悲しみよ こんにちは
サガン/朝吹登水子訳
目 次
悲しみよ こんにちは
第一部
第二部
あとがき(朝吹登水子)
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悲しみよ こんにちは
悲しみよ さようなら
悲しみよ こんにちは
天井のすじの中にもお前は刻みこまれている
わたしの愛する目の中にもお前は刻みこまれている
お前はみじめさとはどこかちがう
なぜなら
いちばん 貧しい唇さえも
ほほ笑みの中に
お前を現わす
悲しみよ こんにちは
欲情をそそる肉体同士の愛
愛のつよさ
からだのない怪物のように
誘惑がわきあがる
希望に裏切られた顔
悲しみ 美しい顔よ エリュアール「直接の生命」
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第一部
第一章
ものうさと甘さとがつきまとって離れないこの見知らぬ感情に、悲しみという重々しい、りっぱな名をつけようか、私は迷う。その感情はあまりにも自分のことだけにかまけ、利己主義な感情であり、私はそれをほとんど恥じている。ところが、悲しみはいつも高尚なもののように思われていたのだから。私はこれまで悲しみというものを知らなかった、けれども、ものうさ、悔恨、そして稀《まれ》には良心の呵責《かしゃく》も知っていた。今は、絹のようにいらだたしく、やわらかい何かが私に蔽《おお》いかぶさって、私をほかの人たちから離れさせる。
その夏、私は十七だった。そして私はまったく幸福だった。私のほかに、父とその情人《アマン》のエルザがいた。私はこの不自然にみえる状態について、ここで説明を加えておかなくてはならない。父は四十歳で、十五年来|鰥夫《やもめ》だった。父は若く、生活力に満ち、豊かな前途のある男だった。それで、私は、二年前に寄宿舎を出たとき、父が女と同棲《どうせい》することを理解しないわけには行かなかった。けれども、父が六カ月おきに女を替えることを認めるには、少し長い期間を要した。しかし、やがて父の魅力、この新しい、安易な生活、そして私の性質が、このような生活に馴《な》じませて行った。父は女|蕩《たら》しで、仕事|上手《じょうず》で、いつも好奇心が強く、飽きやすく、そして女にもてた。私は苦労せずに、そして優しく、父を愛することができた。なぜなら父は親切で、気前が良く、朗らかで、私に溢《あふ》れるような愛情を持っていたからだ。私は、父以上に良い、そしておもしろい友達は想像できない。その夏の初め、父は、夏休みの間、現在の情人のエルザが、いっしょに住みに来ることが、いやでないかどうか、私に訊《き》くほどの親切ささえあった。私は、心から賛成した。なぜなら、父にとって女が必要だということも知っていたし、他方エルザが私たちの邪魔にならないことも知っていたから。彼女は背の高い赤毛の、半玄人、半商売人で、スタジオでワンサをしたり、シャンゼリゼーのバーに出入りしたりしていた。彼女は気立てがよく、玉の輿《こし》にのろうというような野心は持っていなかった。もともと私たち……父と私とは、『出発する』ということに夢中になっていたので、何ごとにであれ異議を申立てるどころではなかったのだ。父はかねて地中海に面した海辺に、一軒はなれた大きな、白い、すてきな別荘を借り、私たちは、六月、暑さがはじまると、それを夢見ていたのだった。別荘は海を見下ろす岬の先に建てられ、松林によって道路から隠されていた。そこから、石ころの小径《こみち》が、浪の揺れている、赤茶けた岩にかこまれた金色の小さな入江へ降りていた。
最初の日々は眩《まばゆ》いばかりだった。私たちは暑さに打ちひしがれながら、何時間も海辺で時を過して次第に健康な小麦色に焼けて行ったが、エルザだけは赤むけになってひどく痛がっていた。父は太りはじめた腹部が、ドン・ファンに似つかわしくないと考えて、ややこしい脚の体操をしていた。私は朝早くから水の中にいた。冷たくすき通った水の中にもぐり、パリのすべての埃《ほこり》、すべての陰を自分から洗い落そうと、やたらに体を動かして疲れ果てた。私は砂の上に寝そべって、そのひとつかみを手ににぎり、指の間からやわらかい黄色のひとすじの紐《ひも》のように流し落した。私はそれが時のように流れ過ぎて行くと自分に言い聞かせた。それは安易な考えだ。安易なことを考えるのは快いと自分に言い聞かせた。夏だもの。
六日目に、私は初めてシリルに会った。彼は海岸に沿ってヨットを走らせていたが、私たちの入江の前で転覆した。私は、彼の持ち物を拾い集めるのを手伝った。そしていっしょに笑いこけながら、彼がシリルという名前であること、法科の学生で、そばの別荘に母と夏休みを過していることを知った。彼はラテン系の顔をしていて、とても色が黒く、とてもあけっぱなしで、何か平衡のとれた、人をいたわるようなところのあるのが私の気に入った。それまで私は、乱暴で、自分のことばかり考えている、特に自分たちの青春に夢中で、その中に自分たちの空虚さの弁解や、悲劇のテーマを探そうとする、あの大学生たちを避けていた。私は青年たちは好きでなかった。私は彼らよりも、礼儀と思いやりを持って話しかけてくれ、父親や愛人のような優しさを示してくれる、父の友達たちの四十代の男たちのほうをずっと好んだ。けれどもシリルは私の気に入った。彼は背が高く、ときに、美しく、信頼の念を起させるような美しさを持っていた。私は父の醜さぎらいとは同意見ではなかったが、――なぜといって、そのため私たちはしばしばつまらない人たちともつき合うようになったのだから――私は肉体的魅力が全く欠けている人たちの前では、一種の居心地の悪さと無関心さとを感じた。彼らの気に入られることをあきらめている様子は、私には不愉快な不具のように思えた。なぜなら、気に入られること以外に私たちは何を求めているだろう? 私は今日になってもまだ、この征服欲の裏に隠されているのは、生活力の過剰や、争奪欲なのか、あるいは自分自身に対して安心したいという、ひそかな、無言の、しかし根強い欲求なのか、知らない。
シリルは帰るとき、ヨットの乗り方を教えようと申出た。私は彼のことにすっかり気を奪われながら夕食に戻った。そしてほとんど、というかほんの少ししか会話に加わらなかった。私は父が神経質になっていることにもほとんど気がつかなかった。夕食後、私たちは毎夜するようにテラスの長椅子に体をのばした。空は星がいっぱいにまきちらされていた。私は星を眺めた。ぼんやりと、今年は時期がいつもより早く来て、流星が空を乱れ飛ぶようになればいいと思いながら。けれども私たちはまだ七月の初めに入ったところで、星は動かなかった。テラスの砂利の上で蝉《せみ》が鳴いていた。きっと何千匹もいるのだろう。暑さと月に酔って幾夜も幾夜もよっぴてこのようにおかしな声で鳴くのは……蝉はただ一方の翅鞘《ししょう》をもう一方の翅鞘にすりつけるものだと聞かされていたけれども、私はそれが発情期の猫の声のように、本能的な喉《のど》から出る歌だと信じたかった。私は良い心地だった。小さな砂粒だけが、私のブラウスと肌の間で、快い睡気《ねむけ》の襲来をふせいでいた。このとき、父が軽い咳払《せきばら》いをして、デッキチェヤーに上半身を起した。
「お客様が見えるんだよ」と言った。
私はがっかりして眼を閉じた。私たちはあまりにも平和だった。こんなことがそう長く続くはずはなかった!
「誰だか早く言って……」と相変らず社交界に渇望しているエルザは叫んだ。
「アンヌ・ラルセンだよ」と父が言った。そして私のほうを向いた。
私は驚きのあまり、どう反応してよいかわからないで、父を見つめた。
「アンヌに、ファッションのコレクションであまり疲れたら来ないかって言ってみたんだ。そしたら……来るんだって……」
考えても見ないことだった。アンヌ・ラルセンは、死んだ母の古い友達で、父とはほんの少しの交際しかなかった。けれども二年前、私が寄宿舎を出たとき、父はどうしてよいかわからなくて、私を彼女のもとへ送った。一週間でアンヌは私に良い趣味の衣裳《いしょう》を調え、暮し方を教えてくれた。それで私はアンヌに対して情熱的な憧《あこが》れをいだくようになったが、アンヌはそれを器用に取巻きの青年の一人にさしむけるようにした。だから私の最初のおしゃれと最初のいくつかの恋の戯れはアンヌのおかげだった。そして私は非常に感謝していた。アンヌは四十二歳だったが、大変魅力のある、非常に洗練された人で、高慢で人生に疲れた、冷淡な美しい顔をしていた。しいていえば、冷淡さがただ一つの欠点だと言ってよかった。彼女は愛想が良いと同時に冷たかった。一貫した意志と人|怖《お》じさせる心の静けさが、彼女全体に反映していた。離婚して自由だったにもかかわらず、愛人がいるというようなことは聞かなかった。それに、私たちは同じ種類の人たちと交際していなかった。彼女は上品な、頭の良い、思慮深い人たちとつき合い、私たちは父が望むただ美貌《びぼう》でおもしろい、騒がしいお酒飲みの人たちとであった。きっとアンヌは、私たち――父と私――がもっぱら遊びや無駄事で日を送っているのを少し軽蔑《けいべつ》していたと思う。なぜならアンヌは何ごとによらずゆきすぎたことを軽蔑していたから……。
商売上の晩餐《ばんさん》(アンヌは洋裁の仕事をし、父は広告のほうをしていた)、母の思い出、私の努力――なぜならアンヌが私を怖じさせたとしても、私は大変アンヌを尊敬していたから――などが、私たちを結びつける唯一のものだった。とにかく、エルザの存在と、アンヌの教育に関する意見とを考えると、この突然の来訪は、いかにもまずい出来事のように思えた。
エルザは、アンヌの社会的地位についてさんざん質問したあげく、寝に上がってしまった。私は父と二人きりで残った。私は父の足下の石段に来て坐った。父はかがんで両手を私の肩にかけた。
「どうしてそんなに元気がないの? 僕の可愛い奴、お前は野性の小猫のようだよ。僕はいい体つきをしたブロンドの娘が欲しいよ。少し太った、陶器のような眼を持った。そして……」
「そんなこと問題じゃないわ」と私は言った。「なぜアンヌを呼んだの? そしてどうしてあの人は承知したんでしょう?」
「お前の年取った親父《おやじ》さんに逢《あ》うためかもしれないよ。そういうことだってあり得るさ」
「でも、お父様はアンヌの興味を惹《ひ》くようなタイプの男じゃないわ」と私は言った。「だってあの人は頭が良すぎるし、そしておまけに気位が高いわ。それにエルザは? お父様はエルザのことお考えになった? アンヌとエルザの会話、想像おできになって? 私にはできないわ」
「それは考えなかった……」と父は素直にみとめた。「そうだ。そいつは大変だ。セシル。……パリに帰ってしまおうか?」
父は、私の首すじにさわりながら、静かに笑った。私はふり返って父を見つめた。父の黒い瞳《ひとみ》は光り、おかしな小さな皺《しわ》が眼のまわりを刻み、唇が少し上に反りかえっていた。父は牧神《フォーヌ》のようだった。私たちはいっしょに笑い出してしまった。父が面倒なことを惹き起すたびにいつもするように。
「僕のかわいい共犯者」と父が言った。「お前なしでは僕はどうなるだろう?」
父の声の調子があまりにも思いつめた、あまりにも優しい調子だったので、私は、父が私なしでは本当に不幸だったろうと思った。夜遅くまで私たちは、恋愛について、そしてその複雑さについて、語り合った。父にとって、それらは想像の上だけのものだった。父は貞節、ことの重大さ、責任、などという観念を故意に退けていた。それらは真に理由のない、実を結ばないものだと説明した。それが父以外の人だったら、きっと私は憤慨したに違いない。けれど私は、父の場合、そういう態度が優しさや、献身を除外するものでないと知っていた。父はそういう感情が、かりそめのものだということを知り、またそうであることを願っているだけ、そうした気持に自然になるのだった。この父の恋愛観は私を魅惑した。すぐ燃えあがる、はげしい、一時的な恋愛……。私は貞節というものに魅惑される年ごろではなかった。私は恋愛のいろいろなことについてほとんど何も知らなかった。いくつかの逢引《あいびき》、接吻《せっぷん》、そして倦怠《けんたい》などをのぞいては。
第二章
アンヌは一週間内には着く予定ではなかった、私は|真の夏休み《ヽヽヽヽヽ》の最後の数日を満喫した。私たちは別荘を二カ月間借りていた。しかし私は、アンヌの到着とともに、完全なくつろぎというものが不可能になることを知っていた。アンヌはものごとをはっきりとさせ、父や私だったならわざと聞き流してしまう言葉にも意味を与える、といった人だった。彼女は良い趣味と繊細さの境界線をはっきり置いた。それで、私たちは、彼女の突然の閉じこもり、傷つけられた沈黙、表情、そういうものの中にその境界線が破られたことを観取《みと》らざるを得なかった。これは刺激的であると同時に煩わしく、結局は屈辱的なことであった。なぜなら、彼女のほうに理があることを私は感じていたから。
アンヌが着くという日、父とエルザとがフレジュスの駅まで迎えに行くことに決った。私はこの遠出《ヽヽ》に加わることを断固と断わった。父はくやしまぎれに、汽車から降り立ったときの彼女に捧げるため、庭の唐しょうぶの花をみんな摘み取った。私は、花束をエルザに持たせないように注意するのが精いっぱいだった。
三時、父たちが去った後、私は海辺に下りた。堪えがたい暑さだった。私は砂の上に横たわってうとうとした。シリルの声に起された。私は眼をあけた。空は暑さのために白くかすんでいた。私は返事をしなかった。私は彼とも、誰とも話したくなかった。私は、この夏の精いっぱいの力で、砂の上に釘《くぎ》づけにされていた。重い両腕と、渇いた唇と……。
「死んでいるの?」と彼は言った。「遠くからだと、捨てられた残骸《ざんがい》のように見えたよ」
私は微笑した。シリルは私のそばに腰を下ろした。私の心臓は荒々しく、ひそかに打ちはじめた。なぜなら、彼が動いた拍子に、その手が私の肩に軽く触れたからだった。先週、元気いっぱいの海軍演習よろしく、私たちは何回も、お互いにもつれ合ったまま水の奥底深く沈んだけれど、私は何の胸さわぎも覚えなかった。それなのに今日は、ただこの暑さが、この夢うつつが、この不器用な仕草が、私の中にある何かを優しく引裂くに足りたのだ。私はシリルのほうに顔を向けた。彼はじっと私をみつめていた。私はシリルを識《し》りはじめていた。彼は年のわりに人並より平均がとれていて、真面目だった。だから、私たちの状態――この奇妙な三人家族――が彼を驚かした。シリルはそれを口に出して言うには親切すぎるか、または遠慮しすぎているかのどっちかだったが、私は、シリルが父を眺めるときの横眼の不満そうな眼差《まなざ》しで、そうと感じた。シリルは私が悩んでいることを望んだだろう。けれども私は悩んではいなかった。今たった一つ私を悩ましているのは、彼の視線と、私の心臓の強い鼓動とであった。シリルは私の上にかがんだ。私はこの週の過去数日間のシリルに対する自分の信頼と、平静さとを思い出した。そしてこの長くて少し重い唇の近づいてくるのを残念に思った。
「シリル」と私は言った。「私たちはあんなに幸福だったのに……」
彼は私に優しく接吻した。私は空をみつめた。それから私は、強くつぶった瞼《まぶた》の下の、きらめく赤い光しか見えなかった。暑さ、放心、最初の接吻の味、溜息《ためいき》のうちに長い何分かが過ぎた。自動車のクラクソンが、私たちを泥棒たちのように離した。私はひと言も言わずシリルを離れ、家のほうへと登って行った。こんなに早く帰ってくるわけがないのでびっくりした。アンヌの汽車はまだ着いているはずがなかった。
だが、私は自動車から降り立ったアンヌをテラスの上に発見した。
「この家は『眠りの森の美人』の家なの?」と彼女は言った。「あなた焼けたわね。セシル! 私、あなたに逢えて嬉しいわ」
「私もよ」と私は言った。「だけどパリからいらっしゃったの?」
「私、車で来たかったの、おかげで私とても疲れちゃったわ」
私はアンヌを彼女の部屋に通した。私はシリルの船が見えないかなという希望をもって窓をあけたが、もう見えなかった。アンヌはベッドの上に腰を下ろした。私は彼女の眼のまわりの小さな影に気がついた。
「この別荘は素晴らしいわね」とアンヌはつぶやいた。「お父様はどこ?」
「お父様はエルザといっしょにあなたを迎えに駅に行ったのよ」
私はスーツケースを椅子の上にのせた。そしてアンヌのほうをふりむいた、とたんに私は衝撃を受けた。彼女の顔が急にゆがみ、唇が震えていた。
「エルザ・マッケンブール? お父様はエルザ・マッケンブールをここに連れてきていらっしゃるの?」
私は何と返事してよいかわからなかった。私はびっくりしてアンヌを見つめた。いつも見馴れていた、非常に落ちついた、冷静なこの顔を、私の前にこんなふうに晒《さら》すとは……アンヌは、私のほうを凝視していたが、私の言葉がもたらしたいくつかの影像を見ていたのだ。彼女はやっと私が見えたらしく、顔をそらした。
「私、前もってお知らせすべきだったわ」と彼女は言った。「でも私とても出発するのを急いでいたものだから……私とても疲れていたので……」
「そして今……」と私は機械的に続けて言った。
「今が何?」と彼女は言った。
質問するような、軽蔑したような視線だった。もう何ごともなかったかのようだった。
「今、あなたはお着きになったのだから……」と私は両手をもみながら馬鹿のように言った。「私、あなたがいらっしゃったこととても嬉しいわ。階下《した》でお待ちしているわ。もし何かお飲みになりたいのだったら、バーは完璧《かんぺき》なのよ」
私はもぐもぐ言いながら部屋を出た。そして混乱した頭で階段を下りた。なぜあの顔、あのとり乱した声、あの落胆? 私はデッキチェヤーに腰を下ろして、眼を閉じた。私はアンヌのすべての、きつい、信頼感を起させる顔つきを思い出そうとした。皮肉、自信、威厳……。あの傷ついた顔を見いだしたことは、私を感動させ、同時にいらいらさせた。アンヌは父を愛しているのだろうか? 彼女が父を愛していることは可能だろうか? 父の持っている何ものもアンヌの趣味に適《かな》ったものはなかった。父は弱く、女蕩しで、ときには意気地がなかった。けれども、もしかしたらあれはただ旅行の疲れか、道徳的な怒《いか》りだったのか……私はさまざまな仮定に一時間を過した。
五時に、父がエルザと帰ってきた。私は父が自動車から下りるのを眺めた。私は、アンヌが父を愛することが可能かどうか知ろうとした。父は急ぎ足で、頭を少し後方にそらせながら、私のほうに歩いてきた。父はほほえんだ。私はアンヌが父を愛していること、そして誰もが父を愛することが、非常に可能だと考えた。
「アンヌはいなかったんだ」と父は私に叫んだ。「汽車のドアから落ちてしまったんじゃないだろうね」
「お部屋にいるわ」と私は言った。「アンヌは車で来たの」
「本当かい? そりゃ素晴らしい! お前は花束を上に持って行ってくれ」
「花束を私に買ってくださったんですの?」とアンヌの声がした。「まあご親切ね」
彼女は、旅行をしてきた服とも思われないような服に身をつつんで、くつろいだ様子で、ほほえみながら、父に逢うため階段を下りてきた。私は彼女が下りてきたのは車の音を聞いたためであって、私と話すためにもう少し早く下りてきてくれてもよかったのに、と淋しく考えた。私が落ちてしまった試験のことについてでもいいから……。しかし、この最後の考えが私をなぐさめた。
父は大急ぎで近づいて、アンヌの手に接吻した。
「私は駅のプラットフォームで、この花束をかかえながら、馬鹿のような笑いを浮べて、十五分も過したんですよ。ああ良かった。あなたがいらっしゃって……エルザ・マッケンブール、ご存じですか?」
私は眼をそらした。
「私たちお逢いしたはずですわ」アンヌは非常に愛想よく言った。「私のお部屋、素敵ですわ。お招きくださって、本当にご親切ね。レエモン、私、とても疲れていたんですの」
父ははしゃいでいた。父の眼には万事が上手《うま》く行っていた。父はしゃれた会話をしたり、お酒の壜《びん》の栓をぬいたりした。けれども私は、情熱的なシリルの顔とアンヌの顔……この二つの、はげしさに刻まれた顔が、代り代り、目に映った。そして私は父が言ったように、はたして夏休みはそう簡単に過ぎるだろうか、と自問した。
この最初の夕食はとても陽気だった。父とアンヌは、少数だが華やかな、彼らの共通の知人の話をしていた。アンヌが、父の共同出資者は脳みそが足りないと言いだしたときまで私はとてもたのしかった。この男は酒飲みだったけれど、親切で、私たち――父と私は、忘れがたい数々の夕食を共にしたのだった。
私は抗議をした。
「ロンバールはおもしろいわよ。アンヌ。彼、とても愉快だわ」
「それにしても、あの人に何かが欠けていると認めるでしょう? それにあのユーモアにしても……」
「彼は一般にいうインテリジェンスの種類に属していないかも知れないけれど、でも……」
彼女は寛大な調子で私をさえぎった。
「あなたのいうインテリジェンスは、要するに年齢ってことじゃない」
彼女の簡潔で、決定的な表現が私を魅惑した。ある種の言い回しは、完全に理解し得ないまでも、私を感心させ、知的な、洗練された雰囲気を感じさせた。この言い回しは、私に小さなノートと鉛筆を持ちたいような気持を起させた。私はそのことをアンヌに言った。父はふき出した。
「少なくとも、お前は恨んではいないようだね」
私は恨むことはできなかった。なぜならアンヌに悪意はないからだ。私は、彼女があまり無関心すぎると感じた。彼女の判断は悪意から出る鋭さ、精密さを持っていなかった。が、それだけにもっと堪えがたいものだった。
この最初の晩、アンヌは、エルザがうっかりとした様子で、故意かどうか知らないが、直接父の寝室へ入って行ったことについて気がつかないふうだった。アンヌは、コレクションのセーターを私に持ってきてくれたが、私にお礼を言わせなかった。お礼はアンヌをうるさがらせたし、それに、私もお礼などでは決して自分の感激を十分に表わすことができないのが常なので、私は無駄な努力はしなかった。
「私は、あのエルザってとても可愛い人だと思うわ」と私が部屋を出て行く前にアンヌが言った。アンヌはほほえまずに、私の眼をじっとみつめた。彼女は私の中に、それを打消す考えを求めていた。私はさっきの彼女の反応を忘れなければいけなかった。
「ええ、ええ、魅力のある……ええと……お嬢さん……とても感じの良い……」
私は口ごもった。彼女は笑いだし、私はいらいらしながら寝に行った。私は、もしかしたら女の子とカンヌで踊っているかもしれないシリルのことを考えながら眠りについた。
