ロード・ジム(下)
ジョウゼフ・コンラッド/蕗沢忠枝訳
目 次
ロード・ジム(下)
解説
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第二十一章
「諸君の中には、パトゥーサンのことを聞いたことのある人はいないだろうな?」
と、マーロウは、しばらく黙って、注意ぶかく葉巻に火をつけてからまた話しだした。
「そんなことは、どうでもいいんだ――夜われわれの頭上にひしめいているおびただしい数の天体の中にも、人類がいまだ嘗て聞いたこともないようなのがたくさんあるのと同じだ。それは人間活動の圏外にある、この世《よ》的には誰にもけっして重大な出来事ではなく、ただ、天体の構成、重力、軌道――その変則な運行、その光の偏行などについて物知り顔に語って給料をもらっている天文学者――一種の科学的スキャンダル売りにしか、重要ではないことだ。パトゥーサンもそんなようなものだ。
パトゥーサン。それは、バタヴィアの内部政界人の間では、特にその変則、変態については物知り顔に語られ、実業界のある少数の、ごく少数の者にも名前だけは知られていた。しかし、誰一人、そこに行ってきた者はなく、誰一人、自分でそこへ行きたがる者はなかったと思う。ちょうど天文学者が、遠い天体に運ばれて、そこで地球上の給料から離れて、慣れない星の国の光景に当惑するのはまっ平だと言うように。
しかし、天体も天文学者も、パトゥーサンには関係がない。そこへ行ったのはジムだった。私はただ、もしシュタインが、ジムを五等星に送る手配をしたとしても、これ以上の大変動は起き得ないことを諸君に理解させようとしただけだ。
ジムは、彼のこの世の失敗や、そういったたぐいの評判を後に置きすてて、完全に新しい環境で、彼の空想的な才能を働かせることになった。まったく新しい、まったく驚くべき世界で。そして彼は、すばらしい仕方で、それをやり遂げた。
シュタインは、パトゥーサンについて誰よりもよく知っていた。政界で知られていた以上に知っていたと私は思う。たしかに彼は、蝶を採集していた当時か、あるいはその後に、根強い彼一流の仕方で、彼の貿易という実利的栄養価の高い調理に風味を加える一つまみのロマンスを添えようとした時、パトゥーサンに行ったことがあると私は確信する。マレー群島に文化の光が、(そして電燈の光さえもが)持ちこまれて人々の道徳心を向上させ、そして――まあまあ――その他大いに有益なことをもたらす以前の未開の時代に、シュタインはほとんどあらゆる場所をつまびらかに観察していた。
翌朝、私達は朝食をとりながらジムについて話し合った。そして、私が気の毒なブラヤリーの言った『あの若者は、二十フィート地下へ這い下りて、そこへ住ませるんだな』という言葉を引用した後だった。シュタインは、さも何か稀らしい昆虫でも見るように、興味をもった目でじっと私を見上げた。
『それも、いいかも知れんな』
シュタインは、コーヒーをすすりながら言う。
『彼を一種の地下に埋める。もちろん、そういう事はしたくないが、しかし、ああいう彼を見れば、それが一番いい事になるかな』
と、私は説明した。
『そう、彼は若いからね』
と、シュタインはじっと考えこんだ。
『あんなに若い奴は世界中にいませんな』
と、私は保証した。
『そうだ。パトゥーサンがある』シュタインは、やはり考えこみながら言う……『それに、いまでは女も死んでしまったし』と、彼は訳のわからないことをつけ足した。
もちろん、私はその女の話は知らない。ただ、ただ、かつてパトゥーサンが、何かの罪か、違犯か、あるいは不幸を埋める場所に使われたんだろうと想像しただけだ。シュタインに女関係があったとは、とても考えられない。彼にとっては、女は天にも地にも、ただ、彼が『私の妻の王女』あるいはたまに話がはずんだ時は『私のエンマの母親』と呼んでいる、あのマレーの女性のほかには、金輪際いない筈だ。
シュタインが、パトゥーサンと関連して口にした女が何者だか、私には判らない。が、彼のほのめかした事から推すと、彼女は教養のある、大そう美しいオランダとマレーの混血娘らしく、悲劇的な、あるいはたぶんただ哀れな物語の持ち主で、この美女が、オランダ植民地のある商事会社の社員であったマラッカのポルトガル人と結婚したことが、たしかにその最も痛ましい点であるようだ。
シュタインの話からすると、この夫という男は、いろいろな点で意に満たない、とにかくすべてがあやふやで、不愉快な人物だった。シュタインがこの人物を、シュタイン会社のパトゥーサン取引所のマネージャーに任命したのは、ただただ彼の妻のためにそうしたのだった。しかし、商業上、この取決めは失敗だった。とにかく会社にとっては失敗だったし、それに今は女も死んでしまったので、シュタインは、別のエイジェントをそこに据えたい気持だった。
このポルトガル人は、コルネリアスという名前で、自分自身を非常に有能な、しかし虐待されている人間だと信じ、自分の才能からすれば、もっといい地位を得る資格があると思いこんでいた。この男と、ジムは交代することになるのだ。
『しかし、あの男は、あそこを退かんと思うな』と、シュタインは言った。『彼がどこに住もうと私に関係はない。私が彼を任命したのは、ただ女のためだった……だが、娘が一人残っているから、もしあの男が居残りたいなら、いままで通りあの家に住ませてやろう』
パトゥーサンというのはある土人統治国の僻地で、そこの第一の居住地もやはりパトゥーサンという名前だった。海から約六十五キロさかのぼった川の一点から、ちょうど最初の家並みが見えはじめ、その彼方に平坦に延びた森林線の上に盛り上がって、二つのけわしい、ごく接近した小山のいただきが、何か強力な一撃でパッと裂けたように、ただ一すじの深い裂け目をへだてて、互いにそそり立っているのが見える。実際には、この二つの山|間《あい》の谷は、渓流の浸蝕によってできた狭い峡谷にすぎなかったが、居住地から見える光景は、一つのけわしい円錐形の山が二つに割れて、その半分同士が、わずか離れて互いに寄りそっている形だった。
満月から三日目に、ジムの家(彼は、私が訪問した時、土民風の大そう立派な家を持っていた)の広い前庭から眺めた月は、ちょうどこの山の真後から昇り、最初はその散光が二つの山を漆黒《しっこく》の浮き彫りにし、次はほぼ完全な平円形にし、しだいに赤味をおびて裂け目の間からしずしずと姿を現わし、ついに、さながら、口を開いた墓の中から脱出して優しい凱歌を奏してでもいるように、二つの山の頂上にポッカリ浮き上がった。
『いい眺めでしょう。どうです?』
そしてこの問いを、ジムはさも自分の手で、この無比の絶景を統制しているかのように、自慢話のような口調で言ったので、私は思わず微笑んだ。
たしかにジムは、パトゥーサンで、非常に沢山のことを統制した! 月や星の運行のように、とても彼の力に及ぶまいと思われたさまざまのことを、彼は見事に統制しおおせた。
とても信じられないことだった。それが、シュタインと私とが、ただジムを道からわきにどけようとして、知らず知らず彼を転がしこんだ場所の特殊性であった。――もちろん、彼自身の宿命の道からどけようとしてだ。
それが、私たちの主な目的だった。もっとも私には、少しは他の動機もあったかもしれないことを白状するが。というのは、ちょうどその頃私は、しばらく帰郷しようとしていたので、私自身で意識していた以上に、出発前に彼を片付けたいと――彼を片付けたいと、判りますね諸君――私は希っていたのかもしれない。
私は帰郷しようとしていた。すると彼が、彼の悲惨な悩みと、彼の朦朧とした主張とをたずさえて、重荷を負って霧の中であえいでいる男のように、私のところへやってきたのだった。私は一度でも、彼の正体をハッキリ見たとは言えない――彼の最後の見納めをした後の今日でさえ。しかし私は、彼を理解できなければ出来ないだけなおいっそう、私たちの知識からどうしても切り離すことのできなかったあの疑惑にかけて、私は彼に強く結びつけられていった。
私は、自分自身についてもそれ程よく知っていたわけではない。それに、繰りかえすが、私は家郷に帰ろうとしていた――あまりに遠くへだたっていたため、郷里のあらゆる炉辺が、ついにみなわれわれの最も貧しい者も坐る権利のある我が家の炉辺に見えてきてしまうほど、はるかに遠いあの故郷の家に。
われわれ人間は、何千何万と数知れず、地球の上を、著名人も無名人も、海の彼方に名声や、金や、あるいはただ堅くなったパンの一片を稼ぎに、さ迷い歩いている。しかし、われわれ各自にとって、帰郷は決算報告に帰るのに似ていると思う。われわれは、自分の先輩や目上や、肉親や、友人や、――つまりわれわれが愛し、従っている人々に会いに戻る。しかし、そういう人の一人もいない、最も身軽な、独りぼっちの、係累のない人々でさえ――家郷に愛する人の顔も、懐しい声も待っていない人々でさえ――故郷の土に住む、その空の下に、その空気の中に、その谷々に、その丘に、その野辺に、その川に、その樹木《きぎ》の中に住むふるさとの霊《スピリット》に――この無言の友に、この裁判官に、激励者に、対面せねばならないのだ。
諸君は、その幸福を受けに行くとでも、その平和を呼吸しにとでも、その真実に対面しに行くとでもなんとでも好きに言えるが、しかし故郷に戻るには、必ず澄んだ意識をもって戻ることを忘れてはならない。諸君には、こんなことはみな、単なるセンチメンタリズムに見えるかも知れない。そしてたしかに、通俗な感傷の一枚下を意識して覗いて見ようとするだけの意志や能力を持った者は、ごく少数しかいない。故郷には、われわれの愛する少女、尊敬する人々、優しいもの、友情、好機、愉しみが待っている! しかし、それでも諸君は、そのご褒美を受けとるとき、きれいな手で触れねばならない。さもないと、それはたちまち、諸君の掌中で、枯葉や、イバラと化してしまうのだ。
ふるさとに自分のものと呼べる炉辺も、愛情もない独りぼっちの人々は、家に戻らず、故郷の土地自体に、その肉体を離脱した、永遠の、そして常に不変の霊に対面しに戻って行く。――この人々こそ、ふるさとの苛酷さと、その救いの力と、われわれの忠誠と従順にたいするその不朽の恩典とを最もよく理解する人々であると私は思う。
そうだ! われわれの中のほんの少数しかそれを理解しないが、しかし、われわれはみなそれを感じはする。例外なしにすべての者がそれを感じると、私は断言する、なぜなら、感じない者は人間の数に入らないからだ。
どんな草の葉の一つでも、一点を大地に接触させて、そこから生命を、力を吸収している。そのように、人間も土に根を下ろして、そこから、自分の生命とともに信仰を吸収する。
ジムは、どの程度に理解していたか私には判らないが、彼が感じていたことだけは判る。彼は雑然と、しかし強烈に、何かこういった真理というか、あるいはこういったイリュージョン(幻覚)の要求を感じていた――諸君がそれを真理と呼ぼうとイリュージョンと呼ぼうと私はどちらでもいい。両者の差はきわめてわずかで、その差はとるに足りないからだ。問題は、彼は感じることによって、意義があったという事だ。彼は、いまはけっして家へ戻らないだろう。彼は戻らない。けっして。
もしジムが、自分の思想を絵のように明らかに表現することが出来たら、彼はそれを見て身震いしたろうし、諸君をも身震いさせたことだろう。しかし彼は、そういう種類の人物ではなかった、彼は彼なりに表現豊かではあったが。帰郷という思想の前で、彼は絶望的にぎごちなく、動けなくなり、さも何かとても我慢できないものに直面したように、さも何かむっとするものの前に立ったように、顎を下げ、口を不機嫌にとがらせ、彼のあの率直な蒼い目を、しかめた眉の下で暗く睨みすえたことだろう。
ジムのあの濃いふさふさとした髪が帽子のようにかぶさっている頑固な頭には、豊かな想像力が詰まっていた。一方私は、まるで想像力の乏しい人間である(もしそうでなかったら、今日、彼についてもっと確かなことが言えただろう)。そして私はまた、国土の霊が、私の帰郷の途上で、ドーヴァ海峡の白い断崖の上にすっくと立ち上がってこの私に――いわば無傷で帰る私に、こら、お前は、あのひどく若い弟をどう処置したのだ? と詰問されると想像したわけでもない。いくら私が想像力が貧しくとも、まさかそんな見当はずれの事は考えない。
私は、ジムが、わざわざご大そうな問い合わせなどの来ない人間であることをよく知っている。彼よりもっとましな人々が海の彼方に出て行き、見えなくなり、全く消え失せてしまっても、どこからも好奇心や悲しみの声一つ起きなかった例をいくつも見ている。
国土の霊は、大企画の支配者にふさわしく、無数の生命に無頓着である。
哀れなはぐれ人達よ! われわれは、ただ互いに団結し合っている限りにおいて、存在するのだ。
ジムは、ある意味ではぐれ人だった。彼は群から逸脱し、団結していなかった。しかし彼はそれを自分で切実に自覚していたので、彼が私の心をゆさぶるのは、そのためである。ちょうどはげしく生きた人間の死が、樹木の死よりいっそう人の心をゆさぶり動かすように。
偶然に私はジムの近くにいたので、心をゆさぶられたのである。それだけのことだ。私は、彼が団結の中から外に出ていく仕方について心配した。例えば、もし彼が飲んだくれになったら、心が痛んだに違いない。地球はあまり狭いので、いつの日か、バッタリ、目のかすんだ、むくんだ顔で、底の抜けたズック靴に、肘のあたりがピラピラするボロをまとった汚ないのらくら者に道で待ち伏せられて、昔なじみの誼みに五ドル貸してくれとたのまれるのを私は恐れた。
過去には相当な人だった知人が、みすぼらしく落ちぶれて、昔の知人の所へやってくる時のあのぞっとする強気を装った態度を、その無頓着なしゃがれ声を、半ばそらした厚かましい視線を、諸君はご存知の筈だ――こういう顔合わせは、われわれの生活の連帯責任を信じている者にとっては、牧師の不信心な悔悟なき臨終を見るよりも、いっそう辛い、苦しいことだ。
これが、じつは、私がジムと私のために想像し恐れた唯一の危険だった。しかし、同時に私はまた想像力の乏しい自分を信用できなかった。何かもっと悪い事態が起きるのかもしれなかったし、ある点、未来を見抜くことは、とても私の想像力の及ばないことだった。
ジムがどれほど想像力の豊かな若者であったか、私にはけっして忘れられない。そして想像力に當む人々というのは、あたかもこの定めなき浮き世に浮かんだ小舟の投錨に、人一倍長い投錨綱を与えられた人のように、どの方角にでも、他の人々よりずっと遠くまで浮き世の海上を揺れ動く。それが想像力豊かな人々の宿命だ。彼等は酒を飲むようにもなる。
私がこんな恐れをいだくのは、ジムを小さく見せることになるのかもしれない。私に何が言えよう? シュタインさえ、彼はロマンチックだとしか言えなかった。私はただ、彼はわれわれの仲間の一人だということしか知らない。彼はロマンチックになるなんの必要があったろうか?
私は諸君に、私自身の本能的に感じたことや、ぼんやりした感想についてだいぶ話しているが、それは、彼のことは、もうごく少ししか話すことがないからだ。彼は、私にとって存在し、そして結局諸君にとっては、ただ私を通してのみ彼は存在するのだ。
私はジムの手を引いて外に導き、私は彼を、諸君の前に見せびらかした。私の月並みな心配は間違っていたろうか? 私にはよく判らない――今でさえ。諸君は、私よりよくご存知かもしれない、いわゆる岡目八目という諺もあるから。
とにかく、私の心配は浅薄だった。彼は破壊されなかった、ぜんぜん。反対に、彼はすばらしく、着々と進行していった。彼はそこに踏み止まって、最後の大奮闘ができることを示す立派な態度で、まっすぐに進行していった。私はよろこぶ筈だった。自分は彼の大成功に片棒かついだのだから。しかし私は、自分が予期していた程はよろこんでいない。あの霧の中に、彼は、巨人とまではいかなくとも、大きく輪郭を浮かび上がらせ、興味ふかい姿を――自らのささやかな位置を隊伍の中に得ようと、やるせない憧れに燃える落伍者の姿をぼんやり大きく見せていたが、果たして彼の突進は、彼をあの霧の外に運び出すことが出来ただろうか? と私は自問するのだ。
その上、私は、彼の最後の言葉を聞いていない――たぶん、けっして言いはしなかっただろう。われわれが吃りながら言うすべての言葉を通して、われわれの唯一の永続的な意図を充分に話すには、人生は余りに短かすぎはしないだろうか? 私は、あの人間の最後の言葉を、もしそれを言うことさえできたら、天国とこの世を共にゆさぶることが出来ただろうあの言葉を、聞こうと期待するのを諦めている。
われわれには、最後の言葉を言う時間はけっしてないのだ――われわれの最後の愛の言葉を、最後の願望、信仰、後悔、服従、反逆の言葉を。天国とこの世とはゆさぶられてはならないのだ。たぶん――少なくとも、そのどちらかについて、ひどくたくさんの真実を知っているわれわれにゆさぶられてはならないのだ。
私のジムについての最後の言葉はわずかであろう。私は、彼が偉大な人物になったことを証する。しかしこの事は、話の中では事実より小さくなるだろう。いやむしろ、聞いているうちに、実際より小さく思えてくるだろう。率直に言って、私は自分の言葉を信用しないのではない、諸君の頭を信用しないのだ。もし諸君が、肉体ばかり肥え太らせて、想像力を飢え衰えさせている恐れがなければ、私は雄弁になれただろう。
私は、諸君の気を悪くさせる積りではない。イリュージョンを持たないのは立派なことだ――そして安全だし――そして儲かるし――そして退屈なことだ。
しかし、諸君も、ありし頃は、生命のはげしさを知っていたに違いない。些細なものとものとの烈しいぶつかり合いから生じる、あの美妙な光輝を、冷たい石から打出された一瞬の火花のようにすばらしく――そして、ああ、同じように束の間の!」
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第二十二章
「愛、名誉、人々の信頼を勝ち得た征服者――その誇り、その力は、英雄物語にはつきものの素材である。ただ、われわれの頭は、そういう成功の外観に感動するので、ところがジムの成功には、外観のすばらしさは何もなかった。
五十キロにわたる森林はジムの成功を外の無関心な世界の眼から遮断し、その沿岸にくだける白波の音は、彼の嘖々《さくさく》々たる名声をかき消してしまった。文化の流れは、パトゥーサンの北百五十キロの地点にある岬の上で東と南西の支流とに分かれ、ちょうど滔々たる大河が二つの支流の中間に、つまらない崩れかかった入江を残すように、パトゥーサンの平原と谷々、その古い樹木と古い人間たちを見落とし、孤立させ、文化の流れから置きすてて行ってしまった。しかし諸君は、この国の名を、かなり度々古い航海誌などの中で見つけるだろう。
十七世紀の貿易商たちは、そこへ胡椒《こしょう》を求めて出掛けていった。胡椒を求める情熱は、恋愛のほのおのように、ジェームズ一世の頃のオランダやイギリスの冒険家の胸に焼きついていたらしい。胡椒のためなら火の中水の中!
一袋の胡椒のためなら、彼等はためらわずに互いの喉を斬り合い、他の場合ならいたって大切にする自分のたましいをさえ断然否定しただろう。その欲望の奇怪な執拗さは、彼等をさまざまな形の死に挑ませた。未知の海、奇妙な病。彼等は傷つき、捕虜になり、飢え、疫病、絶望に挑戦した。
それは彼等を偉大にした! 天に誓って! それは彼等を英雄にした。そして、不撓不屈《ふとうふくつ》の死が、その犠牲を若者にも老人にも割り当てている前で、死にいどむ彼等のはげしい貿易熱は、また哀れでもあった。単なる貪欲が、人間にこれほど断固不抜の力で目的を固守させ、これほど盲目的執拗さで努力と犠牲を持続させ得るとは、とても信じられないようだ。
じっさい、自分の肉体と生命とを賭けた人々は、わずかな報酬のために彼等の持っているすべてのものを賭けたのだ。彼等は、富が家郷の生きた人々の許へ飛んで行くようにと、自分たちの白骨をはるかな海岸に曝したのだ。
彼等より経験の浅い後継者のわれわれにとっては、彼等の姿は拡大され、貿易のエイジェントとしてではなく、その内なる声に、その血の中に鼓動する衝動に、未来の夢に、従順にしたがって未知の世界に突進した、ある記録された運命の手先として大きく映るのだった。
彼等はすばらしかった。そして彼等はいつでもすばらしい事をする用意が出来ていた。彼等はそれを、苦難の中で楽しそうに記録し、海の中で、奇妙な国の習慣の中で、光輝ある支配者としての栄誉の中で、満足げに記録した。
パトゥーサンで、彼等はたくさんの胡椒を発見し、サルタン〔回教国君主〕の荘厳さと叡知に感動した。しかし、どうやら一世紀間の変化に富んだ交易の後、パトゥーサンはしだいに貿易道から脱落していったようである。たぶん、胡椒が尽きたのだろう。なんであろうと、いまは誰もそんな事は問題にしない。そのかみの栄誉は去り、いまのサルタンは、微々たる人口から無理に徴収し、大勢の伯父たちに盗みとられ、不定の貧弱な歳入しかない不器用で低能の青年であった。
もちろん、このことは、シュタインから聞いた話である。シュタインは私に、彼等の名前と、その一人々の生涯と性格の大要を短く説明してくれた。シュタインは、土人の州について、公務上の報告のように、しかしそれよりは遥かに面白い事を、じつによく知っていた。
シュタインはそれを知る必要があった。彼は非常に多くの場所で取引きをし、ある地方――例えばパトゥーサン――では、彼の会社は、オランダ当局から特別許可を与えられた代表店を持っている唯一の貿易会社だった。政府は、シュタインの思慮分別を信頼し、彼にあらゆる責任をまかせていた。
シュタインの傭った人々もそれをよく理解していたが、しかし彼は明らかに、自分の部下たちに無駄骨折りはさせなかった。シュタインは、翌朝朝食のテーブルで、私に、この上なく率直になんでも話した。彼の知っている限りでは(最後のニュースは三カ月前に入ったものだと、彼は正確に言った)、そこに住む者の生命と財産は全く不安定なのが普通の状熊だった。
パトゥーサンには、相敵対する勢力が対立していたが、その一人は、サルタンの伯父の中でも最も邪悪な、川の支配者のラージャ・アラングといい、ゆすりもすれば盗みもし、土地生まれのマレー人たちを、死に絶えてしまうほど搾取し、しいたげていた。マレー人たちは全く防御のすべもなく、亡命する資金さえなかった――『じっさい、彼等はどこへ行けよう? どうして逃げられよう?』と、シュタインは言った。
彼等は、逃げる希望さえ持たなかった。彼等の単純な頭では、世界(それは、とても越えることの出来ない高い山々に取り囲まれていた)は高貴の生まれの、この彼等の知っている統治者《ラージャ》に与えられたもので、ラージャは彼等自身の王室の出だった。
私は後日、このラージャ・アラングと呼ぶ紳士に会ったことがある。彼は、邪悪な目とだらしない口をした、汚ならしい、小柄な、ガタのきた老人で、二時間ごとに阿片の丸薬を飲み、世間並みの礼儀に反して、頭を蔽いもせず、しなびた、あかじみた顔の周囲に、ぼさぼさなよじれた髪の毛を垂らしていた。
謁見を許すときは、彼は腐った竹の床の、こわれかかった納屋のようなホールの中に立っている、一種の狭い舞台《ステージ》の上へよじ登った。竹の床の隙間から下を覗くと、四、五メートル下の床下にあらゆる種類の塵芥《ごみ》や廃品が、山と積んであるのが見えた。
ここで、こういう風にして、ラージャ・アラングは、私がジムを連れて公式に面会に行ったとき、われわれを迎えたのだった。部屋には約四十人ほどの人がおり、下の大きな庭には、たぶん、その三倍くらいの人がいたようだ。われわれの後では、絶えず人々が動き回ったり出たり入ったり、押し合ったり、ささやき合ったりしている。
二、三人の華やかな絹をまとった若者が、遠くから睨んでいる。大多数の者は奴隷や賤しい食客たちで、半裸の姿に、灰や泥で汚れたぼろなサロンを着ている。
私は、ジムのこんなに厳粛な、こんなに泰然自若とした、底知れない印象的な様子をまだ見たことはなかった。彼が、黒い顔の人々のまん中に、純白の衣服をつけ、金髪の巻毛をキラキラさせた偉丈夫の姿は、ござの壁に草ぶき屋根の、この薄暗い広間の閉じた雨戸の隙間から射しこむ、あらゆる日光を、一人占めしているように見えた。
ジムの姿は、まるで別な種類の生きもののように見えただけでなく、全く本質を異にするものに見えた。彼等は、もしジムがカヌーでやってくるのを見ていなかったら、雲に乗って天降ったと思ったかもしれない。
しかしジムは、ぐらぐらな丸木舟に坐って(とても静かに、そして舟が転覆しないように膝をきちんと合わせて)――ブリキの箱――私が彼に貸してやった――に坐り、膝の上で海軍用の拳銃を大事に抱いてやってきたのだ。この拳銃は私が彼に餞《はなむ》けにプレゼントした品で、摂理の神の意志によってか、あるいはいかにもジムらしい何か妙な考えからか、あるいはただ本能的な賢明さからか、彼はこれを充弾せずに携帯することにきめていた。
こうして彼はパトゥーサン川を上っていった。これ以上散文的な、危険な、これ以上無茶に行き当たりばったりの、淋しいものはない。ふしぎにこの運命は、あらゆる彼の行為からの逃走、衝動的な無思慮な逃亡――未知の世界への飛び込みといった色彩を投げた。
最も私の心を打ったのは、正にその行き当たりばったりの偶然性だった。シュタインも私も、いわゆる陰喩的な言い方をすれば、ジムをそこへ連れて行き、簡単な儀式をして彼を壁の向こうに放り投げた時、いったい向こうで何事が起きるかハッキリ判ってはいなかった。その時私はただ、ジムの姿が見えなくなることを願っただけだった。
シュタインは、彼らしく、センチメンタルな動機をもっていた。彼は、いつの日も忘れたことのない昔の恩に恩返しするという意図を持っていた。じっさい、シュタインは、一生の間、イギリスの諸国から来た者には、誰にでも特に親切だった。いまは亡きシュタインの恩人は、まぎれもなくスコットランド人だった――名からしてスコットランド人らしくアレキサンダー・マックニールと呼ばれるほど――そしてジムは、トゥイード川〔スコットランドの南部イングランドとの境を東に流れて北海に注ぐ川〕のはるか南方からやってきていた。しかしここから一万キロ近くもへだたった所にある大ブリテンは、決して小さくなったのではないが、いわゆる遠近法によって、そこを母国とする者たちにとってさえ、そんな細かい相違は問題でなく見えた。シュタインの目にはジムも、マックニールと同郷人に見えたのは無理もない。それで、彼はジムのためにひどく気前のいい申し出をほのめかしたので、私は、もうしばらくの間、その事はジムに秘密にしておいてくれと本気でたのんだ。
私は、ジムがいま、個人的優越感に影響されてはならないと思ったのだ。そんな影響を与えそうな危険さえ避けるべきだと。われわれは、別な種類の現実を処理しなければならなかった。つまり、ジムは避難所を求めた。だから、一応、身の危険を犯してかちとる避難所を提供するという立前でいかねばならない――いまは、それ以上何のおまけもなしに。
このシュタインからジムへの寛大な恩典をいまは秘密にしておくという事のほかは、あらゆる点で私は彼に何一つ隠し立てしなかった。そして私は、この計画の危険性を誇張さえして(と、その頃は思っていた)彼に話した。しかし実際は、私は大きな誤算をしていた。すんでのことで、ジムはパトゥーサンに足を踏みこんだ最初の日に生命を落とすところだった――もし彼があんなに無鉄砲で、あんなに自分自身にたいして苛酷でなく、節を捨ててあの拳銃に充弾していたら、あれは彼の最期の日となったであろう。
ジムの避難所について私たちの貴重な計画を打ち明けた時、彼は最初は頑固に、疲れた諦めの表情でしぶしぶ聞いていたが、それがしだいに驚きにかわり、興味を持ち、驚異と少年らしい熱情に移っていったことを、いまでも私は覚えている。これこそ、彼が夢みていたチャンスだった。彼には、どうして自分がそんな幸せに価するか考えも及ばない……それがどれ程深い恩か、とても計り知れない……一にあのシュタイン、商人のシュタインがこうしていろいろ……しかし、もちろん、これは貴方がして下さったからで、自分は貴方に……
私は、そう言うジムを遮った。彼は心にあることをハッキリ言葉で言えなかった。私は彼の感謝を聞くと、なぜかしら心が疼いた。
私は彼に、君がもしこのチャンスを特に誰かのおかげだと感謝するなら、それは君がまだ聞いたこともない、ずっと昔死んだ、ただすごい大声の、荒けずりの正直者だという他には何も大して覚えられていない老スコットランド人のおかげだ。実際、君の感謝を受ける人は誰もいないんだ。シュタインは、彼自身が若い頃受けた援助を次に一人の若者に、たらい回しにまわそうとしているんで、私は、ただ君の名前を挙げたにすぎないんだと言った。
すると、ジムは赤くなって、指の間で紙きれをひねりながら、はにかんだように、貴方はいつも僕を信用して下さいましたね、と言った。
私は、たしかに自分は君を信用していると答え、しばらくして、君も、私の例にならって、君自身を信じてくれと言い足した。
『僕に自信がないとお思いですか?』と彼は不安そうに訊いた。そしてつぶやくように、まず何かそれを示すチャンスが欲しいと言い、それから急に元気になって、大声に、僕は断じて貴方のご信頼を後悔させるようなことはしません、それは――それは……
『誤解せんでくれ』と私は遮った。『私に何かを後悔させるなんてことは、とても君に出来ることじゃない』私はけっして後悔なんかはしない。が、もしするとすれば、それは全く私自身の問題だ。だが、その反対に、この取決めはこの――この――実験は、彼自身がするのであって、彼がその責任者で、他の誰でもないことをハッキリ判ってほしいと言った。
『なぜそんな事を? もちろん』と、彼は口ごもった。『これこそ僕には願ってもない幸せなことで……』
私が彼に、君、馬鹿なことは言わんでくれとたのむと、彼は前よりいっそう当惑した様子だった。君は、人生が君にとってますます堪えられないものになる通路を突進しようとしているのだ……
『そうお思いですか?』と彼は心の平和をかき乱されて訊いた。が、すぐ確信ありげに言い足した。『でも、いままでだって僕は突き進んできました。そうでしょう?』
とても彼を怒ることはできない。私は思わず微笑して、こういう道を歩んだ人は、昔なら荒野の隠遁者であろうと私は言った。
『隠遁者か、畜生!』
と、彼は愛想よく衝動的に言った。もちろん、彼は荒野なんかは一向苦にならないと……
『それを聞いて安心した』と私は言った。その荒野へ彼はこれから行くのだったが、きっと、彼はそこで結構楽しめるだろう、と私は勇気を出して言った。
『そうですとも、そうですとも』
と、ジムは強く言った。
私はひるまずに言葉をつづけた――君はどんどん人間社会の外へ出て行って、自分の後にピッタリ、ドアを閉めてしまいたいらしいな……
『僕がそう見えますか?』
ジムは一瞬間、流れ雲の影に全身を包まれてしまったかのように、ふしぎな暗い表情になって私の言葉をさえぎった。結局、彼は驚くほど表現が豊かであった。驚くほど!
