隊長ブーリバ
ゴーゴリ/原久一郎訳
目 次
隊長ブーリバ
解説
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「おい、ちょっとうしろを向いてみい! なんというおかしなかっこうをしているのだ! お前たちの着ている坊さんの袈裟《けさ》みたいなものはいったい何だ? お前たちの学校ではみんなそういう服装をしているのか?」
こうした言葉をもって、老タラス・ブーリバは二人の息子を迎えた。息子たちはキエフの宗教学校に官費生として学んでいた。そしていま父のもとへ帰省したのである。
彼らは馬からおりたばかりだった。二人ともがっしりとした体格の若者で、学校を卒業したばかりの神学生よろしく、まだ上目使いに相手を見る癖から脱けきっていない。頑丈な健康そうな顔は、一度も剃刀《かみそり》のあてられない、生まれ落ちた時のままの、柔らかな綿毛におおわれていた。彼らは父のこうした応対ぶりにひどく面くらって、じっと目を地に落として立ち止まった。
「待て、待て! わしに、ようくおまえたちのみなりを見さしてくれい」と、二人の息子をあっちへ向けたりこっちへ向けたりしながら、父はつづけた。「まあ何て長たらしい外套を着ているのだろう! おかしな外套もあればあるものじゃのう! そんな外套にはまだこの世でおめにかかった事がないぞ。まあ二人のどっちでもいいから、一番ここで走ってみな! 裾《すそ》につまずいてどたんと転ぶような事がないかどうか、ここで見物してやろう」
「笑っちゃいけない、お父さん、笑っちゃいけませんよ!」と、たまらなくなって、兄の方がこう言った。
「まあ見てみろ、このけばけばしさはどうだ! いったいなぜ笑っちゃいけないんだ」
「きまってるじゃありませんか。いくらお父さんでも、笑ったりすると、何をするかわかりませんよ、ほんとに」
「ほう、豪儀なせがれだ! いやおどろいた! このおやじをやっつけるんだって?」と、びっくりして、二、三歩後へ飛びすさり、タラス・ブーリバは言った。
「たとえ、お父さんでもやむをえません。恥辱をあたえる者に対しては、誰彼の別なく、断じて容赦しませんからねえ」
「それならいったいこのわしと、何で勝負をするつもりじゃ? まさか拳固《げんこ》でぽかぽかやるわけにもゆかんじゃろう?」
「なあに、もう何だってかまやしない」
「そうか、なら拳固でやらかそう!」と、上着の袖をまくり上げて、ブーリバは言った。「一番この拳固にかけて、お前の土性っ骨を見てやろう!」
かくて父と息子は、長く別れていた後の抱擁のかわりに、さっと飛びすさって互いに相手の隙をうかがったり、ふたたびじりじりと進みよったりしながら、ぽかぽかと所きらわず、横っ腹へも、腰へも、胸の辺りへも、拳固の浴びせ合いをやり始めた。
「あれごらんよ、お前たち。お爺さんは、どうかしてしまったよ! すっかり気が変になってしまったよ! すっかり気が変になってしまったよ!」と、しきいぎわに突っ立ったまま、かわいい二人の息子を、まだ抱きしめることもできずにいる、蒼ざめた、やせぎすの、そして気のよい母親が言った。「久しぶりで家へ帰って来たのじゃないか。一年以上も会わなかったのに、あの人は途方もない、何ということを思い立ったのだろう、拳固で殴り合いをするなんて!」
「なるほど、なかなか巧くやりおるわい!」と、拳闘の手を休めて、ブーリバは言った。「いやまったく、上できじゃ!」と、軽く衣服を直しながら、彼はつづけた。「これなら別に、試してみなくてもよかったぐらいじゃ。立派なコサックができあがるぞ! いや、せがれ、よう帰って来てくれた! さあ、あらためて挨拶《あいさつ》をしようかい!」ようやく父と息子は接吻をかわし始めた。「でかしたぞ、せがれ! 今このわしをきめつけたように、どやつでもこやつでも叩きのめしてやれ。誰も容赦するにはおよばないぞ! それはそうと、どうもやっぱり、お前はおかしななりをしてるのう。そのぶらぶらしている縄は何じゃい? お前はまた、アンドリイ、何で両手をぶらりとさせて、ぼんやり突っ立っているんだい?」こう彼は、次男の方へ向きながら言った。「やくざ者、何でこのわしを叩き伏せないのだ?」
「またあんな事を!」と、その間に次男の方を抱きしめていた母は言った。「血を分けた実の子供に父親を打たせるなんて、よくまあそんな考えが出たもんだ! それも、今すぐでなけりゃならないもののように。あの子はまだ年がゆかないのに、長道中をしたので、へとへとに疲れているんだもの……(という子供はもう二十歳を越していて、身の丈は二メートル余もあった)ひとまず休息して、何か食べなくちゃならないところだのに、あの人は拳闘なんぞさせなさる!」
「やれやれ、わしが見るところじゃ、お前はどうも意気地なしのようだな!」と、ブーリバは次男に向かって言った。「これせがれ、お母さんの言うことなんぞ聞くんじゃないぞ。あれはおなごじゃ、何にもわかりゃせん。お前たちにとって何が心の宝なんだ? お前たちの心の宝は、目をさえぎる何物もないからっとした野原と良い馬だ。――それがお前たちの心の宝じゃ! ほら、このサーベルが目にはいるだろう? これがお前たちのお袋だぞ! お前たちの頭の中へつめこまれているものは、何から何までくだらないものばかりだ。お前たちの今まで通っていた学校も、書物も、字引も、哲学とかいう代物も、そんな物はみんな|カ《ヽ》 |ズナ《ヽヽ》 |シチョ《ヽヽヽ》だ、おまじないじゃ。――ぺっ、わしはそんな物にはつばをひっかけてやる!」と言ったその次へ、ブーリバは、とうてい活字にして公表しがたい言葉をひとつ挿入して、さらにつづけた。「おお、そうだ、いっその事、わしは来週お前たちを、ザパロジエ〔ザパロジエはドニエプル川の島、コサックの根拠地、ザパロジエ人はコサックを指す〕へやろうと思う。あちらになら真の学問がある、真実の生きた学問があるぞ! あちらにはお前たちのための真実の学校がある。あちらに行ってこそ、はじめて活《い》きた知識が得られるのじゃ」
「そんならたった一週間しか、この二人は家にいられないんですか?」と、やせ衰えた老いた母は、涙を浮かべ、哀れっぽい声で言った。「それじゃこの二人は、かわいそうに、ちょいと散歩に出る事もできないでしょう。自分の生まれた家をちゃんと見分ける事さえできないでしょう。それにこの私だって、はるばる帰った子供の顔を、しみじみ見る事さえできやしない!」
「もういい、もういい、婆さん、もう吠えるのはたくさんじゃ! おなごと|じゃら《ヽヽヽ》ついているのがコサックの本分じゃない。お前はこの二人をスカートの下へ隠して、牝鶏が雛《ひな》をかえすように、二人の上へ坐っていたいのじゃろうが、まああちらへ行きなさい、行きなさい。そして早くわれわれのために、ありったけの御馳走を、食卓に並べなさい。パンブシキ〔油揚餅〕だとか、メドイケ〔蜜餅〕だとか、マコウニック〔罌粟餅〕だとかいったような代物《しろもの》はいらない。羊をありったけ出すがよい。山羊《やぎ》もだ。四十年もたつ例の蜜もな! 酒はうんとある方がいい。それも、乾葡萄《ほしぶどう》やその他いろんな薬味のはいったやつでなく、暴れ出すように沸騰《ふっとう》して、しゅうしゅう泡立つような純粋のウオッカがいいぞ」
タラス・ブーリバは、二人の息子を客間へ連れて行った。と、部屋のかたづけをやっていた、美しい、真紅の宝石の首飾りをつけた召使の女が二人、ぱっとそこから飛び立った。彼女らは、見たところ、何人をも見逃そうとしない若主人たちの帰って来たのに度胆を抜かれたのか、さもなければ、ただ漫然と、男を見た場合に|きゃっ《ヽヽヽ》と叫んでいちもくさんに駈け出して、それからさらにしばらくの間、激しい羞恥《しゅうち》から袖で顔をおおい隠しているという、女特有の習慣を守ろうと思ったのだろう。客間はこの時代の好みによって飾られてあった。いまではもはや|あごひげ《ヽヽヽヽ》を長くたらした盲目の老人が、ウクライナで、ぐるりと周囲を取り巻いた群集の前で、バンドラの静かな爪弾きにつれて歌うことなどなくなった民謡や小唄の中にしか、生き生きとした面影の残っていないこの時代――ウクライナの全土にウニヤ〔ギリシャ教とローマ教との連合〕のための小争闘や大争闘が演じられ始めたつらい苦しい戦乱時代――の好みによって飾られ、どこからどこまでさっぱりとして、色粘土ですっかり塗られてあった。周囲の壁には長剣だの、鞭《むち》だの、鳥網だの、魚網だの、鉄砲だの、巧みに細工の施《ほどこ》された水牛の角の火薬入れだの、金色にきらめく馬の轡《くつわ》だの、金銀具のついた馬の足枷《あしかせ》などがかかっていた。窓には小さく、今では古い教会でもなければ見られないような、円形の曇ガラスがはまっていて、上げ下げのできるそのガラスを少し持ち上げなければ、戸外を見るわけにゆかなかった。窓や扉の周囲には赤いはめ板が打ってあった。すみずみの戸棚には、いろんな水さし、緑色や水色のフラスコ、彫刻の施された銀の大杯、三人も四人もの手を渡って、あらゆる手段方法によって、ブーリバの客間へ納められた(こうした戦乱の時代では、これはきわめて普通の事であった)ベネチア、トルコ、チェルケス等の、各地の産なる金ぴかの盃などが、ずらりと並べられてあった。部屋の四周にすえつらねられた白樺の皮の腰掛。正面とつづきの隅にある聖像の下の大テーブル。いろんな花模様のある五色の化粧瓦でおおわれた凸凹の壁や寝台装置をした大きな暖炉。――すべてこれらの品々は、毎年休暇になるとはるばると徒歩で帰省するのを常としたわれらの親愛なる二人の若者には、いずれも馴染《なじ》みの深いものだった。彼らは毎年休暇になるといつも徒歩で帰省した。それは馬を持たなかったからだが、学校の生徒には乗馬を許さない習慣でもあった。彼らはただ、武器を身につけたコサックに見つけられたら、その廉《かど》でたちどころに八つ裂きにされそうな、長いパイプを持っているだけだった。で、タラス・ブーリバは、彼らが学校を卒業したというので、今度だけ自分の飼馬の中から、二頭の若駒を彼らのところへさし向けてやったのである。
タラス・ブーリバは、息子らの帰省したのを機会に、居合わせた連隊の士官たちと中隊の隊長連とを、残らず呼んでこいと命じた。そしてそれらの中の二人と、彼の古い同僚であるコサックの大尉ドミトロ・トフカッチとがやって来ると、彼はさっそくこの三人に、こう言いながら、帰って来た自分の息子を紹介した。
「どうじゃ、ひとつ見てくだされ。何とすばらしい若者じゃろう! 近々にセーチへやろうと思っている」
客人らはタラス・ブーリバにも二人の息子にも喜びの言葉を述べて、それはまことにけっこうだ、若い者にとっては、ザパロジエのセーチへ行くにまさる修業はない、と答えた。
「さあ、それじゃ、みなさん、御随意にお好きな場所を選んで、どなたも食卓についてください。さあ、せがれたち! 何をおいてもまずぐいと一杯やろう!」とタラス・ブーリバは言った。「神よ、祝福あれ! これせがれども――オスタップよ、お前なあ、それからアンドリイ、お前もなあ、二人とも達者でいてくれよ! どうか神様、この二人がいつも戦争に勝ちますように! 回教徒を打ち破り、トルコ民族を打ち破り、ダッタンのやつらをも打ち破り、もしまたポーランドのやつらがわれわれの宗教に敵対しはじめるような事があったら、あいつらも打ち破りますように。さあ杯をお出し。どうじゃ、いい酒だろう? ラテン語ではウオッカの事を何というかな? そう、そう、せがれよ、ラテンのやつらは大馬鹿じゃよ。やつらはこの世にウオッカというものがあるかどうかという事さえ知らなかったんだからなあ。はて、何と言ったかなあ、ラテン語の詩を書きおったあいつは? わしは読み書きの方はあまり得手でないので、知らないが、ホラチュスと言ったかなあ?」
「見ろ、何という親爺だろう!」と、長男のオスタップは心で思った。「老いぼれのよぼ犬め、何もかも知ってるくせに、まだ空とぼけていやあがる」
「わしは思うのじゃが、お前たちの学校の校長は、お前たちにウオッカの匂いなんてかぐことさえ許さなかったろうなあ」と、タラス・ブーリバはつづけた。「いや、しかし、これせがれ、白状するがいい、お前たちはこっぴどくひっぱたかれたものじゃろう。そして背中はもちろん、コサックの体のすべての部分に、青痣《あおあざ》や瘤《こぶ》をこしらえられたのだろう? それとも、ひょっとしたら、お前たちはもうあまりりこうになりすぎたので、鞭でぴしりぴしりやられたかな? そしてたぶん何だろう、毎土曜日だけでなく、水曜日にも木曜日にもやられたろうがな?」
「お父さん、過去には思い出すべきことなど何にもありませんよ」と、オスタップは冷ややかに答えた。「過去の事は、すべて過ぎ去ってしまったのです!」
「何ならいまやってみるがいい!」と、アンドリイが言った。「誰でもいいから今この俺に指一本でも触れてみるがいい。ダッタンのやつか何か、今ここへ押しよせて来てみるがいい。コサックの剣の味をしみじみ味わわせてやるから!」
「でかした、せがれ、でかしたぞ、ほんとうに! そういう時には、わしもお前たちといっしょに繰り出すぞ! 誓ってわしも繰り出すぞ! こんなところに便々と何を待っていなければならんというのじゃ? 作男になって、家事の取り締まりをする|でくのぼう《ヽヽヽヽヽ》になって、羊や豚の番をしたり、女房と|いちゃ《ヽヽヽ》ついたりしろというのか? 女房が何じゃ、そんなものはすっ飛んでしまえ。わしはコサックじゃ。いやじゃ、いやじゃ! いったいどうしたことだろう、どうして戦争がないんだろう? それじゃわしもお前たちといっしょに、ザパロジエへ行くぞ――遊びにな。ほんとに行くぞ!」タラス・ブーリバはしだいに熱してきた。そしてとうとう、かんかんに興奮してしまい、食卓からすっくと立ち上がって、大見得をきって、足を踏み鳴らした。「明日早々繰り出すとしよう! 何の延ばす必要があろう! こんなところに坐りこんでいて、どんな敵にめぐり会えよう? こんな小屋がわれわれにとって何になる? ここにあるこれらのがらくたが何になる? こんな壺や何ぞが何になる?」こう怒号して、彼は壺や盃の類をがらがらと打ち壊したり、床に叩きつけたりしはじめた。
哀れな老婆は、夫のこうした振舞いにもう馴《な》れっこになっていたので、ちょこんと腰掛に掛けたまま、じっと悲しそうに眺めていた。彼女は一言も口をはさむ勇気がなかった。が、自分にとって恐ろしいこの決議を聞いては、あふれ出る涙を抑えることができなかった。やれ嬉しやと思う間もなく、早くも別れねばならなくなった二人の息子を、彼女はまじまじと打ち眺めた。――その両眼とひきつるように結び合わされた口もとに波打っているらしい悲しみの無言の力を、何人もことごとく描きつくすことはできないであろう。
タラス・ブーリバは、おそろしく頑固一徹だった。それは重苦しい十五世紀のヨーロッパの、半遊牧の辺土《へんど》にのみ現われた、特殊な性格のひとつであった。この時代は、領土に見放された南方の原始的なロシアの全土が、蒙古の略奪者等の鎮圧しがたい侵略のために荒廃し、根こそぎ焼き払われた時代であった。家を奪われ、雨露をしのぐべき屋根を失って、ここにはじめて人間が、勇猛|剛毅《ごうき》になった時代。炎々たる大火災のまっただ中に、恐ろしい隣邦諸国の侵略者らと不断の危険とに直面しつつ、移住し来《きた》って、この世にいかなる恐怖の存するかを見せつけられ、まともにこれを正視することに馴れてきた時代。古代の平和なスラブ魂が戦争の火焔に包まれてしまって、いわゆる「コサック気質」が――ロシア国民性の茫漠《ぼうばく》として遊蕩《ゆうとう》的な一変体が――形成された時代。あらゆる沿岸の地、渡船場、水に臨んで傾斜せる手ごろな地域に、だれもその数を知らないコサックが雲霞《うんか》のように移住して来て、その中の大胆な連中が、彼らの総数を知りたく思ったサルタンに向かって「誰がそれを知っていましょう! 彼らは曠野《こうや》一面に散在しています。バイラックのある所、コサックありです」(小さな丘のあるところには、もうきっとコサックが住んでいます)と答える資格をもっていた時代であった。
まさしくそれはロシアの力の異常な現われだった。それは重なる不幸の打ち金によって、国民の肺腑《はいふ》から叩きだされたものであった。往時の封建領地や、猟師と猟僕とがうようよしていた小都市のかわりに、互いに敵意を蔵しながら所有の町を売買している小さな王侯たちのかわりに、キリスト教を奉ぜぬ侵略者らに対する共通の憎悪と危険感によって結びつけられた物騒《ぶっそう》な部落や、廠舎《へいしゃ》〔コサック特有の藁ぶきの小舎〕や、城壁をめぐらした村落などが、次から次へできていった。彼らの絶えざる争闘と不安な生活とが、つねに倒壊しようと脅かしていた鎮圧しがたい略奪者の襲撃からヨーロッパを救ったことは、もはや歴史によって何人にも知られている。遠くかけ離れていて微力ではあったが、とにかく広漠たるこれらの土地の主権者として、封建の諸侯の地位に現われたポーランドの王たちは、コサックの威徳と、こうした戦闘的な防備の生活の利益とを理解した。彼らはコサックをけしかけ、コサックのこうした性格に媚《こ》びへつらった。遠く離れた彼らの主権のもとに、コサック自身の間から選ばれた首領らは、城壁のめぐらされた村落や廠舎《へいしゃ》を、連隊や正規の軍管区に作りかえた。それは常備の軍隊ではなかった。常備の軍隊などというものは、何人も認めなかったであろう。が、戦争とか、総動員とかいう場合には、八日以内に、すべての者が馬に乗って、あらゆる武器に身を固めて、国王より支給される十ルーブルの金貨をもらって、ぞくぞくと馳《は》せ参じ、そして二週間で、いかなる新兵募集の方法をもってしても集めることができないような、すばらしい軍隊が組織される。が、遠征がおわる――と、その軍隊はふたたび牧場へ、耕地へ、ドニエプルの渡船場へと退散し、魚を捕《と》ったり、商売をしたり、酒の醸造をやったりする。そしてふたたび自由のコサックになるのであった。
同じ時代の異国人らが当時のその異常な能力に舌をまいたのは当然であって、コサックの知らないような職業はひとつもなかった。酒の醸造、荷車や火薬の製造、鍛冶《かじ》や錠前鍛冶の仕事などはいうまでもなく、さらにロシア人だけしかやりえないような、無茶な遊蕩にふけって、飲めや唄えの乱痴気《らんちき》騒ぎをやるという仕事まで、ひとつとして彼らに可能ならざるはなかった。戦争の時にただちに馳せ参ずることを義務と思っている軍籍を有するコサックのほかに、大なる要求に迫られた場合には、いつでも騎馬の義勇軍を編成することができた。大尉たちがあらゆる村や部落の市場や広場を回り歩いて、荷車の上に突っ立って、精いっぱいの大声で、こうわめきさえすればいいのであった。「おい、こら、酒屋やビール屋の諸君! 酒を醸造したり、暖炉の上のベッドに寝そべって|でぶでぶ《ヽヽヽヽ》肥った体を蝿《はえ》になめさせているのは、もうたくさんだぞ! 騎士の誉れと栄光とを獲得すべく奮いたちたまえ! 犁《からすき》を手にしている諸君、蕎麦《そば》をまいている諸君、羊の番をしている諸君、女の尻を追い回している諸君! 犁の後押しをして、その赤靴を|泥だらけ《ヽヽヽヽ》にしたり、女房連にでれでれと|いちゃ《ヽヽヽ》つき寄って、騎士の精力を消耗したりすることは、もうたくさんだぞ! コサックの誉れを獲得すべき時が来たのだ!」これらの言葉は、乾ききった木の上に落ちた花火のようであった。耕作に従事していたものは犁を投げる。酒やビールを造っていた連中は桶をなげすて、樽《たる》を打ちこわす。職人や商人は手職も店も悪魔の餌食にして、家にあるいろんな壺をことごとく叩きこわす。――そして万難を排して、馬上の人となるのであった。一言にしてこれをつくせば、ロシアの国民性がここに力強い広大な展開と、強靭《きょうじん》な外貌とを得たのである。
タラス・ブーリバは一番最初の古株の連隊長の一人であった。その全身は戦乱のために創られていた。そして気質の剛直な点でぬきんでていた。この当時はポーランドの影響が、もうロシアの貴族階級に現われはじめていた頃で、多くの人がポーランドの風習をまねて、諸種の贅物《ぜいぶつ》、あでやかな召使、鷹《たか》、猟犬、饗宴《きょうえん》、邸宅などを擁していた。タラス・ブーリバはそれが気にくわなかった。彼は純朴なコサックの生活を愛した。で、自分の同僚たちの中の、ワルシャワのほうに左袒《さたん》している連中を、ポーランドのパン〔貴族〕の奴隷と呼んで、何度か彼らと争った。つねに擾乱《じょうらん》の渦をまき起こしていながら、正教の押しも押されもしないれっきとした擁護者をもって任じていた。土地を借り受けている人びとの、諸種の圧迫や新税の付加に対する怨言の、少しでも聞こえた村々へは、独断でどしどしはいって行った。自身コサックの一隊を引率して行って、きびしく彼らの詮議をした。そして、次のような三つの場合には、いつもサーベルに手をかけるのが当然であるということを、掟《おきて》として、自分で守っていた。つまり、総代の連中が長老たちに尊敬を払わず、彼らの前に脱帽もせずに立っている場合と、彼らが正教を嘲笑《ちょうしょう》して、祖先の慣例を遵守《じゅんしゅ》しない時と、そして最後に、回教徒とトルコ人とが敵であった場合――この三つの場合には、事情のいかんにかかわらず、彼らに対して、キリスト教の名誉のために、武器を手にすることが、自分に許されている任務と考えていたのである。
で、今彼は自分が二人の息子を連れてセーチに現われ、「さあ、見てくれ、どうだ、すばらしい若者を連れて来たろう」という場合や、刃の間に鍛えられた老いたる同僚一同に、二人を紹介する場合や、軍隊教育と同じく、自分が騎士の重要な資格のひとつと考えている乱酒|爛酔《らんすい》とに、彼らの最初の手柄を目撃する場合などをあらかじめ想像して、一人で悦《えつ》に入《い》っていた。彼は最初息子たちだけをやろうかと思った。が、彼らの若々しさ、すっきりした姿、力強い肉体を見るにおよんで、彼の軍人気質がぱっと燃え立った。で彼はすぐその翌日、彼の強情な意志のほかにはそんな事をする必要が少しもなかったにかかわらず、彼らといっしょに自分も繰り出そうと決心した。彼はもう若い二人の息子のために、いろいろな世話をやいたり、指図をしたり、馬や馬具を選んでやったりした。何度となく厩《うまや》や納屋にも行ってみた。明日彼らのともをして行くべき下僕たちも選定した。副官のトフカチに、もしも自分がセーチから何かの便りをするような事があったら、即座に全軍を引率して出動せよという厳命とともに、自分の支配権を引き継がした。鼻唄気分であった上に、頭の中の酔いがまだ醒《さ》めずに残っていたにもかかわらず、彼は何ひとつ失念しなかった。いや、それどころか、馬に水を飲ませて秣槽《かいばおけ》の中へ大粒な上等の麦を入れてやるようにという命令をさえ、ちゃんとあたえた。そしてぐったりと疲れて、こういう心配を打ち切ってたち帰った。
「さあせがれども、もう寝なければいけない。そして明日は神様のおあたえになる事をやるとしよう。あ、寝床を敷《し》かなくていい! われわれは寝床はいらん! われわれは外庭にやすむでな」
夜はまだようやく空を抱擁したばかりであった。が、タラス・ブーリバは早々と寝につくのがつねだった。彼はゴロリと毛氈《もうせん》の上に寝転んで、羊の皮の外套に身を包んだ。夜気がかなり冷え冷えとしていたし、それに行軍などに出ないで家にいる時には、温《あった》かかげんに着ていることが好きだったのだ。彼は間もなく鼾《いびき》をかきだした。と、それにつづいて、屋敷中の者が残らずぐうぐうやりだした。方々の隅に横たわっているすべての者が、鼾《いびき》をかき、歌うような声を立てはじめた。誰よりも先に眠ったのは門番だった。若主人たちが帰って来たおかげで、誰よりも余計に祝い酒を飲んだからである。
ただ一人、哀れな母親だけは眠らなかった。彼女は並んで寝ている、換えがたい宝である二人の息子の枕元へ身をかがめた。彼女は二人の無造作に掻《か》き上げられた若々しい捲髪《まきがみ》を、櫛《くし》で梳《す》いてやり、涙でそれをぐっしょり濡《ぬ》らした。彼女はじっと二人を眺めた。あらゆる感情をもって眺めた。彼女の全身は目ばかりになったが、なお眺め足るにはいたらなかった。彼女は自分の乳房をふくませて育て、親しくあやして育てたこの二人を、ほんの一瞬間だけしか眺めることができないのだ。「私のせがれよ、かわいい、かわいい、二人のせがれよ! お前たちはこの先どうなるだろう? どんな運命がお前たちを待っているのだろう?」と、彼女は言った。かつては美しかった彼女の顔を、別人のように変えてしまった皺《しわ》の上に、涙がとどまった。実際彼女は、殺伐《さつばつ》なこの時代のすべての女がそうだったように、哀れであった。彼女はほんのつかの間だけ、情熱の火が燃え出した当初だけ、青春の血がたぎり始めたほんの最初の間だけ、愛に生きていた。と、もう彼女を虜《とりこ》にした厳酷な夫は、サーベルのために、同僚らのために、酒と遊蕩のために、彼女を捨ててしまった。彼女は夫を、年に二、三日しか見なかった。さらにその後は、数年間、風のたよりさえ聞かずに過ごした。おまけにその夫と数年ぶりで顔を合わせて、いっしょに暮らすようになってからの、彼女の生活はどんなだったろう? 彼女は侮辱を耐え忍んだ。打擲《ちょうちゃく》をさえ忍んだのであった。そして、ほんのお慈悲にしめされるに過ぎない、空疎《くうそ》な愛撫《あいぶ》を見て暮らした。遊蕩的なザパロジエがそのぶきみな色彩を投げているところの、妻なき騎士たちのこの集団の中にあって、彼女は一種不思議な存在であった。歓楽のない若さが、彼女の眼前にちらりと輝いた。と、もうその生き生きとした美しい頬や胸は、接吻を受けることもなしにしぼんでしまい、年不相応に早い無数の皺《しわ》に包まれてしまったのであった。すべての愛情、すべての感情、女の持つ優しい熱烈なすべてのものが、彼女にあってはただひとつの母の感情に変わってしまった。彼女は熱をもって、愛情をもって、涙をもって、曠野の鴎《かもめ》のように、自分の子供たちの上に心を砕いた。その子供が、かわいいかわいい二人の子供が、彼女の手から奪い去られるのだ。――今後、永久に見ることができないように、奪い去られようとしているのだ! ひょっとしたら、最初の戦争で、ダッタン人の手にかかって、首を刎《は》ねられるかも知れない。そして、路傍の猛鳥にほじり散らされるにいたる彼らの死体が、どこに横たわっているかを、彼女は知りえないであろう。彼らの体から流れ出る一滴の血をとどめるためにも、彼女は喜んで一身を投げ出すに違いない。彼女はすすりなきながら、彼らの目をじっと見つめた。その時にはもう絶対的な力を有する睡眠が、早くもそれを閉じ始めていた。彼女は思った。「ひょっとしたら、夫は、目を醒ましてから、二日ばかり出発の日を延ばすかも知れない。たぶんあの人は、お酒をひどく飲み過ぎたので、そのために、こんな早く出発する気になったのだろうから」
月は空の高みから、もうずっと前から、眠っている人びとでいっぱいになっている屋敷の全部と、柳の木のこんもりとした繁みと、屋敷を取り囲んでいる木柵が埋もれて見えないくらいに、高く延びたブリヤーン〔たきつけ用にされる茎の太いこんもりと繁る高原の草〕とを照らしていた。彼女は依然としてかわいい息子らの枕辺に立ちつくし、寸時も彼らから目をそらさず、寝ることなどはまるで考えていなかった。馬はもう夜明けの気配を感知して、餌料を食べるのを止めて、みんな草の上へうずくまった。柳の梢《こずえ》の葉がさらさら、さらさらとささやくような声を立て始めた。そしてそのささやくような音の流れは、葉の面を伝って、しだいしだいに、一番下の枝まで降り落ちた。彼女は夜が明けるまで坐り通した。少しも疲れを覚えず、できるだけこの一夜がつづいてくれるようにと、心の中で願っていた。凛々《りんりん》たる仔馬のいななきが曠野から響いてきた。太陽の最初の赤い縞《しま》が、ぱっと空に輝いた。
タラス・ブーリバは不意に目を醒まして跳ね起きた。彼は昨日言いつけたことを、何から何まですっかり憶えていた。「おい、若者たちよ、もう眠るのは十分だ! 時間だぞ、時間だぞ! 馬に水をやれよ! 婆さんはどこにいる? (こう彼はふだん自分の妻を呼んでいた)大急ぎでな、婆さん、われわれに食事の用意をしてくれい。どえらい旅に出るんだからな!」
哀れな老婆である母親は、最後の望みを奪われて、しおしおと母屋の中へはいって行った。彼女が涙ながらに朝餐《ちょうさん》に要するすべての品々を整えていたその間に、タラス・ブーリバはいろいろな指図をして、厩《うまや》の中をどたばた騒いで、二人の息子のために一番上等の馬具を自分で選び出してやった。
宗教学校の官費生だった二人の兄弟は、突然別人のようになってしまった。彼らの足には、今までの泥まみれの長靴のかわりに、銀の拍車のついた山羊皮の赤靴がはかされた。無数の襞《ひだ》や折り返しのついた黒海ほども広さのあるだぶだぶのシャロワルイ〔襞がついていて、ふつう紐でくくるようになっている広い一種のズボン〕は、黄金作りのバンドでぎゅっとしめつけられていた。そのバンドには長い革紐が縛りつけられて、いくつかの房とがらがら鳴る呼子《よぶこ》とがついていた。ぱっと燃え立つ火のような真赤なラシャのコサック服には、いろいろな模様のみごとについた帯が巻きつけられた。トルコ式の浮彫のあるピストルが帯の間へ差しこまれ、サーベルが足にぶつかってがちゃがちゃと鳴った。まだわずかしか日焼けしてしない彼らの顔は、すっかり白くきれいになったように見え、若々しい漆黒のひげが、今では何となく顔の白さといかにも青年らしい健康な力強そうな色とを、いっそうぱっと浮き立たせた。それは黄金の頂を持った黒い羊皮の帽子の下にあって、実に美しく眺められた。哀れな母よ! 彼女はこうした二人を見た時に、一言も口をきくことができなかった。そしてもう目に涙がいっぱいになった。
「さあせがれども、仕度は全部整った! もう少しもぐずついてはいけない!」と、ついにタラス・ブーリバは口を切った。「ここで、ひとつ、キリスト教徒のならわしに従って、出発前に一同の者が跪《ひざまず》かなけりゃならん」
うやうやしく扉口に直立していた若者たちまで集まって、一同は跪いた。
「それでは、二人の子の母よ、二人を祝福してやりなさい!」と、タラス・ブーリバは命じた。「二人の子供が勇敢に戦うように、つねに騎士の名誉を保つように、つねにキリストの信仰を守って立つように、さもないくらいなら、いっそのこと、二人の魂もともどもにこの世から消えうせてしまうように、ひと思いに死んでしまうように、神に祈ってやりなさい! せがれよ、お母さんの傍へ行け。母親の祈りは水の上でも陸の上でも、救う力を持っているのじゃ!」
世のつねの母のように弱々しい母親は、彼らを抱き、小さなふたつの聖像を取り出して、声を出して泣きながら、彼らの首にかけてやった。「聖なる母よ……この二人を護らせ給え……これせがれ、この母を忘れないでおくれよ、ね、……ほんの一言でいいから便りをよこしておくれよ!……」それ以上彼女はつづけることができなかった。
「さあ、せがれども、それじゃ出かけよう!」と、タラス・ブーリバは言った。
玄関の階段の側に鞍《くら》を置いた馬が並んで立っていた。タラス・ブーリバは、愛用の『チョルト〔悪魔〕』の背に飛び乗った。『悪魔』は八、九十貫もあろうという重たい物体の乗ったのを感じて、やけに後ずさりした。タラス・ブーリバはそれほど重たい肥大漢だったのである。
子供たちまでが早くも馬上の人になったのを見ると、母親は、優しい弱々しいような表情が|より《ヽヽ》多く顔に浮かんでいた次男の傍へ走り寄った。彼女は彼の鐙《あぶみ》にすがって、ぴたりと鞍に身をすりつけ、目に絶望の色を浮かべて、彼をどうしても手放さなかった。二人の頑丈なコサックがそっと彼女を抱きかかえて、母屋の中へ連れ込んだ。が、彼らが門外へ乗って出ると、年齢からいってとうてい想像のできないような、山羊そのままの身軽さで、彼女も同じく門外へ走り出て、烈しい力で馬をおし止め、夢中になって、一種狂妄な熱情をこめて、息子の一人を抱きしめた。が、彼女はまた人びとに連れ戻された。
若いコサックの二人の兄弟は、わざと色に出さないようにつとめてはいるものの、やはり幾分か平静を欠いている父を恐れ憚《はばか》って、涙を抑え、錯雑した気持で馬を走らせた。どんよりした灰色の日であった。野の緑が生き生きと輝いている中を、小鳥が妙にふぞろいに啼《な》いていた。しばらく馬を飛ばせてから、彼らは後を振り返って見た。彼らの荘園は地下へ埋没したかのようであった。質素な彼らの家の二本の煙突と、その昔彼らがリスのように枝から枝と渡り歩いた木々の梢《こずえ》とが、地上に見えているだけだった。眼前には、露深い草の上に寝転んだ時代から、生き生きした敏速な足を踏ん張って、こわごわ飛び越えて来る眉の黒いコサックの少女を草の上で待っていた時代までの自分たちの生涯の物語を思い出すことのできる、草原が開けていた。と思う間に、今はもう、尖端に荷車の輪を縛りつけた釣瓶《つるべ》の竿が、寂しく空に突き出して見えるだけになった。もう彼らの通り過ぎた平原は、はるか彼方に山のようになって眺められ、すべてのものをさえぎり隠した。――さようなら、幼年時代よ、かずかずの遊戯よ、何もかも、さようなら!
