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私の奴隷になりなさい
サタミ シュウ
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「奴隷になるということは自由を奪われるということではない。
隷属というのは、他のものに対して寛容になるということなのだよ」
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香奈を見た。六年ぶりだった。
しばらくの間、僕は自分の気持ちを自分に把握させることができなかった。
香奈はもちろん今でも美しかった。でも、変な言い方だけどきちんと六年ぶん歳を取っていて、きちんと三十代半ばの女になっていた。あのころより、尻《しり》も垂れていると思った。
クロップドパンツにアプリコットオレンジの薄手のニット、髪は僕が知っていたときより少し長く、緩やかなウェーブが胸元に届いている。化粧も着ている服も、その歳の女性にしては充分きれいと言えるだろうし、これも変な言い方だけど、きっと近所や幼稚園では「きれいなお母さん」と言われているだろう。でも、逆に言えば、その程度の美しさでしかなかった。
そもそも香奈がやんちゃ盛りのような五歳くらいの男の子を、あたりまえの母親の笑顔で追いかけているというのが、僕に「混乱」という言葉以外見当たらない状態を引き起こしていた。
長いチェーンのついた首輪をはめられ、きつく食い込まされた口枷《くちかせ》の間から涎《よだれ》を垂らし、四つんばいになってバイブの振動に尻を痙攣《けいれん》させ、ビデオカメラに向かって潤んだ瞳を閉じることなく喘《あえ》ぎ続けている香奈。
僕は今でもその画面の隅々までクリアに思い出すことができる。
しかし今目の前にいるのは、ドナルドダックに飛びつこうとしている子供を追いかけ、その幸せを噛《か》みしめるような笑顔を後ろにいる夫に向けている女だった。
僕はよっぽど驚いていたのだろう。眠ってしまった二歳になる息子を抱いた妻が、僕の目の前に「どうしたの?」という顔をつきだしてきた。僕は慌てている自分を隠すように「なんか暑いね」と呟《つぶや》いた。
追いかけていた男の子を抱きかかえるようにつかまえた香奈は、夫を振り返ろうとしたそのとき、僕に気づいた。
僕は目をそらすことができなかった。香奈をじっと見つめてしまった。香奈はその目に何の表情も浮かべず、男の子と手を繋《つな》いで立ち上がる動作の間、僕をただ見ていた。
そして、一瞬、笑った。
どういう意味の笑顔だったかはわからない。でも確かに、香奈は僕を見て笑った。六年間という年月と、歳を取って母親になっている香奈という違和感が一瞬で吹き飛んだ。僕の知っている香奈がそこにいた。
しかし香奈はそれから一度も僕を見ることなく、夫と子供を間にはさんで手を繋ぎ、子供にせかされるように「イッツ・ア・スモールワールド」の列のほうへと去っていった。
妻が息子の寝顔を僕に向けて「困ったわね」という笑顔を見せてから、「どこかに座る?」と訊《き》いた。僕も「しょうがないな」という顔をしてみせてから「そうだね」と答え、その場を後にした。
そのとき気がついた。僕は香奈を見たときから、勃起《ぼつき》していた。
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私の奴隷になりなさい
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♯1
七年前の四月、僕は香奈に会った。
大学を出て就職した広告代理店を二年で辞め、中途採用で入った出版社。僕の配属は編集部ではなく宣伝部だった。今にして思えば経験のない若造のたんなるわがままだが、広告の仕事が面白くなくて中途試験を受けたというのに、下手にその少ない経験が買われてしまったようだった。
編集部ではない配属通知が来たときはさすがにがっかりしたが、出勤初日から僕は自分が落胆していたことすら忘れていた。その職場で香奈に会ったからだった。
それから一年二か月を(少なくとも僕は)香奈のことだけを考えて過ごし、そして会わない六年三か月が過ぎたが、若造だったことの思い込みをさしひいても、その香奈との出会いは今でも思い出すたびに、こうして文字を連ねることすらもどかしくなるほど、僕から冷静さを奪ってゆく。
そのとき僕は二十四歳で、香奈は二十七歳だった。
香奈はその一年前の六月に結婚していた。聞いた話では相手は同じ出版社の編集部に在籍していた男で、結婚直後に関西支社への赴任が決まっていたらしい。「あれだよ。つきあい長かったからさ、遠距離になっちゃう前にけじめで籍だけ入れておこうってやつだよ」と、宣伝部では僕の次に若い、香奈と同い年の先輩が、遠慮なく香奈の黒いストッキングのふくらはぎをじろじろ見つめたあとで、訊いてもいないのに僕にそう耳打ちしてくれた。
僕も横目で膝《ひざ》から伸びる曲線を見て、先輩に「なるほど」という顔をしてみせた。そしてその日は一日、その陽気な先輩に実務的なことを教わりながら、ずっと香奈の横顔を盗み見て過ごした。
そのころ、僕はちょっと図に乗っていたと思う。ルックスは悪くないほうなので、中学高校のころからそれなりに女の子にちやほやされていた。よく男同士の「あのときこうだった」話で、たとえばバレンタインデーにもらったチョコレートの数も負けたことがない。でも、深い理由はないけど僕が童貞を失ったのは大学を出たあとだった。
セックスに興味がなかったわけではない。不能だったわけでもない。どころか、寄ってくる女の子たちと毎日のようにデートだってしていたし、求められればキスだっていつでもした。でも、あまりにも女に慣れていると思われ過ぎたせいか、その後、どうやってセックスに誘うのか、実際誘ったあとはどうすればいいのかがわからず、勝手に作られたイメージとそれによって僕自身がいつのまにか持ってしまったプライドが邪魔をして、肝心なことができずにいた。
大学を卒業した翌日、僕はソープランドで童貞を捨てた。「お兄さんかっこいい」と抱きついてきた、たぶん僕と同い年くらいのソープ嬢にまで、「いつも女の子にサービスするのに飽きちゃってさ、君がたっぷりしてくれない?」などと嘘をつく始末だった。
ただ、そこからは面白いように女の子は簡単に口説けたし、望むとおりにセックスができた。ようやく女を相手にしたときの自分がどのレベルか、はっきりわかったような感じだった。一年もすると普通の女の子では物足りなくなり、恋人がいる女の子を口説くことから始まり、転職前の会社の先輩に連れていかれたクラブやキャバクラの女の子を金をかけずに落とすことに熱中し、処女の高校生から子供がいる人妻まで片っ端からナンパし、やがては友人知人の奥さんや恋人だのにも次から次へ手を出したりしていた。
自分で冷静に分析するつもりはないけど、「本当はもっと若いうちからやれたこと」を、必死に取り返しているような感じだった。行為自体よりも、俺だったらどんなにハードルが高い女でもやれるということを喜んでいたように思う。
そんな僕だったので、当然出会ったその日に、香奈を落とそうと思った。とくに左手薬指の銀色の指輪がたまらなくエロティックに見えた。そして、そのときの僕は、香奈とセックスすることはごく簡単な、あたりまえのことだとすら思っていた。
出勤初日の夜、僕の歓迎会が会社近くの小料理屋で行われた。一階にはカウンターのみ、二階には宣伝部の八人がぴったり入れる座敷があり、僕は一応の主役ということでほぼ真ん中、もちろん陽気でお喋《しやべ》りな先輩の隣に座らされた。香奈は僕の真向かいに座った。五十代の部長以下、僕を含めて男が六人、女は香奈と四十代の女性なのでごく普通の席順だった。
香奈は黒のニットカーディガンの下に、焦げ茶のノースリーブのワンピースを着ていた。僕の目の前で座布団に座ろうと屈《かが》んだとき、膝丈のスカートの裾《すそ》の隙間から一瞬、ストッキングの太ももあたりにステッチが見え、さらに視線を上にあげると、今度は少しあいた胸元から乳房の谷間と真っ赤な下着が見えた。
僕は勃起《ぼつき》しそうになっていた。ガーターをつけているかどうかはわからなかったけど太ももで留めるストッキングに、赤い下着をつけている。たかだか仕事の日、しかも新人歓迎会があることもわかっている。ということは、それだけの日でもそれくらい手を抜かない女か、もしくは深夜に夫以外の男に会う予定があるのか。
どちらが正解でもよかった。絶対にこの女とやってやると、勃起しかけた性器の位置を気づかれぬように直しながら僕は思った。
そのとき、ふと香奈は僕を上目遣いで見た。どきっとした。その目は、僕が考えていることを全部見通しているような気がした。しかし香奈はすぐに部長の話に笑顔を向けて頷《うなず》いた。
あたりさわりのない自己紹介と会社の噂話に終始する、あたりまえの歓迎会の間に、僕はふと耳に入る香奈のデータだけを頭にインプットしていった。
僕より三歳年上で、十二月生まれ。
一浪して大学入学、四年前、卒業後この出版社に入社。
入社後すぐに四歳年上の編集部の先輩とつきあい始める。
昨年六月、二十六歳で結婚、子供はまだなし。
九月には夫が大阪に単身赴任。
夫の赴任がおそらく二年以内ということなので、香奈は東京に残った。
夫が帰京したり香奈が大阪に行ったりで、週末を使って会うのは月に二〜三度。
「もったいないよねえ香奈ちゃん、ふだんは一人なんてさ」と、香奈と同い年だが入社は一年早い陽気な先輩が、目のまわりを真っ赤にして遠慮なく香奈をじろじろ見ながら言った。慣れた光景なのか皆が呆《あき》れたように笑って、部長が「その発言、そのまま大阪に伝えてやろうか」とからかった。先輩は即座に部長と香奈に土下座をしてみせ、さらに皆の笑いを誘った。
香奈も笑っていたが、僕はひとつ気づいたことがあった。この手の会話で俎上《そじよう》にあがった女がよくやる、どう応《こた》えていいのかわからず、しかし単純に女として褒められる嬉《うれ》しさも隠せずといった態度や表情を、香奈はまったくしないのだ。ちやほやされて当然という態度でもなく、どちらかと言えば自分がいい女扱いされていることを、まるで他人事《ひとごと》のように聞いて笑っているという感じだった。褒められたり、男に好奇の目で見られることに慣れているというより、そんな場所とはまったく違うところにいるような態度。
僕はとても興奮していた。「絶対にこの女はやれる」という根拠のない、でも自分にはわかる自信、そして「もしかしたらまったく駄目かもしれない」もしくは「うまくいっても、俺なんか太刀打ちできないような女かもしれない」という根拠のない不安と期待、いろいろな気持ちが渦巻いて、その居心地の悪さをとにかく口説き落とすことによって解消したいと思っていた。
二時間ほどの歓迎会の間に、香奈は三回席を立った。僕にはそれがバッグの中で震える携帯に気づいてのことだということがわかっていた。夫だろうか。僕の中にはすでに嫉妬《しつと》の感情すら起きていた。
会が終わり店を出て通りに出たときも、香奈は皆が揃うまでの間、携帯でメールチェックをしていた。僕が後ろに寄っていくと、ぱちんと携帯を閉じて、「おつかれさまでした」と笑顔を見せた。
「ご自宅はどちらのほうなんですか?」
この二時間では聞きだせなかったことを訊《き》いた。もちろん近ければ、いや多少遠回りになろうともあわよくば一緒のタクシーに乗るつもりだった。しかし香奈の答えは、どう嘘をついても「じゃあ一緒に」とは言えない方向だった。会計やトイレをすませた皆が近づく前に僕は言った。
「ちょっと二人で飲みません?」
同じ部署だの勤務初日だの大人数の会が終わったばかりだのだからこそ、それが逆に有効な手だと僕は知っていた。皆の手前だとか、夫がいるからだとか、二次会に行くかもしれないだとか、今後は毎日顔を合わせることになるだとか、僕に言わずとも断る理由はいくらでもある。普通はこのタイミングで男は女を誘わない。だから逆にそれが女を動揺させる。しかし、さっき自分のことをとやかく言われたときと同じように、香奈はそう言われても顔色ひとつ変えずに言った。
「ちょっと無理かもね」
僕が次の台詞《せりふ》を発する前に、皆が集まってきた。僕はありきたりな世間話をしていた風を装って皆を見て、「今日はありがとうございました」と頭を下げた。そして二次会の誘いを誰がすることもなくお開きとなった。
部長は早々に「こっち方面乗るなら落としてやるぞ」とタクシーを停め、手を挙げた男性社員を乗せて去っていった。いちばんこの状況で僕を誘いそうな陽気な先輩は、時計を睨《にら》んだあとで「今日もうひとつ飲み会あるんでそっちに顔出さなくちゃ。今度|奢《おご》るな」と僕の肩を叩《たた》いてタクシーを停めた。この近くには、地下鉄の駅が二つ、JRの駅が一つある。僕と香奈を除く残りの三人はJRで帰ると言い、香奈は「じゃあ私はこっちなので」と皆に頭を下げると、地下鉄の駅のひとつのほうへ歩き出した。
僕は当然、「僕もこっちです」という顔をして、もう一度「ありがとうございました」と礼を言ってから香奈の跡を追った。
「本当はこっちじゃないんですけど」
香奈の隣を歩きながら僕は言った。香奈は返事をしなかった。そんなことわかっているわというような横顔だった。
「今日は旦那《だんな》さんいない日ですか? だったらもう一軒行きましょうよ」
僕はあたりまえのことを伝えるような口ぶりで言った。すぐ前に地下鉄の駅が見えてきていた。あの階段を降りる前に決着をつけなくてはいけない。
すると香奈は「ちょっと待って」という仕種《しぐさ》をすると、立ち止まってバッグから携帯を取りだした。僕も立ち止まった。香奈はメールを打ち始め、僕は香奈の顔を見つめていた。いきなり何のメールなんだと思ったが、おそらく夫からの家への電話とかそういう決まりごとがあるんだろうと僕は勝手に解釈し、液晶の光に青白く浮かぶ香奈の唇に目をやった。すぐにでもキスをしたい、すぐにでも僕の性器を口に含ませたかった。
メールを送り終えたらしく、香奈は携帯を閉じた。僕が「どう?」という顔をすると、香奈は「待って」と目で返事した。すると三十秒としないうちに、香奈の携帯の着信ランプが光って、じじーっと静かに揺れた。香奈は再び携帯を開くと、着信したメールを読んだ。スクロールする手つきをしなかったということは短い文面だったのだろう。しかし、香奈はしばらくその液晶を見つめたまま何も言わなかった。
ずいぶん長い間そうしてから、香奈は携帯を閉じると僕を見て言った。
「一軒だけよ」
結論から言えば、その夜、僕は香奈を口説き落とすことができなかった。
彼女が帰る方向からあまりずれないバーまでタクシーを飛ばした。香奈は窓ガラス越しに何か考え事をしているように、道行くビルやクルマをぼんやりと見つめていた。僕は彼女の胸や太ももに手を伸ばしたい衝動を抑えるのに必死だった。彼女の耳たぶにキスをして、ピアスの感触を味わいたいと思った。
バーでも彼女はほとんど話をしなかった。それこそ僕はつまらない自己紹介的な話もしたし、ふっと近寄って耳元でそれなりなことを囁《ささや》いたりもした。しかし香奈は喜ぶことも嫌がることもなく、頷くことも困ることもなく、素っ気ない返事しかしなかった。
やがて香奈はふと気づいたようにバッグを開けて携帯を取りだした。着信音を鳴らさずにいつもよく気がつくものだと僕は感心した。香奈はメールを読むと、なぜかほっとしたような顔をした。そして僕に言った。
「じゃあ帰るから」
送っていくことなど最初から断られているような言い方だった。
それから二か月近く、僕はチャンスをうかがっては香奈を誘った。帰り間際のタイミングを合わせたり、無理矢理用事を作って出先の香奈に電話をかけて帰り時間や夜の予定を聞きだそうともした。
完璧《かんぺき》に僕は香奈にまいっていた。他の女とセックスすることもほとんどなくなっていったし、毎夜のように香奈を思ってオナニーに耽《ふけ》っていた。
香奈が僕の誘いに頷《うなず》くのは、三度に一度といった感じだった。誘われるのも嫌という表情をされるときもあれば、「今日ならいいわ」と微笑むこともあった。あるいは初日のように、やけにメールのやりとりを何度もしてから頷いたり、逆に断ってきたりもした。香奈がどういう基準で僕の誘いを受けたり断ったりしているのか、まったくわからなかった。わからなかったから、その僕ではない基準であろう、香奈の夫に猛烈に嫉妬した。
もちろん、このときは僕の嫉妬すべき相手が間違っていたなんて想像すらしていなかった。
香奈は僕が口説くのを楽しんでいるようにはとても見えなかったけど、口説かれることをやめようとはしなかった。「まったくその気がないのに、口説かれることが楽しいの?」と、ある日僕は我慢できなくなって訊いてみたが、香奈は何も答えなかった。
完全に弄《もてあそ》ばれてるようにも思ったが、香奈の立ち居振る舞いを見ていると、意図的に僕を困らせようとしているわけではないようにも思えた。それは惚《ほ》れた女だからそう思ったわけではなく、それくらいは言葉を交わすときの「空気」でわかる。
実際に僕を困らせていたのは彼女の意図ではなかった。そのときの僕には知りようもない事実だったが。
三度に一度くらいの誘いに乗って酒を飲み、しかしいくら口説いてもセックスどころか手に触れることすらできず、メールをしても返信がくることはほとんどなく、夜や土日に電話をかけても彼女が出ることはなかった。僕はもう気が狂いそうだった。そのうち、香奈とキスをすることを想像しただけで、射精できるようにまでなってしまった。
そして最初の運命の日は、出会って二か月が過ぎた六月になって訪れた。
夕方、仕事中に僕の携帯にメールがきた。ほんの四メートルほど先のデスクに座っている香奈からだった。僕はそこに書いてあった文面を、しばらく理解することができなかった。頭の中が真っ白になるというのはこういう状態なのだろうと思った。しかし体はがくがくと震え、今にも射精しそうなほど僕の性器は勃起《ぼつき》していた。そこにはこう書いてあった。
「今夜、セックスしましょう」
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♯2
「ラブホテルでいいわ」
会社の近くからタクシーに乗り込むとき、「どこかで食事でもしてから」と言いかけた僕に、香奈は運転手に聞こえぬよう僕の耳元でそう呟《つぶや》いた。
香奈がなぜ突然「セックスしましょう」とメールをしてきたのかなんてわからない。これまでどれだけ口説いても、香奈は頷くことはなかったし、僕は心のどこかで「この女を落とすことは絶対に無理だ」とわかっていたように思う。それでも香奈に会わずにはいられない衝動も抑えられず、この後、僕はどうなってしまうんだろうかという不安を払いのけるように、毎夜、香奈のことを考えてオナニーに耽《ふけ》っていた。
そんなときに、何の前触れもなく香奈が僕を誘ってきた。ついに香奈を抱けるんだという喜びだけに浸ることができれば良かったのに、僕の中には「なぜ?」という怖さにも似た疑問が渦巻いたままだった。
「新宿のほうとか?」
タクシーに乗り込んで僕は香奈に訊《き》いた。自分の声が震えているのがわかった。
「どこでもいい」
香奈は僕を振り向きもせず呟くと足を組み直した。香奈はめずらしくジーンズをはいていた。上は水色のニットに同系色の薄いカーディガン。いつもより少し大きなバッグを持っていた。僕はスカートの中に手を入れるよりは拒否されないだろうなどとつまらない計算をして、いつもより香奈と距離を縮めると、その組んだ太ももに手を伸ばした。香奈は一瞬僕の手を見ると、再び足を組み替えることによってその手を拒絶した。
タクシーが新宿に近づいてきたときに、僕は「本当にラブホテルでいいの?」という意味で、「西新宿のほうじゃなくていい?」と小声で訊いた。せめて最初のときくらい、きちんとしたホテルの部屋を取ってあげたいと思っていた。しかし香奈は「ラブホテルにして」という意味で首を横に振った。
僕は運転手に歌舞伎町と東新宿の境目くらいの場所を告げた。運転手は頷きながら、バックミラー越しにちらと香奈を見た。
これ以上念を押してもしつこいと思われるだろうと、僕はタクシーを降りると香奈を促して賑《にぎ》やかな通りを一本裏に入ったラブホテル街を進んだ。香奈の横顔には相変わらず表情がなかった。これからのセックスを心待ちにしている様子はもちろんないが、後悔している風でもない。俯《うつむ》き加減で歩いてはいるが、人目を気にして怯《おび》えている感じでもない。
今まで考えたことがなかったがそのときになって、香奈が結婚後、夫以外の男とセックスをするのがこれが初めてなのかそうではないのかという疑問が僕の中に浮かんだ。余計なことは言うまいと思っていたが、思わずそれが口に出た。
「こういうこと初めて?」
香奈は何も答えなかった。相手が僕だから初めてこういうことをするでも、いつも気に入った男とはこういうことをしているでも、僕にとっては後者でもそれなりに嬉《うれ》しい返事だったのだが、香奈の無表情は僕をこれ以上ないくらいに落ち込ませた。
「どこにするの?」
香奈が前を向いたまま言った。気づくと通りの半分くらいまで歩いていて、もう六〜七軒のホテルを通り過ぎていた。
「どこでも……そことかにする?」
僕はすぐ右側のホテルを見て言った。すると香奈は「どこでもいいから」という感じでホテルの入口のほうへ歩いていった。僕は慌てて隣までいき、香奈の腰に軽く手をあてて中に入った。その手は、香奈は拒まなかった。
部屋の写真パネルが並んでいるところで、僕はなんとなく、空室の中でいちばん高い部屋のボタンを押した。「休憩」と「宿泊」のどちらを押そうか一瞬悩んだが、おそらく香奈が朝までつきあうことはないだろうと思って、「休憩」にした。
フロントで鍵《かぎ》を受け取って、エレベーターで三階まであがる。僕は香奈を真正面から見つめ、ゆっくりと手をその肩に伸ばした。香奈はその手を振りほどかなかった。いよいよそのときが近づいてきていることに、僕はこれまで経験したことがないくらい震えていた。この場でまず唇を奪って、香奈の舌をたっぷり舐《な》め回したかったが、なぜかその勇気すらなかった。
部屋に入ってドアを閉めた瞬間、僕は勇気のようなものを振り絞って、後ろから香奈を強く抱きしめた。右手の手のひらが香奈の左の胸に触れる。ニット越しに感じるブラと柔らかい乳房の感触。鼻先が髪に触れて、髪の匂いと首元からかすかに漂う香水の匂い。僕の性器は自分でも驚くほど硬くなっていて、香奈のジーンズの尻《しり》の谷間を探しあてるとたまらずにそこにぎゅっと押しつけた。
香奈はその体勢のままパンプスを脱ぐと、ゆっくり僕から逃げ出した。そして部屋の中に入りながら呟いた。
「シャワー浴びて」
自分は女の扱いに手慣れていたつもりだったが、香奈の一言は僕のやり方などまったく無意味であるかのような響きがあった。
部屋に入ると香奈はソファに座った。そして僕を見た。僕は催眠術にかかったように、言われたとおり慌ただしく服を脱ぎ始めた。スーツの上下を近くにあったハンガーにかけ、外したネクタイをそこにかける。ボタンがちぎれるくらい急いでシャツ、続いて靴下も脱いで、ボクサーショーツ一枚になって香奈の前に立った。
香奈はじっと僕を見ていた。この場になっても香奈の表情は変わらず、僕の硬くなった性器の膨らみだけがなんだかとても場違いのような気がした。香奈は僕の性器を受け入れてもこの表情のままなのだろうか? そんな考えがよぎって僕は少しぞっとした。
香奈の視線に耐えきれなくなって、僕は急いで、磨《す》りガラスで香奈からは見えない洗面台の前でショーツを脱ぐと、その先のバスルームに飛び込んでシャワーを浴びた。手にボディソープをつけて性器を丹念に洗っていると、それだけで射精しそうだった。
出たあとで少し考えて、僕はショーツをはかずに腰にバスタオルを巻いて出た。僕の勃起は収まらなかった。ショーツで押さえていないぶん、タオル越しの勃起はなんだか滑稽《こつけい》に見えた。
香奈は入ってきたときと同じように、ソファに座ったままだった。僕はそのとき、変わらずにそうしていることへの落胆と、シャワーを浴びている間に気が変わって帰ってしまったりしていないかという不安が解消された安堵《あんど》と、さらに普通にしている香奈の前で勃起している自分という光景の興奮を、同時に味わって目まいがしそうだった。
香奈はゆっくり立ち上がると、洗面台に向かった。タオルとバスローブのビニールを破く音がする。やがてベルトを外しジーンズを脱ぐ音がした。磨りガラス越しのシルエットがニットを脱いだとき、思わずそちらへ走り込んで香奈の体を間近で見つめ、抱きしめ、乳房や腰の感触を強く味わいたくなった。でも体が動かなかった。香奈がシャワーを浴びている音が聞こえてきても、僕はその場に立ち尽くしたままだった。
肩まであるストレートの髪をゴムで留め、濡《ぬ》れた体をバスローブで包《くる》んだ香奈が出てきたとき、僕は思わずふらふらと香奈に近づいていった。しかし香奈はすっと僕の体をかわすと、ソファのほうへ行って座った。
「電気消そうか」
僕は冷静さを保つためにそう言ってみた。何かを喋《しやべ》らないとどうにかなってしまいそうで、でもずっと喋ってもいい言葉が見つからなかった感じだった。しかしようやく見つけたその言葉に、香奈は首を横に振った。そして傍らのバッグをあけると、中から少し重そうなポーチのようなものを取りだした。
「このままで。あと、これを使って」
そう言ってそのポーチのようなものから香奈が取りだしたのは、ビデオカメラだった。
僕は香奈が何を言いたいのかがわからず、言葉を失った。
「セックスしてる間、ずっと私を撮っていて欲しいの」
香奈は当然のことを告げるような声で言った。その声にどれだけの恥ずかしさや決意が含まれているかを考えるような余裕は僕にはなかった。
「香奈を……してる間ずっと」
疑問形のつもりだったが、僕の声は僕自身を納得させるようなニュアンスで響いた。
香奈は頷くと立ち上がってベッドのほうへ行った。そして、僕に背を向けたままバスローブを脱いだ。香奈の体が初めて僕の目の前に現れた。
女の体を褒めるボキャブラリーに関しては僕はかなり自信があったほうだったが、そのときの僕には、「いやらしい」という言葉しか見つからなかった。首筋がどうだ乳房がどうだ腰がどうだ尻がどうだ足がどうだなんてもうどうでもよかった。もちろん香奈の体はプロポーションとしてもとても良かったが、それすらどうでもいいと思えるくらい、僕は香奈の体にいやらしさを感じ、一刻も早く性器をその中に埋め込みたい衝動だけに支配された。
香奈が全裸のままこちらを見てベッドに座った。僕が近づこうとしたその瞬間、香奈はソファのほうへ目をやった。視線の先にはビデオカメラがあった。
僕はその視線に従って、戻ってビデオカメラを手にした。モニターを開いて録画ボタンを押す。僕の足元が映った。すぐにカメラを香奈に向けた。
目の前の香奈と、モニターの中の香奈が、カメラをじっと見つめていた。僕はモニターの中から香奈がフレームアウトしないよう気をつけながら、カメラを持ったままベッドへと近づいていった。
その僕の動作に合わせて、香奈はベッドの上に仰向《あおむ》けになった。シーツも掛け布団もそのままだったが、香奈は目を閉じた。胸を隠そうともしなかった。仰向けになっても形が崩れず張った乳房と、少し色が濃く小さな乳首のコントラストが見えた。足は閉じたままで、薄い陰毛は見えたが、香奈の性器はそのままでは見えなかった。
僕の中でふたつの相反する欲望が同時に湧き上がってきた。ひとつはカメラを放り投げて、両手と舌と体自体で香奈の体を味わい尽くしたい、香奈の体のあらゆる個所に性器をなすりつけたいという衝動。そしてもうひとつは、その体に触れずにこのカメラで顔や乳房から性器の奥までを撮りたいという衝動。
一瞬迷ってから、僕は枕をひとつ引っ張ると、香奈の顔の横あたりに置き、その上に香奈へ向けてカメラを置いた。そしてたまらずに香奈の唇にキスをした。
腰から首筋にかけて、震えを抑えきれない快感が突き抜けた。僕は唇を使って、乱暴に香奈の唇をこじあけ、舌を思いきり差し込んだ。舌先が香奈の舌に触れる。僕はその柔らかい肉を吸いだそうとした。しかしそのとき、香奈は逃げるように唇を離すと目をあけて言った。
「カメラは持っていて。私の顔を撮っていて」
優しく少し淫乱《いんらん》な感じがする声だった。でも、キスで香奈も感じてきたのだろうかと喜ぶような余裕はなかった。その声は断れない命令のように聞こえた。
僕は再びカメラを手にした。右手にカメラを持ったままというのは、何か自分のやりたいことや、やるべきことを拘束されているような気がした。でも僕はモニターを覗《のぞ》けない状態だったが、手を伸ばし香奈の顔のほうへレンズを向け、香奈にもう一度キスをした。
さっきよりはゆっくり優しく、舌で香奈の唇を舐め、やがて口の中へと差し込んだ。唾液《だえき》で濡れた香奈の舌がそこにあった。僕はその舌に自分の舌を巻きつけるように吸いだした。香奈のほうから舌を絡めてくることはなかった。しかし僕の愛撫《あいぶ》に応《こた》えるように反応し、きつく合わせた唇から、「んっ」という甘い吐息が漏れ出した。
僕は自分の身に起きているおかしなことへの疑問と怖れがすべて吹っ飛ぶくらい興奮していた。
これまで覚えたテクニックだのじらし方だのは全部忘れていた。ただそこから、僕は唇で香奈の耳を首筋を肩を乳首をむしゃぶりつくように舐《な》め回した。そのたびに僕はおそらくすごくがたがた揺れた画面になっているであろうカメラを、何度も香奈のほうに向け直してその顔を捉《とら》えた。
香奈はきっと感じていたと思う。しかし、声を出して喘《あえ》ぐことはなかった。もともと声を押し殺すタイプなのか、それとも夫以外の男、さらに初めての相手ということでふだんのように感じていないのかはわからなかった。ただ声を漏らさず目を閉じていても、ときどき僕の舌の感覚にびくんと体を震わせるのが愛《いと》おしくてしょうがなかった。
僕はついに香奈とこうやっている。そして僕は香奈を感じさせている。
そんなセンテンスを頭に浮かべた。嬉《うれ》しさと何に対するものかわからないけど優越感のようなものが混ざり合って、僕は涙さえ流しそうになっていた。
僕はいつも以上に硬くなっている性器を口に含んで欲しくなった。相手が相手ならば、僕は自分から前戯などほとんどせず、一時間でもフェラチオさせてその女の顔を眺めているときがある。でも今僕が欲しているのは、純粋にその柔らかい舌と唇で、男の性器を舐める香奈の姿を見たいということだった。