『僕がそう見えましたか?』
と、彼は苦々しく繰りかえした。
『僕は出て行くことを、じたばた大騒ぎはしませんでした。そして僕はどんどん進みつづけることも出来ます――ただ、しまった! いったいドアはどこなんです、教えて下さい』……
『わかった。先へ進み給え』
と、私は答えた。私は彼に、そのドアは彼の後で、はげしい音を立てて閉まってしまうだろう、とまじめに誓うことができた。彼の運命は、たとえどういう運命にしろ、無視されるだろう。彼の行くその国は、あらゆる点で腐敗し切っているのに、外部から干渉できるほど成長していないと思われた。
で、一たび彼がその中に入れば、他の人間社会にとっては、彼はまるで全然存在しなかったと同じになってしまうだろう。彼は、二本の脚しか自分を支えるものはなく、しかもまず、その足を踏みしめる場所からして見つけなければならないだろう。
『全然存在しなかった――それだ、まさしく!』
と、彼は独りでつぶやいた。彼は目をかがやかして、じっと私の唇を見守った。
私は、もし君が、自分の状況、立場をすっかり呑みこんだら、さっそく辻馬車を見つけ、それに飛び乗ってシュタインの家に行き、シュタインから最初の指導を受けてき給え、と結論した。
私の言葉が終わるか終わらないうちに、彼は部屋を飛び出していった」
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第二十三章
「ジムは、翌朝まで戻らなかった。彼は、夕食を食べて一泊するように引き止められたのだった。じっさい、シュタインほどすばらしい男はいない。彼はポケットにコルネリアス宛の手紙を持っており、(あのくびになろうとしているのらくら者、とジムは揚々とした顔をちょっと曇らせて説明した)そして、嬉々として、土人の使うような、模様彫りのあとのかすかに見える、薄くすりへった銀の指環を見せた。
この指環は、シュタインから、ドラミンと呼ぶ老人への紹介のしるしだそうです。ドラミンというのは、あのパトゥーサンの主要人物の一人――つまりお豪方で――むかしシュタイン氏がありとあらゆる冒険に身をゆだねたあの国で、友人だったんです。シュタイン氏は、この老人を『私の戦友』と呼んでいました。
――戦友はよかった。そう思いませんか? それに、シュタイン氏は英語がすばらしく上手ですね。セレベス島で覚えたんだと言われました――所もあろうに、あのセレベス島で英語を! すごくおかしな話ですね。そうでしょう? たしかに訛《なま》りのある発音でしたね――ブーンという鼻声音のひびく――貴方も気がおつきでしょう?
この指環は、そのドラミンという男が、シュタイン氏にプレゼントしたものだそうです。二人は最後に別れる時、プレゼントの交換をしたんです。一種の永遠の友情の約束に。うまい言い方ですね――そうでしょう? 二人は、あのマホメット教徒の――マホメット教徒の――何とかいう名前の人が殺されたとき生命がけで国を脱出しなければならなかったそうですね。その時の暗殺の話は聞きました、もちろん。全く、恥知らずの、ひどい奴等じゃありませんか?……
ジムは食べるのも忘れて、ナイフとフォークを手に持ったまま、私と卓を囲んでテーブルの向こうで、ほんのり顔を紅潮させ、いつも彼が昂奮した時のように、さまざまな陰影で目をかげらせながら、こうして喋りつづけた。
その指環は、一種の信任状のようなもので――(『なにかの本でお読みになったような証明品です』とジムはその高い価値を賞味するようにつけ足した)ドラミンは、これを携帯したぼくに最善の好意をつくすだろうって。シュタイン氏は、何かの折にそいつの生命を救ったんだそうです。これは全くの偶然、けがの功名でね、とシュタイン氏は言いましたが、でも、ぼくはけっして偶然だなどとは思わんな。シュタインという人は、正にそういう偶然を捜し求めている人物なんだ。だが、どちらでもいい。偶然にしろ、故意にしろ、ドラミンを救ったってことは、ぼくには大へん役立つでしょう。あの愉快な老大将が、まだポックリ逝っていなけりゃいいが、自分にはなんとも保証できない、とシュタイン氏は言ってました。ここ一年余り、なんのニュースもないそうです。
あのパトゥーサンの連中は、いつも国内で、果てしない大騒動を起こして、互いに争い反対し合っていて、パトゥーサンの川は閉鎖されてしまった。こいつは、困ったことだが、しかし、恐れることはない。ぼくは何とか隙間を見つけてもぐり込みますよ。
ジムの意気揚々たるお喋りは私の心を打ち、ほとんど私を恐怖させるほどだった。彼は、長い休暇の前夜に、旅行の愉しい難儀を想像してはしゃいでいる少年のようにお喋りだった。が、大人が、こうした環境で、こんな精神状態なのは、何か異常な、狂った、剣呑な、物騒さを含んでいる。
私が、彼に、状況のもっと正常な判断をすすめようとした時、彼は急にナイフとフォークを下に置き(彼は食べはじめていたというか、むしろ、いわば無意識に食物を呑みこんでいたが)皿の周囲をキョロキョロそこら中捜しはじめた。指環! 指環! いったいどこへ行った……アッ! ここにあったぞ……
彼はそれを大きな手で掴み、次々に自分のあらゆるポケットに入れかえてみた。さあ! こいつを失くしたら一大事だ。彼は指環を握りしめた自分のこぶしを真剣な顔で見つめた。そうだ! このお宝を俺の首につるすんだ! そして彼は、一本の紐(ちょうど木綿の靴紐のような)をとりだして、それに指環を通した。さあ! これでよし! もし失くなったら一大事だからな……
ジムは、このとき初めて私の顔に気がついたらしく、急に少し静かになった。僕にとって、これがどれ程大事なものか、たぶん貴方にはお判りにならないでしょう、とジムは素朴な真面目さで言った。この品は親友を代表します。そして、友人を持つのはすばらしい事です。
――僕も、友人の尊さについてはいささか身に覚えがあります。と、ジムは意味深長に私の方にうなずいてみせたが、私がそれを否定する身振りをすると、彼は片手で頬杖をついて、しばらく黙って考えこみながら、テーブル・クロースの上で、パンの屑をもてあそんだ……
『ピシャッとドアを閉める――なるほど、うまい言い方だ』
彼はそう叫んで急に立ち上がり、部屋の中を歩きはじめた。
その肩つき、頭のまげ方、向こう見ずで不規則な歩調は、私に、あの晩の彼を思い出させた。あの晩、彼はこういう風に、告白したり、説明したりしながら、大股に歩いていた。しかし最後の瞬間には、悲しみの源泉《いずみ》の中から慰めを引き出すことの出来る彼の全く無自覚の神秘な微妙さで、彼自身の小さい雲の影をあびてかげりながら生きていた――私の前に生きていた。
あの時と同じムードだ。同じで、しかも違っていた――ちょうど、今日は君を正しい道に案内して行き、同じ目、同じ歩調、同じ衝動で、明日は君をめちゃくちゃな道に案内し迷いこませる、気まぐれな道連れのように。
彼の歩調は確信にみち、彼のさまざまの陰影をうかべた目は、部屋の中で何かを捜し回っているように見えた。彼の足音の一方のほうが、なんとなく他方よりも大きくひびき――たぶん、彼の靴の欠陥だろうが――目につかないびっこの歩きつきのような奇妙な印象を与えた。
彼は、片手をズボンのポケットの奥深くに突っこみ、いま一方の手を突然頭上に振って、『バタンとドアを閉めろ!』と、叫んだ。『俺はそれを待っていたんだ。いまに見てろ……俺は……俺は、どんな忌わしい事でも覚悟している。……俺はそれを夢みていた……そうだ! この世界を出て行くんだ。そうだ! ついに幸運がめぐってきた……待ってて下さい。きっと……』
ジムは大胆不敵に頭をぐいと上にもたげた。私は白状する――私は彼と知り合いになって初めて、そしてまた最後でもあるが、突然、意外にも、彼に全くうんざりしている自分を発見した。彼は、なぜこんなに大言壮語するのか? 彼は、片腕を馬鹿々々しく振り回しながら部屋をどしんどしんと歩き回り、時どき胸の上の指環を触ってみている。
一体全体なんで彼は、貿易会社の社員に任命されて有頂天になっているんだろう――しかも、実際は、貿易なんか無い場所で? なぜ、宇宙に向かって挑戦の言葉を投げつけているのだろう? これは、どうしても正常な頭脳の持ち主の振る舞いではない。これは彼であろうと誰であろうと、たしかに誤った精神状態のあらわれだと私は言った。
彼は私の前に立ち止まった。
『本当にそうお思いですか?』
と、彼は抑制されるどころか、微笑をうかべて訊いた。私は、何か傲慢不遜なものを、その微笑の中に見たような気がした。しかし私は考えた――自分は彼より二十歳も年上だ。若さというものは傲慢なものだ。それは若さの権利だし……若さに必須な要素だ。若さは自らの権利を主張するものであり、そして、この疑惑にみちた世界では、すべての主張は挑戦であり、傲慢であるのだ。
ジムは、一番向こうの隅まで歩いて行き、また戻ってこちらを向き、私の心を悲憤でかきむしった。私がいまこんな言い方をしたのは――これまで彼に限りなく親切であった私でさえ――私でさえが思い出したのだ――思い出したのだ――彼の意志に背《そむ》いて――あの事を――あのかつて起きた事件を。とすれば、他の人々はどうだろう?――世間はどうだろう? この世界からジムが出て行きたがったのももっともだ。出て行って、二度と帰らないつもりなのも無理はない――まったく! それなのに私は、彼に、正常な精神状態について話したりした!
『あれを思い出すのは、私でもなければ、この世界でもない』と私は怒鳴った。『それは君だ――君だ、君が思い出すんだ』
彼はたじろぎもせず、情熱的に歩きつづけた。
『何もかも忘れます、誰のこともみな忘れます、誰のこともみな』……彼は急に低い声になって、……『貴方のほかは』とつけ加えた。
『そうだ――私のことも忘れてくれ――もしその方が君のためになるなら』
と、私は、低い声で言った。そして、私たちはしばらくの間、疲れ切ったように、もの憂く黙りこんでしまった。
やがて彼は、落ち着いた様子で、また話しだした。シュタイン氏は彼に、果たしてジムがパトゥーサンに踏み止まることが出来るかどうか様子をみるために、一カ月ばかり待ってみて、それから彼のための新居を建てよう、そうすれば『無駄な出費』を避けられると言われたと。シュタイン氏はおかしな言い方をされましたね。『無駄な出費』はよかった……踏み止まれるかって? むろん! きまってますよ。僕はしがみついて離れない。ただそこへ入りこむことさえ出来れば――問題はそれだけだ。必ず踏み止まると約束します。けっして出て行きません。止まるのはたやすいことだと。
『無鉄砲をするな』私は、彼の威嚇するような口調に不安になって言った。『君だって、長く生きてさえいれば戻って来たくなるさ』
『どこへ戻るんです?』
彼はじっと壁の時計を見つめながら、何かに心を奪われているようにぼんやり訊いた。
私はしばらく黙っていて、
『では、君はけっして二度と戻らん気だね?』
『けっして』
彼は、私の方を見ずに、夢みるように繰りかえした。そして、それから急にキビキビした様子になった。
『しまった! 二時だ、僕は四時に出発でしたね?』
その通りだった。シュタインのブリガンティーン帆船が、この午後、西方に出発することになっており、ジムは、それに乗船するようにと言われていた。ただ、出航時間を遅らせる命令だけは出ていなかった。たぶん、シュタインが忘れたのだ。
私は自分の船に乗船し、一方ジムは急いで自分の荷物を取りに行った。そして、彼はいま外海に碇泊中の船へ行く途中で、私の船を訪問する約束をした。やがてジムは大慌てで、片手に小さい革の旅行鞄を持ってやってきた。
これじゃ君だめだよ、と私は彼に、水の入らない、少なくとも、湿気の入らないように出来ている古い錫《すず》のトランクを提供した。彼は、ちょうど諸君が小麦袋でも空ける時のように簡単に、自分の旅行鞄をさかさにして中味をトランクに移した。
私は、三冊の本がころがり落ちたのを見た。黒い表紙の小さい本が二冊と、一冊の厚い、緑と金色の本――半クラウンのシェークスピア全集。
『君、これを読むの?』と、私は訊いた。
『ええ。野郎を元気づけるには一番いい読み物なんで』
と、彼は口早に答えた。私はこの鑑賞力に驚いたが、いまはシェークスピア論をたたかわせる時ではない。
重たい拳銃一丁と、小さい弾薬箱が二つ、船室のテーブルの上に横たわっていた。
『是非これを持って行き給え』と私は言った。『これは、君が向こうに留まるのに役立つかもしれない』
そう言ったとたんに、私はこの言葉の中に、ぞっとする無気味な意味が含まれているのに気づいた。
『君がそこへ入りこむのに役立つかもしれない』と、私は後悔しながら訂正した。
しかし、彼は、そんな漠然とした意味なんかにはわずらわされず、あふれるばかりの感謝を表わし、自分の肩ごしにさようならと言いながら駈け出して行った。
彼がボートの漕ぎ手に進めと言っている声が、船の側面から聞こえてきた。船尾の窓から覗くと、彼のボートが、船尾突出部《カウンター》の下を回って行くのが見えた。彼は前かがみに坐って、声と身振りで漕ぎ手を激励している。ジムは手に拳銃を持ち、それを彼等の頭に向けているらしく、あの時の四人のジャワ人の恐怖した顔と、たちまち私の視野から消え去っていった彼等の必死の漕ぎ方とを、私はいまもけっして忘れない。そして向き直って、最初に目についたのは、船室のテーブルにのっている二個の弾薬箱だった。ジムは、それを持っていくことを忘れたのだ。
私は、船載《ギッグ》ボートにすぐ人を配置した。が、ジムの漕ぎ手たちは、あの凄い若者がボートに乗っている間は彼等の生命は風前のともしびだという効果《ききめ》で、実にすばらしい勢いでつっ走っていくので、私が二つのボートの距離の半分も行かないうちに、早くも彼が主船の手すりをよじ登る姿と、彼のトランクが上へ渡されるのが見えた。
私がブリガンティーンのデッキに上がったときは、あらゆる帆という帆は広げられ、大檣の大帆は揚げられ、いかり巻き機はちょうど巻き揚げはじめるところだった。四十がらみの小柄できびきびした混血の船長が、にやにや笑いながらこちらへやってきた。彼は青いフランネル地のスーツを着た、レモンの皮のような黄色い丸顔の男で、細く小さい黒いひげを、厚い、黒っぽい唇の両側に垂らしている。この船長は、いかにも自己満足しているらしい快活な外観に似ず、心配性の男らしかった。私がジムのことを言うと(ジム自身はちょっと下へ行っていなかった)それに答えて、
『ああ、そうです。パトゥーサン。私ゃあの紳士を、河口まで運びますが、しかしけっして≪昇れない≫でしょうな』と言った。彼の流暢な英語は、どうやら狂人の編集した字引から引っぱってきた英語らしかった。
『もしシュタイン氏が、私に≪昇≫ってほしいとおっしゃれば、私ゃ≪うやうやしく≫――(彼は慇懃と言いたいんだろうと私は思うが――しかし誰が知ろう)――≪うやうやしく≫、財産安全のために反対しますね。もしそれを無視されたら、私ゃ≪退職する辞表≫を提出するでしょうな。
私が十二カ月前にあそこへ最後の航海をしたときは、コルネリアス氏が、交易は、口先だけの≪罠と灰≫にするという条件で、ラージャ・アラング氏と土地のお豪方を≪たくさんの献金でなだめ≫たのに、しかし船は、川を下って行く間中、森から≪無責任な集団≫に発砲されました。私の船員たちは、危険にさらされないように、黙って隠れていましたが、ブルガンティーン帆船は、すんでに砂州の砂丘に乗り上げて、人力つきて滅亡するところでしたよ』
その思い出に燃え上がるはげしい憎悪の表情と、我れながら自分の雄弁に惚れぼれと聞き入る得意の表情とが、交互に混血《あいのこ》船長の単調なだだっ広い顔を乗っ取ろうと争っている。彼は二面相のように、私の方を向いて顔を鬼にしたり、ニヤニヤほくそ笑んだりしながら、我輩の否みがたき見事な語法の効果はいかに? とばかり、じっと私を見守っている。
とつぜん、暗い渋面がのどかな海面を走り、ブリガンティーンは、マストに横帆を揚げ、中央大マストに帆を張ったまま、ねこ足風の中で途方にくれているように見えた。
船長は、歯をくいしばりながら、更に話をつづける。あのラージャ・アラングという男は≪笑うべきハイエナ≫で〔アジア、アフリカ産の動物。死肉を食い、その哮え声は悪魔の笑い声とたとえられる〕(どうして彼がハイエナを捕えたのか私には想像つかない)その他の奴らは、≪クロコダイル〔わに、空涙を流す偽善者〕の武器≫よりも何層倍の大嘘つきでしてな。混血船長は片目で船首の方にいる船員の活動振りを見ながら、妙ちきりんな英語をしゃべりつづける――パトゥーサンのあの場所を、≪長年悔い改めない(impenitence)で貪欲になった野獣の檻≫にたとえて。たぶん長年刑罰を受けない(impunity)のつもりだと思う。
『私ゃ、≪わざわざ盗難と結びつけるために自分自身をあすこへ陳列≫する気持は毛頭持ち合わせませんなあ!』と叫んだ。
その長々と語尾を引っぱった泣くような叫び声は、男たちが錨《いかり》を引きあげる綱引きの間じゅうつづき、その作業が終わると、彼の声も止まった。
『パトゥーサンは、もう充分、十二分にこりごり、まっ平です』と、船長は力を入れて話を結んだ。
この男はあまり無思慮無分別なため、パトゥーサンで首を籐《とう》のつるの絞首索で、ラージャの家の前の泥穴のまん中に立っている柱へ縛りつけられていたという話を、後になって私は聞いた。彼は、ほぼ一日と満一晩、この不衛生な状態で過ごした。しかし、あらゆる点から考えて、これは一種のいたずらであったらしい。
船長は、しばらくその時の恐ろしい思い出にふけっていた様子だったが、やがて震え声で、船尾から舵輪の方へやってきた男に話しかけた。しかし、それからまた私の方に向き直った時は、彼はもう感情抜きの批判的な話し方だった。
『私ゃあの紳士を河口のバトウ・クリングまでお連れしましょう。(パトゥーサンの町は、そこから約五十キロ奥にあると船長は言った。)ですが、私の目にゃ』と、彼は、最前の立板に水を流したような喋り方と打って変わって、こんどはいかにもうんざりな、いやでたまらないという口調で――『もうあの紳士は、死体も同然としか見えませんな』
『なんですって? 君、なんですって?』
と、私はたずねた。
混血の船長は、いきなり胆《きも》の冷えるような残忍な態度をよそおい、後からグサリと突き刺す動作を演じた。
『もう死んでしまった屍のようなものです』
と、彼は、我ながら利口なショウを見せたとばかり、彼一流の得々とした、いやらしい気取りようで説明した。
気がつくと、船長の後にジムが黙って、私に微笑みかけて立っていた――片手を上げて、私の口から出かかった驚愕の叫び声を制止《とめ》ながら。
それから、混血の船長が得意満面の様子で部下に命令を叫んでおり、一方、帆|桁《げた》が風に揺れて軋り、重たい大波がとどろき寄せてくる中で、ジムと私とはいわば水入らずで大帆の風下に立ち、互いに手を握り合って最後の別れを口早に交わし合った。
もう私の心からは、ジムの運命への興味と平行して心にくすぶっていた、あのぼんやりした憤りは消えていた。混血男の馬鹿げたお喋りが、シュタインの注意ぶかい言葉よりいっそうまざまざとジムの行手に立ちはだかっている危険を感じさせたのだ。あの門出《かどで》の瞬間には、いつも私たちの交際につきまとっていた一種の堅苦しさが、二人の言葉から消え去っていた。あたかもジムの危険が私の年齢を相殺《そうさい》して、二人は年も感情も同等になったかのように、私はあの時彼を『ねえ君』と呼んだと思うし、彼は半分しか口に出さない感謝の表現に、『おい、君』という親愛の言葉を添えた。一とき、真実の、そして深い深い親密さが、何か永遠なるものが、何か人を救う真理の光がチラリと閃めくように、とつぜん、そして束の間、二人の心の中を通った。ジムは、まるで二人の中の年長者のように、私の不安をなだめようとした。
『大丈夫、大丈夫』と彼は早口に、優しい感情をこめて言った。『自分を大事にする約束をします。ええ、けっして危険は冒しませんよ。たった一つの幸運な危険もね。もちろん、しませんとも。ちゃんと住みつきます。心配しないで下さい。誓って! 僕は、まるで何ものも僕に指一つ触れられないような感じです。まったくだ! これこそ、そもそも出だしから幸運だ。僕は、こんなすばらしいチャンスは取り逃さないぞ!』……
すばらしいチャンス! なるほど、たしかにあれはすばらしかった。しかし、チャンスというものは、人間各自がそれをチャンスにするのであって、どうしてそれが他人の私に判ろう? 彼がそう言ったとき、私さえ――私さえ思い出した――ジムの――ジムの不幸を。それは本当だ。結局、彼にとっては、行くことが一番いいのだ。
私のボートが、ふとブリガンティーンの船跡に入った。すると、ジムが頭上高く帽子をさし上げて立っている姿が、西陽をうけて船尾にくっきり浮かびあがって見えた。彼の叫び声が、不明瞭に聞こえてきた。
『そのうち――ぼくの――うわさが――とどきますよ』
≪僕の噂≫だったか、それとも≪僕の便り≫だったか、私にはハッキリしなかった。きっと、≪僕の噂≫に違いないと思う。
彼の脚下の海があまりキラキラとまぶしくて、私には彼の姿がハッキリ見えなかった。けっして彼をハッキリ見ることの出来ないのは、私の宿命らしい。しかし、およそ天にも地にも、ジムの姿ほど、あの混血の不吉な予言者が言った『死体も同然』の男とは似ても似つかない、生気溌剌たる姿はなかったと、私は諸君に断言できる。
あのチビの船長の顔が、あの熟《う》れたカボチャのような形と色の顔が、ジムの肘のあたりから顔を突き出しているのが見えた。彼も、さも厄《やく》払いでもしようとするように、片手を高くさし上げていた。南無《なむ》、不吉なことのないように!」
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第二十四章
「パトゥーサンの沿岸は(私は、それから約二年後にそこを見た)一直線で、陰気で、霧にかすんだ大洋に面している。
赤色の細道が幾すじか、赤|錆《さび》の滝が流れるように、低い断崖をおおっている藪やつる草の暗緑色の葉の下を走っているのが見える。厖大な森林の彼方にのこぎりの歯のような蒼い山嶺が見えて、沼池の平原が、河口からひろびろと拡がっている。はるか沖合いに、一連の島々が黒く、崩れた恰好で、海に破壊された城壁の残骸のように、果てしない陽光をあびた靄《もや》の中にくっきり浮き出ている。
幾つかにわかれた河口の一つバトウ・クリングには、漁村があった。この川は、長らく閉鎖されていたが、この時は開通しており、私の乗ったシュタインの小さいスクーナー船は、例の≪無責任な連中≫の一斉射撃にもさらされずに、潮流をさかのぼっていった。あの混血船長の言ったような恐ろしい事は、この船に乗って一種のパイロットの役をしていた漁村の老村長の話を信じれば、もう一むかし前の物語だった。村長は私に(私は、彼が一生の間に見た第二人目の白人だった)確信をもって話したが、その話の大方は、彼が生まれて初めて見た第一の白人についてだった。
村長は、この最初の白人をトゥアーン〔つまり英語のロードと同じ尊称〕・ジムと呼んだが、その呼ぶ口調には、驚くほど、親しみと畏敬の情が混じり合っていた。村の人々は、このロード〔ご主人様〕の特別な保護を受けて暮らしている、ということは、ジムの方でもここの連中になんの恨みも持っていない証拠だった。
あの別れの時、もしジムは私に『いまに僕の噂をお聞きになりますよ』と言ったのだとしたら、全くその通りになっていた。私は、いま現にジムの噂に耳を傾けていた。すでに村には、ジムの川をさかのぼる旅を肋けるために、二時間も早く潮流が変わったという一つの物語が生まれていた。
その時は、この話好きの老村長自身もジムと同じカヌーに乗っており、この不可思議な現象にびっくり仰天した。その上、栄誉は彼の一家で独占した。息子と娘|婿《むこ》とがこのカヌーを漕いでいたのだ。しかし、彼等はほんの未経験の若者で、父親の彼が指摘するまでに、そのカヌーの異常なスピードに気づかなかった。
ジムが来たことはこの漁村にとって祝福だった。しかしこの祝福は、彼等のところへ、恐怖のお先ぶれでやってきた――われわれの所にも、祝福はよくそうしてやってくるが。その昔最後の白人がこの川を訪れてから、長い年代が経っていたので、いまはそんな昔話さえ消え失せていた。
そこへ突然、天から降ったようにジムが現われて、俺をパトゥーサンへ連れて行けと断固として要求したので、村長たちは不安に心をかき乱されたのだ。彼の風采は漁民を狼狽させ、その後へ引かない主張は彼等を驚愕させ、彼の気前のよい物のくれっぷりは、彼等に一方ならぬ猜疑心を起こさせた。
こんな頼みはまだ聞いたためしがない。前例のないことだ。そんな事をしたら、ラージャはなんと言うだろう? ラージャは彼等に何をするだろう? 土民たちは、その夜ほぼ徹夜で相談した。しかし、何はともあれいまさし当たって、あの不思議な白人の怒りがあまり凄く見えたので、ついにぐらぐらな丸木舟を用意した。それが出発するとき、女たちは悲しみの悲鳴をあげた。恐れを知らぬ一人の老婆は、この見知らぬ異国人を呪った。
ジムは、私が諸君に話したように、錫《すず》の箱に腰をかけ、充弾してない拳銃を膝の上で抱いていた。彼は警戒おこたりなく坐っていた――これくらい身も心も疲れることはないのだ――こうして蒼い山嶺の島から、白波の寄せては砕ける沿岸の白い帯のあたりまで、彼の美徳の名声をとどろかす運命をもって、彼はこの土地へ入っていった。
最初の一曲がりで、永劫に盛り上がっては沈み、消えてはまた盛り上がる――苦闘する人間のイメージそのもののような――海の景色は見えなくなり、彼は、不動の森林に直面した――土中深く根を下ろし、太陽の光に向かって高く天かけり、そのかげ深い強力な伝統を持った、生命そのもののように永久につづく森林に。
そして、ジムの好きなチャンスは、東洋の花嫁がヴェールを剥ぐ夫の手を静かに待っているように、彼のかたわらに、ヴェールにつつまれて坐っていた。彼もまた、かげ深い、強力な伝統の後継者だったのだ!
しかし彼は私に、一生の中で、あのカヌーに乗っていた時ほど、ひどく憂鬱で疲れを感じたことはなかったと言った。あの時彼が自分に許した行動はただ、いわばこっそり、自分の靴と靴の間に浮かんでいる椰子《やし》の実の半かけの殻《から》を拾って、用心深い、控え目の動作で、舟の中の水をかい出したことだけだった。
彼は初めて、錫の地金でできている箱の蓋が、腰をかけるにはどれほど固いかを知った。彼は英雄的な体力をもっていたが、それでも、あの舟旅の間には、何度か目まいの発作におそわれ、折々ぼんやり、太陽が自分の背中にぷくぷく作っている火ぶくれの大きさを想像した。
彼はなぐさみに、前方を見ては、向こうの水ぎわにころがっている泥んこのかたまりは、丸太か、それとも鰐《わに》かを当ててみようとした。が、間もなく、彼はこの遊びも諦めた。全然面白くない。いつだって鰐にきまっている。その中の一匹が、ドブンと川に飛びこみ、すんでにカヌーを転覆させるところだった。
しかし、この昂奮もたちまちしずまった。それから、長い空虚な直線流域で、彼を喜ばせたのは、猿の一隊が岸へ下りてきて、ガヤガヤ大騒ぎをして彼の通過を襲撃したことだった。
こういう風にして、彼は、どんな人間がかつて達成したのにも劣らない、真正《まこと》の偉大さに近づいていった。特に、彼は日没を待っていた。そして一方三人の漕ぎ手は、彼をラージャに引き渡す彼等のプランを決行する用意をしていた。
『きっと僕は疲れてぼんやりしていたか、さもなければ、たぶん、とろりとしたのでしょう』
と、ジムは言った。ふと気がつくと、彼のカヌーは岸に近づいていた。同時に彼は、いつか森林が後になり、最初の家々が高い所に見えはじめ、左手には尖り杭を立て並べた矢来がそそり立って見え、そして彼の漕ぎ手たちが、一斉に岸の突きでたところに飛びおりて、逃げていくのに気づいた。
本能的に、彼も皆のあとから舟を飛び出した。最初彼は、何か自分には想像もつかない理由で、うっちゃりを食ったのだと思ったが、彼の耳に昂奮した叫び声が聞こえ、門がパッと開き、大勢の人々がなだれを打って彼の方に繰り出してきた。同時に、武装した男を満載したボートが川に現われ、彼の空のカヌーにぴったり横づけになって、彼の退却路を遮断した。
『僕は余りの驚きに幾分冷静さを失っていました――お判りでしょう? もしあの拳銃に弾丸が入っていたら、きっと誰かを射ったことでしょう――たぶん二人か三人を。そして、それが僕の最期だったでしょう。でも、そうはなりませんでした……』
『なぜ?』と、私は訊いた。
『まあ、僕は島中を相手に闘おうとはしませんでしたし、それに、僕は、さも生命など恐れていない様子で、彼等に近づいて行ったからです』
彼は、目にかすかに、彼特有の不屈なむっつりした表情をうかべて、チラリと私の方を見た。私は彼に、その連中は、彼の拳銃が空だとは、夢にも知らなかったんだ、ということを指摘するのを控えた。彼は、彼の好きなように考えて満足するのがいいんだ……
『とにかく、あれが、僕の最期じゃありませんでした』と、彼は上機嫌で繰りかえした。『で、僕はただ静かに立ち止まって、いったい何事だ? と彼等にききました。それが、彼等をおし黙らせてしまったようです。この盗人の何人かが、僕の弾薬箱を持って逃げて行くのが見えた。あの古狸カッシム(この男を明日お目にかけます)が、ラージャが僕に会いたがっているという事を僕に向かって言いながら走り出てきました。
≪よし≫と僕は言いました。僕もラージャに会いたかったので、どんどん門を入って行きました、そして――そして――僕は、いまご覧の通りです』
彼は声を立てて笑い、それから急に、意外な強い語調で、
『そして、何がここで一番いいことか、知っていますか?』と訊いた。『言いましょうか。それは、もし僕が消されていたら、ここの人々は敵に負けて敗北者になってしまっていたろうということです。それを皆は知っていました』
こう彼は、私が前に話したあの晩、自分の家の前で私に言ったあの晩、わたし達は、月が山と山の裂け目から、霊魂が墓地から天上に昇っていくように空に浮き上がっていき、月影だけが、冷たく、蒼白く、死んだ日光の亡霊のように地上に降りそそいでいるのを見ていたが、あの後のことであった。
月光には、何かしら亡霊的なところがある。月光は、肉体を離れた霊魂のあらゆる冷静さと、その不可解な神秘性とを持っている。われらの日光こそ――諸君がなんと言おうと――われわれがそれによって生きるすべてである。こだまが音によって生きるように――たとえその音が嘲笑的であろうとも、悲しい音であろうとも、惑わされたり、混乱させられたりしながら、ただ音で生きるように。
月光は、物質のあらゆる形を奪い去り――結局、物質はわれわれの領土であるその実体を失わせ、影だけに不吉な現実感を与える。そしていま影だけが、われわれを取り巻く現実であったが、しかし、私のそばにいるジムは、さも何物も――月光の神秘な魔力でさえも、彼から彼の実在性を奪うことができないかのように、がっしり、雄々しく強く見えた。たぶん、実際、何ものもジムに指一つ触れることは出来なかったのだ、闇の力の襲撃を切り抜けて生きている彼だから。
なんの音もなく、あたりは静寂そのものだ。川さえも、プールのように音もなく静かで、月影がその上にねむっている。満潮の一瞬間が、静止の一瞬間が、地上のこの見失われた一角の完全な孤立の姿を強く浮き出させたのだ。
さざ波もなく、ピカリときらめきもしない一面に光っている広い水面にそって、家々が密集し、黒い大きな影と混じり合って、ボーッとした灰色や銀色の形が一列に押し合いながら水際までつづいており、まるで一群の不気味な形の動物が、スペクトルの、生命なき流れの方に、水を飲みに押し寄せた光景のようだ。そちこちで、赤い小さな光が竹の壁の中からピカピカ漏れており、あたたかい、生きた火花のようで、人間の愛情や、宿りや、休息を感じさせる。
彼は私に、自分はたびたび、この小さなあたたかい光が一つ一つ消えていくのを見守り、人々が、彼の見守っている下で、明日もつつがなく平和な日の訪れるのを確信して眠りにつくのを眺めるのが好きだと話した。
『ここは平和でしょう、ね?』
と彼は訊いた。彼は雄弁ではなかったが、しかし、つづいて語った彼の言葉には、深い意味がこもっていた。
『この家々を見て下さい、ここには、僕を信頼しない家は一つもありません。誓って! 僕は、貴方に、頑張ると言いましたね。聞いて下さい、どんな男にでも、女にでも、子供にでも……』
彼はちょっと言葉を切った。『まあ、とにかく、僕は無事にやっています』
私はすばやく、君はついにそれを発見したねと言った。きっとそうすると信じていた、と私は言い足した。
彼は頭を振った。『そうでしたか?』と、彼は、私の肘の上を軽く握った。『そうか、では――貴方は当たっていました』
その低い感動詞には、揚々たる意気と、誇りと、威厳とが感じられた。
『誓って! それが僕にとってどんなことか、まあ考えて下さい』
彼はまたもや私の腕を握った。
『だのに、貴方は僕に、ここを引き揚げようと思うかなどと訊くのですか。とんでもない! 僕が! 引き揚げたい! 特にいま、シュタイン氏の好意を僕に話した後で……引き揚げる! ああ! それこそ僕の恐れていた事だ。それこそ――それこそ、死ぬより辛いことだ。いや――絶対に、引き揚げない。笑わんで下さい。僕は感じたいのだ――毎朝、目を覚ます度ごとに――俺は信頼されている――他の誰にもその権利はないのだと――お判りでしょう? 引き揚げる! どこへ? なんのために? 何を得るために?』
私は、もう彼にシュタインの意志を話していた(じつは、これが私の訪問の主な目的だった)シュタインは、今後商取引きを完全に規則正しく、確実に促進するあるたやすい条件つきで、ジムに、直ちに家と貿易商品のストックをプレゼントしたい意志だということを。最初、ジムは鼻嵐をふいて、はねつけた。
『忌々しい、デリカシーだ!』と私は叫んだ。『あれは、シュタインが君に上げるんじゃないんだ。君自身がすでに獲得したものを君に上げるにすぎない。そしてとにかく、礼を言いたけりゃ、なんでもシュタイン氏の古き恩人マックニール氏に言うんだな――君があの世で彼氏に会った時にね。もっともそんな時が、あまり早く来ないことを希うがね……』
彼は私の議論に降参しないわけにいかなかった。なぜなら、彼の征服したすべてのもの、信頼、友情、愛――あらゆるこうしたものは、彼を主人《あるじ》にしたが、また彼を捕虜《とりこ》にもしたからだった。彼は所有者のまなこで平和な夕ぐれを、川を、家々を、森林の永遠の生命を、古い人類の生命を、大地の秘密を、彼自身の心の誇りを見た。しかし実際には、それ等こそ彼を所有し、それ等こそ、彼の最も奥深く秘めた思想までも、血の最もかすかな動きまでも、彼の最後の息までも、我が所有《もの》にしていたのだ。
それは誇るべき事であった。私も誇らしく思った――彼のために。――たとえ取引きの莫大な価値についてはそれ程誇れる自信はなかったにしろ。それはすばらしいことだ。しかし私は、彼の恐れを知らない勇気はそれ程買っていなかった。ふしぎと、私は、彼の勇気にはあまり価値を置かなかった。さもそれは、物事の根底となるには、何かあまり紋切形のあり来たりなもののように。勇気ではない。私は、彼の示した他の天分にもっと心を打たれた。
彼は、不慣れな状況を把握する才を、その分野における知的敏捷さを示した。またあの当意即妙の迅速さも! 実にすばらしい。
そしてそのすべては、優秀な猟犬に鋭い嗅覚がそなわっているように、彼に天来そなわったものだった。彼は雄弁ではなかったが、彼の天性の寡言《かごん》には威厳があり、彼の訥々《とつとつ》とした口調には非常な真剣さが感じられた。彼はいまも、むかしながらのあの頬を赤らめる癖をもっていた。しかし、時々彼の口からもれる一言か、一くだりの言葉は、彼に名誉回復の確信を与えたあの仕事について、彼がどれ程深刻に、どれ程厳粛に感じているかを示した。
それだからこそ、彼はこの土地と人とを、一種の熱烈なエゴイズムで、傲慢な優しさで、愛したように思われた」
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第二十五章
「『ここは、僕が三日間捕虜になっていた場所です』
と彼は私につぶやいた。(それは、私達がラージャを訪問した時のことだった)。私達は、ツゥンク・アラングの庭を横切って、大勢の家の子|郎党《ろうとう》が驚きごった返している中を、ゆっくり進んで行った。
『きたならしい所でしょう? おまけに僕は、一騒ぎ喧嘩をしなくちゃ、なんにも食べ物が手に入らないって始末。それに、やっとありついたと思えば、ほんの小さな一皿のご飯とトゲ魚に毛の生えた位の小さい揚げた魚一匹だ――畜生! 僕は腹がへって、この臭い囲いの中をうろつき回り、ごろつきどもが僕の鼻先へ奴等の茶碗を突き出すのをあさり歩いていた。
僕は、貴方のあの有名な拳銃は、最初によこせと言われた時すぐ渡してしまった。血なまぐさいものを厄払いしてかえって嬉しかった。弾丸無しの飛び道具を手に持って歩き回っているなんて、馬鹿みたいですよ、ね』
その時、われわれはアラングのいる所へ入ってきた。ジムは、自分を以前捕虜とした男に屈せず、ひるまず、厳粛に、愛想よく接した。おお! 実に立派だ!