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三人の騎士はいずれも黙々として乗り進んだ。老いたるタラス・ブーリバは遠い昔のことを考えていた。と、自分の一生が青春だけであってくれればいいと願っているコサックにとって、涙の種である過去の年月、ふたたび返らぬ青春の時代が、その眼前を走馬燈のように馳《は》せ過ぎた。彼はセーチで会うだろう昔の同僚たちのことを考えた。誰と誰はもう死んでしまったし、誰と誰はまだ生きていると、彼はそれらの人びとを指折り数えた。涙が睫毛《まつげ》の上に、ぽっちりと一粒まるく浮かんだ。そして雪白の彼の頭は、愁《うれ》わしげに前方へかしげられた。
息子らはまた息子らで、違う思いに沈んでいた。が、この二人については、もう少し語る必要がある。後になれば、すっかり忘れてしまうようなやり方であったにもかかわらず、この当時の大官たちが、自分たちの子供に教育を授けることを必要だと考えていたので、数え年十二の時に、彼らはいずれもキエフのアカデミーへ入れられた。彼らはその当時、寄宿舎へはいって来たすべての生徒と同じように、野育ちのままで野蛮であった。兄のオスタップは入学したその年に早くもそこを逃げ出すという、始末の悪い行動を皮切りとする、自分の経歴を作り始めた。彼は連れ戻されて、こっぴどくひっぱたかれて、ふたたび書物の前に坐らせられた。四度彼は自分の字引を土中に埋め、そして四度、残酷に笞《むち》打たれたあげく、新しいのを買ってあたえられた。が、もしも彼の父が彼に向かって、貴様が学校の学科を残らず修得できないようなら、今後満二十カ年修道院の僧房へ叩きこんで修業をさせるぞ、という厳しい約束をあたえ、永久にザパロジエの土を拝ませないようにしてやるぞと、あらかじめ誓ってみせなかったら、疑いもなく彼は五度同じことを繰り返したに違いない。ありとあらゆる学問を罵倒して、われわれがすでに見た通り、自分の子供たちに向かってけっして学問などにふけってはいかぬと忠告した当のタラス・ブーリバが、このようなことを言ったのだからおもしろい。
その時からオスタップは、異常な熱心さで、退屈な書物の前に坐るようになってきた。そしてまもなく優等生の部類にはいった。この時分の教育は実際の生活様式とおそろしくかけ離れていた。それらのスコラスチック〔煩瑣《はんさ》な〕な、文法的な、修辞学的な、また論理的なこまかい詮索は、ぜんぜん時代と没交渉で、けっして実際に当てはまるようなことがなく、繰り返されるようなこともなかった。そうした教育を受ける学生たちはその知識を、比較的スコラスチックな臭味の少ない知識さえ、何物にも結びつけることができなかった。実人生の体験からぜんぜん遠ざかっていた結果、当時のもっとも深い学者その者が、他の普通の人びとよりいっそう無学であった。のみならず、寄宿舎の自治制度、若い壮健な連中がおそろしく多数寄り合っているという事実――すべてこれらのものが、彼らの学業以外に、活動の天地のあることを、彼らに教えたに違いない。時々の悪い賄《まかない》、時々加えられる断食の罰則、はつらつとした健康な頑丈な青年の内部に目醒める種々の欲望――これらのすべてがいっしょになって、その後ザパロジエで完全に発達するにいたったあの勇敢さを、彼らの内部へ植えつけたのである。
飢えたこれらの生徒たちは、キエフの街々を馳せ回って、すべての人を警戒させた。市場に店を張っている物売りの女どもは、前を通りかかった彼らの姿を見るが早いか、まるで牝鷹《めたか》が自分の子供をかばうように、両手を拡げて、いつも饅頭《まんじゅう》やドーナツやカボチャの種子を押し隠すのであった。これらの学生はぜんぜんかけ離れたひとつの別世界を作っていた。ポーランドやロシア貴族によって組織されている上流社会へ、彼らは足を踏み入れなかった。
オスタップは、非常な努力で、論理学と神学とを学び出したにもかかわらず、どうしても容赦ない笞打ちを免れることができなかった。すべてこれらの事実が彼の性格を荒々しくして、コサックを特色づけている断乎たる気風を、彼に伝えずにいなかったのは自然であった。オスタップはつねに優良な生徒の一人と数えられていた。よその庭園や菜園を荒らし回るなぞという乱暴な企てに、めったに餓鬼大将の役を勤めるようなことはなかった。が、そのかわり、彼はいつも、勇敢な生徒の旗印の下に真先に馳せ参ずる連中の一人であった。そしてどんな場合にも、自分の同僚を裏切らなかった。いかなる笞打ちも棍棒《こんぼう》での殴打も、彼にそういう振舞いをさせることはできなかった。彼は戦争と、飲めや歌えの乱痴気騒ぎ以外の、あらゆる誘惑に対して冷淡であった。少なくとも、ほとんど一度も他のことを考えたことなどなかった。彼は自分と同等の者に対して実に直情径行であった。彼はこうした時代にこうした性格にのみ存することができた、そうした特殊な形における『善良さ』の持主だった。哀れな母の涙に彼は心から動かされた。そしてそれのみが彼の心を波立たせ、物思わしげに彼をうなだれさせていた。
弟のアンドリイは、兄より幾分活発な、そして幾分発達した、諸々の感情の持ち主であった。彼は兄よりも感興をもって、素直に楽に勉強した。兄よりも才走っていた。で、しばしば彼はかなり危険をともなう悪さの大将になった。そしてしばしば、その才走った頭のおかげで、兄のオスタップがあとさき見ずに、ゆるしを乞わねばならぬことなど少しも考えずに、部屋着をそこらへかなぐり捨て、床の上へごろ寝をして、そのたびごとに厳罰を受けたのに引き換えて、うまくそうした罰則を免れることができた。彼もやはり、すばらしい勲功を立てたいという熱望に燃えていた。が、同時に彼の魂は、その他の感情を受け入れていた。彼が十八歳の峠を越えた時、恋愛の欲望がぱっと胸に燃え立った。その焼きつくような空想の世界には、女の姿が刻一刻と頻繁《ひんぱん》に想像されるようになってきた。哲学の講義を聞きながらも、絶えずみずみずしい、目の黒々とした、優しい女の姿をまのあたりに見つめていた。柔らかな、美しい、何物にもおおわれていない、むき出しの女の腕、つややかに光り輝く弾力のある女の胸が、ひっきりなしに彼の眼前にちらちらした。彼女の清浄|無垢《むく》な、同時に精力絶倫な肉体にからみついている着物までが、彼の空想の中では、言うに言われぬ、甘い、とろけさすような一種の気持を発散していた。彼は熱烈な青春の魂のこうした動きを、注意深く自分の級友たちに隠していた。なぜなら、この時代においては、戦闘の味も知らないうちに女や恋を考えるということは、コサックにとって不名誉であり恥辱であると考えられていたからである。概してこの最近の二、三年、彼はどんな徒党の頭《かしら》にもなることなどめったになかった。が、そのかわり、桜の園の中へ消えて行くキエフの寂しいどこかの横町の、招くように往来を見ている低い家々の間を、一人とぼとぼ歩くようなことが、前よりずっと多くなった。時々彼は貴族たちだけが住んでいる街区へも――つまり、小ロシアとポーランドの貴族だけが住んでいて、家々がある種の好みによって建てられている、今の『旧キエフ』へも足を踏み入れた。
ある日、この辺をぶらついていて、うっかり何かに見とれていると、どこかのポーランド貴族の馬車が、ほとんど彼をひきかけた。そして御者《ぎょしゃ》台に陣取っていたいかめしいひげの生《は》えた御者が、かなり手ひどくぴしゃりと鞭で彼を打った。若い宗教学校生徒はかっとなった。彼はいきなり力強い手をさしのべて、狂暴な大胆さで、馬車の後輪をつかんで引きとめた。が、仕返しを恐れた御者は馬に一鞭あてた。馬は一散に走り出した。――そして、いいあんばいに、車輪をつかんでいた手を放すことができたけれども、アンドリイは前のめりにばったり倒れて、泥の中へまともに鼻面を突っ込んだのである。猛烈な笑い声がいっせいに窓際の頭上で破裂した。彼は瞳をもたげた。そして、生まれてこのかた一度も見たことのないような、すごい美人が、つい目の前にいるのを発見した。
漆黒の瞳をした、朝日の光にぱっと薄赤く照らし出された雪のように白く輝かしい女であった。彼女は|しん《ヽヽ》からおかしそうに笑っていた。そしてその笑いが目の眩《くら》むような彼女の美しさに燦爛《さんらん》たる魅力をあたえていた。彼はぶるぶるとおののいた。完全に度を失い、無我夢中で、顔から泥を落としにかかり、いっそうなすりつけるような結果をきたしながら、彼女を見つづけた。この美人は全体何者だろう? 美々しく着飾り、一塊りになって、門の向こうに弾奏しているバンドラ弾きを取り囲んで立っている召使の連中から、彼はそれを探り知ろうと思った。が、泥だらけな彼の顔を見ると、彼らはどっと笑い声を立てて、返事を恵んでくれなかった。けれども彼は、ついにその女性が、しばし逗留《とうりゅう》するつもりで来たコブノの将軍の息女であることを探知した。と、すぐその翌晩、彼ら宗教学校官費生特有な大胆さをもって、彼は柵を乗り越え、女の家の庭園へ飛び降り、屋根の下へ枝を広げている木立に登った。そしてその木立から屋根へ移り、暖炉の煙突の中をくぐって、まっしぐらに思う女の寝室へ闖入《ちんにゅう》した。彼女はそのとき蝋燭《ろうそく》を前に腰をおろして、高価な耳飾りをはずしているところだった。美しいポーランドの娘は、突然自分の前に立ち現われた見知らぬ男の姿を見ると、腰をぬかさんばかりに驚いて、一言も口がきけなかった。が、一人の宗教学校官費生が、目を伏せて、恐ろしさに手を動かすこともできずに、突っ立っているのを見きわめ、さらにその生徒が、往来で、しかも自分の面前で打ち倒れた、あの人物であることを見きわめると、ふたたび笑いが彼女をとらえた。のみならず、アンドリイの顔つきには恐ろしいようなところが少しもなかった。彼は生来非常な美少年だったのである。彼女は心の底から存分に笑った。そして長いこと彼を弄《なぶ》りものにした。
この美人は、ポーランドの女のつねで、軽率だった。彼女は美しい、明るい、射ぬくようなその目で、長いことじっと視線を彼の顔に注いでいたが、やがて大胆にそばへ歩み寄って、彼の頭へ燦然《さんぜん》たる自分の髪飾りをつけ、その唇へ耳環をつるし、金糸の刺繍《ししゅう》の施された、透明な薄絹の肌衣をかぶせた。哀れな宗教学校官費生はまるで袋の中へでもくくりこまれたようで、手を動かすことさえできなかった。彼女はこうして彼を飾りたてて、無分別なポーランドの女の特質として、彼をいっそう大きな狼狽に陥れた子供そのままの無遠慮さで、彼の体に種々様々の悪戯《いたずら》をした。彼はただ口をあけて、眩《まぶ》しいような彼女の瞳をまじまじと見ながら、滑稽《こっけい》な姿をさらしていた。このとき扉口に、こつこつというノックの音がして、彼女を驚かした。
彼女は彼に寝台の下へ隠れよと命じ、ひとまず不安が去るや否や、ダッタンの捕虜である召使の女を呼んで、そっと彼を庭へ連れ出し、庭から垣根越しに往来へ送り出すように言いつけた。が、われらの親愛なる宗教学校官費生は、今度はそううまく垣根を躍り超えるわけにはいかなかった。番人が目を醒まして、巧みに彼の足をとらえた。そして集まって来た家僕らは、彼がその速い足のおかげでそこを逃げ出すまでの間、彼を往来へ引きずり出して、長いこと袋叩きにしたのである。この将軍のところには従者が多くいたので、それ以来、この家の傍を通るのは非常に危険だった。
彼は彼女と、その後一度教会堂で出くわした。彼女は彼の姿をそれと認めて、旧《ふる》い馴染《なじ》みの者に見せるような、嬉しそうな笑みを浮かべた。さらに彼は今一度、彼女の姿をちらりと見かけたことがあった。その後間もなくコブノ将軍は出発した。そして美しい、瞳の黒い、ポーランドのこの娘のかわりに、でぶでぶ肥った見知らぬ顔が、その家の窓から往来を見るようになった。
……うなだれて、自分の馬のたてがみの上へ瞳を落として、アンドリイは当時のことを心の中で思いかえしていた。その間に、曠野はもう彼ら一同を、とうにその緑の懐に抱き入れていた。丈高い青草が四方を取り巻いて彼らの姿をおおい隠した。黒いコサックの帽子が、それらの草の穂と穂の間に、ちらちらと見え隠れするだけであった。
「やれ、やれ、やれ! おいせがれども、何でお前たちはそんなに温和《おとな》しくなったのだ?」と深い黙想からわれに返り、やがてタラス・ブーリバは口を開いた。「まるでお前たちはそこいらの坊主どものようじゃないか! さあ、くだらない考えはひと思いに、みんな芥溜《ごみため》へ捨ててしまえ! 煙管《きせる》をくわえろ、一服やろう。それからまた馬に拍車を当てて、鳥もつづいて飛べないような、猛烈な勢いですっ飛ばせろ!」
やがてコサックの一行は、いずれも馬の背に身を屈《かが》めて、雑草の中に姿を没した。もはや黒いコサック帽さえ見られなかった。おしつぶされる草の波だけが、矢のように早い彼らの疾駆の跡を見せているにすぎなかった。
掃き清められたような空に太陽はもうとうに顔を出して、生き生きとした、温かいその光を、曠野一面に降りそそいでいた。彼らの胸のうすら睡たいどんよりとしたものは、一瞬にしてすべて発散した。そして彼らの心臓は小鳥のようにおののいた。
先へ進めば進むほど、曠野はますます美しくなった。この当時は南ロシアの全部が――黒海の岸にいたるまでの、今のいわゆる『ノウォラシヤ〔新ロシア〕』となっている広大な天地のすべてが、青々とした、まだ何人の足にも踏み荒らされない、茫漠たる無人の処女地であった。野生の雑草のはてしない波の上を一度も犁《からすき》が分け入ったことはなかった。ただ馬だけが、林の中に身を没するように、雑草の中に身を没しながら、ひずめにかけるだけだった。
自然界にはこれ以上美しいものはなにもありえなかった。大地の表面は黄緑色の大洋の眺めをなして、さまざまの花が数かぎりなくそこに咲き乱れていた。細く丈高い茎を押し分けて、空色や、青や、連翹色《れんぎょういろ》のオロシカが咲き出ていた。黄金《こがね》色のエニシダがピラミッドのような頭を空に突き出していた。白いウマゴヤシは傘《かさ》のような帽子を拡げて野面を点々と彩《いろど》っていた。どこからどうして運ばれて来たのか神のほかには知る由もない麦の穂が、ひと塊りになって実を結んでいた。その細々とした根の下陰へ、鷓鴣《しゃこ》が首をのばして潜りこんだ。大気は種々の小鳥の数かぎりないさえずりでいっぱいになっていた。空にはハゲタカが、翼を拡げ、じっとその目を草の上へ釘づけにして、ひとつところを舞い飛んでいた。横手の方へ飛び移って行く野鴨の群の叫び声が、どこか知れないはるか彼方の湖水に反響した。草の中から一羽の鴎《かもめ》が、なだらかな羽ばたきをして飛び立ち、青々とした大気の波の中をみごとに泳いだ。みるみるそれらは高く高く飛び上がって、そしてもうただひとつの黒点となってちらちらしている。見よ、彼女は翼を翻《ひるがえ》した、そして太陽の前を掠《かす》め過ぎた……おお、たまらない、曠野よ、お前はまあ何と美しいのだろう!……
われらの親愛なる旅人らは、昼食をとるためにほんの数分間だけ休憩した。と、彼らの供をして馬でつづいて来た十人のコサックの一隊も、馬から降りて、ウオッカのはいっている木製の容器と、食器がわりの乾燥した瓜との包みを解いて、獣脂のついたパンや、薄い餅《もち》などをほうばり、タラス・ブーリバが道中でのウオッカを絶対に許さなかったので、ほんの気づけに、盃で一杯ずつ酒を飲んだ。そして彼らは夕方まで旅をつづけた。夕方になると、曠野《こうや》はすっかり趣《おもむき》が変わった。雑然たる色調だった野面《のづら》全体が、太陽の輝かしい最後の反射に包まれて、しだいしだいに暗くなってきた。そのために、影が曠野の表面を通り過ぎたように思われた。曠野はついに暗緑色になってしまった。水蒸気がいっそう、もうろうと立ち昇った。あらゆる花のひとつひとつ、あらゆる草の一本一本が香気を放った。曠野全体が、馥郁《ふくいく》たる香気にむせかえった。暗青色の空の面には、まるで刷毛《はけ》ではいたように、赤みがかった黄金色の広い縞《しま》が幾つも引かれ、軽やかな透明な雲が時々白いいくつかの塊りになって漂い過ぎた。そしてきわめて清々《すがすが》しい海の波のように魅力に富んだ微風が、雑草の項《うなじ》をかすかに揺すって、そっと頬をなでてゆく。昼間鳴り響いていた小鳥の音楽はことごとく鎮《しず》まって、ほかの新しい音楽にかわった。まだらの土鼠の群が、自分たちの穴から跳り出して、後足で立って、かん高い鳴き声を曠野一面に充満させた。きりぎりすの羽ばたきもいっそうはっきり聞き取れるようになった。時々はるか彼方の湖水から白鳥の鳴き声が飛んで来て、銀のような音を立てて空中に鳴り響いた。
旅人の一行は野のただなかに馬を留めて、野営の場所を定め、焚火《たきび》をして、鍋をかけて、バターを入れた粥《かゆ》をぐつぐつと煮立てた。湯気が立って斜めに空中へ条を引いた。夕食を終えると、コサックたちはめいめいの馬の足を結わえて草の上へ放してやり、寝についた。彼らはめいめいのスゥイトカ〔長いだぶだぶした小ロシアの上着の一種〕を敷いて、その上に手足をのばした。夜空の星がまともに彼らを見下ろしている。彼らはめいめいの耳で、草原に充満しているいろんな昆虫の世界の数かぎりない音楽を聴いた。彼ら昆虫類のささやき、叫び、さえずり――それらのすべてが夜のまっただなかにかん高く響き、清々しい大気に洗われて、睡たい耳に子守唄のように働きかけた。もしも彼ら旅人の誰かが身を起こして、しばらく立っていたならば、彼には曠野全体が、こうこうと輝く無数の羽虫の光でいっぱいになっているのが見られたであろう。時々夜空のあちこちが、方々の牧場や河岸で焚く蘆《あし》の枯木の火の遠いほのかな反映で染められた。そして、北方をさして飛んで行く白鳥の、黒々とした行列が、不意に薔薇《ばら》色がかった銀色の光に照らし出され、そのたびごとに、たとえば真赤なハンケチが、暗い空の面を飛んで行くように見えるのだった。
旅人は何事もなく旅をつづけた。どこまで行っても彼らは樹木に出会わなかった。どこまで行っても同じ姿の、茫漠としてはて知れぬ、原始のままの美しい曠野であった。ほんの時たま、横手の方に、ドニエプル河の岸に沿うてつづいているはるか彼方の林の頂《いただき》が、水色にかすんで見えるだけであった。ただ一度、タラス・ブーリバが二人の息子に、遠い彼方の草の上に黒ずんで見える小さい斑点《はんてん》を指さし、そして言った。
「あれ見い、せがれども、ダッタン人が馬を飛ばして行くぞ!」
長いひげを蓄えた小さな首が、遠くの方から、その小さい目をまともに彼らの上へ釘づけにして、猟犬のように空気をかいだ。そしてコサックが十三人もいるのを見て取ると、羚羊《かもしか》のように姿を消した。
「おい、せがれども、あのダッタン人に追いついてみい! いやよすがいい。――とてもお前たちなんぞでつかまえられるものじゃない。ダッタン人の馬はわしのこの『チョルト〔悪魔〕』よりもっと速いぞ!」
とはいえタラス・ブーリバは、どこかに伏兵が隠れているかも知れないことを慮《おもんぱか》って、その警戒をした。彼らはドニエプルへ注ぐ『ダッタン川』と呼ばれている小川の方へ馬を走らせ、ざんぶと中へ乗り入れて、自分たちの足跡をまぎらすために、長いこと川の中をわたり、進み、そして初めて岸に上って、さらに旅をつづけて行った。
それから三日後には、一行はもう彼らの旅の目的地から遠からぬ地点に行き着いた。大気は急に冷たくなった。彼らはドニエプル河の間近になったことを感知した。見よ、河は向こうの方にきらきらと輝いている。そして黒々とした縞《しま》をなして地平線からくっきりと分かたれている。河は冷たい大気の波を漂わせ、刻一刻と間近に展開し、そしてついに、大地の全面の半分ほどを占有した。それはいままで幾多の岩石によって狭《せば》められていたドニエプルが、ついに自由の天地を得て、思いのままに氾濫して、海のようにどうどうと鳴りとどろいている場所であった。そこでは中流で投げ散らされたようになっているいくつかの島が、両岸からさらに遠くの方まで流れを押し拡げ、波が渓《たに》丘にも出会わずに、広々と地上に拡がっているのだった。
コサックの一行は馬から降りて渡船に乗り、三時間も水の上で過ごした後で、しばしばその所在を変更するセーチのこの当時の所在地だったホルティツア島の岸に上った。
一団の人が岸に立って、がやがやと渡し守どもと罵《ののし》り合っていた。コサックの一行は馬の手当てをした。タラス・ブーリバは威儀を正し、ぎゅっとバンドを締め直し、傲然《ごうぜん》と片手でひげをしごいた。若い二人の息子も、一種の恐怖と漠然たる満足とを覚えながら、頭のてっぺんから足の爪先まで、めいめいの姿を見上げ見下げした。そして彼ら一同は、セーチから五百メートルの地点にある、隣接部落へ乗りこんだ。乗りこむと同時に、地面の中を掘り抜いて、そして芝土でおおった、二十五個の鍛冶場で打ちおろす五十の鉄槌《てっつい》の、轟然たる音響が、彼らの耳をがんと打った。頑丈な皮職人らが往来に面した階段の傾斜の下に陣取って、逞《たくま》しい手でごしごしと牛の皮を揉《も》んでいた。一文商人が小舎の陰に、石の山や、大縄や、火薬をかかえて坐っていた。一人のアルメニア人が高価なハンケチ類をかけ連ねていた。ダッタン人が羊肉に煉り粉をつけて串ざしにしたのを乗せたカトック〔輾輪〕を回していた。ユダヤ人が首を前の方へ突き出して、樽からウオッカを注いでいた。が、彼らが第一番に出くわしたのは、道のまん中に手足を延ばして眠っているザパロジエの男であった。タラス・ブーリバは馬をとめて、この男に見惚《みほ》れずにはいられなかった。
「ほい、何て大威張りにふんぞり返っていやがるんだろう! ふう、こいつ、実に立派な体つきをしているなあ!」こう彼は言った。
実際それは、かなり大胆な図であった。ザパロジエ人は、獅子の寝そべったように、往来に手足を延ばしていた。誇らかに投げ出された彼の髻《たぶさ》は、四十センチ近い場所を占有していた。高価な赤ラシャのズボンは、こんなものは何でもないよと言わぬばかりに、惜し気もなく樺《かば》の脂で汚されていた。しばらく見惚れてから、タラス・ブーリバは狭い往来をさらに押し分けるようにして進んで行った。往来は思い思いの手職に従事している職人たちと、セーチのこの隣接部落に充満しているあらゆる種族の人びとで塞《ふさ》がれ、ちょうど、市場のような状況を呈していた。この部落は、ぶらぶらと暮らすことと鉄砲を撃つことのほか芸のないセーチの連中に、衣食を供給しているのだった。
ついに彼らはこの部落を通り抜けて、芝におおわれたり、あるいはダッタン風に毛氈《もうせん》でおおわれたりしている廠舎《へいしゃ》の、そこここに散在している眺めを発見した。それらの廠舎のあるものには、いかめしく大砲がすえつけられてあった。どこにも垣根や、いましがた通って来た隣接部落に見られたような、低い木の柱に看板をかけた低い家などは見られなかった。何人にも守られていない小さな城壁と鹿砦《ろくさい》とが、そこの連中の恐ろしい放任ぶりを示していた。往来のまっただなかにパイプをくわえて寝転んでいた数名の頑丈そうなザパロジエ人が、かなり冷然と彼らを眺めて、その場所を動かなかった。タラス・ブーリバは息子たちとともに注意深く彼らの間を乗り進んだ。そして言った。
「みなの衆、ご機嫌よう!」
「あんたもご機嫌よう!」と彼らは答えた。
野原全体、いたるところに、絵に描いたような塊りをなして人びとが点々と散在した。その浅黒い顔によって、彼らがすべて戦火に鍛えられ、あらゆる惨苦をなめてきたことが、それと知られた。ああ、ここがそうだ、セーチなのだ! 獅子のように頑丈な傲慢なすべての者の飛びこんでくる、ここがその巣だ、洞穴なのだ! 何物にも撓《たわ》められない意志とコサック魂とが、すべてここからほとばしり出て、ウクライナの全土にみなぎり渡るのだ!
旅人の一行は、いつも会議の開かれる広々とした広場へ馬を乗り進めた。大きな樽を逆さにした上に、シャツも着ない一人のザパロジエ人が腰かけていた。脱いだシャツを手に持って、綻《ほころ》びを繕《つくろ》っているのだった。彼らはまたしても音楽隊の一群に道をさえぎられた。それらの連中の中央に若い一人のザパロジエ人が、帽子を横っちょにかぶり、両手を延ばして、踊っていた。
「もっと景気よく弾いてくれい、みなの衆! おいファーマーよ、正教を奉じているわれわれキリストの信者に、ウオッカを出し惜しんじゃならねえぜ!」彼はただこう繰り返すだけであった。そして、ファーマーと呼ばれる片目を射抜かれためっかちの男が、まわって来る一人一人に、金など取らないで、それも大きな盃に、なみなみと注いでやるのだった。
若い件《くだん》のザパロジエ人の周囲を、老人が四人で取り巻いて、かなり小刻みに足を踏み交わし、旋風のようにさっとわきの方へ、高々と、ほとんど音楽をやっている楽手たちの頭の辺までも跳び上がったり、かと思うと今度はまた、不意に身を沈めて、プリシャトカ〔蹲跳び〕に移ったりしながら、平らに叩きならされた地面を、急激に、そして猛烈に、めいめいの靴の銀色の裏鉄《うらがね》で叩いている。大地は轟然《ごうぜん》とそこらいっぱいに鳴り響いた。そして彼らの靴の凛々と響く裏鉄の衝動によって生み出されるどたばたという音響は、空中に、遠くはるかに響き渡った。が、一同の中のある一人が他よりいっそう元気よく叫び、一同の足並みについて踊り飛んでいた。髻《たぶさ》は風に吹き乱され、頑丈そうなその胸はすっかりはだけられていた。彼は暖かい毛皮の冬外套に手を通していた。で、玉なす汗が、まるで桶から水をぶちまけるように、体から流れ落ちていた。
「おい、その毛皮の外套だけでも脱ぐんだなあ!」とついに見かねて、タラス・ブーリバは言った。「みろ、まるで茹鮹《ゆでだこ》のようじゃないか!」
「脱がれねえよ!」とそのザパロジエ人は叫んだ。
「なぜ?」
「これは脱がれねえよ。脱いだら売りとばして酒にするのが性分だでなあ」
なるほど、この若者の頭には帽子がなかった。上着の飾り帯も、刺繍のついた頭巾《ずきん》もなかった。みんなとうの昔にしかるべく『料理』されてしまったのである。
群集の数は次第に増した。後から後からいろんな新手が踊りの列に加わった。この世に今まで現われたうちでもっとも自由な、狂暴な、そしてその創始者の名称にちなんで、コサックの踊りと呼ばれているこの舞踏が、いっさいのものを奪い去ってしまう有様は、胸の内部に怪しい動乱を感ずることなしに、見ているわけにはゆかなかった。
「えいくそ、この馬さえなけりゃなあ!」とタラス・ブーリバは叫んだ。「そしたらほんとに、わしもこの踊りに飛び入りをするんだがなあ!」
とかくするうち、この群衆の中には、その功労によってセーチ全体の人びとに尊敬されている、そしてしばしば長老職に坐ったことさえある、雪白の髻《たぶさ》をいただいた老人連中までが、見られるようになってきた。
タラス・ブーリバはまもなく知り合いの多くの人びとにでくわした。オスタップとアンドリイとは、次のような挨拶の言葉の交わされるのだけを耳にした。
「ああ、いや、これはこれは、ペチェリツァさん! ほう、ご機嫌よう、コゾルプさん!」
「どこからお越しになられたかな、タラス・ブーリバさん!」
「君はまたどうしてこんなところへ寄られたのじゃ、ドロト? いよう、キドゥリヤガか! ご機嫌よう、グストゥイ! おお、レメーニ、貴公に会おうとは思わなかったぞ!」
そして東部ロシアの自由放縦な世界から集まって来たこれらの勇士たちは、互いに接吻をとり交し、それからすぐに、つぎのような質問が発せられた。
「コスィヤンはどうした?」
「ボロダフカはどうした?」
「コロベルはどうした?」
「ピトゥスイショクはどうした?」
そしてこれらの質問の返事として、タラス・ブーリバが受けたのは、ボロダフカがトロパンで絞殺されたということ、コロベルはキズィキルメンの近くで生皮を引き剥《は》がれたということ、ピトゥスイショクの首は樽の中へ塩漬けにして、ツァリグラット〔帝都という意味〕へ送られたということだけであった。老いたるタラス・ブーリバは悄然とうなだれて、陰鬱な調子で言った。
「どれも立派なコサックだったがなあ!」
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もはや一週間ほどタラス・ブーリバは息子たちとともにセーチに暮らした。オスタップとアンドリイとはあまり軍事教育を受けなかった。セーチの人びとは調練によって自己を苦しめ、時間を費やすことを好まなかった。ここの青年たちは、争闘|殺戮《さつりく》の渦中における実地の体験によってのみ養育され、また教育されたのであるが、そうした争闘殺戮はほとんどひっきりなしに行なわれた。コサックたちは、射的をやったり、たまに競馬や、曠野や牧場に獣を放して追撃する催しなどをやる以外に、そのあいだあいだや暇な時間を、軍規に類するものの研究に費やすのを、退屈な仕事と考えていた。余分な時間はすべて『あそび』に、精神的自由のかぎりない発展の表徴たる逸楽に捧げられていた。
セーチ全体が、異常な光景を呈していた。それは止むことのない大酒宴であった。騒々しく始められて終わりを知らない舞踏会であった。彼らのある者は手職に従事していた。またほかのある者は店を開いて商いをやっていた。が、大部分の者は朝から晩まで、そのポケットに飲み代がじゃらついているかぎり、身につけたそれらの宝が小商人や酒屋の亭主の手に渡ってしまわないかぎり、飲めや唄えの大騒ぎをしているのだった。この一般的な大酒宴は蠱惑《こわく》的な何物かを内に蔵していた。それは悲しさから馬鹿飲みをする自棄酒《やけざけ》飲みの集まりではなかった。喜びのあまり桁《けた》をはずした、大酔歓喜の酒宴であった。ここへやって来るすべての者は、その時まで自己の心を占有していたいっさいのものを忘却し放擲《ほうてき》した。そしてその男は、自分の過去につばを吐きかけて(と言ってもよかった)彼自身と同じように、自由な天と自己の魂の永遠の饗宴とのほかに、身内も、家も、家庭も持たない連中の仲間づきあいと、気随気儘《きずいきまま》な生活とに、身をゆだねるのであった。それは他のいかなる悦楽の泉からも生まれ出ることのできない、あの気も狂うような激しい喜びをかもし出していた。
ほうぼうから集まって来て、だるそうに地面へ身を投げ出して休んでいる群集の間に交される物語や無駄話は、しばしば非常な滑稽《こっけい》味を帯び、生き生きした魅力に富んでいる。で、それを聞いて、ひげの端すら動かさずにじっと不動の表情を保ってゆくためには、ザパロジエ人のあの冷静な外貌を持っていなければならなかった。それがまた今日まで、南のロシア人が他の同族と異なっている著しい特徴でもあった。遊興はいつも底抜けのはしゃぎぶりで、実に騒々しかった。しかしそれは、人を損なう暗い歓楽によっていっさいを忘却させる有害な酒場ではなかった。それは学校同僚の親密な集まりの延長であった。学校生活と現在の生活の差異はただ、字指し棒を手にして机の前にちゃんと坐って、教師たちのうとましい講義を聴いているかわりに、五十頭の馬の轡《くつわ》を並べて遠征に赴くのをつねとする、という点だけであった。球投げをして遊ぶ原っぱのかわりに、彼らの前には、何の防備も施されていない不安な国境が展開し、そのためにダッタン人が不意に首を突き出したり、緑の頭巾をかぶったトルコ人がじっとぶきみにのぞいたりする。学校で強制的な意志によってひとつに結びつけられていたのに引き換えて、彼らはみずから父母を捨て、父母の家から走り出て、来たり集まったもののみであるという点。――これが両者の差異であった。ここには、首のまわりに飾り紐をゆらゆらさせ、蒼白い死のかわりに灼熱の生を見出した人びとだけが密集していた。
高尚なそのならわしから、ポケットの中へばら銭を入れておけない人々がいた。そこには今なお一枚の貨幣を富と考えている人びと、何か落としはしないかという心配もなしに、ポケットの底をはたくことができた人びとがいた。アカデミーの懲戒に耐えかねて、学校から一字も身につけずに飛び出して来た宗教学校官費生たちがここにはいた。が、そうした連中といっしょにここにはまた、ホラティウス、キケロ、ないしローマの共和政治が、どういうものであるかということを、ちゃんと知っているような連中もあった。その後勃発した王者たちの戦争に武名をとどろかした士官の多くがここにいた。どこに戦争があるのでもかまわない、高尚な人間が戦争をせずにいるのはよろしくないのだから、とにかく戦争をやる方が好いという立派な信念を持っているところの、教育のある、経験を積んだバルチザンの多数があった。わがはいはセーチへ行って来たのだ、したがってもはや押しも押されもしない|れっき《ヽヽヽ》とした騎士になったのだと、後で誇りたいために、やって来たような連中もあった。ようするに、そこにはどんな連中もいたのである。この不思議な共和国は、この時代の要求にほかならなかったのである。武人の生活、黄金の大杯、燦然たる錦襴《きんらん》などの愛好家およびオランダの古銭やスペインの古銭などの愛好家たちは、いつ何時でもこの地に仕事を見つけることができた。ただ一人、この地で目的を達することができないのは、女を崇拝する連中だけであった。なぜなら、セーチの隣接部落には女は一人も姿を見せる勇気を持たなかったからである。
オスタップとアンドリイの二人には、自分たちの見る前で無数の人びとがぞくぞくとセーチへやって来るのに、一人として、あの連中はどこから来たのか、どういう連中で何と呼ばれているのかと、たずねる者のないことが、ひどく不思議に思われていた。彼らはまるでこの土地へ、一時間ほど前に用たしに出て、今自分の家へ帰って来たといったような、そういう調子でやって来るのだった。新来の者は団長のところへだけ出頭する。と、団長はいつも言うのだった。
「よく来た! どうじゃ、キリストを信じているのじゃろうな?」
「信じています!」と彼は答える。
「三位一体も信じているじゃろうな?」
「信じています!」
「教会へ行くじゃろうな?」
「参ります!」
「よろしい、じゃ十字を切りなさい!」
新来の客は十字を切る。
「それでよし!」と団長は答える。「しかるべき班の廠舎へ行くがいい」
これでいっさいの儀式は終わりなのである。
そこでセーチの全員がひとつの教会堂で祈祷《きとう》をやって、断食や禁欲を守ることはしなかったけれども、最後の血の一滴の流れつきるまで、教会を守護しようという覚悟の臍《ほぞ》を固めるのであった。
が、こういう連中の間にあって、猛烈な利欲にそそのかされているユダヤ人や、アルメニア人や、ダッタン人だけは、大胆にもセーチの隣接部落に住んで商売をやった。というわけは、ザパロジエの人びとはいかなる場合にも、値切ることを好まなくて、ポケットからつかみ出しただけの金を、すっかり払ってくれたからだった。が、欲の皮の突っ張ったそれらの小商人の運命は、じつに惨めなものであった。彼らはまるでベスヴィアス火山の麓《ふもと》に住まっている人びとのようだった。なぜなら、ザパロジエの人びとの懐《ふところ》に金がなくなってしまうが早いか、その中の勇敢な連中がたちどころに彼らの店を叩きこわして、商品を略奪したからである。セーチは六十以上の廠舎からなっていた。そしてそれらの廠舎は、個々別々に独立した共和国に似ており、それよりもなおいっそう、すべて先方任せに生活している学童たちばかりの、学校または官立の宗教学校に酷似していた。一人として何の生産をする者もなく、一人として何の物品を所有する者もなかった。すべてのものが廠舎の隊長の手中にあった。そこで通常隊長は『親父さん』という名称を持っていた。金、被服、すべての糧食、燕麦《えんばく》、粥《かゆ》、薪炭《しんたん》の類にいたるまで、ことごとく彼の支配下にあった。彼は金銭の保管も一任されていた。廠舎同志の間に争いの起こることもまれではなかったが、そういう場合には、ただちに格闘にまでいたるのだった。それらの廠舎の人びとは広場を埋めて、勝負のつくまで鉄拳で互いに横腹を殴り合う。そして勝負がついてしまうと手打ちの大酒宴が始まる。若い人たちの目にすばらしい魅惑を持っていたセーチは、正にこういったところであった。
オスタップとアンドリイは、若人のありとあらゆる情熱をもって、この狂乱の海へ躍りこんだ。そしてまたたくうちに、父の家をも、学校をも、今まで自分の心を波立たせていたいっさいの事物をも、きれいに忘れ去って、新しい生活に没頭した。放逸無為を事とするセーチの慣習、こうした気随気儘《きずいきまま》の共和部落の中では、あまりに厳しすぎるとさえ時には思える、簡単明瞭な規則や掟《おきて》――すべてが二人の心を占有した。コサックの中で窃盗を働いたり、くだらない物でも盗んだりするような者があれば、ただちにコサック全体の名誉を汚すものとされ、この上ない恥知らずとして、柱に縛られる。そしてその傍へ樫《かし》の棒が備えつけられ、そこを通行するすべての人が、彼をその樫の棒で殴らなければいけないのだから、終局殴り殺されてしまうのだった。借金を払わない者は鎖で大砲に結《ゆ》わえつけられた。そして友だちの誰かが自分にかわってその借金を払って身柄をもらい受けようと決心しない以上、いつまでもそこに大砲とにらめっくらをしていなければならないのであった。
が、アンドリイの胸にもっとも深い印象をあたえたのは、殺人犯に対する恐ろしい刑罰であった。彼の見ているつい目のまえで、人びとは穴を掘り、殺人者をそこへ生き埋めにして、その上へ彼の殺した人間の死骸を封じこめた棺桶をすえつけた。それからこの両者にどしどし土をかけてしまったのである。その後長い間、この恐ろしい死刑のやり方が絶えず眼先にちらついた。そして恐ろしい棺桶といっしょに生き埋めにされた男の姿が、いつまでも思い出されるのであった。
まもなく若い二人のコサックは、その他のコサックたちと親密な仲になった。彼らはしばしば自分の廠舎の同僚たちの誰彼といっしょに、時には廠舎中の同僚からほかの廠舎の連中までいっしょになって、ありとあらゆる野禽《やきん》や鹿や山羊などを撃ちに、曠野に出掛けて行ったり、あるいはまた籤《くじ》引きで各廠舎に割り当てられた湖水や河や支流へ出掛けて行って、曳き網や打ち網を投げて、自分たちの廠舎全体の者の口に入れるおびただしい獲物を漁《すなど》ったりした。そこにはコサックの日々の実際の学問で試されるようなことはなかったけれども、しかも二人はその持ち前のひた押しに押して行く剛気と、万事にわたっての運のよさとで、早くもほかの若者たちの間に、認められるようになってきた。二人は活発に、ねらい違わずに、標的を射た。流れに逆らってドニエプル河を泳ぎ越えた。これは、新参者がコサックの社会へ大威張りで歓迎されるに値する離れ業だったが、彼らはそれをやってのけたのである。
が、老いたるタラス・ブーリバは、彼らのために、さらにほかの活動を用意していた。そうした安逸無為の生活が彼にはいらなかった。――真の仕事らしい仕事を彼は欲していた。何とかしてセーチを、騎士にふさわしい、彼らの気を紛らすことができるような、勇壮活発な意図にまで高めようと、彼は絶えず小首をひねっていた。ついにある時、彼は団長のもとへ出向いて、露骨に切り出した。
「どうじゃろう、団長、ザパロジエの連中も、そろそろ繰り出していい時分じゃが」
「繰り出して行くところがないでなあ」と細いパイプを口からはずして、ぺっとわきへつばを吐いて、団長は答えた。
「何で行くところがないと言われるのじゃ? トルコへなりダッタンへなり繰り出せるのに」
「トルコへもダッタンへも行けませんのじゃ」とふたたび冷然とパイプをくわえて、団長は答えた。
「どうして行けないのじゃろう?」
「されば、われわれはサルタン〔トルコ王〕に平和を約したからな」
「しかしご承知じゃろうが、彼は回教徒じゃ。神も聖書も、マホメット教をこらしめよと命じているではないか」
「われわれにその権利はないのじゃ。もしも彼らがわれわれの宗教によって誓わないのだったら、また方法がないでもない……かも知れないが、今は駄目じゃ、できませんな」
「どうしてできない? われわれに権利がないなんて、どうしてそんなことを言われるのじゃ? ごらんのとおり、わしには二人のせがれがある。二人ともまだ血気さかんの若者じゃ。そしてまだどちらも戦争に行ったことがないのじゃ。だのに貴公は言わっしゃる、われわれには権利がないなんて。ザパロジエの人びとは出征をする必要がない。――こう貴公は言わっしゃる」
「さよう、もうそれは穏かでないのでな」
「なるほど、して見ると、何じゃな、コサックの力が空しく滅び、大の男いっぴきが何ひとつ善事をせずに犬のようにくたばって、わが祖国にもキリストの教えにも何の利益をももたらさずに灰になってしまうのが、穏かな行ないだと言われるのじゃな? いやさ、立派な行ないだと言われるのじゃな? それじゃいったいわれわれは何のために便々と生きながらえているのじゃ、何を目当てに生きていますのじゃ? それを説明してもらいたいものだ。貴公はかしこい御仁じゃ。貴公が団長に選ばれたのもけっして故ないことではないのじゃよ。何を目的にわれわれは生きているのか、それを教えてもらいたいのじゃ」
団長はこの詰問に答えをあたえなかった。彼は片意地なコサックだった。彼はちょっと口を噤《つぐ》んでいたが、やがて言った。
「とにかく、戦さには行かぬのじゃ」
「戦争にはどうしても行かないのじゃな?」タラス・ブーリバはふたたびたずねた。
「さよう」
「ではもうこの問題についてはぜんぜん考える余地がないのじゃな?」
「考える余地など少しもありませんわい!」
「こん畜生。待っていろ!」とタラス・ブーリバは心の中で怒号した。「今に思い知らせてやるからな!」そして即座に、この団長に復讐してやろうと思い決めた。
数人の者とあらかじめしめし合わせて、彼はその一同に酒をふる舞った。酩酊したコサックたちは、五、六人ひと塊りになってまっしぐらに広場へまろび出た。そこには非常召集の時に通常叩く幾つかの大太鼓の、杙《くい》に縛りつけられたのが立っていた。いつも鼓手の手に保管されていて、そこには橦木《しゅもく》がなかったので、彼らは手に手に一本ずつ木の枝を取って、ドロロン、ドロロンと叩き始めた。太鼓の音を聞きつけて、誰よりも真先に、|めっかち《ヽヽヽヽ》の、しかも恐ろしい寝ぼけ眼の、のっぽの鼓手が駈けつけた。
「誰だ、太鼓を打つなんて大それたことをやりやがるのは?」と彼は怒鳴った。
「黙れ! 命令だ、橦木を握って、ドンとやれい!」とぐでんぐでんになった三、四の長老たちが答えた。
こういった事件の恐ろしさを熟知していたので、鼓手はねじこんでいた橦木をポケットから取り出した。太鼓はドロン、ドロンととどろいた。――と、まもなく広場に、地蜂のようにうようよと、ザパロジエのコサックの黒い塊りが集まり始めた。一同は車座になった。そして第三の太鼓の音がとどろき渡ると、ついに長老連までが全部姿を現わした。――自分の威厳の徴《しるし》である杖を手にした団長、軍の印綬《いんじゅ》を持った裁判官、インキ壺をぶら下げた書記、笏《しゃく》を握った副官。こういう人びとまでが姿を現わしたのである。
団長と長老たちとは帽子を脱いだ。そして両手を腰に突いて傲然《ごうぜん》と立っているコサックたちに向かって、四方八方にお辞儀をした。
「この非常召集はどういうわけじゃ? みなさん、どうしてくれいと言わるるのじゃ?」と団長は言った。が、罵詈《ばり》の声と叫び声とが彼に話をさせなかった。
「その杖を置け! 畜生、たった今ここでその杖を置いてしまえ! もう貴様を団長にいただくのはまっぴらだ!」という叫び声がコサックの群の中から突っ走った。酒に酔っていない廠舎の連中の三、四の者が、これに反対しようとしたらしかった。が、廠舎の連中は、酔っているものも素面《しらふ》の者も、いっせいに拳による決裁に突進した。叫びと騒音が全部に共通のものとなった。
団長は何か言いたいと思った。が、そんな発言でもしたら、猛り狂った奔馬のような群集が、こういう場合によくある伝で、自分を叩き殺すかもしれないことを知っていたので、彼は平身低頭して、杖をそこに置いて、すごすごと群集の中へ姿を隠した。
「みなさん、われわれもめいめいの威厳の印を返還いたしたらよろしいでしょうか?」と裁判官と書記と、副官とが言った。そして即座にインキ壺と印綬と笏とをそこへ置こうと身がまえた。
「いいや、貴方がたは現職のままでいてください!」と群集の中から人びとは叫び出した。「われわれはあの、団長のやつをお払い箱にすればそれでいいんだ。あいつはおなごじゃからな。われわれの団長は男でなけりゃならないからな」
「それならいったい、今度は誰を選びなさる?」と長老連中が言った。
「ククベンコを選べ!」と一部の者は叫んだ。
「ククベンコは嫌だ!」と他の一部の者が叫んだ。「やつはまだ早すぎる。やつの唇にはまだ乳の汁が乾いていない!」
「シイロを団長にいただこう!」とある者は叫んだ「シイロを団長の座にすえよう!」
「貴様の|どてっ《ヽヽヽ》腹へそのシイロ〔大針〕をすえてやるぞ」罵詈《ばり》の調子で群集は叫んだ。「畜生、あの野郎はダッタン人のように、盗みをしやあがったじゃないか。あんな野郎が何のコサックなもんか! あんな大酒喰いのシイロなんか、袋の中へ叩っこんで、鬼に食わせてしまうことだ!」
「ボロダトイを、ボ、ボ、ボロダトイを団長にしよう!」
「ボロダトイは嫌だ! ボロダトイなんか鬼婆の懐へ放りこんじまえ!」
「キルジャガをって、怒鳴ってくれい!」とタラス・ブーリバが三、四の者にささやいた。
「キルジャガを!」
「キルジャガを!」
「ボロダトイを!」
「ボロダトイを!」
「キルジャガを!」
「キルジャガを!」
「シイロを!」
「シイロなんてくそ喰らえ!」
「キルジャガを!」
群集は口々に怒鳴った。自分の名前が呼び上げられたのを耳にすると、これらの候補者は、みなその選挙に自分たちが陰で運動していると思われるような、いかなる動機をも作らないため、ただちに群集の中から離れ去った。
「キルジャガを!」
「キルジャガを!」
という叫びが「ボロダトイを!」という他の叫びより猛烈に鳴り響いた。拳によって裁決することになった。その結果、キルジャガが勝ちを制した。
「キルジャガを呼んで来い!」と群集は叫び出した。十人ほどのコサックがすぐ群集の中から飛び出した。その中のある者は、ぐでんぐでんに酔っ払って、ほとんど立っていられないくらいであった。そして一同は、キルジャガが選ばれたことを告げるべく、まっしぐらに彼のもとへとんで行った。
老年ながらも利口なコサックであるキルジャガは、とうの昔に自分の廠舎に引き籠って、事件についてはぜんぜん知らないもののようであった。
「みなさん、何です? 何のご用かな?」こう彼はたずねた。
「来てください、貴方は団長に選ばれたのだ!……」
「かんべんしてください、みなさん!……」とキルジャガは言った。「わしのどこにそんな名誉を受ける資格がありましょう! わしのどこに団長になれるような値打ちがありましょう! それにまた、そのような役目をはたすには、わしは知恵もたりませんしな。まだわれわれの陣中には、わしなどより傑《すぐ》れた者が、いくらでもありますのじゃよ!」
