筑摩eブックス
ザ・ベスト・オブ・サキT
[#地から2字上げ]サキ
[#地から2字上げ]中西秀男訳
アン夫人の寡黙
ある死刑囚の告白
女性は買物をするか
ガブリエル‐アーネスト
猟の獲物
ハツカネズミ
エズミ
結婚媒介人
トバモリー
ミセス・パクルタイドの撃ったトラ
バスタブル夫人の遁走
名画の背景
ハーマン癇癪王
反安静療法
スレドニ・ヴァシュター
名曲『花かずら』
ラティスラヴ
イースターの卵
聖ヴェスパルース伝
乳しぼり場へ行く道
やすらぎの里モーズル・バートン
クローヴィスの弁舌
運命の猟犬
讃歌
セプティマス・ブロープの秘密な罪悪
グロウビー・リングトンの変貌
メス・オオカミ
ローラ
マレット家のウマ
メンドリ
あけたままの窓
沈没船伝奇
クモの巣
ひと休み
最も冷酷な打撃
ロマンス売ります
シャルツ・メテルクルーメ式教授法
七番目のニワトリ
盲点
宵やみ
リアリズム的傾向
ヤーカンド方式
ビザンチン風オムレツ
ネメシスの祝祭
訳者のあとがき
アン夫人の寡黙
[#地から2字上げ]The Reticence of Lady Anne
エグバートは広々とした、ほんのり暗い応接間へ入ってきた。ここがハト小屋なのかそれとも爆弾工場なのか確信はないが、どっちだろうと構えはちゃんとできている様子だ。実は昼食のときちょいとした夫婦喧嘩をして、まだ勝負がつくところまで行っていない。だからアン夫人が戦闘を再開する気でいるにしろ止める気にしろ、その気分の程度が問題なのだ。アン夫人はティー・テーブルのそばの肘かけ椅子にかけている。ぎこちない姿勢が少しわざとらしい。十二月の午後のうす明りだから、エグバートがかけている鼻眼鏡も、夫人の表情を読み取るにはあまり助けにならなかった。
相手がどんなつもりにしろ、とにかくまず沈黙を破ろうと、エグバートは有名な詩句「宗教的なほの明り」(ミルトンの詩「イル・ペンサローソー」にある)をもち出して口を切った。冬か晩秋の午後四時半と六時の間になると、夫妻のどちらかがきまってこの文句をもち出す。それが夫婦生活の一部になっていた。それに対する受け答えに一定のきまりはない。きょうはアン夫人から何の返事もなかった。
ペルシャ絨毯の上に寝そべってドン・ターキニオは暖炉の火にあたっていた。もしかするとアン夫人はご機嫌ななめかもしれないが、そんなことは全く気にしない様子である。ドン・ターキニオは絨毯に劣らず非の打ちどころない純ペルシャ系のネコだ。二度目の冬を迎えて首まわりの毛が実に美事になりかけている。ドン・ターキニオという名はルネッサンス好みのボーイがつけた。もし放っておいたら夫婦とも必ずフラフ(「ムク」にあたる)と呼んだにちがいない。だが二人とも別にこだわりはしなかった。
エグバートは自分でお茶をついだ。夫人の方から口を切る気配がないから、エグバートはもう一息力んで手を打ってみた。
「昼食のときぼくがいったのは全くの一般論としての話なのさ」と彼は宣言した、「それをおまえ、なぜか個人的な意味に取ったらしいな」
アン夫人はやはり沈黙の防壁を崩さない。言葉の切れ目を埋めるように鳥籠のウソが『タウリーデのイフィジェニー』(グルック作のオペラ)の一ふしをおっくうらしく歌った。すぐさまエグバートはあのふしだなとわかった。このウソはそのメロディしか歌えない上に、もともとそれが歌えると前評判を聞いて買いこんだからだ。エグバートもアン夫人も実は何か『近衛兵』(ギルバート、サリヴァン共作の喜歌劇)の一ふしにしてもらいたかった。これが夫妻の大好きなオペラなのだ。こと芸術に関しては夫妻の好みはよく似ていた。二人ともはっきりわかる素朴なものがいい。たとえば絵にしても、画題がたっぷり説明してくれて一目で何のところだかわかるのがいい。乗り手にはぐれた軍馬が一頭、ズタズタの馬具を引きずって中庭へよろよろ入ってくる。そこら中どこもかしこも顔色を変えて気絶しかけた女たちだらけだ。そんな絵の額縁に『凶報』と題がついていれば、何か敗戦の悲劇を描いたんだな、と夫妻ともハッキリ理解する。これは何のところと、ちゃんとわかるから、もっと頭のにぶい友人に説明してやれるわけだ。
沈黙はまだつづいた。アン夫人は機嫌をそこねると、まず最初の四分間は黙りこみ、それから猛烈にしゃべり出す。いつもそうなのだ。エグバートはミルク壺を取ってドン・ターキニオの皿へミルクをついだ。皿にはミルクが縁まで入っていたから、ミルクが縁から汚ならしくこぼれた。ドン・ターキニオはびっくりして眺めていたが、こぼれたミルクを飲みにこい、とエグバートにいわれると、ガラリ様子を変えてわざと知らん顔をした。たいがいの役割なら引き受けるつもりでいるが、真空式絨毯掃除器の役割は別だったのである。
「ばからしいと思わないかね、こんなことをしているのは?」とエグバートは明るい声を出した。
アン夫人もそう思ったかもしれない。しかし何ともいわなかった。
「ぼくにもわるいところがあったかもしれないさ」とエグバートがつづけていった。明るい調子がだんだん消えて行く。「だが結局はぼくもただの人間なんだ。おまえ、それを忘れてるらしいな」
ただの人間、というところをエグバートはしきりに繰り返した。まるで、あなたは|牧神《サチュロス》の血を引いてるんです、身体の半分は人間でもあとの半分はヤギなんです、と根も葉もないことをいわれでもしたようだ。
ウソはまた『タウリーデのイフィジェニー』のメロディをさえずり出した。エグバートはそろそろうんざりしてきた。夫人はついでやったお茶を飲んでもいない。もしかしたらどこかわるいのかもしれない。しかしアン夫人が身体の調子がわるいのにそれを口に出していわないのとはちがうようだ。「わたしが消化不良でこんなに苦しんでいるのに誰もわかってくれないんですもの」というのが彼女のお得意のせりふの一つなのだ。だから彼女の消化不良に関する知識の欠如は、もっぱら聴覚不全にもとづくにちがいない。この問題に関する情報量はいつも一篇の論文をみたしてあまりあるほどある。
アン夫人は確かにどこがわるいわけでもなかった。
エグバートはそろそろこの態度はひどすぎると思い出して、自然と一歩一歩譲歩しはじめた。
「おそらくだね」といいながら、彼は暖炉の前の絨毯のまん中へ立ち止まった。ドン・ターキニオに少しどいてもらってなるべくまん中へ陣取ったのだ。「ぼくがわるかったのかもしれないさ。もしぼくが改めればもとの仕合わせな家庭にもどるものなら、ぼくはもっと正しく生きる努力をするよ」
一体どうしたらそんなことができるかな――そんな気持がぼんやり彼の頭に浮かんだ。中年にさしかかってから彼にもいろいろ誘惑がおとずれた。ただ小当りに当ってみにくるような、あまりしつこくからんでこない誘惑ばかりだった。クリスマスに心付けをもらいそこねた肉屋の小僧が、あのときもらわなかったというだけの理由で、二月にもなってからせがむのに似ている。彼はそんな誘惑に屈する気はまるでなかった。ご婦人がたは年がら年中、新聞や雑誌の広告に釣られて結局フィッシュ・ナイフも毛皮のボアもなしですませるが、彼はそんなものを買ってやる気はさらに起こらない。それと同じことなのだ。とはいうものの、頼まれもしないのに潜在する非行の可能性を進んで放棄するとは何と感動的な行動ではないか。
しかし、アン夫人はいっこう感動したそぶりを見せなかった。
エグバートは眼鏡ごしに不安な目をアン夫人に向けた。夫人を相手に議論してやっつけられるのは初めての経験ではない。だが一人ぜりふを並べたあげく負けいくさとは初めての屈辱である。
「そろそろ夕食だから着替えしてくるよ」と彼は宣言した。声の調子に少し凛としたところを潜ませたつもりだ。
ドアのところまで行くと弱気の虫がまた頭をもたげて、彼はまたもや哀訴をくり返した。
「ばからしいと思わないかね、こんなことをしているのが?」
エグバートが出て行ってドアがしまると、「ばか」とドン・ターキニオが頭の中で批評した。そしてビロードのような両の前脚を高く上げると、ウソの籠のすぐ下の書棚へヒラリと跳び上がった。ウソの存在に今はじめて気がついたような様子だが、実はずっと前から抱いていた行動方針を熟慮を重ねて的確に実施したのだ。ウソは今までひとかどの絶対君主を気取っていたが、突然、からだの排気量をいつもの三分の一にちぢこめ、ポトリと落ちるとよわよわしく羽ばたいてピーピー鳴き声を立てた。籠の代金は別で二十七シリングもした鳥である。だがアン夫人は手出しも口出しもするそぶりはなかった。二時間前に死んでいたのだ。
ある死刑囚の告白
[#地から2字上げ]The Lost Sanjak
刑務所付きの教誨師はこれを最後にできるだけ慰めてやろうと、死刑囚の独房へ入って行った。
「わたしがぜひお願いしたい慰めはただひとつ、わたしの一件を始めから全部のこらず、誰かまじめに聞いてくださる方にお話したいだけです」
「あまり長くかかると困るんだが」と教誨師はいって時計を見た。
死刑囚はブルブル身ぶるいをしたがそれを抑えて話をはじめた。
「世間ではわたしが暴行殺人の罪を犯したので死刑になると思っているでしょう。ところが実は、わたしが受けた教育にも自分の性格にも専門的なものが不足していたため、わたしはその犠牲になったのです」
「専門的なものの不足だって!」と教誨師はいった。
「その通りです。もしわたしがですね、|外《そと》へブリデス諸島の動物のことならイギリスでも二、三人の中に入る知識があるとか、カモエンズの詩を原語で何節も暗誦できるとか、もしそんなことができさえしたら、このわたしがいったい何者なのか、それがわたしの死ぬか生きるかの大問題になったとき、わたしはこういう者ですと直ぐ証明できたでしょう。ところがわたしの受けた教育はまずひと通りちゃんとした教育といえるばかりで、性格もごく普通で何が専門といえるところはありません。園芸と歴史と古典派の大画家のことなら広く少しは知っていますが、『ステラ・ヴァン・デル・ローペン』とは何だと聞かれると、それがキクの品種なのか、アメリカ独立戦争のときの女丈夫なのか、それともルーブル美術館にあるロムネーの名画か、即座に返事はとてもできません」
教誨師は椅子にかけたままモジモジした。もし自分もこの三つのどれだと聞かれたら、どれもこれもひどくそれらしく思えたからである。
「わたしは村の医者の奥さんに恋をしました、もしかしたら恋をしたと思っただけかも知れませんが」と死刑囚は話をつづけた。
「なぜそんな事になったのか自分でもわかりません。どう考えてもその奥さんは頭も身体も特に魅力的なところが全然ないからです。あの頃のことをあれこれ考えますと、どうもその奥さんはごく平凡な女だったとしか思えません。しかし、おそらくその医者もかつてはその奥さんと恋に落ちたはずですね。人のやった事ならおれにもできる、というわけです。相手はわたしがいろいろチヤホヤするとお気に召した様子でした。だから少なくとも相手からも水を向けてきた、とはいえるでしょう。しかし、わたしがただの近所づき合い以上に特別深い気持だったとは全然気がつかなかったと思います。この通りいよいよ死に直面しますと、本当のことをいっておきたいのでいうのですが」
教誨師は口の中で何やらそれが本当というようなことをいった。
「それはとにかく、ある晩、医師がるすなのにつけこんで、自分では恋愛だと思いこんでいる心の中を打ち明けますと、相手はしんからびっくり仰天しました。そして二度と姿を見せないでくれというんです。そういわれると承知するより仕方がありません、どうしたら姿を見せずにいられるか、それは見当もつきませんでしたが、こんなのは小説や芝居に必ず出てくることは知っていました。思う相手の気持や考えを勘ちがいすると、きまってインドへ渡って奥地で労働するものなんですね。医者の玄関から門までよろよろ出てくるときは、これからどうするかきめてもいませんでしたが、寝る前にタイムズ社版の世界地図帖は見なけりゃならんとボンヤリ思ってはいました。ところが人通りのない暗い往来へ出ると突然死体にぶつかりました」
教誨師は急に話に興味がわいたらしい。
「服装で見ると救世軍大尉の死体でした。何かひどい事故でやられたらしく、頭はつぶれてとても人間とは見えません。こりゃ自動車にはねられて死んだな、とわたしは思いました。とたんにまた別な考えが有無をいわせず強引にわたしの頭にとりつきました――これこそチャンスだ、わたしという人間をかき消して、永久に医師の奥さんに姿を見せなくする絶好のチャンスだ、と思いついたのです。苦しい危険な船旅をして遠い国へ行ったりせず、一人として目撃者のない事故で命を失くした正体不明の人間と服を取り替えさえすれば、その人間になりすませるわけです。わたしは大骨折って死体から服を脱がせて、自分が着ていた新しい服を死体に着せました。うす暗いところで救世軍大尉の死体に服の着替えをさせたことのある人なら、どんなに骨が折れたかわかると思います。医師の奥さんをくどいてかけ落ちすれば、どこへ住もうと生活費はわたしが出すことになる――あらかじめそう考えてポケットに紙幣をしこたま詰めこんでいました。すぐ|金《かね》になるものはほとんど残らず紙幣にしておいたわけです。ですから正体不明の救世軍士官になりすましてコッソリその場を逃げ出しても、その程度のささやかな暮らしならかなり長く暮らすだけの|金《かね》はたっぷりありました。そこでわたしは近くの町へ堂々と乗りこみ、もう夜は更けていましたが安いコーヒー店で二、三シリング出すと夕食とひと夜の宿にありつきました。翌日はあてもなく出かけて町から町へ放浪しました。もうその頃は急に気まぐれを起こしてこんな事になったのに少し厭気がさしていましたが、二、三時間もするとますます厭になりました。土地の新聞の広告ビラを読むと、このわたしが殺されて犯人不明との記事が出たようです。最初はこりゃ面白いぞと変な好奇心を起こして、新聞を買って殺人事件の詳細を読んでみると、犯人は各地を放浪していた前歴不明の救世軍士官らしいとあります。犯行の現場に近い往来にひそんでいるのを見かけた者があるんですね。こうなると面白いどころではありません。困った事になりそうだなと思いました。自動車にはねられたんだと思ったのはわたしの勘ちがいで、兇悪な暴行殺人事件だったのです。真犯人が見つからない限り、わたしがこの事件に巻きこまれたいきさつの説明はそれこそ困難でしょう。もちろん、わたしの身元はこれこれと証明はできますが、なぜ被害者と服を交換したのか、それをちゃんと説明するとどうしても医師の奥さんを困る立場に引きこむことになります。この問題、どうしようかと必死に考えるうち、わたしは知らず知らず第二の本能に従いました――現場からできるだけ遠く逃げよう、そして着ている救世軍の制服を何としてでも脱ぎ捨てようとね、そんなもの着ていたらすぐつかまりますから。ところがそれが困難でした。二、三軒、小さな古着屋へ入ってみましたが、わたしが行くと必ず店の者が怪しい奴が来たなと目をつけて、ぜひ新しい着替えを売ってくれと頼んでも、何とか口実をつけて売ってくれません。うっかり着こんだ救世軍の制服がどうにも脱げないんです。そら、あの何とかいう奴の命取りになったシャツみたいに……何とかいいましたね、名前を忘れましたが」(ギリシャ神話のネサスのシャツの故事をさす。ネサスの血に浸したシャツを着せられたため豪傑へラクレスはその毒によって死んだ)
「わかった、わかった。それでどうした?」と教誨師はせき立てた。
「着ていれば罪に落ちるにきまっているこの制服を脱がないかぎり、警察へ自首して出るのも何となく心配でした。ただどうも変だと思ったのは、どこへ行っても怪しまれながら、誰もわたしをつかまえようとしません。どうにも離れない影みたいに嫌疑の目がどこへでもついてくるんですよ。わたしの姿を見ると人がみなじっと見つめたり、肘つき合ったりコソコソ話し合ったり、中には『あいつだ』と大声でどなる奴さえあります。ごくけちくさい不景気な飲食店でも、わたしが入るとたちまち客が大勢入ってきてコソコソわたしを見つめます。王族の方々はこっそり何か小さな買物でもしようとすると物見高い世間にじろじろ見つめられる――その気持が少しわかりましたよ。それでいてこれだけ黙ってつけ廻されながら――これがひどく神経にさわりますね、正面から立ち向かってこられた方がましですな――どう歩き廻っても誰ひとり手は出しません。そのうちようやくその理由がわかりました。あの淋しい往来で殺人事件のあった前後、近くに警察犬の競技大会がつづいていたので、訓練した警察犬約十八組に殺人被疑者の跡を――つまり、このわたしの跡をつけさせたんです。ロンドン発行の日刊新聞の中でもっとも公共的精神のある社が、いちばん早くわたしを突きとめた組の飼主に巨額の賞金を出していましたし、どの組が優勝するか賭をするのが全国的に大流行でした。警察犬どもは広く十三州をかけ廻り、わたし自身の動きはもう警察にも一般にも完全にわかっていましたが、イギリス全国民のスポーツ精神があまり早くわたしをつかまえるなと干渉しているのです。田舎の警官などが手柄をあせって、いつまでも法の手を逃げているわたしをつかまえようとしても、世間一般が『イヌにチャンスをあたえろ』という気持でした。結局わたしは一組の優勝犬につかまりましたが、それもあまり目ざましい手ぎわじゃありません。事実、もしわたしの方から声をかけて頭をなでてやらなかったら、全然わたしに気がつかなかったくらいですからね。ところがその結果、優勝の判定に異議をとなえる者が現われて猛烈な論争になりました。決勝点へ二着でとびこんだ組の飼主はアメリカ人でしたが、その男が異議を申し立てたのです。優勝組の血統には六代前に|カワウソ犬《オター・ハウンド》の血がまじっているが、賞金は最初に犯人をつかまえた|警察犬《ブラッド・ハウンド》にあたえられる規定ではないか。カワウソ犬の血が六十四分の一まじっているイヌは専門的に見て|警察犬《ブラッド・ハウンド》とは考えられない、という理由でした。結局どう決着がついたか忘れましたが、大西洋をはさんで激烈な論争が巻き起こったものです。この論争に対してわたしは発言しました――真犯人はまだ逮捕されていないからこの論争はまるで見当ちがいだ、と指摘したのです。ところがすぐわかりましたが、この点、一般の世論も警察の意見も全く一致して動きません。わたしはいやいやながらもやむを得ず身元を明かした上で、なぜ救世軍大尉に化けたかその動機も立証するつもりでいました。ところが、これもたちまちわかりましたが、困ったことにそれが不可能なのです。鏡で自分の顔を見ると、もとの穏やかな顔つきに、過去何週間かにわたる経験のため、追跡される人間のやつれ果てた人相がハッキリ現われています。なるほどこれでは無理もない、とわたしは思いました。わずか三、四人の友人や親戚も、変わり果てたわたしの人相を見てこれは断じてわたしではないと言いはり、往来で殺されたのがわたしなんだ、と声をそろえて頑固に主張するんです。その上、困ったことに、まったくまったく困ったことに、本当に殺された男の伯母さんというのが――これは知能の低いこと明白な恐ろしい女ですが――わたしのことをこれは確かに自分の甥だというんです。そしてわたしが若い頃どんな道楽者だったか、せっかく直してやろうとどんなにひっぱたいてもだめだったとか、あくどい話を当局にしましてね。たしかわたしの指紋まで調査しろといったはずです」
「だが君の学問のあるところが何とか……」と教誨師がいった。
「それが大事なところなんですよ。専門的知識の不足がわたしの命取りになったのはそこなんです」と死刑囚はいった、「わたしはうっかり救世軍大尉になりすましたばかりに悲惨な結果を招いたわけですが、その大尉というのが安手の現代教育をほんの一皮かぶっただけの男でした。ですからそんな奴とは全然レベルのちがう学問があるぞ、と立証するのは簡単なはずでした。ところがわたしは興奮のため、テストをされてもその度ごとに大失敗をやらかしました。少しばかり知っていたフランス語さえ蒸発してしまいましてね、畑で作るグズベリが何とかという短い文句さえフランス語に訳せません。第一、グズベリのフランス語は何だか、それさえ忘れる始末なんです」
教誨師は椅子にかけたまま、また尻をモジモジ動かした。
「やがて最後の大失敗です」と死刑囚はまた話をはじめた、「わたしの村にはささやかな討論クラブがありましてね、たぶん医者の奥さんを感心させて気を引こうとしたのでしょう、バルカン問題の危機についてわたしが短い講演をする約束がしてありました。材料は定評のある本が一、二冊に雑誌のバック・ナンバーで十分集まると思っていました。ところが検察当局は、わたしがその人間だと主張している人物――事実わたしがその本人なのですが――その人物が村ではバルカン問題に関する受け売りの大家を気取っている事にちゃんと目をつけていましてね、些細なことに質問をつぎつぎあびせながら、まったく出しぬけにノヴィバザール(バルカン半島南部の州。バルカン戦争のときセルビヤがトルコから奪った)はどこにあるか、と質問しました。これは重大な質問だな、と思いましたよ。何となく答はペテルブルグ(レニングラードの旧称)かベーカー・ストリート(ロンドン市にある。シャーロック・ホームズの事務所があったので有名)だという気がします。わたしは一時ためらって、ずらりと並んで答いかにと見守る人々の顔を途方にくれて見わたすと、腹をすえてベーカー・ストリートだと答えました。とたんに万事休すです。いやしくも近東問題に通じている人物なら、かくも無造作にノヴィバザールの所在地を変更することはあり得ない、と検察側はたちまち断定を下しました。つまり、あの救世軍大尉ならしそうな返事を、このわたしがしてしまったのです。これで救世軍士官が犯人だという状況証拠は絶対確実となり、しかもわたしはまぎれもなくその救世軍士官だと立証されました。そんなわけでわたしはあと十分間すると、自分自身を殺した罪の報いとして絞首刑になる破目に落ちたんですよ。全然ありもしない殺人事件ですから、どのみちわたしは当然無罪のはずなんですがね」
十五分ばかりして教誨師が自宅へもどると、刑務所の塔に黒い旗が上がっていた。食堂にはもう朝食の仕度ができていたが、彼はまず書斎へ行ってタイムズ社版の世界地図帖を取ると、バルカン半島の地図をしらべた。
「誰にしろいつ何どきあんな目に合うかも知れないな」と、彼は地図帖をバタリと閉じた。
女性は買物をするか
[#地から2字上げ]The Sex That Doesn't Shop
ウェスト・エンドの大通りに女性向きの大ショッピング・センターがオープンした。それを聞いてふと考えた――いったい女性は本当に買物をするのだろうか? 女性は花から花とたずねて廻るミツバチのように、実に勤勉に買物に出かける。これはもちろん確実な事実だ。だが女性は買物という言葉の実際的な意味において果たして買物をするだろうか? 金があり暇があり活動力があり、固い意志をもって一廻り売買取引をやってくれば、当然の結果として家庭の日常必需品はいつもちゃんと取りそろっているはずだ。ところが女性の使用人どもは(階級を問わず主婦もまた)あらゆる日常必需品を面目にかけて切らしておく。これまた隠れもない事実である。たとえば「木曜日までに洗濯のりが切れますわ」と災難の予言めいたことをいう。それでいて木曜日になるとちゃんと洗濯のりを切らしてしまう。いつになると切れてなくなるか、ほとんど何時何分というほど的確に予言しておきながら、もしその木曜日が商店の早じまいの日に当ったりすると、彼女らはそれこそ大得意になる。洗濯のりを仕入れて小売する店ならおそらくどこにでもあるだろうが、そんなわかりきった供給源は女性のお気に召さない。「あの店では買いませんの」ときめつけられて、その店はたちまち人類が踏みこまないところになる。ちょうどヒツジをおそう癖のあるイヌが自分のうちの近所ではけしてヒツジをおそわないように、女性も自宅のすぐそばの店ではけして買物をしない。これは注目すべきことだ。供給源が遠ければ遠いほど、必需品を切らす決意はますます強固になるらしい。おそらく、ノアの箱船が最後の係留地をあとにして五分とたたないうち、誰か女がうれしそうな声で小鳥の餌の欠乏を告示したことだろう。つい二、三日前のことだが知り合いの女性二人から、ランチ・タイムの直前に人に来られて精神の安定を失った、と告白された。「うちには何もありませんでした」ので来客にランチを出せなかったのだ。そこでぼくは指摘した――近所に食料品屋がいくらでもあるじゃありませんか、五分とかけずにまずまずのランチがすぐできるでしょうに。ところが凛とした顔つきで「それは思いつきませんでした」という。ぼくは何かいかがわしいことでも勧めたような気がした。
しかし、女性の買物能力が完全にくじけるのは、書物に対する欲求をみたそうとするときだ。たとえば、何か本を出して少し評判がよかったりすると、顔を合わせても目礼するほどでもない知り合いの女性から、必ず「あの本はどこで買えますか」と問合わせの手紙がくる。本のタイトルも著者の名前も出版社も知っていながら、実際に手に入れるにはどうするのか、彼女にはそれが未解決の問題なのだ。そこで返事を出す。金物屋や穀物商へ出かけてもなかなか手に入らなくてがっかりするだけでしょうと注意した上、本屋へ頼んでごらんなさい、それが一番見こみのある手段です、と教えてやる。一日二日するとまた手紙が来る――「ちゃんと手に入りました。あなたの叔母さまから拝借いたしましたので」これはもちろん、「ショッピング超越者」の一例で、「もっといい手」を心得ている女だ。だがこんなバイパスを使って切りぬける道がないと、女性はやはり途方にくれて手も足も出ない。先日、ウェスト・エンドに住んでいるある女性から、ウェスト・ハイランド・テリヤが好きで、この品種のイヌのことをもっと知りたいんです、と聞かされた。すると二、三日あと、一番有名な動植物関係の週刊誌の最新号にウェスト・ハイランド・テリヤの行き届いた記事が出たので、手紙で知らせて何月何日号ですよ、とまで教えてやった。すると電話で「あれが買えませんの」といって来た。事実、買えなかったのだ。たぶんロンドン市には新聞雑誌の売場が幾千とあるだろうし、毎日買物に出たときそんな売場の前を何十カ所も通ったにちがいない。しかし彼女に関する限り、そのウェスト・ハイランド・テリヤの記事は、東チベットのどこかにある仏教修道院所蔵の祈祷書に出ているも同然なのだ。
男性はぞんざいな行き方でズバリと買物をするが、女性はそれをはたで見ながら心でせせら笑って見下げるものだ。同じようにネコはきっとテリヤを軽蔑するのだろう。ネコはトガリネズミを一匹とると夏の日永の昼すぎ大部分つぶしてその一匹にかかりきり、どうかするとなくしてしまったりするが、テリヤはネズミ一匹つかまえると全力あげて十秒で片づけるからだ。二、三日前の午後のことだが、あまりたくさんでもない買物を控えを見ながらすませかけると、ある知り合いの女性に見つかってしまった。もちろん三十年前に名付親がつけた名前があるがそれは棚上げにして、まずアガサと呼んでおこう。
「まあ、まさか吸取紙をこんな店でお買いになるんじゃないでしょうね」と、心配そうに声をひそめていう。しんの底から心配そうなので、ぼくは出しかけた手を引っこめた。
「ウィンクス・アンド・ピンクス商店へ参りましょうよ」と店を出るなりいう。「あそこだとすてきな色の吸取紙がいろいろありますのよ――パールでもヘリオトロープでもモミーでも――」
「でもぼくがほしいのは普通の白なんです」とぼくはいった。
「大丈夫ですよ。わたしのこと、よく知ってますから」と取り合わない。どうやらアガサの考えでは、吸取紙というものは危険な用途、もしくはいかがわしい用途に使用するおそれなしと信じられる身元確実な者に限ってごく少量ずつ販売する品らしい。二百ヤードばかり行くうち、アガサはぼくの吸取紙より自分のお茶の時刻の方がさし迫った大問題という気になった。
「吸取紙を何にお使いになりますの?」とだしぬけに聞く。ぼくは根気づよく説明した。
「書きたての原稿を乾かすのに使うんです、字をよごすと困りますからね。たしかキリスト紀元前二世紀に中国人が発明したんですね、よくは知りませんが。ほかの使い道といっては、まるめてコネコのおもちゃにするぐらいのもんでしょうな」
「でもコネコはお飼いになってないじゃありませんの」とアガサはいった。たいがいの場合、女性はとかく全面的真実をもち出したがる。
「いつ何どき一匹まよいこんでくるかわかりませんからね」とぼくは返事した。
とにかく、結局、吸取紙は買えずじまいだった。
ガブリエル‐アーネスト
[#地から2字上げ]Gabriel-Ernest
「君のお宅の森には野獣が一匹いるね」と画家のカニンガムがいった。駅まで送られて行く馬車の中のことだ。馬車の中ではそのひとことしかいわなかったが、ヴァン・チールの方はしゃべり通しで、相手が黙りこんでいるのに気がつかなかった。
「キツネが一、二匹まよいこんでるのとイタチが何匹か住みついてるだけさ。別にこわい奴はいない」とヴァン・チールはいった。画家は何ともいわなかった。
「野獣がどうかしたのか?」あとになって駅のホームへ出てからヴァン・チールはたずねた。
「何でもないさ。ぼくの気のせいだ。やあ、汽車が来たぞ」
その日の昼すぎ、ヴァン・チールはいつものように自分の地所にある森へ散歩に出かけた。書斎にはサンカノゴイの剥製をおいておくし、野草の花の名はいろいろよく知っている。だから伯母がこの甥のことを大した自然研究家だというのも、少しは根拠があったのかもしれない。とにかくヴァン・チールはよく山や野原を出歩いた。歩き廻るうち見かけたものは何でも心にとめておく。現代科学に貢献しようというよりも、あとで話の種にするためなのだ。ツリガネソウの花が咲き出すと必ずそれを誰にでも話す。わざわざ教えてくれなくても季節が来ればわかることだが、とにかく何でもあけすけに話す男だな、と誰も思っていた。
ところがこの日、ヴァン・チールは一度も見たことのない恐ろしく変わったものを見かけた。カシの林の窪みに深い池がある。その上へ突き出した平らな岩の上に、十六歳ぐらいの男の子がいい気持そうに長々と寝そべって、ぬれた茶色の肌を日に乾かしていた。いま水から上ったばかりらしく、ぬれた髪の毛が幾筋かにわかれてベッタリ頭の地肌についている。薄茶色の明るい目がまるでトラの目のようにギラリと光る。そのギラリとした目をけだるそうに、だがゆだんなくヴァン・チールに向けた。思いがけないものの出現でヴァン・チールはいつになく考えた。口を開く前にまず考えるのは彼としては珍しい。一体この野生じみた男の子はどこから来たんだろう? 二カ月ばかり前、水車屋の女房の小さな子供がいなくなり、水車へ落ちる導水路に流されたらしい、という話があるが、それはまだほんの赤ん坊だ。こんなおとなになりかけた男の子ではない。
「何してるんだ、そこで?」と彼はなじった。
「きまりきってらあ、日なたぼっこさ」と子供がいった。
「どこに住んでる?」
「この森の中」
「森の中に住んでいられるものか」
「いい森だよ、ここは」という声に自分の森ときめこんだ調子がある。
「でも日が暮れたらどこで寝る?」
「夜は寝てやしないよ。夜が一番忙しいんだ」
ヴァン・チールはイライラして来た。どう組みついてもスルリと逃げられるような気がする。
「何を食べてる?」と聞いてみた。
「肉だよ」と返事したが、ニクというとき、いま現に肉を食べてでもいるようにうまそうな口つきをした。
「肉? 何の肉だ?」
「聞きたいのか。ウサギの肉、野鳥の肉、野ウサギの肉、ニワトリの肉、食べかげんのコヒツジの肉、それに手に入れば人間の子供も食うな。たいがい夜になってから猟をするんだが、人間の子供はいつも日が暮れるとちゃんと錠が下りていて困るんだ。かれこれもう二カ月も子供の肉は食べてないな」
最後の言葉はからかい半分らしい。それは聞き流して、密猟でもしてるんじゃないかと、ヴァン・チールはそれをしゃべらせようとした。
「野ウサギの肉を食うだなんて、しゃれたうそをつくな」(子供の身支度を考えると「しゃれた」は当らない)「この山の野ウサギはとてもつかまらんぞ」
「夜になると四つん這いになって捕るんだ」と、少し腑に落ちない返事が来た。
「イヌを使って捕るんだろう」とヴァン・チールはいってみた。
子供はゆっくり寝がえって仰向きになると、薄気味わるく低い声で笑った。クスリと笑ったような、ウーッと唸ったような、いい気持そうだが気味のわるい笑い方だ。
「おれについて来たがるイヌなんていやしないぞ。夜はなおさらだ」目つきも変なら口のきき方も変だ。ヴァン・チールはそろそろハッキリ気味がわるくなった。
「この森へはおいとかないぞ」と彼はキッパリいいわたした。
「うちの中にいられるよりここの方がましだろう」
きちんと片づいたうちの中にこの野育ちの、まる裸のけだものが――と思うとギョッとせずにいられない。
「出て行かなけりゃ追い出してやる」とヴァン・チールはいった。
男の子はヒラリと身をひるがえすとザブンと池にとびこみ、アッという間に濡れて光るからだをヴァン・チールが立っている土手の中腹へ投げ出していた。カワウソだったら珍しい動作でもないが、人間の子供だからヴァン・チールはびっくりした。思わずあとじさりしたとたんに、足がすべって、すべりやすい草一面の土手へバッタリ倒れた。あのトラのように黄色い目がこっちの目をまぢかに睨んでいる。彼は思わず片手で喉元をおさえかけた。子供はまた笑った。今度はクスリ笑いの方は取りやめて唸り声だけ残したような笑い声だ。すると、またもやヒラリと稲妻のように跳ね起きると、シダや雑草の茂みをわけて姿を消した。
「おどろいたけだものめ」と、ヴァン・チールは跳ね起きながらいった。が、とたんにカニンガムの言葉が頭に浮かんだ、「お宅の森には野獣が一匹いるね」
ゆっくりとうちの方へ歩きながらヴァン・チールはあれこれと思いめぐらした。この界隈にあったいろいろの事件で、あのけしからぬ蛮人の子供の存在につながるのがありはしないか、と考えたのだ。
近ごろ、何にやられるのか森の鳥獣がへって来ているし、近所の農家でもいなくなったニワトリがある。野ウサギがどんどんへるのもなぜだかわからない。丘の上からはコヒツジがそっくりさらわれたと苦情も来ている。この野育ちの子供が利口な密猟犬でも使ってこのへん一帯あらし廻っているのだろうか。日が暮れると「四つん這いで」獲物を捕るといっていたぞ。だがまた、おれについて来たがるイヌなんてありゃしない、夜はなおさらだ、と妙なこともいっていた。どうも不思議だ。ヴァン・チールはこの一、二カ月のあちこち荒らされた話をいろいろ思いめぐらしながら歩いていた。ふと思い当ることがあって足の歩みも頭の思案もバッタリとめた。二カ月前に水車屋の赤ん坊がいなくなって導水路へころげこんで流された、というのが世間一般の見方だが、その子の母親はうちからは丘の方角、つまり川とは反対の方角でキャーッと声がしました、といいはっている。もちろん、とても考えられないことだが、かれこれ二カ月、子供の肉は食べてないと、あいつ、不気味なことをいっていた。いやなことを聞かせやがったな。そんな恐ろしいことは冗談にもいうもんじゃない。
ヴァン・チールはきょうに限って森の中での発見を人に話す気になれなかった。そんなけしからぬ人間を自分の地所にかくまっていると知れたら、教区評議員でもあり治安判事でもある自分の立場に傷がつく。コヒツジやニワトリの損害賠償をうんと請求される心配もある。だからその晩の夕食のとき、彼はいつになく口数が少なかった。
「ものがいえなくなったのかい?」と伯母はいった、「まるでオオカミにでもあったようだね」
オオカミにあうと口がきけなくなる、といういい伝えがある。ヴァン・チールはそれを知らなかったから、伯母さん、ばかげたことをいうな、と思った。もし自分の土地で本当にオオカミを見かけたのなら、それこそ盛大にしゃべりまくるはずなのだ。
翌朝の朝食のときになっても、きのうの一件がどうも不安で、まだ何となく気が落着かない。そこで近くの大寺院のある町まで汽車に乗りカニンガムをたずねて、うちの森に野獣が一匹いるといったのは一体どんなものを見たのか聞き出すことにした。そう決心がきまるといつもの快活さもやや取りもどして、まずいつものように一服しようと陽気に鼻歌をうたいながら、ぶらりと居間の方へ出向いて行った。居間へ入ったとたん、鼻歌がバッタリやんでビックリ仰天した声に変わった。あの森の中の男の子が長椅子に品よく長々と寝そべって、少しわざとらしいほどゆったり構えている。きのうのように濡れてはいないが、身仕度はどこも変わったところがない。
「よくも入りこんだな、ここへ?」とヴァン・チールはカッとしてどなりつけた。
「森の中にいてはいけないといったじゃないか」と子供は落着きはらっている。
「うちの中へ入れとはいいやしないぞ。伯母さんに見つかったらどうする!」
伯母に見つかったらそれこそ大騒動になる。それを何とか小さくすませようと、ヴァン・チールは大あわてにあわててこの迷惑な来客にモーニング・ポースト新聞をひろげてかけた。できるだけ裸を隠そうとしたのだ。そこへ伯母が入って来た。
「道に迷った子供なんです――記憶もなくしてますよ。自分が誰だかどこから来たのか、それもわからないんです」とヴァン・チールは必死に説明しながら、心配そうに目を宿なし子に向けた。まる裸だけは何とか隠したが、野蛮な癖をいろいろさらけ出されては困る。
伯母はものすごく感動した。
「下着に何かしるしがあるでしょう」といい出した。
「下着なんぞもたいがい失くしてるんです」と、ヴァン・チールはモーニング・ポースト新聞がずり落ちないよう、一所懸命あちこち抑えた。
伯母はまる裸の宿なし子にすっかり同情してしまった。迷いこんだコネコか捨てイヌも同じである。
「できるだけの世話はしてやらなけりゃ」と伯母はいって、まもなく牧師館へ使いを出した。牧師館には給仕が一人いる。給仕の服一着とシャツに靴にカラーなど一式借りてこさせた。服を着せてちゃんと身づくろいしてもやはり気味のわるい子供なのだが、伯母の目にはかわいい子と映るのだ。
「本名がわかるまでかりに何とか名前をつけなくてはね」と伯母はいった、「ガブリエル‐アーネストときめましょう、この子にピッタリのいい名だから」
ヴァン・チールも賛成はしたが心では、果してこの名にピッタリのいい子かな、と首をひねった。それに、かなり年をとっていつもあまり動かないスパニエルが、子供が来るなりパッと外へ飛び出したきり、身ぶるいしたりワンワンほえたり果樹園の奥から一歩も出てこない。カナリヤにしてもいつも飼主に劣らずせっせとさえずるのに、脅え切ってほんのときたまピーピー鳴くだけだ。それに気づくと彼の不安はますますつのった。少しでも早くカニンガムに聞いてこよう、という気持がいよいよ強まった。
ヴァン・チールが馬車で駅へ出かけようとしたとき、伯母は昼すぎからお茶に呼んである日曜学校の子供の相手をガブリエル‐アーネストにも手伝わせようと、それをいいつけていた。
カニンガムは最初あまり話したがらなかった。
「実はね、ぼくは母親が何か脳の病気で死んでるんでね」と画家は事情を説明した、「だからわかってくれたまえ、何かおかしなものが見えたり見えた気がしたりしても、あまりくわしく話すのは気が進まないんだ」
「だが一体何が見えた?」とヴァン・チールはしつこく聞いた。
「とんでもないものが見えたような気がしたんだ。どんなに気の確かな人が確かに見たといっても、これは誰も信用しないだろうな。君のうちに泊まっていた最後の晩のことだ。果樹園の門のそばの茂みに半分かくれたように立ちどまって、夕焼空がだんだん薄れて行くのを眺めていた。ふと気がつくとまる裸の男の子が一人、近所の池から上って来たんだろうと思ったが、それが立木の一本もない丘の斜面に立ったまま、やはり夕焼を見ているんだ。その姿勢がギリシャ・ローマ神話の半人半獣の神ファウヌスそっくりだ。すぐさま、ひとつあれをモデルに頼もうと思いついて、今にも声をかけようとした。ところがその瞬間、夕日がスーッと沈んでオレンジ色もピンク色もすっかり消えて、あたり一面つめたい灰色になった。それと同時におどろくべきことが起こった――その子供が消えてなくなったんだ」
「何! 消えてなくなった、すっかり?」とヴァン・チールは胸をはずませた。
「いや、すっかりじゃない。それが一番いやなんだが」と画家はいった、「立木の一本もない丘の、つい今しがたそいつが立っていたところに、今度は大きなオオカミが立っていた。黒々した姿でキバは光ってるし目が黄色で物すごいんだ。君が考えると――」
だがヴァン・チールは考えるようなむだはしなかった。全速力で駅の方へかけ出していた。電報を打つのはやめにした。「ガブリエル‐アーネストハヒトオオカミダ」と打っても、相手に事情はまったくわかるまい。この電文、暗号らしいが|鍵《キー》を教えるのを忘れたな、と伯母は思うだろう。とにかく日が沈まないうちに帰りつくよりほかに手はない。駅で下りると馬車を雇ったがジリジリするほどゆっくり田舎道を行く。あたりは沈みかけた夕日をあびてピンクとフジ色に染まっている。ようやく帰りつくと伯母は食べ残しのジャムやケーキを片づけていた。
「ガブリエル‐アーネストはどこ?」と彼は悲鳴に近い声を出した。
「トゥープスさんのところの小さな子を送って行きましたよ」と伯母がいった、「おそくなりかけたんでね、一人で帰すのは心配だったの。まあ、きれいな入り日じゃない?」
ヴァン・チールは夕焼空の美しさに気づかないわけではないが、ゆっくり入り日の美しさを話し合ってはいなかった。彼は柄にもないスピードで小道をトゥープス家へ向かってかけ出していた。片側は水車の川の急流だし、片側はまっ赤な入り日のへりがまだ山ぎわに残っていて、それがどんどん細くなる。木立のない丘の斜面が向こうへ高まっていた。つぎの角を曲ればちぐはぐな二人連れの姿が見えるにちがいない。そのとき突然、あたりからパッと色が消えてゾッと冷えると同時に見わたす限りほの暗くなった。けたたましい悲鳴が聞こえてヴァン・チールは立ちすくんだ。
トゥープス家の子供もガブリエル‐アーネストもそれきり姿は見せなかった、ガブリエル‐アーネストに着せた服が道に脱いであった。きっと子供が川に落ちたんだろう、それを助けにアーネストが裸になって飛びこんで、結局は力がつきたんだろう、ということになった。ヴァン・チールのほかにも近くに工夫が幾人かいて、服が脱いであった場所の近くで子供の悲鳴がハッキリ聞こえた、と証言した。水車屋の女房はほかにも子供が十一人あるから、一人なくしてもおだやかにあきらめた。しかしヴァン・チールの伯母はあの宿なし子をなくして心から悲しんだ。
「ガブリエル‐アーネスト。人命救助のためけなげにも命をささげし身元不詳の少年」を記念する真鍮板が教区の教会堂の壁に取りつけられたのも、ヴァン・チールの伯母が発起人になってまとめたのである。
ヴァン・チールはたいがいのことは伯母のいうなりになる男だが、ガブリエル‐アーネスト記念碑に寄付金を出すのだけはピッタリ拒絶した。
猟の獲物
[#地から2字上げ]The Bag
「パラビー大佐がお茶にいらっしゃるのよ」とミセス・クーピントンが姪のノーラにいった。
「いまウマを廐舎へつれていらしたわ。できるだけ明るくほがらかにしてね、あの方、いまふさぎこんでいらっしゃるんだから」
パラビー大佐は環境の犠牲者だった。環境を左右する力はもちろんない。短気な気性の犠牲者だが、それを抑える力もほとんどない。ペクスデール狩猟クラブの|会長《マスター》をしているが、評判のよかった前任者が委員会と衝突してやめたあとを引き受けたら、会員の少なくとも半分は反感をむき出しに見せるし、気がきかない上に愛想もわるいからあとの連中からもそっぽを向かれた。だから会費の納入はへるし、かんじんのキツネもおそろしく少なくなるし、針金を張って猟の邪魔をされることがだんだん多くなるし、ときどきふさぎこむのも当然だった。
ミセス・クーピントンはパラビー大佐を支持する側に廻っているが、それには大きな理由がある。なるべく早く大佐と結婚する方針なのだ。大佐が短気で怒りやすいのは有名だが、年収が三千ポンドある上にやがては|男爵《バロン》の爵位を相続することを考え合わせると、結局大佐に分があることになる。大佐の方はこの結婚ばなしにまだミセス・クーピントンほど乗り出してはいないが、このごろはそろそろ世間の噂にのぼるほど、たびたびミセス・クーピントンのところへ通うようになった。
「昨日の猟だって参加者がひどく少なかったのよ」とミセス・クーピントンはいった、「おまえ、どうしてひとりふたり誘ってこなかったの? あんなバカなロシヤ人の青年なんぞ連れてきて!」
「ウラジミールはバカじゃありませんよ」と姪のノーラはいい返した、「あんな面白い人、わたし始めてだわ。いつも猟にやってくる面白くもない連中なんぞよりずっと……」
「だってノーラ、あの人、ウマに乗れないんじゃないの」
「ロシヤでは誰も乗らないんですよ。でもあの人、猟銃はちゃんと撃てるわ」
「そりゃ知ってるけど、おかしなものばかり撃つのね。昨日はキツツキを獲物袋へ入れて帰ってきたわ」
「でもキジ三羽とウサギも二、三羽撃ってきてよ」
「そんなもの撃ったってキツツキなんぞまで撃ってくるんじゃしょうがないじゃないの」
「外国人はイギリス人とちがっていろんなもの撃つのよ。ロシヤでは皇帝陛下の王子でもハゲタカまで撃つんです、イギリスでガンをねらうみたいに。でもとにかくウラジミールにいっときましたわ、鳥によっては撃つと狩猟家の恥になるのもあるんですよ、って。あの人、まだ十九歳でしょう、だから恥になるようなこと絶対やりゃしないわ」
ミセス・クーピントンはフンと鼻を鳴らした。たいがいの者はウラジミールに接すると感染して明朗快活になる。だが彼を泊めているこの家の主婦ミセス・クーピントンは絶対そんなものに感染しないたちだった。
「そら、あの人、帰ってきたらしいわ」と彼女はいった、「わたし、身仕度をしてくるからね、お茶のときの用意に。お茶はこの広間で頂くとするわ。もしわたしが下りてこないうちに大佐がお見えになったらお相手していてね。せいぜい気をつけて明るくするんですよ」
ノーラは何から何までこの伯母の世話になって気楽に暮らしている身の上だ。だから単調な田舎暮らしに変化をつけるたしになろうとロシヤ人の青年を連れてきたのだが、伯母にはそのウラジミールの印象がよくないのにがっかりしていた。しかし当のウラジミールはそんなことはまったく気がつかない。いきなり広間へ飛びこんできた。疲れ切って身仕舞もいつもより乱れているが、断然はればれと明朗である。獲物袋もたっぷりふくらんでいた。
「何を撃ってきたか当ててみたまえ」と彼は返答をせまった。
「キジかジュズカケバトかウサギでしょう」とノーラは当てずっぽうに答えた。
「ちがう。大きなけものなんだ。英語で何というか知らないけど、茶色で尾っぽが黒ずんでる」ノーラは顔色を変えた。
「そのけもの、木の上にいて木の実を食べる?」とノーラはたずねた。相手はいま「大きな」と形容したがそれが誇張だったらありがたい、と思った。
「いや、ちがう。ビヨールカ(ロシア語で「リス」)じゃないんだ」とウラジミールが笑った。
「水の中を泳いでいて魚を食べるけもの?」とノーラがたずねた。どうぞカワウソではないように、と胸の中で必死に祈っている。
「ちがうよ」とウラジミールは獲物袋の紐をほどきながら、「森の中にいてウサギやヒナドリを食う奴さ」
ノーラは不意に腰を下ろすと両手で顔をかくした。
「さあ大変、どうしましょう」とノーラは泣き声をたてた、「この人、キツネを撃ったんだわ!」
ウラジミールはびっくり仰天してノーラを見上げた。ノーラは興奮してまるで滝のようにしゃべりたてて、万一キツネを撃ったりしたらそれこそ大騒ぎになると説明したが、それが相手にさっぱり通じない。ただ大変なことになったんだな、とそれだけは理解した。
「すぐ隠して、すぐ隠して!」とノーラは気ちがいじみた声をたてて、まだ口のあけてない獲物袋を指さした。「伯母も大佐ももうすぐここへ来ますよ。そら、そのたんすの上へ放り上げて! そこなら見えないから」
ウラジミールは見当をつけて獲物袋を放り上げたが、途中で壁に取りつけてあるシカの角に紐がひっかかり、獲物袋は問題の中身ごと、これからお茶を出す場所の頭の上へ宙ぶらりんになった。同時にミセス・クーピントンと大佐とが入ってきた。
「大佐はね、明日うちの森のキツネを狩り出すんですって」とミセス・クーピントンがいかにもご満足らしく披露した。「明日は必ずすばらしいキツネ狩がおできになりますよ。スミザーズが太鼓判を押してますの。今週になってからクルミの林でキツネの姿を三べん見かけたんですって」
「ぜひそうなってもらいたいですな」と大佐はゲッソリふさいだ顔でいった、「獲物のない日がこう続いてはまったく困る。このへんで形勢を一変といきたいもんです。よくどこそこの藪へキツネが住みついたというから狩り出しに行くと跡も形もありゃしない。ウィデン夫人の森でも、ぼくらが狩りに行った前の日に、誰かが撃つかワナにかけるかしたんでしょう」
「大佐、うちの森でもし誰かそんな悪いことしたら、わたし、放っておきませんよ」
ノーラは機械仕掛の人形みたいにお茶のテーブルのところへ行くと、サンドウィッチの上に飾ったパセリを夢中で並べ直した。こっち側にはムッツリした大佐の顔が気味わるくボーッとせまっているし、向こう側にはウラジミールがふるえ上がって哀れな目つきをしているらしい。そして一座の頭の真上に例のしろものがぶら下がっているのだ。ノーラはこわくてテーブルより高いところは目が向けられなかった。今にもキツネの血がこれこの通りとばかり垂れてきて白いテーブルかけを汚しそうな気がする。伯母はしきりに合図して「明るく、明るく」とくり返すが、ノーラは今のところ歯がガタガタ鳴り出すのを押えるので精いっぱいだった。
「あなた、今日は何を撃っていらして?」とミセス・クーピントンはウラジミールにたずねた。相手はいつも黙りこんでいるのが普通なのである。
「いや何も撃ちません――これというものは何も撃ちません」とウラジミールはいった。
ノーラの心臓はしばしストップしたが、ストップした時間をとり戻そうとするのか、物凄くドキンと打った。
「何か話の種になるようなものが撃てるといいのに」とミセス・クーピントンはいった、「みんな黙りこんじゃってるのね」
「スミザーズが三べん目にそのキツネを見かけたのはいつなんですか?」と大佐がいった。
「昨日の朝ですの。美事な雄ギツネで黒ずんだ尾っぽをしてるそうです」とミセス・クーピントンが答えた。
「やあ、それは、それは。明日はそいつを追い出してうんとウマを飛ばすことができますな」と大佐は、チラリときげんのいい顔を見せたが、テーブルをかこむ一座はやがてまた暗い沈黙に沈んだ。その沈黙を破るのはただ元気なく物をかむ音と、時たまスプーンが受け皿にあたってカチンとひびく音だけである。やがてようやくミセス・クーピントンの飼っているフォックス・テリヤがやってきて緊張がとけた。テリヤはテーブルに出ているうまそうなものをよく見わたそうと、あいている椅子へ飛び乗ったが、今や上を向いてどうやら何かケーキ以上に興味のあるものをクンクン鼻でかいでいる。
「どうして興奮したんでしょう?」とミセス・クーピントンがいった。テリヤが突然二声三声いきり立って吠えると、ふるえる泣声を長々と引いて伴奏にしたからだ。
「あら、あなたの獲物袋よ、ウラジミール!」と彼女はつづけていった、「何が入っているの?」
「うわあ、こりゃかなり強い臭いがするぞ」と大佐はもう立ち上がっていた。
同時に、大佐とミセス・クーピントンの頭に同じことがひらめいた。ふたりはそれぞれ顔を同一ではないがよく調和の取れたむらさき色に染め、声をそろえて非難の叫びを立てた、「キツネを撃ったね!」
ノーラは悪事と見られたウラジミールのしわざをあわてて弁解しようとつとめたが、それが二人の耳に聞こえたかどうか確かでない。大佐はカンカンにいきり立って、狂ったようにつぎつぎとさまざまな言葉を着せ替えて憤怒を表現した。まるで一日がかりで町へ買物に出た女がいろんな服を矢つぎばやに着てみているようだ。彼は運命をののしり人生をこき下ろし、涙も出ないほど悲痛な自己|憐《れん》|憫《びん》にドップリ浸り、これまでに接したあらゆる人間に永遠の地獄行きを宣告した。事実、もし|撲《ぼく》|滅《めつ》破壊の天使をひとり一週間借り出してきても、天使が直接自分で調査する暇はまずあるまい、と思われる有様である。大佐ががなりちらす合い間合い間に、ミセス・クーピントンの単調なぐちとフォックス・テリヤがスタカット風に鋭く吠えるのが聞こえた。ウラジミールは二人の言葉の十分の一もわからないから、巻煙草を一本いじりまわしながらある強烈な英語の形容詞をときどき小声でくり返していた。これはずっと前から自分の語彙に取り入れて大切にしていた言葉である。彼はふと古いロシヤの民話を思い出した。ある若者が魔法にかかった鳥を撃ったら実に劇的な結果になった話である。一方、大佐はまるで|台風《サイクローン》が牢にでも入れられたようにテーブルのまわりをぐるぐる廻っていたが、ふと電話が目にとまるとこれぞとばかり飛びついて、すぐさま狩猟クラブの秘書を呼び出し会長を辞任するといいわたした。この時までに誰か下男が大佐のウマを玄関へ廻しておいたから、二、三秒するとミセス・クーピントンのかん高い単調な泣き声が舞台を独占することになった。しかし大佐がさんざん腕をふるったあとだから、彼女がどう骨折って乱暴なことを並べ立てようとも、とうてい十分な効果は上がらなかった。ワグナーのオペラの最中に外へ出たら、大したこともない雷雨だった、という格好である。せっかくの長口舌もいささかアンチ・クライマックスの感があると気がついたのだろう、ミセス・クーピントンは不意に泣くのをやめて当然流すべき涙に切りかえると、ノッシノッシと広間を出て行った。あとに残ったのは今しがたの騒動におとらず恐ろしい静寂である。
「どうしよう――あれ?」とウラジミールがようやく口をきいた。
「地面へ埋めてよ」とノーラがいった。
「ただ埋めるだけでいいの?」とウラジミールがいった。ホッとした様子である。村の牧師でも呼んで立ち会わせなくてはならないとか、墓のところで礼砲を発射しなくてはいけないとか、そんなことをいわれはしないかと思っていたのだ。
こんな次第で、日も暮れかけた十一月のたそがれにロシヤ人青年ウラジミールはロシヤ教会の魔除けの祈りをひと言ふた言口ずさみながら、クーピントン家のライラックの木かげに大急ぎで手厚く埋葬した――一頭の大イタチを。
ハツカネズミ
[#地から2字上げ]The Mouse
セオドリク・ヴォーラーは幼い頃から中年にさしかかるまで、あまい母親の手でそだてられてきた。その母親の何よりの願いは、彼女のいわゆる人生の醜悪な現実なるものをセオドリクに見せないことだった。母親が死んでセオドリクひとりになると、人生は相変わらず現実的である上に、その必要もあるまいと思うほどますます醜悪になった。そんな風にそだてられそんな気質をもつ男には、簡単な汽車の旅でもちょっと困ることや気に入らないことだらけである。だからある九月の午前、二等の車室に腰を下ろすと、彼は何となくソワソワして気が落ち着かなかった。田舎の牧師館へ泊まっての帰りである。牧師館の人たちは別に乱暴でもなければ酔って騒ぎもしなかったが、うちの中の管理はひどくいいかげんで、これではとんだ事になりはしないかと心配になる程だった。コウマの引く馬車で駅まで送ってくれるはずだったのに、ちゃんと指図がしてなかったので、いざ出発となっても馬車を廻してくるはずの下男の姿がどこにも見えない。セオドリクはせっぱつまって、口にこそ出さないがいやいやながら、牧師のむすめと二人してコウマに馬具をつける破目になった。それには廐舎と呼ばれ、廐舎らしい臭いのする(ただしハツカネズミの臭いのするところは別)薄暗い小屋の中で手探りしなければならない。セオドリクはハツカネズミをこわいとは思わないが人生の醜悪なる付属品と見なしていた。神さまが少し勇気をふるい起こしてこれはなくて差し支えないものと認定し、とうの昔に回収しておけばよかったのに、と考えていたのだ。列車が動き出すとどうも自分の身体から幽かに廐舎の臭いがするような、いつも綺麗にブラシをかけておく自分の服にもしやカビ臭い藁でも一、二本ついてやしないか、という気がして気味わるくなった。乗った車室は幸い乗り合いの客が一人きり、自分とほぼ同じ年頃の女性で、じろじろ人を見るよりはゆっくり眠りたいらしい。終点へ着くまでは停まらない列車で、それまであと一時間ばかりあるが、旧式な車輛だから車室へ入る通路はなし、この女性のほかにあとから入ってきてプライバシーを侵す乗客もないわけである。ところが列車がまだいつものスピードを出さないうち、眠れる女性と自分と二人きりでないのにハッキリ気づいてセオドリクはおやと思った。着ている服まで自分一人で着ているのでなかったのだ。何か温かいものが肌を這い上がるのでそれがわかった。困ったことにハツカネズミが一匹まよいこんで、姿は見えないがまぎれもなく背中にいる。コウマに馬具をつけているうち、この隠れ家へ飛びこんだにちがいない。目立たぬように足踏みしても揺さぶっても、めくらめっぽうつねってみても、その侵入者はどうにもどいてくれない。どうやら「|更に高く《エクセルシォア》」をモットーにしているらしいのだ。服の正当な所有者セオドリクは背中のクッションによりかかって、何かこの衣服の共有をストップする道はないか、と急いで考えた。これからまる一時間、宿なしのハツカネズミども(彼は侵入した外敵の数をもはや少なくとも二倍に読んでいた)の簡易宿泊所をつとめる――そんな恐ろしいことは夢にもできない。その反面、抜本的な手を打って着ている服を脱ぎかけでもしない限り、この責苦をのがれる道はなし、たとえ目的は立派でも、女性の目の前で服を脱ぐのは思っただけで何とも恥ずかしくて耳たぶが鳴り出す。もともと女の前では透かし編みの靴下さえ恥ずかしくて見せられない男なのだ。だが――今の場合、女性はどう見ても確かにぐっすり眠っているらしい。一方、ハツカネズミの方は|遊歴修行時代《ヴァンダヤール》を二、三分間の努力で片づけたいらしい様子だ。もし|輪廻転生《りんねてんしょう》の説が真実だとすれば、このハツカネズミは前世で山岳会に所属していたにちがいない。ときどき焦りすぎると足がかりをなくし半インチばかり滑り落ちる。するとびっくりするのか腹が立つのか肌を咬むのだ。セオドリクは生まれて初めて押しの強い行動を取らざるを得なかった。砂糖ダイコンのように顔を赤らめ、眠っている女性の方へ一心に目を配りながら、彼は膝がけ毛布の両端を車室の両側にある網棚へソッと手早く取りつけた。これで車室を仕切る厚地のカーテンができたわけだ。この間に合わせの更衣室で、彼は大急ぎで服を脱ぎにかかった。ただし、ピッタリ肌をつつんでいるツイードと五〇パーセント羊毛の衣類から自分の身体は部分的に、ハツカネズミの方は完全に、解放するわけである。ところがハツカネズミが解放されていきなり床へ飛び下りたとたん、膝かけ毛布は留めておいた両端が外れてパタリと床に落ち、ゾッとするような音を立てた。ほとんど同時に、眠っていた女性が眠りからさめて目をあけた。セオドリクはハツカネズミよりすばやく膝かけ毛布に飛びついて、ひだのたっぷりした毛布を胸の高さにひろげて身体をかくすと、向こうの隅へ崩れるようにうずくまった。全身の血が湧き立って頸も額も血管がズキンズキンと脈を打つ。こりゃ非常信号のコードを引かれるぞ、と彼は物もいえずに待っていた。しかし目をさました女性は妙な格好をしているセオドリクの方を黙って見つめているだけだ。どれだけ見えたかな、とセオドリクは思った。どれだけ見えたにしろ、この格好をいったい何と思ってるだろう?