私は、あの時の事を考えると、笑いたくなる。しかし、あの時私は、また大そう感動もした。あの老獪な、悪名高いツゥンク・アラングが、ジムの前には恐怖を隠せなかった(あの男は、自分の若い時の英雄談をよく話したがるが、実は英雄どころじゃない)。そして同時に、この先日の捕虜に対する態度には、悩ましそうな信頼感がうかがわれた。
考えてもみ給え! 彼は、最も彼を憎んでいる者たちからさえ、なお信頼されていたのだ。ジムは――私がその土人語の会話を理解できる限りでは――この機会をとらえて一席の訓話をたれているらしかった。貧しい村民の何人かが生ゴムか蜜蝋《みつろう》を持って、米と交換にドラミンの家へ行く途中、待ち伏せに品物を奪い取られた事件があった、とジムは訴えた。
『盗人はドラミンじゃ』
と、ラージャ・ツゥンク・アラングはいきなり怒鳴った。激怒に、その老いぼれた体が震えて見えた。ラージャは、もじゃもじゃな髪の毛を打ち振り、打ち振り、昂奮して手振り、足振り、身振りをしながら、畳の上を不気味にのたうち回った――由々しき憤怒の化身だ。
われわれの周囲の人々は、みな目をむき、口あんぐりで見ている。
ジムが話し出した。彼は凛として、冷静な態度で、しばらくの間、あの事件について論及し、誰も、正直に自分や自分の子供達の食糧を得ようとするのを、妨害されるような事があっては断じてならないのだ、と諄々と説いた。
ラージャは、仕事台に向かった仕立屋《テイラー》のように、両手を膝の上にのせ、頭を低く下げて、バラリと目の上に垂れた白髪の間から、じいっとジムを見つめた。ジムがスピーチを終わった時、満場は静まりかえっていた。誰一人、息さえしていないようだった。誰も音一つ立てない。やがて、ラージャが、かすかなため息をつき、急に頭をピョンと上げて上を向き、口早に言った。
『お前たち判ったな! もう、こういう事をしてはならんぞ』
この判決は深い沈黙のうちに受けいれられた。明らかに信任厚き地位の人に違いない可成り肥った、知的な目と、骨っぽい、広いまっ黒な顔をした、陽気でおせっかいな様子の男が(後で私は、彼が刑執行官だと知った)真鍮の盆にのせた二つのコーヒー・カップを、下役の手から受け取って、私たちに差し出した。
『飲まんでいいです』
と、ジムがひどく口早にささやいた。最初、私にはなんの意味か判らなかったので、ただ彼の顔を見た。ジムは勢いよくそれを一口飲み、受け皿を左手に持って泰然と坐っている。一瞬間、私はひどく困惑した。
『いったいなんで君は、私をこんな馬鹿な危険にさらすんだ?』
と、私は彼にやさしく微笑みかけながらささやいた。もちろん、私は飲んだ。ジムはなんの合図もせず、他にどうしようもなかったんだ。そして、それからすぐ、私たちはいとまをした。
例の知的で陽気な刑執行官に護送されて私達のボートの方に庭を下って行く途中で、ジムは、大へん申し訳なかったと言った。もちろん、そんな危険はほとんどないのだ。彼は、自分としては、毒が盛ってあるなどとは考えなかった。最小限度の可能性だ。そして彼は私に保証した――自分は彼等から、危険人物である何十倍も有用な人間だと思われているし、それに……
『しかし、ラージャは、君をすごく恐れているぞ。それは誰にも一目瞭然だ』
と私は、いくらか苛立ち、何かぞっとする腹痛の最初のきざしが起きはせぬかと、気づかい、じっと彼を見守りながら言った。私はひどくうんざりしていた。
『もし僕がここで、自分の地位を保持して何かいい事をしたいなら、』とジムは、ボートの中で私と並んで腰をかけながら言った。『僕は危険に堪えなくてはならない。少なくとも、月に一度はあれを飲みます。大勢の人々が信じている、僕が――彼等のためにそれをすることを。そして僕を恐れている! 正にそうなんです。たぶんラージャは、僕が彼のコーヒーを恐れないので、僕を恐れるんです』
それから、彼は北側の矢来の尖り杭の頭がいくつか砕けている場所を指さした。
『ここは、僕がパトゥーサンへ来て三日目に、飛び越えた場所です。まだ、新しい杭を入れてないな。見事なジャンプでしょう、え?』
間もなく、われわれは泥ぶかいクリークの口を通った。
『ここは、僕の第二のジャンプの場所です。僕は、少し走って、ここを一跳びでジャンプしたが、でも、岸まで飛べずに落っこちた。もうだめだと思ったな。もがいているうち靴は失《な》くすし。そしてその間じゅう考えつづけた――こんな風に泥の中に突きささっている間に、血生ぐさい長槍でブスリと突き刺されたら、全く目も当てられねえぞとね。あのべとべとな泥の中でもがいていた時の胸くその悪い嫌な感じは、いまも憶えています。本当に、吐きそうだったな――まるで、何か腐ったものでも噛んだようで』
まあこういった具合だった――そして、好機は彼について一緒に逃げ、クリークを飛び越え、泥の中でもがいた……やはりヴェールに覆われたまま。
ただジムの来たのがあまり不意だったため、ねえ諸君、彼は、すぐマレーの短剣でブスリとやって、川へ投げこまれずにすんだのだ。土人たちは彼を捕えはしたが、しかし、それは彼等にとっては、亡霊か、生き霊か、不吉な重大事の前兆を捕まえたようなものだった。いったいこれはどういう意味か? いったいこれをどうしたらいいだろう? この男を懐柔してももう手遅れかな? もうぐずぐずせず殺しちゃうほうがよくはないか? だが、殺せばどういう事が起きるだろう?
哀れな老いたアラングは、心配と、決心の難かしさで、気も狂わんばかりだった。何回となく、御前会議は未解決で解散となり、顧問たちは、周章狼狽してドアを入ったり、ベランダに出て来たりした。一人は、狼狽の余りベランダから地面へ飛び下り――十五フィートはある――脚の骨折さえした、という話だ。
パトゥーサンの代々の支配者は、奇怪なマンネリズムを持っており、その一つは、自我礼讃的な叙事詩をあらゆる困難な議論の中に挿入し、しだいに昂奮していって、最後に短剣を片手に玉座から飛び下りるのだった。しかし、こうした中断の時を除いて、ジムの運命についての審議は、夜となく昼となくつづけられた。
一方ジムは、ある者からは避けられ、ある者からはじろじろ見据えられ、しかし、すべからくすべての者からじっと見張られて、庭の中をぷらぷら歩き回っており、実際いつなんどき、斧を持った気まぐれな無頼の徒の手にかからないとも知れなかった。彼は、小さい崩れかかった小屋を占領して、そこを寝所にした。汚れと腐った物の悪臭に彼はひどく閉口したが、しかし食欲は失わなかったらしい、なぜなら、彼はここにいた間中、いつも空腹だった――と彼は私に話した。時々『こせこせした馬鹿者』が、会議室の代理で彼のところへ走ってきて、猫撫で声でとてつもない質問をした。『オランダ人は、この国を取りにやって来るのか? 白人は川を下って戻りたいか? 白人がこんな悲惨な国へ来た目的は何か? ラージャが尋ねておられるが、白人は時計の修繕が出来るか?』
そして彼等は本当に、ニューイングランド製のニッケルの時計を彼のところへ持ってきた。彼はただ退屈で我慢できなかったので、その目覚し時計を修理して動くようにしてやった。
こうして、小屋の中で仕事をしていた時、彼はふと、自分の身が非常な危険に曝されていることを悟った。彼は持っていた品物を『熱いポテト』を落とすように手からとり落とし、何をしようという後先の考えもなく、またじっさい何が出来るかも考えずに、急いで外へ出て行った。
彼はただ自分の立場がとても堪えられないことだけはよく判っていた。彼は目当てもなく崩れかかった一種の穀倉の向こうに歩いて行き、ふと、矢来の尖り杭が何本か折れているのに目をとめた。そして――と彼は言う――直ぐ、いわばなんの知的考慮もなく、なんの感情もなく、さも一カ月も熟慮した計画を実行に移しでもするように、脱走をはじめたのだった。
彼は、やがてつっ走る下心で、まず無頓着に歩いて行った。そして、後を振り向くと、二人の槍手を付添いに従えた高僧が、いまにも質問しそうなかまえで、すぐ彼の肘のそばに来ていた。ジムは、『高僧のすぐ鼻先から』走り出し、『鳥が飛ぶように』矢来を飛び越え、柵の向こう側に落ちた。全身の骨という骨が音を立てぶつかり合い、頭か割れそうだった。
彼はすぐ立ち上がった。その時は全くなんの思慮分別もなく、ただ覚えているのは、大きな叫び声が一つ聞こえたことだけだった。パトゥーサンの最初の家々が、四百ヤード向こうに見える。彼はクリークを見て、いわば機械的にスピードを増して走った。大地が、正しく彼の足の下から後にふっ飛んで行く感じだった。
彼は、最後の乾いた地点からジャンプし、体が空中を飛んで行くのを感じ、なんのショックもなしに、ひどく柔らかに、ねばねばした泥岸に直立したのを感じた。
彼は脚を動かそうとしたが脚が動かなかった。この時やっと、彼自身の言葉で言えば、『我に返った』のだった。彼は、『血なまぐさい長槍』のことを考えはじめた。実際は、矢来の内側の人々は、門まで走って行き、それから岸の船着場に降りていってボートに乗り、島の一端を迂回して来ねばならないのを考えると、彼は想像以上に先へ来ていたのだ。
その上、いまは引き潮時でクリークには水はなく――乾いているとは言えないが――実際には、ひどく長距離の射撃でも受けないかぎり、彼は、しばらくは安全だった。小高い固い地層は、彼の前方六フィートのところにあった。
『それでも、俺はここで死ぬんだなと思いましたね』
と彼は言った。彼は手を延ばして、両手で死物狂いで掴んだが、ただ、恐ろしく冷たい、光った一山のどぶ泥を、胸や――顎のあたりまでかき集めるのが関の山だった。
――俺は生き埋めになるんだな、と思うと、次の瞬間彼は、両手のこぶしを握りしめて、狂気のように泥を打ちたたき、け散らしはじめた。泥が頭や顔の上に落ち、目や口の中に入ってきた。
――俺はとつぜん、あの土人の庭を、人が長年昔にひどく幸福に暮らしていた場所を思い出すように、思い出した。俺はもう一度あそこへ戻って、時計を直したいなと切望した――と、彼は言った。――俺は時計を直した――あれは名案だったな。彼ははげしく泣きながら、懸命に闘った。喘ぎながら闘った――目玉が眼窩の中で爆発して、盲目になるかと思われるほど頑張り、暗闇の中で大地をこなごなに打ち砕いて、それを自分の手足から払いのけ、最後の死力を尽して闘った――そして、自分が弱々しく岸に這い上がるのを感じた。彼は固い土の上に大の字に横たわり、光を見、空を見た。
次の瞬間、俺は眠りに陥ちるんだという考えが、一種の幸福感のように彼を襲った。彼は本当に眠りに陥ちたら幸福になるだろう、彼は眠った――たぶん、一分間か、たぶん、二十秒か、あるいはたった一秒間か。しかし、彼は激しい発作に襲われたように目を覚ましたことをハッキリ想い出すのだ。
彼は目を覚ましてもしばらくは横たわっており、それから、頭から足の先まで泥まみれのままで立ち上がり――俺は狩り立てられたけもののようだ。ここ何百マイルの地域に独りぼっちで、一人の助けもなく、俺には一人の同情者も憐れむ人もいないんだ、と考えた。
最初の家々は、彼から二十ヤードも離れない所にあった。彼の姿に恐怖した女が、必死の悲鳴を上げながら子供を抱いて逃げ去ったので、彼はふたたび走り出した。彼はソックスだけで、全く人間とは思えない全身泥まみれの姿で、まっすぐ駈けていった。
彼は植民地に半分以上近づいた。すばやい女達は左右に逃げ失せ、のろい男達は、みな手に持っていた品物を取り落とし、ポカンと口あんぐりで石化したように棒立ちになっていた。彼は走る恐怖だった。小さい子供たちが生命からがら逃げようとして、転んで四つん這いになったまま脚をバタバタ蹴っている。
彼は、道をそれて坂の上の二軒の家と家の間に入って行き、切り倒した樹木のバリケードを乗り越え(当時のパトゥーサンは、一週間も戦い無しで過ぎたことはなかった)囲い柵を突き破って、とうもろこし畑に入って行き、怯えた男の子に棒きれを投げつけられ、よろめきながら小径に出、それからいきなり驚愕《おどろ》いている数人の男たちの腕の中へ飛びこんで行った。
そしてジムは息を切らせながら、やっと、
『ドラミン! ドラミン!』
と、喘ぎ喘ぎ叫んだ。彼は半ば皆に運ばれ、半ば駆り立てられて、坂のてっぺんの、ヤシの樹と果樹との厖大な囲いの中の椅子に、大した昂奮と大騒動のまっただ中に、でんと重そうに腰をかけた大男のところへ連れられていった。
彼は、泥と衣服の中を探し回って、例の指環を取り出し、とつぜん仰向けに倒れ――倒れながら、俺をノックダウンした奴は誰だろう? といぶかった。連中は、ただ彼をになっていた手を放して一人にしただけだったのだ――判るでしょう、諸君?――しかし、彼は一人で立てなかったのだ。
坂の下で盲射ちする銃声が聞こえ、住民の屋根の上で低い狼狽した叫び声があがった。しかし彼は無事だった。ドラミンの家来たちが門のバリケードを閉め、ジムの口に水を注ぎこんだ。世話好きで同情深いドラミンの老妻は、あれこれと、せわしそうに、金切り声で自分の娘たちにいろいろジムの手当てを命じた。
『あのお婆さんは』と、彼は柔《やさ》しい声で語った。『まるで僕を自分の本当の息子のように、何くれとなく世話してくれた。僕は、彼女の来賓用のすごく大きなベッドに寝かされ、彼女は忙しく部屋を出たり入ったりし、同情の涙を拭き拭き、僕の背中をマッサージしてくれました。さぞかし僕は、見るも哀れな姿であったに違いない。僕はそこに、ただ丸太のように横たわっていました、幾日間だか自分じゃ判らないが』
ジムは、ドラミンの年寄った妻を大好きらしかった。彼女の方も、彼に、母性的な愛情を持った。彼女は、丸い、くるみ色の柔しい顔の女で、顔じゅうしわだらけで、大きな、まっ赤な唇をして、マンマの葉〔こしょう科の植物〕をたゆみなく噛んでいた。彼女は、目を細めてはウインクする慈悲ぶかい目をしていた。
このドラミンの妻は絶えず動き回り、若い女の群にひっきりなしにいろいろ命令したり、忙しそうに叱ったりしていた。ここの若い女群というのは、きれいな褐色の顔と大きなまじめな目をした彼女の娘たち、女中たち、奴隷女などの一団だった。
こんな世帯の中に暮らすのがどんなものか、諸君はお判りだろう。われわれの生活とどこがどう違うと説明することは、大体不可能だ。ドラミンの老妻はひどく倹約家で、宝石入りの留金《クラスプ》で前をしっかり留めた彼女の大きな、ゆったりした上衣でさえ、なんとなく貧相な感じだった。彼女は、黒い素足に中国製の黄色い藁《わら》のスリッパをひっかけていた。こうして彼女がひどく豊かな、長い白髪を肩に垂らして、ひらひら飛び回っている姿を、僕自身も見たことがある。
彼女は、温かい、利口な話し方をする貴族生まれの女で、風変わりで、気まぐれだった。午後には、彼女はよく、夫と向き合って大きな肘掛椅子に坐って、植民地と川とを一眸の下に見渡せる、壁の中の大きな窓から、じっと絶えず外を眺めていた。
彼女はいつも足を折り曲げて坐っていたが、しかしドラミン老人の方は、平原の上に山が坐っているように、威風堂々と、腰かけていた。彼はほんのナホーダ〔マレー語でキャプテンの意〕か、商人階級の出であったが、しかし、人々が彼に示す尊敬と、彼の威厳のある態度は、実に驚くばかりだった。
ドラミンは、パトゥーサンにおける第二の勢力の首領だった。セレベス島からの移住民(家の子郎党をしたがえた約六十世帯で、二百人の『短剣をつけた』男子を召集することのできる一団)が、長年前に、ドラミンを彼等の首長に選んだのだった。
この種族の男たちは、知的で、計画的で、復讐的だったが、しかし他のマレー人たちよりもっと率直で勇気があり、弾圧の下でじっとしていなかった。この連中は、ラージャに対抗する団体を組織した。喧嘩は貿易のためである。貿易が派閥争いの主な原因で、そのため突然騒動が起きては、折々、植民地のこちらかあちらかが、硝煙や火焔や、銃声、叫び声の巷と化した。村々が焼き払われ、男たちはラージャの矢来の中に引きずって行かれ、ラージャ以外の誰かと取引きをしたという罪科で殺されたり、拷問に会ったりした。
ジムの到着するほんの一両日前にも、後日ジムの特別な保護を受けるようになった漁村の四、五人の家長たちが、ラージャの槍手の一群に、セレベスの商人たちに売る食用鳥の巣を集めていたという嫌疑で、断崖から突き落とされた。
ラージャ・アラングは、自分だけが自国の唯一の交易者だと豪語して、この独占にそむいた者はどしどし死罪に処した。しかしいわゆるラージャの考えている貿易とは、最も普通の形式の強盗と見境いがつかなかった。ラージャの底無しの残忍牲と貪欲とを食い止める唯一のものは、彼の腰抜けの臆病さで、ラージャ・アラングは、セレベスの男達の組織立った力を恐れていた。だが、ただ――ジムが来るまでは、怖じけて大人しくしているには、まだ恐れが不充分だった。
彼は自分の民族を使ってセレベスの男達を攻撃させ、感傷的に自分は正しいと思っていた。
この状況は、一人のさすらいの旅烏のアラビア混血人が、純然たる宗教的基盤から、内地族(ジムは彼等を奥地人と呼んだ)を煽動して立ち上がらせ、自分は例の双子山の一つの頂上に要塞をきずいてそこに納まったために一段と複雑になった。
この男は、鷹が家禽の囲いの上にのしかかるように、パトゥーサンの町にのしかかった。が、しかし彼は、その広々とした平野地方を荒廃させてしまった。澄んだ流れの岸辺にあった村々は、さながら根を病菌に蝕まれた植物のように、奇妙な自然の衰退をみせ、その草壁も、その葉ぶきの屋根も、少しずつ少しずつ川の中に崩れ落ちていき、家々は立ったまま黒く朽ち腐れて、どの村々もみなさびれて廃墟と化していった。
パトゥーサンのこの二つの党派は、何れも負けず劣らずの強奪者ぞろいだった。ラージャは弱腰で彼と提携しようとした。ブギス植民人のある者達は、果てしない不安に疲れ切って、半ば彼の味方になる意見に傾いた。ブギスの若い連中は、半ばひやかしに、『ひとつ、あのアラビア人のシェリフ・アリと彼の手下の乱暴者どもに、ラージャ・アラングをこの国から追い出させようじゃないか』と提案した。ドラミンは、やっとこの連中を抑えていた。ドラミンも寄る年波には勝てず、彼の勢力は衰えてはいなかったが、事態はしだいに彼の力が及ばなくなりつつあった。
ジムが、ラージャの矢来を乗り越えて逸走し、このブギス首領の前に現われて持参の指環を示し、いわばこの共同社会の心臓部に受け入れられた時、パトゥーサンはこういう状態であったのだ」
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第二十六章
「ドラミンは、私の知っている限りのマレー人の中で、最も驚くべき、非凡な人物だった。彼の巨体は、マレー人としては稀らしい大きさだったが、しかし、ただ肥大なだけでなく、彼は実に堂々として印象的であった。
高価な衣類、色彩豊かな絹、金糸の刺繍をまとった不動の巨躯、紅と金のカーチーフで包んだ巨大な頭、平らな、大きな丸い顔には、二つの重たい半円形のしわが、険しい、大きな鼻孔の両側からはじまっている。牡牛のような喉、じっと見据えた傲慢な目の上にかぶさった、巨大な波形にしわよった眉――そのすべてが、一度見たらけっして忘れられない強烈なウエイトを印象づける。
彼の泰然と休息している姿(彼は一度腰掛ければめったに手足一つ動かさなかった)は、威厳の権化のようだった。彼が大声をはり上げるのを聞いた者はなかった。彼の声は、さも遠くからでも聞こえてくるようにわずかに含み声の、しわがれた力強いつぶやき声だった。
ドラミンが歩く時は、二人の背の低い、がっちりした若者(二人はウエストのへんまで裸体で、白いサロンをはき、頭の後に黒ずきんをつけていた)が、彼の両肘を支えた。二人は、ドラミンを椅子に掛けさせると、彼が立ち上がろうとするまで、椅子の後に直立しており、ドラミンがさも大儀そうに頭をゆっくり左右に動かすと、うしろの二人は、彼の腋の下から支え起こして立ち上がらせた。
とはいえ、ドラミンは全然びっこなどではなかった。それどころか、彼の重々しい動作のすべては、すばらしい慎重な力強さの表現に見えた。彼は、一般からは、公務を妻に相談すると思われていたが、しかし私の知る限りでは、彼が妻と一言でも言葉を交わすのを見聞した者は一人もいなかった。
ドラミンと彼の妻とは、正式に広い窓のそばに坐っている時、いつも沈黙していた。二人の眼下には、うすれゆく夕陽に照らして、渺茫とつづく森林地方、すみれ色と紫色の連山のきわまでうねうねと押しよせ波動している暗緑色の眠った海、銀箔の巨大なS字形に光る湾曲した川、その両岸にずらりと軒を並べた茶色のリボンのような家並み、それより手前の木々の梢の上に高くそびえ立つ双子山が見渡せた。
ドラミン夫妻は、すばらしく対照的だった。妻の方は、軽くきゃしゃで、やせて、すばやく、休息している時は一抹の母親らしいこせこせした所のある、ちいちゃい魔女のようで、一方、彼女と向き合っているドラミンは、巨大で重たく、その不動の姿は、何か雅量と無情とを併せ持った、粗けずりの男の石像のようだった。この老夫婦の息子は、この上ない水際立った抜群の青年であった。
彼は、夫婦の晩年にもうけた子宝だった。たぶん、実際には、見かけほど若くはないのかもしれない。二十四か五といえば、十八歳ですでに一家の父親であるこの国の男としては、そう若くはない。
青年は、両親が従者たちにうやうやしく取り囲まれて正式に坐っている、立派な畳敷きの大広間に入ってくると、まっすぐドラミンの前へ進んで彼の手にキッスし――一方父親の方は、荘重に手を差し出し――それから前を横切って母親の椅子のそばに立った。
両親はきっとこの若者を偶像化しているに違いないと思うが、しかし私は、彼等が息子の方を表立ってチラリとでも見るのを目撃したためしはない。まったくこれは公の行事であった。広間は大方人で一ぱいだった。厳かな正式の入場や退場の挨拶、その動作や顔や、低いささやき声に表われた深い敬意は、とても筆舌に尽くせないほどだ。
『見る価値があるでしょう』
ジムは、戻り道に川を渡りながら私に言った。
『彼等は、本の中に出てくる人々のようじゃありませんか?』と、彼は剴歌を奏するように言った。
『そして、ダイン・ウァリス――息子のことです――は、貴方を除けば、僕のいままでに持った最上の親友です。いわゆるシュタイン氏の言う良き≪戦友≫ですよ。僕は幸運だ。全くだ! 僕は、最後の息で彼等の中に転げこんで幸運だった』
ジムはうつむいてじっと物思いにふけり、それから顔を上げて言い足した。
『もちろん、僕はそれに甘えて安閑としてはいなかったが、しかし……』と、彼はまた言葉を切った。『しかし、まるで向こうから知恵がやってきたように、僕は突然ハッと、どうすべきかが判った……』
と、彼はつぶやいた。
たしかに、幸運は向こうからジムのところへやってきたのだ。そして、それはまた戦いの中を、くぐって彼のところへやって来もした。彼を訪れたこの幸運の力は、平和をもたらす力であったからそれは当然であるが。ただこの意味において、力はしばしば即正義である。しかし諸君、彼は自分の行く道が、すぐハッキリ判ったと考えてはいけない。彼が到着した時、ブギスの部落は危機に立っていた。
『彼等はみな怖がっていました』と彼は私に言った『誰も彼も身の危険に怖じけていた。もし彼等がラージャと、あの風来坊のシェリフ・アリとの間にはさまって、次々に破滅していくのが嫌やなら、彼等は直ぐ何か手を打たなくてはならないことが、僕には手にとるように見えた』
しかし、どんなにハッキリ判っても、ただ判るだけではなんにもならない。ジムは、まず人々の恐怖と利己主義のとりでを破って、彼等の厄介な頭にそのことをたたき込まねばならなかった。ついに、彼は、それをたたき込んだ。
だが、まだそれだけではなんにもならない。彼は、打つ手を考えねばならない。彼は考えついた――大胆不敵な計画を。そして、彼の骨折りは、これでやっと半分すんだわけだった。あと半分の骨折りは、彼自身の確信を、秘密の馬鹿らしい理由でしりごみしている大勢の人々に、吹きこみ、彼等の愚劣な嫉妬を消し去り、あらゆる種類の愚かな不信用を論破することだった。
もし、ドラミンの権威の重みと、ドラミンの息子の熱狂的情熱がなかったら、彼は失敗しただろう。あの抜群の青年ダイン・ウァリスは、まっ先にジムを信じた。二人の友情は、人種の違いそのものが反ってある神秘共感によって二人の人間を引きつけたらしく、白人と黒人との間の不思議な、深い、稀らしい友情であった。
ダイン・ウァリスのことを、人々は誇らしげに、彼は白人のように戦う術を心得ていると言った。これは本当で、彼は白人的な勇気――大っぴらな場所での勇気とでも言おうか――を持っていたが、しかし同時に彼はヨーロッパ的頭脳の持ち主だった。諸君は時どきそういうものに出会い、意外にも自分に親しい思想、明確な想像力、強固な決断力、一抹の愛他主義などを発見して驚愕する。
ダイン・ウァリスは、背は低いが立派な均整をもった体躯、誇り高い態度、洗練された自由な身のこなし、そして燃え輝く火のような性格を持っていた。大きな黒い目をした彼の黒っぽい顔は、行動している時は表情豊かで、休息している時は瞑想的だった。
彼は無口な性格で、断固としたまなざしと、皮肉っぽい微笑と、大した知性と力を備えていることを暗示するような慎重で慇懃な作法の人物だった。こういう人物は、西欧国の者のまなこに、しばしば単に表面だけを見られ勝ちだが、実は、有史以前の神秘におおわれた種族や国々の、もろもろの隠れた可能性の扉を開いて見せてくれる。
ダイン・ウァリスは、ただジムを信頼しただけでなく、彼を理解したと私は確信する。私がこの青年のことを話すのは、私自身が彼の虜《とりこ》になったからだ。彼の火のような静けさ――もしこういう言葉が言えるなら――と、同時にジムの大望に彼が聡明な共感をいだいていることが、私を感動させた。
私は、友情というものの本当の源泉を見たように感じた。もしジムがリードしたというなら、ダイン・ウァリスは、自分のリーダーを虜にしていた。じっさい、リーダーのジムは、あらゆる意味で虜だった。国土、人々、友情、愛は、彼の嫉妬ぶかいボディ・ガード(護衛)のようなものだった。来る日一日々々は、その不思議な自由の枷《かせ》に、鎖の環を一つずつ加えていった。私は、日毎にジムの話を聞けば聞くほど、そう確信していった。
話! 私が話を聞かなかったか? 私はそれを辺境でも、キャンプでも聞かされた。ジムはラージャの許から戻った後で、私に国をざっと見回らせた。私は、大部分の話を、双子山の一つの頂へ、最後の百フィートかそこらは両手と膝で這い登って行って、聞いたのだった。われわれの護衛者《エスコート》は、(私たちは村から村へ自発的にこの役を買って出た男たちに案内されて行った)その間、山の中途の一寸した平坦な場所にキャンプしており、静かな風のない夕ぐれに、木をたく煙の匂いが下から何かすばらしい芳香とまじり合って、心地よく私たちの鼻孔をくすぐった。声々もまた姿なき澄んだ明瞭さで、微妙に立ち昇ってきた。
ジムは切り株の上に腰をかけ、パイプを取り出して一服はじめた。若草や灌木が芽を出しはじめており、巨大な一むらの棘《とげ》とげな小枝の下に土塁の跡があった。
『すべてがここから始まったんです』
ジムは長いことじっと黙って考えこんでから言った。黒い絶壁の約二百ヤード向こうの、いま一つの山の上に、高い黒ずんだ棒杭が一列に並んでおり、そちこちに崩れかかった跡が見える――シェリフ・アリの難攻不落の野営陣地の残骸だ。
しかし、それは攻略されてしまった。これはジムの計略だった。彼は、ドラミンの古い火砲をその山の頂上に据えたのだった。それは錆びた鉄製の七ポンド砲二台と、たくさんの真鍮の小型大砲――つまり、ごく一般向きの大砲とだった。数多くの真鍮の大砲といえば、非常な富を象徴するが、同時に、それは、もし無謀に銃口の方へ敵が押し寄せれば、かなりの距離までりっぱに掃射のできる代物だった。問題は、それらを山頂に運ぶことだった。
ジムは私に、彼が太索《ケーブル》を縛りつけた場所を示し、パイプの火皿で土塁の輪郭を描いて見せながら、彼が、丸太をくり抜いてそれが尖った棒杭の上で回転する仕組みの粗末なキャプスタン〔いかり巻き上げ装置〕をどういう風にして作ったかを説明した。