「とにかく来てください、貴方を呼んで来いというんだ!」とザパロジエのコサックは叫んだ。中の二人は彼の腕をとらえた。そして、足を突っ張って抵抗したにもかかわらず、とうとう彼は、罵る声を浴びせられ、拳固と足蹴とを後方から見舞われ、「畜生、尻込みするない! せっかく下さるというんだから、よぼ犬め、その名誉をお受けしろい!」という勧告を受けながら、例の広場へ引っ張り出され、コサックの車座の中に立たされた。「どうだ、諸君」彼を引っ張って来た連中が全員に向かってこう言った。「このコサックがわれわれの団長になることに、諸君は賛成か?」
「一同賛成!」と群集は叫び出した。そしてその叫びのために、野面全体がしばらく轟々と鳴り響いていた。
長老の一人が杖を取って、新たに選ばれた団長にそれを奉呈した。慣例に従って、キルジャガはすぐに辞退した。長老は今一度それを捧げた。キルジャガはふたたび辞退した。そしてようやく三度目に、初めてそれを受けたのである。でかしたという賞賛の叫び声が、群集全体に鳴り響いた。そしてふたたび野面全体がコサックの叫び声で遠くのはてまで轟然《ごうぜん》となった。このとき群集のただ中から、ひげや髪まで雪をいただいた一番老年のコサックが四人進み出て、(セーチにはあまりに年とった連中はいなかった。というわけは、ザパロジエのコサックの中には、命数のつきるまで無事に生きている者はなかったので)雨降りあげくでどろどろになっていた土を各自の手に握って、それを彼の頭に乗っけた。どろどろの土は彼の頭から流れ下って、ひげや頬っぺたに溝を作り、顔をすっかり泥だらけにしてしまった。が、キルジャガはそこを動かずに、直立していた。そして自分にあたえられたこの名誉に対して、彼はコサックたちに感謝した。
タラス・ブーリバがこおどりして喜んだように、そのほかの連中も喜んだかどうかは分からなかったが、かくして騒々しい選挙は終わりを告げた。タラス・ブーリバはそれによって前の団長に復讐したのである。のみならず、キルジャガは彼の昔の同僚で、戦地の生活の艱難辛苦《かんなんしんく》をともに分け、彼といっしょに水陸両方面のいろんな遠征に参加した人であった。群集はすぐ当選の祝賀をやるべく四散した。そこで、オスタップとアンドリイが、今まで一度も見たことのないような、すばらしい大酒宴が始まった。
酒店はことごとく徴発を受けた。蜜、ウオッカ、ビールの類が、金も払うことなしに、さっさと持ち運ばれた。酒店の亭主たちは、自分たちの命に別条のなかったことを、せめてもの幸いと喜び合った。一夜は軍の手柄を賞賛する唄と叫び声との中に過ぎていった。やがて顔を見せた明けがたの月が、それからなお長いこと、バンドラや、トルバンや、まるいバラライカなどを持って往来を練り歩く音楽手らと、教会で聖歌を唱えザパロジエ軍の威力を賛美するために、とくにセーチに抱えられていた教会の聖詩朗誦師たちとの、断続する群を見下していた。ついに、爛酔《らんすい》と疲労とがさすがに頑強な彼らの頭をも支配し始めた。あちこちにコサックのごろりごろりと地面へ倒れるのが見られた。一人のコサックがその相棒をしっかりと抱いて、感きわまって涙さえ見せながら、いっしょにごろりとまろび臥《ふ》したのが眺められた。そこにはちょこちょことひと塊りになって、一団の連中が倒れていた。もっと具合よくやすめる所をと、しきりに探し回ったあげく、木の切り株の上に陣所をかまえた者もあった。一番酒の強い男が最後にたった一人、なかば正気で、なおがやがやとわけのわからないことをしゃべり立てていた。ついにその男も酔の力に引き倒されてごろりと横になった。――かくてセーチ全体が深い眠りに落ちた。
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翌日タラス・ブーリバは早くも新任の団長と額を寄せあい、ザパロジエのコサックを戦争に奮起させようとして、議を凝《こ》らした。新団長はりこうな、むしろ老獪《ろうかい》なコサックで、どうしたらザパロジエ人の意を迎えることができるか、どうしたら逆らうことになるかを熟知していた。で、まず彼は言った。
「誓いを破るわけにはゆきませんなあ、絶対にそれはできませんなあ」
が、しばらく口をつぐんだ後に、やがてまたこうつけたした。「何、かまわない、できますわい。誓いを破らずにすむ、何かいい分別をしようじゃごわせんか。おお、そうだ、みなの衆に集まってもらいさえすりゃそれでいい。もっとも、わしの命令ということではなしに、各自の自由意志でということにせにゃまずいが――そのやり方はよくご承知のはずじゃ。――そこでわしも長老たちを連れて、まるで何も知らないような顔つきをして、すぐにみんなの集まっている広場へ駈けつけるという寸法じゃ」
彼らの合議がすんでから一時間とたたないうちに、はやドロン、ドロンと太鼓の音が鳴り響いた。と、ぐでんぐでんに酔っ払っていたコサックたちまでが、不意に、何事だろうと思ってわれに返った。無数のコサック帽がにわかに広場をいっぱいにした。声が起こった。
「誰が? 何のために? どういう事件で非常召集が行なわれたのか?」
が、誰も答えない。ついに、あちこちの隅々で、こんな声がし始めた。
「コサックの力が空しく滅びつつある。戦がないのだ! 長老たちは惰眠を貪っている。脂肪で目が塞がってしまったのだ! どうやら世の中が間違ってるらしいな!」
ほかのコサックたち一同は、最初耳を傾けているだけだった。が、やがて彼らもしゃべり出した。
「いやまったく、世の中が間違ってるんだ!」
長老たちはこうした言葉を聞いて、度胆をぬかれたようであった。ついに、団長が前へ進み出て言った。
「ザパロジエのコサック諸君、わしに一言述べさせて下さい!」
「謹聴!」
「私がただいま申し上げたいと思いますのは、諸君もおそらく私よりいっそうよくご存知だろうと考えますが、ほかでもない、わが親愛なるザパロジエの多くの者が、ユダヤ人の酒店の亭主や自分たちの同胞に、悪魔でもなければ本当にできないほど、おびただしい借金をしているのであります。それからさらにまた諸君のご名断に訴えたいと思いますのは、ほかでもありません。みなさんもよくご存知のごとく血気さかんな若者は元来戦争なしにいられないはずなのじゃが、しかもその戦争とはどんなものか、まだ目《ま》のあたり見たことのない者が、ずいぶんおりますのじゃ、回教徒を一度も殺したことがないとしたら、どういうザパロジエ人ができあがるでありましょうか」
「巧いことを言うぞ」とタラス・ブーリバは思った。
「けれども、諸君、平和を破らんがためにこんなことを言っているのだなぞとは思わないで下さい。とんでもないことじゃ。私はただありのままを言っているにすぎません。おまけにわれわれのところにある会堂は――申すも恐れ多いことではあるが、神の御恵みによってこのセーチが設立されてから、すでに幾星霜を閲《けみ》しているでしょう。しかるにじゃ――しかるにそれは今日にいたるまで、外面から見て、教会と申されるような代物《しろもの》でないのみならず、さらにその聖像のごときは、何の飾りもなくむき出しのままになっているのであります。――もっとも、銀の袈裟《けさ》を作っておかけすることにしようと、考えついた者があるにはあったのじゃが……聖像はただあるコサックが遺言書に書き記したものだけしかもらい受けませんでした。それにそのコサックの喜捨は貧弱なものでありました。というわけは、存命中にほとんど全財産がのまれてしまったからであります。私がこんな演説をやりますのは、回教徒と戦争をやりたいためではありません。われわれはすでにサルタンに平和を約したものであります。そしてすでにわれわれの掟《おきて》によって誓いを立てたのであります。したがって、これを破るようなことがありましたら、大なる罪を犯したことになるのであります」
「何だってあんなに奴《やっこ》さんは、変に離脱するんだろう?」とタラス・ブーリバは心の中でそう思った。
「こういう次第でありますから、諸君、戦争を始めることができないわけはおわかりになりましたでしょう。騎士の名誉がそういう卑劣を許さぬのであります。が、しかしながらじゃな、しかしながら、私はこの貧弱な頭によって判じまして、こういうように考えるのであります。若い連中だけをチョルン〔刳船《くりぶね》〕に乗せて繰り向けて、ちょっとアジアの沿岸を荒らさせるくらいはかまわない。――こう思うのですが、いかがでしょうか、諸君!」
「連れてけ、連れてけ、みんな連れて行け!」と群集が八方からわめき出した。「この信仰のためになら、われわれはいつでも首を差し出すことを辞さぬ者だ!」
団長はびっくりした。ザパロジエ全体を奮いたたせようなどとは望んでいなかった。平和を破るということがこの場合、彼には不正なことのように思われていたのである。
「諸君、いま一言私に言わせていただけないじゃろうか?」
「たくさんだ!」とザパロジエのコサックは叫んだ。「もう何にも言わない方がいい!」
「それならそれでかまいません。わしは諸君の意志の忠実な下僕じゃ。もはやわかりきったことでもあり、聖書から申してもわかりきったことではありますが、民の声は神の声なりじゃ、みなさんが頭を揃えて工夫したものより、巧いものを工夫することはできません。ただ諸君、諸君はすでにご存知でしょうが、サルタンは、わが若者たちの享楽する満足を、指をくわえてそのままにして置くことはないでしょう。もちろん、その場合はまたその場合で、ちゃんと準備はできていることだし、われわれには生き生きした力があるはずで、もちろん誰をも恐るるにはあたりません。がしかし、ここを空《あ》けている間に、ダッタンのやつばらが襲来するかも知れませんぞ。彼らトルコの犬どもは、まともに正面から向かって来ず、主人の家へ近寄る勇気さえ持ち合わせていないくせに、妙に背後から踵《かかと》に噛《か》みつくくせがある。それもひどく噛みつくのですぞ。それに、実のところを申し上げると、われわれの手もとには食糧も弾薬も、全軍が出動するには不足を告げる状態じゃ。けれどもどうか諸君の望むままに――どっちにしてもわしは嬉しいのじゃ。わしは諸君の意志の忠実な下僕じゃ」
老獪《ろうかい》な団長は口をつぐんだ。群集は互いにがやがやと話し始め、廠舎の隊長たちは寄り合って合議を始めた。幸いにも酔漢は少ししかいなかった。で、彼らの聡明な助言に従おうということになった。
とりあえず数人の者がドニエプルの対岸にある兵器庫へ派遣された。そこには、絶対に入ることのできない幾つかの秘密室や、または水の底や蘆《あし》の繁みのただ中に、種々な軍需品と敵から分捕った兵器の一部とが隠されてあった。そのほかのすべての人びとは、船の検査をして、出帆の準備を整えるため、それらのチョルンの引き揚げられている場所へ飛んで行った。またたく間に岸は群集でいっぱいになった。何人かの大工が斧《おの》を手にして現われた。年老《としと》った、日焼けした、肩幅の広い、頑丈なザパロジエのコサックは、ひげに霜のあるような連中も、まだ黒々としている程度の連中も、ことごとくズボンをまくり上げて膝の辺まで水に浸って、頑丈な縄で、岸から何艘かのチョルンを引き降ろしにかかった。ある人びとはまたもきちんと割り揃えられた、よく乾燥した丸太をはじめとして、あらゆる材木を引っ張って来た。向こうの方ではチョルンに板底を張っていた。こちらではもう別なチョルンをひっくり返して、隙間埋めをしたり、樹脂を塗ったりしていた。またある場所では、それらのチョルンが海の怒涛《どとう》に沈められないようにという配慮から、コサックの習慣に従って、長い蘆の束にしたのを、左右の舷へ縛りつけていた。さらにその向こうの方では、河岸に沿うてずっと火が焚《た》き起こされ、船底に塗るための樹脂が、ぐつぐつと鍋《なべ》で煮られていた。すでに何度か遠征した経験を持っている老人たちは若い連中に教えていた。こつんこつんという槌《つち》の音と働いている人びとのかけ声とが、周囲一面に起こって、河岸は生き生きと活気づき、揺れ動いた。
このとき大きなパロム〔平底船〕が岸へ近づき始めた。そこに乗っている人びとは遠く離れている時分からしきりに手を振っていた。それはぼろ服をまとうたコサックの一団であった。彼らのだらしない服装は――多くの者には、シャツと歯の間にはさんだパイプのほか、何にもなかった――それらの連中が、ある恐ろしい不幸からたった今|遁《のが》れて来たばかりなのか、さもなければ、素っ裸になるまで飲んだくれて来たのだ、ということをしめしていた。彼らの中から、ずんぐりした、肩幅の広い、五十前後のコサックが、独り離れて前へ進み出た。彼はほかの誰よりも猛烈に手を振って叫んでいた。が、労働している連中の槌《つち》の音と叫び声にのまれて、その言葉はさらに聞き取れなかった。
「何でやって来たのだ?」
船が岸の方へ回転した時に、団長がたずねた。仕事をしていた一同は、手を休め、斧やみのをもたげて、どういう返事をするかと目をすえた。
「災難に遭いましたので!」パロムの中から、|ずんぐり《ヽヽヽヽ》したコサックが答えた。
「どんな?」
「ザパロジエの諸君、われわれにその話をさせてくれますか?」
「話せ、話せ!」
「それとも、ひとつ、集会を開くことにしますか?」
「ここで言うがいい、われわれは全部ここに来ている!」
群集はひと塊りに寄り合った。
「諸君はいったいゲチマンシチナにどんなことが起こっているか、本当に知らずにいるんですか」
「して、何が起こったのじゃ?」と廠舎の隊長の一人が言った。
「えい、何が起こったかとは情ないなあ! 貴方がたが何にも聞きこんでおられぬところを見ると、ダッタン人のやつらは貴方がたの耳に栓をしたと見えますな!」
「話してくれ、あっちでどんなことが起こっているのか?」
「|おぎゃあ《ヽヽヽヽ》と生まれて、洗礼を受けてこの方、一度も見たことがないような、恐ろしいことが起こりましたのじゃ」
「この野郎、どんなことが起こっているのか、早く話せい!」とついに待ち切れなくなって群集の一人が怒鳴り出した。
「ただ今はもう教会が私どものものでないような、そういう時世になったのでござります」
「われわれのものでないというのはどういう訳じゃ?」
「今ではもう教会までがユダヤ人のところへ抵当に入っているのでござります。で、あらかじめ借金を返済しないことには、ミサもできないという始末です」
「何をもっともらしいことを言ってるんだ!」
「神聖な復活祭のお供物《くもつ》に野良犬のようなユダヤ人がけがらわしい手でけがらわしいしるしを付けないうちは、復活祭のお祝いもできませんのじゃ」
「諸君、あいつは嘘《うそ》をついているのだ。けがらわしいユダヤ人めが神聖な復活祭のお供物にけがらわしいしるしをつけるなんて、そんなことがあってたまるものか!」
「まあ聞いて下さい! 私の言いたいのはまだこれだけじゃない。カトリックの坊主どもがタラタイカ〔二輪車の一種〕に乗って、今じゃもう大威張りで、ウクライナのいたるところを歩いておりますぞ。いや何、やつらがタラタイカに乗って練り回るのは何でもないが、そのタラタイカの轅《ながえ》に、馬のかわりに、あろうことかあるまいことか、正教を奉ずるキリストの信者をつないで走らせる――これが実にたまらないのです。まあ聞いて下さい! 私が申したいのはまだこれだけではありません。ユダヤの女どもは、神父の袈裟《けさ》をスカートに縫いなおして、それをはくということです。諸君、こういうことがウクライナには行なわれているのですぞ! だのに貴方がたは、このザパロジエに安閑と尻をすえて、のんべんだらりと酒ばかり喰らっていなさる! なるほど、してみると、ダッタンのやつらどもが、貴方がたに、いやというほど恐ろしい目を見せたのだな。その結果貴方がたには、目も耳も――もう何にもなくなってしまったのだな。そしてこの世に行なわれていることが分からないようになったのだな」
「待て、待て」と、重大事が起こった場合、けっして最初の発作に支配されず、固く口をつぐんで、ものすごい憤懣《ふんまん》の力を平静の中に凝集するところの、すべてのザパロジエ人と同じように、じっと大地に瞳を落として、この時まで棒のように突っ立っていた団長がさえぎった。「待てい! わしも一言いおう。それで何か、お前たちはその――お前たちの親爺がそういう悪魔にそんなふうに苦しめられたのは仕方がないとして――お前たちはいったいどうしたのじゃ? まさかサーベルがなかったのでもないだろうに。あん? どうしてお前たちはそういう不法に目をおおうているのじゃ?」
「やれやれ、どうしてそういう不法に目をおおうているなんて! ……貴方やってみなさるがいい。五万の住民がみんなポーランド人ばかりなのですぞ。おまけに、何も隠すには当たらないから言いますが、われわれの間にも犬のようなやつらがおりましてなあ――もはや|きゃつら《ヽヽヽヽ》の信仰に鞍替えしてしまやがったやつもあるんであります」
「おまえたちの団長やその下の隊長たちは、いったいどうしたのじゃ?」
「隊長たちは、それはそれは恐ろしい目に遭われました」
「どうしたというのじゃ?」
「もうただ今では、団長は銅の鍋でじくじくと焼かれて、ワルシャワに臥《ふ》してお出でなさる。それから隊長がたの首や手は、みなのものに見せるために、市場をひき回されておりますので、隊長がたはそういうことをやられましたのです!」
全群集が動揺した。まず河岸全体を、猛烈な嵐の前のそれに似た、ものすごい沈黙が支配した。それから急に、いろんな叫び声がどっと爆発した。そして河岸にいる全部の者が、がやがやと騒々しく罵《ののし》り始めた。
「何だとお? ユダヤのやつめがキリスト教の教会を抵当に取ったと? ポーランドの売僧どもが正教徒を馬がわりに馬車の轅《ながえ》につないだと? 何だ? 呪わしい無信仰のやつばらがわがロシアの大地にそういう苦難を振りかけたと? わが軍の団長や隊長たちをそういう醜い目にあわせたと? よしッ、もう承知しない、そんなしゃらくさいまねはさせておかんぞ!」
こういう言葉があらゆる隅々にまで突っ走った。ザパロジエのコサックは騒ぎ出した。そして泉のように湧き立つ自分たちの力を感じた。そこにはもはや軽薄な民衆の動揺はなかった。容易にかっとしない、が、ひとたび憤《いきどお》ったが最後、自己の内部に猛烈な焔《ほのお》を、熱を、執拗にいつまでも保持する、あのどっしりとした固い性格の持主たちが、すっかり動揺したのである。
「ユダヤのやつらを残らず断頭台にかけてしまえ!」という叫び声が群集の中から突っ走った。
「キリスト教の神父の袈裟をつぶして自分たちの牝どものスカートにするなんてことを、ユダヤのやつらにさせておいてなるものか! 神聖な復活祭のお供物にけがらわしいしるしをつけるなぞというまねはさせないぞ! あの畜生どもを一人残らずドニエプル河に沈めてしまえ!」
これらの言葉が、群集の中の何人かの口から突っ走って、稲妻のようにすべての人の頭をかすめ過ぎた。そこで群集は、そこに暮らしているあらゆるユダヤ人をみな殺しにしようという望みをもって、セーチの隣接部落へと突進した。
イスラエルの哀れな息子たちは、それでなくてさえ小っぽけな魂を、芥子粒《けしつぶ》のように小さく脅えさせて、ウオッカの壜《びん》の詰まっていた空箱や、暖炉の中などへ身を潜めた。自分の女房のスカートの陰にさえはいずりこんだ。が、コサックはいたるところで彼らを見つけた。
「貴いご身分のみなさま!」と杖のようにひょろ長い一人のユダヤ人が、自分の商品の山のように積まれた間から、恐怖に引きゆがんだ醜い憐れっぽい顔を突き出して、叫んだ。「貴いご身分のみなさま! 一言私どもに言わせてください。たった一言でいいから言わせてください。私どもはみなさまに、みなさまがまだ一度もお聞きになったことのないような――どんなに大切であるか、言葉で言い現わすことができないような、そういう大切なことを申し上げたいと思うのです!」
「よし、言ってみい!」といつも被告側の言うことに耳を傾けることが好きなタラス・ブーリバは言った。
「りっぱなみなさま!」こうそのユダヤ人は言った。「みなさまのような立派な旦那方には、まだ一度もこの世でお目にかかったことはございません! 貴方がたのようにご親切な、善良な、そして勇敢な方々は、いまだかつて一度もこの世に姿を見せたためしはございません!」
彼の声は恐怖にかられてふるえた。
「私どもがザパロジエの方々を悪く思うなんて、どうしてそんなことができましょう! ウクライナに土地を借りうけておりますのは、ぜんぜん私どもと別種類のやつどもです! いいえ、まったく、私どもの仲間ではありません! あれはユダヤ人じゃありません。あれは悪魔のほかには素性を知らないけったいな代物です! ぺっとつばを吐きかけて、そのままうっちゃってしまうべき代物です! あいつらもこれと同じようなことを申すでしょう。なあ、シレマ、おい、シムリ、そうじゃないか?」
「そうだとも、まったくだよ!」と群集の中から、ぼろぼろになった帽子をかぶったシレマとシムリの二人が答えた。どちらも青菜のように真っ青になっている。
「私どもはいまだかつて」とひょろ長いユダヤ人はつづけた。「敵に心を寄せたためしがありません。またカトリックの信者なんて、知りたいとも思いません。ああいうやつらは悪魔の夢でも見てうなされるがいい! 私どもザパロジエの方々とは、血を分けた兄弟のような……」
「何だとお? ザパロジエのわれわれコサックが貴様たちと兄弟だと?」群集の一人が叫んだ。
「孫子の代までごめんだぞ、畜生! 諸君、こんなやつらはドニエブル河へ、みんな沈めてしまうのだ!」
これらの言葉が合図であった。ユダヤ人らは手をつかまれて、じゃぶんじゃぶんと怒涛の中へ投げこまれ始めた。憐れっぽい叫び声が四方に起こった。が、いかめしいザパロジエの人びとは、靴下と靴をはいていたユダヤ人の足が、空中にばたばたいっているのを眺めながら、笑っているばかりであった。
自分で自分の首へ縄をかけるような結果を招いた例のユダヤ人は、つかまえられていた上着から脱け出して、狭苦しいメリヤスのシャツ一枚になって、タラス・ブーリバの足にしがみつき、訴えるような声で哀願した。
「旦那様! あなた様! 私はあなたのお兄様を知っている者です。おかくれになったあのドロシ様を! あの方は騎士全体の花でございました。トルコに捕まって、どうしても身柄を引き取る金が要った時分に、私はあの方に八百ルーブルという大金をお上げしたことがございますので……」
「お前、兄貴を知っていたのか?」と、タラス・ブーリバはたずねた。
「知っておりましたのなんのって! 実に寛大な旦那様でございました」
「してお前の名は何という?」
「ヤンケリと申します」
「よろしい」とタラス・ブーリバは言った。それから、ちょっと口をつぐんだ後で、コサックたち一同の方へ身を向けて、こう言った。「このユダヤ人はいつだって殺せる。今日一日だけわしに預けてもらいたい」
こうことわってタラス・ブーリバは自分の荷車の方へ彼を連れて行った。その荷車の傍には部下のコサックたちが立っていた。
「さあ、この車の下へ潜め、そしてそこにちゃんと坐って、じっとしているんだぞ。それから君たちはこのユダヤ人を遁《のが》さないようにしてくれい」
こう言っておいて、彼は広場へ出掛けて行った。だいぶ前から群集の全部がそこへ集まっていたからである。群集はまたたく間に河岸をすて、チョルンの仕度を放ってしまった。なぜなら、今や水路を進むのではなくて、陸路を行くことがわかった結果、軍船や帆船のかわりに、荷車と馬とが必要になって来たからである。
もはや今では老いたるも若きもすべてが遠征を欲していた。彼らは長老たちや、廠舎の隊長たちや、団長などの合議にもとづき、またザパロジエ全軍の意志にもとづいて、まっしぐらにポーランドへ突入し、彼らの行なったあらゆる悪行に復讐し、自分たちの信仰とコサックの名誉とに加えられた汚れを洗いそそぎ、都市の財宝をことごとく分捕り、村々に火を放って穀物を焼き払い、遠くの曠野のはてまで、自分たちの名声をとどろかそうと思ったのである。すべてのものが即座に帯紐を締め直し、武装を整えた。団長は二尺以上も背が高くなった。それはもはや自由な民の軽はずみな欲望の臆病な実行者ではなかった。絶対の権力を持つ命令者であった。ただ命令するだけの暴君であった。団長が命令を伝えている間は、さすがに気随気儘な放逸遊惰な生活をしている騎士たちも、素直に首をたれて、瞳をもたげることさえせず、一糸乱れぬ整列の中に端然として立っていた。団長は自分の命令を、静かに、叫ぶような声を立てずに、急ぎこまずに、深謀遠慮によって決定された諸種の戦争の計画をしばしば実行して来たところの、この方面に深い経験を有する老練なコサックの貫禄をしめしつつ、ゆうゆうと迫らず伝達した。
「注意するんだぞ、みんなよく注意するんだぞ!」こう彼は言った。「輜重車《しちょうしゃ》の修理をやって、銃砲を一応あらためておく。衣類を多く携帯してはならん。一名あたり下着一着、ズボン二着あての割合にする。それから、粉末|粥《かゆ》と挽粉《ひきこ》の壺を一個ずつと。――これ以上は誰も携帯しないように! 必要な予備品はすべて輜重車《しちょうしゃ》に載《の》せて行く。コサックの一人一人に二頭ずつ乗馬があたるような割合にする! それから、河をわたる時や泥地を突っ切るには是非とも牛が必要じゃから、牛を二百頭用意する。が、何よりもまず、軍規を守って、厳に秩序を保って欲しい。わしは知っているが、みんなの中には、大それた欲心を持っている者があって、すぐにも分捕ったキタイリ〔南京服〕や高価なビロードの衣裳を引き裂いて、自分のゲートルに直そうとしたりする。そういう悪魔の所業は断然やめる。絶対に女のスカートなどに目をやってはならん。ただ、手に入るようなら、それから諸君、これは是非ともあらかじめ言っておきたいのじゃが、もし陣中で酒に酔いしれるような者があったら、軍法会議も何も要らぬ、野良犬のように首根っ子を引っつかんで、固く輜重車《しちょうしゃ》にふんじばること。誰でもかまわない、よしんばそいつが全軍中の勇者であっても遠慮は要らない。即座にこれを銃殺に処し、絶対に埋葬などはしてやらずに、そのまま鳥獣の餌食にしてしまうのだ。陣中で酔っ払うような不屈者《ふとどきもの》は、キリストの葬礼を受ける値打ちなどないのじゃからな。若い人たちは何事によらず年長の言うことを聴く! 敵の弾丸が頬をかすったり、サーベルで頭やそのほかの場所をなでられたりしても、そんなことにびくついてはならない。ウオッカの盃の中へ火薬をひとつかみ叩っこんで、一気に飲んでしまえば、すぐさっぱりして、熱なんか出ずにすんでしまう。もしその負傷がさほど大きなものでないなら、土を掌《て》で唾液《だえき》といっしょに練って、それを局部へ付けさえすれば、まもなくそんな傷は乾燥してしまう。それでは子供たち、それぞれ仕事に取りかかってよろしい。ただ、急がずあわてずに、よくよく注意してめいめいの仕事に取りかかってもらいたい!」
こう団長は言った。そして彼がこの訓示の言葉を終わると同時に、コサック一同はすぐ出動の仕度にかかった。セーチはすべて緊張しきって、どこにもただ一人の酔漢を見つけ出すことさえできなかった。酒に酔いしれる者など、コサックの間には絶対にないかのようであった。ある者は車輪の縁を修理したり、荷車の軸を新しく入れ換えたりした。ある者は食糧の袋を甲の輜重車《しちょうしゃ》に積みこんだり、兵器を乙の輜重車へ載せたりした。またある者は牛馬の用意に夢中になった。駒の蹄《ひづめ》の高鳴り、銃砲を試射する爆音、サーベルのがちゃがちゃいう音、牛のうなり声、あちこちねじ向けられる輜重車のきしり、話し声、景気のいい叫び声、かけ声などが、轟然雑然と四方に飛びちがった。そしてまもなく、えんえんとして長蛇のごときコサックの縦隊が、遠くはるかに野原一面に延びて行った。この縦隊の先頭から後尾まで駈けぬけようとする者があったら、その者はうんざりするほど走りつづけなければならなかったであろう。木造の小さな教会堂で神父が祈祷をあげて、『聖なる水』を一同の体に振りかけた。一同は十字架に接吻した。この長い長い縦隊がようやく出動を始めてセーチから向こうへ延びて行くようになると、ザパロジエのこれらのコサックはことごとく頭を後ろへ向けた。
「ではご機嫌よう、われらの母なるセーチの土よ!」彼らはほとんど異口同音にこう言った。「神があらゆる不幸から、あなたを守ってくれますように!」
次の部落を通過する時に、タラス・ブーリバは、ヤンケリという例のユダヤ人がもはやちゃんと天幕がけの怪しげなヤトカ〔小売り商をするためのバラック建の小舎〕のようなものを急造して、ひうち石や、捕縄や、火薬や、そのほか道中に必要な種々の軍需品を売り出しているのを発見した。
「ユダヤ人て、何という畜生だろう!」とタラス・ブーリバは心で思った。で、彼の傍まで馬を乗り寄せて言った。
「馬鹿野郎、こんなところに|のさばっ《ヽヽヽヽ》ていやあがる! 雀のように撃ち殺してもらいたいのか?」
ヤンケリはこれに対する返事として、いっそう近く彼のそばへ身をすり寄せ、何か秘密なことでも打ち明けようとする者のように、両手で変な合図をして言った。
「どうか旦那、黙って誰にもおっしゃらないで下さい。コサックの方々の輜重《しちょう》の間に、実はその私のも一台まじってますので、私はコサックの方々のために必要ないろんな品々を持って参ります。そして私は道中で、どんなユダヤ人でもかつて売ったためしがないような、思いきった安い値段で、いっさいの食糧をお納めします。いいえ、本当ですとも、嘘なんかけっして申しません。是非そうさせていただきますので、へい」
タラス・ブーリバは肩をすぼめた。あくまでもふてぶてしいユダヤ人の性質に彼は舌を巻いた。黙って隊列の方へ馬をかえした。
[#改ページ]
まもなくポーランドの西南部は恐怖の餌食《えじき》となった。「ザパロジエのやつらが来た! ザパロジエのコサックが!……」という噂《うわさ》がいたるところに拡まった。遁《のが》れることができた者はすべて遁れた。無秩序で無関心だったこの時代……要塞もなければ城壁もなく、行きあたりばったりに藁小屋《わらごや》を建てて、「小舎に金をかけたり手間をかけたりすることはない。どうせ早晩ダッタン人の侵入で焼き払われてしまうんだから!」と、そんなふうに考えていたこの時代――ある者は牛や鋤《すき》を鉄砲に換えて、軍隊に身を投じた。ある者は持てるかぎりの品物を持って、家畜とともに、身を忍ばせた。時には道中で、武装した手で相手を迎え打つような手合いに出会わすこともあった。が、早々と遁げのびてしまったのが一番多かった。その外面の気随気儘なだらしなさの中に、いざという場合のために練り上げた荒胆を蔵しているところの、ザパロジエ軍という名で聞こえる、狂暴な、好戦的なこの密集部隊と太刀《たち》打ちすることの至難なのを、すべての者がよく知っていたのである。
馬上の一隊は、めいめいの馬を疲らせたり気を立たせたりしないように、ほどよく御しながら乗り進み、徒歩の一隊は輜重の後ろについて、酒気を断《た》って粛然《しゅくぜん》と進んだ。全軍は夜間だけ行軍して、日中は休養した。そのために、彼らはいつも、まだその当時いたるところにあった森林や、人家のない場所や、荒野などを選定した。どこに何があってどういう状態になっているかを探知して報告するように、あらかじめ偵察や斥候《せっこう》が方々へ放たれた。そしてその中でもっとも用意の手薄な場所へ、しばしば彼らは不意に姿を現わした。その度ごとに、そこのすべての人びとが生命を失ってしまうのだった。――火事が村々をつかむ。軍のあとにつづかない家畜や馬は、その場でどしどし殺されてしまう。彼らは出征しているというよりもむしろ、饗宴を行なっているように見えた。ザパロジエのコサックが、いたるところで、演じて歩いた半野蛮時代の乱暴|狼藉《ろうぜき》の、恐ろしい痕《あと》を見たならば、今の人は身の毛のよだつような恐怖を覚えるに違いない。めちゃめちゃに殴り殺された小児、えぐり取られた女の乳房、かろうじて放免された人びとの、膝から下の皮を剥《は》ぎ取られた足、……一言にしてつくせば、コサックたちは過去の負債を大きな貨幣で返還したのである。ある修道院の僧正《そうじょう》は、彼らの進み近づいて来たのを知ると、二人の僧侶を彼らの陣営へつかわして、彼らがあるまじき行為に出ていることを責めさした。ザパロジエのコサックたちと政府との間にはちゃんと誓約ができているのだ。お前たちは国王に対する義務を破り、同時に国民としてのいっさいの権利を破っているのだ――こう彼らに向かって言わしめた。
「わしから、またザパロジエのコサック一同からと言って、大僧正に伝えてくれい」団長は言った。「何も恐れるには当たらない。わがコサックはまだやっと、自分のパイプに火を付けて、煙草を喫《す》い出したばかりというところなんだから。――こうそのまんま伝えるんだぞ」
まもなく壮麗をきわめた修道院の大|加藍《がらん》が、破壊の火焔に包まれた。僧侶やユダヤ人や婦女子らの右往左往しながら遁れ去る群れは、たちまちのうちに、守備隊を擁し、市街を破壊して一物をも敵にあたえないようにしているそこここの町をいっぱいにした。時たま政府が派遣する少しばかりの軍隊から成る遅ればせの救援軍は、敵にめぐりあうことができないか、あるいは怖《お》じ恐れて、出遭うと同時に後ろを見せて、悍馬《かんば》に鞭《むち》を当てながら、いっさんに逃げ去るのだった。過去における何十度となき戦争にこれまで一度も敗れたことがないという、帝王直属の将軍たちの多くが、その力をひとつにあわせて、ザパロジエのコサックと乗るかそるかの大勝負をやってみようと決心したこともしばしばだった。そういう場所は、若いコサックたちの腕試しの場所となった。彼らは掠奪や、利欲の満足や、弱敵などには鼻もひっかけなかった。ただもう老年古参の連中に自分たちの腕を見せてやりたいという希望――たくましい悍馬《かんば》にまたがって、肩に引っかけた上着の両袖を風のまにまになびかせながら傲然と胸を突き出している、向こう見ずな自惚《うぬぼれ》の強いポーランドの貴族と、一騎打ちの勝負をしたいという希望――に、胸を燃やしているのであった。生きた学問は利益になった。彼らはもはや自分のために、馬具や、貴重なサーベルや、鉄砲の類を分捕っていた。たったひと月のうちに、若いコサックたちはすっかりおとなびてしまった。やっと羽の生えたばかりの雛鳥《ひなどり》だったのが、まるで生まれ変わったような押しも押されもせぬ男いっぴきに変身した。今まで青年らしい一種の柔かみの見られていた容貌が、急に恐ろしげな、獰猛《どうもう》なものになってしまった。
老いたるタラス・ブーリバには、二人の息子が二人とも、もっともすぐれた連中の中に入っているのを見ることが楽しかった。
兄のオスタップには、生まれながらにして、武人の道と知識とが、ちゃんと備わっているようだった。いかなる場合にも、度を失って取り乱すようなことがなく、二十二歳の若者としてはほとんど不自然に近いくらいの冷静さをしめしながら、またたく間にあらゆる危険と事件全体の状勢とを測定して、ただちに、その危険から逃れる手段を、しかも後で必ずその危険を打ち負かしてやれるような手段を、見つけることができた。今ではその行動が、実験ずみの確信をもって、行なわれるようになって来た。そしてそれらの行動のうちには、将来三軍を叱咤《しった》する勇将になりうる傾向が認められた。その体からは『頑丈』その物がいつも脈々と漂って来た。そしてその騎士気質はもう、かの獅子の内部にあるような、強い力を獲得してしまった。
「おお、そうだ、こいつはそのうちに立派な隊長になるじゃろう!」とタラス・ブーリバは一人つぶやいた。「確かに立派な隊長になるぞ。いやそれどころか、この親爺を鼻であしらうような大物になるだろう!」
が、弟のアンドリイは弾丸と剣とが合奏する魅惑的な音楽の世界へすっかり没入してしまった。前もって自他の力を考察したり、計算したり、測定したりすることが、いかなることを意味するかを知らなかった。彼は生命の取り合いの行なわれているその修羅場《しゅらば》に、気も狂わんばかりの歓喜と法悦とを見出していた。頭がかっと熱して、目の中に何物かがちらちらして、はっきり物が見えなくなる。ぽんぽん首がすっ飛ぶ。どさりと地響きを立てて馬が倒れる。そのとき彼は、酔いしれているように、弾丸のうなりの中、サーベルの光の中を疾駆《しっく》しながら、手当たり次第に大刀を浴びせる。しかも浴びせられた者の叫びなどはぜんぜん耳に入らない。――こういう境地に、さながら大|饗宴《きょうえん》のような物が彼には見えるのだった。彼が燃えるような感情ひとつに動かされて、冷静なりこうな人の絶対に敢行しそうもないようなものに猪突《ちょとつ》し、そして気も狂うような緊張をもって、戦争に慣れた古武者《ふるつわもの》さえびっくりせざるをえないような、数々の奇蹟を成し遂げる、その有様を眺めながら、老父タラス・ブーリバは、彼にも同じく一再ならず驚嘆の目を見張った。そして老父タラス・ブーリバは驚嘆するたびにこう言うのだった。
「あいつもなかなか見所のあるやつじゃ――ただ敵のやつらがあの向こう見ずな先生をつかまえるようなことがなければいいが! なにしろ一人前の軍人じゃ! オスタップとは違うが、やはりあいつも軍人じゃ、立派な一人前の軍人じゃ!」
遠征軍はまっしぐらにドウブノへ突入することに決定した。そこには官金があり、富裕な住民がたくさんいるという噂《うわさ》が拡まっていた。一日半にわたる強行軍が行なわれてザパロジエのコサック軍は目的地である町の前面に現われた。この町の住民たちは刀折れ矢玉のつきるまで防ぎ戦おうと決心した。おめおめ敵を自分たちの家へ侵入させるより、いっそ自分たちの家の前の往来で死ぬ方がましだと彼らは思った。高い土の城壁が町の周囲を取り囲んでいた。その土の城壁がほかより低くなっているところには、高い石垣や、砲台の役を勤める建物か、あるいは樫の木柵などがそびえ立っていた。守備隊は強かった。使命の重大であることを感じていた。ザパロジエの軍勢は、無二無三にその城壁を乗り越えようとして、猛烈ないっせい射撃にあった。町に住んでいる町人階級の人びとも、安閑として傍観することができず、集団を作って、城壁の上に立っていた。彼らの目には死物狂いの抵抗の色を読むことができた。婦人も参加しようと決意した。そこで、ザパロジエ軍の頭上へは、石塊だの、樽《たる》だの、壺だの、熱湯だのが降って来た。ついには、目つぶしの砂の入った袋までもが雨霰《あめあられ》と落下した。
ザパロジエの軍勢は要塞戦を好まなかった。包囲攻撃は彼らの得手ではなかった。団長は後退を命じ、そして言った。
「何でもないぞ、みんな。われわれはひとまず後退する。が、しかしじゃ、しかし、われわれがもしあいつらの中のただ一匹でも、町から外へ出すようなことがあったら、わしはキリスト教徒でなく、呪わしいダッタン人だ! ふん、畜生ども、その閉じこめられた町の中で、一人残らず飢え死をしてしまいやがれ!」
ザパロジエ軍は後退して、遠巻きに町を包囲した。そして何もすることがないところから、近郊近辺の掠奪《りゃくだつ》をやり始め、周囲の村々を焼き払い、まだ取り入れられずにあった麦のにおに火を放ち、皮肉にもちょうどこの年にすべての農家を豊かに恵んだ珍しい豊作の結果として充ちあふれた麦の穂が、まだ鎌の刃を見ずに波打っている畑へ、馬の群れを放してやった。自分たちの生存の資を絶滅されつつある有様を、恐怖の目で敵は町から眺めていた。
一方、ザパロジエの軍勢は、町の周囲を二列の車でぐるりと取り巻き、セーチにおけると同じように、一種の廠舎《へいしゃ》を急造して、適宜の人数でそのひとつひとつに納まって、パイプをくすぶらしたり、戦利品の交換をし合ったり、馬跳びや丁半《ちょうはん》をして遊んだりしながら、なぶり殺しにするような冷ややかさで、じろじろ町を眺めていた。彼らは夜になると篝火《かがりび》をたいた。そして炊事係の連中が、めいめいの廠舎で大きな銅鍋で粥《かゆ》を煮た。終夜燃えている篝火の近くには寝ずの歩哨が立っていた。
が、まもなくザパロジエ軍は、何もなすことのない無聊《ぶりょう》と、何の仕事もともなわない連日の禁酒とに、だんだん退屈し始めた。団長は難しい仕事や出勤などのない場合に時折り陣中でも用いることにしていた酒の量を、二倍にせよと命じた。
若いコサックたち、とりわけタラス・ブーリバの息子たちには、こうした生活が気に入らなかった。アンドリイは著しく無聊に苦しんだ。
「たわけ者め」タラス・ブーリバは彼に言った。「コサックは辛抱が大事じゃ――そうすりゃ立派な隊長になれるのじゃ! 何にもすることのない無為の状態にあって、退屈に蝕《むしば》まれず、いかなることをも堪え忍び、そしてさらに、いかなる迫害をこうむってもがんとして自己の立場を死守する者、それが立派な軍人というものじゃ。いいか」
が、燃えやすく熱しやすい若者は、老父と一致することができなかった。二人の性格は別々だった。そして二人は同一事物を、別々な目で眺めているのであった。
とかくするうちに、トフカチに引率された、タラス・ブーリバの連隊が来援した。トフカチといっしょにさらに二人の副官と、書記と、そのほか何名かの連隊の幹部連とがやって来た。コサックの総数は四千名を越えていた。彼らの間には、戦況の思わしくないことを聞くが早いか、召集がなかったにもかかわらず、自分の意志で、決然、応援隊に投じた義勇兵も少なからずまじっていた。副官らはタラス・ブーリバの二人の息子に、老いたる母親からの祝福の言葉と、キエフに近いメジゴルスキイ修道院の糸杉製の聖像一体ずつとを持って来た。二人の兄弟は思い思いにその聖像を胸にかけ、老いたる母のことを思い出して、いつともなしに物思いに沈んでいった。いったいこの祝福は彼らに何を語り何を予言しているのだろう? 敵を征服して、うずたかい分捕品を携《たずさ》えて、バンドラ弾《ひ》きの永遠の唄に値する名誉を担って、やがて、躍《おど》りあがる姿で故郷へ帰ることに対する祝福だろうか? あるいはまた? ……いやしかし、未来のことはわからない。未来は人間の前に、沼から登る秋の霧のように立っているのだ。その霧の中を、翼を鳴らしながら、上へ下へと小鳥は飛んでいる。互いに相手を認めることもなく、鳩は鳶を、鳶はまた鳩を知ることなしに、彼らは盲目《めくら》めっぽうに飛び上がったり飛び下ったりしている。そして自分が身の破滅からどれほど遠く飛んでいるかを知らないのだ……。
オスタップはとうに廠舎に引きさがって、自分の私用をやっていた。が、アンドリイの方は、どういうわけか自分でもわからないながら、一種異様な胸苦しさを覚えていた。すでにコサック兵の一同は夜食を終わり、夕暮れはとうに消えしぼんで、あやしき七月の夜が大気を|ひし《ヽヽ》と抱きしめていた。けれども彼は廠舎へ引き下って寝ようとせず、眼前を掠《かす》め過ぎたあらゆる過去の光景をわれともなしに眺めていた。空には星が、細い光を放って輝いていた。野はずっと遠くの方まで、敵から分捕ったありとあらゆる財宝と糧食を満載して、樺《かば》の脂《あぶら》の入ったバケツをつるした輜重《しちょう》の行列に占められていた。荷車の傍、荷車の下、荷車からちょっと離れたあたり――いたるところに、ごろりと草の上に寝転んでいるザパロジエのコサックたちの姿が見えた。みんな絵のような姿で眠っていた。ある者は糧食の入った頭陀袋《ずだぶくろ》を枕にしていた。ある者は帽子を、またある者は簡単に同僚の横腹を借用していた。サーベル、火縄鉄砲、吸口の短いパイプなどが、これらコサックの一人一人に後生大事に携帯されていた。どっしりした重たい牛どもは、大きなほの白いかたまりを成して、足を腹の下へ折り曲げて寝そべっていた。彼らは遠方から見ると、野の斜面に散点する灰色の石塊のようだった。もう四方八方の草の中から、眠りこけている軍隊の騒々しいいびきが起こり始めた。そしてこれらのいびきに対して、足を縛られたのを憤《いきどお》ろしく思っている馬どもが、かん高いいななきで答えていた。
とかくするうち、七月の夜の美しさの中へ、何だかこう厳かな、恐ろしいものがくわわった。それはこの近郷の村々の燃えつきようとしている火災のはるかな空やけであった。ある場所では、赤い火焔が、おだやかにまた森厳に、ほのぼのと空の面にみなぎっていた。またほかのある場所では、何か燃焼しやすい物体に出会わしたらしく、突然、旋風のように逆まき立って、うそぶくような音を立てながら、空高く星の真下あたりまでも舞い上がる。ばらばらと飛び散る火の粉は遠い空の裾《すそ》で消えしぼむ。
向こうの方には、すっかり焼かれた真っ黒の修道院が、ぶきみなアルテシアン宗の僧のように、火焔がぱっと照り映える度ごとに、暗い巨大な体躯をしめしながら、ものすごく|ぬっ《ヽヽ》と立っていた。もうもうたる煙に包まれて樹木のしゅうしゅういっている音が聞こえるように思われるのは、修道院の庭園が燃えているのだ。そして火が跳り出ると、それは急に燐光を発する赤紫の光で、熟した杏《あんず》の実を照らしたり、そこここに黄色くなり下がっている梨の実を、輝かしい金貨に見せたりした。そこには、建物といっしょに焼け死んだ哀れなユダヤ人や僧侶の死体が、建物の壁につり下ったり、立木の枝に引っかかったりして、黒こげの姿をさらしていた。火焔の突き刺す上空には、真紅の野に立つ小さな十字架の塊《かたま》りのように見えながら、火の鳥の群れがぐるぐると舞い飛んでいた。
包囲された町は、うち見たところ、深い眠りに落ちているようであった。高塔も、屋根も、柵も、城壁も、はるかかなたに燃えさかる火事の反映を受けて、静かにほのぼのと光っていた。
アンドリイは、コサックの陣営をひとまわりした。篝火《かがりび》は、歩哨が傍《そば》で見張りをしているのだが、今にも消えそうになっていた。そして当の歩哨自身までが、コサック流の健啖《けんたん》ぶりを発揮して、猛烈に貪り食った結果、前後不覚に眠っていた。彼はその暢気《のんき》さに多少驚いた。そして、『いいあんばいに近くに強敵がいず、恐るべき何物もないからけっこうだ』と、こう思った。ついに彼自身も、輜重のひとつに歩みより、その中へ潜りこんで、両手を枕にして、ごろりと仰向けに寝転んだ。が、彼は眠られなくて、長いこと、空を仰ぎ見ていた。眼前に空はすっかり展開されていた。大気は清らかで澄みきっていた。天の川を形作って帯の姿でななめに空を横断している無数の星屑は、ことごとく光の中につつまれていた。アンドリイはうとうとと我を忘れるような気持になった。そして軽やかな霧のような睡眠がちょっとのあいだ、眼前の空をおおい隠す。が、やがてまたそれはきれいに洗い清められて、ふたたびはっきりと見えるようになるのであった。
この時、彼の眼前を、一種異様な人間の頭が、チラリと掠《かす》め過ぎたように思われた。睡魔の使った妖術であって、目を見開いたらたちどころに消え去ってしまうのだろう――こう思いながら、彼は今までより|ぐっ《ヽヽ》と大きく目をあけた。と、彼はそこに、疲れきって生気のなくなった何者かの顔がまさしく自分の方へ押しかぶさるようにして真っ正面にこっちの目を見つめているのを発見した。灰のように黒い長く延びた髪は、梳《くしけず》られない乱麻の姿で、頭の上へ投げつけられたようになっている、同じく黒いかぶり物の下から、はい出していた。そしてその目の怪しい光と、くっきりとした線を画いて浮き出しているその顔の死人のようなどす黒さとが、それを幽霊であると思わせようとした。彼はわれ知らず銃に手をかけた。そしてほとんど痙攣《けいれん》するような声で言った。