「どうもぼく、かぜを引いたらしいんです」と彼は思い切っていってみた。
「まあ、そうですか。それはいけませんね」と女性は答えた、「わたし今、この窓をあけてくださいとお願いしようと思ってましたの」
「マラリヤだろうと思います」とセオドリクは歯を少しガタつかせた。おびえたせいもあるが、マラリヤ説を裏書する気持もあった。
「わたしの手さげにブランデーがございますよ、網棚から下ろして頂ければ」
「とんでもない――実はぼく、いつも何も飲まないんです」と彼は力をこめて辞退した。
「きっと熱帯地方でうつっていらしたんでしょう?」
セイロン島へ行っている叔父から毎年一回お茶を一箱送ってくる。セオドリクと熱帯地方の関係はそれきりだから、こうなるとせっかくもち出したマリラヤ説もたよりなくなりかけた。事の真相は少しずつ小出しに話す手はどうだろう――彼はそう考えた。
「ハツカネズミはこわくありませんか?」と彼は切り出してみた。顔がまたいちだんと赤くなっていく。
「一度にたくさん来さえしなけりゃこわいとは思いませんわ、あのハットー主教を食い殺したときみたいに(マインツ市の貪欲な大主教がハツカネズミの大群に食い殺された伝説がある)。なぜお聞きになりますの?」
「実はぼくの服の下を一匹這いまわってたんです」とセオドリクはいった。とても自分の声とは思えない声だ、「困りましたよ、実に」
「お困りだったでしょうね、服がピッタリしていますと。でもハツカネズミって、妙なところが好きなんですわね」
「あなたが眠ってらっしゃるうちに何とか追い出さなきゃならんと思いまして」と彼はいって、それから一息つくと思い切ってつけたした。「それを追い出す騒ぎでこんな――こんなことになったんです」
「でもハツカネズミ一匹脱ぎ捨てたんでかぜをひくなんて、ないじゃありません?」と女性は大声をたてた。けしからん冗談をいう、とセオドリクは思った。
彼女はたしかにセオドリクの窮状をいくらか感づいて、取り乱した有様を面白がっていたにちがいない。そう思うと、全身の血液が総動員で彼の顔を真っ赤にしたらしく、百万匹のハツカネズミより恐ろしい恥ずかしさが彼の全身全霊を這いずりまわった。しかし、やがてどうにか立ち直って頭が動き出すと同時に、今度は恥ずかしさが全くの恐怖に変った。列車は一分また一分と終着駅の人ごみへ近づいて行く。今のところは車室の向こうの隅からただ一組の目でじっと見すえられているだけだが、終着駅へ着いたらそれこそ何百組の目でジロジロ見られるだろう。絶体絶命の立場だが、それでもまだ一縷の希望はある。あと数分のうちにそのチャンスが来るか来ないか。とにかくこの女性がまた眠りこんでくれればありがたい。だが、一分また一分と時間がたってその一縷の希望もうすれてしまった。ときどきチラリと盗み見すると、女性はまたたきもせず目をさましている。
「そろそろ終点ですわね」とやがて女性がいった。
セオドリクも気がついていた。こまかな汚ない人家の集落がつぎつぎと現われて旅路の終りの接近を知らせる。彼はいよいよ恐ろしくなってきた。そこへ女性のいまの言葉が合図のように働いた。狩り立てられた野獣が隠れ家をパッと飛び出して、どこか一時しのぎの避難場所へ夢中にかけつけるように、彼は膝かけ毛布を放り出すと脱ぎ棄てた服を大あわてで着こんだ。窓の外を郊外のわびしい駅がつぎつぎと飛んでいく。胸も咽喉もドキドキして息がつまるようだ。こわくて目も向けられない向こうの隅は氷のように静まり返っている――彼は何もかも承知していた。やがて彼がようやく服を着こみ、ほとんど錯乱状態で席にかけると、列車はスピードを落して這うように終着駅へ近づいた。すると女性が口を開いた。
「あの、すみませんけど、赤帽を呼んでわたしをタクシーまで送らせて頂けませんか? ご気分のわるいのにお願いしてすみませんけど、駅の中は一人歩きができませんの、目が見えませんと」
エズミ
[#地から2字上げ]EsmŽ
「狩の話ったらどれもこれも同じですね」とクローヴィスがいった、「ちょうど競馬の話がどれもこれも同じみたいに――」
「でもこの話、ぜったい聞いたことないはずよ」と男爵夫人がいった、「もうかなり前、わたしが二十三歳ごろだったわ。そのころまだ夫と別居してませんでした、夫もわたしも相手に別居手当など出せませんでしたからね。貧乏は仲たがいのもと、なんて諺にあるけど、むしろ貧乏は家庭をこわすよりまとめておくものなのね。でもキツネ狩のときはいつも別の組の猟犬を使ってたのよ、この話とは関係ないけど」
「まだ朝の集合のことになりませんね」とクローヴィスがいった、「やはり集合はしたんでしょう?」
「もちろんよ」と男爵夫人がいった、「いつもの連中はみな集まったわ、コンスタンス・ブロドルもね。そら、秋の野山だの教会のクリスマスの装飾などによくマッチする血色のいい大柄な女があるもんでしょう、コンスタンスってそんな人なの。『あたし、今日は何か大変なことがありそうな気がするの。わたしの顔、青くない?』っていったわ。そのくせ赤カブが悪い知らせでも聞いたような顔してるのよ。わたし、『いつもより血色がいい位よ、あなただから当然だけど』といってやったわ。ところがそれがまだ向こうに通じないうち、ウマを飛ばすことになりましたの。キツネを一頭、猟犬どもがハリエニシダの茂みから狩り出したのよ」
「そうくるだろうと思ってましたよ。キツネ狩の話にはきまってキツネとハリエニシダが出ますからね」
「コンスタンスもわたしも、乗ってたのはいいウマでした」と男爵夫人は平気で話をつづけた、
「だから難なく先頭のグループに入って飛ばしました、大骨でしたけどね。ところが、もうすぐキツネを追いつめる頃になって、わたしたち、少し勝手な方角へ飛ばしちまったらしく、どこにも猟犬の姿が見えなくなって、気がつくととんでもないところを当てもなくボソボソ歩いてるんです。わたし、頭にきましたわ。だんだん腹が立ってきて、生垣の抜けられそうなところを無理に出てみると、ありがたいことに見下ろす谷間を猟犬どもがいっせいに吠えながら追って行くんです。
「『あら、あそこだわ!』とコンスタンスが声を立てました。『いったいあの|獣《けもの》、あれ何なの?』と胸をはずませてます。
「見るとたしかにキツネじゃないの。高さは二倍もあるし頭がすごくずんぐりして、頸が恐ろしく太いのよ。
「『あれ、ハイエナよ。きっとパブハム卿の|猟園《パーク》から逃げ出したんだわ』と、わたし叫びました。
「すると追いつめられた|獣《けもの》が立ち止まって猟犬どもの方を向いたのよ。猟犬どもは――たった六|番《つがい》ぐらいだけど――相手を半円形にかこんで妙な顔してるの。この変な獣の臭いに釣られて仲間からはぐれたのね。いよいよ追いつめたものの、さあ、この獲物をどう始末していいかわからないのよ。わたしたちふたりが近づくとハイエナはハッキリああ助かったという様子で、なれなれしいそぶりで喜んでます。きっと優しくしてくれる人間ばかり見てきたのが、はじめて猟犬に出あって印象がわるかったのね。猟犬どもの方は、せっかくの獲物が急にわたしたちになれなれしくするんで、いよいよ戸惑ったらしく、そのうち、遠いところで幽かに角笛が鳴ると、しめたとばかりそれを戻れの合図と取ってそろりそろり控え目に帰って行くし、結局、だんだん暗くなる夕闇にコンスタンスとわたしとハイエナだけが取り残されちまったわ。
「『さあ、あんたどうする?』とコンスタンスがきくのよ。
「『あんたって人、何でもひとにきくのね』といってやったわ。
「『だってハイエナといっしょに一晩ここにはいられないでしょう?』とコンスタンスがいい返します。
「『あなたがいられるかどうか知りませんけど、わたしはハイエナがいなくてもいられやしないわ。わたしの家、いまは少しもめてるけど、お湯も出れば水も出るし、使用人も何人かいる上、ここにはない設備までいろいろありますからね。あの右手の方の小高い林の方へ行ってみましょうか、あの向こうがクロウレー街道のような気がするから』
「そこでゆっくりウマを走らせて、幽かに車の跡のある馬車道を行くと、あとからハイエナがいそいそついてきます。
「『このハイエナ、いったいどうしましょう?』とまたもやコンスタンスにきかれたわ。
「『普通はどうするもんなの?』と意地わるく聞き返したわ。
「『わたし、ハイエナを扱うの、これが始めてなの』とコンスタンスがいいます。
「『わたしだってそうよ、せめてオスかメスか、それだけでもわかれば名前だけはつけてやれますけど。そうね、エズミとつけましょうか。エズミならオスにもメスにも向くわ』
「まだ道ばたの見わけがつく明るさだったけど、そのうち半分はだかのジプシーの子供に出あうと、ぐったり沈み切っていた気持がパッと張りつめたわ。子供は低い藪からヤブイチゴを取ってるところなの。そこへウマに乗った女が二人、ハイエナを従えて突然出てきたから大声で泣き出したわ。どのみち、そんな子供じゃ道を聞いたってわかりゃしないけど、もう少し行ったらどこかジプシーのテントへぶつかるだろうと、それをあてにしてまた一マイルばかり行ってもだめなの。
「やがてコンスタンスが『あの子供、あそこで何してたのかしら』といいます。
「『もちろんヤブイチゴを取ってたのよ』
「『あの泣き声、何だかいやね。いつまでも聞こえてるような気がするわ』とコンスタンスがまたいいます。
「『そんなばかな! 気のせいよ』などとコンスタンスをやっつけはしませんわ。実はわたしも神経が立っていて、うるさい泣き声がしつこくついてくるような気がしてたのよ。何だか淋しくなって大声でエズミ! と呼ぶと、少しあとからついてきていたエズミがピョンピョンはねるとたちまち矢のように追い越して先へ出ました。
「どこまでも泣き声がついてくるわけがそれでわかったわ。ジプシーの子供はエズミの口にがっしり、きっと痛かったはずよ、くわえられてるの。
「『あーら大変!』とコンスタンスが金切り声を立てました。『どうしましょう? どうしたらいいんでしょう?』
「コンスタンスったら、最後の審判のとき係りの天使にいろいろ聞かれても、逆に聞き返す方がよけいにきまってるわ、あの人。
「疲れ切ったわたしたちのウマの前をエズミは気楽そうに並足でかけてますし、コンスタンスは『どうにかならないかしら?』と涙をこぼしてます。
「そこで思いつき次第いろいろやってみたわ、イギリス語だのフランス語だの猟場の番人の言葉だのいろいろ使って、どなったり叱ったりなだめたりもしました。狩のときの革ひもなしの鞭を無暗にふりまわしたり、サンドウィッチの箱をぶつけてみたり、いま考えてもあれ以上は手の打ちようがないわ。そのままだんだん暗くなる夕闇の中をテクテク行きました。すぐ前を不格好なエズミの姿が黒々とかけて行くし、悲しそうなうめき声はずっと続いています。突然、エズミが深い茂みへ飛びこんで、とてもついては行けません。子供の泣き声が悲鳴に変わったと思うとバッタリ止みました。ここのところは、わたし、いつもはしょって話すのよ、こわいところですもの。二、三分するとエズミが戻ってきてまた一緒になったけど、事情は万事よく心得ております、というような様子なのよ。叱られそうな事をやりはしたけど自分の方にもちゃんと理由があるんだ、という顔つきだったわ。
「するとコンスタンスが『あんた、あの残酷な|野《けだ》|獣《もの》とよくまあ並んで駆けてられるのね』といったわ。いよいよ赤カブの白っ子みたいな顔なのよ。
「『だって第一、やめさせる手がないじゃない? 第二に、少なくとも現在は残酷なことしてませんしね』
「コンスタンスはブルブル身ぶるいして『かわいそうに、あの子、さぞ痛かったでしょうね』と、またむだ口をききます。
「『さあ、どうやらそう思えるけど、もしかしたら腹を立てて泣いたのかも知れないわ。子供ってそんなことありますものね』
「あたりが真っ暗になってから突然、街道へ出ました。エンジンの音とライトの光が同時にゾッとするほど近くを通りぬけたかと思うと、ドタンと音がしてギャーッと鋭い悲鳴が立ちました。自動車が止まったからその場へウマを返したら、道ばたに黒々したものが倒れていて若い男がかがみこんでいるのよ。
「『エズミを轢いたのね、あんた』とわたし、かみつきました。
「『どうも本当にすみません』とその男はいったわ、『ぼくもイヌを飼ってますからお心持はよくわかります。できるだけの弁償はいたします』
「『そんならすぐ埋めてやって。そのくらいの事はお願いしていいはずよ』
「『おい、ウィリアム、スコップをもってこい』と男は運転手に声をかけました。とっさに道ばたへ何か埋める用意はちゃんとしていたのね。
「たっぷり入る墓穴を掘るのにしばらくかかりました。死骸をころがして中へ入れるときその男が『やあ、すごく大きいな。よほど値段の高いイヌでしょうね』というのよ。
「『去年バーミンガムの品評会で二等賞を取りました』と、わたしはハッキリいったわ。
「するとコンスタンスが大きく鼻を鳴らすの。
「『ねえ、泣くのはよして』と、わたし、悲しい声でいいました、『アッという間のことだから、あまり苦しまずに死んだはずだし』
「『あのう』とその若い男が一所懸命な声でいいました。『お願いです、どうぞ何とか弁償させてください』
「わたし、おしとやかに構えておことわりしたわ。でも相手がどうしてもきかないんで、わたしの住所だけは教えてやったの。
「もちろんそんな事になったいきさつは黙ってたわ。パブハム卿もハイエナがいなくなったと公表しません。一、二年前に果物しか食べない動物が|猟園《パーク》から逃げたとき、ヒツジの損害を十一件賠償させられた上、近所の鶏舎ほとんど全部へニワトリを買って返してますし、もしハイエナを逃がしたとなったら政府の補助金程度の金額になったはずですからね。ジプシー連中も子供がいなくなってもやはり何ともいわないわ。大勢集まってテント暮らしをしていると、子供のひとりやふたり、いてもいなくてもわからないんですね」
男爵夫人はいったん話を切って何か考えていたが、やがてまた話をつづけた。
「でもこの一件、まだあとがあるのよ。すばらしいダイヤモンドのブローチが郵便で届きましてね、マンネンロウの小枝の中にエズミと文字が入ってるんです。ついでだけどコンスタンス・ブロドルとはそれきり交際が絶えたのよ。そのブローチを売り飛ばした分け前を、わたし、当然ことわりましたからね。エズミと名をつけたのはわたしの思い付きだし、ハイエナの方はパブハム卿のものでしょう、もし本当にあの人の|猟園《パーク》から逃げたとすればね。でもその証拠は何もないんです」
結婚媒介人
[#地から2字上げ]The Match-Maker
グリル・ルームの時計が十一時をうった。うやうやしく控え目な音だ。無視さるるはわが使命、という風情がある。やがて時が飛ぶようにすぎて飲食の禁断とベッドへの移動が至上命令となると、こんどは照明装置が例の通りその事実を伝えるだろう。
六分間たつとクローヴィスが夜食のテーブルへ近づいた。晩餐はとうのむかしにあっさりすませたから幸福な期待感にあふれている。
「ひどく腹がすいたぞ」と吹聴すると、上品な身ぶりで椅子にかけながら同時にメニューを読もうと努力した。
「そうだろうと思ったよ」と、この家の主人がいった、「ほとんど時間通りに君がやって来たからな。話すのを忘れていたがね、ぼくは食生活改善主義なんだ。ブレッド・アンド・ミルクを二皿と健康食ビスケットをいいつけといたよ。それでいいだろうね」
ほんの一秒の何分の一か、クローヴィスはカラーの線から上をまっ白に変えた。そんなことはない、といいはったのはあとになってからだ。
「それはそれでいいがね」とクローヴィスがいった、「食べるもののことで冗談をするのはよろしくないな。そんなことをする奴が世間にはいるそうだ。現にぼくの知り合いでそんな連中に出あったのがある。この世にすばらしくうまいものがいろいろあるのを承知しながら、オガクズなんぞムシャムシャ咬んで自慢の種にするなんて、あきれたもんだ」
「中世時代の|鞭打苦行者《フラジェラント》は自分のからだに鞭を加えて傷つけながら世間を出歩いたもんだ。それに似てるかな」
「フラジェラントにはちゃんと根拠があったのさ」とクローヴィスがいった、「永遠なる魂の救済のためやったんじゃないか。だがカキもアスパラガスも上等のワインもありがたがらない人間にも魂はあるだの胃ぶくろもあるだの、そんなことはいわないでくれ。そんな奴らは単にみじめな生活をする本能が高度に発達しているだけの話さ」
クローヴィスはしばらく最高の幸福にひたっていた。彼はカキとこまやかな親交をまじえ、カキが目まぐるしくつぎつぎと姿を消して行ったのである。
「ぼくは思うな、カキというものはどんな宗教よりも優秀だとね」と、やがてまたいい出した、「むごい目にあわされても許すばかりか、その残虐行為をどんどん続けろ、と仕向けてくるね。いったん夜食のテーブルへ到着すると、カキは徹底的にその気になるんだな。およそキリスト教にしろ仏教にしろ、何の私心もなくピッタリこっちと同じ気持になってくれる点、とてもカキに及びはしない。どうだね、これ、ぼくの新しいチョッキ。今晩はじめて着てみたんだ」
「近ごろ何着もみせられたがやはり似たようなものじゃないか、少し見劣りはするが」
「若いときの道楽はあとで罰があたるというが、ありがたいことに着るものだけはそうじゃないな。母がね、結婚しようかと考えてるんだ」
「またか!」
「はじめてだよ」
「息子がいうんだからもちろんその通りだろう。ぼく、少なくとも一度や二度は結婚したように思っていた」
「三度さ、数学的に正確にいえば。いま、はじめてだ、といったのは、結婚しようかと考えるのがはじめて、という意味なんだ。これまではいつも考えてもみないで結婚したのさ。実はね、こんども母の代りにぼくが考えてやってる、一番あとの夫に死なれてからもう二年になるからな」
「簡潔は機智の神髄なり、と『ハムレット』にあるが、短いのがやもめ暮らしの神髄なり、が君の考えらしいな」
「とにかくね、ぼくが気がつくと母はふさぎこんでそろそろ落着き出した。こんなことは母にはまったく不似合だよ。それに、わがやは収入以上の暮らしをしてる、とこぼしはじめた。これがまず最初の徴候さ。今じゃ、まともな人間は誰だって収入以上の暮らしをしてるし、まともじゃない人間は他人の収入以上の暮らしをしている。何とか両方やって行けるのはごく少数の才能のある者だけなんだ」
「才能よりも努力だろう」
「とうとう重大な局面になってね」とクローヴィスはいい返した、「だしぬけに夜ふかしはからだにわるいという説をもち出して、毎晩一時前にうちへ帰れ、というんだ。あきれたね、ぼくにそんなことできるものか、この間の誕生日で十八歳だもの」
「君は最近の誕生日二回とも十八歳といったぞ、数学的に正確にいえば」
「だがそれはぼくの責任じゃない。母がいつまでも三十七歳でいる限り、ぼくは断じて十九歳にならないぞ、世間体も考えなけりゃならんし」
「君のお母さんだって結婚するまでには少しはふけてくるだろう」
「ところが全然そんなこと考えやしないんだ。女性の改心というのは必ず誰かの弱点にもとづいて出発する。だからこそぼくが夫さがしに熱心なんだ」
「もう候補者さがしに乗り出したのか? それとも概論だけ放り出してあとは暗示がきくのを待ってるのか?」
「何でもそうだが手早く片づけようと思ったら自分でやらなきゃだめだ。クラブにね、きまった相手もないらしくうろついてる軍人がいたから、一、二度ランチにうちへ呼んで来たよ。生まれてこの方たいがいインド国境の山奥にいて、道路の建設だの飢饉の救済だの地震のくいとめだの、山奥でやること何でもやって来た男だ。きげんをわるくしたコブラ相手に十五種類の地方語を使って道徳を説くこともできる。わがやのクローケー・コートへゾウが一頭はぐれこんだらどうするか、そんなこともきっと知ってるだろうが、女性に対してはとても内気ではにかみ屋なんだ。そこで母には、あの人は全くの女ぎらいなんですよ、と内々話しておいた。するともちろん、母はさっそく乗り出して水を向けたね、知ってる限りの手を根こそぎ使って。その知っているというのがまた一通りじゃないんだ」
「それで相手に手答えがあったのか?」
「どこか植民地につとめ口はないか、とクラブで探してるそうだ。知り合いの青年があるんでね、骨の折れる仕事のうんとあるところがいいんだ、とさ。だからぼくのうちへ入婿にくる気があるな、と睨んでいる」
「どうやら君は改心の犠牲者になる運命らしいな」
クローヴィスはくちびるからトルコ・コーヒーの痕跡と薄笑いの前ぶれを拭きとると、ゆっくり左の目ぶたを下げた。それを解釈するとたぶん「まさか」という意味だったろう。
トバモリー
[#地から2字上げ]Tobermory
八月も末の肌寒い雨あがりの昼すぎだった。シャコはまだ禁猟期だし撃っていいのは冷蔵庫の中、というどっちつかずの季節だから狩猟もできない。もっともブリストル湾の南岸へ行けば、太った赤いシカをねらって猟をしても規則違反にならないが、あいにくブレムリ夫人のハウス・パーティの舞台はブリストル湾の南岸ではない。だからこの日の午後、泊まりこみのお客は全部テーブルのまわりに集まっていた。何の楽しみもない季節だし面白くもない集まりだが、またぞろ|自動ピアノ《ピヤノラ》でも聞かされやしないかとうんざりした顔もなし、オークション・ブリッジでもやりたいなとソワソワした気配もなかった。一座はありありと呆気に取られた顔で、ミスター・コーネリアス・アピンという風采のあがらない影のうすい人物を見つめていた。ブレムリ夫人の泊まり客の中で、どんな人物か正体のハッキリしないのはこの男ひとりだった。誰かに「才人」だと聞かされたので夫人が招待したのである。夫人としては、才人とあれば多少はお客のもてなしにもなるだろうと、とにかく招待客の中へ入れた。ところが、この日のお茶の時まで、いったいこの男にどんな才気があるのか判明しなかった。頓智のある男でもなければクローケーの名人でもなし、魅力的なところもなければ素人芝居の音頭取りもしない。世の中には頭がかなりわるくても女が見すごす男前というのがあるが、彼の押し出しには全然そんなところもない。結局、ただのミスター・アピンというだけで、コーネリアスという偉そうなクリスチャン・ネームも見えすいたこけおどしらしい。ところが今やその男が、わたしは一大発見をいたしましたと公言している。これに較べたら火薬だの印刷機だの蒸気機関車だの、そんな発明は物の数ではございません。この数十年間に科学は各方面に目ざましい進歩をしましたが、わたしの発見は科学的大事業よりむしろ奇跡の領域に属するのであります、というのだ。
「するとこうなんですね」とこの家の主人ウィルフリッド卿がいった、「あなたが動物に人語を教える方法を発見されて、うちの飼猫トバモリーがあなたの成功した弟子第一号だ、とおっしゃるんですね」
「この問題はですね、実はわたし過去十七年間研究してまいりました」とミスター・アピンはいった。「しかしようやく成功の糸口をつかんだのはつい八、九カ月前なんです。もちろん何百種類の動物を使って実験しましたが、最近はもっぱらネコを使っています。人類の文明に驚くほど同化しながら高度の野性はちゃんと失わない――ネコは実にすばらしい動物です。ネコの中にはときどき抜群に優秀な知能をもったのがいます。それは一般の人間にしても同じことですがね。それで一週間前こちらのお邸へ伺いましてトバモリーと近づきになると、ひと目でわかりました、これこそ知能非凡な超ネコであると。わたしの研究も最近までにかなり進んではいましたが、お宅のトバモリーにめぐり合って、ついに目標を達成したわけです」
ミスター・アピンはこの驚くべき発言をつとめて得意そうな調子を抑えて結んだ。誰ひとり「|ばかな《ラッツ》!」という者はない。ひとりクローヴィスの口が何か短い言葉をいったように歪んだ。たぶん「ラッツ!」といったらしい。
「するとこうなんですの?」少し間をおいてミス・レスカーがたずねた。「何か短い言葉ならいったり聞いたりできるようにトバモリーを仕こんだ、とおっしゃるんですか?」
「ちがいます」と奇跡の発明家は落ち着きはらって答えた、「小さな子供や未開人や智恵おくれの大人なら少しずつコマ切れに教えますが、知能の高度に発達した動物は最初の手始めさえ解決すれば、そんなまだるい教え方はいりません。トバモリーはわれわれの言葉を完全に話せるんです」
今度はクローヴィスがはっきり「|大ばかめ《ビヨンド・ラッツ》!」といった。ウィルフリッド卿はそんな不作法こそしなかったが、やはり「まさか」という意味のことをいった。
「それならトバモリーをここへ連れてきて、みんなでためしてみましょうか!」とブレムリ夫人がいい出した。
ウィルフリッド卿はトバモリーを探しに行った。あとの一同はゆっくり腰をすえて待っていた。いずれは相当上手なしろうと腹話術でも見せられるんだろう、とあまり気乗りしない様子である。
たちまちウィルフリッド卿が戻ってきた。日焼けした顔は真蒼だし、興奮して目を丸くしている。
「うわあ、本当だ!」
そのうろたえ振りこそ紛れもなく本物だった。一同、にわかに興味をもって身を乗り出した。
ドタリと肘掛椅子に腰を下ろすと、ウィルフリッド卿は息を切らして話をつづけた。「行ってみると奴め、喫煙室でうとうと眠っているから、おやつをやるからおいで、と声をかけたんだ。するといつものようにわたしを見て目をパチクリさせている。そこで『トビーや、早くおいで、待たせちゃいけないよ』といったら、いやゾッとしたね、恐ろしく自然な声でゆっくりいったよ、『気が向いたら行くよ』って。まったく肝をつぶした」
アピンの話は誰ひとりてんで信用しなかったが、ウィルフリッド卿の証言で話はたちまち絶対確実となった。驚きの声が一斉に上がってコーラスになった。ミスター・アピンだけは黙ってかけたまま、途方もない大発見の最初の果実を楽しんでいる。
その大騒ぎの中へトバモリーが入ってきた。静々とビロードのような足取りで、いかにも無関心そうにティー・テーブルを囲んだ連中へ近よった。
一座は急にギコチない気まずさに襲われてしんと静まり返った。知能抜群とみとめられた飼猫と対等に話をするのが何となく間がわるいらしい。
「トバモリーや、ミルクを飲む?」とブレムリ夫人がいった。少し緊張した声である。
「飲んでもいいね」と返事があった。落ち着きはらったうわの空の語調である。聞いた者一同、ゾッとして興奮を抑えた。皿にミルクをつぐブレムリ夫人の手がふるえたのも無理はない。
「ずいぶんこぼしたわね」と、すまなそうにブレムリ夫人がいった。
「いいや平気。ぼくのカーペットじゃないからな」とトバモリーが返事した。
一座はまたもやしんと静まり返った。すると今度はミス・レスカーがいかにも教区の世話人らしい声を出して、人間の言葉を習うのはむずかしい? とたずねた。トバモリーはミス・レスカーの顔をじろりと見たが、やがて澄ました顔でそっぽを向いてしまった。そんなうるさい質問はおれの知った事じゃないぞ、という様子が明白だ。
「人間の知能をどう思って?」とメーヴィス・ペリントンが筋ちがいの質問をした。
「特に誰の知能のことだね?」とトバモリーが冷やかにたずねた。
「そうね、たとえばわたしの」とメーヴィスが無理な笑顔を作っていった。
「その返事はいいにくいね」とトバモリーはいったが、言葉つきにも態度にも、いいにくそうなところは毛ほどもない。「今度のハウス・パーティにあんたも呼ぼうかと話が出たとき、ここのご主人は反対したよ――知り合いの中であんな頭のからっぽな女はない、お客を泊めてもてなすのと頭の弱い奴の世話とはまるきり別問題だ、といってね。そしたら奥方がこういった――頭がからっぽだからこそ招待するんですよ、あの人でもなけりゃうちの古自動車を引き取るバカがほかにあるもんですか、って。知ってるだろう、あのポンコツ車さ。坂道でも登れるよ、押してやれば。だから『シシフスの羨み』って名がついてる奴」(シシフスはギリシャ神話中の人物。地獄へ落ちて、何べん上げてもまた落ちてくる大石を山頂へ上げる刑に処せられた)
そんなとんでもないこと……とブレムリ夫人は打ち消したがあまり効果はない。つい今朝がた、デボンシアのお宅でお使いになるには、この車、あつらえ向きですわ、と何気ないふりでメーヴィスにもちかけたからである。
話をそらせようとバーフィールド大佐が大声を立てた。
「廐舎の三毛ネコとの仲はどうなったね?」
とたんに、とんでもない事をいってしまったと一同気がついた。
「そんな話、人前でもち出すもんじゃないよ」とトバモリーは冷たい返事をした、「あんたがこの家へ来てからの行状も少し観察したんだが、ぼくが話をそっちへ向けたらあんたも具合がわるいんじゃないかね」
こうなると恐慌を来したのは大佐ひとりではない。
「コックのところへ行っておまえの御飯ができたかどうか見てきたらどう?」とブレムリ夫人があわてていった。トバモリーの夕食まで少なくともまだ二時間はある。それをうっかりしたふりなのだ。
「ありがと」とトバモリーがいった、「でも今おやつを食べたばかりだからね。消化不良で死ぬのはごめんさ」
「でもネコは命が九つあるっていうじゃないか」とウィルフリッド卿がまじめにいった。
「そうかも知れない」とトバモリーが返事した、「でもあいにく肝臓はひとつきりさ」
「アデレード」とコーネット夫人がブレムリ夫人に声をかけた。
「あんた、このネコを放っておいて召使部屋であたしたちのこと、何でもしゃべらせるつもりなの?」
今や恐慌は一同を襲った。この邸ではたいがいの寝室の窓の外に幅のせまい胸壁が装飾についている。それが昼でも夜でもトバモリーの大好きな散歩道で、ハトを見張るのに格好の場所なのだが、ほかにも何を見ているか知れたものじゃない。そう気がつくと一同うろたえた。今の調子で知ってること何でもあけすけしゃべり出されたら、それこそうろたえるどころの騒ぎじゃなくなる。ミセス・コーネットは時間などキチンと守る性分なのに顔色はまるで遊牧民のようだ、ということになっているが、実は化粧台に向かって長いこと暇をつぶしている。だから大佐に劣らず不安な顔をした。ミス・スクロウエンは猛烈に官能的な詩を書くが実生活は一点非の打ちどころもない。彼女はただムッとした顔をしただけだ。私生活がどんなに貞潔でちゃんとしていても、それを世間に知らせたくない人もあるものなのである。バーティ・ヴァン・ターンは十七歳になるまでさんざん不行跡を重ねて、とうの昔にこれ以上の堕落はとても不可能とあきらめた男だが、それさえ冴えないクチナシ色の蒼白い顔になった。しかしオドウ・フィンズベリみたいなヘマはしなかった。この男は目下牧師になる勉強中という青年で、おそらく他人のスキャンダルで耳を汚されては大変、とばかりこの場を逃げ出したらしい。クローヴィスは落ち着きはらって泰然と構えていた。しかし頭の中では、口止め料に変り種のハツカネズミを一箱、「交換と売買社」の代理店から取りよせるのに幾日かかるか計算していた。
こうしたきわどい形勢になっても、ミス・レスカーはいつまで引っこんでいられる女ではない。
「わたし、なんでまたこんなところへ来たんでしょう?」と彼女は芝居がかりに切り出した。
トバモリーは即座にそれに答えた。
「昨日クローケーのコートであんたがミセス・コーネットに話したことから判断すると、あんたは食いもの目当てでやってきたのさ。泊まりにきてもここの夫婦ぐらい退屈な連中はないけど、一流のコックを雇っておくだけの知恵はある、さもなきゃ誰が二度とここのうちへ泊まりにくるもんですか、といってたぜ」
「そんなこと大うそだわ! ねえミセス・コーネット、わたし誓って……」とミス・レスカーが大声を立てた。
「ミセス・コーネットはあんたのいったこと、あとでバーティ・ヴァン・ターンにしゃべったよ」と、トバモリーはしゃべりつづけた、「そしてね、『あの女ときたらまったくの欠食児童だ、一日に四度ちゃんと飯が食えさえすればどこへでも出かける』ってね。そしたらバーティ・ヴァン・ターンがいったよ……」
ありがたいことにトバモリーの物語はそこでストップした。彼は牧師館の黄色い大きな雄ネコが茂みをわけて廐舎の方へ行くのをチラリと見たのだ。彼はパッと飛び立つと、あいているフランス窓から姿を消した。
あまりにも成績優秀な生徒が姿を消すと、コーネリアス・アピンは猛烈な嵐に四方八方から襲われた。手きびしい批難と心配そうな質問と仰天した懇願との大嵐だ。こんな事になった責任はあなたにある! 今のうちに事態の悪化を防止したまえ! トバモリーはあの危険な才能をほかのネコに教えることができるだろうか? 彼はまずその質問に答えさせられた。有り得ることです、と彼は答えた。親しい仲の廐舎のネコにはもう教えたかも知れません。しかしまだほかのネコまで教えてはいないでしょう。
「そんなら」とミセス・コーネットがいった。「そりゃトバモリーは値段の高い、大事な飼猫かも知れないけど、あれと廐舎の三毛ネコは今すぐ始末しなきゃいけないよ。ねえアデレード、そうでしょう?」
「わたしだってこの十五分間のこと、よろこんで見てはいませんのよ」とブレムリ夫人がツンとして答えた。「夫にもわたしにも大事なかわいいネコなんです――この恐ろしい芸を仕こまれるまではね。でもこうなっては一刻も早く殺さなけりゃなりませんわ」
「いつも夕食にやる肉きれの中へストリキニーネを入れるんだな」とウィルフリッド卿はいった。「廐舎の三毛はぼくが行って川へ放りこんで殺す。かわいがってるネコだから馬丁も悲しむだろうが、あの三毛もトバモリーも伝染力のつよいカイセンになったから犬舎までひろまると困る、とでもいっておこう」
「でもわたしの大発見はどうなるんです?」とミスター・アピンが抗議を申し立てた、「せっかく多年の研究と実験を重ねて……」
「実験なら農場にいる短角牛でできますわ、ちゃんと管理されてますからね」とミセス・コーネットがいった。「でなきゃ動物園のゾウでもいいでしょう。ゾウは知能が高いそうですし、寝室をうろついたり椅子の下へ這いこんだりなんかしません。そんな取柄もありますわ」
もしかりに大天使がキリスト再臨を有頂天になって宣言したところ、言語同断にもその日がヘンリ・ボートレースの当日とかち合って止むなく無期延期となったにしろ、驚異の大発明がこんな破目になったコーネリアス・アピンほどしょげ返りはしなかろう。しかし世論は彼に反対だった。つまり、もしこの問題につき一般の意見を徴したなら、ストリキニーネ入りの食事はアピン自身にも与えるべし、という少数ながら無視できない票が投じられたろう。
汽車の時刻に都合がわるいため、またこの事件の結末を見届けたいため、一同すぐさま解散はしなかったが、その晩の夕食は社交的に見て成功ではなかった。ウィルフリッド卿は大骨折って廐舎の三毛ネコの始末をつけ、そのあと馬丁相手にもひと苦労した。アグネス・レスカーはこれ見よがしに食事をトースト一枚に制限し、しかもそれを憎いかたきでも噛むように噛んだ。一方、メーヴィス・ペリントンは食事中ずっと沈黙を守って仇討のつもりらしい。ブレムリ夫人は何とか座をもたせようと会話らしいものを続けながら、絶えずドアの方に注意を向けていた。サイドボードには慎重に毒を盛った魚肉の皿がのせてあるが、食事のあとの|砂糖菓子《スイーツ》がすみ|口直し《セイヴォリ》がすみデザートが片づいても、トバモリーは食堂にも台所にも姿を見せなかった。
何とも陰気くさい夕食ではあったが、そのあと喫煙室での通夜のような気分よりはまだ明るかった。夕食のときは飲んだり食べたりで一座の気まずさも何とかまぎらせたが、今度はみな緊張し興奮していてブリッジなど始めるどころの話ではない。オドウ・フィンスベリが哀れっぽい声で「森のメリザンド」を歌ったが聴衆はてんで受けつけない。それきり音楽は誰いうとなく取りやめになった。十一時になると召使一同、食料室の小窓はいつも通りトバモリーが通れるようにあけ放しておきます、と報告して寝室へ引きあげた。お客たちはせっせと最近号の雑誌を読んでいたが、次第に調子を落としてバドミントン文庫だのパンチの合冊本だのに切り替えた。ブレムリ夫人は定期的に食料室を見まわったが、そのつど沈んだ元気のない顔で戻ってくるから誰ひとり質問もできない。
二時になるとクローヴィスが一座の沈黙を破った。
「今晩は現われそうもないですな。きっと今ごろ、土地の新聞社で回想記の第一回分を口述してるんでしょう。ナントカ夫人の本のことなど、平凡なおしゃべりはしませんよ。きっと新聞に出たら当日の呼び物になるでしょうな」
こういって一同をゾッとさせるとクローヴィスは寝室へ引きあげた。そのあと長い間をおいてポツリポツリと客一同は彼の例に従った。
翌朝、朝のお茶を配ってまわった召使たちは、誰からも同じことを聞かれて同じような返事をした。トバモリーはとうとう帰ってこなかったのだ。
朝食に集まると前の晩の夕食にもましていやな気分だったが、終りかけるころになって形勢はガラリと明るくなった。トバモリーの死骸がもちこまれたのだ。園丁が茂みの中で発見したのである。咽喉は咬み切られているし足の爪には黄色い毛が一面にからみついている。牧師館の大きな雄ネコと喧嘩して衆寡敵せずやられたにちがいない。
昼ごろまでにほとんどの客はこの邸から帰って行った。ブレムリ夫人は昼食をすませるとようやく元気をとり戻し、大事な愛猫を殺された件につき牧師館へ痛烈な手紙を書いた。
結局、ミスター・アピンの成功した弟子はトバモリーだけとなって、その後継者は永久に現われなかった。数週間あと、ドレスデン動物園のゾウがそれまで別に気の立っている様子もなかったのに鎖を切ってあばれ出し、うるさくからんでいたらしいイギリス人を殺した。被害者の名はオピンとかエペリンとか新聞によってまちまちだったが、クリスチャン・ネームだけはコーネリアスと正確に報道された。
「かわいそうにね。だがゾウにドイツ語の不規則動詞を教えこもうとしたんなら殺されるのも当然さ」とクローヴィスはいった。
ミセス・パクルタイドの撃ったトラ
[#地から2字上げ]Mrs. Packletide's Tiger
トラを一頭仕とめるのがミセス・パクルタイドの念願でも意志でもあった。何か殺したい欲望が急にわいたわけでもなし、人口百万人あたりの野獣の頭数をほんのちょっぴり減らしてやればこのインドが自分の来たときより安全で健康的な土地になると思ったのでもない。突然、狩の名人ニムロッドに続こうという気になったのは実は何が何でもという動機が別にある。つい最近、ルーナ・ビムバートンがアルジェリヤ人パイロットの操縦する飛行機で十一マイル空を飛び、いつもその話ばかりするという事実がそれだ。それを向こうに廻して立派に立ち向かう手はひとつしかない。これはわたしが撃ちましたというトラの皮と、新聞に出たその現場の写真をしこたま持ち出すばかりである。いずれロンドンへ戻ったらカーゾン・ストリートの自宅で表向きはルーナ・ビムバートンを主賓にランチ・パーティを開いてやろう、トラの皮の敷物を目につくところへ敷いてトラ狩の話でもちきりにしてやろう――そんな計画がもう彼女の頭に浮かんでいた。その上、ルーナ・ビムバートンの今度の誕生日にはトラの爪をブローチに仕立ててプレゼントしてやろう、とも思っていた。世の中を動かすのは飢えと愛が中心だというが、ミセス・パクルタイドは例外だった。彼女のすることなすこと、またその動機もすべてルーナ・ビムバートンが憎らしいという気持にだいたい支配されていた。
事情は好転した。あまり危険も冒さず大骨も折らずにトラが一頭撃ち殺せたら一千ルピー出す、とふれておいたところが、たまたま近くの村にトラのよく出る場所があって、そのトラというのはレッキとした前歴がある上に、老衰のため野獣をおそうのは廃業して、もっぱら小型の家畜ばかり食いにくる奴である。うまくいけば一千ルピーになるとあって村民の狩猟本能と営利本能は発動した。村のジャングルのまわりに昼も夜も子供たちを配置し、万が一にもトラが獲物さがしにほかへうろつき出るのを警戒する一方、安物のヤギを何頭もさり気なく上手にそこらへ放して、トラがこの場所に不満を起こさないようにした。もし|奥方《メムサヒブ》がお撃ちあそばす日より前にトラが老衰で死んだらどうしよう――それだけが心配の種だ。だから畑仕事がすんだあと、母親どもは赤ん坊を抱いてジャングルの中を帰るとき歌をうたうのをやめにした。この高齢なる家畜泥棒の安眠をさまたげない用心である。
やがて大事な晩になった。空には月が照り雲ひとつない。ほどよいところにある立木の梢の安心なところに壇ができていた。その上にミセス・パクルタイドはお雇いの|お相手《コンパニオン》ミス・メビンを従えてうずくまった。ほどよい距離にヤギが一頭つないである。これは特にしつこく啼き立てる奴だから、少しぐらい耳の遠いトラでも静かな晩なら当然聞きつける。ちゃんと照準を合わせた銃と、|ひとり占い《ペーシェンス》もやれるように小型のトランプを一組――それだけ用意して女性狩猟家ミセス・パクルタイドは獲物の出現を待った。
「少し危険じゃないでしょうか?」とミス・メビンがいった。
実は本当にトラがこわかったのではない。もらっている給料以上のサービスは、ちょっぴりでもやらされるのが病的にこわいのだ。
「そんなばかな!」とミセス・パクルタイドはいった。「老いぼれのトラだもの、跳びつこうにもここまで跳べるもんですか」
「老いぼれならもっと安くていいんじゃありませんの? 一千ルピーといったら大金ですわ」
どこの国の何という貨幣だろうが、すべて金銭のことになると姉が妹の世話をやくような態度に出る――それがミス・メビンだった。だからモスクワのホテルであぶなくチップに飛んでしまう|金《かね》を何ルーブルと倹約したのも、不熱心な人だったら金に羽根が生えて飛びそうな場合にフランでもサンティームでも天然自然と手もとに残ったのも、すべてミス・メビンの精力的な干渉のおかげだった。近ごろはトラの皮の相場もさがったし、などと考えていた彼女の思索は遮られた。トラ自体が現場に姿を現わしたのである。トラはつないであるヤギを見つけると、すぐさま地面に腹ばいになった。物の蔭にひそんで姿をかくすというよりも、大攻撃にかかる前に一息入れるつもりだったらしい。
「あのトラ、病気ですよ」とルイザ・メビンがヒンドスタン語で大声を立てた。近くの立木にひそんでいる村長に教えたのである。
「シッ!」とミセス・パクルタイドが抑えたとたん、トラはヤギの方へゆっくり歩き出した。
「そら、今ですよ!」とミス・メビンが興奮してせきたてた、「ヤギに飛びつきさえしなけりゃヤギの代金は払わずにすみますからね」(エサ代は別、ということになっている)
銃は轟然と火を吐いた。トラは横っとびにふっ飛んで、ごろりと転がるとそれきり動かなかった。たちまち村人が大勢わいわいその場へ集まってきた。その大声でたちまち村中に吉報が伝わって、歓呼のコーラスにトムトムの伴奏が加わった。喜び勇むその声がミセス・パクルタイドの胸にたちまちこだました。これでカーゾン・ストリートの自宅で開くランチ・パーティが物すごく接近したわけである。
ヤギの方は銃弾による致命傷で断末魔の苦しみの最中だが、トラの方は全身くわしくしらべても全然弾丸の跡がない――この事実を指摘したのはミス・メビンだった。たしかに弾丸はヤギに命中し、トラは心臓麻痺で参ったのである。突然の銃声でギョッとしたところへ老衰が手を貸したわけだ。そうわかるとミセス・パクルタイドは当然がっかりしたが、とにかくトラの死骸は彼女のものだ。村人の方は一千ルピーがほしいから、トラを撃ったのは|奥方《メムサヒブ》さまだというインチキに進んで目をつぶった。その上、ミス・メビンはお雇いの身分である。だからミセス・パクルタイドは欣然として新聞社のカメラに向かってポーズした。彼女の名声は写真入りでアメリカの「テキサス週刊画報」からロシヤの「|新時代《ノーボエ・プレーミヤ》」の写真入り月曜版にいたるまで全世界に拡まった。ルーナ・ビムバートンはといえばそれからの数週間、写真入りの新聞は絶対にひろげず、トラの爪のブローチを贈られたときの礼状はまさに感情抑止の見本そのものだった。ランチ・パーティへの招待も謝絶した。誰にしても、あまり感情を抑えると爆発する限度があるからである。
トラの皮はカーゾン・ストリートからはるばる田舎の領地にある本邸へ運ばれて、州民一同しかるべく拝見して感心した。ミセス・パクルタイドが全州仮装舞踏会に狩猟の女神ダイアナに扮して出たのもまことに適切だった。クローヴィスは、「ひとつ原始風俗舞踏会でも開きませんか、みんな近ごろ殺した動物の皮を着て出ることにして」と面白そうな提案をもち出した。「ぼくはさしずめ寝まき姿の赤ん坊という格好でしょうな、けちなウサギの皮を一、二枚縫い合わせたのを引っかけてね」といいながら、彼は体格だけはダイアナそっくりのミセス・パクルタイドの堂々たる図体にチラリと意地のわるい目を向けると、「ぼくの身体つきはロシヤ人の男性舞踏家そっくりだしね」と付けたした。ミセス・パクルタイドはその提案に賛成しなかった。
「もし本当のことがわかったらみんなさぞ笑うでしょうね」と、舞踏会の二、三日あとでミス・メビンがいった。
「それ、どういう意味?」とすかさずミセス・パクルタイドが訊ねた。
「弾が当ったのはヤギの方でトラはびっくりして死んだってことです」とミス・メビンはいってニヤリといやな笑いを浮かべた。
「そんなこと、誰も本当にするもんですか」とミセス・パクルタイドはいった。その顔色がつぎつぎと忙しく変わる。まるで郵便の締切時間にせまられてスタイル・ブックのページを繰っている時のようだ。
「でもルーナ・ビムバートンは本当にしますわね」とミス・メビンがいった。ミセス・パクルタイドの顔色は何とも不似合な白っぽい緑に落ち着いた。
「あんた、まさかすっぱぬく気じゃないでしょうね!」と彼女はたずねた。
「わたし、ドーキングの近くに週末用の別荘を一軒見つけてきましてね、実はそれが買いたいんです」ミス・メビンはまるで筋ちがいのような話をもち出した、「六百八十ポンドですの、自由保有権付きで。まったく掘出し物なんですけど、いまそのお金がないんですの」
ルイザ・メビンは買いこんだその小ぎれいな週末用別荘を|野《レ・》|獣《フオ》|荘《ーブ》と命名した。夏になると花壇のへりにトラユリの花が美しく咲き出す。メビンの友達一同に驚異と羨望の的となった。
「おどろくわね、どうしてルイザにあんなことできるのかしら」というのが一般の意見だった。
ミセス・パクルタイドはもう野獣狩はやめている。そしてやめたわけを友達にきかれると、「何しろ雑費が大変ですからね」と彼女は打ちあけ話をする。
バスタブル夫人の遁走
[#地から2字上げ]The Stampeding of Lady Bastable
「うちのクローヴィスをあと六日間泊めて頂けるとありがたいんですけど、わたくしが北のマクグレガー家へ行ってくるうち」とミセス・サングレールが朝食のテーブル越しに眠たそうな声でいった。ぜひとも頼みたいことがあると眠たそうに気楽な声をするのがおきまりの手なのだ。その手でやられると誰もうっかりしてしまう。いわれた通り引き受けてしまってから何か頼まれたんだなと気がつくことがよくある。しかしバスタブル夫人はそう簡単には丸めこまれなかった。その声がどんな意味だか知っていたのかもしれない――少なくともクローヴィスのことはよく知っていた。
バスタブル夫人は手にしたトーストに顔をしかめて、ごくゆっくりと食べはじめた。食べられるトーストより食べる自分の方が痛いんだ、という感じを出すつもりかもしれない。だがあと六日間クローヴィスを泊めてやろうとは口にしなかった。
「わたくし、本当に助かりますのよ」とミセス・サングレールが追い打ちをかけた。何気ないそぶりはもう捨てている、「マクグレガー家へはどうにもクローヴィスをつれて行きたくありませんし、それにほんの六日間ですしね」
「もっと長い気がするんでしょうね」とバスタブル夫人は陰気な声をした。「この前うちへ一週間泊まったとき――」
「そうでしたわね」と相手は慌てて口を出した、「でもあれ、かれこれ二年も前ですわよ。あのころはクローヴィスもまだ若かったし」
「でもあのときよりよくはなってませんね。大きくなっても何にもなりませんわ、新式のいたずらを覚えるだけだと」
その問題を議論するのはミセス・サングレールに不可能である。クローヴィスが十七歳になってこのかた、手におえないいたずらぶりをいつも知り合い仲間にこぼしている。もし、おとなしくなりそうですよ、などと匂わせでもしたら、たちまち慎重な懐疑的返答をもち出されるだろう。何とかいいくるめようとしてもむだと見て取ると、彼女はズバリわいろを使うことにした。
「お宅へ六日間泊めてくださればブリッジの賭金は棒引きにしますわ、あの未払いの分」
金額はわずか四十九シリングだ。しかしバスタブル夫人は深く深くシリングを愛している。ブリッジで負けても賭は払わずにすむ――これはめったにない経験だ。トランプ遊びにこんなにすばらしいことはない。ミセス・サングレールにしても、もうけた賭金が大事なことは似たようなものだが、息子クローヴィスを六日間保管させてついでに息子の汽車賃まで節約できると思うと、四十九シリングは進んで犠牲にする気になったのだ。やがてクローヴィスがおくれて朝食にあらわれたとき、取引の相談はもうまとまっていた。
「ねえ、わかったかい」とミセス・サングレールは眠たそうな声をした、「バスタブル夫人がね、ご親切におまえを泊めといてくださるのよ、わたしがマクグレガー家へ行くうち」
クローヴィスはその場にふさわしい挨拶をはなはだふさわしくない態度で述べた。それからかたきでも討つように朝食の料理をつつき出した。すごくむずかしい顔である。どんな和平会議でもこんな顔をしたらぶちこわしだろう。自分のいないうちに話をつけられたのが二重に癪にさわるのだ。第一に、彼はぜひともマクグレガー家の子供たちにトランプのポーカー・ペーシェンスを教えてやりたい。もう仕こんでやっていいころなのだ。第二に、このバスタブル家で出す食事は分類すれば|粗末《ルード》な山盛りの部に入る。それを翻訳してクローヴィスは|乱暴《ルード》な言葉を引き出す山盛りという。ミセス・サングレールは眠たそうに構えた目蓋の下からクローヴィスの様子をうかがった。多年の経験から見て作戦の成功をよろこぶのはまだ断然早すぎる、と見て取った。もちつもたれつの駆け引きでうまくクローヴィスを棚上げするのと、そのまま棚の上に腰を据えさせるのは別問題だからである。
バスタブル夫人は朝食がすむとすぐ|午前用居間《モーニング・ルーム》へ威儀を正して引きあげる。そして一時間ばかり静かに新聞に目を通すのが習慣だ。せっかく取っている新聞だから目を通さないと損になるというわけだ。政治にはあまり興味がない。だが一つお気に入りの不吉な予感があっていつも頭をはなれない。いずれそのうち社会に一大変革が起こりますよ、そして一人残らず誰かに殺されますよ、というのだ。「予想より早く起こるでしょうね、きっと」と、いつも薄気味わるい言い方をする。だがその言葉だけでは根拠としていかにも薄弱曖昧だ。図ぬけた数学の天才がどう頭をひねったところで、それだけではおよその日付けも割り出せそうにない。
ところでこの日の午前、バスタブル夫人が新聞紙各種をならべたまん中へデンと納まった光景を見ると、クローヴィスの頭にヒントが一つおとずれた。朝食をたべながらずっと頭をひねって来た問題のヒントである。母親は二階で荷造りの監督中だ。一階にいるのはバスタブル夫人と自分きり――それに使用人たちがいた。この使用人どもが事態解決の鍵になるぞ、とクローヴィスはいきなり台所へバタバタかけこむと猛烈な大声を立てた。ただし、ハッキリしたことは絶対にいわない。「奥さまが大変だあ! みんなモーニング・ルームへ行けえ! 早く、早く!」たちまち執事もコックもボーイも二、三人のメードも、ちょうど外の台所にい合わせた園丁も、一目散にモーニング・ルームへかけこむクローヴィスのあとから、慌ててバタバタかけつけた。バスタブル夫人は新聞学の世界からわれに返った。玄関のホールで日本製の衝立がひっくり返る音を聞きつけたのだ。つづいてホールから入るドアがパッと開いてクローヴィスが夢中でかけこんだ。かけぬけながら「百姓一揆だあ! やって来るぞお!」と金切り声を投げつけて、まるでタカが逃げるようにフランス窓から外へとび出した。すぐそのあとからおびえ立った使用人たちがゾロゾロとびこんで来た。園丁は生垣の刈りこみにかかっていた鎌を手にもったままである。慌てふためき夢中でかける勢いで、すべったりころんだり、みがき上げた寄せ木張りの床の上を奥方の椅子の方へおしよせた。奥方は恐怖のあまりビックリ仰天の有様だ。もし一瞬間だけ熟考をゆるされたなら相当の威厳をもって行動したでしょうに、とはあとになって夫人のいったことである。おそらく彼女に決断を迫ったのは園丁の手にした鎌だったろう。とにかく夫人はクローヴィスの模範にしたがってフランス窓からとび出すとかなり遠くまで芝生をかけて行った、あきれ返った家来どもの目の前を。
失った威厳は手の平を返すように恢復できるものではない。バスタブル夫人にもまた執事にも、平常にもどる経過は溺死しかけてだんだんよくなるときのように辛かった。どんな立派な動機から起こったにしろ、百姓一揆といえばあとに必ず気まずい感じが残る。しかしランチどきまでに今しがたひっくり返された自然な反動として端正優雅な雰囲気がまた一段と厳粛に支配した。ランチはまるでビザンチン方式に範を取ったかのごとくいとも冷厳荘重に進行したが、その途中でミセス・サングレールは銀盆にのせた一通の封筒をうやうやしく贈られた。封筒の中身は金額四十九シリングの小切手だったのだ。
結局、マクグレガー家の子供たちはポーカー・ペーシェンスを教えこまれた。覚えてもいい年ごろだったわけである。
名画の背景
[#地から2字上げ]The Background
「あの女の美術批評ときたら、ちんぷんかんな言葉だらけでうんざりする」とクローヴィスがジャーナリストの友人にいった、「よくいうじゃないか、この絵はわたしにはだんだん大きなものになってきます、なんてね。まるでキノコみたいだ」
「それで思い出したが」とジャーナリストがいった、「アンリ・デプリのこと、君に話したかな」
クローヴィスは首を横にふった。
「アンリ・デプリという男はルクサンブルグ大公国の生まれでね、いろいろ考えた揚句セールスマンになった。仕事の都合でよく外国へ行くことがあって、北イタリヤの田舎町へ行っていたとき、国もとから知らせが来た。遠縁の親類がひとり死んで遺産が舞いこんだわけさ。
「アンリ・デプリはもともと大して|金《かね》のある奴じゃない。そのデプリの目で見ても大した財産じゃないんだが、舞いこんだ遺産でまず害もなさそうなぜいたくでもしようという気になった。その土地で代表的な芸術というとアンドレアス・ピンチニ氏の|刺《いれ》|青《ずみ》なんだな。ひとつそれを後援してやろうということになった。ピンチニ氏といえばイタリヤではまず古今無双の刺青の大家だが、ひどく貧乏していたから六百フランでデプリの背中の刺青をよろこんで引き受けた。鎖骨のところから腰にかけてイカルス墜落の図を色あでやかに彫るわけさ。ようやく完成するとデプリ先生、いささかがっかりした。イカルスというのは三十年戦争のときワレンシュタイン将軍が攻め落とした城じゃないかな、と思っていたからだ。しかし出来栄えには大いに満足した。拝見の光栄に浴した連中ひとり残らず、これはピンチニ一代の傑作だと賞めそやしたからだ。
「この作品がピンチニ最大の、そして最後の傑作になった。というのは、まだ手間賃ももらわないうち、この偉大な名工はこの世を去って手のこんだ飾りのある墓石の下へ葬られた。装飾に羽根の生えた天使が何人かついている。さすがの名工もその天使どもに腕をふるう時間はなかったようだ。しかし、あとに残ったピンチニ未亡人に六百フラン払わなければならない。そこでセールスマン、アンリ・デプリは重大な危機に直面することになった。せっかくの遺産も何やかやでちょいちょい手をつけたから、残りかなり少なくなっていた。のっぴきならぬワイン代の勘定だの、ほかにいろいろ支払いをすますと、未亡人に払える金はわずか四百三十フランたらずしかない。未亡人は当然腹を立てて滔々と文句を並べた。百七十フラン値引きしろというのは死んだ夫のレッキとした傑作の価値にケチをつける気か、という言い分だ。一週間するとデプリは払える金はわずか四百五フランになり、未亡人の怒りはいちだんと燃え立って、とうとうこの傑作の売却を取り消した。二、三日してわかったが、未亡人はこの作品をベルガモ市へ寄贈すると申し出て、市の方でもよろこんで寄贈を受けてしまったのだ。デプリはびっくり仰天して、できるだけ人目を避けて町を立ちのいた。やがて上司の命でローマへ廻されてしんの底からホッとした。ローマにいれば自分の身元もわからず例の傑作の一件もわかるまい、と思ったからだ。
「ところがデプリは死んだ名工の天才という重荷を背中にしょっている。ある日、トルコ風呂へ行って湯気の立ちこめた廊下へ姿を見せると、たちまち経営者につかまって否応なしに服を着せられた。この経営者というのは北イタリヤ出身の男で、ベルガモ市当局の許可がなくてはあの有名な傑作『イカルスの墜落』を公開させるわけにはいかん、と断然きかない。事件がひろく知れわたるにつれ、世間の注目と官憲の監視はますます厳重になり、どんなに暑い日でも厚地の水着で肩のところまで隠さなくては、海や川へちょいと飛びこむことも出来なくなった。その後、ベルガモ市当局は海水はこの傑作に有害だと考えて、かわいそうにデプリは事情の如何を問わず海水浴は永久に禁止となった。それやこれやで、会社が担当区域をボルドー市附近へ変えてくれると彼は非常に感謝したが、その感謝の念もイタリヤとフランスの国境で突然ストップした。というのは、役人どもがずらりと並んで彼の出国を拒否したのである。イタリヤでは美術品の国外搬出を絶対に禁じている。それを知らないか、というわけだ。
「そこでルクサンブルグ大公国とイタリヤ政府の間に外交交渉が始まるし、一時はヨーロッパの国際情勢も雲行きがあやしくなった。だがイタリヤ政府は頑として一歩も譲らない。セールスマン、アンリ・デプリの運命も存在もイタリヤ政府の関知するところではないが、現在ベルガモ市の所有に属する名作『イカルスの墜落』(故アンドレアス・ピンチニ作)の国外搬出は絶対に認めない、という態度は不変である。
「その騒ぎはやがて収まったが気の毒なことにデプリは、生まれつき内気な性格なのに数カ月するとまたもや激烈な論争の中心にされてしまった。あるドイツ人の美術専門家がベルガモ市から許可を受けてこの名作を調査研究し、その結果、これはピンチニの偽作である、おそらくは彼が晩年に使った一弟子の作であろう、と鑑定したのだ。この問題についてデプリ自身の証言が無価値であるのは当然だ。何しろ本人は長時間かけて図柄を|刺《いれ》|青《ずみ》するため、例によって麻酔をかけられていたからだ。あるイタリヤの美術雑誌の主筆はドイツ人美術専門家の意見に反駁を加え、論者の私生活は現代の道徳水準に合致しない、とまで暴露しかけた。イタリヤもドイツも国を挙げてこの論争にまきこまれ、ほかのヨーロッパの諸国までこの論戦に引きこまれそうな形勢だった。スペインの国会ではなんべんも乱闘が起こるし、コペンハーゲン大学はこのドイツ人学者に金メダルを授与した。しかもあとから委員会を派遣して直接現場でその論拠を調査までした。一方、パリではポーランド人の留学生が二名、この問題に関する自己の意見を表明するため自殺した。
「かれこれするうち、背中にこの傑作をしょった不幸な男は引きつづき不運な目にあって、ついふらふらとイタリヤ無政府党に入党したのも不思議はない。好ましからざる危険な外人として国境まで護送されたことも少なくとも四回はある。しかしそのつど、これは名作『イカルスの墜落』(伝アンドレアス・ピンチニ作。二十世紀初期)だという理由で連れ戻された。ところがある日、ゼノアで無政府主義者会議に出ているとき、ひとりの同志が議論に熱狂して腐食性の薬品をひと瓶、彼の背中にたたきつけた。着ていた赤シャツのおかげで大きな怪我はしなかったが、イカルスの姿はさんざんで見わけもつかなくなった。加害者は同志に暴行を加えたかどで手きびしく譴責された上、国宝美術品損壊罪で七カ年の禁錮刑になるし、アンリ・デプリは病院から退院を許されると、好ましからぬ人物として即時国外追放になった。
「パリのひっそりした通り、特に美術省の界隈でときたま沈みきった不安そうな顔の男をみかけるが、今日は、などと声をかけると少しルクサンブルグ訛りのある言葉で挨拶を返す。どうやら自分はミロのヴィーナスの失くなった片腕だと思いこんでいて、何とかフランス政府に買い上げてもらうつもりらしい。それ以外はまったく正気らしいんだがね」
ハーマン|癇癪王《かんしゃくおう》
[#地から2字上げ]Hermann the Irascible
[#地から2字上げ]――A Story of the Great Weep
ハーマン癇癪王はまた仇名を聡明王ともいう。この王さまがイギリス帝国の帝位についたのは一九一〇年代である。大疫病でイギリス全土がくまなく荒廃したあとのことだ。この恐るべき疫病のため、王室一族は第三および第四世代にいたるまで一人残らず死に絶えた。その結果、サクス・ドラクセン・ワヒテルスタイン家の当主ハーマン第十四世が、帝位継承順位は第三十番目でありながら、ある日突然、|海《かい》|内《だい》および海外にわたるイギリス帝国の支配者となった。政界にはときたま予想外のことが起こる。ハーマン癇癪王の即位もその一例だが、起こりかたの突然さが実に徹底していた。さまざまな点で大国の支配者に彼ほど進歩的な君主はほかにない。全国民が面くらっているまに国民の立場はすっかり変わっていた。内閣の各大臣もまた、伝統的に進歩派でありながら、ハーマン癇癪王の政見について行くのが困難であった。
「実を申し上げますると」と総理大臣が白状した、「われわれ臣下一同、あの婦人参政権主義の奴めらには手を焼いておるのでござります。奴めらは全国いたるところにおきまして集会にはことごとく妨害を加え、|官庁街一帯《ダウニング・ストリート》を政治的ピクニック会場に変革しかけておるのでござります」