僕は香奈の左の乳首を軽く噛《か》んで舌先で愛撫しながら、カメラを持っていない左手で、香奈の左腕を掴《つか》んだ。そしてゆっくりその指先を僕の性器のほうへと導いた。
しかしもうほんの数センチで届くというところで、香奈はすっとその手を引いた。
「触ってて」
うわずった声で僕は思わず本心を呟《つぶや》いた。香奈の顔を懇願するように見つめた。しかし香奈は相変わらず目を閉じたまま、引いた手を僕の背中のほうに回して、それだけの仕種《しぐさ》で僕の性器に触るつもりはないという意思を伝えてきた。
僕は泣きそうだった。そんな気持ちに押し流されてしまわないよう、僕はすかさず香奈の足の間に体を滑り込ませた。そして両足を少し乱暴に開くと、露《あらわ》になった香奈の性器に荒々しく口を押しつけ、べろべろとその襞《ひだ》を舐め回した。
「ああっ」
香奈が初めて、思わず声を出して喘いだ。僕は必死だった。香奈の陰毛は性器の上のほうにだけ生えていて、性器のまわりはまったくなかった。もともとそうなのか、それともその部分だけ剃《そ》っているのかはわからなかった。押し分けて舌を差し込んだ性器は、僕の想像以上にぐっしょり濡れていて、僕が思っていたよりもずっときれいなピンク色をしていた。しかしその性器を包むようにある皮膚が、今まで見たどの女よりも黒ずんでいて、そしてどの女よりも肉厚があった。
ビデオカメラがずっとホテルの天井を写したままになっていた。僕は舌を抜くと左手でカメラを持ち、そのレンズを香奈の性器に向けた。そして右手の人さし指と中指をぐいっとその中に押し込んだ。
「んんっ」
香奈が思わず腰を浮かせて、右腕で自分の口を押さえた。感じることを我慢なんかしなければいいのにと思ったが、いつもだったら言えるその言葉がどうしても出てこなかった。僕は二本の指の腹で香奈の性器の中をこねまわし、親指でその分厚いまわりの肉を愛撫した。ねっとりとした液体が、二本の指だけでなく僕の他の指にも垂れてくるほど香奈は濡《ぬ》れていた。
指を抜いて中指の腹でクリトリスを探り当てて少し強めに愛撫する。香奈はずっと右腕で口を押さえたまま、ぎゅっと目をつぶって眉間《みけん》に皴《しわ》を寄せていた。僕は手を伸ばして、上のほうからその顔をビデオカメラのモニターに映るようにした。
僕は指を離すと、右手で香奈の右足首をつかんで上に持ち上げた。香奈の性器がいっそう露になる。カメラを再び性器に向けた。そのまま、僕の硬くなった性器をぶち込んでやるところを撮ってやろうと、腰のポジションをぐっと前に近づけた。
「つけて」
香奈の声が聞こえた。今まで快感に喘いでいたその吐息や表情とはまるで違う、とても冷静な声だった。僕は驚いて香奈の顔を直接見た。今までと同じような、喘いだままのポーズと顔をしていた。僕は空耳だったのかという気がした。
「ちゃんとつけてして」
香奈がもう一度言った。やはりとても冷静な声だった。
僕はカメラを香奈の股間《こかん》が映るような位置に置き、立ち上がってベッドサイドに置いてあるコンドームを手にした。無駄にいちごの匂いをつけてあるコンドーム。その先端をつまんで亀頭《きとう》にかぶせ、するすると根本までおろした。
僕のいるべき場所にあったカメラを再び手にして、僕はゴムをつけた性器の先を、ゆっくり香奈の黒ずんだ肉にあてがい、まず少しだけぐいっと押し込んだ。
香奈が声を立てずに、ぎゅっとシーツを握った。僕はカメラのモニターを見ていた。僕の性器はじゅぶっという音を立てながら、香奈の中へと入っていった。そして根本まで全部入りきった瞬間、僕にとって最高で最悪なことが起きた。
動かしてもいないのに、香奈の濡れた肉襞に性器が包まれた瞬間、僕はいきなり射精していたのだ。止めようがなかった。頭からの信号などまったく無関係に、僕の性器はただどくどくとうねり、ゴム一枚隔てた香奈の中に精液を吐き出していった。
長い長い射精だった。その間、香奈は目を閉じていたがもし見られていたら僕はとんでもなく間抜けな顔をしていたと思う。全部出し終えたとき、僕は思わず声にならない呻《うめ》き声をあげ、香奈に抱きつくように体を倒した。右頬に香奈の左頬の熱さを感じた。胸元に香奈の乳首を感じる。
香奈は僕に手をまわすこともなく、ただすぐに果てた男が息を整えるのを待っているような感じだった。
僕は体が動くようになってから、ゆっくり香奈の中から性器を引き抜いた。だらしなく垂れ下がるコンドームの中には、今まで自分でも見たことないくらいの大量の精液があった。そして僕の勃起《ぼつき》はまだ射精前と同じくらい続いていた。
僕が体から抜けると、香奈はようやく目を開けた。そして、ひとつ大きく深呼吸をしてから立ち上がり、ベッドの脇に落ちているバスローブを手にすると、バスルームへと歩いていった。やがて、シャワーの音が聞こえてきた。
僕の頭の中にたくさんの言い訳と、たくさんの「次」のセックスにこぎつけるまでの言葉が浮かんだ。そのうちのどれを言えばよいのかまったくわからなかった。どころか、そこに浮かんだ言葉などはひとつも口にしてはいけないような気がした。
香奈はシャワーからあがると、バスローブ姿のまま、下着と服を手にしていた。
「あなたも浴びるなら」
香奈は言った。僕はまたしても素直に香奈の言葉に従った。つけっぱなしだったビデオカメラをそのまま香奈に渡して、僕は裸のままバスルームに向かった。いちばん勢いをよくして、顔に向かって強くシャワーを当てた。一人だったら叫びだしたい気分だった。
シャワーから出ると、香奈はもう服を着ていて、口紅も引き直し、ビデオカメラもきちんとバッグにしまっていた。ソファに座ったまま僕を見る。僕はいろんな言いたいことがあったはずなのに、何ひとつ言うことができなかった。失敗をリカバーするためのセックスに今すぐ誘うことすらできなかった。
シャツとジャケットを着て、ネクタイは内ポケットに入れた。服を着ている間、これだけは言うぞと決めた言葉を口にした。
「今度また、ちゃんとしたい」
僕は香奈の目を見て言った。香奈は僕を見つめたまま何も答えなかった。
「またこういう風に会ってくれる?」
普通の口調で言ってみたが、気持ちとしては懇願にも近かった。香奈はバッグを持って立ち上がると言った。
「そのときは私から言うから」
僕は頷《うなず》くことしかできなかった。
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♯3
二度と来ないかもしれないと思っていたその日は、意外にも十日後にやってきた。
せっかく香奈とのセックスにこぎつけたのに、僕は童貞のような失態をやらかしてしまった。それからは、祈るように次のチャンスが来ることを待ち、またどこかで香奈との関係をすべてなしにしてしまいたいとも思い、それでもやはり、それまで以上に香奈を思ってオナニーに耽《ふけ》る日々を過ごしていた。電話もかけられず、メールも送れず、ただ毎日同じ職場で顔を合わせることがこれほど嬉《うれ》しくつらいことだとは思いもしなかった。
だからその日、昼過ぎに「今日行きましょう」というメールを受信したときには、僕は自分がどんな感情を持てばよいのかもよくわからなかった。
香奈はその日、グレージュ色のストライプシャツに、膝《ひざ》丈の焦げ茶のタイトスカートにパンプスという恰好《かつこう》だった。僕は朝からずっと、ボタンを二つ外してぎりぎり見えない胸の谷間あたりと、尻《しり》のラインを盗み見ては勃起していた。
数日前に陽気な先輩と仕事終わりで飲みに行ったときに、先輩は香奈についてこんなことを言っていた。
「香奈ちゃんて昔はさ、なんか色気のない服ばっかり着てたんだよね。女の服のことなんかよくわかんないけどさ、なんて言うの、モード系とかそういうやつ? やたら黒くてやたら体のラインが出なくてやたら足も見せないようなやつ。それが今年くらいから急にさ、いわゆる普通のちょっとお洒落《しやれ》なOLが着るような恰好し始めてさ。髪形もああいう男好きしそうなのに変えたんだよ。きっと化粧の仕方とかも変わったんだろうな。夫の好みがほんとはそっちだったんだろうね。でも逆に何年もつきあって結婚してから、『俺は本当はこういう女が好きだ、こういう服を着ろ!』とかさ、あのくらいの美人妻だったら言ってみたいよね」
先輩はべろべろに酔っ払いながら、「最初から今みたいだったら、もう何年も前に口説いてたなあ、俺」と、口をとがらせて言った。僕は呆《あき》れて笑うふりをしながら、その僕が出会う前の香奈の変化と、それをさせたのであろう夫に猛烈に嫉妬《しつと》していた。
大人の女として申し分なく、かつ男がそそられるという意味では、香奈の服もメイクも髪形も文句がなかった。実際、仕事で出会う男たちに香奈は頻繁に口説かれていた。だいたいは夫がいると知ると尻込みしていったが、それでも熱烈なアプローチをしてくる連中も一人や二人ではないことは、皆が知っていた。
しかし僕の知ってるかぎりでは、そういった男たちに香奈は落とされてはいなかったと思う。半分は希望だが、もちろん僕は、いわゆる夫以外との不貞行為は僕だけだと思いたかった。
それは、半分は当たりで半分は外れだったのだが、僕がそれを知るのはずいぶん後になってからだった。
夜になって僕と香奈は、前回と同じように仕事を終えるとタクシーに乗ってそのままラブホテル街へ向かった。なんとなくだったけど、僕はこのあいだのホテルの隣のホテルに入った。
そこからは、僕がいきなり射精したりしなかったことを除いて、ほぼ前回と同じだった。
僕が先にシャワーを浴び、次に香奈も浴びた。香奈は今日も僕にビデオカメラを渡した。僕は香奈の体を愛撫《あいぶ》しながら、香奈の顔や性器を撮り続けた。香奈はキスには応《こた》えたが、僕の体に対する愛撫は、舌でも指でもしなかった。僕はためしに香奈のアナルに指を運んでみたが、香奈ははっきりとその愛撫を拒絶した。前戯中にポジションを変えることもなかったし、挿入した後も僕は正常位だけで腰を動かし、そして射精した。香奈はやはり声や指で反応することを我慢するようにしていたし、絶頂も迎えてはいなかったけど、それでもきちんと感じてはいたと思う。
きっと今日も、このまま別れて去っていくのだろう。そう思った僕は、彼女の体の上で息を整えたあとで、思いきって訊《き》いてみた。
「このビデオって」
僕は顔を起こして香奈の目を見た。
「どうするの?」
香奈は僕を見つめた。僕の目を見ていたが、なんだかその先のもっと遠くを見ているような視線だった。
「あとでこれを見て、オナニーをするの」
香奈が言った。決められた台詞《せりふ》のような言い方だった。でも僕の性器はその言葉に反応して、香奈の中でコンドームをつけて射精をした後だったが、ぴくんと動いた。香奈にもそれは伝わったようで、香奈はそのときだけ、僕を見つめたまま「あん」と小さく喘《あえ》いだ。僕はたまらずに香奈を強く抱きしめ、激しく唇を奪った。最初は硬かった香奈の唇が、やがてゆっくり開いて僕の舌を受け入れてくれた。
僕は香奈に対する何かが少しだけ進んだような気がして、嬉しさでもっと強く香奈を抱きしめた。
それから二週間以上、香奈から連絡が来ることはなく、七月に入って僕は二十五歳になろうとしていた。
二度のセックスは僕に冷静さを取り戻させるどころか逆だった。香奈への性欲、征服欲、口説き落とすことの満足感、そういったものは一度でもセックスをすれば自分の中でクリアになって、次は僕がそれを香奈に味わわせる番だった。少なくとも、今までの女はそうだった。セックスを覚えたのは遅かったが、それ以降で僕は数えきれないくらいの女を落として、ほぼ確実に女たちに僕とのセックスが嬉しくてしょうがないという状態にさせてきた。
一日《ついたち》に僕は香奈にメールをしてみた。グレーのメンズ風パンツスーツに、シルクの黒のドレープカットソーを着た香奈が、僕の後ろをエナメルのバックストラップヒールの音を響かせて歩いてくる。社外で大きな打ち合わせがあるときに数回着ていたことがあるそのスーツですら、今の僕には今すぐに性器を押しつけたい対象でしかなかった。
本当は今夜にでもと思っていたが、僕は香奈が自分のデスクに戻るタイミングを見計らって、四日が誕生日なんだけど会えないかという文面を送った。香奈は携帯を開いてメールを見た。しかし僕のほうへ視線を向けることもなくそのまま仕事に戻って、その日はもちろん返事はなかった。
今回に限らず、これまでも香奈と仕事以外のことで接点が持てるのは、香奈からの「今日しましょう」というメールが来ることでしか成立しなかった。たった二回のことだが、それはもう最初から崩すことができない絶対のルールのようなものになっていた。
だから何の返事もない三日間を過ごして、誕生日を迎えたその日も僕は香奈からメールが来るわけがないと思っていた。誰にも言えないが、誰に訊かれたとしても何と説明してよいのかわからない僕と香奈の関係。少なくとも、セックスのとき以外に二人でいる時間などないのに、たとえばどこかのレストランで香奈が僕の誕生日を祝ってくれるわけもない。
もう他の女とは食事すらしなくなって三か月が過ぎていた。男友達連中はまさか僕が誕生日に仕事が終わると家に戻って、一人でナイターを見ながらビールを飲んでいるなんて思ってもいないから誰も誘ってこない。
初回に一点が入ったままで、後は〇点で進むつまらない試合が八回裏になったとき、携帯の着信音が鳴った。僕は玄関に置きっぱなしにしていた携帯を取りに行き、テレビの前に戻りながら液晶を見た。瞬時に体が震えた。香奈からで、こう書いてあった。
「お誕生日おめでとう。今からあなたの部屋まで行ってもいいけど、いるかしら」
すぐに電話をかけ直したかったが、それがルールのような気がして、僕は急いで「部屋にいます。僕が出てもいいけど?」と返信をした。何度も打ち間違えた。返信はすぐに来た。
「二十分くらいで着くと思う。もうタクシーに乗ります。伝える道順をメール下さい」
香奈が今、僕の部屋に向かっている。僕は携帯では時間がかかるので、パソコンに向かって、すぐに道順をそのまま運転手に伝えればわかるように道案内を書き、「近くにきたら電話して」と書き添えた。そしてテレビを消し、とにかく散らかっているものを押し入れに放り込み、ベッドのシーツを急いで替え、携帯を持ち込んで風呂場で性器と汗をかいたわきの下などに、ボディソープをたっぷり塗って手で洗った。
そのとき携帯がまた鳴った。僕は泡だらけの手を拭《ふ》いて文面を見た。
「直接行くので、降りたあとの道順もメールして下さい。フェラチオしてあげます」
かっと頭に血が上ることがわかったので、僕はすぐに携帯を閉じてシャワーの水の量を増やして頭から浴びた。
香奈が僕に対してどう思っていて、僕と何がしたくて、結果僕とどうなりたいのか。この問題は初めてセックスしてからのこの一か月、毎日考え続け、絶対にこのままでは答えはでないという答えだけが毎日導き出されていた。セックスだけの問題としても、このまま僕が愛撫をして正常位だけで果てることしか許されないのかという疑問に、そこから変わらないのではないのかと、認めたくない答えに自分でたどり着いていたりもした。
「フェラチオしてあげます」
僕は混乱した。いろんな考えが、頭の外でぐるぐる回っているような感じだった。いつでもそうなのだが、僕はすでに、香奈のことを考えようとするとき、すぐにどうしようもなく勃起《ぼつき》してしまって、外を回る思考を自分の脳の中に呼び込めないような感覚になってしまう。
シャワーから出て、僕は音が聞こえてきそうな心臓の高鳴りを抑えて、なんとか冷静な文面で、僕の部屋までの道順を香奈にメールした。そしてそれから五分と経たないうちに、僕の部屋のドアチャイムが鳴った。
ドアを開けると香奈がいつもの無表情で立っていた。僕は少し戸惑った。戸惑った意味に最初は気づかなかった。やがてそれが、さっき会社にいたときとは香奈が違う服を着ていることにあるとようやくわかった。
膝《ひざ》から下の、いつ見てもすぐにむしゃぶりつきたくなるふくらはぎ。香奈はその素足の足首に絡まるストラップサンダルをはいていた。上は胸のラインがはっきり出る、襟つきノースリーブのカーキ色のカシュクールワンピースを着ていた。コットンサテンのストレッチ素材で、腰のベルトできゅっと絞ったところからの皴《しわ》に光沢が浮かんでいた。
香奈はドアを閉めるとそこに立ったまま、バッグからビデオカメラを取りだして僕に渡した。僕は黙って受け取り、すぐにモニターを開いて録画ボタンを押した。画面が暗い。僕は玄関のライトをつけた。
香奈はビデオカメラを見つめたあとで、その場に跪《ひざまず》いた。そして何も言わずに僕のナイロンのショートパンツと、その下のトランクスを引き下げた。勃起した性器が引っ掛かって、僕は慌てて自分のものを押さえ、香奈のやりやすいようにした。
香奈が僕を見上げた。僕はモニターの中に映る、自分の怒張した性器越しに、跪いて僕を見上げている香奈の姿に、もう卒倒しそうだった。香奈が目の奥で、「ちゃんと撮っていて」と言った。僕は上から見えている香奈の乳房とそれを包む黒いレースの縁取りに手を伸ばしたい欲求を堪《こら》えて、両手でカメラをしっかり持ち、その瞬間を待った。
香奈はずっとカメラのレンズを見つめていた。そしてついに僕の性器に右手をそっと添えた。香奈の手が俺のちんぽを触っている。そう言葉に出して叫びたいくらいだった。そして香奈は僕の性器を見もせず、舌をつきだすとそのまま僕の亀頭《きとう》の下の部分をぺろりと舐《な》めた。
モニターの中の香奈が揺れた。震えてしまった僕はカメラを慌ててまた持ち直した。香奈は長く伸ばした舌で僕の亀頭を舐め上げながら、ずっと僕を、いや僕のほうにあるカメラのレンズを見ていた。モニター越しにだけ、僕は香奈と目を合わせることができた。僕は毎晩繰り返したオナニーでいちばん思い浮かべた、香奈にフェラチオされる瞬間が訪れた喜びに震えながら、僕の目を見て欲しい、もっと深くまでくわえて欲しいという二つの欲求に我慢ができなくなった。
僕はカメラを右手だけで持ち、左手を優しく香奈の頭の上に置いた。しかし香奈はその手を優しくよけた。そしてカメラ越しではなく僕の目を一瞬見て、どうして欲しいかわかっているわという顔をした。香奈は亀頭の先を舐めながら、左手で僕のカメラを手にした右手をゆっくり下におろさせた。香奈の横顔を真正面のアップで捉《とら》えるアングルになった。
僕はモニター画面の角度を調節して、上から見えるようにした。真横からの画面では、ぴんと斜め上に向かって勃起している僕の性器の先に、香奈の舌先が下から触れていた。香奈はじっとレンズを見つめていた。
僕の左手をよけた香奈の右手が、再び僕の性器に添えられた。上を向いた性器を少しまっすぐにするようにして、突然香奈は、ぐっと喉元《のどもと》のほうまでくわえこんだ。思わず僕は「ううっ」とだらしない声をあげてしまい、またカメラをぶれさせてしまう。
真上から見ると、僕の性器を口いっぱいにほおばって、右頬を僕の体に向け、くわえたまま香奈は顔を左のほうへ向けていた。上に向けたモニター画面の中では、そうやって動かず、淫靡《いんび》な瞳《ひとみ》を向けている香奈の顔が映っていた。
何秒そうしていたかわからない。やがて香奈は口の中にたっぷり溜《た》まった唾液《だえき》を吸い取るように、じゅるじゅると卑猥《ひわい》な音を立てて僕の性器をしごきあげるように吸い上げた。
それからまたしても僕は、香奈にされるがままの、気持ち良さともどかしさがそれぞれフルで針を振りきるような快感に叩《たた》き込まれた。
激しく頭を上下させることもなく、強く舌で愛撫《あいぶ》するわけでもなく、添えた手でしごきあげることもない。ただ香奈は僕の性器を深くくわえこみ、動かさずにそうした後で、唾液がこぼれ落ちそうになるときに吸い上げるということを何度も繰り返した。僕の膝ががくがくと震えだし、玄関の壁に手をつかなくては立っていられなくなってきた。
「香奈のおまんこを触りたい」
いきたいのにいけない、いかせて欲しいがこのまま続けて欲しい、そんな気が狂いそうになる状況から脱するために、僕はいつのまにか漏らしていた喘《あえ》ぎ声の合間に言ってみた。香奈がモニター画面の中で、「だめよ」という目をした。
「ザーメン出したい?」
突然香奈が言った。僕はびくっとした。そんな言葉でそんな直接的なことを香奈が口にしたことに驚き、そして興奮した。僕は必死に言った。
「今日はフェラチオだけ? おまんこに入れたい」
香奈は僕の性器を口に含み直しながら言った。
「おちんちん、こんなにしゃぶってあげてるんだから、このままいって」
催眠術の最後の一言のようだった。僕は左手で香奈の右手を取って、乱暴に僕の性器を握らせた。そして口に含ませたまま、その手を強くしごいた。頂点はもうすぐそこだった。
「このまま……」
僕は香奈の口の中に思いきり精液を出したいという意味で、なんとかそれだけを口にした。香奈は答えなかった。そのかわり、モニターを見つめる目をよりいやらしくさせて、亀頭を口に含んだまま、僕の性器をしごく手のスピードを速めた。
「もう……」
僕がその瞬間を迎えようとしたとき、僕は手の力が抜けてカメラを思わず下のほうへ向けてしまった。香奈は左手ですぐにそれを受け止めると自分の顔を映し出し、しごく右手に最後の力を込めた。
どくん、という音さえ聞こえてきそうだった。僕の性器の先から飛びだした液体は、香奈の口の中に容赦なく注ぎ込まれていった。香奈は「んっ」と苦しそうな声を漏らすと、眉間《みけん》に皴を寄せ、しばらくの間、自分の口の中に放たれた精液をならすように舌の上にそのままにしていた。
僕は壁に手をついたまま、膝をがくがく震わせながら立っていた。一気に精液を出したあとで、その後もどくどくどくと少しずつ出てきていた。やがて香奈は鼻で大きく息を吸うと、口の中に溜まった僕の精液をごくりと飲み込んだ。そしてゆっくり体を離すと、跪いたまま、俯《うつむ》いて肩で息を整えていた。
僕にとってまた混乱するような、嬉《うれ》しくもあり何かが裏切られたような気持ちになる行為を香奈がした。香奈は呼吸が落ち着くと、まずカメラの向きを僕の射精が終わった性器のほうへ直した。だらしなく角度を下げてきたその先には、まだ精液の残りが垂れてこようとしていた。すると香奈は口を近づけ、唇をすぼめてちゅっと音を立ててその部分を吸った。僕の尿道に残っているものを全部吸い上げるような感じだった。
どうしてひとつも僕の言いなりにならない女が、言いなりな女でさえあまりしないことをしてくれるのだろう。頭の片隅で、それは僕への愛情なんかではもちろんなく、行為として、そこまでするのが当然だと仕込まれているんだろうと思った。でも、それを仕込んだであろう夫への嫉妬《しつと》に狂うには、僕はもう力が抜けきっていた。
香奈は僕の手からビデオカメラを取ると、停止ボタンを押してバッグにしまおうとした。
おかしなことが起きたのはそのときだった。香奈はしまいかけたカメラの録画ボタンをもう一度押して、僕に手渡した。僕は香奈が何をしようとしているのかまったく読めず、素直にカメラを顔の前で構えて、すっかりしぼんできた性器越しに跪いてこちらを見上げている香奈の姿を捉えた。
香奈はカメラのレンズを見つめると、またしても決められた台詞《せりふ》のような口調で言った。
「あなたのザーメン、すごくおいしかったわ」
まるで台本でもあるかのように、香奈はそう言った。そして僕からカメラを取ってバッグにしまうと、今度は振り向きもせずにドアを開けて出ていった。僕は下半身を露出しただらしない恰好《かつこう》のまま、しばらくその場に座り込んで動けなかった。
七月に香奈に会えたのはあと一回だけだった。玄関先でフェラチオをされた翌々週、香奈はまた予告もなく「今からあなたの部屋に行くわ」とメールしてきて、僕の部屋に突然やってきた。黒のキャミソールの上に黒のカーディガン、そしてプリーツミニという恰好だった。香奈がミニスカートをはいているのは初めて見た。やはり会社にいたときとは違う服だった。
いつものようにビデオカメラを渡されたとき、香奈は自分からコンドームも出してきた。
「すぐに後ろからして」
香奈はそう言うと後ろを向き、玄関のドアに手をついて尻《しり》を突きだした。プリーツの線が尻の上で揺れた。見るまでもなく僕の性器は硬くなっていて、急いではいているものを脱ぎ捨てると、香奈に渡されたコンドームをつけた。言われたとおりにするしかない。僕は前戯も何もなく挿入するために、下着をはぎとろうと香奈のスカートをたくしあげた。
目まいがした。香奈は下着をつけていなかった。
これだけはっきり見るのは初めての香奈のきゅっとしぼんだアナルの下の谷間から、黒く毛のない分厚い肉がすでに湿り気を帯びて僕を待っていた。僕は手を添えてあてがうまでもなく、まっすぐに香奈の中へと性器を沈めていった。
「あっ」
香奈が珍しくその瞬間の声を素直にあげた。僕はカメラを挿入部分に向けながら、その声を合図のように狂ったように香奈を後ろからついた。ドアについた香奈の手が、安定した場所を求めて動いた。体を動かすたびに、「んっ…」と耐えているはずの喘ぎ声が香奈の口から漏れた。僕はその手をいつまでも落ち着かせたくなくなって、左手で香奈の腰を強くつかむともっとストロークを長くして、香奈の性器のくちゃっくちゃっという音をより大きく立てて突き続けた。
「カメラ……」
香奈が呟《つぶや》き、右手を僕のほうへ回してきた。僕は言われるがままに録画状態のまま香奈にカメラを渡した。香奈はそのカメラを自分の顔の前、新聞受けの出っ張りの部分に置くようにして手で押さえた。
「感じてる顔を撮りたいの?」
すっかり呼吸が荒くなっていたが、僕は香奈にそう言ってみた。体位のせいかもしれないが、初めて自分が香奈に対して何か優位に立っているような錯覚をしていたと思う。しかし香奈はレンズに向かったまま、甘い息を吐きながらも強い口調で言った。
「いいからもっとして」
香奈はそう言うと、今までの僕の動き方をあざ笑うかのように、腰を小刻みに上下に動かした。前後の出し入れに夢中だった僕は、その予想しなかった振動と感触に思わず声をあげてしまった。いつのまにか香奈は、カメラを構えながらも手と足と腰を「自分の位置」にしていた。このセックスもやはり支配していたのは香奈だったのだ。僕は「いきそう」と声をもらした。
「いって」
香奈も声を荒くしながら言った。僕にはその気持ち良さそうな声が嬉しかった。
「香奈は気持ちいい?」
言ったそばから自分でもくだらないことを言ってると思った。香奈が答えてくれるわけがない。僕の絶頂はすぐそこだった。すると香奈はいっそう腰を動かしながら、顔を上げるとレンズを見据えて、僕が予想もしなかった感じた声で、予想もしなかった言葉を言った。
「おまんこすごく気持ちいい」
その言葉が合図だった。僕の足はつったようにぴんと伸び、香奈の中にいつものように長い射精をした。
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♯4
まるでスケジュールが決められているかのようだった。
六月は二度、ラブホテルで正常位だけのセックスをした。
七月は二度、僕の部屋の玄関先でフェラチオとバックでのセックスだった。
そして八月になって、僕は香奈の部屋に呼ばれた。それがすべて罠《わな》だったとはもちろんそのときの僕が気がつくはずもなかった。
メールがきたのは金曜日の夜だった。
「明日の朝、私の部屋に来る?」
文面はそれだけだった。香奈との関係がどうなっていったとしても、僕がそれだけはあり得ないだろうと思っていたことだった。夫が単身赴任中の自宅に、妻が不倫相手の男を呼ぶだろうか。金も時間も自由にならない主婦ならまだしも、香奈には男遊びをするならいくらでもやりようはあるはずだった。
しかし冷静にそんなことを考えていられるのもほんの数秒だった。僕は今すぐ返事をしなければこの誘惑自体がなしになってしまいそうな気がして、すぐに「もちろん行くよ」と返信した。その段階で僕は、逃げようのない運命に片足を完璧《かんぺき》につっこんでいたわけだ。
ほとんど眠れない夜が明けて、僕は八時過ぎに家を出た。JRの乗換駅から私鉄で四駅の最寄り駅を降りたあとで、先月香奈がそうしたように、受け取った道順のメールを見ながら、電話をかけずに直接部屋に向かった。
十二階建ての新しいマンションの七階。僕は一階でインターフォンを押すときも人目がないことを確認し、香奈の部屋番号を押す間も後ろから人が来ないかに注意を配った。
がちゃっと音がして、僕は顔を近づけると小声で「僕」と言った。香奈は返事をせずに、オートロックをすぐに解錠した。僕は中に入りエレベーターに乗ると七階を押した。さっき香奈の部屋番号を押したときから僕は勃起《ぼつき》していた。
香奈の部屋はエレベーターを出ていちばん手前の角部屋だった。震える手をごまかすように僕は部屋のドアチャイムを強く押した。指の強さとは関係ない間の抜けた呼び出し音が鳴る。やがて近づいてくる足音と、チェーンと鍵《かぎ》を外す音が聞こえ、ドアが少しだけ開いた。その隙間に香奈の姿があった。僕は滑り込むように中に入ると急いでドアを閉め、その場で香奈を思いきり抱きしめた。
香奈の体は一瞬びくんと反応し、僕の力に抵抗するように体を硬くさせた。カーキ色のVネックのノースリーブカットソーを着た香奈の乳房を押しつぶすように体を密着させたまま、僕は顔を香奈の前に向け、唇を奪おうとした。しかしそのタイミングで香奈はすっと体を離した。そして後ろを向くと、後ろに束ねた髪と、色落ちさせた細身のジーンズのきれいな尻《しり》のラインを見せて、部屋のほうへ歩いていきながら「入って」と言った。
短い廊下の左右にはそれぞれ閉められたドアがあった。右側がバスルームで、おそらく左側が寝室だろう。その先の左手にはもうひとつの部屋。正面には大きなリビングダイニングが広がっていた。左側にはソファやテレビといったものが並び、右側には四人掛けの食卓テーブル、振り返る形で右手前にはキッチンがあった。これから子供が生まれることも見越したような、それなりに金は持っている典型的な新婚夫婦の部屋という感じだった。ただ、夫が赴任中ということもあるのだろうが、妙に生活感がなかった。
「今日|旦那《だんな》さんは?」
言ったそばから無駄でくだらない質問だと僕は後悔した。香奈はソファではなく食卓の椅子に座ると僕を見た。
「後で私が行くの」
「大阪に?」
「そう」
香奈は斜め向かいの椅子に目をやった。そこには小ぶりの旅行バッグが置いてあった。