「何者だ? 悪霊なら消え失せろ。もしまた生きた人間なら、いま時分くだらない冗談をしやがって、ほんとに――一発でその横っ腹へ風あなをぶちあけてやるぞ」
これに対する返事として、この妖怪は唇へ指を押しあてた。だまっていてくれと哀願するように見えた。彼は手をおろして、いっそう注意深くこの妖怪を見つめた。長い長いその髪と、首と、なかばむき出しの浅黒い胸とによって、彼はそれが女であることを覚った。が、どう見ても、この土地の者ではなかった。その顔は、どこからどこまでどす黒く、病のために醜く引きゆがめられていた。高い頬骨は突き出し、細い眼は弓のようなかっこうに上の方へ跳ね上がっていた。彼女の容貌を細かく観察するに従って、彼はそこにだんだんと馴染《なじみ》深いものを見出していった。ついに彼はたまりかねて、こう詰問した。
「貴様は誰だ、それを言え。俺は貴様を知っているか、さもなければどこかで見たことがあるように思う……」
「はい、二年以前に、キエフで」
「二年以前に、キエフで……」と、記憶のうちに今なおつつがなく残っている宗教学校官費生時代の、すべての思い出を繰りひろげようと努めながら、アンドリイはおうむ返しにこう言った。もう一度穴のあくほど女の顔をじっと見つめた。突然彼はありったけの声で叫んだ。
「あのダッタンの女だね! あのポーランド貴族、あの将軍のお嬢さんの召使だね?……」
「しっ!」とダッタンの女は、全身をぶるぶるふるわせながら、哀願するように手を合わせて言った。そして、同時に、アンドリイの発した今の大きな叫び声で、誰か目を醒ました者がいないかどうか見きわめようとして、首を後ろへねじ向けた。
「話してくれ、何でこんなところへ来ているのだ?」と、内部の激しい動揺のために絶えずとぎれるひそひそ声で、ほとんどあえぐような調子で、アンドリイはたずねた。
「お嬢さんはどこにいる? まだ無事に暮らしておられるのか?」
「お嬢様は、この町におられます」
「えっ、この町に?」またもやほとんど絶叫するような調子で、彼は言った。急に全身の血が|どっ《ヽヽ》と心臓へ押しよせてゆくような気持を覚えた。「何であの人がこんな町へ来ておられるのだ?」
「お父様がこの町においでになりますので。大旦那様はドブノの将軍におなり遊ばしてから、もう一年になるのでございます」
「それで、お嬢さんはもう結婚なすったか? おい聞かしてくれい。――妙な女だなあ、お前は!――今どうしておられるのだい?……」
「昨日は何にも召し上りませんでした」
「どうして?」
「この町の人たちには、もうずっと前から一片のパンもないのでございます。みんなもうずっと前から土だけをかじって生きているのでございます!」
アンドリイは驚愕《きょうがく》のあまり五体が棒のようにしゃっちょこ張った。
「お嬢様は町の岩の上から、多くのザパロジエの殿方にまじっておいでの貴方《あなた》のお姿をごらんになって、私にこうおっしゃったのでございます。『早く行って、あの方に伝えておくれ。――もしもこの私を憶えておいで遊ばすなら、私のもとへ来て下さい。もしまた憶えておいでがないなら、せめて年|老《と》った私の母のために、一片のパンを恵んでいただきたい。母の死ぬのを目のあたり見るのがたまらないから、いっそ私が先に死んで、母には後から来て欲しい。――こうお願いして、あの方の足に、膝にすがるがいい。あの方にも年とられた母上がおいでになるはずだ――その母上の後生のために、一片のパンを恵んで下さるように!』これがお嬢様のお言葉なのでございます」
いろいろな感情が若いコサックの胸に目覚めて燃え立った。
「それにしても、お前はどうやってここへ来た? どうしてここまでやって来た?」
「地下に掘られた抜け道を通って」
「そんな抜け道があるのかい?」
「ございます」
「どこに?」
「あなた、大丈夫でございますか?」
「神聖な十字架にかけて俺は誓うよ!」
「崖を降りて、渓流を渡りますと、蘆《あし》の生えているところがございますが、そこが入口なのでございます」
「そして町の内部へ通じているのか?」
「町の修道院へまっすぐに出られるのでございます」
「よし行こう、すぐ行こう!」
「ですけど、どうぞ、後生ですから、パンを少うし!」
「よし、持って行ってやろう。ここに、この輜重《しちょう》の傍に立っておいで。いやそれよりも、ここへ上って寝ているがいい。誰も見つけやしまい。みんな寝てるんだ。すぐ戻って来るから」
そして彼は、自分らの廠舎《へいしゃ》の所有に属する糧食の貯蔵されてある、輜重車の方へ歩み去った。心臓は高鳴った。過ぎ来し方のすべてのもの、――現在のコサックの露営によって、陰鬱《いんうつ》な戦の生活によって、おおい隠されていたすべてのものが――過ぎし日の記憶のすべてが、一時に表面へ浮かび出し、そして反対に、現在をすっかりおおい隠した。ふたたび彼の眼前には、暗い海の淵からのように、傲然《ごうぜん》たる女の姿が浮かび出た。ふたたび彼の胸の中を、美しい手や、瞳や、笑いを含んだ口もとや、みごとに縮れながら両の乳房にたれかかっている栗色の髪の、香ばしい処女の体の弾力あるいかにも均整のとれた手足などが、焼きつくような熱さで閃《ひら》めき過ぎた。そうだ、それらはしぼまずにいた。彼の胸から消え失せていなかった。それはただ新しく浮かび出るいろんな記憶に場所をあたえようとして、一時脇へよけていたに過ぎなかった。それは今日まで、この若いコサックの深い眠りを、しばしば動乱させたのであった。彼は|はっ《ヽヽ》と夢からわれに返ると、もうどうしても眠られなくなり、その原因がどこにあるか説明することができないで、呆然と寝床の中に横たわっているようなことがしばしばあったのだ。
彼は歩を運んだ。彼女にふたたび会えると考えただけで、心臓の鼓動はますます激しくなって来た。若人の膝頭はガクガクふるえた。輜重車の側までたどり着いた時分には、もうまったく、何のために来たのかを忘れていた。彼は額へ片手をあてて長いことこれを揉みながら、どういう用事で来たのかを、思い出そうと努めた。ついに彼は戦慄《せんりつ》した。総身《そうみ》が恐怖でいっぱいになった。彼女が餓死しかけているという考えが、突然胸に浮かんで来たのである。彼はいきなりそこの輜重車の側へ飛んで行って、大きな黒パンのいくつかの塊りを抱えこんだ。が、彼はふと思った。――頑健な、粗食に慣れたザパロジエのコサックたちに適当なこの食物が、彼女の弱々しい体には、とても納まらなくはあるまいか? と、このとき彼は、昨日団長が三度はたっぷり使えるはずの蕎麦《そば》粉を、たった一度分の粥に叩きこんでしまったと言って、炊事兵を叱りつけていたのを思い出した。で、まだ鍋の中に粥が十分残っているものと信じて、父の従軍用の飯盒《はんごう》を引っ張り出し、それを持って、まだ燃え残った灰が下にぽかぽかと暖気を保っているところの、七斗近くもはいる二つの大鍋の傍に眠っている、自分たちの廠舎の炊事兵のところへ出かけて行った。が、それらの鍋をのぞきこんで、彼はあっと驚いた。二つとも空っぽになっていたのである。あれだけの粥を平《たいら》げてしまうには、超人的な力が必要であった。まして、彼の廠舎には、他の廠舎より人員が少ないのだからなおさらだった。彼はほかの廠舎の鍋をものぞいて見た――どこにも何にもない。われともなしにこんな諺《ことわざ》が頭に浮かんだ。『ザパロジエのコサックは赤ん坊のようだ。少しの食物はぺろりと平げる。が、うんとあっても、やっぱり一粒も残さない』どうしたらいいか? しかしどこかに、そうだ親爺の隊の輜重車の中に、修道院の炊事場を襲ったとき掠奪《りゃくだつ》した、白いパンの粉のはいった袋があったはずだ。で彼は、一目散に父の隊の輜重車の傍へ行った。がもうそれは輜重車の上にはなかった。オスタップがそれを枕がわりにして、大の字になり地べたへふんぞり返って、野面一面に響き渡るような大いびきをかいているのだった。
アンドリイは片手にその袋をつかんで、激しくぐっと引いた。オスタップの頭はどたりと地面へ落ちた。と、当のオスタップも、夢中で飛び起き、目をつぶったまま座りなおして、精いっぱいの声でこう怒鳴った。
「捕まえろ、ポーランドの畜生を捕まえろ! それから馬もふん捕まえろ、馬をふん捕まえるんだぞ!」
「黙れ、叩っ殺すぞ!」と、びっくりして、袋を振り回して相手を制しながら、アンドリイも怒鳴り立てた。が、オスタップは弟の制止を待たずに、そのうわごとをやめて、おとなしくなり、寝転んだ体の下に敷かれた草が、その鼻息で揺らいだほどの、猛烈ないびきをかき出した。
その寝言がコサックの誰かの眠りを醒ましはしなかったろうかと思って、アンドリイは四方を見回した。髪をもじゃもじゃ寝乱れさせた頭がひとつ、確かに近くの廠舎で|もくり《ヽヽヽ》と起き上がった。が、ひとわたり目を光らして周囲を見回すと、まもなくふたたび地面へ|ごろり《ヽヽヽ》と落ちてしまった。二分ほど息を殺して待ってから、彼はついに荷物を持って引き返して来た。
ダッタンの女は息を殺して横たわっていた。
「起きな、出かけよう! みんな眠っている、心配しなくてもよい! ぼくがもし一人でみんな持てないようになったら、君もこのパンのひとつぐらいは持ってくれるだろうな?」こう言って、彼は自分の背中へそれらの袋を引っかついだ。そしてさらに、ある輜重車の傍を通り過ぎる時、さらにひとつ、挽麦《ばんばく》のはいった袋を引きずり下して背中へ乗せ、ダッタンの女に持たせようとした例のパンまでぶら下げて、重いので多少前かがみになりながら、眠りこけているザパロジエのコサックたちの列の間を、どしりどしりと大胆に歩いて行った。
「アンドリイ!」彼が傍を通りぬけようとした時に、老父タラス・ブーリバはこう言った。彼の心臓の鼓動は止まった。彼は突っ立って、総身ががたがたとふるえながら、静かに言った。
「何ですか?」
「お前は女を連れているな? ようし、今に起きたら、横っ腹の皮をひんむしってやるからな! 女なんぞにかかわっていると、しまいにはどうせろくなことはないぞ!」
こう言ってしまうと、彼は片肘を立てて頬杖にして、かぶり物に深々とくるまっているダッタンの女を、穴のあくほど見つめだした。
アンドリイは父の顔を見る勇気もなく、生きた心地もせずに、茫然とそこに突っ立っていた。が、やがて恐る恐る眼をもたげて、老父の方を見やった彼は、もう老いたるタラス・ブーリバが、肘を枕にふたたび寝入っているのを発見したのである。
彼は十字を切った。と、たちまち驚愕《きょうがく》の情は起こった時よりもいっそう早く、彼の胸から脱け落ちてしまった。ダッタンの女の様子を見ようと思って後ろを振り向くと、彼女は深々とかぶり物に全身を包んで、黒い石の彫像のように、彼の眼前に立っている。はるかかなたの空やけの反照が、ひとしきりぱっと明るく燃え立って、死人のそれのように、じっとすわった彼女の目だけを照らし出した。彼は女の袖を引いた。
二人はたえずうしろを振り返りながら歩き出した。とうとう彼らは、斜面を伝って低い谷に降りて行った。――それはある地方では峡谷と呼ばれている、ほとんど崖にひとしいところであった。そしてその底を菅《すげ》に囲まれ、無数の浮洲《うきす》を散在させながら、渓流が、ちょろちょろとけだるそうに流れていた。この谷へ降りると同時に、彼らの姿はザパロジエの軍隊の占領している野原のどこから見られても、ぜんぜんわからないように隠れてしまった。少なくともアンドリイは、うしろを振り返って見た時に、人間の背よりも高い険しい壁のような形をした崖が、そこにそびえているのを発見した。そしてその頂上には曠野特有の雑草の茎が揺れており、その上空には、純金の鎌を斜めに置いたような姿で、月がしずしずと昇りつつあった。野面をなでて吹いて来る微風は、もう夜明けまでに間のないことを知らせていた。が、どこにも鶏の暁《あかつき》を告げる声は聞こえなかった。包囲されている町にも、荒らされたその近郷近在にも、とうの昔にもう鶏などは一羽も残っていなかった。小さな丸木橋伝いに、彼らは流れを渡った。流れの向こうには、こちら側よりもいっそう深く思われる岸が、完《まった》き断崖の姿を成して降起していた。どうやらこの場所は、それ自身、この町の要塞のもっとも堅固な、たのもしい地点であるように思われた。少なくとも、土の防塞がここではほかの場所より低くなっていて、守備隊はそのうしろに姿をさらしていなかったが、少し離れた向こうの方には、修道院の厚い壁が屹立《きつりつ》していた。断崖をなしているその岸は、ブリヤンという曠野特有の丈高い雑草にすっかりおおわれ、その断崖と水流との間に介在する大きからざる盆地には、ほとんど人間の高さほどある丈高い蘆《あし》が一面に生えていた。断崖の頂上には、昔菜園だった場所を囲んでいた垣根の跡が残っていた。そのすたれた菜園の前には、山|ごぼう《ヽヽヽ》の広い葉が伸びやかに揺れ動き、さらにその山ごぼうの下陰から、アカザや、野生のとげのある大アザミや、それらのすべてより高く頭をそびやかしているヒマワリなどが、いずれもわがもの顔に突き出ている。
ここまで来ると、ダッタンの女はいきなり靴を脱いで、はだしになり、注意深く着物の裾をたくし上げて、歩き出した。そこは泥が深く水がいっぱいになっていたからだった。
蘆の間を押し分けるようにして進んで行って、彼らはついに積み重ねられた枯枝と、束ねられた柴の置かれてある前に立ち止まった。その枯枝を押しのけると、土のまる天井のようなものが見られた。――パンを焼く暖炉の口より、ほんの少しばかり大きい抜け穴であった。ダッタンの女は首を前へかしげて、先にはいって行った。つづいてアンドリイも、いくつかの袋を持って通り抜けられるようにと、できるだけ低く身をかがめてはいって行った。まもなく、二人はまったく闇の中へ姿を没した。
[#改ページ]
アンドリイは暗い狭い地下の抜け穴を、ダッタンの女の後について、パン粉の袋を背負いながら、やっと歩いて行った。
「じきに明るくなりますよ」と、案内役の彼女は言った。「私が燭台を立てておいたところまでもうわずかになりましたから……」
そして実際、暗い抜け穴の土の壁は、少しずつ明るくなって来た。彼らはいくらか広くなっている場所へたどり着いた。そこにはかつて礼拝堂があったらしかった。少なくとも、その壁ぎわには、祭壇の形に小さな机が据えられてあり、その真上には、もうすっかり色がさめて、ほとんどまったく消え失せたカトリックのマドンナの像が見られた。そして、その聖像の前に下っている小さな銀の燭台が、微かにこれを照らしていた。
ダッタンの女は身をかがめて、地べたにおかれてある唐金《とうがね》の燭台を取り上げた。その燭台には細い高い台が付いていて、台の回りにさらに、鎖につながれてつるされている鋏《はさみ》だの、火をなおすための針だの、あかり消しだのが付いていた。それを取り上げて、彼女は燈明の火を移した。明るさが増した。で、彼らはいっしょに、ぱっと灯影《ほかげ》に照らし出されたり、炭のように黒い影を投げたりして、歩み進んだ。はつらつとした、若さと健康とが沸騰《ふっとう》している、美しい騎士の顔と、困苦欠乏にさいなまれた蒼《あお》白い案内者の顔とが、きわ立った対照をなしていた。
抜け道は多少広くなった。初めてまっすぐに背を延ばすことができた。アンドリイは、好奇の目で土の壁をつくづくと眺めた。それはキエフの洞窟を思い出させた。キエフの洞窟と同じように、ここにもやはり、壁を深くえぐりこんでいるところが方々にあって、そこここには棺桶が置かれてあった。さらにまた所々には、湿気のために柔らげられ、そしてぼろぼろの粉になった、人間の骨さえ散乱していた。ここにもやはり聖僧たちが引きこもって、浮世の嵐や悲しみや諸々の誘惑から、身を避けていたのであったろうと思われた。湿気の非常に猛烈なところが所々にあったが、そこでは時々彼らの踏みこんだ土の下がすっかり水になっていた。
次第に疲労のくわわってゆくダッタン女を休ませるために、アンドリイはしばしば立ち止まらねばならなかった。彼女が口に入れた少しばかりのパンは、久しく物を食べなかった彼女の胃袋に、痛みをあたえただけであった。で、彼女はしばしばひとつところに、じっと動かずに何分かずつたたずんだ。
ついに彼らの眼前に、小さな鉄の扉が現われた。
「ああ、おかげさまで、やっと参りました」ダッタン女は弱々しい声で言って、ノックをしようと手を上げかけた。が彼女にはもうそれだけの力がなかった。アンドリイが彼女にかわって、激しく扉を叩いた。ごろごろという響きがして、扉の向こうが、広いがらんとした場所であることを示した。そしてこの反響は高いまる天井に突き当たったらしく、妙に音色を変えて響いた。二分間ほどたつと、鍵のがちゃがちゃいう音がして、梯子《はしご》伝いに、誰やら降りて来たらしかった。ついに扉は開かれた。鍵と蝋燭《ろうそく》とを手にして狭い梯子《はしご》の上に立っていた一人の僧が、彼らを迎えた。
コサックの胸に激しい憎悪のまじった侮蔑《ぶべつ》を植えつけ、ユダヤ人に対するよりもいっそう残酷に振る舞わしむるにいたったカトリックの僧を見ると、アンドリイは思わず立ち止まった。ザパロジエのコサックの姿を見るとカトリックの僧もたじたじと二、三歩後ずさった。が、ダッタン女の発した弱々しい不明瞭な言葉が彼をほっと安堵《あんど》させた。彼は二人に道を照らしてやり、それから二人の後ろの扉を閉じて、階段伝いに彼らを上の方へ連れて行った。彼らは修道院の食堂の高いまる天井の下へ出た。高い燭台と蝋燭《ろうそく》との立て連ねられてある祭壇のひとつの傍に、僧侶が一人ひざまずいて、静かに祈りを捧《ささ》げていた。その左右にも、連翹色《れんぎょういろ》のうわっぱりをかけ、その上から白いレースの被布《ひふ》をはおって、香を手にした、若い二人のクリロシャニン〔唱歌僧〕が、同じくひざまずいていた。僧は、奇蹟の地上に行なわれんことを祈っていたのである。――町の救われんことを、沮喪《そそう》した士気の振いたたんことを、堅忍不抜の精神の大いに発揮されんことを、この地上の諸々の不幸に対する怨言《えんげん》とけちくさい臆病な泣き声とをたえずささやく誘惑者の退散せんことを、彼は祈っていた。幽霊そのままの何人かの女が、自分たちの前の腰かけや|どす《ヽヽ》黒い木のベッドの背によりかかって、ぐったりとなった首をそこへ乗せて、やはりひざまずいていた。何人かの男が、まる天井の壁を支えている円柱やピリヤストラ〔塗込め柱〕によりかかって、悲しげな様子で、これまたひざまずいていた。祭壇の下にある色ガラスのはいった窓は、薔薇色の朝の光に染められ、そこから床の上へ、青や黄色やそのほかの色の種々様々の光の輪が落ちて、暗い食堂を急に明るくしたので、祭壇の深い奥の方までが、急にすっかり見えてきた。香の煙が虹色に照らし出された雲のように、ほのぼのと空中にたなびいた。
朝の光で起こされたこの奇蹟を、アンドリイは暗い隅から眺めて、驚嘆せずにはいられなかった。このとき荘厳なオルガンの響きが、急に会堂の全部に充ちわたった。それはますます大きくなってゆき、広がってゆき、轟然たる雷鳴に変わってゆき、それから急に、天上の楽の音に変わって、高く響き渡る少女の声を思い出させるその音色を、高くまる天井の下にみなぎらせ、やがてまた太いうなりと雷鳴のような音響とに変わって、そして|しいん《ヽヽヽ》と静まった。それからしばらくの間、この雷鳴のような音響は、まる天井の下にふるえながら鳴りつづいていた。アンドリイはなかば口を開けひろげてこの荘厳な楽の音に驚嘆の目をみはっていた……。
このとき彼は何者かが上着のすそを引っ張っぱったのを感じた。
「参りましょう!」
こうダッタンの女が言った。
彼らは誰にも気づかれずに、食堂の中を通り抜けて、前面の広場に出た。朝陽はもう、とうの昔に空に赤々と燃えていた。万物ことごとく太陽の昇りだすことを報じていた。正方形をなしている広場はまったくがらんとしていた。その中央にいくつかの小さい木造のテーブルがまだ残っていて、多分一週間ほど前まで、食物市場がここにあったことをしめしていた。当時まだ石や板をしくことをしなかった街路は、まるでひからびた泥の堆積そのものであった。石造や土塗りのあまり大きくない一階建ての家々が、広場の周囲をかこんでいた。それらの家々は、壁の中にそれと見られる家と同じ高さの木骨《もっこつ》や柱などで支えられており、さらにそこへ同じく丸太がぶっ違いにされていた。これはこの時分の一般の住居に見られた建て方で、今でもリトアニアやポーランドのある地方に見られるのである。それらはいずれも高窓や通風窓の無数についた、途方もなく高い屋根でおおわれていた。その一方、ほとんど会堂の間近に、たぶん市庁か何かの役所であろう、まったく違った建物が、ほかのそれよりも高くそびえ立っていた。この建物は二階建てで、なおその上に、二つのアーチを連ねた形に望楼ができていて、そこに歩哨が立っていた。が、アンドリイにはそこに弱々しい嘆息のような気配が感じられた。で、仔細《しさい》に眺め渡していって、彼はそこの他の一隅に、二、三の人がひと塊りになって、ほとんどまったく身動きもせずに、地に横たわっているのを見出した。それらの人びとが睡っているのか死んでいるのか見きわめようと思って、彼はいっそう注意深く瞳をこらした。
と、このとき彼は、自分の足もとに横たわっている何物かに突き当たった。それは女の、ユダヤの女と思《おぼ》しい死体であった。顔は困苦にむしばまれ、醜く引きゆがめられて、はっきりと見さだめることはできなかったが、まだ年若い女らしかった。その頭には真っ赤な絹の頭巾がかぶさり、真珠かガラス珠かわからないが、二列になって、耳のおおいを飾り、縮れたまき毛が二つ三つ、その下から、青筋の浮き出たひからびた彼女の首へ落ちていた。傍には赤子が寝転がっていたが、一方の手で痙攣《けいれん》的に彼女のしなびはてた乳房を抑え、乳が出ないので、ついじりじりと疳癪《かんしゃく》を起こして、指でやたらにひねり回していた。もう泣きも叫びもせず、ただその静かにへこんだりふくらんだりしている腹によって、彼がまだ死なずにいるが、今や最後の息を引き取ろうとしているところだと考えることができるだけだった。
彼らは街路へと折れた。と、突然、狂気じみた男にさえぎられた。その狂暴な男は、アンドリイが貴重な荷物を背負っているのを見つけると、猛虎のような勢いで飛びかかり、しがみついて叫んだ。「パンだ!」――が、彼にはその狂暴に匹敵するだけの力がなく、アンドリイに突き退けられて大地に|けし《ヽヽ》飛んだ。同情にかられたアンドリイが、その男に一片のパンを投げてやると、狂犬のようなかっこうで、いきなり飛びついて、がつがつと噛み散らし、かじりかけたが、長いこと食物を断っていたので、往来の真ん中で、恐ろしい痙攣《けいれん》を起こして死んでしまった。
ほとんど一足ごとに、恐ろしい飢えの犠牲者が彼らを驚かした。それは、家の中で痛苦を耐え忍んでいることができなくて、多くの者が、何か食用になるものが天から降って来はすまいか? こう思って、わざわざ往来へ走り出てくるように思われた。ある家の門の辺に一人の老婆がたおれていたが、眠っているのか、死んだのか、あるいは一時気を失っているのか、わからなかった。少なくとも、彼女はもう何も見えもせず、聞こえもせず、がっくりと胸へ首を落として、じっと同じところに座っているのだった。またほかの家の屋根からは、わなにした縄にかかって、だらりと延びた、痩《や》せ細った体がぶら下がっていた。哀れなこの犠牲者は、最後まで飢えを耐え忍ぶことができなくて、自殺によって、己の終焉を早めたのである。
こうした恐ろしい飢えの犠牲の数々を見るにおよんで、アンドリイは案内のダッタン女に尋ねずにはいられなくなった。
「だけどいったいこの人たちは、生命をつなぎ止めておく方法を、ちっとも見出すことができなかったのかね? いよいよ最後の|どたん《ヽヽヽ》場に臨んだ時には、やむをえない、われわれは今までつばを吐きかけて来たような品物でも、食べるのがむしろ当然だ。そういう場合には、法律の禁じている品物でも、何でも食べてかまわない。どんな物をつめこんでもかまわないのだ」
「みんな食べてしまったのでございます」と、ダッタンの女は答えた。「家畜という家畜は全部、馬でも、犬でも――いやそれどころか鼠さえ、今ではもうこの町のどこにも一匹もいないでしょう。この町ではついぞ品物を貯蔵するということをしませんでした。みんな村々から、そのつど供給してもらっておりましたので」
「だが、それならいったい君たちは、こんなむごたらしい死にかたをしていながら、どうして今でも町を守ろうと考えているんだ?」
「ええ、あるいはこちらの将軍様は、降参なさるお考えだったかも知れませんけど、実は昨朝、ブッドジャキの連隊長が伝書の鷹《たか》を飛ばせてよこしまして、死守せよと言って参りました。そして、もうすっかり出動の準備は整い、今はただいっしょに進出しようと思って、もう一人の連隊長の来るのを待っているだけだから、じきに全軍を引率して救援に行く。――こう書いてありましたので、みんな今か今かと、その救いの来るのを待ちこがれているのでございます……それはそうと、やっとお館へ着きました」
アンドリイは遠くにいた時からすでに、ほかのものとは趣《おもむき》を異にした、イタリアの建築家の誰かが建てたとおぼしい、その建物を認めていた。それは二階建てで、みごとな薄い煉瓦《れんが》でたたみ上げられていた。階下の窓々は高く突き出せる石だたみの蛇腹に閉じこめられ、階上は全部、回廊を形作っているささやかなアーチから成り立っていた。それらのアーチの間には、紋章のついた格子《こうし》が見られ、家の四つ角にもそれぞれ紋章がついていた。化粧煉瓦でたたみ上げた広々とした正面の階段は、広場へ真向きになっており、階段の下には歩哨が一人ずつ立っていた。それらの歩哨は、めいめいの身近に立っている戟《ほこ》を、絵にあるような端然とした姿で片手に握り、あいた方の手でかしげた頭を支えている。こうして生ける人間というよりもむしろ彫刻に近い彼らは、眠ってもいず、またまどろんでもいなかったが、すべてに無感覚になって、誰か階段を登っていくという事実にさえ、注意を払おうとはしなかったのである。
階段を登りきると、二人はそこに、美々しく着飾り、頭から足の爪先まで武具で固めて、祈祷書を手にしている、一人の軍人を見出した。彼は二人の方へ疲れきった瞳をもたげかけたが、ダッタンの女が何か一言いうと、ふたたびその祈祷書の開かれたページの中へ目を落とした。彼らは応接間かあるいは単に控えの間として使われているらしい、かなり広々とした、とっつきの部屋へはいって行った。その部屋は、四方の壁ぎわの所々に坐っている兵卒や、下僕や、書記や、酒造りや、そのほか、軍人としてまた自分の領地の主権者としての、ポーランド貴族の貫禄をしめすために必要な、種々雑多の使用人たちでいっぱいになっていた。消えたばかりの蝋燭《ろうそく》の匂いがした。が、まだ二本、大きな格子窓から、もうとうに朝の光がさしのぞいているにもかかわらず、中央に据えられ、ほとんど人間の高さくらいの、大きな二個の燭台の中で、ほのぼのと揺れながら燃えていた。
アンドリイはさっそく、紋章といろんな浮彫りとで飾られている大きな樫板の扉の中へつかつかと入って行こうとした。が、ダッタンの女は彼の袖《そで》を抑えて、横手の壁にきり開かれている小さな扉を指し示した。そこから彼らは廊下へ出て、さらにはほかの部屋へはいって行った。彼はその部屋を仔細に点検し始めた。鎧戸《よろいど》の隙間からはいってきた光が、そこここの物体を――真紅の窓掛け、金色にきらめく蛇腹《じゃばら》、壁につるされた絵画などを彼は眺めた。ここまで来ると、ダッタンの女はアンドリイに止まれという合図をし、隣室へ通ずる扉をあけた。そこから灯影はぱっと射した。彼はささやきと静かな声とを耳にした。彼の心臓は躍りに躍った。彼は開かれた扉口を通して、上にもたげられた手の上へ落ちかかっている長いみごとな弁髪の、すんなりとした女の姿が、ちらりと閃めいたのを認めた。ダッタンの女は引き返して来て、こっちへと言った。彼は自分がどうはいって、どういう風に背後の扉をしめたかを覚えなかった。
部屋には二本の蝋燭がとぼって、聖像の前に燈明がまたたいていた。またその聖像の真下には、カトリックの慣習に従って、祈祷の際にひざまずくための段のついた、背の高い小さなテーブルが立っていた。が、彼の目の尋ねているのは、こんなものではなかった。彼は他の一方に向き直った。そしてそこに激しい動作の途中で、急に凝《こ》って、化石したようになった一人の女を見出した。彼女の全身は彼に飛びつこうとして、急に停止したもののようであった。彼もまた彼女の前に驚嘆の目をみはって立ち止まった。彼は彼女をこのような姿に思い描いていなかった。それは彼女ではなかった。彼が以前に知っていたあの女ではなかった。現在の彼女の中には、以前のあの女に似通《にかよ》ったところは少しもなかった。しかも現在の彼女は以前の彼女より、二倍も三倍も美しく、また神々《こうごう》しかった。あの時分の彼女にはどこかにまだ未完成品というところがあった。が、現在の彼女は、まさしく名匠が最後のタツチをあたえ終った、天衣無縫《てんいむほう》とも言うべき芸術品であった。以前は魅力ある軽はずみな少女に過ぎなかった。が、今はありとあらゆる美しさの頂点に達した美人であり、開ききった花のような女であった。もたげられた彼女の目の中には、つぶらかに発達した感情が、とぎれとぎれでなく、暗示でもなく、そのいっさいを現わしていた。そこにはまだ涙が乾ききらずに、魂から沁《し》みだして来た輝かしいうるおいに満たされており、胸や首や肩は、満開の花の美に特有な美しい線に包まれていた。前には軽やかなまき毛となって顔に乱れかかっていた髪が、今では濃いうるわしい弁髪に変わって、その上部はたばねられ、またほかの一部は惜し気もなく胸いっぱいの長さに投げ出されて、細いみごとに縮れたばらばらの毛筋になってつぶらかな胸に落ちていた。彼女の輪郭は、最後のひとつにいたるまで、ことごとく変わったように見えた。彼はそれらの中から、自分の記憶に残っている彼女の輪郭を、ひとつでもいいから探し出そうと努めたが、無駄であった。――ひとつも見出すことができなかった。彼女の顔は、ひどく蒼白かったけれども、しかしあのあやしき美しさを曇らせてはいなかった。反対に、力強い、打ちかちがたい、勝ち誇っているような趣を添えているのであった。
アンドリイは心中に、一種|敬虔《けいけん》な畏怖《いふ》の情を感じて、彼女の前に微動もせずにじっと立っていた。彼女もまた青春の男性のありとあらゆる力と美とを体現しているコサックの容姿に、驚嘆の目を見張っているように思われた。血気さかんなこのコサック青年は、その手足の不動の中に、すでにそのあらゆる動作の天真爛漫な自由さを、証示しているようであった。その目は晴れやかな断乎とした色を浮かべて輝き、ビロードのような眉は雄々しく弧を描いていた。日に焼けた頬は、清らかな青春の火のすべての閃めきをたたえて匂っていた。若々しい漆黒のひげは、絹のようにつやつやしていた……。
「貴方は寛大な騎士です。わたくし貴方のご高恩には、とうていお礼の申し上げようもございません」と、彼女は言った。銀鈴を転ばすようなその声はふるえていた。「貴方におむくいすることのできるのは神様だけでございます。弱い女のこの私にはとても……」
彼女は目を伏せた。矢のように長い睫毛《まつげ》が、美しい雪白の半月を描いて、その上へおおいかかった。彼女の神々《こうごう》しい美しい顔は、すっかり俯伏《うつぶ》せになったが、頬《ほお》は淡く染められていた。これに対してアンドリイは何にも言うことができなかった。彼は心に沸き返っているすべてのものを、心に沸き返っていると同じような熱度をもって、言いたいと思った。が、できなかった。彼は何物かが自分の口を塞《ふさ》いだような気持を覚えた。言葉がいっこうに音声を発してこなかった。俺には、宗教学校の官費生活とほしいままな遊牧の生活の中に育った俺には、こういう純潔な言葉に答える資格はない。――こう感じて彼は自分のコサック気質を呪った。
この時、ダッタンの女が部屋へはいって来た。彼女は早くもコサックの騎士の持って来たパンをこまかく切って、黄金の皿に乗せて、それを自分の仕えている令嬢の前へ差し出したのである。令嬢はそのパンを、|じっ《ヽヽ》と見入って、さらにその目をアンドリイの顔に移した。――その目の中には実にいろいろなものがあった。彼女の胸を抱きすくめたさまざまな感情を表白する力のないことを現わしている感極まったようなこのまなざしは、アンドリイにとって、千万の言葉よりもぴったりと理解されるものであった。彼の心は急に晴々と明るくなった。すべてのものが解きほぐされたような自由な気持になった。今日まで何者かの手で重たい轡《くつわ》をかけて縛《いまし》められているようだった諸々の感情と魂の動きとが、今や自分を自由に向かって釈放された者と感じて、せき止めがたい言葉の奔流となって、早くも流れ出ようと欲していた。と、このとき急に令嬢は、側仕えのダッタンの女のほうを振り向いてたずねた。
「お母様? お母様に差し上げたかい?」
「お寝《やす》み遊ばしていらっしゃいます」
「お父様には?」
「差し上げましてございます。殿様はこちらへお越し遊ばして親しくお礼を申し上げると、おっしゃいましてございます」
彼女はパンを手に取って、それを口もとに持っていった。アンドリイは、彼女が艶《つや》やかに光り輝く指先で、パンを裂《さ》いて食べている様子を、言うに言われぬ嬉しさで眺めていた。急に彼は、パンの一片をごくりとのんで自分の面前で息切れた、あの飢えのために半狂乱になっていた男を思い出した。彼は顔色を変え、彼女の手をとらえて叫んだ。
「それだけ! もう召し上がってはいけません! 長く絶食しておられたのだから、にわかに固いパンを召し上がるのは、お体に毒だと思います」
彼女はすぐに持ち上げていた手を下げてパンを皿に戻し、従順な子供のように彼の眼をのぞきこんだ。だれの言葉でもいいから、これを表現させてみるがいい! ……いかなる彫刻家の|のみ《ヽヽ》も、画家の画筆も、また高く力強い詩人の言葉も、こういう場合の処女のまなざしに浮かんでいるものを、さらにまたそうした処女のまなざしに見入っている男をとらえるところの、感極まった気持を、絶対に表現することはできない……。
「私の女王よ!」と、いっさいの真実な感情の、あふれたぎる波に抱かれながら、アンドリイは叫んだ。「あなたは何が必要ですか、何が欲しいですか?――私に命じて下さい! この世の中に一番むずかしい仕事を私に言いつけてください――私はそれを果たしに即座に飛んで参ります! 何人もやれないような仕事を、この私に『せよ』と一言おっしゃって下さい。――私は必ずやりおおせます。私は喜んで一命を捨てます。捨てますとも、捨てますとも! あなたのために一命を捨てることは、刀にかけて誓いますが、私には実に嬉しいのです……それは形容のできないほど嬉しいのです! 私は三つの荘園を持っています。父の所有する馬の群も、半分はこの私のものです。私の母が父のところへ持って来た財産も、今なおそっと隠して持っているものさえも――何もかもこの私のものです。私がここに持っているこの兵器のような立派なものは、われわれコサックの間には誰にもないのです。このサーベルの柄《つか》だけでも、すばらしい馬の群と三千頭の羊とを私にあたえるに十分です。しかも私は、喜んでこれらのものを振り捨てます。あなたがたった一言おっしゃってさえ下されば、いや、それまででなくとも、その細い黒い眉をちょっとほころばしてさえ下されば、こんなものはみんななげうって、大地へ叩きつけて、焼き払って、踏みつぶしてしまいます! ああしかし、私は知っている、たぶん私は馬鹿らしい言葉を場所柄もわきまえずに、しゃべっているのでしょう。こんな言葉はすべてここにはふさわしくないのでしょう。王侯を初めとして、騎士の位の最上級の人びとだけが出入りする世界で普通に話されるように話すことは、宗教学校の官費の寄宿舎とザパロジエの廠舎《へいしゃ》とに生活して来たこの私には、全く柄《がら》ではないのでしょう。あなたがわれわれ一同と全く違った神の創造物でおいでになるのを、私は知っている。あなた以外の貴婦人や令嬢など、あなたとはとうてい較べものになりません。われわれはあなたの奴隷にも値しないのです。貴女にお使えすることのできるのは、楽園の天使ばかりなのです!」
若々しい力に満ちている魂が、鏡の中の投影のようにいきいきと映し出されている、包まず隠さぬ、真実のこもったこれらの言葉を、若い娘は次第に高まりゆく驚きをもって、体じゅうを耳にして、一言も洩らさずに聴いていた。心の底からほとばしり出た、この率直な一語一語が、絶大な魅力を持っていた。美しい彼女の顔は、すっかり前の方へ差し延べられた。うるさくもつれからまる髪をぐいと後ろへなで上げ、口をあけて、そのまま長いこと彼を見つめていた。やがて彼女は何事かを言おうとして、急にやめた。この騎士が他に重大な使命のあることを思い出したのである。彼の父、彼の兄弟、彼の故郷が、彼の背後に恐ろしい復讐者として立っていること、この町を取り囲んでいるザパロジエのコサックの恐ろしいこと、自分たち一同がこの町とともに死ぬと約束されてあることを、彼女は思い浮かべたのである……彼女の両眼は急に涙でいっぱいになった。急いで絹のハンカチを取り出し、それを顔に押しあてた。ハンカチは一瞬にしてすっかり濡れてしまった。美しい顔をがくりとうしろへ投げて、雪白の歯でみごとな下唇をきっと噛みしめて――忽然《こつぜん》として毒蛇の刺《とげ》のごときものを感じたかのように、烈しい嘆きを彼に見られないように、顔からハンカチを放さずに、彼女は長いこと坐りつづけていた。
「たったひとこと言って下さい!」と、アンドリイは言った。そして彼女の繻子《しゅす》のように滑らかな手を取った。焦熱の火がこの肉体の接触から彼の脈管に荒れ狂った。で、彼は、ぐったりと力なく自分の手に握られている女の手を、固く固く握りしめた。
が、彼女は沈黙をつづけている。そしてその顔からハンカチを取らずに、いつまでもじっと動かなかった。
「何であなたはそのように嘆いておられるのです? なぜそのように悲しんでいるのか、私にそれを聞かせて下さい!」
彼女は顔のハンカチを捨て、眼の上にかぶさっていた弁髪の長いおくれ毛をかき上げて、低い声で一語一語を発しながら、悲しい物語にふけった。それはちょうど、美しい夕にさっとたって水辺の蘆のこんもりとした繁みを撫でてゆく風のようだった。――物悲しそうな微かな響きが、さらさらと鳴り、走り過ぎる。と、思わず歩みを止めた旅人が、消えしぼむ夕景色をも、野の労作と収穫から帰って行く百姓たちの楽しげに消えてゆく唄声を、はるか向こうのどこやらをきしりゆく荷車の微かな響きをも気づかずに、一種不可思議な哀愁をもって、この微かな響きだけをとらえるのである。
「私には永久の悔恨が適していないのでしょうか? 私をこの世に生んでくれた母は、不幸せではないでしょうか? 私には悲しい運命が来たのではないでしょうか? 残酷な私の運命よ、お前は私のむごたらしい首切役人なのではないだろうか? お前は私の足もとへあらゆる人を連れて来ました。――すべてのポーランドの貴族中のもっとも優れた貴族たちをも、もっとも富める地主たちをも連れて来ました。その中には伯爵もありました。外国の男爵もありました。私たちの騎士道の花であるすべての人がありました。それらの人びとは自由に私を恋することができるのでした。また実際それらのすべての人びとは、私の愛を至高の宝と数えたでもありましょう。私はただ手招きさえすればよかったのです。そうすれば容貌も素性《すじょう》も申し分ないもっとも美しい人が、私の夫となるはずでした。だのに、ああ、それなのに、残酷な私の運命よ、お前は私のハートを、それらの人びとの誰にも躍らしてくれなかった。お前は私のハートを、わが国の優れた勇士たちに背いて、他国の人に、私たちの敵に燃え立たせてくれました。おお、聖なる天の母よ、なぜあなたは、いかなる罪のために、いかなる重い罪のために、こんなむごく容赦なく、この私を追い回しなさるのです? あらゆるものの豊かに美しく充ちあふれた中に、私の来し方の日は流れていった。――金にあかした立派な料理や甘美な酒が、私には普通の食物でした。ああいう物のすべてが、何のために慰まれたのであったろう? どういう目的で慰めれたのであったろう? あげくのはてに、この王国のもっとも悲惨な乞食の死のような、恐ろしい死にかたで死ぬようにという、そのためだろうか? それゆえにこの私は、このような恐ろしい運命に置かれているばかりでなく、また自分の死よりも先に、できることなら自分の生命を二十ぺんも三十ぺんも投げ出してお助けしたいと思う父上母上の、耐えがたい苦痛の中に死んでおしまいなさるのを、空しく見ていなければならないばかりではなく――これだけではまだすまないと見えて、この私は、自分の死の眼前で、まだ一度も聞いたことのないような、恋と恋の言葉とを、見たり聞いたりしなければならなくなったのです。そして、この方の恋の言葉で、私の心臓はずたずたに引き裂かれねばならなくなったのです。痛ましい私の運命がなおいっそう痛ましく、若き日の生活がひとしお名残り惜しくなり、自分の死が前よりもさらに恐ろしくなり、そして最後の息を引き取りながら、この私が、残酷な私の運命よ、お前を呪い、聖なる天の母よ――私の罪を赦して下さい!――貴方をも呪うようになったのです!」
彼女が口をつぐむと、極度に絶望的な気持がその顔にありありと浮かび出た。その顔のあらゆる線が、たえがたい哀愁をこめて語り出した。すべてのものが――悲しげに俯向《うつむ》けられた額や、伏せられた目から、薄く紅葉を散らしている頬に凝《こ》り固まった涙にいたるまで――すべてのものが語っているように見えた。「この顔に幸福はないのだ!」と……。
「聞いたこともありません、見たこともありません、そんなことがあるもんですか」と、アンドリイは言った。「女という女の中の、一番美しい優れた女が、そんな傷ましい運命を背負わされるなんて、そんなことがあってなるものか! あなたは自分の前に、聖地を前にした時のように、この世の優れたすべてのものが、ひざまずかずにはいられないように、生まれておいでになったおかたです! いいえ、あなたは死にません! あなたが死ぬなんてそんなことがあるものか。この生命とありとあらゆるこの清きものとにかけて、私は誓う。――あなたはけっして死にません! もしまたかりにそれがやむをえないのなら――何物をもってしても、力でも、祈りでも、男の念力でも、傷ましい運命を打ち砕くことができなくなったら、その時にはいっしょに死にましょう。いや、私が先に死ぬ。あなたより先に私が死にます。美しいその膝の下で私は死にます。死んだ私は、もう永遠に、あなたの側を離れずにいることができるではありませんか」
「コサックの騎士よ、そんなことを言って、ご自分をも私をも欺《あざむ》いて下さいますな」と、美しい首を軽く振って、彼女は言った。「私は知っています。この上なく悲しいことには、私を愛することが貴方にできないのを、私はあまりにもよく知っているのです。どのような務めと誓いとが貴方にあるかを、私は|ちゃん《ヽヽヽ》と知っているのです。――貴方のお父様が、お友だちが、生みの故国が、貴方を呼んでいる、私たちは貴方の敵なのです」
「父が何です、友が何です、生みの故国が何です?」と、激しくかぶりを振って、水辺のポプラのように、総身をしゃんと延ばして、アンドリイは言った。「よしんばそんなのがあったって、それが何に値するのです。私には何物でもないのです。何物でも、何物でもないのです!」と、ほかの人びとには思いもよらぬ不可能事に対する自分の決心を示す場合に、コサックの発するあの声とあの手ぶりで彼は繰り返した。「私の故国がウクライナであるとは、誰が言った? 誰が私にウクライナを、私の故国として与えたか? 故国とはわれわれの魂の求めているもの、われわれの魂にとって何よりも恋しく懐《なつか》しいもののことだ! 私の故国は――あなたなのだ! あなたの胸が、私の故国だ! 私はあなたを、この故国をしっかり胸に抱きしめてゆこう。私の一生が終わるまで、私はそれを抱きしめてゆこう。そしてどうなるか見てみよう。コサックの中の誰でもこの故国をもぎとってみるがいい! あらんかぎりのものをわれわれは売ろう、差し出そう。この大切な故国のためには、私は喜んで一命を捨てよう!」
一瞬間、美しい彫像のように固くなって、彼女は彼の目を見つめていた。突然、彼女はわっと泣き出した。そして、美しい魂の世界の活動のために創造された、かぎりなく気高い女ばかりがもっている、あのすばらしい女特有の烈しさで、いきなり彼の首に飛びついて、雪よりも白く美しい両手で、かたく彼を抱きすくめて、またさめざめと泣き出した。
この時、町を、ラッパの音と太鼓のとどろきをともなった、微かな叫び声が走っていった。がアンドリイはそれに耳をかさなかった。彼はただもう、美しい彼女の口が芳《かんば》しい暖かな息を自分に吐きかけ、彼女の涙が流れをなして自分の顔に降りそそぎ、頭から乱れ落ちた匂やかな髪が、黒光りする絹のような肌ざわりで彼の全身にからみついているのに、五官の全部をとけこませているのであった。
このとき彼らのところへ、嬉しそうな叫びを上げて、ダッタンの女が駈けこんで来た。
「救われた、救われました」と、夢中で彼女は叫んだ。「味方の軍勢が町へ乗りこんで参りました。山のようにパンや小麦や、パン粉を持って、縛られた敵の捕虜を引き立てながら、味方がはいって参りました!」
が、彼らのうちの何人《なんぴと》も、いかなる『味方の軍勢』が町へ乗りこんで来たのか、どんな品物を持って来たのか、そしていかなる捕虜を縛って来たのか、それを耳にしなかった。この世で味わうことのできない諸々《もろもろ》の感情でいっぱいになって、アンドリイは、自分の頬に押しつけられた匂やかな芳《かんば》しい女の口を接吻した。と、匂やかな芳ばしい夢のような暖かさを脈々と漂わせているその口も、反応なしに開けひろげられてはいなかった。それは同じような熱烈さで応《こた》えた。そしてこの互いにとけ合った接吻の中には、われわれがこの世でたった一度しか感ずることの許されないものが感じられたのであった。
かくして、このコサックは滅びた! 全コサックの武士道にとって滅びたのである! 彼はもうザパロジエをも、父から譲り受けた荘園をも、神の殿堂をも、見ることができない。母なるウクライナの故山もまた、自分を守護すべく奮いたった人びとの中の、もっとも勇敢だったこの騎士を見ることができない。老いたるタラス・ブーリバはその髻《たぶさ》から、雪白の髪をひと束もむしり取るであろう。そして彼は、こうした面汚《つらよご》しの子供をこの世に生んだ日をも、時をも呪うであろう。
[#改ページ]