私は、海の存在、絶え間ないそのリズムと、太陽という肝心なものを忘れている……否、忘れなければいけなかったことに気がつく。私はまた、四本の菩提樹《ぼだいじゅ》のある田舎の女学校の寄宿の中庭と、その香りを思い出しているわけには行かなかった。それから、三年前に寄宿を出たとき、駅のプラットフォームに立っていた父の微笑、あの困惑した微笑を……なぜなら私は髪を三つ編みにしていて、ほとんど黒に近い醜い服を着ていたから……それから、自動車の中での、父の喜びの爆発、なぜなら私が父に似た眼と口を持っていて、私が父にとって、最も可愛い、最も素晴らしい玩具《おもちゃ》になろうとしていたからだった。私は何も知らなかった。父は私にパリを、奢侈《しゃし》を、安易な生活を教えようとしていた。その当時の、私の大部分の楽しみは、金銭のおかげをこうむっていたものだと思う。車でスピードを出すこと、新しい服を持つこと、レコードや、本や、花を買うこと……いまだに私はこれらの安易な楽しみを恥じていない。もっとも私は、それらが安易なのだということを聞いていたから、安易だと呼ぶに過ぎないのだ。私は、悲嘆や神秘的な発作のほうなら、もっと容易に後悔し、否認することができるだろう。快楽と幸福への嗜好《しこう》は、私の性格の唯一の、一貫した面を表わしている。もしかしたら、私が十分に読書しなかったからだろうか? 寄宿舎では、教化的な本のほかは読まない。パリでは、私は読書の暇がなかった。クラスが終ると、友達は私を映画へ引っ張った。私は映画の俳優の名を知らなかったので、彼らを驚かした。またほかの時は日の当るキャフェのテラスに連れて行かれた。私は雑踏の中に混ること、飲むこと、私の眼をじっとみつめ、手をにぎり、それからその雑踏から遠く連れ出す誰かといることの快楽を味わった。私たちは家まで道を歩いた。そこで彼は戸口の下に私を引寄せて、接吻した。私は接吻の快楽を知った。私はこれらの思い出に名をつけない。ジャン、……ユベール……ジャック……などというすべての少女たちに共通の名を……夜になると、私は急に大人になって、父といっしょに、私にとっては何もすることのない、肩のこらない夜の集まりに出て行った。私はたのしかったし、また年のせいで人をたのしがらせもした。私たちが帰るとき、父は私を家に下ろし、そして大ていは女友達を送りに出て行った。私は父が戻ってきたのを聞いたことがなかった。
私は父が、何かアヴァンチュールの見せびらかしをしていたように思われたくない。父は、私にそういったことを隠さないということだけで、もっと正確に言えば、しげしげと昼食に来る女友達《アミイ》や、中には完全に、居坐ってしまう(幸運にも一時的に……)場合について、いっさい体裁の良い、嘘《うそ》を言って弁解するようなことはなかった。いずれにしても、私は長いこと父の「お客様」たちと父との関係の性質を知らずにいるわけはなかった。父はおそらく私の信頼を保ちたいと思っていたに違いないし、そのうえ、そうすれば、彼としても苦しい作り話をする努力をしなくてすんだのだ。これはいかにも良い考え方だった。それの唯一の欠点は、当時の年齢と経験しか持たない私には、深い感動をうけるというよりも、楽しいはずの恋愛のいろいろなことについて、ある期間、私に幻滅的なシニスムを吹き込んだということだった。私は特にオスカー・ワイルドの、簡潔な表現を好んで心の中で繰返していた。『罪悪は、近代社会における唯一の鮮明な色彩だ』私はこの句を、実行に移した場合よりも、より牢固《ろうこ》な確信をもって、自分のものとした。私は、自分の一生がこの一句を範とし、それからインスピレーションを享《う》け、エピナルの悪徳のイメージのように湧《わ》き出ることができるだろうと考えていた。私は意味のない時間や、断絶や、日々の善良な感情を、忘却していた。観念的に、私は低劣な、破廉恥地獄の人生にさし向っていたのだった。
第三章
翌朝私は、ベッドいっぱいにさし込んでいる、斜めの暑い太陽の光で眼をさまし、私がその中でもがいていた少し混乱した、奇妙な夢から解放された。私は夢うつつの中で、しつっこいこの暑さを手で払いのけようとし、それから、断念した。十時だった。私はパジャマでテラスへ下りて行き、そこに新聞を繰っているアンヌを見つけた。私は彼女が薄く完璧なお化粧をしているのに気がついた。彼女は決して真のバカンスをとることはないだろう。彼女が私にかまわないので、私はコーヒーのカップとオレンジを持って、のんびりと、階段に腰を下ろして朝の楽しみに着手した。私はオレンジに噛《か》みついた。甘い汁が口の中に撥《は》ねかかった。熱いコーヒーをすぐにひと口、それからまた果物の新鮮さを……朝の太陽は私の髪を熱し、私の肌の上のシーツの跡を伸ばした。五分したら泳ぎに行こう。アンヌの声が私を飛びあがらせた。
「セシル、あなた食べないの?」
「私、朝は飲むほうが好きなの、なぜって……」
「少しは見られるようになるには、あと三キロ増えなくては駄目よ。あなたの頬《ほっ》ぺた、落込んでいるし、あばら骨が見えているわ。バタつきのパンを持っていらっしゃい!」
私は彼女にバタつきのパンを強制しないように懇願した。そして彼女が、私にそれが必要なものだと説明しようとしたとき、父が豪奢な水玉の部屋着を着て現われた。
「なんとシャルマンな光景だろう」と父は言った。「二人のブリュネットの少女が太陽の下でバタつきパンのことを話している」
「少女は一人きりいないんですの。残念なことに……」とアンヌは笑いながら言った。「私はあなたと同じくらいの年なんですわ。レエモン……」
父はかがんで彼女の手を取った。
「いつも意地悪で……」と父は優しく言った。
私はアンヌの瞼が、意外な愛撫《あいぶ》をされたときのようにまばたいたのを見た。
私はそれを機会にそっと席を立った。階段で私はエルザとすれ違った。瞼が腫《は》れて、太陽の光線で赤くなった顔の中の色褪《いろあ》せた唇が、ひと目で床から出てきたばかりだということを物語っていた。私はアンヌが、手入れの行きとどいた、すっきりとした顔をして階下にいること、そして肌を荒さず、適宜に日に焼けようとしていることをエルザに話して、彼女をとめようとした。私は彼女に要心するように注意しようとした。けれどもきっと彼女は誤解しただろう。彼女は二十九だった。アンヌより十三若いとして、それが強力な切札のように彼女は思っていたのだ。
私は海水着を着て、入江の方へ駆けて行った。驚いたことにシリルはもうそこにいて、船の上に坐っていた。彼は深刻な顔をして私に近寄った。そして私の手を取った。
「昨日のこと、あなたに謝ろうと思って……」
「私が悪かったのよ」
私はちっとも気にはしていなかったので、彼の礼儀正しい態度にびっくりした。
「僕、自分に対して怒っているんだ」と彼は船を海へ押し出しながらそう言った。
「そんなことないわ」と私は快活に言った。
「いや……」
私はもう船の上に乗っていた。シリルは膝《ひざ》のなかばまで来る水の中に立って、裁判所の手摺《てすり》のように、両手で舷縁《ふなべり》につかまっていた。私は彼が、話しおわるまでは登ってこないことがわかったので、できるだけ注意をしてシリルをみつめた。私は彼の顔をよく知っていた。私はそこに自分の半影を見いだした。私はシリルが二十五で、きっと自分を悪い誘惑者だと思い込んでいると思い、そのことが私を笑わした。
「笑っちゃいけない」とシリルは言った。「昨晩《ゆうべ》、僕は自分を責めたんだ。知ってる?僕に対してあなたを守る何ものもないんだ。あなたのお父さん、あの女が手本なんだからね……僕は唾棄《だき》すべき卑劣漢になってしまうだろう。これじゃ結局同じことになってしまう。あなただって僕のことをそう思うに違いない……」
彼は大真面目で滑稽《こっけい》ではなかった。私はシリルが善良で私を愛しかけていると感じた。そして私も彼を愛したいと……。私は両手をシリルの首にかけ、自分の頬を彼の頬につけた。彼の肩は広く、私の体を支える彼の体は硬く引きしまっていた。
「あなたはかわいい人ね。シリル」と私はつぶやいた。「まるでお兄様みたいよ」
シリルは小さな怒った叫びを上げて、両手で私を抱きしめ、私を静かに船から引きおろした。彼は私をきつく抱きしめ、持ち上げられて、私の頭は彼の肩の上にあった。この瞬間、私はシリルを愛していた。朝の光の中で、彼は私と同じように金色に焼けてい、同じように愛らしく、同じように優しく、そして私を護《まも》っていてくれた。シリルの口が私の口を探したとき、私はシリルと同じように快楽に震えはじめた。私たちの接吻は、後悔も恥ずかしさもなかった。ただ深い快楽への追求が、時どき囁《ささや》きに途切らされた。私は彼から逃れて、岸から遠ざかって行く船にむかって泳いだ。私は顔をなおそうと、冷やそうとして、顔を水の中に突込んだ……。水は緑だった。私は幸福と完《まった》き安心感に自分が蔽《おお》われてゆくのを感じた。
十一時半にシリルは帰り、父とその女たちが石ころの小径《こみち》に現われた。父は二人の間を歩きながら、彼女たちを支え、父にとって自然な仕草で、進んで次々に手をさし出した。
アンヌは海浜ガウンをつけていた。彼女は、私たちの観察的な視線の前で、平然とそれを脱いで、横たわった。細い胴、完全な脚、彼女にはほんの少しの衰えしかなかった。それは多分、長年の手入れと注意の結果だったかもしれない。私は眉毛を上げて、思わず父へ賛意の眼差しをむけた。非常に驚いたことには、父は同意の眼差しを返さずに、眼をつぶった。エルザはかわいそうに悲惨な状態で、体じゅうを油で塗りたくっていた。父がエルザに愛想をつかすまでに、一週間とはかからないだろう……。そのとき、アンヌが私のほうへ顔を向けた。
「セシル、あなた、ここではどうして早く起きるの? パリではお正午《ひる》までお床にいたのに……」
「私、勉強があったからよ」と私は言った。「それだもんで脚が立たなかったの」
彼女はほほえまなかった。彼女は本当にほほえみたい時でなければほほえまなかった。誰でもがするように、礼儀ですることは決してなかった。
「そして試験は?」
「すべっちゃった」と私は快活に言った。「きれいにすべっちゃった」
「十月に受からなくちゃ駄目よ。絶対に……」
「なぜ?」と父が口を入れた。「僕は免状なんか一度も取ったことないもの、僕は……そのくせ僕は……豪勢な人生を送ってるぜ」
「あなたは最初にいくらかの財産がおありになったから……」とアンヌが注意した。
「僕の娘は、いつでも生活させてくれる男たちが見つけられるさ」父は泰然とそう言った。
エルザは笑いだしたが、私たち三人の視線にぶつかって止《や》めた。
「セシルは勉強しなくちゃいけません。この夏休みは……」とアンヌはこう言って、会話を閉じるために眼をつぶった。
私は父のほうへ絶望した視線をやった。父は具合の悪そうな、小さな微笑をして私に答えた。私は黒い線がちらちらするベルグソンの頁の前の自分を考えた。それから階下のシリルの笑い声を……。この考えは私を愕然《がくぜん》とさせた。私はアンヌのそばまで匍《は》って行って、低い声で彼女を呼んだ。彼女は眼をあけた。私は心配そうな、嘆願するような、そのうえ、仕事し過ぎのインテリのような顔つきに見せかけるように、頬ぺたを吸い込んで、彼女の上にかがみ込んだ。
「アンヌ」と私は言った。「私にそんなことをさせないでしょう? この暑さに勉強させるなんてこと……この夏休みはとても私のためになるのに」
彼女は一瞬、私をじっとみつめ、それから意味深長な微笑を浮べて顔をそらした。
「あなたにそんなことをさせなくちゃならないのよ。あなたの言うようにこの暑さの中でもね。でもあなたは、きっと二日間しか私を恨まないわ。なぜって私、あなたを知っているんですもの。そしてきっと試験に及第するわ」
「でも物事にはどうしても馴《な》れることができないこともあるわ」と私は笑わずに言った。
彼女は私におもしろそうな、横柄な一瞥《いちべつ》を与えた。私は心配でいっぱいになりながら砂の上にふたたび寝ころんだ。エルザが南仏のお祭りについて大声で喋《しゃべ》りはじめた。けれども父は聞いていなかった。彼らの体が三角形を形作っている頂点にいた父は、私の見覚えのある怖《お》じない、じっとした視線を、仰向《あおむ》けになったアンヌの横顔や肩へやった。
父の手は、静かな、規則的な、飽きない動作で、砂の上で開いたり、閉じたりしていた。私は海へ向って走った。私は過すことができ得た、しかし過し得られそうもない夏休みのことを惜しみながら、海の中に飛び込んだ。私たちは劇のすべての要素を持っていた。女|蕩《たら》し、半商売人、理性の勝った女。私は海の底に水色とバラ色の美しい貝のような石を見つけた。私はそれを採るためにもぐった。私は昼食まで、優しいすりへらされた石を手の中ににぎっていた。私はそれが幸福のマスコットで、夏じゅうこれを離さないでいようと思った。私がどうしてこの石を失くなさなかったかわからない。なぜなら、私は何でもみんな失くしてしまうから……。今日、この石は桃色に、暖かく私の手の中にあって、私を泣きたくさせる。
第四章
それから数日間、私が一番驚いたことは、アンヌのエルザに対する極端な親切さだった。馬鹿さ加減で目立っていたエルザの会話に対して、憐《あわ》れなエルザを笑いものにすることのできる誰も真似のできない彼女の得意の短い句を一つも口に出さなかった。私はアンヌの辛抱強さと寛大さを内心称讃していたが、私はそこに巧妙さがひそかに混っていることに気がつかなかった。なぜなら、父はそういった意地悪なからかいにはすぐ嫌気《いやけ》がさしただろうから。しかし、アンヌがこのような態度をとったので反対に、父は彼女に感謝し、何といってお礼の気持を現わしてよいかわからない様子だった。この感謝は、しかし、口実でしかなかった。
なるほど父は、アンヌを娘の第二の母となるような、非常に尊敬すべき婦人として扱っていた。父はこの方法でいつも私をアンヌの監督下に置き、私について彼女に少し責任があるようにしむけた。それは彼女を私たちにもっと近づけ、もっと緊密に結びつけようとしているようだった。しかし父の彼女に対する眼つきや動作は、未知の女に対する、そしてその女を知りたい――快楽の中で――と欲するような種類のものだった。私は、時どきこの眼つきをシリルの内に不意に見つけて、逃げ出したいと同時に、彼を挑発したい気持に駆られた。私はこの点でアンヌよりも影響されやすかった。彼女は父に対して無関心さと、落ちついた優しさとを示して、私を安心させた。私は最初の日に、思い違いをしていたとさえ信じるようになった。私はこの曖昧《あいまい》な優しさが、父を極度に刺激していたことに気がつかなかった。それから、特に彼女の沈黙が……ほんとに自然で優雅な彼女の沈黙が……エルザの絶え間ない囀《さえず》りに対して、太陽と陰のような、一種の対照を形作っていた。憐れなエルザ……。彼女は本当に何も気がついていなかった。彼女はさわがしく、落ちつかず、相変らず太陽のために瑞々《みずみず》しい美しさが損われていた。
とうとうある日、エルザは父の視線に気がつき、事態を理解したらしかった。昼食前に、私は彼女が父の耳に何か囁いたのを見た。一瞬、父は気を悪くしたような、驚いたような顔をし、それから笑いながら同意した。コーヒーのとき、エルザは立ちあがり、ドアのところまで行ったとき、私たちのほうをふり返って、私にはアメリカ映画から非常に影響されたと思われる悩ましそうな調子で、長年磨きをかけた色っぽい口調で言った。
「いらっしゃる? レエモン?」
父は立ちあがり、ほとんど赤くなりながら、午睡《ひるね》の健康に良いことを話しながら、彼女の後について行った。アンヌは身動きしなかった。彼女のシガレットが指の先で煙っていた。私は何か言わなくてはならないような気がした。
「みんな午睡はとても休まるというけど、私は間違った考えだと思うわ」
私はすぐに、自分の言った言葉の二重の意味に気がついて、止《や》めた。
「お願いだわ」とアンヌは冷たく言った。
アンヌは、二重の意味があることさえ思っても見なかったのだ。
彼女は、すぐに悪趣味の冗談だと見てとった。私はアンヌをみつめた。彼女の意識的に冷静で休まった顔が私を感動させた。もしかしたら、このとき、アンヌは夢中でエルザを妬《や》いていたかもしれなかった。アンヌを慰めるための、冷笑的《シニック》な考えが私に浮んだ。自分が持ち得るすべての冷笑的な考えと同様に、これも私を大いによろこばせた。冷笑的な考えを持つということは、私に一種の自信と、陶酔的な自分自身との共犯の感じを私に与える。
私は大声でこう言わざるを得なかった。
「考えてごらんなさいな。あのエルザの日焼けじゃ、この種類のお午睡《ひるね》は両人《どちら》にとってもあんまり陶酔的じゃないでしょうね」
私は黙っていたほうがよかった。
「私、そういう種類の考え大きらいよ」とアンヌが言った。「ことにあなたの年で……馬鹿以上だわ。聞くに堪えないわ」
私は突然いらいらした。
「私、冗談にそう言ったのよ。ごめんなさい。私、二人とも本当はとても満足していると思うわ」
アンヌは私のほうに堪《たま》らないような顔をむけた、私はすぐに彼女に謝った。彼女はふたたび眼を閉じて、低い、忍耐強い声で話しはじめた。
「あなたは恋愛について少し単純すぎる考えを持っているわ。それは独立した感覚の連続ではないのよ」
私の恋愛はしかしみんなそうだったと思う。ある顔や、動作や、接吻《せっぷん》したときの突然な感動……。関連のない咲き開いた瞬間……私の持っている思い出はただこうしたものだけだった。
「それは違ったものなのよ」とアンヌが言った。「そこには絶え間ない愛情、優しさ、ある人の不在を強く感じること。あなたにはまだ理解できないいろいろなこと……」
彼女は、手で放っておいてくれという仕草をして、新聞を取った。私の感情の無能さにあきらめたようなこの無関心さのかわりに、彼女が怒ってくれたほうがよいと思った。私は彼女に理があって、私はほかの人たちの意志によって動物のような生活をし、私は憐れで弱いのだと思った。
私は自分を卑しみ、それは私にとって堪えがたい苦痛であった。なぜなら私はそれに馴れていなかった。私は良いにしろ、悪いにしろ、自分に判断をくだすことがなかったからだ。
私は自分の部屋へあがってぼんやり考え込んだ。私の下にあるシーツは生暖かかった。耳にはまだアンヌの言葉が残っていた。「それは違ったことなのよ。それは、ある人の不在を強く感じること」今まで誰かの不在を感じたことがあっただろうか?
私はこの十五日間の事件をもはや覚えていない。私は前にも言ったように、何ごとも明確な、脅迫的なものは、見たくなかった。私はもちろん、この夏休みの続きをはっきりと覚えている。なぜなら、私は、それに自分のある限りの注意と可能性とをそそぎ込んだからだ。けれどもこの三週間は、要するに幸福な三週間……どの日に、父が人目に立つようなふうにアンヌの唇を眺めたとか、どの日に、父が冗談のように大声で、アンヌの無関心さを責めたとか、どの日に、父が笑いもせず、アンヌの洗練さをエルザの半馬鹿ぶりと比べたとか……。
二人が十五年も前からの知り合いで、もしお互いに愛し合わなくてはならなかったとしたら、もっと早く始めただろう、というこの愚かな考えのおかげで、私は安心していた。
そして、私は自分に言い聞かせた。もしそうなった場合は、お父様は三カ月の間夢中になって、そしてアンヌはいくつかの情熱的な思い出と、多少の屈辱感を胸に残すくらいで終るだろう。それにしても、私はアンヌが、こんなふうに男から捨てられても平気な女ではないということに気がつかなかったのだろうか? しかし、シリルがいたので、それだけで私の頭をいっぱいにするのに十分だった。私たちは、夜、よくサントロペのナイトクラブに行った。私たちは、クラリネットのメランコリックな音に合わせて踊りながら、愛の言葉を囁き合ったが、翌日、私はそれらの言葉を忘れていた。その晩はどんなにか甘かったのであるが……。日中、私たちは岸のあたりでヨット遊びをした。父は時どき私たちといっしょに来た。ことに、シリルがクロールの試合に負けてあげたときから、父はシリルに好意をもつようになった。父はシリルのことを『僕の可愛いシリル』と呼び、シリルは父を、『|おじさま《ムッシュウ》』と呼んでいた。けれども私は、いったい二人のうち、どっちが大人なのかと自問した。
ある午後、私たちはシリルの母の家にお茶に行った。彼女は年寄った、静かな、愛想のよい婦人で、私たちに未亡人としての、母としての困難を語った。同情した父は、感謝の眼をアンヌに投げ、数々の讃辞を婦人に捧げた。私は、いつも父が時間を無駄に過すことを怖《おそ》れていない、と言わなくてはならない。
アンヌは、愛想のよい微笑を浮べて、この光景を眺めていた。帰り道、彼女はシリルの母は感じがいいと言った。
私はこの種の老婦人に対する呪《のろ》いを爆発させた。二人は私のほうを向いて、寛大な、おもしろそうな微笑をしたので、私はかっとなった。
「お父様がたは、あの人が自己満足していることがわからないの?」と私は叫んだ。「勝手に自分の人生を賞《ほ》めればいいわ。自分の責任を果したという気持を持っているなら……それから……」
「だけど本当にそうよ」とアンヌが言った。「あの方は母としての、妻としての責任を果したのよ。いわゆる世間でいう……」
「それから娼婦《しょうふ》としての責任も?」と私は言った。
「私、下卑《げび》たこときらいよ」とアンヌは言った。「たとえ、逆説にしたって……」
「でもこれは逆説ではないわ。あの人みんなが結婚するように結婚したんでしょう? 欲望から、あるいは結婚はするものだから……あの人に子供ができた。どうしたら子供ができるか、ご存じ?」
「きっと、あなたよりもよくは知らないでしょうよ」とアンヌは皮肉った。「けれど、私いくらかの知識はあるわ」
「で、その子を育てた。あの人きっと、姦通《かんつう》の不安や心配から免れたでしょう。あの人は何千人という女が持っている人生を持ち、それが得意なのよ、わかって? ブルジョアの若い妻の、母の立場にいて、そこから出ることに何の努力もしなかったんだわ。あれやこれやをしなかったことを誇ってるんで、何かを成し遂げたことを自慢してるんじゃないわ」
「それはあんまり意味がないよ」と父は言った。
「あんなことはまやかしだわ」と私は叫んだ。「そして後でこう言うのよ、『私は自分の責任を果した』なぜって何もしなかったからなのよ。もしあの人が自分の生れた境遇から、街の女になったとしたら、それなら彼女は偉いと思うわ」
「あなたはいま流行の考えを持っているのね。でも価値のない……」とアンヌが言った。
それは本当だったかも知れない。私は言ったとおりに考えていたのだが、だけれども、誰かがそういうのを聞いたことも本当だった。それにしても、私の人生、そして父の人生は、このテオリーの助けを得ているのだった。で、それを軽蔑《けいべつ》することによって、アンヌは私を傷つけた。人はほかの物事と同じように、軽薄なことにも、非常に執着を持つことがあるものだ。けれどもアンヌは、私を思索的な人間と見なしていなかった。私は、アンヌの誤りを早く悟らせることが緊急であり、第一にしなければならないことのように思われた。私はその機会がこんなに早く来、私がそのチャンスを掴《つか》み得るとは思わなかった。もともと私は、一カ月の間でも一つのことについて異なった意見を持ち、私の信念が長く続かないことを、すすんで認めていた。私はどうして偉大な精神の持ち主などになることができただろうか?
