筑摩eブックス
ザ・ベスト・オブ・サキ U
[#地から2字上げ]サキ
[#地から2字上げ]中西秀男訳
目次
1
夢みる人
マルメロの木
禁じられたハゲタカ
クローヴィス、親の責任を論ず
休日の仕事
太らせた牡ウシ
話し上手な男
覇者のまもり
オオシカ
ペンのストライキ
聖マリエさまの日
納戸部屋
毛皮
博愛家と仕合わせなネコ
お気に召したらお買い上げを
2
ルイズ
お茶
クリスピナ・アムバリーの失踪
セルノグラツ城のオオカミ
ルーイス
大勢の泊まり客
罪のあがない
まぼろしの午餐
バーティのクリスマス・イブ
邪魔立てする者
ウズラの餌
ミセス・ペンザビーは例外
マーク
ハリネズミ
牡ウシ
モールヴェラ
ショック戦略
七個のクリーム入れ
緊急用庭園
ヒヤシンス
戦争終結の日まで
3
四角な卵――アナグマの見た塹壕戦の泥
4
闇に撃った一発
こよみ
やむを得ない事情
池
宿舎の問題
訳者のあとがき
1
夢みる人
[#地から2字上げ]The Dreamer
バーゲン・セールの季節だった。大百貨店「ワルプルギス・アンド・ネトルピンク」もまる一週間値下げした。業界の|仕《し》|来《きた》りに従って値を下げたのだ。ちょうど、大公妃殿下が近所一帯インフルエンザの流行中だというだけの理由で不承不承インフルエンザにかかるようなものである。アディーラ・チェムピングはお高くとまって世間普通のバーゲン・セールの誘惑にはひっかからない。だが、「ワルプルギス・アンド・ネトルピンク」の割引週間だけは必ず行くことにしていた。
「わたくし、バーゲンあさりはしやしませんけどね」と彼女はいった、「バーゲン・セールをしている店へ行くのは大好き」
この言葉から見ると表面上確乎たる強い性格を見せてはいるが、その下には人並みにかよわい人間性をひそめていることがわかる。
誰か男を道連れにして行こうと考えて、彼女は一ばん年の若い甥にたのみこんで、バーゲン・セールの初日にいっしょに行ってもらうことにした。帰りに映画を見て軽い食事もするという餌をつけたのだ。男というものはある程度まで発育すると荷物を持たされるのを絶対にいやがる。甥のスィプリアンはまだ十八歳になっていないから、たぶんそこまで発育していないだろう、というのだ。
「園芸部を出たところで待っていてね」と手紙に書いてやった。「十一時を一分すぎてもだめよ」
スィプリアンはずっと子供のころから夢みる人の、あの不思議そうな目つきをしていた。普通の人間には見えない物が見える目であり、平凡な人間には思いもよらないことが読み取れる目だ。つまり、詩人の目であり不動産仲介業者の目である。服装は地味である――思春期はじめの若者によく見かける地味な服装で、小説家などでは未亡人になった母親の影響であると書くところだ。頭はコンブのような髪を生えぎわからうしろに撫でつけ、左右にわけた分け目は分け目と見えないほど心細い。アディーラとスィプリアンが約束の場所で落ち合ったとき、叔母は何よりもまずこのヘア・スタイルが目についた。
「帽子はどうしたの?」と彼女がたずねた。
「かぶって来ませんでした」と甥が答えた。
アディーラ・チェムピングはほんの少しムッとした。
「おまえ、まさか世間でいうあの|変わり者《ナ ッ ツ》みたいな人間になるんじゃあるまいね?」と少し心配になってたずねてみた。第一、妹のあの世帯で息子がナッツになるとはぜいたくな話だという気もしたが、一つにはまた、ナッツというのは未発達の段階でも荷物を持たされるのをいやがりはしないかと、本能的に不安を感じたのである。
スィプリアンは例の不思議そうな、夢みるような目つきで叔母の顔を見た。
「買物するとき邪魔になるんで帽子はかぶらずに来たんです。もしか知ってる人にあって帽子を取らなけりゃならないとき、荷物を両手にかかえていると具合がわるいんですよ。かぶっていなければ帽子を取らずにすみますからね」
ミセス・チェムピングはホッと安心の吐息をもらした。何よりの心配が解決したのである。
「でも帽子をかぶっているのが本式よね」といったが、そのまま当面の問題にパッと注意を向け直した。
「まずナプキン売場へ行きましょう」と先に立って歩きながらアディーラはいった、「わたし、少しナプキンを見て行きたいの」
スィプリアンはそのあとについて行く。不思議そうな目つきがいちだんとまた不思議そうになった。とかく傍観者の立場を好みすぎるといわれる年ごろなのだが、それにしても買う気もないナプキンを見るのが楽しみとは彼の理解を越えていた。ミセス・チェムピングはナプキンを一枚二枚光線に向けてからじっとそれを見詰めた。何か革命さわぎの暗号でも、見えないインクで書いてあると思っているらしい。やがて突然、今度はガラス製品売場の方へ歩き出した。
「ミリセントにたのまれたのよ、デカンターを二つ三つ買ってきてって、もし本当に値段の安いのがあったら」と歩きながら説明を加えた、「それにわたしもサラダ・ボウルが一つほしいの。ナプキンはあとでまた回ってくるからいいわ」
彼女はデカンターとサラダ・ボウルをたくさんいじり回してよく調べたあげく、とうとう最後にキクを生ける花瓶を七個買いこんだ。
「いまどきこんな花瓶、誰も使いやしないけど」とスィプリアンに打ち明け話をした、「今度のクリスマス・プレゼントにピッタリよね」
日傘が二本、途方もなく安いとミセス・チェムピングの目に止まって彼女の買上品となった。
「一本はルス・コルソンにあげるの。そら、あの人、そのうちマレー半島へ出かけて行くから日傘ならいつでも使えるわ。それに便箋も少しあげなきゃね、便箋なら荷物へ入れてもかさばらないから」
「ねえ、どう思う? ルスはブルーが好きかしらグレーが好きかしら」
「グレーです」とスィプリアンが答えた。グレーという女性にはまだ一度もあったことがない。
「この手の便箋でモーブ色のはなくて?」とアディーラは売子にたずねた。
「モーブはございません。グリーンとも少し濃いグレーならございますが」
ミセス・チェムピングはグリーンの便箋と濃いグレーの便箋をよく調べてからブルーの便箋を買いこんだ。
「さあ、これでランチにしましょうか」と彼女はいった。
喫茶室におけるスィプリアンの行動は模範的だった。二時間におよぶ熱心な買物に対する十分なる体力回復剤としてフィッシュ・ケーキとミンチ・パイとコーヒーのデミタスを一ぱい、彼はきげんよく食べた。しかし、帽子売場で男子用帽子にムズムズするほど安い値札がついているのを叔母にすすめられたとき、彼は頑として拒否した。
「帽子ならうちにいくらでもあるんです」と彼はいった、「それにここでかぶってみたりすると髪も乱れますしね」
もしかしたらこの息子、結局はナッツになってしまうのかも知れない、という気がした。買った品を残らずクローク・ルームへ預けたのも心配の種である。
「どうせ荷物はもっともっとふえるんでしょう?」と彼はいった、「ですからすっかり買物がすむまで預けておきゃいいんですよ」
叔母はしぶしぶ承知した。しかし、こうして買物に出歩く楽しみと興奮は、買った品物を直接肌に感じなくなるといくらか蒸発してなくなるものらしい。
「わたし、さっきのナプキンを見てくるからね」と地階への階段を下りながら叔母がいった。「おまえはこなくてもいいわ」とあとから付けたした。とたんにスィプリアンの夢みるような目はかすかな抗議の目に変わった、「あとで食卓用品売場へ来ておくれ、いま思い出したけどうちには当てになる栓ぬきが一つもないのよ」
やがて叔母が食卓用品売場へやって来たが、スィプリアンの姿はどこにも見えない。しかし客も売子も入り乱れて大混雑の最中だから、姿を見失うのはもちろん当然のことだ。およそ十五分ばかりしてから、アディーラ・チェムピングは甥の姿を皮革製品売場で発見した。だが鞄やトランクの山があいだにそびえているし、今や店中いたるところ押し合いへし合いの人ごみで身動きもできない。やっとのことでいっしょになると、スィプリアンは一人の客に売子とまちがえられたところだった。その女客は帽子をかぶっていないスィプリアンを遠くから見つけ、断乎たる決意をもって人ごみを押しわけてきて、気に入ったハンド・バッグの割引値段を息もきれぎれに問い詰めていたのである。
「そら、ごらん」とアディーラは思わずつぶやいた、「売子とまちがえたのよ、その人。帽子をかぶっていないから。もう何べんもまちがえられたんだろう、きっと」
事実その通りだったかも知れない。とにかくスィプリアンは売子とまちがえられて驚いた様子もなければ困った顔も見せなかった。ハンド・バッグの値札を見ると、彼はハッキリした声で平然と読み上げた――
「三十四シリングのところ特別割引価格二十八シリング。実はこの品、特別に二十六シリングに下げてさばいているところでございます。よく出ますよ」
「これ、買います」とその女客は財布の底からしきりに金を捜している。
「このままおもちになりますか?」とスィプリアンはたずねた、「お包みするのに二、三分かかりますが、この混雑ですから」
「構いません、このままもって行きます」と大事な掘出し物を受けとるとスィプリアンの手のひらへ金を勘定してわたした。
まるきり知らない人が五、六人、親切にもアディーラを支えて外へ連れ出してくれた。
「この混雑ですもの」と、その一人が別の一人にいった、「誰だってフラフラしてしまいますわ」
そのつぎ彼女が巡り会ったとき、スィプリアンは書籍売場のカウンターを囲んで押し合っている人ごみの中に立っていた。夢みるような例の目つきがいちだんとまた夢みているように見えた。今しがた年配の大聖堂管理委員に祈祷集を二冊販売したところだったのだ。
マルメロの木
[#地から2字上げ]The Quince Tree
「ベツィ・マレンおばさんのところへ行って来たのよ」とヴェラが伯母のミセス・ベバリーに報告した、「あの人、家賃が払えなくて困ってるらしいのね。もう十五週間もたまってるんですって。それにこれからお金の入ってくるあてもないんですって」
「ベツィ・マレンはいつだって家賃で困ってるのよ、それを助けてやればやるほど、当人はいよいよ平気なんだから」と伯母がいった、「わたし、もう絶対助けてやらないつもり。もっと狭くて家賃の安い家へ引っこすのが本当なのさ。向こうの村外れへ行けばいま払ってる――いや払うことになってる家賃の半分でいくらも貸家があるんだし。もう一年も前にいったのよ、引っこしなさいって」
「でもどこへ行ったってあんないい庭ありゃしないわ」とヴェラがいい返した、「隅の方にとても美事なマルメロの木が一本あるわね。教区中さがしたってあんな立派なマルメロの木ほかにないわよ。そのくせあの人、けしてマルメロのジャムこしらえないのね。マルメロの木がうちにあるのにマルメロのジャムをこしらえないなんて、とてもきつい性格の人だと思うわ。あの人があのうちを引っこすなんて絶対不可能よ」
「十六歳ぐらいのときはね」とミセス・ベバリー・カムブルがきびしい口調をした、「何でも性に合わないことはすぐ不可能だなんていい出すけど、あの人は狭いうちへ引っこしもできるし引っこすのが本当なのさ。家財道具だってあの広いうちに住むほどあるわけじゃなし」
「値打のこといったらベツィのうちにはね」と少し間をおいてヴェラがいった、「あそこのうちにはここ何マイル四方どこにもないほど値打のあるものがあるのよ」
「ばかなことを! 時代物の陶器なんぞ、もう何年も前に手放してるわ」
「ベツィがもってる物のことじゃないのよ」とヴェラはいわくありそうな顔をした、「でもしゃべっちゃわるいわね、伯母さんの知らないこと知ってても」
「すぐいいなさい」と伯母が大声を出した。五官がパッと警戒態勢に入ったのだ。ウトウトしていたテリヤが不意にネズミ狩の姿勢を取ったようだ。
「わたし、あのこと、ひと言もしゃべっちゃいけない、ってよく承知してるのよ。でもわたし、いけないことよくやりますよね」
「そりゃわたしだって、いけないことをしなさい、なんていうつもりはもちろんないけど――」とミセス・ベバリー・カムブルが重々しく切り出した。
「わたしはね、つもりはないなんていわれると、すぐぐらつき出すのよ」とヴェラは告白した、「だからしゃべってはいけないんだけどお話しするわ」
伯母は当然ムッと腹が立ったが、それはグイと舞台裏へ引っこめて、じれったそうに尋問に取りかかった。
「一体ベツィ・マレンのうちに何があるの? そんなに騒ぎ立てるなんて」
「別にわたし騒ぎ立てるわけじゃないわ。わたしが口にするのは今はじめてだけど、これまでさんざん問題にされた不可解な事件で、新聞までああだろうのこうだろうのと書き立てたのよ。でもちょいと痛快ね、あてにならない新聞記事がどんどん出たり警察や探偵が国の内外くまなくあさり廻ったりしたのを思い出すと。その間ずっとあの何ということもないうちに秘密がひそんでたんですもの」
「まさかルーヴル美術館の名画じゃないだろうね? そら、ラ・ナントカというニッコリ笑った女の絵。二年ばかり前になくなったわね」と伯母はだんだん興奮して大声を出した。
「いいえ、ちがうわ。あれじゃないの。でもあれに劣らず大変な、あれに劣らず不可解な――どっちかといったらあれよりもっとひどいことなのよ」
「もしやあれかい? あのダブリン市の?――」
ヴェラは首をたてにふった。
「あれが全部そっくり」
「ベツィのうちにあるの? まさか!」
「むろん当人のベツィは何が何だかさっぱり知りませんのよ」とヴェラがいった、「何か値打のあるものだ、黙って知らんふりしなけりゃならない、とは思ってるの。わたし、ふとしたことで品物の来歴も、どうしてベツィのところにあるんだかも感づいたのよ。盗んだ連中が隠し場所に困ってたのね、どこへ隠したら大丈夫かわからなくて。そのうち誰かが車で村を通りかかって、ベツィのうちがポツンと一軒ヒッソリしてるのに目をつけたわけ。これこそ持ってこいの場所だ、と思ったのね。ミセス・ラムパーが口をきいてベツィに話をつけ、コッソリはこびこんだのよ」
「ミセス・ラムパーが?」
「そうなの。あの人、教会の巡回訪問でよくあちこち廻ってますからね」
「貧乏なうちへスープだのフランネルの生地だのためになる本だの配って歩くのは知ってたけど」とミセス・ベバリー・カムブルがいった、「でもそれ、盗んだ品の後始末とは別だわね。きっとその品物の来歴もいくらか知ってたのね。ちょいとでも新聞をのぞいていればあの盗難事件は知ってるはずだし、品物だって見ればあらかたわかるでしょう。ミセス・ラムパーといったら良心的な人だといつも評判だったのに」
「もちろん誰かを庇ってしたんですね」とヴェラがいった、「この事件でびっくりしたのは大変な人数の、それも社会的に立派な人ばかり誰かを庇おうとしてかかり合いになってるんです。そんな人の名前をいちいちきいたら伯母さんもびっくりなさるわ。しかし最初に盗み出したのは誰だか、知ってる人は十人に一人もいませんの。さあ、これで伯母さんも事件のかかり合いになりましたよね、ベツィのうちの秘密をきいちゃったんだから」
「絶対かかり合いになんぞなるもんですか」とミセス・ベバリー・カムブルはいきり立った、「わたし、誰のことも庇う気なんてありゃしないから。とにかく、すぐ警察へ届けなけりゃ――窃盗は窃盗ですよ、誰がかかり合っていようと。どんな立派な人だって盗んだ物を引きうけたり処分したりしたら、もう立派な人じゃありませんよ。わたし、すぐ電話をかけて――」
「まあ伯母さんったら」とヴェラが責めるような声をした、「そんなことをしてもしカスバートがかかり合いになりでもしたら、|大聖堂参事《キャノン》さまがガックリ参って大変ですわよ。ねえ、そうでしょう?」
「カスバートがかかり合いなんて、とんでもない! よくもおまえそんなこといえるね、うち中それこそ大事にしてるんですよ、あの人」
「そりゃもちろんわたしだってよく知ってますわよ、みんなでカスバートをチヤホヤしてるし、カスバートは伯母さんとこのビアトリスの婚約者だし、とてもすてきな縁組だってことも伯母さんには理想のむすめむこだってことも、ちゃんと知ってますわよ。でもベツィのうちへ隠すときめたのはカスバートなんですよ。自動車ではこびこんだのもやっぱりカスバートですよ。でもそんなことしたのはただ友達のペギンソンを助けるためなの――伯母さん、知ってますわね、あのクエーカー信者の人、いつも海軍縮少運動でさわいでますね。それがどうしてかかり合いになったかそれはわたし忘れましたけど、社会的に立派な人が大勢かかり合いになってるって、さっきいったでしょう? ベツィがあのうちから動くのは絶対不可能といったのはそれなんですよ。あれだけの品物だからかなり場所も取りますし、あの品物と家財までかかえて引っこしたらすぐ世間の目につきますわよ。もちろん、万一ベツィが病気になったり死んだりしたら、それもやっぱり大困りですけど、ベツィの話だとベツィのお母さんは九十越すまで長生きしたんですってね。だからちゃんとからだに気をつけて心配苦労のないようにしていれば、少なくともあと十年は大丈夫ですよね。それまでには品物の隠し場所もほかに何とかきまるでしょうよ」
「わたし、カスバートに話してみるわ――式がすんでからね」とミセス・ベバリー・カムブルはいった。
※
「結婚式は来年になってからよ」とヴェラがいった。一番仲よしの友達にこの話をしたときのことだ。「それまでのところ、ベツィはあのうちに家賃なしで住んでられるの、毎週二へんスープを届けてもらって。指一本でも痛くなると伯母が医者をさし向けてよこすのよ」
「でも一体どうして事件に感づいたの、あなた?」と友達がきいた。目を丸くして感心している。
「不可解だったわ――」とヴェラがいった。
「不可解はもちろんよ。不可解だから誰も首をひねったのね。でもどうにもわからないのは一体あなたどうして――」
「ああ、あの宝石のこと? あれ、わたしが発明したのよ」とヴェラが種を明かした、「不可解といったのはね、ベツィのためこんだ家賃が結局どこから出るかさっぱりわからない、って意味なのよ、ベツィにしたらあのマルメロの木ととても別れられやしないんだもの」
禁じられたハゲタカ
[#地から2字上げ]The Forbidden Buzzards
「君は縁組の世話なども少しはするのか?」とヒューゴー・ピータビーがたずねた。どうやら自分のことらしく気合いのこもった口調である。
「うん、専門じゃないがね」とクローヴィスがいった、「縁組の世話もしているうちはいいんだが、ときどき余波をくらって参ることがある――せっかく骨折って結婚させてやったあげく、恨めしそうな顔をじっと向けられたりするよ。まるでわるい癖がいろいろあるウマを黙って売りつけたら、狩のシーズンが深まるにつれポツポツ相手がウマの癖に感づいたときみたいだ。いやなもんだよ。君、きっとあのコールタネブ家のむすめのことが頭にあるんだろう。たしかにいいむすめだし、顔立ちもちゃんとしてるし、財産も相当ついてるはずだ。だがいったいどうしたらあのむすめにプロポーズできるかなあ。何しろ、ぼくはあのむすめと知り合ってからこれまで、三分間つづけておしゃべりを止めてるのは見た覚えがない。まず、あのむすめと賭でもして|芝囲い《パドック》をぐるぐる六ぺん廻る競走をして、相手が息切れで物のいえないうち、ズバリとプロポーズするんだね。|芝囲い《パドック》はいま牧草を仕立てる下準備がしてあるが、本当にあのむすめを愛してるんなら牧草なんぞ問題じゃない、第一他人の牧草なんだからな」
「四時間か五時間ふたりきりになれたら何とかプロポーズはできると思うんだ。困ったのはとてもそんな都合になれそうもないのさ。あのランナーの奴、どうも同じところに目をつけてる徴候がある。奴ときたら呆れ返るほど|金《かね》はあるし、男っぷりも奴なりになかなかパリッとしてる。事実、ここのうちの奥さんまで奴が泊まりに来たんでご機嫌なんだ。あいつがベティ・コールタネブに気があると感づきでもしたが最後、これは素敵な縁組だとばかり、一日中ふたりを抱き合わせておくぜ。そうなったらぼくの立場はどうなるんだ? だから何とかしてあいつをベティから遠ざけておきたい――それがぼくの唯一の念願なのさ。君、何とか助けてくれないかなあ」
「ランナーの奴をそこらあたり方々引きまわして、古代ローマ人の遺跡なるものを見学させたり、このへんの養蜂経営や農産物栽培の実際を見せたり、そんなことをぼくにしろというなら残念ながらお断りだな」とクローヴィスはいった、「何しろあいつ、いつかの晩の喫煙室での一件以来、ぼくに反感をもってるからね」
「喫煙室でどうした?」
「あいつ、誰も知ってるカビの生えた話を出来たてのジョークみたいにしゃべりやがった。だから何気ないふりでいってやったのさ――その話が大好きだったのはジョージ二世陛下でしたかね、それともジェームズ二世陛下でしたかね、とさ。それきりあいつ、丁重に構えて表には出さないが、ぼくを憎んでるんだ。ぼくも機会さえあればせいぜい君のご用はつとめるよ。しかし当り障りのない遠まわしな手を使わなきゃなるまいな」
※
「ミスター・ランナーが来てくだすって素敵ですわ」と、次の日の午後、ここのうちの奥方ミセス・オルストンがクローヴィスに打ち明けていった、「これまで何度もお招きしましたけど、いつも先約がおありでしたの。いいお方ですわね、ちゃんとしたお嬢さんと結婚なさるといいのに。実はね、ここだけの話ですけど、あの方、うちへ泊まりに来てくだすったのは何か理由があるような気がしますのよ」
「ぼくもそんな気がしていました」とクローヴィスはいった、「いや、まず確かにそうだと思うんです」
「というとこういう事ですか? あの方、何か目をつけたものがあって……」とミセス・オルストンが乗り出してきた。
「手に入れたいものがあってきた、と思うんですよ」
「手に入れたいものですって?」と奥方はいった。少しムッとしたらしい声だ。「それどういうこと? あの方、大変なお金持でしょう、ここのうちで手に入れるものなんて、何もありゃしませんわ」
「あの男はひとつ夢中で熱を上げてるものがありましてね。ぼくの知ってる限り、イギリス全国さがそうと義理にも|金《かね》にもお宅でなければ絶対手に入らないものが実はあるんです」
「何でしょう、それ? 何のことなんですの? 夢中で熱を上げてるって何なんです?」
「トリの卵のコレクションですよ。世界中に手をひろげて珍しい卵を集めさせています。だからあの人のコレクションはヨーロッパ一流ですよ。ただし、その貴重な卵を直接自分の手で集めるのが何よりの念願でしてね、そのためには手間にも|金《かね》にも糸目はつけやしません」
「さあ大変! あのハゲタカ、脚に羽毛のあるハゲタカがうちの森にいるんです」とミセス・オルストンは大声を立てた、「まさかハゲタカの巣をあさりはしないでしょうね?」
「どう思います、あなた?」とクローヴィスはたずねた、「現在イギリスに住んでる脚に羽毛のあるハゲタカはひと|番《つがい》だけといいます。それがお宅の森に巣を作ってるわけですね。それを知ってる人はあまりありませんが、ランナーは稀鳥保護連盟のメンバーですから当然知ってるはずですぞ。ぼく、お宅へ来るときランナーと同じ汽車でしたが、ランナーの旅行鞄にはちゃんとドレッサー著の『ヨーロッパの鳥類』が一冊入ってました。どっしりした分厚い本で、短翼種のタカとハゲタカの巻なんです」
つく値打のあるウソは上手につけ――これがクローヴィスの信念だった。
「困ったわ」とミセス・オルストンがいった、「もしあのハゲタカに何かあったら、それこそ主人が何というでしょう? この一、二年、うちの森へ姿は見せましたが、巣を作ったのは今年はじめてなんですの。おっしゃる通りイギリス全国にあのひと|番《つがい》きりしかいません。その巣がうちへ泊めてるお客に荒らされるなんて……何としてでも止めてもらいますわ。直接あの方にお願いしてみたらどうでしょう?」
クローヴィスは声を立てて笑った。
「実はこのごろ噂があるんです。こまかいところもだいたい事実だろうと思うんですが、あまり前のことじゃありません、マルモラ海沿岸の何とかいう土地で事件があって、それにランナーが関係してるんですな。シリヤ産のヨタカか何か、あるアルメニヤ人の金持のもってるオリーブ園に巣を作ってるんです。ところがその男、どういうわけかランナーが卵を取りに入るのを許さないんですね、許可料として現金まで突きつけたんですが。結局、一日か二日するとそのアルメニヤ人はぶちのめされて半死半生で発見されました。マホメット教徒におそわれたんだろうという事にされて、どこの国の領事館のレポートにもそうなってます。しかし卵はちゃんとランナーのコレクションに入ってるんですからね。だめでしょう、ぼくならランナーにお願いなんぞしませんよ」
「でもどうかしなきゃなりませんわ」とミセス・オルストンは涙をこぼした、「主人はノールウェーへ出発するとき、あのハゲタカ、そっとしておくんだぞ、と厳重にいいわたして出かけたんですの。手紙をよこすたび、いつもハゲタカのことを問い合わせてきます。ねえ、どうしたらいいでしょう?」
「ピケットを張るんですな」とクローヴィスはいった。
「ピケットですって! ハゲタカのまわりに番人を立てておくんですか?」
「いいや、ランナーのまわりです。日が暮れるとランナーだってこのへんの森は歩けやしません。だからあなたかイヴリンかジャックか、あのドイツ人の家庭教師か、一日中交代で誰かひとりランナーに付きそって離れないようにすりゃいいんです。泊まりに来ている相客なら振りきれますが、ここのうちの人では振りきるわけに行きませんからね。いくらコレクションに夢中の男でも禁じられたハゲタカの卵を取りに木登りなんぞしやしませんよ、ドイツ人の家庭教師に首根っこへぶらさがっていられたら」
ランナーはコールタネブ家のむすめにいいよる機会をのろくさねらっていたが、やがてむすめとふたりきりになる機会はほんの十分間もなくなってしまった。相手がひとりぼっちになっても、こっちは絶対ひとりぼっちになれないのだ。ここの奥方の態度もランナーに関する限りガラリと変わって、泊まり客をそれぞれ好きなように放っておく望ましいタイプから、お客をそこら中|馬《ま》|鍬《ぐわ》みたいに引きまわすタイプに変わった。薬草園を見せたり温室を見せたり、村の教会堂へ案内したり、いつか妹がコルシカ島でかいてきた水彩画を見せたり、いまに時節がくればセロリが生える場所を見せたりする。アイルズベリ種のアヒルの子も拝見したし、ミツバチの病気がはやらなかったらミツバチがいたはずのずらりと並んだ巣箱も拝見した。遠い小径を行き止まりまで連れて行かれて、むかしデーン人がテント暮らしをしたと土地の伝えにある小さな丘を遥かに見せてもらいもした。何か用事ができて奥方がしばしランナーを離れる場合は、必ずイヴリンがニコリともせず並んで歩く。イヴリンは十四歳だ。善だとか悪だとか、もし人がそれぞれ全力をつくして努力したらこの世はどの位よくなるでしょうか、とか、そんな事しか話さない。だからジャックがイヴリンに交代するとホッとするのが例だった。ジャックは九歳でもっぱらバルカン戦争の話ばかりするが、別にバルカン戦争の歴史的背景にも政治的過去にも新しい意見があるわけではない。ドイツ人の家庭教師からはシルレルのことをいやというほど聞かされた。たったひとりの人物のことをこれだけ聞かされたのは初めてである。ゲーテには興味がありません、などといったのがこっちの落度だったかも知れない。やがて家庭教師がピケット係りをつとめ上げると、入れ替ってミセス・オルストンが着任して、大政治家チャールズ・ジェイムズ・フォックスのことを覚えているお婆さんの住家へご案内しましょうと四の五のいわせぬお誘いだ。その婆さんは二、三年前に死んだが住んでた家はまだそのまま、というわけである。そんなこんなでランナーは急用ができて予定より早くロンドンへ引き上げた。
ヒューゴーはベティ・コールタナブをくどき落とすところまで行けなかった。プロポーズして断られたのか、それともこれが一般の推定だが、つづけて三|言《こと》と口を出すチャンスもなかったのか、そのへんの事情はまだ正確にわからない。とにかくベティは今もコールタナブ家のいいむすめのままでいる。
ハゲタカはヒナを二羽ちゃんと育て上げたが、村の理髪師に銃でうたれてしまった。
クローヴィス、親の責任を論ず
[#地から2字上げ]Clovis on Parental Responsibilities
メアリアン・エグルビーはクローヴィスと話をしていた。メアリアンが進んで話したがる話題は一つしかない。卓抜非凡なるわが子の長所と美点である。だがクローヴィスの心境はいわゆる受入れ態勢ができていなかった。親心の印象主義で途方もなく色あざやかに描いて見せられても、エグルビー家の若き世代はいっこう彼の熱意を喚起しなかったのだ。だがミセス・エグルビーの方はたっぷり二人前も熱意をそなえていた。
「エリクはきっとお気に召すと思いますのよ」ミセス・エグルビーがいった。自信たっぷりというより誇張十分という口ぶりである。つい今しがた、エミーにしろウィリーにしろ、お宅のお子さま方はとても好きにはなれそうもありませんぞ、とハッキリいわれたばかりなのだ。「エリクなら大丈夫お気に召しますわ。どなたにも一目で気に入られますの。有名な若きダビデの名画がありますわね。エリクはいつでもあの名画を思い出させますのよ――名は忘れましたけど有名な画家の絵ですわ」
「そう伺うとぼくはきっとエリクに反感をもつと思います、ちょいちょい顔を合わせますとね」とクローヴィスはいった、「まあ考えてもごらんなさい。たとえばオークション・ブリッジをやってる、とします。ぼくのパートナーが最初にデクレヤした札は何だったか、相手が最初に捨てた札は何だったか、そんなことを忘れまいと必死に頭を集中してるとき、若きダビデの肖像を思い出せ、なんてしつこくせがまれたら、さあ、どんな気がします? 頭へくるにきまってますね。エリクがそんなことをするんなら、そんな奴、ぼく、大きらいですよ」
「エリクはブリッジなんてやりませんわよ」とミセス・エグルビーが凛としていった。
「やらない? なぜやらないんです?」とクローヴィスは聞き返した。
「うちの子供はみなトランプはしないようにしつけてありますの。チェッカーだのハルマだの、そんなゲームはどんどんやらせてますけどね。エリクはチェッカーの名人で通ってますのよ」
「お子さま方の行く手に恐るべき危険をまき散らしてらっしゃいますな、あなたは」とクローヴィスがいった、「ぼくの友人に刑務所の教誨師をしている男がいますがね、その男の話ですと、彼の見るかぎり、死刑囚だの長期囚だの、もっとも兇悪な犯罪人にブリッジをやる者は一人もいないそうです。ところがチェッカーとなると、少なくとも二人は名人がいた、といいますよ」
「うちの子供と犯罪人と何の関係もありゃしませんわ」とミセス・エグルビーはいやな顔をした、「できるだけ気をつけて育てて来ましたもの」
「それでわかりますな。あなたはお子さま方が将来どんな人間になるか心配でならなかったのですね。ところがです、ぼくの母親はぼくを育てるのに苦労なんててんでしませんでしたよ。いつも忘れなかったのは、ほどよく間をおいてぶんなぐるのと、正と邪とのちがいを教えこむだけでした。正と邪とは何かちがいがあるんですね、何だか忘れましたが」
「まあ、正と邪のちがいを忘れた、とおっしゃるんですか!」とミセス・エグルビーは大きな声を出した。
「そうです。何しろ博物学だの何だの、いろんな学科をいちどきに習いましたからね。何もかも覚えているわけには行かないんですよ。普通のヤマネとサルジニヤ産のヤマネはどこがちがうんだか、アリスイがイギリスへわたってくるのはカッコウより早いかおそいか、セイウチはどのくらいかかって成熟するか、もとはそんなことをちゃんと知ってました。きっと奥さまもご存知だったでしょう。ですがもうすっかりお忘れになったにちがいありませんな」
「そんなこと、大事じゃありませんもの」とミセス・エグルビーはいった、「でも――」
「あなたもぼくもちゃんと忘れた――それが実は大事な証拠ですよ。お気づきでしょうが大事なことに限ってきっと忘れるもんです。ところが、つまらない、どうでもいいことは頭にひっついてけして忘れません。たとえば、ぼくのいとこのエディサ・クラバリーですね。エディサの誕生日が十月十二日だってことは、ぼく、絶対に忘れないんです。何月何日に生まれようがてんから生まれなかったろうが、ぼくには全然つまらない、どうでもいいことなんです――いとこならほかにぞろぞろいますからね。ところがです、ぼくがヒルデガード・シュラブリーのところへ泊まっていると、ヒルデガードの最初の夫が芳しくない評判を取ったのは競馬だったか株の取引だったか、その大事なことをすっかり忘れてしまいます。それが不確かだとスポーツの話も経済問題も話にも出せませんよ。旅行の話もだめなんです。二度目の夫が永久に外地暮らしの身の上ですからね」
「ミセス・シュラブリーとわたくしは全然ちがったサークルと付き合ってますわよ」
「ヒルデガードを知ってる人なら、あの女がぐるぐるサークルを廻って暮らしても誰も文句はつけませんな。ガソリンをじゃんじゃん使ってノン・ストップでぶっ飛ばす――それがヒルデガードの人生哲学ですからね。誰かガソリン代を負担する人があればますます結構、というわけなんです。打ち明けてお話しますが、知り合いの女性の中では、ぼく、あの人から一番教わりました」
「どんなことですか、それ?」とミセス・エグルビーはつめよった。陪審が退席して相談もせず評決を下すとき、一同そろってそんな顔をする。
「さあ、いろいろありますが、まずロブスターの料理法を少なくとも四種類は教えてもらいましたよ」とクローヴィスはありがたそうな声をした、「でもそれはもちろんあまり感心なさらないでしょう。トランプの楽しみを控えている人には、繊細微妙な食事の可能性のすべてを本当に味わうことはできませんから。使わずに放っておくので高級な快楽を享受する能力が衰退するらしいですね」
「ロブスターを食べて大病になった伯母がひとりいますわよ」とミセス・エグルビーはいった。
「おそらくですね。その伯母上の過去をもっとよく調べると、ロブスターを食べる以前も度々病気をなすった、と判明するでしょうよ。隠してらっしゃるんじゃありませんか、ロブスターを食べるずっと前からハシカだのインフルエンザだの神経性頭痛だのヒステリーだの、そのほか世間のおばさん連中がかかるいろんな病気をなすったのを。大体、一日も病気をしたことのないおばさんというのはごく稀で、ぼくは直接には一人も知りません。もちろん生後二週間のとき食べたとすればそれが最初の――そして最後の病気だったでしょうがね。しかしもしそうだとすれば前からそうおっしゃったでしょうし」
「わたくし、失礼しなきゃなりませんわ」とミセス・エグルビーはいった。遺憾残念の心持は完全に消毒して毛の先ほども残っていない口調である。
クローヴィスは上品な身ぶりで残念そうに立ち上がった。
「エリクちゃんのこと、いろいろ伺って愉快でした。いつかお目にかかるのを楽しんでおります」
「さよなら」とミセス・エグルビーは凍りついたような声をした。それから喉の奥の方で補足的な発言をした――
「ぜったいあわせてやるもんか!」
休日の仕事
[#地から2字上げ]A Holiday Task
ケネルム・ジャートンがゴールデン・ガレオン・ホテルの食堂へ入って行くと、ちょうどランチ・タイムで大混雑の最中だった。席はほとんどふさがって、スペースのあるところへ小型の補助テーブルを出してあとから来た客をさばいている有様だ。だから隣のテーブルに危なくさわりそうなテーブルが多い。ジャートンはボーイの案内で、見わたすところひとつしかない空いたテーブルへ腰を下ろした。食堂中の客に見つめられているような気がして厭だが、もちろん見つめられる理由は何もない。彼はまだ中年前の男で、風采もごく普通だし服装も地味で態度も控え目な方である。それなのに、まるで自分が知名の士か大変な変わり者でもあるように、人からじろじろ見られている感じがどうにも消えなかった。ランチを注文してしまうと厭でも待っていることになる。テーブルの花瓶をじっと見つめたり、四、五人のフラッパーや、も少し成熟した女どもや皮肉そうな目つきのユダヤ人に見つめられたり(これはジャートンの空想だ)、それよりほか何もすることがない。所在なさに困ったのを何とか平気な顔で切りぬけようと、彼は花瓶に生けてある花に興味があるふりをした。
「このバラは何という品種だね?」と彼はボーイにたずねた。メニューやワイン・リストに出ている品のことを聞かれると、いつ何時でも即座に自分の無知をごま化すボーイだが、バラの品種を聞かれると正直に存じませんと返事をした。
「それ、エィミ・シルヴェスター・パーティントンですよ」とジャートンの肘のあたりで声がした。
そういったのは感じのいい顔立ちの、服装も立派な若い女性で、ジャートンのテーブルのすぐそばのテーブルについている。彼はあわてふためいてお礼をいった。そしてそのバラについて二言三言あたりさわりのないことをいった。
「変ですわね」とその若い女性がいった、「わたし、バラの名前は別に思い出そうとしないでもいえたでしょう? ところが、もしわたしの名をお聞きになったら、まったくご返事できませんのよ」
ジャートンは隣のテーブルの客の名まで聞きたいなどとはまるきり思いもしなかったが、相手からこんな意外なことを聞かされると、礼儀として一応聞きかえさなくてはならないことになった。
「そうなんですの」とその女性は答えた、「記憶喪失症の気味だと思いますのよ。汽車でまいりましたが途中で乗車券を見ると、ロンドンのヴィクトリア駅からここへ来ることになってるんですね。五ポンド紙幣が二、三枚と一ポンドの金貨が一枚、それだけは持ち合わせてましたけど、名刺も何もありませんから自分が誰だかわからないんですの。何か爵位があったような気がします。ナントカ爵夫人なんですね、わたしは――それきりであとは何も覚えておりませんのよ」
「何か手荷物はおもちじゃなかったんですか?」とジャートンはたずねた。
「それがわからないんですのよ。このホテルの名は知っておりましたから、とにかくここへ来ることにしました。駅へ迎えに出たホテルの赤帽にお荷物は? と聞かれましたので、何とか化粧かばんと旅行かばんをひねり出さなきゃなりませんわね。そこで、とっさに荷物はどこかへまぎれこんだことにして、名前はスミスと教えてやりましたのよ。すると荷物や乗客がゴタゴタ混雑している中から、ケストレル・スミスと名札のついた化粧かばんと旅行かばんをもってきました。そうなると受け取らなけりゃなりませんわね、ほかにどうしようもありませんもの」
ジャートンは何ともいわなかったが、その荷物の本当の持主はいったいどうするだろうと思った。
「もちろんはじめてのホテルへケストレル・スミスなんて名で泊まるなんて困りますわ。でも手荷物ひとつ持たずに泊まるよりはましですわね。とにかくわたし、トラブルを起こすのは嫌いなんですの」
ジャートンは困り切った鉄道員や取り乱した乗客が頭に浮かんだが、それを口には出さなかった。女はまた話をつづけた。
「鍵はいくつも持っていますけど、もちろん合いませんわね。ところが鍵はリングごと失くしたといいましたら、利口なボーイがアッという間に錠を外してくれましたのよ。少し頭がよすぎますわね、そのボーイ。きっと末はダートムーア刑務所行きかも知れませんわ。ケストレル・スミスさんの化粧品はあまり上等じゃありませんけど、ないよりはましでしたわ」
「爵位をおもちのような気がするのでしたら、貴族名鑑を取りよせてお調べになったらいいじゃないですか?」
「それもやりましたのよ、ウィテーカー年鑑で上院議員のリストをざっと見ましたけど、ただ名前がズラリ並んでいるだけ、さっぱりわかりません。もし自分が陸軍士官だったとして自分が誰だかわからなくなったら、軍人名簿を何カ月読んだってわかりゃしませんわね。それと同じことなんですの。そこで今度は別の手で調べようと思ってます。いろいろの点から考えてわたしが誰ではないか、それを調べて行けば少しは範囲がせばまりますわね。たとえば、お気づきになりましたか、わたし、いまロブスター・ニューバーグを食べてたでしょう?」
ジャートンはそんな事はまったく気にとめていなかった。
「これぜいたくな料理なんですよ、メニューの中でいちばん値段が高い方ですからね。それでとにかく、わたしがスターピング夫人でないのは確かですわ、あの人、けしてエビやカニは食べませんからね。それにブラドルシュラブ夫人ったらとても消化がわるい方ですから、もしわたしがあの方だったら夕方までに苦しんで死んじまいますわ。そうなったら新聞も警察もわたしの身許を突きとめるのに処置なしで困るでしょうね。ニューフォード夫人はバラの花の見さかいがつかない上に男嫌いですから、もしわたしがあの方だったとしたら、あなたに口をきくはずはありませんし、マウスヒルトン夫人だったら男と見たら誰にでもいちゃつくでしょう――わたし、あなたにいちゃつきませんでしたわね?」
ジャートンはすぐさまあつらえ向きの返事をした。
「それ、ごらんなさい、それでリストから四人は外せましたのよ」
「ですが最後のひとりになるまで外していくのにかなりかかるでしょう」
「そりゃそうですわ。でも全然わたしでありっこない人がたくさんありますのよ――孫のある人だの成人式を迎えた息子のある人だの。ですから、わたしと同じくらいの年配の人だけ当ってみればいいんです。よろしかったらこれから手伝って頂けませんか? 月おくれの『田園生活』だのそんな雑誌が喫煙室にいろいろありますわね。それを見てわたしが坊やか何か抱いてる写真を探してくださらない? 十分とかかりませんわ。ではあとでお茶のとき、またラウンジでお目にかかりましょう。さよなら」
そういうとその正体不明の美人は、自分の正体の探求をジャートンに押しつけあそばして、立ち上がって食堂を出て行ったが、ジャートンのテーブルのところを通るとき、ふと足をとめて耳打ちした。
「今わたしがボーイにチップを一シリングやったの、ごらんになったでしょう? それでアルワイト夫人はリストから外せますわ。あの方、そんなことする位なら死んでしまいますからね」
五時になるとジャートンはホテルのラウンジへ出張した。喫煙室で十五分間、写真入りの週刊誌をせっせと探したが結局何も収穫がなかったのだ。さきほど知り合った女性はもう小型の茶卓についており、ボーイがひとり、そばにご用命を待っていた。
「シナ茶になさる? それともインド茶?」と女はジャートンが近よると声をかけた。
「シナ茶を頂きます。食べるものはいりません。何かわかりましたか?」
「それが、誰はわたしじゃない、という事ばっかりですの。わたしはベフノル夫人でもないのね、あの方、賭事はいっさい大嫌いですから。わたし、ロビーで有名な競馬の賭元を見かけましたから、三時十五分発走のレースに出るミトロヴィッツァ調教所のウィリアム三世の子だという、まだ名のつけてないメスウマに十ポンド賭けましたのよ。名前のないウマというのが気に入ったらしいのね」
「そのウマ、優勝しましたか?」
「だめ、四着だったのよ。優勝しないまでも三着以内と見こんで賭けたりするとこれなんですもの、ウマって困るわね。とにかく、これでベフノル夫人でないことはわかりましたわ」
「かなり高いものにつきましたね、それを調べるのが」
「そうね、わたしもうすっからかんなのよ」と自分の正体探索中の女性はいった、「残ってるのは二シリング銀貨一枚だけ、そら、ランチに食べたロブスター・ニューバーグがかなりの値段でしたし、ケストレル・スミスの錠を外してくれたボーイにチップもやらなきゃならないし。でも名案が浮かびましたのよ。わたし、きっとピボット・クラブの会員だったにちがいないと思いますの。ロンドンへもどってクラブの受付にわたし宛の手紙が来てるかどうか聞いてみますわ。会員の顔はひとり残らず見覚えてますから、わたし宛の手紙か電報でも来ていたら、それで問題は解決しますわね。もし来ておりませんといったら、『わたし誰だか知ってる?』って聞いてやりますから、どっちにしてもわかるはずね」
なるほど名案らしいがその計画の実行には困難がある。ジャートンはそれに気がついて、経費のことを口にした。
「もちろんそうですわね。ロンドンまでの汽車賃もかかるし、ホテルの支払いやタクシー代もかかりますね。三ポンド貸してくださればそれで楽に帰れますわよ。どうもありがとう。それからあの荷物がありますね。死ぬまであれをしょいこんでるのも厭ですから、わたし、荷物は玄関のホールへ下ろさせますわ。あなた、わたしが手紙を書くうち荷物の番をしているふりをしてくださいな。わたしはこっそり駅へ出かけます。そしたらあなたはぶらりと喫煙室へ行っちまうんですね。荷物はホテルが勝手に何とかするでしょう。少しあとで広告を出せば持主が取りに来ますよ」
ジャートンが黙ってその計画に乗り荷物の番をしているうち、ケストレル・スミスの手荷物の臨時の持主は目立たぬようにホテルを出て行った。しかし出て行く姿に誰ひとり気づかないわけではない。ふたり連れの紳士がジャートンのそばをぶらりと通りながら、ひとりが相手の男にいった。
「いま出て行ったグレーの服を着た女、気がついたかい? あの人はね――」
つかみあぐんだ彼女の正体が暴露するかと思った瞬間、その紳士は声の聞こえないところへ行ってしまった、いったい、あの女の名は何だろう? しかしまったくの他人を追いかけて話にわりこみ、いま通りすがった人のことを聞くこともできない。それに荷物の番をしている格好もしている必要がある。しかし、一、二分するとその重要人物、彼女の名を知っている紳士がひとりでまた戻ってきた。ジャートンは全身の勇気をふるい起こしてその紳士を待ち伏せた。
「二、三分前に出て行った女の方をご存知のようにおっしゃっていましたね。背の高い、グレーの服の方です。失礼ですがあの方の名を教えてくださいませんか? 実はわたし、いままで三十分ばかりあの方と話をしていたんですが、向こうではわたしの家族をみなご存知だし、わたしのこともご存知らしいんです。きっと前にどこかでお目にかかった方だとは思うんですが、どうにも名前が思い出せません。もし教えて頂けますと――」
「はい、はい。あれはミセス・ストループとかいう人ですよ」
「ミセスですか? |夫人《レデイ》じゃありません?」とジャートンは聞き返した。
「ミセスです。わたしの郷里の方のゴルフの|女流選手権《レディ・チャンピオン》保持者でしてね、とてもいい人で上流社会にもよく出入りしてますが、ひとつ困った癖がありましてね、ときどき記憶が全然なくなってよく問題を起こしますよ。むろんカンカンに怒りますな、あとでその事をもち出しますと。じゃ失礼」
その紳士は行ってしまった。そしてジャートンがいま聞いた事をよく消化し切れないうち、ふと気がつくと怒った顔をした女がひとり、ホテルの受付を相手に大声で詰問している。
「駅からまちがえてここへよこした荷物がありゃしません? 化粧かばんと旅行かばんです。どれにもケストレル・スミスと名が書いてあるんです。どこを捜しても見つかりません。ヴィクトリア駅で積みこむところをちゃんとこの目で見たんです、確かに。あら、あそこにあるわ、わたしの荷物! 錠がいじってあるわ!」
ジャートンはその先を聞かなかった。かけ出してトルコ風呂へ逃げこみ、そのまま何時間も出てこなかったのである。
太らせた牡ウシ
[#地から2字上げ]The Stalled Ox
画家テオフィル・エシュリーは周囲の事情に押されてウシ専門の画家をしていた。しかし牧場や酩農場に住んでいるわけではなく、ツノやヒヅメや乳しぼり用の腰かけや|焼《やき》|印《いん》や、そんなものだらけの中に住んでいるわけでもない。彼の家はあちこち別荘がちらばる荘園めいたところにあって、市外というよりまずまず田園らしいところだ。庭の一方の外は絵にかいたような狭い牧草地で、商売気のある隣の人がチャンネル・アイランド種の絵にかいたような小型のウシを何頭も飼っていた。夏の真昼はクルミの木立のかげにウシが伸びた牧草に膝までつかって立って、ハツカネズミのようにつやつやした肌にまだらな木洩れ日を受けている。一度、のどかな乳牛を二頭、それにクルミの木と牧草と木洩れ日を取り合わせた優雅な画面を思いついて描き上げたところ、王立美術院が夏の展覧会にそれをちゃんと展示してくれた。王立美術院というところは出品者がいつも必ず同じような絵を出すことを奨励する。エシュリーはクルミの木かげにウシが絵のようにまどろんでいるところを描いて美事に入選した。だからいったん乗り出した以上、やむを得ずその手をつづけた。まず「真昼の静けさ」――これはクルミの木かげにいる二頭の焦げ茶色のウシを扱ったもの。つづいて「真昼の聖所」――これはクルミの木を扱ってその木かげに焦げ茶色のウシが二頭いるところを描いた。それから順を追って「アブも襲わざるところ」、「ウシの安息地」、「搾乳場の夢」と、どれもこれもクルミの木と焦げ茶色のウシを描いたものばかりである。その伝統をみずから破ろうとした絵は二点とも大失敗だった。「スズメタカに怯えるヤマバト」も「ローマ市近郊のオオカミ」も、けしからん邪道をいくものということで却下された。そこでエシュリーは「木かげにまどろむ乳牛の夢」を描いて王立美術院のご|眷《けん》|顧《こ》を取りもどし、ふたたび世間の注目をあつめたのである。
秋も末の、ある天気のいい昼すぎ、エシュリーが牧場の草を描いた絵に仕上げの筆を加えていると、隣のアディーラ・ピングズフォードが画室の外側のドアを有無をいわせぬ勢いで烈しくたたいた。
「うちの庭へウシが一頭入ってるんですよ」と彼女は申しわたした。えらい勢いで侵入してきた説明である。
「ウシですか?」とエシュリーは上の空でいって、間ぬけなことをきいた、「種類は何です?」
「そんなこと知りやしません」と相手はピシャリと答えて、「あたり前のウシですよ。そのあたり[#「あたり」に傍点]というのが困るんです、あたり[#「あたり」に傍点]散らされると大変ですからね。冬の用意に手入れしたばかりで、ウシにうろつかれてはろくなことありませんわ。それに今ちょうどキクの花が咲きかけてますしね」
「どうして庭へ入ったんでしょう?」
「たぶん門からでしょう」と相手がもどかしそうにいった、「塀を越して入るはずはなし、ボブリルの広告に飛行機から落とすなんてこともないでしょう? いま焦眉の問題はどうして入ったかじゃなくて、どうして外へ出すかなんです」
「ひとりで出て行きはしませんかね?」
「ひとりで出たがってるんなら」と、アディーラ・ピングズフォードは怒った声でいった、「わざわざその話をしにここまで来やしません。今わたし、ひとりきり同然なんですよ。女中は昼すぎから暇をやって外出させましたし、コックは神経痛で寝こんでるんです。せまい庭へ大きなウシが入ったのをどうして外へ出すか、学校で習ってるか卒業してから聞いてるか知りませんけど、すっかり忘れて思い出せません。やっと思いついたのは、あなたはすぐお隣だしウシを専門に描く方だし、画題のことなら多少はご存知だろうから少しは手伝って頂けるかも、と思ったんです。勘ちがいでしょうか?」
「そりゃ確かにぼくはウシを描いています」とエシュリーは承認した、「しかし迷いこんだウシをつかまえた経験は残念ながらありません。もちろん映画でそんな現場を見たことはありますよ。しかしそれにはウマや何か道具立てが必ず必要なんです。それに映画という奴、どこまでインチキだかわかりませんしね」
アディーラ・ピングズフォードは何ともいわず、先に立って自分の庭へエシュリーを連れこんだ。いつもは相当に広い庭なのだが、入りこんだウシとくらべると狭く見える。ひどく大きなマダラウシで、首と肩のあたりはくすんだ赤だが、横腹と尻の方へかけてだんだん汚い白に変わり、耳は毛むくじゃらで大きな目が血走っている。エシュリーがいつも描く狭い牧場にいる優雅な牡ウシとは大ちがいだ。クルジスタンの遊牧民の酋長とニッポンのゲイシャ・ガールほどちがう。エシュリーは門のすぐそばに立ち止まって、ウシの外観と行動とを観察した。アディーラ・ピングズフォードは引きつづき何ともいわない。
「キクの花を一輪食べてますね」とエシュリーがとうとういった。黙りこんでいるのにやり切れなくなったのだ。
「まあ、よくおわかりですこと!」とアディーラが皮肉をいった、「何でもちゃんと見てるんですね。実はあのウシ、口の中に、現在、キクの花が六輪入ってるんです」
いよいよどうかしなければならない立場になってきた。エシュリーはウシの方へひと足ふた足近よって、手をたたくと「シッ」とか「シュー」とかいうような声を立てた。それが聞こえたかどうかわからないが、とにかく聞こえたらしい様子はまったく示さない。
「今度うちの庭へニワトリが迷いこんだら、あなたに来て頂いて追っぱらってもらいますわ」とアディーラがいった、「あなた、『シュー』がとてもお上手ですから。しかしさし当り、あのウシ、追い出してみて頂けません? そら、いま食べ始めたキクはマドモアゼル・ルイス・ビジョー種なんですわ」と彼女は冷たく落ち着きをはらって付けたした。燃えるようなオレンジ色のキクがまた一輪、大きな口へムシャムシャと呑みこまれた。
「キクの種類を教えて頂きましたお礼に、ぼくも教えてあげましょう、あれはアイアシャ種の牡ウシなんです」
冷たい落ち着きはけしとんで、アディーラ・ピングズフォードが物凄い言葉を発したので、エシュリーは思わずウシに二、三フィート近よった。そしてスイートピーの支柱を一本取るとまだらのあるウシの横腹めがけて決然と投げつけた。ウシはマドモアゼル・ルイス・ビジョーをよく咬んでサラダにする作業を一時ストップして、小枝を投げつけた人間に目を向けて注意を集中した。アディーラも同じように注意を集中し、しかし明らかに反感を見せながら、同じ目標を見つめた。ウシは首を下げもしなければ足で地面をけりもしない。エシュリーはもう一本スイートピーの支柱を取ってウシにもう一ぺん投げつけた。ウシは、帰らなきゃまずいな、とすぐ覚ったらしく、最後にひと口、急いでキクの花壇をパクリとやると、大股で庭をどんどん歩き出した。エシュリーはかけ出してウシを門の方へ向けようとしたが、歩いていたのをドタドタかけ出させただけに終った。ウシはいぶかるような様子はしたが別にためらうでもなく、善意の人でもなければクローケー・コートとは呼びそうもない狭い芝生を横切り、あけてあったフランス窓から居間へふみこんだ。あちこちに花瓶があってキクや何か秋の花が生けてある。ウシはまたもやムシャムシャを開始した。しかしエシュリーはウシの目に追いつめられる|獣《けもの》の目つきが出てきたような気がした。これは軽視できない目つきである。そこでウシがどの花瓶をえらぼうと干渉の手を出すのは止めることにした。
「ミスター・エシュリー」と、アディーラが声をふるわせた、「わたし、あのウシを庭から追い出すのをお願いしたんですよ。うちの中へ追いこんでくださいとは頼みません。どうでもこの屋敷の中にいるというんなら、居間へ入られるより庭の方がまだましですわ」
「何しろウシ使いはぼくの専門じゃありませんのでね」とエシュリーはいった。「たしか最初にそういったはずです」
「たしかに伺いましたわ」とアディーラは押し返した、「かわいいウシのかわいい絵をかくのが、あなたに向いてるんですわ。あの牡ウシがうちの居間にゆったり落ち着いてるところをスケッチなすったらどう?」
一寸の虫にも五分の魂、とかいう。そういわれるとエシュリーは大股に帰りかけた。
「どこへいらっしゃる?」とアディーラが大声を立てた。
「道具を取ってきます」と返事があった。
「道具ですって? ここで投げ縄なんぞ使われては困りますわ。組み打ちになったらこの部屋が台なしです」
しかしエシュリーはどんどん庭から出て行って一、二分すると戻ってきた。画架と、写生用の腰かけと、絵の具などをしょっている。
「ウシがうちの居間を荒らしてるのに、平気で腰かけてあのウシをかくつもりなんですか?」とアディーラはあいた口がふさがらない。
「あなたからヒントを頂きましたんでね」と、エシュリーはカンバスを画架にかけた。
「お断りします。絶対にお断りします!」とアディーラはどなった。
「どうしてあなたにこの問題に口を出す権利があるんだか、全然わかりませんな。まさかあれはうちのウシだともいえないでしょう、たとえこれから養子にするにしろ」
「忘れてらっしゃるようですが、わたしの居間でわたしの花を食べてるんですよ」
「忘れてらっしゃるようですがお宅のコックは神経痛なんですぞ。今ようやくウトウト眠りかけて痛みを忘れかけたところかも知れません。ガミガミどなると目を覚ましますぞ。われわれのような身分の者は|他《ひ》|人《と》に対する思いやりを指導原理とするべきです」
「気ちがいだわ、この人!」とアディーラは悲痛な叫びをあげた。次の瞬間、気が狂いそうなのはアディーラ自身だった。ウシは花瓶の花を全部と『イスラエル・カリシュ』の表紙を平らげたあと、ここはどうも少し狭苦しいから出かけようかと考えているらしかった。そわそわした様子に気づくと、エシュリーは即座にウシにアメリカヅタの束をいくつも投げてやった。じっと動かずにいてくれないと困る。
「あの諺、何といったかなあ」と彼はいった。「『憎しみあるところの太らせたウシより野草の方がうまい』とか何とかいったな。この諺の部分品、そっくりここに揃ってるらしいぞ」
「わたし、図書館へ行って警察へ電話してもらいますわ」アディーラはそういいわたすと、声に出してプリプリ怒りながら出かけて行った。
何分かあと、油かすと刻んだマンゴールドがいつもの牛舎に届いてる頃かな、と気がついたらしく、ウシは用心しながら居間から歩き出し、さっきスイートピーの支柱を投げつけた人間がもうおとなしくなっているのを念入りに見きわめ、ノソリノソリと、しかしさっさと庭から出て行った。エシュリーも道具を取りまとめてウシの例にならい、この『ラークディーン荘』は神経痛のコックだけになった。
このエピソードは画家エシュリーの一生の転機となった。彼の傑作『晩秋の居間にいるウシ』はパリの次のサロン展で大成功をおさめ一大センセーションをまき起こし、その後、ミュンヘンで公開されると牛肉エキスの会社が三社まで烈しくせり合ったのを押し切って、ババリヤ政庁が買い上げた。それ以来、エシュリーは画壇に確乎たる不動の地位を占め、二年後、王立美術院は彼の大作『貴夫人の私室をあらすバーバリザル』をもっとも目立つ壁面に喜んで展示した。
エシュリーはアディーラ・ピングズフォードに『イスラエル・カリシュ』の新本を一冊、それに美事な花をつけたマダム・アンドレ・ブリュッセ種のキクを二株プレゼントした。だがふたりの間に本当の和解らしいものはまだ成り立っていない。
話し上手な男
[#地から2字上げ]The Story-Teller
暑い日の昼すぎだった。列車の|車室《コムパートメント》も従って蒸しあつく、次の駅テムプルコームまではまだ一時間近くある。|車室《コムパートメント》を占領しているのは小さな女の子がひとり、もっと小さい女の子がもうひとり、それに小さな男の子の三人で、その三人の伯母さんは一方の隅にかけていた。向かい合った側の向こうの隅にはひとり者の男がかけているが、これは子供たち一行とは他人である。だが女の子ふたりと男の子ひとりが断然この|車室《コムパートメント》を占領していた。伯母さんと子供たちは時たま、しかししつこく言葉をやり取りしていて、まるで追っても追っても離れないハエのように小うるさい。伯母さんの言葉はたいがい「いけません」と始まり、子供たちの言葉は「なぜ」と始まるらしい。ひとり者は黙りこんでいた。
「いけませんよ、シリル、いけません」と伯母さんが大きな声を出した。小さい男の子が座席のクッションをバタバタたたき始めたのだ。たたく度に雲のように埃が立つ。
「さあ、窓の外を見てごらん」と伯母さんがいった。
いわれた男の子はいやいやながら窓のところへ行った。「あのヒツジ、なぜあの原っぱから追い出されてるの?」
「きっともっと草のたくさんある原っぱへやられるのよ」と伯母さんがもっともらしくもない返事をした。
「でもあの原っぱ、草がうんとあるよ」と男の子がいい返した。「草ばっかり生えてらあ。伯母さん、あの原っぱ、うんと草があるよ」
「きっとほかの原っぱにもっといい草があるのよ」と伯母さんがいい加減なことをいった。
「なぜそっちの草の方がいいの?」と即座に容赦ない質問が飛んだ。
「あれ、あのウシをごらん」と伯母さんは大きな声を立てた。線路の両側の原っぱはどれもこれもメウシやオウシだらけなのに、まるで珍しい物でも見つけて教えるような口ぶりである。