「それは処置しなければなるまい」とハーマン王が仰せられた。
「処置するのでござりますな」と総理大臣が言上した、「まことにさようでござります。しかしながら、その方法と申しますると?」
「余が法令を立案するであろうぞ」と癇癪王はタイプライターに向かった。「今後すべての女性はあらゆる選挙に投票するべきものとする、と制定するのじゃ。よろしいか、投票すべきものとする。『すべきもの』とは、しなければならぬ、という意味であるぞ。男子の有権者の投票は従前通り、するもしないも各自の自由とする。しかし、二十一歳から七十歳までの全女性は必ず投票することを義務と定める。単に国会、州議会、地域委員会、教区評議会、市町村議会等の選挙にとどまらず、検察官、視学官、教区委員、博物館館長、公衆衛生官、警察裁判所通訳官、水泳プール教官、土木建築契約官、教会付聖歌隊指揮官、市場指導監督官、美術学校教官、聖堂付雑務官、その他の地方公務員の選挙をもふくむものとするが、なお思いつくに従って追加する。これらの官職はすべて選挙により任命するものと改め、居住地域内における一切の選挙に関し、投票を怠りたる女性有権者に対して十ポンドの罰金を課する。医師の十分なる証明なき不在は、これを正当の理由と認定せざるものとする。さあ、この議案を上下両議院に通過させ、これを明後日提出するのじゃ。署名するであろうぞ」
女性選挙義務法案はそもそも施行の当初から、もっとも声を大にして運動して来た婦人参政権運動家の中にさえ、ほとんど歓喜の情を生み出さなかった。全国の女性の大部分はもともと参政権運動に無関心もしくは反対だったのである。狂熱的な参政権論者までが、投票用紙を箱の中へ入れるのがなぜあんなに魅力的に見えたろう、と首をかしげはじめた。地方各地でも今度の法令の規定の実施が実に面倒だったが、市町村ではそれが大変な重荷になった。選挙、選挙と、とめどなくつづく。洗濯女や仕立屋の針子たちは仕事先から投票所へかけつけた。しかも候補者の名は聞いたこともないからでたらめに投票する。女事務員や女給どもは特別に早起きして投票をすませてから勤め先へかけつけた。社交界の女性たちは年がら年中投票場へ行かなければならないので、予定も約束もすべてひっくり返される。週末のパーティや夏の休暇はだんだん男性だけの贅沢になりかけた。カイロもリヴィエーラも、そんな観光地は本ものの病人か大金持でなければ出かけて行けない。長く不在にすると十ポンドずつの罰金がたちまち溜って、一通りの金持ではとても払いきれなくなるからだ。
女性非参政権運動が恐るべき一大社会運動となったのも不思議はない。女性非投票連盟は熱心な女性会員が百万単位で数えるほどにふえ、シトロンとオランダ・アカネのシンボル・カラーの旗がいたるところにひるがえり、流行歌「いやだ、いやだよ、投票はいやだ」がさかんにうたわれた。しかしこうした平和的説得に対して政府が何の反応も示さないので、やがて暴力による手段がはやって来た。集会は妨害をうけ、各省の大臣は襲撃され、警官は咬みつかれ、刑務所ではいつも食事が突き返され、トラファルガー海戦記念日の前夜には、ネルソン記念塔の根元からてっぺんまで女性が幾段にも重なって塔へからだをくくりつけたので、例年の花飾りは取りやめるより仕方がなかった。しかしそれでも政府は女性に投票権をあたえるべしという信念を頑として捨てなかった。
やがて、誰かすぐれて機智ゆたかなる女性が急場を打開する方策を考えついた。どうして今まで誰も思いつかなかったか、何とも不思議に思えるくらいだが、つまり一大号泣運動が組織されたのだ。ロンドン市内のあらゆる公共の場所で、一度に一万人の女性がリレー式に交代しながら絶えず声を立てて泣いた。鉄道の駅でも泣いた。バスや地下鉄でも泣いた。王立美術館でも、陸海軍売店でも、セント・ジェイムズ公園でも、流行歌のコンサートでも、プリンセス・ストリートでもバーリントン|商店街《アーケード》でも泣いた。これまでぶっ通し満員の盛況をつづけて来た優秀な笑喜劇『ヘンリーのウサギ』さえ、椅子席も二階さじきもサメザメと泣きつづける女性客の存在で危機に瀕したし、長年にわたって裁判がつづいた派手な離婚訴訟も傍聴人の一部の涙まみれの行動により少なからず光彩を奪われた。
「いかがいたしたものでござりましょうか?」と総理大臣が伺いを立てた。首相官邸のコックは朝食の料理一切へ涙を泣きこんだし、乳母はシクシクサメザメと泣きながら子供たちをハイド|公園《パーク》へ散歩につれ出して行ったのだ。
「物事にはすべて潮どきというものがあるぞよ」と王さまが仰せられた、「譲歩するにも潮どきがある。全女性から選挙権を取り上げる議案を上下両院に提出して通過させ、明後日ここへ提出すれば裁下してつかわすであろうぞ」
総理大臣がご前を退出すると、ハーマン癇癪王またの名聡明王はふかぶかと含み笑いを浮かべた。
「ネコを殺すにはクリームをうんと当てがって窒息させるばかりが能じゃない、ということがあるな」と癇癪王はことわざを思い出した。「だがしかし」と王さまは付けたしていった、「それが最善の方法ではないともきめかねるな」
反安静療法
[#地から2字上げ]The Unrest-Cure
鉄道の車室の、クローヴィスの真っ正面の網棚に頑丈な旅行かばんがあって、ラベルに丁寧な文字で「スロウボロ郊外ティルフィールド、ウォレン荘、J・P・ハドル」と書いてあった。網棚の真下にラベルの文字の実物がかけている。体格のいい落ち着いた人物で、服装も落ち着いていれば話しぶりも落ち着いていた。となりにかけている連れの男と、今年はヒヤシンスの咲くのがおそいとか、教区にハシカが流行しているとか、主にそんな話をしているが、その話を聞くまでもなく、旅行かばんの持主の気質も物の見方もかなり正確にわかる。しかし、何から何まではたで見る人の想像にまかせるのは嫌いなタイプらしく、まもなく相手に自分の心境を話しはじめた。
「どういうわけか知らんが」と連れの男にいう、「わたしはまだ四十をいくつも出ていないのに、中年もかなり越した年配の深い溝にはまりこんだような気がするな。姉も同じ傾向があってね、ふたりとも何でもちゃんときまった場所にないと気に入らない。どんなことでも時刻をずれると気に入らないし、一切合財いつも通り、整然と、時間かっきり、規律正しく、一分の隙も狂いもなくいってもらいたいんだ。もしそういかないと、それが苦になって落ち着かない。たとえば、些細なことだが、芝生に植えてあるネコヤナギの木へ毎年ツグミが巣を作る。ところが今年はどういうわけか、塀に茂ったキヅタの中へ巣を作りかけた。姉もわたしもあまり口には出さないが、場所を変える必要もないのにと少しイライラしている。姉の方もどうもそうらしい」
「そりゃ別のツグミなんじゃないかな?」と連れの男がいった。
「それは姉もわたしも考えた。だが別のツグミかと思うと、いよいよ腹が立ってくる。わたしたちの歳になって今さら別のツグミに来てもらいたくない気がするね。そのくせ、さっきもいった通り、そんなことが身にしみるような歳にはまだなっていないんだ」
「君はね」と相手がいった。「反安静療法をやる必要があるな」
「反安静療法? そんなもの、聞いたことないぞ」
「安静療法なら知ってるだろう。苦労がつづいたり猛烈に働きすぎたり、そんなストレスでまいった人が受ける。ところが君のは生活が安静すぎ穏やかすぎるのが原因だから、それと正反対の療法が必要なのさ」
「その療法、どこへ行けばやれる?」
「そうさな。アイルランドのキルケニ州の選挙にオレンジ党から立候補するとか、パリの|よた者《アパーシュ》どものたむろする町で家庭訪問にまわるとか、ベルリンへ講演に行ってワグナーの作品は大部分ガンベッタの作曲だと力説するとか、いろいろあるね。それにモロッコ奥地の旅行ならいつでも行ける。だが反安静療法で的確に効果を上げるには自宅でやるに限るんだ。ただし、どうしたら君にそれができるか、ぼくには見当もつかないな」
話がそこまで進んだとたん、クローヴィスは電気に撃たれたようにピリッと緊張した。スロウボロにいる年配者の親戚のところへ二日間泊まりに行くところだが、何といってもあまり胸のおどりそうな場所ではない。列車が停車するまでに、彼はワイシャツのカフスに「スロウボロ郊外ティルフィールド、ウォレン荘、J・P・ハドル」と気味のわるい文句を書きつけた。
三日目の朝、ミスター・ハドルは姉のプライバシーを犯して、居間で雑誌「田園生活」を読んでいるところへかけこんだ。姉は毎週この日のこの時刻にこの場所で「田園生活」を読むことにしている。そこへ侵入するのは規則違反だ。しかし彼は手に電報を一通もっていた。この家では電報というと神のみわざと見なされている。しかもこの電報は青天の|霹《へき》|靂《れき》的性格を帯びていた。その電文――「シュキョウ フキンノ ケンシンシキ シサツチュウ ハシカ アルタメ ボクシカン トマレズ オセワタノム ヒショ ウチアワセニ ユク」
「主教さまはほとんど知らないんだ、一度口をきいただけだからな」とJ・P・ハドルが大声でいった。知り合いでもない主教さまにうっかり口をきいたのは無鉄砲だった、と今さら気づいた言いわけのような口ぶりだった。まず立ち直ったのは姉の方である。青天の|霹《へき》|靂《れき》が大嫌いなことは弟と同じだが、女性としての本能から、青天の霹靂でも食事は出さなくてはならないと気がついたのだ。
「コールド・ダックをカレーにしますわ」と姉はいった。今日はカレーを作る日ではないのだが、オレンジ色の電報用紙が届いては規則も習慣もある程度は破らなければならない。ミスター・ハドルは何ともいわずに、肝のすわった姉に感謝の目を向けた。
「お客さまが見えました。若い男の方でございます」と小間使が知らせに来た。
「そら、主教さまの秘書だ」とふたりは声を合わせてつぶやくと急に固くなった。知らない人はすべて悪い人ときめこんではいるが、もしその当人に何か弁解があるなら聞きます、という態度である。若いお客さまというのが入ってきた。上品ながらお高くとまった感じで、ハドルが予想していた主教さまの秘書とはまるでちがう。教会でもいろいろ経費がかかるが、これほど装飾に|金《かね》のかかるしろものを抱えていようとは思わなかった。どこかで見かけたような顔である。二日前、列車に乗ったとき真向かいにかけていた乗客をもっとよく見ていたなら、この来客、実はクローヴィスだと気づいたかも知れない。
「主教さまの秘書の方ですね?」とハドルは意識して丁重にたずねた。
「特別秘書をしております」とクローヴィスは答えた、「わたしのことはスタニスラウスとお呼び下さい。姓の方は省かせて頂きます。主教とアルバーティ大佐がこちらへ昼食に来るかも知れません。いずれにしろ、わたしはまいります」
まるで王侯貴賓御来臨のプログラムのような調子だ。
「主教さまはこのあたりの堅信式を視察してらっしゃるんですね?」とミス・ハドルがたずねた。
「表向きはそうなっています」と謎のような返事があって、そのあと、このへんの詳しい地図を見せて下さい、ときた。
出された地図をクローヴィスがこまかく調べるふりをしているうち、またもや電報がきた。「スロウボロ郊外ティルフィールド、ウォレン荘ハドル気付、スタニスラウス殿下」あてである。クローヴィスはチラリと電報を見ると、「主教と大佐のお着きは午後おそくになります」と発表して、また地図の調査に取りかかった。
昼食はあまり陽気な午餐会ではなかった。貴公子然たる秘書はさかんに飲んだり食べたりはするが、話しかけると手きびしく抑えつけるのだ。食事がすむと急に明るくニッコリして、結構な食事をご馳走さまでしたとミス・ハドルに礼を述べた上、感激たっぷりミス・ハドルの手にうやうやしくキスした。この振舞いはいったいルイ十四世時代の宮廷風なのか、それとも古代ローマ人がサビヌ族の女性に対して取ったいやらしい態度なのか(ローマ帝国創建のころ、サビヌ族の男性を祝宴にまねき、その不在をおそって女性をすべて奪い取った伝説がある)ミス・ハドルはどちらともきめ兼ねた。今日は彼女が頭痛を起こす予定日ではなかったが、この状況ではルール破りも当然とばかり、主教さまのご到着まで思う存分頭痛にふけろうと自分の部屋へ引きこもった。クローヴィスは手近な郵便局への道をたずねると、やがて玄関から門の方へ姿を消した。二時間ばかりしてミスター・ハドルは玄関のホールでクローヴィスにあったので、主教さまのお着きは何時ごろですか、とたずねた。
「もう書斎にいられますよ、アルバーティ大佐と一緒に」という返事だ。
「どうしてわたしに知らせなかったんでしょう? おいでになったの、知りませんでした」とハドルは大きな声をした。
「誰にも知らせてありません」とクローヴィスがいった、「できるだけ秘密にしておくんです。書斎へ顔出しなどは絶対しないでくださいよ。すべて主教のご命令です」
「なぜそう秘密になさるんです? アルバーティ大佐とはどんな方ですか? それに主教さまもお茶を召し上がりたいころでしょうし」
「主教の求めていられるのは血です。お茶ではありません」
「血!」と、ハドルはあいた口がふさがらなかった。青天の|霹《へき》|靂《れき》は知り合いになってもやはり霹靂に変わりない。
「今晩は全キリスト教国の歴史に残る重大な夜になりますぞ」とクローヴィスはいった、「この付近一帯のユダヤ人をみな殺しにします」
「ユダヤ人みな殺し?」とハドルは憤然とした。「ユダヤ人に対して民衆が蜂起するんですか?」
「いいや、主教ご自身のご発案です。いま書斎で計画をこまかく練っておられます」
「しかし――主教さまはごく寛大な、情ぶかいお方じゃありませんか?」
「だからこそこの行動の効果が強烈になるわけです。すごい一大センセーションになるでしょうな」
それだけはたしかだ、とハドルも思った。
「絞首刑ですよ、そんなことしたら!」と彼は確信をこめて絶叫した。
「主教は待たせてある自動車で海岸へお連れします。ちゃんとヨットも手配してあります」
「だがこのへん一帯、ユダヤ人は三十人とおりませんぞ」とハドルはいい返した。今朝からのショック続きで、地震のときの電線みたいに頭がふらついている。
「リストには二十六名上っています」と、クローヴィスは控えをめくりながらいった、「こればかりの頭数ならそれだけ徹底的にやれるでしょう」
「すると何ですか、レオン・バーベリ卿のような方にまで暴行を加える計画ですか」とハドルはドギマギしていった、「全国からもっとも尊敬されているお方ですぞ」
「それもちゃんとリストにのってますよ」とクローヴィスは無造作にいった、「とにかく、安心して仕事を任せられる人手がそろってますから、土地の方のお手伝いは必要ありません。予備隊としてボーイ・スカウトも動員してありますしね」
「ボーイ・スカウト!」
「そうです。本物の人殺しがやれるぞとわかると、本隊以上に張り切ってますよ」
「そんなことしたら二十世紀にしみをつけることになる!」
「そしてお宅が吸取紙になるわけですな。まだお気づきじゃないんですか、ヨーロッパ全土とアメリカ合衆国の新聞の半分は事件の写真を出しますよ。そうそう、あなたとお姉上のお写真が書斎にありましたので、フランスのマタン紙とドイツのディ・フォケ紙へ送っときましたが構わんでしょうな。それに階段もスケッチして送りました。たぶん、殺し場には大体あの階段を使うことになるでしょう」
J・P・ハドルの頭はさまざまな感情が猛烈に湧き返って、とても言葉にはならなかった。息をはずませながらそれでもどうにか「このうちにユダヤ人はひとりもいませんぞ」といった。
「現在のところはおりません」とクローヴィスはいった。
「わたしは警察へ行きます」と、急にいきり立ってハドルが叫んだ。
「植込みの中には十名配置してあります。わたしから許可の合図がないのにこの家を出る者は撃て、と命じてあります。別に表門のあたりにも武装してピケットを張ってる一隊がいますし、裏の方はボーイ・スカウトが見張っています」
ちょうどその時、陽気な警笛が聞こえて門から自動車が入ってきた。ハドルは玄関のドアへかけつけた。こわい夢から覚めかけた気持である。見ると自動車で来たのはレオン・バーベリ卿で、自分で車を飛ばしてきたのだ。
「電報、もらったよ。どうしたんだ?」と彼はいった。
また電報か! どうやら今日は電報つづきの日らしい。
「スグ コイ キューヨー ジェームズ ハドル」
面くらったハドルの目に突きつけられた電文はそんな趣旨だった。
「わかった!」と彼は急に叫んだ。興奮して声がふるえている。そして植込みの方へこわごわ目を配りながら、びっくりしているバーベリを家の中に引きずりこんだ。ホールにはお茶の仕度が出ていたが、ハドルはもうまったくパニック状態で、四の五のいわせずバーベリを無理矢理二階へ引きずり上げた。二、三分すると一家全員、二階へ召集された。ここなら今のところ安全というわけだ。端然としてティー・テーブルに着いていたのはクローヴィスひとりである。書斎に陣取った狂信者どもは恐るべき陰謀に夢中で、お茶や焼きたてのトーストなど頂いている騒ぎでないらしい。一度、玄関のベルが鳴るとクローヴィスが出迎えて、ミスター・ポール・アイザックを中へ通した。これは商売が靴屋で教区管理委員を兼ねている男だが、やはり至急来いとウォレン荘へ呼びつけられてきたのである。秘書はボルジヤ家(ルネッサンス時代のローマの名家。ルクレツィア・ボルジヤがもっとも有名)の一員にも真似のできない物すごく丁重な態度で、網にかかったこの新しいカモを階段の上まで案内した。そこにはこの家の主人が、呼びもしない客を待っていた。
それから長いこと不気味な緊張がつづき、一同身構えてじっと待っていた。クローヴィスは、一、二度、ぶらりと植込みの方へ出かけたが、そのつど必ず書斎へもどったのは、明らかに簡単な報告をしたのだ。一度は夕方やってきた郵便配達から手紙を何通か受け取って、礼儀正しく階段の上まで届けに行った。そのあと、また一時姿を消したかと思うと、階段の途中まで上ってきて発表した。
「わたしの合図をボーイ・スカウトが勘ちがいしましてね、郵便配達を殺しちまいました。何しろわたし、こんな仕事は不慣れでしてね。この次はうまくやります」
殺された郵便夫と婚約の仲だった女中が、それを聞くと大声を立てて泣き出した。
「姉上は頭痛なんだぞ」とJ・P・ハドルは女中をたしなめた。ミス・ハドルの頭痛はいよいよひどくなっていた。
クローヴィスは急いで階段を下りると、ちょいと書斎へ入ってすぐまた言伝をもってきた。
「主教さまはミス・ハドルが頭痛で悩んでいられるとお聞きになって、すまないとおっしゃいました。建物の近くではできるだけ火器は使用するな、と命令をお出しになります。やむを得ず屋敷内で殺す場合は刃物を使用することになるでしょう。キリスト教徒であると同時に紳士であっても一向さし支えないはずだ、というお考えなのです」
それきりクローヴィスは姿を消した。かれこれ午後七時ごろになって、クローヴィスが訪ねて行った年配の親戚は、晩餐にするから着替えしたまえ、といった。しかしハドル家では、クローヴィスが永久にウォレン荘を立ち退いたにもかかわらず、階下のどこかに彼がひそんでいる疑いが消えなくて、一同まんじりともせず一夜を明かした。階段がミシリとするたび、植込みを風がわたるたび、恐ろしい思いをしたわけである。翌朝七時ごろようやく、園丁の息子と朝の郵便配達が来て、まだ二十世紀にしみはつかないことを一同はじめて聞き知った。
「ちっともありがたがっていないんだろうな」とロンドン行きの列車の中でクローヴィスは心に思った、「せっかく反安静療法をほどこしてやったのに」
スレドニ・ヴァシュター
[#地から2字上げ]Sredni Vashtar
コンラディンは十歳だが医者はあと五年はもつまいと診断していた。人あたりはいいが腕の方はからきしで、ろくな医者ではないのだが、ミセス・デ・ロプはその見立ての通りだといっていた。たいがいの事はミセス・デ・ロプの言葉できまる。ミセス・デ・ロプというのはコンラディンの従姉であり後見人でもある。コンラディンの目には、この世の中の五分の三はなくても困るが不愉快で現実なもので、その五分の三を代表するのがミセス・デ・ロプと見えた。それと永久に対抗するあとの五分の二がぼく自身とぼくの空想の世界だ、というわけだ。いずれそのうち、ぼくはとても歯の立たない相手に圧倒されてしまうだろう――病気だの大事がられる窮屈さだの、のべつ幕なしの退屈だの、そうしたうんざりする止むを得ないしろものに圧倒されるだろう、と彼は思っていた。しかしその淋しさに刺激されて彼の空想はさかんに燃え立っていた。もしそれがなかったらとうの昔に彼は参っていただろう。
ミセス・デ・ロプはコンラディンが大嫌いなどとは、どんなにあけすけの気持のときでも夢にも思ったことがないらしい。ただし、「本人のために」コンラディンのする事なす事いちいち抑えるのは後見人たる自分のつとめで、このつとめは別に特別いやでもない、とうすうす気づいているらしい。コンラディンの方は心の底から徹底的にミセス・デ・ロプを憎んでいるが、それを完全に隠していた。だからこっそり何か楽しみができると、もし見つかればあいついやな顔をするだろうと思って、その楽しさがいちだんと増す。彼は自分の空想の世界からミセス・デ・ロプを締め出していた――あんな汚らわしい奴、絶対に入れてやるもんか。
陰気くさい退屈な庭を窓がいくつも見下ろしていた。いつ何時その窓があいて、それをしてはいけませんの、あれをしてはいけませんの、もうお薬の時間ですのと声がかかるかも知れない。だから庭もさっぱり面白くなかった。二、三本ある実のなる木も、実を取ってはいけないと厳重にいいわたされている。まるでごく珍しい木を標本として乾き切ったところに植えたみたいだ。そのくせ一年間の全収穫を十シリングで売るといっても、引き取る果物屋はとても見つかりそうもない。暗い茂みに隠された庭の奥の誰も行かない隅っこに、今は空屋のままにしてあるかなり広い道具入れの物置小屋があった。コンラディンにはその物置が救いの港だ。これが遊び部屋にもなれば神殿にもなる。彼はその中に仲よしの幻影をいろいろ住まわせていた。歴史のあちこちから拾ったのもあれば自分の頭で生み出したのもある。しかし、血もあり肉もありちゃんと生きている同居者もふたりいた。一隅には羽根のけば立ったフーダン種のメンドリが住んでいて、ほかに捌け口のない愛情をコンラディンはそのメンドリにたっぷりそそいでいた。それと、ずっと奥のうす暗いところに大きな木箱があり、ふたつに仕切ったその一方は正面にこまかく鉄の桟が入っている。これが大イタチの住家である。長いこと大事にかくしておいた銀貨と交換に、知り合いの肉屋の小僧が箱ごとこっそりもってきてくれたのだ。大イタチは身体つきがしなやかでキバがするどく、コンラディンにはひどく怖いが、これが何よりも大切な宝物だった。物置に大イタチを飼っている――それが素敵な秘密の喜びで、「あの女」からは絶対秘密にしておく必要がある。彼はミセス・デ・ロプをひそかに「あの女」と呼んでいるのだ。ある日、コンラディンはどこからひねり出したか、この大イタチにすばらしい名前をつけた。その時から大イタチは彼の神となり信仰となった。「あの女」は毎週一回、近くの教会へ大好きなお詣りに出かけて、コンラディンを一緒に連れて行く。しかしコンラディンはいやいやながら礼拝の格好をするだけだ。その代わり、毎週木曜日になると、うす暗くカビくさい物置の静けさの中で、偉大なる大イタチ、スレドニ・ヴァシュターの住む木箱の前にひざまずき、手のこんだ神秘的な礼拝をする。花の咲くころは赤い花を、冬になると真っ赤なスグリを神前に供えた。スレドニ・ヴァシュターは特に兇暴苛烈なものを尊ぶ神で、その点「あの女」の拝む神とは正反対だ。コンラディンの見る限り、「あの女」の信仰する神はスレドニ・ヴァシュターとまるでちがう。大事な祭日になるとナツメグの粉を木箱の前へふりまく。ただし盗んだナツメグに限る、というのが大事なところで、そうした大祭は別にきまった祭日があるわけでなく、何か目出たい事件があるとき執行する。一度、ミセス・デ・ロプが三日間歯の痛みに苦しんだとき、コンラディンはその三日間ぶっ続けに大祭を行なって、「あの女」の歯が痛いのはスレドニ・ヴァシュターのおかげだ、とまで思いこんだ。もしあと一日痛みが続いたら、あぶなくナツメグが品切れになるところだった。
コンラディンはフーダン種のメンドリをスレドニ・ヴァシュターの信仰へ引きこもうとはしなかった。ずっと前からこいつは|再洗礼派《アナバプテスト》の信者だときめていたからだ。アナバプテストとはいったい何だかさっぱり知らないが、パリッとしたあまり勿体ぶらないものだろうと思っていた。すべてミセス・デ・ロプの勿体ぶりを土台にして、勿体ぶったものは何でも大嫌いである。
しばらくするとコンラディンが物置小屋へ入り浸りなのに後見人ミセス・デ・ロプは気がついた。「降っても照ってもあんなところで遊んでるのはあの子によくない」と彼女は即座にきめこんだ。そしてある朝の朝食のとき、あのメンドリは昨夜売りとばしてしまったよ、と話してきかせた。近眼鏡越しに彼女はコンラディンの顔をのぞきこんで、怒り出すかな、それとも泣き出すかな、と心待ちに待った。怒るか泣くかしたならば、さっそく滔々と教えたりさとしたり、為になる説教を聞かせてうんと叱ってやろうというわけだ。ところがコンラディンは何ともいわない。何もいうことがないのである。じっと固くなって蒼ざめた顔を見てミセス・デ・ロプはしばし後悔したらしく、午後のお茶のときはコンラディンの大好きなトーストが出た。身体によくないという理由でいつも禁じているトーストだが、もひとつ「手間がかかる」という理由もある。中産階級の女の目には「手間がかかる」のは重大犯罪なのだ。
「おまえトーストが好きだと思ってたのに」と彼女は気をわるくしたような大声を立てた。コンラディンがトーストに手をつけないのに気がついたのだ。
「時によるんです」とコンラディンはいった。
その晩、箱の中の神さまの礼拝は様子が変わった。いつもはスレドニ・ヴァシュターの讃美を唱えるのだが、今夜はそれが願かけに変わったのである。
「スレドニ・ヴァシュター、どうぞひとつだけぼくの願いを叶えてください」
何の願いだか口に出してはいわない。スレドニ・ヴァシュターは神さまだから、いわなくてもちゃんとわかるはずなのだ。メンドリのいなくなった片隅を見てこみ上げるすすり泣きを抑えながら、コンラディンは憎らしい世間へ戻って行った。
それから毎晩、ちょうどよく真っ暗な自分の寝室で、また毎夕、うす暗い物置小屋で、コンラディンは悲痛な連祷をささげた、「スレドニ・ヴァシュター、どうぞひとつだけぼくの願いを叶えてください」
ミセス・デ・ロプはコンラディンの物置通いがやまないのに気がついて、ある日、もう一度検分に出かけた。
「あの錠の下りた箱におまえ何を飼ってるの?」と彼女はいった、「きっとモルモットでも飼ってるんだろう。みんな片づけちまうからね」
コンラディンは唇をかんだ。しかし「あの女」はコンラディンの寝室をくまなく捜して、大事にかくしておいた鍵をとうとうみつけた。そして見つけた鍵で木箱をあけてみようと物置めがけて出かけて行った。寒い昼すぎだったからコンラディンは外へ出てはいけないといわれていた。食堂のいちばん遠い窓からは茂みの外れに物置小屋の戸口が見える。コンラディンはそこへ陣取った。
「あの女」が入って行くのが見えた。きっと「あの女」はあの神さまのいる木箱の戸をあけて、神さまが隠れている藁の山を近視眼の目でのぞくだろう。もしかすると面倒くさくなって藁の山をゴソゴソつつきまわすかも知れない。コンラディンはこれを最後と必死になって小声で祈りをささげた。しかし祈りながらも願いが叶えられようとは思わなかった。やがて「あの女」がすぼめた口もとにあのいやなうす笑いを浮かべて出てくるだろう。そして一時間か二時間すると園丁があの大事な神さまをもち出して行くだろう。もう神さまでなくて、木箱に入ったただの茶色のイタチになってるだろう。そして「あの女」はいま出て行ったときと同じ得意な顔をいつもしているだろう。小うるさく頭ごなしに結構なお説教を聞かされてぼくはどんどん参ってしまい、やがてはどうにでもなれという気持になり、やはり医者の見立て通りだったという事になるだろう……コンラディンはそう思った。打ちひしがれた辛さと悲しさに彼はあたり構わず声を上げて、今や窮地におち入った神さまの讃美歌をうたった――
[#ここから2字下げ]
スレドニ・ヴァシュターは攻めて出た
その心は真っ赤、その歯は真っ白
敵は仲直りを頼んだが彼は死をあたえた
ああ美しいスレドニ・ヴァシュター
[#ここで字下げ終わり]
彼は突然うたうのをやめて窓ガラスに額をあてた。物置の戸はもとのまま、まだあけ放してある。一分また一分と時がたつ。時のたつのがもどかしかったが、それでもやはり時はたった。ムクドリの群が二羽三羽と芝生をかけ廻ったり飛び立ったりする。彼はそのムクドリをなんべんも数えていたが、片目はじっと物置の戸から離さなかった。女中がムッとした顔で入ってきてテーブルにお茶の道具を並べはじめたが、それでもコンラディンは窓に立ったまま、目を|外《そ》らさずにじっと待っていた。少しずつ、また少しずつ、彼の胸に希望の光がさしてきた。やがて目が勝利の光にギラギラ燃え立った。これまでは打ちひしがれてもじっとこらえる悲しみしか知らなかった目なのだ。声をひそめて、勝利の嬉しさを抑えながら、彼はもういっぺん勝利と撃滅の讃歌をうたい出した。するとやがて彼の目は報われた。物置の戸口から細長くて低い格好の黄色と茶色まだらの|獣《けもの》が出てきたのだ。かげりかけた日に目をしばたたいている。顎と咽喉のまわりがベッタリ黒々と汚れている。コンラディンは思わずひざまずいた。大イタチは庭の奥の小川の方へ行くと、流れの水を一口飲み、橋にわたした板をわたって見えなくなった。これぞスレドニ・ヴァシュターの最後の姿である。
「お茶の用意ができました」とムッツリ顔の女中がいった、「奥さまはどちらですか?」
「さっき物置の方へ行ったよ」とコンラディンはいった。
女中が奥さまにお茶の仕度ができたのを知らせに行った間に、コンラディンはサイド・ボードの引出しからトースト用のフォークをつまみ出すと、自分でトーストを一枚焼きにかかった。それを焼き上げてたっぷりバタをつけ、おいしそうにゆっくりと食べながら、食堂のドアの向こうに耳を澄ましていた。そうぞうしい騒ぎが不意にやんでヒッソリしたり、またもやそれを繰り返したり、それが忙しくつづく。突拍子もない女中の大声がする。それに応じて台所の方から、どうしたの? とたずねる大勢の声がする。急いでかけ廻る足音がする。助けを求めてあわてて外へ飛び出す音がする。それがしばらく途切れると、おびえ切ったすすり泣きと引きずるような重い足音がした。何か重いものを家の中へ運びこんでいるのだ。
「誰がいったいあの子にこれを知らせるの? わたしにはとても出来ませんわ」と、かん高い声がした。一同どうしようこうしようといい合っているうち、コンラディンはもう一枚トーストを焼き上げた。
名曲『花かずら』
[#地から2字上げ]The Chaplet
レストランにはいつになく静寂がのしかかっていた。オーケストラが「アイスクリーム・セーラー・ワルツ」の曲を流していない、そうした珍しい瞬間のことだった。
「いつか君に話したかね?」とクローヴィスが友達にたずねた、「食事どきの音楽で起こった悲劇の話」
グランド・シバリス・ホテルの特別晩餐会の晩のことでね、|紫水晶《アメシスト》の間で特製の晩餐が出ることになっていた。アメシストの間といえばほとんど全ヨーロッパに有名だったものさ。ヨーロッパとはいっても歴史の本ではヨルダン川流域といっているあの地方なんだがね。料理は申し分なしだしオーケストラも文句の余地なしの高い給料で雇っている。だから客がサカナの群のようにゾロゾロ集まったもんだ。非常な音楽好きだのどうやら非常な音楽好きだの、そんな連中がぞろぞろやってくる。それよりも頭数の多いのはただの音楽好きだ。チャイコフスキーという名をどう読むか知ってもいればショパンのノクターンも五、六曲は何とか聞きわける。ただしちゃんと予告しておけばだが――そんな連中だ。それがまるでノロジカが見通しのきくところで餌を食ってるみたいに、ビクビクものでよそよそしく食事をしながら絶えずオーケストラに耳を向けて、何か知っている曲をはじめないかな、と必死になっているんだ。
スープが出たあとすぐさま音楽がはじまったりすると、「やあ、パリアッチだな」などとつぶやく。そして、も少し音楽のわかる連中から別に文句もつかないと、オーケストラに助演する気だろう、小声でハミングを開始するね。どうかするとスープと音楽が同時にはじまることもある。そんなときはさじとさじの間をぬって何とかハミングをやらかす。熱心なのになるとポタージュ・サンジェルマンを一さじずつ口へ運びながら、句読点みたいに合い間合い間へパリアッチを放りこむ。その顔面表情はけして美しくもないが、人生のあらゆる面を観察したい者は見ておくべきだろう。顔をそむけてそっぽを向いたってそれでこの世のいやなものが減少するわけじゃないからな。
そんな連中のほか音楽は絶対ちんぷんかんという客も少なくない。そんな連中がなぜアメシストの間へやってくるのか、これはどうにも説明がつかない。たぶん食事しに来たのだろう、と推定するほかはないのだ。
その晩、はじめの方のコースはようやくすんで、ワインは何にきめるかの問題も片づいたところだった。ワインをえらぶにはなかなか手間がかかる。ワインのリストを突きつけられてアタフタする奴もいたね。まるで小学生が山奥のジャングルみたいな旧約聖書の中から小予言者の名をひとりいってみろ、と突然いわれたような格好だ。むやみに文句を並べ立てて口やかましい奴もいる。たいがいの高級ワインならすべて醸造元まで調査に出かけて内輪の欠点まで調べて来た、というような顔つきだ。この行き方でワインをえらんだ奴に限ってよく通る声をあげてボーイに命じるもんだ。おまけに脚本のト書みたいなことまでたっぷり付けたす。たとえば、コルクを抜くとき瓶の口は必ず北に向けて抜け、と念を押したり、ボーイの名前が何だろうと必ずマックスと呼んだりするね。招待されて来た客はそれを見て何時間もホラ話をきかされたより感心するわけさ。ただし、それが目的ならワインと同じく招くお客もよくえらぶ必要がある。
ところで、客のテーブルから少し離れた太い柱のかげからじっと様子を見ている男がいた。食事に何か関係があるのは確かだが食事しに来た客ではない。ムッシュ・アリスティード・ソークールといってね、グランド・シバリス・ホテルのシェフ――コック長だ。仕事の腕にかけては絶対の自信家で、どこかにライバルらしいライバルがあってもそんな事実はけしてみとめない。自分の仕事場では絶対君主でいつも冷厳苛酷に構えている。おそらく天才というのはあんな態度をしてるんだろうな――もし自分の子供がそんな態度だったら当然とは見てもけして見逃してはおくまいよ。人を許すことは絶対しないから下役の者は許す機会は絶対あたえまいと気を使う。彼の料理は誰でも飛びついて食う。だから世間では一つの勢力だ。だがその勢力がどこまで深いかどこまで浅いか、それは当人一度も考えたことがない。一般世間は世間なみの単位で物の目方をはかるが、天才となると貴金属の単位トロイ銜を使って自分の目方をはかるんだな。これは天才の受ける刑罰だろうが同時にまた天才のもつ防護壁でもある。
この料理の大家先生はときたま、腕をふるった自分の料理に客がどう反応するか直接その現場を見届けようという気を起こす。まるで砲撃戦たけなわなるとき、クルップ兵器会社の首脳が発火線へふみこむようなものだ。ところで、その晩の特別晩餐会がまさにその機会だったのさ。グランド・シバリス・ホテルの歴史あって以来この夜はじめて、彼が腕によりをかけてほとんど呆れるほどの完成度を達成した料理を提供する晩なのだ。その大変な料理の名は『カヌトン・ア・ラ・モード・ダムブレーブ』。クリームがかった白いメニューに細い金文字でそう印刷してあるが、お客の大部分は教育不十分のためほとんど何の意味もくみ取れない。それなのにだ、これだけの文字を羅列するため、専門家の苦心がどれほど傾倒され絶対秘密の口伝がどれほど動員されたか、とても想像の及ぶところじゃないだろうな。何しろ、南仏ドゥー−セーブル県で特に贅沢な生活をし美食に食いあきて死んだアヒルの子が料理の主役を引きうけた。サクソン英語の熱心家でもマッシルームと呼ぶのをためらうフランス本場のシャムピニョーンがグンナリ縮んだからだを横たえて盛りつけに貢献するし、ルイ十五世陛下の治世に発明されたソースまで不滅の過去から呼びもどされて参加したのだ。理想の風味の実現のため人間の努力はここまで尽くされた。あとは人間の天才にまつばかり、というわけ――そこへアリスティード・ソークールの天才が発揮されたわけなのさ。
さて、いよいよその貴重な料理が出る瞬間が来た。この世にあき果てた大侯爵閣下も金のことしか頭にない財界の王者も、ともに人生最高の思い出の一つに数えている、あのすばらしい料理がいよいよ出るのだ。ところがその同じ瞬間、それとは全く別なことが起こった。高給取りのオーケストラの指揮者が顎の下へ抱きこむようにバイオリンを当てがい、目蓋を下すとメロディーの海へユラリと乗り出したのだ。
「そら、おきき!」と大部分の客がいった、「『花かずら』をはじめたよ」
ちゃんと名曲『花かずら』とわかったのは、ランチのときにもお茶のときにも前の晩の夕食にも聞かされて、まだ忘れる暇がなかったんだね。
「そうだ。あの曲は『花かずら』だ」と晩餐会の客はうなずき合った。全員一致して『花かずら』の曲と認定した。何しろ、その日オーケストラはすでに十一回『花かずら』を演奏していたからな。そのうち四回は演奏したくて演奏したがあとの七回は慣性で演奏したのさ。だがさんざん聞きなれたそのメロディーが、はじめての啓示にでも接したように熱狂をもって迎えられたもんだ。アメシストの間をうめつくすテーブルのおよそ半数からさかんなハミングが起こったね。特に緊張して耳を向けてる連中はナイフもフォークも下において、拍手できる瞬間の到着次第、誰より早く手をたたこうと身構えている有様だ。
さあ、一方『カヌトン・ア・ラ・モード・ダムブレーブ』はどうなったか。アリスティードは呆っ気にとられ顔色を変えてじっとこの光景を見守っていた。せっかくの料理が誰にも相手にされずどんどん冷えて行く。ひどいのになるとちょいと形だけつついて上の空でモグモグやるだけだ。客は一人残らずオーケストラにばかり気を取られて夢中に喝采しているのさ。もしコウシの肝臓とベーコンにパセリ・ソースを添えて出したとしても、この晩餐会でこんなみじめな扱いは受けなかったろうよ。料理の大家先生は人目を避けて柱によりかかった。頭がしびれるほど物すごく腹が立つ。息もつまりそうだがはけ口はない。見るとオーケストラの指揮者が八方から起こる嵐のような拍手に答えて何べんも頭を下げている。やがて仲間の方をふり向くと顎をしゃくってアンコールの合図をした。ところがバイオリンを顎の下へ当てがう間もなく、柱のかげから爆発のような声がかかった。
「やめろ! やめろ! やっちゃいかんぞ!」
指揮者はビックリ驚くと憤怒の顔をこっちへ向けた。もし相手の目つきで用心したら別な行動に出ただろうが、何しろ耳が聴衆の歓声でいっぱいになっている。彼はピシャリとどなり返した。
「それはおれがきめる!」
「だめだ! もうやめろ!」とコック長は大声を出すとつぎの瞬間、猛烈な勢いで相手にとびついた。こいつめ、世間の人気を横取りしやがった、というわけだ。金属製の大型スープ入れが一個、湯気の立つスープをたっぷりふちまで入れて、おくれて来る客のためそばのサイド・テーブルへ出たところだった。給仕に出ているボーイ達も客一同も何が何だかわからないうち、アリスティードはジタバタする指揮者をそのテーブルまで引きずって、ほとんど煮立っているスープの底ふかく頭を突っこんだ。遠い向うの隅からはまだときどき拍手が起こる。もう一度アンコールをやれというらしい。
オーケストラの指揮者が死んだのはスープにおぼれたのか、音楽家としての誇りを傷つけられたショックのためか、それとも|火傷《やけど》して死んだのか、医師のあいだでも完全な意見の一致はとうとう見られなかったね。ムッシュウ・アリスティード・ソークールは現在すっかり引退している。彼はいつも溺死説に傾いていたようだ。
ラティスラヴ
[#地から2字上げ]Wratislav
伯爵夫人の上の息子は二人とも悲しむべき結婚をしていた。クローヴィスにいわせると先祖の血を引いたのだという。だが末の息子のラティスラヴはまだ一度も結婚していなかった。彼は家中の|厄介者《ブラック・シーブ》だった。ただし家族一同かなりブラックがかった一家である。
「わるい子にも確かに取柄はあるものね、まちがいだけは起こさないわ」と伯爵夫人はいった。
「そうなんですか?」と男爵夫人のソフィーが聞き返した。別に相手の言葉を疑って聞き返したのではない。何か気のきいたことをいおうと精いっぱい骨折っていったのだ。ソフィーはこの点だけは神のみこころをはね返そうと思っている。間抜けたことしかいわせまい、というのが明らかに神のみこころなのである。
「わたしだって気のきいたこと、いえると思うわ、わたしの母は座談の名人で有名な人でしたもの」とソフィーはよくこぼしたものだ。
「そんなこと、とかく一代飛びになるものよ」と伯爵夫人がいった。
「そりゃ不公平よ」とソフィーはいった。「母親がわたしより座談が上手なのに文句はいいませんけど、わたしの生んだ娘たちの方がわたしより気のきいた話ができるなんて、正直のところ、わたし、面白くないわ」
「でもそんな娘、お宅に一人もいないんじゃない?」と伯爵夫人はなぐさめていった。
「そりゃどうか知りませんけど」と男爵夫人は即座に子供の弁護に向きを変えた、「エルザは木曜日に三国同盟のことで何かうまいことをいいましたよ。三国同盟って紙のこうもり傘みたい、雨の降る日に差して出なけりゃ大丈夫、とか何とか。誰にでもいえる言葉じゃありませんわね」
「誰でもいってるわ、少なくともわたしの知り合いはね。もっともわたし、あまり知り合いが多い方じゃないけど」
「あなた、今日はひどくいやなこというのね」
「いつもこの通りよ。あなた、まだ気がついていないの、わたしみたいに|横顔《プロフィル》のいい女はいつもいやなこというものよ」
「あなたの|横顔《プロフィル》、そんなにいいなんて、わたし思わないわ」
「よくなかったらそれこそ不思議じゃない? わたしの母親はそのころ有名な古典的美人の一人でしたもの」
「そんなことは一代飛びになることもありますからね」と男爵夫人がすばやく口を出した。気のきいたやりとりの文句が、まるで|金《きん》の握りのこうもり傘みたいにめったにみつからない人は、とかく息せき切ってあわてて口を出す。
「ねえソフィー」と伯爵夫人はやさしい声をした、「そんなの、ちっとも気のきいた文句じゃなくてよ。でも精々骨折ってしゃべる出鼻をくじいたりしちゃわるいわね。そうそう、あなたに聞きたいことがあるのよ。あなた、まだ思ったことない? お宅のエルザをうちのラティスラヴと結婚させたらちょうどいいんじゃないかしら。ラティスラヴももう結婚していい年頃だし、エルザでいいんじゃない?」
「まあ呆れた! エルザをあのろくでなしと結婚させるですって?」と男爵夫人はあいた口がふさがらなかった。
「乞食はえり好みするもんじゃない、っていうじゃない?」
「エルザは乞食じゃありませんよ」
「そりゃ財産のあるなしでいえば乞食じゃないわ。でも立場は乞食みたいなもんだからいったのよ。エルザもそろそろ適齢期をすぎかけたし、頭にしろ器量にしろ何にしろ、ろくに取柄はないんだし」
「忘れてるのね、あなた。エルザはわたしの娘ですよ」
「だからこそいってあげるのよ。しかし、まじめなところ、ラティスラヴのどこがいけないのか、わたしわからないわ。借金だってしてないし――とにかく、これというほどの借金はないのよ」
「でも世間の噂がひどくわるいのよ。噂の半分だけ事実としても……」
「四分の三はきっと事実よ。でも、それ何でもないんじゃない? あなただってまさか娘の婿に大天使がほしいわけでもあるまいし」
「でもラティスラヴは困りますわ。ラティスラヴと結婚したらエルザが不仕合わせになるのはきまってるわ」
「少しぐらい不仕合わせだって構わないじゃないの? その方がエルザの髪形によく似合ってよ。それに、もしラティスラヴとうまくいかなかったら、いつでも貧民救済か何か始めりゃいいでしょう?」
男爵夫人はテーブルの上から枠に入った写真を取り上げた。
「とてもハンサムなことは確かね」と首をかしげながらいったが、そのあと、いちだんとまた首をかしげて付けたした。「エルザなら改心させるかも知れないわね」
伯爵夫人は沈着だった。彼女は調子を外さない声で笑った。
三週間あと、男爵夫人ソフィーがグラーベン通りの外国書籍店にいるところへ伯爵夫人がずかずかやってきた。ソフィーはたぶんキリスト教の本でも買っていたのだろう。もっとも売場はちがっていた。
「いまね、あのふたりをローゼンシュタールの店へおいてきたところ」と伯爵夫人はいきなりいい出した。
「どうだった? ふたりともうれしそうだった?」と男爵夫人がたずねた。
「ラティスラヴは何かイギリス出来の新しい服を着てたわ。だからきっとご満足なのよ。トーニーに話をしてるところを立ち聞きしたら、尼さんとネズミ取りのとてもおかしな話なの。でもあの話、なんべんも繰り返し人には話せないわね。エルザの方は誰にあっても三国同盟は紙のこうもり傘みたい、なんて警句を飛ばしてたわ――あれ、なんべんでもしゃべれるのね、もちのいいこと固き信仰そっくり」
「どう? ふたりとも熱を上げてる様子?」
「正直にいってエルザは気乗りしないらしいわ。それになぜあなたサフラン色のもの、エルザに着させるの?」
「顔の肌によくマッチすると思うからよ、いつも」
「残念ながらマッチしませんよ。ヘン、まるであべこべだわ。忘れないでね、あなた、木曜日にわたしのところへ昼食にくる約束」
次の木曜日に男爵夫人は約束した昼食におくれて着いた。
「ねえ、大変なことができたのよ」と彼女はかけこんでくるなり大きな声を立てた。
「大事件なのね、何しろあなたが食事に遅刻したんだから」と伯爵夫人がいった。
「エルザがね、ローゼンシュタールの運転手とかけ落ちしちゃったの」
「まあすてき!」
「そんなこと、わたしの家でこれまで誰ひとりしたことないわ」と男爵夫人は胸をはずませた。
「その運転手、きっとお宅の誰にも受けが同じだったんじゃなかったのね」と伯爵夫人がもっともなことをいった。
男爵夫人は面白くない気持になりかけた。こんな大事件にあったのだから、当然もっと驚いて同情するべきではないか。
「とにかく、もうラティスラヴと結婚はできませんよ」とソフィーはピシャリといった。
「どのみちできなかったのよ。ラティスラヴは昨晩急に外国へ行っちまったわ」
「外国へ! いったいどこ?」
「メキシコだと思うの」
「メキシコ! 何でまた? なぜメキシコへいったの?」
「イギリスの諺にあるわね、『良心は人をカウボーイにする』って」(ハムレットの有名な台詞に「良心は人をカワード(卑怯者)にする」とある)
「ラティスラヴに良心があるとは知らなかったわ」
「ねえソフィー、ラティスラヴに良心なんてありゃしないわ。急に外国へ逃げたりするのはほかの人の良心に責められるからなのよ。さあ、お食事にしましょう」
イースターの卵
[#地から2字上げ]The Easter Egg
バーバラ夫人はれっきとした軍人の家柄の出で、同じ世代の女性の中でも気の強い一人だから、息子レスターがまぎれもない臆病者なのにはまったく閉口した。ほかにどんな長所があろうと、また事実ある点では感じのいい息子なのだが、勇気があろうとはとても思えない。幼いころは幼いなりに内気で困ったし、少年時代は子供らしくもなく臆病で困った。青年になってからはわけもないのにこわがるのはやんだが、その代りちゃんと考えた上でこわがるから一段と始末がわるい。動物を見ると正直にこわがる。銃などをもつとビクビクものだ。イギリス海峡をわたるときは必ず救命帯の数と船客の数を頭の中でくらべてみる。ウマに乗るにはヒンズー教の神さまに劣らず手が何本も必要らしい。手綱を取るのに四本もいる上、首筋をなでて静めるのにあと二本はほしいのだ。さすがのバーバラ夫人も息子レスターのこの著しい弱点に目をつぶるのはやめにした。例の毅然たる態度でまともにこの事実に直面し、母親らしく相変わらずレスターをかわいがっていた。
ヨーロッパ本土の、それも有名な観光ルートから外れた土地を旅行するのがバーバラ夫人の道楽である。息子のレスターもせいぜい母親について行った。|復活祭《イースター》のころはたいがいノバルトハイムへ行く。これは中央ヨーロッパのある小さな|公国《プリンスダム》の山地にある町だ。あのへんの地図にはそんな国が目立たないソバカスのようにいくつも散らばっている。
その国の王室とは長年の知り合いだから、これも長年の友人である市長の目にバーバラ夫人は重要人物である。だから市の郊外へ建築したサナトリュームの開所式に大公殿下みずから臨席されることになると、市長は式次第万端の準備についてバーバラ夫人へしきりに相談をもちかけた。前例通りの大公殿下歓迎式のプログラムは、ばからしい平凡なのやら古式ゆかしく楽しいのやら、すべて手筈がととのった。だが物知りのバーバラ夫人に相談すれば、大公殿下の歓迎に何か変わった気のきいたことを教えてくれるだろう、というわけだ。大公殿下はむかしかたぎの反動家で現代の進歩にいわば木刀一本で立ち向かっている、というのが国外での評判だった。だがこの国の人民には、威厳もあれば親しみもあり、お高く構えたところのない穏やかな老紳士で通っていた。だからノバルトハイムの全住民は大公殿下の歓迎にベストをつくすつもりなのだ。バーバラ夫人は息子のレスターやホテルで知り合った二、三人の人にも相談したが、なかなか名案が浮かばなかった。
「奥さまに申しあげることがございますが、よろしいでしょうか?」といったのは頬骨が高くて色の浅黒い女だ。一、二度言葉をかわしたことがある。南スラブ系だな、とバーバラ夫人は思っていた。
「大公さまの歓迎会にこんなことはいかがでしょう」とつづけていう。真剣な顔をしておずおずいい出した。「これ、わたくしどもの子供でございますが、この子に小さな翼のついた白い上着を着せまして|復活祭《イースター》の天使に仕立てます。そして手にまっ白い大きな|復活祭《イースター》の卵をもたせ、卵の中には大公さまのお好きなチドリの卵を一籠入れまして|復活祭《イースター》のプレゼントに殿下へ差上げるのでございます。名案ではございませんか。わたくし、一度スティリアでそれをするのを見たことがございますの」
バーバラ夫人は、さあ、どうかしら、という目つきで|復活祭《イースター》の天使に仕立てようというその子供をじっと見た。金髪で無表情な顔をした四歳ぐらいの子供である。前の日ホテルで見かけたとき、あの浅黒い肌をした夫婦にこんな金髪の子がどうしてできるか、少し変だな、と思った。きっと貰い子なんだろう、第一両親もあまり若い方じゃなし、と思っていた。
「もちろん大公さまのご前まで奥さまにお連れをねがいます」と女はつづけた、「必ずおとなしくいわれた通りにいたしますよ」
「チドリの卵、新しいの、ウィーンから取りよせます」とその女の夫がいった。へたなドイツ語だった。
当の子供もバーバラ夫人もこの名案にあまり気乗りしない様子だったし、レスターは正面から反対した。ところが市長がすっかり乗り気になった。歓迎の熱情とチドリの卵の取り合わせが、ゲルマン系の市長の心をひどく動かしたらしい。
大事な式のその当日、古風な衣装をつけたかわいい|復活祭《イースター》の天使が登場すると、たちまち見物一同の感嘆の目を一身にあつめた。子供の母親は控え目に構えていた。こんな場合、たいがいの親なら気をもんでうるさく口を出すものだが、|復活祭《イースター》の卵はわたくしが子供にもたせます、大事な品ですので持ち方はよく教えておきました、といっただけである。やがてバーバラ夫人が殿下のご前へ進み出た。子供も無表情な顔に必死の意気ごみを見せて、夫人と並んで前進した。実は、向こうにお待ちのあのおだやかなおじいさんに卵をちゃんと差上げればケーキもキャンデーも山ほどあげるよ、といわれていた。レスターも実はこっそり、いわれた役目をちゃんとやらないとぶんなぐるぞ、といいわたしてはおいたのだが、レスターのドイツ語に即座にベソをかかせる以上の効き目があったか、それは疑問である。バーバラ夫人も万一にそなえてチョコレート・キャンデーを用意していた。子供というものは風向き通りにおとなしく動くこともあるが、期限の長い取引はよろこばないからだ。壇上にいられる大公に近づくとバーバラ夫人は慎みぶかく一歩わきへよって立ち止り、子供ひとりが無表情な顔で進んで行った。大人たちがヒソヒソ小声でほめそやすのに気をよくして、ヨチヨチと、だがしっかと足をふみしめて行った。レスターは見物の最前列に立っていたが、ふり返って群集を見わたした。あの両親がニッコリ見ているだろうと探したのだ。すると鉄道の駅へ通じる横道に辻馬車が一台止っていて、あの浅黒い夫婦者がコソコソあわてて乗りこむところだ。この「名案」をあれほど熱心にもちかけた奴らだ。臆病者の本能は鋭敏である。たちまちレスターは事態をパッと認識した。全身の血潮がカッと頭へ登る。まるで動脈も静脈も幾千の水門を一時にパッとあけて、すべての奔流が合流してドッと頭へ押しかけたようだ。目の前がボーッとして何も見えなくなった。すると今度は頭から血がグイグイ引き出して心臓までからになったようだ。彼はグッタリ力がぬけてポカンと子供を見つめた。子供は|復活祭《イースター》の卵を両手に捧げて、ヒツジのようにおとなしく待っているおえらがたの方へノロノロと、ジリジリと近づいて行く。レスターは急に気になって逃げ出した夫婦者の方へふり向いた。辻馬車は駅の方へフル・スピードでかけ出して行く。
つぎの瞬間、レスターもかけ出していた。人間がこんなに速く走るのを見るのは誰もはじめてだった。しかし逃げ出したのではない。この一瞬、生まれてはじめてある珍しい衝動が彼をおそった。先祖の血筋のかけらがひらめいて、彼は危険に向かってまっしぐらにかけよると、身をかがめて|復活祭《イースター》の卵をつかもうとした。まるでラグビー試合でボールを拾うときの格好だ。ボールをつかんでどうするか、そんなことは考えていない。まずボールをふんだくることだ。ところが子供はあのおじいさんにちゃんと卵をわたしさえすればケーキとキャンデーがもらえる約束だ。悲鳴こそあげないが必死にしがみついて卵を放さない。レスターは床に両膝をつくと、抱えこんだ卵をもぎ取ろうとした。見物人からこれはけしからんと大声が起こった。ぐるりと囲んでどなりつけたりおどかしたりしたが、レスターが叫んだ恐ろしい一語で、ふるえ上がって後じさりした。その一語はバーバラ夫人にも聞こえた。群集がヒツジを散らすようにバラバラ逃げる。大公殿下も家来どもに引きずられて行く。レスターはおびえ切って床に突っ伏した。発作的に起こった彼の勇気は思いがけなく子供に抵抗されて崩壊したが、白シュス張りの作りものの卵にまだ夢中でしがみついている。これさえ放さなければ大丈夫とばかり、そのままいたら命が危ないのに這って逃げることもできず、しきりに悲鳴をあげるばかりである。バーバラ夫人はふと頭の中で差引勘定をした。いや差引いてみようという気持がしたのだ。いま目の前で大恥かいて目もあてられない格好をしている息子と、物ともせずに危険の中へ堂々と飛びこんだ剛胆不敵な息子と、その差引勘定だ。レスターと子供はまだからみ合って争っている。子供は無表情な強情な顔で全身しゃっちょこばって必死に抵抗している。レスターは恐ろしさにもうグッタリ死にかけて悲鳴も立てない。二人の上には落成式祝賀の派手な吹流しが日に照らされて華やかにひるがえっている。バーバラ夫人はその光景をじっと見つめた。それも一瞬間の何分の一かだったが、夫人は一生その光景を忘れなかった。それきり永久に目が見えなくなったからだ。
バーバラ夫人は両眼とも失明して顔には大やけどをしたが、相変らず強気で世間を出歩いている。だが|復活祭《イースター》のころになると友達仲間は気を使う。|復活祭《イースター》の卵のことだけはバーバラ夫人の耳に入れないようにするのだ。
聖ヴェスパルース伝
[#地から2字上げ]The Story of St. Vespaluus
「何か話をしてよ」と、雨が降るのをがっかりして見つめながら男爵夫人がいった。外はこまかい雨が申しわけなさそうに降っていた。今にもやみそうでいて昼すぎいっぱいほとんどやまない雨である。
「どんな話がいいですか?」とクローヴィスはたずねて、クローケー(球戯の一種)の|木槌《マレット》をさらばとばかり片隅へ押しやった。
「そうね、何か興味のもてる程度に本当で、退屈するほど本当でない話がいいわ」と男爵夫人はいった。
クローヴィスはクッションを三つ四つ、十分楽に寝そべられるように並べ直した。男爵夫人は客にくつろがせるのが好きと知っているから、そうした夫人の気持を尊重するべきだと思ったのだ。
「聖ヴェスパルースの話はもうしましたかね?」
「ロシヤ帝国の王子の話だの、ライオンの調教師の話だの銀行家の未亡人の話だの、ヘルツェゴヴィナの郵便局長の話だの、イタリヤ人の騎手の話だの、ワルソーへ出かけたしろうと家庭教師の話だの、あなたのお母さまの話も三つ四つ聞いたし、いろいろ聞いたけど聖者の話ははじめてよ」
「この話は遠い昔のことでしてね」とクローヴィスが話し出した、「まだ世の中がごちゃごちゃしている困った時代のことです。三分の一は異教徒、三分の一はキリスト教徒、あとの三分の一は――これがいちばん数が多いんですが――その時その時、王室が信奉する宗教を何でも信仰していました。フクリクロスという王さまがありましてね、これがえらいかんしゃく持ちで、家族の中にすぐ跡目をつげる相続人がいないんです。しかし結婚した妹が甥をワンサと生んでましたから、より取り見取りで後継者がえらべます。中でいちばん適任で王さまのお気にも召したのが十六歳の少年ヴェスパルースでした。誰よりもハンサムだし乗馬も槍投げもいちばん上手だし、その上、嘆願に出る者がいると気がつかないような、しかしもし気がつけば必ず何かくれそうな顔で通りすぎるという、王子としてきわめて大事な才能をもっています。実はわたしの母も多少その才能がありましてね、チャリティ・バザーの中をニコニコ顔で一|文《もん》も使わずに通りぬけ、翌日バザーの主催者にあうと『募金してらっしゃると知らなかったもんですからほんとに残念』という顔をするんですよ。押しの強いこと天才的ですな。ところでフクリクロス王はまず一流の異教徒で、ずっと聖蛇を、つまり神聖なヘビを猛烈に信仰してるんです。聖蛇は王宮に近い丘の上の森の中に住んでました。人民各個の信仰はある程度自由放任でしたが、王宮勤務の役人で新興宗教のキリスト教に走った者は見下げられます。軽蔑するだけでなく文字通り高いところから見下げたんですよ。王宮の中のクマを飼っておく囲いの中へ放りこんで、まわりの|桟《さ》|敷《じき》から見下げるんですね。ある日、少年ヴェスパルースはキリスト教のロザリオをベルトに下げて宮廷に現われ、これは何事だとどなられると、『わたくしはキリスト教に入ります。とにかくためしてみようと決心しました』と返事したので一同びっくり仰天して憤慨しました。これがもしほかの甥だったら罰を加えるとか追放するとか、王さまはきっと手きびしい処置を取ったでしょうが、お気に入りのヴェスパルースのことですから、まず大体、現代の父親が息子に役者になるといわれたような態度を取ることにして、王室付きの司書をお呼びになったんですね。王室の図書館といってもその頃は大したもんじゃないので、司書はたっぷり暇があります。よく頼まれては他人のもめ事の仲裁をしていたんです、こじれて尋常一様では片づかない場合ですね。
「『ヴェスパルース王子によく道理を説いてきかせろ』と王さまはご下命になりました、『そんな事はまちがいだとよくのみこませろ。王位を継承する者がそんな悪例を示すとはけしからん』
「『でもそれに必要な反論がどこにございましょうか』と司書はたずねました。
「『必要な反論なら王家の森林で何でも勝手に取ってくる許可をあたえる。しかるべき痛烈な意見と辛辣な反駁を集めてこられなければ、その方はきわめて知恵のない奴だぞ』
「そこで司書は森の中へ入って、太い枝を切ったり細い枝を切ったり、大いに議論の種に使えそうなのをしこたま集めて、さてヴェスパルース王子を相手に、王子の行動がいかに愚かであり不法であるか、特にいかにみっともないか説き伏せにかかりました。その説き伏せは、深く王子の身にしみて数週間はきき目がつづき、その間、踏みちがえてキリスト教に堕落した噂は絶えましたが、やがてまた同じ醜聞が起こって宮廷中の騒ぎになりました。聖なるヘビのご加護を口に出して祈るべき時に、クラニの聖オディロさまの讃美歌をうたっていたんですね。王さまはまた始めやがったとカンカンに怒って、これは容易ならぬ事件だぞと考えるようになりました。王子が頑固にどこまでも異端邪説を捨てないのは危険な徴候だ、というわけですね。そのくせ王子の様子には何ひとつ片意地なところはなくて、狂信者らしい蒼白い目つきでもなし、夢想家らしい神秘的な顔つきでもありません。それどころか、宮廷第一のハンサムな少年で、スタイルは優雅でたくましく顔の色は健康そのもの、目はよく熟したクワの実の色だし、黒ずんだ髪の毛はいつもちゃんと手入れが届いているんです」
「自分も十六歳のときはちょうどその格好だったと思ってるらしいわね、あなた」と男爵夫人がいった。
「ははあ、ぼくの若い頃の写真をうちの母が見せたんですな」と、相手の皮肉を賞め言葉と聞き流してクローヴィスは話をつづけた。