「何時ごろ?」
「十時三十分の新幹線」
時計を見ると香奈に指定された九時ちょうどになるところだった。東京駅からその新幹線に乗るためには十時にここを出ても遅い。
「一時間ないね」
「そんなに必要ないでしょう?」
あたりまえのようにそう言う香奈の目は、すでに妖《あや》しく潤んでいた。香奈はその瞳《ひとみ》だけで、「下を脱いでソファに行って」と僕に告げた。僕は言いなりに、ベルトを外しながらソファに向かい、少し迷ってからトランクスも脱ぎ捨てて座った。Tシャツと靴下はそのままの間抜けな恰好《かつこう》で、僕の性器はぴんと上を向いていた。
今になって気づいたが二方向に大きく取られたサッシのカーテンは開け放たれていて、レースカーテンだけが閉じられていた。覗《のぞ》かれることなく、夏の朝の光をきちんと取り込んでいる。そうしている理由はビデオにあるのだろうと思った。
香奈は近づいてくるとやはり僕にビデオカメラとコンドームを渡した。もう当然の儀式のような感じだった。僕は手早く性器にコンドームをつけると、すぐに録画ボタンを押して香奈の姿を捉《とら》えた。香奈は僕の目の前でジーンズを脱ぎ、その下の黒いTバックのショーツもするすると抜き取った。香奈の薄い陰毛が僕とレンズの目の前にあった。
香奈は僕の肩を軽く押した。僕はそのままソファに仰向《あおむ》けになった。香奈は左足を床につけたまま僕をまたいだ。右足を折ってその黒ずんだ股間《こかん》を僕に近づけてくる。僕は自分で手を添えて性器を香奈のほうへ向けた。
じゅぷっと最初の挿入の音がする。「んっ」と少しだけ香奈はのけぞった。香奈の黒く厚い肉をかきわけるように僕の性器が進んでいき、やがてそこに包まれたピンクの柔らかい肉に亀頭《きとう》が包まれた。そのすべてを捉えていたモニター画面の中で、やがて僕の陰毛と香奈の陰毛がぴったりとくっついた。ホテルや僕の部屋の電気ではなく、自然光で映し出される香奈の体はこれまで以上に僕を興奮させた。奥まで僕の性器が収まると、香奈は左足を床から離してソファの狭い隙間に乗せ、僕の上で足をM字にした状態になった。
「私を撮っていて」
香奈の言葉に僕は黙ってカメラを香奈の顔に向けた。すると香奈は薬指に銀の指輪をした左手を僕の腹に添えて突然、上下に動き出した。押さえた左手と僕の腰の両脇にふんばるようにしている両足を三つの支点にして、香奈は僕に見せつけるように、その肉を卑猥《ひわい》にめくらせながら、僕の性器をくわえこむように動かした。僕はすでに上り詰めつつあるものを必死に我慢しながら、カメラをその動きのほうへ向けた。ぐちゅぐちゅぐちゅと音を立てて、僕の性器は何度も香奈の中に吸い込まれそして現れということを繰り返した。
僕はその結合部分と香奈の顔、そしてカットソー越しに揺れる胸を何度も行き来しながらカメラを動かした。そうしてないとすぐにもいってしまいそうだった。香奈は僕のその性器の状態を見透かしたように、いつものように僕ではなくレンズを見据えて、今まで以上に「あっあっあっあっあっ」と小さく短い吐息をもらしながら、そのスピードを速めていった。束ねた髪が肩にかかるように踊った。
僕は思わずカメラを自分の胸に置いて、両手で香奈の腰をつかんでその動きを止めようとした。しかし香奈はそれを許さなかった。つかまれた手など関係ないかのように、今度はぎゅっと性器を深くまで差し込んだまま、腰から下だけでくいっくいっと腰を前後に動かし始めた。僕は思わず射精しそうになって、香奈の尻の向こうで膝《ひざ》を立ててそれを必死に我慢した。
そのとき急に香奈は僕が胸元に置きっぱなしにしたカメラを取ると、腰を振りながら手を伸ばして、サイドテーブルの上に置いた。そしてレンズを自分の腰の、僕の性器が収まってるあたりに向けた。モニターをこちらに向けていないのでわからなかったが、きっと僕の顔も香奈の胸も映らないくらい、ほとんど挿入している腰のあたりだけを捉えたアングルになっているだろうなと、少しだけ残っていた冷静な頭で僕は思った。
香奈の顔を見上げたとき、そのいつものように声を我慢して感じている表情が目に入って、僕はもう射精を我慢することができなかった。香奈の性器をぎゅっとより深く突き、それが少しでも遠のかないように僕は香奈の腰を思いきりつかんで固定した。そして立てた膝を使って僕からの最初で最後のストロークを、虫の交尾のように下から上へと激しく繰り返した。
「だ……だめ……」
僕が初めて聞く、香奈がもらした言葉になった本気の喘ぎ声だった。僕が体中をびくんとさせながら絶頂を迎えると、香奈は同時にのけぞり、倒れそうになる体を僕の膝あたりに手を添えることによってなんとか耐えた。香奈の性器がこちらを向いて、そこには僕の性器を包むコンドームの端と、めくれあがったピンク色の襞《ひだ》の隙間から香奈のクリトリスが見えた。僕はずっとどくんどくんと射精を続けていた。
やがて息を整えた香奈はゆっくりと僕の性器を抜いた。僕の内股《うちまた》に、精液がたっぷり溜《た》まったコンドームの冷たさが伝わった。僕はそのまま動けなかったが、香奈はソファから降りると、ビデオの停止ボタンを押し、ショーツとジーンズを手にしてバスルームのほうへ去っていった。
シャワーの音が聞こえてきて、ようやく僕は体を起こした。コンドームを外し、近くにあったティッシュで自分の精液をふき取った。ふと、陰毛のまわりについているはずの香奈の性器から溢《あふ》れ出た液体を確かめたくなって、指でなぞってその匂いをかぎ、そこに香奈を感じると思わず僕はその指を舐《な》めていた。どうかしてしまっていると自分でも思いながら、やめることができなかった。
ふと時計を見るとまだ針は九時三十分になっていなかった。僕の中では二時間くらい経過したような感覚があった。
いつのまにかシャワーの音は止まっていて、やがてジーンズをはき口紅を引き直した香奈が戻ってきた。僕は慌ててトランクスをはいた。
「出かけるけど、帰るなら先に帰って」
香奈は立ったまま僕を見下ろして言った。僕は当然そう言われるだろうと、ズボンに手を伸ばした。しかし次に香奈は思わぬ言葉をつけくわえた。
「明日の夜に戻るけど、また私としたかったらいて。でもそうするなら、外に出ないでずっとここにいて。どうする?」
すぐには香奈の言葉の意味がわからなかった。僕はズボンに足を通しながら、「え?」という顔をした。香奈はもう一度「どうする?」という顔で僕を見た。
「いるとしたら……」
「一度も出ないで。夫の留守に家に人を入れることの意味くらいわかるでしょう?」
僕の返事はもう決まっていたが、少しでも余裕の素振りを見せたかった僕はつまらないことを言った。
「食うものとか……」
「冷蔵庫にでも台所にでも、充分あるわ」
香奈は僕がそう言うであろうことをわかっているかのような口調で言った。
「ここで香奈を待つよ」
僕は香奈を見つめて言った。香奈は僕がそう答えることくらいわかっていたのだろう。頷《うなず》きもせずに食卓の椅子に置いてあるバッグをつかむと、それを肩にかけて僕に言った。
「何をどう使ってもらってもかまわないけど、動かしたものは元に戻しておいて、使ったものはわかるように置いておいて。わかってると思うけど、あとで夫に疑われるようなことをしたら、あなたに会うことは二度とないわ」
香奈はそう言うと時計をちらと見て、僕の返事を待たずに玄関へ向かった。僕は急いでズボンをはいてその跡を追った。香奈はパンプスをはきながら僕を振り向きもせずに言った。
「帰りたくなったらここの鍵《かぎ》は気にしなくてかまわないから」
オートロックだから出ていったら戻って来れないわよという意味を込めての言葉だった。もちろん僕にはそんなつもりはこれっぽっちもなかった。
香奈はそれから何も言わずにすっとドアを開けると出て行った。
僕は土曜日の午前中に、香奈がいない、香奈と夫の部屋に一人になった。
これからの一日半、いったい何をして過ごせばよいのかと思いながらも、この部屋にずっと一人でいてよいという事実が僕に妙な嫉妬《しつと》と妙な興奮をもたらした。
僕はまず、少し冷静になろうとシャワーを浴びた。バスルームで香奈が剃毛《ていもう》用に使っているのであろう剃刀《かみそり》を見たときは、思わずそれを手に取って、刃先をゆっくり指で触れた。香奈がさっきも使っていたスポンジタオルはその匂いを思いきり吸い込み、それで体を洗った。洗っているのか香奈の残り香をなすりつけているのか自分でもわからなかった。もちろんまだ少し濡《ぬ》れている、香奈が使ったバスタオルで体を拭《ふ》いた。僕の性器はもう勃起《ぼつき》していた。香奈に出会ってから、香奈を見たり感じたり思ったりするだけで僕の性器は反応するようになってしまっている。
バスルームを出て僕は、すぐに寝室のドアをあけた。こちらの部屋はカーテンが閉じられていて、薄い水色のベッドカバーをかけたダブルベッドが、薄暗い光の中で僕を誘うように置かれていた。壁にはクローゼットがあり、ベッドの他には大きな衣裳《いしよう》ダンスが二つ、そして香奈の化粧台があった。
僕はバスタオルで腰を巻いた姿のまま、ベッドに倒れるようにうつ伏した。夫と二人で寝るベッドという事実への嫉妬よりも、ふだんは香奈はここに一人で寝ているんだという安堵《あんど》のほうが少しだけ勝った。枕に顔を押しつけ匂いをかぎ、掛け布団がわりに使っていたであろう、畳んでその隣に置いてあったブランケットを香奈の体を思って乱暴に抱き、自分の性器をこすりつけた。
きっと僕はもう狂ってしまっているのだろうと、冷静にそう思い、しかし冷静に、そうなってしまっているならそれでもかまわないと思った。
ふとあることに気がついて、僕はベッドから飛び起きるとリビングへ戻った。
あった。ソファのサイドテーブルには、さっき使ったビデオカメラがそのまま置いてあった。香奈はこれまで録画したテープを一度も見せてくれたことはない。僕は録画モードを再生モードに切り替え、モニターを開いて液晶パネルに現れた「再生」と「巻き戻し」を同時に押した。
モニターの中で、僕の上で香奈の腰が激しく揺れる様が逆回転で映し出された。
「あとでこれを見て、オナニーをするの」
香奈の声が僕の耳の中に響いた。
僕は勃起が収まらなくなった性器をそのモニターに押し付けたくすらなった。
最初から見たくなって、一度停止を押し、巻き戻しボタンだけを押した。カメラの中からきゅるきゅるという音だけが聞こえてきた。そのやたら長く感じられる時間の間に、僕はいくつかのことを考えた。バッテリーの替えや充電器を探しておかなければということ、こんな小さなモニターではなくテレビ画面で見るためのケーブルを探しておかなければということ、そして、今日以外のビデオも探して見てみたいということ。きっと全部同じ場所にあるはずだった。
探し出すまでもなかった。きっとこの部屋だろうと寝室の隣に入ると、そこはパソコンを置いたデスクと、夫のものか書棚がずらりと並び、リビングには置かないような家のこまごましたものをしまっているであろう、帆布製のケースがいくつか積み上げられていた。
目当てのものはデスクの上、パソコンの隣にビデオカメラの箱の中に一セットになって置いてあった。その上にはプラスチック製のケースが置いてあって、中をあけるとデジタルビデオの録画テープが十本整然と並んでいた。
僕はそのままの状態で手に持ち、ソファのほうへ戻ろうとした。今までの行為のビデオの中で、僕がいちばん見たかったのは香奈が僕の部屋の玄関先でフェラチオしてくれたときのものだった。僕の性器をくわえ、いやらしい言葉を発しながら、僕の精液を最後まで飲み干してくれた香奈。そのときの香奈の顔をもう一度見たくてしょうがなかった。
しかし僕の足は三歩で止まった。一瞬にして僕の体からさっと血の気が引いていくのがわかった。足が震えた。そんなはずはなかった。
十本のビデオテープ。
今日を入れて、僕と香奈は五回しか行為をしていない。最初と二度目は新宿のラブホテルだった。三度目はそのフェラチオ。四度目は下着をつけずにやってきてバックだけで帰っていったとき。そして今日が五度目。この五回で、一度もビデオのテープチェンジをしたことはない。
僕との行為だけであれば、ここにあるのは四本のはずだった。それなのにここには、十本のビデオテープがある。
あたりまえといえばあたりまえのような気もした。もし香奈がビデオカメラで撮られることで興奮を得る女だったとしたら、夫との行為も撮っていて不思議はない。僕はこれまで、夫には頼めない行為だからこそ、僕という不倫相手にはそんな自分の他人には言えない性癖を頼むことができたのだろうと思い上がっていた。
人間が持っているすべての感情がひとつの束になって襲ってきたような感触に僕の体はがくがくと震えた。僕は大きく深呼吸をひとつすると、ゆっくりリビングのほうへ戻った。そしてカメラのバッテリーを新しいものに入れ替え、使っていたものを充電器に差し、カメラとテレビをジャックで繋《つな》いだ。テレビの電源を入れる。政治討論番組のようなものが映って、僕は入力切替ボタンを押して、テレビにビデオを接続した青い画面が出るのを待った。
さっき撮ったばかりのテープは全部巻き戻っていたが、僕はそれを再生せずにカメラから抜き取った。そして、少し迷ってからケースに入っている十本のテープのうち、いちばん上にあったものをセットした。
そのとき僕は自分でどんな顔をしていたかもわからない。僕はまるで絶対的な命令に従うような気持ちで、再生ボタンを押した。
香奈がいた。相手はもちろん僕ではなかった。しかししばらくしてみると、その相手は夫でもなかったことがわかった。そしてもちろん、そこに映っている香奈は、僕の知っている香奈ではなかった。
香奈に出会ってから今日までの自分の変化なんて序章にもなっていなかった。そのときから三十四時間の間に、僕はこれまでの自分ではいられないくらいの運命に叩《たた》き込まれていった。
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♯5
ビデオの中で香奈の恰好《かつこう》は、胸元が大きく蝶《ちよう》結びのデザインになっている焦げ茶のサテンブラウス、下は深いワインレッドのサテンの膝《ひざ》丈プリーツスカート、黒のロングブーツだった。ただ、その出《い》で立ちは最初はよくわからなかった。
香奈はその服装のまま、洗面台に向かって手をつき、前の鏡越しに見上げるようにかろうじて映っている目で、斜め後ろの位置から撮っているビデオカメラのほうを見つめ、足を広げ尻《しり》をつきだすようなポーズでいたからだった。
その装飾や並んでいるものから、どこだかはわからないがたいそう高級そうなホテルの広いバスルームだということはわかった。カメラは三脚にでも固定されているのかブレることなく、しばらく香奈は画面の中でそのまま動かずにいた。
何が起きているところなのか、僕は不安と嫉妬とそしてなぜか妙な期待も感じながら、画面に見入った。
「スカートをめくりなさい」
突然、男の声がした。
僕は初めて聞くその声に叫びだしそうになっていたが、必死になって自分の感情をすべて殺すことに決めた。その声について考えてしまいそうになることも必死に耐えた。この画面の中で行われていることをひとつも見逃したくないという気持ちに集中した。
香奈はその不自然な恰好のまま、右手を自分の後ろに回すと、ゆっくりとプリーツスカートの裾《すそ》近くをつまみ、言われるがままに腰のほうへするするとたくしあげていった。
香奈のきれいな足を包む黒いストッキングと、それを留める黒いガーターのストラップが見えた。そして香奈の弾力のある尻の裂け目に沿って、レースの刺繍《ししゆう》の縁取りがある黒のTバックショーツが現れた。香奈は鏡越しに男の声の方に視線を向けた。「これでよろしいでしょうか」というお伺いを立てるような目に見えた。
そのとき、髪に隠れているのと角度と距離のせいでよくわからなかったが、何か妙なものが映ったような気がした。鏡のいちばん下に映っているのが香奈の鼻くらいなのだが、その下、つまり口のあたりに黒っぽい何かが見えた。
しばらく男の声は聞こえてこなかった。香奈は自分の腰にスカートをひっかけるようにして丸出しにした尻をこちらに向けていた。そして三十秒ほど経ったとき、香奈の尻は痙攣《けいれん》するように小さくぴくぴくと震えた。
カメラのこちらでふっと笑うような息がもれた。
「もう感じているのか?」
そのとき香奈が何か言った。おそらく「はい」と答えたのだと思うがその声が変だった。くぐもった声で、それは「ふぁい」という音に聞こえた。
「自分の指で確かめてみなさい」
男の声が言った。香奈はその姿勢のまま、前に出していた腕を不自由そうに下から自分の股間《こかん》のほうへ回した。そしてその長い指をショーツの脇から自分の性器の中へと分け入れていった。香奈の背中が波打つように痙攣し、香奈は「ああああああっ」と、やはりくぐもった声で喘《あえ》いだ。
「すごく濡《ぬ》れています、御主人様」
香奈が言った。僕はその言葉に驚いた。本当は妙な声のままで、それほどはっきりは聞こえなかったのだが、香奈が発したその言葉は、僕の脳ミソに突き刺さるような感覚をもって伝わってきた。
カメラのこちらで人が立ち上がる気配がした。そして急にカメラががちゃがちゃと音を立ててブレた。一度天井を向いたカメラは再び香奈を向き、ゆっくりと近づいていった。
カメラの主が香奈の真後ろに立った。カメラは香奈のスカートをめくりあげた股間を映し出していた。そのとき香奈が自分の性器から指を抜いた。香奈の人さし指とその先のマニキュアに、ねっとりとした液体が絡まっていることがわかった。そしてもっと近づいたカメラが映したのは、黒いショーツにはっきりと浮かび上がっている香奈の染みだった。
「いやらしい女だな」
男の声がした。そして男はカメラを香奈の尻、背中、頭とゆっくり映してから、目の前の鏡に映る香奈の顔を映し出した。
「申し訳ありません」
香奈がひくひくと体を震わせてカメラを見ながら言った。声が変なのは当然だった。愕然《がくぜん》とした。香奈の口には黒い口枷《くちかせ》、いわゆるボールギャグがきつくかまされていたのだ。
香奈は鼻で大きく息をしながら、ボールのたくさんの穴からだらだらと涎《よだれ》を垂らし、僕が見たことがないような従順で淫乱《いんらん》な瞳《ひとみ》でこちらを見つめていた。
首から下だけ、だらしなくはだけたバスローブを着た男の姿が鏡に映った。僕はその男にも違う意味で驚くしかなかった。香奈にこれだけのことを施すとはどれだけの男かと思ったが、そこに映っていたのは胸毛からそのまま陰毛へと続く濃く汚らしい体毛の、醜い中年腹をした小太りの小男だった。
なぜこんな男の命令を香奈はこれほど嬉々《きき》として受け入れているのだ?
ほとんど悔しさでできたような疑問が浮かんだとき、僕には直感であることもわかった。
この男は香奈の夫ではない。
男はビデオカメラを一度横に置いた。近過ぎてよくわからなかったが、香奈の髪か顔を撫《な》でているようだった。やがて香奈の「あっ」と驚くような声がすると、肩のあたりが映っていた画面の中で香奈の体が後ろに引っ張られ、口枷をはめられた横顔が映った。
またカメラが手に持たれた。動きが激しくしばらくはどう動いているのかわからなかったが、そのアングルはやがて、床から上に向けて、洗面台に手をついて体を倒している香奈の姿を映し出した。
「自分の指でいきなさい」
男の声が言った。下を向き、その顔を真下から映し出された香奈は、口枷からだらだらと涎を落としたまま、言われるがままにスカートの裾をよけて下着の横から指を入れた。そしてその黒のシルクの下着の中で、すごい勢いで自分の性器を二本の指で激しく触った。直接見えなくとも、香奈が指の腹で襞《ひだ》やクリトリスをこすりあげ、やがて指を曲げると中へと侵入させて中をかきまわすのがわかった。くちゃくちゃくちゃという音だけが響き、ショーツの隙間から粘り気のある透明の液体が垂れてきた。
カメラがまた香奈の顔を捉《とら》えた。乱れて落ちてきている髪が、口枷のまわりの涎に張り付く。香奈は口枷の隙間から「はっはっはっはっは」という短く強い喘ぎ声を出し続け、ときどき何かにたどりついたような感じで「はぁっっ」と短く叫んだ。そしてその間も、閉じたいであろう瞳を義務のようにあけ、その快感のために何かに怯《おび》えているようにも見える瞳をレンズに向けていた。
「おまんこ、ぐちょぐちょに濡れています」
もごもごとした不明瞭《ふめいりよう》な声だが、その男と、そして僕には香奈の言葉の意味がわかった。
アングルが変わった。カメラは今度は洗面台の鏡の前に置かれたようだった。手をついてつっぷす香奈の顔を正面から捉える。俯《うつむ》いている香奈の髪を、男の腕は乱暴につかむと顔をレンズのほうへ向けさせた。
「ああああああああ」
香奈がぶるぶる震えながら喘いだ。
「鏡を見ていなさい。自分のおまんこを自分で触っている雌犬の顔を見ながらいきなさい」
「いっても、よろしいでしょうか」
男の声に、香奈は鏡越しに男の顔のほうを見上げると、そう嬉《うれ》しそうに呟《つぶや》いた。
「胸を触っていて欲しいか?」
男の声がそう言うと、香奈の頬に喜びが広がった。そして「はい」とだらしなく垂れてくる涎をあごにしたたらせて頷《うなず》いた。
男はその汚らしい腕を香奈の体の下に回すと、何も言わずに香奈の右胸を、サテンのブラウスごと思いきりわしづかみにした。胸元の大きな蝶《ちよう》結びがぐちゃぐちゃになり、男はかまわず乱暴に乳房をぎゅっとひねるようにした。触っているのでも揉《も》んでいるのでもなく、香奈の美しい胸を完全に物として扱っていた。
「いいいいいいいいっ」
香奈が嬌声《きようせい》をあげた。そして一度がくんと体全体を波打たせると、再び正面を向いた。股間に回した指の動きをより激しくしたことは肩と二の腕の動きでわかった。
「いきなさい」
男はそう言うと、ブラウスの胸元に乱暴に手をつっこむと、左の乳房をそれを包む黒いブラごと強い力でわしづかみにした。
「いきますっ、いっちゃいます、ああああああ、もう、いく、いきます……ああっ」
香奈は大声で叫ぶと最後は目を閉じて、そのまま画面の下、洗面台の向こうへ倒れていった。胸元から腰あたりまでが映っていた男は、そんな香奈に手をさしのべることなくそのまま見つめているようだった。
「立ちなさい」
やがて男は言った。向こうで見えない香奈が何やら呻《うめ》いた。すると男は手を伸ばし、香奈の髪をつかんでその体を引きずり上げた。香奈は両腕で洗面台につっぷして座り込まないように必死だった。びくっびくっと体が震えていた。
「同じ恰好《かつこう》になりなさい」
男の声がした。そして男の腕が伸びてきてカメラが持ち上げられた。男はカメラを持ったまま、また香奈の後ろに回り込んだ。香奈は震える足を開いて必死にその場に立っていた。
男はカメラを香奈の股間に向けた。そして突然右手を伸ばし、その上の部分をつかむと千切れそうになるのも気にしない風で、ショーツを一気に膝《ひざ》までおろした。香奈の厚く黒い肉が露《あらわ》になった。
「見せなさい」
男のその声に、香奈の手が躊躇《ちゆうちよ》なく伸びてきて、自分の肉を二本の指で大きく開いた。ねっとり濡れているピンク色の性器はまだひくひくと震えていた。男はカメラを持ったまま数歩後ろに下がった。いちばん最初と同じ構図になった。違うのは開いた両足の膝のところ、ロングブーツの少し上のところで下着がぴんと伸びていることだった。
男はカメラを三脚に固定し直したようだった。そして高さを調整するような、がくがくと揺れる画面が続いた。やがてカメラはまた香奈の後ろに戻った。どうやらより近くからの固定したアングルにしようとしているようだった。
カメラは香奈が自分の指で開いた性器を中心にすると固定された。するとそこに、男の腕が伸びてきた。男は手の甲を上にして、右手の人さし指と中指を揃えると、香奈の性器にその二本の指をいっぺんに沈めていった。
「んんんっ、あああああ、はぁぁぁぁ」
香奈が少し腰を引くようにして喘《あえ》いだ。男は指を抜いた。そして香奈の尻《しり》を思いきり平手で打った。ぱちーんと乾いた音がこだまして、香奈が「ひぃっ」と叫んだ。
「触っていただけるのに動いていいのか?」
男の声に、香奈はせつなそうな呻き声を漏らした。よく聞き取れなかったが「ごめんなさいごめんなさい」と繰り返し謝罪しているようだった。
男は香奈が腰を落として尻を突きだしてくるのと同時に、再び二本の指を挿入した。香奈の肉の奥でどういう動き方をしていたのかはわからない。ただ、愛液とは違うぴちゃぴちゃぴちゃという音が聞こえてきて、指を入れてからほんの十数秒で香奈は「いいいいいいっ」と絶叫し、大量に潮を噴いた。男の指の隙間から飛び散る液体は、カメラの近くにまで飛んできていた。
「座るな。そうしていろ」
再び座り込みそうになる香奈に、男はそう言った。
「はい」
香奈はなんとかそう答えて体を元に戻そうとするが、がくがくと激しく痙攣《けいれん》して、尻を床につけないのがやっとという状態だった。
男はそんな香奈に構う様子もなく、これまでとは違って丁寧にスカートのジッパーを外し、するすると脱がせた。そして香奈の体の横に来ると、ブラウスの腕のボタンを両方とも片手の指先だけであっというまに外し、香奈に万歳の恰好をさせるようにして、これもスマートに脱がせた。
そのとき初めて、一瞬だけ男の横顔が映った。一瞬過ぎてよくわからなかったが、それでもその体同様、品のかけらもないような中年で、髪もそうとう薄くなっているような脂ぎった男だった。でももはや僕にはその男を憎悪する余裕すらなくなっていた。
香奈はブラウスの下に白のシルクのキャミソールを着ていた。ベビードール風のそのキャミソールは、透けて見えるブラと、丸出しにした下半身のガーターとロングブーツ、膝で止められたままのTバックショーツの黒と一緒になるとこれ以上|淫靡《いんび》なものはないように思えた。
男はいつのまにかコンドームをつけていた。勃起《ぼつき》していたが、僕が勃起していないときと長さがあまり変わらないくらい、黒ずんだ粗末な性器だった。
男はカメラを香奈に持たせた。香奈は手を思いきり伸ばし、さっきまでのように鏡のほうになるべく近づけ、レンズを自分に向けた。後ろに男が立っている。手を添え、香奈の性器に勃起したものを挿入しようとしているようだった。香奈の目はこれまでの快感と、これから「入れていただく」ものへの期待で大きく見開かれていた。
やがてポジションを安定させたのか、香奈の頭の後ろで男がぐっと香奈のほうに体を寄せた。
「う、う、う、嬉しい…………です、御主人様のおちんちん……」
その瞬間、香奈は眉間《みけん》に皴《しわ》を寄せてそう呟きながら快感に身を委《ゆだ》ねた。口枷《くちかせ》の間から垂れてくる涎《よだれ》はいっそう長い糸を引いていた。
男の動きは単調だった。ただ体を引き、香奈を突きという動作をゆっくり繰り返すだけだった。香奈の尻に男の腰があたるぱんぱんぱんぱんという乾いた音が響いた。香奈は俯いていた。声も漏らさなかった。これまでのように体を震わせることもなかった。
しかしそれは一気に爆発するためのものだった。そうやって三十秒くらいが過ぎたとき、香奈は突然髪を振り乱しながら、今まで聞いたことがないような声で「あああああ」と絶叫すると、腕から肩から顔から胸から腰から尻、おそらく足の爪先までびくびくびくと大きく痙攣させた。
その痙攣はそれから数分、止まることはなかった。カメラはとっくに香奈の手を離れていて、真正面より少し斜めになった状態で香奈の顔を映し出していた。その顔と姿は「動物」としか呼びようがなかった。唸《うな》るように小さく震えると、突然「んんんっ」と叫びながら大きく体を痙攣させる。ばんと香奈の腕が洗面台の大理石を叩《たた》く。
男は動かずそんな香奈の腰をぎゅっと両手で押さえ、挿入したまま香奈のいつまでも続く絶頂を冷静に見つめているようだった。
「ほ……、……い」
喘ぎ叫びながらも、ふと気づくと香奈は何事かを呟《つぶや》いていた。
「ご……、ザー……、欲しい」
これだけいきまくった上で、香奈は男の精液を懇願していた。
「御主人様の、はぁああああっ、ザーメン、ザーメン……」
ようやく振り返ることができるようになったとき、香奈は顔を横に向け、後ろにいる男にそう叫んでいた。
「ザーメンをどうして欲しいんだ?」
香奈の気持ちをすべて見透かしたような口調で、男が言った。香奈は前を向いた。そして鏡越しに男を見上げると、口枷の隙間から最後の懇願をした。
「御主人様のザーメン、奴隷の顔にかけてください」
香奈はそう言うと、自分の言葉に興奮したかのように「ひぃっっっ」と震えた。
男は香奈から体を離すと、軽く香奈の肩を引いた。香奈の姿がすっと画面からいなくなった。男はカメラを手にすると、洗面台の前で仰向《あおむ》けに倒れ、びくびくと痙攣を続ける香奈の姿を映し出した。男はカメラを香奈の顔に向けたまま、左腕で香奈の右腕を取り、半身を起こさせ、壁にもたれかけさせた。
香奈は壊れた人形のようにブーツをはいた足を投げ出して、尻をつきだらんと壁に背をつけた。ぱちんと音がした。男がコンドームを外したようだった。
「まったくいつも奴隷だけが気持ち良くなってどうする」
「あああああ、申し訳……ございません」
香奈は涎と汗でぐしょぐしょになった顔を上げて男を見た。
男は香奈をまたぐようにその顔の前に立った。香奈はおずおずと男の性器に手を伸ばしてきた。男は香奈が握りしめる自分の性器と、香奈の顔を上から映した。香奈は男の小さな性器をつかむと、強くしごいた。親指と人さし指で巧みに亀頭《きとう》のカリを刺激しながら、手のひらと残る指で一心不乱にいかせようと動かした。
「御主人様のザーメン」
香奈は喘ぎながらその言葉を繰り返した。やがて男は一歩前に進み、その亀頭の先を香奈の顔に近づけた。
「出して欲しいか?」
男がそう言うと、香奈は再び全身を痙攣させながら、何度もこくこくと頷《うなず》き、性器をしごくスピードをもっと速めた。
「出してください。奴隷にいっぱいかけてください。お願いします」
口枷をかまされた顔をより歪《ゆが》ませて、香奈はもごもごした声でそう叫んだ。その瞬間、香奈の額に白い液体がかかった。
「ああああああっ」
男のどろりとした精液が顔にかかると、香奈は目を閉じて歓喜の叫びをあげた。男は香奈の手をどけると、自分で性器をつかみ、その先から出るものを額、頬、鼻へとべっとりかけていった。そして全部出し切ると、その亀頭の先を口枷で開かれた香奈の唇を一周するようになすりつけた。香奈は放心状態のように、その感触が訪れるたびに「あっあっ」と呻いた。