「ねえ、なぜほかの原っぱの草の方がいいの?」とシリルがからんだ。
ひとり者は眉をしかめてだんだん苦虫でも咬んだような顔になった。この人、つめたいわからず屋にきまってる、と伯母さんは思った。ほかの原っぱの草がなぜいいのか、どうにも十分な返事が浮かばない。
小さい方の女の子は退屈しのぎに、「マンダレー街道で」を歌いはじめた。最初の一行きりしか知らないのだが、そのたったの一行をできるだけ利用してなんべんでも繰り返す。ハッキリしないが大胆に、大きく響く声である。まるで、この一行をぶっつづけ二千回は歌えないよ、と誰かと賭でもしたようだな、とひとり者は思った。そんな賭を誰がしたかわからないが、どうやら賭けた相手は負けそうな形勢である。
「さあ、こっちへいらっしゃい、伯母さんがお話をするから」と伯母さんはいった。ひとり者が伯母さんの顔を二度も睨みつけた上、一度は非常ベルの紐へも目を向けたからだ。
子供たち三人はいやいや伯母さんのいる隅の方へ動いて行った。三人とも伯母さんのお話の腕前をあまり高く見ていないのは明らかだ。
小声で打ち合け話でもするように伯母さんは平凡きわまるひどく面白くもない話をはじめた。その話へ子供たちがひっきりなしに小うるさい質問をはさむ。伯母さんのお話はたいへんいい女の子の話で、いい子だから誰とでも仲よしになり、最後にあばれ出したウシにやられるところを、本当にいい子だと感心していた大勢の人に助けられる話だ。
「いい子でなかったら誰も助けてくれなかった?」と大きい方の女の子がたずねた。ひとり者の男もちょうど聞きたいと思った急所である。
「さあ、やはり助けてやったろうね」と伯母さんはのみこみにくい返事をした、「でも、そんないい子でなかったら一所懸命かけてはこなかったろうね」
「そんなばかな話、わたし、はじめてだわ」と姉の方がいった。断然確信のある顔つきだ。
「ぼく、始まりのとこしか聞いてなかった、ばからしいんだもの」とシリルがいった。妹の方は別にその話をかれこれいわなかったが、とうの昔に例のお気に入りの一行を小声でまた繰り返しはじめていた。
「せっかくのお話、どうもうまく行かなかったようですな」と向こうの隅からひとり者の男が突然声をかけた。
思いがけない攻撃を受けて伯母さんはたちまちムッとして防禦の姿勢を取った。
「子供にわかって為になるお話って難しいんですよ」と彼女はキッパリいった。
「そうは思いませんな」とひとり者の男がいった。
「そんなら今度はあなたがお話をしてやってください」と伯母さんが押し返した。
「お話きかせてえ」と姉の方がせがんだ。
「むかしむかし、バーサという小さい女の子があったとさ」と、ひとり者の男が話し出した。「バーサはとてもとてもいい子だったよ」
一瞬かき立てられた子供たちの興味はたちまち消えかけた。お話というものは誰の話でも似たり寄ったりなものらしい。
「バーサはいいつかった事は何でもやるし、うそはけしてつかないし、着ている物はよごさないし、ミルク・プディングをもらってもジャムタートみたいに喜んで食べるし、学校で習うことはすっかり覚えるし、その上、行儀もとてもいい子だったよ」
「その子、きれいだった?」と姉の方がたずねた。
「あなた方みたいにきれいじゃなかった。だがおっそろしくいい子だった」
この話に興味がわいたらしい反応が現われた。「おっそろしく」と「いい子」とを続けたところが目新しくてお気に召したのである。「おっそろしくいい子」と聞くと本当の事らしく思える。伯母さんの聞かせる話にはそれがまったくないのだ。
「バーサはとてもいい子なので善行賞をいくつももらって、いつもそれをピンでドレスにつけていたよ。従順賞だの時間厳守賞だの品行方正賞だの。みんな|金《かね》でこしらえた大きなメダルだから、バーサが歩くとぶつかり合ってチンチン音がした。メダルを三つももらった子なんて町中でバーサひとりきりさ。だからバーサは特別いい子なんだと誰でも知ってたよ」
「おっそろしくいい子なんだ」とシリルがさっき聞いたのを繰り返した。
「みんながバーサはいい子だというもんだから、その国の王子さままでそれが聞こえてね、そんないい子なら毎週一度御殿のお庭へ散歩に来てもいい、と王子さまがいった。お庭というのは町はずれにあって、すてきにきれいなお庭なんだ。どこの子供もそこへは入れないんだから、入ってもいいとお許しが出たのはバーサの大変な名誉なのさ」
「そのお庭にヒツジがいた?」とシリルがたずねた。
「いいや、ヒツジはいなかったよ」ひとり者の男がいった。
「なぜヒツジがいなかったの?」と、容赦ない質問が飛んだ。
伯母さんはそれとなくにっこりした。にっこりというより、にやにやという方が本当かも知れない。
「お庭にヒツジがいなかったのはね」とひとり者の男がいった。「王子さまのお母さんがあるとき夢を見てね、この子はヒツジに殺されるか柱時計が落っこちて死ぬか、どっちかだとわかってたのさ。だからお庭にヒツジはけして飼わないし、御殿に柱時計はひとつもおかなかった」
伯母さんはなるほどと感心したが、そんなそぶりは見せなかった。
「その王子さま、ヒツジに殺された? それとも柱時計に殺された?」とシリルがたずねた。
「まだ生きてるのさ。だからお母さんの見た夢が本当になるかどうか、それはまだわからない」と、ひとり者は平気な顔でいった。「とにかく、お庭にヒツジはいなかったけど、子ブタがたくさんかけ廻ってた」
「その子ブタ、どんな色?」
「真っ黒で顔だけ白いのもいれば、白くて黒いブチのあるのもいるし、全身真っ黒のもいるし、灰色で白ブチのもいるし、全身真っ白のもいたよ」
ひとり者はいったんそこで話をやめ、お庭に飼ってある大事な子ブタの一件がたっぷり三人の頭にしみこむのを待って、またお話をつづけた、「バーサはお庭にお花がひとつもないのを見てたいへん悲しくなったよ。王子さまのお庭のお花はけして取りません、と涙まで浮かべて伯母さんたちに約束してきたのさ。そしてその約束をちゃんと守るつもりだったんだ。だから取ろうにもお庭にお花がひとつもないんで、バーサはもちろんばからしくなったのさ」
「なぜお花がひとつもないの?」
「ブタがみんな食べちまったんだ」と即座にひとり者の男がいった。「庭師がね、ブタとお花と両方おくわけにはまいりません、と王子さまに申し上げたんで、ブタの方を残してお花はやめにする、と王子さまがおきめになったのさ」
王子さまのご決心の立派さに感心のつぶやきが起こった。たいがいの人なら反対の決心をしただろう。
「お庭にはほかにすてきな物がいろいろあったよ。お池には金色のや青いのや緑色の魚が泳いでるし、木にはきれいなオームが何羽もいて、教えてやるとすぐ何でも上手にしゃべるし、はやりの歌の|節《ふし》を何でもうたうハチドリもいるんだよ。バーサは庭中あるき廻ってとても楽しくなり、心の中でこう思ったのさ、『もしわたしが素敵ないい子でなかったら、このお庭へなんぞとても入れてもらえず、お庭にある物いろいろ見て楽しむこともできなかったろう』とね。バーサが歩くと三つのメダルがぶつかり合ってチンチン音がした。それでバーサは思い出したよ、ああ、わたしは何とまあいい子なんだろう、ってね。ちょうどその時、すごく大きなオオカミが一匹、うろうろお庭の中へ入ってきた。まるまる太った子ブタを一匹つかまえて夕飯にしようかな、と思ってきたのさ」
「そのオオカミ、何色なの?」と三人の子供がたずねた。また急に興味が高まったのだ。
「全身泥みたいな色で、舌は真っ黒、うすい灰色の目が何ともいえないほど光ってる。オオカミは何より先にバーサをみつけた。バーサの着ていたエプロンが真っ白なんで、遠くからでも目についたのさ。バーサはオオカミが自分の方へ忍びよってくるのに気がついて、ああ、こんなお庭へ入れてもらえなければよかった、と思いはじめたよ。そして一所懸命逃げたけど、オオカミは大股にとんだりはねたり、どんどん追ってくる。バーサはやっとのことでテンニンカの茂みへかけこんで、いちばん深い茂みの奥へかくれたよ。オオカミはクンクン鼻でかぎながら枝の間をわけてきた。真っ黒な舌をだらりと垂らして、うす灰色の目でギラギラ睨んでる。バーサは恐ろしさにふるえ上がって心の中で思ったよ、『もしわたしが素敵ないい子でなかったら、今ごろは無事に町の中にいられたろうに』とね。ところがテンニンカの匂いがあまり強いんで、さすがのオオカミにもバーサのいるところが嗅ぎ出せない。それに茂みが深くこんでるからいつまで探してもとても見つかりそうもない。そこでオオカミはバーサを探すのはやめにして、その代り子ブタを一匹つかまえることにした。ところがバーサはオオカミがすぐそばをクンクン鼻でかぎながらうろついてるんで、ひどくブルブルふるえたものだから、従順賞のメダルが時間厳守賞と品行方正賞のメダルにぶつかってチンチン音を立てた。戻りかけたオオカミの耳にそのチンチンが聞こえたから、オオカミは立ち止まって耳をすました。するとすぐそばの茂みでまたチンチン音がした。オオカミはしめたとばかり茂みの中へ飛びこんだよ、うす灰色の目をギラギラ光らせてね。そしてバーサを引きずり出して一口残さず食べてしまった。残っていたのはバーサの靴と着ていた服の切れはしと三つのメダルだけだったとさ」
「子ブタもいくらか食われたの?」
「いいや、みんな逃げちまったよ」
「今のお話、始めの方はつまらないけど、終りのところが素敵だわ」
「こんな面白いお話、わたし初めてよ」と姉むすめがいった。絶対的な断定である。
「これまで聞いたお話で面白かったのは今のだけだね」とシリルがいった。
子供たちの世論に対して伯母さんの口から異論が出た。「幼い子供に聞かせるのにそんなふまじめな話ってあるもんですか。せっかく何年も気をつけて教えこんだのがすっかり駄目にされましたわ」
「しかしですね」と、ひとり者の男がいった。今度の駅で下りようと手荷物をまとめかけている。
「とにかくぼくは十分間だけ子供たちを静かにしておきましたよ。とてもあなたには出来っこありませんな」
「気の毒だな、あの伯母さん」とテムプルコーム駅のプラットホームを歩きながら、ひとり者の男はつぶやいた。「これから半年ぐらい、人前だろうと何だろうと、ふまじめなお話きかせてえ、とせがまれるだろう!」
覇者のまもり
[#地から2字上げ]The Defensive Diamond
トレドルフォードは詩集を手にして、トロトロ燃えている暖炉の前の楽な肘かけ椅子にかけていた。クラブの窓の外は雨がシトシトパラパラしつこく降りつづけている。外はひどい雨だな、と思うと却っていい気持だ。冷たい雨の十月の午後が暗い雨の十月の夜になりかけた。それと対照的にクラブの喫煙室は一段と暖かで気持がいい。こんなときこそ、住みなれた土地の気象と天候に別れを告げて、どこか天外へ魂を飛ばすべきときだ。いま読んでいる詩集『サマルカンドへの黄金の旅』(ジェイムズ・エルロイ・フレッカーの長詩)は異国の土の上に、異郷の空の下に、美事にちゃんと遊ばせてくれそうだ。彼はすでに篠突く雨のロンドンをあとにうるわしの古都バグダッドへ移り住んで「いにしえの」太陽門のそばに立っていた。ふと、何か邪魔ものがやって来たらしく、読んでいる詩集と自分のあいだに寒い風がソヨリと吹きこんだ気がした。例のアムブルコープ――飛び出した目玉をいつもソワソワさせて、きっかけがあるとすぐしゃべりかけそうな口つきのアムブルコープが並んだ肘かけ椅子に根を下ろしたのである。過去十二カ月と二、三週間、同じクラブの会員仲間になってはいるが、このうるさい奴と知り合いになるのは上手によけて来た。「あるいは海であるいは陸で、あるいはまた人目をくらまして(シェイクスピアのオセロからの引用)」、ゴルフや競馬や賭事でどんな離れ業をしてのけたか、あることないこと自慢ばなしを小うるさくあびせられるのを奇蹟的にまぬがれて来た。だが今やその免除期間も終りに近づいた。もう逃げ道はない。顔が合えば当然話しかける間柄――いや、当然小うるさい自慢ばなしを聞かされる立場――そんな一人にいよいよされそうな形勢だ。邪魔しにやって来たアムブルコープは雑誌『田園生活』を手にして身構えていた。読むのが目的ではない。話の口火をきる道具のつもりだ。「このスロストルウィング号の写真、なかなかいいじゃありませんか」と、だしぬけにいい出すと、いどみかかるように大きな目を向けた。「どこかイェロウステップ号に似たところがありますな。あの一九〇三年のグラン・プリ・レースでえらい人気のあったウマです。おかしなレースでしたな、あれは。わたし、グラン・プリは毎年必ず――」
「おねがいです、どうかグラン・プリの話だけはやめてください」とトレドルフォードは必死の声をしぼった、「実に辛い思い出があるんですよ、わけをお話しするとこみ入った長話になりますが」
「はい、わかりました、わかりました」とアムブルコープはあわてていった。こみ入った長話も自分がしゃべるのでなければ大きらいらしい。彼は『田園生活』のページを繰ると、今度はモンゴリヤ産のキジの写真が目についたふりをした。
「モンゴリヤ系の写真としてはなかなかいい写真ですな」と大声を出すと、トレドルフォードによく見えるように雑誌をもち上げた。「いったん藪にもぐると逃げ足は速いし、いったん飛び立ったが最後なかなか撃てませんよ。わたしがこれまでに二日続けて一番の大猟をしましたのは――」
「ぼくの伯母はリンカン|州《シャ》の土地ほとんど全部もってる地主ですがね」とトレドルフォードがいきなり大げさな声をした、「キジ猟ならまず例のない驚くべき記録をもってますよ。もう七十五歳で何ひとつ撃てやしません。それなのに必ず狩猟隊に入って出かけます。何ひとつ撃てやしないと今いいましたが、ときたま仲間を撃って半殺しにすることもできない、というんじゃありません。そういったらうそになりますね。事実、与党の院内総務は閣員をしている議員にはぼくの伯母といっしょに猟に出るのを禁じてますよ。『理由もないのに補欠選挙をやらされるのは困る』といってますが、至極もっともな話ですな。その伯母がつい先日、飛び立ったキジを撃ち落としました。羽根を一、二枚飛ばしただけで落ちて来ましたが、地面へ下りると逃げ出したんです。伯母にしてみれば女王陛下御即位このかた初めて仕止めた最初の獲物です。とても取り逃すわけには行きませんよ。そこで追っかけました。シダをかけぬけ藪をかけぬけ、キジが平地へ出て畑を横切りかけると、伯母は狩猟用のコウマを飛ばして追いかけました。さんざん遠くまで追いかけて、とうとうキジを追いつめたときは仲間の連中のいる場所よりも自分のうちの方が近い。狩猟隊とは五マイルばかり離れちまったんです」
「手負いのキジとしてはよくそんなに逃げましたな」とアムブルコープが鋭い声をした。
「伯母の話ですから絶対確実ですよ」とトレドルフォードは平気な顔をした、「伯母は土地のキリスト教女子青年団の副団長もしてますしね。それから三マイルばかりコウマを飛ばしてうちへ戻りましたが、夕方近くなってやっと気がつくと、狩猟隊全員の弁当がコウマの鞍につけた荷かごに入ってましてね。しかし、とにかくキジはちゃんと仕止めました」
「仕止めるのになかなか手のかかる鳥もあるからな」とアムブルコープがいった、「魚にしてもそうですね。覚えていますが一度エクス川で釣をしたことがあります。あの川はマスがいくらでも釣れるんですよ、あまり大きくはなりませんが――」
「ところがえらく大きくなった奴がありましたぞ」とトレドルフォードは力をこめて宣言した、「ぼくの伯父はサウスモルトンの|主教《ビショップ》ですがね、アグワーズイに近いエクス川の本流をちょいとそれた池ですごく大きなマスを見つけました。三週間というもの、毎日毎日カバリを使ったりミミズで釣ったり、いろいろやってみましたがまったく手答えなしです。そこへ運命が手を貸してくれたんです。その池に低い石橋がかかってましてね、いよいよ休暇もきょうで終りという最後の日、貨物自動車が橋のらんかんへ激突して顛覆しました。怪我人は出ませんがらんかんが一部こわれて、積荷がそっくり池に沈みかけました。二、三分すると池の水が乾上って底の泥んこにすごく大きなマスが一匹、バタバタ跳ねてるんです。そこへ伯父が踏みこんで両腕でピッタリかかえこみました。積荷というのが吸取紙だったんですな。それが池の水を一滴残らず吸いこんだわけです」
かれこれ三十秒、喫煙室はしんと静まり返った。トレドルフォードはサマルカンドへの黄金の道へそろそろ魂をもどしはじめた。ところがアムブルコープは立ち直った。くたびれたような元気のない声である。
「自動車事故といえばつい先日、トミー・ヤービーと北部ウェールズをドライブしていて実に危ない目にあいましたよ。あのヤービーというのは実にいい人間でしてね、狩猟にかけては一流だし――」
「やはり北部ウェールズでしたよ」とトレドルフォードはいった、「つい昨年です、妹が乗りもので途方もない大事故を起こして評判になりましたよ。ニネベ夫人のところの園遊会へ行く途中でしてね、あのへんの土地では園遊会といったら年間を通じてニネベ夫人の園遊会ぐらいなものです。ですから妹としては何としてでも出かけたいんですね。つい一、二週間前に買入れたばかりの若いウマに引かせて馬車で出かけました。自動車だろうが自転車だろうが、街道で見かけるものなら何でも驚かないこと絶対保証というウマなんです。果たしてふれこみ通りで、どんなに音の高いオートバイでも平気なもの、ほとんど無感動に近いんです。しかしですね、誰にでも限界があるものでしょう、このコウマは巡回動物園が苦手でした。もちろん妹はそんなこと知りゃしません。ところが急角度の曲り角を曲ってラクダだのシマウマだのカナリヤ色の箱型荷物車だの、いろいろいる中へ入りこむと、とたんにそれがわかったんですな。馬車はたちまち顛覆して堀へ落ち、さんざん蹴ちらされてバラバラになりました。さいわい妹にも馬丁にも怪我はありませんが、あとまだ三マイルもあるニネベ邸へどうして行ったらいいか、それがいささか困難な問題でした。もちろん行くだけ行けば帰りは誰かに乗せてもらえますがね。「いかがですか、ラクダを二、三頭お貸ししましょうか」と興行師がもちかけました。面白半分、同情心を起こしたんですね。「おねがいします」と妹はいいましたよ。エジプトへ行ったときラクダに乗った経験があるので、馬丁が反対したのは押し切ったんです、馬丁はエジプトへ行ってラクダに乗った経験がありませんからね。そこで一番押出しのいいラクダを二、三頭えりぬいて借り、大急ぎで埃をはらって精々格好をつけてニネベ邸へ向かいました。あまり長くもありませんがとにかく隊商が堂々と表玄関へ乗りつけたんですから、そのときの騒ぎは目に浮かびますね。集まっていた園遊会のお客さまは一人残らず取り巻いてあんぐり口をあけて目を丸くしました。妹はスルリとラクダから下りてまずひと安心、馬丁も何とかラクダを下りてホッとしました。近衛竜騎兵連隊のビリー・ドールトンも見物してました。長年アーデンに駐留してラクダの言葉ならさかさにでもしゃべる男ですが、この男がひとつラクダが正式に膝をつくところを実演して学のあるところを見せてやろう、と思ったんですね。あいにくラクダ相手の号令用語は全世界どこも同じとは行きません。やって来たのはトルキスタン原産の堂々たるラクダで、岩石ばかりの峠道をノッシノッシと歩くのになれてますから、ドールトンが大声を立てて号令すると横に並んで玄関前の階段を登り、玄関内のホールに入りこみ、正面の大階段を登ると廊下の曲り角でドイツ人の家庭教師に出会いました。ニネベ一家はその女を何週間も一所懸命大事に看病しましたよ。いつか来た便りでは、どうやら家庭教師がつとまる程度によくなったものの、心臓のハーゲンベック障害はとても完全には直るまい、と医者がいってるそうです」
アムブルコープは椅子から立ち上がると向こうの隅へ場所を変えた。トレドルフォードはまた詩集を開いてふたたび
[#ここから2字下げ]
『怪獣のうろこのごとく緑なる
暗くきらめく毒蛇住む海原』
[#ここで字下げ終わり]
を横切って行った。
それから三十分間、彼は心たのしく空想の世界にあそび、「はなやかなるアレポの城門」に足をとめたり、鳥のようにさえずる歌びとの声に聞きほれたりしたが、やがて現代の世に呼びもどされた。お電話でございます、とボーイに声をかけられたのだ。
トレドルフォードが喫煙室を出ようとすると、ドアのところでアムブルコープにバッタリ出会った。相手は球突き室へ行こうと出かけるところだ。球突き室なら誰か運のわるい奴をつかまえて抑えこみ、グラン・プリ・レースへ行った回数を拝聴させて、ついでにニューマーケット競馬やケイムブリッジシィア競馬の所見もしゃべって聞かされる。アムブルコープがドアを先に出そうなそぶりを見せたが、トレドルフォードは胸に生まれたての誇りが湧き立っていたから、手をふって相手を抑えた。
「序列はぼくの方が上ですぞ」と彼は冷たい口調でいった、「君はたかがクラブ第一のうるさい男だ。ぼくの方はクラブ第一のうそつきですぞ」
オオシカ
[#地から2字上げ]The Elk
テリーザ、つまりミセス・スロプルスタンスはウォールドシヤ全州第一の大金持で、もっとも頑固で強情な婆さんだった。世間一般を相手にする態度はまず王室の女官長と狩猟クラブの会長の合いの子ぐらい、言葉使いもその両方を兼ねている。家庭における態度は傍若無人そのもので、こんなことをいう根拠はないかも知れないが、アメリカ政界のボスが取巻き連中に君臨しているようだ。夫のセオドア・スロプルスタンスは三十五年ばかり前に死んで、莫大な財産と広大な領地と名画のぎっしり詰まった画廓とをテリーザが独占している。その三十五年の間にひとり息子に先立たれ、孫息子三人のうち上のふたりはテリーザが賛成も承諾もしない結婚をしたので仲たがいしてしまった。だから今では末の孫息子バーティ・スロプルスタンスが全財産の指定相続人というわけで、結婚適齢期のむすめがあって野心満々たる母親ども約五十人にとり、バーティは興味と関心の中心であった。バーティその人はおとなしくて呑気な青年で、奥さんにはこの人がいいですよと勧められれば、どんな女とでも結婚する気でいるが、祖母テリーザに拒否されそうな女と恋に落ちて暇をつぶすつもりはない。テリーザからこの人がいいといってもらうのが必要条件なのである。
テリーザの催すハウス・パーティは、小ぎれいな娘たちとゆだんなく付き添っているその母親どもがたっぷり装飾になるからいつも盛大だったが、招いた娘のだれかがバーティの嫁の候補として頭角を現わしでもすると、テリーザは頭ごなしに断然それを抑えつけた。問題なのはテリーザの財産と領地の相続の件だから、テリーザがその選択権と拒否権を極度に行使して楽しんでいる様子はありありと見えていた。バーティ自身の好き嫌いなどまるで問題にならない。バーティ自身はどんな女を妻にしても結構楽しくやっていかれるタイプだし、生まれてからずっとテリーザのやり方を辛抱してきているから、嫁えらびにどんなことがあろうと、今さら悩んだり怒ったりする心配もない。
一千九百何年だかのクリスマス週間にテリーザのハウス・パーティに集まった人数はいつもより少なかった。お客のひとりミセス・ヨーンレットは人数が少ないのは有望な前兆のような気がした。うちのむすめドーラとバーティなら、どう見てもあつらえ向きのカップルですわ、ふたりが一緒にいるところをおばあちゃんに始終見せておけば、これは似合いの夫婦だと思うようになるかも知れませんわね――彼女は牧師夫人に内々そう打ちあけた。
「誰だって始終目の前にちらつかされるとすぐそれに慣れてくるもんですわ。ドーラとバーティが仲のいいところを始終テリーザに見せつければ、だんだんドーラに好意がわいて、これこそバーティの嫁にもってこいという気になりますわよ」と、ミセス・ヨーンレットは大いに期待しているらしい。
「でもねえ」と牧師夫人があきらめの声でいった。「うちのシビルもバーティとそりゃあロマンティックなことになりましたのよ――そのこと、いつかお話しますけど――でもテリーザはてんで受けつけませんの。断然キッパリだめだというんですよ。ですからシビルはインド勤務の公務員と結婚しましたわ」
「そりゃよござんしたね」とミセス・ヨーンレットはあやふやなことをいった、「しっかりした娘なら誰もそうしますわ。でもそれ、何年も前のことでしょう? 今じゃバーティも歳をとったしテリーザだってそうですわ。もうバーティに身を固めさせなければ、と思ってるにちがいありませんよ」
早くバーティに結婚させる気がまったくないのはテリーザだけだ、と牧師夫人は心の中で思ったが、それを口には出さないでいた。
ミセス・ヨーンレットは企画性に富む精力家だった。そこでハウス・パーティのほかのメンバー一同、つまり邪魔ものはいっさいゲームでもスポーツでも何にでも引きこみ、バーティとドーラから引き離すようにして、ふたりで勝手にやりたいこと何でも工夫してやるように仕向けた。というのはドーラが工夫してバーティがおとなしくそれに従う、というわけである。ドーラは村の教会堂へ行ってクリスマスの飾りの手伝いをし、バーティはその手伝いをした。ふたりして白鳥に餌をやって、とうとう白鳥どもは消化不良でストライキに入った。ふたりして球突きをした。ふたりして村の養老院の写真を取った。そして荘園にひとり超然と草を食べている馴れたオオシカの写真もしかるべき距離から取った。ただし「馴れた」というのはとうの昔に人間に対する恐怖をまったく失くしたという意味で、経歴から見て近づいても誰もこわくないというわけではない。
スポーツにしろゲームにしろ何にしろバーティとドーラがふたりでやると、ミセス・ヨーンレットは必ずそれを頭にとめて忠実に宣伝した。バーティの祖母テリーザをしかるべく啓蒙する目的である。
「あのふたりったらいつもひっついたきりで、いま自転車乗りから帰ってきましたのよ」と吹聴するのだった。「まるで絵に描いたようですわ、ふたりともひと廻りしてきたので顔を元気にほてらして」
「何とかいってくれ、というつもりの絵か」とテリーザは心の中で思った。しかしことバーティに関する限り、絶対何ともいわない決心だった。
クリスマスの翌日の午後、ミセス・ヨーンレットが応接間へかけこんできた。応接間にはテリーザがぐるりとお客に囲まれ、お茶やマフィンの皿にも囲まれている。これまで頑張って策動してきた母親の手に、今や運命が切り札をにぎらせたのである。目は興奮に燃え立たせ、声には感嘆符をたっぷりちりばめて、彼女は芝居がかりに一件を披露した。
「ドーラがオオシカにやられるところをバーティが助けてくれましたのよ」
ドーラが失くしたゴルフ・ボールを探しているところへあの兇悪なオオシカが襲ってきて間一髪というとき、バーティが熊手をもってかけつけ追い払って救助したのである。ミセス・ヨーンレットは興奮した早口で、母性愛あふれる途切れがちな説明をつけ足した。
「きわどいところでしたわ。ドーラが九番のクラブを投げつけても向かってくるんです。危なくヒヅメで踏みつぶされるところでしたのよ」
「あのオオシカは安心できないんですよ」と、テリーザは胸をはずませている相手にお茶のカップをわたした、「あなた、お砂糖を入れるんでしたかしら? きっとあのオオシカ、ひとり暮らしの淋しさでひねくれたのね。マフィンなら暖炉のグレートにありますよ。でもわたしがわるいんじゃありません、長いことあの連れ合いを探しているんですもの。オオシカのメス、売ってくれるか何かと交換してくれる人、どなたかご存じありません?」とテリーザは一同を見わたした。
しかしミセス・ヨーンレットはオオシカの縁談を考える気はさらになかった。何よりもまず人間ふたりの縁組みをまとめるのが大切である。今こそかねて秘蔵の計画を推進する絶好のチャンスだ。それを二の次にする手はない。
「ねえテリーザ」と彼女はしみじみした声を出した。「あのふたりがこんな深い関係になったんですもの、ふたりの間はもう前とはすっかり変わりましたわね。バーティはドーラの命を助けた上にドーラの愛情までつかんでしまったんです。ふたりは運命の手で結ばれたとしか考えられませんわね」
「一、二年前、シビルがオオシカに襲われるところをバーティが助けたとき、牧師夫人もまったく同じことをおっしゃいましたよ」とテリーザは落ち着き払っていった。「そのとき、わたしいいましたの、二、三カ月前にもバーティはミラベル・ヒクスをやはりあのオオシカから助けてますし、順番からいえばその年の一月に助けられた園丁の男の子が第一番ですよ、って。田舎に住んでいると同じ事がよくありますものね」
「とても危険な動物らしいわね」と客のひとりがいった。
「園丁の女房もそういいましてね」とテリーザはいった。「あのオオシカを殺してもらえ、っていうんですの。でもわたし、いってやりましたわ、あんたは子供が十一人あるけどわたしのオオシカは一頭きりですってね。黒地の絹のスカートを一着くれてやりましたわ。そしたら、うちに不幸があったのでもないのにあったような気がいたします、ですって。でもとにかく円満に話はつきましたわ。エミリー、あなたに黒地のスカートはあげられないけど、お茶のお代りを一ぱいあげますわ。さっきもいいましたが、マフィンなら暖炉のグレートにありますよ」
テリーザはそれでその話を打ち切った。オオシカに襲われたどの娘の親より園丁の女房の方が遥かに物の道理がわかると認める、と巧みに吹きこまれたわけだ。
「テリーザったら、まるきり思いやりがないんですのね」と、ミセス・ヨーンレットはあとで牧師夫人にいった。「大惨事になるところをやっと助かったのに、平気ですわりこんでマフィンをどうぞ、なんていってるんですもの」
「本当はバーティを誰と結婚させるつもりなのか、むろんご存知でしょうね」と牧師夫人はいった、「わたし、少し前から気がついてますの。ビケルビー家にいるドイツ人の家庭教師なんですよ」
「ドイツ人の家庭教師! まあ、呆れた!」とミセス・ヨーンレットはあいた口がふさがらなかった。
「きっと家柄のいい人だと思いますわ」と牧師夫人がいった。「家庭教師といえば影がうすくてひかえ目なのが普通でしょう? ところがあの人ったら、強情っぱりで鼻っぱしの強いこと、この界隈ではテリーザの次なんですの。うちの夫の説教にもいろいろまちがいを指摘しましたし、狩猟クラブ会長のローレンス卿にも猟犬の扱い方を大勢の前で講釈したんですよ。ローレンス卿ったら会長として人からとやかくいわれるとひどく怒る方でしょう? ですから家庭教師ふぜいに指図されて危なく卒倒しかけましたわ。あの人、誰にでもそうなんですの、もちろんテリーザだけは別ですけどね。だから誰もあの人にはつっけんどんに出て対抗するんです。ビケルビー家でもこわくて首にできないわけなのね。そんな女ですからテリーザの目には自分の跡継ぎにあつらえ向きなんじゃない? もしあの人がお邸の女主人となったら、それこそ州内一同、どんな思いをするかわかりゃしませんわ。テリーザにしてみればその有様を見るまで生きていられないのがただひとつ心残りでしょうがね」
「しかし」とミセス・ヨーンレットがいい返した。「バーディ自身はそんな人に惹かれてる様子、まるでないはずですわ」
「でもあの人、あの人なりに美人だし、着付けもうまけりゃテニスも上手なのよ。よくビケルビー家の言伝をもって荘園を通ってきますから、いずれそのうちあの女がオオシカに襲われるところをバーティが助けますわ、もう今じゃそれが習慣になりかけてますからね。そしたらきっと、ふたりは運命の手で結ばれました、なんてテリーザがいい出しますわよ。そりゃバーティは運命の手なんぞあまり大事がらないでしょうけど、おばあちゃんのいう事に反対する気なんぞ夢にもありませんからね」
牧師夫人は落ち着き払ってその道の権威のような口ぶりだ。直観的に見ぬいているらしい。ミセス・ヨーンレットも心の底でなるほどそれにちがいないと思った。
六カ月たつとオオシカはいよいよ殺される破目になった。急に突然ご機嫌がわるくなってビケルビー家のドイツ人家庭教師を殺したからである。いまわの|際《きわ》に人気の的になるとは運命の皮肉だが、とにかく、このオオシカはテリーザ・スロプルスタンスの計画を永久に覆した唯一の生きものとして記録を残した。
ドーラ・ヨーンレットはインド勤務の公務員との婚約を破棄して、おばあちゃんの死後三カ月するとバーティと結婚した――ドイツ人家庭教師のやられたあと、テリーザはあまり長もちしなかったのだ。毎年クリスマスになるとミセス・スロプルスタンスは玄関の間の壁に飾ってあるオオシカの角に、特製大型のときわ木の飾りを取りつける。
「こわい|獣《けもの》でしたわね」とドーラはバーティにいう、「でもわたしたち、あのオオシカのおかげで結ばれた気がするわ」
もちろん、事実その通りなのであった。
ペンのストライキ
[#地から2字上げ]"Down Pens"
「フロプリンソンのところから何か届いた礼状はもう書いたかい?」とエグバートがたずねた。
「いいえ」とジャネッタが返事した。すっかりくたびれて突っかかって行くような声だ、「わたし、きょうはもう十一通も手紙を書いたのよ、すばらしいお品を頂いてびっくりいたしました、身にあまるお品を本当にありがとうございます、なんてね。でもフロプリンソンへはまだ書かないわ」
「誰か礼状を書く必要があるな」とエグバートがいった。
「必要性はみとめますわよ。でもその誰かがわたしでなけりゃならないなんてことないわ」とジャネッタがいった、「カンカンになってやり返す手紙かズケズケ皮肉を突きつける手紙なら別よ、ろくでなしの相手へね。そんな手紙ならよろこんで書くわ。でもペコペコおあいそを並べ立てる手紙じゃもう能力の限界へ来てしまったのよ。きょうが十一通、きのうが九通、どれもこれも、ありがたくてありがたくて天に昇りそう、という調子で書くんでしょう? それをもう一通書け、なんてとても無理。書いて書いてもう書き切った、ってこともあるもんですわよ」
「ぼくだってかれこれそのくらい書いたぞ」とエグバートがいった。「その上いつもの仕事の方の手紙も片づけなけりゃならんし、第一、フロプリンソンのところから何をもらったかも知らないしね」
「ウィリアム征服王カレンダーですよ」とジャネッタがいった。「ウィリアム征服王の偉大な言葉が毎日一つずつ三百六十五日に割りふってあってよ」
「とんでもない!」とエグバートがいった、「あの王さまがまる一生かかったって三百六十五なんて偉大な言葉をいえるものか。もしいえたにしろ誰にもしゃべりゃしないよ。彼は行動の人だ。内省の人じゃないからな」
「そうなの? そんならウィリアム・ワーズワースだったかしら」とジャネッタがいった、「たしかにウィリアムがどこかへ出てくるのよ」
「きっとそれだろう、たぶん。さあ、とにかくこの礼状、協力して片づけちまおう。ぼくが手紙の文句をいうから、おまえちょいと書き取っておくれ。いいかね。親愛なミセス・フロプリンソン――お届け下すった美しいカレンダー、ありがとうございます。ご親切なお心遣いに心からお礼を申し上げます」
「そんなこといっちゃだめよ」とジャネッタはペンをおいた。
「しかしいつだってそう書いてるんだぞ。それに誰のところからもそういってくるじゃないか?」とエグバートが抗議した。
「二十三日にこっちから何か届けたのよ。だから向こうが心使いするのは当り前じゃないの。逃げるわけに行きやしないわ」
「何を届けてやった?」とエグバートは暗い顔をした。
「ブリッジの|数取り《マーカー》よ、ボール箱入りのね。『かがやかしき|鋤《スペード》もて幸運を掘り出ださむ』とか何とか、下らないことが箱の蓋にゴテゴテ書いてあったわ。店屋でそれが目についたとたん、心の中では『フロプリンソンにピッタリ』といって店員には『これ、いくら?』ときいたの。そしたら『九ペンスです』というから、先方のアドレスを教えてうちの名刺をつっこんで、送料こみで十ペンスだか十一ペンスだかわたして、これですんだ、ああ、ありがたや、と胸をなで下したのよ。だから向こうはわたしみたいに真心はこめず手間だけさんざんかけて、ようやくお返しをよこしたわけなのよ」
「あそこのうちじゃブリッジはやらないぞ」とエグバートがいった。
「そんなの、社交界のかたわ者じゃない? そんなことは気がついても知らないふりをするものよ」とジャネッタがいった、「先方に失礼になるわ。それに向こうだってわたしたちがワーズワースを読んでうれしがるかどうか調べやしないじゃないの。こっちはジョン・メースフィールドひとりが詩人だと思いこんでいい気持になってるかもしれないでしょう? 毎日毎日ワーズワースがこしらえたサンプルを投げつけられたら、カンカンになって怒り出すかもしれないし、すっかり滅入ってふさぎこむかもしれやしないわよ」
「とにかくその礼状を片づけようか」とエグバートがいった。
「そのつぎをどうぞ」
「びっくりしました。ワーズワースがわたしたちの大好きな詩人とどうしておわかりになったのでしょう」とエグバートが先をつづけた。
ジャネットはまたペンをおいた。
「あなた、そんなこと書いたらどうなると思う? 来年のクリスマスにはワーズワースの文庫本をよこすし、さらい年のクリスマスにはまたワーズワース・カレンダーをよこすわ。そのつど何とか調子を合わせて礼状を書く問題が起こるわよ。だめだめ。カレンダーのことはそこで打ちきって何か別のことを書くのが一番よ」
「別のことってどんな?」
「さあ、こんなのはどう?『新年の叙勲者名簿、あれをどうごらんになりますか。わたしどものお知り合いにあれを見てうまいことをいった方があります』なんてね。そのあと、何でも思いついたことを並べるのよ。うまいことでなくても大丈夫。うまかろうがうまくなかろうが、あのご夫婦、どうせわかりゃしませんもの」
「だがあそこのうち、与党なんだか野党なんだか、第一それさえわかってないんだぞ」とエグバートが反対した、「それにどっちみち、出しぬけにカレンダーを放り出すわけにも行くまい。何か気のきいたことを書かなけりゃだめだ」
「それが思いつかないから困るんですよ」とジャネッタがくたびれ切った声をした、「つまり、あなたもわたしも書いて書いて書き切ってしまったのよ、もう。あら大変! わたし、ミセス・スティーヴン・ラドベリーのこと忘れてたわ。届いたものの礼状、まだ出してないのよ」
「何をもらった?」
「忘れたわ。カレンダーだったと思うの、きっと」
長い沈黙がつづいた。希望はすべて消えうせた、あとは野となれ山となれ、という絶望的沈黙である。
やがてエグバートは断乎たる態度で椅子から立ち上がった。目に闘志がらんらんと燃えている。「そこどいてくれ。ライティング・デスクを使うんだ」と大きな声をした。
「さあ、どうぞどうぞ」とジャネッタがいった。「あなた、ミセス・ラドベリーへ礼状を書いてくださるの? それともフロプリンソン家へ書くの?」
「どっちも書くもんか」とエグバートは便箋を手もとに引きよせた、「全国のあらゆる進歩的有力新聞の主筆にあてて手紙を出すんだ。クリスマスから新年にかけての祝祭期間は手紙のやり取りにも『神聖休戦』(中世イギリスで祝祭期間などに教会の命令により実施した一時的休戦)みたいなものがあるべきだ、と提言するのさ。十二月二十四日から一月三日か四日までは、緊急やむを得ざる用件のほか、手紙その他の通信を差し出したり期待したりするのは良識への挑戦であり幸福感への侵害であると見なすことにする。招待状への返信だの列車の予約だのクラブ入会手続の更新だの、日常普通の取引だの病気のことだのコックの新規雇入れだの、そんなのはもちろん平生通りとする。日常生活の一部でやむを得ざるものだからだ。しかし、祝祭期間に付きもののある恐るべき通信の増加――これは一切ことごとく全廃して祝祭期間を本当にめでたからしめ、悩みなき平和と善意の季節たらしめるべきなんだ」
「でも何かもらったら何とかお礼はいわなきゃならないわ」とジャネッタが文句をつけた、「でないと、ちゃんと届いたかどうかわかりゃしないでしょう?」
「もちろん、それも考えてある。プレゼントは必ずカードを添えて届けることにするんだ。カードへはちゃんと発送の日付けと差出人の姓名を書いて、それにクリスマス・プレゼントなんだか正月のお年玉なんだか、それを表示する一定のマークをつけるんだ。それに切取り線で区切った返信票もつけてね、それに受取人の氏名と到着の日付けを書きこむようにする。もらった方は返信票に日付けと名前を書いて、深き感謝と喜びを表示する一定のマークをつけ、封筒に入れてポストに放りこむだけですむ」
「とても簡単でよさそうね、それ」とジャネッタが乗り出しかけた、「でも、あまりそっけなくて通りいっぺんだといわれやしない?」
「いまの習慣よりちっとも通りいっぺんじゃないさ。チャトル大佐のところから例の飛び切り上等のチーズをもらえば大喜びで残らず平らげるし、フロプリンソンのところからカレンダーをもらえば鼻もひっかけやしない。だがどっちをもらっても礼状は同じきまり文句で書くじゃないか。チャトル大佐の方じゃわざわざ礼状をもらわなくともこっちが大喜びなのは知っているし、フロプリンソン家じゃどんなに念入りの礼状をもらおうと、こっちがうんざりしているのはちゃんとわかっている。うちだってその通りさ――結構なプレゼント、本当にありがとうございました、なんて礼状が来たって、ブリッジの|数取り《マーカー》をもらって向こうもウンザリだろうとは百も承知だ。その上、かりにだね、われわれが急にスティルトン・チーズが大きらいになったとか医者から禁じられたとかしても、こっちはやはり深き感謝の礼状を出すだろうな。だからね、いまの礼状を出す習慣だって通りいっぺんで紋切り型なことは切取り式の返信票と同じことだ。十倍も面倒くさくて頭を使うだけのちがいなのさ」
「そうなれば、理想的な楽しいクリスマスの実現に一歩近づくのは確実だわね」とジャネッタがいった。
「もちろん例外はある」とエグバートがいった、「礼状の中へ真実のいぶきを吹きこもうとする連中は別だね。たとえばスーザン叔母さんだ。叔母さんはこう書いてよこす――『ハムをどうもありがとう。去年もらったのほどおいしくなかったけど、去年のだって特別おいしくもなかったわ。ハムもむかしのようでなくなったのね』クリスマスが来てもスーザン叔母さんのコメントがもらえなくなるのは残念だが、全体として利益が大きいからそのぐらいの損失はふっとんでしまうぞ」
「それはそうと」とジャネッタがいった、「わたし、どう書けばいいの、フロプリンソンのところへ?」
聖マリエさまの日
[#地から2字上げ]The Name-Day
冒険は冒険ずきな人にふりかかる、と諺にいうが、冒険ぎらいな、ひっこみ思案な、生まれつき臆病な人にもやはり同じようにふりかかるものだ。ジョン・ジェイムズ・アブルウェイはスペインのドン・カルロス党の陰謀だとか、スラム街掃蕩運動だとか、手負いの野獣の追跡だとか、政治集会での反対修正案提出だとか、そんなものは本能的に避ける気質を天から授かっていた。もし狂犬なりモハメド・ビン・アブデュラみたいな狂信的回教徒指導者なりやってきたら、さっそく道をよけて通らせるタイプである。学校ではいやいやながらドイツ語を完全に修得したが、これは外国語の教師の露骨な希望にしたがっただけで、その先生というのが現代語を教えるのに旧式な教授法でたたきこむ行き方だったからだ。ドイツ語は貿易に重要である。それをやむを得ずマスターした結果、アブルウェイは後年、秩序整然たるイギリスの田舎町よりも、とかく冒険の起こりやすい諸外国へ否応なしに派遣されることになった。つまりある日、つとめ先の会社がありきたりの商用のため彼を遥かなるウィーン市へ出張させるのを適当とみとめ、さらにいったん出張させると引きつづきウィーンに駐在させたのである。だから従事している業務は平凡だが、ロマンスや冒険はもちろん、どうかすると災難までふりかかる可能性が身辺に渦巻いていた。しかし二カ年半のウィーン市駐在中、彼がかかわり合った冒険はひとつしかない。しかもそれは故国のドーキングやハンティンドンあたりに引きこもってあまり出歩かない生活をしていたにしろ、おそかれ早かれかかわり合うにきまった性質の冒険だった。つまり、感じのいいおだやかなイギリス人女性とおだやかな恋に落ちたのである。この女性というのは同僚の妹で知識と見聞をひろめるため外国へ短期旅行に来ていたのだ。やがて彼はその女性と正式に結婚することになった。さらに一歩進んで彼女がミセス・ジョン・アブルウェイになるのは一年先ときめ、イギリスの田舎町で式をあげることにした。その頃までには会社もアブルウェイのウィーン駐在を必要としなくなる見こみだからである。
アブルウェイがミス・ペニングの婚約者となった二カ月あとの四月のはじめ、ベニスへ行っていたミス・ペニングから彼のところへ手紙が来た。相手は兄に連れられて旅に出ていて、兄の仕事の都合でフューメへ一日、二日行くことになった。そこで彼女はアブルウェイが休みを取ってアドリヤ海岸のフューメまであいに来てくれたら、という気を起こした。地図で道筋をしらべてみると旅費もあまりかからない。ハッキリ書いてあるわけではないが、よく読んでみると「もし本当にわたしを愛してらっしゃるなら……」という気持が読みとれた。
アブルウェイは休みを取ってフューメへ旅立った。これが彼の一生における冒険のひとつとなる。ウィーンを出発したのは肌寒くて陰うつな日だった。花屋の店には春の花がギッシリだし、挿画入りユーモア週刊誌も春の話題でギッシリだが、空にはショー・ウインドーでたなざらしになりすぎた綿のような雲がどんより垂れこめていた。
「こりゃあ雪になるぞ」と駅員が駅員にいった。一同、こりゃあ雪になるぞ、と意見が一致した。すると果たして急におびただしく雪が降り出した。列車が駅を出てかれこれ一時間もすると、綿のような雲が雪に変わって何もかも見えないほどの大雪になった。線路の両側の森林はたちまち真っ白い雪のコートをドップリとかぶり、電線はキラつく太いロープになり、線路もどんどん雪がつもって見えなくなった。その中をあまり馬力の強くない機関車がどうにかこうにか進んで行ったが、それもだんだん困難になるらしい。オーストリア国営鉄道のうちフューメ・ウィーン線はあまり施設の優秀な方ではないから、列車が途中で立往生しはすまいかとアブルウェイは真剣に心配し出した。そのうち、大骨折って何とかのろのろ動いていた列車がとうとうストップした。物すごい雪の吹きだまりへ乗りこんだのだ。機関車はいちだんと頑張って障害を突破したが、二十分たつとまたもやストップした。もう一ぺん突破作業を繰り返して頑強に動き出したが、雪だまりに乗りこんでは突破するのが次第に頻繁になった。とうとう特に物すごい雪だまりにはまりこんでひどく長くストップしたあげく、アブルウェイの乗っていた車室はゴツンと音を立てて大きくひと揺れすると、どうやら停止状態に入ったらしい。たしかに動いていないのに機関車が蒸気を吐く音と車輪がのろのろ廻転する震動は聞こえている。そのうち機関車の音も車輪の音もだんだん弱くなった。まるでだんだん遠ざかって聞こえなくなるようだ。アブルウェイはハッとして畜生と大声を立てると、窓をあけて降りしきる雪の中をじっとすかして見た。雪がまつ毛に積もってよくは見えないが、どうにか事態の見当だけはついた。積もった雪の中へ勢いよく飛びこんだ機関車が最後尾の車輛だけおき去りにして、身軽になってうれしそうに走り去ったのだった。機関車の牽引力にたえ切れず連結器が切れたのである。スチリヤだかクロアチヤだかの森林の真ん中に、アブルウェイはおき去りになった車輛とともにひとりぼっちになった。いや、ひとりぼっちも同然になった。彼は隣の三等の車室に百姓女をひとり見かけたのを思い出した。途中の小さな駅から乗りこんだ女である。「あの女のほか、いちばん手近な生きものといったらオオカミの群ぐらいなものかな」と彼は芝居がかりに大きくつぶやいた。
おき去りをくったとその女に教えてやろうと三等車室へ行きながら、アブルウェイは急いで考えた――いったいあの女は何国人だろう? ウィーン駐在中にスラブ系の言語もいろいろ少しは覚えこんだ。だからどうにか通じる程度なら自信のある言語もいくつかある。
「もしクロアチヤ人かセルビヤ人かボスニヤ人なら何とか言葉が通じるだろう」と彼は希望をもった、「万一マジャール人だったら大変だ。身ぶり手ぶりでやるほかないぞ」
彼はその女の車室へ入ると重大事件を女に話した。苦心して何とかクロアチヤ語らしい言葉を使ったのである。
「列車がちぎれておき去りになったよ」
女は首を横にふった。その様子は万事あきらめて神のみ|旨《むね》にしたがいます、というつもりかとも思えたが、たぶん何といわれたのかわかりませんといったらしい。アブルウェイはスラブ系の言語をいろいろ取りかえ引きかえ使って、身ぶり手ぶりもたっぷり添えた。
「なに、汽車が行っちゃったのかい?」と、ようやくのことで女がいったのはドイツ語の方言だ。「おき去りだね、ああそうなのか」
女は平気な顔をしている。まるでアムステルダムの市会議員選挙の結果でも聞かされたような顔つきだ。
「どこかの駅で気がついて雪がとけたら機関車をよこすよ。ときどきそんな事があるのさ」
「するとまるひと晩ここにいるわけか!」とアブルウェイは大声を立てた。
女はきっとそうだろうという顔をしている。
「このへんにオオカミはいるかね?」とアブルウェイはせきこんでたずねた。
「たくさんいるよ。あたしの伯母もこの森を出外れたところで三年前に食い殺されたよ、市場の帰りに。ウマも食われたし車に積んでたブタの子も食われたよ。ウマの方はおいぼれだけど子ブタはよく太ったかわいい奴でね、食われたと聞いて、あたし、泣いちまった。オオカミは何でも見さかいなしだからね」
「じゃおそってくるかも知れないぞ」とアブルウェイは声がふるえた、「こんなマッチ箱みたいな車だからサッサとこわして踏みこんでくるだろう。食われるよ、あんたもぼくも」
「あんたは食われるかも知らないけど、あたしは大丈夫」と女は落ち着いたものだ。
「どうして大丈夫?」とアブルウェイがただした。
「今日は聖マリエ・クレオフェさまの日なんだよ。あたし、聖マリエさまのお名前を頂いたんだから、今日があたしの聖名祝日なのさ。その日にあたしがオオカミに食われるなんて、聖マリエさまがお許しになりっこありゃしない。そんなことがあるもんかね。あんたは食われても、あたしは大丈夫」
アブルウェイは話を変えた。
「まだ昼すぎなのに明日の朝までここへおき去りにされたら飢え死にだな」
「食べ物ならここにいろいろあるさ」と女は物静かにいった。「聖名祝日だからちゃんと食べ物はもってるわけ。おいしい黒ソーセージが五本あるけど、町で買ったら一本二十五ヘラは取られるね。店屋じゃ、物が高いからね」
「一本五十ヘラで二本買おう」とアブルウェイは乗り出した。
「鉄道の事故があると何でも値が上がるからね、この黒ソーセージは一本四クローネンさ」(一クローネは百ヘラにあたる、クローネンはクローネの複数形)
「四クローネンだって! 黒ソーセージが一本四クローネンか!」
「この汽車の中じゃそれより安くは売れないね、ほかに売ってないんだから」と女は容赦なく理屈をいい立てた、「そりゃアグラムへ行けばもっと安いし天国へ行ったらきっとただでくれるだろうけど、ここじゃ一本四クローネンさ。エムメンタレル・チーズを一切れとハネー・ケーキがひとつ、パンも一切れあるから売ってあげてもいいよ。それだけで三クローネン、だから合計十一クローネンになるね。ハムも一切れあるけど聖名祝日だからこれだけは売ってあげられない」
そのハム、ぜひ売ってくれといったらいったいいくらと吹っかけるだろう、とアブルウェイは思ったが、急いで十一クローネンの|金《かね》を払った。事故相場が飢饉相場にはね上がっては困る、と思ったのだ。買い取ったわずかばかりの食べ物を受けとるとたん、不意に物音がして彼の心臓はおそろしい恐怖にドキドキ打ち出した。ガリガリブリブリ、一頭だか何頭だか、とにかく|獣《けもの》が車の踏み段へ上がろうとする音だ。つぎの瞬間、雪の凍りついた窓ガラス越しに耳のピンと立った物凄い首が見えた。口をあんぐりあいて舌がダラリと垂れ、歯が光っている。たちまち首がもひとつ突き出した。
「やあ、何百匹もいるぞ。臭いを嗅ぎつけやがったな」とアブルウェイは小声でいった、「この箱なんぞこっぱみじんにされて、ふたりとも食われちまうぞ」
「あたしは大丈夫、聖名祝日だからね。聖マリエ・クレオフェさまがお許しになりゃしないよ」と、女は癪にさわるほど落ち着いている。
ふたつの首は窓の下へ見えなくなって、オオカミに囲まれた車輛は不気味な静寂におそわれた。アブルウェイは身動きもせず物もいわなかった。もしかするとオオカミども、中に人間が乗っているのをハッキリ見えなかったのか、それとも嗅ぎつけなかったのかも知れない。どこかほかのところへ食い荒らしに廻ったのかも知れない。
重苦しい不安の何分かがのろのろとたった。
「冷えてくるね」というと女は不意に立ち上がって、今しがた首が現われた向こうの隅へ行った。「もう暖房がきかないよ。そら、あの森の向こうに煙突が見えるだろ、煙の立ってる煙突が。そう遠くもないし雪もやんだしするから、あたしは森の中の小道をたどって煙突のある家へ行くよ」
「オオカミがいるぞ!」とアブルウェイは大声を出した。「もしも……」
「聖名祝日だから大丈夫」と女は頑固にいいはると、引きとめるまもなくドアをあけて雪の中へ踏み段を下りた。次の瞬間、アブルウェイは両手で顔をかくした。森の中からほっそりした物凄い|獣《けもの》が二頭、女めがけて飛びついたのだ。出て行ったのが悪いにちがいない。だが見ている前で人間が咬みさかれ食いつくされるのを見る気はしなかった。
しばらくして彼が目をあけて見ると、どうにも腹にすえかねるびっくり仰天の気持におそわれた。もともとイギリスの田舎町で厳格に育てられた男だから、まのあたり奇蹟の起こるところを目撃する用意はできていない。オオカミどもはじゃれついて雪をかけるばかり、別に女に何の危害も加えていない。うれしそうにひと声、ワンと吠えるのが聞こえて、事の真相の手がかりになった。
「なあんだ……イヌだったか、あれは!」と彼はガッカリした声を出した。
「いとこのカルルんとこのイヌだよ。そら、森の向こうにあるのがカルルのやってる宿屋なのさ。それは承知しているけどあんたを連れて行くのは嫌なのさ。ほかから来た人だといつもぼるんでね。でもこう寒くなっては、いつまで汽車の中にもいられないし、おや、あんなものがやってきた!」
汽笛が鳴って救援の機関車が見えてきた。面白くもなさそうに雪の中をわけてくる。宿屋のおやじカルルが果たして欲のふかい男かどうか、アブルウェイは結局それを知る機会がなかった。
納戸部屋
[#地から2字上げ]The Lumber-Room
子供たちはその日、特別にジャグバロの浜へ馬車で連れて行ってもらうことになっていた。ニコラスはその中に入れてもらえなかった。わるいことをした罰である。というのは、つい今朝のこと、身体にいいはずのブレッド・アンド・ミルクをどうしても食べなかったのだ。中にカエルが一匹入っているという、どうにも取りとめのない理由である。ブレッド・アンド・ミルクにカエルが入ってるなんてありゃしないよ、そんなばかなこといっちゃいけません、と、何でも知ってるえらいおとなたちがいって聞かせたが、それでもニコラスは途方もないばかげた事をいい張って、中に入っているカエルは何色だの、どんなぶちがあったのと詳しいことをいう。そして驚いたことに、結局ニコラスのブレッド・アンド・ミルクのボウルには事実カエルが一匹入っていた。ニコラスにしてみれば、ちゃんと自分で入れておいたんだから知ってるのは当り前だ、という気持である。庭でカエルを取ってきて身体にいいというブレッド・アンド・ミルクの中へ入れるなんてとんでもないわるい事だよ、と長々お説教されたが、年上の何でも知ってるえらい人だって、まちがいないといいながら結局は大まちがいだったじゃないか――ニコラスの頭ではこれがこの事件のいちばんたしかなところだった。
「ぼくのブレッド・アンド・ミルクに絶対カエルは入ってない、って伯母さん、いったでしょう。ところが実際ちゃんと入っていたんだよ」とニコラスはなんべんもいった。そのしつこいこと、有利なところは一歩も譲らない老練な策士のようだ。
そんなことで、男のいとこも女のいとこも、さっぱり面白くもない弟も、昼すぎからジャグバロの浜へ連れて行ってもらうことになったが、ニコラスだけは取り残されることになった。伯母さん――といっても本当はいとこたちの伯母さんなのに何の根拠もなく空想をひろげてニコラスにも伯母さんを気取っているだけなのだが、その伯母さんが急に子供たちをジャグバロへ遠足に出してやる気を起こしたわけだ。朝食のときいけない事をした罰で楽しい遠足に行かせてもらえないんだな、とニコラスによく納得させる目的である。それが伯母さんの癖だった。誰か子供がいけない事をして叱られると、すぐさま何か面白そうなことを考え出してその子だけは断然のけ者にする。子供たちみんなでわるい事をすると、隣の町にサーカスが来ていて、またとないほど面白くてゾウが数えきれないほどいる、なんて急にいい出す。わるい事さえしなかったら今日にも連れて行くんだけど、という調子だ。
いよいよ子供たちが遠足に出かけるときには、さすがのニコラスも涙のひとつやふたつはこぼすだろうと期待された。ところが泣き出したのは女のいとこひとりだけ、これは馬車に乗るとき膝がしらを踏み段ですりむいたのである。
いつもの遠足のようにはしゃぎもせずに馬車が出て行くと、「ワンワン泣いたね、あの子」とニコラスがうれしそうにいった。
「すぐ泣きやむよ」と自称伯母さんがいった。「こんないいお天気にあのきれいな浜辺をかけ廻ったら、きっと楽しいだろうね」
「ボビーはあまり楽しくないよ。かけ廻りもしないだろうね」とニコラスは気味わるくニタリと笑った、「靴が痛いんだよ、窮屈だから」
「なぜ靴が痛いっていわなかったの?」と伯母さんがたずねた。少しつっけんどんな口ぶりだ。
「ボビーが二度もいったけど、伯母さん聞いてなかったんだよ。大事なこといっても聞いてないこと、よくあるからね」
「グースベリの庭へ入っちゃいけませんよ」と伯母さんは話を変えた。
「なぜいけないの?」とニコラスが追及した。
「わるい事をした罰なのさ」と見下げたように伯母さんがいった。
カエルを入れたからグースベリの庭へは入れない、という理屈がニコラスはのみこめなかった。罰を受けるのとグースベリの庭へ入るのと、両方ちゃんと一緒にやれる気がする。彼の顔に何くそ! という表情がうかんだ。どうでもグースベリの庭へ入る気だな、と伯母さんはハッキリ見て取った。しかも「いけないといわれたばかりに」わざと入って行く気らしいな、と伯母さんは思った。
グースベリの庭へは入口が二カ所あって、ニコラスのように|小《こ》|柄《がら》なのが忍びこむと、|朝鮮薊《アーティチョーク》やキイチゴの茂みや実のなる下生えのこんもりした茂みですっかり姿が見えなくなる。伯母さんは昼すぎいろいろ用事があるのに、一、二時間も花壇や植こみの手入れをした。そこに陣取っていれば禁断の園の入口二カ所はちゃんと見張っていられる。あまり頭のよくない伯母さんだが集中力は物すごい。
ニコラスは表の庭へ一、二度出て行って、いかにも人目を避けるふりをしながら禁断の園の入口へにじりよった。だが伯母さんの目はちゃんと見張っていてただの一瞬もごまかせない。実はグースベリの庭へ入る気なんぞまるでないのだが、入る気だと伯母さんに思いこませると大いに都合がいい。そう思いこませておけば、伯母さん、だいたい昼すぎいっぱいは見張り番から動かないにきまっている。
伯母さんがこれは怪しいぞと思いこむのを見とどけた上、それを十分に強化してやると、ニコラスはスルリと家の中へ入って、ずっと前から頭にあった行動計画を急いで実行に移した。書斎の椅子に上がれば手のとどく棚に、がっちりした大事そうな鍵がある。事実、見かけ通り大事な鍵で、これが納戸部屋の秘密を守り許可のない者の侵入を防ぐ道具である。伯母さんたちその他の特権階級しか入れない。ニコラスは鍵を鍵穴へ差しこんで廻して錠をはずす技術にあまり経験がなかったが、この数日間、教室の鍵で練習しておいた。幸運と偶然をあまりあてにしないたちなのだ。鍵を差しこむと固いながらとにかく廻ってドアが開き、ニコラスは未知の国へふみこんだ。この部屋にくらべたらグースベリの庭など珍しくも面白くもない。ただ物質的な楽しみだけだ。