「王さまはヴェスパルース王子を三週間暗い塔の中へ閉じこめました。パンと水だけで命をつないで、コウモリがキーキー鳴いたりバタバタ飛んだりするのを聞いたり、細い窓から空を流れる雲を見つめたりしていました。異教に反対する人民どもは、こりゃ王子さまは殉教者になるのかな、と不吉な噂をはじめました。しかし食べるものは殉教者ほどひどくはありません。というのは塔の番人がうっかりまちがえて、肉の照焼きと果物とワインと、自分の夕食の一部を一、二度王子の独房へおき忘れたんです。三週間の禁錮がすむと王子は厳重な監視のもとにおかれました。たとえお気に入りの甥だろうとこの重大問題で反対するのは絶対に許さん、というのが王さまの信念です。もしまたこんなばかな事をしたら、王位の継承者も変更が必要だ、と王さまは仰せになりましたよ。
「しばらくは万事平穏でした。夏のスポーツ祭が近づいて王子はレスリングやランニングや槍投げの競技に夢中で、信仰の対立どころの騒ぎじゃないんですな。ところがそのうち夏祭第一のハイライト、つまり聖なるヘビの森をまわって踊る祭典舞踊になると、王子はそれにそっぽを向いて中に入りません。国教をないがしろにする行動を公衆の前でこれ見よがしにやったのですから、よし王さまにその気があってもこれは見逃してはおけません。第一、王さまは見逃す気になりはしませんでした。まる一日半というもの、王さまは引きこもって考えこみましたから、こりゃ王子を死刑にするか赦免するか考えてるんだろう、と誰も彼も思ったものです。ところが実は王子を殺す殺し方を工夫していただけの話で、どうしても殺さねばならない奴だし、どのみち世間の目を引くにきまっている以上、なるべく盛大にふかく印象に残る方法で殺そう、というんですね。
「『あいつは信仰に悪い趣味があって頑強に捨てないのは困るが、いかにも可愛いい感じのいい奴だ。だから翼ある蜜の使者を使って殺すのが適当であるぞ』と王さまがいわれました。
「『と仰せられますと……?』と司書が伺いを立てました。
「『わしがいうのはな、ミツバチに刺し殺させるという意味であるぞ。もちろん王室飼育場のミツバチを使ってな』
「『それはまことに優雅な殺し方でござります』と司書がいいました。
「『優雅で華々しい上に苦しいこと疑いなしである。これ以上条件のそろった殺し方は望めないぞ』
「死刑執行式は細かいところまで王さまみずからすべて工夫されました。ヴェスパルース王子の着ているものは剥ぎ取って真っ裸にし、両手はうしろ手にしばり上げ、ミツバチの巣箱の中でもいちばん大きい三個のすぐ上へ横になる姿勢でぶら下げるんです。だから少しでも身体を動かせばたちまちミツバチとの間に摩擦が起こる。あとはいっさいミツバチどもに任せて大丈夫というわけですね。死の苦しみはまず十五分間から四十分間だろう、と王さまは推定されました。しかし王子の兄弟たちは、いや即座に死ぬだろうとか、二、三時間はかかるだろうとか、意見がわかれてきまりません。ただし、悪臭のひどいクマの囲いに放りこまれて、肉食獣としては不完全なクマどもにふんづかまってなぶり殺しになるよりは遥かにいい、という点ではみな一致しましたよ。
「ところがです、たまたまミツバチの飼育係もキリスト教に向きかけていた上、たいがいの廷臣と同じく深くヴェスパルース王子を慕っていましてね、死刑の前の晩、王家所有のミツバチどもの針をせっせと抜き取ってしまいました。面倒な仕事でかなり時間もかかりますが、とにかくミツバチにかけては専門の名人です。ほとんどまる一晩寝ずにかかって巣箱のミツバチ全部、いやほとんど全部、針を抜いてしまいました」
「生きてるミツバチの針が抜けるとは知らなかったわ」と、まさかというように男爵夫人がいった。
「どんな職業にもその道の秘訣がありましてね、それがなければ職業じゃないんです」とクローヴィスは答えて話をつづけた。「ところで、いよいよ死刑執行となりました。王さまは廷臣一同を従えて席につかれ、この珍しい死刑を見物したい人民どもにも見物席の用意ができました。さいわいミツバチ飼育場は庭がひろくて、庭園のまわりのテラスから見下ろせます。窮屈でも少しつめこんで、足らないところは急ごしらえの台を用意しましたから、誰でも見物できることになりました。ヴェスパルース王子は巣箱の前の広庭へかつぎこまれました。ポーッと上気して少し間がわるそうな顔でしたが、見物の目を一身に集めて満更でもなさそうです」
「その王子さま、あなたと似ているのは風采だけじゃないのね」と男爵夫人がいった。
「大事なところで口を出しちゃいけませんよ」とクローヴィスはいった。「巣箱の上の規定の位置へ慎重に王子をぶら下げるとたちまち、牢番どもが安全なところへ引きさがる間もなく、王子は狙いをつけて巣箱を勢いよく蹴飛ばしましたから、三個の巣箱は重なり合ってころがりました。次の瞬間、王子は頭のてっぺんから足の先まで一面にミツバチにたかられました。同時にどのミツバチも、いざ大悲劇の大詰めというのに刺せないと悟ると激しい屈辱感におそわれましたが、とにかく刺す真似だけはするべきだと思ったんですね。ヴェスパルース王子は大声で笑いながらジタバタもがいたりあばれたりしました。くすぐったくてくすぐったくて死にそうなんですね。二、三匹、針を抜かれそこねたハチが時たまチクリと刺すと、王子は猛烈に蹴飛ばしてよくない言葉を使いました。しかし見物一同びっくりしたのは、王子は死にそうな様子がさっぱりないんです。そしてミツバチが疲れ切って何匹もかたまって王子の身体からポロポロ落ちると、もとの通りすべすべと真っ白な肌が見えるんですね。無数のミツバチの脚がひっつけた蜂蜜でピカピカつやがあるし、たまに刺された場所はあちこち小さな赤い斑点になっています。助かったのは奇蹟にちがいない、というわけで見物一同、これはとばかり驚き喜んで一度に何か大声を立てました。王さまは王子をその場から引き立てさせ、追って命令があるまで待て、と仰せになると大股でお帰りになり、昼食の卓に向かわれましたが、まるで何事もなかったように、念入りにたっぷり食べたり飲んだりされました。それがすむと王さまは司書をお呼びになりました。
「『このしくじりはどうしたわけであるか?』と王さまは詰問されました。
「『おそれながら申し上げます。ミツバチが根本的にどうかしているのか、あるいは……』
「『ミツバチは全然どうもしておらん。あれは最上等のミツバチであるぞ』と王さまはおごそかに仰せられました。
「『さもなければ王子さまが手のつけられぬほど正しいのでござります』と司書がいいました。
「『もしヴェスパルースが正しいとすれば、わしがわるいにちがいないな』と王さまがいいました。
「司書はしばらく何ともいいませんでした。軽卒な言葉で身の破滅を招いた者はいくらもありますが、この不運な司書は無分別な沈黙のため身をほろぼすことになりました。
「王さまとしての体面を忘れ、うんと食べたあとは身も心も安静にせよという黄金律も忘れて、王さまは司書にとびつくと頭をメチャメチャぶんなぐりました。象牙の将棋盤と|白鑞《しろめ》のワイン・ボトルと、真鍮の燭台でなんべんもぶんなぐったあげく、壁についてる鉄のたいまつ受けになんべんもぶつけて、力いっぱいドシドシ蹴飛ばしながら食堂を三べん廻り、最後に髪の毛をつかんで長い廊下を引きずって行き、窓から下の中庭へ投げ落としました。
「その人、大怪我をした?」と男爵夫人がたずねた。
「驚きよりも怪我の方がひどかったですな」とクローヴィスはいった、「何しろこの王さま、かんしゃく持ちで有名でしょう。しかし、たらふく食ったあげく向こう見ずにかんしゃくを起こしたのはこれが初めてなんです。司書の方は長いことぶらぶら寝ていましたよ――たぶん結局は助かったろうと思うんです。ですがフクリクロス王はその晩のうちに死にました。王子が全身の蜂蜜をふき取るか取らぬうち、臣下の代表どもがかけつけて王子の頭に即位式の聖油を塗りました。大勢の者がまのあたり奇蹟を目撃したし、キリスト信者の王さまが即位するし、あわててキリスト教に宗旨替えする者がワンサと出たのも当然ですね。司教がひとり大急ぎで任命されて、急ごしらえの聖オディロ大寺院に陣取って洗礼ラッシュを一所懸命さばきました。そして危なく殉教者になりかけた少年ヴェスパルースは、王さま兼少年聖者とあがめ奉られ、その評判に引かれて信心ぶかい物好きな観光客がワンサと都へよせてきました。ヴェスパルース王子は即位記念のスポーツ大会の計画に夢中で、身辺にわき起こる信仰さわぎなど気にする暇なしの有様ですが、侍従長が――これも最近キリスト教徒になり立ての熱心家です――それがあの偶像崇拝的な聖なるヘビの森林伐採式計画の裁下を仰ぎにくるに及んで、王子ははじめて事態を認識しました。
「『陛下、最初の一本は何とぞ特に浄めましたる斧で陛下おんみずから切り倒してくださるようおん願い申し上げまする』と侍従長がペコペコしました。
「『それよりまずその方の首をあり合わせの斧でちょん切ってやるぞ』とヴェスパルースは憤然といいました。『ぼくが即位した手始めに聖なるヘビにひどい侮辱を加える、と思っているのか。そんなことしたらとんでもない不吉なことになる』
「『しかし陛下のキリスト教のご信仰は?』と侍従長が面くらって大声を出しました。
「『そんなもの、あるもんか。ぼくはただキリスト教に改宗したふりをしてフクリクロスを困らせただけだ。奴がいつもかんしゃくを起こすのが面白いからな。何にもしないのに鞭を食わされたりどなられたり塔の中へ閉じこめられたり、なかなか楽しかったぞ。だが本気でキリスト教に乗り替えるなんて、その方どもはそう思いこんでるらしいが、ぼくは夢にもそんな気はない。それにあの犯すべからざる聖なるヘビどもは、どうかランニングやレスリングや狩猟でうまく行きますようにと祈ると、いつも必ずぼくを助けてくれた。ミツバチどもがぼくの身体に針を刺せなかったのも、聖なるヘビが特に取りなしてくだすったからだ。即位した手始めに聖なるヘビの信仰に背中を向けるなど、それこそ極悪非道の恩知らずというものだぞ』
「侍従長は閉口して両手をもみ合わせました。
「『しかし陛下』と侍従長は泣き声を出しました。『人民どもは陛下を聖者として崇めておりますし、貴族がた各位は束になってキリスト教に入信しております。その上、キリスト教を奉ずる近隣諸国の王さま方は陛下を兄弟として迎えるため特使を派遣しようとしているのでござります。陛下をハチの巣の守り本尊と仰ぐ話も出ておりますし、ローマ皇帝の宮廷におきましてはミツバチがかった黄色をヴェスパルース・ゴールドと名づけることになりました。そのような次第でござりまするので、陛下としても今さらお取り止めはできません』
「拝まれたり迎えられたり尊ばれたり、そんなことは一向平気だ。聖者扱いもほどほどにして、聖者暮らしまで期待しなければそれも平気だが、これだけは断然ハッキリのみこんでおけ。いいか、ぼくはあのご利益あらたかな聖蛇さまの信心は絶対やめないぞ』
「この最後の言葉の口ぶりには、従わなければクマの囲いへ投げこむぞ、という調子があふれて、クワの実いろの黒ずんだ目がギラリと危険な光を放ちました。
「『|御《み》|代《よ》は変わってもかんしゃくは相変わらず』か、と侍従長は心に思いましたね。
「結局、政局上やむを得ずということで、信仰の問題は妥協がつきましたよ。一定の期間ごとに王さまは聖ヴェルパルースとして国立大寺院で人民どもに謁見をたまわり、聖なるヘビの森は少しずつ刈りこみ伐り倒して何もなくなりました。しかし犯すべからざる聖なるヘビどもは王宮内の非公開の植こみへ移され、異教徒ヴェスパルースとその家族は然るべく信心こめて信仰しました。きっとそのせいでしょう、この若い王さまは生涯いつもスポーツや狩猟に大当りをつづけました。世間からは聖者とあがめられながら正式には聖者とみとめられなかったのも、きっとそのせいだったんでしょうな」
「雨がやんだわね」と男爵夫人はいった。
乳しぼり場へ行く道
[#地から2字上げ]The Way to the Dairy
男爵夫人とクローヴィスはハイド・パークのいつもよく行く片すみでぞろぞろつづく通行人を眺めながら、あの人やこの人の身の上に関する内輪ばなしを聞いたり聞かせたりしていた。
「いま通った不景気な顔の三人連れの若い女、あれは誰?」と男爵夫人がたずねた、「運命に頭を下げたけど向うも下げてくるかどうかわからない、って様子だわね」
「あれですか。ブリムリ・ボームフィールズ家の三人むすめですよ。あの連中みたいな経験をすればきっとあなたも不景気な顔をするでしょうな」
「わたし、年がら年中不景気な経験ばかりしてるのよ。でもけして顔には出さないわ。本当の歳をさらけ出して見せるようなもんですもの。その話きかせて、ブリムリ・ボームフィールズ家の一件」
「そうですね」とクローヴィスが話をはじめた、「伯母さん一人発見したのがあそこのうちの悲劇の幕あけでしたな。その伯母さん、むろんもとからいるにはいたんですがね、すっかり忘れてたんですよ。ところが誰か遠縁の者が死んだら遺言書にその伯母さんのことが忘れずハッキリ書いてあった――それをキッカケに伯母さんを思い出したんです。模範を示すとえらい|効《きき》|目《め》があるものなんですね。その伯母さん、ヒッソリ貧乏ぐらしをしてましたが思いがけなく大金持になった。とたんにボームフィールズ三姉妹が伯母さん一人ぼっちで淋しいだろうと心配し出しましてね、三人翼をひろげて伯母さんの世話をしようと引き取りました。だから伯母さん、翼を何枚もしょいこんでまるでヨハネ黙示録にある何とかいうけだものみたいでしたね、そのとき」
「それだけじゃ別にボームフィールズ一家の悲劇でも何でもないじゃないの?」
「まだそこまで話がはかどらないんですよ」とクローヴィスがいった、「伯母さんはずっとつつましく暮らして来たんで、いわゆる人生の楽しみなんぞろくに知らない人なんです。姪たち三人も派手にお金を使うようには仕向けませんでしたね。何しろ伯母さんが死ねば財産は大かたころがりこむわけだし、その伯母さんがもうかなりの歳になってるんです。ありがたい伯母さんを一人見つけて手に入れたのは大満足でしたがね、一つだけ黒雲が現われました。というのは伯母さん、父方だか母方だか知りませんがとにかく向こう側の血筋に甥が一人いましてね、かなりの財産をその甥にやるんだと大っぴらにいってるんです。その甥というのがまあゴロツキもいいところで、金使いの荒いこと手もなく一流なんですが、もう忘れちまった遠いむかしにいくらか伯母さんを大事にしたらしく、その甥のわるい話は何を聞かされてもてんで耳を貸しません。どこまでちゃんと聞こえたか知りませんが、とにかく聞かされたことなぞてんで取り合わないんです。だから姪たち三人、口をそろえてもっぱら甥の悪口を聞かせようとせいぜい心がけたわけです。ちゃんとしたお金をあんなロクデナシにやるなんて残念だわね、と互いにヒソヒソいってました。伯母さんのお金のことをいつも「ちゃんとしたお金」といってたんですよ、ほかの人の伯母さんはたいがい贋金でもいじっているみたいでしたね。
「ダービーだのセント・レジェーだの大きな競馬のあとは必ず口に出してあれこれ推測したもんです。あのロージャーの奴、また競馬に負けて今度はいくら損したろうね、という具合ですね。
「『あの人、旅費だけでもかなりの金額よね』とある日、一番上の姪がいいましたな、『全国どこの競馬へでも出かけて外国まで行くんですってさ。きっとそのうちインドまで出かけるわ、このごろ評判のカルカッタ競馬へ』
「『旅行をすると心が広くなるんだよ、クリスティーン』と伯母さんがいいましたね。
「『そうですわね、伯母さま。ちゃんとした精神で出かける旅行ならね』とクリスティーンは賛成しますな、『でも賭博と贅沢の手段というだけの旅行じゃ心を広くするより財布を小さくするようですわね。でもロージャーは楽しくさえあればいくらお金を損しようがこの先どこからお金の工面をしようが、そんなことは平気なんでしょう。残念なことですわね』
「そこまでいううち伯母さんはもう何か別の話をしてましたから、クリスティーンのお説教も果して聞こえたか怪しいもんですが、彼女の言葉――つまり、旅行は心を広くするといった伯母さんの言葉がきっかけになって、末むすめヴェロニークがひとつ伯母さんにロージャーの正体を見せつけてやろうと名案を思いつきました。
「『もしかね、伯母さんをどこかへ連れ出してロージャーが賭でお金をどんどんなくしてる現場を見せたらロージャーの人柄がわかるんじゃない? 何のかのいって聞かせるよりも』
「『そんなこといったって競馬場へつれて行くなんてできやしないわ』と姉二人がいうんですね。
「『そりゃ競馬場へは行けやしないわ。でもどこかばくちをやる場所で、手は出さなくても見物できるところがあるんじゃない? そんなところへ行ったらどう?』
「『モンテ・カルロへ行くの?』と姉二人がきき返しましたな。この名案にいまにも飛びつきそうな勢いでした。
「『モンテ・カルロは遠すぎるわ、それに評判のよくない土地だし、これからモンテ・カルロへ行きますなんてお友達にいえやしないわよ。ロージャーは毎年いまごろになるとたいがいディエプへ行くはずよ。ディエプならイギリスからもちゃんとした人がよく行くし旅費もそんなにかかりませんわ。伯母さまが船でドーバー海峡を越せさえすれば気分も変わってからだにもいいんじゃない?』
「そんないきさつでボームフィールズ三姉妹はこの致命的な名案に乗り出したわけです。
「あとになって考えるとこの旅行、最初からもう災難つづきでしたね。第一、船で海峡をわたると三人の姪は三人ともひどい船酔いに悩まされたのに、伯母さんだけは汐風に吹かれるのがとてもいい気持で知らない船客だれとでも親しくなるんですね。その上、もとフランスにいたころから何十年もたつのに、|相手役《コンパニオン》づとめをして現地で修業しているからフランス語の会話にかけては姪三人ともてんで歯が立たないんですな。用があればテキパキ自分で何でも片づける有様で、翼を三人前ひろげて大事にかこっておくのがますます困難になりました。その上、ロージャーはディエプにいると思ったのが見当ちがいでプールヴィユに泊まってるんでした。一、二マイル西の狭い海水浴場ですよ、これは。そこで急にこのディエプというところは混雑しすぎて浮わついた土地だということにして、何とか伯母さんを説きつけて割に静かなプールヴィユへ移ることにしました。
「『ちっとも退屈なんぞしやしませんよ、伯母さま』と受け合ったんです、『ホテルにはちょっとしたカジノもありますし、大ぜいダンスしていたり〈|小さなウマ《プティ・シュポー》〉にお金を賭けてむだ使いしてたり、そんなところも見られますのよ』
「あいにくロージャーはそのホテルに泊まってませんでした。だが昼すぎと晩にはたいがいカジノへやってくるにちがいない、と思ってたんですね。
「ホテルへ着いたその晩は早目に食事をすませるとブラリとカジノへ行って、〈プティ・シュボー〉のテーブルのあたりをうろついてました。ちょうどそのときバーティ・ヴァン・ターンがそのホテルに泊まり合わせてましてね、あとで詳しくいきさつを聞かせてくれましたが、ボームフィールズ三姉妹は誰か待ってるみたいにドアのところをそれとなく見張っていたんです。ところが伯母さんの方はですね、テーブルの上を小さなウマがグルグルまわるのを見ているうち、だんだん面白くなってすっかり夢中になってしまいました。
「『あのね、あの八番のウマごらんよ』とクリスティーンにいうんです、『あのウマ、もう三十二回負けつづけなのさ、ちゃんと数えてたけどね。わたし、あの八番へ五フラン賭けようと思うんだよ、はげましてやらなきゃね』
「『ねえ伯母さま、こっちでダンスを見ましょうよ』とクリスティーンはビクビクものでしたな。伯母さんが八番のウマに賭けてる現場をロージャーに見つかったりしたら、戦略上大変な障害になるわけですからね。
「『ちょいとお待ちよ、いま八番へ五フラン賭けるから』といいながら伯母さまはテーブルの上へ五フラン投げ出しました。ウマがまわり出す。そのときはウマをおそく回してやるゲームでしてね、八番のウマはまるでわるがしこい悪魔か何かのようにノロノロ決勝点へたどり着くと、たしかに優勝と見えていた三番のウマのほんの少し前へ鼻先を突き出したんです。測定の結果は八番の勝となって伯母さん、三十五フランもうけましたよ。それからというもの、ボームフィールズ三姉妹が力を合わせてかからなければ、伯母さん、絶対にテーブルからどかないんです。やがてロージャーがその場へ姿を見せたとき、伯母さんは五十二フランもうけていました。三人の姪たちはそのうしろにションボリしてるんです。まるでアヒルにかえされたニワトリのヒヨコがね、性に合わない危ない水の中で親があそんでるのを見てしょげこんでいる格好ですな。その晩はロージャーがぜひにといって伯母さんと三人のミス・ボームフィールズに夕食をご馳走することになりましたが、伯母さんとロージャーだけは羽目を外して陽気なのにあとの三人はまるで通夜の席へ出たような具合――その格好が全く見ものでしたよ。
「『わたし、これから先パテ・ド・フォア・グラが出てもとても食べられないと思うのよ、きっとあの恐ろしい晩を思い出しますもの』と、あとになってクリスティーンが仲よしに打ちあけたそうです。それをその友達がまたバーティ・ヴァン・ターンに打ちあけたわけです。
「それから二、三日、三人の姪はイギリスへ帰ろうかどこかカジノのない土地へ移ろうかといろいろ計画をねりましたね。一方、伯母さんの方は〈プティ・シュボー〉の必勝法を考えるのに大忙しなんです。初恋の八番は不運つづきでしたから五番に乗りかえて、二、三べん大きく賭けたらなおさら不運な目に合いました。
「『あのね、きょうはわたし、お昼すぎからこのテーブルで七百フラン以上負けたよ』と伯母さんがニコニコ顔でアナウンスしましたな、四晩目の晩餐のときですよ。
「『まあ、伯母さま! それ、二十八ポンドに当りますわよ! それにゆうべも負けましたわね』
「『なあに、ちゃんと取りもどすよ』と伯母さんはいたって楽天的なんです。『でもここじゃだめ。あのばかげたウマじゃとてもだめ。どこかちゃんとルーレットのやれるところへ行くとしようよ。これこれ、おまえそんな呆れた顔しなくていいんだよ。むかしから思ってたけどわたしはね、機会さえあれば性こりなしのばくち打ちらしいね。それがおまえ達のおかげではじめて機会ができたわけ。お礼ごころに乾杯しなけりゃね。ボーイさん、ポンテ・カーネを一本。おや、このワイン、ワイン・リストの七番だよ。ひとつ今夜は七番で行くとしよう。きょうのお昼すぎはつづけて四度も七番が勝ったよ、わたしは五番なんぞに賭けてたけど』
「ところがその晩、七番のウマはどうも勝運に乗らないんです。三人の姉妹は遠くから災難を見つめてばかりいられなくなってテーブルのそばへ寄って来ましたね。伯母さんはもうすっかり大事なお客に祭り上げられてます。三人じっと目をすえて見つめているとつぎつぎと一番が勝ち五番が勝ち八番が勝ち四番が勝ちましてね、どこまでも頑固に七番に賭けている伯母さんの財布から『ちゃんとしたお金』をどしどし捲き上げるんです。その日は結局かれこれ二千フランの大損になりましたよ。
「『みんな性こりなしのばくち打ちなんだね』とロージャーが寄って来てからかいましたな。そろってテーブルのそばにいるのを見つけたんです。
「『賭けてなんぞいやしませんよ』とクリスティーンがよそよそしくいい返しましたね、『見物してるだけですわ』
「『まさかね』とロージャーは百も承知という顔をしてます、『みんなで組んで伯母さんに賭けてもらってるにきまってますよ。顔を見りゃすぐわかりまさあね、賭けたウマが負けたときの』
「その晩は伯母さんと甥のロージャーと二人だけで夜食を食べました。いや、二人だけで食べることになるところでした、もしバーティが入らなければね。ミス・ボームフィールズは三人とも頭痛で早く引き上げたんです。
「つぎの日になると伯母さん一行はディエプへ河岸を変えてさっそく損した金の取りもどしにかかりました。勝負はいろいろでしたな。何べんかはうまく当てもしました。つまり、生まれてはじめてのこのゲームにいや気がささない程度には勝ちましたが全体としてはやはり負けです。とうとう伯母さん、アルゼンチン鉄道の株をかなり売り飛ばしました。するとその日、ボームフィールズ三姉妹は集団神経衰弱にやられましたよ。『あのお金、もう絶対とりもどせやしないわ』と三人悲しい顔を見合わせたもんです。
「ヴェロニークはとうとうやりきれなくなって一足さきに国へ帰りました。なにしろ伯母さんをこの悲惨な旅行につれ出したのがヴェロニークの発案ですからね。姉の二人も別にその事実を突きつけもしませんけど、どうしても責めるような目つきで見られるんです。口に出してこき下されるより身にしみますよ。姉たち二人は帰国もしないでションボリ伯母さんに付き添ってました。シーズンが過ぎたら伯母さまも無事安全なイギリスへ帰る気になるだろう、と待ってたんですね。それまでにあまり大きな不運さえなければ『ちゃんとしたお金』をどれくらいへらすことになるか、あれこれ必死に胸算用してたわけです。ところがその胸算用がとんでもない見当ちがいになった。というのはディエプのシーズンが過ぎると、伯母さん、ほかにどこか手ごろな賭博場はないかと探し出したんです。『ネコに乳しぼり場へ行く道を教えると――』ってことわざがありますよね。そのさきは忘れましたがボームフィールズ家の伯母さん、まさにそのことわざ通りなんです。生まれてはじめての楽しみを知った、やってみたらひどく性分に合う、習いおぼえた新知識の成果を何も急いで捨てるには当らない――っていうわけです。何しろばあさん、生まれてはじめて楽しい思いをしたんですからね。損ばかりしてはいても損をする手続きがひどく面白くて楽しい上に、のん気に暮らせる金はまだたっぷりあるんです。さかんに人にご馳走するから人気は高いし、カジノのお客仲間も大当りすると晩餐だ夜食だとお返しに招いてくれます。姪の二人はいやいやながらまだ付き添ってました。宝船が沈みかけたがうまく舵を取れば何とか港へたどりつくかも知れない――そう思うと乗組員もなかなか船を見棄てる気にならんでしょう。かわいそうにそんな立場なんですな。だからそんなボヘミアンじみた宴会気分がさっぱりうれしくない上に、『ちゃんとしたお金』をえたいの知れない連中に飲ませたり食わせたりして使いちらしてもいっこう愉快になれもしない――付き合ったところで社交上プラスになる相手じゃありませんしね。だからいろいろ口実を構えて伯母さんがやる困った宴会へは顔を出しません。ボームフィールズ姉妹の頭痛といったら有名なものでしたよ。
「とうとうある日、二人の姪は結論を出しましたね。守ってやろうとせっかくひろげた翼の下からここまで脱出した一近親に引きつづき付きそっても――これから先は二人の言葉そのままなんですがね、『何ら有益なる結果を期待することはできない』というんです。ところがね、二人の姪がそういいわたして帰るというのに、伯母さま、面くらうほど朗らかな顔をしましたよ。
「『国へ帰って専門のお医者に頭痛をみてもらう方がいいね』これが伯母さまのご託宣です。
「ボームフィールズ姉妹の帰国の旅はまさにモスコーからの退却でしたよ。特に悲痛をきわめた事実はですね、この場合のモスコーは一面の火焔と灰燼の山じゃなくてただベラボウな照明過剰だけなんでした。
「共通の友達もいれば知り合いもあったので、ときたま三人の姪のところへこの道楽者のばあさんの噂も聞こえて来ますがね、現在はすっかり常習的な賭博狂になりすましまして親切な金貸しが取立て残した残金で暮らしてるんですな。
「ですから別に不思議もないでしょう」とクローヴィスは結論を下した、「あの三人姉妹が世間に不景気な顔を見せてたって」
「ヴェロニークってどれなの?」と男爵夫人がたずねた。「三人の中で一番不景気な顔した女ですよ」とクローヴィスがいった。
やすらぎの里モーズル・バートン
[#地から2字上げ]The Peace of Mowsle Barton
クレフトン・ロックヤは心身ともにゆっくりくつろいで、モーズル・バートン村の農家の庭つづきにある果樹園ともつかず庭園ともつかない狭いところにのんびり腰を下ろしていた。長年ロンドンに住んで緊張と騒音の中で暮らしてきたあとだから、どっちを向いても低い山ばかりのこの農家のゆったりやすらいだ感じが、劇的ともいえるほど強烈に感覚を刺激する。時間も空間も無意味になり厳しさがなくなるようだ。一分また一分と知らぬまに何時間も時がたつ。牧場も休耕地も遠くまでなだらかに続いて目につくほどの高低もない。生垣の裾の雑草は庭の中まではびこってくるし、アラセイトウや庭の草花は逆に中庭や小道へ攻めて出る。ねむたそうなメンドリや何かに気を取られたようなまじめ顔のアヒルは、中庭でも果樹園でも往来でもわがもの顔に歩いている。何もかもハッキリ領分がきまっていないのだ。門の扉さえ蝶つがいに着いているとは限らない。どこもかしこもゆったりやすらいだ気分がみなぎって、まるで魔力につかれたようだ。昼すぎになるといつもずっと昼すぎだったような気がするし、たそがれ時になるといつもずっとたそがれ時だったような気になる。クレフトン・ロックヤはマルメロの大木の木かげの丸太作りのベンチにかけたまま決心した――そうだ、この村こそ錨を下ろすべきところだ。前からいつもあこがれて心に描き、近ごろ神経が疲れて参りかけてからは幾度となく思いこがれた心の故郷だ。よし、この素朴な人なつこい村にずっといつまでも下宿暮らしをしよう。そして気持よく暮らせるように身の廻りを少しずつ整えながら、村の暮らしになるべく溶けこむようにしよう。
そうした決心を頭の中でゆっくりまとめていると、かなり年配の女がひとり、果樹園の中をびっこを引きながら危なかしい足取りでやってきた。ここのうちの家族のひとりである。いま泊まっている農家の主婦ミセス・スパーフィールドの母親かそれとも義理の母かも知れない。彼は何かあいそよく言葉をかけようと急いで文句を考えた。ところが向こうから先に声をかけられた。
「あの納屋の戸に何かチョークで書いてあるね。何だね、あれは?」
気のぬけたような誰にいうでもない口ぶりだ。まるで何年も前から口に出かかっていた質問を思い切って片づけたという様子である。そのくせ目はクレフトンの頭越しに、まばらに並んだいちばん向こうの納屋の戸を憎らしそうに睨んでいる。
クレフトンが何だろうとその方を見るとなるほど書いてあった――「マーサ・フィラモンは魔女だぞ」。その文句をそのまま世間に広めていいものかどうか、彼はためらった。もしかしたらこの女がマーサ・フィラモンかも知れない。それともミセス・スパーフィールドがむすめの頃は苗字をフィラモンといったのかも知れない。第一、目の前にいるこの萎びて痩せこけた婆さんの格好も、この土地の目にはいかにも魔女らしく見えているらしい。
「マーサ・フィラモンとかいう人は何だとか書いてあるね」と彼は用心ぶかく説明した。
「何だと書いてあるんだね?」
「けしからんことが書いてあるよ。その人は魔女だってさ。こんなこと、書くもんじゃない」
「書いてある通りさ、まったく」と相手は大いに満足したらしく、特に詳しく説明するつもりだろう、あとからひと言つけたした。「あのヒキガエルばばあめ!」
そしてまたびっこを引いて庭を通りぬけながら、しわがれ声を張り上げてどなった、「マーサ・フィラモンは魔女だぞ!」
「あいつのいったこと、聞いたかね?」と、どこかクレフトンの肩のうしろで怒ったような低い声がした。パッとふり向くとまたひとり、黄色く萎びて痩せこけた婆さんがカンカンにいきり立っている。たしかにこれがマーサ・フィラモンその人にちがいない。どうやらこの果樹園はこのへんの婆さんどもお気に入りの散歩道らしい。
「うそだよ、真っ赤なうそだ」と低い声はつづく、「魔女はベティ・クルートの方なのさ、あいつもあの悪党むすめも。わるい奴らだ。呪いをかけてやるぞ」
びっこを引いて向こうへ行きかけたが、婆さんは納屋の戸のチョークの文字に目をとめた。
「何と書いたんだね、あれは?」と、クルリとこっちを向いて婆さんが聞いてきた。
「『投票はソアカーに』ってあるよ」、と彼は答えた。手なれた事なかれ主義の臆病さで大胆にうそをいったのだ。
婆さんは鼻の先でフンとか何とかいうと、やがて何かブツブツつぶやく声も色のあせた赤いショールをした姿も木の間に消えて行った。クレフトンはまもなく立ち上がって母屋の方へ向かった。何だかやすらぎの感じがほとんどなくなったような気がする。
前の日の午後のお茶のときは陽気で騒々しくて、クレフトンには実にいい気持だった。ところが今日は変に暗くなっていやに陰気くさい。みな面白くない顔でテーブルをかこみ、いつまでも黙りこんでいる。お茶までがひと口飲むと味もそっけもない生ぬるいしろものだ。こんなものを飲まされたら謝肉祭のお祭さわぎでも吹っ飛んでしまうだろう。
「まずいお茶だなんていってもだめですよ」とミセス・スパーフィールドがいった。クレフトンが口には出さずに、おや、これは? という顔で茶碗を見つめたからだ。「やかんがどうにも煮立たなくてね。そのせいなんです」
クレフトンは炉の方を見た。いつになく盛んに燃えている火に大やかんがかけてあるが、口から湯気がひと筋、ほそぼそと立っているだけだ。盛んに燃え立つ炎に底をあぶられてもやかんは知らん顔らしい。
「もう一時間あまりかけておくのに、どうしても煮立たないんです」とミセス・スパーフィールドはいって、なおまた説明をおぎなうつもりだろう、付けたしていった、「呪いをかけられたのさ」
「マーサ・フィラモンの仕わざだよ」と婆さんが口を出した。主婦の母親である。「あのヒキガエルばばあめ、かたきを討ってやるぞ。わたしが呪いをかけてやるぞ」
「なあにそのうち煮立ちますよ。きっと石炭がしけてるんでしょう」呪われたとかいう話には取り合わずクレフトンはいい返した。
「夕飯どきになろうが明日の朝飯どきになろうが煮立つもんですか。今夜ひと晩じゅう火を燃やしたって煮立ちゃしませんよ」とミセス・スパーフィールドがいった。果たしてその通りだった。一家はフライと焼き物だけで命をつないだ。隣りの家から親切にお茶を入れてとどけてくれたが、それもまずまず冷たくなってはいない程度だった。
「あんた引越して行くんでしょう、こんないやな事になったから」と朝食のときミセス・スパーフィールドがいった。「何か起こるとすぐ逃げ出す人があるもんだからね」
クレフトンはすぐさま、さし当り計画変更の意志はないといったが、心では、この家も最初のころの暖かみが大分なくなったな、と思った。疑うような目つきとムッツリした沈黙と手きびしい言葉が毎日の行事になった。婆さんの方は一日中台所や庭のあたりにすわりこんで、マーサ・フィラモンに対する呪いと脅かしを絶えずブツブツいっている。こんなに萎びて老いぼれた人間どもが、わずかに残るかぼそい力をふりしぼってたがいに相手の不幸を祈っている――その光景は何か恐ろしくも哀れでもあった。全身の能力がことごとく、ちゃんと足なみをそろえて朽ちかけていくのに、憎しみの力だけが一向に衰えもせず強烈に生き残っているのだ。その上、不気味なことに婆さんたちの憎しみと呪いから何かいやな恐ろしい力がひろがるらしい。どんなに火を燃してもやかんもソースパンも煮立たないのはまぎれもない事実だから、そんな魔力なんぞとどれほど疑ってかかっても説明がつかない。クレフトンは石炭がどうかしてるんだとどこまでも思いこんでいたが、薪をたいてみても結果はやはり同じことだった。運送屋にたのんで小型のアルコールランプ付きのやかんも取りよせたが、これまた頑として煮立たない。こうなると、夢にも思わなかった何か隠れた邪悪な力に突然めぐり合ったような気がしてきた。低い山と山との間から何マイルか向こうの街道を自動車が通るのがチラリと見えたりして、現代文明の動脈からあまり遠くもないこの村には、コウモリどもの巣くう古い農家があって、たしかに魔法の仕業らしいものが現実にはびこっているらしい。
クレフトンは菜園をぬけて向こう側の小道へ出ようとした。家のあたりや炉ばた――特に炉ばたにはめっきりなくなったあの楽しいやすらぎの感じに、あの小道のあたりへ行けばまた浸れるかと思ったのだ。ところが途中でこの家の母親に出会った。マルメロの木かげのベンチにかけて何かモグモグいっている。「沈むか浮かぶか水に放りこめ、沈むか浮かぶか水に放りこめ!」と、まるで子供がおぼえかけた文句を繰り返すようになんべんでも繰り返す。そしてときどき不意にかん高く笑いだす。それがなんとなく悪意がありそうで聞いているといやな気持になる。クレフトンはそれが聞こえないところまで来てホッとした。どこへ通じるとも見えない小道が二、三本あって、頭の上はこんもり木が茂り、静かな|人《ひと》|気《け》のない場所である。その小道の一本、中でも狭くて奥まったのに足が向いたが、それを行くと何と、一軒の人家へ通じている。彼は何だこれは、と少しムッとした。しょんぼりした百姓家があって荒れたキャベツ畑が少し、それにリンゴの老木が二、三本ある。そのすぐそばには流れの速い小川があり、それがしばし広くなってちょっとした池へ流れこみ、せき止めるように茂ったヤナギの間をまたサッと流れて行く。クレフトンは立木の幹によりかかって渦巻く池水の向こうの貧しげな百姓家を眺めた。生きものといってはみすぼらしいアヒルが一列、水ぎわへ下りてくるだけである。今まで地面をヨチヨチ歩いていたアヒルが、アッという間にふわりと水に浮かんで品のいい形に変わる――あの変わり方はいつ見てもいいものだ。だからクレフトンはじっと目を向けて先頭のアヒルがふわりと池に浮かぶのを待っていた。同時に、何かおかしないやな事が起こるんじゃないか、という妙な不安も頭にあった。先頭のアヒルは自信あり気に水へとびこんだが、たちまちグルリとひっくり返って水に沈んだ。首がちょいと水から出たと思うとまた沈んだ。沈んだところに泡がブクブクと続けざまに立つ。翼も脚も必死にバタバタ水をかいている。たしかに溺れかけているのだ。クレフトンは最初、水草か何かにひっかかったのか、それともカマスかミズネズミにでも下から襲われたかと思った。しかし水面に血が浮かんだ様子もなし、アヒルは烈しくもがきながら何にひっかかるでもなく流れに乗って池を廻っている。もうこの頃、二番目のアヒルが池へ入ってたちまち沈み、水の中でバタバタもがいていた。ときどきくちばしが水面に出てあがき立てるのが何とも哀れだ。よく慣れきって安心して入った水がこんな裏切りをするとは、とふるえ上がって文句をつけているようだ。三番目のアヒルも水ぎわで身構えて飛びこむと同時に同じ運命に落ちた。クレフトンは目を離さずゾッとするような気持で見つめていたが、あとのアヒルどもが先輩の溺れる騒ぎにおそまきながら気がついて、首をグッと真っ直に伸ばして身を引きしめ、危険な現場をコソコソ逃げ出すと、ホッとひと安心した。アヒルどもはおびえ切って不安の叫びをガーガー立てながら戻って行く。同時に、この現場を見た人間は自分ひとりではないのにクレフトンは気がついた。萎びて腰の曲がった婆さんがひとり、百姓家から細い小道を水ぎわへ下りてきていたのだ。あの怪しい噂のあるマーサ・フィラモンだとひと目でわかったが、そのマーサが池の中をグルグル廻りながらアヒルが死ぬ凄惨な光景をじっと見つめていた。やがて怒りにふるえる声がかん高く聞こえてきた。
「ベティ・クルートの仕業だな、畜生め! 呪いをかけてやるぞ。かけずにおくもんか!」
クレフトンはこっそりその場を逃げ出した。婆さんが自分の姿に気づいたかどうか、それはわからない。婆さんがベティ・クルートの仕業だとわめき出さないうちから、ベティ・クルートが「沈むか浮かぶか水に放りこめ」と小声で呪文をとなえていたのが頭に浮かんで、いやな気持がしていた。しかしマーサの「呪いをかけてやるぞ。かけずにおくもんか!」を聞くと彼はいよいよ不安がつのって、あとのことはすっかり忘れてしまった。どう理屈を立てて考えても、あの婆さんたちの脅かしがただの口喧嘩とは片づけられない。モーズル・バートンのこの一家はあの執念ぶかい婆さんに睨まれている。ひとに対する怨念をそのまま実現できそうな婆さんだし、殺されたアヒル三羽のかたきもどんな形で取るかわからない。自分もその家のひとりだから家の者ごとマーサ・フィラモンの怒りを買って、どんな目にあわされるか知れないのだ。もちろん根も葉もない空想だとはクレフトンも思ったが、アルコールランプ付きのやかんの一件と、つづいて池のところで目撃した光景とに、彼はまったくおびえ上がった。その上、何がこわいかはっきりしないからいちだんとまた恐ろしさがつのる。あり得ない事をいったん計算に取り入れると、あり得ることがほとんど際限なくひろがるものだ。
翌朝クレフトンはいつも通り早く起きた。この家へ来てからこれほど眠れない晩は初めてだった。五官がするどくなっていてすぐ感づいたが、この呪われた家には何となく万事うまくいかない気分が立ちこめている。乳しぼりのすんだウシどもは庭のあたりにかたまって、早く牧場へ出してくれとじりじりしている。ニワトリは餌の時刻はもうすぎたと絶えずうるさくせがんで鳴いている。いつも朝早くからなんべんとなくやかましい音を立てる庭先の井戸ポンプも今朝は不気味な沈黙を守っている。家の中をあわただしく行き来する足音がしたり、せきこんでしゃべるのが聞こえたり消えたり、不気味な静けさが長く続いたりした。クレフトンは急いで身仕度をして階段の下り口まで行った。ハッキリしない声で何かブツブツいうのが聞こえる。何かを恐れて声をひそめている口調だ。ミセス・スパーフィールドの声とわかった。
「行っちまうにきまってるよ、あの人」とその声がいっていた、「何かわるい事が起こるとたちまち逃げ出す奴らがあるからね」
クレフトンは思った――多分おれもその「奴ら」のひとりなんだろう。それに、柄に合った行き方をした方がいい場合もある。
彼は忍び足で部屋へもどると、いくらもない手廻りの品を荷物にまとめ、下宿代の|金《かね》をテーブルにおいて裏口から庭先へ出た。ニワトリの群が餌をくれるかと押しよせてきた。しつこくついてくるのをふり切って、牛舎やブタ小屋や乾草の山にかくれて急いで行くと農場の裏手の小道へ出た。旅行かばんを下げているのでどんどんかけ出すわけには行かないが、二、三分歩くと街道筋へ出た。まもなくそこへ後から朝の運送車が追いついて近くの町まで乗せて行ってくれた。街道が曲がるとき、あの農家がひと目チラリと見えた。|破《は》|風《ふ》のある古い屋根、かや葺きの納屋、木のまばらな果樹園、マルメロの木とその下のベンチ――それが朝日の光をうけて鮮やかにクッキリ見える。そしてその全体に、クレフトンが一度はやすらぎと勘ちがいした、あの魔につかれたような気分が立ちこめていた。
ロンドンのパディントン駅へ着くと雑踏と騒音がどっと耳を襲った。さあもう大丈夫ですよ、と迎えられたようでありがたい。
「神経にわるいですな、このてんやわんやの人混みは」と、やはり汽車から下りた男がいった、「ひっそりやすらいだ田舎の方がずっといい」
クレフトンは心の中で思った――そんなしろもの、おれはもうたくさんだ。張り切ったオーケストラがチャイコフスキーの序曲「一千八百十二年」を景気よく演奏している照明過剰な満員の音楽会場――神経を静めるにはこれがいちばん理想に近い、と彼は思った。
クローヴィスの弁舌
[#地から2字上げ]The Talking-Out of Tarrington
「さあ大変!」とクローヴィスの伯母が大きな声を出した。「知り合いがひとり押しかけてきたわ。名前は忘れたけど一度ロンドンでうちへランチに呼んだことのある人なの。そうそう、ターリントンという人。わたしが王女さまをお呼びしてピクニックをするのを聞きつけたのね。きっと招待状をわたすまでしがみついて離れやしないわ、まるで救命ベルトみたいに。それに招待状をぶん取ったが最後、奥さんだの母親だの姉だの妹だの、ぞろぞろ連れてきていいか、っていい出すわ。こんな狭い海水浴場って、それがいちばん困るのね、誰にでも取っつかまって逃げられやしない」
「伯母さん、伯母さんが今すぐずらかれば、しんがりはぼくが引き受けて撃退しますよ」とクローヴィスが買って出た、「今すぐずらかれば大丈夫十ヤードはリードしてます」
クローヴィスの伯母はパッとそのすすめに従って、ナイル河の汽船みたいにモゾモゾその場を引きあげた。すぐそのあとをペキニーズが長細い身体に茶色のさざ波を打たせてついて行く。
「あったことなんて一度もない振りするんですよ」と、伯母は指図すると姿を消した。とかく非戦闘員にはそんな無鉄砲な勇気がある。いささかその気配があった。
次の瞬間、クローヴィスは愛想よく構えた男客の挨拶を受けていた。まるでキーツの詩の「デアリアン湾頭の岬に立ちて物いわざる」英雄コルテズよろしく相手の顔をじっと見つめて、検視中の物件はいまだかつて見たことがない、という様子をしている。
「ひげを伸ばしましたのでおわかりにならんでしょうが」と来客はいった。「これはつい二カ月前から伸ばしたばかりです」
「ところがその正反対ですよ」とクローヴィスがいった、「見たような気がするのはその口ひげだけなんです。たしかにどこかで見かけたひげだ、とは思うんですが」
「わたしはターリントンと申します」と相手はつづけた。ぜひとも、ああそうでしたね、といってもらいたい。
「それは便利なお名前ですな」とクローヴィスがいった。「そのお名前なら別に目ざましい事も大胆な事もなさらなくても誰も文句はいいやしませんからね。それでいていざ国難という場合、もし軽騎兵を一個中隊募集するということになれば『ターリントン軽騎兵隊』といったらもっともらしくて血を湧かせますよ。もしかスプーピンなんて名前だったらとても話になりゃしません。いかに国家危急の場合にしろ『スプーピン騎兵隊』じゃ誰も参加する気になりませんからね」
来客はうす笑いを浮かべると、冗談などでごまかされないぞ、とばかり腹を抑えてしつこくいい出した。
「わたしの名はご記憶のはずですが……」
「これからは忘れやしません」とクローヴィスはしんから真面目という顔でいった、「実はつい今朝のこと、伯母が今度ペットにする気で買いこんだフクロウの雛が四羽とどきましてね、何かいい名はないかしらといってるんです。四羽とも全部ターリントンと名をつけましょう。そうすればもし一羽か二羽死ぬなり飛び出していなくなるなり、その他フクロウをペットに飼うと起こりやすい事態が何か発生しても、一羽か二羽はあとに残ってターリントンの名はつづきますよ。それにうちの伯母がうるさいから忘れさせるもんですか。『もうターリントンにハツカネズミやってくれた?』とか何とか、ひっきりなしに聞かされますよ。何しろ、野性のものを飼うからには、いっさい不自由をさせちゃいけない、っていうんです、それにちがいありませんけれど」
「わたしはいつか伯母さまのお宅へランチに呼んで頂いたことがあるのですが……」とターリントンが口を出した。顔は蒼ざめたがあとへは退かない。
「伯母は絶対ランチを食べないんですがね」とクローヴィスはいった、「何しろ全英ランチ反対同盟のメンバーでしてね、あまり目立ちはしませんがかなり成果をあげている同盟なんですよ。会費は三カ月で二シリング六ペンス、それでランチ九十二回ぬきにする資格をもらえます」
「新しいんですね、それは」とターリントンが大声を出した。
「いいえ、ずっと前からの同じ伯母です」とクローヴィスが冷静にいった。
「伯母さまのお宅でランチを頂いたのをハッキリ覚えているんですがね」とターリントンは食い下がった。ところどころ赤味がさして穏やかでない顔つきになりかけている。
「そのときランチに何が出ました?」とクローヴィスがたずねた。
「さあ、そこまで覚えてはいませんが……」
「ランチのメニューはお忘れになっても伯母のことは覚えていて下すったんですね。ありがたいです。ところがぼくの頭はそれと大ちがいでしてね、食べたメニューはいつまでも覚えていますが、メニューのお伴のそこの奥方の方はすぐ忘れちまいます。忘れもしませんが七歳のときナントカ侯爵夫人か何かの園遊会でモモを一つもらいました。そのナントカ侯爵夫人のことは何も覚えておりません。ぼくをつかまえて『まあ、かわいい坊や』といったところを見ると、あまり親しい知り合いじゃなかったらしいですね。ところがもらったモモの方は今でもありあり覚えてるんです。そらあの、いわば向こうも食べられたがってるような、食べたとたんに溶けこむような、すばらしいモモがあるでしょう、あれなんですね。温室仕立ての全然無きずの美事なモモなんですが、それでいて砂糖漬そっくりの素晴しい風味です。あんぐり噛むのと溶けこむのが同時なんですからね。あのたおやかなビロードのような肌のモモの実が、長い夏の日も|馨《かぐわ》しい夜もゆっくりと実り成熟して完成し、最高の状態で不意にぼくの前に現われる――そう思うとぼく、いつも何ともいえない神秘感に打たれます。忘れようにも絶対忘れられません。さてそのモモの食べられるところを残らず食べてしまうと種が残りました。考えの浅い、うかつな子供なら投げ捨てたでしょうね。ところがぼくは、襟ぐりの深いセーラー服を着た子供のくび筋へそれを入れて、サソリだよと教えてやりました。もがき廻ったりキャーキャー泣いたりしたのを見ると、どうも本当にしたんですね。ばかな奴で、園遊会場のどこで生きたサソリがつかまると思ったんだか、ぼくにはわかりません。とにかく、ぼくに取ってはそのモモがいつまでも忘れられない楽しい思い出で……」
敗北したターリントンはもう声のとどかない遠くへ退却していた。たぶん、クローヴィスのような奴までいるのではせっかくのピクニックもあまり楽しくないはずだと思い直して、せいぜい自らなぐさめているだろう。
「ぼく、きっと国会議員になれるな」と、うれしそうに伯母のところへ戻りながらクローヴィスはつぶやいた、「都合のわるい議案などいつまでも論じつづけて廃案にもちこむ腕なら、ぼく、大したものになりそうだ」
運命の猟犬
[#地から2字上げ]The Hounds of Fate
どんより曇った秋の日がだんだん暮れていく中を、マーティン・ストウナーはどろんこの小径や車の跡のある馬車道をとぼとぼ歩いていた。こう行けばどこへ行くのかよくわからない。何となく行く手の方が海のような気がして、その海へ向かってどうしても足が向く。シカは追いつめられるとせっぱつまって崖のある方へ逃げるものだが、それと同じ本能にかられているらしい。そうでないとしたら、なぜ重い足を引きずって海の方へ行くのか自分にもわからなかったろう。運命の猟犬は今や確かに彼を容赦なく追いつめていた。疲労と空腹と深い絶望に頭はポカンとしてしまい、いったいなぜ歩いているのだか考える気力もなかった。やれる事は何でもやってみたが生まれつき怠け者で無鉄砲なため何をしてもさっぱりうまくいかない――そんな不運な人間がある。ストウナーはその一人だった。とうとう行きづまってもはややれる事は何もなくなった。どん底まで追いつめられたが、今まで眠っていた余力がわき出すでもない。却ってこの必死の瀬戸ぎわになって頭がぼやけてきた。着のみ着のまま、ポケットには半ペニーがたった一枚あるきり、頼って行ける友達もなければ知り合いもなし、今夜泊めてもらう当てもなければ明日の食べ物にありつく見こみもなく、マーティン・ストウナーは濡れた生垣と雫の垂れる立木のあいだを重い足を引きずってぼんやり歩いて行った。もうほとんど放心状態で、ただ無意識にどこか行く手の方が海だという気がするだけだ。ときたま、もひとつ頭に浮かぶことがある――どうにも腹が空いてやりきれない思いだ。やがて彼はあけ放しの門のところで足をとめた。中は農家の庭で広いがかなり荒れている。あたりに人影もないし、庭の奥の農家は寒々として近よりにくい感じだ。しかし雨がしとしと降り出したし、もしかしたら二、三分も雨宿りして最後の半ペニーで牛乳を一ぱい売ってもらえるかも知れない。そう思うとストウナーは大儀そうにゆっくり向き直って庭へ入り、平石を敷いた狭い小径を横手の戸口へ行った。するとまだノックもしないのにドアが開いて、腰の曲がった萎びた老人が戸口に出てきて一足横によけた。さあどうぞ、というそぶりである。
「雨宿りさせて頂けますか?」とストウナーがいい出すのを老人は遮っていった、「どうぞお入りなすって。いずれそのうちお戻りなさると思ってましたよ」
ストウナーはよろよろ敷居をまたぐと、いぶかるように相手の顔を見つめた。
「どうぞおかけなすって。何か召し上るものをもって参りますから」と老人はふるえる声で丁寧にいった。ストウナーは足が疲れ切ってもう立っていられなかった。彼はすすめられた肘掛椅子にぐったりかけたが、一分すると目の前のテーブルへ出たコールド・ミートとチーズとパンをむさぼるように食べていた。
「四年たってもさっぱりお変わりになりませんなあ」と老人がつづけていった。まるで夢の中で聞くような、遠い遠い、どうでもいい声のように聞こえる。「でもここは大きく変わりましたよ。お出かけになったときいた者は誰ひとりおりません。わたくしとあなたさまの伯母さまだけでございます。お帰りになったのを申し上げてきますが、おあいにはなりますまい。でもここにいらして構いません。いつもおっしゃってますんです、もしあれが戻ってきたらおいてはやるが二度と顔も見ないし口もきかない、ってね」
老人はテーブルの上へビールを一ぱい出すと、長い廊下をたどたどしい足取りで向こうへ行った。しとしと降っていた雨はいつのまにか烈しい土砂降りに変わって、ドアや窓に吹きつけた。この大降りだしどんどん暗くはなるし、今ごろの浜辺はどんなだろうと思うと、ストウナーは身ぶるいした。彼はビールを飲みほすとポカンと椅子にかけたまま、あのおかしな老人が戻るのを待った。隅においてある大時計が秒をきざむ音がする。そのうち彼の胸の中に新しい希望が浮かんでだんだん強まった。といっても、はじめは何か食べ物にありついて少し休みたいだけだったのが、どうやら追い出すこともなさそうなこの家へ一晩泊めてもらいたくなっただけのことだ。やがて廊下にガタガタ足音がして老人の戻ってくる気配がした。
「トムさま、伯母さまはおあいになりませんよ。しかしおいといてもいい、とおっしゃいます。あたり前でさあね、伯母さまが亡くなられればこの家屋敷はトムさまのものですからな。あなたさまのお部屋へ火を起こさせておきましたよ。女中にいいつけて新しいシーツをベッドに敷かせました。何もかももとのままでございます。もうお疲れでしょうからお部屋でお休みなさいまし」ストウナーは何ともいわずにやっと立ち上がると、このありがたい老人について廊下を行き、ギシギシする階段を二、三段上り、また廊下を通って広い一間へ入った。炉にはあかあかと火が燃えている。家具はわずかしかないが、質素で古風ながらそれなりに立派だ。装飾らしいものはケース入りの剥製のリスと四年前の壁かけカレンダーだけである。しかしストウナーの目にはベッドだけしか映らなかった。彼は服をぬぐのももどかしくベッドに入ると、疲れた身体を深々とベッドに埋めて気持よく眠りこんだ。運命の猟犬もしばし追跡の手をとめたらしい。
つめたい朝の光の中でストウナーは嬉しくもない笑いをもらした。こんな破目になった自分の立場がそろそろわかったのである。どうやらここの家には家出した出来そこないがいるらしい。その男にそっくり似ているのを利用して朝食をかっこみ、こっちが企んだわけでもないインチキが暴露しないうちうまく逃げ出すとするか。二階から下りて行くと、昨夜の腰の曲がった老人が「トムさま」の朝食にベーコンとフライエグズをもう用意していた。そして、きつい顔をした年配の女中がティー・ポットをもってきて茶わんについだ。ストウナーがテーブルに向かうと、小型のスパニェルがなれなれしくよってきた。
「あのボウカーの子でございますよ」と老人が説明した。きつい顔の女中はこの老人をジョージと呼んでいる。「ボウカーはトムさまによく馴れていましたな。あなたさまがオーストラリアへいらしたあとは、すっかり様子が変わりましてね。つい一年前に死にました。その子がこれなんでございます」
ストウナーにはボウカーの死んだのが哀れとは思えなかった。もし生きていたら自分の正体をかぎつけたかも知れない。
やがて「トムさま、ウマでお出かけになりますかな?」と老人にすすめられてストウナーはギョッとした。「乗り心地のいいすてきな葦毛が一頭おります。もとからのあのビディも少し老いこみはしましたが、まだ乗れることは乗れます。ですが葦毛の方へ鞍をつけて表口へ廻させましょう」
「ウマに乗る仕度は何にもないし」と宿なしのストウナーが口ごもった。着たきり雀の自分の身なりを見ると、あぶなく笑い出すところだった。
「トムさま」と老人はまるで気をわるくしたように真顔でいった、「あなたさまのお仕度は何もかも元のままにしてございます。炉の火で少し乾かせば何ともありませんぞ。たまにはウマにお乗りになったり鳥でも撃ちにお出になったら気晴らしになりますよ。このへんの奴らはあなたさまを憎んでおります。忘れもしなければ許しもいたしませんから、誰ひとり寄りつきはしますまい。だからウマやイヌで気晴らしなさるのがいちばんでございます、いいお相手ですからね」
ジョージ老人は手配をしにたどたどしく出て行った。ストウナーはますます夢でも見ているような心持で二階へ上がり、「トムさま」の衣裳戸棚をあけてみた。ウマに乗るのは何よりも好きだし、トムの仲間も誰ひとり寄っては来ないとあれば、さしあたり正体を見破られる心配もないわけだ。にせもののトムさまはどうやら身体に合う乗馬服を着こみながら考えた……村中の恨みを買うとは、本もののトムさま、いったいどんな悪事を働いたんだろう? 張りきったウマの蹄がしめった地面を蹴る音がしてストウナーの思いは途切れた。横の戸口へもう葦毛が廻してあったのだ。
「乞食をウマに乗せると何だとか諺にあるが、それどころのさわぎじゃないぞ」と思いながら、ストウナーは泥んこの小径にウマを飛ばした。食いつめた宿なしの姿で昨日とぼとぼ歩いた道だな、と思ったが、やがて彼はそんなことを考えるのがおっくうになり、いい気持でウマを飛ばした。平らにつづく街道沿いの芝生を軽く|煤m#「煤vは「咆」の「口(くちへん)」を「足(あしへん)」にしたもの。Unicode=#8DD1 DFパブリW5D外字=#F694]《だく》|足《あし》で飛ばしたのだ。あいている門のところへ来ると彼はしばしウマをとめて、荷馬車が二台、畑へ入るのに道をあけた。荷馬車を馭していた若者たちはゆっくり彼の顔を見る暇があったわけだ。やがて通りすぎて行くと、うしろから興奮した大声がした、「トム・プライクの奴だ! ひと目でわかったぞ、またやってきやがって!」
よぼよぼの老人が間近で見てもだまされたほど似ている彼だ。少し離れると若い者でも見ちがえるほど似ているにちがいない。
今この場にいないトムの遺産としてしょいこんだ昔の罪を村の者は忘れもしないし許してもいないと聞かされたが、ストウナーはウマを乗り廻しているうち、その証拠をたっぷり見せられた。人にあいさえすると誰も必ず眉をひそめたり、何か口の中でブツブツいったり肘でつつき合ったりしては、奴だぞ、という様子を見せる。平気な顔で並んで走る「ボウカーの子」だけが、どこを向いても敵意ばかりのこの世界に唯一の好意的な存在だった。
横の戸口で馬を下りるとき、二階の窓のカーテンの蔭から痩せた年配の女の姿がチラリと見えた。たしかに自分の伯母ということになった人にちがいない。
昼食はたっぷりちゃんと用意してあった。それをたべながらこの驚くべき事態がこれからどうなっていくかと彼はあれこれ考えた。姿を消して四年になる本物のトムが突然ここへ戻ってくるかも知れないし、そのトムからの手紙がいつ何どきくるかも知れない。その上、この家屋敷の相続人というわけだから何か書類に署名してくれといわれるかも知れない。そうなったらそれこそ進退きわまる。それとも親類の人がやってきて、あの伯母のようにそっぽ向いてはいないかも知れない。どうなるにしろ結局は化けの皮を剥がれてひどい目にあうだろう。それ以外の道といえば野天と海へ行く泥んこの小径だけだ。このうちにいればとにかくしばらく飢えはしのげるし、畑仕事も一度はやってみたことがあるから、見当ちがいなこのもてなしのお返しに少しは何か仕事もできるだろう。
「夕食はコールド・ポークになさいますか、それとも暖めましょうか?」とテーブルを片付けながらきつい顔の女中がいった。
「暖めてもらおう、タマネギを添えてね」とストウナーはいった。即座に決心がついたのは生まれて初めてである。そう指図しながら、結局おれは腰をすえる気だな、と気がついた。
暗黙のうちにきまった境界条約に従って、彼は家の中も自分に許されたところ以外は絶対に足を入れなかった。畑仕事を手伝うときはいつも指図を受けて働くように心がけ、決して自分から先に立って仕事はしない。ジョージ老人と葦毛のウマとボウカーの子だけが唯一の相手で、あとの世間は氷のように冷たい敵意のかたまりだ。この家の女主人はまったく姿を見せなかった。一度、教会へ出かけたのを見澄まして居間へ忍びこみ、自分がまんまと化けこんでその罪悪まで引きうけた男というのはどんな奴か、せめてその手がかりでも探ろうとした。どの壁にも写真が何枚もかけてあるし、ちゃんと額縁に入れたのもあるが、自分に似た顔の写真は探してもない。ようやく、見えないところに隠してあったアルバムの中に、「トム」とラベルの張ってあるそれらしい人物の写真が何枚も見つかった。ひどく変わった子供服のポッチャリ太った三歳の坊や、いやなものでももつようにクリケットのバットを手にしたとまどったような十二歳位の少年、髪をまん中からペッタリわけた、なかなか男ぶりのいい十八歳の青年、そして最後に、少しむっつりした不敵な表情の若者……ストウナーはこの最後の写真を特に念入りに見た。まぎれもなく自分にそっくりである。
ジョージ老人はたいがいの事ならよくしゃべった。ストウナーはなんべんとなくその口から何か聞き出そうとした。世間中から避けられ憎まれる立場になるとは、いったいどんな悪事を働いたんだろう?