ようやく男が香奈から離れた。香奈の体はもう動けないくらいになっているようだった。しかし香奈は自分のものという感覚がないような自分の手を、ゆっくり自分の顔に近づけた。そして、顔中にまき散らされた精液を指の腹で丹念に集め出し、それを口枷の穴の部分にどんどん押し込んでいった。「うぐっ」という声が漏れる。唾液《だえき》とともに口の中に流れ込んでくる精液を、片っ端から飲み込んでいるようだった。
香奈は長い時間をかけて、その行為を繰り返していた。
「外しなさい」
男の声がした。香奈はのろのろと手を首の後ろに回すと、ずっと自分を拘束していた口枷の留め具を外した。香奈は自分の口からようやく外れた、そのべとべとになったものを見つめた。そしてその後、そこに付着している精液をじゅるじゅると音を立ててすすった。雌の顔以外の何物でもなかった。
香奈は満足いくまで舐《な》めとると、すっと気を失ったようにその場に横に倒れた。
そこで一本目のビデオは終わった。
僕はようやくそこで体を少し動かし、意識的に深呼吸をした。そのとき気がついた。僕は触れてもいないのにたっぷり射精していた。
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♯6
いつのまにか射精していたものを洗い流したかったが、次のビデオを見たいという欲望にはかなわなかった。僕はティッシュで性器のまわりを拭《ふ》き取る前に、すぐに二本目のビデオをセットして再生ボタンを押した。
二本目はさっきの続きのようだった。全裸の香奈はバスタブの中で跪《ひざまず》いてカメラを見上げていた。香奈の体も男の体もシャワーを浴びたらしく濡《ぬ》れていた。
「全部きれいにしたか?」
「はい」
香奈は従順に頷いた。どうやら香奈が男の体を丹念に洗い終えたあとのようだった。香奈の目の前には射精後にますます小さくなった男の性器と、上からのアングルではときどきそれを隠すくらいの汚く出た腹があった。
「小便がしたいがここでして欲しいか?」
「はい」
男の言葉の意味が一瞬わからなかったが、次の瞬間、男は香奈の首筋から豊かな胸元にかけて、遠慮なく小便をした。勢いよく出るその黄色がかった液体は香奈の体に容赦なくかかり、その飛沫《ひまつ》が香奈の顔にも飛んだ。香奈は「あっあっ」と短く喘《あえ》ぐとまたしても体を小刻みに痙攣《けいれん》させた。さっきのテープでも散々見た、香奈のその自制のきかないような痙攣は、もちろん僕は見たことがなかった。しかしここにいる香奈は、男の小便を浴びるだけでその状態になっている。もはやその男のすることであればどんなことでも、香奈はいつでもそうなるのではないかとさえ思えた。
「口を開けなさい」
男はそう言うと、香奈の返事を待たずに性器を上に向け、香奈の口元にその汚らしい小便を浴びせた。「ひぃっ」と快感と驚きが同時に込み上げるような小さな叫びを香奈はもらした。しかしおずおずと口を開け、その中に男の小便が注ぎ込まれたとき、香奈は思わず吐き出しながらむせた。男のすることでも拒むことがあるのかと、僕は不思議な嬉《うれ》しさを感じていた。しかし同時に、香奈がそれをできなかったことで自分を責めていることもわかって、僕はまたしても打ちのめされた。
「飲めないのか」
男が言った。すると香奈は顔を上げると、必死に口をあけ、もう終わろうとしている男の小便を受けた。しかし結果は同じで、香奈は喉《のど》の奥でそれをつまらせ、げほっげほっと吐き出してしまった。
「申し訳ありません」
俯《うつむ》いてむせながら香奈は言った。
「まあいい。早く浴び直して先に行って待っていなさい」
男は香奈から離れると、バスタブのふちに腰かけたようだった。香奈はか細い声で「わかりました」と呟《つぶや》いた。男の望むことをできなかったことを、恥ずかしく思っているような声だった。そして、香奈が今受けた小便をシャワーで流す様子を下からあおるようなアングルで撮っていた。
香奈は先にバスタブを出て、バスタオルを胸で巻くと出ていった。男はビデオを録画したままだった。そして香奈が出ていった方向に向けたまま、それから五分ほど、男がシャワーを浴びる音が聞こえてくるだけで画面には何も変化は起きなかった。
やがて男はカメラを持つと、録画したままバスルームを出て、部屋のほうへ戻った。
ツインルームの向こう側のベッドの上に香奈がいた。今度は本当の四つんばいになって腰を落とし尻《しり》をつきだしていた。体は全裸だったが、自分で黒い目隠しで目を覆い、幅の広い鋲《びよう》を打った首輪をしていた。首輪には重そうな長いチェーンがついていて、その端は男がやってくる方に差し出されていた。香奈はまたしても、びくっびくっと震えていた。
震えているわけは男がカメラを持って香奈の横、こちら側のベッドに座って香奈を映し出したときにわかった。香奈の尻のところには、深く埋まったバイブが香奈の性器を支点にぐるぐると回っていたのだ。
「自分で試してみたか?」
男の声がした。香奈は一瞬「ああっ」と呻《うめ》き声をもらして申し訳なさそうに首を横に振った。
「どうしても、自分では、はぁあああっ、入り、ませんでした」
「指令したはずだが」
「あああああぁ、申し訳ございません」
香奈は男の冷たい声とバイブの振動の両方に反応して体を震わせた。
「それでどうしたい? 嫌なら無理にするつもりはないが」
香奈はバイブの快感に耐えるように「んっんっ」と腰を小刻みに引くと、自分の手に持っていたものを男の声がするほうに差しだした。
「入れたいです。入れていただきたいです」
「俺の手をわずらわせるつもりか」
「ごめんなさいごめんなさい」
香奈はほとんど叫びだしそうになりながら言った。
「何かをしていただきたいときは、きちんと懇願しなさいと教えたはずだが?」
男は相変わらず座ったまま、香奈の犬のような四つんばいの姿を映しながら言った。香奈はその声にまたしても反応し、「んふっ」とそれを堪えるような声を漏らしたあとで、一語一語確かめるように言った。
「奴隷の、アナルに、これを、入れて、ください、奴隷が、感じることを、お許しください」
香奈はそこまで言うと、我慢しきれないように「ああああああああっ」と大きく喘いだ。
「尻をこちらに向けなさい」
男はそう言うと立ち上がり、香奈が手にしたものを取り、再び同じように座り直した。何を持っているのかはそのときはわからなかった。香奈は言われたとおり、体を左に九十度回転させるようにして、目隠しで見えていないだろうがカーテンを開けっぱなしにした夜景が見える大きな窓のほうを向いた。
カメラのほうには、性器にずっぽり入ったまま回転を続けるバイブが向いた。うぃんうぃんとモーター音が聞こえてきた。香奈の黒く厚い外の肉が、バイブにしっかりと貼り付くようになっていて、その間からじっとりと溢《あふ》れだしている液体が流れ出ていた。男は香奈の足をつかんで、ベッドから膝《ひざ》が落ちないくらいまでの場所まで引いた。
続いてカメラががちゃがちゃと音を立てて揺れた。男はカメラポジションを探しているようだった。やがてそれが固定されると、香奈のアナルと性器を斜め後ろのやや高い位置から捉《とら》えていた。
僕はそのとき、よくもこれだけの時間、手で押さえているわけでもないのに香奈のバイブが抜け落ちないものだと、妙な感心さえしていた。
男はそのバイブに触れようともせず、右手を伸ばしてくると予告なく香奈のアナルに人さし指をずぶずぶと沈めた。香奈は思わず「んぁああっ」と叫ぶと腰を引いた。男の指が止まった。すると香奈は「ご、ごめんなさい」と喘ぎながら呟くと、引いてしまった腰を元の位置まで戻した。
男は指で香奈のアナルの中をぐちゅぐちゅとかき回し始めた。香奈の喘ぎ声が止まらなくなった。ときどき痛さに耐えるような声をあげながらも、そこから動物のうなり声のような呻きが途絶えることはなかった。香奈の小刻みな痙攣も断続的に続いた。
男はやがて指を抜いた。そして「ぺっ」という音がした。男が吐いた唾液《だえき》が香奈のアナルにかかった。そして男はそれを潤滑油がわりに、アナルの入口を人さし指と中指で揉《も》むように刺激していった。
じゃらっと器具の音がした。さっき香奈が男に手渡したものだった。銀色に光る一センチ弱の玉が十個ほど連なっているものだった。それが輪になっていたらパールのブレスレットにも見えなくもない。でもそれはまっすぐになっていて、僕は前にエロ本で見たことがあるアナルビーズというものだということがわかった。
男は香奈に何も告げず、乱暴に一つ目の玉を香奈のアナルにぎゅっと押し込んだ。
「痛いっ!」
これまで快感に震えていた香奈が思わず、本気で激痛に対する声をあげた。思わず自分の手を後ろに回し、それをつかもうとした。男はその手首を強くつかんだ。そしてもう一方の手で、性器に入っているバイブのスライドボタンをぎゅっと手前に下げた。どうやらいちばん強いモードになったらしく、性器から飛び出たそのスライドボタンがある部分が、一層大きなモーター音を立てて速く回り出した。アナルから垂れてきている残りのビーズが、バイブに当たってかちっかちっと音を立てた。香奈は叫び声をあげた。
「やめて欲しいのか?」
男が言った。その声は催眠術師の最後の一言のように響いた。香奈はすっと力を抜き、放された右手をまた元に戻した。そしてしばらく痛みに耐えるような仕種《しぐさ》をしたあとで、「続けてください」と呟いた。
その後、香奈のアナルには四つのビーズが埋められていった。五個目のとき、香奈は気を失ってその場に突然つっぷして動かなくなった。そこで二本目のビデオは終わっていた。
二本のビデオを見ただけで、僕の中には感情のようなものが既になくなっていたと思う。テープが終わると僕は、すぐに次のテープを取りだしてセットし再生ボタンを押していた。
三本目のビデオは、違う日に撮られたもののようだったが、場所は二本目までと同じホテルだった。
ビデオを再生したとき、香奈の首から胸にかけてのアップがまず映った。どうやらセッティングした後で、香奈がカメラの録画ボタンを押したようだった。香奈が画面の横にフレームアウトする。するとそこには、少し高めの位置からベッドの上に横たわる、バスローブ姿の男の醜い体が映し出された。画面上部がちょうど男の首あたりで、その枕に乗せた顔は見えなかった。画面下部はちょうどベッドの端になっていた。
香奈はベッドの横に行って、一瞬ちらりとカメラのほうを見た。香奈は乳房を露出させるようにできている豹柄《ひようがら》のビスチェを着ていた。ショーツも同じ豹柄で、腰の部分をきつく巻くビスチェから伸びる紐《ひも》は太ももでストッキングを留めていた。
そんな娼婦《しようふ》のような恰好《かつこう》のまま、それから一時間近くにわたって、香奈は男の体を丹念に舌で「ご奉仕」した。足の裏、足の指の間、膝の裏はぴちゃぴちゃと音を立てるようにしてとりわけ熱心に舐《な》めていた。やがて男の手の指を一本一本フェラチオするようにしゃぶると、腕、匂いそうな腋《わき》の下までたっぷり愛撫《あいぶ》し、首筋から汚い男の乳首へとたどりつき、涎《よだれ》を垂らすようにして舐めあげていった。その間ずっと、香奈の細く美しい指先は、男のろくに勃起《ぼつき》していない小さい性器を休みなく刺激し続けていた。
仕込まれた女の姿がそこにあった。
香奈は男の足の間に体を入れると、必要以上に尻《しり》をカメラのほうに向けた。そして男の両ももを左右に押し広げるようにしてその中に顔をうずめていった。香奈が男のアナルを吸いだすようにして舐める、直接は見えない角度だったが「じゅっじゅっ」という淫靡《いんび》な音が響いてきた。
「おいしい」
嬉《うれ》しそうな香奈の声が聞こえてきた。男は何も言わなかった。男が少し腰を浮かせ、香奈は顔を横にしてもっと深くまで舌を男のアナルに差し込むようにして舐めた。オレンジ色のマニキュアをした指先が、さっきよりも激しく男の性器を愛撫した。
「気持ちいいか」
愛撫をさせているだけの男が、香奈に言った。香奈は少し顔を上げ、男の玉筋をちゅうちゅうと音を立てて吸いながら、嬉しそうに「はい」と答え、びくびくと軽く痙攣《けいれん》した。
「こっちへ来なさい」
男はそう言うと、体を起こした香奈の肩を抱いた。男の体の隣で香奈が横向きの姿勢になった。香奈はその肩に置かれた腕が嬉しくてしかたないような顔をして、目の前にある毛だらけの男の汚い乳首をじゅばじゅば音を立てて吸った。右手はずっと休まずに男の性器を刺激し続け、自分の快感に耐えられないかのように香奈は右足を男の右足に絡みつけ、自分の性器を押し付けるようにして男の腰のあたりでこすった。
「いかせなさい」
男がそう言うと、香奈は体をきゅっと縮こめるようにして突然襲ってきた震えに耐えた。
「御主人様のザーメン、いただいてもよろしいんですか?」
「そのまま手で出しなさい」
「はい」
香奈は頷《うなず》くと、男の乳首を強く舌で転がしながら、性器をしごく右手の動きを速めた。そのときが近づくにつれ、喘《あえ》ぎ声が大きくなっていくのは香奈のほうだった。その喘ぎの合間合間に、小さな声で「ください、御主人様のザーメン、奴隷にください」と懇願も続けていた。
男は何も言わずにそのまま射精した。射精の瞬間に絶頂の声を出したのも香奈だった。男の白濁した精液は、香奈の指にべっとり絡まり、そして男の腹に大量に放出された。
香奈はしばらく放心状態でそれを見つめていたが、やがてのそのそと体を動かすと、迷いなく男の性器をくわえこんだ。性器自体にかかったものを舐め上げるように舌を使った。次に上からくわえ込むと、尿道に残ったものを吸いだすようにじゅばっじゅばっと音を立てて吸った。そして半身を起こすと、自分の指に絡みついた精液を愛《いと》おしそうに舐め取っていった。
その後、香奈は再びカメラに尻を向けるような恰好になり、露《あらわ》になっている胸の谷間に男の性器を押し付けるような姿勢を取ると、毛だらけの汚い腹に飛び散った精液を、じゅるじゅる音を立てながら全部吸い取っていった。
四本目は、カメラはずっと男の手持ちだった。男の会社なのか応接室のようなところで、香奈がドアを開けて入ってくるところから始まっていた。
寒い日だったのかムートンの厚手のジャケットを着ていたが、香奈の頬は部屋に入ってきても冷たそうだった。香奈はカメラが向けられていることに気づくと、テーブルを挟んだ男の前のソファにバッグを置き、すぐにそのジャケットも脱いだ。厚手だが胸のラインが強調されるような茶のタートルネックのニットを着て、下はブルーのラインが入った膝《ひざ》丈のツイードスカートにロングブーツという恰好だった。
香奈はすぐにこちら側へやってくると、男の足元に跪《ひざまず》き、カメラとその上の男の顔を物欲しそうな目で見つめながら、男のズボンのベルトを外し、脱がすのももどかしそうに性器を出すとしゃぶりついていた。
「おちんちんがこんなにおいしいものだとは知りませんでした」
「誰かのザーメンをこれほど飲みたいと思ったのは初めてです」
香奈はそれから数十分、ただ男の性器を舐め、くわえ、しゃぶり、吸いながら、ときどき男を見上げて嬉しそうにそんな言葉を発した。最後は添えた指と自分の首を激しく上下させて男の精液を全部飲み干した。しばらく男の性器をくわえたまま脱力していた香奈は、やがてその口を離すと男の下着とズボンを穿《は》き直させ、立ち上がるとムートンのジャケットを着た。
「すごくおいしかったです。ありがとうございます」
香奈はドアの前でそう微笑むと去っていった。
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♯7
五本目のビデオでは、最初の三本とは違うホテルに香奈はいた。夜だったがカーテンを開けた出窓のスペースに立たされていた。真っ赤な、いわゆるボンデージスーツというのを着て大股《おおまた》を開いていた。近くのビルからは明らかにその後ろ姿は丸見えだった。
香奈がつけていたのはその体を締め上げたボンデージスーツだけではなかった。大きな首輪は前に見たものと同じだったが、口には前のボールギャグとは違い、男の性器を通すだけのためにできたような大きな穴があいた口枷《くちかせ》をはめていた。そしてすべてのプライドを奪い去るであろう鼻フックできつく上に引っぱり上げられ、香奈の鼻の穴は醜く歪《ゆが》んで露出させられていた。後ろ手に手錠。そして、穴のあいた股間《こかん》の部分には何かがぶらさがっているように見えた。
カメラが近づき、出窓に立つ香奈を下から映し出した。よくわからなかったものの正体がそこで明らかになった。香奈の性器を包むあの黒く分厚い肉は、左右それぞれ三つずつ、木製の洗濯ばさみで挟まれていたのだ。
男はゆっくりその洗濯ばさみを外していった。一つ外すたびに、香奈のくぐもった叫び声が部屋に響いた。
男は香奈を下に降ろすと、鼻フックと口枷を外した。
「気持ちよかったか?」
男の声が言った。どうやらその恰好《かつこう》で何かの行為を終えたあとのようだった。
「はい、ありがとうございます」
香奈が俯《うつむ》きながら言った。そのとき男は思わぬことを口にした。
「俺の頬を平手で殴ってみろ」
「え……」
香奈が躊躇《ちゆうちよ》した。しかしすぐに男の言葉に従わねばならないという考えも起きているようで、香奈はもう一度男の言葉を待った。
「二度言わせるな。すぐに俺の頬を殴れ。強くだ」
香奈はすかさず強烈な平手を男に食らわせた。カメラが揺れる。香奈は自分のしたことが本当に正しかったのだろうかという不安気な顔をした。男はそんな香奈にカメラを向けたまま言った。
「気持ちいいか?」
「いいえ」
香奈は泣きそうな顔になって首を横に振った。するとその瞬間、香奈の頬を容赦なく男の平手が張った。香奈は叫んでその場に座り込んだ。カメラは床に跪く香奈を捉《とら》えた。香奈は張られた頬を手で押さえていた。その顔に浮かんでいた恐怖が、次第に恍惚《こうこつ》としたものに変わっていった。
「気持ちいいです、ありがとうございます、御主人様」
六本目のビデオでは、香奈は下着の中にリモコンのローターを仕込まれて、向かいの座席に座る男のカメラに映し出されたまま、山手《やまのて》線を一周していた。
男は自分の股の間あたりにカメラを置いているようだった。もちろんまわりの乗客にはわからぬよう何かで隠していたのだろう。ちょうどレンズの向く先は香奈の足の間だったが、がさがさという雑音が絶えず入っていた。
どこから乗っていたのかわからないが、最初に目白駅のアナウンスが流れていた。香奈は真っ白なインナーとカーディガンのツインニットにスエード地のフレアスカートとブーツという恰好で、手の甲で口元を押さえながら必死に痙攣《けいれん》を堪《こら》えていた。
男の手元は映らなかったが、ときどきリモコンのスイッチを入れたり切ったりしているようで、香奈はその予告なくやってくる振動に震えていた。夜遅い時間のようだったが、それでも座席が埋まるくらいの乗客はいた。香奈の隣に座った中年女性は、ときどきかすかに聞こえるのであろう震動音にあたりを見渡したりもしていた。
電車が田端を過ぎたころだった。香奈は別の振動に気づいてバッグから携帯を取りだした。液晶を開いてメールの文面を読みながら、顔が少し赤くなっていくのがわかった。
やがて香奈はレンズのほうを見つめたまま、ゆっくりと足を組んだ。必要以上にスカートの中を見せつけるような組み方だった。男はこれをメールで指示したのだろう。暗くてさすがにローターの位置やコードは見えなかったが、ストッキング越しに香奈の黒い下着が少しだけ見えた。
次に指示があったのは上野駅に到着するころで、メールを受け取った香奈は、駅に電車が停まると目を閉じた。そして完全にカメラに下着が映るくらい足を広げた。乗降客が多い中で、だらしなく居眠りする女のふりをしているようだった。新しく乗ってきた若い男が遠慮なくじろじろ香奈を見ながら隣に座り、そのスカートとブーツの間の膝あたりを舐《な》めるように見つめていた。
品川が近づいてきたときの指令は、香奈を座席から立ち上がらせて、男の目の前に立つことだった。香奈は妙な内股で近づいてくると、男の前に立った。距離が近過ぎてカメラには香奈の膝《ひざ》あたりしか映らなかった。しかしそのとき初めて、リモコンローターの音が集音されるくらいには大きかったことがわかった。香奈の羞恥《しゆうち》と快感の入り交じった顔は容易に想像できた。
恵比寿《えびす》駅に近づくと、いつのまにか男は指令メールを送っていたようで、香奈はその場から離れると一度フレームアウトした。カメラはすぐにその跡を追わず、電車が駅に着いて乗降のあるときに紛れて香奈のほうへと向きを変えた。
香奈はホームとは反対側のドアに横向きにもたれるように立っていた。足元ではブーツの爪先を交差させるようにして、窓ガラス越しに遠くを見つめるような顔をしていた。スカートとブーツで見えなかったが、その包まれた部分の足の筋肉が緊張していることはわかった。足を交差させているのは、下着で押さえられているとはいえ、性器の中からローターが出てきてしまわないように、必死にその振動に耐えるためだった。
香奈は声が漏れないように歯もくいしばっているようだった。
電車が代々木駅を通過したとき、携帯のメールを見て香奈は思わず目を閉じた。電車は次第に新宿駅に近づいていく。香奈の前髪が汗で額にはりつくようになっていった。
電車がホームに滑り込む。香奈は一瞬、男のほうを見た。そしてまた目を閉じると、ドアが開く瞬間、スカートをたくしあげて中へ手を伸ばすと、スイッチが入ったままの水色のローターを、下着の隙間から取りだした。何人の乗客にそれを目撃されていたのかはわからない。その一瞬ののち、ちょうど開いたドアのほうへ香奈は走って去っていった。
カメラがゆっくりと立ち上がって、新宿駅のホームに降り立った。しばらく足の位置くらいであたりを見渡していたが、その画面の中にもう香奈の姿はなかった。
七本目のビデオでは、明け方の光が照らし出す時間の住宅街で、香奈はセーラー服を着ていた。
二十七歳の人妻が路上でセーラー服を着ているというのは、おそらくそれだけ聞けば痴女とか変態とかそんな言葉で片づけられてしまうようなことだろう。しかし赤いリボンの白いセーラー服に膝上丈にした紺のスカート、白のソックスに茶のローファー、そして髪をお下げのようにしている香奈の姿は、溜息《ためいき》がでそうなくらいかわいらしかった。
香奈は恥ずかしそうに俯き加減で、ビデオを撮る男の前を歩かされていた。
ときどきカメラのフラッシュがたかれた。ご丁寧なことに、どうやら男はビデオカメラとカメラの両方を手にしているようだった。
「そこでスカートをめくりなさい」
車道に出て赤信号を待っているときに、男が香奈に近づきながら言った。おそらく午前四時ごろだろう。これまで人通りはなかったが、一台だけクルマが通り過ぎていった。
「向こうから撮る。カメラが向いたらスカートをめくって、下着をゆっくり脱ぎなさい」
男は香奈の横顔を映しながら言った。香奈の顔には恥ずかしさと恐怖と、そしてやはり恍惚とした表情が浮かんだ。
信号が青になって男は先に歩いて行った。そして渡りきると振り返り、向こう側で立ち尽くす香奈の姿を捉えた。香奈は一度きゅっと唇をかむような仕種《しぐさ》をしたあとで、ゆっくりとスカートを持ち上げた。きっとこのプレイのために買ったのであろう、香奈にはめずらしい白いごく普通の下着が見えた。
信号の青が点滅を始めて、やがて赤に変わった。香奈はスカートの中に手を入れると、両手で下着に指をかけ、ゆっくりと膝まで降ろしていった。ふとカメラのほうを見て頷《うなず》くと、そのままの状態で再びスカートをめくりあげ、陰毛が見えるようにした。無言の指示があったようで、香奈は信号が青になるまでその恰好でいた。
そして香奈は急いで下着をローファーの足元から抜き去ると、信号が変わる前にこちらのほうへと駆けよってきた。
「向こうへ歩いていきなさい」
男はそう言うと、また香奈を先に歩かせて後ろからその姿を撮っていた。また一台クルマが通り過ぎていったが、恥ずかしそうに車道から目をそらす香奈とは違って、男は堂々とカメラを構えたままだった。
「尻《しり》を見せながら歩きなさい」
男の声に香奈がびくっと反応した。そして、言われるがままに前を進みながら、スカートをたくしあげてその白く張りのある尻をすべて見せた。これまで不思議なくらい違和感がなかった女子高生姿が、その瞬間にとても淫靡《いんび》で猥褻《ひわい》なもののように見えた。それくらい香奈の尻は、十代ではあり得ない、卑猥な大人の女のものだったことに気づかされた。
「車道の真ん中に行って股《また》を開きなさい」
香奈は一瞬驚いた顔をして振り向いたが、すぐに「はい」と呟《つぶや》くと、クルマが来ていないことを確認しながら、車道へと向かい、その場に座り込むと、足をM字にして大きくその淫《みだ》らな黒ずんだ肉を開き、指でその中を見せつけるようにした。
香奈の目はすでに潤んでいた。命令されれば今すぐに自分の指を性器の中へ入れてオナニーを始めそうだった。
しかし男は香奈を立たせると、再び先を歩かせていった。しばらく進むと、住宅街の中に建築前で更地になっているところがあった。まだ何の手もつけられていないその場所には、雑草が生い茂っていて、薄暗い朝の光の中で妙に緑色が引き立っていた。
香奈は三方を普通の家に囲まれたその更地の真ん中で、四つんばいにさせられた。いつのまに用意していたのか、男はすかさずコンドームをつけた性器を、いきなり香奈の中にずぼずぼと沈めていった。香奈は思わず「あっ」と声をあげたが、その口をぎゅっと閉じて懸命にその声を堪えた。
さすがに男は激しく突くことはせずに、しばらくそのままの体勢で、ゆっくり性器を出し入れする様をビデオに収めていた。
突然カメラががたがたと揺れた。香奈が「いや」と小さく叫ぶ。カメラはやがて、隣の家の二階のほうに向けられた。さっとカーテンが閉じられるところだった。
男は香奈から性器を抜くと、香奈に「行きなさい」と言った。香奈は膝についた土をはらうようにしながら、真っ赤になって小走りにその場を後にした。
その後、香奈が歩いていく場所に僕は愕然《がくぜん》とした。
香奈が見上げたのはここだった。香奈は自分のマンションの玄関前の階段で、もう戻ってもいいですかという顔をした。
「ここでいきなさい」
男は香奈の懇願をはなから無視するつもりだったような口調で言った。香奈の顔が青ざめた。しかし、決意するような顔になると、階段に座って股を開いた。
「後ろ向きでしなさい」
男が言った。香奈は言われるがままに階段に手をつき、尻を突きだすようにカメラに向けて立った。そしてスカートをたくしあげて手を股間《こかん》に持ってくると、すぐに指を二本自分の性器の中につっこんで、すごいスピードで中をぐちゃぐちゃとかきまわし始めた。
「すぐにいっていいぞ」
「ありがとうございます。んっ……」
男の声に香奈はそう答えると、声を必死に我慢するように鼻息を荒くさせて、あっというまに絶頂へと上り詰めていった。自分の指を入れたまま、腰から下をがくがくと痙攣《けいれん》させて、そして立ったままの足をぴんと硬直させた。
男は香奈に近づいてきた。
「指を見せなさい」
香奈はカメラに向かって、少し白濁した自分の愛液がべっとりついた指を恥ずかしそうに見せた。
「舐《な》めなさい」
「はい」
香奈はその場に座って、貪《むさぼ》るようにその自分の指をまるでフェラチオでもするかのような顔と舌使いで舐め回していった。
「ここで、御主人様のおちんちんをしゃぶらせていただけませんか」
指を舐めながら、香奈が上目遣いに男を見上げた。もう誰かに見られたら大変なことになるという意識さえ飛んでしまっているようだった。しかし男はカメラを構えたまま言った。
「もうこのまま帰りなさい。時間を考えたほうがいい」
「御主人様は……」
「奴隷の部屋に行くつもりはない」
香奈はしばらく、悲しそうな目をして無言のまま男のほうを見つめていた。やがて立ち上がるとカメラを向いて言った。
「奴隷のふしだらな姿を見ていただいてありがとうございます」
そして香奈は背を向けると、男から手渡された自分のバッグから鍵《かぎ》を取りだし、オートロックを解除して振り向かずにそのまま中へと消えていった。
八本目のビデオをセットしようとしたとき、僕はまた触りもせずに射精していたことに気がついたが、そんなことにかまっている場合ではなかった。
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♯8
最初から罠《わな》だということくらい、頭のどこかでわかっていたはずだった。そして僕はどこかで、それでも冷静に対処できると過信していたと思う。もはや七本のビデオをぶっ続けで見たあとでは、僕には何の感情も思考もなかった。変な言い方だけど、そこには「興奮」という言葉以外のものはまったくなくなっていた。
それを見越していたのだろうか。残り三本のテープは僕に自分が何者なのかわからなくなるくらい、強烈な衝撃をもたらした。
八本目のビデオに映る香奈には、見覚えがあった。もちろんファッションには気を遣っている香奈でも、毎日出社するたびに違う恰好《かつこう》をするわけにもいかない。実際に僕も香奈がどのくらいの服をどのくらいで着回しているかくらい、毎日観察しているんだから知っていた。しかしそれは一度見ただけでどの日のものだったかわかった。そして、その僕の勘が間違っていなかったことは、後の香奈自身の言葉ではっきりとした。
映し出されたのは、香奈の膝《ひざ》から下だった。画面がやたら暗くて最初はよくわからなかったが、それは僕と香奈の会社だった。香奈は自分のデスクの下にビデオカメラをセットして、椅子に座る自分の下半身を映していた。
膝丈の焦げ茶のタイトスカートの隙間から、香奈の太《ふと》ももが見える。香奈はゆっくり自分の指を、その中へと這《は》わせようとしていた。しかしそのときすっと指を引いた。聞きなれたあの陽気な先輩の「食った〜、仕事したくね〜」というのんびりとした声が聞こえてきた。
僕が見続けているものの中に、あの先輩の声が聞こえてくるのはとても不思議な気がした。香奈はさっとスカートの裾《すそ》を直した。そのとき、ふとあげた足元のパンプスが見えた。
間違いない。僕が香奈と二度目のセックスをした日の恰好だった。その服装自体は他の日にもあるのはわかっているが、間違いなく、その日だった。やがて部長の声や他の社員の声も聞こえてきた。
香奈は皆がいないうちにオナニーをするつもりだったのだろうか?