ニコラスはこれまでなんべんとなく頭に描いていた――いったい納戸部屋の中はどうなっているんだろう? 子供の目は絶対に締め出して何と聞いても教えてくれないあの部屋はどうなってるんだろう? ところが中へ入ると果たして期待通りだった。第一に広々して薄暗く、例の禁断の園へ向いて高い窓がひとつあるだけ、ほかに光の射しこむところはない。第二に夢にも見たことのないたから物がたくさんある。あの、自称伯母さんは、何でも使えば損じると考えて、保存は埃と湿気に任せておくタイプなのだ。家の中でも、ニコラスがいちばんよく知っているところは何にもなくて陰気くさいのに、ここにはすばらしい物がいろいろあって見るだけでも楽しい。まず目につくのは|枠《わく》に入った|つづれ織り《タペストリ》で、どうやら炉の前へおく衝立らしいが、ニコラスには生きて息づく一篇の物語そのものだった。彼は埃の下からすばらしい色彩を見せているインドの壁掛けを巻いたのに腰を下ろして、タペストリの画面をすみずみまで観察した。遠いむかしの狩猟服を着た人物がひとり、いま矢でシカを一頭仕とめたところだ。シカはその人物からわずか二、三歩のところにいるから矢を命中させるのも難しくはなかったらしい。こんもり茂った立木らしいのもあるから、餌をあさってるシカにその中から忍びよるのも難しくなかったろう。ぶちのあるイヌが二頭、やはりシカを追ってかけてくるが、矢を放つまで先には出ないように仕込まれているらしい。そのへんのところは面白いがごく単純だ。だがオオカミが四匹、森の中をこっちへかけてくるのがニコラスには見えるが、あの狩人には見えたんだろうか。その上、木のかげにまだ何匹もかくれているかも知れない。どっちにしろ、オオカミに襲われたら狩人ひとりとイヌ二頭でうまく退治できるだろうか。狩人の矢筒には矢がもう二本しかない。その一本がはずれるかも知れないし二本ともはずれることもあるだろう。それに狩人の弓の腕前にしても、ばからしいほど手近な大きいシカに矢をあてたというだけ、あとはさっぱりわからないのだ。さあ、この場面はこれからどう展開するだろう? いろいろ思い廻らしながらニコラスは夢中で何分間もその画に見入っていた。どうもオオカミは四匹だけじゃない気がして、狩人もイヌも進退きわまったらしく思える。
しかしほかにも興味ある面白いものがいろいろあって、すぐニコラスの注意をひきつけた。まずヘビの形にうねうねくねった燭台があり、中国産のアヒル形の茶瓶もあって、あけたくちばしからお茶が出る仕かけらしい。彫刻したビャクダンの箱にいい匂いのする綿がぎっしり詰まって、その中に頸にこぶのあるウシだのクジャクだのオニだの、真鍮製の小さい像があった。見てもいじっても実に楽しい。見かけはそれほどでもないが地味な黒表紙の大きい四角な本があった。あけて見ると彩色した鳥の絵がギッシリだ。しかもすてきな鳥ばかりである。庭でもぶらつきに行く小道でも、少しは鳥も見かけたものだが、いちばん大きいのはたまに姿を見せるカササギとジュズカケバトぐらいのものだ。ところがここにはアオサギだのガンだのトビだのオオハシだのアメリカ・オオサギだのヤブシチメンチョウだのトキだの金色のクジャクだの、夢にも見たことのない鳥がズラリと勢ぞろいしている。彼がオシドリの色彩に見ほれていったいこの鳥はどんな一生を送るんだろうと考えていると、外のグースベリの庭から伯母さんがかん高い大声でニコラスを呼んでいるのが聞こえた。長いことニコラスが姿を見せないから、てっきりライラックの茂みにかくれて塀を乗りこえたなときめこんで、伯母さんがアーティチョークやキイチゴの中を一所懸命、むだな捜索をしているところだ。
「ニコラスや、ニコラスや! すぐ出ておいで。かくれてもだめだよ、ちゃんと見えてるんだから」と伯母さんが大きくどなった。
この納戸部屋の中で誰かがニッコリしたのは過去二十年間、おそらくこの時が最初だろう。
やがてニコラス、ニコラスと怒ってどなる声が悲鳴に変わり、誰か早く助けにきて、という叫びになった。ニコラスは本を閉じ、ちゃんともとの片隅へもどし、そばにある新聞紙の山から本の上へ埃をかけた。それからこっそり忍び出てドアに錠を下ろすと、鍵はもとあった場所へちゃんともどした。そしてぶらりと表の庭へ出て行くと、伯母さんはまだニコラス、ニコラスと呼んでいる。
「呼んでるの誰?」と彼はたずねた。
「わたしだよ」と塀の向こうで声がする、「わたしの声、聞こえないのかい? グースベリの庭でおまえを捜してたらすべって雨水受けのタンクへ落っこちたの。水がなくてよかったけどヘリがつるつるで上がれないんだよ。サクラの木の下から短い梯子をもってきて」
「ぼく、グースベリの庭へ入っちゃいけないといわれてるんだ」と即座にニコラスが答えた。
「入っちゃいけないといったけど、いまは入ってもいいといってるんだよ」とタンクの中から声がした。中でじりじりしてるらしい。
「その声は伯母さんじゃないぞ」とニコラスが文句をつけた、「きっと悪魔がぼくをそそのかしていいつけを破らせようとしてるんだろう。伯母さんがいつもいってるよ、悪魔にそそのかされるとおまえはいつも引っかかるって。今日はもう引っかからないぞ」
「ばかなこといわないで早く梯子を取っといで」とタンクから出られない人の声がした。
「お茶のときイチゴ・ジャムが出る?」とニコラスがあどけない質問をした。
「出るともさ」と伯母さんはいったが、心ではニコラスだけには出すものかと決心した。
「それでわかったよ。その声は伯母さんじゃない、悪魔なんだ」とニコラスは得意になってどなった、「昨日ぼくらが伯母さんにイチゴ・ジャムをおくれといったら、伯母さん、もうないんだよといった。だけどぼく、戸棚の上に四瓶あるのを知ってるんだ、ちゃんと見たからね。おまえだってちゃんとあると知ってる。ところが伯母さんなら知らないはずだ、ないといってたからね。そら見ろ、悪魔の奴め、美事にしっぽをつかまれやがって!」
伯母さんをつかまえて悪魔よばわりの口がきけるのは実に豪華な気分である。だがこんな豪華な気分にあまり長く浸ってはいけない。ニコラスは子供ながらもそれをちゃんとわきまえているから、足音高くその場を離れた。結局、下働きの女中がパセリを取りにきて、ようやく伯母さんを雨水受けのタンクから助け出した。
その日、夕方のお茶は一同すごく黙りこんで頂戴した。子供たちがジャグバロの入江へ着いたときはちょうど満潮で、遊ぼうにも遊べる浜辺がない。見せしめの遠足をあわてて計画したので、伯母さん、それをうっかりしていたのだ。ボビーは靴が痛いから昼すぎいっぱいひどく機嫌がわるかったし、全体として楽しい遠足にはならなかった。伯母さんはずっと氷のような沈黙を守った。何しろ三十五分間というもの、罪なくして不面目にも雨水受けのタンクの中へ留置されたからだ。ニコラスもやはり黙りこんでいた。考えることが山ほどあってそれに気を取られていたのだ。もしかしたらあの狩人はオオカミどもが矢の当ったシカを平らげてる間にイヌを連れてうまく逃げたかな、と彼は考えた。
毛皮
[#地から2字上げ]Fur
「あなた、何か心配がありそうね」とエリナがいった。
「そうなの。心配ってほどじゃないけど気がもめるのよ」とスザンヌはうなずいて「そら、わたしの誕生日、来週でしょう?……」
「まあ、うらやましい」とエリナが口を出した、「わたしの誕生日ったら三月の末になるわ」
「あのね、バートラム・ナイトというじいさんが今アルゼンチンからイギリスへ来てるのよ。母方の遠い親類か何かになる人だけど物すごい大金持だから、いつもつき合いが切れないようにしてるの。何年あわなくても何年たよりがなくても、ロンドンへやってくるといつもバートラムおじさん、バートラムおじさんと大事にするのよ。これまではまだこれといって役に立ってないけど、昨日ね、わたしの誕生日のことがヒョイと話に出たら、誕生日のお祝いに何がほしいか教えろ、っていったのよ」
「それじゃ気がもめるわけね」とエリナがいった。
「いつもそうだけどこんな問題にぶつかるとさっぱり思いつかないものね、まるで、なにも欲しいもの全然ないみたい。ところがとても欲しいと思ってるドレスデン焼の置物の人形があるのよ。ケンジントンのある店で見かけたんだけど値段が三十六シリングぐらい、とてもわたしに買えやしないわ。あぶなくその人形の話をしてその店の番地を教えかけて気がついたわ、たった三十六シリングなんてあの大金持が誕生日のプレゼントにするにはばからしいはした|金《がね》だわね。たとえ三十六ポンドだってあの人にしたらあたしたちがスミレの花一束買うみたいなものよ。もちろん欲張り根性を出す気じゃないけど、せっかくのチャンスをむだにするのもつまらないでしょう?」
「問題はね、その人、プレゼントするのにどんなつもりでするか、ってことよ」とエリナがいった、「どんなお金持でもプレゼントのことになると妙に考えのせまい人があるもんだわ。だんだんお金持になるにつれて暮らしのレベルも高くなるし必要経費もふくれ上がるのに、ひとにプレゼントをする本能だけはもとのままで発達しない人、よくあってよ。何か見栄えがよくてあまり値段の張らないもの――それが理想的なプレゼントだとしか考えてないのね。だからこそちゃんとした店でもショー・ウインドーやカウンターに並べるんだわ、四シリングぐらいの値段なのに七シリング六ペンスに見える品へ十シリングと正札をつけて『今シーズンにピッタリのご贈答品』なんてラベルをつけてさ」
「なるほどね」とスザンヌがいった。「プレゼントに何がほしいと聞かれたときハッキリ指定しないと危ないのはそのせいだわ。たとえばあの人に『この冬はダーボスへ出かけますから旅行に使うものなら何でも結構ですわ』なんていおうもんなら、純金入りの止め|金《がね》付きのハンド・バッグぐらいくれてもいいところを、ベデカーの『スイス案内』だの『涙なしに覚えるスキー術』だの、そんな本などをよこしかねないわね」
「それよりも『たびたびダンス・パーティへ出るだろうから|扇《ファン》なら重宝するだろう』なんていうわよ」
「それもそうね。それにわたし、|扇《ファン》なら山ほどもってるし、だから危険もあれば心配にもなるんだわ。実はね、わたし、何よりもほしくて仕方がないものがあるの。毛皮よ。毛皮がひとつもないんですもの。ダーボスってロシヤ人がワンサと来るんですってね。きっと素敵な|黒テン《セーブル》や何か着てるわ。毛皮ひとつもたずに毛皮ずくめの連中の中へ出たら、それこそ十戒でも何でも片はしから破る気になるわね」
「毛皮をせしめるつもりなら自分がついてて選ばせなくちゃだめよ。その親類の人、シルバー・フォックスとただのリスの毛皮のちがいも知らないかも知れないから」
「ゴライアス・アンド・マストドンの店にそれこそ素敵なシルバー・フォックスの|肩かけ《ストール》があるの」とスザンヌはため息をもらした、「うまくあの店へバートラムを誘いこんで毛皮売場をぶらつかせさえしたらねえ」
「その人、どこかあの近くに住んでるんじゃない?」とエリナがいった、「あなた、その人の毎日の習慣知ってる? 何時ごろ散歩に出るとか何とか?」
「たいがい三時ごろ歩いてクラブへ出かけるわ、雨でなけりゃね。ゴライアス・アンド・マストドンの前を通るわけ」
「それなら明日、あなたとわたしと角のところでバッタリその人に出あうことにしましょうよ」とエリナがいった、「そして一緒に少しぶらつくのよ。うまく行けば店の中までおびきこめるはずよ。ヘアネットか何か買うといえばいいじゃない? ちゃんと店の中へ入ったらわたしがいうわ、『お誕生日に何かあげたいんだけど、あんた、何がほしいの?』ってね。そ
うすれば道具立てはみんなそろうわけよ――お金持の親類と、毛皮売場と、誕生日のプレゼントの問題と」「名案だわ」とスザンヌがいった、「あなたって、とてもいい人ね。じゃ明日、三時二十分前に来てよね。おくれちゃだめよ、時間カッキリに待ち伏せしなくちゃ」
次の日の午後三時二十三分前、わなを仕かけて毛皮をせしめようと二人の狩人は目あての街角の方へ用心しながら歩いて行った。あまり遠くないところに有名なゴライアス・アンド・マストドン・デパートのビルがそびえている。よく晴れた午後で、年配の紳士がひとりぶらぶら散歩に出かけるのにあつらえ向きの日よりだった。
「ねえ、あなた」とエリナがスザンヌにいった、「今夜ぜひお願いしたいことがあるんだけど。夕食がすんだら何か口実をこしらえてうちへ来て、アデラと二人の伯母さんとでブリッジをしてくれない? さもないとわたしがブリッジの仲間にされちまうの。ところがハリー・スカリスブルックが九時十五分にヒョッコリ来ることになってるのよ。だからあとのみんながブリッジをやってるうち、わたし、ぜひともハリーと二人だけでゆっくり話がしたいわけなの」
「それ、わるいけどお断りよ。百点が三ペンスのつまらないブリッジで、しかもあなたの伯母さんたちみたいな凄く手のおそい人お相手じゃ退屈して退屈して涙が出るわ。うっかりすると途中で寝こんだりするしね」
「でもわたし、何とかしてぜひともハリーと話がしたいんですもの」とエリナは迫った。ムッとしたらしく目が光る。
「すみません。ほかのことなら何でもするけど、それだけはだめ」とスザンヌはニッコリしていった。友達のために犠牲になるのは立派なことだと思ってはいるが、ただし犠牲を払うのが自分でない時だけに限る。
エリナはそれきりその相談を打ち切ったが、黙ってくちびるを噛みしめた。
「来たわよ! 急いで!」とスザンヌが不意に大声を出した。
ミスター・バートラム・ナイトはスザンヌと連れのエリナにあいそよく挨拶すると、大勢の買物客でこんでいるデパートへ入ってみませんかと誘われてすぐさま賛成した。デパートはすぐ目の前に高くそびえて人を誘っていた。厚い板ガラスのドアがくるりと開いて、買物客やひやかし客の混みあう中へ三人はぐんぐん入って行った。
「いつもこんなに混んでるのかね」とバートラムがエリナにたずねた。
「だいたいこうですわ、それに今は秋の|廉売《セールス》中ですし」
スザンヌは希望の港たる毛皮売場へ何とかバートラムの足を向けようと、あとの二人より始終二、三歩先に立って、ときたま二人が何かの売場が目についておくれると、二人のところへ戻ってきた。まるでミヤマガラスの親鳥が雛鳥にはじめて飛び方を教えているように熱心な気の使いようだ。
「今度の水曜日がスザンヌの誕生日なんですの」とエリナはバートラムに打ちあけた。スザンヌからずっとおくれた時を見はからって話したのだ、「わたしの誕生日はその前日ですから、お互いに何をプレゼントしようかと探してるところなんです」
「そうですか」とバートラムはいった、「わたしもちょうどそれを教えてもらいたいんです。スザンヌに何かプレゼントしたいんですが、何がほしいんだか見当もつかなくてね」
「あの人、少しむずかしいんですよ、何をあげようと思いついてもたいがいもってますからね。うらやましいわ。でも|扇《ファン》ならいつでも重宝しますわね。今度の冬はダーボスへ出かけてたびたびダンス・パーティへも出るでしょうし。|扇《ファン》になすったらきっと何よりも喜びますよ。いつも誕生日のあと二人してたがいに頂いたプレゼントを見せ合うんですけど、わたし、いつもひどく恥ずかしい思いをしますの。あの人、素敵なものいろいろもらうでしょう? ところがわたし、人に見せるようなもの頂いたこといっぺんもありませんわ。わたしの親類にもプレゼントをくださる方にも裕福な人がありませんのでね。ですからわたし、何かちょっとした物をわたされておめでとうといって頂くのがせいぜいなんです。二年前のこと、母方の伯父が遺産を少しもらいましてね、わたしの誕生日のお祝にシルバー・フォックスの|肩かけ《ストール》を買ってやるって約束しましたの。わたし、嬉しくて嬉しくて興奮しましたわ。仲よしの友達にも仲たがいしてる友達にも、それを着たところを見せびらかすつもりでいましたら、ちょうどその時、伯父は奥さんに死なれました。そうなるともちろん誕生日祝いのプレゼントどころの騒ぎじゃありませんわね。伯父はそれきりずっと外国へ行ってますので、わたし、まだ毛皮がないんです。今でもシルバー・フォックスがショー・ウインドーに出ているのや誰かの肩にかかってるのを見ると、涙がこぼれそうになりますのよ。もし買ってもらう約束なんぞなかったら、そんな悲しい思いもしなかったのに、と思いますわ。あら、あそこ|扇《ファン》の売場です、そら左手の方。ちょいと人混みにまぎれこんで、いちばんいいのを買ってあげてくださいね――あの人、ほんとにいい人なんですから」
「あら、はぐれちゃったかと思ったわ」とスザンヌの声がした。買物客の混雑する中をわけてくる。
「バートラムはどこ?」
「ずっと前から離れ離れになったのよ。あなたと二人、先へ行ったのかと思ってたわ。この人混みじゃとても見つからないわね」
その予言が結局は的中した。
「これだけ骨折って計画したのに全部おじゃんだわ」と不機嫌な顔でスザンヌがいった。売場をあちこち五、六カ所も探しまわって、とうとうバートラムが見つからなかったのだ。
「あの人の腕をつかんで放さなけりゃよかったのに」とエリナがいった、「わたし、前からの知り合いだったらつかんで放さなかったわ。でもいま紹介されたばかりでしょう、わたしは。あら、もう四時よ。お茶にしましょうか?」
いく日かあと、エリナのところへスザンヌから電話がかかってきた。
「写真を入れる額縁、どうもありがとう。ちょうどほしいと思ってたところなの。ほんとにありがとう。あのね、あのバートラム・ナイトという人、わたしに何をくれたと思う? ちょうどあなたのいった通り――やっぱり|扇《ファン》なのよ。何ですって? ええ、そりゃ|扇《ファン》としては上等だけど、でもねえ……」
「あの人がわたしにくれたもの、ぜひ見にいらっしゃいよ」とエリナの声が受話器から聞こえた。
「あなたに! どうしてあなたに何かくれたんでしょう?」
「あの方、珍しい人なのね、お金持のくせにひとに素敵なプレゼントをくれるのが好きなんて」と返事があった。
「どうしてエリナの住所をあんなに聞きたがるのか、どうも変だと思った」電話を切るとスザンヌははき出すようにいった。
エリナとスザンヌの友情には今や雲がかかった。どんな雲でも裏は|銀いろ《シルバー》、と諺にあるがエリナに関する限り、その雲にはシルバー・フォックスの裏がついている。
博愛家と仕合わせなネコ
[#地から2字上げ]The Philanthropist and the Happy Cat
ジョキャンサ・ベスベリーはおだやかな、やさしい、仕合わせな気持になりかけていた。いつも楽しい世界に住んではいるが、いまはその世界がもっとも楽しく見えていた。今日は夫のグレゴリーがうまく都合して戻って来て、手早くランチをすませたあと、ゆっくり落着けるこの居間で一服つけた。ランチもおいしかったし、コーヒーも煙草もゆっくり楽しめた。コーヒーも煙草もそれぞれ優秀だったし、グレゴリーもグレゴリーなりに優秀な夫だ。夫から見れば自分も魅力的な妻らしい。服を仕立させているドレス・メーカーが一流なことは「らしい」どころの話ではない。
「チェルスィ中さがしたってこれ以上の仕合わせな人はありゃしないわ」とジョキャンサは口に出していった。自分のことをいったのである。「でもアタブだけは別かもね」といって、ソファーの隅にいい気持らしく寝そべっている大きなブチネコをチラリと見た。「あんなところに寝ころんでゴロゴロ喉を鳴らしたりウトウトしたり、いい気持にクッションに寝そべってときたま手足を動かしたり、ふっくらと柔らかでまるでビロードか何かの標本みたい。全身どこにも固く尖ったところなんぞないし、みんなで仲よく眠りましょう、という主義でウトウトしてるのね。それでいて夕方になると赤い目をギラギラさせて庭へ出てウトウトしかけたスズメを捕って殺すのよ」
「スズメ一つがいで一年に十羽以上も雛を生む。それなのに餌になるものはさっぱりふえやしない。だからね、このへんのネコどもが昼すぎになるとそうしてスズメ退治に出る気を起こすのがちょうどいいのさ」とグレゴリーはいった。この賢明なる所見を述べ終わると彼はまた煙草を一本つけ、ふざけたように愛情こまやかな別れを告げると世間へ出かけて行った。
「忘れないでね、今夜の夕食はいつもより少し早いのよ、ヘイマーケット座へ行くんですから」とジョキャンサはうしろから声をかけた。
一人きりになるとジョキャンサはまたおだやかな心持で自分の生活に対する反省作業に取りかかった。この世に不足なものは何一つないわけではないが、とにかく今のままで大いに満足である。たとえば、この居間にしろ大いに満足だ。居心地はいいし品もいいし豪奢だし、とにかく三拍子そろっている。立派な珍しい磁器、暖炉の火に映えてすばらしい七宝焼、絨毯や壁かけ――何を見ても色彩が豪華でよく調和が取れている。ここで大使閣下や大主教|猊《げい》|下《か》をもてなしても恥ずかしくない室だが、それでいて写真を切りぬいてスクラップ・ブックに張りこんだりして散らかしたりしても、別にこの部屋の守護神たちが怒りそうな気もしない。居間だけでなくこの家全体そうだった。家全体だけでなくジョキャンサの生活のあらゆる面がそうだった。チェルスィ第一の仕合わせな女性はこの自分だ、といっても十分根拠はあるのである。
やがてジョキャンサはあふれるほどの幸福感から、世間に何千といる不幸な人びとを憐れむ気分に移って行った。生活も環境もつまらなく安っぽく楽しくなく、無意味に暮らしている連中がある。女子工員だの店員だの、その日暮らしの自由もなければ遊んで暮らせる金持の自由もない。そういう人びとが彼女は特にかわいそうだと思った。一日せっせと働いたあげく、寒いわびしい部屋にひとりポツンとしている若者たちもあるそうだ。食堂へ入ってコーヒーとサンドウィッチを注文する金もなく、まして一シリング出して劇場の天井さじきへ入るなどは思いもよらないのだろう。
この問題がまだ頭に残っているうち、ジョキャンサはあてもなく午後のショッピングに出発した。一人でもいい二人でもいい、心はわびしくポケットはからな工員にふと思いついて何かしてやって、つまらない暮らしに喜びと興味を少しでも持たせたらきっといい気持だろう、と彼女は思った。そうすれば今夜見に行く芝居も一段と楽しいだろう。ひとつ、いま人気の芝居の天井さじきの券を二枚買ってどこか値段の安い喫茶店へ入り、誰でもいいからまず目についた女子工員の二人連れと何気なく言葉をかわして入場券をプレゼントしよう。自分が行けなくなったので無駄にしないように差上げます、わざわざ券を戻しに行くのも面倒ですし、といえばいい……ジョキャンサはまた考え直した。それよりも券は一枚買うことにして、一人ぼっちで淋しそうに簡単な食事をしている娘にやる方がいい。そうすればその娘が芝居で隣り合った誰かと知り合いになり、それが縁で長い友情をむすぶことになるかもしれない。
ジョキャンサは童話によく出る|妖精《フェアリ》の名づけ親になりたい衝動をはげしく感じて、前売券売場へずんずん入って行くと、念入りにえらんで『黄色いクジャク』の天井さじき券を一枚買った。これは現在かなりの議論と批評をあつめている劇である。それから喫茶店と博愛主義の新体験とを探しに取りかかった。それがちょうどアタブがスズメ狩でもしようかとぶらりと庭へ出たころである。角のABC喫茶店の片隅にテーブルが一つあいていたので、ジョキャンサはすぐさまそこへ陣取った。となりのテーブルは若い娘がひとりだな、と見て取ってそうしたのだ。娘は少し不器量な方で、目がどろんとして疲れ切っているし、全体としていわずと知れた淋しくやるせない感じだ。着ている服の生地は安物だがとにかくスタイルは流行を追っている。髪の毛はきれいだが顔色はよくない。いまお茶と菓子パンで簡単に食事をすませるところなのだ。今のこの瞬間、ロンドン全市のあらゆる喫茶店で幾千人の娘たちが食事を終わりかけたり始めかけたり食べる最中だったりしているだろう。この娘もその幾千人と別にちがったところはない。『黄色いクジャク』はまだ見ていない、と考えても絶対まちがいなしだ。行き当りバッタリ、慈善事業の実験をする手はじめに、もってこいの素材であるのは明白だ。
ジョキャンサは紅茶とマフィンを注文すると、その娘にやさしい目を向けて見つめていた。何とか相手の目を引くつもりである。ところがちょうどその瞬間、娘の目が急にキラリと光って頬に赤味がさした。美人といえないこともない。その顔で「バーティ、今日は」とやさしい声を出したところへ、若い男がやって来て同じテーブルへ向かい合ってかけた。ジョキャンサはその青年をじっと見つめた。見たところ自分より二、三歳は年下らしい。グレゴリーよりずっと男前である。いや、知り合いの青年の誰よりもいい男だ。きっと大きな卸し店で事務員でもしているんだろう、それで物腰が上品なんだろう、とジョキャンサは見当をつけた。きっと安い給料で命もつなぎ息ぬきもし、年に一度は二週間の休暇をもらっているんだろう。もちろん自分の男ぶりは承知しているが、それもアングロ・サクソン流のはにかみ型で、ラテン系やセム族系の思い上がったずうずうしさはない。話し相手の娘といい仲だとは誰にもわかる。正式な婚約へ目下次第に接近中かも知れない。ジョキャンサはその男の家族を想像した。きっと世間がせまくて口のうるさい母親がいるのだろう。今度はどこで何をしておそくなったの、といつもほじり立てるんだろう。やがてそのうち、男は面白くもない奴隷ぐらしを見捨てて独立した家庭をもち、ポンドやシリングやペンスの慢性的不足と快適な生活に欠かせないもの大部分の欠乏に圧迫されることになる。ジョキャンサは気の毒だなと思った。あの男、『黄色いクジャク』をもう見ただろうか。きっとまだ見てはいまい。そう思って絶対たしかだ。娘はもう食事がすんだ。やがて仕事へもどるだろう。男だけになったら、「夫がほかに予定を立ててしまいましたので、わたし今夜行かれませんの。この券、使ってくださいませんか、むだになりますから」ともちかけるのはごく簡単だ。そして、いつかまたこの店へ来て見かけたら、あの芝居どうでした? と聞いてみよう。もし相手がいい人間で、つき合ううちいよいよいい人だとなったら、また芝居の券をやってもいいし日曜日にチェルスィの自宅へお茶に呼んでもいい。つき合ううちにきっとだんだんいい人だとなるにちがいない、とジョキャンサは確信した。夫にも気に入るだろうし、|妖精《フェアリ》の名づけ親になる一件も思ったより面白くなるだろう、と思いこんだ。男はとにかく人前に出しても恥ずかしくない人柄だ。髪の撫でつけ方もちゃんと知っている。たぶん模倣の才能があるんだろう。ネクタイにしても似合う色をちゃんと心得ている。これは直感かもしれない。まったく好きなタイプの青年だ、偶然趣味が一致したのにちがいないが。やがて娘が柱時計を見て、急いでやさしくさよならといって出て行くと、ジョキャンサはホッとした。バーティは娘のさよならにうなずいて答えると、紅茶を一口ぐいと飲みこみ、オーバーのポケットから紙表紙の本を出した。『|土民軍《スイーポイ》と|イギリス《サーヒブ》人――インド大暴動物語』という本である。
知らない人とまだ目を合わせもしないのに芝居の入場券をあげますなどと持ちかけるのは、喫茶店のエティケットが禁ずるところである。もしテーブルの砂糖入れに中味が一杯入っていたら、まずそれを隠してから、砂糖入れを取ってくださいませんか、というのがよろしい。隠すのは造作なくできる。印刷したメニューがたいがいテーブル並みに大きくて、しかも立てておけるからだ。ジョキャンサは自信たっぷり作業を開始した。まず、文句のつけどころもないマフィンに欠陥があると称して、かん高い声でウェートレスと言い合った。それから、途方もなく遠い郊外まで地下鉄があるか、と困ったような声でいろいろ質問した。店の子ネコに見えすくほど上手なやさしい言葉をかけた。最後の手段としてミルク壺をひっくり返し、上品な声でびっくりして見せた。あれやこれやでかなり人目を引きつけたが、髪を美事に撫でつけた青年は一瞬間も目を向けない。彼の心は遠く幾千マイルの彼方の焼けつくヒンドスタンの原野や、住む人もないバンガローやごった返す|市《バザ》|場《ール》やそうぞうしい兵営の中庭や、そんなところに飛んでいて、遠い銃声や|蛮《トム》|鼓《トム》の音に耳を傾けていた。
ジョキャンサはチェルスィの自宅へもどった。装飾過剰のつまらない家だな、とはじめて思った。きっと夫も夕食のとき面白くもないことをいい出すだろう。そのあと見に行く今夜の芝居もきっとつまらないだろう。きっとそうだ、と思うとイライラして来た。全体として彼女の心境は、満足してゴロゴロ喉を鳴らしているアタブのそれとは著しくちがっていた。アタブはまたソファーの片隅に丸くなって、全身のあらゆる曲線から静かなやすらぎを放散していた。
だがしかし、スズメは一羽、ちゃんと仕とめていたのである。
お気に召したらお買い上げを
[#地から2字上げ]On Approval
ロンドン市ソーホー地区アウル・ストリートのレストラン・ニューレンバーグへはボヘミヤン気取りの連中が大勢集まる。そこへときたま流れこむ本物のボヘミヤンどもの中でも一番正体のつかみにくい、もっとも興味ある人物はゲブハード・クノプシュランクだ。友達は一人もない。店の常連のことは誰でも知り合い扱いするが、ドアの外のアウル・ストリートや広い世間までその交際をひろげる気は全然ないらしい。まるで市場へ店を出している女が通行人を相手にするように、品物を並べては天気のことだの不景気のことだの、たまにはリューマチの話だのベチャベチャしゃべるが、相手が毎日どんな暮らしをしてどんな夢をもっているか、そんなことまで口を出したりほじくったりはしない。
ポメラニヤのどこかの農場の出だということになっていた。二年ばかり前ブタの世話だのガチョウの飼育だの、そんな労働と責任を放り出して画家として一旗あげようとロンドンへ出て来た。それしかわかっていない。
「なぜロンドンへ来たんですか? パリやミュンヘンへ行かないで」物好きな人がよくそうきいた。
「そりゃあね、ストルプミュンデから月に二回はロンドン行きの船があってね、客は幾人も乗せませんが安く乗せてくれるんです。ミュンヘンもパリも汽車賃が高いんでね」
そんなわけで、一か八かの大冒険の舞台にロンドンをえらんだのだ。
外地からやって来たこのガチョウ飼の青年が霊感にかられ光に向かって翼をひろげた真の天才であるのか、それとも野心の大きいただの若者が何となく絵がかけそうだと思いこみ、食べるものはカラスムギのパンだけで、どこもかしこもブタだらけ埃だらけのポメラニヤ平原の単調な暮らしから逃げ出して来たのか、レストラン・ニューレンバーグの常連はこの問題で前から真剣に気をもんでいた。疑ったり用心したりしたのには相当の理由がある。この狭いレストランにたむろする芸術家気取りの連中には、髪を短くした若い女や髪を長くした若い男が大勢あって、これという根拠もないのにそれぞれ音楽や詩や絵画や舞台芸術などに並みはずれた天才があると思いこんでいる。だからどの分野にしろ天才と自称する人物がとびこんでくれば当然、こいつ果たして本物かな、とうさん臭い目で見られるわけだ。その反面、本物の天才を知らずにうっかり鼻であしらってしまう危険も絶えない。たとえば、あの遺憾きわまるスレドンティの場合がそれだ。劇詩人スレドンティはこのアウル・ストリートの審査会でさんざん軽視され冷遇されたが、のちにコンスタンチン・コンスタンチノヴィッチ大侯爵により卓越した大詩人と称揚された。シルヴィヤ・スタブルのいうところによるとこの大侯爵は「ロマノフ家一族中もっとも教養の高い人物だ」そうだが、シルヴィヤはロシヤ帝国皇室のメンバーなら一人残らず知っているような口をきく。実は知り合いに、ボルシチを食べるとき自分で発明したような顔をして食べる若い新聞記者が一人いるだけである。とにかく現在のところ、スレドンティの『死と情熱の詩集』はヨーロッパの七カ国語に翻訳され、近いうちにシリヤ語訳まで出るそうだ。そんなこともあったからレストラン・ニューレンバーグにたむろする明敏なる批評家どもは、これからはあまり急いで取り返しのつかない判定を下すまいと用心しているわけなのだ。
ところでクノプシュランクの作品そのものは検討し評価するチャンスがいくらでもあった。お高く構えて店の常連との交際に断じて深入りはしないが、自分の画作を人目にさらすのは一向に気にしない。毎晩、いやほとんど毎晩、クノプシュランクは七時ごろ姿をあらわしていつものテーブルに席を占め、かさばった黒の紙挟みを真向かいの椅子に放り出す。そしてほかの客一同にまんべんなく目礼すると真剣な態度で食事を開始する。やがてコーヒーの段取りになると煙草に火をつけ、紙挟みを手もとに引きよせて中味をかき回しはじめる。落ち着きはらってゆっくりと近作のスケッチやら習作やらえらび出し、新顔の客には特に気をつけて、何ともいわずにテーブルからテーブルへまわす。絵の裏には「定価十シリング」とハッキリ書いてあった。
その作品に天才の刻印がハッキリ押してあるわけではないが、画材のえらび方が一枚残らず実に風変わりな点は注目に値した。どの絵にもきまってロンドンの有名な通りか公共の場所が描いてある。しかもそれが荒廃しきって人っ子ひとり姿を見せず、その代りに野獣がいろいろうろついていた。それも異国情緒たっぷりの野獣ばかりぞろぞろとそろっているところを見ると、どこか動物園かサーカスから逃げ出したのにちがいない。もっとも目を引く典型的な作品は『噴水池で水を飲むジラフの群――トラファルガー広場』だが、『アパー・バークレー・ストリートにて瀕死のラクダをおそうハゲタカの群』となると一段とまた物凄くなる。何カ月もかかって描き上げた大作の写真も何枚かあった。現在のところ、大胆な画商か山気のあるアマチュアでもみつけて売りつけようとしている作品で、画題は『ユーストン駅構内に眠るハイエナの群』という。底知れぬ荒廃を思わせて何とも完璧な大作だ。
「もちろん非常に独創的な作品かも知れませんね。全画壇随一の劃期的な大作かも知れませんわ」とシルヴィヤ・スタブルが取巻き連中に向かっていった、「でもその反面、ただの気ちがいじみた絵かもわかりませんよね。もちろんこの作がどんな値で取引きされるか、それにばかり気を取られてはいけませんけど、誰か本職の画商があのハイエナの絵なりスケッチのどれかなり値をつけてくれると、クノプシュランクの人物も作品もちゃんと評価できますわね」
「そのうち、ああ惜しいことをした、なんてじだんだ踏むことになりゃしませんかしら。あの紙挟み、丸ごと買っとくんだった、なんて」とミセス・ヌーガット−ジョーンズがいった、「でも本当の天才がそこらにぞろぞろいるんですもの、ポンと十シリング出して気まぐれで描いたいたずらみたいな絵を買う気にもなれませんわ。そら、先週見せてくれたでしょう、あの『アルバート記念碑にねぐらを作ったサケイ』の絵――とても感動的で技巧でも画面の処理でもすばらしいと思いますわ。でもわたし、ちっともアルバート記念碑らしい感じがしませんの。それにジェイムズ・ビーンクェスト卿にききましたらサケイはねぐらを作るんじゃなくって地面で眠るんだそうですわよ」
ポメラニヤ出身の画家にどんな才能なり天才なりあったにしろ、その才能なり天才なりを画商がみとめないことは事実だった。彼の紙挟みは買手のないスケッチでいつまでもふくれたままだし、レストラン・ニューレンバーグの頓智家が『ユーストンの|昼《シエ》|寝《スタ》』と仇名をつけた例の大作は相変わらず売りに出されたままである。そのうち、経済的逼迫の外面的徴候がありありと目につきはじめた。夕食のときの安物のクラレット半瓶が小型のコップいっぱいのビールに変わり、やがてそれもただの水に変わった。一シリング六ペンスの定食は毎日のきまりでなくて日曜日の贅沢になり、あとの六日はパンとチーズに六ペンスのオムレツで辛抱した。その上、まるきり姿を見せない晩もあるようになり、たまに自分のことを話し出しても、偉大なる美術界の話はだんだんへって故郷ポメラニヤの話がますます多くなって来た。
「今時分は忙しい時節なんだ、ぼくの故郷じゃね」と恋しそうにいう、「収穫がすむとブタを畑へ放してその世話をするんだ。国にいたら手伝ってやれるんだがなあ。ここの土地じゃとても食えないよ、絵なんぞみとめてくれないからな」
「ちょいと行って来たらいいじゃないか?」と誰かが上手にもちかけた。
「うん、金がかかるんでね。ストルプミュンデ行きの船賃もいるし下宿に借金もたまってる。この店にだって何シリングだか借りがあるんだ。せめてスケッチでも少し売れたらなあ――」
「もしかしたらね」とミセス・ヌーガット−ジョーンズがもち出した、「も少し値段を安くしたらどう? きっと飛びついて買う人があると思うわ。十シリングとなると誰だって考えちまうのよ、金持じゃないとね。六シリングか七シリングに下げたらどう?」
百姓はいつになっても百姓だ、という。こうしたら売れるかも、と聞いただけで画家の目はキラリときらめき口もとの皺が深くなった。
「一枚九シリング九ペンスにまけよう」と即座にいったが、ミセス・ヌーガット−ジョーンズがそれきり深入りしないのでガッカリしたらしい。七シリング四ペンスまでなら、とくるだろうと思っていたらしい。
何週間もたった。クノプシュランクがアウル・ストリートのレストランへくるのはいよいよ間遠になり、来たときの食事はますます貧弱になった。そのうちやがて栄光の日が到来した。というのは、ある晩いつになく早く上機嫌で姿を見せると、まさにご馳走といえるほど念入りな食事を注文した。おいてある材料では足らなくてガチョウの胸肉の燻製を一皿、大急ぎで取りよせる始末だ。これはポメラニヤ名産の珍味だが、運よくカベントリ・ストリートの食品輸入商社で売っていた。その上に首の長いライン・ワインまで一本出させてテーブルの上は大混雑、申し分なしのお祝い気分になって来た。
「あの人、あの傑作が売れたのよ、きっと」とシルヴィヤ・スタブルがおくれて来たミセス・ヌーガット−ジョーンズにささやいた。
「誰が買ったの?」と、これも小声である。
「わからないわ、まだ何ともいわないんですもの。でも確かにアメリカ人よ。そら、ごらんなさい、デザートの皿に小さなアメリカ国旗が立ってるわ。それにね、つづけて三べんもオルゴールへ一ペニー銅貨を入れたのよ。一度は『星条旗』、それからスーザのマーチ、そしてまた『星条旗』をやったの。アメリカ人の大金持にちがいなしよ。きっといい値段に売れたのね。大満足でニコニコしてるわ」
「きいてみましょうよ、誰が買ったのか」とミセス・ヌーガット−ジョーンズがいった。
「だめよ、そんなことしたら。さあ、急いであの人のスケッチを買っときましょうよ、有名人になったのがわかったな、とけどられないうち。けどられたら値段を倍にふっかけてくるわよ。よかったわね、あの人、有名人になって。わたし、いつも思ってたのよ、この人こそ天才だって」
一枚あたり十シリングの値段でミス・シルヴィヤ・スタブルはアパー・バークレー・ストリートで死にかけているラクダの絵と、トラファルガー広場で水を飲んでいるジラフの絵を買った。同じ値段でミセス・ヌーガット−ジョーンズはねぐらについたサケイのスケッチを手に入れた。さらに野心的な大作『アシーニアム・クラブの正面階段にて相たたかうオオカミとワピティ』は十五シリングの値段で買手がついた。
「先生、これからのご計画は?」と、ときたま美術週刊誌へ何か書いている若い男がたずねた。
「船があり次第ストルプミュンデへ帰りますよ」と画家が答えた。「もう二度と来やしません。くるもんですか」
「でもお仕事はどうなさるんです? 画家としての将来は?」
「そんなのだめですよ。食えやしません。きょうまでスケッチ一枚売れませんでしたし、今夜二、三枚売れたのもぼくが国へ帰るからなんです。あとはまるきり売れやしませんしね」
「でも何じゃないですか、誰かアメリカ人が――」
「ああ、あの金持のアメリカ人か?」と画家はホクソ笑んだ。「運よくそのアメリカ人がうちのブタの行列へ車を突っこんでくれてね、畑へ連れ出すところをさ。一番いいブタを何頭もひき殺されたけどちゃんと損害を払ってくれたよ。あと一カ月太らせてから市場へ出しても、あの何分の一にもならなかったろうな。そのアメリカ人、大急ぎでダンチッヒへ行く途中でね、大急ぎのところだからちゃんと言い値を払ったのさ。金持のアメリカ人はありがたいね、いつも大急ぎでどこかへ行く途中なんだ。そんなことでぼくの両親、うんともうけたものだから金を送ってよこしてね、借金を払って国へ帰れというのさ。月曜日の船でストルプミュンデへ出発だ。もう来ませんよ。けっしてくるもんですか」
「でも作品はどうします? あのハイエナの絵は?」
「あんなの、だめさ。大きすぎてストルプミュンデへ持って行かれやしない。燃してしまうよ」
やがてはこの画家も忘れられるだろうが、現在のところクノプシュランクといえばスレドンティ事件に劣らぬ悲劇的話題である、ソーホー地区アウル・ストリートのレストラン・ニューレンバーグにたむろする常連の一部にとっては。
2
ルイズ
[#地から2字上げ]Louise
「その紅茶、もうさめてるよ、ベルを押してまたもってこさせたらどう」と未亡人ビーンフォード夫人がいった。
ビーンフォード夫人は元気のいい婆さんで一生の大部分、自分で病気ときめこんで、その病気といちゃつき合ってきた。クローヴィス・サングレールにいわせると、あの婆さん、ビクトリア女王即位式のとき引きこんだ風邪をそれきり手離さないんだ、と失礼なことをいう。その妹ジェーン・スロプルスタンスはいくつか年下だが、ミドルセクス州随一のうっかり者で特に有名である。
「今日はわたし、いつになく利口だったわ」と紅茶のベルを押しながらジェーンがいった、「訪ねようと思ってた人は全部たずねたし、買ってこようと思ってた物は全部買ったし、ハロズの店でお姉さんのあの絹地に合うのを見てくるのもちゃんと覚えてたけど、生地見本をもってくの忘れたんでそれだけはだめ。今日のお昼から大事なことで忘れたのはそれひとつよ。わたしとしたらとても上出来じゃない?」
「あんた、ルイズはどうしたの?」と姉がたずねた、「一緒に連れてったんじゃない? 連れてくっていってたけど」
「あら大変」とジェーンは大声を出した。「まあルイズをどうしちゃったのかしら。きっとどこかへ置いてきちまったのよ」
「どこへさ?」
「それが問題なのよ。どこへ置いてきたかしら? キャリウッドのうちへお寄りしたけど、お宅にいらしたんだかお留守で名刺だけ置いてきたんだか忘れちゃった。もしお宅においでだったらブリッジのお相手にルイズを置いてきたかも知れないわね。キャリウッド卿に電話して聞いてみるわ」
「もしもし、キャリウッド卿ですか。わたしよ、ジェーン・スロプルスタンス。あの伺いますけど、あなた、ルイズを見かけた?」とジェーンは電話で聞いた。
「『ルイズ』だって? ぼくはね、運わるく三べんも見ちゃったよ。正直のところ最初はあまり感心しなかったね。だがあとになってあの音楽、なかなかいいと思ってきたよ。だが今のところ、もういっぺん見る気はないね。あなたのボックスに席があるから来ないか、っていうわけ?」
「ちがうわよ。オペラの『ルイズ』じゃなくてわたしの姪なの。お宅へ置いてきたんじゃないかと思って」
「今日のお昼すぎあなたが名刺を置いてったのは知ってるが、姪をひとり置いていったのは知りませんな。もし置いていけば玄関のボーイがきっというはずだ。よそのうちへ名刺だけじゃなく姪まで置いていくのがはやり出したのかね。それは困るな、このへんバークレー広場あたりの家はたいがいそんなもの置いとく場所がないんでね」
「キャリウッド家にはいないわ」と、お茶のテーブルへ戻ってジェーンがいった、「考えてみるとセルフリジ・デパートの絹物売場へ置いてきたらしいわ。明るいところで見てくるからちょいとここで待ってて、と待たせておいて、生地見本を忘れたのに気がついたとたん、ルイズのことケロリと忘れたかも知れないわ。もしそうだったらルイズはちゃんとその場にいてよ、あの子、いわれなけりゃ動きやしないから。ルイズったら、自主性がまるでないんですもの」
「生地の見立てはハロズ・デパートでしてくる、っていってたよ、おまえは」と未亡人が口を出した。
「そういった、わたし? それならハロズだわね。でもわたし、どっちだったかすっかり忘れたわ。何でもみんな親切で感じがよくて大事にしてくれて、あんないい店じゃカタン糸一巻きだって失敬する気になれないわ」
「ルイズを取ってくりゃよかったのにね。知らない人ばかりの中にルイズひとり置いとくなんていけないよ。誰かわるい人でもルイズに話しかけたりしたらどうするの?」
「そんなことありゃしませんよ、ルイズったらまるで話なんかしないんだから。何の話をもち出したって『叔母さんそう思う? じゃきっとそうよ』っていうだけ、あと何にもいうことがないんですよ。フランスのリボー内閣が倒れたときだって何ともいいやしなかったでしょう? あれ、おかしいと思うわ、あの子の母親ったら始終パリへ行ってたんですもの。このバタつきパン、切り方が少し薄すぎたわね。口へもってくるうち途中で崩れちまうじゃない? こっちから口を出して空中でパクリなんて滑稽よ、まるでマスがカバリに飛びつくみたい」
「あきれたね、あんたは」と未亡人がいった「かわいい姪を失くしたというのに、よくまあ平気でお茶をどんどん飲んでること」
「失くしたっていうけどお墓とは無関係ですよ。ちょいと置き忘れただけ。どこへ置いてきたか今すぐ思い出すわ」
「途中でどこか教会へ寄りはしなかった? もしかルイズがウェストミンスター寺院かイートン広場のセント・ピーターズ教会あたりへ置いてきぼりされて、なぜ来たんだかちゃんと説明もできずにふらついてたら、たちまちネコネズミ条令(未決囚のハンガーストライキを始末するため一時仮出獄させてまた拘引する条例を俗語でこう呼んだ)でつかまってレジノルド・マッケナ(そのころ文部大臣だった政治家)のところへやられるよ」
「そうなったらまずいわね」と、腰のきまらないバタつきパンを途中まで迎えに出ながらジェーンがいった、「うちはマッケナ家とあまり知り合いじゃないから、冷淡な秘書に電話をかけて人相や何かルイズのことを詳しく話してさ、夕食に間にあうように返してくださいってたのむなんて、とてもいやだわ。でもさいわい教会はどこへも寄らなくてよ。途中で救世軍の行列に巻きこまれたけど、すぐそばで見ると救世軍って八十何年だかに初めて見たときとまるで格好が変わったのね。もとはモジャモジャの頭でなりふり構わず歩きまわったもんでしょう、ニッコリしながら世間に腹を立ててるような顔で。それが今はパリッと派手に構えて元気がいいのよ、まるでゼラニウムの花が悔い改めたみたい。先だってローラ・ケトルウェイがドーバー・ストリートの地下鉄のエレベーターで救世軍のこといろいろしゃべってたわ、救世軍がどんなに世の中のためになっただの、もし救世軍がなかったらそれこそ大損失ですだのってね。わたし、いってやったわ、『もし救世軍がなかったら、グランヴィル・バーカー(俳優・劇作家・演出家・演劇批評家として有名、演劇界に新風を導入した)がさっそく同じ格好のものを考え出すわよ』ってね。地下鉄のエレベーターで人に聞こえるようにそんなこというと、いつもまるで警句みたいに聞こえるものよ」
「おまえ、ルイズのことどうかしなくちゃいけないよ」と未亡人がいった。
「いま考えてるところなんですよ、アダ・スペルヴェキストを訪ねたとき一緒にいたかどうか。アダのとこ、面白かったわ。アダったら、わたしが大嫌いなの知ってるのにあのコリアトフスキーとかいういやな女をまたぞろわたしに押しつけるんですよ。そしてついうっかり、『この方、そのうち引越してローワー・スィーマー・ストリートへお移りになるんですって』といったわ。わたし、いってやったのよ、『そうでしょうね、今のところにずっと落ち着いていらっしゃれば』って。それが三分間ぐらいアダに通じないのよ。やっと通じたらひどく機嫌をわるくしたわ。だめ、だめ、アダのところへは確かにルイズを置いてこなかったわ」
「置いてこなかったところばかり並べてるより、置いてきた場所を何とか思い出す方がいいんじゃない?」とビーンフォード夫人がいった、「キャリウッドのところへもアダ・スペルヴェキストのところへもウェストミンスター寺院へも置いてこなかったと、まだそれしきゃわからないんだからね」
「でもそれで範囲がかなり狭くなったわ」、とジェーンは明るい顔をした、「モーネイ商店へ寄ったとき、一緒にいたような気がするのよ。わたし、モーネイへは確かに寄ったわ、そこであの面白いマルカム・ナントカいう人にあったの覚えてるから。そら、知ってるでしょう、あの人。変わった洗礼名もってる人って便利ね、苦労して苗字まで覚えなくてすむんですもの。マルカムなんて名の人、ほかにもひとりふたり知ってるけど、面白い人ってあの人きりよ。あの人、わたしにロイアル・コート劇場の『たのしい日曜の夕べ』の券を二枚くれたのよ。それもモーネイの店へ忘れてきたらしいけど、とにかく入場券をくれるなんて親切な人ね」
「ルイズもそこへ置いてきたんじゃない?」
「電話で聞いてみるわ。ねえ、ロバート、お茶のあと片づけはあとにしてリジェント・ストリートのモーネイ商店へ電話で聞いてくれない? 芝居の入場券二枚と姪をひとり、今日のお昼すぎに忘れてこなかったかどうか」
「姪をひとり、でございますか?」とボーイがたずねた。
「そうよ、ミス・ルイズがわたしと一緒に帰ってこなかったでしょう? どこへ置いてきたかわからないのよ」
「ミス・ルイズはお昼からずっと二階で神経痛の起こった台所づきの女中に本を読んで聞かせていらっしゃいます。四時十五分前にお茶を差しあげてまいりました」
「ああ、そうだった! まあ、わたし何てばかなんでしょう。すっかり忘れてたわ。わたしがたのんだのよ、エマに『|妖精の女王《フェアリ・クイン》』(スペンサーの長詩、現代語ではない)を読んで聞かせて寝つかせておあげ、ってね。わたし、神経痛が起こるといつも誰かにたのんで『|妖精の女王《フェアリ・クイン》』を読んでもらうの。たいがい眠れるわ。ローラはうまく寝つかせられなかったらしいけど、とにかくやるだけはやってくれたのね。一時間ぐらい読んで聞かせられたら、エマもあとはもう放っといてもらいたかっただろうにね、神経痛だけ相手にして。でもルイズは誰かにもうよせといわれるまでけしてやめやしないわ。とにかくロバート、モーネイ商店へ電話で聞いてくれない? 芝居の入場券を二枚忘れてこなかったかどうか。ねえ、お姉さま、あなたの絹の生地のことは別として今日忘れたの、わたし、それだけなのよ。わたしとしては上出来だわね」
お茶
[#地から2字上げ]Tea
ジェイムズ・カシャット−プリンクリはまだ独身だが、いずれそのうち結婚することになるだろう、と前々から思いこんでいた。しかし三十四歳の今日までその信念を裏書するような行動には全く出たことがない。気に入った女性は大勢あってその連中をひとまとめに鑑賞し冷静に楽しむことはするが、その中から一人だけえりぬいて結婚の対象として考慮したことは一度もなかった。ちょうど、アルプス連峰を遠くから眺めて感嘆はするが、どの峰かを自分一個の私有財産にほしがりはしないようなものである。結婚について自ら進んで立ち上がる意志のない彼の態度は、彼の家庭その他の感傷的傾向ある女性たちを少なからずいら立たせた。母も姉も妹も、同居している伯母も、特に懇意な年配の女性たちも、彼の気のない態度に批判の目を向けた。しかも声なき批判からは遥かに遠かった。だから、彼がもっとも無邪気な心もちでどの女性かに近づいたりすると、そらきたとばかり期待と熱望の目を向ける。運動不足のテリヤが何匹もいる前で、誰か運動につれ出しそうな者がふとそんなそぶりでも見せるといっせいに緊張した目を向けるものだが、まさにあの目つきである。散歩をせがむテリヤの目つきを何人からも総がかりで向けてこられると、心ある者ならとても長くは抵抗できない。ジェイムズは特に頑固でも無関心でもないから、早く誰か適齢期のむすめに惚れこんでくれればいい、という家族の希望をここまで見せつけられては知らぬ顔もできなくなった。その上、ジュールズ伯父さんがこの世を去って彼にかなりの遺産を残してくれたとなっては、その遺産を共有する配偶者をみつけるのが当然果たすべき責任という格好になった。さっそく候補者捜しにかかることになったが、これは当人の自発的意志よりもむしろ家族の暗示と世論の重荷によるところが多かった。家族や近親の女性たち、それに前にもいった年配の女性の知人たちの明確な大多数は、ジェイムズの交際範囲内で一ばんの適任者としてジョウン・セバスタブルを選定していた。その結果、当人のジェイムズもいずれそのうちジョウンと自分はお祝いをいわれたり祝いの品をもらったり、ノールウェーか地中海あたりのホテルへ泊まったりして、結局は家庭生活に落ち着くだろう、とだんだん思うようになった。しかし、それにはまず相手方のジョウンがこの件をどう思うか、それを聞き出さなくてはならない。周囲の者もこの段階までは巧妙かつ慎重に事をはこんできた。だが現実に結婚を申しこむ――それだけはどうしてもジェイムズ自身が努力すべき問題であった。
カシャット−プリンクリはハイド・パークを通ってセバスタブル家へ向かっていた。まずまず平静な心もちである。いよいよ決心して結婚を申しこむとなると、これでハッキリ片がつき肩の荷が下りるわけだ。そう思うと彼はうれしかった。たとえ相手がジョウンのようないいむすめにしろ、結婚の申しこみというのはとかく厄介なものだが、その準備の手続きをすませなくてはミノルカ島への新婚旅行もそれにつづく幸福な結婚生活もあったものではない。彼は考えてみた――ミノルカ島は実際に滞在してみたらどんなところだろうか。心に浮かぶミノルカ島は白と黒とのミノルカ種のニワトリがそこらをかけ回っていて、年中いつも半喪期に服しているようなところだが、いざその土地を踏んでよく調べてみたらそんなこともないのかも知れない。ロシヤから帰って来た人の話によると、ロシヤでは一度もモスクバ・アヒルを見かけた覚えがないそうだ。だからミノルカ島にもミノルカ種のニワトリはいないかも知れない。
時計が半を打って地中海をさまよっていた彼の冥想は破られた。四時半である。彼の顔に困ったなという表情が定着した。これから行けばちょうどお茶の時刻にセバスタブル家へ着くことになる。きっとジョウンが低いテーブルに向かっているだろう。テーブルには銀のティー・ポットやらクリーム入れやら、華奢な陶器の茶わんが並んでいるだろう。その向こうからジョウンの声がやさしくなれなれしく聞こえてくるだろう――お茶が濃すぎますか、薄すぎますか、お砂糖は入れるのでしたか、ミルクも入れましょうか、クリームはどうなさる、などと。「角砂糖は一つでしたか? わたし、忘れましたの。ミルクは入れるのでしたね。お湯をも少しつぎましょうか、濃すぎるようなら」
カシャット−プリンクリは何十冊という小説の中でこんな場面を読んでいた、何百回におよぶ現実生活の経験から事実それにちがいないと承知もしている。この厳粛なる午後のお茶の時刻、何千何万の女性が華奢な陶器や銀器の向こうからやさしい声を響かせて、お砂糖は? ミルクは? とかわいい質問をつぎつぎとあびせているだろう。カシャット−プリンクリは午後のお茶なるものがいっさい大嫌いだった。彼の人生論に従えば女性というものは寝椅子か長椅子に横になり、たぐいなき魅力をもって話をしたり、口にいいがたき思いを目に浮かべたり、ただ眺めるべきものとして黙っていたり、そうしているのが本当なのだ。そして絹のカーテンの向こうからヌビヤ人の小姓が盆にティー・カップや何かをのせて音もなくあらわれる。クリームだの砂糖だのお湯だのと長々しゃべり立てもせず、黙ってそれを受け取る――それが本当なのだ。もし自分の魂が本当に彼女の奴隷としてその足もとにひれ伏すとしたら、お茶が薄すぎるの何の、そんなことがいっていられるものか? しかしカシャット−プリンクリはそんな意見を一度も母に話したことはない。母はお茶の時刻になると陶器や銀の茶道具を前にして、お砂糖は? クリームは? と生涯やってきた人だから、長椅子だのヌビヤ人の小姓だのをもち出したら、さっそく、一週間海岸へ行って静養しておいで、とすすめるだろう。今こうして入り組んだ狭い通りをわざわざ遠回りして歩きながらあの上品なセバスタブル邸へ向かう途中、ふと、これからジョウン・セバスタブルとお茶のテーブルで向かい合うのか、と思うと彼はゾッとした。だがしかし、その恐しさをしばらくは防ぎとめる手段がすぐ頭に浮かんだ。エスキモー・ストリートの騒々しい外れの狭い家の何階だかにローダ・エラムが住んでいるのを思い出したのである。ローダという女は遠縁の|従《い》|姉《と》|妹《こ》か何かで、ぜいたくな材料を使って帽子を製作して暮らしを立てていた。彼女の製作する帽子はいかにもパリ直輸入らしく見えるが、不幸にして売値はとてもパリに行けそうにもない値段だ。それなのにローダは人生が楽しいらしく、苦しい暮らしの中でもけっこう楽しそうに暮らしている。カシャット−プリンクリはローダの部屋まで訪ねて行って、眼前に迫る結婚申込の一件を三十分ばかり延期することにした。ローダのところにしばらくいれば、セバスタブル邸へ着いてもお茶の道具はもうすっかり片づいているだろう。
ローダがいそいそと彼を迎えて通した部屋は、仕事場と居間とキチンと、三つの役目を兼ねているらしいが、そのくせおどろくほど清潔で居心地もいい。
「わたし、今ピクニック風の食事をしているところなの」とローダがいった、「そら、あなたの肘のところの瓶にキャビヤがあってよ。そのバタつきパン、どんどん食べてくださいな、あとまた切りますから。ティー・カップは自分で捜してね。ティー・ポットならあなたのうしろにあるわ。さあ、何の話でもどんどん聞かせてよ」
そういったきり、食べたり飲んだりする物のことは何ともいわず、楽しそうにしゃべりつづけて、彼にも楽しくしゃべらせた。同時にパンを切ってバタつきに仕上げたがその腕前もすばらしく上手だ。そのあとに赤いペパーとレモンの薄切りを出したが、ほかの女ならあいにく何がなくての何のと、言いわけばかり並べたことだろう。カシャット−プリンクリは気がつくといい気持になってすばらしいお茶をごちそうになっていた。しかも家畜の流行病が起こったときの農業大臣みたいに、つぎつぎと質問などあびせかけられずにである。
「さあ今度はなぜ訪ねて来たのか、わけを話してよ」と急にローダが切り出した。「突然だから好奇心ばかりかビジネス本能までかき立てられたわ。帽子を買いに来たのね、きっと。あなた、先だって遺産を相続したんですってね。だからそのお祝いに姉さんや妹たちに上等の帽子を買ってあげるんでしょう? 名案だわよ、それ。誰も口に出しては言わないかも知れないけど、やっぱり同じ気持にきまってるわ。もちろんグッドウッド競馬の前だから、今は大忙しだけど、慣れてるのよ、そんなこと。年中ラッシュアワーみたい」
「ぼくはね、帽子を買いに来たんじゃないんだ」と突然の客がいった、「実はね、何の用があって来たんでもないのさ。通りがかりにふと寄ってみたくなっただけ。だがこうして話しこんでるうち、少し大事なことが頭に浮かんだよ。ちょいと帽子のこと忘れて話を聞いてくれると話すんだがなあ」
その四十分ばかりあと、ジェイムズ・カシャット−プリンクリは大事なニュースをたずさえてわが家へ戻った。
「ぼく、結婚の約束をしたよ」と彼は公表した。
とたんに爆発したようにお祝いの声と予言の的中を自慢する叫びが起こった。
「わかってたわ! ちゃんとわかってたんですもの! 何週間も前からそういってたのよ!」
「そんなこと、絶対ないはずだ」とカシャット−プリンクリがいった、「もし今日のランチのときにね、ぼくがローダ・エラムに結婚を申しこんで承知してもらうなんていったら、ぼくが誰よりまっ先に大声立てて笑ったはずなんだ」
女たち一同、これまで辛抱づよく舵を取ってきた一件を頭から否定されたわけだが、それにしても事態が突然ロマンティックな展開を見せたのにいささか慰められた。情熱の対象を出しぬけにジョウン・セバスタブルからローダ・エラムへ変更するのは少なからず辛いことだった。しかし、何といっても問題はジェイムズの妻のことである。当人の好みもある程度は考慮に入れなくてはならない。
同じ年の九月のある日の午後、ミノルカ島への新婚旅行もとうの昔に無事にすんで、グランチェスター広場へ構えた新居の応接間へカシャット−プリンクリが入ってきた。ローダは低いテーブルに向かってかけていた。その前に華奢な陶器のティー・カップだのキラキラ光る銀のティー・ポットだのいろいろ並んでいた。そしてお茶をわたしてくれるときローダの声が楽しく響きわたった、「もっと薄い方がお好きなの? 少しお湯をさしましょうか? いかが?」