第五章
それからある日、とうとう破局がやってきた。ある朝、父はその晩カンヌへ、賭《かけ》とダンスをしに行こうと決めた。私はエルザの喜びを覚えている。馴れた賭博場《カジノ》の雰囲気の中で、エルザは日焼けと、私たちのなかば孤独な生活のおかげでいささか色褪《いろあ》せはしたが|運命の女《ヽヽヽヽ》としての個性をふたたび見いだすつもりでいた。私の予期していたことと反対に、アンヌはこの社交趣味に反対しなかった。わりによろこんでいるようにすら見えた。で私は、夕食の後、何の心配もせずに、一枚しか持っていない夜会服を着るため、部屋へあがった。それは父が選んでくれたものだった。エキゾチックな布地でできていて、私にはあまりエキゾチックすぎていたかもしれない。なぜなら父は、自分の趣味からか、あるいは習慣からか、私を|運命の女《ヽヽヽヽ》風にお作りさせることが好きだった。私は階下《した》で、新しいタキシードを着て輝いている父を見つけて、父の首に両腕を巻きつけた。
「お父様は、私の知っているどの男の人よりも素敵ね」
「シリル以外のね」と父は思ってもいないのにそう言った。「そしてお前は、僕の知っている女の子の中で一番きれいだよ」
「エルザとアンヌの次にね」と私も思ってもいないのにそう言った。
「二人はまだいないし、それに僕たちを待たせたりなんかするから、年取ったリューマチのお父さんといっしょに踊りにおいで!」
私は、父との外出に先立つ幸福感をふたたび見いだした。本当に父は、年取ったお父さんというところがどこにもなかった。私は踊りながら、いつものオー・デ・コロンの香りと、暖かさと、煙草の匂いを呼吸した。父はリズムに合わせて踊りながら、なかば眼を閉じ、私と同じような、たのしそうな、抑えきれない微笑を口の隅に浮べていた。
「僕にブギウギを教えてくれなくちゃいけないよ」と父はリューマチのことも忘れて言った。
エルザが姿を現わしたので、父はダンスをやめて、彼女を迎えるために、機械的なお世辞をつぶやいた。彼女は、グリーンの服に身を包んで、静かに階段を下りてきて、口もとに商売人のような太々《ふてぶて》しい微笑を、彼女の賭博場《カジノ》用の微笑を浮べていた。彼女は乾いた髪と、日光で焼けた肌を精いっぱいに美しく見せていたが、それは素晴らしいというより、努力に値したと言ったほうがよかった。彼女は幸いに自分ではそのことに気がつかないようだった。
「行きましょうか?」
「アンヌがまだなのよ」と私は言った。
「二階に行って支度ができたかどうか見ていらっしゃい」と父は言った。「カンヌへ着くころには十二時になってしまうよ」
私は、夜会服の裾《すそ》を邪魔にしながら階段を登り、アンヌの戸を叩いた。彼女がはいるように叫んだ。私は敷居で立ち止った。彼女はネズミ色の服をまとっていた。ほとんど白に近い、不思議なネズミ色で、電燈《でんとう》の光に照らされて、ちょうど暁の海の色調のようなネズミ色……その晩、成熟した女のあらゆる魅力が、彼女の内に集められたようであった。
「素晴らしい!」と私は言った。「ああ、アンヌ、なんてきれいな服!」
彼女は、ちょうどこれから別れを告げる人に対するように鏡の中の自分に微笑した。
「このネズミ色は成功ね」とアンヌは言った。
「素晴らしいのはあなたよ」と私は言った。
彼女は私の耳を引っ張って私を眺めた。彼女の眼の色は深い碧色《あおいろ》だった。私はそれが明るくなり、微笑したのを見た。
「あなたは可愛い女の子ね。時どきうるさいけれども」
アンヌは、私自身の服にはあまり注意を払わずに私の前を通った。それは私を喜ばせたと同時に、口惜《くや》しくもさせた。アンヌが最初に階段を下りて行き、私は、父が彼女を迎えに来たのを見た。父は階段の下で立ち止り、足を一段目の階段に置いたまま、アンヌのほうを見上げていた。エルザもアンヌが下りてくるのを見ていた。私は、はっきりとこの光景を覚えている。私のすぐ前に、アンヌの金色に焼けた首すじと、非の打ち所のない肩があった。その少し下に、手をさし出した父の眩惑《げんわく》された顔があった。それから、もうすでに遠く霞《かす》んだ、エルザのシルエットがあった。
「アンヌ」と父は言った。「あなたは素晴らしい」
アンヌは、通りがかりに父にほほえみ、外套《がいとう》を手に取った。
「私たち、あっちで落合いましょうか?」と彼女は言った。「セシル、私といっしょに来る?」
彼女は私に運転をさせてくれた。私が静かに走ってゆく道は夜目にも美しかった。アンヌは何も言わなかった。彼女は、ラジオの狂気じみたトランペットの音にも気がつかないようだった。父の二人乗りのオープンが曲り角で私たちを追い抜いたとき、彼女は眉一つ動かさなかった。私は、もう介入する余地のない芝居の前に、自分がすでに除外されているということを感じた。
賭博場《カジノ》では、父の策略のおかげで、私たちはじきに離れ離れになってしまった。私はそのうちにバーで、エルザとその知り合いのすでに相当酔っている南米人と落合った。彼は演劇の仕事をしていて、こんな状態だったにもかかわらず彼の演劇に対する情熱のおかげでなかなか面白かった。私は彼といっしょに、一時間近くたのしく過した。けれどもエルザは退屈していた。彼女は一人二人の有名なスターを知っていたが、演劇の技術には無関心だった。彼女は突然、いかにも私が何か知っているかのように、父はどこにいるかと聞くと、立ち去って行った。南米人は一瞬悲しそうな顔をしたが、新しくウィスキーをひっかけたおかげでまた元気づいた。私は何も考えていなかった。私は礼儀上、彼のお酒の相手をしていたので、すっかりいい気持になっていた。南米人がダンスをしようとしたとき、事は余計滑稽になった。私は彼の体を腕で支え、彼に踏まれないように足を引っこめなくてはならなかった。これは大変なエネルギーを要した。私たちはあんまり笑っていたので、エルザが私の肩を叩いたとき、そしてその不吉な顔つきを見たとき、私はもう少しで彼女を地獄に追っ払ってしまうところだった。
「あの人が見つからないのよ」
エルザは転倒していた。白粉《おしろい》がすっかりはげおち、てらてらに照らされて、顔が引きつっていた。エルザはみるも憐れだった。私は急に父に対して激しい怒りを感じた。それは考えられない無作法なことだった。
「ああ、どこにいるか知ってるわ」と私はいかにも自然なことのように、そしてエルザが心配せずに信じられるように笑いながら言った。「すぐ戻ってくるわ」
私の支えがなくなったので、南米人はエルザの腕の中に倒れ、満足しているようだった。私は、エルザが私よりも頑丈であることを悲しく考えながら、彼女に対して怒ることができないと思った。賭博場《カジノ》は大きかった。私はふた回りしたけれども、二人を見つけることができなかった。私はテラスを一巡し、とうとう車に思いついた。
私が自動車を駐車場に見つけるまでに、いくらか時間がかかった。父とアンヌは車の中にいた。私は後ろのほうから来て、後部の窓ガラスから二人を見つけた。私は、父とアンヌの、触れ合いそうに近づけられた深刻な横顔を見た。それは街燈の下で異常に美しかった。彼らはお互いにみつめ合い、きっと低い声で話していたのだろう。私は彼らの唇が動いているのを見た、私は立ち去りたかった。けれどもエルザのことを考えて、私はドアをあけた。
父の手はアンヌの腕の上にあった。二人は私をちょっと見たきりだった。
「おたのしみ?」と私はていねいに聞いた。
「どうしたんだ?」と父はいらいらした調子で言った。「お前何しにここに来たんだ?」
「それじゃお父様は? エルザが一時間も前からお父様がたを探しているわ」
アンヌは顔を私のほうに向けた。ゆっくりと、残念そうに……。
「私たち帰るの、エルザに、私が疲れていたのでお父様が私を連れて帰ったと言ってちょうだい。あなたがた、十分にたのしんだら、私の車でお帰りなさいな」
怒りが私を震わした。言葉が口に出てこなかった。
「私たちが十分にたのしんだらですって? あなたがたおわかりにならないの? あんまりだわ!」
「何があんまりなんだ?」と父は驚いて言った。
「お父様は陽に堪えられない赤毛の女の子を海岸に連れてきて、皮が全部むけちゃうとお捨てになるんだわ。あんまり勝手だわ。私はいったい何とエルザに言ったらよいの? いったい私は?」
アンヌは、もうたくさんだというような様子で父のほうにふたたび頭をむけた。父は彼女にほほえんで、私の言うことなどを聞いていなかった。私は怒り心頭に発した。
「私は……私はエルザに、お父様はいっしょに寝るほかの女の人を見つけたから、またこの次来てくださいって言うわ。そうなんでしょ?」
父の驚いた叫びと、アンヌの平手打ちが同時だった。私は急いで頭をドアから引っ込めた。痛かった。
「謝りなさい!」と父が言った。
私は、いろいろな考えの大きな渦まきの中で、じっとドアのそばに立ちすくんでいた。毅然《きぜん》とした態度は、いつも手遅れに私の頭に浮ぶのだ。
「こっちにいらっしゃい」とアンヌが言った。
彼女が脅迫的ではないようだったので、私は近寄った。アンヌは手を私の頬の上に置いた。そして、私がいかにもちょっと馬鹿だったように、静かに、ゆっくりと私に話した。
「意地悪はおよしなさいね。私、エルザをお気の毒に思っているわ。でもあなたはそれを一番うまくまとめるだけの心づかいがあるでしょう? 明日よく話し合いましょうね。とても痛かった?」
「いいえ、そんなことありませんわ」と私はていねいに言った。
この突然の優しさと、私の先ほどまでの度を越えたあらあらしい怒りのために、私は泣きたくなった。私は彼らが行ってしまうのを眺めた。私は自分自身がすっかり空っぽになったように感じた。私の唯一の慰めは、私自身の心づかいに対する考えだった。私は、ゆっくりとした足どりで賭博場《カジノ》に戻って行った。そこにエルザを見つけた。南米人がその腕にかじりついていた。
「アンヌは気分が悪かったの」と私は軽い調子で言った。「で、お父様が連れて帰らなくちゃならなかったの。何か飲む?」
彼女は何も答えずに私をみつめた。私は納得のゆくような弁解を探した。
「アンヌは嘔気《はきけ》をもよおしたの。大変だったの。服がすっかり汚《よご》れて……」
この詳細な説明は、真実を非常によく物語っていると自分には思えたのだが、エルザは、静かに、悲しそうに泣きだした。
私はどうしたらよいかわからなくなって、エルザを眺めた。
「セシル!」と彼女は言った。「ああ! セシル、私たちは本当に幸福だったのに……」
彼女の嗚咽《おえつ》はいよいよ激しくなった。南米人も「私たちは本当に幸福だったのに……本当に幸福だったのに……」と繰返しながら同じように泣きはじめた。このとき、私はアンヌと父を憎悪した。私は憐れなエルザの泣くのを、そして彼女のまつげの墨が溶けるのを、そしてこの南米人が嗚咽しているのを止《や》めさせるには、何でもしただろう。
「まだすべてが終ってしまったわけではないわ。エルザ。私といっしょに帰りましょう」
「私、そのうちにスーツケースを取りに行くわ」と彼女は泣きじゃくった。「さよなら、セシル。私たち仲がよかったわね」
私は彼女と、天候のことか、モードのこと以外に決して話をしたことはなかったが、それにしても、私は古い友達を失ったような気がした。私は突然回れ右をして、車へ走って行った。
第六章
翌朝はとても辛かった。きっと前夜のウィスキーのせいだったのだろう。私は薄暗がりの中で、ベッドに斜《はす》かいに寝ている格好で目をさました。口が重く、手足は不快に、じっとりと汗をかいてしびれていた。太陽の光線がよろい戸の割れ目からもれ入って、埃《ほこり》がぎっしりと列をつくってのぼって行った。私は起きあがりたくもなく、また床にはいっていたくもなかった。私はエルザが帰ってくるだろうか、アンヌと父は、今朝どんな顔をしているだろうかと自問した。私は起きあがる努力をまぎらすため強いて彼らのことを考えた。私はやっとのことで、寝ぼけながらぼうっとした頭で部屋の爽《さわ》やかな石瓦《いしがわら》を敷いたところまで来た。鏡は私に悲しい反映を示した。私は鏡によりかかった。腫《は》れた眼、膨れた唇、この見知らぬ顔、これが私の顔……私は、この唇と、このプロポーションと、勝手にいやらしく変ったこの顔の形のために、弱くまた卑怯《ひきょう》になってしまったのだろうか。もし本当に自分が弱い人間だとしたら、どうして私は自分がそうだということを、こんなにもはっきりと、またそれが自分とは反対のものだと感じたのだろう? 私は自分を悪嫌することをおもしろがった。放蕩《ほうとう》のために瘠《や》せて、疲れた、この狼《おおかみ》の顔を憎悪することを……私はひそかに自分の眼を見つめながら、放蕩という言葉を自分に繰返した。そして突然、私は自分がほほえんでいるのを見た。実際なんという放蕩だったろう。大したこともない何杯かのお酒、平手打ち、嗚咽……私は歯を洗って階下に下りた。
父とアンヌはもうテラスにいて、朝食のお膳の前に寄り添って坐っていた。私は漠然としたお早うを言って、彼らの前に坐った。遠慮から、私はあえて二人を見なかった。それから、彼らの沈黙が私に眼を上げさせた。アンヌの顔はやつれていた。恋の一夜の唯一の徴《しるし》だった。二人とも楽しそうにほほえんでいた。それは私に深い印象を与えた。幸福はいつも私にとって是認すべきものであり、成功であるように思えたからだ。
「良く眠った?」と父が言った。
「まあね」と私は答えた。「昨晩《ゆうべ》、私ウィスキーを飲み過ぎたのよ」
私はコーヒーをカップに注《つ》いで味わってみた。けれどもすぐにそれをもとへ置いた。彼らの沈黙の中に、一種独特な、何かを待っているものがあって、それが私を居心地悪くさせた。私は長くそれに堪えるには、あまりにも疲れていた。
「どうなさったの? お二人ともなんだか変ね」
父は平静を装おうとする動作で、煙草に火をつけた。アンヌは私をみつめ、初めてはっきりと間《ま》が悪そうな顔をした。
「あなたにお願いがあるのよ」とやっと彼女は言った。
私は最悪のことを予期していた。
「またエルザへお使い?」
彼女は顔をそらし、父のほうへ向いた。
「お父様と私、結婚したいと思っているの」と彼女は言った。
私はアンヌをじっとみつめ、それから父を見た。私はちょっとの間、彼の合図、目くばせを期待した。それは私を憤慨させると同時に安心もさせる合図だが……ところが、父は自分の手をみつめていた。私は自分に言った。「そんなはずはない」けれども私は、すでにそれが本当だと知っていた。
「それはとても良い考えだわ」と私は一時的な埋め合せを言った。
私は了解しかねた。結婚や鎖に頑強に反対していた父が、一夜で決心するとは……。これは私たちの生活を全く変えてしまう。私たちは自由を失ってしまう。私はそれから、私たち三人の生活を予想してみた。私が羨《うらや》ましがっていたアンヌの繊細さ、聡明さによって急に平均のとれた生活を……。聡明な、洗練された友人たち、幸福な静かな夕べ……。私は突然、騒がしい晩餐《ばんさん》や、|南米人たち《ヽヽヽヽヽ》や、|エルザたち《ヽヽヽヽヽ》を軽蔑した。優越感と、自尊心が私を襲った。
「とてもとても良い考えだわ」と私は繰返した。そして、私は父とアンヌにほほえんだ。
「僕の可愛い小猫さん、僕はお前がよろこぶだろうと思ってたよ」と父が言った。
父は気がゆるみ、大よろこびだった。恋の疲労があらわれているアンヌの顔は、私が今までに見たアンヌのどの顔よりも近づきやすい、やさしいものだった。
「こっちにおいで、僕の小猫さん」と父が言った。
父は私に両腕をさし出し、自分とアンヌのほうに私を引寄せた。私は二人の前に半分ひざまずいていた。父とアンヌは甘い感激をもって私をみつめ、私の頭を撫《な》でた。一方私は、この瞬間に、もしかしたら私の人生が変りつつあるのだ、と、しかし、実際に私は彼らにとって一匹の猫、小さな愛情の深い一匹の動物でしかないのだ、と絶え間なく考えていた。私は二人が自分のとどくことのできないところにいるのだと感じた。私の知らない過去や、将来の絆《きずな》によって結ばれ、それらは私と何のかかわりもないのだろう。
私はすすんで眼をつぶり、彼らの膝《ひざ》に頭をもたせ、彼らといっしょに笑って、私の役割をふたたび続けた。それにしても、私は幸福ではなかっただろうか? アンヌはりっぱな人で、卑小さというものが全くない。アンヌは私を導き、私の生活から重荷を下ろし、どんな場合にも私のとるべき道を教えてくれるだろう。私は完成され、父もまた私と同じようになるだろう。
父は、立ちあがってシャンペン酒をひと壜《びん》とりに行った。私はそれを見て胸が悪くなった。父は幸福だった。それがたしかに要点に違いなかった。けれども私は、父が一人の女のために、どんなにかしばしば幸福になっているのを見てきたことだろう。
「私、あなたが少し怖かったの」とアンヌが言った。
「なぜ?」と私は聞いた。
聞いただけでは、いかにも私の拒否が、二人の大人の結婚を妨げることができたような印象を私に与えた。
「私、あなたが私を怖がらないのじゃないかと心配してたの」と彼女は言って、笑いだした。
私もやはり笑いだした。なぜなら、実際私はアンヌを少し怖がっていたからだ。彼女はそれを知っていたと同時に、それが不要だということを私に知らせた。
「あなたに滑稽《こっけい》に見えないこと? この年寄り同士の結婚?」
「あなたがたは年寄りじゃなくてよ」と私は必要なすべての確信をこめて言った。なぜなら、父がワルツを踊りながらシャンペン酒の壜を小脇にかかえて戻ってきたからだ。
父はアンヌのそばに坐って、腕をアンヌの肩に回した。彼女は父のほうへ、私に眼をふせさせるような体の動きをした。もしかしたら、彼女はそのために父と結婚するのかも知れない、父の笑いと、その硬い安心感をいだかせる腕と、その生活力と、その熱のために……。四十歳、孤独への恐れ、もしかしたら官能の最後の強襲……私はそれまで一度もアンヌを女として考えたことはなく、一つの実在物として考えていた。私は彼女の中に、確信や優雅さや知性などを認めたが、決して肉感性や弱さを見たことはなかった。私は父が得意であることを理解できた。高慢で、冷静な、アンヌ・ラルセンが父と結婚する。父は彼女を愛しているのだろうか? 長く彼女を愛することができるだろうか? この愛情を父のエルザへの愛情と区別することができるだろうか? 私は眼をつぶった。太陽が私を麻痺《まひ》させていた。沈黙と、ひそかな怖《おそ》れと、幸福に満ちて、私たち三人はテラスにいた。
エルザはその数日間戻ってこなかった。一週間がまたたく間に過ぎた。幸福な、たのしい、孤独な七日間。私たちは複雑な室内装置や、毎日の時間割の計画を立てた。父と私は、こういう計画を知らない人たちの無自覚さをもって、ぎっしりと、むずかしく立てるのが好きだった。もともと私たちは、これらの計画を信じたことがあるだろうか? 毎日十二時半に同じところへ昼食に帰ってき、家で夕食をし、それから家にいる……。父は本当に可能だと思っているのだろうか? けれども父は、愉快そうに放浪を葬り、秩序を、ブルジョア的な優雅な、計画立った生活を激賞した。きっと、これらはみんな、私にとってでもあるように、父にとってもまた、観念の作り上げたものでしかないのだろう。
私は今、自分自身を試すために、この週の思い出を深く研究してみたいと思う。アンヌは気が和らぎ、信頼深く、非常に優しく、父は彼女を愛していた。私は、朝、彼らが眼の縁を黒くして、お互いによりかかりながら、笑いながら下りてくるのを見て、誓うが、これが一生続くことを望んだ。夕方、私たちはよく海岸へ下りて、どこかのキャフェのテラスでアペリチフを飲んだ。私たちは、どこでも仲のよい普通の家族だと思われた。一人きりで父と外出して、うす笑いや、揶揄《やゆ》的なあるいは気の毒そうな視線を集めることに馴《な》れていた私は、自分の年に似合わしい役目にふたたび戻ることをよろこんだ。結婚式は、夏休みが終ってパリに帰ってから行われる予定だった。
かわいそうなシリルは、私たちの家庭の中の変化を、いささかの驚きをもって眺めないわけにはゆかなかった。しかし、この合法的な終結は彼を喜ばせた。私たちはいっしょにヨットに乗ったり、望みにまかせて接吻《せっぷん》し合ったりした。彼の口が私の口を押しつけている間、時どきアンヌの顔が私の眼に浮んだ。朝の、優しく傷ついた彼女の顔を……恋がもたらした一種の緩やかさと、幸福そうな放逸さの動作を……。そして、私は彼女を羨んだ。接吻は尽きてしまう。もしもシリルが私をより少なく愛していたら、きっと、私はその週、彼の情人になっていただろう。
六時に、島々から戻ってくると、シリルはヨットを砂の上に引っ張りあげた。私たちは松林を通って家へ戻った。そして暖かくなるために、私たちはインディアンごっこや、ハンディキャップの駆けっこを発明した。彼はいつも家の前で私に追いついた。彼は勝利を叫びながら私の上に襲いかかり、私を松葉の上に転がし、押えつけ、接吻した。私はいまだに、この息を切らした効き目の薄いこれらの接吻の味を、砂に砕ける波の音と一致した私の心臓の上のシリルの鼓動を覚えている。一、二、三、四、心臓の鼓動と、やさしい砂の上の音と、一、二、三、……一。彼は呼吸を取戻し、そのくちづけは正確で親密になった。私はもう海のざわめきが耳に入らなかった。ただ耳の中で、自分自身の血の、速い追撃の足跡をきいた。
ある夕方、アンヌの声が私たちを離した。シリルは私の上に臥《ふ》していた。私たちは日没の赤さと影に満ちた光の中で半裸体だった。そして、それがアンヌを誤解させたかも知れないことが私にはよくわかる。彼女は短い語気で、私の名を発音した。
シリルは一挙に跳び起きた。もちろん、愧《は》じながら……。私のほうは、もう少しゆっくりと、アンヌを見ながら起きあがった。彼女はシリルのほうを向いて、あたかも彼が見えないかのように、平静に話した。
「あなたにはもうお目にかかるつもりはありません」
彼は返事もせず、私の上にかがんで、立ち去る前に私の肩に接吻した。この動作は私を驚かせ、何かの約束でもあるかのように私を感動させた。アンヌは、何かほかのことを考えているかのような、うわの空の重々しい、同じ様子で私をじっとみつめていた。それは私を苛立《いらだ》たせた。もしアンヌがほかのことを考えているなら、こんな強い調子でしゃべるのは間違っている。私は、全くの礼儀から気まずそうな様子を装ってアンヌのほうへ歩いて行った。彼女は機械的に、私の喉《のど》についていた松葉を取除くと、実際に私が見えたようだった。
私はアンヌが、あの美しい、軽蔑の表情をするのを見た。彼女を著しく美しくさせ、私を少し怖がらせる、あの倦怠《けんたい》と非難の顔を……。
「あなたは、この種の遊びが大ていは病院で終るっていうことを知らなくてはいけませんよ」と彼女は言った。
アンヌは立ったまま、じっと私をみつめて話したので、私はひどく気まずかった。彼女はまっすぐに、動かずにしゃべれる女たちの一人だった。私には、長椅子だとか、手持ち無沙汰に掴《つか》む物だとか、煙草だとか、足をぶらつかせるとか、ぶらついている足を眺めるとかが必要だった。
「大げさに言ってはいけないわ」と私はほほえみながら言った。
「私、ただシリルと接吻しただけなの。それが病院行きにはならないでしょう?」
「お願いですから、あの人にもう二度と逢《あ》わないでちょうだい」と彼女は嘘《うそ》だと信じているように言った。「口ごたえはお止《よ》しなさい。あなたは十七で、現在、私はあなたに少し責任があるのよ。私はあなたの一生を台無しにさせません。それにあなたには勉強があるでしょう? それで午後がつぶれるわ」
アンヌは背を向けて、無頓着《むとんじゃく》な足どりで家のほうに向って歩いて行った。私は茫然《ぼうぜん》自失して地面に釘《くぎ》づけにされた。彼女は考えたとおりのことを言っているのだ。私の議論、私の否認、彼女はこれらを、あの軽蔑よりもひどい無関心さの形であしらうだろう。あたかも私が存在していないかのように、あたかも私が生のないくだらないものか何かのように……まるでアンヌがずっと昔から知っているセシル、この私ではないかのように……。大体、こんなふうに私を罰することについて苦しんだっていいはずだ。私の唯一の希望は父だった。父はいつものような態度をとるだろうか? 「誰だい、その男の子は? 僕の小猫ちゃん、せめて彼は美男で健康かい? 不良に気をつけなくちゃいけないよ。僕の小さなセシル」父がこういう方向に動いてくれなくてはならなかった。でなければ私の夏休みはお終《しま》いだった。
夕食はまるで悪夢のようだった。アンヌは一瞬なりとも「私、お父様に何も言わないわ。私、密告者ではなくてよ。でも良く勉強することを私に約束してちょうだい」とは言わなかった。この種の打算はアンヌにとって考えられないことだった。私はそれを喜ぶと同時に、このような彼女を恨んだ。なぜなら、アンヌがそういうことを言ったとしたら私は彼女を軽蔑できただろうから。アンヌは、ほかの失策と同様にこのような失策もせず、やっとポタージュがすんだとき、事件を思い出したような様子をした。
「私、あなたのお嬢さんにちょっと忠告をしていただきたいと思いますわ。レエモン。今日の夕方、私、セシルがシリルと林の中にいるのを見つけましたの。二人とも徒事《ただごと》でない仲の良さでしたわ」
父はそれを冗談のようにとろうとした。かわいそうなお父様……。
「それはどういう意味? 何をしてたの?」
「私、シリルと接吻してたの」と私は一生懸命で叫んだ。「それをアンヌは、思い違いして……」
「私は何も思い違いしてはいないわ」とアンヌは遮った。「けれども私、セシルがシリルとしばらくの間逢うのを止したほうがいいと思いますわ。そして受験の哲学を少し勉強したほうが……」
「かわいそうなセシル」と父が言った。「……それはそうと、そのシリルって、良い奴なんだろう?」
「セシルも良い女の子ですわ」とアンヌが言った。「ですから、もしもセシルに傷でもついたら、それこそ心を痛めますわ。それに、セシルはここで完全に自由なんですから、しじゅうあの男の子といっしょにいること、それから二人の閑《ひま》なことなどで、どうしても免れない結果になると私には思えますわ。あなたはそうお思いになりません?」