やがて手が伸びてきてビデオは一度切れた。しかしすぐ次に、会社のトイレに座っている香奈が映し出された。香奈はトイレットペーパーの上にビデオをセットしているようだった。香奈の胸から顔にかけてが大きく映っていた。頬は少し赤らんでいた。
香奈は声を潜めるようにしてカメラに向かって言った。
「御主人様を思って、自分で自分を慰めています」
僕は思わず目を見開いた。その先が見えなかったが、確かに香奈の右手は股間のほうへ伸びているようで、ゆっくりと上下していた。
「私は会社でオナニーをするようなはしたない奴隷です。ですが今夜、きちんと御主人様にいただいた指令を守ります。ですからその後、どうか御主人様の、はぁあっ」
喋《しやべ》っていることで快感が高まってしまったのか、香奈は堪《こら》えきれずに声をもらすと、その自分の声に慌てるように左手で口を塞《ふさ》いだ。
しかし僕の背中には一瞬にして冷たいものが走っていた。
「御主人様にいただいた指令」
その言葉の意味を、頭のどこかでは完璧《かんぺき》に理解していた。しかし、体中がそれを拒絶するように震え、僕の思考を止めていた。
トイレに誰かが入ってきたようで、香奈は不安げにその方向を見た。どこかの個室に入ったようだった。画面ががたがたと揺れる。香奈はカメラを手にして慌ててスイッチを切ったようだった。
九本目のビデオで、僕は自分の嫌な予感の的中に打ちのめされた。
最初のビデオと同じホテルの部屋のバスルームだった。香奈は洗面台の前で後ろ向きに立っていた。
ノースリーブの光沢のあるカシュクールワンピースに、ストラップサンダルを履いていた。僕の誕生日、部屋にやってきて、玄関先でフェラチオをして帰っていったときと同じ恰好だった。
香奈は背中のジッパーを外し、腰のベルトをゆるめてワンピースを脱いだ。黒のレースの縁取りのある下着をつけていた。あのとき、僕の性器をくわえている香奈の胸元から見えたものと同じだった。香奈はそれも脱ぎさってからこちらを振り返った。何度見ても美しくいやらしい香奈の全裸があった。香奈はこちらを向いたままサンダルを脱いでから言った。
「お願いします」
男がカメラのこちら側から目配せしたようだった。香奈は頷《うなず》くとバスタブへと歩いていった。カメラが跡を追う。香奈はバスタブの中で正座をして男を待っていた。
「奴隷の汚れた口をきれいにしてください」
香奈が言った。男はその香奈を横顔から撮るような位置に、手を伸ばしてカメラを構えた。画面の中で、香奈が懇願の目つきで、立っている男の顔のほうを見上げていた。
その顔に、前と同じように男の小便がかけられた。香奈は一瞬「ひっ」と声をあげて顔を引いたが、そこからは前のビデオとは違っていた。香奈は大きく口をあけるとその男の液体を口一杯に受け止め、一度口を閉じるとまだかけられながらもごくりと飲み込んだ。そしてすぐにまた口を開けると、受け止めそして飲み干すということを繰り返した。
香奈にとって男の小便は、「汚れた」口の中に残る僕の精液の残り香を洗い流す聖水だった。僕は気を失いそうになった。
男の放尿が終わると、香奈はその性器の先も丹念に舐《な》めていた。
やがて香奈は手と自分の体にたっぷりボディソープをつけて、男の体をくまなく洗った。背中を向けた男に豊かな胸を押し付けて体全体でこするようにしながら、前に伸ばした手では男の小さな性器にとりわけ念を入れて指を動かしていた。
香奈が男と自分の体をシャワーで洗い流すと、男は香奈に「先に行きなさい」と告げた。香奈は頷くと体を拭《ふ》き、男からカメラを受け取ると録画ボタンをつけたままベッドのほうへと向かった。
ベッドの脇には三脚があった。香奈は自分でそこに、ベッドを斜め上から映すような角度でカメラを固定させた。そしてレンズの方に性器を丸見えにさせて尻《しり》を向け、まるでそれが決まりごとかのように四つんばいになって、男がやってくるのを動かずに待った。
男はやってくると、香奈のアナルに右手の人さし指を入れた。香奈は「ああっ」と短く喘《あえ》いだが腰を引くことはなかった。男は左手の人さし指も入れてきた。香奈のアナルはそれを受け入れた。男は二本の指を広げるようにして香奈のアナルを広げる。前にアナルビーズひとつで抵抗していたはずのその穴は、軽々と一センチ以上の空洞を作った。
男はそこに唾液《だえき》を垂らした。香奈が呻《うめ》き声をもらしてアナルがぴくぴくと反応した。
「すぐに入りそうか?」
「入れてください。奴隷のお尻に入れてください」
香奈がほとんど叫びだしそうになりながら懇願した。男が腰を香奈の前に据えた。肝心な部分が見えなくなった。しかしじっくりと時間をかけて、男の性器が香奈のアナルに埋まっていくことは、香奈の尻の震えと叫び声でわかった。
「嬉《うれ》しいです。奴隷の、きたないアナルに、おちんちんを、入れていただいて、あああああっ、幸せです」
香奈はこちらに必死に顔を向け、男に喜ぶ顔を見せようとした。その横顔は今まで見たことがないくらい苦痛に歪《ゆが》んでいた。でもその歪み方は、とても美しかった。
男はあまり動こうとはしなかった。香奈も小刻みな痙攣《けいれん》を繰り返すだけで腰を大きく振ることはなかった。しかし香奈は確実に上り詰めているようだった。喘ぎ声のインターバルは徐々に短くなり、泣き声のような高音へと変わっていった。
「一緒にいってやろうか」
男が言った。香奈はその声に嬉しそうな叫び声をあげた。
「奴隷でいっていただけるのですか、お願いします、いってください、奴隷でいってください」
そう叫ぶと「はっはっはっはっ」と荒い息を漏らし始めた。
「もう駄目です、壊れちゃいます、いきます、すごい、すごい、すごい」
香奈はその後、犬の遠ぼえのような絶叫をあげた。男もその声に合わせて香奈の尻に自分の腰を強く押しつけた。
男も香奈もしばらくそのまま動かなかった。やがて、香奈がゆっくり前につっぷすように倒れ、アナルから離れた男の性器とそこについていたコンドームがだらしなく垂れた。
「欲しくないのなら捨てるぞ」
男が言った。その声に尻を向けてうつぶせになっている香奈がぴくんと反応した。
「待ってください、欲しいです、ちょっとだけ待ってください」
香奈は振り絞るようにそう呟《つぶや》いた。そしてゆっくりと体を起こしかけた。しかし肘《ひじ》で上半身を少し上げたところで、「はぁんっ」と痙攣するとまた同じ位置に倒れ込んでしまった。
男は自分で精液の溜《た》まったコンドームを外すと、香奈の尻の上に投げるように置いた。香奈は尻に伝わる冷たい感触に、「ああっ」と気持ち良さと悔しさが混ざったような声をあげると、右手を慌てて伸ばしてきてそれをつかんだ。
香奈はゆっくり体を起こした。そしてカメラのほうに向いた。香奈は手にしたコンドームをしばらく見つめたあとで、その中の精液を自分の左手の手のひらに出した。精液溜めの部分をつまんで、全部自分の手に出したあとで、香奈はぺろりと一度舐めた。香奈はがくがくと震えた。そして残りは一気にじゅるじゅると吸い上げ、眉間《みけん》に皴《しわ》を寄せながらその匂いと味を口の中でじっくり堪能《たんのう》して、ごくりと飲み込んだ。
そして香奈はそのまま横向きに倒れこんだ。目を閉じ、意識が遠のいていくような顔をしていた。
しかし男はその髪を乱暴につかむと、香奈の顔を自分の性器へと押し付けた。
「なぜ忘れる」
男はそう言うと、香奈は朦朧《もうろう》としながらも男の性器にむしゃぶりつき、「ごめんなさいごめんなさい」と必死に謝罪した。香奈は性器についた精液をべろべろ舐め終えると男を見上げた。男は頷いた。香奈は「ありがとうございます」と声にならない口の動きをさせながら、今度こそ完全にベッドに倒れ込んだ。
十本目のビデオに映る事実には、もう僕は何の反応もしなかった。
ビデオはいきなり香奈が男の性器をくわえこんでいる姿から始まった。
そこはホテルでも会社でも部屋でもなく、どういう店なのかわからなかったが、バーの個室のようなところだった。
ソファに座る男の性器を、香奈は横向きに座ってくわえて、自ら前のほうに手を伸ばしてカメラを向けていた。右側に男の腹の出たシャツが見え、左側にはテーブルの上にウイスキーグラスやボトルがときどき見えた。
香奈は黒のキャミソールを着てレンズを見つめながら、愛《いと》おしそうに男の性器を舐めていた。いつものように快感に震えながらというより、自分の好きなようにフェラチオさせてもらえることを純粋に喜んでいるような様子だった。
男は香奈に性器を舐めさせたまま、煙草に火をつけ、酒を飲んでいた。ときどき「ほら」という感じで香奈の頭をテーブルのほうへ向けさせると、香奈は「申し訳ありません」と呟き、男の酒を作った。そのときだけ香奈はソファにカメラを置き、左手で性器をいじりながら右手だけでウイスキーのロックの用意をしていた。
その体を起こしたときに見えたのは、香奈がはいているプリーツミニだった。僕はまたしてもそれがいつの日だったのかを、わからされてしまった。
十分ほど過ぎたところで、男が言った。
「今から行きなさい」
目的語を省いていたが、香奈にはその言葉の意味がわかったようだった。嬉しそうだった目が一瞬にして曇った。
「今すぐですか」
顔を上げて香奈は男に懇願するように見た。「なぜ今こうさせていただいているときに」という言葉が聞こえてきそうだった。
「今すぐだ。すぐに行くのなら、ここで帰りを待ってやってもいい」
「お待ちいただけますか?」
まったく意味をなさないはずの交換条件に、香奈は少しだけ嬉しそうな声を出した。
「そう言ったはずだ」
男はそう言うとカメラを香奈の手から取った。左手を伸ばしてアングルはそのままにして、右手で香奈のバッグを近づけ、中から携帯を取りだした。
「このままメールしなさい」
男は言った。香奈は言われるがままに、男の性器をくわえたまま、その前で携帯を開くと、メールを打ち始めた。
「書きました」
「見せてみろ」
男はそう言うと香奈から携帯を取り上げた。そして画面からは見えなかったが、その文面を見てふっと笑ったようだった。男は香奈に携帯を返しながら「送りなさい」と言った。
「今からあなたの部屋に行くわ」
画面に映ることはなかったが、僕はもちろんその文面を知っている。
一分としないうちに香奈の携帯の着信ランプが光って、ぶるぶると振動した。
「います。待ってます。どのくらいですか」
僕のすかさずの返信がそこに書いてあるはずだった。香奈は携帯を男に見せた。男は「よし」と言うと、香奈の顔を起こさせた。香奈の唇から男の性器の先に涎《よだれ》の糸がつたった。香奈は悲しそうにその亀頭《きとう》を見つめていた。
「急いでやってきなさい。バックだけで終わらせるように。ゴムは持っているか?」
「はい」
香奈は悲しそうな声で頷《うなず》いた。香奈は立ち上がると黒のカーディガンを着た。
「ではすぐに戻ってきますので、お願いですからお待ちください」
「わかっている。こっちへおいで」
香奈は男に近づいた。男はプリーツスカートの中に無遠慮に手を突っ込むと、香奈がはいていた真っ赤なショーツを乱暴にずりおろした。
「ここに置いていきなさい」
男は足をあげさせて抜き取ったショーツの、すでに染みを作っている部分を香奈に見せつけるようにしながら言った。香奈は恥ずかしそうに目をふせた。
男は香奈の顔を映しながら言った。
「そこまで三十分くらいか?」
「それほどかからないと思います」
香奈は答えた。確かに僕がメールを受け取ってから、香奈が部屋にやってくるまでは三十分弱だったと思う。
男は香奈の顔を映した状態のままで、香奈にカメラを持たせた。
「ドアの前に行くまでこのまま撮り続けなさい。その後はこれに交換して撮りなさい」
男はどうやら香奈のバッグにもう一本テープを入れたようだった。
「このままですか」
「切ってはいけない。タクシーに乗ったら自分のおまんこを映してオナニーしながら行きなさい」
「そんな……」
香奈は思わずそう言いかけたが、きっと男の目が睨《にら》んだのだろう。その後の言葉を飲み込むようにして言った。
「わかりました」
「行きなさい」
「はい」
香奈はビデオを持ったままその個室を出た。薄暗い店内がどうなっているのかは、カメラが香奈の胸元に向いていたせいもあってよくわからなかった。
外に出ても香奈は恥ずかしかったのか、カメラを胸元で抱えるようにして歩いているようだった。香奈の靴音とがさがさという雑音だけが響いてきた。
やがて香奈はタクシーを停め、僕の住む住所を運転手に告げた。タクシーが動き出してやっと、香奈はカメラをそっと膝《ひざ》のあたりにまで伸ばし、自分の露《あらわ》になった股間《こかん》のほうにレンズを向けた。
ほとんど真っ暗で何も見えなかったが、香奈が車中、言われたとおりに指を自分の性器に這《は》わせていることはわかった。さすがに声は出さなかったが、その指の動きはきっと運転手にも怪訝《けげん》に思われているであろうくらい、次第に激しくなっていった。
やがて香奈は指を抜くと、運転手に道の案内を始めた。そしてその二分後、カメラがタクシーの天井をしばらく映し出し、香奈は料金を払って外に出た。
僕の住むアパートが暗がりの中に映った。香奈はゆっくりと僕が住む三階への階段を、自分の顔にカメラを向けながら上っていった。そして最後の階段を上がり切る直前に、香奈は小さな声で、しかししっかりレンズを見据えて言った。
「奴隷はこれから、男のおちんちんをおまんこに入れます」
カメラが向きを変えて僕の部屋へと続く廊下が映ったところでテープは切れた。
十本のテープが終わった。
僕はもう何度射精していたのかわからなかった。そのまま拭《ふ》き取ることもせずに、ソファに倒れるようにして目を閉じた。もう何もかも後戻りができないという事実だけが僕の知っているたったひとつのことだった。強烈な睡魔が襲ってきた。
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♯9
目が覚めたとき、僕は床に横たわっていて、全身汗だくで体を動かすと節々が軋《きし》んだ。よっぽど変な体勢でのたうちまわっていたのだろう。夢の中で何度も叫んだ気もする。
目を開けてみてそこが香奈の部屋だということを思い出すまで、しばらく時間がかかった。股間が気持ち悪くて手を入れてみると、僕のショーツは乾いた大量の精液でばりばりになっていた。
見上げると壁にかかった時計の針は七時を少し回ったところだった。外が明るい。ということは朝の七時ということになる。
少しずつ動き出した頭を使って時間を辿《たど》った。この部屋にやってきたのは土曜日の朝九時。すぐに香奈とセックスをして、香奈は四十五分には家を出て行った。僕がシャワーを浴びてビデオを見始めたのがおそらく十時三十分ごろ。すべて一時間テープだが早く終わるものもあったから、おそらく全部で八〜九時間といったところだろう。となると見終えたのは午後七時ごろ。
僕はもう一度レースのカーテン越しの外を見てみた。間違いなくそこは夏の朝の陽射しが差し込んでいた。つまり僕は十二時間もこの場で眠っていたことになる。
そうとう悪い夢にうなされていたのだろう。右|肘《ひじ》のところにはテーブルの足でぶつけたらしき大きな青タンができていた。
僕はのそのそと立ち上がると、バスルームに入った。鏡の中には無精髭《ぶしようひげ》に目の下に隈《くま》を作った、髪の毛もぼさぼさで目も腫《は》れぼったい情けない男の姿があった。
熱いシャワーを浴びながら、石鹸《せつけん》でショーツを洗った。そして少し悩んでからどうせそうするとお見通しだろうと、僕は香奈の歯ブラシで歯を磨いた。自分でもどうかしてると思いながらも、香奈の歯ブラシが舌に触れただけで僕は勃起《ぼつき》していた。
バスルームを出てから僕は自分が何をしたいのかを考えてみた。
このまま香奈との関係を打ちきってすぐに帰るべきか。香奈が帰るのを待ってすべてを問い詰めるべきか。
考えたそばからどうでもいい二択だと思った。きっと僕の本心は、またビデオを繰り返し見たいか、他にもあるか探しだして見るか、あるいは香奈の服や下着に触れるか、アルバムや日記を見つけて香奈の過去を知るか、やりたいことはそんなことのどれかのような気がした。
僕は冷静になるために、まずビデオテープを全部巻き戻すことから始めた。キッチンの冷蔵庫からオレンジジュースを取りだして飲み、ロールパンをそのまま口に放り込みながら、一本一本順番に巻き戻して、元あったとおりにしまった。ビデオの機器もまとめて、とりあえず香奈のパソコンの隣に最初にあったとおりに置いた。
そのとき、僕は自分がやりたいことがわかった。僕はそのデスクに座ると、パソコンを立ち上げた。夫の目があるから全部削除しているかもしれない。でも、もしかしたらその「御主人様」とのメールが残っているかもしれないと思ったのだ。認めたくなかったが、僕がいちばん知りたいのは香奈と「御主人様」の関係だった。ビデオで完璧《かんぺき》に思い知らされたことは、僕が香奈にとっては大事な男ではなかったこと、そして「御主人様」にとっても僕は嫉妬《しつと》の対象にすらなっていないどころか、彼らの行為の刺激のためのものにしか過ぎないということだった。
メールソフトを開く。僕は呆《あき》れていたように思う。このパソコンを夫は見ないのだろうか。そこにはフォルダ名こそ「名称未設定」となっていたが、香奈が「御主人様」に送ったメールがすべて保存されていた。ご丁寧にサブフォルダは月ごとに分かれていた。
いくつかクリックしたところで僕は、香奈の書いた文面に目まいがしていた。
不思議だったのは、「御主人様」からのメールはなかったことだった。すべて削除していたのか、それとも「御主人様」は電話でのみ用件を伝えてくるのか、それはわからなかったが、とにかくそこには香奈の懇願と告白が膨大な数のメールとして並んでいた。
メールは去年の十一月から始まっていた。
僕はTシャツに下半身を露出したままという恰好《かつこう》で、今度はパソコンの前から数時間、立ち上がることができなくなった。
「部屋に戻りました。鞄《かばん》から鍵《かぎ》を取り出そうとしたらローターの電源が入ったのを見て、ああこれって現実なのだなとやっと実感が致しました。まあそんな心境なのです。おやすみなさい」
「うーん、こういうことに慣れてる人には何を言っても無駄だとは思うんですが……あたりまえですけど、夫以外の人と、しかも会ったばかりでそういうことをするなんて経験、初めてに決まってます。なんか自分がすごくツマラナイ女みたいで悔しいけど」
「そういう遊びで、というのもないですよ。けっこう本当のことは友達にも言わないんですけど、見抜かれたとおり、男経験少ないです。夫の前が三人で夫が四人目。一応、みんなちゃんとつきあってた人です。オモチャの経験もないのかと馬鹿にしますけど(しましたよね?)、意外にみんなないと思いますよ。それより持って帰れと言われたローターの置き場に困ってます。どきどき」
「まああまり考え過ぎず、素直に行こうかと思います。『がんばりますコーチ!』って感じ?」
「罪悪感がいつもいっぱいあります。夫を愛する貞淑な妻ですから。でもいちばん悪いと思うのは、夫以外の男とセックスをしてる事より、夫とはしない事をしてる事のほうです。うまく言えないんですけど」
「明日は出先で早く終われるんですけど、忙しいですよね? 言われたとおり、ちょっと可愛い系の服とか買ってみたんですけど、うーん、でもこれも違うって言われそうな気がする」
「やっぱり中年はずるい!(断言)」
「夫とは今でもちゃんとしてますよ。教えなくてもいい事だけど。でもごめんなさい、比較して言いたくはないです」
「飲むこと……は、正直言ってまだ抵抗あります。むかし一度口に出されて吐いちゃった事があって、夫のもした事ないのに(フェラチオはありますが、飲んだ事はないという意味です)、私ったら悪い女。冗談です。でも、変な言い方だけど、ちょっと好きになってきたかもって感じもあります」
「わりきれないというとありきたりなんですけど、やっぱり私にとっては恋愛なんですよ。重く取らないで下さいね。私が不器用なだけです。だけど、望んでないはずの諸々《もろもろ》に対しても独占欲が働いてしまったりする。それを手に入れる覚悟もないし、結局衝動的な『欲』でしかないんだけど。こんな事すら言われたくないですよね。いいんです、自分への確認のためだから。勝手でしょ」
「自分でもそういうのは、きっとずっと駄目なままなんだろうなあと思ってたから、もうすぐだよって言われるとすごく嬉《うれ》しくなっちゃいます。すごく濡《ぬ》れやすいとかすごく感じやすいって、初めて言われたし。もともとそうなのか、あなただからそうなるのかはわからないけど、確かにもうちょっとって気はしてます」
「これまでは嘘っぽくなっちゃうから、言えなかったんですけど、今日は飲んだあとでちょっと、おいしいって言いたかった。言えなかったので報告。嬉しい?」
「そうですね。夫も一年半したら戻ってくるし。それまでの火遊びかな。ずるいけど、この間に大人の女になってやろうと最近思ってます。利用してるみたいで嫌かもしれないけど、そう思うくらいいいよね」
「昨日は本当にごめんなさい。会いたいって気持ちだけで行ってしまいました。迷惑をかけ過ぎてしまって、なんて謝ればよいかもわかりません。謝っても許してもらえるものではないかもしれませんが。ただひたすら反省してます。ごめんなさい」
「絶対に見るもんかと思ってたけど、誘惑に負けて見てしまいました……。でも、お望みの感想じゃないかもしれないけど、ほんとに人のを見てるようでした。バイブのところなんか、きっと早送りしちゃうと思ってたけど、逆になんて貪欲《どんよく》な女なんだろうって思って冷静に見たり。顔の事もわかるような気がしました。フェラチオしてる時って、こんな顔するんだとびっくりしてます。でも、もちろんすごーく恥ずかしいです」
「生理になりました。連絡ないかなと思いつつも、一応」
「色気ないですねー私。最近、可愛げって何だろうって仕事中にもよく考えちゃいます」
「今日は会えてすごく嬉しかった。特に、二度目のがすごくよかったです。外で出すより、中(口でも中でも)に出されるのが好き」
「好きなシーンは、机に手を突いて後ろからしてるとこ。自分の体のしならせ具合がエッチになってきたなあって思います。あと、口でしてる時に目をカメラに向けるのも、だんだんうまくなってきてるかな。ただフェラチオしてるよりもそのほうがエロっぽいという理由がわかりました。自分でもドキッとします」
「すみません、五分だけ電話させて下さい。というか、電話します。声が聴きたいの」
「わかりました。バイブとビデオの準備が出来たところでお電話します。いっぱい感じていいですか」
「舐《な》めるんじゃなくてくわえてる時のフェラチオしてる顔って、何度見てもヘンだなーと思っちゃうんだけど、ローターをあてがいつつフェラチオしてる姿はかなりきました。なんて言うんでしょう、自分の狂ってる感が。そういう狂ってる感がフェラチオしてるだけの時にも出せるようにしたいな」
「しばらく会えなかったら、会いたいって事はセックスしたいって事と同義なんだなあと思いました。すっごく会いたかった。もちろん今も。いくことを覚えたせいかしら」
「年末年始はさすがに夫がいます。でも、どこかで少しでも会えないかなって思ってたりもします」
「今日みたいに立ったまま後ろから押さえつけられて……って、自分でもびっくりするくらい感じてしまいました。なんだか最近、本当に毎日セックスの事ばっかり考えてるみたい。思惑どおりかなと思うとなんか悔しいけど、ここで素直にならなくちゃいけないんですよね」
「言い忘れました。ごめんなさい。嬉しい誕生日になりました。二十七歳って、きっとあなたには二十六歳と変わらない小娘なんでしょうけど、私の中ではちょっと意味がある歳になったと思います。いろいろありがとう」
「剃《そ》ってみました。前のほうはさすがに……。すーすーして変な気持ち」
「髪形も変えたので、ついでに思いきってミニ&ブーツでOL風コスプレ。でもさすがにまだこれで出勤する勇気はないです」
「自分のビデオを見て、感じたりオナニーしたりすると、すっごくセックスしたい気分になってくる。濡れてぐちゃぐちゃになったとこを触って欲しいし、入れて欲しくなっちゃう。だって、普通にオナニーした時とは中の感じが全然違ってて、それを触ってもらってもっとぐちゃぐちゃにして欲しい、と思うの。すごくフェラチオしたいです」
「自分でしてるところ撮ってみました。撮ったあとでああすればよかった、こうすればよかったの後悔がいっぱい。でも、言われたとおりに今度このまま渡します」
十一月五日から十二月二十日までの一か月半の間に、こんなメールがこの四倍以上あった。
僕はここで一度深呼吸した。香奈が初めての不倫から、これまでしなかったことやできなかったことをこの男に仕込まれていき、そして初めてオルガスムスを得たこともこの時期だったことがわかった。会社の先輩が言っていた、「香奈ちゃん、突然変わったんだよ」という言葉の意味もはっきりわかった。
でもビデオで見たような御主人様と奴隷という関係が、最初から始まっていたわけではなかったということが少し意外な気がした。その関係は出会って一か月半が経過した、クリスマス前あたりから大晦日《おおみそか》にかけてのメールで突然成り立っていこうとしていた。
そこからのメールには、添付写真がいくつも添えられていた。香奈がセルフで自分のオナニーを撮ったものばかりだった。そして決定的な告白は、きりのいいことに大晦日の深夜に行われていた。きっとその時期には夫もこの家にいただろう。しかし香奈は必死に、「御主人様」になるべき男に懇願を続け、そしてその願いを聞き入れてもらっていたのだった。
「昨日は本当にごめんなさい。弁解の余地もありません。自分でもひど過ぎて、こちらから許してとも言えませんが、でも、もし許してくれるなら、またおちんちんをフェラチオしたい。そして無茶苦茶にして欲しいです」
「これで許してもらえるとは思ってないですが、私にはこれくらいの事しか出来ないので。自分でデジカメで撮ってみました。見て下さい。またセックスがしたいです」
「迷惑かもしれませんが、ごめんなさい。でも、『やめろ』とだけは言わないで欲しいです。こちらからのお願いばかりで申し訳ないですが、どうしても見て欲しいので。撮りながらすごく感じています。触られることを想像してオナニーしています」
「今、何もしなくても濡れてきてます。この間は本当にごめんなさい。怒らせるような行為をしてしまってそしてそれ以前からも何度も不愉快な思いをさせてしまって、毎回反省しながらそれを直せない自分が自分でもすごくイヤになります。でも、そんな自分のM性をすごく実感してしまい、どこまでも従属していきたいと思えて仕方がなく、これからもうお会い出来ない状態なんて考えられないんです」
「少しの時間だからいやだとか、そんなわがまま言いません。もうこれからはこちらから会いたいなんて言いませんし、ご都合の良い時に会って下さればそれに従います。それでも会って頂くことは出来ないでしょうか? お会い出来るんだったらなんでもします。言うことならなんでもお聞きしますし、どんな恰好《かつこう》でも致します。今までのようにすべてお金を払って頂いていたのもこれからは出来るだけ負担します。平生でもセックスの時でももうわがままは言いませんし、とにかく負担になるような事はいっさいしないようにして、喜ばせる事だけを考えます。どうか、お願いします」
「ご連絡頂けて本当に涙が出てきました。ありがとうございます。では今度お呼び頂けた時に、きちんと申し上げますが、今告白させて下さい」
そして、その年のいちばん最後の香奈のメールはこの一文だった。
「私を、御主人様の奴隷にして下さい」
[#改ページ]
♯10
年が明けて、つまり今年になってからの香奈のメールは、それまでと同一人物のものとは思えない内容と文面になっていた。仮に本当に香奈が奴隷になったとしても、そういうのは徐々に目覚めていったり調教されていったりするものだと思っていた。しかし、それは年が替わるのと同時に、最初からそうであったような関係に変わっていた。
「指令を下さってありがとうございます。遅くなるかもしれませんが、必ずお送りします。また、先ほどは身の程を越えた事を言ってしまって申し訳ありません。もう二度とそのような大それた事は申しませんので許して下さい」
「仕事先からプレイを想像しながら来たので、じんわり濡《ぬ》れてきてしまいました。御主人様のおちんちんを思っていました。まだした事がない事をしたいです。私を無茶苦茶にして下さい」
「三十分後に到着します。もちろん奴隷にして頂けて嬉《うれ》しいです。会って頂けるだけで、フェラチオさせて頂けるだけで嬉しいです。本心から。これから御主人様にフェラチオ出来ると思うだけで感じてしまって、すごくいやらしい顔になってそうで人の目が気になってしまいます。早くしたいです」
「ありがとうございました。歩いたら気付いたんですが、ものすごく濡れてました……。たくさん舐《な》めさせてくれて、たくさん飲ませてくれてありがとうございました。あれから一時間たったのに、まだ濡れてます」
「わかりました。ほんとうにごめんなさい。そしてありがとうございます。思ったことをすぐ口にしてしまう事が多いのでその癖は出来るだけ直すようにします。いつも負担ばかりかけてしまってごめんなさい」
「目隠しをしていると、一人でいるのにまるで見られているかのような気持ちになってより感じてしまいました。今日、御主人様にして頂いている事を思い出して、仕事のスキを見てデパートのトイレでオナニーしてしまいました」
「今までもオナニーはしていましたが今ほどはしていませんでした。回数もそうですが、ここまで気持ち良くなった事はないです。そんな快楽も教えて下さって感謝しています。ですが、わがままを申しますと、オナニーをしているところを見て頂ければこんなに嬉しい事はありません」
「時間を作って頂けて嬉しいです。最近、より濡れやすい体になってきているのか、今夜もただ座って昨日の事を思い出しているだけなのに下着を通して椅子に溢《あふ》れるくらい濡れてきてびっくりしました。一度にあんなにいく経験をしたのはもちろん初めてです。最初にザーメンをかけて頂くまでの記憶もところどころ飛んでいます」
「アナルはまだ恐怖心のほうが勝ってしまいます。ごめんなさい。でもちゃんと自分でも練習しておきます。お待ち下さい」
「お気遣いありがとうございます。与えて下さった道具はすべて、絶対に夫には見つからないところに隠してあります。快感を与えて下さるだけでも十分なのに、奴隷の他の事まで考えて下さって本当にありがとうございます。私にはご奉仕する事でしかお返しが出来ないので、たくさんご奉仕をさせて下さい」
「御主人様に喜んで頂きたいのに、どうしても自分で撮ったビデオは、御主人様が撮って下さるものに比べて見劣りがしてしまいます。申し訳ありません」
「言いにくいのですが、またバイブが壊れてしまいました。今回もクリトリスを刺激する部分が動かなくなってしまいまして……。ごめんなさい。いくらなんでも早過ぎですよね。せっかく頂いたのに、申し訳ありません」
「今仕事関係の飲み会中です。もしお時間ありましたらお呼び下さい。途中で抜けてでも伺います。舐めさせて下さい。そしてたっぷり飲ませて欲しいです。こう返事を打つだけで濡れてきています」
「突然の連絡でしたのにお時間を作って下さって、たっぷりザーメンを飲ませて下さってありがとうございます。すごく美味《おい》しくて感じてしまいました」
「ご指令どおり、ネットでいろいろ調べてボンデージスーツを探してみました。これなら喜んで頂けるのではないかというものを見つけたので、今度はそれを売っている店を探します。自分がそういう店に買いに行くのかと思うと、今から恥ずかしさで真っ赤になります」
「頂いたビデオでフェラチオしているのを見ると、見てるだけで唇から痙攣《けいれん》して充血してくるのがわかりますし、見なくても、それを想像するだけで目や唇や性器が潤んでくるような気分になります。今、私の口角に御主人様のおちんちんが擦れる感覚や喉《のど》の奥にザーメンが当たる感触を思い出して少しぼおっとしています」
「我慢出来ずに注意しながら会社でビデオを見てしまいました。何もしてない時にもご奉仕をしたいと思っているのに、ビデオを拝見するとよりご奉仕させて欲しくなってしまいます。昨夜も帰ってからビデオを見させて頂いたんですが、見ていると、次はもっとこうしようといろいろ考えてしまいます。御主人様に喜んで頂ける事なら、なんでもしたいと素直に思います」
「縄の感覚が、今でも腕に強く残っています」
「いつも目を開けるよう指令を頂いているのに、目をつむってしまっていて申し訳なく思います。奴隷として相応《ふさわ》しいご奉仕を出来ているか不安です。いつも自分に感じる事ですが、頭の悪い奴隷で、大変申し訳ありません」
「お心遣い、大変嬉しいです。お時間を作って頂けるのなら、こちらこそぜひとも会わせて頂きたいです。急ぎの仕事さえなければ、時間の都合をつけてお会いしたいです。また明日ご連絡致します。本当にありがとうございます」
「明日は、早く行くとしたらホテルは何時から滞在可能でしょうか? 夕方に帰社せねばならなくなってしまったので、早く行こうと思っています。いつもばたばたしてしまって本当に申し訳ありません」
「すごくお会いしたいですしご奉仕させて頂きたくて仕方がないんですが、少し迷っています。三時までと短い時間では御主人様はご迷惑ではないでしょうか? それが心ぐるしいですが許して頂けるのであれば私はすごくお会いしたいです」