クリスピナ・アムバリーの失踪
[#地から2字上げ]The Disappearance of Crispina Umberleigh
青々したハンガリーの平野をバルカンへ向かって走る列車の一等車に、イギリス人がふたり、うちとけて時おり話をしていた。ふたりはまだ寒くて薄暗い夜明けのころ、列車が国境を越すときはじめて知り合った。ゲルマン系の土地がホーエンツォルレルン領からハプスブルグ領に変わり、王室の紋章のワシの首がひとつふえるところで、眠たいさかりの乗客の荷物を税関の役人が丁重に、通りいっぺんに、しかし小うるさくかき廻す。ふたりともウィーンで一日旅を休んだあと、また同じ列車のプラットフォームで顔を合わせると、たがいに会釈して自然と同じ車室へ乗りこんだのだ。年かさの方は風采も態度も外交官らしい。実はあるワイン会社の社長と近しい仲の乳兄弟である。あとのひとりは確かにジャーナリストだ。どちらもあまりしゃべらない方だし、相手があまりしゃべらないのをありがたく思っている。だからこそふたりはときどき話をした。
真っ先に自然と話に出たのは、その前日ウィーンで知ったルーブル美術館に展示してあった世界的名画が忽然となくなった一件である。
「こんな大変なものがなくなったりすると、必ず真似る奴が続々と出るもんですな」とジャーナリストがいった。
「あとから真似るのももちろんですが、前ぶれみたいな事もいろいろありましたね」とワイン会社の兄弟がいった。
「そうですな、ルーブルでも盗難がなんべんもありましたし」
「いや、わたしは絵画より人間がいなくなった話を思い出したんです。特にクリスピナ・アムバリーの一件を思い出しました、わたしの伯母ですがな」
「その事件は聞いた覚えがありますが」とジャーナリストがいった、「そのころ外国へ行ってましたからいったいどんな事件だったかよくは知りません」
「真相をお話ししましょうか。ここだけの話にしてくださいよ」とワイン会社の兄弟がいった。
「まず第一にいえるのは、ミセス・アムバリーが姿を消しても家族一同、一家の主婦を失って困ったとばかりは思わなかったですな。伯父のエドワード・アムバリーはけして腰ぬけじゃないし、事実、政界の実力者で一応通っている男でしたが、それが断然クリスピナの尻にしかれていました。尻にしかれたのは伯父ばかりじゃないんです。まずどんな人間でもクリスピナと長く接していてガッシリ征服されなかった者はひとりもありません。生まれつき人に命令するタイプというのがありますが、クリスピナ・アムバリーは生まれつき法の制定でも法典作りでも、施政でも検閲でも認可でも禁止でも処刑でも、裁判まですべてやるんです。台所の連中はじめ家内一同、ひとり残らずクリスピナの独裁にグーの音も出ず服従していること、まず氷河時代の軟体動物にも劣りません。このわたしはただの甥ですから、たまに訪ねて行くだけのことで、クリスピナ伯母さんの勢力といってもまず流行病程度のもので、流行中は困りますが永久につづくもんじゃありません。ところが伯母さんの子供たちは息子も娘も、母親には絶対ふるえ上がっていましたな。勉強のことでも友達のことでも、食事でも娯楽でもお祈りから髪かたちまでいっさいがっさい、この女傑の意志と方針に支配され制定されるんです。これでおわかりでしょうが、そのクリスピナがいつのまにか忽然として姿を消したから、一家はアッと仰天して口がふさがりませんでした。事情も全然わからないのです。まるでセント・ポール寺院かピカデリー・ホテルがひと晩のうちになくなってガランとした空地になった具合です。伯母には何の苦労があったはずもなし、これからも特に生き甲斐を思わせる問題がしこたまありました。ちょうど姿を消す前の日、末の男の子が学校からひどく成績のわるい通知表をもらってきましてね、その日の昼すぎからその子を裁判にかけることになっていました。ですからパッと姿を消したのがその子の方なら動機も見当がつくんですがね。その上、伯母はある|地方教区《ルーラル・ディーン》監督を相手に新聞の投書欄で論争の最中で、相手を異端だ、無定見だ、下劣なごまかし野郎だときめつけたところですから、どんな理由があったにしろ議論をやめる気になるはずはありません。突然失踪した件はもちろん警察にたのみましたが、できるだけ新聞には出ないようにしました。だから伯母が世間に姿を見せないのはきっと入院でもしたんだろう、と世間では思っていましたよ」
「それで家族に直接どんな影響が起こりましたね?」とジャーナリストがたずねた。
「女の子はみんな自転車を買いこみました。まだ女の自転車乗りが流行しているのにクリスピナは家の者一同、絶対あんなものに手を出してはならん、と抑えてましたからね。末の男の子は思いきり破目をはずして、その学校からはとうとう次の学期にやめさせられました。上の方の男子たちは母親はどこか外国でもうろついてるんだろうと推定して、せっせと探し廻りましたよ。それが主にモンマルトルの盛り場中心で、とても見つかりそうな場所じゃありません」
「その間ずっと伯父さんは何の手がかりもつかめないんですか?」
「実はね、内々情報をにぎってたんです、もちろんわたしは当時さっぱり知りませんでしたがね。ある日、奥さんを誘拐して国外へ連れ出した、と知らせが入ったのです。たしかノールウェー沿岸沖合のある島でした。そこへかくして不自由のない場所に大事にしてある、というのです。同時に身の代金の要求が来ました。まず頭金をよこせ、あとは毎年二千ポンドずつよこせ、万一それを実行しないと本人は即座に自宅へもどす、というんです」
ジャーナリストは黙って聞いていたが、やがて静かに笑い出した。
「つまり、誘拐しておいて身の代金を出せ、というのと逆なんですな」と彼はいった。
「もしクリスピナをご存知だったら、奴ら、そんな金高でよく辛抱したもんだ、と思いますよ」とワイン会社の兄弟がいった。
「なるほどね、そんな気にもなりかねないでしょうな。ところで伯父さんはその要求に従いましたか?」
「何しろ自分だけでなく家族のことも考えなけりゃなりませんからね。いったん自由の楽しさを味わったあと、またぞろクリスピナの奴隷になるのは家の者にしたら悲劇ですよ。それに、家の中のことだけでなく、ほかにも考えなけりゃならんことがありましてね。クリスピナが姿を消してから、伯父は政界で知らず知らず卒先して大胆な行動に出るようになりまして、人気も勢力もそれにつれて上がりました。もとは政界の実力者というだけでしたが、今や政界第一の実力者というわけです。万一、ふたたびミセス・アムバリーの亭主という身分に落ちでもしたら自分の立場も怪しくなる、と思ったんですね。何しろ金持ですから毎年二千ポンドというとはした|金《がね》でもないにしろ、クリスピナの外泊費と考えれば別に法外な金高でもないわけです。もちろん、その取引にはかなり良心の苛責もありました。あとでわたしに打ち明けましたが、その身の代金を払うには――わたしはむしろ口留め料だと思うんですが――それを払うには、別の心配もしたそうです。つまり、もし要求を拒絶したら誘拐犯人ども、がっかりして腹を立てクリスピナに当りちらすんじゃないか。全身傷だらけの状態でわが家へたどり着くよりも、ローフォーデン群島のどこかで大事な泊まり客として世話になってる方がましだ、と考えたんですね。とにかく毎年、火災保険でも払うようにキチンと払いましたよ。すると相手もすぐさまキチンと受取をよこしました。そして奥さまは健康状態も良好だし大変お元気です、という意味のことがひと筆、書いてあるんです。一度は、教会管理の改革案を土地の牧師連中に突きつける計画に夢中だ、と書いてあったこともあり、またリュウマチが起こってノールウェー本土へ保養にやるからあと八十ポンドよこせ、といってきたこともあります。その八十ポンドも払いました。もちろんクリスピナを健康にしておく方が誘拐した奴らに有利なわけですが、その取引をまったく秘密にかくし通した腕前は実にすばらしいもんですな。伯父さんの方も、少し高い金は取られるにしろ、専門家に払う謝礼だと思えばあきらめもつきますしね」
「警察はその間、行方不明の奥方をさがすのをやめていたのですか?」
「まるきりやめたわけではありません。ときどき伯父のところへ警察がやってきましてね、伯母の運命やいどころを突きとめる手がかりらしいものをもってきましたが、どうも伯父が警察には話さないことも何か知ってるんじゃないか、と疑っていたらしいです。そのうち、八カ年あまり失踪したあと、クリスピナがまるで芝居にでもありそうに突然、フッと姿を消したわが家へもどってきました」
「つかまえていた奴らの手からコッソリ逃げ出したんですね?」
「いいや、てんでつかまりもしなかったんですよ。フラフラ出かけてしまったのは不意に記憶喪失症になったためでした。いつも日雇い女としては一流程度の身なりをしている人でしたから、ふと自分は日雇い女だと思いこんだのも不思議じゃありませんし、世間が当人のいう通り、ああそうかい、とのみこんで仕事口を見つけてやったのも、さっぱり不思議じゃありません。バーミンガムあたりまで流れて行って、まず落ち着ける仕事口にありついていました。強情な上に押しつけがましい癖はあっても部屋の片づけなど一所懸命精出してやるんで、差引き重宝がられたんですね。それが教区の音楽会場でストーブはどこへ置くことにするか、代理牧師といい合ってるうち、ふと『でもおばさん』と横柄な呼び方をされたショックで、突然記憶がもどってきたんです。『誰にいってるんだか、おまえさん、忘れてるね』と頭ごなしにやっつけたそうですが、これは少しひどすぎましたね。何しろ本人でさえ今の今まで忘れてたんですからね」
「しかしそのローフォーデン群島の連中は」とジャーナリストは大声を出した、「奴らはいったい誰をつかまえてたんです?」
「つかまえていたというのはまったくウソだったんです。誰か家庭の事情を知っている奴、たぶん首になった主人付きのボーイか何かでしょう、それがクリスピナがもどらない間にエドワード・アムバリーから頭金をせしめようと計画したのが始まりで、あとで毎年取り立てた分は、最初ぶんどった頭金に思いがけないおまけが付いたわけなんですな。八年間の空白のあとわが家へもどると、子供たちはもうおとなになってるし、クリスピナの勢力は大いに弱まりました。しかしクリスピナが帰宅したあと、伯父のエドワードは政界で何ひとつ大きなことはできませんでしたよ。前後八年にわたる使途不明金一万六千ポンドの使い道を、どう説明するか、それに頭が精一杯だったんですな。やあ、ベルグラードへ着きました。また税関か」
セルノグラツ城のオオカミ
[#地から2字上げ]The Wolves of Cernogratz
「この城には何か古い伝説でもあるのかね?」とコンラッドは妹にたずねた。コンラッドはハムブルグ市の裕福な貿易商だが、実務家ぞろいの一族でただひとり詩的な心持のある人物である。
妹のグルエベル男爵夫人はムッチリ太った肩をすくめた。
「こんな古いお城にはきまって伝説がいろいろついてるものよ。誰にでもでっち上げられるし、お|金《かね》もかかりませんからね。このお城ではね、誰かここで死ぬ人があると村中のイヌも森の野獣もひと晩中吠えるんですって。いい気持じゃないでしょうね」
「気味がわるくてロマンティックだろうな」とコンラッドはいった。
「とにかく本当じゃありませんよ」と男爵夫人は気軽に答えた、「うちでこのお城を買い取ってから、そんな証拠なんて何ひとつありませんからね。去年の春、しゅうとめが亡くなった時、みんな耳を澄ましていましたけど何も吠えませんでしたわ。ただの言い伝えなんですよ、一文もかけずにお城に勿体をつけるだけの」
「その言い伝えは奥さまのお話とはちがいます」とアメリエがいった。家庭教師に雇われている白髪の婆さんである。みなびっくりふり向いてアメリエの方を見た。アメリエは食事のときいつも黙ってつつましく控えていて影がうすい。話しかけられなければ決して口を開かず、わざわざ話しかけてやる者もない。それが今日は突然さかんに話し出したのだ。じっと正面に顔を向けたまま誰に話すともなく、興奮して早口でしゃべりつづけた。
「このお城で誰が死んでも吠える声が聞こえるのではございません。誰かセルノグラツ家の者がここで亡くなると、方々からオオカミが集まってきていざ臨終というとき森のはずれで吠えるのでございます。このへんの森に住みついているのはふた|番《つがい》か三|番《つがい》きりでございましたが、そんな時になりますと森番の話では何十頭と集まってきて、木かげをうろつき廻っては声をそろえて吠えると申します。それを聞くとお城のイヌも村や方々の農家のイヌも恐れおびえて唸ったり吠えたりいたします。そして亡くなる人の魂が身体を離れる時には、城のまわりの荘園で立木が一本、音を立てて倒れるのでございます。セルノグラツ家の者が誰かこの城で亡くなりますと、そんなことが起こるのでした。しかしほかの人が死んだのではもちろんオオカミも吠えず立木の倒れることもございません。決してございません」
話の終りにさしかかるころ、アメリエの声は人を人とも思わぬような、むしろ見下げたような口調になった。どっしり太った、満艦飾の男爵夫人は見すぼらしい婆さんをじっと睨みつけた。いつも身分相応に小さくなって控えているのに、今日は出しゃばって無礼なことをいい出したものだ。
「フォン・セルノグラツ家のこと、ずいぶんよくご存じのようね、ミス・シュミット」と男爵夫人はとがった声でいった、「いろいろ学問がおありのようですが、方々の家の昔のことまでご存じとは知りませんでしたわ」
そうひやかされてアメリエは、ひやかされる原因になった今の話より、なおいちだんと思いがけない驚くばかりの返事をした。
「実はこのわたくしもフォン・セルノグラツ家の者でございます」と老婆はいった、「ですからわたくしどもの家の昔のことは存じております」
「あなたがセルノグラツ家の人なの? まあ、あなたが!」まさかという声が一斉に起こった。
「わたくしのうちが零落いたしまして仕方なく家庭教師に出ることになりましたとき、わたくしは名を取りかえました。その方がふさわしいと思ったのでございます。でもわたくしの祖父は子供のころ大半このお城に住んでおりましたので、いつも父からその頃のことをいろいろ聞かされました。ですから昔からの伝説でも言い伝えでもよく存じております。何もかもなくして残るのは思い出だけとなりますと、誰でもその思い出を大切に守って忘れないようにいたします。こちらさまで使って頂くことになりましたとき、お伴をしてこのお城へ来ることになろうとは夢にも思いませんでした。どこかほかのところでしたらよかったと思っております」
アメリエが口をつぐむとみな黙っていた。やがて男爵夫人は家柄の一件ほど気まずくない話に切りかえたが、しばらくして家庭教師の婆さんがそっと席をはずして子供たちを教えに行くと、不信と嘲笑の声が一時にドッと上がった。
「無礼な話だ」と男爵はののしった。腹を立てて目玉が飛び出している。「うちの食卓であの女があんな事しゃべるとは呆れたな。まるでわれわれなんぞ取るにたらない人間みたいなことをいう。だがまるきりでたらめだ。ありゃただのシュミットさ。きっと村の者からセルノグラツ家のむかし話でも聞いて、家柄だの言い伝えだの掻き集めたんだ」
「自分をひとかどの者と思わせたいのよ」と男爵夫人がいった、「もうあの歳でそろそろ仕事もできなくなるでしょう、だから同情してもらいたいんですわ。祖父が子供のころ、なんて呆れるわね」
男爵夫人にも祖父は人並みの頭数だけあるのだが、祖父の自慢は一度もしたことがない。
「祖父というのはきっとこの城の食料品係りのボーイか何かしてたんだろう」と男爵がせせら笑った、「そこだけが本当なのさ」
ハムブルグ市の貿易商コンラッドは何ともいわなかった。アメリエが思い出を大切に守るといったときその目に浮かんだ涙を見たのである――それとも空想好きなタイプだけに、見えたと思ったのかも知れない。
「お正月のお祝いがすんだらすぐ暇を出しますわ」と男爵夫人はいった。「それまでは忙しくてあの人がいないと困りますから」
しかし、結局アメリエの手伝いなしで何とか切りぬける破目になった。クリスマスのあとのきびしい寒さで家庭教師は病気になり、自分の部屋にこもり切りになったからである。
「ほんとに困りますわ」と男爵夫人はいった。そろそろ年末というある晩、暖炉のまわりに客が集まっている時である。「あの人、うちへ来てからずっとこれという病気はしたこと一度もありませんの、起きられなくて何の用もできないなんて病気はね。それがお客さまが大勢いらしていろいろ手伝ってもらいたい今になって、困ったことに倒れましてね。すっかりやつれて痩せこけましたから気の毒は気の毒なんですけど、それにしても大困りですわ」
「本当に困りますね」と銀行家の奥さんが相づちを打った、「きっとこの寒さのせいでしょう、年寄りはやられますからね。この冬はいつになく寒いんですもの」
「まだ十二月なのにこんな寒さは何十年ぶりだね」と男爵はいった。
「それにあの人、もうすっかり歳を取ってますし、二、三週間前に暇を出しておくんでした。それだとこんなことにならずにすみましたもの。おや、ワピー、どうしたの、おまえ?」
毛むくじゃらの小型のイヌが突然クッションからとび下りて、ブルブルふるえながら長椅子の下へはいこんだのだ。同時に城の中庭でイヌが一斉に物すごく吠え出した。どこか遠くでイヌが吠えたり啼いたりするのも聞こえる。
「どうしてあんなに吠えるんでしょう」と男爵夫人がいった。
するとじっと耳を澄ました人びとに、イヌどもを恐れおびえて吠え立たせたその声が聞こえた。泣くように長く尾を引く遠吠えが高くなり低くなり、何マイルも先かと思うとたちまち雪の上をスーッと近づいて城壁の裾で吠えているようだ。一面に凍った世界のあらゆる飢えと苦しみが、飢えに追いつめられた野生の生きもののあらゆる怒りが、何と呼びようもない何かわびしい身にしみる声とまじり合って、あの歎くような叫びになるらしい。
「オオカミだ!」と男爵が叫んだ。
その声はまたいちだんと高まって四方八方から聞こえてくる。
「何百頭も来たな」とハムブルグ市の貿易商はいった。空想力がつよい男である。
男爵夫人は何か自分にもわからない衝動にかられてお客のそばから立つと、家庭教師の部屋へ行った。狭い陰気な部屋に老婆アメリエは過ぎ行く年が静かに過ぎて行くのを見守っている。肌を刺す寒さなのに窓はあけ放したままだ。まあ、これでは、と叫ぶと男爵夫人は窓へかけよってしめようとした。
「そのままにして」と老婆はいった。弱々しい声だが命令する口調だ。アメリエの口からこんな言葉は聞いたことがない。
「でも寒さで死んじまうよ」と男爵夫人はさとすようにいった。
「どのみち死ぬのです」とその声はいった。「だからあの声が聞きたいんです。わたくしの家の者が死ぬときの歌をうたいに、みな遠くから集まったのです。よくまあ来てくれました。セルノグラツ家の者が祖先からのこの古城で死ぬのはわたくしが最後ですから、みな集まってわたくしに歌を聞かせているのです。そら、何とまあ大きな声で呼んでいること!」
オオカミの声は静まり返った冬の夜風に乗って、突き刺すように長く尾を引く歎きとなって城壁のまわりをめぐった。老婆はベッドに仰向きに寝ていた。待ちに待った仕合わせがようやく訪れたような顔である。
「向こうへ行って下さい」と老婆は男爵夫人にいった、「もう淋しくはありません。わたくしは古くからの名家の者です……」
「あの人、死にそうだわ」と、お客たちのところへ戻って男爵夫人はいった、「医者を呼ばなけりゃなりませんね。それにあの物凄いオオカミの声! いくらお|金《かね》をもらっても死ぬときあんな声を聞かされるのはいやだわ」
「いくら|金《かね》を出しても聞かれる声じゃありませんよ」とコンラッドはいった。
「おや、あの別な音は何だ?」と男爵がいった。何かが割れて倒れる音がしたのだ。
荘園で立木が一本倒れたのだった。
しばらくぎこちない沈黙がつづいて、やがて銀行家の奥さんがいった。
「このきびしい寒さで立木が割れるんですね。オオカミがこれほどたくさん出てきたのも寒さのせいでしょう。こんなひどい寒さったら何十年この方ありませんもの」
男爵夫人もこんなことがいろいろ起こるのは寒さのせいだ、と熱心に賛成した。ミス・シュミットが心臓麻痺で医者の手も借りずに死んだのも、窓をあけ放しにしておいた寒さのせいだった。しかし新聞には大変体裁のいい死亡記事が出た――
「十二月二十九日、多年にわたりグルエベル男爵夫妻の親友であったアメリエ・フォン・セルノグラツはセルノグラツ城で逝去した」
ルーイス
[#地から2字上げ]Louis
「ことしの|復活祭《イースター》はウィーンへ出かけたら面白いだろうな」とストルドウォーデンがいった、「むかしの友達が何人もいるしね。|復活祭《イースター》のころはウィーンぐらい楽しいところはまずほかにないだろう――」
「|復活祭《イースター》にはブライトンへ行くときめたんじゃありませんの?」とリーナ・ストルドウォーデンが途中へ口を出した。びっくりまことに残念という顔つきだ。
「|復活祭《イースター》にはブライトンへ行くなんて、そりゃおまえが勝手にきめただけさ。去年も|復活祭《イースター》にブライトンへ行ったし聖霊降誕節のときも行った。その前の年はウォージングだったがその前の年はやはりブライトンへだったな。そろそろ行く先をガラリと変えた方がいいと思うんだ」
「ウィーンへ行くのは旅費が大変ですわ」とリーナがいった。
「おまえ、いつもは金のことあまりいわないじゃないか。どっちみちウィーンへ行ってもそうちがいやしないぞ。いつもブライトンへ行くとつまらない知り合いを呼んでつまらないランチ・パーティをやるが、その費用を考えたら似たりよったりだ。あんな連中と顔を合わせないですむだけでもちゃんと休暇になる」
ストルドウォーデンはしみじみといった。リーナ・ストルドウォーデンもその問題に関してはやはりしみじみと沈黙を守った。南海岸のブライトンその他の盛り場でリーナを取り巻く連中というのは、別にこれということもない退屈な人間ばかりだが、ミセス・ストルドウォーデンのご機嫌を取りむすぶ手だけは心得ている。だからリーナは、その取り巻き連中にチヤホヤされるのをあきらめて、外国の都まで出かけて別に感心してもくれない知らぬ他人の中へとびこむ気はさらにない。
「どうしても行く気なら一人でいらっしゃいよ」とリーナはいった。「わたし、ルーイスをおいては行けませんわ。外国のホテルへイヌを連れて泊まったらとても不便ですし、帰国のときも検疫法で手続きや隔離やら大変ですのよ。ルーイスったら、わたしと一週間はなれたら死んでしまいますわ。わたしだってとてもとても辛いんですわよ」
リーナは首をかがめると、茶色のちっぽけなポメラニヤ犬の鼻先にキスした。膝のショールにちゃんと包まれたまま何の手答えも見せない。
「おい、リーナ」とストルドウォーデンがいった。「年がら年中ルーイスがルーイスがとさわいでばかりいるのはまったく困るな。ばからしい。何をやるにも計画するにも、そのつどそいつの都合やら気まぐれやらいちいち邪魔になる。アフリカの蛮人の神さまの|巫《み》|女《こ》だって、そんなにあれしちゃいかんこれしちゃいかんとやかましくはいわないぞ。おまえはね、もしルーイスが困ると思いこんだら総選挙延期の請願でも政府へ持ちかける気だろう」
からかわれた返事にミセス・ストルドウォーデンはまた首をかがめて手答えのない茶色の鼻先にキスした。性質はまことにもっておとなしいがいったん自分が正しいと思いこんだが最後、一インチ譲歩するより世界中の人間でも平気で死刑台へ送りこむ――そんな女性の行動なのである。
「おまえ、動物なんぞさっぱり好きでもなさそうだがな」とストルドウォーデンがまたいい出した。だんだんイライラしてきたらしい。「ケリーフィールドへ行ったときも一度だってあそこの番犬を連れ出してやらなかったぞ、出たがってワンワンさわいでるのに。廐舎だって生まれてこのかた足をふみ入れたのは二度とはないはずだ。鳥類保護運動の連中をみるとなぜあんなにさわぎ立てるの、なんて笑ってるし、往来で動物虐待の現場を見つけてわたしが口出しするとおまえは腹を立てる始末だ。そのくせ誰かが何かしようとするといちいちルーイスの都合をもち出して邪魔するね、欲を毛皮で包んだだけの下らないイヌコロの肩ばかりもって」
「あなた、ひがんでるのね」とリーナがいった。まことに遺憾そのもの、という口調だ。
「ひがむより仕方がないじゃないか。わたしだってよく知ってるよ、ワン公という奴がどんなにかわいい、どんなに人間の気持のわかる動物だか。だがわたしにはこれまでルーイスに指一本さわらせないぞ、おまえとおまえ付きのメードのほか誰にでも食いつきます、とかいって。こないだもあのピータービイ老夫人がなでてやろうと手を出したらパッとひったくったじゃないか、咬みつきますからとか何とかいって。その元気のなさそうな鼻先のほか、わたしは一度だって見たことさえないんだ。バスケットの中だのおまえのマフの中だの、そんなところからちょいと鼻先を出してるのしか見たことなしだぞ。おまえが廊下を行ったり来たり歩かせてやるとき咳でもするような吠える声だけたまには聞いたが、そんなイヌ、誰にしたって好きになんぞなるはずないさ。カッコー時計から首を出すカッコーをかわいがる方がまだましだ」
「わたしが大好きなのよ、ルーイスは」とリーナはテーブルから立ち上がった。ルーイスをショールに包んで両手で抱いている。「好きなのはわたしだけ。だからこそわたしもルーイスが大好きなのよ。ルーイスのこと、何とでも悪口おっしゃい、わたし、けしてルーイスを手ばなしませんから。どうでもウィーンへ行くというのなら一人でいらっしゃいよ、わたし、知りませんから。それよりもルーイスとわたしといっしょにブライトンへ行く方がずっといいと思いますけどね。でもどうぞご自由に」
「あのイヌ、何とかしなきゃだめよ」リーナが出て行くとストルドウォーデンの妹がそういった。「どうにかして楽に死なせてやらなきゃだめ。リーナはね、あのイヌを道具に使ってるんだわ、自分のわがままを通す道具に。兄さんの考えにしろみんなの都合にしろ、何か道具でも使わなけりゃおとなしく従わなけりゃならないこと、よくあるでしょう。あのイヌそのものはかわいくも何ともないのにちがいなしよ。ブライトンでもどこでも、友達にワイワイかこまれたりしてルーイスが邪魔になると、メードにあずけて幾日でも放りっぱなしにしておくわよ。それでいて、どこか自分の行きたくない場所へ行こうといわれると、すぐさまあの口実をもち出すのよ、とてもルーイスと別れては行けませんなんて。兄さん、ソッと入って行ったらリーナがあのイヌに何かいってた、なんてことあって? わたし、そんなこと一度もないわ。そばに誰か見ているときだけルーイス、ルーイスって大さわぎして見せるのにちがいないわよ」
「実は打明けていうがね」とストルドウォーデンが切り出した。「わたしも近ごろ何べんか考えてみた。何か事故でも起こってルーイスの存在にけりがつく手はないものかとね。だがどうも容易じゃないな。何しろあいつ、いつもたいがいマフにくるまっているか狭苦しい犬舎で眠っていやがる。命にかかわる事故を起こすには何とも不便だ。毒を盛ってもうまく行くまい、奴め、すごく食いすぎてるからな。食事のときリーナが何かやることもあるが絶対に食べる様子がないんだ」
「水曜日の朝はリーナが教会へ出かけてるすですよね」と妹のエルジーがいった、「イヌを連れて教会へは行けないし、教会がすめばランチに呼ばれてデリング家へまわりますわよ。四時間や五時間はあるからそのとき実行するのね。メードはいつもたいがい運転手といちゃついてるし、いちゃついてなければ何か口実を構えて邪魔しないように始末しますわよ」
「なるほど、それであたりに人目はなしか。だが困ったことに殺害する手段となると、このわたしの頭、やはりからっぽだ。何しろあいつめ、まるきり動きまわりなんぞしないからね。呆れるばかりだ。まさか浴槽へとびこんで溺れて死んだともいえまいし、身のほど忘れて肉屋のマスティフと喧嘩して咬み殺されたというわけにも行くまいな。はてな、年がら年中バスケットにこもりきりの奴に、死はいかなる形でおとずれるものかね。婦人参政権運動の奴らがおそって来てリーナの寝室まで侵入しルーイスに煉瓦をなげつけた、なんていったら怪しまれるかな? ほかにもいろいろ被害が出るはずだし、そこまでいちいち格好をつけるのは仕事が厄介だ。第一、使用人ども、そんな奴らは見かけませんでした、変ですね、なんていい出すだろう」
「こうしましょうよ」とエルジーがいった、「キッチリ蓋のしまる箱を一つみつけてね、小さな穴をあけるのよ、ガス管が通るぐらいの。その箱の中へ犬舎ごとルーイスを入れて蓋をして、ガスのホースを元栓へさしこむのよ。それで立派な処刑室になるわ。あとで窓ぎわへ犬舎をもち出せばガスの匂いもちゃんとぬけるわ。夕方リーナが帰ってくると犬舎の中は安らかに|永《と》|遠《わ》の眠りについたルーイスの|亡《なき》|骸《がら》だけ、ってわけ」
「小説を読むとおまえみたいな女がよく出てくるぞ。完全な犯罪者の頭だ。よし、箱を一つさがそう」
二分間たつと共謀犯二人は傷もつ脛で立ったまま、四角の頑丈な箱をじっと見下していた。ガスのホースがちゃんと元栓につないである。
「音一つしないわね」とエルジーがいった、「身動きもしないのよ。きっと楽に死ねたのね。でもいやな気持だわ、こうなってみると」
「一番いやなのはこれからだ」とストルドウォーデンはガスの栓をしめた。「少しずつソーッと蓋をあけよう、ガスが一度に外へ出ないように。ちょいとドアをあけたりしめたり、二、三べんやっておくれ、空気を通すんだ」
何分かしてガスの匂いがしなくなると、彼はかがみこんで|亡《なき》|骸《がら》入りの小さな犬舎をそっくり持ち上げた。とたんにエルジーがキャッと恐怖の悲鳴をあげた。ルーイスが犬舎の入口にすわりこんでいる。頭をちゃんともち上げて耳もピンと立っている。処刑室へ入れたときそのままの格好で、冷然とまた昴然と、不動の姿勢を取っている。ストルドウォーデンはバタリと犬舎を取り落としたまま、じっと奇蹟のイヌを見つめていた。それからケラケラ大声を立てて笑い出した。
なるほど、実によくできた模造品のポメラニヤ犬で、喧嘩腰した顔つきまで実物そっくりである。それに抱きしめると咳するように吠える仕掛も大いに効果をあげた。リーナがメードと二人でたくらんで家内一同ペテンにかけていたのである。動物は大きらいだが自分の都合とは見せないで勝手を通したがる女性として、ミセス・ストルドウォーデンはなかなか上手にやってのけたものだ。
リーナがランチ・パーティから帰ると、いきなり「ルーイスは死んだよ」と、そっけなくいわれた。
「ルーイスが死んだ?」とリーナは大声を立てた。
「そうさ。肉屋の小僧にとびついて咬みついたんだ。引き放そうとしてわたしも咬まれたよ。だから殺させるよりどうにも仕方がない。咬みつくとは聞いていたがあれほど危険なイヌだとは、おまえ、いわなかったな。肉屋の小僧にはかなりの賠償金を出さなきゃならん。だから|復活祭《イースター》に買ってやるといったベルトのバックルは、おまえ、辛抱するんだね。それにわたしもウィーンまで出かけてシュローダー博士にみてもらわなけりゃならない、イヌの咬み傷の専門家だからな。おまえにもいっしょに来てもらうぞ。ルーイスの死骸はローランド・ウォードへ剥製に出した。でき上がったら|復活祭《イースター》のプレゼントにあげるよ。バックルの代りだ。おい、リーナ、どんどん泣け、そんなに悲しいんなら。目を丸くしてわたしの顔ばかり見つめてるよりずっといいぞ。まるでわたしが気でも狂ったみたいだ」
リーナ・ストルドウォーデンは泣く代りに笑おうとしたが、そのくわだては明らかに失敗だった。
大勢の泊まり客
[#地から2字上げ]The Guests
「うちの窓から見た景色ったらそりゃ素敵なのよ」とアナベルがいった、「サクラの果樹園があるし青々した牧場があるし、川があって谷間をうねってるし、ニレの木の間に教会の塔が見えるし、まるで絵にかいたような景色よ。でもどことなく眠ったような、ひどく気のぬけたところがあって、何もかも停滞してる感じなのね。何ひとつ変わったことがないんですもの。種まきと取り入れと、ときたまハシカがはやったり大したこともない雷雨があったり、五年に一度は選挙で少しさわいだり、単調さを破るものったらそれきりなの。とてもやり切れやしないわ」
「ところがわたしはその逆よ。ここ、静かで落ち着いて素敵だと思うわ」とマティルダがいった、「何しろわたし、いろんなことが一度に起こる国にばかりいたでしょう、うっかりしてると不意にいろんなことが起こるのよ」
「そりゃもちろんこことはちがうわね」とアナベルがいった。
「忘れもしないけどベカーの|主教《ビショップ》さまがだしぬけにやってきたことがあるのよ、伝道所か何かの地鎮祭へ行く途中で」とマティルダがいった。
「ひょっくりお客が舞いこんだときの用意はしてたんじゃない、あんな土地では?」とアナベルがいった。
「そりゃ|主教《ビショップ》の五人や六人、いつ来てもいい用意はちゃんとしていたわ。ところが少し話し合ったらドギマギしちゃったの。やってきた|主教《ビショップ》さまというのがわたしの遠縁にあたる人でね、もとは同じ血筋からわかれたうちなんだけど、わたしのうちとは大喧嘩しちまった間なの。誰かの遺産にダービー磁器の食器がひとそろいあってね、それを向こうが取ったとかこっちの取るのが本当だとか、それとも向こうが取るのが本当なのにこっちが取ったとか、もうすっかり忘れたけど、とにかく向こうの出方がひどかったのよ。ところがそのうちの者がひとり、教会の匂いをプンプンさせて舞いこんで伝統的な東洋式ご歓待にあずかるつもりなのよ」
「そりゃ困ったわね。でもお相手はだいたいご主人に任せておけるんじゃない?」
「ところがあいにく主人は五十マイルも山奥へ出かけて留守なのよ。酋長か何かがトラオトコだってさわいでる村へ行って、物の道理だか何だかそんなことを説いて聞かせてるわけ」
「トラ何とかいったわね、いま。それ何?」
「トラオトコよ。オオカミオトコって知ってるわね、そら、あのオオカミと人間と悪魔をひとつにしたみたいなものよ。とにかくトラオトコがいるんだかいると思ってるんだか、そんな土地なの。その上、その時はいろいろ確かな証拠があって、たしかにトラオトコだと思うのも当然だったわ。でもわたしたち、魔女裁判なぞ三百年も前からやめてますわね。われわれがやめたことをほかの人が続けてるなんて嫌ですわ。精神的にも道徳的にもわたしたちの面目にさわるじゃない?」
「まさかあなた、その|主教《ビショップ》に薄情なことしなかったろうね?」
「そりゃもちろんお客ですもの。だからわたし、うわべは丁重に構えてたわ。ところが向こうはてんで気がきかなくて昔の喧嘩のいきさつをあれこれもち出してね、向こうの出方にも相当の理由があったんだっていって聞かせるのよ。理由があったなんてはず、まるきりないけど、よしあったにしたって、わたしのうちへ来て持ち出すなんて見当ちがいよ。でもわたし、押し問答はやめにしてコックに暇を出してやったの、九十マイルばかり遠くにいる両親のところへ行ってこいって。臨時にコック代りをした男はカレー料理の専門じゃなかったわ。どう見ても料理のできる男じゃないのよ。もともと園丁ということで雇ったんだけど、庭らしいものうちにありゃしないからヤギ飼いの見習いをさせておいたら、どうやらそれは立派につとまるらしいの。とにかく|主教《ビショップ》さまはね、コックに用もないのに特別休暇をくれてやったとわかると、こっちの手の内を見すかしたのね、それきりわたしとろくに口もきかないわけ。口をききもしない|主教《ビショップ》をひとりうちに泊めておいた経験がないと、この立場、とてもわかりゃしないわね」
「そんな途方もない経験、生まれてからしたことないわ」とアナベルは正直にいった。
「その上、厄介なことにグワドリピチー河が堤防をこして氾濫してきたの」とマティルダは話をつづけた、「雨期が長引くとよくそんな事があるのよ。それで家中低いところは水が入るし、納屋も小屋も全部水びたしになったの。コウマだけは全部やっとのことで放してやって、インド人の馬丁が近くの高みへ泳がせたけど、ヤギが一、二頭にヤギ飼いの親方とその連れ合いと、それに赤ん坊が五、六人ベランダへ停泊しちまったわ。あいてる場所はどこもここもびしょぬれのニワトリやヒヨコだらけ、何羽いるかわかりもしないうち、使用人たちの部屋まで全部水びたしよ。もちろんそれまでもなんべんか洪水があって騒いだことはあるけど、うち中がヤギと赤ん坊と死にかけたニワトリだらけで、おまけに顔を合わせても口もきかない|主教《ビショップ》がひとりなんて、そんなの初めてだったわ」
「困ったでしょうね、それは」とアナベルが同感した。
「ところが困ったことがまだまだあるのよ。わたし、たかが洪水ぐらいのことであのダービー磁器の一件を水に流す気なんてないから、|主教《ビショップ》にいいわたしたわ――デスクがひとつある広い寝室と水の入った壺がたくさんおいてある狭い浴室と、そこだけ使って頂きます、この有様で少し混雑はしてますが、とね。ところが午後の三時ごろ、昼寝から目をさまして|主教《ビショップ》が飛びこんできたわ。それがいつもは応接間なんだけど今は食堂兼倉庫兼ウマの鞍置場で、そのほかいろいろな用途に使ってるわけ。飛びこんできた|主教《ビショップ》の格好で見ると化粧室にも使えると思ったらしいのね。
「わたし、ツンと構えて『ほかにおかけになる場所ありませんわ、ヴェランダはヤギで満員ですし』といったわ。
「『わたしの寝室にもヤギが一頭います』と向こうもツンとして、せせら笑ったような顔でにらむのよ。
「『まあ、そうですか。じゃまだ一頭生きてましたか。ヤギはみんな死んだと思ってました』とわたしいったわ。
「『そのヤギもやられました。現在ヒョウに食われてる最中です。それでわたし出てきました。食われる現場を見られるのを嫌がる動物もありますからね』というのよ。
「ヒョウが入ったいきさつはもちろんすぐわかったわ。ヤギ小屋のあたりをうろついてるところへ水がよせてきたんで|主教《ビショップ》の浴室へ通じる階段を上がったの、手まわしよくヤギを一頭くわえてね。きっとそのヒョウ、浴室がしけてる上にせま苦しいんで気に入らなくて、|主教《ビショップ》が眠ってるまに宴会場を|主教《ビショップ》の寝室へ移したのね」
「まあ大変!」とアナベルが大声を立てた、「うちの中はヒョウがあさり廻ってるし外は一面の大水なんて!」
「それがあさり廻ってなんていないのよ」とマティルダがいった、「ヤギ一頭まるごと食べておなかはいっぱいだし、のどが乾けば水はいくらでもあるし、さしあたりぐっすり眠りたいだけらしいの。それにしてもひと間しかない客間はヒョウに占領されるし、ヴェランダはヤギと赤ん坊とびしょぬれのニワトリで満員だし、その上、ろくに口もきかない|主教《ビショップ》がひとり、これもひと間きりの居間に根を生やしてるんですもの、まったく進退きわまった状態よ。時間のたつのがもどかしくてもどかしくて、よくまあ辛抱できたと思うわ。それに食事のときがまた大変なの。コックは臨時の間に合わせだから、水っぽいスープだろうがグシャグシャのライスだろうが何が出たって文句はいえないし、インド人の馬丁もその連れ合いも潜水の名人じゃないから地下室へワインを取りにもやれないわけ。幸いグワルドリピチー河は水かさが増すのも速いけど水が引くのも速くて、そろそろ夜が明けるころインド人の馬丁がコウマをつれて水の中をバシャバシャ帰ってきたわ。ウマのけづめ毛のとこ迄しかもう水がなかったのね。すると今度は|主教《ビショップ》がヒョウより先に帰りたいといい出したので、またひと苦労よ。何しろ|主教《ビショップ》の着ていたものや何かの真ん中にヒョウが頑張ってるでしょう、出発の順序を逆にするなんて無理な話だわ。わたし、|主教《ビショップ》に教えてやりましたの――ヒョウは習性も好みもカワウソとちがって水の中をボチャボチャ動きまわるより地面を歩く方が好きな上に、とにかくヤギ一頭まるごと食べて浴槽の水で流しこんだから当然しばらく眠りこむはずですよ、って。もし|主教《ビショップ》のいうように鉄砲をうって追い出しでもしようもんなら、それこそ大変、ヒョウが寝室から出てきて、それでなくても大混雑の応接間へ入りこむぐらいが落ちだったわ。それやこれやで|主教《ビショップ》とヒョウと、両方とも帰ってくれるとやっとホッとしてよ。よくわかるでしょう、これで? 何ひとつ変わったこともない眠たいような土地がわたし大好きってこと」
罪のあがない
[#地から2字上げ]The Penance
いつも元気で快活で、感じのいい人柄というスタンプがハッキリ押してあるような人があるものだ。オクテヴィアン・ラトルもその一人である。そういう人たちの例にもれず、ラトルもまた友達仲間から全面的に賛成の目で見られてはじめて心がやすらぐタイプだ。だから小さなブチネコを一匹、追いつめて殺したのが、いいことをしたとは自分も思えなかった。草原に立っている一本カシの根元へ庭師が手早く穴を掘ってうめてくれると、ラトルはホッと安心した。ネコは追いつめられて最後の逃げ道とばかりカシの木へ登ったのだ。それを殺すとは実にいやな、むごたらしい行為だが、事情やむを得ずそんなことをしたのである。オクテヴィアンはニワトリを飼っていた。残りを何羽か飼っていた、という方が本当だろう。何羽かはトリ小屋から姿を消してあとに血だらけの羽根が二三本あっただけだが、どうして姿を消したかはそれでわかる。草原の向こうに灰色の大きな家がうしろを見せている。気をつけていると、その家のブチネコがトリ小屋へよく忍んで来た。そこでその家の当事者にちゃんと交渉の上、死刑に処することに相談がまとまった。「子供たちは悲しがるでしょうが話さずにおけばいい」ということで話がきまったのだ。
問題の子供たちというのがオクテヴィアンにはいつまでも謎だった。二、三カ月もするうち名前も年齢も誕生日もわかって、どんな玩具が好きなのか、それも聞き出せるだろう、と思った。ところが、幾日たってもはっきりつかめない。となり屋敷と草原を仕切る長い石塀と同じことで、まったく何の手がかりもない。子供たちはその石塀の上へ妙なときに首を出す。親はインドへ行っているそうだと、それだけは近所で聞きこんだが、着ている服で男の子か女の子かわかるだけで、それ以上はどうにも事情がつかめない。ところが、その子供たちに深い関係があるのに話すわけには行かない事件にかかり合ってしまったのだ。
かわいそうにヒヨコどもは一羽また一羽と無惨な最後をとげたのである。だからヒヨコをむごたらしく殺した奴は殺されて当然なわけだが、自分も手を出して殺してしまうとラトルは少し心がとがめて来た。ブチネコはいつも通る安全な道から追い立てられて、あっちへ隠れこっちへ隠れ、単身逃げまどった揚句とうとう無惨な最後をとげた。オクテヴィアンは草原の高く伸びた草をわけて戻って来たが、その足取りはいつもほど軽やかでなかった。高い石塀の裾を歩きながらふと目を上げると、いまのネコ狩にはありがたくない目撃者がいたなと気がついた。まっ青にこわばった顔が三つ、石塀の上からじっとこっちを見下している。人間の冷厳な憎しみ――どう手の出しようもないが一歩もあとへ引かず、憤怒に燃えながら平静をよそおった人間の激しい憎悪――もしそれを三枚の絵にかこうとする画家があったら、オクテヴィアンの目を見返した三人の子供の目には、そっくりそれが現われていただろう。
「わるかったね。だがどうしても殺すより仕方がなかったんだよ」とオクテヴィアンがいった。心からすまなかったという声である。
「ケダモノ!」
ギョッとするほど激しい返事が三人の喉からほとばしった。
石塀の笠石の上からじっと見すえているあの敵意のかたまり――どうわけを話しても受けつけないこと、この石塀も同じことだろう、とオクテヴィアンは思った。そこで慎重に考えて、和平の交渉はもっと見こみのあるときまで延ばすことにした。
その二日あと、彼は近くの市の立つ町で一番大きい菓子屋へ行った。店中あさって大きさも中身もカシの木かげの兇行を十分つぐなう箱詰チョコレートを探したのだ。最初に見せられた二つはすぐことわった。一つは蓋にヒヨコが二、三羽かいてあるし、一つにはブチネコの肖像がついている。三ばん目に見せられた箱は彩色したケシの花一束だけだ。この方がすっきりしている。ケシは忘却の花だ、えんぎがいいぞ、とオクテヴィアンはそれにきめた。立派に包装したチョコレートが灰色の家へ届いて、ちゃんと子供たちにわたしましたと返事があると、彼は断然気が楽になった。つぎの朝、彼は例の長い石塀の前を通って、ちゃんと当てのある足取りながらぶらぶら歩いて行った。草原の奥の低い方にあるトリ小屋とブタ小屋へ向かったのである。三人の子供がいつもの石塀の上で見張っていた。だがオクテヴィアンの姿など気にするでもなく、まるで無関係な方に目を向けている。あの目つきはいやだな、と思ったとたん、足もとの草地にいろいろ妙な色のものが散らばっているのが目についた。あたり一面にチョコレートがあられのように散らばって、あちこち金ピカの派手な包み紙やスミレの花の砂糖漬が凍ったようなフジ色の包み紙が光っていた。まるで食いしんぼうの子供が考えた|妖精《フェアリ》の天国が草原に出現したようだ。オクテヴィアンの届けた賠償品はせせら笑って投げ返されたのである。
その上いよいよ困ったのは、成り行きにつれてトリ小屋あらしの犯人はあのブチネコではないらしくなった。ブチネコはとうに処刑してしまったのに、ヒヨコは相変わらずさらわれて行く。どうやらネコがトリ小屋に出没したのは巣くっているネズミを捕るためだったらしい。だが今さら判決を変更してももう手おくれだ。それが使用人どもの口から子供たちの耳に入ってしまった。ある日、オクテヴィアンは習字帳の切れはしを拾った。見ると、一所懸命で書いた文字で「ケダモノメ、ヒヨコハネズミガクッタンダゾ」とある。彼はまたいちだんと熱心になった。どうにかして着せられた汚名をふりはらい、三人の苛酷な裁判官から何かも少しましな仇名をもらいたい。
ところがある日、ふとすてきな名案が浮かんだ。オクテヴィアンは毎日正午から一時まで、二歳になる女の子オリヴィヤの相手をする。乳母が昼食と小説本をう呑みにして消化する時間なのだ。そのころになるといつもあの三人の見張番が首を出して石塀の上がものものしくなる。オクテヴィアンはわざと何の当てもなさそうな顔をしてオリヴィヤを声のとどくところまでつれて行った。これまで頑としてそっぽを向いていた敵陣がどうやら興味をもち出したらしい。オクテヴィアンはそれに気づくと、しめた、と思った。彼が一所懸命、ま心こめて持ちかけて何べんとなく失敗したのに、赤ん坊のオリヴィヤは落ちつきはらった眠たそうな顔でうまくやってのけそうなのだ。彼はオリヴィヤに大輪の黄色いダリヤを一輪わたした。オリヴィヤはそれを片手にしっかりもってじっと眺めた。つまらないものだが拝見はする、という目つきである。まるでアマチュアが慈善事業の催しに出て古典舞踊を踊るところを見物している人の目つきだ。オクテヴィアンは石塀の上の三人に笑いかけた目を向けると、何気ないふりで「花は大好きかい?」とたずねた。おっかなびっくり声をかけてみたら、子供たち三人はまじめな顔でうなずいた。うまく行きそうな形勢だ。
「どんな花が一番好き?」と彼は訊ねた。今度は声の調子に真剣なところがハッキリ出てしまった。
「あっちにあるいろんな色をしてるの」ポッチャリした腕が三本、遠いスイートピーの茂みを指した。子供らしく一番遠い花をほしがったのである。しめたとばかりオクテヴィアンはかけ出した。そしてどしどし摘んだり引っこぬいたり、ありったけいろんな色の花を集めると見る見る大きな花束ができた。やがてふり向いてもどりかけると石塀の上に人影はなかった。石塀の前にいたオリヴィヤの方も影も形もない。はるか向こうの草原を三人の子供が全速力で乳母車をブタ小屋の方へ押して行く。オリヴィヤの乳母車だ。ちゃんとオリヴィヤが乗っている。スピードが速いので少しはねたりゆれたりしてはいるが、いつもの通りおっとり落ちついている。一瞬、オクテヴィアンはどんどん遠ざかる車を見つめたが、たちまち一目散に追いかけた。両手につかんだスイートピーの花束から花びらが散らばる。一所懸命に走ったが子供たちの方が一足早くブタ小屋のところへ到着した。やっとのことで行き着くと、オリヴィヤはおや! という顔はしているが抵抗するでもなく、一番手近の小屋の屋根へ押し上げられていた。三人の子供はその屋根の上へ陣取って地の利を得た顔つきだ。屋根はかなり傷んでガタが来ている。もしオクテヴィアンまであとからついて上ったら絶対もちそうもない。
「その子をどうするんだ?」とオクテヴィアンは息をはずませた。三人の子供はけわしい顔をまっ赤にほてらせている。たしかに何かむごたらしいことをやりそうな顔つきだ。
「鎖でつるしてゆっくりと火あぶりにするんだぞ」と一人の男の子がいった。イギリスの歴史を読んだことがあるにちがいない。
「ここからおっことせばブタが残らず食っちまうぞ、手の平だけ残して」とあとの一人がいった。聖書に出ている古い歴史を知っているにちがいない。
この第二の提案にオクテヴィアンは一番びっくり仰天した。すぐにも実行可能だからだ。思い出すと赤ん坊がブタに食われた前例はいくつもある。
「そんなことしないでくれよう」と彼は嘆願した。
「うちのネコ、殺したじゃないか」と手きびしい注意が三人の喉から飛んで来た。
「殺してわるかったと本当に思ってるんだよ」とオクテヴィアンがいった。もし真実の程度をはかる道具があったら、彼の言葉は確かにたっぷり九点は取れただろう。
「わたしだってわるかったというよ、オリヴィヤを殺しちまってから」と女の子がいった、「殺さないうちはいわないわよ」
子供の論理は冷酷非情だ。おびえ切ったオクテヴィアンの嘆願も絶対不落の城壁のようにまるで受けつけない。何か別の方面から訴願する手はないか、と思案するうち、彼はまるで別なことに注意を引かれた。オリヴィヤが屋根からすべって、ブタの糞と腐った藁のどろどろの中へグサリと落ちてネットリしたしぶきを立てたのだ。オクテヴィアンがそれを助け出しにあわててブタ小屋の低い壁を乗りこすと、たちまちどろどろの中へ踏みこんで足を取られた。オリヴィヤの方は不意にスーッと落っこちて最初はびっくりしたものの、ジクジクべたつくものに全身たっぷり漬かったのに気がつくと、あまりいやな気持でもなかったらしい。だがそろそろ沈みかけるにつれ、やっぱりどうもありがたくない気がして来て、世間並みのいい子らしくおずおず泣き出した。オクテヴィアンはどろどろを相手に格闘した。どこを攻めてもすぐ押されるくせにあとへは一歩も引かないとは、世にも珍しい技術を心得たどろどろである。ふと見るとオリヴィヤがだんだん沈みかけた。びっくりあわててメソメソ泣き出し、どろんこの顔がいちだんとひん曲った。一方、屋根に陣取った三人の子供は、ローマ神話の運命の女神のように、冷酷な目つきで超然と見下している。
「間に合わないよう」とオクテヴィアンは息をはずませた、「どろんこで息がつまるんだ。助けておくれよう」
「うちのネコは誰も助けてくれなかったぞ」と、相変わらずの注意がもどって来た。
「こんなに後悔してるんだよう。何でもするよう、助けてくれえ」とオクテヴィアンは大声を立てると、また必死に一あがきあがいたが二インチとは前進しない。
「白いシーツを着てネコのお墓のとこに立ってるか?」
「立ってるよう」とオクテヴィアンは金切り声を出した。
「ろうそく持ってだぞ」
「『わたしはあさましいケダモノです』って何べんでもいいながら立ってるんだぞ」
オクテヴィアンはその提案を二つとも承諾した。
「いつまでも、いつまでも立ってるか?」
「三十分間立ってるよう」とオクテヴィアンはいった。制限時間をもち出した彼の声には不安がひそんでいた。あるドイツの王さまはクリスマスのとき、シャツ一枚で幾日も幾晩も野天で罪ほろぼしの苦行をしたという前例があるからだ。だが、ありがたいことに三人の子供はドイツの歴史は知らないらしく、三十分をかなり長い時間と思いこんだ。
「そんならよし」と屋根の上からいかめしい三人の声がして、すぐオクテヴィアンの方へ短い梯子をえっちらおっちら斜めに押し出した。オクテヴィアンはすぐさま梯子をブタ小屋の低い壁によせかけた。そして梯子の横ざんをおそるおそる伝わって、どろどろ越しに徐々に沈没して行くわが子の方へ身を乗り出し、どろんこにベットリ抱かれたまま抜け出す気もないコルクでも取るように、どろどろの中からオリヴィヤを抜き取った。二、三分してから彼の耳に乳母の金切り声がきこえてきた。汚らしいものもいろいろ見てるがこんな大仕掛のははじめてだ、と何べんもくり返していた。
その晩、夕闇が下りきってまっ暗になるころ、オクテヴィアンはまず入念に下着まで脱いで一本カシの根元に立ち、罪を悔いてざんげする姿勢を取った。|薄地《ゼファー》のシャツ一枚――この場合、特に|そよ風《ゼファー》の名にふさわしいシャツ一枚きりで、片手には明りをつけたろうそくをもち片手には懐中時計をもっていた。死んだ鉛管工の魂が乗りうつりでもしたような、ひどくはかどりのおそい時計だった。そよ風でろうそくが消えるたび、足もとにおいたマッチへ手を伸ばして何べんもつけ直した。あまり遠くないところに隣りの家がぼんやり見えるだけだが、オクテヴィアンはまじめに贖罪の文句をくり返しながらも、よりついてくるガとともに勤めているこの深夜の苦行を三対の目が真剣に見つめているのに気がついていた。
翌朝、石塀のそばに習字帳の切れはしが落ちているのを見つけてオクテヴィアンは目を光らせた。こう書いてあった――「オカシナケダモノメ」
まぼろしの午餐
[#地から2字上げ]The Phantom Luncheon
「スミスリー・ダブ家の連中が上京してきているが」とジェームズ・ドラクマントン卿がいった、「おまえ、少しもてなしてやってくれ。リッツ・ホテルへでもランチに呼んでやるんだな」
「あの家の人たち、わたしあまり知りませんけど、おつき合いを深める気はありませんわ」とドラクマントン夫人がいった。
「選挙のときいつも働いてくれるんだ。票数はあまりつかんでいないらしいが、叔父にあたる男がぼくの地区委員会に出ているし、もひとり、たいしたこともない党の集会で演説したりする伯父もいる。ああいう連中はその返礼に何かご馳走にでもなる気でいるからな」
「気でいるですって! とんでもない」とドラクマントン夫人がいった、「スミスリー・ダブの三人娘ったら、ご馳走になる気どころじゃありませんよ。ご馳走を要求してくるんです。三人ともわたしのクラブの会員で、ランチの時刻になるとそろってクラブのロビーにぶらついてますわ。舌をベロリと垂らして、フル・コースの食事にありつきたい目つきなのよ。うっかり『ランチ』とでもいおうものなら、すぐわたしをタクシーへ押しこんで、アッという間に『リッツ・ホテルへ』だの『レストラン・デュードネへ』なんてどなるんですよ」
「それでもやはり食事か何かへ呼んでやらなくちゃいかんな」とジェームズ卿はあとへ引かなかった。
「わたし思うんですけど、スミスリー・ダブの連中にご馳走するなんて、無料給食政策の極端ないきすぎですわ。ジョーンズ一家だのブラウン一家だのスナプハイマー一家だのルブリコフ一家だの、そのほか覚えきれないほどもてなしてきましたけど、わたしがまる一時間つぶしてスミスリー・ダブの三人娘のお相手をしなけりゃならない理由なんてありゃしませんわ。ガツガツ食べたりベチャクチャしゃべったり、それがかれこれ六十分間ぶっ通しなんですよ。ねえミリー、おまえ引き受けてくれない?」と彼女は、これは名案という目を妹に向けた。
「わたし、そんな人たち、知りませんもの」とミリーが即座にいった。
「だからこそいいのよ。あんたがわたしに化けるのさ。あんたとわたしは見わけがつかない、って誰もいうじゃない? それにわたし、あの小うるさい三人娘と委員会室で口をきいたのは二度ぐらいのもんだし、あとはクラブで目礼しただけなのよ。クラブのボーイなら誰でもあれがそうですと教えてくれるわ、そろそろランチという頃になるときまって玄関を入ったあたりにぶらついてるから」
「ベティ、そんなことだめよ」とミリーが押し返した、「わたし、明日はカールトン・ホテルへランチに人を呼んであるし、あさってはもう田舎へ立つんですもの」
「明日のランチの約束って、それ何時?」とドラクマントン夫人はたずねた。何か思案がある顔つきだ。
「二時よ」
「ちょうどいいわ」と姉がいった、「そんなら、わたし、明日の二時にあの三人娘をランチに招待しよう。愉快な午餐会になるわよ、きっと。少なくともわたしにはね」
最後のふた言はひとり言である。彼女のユーモアはとかくほかの者に通じない場合もある。夫のジェームズ卿には一度も通じたことがない。
翌日、ドラクマントン夫人はいつもの身仕度と少し様子を変えた。まず髪形をいつもと変わったスタイルに仕上げた上に帽子までかぶったから、ガラリと風貌が一変した。そのあと、一、二カ所ちょいと模様替えをして、いつものスマートな押し出しとまるで変わった格好にした。クラブのロビーでスミスリー・ダブ家の三人娘が挨拶するとき、少しためらったのも当然である。しかしドラクマントン夫人がすぐさま挨拶を返したから、三人娘はこれこそ大丈夫ドラクマントン夫人だと思いこんだ。
「レストラン・カールトンのランチはどうでしょうか?」と彼女はさり気なくたずねた。
三人娘はカールトンを熱心に推薦した。
「じゃそこへ行ってランチを頂きましょうか」と彼女は水を向けた。二、三分間すると三人娘は肉の照焼きだの上等のワインだの、目前に迫る楽しい午餐を思い浮かべていた。
「最初はキャビヤになさいませんか? わたし、そうしますけど」とドラクマントン夫人がいって、三人娘もまずキャビヤで食事をはじめた。そのあとの料理もひと皿ひと皿やはり豪勢なものばかりえらんだから、カモ料理の出る頃には、かなり値の張る午餐になりかけていた。
このすばらしいメニューにくらべて、話の方はさっぱりすばらしくいかなかった。招待された三人がジェームズ卿の選挙区の現況や将来になんべん話を向けても、ドラクマントン夫人は「まあ」とか「そうですの」とか、つかみどころのない受け答えをするだけで、特に関心があるはずなのにどうも様子が変である。
「わたし思いますのよ。保険条例がもう少し世間に理解されさえすれば今の不人気もいく分へるでしょうね」とセシリア・スミスリー・ダブがズバリいってみた。
「そうですか。そうでしょうね。わたし、実は政治のこと、あまり興味がありませんの」とドラクマントン夫人は答えた。
三人娘は飲みかけたトルコ・コーヒーの茶碗を下ろして目を丸くした。それから一斉に、まさかそんな、というようにクスクス笑い出した。「ご冗談でしょう、もちろん」と三人がいった。
「冗談なもんですか」と思いもかけない返事がきた、「あの小うるさい政治なんてもの、わたし、まったくチンプンカンですの。さっぱりわかりませんし、わかりたいとも思いませんわ。身の廻りのことで手いっぱいですからね、まったくの話が」
「でもわたし」とアマンダ・スミスリー・ダブが大声を立てた。肝をつぶしたかん高い声である、「わたしどもの村の懇親会で保険条例について有益なお話をなすった、と伺ってますわ」
今度はドラクマントン夫人が目を丸くした。
「あら大変」と彼女はおびえたようにあたりを見まわした、「大変なことになりましたわ。わたし、すっかり記憶がなくなりましたの。自分が誰なんだか、それさえ忘れました。どこかであなた方にお会いしたのは覚えていますし、ここでランチにしようとお招き頂いてお受けしたのも覚えてますけど、それだけであとは頭がまったくカラッポなんですの」
彼女のおびえた表情は痛烈に強化されて三人娘の顔へ移動した。
「あなたがわたしどもをランチにご招待下すったんですわよ」と三人娘はあわてて声を立てた。この女性の正体などより、その方が緊迫した大問題なのだ。