「このへんの連中、ぼくのこと何といってるね!」と、ある日、遠い畑から歩いて帰る途中、彼はジョージ老人にたずねた。
老人は首を横にふった。
「ひどく憎んでますぞ、おそろしく憎んでます。困りますな、まったく困った事です」
根掘り葉掘りたずねても、それきり何とも話してくれなかった。
クリスマスまであと二、三日の、よく澄んで冷え冷えする夕方、ストウナーは見晴らしのいい果樹園のすみに立っていた。あちこち点々とランプやろうそくの灯がちらついている。あの家々の中ではきっとみなクリスマスを祝って楽しく笑いさざめいているんだろう。うしろにはあの冷たい、いつもヒッソリと誰ひとり笑うこともなく、口喧嘩でもあればむしろ明るくなりそうなあの家がある。ふり向いてその陰気にかげった家の細長い灰色の正面へ目を向けたとたん、ドアがあいてジョージ老人がかけ出してきた。心配事でもできたように声を絞って「トムさま」と呼ぶ声がする。何かまずいことが起こったな、と彼は即座にさとった。同時に、いま陰気くさい家だなとふり向いて見たその家がガラリと変わって、安全で平和で何一つ不足のない場所に見えてきた。追い出されたら大変である。
「トムさま」と老人がいった。しわがれ声をひそめている。「二、三日そっとここから逃げていてください。マイケル・レイの奴が村へ戻ってきたんです。見つけ次第撃ち殺してやる、といってます。やりかねない様子ですぞ、あいつは。闇にまぎれてお逃げなすってください。どうせ一週間かそこらです、奴も長くは村におりませんから」
「でもどこへ行きゃいいんだ?」とストウナーは口ごもった。相手が目に見えておびえ切っているのに伝染したのだ。
「浜辺ぞいに真っ直ぐパンチフォードへ行って隠れていてください。マイケルの奴がちゃんといなくなったら、わたしがパンチフォードの緑竜亭まで葦毛で行きます。あの宿の廐舎にうちの葦毛がつないであったら、お帰りになって大丈夫な合図というわけです」
「でも……」とストウナーはもじもじした。
「お|金《かね》のことはご心配なしですぞ」と老人はいった、「わたしのいう通りするのがいちばんだ、と奥さまもおっしゃってこのお|金《かね》をくださいましたよ」
老人は一ポンド金貨を三枚と銀貨を二、三枚わたした。
その晩、ストウナーはその金をポケットに裏木戸からこっそり逃げ出しながら、これでいよいよ本物の詐欺師になったな、と思った。ジョージ老人とボウカーの子が裏庭から黙ってじっと見送っている。二度とこの家へ戻る気はないから、忠実に仕えてくれたこの老人とイヌとが首をのばして帰りを待ってくれるかと思うと、何とも申しわけない気持がもり上がってきた。きっと、いつかは本物のトムが戻ってくるだろう。そして、このうちへ泊まっていったあの変な男の正体は何だろうと、素朴な村人たちはびっくり不思議がることだろう。これから先の事はさし当り心配なかった。あとにも先にも三ポンドきりでは世間なみには大したことはないが、金といえばいつもペニーで勘定しなれた男に取っては大した|種《たね》|銭《せん》だ。いつか文なしの浮浪人でこの小径をたどってきたとき、運命は実に気まぐれな幸運をさずけてくれた。だから今度も何か仕事にありついて出直す機会がくるかも知れない。村から遠くなるにつれ彼は次第に元気が出てきた。またもとの自分に戻ったんだ。化けの皮が剥げやしないかの心配はもうなくなった――そう思うとホッとした。突然どこからか自分の立場にからんできた執念ぶかい敵のことなど、彼はもう気にならなかった。第一、その立場ももう過去のことだから、そんなあやふやな事があろうとなかろうと同じことだ。何カ月ぶりに初めて、彼は心もかるく流行歌を口ずさみ出した。すると道にかぶさるように茂ったカシの大木の蔭から銃をもった男がズカズカ現われた。何者だろう、と思うまでもない。月に照らされたその白くこわばった顔には、ストウナーが浮きつ沈みついく度も放浪してきた人生にまだ見たこともない憎しみがギラリ光っていた。彼はパッと飛びのくと夢中で道ばたの生垣をぬけて逃げようとしたが、こみ合った頑丈な枝に引っかかって動きが取れなくなった。運命の猟犬はこの狭い小径に待ち伏せしていたのだった。そして今度こそは逃亡を許さなかった。
讃歌
[#地から2字上げ]The Recessional
クローヴィスはトルコ風呂の三番目に熱いところへ腰を下ろして、まるで彫刻のように身動きもせず考えこんだり、ノートブックにせっせと万年筆を走らせたり、それをかわるがわる繰り返していた。
「子供みたいなこと、しゃべって邪魔するんじゃないぞ」とクローヴィスはバーティ・ヴァン・ターンに注意した。バーティがおっくうそうに隣りの椅子に腰を下ろして話しかけたい顔をしたからだ、「ぼくは今、永久不滅の名詩を書いてるんだからな」
バーティは急に興味をもったらしい。
「そうか。肖像画家ども大助かりだろうな、君が詩人として悪名をとどろかしたらね。『詩人クローヴィス・サングレール氏、新作執筆の図』なんぞはアカデミーへ出せまいが、『裸体習作』とか『ジャーミン街に降臨するオルフォイス』とか、そんなタイトルでごまかして君の肖像を出品できるからな。奴ら、いつもブツブツいってるぞ、どうも現代の服装はマイナスになるって。ところがタオル一本と万年筆一本きりだと――」
「ミセス・パクルタイドのすすめでこの詩を書いてるんだ」とクローヴィスはいった。せっかくバーティが教えてくれた名声への裏道なんぞ取り合わない。「そら、例のルーナ・ビムバートンが戴冠式讃歌を書いたらそれが『|新幼児時代《ニュー・インファンシ》』へ出ただろう。あの『|新時代《ニュー・エイジ》』を古くさい老いぼれ雑誌にしてやろうとスタートした雑誌さ。それを読んであのパクルタイドがいったよ、『まあ、ルーナ、なんてお上手なんでしょう。そりゃ戴冠式讃歌なんぞ誰にでも書けますけど、書く気になる人ってほかにありませんからねえ』とね。ルーナはね、こんなもの書くのは大変難しいんですよ、といい返した。こんなものが書けるのは少数の天才だけだ、というつもりなんだね。ところがね、あのパクルタイドには、ぼくこれまでいろいろ世話になってる。あの女、財政救急車みたいにこっちが重傷を受けると戦場から助け出してくれるんだ。ぼくはまた、そんなことが度々あるのさ。だがルーナ・ビムバートンには何の用もない。そこでぼくが口を出した――そんなもの、その気になれば何平方ヤードでも書き飛ばせますよ、ってね。そんなこと出来るもんですか、とルーナはいうし、結局、ルーナとぼくが賭をすることになった。君だから話すが賭けた金はまずこっちのものさ。もちろん賭には条件がひとつある。書いた詩は必ず何かへ発表したものに限る。ただし地方新聞はだめだ。ところがミセス・パクルタイドはこれまで度々寄付してるから『|煙たい煙突《スモーキ・チムニ》』の主筆にはコネができてる。だからぼくがいつもの讃歌なみのしろものを何とかでっち上げれば、賭は大丈夫こっちのもんだ。これまでのところ、ばかに調子よく書けるんで、もしかしたらぼく、その少数の天才の一人かな、と思い出したところさ」
「戴冠式讃歌は今からじゃおそいんじゃないかな」とバーティがいった。
「もちろんさ。だからいま書いてるのは『インド総督謁見式讃歌』とする。これなら手もとに置いても腐ったりしない、置く気ならね」
「なるほど、それでわかったよ、こんな場所をえらんで書いてるわけが」とバーティ・ヴァン・ターンがいった。未解決の疑問がふと解決したような顔をしている。「つまりインドみたいに暑い場所をえらんだわけだな」
「いいや、ここへ来たのは頭の弱い奴に邪魔されるのを避けるためさ。だがどうやら運命にあまり注文をつけすぎたらしいな」
バーティはもっていたタオルを照準つきの武器に使おうと身構えたが、考えてみると自分の方は無防備の海岸線がかなり長い上、敵はタオルのほかに万年筆を一本もっている。そこでおとなしくまた深々と椅子に腰を下ろした。
「その永久不滅の名詩をひとくさり読んで聞かせないか」と彼はいった。「約束するよ。いまどんなものを聞かせられても、イザという時にはちゃんと『|煙たい煙突《スモーキ・チムニ》』が見たいから貸してくれ、と必ずいってやる」
「かいば桶に真珠を投げこむようなもんだな」とクローヴィスはうれしそうにいった。「だがまあ少し読んで聞かせよう。最初は総督謁見式から一同退出するところさ――
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「『ヒマラヤの峰々なるわが家をさして
カッチ・ビハーの象どもは疲れ蒼ざめ
|大帆船《ガレオン》のごと揺れ進む、|潮汐《ちょうせき》なき海を』」
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「カッチ・ビハーはヒマラヤの近くじゃないはずだ」とバーティが口を出した、「そんなこと書くときは地図帳を使うもんだぞ。それにどうして『疲れ蒼ざめ』なんだ?」
「もちろん時間がおそいし興奮したあとだからさ。それに『わが家』はヒマラヤ連峰の中だといっただろう。ヒマラヤのゾウがカッチ・ビハーへ来ることもあるさ、アイルランド産のウマだってアスコットの競馬へ出るじゃないか」
「でもゾウがヒマラヤへ戻るところだといったぜ」とバーティが反論した。
「そりゃゾウだって当然うちへ帰してもらうだろう、疲労回復に。インドじゃゾウを山へ放してやるのが普通なんだ、イギリスでウマを草場へ出してやるようにね」
自分のでたらめに東洋的な物すごい光彩をそえたのが、クローヴィスはとにかくいい気持らしい。
「終りまで|無韻詩《ブランク・バース》で書くのかね?」と批評家が質問した。
「いや、ちがう。四行目の終りに『|謁見式《ダーバー》』を使って韻をふませる」
「終りとは卑怯だな。だがそれで『カッチ・ビハー』をえらんだわけか」
「あまり世間じゃ知らない土地だが地名と詩的インスピレーションとは深い関係がある。ロシヤのことを書いた英詩にろくな名作がない理由のひとつは、スモレンスクだのトボルスクだのミンスクだの、そんな地名と韻の合う英語がないからだ」
クローヴィスの言葉には経験者の貫禄があった。
「もちろんオムスクとトムスクなら韻が合うさ」と彼はつづけた、「事実、その目的で存在する町らしい。だが読者はそんなのをいつまでも辛抱はしないからな」
「読者はかなり辛抱するもんだぞ。それにロシヤ語を知ってる奴はろくにないから、いつだって脚注に書ける――『スモレンスクの最後の三字は発音しない』、なんてね。ゾウをヒマラヤ山脈の草地へ放してやる一件程度には信用されるさ」
「ここにちょっと出来のいいところがある」とクローヴィスは平気な顔でつづけた、「ジャングルの村はずれの夕景色をかいたところだ――
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「『コイルなすコブラはたそがれを迎えてニタリとほほえみ
餌をあさるヒョウはゆだんなきヤギにコッソリ忍びよる』」
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「熱帯にはたそがれなんてほとんどないんだがな」とバーティがいった。まあ仕方がない、という口ぶりだ。「だがコブラがたそがれを迎えてニタリとする動機をぼやかしたのは気に入った。不可知なるものは昔から不気味ときまってるからな。きっと『|煙たい煙突《スモーキ・チムニ》』の読者で臆病な奴はひと晩中寝室の明りをつけ放しにするぜ、コブラが何を見てニタリとほほえんだかわからないからうす気味わるくてね。光景見るがごとしだ」
「コブラがニタリと笑うのはごく自然なのさ。ちょうどオオカミがやり切れないほど食いすぎても習慣でいくらでもガツガツ食うようなものだ。そのあとのところに色彩効果のすばらしいところが少しある」とクローヴィスは付けたした、「ブラーマプトラ河の夜明けを描いたんだ――
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「『日輪の光にコハク色なす東の空はアンズとアメティストを血のごとく赤々と染め
エメラルドの光あびたるマンゴーの林のオパールにも似てきらめく空にかかれり。
オームは色あざやかに霞に飛びかい緋と|玉髄《ぎょくずい》と|緑玉髄《りょくぎょくずい》にも似たるかな』」
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「ブラーマプトラ河の夜明けは見たことがないからその描写のよしあしはいえないが」とバーティがいった。「何だか大がかりな宝石泥棒の記事みたいに聞こえるね。しかしとにかく、オームを使ったのは地方色を出してよくきいている。その景色へトラも何匹か出したんだろうな。中距離のところにトラが一、二匹いないとインドの景色はガランとして未完成らしく見えるからな」
「どこかに雌のトラが一匹出てくるんだ」といってクローヴィスはノートの中を探した。「ああ、ここだ――
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「『黄褐色の雌トラが茂り合うチークの森を
のど鳴らし耳そば立てて喜ぶ子らに、
曳き行くはクジャクの口の恐ろしき死の喘ぎ――
これぞ血と涙のジャングルの子守歌ぞ』」
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バーティ・ヴァン・ターンは横になっていた椅子から急に立ち上がって、次の室へ通じるドアの方へ向かった。
「君の描いたジャングルの家庭生活は完全におっそろしいな」と彼はいった。「コブラだけでも十分気味がわるいのにトラの子供部屋へヒョイと死の喘ぎをもち出したりしてはもうごめんだよ。聞いてると全身あつくなったり寒くなったりする。ぼくはもうスティーム室へ行く」
「ちょいと待った。この行はどうだ? どんなぼんくら詩人でも名声一挙に上がるという上出来なんだ――
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「『また頭上に振り子のごとたゆまず揺るるは
ヤシの葉の|大《パン》|扇《カー》、死産せる微風の母ぞ』」
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「それを読んだらたいがいの奴はパンカーってのは何か冷たい飲物かポーロ試合のハーフ・タイムのことだと思うね」そういうと、バーティの姿はスティームの奥へ見えなくなった。
やがて『|煙たい煙突《スモーキ・チムニ》』は紙上にクローヴィス作の「讃歌」をのせたが、それがこの雑誌の白鳥の歌となった。その号かぎりであとが続かなかったのだ。
ルーナ・ビムバートンは|謁見式《ダーバー》に出席するのを取りやめて、サセックス州の丘陵にある病院へ入院した。特に忙しい社交シーズンをようやく終えて神経衰弱になった、ということになっているが、真相を知ってる者も三、四人あった。実はブラーマプトラ河の夜明けにやられてまだ完全に立ち直れないのである。
セプティマス・ブロープの秘密な罪悪
[#地から2字上げ]The Secret Sin of Septimus Brope
「ミスター・ブロープってどんな人?」とクローヴィスの伯母が不意にたずねた。
ミセス・リバセッジは別に何を考えるでもなく萎んだバラを切り取っていたが、声をかけられてハッと我に返った。彼女は例のむかし気質の大家の奥方である。だから自分のうちへ泊めているお客のことはみな多少は心得ていて、その多少というのが必ず当人のプラスになる事ばかり、と思いこんでいる。
「あの方、たしかレートン・バザードの御出身よ」と彼女は説明の前置きに取りかかった。
「近頃は旅行も速く便利になりましたから、レートン・バザードから来たというだけじゃ必ずしも立派な人物とはいえませんね」とクローヴィスがいった。彼は煙草の煙を吹きつけてアブラムシの一群を追いちらしている。「もしかすると尻が落ち着かない男というだけかも知れませんね。もっとも、評判を落として逃げ出してきたとか、土地の人間が手がつけられない軽薄者ばかりだからそれに抗議して立ちのいたとか、そんな事ならその男の人物も使命も少しはわかりますがね」
「いったい何をしている方ですの?」とミセス・トロイルは正面から追求した。
「教会月報の主筆でいらっしゃいます」とミセス・リバセッジがいった、「教会にある記念碑だの|翼堂《トランセプト》だの現代の礼拝式に及ぼしたビザンチン式礼拝の影響だの、そんな事に恐ろしく詳しいんですよ。御専門が少し片よりすぎているかも知れませんけど、いろんな方がいらっしゃらないとハウス・パーティはうまく行きませんものね。あの方、別にひどくつまらない人ってこともないでしょう?」
「つまらないのは構いませんけど、黙って見ていられませんのはあの人、わたしの連れてきたメードに恋をしかけるんです」とクローヴィスの伯母がいった。
「まああきれた!」とミセス・リバセッジは息もとまるほどびっくりした、「まあ、何てことでしょう! ミスター・ブロープはそんなこと夢にもなさいませんよ」
「夢ならどんな夢をみようとわたし何とも思いませんわ。きっと女中部屋全員に次から次へとのべつ幕なし誰彼の見境いなく手を出す夢でも見てるかも知れません。しかし、ちゃんと目を覚ましている時わたしのメードに恋をしかけたりしては放っておけませんわ。議論の余地はありませんよ、わたし、それだけは断じて許しません」
「でも何かのまちがいじゃありませんの?」とミセス・リバセッジは食い下がった、「ミスター・ブロープは絶対そんな事をなさる方じゃありませんもの」
「ところがあの人、わたしの知ってるところでは、絶対そんな事をする人なんです。わたしにいわせてくださるなら絶対あの人にそんな事はさせませんよ。もちろん双方に結婚の意志があるなら別ですけど」
「|翼堂《トランセプト》のことだのビザンチンの影響だの、あんな為になる名文をいろいろお書きになる方がそんな不道徳なことをなさるなんて、わたし、とても信じられませんわ」とミセス・リバセッジはいった、「あの方がそんな事をなさるなんてどんな証拠をおもちなんです? もちろんお言葉を疑ぐるんじゃありませんけど、御本人のいい分も聞かずにあわてて文句もつけられませんしね」
「文句をつけるつけないはとにかく、本人のいい分はハッキリ聞きましたのよ。あの人の|室《へや》はわたしの化粧室と隣り合わせなんです。二度にわたって、きっとわたしがいないと思ったんでしょう、『ぼく、君を愛してるよ、フロリー』というのが壁越しに聞こえました。二階の仕切り壁が薄くて隣りの部屋の懐中時計の音まで聞こえる位なんです」
「あなたのメードさん、フローレンスってお名前なの?」
「いいえ、フロリンダです」(フローレンスもフロリンダも愛称としてはフロリーと呼ぶ)
「まあ、メードにそんな名をおつけになったの?」
「わたしがつけたんじゃありませんわ。雇い入れた時からちゃんとついてました」
「といいますのはね」とミセス・リバセッジがいった、「メードらしくない名のメードを雇い入れると、わたし、いつもジェーンと呼びますのよ。すぐそれに慣れますわ」
「名案ですわね、それは」とクローヴィスの伯母がツンとしていった、「あいにくわたしもジェーンと呼ばれるのに慣れてますのよ、わたしの名前がジェーンですから」
ミセス・リバセッジがあわてて申しわけを並べ立てるのを遮って、彼女は不意にいい放った、「問題はわたしがうちのメードをフロリンダと呼んでいいかわるいかじゃなくて、ミスター・ブロープにうちのメードをフロリーと呼ばせていいかわるいか、それなんです。わたし、断じてそれは許せませんわ」
「あの人、何か歌の文句でも繰り返してたんじゃありませんの?」と、きっとそうだという顔でミセス・リバセッジがいった、「女の子の名を使ったばかげた繰り返し文句がいろいろありますものね」と彼女はクローヴィスの顔を見た。この道の権威者と思ってるらしい。「『わたしをメアリなんて呼ばないで……』なんて」
「あなたをメアリなんて呼ぶもんですか」とクローヴィスがいった、「第一、あなたのお名前はヘンリエッタと前々から承知してますし、その上、そんななれなれしい呼び方をするほどのおつき合いでもありませんしね」
「いいえ、そんな繰り返し文句のついた歌がある、っていうんです」とミセス・リバセッジはあわてて説明した。「『ローダ、ローダの住んでる|塔《パゴーダ》』だの『メージィは|ひなぎく《デージー》』だの、そんなの山ほどありますわね。ミスター・ブロープがそんな歌をおうたいになるとも思えませんけど、善意にとるのが本当じゃないでしょうか」
「わたし、善意にとるのはもうすませました。そしたらまたまた証拠にぶつかったんですわ」
ミセス・トロイルは断乎たる決意を見せて唇を固く結んだ。どうぞその口をもう一度あけてくださいと頼まれるのは確実、というのはわるくない気持なのだ。
「ほかにも証拠があるんですか」とミセス・リバセッジは声をはずませた。「それ、どんなこと?」
「朝食のあとで階段を上がりかけますと、ミスター・ブロープが丁度わたしの|室《へや》の前を通りかかったんです。そして手にした包みからごくごく自然に紙きれが一枚、ヒラヒラとわたしの|室《へや》のドアのところへ落ちました。あぶなく『何か落ちましたよ』といいかけましたが、なぜかそれをいわずに相手が自分の|室《へや》へ入ってしまうまで、わたし、姿をかくしていましたの。気がつくといつもその時刻にわたしは|室《へや》におりませんし、いつもその頃フロリンダが|室《へや》の片づけなどしてるんです。そこでわたしは別に何でもなさそうなその紙きれを拾いました」
ミセス・トロイルはまた口をつぐんだ。アップル・シャーロットの中にマムシが一匹ひそんでいるのを見つけでもしたように、それ見なさい、といわんばかりの顔つきだ。
ミセス・リバセッジは手近いバラの枝先にパチンと鋏を入れたが、とたんにうっかり、咲きかけたバイカウンテス・フォークストーン種の蕾をひとつちょん切ってしまった。
「何が書いてありました、その紙に?」と彼女はたずねた。
「鉛筆で『ぼく、君を愛してるよ、フロリー』とあって、その下に『庭であいましょ、イチイの木かげで』とハッキリ読めました、うすく消してありましたけど」
「イチイの木なら庭の奥にたしかに一本ありますわ」とミセス・リバセッジが認めた。
「とにかく真剣らしいですな」とクローヴィスが口を出した。
「まあ、うちの屋根の下でそんなスキャンダルが起こってるなんて!」とミセス・リバセッジは憤然とした。
「屋根の下で起こると特にけしからんスキャンダルという気がするのはなぜでしょうな」とクローヴィスが感想をもらした、「ネコはたいがいスキャンダルを屋根の上で行ないますね。あれはネコ族のセンスが実にデリケートな証拠だとぼくいつも思うんです」
「考えてみますとミスター・ブロープにはよくわからないところがいろいろありますよ」とミセス・リバセッジがいい出した。「たとえばあの方の収入です。教会月報の主筆は年収たった二百ポンドですよ。それにあの方の身内にしたってごく貧乏だし、ご自分の財産もありゃしません。それなのにウェストミンスターあたりにアパートは借りてるし、毎年ブルーゼだの何だの外国へ出かけますし、着ているものはいつもパリッとしてるし、時節がくるとすごいランチ・パーティまで開きます。年収二百ポンドじゃとてもやれませんわね?」
「何かほかの新聞へも書いてるんでしょうか?」とミセス・トロイルがたずねた。
「いいえ、礼拝式と教会建築が専門ですから、書ける範囲はごく狭いんです。いつか一度、キツネ狩の名所にある教会建築のことを書いたのを『狩猟と演劇』へ送りましたが、あまり一般受けがしないと返されました。わかりませんね、書くものだけでどうしてあんな暮らしができるんだか」
「もしかしたらアメリカ人の熱心家などに紛いものの|翼堂《トランセプト》でも売りつけてるんじゃないかな」とクローヴィスがいい出した。
「|翼堂《トランセプト》を売るなんてできるもんですか」とミセス・リバセッジがいった、「そんなこと不可能ですわ」
「そりゃ暮らしのおぎないに何をしたって構いませんけど」と横からミセス・トロイルが口を出した、「暇つぶしにうちのメードに手出しなんぞは絶対させませんよ」
「そりゃもちろんです」とミセス・リバセッジが賛成した、「すぐにも止めさせなけりゃなりません。でもいったいどうしたらいいでしょう?」
「イチイの木を有刺鉄線で囲みこむんですな、防止策として」とクローヴィスがいった。
「そんなふざけた事でこのいやな問題は解決しませんよ」とミセス・リバセッジがいった、「それにちゃんとしたメードなんて貴重品ですしね」
「わたし、フロリンダがいなくなったらどうしようと思いますの」とミセス・トロイルが正直にいった、「わたしの髪のこと、フロリンダはすっかりのみこんでるんです。自分でするのはもう何年もやめてますしね。わたし、髪というのは夫みたいなものと思いますわ、人前へ出るときちゃんと形がついていれば内々ではどうなっていようと平気ですもの。あら、あれきっとランチのドラですわ」
ランチのすんだあと、喫煙室はセプティマス・ブロープとクローヴィスのふたりきりになった。セプティマス・ブロープはそわそわ何かに気を取られているらしかったが、クローヴィスは黙って相手を観察していた。
「ロリーって何だったね」とセプティマスが突然たずねた、「むろんあの荷をはこぶ自動車じゃなくてさ。あれなら知ってる。たしかロリーとかいう鳥があるんじゃなかったかな、インコ属の大きな鳥か何か?」
「それはローリーじゃないかな|r《アール》がひとつだけの」とクローヴィスがおっくうそうにいった、「だがローリーは君の役には立たないぜ」
セプティマス・ブロープはびっくりして目を丸くした。
「ぼくの役に立たないって? それどういうことだ?」と彼はたずねた。声に少なからず不安らしいひびきがある。
「フロリーとは韻が合わない」とクローヴィスがプツンと答えた。
セプティマスは椅子にかけ直した。顔にまぎれもなく驚愕の色がある。
「どうしてわかったね、ぼくがフロリーと韻の合う言葉を探してたのを?」と彼は鋭くたずねた。
「わかったんじゃない。推定したんだ」とクローヴィスがいった、「君が殺風景な|貨物自動車《ロリー》をいじり廻して緑したたる熱帯林を飛ぶ詩的な鳥の名と入れ変えようとするから、こりゃ|十四行詩《ソネット》でも練り上げてるな、と思ったのさ。それにロリーと韻の合う女の名といったらフロリーしかないからね」
セプティマスの顔はまだ不安そうだった。
「まだ何か知ってるんだろう?」と彼はいった。
クローヴィスは笑顔を見せたが何ともいわない。
「君、どこまで知ってるんだ?」セプティマスは躍起となってたずねた。
「庭のイチイの木も知ってる」
「やっぱりそうか! たしかにどこかへ落としたと思ってたよ。だがその前から何か感づいてたんだろう。ねえ君、ぼくの秘密をかぎつけても、まさかすっぱぬきはしないだろうな。別に恥ずかしい事じゃないけれど、教会月報の主筆がそんな事をしてるのが表向きになってはまずいんでね」
「うん、そりゃそうだろう」とクローヴィスも認めた。
「実はね」とセプティマスがあとを続けた、「ぼくはあの仕事でかなり|金《かね》が入るんだ。教会月報の主筆の給料じゃとても今みたいな暮らしはできない」
クローヴィスはびっくりした。この話し合いが始まった時のセプティマス以上に驚いたのだ。しかし驚いたふりを見せない腕はクローヴィスの方が上だった。
「すると君は|金《かね》もうけをしてるのか――フロリーで」と彼はたずねた。
「いや、フロリーはまだ|金《かね》にならないんだ。それどころか正直のところ、フロリーでさんざん手こずってる。でもほかにいろいろあるからな」
クローヴィスの煙草は消えた。
「なかなか面白い問題だね、これは」と彼はゆっくりいったが、セプティマスの次の言葉を聞くと、たちまち彼の頭にインスピレーションがひらめいた。
「ほかにいくらもあるのさ。たとえば――
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『|珊瑚《コーラル》のくちびる、ぼくのコーラ、
いつも仲よし、ぼくとコーラ』
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これが初期のヒットのひとつさ。それからあれだ――『エズメラルダ、はじめて君を見たときに』だの『うるわしのテリーザ、ともにいる楽しさ』だの、どっちもかなり流行した。中には少しひどい奴もある」とセプティマスは赤い顔をして続けた、「これがいちばん金になったんだがね――
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『元気なルーシー、かわいいルーシー
上向き鼻の生意気さ』
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もちろん、こんなのぼく大きらいさ。こんなものばかり書いてきたおかげでいささか女嫌いになりかけてるんだ。だが収入の面も無視できないしね。しかし、もしぼくが『|珊瑚《コーラル》のくちびる、ぼくのコーラ』や何かの作者だと世間に知れたら、教会建築と礼拝方式の権威たるぼくの立場は丸つぶれにはならないまでもひどく低下する。君、わかるだろう?」
クローヴィスは驚いたショックからもう立ち直っていた。同情したように「なぜ『フロリー』で手を焼いてるんだ?」と、少し頼りない声でたずねた。
「どう頭をしぼっても『フロリー』がうまく歌の文句にならないのさ」とセプティマスは困った返事をした、「何しろ甘ったるいセンチメンタルなほめ言葉を使って覚えやすい韻をふませなけりゃならんし、これまでのいきさつだのこれからの夢だの少しは盛りこまなけりゃならない。恋人との仲がこれまでどんなにうまく行ってきたか歌いあげるか、さもなけりゃこれから二人にどんな幸福がさずかるか、そんなことを並べなけりゃならんのだ。たとえば、それ、あの――
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『小意気なメーヴィス、かわいいメーヴィス、
彼女はとっても素敵です、
ためたお|金《かね》は残らずみんな
みんなあげるよ、わたしのメーヴィス』
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こんな文句をむかつくほどにやけたワルツに乗せて歌うんだ。ブラックプールだのどこだの、人の出さかる場所はこの数カ月、大声でどなったり鼻歌で流したり、この歌でもちきりさ」
ここまで聞くとさすがのクローヴィスも抑えきれずに大笑いに笑ってしまった。
「どうも失礼。だが昨晩読んで聞かせてくれた原始キリスト教の礼拝式とコプト教会との関係に関するあの厳粛荘重な論文を思い出すと、つい笑わずにいられなくてね」
セプティマスはウーンとうなった。
「もしこれが表沙汰になったらどうなるか、君わかるだろう?」と彼はいった、「あのみっともないセンチメンタルなたわごとの作者がぼくだとわかったら、ぼくの一生のまじめな研究に対する世間の尊敬はたちまちふっ飛んでしまう。ぼくはおそらく記念碑のことなら現代の誰にもひけを取らないつもりだし、この問題についてはいずれそのうち論文を発表する。だがどこへ行っても人にいわれるだろうな――そら、あの男がイギリス全土の海岸で黒ん坊の芸人どもが歌ってる歌の作者だよ、とね。一方じゃ何とか『フロリー』を使ってばかげた甘い文句をひねり出そうと苦労しながら、実は断然『フロリー』にうんざりしてるのも当然だろう?」
「そんならそのうんざりをそのまま歌にして、思いきり悪口を並べたらいいじゃないか。繰り返し文句が女の悪口になってる歌ができたら目先が変わって新しいからさっそくヒットするぞ。思いきりズケズケこき下ろすんだな」
「それは気がつかなかった」とセプティマスがいった、「だが、いつもしつこく女を持ち上げる習慣をやめて急に調子を変えるのは出来そうもないね」
「調子を変える必要は全然ないさ」とクローヴィスがいった、「ただこれまでの情緒を裏返しにすりゃ歌詞の文句はもとのばかげた調子でいい。歌詞の本体の方だけ君が作れば繰り返し句はぼくが引き受ける、本体よりもむしろそいつが大事なんだからね。その代り、印税は半分ぼくがもらって、その代り君の秘密の罪悪については沈黙を守る。そうすりゃ世間には君は|翼堂《トランセブト》とビザンチン派の礼拝方式の研究に一生を捧げた大家で通るさ。そりゃぼくもときたま冬の夜長の、わびしい風が煙突から吹きこみ雨が窓ガラスをたたく晩など、あいつ『|珊瑚《コーラル》のくちびる、ぼくのコーラ』の作詞家だったな、と君のことを思い出したりはするだろうが、もしぼくの沈黙に対する感謝の念から、アドリヤ海かどこか面白いところへ経費一切君もちで連れて行ってくれるというなら、ありがたくお受けするよ。どうしても一度は行きたいと思ってたんだ」
昼すぎになって伯母とミセス・リバセッジがジェームズ王朝風の庭園をゆっくり散歩しているところへクローヴィスが近づいた。
「例の件、ミスター・ブロープに話をつけましたよ」と彼は報告した。
「まあすごい! あの方、何といって?」たちまち二人の女性は声をそろえて問い返した。
「ぼくに秘密をつかまれたとわかると、先生、正直にありのままを白状しました。少し不釣合いな縁ですが、どうやら真剣だったらしいです。ぼく、フロリンダとの結婚は実際問題としてむりだ、といろいろ話しました。ミスター・ブロープは自分を理解してくれる人がほしい、というんです。そしてフロリンダならすごく理解してくれると思ってるらしいんです。しかしぼくは、君を理解する娘ならしつけがよくて心持の清純なイギリス娘が何十人とあるが、ぼくの伯母さんの髪の毛を理解しているのはフロリンダしかないんだよ、と教えてやりました。それがきいたらしいですね、こっちからちゃんと出さえすれば自分の都合だけ頑張り通す男じゃありませんから。その上、ヒナギクの咲いてるレートン・バサードの野原で楽しくすごした(きっとあそこにヒナギクも咲くでしょう)幼い頃の思い出などもち出しましたら、先生、目に見えて感動しましたよ。とにかく、フロリンダのことはハッキリ忘れることにするといいました。そして心持の切りかえにいちばんいいからしばらく外国へ旅行にでも出たら、といったらその気になってくれました。ぼくもラグーサまで一緒に行きます。もし伯母さんがですね、今度のぼくの大活躍に対する心ばかりのお礼として上等のスカーフ・ピンでもくださるんなら、品えらびはぼくに任せて頂いてありがたく頂戴しますよ。外国へ行くんならどんな格好して行ってもいい、なんて連中もいますが、ぼくはちがいますからね」
一週間するとブラックプールだのどこだの、人がよく歌をうたうところでは、次の繰り返し句がまぎれもなく流行のトップを占めた――
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『まぬけた青い目、フロリー、
ぼくはおまえにうんざりだ。
後悔するだろ、フロリー、
ぼくらが結婚したならば。
のん気なぼくだが、フロリー、
絶対かならず投げこむぞ、
石切り場の底、フロリー、
ぼくらが結婚したならば』
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グロウビー・リングトンの変貌
[#地から2字上げ]The Remoulding of Groby Lington
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――人はその交わる友によってわかる
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グロウビー・リングトンは義理の姉の家の居間でそわそわしながら時間のたつのを待っていた。中年すぎた男だけにそのそわそわもちゃんと抑えてはいる。あと十五分ばかりすればこの家にさよならをして、甥だの姪だの何人かに送られながら村の|共有地の芝生《グリーン》をぬけて駅へ出かけることになる。彼は人のいい気立てのやさしい男だった。だから理論上は死んだ兄の未亡人と子供たちをときどき訪ねて行くのが楽しみなのだが、実際上はひとりわが家と庭園に引きこもって気楽にしている方がずっとありがたい。ろくに気持の通うところもない一家の中へ飛びこんで、何ということもない退屈な思いをするよりは、本とペットのオウムを相手にしている方がいいのだ。それだのにときどきちょいと汽車に乗ってこの親類を訪ねることになるのは、自分の良心に責められてというより、兄貴ジョン大佐の良心が代ってしつこく責めてくるから、それにおとなしく服従して出かけるわけだ。死んだウィリアムの遺族を放っといちゃいかんぞ、とジョン大佐によくいわれるのである。グロウビーはいつも、そら大佐がやってくるぞという時まで、この遠くもない親類一家の存在を忘れたり知らん顔をしたりしている。そして大佐がやってくる直前にあわてて二、三マイルお詣りに出かけ、久しぶりで甥や姪たちにあったり義理の姉にお変わりありませんかと優しい言葉をかけたりして義理を果たす。ところが今回は、自分が義理ずくの訪問に出かける時刻とジョン大佐到着の時刻と、その間をせまく取りすぎた。だから兄がうちへ来るまでにはとても帰ってこられそうもない。だがとにかくこれで義理は果たした。これであと六、七カ月は自分の気持も気楽な暮らしも犠牲にして親類づき合いに出かけないですむ。グロウビーは気持が断然せいせいしかけてきた。居間の中をあっちへ行きこっちへ行き、あれを持ってみたりこれを取ってみたり、まるでトリのようにいろいろな品をひと目ずつ検分した。
そのそわそわした明るい気持がやがて突然ガラリと変わって、ムッとして何かに目をすえた態度になった。どの甥だかのスクラップ・ブックで、中にスケッチや漫画のかいたのがある。その中に自分とオウムとを意地わるくかいた器用なスケッチを見つけたのだ。自分とオウムが大まじめな様子で、すましこんで向き合っている。自分とオウムが実によく似ているところを、一所懸命腕によりをかけて強調したらしい。はじめムッとした腹が一応おさまると、グロウビーは気さくに笑い出して、うまくかけてるなと感心もした。そのうち、またいやな気持がわいてきた。ただし、自分とオウムが似ているのを絵にかいた奴が憎いのではない。もしかしたらこの絵の通り、おれはオウムに似てきたかな、とそれに嫌気がさしたのだ。長くペットを飼っているとだんだんそれに似てくるものだという。おれは年中オウムを相手にしているから、あのまじめ顔のおかしなトリに知らず知らず似てきたのかな。グロウビーは駅の方へ歩きながら、お伴の甥や姪たちがベチャクチャしゃべりながらついてくるのに、いつになく黙りこんでいた。しばらく汽車に乗っているうち、考えてみるとおれはだんだんオウムみたいな存在になりかけたな、という気持がいよいよ強くなった。結局のところ、おれの毎日の生活はうちの庭だの果樹園だの、芝生へ出した籐椅子だの書斎の暖炉のそばだの、そんなところでゆっくりぶらついたり、何かつついてみたり何かに止まったり、それだけのことではないか。近所の人に出あったときでも、「すっかり春になりましたな」とか、「どうやらひと雨やってきそうですね」とか、「久しぶりのお出かけですね、どうぞお大事に」とか、「お宅のお子さん、どんどん背が伸びてらっしゃいますね」とかそんな話ばかりだ。考えてみると、ばからしい、きまりきった、通りいっぺんの挨拶ばかりで、頭のある人間がやり取りする知的交流では断然ない。中身のからっぽなオウムの言葉そっくりだ。知り合いにあうたび、「かわいいポリちゃん。ニャーゴや。ニャゴニャゴ」なんていってるようなもんだ。グロウビーは甥のスケッチを見て気がついたオウムによく似た自分の姿を思い出して、またもや腹が立ってきた。その上、あれこれ考えているうち、あれもそうだ、これもそうだと、いろいろ面白くないことが頭に浮かんでくる。
「あのオウムの奴、どこかへやってしまおう」と彼はプリプリして口に出したが、そのくせそんな事とてもできやしない、と承知していた。永年大事に飼ってきたオウムを突然どこかへやろうとしたら、ひどく世間体がわるいだろう。
「兄さんはもうお着きか?」と彼はコウマに引かせた馬車で迎えに来ていたまだ子供の馬丁にたずねた。
「はい、二時十五分の汽車でおいでになりました。オウムが死にましたよ」
死にましたよ、のところは嬉しそうな口ぶりである。とんだことが起こったとき、馬丁なんぞはよくこの口調で報告するものだ。
「オウムが死んだ? どうして死んだんだ?」
「エテコーなんです」と、ぶっきら棒な返事だ。
「エテコー? エテコーって何だ?」
「ジョン大佐がエテコーをもってきたんです」と、ますます意外な返事である。
「すると兄さんが病気なのか? 伝染病か何かなのか?」
「大佐はお元気ですよ」と子供はいった。それきり何ともいいそうもない。グロウビーはキツネにつままれたような気持をじっと抑えてわが家に帰った。玄関のドアのところに兄が待っている。
「オウムのこと、聞いたかね?」と大佐はすぐいい出した、「何とも申しわけない。実はびっくりするものを何かあげようと思ってサルをもってきた。ところがそのサルをひと目見ると、オウムがね、『コノバカ!』と大声を立てたんだ。サルの奴め、パッと飛びつくと首をつかんでガラガラみたいに振りまわした。やっとのことでサルの手からもぎ取ったが、もうぐったり死んでいた。いつもおとなしいサルなんだがね、あんなに怒り出すとは夢にも思わなかった。いや、実にすまんことをした。申しわけない。こんなことになってはあのサル、もう見るのもいやだろうね?」
「そんなこと、ありゃしません」とグロウビーは本当のことをいった。二、三時間前だったらオウムが殺されでもしたら大災難だったわけだが、今となってはむしろ運命の神のご親切とさえ思える。
「このオウムもそろそろ老いぼれかけてましたからね」とグロウビーは言葉をついだ。ペットに死なれて当然抱くべき悲しみをまったく感じていない説明である。「老いぼれ果てて死ぬまで生かしておくのが本当の飼い方かどうか、そろそろ気にしていたところなんです。やあ、かわいいサルだな!」と彼は下手人に紹介されると声をかけた。
新来のペットは西半球産の小型の尾長ザルで、おとなしい上にはにかんだような、たより切ったようなところがある。グロウビーはたちまち、これなら飼っても大丈夫だと思った。だがサルの性質の研究家なら、時たま目にちらつく赤い光に底にひそめた烈しい気性のきざしを認めたかも知れない。使用人一同は死んだオウムをごく手のかからないここのうちのレギュラー・メンバーと認めていたから、この残虐なあばれ者が大事なペットの座を占めることになったのに憤慨した。
「うす汚い野蛮なサルめ、利口なこともおかしなことも何ひとつしゃべれやしねえ、ポリちゃんみたいに」と、台所のあたりではきわめて評判がわるかった。
ジョン大佐が訪ねてきてオウムが悲惨な最後をとげてから十二カ月あとの、ある日曜日の午前、ミス・ウェプリーは村の教会堂のいつもの席に端然とかけていた。グロウビー・リングトンがかけている席のすぐ前である。ミス・ウェプリーはこのへんでは割に新顔の方だから、すぐうしろの席にいるグロウビーとはまだ知り合いでないが、この二年ばかり、いつも日曜の朝の礼拝式にはたがいに存在を意識するところにいた。だからミス・ウェプリーは別に注意をむけるまでもなく、|答祷《リスボンス》のときグロウビーがおかしな発音をする言葉がいくつもあるのに気づいていたろうし、グロウビーの方でも、これも些細なことだがミス・ウェプリーがかけている席のそばに祈祷書とハンケチのほか、いつも小さな紙袋入りのせき止めドロップがおいてあるのをよく知っていた。ドロップを使うことはめったにないが、万一せきが出たときの用心にちゃんと用意しているのだ。この日曜日の朝、このせき止めドロップが原因でミス・ウェプリーのお祈りはいつになく調子を乱された。せきが続いてどうにもとまらないよりずっとひどく面くらったのだ。最初の讃美歌をうたおうと立ち上がるとき、すぐうしろの席にひとり陣取っている男の手がソッと伸びてそばへ置いたドロップの袋をつかもうとする気がした。パッとふり向くとドロップの袋はちゃんとなくなっているが、ミスター・リングトンはどう見ても讃美歌の本に平然と没頭している形だ。盗難をこうむったミス・ウェプリーが不審の目をいくらギラつかせても、相手の顔には犯罪を意識した様子がまったく現われない。
「そのあとがまた大変なんですよ」と彼女はいった。あとで友達や知り合いにこの一件を話して一同あきれ返ったときのことだ。「わたしがひざまずいてお祈りしようとしたとたん、ドロップがひとつ――それもわたしのドロップなんですよ――わたしのすぐ目の前の席へピューッと飛んできましたの。わたし、ふり向いてにらみつけましたわ。ところがミスター・リングトンはじっと目をつぶったまま、お祈りしているようにくちびるを動かしているんです。わたしがまたお祈りにかかりますと、またもやコトンとドロップが飛んできて、そのあとまたひとつ飛んできました。わたし、しばらく気がつかないふりをしてから不意にふり向きますと、あの人、ちょうどもひとつ飛ばしかけたところです。向こうはあわてて讃美歌の本のページを繰るふりをしましたが、今度はごまかしがききません。見つかったな、とわかったんでしょう、それきりドロップは飛んできませんでしたわ。わたし、もちろんほかの席へ移りました」
「ちゃんとした人ならそんなみっともないこと、とてもできませんわ」と話を聞いていたひとりがいった、「でもミスター・リングトンは誰からも尊敬されてる人ですわ。それがいたずら小僧みたいなことをしたらしいのね」
「まるでサルみたい」とミス・ウェプリーはいった。
それと前後して、まるでサルみたいというミス・ウェプリーの所見が別の方面でも広まっていた。もともとグロウビー・リングトンは身のまわりの世話をする召使どもには別にえらい人とも見えなかったが、今は亡きあのオウムと同じく、手はかからないし明るくて気立てがいい、と評判がよかった。ところが最近の数カ月、使用人一同もはやそんな評判どころではない。みなブツブツいっている。そのうち、オウムが殺された一件を真っ先に主人へ知らせたあのうすのろの子供が、あれじゃ困るとハッキリいい出し、たちまちそれが使用人一同に燃えひろがった。しかもその子供は確かな根拠があって困るというのだ。果樹園の中にあまり広くもない池がある。急に暑くなった夏のこと、その子供は池へ入ってもいいと許しをもらっていたのだが、ある日の午後、グロウビーがその池の方へぶらりとやってきた。大きな声で怒ったりどなったりするのに交ってベチャクチャかん高いサルの声がする――それに引かれてやってきたのだ。見るとポッチャリ太ったその子供がパンツひとつに靴下だけという格好で、リンゴの木の下枝にいるサルを相手にどなっている。いっこうに利き目がない。サルは脱いであった子供の着物をかっぱらって手の届かない枝へ陣取り、うわの空でいじりまわしている。
「エテコーに着るもの取られましたあ」と子供が泣き声でいった。わかり切ったことでも詳しく説明するのがこんな連中は好きなものだ。パンツひとつで少しまがわるいが、グロウビーが来てくれたので子供はホッとした。かっぱらわれたものを取り戻すのに精神的にも物質的にも助けてくれるものと思ったからだ。サルの方は喧嘩腰のベチャクチャをもうやめていた。飼主が少しなだめでもしたら品物はすぐにも返しそうな様子である。
「わたしが抱き上げてやろう、そうすれば手がとどくから」とグロウビーがいった。
子供もその気になった。そこでグロウビーは子供のパンツに両手をかけた。手をかけようにもほかに手がかりがないのだ。そして子供を高くもち上げると器用にはずみをつけて、高く茂ったイラクサの藪の中へ子供をドサリとほうりこんだ。イラクサの藪に深々と抱きこまれたわけである。感情を外にあらわすな、と教える学校で仕つけられた子供ではない。キツネに急所を咬まれそうになったら平然として無関心をよそおうより、手近な狩猟委員会へかけつけて文句をつけるタイプだった。だからこの場合、痛さと怒りと驚きとに刺激されて彼が発した声の音量はゆたかに長く継続した。それにもかかわらず、わめき叫ぶ自分の声より高く、木にいるサルの勝ち誇ったベチャクチャとグロウビーのカンラカンラとひびく笑い声がハッキリ聞こえた。
子供はイラクサの茂みで即席舞踏病みたいな|半回転《カラコル》を演じた。コリシューム座の舞台にのせたら評判になりそうな上出来で、遥か向こうを帰って行くグロウビー・リングトンまでさっそく感心して喝采したほどである。サルはいつのまにか用心ぶかく姿を消し、子供の着物は木の根元にちらばっていた。
「畜生、奴めら、どっちもエテコーだ、まったくのエテコーだ」と子供はプリプリしながらつぶやいた。手きびしい批判かも知れないが、とにかくかなり憤慨していたにちがいない。
それから一、二週間すると部屋づきのメードが暇をもらうといい出した。カツレツの出来がわるいと主人からこっぴどくどなりつけられて、涙をこぼすほどふるえ上がったのだ。「今にも咬みつきそうにガリガリ歯がみするんだよ、あたしに」というので、台所中みな同情をよせた。
「あたしにそんなことしやがったら承知しやしないから」とコックもいきまいたが、そのとき以来、コックの料理はいちじるしく向上した。
グロウビー・リングトンが毎日のきまった暮らしを一時取りやめて、よそのうちのハウス・パーティに呼ばれて行くのは珍らしかったが、あるときミセス・グレンダフのハウス・パーティへ招待されて出かけると、|母《おも》|屋《や》から突き出したジョージ王朝風の|袖《ウイング》にある寝室をあてがわれて少なからず腹を立てた。おまけに隣りの|室《へや》は名の知れたピアニスト、レオナード・スパビンクだ。
「あの方、まるで|天使《エンゼル》みたいにリストをお弾きなさいますのよ」と、ミセス・グレンダフが心から太鼓判をおした人物である。
「ニジマスみたいに弾こうと知ったことじゃないが、あいつ、きっといびきをかくぞ」とグロウビーは心に思った、「たしかにいびきをかきそうな格好してやがる。べらぼうに薄いこの仕切り壁ごしにいびきがしたらひと騒ぎ起こるぞ」
果していびきがして、果してひと騒ぎ起こった。
グロウビーはおよそ二分十五秒ばかりいびきを辛抱したが、やがて廊下へ出るとスパビンクの寝ている|室《へや》へ入って行った。手荒くゆり起こすとデップリ太ったピアニストはどぎまぎして半分目をさまし、ベッドに起き上がった。まるでアイスクリームが頭を下げたような格好である。グロウビーがなんべんもゆすぶりをかけてよく目を覚まさせると、大家気取りのピアニストはカッと怒って頭ごなしに攻めつける相手の手をピシャリとなぐった。つぎの瞬間、スパビンクは頭からスッポリ枕かけをかぶされ、あぶなく息もとまるほど口を抑えられた。同時に彼はポッチャリした手足ごとパジャマのままベッドから放り出され、なぐられつねられ、蹴とばされぶつけられ、フリースタイルのレスリングよろしくジタバタ床をのたくるうち、平べったくて底のあさい浴槽へ近づいた。水の深さはまったく不十分だが、グロウビーは必死に頑張って相手を水につけようとした。しばらく室内はほとんど真っ暗だった。グロウビーがもっていたろうそくは組み打ちが始まるとすぐ取り落されて、ちらつく光も現場まではとどかない。水のはねる音、ピシャリとたたく音、口を抑えられてわめく声、モゾモゾどなる声、サルが怒ってしゃべるような声――それらが浴槽付近における闘争を物語るだけだった。やがてこの一方的な組み打ちにあかあかと照明がさした。カーテンが燃え上がってたちまち壁の板張りに火がついたのだ。
ハウス・パーティに泊まりこんでいた一同はたたき起こされ、あわてて庭の芝生へかけ出した。ジョージ王朝風の建物の|袖《ウィング》にたっぷり火がまわって煙がモクモク上がっている。やがてグロウビーが半分おぼれかけたピアニストを両腕に抱いて現われた。溺死させるには芝生のいちばん低いところにある池の方が便利だと気がついたらしい。冷たい夜風に彼の怒りは静まった。まあえらい、あなたがレオナード・スパビンクを救い出してくだすったんですね、まあよくあわてずに頭へ濡れたきれをかぶせて煙に窒息するのを防いでくだすったこと、と口ぐちに賞めそやされると、彼は黙ってその形勢をうけ入れた。そしてその時の状況を目に見えるように説明した。ろうそくを倒したままピアニストが寝こんでるところへ飛びこんだら、すでに火の手が大きく上がっていた、というわけである。四、五日してからスパビンクも、真夜中にぶんなぐられ水びたしにされたショックからいくらか立ち直ると、あれはこうなんですと自分の立場から話もした。しかし聞いた相手は、まあお気の毒に、というように黙ってほほえんだり、どっちつかずの受け答えをしたり、とかく世論というものは勝手に左右できないぞ、と彼は思い知らされた。しかし、王立人道協会がグロウビー・リングトンに人命救助賞を贈る式典にはキッパリ出席を断った。
その頃である。グロウビーがペットにしていたサルが病気で死んだ。サルを北国へつれてくると不慣れな気候でよく病気になる。それで死んだのである。グロウビーはサルに死なれてすっかり参ったらしく、あれほど元気だった近頃の状態にはとても戻れなかった。ついこのごろジョン大佐が訪ねてきたときもらったカメを相手に、芝生や菜園のあたりをトボトボ歩きまわっていたが、あの颯爽たる昔日のおもかげはまったくない。甥たちも姪たちも「グロウビーおじいちゃん」と呼んでいるが、まず当っているようだ。
メス・オオカミ
[#地から2字上げ]The She-wolf
この現実の世界には魅力を感ぜず興味ももてず、その埋め合わせとして自分が経験した、または空想した、もしくは発明した「霊の世界」に魅力と興味を発見する人があるものだ。レオナード・ビルスィターはそのひとりだった。子供はそんなことを立派にやってのけるものだが、それを自分が信じこむだけで満足する。ほかの人にまで信じこませようとして、自分の信念の品を落とすようなことはしない。ところがレオナード・ビルスィターは自分の信念を「ほんの二、三の人」にだけ話す。つまり聞こうとする者なら誰にも話すのだ。
彼の霊界道楽ももとは友達相手にあり来たりの平凡な文句を並べる神秘主義者の程度だった。ところが偶然なことから彼は神秘学の知識が急に進歩した。ウラル地方の鉱山業に関係している友人と東ヨーロッパ各地を旅行したのである。ちょうどロシヤの鉄道大ストライキが兆候から現実に変わりかけた頃で、彼は帰りがけにどこかピエルムの向こうでストライキにぶつかった。動きが取れなくて田舎の小さな駅で二、三日待つうち、馬具や金物を扱う商人と知り合いになった。この商人が待つ間の退屈しのぎに、バイカル湖の先の住民や交易商人から聞いた民間伝承を断片的にレオナードに話して聞かせたのである。レオナードは国へ帰るとロシヤで鉄道ストを経験した話はさかんにしゃべったが、音に聞こえたシベリヤの魔術なるものはその名を口にするだけ、その不可思議なる神秘については固く口をつぐんで話さない。ところが一、二週間するうち、誰もまったく興味を見せないものだからその堅い口がだんだんほどけて、シベリヤの魔術のことをやや詳しくほのめかしだした。彼自身の言葉によると、この新しい神秘の魔法はその秘儀を許された少数の者に驚くべき力を授ける、という。彼の伯母セスィリア・フープスは、事実よりもセンセーションを愛するタイプだから、レオナードはわたしの目の前でキャベツをヤマバトに変えましたのよ、と詳しくしゃべったものだ。レオナードとしては望んでもない大宣伝になったわけである。ただし、何しろミセス・フープスは空想力の強い人だからねと、この超能力発揮の一件を割り引きして受け取る向きもあった。
彼が果たして超能力者であるかそれともペテン師であるか、意見はまちまちだったが、レオナードがメアリ・ハムトンのハウス・パーティに現われたとき、彼は超能力者にしろペテン師にしろ、とにかく名声赫々たる人物だったことは確実である。当人もその名声をわざわざ避ける気持はない。だからレオナードか彼の伯母かがいるところでは、神秘の魔術とか超能力とか、そんなことが自然と話の中心になった。彼はこれまでやってのけたことやらこれからやれそうなことやら、いわくあり気にほのめかしたり暗々のうちに認めたりしたわけである。
「ミスター・ビルスィター、わたしをオオカミに変えてくださらない!」と、レオナードがやってきた翌日のランチのとき、当家の奥方メアリ・ハムトンがいった。
「これ、メアリ」と夫のハムトン大佐がいった、「おまえがそんなこと望んでるとは知らなかったよ」
「むろん、メスのオオカミですわ」とミセス・ハムトンがいった、「だしぬけに|種《しゅ》とセックスと両方一度に変えられたら面くらいますもの」
「そんな冗談をいうもんじゃありませんぞ」とレオナードがいった。
「冗談じゃありませんのよ。まじめな話ですわ、ほんとに。でも今日はだめ。今日はブリッジをする人が八人きりでしょう、一組成り立たなくなりますわ。明日は人数がふえますから、明日の晩、夕食のあとでも……」
「現在のところ、この神秘な魔力に関するわれわれの知識はまだまだ不完全なのです。ですからこんな問題は冷やかしたりせず謙虚に扱うべきですね」とレオナードはいった。手きびしい口調なので、その話はそれで打ち切りになった。
シベリヤの魔術が話に出てるうち、クローヴィス・サングレールはいつになく黙りこんでいたが、晩餐がすむと彼はパブハム卿をあまり人のいない玉突き室へ連れこんでさぐりを入れた。
「お宅の野獣のコレクションの中にメス・オオカミなどはいませんか? 適度に気立てのいいメス・オオカミが?」
パブハム卿はちょいと考えてからいった、「ルイザがいますな。北米産ハイイロ・オオカミとしてはかなり優秀な奴です。二年前に北極ギツネと交換に手に入れました。たいがいの動物はわたしのところへ来るとすぐによく馴れます。ルイザなら天使のように気立てがいいといえるでしょう、メス・オオカミとしてはね。どうしてそんなこと聞くんです?」
「それを明晩わたしに貸して頂けませんか」とクローヴィスはいった。まるでカラー・ボタンかテニスのラケットでも借りるような無造作な頼み方である。
「明晩ですか?」
「そうです。オオカミは夜行動物ですから夜おそくても平気でしょう」とクローヴィスはいった。万事考慮ずみという口調だ。「日が暮れてから下男にでもここへ連れてこさせてください。少し手伝ってやればコッソリ温室の中へ入れてやれますよ、メアリ・ハムトンが目につかないように姿を消すと同時にですね」
パブハム卿は当然面くらってクローヴィスの顔をじっと見つめたが、やがてその顔は急に一面皺だらけの笑顔に変わった。
「ははあ、それがやりたいんですな。独自にシベリヤの魔術をやらかすつもりでしょう。ミセス・ハムトンも陰謀の仲間を買って出る気なんですね?」
「メアリは最後まで協力する約束です、ルイザの気立てだけ保証してくだされば」
「それは責任をもちます」とパブハム卿はいった。
次の日になるとハウス・パーティは人数がふえた。聴衆の頭数がふえた刺激でビルスィターの宣伝本能も当然ふくれ上がった。その日の晩餐の席上、彼は目に見えぬ力とかまだテストされぬ力とか、そんな問題を長々と弁じ立て、コーヒーが出てからまでその荘厳な雄弁をつづけた。やがて、そろそろ全員カルタ室へ移動する頃になった。伯母が応援したせいもあって一同彼の雄弁を謹聴したが、伯母はセンセーションが大好きだから、話だけでなく、もっと劇的な実物宣伝を見せてもらいたい。
「ねえ、レオナード、おまえの超能力を皆さまに信じて頂くように、何かやって見せてくれない?」と伯母はせがんだ、「何かを別のものに変えてごらん。皆さま、レオナードはそんな事ができるんですよ、その気になりさえすれば」
「やって見せてよ、ぜひとも」とメーヴィス・ペリントンが本気で頼んだ。その場にいる者ほとんど一同、その頼みを繰り返した。信じやすくないタイプの連中も、なぐさみに素人手品を見せてもらうのは大賛成だった。
何か具体的なことをやらなければならないな、とレオナードは思った。
「どなたか三ペニーの銅貨か何か、小さいものでこれという値打のない品をおもちの方はありませんか?」と彼はたずねた。
「銅貨を消してなくするだの何だの、そんな原始的なことをやるんじゃないでしょうな、まさか?」とクローヴィスが軽蔑していった。
「わたしをオオカミに変えてってお願いしたのに、やってくださらなくちゃひどいわ」とメアリ・ハムトンがいった。インコにいつもの餌をやろうと、デザートの皿をもって温室の方へ行きながらいったのである。
「この神秘な魔力を冗談あつかいすると危険だ、と申し上げてありますぞ」とレオナードがおごそかにいった。
「あなたにそんなことできやしませんよ」と温室の中からメアリがけしかけるように笑った、「できるんなら、さあ、やって見せて。わたしをオオカミに変えるなんて、絶対できやしませんわ」
そういったとたん、メアリの姿はアゼリヤの茂みに見えなくなった。
「ミセス・ハムトン――」とレオナードはまた一段とおごそかな声を出しかけたが、その言葉は尻切れトンボになった。一陣の冷たい風がサッと吹きぬけたかと思うと、インコどもがけたたましい悲鳴を立てたのだ。
「どうしたんだ、メアリ、あのインコども?」とハムトン大佐が大声を出した。同時にメーヴィス・ペリントンが一段と高く耳をつんざく悲鳴を立てたので、一同思わず椅子を立ってかけだした。シダとアゼリヤの道具立ての中から凄い灰色の野獣がこっちをのぞいている。一同それに直面して恐ろしさに手も足も出ず、本能的に身を守ろうと思い思いの姿勢を取った。
一同ビックリ仰天して取り乱した中で、一ばん早く立ち直ったのはミセス・フープスだった。
「レオナード!」と彼女はかん高い声で甥にいった、「オオカミをすぐミセス・ハムトンに戻しなさい。いまにも飛びついてくるよ。早くもとに戻して!」
「ぼく――ぼく、戻し方を知らないんです」とレオナードがモゾモゾいった。誰よりも慄え上がって脅え切っているらしい。
「何だって!」とハムトン大佐がどなりつけた、「きさま、うちの家内をオオカミに変えるなんてとんでもない事をしやがって、今さら落着きはらって戻せないなんてぬかすのか!」
しかし、公平なところ、その瞬間のレオナードの態度に落着きはらったところはあまり見られなかった。
「絶対本当です。ぼくがミセス・ハムトンをオオカミに変えたんじゃありません。そんなこと、まったく思いもしませんでした」
「そんならメアリはどこにいるんだ? どうしてあのオオカミが温室へ入ってきたんだ?」と大佐は詰めよった。
「あなたがミセス・ハムトンをオオカミに変えたんじゃない、といわれるからには、もちろんそれを信用しなけりゃなりませんな」とクローヴィスは丁寧にでた、「でもどう見ても形勢はあなたに不利と見えますがね」
「そんなこといい合ってる場合じゃありませんよ、あのオオカミが今にもみな八ツ裂きにしようとしてるんですもの」とメーヴィスがいきり立って泣き声をした。
「パブハム卿、あなたは野獣の扱いによくなれてらっしゃるが――」とハムトン大佐がいい出した。
「わたしが扱いなれている動物は有名な動物商からちゃんと保証書付きできたものか、さもなければわたしの動物園で育てたものばかりです」とパブハム卿はいった、「アゼリヤの茂みから呑気にノコノコ出かけてきて、魅力的な評判のいい奥方の行方など知らん顔してる奴にお目にかかるのは初めてですぞ。外面的特徴から判断すると北米産ハイイロ・オオカミの成熟したメスらしいですな。普通のカニス・ループスの変種です」
「ラテン語の名前なんぞどうでも構いませんわ」とメーヴィスが金切り声をした。オオカミがひと足ふた足近づいてきたのだ。「食べ物で誘ってどこか大丈夫な場所へ閉じこめませんの?」
「これが実はミセス・ハムトンだとすると、つい今しがたご馳走をたっぷり食べたばかりですから、食べ物を見せてもあまり効果はないでしょうね」とクローヴィスはいった。
「ねえ、レオナード」とミセス・フープスが涙ながらに歎願した、「これがおまえのした事でなくても、おまえ、このオオカミがみんなに咬みつかないうち、超能力を使って何か無害な動物に変えられない――ウサギか何かに?」
「ハムトン大佐が反対なさるんじゃありませんか、みんなして順に廻して遊ぶみたいに、奥方をつぎつぎとしゃれた動物に変えられるのは?」
「そんなことは断然禁止する!」と大佐が雷を落とした。
「わたしが手がけたオオカミはたいがい砂糖が大好きでした」とパブハム卿がいった、「よかったらひとつ試してみましょう」
彼は自分のコーヒー・カップの受け皿から砂糖をひとつ取ると、待ち受け顔のルイザの方へ投げてやった。するとルイザはそれを宙でパクリと呑みこんだ。一同、ホッと安堵の嘆息を洩らした。少なくともインコどもを咬みちらす位はできるのに砂糖に手を出す――それだけで恐ろしさがいくらか薄れたのだ。パブハム卿がまた砂糖を見せびらかしてオオカミをうまく外へおびき出すに及んで、一同の嘆息は感謝のあえぎに変わった。そしてすぐさまオオカミの出て行った温室へかけこんだが、ミセス・ハムトンは影も形もない。インコの夕食の皿があるばかりである。
「ドアは中から錠が下りてますな」とクローヴィスが叫んだ。ためすふりをしてちゃんと鍵をまわしてからいったのだ。
一同みなビルスィターの顔を見た。
「あなたが家内をオオカミに変えたんじゃないといわれるなら」とハムトン大佐がいった。「家内はどこへ行ってしまったのか、どうかひとつご説明を願います、錠の下りているドアを通りぬけるはずのないことは明白ですからな。北米産ハイイロ・オオカミがどうして突然温室へ現われたか、そのご説明は無理にお願いしませんが、うちの家内がどうしたのか、それを調査する権利は私にあると思うのです」
ビルスィターはなんべんも繰り返してわたしは何もしやしませんと否定したが、一同そんなことはないといら立ってブツブツいうだけだ。
「ここのうちには、わたし、もう一時間といられやしないわ」とメーヴィス・ペリントンが宣言した。
「もし奥さまが本当に人間でなくなったとすれば、ご婦人がたは誰だっていられやしませんわよ。オオカミのお世話になるなんて絶対おことわりです、わたしは」とミセス・フープスがいった。
「でもメスのオオカミなんですよ」とクローヴィスが慰め顔でいった。
この非常の事態においてどうするのが正しいエティケットであるか、それきり解明されなかった。メアリ・ハムトンが突然姿を現わしたので、その問題はたちまち当面の問題でなくなったのだ。
「誰かわたしに催眠術をかけたのね」とミセス・ハムトンは不機嫌な声を立てた、「気がついたら、あきれるじゃない、鳥の餌置き場でパブハム卿からお砂糖をもらってたんです。わたし、催眠術をかけられるの大嫌い、それに絶対お砂糖は取るなと医者にとめられてますのよ」
そこで、実はこうなんです、とミセス・ハムトンに事情が説明された。果たして説明になるかどうかわからないが、とにかく説明らしい話をしたのである。
「まあ、ミスター・ビルスィター、そんならあなたがわたしをオオカミに変えたんですね」と彼女は興奮して大声を立てた。
しかしレオナードは既にみずから退路を絶っていた。さもなければ、この機会をつかんで驚異の魔術師になりおおせたところである。彼は力なく首を横にふるだけだった。
「こんな失礼を働いたのは実はぼくなんですよ」とクローヴィスはいった、「何しろぼく、シベリヤの東北部に二、三年行ってたでしょう、あのへんの魔術のことなら、ただ旅行してきただけの人よりよく知ってます。おかしな魔術の話などしたくはありませんがね、ときたま、あまりおかしな話を聞かされると、シベリヤの魔術をちゃんと心得てるとどんな事がやれるものか、実演して見せたくなるんです。つまり、ぼくはその誘惑に負けたわけですな。どれ、ブランデーでも頂きましょうか、大骨折ったんですっかりくたびれちまった」
そのとき、もしビルスィターがクローヴィスをゴキブリに変えて踏みつぶすことができたら、彼はよろこんでその作業をふたつともやってのけたことだろう。
ローラ
[#地から2字上げ]Laura
「あんた、まさか本当に死ぬんじゃないわね?」とアマンダがいった。
「火曜日まで生きているお許しが出たのよ、お医者から」とローラはいった。
「でも今日はもう土曜日よ。大変だわ」とアマンダはあきれて口がふさがらなかった。
「大変かどうかは知らないけど土曜日なことは確かね」とローラがいった。
「死ぬって何曜日だって大変なことだわ」とアマンダがいった。
「わたし、死ぬなんていったこと一度もなくてよ。きっとローラでなくなって何かほかのものになるだけと思うの。たぶん何か動物よ。生きているときあまり善人でないと死んでから何かもっと下等な動物に生まれ変わる、っていうじゃない? 考えてみると、わたし、あまり善人じゃなかったわ。下劣なことをしたり意地悪をしたり執念ぶかく仕返ししたり、そんなこといろいろしたわね、言いわけの立つ事情があればいつでも」
「そんなことに言いわけになる事情なんてありゃしないわ」とすぐさまアマンダがいった。
「こういったら悪いか知れないけど、エグバートはそんな事いくらやってもいい事情のひとつだわ」とローラがいった、「あんたはあの人の奥さんだから、その点、ちがうわね。結婚式のとき、あの人を愛し敬い耐え忍ぶ、と誓ってるもの。わたし、そんなこと誓っていないわ」
「いったいエグバートのどこが悪いの?」とアマンダは言い返した。
「さあ、悪いのはわたしの方だったかもね」とローラは静かにいった、「エグバートにしたら無理もないのかも知れないわ。たとえば先だってわたしがコリーの子を農場から出してかけさせたら、くだらない愚痴を並べ立てて文句をつけてよ」
「そりゃ|斑《ふ》入りのサセックス種の雛鳥を追っかけたり、メンドリが二羽、卵を抱いてるのを巣から追い出したり、おまけに花壇をかけまわったりしたからよ。何しろあの人、ニワトリと花壇にあの通り熱を上げてるでしょう?」
「それにしても一晩中それをいい立てることはないわ。それに、わたしがそろそろやり合うのが面白くなりかけると、『その話、もうよしましょう』だってさ。だからわたし、いつもの通りけちな仕返しをしてやったのよ」とローラは悪びれもせずニッコリ付けたした、「その翌日、|斑《ふ》入りのサセックス種のニワトリ全部、苗床小屋へ放してやったわ」
「よくまあそんな事できたわね!」
「何でもないのよ。メンドリが二羽、卵を生みかけた顔をしてたけど、わたし、一歩も引かずに追い出してやったわ」
「どうかしたものとばかり思ってたわ」
「だからね」とローラはつづけた、「今度わたしが生まれ変わったら何か下等な動物になると思うのは、確かな根拠があるわけよ。きっとわたし、何か動物になるわ。それにわたしだってわたしなりに一応の美人だしするから、きっと何か可愛い動物になると思うの、何かエレガントで元気がよくてふざけるのが好きな。もしかしたらカワウソかもね」
「あんたがカワウソになるなんて想像もできないわ」とアマンダがいった。
「そんなこといったら、わたしがエンゼルになるとも想像できないでしょう?」
アマンダは何とも答えなかった。想像できないからだ。
「わたしとしてはカワウソの生活って、きっと楽しいだろうと思うのよ。サケは年中いつでも食べられるし、マスだって巣の中にいるのをヒョイと取ってこられるわ。マスの目の前へカバリを下げてマスが跳びつきあそばすまで何時間も待ってなくてすむのよ。それにスタイルもスラリとして品がいいし――」
「カワウソ狩専門の猟犬が来たらどうするの?」とアマンダが口を出した、「狩り出されて咬みつかれて最後になぶり殺しになるなんて、それこそ恐ろしいわ!」
「それだって近所の人が半分は見物に来たりして楽しいじゃない? それに、この土曜日から火曜日までじりじりと少しずつ死んでいくなんてのより、何といってもましだわね。その上、カワウソになったあと、また何か別なものになるでしょう? まずまずの程度でもとにかく善いカワウソで暮らしたら、きっとまたどんな人種か人間にもどれるわよ。たぶん原始的なタイプらしいわ――まる裸で茶色のヌビヤ人の男の子か何か」