最後の百フィートを引き揚げるのが難中の至難事だった。彼は頭の中で、自分がこれを成功させる責任者だときめていた。彼は戦闘部隊を動員して、徹夜で決行させた。一定の間隔をおいて、山腹には煌々と大きな篝火《かがりび》をもやしたが、『しかし、山上のここでは』と彼は説明する、『真暗闇の中で、大砲引き揚げの一隊は、飛び回っていなければならなかった』
彼は山の頂から、人々が山の中腹で、蟻が食物を運ぶように動いているのを見た。その晩、彼自身はリスのように、絶えず山を駈け下ったり、よじ登ったりして指導し、激励し、あたり一帯を監視しつづけた。
ドラミン老人は、肘掛椅子に腰掛けたまま、自分を山まで運ばせた。彼等はドラミンを山腹の平らな場所に下ろし、彼はそこで、巨大な煌々とかがやく篝火の光の中に坐った――
『大した老人だ――あれこそ本当の老首領だ』とジムは言った。『小さいすさまじい目をらんらんと輝かし――一対の巨大な燧《すい》発拳銃を膝の上に置いて。じつにすばらしい、黒檀と、銀づくりの、美しい銃機と昔のらっぱ銃のような大きな銃口。あの拳銃は、シュタインからのプレゼントのようです――ほら、あの指環のお返しにね、かつては、あの良きスコットランドの老人マックニール氏のものだったんです。そのマックニール氏がどうしてあれを手に入れたかは、神様しかご存知ありませんがね。
とにかくその銃を膝に、ドラミンは手足一つ動かさず泰然としてそこに坐り、後には乾いた粗朶《そだ》の火焔がえんえんと燃え、大勢の人々が走り回り、叫び、彼の周囲に群がっています――およそあれ程荘厳な、威風堂々たる老人はいません。もしシェリフ・アリが手下の悪党どもをわれわれに放って、僕の部隊を蹴ちらしていたら、ドラミンにはあまり勝ち目はなかったでしょう。ねえ? とにかく、彼は、万一の場合は死を覚悟でそこへ登ってきたのです。間違いなく! たしかに! 彼がそこに巌のように傲然と坐っているのを見ると、僕は昂奮に震えた。
しかし、シェリフ・アリの奴は、われわれを気が狂ったんだと思いちがえて、決してわれわれが何をしているか様子を見にやって来ませんでした。誰一人、あんな事が可能だとは信じなかった。そうですとも! あれを引っぱったり、押し動かしたり、汗水たらして懸命になっている連中自身も、まさか成就できるとは信じなかったと思う! たしかに、彼等は信じなかったにちがいない……』
ジムは、煙を立てているシャクナゲの枝を握り、唇に微笑をうかべ、少年っぽい目をキラキラ輝かして、まっすぐ立っていた。私は、彼の足元の切り株に腰かけており、私達の眼下には、果てしない大森林が陽光の下に黒ぐろと海のように起伏して延びひろがり、その間を蜿蜒《えんえん》たる川がきらめき流れ、村々が灰色の点々のようで、そして、そちこちに、森を伐採した開拓地が、綿々とつづく樹木の梢の黒い波の中に、明るく小島のように浮き上がって見える。
この茫々として単調な風景の上に、闇が立ち籠めたように濃い物陰が影を落とし、光が、さながら深淵に射し込むように、その上に射している。陸地は日光をむさぼり食っており、はるか彼方の海岸線にそって、空白の大海がうす霧の中に滑らかに光っており、はがねの壁が空に立ち昇ろうとしているように見える。
私はジムと一緒に、あの歴史的な山の頂に、陽光をあびて高く立っていた。彼は、森林を、世俗の闇を、古い人類を、威圧してそびえ立っていた。ねばり強い永遠の若さにかがやく彼の姿は、闇の中から生まれた、決して年をとらない種族の力と美徳を象徴する、台座の上の彫像のようだった。なぜかしら、彼はいつも、私には象徴的に見えた。たぶん、このことが、私が彼の運命に興味をもった本当の原因であろう。
彼の人生を新たにこうしたまなこで見るようになったこのエピソードを、いま思い出すのは、彼にとって本当に公平なことかどうか、私には判らない。が、しかしあの瞬間の彼の印象を、私はありありといまも覚えている。それは、光の中の一つの影に似ていた」
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第二十七章
「すでに伝説は、ジムを超人的力を持った偶像に祭り上げていた。
そうだ、人々は、あの大砲を山頂に上げる時、たくさんの綱が巧妙に配置されていて、不思議な仕掛けが大勢の男たちの努力で回転し、そして火砲は各々、野性の豚が下草の中を鼻で掘り下げて進むように、自ら藪をかき分けてゆっくり登って行ったと言った。しかし……最も賢い連中は首を振ったが。
たしかに、このすべての出来事には、何か玄妙不可解な点があった。なぜなら、畢竟綱の力とか人間の腕力とかはなんであるか? すべてのものの中には、ある反逆的たましいが存在し、それは、強力な魅力と魔法によって克服されねばならないのではないか。
こう、スウラ老人――大へん立派なパトゥーサンの家長――は、ある夕べ、私と静かに語り合った時言った。
だがスウラもまた職業的魔術師で、米やもろもろの物資にまつわる頑固な反逆だましいを和らげるために、近郷何マイル四方のあらゆる米搗きや稲刈りの行事に立会った。この職業を、スウラ老人は最も困難なものだと考えているらしかった。たぶん、物質のたましいは、人間のたましいより一段と頑固なのだろう。辺鄙な村々の単純な人々は、ジムは大砲を背中にかついで――同時に二つ――山へ運び上げたと信じて語り合った、世にも自然なことを話すように。
こういう事は、ジムをひどく当惑させ、彼はじだんだ踏んで、苛立たしげに笑って叫んだ。
『こんな馬鹿々々しい連中はどうしようもない。彼等は夜通し起きていまいましい馬鹿話に花を咲かせ、嘘がひどければひどい程、ますます気に入るらしい』
この苛立ちの中に、諸君は、彼の環境が彼に及ぼす微妙な影響のあとをたどることが出来るであろう。それは、彼のとらわれの状態の一部であった。ジムが、こういう頑迷な伝説を、本気になって懸命に否定するさまは愉快であった。ついに私は言った。
『ねえ君、まさか君は、わたしがそれを信じているとは思わんだろうね』
彼は、びっくりして私を見上げた。
『いや、まさか! そうは思いません』
と言って、彼は突然ホーマー物語の英雄ばりの大声で笑いだした。
『まあ、とにかく、大砲はみな頂上へ上がり、陽の出には、揃って発射しました。正しく! 砲弾の破片が飛び散るさまをお目にかけたかった』
と彼は叫んだ。
ジムの側には、ダイン・ウァリスが、伏目になって、少し脚を引きずりながら、静かな微笑をうかべて聞いていた。
見事大砲を山頂へ引き上げることに成功したので、ジムの味方はひどく自信満々になった。彼は、砲台を、その若い日に戦争をかなり見てきた二人の年配のブギス人に監督させて、自分は、峡谷に隠れているダイン・ウァリスと襲撃隊の仲間入りをした。
間もなく、襲撃隊は山をよじ登りはじめ、三分の二程上った所で濡れた草の上に横たわり、協定合図の陽の出を待った。ジムは私に、どれ程待ち切れない切ない気持で、じっと暁のくるのを見守っていたか、仕事と山登りで熱した体に、冷たい夜露がどんなにぞっとするほど冷えびえと骨の髄まで滲み通って感じられたか、出発の時が来る前に、彼は木の葉のようにガタガタ震えだしはしないかと、どれ程心配したかしれないと語った。
『一生の中で、あの三十分ほど、時の経つのが遅かったことはないな』
と彼は言った。
やがて、前方の空に、沈黙の矢来が見えはじめた。山腹に散らばっている男達は、黒い石や、夜露に濡れた藪のかげにうずくまっていた。ダイン・ウァリスは、ジムの横に腹這っている。
『僕たちは、互いに顔を見合わせた』
と、ジムは、彼の友人の肩に優しく手をかけて言った。
『ダイン・ウァリスは、ニッコリ、この上ない元気な顔で頬笑みかけたが、僕は、震えの発作が起きそうで、唇一つ動かせなかった。全く、本当なんだ! 上衣をとると、僕は汗でぐしょ濡れだった……それで、あんなに冷たかったのだ……』
と彼は言い切った。そして私は、彼が決して事の結果を恐れて震えたわけではないことを信じた。彼はただ、その身震いを抑え切れるかどうかを心配しただけだった。決して結果を気にしたのではない。彼は、たとえ何事が起きようとも、あの山の頂上へ登って、そこに踏み止まらねばならないのだ。ジムには、もう引き返す道はなかった。これらの人々は、盲目的に彼を信頼していた。彼だけを! 彼のむきだしの言葉を……
この点で、私は、彼が立ち止まり、じっと私を見つめながら言ったことを思い出す。
『ダイン・ウァリスの知ってる限りでは、連中は、決して一度も、僕を信頼して後悔したことはないそうです。まだ一度も。ウァリスは神かけて、彼等がいつまでもそうであることを願っています。
だが一方、不運にも!――村民たちは、僕の言葉を一切合切鵜呑みで信奉する習慣に陥ちてしまった。まさか思いもかけなかった! なぜだろう? ほんの先頃も、まだ一度も見たことのない馬鹿な年寄りが、はるばる何マイルも向こうの村から、女房を離縁したものかどうかを尋ねにやってきた。実際。真面目な話。こういった具合で……とても信じられないことだ。信じられますか?
爺さんは、一時間以上もベランダにうずくまって、ビンロウジを噛み、ためいきをつき、そこら中につばきをしながら、葬儀屋よろしくの陰気な面をして、僕が即席の頓智解答をもって出てくるのを待っていました。こういった事は、見かけほどそうおかしくはないんです。
お前の言い分は?――いい女房か?――そうだ。いい女房だ――だが年寄りだ。そして爺さんは、何か真鍮の瓶について、くだらない長話をはじめた――。
爺さんと女房とは、ずっと一緒に暮らしてきた、十五年か――二十年か――ハッキリしない。長い長い間。いい女房だ。女房を少しなぐった――大してなぐらない――ほんの少し、女房が若い頃なぐった。わしの名誉のため、なぐらなくてはならなかった。
とつぜん、年寄ってから、女房は、三つの真鍮の瓶を、自分の姉の息子に貸してしまい、毎日大声で亭主に悪態をつくようになった。爺さんの敵達は、それを知って嘲り笑い、彼は全く面目を失した。瓶もぜんぜん戻ってこない。その事で人々からひどく悪口を言われている――
こんな話は、てんでなんとも取りようがない。爺さんには家へ帰れと言って、その中僕が出向いてみんな解決してやると約束した。爺さん、ニタリと笑って帰って行くところはいいが、しかし、全くひどい迷惑ですよ!
僕は一日がかりで森を抜けて行き、翌日は、村の大勢の馬鹿者どもから、なだめすかして事の真相を聞き出すのにまた一日かかった。これには、血なまぐさい騒動の起きそうな要素があってね。馬鹿どもは一人残らず、こっちかあっちかの家族の味方で、村の半分は、いまにも手当たりしだいの武器をもって、他の半分を攻撃に出掛けんばかりの有様です。正真正銘の事実! けっして冗談じゃない……田畑の仕事なんか放っぽり出しで。
僕は、爺さんに、いまいましい瓶を取り戻してやり――みんなをなだめ、静めた。片付けるには、苦労はなかった。もちろん、簡単です。ただぼくの小指を曲げただけで、あの村中ひっくり返るような喧嘩は片付きました。
苦労なのは、ただ事の真相をつかむことでした。いまでも、僕のした事は双方に公平だったかどうか自信がない。その点が気にかかる。それにまた、あの連中の話ときたら! 全くだ! どこにしっぽがあるのか頭があるのか、てんで判らない。それよりは、今日が日にも二十フィートの古い矢来を襲い取るほうが楽だ。ずっと! 連中の話を理解するのにくらべれば、そんなのは朝飯前だ。この方が、時間だって、そうはかからない。
いや、まったく、全体としてみれば滑稽な話だ――あの馬鹿爺いは、僕の祖父ぐらいの年なのに。しかし、別の見地からすると、これは笑い事じゃないんです。僕の一言で万事万端が即決とは――シェリフ・アリをやっつけて以来ね。全く恐ろしい責任ですよ』と、彼に繰り返した。
『いや全く――冗談は別として、仮りにあれが三個の古びた真鍮の瓶でなくて、三人の人命であったとしても、同じだったでしょうよ……』
ジムはこう、彼の戦勝が人々のモラルに及ぼした影響力を説明した。その影響力は実に計り知れなかった。戦勝は、彼を闘争から平和へと、死から人々の生命の中心へと導いていったが、しかし、陽光の下に黒ぐろと延び広がったこの土地の暗影は、いまもなお、不可思議な、古代からの眠りをつづけているように見えた。
彼の溌剌とした若い声は――彼がほんのわずかしか消耗のしるしを見せないのは、実に驚くばかりだ――ジムがただ体の震えを抑えることの他は何も考えなかったあの寒い露の下りた朝、鳴りとどろいていた砲声と同じように、軽く空中に浮かんで、森林の不変の顔の上を通りすぎていった。
最初の朝日の光が、この不動の森林の梢にそって射し込んでくるや否や、双子山の一方の山頂は、殷々《いんいん》たる砲声のとどろきと、もうもうたる白い煙霧に身もだえし、いま一方の山頂には、とつぜん、驚愕の悲鳴、おたけび、怒号、恐怖、狼狽の叫び声が爆発した。
ジムとダイン・ウァリスとは、まっ先に矢来の棒杭に手をかけた。伝説では、ジムは指一本で、敵の門を打ち倒したと言われている。もちろん、彼自身は懸命にこの業績を否認していた。矢来全体が、貧弱なものだった――と、彼はきっと諸君に、懸命に説明したろう――(シェリフ・アリは、主として、この近づき難い位置に信頼していたのだ)そしてとにかく、この尖り杭の柵は、すでにこなごなに打砕かれていて、ほんの奇跡的にくっついていただけだった。僕は馬鹿みたいにその棚に肩を当て、もんどり打って向こう側へ飛び込んでしまった。全くだ! もしダイン・ウァリスがいなかったら、僕は、あばた面の入れ墨をしたアリの手下のごろつきに、シュタインのかぶと虫のように、材木に槍で串刺しになったに違いない――
第三番目に矢来の中に突っ込んで行ったのは、ジム自身の従者のタム・イタムであったようだ。この男は北方から来たマレー人で、ふらりとパトゥーサンへ迷い込んできた旅人だったが、ラージャ・アラングに、暴力でボートの漕ぎ手にされてしまっていた。タム・イタムは、チャンスを見て脱走し、ブギス植民人の中に危険な避難をし、(しかし、ほとんど食物もなく)自ら志願してジムの従者になったのだった。
タム・イタムは、ひどく色の黒い、お平顔《ひらがお》の、怒って血走った出目金の男だった。彼の≪白人の|ご主人様《ロード》≫にたいする献身振りは、度をはずれて、ほとんど狂信的だった。タム・イタムは、むっつりした影のように、片時もジムの側を離れなかった。公式の場合は、彼は片手を短剣のつかにかけて、ご主人のすぐ後に従い、彼の獰猛な陰気な目でギロギロ睨まれて、一般人は遠方にしりごみしていた。
ジムは、このタム・イタムを彼の世帯の頭にし、すべてのパトゥーサン人は、彼を非常な権力者として尊敬し、きげんをとった。彼は矢来を占領の時、その戦闘の組織的な獰猛さで大いに名を上げた。攻撃隊はあまりに素早く、アッという間に敵陣地に侵入したので――とジムは語った――防備隊の極度の恐慌にもかかわらず、『五分間、あの矢来の中で白兵戦が行なわれ、ついに誰か馬鹿者が敵の木と草造りの宿舎に火を放ったので、僕たちはみな、生命からがらそこを引き上げねばならなかった』
敵は、完全に総くずれだったらしい。
ドラミンは、砲火のけむりが彼の巨大な頭上にゆっくり拡がっていく山腹の椅子に不動の姿勢で腰かけたまま、このニュースを深い唸り声で受けとった。
そして、彼の息子ダイン・ウァリスも無事で、先頭に立って敵を追撃していると聞くと、ドラミンはもう唸り声一つ出さず、泰然と立ち上がる気配を示し、従者たちは急いで彼を支え、うやうやしく手を差しのべて立ち上がらせた。彼は、大した威厳で足を引きずりながら、ゆうゆうと木陰に引きあげ、そこで、全身を白布でおおって、眠るために横たわった。
パトゥーサンの昂奮は非常なものだった。ジムは私に話した、――山頂で、赤い燃えさしや、黒い灰や、焼けかけた屍の散乱する敵の矢来に背を向けて振り返ると、パトゥーサンの川をはさんだ両側の家並みの間の広い空地は、何回となく、突然沸き返ったような人で埋まり、またたちまち空《から》になった。かすかに彼の耳に、下から大騒ぎでドラや太鼓を打ち鳴らす音が聞こえ、群集の狂喜した歓声が、遠い爆発音のとどろきのように彼の耳に入ってきた。おびただしい数の吹流しが屋根屋根の褐色の棟《むね》に、白、赤、黄色の小鳥の飛び交うように、ひらひらと舞っている。
『君、さぞ嬉しかったろうな』
と私は、共感に心をゆさぶられながらつぶやいた。
『まったく……大したもんだった! 大したもんだった!』
とジムは、両腕を大きく開いて大声に叫んだ。突然のこの行動に、私は、まるで彼が胸中の秘密を太陽に、暗黒の立ちこめた森林に、無情な海に、打ち明けるのを目撃したかのような驚きを感じた。私たちの脚下には、町が、潮流の眠っているような川の両岸に、和やかなカーヴをえがいて休んでいる。
『実に大したもんだった!』
と、ジムは三度、こんどは独りごとのように、つぶやき声で繰りかえした。
大したものだ! たしかに大したものだ。彼の言葉には≪成功≫というシールが貼られ、彼の足は自らの征服した土地を踏み、人々の盲目的信頼、火を通して獲得した自信、孤独で果たした偉業はいまや彼の紋章となった。
これらはみな、前にも諸君に言ったように、話せば縮小されてしまう。ただ言葉だけでは、とても彼の全面的な、完全に孤独な印象を、諸君に伝えることは出来ない。
もちろん私は、彼がそこであらゆる意味で独りぼっちだったことは知っている。が、しかし彼の人から疑われない性格は、彼を周囲の人々と、とても密接に接触させていたから、この孤立は、一見、ただ彼のすばらしい権力の自然の結果のように見えた。
彼の孤独は、彼の偉大な姿を強調した。彼は、さながら、ただ名声の偉大さによってしか大きさを計ることの出来ない例外的偉人の一人であったかのように、そこには、彼と比較できるようなものは何もなかった。そして彼の名声は、諸君覚えていられるだろう、私がそのあたりを旅行していた長い期間中、じつに大したものだった。彼の名声のとどかない所へ行くには、諸君は、ジャングルを抜け、長い疲れの道中を、漕ぎ、さおさし、遠く旅して行かねばならなかったろう。
ジムの偉業をたたえる声は、けっしてわれわれ皆の知っている、あのいかがわしい名士連の宣伝吹聴の声ではない――下品な騒々しい声ではない――鉄面皮な図々しい声ではない。
それは、ただ彼の言葉だけが日ごと日ごとの唯一の真実である、過去なき土地の静けさと、暗闇との中から生まれた声である。それは、諸君が未踏査の深淵に下って行くときのあの静寂、そのとき諸君のかたわらに絶えず聞こえるしんしんと心に滲み、遠くまでひびきわたるあの静けさの声と何か共通の性質をもった――驚異と神秘に色どられて人々のささやき合う、静かな声だった」
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第二十八章
「敗北したシェリフ・アリは、もう抵抗せずに国を逃げ出し、そして、かつて悲惨な狩立てでジャングルに逃げ隠れていた村人たちが、そろそろ這い出して元の朽ち腐れゆく我が家へ戻りはじめると、ジムは、ダイン・ウァリスと相談して、土地の頭《かしら》たちを指名した。こうして彼は、この土地の実際的な統治者になった。
老ツゥンク・アラングときては、最初の恐怖は目も当てられなかった。話に聞くと、アラングは、山が砲火攻撃で占領された事を知ると、謁見ホールの竹の床にうつぶせに倒れたまま身動き一つせず、丸一昼夜、聞くもぞっとする苦しいうめき声を立てつづけていたので、その腹這いになった姿に、誰一人、槍の長さの間隔より近くによる者はなかった。
アラングは、パトゥーサンから不面目に追い立てられ、人々から見捨てられ、無一物の姿で、阿片もなく、女達もなく、従者もなく、見付けられ次第殺される落人《おちうど》の身になり下って、そこらをさ迷い歩いている自分の姿が、まざまざと目にうかんだのだ。
――シェリフ・アリの次は、このわしの番じゃ。そして、あんな凄い悪魔にリードされとる攻撃隊に、どうしてわし等が低抗できよう?
そして、私がパトゥーサンを訪れた時、ツゥンク・アラングがまだ生命とあんな権威とを持ちつづけていたのは、まったく、ただジムの正義感のおかげだった。
アラングに散々な目に会ってきたブギスの人々は、大へん仕返しをしたがったし、また感情を表わさないドラミン老人は、まだ心ひそかに、我が子ダイン・ウァリスがパトゥーサンの統治者となる日を見たいという望みを棄ててはいなかった。
われわれとドラミンとの会見の折にも、一度、彼は慎重に、チラリとこの秘めやかな野望を私に覗かせたことがある。威厳をもった油断のない、ドラミンの接近のし方ほど、巧妙で見事なものはまたと無いだろう。
わし自身は――という話から彼ははじめた――若い頃は、いろいろ強い体力にものをいわせて仕事をした。しかし、いまはよる年波で疲れた……堂々たる巨躯と、チラリチラリ明敏な詮索的な視線を投げる傲慢な小さい目を持った彼は、いやおうなしに、老獪な巨象を連想させた。
彼の厖大な胸は、静かな海のうねりのように、ゆるやかな起伏を、強く、規則的につづけている。彼もまた、自ら断言する通り、トゥアーン(大人《たいじん》)・ジムの叡知に絶大の信頼を置いていた。もし彼がただ約束さえしてもらえるなら! 一言で充分だ……彼の低いガラガラ声は、衰えた雷鳴の最後のとどろきを思わせ、彼の言葉が途切れた。
私は、この話題を避けようとした。しかし、それは難かしかった。というのは、ジムが統率者としての権力を持っていることは疑う余地がなく、彼の新しい天体には、与えるも、拒むも何一つ彼の権限でないものはないようだったからだ。しかしそんな事は、私は繰り返して言うが、謹聴のそぶりでドラミンの話を聞いているうちふと私の心に浮かんだ、ついにジムもみずからの運命を九分九厘征服したらしいという驚嘆にくらべれば、とるに足りない事だった。
ドラミンは、しきりに国の未来のことを心配しており、私は、とつぜん彼の論旨が一変したのにギョッとした。――彼は言う、国土は、神が置いた場所にいつまでもそのまま在る。しかし白人たちは、われわれの所へやって来、しばらくすると、また行ってしまう。彼等は立ち去ってしまう。あとに残された者には、彼等はいつ戻ってくるか判らない。白人たちは、彼等の国土に、彼等と同じ人種の許に行ってしまう。だから、この白人もまた、そうするだろう……
私は、何が私にそうさせたのか知らないが、思わず、力をこめて、『ノー、ノー』と答えてしまった。
この答えが無分別であったことは、ドラミンが、私の方に面と向き直り、あの固定した深いしわの刻まれた、巨大な茶色の仮面《マスク》のような顔の、表情一つ変えずに、――それはいいニュースだ、そして、いったいそれはなぜか? と反射的に尋ねたとき、はじめて歴然とした。
小柄で、母性的な魔女のようなドラミンの妻は、私のいま一方の側に坐って、頭を布でおおい、脚をくるんで、大きな窓穴からじっと外を眺めている。私には、ただこぼれた灰色の巻毛と、高い頬骨と、尖った顎がかすかに噛んで動くのだけしか見えなかった。
ドラミンの妻は、双子山まで延び拡がった厖大な森林に目をそそいだまま、憐みのこもった声で問いはじめた――
なぜ、あんな若い身そらで、はるばる家郷を離れ、多くの危険を経て、こんな所までやって来たのか? 彼は、あちらに家庭はないのか、彼自身の国に親戚はないのか? 彼は、いつも我が子の顔を覚えている年寄った母親を持っていないのか?
私は、全く虚を衝かれた。私はただ何かもごもご口ごもりながら、漠然と首を振るほかなかった。後で私は、自分が難問から脱出しようとして、ジムを大そう見すぼらしく見せてしまったことにハッキリ気づいた。その瞬間から、老|首長《ナホーダ》は無口になった。彼は余り喜ばなかったようだし、たしかに私は、彼に考え事の種を与えたのだ。
奇妙なことに、その日の夕刻、(私のパトゥーサン滞在の最後の日)私はふたたび、あの同じ質問に直面したのだった。ジムの運命について私に答えられない、なぜか? という問いに。そしてこれは、私を彼の恋愛物語へと導いていった。
きっと諸君は、そんな話なら、わざわざ君に聞かなくとも、想像つくさ、と考えるだろう。恋愛物語なら聞き倦きるほど聞いているし、第一われわれの大多数は、全然恋の物語などは信じない。大体恋物語とは、いうなれば艮きチャンスの物語だ、くらいに考える。せいぜい、熱情的なエピソードか、あるいは、ほんの若さと誘惑のエピソード程度で、たとえしばらくは優しい慕情にうずき、悔恨に胸を裂かれたとしても、結局は忘れられてしまう運命だと。
この見解は、大方正しいので、たぶんジムの場合もまた……しかし、私には判らない。この恋愛物語を話すのは、けっしてそうたやすいことではない――もし世間一般の観点が妥当なら。
一見、それは他の恋愛物語と大いに似通ってはいるが、しかし私には、その背景に、ある女の陰鬱な姿が、孤独の墓地に埋められた残酷な叡知の影が、悲しげに、ふがいなく、無言で見守っているのが目にうかぶのだ。
墓そのものは、私は、ある早朝の散歩の時ふと行き当たった。それは、形らしい形なき褐色の土まんじゅうで、土台は、白|珊瑚《さんご》をちりばめてきちんと縁どってあり、周囲には、樹皮をつけたままの割った小枝で編んだ円形の柵をめぐらしてあった。そのきゃしゃな門柱には、青葉と花を編み合わせた花環がかけてあり――花はまだみずみずしかった。
こうして、女の影法師は私の空想かどうかは知らないが、とにかく、忘れられない墓が存在したという意味深長な事実を、私は指摘できるのだ。しかも、その丸木造りの柵は、ジム自身の手で作られたのだと私が言えば、諸君はすぐ、改まって、この物語の個人的な背景を見てとるに違いない。
ジムが、もともと他人の問題である愛情や思い出をこうして擁護するところに、いかにも彼らしい真面目さがうかがわれるようだ。彼には深い道義心があり、それはロマンチックな道義心だった。
言うも恐ろしい邪悪な男コルネリアスの妻は、そのわびしい全生涯を通じて、自分の娘より他には、心を打ち明ける人も、友人もなかった。
どうして、この気の毒な婦人が、――娘の父親と別れた後――恐ろしいマラッカ・ポルトガル混血人と結婚するようになったのか、どうして娘の父親と別れたのか、彼は死んだのか、(その方が、時にはむしろ慈悲であり得るが)それとも、無慈悲な因襲の圧力で、仲を裂かれたのか、私には謎である。
シュタインがふと漏らした小話からすると、(彼はとても数多くの物語を知っていた)たしかに、彼女は非凡な女性であった。そして彼女自身の父親は白人の高官で、この世の成功をひたすら大事にはぐくむほど愚鈍でないためしばしばその生涯《キャリア》を日陰の身で終わる、すばらしい天分を持った男達の一人であった。
私は、きっと彼女も、身を救う愚鈍さが足りなかったに違いないと思う――そして彼女の生涯は、パトゥーサンで終わった。
諸行無常の人間共通の運命は……だって諸君、どこに、本当の感受牲をもった者で、生命より大切に思っている誰かが、または何かが、完全に自分の所有《もの》だと信じているさなかに、自分の手から奪い去られた思い出を持たない者があろうか?……こうした人間共通の運命は、しかも特別な残忍さで、女性の胸に白羽の矢を立てるようだ。
運命は、主人のような罰し方はしないで、さもひそかな、抑えきれない悪意を満たそうとするかのように、長い拷問の責め具を与える。
まるで地球を支配する任命を受けた運命という奴は、この世の規定や戒めを超越しそうになった人々に復讐しようとしているように思われる。つまり、時々女だけが、彼女たちの愛情に、人々がわずかに気づいてギョッとするような微妙な要素――すなわち超地上的なタッチ――をその愛の中に入れようとして、≪運命≫から長い拷問にかけられるのである。
私は不思議な気持で自問する――いったい女性にとって、この世はどう見えるのだろうか――はたしてこの世は、彼女らには、われわれ男性が認め知っている形や実体を持ち、われわれが呼吸している空気を持っているように見えるのだろうか!