「いいえ、ちがいます」と、午餐に呼んでくれた当人はそろそろ姿を消しかけた、「それだけはハッキリ覚えていますわ。わたし、ここはお料理が優秀だからぜひ、とおっしゃるので来たんですのよ。おっしゃる通り優秀ですわね。ご馳走さまでした。でもわたし、困りましたわ、いったいわたし誰なんでしょう? さっぱり見当もつきませんの」
「ドラクマントン夫人でいらっしゃいますよ、あなたは」と三人娘は口をそろえて呼んだ。
「からかわないで下さいよ」と彼女はツンとした、「その方ならわたしよく知ってますけど、まるでわたしに似てなぞいらっしゃいませんわ。あら、不思議なことがあるもんですね、今おっしゃったドラクマントン夫人がいらっしゃいましたわ。そら、あの黒いドレスで帽子に黄色の羽根をつけた方……ドアのすぐそばに」
指さす方を三人娘が見返ると、とたんに不安な目つきが恐怖の目つきに変わった。見たところ、いま食堂へ入って来た女性の方が目の前の同じテーブルにいる女より、記憶しているわが地区選出の国会議員夫人に遥かに近い。
「じゃあ、あんたは誰なの、あの方がドラクマントン夫人なら?」と三人娘はパニック状態でたずねた。
「それがわからないんですよ。あなた方だっておわかりじゃなさそうだし」
「あんたがクラブでわたしたちのところへよってきて――」
「どこのクラブ?」
「新ダイダクティク・クラブよ、カレー・ストリートの」
「新ダイダクティク・クラブ!」とドラクマントン夫人は大きな声をだした。急に何か思い出したらしい。「どうもありがとう。それですぐ思い出しましたよ。わたし、エレン・ニグルと申します。女性真鍮磨き人組合の者でございます。そのクラブへときどき真鍮の家具や備品を磨きにまいりますので、ドラクマントン夫人もよくクラブへおいでになりますからお見かけしています。本日はランチにお呼び下さいまして本当にありがとうございました。突然、急に何もかも覚えがなくなるなんて変ですわね。きっと上等の慣れないものを食べたり飲んだりしたせいなんでしょう、しばらくは自分が誰だか、どうにも思い出せませんでしたよ。あら、大変」と彼女はふと話を切った、「もう二時すぎですね。わたし、ホワイトホール通りに二時から仕事があったんです。ウサギが目をまわしたみたいにかけつけなきゃなりませんわ。どうもご馳走さま」
彼女はなるほどウサギよろしく食堂からかけ出して行ったが、目をまわしたのは思いもよらず人にご馳走する立場にされた三人娘の方だった。食堂全体がグルグル廻り出したような気がした。勘定書がきたが落ち着きを取りもどす役には立たない。高級レストランのランチ・タイムにこれ以上はとてもという程度に、三人とも泣き出しかけた。金銭的にはぜいたくなランチ位は食べられるふところだが、同じもてなしでも、自分がもてなす立場かもてなされる立場か、その事情でよしあしが変わる。自分もちでたらふく食べたのは悲しむべきぜいたくだったかも知れないが、とにかくまるまる損した金ではない。しかし、知り合ったところで何の足しにもならない赤の他人のエレン・ニグルにご馳走してしまったのは、どう考えても腹のおさまらない大失敗だった。
スミスリー・ダブ一家はこの恐るべき経験からいつまでも立ち直れなかった。政治に手を貸すのはやめにして慈善事業に切り替えたのである。
バーティのクリスマス・イブ
[#地から2字上げ]Bertie's Christmas Eve
クリスマス・イブのことだった。ルーク・ステフィンク氏の一家はクリスマスにふさわしく盛んに仲よく笑いさざめいていた。ゆっくり時間をかけて豪華な晩餐を食べたし、聖歌隊もまわってきてクリスマス・カロルを歌って行ったし、そのあと家中でまたクリスマス・カロルを歌っていちだんとはしゃいだり、神聖な夜なのにそこまでやってはといえない程度にわるふざけまでした。しかし、一同それほど楽しく燃えさかっている中に、ただひとつ火のつかない黒い燃え殻があった。
それはバーティ・ステフィンクである。当家の主人ルーク・ステフィンクの甥に当り、早くからゴクツブシを職業にしてきた男で、その父親も同じようなタイプだった。バーティは十八歳のときから海外の植民地めぐりを始めていた。もし王族の端くれでもあれば格好もいいし結構なことでもあるが、中産階級の青年ではとかく不真面目な感じがする。茶の栽培をするといってセイロン島へ行き、果樹の栽培をするといってブリティッシュ・コロンビヤへ行き、ヒツジの毛を伸ばす手伝いだといってオーストラリヤへ出かけた。そして同じような用向きで出かけたカナダから、現在二十歳になって帰ってきたところだ。そんなことから見ると、バーティがいろいろやってみたことはみな手軽な略式実験だったらしい。ルーク・ステフィンクはご苦労にもバーティの親代りの保護者である。だからバーティがせっせと帰巣本能を発揮するのに閉口していた。だからこの日の朝、家族一同つつがなく再会できまして、と、うやうやしく感謝の祈りは捧げたが、その祈りにバーティの帰国はふくまれていなかったわけだ。
バーティが帰ってくるとさっそく、今度はローデシヤの山奥へ出してやろう、ということになった。あそこなら簡単には帰れない。あまり魅力のないこの土地への出発はもう差し迫っていた。事実、もっと慎重な男が進んで出かけるのだったら、とうの昔に荷物の取りまとめにかかっている頃である。だからバーティは一家あげてのクリスマス・イブのお祝いの中にいながら一向そんな気分に乗ってこない。自分ひとりを除け者にしてそっちでもこっちでも、何月になったら何をしよう、などとしきりに相談しているのを聞くと、彼の胸には恨みがくすぶり出した。だから「サヨナラではなくマタネと歌え」の歌をひとつ歌ったきり、あとはお祝い騒ぎにまったく仲間入りしなかった。
十一時が打って三十分ばかりすると、ステフィンク夫妻はこれで今夜はお開きという趣旨の言葉をそれとなくチョイチョイいい出した。
「さあテディ、おまえもうベッドへ入る時間だよ」とルーク・ステフィンクは十三歳の息子にいった。
「もうみんな寝た方がいい頃ね」とミセス・ステフィンクがいった。
「寝る場所がないでしょう、今夜は」とバーティがいった。
けしからんことをいったな、と誰もみな思って、まるで今にも雨というときのヒツジよろしく、せっせと乾ブドウとアーモンドを食べはじめた。
「ロシヤの農民はね」とホレス・ボーデンビーがいった。これはクリスマスに招かれて泊まっている男である。「クリスマス・イブの夜中の十二時にウシ小屋かウマ小屋へ行くと、ウシやウマが話をするのが聞こえる、と信じてますよ。毎年その時刻だけ物をいう力をさずかる、といいます」
「まあ、そんならみんなでウシ小屋へ行ってどんな話をするか聞きましょうよ」とベリルが大声を出した。みんなしてやるなら何でも楽しく面白がるタイプなのだ。
ミセス・ステフィンクは笑いながら、そんなことおやめなさい、とはいったが、結局、「そんなら寒くないように何か着こんでらっしゃい」と事実上承諾をあたえた。ばからしくて野蛮な話とは思ったが、「若い者同士を近づきにする」きっかけにはなる。そう思ってよろこんで承知したのだ。ミスター・ホレス・ボーデンビーは将来かなりの資産を受けつぐ青年だし、村の慈善ダンス・パーティではベリルを相手になんべんも踊ったから、村人の中では、「きっと何かあるんじゃない」という目で見られている。口にこそ出さないがミセス・ステフィンクはクリスマス・イブには|獣《けもの》でも口をきくと信じているロシヤ農民と同じ考えだったのだ。
ウシ小屋は庭園の外れが狭いウシ囲いになるあたりにあって、もとは小さな農場だったがあたり一帯が郊外になった今、ポツンと一戸だけ残ったその頃の遺物である。ルーク・ステフィンクはそのウシ小屋と二頭のウシがご自慢で、ワイアンドットだのオーピントンだの、ニワトリなんぞいくらたくさん飼っていようと、このウシ小屋の貫禄にはとても及ぶまい、と思っていた。むかし家長といえばウシやヒツジやロバなどの流動資本で貫禄をつけていたものだ。自分も細々ながらそれにつながる気がしている。だからこの別荘風住宅にいよいよ名をつけるときは、「|牛舎《バイア》」とするか「|家畜農場《ランチ》」とするか、大いに頭を使ってようやく決定したものである。そのご自慢の農場へ十二月の真夜中に客を案内しようとは思いもよらないわけだが、晴れた晩だし若い連中はひと騒ぎしたくて張り切ってもいるので、みずから付き添って行くことにした。使用人どもはとうの昔に寝静まっている。結局、バーティひとりが留守番という形になった。ウシどもの会話を聞きにノコノコ出かけるなんて、とせせら笑って仲間に入らないのである。
「音を立てないで歩くんだよ」とルークはいって、クスクス笑ってる若い連中の行列の先頭に立った。ミセス・ステフィンクはショールをかけ|頭布《フッド》もかぶって、しんがりをつとめた。「いつもこのへん一帯、なるべく静かにしておくようにしてるんだからな」
あと二、三分で十二時になるころ一行はウシ小屋へ着いて、ルークのもった牛舎用ランタンの明りで中へ入った。しばらく誰も黙って立っていた。まるで教会堂へ入った感じである。
「デージーはね――そら、あの横になってるウシだ、あれはダラム種が父親で母親はガーンジー種だよ」とルークが声をひそめていった。いかにも教会堂の中で物をいうような口ぶりだ。
「そうなんですか?」とボーデンビーがいった。まるでレンブラントの作といわれるかとでも思っていたような口ぶりである。
「マートルの方はね――」
せっかくマートルの系図を話しかけたが、女たちがキャーと声を立てたので尻切れとんぼになった。
一同中へ入ったあと、ウシ小屋の戸が音もなく締まって、鍵を錠前へ差しこんでギイとまわす音がしたからだ。つづいてバーティの「お休み」といううれしそうな声がして、庭の小径を遠ざかって行く足音が聞こえた。
ルーク・ステフィンクは大股に窓のところへ行った。窓はむかし風の小窓で、鉄棒の|桟《さん》が石材にはめこんである。
「こら、すぐ錠前を外せ」とルークがどなった。頭ごなしに威嚇する口調で、鶏舎を襲ってくるタカをメンドリが窓の桟ごしにおどしつけるような声だ。それに答えて玄関のドアがバタンと不敵な音を立てて締まった。
どこか近所の時計が十二時を打った。その瞬間、もしウシどもが人語をしゃべる力をさずかったにしろ、その声はとても聞こえなかったろう。七、八人の人間の声がはげしい憤慨と興奮をこめてバーティの今の行為とふだんの性格とを詳しく並べ立てていたからだ。
三十分ばかりすると、バーティについていえることは洗いざらい何十回もいいつくされ、別な話題が取り上げられ出した。ウシ小屋の中がきわめてカビ臭いこと、もし火事になったらという心配、もしかしたらこのウシ小屋が付近一帯の野ネズミの|労務者宿舎《ロウトン・ハウス》になってるだろうという見こみ、などである。しかし、閉じ込められて寝ずの行をしている一行に助けの来る気配はない。
一時近くなるとでたらめにクリスマス・カロルを歌いまくる騒々しい声がぐんぐん近づいてきて急に止まった。どうやら庭の門の前へ止まったらしい。祝い酒によっぱらった村の若い連中がギッシリ乗った自動車が一台、何か故障で一時止まったのだった。しかし、大きな歌声は一向に止まらない。ウシ小屋の連中は調子外れの「ご親切なキング・ウェンセスラス」の歌を聞かされた。「ご親切な」はいいかげんに使った形容詞らしい。
その騒ぎでバーティが庭へ出てきた。しかしウシ小屋の窓から怒ってのぞいている蒼白い顔には目もくれず、もっぱら門の外で騒いでいる連中に注意を向けた。
「やあ、ご連中、おめでとう!」と彼は叫んだ。
「おめでとう? あんたの健康を祝って乾杯してえが飲むものがなくてな」
「そんなら中へ入って飲めよ」とバーティが気前よくいった、「おれひとりきりなんだ。酒ならうんとあるぞ」
まったくの他人同士だがバーティが好意的に出たので、たちまち親戚づき合いになった。次の瞬間、キング・ウェンセスラスの替え歌が、よくない噂にだんだん尾ひれがつくように、ますますひどい文句になって庭の小径を流れて行った。その途中、ふたりの男がテラスを上がりながら即席の階段ワルツを踊ったが、そのテラスというのはこれまでルークがうちのロック・ガーデンと称して大事にしてきた場所である。階段ワルツがアンコールを三回繰り返すと、ロック・ガーデンは|岩《ロック》の部分だけとにかく残った。ウシ小屋の中ではルークがますます檻の中のメンドリそっくりの格好になった。へたくそな音楽会で聞きたくもないのにアンコールの声がかかってもよさせるわけにいかない――彼の立場はまさにそれだった。
バーティの呼びこんだ連中が玄関へ入ると、バタンと音がしてドアが締まった。ずっと向こうのウシ小屋の窓から呆れて見ている一同には、よっぱらい連中の騒ぎもそれでかなり静かにはなったが、やがてポンという不吉な音が続けざまに二回、ハッキリ聞こえた。
「シャンペンに手をつけたのね!」とミセス・ステフィンクが大声を立てた。
「きっとモゼル・ワインの泡の立つ奴だ」とルークが自信あり気にいった。
ポン、ポンとまた三、四度音がした。
「シャンペンとモゼル・ワインと両方よ」とミセス・ステフィンクがいった。
ルークは何かののしりの言葉を発した。禁酒主義の家庭のブランデーのように、めったに使わないしろものである。ミスター・ホレス・ボーデンビーはもうかなり前から同じような言葉を小声で繰り返していた。「若い者同士を近づきにする」実験もあまり長引きすぎて、もはやロマンティックな結果など生みそうもない段階に達していたのだ。
四十分ばかりすると玄関のドアがあいて一同ぞろぞろ出てきたが、はじめのころは多少あったかも知れない遠慮などまったくかなぐり捨てた有様で、今度はクリスマス・カロルに楽器の伴奏までつけてどなっている。園丁など使用人の子供にやろうといろいろ飾りつけたクリスマス・ツリーから、ブリキのラッパだのガラガラだの太鼓など、たんまり分捕ってきたのである。ありがたいことにキング・ウェンセスラスの身の上話はやめてくれたが、その代り「今夜の町は熱気であつい」などと歌われると、ウシ小屋の中の冷え切った囚人どもはひどく癪にさわった。そのあとは「もうじきクリスマスの朝が来る」の歌だ。その通りにはちがいないが余計なことを知らせたものだ。近所の家の二階の窓から大声で苦情が出はじめたところから判断すると、ウシ小屋の中にみなぎる感情は近所一帯にも大いに共感されているらしい。
よっぱらい連中はやっと自動車までたどり着き、ブリキのラッパで訣別のファンファーレを吹くと、感心なことにどうにか車を運転して行ってしまった。しかし、まだあとに景気のいい太鼓の音がしている。どんちゃん騒ぎの親玉だけ、まだ現場にいる証拠である。
「バーティ!」と、どなるような泣くような、怒りと頼みのコーラスがウシ小屋の窓からひびきわたった。
「おーい」とその名の持主は叫んで、ふらつく足取りを呼ばれた方角へ向けた。「おや、みんなまだそこにいたの? 今までいればウシどもの話はすっかり聞いただろうな。まだ聞いてなけりゃこれ以上待ってもだめだね。とにかくロシヤの言い伝えだし、ロシヤのクリスマスはあと二週間しないと来やしないんだ。出てきた方がいいよ」
一、二回しくじってから彼はどうにかウシ小屋の鍵を窓から投げこんだ。そして元気な声を張り上げて「闇の中では帰りがこわい」を太鼓の伴奏で歌いながら、先に立って|母《おも》|屋《や》へもどった。ようやく放免された一行はぞろぞろ行列して急いでそのあとを追った。元気いっぱいなバーティの歌で聞かされた通り、少なからずこわい思いをしたわけである。
こんな楽しいクリスマス・イブはバーティも始めてだった。彼自身の言葉によれば「べらぼうなクリスマス」だったのである。
邪魔立てする者
[#地から2字上げ]The Interlopers
ある冬の夜、カルパチア山脈から東に伸びる尾根の雑木林にひとりの男が立ち止まって耳をすましていた。何か森の野獣が視界に入って、やがて銃の射程に入るのを待っている様子である。狩猟カレンダーにはどの鳥獣は今が猟期だとか禁猟期だとか、季節に応じて鳥や|獣《けもの》があげてあるが、この男がゆだんなく見張っている獲物はそこに出ていない。ウルリッヒ・フォン・グラドウィツが暗い林の中をまわって探しているのは、|敵《かたき》とつけねらう人間であった。
グラドウィツ家の山林は広大で猟の獲物もゆたかだが、その外れにある急傾斜の狭い林は住んでいる鳥にしろ|獣《けもの》にしろ、大したことはなかった。しかしウルリッヒは領地の中でもこの林をもっとも警戒して監視していた。祖父の代に世に聞こえた訴訟の末、不法に占有していた隣の小地主から取り上げた土地なのだ。取り上げられた側は裁判に負けても承服せず、密猟に入って荒らしたの何のとそんな噂が度々あって、両家の関係は三代にわたってますます悪化し、ウルリッヒが相続してからは家と家との不和がついに個人的な怨恨にまで発展した。もしウルリッヒが憎しみと悪意をもつ人間がこの世にひとりあるとすれば、それはこの睨み合いを相続して、問題の土地に踏みこんでは絶えず密猟をつづけるゲオルグ・ツネイムだった。もしふたりの間に対人的な憎しみがなかったなら、両家の不和もあるいは静まるか和解するかしたかも知れないが、ふたりは子供の頃から互いに相手の命をねらい合い、大人になっては互いに相手に不幸の起こるのを祈ってきた。だからこの嵐の吹きまくる冬の夜、ウルリッヒは部下の森番人を集めてこの暗い林で見張っていた。脚の四本ある獲物を探すのではなく、地境を越えて入りこみうろつきまわる泥棒どもを警戒するためである。嵐のときはいつも風当りを避けて窪地にひそむノロジカが今夜は追われるようにかけまわるし、いつも暗いうちは寝こんでいる動物どももソワソワ動きまわっている。確かに林の中に何か不穏なことがあるらしい。それは何だか、ウルリッヒには見当がついていた。
部下の番人どもは丘の頂上に配置して待ち伏せさせ、ウルリッヒはひとり急な傾斜を下って、こんもり茂った下生えをわけて遠く低い方までぶらついて行った。密猟に来た者の姿はないか音はしないかと、立木の間をすかして見たり、吹き荒れる風の音や絶えずぶつかり合う枝の音に耳をすましたりしていた。この嵐の晩、誰ひとり見ている者もないこの暗い淋しい場所で、もしあのゲオルグ・ツネイムに一対一でバッタリ出合いさえすれば――それが何よりの念願だった。すると、やがてブナの大木の幹をまわって一歩ふみ出したとたん、彼は探していた当の相手とバッタリ顔を合わせた。
かたき同士のふたりは互いに睨み合って、しばらく黙ってじっと立っていた。どちらも銃を手にしている。どちらも胸には憎しみを抱き、心には殺意が燃えている。今こそ生涯の憤怒を爆発させる好機会だ。しかし、文明という|掟《おきて》にしばられて育った者は、自分の家庭を犯され面目でも汚されない限り、一語もかわさず冷然として隣人を撃つ勇気は容易にわくものでない。一瞬の躊躇が行動に変わるより早く、大自然の暴力がふたりとも打ち倒した。ひと声、猛烈に吹きつける風の音がしたかと思うと、それに答えるように頭の上で立木の割れる音がした。そしてふたりが跳びのく間もなく、ブナの大木が折れて雷のように落ちてきた。ウルリッヒ・フォン・グラドウィツは気がついてみると大地にたたきつけられていた。片腕は身体の下敷になって動かず、あとの片腕もからみ合った枝の下になってほとんど動かせない。脚は左右とも落ち重なった枝に抑えられている。頑丈な狩猟靴のおかげで足を潰されるのは防げたが、運よくひどい骨折こそしなかったものの、誰かに救い出してもらうまではこのまま動けないのは明らかだった。落ちてきた小枝で顔の肌が切れて、目蓋にたまった血の滴をまばたいて払い落とすと、ようやく災難の全貌がだいたい目に入った。すぐそばの、普通なら手を伸ばせば届くところにゲオルグ・ツネイムが倒れている。まだ命はあってもがいているが、自分と同じく下敷きになって動きが取れないのは明らかだ。あたり一面、裂けた大枝や折れた小枝が山のようだ。
命だけは助かった安心と身動きできない焦燥から、敬虔な感謝と激烈な呪詛との入り交った奇妙な声がウルリッヒの口から洩れた。ゲオルグは流れる血が目に入ってほとんど物も見えず、しばらくもがくのをやめてそれを聞いていたが、やがていがむような短い笑い声を立てた。
「くたばりそこねたな、きさま、くたばればいいのに。だがとにかくふんづかまったな」と彼は叫んだ、「ガッチリつかまりやがった。やれやれ、何とも愉快な笑い草だぞ、ウルリッヒ・フォン・グラドウィツがひとから掠め取った林の中でわなに落ちるとは。それこそ天罰というものだ」
そしてあざけるように残忍な声でもう一度笑った。
「ここはおれの地所だぞ」とウルリッヒはやり返した、「おれの部下が助けにきたとき、隣の地所で密猟中をつかまった|態《ざま》は見せたくなかろうな、この罰当りめ!」
ゲオルグはしばらく黙っていたが、やがて静かにいい返した、「きさまの部下がやってくるまで、助ける相手がうまく生きているつもりか? おれも今夜は部下をこの林へ出している。しかもおれのすぐあとからついてくるんだ。真っ先に助けに来るのはおれの部下の方だぞ。やってきたらまずおれを大木の下から引き出して、そのあとこの太い幹をころがしてきさまを潰すぐらいは、いくら不器用な者でもすぐできるんだ。きさまの部下ども、あとになってこの場へ来ると、きさまがブナの木の下敷きでくたばってるのを見つけるわけよ。世間の手前、悔みの挨拶だけは届けてやろうよ」
「いい知恵をつけてくれたな」とウルリッヒは凄い声を出した、「おれの部下には十分間おくれてついてこいと命じてある。その七分はもうたったにちがいない。部下がおれを助け出したら――いまおそわった知恵を思い出すぞ。ただし、きさまはおれの地所で密猟中にくたばるわけだ。きさまの家へ悔みの挨拶を届けるのは格好がわるいな」
「よし、よし」とゲオルグがいがみかかった、「この喧嘩、きさまとおれと森番どもだけ、邪魔する奴らいっさいなしで死ぬまでやろう。ウルリッヒ・フォン・グラドウィツの野郎め、くたばって地獄へ落ちやがれ!」
「きさまこそくたばって地獄へ落ちやがれ! ゲオルグ・ツネイム、この密猟屋め!」
ふたりは激しくののしり合った。もしかしたら自分がやられるかの心配があるのだ。部下が自分を探し出すなり偶然見つけるなり、それまでかなりかかるだろうとはふたりとも承知している。どっちの部下が先にこの場へ到着するか、それはまったく偶然の問題だった。
のしかかっている大木の下から抜け出そうとむだ骨を折るのは、ふたりとももうあきらめていた。ウルリッヒは少し自由のきく腕を伸ばして、何とかカワウソの皮の上衣のポケットへ手を入れる努力だけにした。ワインを入れた水筒を取るためだ。ようやく水筒が取れてからも、何とか栓のネジをゆるめてワインをひと口飲むまでに、またまた長いことかかったが、そのうまかったこと、まさに天の妙薬かと思うほどだった。寒さの楽な冬のことでまだ雪も降らなかったから、いつもの冬ほどきびしくはなかったが、怪我をしているウルリッヒはワインを飲むと全身あたたまって元気がわいてきた。急に気の毒な気がしてふり向くと、ゲオルグは倒れたまま必死に痛みと疲れをこらえて、うめき声を立てまいとしている。
「この水筒、投げてやったら何とか手がとどくか?」と突然ウルリッヒはたずねた、「うまいワインが入っている。なるべく楽な方がいいからな。飲もうじゃないか、今夜どっちかひとり死ぬにしてもな」
「だめだ、おれはろくに目が見えない。目のまわりに血がうんと固まっているんだ。それにどのみち、かたきと一緒に飲むのはことわる」
ウルリッヒは二、三分間何ともいわず、つんざくような風に耳をすましていた。頭に浮かんだある考えがだんだんハッキリしてくる。苦痛と極度の疲労を必死にこらえている相手の方に目をやるたび、その考えはますます強まった。ウルリッヒ自身も痛みと疲れをこらえているうち、昔からのあの激しい憎しみがだんだん弱まるような気がした。
「おい、お隣さん」とやがてウルリッヒはいった、「もしおまえの部下の方が早く来たら何とでも好きにしてくれ、男同士の約束だからな。だがおれは考えが変わった。もしおれの部下の方が早く着いたら、おまえを先に助けろと命じる。お客あつかいだ。風が少し吹くと立木まで倒れるこればっかりのくだらない土地のために、おれたちは一生大喧嘩ばかりしてきたが、今夜ここに寝ていて考えると、おれたち、どうも大馬鹿だったと気がついた。人生には境界争いで勝つよりもましな事がいろいろある。おい君、もし君もその気になって昔からのこの喧嘩さわぎを水に流すつもりなら、おれは――おれは仲直りしてもらいたいんだ」
ゲオルグ・ツネイムは長いこと何ともいわない。ウルリッヒは相手が傷の痛さに気が遠くなったかと思った。するとゲオルグはゆっくり切れ切れにいい出した。
「おれたちふたりがウマを並べて|市《いち》の広場へ乗りこんだら、世間中目を丸くして大さわぎだろうな。何しろ、ツネイム家の者とフォン・グラドウィツ家の者が仲よく話すところを見た者はひとりもないんだ。もしおれたちが今夜仲直りしたら森番の連中もみんな仲よくするだろう。みんな仲よくやろうとおれたちがきめようと、ほかに口を出す奴はなし外から邪魔を入れる奴もない……聖シルヴェスターさまの晩はおれのうちへ来て明かしてくれ。おれも何かの祭り日に君のお城でごちそうになる……おれはもう君の土地で銃は一発も撃たないことにする。鳥撃ちに呼んでくれた時は別としてな。君もおれの沼地へ鳥撃ちにぜひ出かけてくれよ。おれたちふたりが仲直りする気になれば、このへん一帯、誰ひとり邪魔立てできる奴はない。おれは一生君が憎いとばかり考えてきたが、おれも三十分ばかり前から考えが変わった。それに君、水筒のワインをおれに飲めといってくれたしなあ……ウルリッヒ・フォン・グラドウィツ、よろこんで友達になろうよ」
しばらくはふたりとも黙ってあれこれと考えていた。芝居にでもありそうなこの仲直りでどんなすばらしい変化が起こるだろう。寒い暗い林の、葉の落ちた枝をときどき風がサッとわたったり幹をめぐってヒュウヒュウ音を立てる中で、ふたりはじっと助けの来るのを待った。今となっては助けが来さえすればふたりとも命が助かる。ふたりはそれぞれ心の中で、どうか自分の部下が早く着くように祈った。今は和解したかつてのかたきに、まず自分の方から心のほどを見せたいのである。
やがて、風の絶え間にウルリッヒが沈黙を破った。
「助けてくれとどなろうか。風がやんだから少しは声も通るかも知れない」
「立木があるし下生えもある。そう遠くへは聞こえまいが、とにかくどなってみよう。さあ、声をそろえて」
ふたりは声を張り上げて狩猟のときの叫び声を長々と立てた。
それに答える声はしないかと二、三分耳をすましたが何の応答もない、「一緒にもう一度」とウルリッヒがいった。
「いま何か聞こえたような気がする」とウルリッヒがいった。
「おれには凄い風の音だけだ」とゲオルグがいった。声が嗄れている。
数分間また沈黙がつづいたあと、ウルリッヒがうれしそうな声を出した。
「森の中を人影がやってくるぞ。おれが下りてきた道を来るんだ」
ふたりは声をふりしぼって大声を立てた。
「聞こえたんだ。立ち止まったぞ。そら、こっちを向いている。丘をかけ下りてこっちへ来るぞ」とウルリッヒが叫んだ。
「何人いる?」とゲオルグがたずねた。
「よくは見えない。九人か十人だ」
「それなら君の部下だ、おれが連れて出たのは七人きりだからな」
「全速力でかけてくるぞ、感心に」とウルリッヒがうれしそうにいった。
「どうだ、君の部下か?」とゲオルグがたずねた。ウルリッヒの返事がないのにいらいらして、「君の部下か?」ともういっぺん聞いた。
「いいや」といってウルリッヒは笑い声を立てた。恐怖に取り乱してしゃべくるような馬鹿笑いである。
「誰が来たんだ?」とゲオルグがせき立てた。そして見えない目をむりに見張って見ようとした。しかし、ウルリッヒの目に見えたのはとんでもないものだった。
「オオカミだ!」
ウズラの餌
[#地から2字上げ]Quail Seed
「わたくしどものような小さい店はどうも景気がわるくなりそうですなあ」とミスター・スキャリックが画家とその妹にいった。二人はロンドン近郊でミスター・スキャリックがやっている食料品店の二階に部屋を借りているのだ。「方々の大きな店が客寄せにいろんなことをやるでしょう? 読書室だの遊戯室だの何だの。小さく真似ようたってとても真似られるもんじゃありません。近頃は砂糖半ポンド買うにもハリー・ラウダーの歌を聞かせるとかオーストラリヤ・クリケット・クラブの得点をいち早くお客の目の前へ映し出すとか、そんなことしなけりゃ買いませんからね。クリスマスを見込んでうんと品物を仕入れましたから、本当なら店員五、六人使っても忙しいはずなんです。ところが実際は甥のジミーとこのわたしと、ふたりきりで結構手がまわるんですよ。かなりいい品が入りましてね、それが二、三週間で売れさえすりゃいいんですが、どうも見込みがありませんなあ――ロンドン線の列車がクリスマス前に雪で二週間もストップするとありがたいんですが。実はわたし、ミス・ラフコームをお願いして昼すぎから詩の朗読会でもやろうかと考えました。あの方、郵便局の余興会に『少女ビアトリスの決意』を朗読して大ヒットだったそうですね」
「お宅の店を人気の高いショッピング・センターにする手としたら、この上なしのまずい手だね、そいつは」と画家がいった。しんから身ぶるいまでしている。「たとえばだね、冬のデザートにはカルルスバード産のスモモとイチジクの砂糖漬とどっちがいいか迷ってる最中、少女ビアトリスが光の天使だかガール・スカウトだかになる決意なんぞで頭の中をかき廻されたら腹が立つよ。だめだね、その手は。何かおまけをただでせしめたい――これが女の買物客を支配する第一の欲望なんだ。だがその欲望におもねって効果を上げようとするとそろばんが立たない。ひとつ、別な本能に訴えるんだね、女ばかりか男も、いや全人類を支配する別な本能に」
「何ですか、その本能っていうのは?」と食料品屋の主人がいった。
※
ミセス・グレーズとミス・フリントンは二時十八分のロンドン行きに乗りおくれた。次の列車は三時十二分になる。そこで二人は食料品はスキャリック商店で買ってすませることにした。あまりパッとしないがとにかくショッピングしたことにはなる。
店へ入って四、五分間、買物客といってはほとんど二人きりだった。そのうち、メーカーがちがうアンチョビー・ペースト二種の長短を論じていると、カウンター越しにザクロを六個にウズラの餌を一袋くれという声がしたので二人はびっくりした。ザクロにしろウズラの餌にしろ、このへんではあまり買う人のない品である。その上、それを買いに来た客の風采もひどく変わっていた。年の頃は十六歳ぐらい、肌は濃いオリーブ色で目は黒ずんで大きく、青黒い髪をボッサリ長く伸ばして、画家のモデルでもして暮らしているらしい。事実、それが職業だった。買った品物を受け取ろうと差し出したのは真鍮を打ち出して作った鉢である。このへんでは買物に紐ぶくろかバスケットを使うのが普通だから、ほかの客には見たこともない風変わりな驚くべきしろものだ。その少年はカウンターに金貨を一枚投げ出した。どこか外国の貨幣らしい。しかも返してくれそうな釣銭を受け取る気配もない。
「昨日買ったワインとイチジクの|金《かね》も払ってないし、残りはまた買物にくる時まで預かっておいてください」といった。
「ずいぶん変わった子じゃない?」とミセス・グレーズは、その客が帰るとすぐ店主に不審そうな声をかけた。
「外国人ですな、きっと」とミスター・スキャリックがポツンと答えた。いつも話好きな男としてはまるで態度がちがう。
まもなく「最上等のコーヒーを一ポンド半もらいたい」と堂々とした声がひびいた。そういったのは背の高い立派な押し出しの男で、これもどうやら外国人らしい風采だ。いろいろ目立つ点もあるが中でもゆたかな真っ黒の顎ひげが特に目立つ。現代のロンドン郊外よりむしろ古代アッシリヤで流行したスタイルだ。
「浅黒い顔をした男の子がザクロを買いに来たかね?」と、コーヒーを計っているところへその男が出しぬけに質問した。
ミセス・グレーズとミス・フリントンはギョッとした。店主がぬけぬけと来ませんよと返事したからだ。
「ザクロも少しはおいときますが、さっぱり売れませんなあ」と店主は付けたした。
「コーヒーはいつもの通りあとで使いを取りによこす」といいながら、男はすばらしい金網細工の財布から貨幣を一枚出した。そしてどうやらいま思いついたらしく、「ウズラの餌はあるか?」とたずねた。
「ございません」と店主は即座に答えた。「ウズラの餌はおいておりません」
「まあ、あの人、今度は何をありませんってとぼけるのかしら」と、ミセス・グレーズが小声でいった。この店の主人ミスター・スキャリックはつい近ごろ神学者サボナローラに関する講演会で座長をつとめたばかりだ。だから事態はいちだんと怪しいのである。
堂々たる押し出しの外国人は長いオーバーのアストラカンの襟を深々と立てると、スーッと店を出て行った。出て行く様子は、あとでミス・フリントンが詳しく話したところによると、古代ペルシャの|地方長官《サトラップ》が|最高裁判所《サニドリム》の会議に停会を命じて出て行く時のようだったそうだ。たかがサトラップ|風《ふ》|情《ぜい》にそんな愉快な役目をしたことがあったかどうか、当のミス・フリントンも確信はなかったが、話を聞いた大勢の知り合いはそのたとえでイメージを正確に把握した。
「三時十二分の汽車はよしにしましょうよ」とミセス・グレーズがいった。「それよりローラ・リピングのところへ行って今のこと話し合いましょう、今日はローラのうちのティー・パーティの日ですから」
次の日、例の浅黒い男の子が例の真鍮の鉢をもってまた買物に来たとき、店は買物客でかなり混んでいた。たいがいは品えらびをだらだら延ばしているらしく、暇をもてあましているような格好である。例の男の子は、きっと誰もかも耳をすましていたからだろう、店中によく通る声でハチミツ一ポンドとウズラの餌を一袋くれといった。
「またウズラの餌ですって?」とミス・フリントンがいった、「よほど大食いのウズラなのね。それとも実はウズラの餌とは別ものなのかしら」
「きっとアヘンだわ。あの顎ひげの人は探偵なのよ」とミセス・グレーズが目ざましいことをいった。
「ちがうわよ」とローラ・リピングがいった。「何かポルトガルの王位継承問題に関係があるんだわ、きっと」
「それよりペルシャのもとの|国王《シャー》を支持する陰謀らしいわ」とミス・フリントンがいった。「顎ひげの人は与党なのよ。ウズラの餌って、もちろん合言葉ね。そら、ペルシャはパレスチナのすぐ隣でしょう、それにウズラは旧約聖書にも出てくるしね」
「でも奇蹟として出るだけよ」と物知りの妹がいった、「わたし、最初からこれは何か恋愛にからんだ陰謀と見てるのよ」
店内の興味と推測を一身にあつめた男の子が買いこんだ品をもって出て行こうとすると、途中に店主の甥で店員も兼ねているジミーが待ち構えていた。ジミーはチーズとベーコンの売場にいて、往来をずっと見わたしていたのだ。
「ジャーファから来た上等のオレンジがありますよ」とジミーは早口でいうと、缶入りビスケットの山の向こうのオレンジのおいてある場所を指さした。たしかに裏のあるらしい言葉だ。男の子は勢いこんでオレンジのおいてある場所へ飛んで行った。まるでイタチが一日地面の中を探しあぐんだあげく、ウサギの一家がわが家に落ち着いているところをやっと見つけたような勢いである。ほとんど同時に顎ひげの男が堂々と店へ入ってきて、カウンター越しにナツメヤシの実を一ポンドとスミルナ産の最上等ハルバー(トルコ産の一種の糖菓)を一缶くれといった。ハルバーなどはこの土地いちばんの冒険好きな主婦でも聞いたことのない品だが、ミスター・スキャリックは即座に最上等スミルナ産ハルバーを提供できたらしい。
「まるでアラビアン・ナイトの世界にいるみたい」とミス・フリントンが興奮した。
「シッ! 聞いてましょうよ」とミセス・グレーズがいった。
「昨日も話した色の浅黒い男の子は今日やってきたかね?」と、顎ひげの男がたずねた。
「今日はいつになくお客さまが多いんですが、おっしゃるような男の子は覚えがありませんです」とミスター・スキャリックがいった。
ミセス・グレーズとミス・フリントンはこの通りとばかり、得意そうに知り合いたちの顔を見わたした。本当のことを話しても、止むを得ぬ事情で目下品切れの品物みたいに受け取る人があったのは残念と思っていたが、ミスター・スキャリックはこんなうそつきなんですよと話したのを今や事実を裏書する人があって二人は満足した。
「あの人、このジャムに着色剤は使ってありませんなどといっても、これからはもう信用できませんわ」とミセス・グレーズの伯母さんが悲しそうにいった。
正体の知れない顎ひげの男は店から出て行った。濃い口ひげと深々と折り返したアストラカンの襟のかげにムッとした表情の浮かぶのがハッキリ見えてよ、とローラ・リピングはいった。用心ぶかくしばらく間をおいて、オレンジを取りに行った男の子がビスケットの缶のうしろから姿を現わした。どうやら気に入ったオレンジはひとつもなかったらしい。男の子もやがて店から出て行き、買物客も包みをもったりベチャクチャしゃべったりしながら帰って行った。買物の出先から直接ティー・パーティへ廻るのを、この土地では「目が廻るほど忙しい」という。
次の日の午後は特に臨時の手伝いをふたり入れたが、ふたりとも大忙しだった。つまり店が混雑したわけだ。あとからあとから客が来て次から次へといくらでも買物をする。新しい品を客に見せて、どうぞおためしになってくださいというと、客はたちまちその気になってくれるし、あまり大した買物はしない客までが長いこと買物に時間をかけて、まるでうちには手の早い飲んだくれの亭主でも待ってるようだ。何の変わったこともなく午後の時間がだんだんたって行く。はけ口のない興奮がハッキリとブツブツ聞こえるころ、黒ずんだ目の男の子がひとり、真鍮の鉢をもって店へ入ってきた。買物客の興奮が自然と店主に伝わったらしく、ミスター・スキャリックはボムベーダック(インド洋産の魚の一種)の生態をうわの空で聞いていた女客を不意に放り出すと、いま入ってきた男の子がいつものカウンターへ行くのを途中で引きとめ、しんと静まり返った中で、ウズラの餌は品切れですよ、といった。
男の子はキョロキョロ店の中を見まわすと、ふり向いてためらい勝ちに帰りかけたが、またもや途中で引きとめられた。今度引きとめたのはジミーである。ジミーは自分のカウンターの向こうからパッと飛び出すと、上等のオレンジがどうだとかといった。男の子のためらいはたちまち消えた。彼はオレンジ置場のうす暗いところへかけこむように姿をかくした。買物客一同、そら来るぞとばかりドアの方へ目を向けると、例の背の高い顎ひげの男が実にドラマティックに登場した。ミセス・グレーズの伯母さんがあとで明言したところによると、彼女はバイロンの詩句『羊舎をおそうオオカミのごとくアッシリア人は来りぬ』が無意識のうちに唇に浮かんだという。誰もなるほどそうだったろうと思った。
顎ひげの男もカウンターへ行く途中で引きとめられた。引きとめたのは店主でもなければ店員でもない。それまで誰も気がつかなかった厚いベールをした女が腰かけからやおら立ち上がると、よく通る澄んだ声で男に声をかけたのだ。
「閣下はご自分でお買物をなさるんでございますか?」
「注文は自分でする」と閣下が説明した。「家来ども、のみこみがわるいからな」
いちだんと声をひそめ、しかしやはり完全に通る声で、ベールの女は何気ないひと言を男に伝えた。
「この店にはジャーファから来たすてきなオレンジがありますのよ」そして鈴が鳴るようにひと声笑うと、スーッと店から出て行った。
顎ひげの男は目をギラリと光らせて店内を見廻すと、本能的にビスケットの缶の山にじっと目を据えて大声で店主にせまった、「ジャーファから来た上等のオレンジがあるだろう」
そんなものはございません、と即座に店主がいうだろうと誰も思った。ところが店主の返事より早く、あの男の子がかくれていた場所から不意に姿を現わして、真鍮の鉢を捧げたまま往来へ出て行った。そのときの顔はわざと知らぬふりをしていたとか、すごく蒼ざめていたとか、不敵な面構えだったとか、あとでいろいろ伝えられた。中には歯をガタガタ鳴らしていたという者もあれば、ペルシャの国歌を口笛で吹きながら出て行ったという者もある。しかし、かくれていた男の子を飛び出させた顎ひげの男がその男の子にヒョックリ出合ってどうしたか、その効果は断然あきらかだった。もし狂犬かガラガラヘビが突然なれなれしく寄ってきても、男はこの時ほど恐怖におびえはしなかったろう。堂々たる威厳はたちまち消えた。自信満々の足取りは|獣《けもの》が逃げ道を探してあちこちまごつく形に変わった。そして絶えず店の入口に目を配りながらうわの空の機械的な口調で、品物をふたつみつ注文した。店主はそれを帳簿に書きこむふりをした。顎ひげの男はときたま店の前へ出て不安らしくあちこち見わたし、またかけこんでは品をえらぶふりをした。そのうち外へ出たきりもう戻らなかった。夕やみの中へかけ出して行ったきり、顎ひげの男も色の浅黒い男の子もベールの女も、二度と姿を見せなかった。しかしスキャリック商店は来る日も来る日も期待に胸をふくらませた買物客で混雑した。
※
「先生にもお妹さんにも、何とお礼の申しようもございません」と店主のスキャリックがいった。
「ぼくらも面白かったのさ」と画家がおだやかにいった。「モデルにしたって毎日何時間も『奪われたヒラス』のポーズを取らされているより、目先が変わって楽しかったろう」(ヒラスはギリシャ神話にある少年。泉の水をくむところをニンフどもにさらわれた)
「とにかく、あの黒ひげの損料だけはわたくしに払わせて頂きます」とミスター・スキャリックはいった。
ミセス・ペンザビーは例外
[#地から2字上げ]Excepting Mrs. Pentherby
むかしシャムの王様は憎らしい家来に白象を賜わったそうだ。そもそも白象は神聖なものだし、しかも王様から拝領した以上、大事に飼っておく責任がある。それに経費がかさんでねらわれた家来は貧乏する結果になるわけだ。よし、あぶなく白象になりそうなしろものを荷をはこぶ動物に仕立て直して苦しい財政を切りぬける助けにしよう――レジー・ブラトルはそんな名案を思いついた。彼が遺産としてもらった「ライム荘」というのは、例の見かけは立派だが住みにくくて金持でもなければとても住みこなせない上に、これは気に入ったと住みこむ金持は百人にひとりもなさそうな邸宅である。その上、遺産といっても維持費まではついて来ない。「あつらえむきのご邸宅」と書いた売家札をぐるりに何枚も立てておいても、世間からは眉つば物と見られて、たちまち何年も|店《たな》ざらしになりそうな形勢だった。
そこでレジーはライム荘を使って長期のハウス・パーティを開催しようと計画した。十月から三月末までを会期とし、会員には若い、もしくはまだ若い、男性女性を募集して、|金《かね》がないから本式にキツネ狩も狩猟もあまりやれないがゴルフやブリッジやダンス、ときたまの芝居見物など大好きな連中を集める。会員はすべて|経費もちの客《ペイイング・ゲスト》ではなくて|経費もちの主人《ペイイング・ホースト》の立場とする。物資の調達と支払いは委員会が管理し、別に非公式の小委員会はおいて娯楽その他の面を担当して推進する、というわけだ。
何しろ最初の実験だから参加者一同できるだけ円満に協調しなければならない。若い夫婦づれも一組二組ふくむ有望な中核体も既にできて、どうやらうまく進捗しそうな形勢だった。
「経営さえ上手にやって少し骨を折ればこの事業は当然成功ですな」とレジーはいった。彼はまず努力をつくして、しかるのちに楽観するタイプなのだ。
「いや、どう上手に経営しても必ず乗りあげてしくじる暗礁がひとつあるぞ」とダグベリー大佐がニコニコしていった、「つまり女たち同士が必ず喧嘩を起こすのさ。いいかね」と災難を予言するようにいう。「男同士で喧嘩する奴がないとはいわん。喧嘩する奴も中にはあるだろう。だが女の方は必ず喧嘩を起こす。これは絶対に防げないぞ。それが女の天性なんだ。揺りかごを揺する手は全世界を揺るがす、と諺にあるが、火山的な意味でその通りなのさ。女というものは困難にも耐えれば自分を犠牲にもするし、何がなくても辛抱すること、実に英雄に近い。だがひとつ、これだけは絶対にやめられないぜいたくがある。それが喧嘩だ。どこへ行こうが顔を出すのがほんのいっときだろうが、女同士は必ず反目と対立を設定する。フランス人が極地の氷原へ行っても必ずスープをでっち上げるごとしさ。船旅に出たとき、男の方は乗合い客の顔をまだ四、五人も覚えられないうち、たいがいの女は必ず憎らしい女が二、三人はできていて、その候補者まであと二、三人はあるものなんだ――もちろん女が大勢乗っていて複数の喧嘩が成り立つ頭数があればの話さ。もしほかに女客がひとりもいなければ必ずスチュワーデスと喧嘩するぞ。今度の君の実験、六カ月間の計画だそうだが、五週間たたないうち血みどろのいくさがあっちにもこっちにも始まるね」
「だが女は八人しか来ないんだ。そうたちまち喧嘩を始めることもないだろう」とレジーは反論した。
「そりゃ女八人ひとりのこらずそれぞれ喧嘩を起こすことはなかろうさ」と大佐は一応譲歩した。「だが女は必ずどの側かに味方するもんだ。だからちょうどクリスマス前のころ、昔から平和と善意の季節という時に、君は冷酷苛烈な血戦の氷河時代にまきこまれることになる。絶対に避けられないね、君は。だがとにかく警告だけはしておく。あとで気がつかなかったなんていわせないぞ」
実験が開始されて最初の五週間、ダグベリー大佐の予言は実現せず、レジーの楽観的観測は的中した。もちろんときたまイザコザはあったし、日常のつき合いの裏に多少の嫉妬さわぎもあったらしいが、全体として女たち一同おどろくほどうまく行った。ただし、ひとりだけ著しい例外がある。五週間たたないうちミセス・ペンザビーが女性会員全員にしんから嫌われてしまったのだ。五週間どころか実は五日で十分だったのだ。たいがいの女は、あの人、ひと目見たときから嫌な人だと思ったわ、といったが、おそらくそれはあとからの思いつきだったらしい。
ミセス・ペンザビーは男の会員とは大変うまく行った。しかし男ばかりを相手にしてチヤホヤされようというタイプではない。集団生活の役にも立てば人から喜ばれもする性質もいろいろそなえていた。つまり、要領よく立ち廻ってほかの女たちを出しぬくとか、当然自分も力を貸すべきところを巧みに逃げるとか、そんなことはしない。思い出話をするにしても相手をウンザリさせるほどしつこくもなく、お高くとまって気取りちらしもしない。ブリッジをやってもずるはやらないしマナーにも非難の余地がない。それでいてほかの女性と接すると必ず即座に戦火の火種をまく。敵意を起こさせる才能はほとんど天才的だった。
相手が鈍感だろうが敏感だろうが、気が短かろうが気立てがよかろうが、ミセス・ペンザビーはみごとに同じ効果をあげた。些細な弱点をあばき立てたり痛いところをつついたり、相手が感激すれば鼻であしらったり、議論をすればたいがい相手をいい負かすし、もしいい負かされると何とかあしらって相手を間抜けか意地っ張りに見せてしまう。ひどい事をサラリと何でもなくいったりしたり、サラリとした何でもないことをひどいいい方ややり方で片づけたりする。結局、女性会員全員一致で、あれは困った人ですと判決を下したわけだ。
大佐が予想した、女はとかく誰かの側に味方する、という問題は起こらなかった。かえって、ミセス・ペンザビーに対する反感がほかの女性会員一同を団結させることになった。あぶなく衝突が起こりかけても、そこへ彼女が現われて、むき出しに底意地わるくけしかけあおり立てるから、起こりかけた衝突がたちまちやんだのも一度や二度ではない。中でも特に癪にさわるのは相手が一所懸命癇癪をおさえているのに、当人はケロリと落ち着きはらった顔でいることだ。グサリと胸にこたえるようなことでも、地下鉄の車掌が次はブロムトン・ロードでございますというような口調でいう。抑揚のない、まるで無関心な口調で、自分のいう通りと知り切っているが自分のいう通りだろうとなかろうと知ったことじゃない、という口ぶりだ。
ミセス・ヴァル・グウェプトンというのはあまり気立てのおだやかな方ではなかったが、それがあるとき、とうとう腹にすえかねてミセス・ペンザビーに正面から、あなたって人はね、と相手に関する正当にして生彩ある人物所見を簡潔に開陳した。積りに積った反感を一時に爆発させたわけだ。すると当のミセス・ペンザビーはユッタリ構えて、ほどよく間をおいてから物静かな口調でいきり立った相手にこういった――
「ねえミセス・グウェプトン、二、三分前から申し上げようと思ってましたがお話の途中で口が出せなかったんですけど、あなたの髪、左側からヘアピンが一本抜けかかってますのよ。髪の毛のうすい方はどうしてもヘアピンが抜けやすいんですわね」
「あんな女、とても相手ができるもんですか」とあとでミセス・グウェプトンがいきまいた。聴衆はもちろん同感した。
この困った人物の評判がわるいことは、もちろんレジーもなんべんとなく聞かされていた。ミセス・ペンザビーが呆れた事ばかりどれほどやらかすか、レジーの義妹は正面からレジーにそれをもち出したが、レジーは困った顔はしても一向に気がないらしく聞き流す。まるでボリビアの地震の災害か東トルキスタンの凶作の話でも聞かされるように、遠い遠いところの問題だからそんな事があろうとなかろうと知ったことじゃない、という顔つきである。
「レジーは何かあの女に頭が上がらないところがあるんだわ」と彼女は内心そう思った。「あの女が今度の会にいくらか|金《かね》を出してそれで威張っているんだか、それとも、まさかとは思うけどレジーがあの女におかしな熱を上げてるんだか、どっちかだ。男ってとんでもないものが気に入ったりするもんだから」
しかし事態がいよいよ危機に瀕するということもなかった。ミセス・ペンザビーは反感をそそる源としての性格を広汎に展開するから、女性会員の誰ひとりみずから立って、あの女と同じ屋根の下にあと一週間は暮らせませんよ、と宣言する者もない。みんなの仕事は誰の仕事でもない、と諺にある通り、みんなの不幸は誰の不幸でもないのだ。その上、あの人こんなことをいいましたの、あんなことやりましたのと、情報のもちよりは多少のなぐさめにもなる。特にレジーの義妹には、レジーがミセス・ペンザビーの数々の不埓な行動を非難しながらその|鉾《ほこ》|先《さき》がにぶいのはいったいどんなきずなで縛られているのか、その秘密をさぐり出す興味があった。表向きはレジーのミセス・ペンザビーに対する態度にまず手がかりがない。しかし内々レジーにミセス・ペンザビーの悪口をどれほど聞かせても、レジーは頑として受けつけなかった。
評判のわるいミセス・ペンザビーの一件を除けば、今度のハウス・パーティの計画は第一回で見事に成功をおさめた。だから翌年の冬も同じ方針でまたやりましょうという相談は簡単にまとまった。第一回の会員のうち女性は大部分、男性も二、三人は今度の冬は都合がわるいということだったが、レジーは手廻しよく計画を練って第二回新会員の予約をたっぷり受けつけた。どうやら第一回より人数がふえそうな形勢である。
「すみませんけど今度は出られませんの」とレジーの義妹がいった、「アイルランドの親類のところへ行かなきゃなりませんのよ、なんべんも延ばしてきましたからね。残念だわ!今度は女の人で第一回のとき来た人、誰も来ないんでしょう?」
「ミセス・ペンザビーは例外だね」と、すました顔でレジーがいった。
「まあ、ミセス・ペンザビーが来るの! 呆れるわ、レジー。あの女をまた入れるなんて! ばかなことしちゃだめよ。女の人みんなそっぽ向くわ、こないだみたいに。いったいどうしてあの女に頭が上がらないの? 不思議だわ」
「あの人は大事だね」とレジーがいった。「あれはぼくが正式にたのんだ喧嘩係さ」
「正式にたのんだ、何?――いま何ていって?」と義妹はあいた口がふさがらなかった。
「女性会員の中に起こる不和や喧嘩を一カ所にまとめる目的で特にあの人をハウス・パーティに入れたのさ。さもないと、そっちもこっちも喧嘩だらけになる。いろんな友達から助言だの警告だのされるまでもなく、ぼくはちゃんと見通していたんだ。だいたい多少のイザコザなしに六カ月も親しくつき合っていられるもんじゃない。だからそのイザコザを一カ所にまとめて一挙に根絶やしにするに限る、と思ったのさ。もちろんミセス・ペンザビーには十分お礼をしたよ。あの人、君たちをまるきり知っちゃいないし、君たちの方だってあの人の本名さえ知らないんだから、世の中のためならと進んでみんなに嫌われたのさ」
「するとあの人、最初からぐるだったのね」
「もちろんさ。もっとも男の会員はひとりふたり知っていた。だから何か特に目ざましく不埓な事をやらかすと、舞台裏でみんな大笑いしたもんだ。ご当人もしんから楽しかったらしいね。実はあの人、家族同士いがみ合ってばかりいる家の貧乏な親類という身の上でね、長年ひとの喧嘩の仲裁ばかりしてきたんだ。だから家中いっぱいの女ども相手に人の気をわるくするようなこといい放題やり放題の立場になって、どんなにホッとして楽しかったか、その気持、よくわかるじゃないか。しかもそれがすべて世の中の平和のためなんだからね」
「まあ、あんたみたいにいやな人、ほかにありゃしないわ」とレジーの義妹はいった。ただし、その言葉はいささか正確でない。誰にもましてミセス・ペンザビーを嫌っていたからである。ミセス・ペンザビーのおかげで彼女が回避した喧嘩は合計何回になるか、その計算は不可能であった。
マーク
[#地から2字上げ]Mark
オーガスタス・メロウケントは将来性のある小説家である。という意味は、少数ではあるが読者がだんだんにふえていて、もし毎年今の調子で小説を書きつづけて行けば、ふえつつある読者にも自然にメロウケントの癖が移って図書館でも本屋でもメロウケントの小説はないか、というようになるだろう、ということだ。出版社にそそのかされて彼は親のつけた名オーガスタスを取り外してマークという名に取り替えた。
「女性の読者はですね、力がありそうで口数が少なくて質問されると返事はできるが返事したくない――そんな感じの名前が大好きなんですよ。オーガスタスじゃただえらそうなだけで中身がからっぽです。ところがマーク・メロウケントという名はですね、Mの頭韻がすてきな上に力が強くてハンサムで誠実そうな人物を思わせますよ。たとえばジョルジュ・カルパンチェ(有名なプロ・ボクシング選手)と牧師ナニガシ|猊《げい》|下《か》の合の子みたいな――」
十二月のある朝、オーガスタスは書斎に陣取って第八作の第三章を書いていた。想像力のない読者のため、七月の牧師館の庭を長々と描写したところである。いまは若い少女の心理をいちだんと長々と描いている。彼女は牧師だの牧師補だの何代もつづいた家系のむすめだが、いまはじめて郵便配達人が魅力的だと気づいたばかりなのだ。
「彼は彼女に広告郵便を二通とイースト・エセックス新聞を包んだ厚い小包をわたした。そのとたん、二人の目と目がほんの一瞬間合った。一秒の何分の一という短い時間である。しかしその一瞬にいっさいはガラリと変化した。彼女は感じた――どんな犠牲を払っても何かいわなければならない、二人のあいだに落ちたこの不自然な苦しい沈黙を破らなければならない。『お母さんのリューマチはいかが?』と彼女はいった」
突然メードが入って来て作家のペンの動きは中断された。
「お客さまでございます」とメードはカイアファス・ドウェルフと印刷された名刺をわたした、「大事なご用だそうで――」
メロウケントはしばしためらったが屈服した。大事な用向きだというのはきっとウソだろう。しかしカイアファス(キリストに死を宣言した最高法院長の名)という名をもつ人間にあうのはこれがはじめてだ。少なくとも経験にはなる。
ミスタ・ドウェルフは年ごろのハッキリしない男だった。狭い額が高く抜け上り目は灰色で冷たい。決然たる態度に不撓の意志があらわれていた。腕に大きな本を一冊かかえている。同じ本を何冊か包んだのを玄関のホールへおいてきたことは確実だ。すすめられもしないのに椅子にかけると、本をテーブルにおきメロウケントに向かって話し出した。まるで公開状みたいな口調である。
「先生は作家でいらっしゃる。すでに有名な著作を何冊かお書きになって――」
「今も書いているところなんだ――少し忙しいんですよ」とメロウケントがいった、尖った口調である。
「ごもっともです」と客がいった、「先生のお立場にあっては時間はきわめて重要ですね。たとえ数分間といえども無駄にはできません」
「その通り」とメロウケントは|相《あい》|槌《づち》を打って時計を見た。
「それだからこそ今ご紹介申し上げるこの本が先生には絶対必要なのであります。この『ちゃんとここに』と題します本は文筆家各位に絶対必要の名著で、世間普通の百科全書とは全く異なるのであります。さもなければ暇をつぶしてご紹介に伺うようなことはいたしません。簡潔明晰な知識の無尽蔵の宝庫でありまして――」
「このぼくの肘のところの書棚にね」とメロウケントがいった、「参考書が一列並んでいるが、必要な知識はすべてこれで十分わかるんだ」
「ところがですね」とセールスマンは売りこみにかかった、「それがすべてこの一冊にまとまっているのであります。どんな問題にしろどんな事実にしろ、この『ちゃんとここに』は、即座にかつもっとも明瞭に求める知識を提供するのであります。歴史上の問題にしましても、たとえばジョン・ハスの生涯を調べるといたしましょうか。これ、この通りちゃんとここに出ております――『ハス、ジョン。有名な宗教改革家。一三六九年ボンに生まれ一四一五年コンスタンスにて火刑に処せらる。皇帝シギスモンドのなせしところと一般に見なさる』」
「その火刑がもし現代だったなら、きっと婦人参政権論者が嫌疑をうけるだろうな」とメロウケントが口を出した。
「つぎは養鶏であります」とカイアファスが話をつづけた、「養鶏はイギリスの田園を舞台とする小説には必ず出てくる問題であります。それがみなちゃんとこの本に出ているのであります――『レグホン種の産卵率。ミノルカ種における母性本能の欠如。ニワトリの|張嘴《ちょうし》病――その原因と療法。アヒルの子の飼育法と市場の動向』そら、この通り、何でも出ているのであります。ないものはないのであります」
「ないのはミノルカ種における母性本能だけか。その本もこれは提供できまいな」
「スポーツ界のレコード――これも重要な問題であります。たとえば何年度のダービーには何というウマが優勝したか、これを立ちどころにいえる人間が何人おるでしょうか。たとえ競馬通にしろ何人もいるはずはありません。ところがそんなこまかな問題こそ――」
「ちょいと待った、君」とメロウケントが口をはさんだ。「ぼくのクラブにはね、何年度にはどのウマが優勝したかばかりでなく、どのウマが優勝するはずのところ、なぜ優勝しなかったかまでちゃんと知ってる奴が少なくとも四人はいる。そんなことを聞かされるのを防ぐ方法がもしあったら、それを提供してもらう方がずっとありがたいぞ」
「地理の問題もですね」とカイアファスはわるびれもせずしゃべり続けた。「全力をあげてペンを執っていられるお忙しい方々には特にミスを起こしやすい点であります。つい先日もある有名な著作家が、ボルガ河をカスピ海でなく黒海へそそぐ、と書きました。ところがこの本があれば――」
「君のうしろにあるローズ・ウッドの書棚にはだね、信頼できる最新の地図帖がちゃんとおいてある」とメロウケントがいった、「さあ、もう失礼しよう」
「しかし地図帖はですね」とカイアファスがいった、「単に河の水路を示し流域に存在する主な都会を示すだけであります。ところがこの『ちゃんとここに』ですと、風景でも交通でも渡船の料金でも、もっとも多い魚の種類でも、漁師の使う方言でも、上下する汽船の時刻表でもちゃんと出ているのであります。これさえあれば――」
メロウケントは椅子にかけたまま、断乎として容赦ないセールスマンのきびしい顔つきを見つめていた。相手は勝手に陣取った椅子に頑としてかけたまま、不撓不屈の顔つきで『ちゃんとここに』の長所をほめ上げている。よし、こっちも負けずに立ち向かってやろうか――そんな競争心が彼の心にむらむらと浮かんできた。せっかく取り替えた冷酷非情のマークの名にふさわしい行動に出てやろうか。なぜおとなしくこの下らない長話を聞かされているのか? ほんの二、三分間マーク・メロウケントその人になり切ったらいいではないか?