この「あなたはそうお思いになりません?」の言葉で、私は眼を上げた。ところが父は非常に当惑して、眼をふせた。
「きっとあなたの言うとおりでしょう」と父が言った。「うん、とにかくお前、少し勉強しなくちゃいけないよ。セシル、また哲学の試験をやり直したくはないだろう?」
「それが私にどうだって言うの?」と私は短く答えた。
父は私をみつめ、すぐに眼をそらした。私は混乱していた。私は、無頓着さが、私たちの生活にインスピレーションを与える、唯一の感情だと気がついた。そして弁解するための議論をしないことだった。
「さあさあ」と言いながら、アンヌはテーブルの上の私の手を取った。「あなたは、『森の娘』の役を『良い生徒』の役と交換するのよ。たった一カ月の間……。そんなに重大じゃないでしょう? それとも、そうなの?」
彼女は私をみつめた。父は、ほほえみながら私をみつめた。こんな状態のもとでは、論争は明白だった。私は静かに手を引っ込めた。
「そうなの……」と私は言った。「重大だわ」
私はそれをあまりにも静かに言ったので、彼らには、それが聞えなかったようだった。それとも聞こうとしなかったのかも知れない。翌朝、私はベルグソンの一句を前にして坐っていた。それを理解するのに数分間を要した。「事実と原因との間に、さしずめ、どれほどの異質性を人が見いだすことができようとも、また行動の規則から、事物の本質に関する認定に到る間には、非常な距離があるにもかかわらず、人々が人類を愛する力を汲《く》み出すことができたと感じたのは、常に人類の発生的原理に直接ふれることによってであった」私は自分を苛立たせないため、初めは静かに、それから高声にこの句を繰返した。私は両手で頭をかかえて、この句を一生懸命みつめた。やっと私は理解したが、私は、自分が最初に読んだときと同じように冷たく、無能力に感じた。私は続けることができなかった。私は次の行を、同じように勤勉に、好意を持ってながめた。と、突然、何かが風のように私の内に起って、私をベッドに放り投げた。私は黄金色の入江に私を待っているシリルのことを、やさしい船の揺れを、私たちのくちづけの味を考えた。それから、アンヌのことを考えた。私は彼女のことをあまりにも強く考えたので、私は心臓をどきどきさせながら、ベッドの上に坐って、それは馬鹿げていて、また恐ろしいことだと、そして私は甘やかされた、怠け者の子供で、こんなふうに考える権利はないと自分に言い聞かせた。それなのに、私は自分の気持に反して考えつづけた。アンヌは有害であり、危険であり、私たちの行手から遠ざけなくてはいけないと……。私は歯を食いしばって、いま過してきたばかりの食事のことを思い出した。そのときは私は恨みに傷つき、打負かされていたのだった。私はこういう感情をもつ自分を軽蔑《けいべつ》し、あざけった。……そうだ。そのことこそ私がアンヌを非難する点だった。彼女は、私が自分を愛することを妨げたのだ。私はこんなにも自然に、幸福のために、親切さのために、気楽さのためにできているのに。私は彼女のおかげで、非難の、良心の呵責《かしゃく》の世界に入ってゆく、この世界では、内省などにおよそ不得手な私は、途方に暮れてしまうのだ。そして彼女は私に何をもたらしただろうか? 私は彼女の力を量った。彼女は父を欲した。そして父を得た。彼女は徐々に私たちを、アンヌ・ラルセンの夫と義理の娘に仕立てようとしていたのだ。言い換えれば、おとなしく、育ちのよい、幸福な人たちに。不安定な私たちが、どんなにかたやすくこの魅力的な雰囲気に、無責任さに、譲歩するだろうということは、私にはよくわかっていた。アンヌは腕が利き過ぎていた。すでに父は私から離れだしていた。食卓でのあの困惑した、そらした父の顔が私につきまとい、私を苦しめた。私は泣きたいような気持で、昔、父と共謀したすべてのこと、パリの白い路《みち》を、あけ方自動車で帰ってきたときの笑いなどを思い出した。それらはみんな終ってしまったのだ。父の次には、私がこんどアンヌに影響され、修正され、導かれるだろう。私は苦しみもしないだろう。彼女は理知と、皮肉と、優しさをもって行動し、私は反抗することもできないだろう。六カ月のうちには私は反抗したい気持すらなくなるだろう。
どんなことをしてもしっかりして、ふたたび父と、昔の私たちの生活を取戻さなくてはならない。突然、私には、いま過してきたばかりの、陽気なめちゃくちゃな二年間が、どんなにか魅力的に映ったか知れない。この間、私があんなにも早く見捨てたあの二年間が……。考える自由、常識はずれなことを考える自由、少なく考えることの自由、自分の人生を選ぶ自由、自分自身を選ぶ自由。私は『自分自身で在る』と言うことはできない。なぜなら私はこねることのできる粘土でしかなかったが、鋳型《いがた》を拒否する粘土だった。
私は人が、この変化に複雑な理由を見つけることができること、また私に素晴らしいコンプレックスを課すことができることを知っている。父に対する近親姦《きんしんかん》的な愛情とか、あるいはアンヌへの不健全な情熱とか。けれども私は、本当の原因を知っている。それは暑さと、ベルグソンと、シリルと、でなければ少なくともシリルの不在だった。私は不愉快な状態の連続の中で、午後じゅうそのことについて考えた。けれども、すべては、私たちがアンヌの思いのままになっている、ということから生じてきているのだった。私は熟考することに馴れていなかった。それは私を苛立たせた。食卓でも、朝と同じように私は口を開かなかった。父はそのことについて冗談を言わなくてはならないように思ったらしい。
「僕は、青春が持っているものの中で好きなのは、その陽気さと会話なんだが……」
私は父を荒々しく、険しくみつめた。父が青春を愛していることは真実だった。そして父以外に、私は誰と話しただろう? 私たちはすべてを話した。恋愛を、死を、音楽を。父は私を捨て、父の手で私の青春の武器をとりあげたのだ。私は父をみつめた。そして思った。「お父様は昔のように私を愛していらっしゃらない。私を裏切ったのだわ」そして私は口に出さないでそれを父にわからせようと試みた。私は悲劇のまっただ中にいた。父も急に心配になり、私をみつめた。もしかしたら、もう遊戯ではなくて、私たちの仲が、本当に危険に晒《さら》されているのだということを理解したのかもしれない。私は父が驚き、いぶかしそうにしたのを見た。アンヌが私のほうを向いた。
「あなたは顔色が悪いわ。私、あなたに勉強させたこと後悔しているわ」
私は返事をしなかった。私は自分が作りだした、もうやめることのできないこの種のお芝居の中の自分自身を悪嫌していた。私たちは夕食を終えた。テラスで、食堂の窓から照らされた三角形の光の中で、私はアンヌの、生き生きとした長い手が揺れて、父の手をとるのを見た。私はシリルを想った。私は彼が、蝉《せみ》と月とに満ちたこのテラスの上で、私を両腕の中に抱いてくれればいいのに、と思った。私は愛撫《あいぶ》され、慰められ、自分自身と和解したかった。父とアンヌは黙っていた。彼らの前には恋の一夜があった。私にはベルグソンがあった。私は泣こうと、自分自身を不憫《ふびん》に思おうと努力したが無駄だった……。私はすでにアンヌをこそ不憫に思いはじめていたのだ。あたかも彼女に打勝つことが確かなことであるかのように……。
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第二部
第一章
この頃からの思い出の鮮やかさは私を驚かせる。私はほかの人たちや自分自身について、前よりずっと注意深い意識を持つようになった。今まで、私にとって、率直さと、安易な利己主義とは自然な奢侈《しゃし》であった。私はいつもその中で生きてきた。ところが、この数日間、私は非常に混乱させられたので物事を深く考えたり、生活する自分を観察したりするようになった。私はあらゆる内省の苦しみの中を通ってきたが、自分自身と和解するに至らなかったのだ。「この感情は……」と私は考えた。「アンヌを父から離れさせようとする欲望が残忍であるように、このアンヌに対する感情は馬鹿げていて、惨めだ」だが、結局どうしてこのように自分を裁くか? 私はこの私なのだから、さまざまな出来事を次々と感じることは自由ではないか? 生れて初めてこの「自分」が分離したように見え、このような二重性の発見が私をひどく驚かせた。私は都合の良い口実を探し、自分自身にそれらをつぶやき、自分が誠実であると判断した。すると突然、もう一つの「自分」が現われて、私自身の議論がいかに真実のような外見を持っていようと、それは偽りであり、自分自身を欺いていると叫んだ。けれども、もう一つの「自分」が私を欺いていたのではなかったろうか? この聡明さこそ迷妄の最悪のものではなかったろうか? 私は自分の部屋で、現在、アンヌによって吹き込まれた恐怖と敵対意識とを正当化することができるか、あるいは、私は利己主義な、虚偽の独立心に甘やかされた少女に過ぎないのかを知ろうとして、何時間もの間苦悩しつづけた。
その間、私は毎日少しずつ瘠《や》せていった。私は海岸では眠ることよりしなかった。そして食事のときは、私は自分の意に反して、心配げな沈黙を守って、父とアンヌに気まずい思いをさせた。私はアンヌを眺めた。私はアンヌの顔を絶え間なく探った。食事の間じゅう私は自分に言った。『お父様に対するあのアンヌの感情は愛ではないか? お父様にもう決して来ないような愛ではないだろうか?それから私に対する、瞳《ひとみ》の底の心配のこもったあの微笑に対して、どうして恨むことなどできよう?』けれども、突然彼女が言った。「レエモン……私たちがパリに帰ったら……」その瞬間、アンヌが私たちの生活を分け合い、干渉するのだという考えが私を反抗させた。私には、彼女が巧みさと冷酷さの塊にしか映らなくなった。私は自分に言った。『アンヌは冷たい。私たちは暖かい。アンヌは高びしゃで、私たちはわがままだ。アンヌは無関心で、人びとはアンヌの興味を惹《ひ》かない。人びとは私たちを熱中させる。アンヌは打ちとけない。私たちは陽気だ。私たち二人だけが生きていて、アンヌはその冷静さと共に私たちの間にこっそりと入り込むだろう。アンヌは暖まり、徐々に私たちの無頓着な、心地よい熱を奪ってしまうだろう。アンヌは私たちからみんな盗んでしまうだろう。美しい蛇のように……』私は美しい蛇と自分に繰返した。美しい蛇! アンヌは私にパンをさし出していた。そして私は急に我に返った。私は自分に叫んだ。『だけどどうかしている。この人はアンヌじゃないか? 頭の良いアンヌ、お前を世話してくれた人。彼女の冷たさは、彼女の生活の形式なのだ。お前はそれを打算だと考えることはできない。アンヌの無関心さは、多くの小さな卑しいことから彼女を護《まも》り、それは高尚であることの保証なのだ』美しい蛇……私は恥ずかしさで蒼《あお》ざめた。私はアンヌをみつめた。自分を許してくれるようにひそかに彼女に嘆願した。時どき、アンヌは、これらの視線を不意に見つけて、驚きと不安で顔を曇らせ、会話を途切らせた。アンヌは本能的に父の眼を探した。父は憧《あこが》れか、欲望を持って彼女を眺め、この不安の原因を理解しなかった。要するに私は、窒息しそうな雰囲気をだんだん醸《かも》し出すことに成功した。そして私はそのことについて自分を憎悪した。
父は父なりに、苦しめるだけ苦しんでいた。つまりほんの少し苦しんでいたのだ。なぜなら父はアンヌに夢中だった。得意と快楽で夢中だった。そして父はそのためにしか生きていなかった。それでもある日、私が朝の海水浴の後で海辺で眠っていたとき、父はそばに坐って私をみつめた。私は自分の上に父の視線が置かれたのを感じた。私は、この頃の習慣になってしまった、わざと陽気そうな様子で、泳がないかと誘おうとして立ちあがろうとしたとき、父が私の頭に手をのせて、哀れっぽい声を張り上げた。
「アンヌ、この螽斯《ばった》を見にいらっしゃい! すっかり瘠せてるよ。もし勉強の結果なら止《や》めなくてはいけないな」
父はすべてを元どおりに戻せると思っていた。そして、もしも十日前だったら、すべてを元どおりにすることができただろう。けれども私はもうずっと深く、錯雑さの中に入り込んでしまっていた。そしてもう午後の勉強の時間も私をわずらわせなかった。なぜなら、ベルグソン以来、私は一冊の本も開いていなかった。
アンヌが近寄ってきた。私は、彼女の足音に注意しながら、お腹《なか》を砂の上につけて寝ころんでいた。彼女はもう片方の側へ来てつぶやいた。
「本当に勉強は適《あ》わないわね。それにしても部屋の中で堂々めぐりしているよりも、ほんとに勉強すればいいのだけれど……」私は振返った。私は二人をみつめた。どうしてアンヌは、私が勉強していないことを知っていたのだろう? もしかしたら、アンヌは私の考えすらも見破ったのではないだろうか? アンヌにはどんなことでも可能なのだ、と私は思った。この考えが私を怖がらせた。
「私、部屋の中で堂々めぐりなんかしてないわ」と私は抗議をした。
「あの男の子がいないからかい?」と父が聞いた。
「ちがう!」
これには少し偽りがあった。けれども、シリルのことを考える時間がないことも事実だった。
「それにしてもお前は元気がないよ」と父が厳しい口調で言った。「アンヌ、ごらんなさいよ。まるで臓《はらわた》をぬいた鶏を太陽でローストしはじめたみたいだ」
「私の小さなセシル」とアンヌが言った。「努力しなさいな、少し勉強して、たくさんお食べなさい。この試験は大切よ……」
「私、試験なんか知ったことじゃないわ」と私は叫んだ、「わかって? 知ったことじゃないのよ!」
私は真正面から、絶望的にアンヌをみつめながら、それが試験よりも重大なのだ、ということをわからせようとした。アンヌがこう私に聞かなくてはならないのだ。「それじゃ何なの?」と。そして、私を質問攻めにして、全部をぶちまけさせなくてはいけないのだ。そしたらアンヌは私を納得させ、好きなように決めるだろう。そしてそうすることによって、私は、苦い、憔悴《しょうすい》させるこの感情に悩まされることもなくなるだろう。彼女は私を注意深くみつめた。私はアンヌの瞳の、プルシアンブルーが、注意と非難とで暗くなるのを見た。私は、アンヌが決して質問しないだろうということ、私を解放してくれないだろうということを理解した。なぜなら、アンヌにはそんな考えすら浮ばないだろうし、またそんなことはするものではないと信じているからだ。アンヌは、私を傷めつけているこれらの考えの一つすら考えてもみないだろうし、また考えたとしても、それは軽蔑と無関心さとをもってであろう。もっとも、私のこれらの考えは、軽蔑と無関心さとに値するものなのだが……。アンヌは、いつも物事を正確に価値づけた。だから私は、決して決して彼女と議論することはできない。
私は荒々しく、砂の上に身を投げた。そして、砂の暖かいやわらかさの上に頬をつけた。私は溜息《ためいき》をつき、少し顫《ふる》えていた。落ちついた、自信のあるアンヌの手が私のうなじに置かれ、神経質な顫えが止るまで、一瞬、じっと私を支えた。
「人生をややこしくしちゃ駄目よ」とアンヌが言った。「あなたはとても幸福ではしゃいでいたのに、そして理性的でないあなたが、考え込んで悲しんでいるなんて……あなたに似合わないわよ」
「知ってるわ」と私は言った。「私は、無自覚で、健全な、陽気さと愚かさでいっぱいの若い人間なのよ」
「さ、昼食にいらっしゃい」とアンヌが言った。
父は離れて行った。父は、こんな種類の言い合いが大きらいなのだ。帰り道、父は私の手を取って、そのままにぎっていた。それは硬く、力づけてくれる手だった。この手が、私の最初の失恋を慰め、また静かな、このうえない幸福な瞬間の中に、私の手をにぎってくれた。それから、いっしょに謀《たくら》んだいたずらや、馬鹿笑いの最中に、この手がそっと私の手をにぎってくれた。自動車のハンドルの上や、夜、鍵穴《かぎあな》をいたずらに探す鍵の上のこの手。女の肩の上や、シガレットの上のこの手。この手は、もう私をどうすることもできないのだ。私はとても強くこの手をにぎった。父は、私のほうを振向いて、ほほえんだ。
第二章
二日間が過ぎた。私は堂々めぐりをして憔悴していった。アンヌが、今までの私たちの生活様式をぶちこわしてしまうだろうという強迫観念から逃れることができなかった。……私はシリルに逢おうともしなかった。彼は私を安心させ、いくらかの幸福を持ってきただろう。けれども、私はそれらを欲していなかった。私は過去の日々を思い出したり、あるいは来《きた》るべき日々を怖《おそ》れたりする、さまざまな不可解な問いを自分にして、一種の満足感をすら感じていた。
とても暑かった。私の部屋は薄暗く、雨戸はしめてあったが、重苦しさと、堪えがたい空気の湿気とを防ぐには不十分だった。私はベッドの上に仰向《あおむ》けになって、眼を天井にやったまま、冷たいシーツの一片を探すために、わずかに身を動かす程度だった。私は眠らなかったけれども、ベッドの足もとに蓄音機を置いて、メロディのない、ただリズムのあるレコードをかけた。私はたくさん煙草を喫った。私は自分が頽廃的《デカダン》に思われて、それが気に入った。しかしこの子供らしいお芝居は私をまぎらわすには不十分だった。私は悲しく、途方に暮れていた。
ある午後、女中が戸を叩いて、意味ありげな様子で、「誰かが階下《した》に来ている」と告げた。私はすぐにシリルだと思った。私は階下に降りた。けれども、シリルではなくエルザだった。エルザは愛情をこめて私の手をにぎった。私はエルザを眺めた。そして彼女の新しい美しさに驚いた。彼女はやっときれいに日に焼けていた。明るい万遍のない焼け方で、よく手入れがゆき届き、若さで輝いていた。
「私、スーツケースとりに来たのよ」とエルザが言った。「ジュアンが最近幾枚か洋服を買ってくれたんだけど、それじゃ足りないもんだから」
私は一瞬、ジュアンって誰なのかと思ったけれども、そのままにしておいた。私はエルザにふたたび会えてうれしかった。彼女は、二号さんや、バーや、気軽な夜の集まりなどの雰囲気をただよわせて、私に幸福だった日々を思い出させた。私はエルザにふたたび会えて嬉しいと言い、彼女もまた、私たちには共通点があるから、いつもよく気が合っていたと熱意をこめて言った。私は軽い身顫《みぶる》いを感じたがごまかして、彼女が、父とアンヌに出会わないように、私の寝室へ来ないかと誘った。私が父のことを話したとき、エルザは頭の小さな揺れを抑えることができなかったので、ジュアンと彼の幾枚かの洋服にもかかわらず、もしかしたらエルザはいまだに父を愛しているのかも知れないと思った。また、三週間前だったら、私はこんな動作には気がつかなかっただろうと思った。
私は寝室で、エルザが過してきた南仏の社交界の、陶酔的な生活の素晴らしさについて、熱心にしゃべるのを聞いた。そうしている間に、彼女のあらたな様子を見たのが主な原因らしいが、奇妙な考えが漠然と私の中に湧《わ》きあがるのを感じた。私の沈黙のせいか、エルザはやっと自分から話を打切って、部屋の中を数歩歩きだした。そして私のほうを振向かずに、なにげない声で、「レエモンは幸福かどうか」とたずねた。私はしめたと思い、すぐにそれがなぜだかわかった。そのとき、数多《あまた》の計画が私の頭の中を交錯し、さまざまな計画が湧きあがり、私は自分の考えの重みで圧《お》し倒されそうな気がした。と同時に、何を彼女に言うべきかを悟った。
「『幸福』は言い過ぎだわ! アンヌはそうとしかお父様に思い込ませないのよ。彼女とても上手《じょうず》だから……」
「とってもね」とエルザは溜息をした。
「あの人、お父様に何を決心させたか、あなたには決して想像もつかないわよ。あの人お父様と結婚するのよ」
エルザはぞっとしたような顔を私にむけた。
「あの人と結婚するの? レエモンが結婚したいの? レエモンが?」
「そうよ」と私は言った。「お父様は結婚するのよ」
突然、笑いたいような衝動が、私の喉《のど》をとらえた。私の手は顫えていた。エルザは、たたきのめされたように見えた。要するに、父も年で、一生を半玄人の女たちと過すことはできない、とエルザに考えさせる隙《すき》を与えてはいけなかった。私は前にかがみ込んで、彼女を感動させるために、急に声を落して言った。
「そんなことさせちゃ駄目よ。エルザ。お父様は今からもう苦しんでいるのよ。それは不可能なことよ。あなた、よくわかるでしょう」
「そうねえ」と彼女が言った。
エルザは、すっかり心を奪われているようだったので、私は笑いたくなり、私の顫えは増した。
「私、あなたを待っていたのよ」と私は続けた。「アンヌにむかって戦えるだけの人は、あなた以外にいないわ。あなただけが、匹敵できる力を持っているのですもの」
お世辞を言われて、エルザは明らかに私の言葉を信じたいようだった。
「だけど、もしレエモンが結婚するんだったら、愛しているからでしょう?」と彼女が反撥《はんぱつ》した。
「何を言ってるの」と私はやさしく言った。「あなたよ。お父様が愛しているのは……エルザ! あなたがそれを知らないなんて、私に思い込ませようとしたって駄目よ」
私は、エルザが瞼《まぶた》をぱちぱちさせて、私が与えた希望と、うれしさとを隠そうと、顔をそらせたのを見た。私は一種の眩暈《めまい》の中で行動した。私は、何を彼女に言うべきかはっきりと感じた。
「わかる?」と私は言った。「あの人は、お父様に家庭の落ちつきと道徳を吹き込んだのよ。そして、アンヌはそれに成功したのよ」
言葉が私を圧しつぶした。なぜなら、たしかにそれは私自身の感情の表現だった。むろん、簡単で、通俗的な表現ではあっただろうが。……しかし、それは私の考えと相通じていた。
「もし結婚が成り立つと、私たちの三人の生活は破壊されてしまうのよ。エルザ。お父様を守ってあげなくてはならないわ。お父様は大きな子供なのよ。大きな子供よ……」
私は『大きな子供』を熱心に繰返した。それは、あまり芝居がかっているように私には思われたが、しかし、エルザの美しい緑の瞳は、すでに憐《あわ》れみで霞《かす》んでいた。
私は讃美歌の中のような調子で終りを結んだ。
「助けて、エルザ。私はあなたのために言うのよ。お父様のために、そしてあなた方二人の恋のために……」
私は心の中でこう言い終えた。「それからかわいそうなシナ人たちのために……」
「だけど、私に何ができるかしら」とエルザが聞いた。「私には不可能に見えるわ」
「もしそれが不可能に見えるのなら、それじゃお止《よ》しなさい」と私は俗にいう、今にも泣きだしそうな声で言った。
「なんてずうずうしい女!」とエルザはつぶやいた。
「本当にそのとおりね」と私は言い、こんどは私のほうが顔をそらした。エルザは、見る見るうちに元気を取戻した。エルザは恥をかかせられたのだ、彼女はあの陰謀家の女にこのエルザ・マッケンブールの腕を見せてやろうとしていた。それに、父はエルザを愛していたし、彼女もそのことについて疑わなかった。一方、彼女自身にしても、ジュアンのそばで、父の魅力を忘れることができなかった。きっと彼女は父に家庭の話はしなかっただろうが、少なくとも、父を退屈させはしなかった。それに結婚しようと試みなかった。
「エルザ」と私は言った。なぜなら、私はもう彼女といっしょにいることが我慢できなかった。「私からだと言って、シリルのところへ行って泊めてもらいなさいな。シリルはお母様と相談して、なんとかしてくれるわ。そして、明日の朝、私が逢《あ》いに行くと言ってちょうだい。三人で相談しましょう」
閾口《しきいぐち》のところで、私は冗談にこう言いたした。
「あなたは自分の人生を護るのよ。エルザ」
エルザは、あたかも十いくつかの人生が、彼女を囲ってくれる、男の数だけの人生がないとでもいったように、厳粛な様子でうなずいた。私は、彼女が太陽の中を、踊るような足取りで帰ってゆくのを眺めた。私は一週間の間に必ず父があらたにエルザを望むだろうと思った。
三時半だった。このとき、父はアンヌの腕の中で眠っているはずだった。アンヌ自身も、咲き開き、乱れて、快楽と幸福の熱気の中で、仰向けに倒れ、睡《ねむ》りに身を委《まか》せていたことだろう。私は、自分自身の上に一秒間も留《とど》まることをせずに、大急ぎで計画を立てはじめた。
私はひっきりなしに部屋の中を歩き回った。私は窓のところまで行って、砂の上に圧しつぶされた、静寂な海に一瞥《いちべつ》を与え、戸口まで戻り、また後戻った。私は計算し、算定し、次から次へと異議を打砕いて行った。私は今まで、精神の敏速さと、その急激な動きというものに気がついたことがなかった。私は、自分が危険なまでに巧妙であると感じると同時に、私がエルザに自分の計画を説明したとき以来自分を占めている、この自己嫌悪の気持に、さらに一種の自負と、内部的な罪悪感と、孤独な感情が加わったことを感じた。
しかし、これらすべての感情は、泳ぎの時間には瓦解《がかい》した(いうまでもないことだが……)。私は、アンヌの前では、良心の呵責《かしゃく》に震えた。私は、どうしたら取返しがつくかわからなかった。私はアンヌのハンドバッグを持ったり、彼女が水からあがると、大急ぎで海浜ガウンを渡してあげたり、親切な、愛想のいい言葉を浴びせかけた。近日来の、私の沈黙の後のこの急激な変化は、アンヌを驚かさずにはおかず、そのうえ喜ばせさえした。父は有頂天だった。アンヌは微笑をもって私に感謝し、陽気に私に答えていた。そして私は、「なんてずうずうしい女!」「本当にそのとおりね」を思い出していた。どうして私はあんなことを言うことができたのだろう? またエルザの馬鹿さ加減を受入れることができたのだろう。明日、私が間違っていたと告白して、エルザにここから行ってしまうように忠告しよう。すべてが元どおりになるだろう。そして私は結局試験に受かるだろう!確かに大学入学資格試験《バカロレア》は役に立つだろう。
「そうでしょう?」と私はアンヌに話しかけた。「ね、役に立つでしょう? バカロレアは……」
彼女は私をみつめ、噴きだした。私も、アンヌがこんなに朗らかなのを見てたのしく、同じように噴きだした。
「あなたって変ってるわね」とアンヌが言った。