「御主人様にご迷惑をおかけしてしまって本当にごめんなさい。またテンパって自分の都合しか考えられなくなってしまっていて、今冷静になったら御主人様に対して申し訳ない気持ちでいっぱいです。明日は当初どおりの予定で会わせて下さい。また自分の気持ちばかり主張して申し訳ありませんがご奉仕させて頂きたいです」
「今日は本当にご迷惑をおかけして申し訳ありません。御主人様の奴隷にして頂いてすごく幸せだと思っています。なのに分をわきまえず我を出してしまって恥ずかしく思います。わがままなお願いですがお許し下さい」
「今日は夕方に出先から仕事上がれるのですが、もし御主人様のご都合がよろしければご奉仕させて頂けませんでしょうか?」
「ご連絡頂けませんでしたので、帰宅致しました」
「八時半に到着するようにということでしょうか? ちょっと難しいです。申し訳ありません」
「行きたくないなんて事はありません。十一時頃に着くようにでよろしければ伺わせて頂きたいです。意味を取り違えてしまってごめんなさい」
「申し上げるべき事ではないですが、今夫が家におります。ですが十一時までお待ち頂ければ出られます。ぜひ御主人様にご奉仕をさせて下さい。すごく御主人様にフェラチオをさせて欲しいです。奴隷の身を越えた口をきいてしまって申し訳ありません」
「御主人様にご奉仕させて頂けないことを思ってしまって、心臓がぎゅうっと苦しい気持ちになっています。どうか御主人様へご奉仕をさせて下さい。お願いします」
「ふだんでも夫が寝たあとでも外出はしても問題になる事はありません。家のことは大丈夫です。そんな事までお気遣いさせてしまって申し訳ありません。心臓が苦しいような気分がまだ続いていて、とにかくすごくフェラチオをさせて頂きたいです。早く奴隷の口に御主人様のおちんちんを入れさせて下さい。お願いします」
「今日は、本当に申し訳ないんですが、最後の方は意識が飛んでいて頭真っ白でよく覚えていないです(酔って記憶がないのとは違います)。ただ、とにかく『飛んだ』って感覚だけが残っていて、詳しくどうだったかが思い出せません。最後まで私は怖がった表情をしていたのでしょうか。もっと、リラックスして気持ちを解放出来るよう気をつけます。本当にありがとうございました」
「なんだかよくわからないですが、今御主人様から頂いたメールを拝見しただけですごく興奮してきてしまいました」
「おそらく御主人様の隣にいた男は、私の事に気がついていたと思います。最初はものすごく恥ずかしかったですが、御主人様に降りるぞとメールを頂いた時は、正直なところ少しがっかりもしていました。山手線をもう一周したいと思ったくらいです。変な言い方ですが、もっとあんな風に御主人様が調教して下さってる私を、いろんな人に見せびらかしたいという気持ちにさえなりました」
「今日は本当に、ご奉仕をさせて頂けて、そしてセックスをして下さってありがとうございました。最後、ものすごく体が熱くなって体が制御出来なくなった感覚は、今思い出しただけですごく興奮して体が痙攣してしまいます。ビデオもさっそく拝見させて頂いています。ついさっきの感覚が戻ってきてクラクラしてしまいます。最初に御主人様がおしっこされるのを手で添えさせて頂いてるところを見るだけで感じてきてしまいます。本当にありがとうございました」
「今からならご奉仕に伺えます。ご指示はありませんでしたが、今、デジカメ・首輪・手枷《てかせ》・口枷は持っています」
「今日ご指摘頂いて気付きましたが、御主人様の亀頭《きとう》をゆっくりと味わわせて頂く事がすごく好きだという事がわかりました。硬さであったり皮膚感であったり、唇と舌を這《は》わせて頂く時の感触が」
「頂いたビデオはもうすでに何度も拝見させて頂いています。特に御主人様がおしっこをされているシーンを見ると、貫かれるような劇的なほどの快感を感じてしまいます。今、ビデオを見ずにその映像を思い出しただけで少し体が震えてきます」
「指令のものを購入して参りました。専門店で購入するよりも、あのような量販店でその売り場に行くのは、かなり緊張してしまいました。買ってきたものを見るだけで恥ずかしさがぶり返してきてまだ直視出来ない気分です」
「はい、ブレザータイプのものではなく、いわゆる普通のセーラー服を買いました。さきほどから試しに着てみたい誘惑にかられていますが、御主人様にお会いした時のために我慢しておきます」
「それとこれは申し上げづらいんですがその時、ブルマと体操着のものもあったので、つい買ってしまいました。お好みではないかと思いますが、もしよろしければ次回、持参させて頂きます」
「駅に到着しました。本当にご奉仕に伺ってもよいでしょうか?」
「私が感じている時恐い顔をしていると仰いましたが、別に感じる事、気持ちよくなる事を怖がってはいません。そういう事は御主人様のおかげで思わなくなりました。ただ快感が高まり感極まってくると、最近涙が出そうになってきてしまいます。こういう事を書くと、また重いと思われるかもしれませんが、私にとって重い事ではなく、重い事を言って御主人様を困らせたいわけでもなく、ただ涙が出そうだったり切ないような気持ちになってしまうというだけです」
「返事が遅くなってごめんなさい。新しいバイブ、使わせて頂きました。今までのとちょっと違うのかそれとも私の感じ方が変わったのか、かなり激しく感じてしまいました。今思い出しただけで、ちょっと体が痙攣《けいれん》しました」
「御主人様から様々な指令をされることは、私自身とても楽しんでやっています。今私は、自分で思い付く事、自分の想像の範囲内の事よりも、自分で思い付けないような事を心から欲しています。だから御主人様に御指令を頂ける事をすごく嬉しく思っています。ただ、その嬉しさ楽しさを表現することをし足りず、反省しています。ごめんなさい。本当にありがとうございます」
「思いつく範囲のバリエーションをしてみました。今日はずっと髪を縛っていてまだ髪を洗う前なので、ちょっとしばり癖が付いています。二つしばりが、ほとんどしたことないわりに(お下げは高校の時にしていた事があったのですが)、すごく可愛らしいように思いました。指令を下さってありがとうございます」
「お恥ずかしい話なんですが、先週購入したバイブをもうすでに壊してしまいました。またもクリトリスを刺激する部分が動かなくなってしまったんです。今回はまだ三回しか使ってないんですが……。そう激しい使い方はしていないはずなんですが、私の使い方が悪いんでしょうか? 明日、新品を購入しに参ります。物持ちが悪くて申し訳ありません」
「本当に御主人様の仰《おつしや》るとおり、自分の想像の範囲内だけで過ごしていたら、気付く事の出来なかった自分を見る事ができました。もっともっと、自分の知らない自分を見たいです(求めてばかりでごめんなさい)」
「明日、出来る限りの準備をして参ろうと思います。靴下に関してはルーズと普通の紺ロングの両方を持っていく予定です。二十七歳の自分がこんな事をするなんて、二十六歳の時の私ならその女を嫌悪したと思います。でも、今はそれを着た自分を見てみたい、見た事ない自分を知りたい、という気持ちです。着たら私はどんな気持ちになってしまうのでしょう。それを想像して、今日はずっとドキドキし続けています」
「本日はあのような時間までありがとうございました。新聞配達の人が通った時には、本当にどうしようかと頭が真っ白になってしまいました。セーラー服でお下げ髪にして、下着を脱いでいる女。自分の事だとはしばらく信じられませんでした。家に駆け込んだ後もしばらく痙攣が止まりませんでした」
「今日お会い出来ないとわかって、電車の中で御主人様にご奉仕させて頂いた時の事を思い出していました。亀頭の部分に軽く歯を当てたり、裏の筋に舌を這《は》わせた時の感触が口の中に広がって、今、どうかなってしまいそうな気分です。明日、私の仕事中でもかまいません。お時間を頂けないでしょうか。どんな場所でもけっこうです。どうか、たっぷりと奴隷を犯して下さい。そしてその姿を見て頂きたいです」
「本当にありがとうございます。今思い出しても体が震えてきますが、特にシャワーを浴びる前に犯すようにして頂いたことがいちばん興奮してしまいました。本気でレイプして頂きたいとさえ思いました」
香奈の告白と懇願は、最初の三か月でもこの何倍にも及んでいた。もはや嫉妬《しつと》などという感情は僕にはなかった。僕はすごく素直に、僕自身はどうすればこんな風に香奈を満足させることができるのだろうかと考えていた。考えたそばから、自分にはできないことだと思い知ってもいた。
そして四月になったとき、香奈のメールの中に、僕が登場してきた。
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♯11
「その男がどういうつもりで誘ってきたのかはわかりません。もちろんセックス目当てだということくらいはわかりますが、どの程度の遊びのつもりとか、どの程度の事をしたいのかというのがわからないのです。ですが、失礼な言い方で申し訳ありませんが、御主人様のように明快な目的と意志を持って女に接するような男のほうが少ないのではないかと思います」
僕についての香奈の最初のメールはこんな文面だった。もう「その男」と呼ばれていたことにも、「明快な目的と意志」を持たずに口説くつまらない男だと思われたことにも、落胆などせずに僕は素直に受け止めていた。ここまでビデオとメールを見たあとでは、それはあたりまえだろうと思うしかなかった。
最初に香奈に会った夜、僕の歓迎会の途中も、僕が誘ったときも、香奈が携帯でメールを打っていた姿を思い出す。香奈はあのとき、男にお伺いを立てていたのだろう。ではなぜ男は香奈に、他の男に口説かれるような現場を許したのだろうか。そこには間違いなく、「明快な目的と意志」というやつがあるはずだった。
僕は香奈のメールを読み進めた。四月以降、男の調教と指令に対する香奈の告白と懇願は続いていったが、その合間に、僕に関するその「明快な目的と意志」の輪郭も、おぼろげながら見えてきた。
「他の男とはお酒の席でも一緒にいたくありません。それは本当です。ご指令どおり、男に誘われた時には必ず御主人様にすぐに報告しています。ですがこれまで一度として、行きなさいと言われた事がなかったですし、私もそれが当然のように思っていました。ですので今回、御主人様のお返事が信じられませんでした」
「その男と会う回数が、御主人様にお会い出来る回数より多い事がとてもつらいです。お願いします。お時間を下さい。奴隷のわがままをもし聞いて下さるのなら、その男と会うようご指示されたときは、その後に会って頂きたいのが本心なのです」
「私はもう、御主人様にはつまらない女になってしまったのでしょうか。御主人様に奴隷にして頂いてから、自分自身も、他人の評価も、素直に可愛らしくいられるようになってきていたと思っていましたが、思いあがりだったのでしょうか」
「ありがとうございます。御主人様にそう言って頂けるだけで幸せです。捨てられるわけではないとわかって本当に涙が出るほど嬉しいです」
「罪悪感というよりも、私自身、このように男をじらしたりもてあそんだりするような経験が今までありませんでしたので、どうしてよいのかわからないという感じです。確かにその男には悪い事をしているのかもしれません。ですが二人でいる時でも、逆に私はいつも以上に御主人様の事を思っています」
「正直に申し上げますと、嫌いではないです。最初はよくいる自分の見た目のよさを過信しているような男だと思っていましたし、今でもその印象は変わりませんが、私が誘いに応じた時などに見せるほっとした顔には、私もなぜだかほっとします。まったく正反対なのに、少しでも罪の意識が消えるような気がするからなのかもしれません」
「はい。夫以外の男という意味でなら、そうなのかもしれません。ですが、生意気な口答えのつもりではないですが、御主人様以外の男とはしたくはないです」
そして五月末になって、男はついにその指令を香奈に出したようだった。
「お願いです。それだけはお許し下さい。お願いします。なんでもしますから、それだけは嘘だと仰って下さい。涙が止まりません」
それが、男からの僕とセックスをしなさいという指令に対する返事であることは明らかだった。その後、そのことについてのメールはなかった。おそらく香奈は直接男に「やめてください」と懇願していたのだろう。そして一週間後、香奈は男にこんなメールを送っていた。
「わかりました。明日、そのようにメールしてみます」
香奈との最初のセックスをしたときの、「今夜、セックスしましょう」という文面自体、男の指示だった。そして僕は、香奈が望まない、男が望む香奈とのセックスをした。香奈はその夜には男にメールを送っていなかった。きっと僕があっさり果ててしまったあのセックスのあと、すぐに男の元へ向かっていたのだろう。
その夜にはなかったが、翌日以降、香奈は男に対して悲しさやつらさではなく、違う気持ちを告白し続けていた。
「本当に御主人様は私を嫌いになりませんか。汚らわしい女だと思われませんか」
「今とても怖くて震えています。昨日からもう二度とお会い出来ないのではないかと考えてしまい、そのたびに叫びだしそうになっています」
「御主人様の指令だからなどと言い訳をするつもりはありません。でもその指令が御主人様が私を捨てるためのものだったのではないかと、そんな心配が頭から離れないのです」
「はい。仰《おつしや》るとおり、夫との交渉は今でもたまにあります。でも私の中では大きく違うことです」
「身の程をわきまえないことを申し上げてしまい、本当にごめんなさい。ではなぜ夫とするのかと言われれば、返す言葉はございません。しかしひとつわかった事があります。やはり自分はつまらない女だったと自覚する事でもあるのですが、夫だけでなくその彼との事でも、御主人様がまったく嫉妬をして下さらなかった事がいちばん悲しかったのです。つまらない告白を致しまして申し訳ありません」
僕は怒りだしてもいいはずだった。しかし僕がそのメールを見たとき、香奈が初めて僕を「彼」と呼んでいるそんな些細《ささい》なことに喜びを感じてしまっていた。
そしてそれから三日メールはなく、次のメールで突然香奈は変わっていた。
「申し訳ございません。今度ご指令頂いたときは、もう少しいい顔が出来るように努力いたします。どうしても御主人様以外の男とセックスをしている事を楽しむという気持ちにはなれず、きっとご覧頂いた時には不愉快なお気持ちになられたのではないかと思います。ごめんなさい」
二度目のセックスで少しだけ香奈の反応が良かったのは、やはり僕とのセックスではなく、男に見てもらうビデオが理由だった。
「正直に申し上げまして、御主人様から彼との行為の指令がない事に安堵《あんど》しながら過ごしていました。ですので今はひじょうにつらい気持ちです。ですが、御主人様に喜んで頂けるならという気持ちのほうが少し強くなってきたと思います」
「はい。仰るとおり、御主人様のおちんちんだと思って、ちゃんとフェラチオをしてこようと思っております。御主人様にお会いしている時ほどは出来ないかもしれませんが、淫乱《いんらん》な雌犬の顔をしながらしゃぶります。どうかその姿をご覧になった時、奴隷を嫌いにならないで下さい」
「わかりました。そう言って頂けて嬉しいです。終わりましたらすぐにまいります。奴隷の口もおまんこもアナルも、存分に犯して下さい」
「本日はありがとうございました。他の男のおちんちんをしゃぶってザーメンを飲み、御主人様のおしっこを飲ませて頂き、そしてお尻を犯して頂き、自分がどれだけはしたない女になったかと思うと、今も体ががくがく震えてきて、下着に染みが出来るほど濡《ぬ》れてきてしまっています」
「この数か月の変化は、本当に大きく実感しています。プレイやご奉仕の時のビデオを見るのはいつも楽しみになっています。でも、御主人様にお会いしてない時、例えば街を歩いていてふとウィンドウに映った自分を見るとまだまだ可愛げのない顔をしてたりしてがっかりしています。せっかく御主人様に調教頂いてるのに申し訳ないと思います」
「今日で下着をつけずに過ごして三日目になります。仕事中にも気になって仕方がありませんでしたが、そのぶんすごく興奮してしまい、また会社のトイレで御主人様を思ってオナニーをしてしまいました」
「すべて御主人様の仰るとおりです。もっとご奉仕させて頂きたかったのに彼の部屋に向かわされ、悲しさでいっぱいだったのですが、後ろから突かれている間は、まるでご奉仕したあとに御主人様に入れて頂いているような、不思議な感覚になって本気で感じてしまいました」
「喜んで頂けて嬉《うれ》しいです。これからは彼とする時でも、本気で気持ち良くなっていこうと思いました。まだどこかでそうしてしまうと御主人様に嫌われてしまうかもと思っていましたが、全く逆だった事がようやくわかりました。他の男のおちんちんでいくところを見て頂きたいと思っています」
これが、僕について書いてある香奈の最後のメールだった。香奈のメールはなぜか今月になってからのものがなかったのだ。
僕が今こうして香奈の部屋にいるのも、夫の元へ向かう直前に呼び出されてセックスしたのも、そして香奈の初めて知る姿をビデオで見るのも、その真実をこうやってメールで知ることになるのも、間違いなくすべてその男の指示だろう。しかしその部分は他のフォルダも探してみたがどこにも見つからなかった。
七月三十日が最後のメールだった。そこにはこれまでと違うものが書かれていた。「ご指示どおり、このように書いてみました。つたない文章で申し訳ありません。ご満足頂けますでしょうか」という文面のメールに、添付書類があり、それを開いてみると、そこには男との行為を香奈が自分で書き連ねていた。
夜八時。御主人様からのメールをみて、仕事を切り上げご奉仕に伺わせて頂く。
三十分後に御主人様の部屋に到着し、ソファに座る御主人様の前に跪《ひざまず》き、足・太もも・膝を舌でご奉仕させて頂きつつ、トランクスの中に指を滑り込ませておちんちんに触れる。舌で感じる冷ややかな弾力と指の先に伝わる熱い緊張のコントラストにすでに私の脳は沸いたような気分になる。
「もっと尻《しり》を突き出せ」と言われると同時に御主人様の手でスカートからまるまるとした臀部《でんぶ》を剥《む》き出しにさせられ、私は尚《なお》も指と舌とでご奉仕を続ける。
「膝《ひざ》をつくな」
その言葉に、さらに尻を高く持ち上げる。下半身は自然と震え、それを見られていると思うとさらに震えは大きくなる。
「奉仕を続けながら、上から少しずつ脱いでいきなさい」
言われるがまま、スーツの上着を脱ぎ去り、次に迷ってからタイトスカートを脱いで、キャミソール姿になる。スーツ姿とは違って、ピンクのブラとのセットアップのこのキャミソールを着た自分はまるで普通に可愛い女の子のような姿。その私を御主人様に見て頂くことが出来て嬉しくも恥ずかしくも感じて体の痙攣《けいれん》は激しさを増していく。
御主人様のトランクスを脱がせておちんちんを露《あらわ》にする。
私はつややかに張ったそれを舌の先で少しずつ舐《な》め上げていく。上から唇でキスをするように愛撫《あいぶ》し、そして徐々に口の中へと沈めていく。そうしているだけなのに、すでに濡れてきている事が自分でもよくわかり、さらに唇の感覚を鋭敏にし舌の動きを速める。
唇での愛撫に没頭していると、御主人様は私の体を回転させ、そして「入れてやる」と言うと私の下着をずらしそして後ろからいきなり私の肉の中に最高潮に膨張したものを突き刺す。
うう、と快感の声を上げ、刺激を噛《か》みしめるように感じていく。
「雌豚のように扱われてそれで嬉しいのか」
はい、と言いたいのに声にもならず、私は嗚咽《おえつ》ばかりを上げてしまう。
確かに今の私はされるがままに御主人様のおちんちんの動きを受け入れ、そして自らも腰を振ってしまう人間以下の姿をしている。
でも、その動物のようになった時こそ最も快感を得てしまう。私の体はそうなってしまった。
御主人様の手が私の乳首をひねり上げるように触る。
「ひっ」
私は痛みに声を上げる。そして痛みは、鋭い快感となって私の体を貫き、全身を大きくくねらせてしまう。
「どうだ」と御主人様に訊《たず》ねられ、「痛くて、でも、すごく、感じてしまいます」と息絶え絶えに私は答える。すると御主人様は手のひらで突然思い切りお尻を叩《たた》いた。私は痛みと驚きとで声も出ない。
「痛いか」
そう訊ねる御主人様に、私は「はい」と答える。次の御主人様の質問「嫌か?」には、首を横に振る。
「嫌じゃないです。すごく、興奮します」
私の体は痙攣が止まらないようになっていた。御主人様は今一度私のお尻に平手打ちをした。
後ろから私を貫く御主人様を振り返り喜びの表情を伝えようとすると、御主人様は私の口の中に指を入れ、激しくかき乱すように動かす。私はその指を放すまいと舌を絡め、そこから得られる快感をも逃すまいと必死になる。
鏡越しに恍惚《こうこつ》とした顔を御主人様に向けると、「いい顔をするようになってきたな」と言われる。自分でも、鏡に映った自分が以前とはまるで違うことに気付いてきている。「はい」と顔をほころばせると御主人様は私のお尻に鋭く指を食い込ませ激しい痛みが襲う。快感とも苦痛ともつかない表情に顔を歪《ゆが》ませる私に、御主人様は犯すように下半身の動きを激しくしていく。
「夫でも恋人でもない男にこうまでされて、それでお前はいいのか?」
いい、どころか、こうして頂けるだけで私にはもったいない事のように感じているのに。御主人様に髪を強く引っ張られ、跡がつきそうなほど尻に指を食い込まされて、私の脳はその痛みを勝手に快感へと変換していってしまう。この時得られる快感は今まで全く得られなかった事で、それを教えて下さった事、そしてそれを御主人様に与えて頂く事は、奴隷の私にとって最上の喜びでしかない。
「他の男とセックスするよう指示されて、言われたとおりおまんこを濡らして腰を振るような女になれて嬉しいか」
御主人様ではない男とのセックスが頭をよぎる。なぜか彼の顔がうまく思い出せない。彼との行為を思い出そうとすると、その顔がどうしても御主人様のものになってしまう。
「嬉しいです。御主人様のご指示であれば何でも嬉しいです」
私の本当の気持ちが伝わっているのか不安になりながらも、今こうして犯して頂いている快感のほうにすぐに体が支配されてしまう。
「顔にかけて欲しいか、このまま中で出して欲しいか」
そう言われて、快感のまっただ中の私はなかなか答えることが出来ない。でも、答えはもう決まっている。今日はご奉仕だけのつもりがここまでして下さった御主人様に、ザーメンをかけられた汚れた私の顔を見て頂きたい。
「顔に、かけて下さい」
御主人様は私から体を引き起こし、そして仁王立ちになる。
私は御主人様のおちんちんに手を添え、それがわき上がる瞬間を待ち望んで恍惚とする。
指の動きをどんどんと速くしていき、それを見ているだけでいきそうになる瞬間、白い液体が私の顔や髪に飛ぶ。
「御主人様のザーメンでいっぱい奴隷の顔を汚して下さい」
懇願する私に向けて、液体はさらに顎《あご》や胸にまで飛び散り、そしてだらりと垂れていく。
私はまず御主人様のおちんちんの先の滴を舌で舐め上げ、そして口で丹念に取り除いていく。そのまましばらく愛撫をさせて頂いた後、自分の顔や体に飛散した粘液を指で掬《すく》い取り口の中に入れる。口に含んだ後も舌の上で転がすように味わい、そしてゆっくり飲み込む。
私はその一連の動作のすべてに快感を感じ、がくがくと痙攣し続けた。
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♯12
携帯に香奈からのメールが届くまで、いつのまにか夜になっていたことにすら僕は気づかなかった。
「あと一時間くらいで戻ります。まだいる?」
いないわけがないと知っての文面だった。僕は「まだいます」とだけ返信して、それから部屋を片づけ、バスルームに干したままだったショーツをはき、見ていたことなど当然わかっているだろうが、パソコンを立ち上げる前の状態にしてから電源を落とした。
鍵《かぎ》が開く音がして香奈が戻ってきたのは午後八時過ぎだった。薄い水色のキャミソールとカーディガン、下は出かけたときと同じジーンズで、小ぶりの旅行バッグを置くと僕を見ながらサンダルを脱いだ。
僕は何を言っていいのかわからなかった。この一日半で僕は自分がまったく違う人間になってしまったような気がしていた。冷静さの残る頭の片隅で、まだ廃人になってしまったわけではないことにほっとしたりもしていた。
僕は香奈に裏切られた。しかし怒りは湧いてこなかった。どころかそんな香奈はとてもかわいらしい女にさえ思えた。
香奈はいわゆるノーマルな女ではなかった。しかしそれを汚いものとも特殊なものとも思わなかった。どころかそんな香奈はとても美しく見えた。
僕は香奈に出会ってしまったことを後悔し、そして誇りに思った。香奈とセックスしたことに激しく落ち込みながら、生涯忘れられないだろうと嬉《うれ》しくも思った。
そして僕は香奈に今この瞬間も、どうしようもなく性欲を感じていた。
このとき僕が取るべき態度はたったひとつだったのだが、僕はまだそれに気づかず、もっともつまらない行動に出た。
僕は玄関で香奈を壁に押し付け、激しくその唇をこじあけて舌を吸いだし、犯すようにキスをし続けた。キャミソールをたくしあげ、ブラをホックを外さずに引くと、その上から豊かな乳房を引きだし、乳首を指で強くまさぐった。香奈の両足も無理に開かせるように右足を押し込み、その股間《こかん》の部分を蹴《け》るように愛撫《あいぶ》した。
香奈は体を硬くこわばらせたまま、僕にされるがままになっていた。しかし僕の手がジーンズのボタンに伸びてきて、それを外して乱暴に指が下着の中に入り込もうとしたその瞬間、塞《ふさ》がれた唇を離すと言った。
「撮るの忘れないで」
その一言は僕の体の全機能を停止させた。放っておくと全部の細胞と全部の血液がこの一日半で頭の中に叩《たた》き込まれた事実に埋め尽くされてしまいそうな感覚に陥った。
僕はゆっくり体を離した。いつのまにか勃起《ぼつき》すら収まっていた。
僕はリビングのソファに置いたバッグを取りに行った。玄関に戻ると香奈は下着やジーンズのずれを直していた。僕は香奈と目を合わせることができなかった。香奈はじっと僕の横顔を見つめていたが、僕は何も言えないまま、香奈の部屋を後にした。
高熱を出して僕は翌日と翌々日、会社を休んだ。
三日目に出社したとき、香奈は何事もなかったかのように僕に普通に「おはようございます」と言った。二度目にラブホテルに行ったときと同じ、グレージュ色のストライプシャツに、膝丈の焦げ茶のタイトスカートにパンプスという恰好《かつこう》だった。少し汗ばんだ、ボタンを二つ外してぎりぎり見えない胸の谷間あたりに僕は興奮してしまい、慌てて自分のデスクに座ると勃起しそうになっていたのを必死に堪《こら》えた。
その日から三日連続で、僕は他の女たちとセックスをした。四か月以上連絡してこなかった僕からの電話に、彼女たちはまず驚き、次に軽く怒ってみせ、そして嬉しそうに誘いに乗った。
その日は前の会社にいたときの同期の女の子だった。確かに美人だがそのポテンシャル以上に自分をいい女に見せようとするのが鼻につく子だった。入社したあともさっそく女遊びで有名な先輩の恋人になったが、すぐに遊び相手程度に格下げされ、プライドが許さなかったのかそれならばと僕や他の数人の男とすぐ寝たようなつまらない女。
久しぶりに行く西麻布《にしあざぶ》のイタリアンレストランで彼女と待ち合わせした。そんな場所もそんなデートもそんな女との会話も、ひとつも面白いはずがなかった。よく僕はこんなことに耐えていられたと、たった数か月前の自分を逆に褒めてやりたくなった。
僕は食事もそこそこに「セックスするぞ」と立ち上がった。そんなデリカシーのない命令口調はおそらく聞いたこともなかっただろう。それで怒って帰るならかまわないと思ったが、逆に彼女は不安そうな顔をしながらも黙ってついてきた。
タクシーを停めて渋谷へ向かった。彼女がもっとも嫌っていたいかにも安そうで古そうなラブホテルをわざと選び、僕はシャワーも浴びずに服を着たままいきなり彼女を後ろから犯した。僕の頭の中にはもちろん香奈しかなかったが、彼女は髪を振り乱しながら、「すごいすごい」と喘《あえ》ぎ続け、そして僕が果てるのと同時にベッドに倒れ込んだ。
僕はフロントに電話をして一人で出ることを告げ、彼女に別れの挨拶《あいさつ》もせずにそのまま立ち去った。
翌日出社すると、香奈は襟つきノースリーブのカーキ色のカシュクールワンピースを着ていた。それは誕生日の日に、僕の部屋の玄関でフェラチオしていったときと同じ恰好だった。すぐにそのときの、僕の性器をくわえて淫《みだ》らな目をしていた香奈の姿を思い出し、やはり僕は勃起しそうになっていた。
その日に電話をしたのは、やはり前の会社にいたときに関係があった、別の部署の先輩の奥さんだった。夫とは違う会社に勤めていて、僕と会うときには僕の目の前で平気で会社の飲み会で遅くなると嘘をついていた。
今月三十歳になったばかりという彼女は銀座の小料理屋で会ってすぐに、「久しぶりでごめんなんだけど、私、今生理なのよ」と言った。僕はそれでもかまわないと言ったが、彼女は「ごめん」と言った。しかしすぐに耳元で、「でもしてあげるのはいいけど?」と囁《ささや》いてきた。
僕たちは近くのカラオケボックスに入った。彼女はドアから見えないように気にしながらも、真っ暗にした部屋の中で僕の性器を丹念に舐《な》めた。すごく情がこもっているという感じの、温かくていやらしいフェラチオだった。別の部屋から浜田省吾をがなりたてて歌う声が聞こえる。僕はやはり香奈の唇と舌を思い出していた。彼女の舌が香奈とは違う感じがするたびに、僕は猛烈に寂しくなった。
「飲んでもいい?」
彼女がいたずらっ子のような顔をして僕を見上げた。僕が頷《うなず》くと、彼女は指を巧みに使って僕を射精まですぐに導き、口の中に精液を受け止めた。口を離してごくりと飲み込むと、おしぼりで僕の性器をきれいに拭《ふ》いた。僕はその彼女の一連の動きに、これほど相性がよくて感じやすいフェラチオなのに、僕の求めるものではないことがとても悲しかった。
三日目で僕はやはり、それが「御主人様」の指令だったことを知った。
香奈は黒のキャミソールの上に黒のカーディガン、そしてプリーツミニで出社してきた。僕の部屋の玄関でバックでしたときとまったく同じ恰好。陽気な先輩は「香奈ちゃんのミニスカートって初めてじゃない?」と大声で朝から騒いでまわりの失笑を買っていたが、僕は「試されている自分」がどう対処すべきか自分の中の答えを待った。
本当は自分の中に怒りの感情が芽生えるのを僕は待っていたが、いつまでたってもそうは思えなかった。情けないことに僕が感じたことを言葉にすればそれはただひとつ、「やりたい」だけだった。でもそれが言えなかった。無駄なことなのに、僕はそのとき必死に、香奈を諦《あきら》めるためにはどうしたらいいかだけを考えていたのかもしれない。
午前中から女の子にメールを入れた。前にナンパして出会った女子高生。一年近く会っていなかったので返事もないだろうと思ったが、すぐに「ちょうど夏休みでヒマしてます。というか受験勉強中」という返事がきた。
ナンパした女の子が高校生だったことは何度かあるが、二度以上会ったのは彼女だけだった。たぶん彼女がメールにまったく絵文字や略語を使わなかったのが大きい理由だったと思う。いつもにこにこしている気立てのいい子だった。恰好も今どきの女の子風ではなく、逆に早く大人になりたいという感じで、背伸びして年上のお姉さんたちがしそうなシックな恰好をしていることが多かった。
「おじさん久しぶりだね。どうしてた?」
彼女が高校二年の春に出会ったが、声をかけたときに当然、僕らの年代が女子高生と話すときのお約束みたいなもので、「おじさん」と呼ばれ「俺、まだ二十三歳なんだけど」と泣きまねをしてみせるようなこともしたが、それ以来、彼女はあだ名のように僕を「おじさん」と呼んでいた。
早く帰らなくちゃいけないという彼女に合わせて、僕は外出の用事を作ったふりをして午後五時には会社を出て、居酒屋で彼女の受験と恋人の愚痴を聞いた。一年ぶりに会う彼女はこちらがどきっとするほど大人っぽくなっていて、話を聞き流してその顔を見つめていると、女子高生と一緒にいるという感じはまったくしなくなっていた。
ふと、あの男が香奈を調教したように、僕はこの子を奴隷にできるだろうかと思ったが、あらゆることにけたけた明るく笑う彼女に、僕はなぜだかほっとしながらも、それは無理だろうと思った。彼女の問題ではなく、そんな彼女をそこまで導ける度量が僕にはないことはわかっていた。
「おじさんの部屋でいいよ」と言うので、僕は彼女を自分の部屋に連れていった。彼女は迷いもなく服を脱ぎ去ってベッドに入った。そして初めて少しだけ恥ずかしそうな顔をして僕に言った。
「ちょっといろいろ練習したんだ。おじさんに試してもいい?」
僕は頷くと服を脱ぎ、仰向《あおむ》けに寝た。彼女は僕にまたがって、体中を舌で愛撫《あいぶ》してくれた。たぶん恋人に言われたのだろう。フェラチオは必要以上に音を立ててやっていた。
「気持ちいい?」
「すごく上手だよ」
お世辞ではなく本心だった。実際に彼女はとても上手だったし、ときどきつたなく思うときでも、その必死な舌の動きは僕をきちんと感じさせていた。
「入れてもいい?」
「うん」
彼女はまたがったまま、ゆっくりと僕の性器を入れていった。彼女の温かい性器の中に、僕の勃起《ぼつき》したものは優しく包まれていった。その瞬間、僕は自分に何が起きたのかよくわからなかった。
「あれ」