突然、彼の頭にインスピレーションがひらめいた。
「君はぼくの新刊『籠のないヒワ』を読んだかね」とマークはたずねた。
「小説は読みません」とカイアファスが一言で返事した。
「この作品だけは絶対に読むべきだな、君にしろ誰にしろ」と彼は書棚からその本を取り出した、「定価は六シリングだが君だから四シリング六ペンスにしておく。この本の第五章にきっと君の気に入るところがあるぞ。エマがね、カバの木の茂みの中でハロルド・ハンティンドンのくるのを待っているところさ――ハロルドというのは家の者がエマに結婚させたがっている男なんだ。エマ自身も実はハロルドと結婚したい、しかし今はそれに気がついていない――第十五章まではね。そら、聞きたまえ、こんな具合さ――『見わたす限りモーブ色とフジ色のヘザーが一面に起伏して、ところどころにエニシダの黄色い花が燃え立っていた。その向こうはカバの木の若芽が灰色にまた銀色にまた緑色にかすかに光っているばかり。ヘザーの枝先で青と茶色の小さなチョウが日の光にたわむれていた。頭の上には絶えずヒバリがさえずっていた、ヒバリ独特のあのさえずりである。まるで自然界のすべてが――』」
「この『ちゃんとここに』には自然研究のあらゆる方面の知識がギッシリ詰まっております」とカイアファスが口を出した。はじめてしゃべり疲れたらしいところがその声に現われた。「林業でも昆虫類でも渡り鳥の生態でも荒地の開墾でも、何でも出ているのであります。さきにも申しました通り、人生百般の事実に関する――」
「それとも初期の作品の方が君に向いているかな。『クラムプトン夫人の不本意』というんだが」とマークは手を伸ばして書棚を捜しながら、「これが一ばんの傑作だという人もある。やあ、これだ、ここにあった。おや、表紙にインクのしみがあるな。思い切って三シリング九ペンスにまけておこう。そら、聞いていたまえ、これが最初のところだ――
『クラムプトン夫人はほんのりと暗い細長い応接間へ入って行った。自分にも根拠がないと思われる希望がその目にきらめき、隠すことのできない恐怖に唇がふるえていた。手には小さな扇子をもっていた。センダンの木とシュスで作った華奢な扇子である。彼女が応接間へ入るとき、ふと何かこわれる音がした。彼女がその扇子を細かに割ってしまったのだった』
そら、どうです、この書き出し。何か大変なことが起こるところだな、と誰でもすぐわかるんだ」
「小説は読みません」とムッツリ顔でカイアファスがいった。
「しかし小説というのは大へん役に立つんですぞ」とマークが大声でいった。「冬の寒い晩だの|踵《かかと》をくじいて寝こんでいるときなど――誰だってそんなことはあるからな――さもなければ泊まりがけのパーティへ呼ばれたら雨降りつづき、その上その家の奥さんはマヌケだし相客どれもバカばかりというとき、ちょいと手紙を書きますからといって自分の部屋へ引きこもりたばこを一本つけて、さてそれからクラムプトン夫人とその一統の仲間入りができるんですぞ、たった三シリング九ペンスの投資でね。誰でも旅に出るときはぼくの小説を二、三冊かばんに入れて行くに限る、いざというときの用意に。ぼくのある友人などは先日こういっていたぞ、マーク・メロウケントを一、二冊荷物へ入れずに泊まりに行くのは、キニーネをもたずに熱帯へ出かけるようなものだ、とね。それとも君にはもっとセンセーショナルな方がいいかな。どこかにあったかしら、あの『ニシキヘビのキス』が」
カイアファス・ドウェルフは『ニシキヘビのキス』の一節を読み聞かされるまで待ちはしなかった。ばかげた話につぶす暇はない、と口の中でモゾモゾつぶやくと、売りつけ損じた名著をかかえて退散して行った。うしろからメロウケントが「さよなら」と明るい声をかけたが返事はなかった。しかし、あの灰色の冷たい目に畏敬と恐怖の目つきがチラリとひらめいたようにマークは思った。
ハリネズミ
[#地から2字上げ]The Hedgehog
今日は牧師館のガーデン・パーティで、若い男女がいまテニスの混合試合をしている。少なくとも過去二十五年間にわたり、毎年同じころこの同じ場所で若い男女が混合試合をしてきた。その二十五年間に参加する男女はどんどん入れ替ったが、ほかに変わったところはほとんどない。
今日テニスに来ている連中もこの試合の社交的意味をよく知っていて、服装や何かに気を使っているし、熱心にテニスがやれる程度のスポーツ好きだった。コートを見下ろすベンチには四人の女性が正客として陣取っている。試合に出る連中はテニスの腕前にしろ風采にしろ、この四人の目で厳重に検閲されるわけだ。テニスのことはろくに知らないが出場選手のことはよく知っている女性四名がこのベンチから試合を見守る――それが牧師館ガーデン・パーティの条件のひとつになっている。その四名のうち、ふたりはおだやかな女性をえらぶ。あとのふたりはミセス・ドールとミセス・ハッチマラードときまっているのも、ほとんど伝統になりかけていた。
「まあ、イーバ・ジョーンレットったら、さっぱり似合わない変わったヘア・スタイルにしたのね」とミセス・ハッチマラードがいった、「いつ見たってみっともない髪の毛なんだから、その上おかしな格好にまとめなくたってもいいのに。誰か教えてやるといいわ」
イーバはミセス・ドールのお気に入りの姪である。この明らかな事実をミセス・ハッチマラードが忘れていたら、イーバ・ジョーンレットのヘア・スタイルもこきおろされずにすんだかも知れない。もともとミセス・ドールとミセス・ハッチマラードをそれぞれ別の機会に招待できれば、その方が万事好都合なのだが、あいにくガーデン・パーティは一年に一度きりだ。どっちを招待から外しても、教区の社交界の平和は徹底的に破壊されるのである。
「いま時分はイチイの木がとてもきれいですわね」とひとりの女性が口を出した。おだやかに澄んだ声で、ホイスラーが描いたチンチラのマフを思わせる。
「いま時分ってどういう意味ですの?」とミセス・ハッチマラードが詰めよった。「イチイの木は年中いつもきれいですわ、それがイチイの木のいいところですもの」
「イチイの木は年中いつ見たって実にいやな木ですわ」とミセス・ドールがいった。ゆっくり力をこめていい気持そうな口ぶりだ。反対そのもののための反対が楽しいらしい。「墓地やお墓にしか向きませんわよ」
ミセス・ハッチマラードはせせら笑って鼻を鳴らした。これを翻訳すると、世間にはガーデン・パーティへ来るより墓地へ行く方が向いてる奴もある、ということになる。
「ねえ、得点はどうなってますの?」とチンチラ声の女性がいった。
それを教えたのは若い男で、パリッとした純白のフランネルを着ている。全体として身仕度に熱心というより焦っている感じだ。
「バーティ・ダイクスンったら、とてもいやな若造になったわね」とミセス・ドールがいった。バーティはミセス・ハッチマラードのお気に入りだ、とふと気がついたのである。「今どきの若い者は二十年前とまるで変わったわ」
「そりゃもちろんよ」とミセス・ハッチマラードがいった。「二十年前のバーティ・ダイクスンはまだ二歳ですもの、風采だって態度だって話すことだって二十年たてばかなり変わるのは当然ですわ」
「気のきいた文句のつもりなのよ、あれで」とミセス・ドールが小声でいった。
「ミセス・ノーベリ、お宅ではいつもいま時分ハウス・パーティをなさいますわね。今度はまた誰か面白い方がいらっしゃいますか?」とチンチラ声が急いで口を出した。
「とても面白い方がいらっしゃいますのよ」とミセス・ノーベリが答えた。話を安全な方へ向け直すチャンスを何とかつかもうと黙って苦労していたのである、「わたしどもの古い知り合いでエーダ・ブリークという……」
「まあ、いやな名前」とミセス・ハッチマラードがいった。
「ド・ラ・ブリーク家の系図を引いてるんですよ、そら、フランスのトゥレーヌのユグノー派の旧家の」
「トゥレーヌにユグノー派はありませんでしたよ」とミセス・ハッチマラードがいった。三百年むかしの事なら何に文句をつけても大丈夫と思ったのだ。
「まあとにかく、その方がわたしどものパーティへ泊まりこみで来てくださいますの」と急いでミセス・ノーベリが話を現代へ引きもどした。「今晩お着きになりますけど、大変な超能力者でしてね、そら、よくいうでしょう、七人目の娘の生んだ七人目の娘の何のって? あれなんですの」
「まあ素敵!」とチンチラ声がいった。「その方がこのエクスウッドへいらっしゃるって、打ってつけじゃありません? 幽霊が何人もいる土地ですから」
「だからこそ来てくださるんですわ」とミセス・ノーベリがいった、「前約があったのをお延ばしになってわたしどものハウス・パーティへ来てくださいますの。これまでに幻覚だの夢だのいろいろご覧になって、それが驚くほど当りますのよ。でも幽霊はまだご覧になってませんから、ぜひ幽霊にあってみたいとおっしゃってますの。心霊研究協会に入ってらっしゃいますわ」
「じゃきっと、あの不運なカラムプトン夫人の幽霊におあいになりますね、エクスウッドでもいちばん有名な」とミセス・ドールはいった、「わたしの先祖になるジャーベイス・カラムプトン卿が嫉妬に狂って若い花嫁を殺しましたのよ、このエクスウッドへ来ている時に。ウマ乗りから帰るとすぐさま、廐舎の中であぶみの革で絞め殺しましたの。ですから今でもときどき夕闇のころ芝生や中庭のあたりにグリーンの長い乗馬服姿で出ることがありますのよ。うめき声を立てながら咽喉から革紐を外そうとしてるんですって。わたし、ぜひお話を伺いたいわ、もしその方が……」
「クラムプトン夫人の幽霊なんて、そんなくだらない昔ばなしの幽霊なんぞご覧になるはずはありませんわよ。見たというのは女中や酔っぱらった馬丁の若造だけでしょう? ところがわたしの伯父はエクスウッドの領主ですけど、実に悲惨な立場になって自殺しましたのよ。幽霊になって出ること絶対たしかですわ」
「ミセス・ハッチマラードはポプル著『州史一般』をまだお読みになってないのね」とミセス・ドールが冷たくいい放った、「お読みになっていればよくご存知のはずですわ、カラムプトン夫人の幽霊には見たという証拠が山ほどありますのよ」
「ふん、ポプルですって。あの人はね、昔ばなしなら何でも信用するんですよ。ポプルとは呆れるわ。ところがわたしの伯父の幽霊は、主教補佐役の教区監督が見てますのよ。その人、治安判事も兼任してますからどんな幽霊の証人にも立派なもんですわ。ミセス・ノーベリ、申し上げておきますけど、もしその超能力のお友達の方がわたしの伯父以外の幽霊をご覧になったら、わたし、わざとわたしを侮辱なすったものと受け取りますわよ」
「きっとどんな幽霊にもおあいになりますまいよ、これまで幽霊は一度も見ていらっしゃらないんですもの」と、ミセス・ノーベリは大丈夫そうな顔をした。
「わたし、とんでもない話をもち出しちまったわ」とミセス・ノーベリはあとになってチンチラ声の持主に愚痴をこぼした。「この村の土地はミセス・ハッチマラードのものでしょう? わたしども短期契約で借地しているだけなんですの。それにあの人の甥で前からここへ引越してきたいといってるのもありますし、もしあの人の感情を害したら借地契約の更新をことわられるかも知れませんわね。わたし、ときどき思いますのよ、こんなガーデン・パーティ、ない方がいいんじゃないかしら」
それからの三晩、ノーベリ家では真夜中の一時までブリッジをやった。それほどブリッジが好きでもないのだが、そうすれば迷惑きわまる幽霊を泊まり客が見かけそうな時間がそれだけ短くなるからである。
「ミス・ブリークも幽霊にあいそうな気分にはならないだろうな、ベッドへ入るまでブリッジの勝負で頭を使わせられては」とミセス・ノーベリの夫ヒューゴーがいった。
「わたしね、ミス・ブリークにミセス・ハッチマラードの伯父さんのことを何時間も吹きこんどきましたよ」とミセス・ノーベリはいった、「自殺した現場もちゃんと教えて、いろいろ身にしみるようなことをこね上げて詳しく話しましたの、それからジョン・ラッセル卿の古い肖像画を探してあの人の寝室へ飾りつけ、これがその伯父さんが中年ごろの肖像だそうです、といっときましたよ。だからもしエーダが幽霊にあうとしたら、きっとハッチマラードの伯父さんの幽霊を見るはずですわ。とにかく出来るだけ手は打ちましたものね」
それだけ抜け目なく打った手はすべて無駄になった。というのは、泊まりに来て三日目の朝、エーダ・ブリークは朝食におくれて寝室から下りてきた。疲れ切った目つきだが興奮して光っている。髪は一応格好をつけただけ、小脇に茶色の部厚い本をかかえていた。
「わたし、とうとう何か神秘的なものを見ましたのよ」とミス・ブリークは大声でいうと、ミセス・ノーベリに熱烈なキスをした。いい機会をあたえてくれてありがとう、と感謝するようなキスである。
「幽霊ですね! まさか!」とミセス・ノーベリが叫んだ。
「本当に見たんです。まちがいありません」
「五十年ぐらい昔の身なりをした初老の男の人でしたか?」とミセス・ノーベリがたずねた。たぶんそうだろうという顔だ。
「そんなもんじゃありません」とエーダがいった。「白いハリネズミでしたよ」
「白いハリネズミ?」とノーベリ夫妻はそれぞれ驚いた声を立てた。
「それはそれは大きな白いハリネズミで、気味のわるい目でしたわ」とエーダがいった。「ベッドに入ってうとうとしてますと、ふと何か変な不気味なものが部屋の中を通るような気がしました。起き上がって見まわしますと、そら、窓の下を気味のわるいものが這ってます。ひどく大きいハリネズミみたいで、汚らしい白い色です。恐ろしい真っ黒な爪が床をガリガリ引っ掻いていくんです。細い黄色な目が何ともいえず不気味でしたわ。一ヤードか二ヤード、ずるずる動いて行きました。その間ずっとわたしを見つめてるんですよ、すごくこわい目で。やがてあけたままの二番目の窓のところへ行くと、スルスル窓枠へ登って見えなくなりました。すぐ飛び起きて窓のところへ行きましたが、もう影も形もありません。むろんこの世のものでないとは思いましたけど、ポプルの『州史一般』で各地の伝説のところを調べたら、ようやく正体がわかりましたの」
エーダはかかえていた茶色の部厚い本にきっと目を据えて読みはじめた、「『ニコラス・ハリスンは守銭奴の老人にして、一七六三年バチフォードにおいて絞首刑に処されたり。ひそかに|隠《いん》|匿《とく》せる財貨を偶然掘りあてたる若き作男を殺害せし罪による。その亡霊は時には白きフクロウとなり時には巨大なる白きハリネズミとなりて、付近一帯に出没すると伝えらる』」
「昨晩ポプルの話をお読みになったんで、うとうとしてらっしゃるとき、ハリネズミが見えたような気がしたんじゃありませんか?」とミセス・ノーベリはいった。
そんなことだろうと推測していっただけだが、おそらくそれが事実に近かったらしい。
エーダはせせら笑ってそんな事は絶対ありませんといった。
「とにかく秘密にして下さいよ」とミセス・ノーベリがあわてていった、「もし使用人たちに……」
「秘密にするですって? とんでもない! わたし長い報告書を書いて心霊研究協会へ送りますわ」とエーダは憤然と大声を出した。
そのときである。ミセス・ノーベリの夫ヒューゴーは生まれつきあまり知恵の働く方でもないのに、この瞬間、生まれてはじめて極めて有益な名案を思いついた。
「ミス・ブリーク、大変わるいことをしまして申しわけありませんが」とヒューゴーはいった、「これ以上は放っておけませんからお話します。実はあの白いハリネズミはこのうちに古くから伝わるいたずらなんです。父がジャマイカから持ち帰った剥製の|白《しら》|子《こ》ハリネズミでしてね、ジャマイカではひどく大きくなるんですな。それに糸をつけて寝室へ隠しておき、糸の端の方を窓から外へ出しておくんです。それを下から引っぱるとハリネズミがお話の通り床をガリガリ這ってきて、最後に窓からヒョイと飛び出すわけです。この手でかなり大勢かつぎましたがね、みなポプルの本を調べてハリー・ニコルスンの幽霊だな、と思いこむんですよ。ただし新聞に投書するのはやめてもらいます。そこまでやってはいきすぎますからね」
やがて契約の期限になるとミセス・ハッチマラードは借地契約を更新してくれた。しかしエーダ・ブリークはそれきりノーベリ家との交際を絶った。
牡ウシ
[#地から2字上げ]The Bull
トム・ヨークフィールドは腹ちがいの兄ローレンスが、もとから本能的に何となく嫌いだったが、年がたつにつれだんだん気持がやわらいで、まあ仕方がないという無関心な心持になっていた。別にこれといって嫌う理由もない。ただ肉親だというだけで趣味も興味も共通なところは全然ないし、同時にまた喧嘩する機会もなかった。ローレンスは若いうちにこの農園を離れ、二、三年間は母親のわずかな遺産で暮らし、それから画家になって相当にやっているという噂だった。とにかく食うに困ることもなく暮らしているらしい。動物画が専門で作品の買い手も結構ある様子だ。トムは自分の暮らしと腹ちがいの兄の暮らしをくらべて、おれの方が確かに上だぞ、と優越感でいい気持になっていた。腹ちがいの兄は動物画家といえば少し聞こえはいいが要するに絵描き風情だ。ところが自分は農業経営者で、あまり大きくこそないが、何代も続いたヘルザリ農場といえば優秀なウシの生産で有名である。トムは大したこともない資本をもとでに懸命に努力して、わずかばかり飼っているウシの品質の維持と向上を目ざしてきた。現に彼の農場で生まれたクローバー・フェアリー号はこの界隈にまたとない優秀なウシだ。大規模な品評会へ出品すれば審判席のセンセーションになるほどでもないが、これほど元気で形がよくて健康な若ウシは、商売にやっている小さな農場などには絶対にない|逸《いち》|物《もつ》だ。キングズヘッドのウシ市でもクローバー・フェアリー号は大変な評判を取った。だからヨークフィールドはこのウシ、たとえ百ポンドでも手離すものか、といっていた。百ポンドといえば小さな農場では大金である。八十ポンド以上だったら売る気になるのが普通だろう。
ローレンスが久しぶりに農場へ訪ねてきた機会に、トムは少なからず得意になって、クローバー・フェアリー号の囲いへ案内した。牝ウシどもは草場へ放された留守で、クローバー・フェアリー号ただ一頭、堂々と構えている。トムの心には腹ちがいの兄に対する昔の反感がまた起こってきた。画家になった兄は動作が前よりのろ臭く、身なりも前よりだらしなく、話しぶりにも少しこっちを見下げたところがある。バレイショがすばらしい出来なのに見向きもしないで、門口の片隅にひとむら茂った雑草の黄色い花にひどく感心したりする。手入れの届いた農場なら邪魔もの扱いのしろものではないか。それにまた、誰が見ても賞めずにいられないはずのよく太った顔の黒いヤギの群を見せると、当然ほめそやすべきところを、向こうの丘のカシの林の色合いを長々と賞め立てたりする。だがこれからヘルザリ農場第一の誇りであり栄光であるクローバー・フェアリー号を見せてやるぞ。どんなに点のからい男だろうが、どんなに賞め言葉を惜しがる奴だろうが、あの逸物の優秀さはいやでも認めなければならないだろう。何週間か前、商用でトーントンまで行ったとき、ローレンスに招かれてその町にあるローレンスの画室へ立ちよったら、彼の作品が一枚かけてあった。大きなカンバスに牡ウシが一頭、沼地みたいなところに膝までつかって立っている絵だ。どうやらこんな絵としては出来がいいらしく、ローレンス自身もひどく得意らしい。「これまでいちばんの傑作さ」となんべんもいうから、トムも気前よく、なかなか真に迫ってるね、といったものだ。さあ、これからこの絵かき先生に本当の生きた絵を見せてやるぞ。美と力との生きた模範だ。いつまで眺めても飽きないしろものだ。絶えず動きと姿勢を変えて見せる絵なんだ。額縁の中にいつも同じ姿で立ってる奴とはちがうんだぞ。トムは木作りの頑丈な扉をあけると、先へ立って一面に藁を敷いた囲いの中へ入った。
「おとなしいかね?」と画家はたずねた。全身モジャモジャな赤毛の若い牡ウシがいぶかるように近づいてきたのだ。
「ふざけかかるときもありますよ」とトムが答えた。ウシがふざけかかるというのはフリースタイル・レスリングみたいなものかどうか、腹ちがいの兄にはわからない。ローレンスはウシの風采を見て通りいっぺんなことをひと言ふた言いってから、ウシの歳や何か些細なことをひとつふたつたずねると、落ち着きはらって話を切りかえた。
「トーントンで見せたぼくの絵、おぼえてるかね?」
「おぼえてますよ」とトムは面白くなさそうに答えた、「顔の白い牡ウシが泥んこの中に立ってる絵でしたね。あのヒァフォード種の奴はあまり感心しませんな。いやにブクブク太っていて、元気がなく見えますよ、あんな風にかく方がかきやすいんでしょうが。ところがこいつは年中じっとしちゃいません。なあ、そうだな、フェアリー?」
「あの絵はもう売れたよ」とローレンスがいった。いかにも満足らしい口調だ。
「売れた? そりゃよかった。いい値で売れたんでしょうね」
「三百ポンドになった」とローレンスがいった。
トムはローレンスの方へふり向いた。ムッと腹が立ったらしく顔がだんだん赤らみかけている。三百ポンドとは何事だ! いちばん相場の高いとき売りに出しても、この大事なクローバー・フェアリーは百ポンドにも売れまい。ところが腹ちがいの兄が塗りこくったカンバス一枚がその三倍にも売れたとは何事だ! トムはグサリと胸の奥まで突き刺されたような気がした。人を見下げた満足たらたらのローレンスに美事とどめを刺された格好だから、なおのこと侮辱が身にしみる。トムとしては秘蔵のウシを見せびらかして兄貴にひと鼻あかしてやるつもりだった。ところが今や形勢は一変した。大事な大事なフェアリーがたった一枚の絵の値段にくらべて取るにたりない安物になってしまった。こんなバカな話があるものか。あの絵なんぞは本物らしくでっち上げただけのしろものなのに、クローバー・フェアリーは正真正銘の本物で、せまいながらもこの界隈の王者であり音に聞こえた名士でもある。死んだあとまで名を残すだろう。フェアリーの子孫は谷間の草地や丘の牧場や、いたるところで草を食べ、どこの牛舎や搾乳場にもひろまって、その赤い毛皮が点々と風景を彩り市場に氾濫するだろう。有望らしい牝の子ウシだの格好のいい牡の子ウシだの見かけると、「ありゃクローバー・フェアリーの血を引いてるんだ」と世間でいうだろう。それに反してこの絵は塵とワニスを被ったまま、命もなければ変わることもなく壁につられて、裏返して壁に向けたら何の意味もなくなってしまう。そんな思いがトム・ヨークフィールドの頭の中をかけめぐったが、その気持はどうにも言葉にならない。ようやくのことで口から出たのはぶっきら棒な悪口だった。
「たかが油絵一枚に三百ポンドも投げ出すバカもいると見える。そんな道楽は感心しないな。ぼくは絵よりも本物の方がいい」
彼はフェアリーの方を向いてうなずいた。フェアリーも二人をじっと見ている。鼻を上げ角を低めて、半分ふざけるように半分もどかしそうに首をふっていた。
ローレンスは笑い声を立てた。イライラするがまあ仕方がない、という笑い方である。
「たかが油絵一枚というが買ってくれた人は|金《かね》を投げ捨てたことにはならないのさ。ぼくがもっと有名になりもっと認められると、ぼくの絵は値が上がるからね。あの絵も五、六年たって競り場に出るとまず四百ポンドになるだろう。絵というのはちゃんとした画家の作品さええらべば、なかなかいい投資になるんだ。ところが君の大事なウシはいつまで飼っても値が上がるわけじゃなし、盛りをすぎるまで飼っていれば、やがては皮とヒヅメだけの値段になって、二、三シリングにしかなるまいよ。その頃になるとぼくのかいた牡ウシは、どこか有名な美術館が高い値段で買い上げてくれるさ」
こうなってはやりきれない。事実と悪口と侮辱の力が重なってトム・ヨークフィールドの堪忍袋は緒が切れた。トムは右手に手ごろのカシの棒をもち、左手でローレンスが着ているカナリヤ色の絹シャツの、ゆるいカラーをつかもうとした。ローレンスは喧嘩向きの男ではない。暴力をふるわれるぞ、と思うと彼はバランスを失ってひっくり返った。トムが猛烈な怒りにおそわれてバランスを失ったのとちょうど同じことである。かくてクローバー・フェアリー号は人間がひとり、囲いの中をキャーキャーどなりながら逃げまわるという前例のない光景を見せてもらうことになった。ちょうどメンドリがまぐさ桶の中へむりやり陣取って卵を生もうとするときの騒ぎのようだ。やがて混乱が絶頂に達してフェアリーは左の肩ごしにローレンスをはね上げ、まだ空中にいるうちに肋骨を突き上げ、着陸したら上からひざまずいてやろうとした。このプログラムの最後の項目を何とかなだめて止めさせたのは、トムが必死となって中に入ったからにすぎない。
トムが心から献身的にローレンスを看護したのでローレンスの怪我は全快した。怪我といっても肩の骨が外れて肋骨が一、二本折れ、少し神経衰弱を起こしただけの話である。結局、トムの心にまた怨みをもたせる事態はそれきりなかった。たとえローレンスの牡ウシが三百ポンドに、いや六百ポンドに売れて、どこかの大美術館で数千の見物に賞めそやされようと、人間ひとりを肩越しにはね飛ばして反対側へ落ちてくるところを肋骨ヘグサリ――そんなことは絶対にできない。これこそクローバー・フェアリー号不朽の功績だ。この功績は永久にトム・ヨークフィールドのものである。
ローレンスは引きつづき動物画家として評判だ。だが描く画題はいつも子ネコや子ジカや子ヤギだけである――ウシはやめにした。
モールヴェラ
[#地から2字上げ]Morlvera
オリンピック玩具商館はウェスト・エンドの大通りの、目立って間口のひろい店である。玩具商館とはうまい名をつけたものだ。おもちゃ屋といえば気のおけない、胸のワクワクするような店だ。この店にそんな名前はとてもつけられない。ひろい飾り窓にずらりと玩具を陳列したところはひどく豪勢だが、何となくよそよそしくて、苦労してまずい品ばかり並べ立てた感じがある。クリスマスどきなどに店員が客に見せては説明すると、親はびっくり感心するが子供の方はつまらなそうに黙りこんでいる――そんなおもちゃばかりなのだ。おもちゃの動物もこの店の品は博物学の標本みたいで、子供が抱いて寝たり浴室までコッソリもちこんだりするような、気のおけない仲よしではない、機械仕掛のおもちゃとなると、絶えず動き通しに動いていて、あんなこと、おもちゃの生涯に十ぺんもやってくれたらそれでたくさん、という気もするが、まともな子供部屋へもちこめば命が短いにちがいないと思うと安心もする。
飾り窓の正面いっぱい、美しく着飾った衣裳人形がずらりと並んだ中に、ひときわ目につく人形があった。ピーチ色のビロードの服に裾のせまいホブル・スカート、それにあちこちヒョウの毛皮で念入りにアクセントがつけてある。手のこんだ女性の服装をこんな有り合わせの漠然とした説明ですませては不十分だが、まあこういっておこう。道具立てはごく精密なスタイル・ブックにも引けを取らない。事実、どこか世間普通のファッション・モデル以上のところがある。うつろな目つきの無表情な顔ではなくて、ちゃんと性格が顔に出ているのだ。それもあまりよくない性格なのだ。冷酷で喧嘩腰で出しゃばりで、眉は片方うす気味わるく下った上に、ひどく残忍そうな口つきだ。この女の過去は、と考えたら何時間でも種がつきまい。不敵な野心、底なしの金銭欲、そして人間らしい気持の完全な欠如――それらが主役をつとめた過去にちがいない。
そうした過去をあとにして、いまはこの飾り窓にさらされている身の上だが、この人形の経歴をたどって是非を審判する者がいないわけではなかった。十歳になるエメリーンと七歳のバートが場末の裏町からメダカのたくさんいるセント・ジェイムズ公園へあそびに行く途中、この飾り窓の前へ立ちどまり、この人形にこまかく批判の目を向けて手きびしく性格を検討していた。必要やむをえず見すぼらしい身なりをしている者と必要もないのにむやみに着飾った者は、おそらく互いに敵意を抱くものだろうが、もし後者が少しく友情をもち好意を示せば、敵意が変わって献身的な愛情となることもよくあるものだ。もしピーチ色のビロード服にヒョウの毛皮をあしらったこの女性に、丹念な装飾だけでなく感じのいい表情があったなら、エメリーンは少なくとも敬意をもち愛情も感じたかもしれない。ところが事実はその反対だったから、エメリーンは彼女をすごい悪女ときめこんでしまった。小説本あさりの名人どもから聞きかじった金持社会の乱行に関するまた聞きがおもな材料である。それにバートがなけなしの空想力であれこれけしからん細部をはめこんだ。
「わるい奴なんだよ、この女」と、憎らしそうに睨んでいたエメリーンがきめつけた、「だんなにも憎まれてて」
「いつでもぶんなぐられてるんだ」とバートが力んでいった。
「ちがうよ。だんなはもう死んじゃったもの。毒を飲ませて殺したの。誰にもわからないように少しずつ飲ませてだんだんに殺したのさ。今はうんと大金持の殿さまと結婚する気なんだけど、殿さまには奥さんがいるんだよ。その奥さんにもきっと毒を飲ませるよ」
「悪党め!」とバートはいよいよ憎らしくなった。
「お母さんにだって憎まれてるさ。こわがられてるよ、こいつ、とても口がわるいからね。年中いやなことばかりズケズケいうのさ。それに食いしん坊でね、おさかなが出ると自分の分ばかりか小さい子の分まで食べちまうよ、ひよわい子なのにね」
「もとは男の子もいたんだよ」とバートがいった、「それを誰も見ていないとき水の中へ突き落としちゃった」
「ちがうよ。貧乏なうちへ預けちまったのさ。だからだんなにはどこへ行ったかわからないの。そこのうちでうんといじめられてるよ」
「こいつ、何て名前?」とバートがきいた。こんなにいわくのある女ならそろそろ名前をつけなければ、と思ったのだ。
「名前かい?」とエメリーンは頭をしぼった、「モールヴェラっていうんだよ」映画の主役のあばずれ女の名前を思い出そうと一所懸命ひねり出した名前だ。ふと二人とも黙りこんだ。そんな名前の女ならどんなわるいことをやらかすかな、としきりに考えたのだ。
「着ているドレスだってお金を払ってないのさ。けして払いやしないわ」とエメリーンがいった、「大金持の殿さまに払わせる気だけど払ってくれやしないさ、もう宝石をたくさんたくさんやってるんだもの、何百ポンドというほどね」
「ドレスのお金なんぞけして払ってくれるもんか」とバートがキッパリいった。大金持の殿さまのお人よしにも確かに限度があるらしい。
その瞬間、玩具商館の正面入口へ自動車が着いた。制服姿の従者まで二、三人乗っている。大柄な女性が一人、車から下りた。キンキンひびく声で早口にしゃべる女だ。そのあとからふくれっ面の小さな男の子がのろのろと下りた。顔はひどく暗いしかめ面だが着ているのはまっ白のセーラー服だ。どうやらポーツマス広場あたりではじめた口論がまだつづいているらしい。
「さあ、ヴィクター、入って来ていとこのバータにかわいいお人形を買ってあげなさい。おまえの誕生日にきれいな箱入りのおもちゃの兵隊をくれたでしょう、だから今度はバータの誕生日に何かあげなくてはいけませんよ」
「バータなんてでぶっちょのバカだよ」とヴィクターがいった。母親にまけない大声だ。母親以上に自信があるらしい。
「ヴィクター、そんなわるいこと、いっちゃいけませんよ。バータはバカじゃありません。ちっともでぶじゃありませんよ。さあ、中へ入ってバータにいいお人形を見つけてあげるんです」
親子は店へ入って行ったから、店の外にいる二人には姿が見えないし声も聞こえなくなった。
「まあ、あの子、むくれ返ってるわ」とエメリーンは大声でいった。エメリーンもバートも、その場にいないバータを向こうに廻して今の男の子の肩をもちたい気持である。きっとバータというのはあの子のいう通り、でぶっちょのバカなんだろう。
「少し人形を見せてもらいたいんですが」とヴィクターの母親は手近にいた店員に声をかけた、「十一になる女の子にあげるんですの」
「十一になるでぶっちょだよ」とヴィクターがつけたした。解説追加のつもりである。
「ヴィクター、いとこのこと、そんなにわるくいうと帰ったらすぐ寝させますよ、お食事なんぞ抜きにして」
「お人形ですとこちらが一番新しい品でございます」と店員はいって、飾り窓からあのピーチ色のビロード服にホブル・スカートの人形をもち出した。「帽子も肩かけもヒョウの皮でございます。一番新しいファッションでございますね。どこの店にもこれより新しいのはございません。わたくしども独特のデザインでございます」
「ごらんよ」と店の外でエメリーンがささやいた、「モールヴェラをもち出したわ」
エメリーンは胸がわくわくして来た。同時にまたモールヴェラと別れるのが淋しいような気もした。ゴテゴテ着飾ったあのわるい女をも少し見つめていたかった。
「あいつ、馬車に乗って金持の殿さまのところへお嫁に行くんじゃないかな」とバートがアヤフヤなことをいった。
「どうせろくなことしやしないよ」とエメリーンも曖昧なことをいった。
店の中ではその人形を買うことにもう話がきまっていた。
「きれいなお人形ね。これをあげたらきっとバータがうれしがるわ」と母親が大きな声でいった。
「どうでもいいや」とヴィクターは面白くない声をした、「一時間も待たされるのはいやだ。箱に入れたり包んだりしないで、このままもって行こうよ。帰りにマンチェスター広場へ廻ってバータにわたせばそれですむんだ。『いとしいバータに、ヴィクターより愛をこめて』なんて紙へ書く手間がはぶけるよ」
「そんならそうしましょう」と母親がいった、「帰りにマンチェスター広場へよって行こうね。あしたの誕生日、おめでとう、といってバータにあげるんですよ」
「でもあいつにキスされるのは、ぼく、いやなんだよ」とヴィクターが注文をつけた。
母親は何ともいわない。きょうは思ったほど手を焼かせなかったからだ。その気になるとおそろしく手のかかる子供なのだ。
エメリーンとバートが店の前から歩き出したところへ、モールヴェラが店の中から姿をあらわした。ヴィクターの両腕にしっかと抱かれている。あら探しでもしているようなきつい顔に、ざま見ろ、という表情をうす気味わるく浮かべている。ヴィクターの顔はさっきのしかめ面が消えうせて、人をばかにしたように取り澄ましていた。言い分は通してもらえなかったが、いさぎよくせせら笑って服従したにちがいない。
背の高い母親は従者に指図すると車の中へ納まった。白地のセーラー服の男の子も母親のそばへ乗りこんだ。着飾った人形をまだ大事に抱いている。
車の向きを変えるには二、三ヤード、バックさせる必要があった。実にこっそりと、実にもの静かに、実に容赦なく、ヴィクターは肩ごしにモールヴェラを放り投げた。モールヴェラはあと戻りする車輪の真うしろへ落ちた。うつ伏せになったその上を、おだやかな気持のいい音を立てて車があと戻りした。そしてまた同じ音を立てて前進した。自動車は行ってしまった。あとにはバートとエメリーンがギョッとしたもののうれしそうに、ビロードと|鋸《おが》|屑《くず》とヒョウの毛皮がメチャメチャになってガソリンまみれになったのを見つめていた。悪女モールヴェラの残骸だ。二人はワーッと金切り声を立てると、一瞬の惨劇の現場から身ぶるいして逃げて行った。
その日、午後おそく二人はセント・ジェイムズ公園の池のふちでメダカを追い廻していた。エメリーンがまじめくさってバートにささやいた――
「あたし、今まで考えたんだけどね、あの男の子、誰だと思う? 貧乏なうちへ預けられたあの子だよ。それが帰って来てあんなことしたのさ」
ショック戦略
[#地から2字上げ]Shock Tactics
晩春の昼すぎ、エラ・マッカーシーはケンジントン公園の青い椅子にかけて、別にこれということもない公園風景をボンヤリ見つめていた。突然、平凡な眺めがあざやかな熱帯的色彩を帯びた。中距離のところに思いがけない人物が現われたのである。
その人物がエラの椅子にいちばん近い青い椅子のところへ来て、ズボンの尻に少し気をくばりながらいそいそ腰を下ろすと、エラは落ち着いて声をかけた、「バーティ、今日は。今日はすばらしい春日和だったわね」
その言葉はエラ自身の心持については真っ赤なうそだった。バーティがやってくるまで、すばらしい春日和では絶対なかったのだ。
バーティはほどよく返事したが、その返事にはどこか質問の感じがあった。
「あのハンカチ、どうもありがとう」とエラは相手の気持に感づいて返事した、「ちょうどほしいと思ってたものなの。頂いてとてもうれしかったけど、ちょっと気になることがひとつあるのよ」
「それ何?」とバーティはギョッとした。せっかく選んだハンカチが女もちには大きすぎたかな、と思ったのだ。
「わたし、すぐにもお手紙を書いてお礼をいいたかったのよ」とエラがいうと、たちまちバーティの心の空に雲がかかった。
「何しろぼくの母、あの通りだろう? ぼくのところへ来る手紙、全部あけちまうんだ。ぼくが誰かにプレゼントしたとわかると、あと二週間は文句がつづくのさ」
「まあ! 二十歳にもなったのに……」とエラはいいかけた。
「二十歳になるのは今度の九月さ」とバーティが口を出した。
「十九年八カ月にもなったら、自分のところへ来た手紙ぐらい、封を切らせなくてもいいじゃないの」
「それが当然さ。だが世の中には当然通りにいかないこともいろいろあってね、ぼくの母は宛名が誰になっていようがうちへ来た手紙は全部あけちまう。姉も妹もぼくもたびたび文句をいったんだが、やはり封を切るんだ」
「わたしだったら何とかやめさせる手を考えるわ」とエラは勇ましいことをいった。いろいろ気を使ってせっかくプレゼントしても、禁止令のおかげでお礼の手紙さえもらえないのか――バーティはそう思うと恋人にプレゼントしたときのあのいい気持もけし飛んだような気がした。
その晩、バーティが温水プールで友達のクローヴィスに出あうと、「おい、どうかしたのか?」ときかれた。
「なぜきく?」とバーティはいった。
「せっかく温水プールへ来てそんな沈んだ顔をぶら下げてるから目立つのさ、ほかに下げてるもの、ろくにないしね。彼女、あのハンカチ気に入らなかったのか?」
バーティは事情を説明してから付けたした、「まったくいやになるじゃないか、女の子の方には手紙で書きたいことが山ほどあるのに。何かこっそり遠まわしの手でも使わなければ手紙が出せないなんて」
「幸福というものは失ってはじめて幸福だったとわかるもんなのだ。ぼくなどは今、手紙を出さない言いわけをこね上げるのに、かなり苦労させられてるぞ」
「冗談いってる場合じゃないんだ」とバーティはムッとした顔をした、「おふくろに手紙を片っぱしからあけられてみろ、おかしいどころの騒ぎじゃないから」
「君が母親に手紙をあけさせておく――それがぼくにはおかしいな」
「ところがどうしてもやめないんだ、なんべんいって聞かせても……」
「いって聞かせ方がまずいんだな、それは。もしもだね、手紙をあけられたら食事のときテーブルへ大の字になって発作でも起こすとか、真夜中にウィリアム・ブレークの『無心の歌』でも大声で吟じて家中たたき起こすとかすれば、同じ文句もずっと傾聴されるものさ。せっかくの食事を台なしにされるとか、ゆっくり眠ってるところをたたき起こされるとか、そんな事の方が恋の悩みなんぞより遙かに重視されるからな」
「よせよ」とバーティはツンとしていうと水の中へいきなり跳びこんで、クローヴィスの頭から足までめちゃくちゃに水をはねかした。
ふたりが温水プールで話し合った一日二日あと、バーティ・ヘザント宛の手紙が一通、郵便受けに入り、やがてバーティの母の手に入った。ミセス・ヘザントはひとの事には永久に興味を失わない例の頭のからっぽな人間のひとりだ。しかも人に読まれたくない手紙らしいとなると、ますます興味が強烈になる。だからこの手紙もどのみち開封しただろうが、表に親展とあるうえにほんのり身にしみるいい香りがするので、いつもの悠長さと打って変わってあわてて封を切った。中にはあけてビックリ、まったく予想もしないことが書いてある。書き出しからして変わっていた。
[#ここから2字下げ]
「|いとしの《カリシモ》バーティ、あなたにいったいあれをやるだけの心臓があるかしら。かなり心臓が強くないと出来ない仕事よ。宝石のこと忘れちゃだめ。宝石目あてじゃないけど、わたし枝葉の方にも興味があるのよ。
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[#地から2字上げ]いつもあなたのクロチルド
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わたしのこと、お母さんに知らせちゃだめよ。もし聞かれたらまるきり知らない名前だといってね」
[#ここで字下げ終わり]
長年のあいだミセス・ヘザントはバーティのところへ来る手紙をせっせと調べて、道楽でもはじめはしないか若気の過ちでも犯しはしないかと、いつも手がかりを探していた。今やようやく、その熱心な探求心をかき立てたさまざまの嫌疑が今回の大漁によって裏書きされたわけだ。
イギリス人ばなれしたクロチルドなんて名の女がバーティのところへ「いつもあなたの」なんて怪しからんことを書いてよこす――それだけでもビクリとくるのに、宝石がどうしたとか書いてあるのにビックリ仰天した。小説でも芝居でもとかく宝石が原因で胸もどきつく大事件が起こる。ところが、わが家の屋根の下で、いわば自分の目の前で、自分の息子が何か陰謀をたくらんでいるばかりか、しかも宝石なんぞは興味ある枝葉にすぎないとは何事だ。バーティが帰るまでにはまだ一時間あったが、姉も妹もうちにいるから、さっそくこのスキャンダルを打ちあけた。
「バーティが変な女にひっかかってるのよ」と母親は金切り声を立てた。そして「相手はクロチルドって女なの」と付けたした。まるで最初から底ざらい話す方がいい、と思った口ぶりだ。若いむすめに人生の醜悪な現実をかくしておくと、為になるよりむしろ害になる場合もあるものである。
バーティが帰って来るまでにミセス・ヘザントはバーティの秘密の罪悪について有り得ること有りそうもないこと、あらゆる面から討議したが、姉むすめも妹の方も、バーティはわるいんじゃなくて意気地なしなのよ、とそれしか意見をいわない。
バーティは玄関を入るといきなり「クロチルドってだれ?」と詰めよられた。そんな人、まったく知らないというと頭からせせら笑いをあびせられた。
「いわれた通りちゃんと覚えてること!」ミセス・ヘザントは大声を立てたが、尻尾を出しながらどうにも白状しない気だとわかると、皮肉はやめてカンカンに怒り出した。
「すっかり白状しないうちはご飯は食べさせませんよ」と彼女はどなりつけた。
それに対するバーティの返事は、食品棚から急いで即席晩餐の材料を集め、それをもって自分の寝室へ立てこもる形を取った。母はなんべんもそのドアの前へ行っては、大声でしつこく質問を繰り返した。なんべんでも質問を繰り返していれば、結局は返事が出てくるものときめているらしい。しかしバーティはそうした考え方を助長するようなことは全然しない。この一方的な交渉が実も結ばずに一時間たったころ、親展と書いたバーティ宛の手紙がまた一通、郵便受けに入っていた。ミセス・ヘザントはこれぞとばかりその手紙に飛びついた。ネコがネズミを取り逃がしたところ、思いがけなく第二のネズミが舞いこんだか、と思われる勢いである。きっと何かつかめるだろうと封を切ったら、果たして大いに得るところがあった。いきなり書き出してこんな文面である。
[#ここから2字下げ]
「とうとうダグマーをやっつけたのね。かわいそうにあの人、やられたとなると少し気の毒みたい。あなたなかなかの悪党ね、すてきなお手並みだったわ。女中たちみんな自殺だと思ってるから面倒は起こりゃしないわ。検屍がすむまで宝石に手はつけないでね。
[#ここで字下げ終わり]
[#地から2字上げ]クロチルド」
これまでさんざん大声でどなり散らしたミセス・ヘザントだが、その騒ぎもこれを読むと階段をかけ上がりバーティのドアを狂ったようにたたいた勢いには遠く及ばなかった。
「この困った子、おまえ、ダグマーをいったいどうしたの?」
「今度はダグマーか。この次はジェラルディンとくるかな」とバーティがどなり返した。
「さんざん苦労して夜は外へ出さないようにしてきたのに、こんなことになるなんて」とミセス・ヘザントはすすり泣きした、「かくそうとしたってだめ、クロチルドの手紙で何でもわかるんだから」
「その女の正体もわかるかね?」とバーティがたずねた。「クロチルド、クロチルドってさんざん聞かされたから、ぼくもクロチルドがどんな暮らしをしてる女だか少し知りたくなってきた。冗談はとにかく、この調子でつづけるんなら、ぼく、行って医者を呼んでくる。何もしないのにお説教をなんべんも聞かされたけど、話の中へ空想の女性をぞろぞろもち出されるのは今度がはじめてだ」
「この手紙が空想なもんかね。宝石だのダグマーだの、自殺だと思ってるだの、いったいこれ何なのさ?」
これらの疑問に対する解答は締め切ったドアからついに出てこなかったが、その晩の最終便でまたもやバーティ宛の手紙が一通やってきた。それを読んでミセス・ヘザントはようやく真相を知ったが、息子のバーティには前からそろそろわかりかけていたのだ。
[#ここから2字下げ]
「バーティ君、架空の女性クロチルドの名を使ったインチキな手紙で面くらいはしなかったろうね。先日、君のうちの女中か誰かが手紙をあけて困ると君から聞いたんで、そいつに読ませてやろうと、胸もおどるような手紙をぼくが出したのさ。このショックできっと効き目があるだろう。
[#ここで字下げ終わり]
[#地から2字上げ]敬具
[#地から2字上げ]クローヴィス・サングレール」
ミセス・ヘザントはクローヴィスをかすかに知っていて、少しこわい人と思っていた。だから美事にいっぱい食わされたとわかると、この手紙の文句の行間まですぐ読み取れた。そこで今度は鉾先をおさめてバーティのドアをもう一度たたいた。
「ミスター・サングレールから手紙がきましたよ。みんなばかげたインチキだったのね。あの手紙、みんなあの人が書いたんだってさ。おや、おまえどこへ出かけるの?」
バーティがドアをあけたのだった。ちゃんと帽子をかぶりオーバーも着こんでいる。
「医者を呼んできてお母さんがどうしたんだか見てもらうんだ。もちろん全部インチキだけど、殺人だの自殺だの宝石だの、あんなでたらめ、気の確かな人間なら本当にしやしないからね。この一時間か二時間、この家が今にも潰れるかと思うほど大騒ぎしたじゃないか」
「だってあの手紙、どう取っていいかわからないんだもの」とミセス・ヘザントは泣き声を立てた。
「どう取っていいか、ぼくならすぐにわかったよ。ひとの手紙をあけて大騒ぎするのが趣味なんて、そりゃ自分がわるいんだ。とにかく、ぼくは医者を呼んでくる」
まさにバーティに取っては絶好の機会だった。絶好の機会と承知もしていた。母親は気がついた――もしこの一件が世間に広まったらどんな笑いものになるかも知れない。そこで口取め料を出す気になった。
「これからはもうけしておまえの手紙の封は切らないよ」と母は約束した。
今やクローヴィスにバーティ・ヘザントより忠実な奴隷はない。
七個のクリーム入れ
[#地から2字上げ]The Seven Cream Jugs
「もうウィルフリド・ピジョンコートはうちへなんぞ来てくれないでしょうね、|準男爵《バロネット》の身分と大きな財産を相続したんですから」とミセス・ピーター・ピジョンコートが残念そうに夫にいった。
「さあ、あまり期待できまいな」と夫が答えた、「いずれは何の取得もない男になると思って、なるべくよせつけないようにしていたしね。あれが十二歳のときあったきりかな」
「そりゃあちゃんと理由があって近づけなかったんですわ」とミセス・ピーターがいった、「知れわたったあのわるい癖があっては、誰もうちへ入れたがりませんもの」
「うん、まだ直らないんじゃないか、その癖は? それとも、家督を相続すれば性格改善も自然に伴うものかね?」
「もちろん、まだ直りゃしませんわ」とミセス・ピーターがいった、「でもこれから本家の家長になるんですもの、近づきになっておきたいじゃありませんか、物好きといわれるかもしれませんけど。それにそんな皮肉はとにかく、大金持ともなるとあの癖だって世間の見る目が変わって来ますわよ。ただ裕福というんじゃなくて図ぬけた大金持ということになれば、手癖がわるいなんて噂はふっとびますわ。少し困った癖はあるが、なんてことになりますのよ」
ウィルフリド・ピジョンコートは従兄にあたるウィルフリド・ピジョンコート大佐が死んだため、急に叔父の家督を相続した。大佐はポロの競技中に事故があって死んだのだ。(むかし、先祖の一人にウィルフリド・ピジョンコートというのがいて、マールバロ将軍に従って出征ししこたま勲章をもらった。それ以来、男の子が生まれるとウィルフリドと名をつけるのがピジョンコート一族は大好きになったのだ)新しく爵位と財産を相続したのは二十五歳ぐらいの青年で、大勢いる親戚や縁者は直接知らないまでも噂で知っていた。しかもその噂が芳しいものではない。一族の中にはウィルフリドの名をもつ者が大勢いるから、たとえばハブルダウンのウィルフリドとか、砲兵隊長のウィルフリド青年とか、住んでいる土地や職業で区別しているが、今度の若殿は『かっぱらいのウィルフリド』と、そのものズバリの不面目な仇名で通っている。そろそろ学校をおえるころから急性難治の盗癖に取りつかれた。蒐集家並みの獲得本能はあるが蒐集家並みの鑑識眼はない。手当り次第何であろうと、大きさがサイド・ボード以下で値打九ペンス以上の品物なら抵抗しがたい魅力を感じる。ただし、必要条件が一つだけあって、誰かほかの人のものに限るのだ。どこか田舎の本邸でのハウス・パーティへたまに呼ばれて泊まったときは、明日は帰るという前の晩、邸の主人か家族の誰かが親切めかして手荷物を調査し、ひとの物を「まちがえて」詰めこみはしないかと確かめるのが普通でもあり必要でもあった。捜索の結果はいつもおびただしい種々雑多な収穫がある。
「こりゃおかしいぞ」とピーター・ピジョンコートが妻にいった。さっき話し合ってから三十分あとのことだ。「ウィルフリドから電報が来てね、自動車でこのへんを通るから途中でちょいと伺います、だとさ。差支えなければ一晩泊まりたいそうだ。発信人はウィルフリド・ピジョンコートだ。こりゃああの『かっぱらい』にちがいないぞ、ほかのウィルフリドは誰も車をもっていないからな。きっと、うちへ何か銀婚式のお祝いをもってくるんだろう」
「さあ、大変!」と、ふと何か思いついてミセス・ピーターがいった。「あんな癖のある人にいま来られては具合がわるいわね。お祝いに頂いた銀の品物はみな応接間に飾ってありますし、配達が来るたびまだまだくるんです。何と何をもらったかとても覚えきれませんし、これからだって何がくるかわかりませんのよ。鍵をかけてしまいこむのも変でしょう、きっと見せろといい出しますからね」
「厳重に見張ってるんだな。そうすりゃ大丈夫だ」とピーターははげました。
「でもあんな熟練した窃盗狂になると抜け目がありませんからね」とミセス・ピーターは心配である。「それに見張ってるな、と感づかれたら、それこそ間がわるいでしょう」
果たしてその晩、やって来た来客の接待には、バツのわるさがその場の基調となった。当りさわりのない話題をあれこれおっかなびっくり取り上げては、すぐまたパッとほかの話題にとぶ有様だ。予想とちがって客はコソコソしたところもなし、ひどく遠慮がちに構えたところもない。物腰は丁重で落ち着いていて、どちらかといえばほんの少し気取った感じがある。一方、ピーター夫妻の方はそわそわして落ち着かない様子だ。これは脛に傷もつ者のまぎれもない刻印である。夕食がすんで応接間へうつると、夫妻はますますそわそわし、いよいよ間がわるくなって来た。
「そうそう、銀婚式のお祝いに頂いた品、まだお目にかけませんでしたわね」とミセス・ピーターが不意にいい出した。すてきなおなぐさみを今ふと思いつきました、という様子である。「全部ここにおいてありますのよ。とてもすてきな重宝な品ばかりですの、中にはダブった品もありますけど」
「クリーム入れを七個ももらいました」とピーターが口を出した。
「そうなんですの、困りますわね」とミセス・ピーターがあとを続けた、「七個もありますの。これから一生クリームばかり食べて行かなきゃならない気がしますわ、もちろん取り替えてもらえるのもありますけど」
ウィルフリドはおもに骨董的な値打のあるものばかり熱心に見ている。一つ二つ明りのそばへもって行って刻印を調べたりした。そうした瞬間、ハラハラして見ているピーター夫妻の心のうちは、生みたての子ネコが何人もの手から手へ廻されて調べられている有様を見ている親ネコの不安によく似ていた。
「あら、カラシ壺は返して頂きましたかしら? ここへおいたんですけど」とミセス・ピーターがかん高い声をした。「これは失礼。ワイン入れの瓶のそばへおきましたよ」と返事して、ウィルフリドはまた別の品を調べている。
「すみません、その砂糖ふるい、こちらへ返して頂けませんか」とミセス・ピーターがいった。おどおどしてはいるもののテコでもごまかされないぞ、という気骨が見えている。「忘れないうち、頂いた方のお名前を張っておかなきゃなりませんから」
不断の警戒も完全な勝利を達成しなかった。「おやすみなさい」といって客と別れると、きっと何かごまかされたにちがいない、とミセス・ピーターがいい出したのである。
「あの様子だと何か失敬したようだな」と夫も裏書した。「何かなくなったものがあるか?」
ミセス・ピーターはずらりと並んだ祝いの品を急いで勘定した。
「三十四しかありませんわ、三十五あったと思うんですけど」と彼女はいった、「教会の副監督から届くはずの薬味入れをその三十五に入れたかどうか、よく覚えてないんですの」
「わかったもんじゃないぞ」とピーターがいった、「あのけちん坊め、祝いの品をもって来もしないでかっぱらって行かれちゃたまりゃしないぞ」
「明日ね、あの人が入浴するとき」とミセス・ピーターが興奮していった、「きっとどこかへ鍵をおいてきますわ。あのトランクを調べましょうよ。それより仕方ないわ」
翌朝になると、しめし合わせたピーター夫妻は半開きのドアのうしろでゆだんなく見張っていた。そしてウィルフリドが豪華なバス・ローブを着こんで浴室へ出て行くと、胸をおどらせた人物が二人、来客用第一寝室へコソコソすばやくかけつけた。ミセス・ピーターが外で見張りに立つ。夫は大急ぎでちゃんと鍵を探し出すと、癪にさわるほど職務熱心な税関吏よろしく、まっしぐらにトランクめがけて飛びついた。探索はたちまち終了した。銀のクリーム入れが薄地のシャツの間に納まっていたのだ。
「わるがしこい人」とミセス・ピーターがいった、「いくつもあるからクリーム入れを取ったのね。一つぐらいわかるまいと思ったのよ。さあ、急いでもって行って、あとのクリーム入れといっしょにしといてくださいね」
ウィルフリドはおくれて朝食に下りて来た。確かに何かあったらしい様子である。
「いやなことを申し上げてすみませんが」と、彼はいきなり切り出した、「お宅の使用人の中に泥棒がいるようですね。実はトランクから取られたものがあるんです。銀婚式のお祝いに母とわたくしから差し上げる品ですがね。昨晩、夕食のあとで差し上げればよかったのですが、あいにくそれがクリーム入れでして、クリーム入ればかりいくつも重なってお困りのようでしたから、そこへまたクリーム入れを差し上げるのが少してれくさくなりました。何か別の品と替えさせようと思っていましたら、それがなくなったんです」
「お母さまとあなたからですって?」とピーター夫妻はほとんど声をそろえて聞き返した。『かっぱらいのウィルフリド』なら何十年も前に両親に死なれている。
「そうです。母はいまカイロにいましてね、ドレスデンのわたしのところへ手紙をよこしました。時代物の銀製品か何か、しゃれた品を見つけて差し上げろ、というんです。そこでクリーム入れをえらびました」
ピジョンコート夫妻は顔色を変えた。ドレスデンと聞いてとたんに事情がピンと来たのである。客は大使館員をしているウィルフリドだった。優秀な青年だがめったにあったことはない。それをうっかり『かっぱらいのウィルフリド』のつもりで扱っていたのだ。このウィルフリドの母親アーネスティン・ピジョンコートは、ピーター夫妻の交際範囲も将来の野心も遠く超越した雲の上の存在だし、この息子もいずれは大使閣下になりそうな人物だ。その人のトランクをかき廻して掠奪してしまった。ピーター夫妻は進退きわまってポカンと顔と顔を見合わせた。まず名案を思いついたのは夫人の方である。