「まじめに話してくださいよ」とアマンダは嘆息をした、「火曜日までしか生きてられないんなら、まじめにするのが当然だわ」
ところが結局、ローラは月曜日に死んだ。
「ほんとに困りましたわ」とアマンダは義理の伯父になるラルワース・クゥエイン卿に愚痴をこぼした、「ゴルフと釣りにお出かけくださいって大勢お客を招待してありますのよ。それにシャクナゲの花もいま盛りですし」
「ローラはいつも無鉄砲な女だったからな」とラルワース卿がいった、「第一、ローラが生まれたのもグッドウッド競馬のある週でね、赤ん坊の大嫌いな何とかいう大使が泊まってる時だった」
「あの人、とても気ちがいじみたこと考えてましてね。もしや精神病の系図でも引いてるんじゃないかしら」
「精神病? いや、聞いたことないな。父親は西ケンジントンなんて変わったところに住んではいるが、それ以外はまったく正気だと思うね」
「ローラったら生まれ変わってカワウソになると思ってましたの」
「死後の再生を信ずる人はちょいちょいあるものだ、この西洋でもね。だからそれだけで精神異常とはきめられないな。それにローラはこの世でも変わり者だったから、来世でどんなことになるか決定的なことはいえないな」
「ローラは本当に何か動物に生まれ変わったんでしょうか?」とアマンダはたずねた。周囲の人の意見をすぐ自分の考えにする――アマンダはそうしたタイプのひとりだった。
ちょうどその時、エグバートが朝食に入ってきた。ひどく悲しそうに沈みこんでいる。ローラに死なれただけが理由とはとても思えないほどだ。
「|斑《ふ》入りのサセックス種を四羽殺されたよ」とエグバートは大声でいった、「四羽とも金曜日の品評会に出すつもりの奴さ。一羽は引きずり出されて今度植えつけたカーネーションの花壇の真ん中で食われてる。手間も|金《かね》もさんざんかけて苦労したあの花壇さ。よりによっていちばん大事な花壇といちばんいいニワトリをやりやがった。畜生め、わずかの時間に出来るだけ荒しまわる秘伝でも心得てるみたいだ」
「それ、キツネだと思う?」とアマンダがたずねた。
「イタチらしいな」とラルワース卿がいった。
「いや、ちがう」とエグバートがいった、「そこら一面、水かきのある足跡だらけでね、それをたどって行ったら庭の低い方の小川まで続いてる。たしかにカワウソだね」
アマンダはチラリとひと目、ラルワース卿の顔をぬすみ見した。
エグバートは興奮しきって朝食も食べずに出て行った。養鶏場の防護柵補強工事を監督するためである。
「ローラもせめてお葬式のすむまで待ってくれてもよかったと思うわ」とアマンダは腹にすえかねた声でいった。
「第一、自分の葬式だしね」とラルワース卿がいった、「自分の遺骸をどの程度尊重するべきか、それがエティケットだ。慎重に考えるべき問題だな」
その翌日、葬式のときの仕来りはまたいちだんと無視された。葬式へ出て家中不在のるすに、生き残った|斑《ふ》入りのサセックス種が皆殺しになったのである。犯人は帰りがけに芝生の中の花壇をあらかた全部通りぬけたらしく、低い方にあるイチゴ園までふみにじられていた。
「すぐにでもカワウソ狩の猟犬をたのもう」とエグバートはカンカンに怒った。
「絶対だめよ! そんなこと出来やしませんわ!」とアマンダが大声を出した、「お葬式がすんだばかりですもの、そんな世間体のわるいこと、出来やしないわ」
「止むを得ないさ。カワウソって奴はいったんこんなこと始めたら続けてやるからな」
「もうニワトリが一羽もいないんだし、どこかよそへ行くんじゃない?」とアマンダがいい出した。
「まるでカワウソの肩をもつようなことをいうね」
「でも近ごろはあの川にあまり水がないでしょう? ろくに逃げ道がないのに狩り立てるなんてスポーツ精神に反するわ」
「ばかをいえ!」とエグバートはむきになった、「スポーツなんぞ考えてるもんか。一刻も早くあのカワウソをやっつけたいんだ」
アマンダの反対も結局は弱まった。次の日曜日、教会へ礼拝式に出かけたあと、またもやカワウソが家の中まで入りこみ食料棚からサケの片身をさらって、エグバートの書斎のペルシャ絨毯の上で咬みちらし、そこら中うろこだらけにしたからである。
「この調子だとそのうちベッドの下にかくれていて、ぼくらの足をかじり取るぞ」とエグバートはいった。アマンダもその可能性もなくはないと思った。どのカワウソだか正体を知っているからだ。
いよいよカワウソ狩の日がきまると、その前日の夕方、アマンダは猟犬の声を真似たつもりの声を立てながら、一時間ばかり流れの岸を歩きまわった。それを聞きつけた村びとは、きっと近いうちにある村祭の余興に物真似でもする気で練習してるんだろう、と好意的に解釈した。
カワウソ狩の結果を報告に来たのは隣りの友達オーロラ・バレットだった。
「あなた、見にこなくて惜しいことしたわね。とても面白かったわ。すぐに見つかったのよ、お宅の庭のすぐ下の淵になったところで」
「見つけて――それ、殺した?」とアマンダがたずねた。
「もちろんよ。美事な雌のカワウソなの。お宅のご主人、かなりひどく食いつかれたわ、尾っぽで引き出そうとして。でもかわいそうだったわ、殺されるときの目つきがまるで人間なのよ。そんなばかな、というかも知れないけど、その目つきったらある人にそっくりだったわ。あなた、誰だと思う? あら、あなた、どうなさったの?」
アマンダの神経衰弱がある程度までよくなると、エグバートは保養のためアマンダをナイル河沿岸へ連れ出した。転地したおかげでアマンダは心身ともにたちまちバランスを取り戻して回復した。気のつよいカワウソが変わった餌をぬすみに家の中を荒した事件も、ただそれだけの話と思えるようになった。アマンダはいつもの平静な気持に戻ったわけである。ある晩、カイロ市のホテルでアマンダがゆっくり化粧しているとき、夫が自分の化粧室で猛烈にどなりちらす声がした。声はたしかに夫の声だが、めったに使ったことのない言葉である。しかしアマンダは別に驚きもせず落ち着きはらっていた。
「どうなすって? 何かあったの?」アマンダは好奇心から面白そうに声をかけた。
「このけだものめ、ぼくの洗ったシャツを全部バスの中へ放りこんじまった! 待て、つかまえてやるぞ! こん畜生――」
「どんなけだものなの?」とアマンダは吹き出しかけてたずねた。ひどく腹を立てたらしいのにエグバートの言葉がひどくチグハグなのだ。
「まっ裸で茶色のヌビヤ人の子供の畜生なんだ」とエグバートがブツブツいった。
今やアマンダの病気は重態におちいった。
マレット家のウマ
[#地から2字上げ]The Brogue
狩猟シーズンはもうすんだのに、マレット家のウマ『ブローグ号』はまだ買手がつかなかった。マレット家には三、四年前から、シーズンが終るまでには買手がつく、という言伝えみたいな、一種の宿命論的な希望があった。ところが幾度シーズンが来たりすぎたりしても、この根拠のない楽天主義を裏づける事件は何一つ起こらない。もとはバサーカー(タケキサムライ)という名前だったが、あとになってブローグ(イナカノナマリ)と名をつけ直した。いったんしょいこんだが最後、手を切るのはきわめて困難、という事実を認識したからである。地元の才人で意地のわるいのが、ブローグの最初の一字はよけいだな、といった話もある(ローグは悪党の意味)。売立てのカタログには狩猟用軽量馬だの女性向き乗用馬だの、あるいはまたあっさりと、しかしやや空想をまじえて、栗毛の去勢馬、身長十五・一、などといろいろ書いて出した。トービー・マレットはブローグ号にまたがってウェスト・ウェセックス狩猟団に四シーズンも参加している。だがウェスト・ウェセックス団ならこのへんの土地を知っているウマならどんなウマでもついて行けるのだ。ブローグ号はこのへんの土地に実にくわしいのである。何十マイル四方にわたりどこの土手だろうが生垣だろうが、隙間のできているところはたいがい自分の創作だからだ。癖にしろ性格にしろ、狩猟馬として理想的とはいえないが、田舎道を乗り廻すよりは狩猟に使う方がまだ安全だろう。マレット一家のいうところでは、このウマ、別に往来を歩くのをきらうわけでなく、一つ二ついやがるものがあって、それに出あうと急に発作を起こすだけだという。トービーのいう「それ出し病」である。自動車と自転車とは大目に見て気にしない。だがブタ、手押し車、道ばたへ積んだ石ころの山、村の往来を通る乳母車、どぎつく塗り立てた白ペンキの門、それにいつもではないがときには新型のミツバチの巣箱――そんなものに出あうとたちまちそれ出し、稲妻のえがくジグザグをあざやかに模倣する。キジが一羽、生垣の向こうから羽音を立てて飛び立ったりすると、ブローグ号は同時に空中へ跳ね上る。これは社交的精神のあらわれかもしれない。世間では札つきの癖のわるいウマというのが定評だが、マレット一家はそれを否定していた。
五月の第三週ごろのことだ。故シルヴェスター・マレットの未亡人でトービーおよび一群のむすめたちの母ミセス・マレットは、村外れで出あったクローヴィス・サングレールに村の出来事をあとからあとから立てつづけに聞かせていた。
「今度わたしどもの隣りへ越していらしたミスター・ペンリカードをご存知でしょうね?」ミセス・マレットはどなり立てた、「とても大変なお金持で、コーンウォールにスズの鉱山をおもちなんですよ。もの静かな中年の方ですわ。レッド・ハウス荘を長期の契約でお借りになって、模様がえやら改築やら、しこたまお金をかけましたの。そのミスター・ペンリカードにトービーがうちのブローグ号を売りわたしましたのよ」
やや間をおいて意外なニュースを吸収すると、クローヴィスはいきなり祝辞をあびせ出した。もっと感情的な人種だったらきっとミセス・マレットにキスしたにちがいない。
「やっと売りつけましたか。それはおめでとう。今度はちゃんとしたウマが買えますぞ。実に抜け目がないなトービーは。いつもそういってたんです。いや、おめでとう、おめでとう、本当におめでとう」
「めでたいどころじゃありませんのよ。とんでもなくまずいことになったんです。困りましたわ」とミセス・マレットは大げさに芝居がかった声をした。
クローヴィスはびっくり仰天して相手の顔をじっと見つめた。
「ミスター・ペンリカードがね」とミセス・マレットは声をひそめた。身にしみるほど重々しい小声のつもりだが、気が立ちすぎてかすれた金切り声に似ている。「ミスター・ペンリカードがついこのごろになって、うちのジェスィーに気をもち出しましたの。はじめは気がつきませんでしたけど、もう絶対たしかですわ。今まで気づかずにいたなんて、わたしバカでしたわね、きのう、牧師館の園遊会のとき、あの方、何の花がお好きですか、とジェスィーにききましたのよ。カーネーションですといったら、きょうカーネーションが山ほど届きましたの。チョージ色のやピンクのや濃いまっ赤なのや、まるで展覧会に出るような花ばかりですよ。それに箱入りのチョコレートもそえて来ました。わざわざロンドンから取りよせたにきまってますわ。そして、あしたゴルフを一廻りしませんか、と誘ってくれましたの。ところが、よりによってこの大事なときに、トービーがあの人にウマを売りつけちゃったんです。まったくの災難ですわね」
「でもあのウマ、何年も前から売りとばすつもりだったんじゃありませんか」とクローヴィスがいった。
「わたしども、うち中むすめだらけなんですよ。ですから何とか早く――まさか売りつけるんじゃありませんけど、むすめがぞろぞろいるんですもの、連れ合いの一人や二人つかまえてもおかしくないでしょう。六人もいますのよ」
「それは知りませんでした」とクローヴィスがいった、「勘定したことがありませんからね。でも頭数はきっとその通りでしょうな、母親というものはそんなことたいがい知ってるもんですから」
「ところがなんです」とミセス・マレットは悲劇じみた小声でつづけた、「せっかくお金持の婿の候補が目の前へあらわれかけたら、あきれましたわ、その大事な人にトービーがあのろくでもないウマを売りつけましたの。あの方、あのウマで出歩いたらきっと命を取られますわ。命取りにならないまでも、うちのむすめにどんな好意をもってたってぶちこわしになるのはたしかですよ。どうしたらいいでしょう? 今さらあのウマを取りもどすのもまずいんです。何しろ買ってくれそうだと感づくと、さんざんほめ立ててこれこそあなたにピッタリのウマです、なんていいましたものね」
「廐舎からこっそり盗み出してどこか何マイルも離れた牧場へおいてくるわけに行きませんか?」とクローヴィスがもちかけた、「廐舎のドアへ『女性に清き一票を』と書いてくるんです。きっと婦人参政権運動の連中のいたずらだと思いますな。それにあのウマを知ってる人なら、あなたが取りもどしたがるなんて誰も夢にも思いませんよ」
「そんなことしたら全国の新聞でさわがれますわよ」とミセス・マレットがいった、「きっと『貴重な狩猟馬、婦人参政権主義者に盗まる』なんて見出しがつきますわ。警察が全国くまなくさがし廻ってつかまえますよ」
「そんならジェスィーにいいふくめてペンリカードから取りもどさせるんです。何年も前から大事にしてきたウマなんですけど、廐舎を借りたときの修繕期限の契約があって、それで手放しただけなんです、ところがあと一、二年は今のままおいていいことに話がまとまりました、といえばいいんですよ」
「売りわたしたばかりで返してくださいなんて、おかしなやり方だと思われるでしょうね」とミセス・マレットがいった、「でも何とかしなきゃなりませんわ、それも今すぐね。あの方、ウマは不なれなんですし、それにわたし、おとなしくて小ヒツジみたい、といったと思いますのよ。でも小ヒツジだって蹴とばしたりのたうち廻ったりしますわね、気が狂ったみたいに」
「ヒツジは性格が温和であるという一般の通説には全く根拠がありません」
とクローヴィスは相槌を打った。
つぎの日、ジェスィーは不安と興奮をまぜこぜにした状態でゴルフ場から帰って来た。
「ちゃんとプロポーズしてくれたわ」とジェスィーが発表した、「六番ホールで切り出したのよ。わたし、しばらく考えさせて頂きますと返事して、七番ホールでお受けしたわ」
「まあ、あきれた!」と母親がいった、「もう少しういういしくもじもじして見せて控え目に構えた方がよかったのに。何しろ知り合いになってまだいくらにもなってないでしょう。九番のホールにすればよかったのに」
「でも七番ホールがとても長いのよ」とジェスィーがいった、「それに気が張りつめて二人とも調子が出なかったわ。九番ホールになるまでにいろいろ相談してきめちゃったのよ。新婚旅行はコルシカ島、もし気が向いたらちょいとナポリへよってくるわ。最後はロンドンに一週間泊まって切り上げにするの。花嫁の付き添いに姪を二人たのむんですって。だからうちの妹と合わせて七人になるのよ。えんぎのいい人数じゃない? お母さまはあのパール・グレーの服にホニトン・レースをいくらでもくっつけりゃいいわ。ああ、そうそう、今夜あの人うちへくるんですって、お母さまから承諾を頂きに。そこまでは万事うまく行ったのよ。でもブローグ号のことだけはだめ。廐舎の契約の伝説をもち出してウマはぜひとも買いもどしたいといったら、向こうはぜひとも手もとにおきたいらしいのよ。これから田舎暮らしをするんだから乗馬の練習をしなけりゃならないんですって。あしたは朝からはじめます、っていったわ。ロンドンのロトン・ロウで二、三度乗ったことがあるのね。でもそのときのウマ、いつも八十代のじいさんばあさんか安静療法をうけている人ばかり乗せてたんですって。ウマに乗った経験ったらそれだけなのよ――ああ、そうそう、ノーフォークでコウマに乗ったこともあるんですって。そのとき自分が十五歳、コウマの方は二十四歳だったんですってさ。それでいてあしたの朝ブローグ号に乗るっていうのよ。わたし、結婚式もあげないうちに未亡人になるかも知れないわ。ぜひともコルシカへ行って見たいのに。地図で見ただけじゃつまらないんですもの」
クローヴィスは大急ぎで呼びよせられて、事態の展開を突きつけられた。
「あのウマ、無事に乗りこなす人なんてありゃしませんわ」とミセス・マレットがいう、「うちのトービーだけは別ですのよ。長年の経験で何を見ると驚いてさわぐかちゃんと知ってますからね、こっちもいっしょにぐれ出して逃げますの」
「ミスター・ペンリカードにはそれとなくいっといたわ、――もうヴィンセントって呼ぶ方が本当かもね――ブローグ号は白塗りの門はきらいですよ、って」
「白塗りの門どころじゃないわよ」とミセス・マレットは大声を立てた、「ブタに出あうとどうするか、あの方に話しといたかい? ロックヤの畑のところを通らなけりゃ街道へは出られないし、途中の細道にブタの一匹や二匹はいつもうろついてるわよ」
「このごろは少しシチメンチョウもきらいになってね」とトービーがいった。
「ペンリカードにあのウマで外出させていけないことは明白ですな」とクローヴィスがいった、「とにかくちゃんと結婚式をすませて相手にあきがくるまではいけません。じゃあ、こうしたらいいでしょう。あしたピクニックに誘って早く出かけるんです。朝食前からウマで出かけるタイプじゃありませんよ、あの男は。あさってはぼくが牧師さんに頼んで昼食前からクロウレーヘドライブに連れ出してもらいます。建築中の療養所でも見物させるんですね。るすのうちブローグ号は廐舎でボンヤリしていまさあね。それはトービーが運動させに連れ出してやるというんです。そうすりゃ奴め、石ころか何か見つけるでしょう。都合よくビッコになりますぞ。少し結婚式の日取りを急ぎさえすれば、式がちゃんとすむまでビッコのカラクリはかくせますよ」
ミセス・マレットは感情的な人種の一人だからクローヴィスにキスした。
翌朝は雨が大降りに降ったからピクニックなどはとてもできない相談になった。それは誰の責任でもない。午後になるとかなりよく晴れてミスター・ペンリカードはブローグ号の初乗りを試みる気を起こした。これまた誰の責任でもない。全くの不運だった。ロックヤの畑のブタのいるところまでも行かなかったし、牧師館の門もどんよりした緑色で目立ちもしなかった。ところがブローグ号は一年か二年前までは白塗りだったのを覚えていた。いつもその地点へさしかかると、まず猛烈なおじぎをし、あとじさりをし、急に道からそれ出すのが癖だった。だからそこまでくると、もうこれ以上ご用もないらしいとばかり、牧師館の果樹園へ乗りこんで行ったら、トリ小屋にシチメンチョウのメスが一羽いた。あとになって果樹園をおとずれた人が見ると、トリ小屋そのものはほとんど無疵だがシチメンチョウの方はろくろく残っていなかった。
ミスター・ペンリカードは気立てのいい男だから、いささか肝をつぶして仰天もしたし、片膝すりむいたり何かしてあちこち少しは怪我したものの、事故の原因はわたしがウマと田舎道に経験がないからです、といった。そしてジェスィーの看護に身をまかせて一週間たらずでゴルフもやれるほど全快した。
二週間ばかりすると土地の新聞に結婚式の記事が出た。結婚祝いの品々のリストの中につぎの項目があった。
「『ブローグ号』――栗毛の乗用馬一頭。新郎より新婦へ」
「これでわかるね。あの男、何にも気がつかなかったんだ」と、トービー・マレットがいった。
「それとも」とクローヴィスがいった、「頓智のある面白い男かも知れないぞ」
メンドリ
[#地から2字上げ]The Hen
「ドーラ・ビットホルツが木曜日にくるわよ」とミセス・サングレールがいった。
「今度の木曜?」とクローヴィスがたずねた。
母はうなずいた。
「まずいことしちまったね」とクローヴィスはクスリと笑った、「ジェーン・マートレットが泊まりに来てきょうでまだ五日ですよ。あの人、ハッキリ一週間ご滞在くださいといっても絶対二週間は帰りゃしないからね。とても木曜日までに追い出せるもんですか」
「追い出すなんてとんでもない。ジェーンとドーラは仲よしじゃないの? 仲よしだったわ、わたしの知ってる限り」
「もとはその通りでしたよ。だから今じゃかえってなおさら仲がわるいんです。大事にふところに抱いていたのが毒ヘビだった、という気持ですね、両方とも。自分のふところを毒ヘビのサナトリウムにされたとなったら、それこそ思いきり敵意を燃やすのも当然ですよ」
「でもどんなことがあったの? 誰か水を差した人でもあって?」
「ちょっとちがいますね」クローヴィスがいった、「二人の間へメンドリが一羽入りこんだんです」
「メンドリ? どんなメンドリなの?」
「ブロンズ色のレグホン種か何か、風変わりなメンドリを一羽、ドーラが少し風変わりな値段でジェーンに売りつけたんです、二人とも品評会へ出すような飼鳥が好きですからね。ジェーンとしては血統書付きのニワトリをうんと生ませて元手を取りかえすつもりなんです。ところがそのメンドリが結局、産卵自粛家だったのですね。何でも二人が取りかわした手紙を見ると、便箋一枚にどのくらい悪口が詰めこめるものか、よくわかるという話ですよ」
「まあ、ばからしい! その喧嘩、友達か誰かが|鎮静《コムポーズ》できなかったの?」
「やってみた人もいるんですがね、『さまよえるオランダ人』(ワーグナー作のオペラ)の暴風雨の場を|作曲《コムポーズ》するみたいだったんでしょうな。ジェーンの方ではもしドーラがメンドリを引取るなら加えた侮辱も少しは取消すつもりなんですが、そんなことしたら自分が悪いとみとめることになる、とドーラはいうんです。あの人、自分がわるいとみとめるなんて絶対にやりっこない女ですしね」
「困ったことになったわね」とミセス・サングレールがいった、「あの二人、顔を合わせても口をきかないかしら?」
「その正反対ですよ。口をきくのをやめさせる方が困難です。相手の性格や行動について互いにかわした言葉の数々は、一ペニーの郵便切手一枚じゃこき下ろすのも目方四オンスまでという事実によってこれまでやっと抑制されてるんですから」
「ドーラが泊まりにくるのを先へ延ばすわけには行かないわ、もう一度延ばしてるんでね。それにジェーンの方は二週間は泊まると勝手にきめこんでるからそれより早くは帰りっこないし、何か奇蹟でも起こらなけりゃね」
「奇蹟ならまずぼくの専門だな」とクローヴィスがいった、「この問題、あまり自信はありませんが、ひとつベストをつくしてみますかな」
「でもわたしまで引きずりこんじゃだめよ」と母は釘をさした。
「使用人というのは困りもんですね」とクローヴィスがつぶやいた。ランチのあとで喫茶室へ入ってジェーン・マートレット相手にポツリポツリ話をしているときのことである。クローヴィスは話をしながらカクテルをこしらえていた。自分で『エラ・ホィーラー・ウィルコックス』(この作が書かれるころ現存したアメリカの女流詩人。ここではごく平凡な詩人のふくみらしい)と名をつけたカクテルで、古いブランデーにキュラソーを少し加え、ほかにもいろいろ材料を使うが誰にでも成分を教えたりは絶対しない。
「使用人が困りものですって!」とジェーンがいきなり大声で乗り出した。キツネ狩のウマが街道から一歩草場へ踏みこんだように景気よく乗り出したのである。「まったくその通りですわよ。ことしも何とか話をつけるまでの苦労といったら、それこそまるでウソみたい。でもお宅でそんな苦労をなさるなんて思えませんわ、使用人にかけてはお母さま、とても運のいい方ですもの。たとえば、お宅で使ってらっしゃるあのスタリッジ――もう何年も使ってらっしゃいますけど、あれ、模範的な執事じゃありませんの」
「それだから困るんですよ」とクローヴィスがいった。「長年いついている使用人こそ本当に苦労の種なんです。『きょうはここに、あすはいずこに』(イギリスの女流作家アフラ・ベーンの劇から出た名句)という連中なら構やしません――取り替えりゃいいんですからね。本当に困るのは長年動かない模範的な使用人なんですよ」
「でも使っていて何も文句がなかったら――」
「文句のつけようのない使用人でも苦労をかけないとは限りませんな。現に、いまスタリッジといわれましたね。実は、使用人は苦労の種だといったのはそのスタリッジが頭にあったのです」
「あの優秀なスタリッジが! とても信じられませんわ」
「優秀なことはもちろんです。あれがいなけりゃとても暮らせません。ここのうちは少しでたらめな方でしてね、信頼できるのはスタリッジ一人です。ですがね、あの几帳面さが実は性格にさわるんですね。まあ考えてもごらんなさい――生涯の大部分をいつも同じ環境に住んで、年がら年中何でもかんでもきまった通りきまったやりかたでちゃんとやって行く――そんな暮らしをつづけたらどんな気持になるものですかね。どんな場合にはどんなナイフとフォークを出すものか、どんなグラスとテーブル・クロースを使うものか、そんなことを正確に心得ていて指図したり監督したりするんですぞ。ワイン|貯蔵室《セラー》でも食器部屋でも|皿戸棚《プレート》でも、いつも一糸乱れず綿密に整理整頓しておくんです。足音なんぞはけして立てず絶対目につくことはせず、いつどこで呼ばれてもすぐその場に姿を見せるし、担当の事柄なら何から何までちゃんと承知しているんですぞ」
「わたしだったら気が狂いますわ」とジェーンが力づよく合槌をうった。
「まったくですね」とクローヴィスはしみじみ考えるような顔で、でき上った『エラ・ホィーラー・ウィルコックス』をゆっくり飲んだ。
「でもスタリッジは別に気が狂ってはいませんわね」とジェーンがいった。声の調子に問いかけるようなところがある。
「いつもたいがいまったく正気で信頼できます。でもときたま手のつけられない妄想にとりつかれましてね、そんなときには困るどころか断然手を焼かせますよ」
「妄想ってどんな妄想なんですの?」
「まずいことにハウス・パーティで泊まっているお客の誰かにからんだ妄想が多いんです。だから手を焼かせるんですよ。たとえばですね。マティルダ・シェリンガムのことを預言者エリヤだと思いこんだことがありますよ。エリヤといっても荒野でカラスがはこんでくるパンと肉で命をつないだことしか知らないもんですから、マティルダが食べるものや飲むものには絶対に手を出しません。朝はマティルダの寝室へお茶をはこばせませんし、食堂へ給仕に出ると料理をくばって廻るとき必ずマティルダだけとばすんです」
「まあ、失礼な! それで一体どうしましたの?」
「そりゃマティルダには何とか食わせてやりましたがね。でも早く切り上げて帰るのが一番ということになりました。ほかに何とも仕方がありませんのでね」とクローヴィスは心もち力をこめていった。
「わたしだったらそんなことしやしませんわ。何とかスタリッジをなだめますわよ。早く切り上げて帰るなんて絶対させませんわ」
クローヴィスは困った顔をした。
「しかし妄想に取りつかれたのをなだめたりすかしたりするのは利口じゃないこともありますよ。のさばらせたら何をやらかすかわかりませんからね」
「まさかスタリッジが危ないことをするわけないでしょう?」とジェーンがきいた。心配になったらしい。
「確かなことはいえませんな。ときたま、お客を誰か別の人間と思いこんで始末に困ることもありますよ。実はね、今ちょうどそれで心配してるんです」
「まあ! するとお客の誰かを変に思いこんでるんですの?」とジェーンは胸をはずませてたずねた、「まあ、ゾクゾクするわ。誰なの、その人? 教えて」
「あなたですよ」とクローヴィスがポツンと返事した。
「わたし?」
クローヴィスはうなずいた。
「一体わたしを誰だと思ってるんですの?」
「アン女王(イギリス十八世紀の女王)ですよ」と思いがけない返事があった。
「アン女王! まあ、あきれた。でもアン女王なら何も危ないことありませんわね、どっちつかずのパッとしない人物ですもの」
「伺いますがね、後世の人はアン女王のことを大体どういってますか?」とクローヴィスがきいた。少しきびしい口調である。
「わたしが覚えてるのは『アン女王は死んだ』ってことわざがありますわね(「アン女王は死んだ」といえば「それはもう古くさい」の意味。ことわざのように使う)。それっきりですわ」
「その通り」とクローヴィスはいって、手にした『エラ・ホィーラー・ウィルコックス』のグラスをじっと見つめた、「アン女王は死にましたよ」
「するとわたしをアン女王の幽霊だと思ってるんですか?」とジェーンはたずねた。
「幽霊? とんでもない! ちゃんと朝食に下りて来てウシの|腎臓《キドニー》だのハチ蜜つきのトーストだのバリバリ平らげる食欲旺盛な幽霊なんてありゃしませんよ。幽霊じゃないんです。あなたがその通り元気にバリバリ生きている事実――それがスタリッジには腑に落ちなくて気になるんですな。そら、よくいうでしょう、『アン女王と同じことでとうに死んだ』なんて。ですからスタリッジはアン女王といったらもう死んで片づいたものとばかり思って来たんですね。ところが今度は昼食のときも晩餐のときも、あなたのグラスにワインをついだり、ダブリン市の競走馬品評会へ出かけて陽気にあそんだ話を聞かされたりすることになった。当然、この人はおかしいぞ、と思ったわけですね」
「でもそれだからって本気でわたしを目のかたきにしてるんじゃないでしょう?」とジェーンは心配そうだ。
「実はきょうのランチどきまでぼくもあまり心配しませんでしたよ」とクローヴィスがいった、「ところがです、奴が不気味な顔つきであなたをジロリと睨みつけ、『とうのむかしに死んでいるべき奴だぞ、あの女は。こりゃ誰かが手を下さなけりゃなるまい』とつぶやいてるんです。だからこそお話ししたんですよ」
「まあ大変、わたしこわいわ。すぐお母さまに申し上げてくださいよ」
「母にはひと言も話せません、それこそひどく苦労して大変なことになりますからね。何しろ何から何までスタリッジをたよりにしていますし」
「でもわたし、いつ何どき殺されるかわからないわ」とジェーンが言葉を返した。
「いつ何どき、ということはありません。昼すぎからは安全ですな、ナイフやフォークみがきで手いっぱいですから」
「ゆだんしないで見張ってくださいね。何か危ないことやり出したらすぐ取り抑えてくださいよ」そのあと、ジェーンは小声で強情なせりふを付けたした、「とんだことになったわ。気ちがいの執事が頭の上にぶら下ってるなんて、まるで何とかのつるぎみたい(「ダモクレスのつるぎ」(ことわざ)は「たえず身にせまる危険」の意味)。でも、わたし、早く切り上げて帰るなんて絶対しませんわよ」
クローヴィスは口の中でコンチキショウといった。せっかく仕掛けた奇蹟がハッキリ不発に終ったからである。
クローヴィスの頭に最後のインスピレーションがおとずれたのは翌朝おそい朝食をすませたあとだった。彼が玄関のホールに立ったまま、ゴルフのパターの錆を落としているところへスタリッジが通りかかった。
「ミス・マートレットはどこにいらっしゃる?」とクローヴィスは声をかけた。
「モーニング・ルームで手紙を書いていらっしゃいます」とスタリッジが返事した。質問者がよく承知している事実を伝えたわけである。
「あそこに古い|籠《かご》|柄《づか》のサーベルがあるな」と、クローヴィスは壁に吊してある時代物の剣を指さした、「ミス・マートレットはあのサーベルの銘文を写したいんだそうだ。壁から外してもって行ってくれないか。ぼくは手が油だらけなんでね。鞘から抜いてもって行く方がいい。その方が楽だろう」
スタリッジはサーベルを抜いた。古いけれども手入れが届いているから刃がピカピカ光っている。それを持ってモーニング・ルームへ入って行った。ライティング・テーブルのすぐそばに裏階段へ下りるドアがある。ジェーンはパッとそのドアから姿を消した。稲妻のような速さだ。スタリッジ自身が相手に自分の姿の見えたはずはないと思ったほどである。その三十分あと、ジェーン・マートレットと急ごしらえの手荷物を乗せてクローヴィスが駅まで馬車で送って行った。
「母はひと廻りウマで出かけてますが、もどって来てお帰りになったと知ったら、きっと怒るでしょうがね」とクローヴィスは帰って行くジェーンにいった、「至急電報で呼びもどされた、とか何とかいっときますよ、必要もないのにスタリッジの話でおどかすこともありませんから」
必要もないだのおどかすだの、クローヴィスのそんな言葉にジェーンはいささかムッとしたが、そのあと、クローヴィスが思いやり深くランチ・バスケットはどこでお買いになりますかときくと、今度はつっけんどんに近い返事をした。
結局のところ、せっかくの奇蹟も少しく実効が弱まった。というのは、その日のうちにドーラから手紙が届いて泊まりにくるのは延期するといって来たからだ。しかし、ジェーン・マートレットの遍歴スケジュールを狂わせた唯一の人間として、クローヴィスは今なおレコードを保持している。
あけたままの窓
[#地から2字上げ]The Open Window
「伯母はすぐ下りてまいります、ミスター・ナテル。失礼ですがそれまでわたくしがお相手いたしますわ」と、落着き払った若い女性がいった。実は十五歳である。
フラムトン・ナテルは何とかうまい挨拶はないかとしきりに考えた。いま目の前にいる姪だという女性をほどよくもち上げ、しかもやがて現われる伯母さんをあまりけなすことにならない挨拶でないとまずい。神経を休めるためということでこの土地へ来ているのだが、こう改まってまったく他人ばかりつぎつぎ訪ねて廻るのがいったい休養になるかどうか、彼は心の中でなんべんも疑問に思った。
「どんなことになるかわかりきってるわ」と、彼がこの田舎へ移ってくる準備をしているとき姉がいったものだ。「きっとその村へもぐりこんで生きた人間と口をききもせず、年中ふさぎこんでいて結局いちだんとわるくなるぐらいのものよ。だからあの村の知り合い全部に紹介状を書いてあげるわ。覚えてるけど中にはとてもいい人が幾人もあってよ」
その紹介状を一通もって今日こうして訪ねてきたミセス・サプルトンという人は、果たしてその「とてもいい人」の部類に入るのかな、とフラムトンは考えた。
「この村にお知り合いがたくさんいらっしゃいますの?」と姪だという女性がたずねた。差し向かいで黙りこんでいるのはもうこれで十分、と判断したわけだ。
「それが一人もありません」とフラムトンはいった、「何年か前に姉がこの村の牧師館に泊まっていたことがありましてね、いろんな方に紹介状を書いてくれたのです」
この最後の言葉には困ったなあという語調がはっきりあった。
「するとうちの伯母のこともほとんどご存知ないのですね?」と落着きはらった女性は重ねてたずねた。
「お名前とご住所しか存じません」とフラムトンはありのままをいった。ミセス・サプルトンには夫があるのかそれとも未亡人か、それさえわからない。しかし室内は何となく男も住んでいるらしい気配がある。
「ちょうど三年前に伯母は悲しい運命にあいましたのよ」と姪がいった、「お姉さまがこの村からおもどりになったあとですわね」
「悲しい運命ですって?」とフラムトンは聞き返した。なぜかこののどかな田舎に悲しい運命は場ちがいの気がする。
「あの窓、十月の昼すぎなのにあけたままにしておくなんて変だ、とお思いでしょう?」と姪はいって、芝生に向かってあけ放してある大きなフランス窓を指さした。
「今の時節としては暖かですからね。ですがあの窓が伯母さまの悲しい運命というのに何か関係でもあるんですか?」
「ちょうど三年前の今日でした。あの窓から伯母の夫が、伯母の弟を二人つれて狩猟に出て行って、それきり戻らないんですの。いつものシギの猟場へ行こうと沼地をわたる途中で、足もとの危ない湿地へ三人ともはまりこんだのですね。そら、あのひどく雨の多い夏でした。いつもの年なら心配のない場所なのが不意にめりこんだのです。三人とも死体はとうとう見つかりません。見つからないからこそ困るんです」今までの落着きはらった口調が、ここで胸がせまって途切れがちになった、「気の毒に伯母はそれからずっと待ってるんですの。みんな、いつかは帰ってくる、一緒に死んだ茶色のスパニエルも連れて、三人ともいつもの通りあの窓から入ってくる、と思ってますの。それで毎日すっかり暗くなるまであけたままにしておきます。かわいそうに伯母は三人が出かけた時のことをよく話しますわ。伯父は白地のレーンコートを腕にかけていたそうです。下の弟はいつものように伯母をからかって『バーティ、おまえはなぜはねる』を歌ってたんですって。それを聞くといらいらする、ってふだん伯母がいってたんですね。ときどき、こんなしんとした静かな夕方など、あの窓から三人が入ってくるかと思うと、わたし、ゾーッとすることがありますのよ」
姪は身ぶるいすると話を切った。そこへ伯母という人がせかせか入ってきて、大変お待たせしてすみませんと盛んに申しわけを並べ出したのでフラムトンはホッとした。
「ヴィアラのお相手でご退屈だったんじゃありません?」と伯母はいった。
「いや、大変面白くお話を伺ってました」とフラムトンはいった。
「あの窓、あけたままで構いませんか?」とミセス・サプルトンはハキハキした声でいった、「もうすぐ夫と弟たちが猟からもどります。いつもその窓から入ってきますの。今日はシギ撃ちに沼の方へ行きましたから、もどって来たらカーペットが台なしでしょうよ。男の方ってみなそうですわね」
猟のこと、鳥が少なくなったこと、この冬のカモ猟の見こみ――ミセス・サプルトンは快活にしゃべりつづけた。それがフラムトンにはゾッとするほど恐ろしい。彼は一所懸命話を気味わるくない方へ向けようとしたが、どうもあまり成功しない。気がつくと相手はあまり自分に関心はもたず、目は絶えずフラムトンを通りこして、あいたままの窓とその外の芝生の方へばかり向いている。悲しい運命にあったというその記念日に偶然たずねてきたとは、実に何という不運だろう。
「どの医者もみな完全に休養を取って、興奮することは一切やめ、身体をはげしく使うことはよせ、というのです」とフラムトンは話した。赤の他人でもふと知り合った人でもひとの病気や衰弱や、その原因や療法など、こまかく聞きたがるものだ、というのは世間にかなり多い妄想だが、彼もまたその妄想にとらわれてせっせと話したのだ、「ところが食べるものの事になると、どの医者のいうこともくいちがいましてね」
「まあ、そうですか!」とミセス・サプルトンはいった。危ないところであくびを咬み殺した声だ。やがて突然、彼女の顔は晴々して何かにありありと注意を向けた。しかしフラムトンの話に向けたのではない。
「ようやく戻ってきましたよ」と彼女は大きな声でいった、「ちょうどお茶に間に合ってよかったこと。まるで顔まで泥んこじゃありませんか」
フラムトンはブルブル身震いすると姪の方へふり向いた。なるほどわかりました、お気の毒ですね、という顔を向けた。姪はあけたままの窓の外をじっと見たまま、恐怖に立ちすくんだ目つきをしている。何といいようもない物凄さにゾッとすると、フラムトンは椅子のまま向きを変えて同じ方向を見た。
暗くなりかけた夕やみの芝生を三人の人影が窓の方へやってくる。三人とも腕に銃をかかえて、中の一人は白地のレーンコートを肩にひっかけていた。そのすぐあとを茶色のスパニエルが疲れ切ってついてくる。音も立てずに窓に近づくと、夕やみの中からしわがれた若い男の声が『バーティ、おまえはなぜはねる』を歌い出した。
フラムトンはやにわに帽子とステッキをつかみ、玄関のドアも門までの砂利道も表門もろくろく目に入らず夢中で逃げ出した。往来を飛ばしてきた自転車が一台、生け垣へ突っこんで危なく衝突を避けた。
「おい、いま戻ったよ」と白地のレーンコートを引っかけた男が窓から入ってきながらいった、「かなり泥になったがもうたいがい乾いた。今かけ出して行ったのは誰だい?」
「とても変わった人よ、ミスター・ナテルとかいう名の」とミセス・サプルトンがいった、「自分の病気の話ばかりして、あなた方がもどるとさよならとも何ともいわずにパッと帰っちまったの。まるで幽霊にでも出会ったみたい」
「きっとスパニエルが来たからよ」と姪が落着いていった、「あの人、イヌが大嫌いですっていったわ。一度どこかガンジス河の岸で野良イヌの群に追いかけられて墓地の中へ逃げこんで、掘り立ての墓穴でひと晩あかしたことがあるんですって。すぐ頭の上で唸ったりいがみ立てたり吠えついたりしてるんですって。誰だってふるえ上がりますわね」
即席の作り話は彼女の専門だった。
沈没船伝奇
[#地から2字上げ]The Treasure Ship
その|大帆船《ガレオン》はある北海の湾の海底に沈んでなかば引退していた。遠いむかし、戦争と気象にもてあそばれてそこへ落ちついたのである。艦隊の主力の一隻として大洋に乗り出してからもう三世紀と四分の一になる。どこの国のどの艦隊だか、正確なことは識者の意見がわかれていた。この大帆船がこの世にもたらしたものは何一つない。しかし、噂や言い伝えによるとこの世からかなりのものをもち出したらしい。だがその額は、となるとこれまた識者の意見がわかれていた。所得税査定官のように気前よく評価する者もあれば、海底の宝庫にまで一種の高等批評をもちこんで、宝庫の中身は怪しげな妖精の金貨だ、とけなす者もある。ダルバートン公爵夫人ルールーは前者の一人だった。
心をそそる巨額の財宝が海底に沈んでいるだけでなく、その所在を的確に突きとめてあまり金もかけずに引き揚げる方法もわかった、と公爵夫人は確信していた。母方の伯母にモナコ宮廷で女官をしているのがいる。モナコの王さまは、きっと国土がせまいのにじりじりしてだろう、いつも深海調査に没頭していたから公爵夫人の伯母も謹しんで同じ関心をもっていた。公爵夫人はこの伯母からある発明の話を聞いたのである。モナコ人のある学者が一つの発明を完成した。特許の取れる日も近い。これを使えば幾十ひろの海底でも舞踏場よりも明るい白色光を使って地中海産イワシの家庭生活が研究できる。この発明品には電気式の|浚渫機《しゅんせつき》もついていた。公爵夫人に取っては実はこれが一番の魅力なのだ。外海の海底あまり深くないところから価値あり興味あるものを引き揚げるため、特に設計したもので、その権利は千八百フランばかりで買えるし、あと二、三千フラン出せば浚渫機も買い取れる。もともとダルバートン公爵夫人は世間の目にはもちろん大金持だが、いつかは自分の目で見ても大金持になりたい、と野心をもっていた。過去三世紀のあいだに、この沈没した|大帆船《ガレオン》に積んだという財宝をさがすため、会社を設立して努力を傾注した者は幾人となくあった。ところがこの新発明を利用すれば自分一人で沈没船に手が出せるぞ――公爵夫人はそう考えた。それにスペイン無敵艦隊司令長官メディナ・シドニアは母方の先祖の一人に当る。だから誰が何といおうと、沈没船の財宝の所有権は当然自分のものだ――これが彼女の意見である。そこで彼女は金を払って権利を手に入れ浚渫機も買いこんだ。
縁引きの親戚やら厄介者やら大勢いる中に、ヴァスコ・ホニトンという甥があった。収入は少ないが親類は多いから、わずかな収入と大ぜいの親類を公平に利用して危なかしく暮らしている若い男だ。むかしヴァスコ・ダ・ガーマという大探険家がいた。その伝統を受けつぐ冒険家になるようにヴァスコと名付けられたのかもしれない。ところがホニトンは冒険といっても危ない橋をわたり歩く|策師《アドベンチャラー》が専門で、もっぱら国内産業の分野にこもっている。未知の世界の探険よりも確実な資源を食いものにするのが好きなのだ。公爵夫人ルールーとこの甥の交際は近年はなはだ消極的で、訪ねてくれば田舎へ行って留守だと追っぱらうし、手紙をよこせば目下のところ手もとが窮屈だとことわる程度だった。ところが今度はちがう。宝さがしの実験にはホニトンこそ断然優秀な適材だと考えた。あまり見こみもなさそうなところから黄金を引き出せる人間がいるとしたら、ホニトンをおいてほかにない――ただし、監視を怠らない用心はもちろん必要だ。金銭問題となるとヴァスコの良心はとかく発作的に頑固な沈黙に陥る。
アイルランド西海岸の某地方にあるダルバートン公爵家の領地に、砂利と岩石とヒースばかりの土地が幾エーカーかあった。農民一揆も起きないほど不毛の土地だが、かなりの深さの狭い入江があって、年中ほとんどいつでもエビがよく取れる。その土地にわびしい小家が一軒あった。エビと孤独が好きな上に、アイルランド人のコックがマヨネーズと称してでっち上げるしろものを受けつける人間なら、このイニスグラザーというところは避暑地としてまずまずである。ルールー自身はめったに出かけて行かないが、親戚や友人にはいつも気前よくその家を貸した。今度はその家をヴァスコに使わせることにした。
「あの引き揚げ機械を使って実験するのにもってこいの場所ですのよ。入江にところどころ深いところもあるし、宝探しに取りかかる前に何度でも十分テストできるわ」
それから三週間とたたないうち、ヴァスコは経過報告にロンドンへ現われた。
「あの機械、実に調子がいいですよ」という。「深いところへ行くほど何でもハッキリ見えましてね。それに沈んでた難破船も一隻みつけましたから引き揚げの実験もできるんです」
「イニスグラザーの入江に沈没船があった?」とルールーは大声を立てた。
「モーター・ボートが沈んでましたよ。あのサブ・ローザ号なんです」
「まさか! それ、ほんと?」とルールーはいった。「それ、死んだビリー・ヤットレーのボートなのよ。覚えてるけど三年ばかり前にあのへんの沖合で沈没したの。死骸が岬へ打ち上がったわ。あのころ、わざとボートを顛覆させたんだって噂が立ってね。自殺だというわけ。でも何かあると世間じゃきっとそんなことをいうものね」
「ところが噂通りなんです」とヴァスコがいった。
「それ、どういうこと?」と公爵夫人がすかさずきいた。「どうしてそう思うの?」
「ちゃんとわかってます」とヴァスコはポツンといった。
「わかってる? どうしてわかるの? 誰にもわかりゃしませんわ! 三年も前のことなんだもの」
「サブ・ローザ号のロッカーに防水金庫が見つかりましてね、中に書類がありました」
ヴァスコは芝居がかりで言葉を切ると、しばらく上着の内ポケットを探して折った紙きれを取り出した。公爵夫人はみっともないほど手早くそれをひったくると、暖炉のすぐそばへ寄った。
「これがサブ・ローザ号の金庫にあったの?」とルールーはたずねた。
「ちがいますよ」とヴァスコは何気ないふりをした。「それはね、もしサブ・ローザ号の書類が公表されたら大変なスキャンダルに巻きこまれそうな有名人どものリストなんです。伯母さんの名は一番最初に出しときましたよ。あとはみなアルファベット順です」
公爵夫人はズラリ並んだ名前を見つめた。困り切った顔である。知り合いの名はたいがい入っているらしい――チラリとそんな気がしたが、実は自分の名前が筆頭に出ているのを見て、ほとんど頭がしびれてしまったのだ。
「その書類はもちろん捨てちまったのね?」とルールーはようやく立ち直ってたずねたが、口ではそういったものの、実はまるきりそう思ってはいない。
ヴァスコは首を横にふった。
「捨てなけりゃだめよ」とルールーはいきり立った。「あなたのいう通りそんなに評判にかかわる書類なら……」
「断然かかわりますね、絶対確実に」とホニトンが口を出した。
「そんなら心配がないようにすぐさま始末しなさい。万一世間に洩れでもしたら大変よ。考えてごらん、あばき立てられてどんなことになるか、あの運のわるい|気の毒《プーア》な人たちが」と、ルールーはいきり立ってリストを指先でコツコツたたいた。
「運はわるいかもしれませんが|貧乏《プーア》じゃありませんな」とヴァスコが相手の言葉を訂正した。「そのリストをよくごらんになればわかりますがね、経済状態が危なかしい人物は一人も入れてありません」
ルールーは何ともいわずにしばらく甥の顔をギラリと睨みつけたが、やがてかすれた声でいった、「これからどうするつもり?」
「何もするもんですか――ぼくは死ぬまで何もしやしませんよ」とホニトンはいわくあり気な返事をした。「少しは狩猟でもやりますかな。それにフローレンスに別荘が一軒ほしいですね。『サブ・ローザ荘』なんて名前、ちょいと変わって面白いじゃないですか、名前の裏にいわくを読み取る人も多いでしょうし(ラテン語「サブ・ローザ」は「秘密に」の意味)。それに道楽も一つぐらいなけりゃいけませんな。レイバーン(有名なイギリス人肖像画家)の絵のコレクションでもはじめますか」
モナコ宮廷につとめるルールーの伯母は、海洋調査関係の発明品がまたできましたよ、と手紙ですすめたところ、手ひどくピシャリとことわられた。
クモの巣
[#地から2字上げ]The Cobweb
その農家の台所になっている場所は、おそらく建てるとき偶然こうなったのか、それともでたらめにきめたのか、農家建築の名人の設計かと思うほど理想的な位置にある。乳しぼり場でもトリ小屋でも薬草園でも、用の多いところどこからでも出入りが便利で、たっぷり広い床は石だたみになっていて何でもおいておけるし、泥靴のあとが残っても掃除は簡単だ。それでいて、うち中一番ざわつくところなのに、長い格子窓からは山やヒースの野原やこんもり木の茂った谷や、野山の景色がひろく見わたせる。大きな暖炉のうしろは窓の方へ突き出て、窓下に作りつけの長い腰掛があるから、そこだけで狭い一間のようになっている。場所もいいしいろいろ便利に使えるらしく、うち中で一番居心地がいいところだ。ミセス・ラドブラクはこの家の若い主婦である。つい近ごろ、夫がこの家を遺産として相続したので越して来たばかりだが、この気持のいい窓ぎわの片隅に熱心な目をむけた。サラサのカーテンを吊ったり花瓶をあちこちおいたり、時代ものの陶器を棚に飾ったりすれば、明るい落着いた場所になるぞと思うと手がウズウズする。別にかびくさい居間もあるにはあるが、窓の外はしたしみにくい陰気な庭で出口一つない石塀が廻っている。手を入れて気持よくしようにも容易でないのだ。
「もっと落着いたら台所に手を入れて見ちがえるほど気持よくしますわ」ミセス・ラドブラクはときたまくる客にそういった。その言葉には口にはしないがひとつ願いがひそんでいた。口に出さないだけでなく心の中でもハッキリ意識していない願いである。自分はこの家の主婦なのだ。だから夫ともどもいいたいこともいえるし、ある程度までは思いのままに家事の采配もふれるはずだ。ところが台所だけはそういかない。それが困る。
古びた食器棚の棚板の上に、へりのかけたソース入れだのピューターの水差しだの、チーズの下しがねだの支払いずみの請求書だの、そんなものに並んでボロボロになった古い聖書がのっていた。最初のページに洗礼式の書きこみがあって、もうインキがうすれかけている。日付けは九十四年前だ。黄ばんだページに「マーサ・クレール」と名が書いてある。いつもブツブツいいながら台所をふらついている黄色くしなびた皺だらけのあの婆さん――散りもしないで冬風になぶられている枯葉のようなあの婆さんが、むかしはマーサ・クレールだった。マーサ・マウントジョイと姓が変わってからも七十何年かになる。誰ひとり覚えている者もない大むかしから、マーサはかまどや洗濯小屋や乳しぼり場を行ったり来たり、菜園へ出たりトリ小屋へ出かけたり、いつもパタパタ歩きながら何かブツブツぼやいたり小言をいったりどなりちらしたりしていた。仕事の手をとめることはけしてなかった。エマ・ラドブラクが主婦として乗りこんで来ても、ミツバチが一匹窓からまよいこんだほども気にとめなかった。だからミセス・ラドブラクは最初のうち恐れと不思議さの入りまじった気持でマーサを見ていたものだ。大変な年よりだしすっかりこの家の一部になり切っているし、ちゃんと生きている人間とはとても思えない。飼イヌのオールド・シェプは鼻先の白いコリーで、もう手足もぎこちなく死ぬのを待つばかりなのだが、それでもマーサにくらべるとずっと人間らしい。オールド・シェプがまだ子イヌで生の喜びにあふれて元気いっぱい跳ねまわっていたとき、マーサはもう足もとも危なかしい老婆だった。そのオールド・シェプが今はもう目も見えなくて息が通っているだけの姿になり果てたのに、マーサの方は弱ったながらも頑ばって働きつづけ、掃除をしたりパンを焼いたり、あちこち物をはこんだりしている。むかしからマーサが食べものをやったり世話をしたり手塩にかけて育て上げて、最期もこの古い台所で見取ってやった代々の利口なイヌたちに、もし何か死んでからもまったくは滅びないものがあるとしたら、窓のそとのあの山やまには代々のイヌの魂がさまよっているにちがいない――エマはいつもそう思った。マーサの一生のあいだにつぎつぎとこの世を去った人びとにしろ、マーサにはたくさん思い出があるにちがいない。だがマーサは、エマのようなよそから来た者はもちろん、誰にもむかしのことは話したがらなかった。かん高い震え声で口にするのは、ドアを締め忘れたぞとか手桶をおきちがえたぞとか、コウシに餌をやるのを忘れたぞとか、農家の毎日の暮らしにざらにあるこまごました手落ちや取落ちのことばかりだ。ときたま選挙の時期になると、むかし選挙戦の中心だった古い名前を思い出して話すことがあった。パルマストン(十九世紀中葉のイギリス首相)という名が出た。それはタイバートンの方の人だった。タイバートンは直線距離ならあまり遠くないのだが、マーサにとってはまるで外国だった。そのあと、ノースコートだのアクランドだの、いろいろ新しい名前が出て来たがマーサはすっかり忘れてしまった。名前はいろいろ変わってもいつもきまって自由党対保守党で選挙カラーでいえば黄色対青色だった。そして誰が正しいとか誰がまちがっているとか、いつもその争いでどなり合った。一番激しい争いの中心になったのは怒ったような顔をした立派な老紳士で、マーサはその人の写真が壁にかけてあるのを見た覚えもある。それを床に投げ出してその上で腐ったリンゴを踏みつぶしたところを見た覚えもある。この家の支持する政党がときたま変わったからだ。しかしマーサはけしてどちらの側にもついたことがない。「奴らはこのうちのためになること何一つしたことがない」からだ。その調子でマーサは十ぱひとからげにきめつける。百姓らしく、世間を一切信用しないのだ。
恐怖と好奇心のまじり合った気持がやや薄れると、マーサに対してまた別な気持がわいて来たが、それに気づくとエマ・ラドブラクはいやな気がした。マーサはつまりこの家の古い伝統そのものなのだ。いつになってもこの家から姿を消すことがない、いわばこの家の中核なのだ。いじらしくなるところもあれば古風な生き方に一種の趣きもある。だが断然、恐ろしく邪魔になるのだ。エマはもともと、ここへ越して来たらあちこち模様替えして改良するつもりだった。それは現代式のやり方をいろいろ習ったせいもあり、自分で思いついたり考えたりした結論でもあった。しかし、台所一帯の模様替えなぞ、かりに何とか工夫してマーサの遠い耳に聞かせたとしても、たちまち鼻であしらって蹴ちらされるにちがいない。それに台所一帯といえば乳しぼり場のことにしろ畑の作物の積出しにしろ、家事の半分にもまたがっている。市場へ積出すニワトリの下ごしらえも新式のやり方をよく知っているエマだが、マーサが八十年もむかしからの仕来り通り、|手《て》|羽《ば》も足も胴にくくって足ばかり見せて胸をかくしてしまうのを、相手にもされずに見ているだけなのだ。こうすれば仕事がはかどるとか手間がはぶけるとか、こうした方が衛生にいいとか、教えたいことやらやりたいことが山ほどあっても、何かブツブツいうだけで聞こうともしない影のようなマーサがいてはどうにもならなかった。一番困るのはあの大事な窓のそばの片隅だ。ガランとした古い台所だがここだけは居心地のいい場所にすればなるのに、山のようなガラクタだらけでどうにもならない。名目だけは主婦となっているが、エマはそれを片づける勇気もなければ片づけたくもなかった。ガラクタ一面に何か人間が張ったクモの巣のようなものがかかって守っているような気がする。どうしてもマーサのいるのが邪魔になった。けなげに生きているマーサもたかだかあと二、三カ月の命だろう。その長くもない命が短くなればいい、などと思ったりしてはとんでもないことだ。だが日一日とたつにつれ、いくら打ち消しても、心の底にはそうした願いがひそんで消えない。エマはそれに気がついた。
ある日、エマが台所へ入って行くと、いつもざわついている台所がいつになく静かだ。とたんにエマは、ああわるかったと後悔して良心に責められた。マーサが仕事の手をやめていたからだ。足もとの床には小ムギの籠があるし、窓のそとの庭場ではニワトリが餌を催促している。それなのにマーサは窓ぎわの腰掛にかけて小さくからだを丸めたまま、かすんだ目で外を眺めている。窓のそとの秋景色とはまるでちがう何か異様なものを眺めているらしい。
「マーサ、どうかしたの?」とエマは声をかけた。
「死神でごぜえます。死神がやってくるんでごぜえます」と震える声が返事した。「くるだろうと思っとりましただ。わかってましただよ。けさからオールド・シェプが吠え通しなのもそのせえでごぜえます。ゆうべはコノハズクが死神を呼んどりましたし、きのうは何か白いものが庭場をかけぬけましたぞ。ネコでもなしイタチでもなし、おかしなものでごぜえます。ニワトリもそうと知ってわきへよけましただ。はい、いろいろ前知らせがありましたで、くるだろうと思っとりました」
エマの目はあわれみに曇った。今ここにかけている白っちゃけてしなび切った婆さんも、もとはそうぞうしい元気な子供で、路地やウマ小屋の二階や農家の屋根裏をあそび廻っていたのだ。それももう八十年のむかしとなって、今はもうやせ衰えたからだをすくめて、ようやく迎えに来た死神がひえびえと近づくのを待っているところなのだ。どう手をつくしてもむだだろうとは思ったが、エマはあわてて助けを求めにかけ出した。夫は少し離れたところで立木を倒す現場にいるはずだが、誰かほかに物がわかってマーサをよく知っている者がいるだろう。かけ出して行くとすぐわかったが、農家というのはどこの家でも、人間ひとり残らず呑みこんで影も見せないことがあるものだ。ニワトリどもが何事だろうとエマのあとについて来た。ブタどもは小屋の横木の向こうからいぶかしそうに鼻を鳴らした。だが干し草置場も納屋の庭場も、果樹園も廐舎も乳しぼり場も、どこを捜しても誰ひとりいない。また台所の方へもどりかけるとエマはバッタリいとこに出合った。ミスター・ジムの名で通っている男だ。しろうとなのにウマの売買を周旋したりウサギを撃ったり農家の下女に手を出したりしている。
「マーサが死にそうなのよ」とエマはいった。相手はいきなりこんな話を切り出しても差支えないタイプなのだ。
「ばかな!」とジムはいった。「マーサは百まで生きる気だぞ。おれにそういった。きっと百まで生きるぞ」
「いま死にかけてるのよ。グッタリしかけたところよ」とエマはたたみかけていった。相手がうすのろのボンヤリなのを見下げている。
お人よしジムの顔にニタリと笑いがひろがった。
「そんなはずはねえだろう」と、中庭の方へ顎をしゃくった。何のつもりだろうとエマはその方へふりむいた。するとマーサが集まって来た飼鳥どもの大群のまん中に立って、ひと握りずつ餌をまいていた。全身茶色にきらめいて赤黒い|肉《にく》|垂《すい》を垂らした雄のシチメンチョウ、東洋風の羽毛がピカピカ金属的に光るシャモ、うすい黄色やら黄ばんだ茶色やら赤みがかった茶色やら、色とりどりだがとさかだけはまっ赤なメンドリ、暗い緑色の首をしたカモの雄など、あざやかな色が入りまじる中に、マーサの姿はまるで枯れ茎が一本、色さまざまに咲き乱れた花の中に立っているようだ。マーサは一面に上を向いたくちばし目がけて上手に餌をまいていた。震える声が遠くから見ている二人にも聞こえてくる。うちへ死神がくるぞ、とまだ繰り返しているのだ。
「やってくるとわかってただよ。いろいろ前知らせがあっただよ」
「マーサ婆さん、誰が死んだ?」とジムが声をかけた。
「ミスター・ラドブラクが死んだだよ」とかん高い返事が来た、「いまうちへ運びこんだところだね。倒れてくる立木をよけようとして鉄柱へぶつかっただよ。前からわかってただ、死神がくるとな」
そしてまたふり返ると、一足おそくかけつけたホロホロチョウの一群にオオムギを一握りまいてやった。
この屋敷は一族の財産になっていたので、一番縁の近い、あのウサギ撃ちの好きないとこが相続した。エマはこの家の歴史から流し出された。あけ放しの窓からフラフラ迷いこんだミツバチがまた外へ飛び出したようである。ある寒い灰色の朝、エマは手荷物を荷車に積みこんで立っていた。市場へ出す農作物を積み終るのを待っているのだ。エマが乗りこむ汽車の時刻よりも、売りに出すニワトリやバタや鶏卵の方が大事なのだ。立っているところから長い格子窓の片隅が見える。あそこへカーテンを吊ったり花瓶をおいたりして明るい居心地のいいところにしようと思っていた場所だ。ふとエマの心に浮かんだ――これから何カ月かさきに、もしかしたら何年もさきになって、自分なぞとうのむかしに忘れられたころ、あの格子窓からガラス越しに、うつろな目の白じろした顔が外を見ているだろう。そして石だたみの通路を何かブツブツいう低い声が行ったり来たりするだろう。エマは横ざんのしてある小窓のそばへ近よった。中は食料貯蔵室になっている。マーサがテーブルの前に立ったまま、市場へ出すニワトリの下ごしらえをしていた、八十年もむかしからの仕来り通りに。
ひと休み
[#地から2字上げ]The Lull
「ラティマー・スプリングフィールドに日曜日にはうちへ来て一晩泊まってらっしゃい、といっときましたよ」と、ミセス・ダーモットが朝食のテーブルで一同に知らせた。
「いま選挙運動の最中で大変だろうと思っていた」とミスター・ダーモットがいった。
「その通りなんです。選挙は水曜日でしょう、きっとそれまでに骨と皮だけになってますわ。この土砂降りに選挙運動なんて、それこそ大変でしょうね。泥んこの田舎道を歩きまわったり、吹きぬけの教室でビショ濡れの聴衆相手に演説したり、二週間というもの、それを毎日つづけるわけですね。どうせ日曜日にもきっとどこかの教会へ顔出ししなけりゃなりませんから、そのあとすぐうちへ来て政治のことなどすっかり忘れりゃいいんです。わたし、政治なんぞ完全に忘れさせてあげますわ。階段のところにかけてある『クロムウェル長期議会を解散するの図』は外させましたし、喫煙室にあるロード・ローズベリ作の『ラダス』の肖像も片づけさせました。それからヴィアラ」と、ミセス・ダーモットは十六歳になる姪の方を向いてつけたした、「おまえも髪のリボンの色に気をつけなさいよ。青も黄色も絶対いけません、いま張り合ってる政党の色ですからね。エメラルド・グリーンとオレンジ色もだめね、アイルランド自治法案がいちばんの問題なんだから」
「わたし、ちゃんとした場合はいつも黒のリボンにしてますわ」と、ヴィアラがいった。四の五のいわせぬ毅然たる態度である。
ラティマー・スプリングフィールドはあまり元気のない、まだ若いのに少しふけこんだ男で、政界へ入るときも|半喪服《ハーフ・モーニング》でも着るような気持で入った。しかし政治狂とはいえないまでもかなり熱心にコツコツやるタイプだから、ミセス・ダーモットがラティマーは今度の選挙にひどく熱を上げているといったのも、あまり大きな見当ちがいではない。だからミセス・ダーモットからぜひともひと晩うちへ泊まってひと休みしなさいといわれたのは、もちろんありがたかった。だが選挙さわぎでひどく気が立っているから、選挙のことをまったく忘れることはできなかった。
「あの人、きっと夜中まで寝ないで演説の最後の仕上げでもしてるのよ」と残念そうにミセス・ダーモットがいった、「でも今日はお昼すぎから寝るときまで、ずっと政治の話は絶対ぬきにしましたからね。これ以上のことはできませんわ」
「さあ、そうでしょうか」とヴィアラがいった。ただし胸の中でいったのである。
ラティマーは寝室のドアを締めるや否や、束ねたノートやパンフレットの山に没頭した。手帳も万年筆も総動員して役に立ちそうな事実と慎重にこね上げた作り事をうまく配列した。かれこれ三十五分間一心に仕事して、家中が田園生活の健康な眠りにちゃんと寝静まったらしいころ、廊下に絞め殺されそうな鳴き声が起こってドタバタ足音がし、つづいてドアを烈しく叩く音がした。それに答える間もなく、ヴィアラが何か大きな物をかかえて飛びこむと、「ねえ、これ、ここへ置いて構いません?」とたずねた。
「これ」というのは黒い子ブタが一頭に、たくましい赤黒色のシャモ一羽である。
ラティマーは動物もまずまず好きな方で、経済的な面から特に小型の家畜の飼育には関心がふかかった。事実、いま現に調べていたのも、この地方における養豚ならびに養鶏事業振興の必要を力説したパンフレットなのだ。だが、かなり広々した寝室にしろ、鶏舎とブタ小屋の産物の見本との同居をしぶったのは無理もない。
「どこか外へ置いてやった方が喜ぶんじゃないですか?」と彼はたずねた。表向きは子ブタとシャモのためを思うと見せながら、実はたくみに自分の都合を述べたわけだ。
「その外がなくなったんですの」とヴィアラが思わせぶりな返事をした、「外は一面どす黒い水が渦まいてるだけですわ。ブリンクリの貯水池が崩れたんです」
「ブリンクリに貯水池があるとは知らなかったな」とラティマーがいった。
「とにかくもうなくなりましたわ、一面にあふれ出したんですもの。それにこの家、中でも低いところにあるでしょう、ですから今はもう内海の真ん中みたい。それに河の水まで堤防からあふれてきましたわ」
「そりゃ大変だ! 死人がでましたか?」
「何十人も死んだようですよ。撞球室の窓の外を死人が三人も流されて行きましたけど、二番目の女中がそれを見て自分が結婚の約束をした人だといってますわ。ここらあたりのいろんな人と婚約したのか、さもなけりゃいいかげんに見ていったのか、どっちかですわね。もっとも同じ死体がぐるぐる廻ってなんべんも通ったのかも知れませんね、いま気がつきましたけど」
「そりゃ飛び出して救助活動をしなけりゃなりませんね!」とラティマーがいった。国会議員候補たる者はとかく世間の注目をひく行動を取る。その本能が働いたのだ。
「それができないんですよ」と、ヴィアラがキッパリいった、「ボートはひとつもありませんし、逆巻く波でどこの家とも連絡が取れません。伯母さまは、あなたはどうか騒ぎを大きくしないように、この部屋からお出にならないように、といってますけど、シャモの『ハートルプールの奇蹟号』だけはひと晩お部屋へ入れて下さればありがたい、といいますの。何しろほかに八羽もシャモがいましてね、一緒にしたら喧嘩して大変なんです。だから一羽ずつ別々の寝室へ入れてるんです、鶏舎はみんな水浸しですしね。それにこのかわいい子ブタもお願いしようと思いましてね。とてもかわいい奴ですけどひどく気がつよいんです。母親の血をひいたんですの――かわいそうに母親の方はブタ小屋で溺れて死にました。死んだものをわるくいうわけじゃありませんけど。男の手でしっかと抑えておかないとおとなしくしていませんの。わたしが何とか取り組んでもいいんですけど、わたしの室にはわたしのチャウチャウがいましてね、ブタを見つけるとかかって行きますからね」
「そのブタ、浴室へ入れるわけに行きませんか?」とラティマーが心細い声を出した。ここへブタなど入れてやるものかと、自分もチャウチャウ並みにキッパリ出ておけばよかった、と思ったのだ。
「浴室ですか?」とヴィアラはかん高い声で笑って、「ボーイ・スカウトの連中で朝まで満員ですわ、それまでお湯がもちさえすれば」
「ボーイ・スカウトがどうしたんです?」
「水がまだ腰までのころ、ボーイ・スカウトが三十人、救助に来てくれたんですの。そしたら水がまた三フィートも増したでしょう、今度はこっちで救助する騒ぎになりました。いま何人かずつお風呂へ入れて、ぬれた服は乾燥室で乾かしてますけど、びしょぬれの服なんてすぐには乾きませんしね。廊下も階段もテュークの描いた海岸風景みたいな有様なんです。その二人がいまあなたのメルトンのオーバーを着てますわ。構やしないでしょう?」
「あれは新調のオーバーなんですよ」とラティマーはいった。構わないどころか大構いだという様子がありあり見える。
「『ハートルプールの奇蹟号』はよく気をつけてくださいね」とヴィアラがいった、「あれの母親はバーミンガムで一等賞を三回取りましたし、あれも去年グロスターで|若鶏《コカラル》クラスの二等でした。きっとベッドの足の方の手すりへ止まって寝ますわ。メンドリも少し一緒においてやった方が落ち着くでしょうね。みんな食堂室へ入れてありますけど、『ハートルプールのヘレン号』をすぐ見つけてきましょう、これのお気に入りですから」
ラティマーは手おくれながら『ハートルプールのヘレン号』は困ると断った。ヴィアラの方もぜひにも頑張る事もなく引き下がったが、まず『ハートルプールの奇蹟号』を取りあえずベッドの足の方の手すりへ止らせ、それから子ブタに念入りに心をこめて別れを告げてから引き下がったのである。ラティマーは服をぬぐとサッサとベッドへ入った。あかりを消せば子ブタがクンクンソワソワ嗅ぎまわるのも止むだろう。ところがしょげこんだ子ブタは室内をひと通り点検して、ちゃんと藁を敷いた気持のいいブタ小屋の代用品としてあまり感心しない、と思ったらしいが、たちまち素敵な設備があるのを発見した。どんなぜいたくなブタ小屋にも絶対にない施設である。ベッドの下側の、背中をこすりつけるのにちょうどいい高さに鋭いヘリが出ている。子ブタはそれに背をあてて行ったり来たり、うっとりといい気持そうに背中をこすり出した。そら背中がヘリにさわるぞ、という大事な瞬間には背中をスタイルよくもち上げて、同時に長々と嬉しそうに咽喉を鳴らす。シャモの方は、たぶん止ったマツの木の枝が揺れているつもりなのだろう、揺れても一向に平気なものだが、ラティマーの方はとても平気でいられなかった。幾度かブタの身体をピシャリとたたいたが、相手はそれを自分の行動への批判とも取らず、よせという警告とも受け取らず、却ってこれまた気持のいい刺激のおまけと思っている。確かに男の手でしっかと抑えれば解決する問題ではない。ラティマーはベッドから下りると、何か相手を調伏する武器はないかと探した。寝室の中はその動きが子ブタにもわかる程度の明るさだから、さっき洪水に溺れて死んだ母親ゆずりの烈しい気性がたちまち発動した。ラティマーはベッドへ飛びこんだ。勝ち誇った相手は二、三度おどかすように鼻を鳴らしたり歯咬みしたりすると、またいちだんと熱心に背中のマッサージを開始した。それからずっとラティマーは寝つかれなかった。直面する問題から気を外らそうと、婚約の男に死なれた女中は気の毒だな、と思ってみたりしたが、それよりもあのメルトンのオーバーをボーイ・スカウト何人で着こんでいるのか、とかくその方が気になった。むかし|聖者《セント》マーティンは着ている外套を乞食にあたえたそうだが、心にもなくセント・マーティンにされる役割はどうも気乗りがしない。
夜明け近くなって子ブタがようやく安らかな眠りに落ちたので、ラティマーもその範にならおうとした。ところがほとんど同時に、うとうとしていたハートルプール号がひと声すさまじくときを作り、カタコト床へ下りるとたちまち衣裳だんすの鏡にうつる自分の姿と猛烈な組み打ちを開始した。このシャモの世話は一応頼まれていたのを思い出して、ラティマーはハーグ国際調停裁判所の役目を果たした。つまり、挑戦者たる鏡にバス・タオルをかけたのだが、せっかくまとめた平和も局地的で永続しなかった。シャモが的をなくしたエネルギーの捌け口を、今やおとなしく眠っている子ブタに対する突然かつ執拗な攻撃に発見したのである。食うか食われるかの物すごい決闘になった。仲裁に入れる可能性は全然ない。シャモの方には窮地に陥るとヒラリとベッドへ飛び上がれる強みがある。シャモは思うままこの強みを利用した。子ブタの方はとてもそう高くは飛び上がれなかったが、それも努力不足のいたすところではなかった。
シャモも子ブタも決定的な勝利は得られず、朝早く女中がお茶をはこんできたとき、戦闘はほとんど行きづまりの状態にあった。
「あら、まあ!」と女中は驚いたのを隠しもせず大声を立てた、「シャモや子ブタをお部屋へおくのがお好きなんですか?」
「お好き」とは何事だ!