本当に私は変っている。そして、私がこれからしようと目論《もくろ》んでいることを彼女が知ったとしたら、なおさらのことだ。私がどの程度変っているかアンヌにわからせるために、私はみんなぶちまけてしまいたい欲望に駆られた。『考えてごらんなさいナ、私はエルザにお芝居をさせたのよ。エルザがシリルに夢中になっているように見せかけ、シリルの家に寝起きさせ、私たちは、二人がヨットで通るのを眺め、海辺の上の林の中で二人に出会うようにするの。エルザはまた美しくなったのよ。もちろん、あなたのような美しさはないけれど、何というかしら……あの輝くような、男たちを振返らせる娼婦《しょうふ》の美しさがあるのよ。お父様は長くは我慢おできにならないでしょう。なぜって、お父様のものだった美しい女が、こんなにも早く慰められ、そしていわば眼の前で……。ことに自分より若い男とね。わかる? アンヌ。お父様はあなたを愛していらっしゃっても、すぐにエルザをお望みになったに違いないわ。ご自分の魅力を確かめたいために。お父様はとても見栄坊《みえぼう》というか、自信がないのよ。どっちでも同じことだけど……。エルザは私の指図で、するべきことをやってのけたでしょう。ある日、お父様はあなたを裏切り、あなたは我慢できなかったでしょう? そうでしょ? あなたは分け合うことのできる女じゃないわ。それであなたは行ってしまったでしょう。そして、私はそれを望んだのよ。ええ、馬鹿ね。私、ベルグソンや暑さのおかげで、あなたを恨んでいたの。私はこう想像していたの…… でも私、あんまり抽象的で、滑稽《こっけい》だから、お話することやめるわ。つまりバカロレアの試験勉強のおかげで、私はあなたを、お母様のお友達だったあなたを、そして、私たちのお友達のあなたを、私たちともう少しで仲違《なかたが》いさせることができたのよ。それにしても役に立つのでしょう? バカロレアは? そうでしょ?』
「そうでしょ?」
「何がそうでしょ、なの?」とアンヌが言った。「バカロレアが役に立つってこと?」
「ええ」と私は言った。
結局、アンヌに何も言わないほうがいい。アンヌはきっと理解しなかっただろう。アンヌにわからないことがいろいろあった。私は、父の後を追って、水の中に飛び込んで父とふざけ、水遊びのたのしさや、良心の呵責にさいなまれないたのしさをふたたび味わった。明日、私は部屋を替えよう。私は学校の本を持って屋根裏に落ちつこう。それにしても、ベルグソンだけは持って行くのを止そう。極端になり過ぎてはいけない! 孤独の中のたっぷり二時間の勉強、沈黙の中の努力、インキと紙の匂い、十月の試験の成功、父のびっくりした笑い、アンヌの賞讃、免状……。私は理知的になり、教養がつき、アンヌのようにちょっと冷たい感じになるだろう。私はもしかしたら知的な要素を持っているのかもしれない……。私は五分間のうちに、理屈のある、もちろん軽蔑《けいべつ》すべき、しかし理屈のある計画を立てたではないか? それからエルザ! 私はエルザの虚栄心と、感情とを利用して、エルザを自分のものにし、ただ、ちょっとスーツケースをとりに来た彼女に、幾秒かで決心させた。おかしなものだ。それに、私はエルザを狙い、弱点を見つけ、話しだす前に私は自分の武器を調えた。初めて、私は不思議な快楽を知った。一人の人間の内部まで入り、見きわめ、その人間を光の下に連れ出して、そこで相手の急所を射る、という快楽を……。ちょうど指を引金の上に注意深く置くように、私は誰かを見つけようとしていた。そして、そのとたんに弾《たま》がとび出した。命中! 私はそれまでこういうことを知らなかった。私は、いつもあまりにも衝動的だった。私が一人の人間を射止めたとき、それは偶然に過ぎなかった。私は人間の反射作用の、すべての素晴らしいメカニスムを、言語が持っているすべての力を、突然、垣間《かいま》見たのだ。それが虚偽の道においてであったことは、なんと残念なことだろう。いつか私は誰かを情熱的に愛するだろう。そして、彼に向う一つの道を探すだろう。注意と、優しさと、震える手をもって……。
第三章
翌日、シリルの別荘へ行く途中、私は知性の点で大分自信がぐらついていた。というのは、前の晩、私は、自分の全快を祝うため、夕食にたくさんお酒を飲み、陽気以上のご機だった。そして、私は父に、これから文学士号をとる勉強をし、知識人たちと交際し、有名になり、うんざりするような女になるのだと説明した。それから、父が広告の秘宝と、スキャンダルを利用して、私を有名にさせなければいけないこと……。私たちは滑稽な考えを交換し合って、笑いを爆発させた。アンヌも笑っていたけれども、それは控え目な笑いで、大目に見ているとでもいうふうだった。時どき全然笑わなかった。私の名声を博そうとする野心が、文学を冒涜《ぼうとく》し、良家の子女のするべきことでないと考えていたのだろう……。けれども、父が私とまた以前のように馬鹿げた冗談を言い合って、すっかり幸福そうなので、アンヌは何も言わなかった。最後に、父とアンヌは私を寝かし、おふとんをかけてくれた。私は情熱的にお礼を言い、彼ら無しでは私はどうするだろうと質問した。父は本当に何もわからず、アンヌは、そのことについて、相当きつい考えを持っているようだったので、私は自分に言ってくれるように懇願した。そして、アンヌが話そうとして私の上にかがんだとき、私は眠りに落ちこんでしまった。夜中に私は気分が悪かった。翌朝の目ざめは、私の知っているどの悪い目ざめよりもひどかった。私は、頭がぼんやりとしてはっきりとした決心もつかずに松林のほうへと足を向けた。朝の海も馬鹿にさわいでいるかもめも眼に入らなかった。
シリルが庭の入口で待っていた。彼はいきなり私にとびかかり、両腕に私を抱いて、荒々しく私をしめつけながら乱れた言葉を囁《ささや》いた。
「|僕の愛する人《モン・シェリー》、僕はどんなに心配したか……。なんて長いこと……。君がどうしているのかわからなかった。あの女が君を不幸にさせたのかどうか……。僕は、自分がこんなにも不幸になるとは、自分自身知らなかった。僕は、毎午後入江の前を通った。一ぺん、二へん……僕はこれほど君を愛しているとは思っていなかった……」
「私もよ」と私は言った。
実際それは私を驚かせたと同時に感激させた。私は胸がむかむかしていたので、自分の感動を彼に証明することができなくて残念だった。
「なんて蒼い顔してるの?」と彼が言った。「これからは僕が君の面倒を見るよ。そして、これ以上君を虐待させておくもんか」
私は、あ、これはエルザの想像だなと思った。私は、シリルに彼の母はエルザについて何と言っているかと聞いた。
「僕はエルザを友達として孤児として紹介したんだ」とシリルが言った。「あの人好い人だね、エルザって……。あの女について全部話してくれたよ。不思議だなア。あんな洗練された、品のいい顔しているくせに、あんな陰険なことするなんて……」
「エルザはずいぶん大げさに言ったわね」と私は弱々しく言った。「私、ちょうどエルザに言おうと……」
「僕も君に言うことがあるんだ」とシリルがさえぎった。「セシル、僕、君と結婚したいんだ」
私は一瞬|狼狽《ろうばい》した。なんとかしなければいけない。言わなければいけない。ああ、もしこのひどい気持の悪ささえなければ……。
「僕、君を愛してるんだ」とシリルは私の髪の中で言った。「僕、法科止しちゃうよ。いい勤め口があるんだ。叔父さんが……、僕二十六だもの、小さな男の子じゃないよ。真面目に話してるんだよ。君はどう思う?」
私は絶望的に、何か美しくて曖昧《あいまい》な言葉を探した。私は彼と結婚したくなかった。私は彼を愛していたけれども、結婚したくなかった。私は誰とも結婚したくなかった。私は疲れていた。
「でも、それはできないわ」と私は口ごもった。「お父様が……」
「お父様は僕が引受けたよ」とシリルが言った。
「アンヌが賛成しないわ」と私は言った。「あの人は私を大人じゃないと思っているのよ。それで、もしアンヌが駄目だって言えばお父様もそうおっしゃるわ。私、疲れてるの、シリル、感動で足がすくんじゃったわ。坐りましょうよ。ほら、エルザだわ」
エルザは部屋着のままで下りてきた。すがすがしく輝くばかりだった。私は自分がどんよりとして瘠《や》せこけているように感じた。二人とも健康そうな、生き生きとした、興奮した様子をしていたので、それはよけいに私を消沈させた。彼女は、私があたかも牢屋《ろうや》から出てきたように、細心の注意を払って私を坐らせた。
「レエモンはどうしている?」と彼女がたずねた。「私が来たこと知ってるの?」
エルザは、赦《ゆる》した人の、希望を持った人の幸福そうな微笑をしていた。私はエルザに、父がもう彼女のことを忘れてしまったこと、それからシリルに、彼と結婚しないということがどうしても言えなかった。私は眼をつぶった。シリルがコーヒーをとりに行った。彼女はしゃべりにしゃべり、あきらかに私を誰か非常に術策に長《た》けた人のように扱い、私を信頼していた。コーヒーはとても強く、ひどく良い香りで、太陽が私を少し元気づけてくれた。
「私ずいぶん探したんだけど、解決法がまだ見つからないのよ」とエルザが言った。
「ないよ」とシリルが言った。「心酔しきってるし、影響されちゃってるもの。どうすることもできないよ」
「あるわ」と私が言った。「ひとつ方法があるわ。あなた方ってちっとも想像力がないのね」
彼らが私の言葉を注意深く聞いているので、私はすっかり得意になった。彼らは私よりも十も年上なのに考えがないのだ! 私はちょっと超越した口調で、
「それは心理の問題よ」と言った。
私は長いこと自分の計画を説明した。彼らは私が前夜自分に唱えたと同様の異議を持ち出したので、私はそれをやっつけるのに鋭い快感を感じた。それはわかりきったことだったけれど、彼らを納得させようとしたので、私もこんどは熱中してしまった。私はそれが可能だということを証明した。あとはただ彼らにそれをしてはいけないことを説明するだけだったが、私は同じように理屈の通った論拠を探すことができなかった。
「僕はそういう策略はあんまり好きじゃないな」とシリルが言った。「けれどもそれが君と結婚できる唯一の手段ならしかたがないや」
「そりゃアンヌのせいだけじゃないのよ」と私は言った。
「でもアンヌがこのまま残っているとしたら、あなたはアンヌの気に入った人と結婚するってこと、わかってるでしょう?」とエルザが言った。
それは本当だったかも知れない。私が二十歳ぐらいになったとき、アンヌが、やはり学士で、輝かしい将来を約束された、聡明で平均のとれた、そしてきっと品行方正な若い青年を私に紹介する様が目に見えた。考えてみれば、シリルも大体そういう青年だ。私は笑いだした。
「お願いだ。笑わないでくれ」とシリルが言った。「僕がエルザを恋しているような振りをしたら、君は妬《や》きもちをやいてくれるかい? ……どうしてそんなことを考えつくことができたんだい? いったい僕を愛しているの?……」
シリルは低い声でしゃべっていた。エルザは気を利かしてそっと席をはずした。私はシリルの緊張した日に焼けた顔と濃い瞳《ひとみ》をみつめた。彼は私を愛していた。そしてそれが奇妙な印象を私に与えた。私はすぐそばの、血でふくれあがったシリルの口をみつめた。私はもう自分が理知的だとは感じられなかった。シリルが顔を少し前に持ってきて、私たちの唇が触れ合ったとき、私たちはお互いにもう知り合った仲だということを感じた。私は目をあけたまま坐っていた。彼の熱い、硬い、じっと動かない口が私の口の上にあった。かすかな震えが唇を伝わった。彼はそれを止めようとして、もう少し唇を押しつけた。それから彼の唇が開いて、その接吻《せっぷん》は能動的になり、すぐ命令的になり、巧妙に、あまりにも巧妙になって行った……。私は太陽の下で男の子と接吻するほうが、試験準備をするよりも才能があることを知った。私は息を切らしながら、少し彼から離れた。
「セシル、僕たちいっしょに暮すべきだ。エルザとお芝居をやるよ」
私は自分の胸算が正しいかどうか自問した。私がこの芝居の魂であり、演出家だった。私はいつでも止《や》めさせることができたのだ。
「君はおかしな考えを持ってるね」とシリルは、唇がめくれあがる、ゆがんだ独特の小さな笑い――魅力のある盗賊のような表情にさせる――を浮べながら言った。
「キッスして」と私はつぶやいた。「早くキッスして」
こんなふうに私は芝居を始めてしまった。自分の意志に反して、だらしなさと好奇心から……。私は時どき、暴力と憎悪をもって、進んでこのことをやったほうがよかったと望んだ。なぜなら、怠けや、太陽や、シリルの接吻のせいにせずに、せめて自分自身を糾弾することができたからだ。
私は一時間後に、かなり当惑した気持で共謀者たちと別れた。私を安心させるための論拠がまだたくさん残っていた。つまり、私の計画は駄目かも知れなかった。父がアンヌへの情熱を忠誠にまで持って行けるかもしれなかった。そのうえシリルもエルザも私なしでは何もできなかった。私はこの遊びをいつでも止める理由を見つけることができるだろう。もし父が引っかかったように見えたら……。試みてみることは常に興味深いことだし、私の心理的な計算があっているかどうか見るのもおもしろいことだった。
そのうえシリルは私を愛してい、私と結婚したがっていた。この考えが私を幸福感で満たした。もしも彼が一年か二年、私が大人になるまで待っていてくれたら、私は承諾するだろう。私はもうシリルといっしょに生活している自分を想像した。シリルによりかかって眠り、彼のそばから離れないだろう。毎日曜日、私たちはアンヌと父の、仲のよい夫婦のところへ昼食に行くだろう。
それからシリルのお母さんも……そして、それは食事に家庭らしい雰囲気を添えるだろう。
私はアンヌにテラスの上で出会った。彼女は父と落合うため、海岸に下りて行くところだった。アンヌは、人が前の晩に酔っぱらった人たちに対するときのような、皮肉な調子で私を迎えた。私は、昨夜眠ってしまう前に、アンヌが言いかけたことは何かとたずねたが、彼女は、それは私の自尊心を傷つけるだろうということを口実に、笑いながら拒んだ。父が水からあがってきた。肩幅が広く、筋肉が隆々として、素晴らしく見えた。私はアンヌといっしょに泳いだ。彼女は髪をぬらさないように、頭を水から出して、静かに泳いでいた。それから、私たちは、三人ともうつぶせに並び、私は、無言で、落ちついている二人の間に寝ころんだ。
そのときだった。ヨットが帆をいっぱいに張って、入江の末端に姿を現わした。父が真っ先にそれを見つけた。
「あのシリルの奴、もう我慢ができなくなったらしいね」と笑いながら言った。「アンヌ、赦してやろうか? 本当はいい奴なんだよ」
私は頭を持ち上げた。そして、危険を感じた。
「だけど、いったい何をしているんだろう?」と父が言った。「入江を通り過ぎちゃうよ。あッ、一人じゃないぞ……」
アンヌがこんどは頭をもたげた。ヨットは私たちの前にさしかかり、通り過ぎようとしていた。私は、シリルの顔を見わけることができた。私は、心の中で、彼が行ってしまうように願っていた。
父の叫び声が私を飛びあがらせた。それにもかかわらず、私は二分も前から、それを待っていたのだ。
「……おや、ありゃエルザじゃないか! どうしてあんな所にのっかってるんだろう? ……」
父はアンヌのほうを振向いた。
「あの娘《こ》は大したもんだよ。あのかわいそうな男の子をすっかりものにしちゃって、きっとあの年取ったお母さんの居候にしてもらったにちがいない」
しかし、アンヌは父の言うことを聞いていなかった。彼女は私をみつめた。私は彼女の視線にぶつかって、恥ずかしさでいっぱいになりながら、顔を砂の上にふせた。アンヌは手を出して、私の首の上においた。
「私のほうを見て……怒ってるの?」
私は眼をあけた。彼女は哀願に近い、心配そうな眼つきで、私の上にかがみ込んだ。彼女は、このとき初めて、敏感で内省的な人を見るような眼つきで私をみつめた。それも私がお芝居を始めたという日に……私はうめき声を上げて、この手から逃れるために、荒々しく顔を父のほうへむけた。父はヨットを眺めていた。
「かわいそうに……」とアンヌの低い声が続いた。「私のかわいそうなセシル、これは少し私のせいだわね。私があんなに強硬でなければ……あなたを苦しめさせたくなかったのよ。信じてくれる?」
彼女は、私の髪を、首すじをやさしく撫《な》でた。私は身動きしなかった。私は、浪の始まりに、自分の下の砂がすうっと引いて行くときのような感じを味わった。やさしさや、負けたいという欲望が私の心を満たした。どんな感情も、怒りも、欲望も、これほど強く私を引きずったものはなかった。お芝居を止し、私の一生を託し、死ぬまで、アンヌの手の中に自分を委《ゆだ》ねよう。私は今まで根こそぎ奪いとられるような、これほど激しい弱さを感じたことはなかった。私は眼をつぶった。私は心臓が止ってしまったかのように感じた。
第四章
父は驚き以外の感情を示さなかった。女中は、エルザがスーツケースを取りに来て、すぐに行ってしまったことの次第を話した。私は、どうして女中が、エルザが私に会ったことを話さなかったのかわからない。女中は土地の者で、大の空想家で、私たちの家庭の状態について、かなり好奇心を持っていたようだった。特に、彼女がさせられた部屋替えについては……。
一方、父とアンヌとは、後悔に苛《さいな》まれて、私に気をつかい、初めのうちこそ堪えがたく思われたその親切さも、すぐに快いものに思われてきた。なぜなら、たとえ私のせいであったにしても、腕を組み、すっかり仲のいい様子をしているシリルとエルザとにすれ違うことは、決してたのしいことではなかった。私はもうヨットに乗ることができなかったが、そのかわりに、私がそうであったように、風に髪を乱したエルザが通るのを見なくてはならなかった。だから、彼らとすれ違うときに、私は冷淡でわざと気にしていないような様子をすることに少しも苦労をしなかった。というのは、私たちは方々でシリルとエルザとに出会ったのだ。松林の中や、町の中や、ドライブウェーで……そういうとき、アンヌは私のほうをちらっと見て、ほかのことを話しかけ、私を慰めるために手を肩の上にかけた。私は、アンヌが親切な人だということをすでに書いただろうか? 私は、アンヌの親切さが、その知性の洗練された形か、あるいは単なる無関心さかどうか知らない。けれども、彼女は、いつもその場に適当な言葉と仕草とを持っていた。で、もし私が、本当に苦しんでいるとしたら、これほどよい支えはなかっただろう。
私は、あまり心配せずに成行きにまかせておいた。なぜなら、前にも言ったように、父は何ひとつ嫉妬《しっと》する身振りを見せなかった。それは父のアンヌへの執心を裏づけていたと同時に、私のプランの無効果なことを示して、私の自尊心を傷つけた。ある日、父と私が郵便局へ入ろうとしたとき、ちょうど、エルザとすれ違った。彼女は私たちに気がつかないようだった。父は、ちょうど知らない女にむかってするように、小さな口笛を吹いてふりかえった。
「ねえ、エルザの奴、ひどくきれいになったね」
「恋愛のおかげでね」と私が言った。
父は、びっくりしたように視線を私に投げた。
「お前、先よりも少し平気になったらしいね」
「だって仕方ないわ」と私が言った。「あの人たち、同じくらいの年だし、こうなる運命だったようなものよ」
「アンヌがいなかったら、ちっともこうなるような運命じゃなかったさ」
父はひどく怒っていた。
「もし僕がその気でなかったら、若造なんかに女を奪《と》られやしないってこと、お前にはわからないのかい?」
「だけど、年齢《とし》もやっぱりものをいうわよ」と私は深刻そうに言った。
父は、なあに……というような様子で肩をちょっと持ち上げた。帰り道、私は父が考え込んでいるのに気がついた。父は、もしかしたら、実際エルザは若く、そしてシリルも若いのだと考えていたかもしれない。そして、同年輩の婦人と結婚することによって、自分が一員であった、『年齢のない男たち』の仲間から脱《ぬ》け出してしまうのだと。私は、無意識に、勝利の快感を覚えた。私は、アンヌの眼や口のまわりの小皺《こじわ》を見るとき、自分を非難した。けれども、自分の衝動に従《つ》いて行き、それから後で後悔するということは、あまりにもたやすかった。
一週間が過ぎた。事件の進行を知らないシリルとエルザとは、毎日私を待っているはずだった。私は逢《あ》いにゆきかねた。彼らは、無理矢理に私から策略を奪うだろうし、私はそのことは気がすすまなかった。それに、午後は勉強するといって、私はいつも部屋にあがったのだ。実際は私は何もしていなかった。私は、ヨガの苦行の本を一冊見つけて、絶大な信念をもってそれに没頭した。私は時どき一人で、声を立てないひどい馬鹿わらい――なぜなら、アンヌに聞えるのをおそれて――をやっていた。なぜなら、私はアンヌに、しじゅう勉強をしていると言っていたからだ。私は、アンヌに対して、失恋した女が、いつか立派な学士になる希望をもって傷手《いたで》を慰めている、というお芝居を演じていた。彼女は私を高く評価しているように見えた。私は、ときたま食卓で、哲学者カントの言葉を引用したりするので、それは眼に見えて父をがっかりさせた。
ある午後、私は、よりインド人らしく見えるように湯上がりタオルで体をつつみ、右足を左の腿《もも》の上にのせ、満足感ではなくヨガの悟りの状態に達したいという希望を持ちながら、鏡の中の自分をじっとみつめていたとき、誰かが戸を叩いた。私は女中だと思った。女中は何ごとにも無関心なので、私は入るように叫んだ。
アンヌだった。彼女は一瞬、凍ったように戸口に立ち止り、それから微笑した。
「何をして遊んでいるの?」
「ヨガよ」と私は言った。「けれども遊びじゃないのよ。インドの哲学なのよ」
アンヌはテーブルのそばによって、私の本を取った。私は心配になってきた。百ページのところがあけてあって、ほかのページには私の手記で、「実行不能」だとか「疲労過度」などという文字でいっぱいだった。
「あなたは大そう良心的ね」とアンヌが言った。「それはそうと、あなたがあんなにしゃべっていた、例のパスカルに関する名論文はいったいどうなったの?」
私は食卓でいかにもそれについて考え、勉強しているかのように、パスカルの言葉について議論を好んでしたものだった。私はもちろん、一字もそれについて書きはしなかった。私は身動きひとつしないでいた。アンヌは、じっと私をみつめ、そして、理解した。
「勉強しないで、鏡の前で馬鹿げた格好をするのは、あなたの好き勝手よ! けれども、私たち……お父様や私に嘘《うそ》をついてよろこんでるなんて、もっと悪いことだわ。それにしても、あなたの突然の知的な活躍ぶりには驚いていたのよ」
アンヌは出て行った。私は湯上がりタオルの中で、茫然《ぼうぜん》自失したままだった。私は彼女が、あれを「嘘」と呼んだことがわからなかった。私はただ、彼女をよろこばせるために、論文のことを話したのだが。そしたら、急にアンヌが私を軽蔑で圧《お》しつぶしたのだ。私は、彼女の最近の私に対する態度――に馴《な》れていた、それで、冷静な、人を辱《はずかし》めるこの軽蔑した態度は、私をかっとさせた。私は仮装を脱いで、スラックスをはき、古いシャツブラウスを着ると、走りながら外に出た。暑さは焼けつくようだったが、私は一種の激怒に憑《つ》かれて走りはじめていた。私は自分が恥じているかどうか確かではなかったのでそれはなおさら私の怒りを増した。私はシリルの家まで駆けて行った。息を切らせながら、別荘の入口で立ち止った。午後の暑気の中で、家々は不思議にしんと静まりかえり、彼らの秘密の中に閉じこもっているようだった。私はシリルの部屋へあがった。私たちがシリルの母を訪問したとき、彼が私に見せてくれたのだった。私は戸をあけた。シリルは、頬を腕の上にのせて、ベッドに横斜めに寝ころんで眠っていた。私は一分間、彼を眺めた。そのとき初めて、シリルが無《む》防禦《ぼうぎょ》で、感動的に感じられた。私はシリルを低い声で呼んだ。彼は眼をあけ、私を見ると、すぐに上半身を起した。
「君なの? どうしてこんなところに」
私は彼に大声でしゃべらないように合図をした。もし、彼の母が来て、私を息子の寝室で見つけたら、そうと思いこむだろう。それに誰だってそうと思うだろう…… 私は、自分があわてだしたのを感じて、戸のほうへ向った。
「どこへ行くの?」とシリルが叫んだ。「戻ってきて……セシル」
彼は私の腕を掴《つか》んで、笑いながら引きとめた。私は振返って彼をみつめた。私もきっとそうだったろうが、シリルは蒼《あお》くなった。そして私の手首を離した。けれども、それはすぐに私を腕の中に抱いて、引きずり込むためだった。私は、混乱しながら考えた。『こうなるはずだったんだ。こうなるはずだったんだ』その後は恋の輪舞《ロンド》だった。欲望に手をさし出す恐怖、優しさと熱狂、そして、乱暴な苦痛に続いて勝ち誇った快楽が…… 私は幸運だった――それに、シリルに必要なやさしさがあったこと――その日から快楽を知ったということは……。
私は茫然と、驚いたまま、彼のそばで一時間を過した。私はいつも、愛はたやすいものだというように言われるのを聞いていた。自分自身、このことを、私の年の無知から、あからさまに話をしたものだった。けれども私は、もう決して、このような無関心な、乱暴な調子で、このことについて話すことはできないように思われた。シリルは、私の体によりそって寝たまま、私と結婚すること、そして、一生、君を離さないよと言った。私の沈黙が彼を心配させた。私は半分体を起して、シリルをみつめ、「私の情人《アマン》」とよんだ。彼はうつむいた。私は、まだどきどきしているシリルの首すじの静脈の上に唇をあてて囁いた。「|私の恋人《モン・シェリー》、シリル、|私の恋人《モン・シェリー》」このとき、私が彼に対していだいた感情が、はたして恋だったかどうか知らない。私はいつも移り気だった。そして、私は自分を偽ろうとはしない。けれども、このとき、私は彼を自分自身よりも愛していた。私は、彼のためには命さえも捧げただろう。私が帰るとき、シリルは、私に怒っているかどうかたずねたので、それは私を笑わせた。この幸福を彼に怒るなんて!