「まあこわい、うちの中に泥棒がいるなんて! もちろん夜は応接間の錠を下ろしますけど、朝食のときに何を取られるかわかりゃしませんわね」
夫人は立ち上ると急いで出て行った。応接間から銀製品を何か盗まれていないか自分で確かめるためらしい。だがすぐ戻って来た。クリーム入れを一つ、両手でもっている。
「今度はクリーム入れが八個ありますのよ、七個じゃなくて」と高い声を出した、「このクリーム入れはあそこになかったはずですわ。ミスタ・ウィルフリド、妙な勘ちがいをなさいましたね。あなた、昨晩二階から下りていらして応接間へ錠を下ろさないうちにこれをあそこへおおきになり、夜が明けたらそれをすっかりお忘れになりましたのね」
「そんな思いちがいをすることがよくあるもんですよ」とミスタ・ピーターが必死になって明るい声を出した。「わたしも先日、町へ行って勘定をはらいましたが、つぎの日また出かけて行きました。一度はらったのをすっかり――」
「これは確かにわたしがもって上がった品にちがいありません」とウィルフリドはいいながら、クリーム入れをこまかに調べていた。「今朝、浴室へ行こうとバス・ローブを出したときは確かにトランクに入っていたんです。ところが戻って来てトランクの錠をあけるとなくなってました。部屋をあけた留守に誰かが盗んだんですね」
ピジョンコート夫妻の顔は一段と青ざめた。とたんにミセス・ピーターの頭に最後のインスピレーションがおとずれた。
「あなた、気つけ薬を取って来てくださいな」と夫にいった、「化粧室においてありますの」
ピーターはホッとして一散に廊下へかけ出した。この二、三分間が実に長かった。金婚式もそう遠くなさそうな気がしたほどだった。
ミセス・ピーターは客のほうへ向くと、ごく内証のことを打ちあけるような顔でしなを作った。「外交官でいらっしゃいますから大丈夫と思いますけど、こんなこと、なかったことにして頂けますわね。ピーターのちょいとした病気なんですの、血筋でしてね」
「こりゃおどろいた! すると盗癖があるとおっしゃるんですか、あの『かっぱらい』みたいに」
「ちょいとちがいますけどね」とミセス・ピーターがいった。いま打ちあけた夫のことを塗り直して少し割引きしようとする。「そこらに出し放してある物にはけして手をつけませんが、錠をかけてしまいこんである物だと矢もたてもたまらず手を出しますのよ。お医者さまが何とか病名をいってましたわ。あなたが浴室へいらしたあと、すぐさまあなたのトランクへ飛びついたんですよ、きっと。むろんクリーム入れをほしがる理由なんぞありゃしませんわ、あんなに七つもあるんですもの――といっても、もちろんお母さまとあなたから頂いた品がうれしくないわけじゃありませんけど――シッ、ピーターが来ますわ」
ミセス・ピーターはドギマギしてあとはいわずに小走りにかけ出して夫のところへ行った。
「もう大丈夫よ」と夫にささやいた、「すっかり説明をつけましたよ。あのこと、もう何もいわないで」
「見上げた女だな」ホッと安心の溜息をしてピーターがいった、「そんなこと、わたしにはとてもできない」
※
外交官は口が固いものだが身内のことまでとは限らない。春になってミセス・コンスエロ・ヴァン・ブリヨンが泊まりに来た。浴室へ行くときは一目でそれとわかる宝石箱を二つ、いつも必ずもって行き、廊下で誰かにあうとこれはマニキュアとマッサージの道具ですと説明した。どうしてそんなことをするのか、ピーター・ピジョンコートにはまったく理解が行かなかった。
緊急用庭園
[#地から2字上げ]The Occasional Garden
「市内の庭園というものはね、などとお説教しちゃだめよ」とエリナ・ラスプレーがいった、「これから一時間ばかり、わたし、市内の庭園のことばかりしゃべるから黙って聞いててちょうだい。はじめてここへ移ってきたとき、誰も『ちょうどいい広さの庭があっていいわね』といったわ。それはつまり、庭にするのにちょうどいい広さの場所がある、という意味らしいのね。ところが実はその広さが困った広さなのよ。全然無視して中庭あつかいにするには広すぎるし、ジラフを飼っておくには狭すぎるの。そら、ジラフだのトナカイだの、そんな草を食べる動物を飼っていれば、そんな動物がいますから草木はおけないんです、と説明できるでしょう?『オオシカとダーウィン種のチューリップを一緒には置けませんから去年は球根を植えませんでしたの』なんてね。ところが実はオオシカなんぞ飼ってませんし、ダーウィン種のチューリップはせっかく球根を植えたのに、近所一帯のネコが集まってきて花壇の真ん中で議会を開いたから全滅よ。あのもの淋しい狭い地面も、ゼラニウムとユキノシタを一株おきに植えて花壇のふち取りにするつもりだったのに、ネコの議会が各派控室に使っちまったし、近ごろ不意打ちの票決がふえたらしいわね、ゼラニウムが咲き出すのより多いくらい。わたし、ただのネコなら別に文句もいわないけど、菜食主義のネコが大勢集まって議会を開くのはほんとに困るわ。あのネコったら菜食家にちがいないのよ、スイートピーの苗床はさんざん荒らしてまわるくせにスズメにはまるで手も出さないんですもの。だから土曜日だろうが月曜日だろうが、うちの庭には巣立ったばかりのヒナはもちろん、おとなのスズメがたくさんいるわ。クローカスはちゃんと地面に立ってる方がきれいか、茎をチョン切られて寝ている方がきれいか、スズメと神さまの間に大昔から絶対和解のない意見の対立があったらしいのね。そして最後まで頑張り通すのはいつもスズメの方、少なくともうちの庭ではそうなのよ。神さまの方でも、もとは修正案だか何だか持ち出して、スズメの破壊力をもっと弱くするとかクローカスをもっと頑丈にするとか計画したんじゃないかしら。でもうちの庭にはひとつ助かる点があってね、応接間からも喫煙室からも見えないのよ。だからお客を食堂へ通しさえしなければ地面がむき出しでもわかりゃしないわ。だからこそ、わたし、グウェンダ・ポティンドンに腹を立ててるのよ。あの人、今度の水曜日、強引にうちへランチを食べに来ることにしちゃったの。わたしがね、あのポールコット家の娘にその日町へ買物に来るならうちへランチにお寄り、といったら、さっそく、自分も来ていいかっていうのよ。花ひとつないゴッタ返しのうちの花壇をうれしそうに眺めてさ、自分のうちの呆れるほど手入れの届いた庭の自慢を並べ立てるのが目的なのね。近所一帯に羨ましがられてます、なんて聞かされるのウンザリだわ。あの人ったら、自分のものなら何でもそうですもの――自動車だろうがディナー・パーティだろうが、頭痛までが自分のが飛び切り上等なのよ。そんなにいいものばかり揃ってる人って、ほかにありゃしないわ。あの人にいわせるとね、いちばん上の子の堅信式がとても盛大だったんで、もしや下院で質問でも出やしないか、と思ったんですってさ。そのグウェンダがうちへ来るのよ。みすぼらしいパンジー二、三株と花壇のヘリにスイートピーがところどころ残ってるのを見つめて、わたくしのうちのバラ園の花は天下無双に豪華でございます、なんて委細詳細雄弁にまくし立てる目的で」
「ねえエリナ」と男爵夫人がいった、「そんなむしゃくしゃも庭師の勘定もスズメの苦労も簡単に片づくわよ、O・O・S・Aへ入って年いくらの会費を払いさえすれば」
「聞いたことないわ。それ何?」
「O・O・S・Aってオケージョナル・オアシス・サプライ・アソシエーション(緊急緑地供給協会)のことよ」と男爵夫人はいった、「この協会はちょうどお宅のような場合にいっさい引き受けてくれるの。ランチ・パーティやディナー・パーティの計画があるとき、とても園芸などやれない裏庭でもその時期にちゃんと花を咲かせて美事な眺めの庭園に仕立ててくれるわ。たとえばね、一時半に誰かランチに来るお客があったら、その日の十時ごろ協会へ電話して『ランチ・ガーデン』と申しこめばいいの。それだけの手間で十二時四十五分にはお宅の裏庭は一面ビロードのような芝生になり、背景にはライラックなり赤のサンザシなり季節の花の生垣ができ上がり、庭の隅には花ざかりのサクラが一、二本、それにギッシリ花をつけたシャクナゲの茂みが二、三カ所、そして前景にはカーネーションやポピーやオニユリが真っ赤に咲きそろうわけ。ランチがすんでお客がお帰りになると、すぐさま庭園もお帰りになるから、そのあと世界中からネコが集まって議会を開いても何の心配もいらないわ。もし来るお客さまが|主教《ビショップ》さまとか骨董愛好家とかそんな人なら、申しこむときそういえばいいの。そうすれば刈りこんだイチイの生垣だの日時計だのタチアオイだの、それにクワの木が一本、花壇のヘリにはアメリカ・ナデシコとフウリンソウ、隅の方には昔風のミツバチの巣箱をひとつふたつ――むかしのお邸風の庭に仕立ててくれるわ。そんなところがO・O・S・Aの普通の仕事だけど、年二、三ギニーの特別会費を出せば緊急E・O・Nサーヴィスもしてくれるのよ」
「それ何、E・O・Nサーヴィスって?」
「グウェンダ・ポティンドンの来襲みたいな特別なケースの信号よ。ランチだかディナーだかに来るのは『近所一帯に羨まれる庭』(この原語の頭文字がE・O・N)の持主、という意味なの」
「まあ! それでどんなことになるの?」
「まるでアラビアン・ナイトに出てくる奇蹟みたいよ。裏庭が俄然センジュアルな庭園に変わるわ――ザクロの木、アンズの木、レモンの林、花ざかりのシャボテンの生垣、まぶしいほどのアゼリヤの斜面、大理石の水盤からは噴水が吹いて、異国情調たっぷりなスイレンの中を白茶まだらのアオサギがエレガントにぶらついてるし、アラバスターのテラスには金色のクジャクが気取って歩いてるわ。全体としてね、神さまとノーマン・ウィルキンスン(このころ活躍したイギリス人画家)が張り合うのをやめて、共同してロシヤ・バレーの野外公演の舞台装置をこしらえたみたい。事実、お宅のランチ・パーティの背景なんだから、それでいいわけね。もしそれでグウェンダ・ポティンドンでも誰でも、その時のE・O・Nのお客が完全に参らなかったら、さり気なくいってやるのよ、『うちの蔓性ピュテラはイギリス全国にこれ一株きりです、チャツワースにあった株が去年枯れましたから』とね。蔓性ピュテラなんてものありゃしないけど、グウェンダ・ポティンドンなんて連中はこっちから知恵をつけてやらなきゃ何の花でも見さかいなしが普通ですもの」
「じゃすぐ教えて、その協会のアドレス!」とエリナはいった。
グウェンダ・ポティンドンはせっかくのランチも楽しくなかった。簡素ながら上品なランチで、料理も優秀ならサーヴィスも気がきいていたが、彼女自身のおしゃべりというピリッとしたソースが著しく不足だったのだ。自分のうちの庭園の比類なき園芸花卉の壮麗さをほめたたえる長い演説を用意してきたところ、せっかくの話題がどっちを向いても封殺された。一面に花をつけたシベリヤ・バーベリの生垣を背景に、エリナの庭園はこれはこれはと驚くばかり、まさにおとぎの国の一部そっくりなのだ。ザクロの木、レモンの木、幾段にも水の落ちる噴水、派手やかなアイリスの根もとをわけて泳ぎまわる金色のコイ、見上げるように咲きそろった異国的な花、東洋の|塔《パコダ》そっくりの囲いの中にたわむれているニッポン産のアナグマ――それらのおかげでグウェンダの食欲は減退し、園芸を談じる気は衰弱した。
「わたし、蔓性のピュテラはあまり好みませんけど」と彼女はやがていった、「とにかくイギリス全国にこれ一株だけじゃありませんわ。ハムプシャ州に一株あるのを知ってますもの。はやらなくなったんですね、園芸は。今じゃ誰もそんなことする暇がないんですよ」
全体としてこの日のランチ・パーティはエリナに取って大成功のひとつだった。
その四日あと、グウェンダがランチ時分に突然飛びこんできて、どうぞともいわないのにズカズカ食堂へ入ってきたのは、まったく予想しない災難だった。
「うちのエレーヌのかいた水彩画がね、潜在画才協会に通りましたの。ぜひそれをお知らせしようと思いましてね。ハクニー画廊の夏の展覧会に展示されますわ。きっと画壇にセンセーションを起こしますわよ――あら、あのお庭どうなすったの? なくなってますわ!」
「婦人参政運動の連中の仕事ですの」と即座にエリナは返事した、「そのこと、まだお聞きになりません? いきなり飛びこんできて十分間ばかりのうちにメチャメチャにしてしまいましたのよ。わたし、すっかり荒らされてがっかりしましたから、全部片づけさせました。この次はもっと凝った庭にしようと思ってますの」
「そんなのをね」とあとになって男爵夫人がいった、「わたし、臨機即応の才といってますのよ」
ヒヤシンス
[#地から2字上げ]Hyacinth
「選挙運動に候補者の子供たちを使うのがこのごろ流行だけど、あれもいいもんだわね」とミセス・パンストレポンがいった、「党派意識の睨み合いもいくらかやわらぐし、子供たちにもその経験があとでいい思い出になるわ。でもマティルダ、わたしのいうことをきいて選挙の当日、ヒヤシンスをラフブリッジへ連れ出すのはやめてよ」
「連れ出しちゃいけないですって!」とヒヤシンスの母親は大きな声をした、「なぜいけないの? ジャタリの方では子供三人つれてくるんですよ。そしてヌビヤから来たロバ二頭に車を引かせて町中乗りまわすんですって。父親が植民大臣になったのをひけらかすつもりよ。こっちは海軍拡張の要求が目玉政策ですもの、ヒヤシンスに水兵服を着せて連れ出したらピッタリだわ。すてきに可愛く見えてよ」
「でも問題はどんなに見えるかじゃなくて、どんなことをするかなのよ。そりゃもちろんヒヤシンスはとてもいい子だけど、向こう見ずで喧嘩っぱやいところがあって、ときどきとんでもない大爆発をやるのよ。そら、あのギャフィン家の子供たちとの事件ね、あんたは忘れたかも知れないけど、わたし忘れないわ」
「わたし、そのときインドへ行ってたんで詳しいこと覚えてませんけど、何かいけないことしたのね」
「ヤギに引かせた車で乗り出したら、ギャフィンの子供たちが乳母車で来るのに出合ったのよ。そしたらヤギをフル・スピードで乳母車にぶっつけてひっくり返しちまってね、ジャッキー・ギャフィンはこわれた乳母車の下敷きになるし、付きそいの乳母が一所懸命ヤギを抑えてると、ヒヤシンスは外したベルトでジャッキーの足を力いっぱいひっぱたいたのよ」
「ヒヤシンスの肩をもつわけじゃないけど、きっと向こうも何かヒヤシンスが怒るようなことしたんだわ」とマティルダがいった。
「それが向こうは何もしてないのよ。ただ、まずいことに、あそこの家は半分フランス人の血を引いてるって誰かに聞かされたのね。そら、あの子供たちの母親はもとデュボーって名だったでしょう? ――その上、その日のお昼前の歴史の時間にカレー市がとうとうフランスにぶん取られたところを習って、カンカンに憤慨してたのよ。わが国の町をぶん取りやがったらどんな目にあうか奴らに教えてやるんだ、といってはいたけど、その奴らというのがギャフィン家の子供とはそのとき気がつかなかったの。あとでヒヤシンスに教えてやったわ、イギリスとフランスはとうの昔に仲直りしたんだし、ギャフィン家の人だってフランス人の血は半分しか引いてないんだよってね。そしたら、ぼくがひっぱたいたのはフランス人の血が入ってるその半分の方だけだ、っていうのよ。カレー市を取られたんであんなに怒り出すんですもの、万一今度の選挙に負けでもしたら、どんなことするかと思うとゾーッとするわ」
「でもそれはあの子が八歳のときのことよ。もう大きくなったからよくわかってるわ」
「ヒヤシンスみたいな性分の子はね、大きくなってもよくわかりゃしなくてよ、ただ知識がふえるだけ」
「そんなことありゃしませんよ。投票日に連れて行ったら大よろこびでしょうし、どのみち、結果が発表になるころはくたびれ切ってますわ。それに今度仕立てさせた水兵服ね、ちょうどいい色合いのブルーでうちの人の選挙カラーにピッタリだし、あの子、目も青いことだからよく調和するわ。きっと投票日にとてもすてきな色彩を加えることになってよ」
「美意識だけ考えて道徳意識を忘れる、なんてこともあるわよ」とミセス・パンストレポンはいった。「きっとあなたは南海泡沫会社事件(十八世紀はじめイギリスに設立された南海会社が放漫な経営で破産した事件)でもアルビ派信徒迫害事件(アルビ派は十二、十三世紀に南フランスに起こった反ローマ教会の宗教団体)でも、色の配合さえよければ見のがす気なのね。だけど万一ラフブリッジで何か困ったことが起きても、うちの者だれひとり予想もしなかった、なんていわせませんよ」
選挙は激烈に、しかし立派に行なわれた。近ごろ植民大臣になりたての候補者ジャタリは個人としては人気があったが、所属する与党が断然不人気で、この前の選挙のときは四百票も相手に勝ったが、今度はそれが全部けし飛ぶだろうという予想もあった。対立する候補はどちらも有望だが、自信はどちらも持てなかった。選挙の当日、双方とも候補者の子供まで動員したのは成功だった。ジャタリ候補の子供たちはずんぐりしたロバの引く車に乗り、もったいぶった顔をして本通りを行ったり来たりした。父親の政見を書いたポスターを出している。自分たちの父親だから支持するという、ごく普通な立場である。一方、ヒヤシンスの行動は天使がうっかり選挙さわぎの現場へ迷いこんだかと思われるほど模範的だった。彼はみずから進んでジャタリ候補の子供たちに近より、カメラマン五、六人がこれはと喜んで見ている前でバタスコッチを一箱進呈した。「選挙カラーはちがってもぼくら仇同士じゃないからね」と彼はいった。なれなれしくニッコリいったからジャタリ候補の子供たちは丁寧に礼をいってプレゼントを受け取った。両陣営のおとなたちはそれを見ると感心してニコニコした。例外はミセス・パンストレポンだけである。彼女はブルブル身ぶるいした。
「クリテムネストラのキスの、われを殺せし夜より甘かりしことなし」と彼女は詩句を引用した。ただし、心の中で引用したのである。(ギリシャ神話の中で、アガメムノン王は不貞の妻クリテムネストラに計られて殺された。この句はアガメムノンの霊の言葉)
投票締切りまであと一時間となると、両陣営とも必死にかけまわって運動した。差はわずか十票あまりというのが一般の観測で、最後まで腹のきまらぬ有権者を何とか狩り出そうとあらゆる努力をしたわけである。だから投票締切りの時刻を告げる時計があちこちで鳴ると、誰もかれもホッとして気がゆるんだ。疲れ切った運動員たちは歓呼の声をあげて、酒びんの栓をポンポンぬいた。
「さあ、これで負けても全力はつくしたぞ」
「恨みつらみなしの公明正大な選挙だったなあ」
「それに子供たちを使ったのがすてきだったじゃないか」
子供たち、といわれて一同ふと思い出した――この一時間、誰ひとりあの子供たちを見かけていないのだ。ロバの引く車に乗っていたジャタリ候補の三人の子供はどうしたんだろう? そういえばヒヤシンスも姿が見えない。心配になって両陣営の本部や方々の事務所へ大急ぎで使いを出したが、子供たちがどこにいるのか、どこへ行ってもまったくわからない。いよいよ締切りまぢかになって誰もかれも忙しさに子供のことなどすっかり忘れていたのだ。そのうちユニオン党女性委員会室へ電話がかかって、ヒヤシンスの声で開票結果が発表になる時刻を問い合わせてきた。
「おまえ、今どこにいるの? ジャタリ候補のお子さんたちはどこ?」とヒヤシンスの母親がたずねた。
「いまパン屋の店でおやつを食べたところなの」と返事があった、「そこで電話を借りたんだよ。ぼく、ゆで卵ひとつと、ソーセージ入りのロールパンと、メレンゲをふたつ食べちゃった」
「食べすぎますよ、そんなに食べては。ジャタリのお子さんも一緒?」
「一緒じゃないや。ブタ小屋にいるよ」
「ブタ小屋? どうして? どこのブタ小屋なの?」
「クローレーへ行く道のそばだよ。裏道をやってくるのに行きあったから一緒におやつを食べようと誘ってやった。ロバは知ってるうちの中庭へ入れたよ。それからみんな連れて子ブタが十匹いる雌ブタを見に行ったの。そしてパンをちぎってはやりちぎってはやり、雌ブタだけ外のブタ小屋へさそい出して、そのあとジャタリの子供らが子ブタを見に中へ入ったよ。入ったところを戸をしめて外から|桟《さん》を下ろしておいてきちゃった」
「まあ、いけない子! すると何かい、ブタ小屋の中へあの子供たちだけおいてきたの?」
「子供たちだけじゃないよ。子ブタが十匹、一緒だからかなり窮屈だね。奴ら、中へ締めこまれて怒ったけど、子ブタのところから締め出しをくった雌ブタほどじゃないね。もし奴らがいるところへ雌ブタが入ったらズタズタに咬み殺しちまうよ。ぼく、上の窓から小梯子を下ろせば出してやれるんだ。勝ったら助けてやるよ。もしあのくそ親爺が当選しやがったらすぐ戸をあけて雌ブタを入れて、どうでも勝手にさせるんだ。だから結果の発表は何時だか聞いてるんだよ」
そこで電話が切れた。切られた方は大騒ぎで、使いを大勢どっと方々へさし向けた。両陣営とも運動員はみな方々のクラブやパブに姿をかくして開票結果の発表を待っていたが、方々聞いてまわってヒヤシンスがえらい事をやらかした現場だけは突きとめた。クローレー街道から細い道を少し入ったところにミスター・ジョン・ボールが牧畜をしている場所があって、そこの雌ブタが子ブタを十頭生んだことが判明した。そこだとばかり候補者両名、ヒヤシンスの母親と伯母(これがミセス・パンストレポンだ)、それに急いで狩り出した知り合い二、三人がまっしぐらにかけつけた。中庭へ入ってじっと見わたすと、例のヌビヤ産のロバが二頭、いい気持そうに乾草の束を食べていたのがこっちを向いた。怒り狂って猛烈に唸り立てるブタの声と、かん高い十三種類の若い声(そのうち三種は人間の声だ)がするので、問題のブタ小屋はすぐわかったが、ブタ小屋の外庭にヨークシャ種の大きな雌ブタが一頭、締め切った戸口の前を行ったり来たり、怒り狂って絶えずパトロールしている。あけてある窓のひろい|下《した》|枠《わく》にヒヤシンスが寝そべっていた。手を下ろせばすぐ|桟《さん》の外せる戦略的要衝である。着ているブルーの水兵服は少し汚れて、例の天使のような笑顔は凄い決意の表情に変わっていた。
「誰でもあとひと足こっちへ来たらすぐ雌ブタを中へ入れるよ」とヒヤシンスは大声でどなった。
救助隊の一行は出鼻をくじかれた。おどかしたり、さとしたり、たのんだり、一同大声を出していって聞かせたが、ヒヤシンスがてんで受けつけないこと、小屋の中の嵐のようなキャーキャー騒ぎとまったく同じである。
「ジャタリが勝ったら雌ブタを中へ入れるよ。がきどもに教えてやるんだ、ぼくらを負かしたらどんな目に合うか」
「あれ、本気でいってるのよ」とミセス・パンストレポンがいった、「あのバタスコッチの一件を見て、わたし、こりゃ大変な事になると思ったわ」
「坊や、もういいんだ。坊やのお父さんが絶対多数で勝ったんだよ」とジャタリがいった。植民大臣も時によればうそもつかなければならない。
「うそつき!」とヒヤシンスがズバリといい返した。政治屋の社会ではこんな露骨な言葉が通るだけでなく使うのが任務でもある。「結果はまだわからないんだ。わかってからでもだまされるもんか。友達にたのんで発表になったら鉄砲を撃つことになってる。勝てば二発、負けたら一発撃つんだ」
事態はいよいよ急迫した。「雌ブタに毒をもれ」とヒヤシンスの父親が小声でいった。
誰かひとり手近の薬局へ車を飛ばして、まもなく催眠剤をたっぷり盛りこんだ、パンの大切れをふたつ持ってきた。それを上手に何気なく、ブタのいるところへ投げこんだが、ヒヤシンスはちゃんと手の内を見て取って、子ブタが地獄に落ちたような悲鳴をあげたから、雌ブタはいよいよたけり狂ってブタ小屋のまわりをかけ廻る。パンはたちまち踏みにじられてグショグショになってしまった。
もう今にも結果が発表になるかも知れない。ジャタリは町役場へかけつけた。まだ開票はすんでいない。ジャタリの選挙幹事がニッコリして有望らしい顔を見せた。
「現在十一票勝っています。残りは八十票ぐらいですから、うまくすべりこみそうですぜ」
「すべりこんだら困るんだ」とジャタリがつぶれた声で叫んだ、「ぼくに入れた票で何とか文句がつけられるのがあったら、片っぱしから無効にしてしまえ。勝ちでもしたら大変なんだ」
かくて前代未聞の光景が展開した。選挙幹事が味方の候補に入った票のあら捜しをはじめた。相手側でさえ二の足をふみそうに細かく文句をつけたのである。一、二票、いつもならちゃんと有効票で通るのが無効にされたが、それでも開票の残りがあとわずか三十票となってもジャタリが六票リードしていた。
ブタ小屋の警戒に当っている連中は一瞬一瞬、いても立ってもいられない。最後の手段として誰かを鉄砲を取りにやった。鉄砲などをその場へもちこんだらすぐヒヤシンスが桟を外すかも知れないが、とにかく雌ブタを撃とうというわけだ。ところが何しろ投票日の晩だからたいがいの男はうちにはいない。使いの者はかなり遠くまで行ったらしい。もう二分か三分で発表になりそうになった。
やがて町役場の方角からドッと歓呼の声がした。ヒヤシンスの父親は熊手をつかんで今にもブタ小屋へ飛びこもうと身構えた。果たして間に合うかどうか、見こみははなはだ覚つかない。
銃声が一発、夕空にとどろいた。ヒヤシンスは下を向いて桟に手をかけた。雌ブタは凄い勢いで外からブタ小屋の戸を押している。
「ズドン!」とまた一発ひびきわたった。
ヒヤシンスはモゾモゾふり向くと、窓から小梯子を中へ下ろした。
「そら上がってこい、このけがらわしいがきめら!」と彼は大声でどなった、「ぼくのパパの勝ちだぞ。きさまらの親爺じゃないんだ。早く上がれ、そう雌ブタを待たせちゃおけやしない。これからは選挙のとき絶対顔など出すんじゃないぞ、ぼくが付いてるんだから」
子供たちを救い出して一同ホッと安心すると、今まで争っていた候補者ふたりと、それぞれの妻君たちと、選挙幹事や運動員どもと、一同猛烈な言い合いをはじめて、結局、投票の再調査をすることになった。しかし植民大臣ジャタリ当選の事実は動かなかった。全体としてこの選挙はあとまでいやな気持が尾を引いた。ヒヤシンス自身が経験した分は別としての話である。
「もう絶対あの子を選挙には出しませんわ」とヒヤシンスの母が叫んだ。
「それ、少し極端じゃない?」とミセス・パンストレポンはいった、「もしメキシコに総選挙があったら出してやっても心配ないわ。イギリスの政界が天使みたいな子の無鉄砲に向いてるかどうか、それは疑問だけどね」
戦争終結の日まで
[#地から2字上げ]For the Duration of the War
俗人から見るとどうでもいいことだが牧師職にもときたま異動がある。牧師ウィルフリド・ギャスピルトンもその異動のため、まずまず上流人士の多いロンドン市ケンジングトンの聖ルカ教会から、ヨンダー|州《シャ》のどこだか途方もなく辺鄙な聖チャドック村の教会へ変わって来たのだった。おそらくその異動にはかなり有利な点もいろいろあっただろうが、ハッキリ不利なところもいろいろあったのは確実だ。第一、移動性のあるウィルフリド牧師にしろ牧師夫人にしろ、田園生活のさまざまな条件に自然と気楽に順応して行けなかった。牧師夫人ベリルはいつも、田舎というのは、収入は申し分なしで人をもてなす本能がよく発達した人たちがバラ園だの芝生のテニスコートだの|十七世紀初期《ジャコビーアン》風の遊歩道だの立派にこしらえておき、週末になると趣味の同じえりぬきのお客を大勢呼んで楽しくあそぶところ、とばかり思っていた。まるで子供にあまい親みたいな気持だ。一方、自分自身は紛れもなくひとかどの興味ある人物だと心得ている。ある意味ではおそらくその通りだったろう。目は黒ずんでものうげで顎がたっぷりしているところは、ほどよく|間《ま》をおいて声に出すわびしげな抑揚とちぐはぐだ。ささやかな暮らしながらも一応それに満足してはいるが、自分がこれだけの人物なのに運命がも少しゆたかな暮らしをあてがってくれなかったのが残念でならない。できれば文学趣味の、少しは政治にも関心のあるサークルの中心になって、教養の高い取巻き連中にかこまれたい。そうすれば人生に対する視野のひろさも紛れもなく小さな自分の足も、きっとみとめられたはずだと思う。ところがそうした願いにもかかわらず、運命は自分を牧師の妻ときめたばかりか、今度は田舎の牧師館を背景にして暮らせと命じたのである。ベリルはさっそく、この村の環境は探索の要なし、ときめこんだ。つまり、ノアは大洪水を予言したがその水の中を泳ぎまわるとは誰も期待しない――そんなものなのだ。ジメジメした菜園をほじくったり泥んこの小道をテクテク歩いたり、そんなことは最初からする気がない。アスパラガスとカーネーションがときたまほどよく取れさえすれば、菜園の経費も辛抱してあとは存在を無視して平気だった。いってみれば彼女は自分ひとりの狭い優雅な世界にのんびり引きこもっていたいのである。医者の奥さん相手に上品な皮肉を聞かせたり、ゆっくり構えて執筆中の唯一の著述をつづけたり、そんなことを楽しみにしていたのだ。著述というのは『禁じられたウマ洗い池』、これはバティスト・ルポイの『ラブルヴォアル・アンテルディ』の翻訳だ。かなり前からかかっていてまだ完成しない。だから一時は有名だったこの小説も英訳ができないうちはやらなくなるかもしれない。しかし、この翻訳にだらだら従事して来たおかげでミセス・ギャスピルトンには一種の文筆家的貫禄がついた。ロンドン市ケンジングゲートの社交界でもそうだったから、聖チャドック村なら村一番の著作家になりそうだ。何しろフランス語が読める者はほとんどいないし、『ラブルヴォアル・アンテルディ』の名前だけでも知っている者は絶対にいない土地である。
牧師夫人は世間に背をむけても平気でいられたろうが、ウィルフリド牧師の方は世間から背中をむけられて悲劇になった。胸にはありあまる善意をいだき頭にギルバート・ホワイト(イギリス十九世紀の牧師・博物学者。「セルボーンの博物誌」で有名)不朽の模範をおきながら、彼はこの村の新しい環境がどうにも退屈で落ち着けない。まるでチャールズ二世(十七世紀のイギリス国王。遊惰な一生で有名)が現代のメソジスト派会議へ出たような格好である。庭の芝生をピョンピョンはねて行く小鳥どもさえわがもの顔に通って行く。それを見ていると、小鳥どもには自分など庭のミミズや牧師館のネコより遙かに興味のもてない存在なんだ、とよくわかった。生垣の根元や草地に咲く野の花を見てもやはりつまらなかった。中でもキンポウゲは多くのイギリス詩人にうたいはやされた花だが、なぜまたあんなにさわぎ立てたんだろうとさえ思う。もし自分ひとりで二十五分キンポウゲを相手にしていたら、それこそやりきれないだろうと思った。教区の住民、つまり人間とのあいだもやはりうまく行かない。村びとと知り合いになるのはつまり村びとの病気と知り合いになることで、しかもその病気がほとんど必ずリューマチなのだ。むろんリューマチ以外の病気もあるにはあるが、何の病気にしろちゃんとリューマチもしょいこんでいる。田舎の農村に住んでリューマチをやらないのは、上流社会で宮廷の拝謁式に出たことがないのと同じく、とんでもない手ぬかりなのだが、牧師にはまだそれがわかっていなかった。こんな具合で村の暮らしに何の興味ももてない上に、妻のベルリはひとりこもってばかげた『禁じられたウマ洗い池』に没頭しているのだった。
「どうしてだろうな、バティスト・ルポイを英語で読みたがる奴があると思いこむとは」とある朝ウィルフリド牧師は妻に向かっていった。いつもの通り妻が辞書だの万年筆だの原稿用紙だの、いろいろ気取って散らかした中に陣取っているからだ。「フランスじゃルポイなんぞもう誰も読みやしないぞ」
「でもねえ」とベリルがいった。またか、という口調がどこかにある。「ロンドン一流の出版社あちこちからいわれたんですよ、どうして誰も『ラブルヴォアル・アンテルディ』を翻訳しないんでしょうねって。そしてぜひわたしに――」
「出版屋というのはな、いつでも誰も書かない本を書け書けとさわぐ。そのくせ誰かが書くとそっぽを向くものなんだ。もし聖パウロがいま生きていたらきっと『エスキモー|人《びと》におくる|書《ふみ》』を書いてくれとせがみ立てるぜ。そのくせ『エペソ|人《びと》におくれる|書《ふみ》』(新約聖書中の一巻)なんぞ夢にも読みやしない」
「アスパラガスあったかしら、庭のどこかに?」とベリルがきいた、「わたし、さっきコックにいいつけて――」
「庭のどこにもありゃしないぞ」と牧師がどなりつけた、「アスパラガスの苗床ならたぶんあるだろう、きまった場所だから」
そういうと牧師は果樹や菜園のある方へノッシノッシと歩いて行った。イライラするより退屈する方がましだというわけである。その場所、つまりグースベリの茂みの中のマルメロの木の下だった、ひとつ大がかりな偽作をでっち上げてやろう、という誘惑が彼におとずれたのは。
その何週間かあと、雑誌『隔週評論』に牧師ウィルフリド・ギャスピルトン氏の保証づきで古代ペルシャの詩の断片が発表された。現在チグリス河流域のどこかに従軍中の牧師の甥が発掘して翻訳したものという。ウィルフリド牧師には甥がワンサとあるから、その中の一人や二人メソポタミヤあたりに出征していても不思議はない。ただし、古代ペルシャ語を知っていそうな甥があるとは誰も知らなかった。詩の作者はグーラブなる人物とされている。グーラブの職業は|狩《かり》|人《うど》、一説によれば宮廷内|生《い》け|簀《す》管理官で、何世紀のころか明らかでないがとにかくカーマンシャ付近に住んでいた。その詩には成り行きまかせの穏やかな諷刺と哲学が息づき、嘲笑的なところもあるが痛烈というほどでもなく、生の喜びもうたっているが熱情あまって面倒を起こすにはいたらない。
[#ここから2字下げ]
「ネズミありき、助けを乞いてアラーの神に祈りぬ。
その祈り叶わざりしかばアラーの神を呪いぬ。
ネコありて、そのネズミうましと食いて思いけり、
み恵みは大いなるかな、ああ、アラーの神よ!
助けを乞いて祈るなかれ、アラーの神に。
|永遠《とわ》にかわらぬ|掟《おきて》こそ、アラーの神の定めなれ。
窮すとも忘るるなかれ、アラーの恵み――
速き足、ぬけ目なき知恵、鋭き|鉤《かぎ》|爪《づめ》。
みちたりて生くるをほむる人もあれど、
みちたれる生は危うし、あすをも知れず。
みちたりて汚き|溝《どぶ》に生きしカエルも
腹立てて不平ならべぬ、|溝《どぶ》|水《みず》の|乾《ひ》上りしとき。
『|汝《なれ》は地獄に向かいつつあるに非ず』と
われをはげます狂信の友多かれど、
よしわれ向かわずとも何のなぐさめあらむや、
地獄もしわれに向かいて来つつありせば。
歌びとありて夕べの空の明星をたたえぬ。
また一人はオウムの羽根の色香をたたえぬ。
|商《あき》|人《びと》ありて|己《おの》があきなう品々をたたえぬ。
|己《おの》がよく知るものたたえしは|商《あき》|人《びと》のみぞ」
[#ここで字下げ終わり]
これらの詩作に手がかりを得て批評家や注釈家たちは詩の製作年代を推定した。またペルシャ南西部の都市シラズの詩人ハフィズの時代に、美の典型としてオウムがひどく流行した事実も発見した。有名なオマー・カイヤム(古代ペルシャの詩人)の|四行詩《ルバイヤット》にはオウムが全然うたわれていないのである。
つぎの詩はまた、製作された時代および地域に限らず、現代の政界にもそっくり当てはまる、という指摘もあった。
[#ここから2字下げ]
「王ありて日もすがら平和を夢見ぬ。
敵ありて日もすがら兵をふやしぬ。
敵来り王者の夢を眠りと変えぬ。
眠りこそ王の知らざる平和なりける」
[#ここで字下げ終わり]
この|狩《かり》|人《うど》詩人の詩作に女性はほとんど現われずワインはまったく出てこないが、一篇だけ東方の恋愛哲学をうたったものがあった。それはこれだ。
[#ここから2字下げ]
「いとしきものよ、君が|面《おも》|輪《わ》は月、君が目は星、
なごやけき君が頬は|麝香《マスク》よりもかぐわし。
人はいう、君が姿もやがて|褪《あ》せむと。さもあらばあれ、
|薔《そう》|薇《び》すら色褪すものぞ、日の暮れゆけば」
[#ここで字下げ終わり]
最後に、死を避くべからざる運命とみとめて、これらの詩の楽天的な人生観に一抹の悲痛な影を落とす一作もあった。
[#ここから2字下げ]
|「|暁《あかつき》は日ごと来りて悲しみを日ごともたらせど、
その悲しみ読み|解《と》き得るはみな人ならず。
よろこびの昼ただちにつづき来りて
|祝宴《うたげ》と美女と逞しきウマをもたらせば。
いや果ての暁ぞ遂に来らむ、その暁は
命あるものを|汝《なれ》にもたらす暁ならず。
寒く、いと長く、昼を伴わざる暁なれど、
その日はじめて、|汝《なれ》、その悲しみを読み解くを得む」
[#ここで字下げ終わり]
グーラブの詩が発表されたのは、投げやりな態度で少し人を小ばかにしたような人生観が受けそうな時代だった。だからグーラブの詩は熱狂的に歓迎された。年配の大佐どの若干名、いずれもすでに老境に入って真実に対する愛を忘れた連中が各新聞に書翰を送って、われわれは四分の一世紀のむかし、アフガニスタン、アーデン、その他しかるべき各地においてグーラブの詩に親しんでいた、と報告をよせた。「カーマンシャのグーラブ・クラブ」なるものがにわかに出現して、ややもすると会員同士たがいに「同胞グーラビアン」と呼び合った。この長く忘却されていた詩人グーラブの発見者、いや発表者ウィルフリド牧師のところへは、当然、質問やら批評やら問い合わせやら山ほど舞いこんだが、牧師はすべて同文の返事でピタリと拒絶した――「拙者儀、甥ノ動静ニ関スル情報ノ公開ハ、軍事上ノ機密ニワタルヲオモンパカリ、一切コレヲオ断リ申シ上ゲ候」
やがて戦争が終結したらウィルフリド牧師がどんな苦しい立場になるか、それは今のところ見当がつかない。しかし、さし当りのところ、とにかく彼は『禁じられたウマ洗い池』を土俵の外へ追い払ってしまった。
3
四角な卵――アナグマの見た塹壕戦の泥
[#地から2字上げ]The Square Egg
敵も味方も塹壕にひそんで対峙している塹壕戦で、人はもっともどんな動物に似ているかといえば、それは断然アナグマである。あのトビ色の毛皮を着て薄闇と暗黒に住んでいる奴だ。土をほじくったり穴にもぐったり耳を澄ましたり、都合のわるい状態の中でできるだけ身ぎれいにしようと努力し、ときにはハチの巣のように穴だらけの土地二、三ヤードを争って必死に戦ったりしている。
そのアナグマが世の中をどう思っているか知るよしもないのは残念だが、それは止むを得ない。第一、ぼくら自身も自分が塹壕の中で何を考えているか、なかなかわからないのだ。議会だの、税金だの、懇親会だの、世間の景気だの、必要経費だの、そんな文明世界のさまざまな恐ろしいものが途方もなく遠い遠いものに思える。この戦争までがやはり遠い遠いものになって現実とは思えないのだ。二百ヤード向こうには、見わたす限り雑然とした物すごい大地と錆びた鉄条網の切れ端の彼方に敵がゆだんなく目を光らせて、いざといえば弾丸を雨と降らせてくる。あの塹壕にはどんなに鈍感な奴の血でも湧かせる仇敵がひそんで絶えず見張っているのだ。モルトケ、ブリューヘル、フレデリック大王、ブランデンブルグの選挙侯フレデリック・ウィリアム、ウォレンスタイン、サクソニーの選挙侯モーリス、バルバロッサ、クマといわれたブランデンブルグのアルバート侯爵、ライオンといわれたババリヤ及びサクソニーのヘンリー侯爵、サクソン人のウィテキンド将軍――そんな連中に従って戦った勇士どもの子孫なのだ。それが向こうの塹壕に陣取って、一対一、銃対銃、の構えでこっちをねらい、近代史に前例のない一大戦闘になっている。それなのにその敵のことはほとんど頭にない。ほんの一瞬でも敵のことを忘れたら大変なのだが、敵のことがどうにも頭にないのだ。奴らは熱いスープを飲んでソーセージを食べているだろうか、それとも腹をすかして寒がっているだろうか、メゲンドルフェ新聞など軽い読み物をたっぷり当てがわれているだろうか、それとも退屈し切って参っているだろうか、そんなことさえほとんど考えない。
前面の敵軍よりも、全ヨーロッパにわたる戦争よりも、はるかに考えなくてはならないのは目の前の泥なのだ。チーズがチーズ・ダニを呑みこむように、どうかすると全身を呑みこむ泥なのだ。動物園へ行くと、オオシカやヤギュウがべたつく泥んこに膝の上までつかって気ままにうろついている。それを見ると、あの泥んこにひたり泥まみれになって一時間も立っているのはどんな気持だろう、と思ったものだが、その気持が今よくわかる。幅のせまい補助壕の中で、凍てついたあと突然に暖気と大雨にやられたとき、どこもかしこも真っ暗な中を泥の流れる壁をたよりに手さぐりで歩くとき、深さ五、六インチもあるスープのような泥の中をよつん這いに這って待避壕へ逃げこむとき、泥の中に立って泥の壁によりかかり、泥の固まりついた指で泥のベタリとする物をつかみ、目ばたきして目の泥をはね飛ばし首を振って耳の泥をゆすり出し、泥だらけの歯で泥だらけのビスケットを咬んだりすれば、そのとき初めて、泥の中をのたくるとはどんなものだかわかってくる――その反面、ヤギュウはどんな状態をいい気持と思うのか、それはいよいよわからなくなる。
泥のことが頭にないときはたいがいエスタミネのことを考えている。エスタミネこそはやすらぎの場所だ。ありがたいことに近くの町や村にこれがたくさんあって、屋根のけし飛んだ空き家に取りあえず応急処置を加えたところでひっそり繁昌している。住民は大部分いなくなっても代りに兵隊どもがやってきたから、新顔の客で金もうけができるのだ。エスタミネというのは居酒屋とコーヒー・ショップの合の子みたいなもので、一方の隅に小さなカウンターがあり、長細いテーブルとベンチが二、三脚、目立つところに炊事用ストーブがひとつ、たいがい裏が小さな食料品屋になっている。そしていつ行っても子供が二、三人かけまわっていて、困る角度でひとの足にぶつかったりする。エスタミネの子供は、かけまわれる程度に大きくて股の間へ入れる程度に小さい、というのが定則らしい。余談になるが、戦地に子供として生きているのもなかなか都合のいいことがひとつはある。キチンとしていなさい、なんて誰からもいわれないことだ。「何にでも置き場がある、すべてキチンとしておけ」という小うるさい諺があるが、ここでは誰もそんなことをいっていられない。何しろ、屋根は大部分が吹っとんで裏庭へ落ちているし、隣の寝室がぶちこわされて寝台が砂糖ダイコンの山に埋まりかけてるし、鶏小屋は四方も正面もなくなってニワトリどもが置き去りにされた肉入れ戸棚にねぐらを作っている始末だ。
エスタミネはたいがい砲撃で荒廃した村の通りの砲撃で荒廃した家にある。これだけ詳しく説明しても、それが夢にまで見るパラダイスとはとても思えまい。しかし、どこもかしこも泥と水びたしの砂嚢ばかりの濡れた荒野にたとえ一時間でも住んでいると、熱いコーヒーがあり安物の赤ブドウ酒がある何の飾りもない酒場が、泥水だらけの世界における暖かな気持のいい場所として忘れられなくなる。塹壕と宿舎の間を行き来する兵隊に取って、エスタミネは東洋の遊牧民の隊商に取っての酒場兼休泊所に似ている。入るにしろ出るにしろ、偶然集まった人ごみの中だから、人目につくも人目を避けるも思いのままで、誰も彼も自分と同じカーキ色の軍服に巻ゲートルという身仕度だから、まるでキャベツの葉にとまった青虫同様、まったく人目につかずにいられる。ひとりきりでなり友達二、三人となり、誰に邪魔もされずにかけていられるし、人に話しかけたいとか話しかけられたい気持のときは、すぐ大勢の仲間へも入れる。さまざまな帽章をつけた連中が、本当のことやら即席のでたらめやら、経験談をしたり聞いたりしているのだ。
絶えず入れ代る泥んこの軍服のほか、変わり種も少しは流れこむ。土地の民間人もあれば制服姿の通訳もあり、色さまざまな軍服の外国人兵士もある。外国人兵士には正規軍の兵卒から、中ぶらりんのナントカ部隊の、その道の専門家でなければ何というのかわからない連中まで、いろいろある。それにもちろん、この戦場まで乗りこんでくる不敵な詐欺師の大軍の代表者もいる。地球表面のたいがいの場所に平時だろうが戦時だろうが出没して絶えず作戦をつづける連中だ。イギリスにもいればフランスにもいるし、ロシヤにもコンスタンチノープルにもいる。きっとアイスランドにもいるだろう。ただし、直接の証拠はない。
ぼくが「運のいいウサギ」という名のエスタミネに入ってかけていると、年の頃もハッキリせず何と呼びようもない軍服の男が隣にかけていた。マッチ一本借りさえすれば、それが正式の紹介状と銀行の保証書になるときめこんでいる奴だ。気軽な構えにどこか疲れたところがあり、ぬけ目なく愛想をふりまくが見かけは餌をあさるカラスのようだ。用心深いのは経験のせいだし、ずうずうしいのはせっぱつまっているためだろう。鼻も口ひげも何か思う事でもあるようにグッタリ垂れ下がって、ときどきチラリと横目を使う――これが全世界あらゆる土地における詐欺師の標準的スタイルだが、この男はそれを全部そなえていた。
「ぼくはね、戦争犠牲者なんですよ」と、ひと言ふた言、前おきがすむとその男は大きな声を出した。
「卵を割らなけりゃオムレツはできない、って諺にあるからね」ぼくは答えた。何十平方マイルにわたって見わたす限り荒廃した土地と屋根のない家屋ばかり見てきた男らしく、ほどよく無神経な返事をしたのだ。
「卵!」とその男は叫んだ、「今ちょうどその卵のことを話そうと思ってました。卵ってものは便利ですてきな物ですが、ただひとつ大きな欠点がある。それは何だか考えたことがありますか? あの普通の卵ですよ、売ったり買ったり料理に使ったりする」
「すぐ古くなる傾向があるのは困ることもありますな」と、ぼくはいってみた、「北米合衆国などは時がたつにつれ|品《ひん》も上がるし自信もつく。しかし卵はそう行きませんな。卵はいつまで頑張っていてもけしてよくなりませんよ。ちょうど君の国フランスのルイ十五世みたいだ。あの王さま、一年としを取るごとに人気が下がりましたね――とにかく歴史にはそう書いてある」
「いいや、としを取る問題じゃありませんぞ」と、このエスタミネの知り合いは真剣に答えた、「年齢じゃありません。形なんです。形の丸いのが問題なんです。すぐころがるじゃありませんか。テーブルに置こうが棚に置こうがカウンターの上だろうが、ちょいと押せばすぐころりと床へ落ちてこわれます。貧乏人や倹約家にはとんだ災難というものですよ」
ぼくはそう聞くと肩をすくめて共感の意を表明した。何しろこの土地では卵の値段が一個六スーもする。
「あれやこれやと頭の中でよく考えたことなんですよ」と相手は話をつづけた、「この卵の形を変えて経済的なものにする問題ですが、ぼくの村、ターン県のヴェルシェ・レ・トルトー村に叔母が小さな搾乳場と養鶏所をもってましてね、それでわずかながら収入が上がります。貧乏というんじゃありませんが、せっせと働いたり何とか工夫したり倹約したりしなきゃなりません。ある日、ふと気がつきましたが、叔母が飼っているメンドリの中に一羽、頭がムシャクシャのフーダン種の奴ですが、これがほかのメンドリの卵とちがって完全に丸いとはいえない卵を生むんです。四角ともいえませんが、とにかくハッキリ角張ってるんです。しらべてみるとそのメンドリはいつも必ずそんな形の卵を生むんですね。それに気がつくと名案が浮かびました。こんな風に少し角張った卵を生むメンドリを見つかり次第に全部買いこんでその卵から雛をかえらせ、なるべく四角に近い卵を生むメンドリをえらんで何代も交配を重ねて行けば最後には、どこまでも辛抱して頑張って行けばですね、四角な卵ばかり生む新種ができるわけです」
「五、六百年もかければそんなことになるかも知れませんな」と、ぼくはいった、「いや、五、六千年かかるかな」
「お国みたいな北国の、保守的で動きのにぶいメンドリならそうかも知れません」と、その男はいら立ってムッとしたらしくいった、「わが国の元気のいい南国的なニワトリは話がちがいます。まあ、きいて下さい。ぼくは方々捜しました。実験もしました。近所の養鶏場はくまなくめぐって、近くの町々の市場も方々あさって廻りました。そして角張った卵を生むメンドリは見つかり次第買い取りました。やがて同じ傾向のメンドリがしこたま集まりました。それから生まれたメンドリの中からなるべく丸くない卵を生む奴だけえらぶんです。辛抱に辛抱をかさねて続けましたところ、どうです、押そうが突こうが絶対ころがらない卵を生む新種ができましたよ。実験の結果は成功どころじゃありません。まさに近代産業におけるロマンスのひとつなんです」
なるほどそれにちがいない、とは思ったが、ぼくは口に出してそうはいわなかった。
「ぼくの卵は有名になりました」と、その養鶏家と自称する男はいった、「最初はこれは珍しい、これは変わっている、というので人が買いに来ましたが、そのうち主婦たちも商人どもも、これは便利な品だ、改良品だ、普通の卵より優秀だ、とわかり出しましてね。ぼくの卵は相場よりかなり高く売れるようになりました。金がもうかり出しました。何しろ一手専売なんです。むろん四角な卵を生むメンドリは絶対人には売りませんし、売りに出す卵は丁寧に殺菌しますから絶対かえることはありません。ぼくは金持になりかけました。大金持になりかけました。ところへ今度の戦争です。ぼくはメンドリを捨てお得意さまを捨てて前線へ出なけりゃなりません。商売は叔母がふだん通り続けて四角な卵を売っています。ぼくが工夫し創造し完成した卵を売ってもうけてるんです。ところが呆れるじゃありませんか、叔母はもうけた金をビタ一文もぼくによこしません。メンドリの世話をするのも餌代を払うのも市場へ卵を出してやるのも、みんな自分がしてるんだから、もうけた金は自分のものだ、というんです。もちろん法律からいえばその金はぼくのものですよ。訴訟を起こすだけの金がぼくにあれば、開戦このかた卵でもうけた金はそっくり取りもどせます。もちろん訴訟には少し金がかかりますが、知り合いの弁護士がいて安く引き受けてくれるというんです。ところがあいにくそれだけの金が手もとにない。あと八十フランばかり不足なんです。困ることに戦時中でしょう、金を借りるのが困難なんです」
人から金を借りるのは特に戦時中となると誰もやりたがるものだ。ぼくはふだんからそう思っていたからその通りいった。
「大金ならばその通りですな。しかしぼくが借りたいのはほんのはした金ですよ。ところが何百フランの大金なら造作なく借りられても、はした金を借りるとなると大変なんです」
養鶏家を自称する男はしばらく口をつぐんだ。緊張の数瞬間である。やがて今度はずっと打ち解けた口調でまたいい出した。
「イギリス軍の軍人には資産家もいるそうじゃありませんか? このはした金を一時立て替えて下さる方がお知り合いに誰かありませんかね――むろん、あなたでも結構ですよ――絶対確実の有利な投資で、すぐお返しするんですし……」
「二、三日休暇が取れたらヴェルシェ・レ・トルトー村へ出かけて、その四角な卵を生むニワトリの養鶏場を見てきましょう」と、ぼくはまじめ顔でいった、「土地の卵商人にもあたってその事業の現状と将来もきいてくるとしましょう」
エスタミネの知り合いは目につかないほど微かに肩をすくめて、かけ直すとムッツリ煙草を巻き出した。ぼくに対する関心が急になくなったらしい。しかし体裁上、せっかく骨折ってここまでこぎつけた話に何とか形をつけて切り上げなくてはならない。
「そう、ヴェルシェ・レ・トルトー村へ行って養鶏場を調べるんですね。それで、四角な卵の話が事実だとなったら、あんた、どうします?」
「結婚しますね、君の叔母さんと」
4
闇に撃った一発
[#地から2字上げ]A Shot in the Dark
フィリップ・スレザビーは列車のほとんど人のいない車室に腰をおろした。さあ、これからありがたい好都合なところへ参上するんだぞ、と思うといい気持だった。ブリル|邸《マナー》へ出かけるところなのだ。ブリル|邸《マナー》は最近ようやく知り合いになれたミセス・ソールトペン・ジェイゴーの田舎の本宅である。オノーリヤ・ソールトペン・ジェイゴーといえばロンドンの社交界でもひとかどの貫禄だし、チョークシャ州では貫禄も勢力もかなりのものだ。チョークシャ州も特に東部はスレザビーに直接の利害関係がある。現在その土地からは与党の議員が国会へ出ているが、その男には再出馬の意志がないから、後継者として党の幹部はスレザビーに目をつけた。目下真剣に考慮中というわけなのだ。絶対多数を見こめる票田ではないから、将来は大臣と見られる人物が立候補しても安心とはいえないが、与党の支部が強力だから運がよければ当選の見こみもある。それにはソールトペン・ジェイゴー家の勢力が無視できない。だからスレザビーは内輪だけの少人数の午餐会でオノーリヤと知り合って大いに喜んだ。今度の金曜から火曜にかけて田舎の本宅へ泊まりにいらっしゃい、と招待されてますます喜んだ。これなら確かに「考慮中の人物」にされているわけだぞ。もしオノーリヤの目がねにかなえば大丈夫候補者に指名されるだろう。もし目がねにかなわなければ――さあ、そのときは支部の顔役連中の熱意も卵のままで|孵《かえ》らずにだんだん冷えて行くだろう。
ホームにはあちこち乗客がそれぞれの列車を待っていた。その中にクラブの知り合いが一人いる。スレザビーは手招きしてその男を車窓へ呼んで世間話をはじめた。
「やあ君、週末でミセス・ソールトペン・ジェイゴーのところへ泊まりこみに行くのか? きっと楽しいだろうよ。もてなしがいいので評判の人だからな。それに力にもなってくれるだろう、もし議会の計画が――やあ動き出した。さよなら」
スレザビーは手をふって別れると窓をしめて、膝においた雑誌へ目を向けた。だが二、三ページものぞかないうち、小声でチキショウというのが聞こえてチラリと目を上げた。車室にはほかに一人しか乗っていない。二十二歳ぐらいの青年で髪が黒々として血色がいい。スマートな身仕度なのにあまり構わないところは例の「|ダンディ《ナッツ》」が田舎にあそびに出たという形だ。何か探している。なかなか出てこないのだか最初からないのだか、とにかく一所懸命探しているのに見つからないらしく、ときたまチョッキのポケットから六ペンス銅貨をみつけ出しては困った目つきで見つめたり、またもやむなしき探査を開始したりする。シガレット・ケース、マッチ箱、鍵、銀のペンシル・ケース、それに乗車券――それだけ横の座席へ並んだが、どれにも満足しないらしい。もう一度チキショウといった。今度は前よりも大声だ。
元気なパントマイムを見せたのだがスレザビーはひと言も口を開かず、また雑誌を読みはじめた。
「あのう!」やがて青年が大きな声をかけた、「ブリル|邸《マナー》のミセス・ソールトペン・ジェイゴーのところへ泊まりに行くといわれたようですね? 偶然ですな、こりゃ。ぼくのおふくろなんですよ。ぼくも月曜の晩には行きますからまたお目にかかります。ぼく、久しぶりに来たんですよ、少なくとも六カ月ぶりですね。この前おふくろがロンドンへ出て来たときは、ぼくヨットで出かけてたんです。ぼく、次男のバーティです。こんな困ったとき、おふくろをご存じの方にめぐり合うなんて、とても運がよくて助かりました。実はとんだまぬけをしてしまったんです」
「何かなくしでもしましたか?」とスレザビーがいった。
「なくしたんじゃありません。忘れて来たんですが、どっちにしても困りました。四ポンド入った財布を忘れて来ちまったんです。さし当りぼくの全財産ですがね。出かける前ちゃんとポケットにあったんですが、手紙を封蝋で封じようとしました。ぼくの財布にはうちの紋章がついてるんでヒョイと財布を出して手紙に封印して、そのままテーブルの上へおき忘れたにちがいありません、ばかみたいに。ポケットに銀貨が少しあることはありましたが、タクシー代を払って乗車券を買ったら残りはあとにも先にもこの六ペンス一枚きりです。ブロンドキーの近くの宿へ三日泊まって釣りをするんですがね、誰ひとり知り合いのない土地ですし、宿代とチップ、駅から往復の馬車賃、それにブリル|邸《マナー》までの乗車券――それだけでざっと二、三ポンドにはなるでしょう。どうでしょう、二ポンド十シリングか、なるべくなら三ポンド貸して頂けると実にありがたいんですが。それこそ大助かりですよ」
「さあ何とかなるでしょう」とスレザビーがいった。ちょいとためらってからいったのだ。
「ありがとう、ありがとう。大助かりです。おふくろのお知り合いに偶然出あうなんて、実に運がよかったな。これから気をつけますよ。大事な財布はそこらへ出しといたりしないで、ちゃんとポケットに入れることですね。つまり、何でも本来の使い道以外には使わない――それが大事なんですな。でも紙幣入れに紋章がついてたりすると――」