時々私は考える。女性にとって地球は、きっと彼女たちの冒険的なたましいの昂奮で沸きかえり、あらゆる危険を物ともせず、いっさいを擲って飛びこむ無我の栄光にかがやく、途方もない崇高壮美の国に違いない。
しかし私は、この世には、真の女性はごく少数しかいないのではないかと疑う。――もちろん、地上には無数の人類がおり、数という点では、男女の数はほぼ平等だと知ってはいるが。
だが、この母親も、娘もたしかに、本当の女であったに違いない。私はこの二人の姿を、心に描かずにはいられない――最初は若い女といたいけない子供、次は年配の女と若い娘――恐ろしい酷似と、迅速《はや》い時の流れ、この二つの淋しい生命をとりまく大森林の壁、孤独、蛮地の混乱、そして、この二人の間で交わされた言葉には、みな悲しい意味が滲み通っていた。
きっと母と娘が打ち明け合ったのは、事実はあまり多くなく、心底にひそむ感情や――後悔や――恐怖や――警告の言葉だったに違いない。でも若い娘はその警告を、母親が死んでしまうまでは――そしてジムがやってくるまでは――充分理解できなかっただろう。
その時になってはじめて、彼女はいろいろ理解したに違いない――すべてではないが――主として恐怖を。
ジムは、彼女を≪貴重≫という意味の言葉で、貴重な石――宝石《ジュエル》と呼んでいた。きれいな名でしょう? 彼にはどんな事でも可能であった。彼は、彼の幸運を受けるにふさわしい資質があった、彼が――結局――彼の不運にふさわしかったに違いないように。
ジュエルと、彼は彼女を呼んだ。そして彼はこの名を≪ジェーン≫と呼ぶと同じように――いかにも夫婦らしい、家庭的な、平和な印象を与えて呼んだ。
私はこの名前を、彼の邸の広い前庭に上陸して十分ほどして、初めて聞いたのだった。彼は、私に、腕もちぎれそうに強い握手をしてから、入口の段々を駈けのぼり、重たい庇《ひさし》の下の戸口で嬉々として、まるで少年のように騒ぎ立てた。
『ジュエル! おお、ジュエル! 早く! ここへ友人が来てくれたんだ』……
そして突然、薄暗いベランダで、彼は私の顔をじっと覗きこんで真剣につぶやいた。
『ねえ――これは決してくだらないたわ言じゃないんです――どれ程彼女のおかげをこうむってるか、とても口じゃ言えない――だから――判るでしょう――僕は――全く、まるで……』
彼のあわてた、熱心なささやきは、家の中で白い姿がひらひらしたため急に途切れ、かすかな呼び声がして、子供っぽい、しかし精力的な、繊細な目鼻立ちの小さな顔と、誇り高い、注意深い目が、奥の暗がりから、小鳥が巣の奥からのぞくように、チラリと覗いた。
私はこの名前に愕いたが、しかし、私がこの名前と、ここへ着く前の旅先で、パトゥーサン川から約二百三十マイル南の小さい海岸の町で、ふと小耳にはさんだ驚くべき噂話とを結び合わせたのは、それからしばらく後だった。
私の乗ったシュタインのスクーナー船は、産物集荷に立ち寄ったので、私はそこへ上陸してみて、こんなみすぼらしい土地にも、三等補佐官が駐在しているのをみてひどく驚いた。彼はデブで、脂ぎった混血の大男で、しじゅう目をパチクリし、まくれた唇を脂光りさせていた。
私が行った時、この男は、だらしなく胸をはだけて籐椅子に長々とねそべり、大きな何かの緑葉を、彼のぽっぽと湯気の立っている頭のてっぺんにのせ、もう一枚の葉を手に持って、けだるそうに扇いでいた……
パトゥーサンへ行く? ああ、そうですか。シュタインの貿易会社か――あれなら知っている。あれは特別許可を持っていたな。だが、おれの知った事じゃない。いまは、パトゥーサンも、そう悪くないらしいな――と彼は投げやりな調子で言い、またでれでれと話しつづけた。
――あすこにゃ、ある種の白人の旅烏が入りこんでるって噂に聞いたが……え? なんだって? 君の友人? そうか!……じゃ、あすこに無頼漢が一人いるってのは本当だな――何しに行ったんだろう? 入りこんだんだな、あの無頼漢め。え? いままでおれにはハッキリしなかった。パトゥーサンか――あすこの土人は、人間ののどを切るそうだ――まあ、われわれの知ったことじゃない。
彼は言葉を中断して唸り声を立てた。
『フウーウ! べらぼうな! 暑い! 暑い! やれやれ、では噂も、結局まんざら嘘じゃなさそうだな、そして……』
彼は、けもののようにどんよりした眼を片方つぶり(まぶたがビクビク震えつづけている)もう一方の目で、ジロッと私をにらみ、謎のように言った。
『いいですかね、もし――判りますね? ――もし彼が、何か本当に値打のあるものを掴んでいるのなら――緑色のガラス玉なんかじゃなくてだ――いいかね? ――わしは政府の役人なんだ――君、あの無頼漢に言っといてくれ……え? 何? 君の友人だって?』……
彼は椅子の中で静かに体をごろごろしながら話しつづける……
『君、さっきそう言ったね。それはちょうどいい。おれはよろこんで君にヒントを提供するよ。君だって、なにかそのご利益《りやく》にあずかりたいだろう? まあ、黙って話を聞け。君はただ、彼に言ってくれりゃいいんだ、おれは話は聞いているが、政府には、なんにも報告してないと。まだ。いいですかね? なんで報告なんかする必要がある、え? あの大将に、もし生きてあの国を出られるなら、おれの所へ来いと、君言ってくれ。奴さん、それは自分できめた方がいい。え? おれはけっして訊問なんかしないと約束するよ。ごく内密さ――君判るね? 君にも――君には、おれから何か礼をするよ。手数料として、少しのコミッションをな。まあまあ、黙って聞き給え。おれは政府の役人だが、お上に報告はせん。そこが仕事だ。判ったね?
おれは、値打のあるものならなんでも買うといういい人間を何人も知っているから、あの無頼漢に、まだ生まれてから見たこともない大金をやれるんだ。おれにゃ、あいつがどんな男か判ってるさ』
彼は、両眼を開けてじっと私を見つめた。私はあっけにとられて彼の前に立ったまま、いったいこの男は気違いか、それとも酔っぱらいだろうか、と自問した。彼は汗ぐっしょりで息を切らせ、弱々しい唸り声を立てて、じつにものすごい恰好で寝そべっているので、私はこんな不潔な光景を見るに堪えず、また先を急いでいたので、その解答を得るほど長居できなかった。
その翌日、私は、土地の小さい土人の組合で漫然と話しているうち、この沿岸に、パトゥーサンの不思議な白人が、ものすごい宝石――名はエメラルドで、途方もない大きな、とても値踏みできない程高価な宝石を手に入れたという噂話が、おもむろに拡まりつつあるのを知った。エメラルドは、東洋人の心を、他のどの宝石よりも強くゆさぶるらしかった。
白人はそれを、彼のすばらしい強さと、知恵とで、ある遠国の統治者から手に入れたと噂されていた。白人はすぐその国を逃れ、極度の苦労をしてパトゥーサンに到着し、何ものも静めることの出来ないような彼の極まりない獰猛さで、そこの人々を恐怖させたと――
私に話してくれた人々の多くは、その宝石は、たぶん不吉な――昔、それを所持していた国々に戦争と大災害をもたらした有名なスカダナのサルタンの宝石のように、不幸をもたらす石だろうという意見だった。ことによると、同じ宝石かもしれない――そうらしい。
じっさい、神話的な巨大なエメラルドの物語は、アーチペラゴー号に乗った最初の白人の到着以来伝わっている古い話だった。そしてこの信念があまりしつこく持続されるので、四十年程前に、オランダ政府は公にその真相を探索させた程だった。
そんなすごい宝石は――と、私にこの呆れたジムの神話の大部分を教えてくれたある老人は証明した――彼は、その土地のチビのラージャの一種の書記だった――そんな凄い宝石は、と男は、かすんだ目で上目使いに私をじろじろ見ながら(彼は私に敬意を表して、小屋の床に坐っていた)女の身につけて隠すのが一番いい保存法だと言った。
しかし、どんな女でもいいわけではない。彼女は若くなくてはいけないと、老人は深いため息をついた――そして、恋の誘惑に無感動でなければいけない、と老人は、懐疑的に頭を振る。だが、こんな女が実在していたらしい。老人が聞いたところでは、一人の背の高い少女がおり、白人が彼女を大そう尊敬し、大事にしており、彼女は、従者なしで戸外に出たことがないという話だ。
人々は、白人がほとんど毎日彼女と一緒にいるのを見かけるそうだ。白人と少女とは、大っぴらに並んで歩き、彼は少女の腕を自分の腕の下に抱え――こういう風に――ひどく奇妙な恰好に――彼のわきの下に押しつけて散歩している、と世間の人々は言う。しかし、これは嘘かもしれない。実際、そんな変な恰好は誰だってする筈はない。これに反して、この少女が、白人の宝石を彼女の胸に隠して持っていることは疑う余地はない、と老人は結論した」
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第二十九章
『これが、ジムたち二人の夕べの散歩にたいする土人たちの見方だった。
私も何度か仲間入りしたが、その都度コルネリアスが、自分の合法的な父権を犯されたと思って不満をいだき、始終、さも歯ぎしりでもしているようにあの奇妙に口をひんまげた表情で、近くをこそこそ歩いているのを、いやな気持で目撃した。
しかし、電信線や郵便船の航路の果てから三百マイルもへだたった世界では、いかに、みすぼらしい功利主義の嘘でかためた文化は死に絶えてしまい、たわいもないものを含むが、しばしば魅力的で、時には芸術作品の深く秘めた真実性を持つ、純粋な想像力の働きにとって代わられるものか、諸君は注意したことがあるだろうか?
ロマンスは、ジムをロマンスの主人公に選り出した――これが噂の真相で、その他はみな誤りだった。ジムは、彼の宝石《ジュエル》を隠しなどはしなかった。じっさい、彼はジュエルをひどく自慢にしていた。
いまになってみると、私は全体として、ほんの少ししか彼女を見ていなかったことに気がつく。一番私の記憶にあるのは、彼女の滑らかなオリーブがかった蒼白い顔色と、キラキラと濃紺色に光る髪の毛が、形のいい頭にぐっとあみだに被《かぶ》った小さい紅いキャップの下から、豊かに垂れ下っていたことだ。
彼女の動作は自由で、自信があり、よくほの暗い紅色に頬を紅潮させた。ジムと私が話している間中、彼女はチラリチラリ私たちの方にすばやい視線を投げながら、優美な、魅力的な、そして油断のないことをハッキリ暗示する印象を残して、そばを往ったり来たりしていた。彼女の動作には、はにかみと大胆不敵さとが奇妙に組み合わされていた。
すべての美しい微笑は、さも、何か忘れ得ない恐ろしい危険の思い出にかき消されてしまうかのように、いつもすぐ、無言の、じっと抑えつけた不安な表情が、そのあとにつづいた。
時どき、彼女は、私たちと一緒に腰をかけて、やわらかい頬を可愛くへこませて小さい手で頬杖をつき、まるで、私たちの口から出る一言一言が、目に見える形で飛び出しでもするように、その大きな澄んだ目を、じっと私たちの唇に釘づけにして、懸命に話に聴きいっていた。
彼女は、死んだ母親から読み書きを習っていたし、ジムからかなり英語を教わっており、彼女独特のすばやい、少年ぽい抑揚で、たいへん可愛い英語を話した。彼女の優しさが、胡蝶の舞うように、ジムの頭上にひらひらと漂っていた。
彼女は、あまりいつもジムに見つめられて暮らしているため、どこかジムに似た外観を身につけてしまい、彼女の動く動作、腕をのばすしぐさ、振りかえったり、チラリと見たりする様子は、何かジムを連想させるものがあった。
ジムの身を気づかって警戒怠りない彼女の愛情は、ほとんど肌にじかに感じられるほどの烈しさを持っていた。それは実際に空間の包囲物質となって存在し、特殊な芳香のように彼を包み、顫える、抑えた、情熱的な声音《こわね》は、彼をつつむ日光の中にただよってくるように思えた。
諸君はきっと私をロマンチックだと考えられるだろうが、しかし、それは間違いだ。私はただ、ふと自分の出会ったある小さな青春の、不思議な、そして不安なロマンスの印象を、ありのままに話しているだけである。私は、興味をもって彼の仕事を――まあ、つまり――彼の幸運を、観察したのだ。
ジムは、彼女から妬《ねた》まれ愛されていたが、いったいなぜ彼女は妬むのか、そして何を妬むのか、私には判らなかった。土地も、人々も、みな彼女の同類で、それらは互いに注意深く力を合わせ、彼を他界から遮断し、神秘な、無数の所有力をもって、彼を守っている。
いわばここには、何も人に訴えたのむ理由《いわれ》はなかった。彼は自らの力のもたらす自由の中で捕虜《とりこ》となり、彼女はいつでも自分の頭をさしのべて彼の脚台になる用意ができてはいたが、一方彼女はこの征服者を倦まずたゆまず見張りつづけていた――さも、彼を引き止めておくことは難かしいかのように。
タム・イタムときては、われわれの旅行中、絶えずしゃんと頭を後に引き、トルコ王の親衛兵のように獰猛に、ジムの銃を携帯している他に、短剣と、斧と、槍で武装して、白人のご主人の後をつけて回り、そしてそのタム・イタムでさえ、生命をすてる覚悟で自分の捕虜の番をしているむっつりとした献身的な牢番のような、一歩も譲らない断固たる守護振りを発揮していた。
夜、われわれが遅くまで起きて腰掛けていると、タム・イタムの沈黙した、不明瞭な姿が、足音を立てずにベランダの下を往ったり来たりしているのが見えた。また、ふと頭をもたげると、意外にも、彼が暗がりにしゃちこばって直立している姿を見かけることもあった。
大体において、彼はしばらくすると音を立てずに消えていったが、しかし、われわれが立ち上がると、彼は、さも地面から飛び出しでもしたように、われわれのすぐ身近にピョンと立ち上がり、ジムのどんな命令でも受ける準備ができていた。
然もまた、われわれが別れて寝に行くまでは、けっして眠らなかったと私は思う。一再ならず、私は自分の部屋の窓から、彼女とジムとが揃って静かに部屋を出て、粗づくりの手摺《てすり》によりかかっているのを見た――二つの白い姿がぴったり寄りそい、彼は腕を彼女の腰にまわし、彼女は頭を彼の肩にもたせて。
二人の柔らかいつぶやき声が、夜の静寂の中に、静かに悲しい声音で、一人の人間が、二つの声色で話している独り言のように、優しく滲み透るように聞こえてきた。やがてその後で、私は、蚊帳《かや》を釣ったベッドの中で寝返りを打ったとき、ふとかすかな金物の軋る音、ほのかな息の音、用心深くそっと咳払いする音を聞き――タム・イタムがまだうろうろ歩いているのを知るのだった。
タム・イタムは(白人のご主人のおかげで)ジムの邸内に家を持ち、『妻をめとり』、最近子供を恵まれたが、とにかく私がそこに滞在していた間中、彼は毎晩ベランダに眠っていた。
この忠実な、むっつりした従者に話をさせるのは大へん難かしかった。ジム自身でさえ、彼にいわば不承不承、ぶっきら棒な短い言葉で答えさせるのが関の山だった。タム・イタムは、話をするのは自分の任務じゃない、と思っているらしかった。私が彼から聞いた一番長い自発的な言葉といえば、ある朝、とつぜん、彼が片手を庭の方に差し延べて、コルネリアスを指しながら、
『あすこにナザレ人〔回教徒から見た異教徒〕がやってくる』
と言った言葉だった。
その時、私は彼のそばに立っていたが、しかし、タム・イタムはべつに私に向かって言ったのではないと思う。むしろ彼の目的は、全世界の怒れる注意を呼び覚まそうとしたように見えた。つづいて彼は犬どもに何か当てつけの言葉をつぶやいたが、それと、コルネリアスの方からプーンとただよってきた焼き肉の匂いとが、私には奇妙に適切な、ピッタリという感じに思えた。
大きな、四角い、ひろびろとした庭は、太陽の炎熱に焦げ、その強烈な日光をあびながら、コルネリアスは何ともいえず隠れ忍んだ様子で、陰気に、こそこそ這うようにして全身を現わした。その姿は、ふんぷんたる悪臭を放つ不快なものの権化だった。コルネリアスがのろのろと骨折って歩く様子は、むっとするいやな甲虫が這ってるようで、足だけが不気味にせかせか動き、体の方はなめらかに滑っていった。
たぶん彼は、行きたい場所へ真っすぐに前進しているんだとは思うが、しかし、彼が一方の肩を前に突き出して進んでいく様子は、斜に歩いているように見えた。コルネリアスが、さも匂いをかいで跡をつけてでもいるように、ゆっくり木影をまわり歩き、上目使いにチラリと盗み見しながらベランダの前を通りすぎ、ある小屋の角を急ぎもせずに曲がって姿を消すのを、私はたびたび見かけた。
コルネリアスのような男が、ここで自由に暮らしているのは、ジムの途方もない無頓着さか、あるいは彼が、ひどくこの男を軽蔑し切っている証拠だった。というのは、実はコルネリアスは、ジムの生命とりにもなりかねなかったある事件で、はなはだ胡乱《うろん》な役割を演じたことがあるからだ。実際には、結果としてこの事件はジムの栄誉を高めた。しかし、いまやありとあらゆることが彼の栄誉を増し高めており、かつては幸運にたいして小心翼々としていた彼が、いまは福の神の魔力にかかったような生活をしているのが、彼の幸運の皮肉な点だった。
諸君に知らせておくが、ジムは、ドラミンの邸へ着いて間もなく、そこを立ち去ったのだった――実際、彼の身の安全を思えば、それに、もちろん、あのシェリフ・アリとの戦いよりはまだずっと前のことだし、余りにも早立ちだったが。ジムは、義務の観念に急き立てられてそこを立退いたのだ、と言っていた。シュタインの仕事を監督しなければならなかったからだと。彼はそうだったでしょう、諸君?
その目的のために、彼は一身の安全などという事は全く度外視して、河を横切り、コルネリアスと一緒に滞在したのだった。
コルネリアスが、いざこざ時代をどういう風に生きてきたか、私は知らない。結局、シュタインのエイジェントとして、彼は、ある程度ドラミンの保護を受けてきたに違いない。そして、どうにかこうにか、彼はあのすごい紛糾の中からあがき出たので、その間の彼の行動は、たとえどういう事をしたにしろ、すべてこの男の印章《スタンプ》のような、あの≪卑劣さ≫という極印が押されていたに違いない。それがコルネリアスという男の性格だった。他の人々が、寛大な、または立派な、または神々しい風貌で特徴づけられるように、コルネリアスは本質的にも、外観的にも卑劣が特徴だった。
それが彼の性格の要素で、あらゆる彼の行為や、情熱や、感情にしみ通っていた。彼は卑劣に怒り、卑劣に笑い、卑劣に悲しみ、彼の丁重さも彼の義憤も同様に卑劣だった。
たしかに、彼の恋も、最も卑劣な感情だったに違いない――しかし、いったい忌わしい虫けらが、恋をするなどと考えられるだろうか? それに彼の忌わしさは、卑劣な忌わしさだったので、ただ単純な忌わしい人間は、彼とならべたらきっと気高く見えたであろう。
コルネリアスは、この物語の背景にも、前景にも、自分の持ち場はなく、彼はただその周辺を、謎のように、そして不潔に、物語の若々しい、清純な香りをよごしながらこそこそ歩きまわっていただけである。
どの道彼の地位は、ひどく悲惨だという一語につきるが、しかし、彼は幾らかそこにつけこんでいる点があるかもしれない。ジムは、最初、コルネリアスが最も愛想のいい人懐こい感情を卑劣に見せびらかして彼を迎えた、と私に話した。
『あいつは、嬉しくてとてもじっとしていられない様子だった』
と、ジムは嫌悪の情をもって言った。
『彼は、毎朝僕のところへ飛んできて、両手を握って握手しおった――畜生! だが、何か朝食があるかどうか、僕には全く判らない。もし、二日の間に三回食事が出来れば、僕は、今日はだいぶ幸運だなと思いましたよ。それにあいつめ、毎週十ドルの伝票にサインをさせやがった。たしかにシュタイン氏は、ただで貴方をわしんとこへ泊らせる積りじゃない、とぬかしてね。まあ、とにかく――あいつは、出来るかぎりほとんど何も食わせずに、僕を置いておいた。
――国がこんなに乱れていなけりゃ、何か差し上げられるんだがと、国のせいにして、さながら自分の髪の毛をむしり取らんばかりの様子で、一日に二十ぺんも僕にペコペコあやまり、とうとう僕は、どうぞ心配せんでくれと反対にたのむようになった。全くうんざりしましたよ。
彼の家の屋根は半分落っこち、乾いた雑草が突き出し、破れたたたみの隅々が、四方の壁をバタバタと打って、家中が不潔でむさくるしい。わしは最善をつくしてうまくやってきたんだから、シュタイン氏は、ここ三年間の商売で、わしに金を支払う義務があるが、しかし、わしの書類はみなぼろぼろに破れ、あるものは失くなってしまったと言ってね。彼はそれを、暗に死んだ妻のせいにしようとした。胸くその悪い悪党め!
ついに僕は、彼に、もう死んだ細君のことを話しちゃいかんと禁じた。すると、ジュエルは泣き出した。僕にはいったい商品はみんなどうなったのか、全然判らなかった。ちっとばかりの茶色い紙と、古いズック袋とが昔の盛りをしのばせるだけで、いまは倉庫には鼠のほかはなんにもなかった。僕はあらゆる方面で、あの男は、たしかに大金をどこかに埋めてあると保証されたが、しかし、勿論、あいつは絶対に泥を吐かない。あの忌々しい家にいた時は、僕の一番みじめな時でした。僕はシュタインのために自分の義務を果たそうとしたが、しかし、他にもまた考えねばならない問題があった。
僕がドラミンの許へ脱走した時、老いぼれのツゥンク・アラングはおじけて、僕の持ち物を全部返してよこした。それを、際限のない謎々のぐるぐる回りの仕方で、ここで小さい店を持っている支那人を通して返してよこしました。しかし、僕がブギスの宿舎を出てコルネリアスと一緒に住むようになると、ラージャは、近日中に僕を暗殺させる決心だと、大っぴらに言いふらさせた。愉快じゃありませんか? そして僕は、もしラージャが本当にそう決心したのなら、どうにも彼を止める方法はなかった。さらに悪いのは、僕はシュタインのためにも、また自分のためにも、何一つ役立つ事をしていないと、我ながらつくづく不甲斐なさを感ぜざるを得ない点だった。おお! 全くひどかったな――あの六週間は』」
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第三十章
「彼はそれから、自分はいったいなんであんな所にぐずぐずしていたのか判らない、と私に言った――しかし勿論、われわれには推察できる。彼は、あの『賎しい、卑劣な悪漢』のなすがままにされて、防御のすべもない少女に深く同情したのだ。
コルネリアスは、彼女に、虐待のほんの一歩手前の、恐ろしい生活をさせていたようだ。腰抜けの彼には、本当の虐待をするほどの勇気はなかったのだろう。コルネリアスは少女に、わしをお父様と呼べと強制した――
『いいか、尊敬をこめてお父様と言うんだぞ――尊敬をこめてだ』
と、コルネリアスは、少女の顔の前に小さい、黄色いにぎりこぶしを振って叫ぶのだった。
『わしゃ、尊敬すべき男じゃぞ。そして、お前は何者だ? さあ言え――お前はどこの馬の骨だ? このわしが、他人の子供を育て上げ、それをないがしろにされて黙ってると思うのか? お前に、わしを尊敬させてやるんじゃ、有り難く思え。
さあ――言え、ハイ、お父様と……なに、できない?……ちょっと待ってくれだと』
そこでコルネリアスは、口ぎたなく少女の死んだ母親を罵りはじめ、ついに彼女はたまりかねて、両手で耳をふさいで逃げ出すのだった。
コルネリアス爺いは少女の後を追って家の内外を追いかけまわし、家の周囲や小屋小屋の間を走りまわり、彼女をどこかの隅に追いつめ、少女はそこにがっくり跪いて両手で耳をふさぐ。すると彼は遠くに立って、三十分もつづけざまに、きたない悪口雑言を少女の背中にあびせかけるのだった。
――『貴様のおふくろは悪魔だった――うそつきの悪魔だった――だから貴様も悪魔だ』
そして彼は最後の叫び声とともに、乾いた土か一握りの泥(家の周囲は泥だらけだった)を掴んで、ぞれを少女の髪の毛の中へ投げつけた。
しかし、時々、少女は軽蔑して踏み止まり、顔を暗くしかめて、じっと黙ってコルネリアスと向き合い、ほんの時たま、一言か二言、相手が飛び上がり、苦痛に身もだえするようなことを言うのだった。
ジムは私に、じつにこうした光景は恐ろしかったと話した。荒野でこんな事件に出くわすとは、全く不思議なことだ。こんなあくどい残酷な環境が果てしなくつづくかと思うと、ぼくは慄然とした――まあ考えてもごらんなさい。
紳士コルネリアス(マレー人達は、意味深長なしかめづらをして彼をネリアスの旦那と呼んだ)は、非常な失意の男だった。いったい彼は、自分の結婚の報酬として何をしてもらえると期待していたのか私は知らないが、しかし、明らかに彼は、自由勝手に盗み、委託金を使いこみ、長年にわたって、彼に最も似合いのあらゆる方法でシュタイン貿易会社の品物(シュタインは彼の船長たちが島に持ちこめる間中、きちんと物品の補給をつづけた)をみな自分のものにしてしまったのだが、それは、名誉ある彼の犠牲にはとても及ばない、過少報酬だと彼には思えたらしい。
ジムは、コルネリアスを半殺しにこらしめてやりたかったが、一方コルネリアスと少女との活劇はあまりに痛々しく、あまりに唾棄すべきだったので、ジムは衝動的に、少女の感情を傷つけまいとして、コルネリアスの罵倒の聞こえない所へ逃げることにしていた。
あのあと、少女は昂奮して、口もきけずに時折りは石のように硬直した、絶望の表情で自分の胸を掴んで立ちすくむのだった。それで、ジムはそばへ近づいて、切ない気持で、
『さあ――もうおよし――本当に――そうしても無駄だ――少し何か食べてごらん』
などと言って慰めた。
コルネリアスはその間、魚のように黙りこんで、意地の悪い、疑い深い、陰険な目でチラチラ盗み見しながら、こそこそドアを通り抜けたり、ベランダを横切ったり、また戻ってきたりし続けている。
ジムは一度少女に言った
『もし君がしてくれと言うなら、二度とふたたび彼があんなことの出来ないようにこらしめてあげるがな。
すると彼女はなんと答えたと思います? 彼女は――と、ジムは私に感動したように言った――≪わたしは、もしコルネリアス自身がひどく不幸な、みじめな男だってことをよく知っていなかったら、きっと自分のこの手であいつを殺していたでしょう≫と答えました。まあ、考えてもごらんなさい! まだほんの子供のあの哀れな少女が、そんな事を言うほどに追いつめられているんです』とジムは身ぶるいしながら叫んだ。
畢竟この少女は、とてもあの賤しい悪漢から救い出せないばかりか、彼女自身からさえ救い出せないようだった! ジムは、ただ彼女をひどく憐れんだだけではない、と彼は私に断言した。あんな生活がつづいているかぎり、何か良心にとがめる感じだった。この家を去ることは、卑怯な逃亡に思えた。
ついに彼にも、これ以上長居をしても、何一つ期待はできないし、報告も金も、またどんな種類の真相も、引き出す見込みはないと判ったが、しかしそれでもここに滞在しつづけ、コルネリアスを、狂気の寸前とはいわないが、すてばちな勇気をふるう瀬戸際まで苛立たせた。
一方その間、彼は、あらゆる種類の危険が自分の身辺にしのびより、群がりはじめているのを感じた。ドラミンは、二回、腹心の従者を彼のところへ送って、真剣に、貴方がもう一度川を横切って、最初のようにブギス達の中に住んでくれなければ、自分はどうにも貴方の身の安全を保証する方法がないんだと伝言させた。
ありとあらゆる立場の人々が、ジムのところへやってきて――それもしばしば深夜に――ジムを暗殺する計画がすすめられていることを教えた。――貴方は毒殺されようとしている。貴方は、風呂に入っているところを刺し殺されようとしている。貴方を、川の上のボートから射撃する手筈がすすめられている――
こういう報告をもってきた人々は、誰も彼も、自分は貴方の大へんいい友人ですと断言した。この報告だけで、僕の休息は、全くめちゃめちゃになってしまった、とジムは私に話した。そういった類《たぐい》のことは、大いにあり得ることだ――いや、たぶんあるに違いない――しかしこういったでたらめの警告は、実はただ四方八方から、暗々裡に、恐ろしい計画が進められているという感じを彼に与えるだけだった。これほど、最上の勇気と神経をさえ、蝕み、ゆさぶる企てはない。
ついにある晩、コルネリアス自身が、大した恐るべき秘密を打ち明けるというポーズよろしく、うまくジムを口車に乗せようと厳かな口調で――貴方を百ドルの礼金で――いや八十ドルでも結構、八十ドルで――このコルネリアスが、信用できる助力を手に入れ、貴方をこっそり、安全に、川向こうへ送りとどけさせましょう、と小さいプランを切り出した。もう今となっては、それより他に手の打ちようはない。これは絶好の申し出だ――もし貴方が、ちょっとでも自分の生命を気遣うなら。八十ドルはどうです? ちょっぴりだ。ほんの些細な金だ。それにくらべて一方このコルネリアスめは、後に残り、シュタイン氏の若い友人に献身的に尽したというのっぴきならぬ証拠で、絶対に殺されるだろう――
コルネリアスが芝居気たっぷりに卑劣に顔をしかめた光景は――と、ジムは私に言った――とても見るに堪えなかった。彼は自分の髪の毛を掴み、胸を打ち、両手で腹をおさえてあちこちに体をゆすり、身もだえし、またしとやかに涙を流してみせた。そのコルネリアスも、ついに業《ごう》を煮やして、『お前が死ねば、自分自身のせいだぞ』と叫んで走り出ていった。
いったいコルネリアスのこの芝居は、どこまでが本当か、奇妙な問題だ。ジムは、この男が行ってしまってから、一睡も出来なかった。ジムは、竹の床に敷いた薄いござの上に仰向けに横たわって、ぼんやりむきだしの垂木《たるき》を見分けたり、破れた草|葺《ぶ》き屋根がカサカサ音を立てるのにじっと聴き耳を立てたりしていた。
とつぜん、キラリと星が、屋根の穴から射しこんできた。ジムの頭は走馬燈のように旋回していたが、それでも、その晩彼は、シェリフ・アリを征服する計画をつくり上げたのだった。
これまでジムは、シュタイン会社の問題を空しく調査しつづけ、その合間合間のあらゆる時間に、ずっとアリを倒す計画を考えつづけてきたのだが、しかし着想は――と彼は言う――この晩、忽然と彼の頭に湧き上がったのだった。彼の目にまざまざと、大砲がずらりと山頂に並んでいる光景が浮かんだ。彼はそこに横たわりながらカッと熱くなり、昂奮した。眠るどころのさわぎではない。
ジムはとび起き、素足でベランダに出た。そして黙々として歩いていると、少女が、さも番兵でもしているように、身動きもせずに壁にもたれているのに出会った。だが、その時異常な精神状態にあったジムは、少女がいま頃起きているのを見ても驚きもせず、また彼女から心配そうなささやき声でコルネリアスはどこにいるか、と訊かれても、べつに驚かなかった。彼はただ、知らないと答えた。少女は、小さく唸って、庭の中を覗いた。
どこもかしこもひどく静かだった。ジムは、彼の新しい着想に夢中で、その事で頭が一ぱいだったので、すぐ少女にそのプランの全部を話さずにいられなかった。
少女は両手を軽く握ってじっと話を聞いており、やがて優しい感嘆の言葉をもらした。が、しかしその間じゅうも、彼女は油断なくあたりを警戒しつづけていた。ジムはこれまでずっと彼女に心を割った打明け話をしてき――また彼女の方も、パトゥーサンのいろいろの事柄について、彼にたくさんの有益なヒントを与えるのが習慣になっていた。
ジムは一度ならず私に、自分は彼女の忠告をきいて損したためしは一度もなかったと断言した。とにかく、彼はすぐその場で、少女に自分の計画をすっかり説明しだした。が、とたんに彼女は、一度ぎゅっと彼の腕を握って、彼の側から姿を消してしまった。
次の瞬間、コルネリアスがどこからともなく現われ、ジムの姿を見ると、まるで狙撃でもされたように急にヒョイとわきへ頭をひっこめ、それから、暗がりにじっと立ちすくんだ。そして、しばらくすると、猜疑心の強い猫のような恰好で、用心しながら前へ出てきた。
『あすこに、漁師どもが来ています――魚を持って』とコルネリアスは震え声で言った。『魚を売りに――判りましたね』……
時はたしか夜中の二時頃だった――なるほど、誰かが魚を売り歩きそうな時刻だ!