子ブタはどうやら長居しすぎたと気づいたらしく、ドアから一散にかけ出して行った。そのあとからシャモも悠々たる足取りで出て行った。
「ミス・ヴィアラのイヌがあの子ブタを見つけたら大変ですわ」と女中は大声を立てると、大惨劇を食いとめようとかけ出して行った。
ラティマーの頭には、もしやという気を滅入らす疑いがそろそろわきかけた。窓のところへ行って|鎧戸《ブラインド》をあけると、外は細かい雨がシトシト降ってはいるが水の出た様子は跡かたもない。
三十分ばかりして朝食の食堂へ行く途中、ラティマーはヴィアラに出あった。
「あなたがわざとわたしに嘘をついたとは思いたくありませんがね」と彼は冷やかな口調でいった。「しかし、思いたくない事も思わなきゃならん場合もあるものですよ」
「でもわたし、とにかく一晩中あなたに政治のことを忘れさせてあげましたわ」とヴィアラはいった。
事実、それに相違なかったのである。
最も冷酷な打撃
[#地から2字上げ]The Unkindest Blow
ストライキの季節もつづくだけつづいて、今や疲労のため停止の状態にあった。工夫すれば何とか混乱の起こせる方面は、商売でも産業でも職業でもほとんど残らず、もうストライキという栄華の夢を見はたした。いちばん最後に、かつもっとも不成功に終ったのは世界動物園従業員組合のストライキだった。組合側は要求の解決するまで動物の飼育からいっさい手を引き、代りの者が飼育に当ることも拒否した。そこで動物園当局は、もし従業員側が仕事の現場を放棄するならば動物どもも現場から放棄する、と威嚇したので、事態はますます悪化して危機を招いた。サイや野牛の雄はいうに及ばず、大型の肉食獣どもが今にも餌に餓えてロンドンの中心地を勝手にうろつき出すとなっては、もう長々と交渉を繰り返しているわけにいかない。当時の政府は、とかく事の成り行きから二、三時間おくれて手を打つ傾向から昼すぎ政府の|綽名《あだな》があったが、今度ばかりは猶予なく決定的な手を打たざるを得なかった。強力な海兵隊がリジェント|公園《パーク》の動物園へ派遣されて、従業員組合が放棄した職場を引きついだ。陸軍でなく海軍の兵士をえらんだのは、いろいろ理由がある。古くからイギリス海軍はどこへでもすぐ出かける伝統があるのもそのひとつだった。一般に水兵はサルやオウムなど熱帯動物に親しみが深いのもそのひとつだった。しかし海軍大臣の熱心な希望が主な理由である。彼はその主管する領域であまり人目に立たずに何か個人として社会公共に貢献する機会をねらっていたのである。
「もしあの男がどうでも自分の手でアメリカヒョウの子に餌をやると頑張ったら、いずれはイングランド北部で補欠選挙をやることになるぞ、親ヒョウがそれを喜ぶかどうかわからんからな」と閣僚の一人がいった、「現在のところ補欠選挙はありがたくないが、さりとて自分本位の態度も取れないしね」
ところがそのストライキは外部から干渉するまでもなく平和のうちに収まった。従業員の大部分が係りの動物かわいさにそれぞれ職場に戻ったからである。
そのあと、全国民もすべての新聞もホッと安心の胸をなで下ろして、もっと楽しい事件に注意を向けた。まるで新しい平和の時代の夜明けを迎えたようだった。何しろ、何とかしてストライキをやりたい者も、否応なしに言いくるめられたり脅かされたり何とかストライキに追いこまれた者も、一人残らずストライキをやったあとだ。だから今度は当然、人生の明るい楽しい面に自然と注意が向くわけである。急に脚光をあびはじめた諸問題のうち、特に目立つのは目下係争中のファルバツーン公爵夫妻の離婚問題であった。
ファルバツーン公爵は例の人間オードブルのひとりで、センセーションを求める世間の欲望をそそりはするが腹にたまるものはあまり与えない人物だ。子供のころから目ざましく早熟で、「イギリス国教評論」の主筆を提供されて辞退したのがたいがいの子供ならラテン語のメンサ(テーブル)の格変化ができれば満足している年頃だった。未来派文学運動の創始者とはいえないが、十四歳のとき書いた「未来の孫への書簡」はかなり注目を呼んだものだ。その後はあまり才気煥発とはいかなかった。モロッコが過去七年間に五回も全ヨーロッパの半分を戦争にまきこみかけたが、その第五回目にイギリス上院でモロッコ問題が討論されたとき、「ムーア人ひとりの値段はいくらするか」[#訳者註]と口を出したのが政界における彼の唯一の発言で、その場はみな面白がって喝采したものの当人はそれきりその方面で活動する気は起こさなかった。あちこちの町や田舎にたくさん邸をもっているから、その上また世間の目に立つ行動までするつもりはないのだろう、というのが世間の定評だった。
そこへ公爵夫妻の離婚訴訟が近いそうだ、と予想外の噂が伝わった。しかもそれが大変な訴訟事件なのである。反訴訟だの陳述だの反対陳述だの、虐待に対する告発だの同居拒否に対する告発だの、複雑きわまるセンセーショナルな離婚訴訟として道具立てが全部そろっていた。その上、関係者にも証人にも名流人士が肩を並べ、両政党からはもちろん、植民地総督まで数名いるばかりか、フランス、ハンガリー、北米合衆国、バーデン大公国から異国情緒ゆたかな派遣団まで来る始末である。一流のホテルは予約で超満員だった。「まるでインド総督の|謁見式《ダーバー》みたいでしょうね、ゾウこそいないけど」と、ある女性のファンがいったが、公平なところ、その女性はダーバーを見たことがなかった。ただ、この事件の裁判がはじまる日までに最後のストライキの決着がついてよかった、というのが世間一般の心持だった。
ストライキつづきの暗い季節がようやくすぎたところだから、その反動として、センセーションを供給し演出する各機関は必死となって全力をそそいだ。ヨーロッパの隅々から、また大西洋の向こうから、描写力特に優秀と評判の高い作家たちが動員されて、事件の新聞記事に花を添えることになった。反対訊問を受けて証人が顔色を変える場面の描写を専門とするある名文家などは、急にシシリー島から呼びもどされた。有名な殺人事件の裁判が長びいて滞在中だったが、そんなところにいたのではせっかくの才能がむだになるわけだ。スケッチ画の名手や優秀なカメラマンは法外な給料で足止めされた。ファッション記事の専門家は引っぱりだこだった。ある活動的なパリのドレス・メーキングの会社は被告人たる公爵夫人に新作品を三点寄贈して、裁判が進んで重要な段階にさしかかるごとに、それを着用して法廷に出てもらい、大いに世間の目を引いて手広く宣伝する手配をした。映画会社も不屈の努力と頑張りを見せて、裁判の前夜に公爵がペットのカナリヤに訣別する場面のフィルムが裁判の当日より何週間も早く出来上がったし、公爵夫人がにせの弁護士ども相手に架空の相談をする場面や、特に宣伝中の菜食主義サンドイッチで裁判の合間に軽く食事をする場面の映画もできた。人智をつくして前途を見通し計画を進めたから、この裁判が大成功を収めるのは一点の疑いもなかった。
いよいよ裁判開始の二日前、ある有力な大通信社の先発通信員が公爵のインタビューを取りに行った。公爵閣下がどんな服装で出廷されるか、最後的情報を何か少しでもつかむ目的である。
「今度の裁判はこの種の事件としてはまず一生に何回もは見られない大事件といえると思いますが」と通信員は切り出した。これから容赦なくこまかな事まで聞き出す口実である。
「そうだろうな――もし裁判があれば」と公爵は気がなさそうな返事をした。
「もし、ですか?」と通信員が聞き返した。アッとびっくり口のふさがらない声とキャッと悲鳴を上げる声との中間ぐらいの声だった。
「公爵夫人もわが輩もストライキをやろうと考えておる」と公爵がいった。
「ストライキ?」
この不吉な言葉を聞くと通信員の頭には、あのさまざまな恐ろしい思い出がまざまざとひらめいた。あれがまたいつまでも止めどなくつづくのか!
「そうおっしゃいますと」とヘドモドしながら通信員はいった。「おふた方とも訴訟の取り下げを考慮中というのでございますか?」
「その通りである」と公爵はいった。
「しかし閣下、どうかお考えを願います。もう準備は万端ととのっておりますよ、緊急報道の用意でも、映画でも、証人として来られる諸外国の名流各位の受け入れ態勢でも、寄席で使います本事件への当て|台詞《せりふ》でも。どうかお考え下さい。この事件にこれまでどれほど大金がつぎこまれたか――」
「よくわかっとる」と公爵の言葉は冷静だった。「公爵夫人もわが輩も気がついたのだが、この大規模な産業の基盤たる材料を提供したのはわれわれ夫妻だ。裁判の進行中、社会の各方面に仕事口はふえるだろうし、巨万の収益も上がるだろう。ところがわれわれ夫妻は、もめごととゴタゴタはいっさい二人で引き受けながら、得るところは果たして何だ? 誰一人うらやみもしない汚名と、判決がどうなろうと多額の訴訟費用を払わされる特権と、それだけきりだ。そこでわれわれ夫妻はストライキをやろうと決心した。実は和解するつもりは二人とも全然ないし、和解はかるがるしく取るべき手ではないと十分承知もしている。しかし、われわれ夫妻が生み出した莫大な利益と産業の発展から、われわれがしかるべき若干の報酬を受けない限り、われわれ夫妻は訴訟を取り下げて法廷に出ないことにする。ではさようなら」
またもやストライキと聞いて世間はびっくり仰天した。世間普通の説得などの手は使えないから特に大変である。公爵夫妻が断じて離婚訴訟はやめると頑張る以上、政府としても干渉するわけにいかない。世論の力で公爵夫妻を社交界から追放はできようが、どう圧力を加えたところでそこまでの話である。気前のいい条件をもち出して公爵夫妻に交渉するよりほか方法はない。一方、外国から来た証人は数名すでに帰国したし、電報でホテルの予約を取り消した者もあった。
いやな思いをしたり時には激論を交したり、交渉は長々と手間取ったが、結局、訴訟再開の相談はうまくまとまった。しかし、それはほんの一時のはかなき成功だった。裁判開始の二週間前、公爵は幼いころの早熟ぶりを発揮して早発性老衰のため逝去したのである。
〔訳者註〕
この短い言葉の意味が訳者には今のところわからない。訳文はいい加減な間に合わせである。むかし、有島武郎はホイットマンの『草の葉』を訳すとき、自信のないところはこの手を使っている。訳者はその故智に学んだ。
ロマンス売ります
[#地から2字上げ]The Romancers
ロンドンは秋だった。きびしい冬と当てにならない夏との間の、あのありがたい季節である。誰でも球根を買いこんだり選挙権登録に気を配ったり、春が来るのと政府が変わるのをじっと信じている信頼の季節である。
モートン・クロスビーはハイド|公園《パーク》の奥まったベンチにかけて、大儀そうに巻煙草をくゆらしながら、つがいのハクガンがゆっくり水面をすべって行くのを眺めていた。メスの方は赤茶けた色でオスはその|白《しろ》|子《こ》版という格好だ。ひとつ彼がそれとなく目をつけて気を配っているものがある。さっきからクロスビーのベンチの前をおずおずとふらついている人影だ。二、三度行ったり来たり、その間隔がだんだん短くなるのが、まるで用心深いカラスが何か食えそうなものを見つけてそばへ下りる時のようだ。果たしてその人影はクロスビーのベンチへ|碇《いかり》を下ろした。前からかけているクロスビーと楽に話のできる近さである。着古した服、しらが混りの不敵な顎ひげ、それにコソコソ人目を避けるような目つき――たかり屋を商売にしている男にちがいない。みじめくさい身の上話をあることないこと何時間もしゃべったあげく突っぱねられたりする方が、ちゃんとした仕事に半日取り組むよりましだ、という男である。
腰を下ろした男はしばらく何を見るでもなく目をハッタと正面に向けていたが、やがて不意に口を切った。上手に取り入るような口調で、相手が暇人ならちゃんと釣りこむ話があるらしい。
「妙な世の中ですな」とその男はいった。
そう切り出しても何の手答えもないので、今度は質問の形に切りかえた。
「たぶんあんたも妙な世の中だと思ってるでしょう?」
「ほかの人はどうか知りませんが、わたしは生まれて三十六年たつうち妙だと思わなくなりましたよ」
「そうですか」と、しらが混りの顎ひげがいった、「まるでウソのような話があるんですよ、わたしは。実に驚いた事件がいろいろふりかかりましてね」
「実に驚いた事件などというのは、近頃あまり誰も聞きたがりませんぞ」とクロスビーはピシャリと相手の出鼻をくじいた、「そんな話は小説家を商売にしてる連中の方がずっと上手ですからね。たとえば近所の人が、ボルゾイだのチャウチャウだのアバディーンだのいろいろですが、とにかく、うちのイヌがこんな驚くべきウソのようなことをしました、なんていいますが、ぼくは相手にしません。しかしコナン・ドイルの『バスカヴィル家の猟犬』なら三べん読みました」
相手はかけたままモジモジしたが、鉾先を変えてまた出直した。
「ちゃんとしたクリスチャンなんですな、あんたは?」
「東ペルシャでは一応名の売れたマホメット教徒です。まず有力者といえるでしょう」とクロスビーはいった。虚構の世界へ一歩ふみ出したのだ。
しらが混りの顎ひげはまたもや出鼻をくじかれてありありと面くらったが、撃退されてもすぐ立ち直った。
「ペルシャですか。ペルシャ人とは思いませんでした」と彼はいった。いささかムッとした様子である。
「ちがいます。父はアフガニスタン人でした」
「アフガニスタン人ですって!」相手はビックリまごついてしばし黙ったが、やがて立ち直ってまた攻めかけた。
「アフガニスタンとは、これはこれは。もとイギリスはその国となんべんも戦争しましたな。だが戦争なぞやらずに、アフガニスタンのいいところを学べばよかった、と思いますね。たしか非常に豊かな国ですな。まったくの貧乏なんてないんでしょう?」
彼は『貧乏』というところを強めていった。そこに深い気持をこめたらしい。クロスビーはそら来たな、とばかり逃げを打った。
「しかし非常に腕のある頭のいい乞食がたくさんいますよ。本当にあった実に驚くべき話などつまらん、とさっきいったから止めときますが、イブラヒムとラクダ十一頭に積んだ吸取紙の一件などもありますしね。それが結局どうなったか、それも忘れましたから止めておきます」
「わたしの話も実に奇妙なんです」と相手はいった。どうやらイブラヒムの一件に対する興味は抑えたらしい。「実はわたしももとから今のわたしではなかったのです」
「そうでしょう、人間の身体は七年たつともとの身体じゃなくなるそうですからね」とクロスビーはいった。相手の言葉に説明を加えたのである。
「そういう事じゃないんです。わたしももとはこんなやり切れない立場じゃありませんでした、現在みたいに」と相手はしつこくしゃべり続けた。
「そんな事いうのは失礼だな」とクロスビーはツンとした、「こう見えてもわたしはペルシャ・アフガニスタン国境界隈第一の座談家として有名な男ですぞ」
「いいや、そんなつもりじゃありません」と相手があわてていった、「お話は大変面白く伺っているんです。わたしがやり切れないといったのは現在わたしが金銭的に行きづまっている事なんです。本当にしてくださるかどうかわかりませんが、わたしは現在まったくの一文なしです。それにこれから二、三日はまったく|金《かね》の入るあてがありません。これほど困ったことなど、あんたは一度もないでしょうな」と彼は付けたした。
「南アフガニスタンにヨムという町がありましてね、それがわたしの故郷なんですが、そこに中国人の賢者が一人いまして、人生最大の幸福は三つあるがそのひとつはまったく金銭をもたないことだ、といってました、あとのふたつは何だか忘れましたが」
「そうかも知れません」と相手はいった。中国人の賢者の思い出にもあまり気乗りした様子はない。
「その賢者はいう通り実践しましたか? それでわかりますよ」
「|金《かね》も何もなしで幸福に暮らしていました」
「それなら現在のわたしのように困り切ると気前よく助けてくれる友達がいたんでしょう」
「ヨムの町では友達なんぞなくても助けてもらうのに不自由はありません。ヨムの町の人は誰でも、当然のこととして赤の他人でも助けますからね」
しらが混りの顎ひげはまぎれもなく心から興味をもった。ようやく話の風向きがよくなったからだ。
「たとえばですね、もし誰かわたしのように悪いこともしないのに貧乏し切った者が、お話の町の人に二、三日急場を切りぬけるうち|金《かね》を少し……五シリングとかあるいはも少し……貸してくださいと頼んだら、さっそく貸してくれますか?」
「少し手続きがありますな」とクロスビーはいった、「まず居酒屋へ連れて行ってマスで一ぱい飲ませます。それから景気のいい世間話を少しして、欲しいだけ|金《かね》をわたしてさよならと別れるんです。わずかな金の受けわたしには廻りくどいやり方ですが、東洋では何もかも廻りくどいですからね」
きいていた相手の目はキラキラ光っていた。
「そうですか」と彼は声を立てた、「しかしその故郷の町をはなれてからはその気前のいい風習もお止めになったんでしょう。もう止めてるんですね」せせら笑うような口調である。
「止めるもんですか」とクロスビーは断言した、「一度ヨムの町に住んだことがあって、あのアンズやアーモンドの木が茂った緑の山々だの、雪の山からやさしく流れ落ちては小さな木造りの橋の下をたぎっていく冷たい水だの、そんなものを覚えておりその記憶を大事にしている者は誰でも、ヨムの町の不文律になっている慣例と風習をひとつとして忘れるもんですか。わたしは青春をすごしたあの聖なる故郷の慣例と風習を今もそこに住んでるようにちゃんと守っています」
「ではわたしが少しお|金《かね》を貸してくださいとお願いしたら……」と、しらが混りの顎ひげは尾でも振るようににじり寄った。金高をどの位までふくらましても大丈夫かな、と大急ぎで胸算用している。「もしわたしが、さあ、まず……」
「貸しますとも、今日でなければ」とクロスビーがいった、「ただ十一月と十二月は|金《かね》を貸すのもやるのも、アフガニスタン人は誰も固く禁じられています。そんな話は口にも出しません。そんな事をすると縁起がわるい、というんです。だからこの話はこれで打ち切りましょう」
「だがまだ十月ですぞ」と相手は目を光らせて怒ったような大声を立てた。クロスビーがベンチから立ったのだ。「月末まであと八日もある!」
「ところがアフガニスタンの十一月は昨日からなのさ」とクロスビーはたたきつけるようにいって、次の瞬間、彼は大股に公園を歩いて行った。ベンチに取り残された相手は苦い顔をしてカンカンに怒り何かブツブツいっていた。
「真っ赤な大うそだ!」彼はひとり言をいった、「始めから終りまで真っ赤なうそだ。面と向かってそういってやりゃよかった。アフガニスタン人だ、なんてぬかしやがって!」
それから二十五分間、しらが混りの顎ひげは盛んにうなったりいがんだりした。商売がたきは折り合わぬ、と諺にある。これはその有力な証拠である。
シャルツ・メテルクルーメ式教授法
[#地から2字上げ]The Schartz-Metterklume Method
カーロッタ夫人は田舎の小さな駅のプラットホームへ下りて、何ということもないホームを行ったり来たり一、二度ぶらついた。汽車がまた動き出す気になるまでの暇つぶしである。すると向こうの街道にウマが一頭、途方もない大荷物を積んだ車をひいてジタバタ苦しんでいる。馬丁は暮らしの助けになるウマが憎いらしいタイプの男だ。カーロッタ夫人はさっそくその場へ出向いて行って、ジタバタ騒ぎの形勢をガラリと変えた。動物虐待の現場を見ても干渉はおよしなさい、「あなたの知ったことじゃない」んだから、と、いつもくちうるさく忠告する知り合いも幾人かあるが、彼女がその非干渉主義を実行したのはただの一度だけだ。いつか非干渉派のもっとも雄弁な一人が暴れ出した雄ブタに追われて、ひどく居心地のわるい小さなマルメロの木に三時間近く籠城したとき、カーロッタ夫人は垣根の向こう側で描きかけの水彩画を描きつづけ、雄ブタとブタのとりこの間に入って干渉することはしなかった。とりこになった女性も結局は救い出されたが、カーロッタ夫人はそれきりその女性と交際が絶えたらしい。しかし、今日の場合は汽車に乗りおくれただけですんだ。汽車は始発以来はじめて急にあせり出したと思うと、カーロッタ夫人を置きざりにして出てしまったのだ。置きざりになっても彼女は哲人のごとく平気だった。何しろ親類でも友達でも、カーロッタ夫人は到着しなくて手荷物だけが先に着くのに慣れきっている。とにかく行く先へは「ベツノキシャデユク」とあやふやな電報を打った。さあこれからどうしようと思う間もなく、彼女は堂々たる盛装の女性にバッタリ顔を合わせた。相手はこっちの顔つきや身なりをひとつひとつゆっくり観察しているらしい。
「ミス・ホープですね、あんた。わたしが迎えに来た家庭教師の」と不意に出現したその女はいった。いいえ、などとは断然いわせない口調である。
「さあ、こうなったらなるようにするか」とカーロッタ夫人は思った。彼女がこうおとなしくでるときは危険なのである。
「わたしがミセス・クォーバールです。それで荷物はどこ?」
「どこかへいってしまったんですの」と、家庭教師と見られたカーロッタ夫人はいった。すべてその場にいない者に責任をおしつける――この結構な仕来りに従って返事しただけで、実は荷物の方に何の落度もない。あとから「荷物のことはいま電報を打っておきました」と付けたしたが、この方が事実に近い。
「まああきれた」とミセス・クォーバールはいった、「鉄道会社は不注意なのね。でも今夜のところはメードのものを貸してあげますよ」そしてどんどん先に立って自動車の方へ行った。
クォーバール家の邸へ車を飛ばす途中、カーロッタ夫人はこれから教えることになった子供たちの性質を念入りに聞かされた。クロードとウィルフリッドは感じやすい神経質な子で、アイリーンは芸術的な面に特にすぐれた子、ヴィオラはまたそれとちがってどうだとかこうだとか、いろいろ聞かされたが、いずれも二十世紀のこんな階級の子供にごくありふれたタイプである。
「ただ教えるだけでなく学ぶことに『興味をもたせて』くださいよ。たとえば歴史を教えるには、人物の名前や年代をしこたま暗記させるのではなく、実在した人物の生き方にじかに接する気持をもたせるんですね。それに毎週いく日かは食事のときもちろんフランス語を使ってください」
「毎週四日間はフランス語を使って、あとの三日はロシヤ語を使うことにします」
「まあロシヤ語ですって? 先生、このうちにロシヤ語がわかる者も話せる者もいませんよ」
「それは一向差支えございません」とカーロッタ夫人は冷やかにいった。
話し言葉でいうとミセス・クォーバールはやっつけられたわけだ。何しろ中途半端な自信家だから堂々とお高く構えてはいるが、それも正面切って反対されるまでの話で、少しでも思いがけない抵抗を受けると、たちまち降参して小さくなって下手にでる。新参の家庭教師が買い立ての値段の高い大型車を見てもさっぱり驚かず、最近売り出されたばかりの新型車の話をあれこれ持ち出して、どんなところが優秀だなどと何気なくいうのを聞くと、お高くとまった態度がガラリと崩れて目も当てられなくなった。むかし戦争ばかりの時代の将軍がいちばんの巨象をひきいて戦場に出たところ、せっかくの巨象が敵の投槍と石投げ器にもろくも追い払われたら、ちょうどこんな心持になったろう。
その晩の夕食のときは、いつも妻君のいうことを繰り返して尻押しする夫の援護があったにかかわらず、ミセス・クォーバールはまったく失地を恢復できなかった。この新参の家庭教師はちゃんとワインを飲みこなしたばかりか、ワインの種類やよしあしなど、かなり目のきくところを披露したからだ。ところがクォーバール夫妻は断然ワインの権威者でも何でもない。もといた家庭教師はどれもこれもワインのことになると、わたくしは水の方が結構です、と控え目なことをまんざらうそでもないらしくいうだけだった。それが今度の家庭教師は、ナントカ会社のワインならどうまちがってもまず大丈夫です、とまでいいだしたので、ミセス・クォーバールは話の向きを変えてもっとも平凡なことにもっていった。
「あなたのことは|聖堂理事《キャノン》のティープさんからちゃんと推薦書を頂きましたのよ」と彼女はいった、「立派な人物ですね、あの方」
「大酒飲みで奥さんをなぐります。困るのはそれだけで、あとは感じのいい人ですけど」と平気な顔で家庭教師はいった。
「まあ先生、それ、話が大げさなんでしょう」と夫妻は声をそろえていった。
「公平に見て奥さんの方にも原因がなくはありませんね」とカーロッタ夫人は出まかせをつづけた、「ミセス・ティープときたらブリッジをやってもあんな癪にさわる人、ほかにありませんわ。リードするにもデクレアするにも、あのやり方ではパートナーにしろ自然どぎつい手を打ちたくもなりますね。それに日曜日のお昼すぎ、どこの店もしめてるのに一本しかないソーダ水のサイホンをひとりであけちまうんですからね、ひとのことをまるで考えないんですから手がつけられません。こういうとわたしが短気すぎると見えるかも知れませんが、実はわたし、あのお宅をやめたのは大体そのサイホンの一件がもとでなんですの」
「そのお話はまたいつかにしましょう」とミセス・クォーバールが急いで口を出した。
「わたしもこれきり二度とは申しません」
ミスター・クォーバールは明日何から教えはじめるつもりですかとたずねた。話を明るい方へ向けたのである。
「歴史から始めます」と家庭教師は答えた。
「うん、歴史ですか」と彼は聡明そうな顔をした、「歴史を教えるには歴史に興味をもたせるように気をつけてください。実在した人物の生き方にじかに接する気持をもたせなくてはいけませんな」
「それはもういっときましたよ」とミセス・クォーバールが横から口を出した。
「わたし、歴史はシャルツ・メテルクルーメ式教授法でやります」
「なるほどね」と夫妻はいった。名前ぐらいは知ってるふりをした方がいい、と思ったのだ。
「おまえたち、ここで何してるの?」と翌朝、ミセス・クォーバールはびっくりして子供たちにたずねた。アイリーンは階段を登り切ったところにムッツリ腰を下ろしているし、妹のヴィオラはそのうしろの出窓にオオカミの毛皮をかぶって、これも沈みこんだ様子でかけている。
「いま歴史を習ってるの」と思いもかけない返事である。「わたしがローマなのよ。ヴィオラはあそこにいて雌オオカミなの。本当のオオカミじゃなくてローマ人が大事にしたオオカミの像なのよ……なぜ大事なんだか忘れたけど。クロードとウィルフリッドはぼろを着た女をさらいに行ってるわ」
「ぼろを着た女?」
「そうよ。さらってこなくちゃいけないの。ふたりともいやがったけどホープ先生がお父さんのファイブズ(バットでボールを壁に打ちあてるゲーム)のバットをもってきて、行かなきゃうんとぶんなぐるというんで、いやいや行ったの」
芝生の方から怒った声で大きくどなるのが聞こえたので、ミセス・クォーバールはその場へかけつけた。うんとぶんなぐるという話が進行中かと思ったのだ。ところが大声でわめいているのは主に門番小屋の小さい女の子ふたりで、クロードとウィルフリッドは息を切らし髪をふりみだして押したり引いたり、ふたりを引きずってくる。おまけに、つかまったふたりの女の子の弟が非力ながらも絶えず攻めかかるからいちだんと骨が折れるわけだ。石の欄干の上には家庭教師が腰を下ろして、手にバットをもってそっぽを向いていた。冷然と構えて公平無私にこの場を主宰しているところ、まさに戦争の女神という格好だ。門番小屋の子供たちはすごい声で「ママにいうから」となんべんもどなるが、母親は耳が遠くて目下のところ夢中で洗濯にかかっている。ミセス・クォーバールは心配そうに門番小屋の方をチラリと見ると(門番の女房はきわめて戦闘的な性分だった。これは時により|聾《ろう》|者《しゃ》の特権でもある)カッとしてジタバタもがいている子供たちを救助にかけつけた。
「これ、ウィルフリッド! これ、クロード、すぐ放してやりなさい。ホープ先生、このさわぎ、いったい何ですか?」
「ローマ古代史ですの。ご存知でしょう、あのサビヌ人の女を生け捕るところですよ。シャルツ・メテルクルーメ式教授法では子供に歴史を実演させて理解させます。深く記憶に残りますからね。しかしあなたが邪魔を入れたおかげでお宅のお子さん方が結局サビヌ人の女は逃げたんだなと一生思いこんでも、それはわたしの責任じゃありません」
「ホープ先生、あなたは頭もいいし現代式か知りませんが、今度の汽車ですぐ帰ってください」とミセス・クォーバールはキッパリいった、「荷物は着き次第すぐあとから送ります」
「わたし、これから二、三日はどこにいることになるかハッキリしないんです」と、首になった家庭教師はいった、「電報でアドレスをお知らせするまで荷物はお預かりねがいます。トランクがふたつみつ、ゴルフのクラブが何本か、それにヒョウの子が一頭――それきりですから」
「ヒョウの子ですって!」とミセス・クォーバールはあいた口がふさがらなかった。この変な家庭教師は帰ったあとまで厄介の尾を引く人物らしい。
「ええ、もう子供じゃなくてそろそろおとなになりかけました。毎日ニワトリ一羽に日曜日にはウサギを一羽――いつもそれだけ食べさせています。なまの牛肉をやると興奮していけません。車は呼んで頂かなくて結構ですわ、歩いて行ってみたいので」
そしてカーロッタ夫人はノッシノッシと大股でクォーバール家から姿を消した。
やがて本物のミス・ホープがご到着になると、あまり経験したことのない騒ぎにぶつかって面くらった。予定の日を一日まちがえて着いたのである。クォーバール家がいっぱい食わされてひどい目にあったのは明白だが、そうとわかるとどうやら安心もした。
「ねえカーロッタ、さぞ困ったでしょうね」と彼女を招待した家の奥方がいった。カーロッタ夫人が約束の日から一日おくれてようやく到着したのである、「汽車に乗りおくれて知らない家にひと晩泊まるなんて」
「そんなことないわ」とカーロッタ夫人はいった、「ちっとも困りゃしないの――わたしの方はね」
七番目のニワトリ
[#地から2字上げ]The Seventh Pullet
「ぼくがこぼすのは毎日のつとめのことじゃないんだ」とブレンキンスロープがにがりきった顔でいった、「つとめ先は別だよ。あとは毎日いつもいつもつまらなくて困る。これは面白い、というようなことが何ひとつないんだ、何か珍しい、変わったことがね。たまに何かこれは面白そうだとやってみても、誰もさっぱり面白がってくれないんだな。たとえば、うちの菜園でできた作物の話などもち出してもそうだ」
「あの目方二ポンド以上のジャガイモのことか?」と友達のゴーワースがいった。
「あの話、もう君に話したかな? けさも汽車の中でほかの連中に話したよ。君には話したかどうか忘れちまった」
「正確にいうと二ポンドたらずといったぞ、君は。実はぼく、割引してきいてたんだ。ばかでかい野菜だの沼や川で釣ったさかななどには死後の生命があってね、いつまでもでかくなりつづけるからな」
「みんなと同じだな、君も」とブレンキンスロープが悲しそうな声をした、「話を聞いてもからかうだけじゃないか」
「そりゃジャガイモがわるいんだ。ぼくらのせいじゃない。ぼくらが全然興味をもたないのは全然興味がない話だからさ。毎日同じ汽車で通勤する連中だって君と同じ立場だよ。毎日の暮らしがつまらなくて興味がもてないんだ。その上つまらない話なぞ聞かされたって、大いに興味をもてるはずないじゃないか。何か劇的な、ギョッとするような、ピリリとくるような話をしてみたまえ。自分のことでもいいし、誰か家族のことでもいい。そうすればたちまち興味の的になるぞ。みんな君のことを自慢して人に話すよ。たとえばね、『懇意な奴でブレンキンスロープというのがうちの近所にいてね、夕食に食おうとロブスターを一ぴき買って帰る途中、手の指を二本チョン切られた。医者の話じゃ片腕そっくり切断しなけりゃならんそうだ』――この調子だとかなり高級な話になる。だがね、テニス・クラブへ入って行くなり『ぼくの知ってる男が目方二ポンド四分の一のジャガイモを作りましたよ』なんていってもどうにもならんさ」
「よせよ、そんなこと」とブレンキンスロープはジリジリしていった、「今いったばかりじゃないか、変わったことなんて全然起こらないんだ、ぼくの生活にはね」
「何かひねり出すんだな」とゴーワースがいった。予備校のときバイブルの試験で優等賞をもらってから、廻りの連中より多少は無鉄砲に出る権利があると思いこんでいる男だ。若年にして旧約聖書に出る樹木十七種の名前を立てつづけに並べ立てた人物なら、なるほどたいがいのことは大目に見逃してもやれるだろう。
「たとえばどんなこと?」とブレンキンスロープがいった。少しからんだ口調である。
「きのうの朝、うちのトリ小屋へヘビが一匹はいりこんでね、若いメンドリ七羽のうち六羽やられたよ。まずジッと睨みつけて催眠術にかけるんだな、ヘビは。そしてフラフラになったところへ咬みつくんだ。ところが七番目のメンドリだけがフランス系でね、羽根が目までかぶさってるから睨まれても催眠術にかからない。だがヘビのからだがところどころだけ見える。それに飛びつくとさんざんつついてズタズタにしちまったよ」
「ありがと」とブレンキンスロープがツンとして返事した、「うちのトリ小屋でもし本当にそんなことがあったら、そりゃぼくだって面白いから得意になって人に話すだろうさ。だがぼくならどこまでも事実通り話すな、ありふれた事実でもね」
とはいうものの七番目のニワトリの話は何となく悩ましくて彼の心を離れなかった。汽車の中で自分がその話をしているところが目に浮かぶ。乗合客一同、聞き耳を立てて一心にぼくの話を聞くだろう。そのうち知らず知らず頭の中で七番目のニワトリの話にあちこち尾ひれがついた。
つぎの朝、通勤列車の座席にかけているときも、彼の心は物思わしげに沈んでいた。向い合いの席にいたのはスティーヴナムである。この男の叔父は国会議員の選挙のとき、投票しかけてバッタリ死んだ。その事実があってから仲間に貫禄をみとめられた男だ。それからもう三年たつ。しかし内外の政治問題なら今でも一目おかれている。
ところがブレンキンスロープに向かっては「やあ、おはよう。どうしたね、あのお化けキノコだか何だかは?」と、誰もそれしかいってくれない。
ダグビーという気にくわない若いのがいた。それがうちで起こった災難の話をもち出してたちまち一座の注意を独占した。
「ゆうべね、どえらい大ネズミにハトの雛を四羽やられたよ。物すごくでっかい奴だったらしいんだ、屋根裏へあけた穴から見るとね」
このへんの土地では、世間並みの寸法のネズミが侵略作戦に出動したことはいまだかつてない。すべて物すごく大きい奴に限る。
「ひどい目にあったよ」とダグビーがあとをつづけた。みんなの注目と尊敬の的になったぞ、と見て取ったのだ、「一度に四羽もさらわれた。運がわるいの何の、こんなひどい目にあったこと、めったにないぞ」
「ぼくのうちではきのうの昼すぎ、トリ小屋へヘビに入られて七羽いたメンドリを六羽やられたよ」とブレンキンスロープがいった。とても自分の声とは思えない声である。
「何、ヘビにやられた?」と興奮のコーラスが起こった。
「ヘビの畜生、ギラギラするすごい目で睨みつけて動けなくしたんだ、一羽ずつ順々にね。そしてフラフラになったところをやっつけやがった。隣りのうちに寝たきりの病人がいてね、病人だから大声出して人は呼べない。だが窓からちゃんと現場を見ていたんだ」
「うわあ、おどろいたな!」とコーラスが起こった。変奏曲づきのコーラスである。
「面白いのは殺されなかった七番目のニワトリさ」とブレンキンスロープはあとをつづけながらゆっくりと煙草に火をつけた。オッカナビックリの気持はもう消しとんだ。わるいことでも最初の一歩を思いきってふみ出してしまえばあとは簡単至極なものだ、と悟りかけたのである。「殺された六羽はミノルカ種だが、七番目の奴はフーダン種で目までモジャモジャ羽根がかぶさってる。だからヘビの姿がろくに見えないんだな。睨みつけられてもいっこう平気なんだ。何か地面をニョロニョロするものがいるぞと、いきなり飛びつくなりたちまちつつき殺したのさ」
「うわあ、おどろいたなあ!」とまたもや大きくコーラスが起こった。
二、三日のうちにブレンキンスロープは発見した――人からえらいと見られれば心にやましいのなんぞ平気なものなのだ。七番目のニワトリの話はやがてある養鶏新聞にのり、つぎには一般むきの記事としてある日刊新聞に転載された。スコットランド北部の一女性からは新聞社へ投書が来て、エゾイタチ対めくらのライチョウの同じような事件を目撃したと報告をよせた。
それからしばらく、七番目のニワトリの話の改作者はうって変わって重要人物となった心持を満喫した。この自分も現代の異聞珍談にいささか関係があるという心持である。ところがまたもや、もとの寒ざむと薄暗い舞台裏へ片づけられた。同じ通勤者の一人スミス−パドンという男が急に重要人物にのし上がったからだ。この男の女の子が自動車にはねられて怪我しそこなったところが、その車の持主がミュージカルに出る女優ゾートー・ドブリンだったのである。事故のとき彼女はその車に乗り合わせてはいなかったが、挿絵入り新聞に彼女の写真がさかんに出た。「ミス・ゾートー・ドブリン、エドマンド・スミス−パドン氏の令嬢メーズィーを見舞う」とある。通勤者一同、この新しい、しかも人間的興味ゆたかな事件にすっかり気を奪われた。せっかくブレンキンスロープが毒ヘビやハヤブサをトリ小屋によせつけない新装置の説明をはじめても、ほとんど鼻であしらわれる始末である。
ブレンキンスロープはこっそりゴーワースに相談をもちかけて、胸の悩みを打ちあけた。すると今度も前通りの勧告をうけた。
「何か発明するさ」
「なるほど。だが何にする?」
即座の勧告を即座の質問が追いかけたのは倫理的立場の重大な変化を示す。
その二、三日あと、ブレンキンスロープは汽車の中でいつもの通勤仲間に身内に起こった珍事件を披露した。
「ぼくの叔母が妙な事件にぶつかってね。パリにいる叔母なのさ」と彼は切り出した。|伯叔母《おば》なら五、六人はたしかにあるが、地理学的には実はみな大ロンドン市にちらばっている。
「先だっての昼すぎのことだ、叔母がルーマニア公使館でランチをすませたあと、ブーローニュ公園でベンチにかけてたのさ」
話の中へ外交関係がかった『雰囲気』をもちこんだが最後、話にあざやかな色彩はついても時事問題の記録とは誰も受け取らなくなるものだ。この事実はゴーワースもちゃんと新米の弟子に教えてはおいたが、新弟子というのはむかしからとかく熱心すぎるものだ。ブレンキンスロープも熱心すぎて思慮分別を忘れてしまった。
「叔母は少しウトウトしかけていたんだ。きっとシャンパンを飲んだせいだったろう、ふだんは昼日なかシャンパンは飲まないからね」
すごいもんだなあ、とびっくりした小声のつぶやきが口から口へ伝わった。もちろんブレンキンスロープの|伯叔母《おば》さんたちには昼日なかシャンパンを飲む習慣がない。シャンパンはもっぱらクリスマスと新年のアクセサリーなのである。
「そこへ太り気味の男がひとり通りかかって、ちょいと立ち止ると葉巻に火をつけようとした。その瞬間、まだ中年前の男がうしろから忍びよるなり、いきなり仕込杖をぬいてグサリグサリと五、六ぺん突きをくれると、『この悪党め、おれを誰だと思う? アンリ・レテュールだぞ』とどなったんだ。年配の男は服にかかった血を少しばかり拭くと襲った奴の方を向いてこういったね、『お伺い申すが、闇討をしかけるのがいつから挨拶代りに変わったね?』そしてちゃんと葉巻に火をつけると行ってしまった。叔母は大声出して警察を呼ぼうとしたが、事件の主役がまるきり取り合わないのを見て、口出ししてはわるいと思ったのさ。いうまでもなく叔母はもちろん、これはウトウトする陽気と公使館で飲んだシャンパンのせいだと思ったのさ。ところが驚いたことにその二週間あと、その公園のその同じ場所で、ある銀行の支配人が仕込杖で刺し殺された。犯人はもとその銀行で使っていた雑役婦の息子でね、母親は年中酒びたりなんだ。その犯人の名が、何と、アンリ・レテュールなんだ」
そのとき以来、ブレンキンスロープは暗黙のうちに仲間中のホラ男爵(ドイツ人ラスペの「ミュンヒハウゼン男爵の旅行記」は有名なホラ話)にされてしまった。毎日毎日、誰かがせっせとカマをかけてはおびき出してしゃべらせては、どこまでかつがれるものか自分たちのお人よしの程度のテストを開始した。ところがブレンキンスロープはみな喜んで聞くぞとばかり自信まんまん、しきりに頭をしぼっては奇談珍聞の需要に応じた。庭の水槽へ水を張ってカワウソを一頭飼いならしたところ、水道料の納入がおくれるたびにカワウソがソワソワして鳴く、というのはダグビーがもち出した皮肉な話だが、ブレンキンスロープの無茶な話のパロディと見てもおかしくない。そのうち、とうとう|復讐の神《ネメシス》が出現した。
ある晩、ブレンキンスロープが郊外の邸へ帰ると、妻がトランプ札を並べていつになく一心に考えこんでいた。
「またいつものペーシェンスかい?」と彼は何気なく声をかけた。
「いいえ、ちがうの。これ、『シャレコウベ・ペーシェンス』といってね、ペーシェンスの中でも一番むずかしいのよ。わたし、一度もちゃんと出そろったことないの。もし出そろったら少しこわくなるわ。わたしの母は一生にただの一度だけ出そろったけど、やはりこわがってましたのよ。母の大叔母も一度出たけど、ちゃんと出たとたんに興奮してバッタリ倒れて死んだんですって。ですから母も、もしちゃんと出たら自分も死ぬかも知れないといつも思ってたのね。結局、ちゃんと出た晩に死にましたわ。もう弱ってはいましたけど、それにしても不思議なめぐり合わせだわ」
「こわいんならやらなきゃいいんだ」現実的なことをいって彼は部屋から出て行ったが、二三分すると妻の声がきこえて来た。
「びっくりしたわよ、わたし。も少しのことで出そろいかけたの。結局はダイヤの五がひっかかったけど。今にも出るかと思ったわ」
「なあんだ、それ、うまく行くぞ」とブレンキンスロープがいった。部屋へもどって来ていたのだ。「そのクラブの八をまだあいている九の上へ移せば、ちゃんとその五を六の上へもってけるさ」
妻はいわれた通り札を動かした。指をブルブル震わせながら大急ぎで動かして、残った札をそれぞれ重ねた組の上へのせた。そして母の、また母の大叔母の前例に従った。
ブレンキンスロープは心から妻を愛していた。しかし、最愛の妻を亡くした悲嘆の中にも、ある心持がたえず頭をもたげてどうにもならなかった。おれの生活にもおどろくべき事件が実際に起こったぞ。おれの生活ももはやぼやけた灰色の記録じゃないんだぞ。妻の急死というこの悲劇を適切に表現する見出し文句がたえず頭に浮かぶ――「先祖代々の予感的中す」、「不吉なゲーム、シャレコウベ・ペーシェンス。親子三代にわたる実証」彼は一部始終をくわしく書いて「エセックス・ヴェデット新聞」へ送った。主筆が友達なのだ。も一人の友達へはそれを短くまとめたのを送って、どこか半ペニー新聞の編集室へ届けてくれと依頼した。だがどちらの場合も、作り話の名人という評判が致命的な障害になって彼の野望は達成されなかった。「悲嘆のどん底でホラ男爵を気取るなんてよろしくないな」というのが友達仲間の一致した意見で、ただひとつ、ある地方新聞のニュース記事に「敬愛する隣人ミスター・ジョン・ブレンキンスロープ夫人、心臓発作のため急死す」と出ただけである。ひろく世間の注目を集めるつもりのところ、かくもわびしい結果に終った。
ブレンキンスロープはもとの通勤仲間との交際を避けて、早目の汽車でロンドンへ出はじめた。たまには乗り合わせた乗客を相手に、飼鳥の中で一番上等のカナリヤの鳴き方だの一番大きくできたビート大根の寸法だの、くわしく話して相手の注意と共鳴を呼ぼうとすることもあるが、かつて七番目のニワトリの飼主として名声をあげ注目の的となったころの面影はもうどこにもない。
盲点
[#地から2字上げ]The Blind Spot
「アデレードの葬式へ行ってきたところなんだな、おまえは?」とラルワース卿が甥のエグバートにいった、「別に変わったこともない葬式だったろうが」
「葬式のことはランチのときに話します」とエグバートが答えた。
「そんなことをされては困る。葬式の話をしながらランチを食べたりするのは、おまえの大伯母の霊に対してすまないし、第一ランチそのものに対しても相すまぬことになる。今日のランチはな、まず最初がスペイン風のオリーブ、つぎにボルシチ、そのあともう一度オリーブが出てから何か鳥料理、それになかなか優秀なライン産のワインが出る。イギリス並みの相場から見るとあまり値段は高くないが、これはまたこれなりにすてきなワインだ。これがランチのメニューだとすると、アデレードの思い出とも葬式とも何の縁もゆかりもないじゃないか。アデレードは感じのいい女で一応あれなりに頭もいい女だったが、なぜかしらどこかイギリス人のコックの頭にあるマドラス・カレーを思わせるところがあったな」
「いつもあなたのことをあれはふまじめな男だ、といってましたよ」とエグバートがいった。言葉のひびきに、この判定には自分も賛成、という感じがあった。
「一度な、人生においては澄んだスープが澄んだ良心よりも重要だ、といってすっかり怒らせたことがあるからな。とにかくバランスの観念のない女だった。そういえば、アデレードはおまえを第一相続人に指定していたそうだな?」
「そうなんです」とエグバートがいった、「その上、遺言執行人もぼくなんです。実は、それに関してご相談したいことがありましてね」
「用談か。用談というのはいつも苦手なんだが、これからランチというときは絶対だめだな」
「全くの用談というわけでもありませんがね」と説明しながらエグバートは伯父につづいて食堂へ入った、「実は少し重要なことなのです、実に重要な」
「それなら今はとても話はできないな。ボルシチを食べながら大事な話をするなんて、誰にもできやしないぞ。これからおまえにも経験させてやるが、本当に出来のいいボルシチを食べるとな、話ができなくなるどころか考えることさえできなくなる。ボルシチがすんで二度目のオリーブが出たら、それこそジョージ・ボローに関する新刊本の話でもルクサンブルグ大公国の現況でも、どんな話でもお相手になる。だが鳥料理を平らげるまでは用談らしいものは一切おことわりだ」
ランチを食べるあいだずっと、エグバートは何かに気を取られて黙りこんでいたが、やがてコーヒーが出ると突然口を開いて伯父の話の途中をさえぎった。ルクサンブルグ大公国宮廷の思い出話へ邪魔を入れたのである。
「わたしの大伯母がわたしを遺言執行人に指名したことは話しましたね。法律的な面ではあまり面倒はありませんでしたが、書類に一通り目を通すのが大へんでしたよ」
「そりゃ大仕事だったろうな。家中の手紙がそれこそたくさんあったろう」
「幾束もありましたよ。大部分はごくつまらない手紙ばかりでした。ところが一束、これだけはこまかく読まなけりゃ、と思うのがありましてね。大伯母の兄のピーターから来た手紙なんです」
「不慮の死をとげたあの大聖堂管理委員だな」
「その通り、あの無残な最期をとげた人です。原因は未だに解明されません」
「おそらく、もっとも簡単な説明が正解だろうな」とラルワース卿がいった、「すべってころんで石の階段へ頭をぶちつけて頭蓋骨を割ったんだ」
エグバートは首を横にふった。「医者の検証はすべて、頭部の傷はうしろから近づいて来た者に加えられた、というんです。猛烈な勢いで階段へぶちつけた傷なら、絶対あの角度で頭蓋骨に当るはずはないんです。ダミー人形を使ってあらゆる角度から倒して実験もしました」
「しかし何か動機がなくてはならんぞ」とラルワース卿は大きな声をした。「ピーターを片づけることに利害関係のあった人間はまず一人もあるまいな。面白半分に人を殺すということもあるにはあるが、イギリス国定教会の大聖堂管理委員を面白半分殺す人間の数はきわめて限られている。もちろん、精神状態がアンバランスでそんな事をやらかす奴もいるにはいるが、そんな奴らがやってのけた仕事を隠したりするのは珍しい。たいがい見せびらかすものなんだ」
「雇っていたコックに嫌疑がかかりました」とエグバートがポツンといった。
「それも知っている」とラルワース卿がいった、「しかし事件のあったとき屋敷の中にいたのはその男一人だ、というだけの根拠だ。あのセバスチアンが犯人だ、などとそんなばかげた話があるものか。主人が死んでもあいつに全く何の利益もありはしない。むしろ損をする方が大きいんだ。あのコックは事件のあと私が雇うことにしたが、これ以上はとても出せないと思うほどピーターはちゃんと払っていたんだぞ。わたしもあとで給料を少し上げてはやった、腕前に感心したからな。だが雇い入れることにした当時は給料を上げろどころか、つとめ口がみつかっただけで大喜びだった。何しろ世間じゃあの男を敬遠しているし、このイギリスにはほかに知合いもないんだからな。あいつが犯人だというのはもちろん見当ちがいだ。もしもこの世に、あの大聖堂管理委員の長寿と健康に重大な利害関係をもつ者があるとすれば、絶対まちがいなくセバスチアンにきまっているからな」
「しかし、あとの結果がどうなるか全く考えずに無鉄砲なことをやらかす者もいますよ。さもなければこの世に殺人犯はほとんどなくなるでしょう。それにセバスチアンはすぐカッとするたちでした」
「うん、南国人だったな、あれは」とラルワース卿は一歩をゆずった、「正確にいうとピレネー山脈のフランス側の斜面の生まれだったと思う。いつぞや園丁の息子がスカンポのにせものをもってきたのを怒ってあぶなく半殺しにしかけたが、そのときも、わたしはそれを頭において|斟酌《しんしゃく》してやった。生まれた土地と育ったところと少年期の環境とは、いつも考慮に入れてやるのが本当だ。『生まれた土地の経度がわかれば許してやる緯度(「自由の範囲」の意味もある)もわかる』――これが私のモットーなんだ」
「そら、ごらんなさい。現に園丁の息子を半殺しにしてるじゃありませんか?」
「しかしね、園丁の|忰《せがれ》を半殺しにするのと大聖堂管理委員を殺してしまうのでは大ちがいだ。おそらくおまえだって園丁の忰を半殺しにしてやれと思ったことはあるだろうが、おまえはその誘惑に一度も屈しなかった。その克己心には私も敬意を表する。しかしおまえだって八十何歳になる大聖堂管理委員を殺したいと思ったことは一度もなかったろうな。その上、われわれの知っている限り、ピーターとセバスチアンの間には不和もなければ争いもなかった。それは法廷における審問で明白になっている」
「そこなんですよ」とエグバートがいった。話の急所に今ようやく辿り着いたという感じである、「実はその点について特にご相談申したいんです」
エグバートはコーヒー・カップを押しのけると、胸の内ポケットから紙入を出し、その紙入の中から封筒を出し、その封筒の中から一通の手紙を取り出した。こまかな文字でギッシリ書いてある。
「これはピーター大伯父さんからアデレード大伯母さんへ来たたくさんの手紙の一通なんですが、大伯父が死ぬ二、三日前に書いたものです。この手紙をもらったころアデレード大伯母さんはもう頭がボケかけていたんですね。きっと読むとすぐ中身は忘れてしまったのでしょう。もし忘れなかったとすれば、その後の事情から考えて書いてあることが当然われわれに伝わったわけです。もしこの手紙が審問のとき提出されていたら、事件の成り行きもきっと大きく変わっていたろうと思います。あなたが今おっしゃった通り審問の結果、犯罪に対する――もし犯罪があったとしての話ですが――動機と見られるものもなければ事件を挑発した原因と見られるものも全然ないため、セバスチアンに対する嫌疑が全く晴れたのですから」
「そうか。その手紙、読んでみろ」とラルワース卿はじれったい声をした。
「だらだらした長い手紙でしてね、ピーター大伯父さんの晩年の手紙はみなそうなんですが」とエグバートがいった、「事件に直接関係のあるところだけ読みます
「『セバスチアンは暇を出さなければならないと思う。コックとしては立派なもんだが、気性がまるで悪魔か類人猿のようで、あいつにどこかやられはしないかと心配になるのだ。先日も聖灰日のランチは何が本式かでいい合いをした。奴がひどく思い上って頑固に構えているものだからカッと腹が立ってね、とうとうコーヒー・カップを奴の顔に投げつけて、この生意気な悪たれ小僧め、とどなりつけてやった。コーヒーはろくろく顔にかかりはしなかったが、そのときの奴の顔といったらおよそ人間があんな顔をするほど自制心を忘れるのは見たことがない。奴め、カッと怒って殺してやるとか何とかつぶやいたが、そんな脅迫は笑い飛ばしてやった。それで一件終りのつもりでいたところ、それから四、五へん、実にすごい顔をしてブツブツいっている現場を見かけた。このごろは屋敷内を私のあとをつけてうろついているらしい。特に日が暮れてからイタリヤ式庭園の石段あたりが多いような気がする』
「死体が見つかったのがそのイタリヤ式庭園の石段なんですよ」と付けたすとエグバートはまた先を読んだ。
「『たぶん気のせいだろうとは思うが、暇を出してしまえば安心すると思う』」
そこまで読むとエグバートは一たん口を切ったが、ラルワース卿が何ともいわないので付け足していった、「もし動機がないというだけでセバスチアンを告発しなかったとすれば、この手紙が見つかった以上、事件はガラリと一変するはずですね」
「その手紙、ほかに誰かに見せたか?」とラルワース卿は問題の手紙へ手を伸ばした。
「いや、見せません」とエグバートはテーブルごしに手紙を伯父にわたした。「まず伯父さんに相談してからと思いましてね。やあ、何をなさるんです?」
エグバートの声はほとんど悲鳴に近かった。ラルワース卿がその手紙を燃えさかる炉の中へうまく投げこんだのだ。こまかな文字をギッシリ書きこんだ手紙は燃え立って黒い灰になった。
「なぜそんなことをなすったんです?」とエグバートが息をはずませた。「その手紙がセバスチアンを犯罪に結びつける唯一の証拠なんですよ」
「だからこそ焼いたのさ」とラルワース卿がいった。
「でもどうしてそんなにセバスチアンを庇い立てるんです?」とエグバートが叫んだ。「ただの人殺しじゃありませんか?」
「そうかも知れない。だがコックとしては飛び切りだぞ」
宵やみ
[#地から2字上げ]Dusk
ノーマン・ゴーツビーはハイド・パークのベンチにかけていた。うしろは柵で仕切った狭い芝生で、ところどころ低い植込みがある。前は広々した馬車道、その向こうはロトン・ロウ(ハイド・パーク内の並木道で上流の人が乗馬に使う)だ。車馬の音や警笛のうるさいハイド・パーク・コーナーはすぐ右手になる。三月初めの夕方六時半ごろで、もうあたりはうす暗くなっていた。うすく月もさしているし街灯もたくさんあるが、とにかく宵やみである。車道も歩道もガランとして人影はないが、どうでもいいような人間がけっこううす暗い中を黙って歩いていたり、あちこちの椅子やベンチにひっそりかけたりしている。まわりの暗がりとほとんど見わけがつかない。
ゴーツビーはこの光景が気に入った。いまの心境にピッタリなのだ。彼は思った――宵やみは敗北者の時刻だ。男も女も、人生の戦いに破れ、零落した身の上と失った希望をせんさく好きな世間の目からなるべく隠そうという連中が、この夕やみの頃になると姿を見せる。みすぼらしい身なりもガックリ落ちた肩も悲しげな目つきも人目につくまいし、よし人目についても誰と見ぬかれる心配もないのだ。
[#ここから2字下げ]
王者も敗るればいぶかりの目を受く
世の人の心はかくもつれなし
[#ここで字下げ終わり]
宵やみをうろつく者はいぶかりの目を据えられるのを好まない。だからまるでコウモリのように、|人《ひと》|気《け》のない夕やみの公園へ来て淋しい楽しみを求めるのだ。目の前の立木や柵の向こうはまばゆいばかりの光の国で、行き来する車馬の音がにぎやかだ。ずらりと何階にも重なる窓からは明るい光がさして、この夕やみまで薄れるようである。あれは他人の住家なんだ。人生の戦いに負けず、頑張っている連中や、まだ降参せずにいられる連中の住んでいるところだ。ゴーツビーはほとんど人足も絶えたベンチにかけたまま、あれこれと空想をめぐらせた。どうやら自分も敗北者のひとりらしい気分である。今すぐ|金《かね》に困る身の上ではない。その気になればあの明るく賑やかな人生の表通りへ出て、繁栄を楽しんだり繁栄を求めて努力したり、押し合いへし合いしている人びとの仲間に入ることもできた。実はもっと高級な野心があったのだがそれに失敗して、悲しみと幻滅に沈んでいるところだ。だから、街灯と街灯のあいだの薄暗がりを自分のように当てもなく行き来する人びとを観察してあれはどんな人間だろうと見当をつけたりするのに、一種の皮肉な興味がないでもない。
同じベンチに並んで年配の男がひとりかけていた。いざ人生に立ち向かって、といった元気もなくなりかけた様子をしている。この人生に取り組んで頑張るのはもうやめたものの、自尊心の痕跡が残っているらしい。身なりも決して見すぼらしくはない。薄やみの中ではまず人並みで通る。しかし、半クラウン出してチョコレートを一箱買うとか、九ペンス出してボタンの穴にカーネーションを差すとか、そんなことさえ出来そうには見えない。まぎれもなく、せっかく演奏しても誰も踊らない孤独なオーケストラの一員なのだ。この世をどう歎いても一緒に泣いてくれる者は一人もないのだ。ベンチから立って行くその後ろ姿を見ながらゴーツビーは想像した――きっとあの男はわが家へ帰っても鼻であしらわれて相手にされないんだろう。もし帰って行く先がわびしい下宿なら、毎週の部屋代をちゃんと払ってくれるかどうか、それしか問題にされない人間なんだろう。後ろ姿はだんだん遠ざかって闇の中に消えた。ほとんど同時に今までその男がかけていた場所へ若い男が腰を下ろした。相当の身なりはしているが前の男に劣らずふさぎこんだ顔である。ドサリとベンチに尻を下ろしながら、大きな声で畜生とか何とかどなった。気にくわない世間だ、という心持を吐き出したらしい。
「あまりご機嫌じゃないようだね、君」とゴーツビーはいった。どなったのをまるきり知らんふりもできまい、と思ったのだ。