「ときにお宅の紋章は何ですか?」とスレザビーが何気なしにきいた。
「あまり珍しくもないんですが、前足で十字形十字を捧げた獅子の上半身です」
「お母さまから列車の時刻を知らせて頂いたとき、便箋の紋章は走る姿のグレーハウンドでしたが」とスレザビーはいった。声に心もち冷たいところがある。
「あれはジェイゴー家の紋章なんです」と即座に返事があった、「獅子の上半身の方はソールトペン家のです。どっちを使ってもいいんですがね、ぼくはいつも獅子の上半身の方を使ってます、結局はソールトペン家の系統ですから」
しばらく沈黙がつづいて、やがて青年は網棚から釣道具など手まわりの品を下した。
「ぼく、今度の駅で下ります」と青年がいいわたした。
「五、六回手紙をやり取りしただけでお母さまにお目にかかったことはまだありませんが」とスレザビーが不意に切り出した、「政治家仲間から紹介されましてね。お母さまは目鼻立ちがあなたに似ていらっしゃいますか? それを伺っておくと万一ホームへ出迎えて下すったときすぐわかりますんでね」
「ぼくに似ているといいますよ、髪の毛もやはり同じ濃い茶色で血色がよくてね。血統なんですな。さあ着いた。ここで下ります」
「さよなら」とスレザビーがいった。
「あなた、お忘れですよ、あの三ポンド」と青年はいうと、車室のドアをあけてトランクをホームへ下ろした。
「三ポンドにしろ三シリングにしろ、お貸しする気はありませんぞ」
「でもさっき――」
「貸すといいましたとも、さっきは。話をう呑みにしたわけじゃありませんが、怪しいぞとは思わなかったからですよ。伺った話はお手並みまことにあざやかですがね、紋章がくいちがうんで用心のためワナをかけたんです。ミセス・ソールトペン・ジェイゴーにお目にかかったことはない、といいましたが実はこのあいだの月曜にランチのときお会いしました。まぎれもないブロンドですな、お母さまは」
列車はどんどん動き出した。ソールトペン・ジェイゴー家の次男坊と名乗った男はホームに取り残されて猛烈にどなりちらした。
「奴め、釣に遠征して来て手はじめにヒラメ一匹釣りあげた、とは行かなかったな」とスレザビーはほくそ笑んだ。しめた、今夜の晩餐のテーブルで愉快な話を一席やれるぞ。上手にもちかけたワナの一件を話したら大喝采だろうし、おれは目も鋭いし機略縦横の人物だということになるだろう。お客一同みな感心して聞くだろうな――そんな場面を頭に描いているうち列車は目的の駅へ到着した。ホームへ下りると背の高い従僕がひとり物静かに出迎えた。そうぞうしく声をかけたのは勅選弁護士クロード・ピープルである。ピープルも同じ列車から下りたらしい。
「やあ、スレザビー! 君もブリル|邸《マナー》へ泊まるのか? そりゃよかった。あしたゴルフを一廻りしよう。ホイレークのかたきを取らせてやる。ここのコースはなかなかいいぜ、内陸としては。やあ、これだ。車が出迎えに来てたんだ。すばらしい車だな」
勅選弁護士ピープルがほめた車は見るからに豪勢な車で、気品にしろ乗り心地にしろ馬力にしろ最新型の最高級車らしい。形も輪郭も優雅で均斉が取れているが、それでいてホテルのラウンジと機関室と、両方の特長をすべて備えた途方もない車だ。
「ぼくらのおじいさんが乗った四輪馬車とは乗り物も変わったもんだな」とピープルは大声を出して驚嘆した。そして備品だの装置だの、おもな急所をひとつひとつスレザビーに説明しはじめた。
だがスレザビーはひと言も聞こえなかった。せっかくの説明も何ひとつ受けつけなかった。彼の目はドアのパネルに釘付けになっていたのである。パネルには紋章が二つついていた。走る姿のグレーハウンドと前足で十字形十字を捧げた獅子の上半身である。
ピープルは相手が黙りこんでいてもそれに気がつくタイプではない。つい今しがたまで列車の中で一時間半黙りこんでいたから、その埋め合わせに舌をしきりに動かしていた。車は田舎道を飛ばして行く。政界のゴシップやら誰かの逸話やら雑多な世間話やら、彼はのべつ幕なしにしゃべった。ダブリン市労働争議の内幕をしゃべり、アルバニヤの未就任皇太子の私生活をしゃべり、調子よくさかんにしゃべり続けて、サンドイッチ・ゴルフ場第九番ホールにおけるいわゆる「事故」なるものを詳説し、パースシヤ公爵夫人のお茶とタンゴの会における発言を逐語的に報告した。車がカーブしてブリル|邸《マナー》正門へ近づくころになってようやく、話を邸の当主ミセス・ソールトペン・ジェイゴーの人柄に切りかえると、はじめてスレザビーは相手の話に注意を向けた。
「実にすばらしい女性だね。判断は公正だし頭はきれるし、人に対しても主義主張に対しても、手を差しのべるべき時と手を引くべき時をちゃんと正確に心得ている。ただ少し動きすぎるのが欠点だ。それで損もしているな。全然落ち着きがないんだ。風采も立派なもんだったよ、あのばかげた模様替えをするまでは」
「模様替え?」とスレザビーが質問した、「何を替えた?」
「何を替えた、だって? まさか君――うん、なるほど、君はつい近ごろ知り合ったばかりだな。もとはね、髪の毛がきれいな濃い茶色で生き生きした顔色によく似合ったものさ。ところが五週間ばかり前だがある日突然、あざやかなブロンドの髪に染め替えて姿を見せたから誰も彼もビックリした。せっかくの器量も台なしさ。さあ、着いたぞ。おい君、どうかしたのか? 少し顔色がわるいぞ」
こよみ
[#地から2字上げ]The Almanack
「ねえ、こんなこと思ったことない?」とヴェラがクローヴィスにいった、「このへんの土地で使う|暦《こよみ》をこしらえて売り出したらお金が入っていい気持になれそうね。そら、世間じゃ暦が五十万冊も売れてるでしょう? あんな風に何か予言めいた文句でも入れるのよ」
「お金は入るかも知れないがいい気持の方はどうだかな」とクローヴィスがいった、「むかしから予言者は故郷じゃ不信に思われるときまってる。誰かの先行きなんぞ予言してからさ、その連中と鼻つき合わせて暮らすとしたら、暦の製造もあまり気持のいいもんじゃないだろう。かりにだね、ヨーロッパ各国の君主や帝王がそのうち悲劇的事件に遭遇する、なんて予言してさ、毎週一日おきに午餐会やらお茶の会でその連中と顔を合わせるとしたら、暦の製造業も気持よくはなかろうね。年の暮れになると特にそうだ、予言した悲劇が実現もしないで期間ぎれになったりしてさ」
「わたし、お正月の直前に売り出すことにするわ」とヴェラがいった。まずいことになるといわれても一向に取り合わない。「定価一冊十八ペンスときめてね、誰か友達にたのんでタイプしてもらうの。何冊でも売れただけ丸もうけよ。きっとみんな買ってくれるわよ、予言の中に見当ちがいがいくつあるかしら、と好奇心を起こしてね」
「あとで困った立場になるんじゃないかな、予言した中から『確証ナシ』というのがゾクゾク出はじめたら」
「大丈夫よ」とヴェラがいった、「大きな見当ちがいは絶対なさそうなことだけ予言するのよ。まず手はじめはこれにするわ――『牧師ナントカ氏ノ新年ノ説教ハ新約聖書の『コロサイ人への手紙』中ノ聖句ニ関スルモノナラム』――あの牧師さん、わたしが覚えてからずっといつでもその通りなのよ。それにあの年配になれば誰だって模様替えはいやなもんだし。一月のところの予言にはこう書いて大丈夫だわ――『当地方ノ名家ニシテ重大ナル財政的局面ニ遭遇スルモノ一、二にトドマラズ。サレド現実ノ危機ニハイタラザルベシ』このへんの土地じゃね、いつの年でも一月ごろになると二軒に一軒は大赤字を出して節約の大鉈をふるうことになるのよ。四月か五月ごろはディブカスター家の娘の一人が一生に一度のもっともお目出たい取りきめをする、と匂わせるわ。あそこのうち、娘が八人いるでしょう? だから一人ぐらい結婚するなり舞台に出るなり通俗小説を書き出すなりしてもいいころなのよ」
「でもあのうちじゃ誰ひとりそんなことしたことないぞ、人類の記憶に残るかぎり」
「危ない橋も少しはわたらなけりゃね」とヴェラがいった、「でも二月から十一月にかけて使用人の雇用問題が大変になると書く方が安全かもね。『当地方ノモットモスグレタル主婦マタハ家政管理者ニシテ使用人雇用ノ問題ニ関シ苦慮スル者アラムモ、差当リハ何トカ解決スルヲ得ベシ』――こんな調子で行くわ」
「絶対安心して予言できるのがもひとつあるぞ」とクローヴィスが提案した、「ゴルフ・クラブで記念メタル争覇のコンペがあるはずだ。あれをどこかへ入れとくんだな。『当地方一流ノゴルファー中、連続シテ非運ニ見舞ワレ当然獲得スベキ賞ヲ取リニガス者アラム』とでもさ」
ヴェラはその提案を書きとめた。
「でき上がったら見本刷を一冊、定価の半額で売ってあげるわ。でもお宅のお母さまにはぜひ一冊定価で買わせてね」
「二冊買わせるよ」とクローヴィスがいった、「一冊はアディラ夫人にプレゼントすりゃいいさ。あの人、借りられる本だと絶対買いやしないからな」
売り出した暦はさかんに売れた。予言したことは大部分まずまず実現に近いところまで行ったから、編者が十八ペンスぶんならちゃんと予言力があると構えたのも妥当な話である。ディブカスター家では娘が一人病院づとめの看護婦になると決心し、あとの一人はピアノの練習をやめることにした。どちらも目出たき取りきめと見ることができる。使用人雇用問題の苦労にしろ、ゴルフ・リンクにおとずれた思わざる不運にしろ、それぞれ各家庭およびゴルフ・クラブの記録で十分に立証された。
「わたしが七カ月のうちに二度もコックを取り替えることになるなんて、あの人、一体どうしてわかったんでしょう」とミセス・ダフがいった。『当地方ノモットモスグレタル主婦』といったらてっきり自分もその一人だ、と見ぬいたわけである。
「『当地方某家ノ菜園ニテ画期的ナル野菜ガ収穫サルベシ』という予言もちゃんと的中しましたのよ」とミセス・オープンショーがいった、「『古クヨリ花弁ノ美観ヲモッテ一般ノ嘆賞ヲ博シキタレル某家ノ菜園ハ驚嘆スベキ野菜ヲ生産スルナラム』と書いてありますの。うちの菜園は誰もほめてますし、きのう主人がとって来たニンジンったら、どこの品評会にも出ないほどですのよ」
「でもわたし、あれ、うちの菜園のことだと思ってますわ」とミセス・ダフがいった、「いつの年でも実に美事だとほめられてますし、ことし作った『南方の栄光』種のパースニップったら、見たこともないほどですのよ。ちゃんと寸法もはかったしフィリスに写真もとらせましたわ。あの暦、来年また出たら、わたしすぐ買うつもりですの」
「わたし、もう注文しましてよ」とミセス・オープンショーがいった、「うちの菜園のこと、ちゃんと予言したんですもの、買わなくちゃわるいわ」
うまい思いつきを本にまとめたものだとか、正しい予言をよく上手に集めたとか、ヴェラの暦は大体において好評だったが、予言したのはいつの年でも多少のちがいはあってもたいがいそうなることばかりだ、と酷評を下す者もあるにはあった。
「あれはどうなるのこれはどうなるのなんて、ハッキリしたことは危なかしくて書けないものよ」とヴェラがクローヴィスにいった。そろそろ年の暮れになるころのことだ。「でも実はね、ジョスリン・ヴァナーのことだけは思いきって書いたわ。十一月と十二月、ジョスリンに取ってはキツネ狩の現場は安全な場所ではない、とほのめかしたの。あの人、ジャンプしそこねて落馬したりウマにふるい落とされて逃げられたり、いつもそんなことでしょう? いつの月だって危険なわけよ。ところがね、わたしの予言にビックリして今じゃキツネ狩の集合に歩いて出てくるの。そうしていれば大きな事故は絶対ありゃしないわね」
「そんなことじゃあせっかくの狩の季節も台なしだろうな」
「台なしになったのはわたしの暦の評判なのよ。ハッキリ見当ちがいだった予言はそれひとつなの。あの人、落馬ぐらいはきっとするから、それを少し拡大すれば大怪我で通るぐらいに思ってたのに」
「なるほど、そうだったのか。そうだからってまさかぼくがウマの鼻先をかげんしてジョスリンに乗りかかるわけにも行かないし、猟犬どもをけしかけて食いちぎらせることもできないな。もしそこまでしてやれば君はぼくに永遠の敬愛をささげるだろうが、あとが何かとうるさいだろう。これから先、この村のキツネ狩へは入れてもらえなくなるぞ。ほかへ行ってたのむとなったらそれこそ不便だし」
「あなたって、まったくお母さまのいう通りの人なのね。あなた、利己心の塊りだわ」とヴェラがコメントを加えた。
一日二日すると私心なき行動をするチャンスがクローヴィスをおとずれた。キツネ狩に参加して猟犬どもがキツネを嗅ぎ出すのをブラドベリー門の近くで待っていたときだ。気がつくとすぐそばにジョスリンがいる。
「キツネの嗅跡はよわいし見わたす限り藪と茂みだし、何時間も待たないとキツネは狩り出されそうもありませんな」とクローヴィスが鞍の上から声をかけた。
「それだけわたしとお話しなさる時間がタップリあるわけですわ」とジョスリンがいった。いたずらっぽい口調である。
「それが問題なんですぞ」とクローヴィスはいわくありげな顔をした、「あなたと話してるところを人に見られていいかわるいか。わるくするとあなたをかかり合いにしちまうんでね」
「まあ大変! 何にかかり合うんです、わたしが?」とジョスリンは息をはずませた。
「ブコウィナのこと、何かご存知ですか?」と何気ないふりを見せてクローヴィスがきいた。
「ブコウィナ? 小アジアのどこかでしたか?――中央アジアでしたかしら? それともバルカン半島の一部でしたかしら?」ジョスリンは当てずっぽうをいった、「わたし、度忘れしましたわ。本当はどこにあるんですの?」
「革命の瀬戸際にあるんです」とクローヴィスの口調はいかにも重々しい。「だからこそ気をつけて頂きたいんです。ぼくがブカレストの伯母のところにいたとき(クローヴィスは|伯叔母《おば》を気前よく何人でも創作する。ゴルフの手柄話をさかんに創作する人があるがそれに劣らない)ウカウカしてるまにその一件にまきこまれました。王女殿下がひとりいましてね――」
「そうでしたの」とジョスリンがいった。心得てます、という顔つきだ、「そんな事件にはきまって魅力的な美人の王女が出ますのね」
「ところがです、きりょうがわるくて面白くもないこと東ヨーロッパ随一という女ですよ。さあこれからランチにしよう、というときに乗りこんで来て晩餐前の着替えどきまで動かないタイプですね。ところで、鉱山の利権を譲渡する保証をよこせば革命の資金を出すというユダヤ系のルーマニヤ人がありましてね、それがいまヨットでイギリス近海をうろついてますが、その男に譲渡証書をわたすにはぼくが一番安全確実だと王女殿下がいうんですね。叔母がソッとぼくに耳うちしましたよ、『後生だから何でもいうことを引き受けてやってよ、さもないと晩餐のときまで帰りゃしないから』ってね。そんなことになったら大変、こりゃどんな犠牲でも払って追っぱらわなきゃ、と思いました。ぼく、そんなわけでここへ来たんです。そら、この通り問題の書類で胸のポケットがふくれてるでしょう。ぼくの命は一分間もおぼつかないんですぞ」
「でも大丈夫じゃありませんの、ここはイギリスですから」
「そら、あそこにいるでしょう、あし毛のウマに乗った男が」とクローヴィスは指さした。黒ぐろと口ひげの生えた男だ。近くの町の競売人らしいが、とにかくこの村のキツネ狩では新顔である。「あの男がね、ぼくが王女殿下を馬車まで送り出すと叔母のうちの戸口に立ってたんです。ぼくがブカレストをたつときは駅のプラットホームにいましたし、イギリスへ着いたときは港の桟橋にいました。どこへ行こうと奴はぼくのそばを離れません。きょうもきっと狩場へ姿を見せるだろうと思ってましたよ」
「でもあなたに何も手出しできないでしょう? 殺すなんてできやしませんわ」とジョスリンの声は震えていた。
「目撃者がいればできませんよ、用心しますからね。猟犬どもがいよいよキツネを狩り出して全員ウマを飛ばして追跡開始となったときが奴のチャンスでしょうな。きょうこそ問題の書類をふんだくるつもりなんです」
「でもその書類、あなたが果たして身につけてもっているかどうかわかりゃしないでしょう?」
「わかりゃしませんとも、あなたと話をしながらソッとあなたにわたしてるかも知れませんしね。だからこそあいつ、いま考えてるんですよ、イザとなったらどっちをねらおうかと」
「うわあ!」とジョスリンが金切り声をした、「まさか――?」
「だからさっきいったでしょう、わたしと話し合ってるのを見られたら危ないって」
「でもこわいわ! どうしましょう、わたし?」
「猟犬どもが動いたらすぐさま下生えの中へとびこんでウサギみたいに逃げるんですね。ほかに手はありませんぞ。うまく逃げおおせたら、いいですか、誰にもしゃべっちゃいけません。いまぼくがいったこと、もしひと言でも人に洩らすと命の危ない人が何人も出るんです。ブカレストの叔母が――」
その瞬間、低く窪んだ方から猟犬どもの鼻声がひと声きこえて、あちこちに待っていた乗馬姿の狩びとの群がさざ波の立つようにいっせいにざわめいた。
「そら狩り出した!」とクローヴィスはどなると、クルリとウマの向きを変えて一散にかけ出そうとした。ガサリ、バリバリ、と音がした。誰かがブナの茂みや枯れシダを押しわけてガムシャラに逃げて行く音だ。いましがたまで話し合っていた相手の手がかりはその物音だけになった。
その日のキツネ狩でジョスリンがどんな重大な危険に遭遇したか、それは一番の親友でもくわしく聞かせてもらえなかったが、ヴェラの暦の売行きをよくする程度のことは世間に知れわたった。値上げされて今度は定価三シリングである。
やむを得ない事情
[#地から2字上げ]A Sacrifice to Necessity
アリシヤ・ピーヴンリはチョープハンガー邸のバラの小径のベンチにかけて、暖かい十月の朝の名残りの暖かさを楽しんでいた。そしてまた、朝食はおいしかったし、けさの身仕度も目を引くだろうし、知らず知らずいつのまにか楽しく四十二歳になった――そんな女性におとずれる満ちたりた安らかな気分を味わっていた。十年ばかり前に夫に死なれてから毎日の生活に悲しみの糸が一筋かすかに交りはしたものの、大体のところ世の習わしに満足してゆったり機嫌よく世間を眺めていた。ひとりむすめが十七歳になる。収入は二人暮らして何とか世間体をつくろって行くにはあまり十分でない。少し不便なくらいかも知れないが、先のことも考えてちゃんと舵を取っていれば不足もしない。何とかやりくるといってもやりくりの幅はわずかなものだ。わずかなだけに工夫するにも計画するにもかなり熱心にやる。
「本当に暮らしが苦しいというのと、気をつけてやって行けばいいというのは、天と地ほども大きくちがう」と彼女はよく心に思ったものだ。
いつも一家のことに程よく冷静な目を向けていて、世間の大事件に心を乱すようなことはない。コンノート家のアルバート殿下のご結婚にも暖かい、ただし通りいっぺんの関心はもった。だから一応ちゃんと時代に生きている視野のひろい知性的女性と見られる権利があるわけだ。その反面、アイルランドに自治をあたえるべきかべきでないか、そんな問題にはあまり興味はなし、アルバニヤ南部の国境線はどこに引くべきかそれとも全然引くべきでないか、そんなことには絶対無関心だ。生まれついた性格にもし闘争的な傾向があったにしろ、そんなものは全く発達していない女性なのである。
ミセス・ピーヴンリはけさ九時半ごろ朝食をすませたが、そのときむすめのベリルはまだ姿を見せなかった。ここのうちの奥方にしろハウス・パーティに泊まりこんだお客一同にしろ、みな朝がおそい。だからベリルの朝寝坊も別に社交的罪悪とはいえないけれども、このよく晴れた十月の朝を寝坊するとは惜しいものだ――それが母親の気持だった。むすめのベリルはいつか誰かに「フラッパーの実物見本」といわれたことがある。その仇名がピッタリするむすめだった。何でも勝手を通す性分だな、とは母親も見ぬいていたが、相手が誰だろうと自分より気性がよわければ絶対こっちの気ままに動かす傾向がいちじるしい――そこまではまだ母親も気がついていない。「まだ子供だからね」とときどきつぶやいたりする。十七歳と七十歳とはまず人生もっとも専制的な年齢なのを忘れていた。
「まあ、やっと朝ごはんすんだの!」ミセス・ピーヴンリは叱るような口調で声をかけた。ベリルがバラの小径の自分のそばへやって来たのだ。「ゆうべだってその前の晩だって、わたしみたいに早く寝れば朝そんなに疲れやしないのにね。このお庭、こんなにサッパリしていい気持なのよ。みんなばかだからベッドで寝てるのね。ねえベリル、ブリッジをやってもあまり高い賭はしなかったろうね」
ベリルが疲れきったふてぶてしい目つきなので母親が心配してきいたのだ。
「ブリッジ? おとといの晩ははじめ一、二回やったけど途中でバカラに切りかえたの。切りかえてまずかった人も少しあったわ」
「ベリル、おまえ、まさか負けたんじゃあるまいね?」とミセス・ピーヴンリがいった。だんだん心配そうな声になる。
「最初の晩はかなり負けたわ。そんなにとても払えやしないからつぎの晩とり返すつもりでまた賭けたのよ。結局バカラはわたしに向かないのね。二晩目は最初の晩よりもっと負けたわ」
「ベリル、大変なことよ、それ! ママ、ほんとに怒りますよ。さあ、早くいってごらん。いくら負けたの?」
ベリルは両手で巻いたりひろげたりしていた紙きれへ目を向けた。
「最初の晩三百十、二晩目が七百十六よ」とベリルがいいわたした。
「三百何なのさ?」
「ポンドよ」
「ポンドだって?」と母親は金切り声を立てた、「ベリル、それほんと? まあ、かれこれ一千ポンドになるわよ」
「一千二十六ポンドね、正確にいえば」
ミセス・ピーヴンリはビックリ仰天して声も出ない。
「一体どこから一千ポンドなんてお金が出ると思ってるの? うちは収入目いっぱいの暮らしで、せいぜい切りつめて暮らしてるのよ。貯金から一千ポンドなんて下ろせやしないし、そんなことしたら破産するわ」
「そりゃむろん没落だわね、社交的には。お金を賭けてバカラをして負けを払えなかったり払わなかったりしたのが表向きになったら、もう誰も招待なんぞしてくれないわ」
「一体どうしてそんな大変なことになったのよ?」と母親は泣き声だ。
「そんなこときいたってだめよ、もうしちゃったんだもの。どうやらわたし、誰かの遺伝でばくち好きの本能があるらしいのね」
「そんなこと絶対ないわよ」と母親がカッとしていった。「パパはトランプを手にしたことさえないし競馬も大きらいだったわ。わたしだってトランプなんてサッパリ知りませんよ」
「こんな遺伝て一代おきに出ることもあって、あとの代の方がはげしいものなのね。そら、あのママの叔父さん、学校のとき日曜日がくるといつも先に立って賭をしたわね、きょうのお説教のテーマにする文句が聖書のどの巻から出るかって。あれでもばくち好きでないというんなら、ほかにばくち好きなんてありゃしませんわよ」
「議論はよそうよ」と母親は早くもたじろいだ、「それよりこれからどうするか考えなけりゃ――何人の人に借りがあるの?」
「運よくたった一人きりなの。アシュコーム・グウェントだけ」とベリルがいった、「あの人、二晩ともずっと勝ち通しみたい。あの人なりにいい人だけど困るのはあまり金持じゃないのね。だから貸しがあるのを放っとくはずないわ。やっぱり山師かたぎなのね、わたし達みたいに」
「山師かたぎじゃないよ、わたし達は」とミセス・ピーヴンリがいい返した。
「でもハウス・パーティで泊まりに来てさ、負けたら返すあてもない賭をするなんて、そんな人みんな山師かたぎだわよ」とベリルがいった。自分のしたことのよしあしを批判されると必ず母親も仲間に引きこむつもりらしい。
「困ったことになったって話したのかい、その人に?」
「ちゃんと話したわ。だからママにそのこといいに来たのよ。けさね、朝食のあと玉突き室で話し合ってね、解決の道はただ一つあるきりらしいの。あの人、少し恋をしてるわよ」
「恋をしてる?」と母親は大声を立てた。
「結婚するつもりで恋してるわ」とベリルがいった、「ママもわたしもうっかりしてたけど、あの人、恋のやまいの犠牲者らしいのね」
「そりゃ確かに丁寧な物腰で慇懃だったわね。あまり口数の多い人じゃないけどこっちのいうことはよく聞いてくれたわ。それであの人、本当に結婚するつもりなの?」
「本当に結婚する気よ、絶対たしかに。あの人、夫にもっても大さわぎするほどの人じゃないけど食って行くだけの財産はあるらしいの――とにかくうち並みの暮らしならね。それに押出しもけっこう見られるわ。もしことわるとしたら、それこそ貯金をゴッソリ下ろしてわたすより仕方なしよね。わたしが家庭教師かタイピストか何かになってママも針仕事でもやらなきゃならないわ。これまで何とかつじつま合わせてさ、あちこち泊まりあるいてけっこう楽しくやって来たのに、いきなりあわれな身分に落ちぶれるわけよ。ママはどう思うか知らないけど、わたし、この縁談の話に乗るのが一番文句のない手のような気がするの」
ミセス・ピーヴンリはハンケチをもち出してきいた。
「その人、いくつになる?」
「三十七か八よ。もう一つ二つ上かしら」
「その人が好きなの、おまえ?」
ベリルは大きく笑った。
「わたしの好きなタイプとはまるでちがうわよ」
ミセス・ピーヴンリは涙をこぼした。
「困ったわね」と彼女はすすり泣いた、「そればかりのお金と世間体のためにとんだ犠牲を払うわけだわ。まあ、こんな悲劇がわが家に起こるなんて――本を読むとよくそんな話も出てくるものよ、金銭上の災難にぶつかって若いむすめが好きでもない男と無理に結婚させられたり――」
「くだらない本なぞ読むのがいけないのよ」とベリルがいいわたした。
「でも現にそうなりかけてるんだよ」と母親が大声を立てた、「生みのわが子が犠牲になって二十も年上の男と結婚するなんて――好きでも何でもない男なのに――」
「あらママ!」とベリルが口を出した、「わたし、ハッキリいわなかったようね。わたしと結婚したいんじゃないのよ。あの人、『フラッパー』は気に入らない、ってハッキリわたしにもいったわ。あの人、成熟した女性専門らしいのよ。熱を上げてるのはママのことなのよ」
「わたし!」
夜が明けてからこれが二度目だがミセス・ピーヴンリは金切り声を立てた。
「そうなのよ。ママこそ理想の女性だ、よく日に照らされて熟しきったモモだ、おいしそうでヨダレの垂れるモモだっていってたわ。ほかにもいろいろ|喩《たと》えたけどスウィンバーン(イギリスの詩人、一九〇九年死)とエドマンド・ジョーンズ(実在した詩人ではないらしい、でたらめだろう)の詩からの借りものらしいわ。わたし、いっといたわよ、事情がちがえば母からいい返事のある見こみはありませんけど、一千二十六ポンドの借金の手前、債務を果たす一番の便法は結婚だと母も思うでしょうよ、って。あの人、二、三分するとここへ来てじかに話をもち出すけど、先にわたしが来て地ならししておく方がいいと思ったのよ」
「でも、おまえ――」
「むろんろくに知らない相手ですよね。でもそんなこと構わないじゃないの。前にも一度結婚したことはあるんだし、二度目の夫ってたいがいアンチ・クライマックスなものよ。そら、アシュコームが来たわ。わたし、あっちへ行った方がいいわね、二人でいろいろお話があるはずだから」
結婚式は八週間ばかりして挙行された。新郎からのプレゼントは品数こそわずかだがかなりの値がさで、主なものは棒引きにした借用書だ。新婦のむすめへの新郎からのプレゼントであった。
池
[#地から2字上げ]The Pond
わたしは悲劇的な運命に生まれついたのだ――モーナはいつもそう思っていた。モーナという名前にしろ黒ずんだ大きい目にしろ、一番似合うヘア・スタイルにしろ、すべてその人生観にピッタリなのである。いま不運な目にあったところなのか、いまにも不運な目にあいそうなのか、とにかくいつもそんな様子をしている。それによく「死の天使」という言葉を口にする。それも、運転手はすぐそこの角に待っていますの、時間がくると迎えに来ますわ、とでもいうように実に気軽にいうのだ。占師どもはモーナのそんな気質をちゃんと見ぬいて、必ずあなたの宿命は――などともち出すが、ハッキリしたことはけしていおうとしない。「あなたはご自分のえらんだ男性と結婚なさいますぞ。しかしそのあとで不思議な火の中を通りぬけることになります」と鑑定料二ギニーのボンド・ストリートの手相見(手相のほかにご機嫌も読む)がいった。「ハッキリいってくれてありがとう」とモーナはいった、「でもわたし、いつもそう思ってましたの」
モーナはジョン・ワダコームと結婚した。モーナには「なかば見える世界」と称する世界がある。その世界に起こるさまざまな夢のような悲劇にいつも浸っているのだが、そんな心持は全然ない男と結ばれたわけだ。ジョンにはジョンなりにいろいろ現実的な悲劇があって苦労している。だから全く視界の外にあり全く関心の外にある世界へ無理に心をむけて、つかみにくいあやふやなものを見ようとはしない。ジャガイモの虫害だのブタの熱病だの政府の土地政策だの、農家にとってはそんな災難がいろいろあって気力も注意も手いっぱいなのだ。一方、モーナは心の病にはハッキリ十一種も種類があってどれもこれも不治の病だ、と思いこんでいるが、かりにジョンが心の病なるものの存在をみとめたにしろ、そんなものは二週間も海岸へ転地するのが一番自然で有効な手当てだよ、といってすませたろう。ジョン・ワダコームはまぎれもなくどこまでも現実家なのだ。もし政界に顔を出す気でも起こしたら、必ず実直なジョンで通っただろうし、実直といったらもうほかに付けたすこともない男だった。
結婚して二日ばかりするとモーナは悲しい発見に到達した。夫が自分と共通なところの全くない、理解も共感もとても望めない男だと悟ったのである。二人の気質をよく知っている者なら、そんなことは婚約発表と同時に予告できただろう。ジョンはジョンなりにモーナが好きだったし、モーナもまたモーナなりに少なからずジョンが好きではあったが、心持や考えのやり取りとなるとほとんど共通の言語がないのだった。
そんなことで、モーナは最初からきっと誤解されるにきまっていると思いながら結婚生活にスタートした。間もなくジョンもまた、どうもわからない女だ、とわかりきった結論に到達した――そして「ソッとしておく」のが一番、ということにした。モーナは最初、夫がまるきり鈍感で無関心なのにイライラしやがてガッカリもしたが、ジョンの方は「口数少なければあと始末が楽」のことわざを気楽な方針とした。だが相手がもともと口数の少ないモーナでは、せっかく気楽な方針も惨憺たる結果になった。モーナは二人の間が心の友とは行かないのを悲しみ悩んだ。それなのに夫はどうして悲しみも悩みもないんだろう? モーナははじめその悲しみや悩みを態度にあらわしたりしたが、やがてもっともっと真剣に悩むようになった。もとからの病的な一面がようやく具体的な対象をつかまえて、その対象にますます深くかかずらって行った。ジョンの方は農作業の苦労に気を取られて何とかまず満足しているのに、妻のモーナは何もかもつまらないし、これといってすることもなく、心の悩みにどこまでも沈みきっていた。
そんなある日、物思いに沈んであてもなく歩きまわるうち、モーナははじめて池のところへ出た。このあたりは白亜質の台地だから水のたまるところはほとんどない。掘ったアヒル池が農場にあるのとウシを入れる水たまりが一、二カ所あるだけで、何マイル四方ほかに池があるとは思っていなかった。丘の急斜面に植えつけたままのブナの林があった。その林の真ん中の一カ所粘土層になったところに池があったのだ。黒ずんだ水を気味わるくたたえて、周囲には垣がまわしてあり、イチイの枝と朽ちかけたブナの大木が陰気くさく上からかぶさっている。気持のいいところではない。どこか感じのいい場所があったにしろ、すべて何となく物悲しく憂うつなふぜいで、この場所へ人の姿を連想しようにも水に浮かんだ死体しか思い浮かばない。モーナはこの池をみつけるなり、たちまち気を引きつけられた。自分の気質にピッタリなのだ。自分の気分によく合うからなのだ。それからというもの、ぶらりと散歩に出ると必ずブナの林へ足が向く。ブナの林へ入れば必ず黒くよどんだ池のそばへ行く。底なしの深い池らしい。ヒッソリと静まり返ってほとんど不吉なほどの絶望感がある。人はよく「丘が喜んでいる」とか「谷間がほほ笑んでいる」とかいうが、そんな具合に想像をひろげることのできる人なら、きっとこの池は気味のわるいしかめ|面《つら》をしているといっただろう。
モーナはその池の過去にさまざまな思いをめぐらせた。するといつものように運命にさいなまれた不幸な人の姿が浮かんでくる。その姿は誘うような池水の上へ力なく身を乗り出している。やがては水面に浮かぶ水草の中にどんより暗い姿を見せて、おやと思って見直すほど安らかに浮かんでいる。そうした想像を幾度となくくり返すうち、モーナはだんだんあれは自分の姿だと思うようになった。池のぐるりは急な傾斜になっている。その急な斜面に足をとめたり腰を下ろしたりしてモーナは水面をじっと見つめた。もし足がすべったりうっかり水ぎわへ寄りすぎでもしたらどうなるだろう、と考えてもみた。あの水草だらけの底なしの深みにどのくらいもがいていたら、心に浮かぶあの悲劇の人物のようにヒッソリ浮いていられるのだろう? 頭の上に茂り合うイチイとブナの枝ごしに日がさし月がさす。その光に照らされてヒッソリとどのくらい浮いていたら捜索に来た人が自分の姿を見つけ、死体を引き上げて検屍だの埋葬だの、あさましい手順をふむのだろう? あの暗い安らかな池に沈めば心の悩みもわずらいもきっと解決するだろう、という気持がだんだん強くなり固くなった。あるいは池の底にひそみあるいは水面にほほ笑み、何かの霊が招いているようだ。モーナはだんだん水ぎわへ近よって行った。池に差し出た急な斜面に恐れもせずに足をとめた。行くたびごとに池の魅惑はだんだん強くなり、万一落ちでもしたらという恐怖はだんだん薄れる。それに気がつくとかすかに嬉しい気がした。うしろ髪を引かれる思いでその場を離れてくるときはいつも、なかばあざけるように、なかば責めるようにつぶやく声が四方八方から聞こえるような気がした――「なぜきょうやらない?」
やがて、いよいよ危険な状態になったとき、ジョン・ワダコームが病気で倒れた。いつもオウシのように元気でいくら雨風を冒しても絶対大丈夫と見えたジョンが急に肺をやられて重態になった。医者も看護婦も本人自身の頑固な抵抗力も危うく圧倒されかけた。モーナは必死に看護した。これまで知らず知らず心に食いこんだ自殺の誘惑と戦って来たが、今度はそれどころでない。夫の命をおびやかす死を相手にそれこそ必死の努力をささげた。やがてようやく病気が峠をこして恢復期に入ると、長い病気のあとだから衰弱してもいれば気むずかしくもなりはしたが、壮健なときより遙かに気持も通って人好きのするジョンに変わっていた。二人の間の隔てはなくなった。互いにいらつく気持も取れた。モーナもジョンも、とてもこうなろうとは思いもしなかったほど心のつながりを感じるようになった。モーナは池のことをすっかり忘れ、もし思い出せば身ぶるいした。あのばからしい病的な気分をふり離す健全な心が頭をもち上げはじめた。ジョンだけでなくモーナもまた恢復期に入ったのである。
打って変わって夫と心が通じ合ったおかげで、モーナの甘えきった気持は消えた。面白半分、自殺にあこがれることもなくなった。だがモーナの性格の一部である病的な底流は手の平をかえすように消えはしない。その底流にそそられてモーナはある秋の日、また池のところへ行ってみた。もとは弱気になってばかげたことを考えたり悩んだりしたが、今はもう自殺の魅力も誘惑もかなぐり捨てた。この気持でまたあの池へ行ってみたらどんな気がするだろう、と思ったのである。行ってみると池の景色はいちだんと侘しく物淋しくなっていた。立木はみな初秋のころの美しい葉を失い、ブナの落葉は雨水にグッショリつかって踏むとベットリ泥のようだ。あたりの立木が葉をみな落として枝ばかりな中にイチイだけは目立って黒ぐろと不気味に茂っている。腐りかけた落葉からはキノコなどがヒョロヒョロ生えていた。モーナは黒ずんだ汚い池を見下した。この汚らしいよどみのどん底に沈んで溺死する――そんな悲しいことを考えていたのか、と思うと思わず身ぶるいした。池水には何かドロドロしたものが浮かんで、からみ合った水草の上を何か虫が這いまわっている。見るだけでゾッとした。ふと、そのゾッとするものがもち上がってくる気がした。引きずりこんで抱きこもうとするようだ。腐った落葉とベタつく粘土に足がズルズルすべったのだった。急な斜面をモーナはいやおうなくすべって水ぎわへ落ちて行く。必死で木の根や濡れた土にしがみついたが、木の根はゆるむし土はくずれる。からだの重みでどんどん勢いを増しながらすべって行った。下にはゾッとする池水があんぐり口をあいて待ち構えている。一度は魅力におぼれたがまた突き放した池水だ。たとえ泳ぎができたにしろ水草だらけのあの中ではとても助かる見こみはない。あとになってジョンが見つけるだろう。一度はほとんどそれが望みだった――あれほど自分を愛していた、今はなおのこと深く愛してくれるジョン、何より大事なわたしのジョン――モーナは大声を立てて何度もジョンを呼ぼうとした。だがジョンは一、二マイルも向こうで仕事中だ。もとのように農場で働いているはずだ。どす黒く汚い斜面がズルズル上へ上がって行く。土からはね出した小石や枝きれが足もとの水へ落ちる音がする。頭の上はずっと高いらしいところにイチイの枝が暗くひろがっている。まるで納骨堂の屋根張りのように――
※
「やあ大変! モーナ、どこでそんなに泥んこになった?」とジョンがビックリ大声を出したのも無理はない、「ブタを相手に組打ちでもして来たのか? 顔まで泥んこだぞ」
「池へ落っこちたの」とモーナがいった。
「何、ウマ洗いの池へ落っこちたのか?」
「いいえ、林の中の池よ」
「何マイル四方に池なんぞありゃしないぞ」
「そうね、池といったら大げさすぎるかもね、深さが一インチ半ばかりだったから」
宿舎の問題
[#地から2字上げ]A Problem of Housing
「とても困ったわ、わたし」とミセス・ダフ−チャブリーは肘かけ椅子へふかく腰を下ろして目をつぶった。まるでいやなものは見まいとするそぶりである。
「ほんと? どうしたの?」とミセス・ポリットソンがきいた。何か台所に悲劇でもあったか、という顔つきだ。
「ハウス・パーティって、うまく行かせようと苦労すればするほど何かしらまずいことになるらしいのね」と悲しげな返事が返って来た。
「でもこれまでとても楽しくはかどったんじゃない?」とお客のミセス・ポリットソンはあいそがいい。「もちろん天気模様だけはあてになりませんけど。でも天気以外は何もまずいことありませんでしたわ。わたし、お祝いをいおうと思ってたくらい」
ミセス・ダフ−チャブリーはひどく辛そうな笑い方をした。
「そりゃ侯爵夫人が来て下すったのはありがたかったわ。あの人、さっぱり面白い人じゃなし着こなしだってへたくそですけど、このへんじゃとても人気が高いのよ。それにあの人つかまえておけば社会的にもプラスですし、うまく取り入っておけばとても重宝なんですの。ところがその侯爵夫人がいますぐ帰るっていい出したのよ」
「ほんと? 困ったわね。きっと残念でしょうね、こんないいパーティを途中から――」
「残念だけど帰るんじゃないのよ、腹を立てて帰るの」
「腹を立てて?」
「ボビー・チャームベーコンがね、面と向かって侯爵夫人に『この時代おくれのメンドリめ』なんていったんですよ。侯爵夫人に向かっていう文句じゃありませんよね、そんなの。わたし、あとでボビーにそういいましたわ。そしたら、侯爵夫人でござい、なんて構えてるが結婚したからなっただけの話だ、なんていうの。まるで理屈に合わないじゃない? 生まれながらの侯爵夫人なんてあるもんですか。とにかくボビーはあやまろうとしないのよ。だから侯爵夫人があんなのと同じ屋根の下にはいられないっていい出したのよ」
「そうした事情ならね」とミセス・ポリットソンがすぐさまいい出した、「ミスター・チャームベーコンに調べてあげなさいよ、なるべく早くロンドンへ帰る汽車の時刻をね。たしかランチ前に出るのがあってよ。連れて来たボーイがいますから、荷物の取りまとめは二十分とかかりゃしませんわ」
ミセス・ダフ−チャブリーは黙って立ち上がった。ドアのところへ行くと念入りにドアをしめた。それからおごそかにゆっくりといい出した。国費節約に傾いた議会を相手に海軍軍事費の増額を要請する大臣の口調そっくりである。
「ボビー・チャームベーコンは金持なんですの。いまだって大金持ですけど先ざきもっともっと大金持になりますのよ。ボビーの叔母さんったら、まるで芝居の券でも買うようにジャンジャン自動車を買いこみますの。その叔母さんの主な相続人がボビーなんです。それにわたしもそろそろトシですしね、そうは見えませんけど」
「もちろん見えませんわ」とミセス・ポリットソンはさっそく保証に立った。
「ありがとう。でも事実は事実ですわ。そろそろトシにはなりましたし、自分の生んだ子もけっこう何人かいますけど、女としてはそろそろむすめむこがほしい年配になりかけましたのよ。あのボビーがね、ゆうべうちのマーガレットにいったんですよ――あなたの目はマドンナが夢を見ているような目ですね、って」
「言葉使いの大げさなのがいつもあの人の癖なのね」ミセス・ポリットソンは慌ててあとをつけたした、「もちろんマーガレットの目が夢を見ているマドンナの目とちがう、なんてつもりじゃありませんけど。そのたとえ、上手ですわね」
「マドンナにもいろいろタイプがありますしね」とミセス・ダフ−チャブリーがいった。
「ほんとにそうですわ。でも知り合ってまだ間もないのにそんなこというなんて少し無遠慮すぎるんじゃありません? ズケズケものをいう青年のようですね、あの人」
「ええ、でももっと突っこんだこともいいましたのよ。あなたはゲービー・ナントカにソックリですってそこまでいったんです。ほら、あのすてきな女優ですよ、スペインの王さまが夢中になってる」
「ポルトガルよ」とミセス・ポリットソンが口の中でいった。
「それにね、口でそんなこといっただけじゃないんですの」と母親が熱心にあとをつづける、「実行は言葉にまさる、っていいますわね。あの人、ゆうべマーガレットにすてきなランの花をくれたんですよ、晩餐のときのコサージュに。うちの温室から取って来たランですけど、それにしてもわざわざ取って来てくれたんですからね」
「愛着の証拠ですわ、ある程度の」とミセス・ポリットソンが相槌をうった。
「それにクリ色の髪の毛が大好きなんですって。マーガレットの髪はそりゃきれいなクリ色なんですのよ」
「はじめてあってからまだ幾日でもないのにね」
「むかしからずっとクリ色ですわよ」とミセス・ダフ−チャブリーが大きな声を出した。
「いいえ、そのことじゃありません。マーガレットがその人つかまえたのが突然だといったの。髪の毛の色じゃありませんよ。そんな風に急にのぼせ上がるのが一番本物なんですわね、きっと。男の人が一目見たとたんに、絶対この人こそ探していた女性だ、と思いこむんですよね」
「だからおわかりでしょう、わたしの困った立場。侯爵夫人にいきり立って帰られるか、ボビーをいやでも手放さなけりゃならないか、二つに一つなの。やっとマーガレットとうまく行きかけたところなのに、せっかくのつぼみを摘み取ることになり兼ねませんわ。ゆうべはわたし、マンジリともしませんし、けさだって何ひとつ喉を通りませんのよ。もしわたしが庭のコイ池に浮かんだところを見つかったとしたら、なぜそんなことしたかあなたひとりだけは理由をご存じなわけね」
「まったく困ったことになりましたね。こんな手はどうでしょう? 侯爵夫人がお帰りになるまでマーガレットとボビーにわたしどもへ来て頂きましょうか。ちょうど夫が男だけでパーティをしてますけど人数がふえても大丈夫ですのよ。お宅のパーティの方も二人へったってひどく頭数がへったことにもなりますまいし、前からそんなつもりだった顔してりゃかまいませんわ」
「まあ、うれしい! キスしてかまいません?」とミセス・ダフ−チャブリーがたずねた、「これからお互いにクリスチャン・ネームで呼ぶことにしましょうよ。わたし、イリザベス」
「それ困るわ、わたし」とミセス・ポリットソンはいったが、キスの方はおとなしく受けていた。「イリザベスなら品もいいし貫禄もある名前ですけどね、わたしはセレストとつけられてますの。この通り太ったからだでセレストなんて――」
「そんなことないわ」とイリザベスが大声を出した。論理は大胆に無視している。
「その上、親ゆずりの気まぐれな性分ですから、セレスト[#注 「セレスト」は「けだかく美しい」の意味]なんて呼ばれて返事するのがとてもチグハグな感じですのよ」
「でもあなた、まるで天使みたいなことしてくだすってるんですもの、そのお名前、とてもピッタリですわよ。これからはセレストって呼ぶことにしますわ」
「うちではランの花は作ってませんけど、|月下香《チュペローズ》ならかなりのが温室にありますの」
「それ、マーガレットが一番大好きな花よ」とミセス・ダフ−チャブリーが大きな声をした。
ミセス・ポリットソンは溜息をおしつぶした。自分も大好きな花だからだ。
ボビーとマーガレットの二人を移植した翌日、ミセス・ダフ−チャブリーは電話口へ呼び出された。
「イリザベス、あなたなの?」とミセス・ポリットソンの声がした、「ねえ、ボビーをまた引き取ってよ、ぜひとも。できないなんていっちゃだめ。何が何でもつれていってよ。ソコートラの|主教《ビショップ》さまがね、うちの主人の伯父さんですけど、いま来て泊まってるところなの。ソコートラよ。どんな字を書くですって? そんなことどうでもいいわ。とにかくソコートラの|主教《ビショップ》さまにね、ゆうべの晩餐のときボビーがキリスト教の伝道のことさんざんこき下したのよ。実はわたしだってよく同じこといいますけど、|主教《ビショップ》が相手のときはけしていいませんし、あんな失礼な言葉も使いませんわ。|主教《ビショップ》さまは、もうボビーと同じ屋根の下には一日もおらん、とおっしゃるの。あの人――というのは|主教《ビショップ》の方ですけど、ただの伯父だけじゃなくて独り者だしちゃんと財産ももってるのよ。そりゃもちろんもっと情ぶかく寛大に構えるのが本当にきまってるわ。でもね、『愛はまず|家庭《ホーム》にはじまる』っていうでしょう? ところがあの人、|内地《ホーム》じゃなくて植民地の|主教《ビショップ》なの、ソコートラの。ソコートラよ、そら、さっきもいったでしょう。どこにあるって? どうでもいいのよ、そんなこと。とにかく|主教《ビショップ》が来てるんです。怒らせたまま帰すわけに行かないんですよ」
「じゃ侯爵夫人はどうするの?」と電話の向こうでミセス・ダフ−チャブリーが金切り声を立てた。まず用心ぶかくあたりを見まわして聞こえるところに誰もいないと確かめてからいったのである。「侯爵夫人だってわたしにはとても大事な人よ。スクーターだか何だかの|主教《ビショップ》と同じことだわ。その人、キリスト教の伝道をこき下したからって、どうしてそんなに向きもなく腹を立てるんだかわかりゃしないわ。そんなこと誰だっていいますわよ、相手が植民地の|主教《ビショップ》でもね。そんなことと面と向かって時代おくれのメンドリめなんていわれたのとは大ちがいよ。実は侯爵夫人がね、ことしの冬クラウドリーで舞踏会を開いてキツネ狩もやるらしいの。そのとききっとわたしも招待されそうなのよ。そんなところへまたボビーをつれもどしたらとんでもない騒ぎになって、何もかもメチャクチャになるわ。だめよ、そんなこととてもできません。それにね、ボビー・チャームベーコンをあっちへやったりこっちへやったり、狂った時計の調整器をいじくるようなことできやしませんわ。ねえ、そうでしょう?」
「|主教《ビショップ》さまはね、きょうボビーが帰らなけりゃ今夜はもう泊まらない、っていってますのよ」と電話の向こうの声は一歩もあとへ引かない、「ボビーにはもういいましたわ、ランチがすんだらすぐ出かけるように。ちゃんと自動車の手配もしました。マーガレットはあした帰しますよ」
それきり電話の声はピタリとやんだ。ミセス・ダフ−チャブリーは何べんも電話をかけ直して「あなた、きいてる?」とやったが、何の手答えもない。絶望だ。向こうで勝手に切ったらしい。
「電話って卑怯者の武器なのね」ミセス・ダフ−チャブリーはカンカンに怒ってつぶやいた。「あんな太っちょのブロンド女ときたらどれもこれも利己心の塊りなんだから」
そして腰をかけると電文を書いた。セレストの良心に訴える最後の手段である。
「イケカラコイヲカタヅケサセテルオボレテシヌノハヘイキダガツツキマワサレルノハコマル――イリザベス」
結局のところ、ボビー・チャームベーコンと侯爵夫人は同じ列車でロンドンへ帰った。ボビーの方は、どっちのうちのハウス・パーティでも自分の存在は望まれていない、とようやく感づいたのである。侯爵夫人の方は夫の急病で呼びもどされたのだが、二、三日するとその急病のため彼女は|侯爵未亡人《ダウェジャー》になった。ボビーはクリ色の髪の毛と夢みるマドンナの目が大好きにもかかわらず、二度とダフ−チャブリー家をおとずれなかった。その年の冬はエジプトですごしたが、十カ月ばかりして侯爵未亡人と結婚した。
訳者のあとがき
「サキの短篇の傑作は今日でも、どんな作家の傑作短篇より傑出している」――ロアルド・ダール
あの「キス・キス」を書いたダールがこれほど賞めちぎるのを見ると、サキという作家はよほど気のきいた短篇を書いたのだろう、と思われる。事実、その通りだ。サキの短篇は軽快で新鮮で着想がひどく奇抜で面白く、テンポが速くてアッという間に終るが、それまでに読者はどこかチクリと刺されている。彼のペンは重い鈍器ではない。鋭い針だ。もしかしたら電気針かも知れない。
「キサが模倣した作家はない。また、サキを模倣して成功した作家もない」――ロバートスン・デイヴィス
これを日本式にいいかえれると、「サキの前にサキなく、サキの後にサキなし」ということになる。サキはそれほど独創的な短篇を書いた。着想も手法も表現も、すべて引っくるめて非常に独創的なのだが、誰にもすぐ目につくのは奇抜きわまる着想だろう。あるイギリスの批評家にいわせると、サキは「あきれ返るほど突拍子もない事態をさり気ない顔でもち出し、びっくりした読者が面白さに釣りこまれている間にチクリと急所を刺す」そうだ。しかも、その奇抜な着想が実に豊富である。
「泊まりの客の枕もとに、オゥ・ヘンリかサキか、あるいはその両方を出しておくようでなくては、一人前の主婦とはいえない」――E・V・ルーカス
サキの特質も限界もこれで一応わかる。ただし、オゥ・ヘンリとは本質的にちがうことに注意しよう。着想そのものが面白い点は似ているが、オゥ・ヘンリが感傷的なのに対しサキは皮肉で諷刺的だ。オゥ・ヘンリの題材が庶民的であるのに対し、サキのそれは貴族的・上流社会的であり、オゥ・ヘンリが誰にもわかるように書くのに対し、サキはわかる読者にはわかるように書く。たとえば、この本にえらんだ「エズミ」は「キツネ狩に参加して珍しい経験をしてた話」だが、作家としては「ある男爵夫人の肖像」と読ませたいのだろう。いちばん有名な、物いうネコ「トバモリー」も、実は「世にも不思議な物いうネコの話」ではなくて、人間社会にあびせかけた無遠慮な哄笑である。サキのユーモアは「洗練された悪意」からくる。いわゆるブラック・ユーモアの先駆者といわれるわけだ。
ベッドが変わって寝つかれない泊まり客にもってこいの読物だが、その泊まり客は読みふけって夜ふかしをしすぎない用心が必要だろう。なぜなら――
「サキの作品は欲ばって立て続けにたくさん読むべからず。少しずつ小出しに読むに限る。アペリティフの飲みすぎほど、うんざりするものはない」――ヘンリ・W・ネヴィンスン
この点、サキの短篇はすぐれた警句に似ている。ピリッときて愉快だからあとを引くのは当然だが、ほどよいところで一息入れるのが望ましい。
「すばらしいレストランを発見すると、仲よしの友達二三人にはコッソリ教えもするが、誰にでもしゃべったりはしないものだ。ところが、船酔いによくきく薬をみつけると、人助けとばかり誰にでもどしどし教えてやるものだ。それと同じことで本にも二つ種類がある。誰にでもしゃべって教えたい本と、自分ひとりでコッソリ大事に楽しみたい本だ。サキの短篇はコッソリひとりで楽しみたい本に属する。おかしな奴に教えておかしなことでもいわれたら、せっかくの貴重な発見が安っぽくなって困るからだ」
これは日本では『クマのプーさん』などでばかり有名なA・A・ミルンの言葉である。なるほどと思う。そのせいだろうか、大学でイギリス文学を専攻しながらサキの名前さえ知らない人がいくらもある。気の毒なものだ。
サキが残した短篇集は合計六冊、作品の数にして百三十五篇である。その中からTに四十四篇、Uに四十二篇えらんで訳したが、その七割ほどは最初の日本語訳だろうと思う。あとの三割も新しく訳する必要を感じて訳したものだ。
以下、この翻訳について内輪ばなしを少し書いておく。
女性の名の前におく敬称 Lady は貴族の夫人に使ったり、場合によっては令嬢にも使ったりするが、これは「夫人」と訳してたとえば Lady Anne は「アン夫人」とした。Mrs. は訳さず「ミセス」として、たとえば Mrs. Smith は「ミセス・スミス」とした。水車番の女房が「スミス夫人」だったりするのは、いまのところ日本語としてはおかしいからである。
構造のちがう日本語にうつす過程で、原文のもつ含みや香りを取り逃がしたところがいくらもある。あまり読みづらくない日本文にするため、承知の上であきらめた場合が多いが、訳者の頭と腕が未熟なため知らずに取り逃がした場合もあるだろう。しかし、原作の理解を大きくゆがめるほど怪しげな翻訳ではなかろうと思う。
残念なのは作中人物の姓名そのものの味が翻訳ではどうにもならないことだ。作品のタイトルのつけ方はあまり上手でないサキだが、人物の名はすばらしい傑作との定評がある。グレアム・グリーンも「うす気味のわるい名」と意味あり気なことをいっている。重要な人物の名には工夫がしてあるらしい。実際の世間にはとてもありそうもない名がよく出てくる。イギリス人の読者はすぐさま、この人物が諷刺の槍玉にあがるんだな、と名前からわかるものらしい。姓名そのものが、そら、こいつはおかしいな人間ですぞ、気をつけてよく見てください、と広告しているわけだ。それに対するわれわれ外国人のセンスはもちろん不十分だし、もしうまく理解したにしろ、翻訳ではどうにも仕方がないのだ。一例をあげると短篇「ガブリエル−アーネスト」は、宿なし小僧が真裸で他人の家へ入りこむ話だ。その小僧に同情してお人よしの伯母さんが「ガブリエル−アーネスト」と名をつけてやる。ガブリエルといえば大天使ガブリエルの連想もあってすばらしく壮大な名前だし、アーネストにしても誠実とか真摯とか、そんな意味を思わせる立派な名だ。その二つをハイフンでつないだどえらい名を宿なし小僧につけたわけだ。それに、ハイフン入りの名前はとかく由緒ある古い名門の家柄を思わせる。そのチグハグさがイギリス人にはひどく滑稽なのだろうし、まじめにそんな名前を考える伯母さんのナイーブさを暗示もするのだろう。気にするとそんなところがいろいろあるが、すべて翻訳文学の宿命とあきらめることにした。
サキ
一八七〇−一九一六年。本名ヘクター・ヒュー・マンロー。父親の赴任地ビルマで生まれる。母の死にともないイギリスへ帰る。新聞記者のかたわら小説を書き始め、笑いと幻想と残酷さを合わせもった短篇で人気を得た。第一次大戦で戦死。
中西秀男
(なかにし・ひでお)
茨城県に生れる。早稲田大学卒業。早稲田大学名誉教授。著書に『この多彩な英語』、訳書に『近代短篇小説』『ラーオ博士のサーカス』『ビアス怪談集』など多数。
本作品は一九七八年一一月、一九八二年八月『ザ・ベスト・オブ・サキT、U』としてサンリオより刊行され、一九八八年五月、増補新編集の上、二分冊でちくま文庫に収録された。
なお、電子化にあたり解説は割愛した。
2002年3月22日 初版発行
著者 サキ
訳者 中西秀男(なかにし・ひでお)
発行者 菊池明郎
発行所 株式会社筑摩書房
〒111-8755 東京都台東区蔵前2-5-3
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