ザパロジエ軍の陣営には、騒擾《そうじょう》と動乱とが起こっていた。どうして敵の救援軍が町へはいりこむようなことになったのか、最初は誰もはっきりした答えを与えうる者はなかった。が、やがて町の横手の門前に陣取っていたベレヤスラフスキー廠舎隊の全兵員が、一人残らず死んだように泥酔していたということがわかった。したがって、その半分が打ち殺され、あとの半分が、何が何やらわからないうちに縛られてしまったのは、少しも驚くにあたらなかった。この物音に夢を破られた近くの廠舎の軍勢が、兵器を取る暇もないうちに、敵の救援軍はもう門内へはいってしまった。そしてそのしんがりの敵軍が、自分たちに向かって突貫して来る、まだ半酔半醒《はんすいはんせい》の、寝ぼけ眼《まなこ》のザパロジエ軍を撃退したのであった。
団長は一同に集合を命じた。そして、一同がぐるりと周囲に集まり、脱帽して、静粛になった時に、彼は言った。
「諸君、昨夜とんでもないことが起こりました。酒に酔いしれていたために、由々《ゆゆ》しいことになったのじゃ! 実にたまらない恥辱を敵はわが軍に与えたのじゃ! もしこのうえ酒量を二倍にしてもいいと許可したら、諸君は、それこそもう死んだように酔いつぶれてしまって、キリストの軍にはむかう敵が、諸君のズボンを引き剥《は》がすだけでなく、まともに諸君の顔に向かって、大きな|くさめ《ヽヽヽ》をしかけても、それさえ聞きつけないようになるところじゃ!」
コサック一同は、自分たちのあやまちを知って、悄然と頭をたれて立っていた。ただ一人ニエザマイコフスキイ廠舎隊の隊長ククベンコだけがこう答えた。
「団長、待ってください!」こう彼は言った。「団長が全軍の前で訓示をあたえている時に、それに逆らうのは、もとより軍規に背くことですが、しかし団長のただいま言われたことは、少し違っている。是非一言しなければなりません。団長がキリストの軍の全部を叱責されたのは、少し正しくないと思います。これが仮に行軍の最中とか、戦争の最中とか、むずかしい骨の折れる軍務の最中とかに、酒に喰《くら》い酔ったというのなら、もちろん、われわれコサックは罪せられるべきであり、死刑が相当していましょう。しかしわれわれは町を前にして空しく|しびれ《ヽヽヽ》をきらしていたのであります。断食もそのほかのキリストの物忌みもなかったのであります。何もすることがない場合に、どうして酒を飲まずにいられましょう? したがってこの点に罪はない。われわれはむしろ彼らに、無辜《むこ》の人びとを苦しめることがどういうことであるかを、これから思い知らしてやるの一手だ。前にもかなりやっつけたものだが、もうこうなったら、足腰が立たなくなるほど打ちのめしてやることだ」
廠舎隊長のこの言葉に、コサック一同は満足した。彼らはもう俯伏《うつぶ》せていた顔を、すっかりもたげた。そして多くの人びとは、「ククベンコ、うまいことを言ったぞ!」と言って感動しつつ打ちうなずいた。
団長から遠くないところに立っていたタラス・ブーリバは言った。
「どうじゃな、団長、ククベンコの言ったのは本当のようだな? あなたはこれに対して何と言われるつもりじゃな?」
「何と言うか? わしは言う。――かくのごとき子供をこの世へ創り出した父親は幸せなもんじゃ! さらにまたわしは言おう。――叱責の言葉を言うのはあまり気のきいた智者ではない。大智はつねに、人の不幸を罵《ののし》らず、むしろかえって彼を励まし、水を飲んで元気づいた馬に拍車が生気をあたえるように、彼の心に生気をあたえる、そうした言葉を吐くものじゃ。わしも実はみなの者に、あとで慰めの言葉を言おうと思っていたのじゃが、ククベンコがいちはやくそれを祭してくれたのじゃ!」
「団長もよく言ってくれたぞ!」という声が、ザパロジエのコサックの隊列の中に響き渡った。
「名言じゃ!」と、他の人びとは繰り返した。
灰色の鳩《はと》のようにしょぼしょぼと立っている、頭に雪をいただいた連中までが、わが意を得たりというようにうなずいて、銀鬚をひねって静かに言った。
「いやまったく名言じゃ!」
「諸君、聴いてくれ!」と、団長はつづけた。「外国の、ドイツの技師どもがやるように、この要塞奪取というやつは、はいずり上がったり、下を掘ったりすることはじゃな――おお、敵をして要塞にへばりつかしめよ――不|体裁《ていさい》でもあるし、われらコサックの本領でもないが、現在の状勢によって判ずるに、敵の救援軍は貧弱な兵糧を持っただけで町へ乗りこんで行ったらしい。輜重《しちょう》は多くなかったようじゃ。市内のやつらは飢えている。したがって、またたく間にみんな食いつくしてしまうのじゃ。それに馬にやる乾草だって……彼らの『聖なる主』というやつが|からさお《ヽヽヽヽ》で天から降らせてよこすとも思えないから……そんなことはとても考えられないから……あいつらの奉ずるカトリック教の坊主どもは、口先が巧いだけなのだから……とにかくこういう次第だで、早晩あいつらは門から出て来る。そこで諸君は三つに分かれて、三つの門の前にある三つの道路の前に立つのじゃ。正門の前には五廠舎、その他の門前には各三廠舎ずつの兵で立つ。デャディキフスキイとコルンスキイの廠舎隊は伏兵になる! タラス・ブーリバ連隊長も隊を引率して伏兵に参加すること! トゥイタレフスキイとトゥイモシェフスキイの廠舎隊は予備隊として輜重部隊の右側に控える! ルチェルビフスキイとステブリキフスキイの廠舎隊は同じく輜重部隊の左側に! それから、敵を屠《ほふ》りつくすと日ごろ人一倍豪語していた若い諸君は、このさい各自の隊から勇躍して進み出い! ポーランドのやつらは頭が空っぽじゃ。やつらは戦争を、気長に持ちたえておれないのだ。だから、たぶん今日中にどっと門から飛び出して来るに違いない。各廠舎の隊長たちは、各自統率の廠舎隊を十二分に注意して点検せい! 不足している所があったら、ペレヤスラフスキイの廠舎隊から補充を仰げ! 全部改めてみるんだ! 隊の全員に首途《かどで》を祝ってウオッカをいっぱいずつ、またパンを一個ずつとらせろ! ただし、確かにまだみなの者は、昨日《きのう》の持ち越しで腹がいっぱいになっているに違いない。別に隠すにも当たらないが、みんな昨日は馬鹿食いをしたからな。夜になって、よくまあ腹の皮を破った者が出なかったと、わしは驚いたくらいだったからなあ。は、は、は。冗談はさておいて、今ひとつ申し渡しておくことがある。もし何者かが、酒を商うユダヤ人めが、わがコサックに、ただのいっぱいでも酒類を売りつけるようなことがあったら、わしはその畜生の、その犬めの、真っ向|眉間《みけん》をひっぱたいて、逆さまにつるしてやるっ! さあ、諸君、それではそれぞれ部署につけ! 用意……始めっ!」
かく団長は指令した。一同は彼に最敬礼して、脱帽のまま各自の輜重車と馬群とのならび立っている地点へと退散した。そして遠く離れ去ってから、初めて彼らは帽子をかぶった。一同は戦闘準備に取りかかった。サーベルや矛《ほこ》をあらため、嚢《ふくろ》から火薬入れへ火薬を入れ、輜重車を押し出して適当な位置に据え、そして馬の選択をやった。
自分の連隊へと足を運びながら、タラス・ブーリバは考えた。が、アンドリイがどこへ隠れたか、つきとめることはできなかった。
「ほかの奴らといっしょに眠りこけている所をふん縛られて、捕虜にされてしまったのだろうか? 生きながらおめおめ捕虜になるようなやつではけっしてないんだが」
殺されたコサック兵の間にも彼の死骸は見られなかった。深い黙想にかられながら、タラス・ブーリバは自分の連隊の前を歩いていた。そして彼は誰やらが先刻から自分の名を呼んでいるのを聞きつけなかった。
「誰だ! わしに用があるのは?」と、ついに彼は正気に返って、こう言った。例のユダヤ人ヤンケリが彼の前に立っていた。
「連隊長閣下、連隊長閣下!」と、ぜんぜん空《そら》ごとでもない用件を報告しようとするかのように、せきこんできれぎれの声でユダヤ人は言った。「連隊長閣下、私は市内へ行って来ました!」
タラス・ブーリバはユダヤ人の顔をつくづくと眺めた。そして彼が抜け目なく早くも町へ行って来たのに舌をまいた。
「敵の何者が貴様を向こうへ案内したのだ?」
「ただ今お話いたします」と、ヤンケリは言った。「明けがた、急にそこらが騒々しくなったのを聞きつけ、コサックの方々が鉄砲を打ち出しなすったのを知ると同時に、私はすぐに上着をひっつかんで、手も通さずに、現場へ駈けて行きました。途中で初めてそれをはおった始末でした。なにしろその時には、何でこう騒々しくなったのか、また何でコサックの方々がこんな夜の引き明けに鉄砲なんぞ撃ち出しなすったのか、一刻も早く知りたいと思いやしたので。そこで私は上着を着るより早く、一目散に城門の方へ走り寄りました。と、ちょうど敵のしんがりの部隊が、門内へはいりかけているところでしたが、見ると隊の先頭に旗手のガリャンドイッチさんが立っているではありませんか。この人は私の知り合いの方なのです。つい一昨年、私から五百ルーブル借りたので、そこで私はこれ幸いと、借金の取り立てをするようなあんばい式で、この先生の後について行きやしてな、とうとういっしょに門内へへえったという寸法なんでごぜえやすよ!」
「どうして貴様は市内へはいって、その上さらに貸した金まで取り立てようなんて気になったのだ?」と、タラス・ブーリバは言った。「それで何か、そいつが貴様を犬のように、その場で縊《くび》り殺せと命じなかったのか?」
「へい、お言葉の通り、私を絞め殺そうといたしやした」と、ユダヤ人は答えた。「すでに従卒の連中が私をふん捕まえて、首へ縄をかけたのでございますがね。私はその方に、お貸ししたお金は都合のおよろしい時までお待ちしますと申し上げ、また私にほかの方々から貸し金を集める手助けさえして下されば、貴方にはもっとお貸ししてもようございますと約束して、やっと命だけ助かったのでございます。――旦那には何もかも申し上げやすが、何しろその旗手のお方は、ポケットに金貨一枚もお持ちにならないんでごぜえやすからなあ、立派な荘園もお持ちになっているのです、別荘も幾つか持っておいでになるし、お城さえ四つも持っておいでになる、曠野の領分は、シクロウォまでも続いているというお方なのですが、お金だけではびた一文お持ちにならないのでございます。本当にもうコサックの方々のように――おっと、これは失礼を、ご免下さい――本当にちっともお持ちになりませんので。ですからもう、今度だって、ブレスラウリのユダヤ人どもが金を立て替えて、出征の仕度をさせて上げなかったら、とても戦争には出られなかったんでございますよ。ですから普段あの方は会合へもご出席にはなりませんでしたので……」
「それで貴様は市内へ行って、いったい何をやっていたか? こちらの者も見かけたか?」
「見かけましたの何のって! 大勢おりますよ。イツカ、ラフム、サムイロ、ハイワロフ、借地をしているあのユダヤ人……」
「畜生、そんな奴らはくたばってしまえ!」と、烈火のように怒って、タラス・ブーリバは叫んだ。
「何でそんなユダヤ種のやつらのことばかり言やあがるのだ? わしの聞くのはわがザパロジエのコサックのことだわい」
「ザパロジエの方々にはお目にかかりませんでした。が、たった一人、アンドリイ様にだけお会いしました」
「なにいィ、アンドリイに会った?」とタラス・ブーリバは叫んだ。「どうして貴様は、どこでせがれに会ったのじゃ? 穴倉? 洞穴の中か? 辱《はずかし》めを受けてか? 縛られてか?」
「誰がそんな大それた、アンドリイ様を縛れる奴なんぞがございますものか! 今ではもはやご子息様は、すばらしい尊いご身分の騎士におなりでございますもの……いやまったく、私はどなたかわかりませんでございましたよ! 肩の飾りも黄金、肘当《ひじあて》も黄金、帽子も黄金、帯から何からみんな黄金でごぜえやす。こうして今じゃご子息様は、野菜畑に小鳥が歌い啼《な》き、草が匂やかに萌え出る春先に、ぱっとさし昇る太陽のように、黄金ずくめで光り輝いておいでなさるのです。いやそれどころか、将軍ご自身が一番よいののすぐ次ぎの馬を、あの方におつかわしになりましたので。――一頭で千ルーブルもするんだそうでございます」
タラス・ブーリバは棒立ちになった。
「何でまた|あれ《ヽヽ》は他国の服なぞ着たのじゃろう?」
「その方がいいからお召しになったのでございますよ。あの方も乗馬をなさる、他の方々も乗馬をなさる。あの方がお教えになる、他の方々もあの方にまたお教えなさる。まるでもうポーランドの一番お金持ちの貴族のようでございます!」
「誰がいったいあいつにそんなことをさせおったのだ?」
「誰がそうさせたとは申されません。それじゃ旦那様は何ですか、あの方がみずから望んであちらへお移りになったことをご存知ないのでごぜえやすか?」
「誰が移ったと言うのじゃ?」
「ご子息アンドリイ様がでごぜえますよ、へい」
「どこへ移ったというのじゃ?」
「敵の方へお移りになりましたので。今じゃもうすっかり向こうの方になりきっておしまいでごぜえやす」
「嘘《うそ》をつけ、畜生!」
「と、と、とんでもない、私が嘘偽《うそいつわ》りを申すなんて。こんなことにでたらめを申すほど、私は馬鹿じゃごぜえません。嘘なんぞ申し上げた日にゃ、この首がブランコさせられてしまうじゃごぜいませんか。われわれユダヤ人が旦那方の前で嘘をつけば、犬のように絞め殺されてしまうということぐらい、知らないわけはごぜいませんからな」
「すりゃ、あいつめは、貴様の言うところによれば、わが故国と信仰とを売ったというのじゃな?」
「そういう物をお売りになったとは申しません。ただあの方が向こうへお移りになったと申し上げただけなので」
「嘘をつけ、極道め! キリスト教の君臨している土地には、そのようなことはかつてないぞ! いいかげんなことを言っていやがる、畜生め!」
「これがいいかげんなことだったら、私の家のしきいに草が生えてもかまいません! 誰でも勝手に私の親父の、お袋の、また姑の、親父の親父の、お袋の親父の、墓につばをひっかけるがいい。もしこの私がいい加減なことを言っているならばです。お望みとありゃ、私はさらにお話しやしょう。あの方が何で向こうへお移りになったかというそのわけも」
「どういうわけじゃ?」
「敵の将軍には、おそろしくきれいなお娘御がごぜえやす。いやまったく、そりゃとてつもないきれいなお嬢さんなので」
ここでユダヤ人は両手を左右に拡げ、目をそばめて、まるで何か味わうもののように口を一方へねじ曲げて、できるだけその美しさを顔に現わそうと努力した。
「このお嬢さんのためにあの方はすべてすてなすったのでごぜえます。そしてお移りになりましたので。この恋というやつをやらかしますと、人間はもう水につかった靴底と同じになるのでごぜえやしてな。引っ張り上げて、曲げますてえと、ぐにゃぐにゃになってしまうのでごぜえやすよ」
タラス・ブーリバは深く思い沈んだ。かよわい女の力の絶大であることを、多くの健児が女に滅ぼされてしまったことを、そしてアンドリイの性質がこの方面に弱いことを、タラス・ブーリバは、思い出した。そのため彼は、まるで釘づけにされたように、長いことひとつところに立ちつくした。
「旦那様、お聞き下せえまし、わしゃ何もかも申し上げまする」とユダヤ人が言った。「例の騒々しいどたばた騒ぎが起こって、敵軍が門内へはいって行くのがわかりますと、私はさっそく、もしもの用意に真珠の首飾りを身に着けたのでごぜえやす。なにしろ市内には、いろんな美人や貴婦人がいることですからな。美人や貴婦人達がいるかぎり、食う物が何にもなくとも、真珠の首飾りは買うに違いない。――こう私は自分に申しましたので。そこで旗手の従卒どもから放免されるが早いか、私はさっそく真珠を買ってもらいに、将軍のお館へ飛んで行きました。そしてそこに召し使われているダッタンの女から、何もかも聞いてしまったのでございます。『ザパロジエのコサックどもを追い払うと、すぐに結婚式があるんだよ。アンドリイ様がザパロジエのコサックどもを撃退すると、固くお約束なすったのさ』こう、その召使は申しておりやした」
「それで貴様はあやつめを、その畜生を、その場で殺してしまわなかったのか?」とタラス・ブーリバは悲痛に叫んだ。
「どのかどで殺すのでございます? ご自分の思召《おぼしめ》しでお移りになりましたものを、何の咎《とが》がございましょう? あちらの方がこちらよりもよろしいから、それでお移りになったのでごぜえますもの」
「そして貴様はあいつめを、まのあたり見て来たのか?」
「へいもう、まのあたり、じかにお目にかかりましてごぜえます。いやもうそれはそれはお立派なことで! 誰よりも一番お見事でございました。どうか神様、あの方に武運長久をあたえて下さいますように。私をすぐにそれとわかって下さいました。そして私がお傍《そば》へ参ると、すぐおっしゃいましたには……」
「何とあいつは言いおったか?」
「まず初めに指をこうお振りになりまして、それから『ヤンケリ!』とおっしゃいました。『アンドリイ様!』と私が申し上げますと、『おお、ヤンケリ! 父に言うてくれ、兄に言うてくれ、コサック一同に言うてくれ、ザパロジエの人びとに言うてくれ、みなの者に言うてくれい。――俺にはもうあの父も父ではない、兄も兄ではない、味方も味方じゃない、俺は彼らと戦う、彼らのすべてと戦うのだ!』」
「嘘をつけ、悪魔のユダめ!」とタラス・ブーリバはわれを忘れてこう叫んだ。「嘘を吐け、犬め! 神に呪われた極道め、貴様はキリストさえ磔《はりつけ》にしたのだぞ! 悪魔め、叩っ殺すぞ! ここからとっとと失せちまえ、でないと貴様、生命《いのち》がないぞ!」
こう言って、タラス・ブーリバはすらりとサーベルを抜き放った。ユダヤ人は肝をつぶして、細いがさがさしたその痩脛《やせすね》が飛べるかぎりの、精いっぱいの大股ですぐに|すっ《ヽヽ》飛んだ。燃え上がる怒りの炎を不意に出会わした最初の者に浴びせかけるのは愚かしいことだと反省して、タラス・ブーリバが追いかけようとしなかったにもかかわらず、ヤンケリはなお長いこと、後をも見ずに、コサックの馬の群の間を、それからさらに、人っ子一人いない野原の遠くの方までも、無我夢中で走りつづけた。
ここに初めてタラス・ブーリバは、昨夜アンドリイが何者とも知れぬ一人の女を連れて馬群の間を突き抜けて行ったのを見つけたことを思い出した。そして憤然と雪白の頭をたれたが、それでもまだ、そんな恥ずべきできごとが起こったとは、自分の息子が信仰と魂とを敵に売ったとは、信じたくなかった。
ついに彼は自分の連隊を潜伏の地点へ連れて行って、まだコサックに焼き払われずに残っている|たった《ヽヽヽ》ひとつの森の蔭へ、彼らとともに身を潜めた。ザパロジエの軍勢は、歩兵も騎兵も、|どっ《ヽヽ》とばかりに、三筋の道路を三つの城門に向かって進出した。廠舎隊がぞくぞくと繰り出した。――ウマンスキイ、ポポイチェフスキイ、カネフスキイ、ステブリコフスキイ、ネザマイコフスキイ、グルグズイフ、トゥイタレフスキイ、トゥイモシェフスキイ等の率いる廠舎隊が、相次いで出動したのである。ただひとつ、ベレヤスラフキイのそれだけが見えなかった。この廠舎のコサックたちはぐっすり寝こんでいた結果、自分の運命を煙にしてしまったのである。ある者は敵の手に縛められた姿で目をさました。またある者はてんで醒めずに、眠ったままであの世へ行った。隊長のフリプ自身でさえ、ズボンもはかず、上着も着ない、太腿まで丸出しのぶざまな姿をさらしたのであった。
城内の敵は、コサック軍の活動し始めたのを知った。すべてのものが城壁の上に散開した。コサックの前面には、生き生きとした光景が描き出された。ポーランドの騎士たちが、美しく華美を競うて、城壁の上へ立ち現われた。白鳥のように白い羽毛で飾られた銅の兜《かぶと》は燦爛《さんらん》と太陽のように輝いた。そのほかの人びとは、うなじの横へねじ曲げるようにして、軽やかな薔薇《ばら》色や空色の帽子をかぶっていた。黄金の飾りをつけ、金モールをつけ、袖を折り返した上着。それらの上着には、持ち主である貴族たちが金を惜しまずかけたに違いない、高価な象眼のされたいろんな武器や、サーベルなどがついていた。――そのほかあらゆる装飾が施されてあった。それらの人びとの先頭に、傲然《ごうぜん》と、真紅の帽子をかぶり、黄金で身を飾った、ブッジャックの連隊長が立っていた。連隊長はほかの一同より背が高く、横幅もあり、岩のようにどっしりしていた。広い高価な上着が、巨大な彼の体をかろうじて包んでいた。他の一方、ほとんど横手の城門に近いところには、さらに別な一人の連隊長が立っていた。あまり大柄でない、すっかり枯れきってしまったような男であった。が、小さな、そのくせ爛々《らんらん》たる目は、厚く生えた眉毛の下から、生き生きとこちらをにらんでいた。彼は細いばさばさした手で敏活にいろんな命令をあたえながら、素早く八方へ身をねじ向けていた。小作りな体格にもかかわらず、軍のかけひきにたけていることは明白だった。彼から少し離れたところに、濃いひげを蓄えた、とてつもなく背のひょろ長い旗手が立っていた。見たところ、彼の顔の粧《よそお》いには、非の打ち所がないようだった。――この貴族は、芳烈な蜜酒と甘い酒宴との愛好者だったのである。さらに彼らの背後には、あらゆるポーランドの貴族が大勢控えていた。――ある者は私財を投じて、ある者は国王下賜の官金で、またある者は父祖の城内に見出されるすべての物を担保にして、ユダヤ人から借りた金で、思い思いの装いを凝《こ》らしていた。元老院議員たちから、時々食事の招待を受ける食客連中もかなりいた。彼らはそうした陪食《ばいしょく》にありつくと、さっそく食卓の上や料理棚から、銀の杯類を盗み取った。そしてその日の敬意を表し終わると、翌日はもう馭車《ぎょしゃ》台に坐って他の貴族の馬を馭すという連中であった。あらゆる人びとがそこに密集していた。普通の場合には酒さえ飲めない状態なのだが、それでも戦争へ出るというので、この通り着飾って来たのであった。
コサックの隊列は城壁の前面に静かに立っていた。彼らは誰も黄金の飾りなど身に着けていなかった。ただサーベルの柄と銃の象眼とがそこここにちらちら光っているだけだった。コサックは戦場で着飾ることを好まなかった。彼らの身に着けている鎖帷子《くさりかたびら》や外套は、きわめて質素なものだった。彼らの帽子の、うなじだけ深紅に染められた黒い羊毛は、遠くから黒ずんで見え、また赤ばんで見えていた。
二人のコサックがザパロジエ軍の列の中から進み出た。一人はまだまったくの若年、ほかの一人はそれよりやや年たけていた。二人ながら弁舌の上でも実行の上でも人後に落ちないコサックだった。オフリム・ナシ、ムイクイタ・ゴロコプイテンコの二人であった。彼らにつづいて、|ずんぐり《ヽヽヽヽ》したコサック兵、デミット・ポポイッチも馬を乗り進めた。彼はアドリアノープルの役に参加して、当時すでに多くの艱難辛苦《かんなんしんく》をなめつくした人物で、久しい以前からセーチで苦労して来たのである。彼は火焔に焼かれて、樹脂だらけのどす黒い火傷《やけど》頭と、同じく焼けて色の変わったひげとを持ってセーチへ馳せ来《きた》った。がふたたび、ポポイッチは肥え太り、耳のうしろへ弁髪をたらし、樹脂のように黒いひげを蓄えるようになったのである。毒舌にかけてもポポイッチは猛者《もさ》であった。
「いよう、敵のやつらはみんな真赤な服を着ているなあ。ひとつ知っておきたいのじゃが、軍の戦闘力も真赤なのか?」
「こん畜生!」と城壁の上から頑丈そうな連隊長が叫んだ。
「十把ひとからげにふん縛ってやるぞ! 部下と銃と乗馬とをよこしてしまえ! この俺様に|うぬら《ヽヽヽ》の隊のやつどもがふん縛られるのを見たいじゃろう? ザパロジエの捕虜のやつらにとくと見せてやれい!」
十重二十重《とえはたえ》に縛《いまし》められたザパロジエのコサックらが、城壁の上へ引っ張り出された。その先頭にいるのは廠舎隊長のフリプであった。彼はズボンもはいていず、上着も着けていなかった。――ぐでんぐでんに酔っ払って、前後不覚になっているところを捕まえられた、その時のままの姿であった。味方のコサック軍の眼前へ裸体をさらしているのが恥ずかしく、また、犬のように眠ったままで捕虜にされたのが恥ずかしくて、廠舎隊長は地をなめるようにうなだれた。一夜のうちに巌丈《がんじょう》な彼の頭が真白になっていた。
「嘆くな、フリプ! 救い出してやるからな!」と城壁の下からコサックたちは叫んだ。
「嘆くな、兄弟!」と廠舎隊長のボロタットイがあいづちを打った。「裸で捕まえられたのは貴公の罪じゃないぞ。どんな人間にも不幸はありうるのだ。むしろ貴公のその裸体をちゃんと包んでやることもせず、そのままさらし者に出しおった、敵のやつらこそ恥を知れい!」
「ははあわかった。貴様らの軍隊は、寝ている者に向かった時だけ、勇気を持ち合わせているのだな!」と城壁の上を仰ぎ見ながら、ゴロコプイテンコが言った。
「待ってろ、今にその弁髪をちょん切ってやるからな!」城壁の上からどなり返した。
「ほう、われわれの弁髪をちょん切ってくれる、お手並み拝見といこうかい」と彼らの目の前でぐるりと馬の向きを変えて、ポポイッチが言った。それからさらに、味方の方を顧みて、彼はつづけた。「いや、しかし、ひょっとすると、ポーランドのやつら、ほんとのことを言ってるのかも知れないぞ。もしあの肥っ|ちょ《ヽヽ》がやつらを率いてこちらへ出て来るとすると、やつらにはいい防禦《ぼうぎょ》ができることになるぞ」
「何でやつらにいい防禦ができると思うのか?」と、ポポイッチがもうきっと、何か憎まれ口をぶっ放してやる心構えができたと知って、コサックたちはこうたずねた。
「あの|でぶ《ヽヽ》公のうしろには全軍が隠れられるだろうからなあ。そしてもうとても、あの太鼓腹の陰へ隠れた日には、槍もとどきかねるだろうからな! は、は、は!」
コサックたちはどっと一度に笑い出した。さらにしばらくのあいだ彼らの多くの者は、うなずきながら言っていた。「ふうん、なるほどさすがはポポイッチだなあ! もうこの上は、口先だけの喧嘩なら、『ふうん』だけでたくさんじゃ……」
が、その『ふうん』がどんなものかを、コサックらは言わなかった。
「後退、早く城壁の脇から後退しろ!」と団長は叫んだ。なぜなら、ポーランドの軍勢が、この毒舌にこらえ切れなくなったとみえて、連隊長が手を振って微妙な合図をしたからである。
コサックの面々が城壁から身を退くか退かないうちに、そこからいっせい射撃が始まった。城壁の上はざわめき出した。雪白の頭をした将軍が、みずから馬上の姿を現わした。城門がさっと開いて、敵軍が突貫して来た。縫《ぬい》飾り美々しく着飾った驃騎《ひょうき》兵の一隊が、ひづめをそろえて真先に進出し、つづいて鎖帷子《くさりかたびら》に身を固めた一隊、つぎが長槍を振りかざしたラトニック〔甲装兵〕の一隊、それから銅のヘルメットをかぶった一隊。思い思いの服装をしたポーランドの上流の貴族たちが、義勇兵として独立部隊を形造って馬を進めた。傲慢な彼らは、他の部隊と混合されることを欲しなかったので、他から指揮を受けることなく、単独に、めいめいの使用人らを引き連れて進軍したのである。彼らにつづいて他の部隊が進み、その後から旗手が馬でつづいた。その後にまた新しい部隊、そして頑丈な例の連隊長が乗り出した。これらの全軍の一番後から、背の低い一人の連隊長が馬で出て来た。
「息を入れさせるな! 陣立てを整えさせるな!」とコサック軍の団長は叫んだ。「全軍いっせいに突貫っ! ほかの城門の攻撃は全部やめい! トイタレフスキイの部隊は、側面から攻めろ! デャディキフスキイの部隊は、他の側面からかかれい! ククベンコ、パルイオダは背面を突けい! かき回してやれ、かき回してやれ、そして敵勢をちりぢりばらばらに引き離せ!」
コサックは四方から突撃して、ポーランド軍をかき乱し、混乱せしめ、同時に自分たちも混乱した。射撃の余裕さえなかった。敵も味方もごちゃごちゃの塊になってもみ合った。そして一人一人が自分の腕をしめす機会を作った。
デミット・ポポイッチは、三人を雑兵を刺し殺し、さらに「ほう、すばらしい馬じゃなあ! とうから俺はこういう馬が欲しかったぞ!」と言いながら、二人の貴族を馬から突き落とした。そして、うしろに控えていたコサックたちに向かって、おい、つかまえといてくれい、と叫びながら、それらの馬を野原の遠くの方へ追いやった。そらからふたたびひと塊りになっている肉弾戦のまっただなかへ突入し、あらためて、馬から叩き落した敵の貴族に立ち向い、一人を殺し、他の一人の首に捕縄をかけて、乗馬の鞍に結びつけ、高価な柄《つか》のついているサーベルを奪い、金貨の入っている袋を帯からといて、野原中を引きずり回した。
善良な、いまだ年若なコサックの花形コビイタは、ポーランド軍のもっとも勇敢な武将の一人と渡り合った。彼らは長いこともみ合い、つかみ合った。もうコサックの方が勝つばかりだった。彼は相手をねじ倒して、鋭利なトルコ製の銃剣でぐさりとその胸を刺した。が、彼自身も無事にはすまなかった。ちょうどこの時、彼のこめかみに、焼きつくように熱く敵の銃丸が命中したのである。彼を倒したのは、ポーランドの貴族中でもっとも秀れた、もっとも美しい、古い王侯の血統を引いた騎士であった。美しく均斉の取れたポプラの木のように、端然とした栗毛の馬にまたがっていた。彼は、すでに剛胆な貴族の豪勇の数々をしめしたのである。――二人のザパロジエのコサックを真っ二つにした。善良なコサック兵フィオドル・コルシを、馬もろともに転倒させ、馬を射殺し、下敷きになっている所を槍で刺し止めた。多くの敵の首をはね、手を断ち、さらにコビイタのこめかみに一発打ちこんで、彼をも倒してしまったのだった。
「おお、こういう敵に俺は力試しをしてみたかったのだ!」とネザマイコフスキイ廠舎隊長ククベンコが叫んだ。そして馬を走り進め、まっしぐらにこの敵の背後を襲って、大音声に叫んだ。近くに立っていたすべての者が、人間離れした凄《すざ》まじいその叫び声に戦慄《せんりつ》したほどであった。叫びかけられたポーランドの貴族は、急に馬の向きを変えて、敵と真向かいになろうとあせった。が馬がいうことを聞かなかった。恐ろしい怒号におびえて、馬は横の方へ|すっ《ヽヽ》飛んだ。そしてククベンコが銃弾で、難なく彼を射とめてしまった。熱した銃弾が背骨へ通ったので、彼は|どっ《ヽヽ》とばかりに落馬した。が、それでもまだポーランドの貴族は屈せずに、依然として敵に一撃をくわえようと努力した。けれども、サーベルとともに地上へ投げ出された手にはもう力がなかった。ククベンコは、どっしりと重いパラシ〔刃の広い少し曲がった剣〕を両手に持って、青ざめた彼の口中へ突き刺した。パラシは前歯を二枚折り、舌を両断し、喉笛を破って、深く地中へ突きぬけた。かくして彼はその敵を湿っぽい大地へ永久に串刺しにしたのである。河岸のナナカマドのように真赤な、高貴なポーランド貴族の血は、噴水のように噴き上がって、金の装飾のされてある黄色い上着を真紅に染め上げた。ククベンコはもう彼を見捨て、手兵を引き連れて、他の格闘の場所へ突入した。「やれやれ、こんな高価な装飾品を、ほったらかしにして行きやがった!」と、自分の隊を離れて、ククベンコに殺された敵の貴族の横たわっている場所へ馬を乗りつけ、ウマンスキイ廠舎隊のボロダットイが言った。「俺はこの手にかけて七人までポーランドの貴族をやっつけたが、こんな立派な飾りは、どいつも身につけていなかったぞ」
ボロダットイは私欲に目がくらみ、それらの高価な装身具を抜き取ろうと思って、前の方へ身をかがめ、宝石類の象眼されたトルコの長剣を奪い取り、金貨のざくざくはいっている袋を帯から解きはなし、さらに胸から薄地の下着と高価な銀と記念のために保存されてあった少女の巻き毛とのはいっている、ひとつの袋を奪い取った。ボロダットイは、自分にひとたび鞍から叩き落されたが、幸運にも息を吹き返した赤鼻の敵の旗手が、背後から襲いかかるのを知らなかった。息を吹き返した赤鼻の旗手は、大上段にサーベルを振りかざして、前かがみになっていた彼の首へさっとこれを打ちおろしたのである。私欲はコサックに幸いしなかった。頑丈な首はぽんとすっ飛び、頭のなくなった胴体は、ばさりと倒れて、周囲の地面をびしょびしょに濡《ぬ》らした。気むずかしいコサックの魂は、不興気に、不満そうに、そしてまたあんなに頑丈な体とこんなにも早く別れねばならなかったことに驚きながら、天上界へ舞い上がった。が、奇捷《きしょう》を博した旗手が、廠舎隊の隊長の首を自分の鞍へ縛りつけようと思って、その弁髪をつかもうとしている矢先に、もう恐ろしい復讐者がそこに立っていたのであった。
力強い翼で幾つも幾つも輪を描きながら、空中に舞い飛んでいる鳶《とび》が、急に翼を張り拡げたままひとつところにぴたりと停まり、そしてそこから、眼下の往来ぎわに啼《な》いている鶉《うずら》を見かけて、矢のように飛びかかって行くように、タラス・ブーリバの息子のオスタップが、不意にこの敵旗手に飛びついて、たちまち首に捕縄を投げかけたのである。残酷なわなが喉頭をぐいとしめつけると、旗手の赤面はいっそう赤くなった。彼はピストルをつかんだが、痙攣《けいれん》するように彎曲《わんきょく》したその手は、狙いを定めることができず、弾丸は空しく野原へと流れとんだ。オスタップはすぐ、捕虜を縛るために旗手の携帯していた絹紐を、彼の鞍からほどき放し、それで手足を固く縛り、その端を自分の鞍に結びつけて、ウマンスキイ廠舎隊のコサック一同を、その隊長に最後の敬意を表せしめるために大声で呼び集めながら、野原のあちこちと引きずり回した。
ウマンスクのコサックたちは自分たちの廠舎隊の隊長であるボロダットイが、もはやこの世にいなくなったのを知ると同時に、戦いを捨てて、彼の死骸を拾いに駈けつけた。そしてその場で、誰を隊長に選ぶべきかを相談し始めた。が、ついに彼らは言った。
「しかし、こんな相談をする必要があるか? オスタップを隊長にするにこしたことはありゃしない。あれは実際ほかの連中より年若だが、しかし年くった爺さんよりも知恵はあるからなあ」
オスタップは、脱帽して、コサックの同僚らがあたえてくれた光栄に対し、一同に感謝した。戦《いくさ》の真最中で、ぐずぐずしている場合でないのを知っていたので、彼はまだ若年だとか分別が若いからとか言って辞退しようとはしなかった。即座に全員を敵の密集部隊に向かわせた。そして彼ら一同に、彼らが自分を選んだことの空しくなかったことを実証した。
ポーランド軍は戦があまり猛烈になったのを見て退却を開始し、反対の側へひとまず集合するために、野原を横切って駈け出した。が、背の低い例の連隊長はそこに踏み止まって、本隊より別に、城門のすぐそばに立っていた四百の精兵に向かって、合図をした。と、そこからコサックの密集部隊に向かって、いっせい射撃の雨が降りそそいだ。がこれに命中した者はなかった。弾丸はびっくりして阿鼻叫喚《あびきょうかん》の現場を見ているコサック軍の牛の群れに命中した。牛どもは肝《きも》をつぶして、咆哮《ほうこう》し始め、コサックの馬群に向かって襲いかかり、輜重車《しちょうしゃ》を破壊し、多くの物を踏みつぶした。が、このときタラス・ブーリバは、部下の兵一同とともに潜伏地からさっと躍り出て、叫びながら、彼らをとらえようと突進した。荒れ狂う猛牛の群れは、この叫び声に驚かされてどっとうしろへ引き返し、今度はまっしぐらに敵軍に向かって突入して、騎兵を馬から突き落し、すべてのものをひずめにかけて踏みにじり、また蹴散《けち》らした。
「おお、ありがとう、でかしたぞ、牛ども!」とザパロジエのコサックたちは叫んだ。「輸送の任務を完全にはたした上に、今度は戦闘の任務まではたしてくれた!」
彼らは新しい精力をもって敵に襲いかかった。この格闘で少なからず敵を屠《ほふ》って、武勲をしめした者は多かった。メテリツィヤ、シイロ、両ビサレンコ、オフトウゼンコ、その他の武将が男を挙げたのである。
ポーランドの軍勢は、武運つたなく、ついに敗軍に終わるべきことを知り、旗差し物を投げ捨て、城門をあけてくれと内側の味方にわめき出した。鉄板を張った城門はぎいときしって開け拡げられ、羊小舎へはいって行く羊のように密集した、へとへとになった、ほこりまみれの騎馬武者の群れを収容した。ザパロジエのコサックの多くが彼らを追撃しようとしたが、オスタップは、自分の率いるウマンスクのコサック隊を引き留めて、彼らに言った。
「後退、後退、おいみんな、なるたけ城壁から遠くへ離れろ! 城壁に近よってはいけないぞ!」
彼が言うのは本当だった。急に城壁の上からいっせい射撃が起こって、誰彼の容赦なしにばらばらと降りかかり、多くの者に命中したのである。
このとき団長が馬を乗りつけ、オスタップを賞揚してこう言った。
「まだ成り立てのほやほやの廠舎隊長じゃが、どうしてなかなか、老巧な連中にちっとも|ひけ《ヽヽ》を取らない、立派な軍の駆け引きぶりじゃ!」
老いたるタラス・ブーリバは、その新任の廠舎隊長というのがどんなやつか見ようと思って、|ひょい《ヽヽヽ》と後ろを振り返った。そしてウマンスクのコサック隊の先頭に、長男のオスタップが馬上から指揮しているのを見出した。彼の帽子はもう|ちゃん《ヽヽヽ》とそのうなじが横の方へ折り曲げられており、廠舎隊長の持つ杖が|しか《ヽヽ》とその手に握られていた。
「おお、でかしたぞ!」と彼を見ながら、タラス・ブーリバは言った。老人は喜んだ。そして自分の息子にあたえてくれた光栄に対して、ウマンスクのコサック一同に感謝した。
コサック軍は馬軍の方へ引き上げる用意をしながら退却した。ふたたび城壁の上に、もうぼろぼろの外套姿に変わりはてたポーランドの軍勢が立ち現われた。いろいろな高価な彼らの上着には、血がこびりつき、見事な銅のヘルメットはほこりまみれになっていた。
「どうだ、縛ったか?」と彼らに向かって、ザパロジエのコサックたちが叫んだ。
「よし、野郎ども!」と同じく上から、捕縄をしめしながら、例の|肥っちょ《ヽヽヽヽ》の連隊長が叫び返した。ほこりまみれの、へとへとに疲れた兵卒どもも、依然として凄《すご》文句を並べることをやめなかった。彼ら一同は、前よりもいっそう苛《いら》立って、両方から、猛烈な言葉を浴びせ合った。
が、ついにみんなは退散した。ある者は肉弾戦に疲れはてた体を休めるべく横になった。ある者は傷どころへ土をなすりつけ、ハンカチや、敵の死体からむしり取った高価な衣類を引き裂いて包帯した。もっと元気のいい連中は、味方の死骸を取りかたづけて、それらの犠牲者に最後の敬意を表した。――彼らはパラシ〔直剣〕や槍で地面を掘り、帽子や服の裾で土をすくい出し、うやうやしくコサックの死屍《しし》を積み重ね、鳥や鷲が目玉をほじくるようなことのないようにと、新しい土を深々とそれにかけた。が、敵の死体は見当たり次第に、野良馬の尻尾に十|把《ぱ》ひとからげに縛りつけて野に放ち、長いことその後を追い回して、横腹をぴしゃりぴしゃりと鞭《むち》で叩いた。猛《たけ》り狂った奔馬は畦《あぜ》や丘の上を、堀や流れを跳り越えて、飛ぶように走り回った。血とほこりとにまみれた敵の死体は、地面にぶつかってごろごろした。
やがてあらゆる廠舎隊の者が円形を作り、一同で晩の食事をとった。彼らは時久しく、今日の戦争のもろもろのできごとや、各自の運命に恵まれたところの、諸外国人や子々孫々にも永久に語り伝えるべき、武勲について語り合った。彼らはなかなか寝ようとしなかった。が、誰よりも長く寝なかったのは老いたるタラス・ブーリバで、アンドリイが敵軍の中に見えなかったのはどういうわけだろうと、絶えずそのことを思いふけっているのであった。ユダにも等しい裏切者が味方に向かって打って出ることを恥じたのか、それともあのユダヤのやつめが俺をだましたのか、せがれは単に捕らわれているだけなのではあるまいか? が、ここで老タラス・ブーリバは、アンドリイのハートが女の言葉にひどく動かされやすかったことを思い出し、老いの胸は深い悲しみにとざされ、自分のせがれを迷わせたポーランド女を、心の中で烈しく呪った。彼は、できたらその呪い通りにやったであろう。彼女の美しさなどには目もくれずに、その房々とした濃い美しい弁髪を引っつかんで、野原中を、野原に点在するコサックの間を、引きずって歩いたに違いない。高山の頂をおおっている永遠にとけない雪のように光り輝く美しいその肩や胸は、血まみれになり泥まみれになって、大地をなで回るであろう。美しい豊かな彼女の体をずたずたにして、ほうぼうへ投げ散らしたであろう。……が、タラス・ブーリバは、神が人間に明日いかなる運命をあたえ給うかを知らなかった。彼はとろとろと眠りに落ち始め、ついにぐっすりと寝こんでしまった。
が、他のコサックたちはいぜんとして内輪《うちわ》同志の話をつづけた。そしてそこの篝《かがり》火の傍には、一滴の酒も飲まず、まんじりともせずに、じっと八方へ目をくばりながら、番兵が厳然と立っていた。
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太陽はまだ空のなかばに達しなかった。が、ザパロジエのコサック軍は全部円形に集合した。ダッタン人らが、コサック軍の留守の間に、セーチへ襲来して、あらゆるものを掠奪《りゃくだつ》し、コサックがこっそり地下に埋めておいた財宝を発掘して、留守を守っていたすべての人びとを殺したり捕虜にしたりしたあげく、ことごとくその家畜と馬の群とを引っさらって、一目散にペレコプへ向かって進出したという報道がセーチから到着したのであった。ただ一人マクシム・ゴロドウハというコサックが、途中でダッタン人の手から抜け出し、一人の酋長を刺し殺し、金貨の入っている袋を奪い、ダッタン人の馬に乗って、ダッタンの服を着、まる二晩と一日半、追手から逃げつづけて来たのであった。彼は馬を乗りつぶして新しいのに乗り換え、それをまた乗りつぶして、やっと三番目の馬でザパロジエの人たちがドウブノの付近にいることを途中で知って、ザパロジエ軍の陣営へ駈けつけたのである。こういう凶事ができたと、彼はただそれだけしか言えなかった。どうしてそういうことになったのか、留守を守っていたザパロジエの連中が、コサックの風習で、死んだように固く眠っていたのか、それともぐでんぐでんに酔っ払ったままで捕虜にされたのか、またどうしてダッタンのやつらが、隊の財宝を埋めてある場所を嗅《か》ぎ知ったのか――それらについては、彼は少しも言わなかった。そのコサックは疲れはてていた。全身がぶくぶくとふくらんでおり、顔は日に焼け、風のために荒れていた。彼はその場に倒れてしまって、深い眠りに陥ったのである。
こうした場合、ザパロジエの人びとは即座にそういう掠奪者らを追跡して、途中で追いつくことになっていた。というわけは、捕虜になったそれらの味方が、小アジアの市場や、スミルナや、クレタ島などに現われるかも知れなかったし、なおその他どんなところに、ザパロジエの人たちの髻《たぶさ》のついた頭が現われないともかぎらなかったからである。で、そのために、ザパロジエの出征軍は集合したのであった。彼らは一人残らず帽子をかぶって立っていた。なぜなら、彼らは司令官としての団長の命令を聞きに来たのではなく、いずれも同等な人として協議すべく集まったに過ぎないからである。
「年長の連中から先に意見を吐かせるがいい!」と群集の中から声がした。
「団長にまず意見を吐かせろ!」と他の人びとが言った。
団長が帽子を脱いで、一個の司令官としてではなく、同じ同僚の一員として、自分に最初の発言を許すという光栄をあたえてくれたことに対し、一同に感謝の意を表して、言った。
「われわれの間には年長で、立派な意見を吐かれる方々があります。しかしながら、もしこの私に耳をかそうとするのでしたら、私はあえて申しますが、諸君、時を移さず、すみやかにダッタン人を追跡しなければなりません。なんとなれば、ダッタン人の何者であるかは、すでに諸君が知らるる通りで、彼らは掠奪した金を持って、われわれの行くのを待っていず、またたく間にこれを消費してしまって、少しも跡形が残らぬようにしてしまうからじゃ。そこで私の意見としては、あくまで即時出動じゃ。われわれはもうここでさんざん『面白い目』を見ましたのじゃ。ポーランドのやつばらはわれわれコサックの真骨頂を知りました。辱められた信仰に対しては、できるだけの復讐を遂げました。それにまた、飢餓《きが》に瀕しているあの町には分捕る品も少なくなっている。そこで私の意見は、――あくまでも即時出動じゃ」
「出動!」という声がいっせいにザパロジエのコサックたちの廠舎廠舎に鳴り響いた。
が、タラス・ブーリバにはこれらの言葉が気に入らなかった。そこで彼は、高山の暗がりに生え出して、その梢《こずえ》が針のような北方の霜柱におおわれている、あの潅木《かんぼく》の繁みにも似た、陰気な半白の眉《まゆ》を、いっそう低く目の上へくしゃくしゃとよせ集めた。
「いや、団長、貴公のご意見は正しくありませんぞ!」と彼は言った。「貴公の言われることはどうも違っているようだ。どうやら貴公は、味方の者がポーランドのやつらに捕えられて、敵陣に捕虜になっていることを忘れておられるようじゃな? 見受けるところ、どうも貴公は、われわれがコサック団の神聖犯すべからざる第一の掟《おきて》を破ることを、希望しておられるようだ。――われわれが自分の同胞を見殺しにして、ポーランドのやつらがすでにウクライナで、わが隊長一名と立派なロシアの騎士数名とにやったように、敵のやつらに生きながら彼らの皮をはがせたり、彼らコサックの体を八つ裂きにして、町や村を引き回しにさせたりすることを、貴公は望んでおられるように見える。それでなくてさえあいつらは、われわれのもっとも神聖なるものを、宗教を、罵《ののし》ったではござらぬか? われわれはそもそも何者ぞ?――こう私は一同の諸君にたずねる。戦友を不幸のどん底に捨て、犬猫をほうり捨てるように、彼らの多数を仇敵の手に捨てて顧みぬやつが、なんでコサックじゃ? みずから自分の白鬚《しろしげ》につばを吐きかけたり、言語道断の不埒《ふらち》な言葉で、われらを侮辱したりするのを許して、コサックの名誉なぞこのさい顧みないということに、もしも衆議が一決したとしても、わしの責めではありませんぞ。わしは一人で踏み止まる!」
立っていたザパロジエのコサックたちは動揺した。
「しかし、よもやあんたは忘れやすまいな、大胆な連隊長」
とそのとき団長が言った。「ダッタンのやつらの手にも味方の者が捕虜になっていますのじゃ。そしてもしわれわれが今彼らを救ってやらなかったら、彼らの生命は、かの異教徒のやつどもの手に永遠の奴隷として売られてしまうのじゃ。これはあらゆる恐ろしい死よりもたえがたいことじゃ。おまけにあいつらの手中には、われわれキリスト教徒の血をもって獲得した財宝までが全部奪われていますのじゃ――あんたはよもやそれを忘れはすまいがな?」
コサック一同は深く考えこんだが、何と言ったらいいかわからなかった。彼らの中の一人として名誉の汚されることを欲する者はなかった。このとき一同の前へ、ザパロジエのコサック軍での一番の年長者であるカスイヤン・ポヴデュクが進み出た。彼は日ごろコサック一同から尊敬されている人物だった。――二度まで団長に選ばれた。また数々の戦《いくさ》にも、申し分ないコサックであった。が、もうすっかり年を取って、その後どの出征にもくわわらなかった。彼はまた誰にも意見がましいことを言うのを好まなかった。ただこの老戦士は、コサックたちの団欒《だんらん》の傍に寝そべって、いろいろな昔語りや遠征の話などに耳傾けるのが好きだった。けっして彼らの話に嘴《くちばし》を入れることなく、いつもじっと耳を傾け、ついぞ口から放したことのない短いパイプの灰を指で押しつぶしながら、長いこと、軽く目をそばめて、その席に連なっているので、他のコサックたちは、彼が眠っているのか、話を聴いているのかわからなかった。どの出征にも留守居をするのを常としたが、今回だけは、奮然として立って、コサック流に片手を振って言ったのだった。「どこでもかまわん! わしも行く! どんなところでわがコサック団のお役に立つかも知れないから!」