私は疲れきって、しびれたようになって、ゆっくりとした足取りで松林の中まで戻ってきた。危険すぎるので、私は、シリルに送ってこないように頼んだ。私は自分の顔から……眼の下の隈《くま》や、口の輪郭や、顫《ふる》えの中に、明白な快楽の跡を読みとられはしないかと怖《おそ》れた。家の前で、アンヌがデッキチェヤーに腰を下ろして本を読んでいた。私は、自分の外出の言いわけの上手《じょうず》な嘘を用意しておいたのだったが、アンヌは私に何もたずねなかった。アンヌは、決してたずねるようなことはしなかった。それで、私は、アンヌと喧嘩《けんか》したことを思い出しながら、沈黙の中にアンヌのそばに腰を下ろした。私はじっとしたまま、眼を半分閉じて、自分の息づかいのリズムと、指の震えとに注意を払った。時どき、シリルの肉体の思い出が、ある瞬間の思い出が、私の心を空っぽにした。
私は、テーブルから一本の煙草をとって、マッチをすった。マッチは消えた。私は、二度目に注意深く火をつけた。なぜなら、風はなく、ただ私の手が顫えていたのだ。マッチは煙草にむかうとすぐに消えてしまった。私はぶつぶつ言いながら三本目を手にとった。そのとき、なぜだか知らないが、このマッチが、私にとって生死にかかわるような重大さを持っているように感じられた。というのは、アンヌが、突然その無関心さからぬけ出して、注意深く、微笑もしないで、私をみつめていたからだ。この瞬間、まわりの景色も時もなかった。そこには、このマッチと、その上にある私の指と、灰色のマッチ箱と、アンヌの視線しかなかった。私の心臓は狂いそうだった。大きく鼓動しはじめ、私はマッチ箱の上の指をひきつらした。マッチは燃えたが、マッチのほうへ顔を貪《むさぼ》るようにもって行くと、煙草がマッチの上にかぶさって、火を消してしまった。私は地面にマッチ箱を落したまま眼をつぶった。アンヌの厳しい、質問するような眼差《まなざ》しが私の上にあった。私は、誰でもいい、何でもいいから、この|待つ《ヽヽ》ことが止るように哀願した。アンヌの両手が私の顔をもちあげた。私は怖ろしさから、アンヌが私の眼差しを見ないように、しっかりと瞼《まぶた》を閉じた。私は疲れの、不器用さの、快楽の涙が、ほとばしるのを感じた。すると、アンヌはすべての質問をあきらめたように、何も知らないような、平静な動作で、両手で私の顔をなでおろすと、私を離した。それから、煙草に火をつけて私の口にくわえさせると、ふたたび本に読みふけりだした。
私はこのときの動作に、象徴的な意味を与えた。私は、この動作に一つの意味を与えようと試みたのだ。しかし、今日、マッチを擦《す》りそこなうと、私は、この不思議な瞬間をふたたび思い出す。私の動作と私との間のこの溝を、アンヌの視線の重さを、そして、周囲の空虚さを、その空虚さの強さを……。
第五章
私が今語ったこの事件は、一つのかけ離れた事件にとどまるはずがなかった。自分の反応に非常に節度をもち、非常に自信のある人たちのように、アンヌもまた、かかり合いになるようなことを潔しとしなかった。なぜなら私の顔の上にあったアンヌのきつい手がやさしく私を離した動作も、その一つであるからだ。アンヌは何事かを見破っていた。そして、私にそれを告白させることもできたのだが、最後の瞬間になって、憐《あわ》れみからか、無関心さからか、その考えを捨ててしまったのだ。なぜならアンヌは、私の過失を認めると同じくらいに、私の面倒を見たり私をしつけたりすることに苦労していたからだ。彼女を監督者としての、教育者としての役目に追いやったのは、義務の観念以外の何ものでもなかった。父と結婚すると同時に、私の世話も見るわけだった。私は、アンヌの相変らずの非難が、苛立《いらだ》たしさや、あるいはそれよりも、もっと強い感情から来ているほうを好んだだろう。なぜなら、この場合、習慣がじきに問題を解決するだろうから。矯正する義務がないと思っているときには、他人の欠点というものには馴れてしまうものだ。半年のうちに、アンヌは私に対して、倦怠《けんたい》、愛情のこもった倦怠以外に何も感じなくなるだろう。そうなることが私にとって必要だったのだ。けれども、アンヌはそういう感情はいだかないだろう。なぜなら、私に責任を感じているだろうから。また、ある意味において、アンヌに責任があるとも言える。なぜかと言えば、私は、本質的にまだ固まっていなかったから…… 従順で剛情だったから……。
で、アンヌは怒っていて、それを私に感じさせた。数日後、夕食のときに、いつもの、夏休みの勉強についての堪えがたい議論が始まった。私は少し遠慮がなさ過ぎ、父自身も機嫌を悪くし、とうとうアンヌは私を部屋に閉じ込めて、鍵《かぎ》をかけてしまった。どちらも声を荒立てないうちに、こんなことになったのだ。実は、私は、アンヌが何をしたのか知らなかった。私は喉《のど》がかわいたので、戸のほうに向って歩きだし、戸をあけようとしたときに抵抗に会い、初めて鍵がかかっていることを知った。私は、今まで部屋に閉じ込められたことは一度もなかった。私はすっかり怖くなってあわてた。窓へ走って行ったがそこからはどうにも出る手段がなかった。私はうしろに戻ったが、すっかり転倒していた。私は戸にぶつかって行って、肩をひどく痛めた。大声をあげて、人にあけに来てもらいたくなかったので、歯を食いしばって、鍵穴をこわそうとした。私は、爪切り鋏《ばさみ》を鍵穴につっ込んだまま、空手で部屋の真ん中に立っていた。じっとしているうちに、考えがはっきりとしてきた。一種の平静さと平和とが、心に湧《わ》いてくるのを注意しながら…… それは、残忍さに対する私の最初の接触だった。私は残忍さがしっかりと胸の中にむすばれ、私の考えにつれてますます激しくなるのを感じた。私はベッドにねころんで、綿密な計画を立てた。私の猛々《たけだけ》しさは、その口実に対してあまりにも比例していなかった。午後、私は二度も三度も部屋から出ようとして、戸にぶつかってはびっくりした。
六時に父があけに来た。父が部屋の中に入ってきたとき、私は機械的に立ちあがった。父は何も言わずに私をみつめ、私もまた機械的にほほえんだ。
「いっしょに話し合おうか?」と父が聞いた。
「何を?」と私が言った。「そんなこと大きらいでしょう? 私もよ、この種類の説明は何にもなりはしないわ」
「そうだね」と父はほっとした様子だった。
「お前はアンヌに対して親切でなければいけないよ。我慢しなくちゃ……」
この言葉は私を驚かせた。私がアンヌを我慢する……父は、問題を逆にした。要するに、父はアンヌを娘に押しつけたと考えているのだ。逆以上に……どんな望みも可能にみえた。
「私がわるかったの、アンヌにあやまってくるわ」
「お前……うー…… お前、幸福かい?」
「もちろんよ」と私は快活そうに言った。「それから、私たちがあんまりアンヌを困らせるようだったら、私、少し早く結婚するわ。ただそれだけよ」
この解決法は父を苦しめないではおかないことを知っていた。
「そんなことするもんじゃないよ。まさかお前『雪姫』じゃないだろう? お父さんからそんなに早く離れることできるかい? 僕たち、やっと二年いっしょに暮しただけじゃないか……」
この考えは私にとっても、父と同様、堪えがたいものだった。私は、父によりかかって泣きながら、失った幸福や、激しい感情を語る瞬間を想像した。私は父をこの陰謀に加えることができなかった。
「私、とても大げさに言ったのよ。ねえ、アンヌと私、うまく行ってるのよ。本当は……お互いに譲り合えばね」
「うん、もちろんだよ」と父が言った。
しかし、父はきっと私と同じように、譲歩するのは双方からではなく、たぶん、私側だけになるだろうと思っていたことだろう。
「ねえ、おわかりになる?」と私は言った。「私、アンヌがいつも正しいってことよくわかるのよ。アンヌの生活は私たちの生活よりずっと立派よ、もっとずっと深い味をもっているわ」
父は無意識に、不賛成な態度を示した。が、私はそれにかまわず続けていった。「これから一カ月か二カ月の間に、アンヌの考えにすっかり同化してしまうわ。私たちの間に、もう馬鹿げた言い合いなど起らなくなるわ。ただ少し辛抱が必要なのよ」
父は、明らかに途方に暮れた様子で私をみつめた。また怖れた様子で……父は、未来のいたずらを企む共謀者を失くし、過去をも少し失ってしまったのだ。
「極端になっちゃいけないよ」と父は弱々しく言った。「僕は、お前の年に適《あ》わない……えーと……それから僕の年にも似合わない生活をしてきたことを認める。けれども、それは馬鹿げた、不幸な生活でもなかったよ。いや……結局……僕たちはあんまり……えーと……悲しくは……いや狂ってもいなかったよ。この二年間……アンヌの物事に対する考えが少し違っていたって、そういうふうに、全部否定しちゃいけないよ」
「否定しちゃいけない……けれども、捨てなくちゃならないのだわ」と私は確信を持って言った。
「もちろん……」と哀れな父は言った。そして、私たちは階下《した》に降りて行った。
私は、気おくれもせずにアンヌに謝った。アンヌは謝罪は不要だと言い、暑さが私たちの口論の原因だろうと言った。私は無頓着《むとんじゃく》で陽気だった。
私は、打合せておいたように、シリルと松林の中で逢った。シリルにこれからしなくてはならないことを話した。彼は、怖れと尊敬をまじえた様子で聞いていた。それから、私を両腕の中に抱いたけれども、もう遅かったので、私は帰らなくてはならなかった。シリルと別れる辛さは私を驚かせた。もし、彼が私を引留める口実を探そうとしたなら、きっと探すことができただろう。私の体はシリルをみとめ、生き生きとよみがえり、彼の体にむかって咲き開いた。私は情熱的に接吻《せっぷん》した。シリルを痛くさせようと思い、マークをつけて、ひと晩じゅう、片時も私を忘れないようにさせ、夜は私の夢を見るようにさせたかったのだ。なぜなら、シリルなしの、私の体にむかい合った彼なしの、その巧みさなしの、そして、その急激な猛々しさと長い愛撫《あいぶ》なしの夜は、果てしないことだろう。
第六章
翌朝、私はドライブウェーを散歩しようと、父と連れ立った。私たちは意味もないことを陽気にしゃべっていた。別荘に戻ってくる途中、私は松林を通って帰らないかと誘った。ちょうどかっきり十時半だった。まさに予定の時刻だった。父は私の前を歩いていた。なぜなら、道はせまく、茨《いばら》でいっぱいだったので、私が足を引っかかないように、父は後から後へ茨をかき分けていた。父が立ち止るのを見て、私は、父が彼らを見つけたことを知った。私は父のそばまで来た。シリルとエルザは、松葉の上に横たわって、完《まった》き田園の幸福を満喫している様子で眠っていた。私が、二人にこうするように勧めたのであったが、こうして彼らを眺めると、私の心は張り裂けるようだった。エルザの父に対する愛、シリルの私に対する愛にもかかわらず、彼らがお互いに美しく、若く、そして、こんなにお互いに寄りそっていることは、事実だった。私はちらっと父のほうを見た。父は、身動きもせずに、そして尋常でない蒼《あお》さで、二人をじっとみつめていた。私は父の腕を取った。
「起すの止《よ》しましょうよ。さ、行きましょう」
父はエルザに最後の一瞥《いちべつ》を与えた。エルザは仰向《あおむ》けにひっくり返っていた。若々しい美しさで、赤毛の彼女はすっかり小麦色に焼け、若い水精《ニンフ》(やっととり戻した美しさで)のような軽い微笑を浮べながら…… 父は踵《きびす》をかえすと、大股《おおまた》で歩きだした。
「図太い女《やつ》め!」と父はつぶやいた。「図太い女《やつ》め!」
「なぜそんなことおっしゃるの? エルザは自由じゃないの? そうでしょ?」
「そんなことじゃないんだ! お前、シリルがあいつの腕の中にいるのを見て、いい気持だったかい?」
「私、もう愛してないわ」と私は言った。
「僕だってさ。僕だってエルザを愛してはいないよ」と父は憤慨して叫んだ。「けれども、それにしたって、あんまり愉快じゃないね。僕はあの女とは……うー……あの女といっしょに住んでいたんだから…… もっと堪《たま》らないよ」
私も知っていた。それがもっと堪らないものだということを……父は、私と同じような欲望に駆られたに違いない。急いで二人を引離し、自分の所有物を、自分の所有物だったものを取戻す……。
「もしアンヌが聞いたら……」
「何? アンヌが聞いたらって? もちろん、理解しないだろうよ。でなければ憤慨するだろう。あたり前だよ。けれどもお前は? お前はお父さんの娘じゃないか? そうだろう? もうお父さんを理解しないのかい? お前も憤慨しているのかい?」
父の考えを導くことは、私にとってどんなに易しいことだろう? あまりにも父を知りぬいていることが、私を少し怖がらせた。
「私、憤慨してないわ」と私は言った。「だけど、物事は正面から見なくちゃいけないわ。エルザは忘れっぽいし、シリルが気に入っているんだし、もうお父様に脈ないわ。特にお父様があの人にあんなことをした後ではね。ああいう種類のことは赦《ゆる》せないものよ……」
「もし、僕さえしようと思ったら……」と父は言いはじめて、驚いて止《や》めた。
「きっと駄目よ」と私は確信をこめて言った。エルザをふたたび|もの《ヽヽ》にするチャンスを議論することが、いかにも自然なことのように……。
「けれども、そんなことは考えていないよ」と父は常識を取戻しながらこう言った。
「もちろんね」と私は肩をちょっと持ち上げて言った。この肩を持ち上げたのは、『だめよ。かわいそうなお父様、競争から隠退したんだもの』ということを意味していた。父は、それっきり家まで何も言わなかった。家に入ると、父はアンヌを両腕に抱いて、眼をつぶったまま、幾秒間かそのまま彼女を抱いていた。アンヌは微笑しながら、びっくりして、父のするままに任せていた。私は部屋を出て、恥ずかしさに震えながら、廊下の仕切りによりかかっていた。
二時に、私はシリルの軽い口笛を聞いたので、浜へ下りて行った。彼は私をヨットにのせると、沖のほうへと向った。海は空っぽだった。誰もこんな太陽の照りつけるさ中に出かけようとはしないのだ。ひとたび沖へ出ると、シリルは帆を下ろして、私のほうをむいた。私たちは、それまでほとんど何もしゃべらずにいた。
「今朝……」とシリルが口を切った。
「黙って」と私が言った。「黙って!……」
彼は、厚いズックの布の上に、優しく私を仰向けに押し倒した。私たちは、汗にまみれ、滑りながら、不器用で、あせっていた。船は私たちの下で、規則正しく揺れていた。私はすぐ真上の太陽をみつめていた。そして、突然、シリルの命令するような、愛情のこもった囁《ささや》きが……太陽がはずれ、破裂して私の上に落ちた……私はどこにいたのだろう? 海の真底に、時の真底に、それとも快楽の真底に? 私は、声高にシリルをよんだ。彼は返事をしなかった。彼は返事をする必要がなかったのだ。
それからは、塩水のさわやかさだった。私たちはいっしょに笑った。茫然と、気《け》だるく、感謝しながら…… 私たちには、太陽と、海と、笑いと、恋とがあった。私たちは、あの夏のような、恐怖と悔恨があたえた、あの輝きと烈《はげ》しさをもったそれらを、ふたたび見いだすことは決してないだろう?
私は、恋《アムール》が私にもたらした、肉体的な現実的快楽のほかに、それを考えることに一種知的な快楽を経験した。『恋《アムール》をする』という言葉は、それ自身魅力を持っていて、意味を二つに分けると、非常に動詞的である。この『する』という言葉は、物質的で、実証的であり、詩的な、抽象的な『恋《アムール》』という言葉と連結している点が、私をうれしがらせた。以前には、この言葉をなんの遠慮もなしに、気まずい思いもせずに、そして、その味わいに気づかずに使っていた。私は現在、自分がもっと慎み深くなったことを感じる。父がアンヌをじっとみつめるとき、またアンヌが、最近の、あの小さな低い猥《みだ》らな笑い――それは、私たち、父と私を蒼ざめさせ、眼を窓の外にむけさせた――をするとき、私は眼をふせた。私たちが、アンヌに、その笑いがどんなであるかを話したとしても、彼女は私たちを信じないだろう。アンヌは父に対して、情人のようではなく、友達として、優しい友達としてふるまっていた。けれども、夜はきっと……。私は、このような考えを自分に禁じていた。私は濁った考えは大きらいだった。
日々が過ぎた。私はアンヌと、父と、エルザを少し忘れていた。恋が私を恍惚《こうこつ》とさせ、こころよい、平和な夢の世界へ私をもって行ったのだ。シリルは私に、子供ができることを怖れていないかと聞いた。私は、それについてはシリルにまかすと言い、彼はそれが自然だと思っているようだった。もしかしたら、それだからこそ、私はたやすくかれに身を委《まか》せたのかもしれない。なぜなら、彼は、私に責任があるようにはさせないだろうし、もし私に子供ができたとしたら、彼が悪者になるだろう。私には我慢することのできない責任をシリルが引きうけてくれた。それに、私は、このほっそりとした硬い体で、妊娠する自分を想像しにくかった。初めて、私は自分の少女期の体つきを祝福した。
一方、エルザは待ちきれないでいらいらしていた。絶えず私を質問攻めにした。私がエルザかシリルといっしょにいるところを不意に見つけられはしないかといつも心配だった。エルザは、しじゅう父の眼にふれるように計り、方々で父とすれちがった。彼女はそれで、想像的な勝利を、また彼女に言わせると、父の隠すことのできない抑制した衝動を、祝っていた。私は、その商売がら、結局は金銭ずくの恋愛に近いこの女の子が、こんなにもロマネスクになり、眼差しや、動作の細部などによって、こんなにも興奮しているのを見て驚いた。なぜなら、エルザは性急な男たちに馴れているはずだったから…… エルザが、微妙な役割に馴れていないことは事実で、エルザにとって、彼女の演じている役割が、心理的な洗練の最たるもののように見えていたに違いない。
父が、徐々にエルザに悩まされだしていたが、アンヌはそれに気がつかないようだった。父は、アンヌに対して、今までよりも愛情深く熱心だったので、それは私を怖れさせた。なぜなら、父の態度を、無意識のうちの良心の呵責《かしゃく》、と私は見なしていたからだ。根本問題は、あと三週間のうちに、何事も起らないことだった。私たちはパリに帰り、エルザはエルザで帰るだろうし、もし、父とアンヌとがいまだにそうと決めているなら、二人は結婚するだろう。パリではシリルがいるだろうし、アンヌは、ここですら、私がシリルを愛することを妨げられなかったのだから、私がシリルと会うことを妨げることはできないだろう。シリルはパリで、母の家から遠い部屋を一つ持っていた。私は、すでに、水色とバラ色の空、パリの不思議な空に向って開いた窓を、窓の手摺《てすり》の上の鳩の声を、想像していた。それから、せまいベッドの上のシリルと自分とを……。
第七章
それから数日後、父は友人の一人から、サン・ラファエルでアペリチフをいっしょに飲まないかという手紙をうけとった。父は、さっそく私たちにもそのことを告げて、私たちが望んだ、やや強制的なこの孤独な生活から、少しでも逃れられることを大いによろこんでいた。私はエルザとシリルに、私たちは七時に「ソレイユ」という酒場に行っているから、もし来たければ、そこで逢《あ》えることを告げた。不運なことに、エルザはこの父の友人を知っていたので、なおさら行きたがった。私は面倒なことを予期したので、思い止《とど》まらせようとした。しかし努力は空《むな》しかった。
「シャルル・ウェッブは私に夢中なのよ」とエルザは子供のような単純さで言った。「もしウェッブが私を見たら、レエモンを私に戻らせるようにしむけるに決っているわ」
シリルは、サン・ラファエルに行こうが行くまいがどちらでもよかった。彼にとっては、私がいるところにいる、ということが一番の問題だった。私はそれを彼の眼差しの中に見て、得意にならざるを得なかった。
さて、午後六時半ごろ、私たちは自動車で出かけた。アンヌは私たちを自分の車にのせた。私はアンヌの車が好きだった。それは大きな米国製のオープンで、アンヌの趣味というよりは店の広告のためだった。たくさんの光った金具、音を立てず、世間から切り離されたような、そして、カーヴのたびごとにやや斜めにかたむくその車は、私の趣味に適《かな》っていた。そのうえ、私たちは三人とも運転台に坐っていたし、私はどこよりも、車の中ほど人に対して友情を感じる場所はないのだ。三人とも運転台に乗り、肘《ひじ》をつけ合い、速力と風との同じ快感に、もしかしたら同じ死に身を委せているのだった。アンヌが運転していて、ちょうどこれから形造る私たちの家庭を象徴しているようだった。私はカンヌの夜以来、アンヌの車に乗らなかったので、私はいろいろと思いにふけった。
ソレイユの酒場で、私たちはシャルル・ウェッブとその夫人とに落合った。彼は劇場関係の広告をやっており、夫人がもっぱら彼のかせぐお金を使っていたが、それも恐るべき早さで、しかも若い男たちのためにだった。シャルル・ウェッブは、お金をやりくりする考えにすっかりとり憑《つ》かれていて、絶えずお金の後を追いかけていた。彼の心配性で性急な面に、何かしら下品なところがあったのはそのためだった。彼は、長いことエルザの情人だった。なぜなら、エルザはその美貌《びぼう》にもかかわらず、特に欲深い女でもなく、そういう点における彼女の無頓着さが、彼の気に入っていたからだ。
シャルル・ウェッブの妻は意地悪だった。アンヌは彼女に逢ったことがなかったので、私は、すぐにアンヌの美しい顔が、人なかに出たときの習慣になっている、軽蔑《けいべつ》したような皮肉な表情にかわるのを見た。シャルル・ウェッブはいつものようによく喋《しゃべ》りながら、アンヌに探るような視線を投げていた。彼は、明らかに、アンヌがどうしてこの女|蕩《たら》しのレエモンとその娘といっしょにいるのか、と不審がっていた。私は、今にわかるだろうという考えで、自分がすっかり得意になっていることを感じた。父は、ふたたび息をつくような調子で、ウェッブのほうへちょっとかがむと、ぞんざいに言い放った。
「おい、ニュースがあるんだ。アンヌと僕は十月五日に結婚するんだよ」
ウェッブは馬鹿みたいに、かわりばんこに、二人を眺めた。私は大喜びだった。夫人はがっかりしていた。彼女は、前から父に気があったのだ。
「おめでとう」とウェッブはやっと叫んだ。破《わ》れ鐘《がね》のような大声で……「こりゃ素晴らしい考えだね。奥様、あなたがこんなならず者の面倒を見るなんて、あなたは崇高ですね!……給仕《ギャルソン》!…… お祝いしなくちゃ……」
アンヌは無頓着そうに、静かに微笑していた。そのとき、私はウェッブの顔がパッと明るくなったのを見た。私はふりむかなかった。
「エルザ! うわーっ! エルザ・マッケンブールだよ。僕に気がつかないぜ。レエモン、君、見たかい? あの女の子がすっかりきれいになっちゃったのを……」
「そうだろう?」と父は幸福な所有者のような調子で言った。
それから、父は思い出して、顔色を変えた。
アンヌが、父の声の調子に気がつかないはずはなかった。彼女はすばやく父から顔をそらして私のほうをむいた。彼女が口をあけて、何でもいいから何か言おうとしたので、私は彼女のほうにかがんだ。
「アンヌ、あなたがあまり美しいんで大さわぎよ。あそこの男性が、あなたから眼を離さないわよ」と私は内密な調子で言った。つまり父に聞える程度の大きさで……。
父は、急に後ろをふりむくと問題の男を見つけた。
「僕あこんなこと嫌いさ」と父は言って、アンヌの手をとった。
「お二人はなんて可愛らしいんでしょうね」とウェッブ夫人は皮肉な調子で感心した。「シャルル、あなたお二人を……恋人たちを邪魔なさるべきじゃなかったわ。セシルだけお呼びになれば結構だったのに……」
「もしそうだったらセシルは参りませんでしたわ」と私はずけずけと言った。
「それはなぜなの? 漁師の仲間に恋人がおありなの?」
彼女は、一度私がバスの車掌とベンチの上で話しているのを見かけて以来、私を『デクラッセ』…… 彼女がよぶところの『デクラッセ』扱いをしていた。
「ええ、そうよ」と私は陽気に見せかける努力をしながら言った。
「で、たくさん釣れます?」
たまらないのは、彼女が自分の言うことが機知にとんでいると思っていることだった。私はだんだんと怒りがこみ上げてきた。
「私、鯖《マクロー》の専門家じゃありませんけど……」と私は言った。「でも釣りはいたしますわ」
沈黙があった。いつも調子の狂わないアンヌの声がした。
「レエモン、給仕《ギャルソン》にストローをたのんでくださいません? オレンジスカッシュにはなくてはなりませんわ」
シャルル・ウェッブは冷たい飲みものを次から次へとすばやく重ねた。父は馬鹿笑いをしていた。私は、父が父なりのやり方で、お酒を飲みながら考えに耽《ふけ》っているのを見た。アンヌは私に嘆願するような視線をなげた。私たちは、喧嘩《けんか》しそうになった人たちのように、すぐにいっしょに食事をすることに決めた。
私は食事中たくさんお酒を飲んだ。アンヌが父をみつめるときの心配そうな表情や、私に視線をむけるときの、漠然とした感謝の表情を忘れるために。ウェッブ夫人が矛先《ほこさき》を私にむけるたびに、私はおおらかな微笑をもって彼女を眺めた。この戦法は彼女をまごつかせた。彼女はいち早く挑戦的になった。アンヌは喧嘩をはじめないように私に合図をした。アンヌは公衆の中での喧嘩は大きらいで、ウェッブ夫人が今にも始めそうなことを感じていた。私のほうはこんなことには馴《な》れていた。私たちのつき合っている人たちの間ではよくあることだった。それで、彼女のおしゃべりをきいても私は別に真剣ではなかった。
食事の後で、私たちはサン・ラファエルのキャバレーに行った。私たちが着いて間もなく、エルザとシリルも着いた。エルザは入口の敷居のところに立ち止って、クロークの女と大きな声で話をし、それから、かわいそうなシリルにつきそわれて、中央に進んできた。私はエルザが、恋人というよりも玄人のような態度をしていると思ったが、しかしエルザは、そう思われるほどなかなかきれいだった。