しかし、ジムはその言葉を聞き流し、それに一顧も払わなかった。他の問題で彼の頭は一ぱいだったし、それに、彼は、なんの姿も見ずなんの声も聞かなかったから。ジムはただ、
『おお!』
と上の空で言って、そこに立っている水差しから水を飲み、コルネリアスを、勝手に何かえたいのしれない感情のえじきにして放っておいた。――コルネリアスは、どんな感情に苛《さいな》まれているのか、まるで腰が抜けて立てないように、両腕で虫に食われたベランダの手摺にすがりついている――ジムはふたたび家の中へ入り、ござに横になって、考えごとをつづけた。
やがて、忍びやかな足音がしてきた。足音が止まった。壁をすかして、コルネリアスの震え声がささやいた。
『おやすみですか?』
『いや! なんだね?』
と、ジムはぶっきら棒に答えた。外であわてた動く音がし、それから、囁き声の主は驚愕《おどろ》きでもしたように、シーンと静まり返った。ジムは、それがひどく勘にさわったので、猛烈な勢いで外に飛び出した。すると、コルネリアスはかすかな叫び声を立てて、ベランダづたいに階段のところまで逃げ、そこで毀れた手摺にすがりついた。
ジムはすっかり困惑して、遠方から、いったいこれはなんのまねだと呼ばわった。
『さっき、わっしの言ったことを、よく考慮してくれましたかね?』
と、コルネリアスは、悪寒の発作にかかった人間のように、ろくに歯の根も合わずにやっと言った。
『いや!』
ジムは怒って叫んだ。
『おれは、考慮なんかせん。そんな気はない。おれは、ここに、パトゥーサンに住むつもりだ』
『あんた、ここ、ここじゃ、こ、こ、殺されるぜ』
コルネリアスは、まだひどく震えながら、息が尽きたような声で答えた。この男の芝居全部があまり馬鹿馬鹿しくて、また癇にさわるので、ジムは笑っていいのか、怒っていいのか判らない。
『おれは、お前が墓に突っこまれるのを見るまでは死なんよ、きっとな』
ジムは怒って、そのくせ苦笑して言った。そして半ば真面目に(彼自身の思いつきに昂奮していたので)彼はなおも叫びつづけた。
『何ものもおれに指一つ触れることは出来んぞ! 貴様、なんでもしてみろ』
向こうに遠く影のように見えるコルネリアスが、なぜかジムには、いままで彼の行手にたちはだかったあらゆる障害や困難の憎い化身のように見えてきた。ここ幾日となく神経を酷使してきたジムは、ついに爆発して、コルネリアスに毒舌を投げつけた――≪このぺてん師、嘘つき、けちな悪党め≫と、実際すさまじい勢いでまくし立てた。
ジムは自分でもすっかり羽目をはずし、全く我を忘れてしまった、と白状した。
――≪パトゥーサン中の人間が総がかりで俺を嚇すなら嚇してみろ! 俺は奴等ぜんぶを、笛一つで踊らせてみせるぞ≫なぞとジムは、すごんで傲然と言い放った。
『全くの大言壮語で、馬鹿げたことを言ったもんです』と彼は私に言った。――『いまそれを思い出すだけでも耳が熱くなる。あの時は、どうかして頭が狂っていたに違いない……』
この話を、われわれと一緒に坐って聞いていた少女は、かすかに眉をしかめ? 私の方に小さい頭をうなずいて見せ、
『わたし、聞いちゃったわ』
と、子供っぽいまじめさで言う。
ジムは笑って赤くなった。
やがてハッとジムの毒舌を止めさせたのは、あたりの静けさ、完全な、死のような静けさだった。ずっと向こうにぼんやり見えるコルネリアスの姿が、手摺の上に体を二つ折りにして、不気味に身動き一つせず、だらりとぶら下がっているではないか。
ジムは我に返って、急に黙った。いったいこれはどうした事だろう? 彼はひどくいぶかしみながら、しばらくじっと見守っていた。身動き一つ、音一つしない。
『まるっきり、おれが大声で怒鳴っている間に、あいつは、くたばってしまったみたいだった』
と彼は言った。
ジムはすっかり自分が恥ずかしくなり、もう一言も言わず、あわてて部屋の中へ入り、ふたたびござの上に体を投げ出した。しかし、怒鳴って発散したのがよかったらしく、そのあと彼は赤ん坊のようにぐっすり眠れた。何週間も、あんなによく眠ったことはなかった。
『でも、わたしは眠らなかったわ』
と、少女が、片肘をテーブルの上にのせて頬杖をつきながら口をはさんだ。
『わたしは、番兵してたの』
彼女の大きな目がキラリと光って、ちょっと回転し、それから、彼女はじっと私の顔を見つめた」
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第三十一章
「私がどんなに興味をもって聴いていたか、諸君には想像できるでしょう。それから二十四時間後に、これらの詳細は、みな何かの意味をもっていることが判った。
朝、コルネリアスは、昨夜の出来事には一言も触れなかった。ちょうどジムがドラミンのカンポン〔マレー語、村、部落の意〕へ渡って行くためにカヌーに乗ろうとした時、
『また、わっしの貧しい家に戻らっしゃるんでしょう』
と、コルネリアスはこそこそ側へよって来て、不機嫌に言った。
ジムは、彼の方を見ずにただうなずいた。
『さぞかし両白いことになるだろうよ』
と、コルネリアスは意地悪い声でつぶやいた。
ジムは一日中老|首長《ナホーダ》・ドラミンと一緒にすごし、重要会談で招集されたブギス族の顔役どもに、力強い行動に出る必要のあることを説いてきかせた。彼は、その時自分が極めて雄弁で、説得力のあったことを、いま嬉しい気持で思い出す。
『僕はその時、どうにかこうにか、彼等の中にしっかりしたバックボーンをたたき込んでやった、たしかに』とジムは言った。
最近、シェリフ・アリの一味が植民地の町はずれに侵入し、町の女たち何人かがアリの矢来の中に攫《さら》って行かれた。アリの手先どもが、その前日、町の市場に現われて、白衣を着て横柄にふんぞり返って歩き回り、俺たちのご主人様は、ラージャからも大事にされてるんだぞ、と自慢していた。
その中の一人は、前方の樹陰に立って、長い銃身によりかかり、村人たちにさんざんお祈りや悔い改めをさせ、そのあげくに、――お前達の中にいる異国人を皆殺しにしろ、そいつ等は異端の悪魔や、また悪魔以上の悪党ども――つまり、マホメット教徒の姿をよそおった大悪魔《サタン》の子供たちだ、と教えた。聴衆の中にまじっていたラージャの人民たちは、大声でそれに賛成したという報告だった。
一般人の恐怖はひどかった。
ジムは、自分の一日の仕事の成果に大いに満足し、陽が沈まないうちにふたたび川を横切って戻っていった。
彼はブギスたちから、断固たる行動に出るという固い言質をとり、その成功の責任は一に自分の双肩にかかっていると思うと、すっかり意気揚々と、心は明るく、コルネリアスにも大いに親切にしてやろうとした。
ところが一方コルネリアスは、物狂おしい陽気な応対ぶりで、へらへら空せじ笑いをしたり、体をゆすってウインクしてみせたり、とつぜん自分の顎をつかんで、テーブルの上に低く背中を丸めてうつぶし、気が狂ったようにじっと彼を見つめたり、ジムは気味が悪くてほとんど耐えられなくなった。少女は姿を現わさなかった。で、ジムは早々に自分の部屋へ引き揚げることにした。
ジムが立ち上がって、≪おやすみ≫と言うと、コルネリアスはいきなり自分の椅子をひっくり返して飛び上がり、さも、何か落としたものを拾い上げようとするように、ひょいとかがんで見えなくなった。そして、テーブルの下から、しゃがれ声で、≪おやすみなさい≫と言った。
ジムは、コルネリアスが、やがてポカンと口を開け、馬鹿のようにおびえた目をみはって下から現れたのを見ておかしくなった。コルネリアスは、テーブルの縁《へり》にしっかりしがみついている。
『どうしたんだ? 病気なのか?』
とジムは訊いた。
『へい、へい、へい。急に胃にひでえ差し込みがきて』
と、コルネリアスは答えた。それは全く本当に違いないとジムは言った。もしそうなら、あの差し込みは、あの時コルネリアスが心にたくらんでいた悪業からみて、彼がまだ完全に無神経になり切れない卑劣な腰抜けであるしるしだったのだ。
それはとにかく、その晩ジムは、かしましい天体の夢にうなされた。天が鳴りひびくトランペットのような大声で、彼に≪起きろ! 起きろ!≫と叫んでおり、彼は必死で眠りつづけようとしたが、実際は目が覚めてしまった。
真赤に音立てて中空に燃えている火焔が、ギラギラとまばゆく彼の目に入った。太い黒烟の輪が渦巻いている中心に、幽鬼のごとく、この世のものと思われない、白ずくめの姿が現われ、つづいて険《けわ》しく歪んだ、憂いの顔が浮かびあがった。
一、二秒後に、彼はその奇怪な白衣の姿が少女だったことを知った。少女は、手に持った樹脂《ダマール》の松明《たいまつ》を腕一ぱいにさし上げて、執拗な一本調子で繰りかえしていた。
『起きて! 起きて! 起きて!』
とつぜん、彼は飛び立った。彼女はすぐ彼の手に拳銃を――壁にかかっていた彼自身の、しかし今度は充弾した拳銃を渡した。彼は無言でそれを掴み、明りの中でまばたきながら困惑した。いったい彼女は何をしろというんだろうと訝しんだ。
少女は口早に、声をひそめて訊いた。
『あなた、これで四人の男に対抗できて?』
ジムはこの部分を話しながら、その時の自分のとっさの騎士道《シバリー》を思い出して笑った。どうやら彼は大いにそれを発揮したらしい。
『出来るとも――勿論――出来るとも――俺にまかせろ』
彼はまだしっかり目が覚めていなかった。そしてこの非常な場合に、自分が絶対的献身の用意ができていることを、彼女に慇懃に示そうという気持で一ぱいだった。
少女は部屋を出て行き、彼はそのあとに従った。廊下で二人は、一家の時たまの料理をする老婆の目を覚ましてしまったが、しかし彼女は、ほとんど人間の言葉が理解できないほどひどい老いぼれだった。老婆は起き上がり、歯なしの口で何かモゴモゴ言いながら、二人の後からびっこを引いて歩きだした。
ベランダで、コルネリアスのズックのハンモックが、ジムの肘に触って軽く揺れた。ハンモックは空だった。
シュタイン貿易会社のあらゆる出張所の例にもれず、このパトゥーサンの部署も、もとは四つの建物でできていた。が、いまではその中の二つは、木材の山、折れた竹、腐った草屋根のうず高い山と化し、その上に、四隅に立っていた堅木の親柱が、わびしく、いろいろな角度で倒れかかっている。が、大倉庫だけは、いまもって代理人《エイジェント》の家の方を向いて立っていた。
大倉庫は、泥と粘土でできた長方形の小屋だった。その一方の端には、いまのところまだ蝶番のとれていない、強い板張りの大きなドアがついており、一方の横壁には、三本の格子のある、四角く開けた一種の窓がついている。
数段の石段を下りながら、少女は肩ごしに振り向いて、早口にささやいた。
『貴方は、寝込みを襲われるとこだったのよ』
ジムは私に、この時自分は、瞞されたような感じがしたと語った。――またその話か。お前の生命は狙われている、というせりふはもう聞き倦きた。おれの耳は、そんな警告でたこができている。もううんざりだ――
ジムは少女が自分を瞞したと思ってカッときた、と私に話した。彼はいまの瞬間まで、てっきり少女自身が援助《たすけ》を求めているのだと思ったからこそ従《つ》いてきたので、この言葉を聞くと、むっとして半ば引き返そうとした。
『ね、お判りでしょう』と、彼はしみじみ言った。『どうも僕は、その頃何週間も、すっかり正気じゃなかったらしい』
『いや、いや。でも君は正気だったさ』
と私は反対せずにはいられなかった。
しかし彼女は足早に歩きつづけ、そして彼もその後について庭へ出た。囲い柵はずっと昔にみな倒壊してしまい、近所の家の水牛が、よく朝方、ゆっくり、深い鼻嵐をふきながら、そのひろびろとした空地を横切って入ってきた。ジャングル自体さえ、すでにこの庭に侵入してきていた。
ジムと少女とは、雑草の繁茂した中に立ち止まった。二人は光輪の中に立ち、周囲は深い暗黒につつまれ、ただ二人の頭上だけに、キラキラと星が降るように輝いている。
ジムは私に、あの晩は、とても美しい晩だったと話した――大そう涼しく、川の方からそよそよと微風が吹いていた。彼は、あたりの優しい美に目をみはった。諸君、忘れないように。いま私が諸君に話しているのは、これは恋の物語であることを。
それは、そよ風が二人を柔しく愛撫するように吹いている美しい晩だった。松明《たいまつ》のほのおが、時々、旗が風にはためくような音を立てて流れ、しばらくの間、他にはなんの物音もしなかった。
『四人は、倉庫の中で待ってるわ』と、少女がささやいた。『合図を待ってるの』
『誰が合図するの?』
とジムは訊いた。少女は松明を振った。パチパチと火花が散って、火が燃え上がった。
『ただ、貴方は安心してお眠りにもなれず、あまり寝苦しそうなので』と、少女は、低い声でつぶやきつづける。『わたし、貴方のお眠りの番兵もしていたの』
『君が!』
と、彼は、首をのばしてあたりを見回しながら叫んだ。
『わたしが、ただ今夜だけ番兵していたと、貴方は考えるの!』
少女は、一種の絶望的な怒りを含んで言った。
ジムはその時、胸に一撃を喰らったように感じた。彼はあえいだ。俺はなんという恐ろしいけだものだったんだ、と彼は考えた。そして後悔し、感動し、ほのぼのと幸福感に胸がふくらんだ。諸君、思い出してくれ給え、重ねて言うが、これは恋の物語なのだ。
諸君はそれを、二人のこのたわいない愚さで知ることが出来るだろう。――それはむっとする愚さではないが――二人のこうした行為の気高い愚さ、この赤々と松明に照らされた二人の場所、まるで、隠れている殺人鬼どもの教化のために、わざわざ松明を見せびらかしながらそこへやってきたかのような、二人のそのたわいない姿で。
もしシェリフ・アリの手先どもが――ジムの言ったように――ほんの僅かな勇気でも持っていれば、いまこそ彼を襲撃する絶好のチャンスである。
ジムの心臓は動悸を打っていた――恐怖のためではなしに――しかし、彼は草ずれの音を聞いたように思い、機敏に光の外へ出た。何か黒いものが、すばやく逃げ失せるのがチラリと見えた。ジムは力強い声で呼ばわった。
『コルネリアス! おーい、コルネリアス!』
あたりはたちまち深い静けさに戻ったが、彼の声は二十フィートも届かなかったらしい。ふたたび少女は彼のそばへやってきた。
『逃げて!』
と彼女は言った。
例の老婆があとをつけてきた。老いぼれた姿が、光の端のところで、びっこをひいて小さく飛び上がるのが見えた。老婆のモゴモゴいう声と、かすかにうめくため息が聞こえた。
『逃げて!』と少女は昂奮して繰りかえした。『いまは、彼等は怯《おび》えてるわ――この明りや――声に。彼等は、貴方がいま目を覚ましていることを知ったの――みんな、貴方が大きく、強く、何物も恐れないことを知ってるの……』
『もし俺が本当にそうなら』
と、ジムは言いだしたが、すぐ少女は彼を遮った。
『ほんとうにそうよ――今夜は! でも、明日の晩はどうかしら? その次の晩は? その次の次の晩や――それからずっと幾晩も幾晩もは? わたし、そんなに、いつもいつも見張りつづけられるかしら?』
と、すすり泣きに彼女の息が途切れ、ジムはなんとも言いようない感動に胸を打たれた。
彼は、あの時ほど自分が小さく、無力に感じられたことはなかったと私に言った――俺の勇気なんて、そんなものがなんの役に立つんだ? と彼は考えた。彼はあまりに無力で、逃げることさえなんの役にも立たないように思えた。そして、彼女は熱狂的なはげしさで『ドラミンのところへ行きなさい、ドラミンのところへ行きなさい』とくりかえしたが、ジムは、畢竟自分にとっては、あらゆる危険に百倍するあの淋しさから逃れる世界はないことを悟った――彼女の中に逃れるほかには。
『僕は、もし彼女から離れれば、とにかく、それですべては終わりだと思いました』
と、彼は私に言った。
でも、二人であの庭のまん中に永久に立ち止まっているわけにいかないので、彼は倉庫へ行って中を調べてみる決心をした。彼は、さも二人は分離できない結合体かなどのように、少しも反対されることは考えずに、彼女を自分のあとに従えて歩きだした。
『俺は恐れを知らない――そうかね?』
と、彼は声をひそめてつぶやいた。少女は彼の腕をおさえ、
『わたしが声をかけるまで待ってて』
と言い残して、松明を手に持ったまま、軽やかに角を曲がって走って行った。
彼は、ドアの方を向いて、一人で暗闇の中に残っていた。ドアの向こうからは、物音一つ、息の音さえ聞こえてこない。どこか彼の背後《うしろ》の方で、あの老婆が陰気な声でうなっている。とつぜん、少女が悲鳴に近い甲高い声で叫ぶのが聞こえた――
『いまよ! 突進!』
彼は猛烈な勢いで突入した。ドアが軋ってガチャンと開き、ひどく愕いたことに、不気味な、ゆらゆら揺れる強い光に照らされた、低い地下牢のような内部が現われた。サッと吹きこんだ風に、床の中央にある空《から》の飼葉《かいば》桶の上に、もうもうと烟が渦を巻いて流れ込み、ぼろとワラの寝|藁《わら》が舞い上がろうとしたが、ただ弱々しく風の中で動いただけだった。
彼女が、窓格子の間から灯りを突き出していた。彼は、少女がむぎだしの丸い腕をがっちりと延ばし、鉄の腕金《ブラケット》のような強固さで松明をさし出しているのを見た。円錐形に積み上げた古ござのボロ山が、天井へ届きそうに向こう隅をふさいでいる。それっきりだ。
ジムはそれを見て、苦々しい失望を感じたと私に説明した。彼の剛勇は、これまでにさんざん多くの空の警告で試され、彼は何週間も、さんざん多くの危険の暗示に取り囲まれていたので、何か本当の、ハッキリ触《さわ》れる危険に出会って安堵したかったのだ。
『そうしたら、少なくとも二時間くらいは、このもやもやした空気がカラリと晴れるだろうと――こういう僕の気持はお判りでしょう』と彼は私に言った。『全く! 僕は長い間、胸に石がつかえたような気持で暮らしていました』
ついに今こそ、何か本物を掴めるだろうと、彼は期待していた。だのに――何もない! 足跡一つ、誰かの居る気配一つない。さっき彼はドアをパッと開けると同時に武器を高くかかげたが、しかし、いま彼の腕はだらりと下がった。
『射って! 危いッ!』
外にいる少女が苦しい声で叫んだ。彼女は暗闇にいて、腕を小さい穴から肩まで室中に突き出しているので、中で何が起きているか見えなかったが、彼女は松明を引っこめて、走って来ようとはしなかった。
『ここには誰も居らん!』
と、ジムは軽蔑的に叫んだが、しかし、彼が怒りの哄笑を爆発させようとした衝動は、急に音を立てずに消えた。正にくびすを返そうとした時、彼の目は、ござの山積の中から覗いている一対の目にぶつかったことに気づいた。彼は、キラリと白目が動くのを見た。
『出て来い!』
彼は憤怒し、やや疑いながら叫んだ。すると、黒い顔と頭が、体なしの頭が、奇妙に頭だけ孤立してごみの中に現われ、じっとしかめ顔のまま彼を見つめた。
次の瞬間、山全体が動き、低いうなり声を立てて男がサッと現われ、ジムに飛びかかってきた。男の後で、何枚ものござが飛び出し、舞い上がった。男は、肘を曲げたまま右手を上げた。厚刃の短刀が、彼の頭上にふりかざしたこぶしから突き出ている。男の腰にしっかり巻いた布が、彼のブロンズ色の肌と対照してまばゆいほど白く見え、彼の裸体の躯が、濡れたように光っている。
ジムは、このすべてをじっと注意ぶかく見つめていた。彼は言いようない安心感と、復讐心に胸が高鳴るのを感じた。彼は、慎重に、発砲を控えた。彼は、十分の一秒間、男が三歩飛ぶ間――非常に長い時間――発砲を控えた。
ジムは、自分自身に、≪あいつは死んだ!≫と言う愉しみを味わうため、発砲を控えた。彼は絶対に確信があった。彼は、平気で男を近寄らせた。どの道、死ぬんだ。ジムは、男の張りひろげられた鼻孔と、カッとみひらいた目と、はげしい、必死の動かない顔をじっと見て、それから発砲した。
その狭い倉庫の中で、爆発は愕くばかり轟然と鳴りひびいた。ジムは思わず一歩退いた。男はピョンと頭をもたげ、両腕を前に投げ出し、短剣を落とした。ジムは後で、弾丸は、男の口のやや上部を貫通し、後部頭蓋骨の上部から出たことをたしかめた。
突撃してきたはずみで、男は射たれてもなおまっすぐ突進しつづけ、突然顔をゆがめてあえぎ、何かをさぐるように両手を前にひろげ、盲目《めしい》たように、ちょうどジムのむきだしの爪先のちょっと手前に、恐ろしいはげしさで、前のめりに倒れた。
ジムはこのすべてを、どんな些細な点も見逃さなかったと話した。彼は、あたかもこの男の死でありとあらゆるものが償われたかのように、恨みも不安も消え失せ、静かで平和な自分を取り戻したのに気づいた。
部屋はいつの間にか松明のすすけた烟で一ぱいになり、その中で松明のほのおが、チラリともゆるがず、血のように赤く燃えていた。
ジムは断固とした歩調で大股に死休を踏みこえ、彼の拳銃を、向こう端にぼんやり輪郭の見える別の裸体姿に突きつけた。正に引き金を引こうとした時、その男は、短い、重たい槍を勢いよく向こうへ投げすてて、背中を壁につけ、両手を脚の間で握りしめ、うやうやしく蹲った。
『生命を助けてもらいたいのか?』
とジムは言った。
男は声一つ立てない。
『あと何人いる?』
とジムは重ねて訊いた。
『あと二人です、トゥアーン』
男は、目を大きくみはり、魅せられたように拳銃の銃口をじっと見つめながら、ごく低い声で言った。つづいて、あとの二人が、ござの下から、彼等の武器をすてた空の手を見せびらかすように上に差し上げながら這い出してきた」
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第三十二章
「ジムは有利な地歩につき、先に立って彼等を戸口から一かたまりにして外へ出した。その間じゅう、松明は彼女の小さい手で、震えもせず、しっかり垂直に握られていた。
三人の男どもは、ジムに大人しく従い、完全に無言で、自動的に歩いて行く。ジムは彼等を一列に並べた。
『腕を組め!』
と彼は命じた。三人は、互いの腕を組み合わせた。
『最初に腕をはずすか、または振り向いた奴は死ぬんだぞ。進め!』とジムは言った。
三人は、一緒になって、しゃちこばって歩きだした。ジムはそのあとについて行き、少女はその横に、長い白衣を裾長く引きずり、黒髪を腰のあたりまで垂らし、灯りを持って歩いた。
体をまっすぐにしてしなやかに揺れている彼女の姿は、地面に足を触れずに滑っているように見え、聞こえるのはただ絹ずれの音と、長い草のそよぐ音だけだ。
『止まれ!』
とジムは叫んだ。
川の堤はけわしかった。サッとさわやかな風が吹き上げ、松明の明りが、小波も立てずに泡立っているなめらかな黒い水のへりに落ちた。右と左に家の形が、とがった屋根の輪郭の下にずらりと並んで走っている。
『シェリフ・アリに、おれからよろしくと言え――その内おれ自身が出向いていく』
とジムは言った。三人は、誰一人頭を動かさなかった。
『飛べ!』
ジムが怒号する。
ザブーンと三つの水音が一つに重なって、ザーッとしぶきが飛び上がり、三つの黒い頭がピョンと急激に水中に没し、そのまま見えなくなった。しかし、息をはげしく噴出する音や、口から水をふき飛ばす音はしばらくつづき、しだいにかすかになっていった。三人の男は、腕を離して死の射撃を食うのを恐れるあまりに、懸命に水中にもぐっていったのだ。
ジムは黙ってじっと見ている少女の方を振り向いた。とつぜん彼は、心臓が胸を破りそうに大きくふくらみ、それが喉までつまって息が止まりそうになった。
たぶんそのためだろう、彼は、長いこと口がきけなかった。やがてジムがふたたび川の方に彼のはげしい視線を戻したとき、少女は、燃える松明を腕一ぱいに大きく一振りして川に投げこんだ。
ギラギラ赤く燃える火が、夜闇をぬって長々と飛び、ジューッとすごい音をたてて沈んだ。静かな、柔らかい星の光が、二人の上に燦々と降ってきた。
やっと声が出るようになった時、ジムは彼女に何と言ったか、彼は私に話さなかった。きっと、彼はあまり雄弁ではなかったろう。世界は静かで、夜のいぶきが二人をつつんだ。それは、優しいものを庇護《まも》るために創られたような夜だった。さながら、人間のたましいが、黒い外被《おおい》を脱ぎすてて自由になり、霊妙な感受性をもってかがやき、沈黙が言葉よりも鮮やかに心と心を通わせる瞬間をもった夜だった。
少女については、ジムは私に語った。
『彼女は少しぐったりしていました。昂奮したのでね――お判りでしょう。反動です。彼女、べら棒に疲れたに違いない――それに、あんなことばかりだし。それに――それに――畜生――彼女は、ぼくを好いていたし、ね……ぼくも、また……あのときまで知らなかった、勿論……恋だなんて気づかなかった……』
ジムは立ち上がり、昂奮してそこらを歩きはじめた。
『ぼくは――ぼくは、彼女をとても愛している。とても口では言えない。もちろん、誰だって言えないな。自分の存在が誰かにとって必要だと――ね、絶対に必要だと――判ってくると、毎日判らせられると、自分の行為に対する考え方が変わってくる。ぼくは、それを感じさせられた。実にすばらしい。
しかし、彼女がどんな人生を送ってきたか、一寸考えてみて下さい。あまりとてつもなく恐ろしい人生だ! そうでしょう? そしてぼくが、ここで彼女をこんな風にして見つけるなんて――まるで、ちょっと散歩に出掛けて、とつぜん誰かが淋しい、暗い場所で溺れかけているのに出会ったように。誓って! 寸刻の余裕もなかった。まあ、彼女は、責任のある預りものでもあるな……ぼくは、その任務に堪えられると思うが……』
諸君に言い忘れたが、少女はしばらく前に、われわれを二人きりにして座をはずしていた。ジムはポンと胸を打った。
『そうだ! 彼女の気持は判る。でもぼくは、ぼくのすべての幸運を受ける資格があると思うな!』
ジムは、彼の身に起きたありとあらゆる出来事に、特別の意味を見つける天分を持っていた。そしてこれが、ジムの自分の恋愛にたいする見解だった。それは牧歌的で、少し厳粛で、また真実でもあり、彼の信念は、青春のすべてのゆるぎない真剣さをもっていた。
それからしばらく後の、また別の場合に、彼は私に言った。
『僕はここに来てまだ二年にしかならないが、いまでは、誓って、ここ以外のどこにも住むことは出来ないと思っています。外の世界を考えただけで、僕はぞっとする。だって、判るでしょう』
ジムは伏目になって、自分の片方の靴でせっせと小さい乾いた泥のかけらを踏み砕きながら、言葉をつづけた。(その時、われわれは川岸を散歩していた)
――『なぜって、ぼくは、なぜ自分がここへ来たかを忘れちゃいない。まだ!』
私はジムの顔を見るのを控えたが、でも、短いためいきを聞いたように思う。二人はそれから黙々として、一つ二つ角を曲がった。
『ぼくのたましいと良心にかけて言うが』
と、彼はしばらくするとまた言いだした。
『もし、あんなことが忘れられるものなら、もしそれが出来るなら、ぼくは、自分の頭からあんなものを追っ払っちゃう権利はあると思うんだ。ここの住民の誰にでも聞いてみて下さい』……
彼の語調が変わった。
『考えてみれば不思議だ』と、ジムは優しい、切なく憧れるような口調でつづける。『ここのすべての人々が、ぼくの為にはどんな事でもしてくれる。そのくせ、ここの人々は、決してぼくを理解できない。絶対に! もし貴方がぼくを信じなければ、ぼくには彼等をここへ呼ぶことさえ出来ない。それがなんとなく辛いんだ。おれは馬鹿だ、ねえ? これ以上おれは何を望むというのだ? もし貴方が人々に、誰が勇敢か?――誰が真実か?――誰が正しいか?――誰を君たちは生命がけで信頼しているか? と尋ねれば――彼等は言うでしょう、トゥアーン・ジムと。
それでいて、彼等は、真実のぼくを本当に理解することは決して出来ない……』
これが、私がジムと一緒にいた最後の日に、彼の言った言葉だった。私は、彼の口からもれたつぶやきを聞きのがさなかった。私はとたんに、ジムはまだ何か言おうとしているな、そして、一段と根本的なことに近づこうとしているなと直感した。
ギラギラとまばゆい光を集中して地球を宙にただよう一片の塵のように小さく見せる太陽は、いまや森林のかげに沈み、オパール色の空から散光が、影もかがやきもない世界に、静かな、もの悲しい偉大さの幻想を投げかけるように見えた。
私は、なぜか知らないが、ジムの話を聞きながら、ひどく克明に注意していた――川や空がしだいに暗くなり、おもむろに、不可抗力の夜が、万象の上に黙々として働きかけて、その輪郭を消し去り、不断に降下する実体なき黒塵のように、あらゆる形象をより深く深く暗黒の中に埋没していくその光景を――
『全く!』と、ジムは急に話しだした。『なんにしてもあまり馬鹿馬鹿しいと思う日もあるが、でもいまぼくは、自分の言いたい放題を貴方に言えるようになった。ぼくは、自分の破減の話を持ちだした――ぼくの心の奥にひそんでいる、あのぞっとする話を……いまは半ば忘れかけた……いや、そいつは判らん! でも、いまぼくはあの事を静かに考えられる。結局、あれは何を証明したか? なんにも。貴方は、そんな筈はないと思うでしょう……』
私は、反対のつぶやきをもらした。
『どうでもいいんです』と彼は言った。『ぼくは満足です……ほとんど完全に。ぼくはただ、誰でもいい、道で出会った男の顔を見ただけで、自信がとり戻せるんだ。ぼくが心で何を考えていようと、畢竟、彼等には判らないのだ。だがそれがなんだ? これでいい! ぼくの首尾はそう悪くない』
『悪くないな』
と私は言った。
『しかし、それでも、貴方はぼくを、貴方自身の船に傭っちゃくれんでしょう――え?』
『ばかな! つまらん事をいうな』
と私は叫んだ。
『ハハア! そらね』
と彼はまるで私に勝ち誇ったように、穏やかな歓声を上げた。
『ただ、この話を、この島の誰にでも話してきかせてごらんなさい』と彼はつづけた。『彼等は貴方を、馬鹿か、嘘つきか、それ以上の悪者だとしか思わんでしょう。それで僕は、あの事に堪えていけるんだ。僕は、ここの連中のために一つ二ついい事をしてやったが、しかし、正にこの事を、彼等は僕のためにしてくれたんです』
『ねえ君』と私は叫んだ。『君はいつまでも、彼等にとっては不可解の謎だろうよ』
そして、われわれはしばらく黙ってしまった。
『謎』
ジムはそう鸚鵡がえして、おもむろに顔を上げた。
『そうか、では、ぼくはいつまでもここに居残ろう』
陽が沈むと、暗闇が、あらゆる微風に乗ってわれわれに追いせまってきた。生け垣で囲った小道のまん中に、タム・イタムの直立不動の横姿が、ピタッと立ち止まって、寂しく、じっと見張っているのが見えた。そして向こうの薄暗いところに、何か白いものが、屋根の支柱のあたりをそちこち動き回っているのが目についた。
ジムが、タム・イタムを後に従えて、夕べの巡回をはじめたので、私は一人で家へ入って行った。そして思いがけなく、たしかに私を待ち伏せてこの機会を狙っていたに違いない少女につかまってしまった。
少女が、私から何をほじり出そうとしていたか、正確に諸君に話すことはなかなか難かしい。明らかに、それは何かごく単純なことのようではある――例えば、≪雲は正確にどういう形をしているか?≫という問のように、およそ最も単純な難題のようだ。
彼女は私から一言保証を、約束を、説明を求めた――何と呼んでいいか私には判らない、あの事には、ハッキリした言葉はない。
ぐっと突き出したひさしの下は暗く、私にはただ彼女のガウンの流れるような線、青白い、小さい卵形の顔、白く光る歯、私の方を振り向いた時の、彼女の大きな黒い目しか見えなかった――その目には、諸君が非常に深い深い井戸の底をじっと覗いたとき、ふと見たように感じるあの微《かす》かな動きが見られた。
――あそこに動いているのはなんだろう? と諸君は自問する。あれは盲目《めしい》の怪物だろうか? それともただ、宇宙からそれた迷子の光芒だろうか? と私は考えた――笑わんでくれ――およそすべてのものが決して同じではなく、各々異っているが、彼女の子供っぽい無知は、スフィンクスが旅人たちに投げかける子供っぽい謎々より、なおいっそう不可解だった。
彼女は、まだいたいけな頃パトゥーサンへ連れてこられた。そしてパトゥーサンで育ち、何も見ず、何も知らず、何の概念もなかった。いったいこの少女は、自分以外のものが存在することを本当に知っているだろうか? と私は自問した。彼女は、自分を取り巻く外の世界というものをどう考えているのか、私にはまるで判らない。彼女が外の世界で知っている人間といえば、一人の裏切られた女と、一人の邪悪な老いぼれだけだった。
彼女の恋人もまた、不可抗力の魅力をもって、その外界から彼女のところへやってきた。しかし、いつも自分のものを戻せと主張しているように見えるあの想像も及ばない外の世界に、もし、彼がまた戻って行ってしまったら、彼女はどうなるのだろう? 少女の母親は、臨終に、涙ながらにこのことを娘に警告した……
少女は、私の腕をしっかり掴んだ、そして、私が立ち止まるや否や、あわてて手を引っこめた。彼女は大胆で臆病だった。彼女は何ものも恐れなかったが、しかし深い疑惑と、はげしい未知の世界に邪魔された――暗黒の中で手さぐりしている勇者だった。
そして私は、彼女にとって、いつなんどき、ジムは俺のものだから返せと主張するかもしれないこの≪未知≫の世界に属していた。私は、いわばその≪未知≫のものの本性と意図との秘密を握っており――つまり、彼女をおびやかす神秘の腹心の友で――たぶん、神秘の力で、武装した人間だったのだ!