こういう彼がいま集会の前へ進み出たので、コサック一同は急に水を打ったように鎮まり返った。というわけは、もうずっと前から一度も彼の言葉に接することがなかったからである。すべての人は彼ボヴデュクがどういうことを言うか知りたく思ったのである。
「諸君、一言申し述べる順番がわしのところにも来ましたわい!」こう彼は口を切った。「子供たちよ、この老人の言うことを聴いて下さい。団長の言われたことは至極《しごく》もっともじゃ。軍隊を保護し軍の財宝を管理しなければならないコサック軍の統帥《とうすい》として、これより立派な言葉を吐くことができなかったのは無理もない。まったくじゃ! これをわしの最初の言葉として受け入れてもらいたい! そこで今度はわしの第二の言葉が、どんな音色を出すだろうか、それを聴いていただきたいのじゃ! ほかでもない、わしの第二の言葉の語るところはタラス・ブーリバもまた、あの連隊長もまた、大きな真実を述べられたということなのじゃ!――神よ彼らに幾久しき齢《よわい》を保たしめたまえ。そしてかくのごとき連隊長がウクライナニますます数多くならんことを!――タラス・ブーリバが言われた通り、コサックの第一の責務でありまた第一の名誉であるものは、友情の固めを厳守するということじゃ。わしはこの年まで生きながらえて来たけれども、諸君、わしはまだ、コサックがどこかで自分の友を捨てたり、売ったりしたというのを耳にしたためしがないのじゃ。前者も後者も、どちらもわれわれには明らかなのじゃ。――その人数が多かろうと、少なかろうと、同じことじゃ。やはりわれわれの友で、すべてはわれわれには大切なのじゃ。そこでわしはこういいたい。――ダッタン人に捕われた友がかわいそうだと思う者は、ダッタン人を追撃に行くがいい。またポーランドの軍勢に捕えられた友がかわいそうだと思う者、正義の戦を捨てることを望まない者は、ここに踏み留まるがいい。団長は職責上、全軍の半数を引率して、ダッタンのやつらを追撃に行かれること、そして、あとに残った半数の部隊は、新しく臨時の団長を選挙することじゃ。してその臨時の団長には、この白鬚頭の意見を聞いて下さるなら、タラス・ブーリバをおいては誰も不適当だと思うのじゃ! 剛勇という点では、わが軍団中|何人《なんぴと》も彼の右に出る者はないからのう」
ボヴデュクはこう言って、口をつぐんだ。コサック一同は自分たちがこの老人のうまい考えにめぐり合ったことを喜んだ。一同は高く帽子を上げて、叫び出した。
「お爺さん、ありがとう! お爺さんは長いこと黙っていた。黙って、黙って、黙りぬいたあげく、とうとうすばらしいことを言ってくれた。いよいよ出征だという時に、これでもなにかでコサックのために役に立つこともあろうと言ったのが、実際まったくその通りだった」
「どうじゃな、今の意見にみんな賛成かな?」と団長がたずねた。
「賛成!」とコサックたちは叫び出した。
「それじゃ、会議は終わりにしてもよろしいな?」
「会議は終わりじゃ!」
「それでは、諸君、軍令に従って下さい」と団長は言って、前の方へ進み出て、帽子をかぶった。ザパロジエのコサックたち一同は、全員もれなく、ことごとく脱帽し、むき出しの頭を風にさらして、長老の人びとが何か言おうとする時に彼らの間でいつもやるように、うやうやしく大地へ目を伏せた。
「それでは諸君、二組に別れて下さい! 先方へ行きたいと思う者は右側へ歩み出る。残っていたいと思う者は同じく左側へ! 廠舎隊の人員の多数行った方へ隊長もつくこと。同じく人員の少ないものは、ほかの廠舎隊へ合併するように」
一同が右側左側へ思い思いに行き出した。一廠舎隊の人員の多数行った方へ、隊長も移った。そして少数のそれはほかの廠舎隊へ合併した。その結果、双方の人員がほとんど半々になった。ネザマイコフスキイ廠舎隊のほとんど全員、ポポウィチェフスキイ廠舎隊の過半、ウマンスキイ廠舎隊の全員、カネフキイ廠舎隊の全員、ステブリコフスキイ廠舎隊の過半数、トイモシエフスキイ廠舎隊の過半数が、いずれも残留する事を希望した。その他の一同はダッタン人の追撃におもむくことを申し出た。どちらの側にも強い勇敢なコサックがたくさんあった。ダッタン人の追撃におもむこうと決心した連中の間には、善良なコサックの老人チェウェワットゥイを始め、ポコトイポレ、レミッシ、プロコポウィチ・ホオマ等の面々が控えていた。デミット・ポポイッチもこの方へついた。というわけは、非常に性急な性質のコサックで、ひとつところに尻を落ち着けていることができなかったからである。――彼はもう早々とポーランド軍を相手に一花咲かせた。そしてさらに今、ダッタン人に対しても腕試しをしたいと思ったのである。廠舎隊の隊長の連中は――ノスチンガン、パクルイシカ、ネウィルチキイの面々であり、なおこのほかにも、一騎当千の勇敢無比なコサックの多くが、ダッタン人との勝負に長剣と鉄腕とを試すことを望んだのである。
踏み留まった者の間にも、非常に優秀なコサックが、大分あった。廠舎隊の隊長をうけたまわっているのは、デムィトロウィチ、ククベンコ、ウェルトゥイウィスト、バラバン、オスタップの面々であった。それからさらにこのほかにも、音に聞こえた豪勇無比のコサックたちが多数あった。オフトゥゼンコ、チェレウィチェンコ、ステパン・グスカ、オフリム・グスカ、ムイコラ・グウストゥイ、ザダロジイ、メテリツヤ、イワン・ザクルトゥイグバ、モッスイ・シイロ、デフチャレンコ、スィドレンコ、ピサレンコ、それからさらに今一人のピサレンコ、さらに第三のピサレンコ、――このほかにもまだすばらしいコサックがたくさんあった。いずれも歩兵騎兵の面々であった。彼らはアナトリアの沿岸、クリミヤの塩浜や曠野《こうや》、ドニエプルに注ぐ大小無数の河、入江という入江、ドニエプルの島々などに出没した。二挺舵のコサック特有のチョルン〔刳船《くりぶね》〕に乗って、黒海をいたるところ荒らし回った。五十艘のチョルンが舳艫《じくろ》をそろえて、物資を満載した大船を襲った。少なからざるトルコのガレラ〔兵船〕を沈没させ、その当時ずいぶんたくさんの弾薬を発射した。高価な織物を引き裂いて、草鞋《ぞうり》がわりにしたこともたびたびであった。ズボンのバンドについている革袋が、金貨でいっぱいになったことも一度や二度ではなかった。しかも彼らのいずれもが、普通、一生涯楽に暮らせようという数えきれないそれらの財宝を、どれほど酒と遊蕩《ゆうとう》とに使いはたしてしまったであろう。コサック流に、全世界をうるおわせながら、この世のあらゆる者が喜びに躍り跳ねるように、景気のいい音楽隊を雇いながら、浮かれ騒いですべての物をまき散らしてしまったのだ。彼らの中には、今なお少しも財宝を地下に埋めたりしないような者さえまれにはあった。レース、銀の大杯、腕環などの財宝が、突然ダッタン人が襲来するような不幸のある場合に、発見されずにすむようにと、ドニエプル河の島の中の蘆《あし》の繁みの下に埋められてあった。そして実際ダッタン人は、それを発見するのが困難だったであろう。なぜなら、それらの財宝の持主自身が、どこへ埋めたか、もう忘れかけていたくらいだったからである。――忠実な戦友たちとキリストの信仰とのために踏み留まって、ポーランドに復讐する気になったのは、こういう来歴の面々であった。老コサック、ボヴデュクもまた、彼らとともに踏み留まることに決め、そして言った。
「もうわしはダッタン人の後を追い回すような年じゃない。ここがわしの、立派なコサックらしい死にかたで死ぬのにちょうどいい場所じゃ。とうからわしは、神に願っておったのじゃ。この一命を終えねばならない場合には、どうかそれを、神聖なキリストの教えのための戦争で捨てさせて下さるようにとな。わしはとうからお願いしとったのじゃ。そしてとうとうこの本望が達せられたのじゃ。この老コサックにとっては、ここよりほかに、光栄至極の死にかたをする場所はありませんわい」
一同のものが二手に分かれ、そして両側に廠舎別で二列に整頓すると、団長は、その間を通り抜け、そして言った。
「どうじゃな、諸君、どちらもお互いに満足かな?」
「一同異存なし!」とコサックらは答えた。
「それじゃ、お互いに接吻を交わして、別れを告げ合ってもらいたい。ふたたびこの世で会えるかどうかわからないからな。自分たちの隊長の命を聞いて、めいめいの信ずるところを断行して欲しいのじゃ。いかなることをわがコサックの名誉心が命ずるか、それは諸君が承知のはずじゃ」
そこでコサック一同は、一人残らず接吻を取り交わした。真先に隊長連中がやり出した。片手で雪白のひげをしごいて接吻を取り交わし、それから手を取り合って、固く固く握りしめた。彼らは互いにこうたずねたく思ったのである。「諸君、どうだろう、また会うことがあるだろうか、ないだろうか?」――が、口へは出さずに黙っていた。しかも彼らの雪白の頭が互いにそれを察し合ったのである。みんな急に忙がしくなることを知っていたので、他のコサックも、一人残らず別れの挨拶《あいさつ》をした。が、しかし、すぐに別れようとはせず、コサック軍の兵員の減少したことを敵に気取らせないように、暗い夜の来るまで待つことにした。やがて彼ら一同は、昼食を食べに、思い思いの廠舎へ引き返して行った。
食事が終わると、出発することになった者は、みんなごろごろ横になって、|ぐっすり《ヽヽヽヽ》と長いこと眠りを貪った。こういう風にのびのびと眠りを味わうのは、おそらく最後だろうと感じているかのようであった。彼らは日没まで眠っていた。日が没して、あたりが暗くなって来ると、いよいよ彼らは荷車に油をさし始めた。固く身ごしらえをしている間に、まず輜重《しちょう》を先に立たした。そして、自分たちは、今一度あとに残る戦友と帽子を振り合って別れを惜しみ、それから、静かに輜重の後を追って行った。馬車の連中は、かけ声をかけず、粛然《しゅくぜん》として徒歩の連中より少し後について行った。まもなく彼らの姿は、闇の中に見えなくなった。ただ馬の蹄《ひずめ》の音と、まだ遠くまで行かないためか、あるいは夜の暗がりで油がよく差されなかったためか、輜重車の中のどの車輪かの|ぎいぎい《ヽヽヽヽ》いうその音とが、かすかに聞こえて来るばかりであった。
もうなにも見えなくなったにもかかわらず、あとに残った戦友らは、それからなおしばらくの間、遠く遠く彼らに向かって手を振っていた。が、いよいよそこを離れて、自分たちの陣営へ帰って来て、きらきらと輝き出した星の光に、輜重の車輛《しゃりょう》の半数が消えており、さらに多くの戦友がなくなっているのを目のあたり見るにおよんで、取り残された一同の心は、妙に暗く曇って来た。そして彼らは、われともなしに、日ごろ暢気《のんき》なその頭を、地上にたれるようにして、深く考えこんだ。
タラス・ブーリバは、残されたコサックの軍勢がにわかに陰鬱になって来て、勇敢な戦士にあるまじき憂愁がそろそろとその頭を占領し出したのを見た。が彼は何にも言わず、一同に若干《じゃっかん》の猶予をあたえて、戦友たちとの別離によってかもし出された悲しみに、打ちかたせようと思ったのである。しかも彼はその間に、一同が|しいん《ヽヽヽ》と静まり返っている間に、コサック流に|わっ《ヽヽ》と叫んでまたたく間に彼らを奮い起こし、めいめいの魂にふたたび溌剌《はつらつ》とした勇猛心が、前にも増した猛烈さでもどって来るように仕向けようと、心に準備をしているのであった。――一度失われた勇猛心をそうした猛烈さでふたたびもどって来させるということは、ひとり広い大きな底力を有する、スラブ魂が成しうるのみである。これを他に比較するならば、それはちょうど大海と小川の相違である。嵐逆巻く時には、海はまったく咆哮《ほうこう》と鳴動とに変わってしまい、無力な河などにはとうてい持ち上げることのできない、山のような巨濤《きょとう》をむくむくと持ち上げる。が、風のない静かな凪《なぎ》の場合には、いかなる山よりもはるかに明るく、際涯《さいはて》ない、ガラスのように滑《なめ》らかで透明なその表面を――永遠の優しみをたたえた平和な瞳を――われらの前に見せるのである……。
タラス・ブーリバは従卒たちに命じて、幾つかの輜重車の中の、ほかより離れて立っていた一つの積荷を解かせることにした。コサックの輜重車の中で、それは一番大きくて一番頑丈なこしらえであった。堅固な二重の鉄輪が、巨大な車輪に巻かれてあった。うずたかく貨物が積みこまれて丈夫な牛の皮と馬皮の被いとでおおわれ、樹皮をひいた頑丈な縄で、|しっかり《ヽヽヽヽ》と縛られてあった。この車に積まれている荷物は全部タラス・ブーリバ家の穴倉に長いこと保存されてあった、古いすばらしい葡萄《ぶどう》酒の樽と酒瓶《さけびん》ばかりであった。もし偉大な時期に際会して、子々孫々に語り伝えられるような大会戦がいよいよこれから行なわれるということになったら、その偉大な瞬間に、同じく偉大な感情が彼らを支配するよう、コサック一同にもれなく飲ませようと思って、そうした厳《おご》そかな場合の用意に、彼らにとって禁制の美酒《うまざけ》をタラス・ブーリバは用意して来たのであった。隊長の命令を聞くと、従卒らは輜重車の方へ飛んで行って、パラシ〔直剣〕で頑丈な縄を引き離し、厚い牛皮と馬皮の被いとを取り除けて、それらの美酒の樽とパクラガ〔平瓶〕とを引っ張り出した。
「さあみんな持って来い」こうタラス・ブーリバは言った。
「ここにいるみなの者が、一人残らず、何でもいいから手もとにあるものを持って来い。柄杓《ひしゃく》でも、馬に水を飲ませるあの槽でも、手袋でも、何でもかまわないから持って来るのじゃ。なんなら両手の掌《てのひら》を出したってかまやしないぞ」
コサック一同は、みんな、思い思いにその道具を手にした。柄杓を持ったものもあれば、帽子を持ったものもあった。またある者はそのまま両手の掌をそろえて差し出した。タラス・ブーリバの従卒たちが、それらの連中の列を成している間を歩き回って、彼ら一同に、平瓶から、また大樽から、こんこんと美酒をついでやった。が、彼ら一同にさあという合図があたえられるまで、タラス・ブーリバはこれを飲ませなかった。まさしく彼は、何か一言しようと思っているのだった。この古いすばらしい葡萄酒それ自身が、いかに強烈な作用を持っていようとも、そしてそれが人の心をいかに強烈にする力を持っていようとも、この酒に適当な、言葉の薬味を添えるならば、酒の力も魂の力も、まさしく二倍に強くなるということを、タラス・ブーリバは知っていたのである。
「今日は諸君にごちそうするぞ、兄弟の諸君!(こうタラス・ブーリバは言った)が、それは、諸君がわしを隊長に選んでくれたという、実に大きな名誉ではあるけれども、その名誉を祝するためでもなければ、また、出発した戦友諸君との別離の悲しみを紛《まぎ》らすためでもありません。なるほど、もしこれが普通の場合なら、このいずれもがまさに乾杯に値するのであります。がしかし、今はそういう場合ではありません。われらの眼前には、偉大なコサックの勇猛心とたくさんの汗とを要求する大合戦がひかえているのじゃ! では、諸君、何よりもまず第一に、聖なるわれらが正義の信仰のために、さあ、ぐっと一息に乾杯しよう!――聖なるわれらの信仰だけが広く全世界にゆきわたって、津々浦々にあまねく行なわれ、ありとあらゆる異教徒がことごとくキリスト教徒になってしまう、そういう時代がこの世へ来るように! さらにまたわれらはわがセーチのためにもいっせいに乾杯しよう! わがセーチのすべての異教徒の絶滅を期して長く存続し、年とともにその中よりますます立派な、ますます勇敢な壮丁が続出するように、諸君、さあ大いに乾杯しよう! ――われらの孫や曾孫どもが、盟友の名を辱めず、味方を売らなかった時代のあったことを、語り草としてくれるように、さあ、諸君、乾杯じゃ、乾杯じゃ! 信仰のために、さあ、兄弟の諸君、信仰のために!」
「信仰のために!」と近くの列にあった一同が、大きな声でいっせいに叫び出した。
「信仰のために!」と遠くの列にいた連中がこれに和した。そして全員ことごとく、老いも若きも、まず信仰のために乾杯した。
「われらがセーチのために!」タラス・ブーリバはこう言って頭上高く杯を持った手を差し上げた。
「われらがセーチのために!」という大きな声が、前列の中に響き渡った。
「われらがセーチのために!」と雪白の長髯《ちょうぜん》を揺るがせて、老いたるコサックたちが静かに言った。
「われらがセーチのために!」と若々しい鷹《たか》のように武者ぶるいをして、血気盛んなコサックの若者たちが繰り返した。
コサック一同が自分たちのセーチを祝福しているこの騒ぎは、遠く野のはてまで響き渡った。
「さあ、諸君、いよいよ最後の一口を、われらの名誉のために、またこの世に生きている、すべてのキリスト教徒のために!」
そしてコサック一同は、一人残らず、彼らの名誉のため、またこの世に生きているすべてのキリスト教徒のために、最後の一口を乾杯しつくした。それからなおしばらくの間、全隊列の廠舎隊の間に同じ言葉が繰り返されていた。「この世に生きているすべてのキリスト教徒のために!」
もう柄杓《ひしゃく》の中は空だった。が、依然としてコサックたちは、手を差し上げたままで立っていた。彼ら一同の目は酒に輝いて生き生きと浮かれて見えたけれども、しかも彼らは深く考えこんでいた。今や利欲の満足や分捕品などについて考えてはいなかった。金貨や金目のかかった高価な武具や、金銀の縫飾りの施《ほどこ》された上着や、チェルケスの馬などを手に入れる幸運が、誰に恵まれるだろうというようなことも、もう考えてはいなかった。群がる小鳥のように、無数の帆船や大小さまざまの船舶がまき散らされ、ほとんど見えるか見えないぐらいの細い細い地平線で区切られて、蝿が止まっているように人家の点在する浜辺の町や、細かな雑草のように寝そべっている林などを内懐《うちぶところ》に擁している、広い、際限のない、はるばると自由にひらけた海が、遠く眼下に見られるところの、高い険しい岩山の頂に、爛々《らんらん》たる目を見張ってたたずんでいる荒鷲《あらわし》のように、彼らは深く見抜いたのである。鷲のように爛々たる目を光らせて、彼らは自分たちの周囲とはるかかなたに黒ずんで見える自分たちの運命とを見渡したのである。畦道《あぜみち》や道の縦横にひらけている野原が、彼らコサックの鮮血を惜し気もなく浴びせられ、壊れた荷車や、折れた剣や槍などでおおわれ、さらに露出した彼らコサックの白骨でおおわれるようになるであろう。さらにまたその遠くには、ぐるぐる巻きつけられた、血で固まった髻《たぶさ》と、下向きにだらりとたれたひげとを持っている彼らの首が、ごろりごろりと投げ出されるであろう。鷲の群がぱっと飛び下りて来て、それらの首からコサックの眼球をついばみ出すであろう。しかしながら、このような広く自由に吹きさらされた死の夜営には、大きな宝が蔵されているのである! いかなる大事業も滅びることはない。コサックの栄光もまた、鉄砲の筒先から出る小さなほこりのように消え失せることはないであろう。白鬚《しろひげ》を長く胸までたらしたバンドラ弾きが出て来るであろう。あるいはもっと旺盛な元気をたたえ、魂に通じた白頭の老翁が出て来て、死んだコサックの勲功について、固い力強い言葉で語るであろう。そして、彼らに関する栄光が全世界に拡がってゆくであろう。またその後この世に生まれ出るすべてのものも、彼らについて語り出すであろう。なぜなら、遠くの町々に、家々に、館々に、村落に、|より《ヽヽ》はるばると響き渡って、すべての人をひとしく聖なる祈りに誘わんがために、鐘作りが純銀をたくさんに流しこんだ、凛々《りんりん》と鳴り響く銅の鐘のように力強い言葉は、四方に深く広く響き渡るからである……
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城内では誰もザパロジエのコサック軍が半分、ダッタン人の追撃に出かけたことを知らなかった。市庁官舎の例の望楼に立っている歩哨たちだけが、林のかなたへ敵の輜重《しちょう》の一部がえんえんと長くつづいて行くのを認めた。けれども彼らは、敵がどこかへ伏兵を設けようとしているのだと考えた。敵軍の砲術顧問なるフランス人もやはりそう思っていた。
また一方、コサック軍の団長の予言も空しくは終わらなかった。城内でははたして糧食に欠乏を来たした。過去何世紀にもわたる長い間の慣習で、敵の軍勢は、どれだけ自分たちに糧食が必要であるかということを深く計算していないのであった。彼らは苦しまぎれに逆襲を試みたが、それらの決死隊の半数は、コサックのためにすぐ打ち取られ、残る半数はなんの得るところもなく、空しく城内へ追い帰された。とはいえ、ユダヤ人どもは、この逆襲の機会を利用して、いっさいの事情をかぎつけた。どこへ何をしにザパロジエのコサックが繰り出して行ったか、いかなる隊長連中がその軍隊を引率して行ったか、その廠舎隊はどれどれであるか、またその兵数はどれほどであるか、現在こちらに残っている人数はどのくらいか、そして彼らは何をしようと考えているか――要するに、すべてこれらのことを、それから数分の後には、市内で誰知らぬ者もなくなったのである。隊長たちはにわかに元気づいて、決戦すべく準備した。
タラス・ブーリバは市内に起こった動揺とざわめきとによって早くもその気勢を知り、敏活に諸方を奔走《ほんそう》して、種々の手配りをなし、いろいろな命令や指図をあたえ、全廠舎隊を三手に分けて、要塞のようなかっこうにこれを輜重《しちょう》車で取り囲んだ。――これは、ザパロジエのコサック軍がまだ一度も敗けたことはないという、とっておきのあの戦法である。そして二つの廠舎隊には伏兵となることを命令した。はじを尖《とが》らせた鋭い杙《くい》と銃剣の折れと槍の折れとで、野原の一部を塞《ふさ》ぎ、機会を見てそこへ敵の騎兵隊を追いこもうという作戦を回《めぐ》らした。そしてすべての用意が注文通りに整ったとき、彼はコサック一同に話をした。――それは彼らを励まし、彼らの士気を奮いたたせるためではなく(そんなことをしなくとも彼らが勇気凛々としていることを、彼は知っていた)ただ単に、自分の胸中にあるすべてのことをすっかり言ってしまいたいと思ったからである。
「諸君、わしは諸君に、われらコサック団の団結がいかなるものであるかということを、一言したいと思うのじゃ。諸君は諸君の父や祖父たちから、われらの郷土がいかなる栄光の中にわれらに保たれて来たかを聞かれたはずじゃ。われらはギリシア人にもその猛威を思い知らせた。またツァーリグラトから金銀財宝を奪取した。われらの都市はみごとなものであった。宮殿もあった。王侯もあった。カトリックの外道ではない、ロシアの血をうけた、真のわれらの王侯もあった。――が、諸君、すべてこれらのものを、回教徒のやつらが奪い取ってしまったのじゃ。すべて失われてしまったのじゃ。そしてただよる辺《べ》ない孤児にもひとしいわれわれと、雄々しい夫を失って同じく孤独になった寡婦《かふ》のような、われらの郷土が残された! この時われら同胞は固く手を取り合って団結したのじゃ! ここにわれらの団結は礎《いしずえ》を置くのじゃ! この団結よりも神聖なものは絶対にない。父はその子を慈《いつくし》み、母はその子を愛し、子供は父母を恋い慕う。が、諸君、これは大したことではないのじゃよ。野獣もおのれが子を愛する点で劣りはしない。が、ただ血縁によってではなく魂によって、固くひとつに結びつくことのできるのは、諸君、人間だけじゃ! 他の国々にもそうした盟友の団結はあったけれども、わがロシアの国土に見られるような団結は、いまだかつてどこにもなかったのだ! 異郷の空に朽《く》ちるのはひとり諸君だけではない。諸君の少数者だけではない。見よ、かなたにも人間の集団がある! 同じく神の創《つく》った人間じゃ。したがって同胞に対するごとくに彼らと語ることができるのじゃ。がしかしながら、心からの言葉を語る段になると、賢明なる諸君、どうじゃ、それはできないのじゃ! しかり、わがロシア魂が愛しうるように愛することは、知恵やその他のものによって愛するのではなくて、神があたえ給うた、われらめいめいの内部にある、すべてのものによって愛するのじゃ!――ああ!……」とタラス・ブーリバは言った。そしてさっとその手をひとふり振って、雪白の頭を揺《ゆ》すり、ひげをひねって、さらにつづけた。
「しかり、かくのごとくに愛することは何人にもできないのじゃ! われらの郷土がただ今|芳《かんば》しからぬ状態になっていることを、わしは知っている。人びとはただもう、自分たちの手に山のような穀物が保存され、馬の群が保有され、自分たちの穴倉に密封された蜜《みつ》が安全であるようにと、ひたすらそれのみを念じている。おぞましいダッタンの風習にしみて、自国の言葉を嫌い、自国の言葉で話すことを嫌っている。そして彼らは魂を持たぬ野獣を市場で売るように、自分たちの朋《とも》を売っているのじゃ。他国の王のお恵みが、王ならまだしも、自分のはいている上靴で彼らの鼻面を引っぱたくポーランドの大臣の|けち《ヽヽ》臭いお恵みが、彼らにはあらゆる朋《とも》の誓いより尊いのじゃ。しかしながら、諸君、彼らの中のもっとも卑しい人間にも――よしんばいかなる人間であろうとも、たとえ身は煤煙《ばいえん》にまみれ、世間のお情で生活していようともじゃ――諸君、そういう人間にも、一片のロシア人の感情は残っているのじゃ。そしてこの感情がいつか必ず目を醒《さま》す。その時、痛烈な悲しみにかられて彼は、両手で大地を叩くだろう。自分の卑しく恥ずべき一生を烈しく呪って、髪をかきむしり、遅まきながらいろいろな苦難によって自分の汚辱をあがなおうとするであろう。わがロシアの国土にあって、友朋の盟がいかなる意義を有するかを、彼らのすべてにしらせてやるがいい! いよいよ死ぬということになって来た場合、彼らの何人も、われらのように死ぬことはできないであろう! 絶対に! 絶対に! 彼らの二十日鼠《はつかねずみ》のような小《ち》っぽけな根性では、これを決行するには不十分なのじゃ!」
隊長はこう言った。そして、この話を終えてからも相変わらずコサック軍の戦闘準備の間にその銀髪の頭を揺り動かしていた。この熱弁は、直立していたコサック一同の心を激しく感動せしめ、肺腑《はいふ》のどん底までも沁《し》み入ったのである。軍中の一番年かさの長老連は、雪白の頭を低くたれて、石のように|じっ《ヽヽ》と動かなかった。涙が静かに老いの目に浮かび出た。彼らはそれを袖《そで》で静かに拭《ぬぐ》った。やがて一同は、申し合わせたもののように、同時に激しく手を打ち振り、経験深いその頭を揺すぶった。まさしく老いたるタラス・ブーリバは、悲哀と労苦と勇気とありとあらゆるこの世の不幸とにもまれて賢くなった人間の――あるいはまた、そういうものを知りきわめないまでも、少なくとも、彼らをこの世へ生み出してくれた老いたる父母の永遠の喜びにまで、それらの多くを若い真珠のような心で感得した人間の――心の中に残っている、あの親しみ深い美しいもののすべてを、彼らに思い出させたのである。……
城内からはもう敵の軍勢が、太鼓やラッパを鳴り響かせながら、ぞくぞくと進出した。そして無数の従卒どもに前後左右を固めさせながら、悠然と腰に手を当ててポーランドの貴族らが馬で乗り出してきた。例の|肥っちょ《ヽヽヽヽ》の連隊長が、しきりに命令をあたえていた。そして彼らは、火縄鉄砲の狙《ねら》いをつけ、威嚇《いかく》するような動作をしめし、爛々と目を光らせ、銅の甲冑《かっちゅう》を燦然と輝かしながら、|ひしひし《ヽヽヽヽ》とコサックの陣営へ押し寄せて来た。彼らが小銃の着弾距離に達したのを見ると同時に、コサック軍はいっせいに七ピャジ〔一ピャジは親指と食指とを大きく広げた間の長さ〕の長さの鉄砲を打ち出して、弾丸の雨を降りかけた。轟然たる大音響は、近郷一体の野や畑に遠く鳴り渡って、やむことないその反響と入り混り、砲煙がもうもうと空一面に立ちこめた。が、ザパロジエのコサック軍は、依然として息もつかずに発砲をつづけた。後列の連中は、新しく鉄砲に弾丸をこめて、前列の連中に渡すだけであったが、これが、敵の軍勢をおどろかした。彼らはコサックが弾丸をこめずにやつぎばやに、どうして撃つのか、了解することができなかったのである。
両軍をおおい包んだもうもうたる硝煙にさえぎられて、もう何にも見えなかった。戦線にくわわっていた者の次から次といなくなってゆくのがわからなかった。が、ポーランドの軍勢は、敵弾が隙間もなく飛んで来て、戦闘が白熱化したのを感じた。硝煙の間から身を退いて周囲の状況を展望せんがために、ひとまず後ろへ退いた時、味方の隊に多くの戦友の姿の不足していることがわかった。しかもコサックの方には、百人組の各隊わずかに二、三人の戦死者だけしか生じなかったらしく、彼らは相変わらず、瞬時の余裕をもあたえず、やつぎばやに砲火を浴びせつづけた。砲術顧問である例のフランス人までが、今まで一度も見たことのないこうした戦術に驚嘆の目をみはり、その場で、一同を前にして言った。
「いや実にザパロジエの軍勢はえらいものだ! われわれ外国人もまた外国で、あのようにやらなければならない!」
そして即座に大砲を、敵の陣営に向けよと注意した。
銑鉄の大砲は大きな喉《のど》で重々しくうなった。大地ははるかかなたまでこだまし、戦慄した。戦場は、倍加した硝煙をもって包まれ、遠近の町々の広場や街路のただ中に、火薬の匂いが漂った。が、砲手があまりに高く標準をつけたので、赤熱した彼らの砲弾は、やっぱり高すぎる半円を描いて飛んだ。空中に恐ろしいうなり声を立てて、それらの砲弾はコサックの陣営の上を越え、黒土を掘り起こして、空高くはね上げながら、深く大地へ突き通った。この有様を見ると、戦術顧問のフランス人は、われとわが頭をかきむしり、敵軍がひっきりなしに弾丸を浴びせかけているのを物ともせず、みずから大砲の操縦に取りかかった。
タラス・ブーリバは遠くから、ネザマイコフスキイ廠舎隊とステブリコフスキイ廠舎隊とステブリコフスキイ廠舎隊とが、旗色悪くなって来そうなのを早くも認め、凛然《りんぜん》たる声で叱咤《しった》した。
「早く輜重の背後から出ろ。それぞれ馬に乗れーい!」
が、この時もし例のオスタップが敵のまっただなかへ突入しなかったら、その他のコサック一同は、この隊長の厳然たる司令を、どちらも実行することができなかったであろう。がオスタップは、まっしぐらに敵陣へ突入し、敵兵にさえぎられて、三人の砲手の火縄を奪い損《そこ》ねたとはいえ、六人もの砲手の火縄を叩き落したのである。
ちょうどこの時、敵の砲術顧問なる外国の大尉は、これまでコサック軍の何人も見たことのなかった最大インチの大砲を発射すべく、みずから火縄に手をかけた。巨砲は大きな口をあけてものすごくにらんでいた。そして数千の死がそこから首を突き出していた。この巨砲が轟然と爆発し、つづいて他の三門が、前のも合せてつごう四度、雷鳴のように大地を鳴り響かせて、発射された時――その時これらの巨砲は、数知れぬ悲しみをこの世に生み出したのである! ただ一人の老いたるコサックの母親が、息子の死を悼んで泣き崩れ、骨張った手で老いしぼんだ胸をかきむしるだけではない。グルホフ、ネミロフ、チェエルニゴフ、その他の都市に、ただ一人の寡婦《かふ》も、安閑としてはいないであろう。真心のある彼女らは、毎日市場へ走り出て、道行くすべての軍人をとらえ、彼らの間にたった一人の、誰よりも愛《いと》しい|あの《ヽヽ》人がいわせぬかと、一人一人の顔をのぞきこむであろう。が、多くの軍隊は黙々と市内を通りすぎる。そして彼らの間には、たった一人の、誰よりも愛しい人の姿が、永遠に見られないであろう……。
そこで、ネザマイコフスキイ廠舎隊のコサックの半数が、初めからなかったもののようになってしまった! 重たい金貨のように房々と実った麦の穂が、美しい姿を見せている畑を、不意に霰《あられ》がさんざんにしてしまうように、彼らはすべてまたたく間にたたきつぶされてしまったのである。
いかに激しくコサックの軍勢が憤ったことであろう! いかに彼ら一同が切歯扼腕《せっしやくわん》したことであろう! そしてまた自分の廠舎隊の人員のすぐれた半数が殲滅《せんめつ》したことを知った時、いかに廠舎隊長ククベンコが憤怒に胸を煮《に》えたぎらせたことであろう! 彼は自分の統率するネザマイコフスキイ隊の残余の兵士とともに、敵のまっただなかへ突入した。怒りに任せて、最初に立ち向かった敵をなますのように切り刻み、つづいて多くの騎馬武者を、槍の穂尖に突っかけて、容赦なく馬から突き落とし、馬をも武者をも田楽刺《でんがくざ》しに刺殺した上、さらに砲手らの膝もとまで攻め上がり、早くもひとつの砲門を奪取してしまった。と、そこにはすでにウマンスキイ廠舎隊の隊長が四角八面に斬りまくっており、ステパン・グスカが、早くも敵の主砲を奪取しかけているので、彼はそこをそれらの戦友に任せて、部下とともに、敵のほかの密集部隊へと方向を転じた。かくて、ネザマイコフスキイ隊の通った所には、街道のような通路ができた! また敵の密集部隊のただ中で、これらの一隊が方向転換をやった所には、横町ができあがった! その結果、ポーランド軍の密集部隊はまばらになってゆき、束をなしてばたばたと打ち倒れるのが見られた。砲車のすぐ側にはオフトゼンコ、前にはチェレウィチェンコ、より遠くの砲車の側にはデフチャレンコ、つづいて廠舎隊の隊長ウェルトイウィストという順であった。
デフチャレンコはすでに二人のポーランド貴族を槍の穂先に突き上げた。そしてついに、三番目に、敵の猛将に立ち向かった。そのポーランド貴族はきれいな馬具を飾り立て、五十一人の従卒を擁《よう》して、頑強で、計略に富んでいた。ついに彼はデフチャレンコを引き倒し、馬上から大地へ烈しく押し落として、ぐっと乗りつめて、上からサーベルをかざしながら、大声に呼ばわった。
「コサックのよぼ犬ども、俺の相手になるやつはうぬらの中には一匹もないのか!」
「ここにいるぞ!」と言って、モッスイ・シイロが進み出た。たくましいコサックであった。海上で何度も隊長を勤めた。そしてあらゆる艱難辛苦《かんなんしんく》を耐え忍んで来た剛の者だった。彼らはかつてメラペゾントのすぐそばでトルコ人のために捕えられたことがあった。彼ら一同は囚人として兵船の中へ叩きこまれ、鉄の鎖に手足を固く縛られて、何週間も食をあたえられずに、海水ばかり飲まされて暮らした。正教の信仰を変えたくないばかりに、哀れなこれらの囚人は、あらゆる痛苦を甘受し、あらゆる痛苦を耐え忍んだのである。隊長モッスイ・シイロは、とうとう我慢できなくなったと見えて、彼らの命《めい》に服して、神聖な聖像を足で踏んだ。けがらわしい彼らの頭巾《ずきん》に、おのが破戒の頭を包んだ。その結果、パシャ〔トルコの将軍の称〕の信任を得て、兵船の倉庫番になり、すべての囚人の頭《かしら》になった。哀れな囚人らは、そのために心から嘆き悲しんだ。なぜなら、信仰を同じうする自分たちの味方がその信仰を売って、暴虐者《ぼうぎゃくしゃ》に媚《こ》びへつらうようになったあげく、その人非人の支配下に立たされることは、すべてのほかの異教徒の支配下に立たされるよりも、いっそう辛い悲しいことだったからである。しかも、今そういう結果になったのだ。モッスイ・シイロは三人ずつを一列に新しい鎖につないで坐らせた。そして骨のしんに喰《く》い入るほどきつく荒縄をかけて、一同の首に百叩きのごちそうをした。ある時トルコ人らは、こういうすばらしい奴僕《ぬぼく》の得られたことを喜ぶあまり、饗宴《きょうえん》を開き、自分たちの戒律を忘れて、一同酒に酔いつぶれた。と、このとき彼は、そっと立ち、六十四個の鍵を持って来て、それを囚人らにあたえ、めいめいの鎖を解き放させて、その鎖や手枷足枷《てかせあしかせ》を海へ投げ、そのかわりにサーベルを持たしめて、泥酔しているトルコの将卒どもを片っぱしから叩き斬らせたのである。そしてこのコサックの一隊は分捕品を山のごとくに持って、栄光とともに故国へ帰って来た。その後長いこと、バンドラ弾《ひ》きの唄に歌われて、モッスイ・シイロは賞め讃えられて来たのであった。彼は団長にも選ばれたいい人物であったが、同時に、徹頭徹尾、奇人であった。時によると、この世の中のもっとも賢い人間でも思いつくことができないような、そういうすばらしいことをやってのける。が、また時には痴愚《ちぐ》の虜《とりこ》となった。彼はいっさいのものを酒にかえ、遊蕩にかえた。セーチのすべての者に借金があった。おまけに、世間に|ざら《ヽヽ》にある正真正銘の泥棒のように、盗みまで働いた。――ある夜|他所《よそ》の廠舎へ忍びこんで、そこのコサックの馬具をひとそろい盗み出し、それを酒場の亭主に質入れしたのである。この恥ずべき行為に対して、彼は市場の柱に縛りつけられ、そのばに樫の棒を備えられて、通りかかったすべての人の力いっぱいひっぱたくのに任せられた。が、彼の以前の勲功が思い出されるので、その樫《かし》の棒を振り上げる者は、ザパロジエのコサック全体の中に一人も見出されなかった。こういうのが親愛なるコサック、モッスイ・シイロの人となりであった。
「うぬを叩きのめす人間くらい|ざら《ヽヽ》にあるぞ、野良犬め!」と相手に挑みかかりながら、彼は言った。そしてもうそこに彼らは斬り合いを始めたのである!
二人の身に着けている肩章も胸当ても、猛烈な打撃に曲がってしまった。敵なるポーランドの貴族は彼の鎖帷子《くさりかたびら》に斬りこんだ。その刃は肉に達してコサックのシャツは紅に染まったが、彼シイロはそんなものには|びく《ヽヽ》ともしなかった。筋骨|逞《たくま》しいその手を大上段に振りかぶって(節《ふし》くれ立った手は重かった)、いきなり、敵の頭を殴りつけた。銅のヘルメットは|すっ《ヽヽ》飛んで、ポーランド貴族はよろよろとなって倒れた。シイロは昏倒《こんとう》しているその敵をなますのように斬りさいなみ始めた。が、親愛なるコサックよ、敵を斬り刻むことをやめて、早くうしろを振り向くがいい! が、コサックはうしろを振り向かなかった。
殺された敵将の従卒の一人が、短剣を振り上げて、彼の頸部《けいぶ》にひと太刀《たち》浴びせたのである。シイロはうしろを振り向いた。もう少しでその無鉄砲者を引っ捕えることができるのだった。が、硝煙の中に敵は姿を消してしまった。火縄鉄砲の音が八方に起こった。よろよろとよろめいたシイロは、致命傷を負ったことを感知した。彼は、ぱったりとそこへ倒れて、傷口に手を当てた。そして戦友たちの方を向いて、こう言った。
「諸君、さようなら、兄弟、戦友、さ、さ、さようなら!……正教の光みなぎるロシアの国土が永劫《えいごう》不滅に栄えるように、そ、そしてロシアに永遠の栄光が君臨するように!」
彼はかすんで来た目を閉じた。かくてコサックの魂は、そのものすごい肉体から天に飛び去ったのである。
が、この修羅場へ、早くもザダロジイが部下を引き連れて乱入し、廠舎隊長ウェルトウィストが敵の隊列を蹴《け》散らし斬りまくり、さらにバラバンが躍りこんで来た。
「どうじゃな、諸君」と、廠舎隊の隊長たちと大声で言葉を交しながら、タラス・ブーリバが叫んだ。「火薬|函《ばこ》にまだ火薬はあるかな? コサックの方はまだへたばりはせんかな? コサックはまだ参らないかな?」
「隊長、まだ火薬は火薬函にあります。コサックの力はまだこれしきにへたばりません。まだわれわれコサックは参りませんぞっ!」
そしてコサックは猛烈に進撃して、敵の隊伍を完膚《かんぷ》なきまでにかき乱した。例の|ずんぐり《ヽヽヽヽ》した敵の連隊長は、『集まれ』の太鼓を打ち鳴らし、遠く野原のはてはてまで散っている味方を集めるために、美しく彩色された八本の旗を風に吹き流すように命令した。ポーランドの軍勢は、ことごとく旗の方へと駈けよった。が、彼らがまだ陣形を整える暇《ひま》のないうちに、早くもコサック軍の廠舎隊長の一人なるククベンコが、部下なるネザマイコフスキイ隊を引き連れて、ふたたびそのまっただなかへ攻め入って、いきなり、例の太鼓腹の連隊長目がけて跳りかかった。連隊長はあしらいかね、馬の踵《きびす》を返して、一目散ににげ出した。が、ククベンコは彼にその隊といっしょになる余裕をあたえず、遠くの野のはてまで追って行った。横手に陣取っていた自分の廠舎隊から、この有様を見て取ると、ステパン・グスカは、捕縄を持って、馬の首へ頭をぴったりくっつけ、はすかいにその敵を目がけて突進した。そして、時を測って、一度でその首へ捕縄をかけてしまった。太鼓腹の敵の連隊長は、赤い苦しそうな顔をして、両手でその捕縄をつかまえ、ひっぱずそうと努力した。が、この時すでに猛烈な槍のひと突きが、彼の太鼓腹の真中へ、致命的な風穴を明けて、彼はそこにそのまま、大地へ釘づけにされてしまったのである。が、相手のグスカにも芳《かんば》しい結果は恵まれなかった! コサックらが顧みる暇もないうちに、早くもステパン・グスカが四本の槍の穂先にかかって、空高く刺し上げられているのが見出された。哀れなこのコサックは、「敵はことごとく滅びてしまえ、そしてロシアの国土に永遠の栄えあれ!……」こう叫ぶことができただけだった。そこで|がっくり《ヽヽヽヽ》と落ち入った。
コサックたちは振り返った。と、もうこの時には、横合いから同じコサックの猛将メテリツヤが、ポーランドの軍兵に氷の刃をふるまいながら、当たるを幸いなぎ倒していた。さらにまたそこには廠舎隊長の一人なるネウィルチキイが、部下といっしょに他の横合いから激しく打ち入っている。また輜重車の付近では、ザクルトイグバが一人の敵を引きずり回して、めったやたらに殴《なぐ》っている。さらにその先の輜重車のそばでは、三番目のピサレンコが、早くも敵の一隊を追いまくっていた。そしてまたさらに、かなたの、他の輜重車のそばでは、車の上の殴り合い、取っ組み合いが始まっていた。
「どうじゃな、諸君」と、一同の前を馬で走りぬけながら、総隊長タラス・ブーリバは大声で叫んだ。「まだ火薬函に火薬は残っているかな? コサックの力はまだ大丈夫かな? まだコサックは参らないかな?」
「隊長、まだまだ火薬函には火薬はありますぞ。コサックの力はまだ大丈夫じゃ。コサックはまだ参りませんぞ!」
が、そのうちにもうポヴデュクが輜重車の上から転落してしまった。彼は心臓の真下へ銃弾を受けたのである。けれどもこの若きコサックはあらゆる気力を呼び集めて、そして言ったのである。
「この世に思い残すことはさらにない。神よ、願わくばすべての人にかくのごとき最後をあたえ給え! ロシアの国土よ、世の終わりまで栄えあれ!」
かくてボヴデュクの魂は、天上へ昇って行った。――自分より先にすでに他界している老コサックの面々に、ロシアの国土でいかによく戦う術《すべ》を知っているかを、さらにそれよりもいっそうよく、聖なる信仰のために死ぬ術を知っているかを、語らんがために……。
同じく廠舎隊長の一人であるバラバンも、それからまもなく馬からどっと大地へ落ちた。槍と、鉄砲と、重たいパラシ〔直剣〕と、彼はこの三つから三つの致命傷を受けたのである。もっとも勇敢なコサックの一人であった。自分が隊長となって、何度も海上の遠征を行なった。が、中でも一番|華々《はなばな》しかったのは、アナトリア沿岸の遠征であった。彼らはそのとき多くのイタリアの金貨と、貴重なトルコの財宝と、絹布の類と、そのほかあらゆる装飾品を山のように分捕って来たのであった。が、その帰路に災難が振りかかった。愛すべきこれらの勇士たちは、トルコ軍の弾丸の雨とふりそそぐ下へ陥ったのである。敵の帆船からさかんに撃ち出すと、味方のチョルン〔刳船〕の半数はぐらつき出し、ひっくり返って、沈みかけたのも一艘や二艘ではなかった。が、それらのチョルンの両側に結びつけられていた蘆が、これらの犠牲を沈没から救ってくれた。バラバンはすべてのオールに全力をこめて漕《こ》ぎ出させ、まともに日光を受けて逃げだした。――この奇策によってかろうじてトルコの船の追撃の目をくらますことができた。それから終夜、柄杓《ひしゃく》や帽子で水を汲み出し、撃ちぬかれた個所を修理した。コサックのはく|だぶだぶ《ヽヽヽヽ》の例のズボンでにわか作りの帆を仕立て、はるかに優勢な速力を持っているトルコの帆船から逃げのびた。そしてつつがなくセーチへ帰着したばかりでなく、彼らはさらにキエフのメジゴルスキイ修道院の院長に金襴《きんらん》の袈裟《けさ》を、またザパロジエなるパクロフへは純銀の延金を、それぞれ土産《みやげ》に持って来たのである。で、その後しばらくバンドラ弾《ひ》きが、これらのコサックの幸運を唄に織りこんで賞《ほ》め讃えたことである。……
――彼はいま断末魔の痛苦を感じながら、ぐったりと首をたれた。そして静かに言った。
「親愛なる兄弟諸君、どうやら俺はおしまいのようだ。俺はいま立派な死にかたをしてあの世へ行く。――俺は七人の敵を刀にかけ、九人を槍にかけ、さらにまた多くの敵を存分に馬の蹄《ひずめ》にかけてやった。鉄砲ではどのくらいやっつけたか憶えがないほどだ。ロシアの国土よ、永遠に咲き匂ってくれ!……」
かくて彼の魂も飛び去った。
コサックよ、コサックよ! 御身らの軍隊のもっとも美しい花を敵の手に渡してはならない! が、もうククベンコは十重二十重《とえはたえ》に囲まれてしまった。もうネザマイコフスキイ廠舎隊の中で、生き残っているのはただ七人に過ぎなかった。それらの者もかろうじて防戦しているだけであった。ククベンコの服は血に染まっていた。総隊長のタラス・ブーリバまでが彼の大難を発見するとみずからその救援に急ぎ進んだほどだった。が、コサックたちの救援は間に合わなかった。コサックの将卒がククベンコを取り囲んでいる敵兵どもを追い散らす以前に、彼はもう心臓の真下を槍でぐさりと突き刺されてしまったのである。自分を抱えたコサックたちの手に、彼は静かにもたれかかった。そして若々しい鮮血が、不注意な召使どもの手で穴倉から持ち出された、貴重な高価な、ガラスの器にもられた葡萄《ぶどう》酒のように、流れをなしてほとばしった。不注意なそれらの召使どもは、この貴重な、高価な葡萄酒の瓶《びん》を、入口で滑って、落として、粉微塵《こなみじん》に壊してしまう。深紅の葡萄酒が大地へこんこんと流れる。その葡萄酒の持ち主である主人は、老年になってから青春時代の友だちとめぐり合うようなことがあったら、その時に、そうした友といっしょに、過ぎし昔のあの時代を――今とは違ってもっともっと楽しく暮らしていたあの時代を――思い出すよすがにしようと思って、生涯中のそうした楽しい機会のために大事に保存しておいたのである。その葡萄酒がいま不注意にも台なしになってしまったのだ。であわててそこへ駈けつけた主人は、くやしさ、腹立たしさに、われとわが頭をかきむしる……。
ククベンコは自分の周囲を見回した。そして言った。