「誰だい? あの|キザ《ヽヽ》な若造は?」とシャルル・ウェッブがきいた。「ずいぶん若いね」
「恋ですよ」と夫人がつぶやいた。「恋がエルザをきれいにさせたのね」
「そんなことないさ」と父は荒々しく言った。「気まぐれですよ。そうですよ」
私はアンヌを見た。彼女は冷静に、無関心にエルザを眺めていた。あたかも自分のコレクションの服を着て見せているマヌカンとか、ごく若い女を眺めたりするときのような様子で……なんらのとげとげしさもなく……。私は一瞬、この卑しさや嫉妬《しっと》の全くないアンヌを熱烈に讃嘆した。それに私は、彼女がエルザを嫉妬する理由がないと思った。アンヌはエルザよりも百倍も美しかったし、洗練されていた。私は酔っぱらっていたので、そのことをアンヌに言った。彼女は不思議そうに私を眺めた。
「私がエルザよりもきれい? そう思う?」
「もちろんよ」
「そりゃ、いつだってそう言われれば悪い気持はしないわ。でもあなたまた飲み過ぎているわ。コップを私にちょうだい。あなたのシリルがあそこにいるのをみて悲しくない? あの人つまらなそうね」
「彼は私の情人《アマン》なのよ」と私は快活に言った。
「すっかり酔っぱらってるのね。帰る時間だわ。いいあんばいに……」
私たちはほっとしてウェッブ夫妻と別れた。私はウェッブ夫人を真面目な調子で、「親愛なる奥様」とよんだ。父がハンドルを握った。私の頭はアンヌの肩の上ではずんでいた。
私はウェッブ夫妻よりも、私たちが普段会っているような人たちよりも、アンヌのほうが好ましいと思った。彼女のほうがずっと品格があり、ずっと聡明で、ずっといい。父はあまりしゃべらなかった。おそらくエルザがキャバレーに現われたときの姿を思い出していたのだろう。
「セシルは眠っているの?」と父がアンヌにきいた。
「ええ小さな女の子のように……比較的にお行儀がよかったわね。鯖《マクロー》の当てつけは少しあからさまだったけど……」
父は笑いだした。しばらく沈黙があった。それから、私はあらたに父の声をきいた。
「アンヌ、僕あなたを愛しているんだ。あなた以外誰も愛していないんだ。信じてくれる?」
「そう何度も言わないで……私、怖いわ……」
「手を貸して……」
私は起きあがって反対しようとした。「駄目、崖《がけ》の上を運転しているときは……」けれども私は少し酔っていた。アンヌの香水、私の髪の中の海の風、私たちが愛し合ったときシリルがつけた私の肩の上の小さなかすり傷……私には幸福であり、黙っている理由がたくさんあった。私は眠ってしまった。その間、エルザとかわいそうなシリルは、シリルのお母さんが今年のお誕生日に買ってやったバイクで、骨を折りながら、帰途についていたに違いない。なぜだか知らないが、私は感動して泣けてきた。この車はこんなにもやわらかく、こんなにもバネがよくて、眠るために具合よくできている…… 睡眠……ウェッブ夫人は今ごろ眠ってはいないだろう! 私もきっとあのくらいの年になったら、私を愛させるために若い男たちにお金を払うだろう。なぜなら、恋は最も優しい、最も生き生きとした、最も道理にかなったことなのだから……そして代価は小さな問題だ。大切なのは、ウェッブ夫人がエルザやアンヌに対したように、意地悪で妬《や》きもちやきにならないことだ。私は独りでそっと笑った。アンヌが肩を少しくぼめた。「お眠りなさい」と彼女が威厳をもって言った。私は眠りに落ちた。
第八章
翌日、私はほとんど疲れていず、飲み過ぎで少し頭が痛かったが、すっかり元気で目をさました。毎朝のように、陽がいっぱいさし込んでいた。私はシーツを押しのけて、パジャマの上着を脱ぎ、裸の背中を陽にさしむけた。折り曲げた両腕の上に頬をつけた。すぐ眼の前に、木綿のシーツのあらい織すじが見え、もっと遠くに、窓の格子に蠅《はえ》がぐずぐずしていた。陽はやわらかで暑かった。陽が骨を皮のすぐ下の高さまでもってきて、私をあたためるために、特別な面倒を見ているように思えた。私はじっと動かずに、こうして午前中を過そうと決心した。
昨夜のことが少しずつ私の記憶に甦《よみがえ》った。アンヌに、シリルが私の情人だと言ったことを思い出しておかしくなった。酔うと真実を言うものだが、誰も信じないのだ。私はまたウェッブ夫人と、彼女との喧嘩を思い出した。私は、ああいうタイプの女性に馴れていた。ああいう階層の、あのくらいの年ごろの女性に……彼女たちは、一方、人生で何もしていないこと、他方人生を十分に生きたい欲望の結果、しばしば意地わるで感じが悪かった。アンヌの冷静さが、いつもより一層この女性を救いがたい退屈な女性と私に感じさせた。しかし、もともとそれは見越したことだった。父の女友達の中で、アンヌとの比較に長いこと堪えられる人がいるか、私には見当がつかない。こういう人たちとたのしい夜を過すには、少し酔っぱらって口論してよろこぶか、夫婦のうちの誰かと親密になるかのどちらかだった。父にとってはもっと簡単だった。シャルル・ウェッブと父は女蕩しだった。「当ててごらん? 今晩誰と飯《めし》をたべて、誰と寝るか? ソーレル映画会社のかわいいマルスとだよ。僕がデュピュイの家へ行ったら……」父は笑いながら彼の肩をたたいた。「幸福な奴! 彼女はエリーズぐらいの美人だよ」中学生の会話だった。二人の感じの良さは、その熱中と、そこへつぎ込む情熱だった。キャフェのテラスでの尽きない夜ふかしをしているときの、ロンバールのかなしい告白ですら……「あの女より愛していないんだ。レエモン! あの女が行ってしまう前のあの春を覚えているかい? 馬鹿だね。男の一生をたった一人の女にさ!」…… それは猥らな、屈辱的な面があったが、二人の男がお酒のコップを前にお互いにぶちまけ合う暖かさがあった。
アンヌの友人たちは決して自分自身のことを話さないだろう。もしかしたら、こういった種類のアヴァンチュールを知らないのかも知れない。けれども、たとえそんな話をしたにしても、恥ずかしさから笑いながら話すだろう。アンヌが、私たちの友人たちに対して示すであろうこの慇懃《いんぎん》さを、私もいっしょに分け合う用意ができているように思えた。この愛想のよい、伝染性のある慇懃さを……それにもかかわらず私が三十になったとき、私は自分がアンヌよりも、私たちの友人たちに似ているだろうと思えた。アンヌの沈黙が、その無関心さが、その遠慮深さが私を窒息させてしまうだろう。反対に、十五年もすると、私は人生に少し倦怠《けんたい》して、やはり同じように倦怠した、魅力的な男のほうへかがみこんで言うだろう。
「私の最初の情人《アマン》はシリルと言ったの。私は十八になるところだったの。海の上は暑かったわ……」
私はこの男の顔を想像することを好んだ。彼は私の父と同じような小皺《こじわ》があるだろう。誰かが戸を叩いた。私は大急ぎでパジャマの上着を引っかけて叫んだ。「おはいり」アンヌだった。彼女は注意深くカップを持っていた。
「コーヒーが少し必要だろうと思って……あんまり気分悪くない?」
「いいのよ」と私は言った。「私、ちょっといかれちゃったらしいわ。昨晩……」
「毎回私たちがあなたと外へ行くときのようにね」とアンヌは笑いだした。「けれど、あなたが気を紛らしてくれたわ。ずいぶん長い晩だったわ」
私は、太陽にもコーヒーの味にも気をかけなかった。アンヌと話すとき、私は全く気を奪われてしまって、もう自分が存在していないようだった。それにもかかわらず、いつも私に自分の問題を考えさせ、判断させるようにするのはアンヌ一人だった。
「セシル、あなたああいう種類の人たちといてたのしい? ウェッブとかデュピュイたちとか?……」
「大ていの場合、あの人たちの態度はやりきれないわ。でもおかしな人たちだわ」
アンヌも床の上の蠅の歩き方を眺めていた。私は蠅が片輪なのではないかと思った。アンヌは、長くて重い瞼《まぶた》をしていた。彼女には慇懃であることは易しいのだ。
「あの人たちの会話がどれほど単調かってこと、あなたには決して掴《つか》めないわ。どう言ったらいいかしら? そしてつまらないってことを……商売の契約とか女の話とかパーティとかのああいう話、あなたをちっとも退屈させない?」
「知ってるでしょう?」と私は言った。「私、十年間、修道院にいたし、あの人たちに道徳観念がないから、それがいまだに私をおもしろがらせるのよ」
私はそれが好きだとまでは言えなかった。
「もう二年も前からね……」と彼女は言った。「それは理屈の問題でもないし、道徳の問題でもないのよ。感受性の問題だわ。第六感の……」
私にはきっとそれが欠けているのだ。明らかに、この点において私に何かが欠けていると感じた。
「アンヌ」と私は突然言った。「私、頭がいいと思う?」
アンヌは、私のぶしつけな質問に驚いて笑いだした。
「もちろんじゃないの? さあさあ、どうしてそんなこと訊《き》くの?」
「もし私が馬鹿でも、あなたは同じように答えたわ」と私は溜息《ためいき》をついた。「私はよくあなたがとても及びもつかない人のように感じるわ」
「それは年の問題よ」と彼女が言った。「あなたよりも少しは自信がなければ困るじゃないの? あなたが私に影響を与えちゃうわよ」
アンヌはふき出した。私は自尊心を傷つけられたような気がした。
「それは悪いばっかりでもないでしょ」
「そうなったら大へんなことになるわ」と彼女が言った。
彼女は、急にその軽い調子を止《よ》して、真正面からじっと私をみつめた。私は居心地が悪いので、少し身動きをした。今でも人が話をするとき、じっと相手の眼をみつめたり、こちらがよく聞いているかどうか確かめるために、すぐそばまでやってくる癖には馴れることができない。それに、間違った胸算である。なぜならそういう場合、私は逃げ出すことか、後退《あとしざ》りすること以外考えないで、「ええ、ええ」と言って、会話の方向を変えて、部屋のむこうの隅に逃げ出す手段をふやすだけなのだから。こういう人たちのしつっこさや、無遠慮さや、独占しようとする気持は私を激怒させる。幸いなことに、アンヌはこんなふうに私を独占しなければならないとは思ってはいず、ただ眼をそらさずに私をみつめる以上はしなかったが、私は、話をするときに好む、無頓着《むとんじゃく》な、軽い調子を保ってゆくことが難かしかった。
「ウェッブのような人種の男たちはどういうふうに終るか知ってる?」
私は内心『そしてお父様も……』と思っていた。
「堕落してしまうんでしょ」と私は陽気に言った。
「ある一定の年になると、もう魅力も失くなり、俗にいう『元気』もなくなってしまうのよ。そして、もう飲むこともできないけれども、まだ女のことを考えているの。ただ、女たちにお金を払わなければならないようになり、孤独から逃れるために、多くのつまらない妥協にも甘んじなければならなくなるのよ。嘲弄《ちょうろう》され、不幸なの。そのときになると、センチメンタルになり、気むずかしくなってしまうの。私、残骸《ざんがい》のようになった人たちたくさん見たわ」
「かわいそうなウェッブ!」と私は言った。
私はどうしていいかわからなかった。これこそ父をおびやかしていた末路だったのだ。それは真実だった! 少なくともアンヌが父の面倒を見なかったとしたら、これが父をおびやかしていた末路だったのだ。
「あなたはそんなこと考えてもみなかったでしょう?」とアンヌは小さな憐《あわ》れみの笑いを浮べて言った。「将来のことなんかほとんど考えないでしょう? そうでしょ? 青春の特権ね」
「お願いだわ」と私が言った。「若い若いってそんなふうに片づけないでよ。私、できるだけ若さを少なく利用しているんですもの。青春がすべての特権や、言いわけの権利を私に与えてくれるとは思わないわ。私、青春には重きを置いてないのよ」
「じゃ何に重きを置いているの? 心の平静さに? 自由に?」
私はこういう会話をすることを怖《おそ》れた。ことにアンヌとは……。
「なんにも」と私は言った。「私、なんにも考えないのよ。知ってるでしょう」
「あなたがたには少しいらいらさせられるわ。お父様とあなた……『私たちは何にも考えない……大した事にも役立たない……何も知らない……』こういうふうで満足してるの?」
「私、自分で満足してるわけじゃないの。私、自分を好きじゃないの。私、自分を好きになろうともしてないのよ。ときどきあなたは強制的に私の人生を複雑にさせるから、あなたを恨みたいくらいよ」
彼女は考えこみながら歌を口ずさんだ。聞き覚えのある歌だったが、私は何だか覚えていなかった。
「アンヌ、その歌なあに? いらいらさせるわ」
「知らないわ」彼女は少し落胆した様子でふたたびほほえんだ。「ベッドにいなさい。休んでいらっしゃいナ。ご一家の知的能力についてのアンケートはよそで追求するわ」
『もちろん』と私は考えた。『お父様の場合簡単だわ』私は父の言うことがここまで聞えてくるようだった。『僕は何も考えていないんだ。なぜなら、アンヌ、僕はあなたを愛しているのだから』彼女がどんなに理知的であったとしても、この理由は価値があるように聞えるだろう。私は思う存分長いのびをし、枕の上にふたたび頭を沈めた。アンヌにああは言ったものの、私はひどく考えこんだ。実際は、たしかにアンヌが大げさに言ったに違いない。二十年の後には、父はウィスキーと多彩な思い出を好む白髪の愛嬌《あいきょう》のいい六十のおじいさんになるだろう。私たちはいっしょに外出するだろう。こんどは、私が父に自分のアヴァンチュールを語り、父が私に忠告を与えてくれるだろう。私はこの未来からアンヌを除いていたことに気がついた。私にはアンヌをそこに置いてみることが、否、置くことができなかった。ときには荒れ果て、ときには花で埋まり、喧嘩や外国のアクセントなどがなりひびき、大ていは荷物でいっぱいになっている、この無秩序なアパートの中に、一番貴重な財産のようにアンヌがどこへでも持ってくる、秩序と静けさと、調和とを想像することは不可能だった。私は死にそうに退屈しはしないかととても怖れた。シリルを真に、そして、肉体的に愛するようになってから、私は彼女の影響をさほど怖れなくなった。そうなって以来、私は多くの恐怖から解放された。けれども、私は何よりも退屈と、平穏とを怖れた。内部的に平静であるためには、私たち、父と私には、外部的な騒がしさが必要だったのだ。そして、それは、アンヌには受けいれられないことだった。
第九章
私はアンヌと自分自身のことを多く語って、父のことをあまり語っていない。それは父がこの話の中で一番重要な役を占めていないからではなく、また私が父に対して興味をもっていないからでもない。私は父のように誰をも愛したことはないし、そのころ私を活気づけていたすべての感情をもって父を愛した。私が父に対してもった感情は最も安定した、最も深いものであり、私が一番大切に思うものだった。
私が今さらのように父のことを語るには、あまりにもよく父を知りぬいていて、あまりにも身近に感じている。それにもかかわらず、私は誰よりも一番に、父の行動を納得の行くように説明しなければならない。父は価値のない男でもなければ、利己主義な男でもない。けれども父は女|蕩《たら》しで、治すことのできない道楽者だった。私は父のことを、深い感情も持てない、また無責任な男のように語ることはできない。父が私に対してもった愛情は浮薄なもの、あるいは父親としての単なる習慣、と見なされるものではない。父は誰よりも一番私によって苦しめられ得たのだ。それから私自身にしても、いつか味わったあの絶望感は、単に父が私を捨てるような行為をしたことと私以外にむけられた眼差《まなざ》しのせいではなかったろうか? 父は決して私を恋愛の次にもって来なかった。夜など、私を家に送りとどけるため、父は、ウェッブがいういわゆる「絶好のチャンス」さえみすみす逃がした。けれどもそれ以外のときには、父が快楽に、浮気に、安易さに身を委《まか》せていたことは否定できない。父は熟考するということをしなかった。父は、すべてのことに、父が理論的だと主張する、生理学的な説明を加えていた。「お前、自分に嫌気《いやけ》がさしているのかい? もっと眠って、少なくお酒をお飲み」父が時どき女に対してもつ激しい欲望にしてもそうだった。父はそれを抑制するとか、あるいはもっと複雑な感情にまで昂《たかぶ》らせてゆこうとかは思いもしなかった。父は物質主義の人だったけれども、繊細で、理解力があって、要するにとてもいい人だった。
エルザに対する欲望は父を苦しめた。けれども、それは人が考えるようにではない。つまり、父はこう心の中で思っていたのではない。『僕はアンヌを裏切るのだ。それは、アンヌをより少なく愛することになる』が、『困ったな、エルザに対するこの欲望は! 早くかたづけてしまわなければならない。でないとアンヌとごたごたが起るだろう』と思っていたのだ。そのうえ、父はアンヌを愛していた。父は彼女を尊敬していた。ここ数年来父が遊んできた軽薄な、そして少し頭の悪い女たちの後で、アンヌは目新しかった。アンヌは父の虚栄心と、色欲と、そして感受性とを同時に満足させた。なぜならアンヌは父を理解し、彼女の知性と、経験とを捧げて父に対したからだ。ところでアンヌが父に対していだいている感情の重大さについて、はたして父が気がついていたかどうか、私はあまり確かではない。彼女は父にとって理想の愛人であり、私の理想の母のように映っていたのだ。父は考えていただろうか? 『理想の妻』と? そしてこの言葉に付随するさまざまな義務をも含めて? 私はそう思わない。シリルとアンヌの眼に、私と同様父が異常――愛情の上で――に映っていたに違いない。しかし、それは父に情熱的な人生を送らせるのをさまたげはしなかった。なぜなら父は人生を平凡なものと見て、そこに彼のすべての力を捧げたからだ。
私が、私たちの生活からアンヌを放り出す計画を立てたとき、私は父のことを考えに入れなかった。父はどんなことにも慰められたから、そのように自分を慰めるだろうと私にはわかっていた。父にとって、整頓された生活を送るよりは、一人の女と別れるほうが忍びやすいだろう。父は私自身がそうであるように、習慣や定められたことによってのみ本当に傷つけられ、消耗させられてしまうのだ。私と父とは同じ種族の人間だった。私はこれを、ときには美しい純粋な遊牧の民だと思い、ときには惨めなすれっ枯らしの享楽者たちだと思うのだった。
今、父は苦しんでい、少なくともいらいらしていた。エルザは父にとって過去の生活の、青春の、特に父の青春のシンボルとなってしまったのだ。私は父がアンヌにこう言いたくてむずむずしているのがよくわかった。『僕の愛する人、一日だけ許してくれ。あの娘のそばに行って、僕が老いぼれでないってことを確かめなくてはならないんだ。平静になるために、もう一度あの肉体の倦怠を味わわなくてはならないんだ』しかし父には言うことができなかった。それはアンヌが妬《や》きもちやきだからだとか、根からの道徳堅固な女性で、こういう問題について話し合えないとかいうのではなく、アンヌが次のようなことを基本に父といっしょになることを承諾したからだ。つまり安易な放蕩《ほうとう》の時代は終ったこと、父はもう中学生ではなく、アンヌが一生を託した男であるということ、だから、父が憐れな自己の気まぐれの奴隷のようにではなく、身持ちよく行動すること、であった。このことについてアンヌを非難できない。それは全く当り前のことで、算段としても健全なものであった。しかしそれは父がエルザを望むことを妨げはしなかった。徐々に、何ものよりもエルザを望むこと、禁じられているものに対する、倍加された欲望をもってエルザを望むことを……。
その頃だったら、私にはまだすべてをうまく解決することができたかもしれなかった。ただエルザに父の言うことをきくように言い、何かの口実を作ってアンヌをニースかどこかへ引っ張って行って、ひと午後を過せばよかったのだ。帰宅すると、気が休まり、ふたたび夫婦愛のやさしさに満ちた――少なくともパリに帰ったときには夫婦愛となるはずの――父を見つけるだろう。ひとつにはアンヌが我慢できないこういう点もあった。ほかの女たちのように単なる一時の愛人であったこと……。アンヌの気位の高さ、アンヌの自分自身に対する評価が、なんと私たちの生活をむずかしくさせてしまったことだろう!……
しかし私は、エルザに父の言うことをきけとも言わず、またアンヌにニースにいっしょに来てくれとも言わなかった。私は父の心の中の欲望が父を悩ませ、父に誤りを犯させるようにしたかったのだ。私たちの過去の生活をとり巻いているアンヌの軽蔑《けいべつ》、父と私にとって幸福だったことに対するアンヌの安易な軽蔑を、私は我慢することができなかった。私はアンヌを辱めようとは思わなかったけれども、私たちの人生観をうけいれてほしかった。父がアンヌを欺いたことを彼女が知らなくてはいけなかった。アンヌは、それが彼女個人の価値や品格を傷つけるものではなく、全く生理的な一時の出来心として、客観的にうけとらなくてはいけないのだ。もし彼女が、どんなことをしても自分に理がある、と思いたいのなら、私たちを過ちがあるままに放っておいてもらわなくてはならない。
私は父の悩みを知らないように装っていた。父が私に打明け、強制的に父の共犯者(つまりエルザに話をし、アンヌを遠ざける……)にさせられないように、極力避けなければいけなかった。私は、父のアンヌに対する愛と、アンヌ自身とを神聖なもののように考えている、と見せかけた。そしてそれは易しいことだったと言わざるを得ない。父がアンヌを欺き、彼女と対峙《たいじ》する、という考えは、私を恐怖と漠然とした尊敬とで満たした。
しばらくの間、私たちは幸福な日々を過して行った。私は、父がエルザのことで興奮する機会をなるべく多く作った。アンヌの顔は、もはや私を後悔の念で満たしはしなかった。私は時どきアンヌが事実をうけいれ、彼女の趣味と同じくらい、私たちの趣味にも適《かな》った生活を三人で送るだろうと想像してみた。一方、私はシリルとよく逢《あ》い、私たちは隠れて愛し合った。松の匂い、海のざわめき、彼の体との接触……シリルは良心の呵責《かしゃく》に悩まされはじめていた。私が演じさせていた役割は、シリルをすっかり嫌がらせ、私が、シリルとの恋愛にそれが必要だと思いこませなければ、それをうけ入れなかったろう。これらはすべて、多くの二心と、沈黙を要したのだが、努力と嘘《うそ》はほんの少しで足りたのだ! (私は前にも言った。自分の行動だけが、自分自身を裁くようにするのだと……)。
私はこの期間について急ぎ足で通り過ぎる。なぜなら、探求する結果、自分自身を圧《お》しつぶしてしまう思い出の中にふたたび落込んでしまうことを怖れるからだ。すでに、アンヌの幸福そうな笑いと、私に対するアンヌの親切さとを考えるだけで、何かが、身にこたえる低い一撃が私を打ち、苦しめ、私は自分自身にむかって喘《あえ》ぐのだ。私は、人がよぶところの良心の呵責に似たものを感じて、いろいろな仕草に救いを求める。煙草に火をつけるとか、レコードをかけるとか、男の友達に電話をかけるとか……。少しずつ、私はほかのことを考えだした。しかし私はそういうことは嫌いなのだ。私の記憶力の不完全さや、精神の軽薄さと戦うかわりに、それらに助けを求めなくてはならないということは……。私はそれらを認めたくないのだ。たとえそれが自分を祝福することであっても……。
第十章
運命が己れを表現するときに、それに値しない、あるいは平凡な顔を選ぶのを好む、ということはおかしなことだ。その夏、運命はエルザの顔を選んだのだ。非常に美しい顔、というかむしろ惹《ひ》きつけられる顔。彼女はまた、すばらしい笑いをもっていた。少し頭の悪い人たちだけが持っている、相手に通じさせる、完全な笑いを……。この笑いの効果を、私はいち早く父の上に認めた。私たちがシリルといっしょにいるエルザを不意に驚かすとき、私はエルザにこれを最大限に用いさせた。私は彼女に言った。『私がお父様といっしょに来たことが聞えたら、何も言わないで、ただ笑いなさいね』それで、この歓《よろこ》びにあふれた笑いを聞くことによって、私は父の顔の上に、烈《はげ》しい怒りが過《よぎ》るのを発見した。しかし、この演出家の役目は私を熱中させてくれなかった。私は決して的をはずさなかった。なぜなら、私たちが、架空的な関係を公然と証明しているシリルとエルザをいっしょに見ると、それが全く想像できることなので、父と私は共に蒼白《そうはく》となり、父の顔のように、私の顔からも血の気が退《ひ》き、苦痛よりもひどい所有欲に強く駆り立てられた。シリル、エルザの上にかがみこんだシリル……。このイメージは私の心を荒した。このイメージのもつ力を知らずに、自分がシリルとエルザといっしょにこのイメージを完全なものにこしらえたのだ。言葉というものは容易で柔軟である。私は、シリルの顔の輪郭、彼の小麦色のなめらかな首すじが、さし出されたエルザの顔へ傾くのを見ると、私はそうならないようにするためには、何でもしただろう。私は、自分自身がそれを望んだのだということを忘れていた。
これらの事件をのぞいては、信頼と、優しさ――この言葉を用いるのは私に辛い――と、アンヌの幸福が日常生活を満たしていた。実際、アンヌは、私が今までに見たどのアンヌよりも、より幸福に近く、利己主義者の私たちの手中にありながら、私たちの烈しい欲望と、私の下等な策動から遠く離れていた……。私はちゃんとそれを見越していた。アンヌの無関心さと自尊心とが、本能的にアンヌをすべての策略――父をもっと緊密に惹きつけるための――から遠ざけていた。実際、理知的で美しく在ること、そして愛情を籠《こ》めること以外、アンヌは何の媚態《びたい》もつくらなかった。私はアンヌの身の上についてだんだん同情しはじめた。憐憫《れんびん》という感情は快く、軍楽隊のように人をひきずり込むものだ。人はそのことについて私を咎《とが》めることはできないだろう。
とうとうある朝、女中が、非常に興奮した様子で、次のようなエルザの一筆を持ってきた。『万事|上手《うま》くいった。いらっしゃい!』それは私に大破局が起ったような印象を与えた。私は解決が大きらいなのだ。私は勝ちほこった顔をしたエルザを浜で見つけた。
