裁判所が絞首《しばりくび》にしちまえばよかったんです。
司 祭
さればじゃ、おいたわしくも、イエスは絞罪に処せられましたじゃ、しかも、あなたのいう四人のうちの一人としては苛酷にすぎたほどの扱われ方で。
臨終の男
いちばん絞罪に処せられる値打のあったやつですもの、仕方ありませんよ。彼こそは反乱挑発者、騒擾《そうじよう》誘発人、中傷者、ペテン師、遊蕩児、ずうずうしい食わせ者、いかがわしい危険人物の最たるもので、民衆をまんまとだましこむ術にかけてはなかなか長じておりました。だから、当時のイェルサレム王国のような国家が彼を罰すべき人物と見なしたのも、理の当然と言うべきでしょう。実際、彼を厄介払いしてしまうことこそ、賢明な道でした、極端に穏健寛容を旨としているわたしの精神にして、なおテミスの苛酷さをあえて是認するおそらく唯一の場合が、彼に対する場合です。わたしは民衆の生活をおびやかす政治的な過誤をのぞいては、あらゆる人間的な過誤を寛恕することができます。王と王権とか、わたしに尊敬の念を起させる唯一のものです。祖国と王を愛していない人は、生きる価値を持たない人です。
司 祭
しかし、何と言おうとあなたは、結局この世の彼岸に何ものかを認めておられるのじゃろう? あなたの精神が、一度たりとも、あなたを待っている運命の深い暗闇《くらやみ》を見透そうとしなかったとは、信じがたいことじゃからのう。いったい、悪しき生き方をした者には無数の刑罰を、善き生き方をした者には永遠の報いを与えるという教義よりも、よりよくあなたの精神を満足させ得る教義がおありかな?
臨終の男
満足させるもさせないもありませんよ、神父さん、虚無の教義以外に何があるというんです? といって、そんなものわたしは怖くも何ともありませんがね。わたしはそこに、心の慰めになるもの、ごく当り前な自然のものをしか見ていませんから。実際、虚無の教義以外のものはすべて高慢ちきな精神の所産です。それのみが理性の賜物です。それにしても、この虚無というやつを怖ろしいものに見立てたり、威圧的なものに思ったりするのは間違いです。自然界の万物が後から後から永遠に生産されて行くさまは、われわれの親しく目にするところではないでしょうか? どんなものだって、滅んでなくなってしまうということはありません、そうですとも神父さん、この世の一切のものは決して壊滅しはしないのです。今日人間だったものが明日は蛆虫《うじむし》となり、明後日は蠅《はえ》となって生きるとすれば、永遠に存在することとちっとも変りはないではありませんか? それなのに、あなたは、わたしが自らいかなる価値をも認めていない美徳によって報いられたり、またわたしが自らしようと思ってしたのではない罪によって罰されたりすることを、お望みになるのですか? こうした教義を認めた上で、あなたはあなたのいわゆる神の善良さを信じることができますか? それとも神様は、わたしを罰するのが面白くて、わたしという人間をつくったのかしらん? どうやら神様はわたしに選択の余地を少しも残しておいてくださらなかったような按配です。
司 祭
そんなことはない。
臨終の男
あなたの偏見に従えばね。しかし、理性はそんなもの容易にくつがえします。人間の自由に関する教義は、あなたの妄想には持って来いの恩寵《おんちよう》に関する教義をつくるためにしか、いままで考えられたことがなかったようですな。罪を犯すも犯さないも手前の自由だとはいえ、世の人間は絞首台を横目に見ながら、やっぱり罪を犯さずにはいられないのですよ。われわれはある不可抗的な力の誘惑をしりぞけることができないらしい。一瞬たりとも、われわれの嗜好が傾く方面以外に、われわれの心を決定することはできないらしい。これを要するに、自然が必要としない美徳は一つとしてなく、逆にまた、自然がその必要を認めない罪悪は一つとしてないのです。かかる完璧な均衡において、自然は相互に維持し合い、全自然の科学は成立っているのです。とすれば、自然がわれわれを駆り立てる方向にわれわれがおもむいたからとて、どうしてそれが罪になるのでしょう? 少なくとも、あなたの皮膚に針を刺しにくる雀蜂の行為以上に、それが罪あることとは思われませんが……
司 祭
そういうことじゃと、あらゆる罪のうちでもっとも重い罪までが、なんらわれわれに恐怖の感情をいだかしめないことになろうがな?