「親愛なる戦友の諸君、諸君の瞳《ひとみ》に守られて死ぬようになったことを、俺は神に感謝するぞ! どうか俺たちがなくなってからも、俺たちより|もっと《ヽヽヽ》すぐれた人びとが生まれ出てくれるように、そしてキリストに愛されているわがロシアの国土が、永遠にその美を誇るように!――」
そしてこの若き魂は舞い上がった。天使らがその若き魂を抱きかかえて、天へ連れて行ったのである。天国において彼は楽しく幸福であろう。
「坐れ、ククベンコよ、余《よ》が右側に!」こう彼にキリストは言うであろう。「お前は友朋の盟を破らなかった。恥ずべき行為をしなかった。不幸に処して人間を売らなかった。そして余の教会を保護してくれた」
ククベンコの死は一同の者を嘆き悲しませた。コサックの隊列はおびただしくまばらになっていた。勇敢なる戦士の多くが、もはやそこから消えていた。が、なおコサック勢はがんばって、あくまでもそこに踏み止まっていた。
「諸君、どうじゃな」タラス・ブーリバは、残っている廠舎隊の戦士たちに叫びかけた。「まだ火薬函に火薬があるかな? サーベルの切れ味は鈍らないか? コサックの力は弱らないか? コサック勢は|へた《ヽヽ》ばらないかな?」
「隊長、まだ火薬はありますぞ。まだサーベルも役に立つ。コサックの力も弱らない。コサックはまだまだ断じてへたばりはせんぞ!」
彼らコサックは、少しの損失もこうむらなかったもののように、健気《けなげ》にもふたたび突進した。もう|たった《ヽヽヽ》三人の廠舎隊長が生き残っているだけで、血潮の流れがいたるところにどす黒く凝《こ》り固まっていた。そしてその血河《けっか》の上に、コサックと敵との累々《るいるい》たる死屍《しし》ででき上がった橋が、かけ渡されていた。
タラス・ブーリバは空を仰いだ。
空にはもう屍《しかばね》を食う貪欲な禿鷹《はげたか》の列が長くつづいていた。おお、何者の餌食《えじき》となることか! もう向こうではメテリツヤが槍の穂先に突き上げられた。二番目の弟のピサレンコの首は、銅を離れてくるくると回転して、そのまま目を閉じた。オフリム・グスカもめった斬りにされて、ばさりと大地へ倒れた。
「さあ今だ!」と言って、タラス・ブーリバはさっとハンカチを振った。オスタップはこの合図をさとって、潜伏の地点を脱け出し、猛虎のような勢いで敵の騎馬武者に跳りかかった。ポーランドの軍勢はこの猛烈な突貫を支えきれなかった。オスタップは彼らを駆り立て追いまくって、槍の折れたのなどが地面へめちゃくちゃに叩きこまれてある、例の場所まで追いつめて行った。馬はつまずいて将棋倒しに倒れた。ポーランドの騎馬武者どもは、それらの馬の頭ごしに転んだ。この時、コサック軍のしんがりを承《うけたまわ》っていたコルスネツ隊が、すでに小銃の着弾距離に達したのを見て取り、不意に火縄鉄砲を撃ち出した。ポーランドの軍勢は度を失って混乱した。コサック軍は勢いをもり返してきた。
「いよいよ味方の大勝利だぞ!」というザパロジエのコサックたちの声が八方に起こった。彼らはラッパを吹き鳴らし、勝利の旗印をさっと空に靡《なび》かせた。打ち敗れたポーランド軍はいたるところににげ走り、潜み隠れた。
「いやいや、まだじゃ、まだ完全な勝利じゃないぞ!」と城門の方を見ながら、タラス・ブーリバは言った。実際、彼の言は的中した。
城門はさっと開かれ、そこから、あらゆるポーランドの騎馬武者の花である驃騎《ひょうき》兵の一隊が飛び出した。いずれの騎士も一様に、肥え太った栗毛の駿馬にまたがっていた。一同の先頭に、他のすべてよりひときわ美しく、勇ましく、威風堂々と乗り進んで来る一人の勇士があった。銅作りのヘルメットの下から漆黒の髪が流れ出て、風にひるがえっていた。絶世の美女の手で縫《ぬ》い上げられた、世にも尊い肩布が、腕に巻きつけられ、風に靡《なび》いていた。この勇士がアンドリイであることを発見した時、老父タラス・ブーリバは気も顛倒《てんとう》するほど驚いた。が一方、相手の騎馬武者は、自分の腕に巻いてくれたその贈物にむくいるようなめざましい働きがしたいと思い、戦闘の熱と焔に煽《あお》られて、たとえば群らがる猟犬の中のもっとも美しい、もっとも駿足な、そしてもっとも年若な猟犬のように、矢よりも早く馬を飛ばせて来た。老練な猟人は、この猟犬を|けし《ヽヽ》かける。――と、彼は四足を|しゃん《ヽヽヽ》と一直線に空中に伸ばし、総身を一方へすっかりかしげて、ぱっぱっと雪を蹴上げながら疼走する。そして、走ることに熱中して、肝心の兎《うさぎ》よりも、十倍も先の方へ飛んで行ってしまう。老いたるタラス・ブーリバは立ち止まった。アンドリイが自分の行く手に立ち塞《ふさ》がるつわものどもを追い散らし、右に左に斬りまくって道を掃《は》き清めたのを眺めていた。とうとうタラス・ブーリバは耐えきれなくなって叫び出した。
「ふらちだぞ! 味方を斬って捨てるとは! おのれ外道め、味方を斬って捨てるのか?」
が、アンドリイは、自分の前に立っているのが誰であるか、味方であるか敵であるか、見分けることができなかった。もう何にも目にはいらなかったのである。長い捲き毛、水面に浮かぶ白鳥のような滑らかな胸、雪よりも白い項《うなじ》と肩、物狂おしい接吻を受けるためにつくられたすべての部分――彼の目にはこれらのものが浮かんでいるだけであった。……
「えい畜生め! おいみんな、あいつだけ林の中へおびきよせてくれい、あいつだけさそいこむようにしてくれい!」こうタラス・ブーリバは叫んだ。と、すぐにもっとも駿足な三十騎のコサックが、彼を林の中へおびきよせる役目を買って出た。そして、山の高い帽子をかぶりなおして、馬にまたがって、まっしぐらに敵の驃騎《ひょうき》兵隊の進路を遮断すべく突進した。彼らは横合いから敵の前線に襲いかかってさんざんにこれを打ち破り、後続部隊との連絡を断って、そのいずれにも手厳しい贈り物を進上した。その間にゴロコプイテンコが、アンドリイの背中へばさりと一太刀、わざと峰打ちを喰らわした。そしてすぐ彼の傍《そば》から、これらの一隊はコサックの力をフルに出して逃げ始めた。アンドリイは烈火のように憤った。若い血潮は彼のあらゆる脈管に荒れ狂った。馬に鋭い拍車を当てて、全速力で追っかけた。彼は後ろを顧みなかった。二十騎ほどしかつづいて来る味方のないことを知らなかった。
コサックらは全速力で馬を飛ばし、一目散に林の中へにげこんだ。アンドリイの馬は敵を追い散らして、もう少しでゴロコプイテンコに追い着こうとした。と、このとき不意に、何者かの力強い手が彼の乗っている馬の手綱《たずな》を|ぐっ《ヽヽ》と抑えた。アンドリイは振り向いた。彼の前にはタラス・ブーリバが立っているのだ! 急に彼は総身を震《ふる》わせ、真っ青になった。不注意から自分の級友を怒らせて、いやというほど定規《じょうぎ》で額をなぐられた生徒が、火のようにかんかんになって、いきなり腰かけを蹴って立ち上がり、八つ裂きにもしかねない権幕《けんまく》で、吃驚《びっくり》したその級友を追っかけているところへ、|ひょっこり《ヽヽヽヽヽ》と、教室へはいって来る先生に出くわした時のようであった。――またたく間に、狂暴な感情は消えてしまい、怒りも力も萎《な》えしおれてゆく。ちょうどそれと同じように、アンドリイの憤怒もまた、初めからぜんぜんなかったように、一瞬にして消散してしまった。そして彼は自分の前に、ただ恐ろしい父の姿だけを見たのである。
「さあ、われわれは今どうしたらいいんだ?」と、まともに彼の目を見つめながら、タラス・ブーリバは言った。が、それに対してアンドリイは何も言うことができなかった。彼は瞳を大地に落として立っていた。
「おい、せがれ、ポーランドのやつらが何か貴様のためになることでもしたというのか?」
アンドリイは返事をしなかった。
「では売るのじゃな? 信仰を売るのじゃな? 味方を売るのじゃな? 止まれ、そして馬を降りろ!」
素直に、子供のように、彼は馬を降りて、生きた心地もなく、タラス・ブーリバの前に佇立《ちょりつ》した。
「立っていろ、動くんじゃないぞ! わしは貴様をこの世へ生み出したのだ。だから今度はこの世に暇《いとま》を告げさせてやろう!」
タラス・ブーリバはこう言って、一歩後ろへ引きさがり、そして肩から鉄砲をおろした。アンドリイは青菜のように真っ青だった。彼の口は微《かす》かに動いて、何者かの名がつぶやかれた。が、それは故国の名ではなかった。母の名でも兄弟の名でもなかった。――それは美しいポーランド女の名前であった。タラス・ブーリバは発砲した。
鎌に刈られた麦の穂のように、また、心臓の下へ致命傷を受けた小羊のように、アンドリイは|がっくり《ヽヽヽヽ》と首を落として、ついに一語も発せずに、そのまま草の上へ倒れた。
子を殺した哀れな父は佇立《ちょりつ》した。じっと長いこと、息の絶えた屍《しかばね》を見つめていた。アンドリイは死骸になっても美しかった。つい今の先まで荒々しい力と、女たちにとって打ちかちがたい魅力とに充たされていた、いかにも男らしいその顔は、依然としてすばらしい美しさをたたえていた。黒々とした眉《まゆ》は、喪服《もふく》のビロードのように|くっきり《ヽヽヽヽ》と、青ざめた彼の死顔に陰影を作っていた。
「どの点にコサックらしくないところがあったのか?」と、タラス・ブーリバは言った。「背も高かったし、眉も黒かったし、顔も貴族のようだったし、手もまた闘いにかけて強い力を持っていたのだった! それがこの通り死んでしまった! 卑しい野良犬のように、不名誉きわまる死にかたで死んでしまった!」
「お父さん、とんだことを! お父さんの殺したのは、弟ではありませんか?」と、このとき馬で駈けつけたオスタップが言った。
タラス・ブーリバはうなずいた。
オスタップはじっと死骸の目を見つめた。彼は弟がかわいそうになって、こう言った。
「お父さん、弟の死骸はわれわれが葬《ほうむ》ってやりましょう――敵のやつらが辱《はずか》しめをくわえるといけませんし、また貪欲な鳥が、つっ突き回してもいけませんから」
「われわれが手を下さいでも、ちゃんと葬ってくれるやつがあるのじゃ」と、タラス・ブーリバは言った。「こいつの身の回りには、めそめそ泣いて悲しむ女や、慰めてくれる女どもがあるのじゃよ!」
そして彼は二分間ほど、息子の死骸を狼の食うに任せようか、それともいかなる者の中にあっても尊敬せずにはいられない騎士としての勇気に免じて、こちらで葬ってやろうかと、首をひねって考えていた。――この時、ゴロコプイテンコが馬を飛ばせてこちらへやって来るのが見られた。
「隊長殿、一大事! 敵が新手をくわえて、勢いをもり返した!……」
ゴロコプイテンコが終わりまで言いきらないうちに、オフトゼンコが同じく馬を飛ばせて駈けて来た。
「隊長殿、一大事! 敵が新手をくわえました!」
オフトゼンコが言いきらないうちに、ピサレンコがもう馬を乗り捨て、徒歩でばたばたと駈けて来た。
「隊長殿は、どこにおられる? おお、隊長殿、味方の将卒が、隊長を探しておりますぞ。もう廠舎隊長のネウィルチキイもやられました。ザダロジイもやられました。チェレウィチェンコもやられました。しかし、コサックはがんばっています。隊長のお顔を見ないうちは、どうしても死にたくないのです。最後に、ひと目貴方を見たいというのです」
「馬に乗れい、オスタップ!」と、タラス・ブーリバは言った。そしてまだ息のあるうちに彼らに会ってやろうと思い、彼らの顔を見てやろうと思い、彼らに自分の隊長の顔を、死ぬ前にひと目見せてやろうと思って、彼は急いだ。が、まだ林から乗り出さないうちに、早くも敵の軍勢が八方から林を取り巻いてしまった。そして木立の隙間々々には、いたるところに、サーベルや槍をひらめかした敵の騎馬武者の姿が見えた。
「オスタップ! オスタップ! しっかりやるんだぞ!」タラス・ブーリバはこう叫んだ。そして、自分もスラリとサーベルを抜き放って、当たるを幸い四角八面に斬りまくった。一方、オスタップには六人の敵が一度に斬ってかかった。が、確かに彼らは、間の悪い時に斬ってかかったのに違いない。――最初にかかっていった敵の胴体からは、頭が別れを告げて飛び去った。第二の敵はたじたじと後ずさりして尻を見せた。第三の敵の肋骨《ろっこつ》へは槍の穂先がごちそうされた。第四の敵はやや剛胆であった。彼は首をかしげて銃丸をよけた。で、赤熱した銃弾は彼の乗馬の胸に命中した。――馬は荒れ狂って、棒立ちになった。そしてどたりと大地へ倒れて、乗っている主人をおしつぶしてしまった。
「でかしたぞ、せがれ! あっぱれじゃぞ、オスタップ!」と、タラス・ブーリバは叫んだ。「わしはお前について行くぞ!」が、彼自身も襲いかかる敵勢を絶えず払いのけなければならなかった。タラス・ブーリバは斬り倒し、叩きのめし、誰彼の見さかいなしに刃《やいば》の雨を振る舞った。が、その目は絶えず先にいるせがれの方へ注がれる。そしてまたもや八人以上の新手が一度にオスタップに襲いかかったのを見て取った。
「オスタップ! オスタップ! 敗けるでないぞ!」
が、もうオスタップは敵の新手にだんだん打ち負かされてゆく。一人の敵が彼の首へ捕縄をぱっと投げかけた。きっとオスタップをくるくると縛って、捕虜にするであろう。
「ええ、オスタップよ! オスタップ」と、息子の方へ突進しつつ、さえぎる敵をキャベツか何かのようにぱっぱっと斬り捨てながら、タラス・ブーリバは叫んだ。「えい、オスタップ! オスタップよ!……」
が、ちょうどこの刹那《せつな》、彼は重たい岩のようなものががんとぶつかったような気持を覚えた。すべてのものが目の中でぐるぐると回転し、転倒した。一瞬間、多くの人の頭や、槍や、煙や、炎の閃《ひら》めきや、葉のそよいでいる木立の枝などが、雑然として目の中にちらちらと閃めいた。やがて、彼は根もとを伐られた樫《かし》の巨木のように、地響きを立てて大地へ転落した。そして霧が両眼をおおうてしまった。
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「恐ろしく長く寝たもんだな、この俺は!」と、重苦しい酔夢から醒《さ》めたようにわれに返って、自分を取り巻くすべての物象を見きわめようと努めながら、タラス・ブーリバは言った。猛烈な衰弱が、彼の手足を領していた。見知らぬ部屋の壁と隅々とが、もうろうと目の前に揺らめいて見えた。ついに彼は自分の前にトフカチが坐っていて、彼の吸う息、吐く息のひとつひとつに聴き耳をそばだてているようなのを、それと認めた。『そうだ』と、トフカチは心中で思った。『いや、あるいは、このまま永久に眠ってしまった方がいいかも知れんて!』
が、なんにも言わずに、指で威嚇《いかく》するようなかっこうをして、黙っておれという合図をした。
「わしに聞かせてくれい、わしは今どこにいるのじゃい?」と、気をひきしめて、過去を思い出そうと努めながら、ふたたびタラス・ブーリバはたずねた。
「黙っていて下さい!」と、戦友は彼に向かって、ぶっきら棒に怒鳴るような調子で言った。「この上何が知りたいのです? 味方が全滅したことは貴方だって知っているでしょう? わしとあんたが息を吐《つ》かずに馬を飛ばせてにげのびてから――あんたが|おこり《ヽヽヽ》にかかってひどい熱を出して、うわごとを言うようになってから、もう二週間にもなるのですぞ。そしてあんたは今日初めて、穏やかにすやすやと寝入ったのだ。体に障《さわ》るようなまねをしたくなかったら、黙っていて下さい!」
が、タラス・ブーリバは相変わらず自分の意識をとりまとめて、過去を思い出そうと努めていた。
「いやしかし、確かに俺はポーランドのやつどもらにすっかり取り巻かれて、もう捕まえられるばかりになっていたのじゃないか? 俺はあの囲みからどうしたってのがれ出ることはできなかったはずじゃないか?」
「黙っていなさいと言うに。本当に仕様のない人だなあ!」と、堪忍袋の緒《お》を切った乳母が、手におえない|やんちゃ《ヽヽヽヽ》の赤ん坊をきめつけるように、トフカチは|むっ《ヽヽ》とした調子で彼をたしなめた。
「どうしてのがれたか知ったって、今のあんたにゃ何にもならないじゃないか? にげ出したというだけでけっこうだ。貴方をむざむざ売らない人間があったのじゃ――さあ、もうこのくらいでいいでしょう! まだまだわれわれはこれから幾晩も馬でにげのびなけりゃならないのだ! あんたは何か、あたり前のコサック一匹の取り扱いを受けて来たと思っていなさるのか? どうしてどうして、あんたの首には金貨で一万ルーブルという大金の懸賞がぶら下がっているのですぞ!」
「が、オスタップは?」と不意に叫んで、タラス・ブーリバは身を起こそうともがいた。そうして急に、オスタップが自分の目の前で敵にとらえられ、縛められたこと、したがって今はもう、ポーランドのやつらの手中にあるのだということを、思い出した。哀愁が老いの頭をとらえた。彼は自分の傷どころの包帯を残らず引きむしって、ずたずたに裂いた。それをぽんぽんと遠くへ放り捨てて、大声で何かを言おうとした。――そしてそのかわりにうわごとを言った。熱とうわごとがふたたび彼を支配した。無意味な脈絡のない気狂いのような言葉が、次から次と突っ走った。
その間、忠実な彼の戦友は、彼を思うのあまり、叱りつけたり、手厳しい譴責《けんせき》の言葉や非難の言葉を浴びせたりしながら、じっと前に立っていた。ついに、彼は傷つけるこの老友の手足をとらえて、子供に|おむつ《ヽヽヽ》を巻いてやるように、全部の包帯をすっかりかけなおしてやり、牛の皮にぐるぐると彼をくるみ、さらに副木《そえぎ》を当てて固く縛り、それを鞍にゆわえつけて、ふたたび旅路へと馬を走らせた。
「たとえ息が通わぬようになっても、あんたの体を持って行く! ポーランドのやつらにあんたのコサックの血を汚させてなるものか! あんたの体をずたずたにして、河の中へ放りこむことなんて、そんなまねはさせやしない! かりに鷹があんたの顔から目玉をほじくり出すようなことがあるとしても、わしらの曠野の鷹にやらせるんだ。ポーランドの空から飛んで来るポーランドの鷹なぞにほじくらせてなるものか。たとえ息の根は止まっても、わしはあんたの体をウクライナまでは持って行くぞ」
こう忠実な戦友はしみじみとした声で言った。彼は幾日も幾晩も不眠不休で馬を飛ばせた。そしてとうとう|ぐったり《ヽヽヽヽ》と気を失っている彼を、ザパロジエのセーチまで連れて来た。彼はセーチで、傷つけるこの老友を、薬草や湿布で気長に療治してやり始めた。彼はその方に心得のある一人のユダヤ女を見つけた。そしてそのユダヤ女がまるひと月、彼にいろんな物を飲ませた。その結果、ついにタラス・ブーリバは快方に向かった。医薬が効を奏したのか、それとも鉄のごとき体力が病魔に打ちかったのか、とにかくタラス・ブーリバは、ひと月半ほどたつと、歩けるようになったのである。傷は治《なお》って、ただ打ちこまれたサーベルの傷痕《きずあと》が、いかに猛烈な深傷《ふかで》をこの老コサックにあたえたかを、しのばせるだけになってしまった。とは言うものの、著しく彼は陰鬱《いんうつ》な、悲しそうな人になってしまった。深いしわが三本|額《ひたい》に刻まれた。そしてもう絶対に、そこから消えることがなかった。
彼は自分の周囲を見回した。セーチは今や、すべてのものが新しく変わっていた。古い今までの戦友たちはことごとく死に絶えてしまっていた。団長とともにダッタン人らの追撃に出かけた人びと、あの人びとも、もはやとうの昔にこの世から姿を消していた。すべての者が死んだのである。すべての者が滅《ほろ》びたのである。ある者は戦場に名誉ある首をさらした。ある者は水もなく食もないクリミヤの塩沼の中で|のたれ《ヽヽヽ》死した。ある者は捕虜になって、恥辱にたえきれなくて憤死した。以前の団長その人も、もうこの世の人ではなかった。古い戦友たちの中には一人も生きているものはなかった。そのむかし沖天《ちゅうてん》の勢いを持っていたコサックの力は、消えしぼんでいた。彼はただ、猛烈な饗宴、底抜けの大酒宴が、あったということを耳にしただけであった。――あらゆる什器《じゅうき》が粉微塵《こなみじん》に叩き壊されていた。どこにも酒など一滴も残っていなかった。招かれて来た客や下僕らが、すべての貴重な酒瓶や什器をごまかしていったのである。その家の主人であるタラス・ブーリバは、胸のかきむしられるような思いで立っている。そして彼は思うのである。「そんな酒宴をしなければよかったのに……」
人びとはタラス・ブーリバの気をまぎらせ、晴れやかにしてやろうと努力したが、無駄であった。ひげを長く生やした銀髪のバンドラ弾きが、二人三人ずつ往来を練って歩きながら、彼のコサックとしての勲功を賞め讃えて歌ったが、それも無駄だった。――彼はそれらのすべてを、冷ややかな無愛想な目で見るだけであった。じっと動かないその顔には、消し去りがたい哀愁が漂っていた。じっと首たれて、静かに彼は言うのだった。
「せがれよ! オスタップよ!……」
ザパロジエのコサック軍は海上の遠征仕度をした。二百|艘《そう》のチョルンがドニエプル河におろされた。小アジアは、花咲き匂う自分の沿岸を火と剣とで荒らしたところの、そられた頭と長い髻《たぶさ》とを持てる彼らの姿をまざまざと見た。味方なるマホメット教徒らの布を巻きつけた頭が、そこに乱れ咲いている無数の花と同じように、血で浸された野原に投げ出されたり、岸辺に漂っていたりするのが見られた。小アジアはまた、樺《かば》の脂で汚れているザパロジエのコサックたちのシャラワルイと称するだぶだぶのズボンや、黒いナガイカ〔皮鞭〕を握った筋骨たくましい腕をも、少なからず見た。ザパロジエのコサックたちは葡萄畑をすっかり喰いつくし、踏み荒らした。回教の寺院には糞便《ふんべん》の山を積み上げた。高価なペルシアのショールをズボンつりの代用にしたり、またそれを汚れ腐った服の上へ帯にして締めたりした。この後なおしばらくの間、これらの地方には、ザパロジエのコサックたちの用いた、短いパイプなどが見出された。彼らは躍りあがって帰航の途についた。と、彼らの船隊の後を、十門の大砲を備えた、トルコの大船が追って行った。そして|どっ《ヽヽ》といっせいに十門の大砲の火ぶたを切って、小鳥の群を追いまくるように、彼らの脆弱《ぜいじゃく》なチョルンを追いまくった。チョルンの三分の一は海底に沈んだ。が、残りの船はふたたびいっしょに落ち合って、金貨をいっぱいに入れた十二の大樽を積載して、ドニエプルの河口に到着したのである。
けれども、すべてこれらのことも、もはやタラス・ブーリバの心をひきつけなかった。猟をするようなかっこうをして、彼はよく牧場や広原へ出かけて行った。が、彼の弾丸はいつも発射されずに残っていた。どかりと鉄砲を下へ置いて、憂苦で胸をいっぱいにして、彼は海岸に坐りこんだ。悵然《ちょうぜん》と首たれて、長いことそこに坐りつづける。そして絶えずつぶやくのである。
「オスタップよ! 私のオスタップよ!」
彼の眼前には、黒海がはるばるとひらけて光っている。向こうの蘆《あし》の上に鴎《かもめ》が啼《な》いている。彼の白髯は銀色に光り輝いている。そして涙がぽたりぽたり……と、とめどなく流れ出るのである。
が、ついにタラス・ブーリバは耐え切れなくなった。
「どんなことがあっても、あれを探しに出かけよう。どうしているか? まだ生きているか?それとも墓へはいってしまったか? あるいはまたその墓にすらも、姿をとどめなくなったのか? ――どんなことがあっても、それをはっきり突きとめてこよう!」
それから一週間の後、彼はもうウマン市へ姿を現わした。武装に身を固め、馬にまたがり、槍をささげ、大剣をつり、鞍には道中用の水筒や、麦粉を入れた飯盒《はんごう》や、弾薬函や、馬の膝当てや、その他の七つ道具を結びつけていた。彼はいきなりその町のとある不潔な汚れ腐ったぼろ屋へ馬を乗り着けた。その家の小さな窓は、何かしれないもので煤《すす》ぼけしていて、ほとんど見えないくらいであった。煙突にはぼろがいっぱい押しこまれていた。そして、穴だらけの屋根には、雀《すずめ》がいっぱいにとまっていた。塵芥《じんかい》の山が入口のすぐ前にうずたかく積まれてあった。光沢のない真珠のついている頭巾《ずきん》をかぶったユダヤ女の首が、窓からじろじろのぞいていた。
「亭主は在宅かな?」と、馬をおりて、扉口についている鉄の鍵に手綱《たづな》をゆわえつけながら、タラス・ブーリバは言った。
「おりますよ」と、ユダヤの女は答えた。そしてすぐ馬にやる小麦の入った餌槽《えそう》と、騎士のためのビールの大杯とを持って、そこへ出て来た。
「亭主はいったいどこにいるのじゃ?」
「うしろの部屋におります。お祈りをしてるんでございますよ」と、ユダヤの女は、タラス・ブーリバが口もとへビールの大杯を持って行った時に、あらためて挨拶して、そしてお辞儀をしながら、こう答えた。
「お前はここにいてくれい。ここにいて、わしの馬に水を飲ませたり、かいばをやったりしてくれい。わしだけちょっとそちらへ行って、亭主と話して来るからな。実は少し用があるのじゃ」
このユダヤ人の亭主というのは例のヤンケリであった。彼はもうこの土地に借地人として、同時に酒場の主人として、現れていたのである。彼はこの付近のすべてのポーランドの貴族たちをじょじょに手中にまるめこみ、目立たないようにそろそろと、ほとんどすべての金を巻き上げた。そしてこの地方におけるユダヤ人としての自己を大いに発揮していた。周囲三マイル四方の所には、ほとんど一軒も完全な百姓家はなかった。ことごとく荒廃し朽ちはてていた。ことごとくのみつぶされてしまったのである。そしてただ赤貧とぼろとがあとに残った。火事か疫病の後のように、この地方全体が荒廃してしまった。もしこの地方にヤンケリがもう十年住んでいるとしたら、彼はたぶん、軍管区全体をも荒廃のどん底へ突き落とすであろう。
タラス・ブーリバは部屋へ入った。ユダヤ人はかなり汚れたベールにくるまって、祈祷《きとう》をやっていた。そして彼らの信仰の慣習に従って、祈祷の最後につばを吐くために、ひょいとうしろを振り向いた。突然彼の目は自分の背後に立っていたタラス・ブーリバの姿にぶつかった。と、何よりも真っ先に、その首にかけられている懸賞の一万ルーブルの金貨が燦然《さんぜん》と眼前にちらついた。が、さすがに彼も自分のこの欲心をいたく恥じ、蛆虫《うじむし》のようにユダヤ人の魂にまつわりついている、黄金に対する不断の妄念を、押しつぶそうと努めた。
「実はな、ヤンケリ!」と、タラス・ブーリバは、自分の前にペコペコとお辞儀をやり始め、そして誰にも見られないように、そっと入口の扉をしめたヤンケリに向かって、こう言った。「わしはいつぞやお前の命を助けてやった。――お前は犬猫のように、ザパロジエの連中から、すでにやっつけられるところだったのだ――今度はお前の出る番じゃ――ひとつわしに力を貸してくれい!」
ユダヤ人の顔は少しく曇った。
「どういうお力添えでごぜえやすか? 私の身にできますことなら、何でいたさないことがごぜえやしょう!」
「何にも言っちゃいかん。ただわしをワルシャワへ連れて行ってくれい」
「ワルシャワへ? えっ、ワルシャワへでごぜえますって?」とヤンケリは言った。彼の眉毛と両の肩とは、驚きのために上の方へつり上げられた。
「わしに何にも言っちゃいかん。黙ってワルシャワへ連れてってくれい。何とかして、わしは今一度あれの顔が見たいのじゃ。ほんの一言でも、あれに物を言いたいのじゃ」
「あれにって、どなたにでごぜえますか?」
「あれにじゃ、オスタップにじゃ、わしのせがれにじゃよ」
「でも、旦那様だってお聞きおよびでごぜえましょうが、もう……」
「知っている、みんな知っているよ。わしのこの首には一万ルーブルの懸賞がついているのじゃ。でも感心に、あの悪徒どもはこの首の値打ちを知っているて。わしはお前に二万五千ルーブルやろう。内一万ルーブルは即金だぞ(と言って、タラス・ブーリバは皮の財布から一万ルーブルの金貨をばらばらとつかみ出した)あと一万五千は――帰って来てからじゃ」
ユダヤ人はすぐに手拭いを取って、金貨にふたをした。
「ほう、すばらしい金貨だ! いや実際みごとなものだ!」そのうちのひとつをひねり回したり、歯で金性を試してみたりしながら、彼は言った。「旦那様にこんな立派なお金を取られてしまったやつは、すぐにこの世から旅立っちまったでごぜえやしょう。こんな立派な金貨を取られた後で、すぐに淵河《えんが》へ身を投げちまったでごぜえやしょうな、きっと」
「わしは別にお前を頼まなくってもいいのじゃがな。たぶん一人でもワルシャワへの道はわかるだろうと思うのだがな。しかし、あの呪わしいポーランドの犬どもが、ふとした拍子でわしだということをさとって、捕まえないともかぎらないからのう。何しろわしは、うまくごまかすということが、あまり巧くないからのう。そこへゆくと、お前たちユダヤ人は、もう何じゃ、そういう芸当をやるために生まれて来たような連中だからなあ。お前たちは悪魔をもだますことができるのじゃ。お前たちなら、どんな手管《てくだ》も知っている。そこでとくにやって来たのじゃ! それにまた、わし一人だった日には、ワルシャワへ行ってからも、しょせん、どうにもなるまいしの。どうか一つ、すぐに荷車の仕度をして、わしを連れて行ってくれい!」
「旦那様は何でごぜえやすか、さっそくここへ馬を引っ張って来て、車へつけて、『そら行け、栗毛よ!』で他愛なくできることと思っておいででごぜえやすか? お隠しせずと、そのままお連れできると思っておいででごぜえやすか?」
「そうか、それなら隠せ。いいように隠してくれい。空樽《からだる》へでも隠れるのか?」
「やれやれ! 旦那様は樽の中へなぞお隠しすることができるものと、本当にそう思っていらっしゃるのでごぜえやすか? 旦那様は、酒樽なら酒がはいっているものと、みんなが考えるだろうということを、お気づきじゃないんでごぜえやすか?」
「それなら酒がはいっていると思わしておいたら、いいじゃないか!」
「えっ? 酒がはいっていると思わせておけ、ですって?」とユダヤ人は言った。そして両手でもみあげの毛をつかみ、それからその手を、高く上の方へ差し上げた。
「おい、いったい何でお前はそんなにびっくりしたのじゃ?」
「だって旦那様、そうじゃごぜえやせんか。酒ってやつあ、みんなの者が一ぱいやって見るために、神様がお作りになったものじゃごぜえやせんか? あちらは明けても暮れても、うまいもの、おいしいものという土地がらなんでごぜえやすぜ。ポーランドの旦那がたが見つけたら、五キロや六キロ、樽の後からついて来やすぜ。そして手ごろな穴を明けやす。すぐに酒が出ないことを見つけて、こう言うにきまっていまさあ。『こりゃあやしい、ジュウ〔ユダヤ人〕のやつが空樽を引っ張って行くはずがない。きっと何か隠していやがるぞ! ユダヤ人を捕まえろ、ふん縛っちまえ、持ってる金をすっかり取っちまえ、そして牢屋へ叩っこめ!』――もうこれにきまっていまさあね。何しろ悪いことと言ったらいっさいがっさい、みんなユダヤ人のせいにするんでごぜえやすからなあ。ユダヤ人って言ったら、どいつもこいつも、みんな犬だと思っているんでごぜえやすからなあ。ユダヤ人と名のつく以上は、もう人間でないと思ってるんでごぜえやすからなあ!」
「そうか、それなら魚といっしょに荷車へ積みこんで行ってくれい!」
「旦那、駄目です。金輪際《こんりんざい》駄目でごぜえやすよ、そんなことは。当節あなた、ポーランドのどこからどこまで、犬のように餓えた人間ばかりでごぜえやすもの。魚を引ったくるとたんに旦那様をもさぐり当ててしまいやさあ」
「そんならもうどんな酷いところへ隠してもかまわないから、とにかく、連れて行ってくれい!」
「ねえ、旦那様、それじゃねえ、旦那様」と袖《そで》の折り返しをたくし上げ、両手を拡げて彼の方へ進みよりながら、ユダヤ人は言った。「それじゃこういたしやしょう。ちょうどただ今ほうぼうに要塞や城を建てておりやす。ネメッチナからフランスの技師たちがやって参りやした。それで、煉瓦《れんが》や石を運んで行く荷車が、あっちの道路にもこっちの道路にも見られるという有様です。旦那様、一つ荷車の底にお寝になって下さい、その上へ煉瓦を積むことにいたしやしょう。旦那様はお見受けするところ、お達者でお丈夫そうだから、少々重くても大したことはごぜえやせんよ。そして車の下の方へ小さい穴をあけといて、そこから旦那様に召し上るものをお上げするようにいたしやしょう」
「どうでもいいようにするがいい。とにかく向こうへ連れてってくれい!」
それから一時間後に、煉瓦を積んだ荷車が、二頭の駄馬にひかれて、ウマン市からきしり出た。それらの馬の一頭には、背のひょろ長いヤンケリが乗っていた。そしてユダヤ人が日ごろかぶるイエルモルカ〔剪絨《せんじゅう》帽〕の下からはみ出している長いちぢれた彼の髪は、道に立っている里程標のように長細い彼が、馬の背で揺り上げられるたびごとに、右に左にひるがえった。
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十一
ここに書かれているできごとのあった時代には、まだ国境の要所要所に、企業家にとっての恐ろしい雷であるところの、税関吏とか、巡邏《じゅんら》兵とかいうものは少しもいなかった。したがって、すべての人が思いのまま、何でも運び出したり運び入れたりすることができたのだった。よしんば、誰か検査や捜索を行なうものがあったとしても、主としてそれは、その者自身の欲心の満足のためにするのであって、車の中に、目を奪うような、すばらしい品物がはいっている場合とか、彼自身が、そうとうの貫禄と重みを持っている場合とかにかぎられていた。が、煉瓦を欲しがるものはいなかったので、車は何の障《さわ》りもなく、市の大手の門を通過したのである。
タラス・ブーリバは窮屈な煉瓦の積荷の中で、馭者《ぎょしゃ》たちの叫び声や騒々しい物音を聞くことができるだけで、あとは何にも耳にはいらなかった。ヤンケリは、背の低いほこりまみれの馬の背中で、ぴょこんぴょこんと体を揺すり上げられながら、幾うねりもした後で、とある暗い狭《せま》い往来へ折れ曲がった。そこは『グリャズナヤ〔不浄街〕』という名称を持っているほか、さらに『ジドフスカヤ〔ユダヤ街〕』とも呼ばれている所だった。というわけは、実際ここに、ワルシャワ中のユダヤ人の、ほとんど全部が住まっていたからである。
この街区は屋敷裏の内部をさらけ出したようなものであった。日光もここへはぜんぜん通らないように思われた。竿《さお》が何本も窓から突き出されている煤《すす》ぼけてすっかり|どす《ヽヽ》黒くなった家々が、街の暗さをいっそう大きくしていた。時折りそれらの家なみの間に、煉瓦の壁が赤い色彩を見せていたが、それさえも、たいていの場所では、すっかり黒く変わっていた。時々、漆喰《しっくい》塗りの壁の一部が、上の方だけ、太陽の光を受けて、耐えがたくまぶしい白熱の閃光を照り返していた。ここにある全てのものは、いずれもけたはずれのものばかりであった。――煙突、ぼろ、果物の皮、投げ捨てられてある壊れた桶……誰も彼もが使えなくなった品物をみんな往来へ放り出して、それらの汚物によって通行の人々にあらゆる感覚を味わわしめるという便利をあたえているのである。馬上の人なら、甲の家から乙の家へと往来ごしにかけ渡された、ユダヤ人の靴下だの、短い股引だの、燻製《くんせい》の鵞鳥《がちょう》だのが下っている物干し竿《ざお》に、ほとんど手が届きそうであった。時々、そこらの壊れかけた窓から、どす黒く剥《は》げて地肌の出た贋真珠の飾りをつけた、かなりあかじみたユダヤ女の顔がのぞいた。汚れ腐った、ぼろぼろの着物にくるまった、縮《ちぢ》れ毛のユダヤの腕白小僧どもが、泥の中でわめいたり、転がったりしていた。雀《すずめ》の卵といったような、顔一面にそばかすのできた赤毛のユダヤ人が、とある窓から|ひょい《ヽヽヽ》と顔を出した。彼はすぐヤンケリと何かわけのわからない自国の言葉で話し出す。と、ヤンケリはすぐある屋敷へ荷馬車を乗り入れた。さらに一人別なユダヤ人が往来を歩いて来たが、タラス・ブーリバは恐ろしく熱した調子で夢中になって話し合っている三人のユダヤ人をそこに見出した。
ヤンケリは彼の方を振り向いて言った。
「旦那、かならず何とかいたしやすよ。オスタップ様は城内の牢屋にはいっておいでになります。ですから、牢番のやつらを抱きこむのは難役だが、しかし何とかして、お会いになれそうなものだと思っていやす」――こう彼は言った。
タラス・ブーリバは三人のユダヤ人といっしょに部屋へはいった。ユダヤ人らは、ふたたびわけのわからない彼らの言葉で、彼ら同志で話をし始めた。タラス・ブーリバは、彼らの一人一人の顔を見回した。何物かが激しく彼の心を揺り動かしたように思われた。物に動じない荒削りの彼の顔に、一種狂暴な希望の焔が燃え上がった。――絶望の最後の瞬間に時々人の胸にやって来ることのある、ある希望の焔がぱっと燃え上がった。老いたる彼の心臓が、まるで青年のそれのように、烈しく鼓動し始めた。
「おい、お前たち!」と彼は言った。彼の言葉には歓喜に躍っているような響きがあった。「お前たちは、この世のことなら何でもできる人間じゃ。海の底からでもほじくり出すのじゃ。だからとうの昔から、ユダヤ人は盗みたい時には自分をも盗むと、諺《ことわざ》にもちゃんと言われてあるくらいだ。どうかお前たちのその力で、せがれのオスタップを自由な体にしてやってくれい! 悪魔の毒手からのがれる機会を、彼にあたえてやってくれい。わしはこの男に二万五千ルーブルの報酬を約束したのだが、――さらにもう二万五千ふやしてもかまわない。わしの持っている全財産を、高価な盃《さかずき》や地中に埋めてある金銀の類から、屋敷や衣類の類まで、何もかも、わしは叩き売る。そしてさらに、今後一生涯、戦争に行って分捕って来る品物はお前たちと山分けにするという、契約書を書いてもかまわない」
「おお、駄目でごぜえやすよ、旦那様! とてもそれはできない相談でごぜえやす!」と吐息まじりにヤンケリは言った。
「そうだ、とてもできない相談だ!」ともう一人のユダヤ人があいづちを打った。
三人のユダヤ人は互いに顔を見合わせた。
「が、とにかくあたって見よう」三番目のユダヤ人が他の二人を顧みながら、おそるおそる言った。「ひょっとしたら、うまくゆくかも知れねえから」
三人のユダヤ人はドイツ語でぺちゃぺちゃやり出した。タラス・ブーリバは、体中を耳にしてかかったけれども、何にも知ることができなかった。彼はただしばしば発せられた『マルドハイ』という言葉を耳へ入れただけで、あとは何にもわからなかった。
「それじゃねえ、旦那」とヤンケリが言った。「今まで一度もこの世へ出たことのないような、すばらしい人に相談してみなければなりません。ああ、もう、本当にソロモンのように賢いあの男が、どうすることもできないようなら、もうこの世の中の誰にもできないことだと思って諦めて下せえまし。ではここに|じっ《ヽヽ》としていて下せえ。鍵がありますからね。誰も入れちゃいけませんぜ!」
そしてユダヤ人らは往来へ出て行った。
タラス・ブーリバは扉口に固く鍵をかけて、小さな窓から汚いこのユダヤ街を眺めやった。三人のユダヤ人は往来のまん中に立ち止まって、かなり激しい調子で相談話をし始めた。そこへさらに第四のユダヤ人が仲間入りして、最後に五番目の一人が割り込んで来た。タラス・ブーリバはまたしても『マルドハイ、マルドハイ』という言葉の連発されるのを耳にした。ユダヤ人らは絶えず往来の一方を眺めた。ついにそのはずれの、汚ない一軒の家の陰から、ユダヤ人特有の靴下をはいた足が現われ、半外套の裾《すそ》がちらちらし始めた。
「ああ、マルドハイだ! マルドハイだ!」と五人のユダヤ人はいっせいに叫び出した。
ヤンケリより多少細い、がそのかわりはるかにしわの多い、とてつもない上唇《うわくちびる》をした、やせこけた一人のユダヤ人が、待ちこがれているこれらのユダヤ人の傍《そば》へ歩いて来た。と、彼らは先を争ってこの男に何やら話し始めた。それらの話を聞きながら、マルドハイと呼ばれるユダヤ人は何度もこっちの小窓を見た。そこでタラス・ブーリバは、自分に関する話が交されているのだと推察した。マルドハイは手を振ったり、彼らの話を聴いたり、さえぎったりした。しばしばぺっと傍へつばを吐いた。それから半外套の裾をたくし上げ、ポケットへ手を突っこんで、玩具の『ガラガラ』のような品物を取り出した。その拍子に、ひどく汚ない彼のズボンが現われた。
ついに、これらのユダヤ人らは、見張りに立っていたその一人が、|しっ《ヽヽ》という合図をしなければならなかったほど、大きな叫び声を立てた。で、タラス・ブーリバは自分の体を不安に思い出したが、ユダヤ人は往来以外では議論をすることのできない代物であるということと、彼らの話は悪魔でもわからないに違いないということに気がついたので、やっと安堵《あんど》の胸をなでおろした。
二分ほどたつと、それらのユダヤ人一同は、どやどやと彼のいる部屋へはいって来た。マルドハイがタラス・ブーリバの傍へ歩みよって、軽く肩を叩いて言った。
「われわれと神様とがこうしようと思ったかぎり、かならずその通りになりますから、大船に乗った気でいなっせえ」
タラス・ブーリバは、この世にいまだ姿を見せたためしのないというすばらしい『ソロモン』の顔を見た。そして多少の希望を持った。実際彼の容貌《ようぼう》は、多少の信頼をあたえるにたりた。彼の上唇は、まさしく一個の怪物であった。その偉大な厚さは、疑いもなく、局外の原因によって増大されたのであった。この『ソロモン』のあご鬚《ひげ》には、たった十五本しか毛がなかった。それも左側だけだった。ソロモンの顔には勇敢の表情と思われている格闘の傷痕が、|のべたら《ヽヽヽヽ》にあった。疑いもなくとうの昔に、彼がそれらの傷痕の数を忘れてしまって、親ゆずりのあざと思いなれてしまったに違いないほど、ところ一面にあったのである。
マルドハイは、自分の賢さに対する驚嘆でいっぱいになっている仲間たちを連れて出て行った。タラス・ブーリバはひとり残った。彼は不思議な、めったにないような境地にあった。生まれて初めて不安を感じ、熱に浮かされているような心の状態にあった。もう今までのような確固不動の、樫《かし》のように堅固な彼ではなく、小心|翼々《よくよく》としたまったく意気地のない彼であった。衣ずれの音のする度ごとに、そして往来のはずれから新しいユダヤ人の姿の現われるたびごとに、彼は思わず戦慄した。こういう気持ちのうちに、ついに彼はその一日をすごした。食べもせず、飲みもせず、片時も往来に面している小さい窓から目を離さなかった。ついに、その晩おそくなってから、マルドハイとヤンケリが姿を見せた。タラス・ブーリバの心臓は鳴りを鎮《しず》めた。
「どうじゃ? うまくいったか?」こう彼は悍馬《かんば》のような焦燥をもってたずねた。
が、二人のユダヤ人が勇気を出して答えようとする前に、タラス・ブーリバはいち早く、マルドハイの頭にあった、かなり汚ならしくはあったが、とにかくそのイエルモルカ〔剪絨帽〕の下から波うってたれていたあの縮れ毛が、最後の一たばまでなくなっているのを見て取った。明らかに、彼は何やら言いたそうだった。が、それは言わずに、タラス・ブーリバには何が何だかわけのわからないことをしゃべりだした。それに、肝心のヤンケリ自身までが、風邪《かぜ》をひいたもののように、やたらに手を口にあてた。
「おお、旦那様!」とついにヤンケリは言い出した。「もう今となってはぜんぜん駄目でごぜえます! 金輪際《こんりんざい》いけませんでごぜえます! 何て悪いやつらでしょう。鼻っ面へつばをひっかけてもたりないようなやつらです! マルドハイはまだ誰一人この世でやったことのないような、とてつもない芸当をやったのですが、神様の思召しがなかったのでごぜえます。三千の兵で固めましてな、捕虜になっているかたがたを全部、明日死刑にするんだそうでごぜえます」
タラス・ブーリバは二人のユダヤ人の目を見つめた。が、もう焦燥も憤怒《ふんぬ》も感じなかった。
「ですから、もし旦那様がお会いになろうとお思いでしたら、明日早くお出ましにならんといけません。さよう、まだお日様のお出にならないうちにですな。番兵の連中は承知してくれました。隊長にも一人よろしいとのみこんでくれたやつがあります。ですからあんな奴らはあの世へ行ってから、|うん《ヽヽ》と惨《みじ》めな目を見やがるがいい! 安穏でなぞ暮らさせてたまるもんじゃない! 本当になんて欲の皮の突っ張った奴らなんだろう! わしどもの間にだって、あんな奴はありゃしません。一人一人五十ルーブルずつふんだくられやしたよ、そしてその隊長のやろうには……」
「よしわかった。わしをせがれのところへ連れてってくれい!」と、タラス・ブーリバは決然とした調子で言った。勇気がふたたび胸に立ち返って来たのだ。ドイツからやって来た外国の伯爵《はくしゃく》に変装するようにというヤンケリの提案に、タラス・ブーリバは同意した。先見の明あるヤンケリは、そのための衣裳ひとそろいを、ちゃんと用意していた。もう夜はふけていた。この家の主人公なる例のそばかすだらけの赤っ毛のユダヤ人が、ござのようなもので包まれた蒲団《ふとん》を引っ張り出して、タラス・ブーリバのために、そこの腰掛けにのべてくれた。ヤンケリは床の上へじかに敷かれた同じような蒲団の中へ、横になった。赤毛のユダヤ人は、薬草を浸したウオッカを、小さいコップで一杯飲んで、例の短い上着を脱ぎ捨てて、靴下と半靴だけの、鶏の|ひよっこ《ヽヽヽヽ》のような姿になって、同じユダヤ人の女房を連れて、戸棚のようなところへはいった。二人のユダヤ人の子供が、まるで二人の飼い犬のように、戸棚の傍の床の上に、ごろ寝をした。
タラス・ブーリバは|じっ《ヽヽ》と坐って、眠ろうとしなかった。指先で机の上を、軽くこつこつと叩きながら、パイプをくわえて、ふうと煙を吐くので、ユダヤ人はむりにくさめをして、その鼻つらを掛け蒲団の下へ突っこんだ。朝明けの蒼白《あおじろ》い気配がほのぼのと空に出るが早いか、彼はもうヤンケリを足で突っついた。
「起きろ、ヤンケリ。伯爵の衣装を出せ!」
またたく間に彼は身ごしらえをしてしまった。ひげや眉《まゆ》を黒々と染め、前額部に黒い小さな帽子を乗せた――もはや彼にもっとも近いコサックたちでも、一人として彼をそれとさとり得る者はないであろう。彼はもう見たところ、どうしても三十五歳以上には思われなかった。いかにも健康そうな桜色が、彼の両頬《りょうほお》に輝いていた。そして幾つかの傷痕が、その外貌《がいぼう》におかしがたい威厳をあたえていた。金ずくめの衣装が、ぴったりと似合っていた。
街路はまだ眠っていた。ただ一人の物売りもまだ、箱を手にして市内に姿を見せてはいなかった。タラス・ブーリバとヤンケリとは、うずくまっている白鷺のような姿をした、とある建物の近くへやって来た。それは低い、横ひろがりの、大きな、どす黒くなった建物で、その一方には|こうのとり《ヽヽヽヽヽ》の首のような、ひょろ長い、狭い望楼がそびえて、その上に、屋根の一部が突き出していた。この建物の中で、種々さまざまの公務が処理されるので、兵営も、牢獄も、裁判所までもここにあったのである。
二人の旅人は門をはいって、大広間というよりもむしろ、屋根のある中庭というべきところに現われた。千人ほどの人がいっしょに眠っていた。正面に低い扉があって、その前に二人の番兵が腰をおろし、甲が乙の掌を二本指で叩くのを骨子とする一種の遊びをやっていた。彼らははいって来た二人にあまり注意を向けなかった。ヤンケリが、「私どもですよ、みなさん、ちょいと、あなががた、私どもですよ」と言った時に、初めて首をねじ向けた。