「お父様にいま会ってきたのよ。やっと……一時間前に……」
「何てあなたに言った?」
「こんど起ったことについて非常に後悔しているって言ったわ。そして、まるで下等な男のように行動したって……それ本当でしょ?そうじゃない?」
私は同意しなければならないと思った。
「それから、あの人だけが言えるようなお世辞を言ったわ。ねえ、あのちょっと無関心のような言い方で…… それからとても低い声で…… まるでそんなこと言うことが苦しいような…… あの言い方……」
私はエルザを恋愛詩の恍惚《こうこつ》さから邪慳《じゃけん》に引離した。
「で、結局はどうだっていうの?」
「さあ、なんにも!…… あああるわ。レエモンが村でいっしょにお茶を飲まないかって誘ってくれたのよ。私が恨みに思っていなく、寛大で……つまり、私が進歩的ならって……」
父の|赤毛の女たちの進歩《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》に関する考えは私をうれしがらせた。
「どうして笑うの? 私、行かなくてはいけないと思う?」
私はもう少しで、そんなことは私の知ったことではないと言うところだった。それから、私はエルザが彼女の策略の成功を私に帰している、ということに気がついた。間違っているか正しいか知らないが、それは私を苛立《いらだ》たせた。
私は追いつめられているように感じた。
「わからないわ。エルザ、それはあなた次第でしょ? あなたが何をしなくてはならないか、いつも私に聞かないでよ。いかにも私があなたをそそのかしているように見えるわよ」
「だって、あなたじゃないの?」とエルザは言った。「あなたのおかげじゃないの。ねえ……」
彼女の尊敬するような声の調子が、急に私を怖がらせた。
「行っていらっしゃい。あなたが行きたいのなら……だけど、もうそのこと私に話さないで……お願いだから!」
「だって、だってあの女からレエモンを解放させてあげなくちゃ……セシル!」
私は逃げだした。父は自分の好きなようにするがいいし、アンヌは適宜に処置すればいいんだ! それに私はシリルと逢う約束があった。恋のみが、私が感じているこの貧血させるような恐怖から解放させてくれるように思えた。
シリルは、何も言わずに私を両腕の中に抱いて、私を連れて行った。彼のそばでは、何ごとも容易に変って行った。はげしさと快楽に満ちて……。しばらく経ってから、私はシリルの汗でぬれた小麦色の上半身に体をつけて横になっていた。私自身も力尽き、難船した人のようにぐったりとして……。私はシリルに自分を嫌悪していると言った。私はそれをシリルに微笑しながら言った。なぜなら、私はそう思っていたが、苦痛なしに、そして一種の快いあきらめをもってそう思っていたからだ。シリルは私を本気にしなかった。
「そんなことどうでもいい。君を僕と同じ考えにさせるほど、僕は君を愛してるんだ。僕は君を愛している。とても君を愛している……」
この言葉のリズムが食事中私につきまとった。『僕は君を愛している。とても君を愛している……』
それだからこそ、私の努力にもかかわらず、私はこの昼食のことをよく覚えていない。アンヌは、彼女の眼の隈《くま》と同じような、その瞳《ひとみ》自体のような紫色《モース》の服を着ていた。父は見たところのんびりとして笑っていた。父にとって好都合な状態になっていたのだ。デザートのとき、父は午後村に用事があると言った。私は心の中でほくそえんだ。私は疲れていたし、運命論者だった。私はたったひとつしたいことがあった。泳ぎにゆくこと……。
四時、私は浜辺へ下りて行った。私は村へ出かけてゆく父をテラスで見かけた。私は何も言わなかった。私は父に要心するようにとも言わなかった。
水はなめらかで暖かかった。アンヌは来なかった。父がエルザと浮気している間、彼女は部屋でコレクションのデッサンをしていたにちがいない。二時間後、太陽がもう私を暖めなくなったので、私はテラスに戻り、長椅子に腰をかけ、新聞を広げた。
そのときだった。アンヌが現われたのは……。彼女は林のほうから来た。彼女は走っていた。危なかしく、不器用に、両肘《りょうひじ》を体につけて……。私は突然、年取った婦人が駆けていて、今にも転がりそうだという、変な印象をうけた。私は愕然《がくぜん》としたままだった。アンヌは家の後ろの、ガレージのほうへ消えた。そのとき、突然私は理解した。そして私も走りだした。アンヌに追いつくために……。
アンヌはすでに車の中にいて、スイッチをひねっていた。私は走りながら来て、車のドアに身を投げかけた。
「アンヌ!」と私は言った。「アンヌ、行かないで……間違いだったのよ。私のせいなの。あなたにこれから説明するから……」
彼女は私の言葉を聞いていなかった。私を見もしなかった。そしてブレーキをはずすために前にかがんだ。
「アンヌ、私たちあなたが必要なのよ!」
彼女はそのとき、体を起した。顔を歪《ゆが》めて……彼女は泣いていた。私は突然そのとき、自分がひとつの観念的実在物にではなく、生きた、感じやすい人間を攻撃したのだということを知った。彼女はきっと少しはにかみ屋の小さな女の子だっただろう。それから少女になり、女になった。彼女は四十を過ぎていた。そして孤独だった。一人の男を愛し、彼と共に十年、あるいは二十年幸福でいようと希望していたのだ。それなのに私は……。この顔、この顔、これが私の作品なのだ。私は化石のように、車のドアに身を押しつけたまま全身で顫《ふる》えていた。
「あなたには誰も必要じゃないわ」と彼女はつぶやいた。「あなたにもあの人にも……」
モーターが回っていた。私は絶望していた。アンヌがこんなふうに行ってしまってはならない。
「許して。お願いだから……」
「あなたの何を許すの?」
涙がとめどもなくアンヌの顔を流れた。彼女はそれに気がつかないようだった。じっと動かない顔。
「かわいそうな娘《こ》!」
彼女は一瞬、手を私の頬の上にのせた。そして行ってしまった。私は車が家の角から消えるのを見た。私は茫然《ぼうぜん》として、どうしていいかわからなかった。すべてがなんと早かったことか! そしてあのアンヌの顔、あの顔……。
私は背後に足音を聞いた。父だった。エルザの口紅を落し、服の松葉を払い落すのに時間がかかったのだ。私は後ろをふり向いた。私は父に身を投げかけた。
「馬鹿! 馬鹿!」
私は嗚咽《おえつ》しだした。
「いったいどうしたんだ? アンヌが?……セシル、話しておくれ、セシル……」
第十一章
私たちは夕食のときになって初めて顔を会わした。突然、戻ってきたこの差しむかいについて心配しながら……。私も父もちっとも食欲がなかった。二人とも、アンヌがまた私たちのところへ戻ってきてくれなくてはいけないのだということを知っていた。私には、アンヌが行ってしまったときの転倒した彼女の顔の思い出、またアンヌの悲しみ、私の責任についての考えに、長く堪え得ることはできないだろう。私は自分の辛抱強い策略のことも、あんなにうまくいった計画のことも忘れていた。私は、自分が手綱も轡《くつわ》もない馬のように、全く狂っているように感じた。私は父の顔の上にも同じような感情が現われているのを見てとった。
「セシル、どう思う?」と父は言った。「アンヌはこのまま長いこと帰らないと思う?」
「アンヌはたしかにパリに行ったんだわ」と私は言った。
「パリ……」と父は夢を見ているようにつぶやいた。
「もう二度と会えないかも知れないわよ……」
父はどうしてよいかわからず、私をみつめた。そしてテーブル越しに私の手をとった。
「お前、僕に対してとても怒ってるだろうね。僕は何に憑《つ》かれたのか知らない。エルザと林の中を通って帰ってくる途中、エルザが……いや、僕がエルザに接吻《せっぷん》したんだ。アンヌはちょうどそのとき来たんだろう。それで……」
私は聞いていなかった。エルザと父という二人の登場人物が松の陰で抱き合っている図は、喜劇のようで現実性がないように感じられ、私にはこの二人を想像することができなかった。この日の、唯一の生き生きとした、残酷なほど生き生きとしたものは、アンヌの顔だった。あの最後の顔。苦悩に刻まれた、裏切られたあの顔。私は父のシガレットケースからシガレットを一本つまんで火をつけた。これもアンヌが我慢できなかったことだ。食事中に煙草を喫うということ……。私は父にほほえみかけた。
「私よくわかるわ。お父様のせいじゃないわ。いわゆる一時の迷いだったのよ。でもアンヌは私たちを……つまりお父様を赦《ゆる》さなくちゃいけないわ」
「どうしたらいいだろう?」と父が言った。
父はとても悪い顔色をしていた。私は父をかわいそうに思った。それからこんどは自分をかわいそうに思った。結局はただの気紛《きまぐ》れに対してどうしてアンヌはこんなふうに私たちを捨てたのだろう、アンヌは私たちを苦しめている。アンヌは私たちに対して義務がないのか?
「アンヌに手紙書きましょうよ」と私は言った。「そして謝りましょう」
「そいつは良い考えだ!」と父は叫んだ。
父は、私たちが三時間も前から堂々めぐりをしていた、後悔に満ちたこの無活動さからぬけ出す方法をやっと見つけたのだ。
食べ終えぬうちから、私たちはテーブル掛けや、ナイフやフォークなどを片づけ、父は大きなランプと、万年筆と、インキ壺と、自分の便箋《びんせん》などをとりに行った。私たちはむかい合って腰を下ろし、ほとんど微笑しかけていた。こうすることによって、アンヌの帰りが可能なように思われたからだ。一匹の蝙蝠《こうもり》が窓の前に飛んできて、しなやかな曲線を描いた。父はうつむいて書きはじめた。
私は、この夜、私たちがアンヌに書いた善意にあふれた手紙を、嘲《あざけ》りと残酷さの堪《たま》らない感情なしに思い出すことはできない。二人ともランプの下で、勤勉で不器用な生徒のように、この不可能な『アンヌをふたたび見いだす』という宿題を、黙々と書いていた。私たちは、それでもやっと、上手な口実や、愛情や後悔などに満ちた、この種の傑作を二つ書き上げた。手紙を終えながら、私はアンヌがこれに負けることはほぼ確かで、仲直りは間近だと思った。すでに、恥ずかしさとユーモアに満ちた赦しの光景が見えるようだった。それはパリの、私たちのアパートで行われるだろう、アンヌが入ってきて……。
電話が鳴った。十時だった。私たちはお互いに、驚いた、それから希望に満ちた視線をかわした。アンヌだ。アンヌが私たちを赦し、戻ってくると電話しているのだ。父は電話機のほうへとびかかった。そして、「アロー」と嬉しそうな声をあげた。それから幽《かす》かな声で、「ええ、ええ、どこで? ええ」としか言わなくなった。こんどは私が立ちあがった。私の胸の中で恐怖が湧《わ》き起った。私は父を、それから機械的に顔を掩《おお》う父の手をみつめた。やっと、父は静かに受話器を置くと、私のほうをむいた。
「アンヌに事故があったんだ」と父は言った。「エステレルにゆく道で……アンヌの住所を探すのに時間がかかったんだ! パリへ電話をかけ、あっちで僕たちの電話番号を教えてくれたんだって……」
父は機械的に同じ調子で話していた。私は父の言葉に口をはさむこともできなかった。
「事故は、一番危険な場所であったんだって。ここではたくさんな事故があったそうだ。車が五十メートルも落ちたんだって。奇蹟《きせき》だろう、アンヌが生きていたとしたら……」
この夜のつづきを、私は悪夢のように覚えている。車のヘッドライトに浮びあがる道路、父の動かない顔、病院の扉……。父は私をアンヌに会わせたがらなかった。私は待合室のベンチの上に腰をかけて、ヴェニスの石版画を眺めていた。私は何も考えなかった。一人の看護婦が、その場所で事故があったのは夏の初めからこんどで六度目だと私に話してくれた。父はなかなか戻ってこなかった。
それで私は、彼女の死によって、またもやアンヌが私たちよりも優れていると思った。もしも私たちが自殺するとしたら――私たちにその勇気があるとして――それは弾《たま》を頭に撃込んでであろう、そして死の責任者の睡眠と血とを永久に紊《みだ》す説明の遺書を残しただろう。けれどもアンヌは私たちに豪奢《ごうしゃ》な贈物をした。つまり、事故かもしれないと思わせる大きなチャンスを私たちに残したのだ。危険な場所、アンヌの車の不安定さ。それを贈物として受けとるほど、私たちはじきに弱くなるだろう。それに、現在もし私が自殺だと言ったとしたら、それはあまりにも小説的すぎる。父や私のような人間たちのために自殺することができるだろうか? 何人《なんぴと》も必要としない、生きた人間も、死んだ人間も必要としない人たちのために……。それに、父とは、事故であったという以外には話したことがない。
翌日、私たちは午後の三時ごろ家に戻ってきた。エルザとシリルが玄関の階《きざはし》に腰をかけて私たちの帰りを待っていた。彼らは色彩のない、忘れられた登場人物たちのように私たちの前につっ立っていた。どちらもアンヌをよく知らず、またアンヌを愛していなかった。彼らはそこにいた。彼らの下らない恋愛事件と、彼らの美しさの魅力と、彼らの気まずさとともに……。シリルは一歩私のほうへ進んで、手を私の腕にかけた。私は彼をみつめた。私は彼を決して愛したことはなかったのだ。私は彼を善良で、魅力的だと思ったのだ。私は、彼が私に与えた快楽を愛したのだった。けれども、私は彼を必要としない。私はこの家から、この青年から、この夏から去ろうとしていた。父は私といっしょだった。こんどは父が私の腕をとり、私たちは家の中へ入った。
家の中には、アンヌの上着、アンヌの花々、アンヌの部屋、アンヌの香りなどがあった。父は雨戸をしめた。氷箱の中からお酒の壜《びん》を一本とって、コップをふたつ出した。これが私たちの間近にある唯一の治療薬だった。私たちの謝罪の手紙がまだテーブルの上に散らかっていた。私はそれを手で押しのけた。手紙は床の上にひらひらと舞い落ちた。なみなみとつがれたコップを持って私のほうへ戻ってきた父は、一瞬、躊躇《ちゅうちょ》し、それから足でふみつけないように手紙を除《よ》けた。私はそういうことは象徴的《サンボリック》的で、そして悪趣味だと思った。私は両手でコップを受けとり、ひと息に飲みほした。部屋は薄暗かった。私は窓のところに父の影を見た。海が浜に打寄せていた。
第十二章
パリで、美しい太陽のもとで、埋葬が行われた。物見高い群衆、喪服……。父と私とはアンヌの親戚《しんせき》の年取った婦人たちと握手をした。私は好奇心をもって彼女たちを眺めた。彼女たちは年に一度くらい、きっと家にお茶に来ただろうに。人々は同情をもって父を眺めた。ウェッブが結婚のニュースをまき散らしたに違いない。シリルが出口で私を探しているのを見た。私は彼を避けた。私が彼に対してもっている恨みの感情は、全く不当ではあったが、私はどうすることもできなかった。周囲の人たちが、この馬鹿々々しい、恐ろしい事件を嘆いていた。私は、過失死だという点にまだいくらかの疑いをいだいていたので、このことは私をよろこばせた。
帰ってくる途中、父は自動車の中で私の手を取って、それを強くにぎりしめた。『お父様はもう私きりないのよ。そして私にはお父様きりないのだわ。私たちは二人っきりで不幸なのよ』私はこう思って、そのとき初めて泣いた。これらの涙は、かなり快い涙だった。私が病院のヴェニスの石版画の前で感じた堪らない空虚感と似ても似つかないものだった。父は何も言わずにハンケチを私にさし出した。くしゃくしゃな顔をして……。
一カ月の間、私たち二人は夕食も昼食もいっしょにとり、外出せずに、鰥夫《やもめ》と孤児のような生活をした。時どき、私たちはアンヌのことを少し話した。「覚えている? ほら、あの日……」私たちは眼をそらせながら、注意深く話した。なぜなら、それが私たちを傷つけたり、二人のうちのどちらかの気持を爆発させて、取りかえしのつかない言葉を言う結果になりはしないかと怖《おそ》れていたからだ。こうしたお互いの注意深さと優しさとはやがて報いられた。しばらくすると、私たちは普通の語調でアンヌのことを話すことができた。私たちと幸福でいることのできた、しかし神の御許《おんもと》に召された一人の愛する人のことを話すように。私は偶然のかわりに神という字を使った。しかし私たちは神を信じていない。こういう情況の中で偶然を信じることができるということはすでに幸福なことだ。
それからある日、私は友達の家で、その従兄《いとこ》の一人に会った。彼は私の気に入り、私も彼の気に入った。私は一週間の間、恋愛が始まるときのように、しげしげと、無謀に彼と出歩き、また孤独ぎらいの父は、なかなか野心家の一人の若い女性と同じように出歩いた。予期していたように、また昔のような生活が始まった。父と私はいっしょになると、共に笑い、お互いのアヴァンチュールを話し合った。父は私とフィリップとの交友をプラトニックではないと疑っていただろうし、私もまた父の新しい女友達《アミイ》にとてもお金がかかることもよく知っていた。けれども私たちは幸福だ。冬の終りが近づく。私たちは前と同じ別荘は借りないだろうけれど、一軒ジュアン・レ・パンの近くに借りるだろう。
ただ、私がベッドの中にいるとき、自動車の音だけがしているパリの暁方《あけがた》、私の記憶が時どき私を裏切る。夏がまたやってくる。その思い出と共に。アンヌ、アンヌ! 私はこの名前を低い声で、長いこと暗やみの中で繰返す。すると何かが私の内に湧きあがり、私はそれを、眼をつぶったままその名前で迎える。悲しみよ こんにちは。
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あとがき
この本は、FRAN0ISE SAGAN の "BONJOUR TRISTESSE" (JULLIARD 書店)の全訳である。著者が十八歳のときに書いた処女作で、フランスの一九五四年度の「批評大賞」を獲《と》り、フランスだけでなく世界各国のベストセラーズのひとつとなった。
本の主人公はセシルという十七歳の少女である。彼女には、若くて美貌《びぼう》の鰥夫《やもめ》の父親がいる。彼ら親子はとても仲良しで、パリで陽気な生活を送っている。ある夏、彼らは南仏の海辺に、真っ白な素晴らしい別荘を借りて、父の愛人の若い女の子といっしょに、平和な夏休みを送っている。そこへ、亡き母の友達の、理知的で、美しい女性が遊びに来る。今まで、どちらかといえば、きれいだが少し頭の悪い、半玄人の女の子たちとばかり遊んでいた父親は、聡明で、洗練されたこの四十二歳の女性に心を惹《ひ》かれる。ある晩、カンヌに遊びに行ったとき、二人の心は結ばれ、かれらは一夜で結婚することをとり決めてしまう。
少女は未来の母親に対して、複雑な感情をいだくようになる。父親の愛情を独占したい気持とか、試験勉強を強制したり、恋人の青年との逢引《あいびき》をとがめたりする理知的なこの女性に対する反感とか……ついに、彼女は策略をめぐらして、自分の恋人の青年と、父の愛人だった若い女の子を使って父の結婚を妨害する。
主人公のセシルという少女は、シニックであり、また青春だけにある一種の残酷さをもっている。また異様に鋭い観察眼で大人たちを眺めている。そこには非常に若々しい新鮮なものがある。生れたばかりの赤ん坊が、見るもの、触るもの、聞くものすべてを、驚きをもって感じるように、彼女にとってもまた、世界は未知なことでいっぱいである。彼女は、聡明で、優秀な一人の大人の女性を憎悪する。ぶちこわしてしまいたい、完成されたものに対する反感、反逆、こういった感情をこの少女の中に見いだすことができる。モーリヤックが、フランソワーズ・サガンを評して「|小さな悪魔《プチ・デイヤーブル》」と言ったとき、彼女はこう答えた。「モーリヤック氏はいつも罪悪感にとり憑《つ》かれているかも知れないけれど、私には罪悪感がないのだもの」またあるとき、私の友人が彼女に、「死」について質問した。彼女は、「私がいつか死ななくちゃならないなんて、言語道断だと思うわ」と答えた。その友人は、「言語道断」とはいい答えだなと感心していた。
私は一九五四年の十二月、クリスマスの直後、マルゼルブ街のフランソワーズ・サガンの家をたずねた。マルゼルブ街というのは、パリの中心地のマドレーヌから始まって、パリを横断している広い長い並木通りで、彼女の住んでいるところは十七区の住宅地である。サガンは、フランスの裕福なブルジョアの家庭に生れ、両親の大きなアパルトマンに住んでいた。私は、朝の十一時に会う約束だったので、時間かっきりにつくと、クラシックな、美しいフランス風のサロンに通された。三十畳敷くらいあるだろうか? 広々としている。高い天井、ルイ十五世風の家具、サテンのカーテンなど……部屋の片すみに、優雅な寝椅子がおいてあって、その脇に、最新式のアメリカ製のLPの蓄音機がおいてある。ジャズのレコードがたくさん重なっている。私は『悲しみよ こんにちは』の中で、主人公の少女セシルが、寝椅子にねそべり、シガレットをやたらに喫いながら、ジャズレコードをかけている場面を思い出した。こんなことを考えているうちに、うしろのほうで足音がした。ふりむくと、パジャマの上に水色の水玉の部屋着を着たかわいい少女が立っていた。「ボンジュール、昨晩おそかったのでまだ眠っていたの、こんな格好でご免なさいね」
第一印象は、子供々々した少女の感じである。体もまだ少女期を脱していない、ほっそりとした体つきである。彼女は、大きな、聡明そうな濃い茶色の眼をしていて、たえずその瞳《ひとみ》が動いている。ちょっといたずらそうで、大人のことをぬけ目なく観察している眼。敏感で、神経質な眼。彼女の眼はとてもエキスプレシフで魅力的である。栗色《シャタン》の髪は短くて、無造作に額の上に垂れている。彼女は話している間じゅう、いつも脚をぶらぶらさせたり、どこか体を動かしたりしていて、なかなかじっとしていない。
「あなたは以前から書きたいと思っていらっしゃいましたか?」
「ええ、私が十五の夏、アンドレ・ジッドの『地の糧《かて》』を読んだとき、深い感銘をうけ、それ以来何か書きたいと思っていました」
「そのほか、好きな作家は誰ですか?」
「プルーストです。サガンという名もプルーストの小説の中からとったのです。それから詩人ではランボー……現代の作家ではサルトル、ボーヴォワール夫人が大好きです」
「カミュはどうですか?」
「カミュも好きですが、サルトルほどじゃありません」
「演劇はお好きですか? この間、ウーヴル座で、『神々のように』の、初日の招待日にあなたをおみかけしました」
「ええ、あのロード・バイロンの芝居の初日に行ったわ。私は芝居より映画が好きです。日本の映画は大好きで、『羅生門《らしょうもん》』『地獄門』などすばらしいわ。フランス映画も好きだけど、アメリカ映画も大好き、断然スリリングな西部劇なんかあるんですもの」私はこの返事をきいて、いささか意外だった。フランスでは二十《はたち》前後の人たちでも、非常に演劇熱が盛んで、サガンのような文学少女はもちろん芝居のほうが好きだろうと思っていたからだ。しかし、その後サガンも芝居好きになり、大成功を博した『スウェーデンの城』、一番最近の『気絶した馬』などいくつかの戯曲を書き、演劇に野心を持ちつづけている。
「私の友達のコメール氏が、あなたにどんな生活が送りたいかって聞いたら、デートリッヒのような……とおっしゃったでしょう? デートリッヒお好きですか?」
「ええ以前にはね。でも、私この夏モンテ・カルロでデートリッヒに会って幻滅したわ。モンストル・サクレ(有名なスターたち)って苦手《にがて》だわ」
サガンはそう言って、いたずらそうな眼をくりくりさせて笑った。
「じゃ、男の人ではどんなタイプがお好き? 文士ですか? 青白い神経質なインテリ青年ですか?」
「私、そういうタイプ大きらい。文士はご免よ。私は、ベースボールするような、がっちりした男で、何も考えないような人が好き」
ところが、それから二カ月ほどして私の知り合いの記者が同じ質問をしたら、青白いインテリだといったというから、どちらが本当なのだろうか? でも私は、なんだかベースボールをする少し頭の悪い男を好きだというほうが本当のような気がする。その日、彼女の次の小説について聞いたら、今準備中とかで、パリでは用事が多すぎて駄目だから、どこか田舎へ行って書くと言っていた。この『悲しみよ こんにちは』は、彼女が長い間頭の中で構想を練っていたもので、学友たちに話したところ、これはいいから書け書けといわれて三カ月で書いてしまったという。始めの書き出しはちょっと苦心したが、あとはすらすらと出てきたと言っていた。
私たちが話している間じゅう、何度も電話がかかってきた。
「毎日こうで嫌になっちゃう。ご免なさいね、何度も立って……」
電話をかけてくるのは友人たちらしく、その話具合から察して、大部分が青年じゃないかと思った。彼女のように、パリの文学界に一躍名声を博した人はそういない。しかも十八やそこらで……青年たちにもてはやされるのは至極当然なことだ。パリの人たちは、彼女があまりもて過ぎて、せっかくの才能が損われはしないかと心配している。
本の成功の後、彼女は夢に画いていた自分の理想の自動車を買った。一番高価で、一番スピードの出る英国のオープンのスポーツカー、その頃彼女はものすごいスピードで、よくサンジェルマン・デ・プレをとばした。さて、彼女の二番目の小説『ある微笑』は処女作に劣らない良い作品であるが、当時の彼女は「私、この次の小説が出るのを、みんなが機関銃をもって待ちうけてるってこと知ってるわ」と、大人たちを恐れていないといった様子で私にこう言った。
サガンの文体は美しく、スュブチィルで、意味の深い、微妙なニュアンスがある。そういったデリケートな言葉は体で感じてもなかなか訳すのにむずかしい。またそういった雰囲気をもつ彼女の文章がいかにもサガンらしく独自の魅力をもっている。このたび一九五五年の翻訳に少し手を加えさせていただいた。
一九六八年 東京にて
[#地付き]朝吹登水子