臨終の男
そういうことじゃありませんよ、わたしが言わんとしたのは。われわれをして罪ある行為を避けしめ、または恐怖せしめるためには、法律がこれを断罪し、裁判の生殺権がこれを罰すればよいのです。しかしまた、不幸にして一たび罪を犯してしまった以上は、さっさと見切りをつけて無益な後悔なぞにはふけらないことが肝腎です。そんなことをしたって、将来またいつ罪を犯すか知れず、また犯した罪は二度と取返しがつくものではないのですから、結局何の役にも立ちゃしません。ですから、後悔にふけるなんて馬鹿げたことです。また、この世で罪を免れたほど幸福だった人が、今度はあの世で罰を受けやしないかなんてびくびく心配することは、さらに一層馬鹿げています。といって、わたしは何も罪を犯すことを奨励しているのでは毛頭ありませんよ。それはもちろんできるだけ避けねばなりません。しかし、罪をのがれる道は、根も葉もない恐怖によるのでなくて、理性によるのでなければなりません。恐怖というやつはそれこそ何にもならないしろもので、その効力たるや、多少ともしっかりした精神に出あえば、太陽の前の幽霊のごとくたちまち消えて失せるものです。理性のみが――そうです神父さん、実に理性のみが、われわれに教えてくれるはずです、われらの同胞に害を及ぼすものは決してわれらを幸福にすることができない、自然がこの地上においてわれらに許した最大の配与は、われらが同胞の幸福に貢献することであると人類の全道徳は、次の一語のうちに含まれております、すなわち「みずから幸福たらんとせば、これを他にも施すべし」そして、他より害を受けたくなければ、決して他にも害を及ぼすな、です。
これこそ神父さん、これこそ、われわれが従わねばならぬ唯一の原理です。この原理を受容れ承諾するためには、別だん宗教も神も要りません。一個の善き心さえあれば足りるのです。ああ、神父さん、わたしはだんだん弱って行くようです。どうか一刻も早く偏見をなげうって、めげず臆せず、何物にも惑わされず、ただただ人間らしく、情深くなってください。あなたの神、あなたの宗教をいますぐお棄てなさい。そんなものは人類の手に凶器を持たせるよりほか、何の益にもならないしろものです。実際、こうした身の毛もよだつような観念が、宗教という唯一の美名のもとに、他のすべての戦争、すべての天災を束にしてかかっても追っつかないほど、この地上におびただしい血を流したのです。他界という観念をお棄てなさい。そんなものはどこにもありはしないのですから。ただし、幸福であることの楽しみや、幸福をつくり出すことの楽しみを棄ててはいけません。これこそあなたの生活をより豊かに、あるいはより広くするために、自然があなたに与えたところの唯一の方法なのですから。――神父さん、肉体の快楽はつねにわれわれの幸福をつちかう最も大切なものです。わたしはこれを生涯礼拝してきました。快楽の手に抱かれて、生涯を終らせたいと思いました。わたしの最期は近づいています。輝くばかりに美しい六人の女が、隣の部屋に控えております。この日のために、わたしは彼女らを取って置いたのでした。あなたもどうぞ御相伴なすってください。わたしに見ならって彼女らを抱いたら、もうくだらない迷信の屁理屈や馬鹿げた偽善の謬説なんか、すっぱり忘れようと努めてごらんなさい。
付 記
臨終の男が呼鈴を鳴らすと、女たちが部屋に入ってきた。と、たちまち司祭は彼女らの腕に抱かれて、あわれや一個の、自然によって堕落せしめられた男[#「自然によって堕落せしめられた男」に傍点]になってしまった、堕落した自然とは何であるか、ついに説明することのできなかったこの男が――。
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解 説
本書は、サドの短篇集『恋の罪』から二篇、同じく短篇集『小咄、昔噺、おどけ話』から九篇を選び、それに独立の短篇『司祭と臨終の男との対話』をつけ加えて、手ごろな一巻にまとめたものである。『悪徳の栄え』や『美徳の不幸』によって、サドの長篇小説作家としての力量に堪能した読者は、さらに本書によって、短篇作家としてのサドの多角的な才能を、十分に味わうことができるはずである。次に、各短篇集を個々に解説する。
『恋の罪』について
サドは一七八七年から八八年にいたる期間中、バスティユの牢獄で、大小とりどりの短篇および中篇小説を五十篇も書いたが、そのなかで、作者の存命中に世に出たものは、わずかに十一篇にすぎなかった。それが一八〇〇年(共和暦八年)刊行の『恋の罪、壮烈悲惨物語』Les Crimes de 1'amour, nouvelles h o ues et tragiques 全四巻にふくまれる諸作品で、本書に採録した『ファクスランジュあるいは野心の罪』(第二巻より)および『ロドリグあるいは呪縛の塔』(第三巻より)も、その一部なのである。ちなみに、角川文庫版『美徳の不幸』に併録した『ユージェニイ・ド・フランヴァル、悲惨物語』も、同じ短篇集にふくまれるものであることを付記しておこう。