きっと彼女は、私を、一言でジムを彼女の腕の中からかっさらって行くことのできる人間だと、想っていたに違いない。たしかに彼女は、私がジムと長話をしている間じゅう、苦しい不安に悩まされていたに違いない。もし彼女のたましいが、それが空想で創り出した途方もない恐ろしい境遇にふさわしい獰猛さをもっていたら、彼女は、切実な堪えがたい苦痛のあまりに、ついに私の殺害を計画する羽目に追いこまれたかもしれない。
これが私の受けとった印象で、私には、ただこれだけしか諸君に提供することはできない。事の全貌がようやく判りはじめ、しだいにハッキリしてくるにつれて、私はおもむろに、とても信じられない驚愕に圧倒されていった。
私は彼女を信じていたが、しかし、彼女のあのまっしぐらな、激情的なささやき声、あの柔らかい、情熱的な語調、とつぜん息を切らせて言い止み、白い両腕をすばやく差しのべるあの哀訴の動作が私の心に与える効果は、とても言葉では言い表わせない。
腕が下にさがり、霊に似た姿が風に吹かれた細樹のように揺れ、青白い卵形の顔がうなだれた。彼女の顔立はハッキリ見分けられなかったし、黒ぐろとした目は底知れなかった。二つの幅広い袖《スリーブ》が薄闇の中でつばさを拡げたようにもち上がり、そして彼女は両手で頭をかかえたまま、黙って立っていた」
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第三十三章
「私ははげしく心をゆさぶられた。少女の若さ、無知、愛らしい美は、野性の花の素朴な魅力と繊細な力強さをもち、彼女の悲しげな訴えと頼りない風情《ふぜい》は、彼女の理由《いわれ》なき、しかし自然な恐怖のはげしさと同じ位のはげしさで私を動かした。
彼女は、われわれのすべてがそうであるように、未知のものを恐怖し、彼女の無知は、未知のものを無限に拡大するのだった。私は、彼女にとっては、その未知なもの、即ち、私自身や諸君や、またジムのことを心配もせず、また少しも彼を必要としない世界全体の代表だった。
私は、もしジムもまた彼女の恐れるこの神秘な未知の世界の一員で、たとえ私がどれ程多くのものを代表するにしろ、畢竟ジムの代表にはなれないと考えなかったら、私は彼女に、この地球にはうようよ人間がいるが、誰もジムを奪い返すほどの関心は持っていないと、保証する用意はあっただろう。
だがこのため、私はためらった。私は思わず苦痛のつぶやきをもらした。そして私は、少なくとも自分はけっしてジムを連れ去る積りでやって来たのではないと抗弁しはじめた。
『じゃあ、なぜいらしったの?』
少女はちょっと身動きして、それから、夜闇の中の大理石の彫像のように静かになった。私は簡単に説明しようとした。友情や仕事のことや、もし私が何か希っていたとすれば、それはむしろ、ジムが無事にここにいるのを確かめようとしただけだと。
『みんな、いつも私たちを置いて行ってしまうわ』
と少女はつぶやいた。彼女が敬虔に花環で飾った母親の墓から教わった悲しい知恵が、かすかなためいきとともに通りすぎたようだった……。何ものも、彼女からジムを引き離すことは出来ないんだ、と私は言った。
いまも私はそう強く確信しているし、またあの時も、私はそう確信していたが、ただそれだけが、彼女と私との会見の唯一の結論ともいうべきものだった。
『あの人は、わたしにそれを誓ったわ』
彼女の独り語のようなささやきで、私の確信はいっそう深まったというわけではない。
『きみが、彼にたのんだの?』と私はききかえした。
彼女は、一歩私の方へにじりよった。
『いいえ。決して! わたしはただ、彼に、ここを逃げて行ってとたのんだだけなの。それはあの晩のことよ――私たち二人は川岸に立っていたわ――あの人が、男を殺してから。――そしてわたし、あの人が、あんまりわたしの顔を、じっと見つめてるんで、松明を川へ投げすてたの。あんまり明るすぎたし、それにあの時は危険も過ぎ去ったので――しばらくの間――ほんのしばらくの間だけ。その時、あの人は、どうしてもわたしをコルネリアスの許へ置きすてて行けないって言ったの。あの人、そう言いながら顫えていたわ。あの人の顫えるのが、暗闇の中で、わたしによく感じられたわ……』
たいした想像力がなくとも、二人のその時の光景は手にとるように判った――ほとんど二人のささやき声まで聞こえるほどに。彼女も彼のために恐れた。その時彼女は、もしここに居残ればジムの身は宿命的な危険のいけにえになることを、ジム自身より彼女の方がいっそうよく理解していたと私は思う。
ジムは、ただそこに居ただけで彼女の心を征服し、彼女の思想のすみずみまで満たし、彼女の愛情のすべてを独占してはいたが、しかし彼女は、ジムの計画が成功するとは、あまり信じていなかった。その頃は、誰も彼もがジムの成功の可能性を過小評価していたことはたしかだ。もっとハッキリ言えば、彼には成功のチャンスはまるで無いように思われた。
コルネリアスも、またそう考えていたのを私は知っている。コルネリアスは、ジムを亡きものにしようとしたシェリフ・アリの計略に甚だうろんな一役を買った罪ほろぼしの言い訳に、その程度のことを私に白状した。アリ自身でさえその頃は、この白人に対して軽蔑の念しかいだいていなかったことが、ハッキリ判る気がする。
ジムは、主に宗教的根拠から、つまり異端者として殺害されようとしたのだと私は思う。ジムを殺すことは、アラーの神への敬虔な行為で(そして回教徒としてはこの点では無限の称讃に価する)、そしてその他の点は、まあどうでもいい事だと。この意見の最後の部分に、コルネリアスは賛成したのだ。
『お豪い旦那さま』
と、コルネリアスは、やっと私と二人きりになれた唯一の機会に、卑劣な態度で言った。
『お豪い旦那さま、どうして私めに判りましょう? いったい彼は何者です? どうして彼に住民どもの信用がかち得られます? いったいなんの積りでシュタイン氏は、あんな少年をよこして、この古参のわっしに向かって豪そうな大ぼらを吹かせるんです?
わしゃ、あの男を、八十ドルで生命びろいさせてやろうとしたんでがすぜ。たった八十ドルでさ。だのになんだって、あの馬鹿者は逃げ出さなかったんだ? あの赤の他人のために、このわっしがシェリフ・アリから刺されるって手がありますかいな?』
コルネリアスは、私の前に土下座せんばかりに媚びへつらって体を二つ折りにし、さも、いまにも私の脚を抱かんばかりに、両手を私の膝のあたりでふらふらさせた。
『八十ドルがなんです? 死んだ女郎悪魔のために一生をめちゃめちゃにされたこの頼りない老人にほどこす、たった僅かの金じゃありませんか』
ここでコルネリアスは泣いてみせた。しかし、これはすこし話が先走りすぎたようだ。私があの晩コルネリアスに出会ったのは、少女との問題にけりをつけた後のことだ。
少女があの時ジムに、自分を置いて逃げるように、そしてこの国からさえ立ち去るようにとすすめたのは、実に没我的な愛だった。その時彼女の頭は、自分のことより、ジムの危険のことで一ぱいだった――たとえ、自分自身も救われたいと願っていたにしろ、たぶん無意識的にであった。しかし、次の瞬間、彼女は母親から受けた警告に気づき、彼女のあらゆる思い出の泉である、片時も頭を離れない、近年死んだ母親の教訓をまざまざと思いうかべたのだ。
彼女は、ジムの足元にくず折れた。――そう彼女は私に話した――その川べりで、やさしい星明りが、雄大な沈黙の山影と、ぼんやりひらけた広い空地と、海のように広く見える幅広い流れの上を、かすかに震えながらほのかに照らし出している中で。
ジムは少女を抱き起こした。彼が抱き起こすと、彼女はもうよろめかなくなった。もちろん。強い腕、優しい声、長身の雄々しい肩に、少女は哀れな、淋しい、小さい頭を休ませた。それらは、少女の痛む心に、途方にくれた頭に、必要だった――無限に必要だった。――ほのぼのとはずむ青春――その瞬間の必然性。諸君ならどうするだろう? われわれはみな知っている――太陽の下のことがぜんぜん何も理解できない人間ならいざしらず。
で、彼女は満ち足りて彼に抱き上げられ――そして、彼にとりすがった。
『お判りでしょう――誓って! こいつは真面目な話だ――絶対にたわごとなんかじゃない!』
と、ジムは自分の家の敷居の上で、心配そうな顔をしながら口早にささやいた。私は、たわごとというものを良く知らないが、とにかく、二人のロマンスには気楽なものは何もなかった。彼等は、騎士《ナイト》と乙女とが、亡霊の出没する廃墟で誓いを交わし合うように、人生の災禍の影の下で結ばれたのだった。
星の光は、二人のロマンスには好適だった。あわい、もの淋しい星明りは、影をむざんな廃屋の姿に変えて、悲しい対岸の現実を二人に見せるほど明るくはなかった。
私は、あの最後の晩に、その流れを、同じ場所から眺めた。川はスティックス(よみの国の川、ここを渡って死人が死の国に入ったというギリシア神話による)のように黒ぐろと、音もなく流れていた。その翌日私はパトゥーサンを去ったが、しかし、かつて彼女がジムに、まだ手遅れにならないうちに、彼女から去ってくれと嘆願した時、いったい彼女は何から救われたかったのか? それを、私は忘れることは出来ないだろう。彼女は、それがなんであったかを私に話した、静かに――いま彼女は、あまりにはげしく熱中していたため、反って静かだった――薄暮の中に半ばかくれて、ボーッと見える彼女の静かな、白い姿と同じように静かな声で――
『わたし、泣きながら死ぬのはいやだったんです』
と、少女は私に言ったのだった。
私は、何か聞き違えたのだろうと思って、
『え、貴女は、泣きながら死ぬのはいやだった?』
と聞きかえした。
『わたしのお母様のように』
と、少女はすぐつけ足した。彼女の白い姿の輪郭は微動もしなかった。
『わたしのお母様は、死ぬ前に、とてもさめざめとお泣きになったの』
と、彼女は説明した。
深ぶかとした異常な静けさが、ちょうど夜半の洪水が静かに水嵩を増していくように、われわれの周囲の地面から微かずつ立ち昇って、知り慣れた感情の陸標《ランドマーク》を消し去っていった。
とつぜん私は、あたかも深い水中に足場を奪われたように、未知の深淵に吸いこまれていく恐怖に襲われた。
少女は話しつづけた。最後に、臨終の母親と二人きりで、彼女は、コルネリアスが部屋に入ってこないように、母親の枕もとを離れて、背中でドアを押していなければならなかった。コルネリアスは中へ入りたがって、両手のこぶしでドアをドンドン叩きつづけ、時々打つのをやめては、しわがれ声で叫んだ。
『入れてくれ! 入れてくれ! 入れてくれ!』
部屋の向こう隅の、数枚のござの上で、もはや口もきけず、腕をもたげる力もつきた瀕死の母親は、やっと頭をまわし、弱々しく手を動かして、
『いけない! いけない!』と拒絶する身振りをした。素直な娘は、ありったけの力をこめて肩でドアを押しながら、じっと母親を見守っていた。
『お母様の目から涙がポロポロこぼれ落ち――そして、死んでしまったわ』
少女は、落ち着いた一本調子な声で結んだ。その語調は、何にも増して、少女の白い石像のように動かない姿よりも、またどんな言葉よりも、か弱いものがなすがままに虐げられた、いたましい光景の恐怖で、私の心を深く攪《か》き乱した。
それは私の心にある生きるという概念をくつがえし、亀が自分の甲羅の中にかくれるように、人間の一人一人が自分自身をかくまうために作っているあの≪わが宿≫という概念を根こそぎにする力を持っていた。
しばし私には、世界は索漠《さくばく》陰惨な混乱のるつぼに見えてきた、実際には世界は、人間の不屈の努力のおかげで、われわれの頭で想像できるかぎり、明るく、小さい便利な手筈のととのった場所なのだが。しかしそれでも――それはほんのちょっとの間だった。私は、すぐまた自分の甲羅の中に戻った。われわれは、是非そうしなければならないのだ――そうでしょう諸君?――私は一、二秒間この世界を逸脱して、渾沌たる暗い思想に呑みつくされ、全く言葉を失ってしまった人間のようではあったが。
間もなく、私はまた言葉を取り戻した――言葉もまた、われわれの心の逃避場である光と秩序につらなるものだから。私は、彼女が柔しくささやく前に、自分の言葉を意のままに言えるようになっていた。
『あの人は、決してわたしを置いていかないって誓ったわ、二人きりで、あそこに立っていた時! あの人、わたしに誓ったわ!』……
『だのに君は――君は! 彼を信じないのか?』
私は本当にショックを受け、しんから非難するようにたずねた。なぜ、彼女は、ジムを信じることが出来ないのだろう? いったいなぜ彼女は、さも不安と恐怖が彼女の恋の守り神でもあるように、こうして不安を求め、恐怖にしがみつくのだろう? 奇怪なことだ。
彼女は、ジムのあの正直な愛情を、自らの確固不動の平和の宿とすべきなのに。彼女にはその叡知がない! たぶん、その手練がないのだ。
夜が速足でやってきて、私たちの居るところはまっ暗闇になり、彼女は、悲しいあまのじゃくの霊の化身のように、身動きもせずに消え失せた。そしてとつぜん、彼女の静かなささやき声がまた聞こえた。
『他の男たちも、同じことを誓ったわ』
それは、何か悲しい畏《おそ》ろしい思想の説明に似ていた。彼女は、なお一段と声を低めてつけ足した。
『わたしのお父様も誓ったわ』
彼女はちょっと言葉を切って、音もなく息を吸った。
『お母さまのお父さまもまた』……
これが、彼女の知識たった!
私はすぐ言った。
『ああ! しかしジムは違う』
この言葉を、彼女は反駁する積りはなかったようだが、しかし、しばらくすると、妙に静かな囁き声が、夢のように空中にただよっているのが私の耳に入った。
『なぜ、あの人は違うの? あの人の方が優れているから? あの人……』
『私の名誉にかけて誓う』
と、私は彼女の言葉をさえぎって言った。
『わたし、そう信じるわ』
わたし達は、神秘な低い声でささやき合っていた。ジムの労働者たち(彼等は大体アリの矢来を脱出した奴隷をジムが解放したのだった)の中の誰かが、向こうで甲高い声を長く引っぱって唱いだした。川の対岸で大きな火が(ドラミンの家だと思う)たった一つ、夜闇の中に真っ赤な火の玉となってくっきり浮き上がった。
『あの人の方が、もっと真実?』
と、少女がつぶやいた。
『そうだとも』
とわたしは言った。
『誰よりももっと真実ね』
彼女は語調を長引かせながら繰りかえした。
『ここの誰一人として、ジムの言葉を疑う者はない――誰一人そんなことはしない――君のほかは』
彼女の身動きしたのが感じられた。
『そして、他の人々よりずっと勇敢だわ』
と、彼女は語調を変えてつづけた。
『恐怖もけっして彼を君から引き離すことは出来ない』
と、私は少し神経質に言った。
向こうの歌声が、金切り声を張り上げたまま急に止み、つづいて数人の話し声が聞こえた。その中にジムの声も聞こえた。彼女は急に黙ってしまった。
『彼は君に何を話したの? 何か君に話していたね』
と私はたずねた。彼女は答えない。
『何を話したの?』
と私は追求した。
『わたしにそれがお話しできると思うの? どうして、わたしが知っているの? どうして、わたしにわかるの?』
ついに彼女は泣き声を出した、そわそわと身動きして。彼女は両手をもみ合わせているらしい。
『あの人には、何か、どうしても忘れられない事があるんですって』
『それは、君のためにはもってこいだ』
と、私は陰気に言った。
『その忘れられない事って、いったいなんなの? なんなの?』
彼女の懇願の声には、人を動かす異常な力がこもっていた。
『あの人、その時、恐れたんですって。でも、そんなことが、どうしてわたしに信じられて? 気違いじゃなし、わたしに、そんなことを信じられる筈ないでしょう?
誰だってみんな、何かを覚えているわ! 誰だってみな、それを思い出すわ。あの人の忘れられないことってなんなの? 教えて頂戴! あれ、なんのことなの? あれ、いまも生きていることなの?――それとも死んだこと? わたし、あれ嫌いよ。残酷だわ。あれには、顔や声があるの――あの災禍には? あの人、それを見るの? あの人、その声を聞くの?
あの人、眠っている時は、たぶん、私が見えないでしょう――そんな時、あの人、急に起き上がって行ってしまうかもしれない。ああ! わたし、そうしたら決してあの人を赦さないわ。わたしのお母様は、赦したけど――でも、わたしは、決して赦さない! あの事が、あの人に合図するかしら?――呼び声をかけるかしら?』
それは驚くべき経験だ。少女は、ジムの眠りをさえ信用しない――しかも彼女は、その訳を私が説明できると考えているらしい! まるで、亡霊の魅力に征服された哀れな人間が、いったいあの世は、この地上の恋情の中をさ迷っている肉体を離れた霊魂にどういう権利を主張するか、その恐るべき秘密をいま一人の亡霊から絞り出そうとするかのようだ。
私は、自分の立っている地面が、足元から溶け去るような気がした。もし人間の恐怖や不安が彼の世から呼びだした亡霊どもが、人間という頼りない孤独な魔法使いの前で、互いに仲間の変わらぬ操《みさお》を保証し合ったとしたら、その時私は肉体をまとったわれわれ二人の亡霊のうち私だけは――こんな絶望的な仕事にぞっと身震いしたことだろう。しかも少女は、それをいとも単純なことのように言う。
合図、呼び声! 少女の無知は、なんという効果的な表現をするのだろう。ほんの数語で! あの言葉を、彼女はどうして覚えたのか、どうして発音できるようになったのか、私には判らない。女性というものは、緊急の場合、われわれ男性がただ畏れたり、頓馬になったり、また軽んじたりしている時、彼女たちの霊感を見つけるものだ。少女が何か声を出して言えたというだけで、私には驚愕だった。
もし蹴られた石が苦痛の余りに声を出して叫んだとしても、これ以上に痛々しい、そしてより大きい奇跡には見えなかったことだろう。暗黒の中をさ迷う彼女の数語は、道に行き暮れた彼等二人の生命を、悲劇的に私の心に焼きつけた。
彼女に理解させることは、しょせん不可能だった。私は、自分の任務の重さに無言のまま苛立った。そしてまたジムの立場の重要さに――可哀そうに! 誰が彼を必要としよう? 誰が彼を覚えていよう? 彼は、彼の欲した通りになったのだ。たぶん今頃は、広い世界から、彼の存在さえ忘れられてしまっているだろう。あの二人は、運命を征服したのだ。彼等は悲壮だ。
私の前に立った少女は、身動き一つせず、明らかに、この私が、ほの暗い忘却の国の冥府《めいど》から、ジムのために弁解するのを期待しているのだ。私は自分の責任と、彼女の苦痛に深く心を動かされた。
残酷な鳥籠の金網の中でバタバタ出口を探し求めている小鳥のように、自らの救いようのない無知の中で苦悶している、彼女のか弱いたましいを慰め和らげられるものなら、私はどんなことでもしてやりたかった。≪心配するな!≫と口に言うのはいとやすい。が実際にはこれ程至難なことはない。いったいどうしたら≪恐怖≫を殺せるだろう? いったいどうしたら幽霊の心臓を射ち抜き、化け物の頭を斬り落とし、そのスペクトルの喉をしめ上げることが出来るだろう?
それは、諸君が夢の中で走り、髪を汗でべとべとにし、全身の関節をガタガタいわせながら、脱走できたことをよろこぶ、あの夢中の脱出計画に等しい。弾丸は突き刺さらず、亡霊を殺す刃はまだ作り出されておらず、幽霊の喉を締められる人間はまだ生まれていない。つばさある真理の言葉さえ、鉛の塊のように諸君の足元にはね反されて落ちてしまう。
こういう絶望的な太刀《たち》打ちには、とてもこの世にはない微妙精緻な嘘を塗りつけた魔法の毒矢で射つほかは手がない。これでは全く、夢にしか通用しない計画だ、諸君!
私は重い心で、一種の沈痛な怒りをさえ含んで、私の厄払い行事をはじめた。とつぜん、ジムの声が、大きく厳めしい語調で、庭の向こうから聞こえてきた。川岸の誰か声無き過失者を叱責しているらしい。
私は小声でハッキリ言った――何ものも、彼女が幸福を奪い去られはしまいかと兢々《きょうきょう》としているあの未知の世界の何ものも、生きているものも死んでいるものも何ものも、ジムを彼女の側から引き離すことは出来ないのだ。一つの顔も、一つの声も、一つの力もありはしないのだ。
言い終わって私はほっと息を吸うと、彼女が優しくささやいた。
『あの人も、わたしにそう言いましたわ』
『彼は、君に真実を語ったのだ』
と私は言った。
『何もない』
少女はため息とともにそう言い、それから突然私の方を振り向いて、聞こえるか聞こえない位の低い、はげしい語調で、
『ではなぜ、貴方は、あちらからやっていらしったの? あの人、あんまり度たび、貴方のことを言いすぎるわ。わたし、貴方が怖いの。貴方――貴方、あの人を欲しいの?』
一種のひめやかな嶮しさが、われわれの早口のつぶやきの中に忍びこんだ。
『私は、決してもう二度と来ない』と私は苦々しく言った。『そして私は、彼を欲しくはない。決して誰も、彼を欲しがってはいない』
『決して誰も』
少女は、疑わしそうな口調で鸚鵡がえした。
『決して誰も』
私は、奇妙な昂奮に自分の心が動揺するのを感じながら断言した。
『君はジムを、強い、賢い、勇敢な、偉大な男だと思っている――なぜ、彼はまた真実な、裏切らない男だと信じないのだ?
私は明日行ってしまう――それで終わりだ。君は二度とふたたび、あちらからの声に悩まされる事はないだろう。君の知らないあちらの世界は、ジムを惜しんだりするにはでっか過ぎるのだ。君、判るね? でっか過ぎるのだ。君は、彼の心を、しっかり君の手の中に掴んでいなくてはいけない。君はそれを感じなくてはいけない。それを知らなくてはいけない』
『ええ、わたし知ってるわ』
少女は、石像がささやくように、硬くなって、静かに、吐息とともに言った。
私は、結局自分は何も出来なかったのだと感じた。そしていったい、私は何をしようとしたのだろう? いまになって考えてみると、自分でもハッキリしない。だがあの時は、まるで何か偉大な、重要な仕事を前にしたように、なんともいえない熱情に昂奮し――その瞬間の重要さが、私の頭と感情にはげしく影響し、私をゆさぶっていた。
誰の人生にも、こういう瞬間がさながら神秘な惑星たちの接近によって起きるような、外部からくるいわば不可抗力の、不可解な、こういった影響にゆさぶられる瞬間があるものだ。
彼女は、私が彼女に言ったように、ジムの心を自分の所有《もの》にしていた。彼女は、彼の心とその他のすべてのものを自分の所有にしていた――もし彼女に、それが信じられさえするなら。私が彼女に言い聞かせたかったのは、世界中に、ジムの心や、彼の頭や、彼の手を必要とする者は、ほかには一人もいないのだということだった。
これは、ごくありふれた人間の運命であったが、しかし、誰か特定の人物についてそう言うのは、恐ろしいことだった。
少女は、一言も言わず、じっと聴いている。そしていまや彼女の静けさは、打ち勝ち難い不信の反駁のように見えてきた。
――いったいなんで君は、森林のはるか彼方の世界のことなど気にする必要があるのか? と私は訊いた。あの厖大な未知の世界に住む無数の人々からは、ジムの生きている限り、唯一つの呼び声も、合図も来ないだろう、と私は彼女に保証した。決して来ないと。私は夢中で誓った。決して! 決して! 来ないと。
いま私は、その時自分が、一種の頑固なすさまじさを示したことを、ふしぎな気持で思い出す。私は、ついに幽霊の喉をふん掴んだようなイリュージョンをいだいた。まったく、あらゆる現実の出来事が、いまは、詳細な、驚くべき夢のような印象を残している。
なぜ彼女は恐怖するのか? 彼女は、ジムが強く、誠実で、賢明で、勇敢なことを知っている。彼は全くその通りだ。確かに。ジムはそれ以上の男だ。彼は偉大で――無敵で――そして広い世界は彼を欲せず、彼を忘れてしまった、世界は、もう彼を知ってさえいないだろう、と私は少女に保証しつづけた。
私は言い止んだ。深い静けさがパトゥーサンをつつんでおり、どこか川の中央で、カヌーの側面を打つ櫂《かい》の微かな味気ない音が、その静寂を無限に深めているようだった。
『なぜ』
と彼女がつぶやいた。
私は、人が辛い組打ちの最中に感じる、ああいった怒りを感じた。幽霊は、掴んだ私の手の隙間から逃げ出そうとしている。
『なぜ?』
と、彼女は声を高めて繰りかえした。
『わけを教えて!』
そして、私が面喰らって黙っていると、彼女は、だだっ子のようにじだんだ踏んだ。
『なぜ? 話して!』
『君は知りたいのか?』
私はカッとなって訊いた。
『知りたいわ!』
と彼女は叫んだ。
『そのわけは、彼がそう立派な人間でないからです』
私は残酷に言い切った。
一瞬の沈黙の間に、向こう岸の火がパッと燃え上がって、愕然とほのおの目を見張ったようにその光の円を張りひろげ、そして急に、赤い小さな光に縮《ちぢ》まった。
彼女の指が、私の二の腕をぐっと掴むのが感じられた時、私ははじめて、彼女がどれ程すぐ身近に立っていたかを知った。彼女は、声を高くせずにその語調に限りない侮蔑と、苦々しさと、絶望とを投げこんで叫んだ。
『あの人も、それとそっくりのことを言ったわ……嘘つき!』
最後の一言を、彼女は土人語で私に投げつけた。
『しまいまでお聞き!』
私は嘆願した。彼女は震えながら息を止め、掴んでいた私の腕を投げ出した。
『人間は誰だって、誰だって、そう立派ではない』
と、私はこの上ない真剣さで言いだした。彼女の呼吸が怖いほど早くなり、むせび泣くのが聞こえた。
私はうなだれた。言ったって何の役に立とう。
足音が近づいてきた。私はもう何も言わずに、そっと向こうへ離れた……」
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第三十四章
マーロウは、勢いよく脚をのばしてサッと立ち上がり、まるで空間を疾走してきて地上に降ろされた人のように、ちょっとよろめいた。彼はてすりに背中をよりかからせて、藤の寝椅子が不規則に並んでいる方を向いた。
寝椅子に横になっていた人々の体が、彼の動きにピクッと麻痺から覚めたように見えた。一、二の者は、驚いたように急に体をピンとさせ、そっちこっちで葉巻が赤く光った。マーロウは、みんなの顔を、この世を遠くはなれた夢の世界から戻った男のような目で眺めた。誰かが咳払いし、静かな声がのんびり先をうながした。
「それで?」
「それで終わりだ」
マーロウは、かすかにビクッとして言った。
「ジムは彼女に話してあったんだ――それだけだ。だが彼女は彼の言葉を信じなかった――それっきりさ。私自身は、それを喜ぶのが正しいのか、それとも悲しむのが本当か、どっちがどうか判らない。私としては、自分が何を信じていたのかハッキリしない――全く、いまもって判らんし、たぶん永久に判らんだろう。
しかし、あの気の毒なジム自身は、何を信じていたのだろう? 真実はついに勝つ――諸君知ってるだろう Magna est veritas et……〔et proevalet. というラテン語の金言、真理は偉大にして勝利を得るであろうの意〕。
そうだ。チャンスがあれば、この世にそういう法則のあることは確かだ――そして同時にまた、サイを投げる時の諸君の幸運を支配する法則もある。その法則とは、人間の僕《しもべ》にすぎない≪正義≫ではなく、アクシデント、偶然、運――即ち、忍耐づよい≪時≫の同盟者が、公平で周到な均衡を決定するのである。
ジムも私も、そっくり同じことを言った。私たちは二人とも真実を語ったのだろうか?――それとも、二人のうち一人が?――それとも、どちらも真実を語らなかったのだろうか?……」
マーロウは言葉を切って、胸の上で腕を組み、語調を変えて言った――
「彼女は、われわれは嘘をついたと言った。可哀そうな娘だ。まあ――それが嘘だったか、真実だったか、その裁決はチャンスにまかせよう――あの急がせることのできない、そして待ったなしの≪死≫を敵にしている≪時≫の同盟者のチャンスに。
私は後に引きさがった――たしかにおじけたのだ。私はこわごわ飛び下りようとして、投げ出された――もちろん。結局、私はただ、ある謎の共謀を、彼女に永久に知らすまいとする、説明できない、不可解な陰謀を暗示して、彼女の苦悩の上塗りをしただけだった。そしてそれは、ジムの行動によって、彼女自身の行動によって、自然に、のっぴきならず、そうなってしまったのだ!