「お通り!」と中の一人が、片方の手で扉をしめしながらも、残る一方の手を、例の二本指の|しっぺい《ヽヽヽヽ》を受けるために、その同僚の前へ差し出したまま、こう言った。
彼らは狭い暗い廊下へはいった。その廊下はふたたび彼らを、上の方に小さな窓の幾つかあいている、同じような広間へ導いて行った。
「誰だっ?」と数人の声が叫んだ。タラス・ブーリバは、厳重に武装を凝らしているかなりの数の軍人を発見した。「誰も通しちゃならんことになっているのだぞ!」
「私どもですよ!」とヤンケリは大声で答えた。「本当に、私どもですがな、旦那がた!」
が、誰も承知しようとしなかった。折りよくこの時、一人の肥大漢が近づいて来た。この肥大漢は、あらゆる点からおしはかって見て、隊長であると思われた。誰よりも猛烈に怒鳴り立てたので。
「旦那様、私どもでごぜえますよ。旦那様はもう私どもをご存知じゃありませんか。それからここにおいでになる伯爵も、あとでたっぷりお礼はなさいますから……」
「仕方がない、通してやれい! しかし、もうあとは誰も通しちゃならんぞ。それから誰もサーベルを放り出して、犬のように床へうずくまったりしないようにな……」
この雄弁な命令のつづきを、わが旅人たちはもう聞いていなかった。
「私どもですよ、私ですよ、味方の者ですよ!」ヤンケリはすべての人と出っくわすごとにこう言った。
「どうです、もうよろしいですか?」と、彼らがついに廊下のつきるところまで来た時に、彼は番兵の一人にたずねた。
「よろしい。ただ君たちを牢舎の中まで通すかどうか、そこのところはわからないがね。今はもうあのヤンではなくて、あいつのかわりに別なやつが立ってけつかるからなあ」と、その番兵は答えた。
「やれ、やれ!」とユダヤ人は静かに言った。「旦那、そりゃ困りますなあ!」
「いいから連れてってくれい!」とタラス・ブーリバは執拗《しつよう》にせがんだ。ユダヤ人は服従した。
上の方へ狭く尖《とが》って切れている地下室の入口のところに、三層になったひげを生やした、一人の従兵が立っていた。彼の口髭《くちひげ》の一番上の層はうしろの方へ向き、その次のはまっすぐに前の方へ、第三のは下の方へ向いていた。それが彼の容貌を、猫|そっくり《ヽヽヽヽ》にさせていた。
ユダヤ人はひどく恐縮しながらほとんど横さまに彼の傍へ歩いて行った。
「隊長様! もし、隊長様!」
「おい、ジュウよ、手前、俺に言葉をかけたのか?」
「貴方様にでごぜえますよ、隊長様、へい、さよで」
「ふうむ……だけど、俺はその、ただの従兵なんだぜ!」と、三層のひげの先生は、それでも隊長と言われたのが嬉しいとみえて、目を光らせながらこう言った。
「あ、そうでごぜえやすか。わしゃまた、本当に貴方様を隊長様だと思いやした。はれまあ、おやまあ……」と言いながら、ユダヤ人は首をぐるりと一回しして、手の指をぱっとあけ広げた。
「まあ本当に、何てお立派なお顔なんでしょう! いやまったく、どう見たって隊長様ですがな、どこから見たって隊長さまですよ! ほんの|これんちん《ヽヽヽヽヽ》ばかり足せば、もう隊長様ですてば! 旦那様を蝿のように早く|すっ《ヽヽ》飛ぶ馬にお乗せして、全軍に号令をかけさして見たいものですなあ!」
従卒は例のひげの一番下の層をなでつけた。と同時に、その目はすっかり嬉しそうに輝き渡った。
「軍人てなんて立派なものなんでしょう!」とユダヤ人はつづけた。「いやまったく、軍人って実にすばらしいものですな! 金銀のモールやそのほかぴかぴかするものをこう身に着けてからに……まるで太陽の照り返しのようにきらきら光りますからなあ。娘っ子が旦那がたを見るてえと、すぐ首ったけになってしまうのも……いや、大きに!」
ユダヤ人はふたたび首を一ひねりひねった。
従兵は片方の手で例のひげの上層をひねって、歯の隙間から馬のいななきに多少似ている珍妙な音を吐き出した。
「旦那様に折入ってお頼みしたいのでごぜえやすがね」とユダヤ人はきり出した。「この伯爵様が外国からお出でになって、コサックを見たいとおっしゃるのでごぜえやす。まだコサックとはどんな人種か、実物をごらんになったことがないんだそうでしてな」
外国の伯爵や男爵がやって来ることは、ポーランドでは珍しくはなかった。彼らはしばしば、半アジア的なヨーロッパのこの一隅を見ようという好奇心だけでやって来るのであった。モスクワや、ウクライナを彼らはアジアにあるものと考えているのだった。
そこで例の従兵は、かなり鄭重《ていちょう》に会釈した後で、自分からも二言三言挨拶するのを、礼儀であると考えた。
「閣下、どうも私にはわかりませんなあ」こう彼は言った。「なんで貴方様がコサックなどをごらんになりたいか、ですな。あんなやつらは犬ですよ、人間じゃありません。それにやつらの持っている信仰だって、誰もありがたいと思う者などないような代物なんですものなあ」
「嘘《うそ》を吐《つ》け、畜生め!」と、タラス・ブーリバは言った。「貴様こそ犬じゃ! われわれの信仰をありがたいと思うものがないなんて、よくもいけしゃあしゃあとそんなことが言えるのう? 誰もありがたいと思わないのは、貴様たちの外道の信仰じゃわい!」
「えへ、へ!」と従兵は言った。「俺はちゃーんと知っとるぞ、おい大将、お前がどこの馬の骨かってことぐらい。――お前はこの中にぶっこまれているやつらの仲間じゃないか。待ってろ。ここへこっちの連中を呼んで来るからな」
タラス・ブーリバは自分の軽率を悟った。が、持ち前の強情と腹立ちとが、何とかしてごまかしてしまおうと考えることをさまたげた。幸いにも、ちょうどこの刹那《せつな》に、ヤンケリがうまくとりなしの口をきいてくれた。
「旦那様! この伯爵様がコサックだなんて、どうしてそんなことがございましょう! もしまたかりにコサックなのだとしたら、どこでこんな物や伯爵のみなりを、手に入れることができましょう?」
「勝手に|ごたく《ヽヽヽ》をならべてろ!」
こう言って、従兵は、もう、大声で仲間を呼ばんがために、その大口をあけかけた。
「閣下! どうか黙っていて下さい! 後生だから黙っていて下さい!」とヤンケリは悲鳴をあげた。「もうこうなったら仕方がない。お口止め料として、これまでごらんになったこともないような、すばらしい金を|はずみ《ヽヽヽ》やしょう。金貨二枚ぶっぱずみやしょう!」
「へ、へ! 金貨二枚だっ? 金貨二枚なんか、何の足しにもなりゃせんぞ。おりゃ床屋にひげを半分そろえさせるのにだって、金貨の二枚やそこいらは、くれてやらあ。おい、ジュウ、百ルーブル出せ!」
こう言って、ガイドゥクは上髭《うわひげ》をひねった。
「百ルーブル出さねえと、すぐ大声を立ててやるぞ!」
「何のいわれ因縁でそんな莫大な金を出さにゃならねえんだろう?」とユダヤ人は真っ青になって悲しそうな声で言いながら、皮の財布の紐《ひも》をほどいた。が彼はしあわせだった。なぜなら、財布にはそれ以上はいっていなかったので。またこの従兵が百以上の勘定を知らなかったので。
「旦那、旦那! 早く帰りましょう! どうです、ここの人たちは実に柄《がら》の悪い人たちでしょう!」と、従卒がもっと|せしめ《ヽヽヽ》なかったことを残念に思っているもののごとく、受け取った金を手の中でひねくり回しているのを見て、ヤンケリはこう言った。
「どうしたのじゃ、おい、悪魔の従兵!」とタラス・ブーリバは言った。「金はもらったが、見せまいと思っとるのか? いいや、貴様には見せる義務があるぞ。すでに金をもらった以上、もう見せないという権利は貴様にはないのじゃ」
「行け、行け、さっさと悪魔のところへ行きやがれ! さもないとどなるぞ。すりゃ貴様たちはその場でもって……さっさと失《う》せろと言ってるじゃないか!」
「旦那、旦那! 帰りましょう、本当にもう帰りましょう! いいかげんにしやがれ! あとでさんざん、夢見の悪い思いをしやあがるがいい!」と哀れなヤンケリは叫んだ。
タラス・ブーリバは悄然とうなだれて、おもむろに踵《くびす》を返し、無駄金をつかったことを考えて悲しくてくやしくてたまらないヤンケリの罵詈《ばり》に送られながら、もと来た方へ引き返した。
「何ですごすご引き下がることがあったろう! なあに、畜生、思い切りがなり合えばよかったっけ! 本当に、喧嘩をせずにはいられないようにできているやつらなんだ! やれやれ、神様は途方もないありがた迷惑なしあわせを下さるもんだなあ! 追っ払ってもらうために、百ルーブル進上するなんて! 本来なら、わしどもはもう、ひげを|ひん《ヽヽ》むしられようが、目が見えなくなるような|めりけん《ヽヽヽヽ》を喰わされようが、こんりんざい、百ルーブルなんて大金は出さねえんだ。ああ、畜生、ああ、ああ!」
が、この失敗はタラス・ブーリバの心に大きな影響を持っていた。それは彼の目の中に何物をも焼きつくす灼熱《しゃくねつ》の焔となって現われた。
「行こう!」と、まるで鶏《にわとり》が身をふるわすようにぶるぶると身をふるわせて、突然タラス・ブーリバは言った。「広場へ行こう。わしは|あれ《ヽヽ》がひどい目に会うようすを見たいのじゃ!」
「まあ、旦那! 何しに行くんでごぜえやす? もうそんなことをしたって、何にもならないじゃございませんか!」
「いいや、行こう」と執拗《しつよう》にタラス・ブーリバは言った。ユダヤ人は、乳母のように、溜息《ためいき》をつきながら、彼の後から|ぐずらぐずら《ヽヽヽヽヽヽ》とついて行った。
死刑の執行されることになっていた広場は、探し出すのに骨が折れなかった。群集はそこへ八方から押しかけた。野蛮なこの時代においては、それは賤しい下々の人民にとってのみならず、上流階級の人々にとっても、もっとも面白い『観物《みもの》』のひとつとなっていたのである。信心深い婆さんたちの大多数、うちへ帰ってから一晩中血まみれの死骸にうなされて、|へべれけ《ヽヽヽヽ》に喰い酔った驃騎兵でもなければできないような、とてつもない大きな声で、無我夢中で叫び立てるような若い娘や女どもの大多数までが、それでいながら、やっぱり見物する機会をのがさなかった。
「まあ、何て苦しみようでしょう!」と彼らのうちの多くの者は、目をおおい顔をそむけて、ヒステリックな発作にかられながら叫び立てる。そのくせ、時によるとかなり長い間そこに立ちつくしているのであった。あるいはまた、口をぽかんとあけて、両手を前の方へ突き出して、もっとよく見えるように見物一同の頭の上へ飛び上がりかねない権幕だった。せせこましい小さな平凡な頭を有する群集の中から、一人の肉屋が|でっぷり《ヽヽヽヽ》肥った顔を突き出して、いかにもこの方の通らしい態度で、すべての経過を見まもりながら、お祭りの日に同じ酒場でいっしょに酒を飲んでから『教父さん』と言っている鉄砲|鍛冶《かじ》と、簡単な言葉でぽつりぽつり口をきいている。ある人々は熱しこんだ議論をし合った。ある人々はまた賭《か》けをやった。が見物人の大多数は、この世界中のあらゆるものを、この世に起こるすべてのできごとを、鼻糞《はなくそ》をほじりながら見物するという、そうした部類の連中であった。最前列の、市街|巡邏《じゅんら》の軍隊を組成するひげの男連のすぐ傍に、若いポーランドの貴族か、貴族らしく見せているのかが、軍服姿で立っていた。まさしく彼は文字通り持ち物の全部を身に着けて来たのらしく、したがって、下宿にはもうぼろぼろのシャツと古靴とが横たわっているだけらしかった。小さな二本の鎖が、上下になって、どこかの国の金貨をつけて首にぶら下がっていた。彼は自分の愛人であるユズイスヤと呼ぶ女とならんで立っていたが、誰か彼女の絹の着物を汚しはしまいかと、絶えず周囲を見回していた。彼は彼女に何もかもすっかり説明して聞かせた。したがってもう何一つ言い添《そ》えることはできないのであった。
「ほらごらんよ、ユズイスヤさん」と彼は言った。「貴女のごらんになるこのすべての群集は、死刑囚のやつらにどんな具合に死刑を執行するか、それを見にやって来たのですよ。ほら、ねえ、あそこに斧《おの》やそのほかいろんな道具をもっている|あれ《ヽヽ》ね、あれが首切り役人ですよ。あれが死刑を執行する男ですよ。車の輪責めやそのほかの責苦をあたえているうちは、まだ囚人は生きているんです。が、いよいよ首を刎《は》ねてしまうとねえ、すぐに死んでしまうんです。それまでは叫んだりもがいたりしていますが、ぽかりと首が飛んでしまうと、もう叫ぶことも、食べることも、飲むこともできなくなるんです。何しろ、もう首がないわけですからねえ」
ユズイスヤはすべてこれらの説明を、恐怖と好奇心とのまじった気持で聴《き》いていた。
家々の屋根は人びとでいっぱいだった。ひげを立ててナイトキャップのような物をかぶっているおそろしく珍妙な顔が、そこここの引窓からのぞいていた。露台の、天幕の下には、貴族連中がいならんでいた。しゃぶれば溶ける白砂糖のように、輝かしく絶えず笑いさざめいている貴婦人の、美しい手が、そこの欄干《らんかん》につかまっていた。かなりがっしりした上流の貴族たちは、もったいぶった顔つきをして見物していた。袖《そで》をうしろへ|たくし《ヽヽヽ》上げ、きらびやかに着飾った奴僕《ぬぼく》が、そこでいろんな飲料や食物を配っていた。時折りその中の目玉の黒いお跳ねさんが、輝かしいその手に饅頭《まんじゅう》や果物をつかまえて、それを下の群集に投げてやった。ひもじがっている騎士の一群が、それを受けるために各自の帽子を差し出す。群集の中から、首だけ|ぬっ《ヽヽ》と突き出している、背の高い、どす黒く剥《は》げた金モールのついた、色のさめた赤のガウンを着ている一人の貴族が、長い手を利用して、第一番にそれを受け、すぐと接吻して、さらにぎゅっと心臓に押しあて、それからおもむろに口に入れた。
金色の籠《かご》に入れて下げてある露台の下の鷹も、同じく見物の一員であった。嘴を横っちょへねじ曲げて、片足を持ち上げて、自分のこの玉殿から、彼もまた注意深く群集を眺めているのであった。
群集は急にざわめき出した。四方八方に叫び声がおこった。
「連れて来た! コサックを連れて来た! コサックが出て来た!」
コサックらは何もかぶらぬむきだしの頭で、髻《たぶさ》を長くたらして、やって来た。彼らのひげはぼうぼうと延びるにまかせられていた。
彼らは恐るる色もなく、またふさぎこんでいる気色もなく、おだやかな一種の誇りをもって歩いて来た。
高価なラシャ地の服はもうくしゃくしゃに着つぶされて、ぼろぼろになって、彼らの体にからみついていた。彼らは群集を見なかった。また会釈もしなかった。一同の先頭に立って、オスタップは泰然と歩いて来た。
息子オスタップの姿を見出した時、老いたるタラス・ブーリバは、どんな気持を覚えたであろう。その時の彼の胸中はどんなであったろう? 彼は群集の中から彼の姿を見つめていた。そして彼の動作のただひとつをも見のがさなかった。彼らはもう刑場のそばまで近づいて行った。オスタップは立ち止まった。彼は真っ先にこの苦い杯を飲み干さねばならないのであった。彼は同志の面々を顧《かえり》み、高く手を差し上げて、凛然《りんぜん》たる声でこう言った。
「神よ、願わくば、ここに立っている異教のやから、けがらわしいえびすのやからに、われらキリスト教徒の苦しむところを見せないようにして下さい! われわれの中のただ一人も、苦しみの声など一言も吐かないようにして下さい!」
こうおもむろに言い終わると、彼は断頭台へと歩みよった。
「偉いぞ、せがれっ、でかしたぞっ!」と、タラス・ブーリバは小声で言った。そして、その雪白の頭を、低く低く大地へたれた。
首切り役人はぼろぼろの服を彼から引き剥《は》がした。彼の手足は、特にこしらえた架台にぎゅっと縛りつけられた。そして、それから……いやしかし、身の毛も|よだつ《ヽヽヽ》ような地獄の苦しみの光景を描いて、読者の気持をかき乱すことはすまい。ようするにこれは、人類がまだいくさの手柄のみに明けくれる血なまぐさい生活を送っており、まだ人道というものを感ずることなく、そうした生活の中に心胆を練っていた、野蛮な残忍なこの時代の所産だったのである。ほんの三、四の、この時代としては例外に属する少数の人々が、こういう残忍な死刑のやり方の反対者として現われたけれども、それは徒労にすぎなかった。国王を初め、知恵と魂の発達した多くの騎士たちが、こういうむごたらしい刑罰はいたずらにコサック民族の復讐心をそそり立てるほかに能がないと主張したけれども、これまた徒労にすぎなかった。いやそれどころか、国王や賢明なそれらの人びとの威力などは、その浅慮と、先見の明の欠如と、子供らしい他愛のない自惚《うぬぼれ》心と、愚にもつかない慢心とから、議会を政治上の一個の諷刺《ふうし》画に変えてしまった貴族連中の、ふしだらとわがままに対しては、実に何物でもなかったのである。
オスタップはあらゆる責苦と拷問とを、巨人のように泰然と耐え忍んだ。手足の骨をぽきぽきと折り始めた時でさえも、恐ろしい音が遠く見物の死んだようになっている群に聞こえて来て、女どもが思わず目をそむけた時でさえも、彼はただ一つの叫び声もうめき声も立てなかった。――うめき声に似たいかなる音響も、彼の口からは出なかった。彼の顔はびくともしなかった。
タラス・ブーリバはうつむいたり、同時にまた誇らしく瞳をきっと上へもたげたりして、群集の中に立っていた。そしてただ一言、賞め讃えるような調子でこう言った。
「偉いぞ、せがれよ、あっぱれだぞ!」
が、最後の断末魔の苦しみに引きずって行かれた時、こらえにこらえているオスタップの力が弱りかけてきたように見えた。彼は瞳をもたげて自分の周囲を見回した。ああ、みんな見知らぬ顔ばかりだ! せめて近しい者が一人でもおれの末期に立ち会っていてくれたなら!……彼は弱い母親のすすり泣きや悲嘆の声を聞こうとは願わなかったであろう。また、髪をかきむしり、白い胸を叩いて嘆き悲しむ妻の、狂おしい号泣《ごうきゅう》をも聴くことを願わなかったであろう。彼は今、賢明な言葉で、自分に活気をあたえてくれ、末期の自分を慰《なぐ》さめてくれるにちがいない、雄健な男を見たいと思ったであろう。で、彼は力つきて、心の中の耐えがたい気持ちに動かされて、思わず叫んだ。
「お父さん。どこにおいでですか? お父さんはこの苦しみをご存知ですか……?」
「知っているぞっ!」
という声が、水を打ったような静けさの中に響きわたった。百万の群集は一時に慄《ふる》えあがった。騎馬の一隊が群集を点検すべくあたふたと飛び出した。ヤンケリは、死のように真っ青になった。そして、騎馬の一隊がちょっと自分の身辺から遠のいた時に、タラス・ブーリバを見ようと思って、おそるおそる後を振り返った。が、彼のそばには、もうそれらしい姿は見えなかった。影も形もなかったのである。
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十二
タラス・ブーリバの行方が知れた。十二万のコサック軍がウクライナの国境に現われた。それはもう何か分捕物をするためとか、ダッタン人を追撃するためとかで進出した、今までのような小部隊もしくは支隊ではなかった。しかり、国民が堪忍袋の緒《お》を切った結果、全民族がこぞって起《た》ったのである。――自分たちの権利を蹂躙《じゅうりん》されたのに対して、自分たちの品性の恥ずべき屈辱に対して、父祖の信仰と神聖なる慣習とへの凌辱《りょうじょく》に対して、教会への冒涜《ぼうとく》に対して、異国ポーランドの貴族らの乱暴無礼に対して、迫害に対して、ギリシアとローマ教会との結合に対して、キリスト教の土地におけるユダヤ民族の羞《は》ずべき支配に対して、そのほか久しい昔からコサック民族の猛烈な憎悪をそそり立ててきた、ありとあらゆる暴虐《ぼうぎゃく》に対して、彼らは復讐すべく起ったのである。
若い、しかしながら剛勇の気にみちている統帥《とうすい》オストゥラニツァが、数かぎりないコサックのこの大軍を指揮していた。彼の身辺には年老いたる、千軍万馬の間に実際の体験を積んだ、彼の友だちであり、また顧問であるグニヤの姿が見出された。八人の隊長が一万二千の軍隊を率いていた。二人の高級副官とうやうやしく統帥旗を捧《ささ》げた騎馬武士とが、統帥につづいて馬を走らせていた。旗持ちの将校が全軍団の団旗を持っていた。そのほか多くの旗や指物《さしもの》が|へんぽん《ヽヽヽヽ》と風にひるがえってつづいた。笏《しゃく》持ちの一団が各隊長の笏を持って進んだ。ほかにまだ連隊長級の者が大勢あった。――輜重《しちょう》隊長、枝隊長、連隊副官の面々がそれで、これらの隊長がまたそれぞれに歩兵騎兵の一隊を擁《よう》していた。そして正規のコサック兵とほとんど同数の、志願兵や義勇兵がそこにいた。いたるところからコサックが憤起したのである。――チギリンから、ヘレヤスラフから、バトリンから、グルホフから、ドニエプルの下流の地域から、その上流のすべての地方と島々から、いっせいに奮いたったのである。数知れぬ馬匹と無数の戦車とがえんえんと野に連なった。
これらのコサック軍の間に、これら八個の連隊の間に、もっとも卓越した一個連隊があった。この連隊を司令しているのはタラス・ブーリバであった。老齢、深い経験、軍隊を操縦する技量、それから敵に対する誰よりも猛烈な憎悪――これらのすべてが他の何人にもまさった千釣《せんせん》の重さを彼にあたえていた。コサック軍の人々にさえ、彼の容赦なき狂暴と残忍とは、度を超《こ》えているように思われた。彼の雪白の頭が下す判決は、いつも火あぶりと絞殺とにきまっていた。軍議における彼の意見は、いつも敵を根絶するという一事にかぎられていた。
コサックが勇名をとどろかせたあらゆる戦闘を、ここに書き記す必要は少しもない。また次から次と進んでゆく戦いの状況をも、書き伝える必要はない。それらはすべて年代記に書き記されているのである。信仰のために起こった戦争が、ロシアにおいてどんなものであるかは、すべての人の知るところである。信仰より強い力はないのである。それは荒れ狂う変化きわまりない大海の巨岩のように、打ちかちがたくすさまじいのである。ただ一つの緻密《ちみつ》な石から成り立っている峨峨《がが》たる巌《いわお》は、海のどん底から天空に向かって、打ち砕くことのできない壁をそびえ立たせている。それはいたるところから眺められる。そして傍を走りすぎる波濤をまともに見すえている。これに乗り上げた船は不幸だ! あやうい帆綱はずたずたにちぎれて飛び散り、そこにあるすべての物が粉砕され、溺《おぼ》れ沈んで、滅びてゆく者の哀れっぽい叫び声が、びっくりした空気をいやが上にも揺すぶるのである……。
いかにポーランドの近衛隊が都市を明け渡して壊走したか。恥を知らないユダヤの借地人どもがいかに絞殺の憂き目を見たか、コサックのこの打ちかちがたい力に対して、敵の総司令官ニコライ・バトツキイが、数知れぬ大軍を擁しながら、いかに弱かったか。いかに彼が打ちまくられ追いつめられて、大きくもない河の中で、自分の軍隊の優秀な部分を水に溺らせてしまったか。いかにすさまじいコサックの軍勢がポロンノイエと称する村に彼を追いつめたか。いかに進退きわまったポーランドのこの総司令官が、国王および政府当局側からのあらゆる条件に対する承諾を、神に誓って約定し、あわせて以前の権利と財産との返還を誓ったか。――これらはすべて年代記の中に詳細に書き伝えられている。
が、コサックはそんなことで納まるような連中ではなかった。ポーランドの誓いがどんなものであるかを、彼らはもうちゃんと知っていた。したがって、もしこの小村にいたロシアの僧侶が助けてやらなかったら、彼パトツキイは、もはや六千金を投じた駿馬に乗って見栄を切り、最上流の貴婦人達の視線をひきつけたり、貴族全体の羨望の的になったりすることもできなければ、元老院の議員どもに豪奢《ごうしゃ》な晩餐をふるまって、議会で大騒ぎをすることもできなかったであろう。が、燦然たる金襴《きんらん》の袈裟《けさ》をかけて、聖像と十字架とを手にした僧侶らが、同じく十字架を持ち、僧冠をいただいた大僧正を先頭にして、しずしずと迎え出た時、コサックの軍勢はことごとく帽子を脱いで首を下げたのである。彼らはこのとき何人をも尊敬しなかったであろう。しかり、国王をすらも尊敬しなかったであろう。が、自分たちの奉ずるキリスト教の教会に背反する勇気だけはさすがになく、自分たちの僧侶には尊敬を払っていたのだった。統帥は部下の隊長一同とともに、パトツキイから、あらゆるキリスト教の教会を自由にし、ふるい怨恨《えんこん》を忘れ去り、コサックの軍隊にいかなる侮辱をもくわえないという誓約を取って、彼を放免することを承諾した。が、ただ一人の連隊長ががんとしてこの講和に同意を表さなかった。このただ一人の連隊長が、タラス・ブーリバであることは言うまでもない。彼は頭から、びりびりとひとつかみの毛をむしり取り、そして声荒く叫んだのである。
「えい、統帥および連隊長の諸君! そんな女の腐ったようなことはやらないでほしい! ポーランドのやつらを信じてはいけませんぞっ! きゃつらはじきに売りやがるのだ!」
軍の書記官が誓約書を差し出し、そして統帥が威力ある手をそこへ置いたとき、彼は鍛《きた》えに鍛えた鋼鉄の、高価なトルコのサーベルを腰からはずして、苧殻《おがら》のようにそれを真っ二つにへし折って、右と左に遠くはなれたところへ放り捨て、そして言った。
「では、諸君、さようなら! このパラシ〔直剣〕の二つの折れが一つになって、ふたたび一振りの剣となることがないように、われわれももうこの世で相会することはないのじゃ! わしの別れの言葉を覚えていて下さい……」
この言葉が口をついて出ると同時に、タラス・ブーリバの声は急に大きくなり、いちだん高くなった。目には見えない強い力をおびてきた。そして列座の面々は、予言するように彼の言葉に動乱したのであった。
「いよいよこれが最後という時に、諸君はこのわしの言うたことを思い出すに違いない! 今諸君は平和と安寧《あんねい》とをあがない得たと思っている。貴族のような安穏な生活ができると思っておられるじゃろう? なるほど、諸君は貴族のような安穏な生活をするであろう。しかし、それは少し違った意味の安穏じゃ。統帥、貴公は頭の皮をひきむしられますぞ。そしてその中へ蕎麦粉をつめこんで、長いこと市場市場にさらし物にされるだろう! 諸君、君たちの頭も無事にはすみませんぞ! やがて湿っぽい穴倉の中へ放りこまれて、もし羊でも煮《に》るように、諸君を生きながら釜の中で煮るようなことがなければ、その石壁の中に閉じこめられたままで死んでしまうのじゃ!」
「それから、おい、若いみなの者!」と、自分の部下の将卒の方へ向きなおって、彼はつづけた。「みなのうち、誰と誰が自分自身にふさわしい男らしい死にかたで死にたいか? ――暖炉のそばや女のベッドの中で死ぬのじゃなく、また犬猫がごろごろ死ぬように、酒場の垣根の下などに酔いどれ姿で死ぬのでもなく、たとえば、若い夫婦のように、みなの者が同じ荒野を寝床にして、名誉あるコサック流の死にかたで死ぬのじゃが、みなのうち誰が、それを希望するか? それとももしやお前たちは、家へ帰りたいのじゃないか、背教者になりたいのじゃないか、そして自分の背中へポーランドの売僧を背おって歩きたいのじゃないか?」
「隊長と行動をともにします! 連隊長殿! あなたについてどこまでも行きます!」とタラス・ブーリバの連隊のすべての将卒が高く叫んだ。彼らに馳せくわわった他の連隊の将卒も少なくなかった。
「わしと行動をともにする気なら、よろしい、どこまでもわしについて来るのじゃ!」とタラス・ブーリバは叫んだ。そして帽子をいっそう深くかぶりなおして、佇立《ちょりつ》している一同の者をすごい目で一睨《いちげい》し、ひらりと馬にまたがり、部下の将卒に向かって叫んだ。
「われわれに侮辱の言葉を浴びせる者は誰もないはずじゃ!――それではみなの者、カトリックのやつらのところへお客に行くのじゃ。前へ――進めっ!」
そして彼は自分の馬に鞭《むち》を当てた。つづいて百輛の車からなる輜重の一隊がつづいた。それからさらに彼らといっしょに、コサックの騎兵と歩兵との多数が進んだ。タラス・ブーリバはくるりとうしろを振り返って、後に残ったすべての者にすごい視線を浴びせた。その目は憤怒《ふんぬ》に燃えていた。誰一人彼を止めようという勇気を持っている者はなかった。全軍の見ている前を連隊は、粛然として立ち去った。タラス・ブーリバはなおしばらく、絶えずうしろを振り返った。そしてそのつど、例のものすごい目で威嚇《いかく》した。
統帥《とうすい》と隊長とは、不安そうにたたずんでいた。重苦しい一種の予感に圧せられるもののように、彼らは深いものおもいに沈んで、長いこと沈黙をつづけていた。
タラス・ブーリバの予言は無駄ではなかった。すべてが彼の予言どおりであった。それからいくらもたたないうちに、カニエフにおける背信的な行為の後で、統帥の首はもっとも上位の大官連の多くの者の首といっしょに、高い木の上にさらし物にされたのであった。
が、タラス・ブーリバはどうしたか?
タラス・ブーリバは自分の連隊を引き連れて、ポーランドの全土を荒らし回り、十八個の町村を焼き払い、四十に近いカスチョル〔ローマ教会の礼拝堂〕を焼き払い、そしてもうクラコフにまで達しそうになっていた。彼は多くのポーランド貴族を殺戮し、もっとも富裕な立派な城のかずかずを襲って、掠奪をほしいままにした。これらのコサックの一隊は、ポーランドの貴族の家の穴倉深く秘められてあった蜜《みつ》や酒の樽の封を切って、大地へまき捨てた。倉の中に見出される高価なラシャや衣装や家具|什器《じゅうき》などを、どんどんと叩き壊し、また焼き捨てた。
「なんにも容赦をするな!」
タラス・ブーリバはこう繰り返すばかりだった。
これらのコサックは黒い盾をしたポーランドの女どもや、雪のように白い胸をふくらませた美しい娘どもをも容赦しなかった。祭壇の前にいる場合でも、彼女らは身を救うことができなかった。タラス・ブーリバはそうした女どもをも祭壇といっしょに焼き払ったのである。湿っぽい大地までがそのために動揺し、曠野の草も哀憐《あいりん》のあまり面《おもて》を伏せたであろうと思われるような、悲しい叫び声をともなって、燃えさかる火焔の中から天空に向かって突き出されたのは、雪よりも白いそうした女どもの腕だけではなかった。残忍なコサックは何物にも注意を払わなかった。彼らは往来にいるそうした婦人の子供たちまで、槍の穂先に突っかけて、彼女らの悶《もだ》え苦しんでいる灼熱地獄へ投げこんだのである。
「うぬ、憎いポーランドの仇敵めら、オスタップの供養じゃ、そらどうじゃ?」
タラス・ブーリバは言い添《そ》えるだけだった。
こうしたオスタップの供養を、彼は行く先々の村や町でやってのけた。ついにポーランドの政府は、タラス・ブーリバの行動が普通の山賊の所行以上であるのをさとった。その結果、例のパトツキイが、五個連隊の兵を率《ひき》いて、有無を言わせず、彼を逮捕してくれと委嘱《いしょく》されたのである。
これらのコサックは六日の間、村道伝いにあらゆる追跡の手からにげのびた。ようやく馬はこのむちゃくちゃな疾走をやり通して、ひとまずコサックを救ってくれた。が、この場合のパトツキイは、自分の受けた委任を十二分にやってのける人であった。彼は根気よく彼らの行方を追跡した。そしてついにドネストル河の沿岸で追いついた。タラス・ブーリバはここで、しばらく休息するために、廃墟となっている、とある要塞に立てこもっていたのであった。
ドネストル河の岸に臨んだ高い懸崖《けんがい》の上に、その廃墟となった要塞は、崩れ落ちた砲塁と、くずれた城壁の残りとを見せて屹立《きつりつ》していた。今にもぐらぐらと崩れて落下しそうな絶壁の頂には、切石や煉瓦の破片が散乱していた。ここへ、野原に向かってひらけている二方面から、総司令官パトツキイの大軍が攻めよせて来て、ひしひしと彼らを取り巻いてしまったのである。煉瓦や石を投げつけて、コサックは四日間頑強に抵抗した。が、兵糧も力もついにつきてしまった。そこで、タラス・ブーリバは囲みを突いて脱出しようと思い定めた。
これらのコサックは、すでに何度か囲みを脱出したのである。そして、たぶん、彼らの駿足な馬どもが今一度彼らに忠勤を励んで、首尾よく落ちのびさせてくれたに違いなかったのである。が、このとき突然、この疾走の真最中に、タラス・ブーリバは馬を止めて、こう叫んだ。
「待ってくれい! パイプをおとした! パイプひとつだって、ポーランドのかたきの手には渡したくない!」
老隊長は身をかがめて、海上でも、陸地でも、遠征の際にも、家にいる時にも、肌身離れぬ道づれだったそのパイプを、草の間に探し始めた。が、ちょうどこの時、不意に敵の一隊が迫って来た。そして彼の力強い両肩を|むず《ヽヽ》とつかんだ。彼は全身を動かして振りもぎとろうとした。が、もう彼にしがみついている敵の雑兵どもは、今までのようにばらばらと振い落とされはしなかった。
「ああ、老いたか、わしも老いたか!」こう悲壮な声で言って、頑固な老コサックは男泣きに泣き出した。が、この場合老齢が悪いのではなかった。力が力に打ちかったのだ。彼の手や首にぶら下がっている人間は三十人をくだらなかったのである。
「とうとう大きな烏《からす》をとっちめたぞっ!」とポーランドの兵士たちは叫んだ。「もうこうなったら、このコサックの|よぼ《ヽヽ》犬に、どういうすばらしいごちそうを喰わせたらいいかを考えるだけのことだぞ」
彼らは総司令官の許しを受けて、彼を一同の面前で生きながら火あぶりにすることを決定した。ちょうどそこに、梢《こずえ》の方を雷に折られた裸木が一本突っ立っていた。彼らはタラス・ブーリバを、鉄の鎖でぎりぎりと縛って、その裸木のそばへ|しょっ《ヽヽヽ》引いて行って、両手にぴしぴしと釘を打ちこんで、八方から見えるように高いところへつるし上げて、すぐその根もとに、薪《まき》の山を積み始めた。が、タラス・ブーリバはそんな薪の山を見もしなければ、彼らが自分にくわえようとしている火刑のことを考えもしなかった。親切深いこの老戦士は、部下のコサックの将卒どもがかいがいしく防戦している、その方をじっと見つめているのだった。高みにつるされている彼には、掌を見るようにすべてのものがよく見えた。
「占領せい、者どもよ、早くそこを占領せい!」こう彼は叫んだ。「その小山を、林の蔭のその小山を。そこならやつらには近よれやせんぞっ!」
が、風が彼の言葉を向こうまで届かせなかった。
「ああ、破れる、どうしても破れる!」と絶望的に彼は叫んで、下をのぞくと、ドネストル河がひらめいている。歓喜の光が両眼に輝いた。彼は藪蔭《やぶかげ》からわずかに見えている四|艘《そう》の船の舳《へさき》を見つけた。そこで、あらんかぎりの声量を集めて、破れるような大声で叫んだ。
「岸へ! 岸へ! おいみんな! その右手にある麓《ふもと》への小径《こみち》を伝って早く下りろ! 岸にはチョルン〔刳船〕があるぞっ! 追撃されないように、船はみんな持って行けっ!」
ちょうどこの時、一陣の風が反対の方角から吹いて来た。で、これらの言葉はことごとくコサックたちの耳へはいった。
が、この言葉のおかげで、彼はさっそく頭へ斧《おの》の峰打ちを喰わされた。そしてその峰打ちが、彼の目の中のすべてのものをくるくる回転させた。
コサックは麓へ通う小径伝いに、全速力で駈けおりた。しかしもう追撃の手は肩の辺まで延びていた。見ると、小径がひどく曲がりくねって、まぎらわしくなっている。
「おい、みんな、行きどまりだぞ!」と一同が言った。そして一瞬佇立して、さっと各自が鞭《むち》を上げ、口笛を吹いた。――と、ダッタン種である彼らの馬は、さっと地上を離れて、蛇のように空中に身をひるがえして、この懸崖《けんがい》を躍り超《こ》え、ざんぶとばかり、ドネストルの流れへ飛びこんだのである。ただ二人だけ河に達しえなくて、頂上から岩の上へ墜落し、叫び声をあげる暇《ひま》もなく、馬もろともにそこで永遠の眠りについた。が、ほかのコサック一同は、もう馬といっしょに流れを泳いで、四|艘《そう》のチョルンの|もやい《ヽヽヽ》を解いていた。ポーランドの追手どもは懸崖の頂上に立ち止まって、コサックのこのすばらしい離れ業《わざ》に、驚嘆の目を見張った。そして彼らは考えた。俺たちも跳び超えられるだろうか、どうだろう? 哀れなアンドリイを迷わせたあのポーランド美人の兄である、熱血男子の若い連隊長が、深く考えても見ずに、せいいっぱい馬を跳らせてコサックたちの後から飛びおりた。彼は馬もろともに空中に三度|もんどり《ヽヽヽヽ》を打って、|ぱしゃり《ヽヽヽヽ》ととがった崖の上へ落ちた。鋭くとがった岩石は、深淵のまっただなかへ落ちて来た彼をずたずたに引き裂いた。そして彼の脳味噌は、綿血と混り合って、でこぼこだらけの絶壁に生えている灌木《かんぼく》のしげみにはねかかった。
タラス・ブーリバが打撃を受けた後の混沌《こんとん》たる気持から意識を回復して、ドネストル河を見やった時には、もうコサックらは船に乗りこんで、櫂《かじ》を動かしていた。鉄砲の弾丸が上から彼らに向かって浴びせかけられたが、それは彼らに当たらなかった。老隊長の嬉しげな面眼は燃え立った。
「さようなら、戦友のみんな!」こうタラス・ブーリバは彼らに向かって上から叫んだ。「わしのことを思い出してくれい! そして来春にはまたここへやって来て、思いきりふざけ散らしてやってくれい! 悪魔の子のポーランドのやつら、|うぬ《ヽヽ》らはいったい何を得たのじゃ? われわれコサックの恐れるものが、この世にあると思うのか? まあ待っているがいい、そのうちに時節が来て、わがロシアの正教の信仰がいかなるものであるかということを、|うぬ《ヽヽ》らもやがて知るようになるのじゃ! もう現在でさえ遠近の諸国民がそれを感じているのじゃ――わがロシアの国土、ロシア国土自身の皇帝が生まれ出る。そしてこの君に征服されぬような力は、この世になくなってしまうのじゃ!」
が、もう火は薪の山の方へ燃え上がって来て、早くも彼の足を襲い、もうもうたる焔となって立木をよじのぼった……しかしながら、わがロシアの力に打ちかつような、そのような力、そのような苦痛、そのような火焔が、はたしてこの世に見出されうるだろうか?
ドネストルは小さからぬ河である。で、この河には入江や、蘆《あし》のしげみや、浅瀬や、深い淵がたくさんにある。かん高い白鳥のなき声の響き渡る、鏡のような河の面《も》は光り輝き、高慢ちきな鵞鳥《がちょう》がその上をすばやく泳いで、山鴫《やましぎ》や、胸紅《むなべに》鳥の類をはじめ、そのほかあらゆる種類の鳥が、蘆の中や岸辺に群がっている。コサックらは幅の狭い二挺舵のチョルンに乗って、敏速に漕《こ》ぎ進んだ。彼らは櫂をそろえて漕ぎ、注意深く浅瀬をさけて、ぱっと飛び立つそれらの群鳥をおどろかせつつ、自分たちの隊長のことをしみじみと語り合ったのである。(完)
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解説
「われわれはみな、ゴーゴリの『外套』から出た」とは、ドストエフスキイの言葉である。プーシキンがロシア近代文学の父と仰がれているのと同様、ゴーゴリをロシア・リアリズム小説の創始者とみなすのが、今日では定説になっている。しかし、この定義はゴーゴリという作家の全体を捉えるものではない。なぜなら、ゴーゴリが十九世紀ロシア文学にリアリズムを確立したことは事実であるが、しかし、彼には、むしろロマンチズムの名を冠すべき、もう一つの系列の作品群が存するからだ。そして、『タラス・ブーリバ』(『隊長ブーリバ』)は、その系列に属する代表的な作品と言ってよい。
ニコライ・ゴーゴリは一八〇九年、ウクライナのポルタワ県ミルゴーロド郡に生まれた。父はコサックの血を引く小地主だったが、芝居好きで、自分でもいくつか喜劇を書いている。母は宗教心のあつい女性だった。のちのゴーゴリの作品に見られる独特のユーモアや、晩年における宗教への傾倒は、両親から受けついだ素質によるものかもしれない。いずれにせよ彼は、早くから文学と演劇に異常な情熱を燃やし、十六の年に父が死んだあと、一時は官庁勤めをしたこともあったが、二十二歳の若さで当時の有力な雑誌「祖国雑記」に『ディカニカ近郷夜話』の一編を発表し、これがプーシキンに激賞されたことから、文学に専心する決意を固めた。
『ディカニカ近郷夜話』はウクライナの民間伝説や、お伽噺《とぎばなし》などにもとづくロマンチズムの香気高い短編集である。この作品で作家としての地位を確立すると、彼はふたたび美しい南ロシアの故郷へ帰った。この頃から彼はすでに、現実世界の醜さ、生活の凡俗さを鋭く見ぬくようになっていた。それを反映しているのが、故郷の地名にちなんだ第二の作品集『ミルゴーロド』(三五)である。『タラス・ブーリバ』『ヴィイ』『昔気質の地主たち』『イワン・イワーノウィチとイワン・ニキーフォロウィチが喧嘩した話』の四つからなるこの作品集は、たしかにゴーゴリの新境地を示すものだった。プーシキンの『大尉の娘』や『ドゥブロフスキイ』と同じ系譜に属し、南ロシアの勇猛なコサック隊長ブーリバと二人の息子との情愛、次男アンドリイと敵方ポーランド貴族の令嬢との死を賭した恋を描いた『タラス・ブーリバ』や、恐怖と諧謔《かいぎゃく》にみちた妖怪物語『ヴィイ』は、ロシア・ロマンチズムの大きな収穫といえるし、他の二作品にはすでにリアリズムへの移行が見られ、彼の作品に特徴的な諷刺《ふうし》とユーモアがはっきり感じとれる。
こうした傾向はふつうペテルブルグ物とよばれる次の作品集『アラベスク』(三五)や、特異な短編『鼻』(三五)で、いっそう顕著になってくる。『アラベスク』に収められている『ネフスキー通り』『肖像画』『狂人日記』は、『鼻』と同様、いずれも日常的な生活を舞台としながら、そこに突然生ずる異常な状況を扱うことによって、矛盾と不正にみちた現実の中で生きる人間の不安や、恐怖、幻滅などを示した作品にほかならない。『狂人日記』の主人公である小役人は、社会の下積みの存在として屈辱と悲惨の生活を送り、ついに発狂する。狂気の幻想の中で彼は自分をスペインの王と思いこみ、その世界ではじめて自由と権力と愛とを手に入れるのだ。
社会の落伍者の悲劇的な運命に対するゴーゴリの同情は、代表作『外套』(四二)を貫く主要なモチーフでもある。だれにも愛されず、だれからもさげすまれ、役所で書類の清書をすることだけが人生のすべてにひとしい貧しい官吏が、長い節約の末にやっと新調した外套を追剥《おいは》ぎに奪われ、警察でもまともに応待してもらえず、絶望のあげくぽっくり死んでしまい、のちに幽霊となって通行人から外套を奪って歩くというこの短編は、ゴーゴリの得意な、現実と超自然とを巧みに織りなした作品であるが、痛烈な現実批判と、あたたかいヒューマニズムとの産んだ傑作であり、これ以後のドストエフスキイ、ツルゲーネフ、トルストイ、チェーホフら、ロシア文学の多くの作家に決定的な影響をあたえたと言ってよい。
次の作品である喜劇『検察官』(三六)で、ゴーゴリの批判的リアリズムは確立された。ある地方都市にたまたま立ちよった軽薄な青年が、地方行政の検察官と間違えられたことから生ずるさまざまの喜劇を描くことによって、ゴーゴリはロシア社会の粗野で無知な面や、農奴制と官僚制度とのもたらす悪や不正、人間そのもののうちにひそんでいる卑しさ、醜さなどを、容赦なくあばいてみせた。
そして、劇中に展開される世界は、そのまま農奴制のロシアであったために、この喜劇は上演と同時に、すさまじい論争と、当局からの非難とをまき起こし、もともと病弱なゴーゴリは強度の神経衰弱におちいった。医者のすすめでヨーロッパ旅行に出た彼を、第二の打撃が見舞った。幼い頃から尊敬し、文壇に出てからは師とも兄とも敬慕していた詩人プーシキンが、卑劣な決闘によって命をおとしたという報である。ゴーゴリは傷心のあまり創作意欲すら失い、宗教の神秘的、迷信的な問題に深い関心を示すようになった。
長編『死せる魂』(四二)は、数年間にわたる精神的動揺期をへて、検閲官とのわずらわしいやりとりののちに、やっと発表された作品である。死せる魂とは「死んだ農奴」という意味であるが、チチコフという詐欺《さぎ》師が農奴制の盲点をついて大金を手に入れることをもくろみ、すでに死んだ農奴でまだ帳簿から除かれていないものを地主たちからタダ同然に買い集め、それを抵当にして銀行から巨額の金を引きだして大地主になろうとするというストーリイであるだけに、農奴制によりかかるロシア社会の根本的な矛盾と欠陥に正面から取り組んだ作品になった。十九世紀のすぐれた評論家ベリンスキイは「これこそ純粋にロシアの国民的作品だ。これは民衆の生活の奥底から生まれ、仮借なく、愛国的であると同時に、真実であり、現実のさまざまなヴェールをはぎとってみせる」と語っているが、この作品でゴーゴリの提起した問題は、十九世紀中葉のロシヤ知識人のすべてが心を痛めている問題にほかならなかったのである。
それだけに作品のひき起こしたセンセーションは大変なもので、ゴーゴリはふたたび当惑とそら恐ろしさに捉えられてローマへ逃れ、宗教的瞑想にふけった。彼はしだいに罪悪感におびえ、自己の作品を通じて神に仕えようという考えから、『死せる魂』第二部の創作に熱をいれた。この作品をダンテの『神曲』のような宗教的長編にしようと構想をたて、第一部ではロシアの悪をあばき、第二部では主人公の反省、贖罪、魂の浄化を描き、第三部ではロシア人だけではなく人類全体の魂の底に秘められている善の意識を示そうというのがゴーゴリの考えであったが、仕事は思うようにはかどらず、はげしい自己嫌悪と厭世《えんせい》感に捉えられた彼は、一八四五年、第二部の原稿を火中に投じてしまった。
そして四七年、自分のこれまでの作品をことごとく否定する『友人との往復書簡抄』を発表した。これはかつて『検察官』や『死せる魂』で痛烈な現実批判をおこなったゴーゴリとは、まったく正反対の極におかるべき評論だった。すなわち彼はこの中で、専制政治をたたえ、農奴制を積極的に肯定し、教会への絶対服従を説いて、もっとも保守的なスラブ主義者をも唖然《あぜん》とさせたのである。
これを読んでベリンスキイはただちに鋭い批判を発表した。これが有名な『ゴーゴリへの手紙』であり、のちにドストエフスキイは秘密結社でこの手紙を朗読したために、一時は死刑の宣告まで受けたのである。
この論争を通じて「自分の仕事はやはり芸術を通して語ることだ」と自覚したゴーゴリは、四八年にふたたび『死せる魂』第二部の執筆にとりかかった。しかし、健康はますます衰え、魂を悪魔に売り渡したという罪悪感はつのる一方で、最後には狂乱状態におちいり、一八五二年二月、原稿をふたたび火中に投じ、数日後に精神的にも肉体的にも衰弱しきって死んだ。現在ある第二部は焼き忘れた数章である。
このようにゴーゴリの晩年は暗い悲劇的なものであった。しかし、彼の遺した数多くの作品は、現在でも、十九世紀ロシア文学のかがやかしい古典として愛され、読まれているし、すでに述べたように後代の文学にあたえた影響は、はかり知れぬほど大きい。わが国でも宇野浩二、井伏鱒二など、彼の文学から少なからぬ栄養を吸収した作家は、少なくないはずである。
昭和四十五年五月 訳者