僕はすごく間の抜けた声を出してしまった。僕は泣いていたのだ。嗚咽《おえつ》することもなく、ただ目から涙が溢《あふ》れだしていてそれを止めることができなかった。
涙でかすんでよく見えなかったが、彼女は僕に乗ったまましばらくその様子を見つめていた。やがて繋《つな》がったまま僕の体に覆いかぶさって、ゆっくりと頭に手を回して抱いてくれた。僕は彼女の背中にしがみつくようにして、いつまでも泣き続けた。
次の日から、僕はまた誰にも連絡しない日々に戻った。休みの二日間は家から一歩も出なかった。ずっと香奈のことを考え続けて、わかったことはただひとつ、香奈と何らかの「決着」がつかないかぎり、僕はどこへも進めないし進んではいけないということだった。ただ、その決着のつけかたはどう考えてもわからなかった。
月曜日に出社してから、僕の苦しくも甘い日々が始まった。毎日香奈を見て過ごし、毎晩香奈を思ってオナニーをした。香奈とセックスする前の二か月間と違うのは僕が香奈を誘うことがなかったことで、その後の二か月間と違うのは香奈が僕をセックスに誘うことがなかったことだった。
僕はその日々を繰り返しながら、香奈に言うべき言葉を探し続けた。いくつもの言葉が頭の中に浮かび、次の日にその半分を頭の中から削除して、そのぶんの言葉を新たに追加した。
そして一か月が過ぎて、僕はその言葉をついにひとつだけに絞った。その言葉を香奈が、そして香奈の向こうにいる「御主人様」がどう受け止めるかはわからなかったが、もうそれ以外のものはあり得なかった。
その日、僕は仕事をしながら香奈が仕事を終えるのを待った。そして「おつかれさまです」と香奈が席を立ったとき、僕は「俺も今日はお先です」と言って立ち上がった。
エレベーターの中で僕は香奈の後ろに立った。香奈は一階のボタンを押して僕を振り向かなかった。
「君が好きだ」
エレベーターが閉まる瞬間、僕はすべての思いを込めてその一言を口にした。香奈は何も答えなかった。香奈はモスグリーンのメンズラインのシャツに、焦げ茶のパンツをはいていたが、その服が揺れることもなかった。やがてエレベーターが一階についた。そのとき香奈は前を見たまま言った。
「それであなたはどうしたいの?」
香奈がエレベーターから出て歩き出した。僕はその隣に行くと、香奈と同じように歩いていく前方を見つめたまま言った。
「どうでもいい。君が好きなだけだ」
「私には夫がいるのよ」
「知ってる」
「普通の女でもない」
「わかっている」
「それでも……」
「君が好きだ」
会社の玄関のドアを出た。三人ほど近くにいて、香奈はそこを離れるまでしばらく黙った。香奈は家に帰るときに使う地下鉄の駅のほうへと歩いていった。
「先に忘れて欲しいことを言っておくわ」
香奈は目をふせるようにして小声で言った。
「あなたの望む結果にならなくても、そう言ってくれたことにはすごく感謝してるし嬉《うれ》しい。ありがとう」
僕は思わず香奈の横顔を見た。しかし香奈はすかさず言った。
「でも、あなたは私を満足させることができるの?」
「それは……」
言いかけて口ごもった。そこを考え出すといつもいつまでも答えなんか出たことがなかった。
「わからない。でも君が望むことならなんでもする。だから……」
僕は必死になって次の言葉を探したが、どうしても最初から浮かんでいたその一言しか見つからなかった。
「香奈とセックスがしたい」
地下鉄の駅はもうすぐそこだった。香奈は何も言わずに歩き続けた。そして階段を降りる直前に立ち止まると僕を見て言った。
「すぐには無理だと思うけど、必ず私から連絡するから待っていて」
香奈はそう言うと、僕の返事を待たずに改札への階段を降りていった。
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♯13
それから僕は一か月半待たされた。
再び香奈を見つめ、香奈を思ってオナニーに耽《ふけ》る日々が続いていた。
待っている日々の間に、一度だけ香奈と二人きりになった。十月に入ってまもないころだった。
偶然、香奈の担当している仕事で香奈は僕が以前勤めていた広告代理店との打ち合わせがあった。そこで出てきたのが僕もよく知っている先輩だったのだ。先輩は早速「彼女と飲み会セッティングしてよ」と僕に連絡してきたが、僕は「彼女は人妻だから無理ですよ」と答えた。半分は嘘ではなかったが、そのとき僕は、猛烈に夫ではなく「御主人様」が羨《うらや》ましかった。香奈の体も心も自由に扱えることだけでなく、その時間も支配できること。それは嫉妬《しつと》というより、羨望《せんぼう》に近かった。
飲み会が駄目だとわかると、先輩は香奈との次の打ち合わせのときに僕を呼びつけた。香奈はごくあたりまえのように、僕を同じ部署の後輩として扱った。僕も香奈に敬語で答えた。
先輩は香奈と僕を昼飯に誘った。香奈は断るだろうと思ったが、打ち合わせ上の判断なのか頷《うなず》いた。先輩は僕も昔はよく行っていた、オープンテラスの小《こ》洒落《じやれ》たイタリアンレストランのランチに連れていった。
先輩はあたりまえのように通りに面したテーブルに向かい、香奈を僕と挟んで座った。先輩はしきりに僕に「いい女だな」という意味の目配せをしてきた。僕は呆《あき》れたように「ええ」という目線を返した。
香奈は襟と袖《そで》に白地を残したブルーのストライプシャツの上に、くすんだ水色のVネックニットを着ていた。しかしテーブルの下で組んだ足には、深いワインレッドのサテンの膝《ひざ》丈プリーツスカートと黒のロングブーツ。数回見たことはあるが、僕にとってそれは、香奈の部屋で見たビデオの一本目、香奈が「御主人様」に調教されているところを初めて見たときのものだった。
あのビデオと同じように、ガーターをつけてレースの刺繍《ししゆう》の縁取りがある黒のTバックショーツをはいているのだろうか。そう思うと勃起し始めていた。僕はそれを抑えるように慌ててウェイターにAランチを注文した。
そのとき、絵に描いたようなことが起きた。先輩の携帯が鳴り、電話に出た先輩は何やら揉《も》め事が起きているような会話をしばらく続けた。そして電話を切って大きく溜息《ためいき》をつくと、香奈に頭を下げて急用ができたことを告げ、僕の肩を叩《たた》いて「すまん」と足早に店を出ていった。
通りに面したテラス席で、僕と香奈は二人きりになった。どちらも何も言い出さなかった。僕は隣に香奈がいるというその「感触」だけですでに目まいがしていた。
料理が運ばれてきた。香奈はフォークとスプーンでパスタを巻き付けて口に運んでいた。香奈の口元がパスタを含んで飲み込んでいくたびに、僕は痺《しび》れるような体の震えに襲われた。なんていやらしい唇をしているんだろうと思うと、どうにかなってしまいそうで、僕はフォークだけでがっつくようにパスタを食べた。
僕の頭の中に、僕が知らない時期を含めた香奈の「年表」がモニターをスクロールするように現れた。初めて冷静に考えたことだが、香奈はこの一年数か月の間に、「劇的」といっていいほどの変化を遂げていた。
去年の六月に結婚。
十一月に「御主人様」と出会う。
十二月、二十七歳の誕生日を迎え、大晦日《おおみそか》に奴隷宣言をする。
一月以降、奴隷として様々な調教を受ける。
四月に僕に出会う。
六月、「御主人様」の指示で僕とセックスをする。
いわゆる新婚の一年間で香奈はこれだけの経験をしているのだ。それまで自分とは関係ないと思っていたセックスやプレイの数々を自ら進んで受け入れるだけでなく、ふだんのファッションやメイクに加え、物腰や考え方も変わった。それが夫ではなく、これまで男性経験も「堅い」香奈が出会ったその日に寝た、小太りの中年男によってすべてが変えられたのだ。
僕はどうだろう。ある意味で僕も「劇的」に変わったと思う。しかし香奈の変化が他人には話せないことでもとてもポジティブなものに思えるのとは対照的に、僕はそれまでの生活と比べれば、明らかに表層はネガティブなものになってしまっているように思う。若くてルックスもスタイルもそこそこで、女遊びに困ることもない男。それが僕だったはずだ。しかしこの半年、僕はたった五回の香奈との行為だけにすがって、一度だけ三人の女と連続してセックスしたが、あとはひたすらどこにも出かけず、会社と家を往復するだけの日々を過ごし、毎夜香奈を思って自慰に耽っているだけだ。
コーヒーが運ばれてきた。香奈は半分だけ飲むと、それからカップには手をつけず、僕が立ち上がるのを待っているようだった。
僕はこんな二度とないかもしれない機会を、あまりにもあっけなく無駄にしようとしていた。しかしどうしても話す言葉が見つからなかった。僕は諦《あきら》めて伝票をつかんで立ち上がった。
そのときに香奈はようやく一言だけ、僕と目を合わさずに言った。
「もしまだ待ってくれてるなら、もう少しだけ待っていて」
香奈と出会ってから七か月が過ぎた十月が終わり、ついにその日がやってきた。土曜日、いつものようにどこにも出かけずに部屋でぼんやりと一日をやり過ごしていたとき、香奈からメールがきた。
「今夜、会えますか」
会えないわけがなかった。僕はたとえどんな結果になろうとも、その香奈からのメールだけを待って毎日を過ごしていたのだ。僕は香奈に何時でも大丈夫だと返信した。すると、香奈から「八時にここに来て」という文面とともに、何の店かはわからないが「スモールワールド」という店名と、新宿駅からタクシーで二メーターほどのところの道順が返信されてきた。
その店には十五分前に着いた。七階建ての古い雑居ビルの二階、階段を上ると住居なのか店なのかオフィスなのかよくわからないドアが五つ並んでいた。目当ての店はいちばん奥にあった。そこだけドアが白い木製のもので、小さなイタリック体で「small world」と書いてあった。
僕は深呼吸をひとつしてから、ドアを開けた。ジャズの音が低く響いていた。中に入ると入口は狭く、入ってすぐは壁で、通路は左方向に向かっていた。通路越しに中を覗《のぞ》くと、僕はすぐにその男がいることがわかった。香奈の「御主人様」だった。僕は慌てて状況を整理した。
まず僕はこのスモールワールドという店に入った。左を向く。全体的に白っぽい店だが、照明はやたらと薄暗い。右側すぐにトイレと物置の扉がある。その先に六人掛けのカウンター。カウンターには三人の男が座っている。しかしその男たちのことはまだ今は把握しない。左側には棚があり、様々な酒が並んでいる。その酒棚とカウンターの向こう側は広くなっていて、ソファとテーブルのセットが二つ。そしてその向こうには衝立《ついたて》のような天井部分は開いている壁があり、もうひとつ扉があった。
男たちに目線を戻す。三人ともスーツ姿で、三人ともいい中年だったが、ルックスとは別にやたらと精気の有り余っているような連中だった。「御主人様」はいちばん手前に座って、ウイスキーなのかバーボンなのか、琥珀《こはく》色の液体の入ったグラスを前に、僕を無表情に見つめていた。
そのとき僕はこの店のもっとも「普通ではない」ことを見た。「御主人様」を含め三人の男たちからは、それぞれ長いチェーンが伸びていた。そしてその鎖の先には三人の女たちが首輪で繋《つな》がれていて、彼女たちは皆、床に正座をしていたのだ。
酒棚の陰になっているいちばん手前で、首輪をつけられて正座しているのは香奈だった。
紫のラインが入ったツイードのタンクワンピースから、床の上で窮屈そうに折り重なった、黒のストッキングに包まれた太ももとふくらはぎが薄暗い光の中で妙に艶《なま》めかしく見えた。
香奈の隣にいる二人の女も、香奈のように上品な顔立ちと服装をしていた。揃って一般的にも美しいと言われるような女たちだった。そして彼女たちは首輪に繋がれたまま、ただその状況を受け入れて口をきかずに、いつ何を言われてもすぐに対応できるかのように、それぞれの「御主人様」の背中を見つめていた。
男たちはときどき一言二言交わしながらも、ほぼ一人で黙って飲んでいた。カウンターの中の、巨漢にモヒカン頭でTシャツにジーンズ姿のマスターもただ黙ってグラスを洗い、男たちの酒がなくなると黙って新しいグラスを差し出していた。
僕はその光景にどのくらいの時間見とれてしまっていたのだろうか。気づくと男が「こちらへ」という感じで、僕を隣の席に促していた。香奈は一度も僕と目を合わせようとはしなかった。
僕は男の隣に座った。巨漢のマスターが黙って僕を見つめ、僕はかすれた声でなんとか「ビール」とだけ言った。
男はビデオで見たとおり、小太りの小男で、頭も薄くて全体的に汚らしく見えた。しかし仕立ての良さそうなスーツは妙に似合っていて、さらにその眼光の鋭さは僕を萎縮《いしゆく》させるに充分だった。出会うことがあったら僕はこの男に何を言うだろうかと思っていた。もしかしたら衝動で殴りかかるかもしれないと想像したこともあった。でも、きっとそうなるだろうと心のどこかで思っていたとおり、僕は何も言うことができなかった。
「君のことは知っている」
やがて男は言った。
「私のことも知ってるね」
男の問いに僕は答えなかった。いや、答えられなかった。男は僕をじっと見つめたあとで、グラスを手に取ってその液体を揺らすように回した。
「君が羨《うらや》ましいよ」
男は後ろの香奈を振り返るような仕種《しぐさ》だけして言った。
「あれだけの女にそんなに若いときに出会えて、あれだけの女とセックスができて」
男は「あれだけ」を二度繰り返した。香奈が少し反応したようで鎖がかすかにかちゃりと鳴った。香奈の首輪から繋がっているそのチェーンは、男の手ではなく、カウンターにつけられた丸い金具に引っかけられていた。
「私が君の歳だったら、おそらくあれだけの女は抱くことすらできなかっただろう」
男は言った。自虐も優越感もどちらもない、冷静に分析しているような口ぶりだった。男は四十歳前後だと思うが、実際にはそれよりも若いのか歳を取っているのかもわからなかった。
「あれだけの女とこういう関係を築くために必要なのは、馬鹿馬鹿しいと思うくらいの先回りしたシミュレーションだ」
男は酒を一口飲むと突然語り始めた。僕の前にビールが置かれ、僕はすぐにごくりと半分くらいを一気に飲んだ。
「会社の人間であろうと、親兄弟であろうと、友人であろうと、ましてや人妻であればその夫であろうと、誰もが気づくべき変化と、誰一人気づいてはいけない変化を、こちらがすべてコントロールしなくてはならない」
僕は黙って男の言葉を聞いた。
「たとえば香奈の服装だ。私と出会ったときはあれだけの女だというのに、本当につまらないものしか着ていなかった。それを私は変えた。変えるにあたって注意すべきことは、たとえば夫が当然浮かべるであろう疑問を解決しておくことだ。香奈の化粧や服が突然変わったら、夫はふたつのことを考えるだろう。ひとつは誰の影響でそうなったのかということ。もしかしたら男ができたのではないかと、そこから勘繰ることもあり得る。もうひとつは金のこと。夫婦の家計からどうやってこれほど頻繁に新しい服を買うことができるのか。これも男が買い与えているのではないかと疑いを持つきっかけになる。そこで私がやることは、香奈の生活状況をすべて把握して、もっともらしく、しかし実に馬鹿馬鹿しい言い訳を考えてやることだ」
男は僕を一瞬見てから続けた。
「香奈と香奈の夫と、そして君が勤めている出版社は、女性ファッション誌も作っているだろう。そこで私は、もし夫に問いただされたらこう言えと教えてある。『同期の誰々さんがファッション誌に配属になって、八割引くらいで買えるようになった。ただし、本当のグラビア撮影の前のテスト撮影で私がモデルの代わりをすることが条件なのよ。でもおかげで最近人並みに服に興味が出てきたわ』とね。君はわかるだろうが、もちろんファッション誌のグラビアにそんなテスト撮影などない。仮にあったとしても八割引などにならない。さらにその誰々さんというのも、本当は香奈は仲がいいわけではない。だが、文芸書だけを作ってきた香奈の夫には充分な説明だ。すぐにボロが出る嘘というのはディテールがひとつしかないものだ。そしてもうひとつ足がつく嘘というのは、つかれた人間にとってあまりにもかけ離れた世界の話であることだ。しかし人が納得してしまう嘘というのは、その人間にとって近いがよく知らない世界の話を、ディテールだけで構築することなんだよ。こういう関係を築く立場にいる人間は、そういう八割引のようなくだらないディテールを瞬時に考えてあげなくてはならないんだ」
男は一気にそう喋《しやべ》ると、僕を見た。僕は視線をそらせないまま、またビールを残り四分の一になるまで一気に飲んだ。
「私は香奈も香奈の夫も、家計から生活パターンからすべてを把握している。その上で私は周到な言い訳を用意する。たとえば私が香奈と二人でいるところを誰かに見られたとしよう。私は人目につく前の段階から、香奈にその場の私たちの関係をシミュレーションして教えてあげている。毎回欠かさずだ。ホテルのロビーで学生時代の友人に出会ってしまったら、信号待ちをしているタクシーの車外を夫の友人が通り過ぎたら、会社にいたときとは違う服を着ているところを夜、同僚に見られてしまったら。いついかなるときでも、ディテールだけで構築された、相手にとって近くてよく知らない世界の話を事前に考えておくのだ。もちろん、香奈がそういう場面に出くわしたことなどない。しかし私は絶えずそれを繰り返し考えている。馬鹿馬鹿しいと思うか?」
男は僕に訊《き》いたがそれは疑問形になっていなかった。男は続けた。
「しかし、愛情ではなく、物理的に圧倒的な安心感を与えたところから、奴隷の調教はスタートする」
男は酒を少しだけ飲んだ。
「君にはまだ無理だろう」
男は言った。僕は自分でも気づかないうちに、思わず頷《うなず》いていた。
「年齢のせいもあるが、それだけではない。君にはそういう無駄な想像力が欠如している。それでは物理的な安心感だけでなく、プレイとしても奴隷の欲望に対してすぐにしてやるべきことが見つからなくなる。君と香奈の行為を見ていればそれはすぐにわかることだ」
あたりまえのことだが、やはり僕が撮らされていた香奈との一部始終を、男はすべて見ていた。驚いたことに、怒りや恥ずかしさよりも、男がそれにどんな判断を下したのかを知りたがっている僕がいた。僕はビールの残りをまた一気に飲み干した。
「しかし私は君を羨ましく思う。あれだけの女とセックスができたことに対してではない。君の香奈に対する態度は、想像力こそまるでないが、とても一貫した強い何かがある」
僕は褒められているのだろうか。すると男は初めてきちんと振り返って香奈を見つめた。香奈の顔色が変わり、男をまっすぐに見つめ、いつでも指令を与えられればそのとおりにするという表情になった。しかし男は何も言わず、再び僕を見た。
「香奈も君とのセックスには感じるものがあるようだ。もともとは実につまらない、顔がきれいなだけの不感症だったのだが、私に出会って香奈は変わった。しかし香奈は認めようとしないが、もうひとつ気づいていることがある。香奈は君とのセックスできちんと感じた。それは私の指示だったからというのがもちろんいちばんの理由だ。しかし、出会い方とやり方によっては、私を抜きにしても香奈は君で感じることができるはずだ」
男の言葉の真意がわからなかった。何を言っているのかはわかる。しかし何を言わんとしているのかがわからなかった。ただ、男が発する言葉であれば、そこには「明快な目的と意志」があるはずだった。僕はその手がかりが欲しくて次の言葉を黙って待った。新しいビールが前に置かれたが、今度は口をつけなかった。
「つまらない言葉をあえて使うが、君の愛情を香奈もとても気に入っているよ。私には言わないがね」
僕は思わず香奈を見た。香奈は僕のほうを見なかった。肯定も否定もしない瞳《ひとみ》でずっと男の背中を見つめていた。
「あちらへ行こうか」
男はそう言うと、店の奥のドアのほうに目をやった。巨漢のマスターに目配せすると、彼は黙って少しだけ頷いた。
「外しなさい」
次に男は香奈に言った。香奈は両手を首の後ろに回して、首輪のフックを自分で外し膝《ひざ》元に置いた。隣にいた二人の女たちは香奈にも男にも僕にも見向きもしなかった。それまでやはりこちらを見ていなかった男二人はそのとき初めて振り向き、香奈の姿をじっと見つめ、無言のアイコンタクトのようなものを男にした。男は口元だけふっと笑った。
男の目配せで香奈は立ち上がると、カウンターに留めてある鎖を外し、それを持って先に奥へと歩いて行った。男がそれに続き、僕も黙ってその跡を追った。
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♯14
そのドアの向こうは、僕が見たことがある個室だった。香奈と玄関先でバックからセックスした夜、僕の部屋に来る直前まで香奈が男の性器をひたすらしゃぶり続けていたあの場所だった。四人掛けの大きなソファがあり、その前にはテーブルがあり、その室内はやはり白っぽい色で囲まれていた。
「奥へ」
男が僕に言った。僕はソファのいちばん奥に座った。続いて男が僕の隣に座り、香奈はその隣、入口から二つ目のソファの脇の床に正座した。
「こちらに座りなさい」
男は香奈に言った。
「ありがとうございます」
香奈はそう言うと、長いチェーンのついた首輪を入口側に置いて、男の隣に座った。
「私は日本酒にするが君は?」
男が僕に訊いた。どうしても緊張と萎縮《いしゆく》から抜け出せない僕は、頭を下げながら「同じでいいです」と答えるのがやっとだった。男は香奈に「行きなさい」という仕種《しぐさ》をした。香奈は立ち上がって個室を出た。
「金はさほど必要ではない」
男はまた突然話を始めた。
「まったくなければあれだけの女を奴隷にすることはできない。しかし金があるからあれだけの女を奴隷にできるというわけでもない。意味がわかるか?」
男は僕を見ずに訊いた。僕は「はい」と頷いた。
「香奈のような女は、こちらがいわゆる小遣いのようなものを与えようとしても断る。奴隷になる前などホテル代まで半分出すなどと言い出したくらいだからね。奴隷になったあとも、調教としてバイブや首輪を買いに行かせたら、これは私が使うものですから払いますとまで言い出すような女だった」
男はそう言うと、おかしそうに僕を見た。僕はもちろん笑う余裕などなかった。
「これも調教する側に問われる資質なんだ。彼女自身を変え、しかし彼女の生活自体には支障をきたさないように、周到なエクスキューズを用意し、現金を渡すという行為ではなく、どれだけ彼女が満足することのために、彼女の気持ちや生活のキャパシティを超えない中で金を使うか。それは簡単に言えば服であったり食事であったりホテルであったり、私と香奈の関係では金を使う場所は限られるからそういうことになる。奴隷に不安を与えず悦びだけを与えるよう、しかしそれは調教する側にとって当然のものだという意識を持たせつつ、金も明快な目的と意志を持って使わなくてはならないということだ」
香奈がお盆を手に、日本酒が入っているのであろうワインのデキャンタのようなものと、小ぶりのグラスを三つ持って戻ってきた。男は「彼から」という仕種をした。香奈はテーブルの向こう側から僕に両手を添えてグラスを差し出した。僕は震える手で受け取り、跪《ひざまず》いたまま香奈が酌をしてくれているという光景を、現実のものとは思えないまま見つめていた。
「私も香奈も特殊な人間などではない。形を変えればこんな例はどこにでもごろごろ転がっている」
男はグラスを受け取らず、香奈はテーブルに置いたままの男のグラスに酒を注いだ。
「若いときから悩みなく男とつきあいそのまま大人の女になるタイプ。二十歳やそこらで大人の男とつきあって、一度それがどういうことなのか把握したタイプ。香奈のようにそれなりの歳になってから大人の男に出会い、今までの自分の愚かさを知るタイプ。そういう洗礼をまったく受けずにただ大人になってしまったタイプ。あるいは若いときに大人の男を手玉に取ることを覚えたタイプ。香奈くらいの年齢で大人とつきあっても、それを自分のくだらないプライドの糧にしかできないタイプ」
男はリストを読み上げるように言い、日本酒を一口飲んだ。僕もならってグラスに口をつけた。冷酒ではなく常温だった。もちろん銘柄などわからない。
「世の中で言われるこういう男が好きだとか嫌いだとか、こういう女がいいとか悪いとか、そんな話がほとんど意味を持たないのは、そういうタイプごとの性癖を前提にしていないからだ」
男はグラスを置くと、香奈のグラスに酒を注いだ。香奈は無言で深々と頭を下げた。
「簡単に言えばこういうことだ。私のような男は、香奈のように美しくインテリでプライドの高い、しかし男性経験が見た目よりも極端に少ない二十代後半の女しか、奴隷にすることはできない。笑い話をしてあげよう。もし十八歳くらいの生命力と自信と希望に溢《あふ》れた、かわいらしい女の子がいたとする。その彼女を口説いたら、くたびれた中年の私は何と言われるだろうか。おそらく『あのおっさん、スケベったらしくて気持ち悪い』と言われるのがオチだ」
笑うことはできなかったが、男の言葉には自虐的なトーンはなかった。
「好きだ嫌いだ、セックスをしたいしたくない。それ以前の問題として、自分はどのタイプの女とするべきか、どのタイプの女と関係を持てば、自分がもっとも心地よい状態を作れ、かつ相手にはそれ以上の快楽をもたらすことができるのか。そこを把握すれば、どんな女でも簡単に口説ける。もちろん百人の女がいてすべて奴隷にすることができるという意味ではない。百人のうち三人しかいないかもしれないが、その三人を見抜くことに間違いはなくなるということだ」
男は香奈を見た。香奈は黙って男を見つめていた。
「残りの九十七人にはきっと、身の程をわきまえろハゲ、と笑われるだろうね」
男はそう言うと口元で笑った。どうやらさきほどから僕を笑わせようとしていたようだが、僕の萎縮は解けないままで愛想《あいそ》笑いすらできなかった。
「百人の王国の王になることができる男ももちろんいる。しかしほとんどの男はそうなることはできない。百人の王国の下僕《しもべ》に成り下がって終わりだ。どちらが正しいのかどちらが面白いのかはわからないが、私は三人の小国の王になることを選んだだけだ」
僕はもう一口酒を口に運んだ。男もグラスを手にした。
「その三人の女の子たちに必要なのは、たとえて言うならば早急な治療だ。このままきれいで頭も良いのに、間違ったプライドと不感症を抱えたまま三十歳を過ぎてしまったら取り返しがつかなくなる。香奈のように結婚している女の子はとくにね。そのまま自分がいかに本来持つべきポテンシャル以下の女であるかを自覚せずに、そのまま年老いていくのもよいだろう。しかしいつか必ずつまずくときが来るものなんだ。それを引きずって四十歳くらいになった女の子たちたるや、見ているこちらが寂しくなるくらいだよ」
男はふと香奈を見た。香奈は「私もそうなるところでした」という意味の恥ずかしさと、「救ってくださってありがとうございます」という意味の嬉《うれ》しさを、同時に表情に浮かべた。
「だから大きなお世話だと言われるだろうが、私はそういう女の子たちにショック療法を施す。彼女たちの気持ちや意見やプライドやスタイルを何ひとつ認めず、いかに自分の頭でっかちなセックスが男に快感を与えていないか、自分もセックスにのめりこむことができずにきたことが、どれだけ恥ずべき過去だったかを徹底的に叩《たた》き込むんだ。頭にではなく体にだ。するとあるとき、これは香奈の言葉だが、自分の望むことや自分の好きなことしたいことというのに、まったく興味がなくなっている自分に気づく。すると私から与えられる指令や調教ほど嬉しいものはなくなるのだ。それだけではない、そうなれば今までその女の子にあった、誰もが無意識に敬遠する壁のようなものがいつのまにか取り払われているんだ」
男は香奈の太もものあたりに目をやって言った。
「実際、おかしな話だが私に調教されて以来、香奈は家庭もよりうまくいくようになっている。夫は香奈の変化を純粋に喜んでいるそうだ。もちろんそこには、私が施した真実を明かさないための準備が周到にできているがね。仕事も順調だし、友人たちとのくだらない諍《いさか》いもなくなった。女としてもそうだ。君がいい例だろう? 君は調教後の香奈に出会って、出会ったその日に遠慮なく香奈を口説きたいと思った。それが半年早かったら、おそらく君は香奈にそこまでアプローチしなかっただろう」
男が香奈に「飲みなさい」と告げた。香奈は「ありがとうございます」と呟《つぶや》いて、両手でグラスを持って口に含むようにして少しだけ飲んだ。
「君も自分の道を早く見つけなさい。君なら私と違う方法で、私よりも大きな国を築くことができるよ。お世辞ではなく、君にはそうなるべき性癖がある。資質ではなく性癖だ」
「スモールワールド」
僕は思わずそう呟いていた。この店の名前と、男が言う「小国」という言葉がリンクして、意識せずに声になっていた。男はほとんど初めて、僕に感情のこもった目を向け、感心したように言った。
「スモールワールド。確かにね」
男はふと笑うと酒を飲んだ。香奈がグラスに酒を足した。そのとき初めて、香奈だけではなく、男の左手の薬指に銀色の指輪があることに気づいた。この男にも家庭があるという事実がうまく頭に入ってこなかった。妻である女性はやはり奴隷なのだろうか。それともまったく違うのか。子供はいるのだろうか。いるとしたらこの男との親子としての関係はどういうものなのだろうか。
頭が働かなかったが、なんとなくそれは、どこにでもいる夫婦とどこにでもある家庭のようなもののような気がした。
「私のしていることはSMではないし、私自身、SMに興味はない」
男はほとんど減っていない香奈のグラスに酒を注ぎ足してから言った。
「私が他人よりも異常なことがあるとすれば、それは調教癖というものだろう。もしそれをSMと呼ぶのであればそれでかまわないが、その場合、SMとは嗜好《しこう》ではなく関係性の問題だ。私の膝《ひざ》に手を添えなさい」
最後の言葉は香奈に対してだった。香奈は少し男に寄り添うようにすると、そっと両手を男の膝からももにかけて置いた。
「私が施す治療によって、もっとも忌むべき人間のつまらない部分が治る。それは何かわかるか?」
男は自分の足に置かれた香奈の手の甲を、人さし指でとんとんとつつくと僕に言った。しかし僕の返事を待たずに男は言葉を続けた。
「執着心だ。いつのまにか自分で作ってしまった、くだらない執着の数々。私はこういうものが好きでこういうものは嫌い。私はこういうことはするけどこういうことはしない。私はこういうことは許せるけどこういうことは許せない。私はこういうことは気にしないがこういうことは譲れない。そんな単純な二択の組み合わせで、世の中で言われるアイデンティティというものはできている。確かに二択の組み合わせが申し分ない例もある。それはそれで幸せだ。しかしたいていの人間は、その二択で必ず正解を導き出せるほどたいした判断力を持っていないのだ。それなのに自ら選んだ脆弱《ぜいじやく》なアイデンティティに固執し、執着する。そしてそこから、受け入れるべきものを受け入れず、意味のないものに意味を見いだそうとしてしまうのだ。セックスひとつにしてもそうだ。それではいつまで経っても、絶頂を経験することもできなければ、男を悦《よろこ》ばせることもできない」
男はそう言うと香奈の手をそっと握った。香奈がぴくんと反応して、恥ずかしそうに俯《うつむ》いた。
「私は香奈が持っている執着をすべて私に集中させた。私と私が行うプレイのみに、香奈が執着するようにしたのだ。すると、それ以外のことはいい意味でこだわりというものがなくなる。さきほど言ったとおり、家庭も仕事も友人関係もうまくいくようになったのは、香奈がそういったものたちに見返りを求めず流れるままに接することができるようになったからだ。香奈は私の精液を飲むことや私に犯されることだけに執着と快楽を見いだす。それは他のことを疎かにするという意味ではなく、逆に素直に構えず物事に対処していけるという意味なのだ」
男は僕を見つめて言った。
「奴隷になるということは自由を奪われるということではない。隷属というのは、他のものに対して寛容になるということなのだよ」
男の口調と視線には「わかるか?」という意味が込められていた。男の言葉は、それを吟味する余裕も与えず、僕の脳の中に直接流し込まれていくような感じがしていた。僕は黙って頷《うなず》いた。
「一度目はともかく、二度目以降は香奈とのセックスは良かっただろう?」
男の言葉に僕はまた素直に頷いていた。
「香奈が少しずつ、私以外の男と行為を持つことに対する嫌悪感を消していったからだ。香奈は私に隷属している。私の言うことならばほとんどのことを聞く。香奈の中での思考の順番はこうだ。私は本当は他の男とセックスなんかしたくない。しかし御主人様がそれを望むならやらなくてはならない。だからやった。でもきちんと感じている姿を見せなければ御主人様は納得しない。だから私はこの男でも感じながらセックスした、とね」
僕はごくりと唾《つば》を飲み込んだ。
「しかしこれはあくまでも香奈が自分を納得させるために考え出した筋書きだ。大事なことはそこで『他の男でも感じた』という一点に尽きるんだよ。香奈は君とセックスをして、とても気持ち良かった。自分を褒めるつもりはないが、私の目は正しかったと思ったよ」
香奈はこれまで、他の男に誘われるたびにその報告を男にしていた。そして男が「駄目だ」と言えば安心して、その誘いを断ることができた。しかし、僕に関してはなぜか、会ってもいないというのに、「彼と飲みに行きなさい」と男は指令していた。香奈が送った僕についてのメールの文面に、他の男たちとのものとは違う何かがあったのだろうか?