若い男はこっちを向いた。いかにも無邪気そうなあけすけの顔をしている。ゴーツビーは即座に用心した。
「ぼくみたいな羽目になったら、とてもご機嫌じゃいられませんよ。生まれて初めてのばかなことをやらかしたんです」
「はあ、それで?」とゴーツビーは落ち着いていった。
「今日昼すぎにロンドンへ着きましてね。バークレー広場のパタゴニアン・ホテルへ泊まるつもりだったんです」と相手はつづけた、「ところが行ってみるとホテルは何週間か前に取りこわされて、そのあとが映画館になってました。タクシーの運転手が少し離れた別のホテルを教えてくれたんで、そのホテルへ行きましたよ。すぐ家の者に手紙を出してホテルのアドレスは知らせました。そして石けんを買おうと外出したんです――荷物へ入れてくるのを忘れたしホテルの石けんは使うのがいやですからね。それから少しぶらついてバーで一ぱいやり、店をひやかしてホテルへもどろうとしてハッと気がつきました――ホテルの名前もその通りも覚えていないんです。ロンドンには友達もなければ親類もなし、これにはまったく困りました。もちろんうちの者に電報で問い合わせりゃいいんですが、出した手紙が着くのは明日でしょう。それまで一文なしというわけです。ホテルを出るとき一シリングばかりもってましたが、石けんを買って一ぱい飲むと飛んでしまいました。結局、ポケットにあるのはわずか二ペンスきり、それで今夜泊まるところもなくうろついてるんです」
そこで言葉を切るとしばらく黙っている。意味深長な沈黙だ。「とんだでたらめをいうと思ってるんでしょう、あなたは?」とやがて相手はいった。少し恨みがましい口調である。
「でたらめじゃないね、その話は」とゴーツビーは意見を述べた、「覚えているがぼくも一度ある外国の首都でまったく同じことをやらかした。しかも二人連れだったからいっそうあきれるね。運よくホテルが運河か何かのそばだと覚えてたんで、どうにかその運河へぶつかるとホテルへもどる道がわかったものさ」
その思い出話を聞くと青年の顔は明るくなった。「これが外国の町ならそう困らないんですがね、領事館へ行って世話になれますから。ところが内地だとそれこそ困ります。誰かわたしの話を信用して親切に|金《かね》を少し貸してくれる人でも見つけないと、今夜はテムズ河の河岸通りあたりで野宿でもしなけりゃなりません。とにかく、わたしの話をとんでもない大うそと取ってくださらなくてまずよかった」
ゴーツビーを親切気のある有望な男と見て取ったらしく、最後の言葉はたっぷり心がこもっていた。
「もちろん、その石けんとやらを出して見せられないのが君の話の弱点だがね」とゴーツビーはゆっくりいった。
青年はすぐかけ直してあわててオーバーのポケットを探ると、パッと立ち上がった。
「やあ、なくしたな」と彼はムッとしたようにつぶやいた。
「たった半日のうちにホテルもなくせば石けんもなくす、というのはうっかりもちょいと計画的という感じだね」とゴーツビーはいったが、相手はその言葉を終りまでは聞かなかったらしい。彼は小道をサッサと行ってしまった。頭を高くそびやかし、ふてくされた様子である。
「あいつ、惜しいところでしくじったな」とゴーツビーは思いふけった。「石けんを買いに出たというのがいちばんもっともらしい聞かせどころなんだが、そのちょいとしたところにひっかかって結局失敗に終ったわけだ。薬屋の店で買うと包んでよこす、丁寧に包装した石けんを用意するだけ抜け目ない用心さえあったら、あの商売の天才になれたろうに。あの商売じゃ用心の上にも用心する無限の能力がなくてはとても天才になれるものか」
そんなことを思いながらゴーツビーは帰ろうと立ち上がった。同時に、おや、という声が思わず出た。ベンチの横の地面に楕円形の小包があったのだ。薬屋の店で買ってきたように丁寧に包んである。たしかに中は石けんだ。あの若い男がドサリとベンチに腰を下ろしたときオーバーのポケットから落としたにちがいない。ゴーツビーはすぐさま宵やみの小道をかけ出して、あの明るい色のオーバーを着た青年のあとを一心に追いかけた。さんざん探しあぐんだ果て、ようやく馬車道の端にもじもじ立っているのを見つけた。まっすぐ公園を横切ろうかナイツブリッジの歩道の人ごみの方へ行こうかと、きめかねている様子だ。ゴーツビーに呼びとめられると、彼はパッと向き返って敵意むき出しに身構えた。
「君の話のたしかな証拠が見つかったよ」とゴーツビーは石けんを差し出した、「君がベンチへかけたときオーバーのポケットから落ちたんだね。君が出かけたあと、地面に落ちてたんだ。君の話、信用しないでわるかったが、どうも見かけがよくなかったんでね。ところで証拠に石けんを出して見せろといった以上、石けんがあったとなると知らん顔もできない。一ポンド貸してあげたら少しは役に――」
役に立つかどうかの疑問はたちまち氷解した。相手がすぐさまその金貨をポケットへ入れたからだ。
「これがぼくの名刺、アドレスも書いてある」とゴーツビーはつづけていった、「今週ならどの日でもいい、返しに来たまえ。これがその石けん。もう失くさないんだね、君の大事な味方だから」
「見つけてくだすって助かりましたよ」と青年はいった。それから何か咽喉に引っかかるような声で急いでひとことふたこと礼をいうと、ナイツブリッジの方へ一目散にかけ出して行った。
「かわいそうに、無一文だったんだな」とゴーツビーは思った、「きっとそうだったんだ。やっと助かってよほど嬉しかったろう。あまり気をまわして見かけで判断したりするもんじゃないんだなあ」
ゴーツビーがもどってきてもとのベンチのそばを通りかかると、年配の男が一人、ベンチの下をのぞいたりその廻りを探したりしている。見るとさきほど同じベンチにかけていた男だ。
「何かなくしたんですか?」と彼はたずねた。
「ええ、石けんをひとつ」
リアリズム的傾向
[#地から2字上げ]A Touch of Realism
「クリスマスのアイディア、いろいろもって来て下すったでしょうね」と、いま着いたばかりの泊まり客にブロンズ夫人がいった、「むかし風のクリスマスでも現代式のでもさんざんやりつくしましたわ。ことしは何か独創的なことをやりましょうよ」
「わたくし、先月マシーソンのお宅へ泊まりましたが」とブランチ・ボヴィールはさっそく乗り出した、「そのとき、すてきな名案をやってみましたのよ。ハウス・パーティで泊まりこんだお客が全員、それぞれ何か有名な人物になるときめて、いつもその人物らしくふるまうんですの。そしていよいよパーティの終るとき、誰が演じた人物は誰だか、みんなで当てるんです。一番上手にやった人に賞品が出ましたわ」
「面白そうね」とブロンズ夫人がいった。
「わたしはアシジの聖フランシスになりましたのよ」とブランチが話をつづけた、「男女のくいちがいはあっても構わないんですの。わたし、いつも食事の途中で立ち上って小鳥に餌をまきましたわ、聖フランシスといったら誰だって小鳥が好きな人とおぼえてますからね。ところがみんなウッカリしてそれに気がつかないんです。チューレリー公園でスズメに餌をやるじいさんだ、なんていいましたのよ。ペントリー大佐はディー川の陽気な水車番(イギリスの詩人アイザック・ビカースタフの詩にある有名な人物)になりました」
「一体どんな風に水車番をやりましたね?」とバーティ・ヴァン・ターンが質問した。
「詩の文句にある通り『朝から晩までうたって笑った』んですの」とブランチが説明した。
「お客一同ひどい目にあったでしょうな」とバーティがいった、「それに第一、場所がディー川の土手じゃないでしょう」
「それは想像するんです」とブランチがいった。
「そこまで想像できるんなら向う岸にウシが何頭もいるところも想像して、そのウシを呼びながらディー川の砂州をわたってメアリ(イギリスの女流詩人セアラ・ジョセフィア・ヘールの童謡詩『メアリと小ヒツジ』は有名)みたいに帰ってくるところだって想像できますよ。でなけりゃディー川をヤロウ川に取りかえて川の底へ沈んだところを想像してね、わたしはヤロウ川でおぼれたウィリーだか誰だか(イギリスの詩人ジョン・ローガンの詩『ヤロウの川岸』は川でおぼれた恋人を悲しむ女性の哀歌)をやりましたともいえまさあね」
「からかうのは誰にもできますわ」とブランチはとがった声をした、「でも本当に面白くて楽しかったわ。ただ賞品の出し方がまずかったの。何しろ当のミリー・マシーソンが、わたしは『|気前のいい貴婦人《レディ・バウンティフル》』(イギリスの詩人ジョージ・ファーカーの詩に出る人物)をやりました、といったでしょう。そのミリーが当家の奥方なんですもの、誰だってあなたが一番上出来でしたといわなきゃなりませんわ。さもなけりゃ当然わたしが賞品をもらったはずですのよ」
「もってこいの名案ね。クリスマス・パーティにぜひともそれをやりましょうよ」とブロンズ夫人がいった。
主人のニコラス卿はあまり熱心でなかった。「大丈夫かな、おまえ、そんなことをくわだてて?」二人きりになったときニコラス卿がブロンズ夫人にいった、「マシーソン家でなら結構だろう、まじめな年配の連中のパーティだからな。だがここのうちでは少しちがうぞ。たとえば、あのヴェラ・ダーモットというフラッパーがいる。あれはひどく向こう見ずでどんなことでもやってのける娘だ。それにヴァン・ターンだってあの通りの人間だし、その上、サイリル・スキャタリーがいるじゃないか。あいつは父方だか母方だかどっちか気ちがいの血を引いてるし、あとの一方にはハンガリア人の祖母がいるんだぞ」
「でも困るようなこと、するはずないじゃありません?」とブロンズ夫人がいった。
「未知なるものこそ恐るべきものなのだ」とニコラス卿がいった、「もしスキャタリーの奴が『バサンの牡牛』(旧約聖書詩篇二十二章十二節。「バサンの力つよき牡牛われをかこめり。かれらは口をあけて我にむかい物をかきさき吼えうたく獅子のごとし」)でもやる気を起こしたら、さあ、その場にいない方がよさそうだぞ」
「むろん聖書の人物は認めやしませんわ。それに『バサンの牡牛』がどんな恐ろしいことをしたのか、わたし知りませんの。やって来てあんぐり口をあけただけなんでしょう? それしか覚えてませんよ」
「おまえはね、おまえにはわからないんだ、スキャタリーがハンガリア系の空想力で聖書のあの部分をどう受け取るか。あとになってから当人に『あなたのやったことはバサンの牡牛どころじゃありませんよ』などといっても、それで気がすむはずはあるまいな」
「まあ、あなたは取越し苦労するのね。この名案、わたしぜひとも実行したいわ。きっと評判になってよ」
「評判になるだけはまず確実だろうな」とニコラス卿がいった。
その夜の晩餐会は特に陽気な集まりとは行かなかった。自分できめた人物らしくふるまう一方、ほかの人のふるまいを見てどんな人物を演じているかヒントをつかまなくてはならない。その緊張が邪魔をして楽しい気分がもり上がらないのだ。一時間か二時間「ゲーム」は一時休止ということにしよう、と人のいいレイチェル・クラマスタインが提案すると、一同ありがたく賛成して食事のあとはしばらくピアノの演奏を聞いた。レイチェルはピアノ音楽が大好きだが、ピアノなら何でも好きなわけではない。主として最愛のわが子モーリツとオーガスタが演奏するピアノ曲中心だ。公平にいって二人は実に上手にピアノをひいた。
クラマスタイン一家がクリスマスの客として人気があるのは当然だった。クリスマスと新年に値段の張るプレゼントを惜し気もなくくれるからである。それに今晩はミセス・クラマスタインが優勝者には賞品を出すともうほのめかしている。その形勢に一同にわかに元気が出た。もしもこの家の主婦だから賞品はブロンズ夫人が出す、ということになったら、夫人は何か二十か二十五シリングどまりのちょっとした物で結構と考えただろう。ところがミセス・クラマスタインが出すとなると必ずその数倍もの値段の品になるのだ。
やっとのことでモーリツとオーガスタがピアノから引き下がると、大接戦の演出ゲームもようやく終りになった。ブランチ・ボヴィールは早ばやと寝室へ引きあげた。大骨折ってピョンピョン跳ねながら出て行ったのだ。これならまずまずアンナ・パヴロバの真似だとわかるだろう、というつもりである。ところが十六歳のフラッパー、ヴェラ・ダーモットが、あれはマーク・トウェーンの小説にある有名な跳ねとびガエルになったつもりよ、と自信たっぷり意見を表明して、一同のこらずその診断に賛成した。もひとり早寝の模範を示したのはウォルドー・プラブリーだ。これは日課にしている健康法を時間表通りかたく守って、毎日こまかな規則に従って暮らしている男である。大儀らしくポッチャリ太った二十七歳の青年だが、幼いころから母親がこの子は特にからだが弱いときめこんで、うんと甘やかしてあまり外へは出さなかったため、美事に肉体が柔らかで精神が気むずかしい人間に仕立ててしまった。毎晩、まず手のこんだ呼吸運動その他の健康法を所定のごとく行なってそれから九時間ぶっ通しに眠る――これを絶対必要な規則として厳守している上、ほかにもこまかな守るべきことが無数にあって、その実践のため、身のまわりの世話をする者を遠慮なくこき使う。たとえば、朝早く飲むお茶は特別なティー・ポットで入れるから、どこのうちへ泊まることになろうと寝室係りへそのポットを勿体ぶってわたす。この大事なティー・ポットのメカニズムを完全におぼえた者は一人もない。つぐときはポットの口を必ず北へ向けるという話だが、この伝説の始源はバーティ・ヴァン・ターンであった。
ところがこの晩、絶対へらすことのできないその九時間の睡眠が手ひどく荒らされた。夜中の十二時と夜明けのあいだのある時刻に、突然、あまり低くない音を立ててパジャマ姿の人物がウォルドーの寝室へ侵入したのだ。
「どうしたんです? 何を探してるんですか?」と、びっくり目をさましたウォルドーが声をかけた。だんだん、ヴァン・ターンだな、とわかって来た。何か失くしたものを探しているらしい。
「ヒツジを探してるんです」と返事があった。
「ヒツジ?」とウォルドーが大声を出した。
「そうです、ヒツジですよ。まさかジラフを探してるとも思えないでしょうが?」
「ヒツジだろうとジラフだろうと、どうしてここにいそうだと思うんですか?」とウォルドーがカッとしてやり返した。
「その議論はよしましょう、真夜中ですからね」といいながら、バーティは大急ぎで衣裳だんすをかき廻している。シャツや下着が何枚も床へ飛んだ。「ここにヒツジなんぞ本当にいませんよ」とウォルドーが金切り声を立てた。
「そりゃ君がそういうだけの話だ。証拠にゃならん」と、バーティはシーツも毛布もあらかた床へ放り出した、「何も隠していないんならそんなに騒ぎ立てるはずはないぞ」
気が狂ってわめき出したな、とウォルドーはようやく気がついた。そこで何とかきげんを取ろうとしきりに骨折った。
「さあ、おとなしくベッドへもどってくださいよ」と彼はなだめた。「ヒツジはあしたの朝ちゃんと帰って来ますからね」
「きっとしっぽを失くして帰ってくるぞ」とバーティが陰気くさい声をした、「マンクス・ヒツジがぞろぞろ来たら、ぼく、とんだ大バカに見られちまうぞ」
そんな目に合ってたまるものか、と腹が立ったのを見せつけるつもりだろう、バーティはウォルドーの枕を衣裳だんすの上へ放り上げた。
「でもどうしてしっぽを失くすんです?」とウォルドーが聞いた。歯の根がガタガタしているのは恐怖と憤怒と気温の降下のためだ。
「君、君は『|居眠り坊や《ボー・ピープ》』の歌を聞いたことないのか?」とバーティはクスリと笑った、「ぼくはね、ボー・ピープを演じてるところなんだ。いなくなったヒツジを探しまわらなかったら、何をやってるところか誰にもわかりゃしないよ。さあ、さあ、いい子だ。おとなしくねんねしな。ねんねしないと怒りますよ」
ウォルドーは母のところへ出す長い手紙の一節にこう書いた――「その晩、あとで埋め合わせにどれだけ睡眠がとれたか、ご想像にまかせます、九時間ぶっ通しに眠るのがぼくの健康に絶対必要ですのに」
だがその反面、ウォルドーは眠れない何時間かをバーティ・ヴァン・ターンに対する激怒と憤慨を吹っかける呼吸運動に捧げることができた。
ブロンズ夫人のところの朝食は「いつでもお好きなときに」が原則でめいめい勝手なときにすませる流儀である。だがランチのときは泊まり客一同、ちゃんと集まることになっている。ところが「演出ゲーム」がはじまった翌日のランチには、何人かの欠席が目についた。たとえば、ウォルドー・プラブリーは頭痛をかかえて寝こんでいると伝えられた。一人前たっぷりの朝食と「ABC列車時刻表」を部屋へ届けさせはしたが、彼みずからはとうとう姿を現わさなかった。
「きっと何か役柄をやっているところだと思うわ」とヴェラ・ダーモットがいった、「モリエールの劇に『|気でやむ男《ル・マラード・イマジネール》』というのがありはしなかった? きっとそれだと思うわ」
八人か九人、それぞれ役柄をひかえたリストをもち出して、ヴェラの意見を鉛筆で書きこんだ。
「クラマスタイン家の人たちはどこ?」とブロンズ夫人がたずねた、「いつもきちんと時間を守る人なのに」
「やはりきっと何か役柄を演じてるんですよ」とバーティ・ヴァン・ターンがいった、「まず『失なわれしイスラエルの十部族(紀元前四世紀に北部パレスチナから姿を消したイスラエル人の十部族)』ですかな」
「でもたった三人きりですわ。それにもうランチがほしいところでしょうし、誰か見かけたかたはありませんか?」
「あなたが車でつれて出たんじゃありません?」と、ブランチ・ボヴィールがサイリル・スキャタリーにいった。
「そうです。朝食のあとすぐスログベリー|荒野《ムーア》へつれて行きました。ミス・ダーモットもいっしょですよ」
「あなたとヴェラが帰って来たのは見かけましたけど」とブロンズ夫人がいった、「クラマスタイン家の人たちは見かけませんわ。村へ下して来たんですの?」
「いいえ」とスキャタリーがポツンと返事した。
「じゃどこにいるんでしょう? あなた、どこへおいてらしたの?」
「スログベリー|荒野《ムーア》へおいて来ましたのよ」とヴェラが落着いて答えた。
「スログベリー|荒野《ムーア》へ? まあ、三十マイル以上ありますわ、ここまで。どうして帰ってくるんでしょう?」
「その点は別に考えませんでした」とスキャタリーがいった、「車が動かなくなったと口実を構えてちょいと下りてもらいましてね、フル・スピードで逃げ出しておいてきぼりにしたんです」
「まあ、どうしてそんなことなさるの? 不人情だわ! それに一時間も前から雪も降ってるのに」
「一マイルか二マイル歩けば農家や納屋の一軒ぐらいきっとあると思いますわ」
「でも一体なぜまたそんなことなすったの?」
この質問は憤慨と狼狽のコーラスの形になった。
「それを話したらわたしたちの役柄を教えることになりますのよ」とヴェラがいった。
「そら、わたしがいった通りだろう」と、ニコラス卿はブロンズ夫人に悲劇じみた顔を向けた。
「スペイン歴史関係ですよ、ヒントだけいいますとね」といって、スキャタリーはイソイソとサラダを食べた。とたんにバーティ・ヴァン・ターンがうれしそうな大声でカンラカンラと笑い出した。
「わかった! フェルディナンドとイザベラのユダヤ人追放(スペイン国王フェルディナンド五世は一四九二年に国内からユダヤ人を追放した)か! これはお見事だ! この二人が当然優勝ですな。徹底的なこと天下無敵だ」
ブロンズ夫人のクリスマス・パーティは世間の大評判にはなるし新聞でもさかんに書き立てられた。さすがのブロンズ夫人も夢にも思わなかったほどの大成功である。ウォルドーの母親からは何通も書面が来た。その手紙だけでも忘れがたい事件になったのだろう。
ヤーカンド方式
[#地から2字上げ]The Yarkand Manner
ラルワース・クゥエイン卿は最近メキシコから帰国したばかりの甥と動物園をぶらついていた。甥というのは北アメリカとヨーロッパに住む同種の動物の比較と対照に興味のある男である。
「動物の移動の問題でもっとも驚くのは、あまり移動しない動物の社会にこれという理由もないのに突然移動する衝動が起こることですね」
「人間の社会にもときどきそれと同じ現象があるな」とラルワース卿はいった。「おまえがメキシコの山奥へ行ってる間にイギリスで起こったのが、たぶんそのもっとも顕著な実例だろう。ロンドンの新聞社数社で経営陣と編集スタッフに突然起こったあの放浪病のことさ。最初はロンドン一流のある優秀気鋭な週刊紙のスタッフがセーヌ河の岸とモンマルトルの丘へ全員一斉に脱走した。その移動さわぎはまもなく収まったが、それがきっかけで新聞界に移動時代が始まったのさ。新聞のサーキュレーションといえば発行高のことだったが、そのサーキュレーションに巡回という意味まで新しくできる始末だ。ほかの社の編集スタッフもたちまちその例にならうし、まもなくパリはあまり近くて人気がなくなり、ニュールンベルグとセヴィリヤとサロニカが移住先として評判になった。週刊新聞だけじゃない、日刊新聞のスタッフまで移動を開始したのさ。移動先の選択がまずかった場合もある。ある一流のキリスト教新聞などは二週間つづけてトールヴィルとモンテ・カルロで編集したが、これは場所の選択をあやまったと一般にいわれたものだ。それにまた、中でも無鉄砲に張り切った編集長が全スタッフをひきいて更に遠くへ出かけると、行った先で鉢合わせも避けられない。たとえば『スキュテーター』と『スポーティング・グラフ』と『処女自身』とが同じ週にカルツームに陣取ったことがある。おそらくほかの社を完全に出し抜いて鼻をあかすつもりなのだろう。あのもっとも堅実といわれる自由主義の新聞『毎日情報』は編集局を三、四週間フリート・ストリートから東トルキスタンへ移したものだ。もっとも往復する時間だけはゆとりを見てやったがね。あらゆる面から見ておそらくこれがいちばん目ざましかったろう、当時の全新聞社移動さわぎの中でね。しかもこの社の移動にはいっさいごまかしがない。社主も社長も編集長も副編集長も社説記者も主立った探訪記者も、全員一斉に出かけたから、世間では『|東方への衝動《ドラング・ナッハ・オステルン》』と呼んだものさ。ガランとした編集室に残ったのは頭がよくてテキパキやるボーイひとりだ」
「そりゃあ少し行きすぎじゃないかな」と甥がいった。
「うん、ところが中にはあまり気乗りしないのにやらかした社もあるから、新聞社の移動も少し評判がわるくなりかけた。ナントカ新聞は編集も印刷もリスボンやインスブルックでやってると聞かされても、社説記者の親玉だの美術欄の主筆だの、いつものレストランでランチを食べてるのをヒョッコリ見かけたりするから、誰も一向感心しないわけだ。ところが『毎日情報』だけは正真正銘の各地遍歴をしてあら探しのスキは絶対あたえない方針だった。だから長期にわたる外地遍歴中、原稿の輸送だのいつものコラム記事の続きだの、ちゃんと円滑にやってのけた点は、ある程度みとめなければならないな。『ラクダ産業に及ぼすコブデン主義の可能性』というシリーズものは最初アゼルバイジャンのバクでスタートしたんだが、自由貿易主義の文献としては最近まず出色のものだったし、『ヤーカンド市の屋上にて』を執筆した対外政策に関する論説は、国際情勢の認識の正確なこと、外務省から一マイル以内のところで書いたものにも劣らない。その上、現地を引き上げてくる時のやり方までイギリス・ジャーナリズムのよき伝統を守って、大ぼらは吹かず個人的な宣伝はやらず派手な記者会見もやらなかった。海運クラブが開こうとした歓迎のランチ・パーティさえ出席を辞退したほどさ。事実、海外もどりの社員たち、世間に顔を出さないこと、ほとんど変わり者になったかと思うほどだ。植字工の主任だの広告係だの、そのほか編集に関係ない連中はもちろん移動に加わらなかったが、帰国した編集長にもその取巻き連中にも直接顔を合わせる機会がないこと中央アジアにいた当時と同じことだ。ひとり残ってうんと仕事をやらされてふくれているボーイが編集首脳と営業部門をむすぶ唯一の連結リンクというわけで、この隔離主義がつまり『ヤーカンド方式』なんですよ、と皮肉な説明をした。ヤーカンドというのは中国新疆省のどこかなのさ。探訪記者も編集次長も帰国したあとたいがいバッサリ首になったらしく、そのあとがまは書面で雇ったらしい。その連中は編集長にも直接接するはずの同僚にもいっさい顔を合わせたことがなく、指令はすべてタイプで打った簡単な通達でくる。移動以前の人間的な騒がしさと民主的な卒直さに取って替って、何か神秘的・チベット的・禁断的なものが現われた。各地遍歴からもどった連中にあおうとした人も同じ経験をした。二十世紀のロンドン随一とうたわれた名流女性の主催した歓迎パーティさえ、招待状に返事のないこと、真珠をまぐさ桶に放りこんだも同然なんだ。国王からの命令でも出ない限り、遍歴もどりの隠者どもはみずからこもった隠遁の場からとても出てきそうにない。だから、標高の高い土地や東洋の空気は頭も気質もそんなぜいたくに不慣れな人間にはさわるんだ、などと悪口をいう者も現われて、ヤーカンド方式は評判がわるくなった」
「それで新聞の内容にもヤーカンド方式の影響が出ましたか」と甥がたずねた。
「出たとも出たとも。それが痛快なんだ。国内問題や社会問題、それに毎日のニュースなどには目立った変化もなかったが、東洋的な一種なげやりの態度が編集部にしみこんだらしくて、苦しい旅から帰りたての人間の仕事と見ればむりもないが、何となく気乗りしない感じが出てきた。これまでの高い標準から少し下がったものの、姿勢にも政見にもだいたい変わりはない。ただし、おどろくほど変わったのは対外問題だった。おそろしく無遠慮な頭ごなしにやっつける記事が現われ、その不敵な言葉づかいに六大強国の秋期演習があぶなく動員に変わるところだった。『毎日情報』が東洋の地でほかにも何を学んできたか知らないが、外交的に曖昧にぼやかす技術は学ばなかったのは確かだな。世間はそんな記事を面白がって『毎日情報』はこれまでになく盛んに売れたが、外務省は見方がちがったね。外務大臣はこれまで割に口数の少ない人で通っていたが、『毎日情報』の社説の論旨をひっきりなし否定しているうち、断然おしゃべりになってしまった。とうとうある日、政府は何か徹底的な荒療治を加えなくてはならんという結論に達して、総理大臣に外務大臣、財界の首脳四名、それに非国教派の有名な牧師が一名――合計七名の使節団が毎日情報社へおしかけた。編集部へ入るドアのところにボーイがひとり、ビクビクながらも敢然と立ちふさがっている。
『編集長にも誰にもおあいになれませんよ』とボーイがいいわたした。
『編集長か誰か、責任者にぜひともあいたいのである』と総理大臣がいった。そして使節団は強引に押し入ったが、ボーイの言葉にあやまりはなく、誰一人として姿が見えない。どの室にも人影がないんだ。
『編集長はどこにいる? 外交欄主筆はどこだ? 首席社説記者はどこだ? 誰もいないのか?』
「ボーイは雨のような質問に答えて引出しの錠をはずすと、中から風変わりな封筒を一通取り出した。見ると中国新疆省ヤーカンドのスタンプがあって日付は七、八カ月前のものだ。中に紙片が一枚あって次の文句が書いてある。
[#ここから2字下げ]
帰国の途中、山賊の部族に全員生け捕られた。|身《み》の|代《しろ》金二十五万ポンドを要求しているが少しは値引きするらしい。政府と親類と友人に知らせよ。
[#ここで字下げ終わり]
「そのあとに重立ったメンバーの署名があり、|身《み》の|代《しろ》金をどこでどう仕払うか指図があったのさ。そんな手紙が留守番のボーイあてにきたんだが、ボーイはそれを握りつぶしていたんだね。英雄も召使の目にはただの人と諺にいうが、新聞社員もその通りでボーイの目には別に感心もできない。感心できないスタッフの復員という果して有利かどうか怪しい目的に二十五万ポンド出すのは正当でない、とボーイは考えた。そこで編集スタッフの給料を引き出し、必要があればニセの署名をし、新規に探訪記者を雇い入れ、編集雑務はできるだけ自分ひとりでやり、いざという時の予備にしこたま用意してあった特別記事をせいぜい利用した。対外問題に関する記事だけはまったく彼の創作だったのさ。
「もちろんこの一件は厳重に秘密にされた。秘密厳守を誓わせて臨時のスタッフを雇い入れ、首を長くして待っている生け捕られた連中を探し出して身の代金を払い、目立たないように二、三人ずつ帰国させるまで、何とか新聞を出しつづけた。こうして次第に事態は平常にもどった。対外問題の記事もだんだんもとの伝統にもどったわけさ」
「でもそのボーイ、何カ月もの間、親類の者にどう説明してたんです? 姿を消した連中の……」と甥が口を出した。
「それがいちばんの傑作なのさ。行方不明の連中の奥さんや近親へ手紙を回送してやったんだ、本人の筆跡をできるだけ真似て書いた手紙をね。当地はペンもインキもひどいのでこの通り、とか何とかいいわけもつけたんだな。どの手紙も中身は同じで場所だけ変えた。一行のうち自分だけは奔放自由な東洋生活の魅惑を捨てかねる、あと数カ月はどこか気に入った地方を放浪するつもり、という趣旨なんだ。放浪中の亭主を追ってすぐ出かけた妻君がいくらもあったよ。結局、パミール高原のオクサス河のほとりだのゴビの砂漠だのオレンブルグの|草原《ステップ》だの、そんな辺鄙なところを妻君どもあてもなく探し廻っている。それを引きもどすのに政府は手間も|金《かね》もかなりかけたよ。たしかまだ一人、どこかチグリス河のあたりで行方不明なのがいるはずだ」
「そのボーイはどうしました?」
「今でもジャーナリズムに入ってる」
ビザンチン風オムレツ
[#地から2字上げ]The Byzantine Omelette
ソフィー・チャテルマンクハイムは社会主義者だった。それは彼女の信念にもとづく。彼女はまた金満家チャテルマンクハイム家の一人だった。それは彼女の結婚にもとづく。ソフィーが夫としたチャテルマンクハイム家の一員は、一族の目から見ても大金持だった。ところがソフィーは富の配分については大いに進歩的なキッパリした意見をもっていた。自分が大金持なのは快適な偶然にすぎないのである。だから彼女は社交界の集まりやフェビアン協会の会議で資本主義の害悪を雄弁にこき下ろすときも、たとえ不正や不平等はいろいろあっても、資本主義制度はおそらく自分の生きている間は続くだろうと、快適な気分を意識していた。自分の説き立てる幸福が将来もし実現するにしろ、それは自分が死んだあとの話だと思えるのは、中年の革新主義者に取り慰めのひとつである。
ある春の日の夕方、そろそろ夕食どきというころ、ソフィーは鏡とメードの間にじっと腰かけて、流行のスタイルを忠実に反映する髪形に結い上げる作業を受けていた。あたりはすべて、すてきな安らぎの感じである。努力と忍耐を重ねてようやく希望を達成し、達成した結果はやはりきわめて望ましいと思っている人の安らぎである。かたじけなくもシリヤ大公が賓客として彼女の邸へご来臨たまわることになって、現に彼女の邸に駕をとめられ、これからまもなく彼女の食卓におつきくださるところだ。ソフィーは忠実な社会主義者だから、もちろん階級的差別は認めないし、王侯の位も軽蔑していた。しかし、身分や地位にそれら人工的段階が現に存在する以上、高貴な階級の高貴なサンプルをわが家のハウス・パーティに加えるのは、うれしくもあり望ましくもあった。つまりソフィーは偏見がなくて心持が寛いから、罪を憎んで人を憎まないわけである。シリヤの大公とはあまり交際もないし、別に個人として好意をよせているわけでもないが、とにかくシリヤ大公だからご来臨くださるのは大いにありがたい。もしありがたい理由をきかれたら説明に困ったろうが、誰も理由をききそうな人はない。たいがいの家の奥方はうらやんでいた。
「リチャードスン、今夜は思いきり腕によりをかけておくれよ」と彼女は満足そうにメードに向かっていった、「わたし、今夜はいちばん美しく見せなけりゃならないの。みんなもそうですよ」
メードは何ともいわないが、一心にこらした目つきと巧みな指さばきで、レコード破りの腕前を発揮しようと必死なのがわかる。
ドアをノックする音がした。静かな音だが四の五のいわせぬ毅然とした音だ。
「誰だか見ておいで」とソフィーはいった、「きっとワインのことかも知れないよ」
リチャードスンはドアに隠れて姿を見せない相手と何か急いで話し合った。もどってきたところを見ると、今までの張り切った態度がガラリと変わって妙に気乗りしなくなったらしい。
「何だった?」とソフィーがたずねた。
「使用人一同、職場放棄をいたしました」とリチャードスンがいった。
「職場放棄だって? ストライキに入ったというの?」とソフィーが大声を立てた。
「さようでございます」とリチャードスンは説明をつけたした、「ガスペーアのことが問題なんでございます」
「ガスペーアだって?」とソフィーは不思議そうな声を出した、「あの臨時に入れたコック長のオムレツ専門家が問題なの?」
「さようでございます。あの人、オムレツの専門家になる前は従僕をしておりました。二年前、グリムフォード卿のお邸で大ストライキがありましたとき、ストライキ破りをした仲間のひとりなんでございます。ですからご当家の使用人一同、奥さまがガスペーアをお雇いになったと聞きますと、抗議のため職場放棄をすると決議したのでございます。奥さまご自身には直接何の不平もございません。ただガスペーアの即時解雇を要求しているのでございます」
「だってビザンチン風オムレツの料理法を心得てるのはイギリス全国にガスペーアひとりきりなのよ」とソフィーはいい返した、「シリヤ大公がおいでになるんで特に雇った人ですもの、急に代りの者なんて捜せやしないわ。パリまでいってやらなきゃならないし、それにシリヤ大公はビザンチン風オムレツが大好きでいらっしゃるのよ。駅からここまでくる途中、ビザンチン風オムレツの話でもち切りだったわ」
「何ぶんグリムフォード卿のお邸でストライキ破りをした人でございますから」とリチャードスンは繰り返した。
「そりゃひどいわ。こんな時に使用人がストライキするなんて、シリヤ大公がもう来てらっしゃるのに。すぐ何とかしなけりゃならないわね。さあ、早く髪を結い上げておくれ、行って何とか考え直させてくるから」
「奥さま、結い上げるわけにはまいりません」と、静かにしかしキッパリとリチャードスンがいった。「わたくしも組合に入っておりますので、ストライキが解決するまでは、これ以上ただの三十秒も仕事はできません。まことに申しわけございませんが」
「そんなこと、不人情だわ」とソフィーは悲劇みたいな声を出した、「わたしはいつも模範的な女主人ですよ。組合に入ってない人なんて一度も雇ったことありゃしないわ。それなのにこんな事になるなんて! とてもひとりじゃ髪を結い上げられやしないわ、やり方がわからないもの。さあ、どうしよう? こんなの、無法だわ」
「まったく無法でございます」とリチャードスンはいった、「わたくしは忠実な保守党でございますから、奥さまの前ですけど、こんな社会主義のばか騒ぎはがまんができません。まったくの暴虐行為でございます。何から何まで暴虐そのものでございます。しかし、わたくしも世間並みに暮らしを立てて行かなくてはなりませんから、仕方なく組合に入っておるのでございます。ですから組合の承諾がなくてはこれ以上ピン一本手をつけられません。たとえお給料を倍にしてやるとおっしゃっても、全くだめでございます」
パッとドアが開いてキャザリン・モルサムが腹を立ててかけこんできた。
「困ったことになったのね」と彼女は金切り声を立てた、「うち中の使用人がだしぬけにストライキに入ったおかげで、わたし、こんな格好で放り出されたわ。この髪じゃとても人前に出られやしない!」
ソフィーはひと目チラリとキャザリンを見て、たしかに人前に出られる格好じゃない、といった。
「ひとり残らずストライキしたのかい?」とソフィーはメードにたずねた。
「調理室関係の者はストライキしておりません、組合がちがいますから」とリチャードスンが答えた。
「それじゃ晩餐だけは大丈夫ね。それだけでも助かるわ」
「ヘン、晩餐ですって!」とキャザリンが鼻を鳴らした、「誰も人前に出られないのにいったい晩餐が何になりますの? ごらんなさい、あなたの髪――ごらんなさい、このわたしの髪! あら、見るの、よして!」
「メードなしで髪の始末に困るぐらい、わたしだってちゃんと承知してますよ。あなたはご主人に手伝ってもらえないの?」とソフィーはやけになっていった。
「ヘンリーに手伝わせる? とんでもない、実はあの人がいちばん困り切ってるのよ。どこへでも持って歩くってきかないあの新式の変なトルコ風呂ね、あれがちゃんと扱えるのはヘンリー付きの従僕だけなんです」
「ひと晩ぐらいトルコ風呂に入らなくてもいいはずよ」とソフィーはいった、「わたしはこんな髪じゃ人前に出られやしないけど、トルコ風呂なんてぜいたくの沙汰だわ」
「あんた、あきれたこというわね」とキャザリンは猛烈な声を出した、「ストライキになったとき、ヘンリーはちょうどトルコ風呂に入ってたのよ。わかった? 中に入ってたんですよ。まだ入ったままだわ」
「ひとりで出られないの?」
「出方がわからないのよ。『放出』と書いたレバーを引くと、なんべん引いても熱い蒸気しか出ないのよ。蒸気は二種類出るようになってるの、『適温』と『高温』とね。ヘンリーったらとうとう両方ともあけちゃったわ。今ごろもう伸びちゃって、わたし、未亡人になってるかも知れないんですよ」
「ガスペーアに暇なんぞとても出せやしないわ、オムレツの専門家なんてほかに見つかりゃしませんもの」とソフィーは泣き声を出した。
「わたしだって代りの夫を見つけるの、それこそ大変よ。それだのに、そんなのどうでもいいことだから考慮に値しない、っていうわけね」とキャザリンは毒々しくいった。
ソフィーは降伏した。彼女はリチャードスンにいいつけた、「早く行ってストライキ委員会にでも誰だか知らないけど采配をふってる者にでも話しといで、ガスペーアはすぐ暇を出すって。そしてガスペーアにはわたしが書斎ですぐあうからと話しておくれ。払うだけのものはちゃんと払って、何とかいいわけしておくわ。すんだら飛んで帰ってわたしの髪、結い上げるのよ」
三十分ばかりあと、ソフィーは来客一同を大客間に整列させた。食堂へ正式に行進する準備である。ヘンリー・モルサムは熟し切ったラズベリーみたいな色つやで、ときたま素人芝居で見かける人間の顔そっくりだが、そのほかには、今しがた遭遇して征服した重大危機の痕跡を外面に残している者はほとんどなかった。しかし、その重大危機に直面している間の緊張がひどかったので、多少の精神的影響はまだ残っていた。ソフィーは高貴なる賓客に取り止めなく話しかけながら、時がたつにつれ頻繁に大きなドアの方へ目を配っていた。やがてそのドアが開いて、お食事のご用意がよろしゅうございます、とありがたい発表があるわけだ。彼女はときたま鏡の方へも目を配って、すばらしく結い上がった自分の髪形もチラリと見た。猛烈な暴風を無事に乗り切った船がようやく入港してくる姿を見るとき、海上保険業者はきっとそんな目つきをするだろう。やがてドアが開いて待ちかねた給仕長が入ってきた。しかし晩餐の準備完了を一同に告知するでもなく、ドアはその背後にまたしまった。彼はソフィーひとりに報告しに来たのである。
「奥さま、お食事はできません」と彼はおごそかにいった、「調理室一同が職場放棄をいたしたのでござります。ガスペーアが料理人および調理室従業員組合に所属しておりますので、ガスペーアが出しぬけに即時解雇となりましたのを聞きますと、一同ストライキに入りました。ガスペーアの即時復職と組合に対する謝罪を要求しております。ついでに申し添えますが非常に態度が強硬でござりまして、わたくしは既にテーブルに配りましたメニューまで回収して戻させられました」
それから十八カ月になる。ソフィー・チャテルマンクハイムはまたもと出入りしたところへ出かけたり、もとの仲間と交際したりしだしたが、まだまだ非常に警戒を要する状態だ。社交界の集まりだのフェビアン協会の会議だの、興奮しそうな場所へ出るのは医者が許さない。事実、当人も出席したがっているかどうか、はなはだ疑問である。
ネメシスの祝祭
[#地から2字上げ]The Feast of Nemesis
「聖バレンタインの日がはやらなくなって助かるわね」とミセス・サッケンベリーがいった、「クリスマスだの新年だの|感謝祭《イースター》だのだれかれの誕生日だの、聖バレンタインの日がなくたって記念日はありあまるほどあるわ。わたしね、クリスマスに友達のところへも花を届けて手間をはぶこうと思ったの。ところがだめ。ガートルードのところは温室が十一棟あって園丁だってかれこれ三十人はいるでしょう、そこへ花を届けたりしたら滑稽だわ。ミリーだってちょうど花屋の店を出したばかりですもの、花なんて届けられやしませんわ。プレゼントのことはすっかり片がついたと思ってたのに、あわててガートルードとミリーへ何を贈るかきめることになって、その苦労でせっかくのクリスマス台なしだったわ。そのあと礼状をウンザリするほど何通も書くわけよ、『すてきなお花、本当にありがとうございました。わたくしのことに気を使って頂いて心からお礼を申しあげます』なんてね。もちろんわたしは、たいがい相手のことに気を使ったりしやしませんよ。ふだんからちゃんと『忘れていけない人びと』のリストをこしらえておくの。さもないととんでもない取り落としが起こるからね」
「問題はですね」とクローヴィスが伯母に向かっていった、「そんな小うるさい記念日なるものがですね、人間性の一面だけしつこく説き立てて、その反対の面は全く無視しているのがいけないんです。だから不自然になり通りいっぺんになるんですよ。新年だのクリスマスだのになると古い因習におだてられけしかけられて、イザという間ぎわに客の頭数が一人へりでもしなければランチにも呼びたくない奴のところへ、甘っちょろい友情とペコペコ腰の愛情をたっぷり盛りこんだ手紙を出したりするもんですし、あしたが元日という前の晩にレストランへ食事に行けば、一度もあったこともなければ二度とあいたくもない連中と手をつないで『蛍の光』をうたったりしますな。それが差支えないどころか当然なんですね。ところがです、その正反対の面は全然みとめられていないんです」
「正反対の面? どんな面のこと?」とミセス・サッケンベリーがきいた。
「大きらいな奴に対する感情を表明するはけ口がない、というんですよ。これこそ今日ただちに改めるべき現代文明焦眉の欠陥ですな。それを改めたらどんなに楽しくなるものか、まあ考えてもごらんなさい。毎年ちゃんと一定の日を日ごろのうらみを晴らす日ときめるんです。あらかじめ『ぬかしてはいけない奴』のリストを念入りに用意して、その日になったら全力をつくして上手にかたきを討って差支えないときめるんです。おぼえていますがぼくの出た私立の学校ではね、たしか学期末の最後の月曜だったと思いますが、うらみつらみを片づける日がきまってましたよ。もちろんその当時はその本当の価値がわからずにいました、そんなことするならどんな日でもやれますからね。それでも、もし何週間か前にこいつ生意気だとぶんなぐった下級生でもあったら、その日またぶんなぐってその一件を思い出させてやれますよ。ちょうどフランス人のいう『犯罪を心に再現する』にあたるわけです」
「わたしなら『刑罰を再現する』っていうわ」とミセス・サッケンベリーがいった、「それはとにかく、そんな学校生活の原始的な復讐制度を文明人の、しかもおとなの社会へもちこめるもんですか。そりゃ文明人のおとなだって怒りだの憎しみだのそんな感情を卒業しきってはいないけど、ちゃんと礼節を守って羽目をはずさない程度にはなってますわよ」
「ぼくの考えを実行するとしたら、もちろん礼節を守ってコッソリやる必要がありますな」とクローヴィスがいった、「賀状やクリスマス・カードとちがって通りいっぺんでないところが魅力なんですからね。たとえばです、『クリスマスにはウェブレー家の人たちに何か挨拶しなけりゃなるまい、うちのバーティがボーンマスの浜辺で世話になったから』などという場合、普通よくカレンダーを送りますね。するとクリスマスのあと毎日つづけて六日間、オスのウェブレーがメスのウェブレーにきくことになるんですよ、『送って来たカレンダーの礼状、忘れずに書いたかい?』ってね。さあ、ところでそのやり方を人間性の反対の面、もっと人間的な面へ移してみるんです。たとえば、『今度の木曜は|復讐の神《ネメシス》の日だぞ。隣りのあの憎らしい奴らにいったい何をしてやろうかな。奴らめ、うちのピング・ヤングに末っ子を咬まれたとき大さわぎしやがった』という場合など、その日に途方もなく早起きして塀を乗り越えて隣りの庭へ入り、上等の|股《また》|鋤《すき》でテニス・コートを掘返してショウロを探すんです、もちろんゲッケイジュの茂みのかげになって姿を見せない場所をねらうんですよ。ショウロは取れなくても心の安らぎはたっぷり収穫できますね、いくらプレゼントを贈っても望めないほど」
「そんなこと、できませんわ」とミセス・サッケンベリーはいった。抗議したのだが声の調子が少しわざとらしい。「そんなことしたらまるで虫ケラですわ」
「虫ケラにそんなことできるもんですか。作業時間に制限はあるし、とてもそれだけ能力を発揮できやしません。ちゃんと役に立つ|股《また》|鋤《すき》を使って十分間頑張ってごらんなさい。結果は当然並みはずれて腕のすぐれたモグラかアナグマの仕事ぶりを思わせるはずです」
「きっとわたしがやったと思われますわ」とミセス・サッケンベリーがいった。
「もちろんです。でも楽しみの半分はそれなんですよ。クリスマスにカードを送ったりプレゼントを送ったりしますが、どんなものをもらったか相手にそれがわからなかったらつまらないでしょう――それと同じことですね。もちろん、反感の対象とうわべは仲よくつき合っていればずっと簡単にやれますね。たとえば、あの食いしん坊のアグネス・ブレークなんぞは食べもののことしか頭にありませんから、どこかよく茂った森の中へでもピクニックに誘い出してランチを出す直前にはぐらかす――そんなの簡単ですね。ようやくのことでアグネスが探しあてると食べるものはもう一口も残っていなかった、なんてね」
「ランチの直前にアグネス・ブレークをはぐらかすなんて、人間以上の智略がなけりゃとてもできやしませんよ。そんなこと一体できるかしら?」
「そんならほかのお客も全部、きらいな奴をみんなまとめておいて、ランチの方をはぐらかせばいい。手ちがいでまるきり別の方角へ届けちまった、ということにするんです」
「ものすごいピクニックになるわね」
「向こうにとってはその通り、しかしあなたにとってはちがいますよ。早目にランチをたっぷり食べて出かけるんですね。そして行方不明になったご馳走をひと品ひと品こまかく説明したりすればなお楽しくなりますよ。ロブスター・ニューバーグに卵入りのマヨネーズをそえておきました、カレーは暖めて差上げるつもりで加熱鍋も用意して来ましたの、という具合にです。アグネス・ブレークなどはワインのリストまできかないうちにもう夢中でしょうな。いよいよ絶望とあきらめるまでさんざん待たせるわけですが、それまで何かばかげたゲームでもやらせるんです、例の『食事ぬきの晩餐会』か何かね。あのゲームではめいめい何かひとつ料理の名をえらんできめて、その名を呼ばれると何かちょいとやらされますね。そんなことをしたあとで行方不明のランチにその料理も入っていたと聞かされたら、おそらくきっと泣き出しますよ。すばらしいピクニックになるでしょうな」
ミセス・サッケンベリーはしばらく何ともいわなかった。食事ぬきのピクニックへ招待したい奴のリストを頭の中でこしらえていたのだろうが、やがてクローヴィスにきいた、「そら、あの憎らしいウォルドー・プラブリーね、いつも自分のからだばかり気にしてる奴――あの男にはどんなことしてやれて?」もしネメシスの日が制定されたらどんなことがやれるものか、そろそろわかりかけたのは確実である。
「世間一般がネメシスの日を祝うようになったらウォルドーはさっそく引っぱりだこですよ」とクローヴィスはいった、「何週間も前から予約しておかなきゃならんでしょうね。それにしても東風が吹き出したとか雲がひとつふたつ空に出たとかしたら、あいつ、大事なからだが心配で出て来やしませんぞ。それより果樹園へハンモックを吊って誘いこんだら面白いでしょう、毎年夏になるとハチが巣を作るところの近くへね。暖かな日の昼下りにハンモックでいい気持に寝ている――あいつ、無精者だからそんな話に飛びついて来ますよ。奴がウトウトしかけたら耐風マッチに火をつけてハチの巣へ放りこめばハチの大群がいきり立って飛び出し、たちまちウォルドーの太ったからだに『第二のわが家』をいとなむでしょう、ハンモックから急いで下りるのはなかなか大変ですし」
「でもハチに刺されて死にはしないかしら?」とミセス・サッケンベリーが言い返した。
「ウォルドーという男はね、死ねば大いに改善されるタイプですよ。しかし、そこまでやりたくないようなら藁を少し濡らしておきましてね、ハチの巣へマッチを放りこむと同時にハンモックの下で藁を燃やすんですな。煙に邪魔されて刺せる距離まで行けるのはごく戦闘的なハチだけです。煙の外へ逃げ出さない限り重傷にはなりません。結局ちゃんと母親の手にもどりますよ。全身燻製になってあちこちはれ上るでしょうが、目鼻立ちでちゃんとウォルドーだとわかることはわかりますね」
「そんなことしたら、わたし、母親に死ぬまで恨まれますわ」とミセス・サッケンベリーがいった。
「でもクリスマスにやり取りするカードがそれで一枚へりますぞ」とクローヴィスがいった。
訳者のあとがき
サキ(一八七〇―一九一六)はスコットランド系のイギリス人、本名はヘクター・ヒュー・マンローという。マンロー家はごく古い家柄で、軍人として名をあげた人物が少くない。父がビルマの警察長官をしていた関係でビルマで生まれた。二歳のとき母に死なれて、兄と姉とヘクターの三人はイギリスへ帰され、ふたりの伯母の世話になって田舎で育つ。大切にはされたが、伯母は二人とも独身でたがいに仲が悪い上に、子供の心理にまったく理解がなく、三人ともひどく厳格にしつけられ、少年ヘクターはかなり辛い思いをしたらしい。最高の傑作と思われる「スレドニ・ヴァシュター」、それに「納戸部屋」(U所収)などはその頃の経験を反映する。
学歴らしいものはほとんどない。ヘクターは虚弱だったためもあって、近くの村の小学校へ通ったり、ときには家庭教師について勉強したりした。十七歳のとき、父がようやくビルマから帰国する。そのあと、子供たち三人をつれてフランス、ドイツ、スイスをゆっくり旅行してまわる。ホテル住いをしながら家庭教師について勉強もした。むかしのイギリスの貴族や上流の社会では大陸遍歴が重要な教育とされた。それを思わせる。長いこと厳格な伯母たちのところで苦労させた埋め合わせ、という含みもあったのだろう。父は陸軍大佐で退役して帰国した。暮らしはまず中産階級の上流という程度だったろうと推定される。
二十三歳のときビルマ警察に勤務するが、一年あまりで病気のため帰国してロンドンへ出てジャーナリズムに入る。バルカン半島・ロシヤ・パリの各地で新聞社の通信員をしたあと、三十八歳で帰国して短篇を書き始めた。文名にわかに上る、とは行かなかったが、辛辣な諷刺と的確で簡潔な文体で一部の注目をひいた。そのころの短篇を集めた『クローヴィス年代記』(一九一二)と『けだものと超けだもの』(一九一四年)の二冊が結局はサキの代表作となった。『けだものと超けだもの』というタイトルは、バーナード・ショーの劇『人と超人』のパロディである。
そのころ長篇も二冊書いている。『鼻もちならぬ奴バシントン』(一九一二)と『ウィリアムが来たとき』(一九一三)がそれだ。前者はロンドン社交界の裏表を諷刺的に描いたもの、サキ自身の精神的危機を反映すると見る人もある。後者はイギリスがドイツ軍に占領された状況を空想したもので、ドイツの対外政策に対する危険信号であった(第一次世界大戦の勃発は一九一四)。タイトル中のウィリアムはドイツ皇帝カイゼル・ウィルヘルムをさす。
短篇にしろ長篇にしろ、ベストセラーになるような作品は一度も書いていない。しかし一部の読者にはいまでも人気が高い。二十世紀初頭に書かれた短篇で、いまもときたま新版が出る本はほとんどないが、サキの短篇だけは例外だ。サキはそんな作家である。
第一次世界大戦が起きると進んで志願し、兵卒としてフランス戦線に出る。士官になる機会を二、三度あたえられたが、そのつど辞退して兵卒でつとめたのは、俄仕こみの士官は本物でないという考えと、同じ塹壕で生死を共にした戦友と離れたくない気持からだという。遊惰な社交界に対する意地のわるい傍観者が、にわかに変身して、困難に挺身したわけだ。イギリスには「身分高き者は責任もまた重し」という言葉がある。それを思い出す。
一九一六年十一月十四日、夜明け前の暗い塹壕で戦友の一人が煙草に火をつけた。「その煙草を消せ」とサキがどなる。とたんに敵弾が飛んできた。一時間たって判明する――弾丸に当って死んだのはサキであった。
モスクワ時代に親しかったヘンリ・W・ネヴィンスンは書いている――サキは本質的に保守的で、すべて革新的なものは軽蔑の目で見る。
その皮肉な態度が容貌によく現われていた。しかし皮肉な保守主義者の面影と戦時中の彼の行動とは、どうもうまく重ならない。作品の中でも、高い地位に満足して納まり返っている連中を目のかたきにこき下ろしているし、大人と子供が対立する場合は、いつも子供の肩をもつ。超然と構えた皮肉家ではなく、よく人に交わって無邪気にあそんだそうだ。サキの人間像はどうも正確につかみにくい。
サキはいつも無口で控え目で大声を出したり大酒をのんだりすることがなく、自分のことはあまり話さず、人を観察する目は実にするどい。正体のつかみにくい男だった――と、そのころの一友人が書いている。いかにも痛烈な皮肉を上品な筆で書きそうなタイプだ。金銭にはごく無頓着で、ビルマ勤務中のほか、三十歳になるまで自分で収入を得たことがない。そんな性格が物欲のふかい俗物を特に憎んだのだろう。権力をつかんで威ばる奴、たくみに立ちまわる偽善者ども、上品ぶる奴、善人ぶる奴、無神経な奴――そんな連中を目のかたきにして意地わるく描き出す。その反対に子供と動物が大好きだ。彼はいつも子供と動物の側に立つ。自然で、純粋で、裏表のないところが好きなのだ。そうした弱者を圧迫する者は容赦なく敵視する。
サキは子供のころから冗談好きでいたずらが上手だったという。だから作品の中でもその手を使って諷刺の対象を遠慮なくやっつける。途方もないウソツキの名人がよく出てくるが、それはたいがい子供か若い男女で、実に軽薄で無責任な言動をしては、えらそうに構えた俗物どもの度肝をぬく。痛快である。もしこれをごもっともな善玉がやるのだったら話になるまい。
ペン・ネームの「サキ」は、古代ペルシャの詩人オマー・カイヤムの詩をフィッツジェラルドが英訳した「|四行詩《ルバイヤット》」の中に出る「サキ」(さかずきを運ぶ者)にもとづくといわれるが、グレィアム・グリーンが「無意味なマスク」だといっているのは、「ルバイヤット」をどう調べても「サキ」をマンローのペン・ネームとする根拠がないのだろう。南アメリカ産のサルの一種に「サキ」というのがあって、むしろそれを採ったらしい、との説もある。「グロービー・リングトンの変貌」の中に、ジョン大佐からもらったサルの性質が書いてあるが、それがマンロー自身の性格に似ているという。
彼の名声はもちろん短篇にあるが、ほかに長篇小説と戯曲がそれぞれ三篇ずつ、それに若いころ書いた「ロシヤ史」が一冊ある。
サキがオゥ・ヘンリを読んでいたか、またオゥ・ヘンリがサキを読んでいたか、ふたりの活動した時期がほぼ同じだけに、これは面白い問題だが、日本にいてはちょいと調べにくい。誰か熱心な研究家がしらべてくれるとありがたいが、訳者自身は今のところ手を出す気がない。なぜなら、「サキの短篇は分析され批判されるためにあるのではない。読んで楽しむために存在する」(クリストファー・モーレー)からだ。
とにかく訳者は全篇を楽しく翻訳した。読者がこれを楽しく読んでくれるのを大いに期待する。
これもクリストファー・モーレーが書いているが、「この男ならわかると思う友人に、何ともいわずにサキの本をわたす。これがその友人に対する最高の敬意の示し方だ」そうだ。してみると訳者のこのあとがきの大半は、とんでもない無駄口ということになる。
サキ
一八七〇−一九一六年。本名ヘクター・ヒュー・マンロー。父親の赴任地ビルマで生まれる。母の死にともないイギリスへ帰る。新聞記者のかたわら小説を書き始め、笑いと幻想と残酷さを合わせもった短篇で人気を得た。第一次大戦で戦死。
中西秀男
(なかにし・ひでお)
茨城県に生れる。早稲田大学卒業。早稲田大学名誉教授。著書に『この多彩な英語』、訳書に『近代短篇小説』『ラーオ博士のサーカス』『ビアス怪談集』など多数。
本作品は一九七八年一一月、一九八二年八月『ザ・ベスト・オブ・サキT、U』としてサンリオより刊行され、一九八八年五月、増補新編集の上、二分冊でちくま文庫に収録された。
なお、電子化にあたり解説は割愛した。
ザ・ベスト・オブ・サキT
2002年2月22日 初版発行
著者 サキ
訳者 中西秀男(なかにし・ひでお)
発行者 菊池明郎
発行所 株式会社筑摩書房
〒111-8755 東京都台東区蔵前2-5-3
(C) HIDEO NAKANISHI 2002
1460行
には電気式のし|浚《ゆん》|渫《せつ》|機《き》もついていた。
電気式の|浚《しゆん》〜となるべき。底本は持っていないが、
サンリオSF文庫「ザ・ベスト・オブ・サキU」と照合のうえ
修正。
元HTMLを見ると、タイトル中の「T」自体Winの機種依存文字だし、かなりいい加減なつくりのようです。他の出版社のだと、「I」を代替にあてて、DFパブリとか秀英太明朝の外字を使って、機種依存しない(フォント依存ですが)ように注意しているというのに。商品としてこれでいいのかなあ。