短篇集『恋の罪』の特徴は、すべてその色調が暗く、陰惨な小説ばかりを意識的に選んであるということであろう。とくに近親相姦や男色や殺人をテーマとしたものが多い。サド研究家ジルベール・レリーによれば、これは「おそらく当時の民衆の暗い想像力に迎合するためだった」と思われる。むろん、『恋の罪』は、他のサドの長篇小説とは違って、はっきり作者の名前を明記して出版された書物なので、暗いテーマが多いとは言っても、それほど強烈な残酷描写やエロティック描写はない。
採録した二作品のうち、『呪縛の塔』について簡単に述べておきたい。この作品は作者自身の解説によれば、あるアラビアの歴史家に典拠を仰いでいる。主人公ロドリグは地獄に堕ちたドン・ジュアンさながら、最後まで試練に屈しない豪毅な自由思想家《リベルタン》である。主人公が空を飛びながら鷲と交わす宇宙論的問答は、フローベールの『聖アントワヌの誘惑』第六章における、アントワヌと悪魔との問答の部分と驚くほどよく似ている。私の思うのに、これはサドの影響が、十九世紀の作家の作品にあらわれた例の一つである。
『小咄、昔噺、おどけ話』について
サド研究家の故モーリス・エーヌが、パリ国立図書館で発見した未発表自筆原稿を編集して、一九二六年、初めて刊行した短篇集である。したがって、『小咄、昔噺、おどけ話』Historiettes, Contes et Fabliauxという題名はモーリス・エーヌの命名による。収録作品は全部で二十六篇であるが、本書には、そのうち九篇(『オーギュスチィヌ・ド・ヴィルブランシュあるいは恋のかけひき』『寝取られ男あるいは思いがけぬ和解』『司祭になった夫』『ロンジュヴィルの奥方あるいは仕返しをした女』『二人分の席』『プロヴァンス異聞』『哲学者の先生』『復讐』『エミリー・ド・トゥールヴィルあるいは兄の惨酷』)を選んで採録した。
『小咄、昔噺、おどけ話』にふくまれる諸作品は、いわゆる風流滑稽譚ふうの明るいもので、その点、『恋の罪』の暗い傾向とは対照的である。『兄の惨酷』だけが、やや例外的な暗い作品と言えようか。個々の作品については、べつに説明を加えるまでもあるまい。
『司祭と臨終の男との対話』について
『司祭と臨終の男との対話』Dialogue entre un pr re et un moribond も、サドの死後、今世紀になってから、モーリス・エーヌによって初めて刊行(一九二六年)された作品である。
エーヌが手に入れた自筆原稿は、四十八ページの仮綴じのノートで、現在残っている形は、その最初のページが脱落したままのものである。このノートの第十二ページから二十五ページまでの部分に『司祭と臨終の男との対話』が書かれ、その他の部分は別の作品(戯曲、随想など)に充てられている。最後のページに「一七八二年七月十二日完了」と記してあるので、サドがこれを四十三歳当時、ヴァンセンヌの獄中で書きあげたことが知れる。サドの著述としては最も古く、事実上の彼の処女作となった記念すべき小品である。
このノートは一八五〇年以来、何度もパリの古書市で競売に付されたらしく、エーヌが手に入れたのは一九二〇年、D**夫人の蔵書が整理された時だった。その後、エーヌは第二次大戦前にノートを北アフリカ在住の友人に贈ったが、一九四九年には、ふたたび持主が変って、ノートは二十万フランで、ある愛書家の手に売られたという。
奇妙な対話体の作品『司祭と臨終の男との対話』は、形式的にはディドロやヴォルテールなどの愛用した哲学的対話の模倣であるが、いわばサドの最初の無神論宣言のようなものである。百科全書家《アンクロペデイスト》たちの鬼子ともいうべきサドは、彼ら先輩たちの穏健な理神論や自然神学を極端にまで発展させ、ついに自然の本質を悪と見、神を人間の敵と見る、おそらく史上で最初の徹底した無神論、全面的否定の無神論を身につけたのであった。
一九七三年五月
[#地付き]訳 者
澁澤龍彦
昭和三年(一九二八)、東京に生まれる。昭和二十八年東京大学文学部フランス文学科卒業。フランス文芸評論に従事。
主な著書に「澁澤龍彦集成」「悪魔のいる文学史」「偏愛的作家論」「ヨーロッパの乳房」。主な訳書に「ジョルジュ・バタイユ」「エロチシズム」「マルキ・ド・サド選集」ユイスマンス「さかしま」マルキ・ド・サド「悪徳の栄|え(*)」「美徳の不|幸(*)」ポーリーヌ・レアージュ「O嬢の物|語(*)」などがある。
[#地付き]*印 角川文庫所収
本書には今日の人権意識に照らして不当・不適切と思われる語句や表現がありますが、作品執筆時の時代背景や作品が取り扱っている内容などを考慮しそのままとしました。作品自体には差別などを助長する意図がないことをご理解いただきますようお願い申し上げます。
[#地付き](角川書店編集部)
角川文庫『恋のかけひき』昭和48年9月20日初版発行