「さて、今私は君に隷属と執着について語った。しかしこの話には、明らかに最大の欠点がある。結論を先延ばしにしている問題だ。わかるか?」
男は僕に訊《き》いた。もちろんわかるわけがないと思ったが、男の目を見た瞬間、僕の脳の中に突然正解が送り込まれてきたような感じがした。
「香奈の、あなたへ対する執着の結論」
「そのとおり」
男は満足そうに頷いた。
「偉そうな言い方をさせてもらうが、さすがに私が見込んだだけの男だ。君ではない男に香奈を向かわせていたらと思うと、ぞっとするよ」
男は嬉しそうに言ったが、香奈は俯いたままだった。僕は香奈のその無表情がせつなかった。
「隷属したままでは、その女の子はどこへも行けない。私がやったことが治療ならば、治療を長引かせても逆効果だということだ。さらに香奈は私に執着し過ぎて、私もこれまでにないくらい、香奈に執着してしまったのだろう。私にしたってこれだけの女を奴隷にしたのは初めてだからね」
男は香奈の手を再び握った。香奈はおずおずとその手を握り返してきたが、その指先は震えていた。
「だから今夜、私は香奈を私から卒業させる。君も来なさい」
男はそう言うと、香奈にも僕にも見向きもせず、立ち上がってドアのほうへ歩いていった。香奈は唇を噛《か》みしめて少し動けない様子だったが、遅れないようにと首輪を手にしてその跡を追った。
一人取り残されてしまった僕は、ほんの一瞬だけ逡巡《しゆんじゆん》して、二人の跡を急いで追った。
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♯15
ホテルの部屋はすでに取ってあったらしく、男はフロントですぐに鍵《かぎ》を受け取った。男、香奈、僕の順でエレベーターホールへ向かう。そのとき、香奈がすっと先に出てボタンを押した。エレベーターが開くと男が先に入り、香奈はすぐにその後から入ると階数ボタンを押した。僕のことは気にしていないように、男と香奈のいつもの関係で事は進んでいた。
部屋はやはり、僕の知っている男と香奈の行為の数々が映し出されていたあの部屋だった。入って左側に広いバスルーム。洗面台とトイレとバスタブとそれとは別にシャワールームもあった。奥の部屋の正面の大きな窓ガラスからは都心の夜景が一望できた。香奈がボンデージスーツに鼻フックをして、性器に洗濯ばさみをつけて立たされていた窓だ。
ツインベッドの向こうのソファの前の丸テーブルには大きな白い箱が置いてあり、その手前のビジネスデスクにはいつものビデオカメラとテープが三本置いてあった。
「あれを」
男はソファテーブルのほうを見て香奈に言った。香奈は「はい」と返事をすると、そちらのほうへ歩いていった。
「君はそこに」
男は僕をビデオカメラのあるデスクの椅子に座るように指示した。僕は言われるがままに座った。
香奈がソファの前に来ると、男は香奈に言った。
「シャワーを浴びて、それに着替えてきなさい」
香奈は「はい」と頷くと、包装もされていないその白い箱を抱え、バスルームへと入っていった。男は入れ替わりにソファのほうへ行くと座って煙草に火をつけた。僕はかしこまった状態のまま、香奈がシャワーを浴びる音を聞きながら黙って待った。男はただ外の夜景を見つめていた。
やがてシャワーの止まる音がして、それからさらにしばらく時間が過ぎたあとで、香奈がバスルームから出てきた。僕は思わず息を飲んだ。
香奈は光沢のあるシルクのブラックドレスを着てそこに立っていた。やはり光沢のある黒いヒールをはき、首元から小さなパールがついた三つのシルバーチェーンのネックレスをつけていた。そしてその恰好に見合うように、化粧も髪形もきちんと直していた。香奈はその姿のまま、嬉《うれ》しいのか恥ずかしいのか複雑な表情を浮かべてしばらくそこに立っていた。
「こっちへ」
男が満足気に言った。香奈は「はい」と、僕のことなど目に入っていないかのように僕の前を通り過ぎ、ソファに座る男の前に立った。
「気に入ったか?」
男がそう言うと、香奈は深々とお辞儀をした。
「ありがとうございます」
「窓のほうに立ちなさい」
男は香奈にそう言いながら、僕のほうをちらりと見た。その視線の先は僕ではなく、ビデオカメラだった。僕はその無言の指示に従って、大急ぎでテープをセットするとすぐに夜景を背にして少しだけ微笑む香奈の姿を録画し始めた。
ドレスは香奈の体の線をこれ以上ないくらい美しく淫靡《いんび》に見せていた。香奈の冷たくきれいな首筋、豊かな胸のライン、腰のくびれ、つんと張ったままの尻《しり》、裾《すそ》から伸びるストッキングをはかなくてもつるつると光るよく手入れされた膝から足首のライン。
女にドレスを贈るという一歩間違えれば噴飯もののその行為にも、やはり男には「明快な目的と意志」があった。
「自分できれいだと思ったか?」
男は言った。香奈は男を見ると笑顔を見せた。
「ありがとうございます。きれいな女になれたと思います」
男は頷くと立ち上がり、香奈の体を僕のほうへ向かせ、自分はその後ろに立った。そして両手で香奈の二の腕あたりを優しく押さえた。香奈は瞬時に恍惚《こうこつ》とした表情を浮かべ、喘《あえ》ぐような口元の動きをした。
男は香奈の耳元に口を近づけると、香奈に何事かを囁《ささや》いた。香奈の体がびくんと反応した。香奈は目を閉じ、男の言葉を全身で受け止めるようにしてゆっくりと吐息を漏らした。僕からは男の声は聞こえなかった。
やがて男はドレスの背中のファスナーを下ろしたようだった。ドレスの肩の部分に弛《たる》みができて、香奈の黒いブラの線が見えた。香奈が体をしならせると、胸から腰にかけて、香奈の体の上をドレスが踊るように揺れ、その皴《しわ》の光沢がカメラの中で反射した。
男は香奈の体に直接触れずに、感心するほどスマートに香奈のドレスを脱がせた。香奈は左足、右足の順番にそっと上げ、男はドレスをすっと引き抜いた。香奈の下着も上下ともシルクだった。これも男が与えた箱に入っていたのかもしれないと、ぼんやりと僕はそんなことを思っていた。
男は香奈の腰に軽く右手を添え、香奈をベッドに導いた。黒の下着にシルバーのネックレス、ヒール姿のまま、香奈はベッドに腰掛けさせられた。僕はなぜか立ち上がって、これまで男がいたソファのほうへ移動した。自分でもなぜかわからなかったが、もっとも香奈を映しやすいアングルのほうへ自然と体が動いていたのだ。
香奈は明らかに困惑していた。これまで、このように紳士的に男に扱われたことがなかったせいだろうと僕は思った。
男はクローゼットの前に立つと、自分で着ているものをすべて脱ぎ、スーツやシャツを丁寧にハンガーにかけた。そして悩みなく体毛の多い小太りの醜い裸を香奈と、そして僕と僕が構えるカメラの前に晒《さら》した。香奈はまだ勃起《ぼつき》していない男の粗末な性器を潤んだ目でじっと見つめていた。
男は香奈の前に跪《ひざまず》いた。香奈の顔に驚きの表情が浮かぶ。男は両手で丁寧に香奈のヒールを脱がせていった。
「御主人様……」
香奈が思わずそう声に出したが、男は無言で香奈を見つめ、「これでいい」という顔をした。香奈は緊張したように体を強《こわ》ばらせて、男がやりやすいように足をそっと上げた。
ヒールを脱がすと男は香奈の横に座り、手を後ろに回すとネックレスをすっと取った。カメラ越しに見ていても実に慣れた手つきだった。男は揃えたヒールの片方の中に、そのネックレスをゆっくりと置いた。
次に男は同じように香奈の背中に手を回し、ブラのホックを外した。香奈が恥ずかしそうに腕を前に縮めると、ゆるんだシルクの中で香奈の柔らかい乳房が美しい谷間をより強調する。男は優しい手つきで香奈の腕からブラを取り去り、枕元のほうへ置いた。
そこで男は香奈の体をゆっくりベッドに横たえた。香奈は緊張が解けないまま、二の腕で乳房を隠すようにして手を口元に当てていた。
そして男は香奈の体の隣に膝《ひざ》をついて座ると、するするとショーツも脱がせていった。
困惑していたのは香奈だけではない。「御主人様」として凌辱《りようじよく》の限りをつくしていると思っていた男が、これほど優しくスマートに女を導いていく様子に僕も驚いていた。
シーツの上で香奈の全裸が映っていた。どうしてよいのかわからないのか、香奈は足を閉じたままだった。閉じた部分から薄い陰毛が見える。男は香奈の全身を吟味するように見て、やがてその陰毛が覆う恥丘にゆっくりと口づけた。
「あ」
手で抑えた香奈の口元から声が漏れ、体がびくんと反応した。
そこから僕が見たのは、いちばん意外な光景だった。男は実にオーソドックスで優しく、紳士的で正常位だけのセックスを香奈にしたのだ。
指や手を使い、香奈の全身をくまなく愛撫《あいぶ》していくときも、香奈の体に傷をつけるようなこともしなかったし、淫乱《いんらん》な告白の言葉を強要することもなかった。ただ丹念に、香奈の体を隙なく味わうように舐《な》め、揉《も》み、撫《な》でていくだけだった。
香奈はずっとその恰好《かつこう》のままだった。ただ、その顔を見ると目を閉じて眉間に皴を寄せ、何かを我慢しているようにも見えた。ときどき「ああっ」と短い声は漏らすが、ひたすら男が初めて施すやり方に身を任せ、押し寄せてくるものを必死に堪《こら》えているような感じだった。男が背中や尻の膨らみを愛撫するために香奈の体をうつぶせにしたとき、香奈の尻のあたりのシーツは直径四十センチほどの染みを作っていて、香奈の内股《うちまた》はてかてかと光っていた。溢《あふ》れだしていた愛液だった。
男が香奈の体を再び仰向《あおむ》けにしたとき、香奈は目を開けて無言で奉仕の懇願をした。口を開かずとも、「今すぐ私にもしゃぶらせてください」という声が、男には、そして僕にも聞こえてきていた。しかし男はやはりそれを優しく拒むと、香奈の足をゆっくりと開き、自分の顔を香奈の性器に近づけ、ぺろぺろと舐《な》め始めた。
「御主人様、そんな……」
その香奈の驚きの声で僕は理解した。香奈が男にクンニをしてもらうのはきっとこれが初めてなのだ。
「奴隷のそんな……いいいいっ、気持ち、いい、ですっ」
堪えていたものが少しだけ決壊したようだった。香奈はついに言葉にしてその快楽を漏らした。
「気持ち良くなりなさい」
香奈の分厚い肉を押し開き、ピンク色の性器を露出させ、クリトリスを舐め上げてから男は言った。
「すごいです。もう、さっきから、奴隷は……、すご過ぎて……、はぁあああああっ」
香奈は思わず男の肩に手をかけて体をぴんと張った。
「駄目です、そんなことしていただいたら、奴隷はもう……、ああっ、あああ、はぁんっ、ああああ」
香奈の体の随所が小刻みに痙攣《けいれん》し始めていた。気づくと僕は中腰になって、ソファから立ち上がって二人に近づいてカメラを向けていた。
香奈はこれまで体中に溜《た》め込んだ快感を一気に爆発させようとしていた。小さいたくさんの痙攣が、少しずつ収束されて大きなうねりとなっていった。
「いって、いっても、よろしいですか、もう……」
「待ちなさい」
香奈がもう上り詰めようとしたその瞬間、男は香奈の性器の襞《ひだ》から舌を離して言った。そして立ち上がった。香奈はその舌の感触がなくなったことの悲しさと、押し寄せてきたまま戻ることがない快感に体をくねらせて耐えようとしていた。
男はそんな香奈を見ながら、コンドームをつけていた。そして横向きになって、ひくひくと小刻みな痙攣によって自分の存在を確認しているかのような香奈をもう一度仰向けにすると、足を開き、そのびしょびしょに濡《ぬ》れた性器の中へ、ゆっくりと自分の勃起したものを埋め込んでいった。
「はあっ」
香奈が小さく叫んだ。男はぐいっと腰を寄せ、根本まで香奈の中に挿入した。香奈はそのとき目を見開いて男を見つめた。驚きと悦《よろこ》びと恐怖。男はゆっくり香奈に覆いかぶさるようにして、香奈をぎゅっと抱きとめた。香奈は自分が何をしてもらっているのか、すぐには理解できないようだった。しかし、自分が今どんな状況にあるのかを把握したとき、香奈は男の背中に両手を回して強く抱きしめた。そしてその姿勢のまま、体中をがくがくと痙攣させながら、大声で泣きだした。
「嬉《うれ》しい……」
それが絶頂の言葉だった。香奈はその後、口をぱくぱくとさせながらも何の言葉も喘《あえ》ぎも発することなく、男に抱きとめられたまま一気に上り詰め、やがて全身からすっと力が抜けたようになった。
男は少しだけ顔を上げて香奈の顔を見ると、頭の後ろに回していた手を抜いて、香奈の頬の涙をそっと拭《ぬぐ》った。香奈は放心したような顔のまま、ゆっくり目を開けた。瞳《ひとみ》にはまだ涙がたっぷり溢れていた。
「きれいだぞ」
男は香奈の目を見つめて言った。香奈はその言葉にまた涙をぽろぽろとこぼした。そして男に手を回したまま、少女のようなかわいらしい顔をして言った。
「御主人様もいってくださいますか?」
男はふっと笑うと香奈の顔をまた自分の顔の横に抱き寄せた。お互いの腕に力がこもり、男と香奈はより体を密着させた。男の体から押し出されるように、香奈の乳房が横からはみ出るように躍った。
僕は一部始終をビデオに収めながら、叫びだしそうになったり気が狂いそうになったり怒りに震えたりすることがない自分にほっとしていた。このセックスを邪魔してはいけない。僕はただこれをきちんと記録しなければならない。
香奈はあたりまえだが、これほど醜い体をした男と香奈のセックスの美しさに、僕は涙さえ出そうになっていた。
そしてもちろん、どうしようもないくらい勃起《ぼつき》していた。
お互いの汗で体中を光らせながら、男は腰だけの動きで性器を出し入れさせ、香奈も腰の動きだけでそれに応《こた》えた。ぐちゃっぐちゃっぐちゃっという淫《みだ》らな音が響き渡った。
「またすぐにいきそうです」
香奈が喘ぎながらそう告げた。男は頷いた。
「一緒にいくか?」
これほど陳腐な言葉が、これほど相応《ふさわ》しい場所で相応しく発せられるのを僕は初めて聞いた。
香奈は今にも泣きだしそうな顔になりながら、口をぎゅっと閉じて頷《うなず》くと、目を閉じて全身で男の体を感じ、そして自分もまたその高みへと向かっていった。
「私はもう、いつでも、いきそう、あああああっ……」
「すごくいいぞ、香奈」
男も少し息を荒くしながら言った。香奈はそんな男の本気の吐息を初めて聞く嬉しさを、体中で味わった。
「奴隷のわがままを、ひとつ、聞いて……、ください」
速いテンポになった喘ぎ声の合間に香奈が搾り出すように言った。男は無言で「言ってみなさい」と香奈に伝えた。
「最後のお願いです、いくとき、奴隷に、キスをして、ください」
香奈はそれだけ言い切ると、あとは大きな声で喘ぎ続けた。男は返事をしなかったし、香奈もその返事を待ったりしなかった。
二人は同じタイミングで腰を強く振り始めた。そしてその数秒後、男は顔を上げると、香奈の唇に自分の唇を押し付けた。香奈はその瞬間、背中に回していた手を男の頭に回すと、愛《いと》おしそうに抱きしめ、唇のはしから涎《よだれ》がこぼれることも気にせずに舌を入れ、激しく男の舌と絡ませた。
「いくぞ」
唇の隙間から男の声が漏れた。香奈はより唇を押し付けることでそれに返事をした。二人の口の中で、香奈の絶叫が響き渡り、その体は波打つように痙攣した。
男がぴたりと動きを止めた。そしてしばらくしてから、全部出し切るように数回、香奈の性器に自分のものを打ち付けるようにした。
香奈はもう動かなかった。頭に回した手と口づけた唇と繋《つな》がった性器はそのままに、完全に失神していた。
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♯16
あのとき「御主人様」は香奈に「一年間よく頑張ったね」と言った。
今さら気がついたが、僕も香奈とは一年間の関係だった。あれも「御主人様」の指令だったのだろうか。
僕は香奈と四月に出会い、六月に初めてのセックスをして、それが終わったのは翌年の六月だった。僕が思う「本当の関係」になったのは十一月からだったが、最初のセックスからカウントすればちょうど一年だった。
そのとき、「御主人様」が香奈にそうしたように、僕は香奈に捨てられた。
「どうかした? 重い?」
妻の声で我に返った。僕はカフェレストランで寝入ってしまった二歳の息子を抱っこしたままで、どうやらずっと空を見つめていたようだった。
「ミッキーと写真撮れてこいつの希望も叶《かな》ったな」
僕は笑顔を向けて妻に言った。妻も嬉しそうに笑った。
僕はさっき見かけた、六年会っていなかった香奈の姿を思い出していた。
ひとつ確かなのは、一緒にいたのは夫だということ。そして香奈の子供の歳を考えると、僕との関係が終わったあとにすぐ妊娠したのだろうということだった。
僕のほうは香奈と終わってから四年後に息子が生まれた。
妻は僕が縛られてヒールで性器を踏みつけられたり、跨《また》がった女の性器を六時間も舐《な》め続けたり、尻《しり》の穴に女が装着したペニスバンドを入れられたりしたことを知らない。
しかも、指示があればその女の性器にひどいことを言いながら野菜を入れたり、人目につくかもしれないような場所で尻を思いきり叩《たた》きながらバックから犯したり、ザーメンだけでなく小便も飲ませるような行為を平気でしていたことも知らない。
それはいわゆるSMですらなかった。プレイとしての本格SMに向かった人たちにさえ、僕と香奈のことは理解されないと思う。
僕はあの男の言葉が今でも頭から離れない。
「SMとは嗜好《しこう》ではなく関係性の問題だ」
おそらく僕は、香奈とその関係を築いたのだろう。
香奈のことは関係があった当時も、そして今も、考えても結論の出ないことばかりで僕はいつももどかしい気持ちになる。
しかしたったひとつ確かで、もっとも大事なことは、僕は香奈ならばいついかなるときでも勃起していたという厳然たる事実だった。現に今も、子供を抱きながら妻と話しているのに、僕は猛烈に勃起していた。
男はこうも言った。
「君なら私と違う方法で、私よりも大きな国を築くことができるよ。お世辞ではなく、君にはそうなるべき性癖がある」
そして彼が予想していたものかどうかはわからないし、それが「大きな国」だったのかもわからないが、僕は香奈に捨てられた後で、「違うこと」をした。
それは妻に対する、僕と妻の関係自体の秘密だ。男が香奈を通じて僕に調教をしたように、僕はある別の男を通じて妻に「あること」を施している。
しかし今は、まだそれを語るべきときではないだろう。
僕が当時したこと、そしてその後にしたことは正しい行いだったのだろうか。
今すぐ何か言い訳を作って妻と子を置いて、香奈が並ぼうとしていた「イッツ・ア・スモールワールド」のほうへ走っていきたいような気もしたし、もうこのまま息子が寝てしまったのを理由にこの場から一刻も早く立ち去りたい気もしていた。
「どうする? 大変だから行こうか?」
妻が訊《き》いた。僕は妻の顔と息子の顔を交互に見つめ、ゆっくり勃起を収めていった。
僕は「そうだな」と頷いて、息子を抱き上げて席を立った。
失神した香奈を、男はずっと抱いたまま髪を撫《な》でていた。香奈は気を失ってからそのまま眠りに落ちたようで、体を密着させたまま左手を男の腰に添えていた。
いちばん嬉《うれ》しい快感をもらった香奈の体は今まで以上にきれいに思えた。僕は触れることはできなかったが、ビデオで丹念にその体のラインをなぞった。
やがて男は香奈の頬を優しく撫でた。しばらくそうしていると、香奈が目を開け、そこに「御主人様」がそのままでいてくれたことが嬉しくて仕方がないような笑顔を見せた。男も香奈に微笑みかけた。
「シャワーを浴びておいで。そろそろ時間だ」
しかし香奈はその言葉に一瞬にして目に涙を浮かべ始めた。奴隷として生きてきたこの生活がまもなく終わってしまう、いちばん気持ち良かったプレイはもう終わってしまっているということを、まだ信じたくないような涙だった。
しかし男は香奈を「さあ」と促した。香奈は男に目だけで、「御主人様の体を洗わせてください」と訴えかけたが、男は首を横に振って微笑み、「行きなさい」と目で告げた。
「まだいてくださいますか」
香奈は立ち上がると言った。男は頷いた。その返事を確かめてから香奈は小走りにバスルームにかけていき、やがてシャワーの音が聞こえてきた。男は僕のことなど目に入っていないような様子で、ベッドに横たわったまま天井をぼんやりと見つめていた。萎《な》えた性器がだらしなく垂れていた。
僕はいつのまにかテープが終わっていたことに気がついて、慌てて新しいテープをカメラにセットした。
香奈はよっぽど男に先に帰られてしまうのが怖かったのだろう。本当にあっという間にバスタオルを体に巻きつけて出てきた。
「俺も浴びる。急がなくてもよかったのに」
男が笑った。香奈は恥ずかしそうに俯《うつむ》いた。男は立ち上がるとそのままの姿でバスルームへ向かった。
やはり香奈はそこでも「お供させてください」と目で訴えたが、男は首を横に振るだけだった。
男がシャワーを浴びる音が聞こえてきた。
香奈がようやくカメラを構える僕を見た。そしてまるで、「あなたならわかるでしょう」とでも言いたそうな感じで頷くと、ベッドから落ちていた下着を手に取った。
香奈は手早く下着をつけると、ベッド脇に並べてあったヒールをはいた。そのとき違和感を感じて香奈は中を見た。
男が入れたネックレスがあった。
香奈は嬉しそうでもあり悲しそうでもある顔でそれを見つめると、鏡の前でつけた。
香奈の目が僕のほうを見た。
僕が座っているソファの前のテーブルに、男が置いたシルクドレスがあった。僕は何も言わずにそのドレスを手にして、香奈のほうへ行って渡した。香奈は頭からかぶると体の線に合わせてドレスの弛《たる》みを直していった。僕はまるで下僕のように、背中のファスナーを上げた。
香奈は僕を見向きもしなかった。
そして鏡に向かったまま手で髪の乱れを直し、バッグの中から化粧ポーチを取りだして、口紅を引き直し、アイラインを直した。唇をきゅっと結んで口紅を馴染《なじ》ませてから、ふっと大きく息をついた香奈に、僕は目まいがした。こんなに美しい女が存在することが不思議だった。
香奈はまた同志を見るような目で僕を見つめて頷いた。そして、ベッドの脇にバスルームのほうを向いて跪《ひざまず》き、男が出てくるのを待った。
男は出てきたときにその香奈の姿に驚きもしなかったし、何も言わなかった。そのまま香奈の横を過ぎて、クローゼットから自分のシャツやスーツを取りだした。
香奈は男が下着をはき、シャツとスーツを着て、靴下と靴をはくのを、一昔前の世話女房のように後ろから手伝った。そして男がネクタイを締め終わると、またさきほどのようにドレス姿のまま跪いた。
男は香奈に近づくと微笑みながら頭を優しく撫でた。
「一年間よく頑張ったね」
僕は後ろからその姿を映しながら、香奈が必死に涙を堪《こら》えているのがわかった。何かを言おうとするのだが、言葉を口にした瞬間、せき止めていたものが溢れだしそうな感じだった。
「幸せになりなさい、香奈」
男はそう言うと後ろを向いた。そしてドアのほうへ歩いていった。香奈の体がびくんと震えたが、香奈は最後まで何も言えないままだった。
男はドアを開けるとそのまま振り向きもせずに去っていった。
香奈の全身から力が抜けていった。手を床につき、その場に倒れ込みそうになる自分を必死に耐えていた。そして十分以上、自分で決めたのか絶対に泣こうとはせずに、ひたすらあらゆる感情に耐えていた。
「まだ私が好き?」
僕もすっかり放心状態だったので、香奈がそう言ったのが今ここで聞こえてくる言葉なのかどうか最初はわからなかった。
「……もちろん」
僕は慌てて答えた。僕の声はひどくかすれていて、震えていた。
「あなたは全部知ったわ」
カメラの中で香奈がドアのほうを向いたまま言葉を続けた。
「私は夫がいるのに、愛してもくれない男の奴隷だった」
香奈の声はとても冷静だった。
「そんな男に何度も恥ずかしいことをされて、そうしてもらうことで何度も何度も悦《よろこ》ぶようになってしまった」
僕は黙ってカメラを向けることしかできなかった。
「私のそんな姿を見てどう思った?」
「それでも僕は……」
僕は言いかけたが香奈はその言葉を遮った。
「今日みたいに目の前でしてる姿を見て嫌いにならないの?」
「いや……」
「男にザーメンかけられるだけで、アナルに指を入れられるだけでいっちゃうような女よ」
僕はまた黙るしかなかった。ひとつだけ確かなのは、僕の勃起が収まることがないということだけだった。
「それでもあなたのおちんちんは勃《た》つのね」
香奈は僕を振り向きもせずにそう言い切った。僕の心臓は飛びだしそうなくらいどきどきしていた。
「それでも私のおまんこが大好きなのね」
さきほどからの言葉が、いつのまにか疑問形ではなくなっていた。
「こういうことに興奮するんだって自分で気づいた?」
僕は催眠術にかかっているような気持ちだった。
「私といっぱいセックスがしたいのね?」
語尾のイントネーションがかろうじて疑問形だったので、僕は声を振り絞って返事をした。
「はい」
それから香奈はしばらく黙った。
何の音もしない何も動かない時間が過ぎ去っていった。
「じゃあ」
やがて香奈はそう言って僕のほうを向いた。
体中が一瞬にして痺《しび》れてまったく動けなくなった。振り返った香奈の目は、さっきまでいた「御主人様」と同じ目だった。
そして最後に香奈は僕にその言葉を告げた。
思いもよらない言葉だった。でもその瞬間、僕は出会ったその日から、ずっと香奈にそう言われる日を待っていた自分に気がついた。だから「はい」と即答した。その僕自身の言葉は、僕の体の中を貫く、今まで感じたことがないような快感を呼び寄せた。
香奈は僕にこう言った。
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「私の奴隷になりなさい」
角川文庫『私の奴隷になりなさい』平成19年12月25日初版発行
平成20年1月30日再版発行