私はまるで、われわれ人間をいけにえとし――玩具とする執念深い運命の仕事を見せつけられたような気がしてならなかった。
私から与えられた暗い暗示に、身動きもできずにそこに立ちつくしている少女のことを考えると、私はぞっと怯えた。私のいるのも気づかず、重たい編上げ靴をドタンドタンいわせて近づいてくるジムの足音には、宿命のひびきがあった。
『誰だ? 明りもなしで!』ジムは、大きな驚いた声で言った。『暗闇で何をしている――二人いるのか?』
次の瞬間、ジムは少女の姿を見つけたらしい。
『よう、ジュエル!』
と、彼は愉快そうに叫んだ。
『あら、ジム!』
と、彼女はすぐ驚くほど元気に答えた。
これは、二人がいつも出会った時にお互いに交わす挨拶だった。彼女のやや甲高い、しかし美しい声をちょっと気取って、語尾をひどく長く引っぱった発音は、可愛く、子供っぽかった。それはジムを大喜びさせた。
これは、二人がこの慣れた呼びかけを交わすのを私が聞いた最後だった。それは私の心をぞっと凍らせた。少女は高い美しい声で、可愛い努力をし、気取ってみせたが、しかしみなはかなく、たちまちに消え去るかに思われ、二人のいたずらっぽい呼びかけは、うめき声のように感じられた。それは余りにも痛々しく、恐ろしかった。
『君、マーロウと何をしてたの?』とジムの訊く声がし、それから、『下へ降りた――彼がかい? おかしいな、僕は会わなかったぜ……マーロウ君、君はそこにいるのか?』
私は答えなかった。私は仲間入りしたくなかった――とにかく、いまはまだ。実際、私にはとても仲間入りできなかった。で、彼が私を呼んでいる間に、私は小さい門から新しく整地した広い地面の方へどんどん逃げていった。いや、私はまだ彼等と顔を合わせることは出来ない。
私はうつむいて、踏み慣らされた小径を足早に歩いて行った。地面は優しく盛り上がっており、数本の大木は伐り倒され、灌木は切りのぞかれ、草は焼き払われていた。ジムはここでコーヒーの栽培をやってみるつもりだった。
立ち昇る月光の黄色い光の中に、大山がその双子の頂上を黒々と突き出してそびえ、実験のために用意された地面に影を落とそうとしているように見えた。
ジムは、実にたくさんの実験をやろうとしていた。私は彼のエネルギーと、彼の計画と、彼の敏腕を賞讃していた。しかし今は、およそこの世に彼の計画や、エネルギーや、彼の情熱ほど、非現実的なものはないように思われた。目を上げると、月の一部が、山の割れ目の一番下から、煌々と藪草をすかしてかがやいている。
一瞬それは、滑らかな月の面が、空から地上に落ちて、山の裂け目に転げこんだように見えた。その昇っていく有様は、落ちた月の面が悠長にはね返っていくようだった――それはもつれた小枝をふりほどいて地底を離れ、やがて、断崖の上に生えている葉のないねじ曲がった大枝に、その丸い面にま一文字に黒い割れ目をつくられて。
月は、まるで洞窟の中から射し出したようにその水平な月光を遠くに投げ、その日食のような悲しげな光の中に、伐り倒された大木の切株が黒々と照らし出され、私の足元のあたり一面に、その重たい影がうつっている、そして私自身の動く影法師も、また私の歩いている小径に横倒しにうつっている、いつも花環で飾られている孤独な墓の影も。
ほの暗い月光をあびた花環は、まるでこの地上に生《は》えて人間の手で摘まれたものではなく、死人だけに供えられる運命の特別の花のように、まだ見たこともない形で、なんとも言いようのない色をしていた。その強烈な匂いが、なまあたたかい夜の空気の中にみなぎり、香華《こうげ》のかおりのように重苦しく感じられる。
白|珊瑚《さんご》のかたまりが、ぐるりと黒い土まんじゅうの周囲をかこんで、漂白された頭蓋骨のように光っており、あたりは異様に静かで、私が立ち止まると、世界中のすべての音と動きが消えはてたように思われた。
さながら地球は墓場であるかのような巨大《おおき》な静けさであった。私はしばらくそこに立ちつくして、人類の知らない人里遠いこうした場所に葬られたり、またいまもまだその悲惨な、あるいは奇怪な不幸の運命を分け合って生きている人々のことを考えた。またそこで気高い苦闘をつづけている者のことも――だが、それを誰が知ろう?
人間の心は、全世界をその中に包含できるほど宏大だ。それは、全世界の重荷を自らの肩にになうほど勇敢だ。しかし、世界を振り棄てる勇気のある者はどこにいるだろう?
私はきっと感傷的な気分になっていたに違いない。私は、はげしい、きわみない孤独感にとらわれて、そこに長いことじっと立ちつくしていた――あまり完全な孤独感のため、自分が最近見たすべてのこと、聞いたすべてのこと、そして人間の言葉そのものさえが、すべてこの世から消え去ってしまい、さも自分が人類最後の人間であるかのように、それらはいましばらくの間、ただ私の記憶の中に生きているだけで実在しないように思われてきたのだった。
それは、われわれのすべてのイリュージョンと同様に半意識的に心に呼び起こされた、不思議な、陰鬱なイリュージョンだった――イリュージョンとは、おぼろにかすんだはるか彼方の、到達できない真理のまぼろしに過ぎない、と私は思うのだが……
じっさい、ここは全く地球上の失われ、忘れられた、人類の知らない場所で、私はその朦朧とした表面の下を見たのだった。そして、自分が明日ここを永久に立ち去れば、それはこの世から消え失せて、自分が死んで忘却の国に立ち去るまで、ただ私の記憶の中だけに生きているのだと感じた。
いまも、私はそういう感じをいだいている。たぶん、その感じに刺戟されて、その実在を、その事実を――一瞬のイリュージョンの中に表われた真実を、いわば諸君に引き渡そうとして、私はこの話をはじめたのかもしれない。
コルネリアスが私の幻想を破った。コルネリアスは、地面のくぼみに生えている長い草の中から害獣のように飛び出してきた。彼の家は、私はまだ見たこともないし、その方角にそう近づいたことさえないが、たしかにどこかその近くらしい。
コルネリアスは、汚ならしい白靴を穿いた脚を黒い地面の上でチラチラさせて、私の立っている小径へ走ってきた。そして私の前で立ち止まり、高いシルクハットの下から泣き声を出したり、ぺこぺこへつらったりはじめた。彼のひからびた、小さな胴体は、だぶだぶな黒いブロード地のスーツの中に、すっかり呑まれて見えなくなっていた。
これは、コルネリアスの休日や儀式用の晴着で、これを見て私は、今日がパトゥーサンに来て以来第四回目の日曜日なのを思い出した。私がここに滞在していた間じゅう、私は、この男が、もし私と二人きりになるチャンスさえつかめたら、私に打明け話をしたいと希っていることを、ぼんやり気づいていた。
コルネリアスは、黄色い小さな顔にそれを切望する表情をうかべて、いつもそこらをうろうろしていたが、彼の臆病さと、こんな不愉快な奴とは何のかかわりも持ちたくない私の自然な嫌悪の気持とが、今まで、彼を私に近づかせなかったのだ。しかし、もしコルネリアスが、いつも私に見られるたびに、すぐこそこそ逃げ出しさえしていなかったら、私と二人きりになる機会は、もっと早く掴めたはずだ。
コルネリアスは、ジムの厳しい凝視や、私自身のつとめて無関心に見せている眼や、タム・イタムのむっつりと高ぶった視線に会うと、いつもこそこそ逃げだした。彼は始終こそこそ逃げ出していた。いつ見た時も、コルネリアスは、疑いっぽい唸り声を立てたり、または悲痛な、哀れな無言の顔を肩ごしに振り向けながら、卑屈にこそこそ逃げていくところだった。しかし、たとえコルネリアスがどんな表情を装っていようとも、しょせん肉体のもの凄い醜悪さは、どんな衣服でも隠しおおせないように、彼の性質であるあの天性の根強い卑劣さは蔽《おお》うべくもなかった。
私は、ほんの小一時間前に、恐怖の幽霊と討論して完敗し、取り乱していたためかどうかは知らないが、いまはコルネリアスに、なんの抵抗の素振りさえ見せずに捕まってしまった。私は、こんどはこの男の打明け話を聞き、答えられない質問に直面する運命に見舞われたのだ。これは全く辛いことだ。が、この男の様子を見たとたんに私の心に湧き上がった軽蔑感、理屈なしの軽蔑感は、その重荷を軽減してくれた。
――まあ、こんな奴、どうだってかまわん。おれは、ただジムのことだけ心配していたんで、そのジムは、ついに彼の運命を征服したんだから、他のことはもう何も問題じゃない。ジムは、満足だと……ほぼ完全に満足だとおれに話した。自分の人生に満足だとは、なかなか人間言えることではない。おれ――自分にはそう言う資格があると自負しているこのおれにだって――あえて言えないことだ――
ここにいる諸君の中にも、自分の人生にほぼ完全に満足だと言い切れる人は、まずいないと思うがな?……」
マーロウは、さも答えを期待しているように、言葉を切った。誰も答えなかった。
「まあいい」と、マーロウはまた話しだした。「誰にも判らんでいい。何れ真実は、ただ何か残酷な、小さな、恐ろしい破局に直面したとき、初めて、われわれから絞り出されるものなのだから。しかし、彼はわれわれの一人だが、彼は満足だと……ほぼ完全に満足だと言い切れた。
まあ、この事を想像してみてくれ! ほぼ完全に満足した。彼の破局は、羨ましいほどだ。ほぼ完全に満足した。その後はもう何も問題ではない。もはや誰が彼を疑おうと、誰が信じようと、誰が彼を愛そうと、誰が彼を憎もうと、問題ではない――いわんや、彼を憎むのがコルネリアスにおいてをや。
だが、結局これは、ジムを知るよすがとなる一種の人物証明である。諸君は、ある人物をその友人によって判断すると同様に、またその敵によって判断せねばならない。そしてこのジムの敵は、まともな人間なら誰しもが敵にすることを恥じない、しかも、あまり重要視しない敵とするような下劣漢だった。
ジムの考えもそうであり、また私も同様だったが、しかし、ジムは、大体において、コルネリアスという男をまるで無視していた。
『ねえ、マーロウ』とジムは言った。『僕は、もし自分が直進すれば、何ものも僕に指一つ触れられない感じをもっている。まったく、そう感じている。貴方はもうここに充分長くおられて、どこもよく見られた――そして率直のところ、貴方は僕を、かなり安全だと思っているでしょう? 事実すべてのものが僕に依存しており、そして、誓って! 僕は大いに自信をもっている。
あの男が僕に出来る最悪のことは、僕を殺すことでしょうね。でも、あの男が僕を殺すとは、絶対に僕は考えない。彼には出来ない、ね――たとえ僕自身があいつの手に充弾した銃を渡して、それから背中を向けたとしても。彼はそういう奴だ。そして、仮りに彼がそうしたとしたら――仮りに、彼にそれが出来たとしたら? だが――それがなんだってんです? 僕は生命からがら逃げ出すために、わざわざここへやって来たわけじゃない――そうでしょう? 僕はここへ、大勢を相手に回す覚悟でやって来たのだし、それに、僕はいつまでもここに踏み止まるつもりです……』
『君が完全に満足するまでね』
と、私は彼を遮って言った。
われわれはその時、彼のカヌーの船尾《とも》の屋根の下に坐っていた。
二十本のオールが一本のようにキラリとひらめき、一方の側に十本ずつ、ザブンとただ一つの水音を立てて水を打ち、われわれの後には、タム・イタムが黙々として左右をのぞき、じっと川の中を見つめて、長いカヌーが最も強力な潮流の中から外《そ》れないように、警戒を怠らなかった。
ジムがうなずき、われわれの最後の談話は、これを最後にゆらめき消えた。彼は、河口まで私を見送りに来たのだった。スクーナー船は昨日出発し、私が一晩滞在を延ばしている間、速力をおとして、引き潮の中をただよっていた。そしていま、ジムは私を見送ってくれているのだ。
ジムは、私がとにかくコルネリアスのことなどを口にしたことを少し怒っていた。でも、実は、私はたいして言いはしなかったのだ。あの男は、ジムにせい一ぱいの僧しみをいだいてはいたが、彼は危険人物とするには、あまりにくだらない奴すぎた。
コルネリアスは、一言ごとに私を『立派な旦那様』と呼び、彼の≪死んだ妻≫の墓地から、ジムの庭の門のところまで、私の後についてきて、私の肘のあたりで泣き声を立てていた。
――わっしほど不幸な男は絶対にどこにもいません。わっしは虫けらのように踏み潰された犠牲者です。そう言ってコルネリアスは、私に、このみじめな男を見てくれと嘆願した。私は振り向きもしなかった。しかし、彼の媚びへつらった影が私の影を滑るように追いかけてくるのが私の目じりに映り、右手の空にかかった月が、小気味よさそうに、その光景をながめているように思われた。
コルネリアスは――私が諸君に話したように――あの記念すべき晩の出来事に、彼もジム暗殺の陰謀に片棒かついでいた理由を、説明しようとした。あれは方便でした。誰が勝つか、どうしてわっしに予想できましょう?
『わっしは、彼を救うとこだったんです、お立派な旦那さま! わっしは、八十ドルで彼を救うとこだったんです』
と、コルネリアスは私より一歩|退《さ》がってついてきながら、猫なで声で反対した。
『彼は、自分で自分を救った。そして君を赦した』と私は言った。
一種の忍び笑いが聞こえたので、私はふと彼の方を振り向いた。とたんに、彼はいまにも逃げ出しそうになった。
『何を笑っているんだ?』
私は立ち止まって訊いた。
『だまされちゃいけませんぜ、お立派な旦那様!』
彼は、感情の統制力をすっかり失ったように叫んだ。
『彼が自分を救う! 彼はなんにも知らない男ですぜ、お立派な旦那様――まるっきりなんにも。彼は何者です? 彼はここへ何が欲しくて来たんです――あの大盗人は? 彼はここで何が欲しいんです? 彼は皆んなの目をくらまし、彼はあなたの目をくらましました、お立派な旦那様。でも、彼は、わっしの目をくらますことは出来ません。彼は大馬鹿者です、お立派な旦那様』
私は軽蔑的に笑って、くるりと向き直り、また歩きだした。コルネリアスは、私の肘のところに走り寄って、力をこめてささやいた。
『あの男は、ここじゃ、ほんの小ちゃい子供にすぎません――小ちゃい子供みてえなもんです――小ちぇえ子供さ』
もちろん、私はそんな言葉には耳も貸さなかった。私たちは開墾した黒い土地の上にピカピカ光っている邸の竹垣に近づいていたので、コルネリアスは時が迫ったのを見て、話の要点に入った。
彼は卑劣な涙を流しながら言いはじめた――わしゃ、余りの重なる不幸に、すっかり頭をやられちまいました。もしお気に入らない事を申しましたなら、それもこれも、ただ心配苦労の余りですから、どうぞごかんべん下さい。決して、金輪際、なんにも悪気はねえんで、ただお立派な旦那様にゃ、わっしのようにこうして、尾羽《おばね》打ち枯らし、老い朽ち、踏みにじられた哀れな奴のこたあ、お判りにならねえんで、お話し申しただけで……
この前置きをして、コルネリアスは中心問題に近づいたが、何しろ余りにとりとめがなく、絶叫的で、おずおずした話し方なので、私は長いこと、いったい彼は何を意図しているのやら、さっぱり判らなかった。コルネリアスは、私に、ジムと彼の仲に入って彼のために何かして欲しいのだった。それも、何か金銭問題らしかった。私は度々、
『かっこうな支給――相応なプレゼント』
という言葉を聞いた。コルネリアスは、何かの値段を主張しているらしく、彼はいくらか昂奮して、もし何もかもすっかり盗まれてしまえば、生きている甲斐がない、とまで言った。
もちろん、私は一言も喋らなかったが、しかし、きき耳は立てていた。私はしだいにハッキリ判ってきたが、その要旨というのは、この場合、コルネリアスは、少女と交換に幾らか金をもらう資格があると考えているのだった。彼は少女を育て上げた。赤の他人の子供を。大した心配苦労で――そして今、彼は年寄りだ――かっこうなプレゼントが欲しい、もしお立派な旦那様が、間に入って一言言ってさえ下されば……
私は立ち止まり、もの珍らしそうにコルネリアスを見下ろした。すると彼は、暴利をむさぼると私に考えられたかと怯じ気づいて、あわてて譲歩しだした。
『かっこうなプレゼントがすぐいただけりゃ、わっしゃ、よろこんで、もうこれ以上の支給金なしで――あの若紳士が母国《くに》へ戻んなさった時は、あの娘の身柄は引き受けますでな』
コルネリアスは小さい黄色い顔を、まるで絞りつぶされたようにしわくちゃにして、この懸命に待ちこがれていた強い欲求を口に出した。彼はへつらうように哀れな泣き声で言った。
『それ以上は、もうなんにもご心配はかけません――わっしはごく自然な保護者で――ある金額で……』
私はあきれてそこに棒立ちになった。この種のことが、この男には明らかに一つの職業であったのだ。とつぜん私は、コルネリアスの卑劣なへつらいの態度の中に、さも彼は一生涯、よし、いまに必ずもうけてやるぞ、と計算して取引きしてきたかのような一種の確信を発見した。
コルネリアスは、てっきり、私が冷静に彼の申し出を考慮していると思ったらしく、蜜のように甘ったるくなった。
『へっへっ、どの紳士方も、母国《くに》へお帰りの時がくると、契約金をお払いでした――』
彼は、媚び取り入るように言いだした。
私はバタンと小さい門を閉めた。
『こんどの場合は、コルネリアス君、その時は絶対に来ないぞ』
彼は、私の言葉を呑みこむのに数分かかった。
『なんだって!』
コルネリアスは金切り声の悲鳴をあげた。
『ほう』と、私は門のこちら側からつづけた。『君は、ジムが自分でそう言ってるのを、聞かなかったのか? 彼は、決して母国《くに》へは戻らんのだ』
『おお! そりゃあんまりじゃ』
とコルネリアスは叫んだ。この男は、もう私を、二度とふたたび≪お立派な旦那様≫とは呼ばないだろう。
コルネリアスは、しばらく大へん静かになった。それから、いままでのへり下った態度はあとかたも無くなり、ごく低い声でわめきだした。
『決して戻らない――ああ! 奴は――奴は――奴はここへ、どっかからやって来た――ここへやって来た――なぜだか知らねえが、――わっしを死ぬまで踏んづけに――ああ――踏んづけに』(コルネリアスは、そっとじだんだ踏んで)『こういう風に――なぜだか誰にも判らねえが――わしが死ぬまで……』
彼の声が小さくなってすっかり消え、彼は小さい咳をしだした。それから彼は柵のそばへやってきて、急に打ちとけた、哀れな声になって私に言った。
『わっしは、決して、いつまでも踏んつぶされちゃいませんぜ。我慢だ、――我慢だ』
彼は自分の胸をたたきながらつぶやいた。私は、彼を笑った。しかし意外にも、彼は狂暴な、甲高い声で、大笑いを私に投げつけた。
『ハッ! ハッ! ハッ! いまに見ろ! いまに見てろ! なんだと? このわしから盗み取ると? わしから一切合財をふんだくると? 一切合財を! 一切合財を!』
彼の頭はぐったり一方の肩の上にうなだれ、両手は軽く握って前にぶら下っている。まるでその有様は、少女を、たぐいない愛情で大切に愛《いつく》しんでいたのを、最も残酷に、略奪されて、めちゃめちゃに胸を引き裂かれでもした人のようだった。
とつぜん、コルネリアスは頭をもたげて、いまわしい言葉を叫び出した。
『あいつめ、おふくろによく似てやがる――嘘つきのおふくろによく似てやがる。そっくりだ。顔までそっくりだ。顔までが。悪魔め!』
コルネリアスは、額を囲い柵にもたせかけ、その姿勢のまま、ポルトガル語のひどく弱々しい絶叫で、威嚇や、恐ろしい悪口雑言を言いまくり、それに入り混じって、悲惨な嘆きやらうめき声やらを、まるでひどい嘔吐の発作にでも襲われた人のように、肩を大きく波打たせ、喘ぎ喘ぎ吐き出した。
それはなんとも言いようなくグロテスクで、下劣な演技だったので、私は急いで歩きだした。彼は、私の後から何か叫ぼうとした。たしか何かジムの悪口を――しかし、あまり大きくない声で。われわれは、もうジムの家のすぐ近くまで来ていた。私の耳にハッキリ聞こえたのは、ただ次の言葉だけだった。
『あの野郎は、まだほんの小せえ子供《がき》だ――小せえ子供《がき》だ』」
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第三十五章
「しかし、翌朝、船が川の最初の角を曲がって、パトゥーサンの家々が見えなくなると同時に、このすべては、長い間じっと眺めていたキャンバスの空想画を、もう二度と見まいとしてそれに背中を向けた時のように、その色彩も、そのデザインも、その意味もろとも、私の視野から消え去ってしまった。
だが、それが今は、記憶の中に、動かず、色褪せず、その生命を不変の光の中にとどめて生き残っているのだ。そこには野望も、恐怖も、憎悪も、希望もあり、それらは私が見たのとそっくりそのままで、私の頭の中に生き残っている――強烈に、そしてさながら、永久にあの時の表情のまま停止しているかのように。
私はいまや絵に背中を向けており、そして、事件は動き、人々は変わり、光はゆらめき、生命は、たとえ泥の上でも石の上でも、澄んだ流れとなって流れているあの広い世界に、私は舞い戻ろうとしていた。私は、その流れの底にまでもぐり込む積りはない。ただ、人生の流れの水面に頭を出しているだけで精いっぱいだろう。
しかし、私がいま後に残していくものについては、私は、少しの変化も想像できない。巨大な、度量の広いドラミンと、小柄な母の魔女のような彼の妻とは、一緒にじっとパトゥーサンの国を見守って、我が子がそこの王者となる夢を、心ひそかにはぐくみつづけている。しなびてしわだらけの、ひどく困惑のていのツゥンク・アラング。知的で勇敢で、ジムを深く信頼し、断固とした目《まな》ざしと、皮肉っぽい親愛の情をもったダイン・ウァリス。恐怖に憑かれ、疑惑にさいなまれた恋慕に心を奪われている少女。むっつりした、忠実なタム・イタム。月光を浴びながら、額をジムの家の垣根に押しつけているコルネリアス――
私は、確実にこれらの人々を記憶している。彼等は、さながら魔法使いの杖の一振りで現われる人々のように、私の心に固定した姿で存在している。
しかし、これらすべての人々が群がり囲んでいる中心人物――あの一人だけは生きており、彼については、私は確実《たしか》でない。どんな魔法使いの杖も、私の眼前で、彼を固定させて見せることは出来ない。彼は、われわれの仲間の一人だ。
そのジムは、諸君に話したように、彼の放棄した世界へ戻っていく私の旅行の第一段階を見送りに、私についてきた。その道は、折々、人跡未踏の荒野の中心を通り抜けるように思われた。
真昼の陽光をあびて、見渡すかぎり物影一つない直線流域がギラギラ光っている。鬱蒼たる高い草木の壁と壁にはさまれた水の上で、熱暑がうたたねをしており、ボートは、そびえ立つ樹木の影の下に、濃厚に熱くたむろしているように見える空気の中を、威勢よく押し分けて進んでいく。
切迫した別離の影が、はやくもジムと私との間に大きな間隙をつくり、私たちは話し合う時、さながらいや増しに遠くなる厖大な距離の向こうに、私たちの低い声を無理に届かせようとするかのように骨が折れた。
ボートは飛んでいく。私たちは、淀んだ、過熱された空気の中に並んで暑さにうだっていた。泥や沼の匂い、実り豊かな大地の原始的な匂いが鼻を刺した。が、とつぜんある曲がり角で、遠方から巨大な手が重たい幕をするすると引き上げ、厖大な門をサッと開いたかのようであった。光そのものがざわめいて、われわれの頭上の空が広がり、遠くにかすかな波の音が聞こえ、さわやかな風がわれわれを包み、胸一ぱいに流れこみ、われわれの思想や、血液や、後悔をよびさまし――まっすぐ前方には、森林が、紺碧の海の分水線を背景に低く沈んで見える。
私は深呼吸をした。私は、ひろびろと開けた水平線の広大さに、人生の労苦に震動しているような特殊な空気に、非の打ちどころない世界のエネルギーに驚嘆した。
この空とこの海とは、僕を自由に受けいれようとしている。あの少女の言ったことは正しかった――この空にも海にも、合図と呼び声があった――私が、自分の全身の細胞がそれに呼応する何かが。
私は、枷《かせ》を解かれた男が締めつけられていた手脚をのばし、走ったり、跳んだりして、こみあげてくる解放感に呼応するように、あちらこちらを眺め回し、
『実に荘厳だ、すばらしい!』
と叫んだ。そして、私と並んでいる罪の男を見た。ジムは、深く頭をうなだれ、さも、沖合いの澄んだ空に、彼のロマンチックな良心の叱責の言葉が大きく書かれているのを見るのが怖いかのように、目も上げずに『ええ』と答えた。
私は、あの午後のことは、どんな些細な点もよく覚えている。私達は白い渚に上陸した。それは、みぎわまで蔓《つる》草が一面に垂れ下がり、上端が森になっている低い断崖がバックになっていた。私たちの眼下には、うららかな、紺碧の大|海原《うなばら》が、私たちの目の高さに引かれた糸のような水平線まで、わずかな傾斜で盛り上がって、渺茫と延び広がっていた。
キラキラ光る大波が、微風に追われた羽のようなすばやさで、あばたのある黒い水面を軽く飛んでいく。一連の小島が、広い河口の方を向いて、崩れて大きく坐り、海岸の輪郭を忠実に反映《うつ》している一枚の蒼いガラスのような水の中に陳列されている。
色彩のない日光の中に高く、真っ黒い独りぼっちの鳥が、かすかにつばさを揺り動かしながら、同じ地点の上を、昇ったり降りたりして舞っている。
ぼろな、すすけた弱いござでできている小屋の一群が、黒檀色の、歪んだ、無数の高い杭の上に、自分のさかさに映った影の上に乗ったような恰好で建っている。
一隻の小ちゃな黒いカヌーが、それらの小屋から、全身黒色の二人の小さな男を乗せて漕ぎ出てきた。男たちは懸命に蒼い水を打ってやってくる。まるで、カヌーが鏡の上を苦労して滑っているように見える。
このみすぼらしい一群の小屋は、白人のご主人様の保護を誇りにしている漁村で、川を横切ってやってくる二人の男は、老村長と彼の婿《むこ》だった。彼等は、岸に上ると、白砂を踏んで、私たちの方へ歩いてくる。まるで燻製《くんせい》人間のように、痩せて、黒褐色で、そのむきだしの肩や胸のへんには、いくつか灰色のしみが見える。頭は、汚ないがでもていねいに畳んだハンカチーフで結わえてあり、老人はすぐ、ひょろ長い腕を差しのばし、その老いた、かすむ目を細くして、信頼をこめてジムを見上げ、よく回る舌で泣き言を訴えだした。
ラージャ・アラングの家来どもか、彼等にまた手出しをした。ジムの漁村の人々が、あそこの小島で採集《あつめ》たたくさんの亀の卵のことでいざこざがあった――と、老村長は腕を延ばして彼のかいの上によりかかりながら、褐色の皮だらけの指で沖の方を指さした。
ジムは、しばらく顔を上げずに聴いていたが、やがて優しく、待っていろと男に言った。そのうち聞いてあげようと。二人の男は、従順に少し遠くに引きさがり、彼等の櫂を砂に横たえてきちんと脚をたたんで坐り、目に銀色の光をうかべて、じっと辛抱づよく私たちの動作を見守っていた。
洋々と無限に広がった海、私の視野のはるか彼方まで遠く南北に延びている海岸の静けさは、一片の光る細長い砂地の上に孤立したわれわれ四人の小人どもを、じっと見守っている巨大な神の存在を感じさせた。
『もめ事というのは』と、ジムが陰気に言った。『実は何世紀もの間、あそこの村の漁夫どもは、ラージャの奴隷《どれい》だと考えられていたので――それで、あの老いぼれのならず者は、いまもって頭にピンとこないんだ……』
彼は言葉を切った。
『君が、そのすべての情勢を一変したってことがね』と私は言った。
『そう、私はそのすべてを変えました』と、彼は陰鬱につぶやいた。
『君は、君の好機を捕えたんだ』と私はつづけた。
『そうだろうか?』と彼は言った。『まあ、そうだ。そうらしいな。そうだ。僕は自信をとり戻した――いい評判も――でも、時々僕はむしろ希う……いや、いかん! やっぱりおれは、自分の掴んだものを大切に持っていよう。それ以上は何も期待できない』ジムは、海の方にサッと一方の腕を延ばした。
『とにかく、あの海の向こうの世界にはなんにもね』
そして彼は、砂の上で足を踏み鳴らした。
『これが、おれの限界だ。なぜなら、ここが最低線だからだ』
私たちは、渚を歩きつづけた。
『そうだ、僕はあのすべてを一変した』
と、ジムはチラリと大人しくうずくまっている二人の漁夫の方を流し目に見てつづける。
『だが、もし僕が行ってしまったら、みんなはどうなるか、考えてみて下さい。ああ! 判るでしょう? 地獄の釜の蓋が開く。だめだ! 明日は、僕はあの馬鹿らしいツゥンク・アラング爺いのコーヒーを飲む機会を得て、あのくされた亀の卵のことで、果てしない長弁舌を振るわねばならない。
だめだ、おれには言えん――こんな馬鹿げたことはもう沢山だとは。絶対に。ぼくはいつまでも、永久に自分の最期をみなの前に掲げて、何ものも、ぼくに指一つ触れられないことを確信しつづけねばならないんだ。ぼくは是非にも、彼等の信頼に自分を縛りつけて、自分は安全だと感じ、そして――そして……』
ジムは言葉を捜し回り、海の上にそれがありはせぬかと探しているみたいだった……
『接触をつづけるために』……彼の声が急に低いつぶやき声になった……『たぶん、もう決して二度とふたたび会うことはないだろう人々と……心の接触をつづけるために。例えば――例えば――貴方と』
私は、彼の言葉で天狗の鼻がへし折れた。
『後生だ、ねえ君』と私は言った。『私を祭り上げないでくれ。ただ、君自身のことだけ注意してくれ給え』
私は、あの落伍者が、私を、つまらない群集の中から落伍しない者の代表に選んでくれたことを、感謝もし、可愛くも思った。
しかし、結局、それがなんの誇りになるか!
私は、自分のカッと赤くなった顔をそむけた。
火の中から引き出した燃えさしのように、黒っぽく赤く光っている低い太陽の下で、海はせい一ぱいの静けさで、広々と横たわり、その燃える球体が接近するのを待っている。
二回、ジムは何か言おうとして止めた。そして、さもやっと言葉を見つけたかのように――『僕は真実をつくそう』と静かに言った。『僕は真実をつくそう』
彼は私の方を見ずに繰りかえした。そして初めて目を上げて、いまや燃える夕陽の下で青から暗紫色に変わった海面をながめた。
ああ! 彼はロマンチックだ、ロマンチックだ。私は、シュタインのいった言葉を思い出した……『おのれを破壊する要素の中に自ら没入し!……夢を追い、あくまでも夢を追い――こうして――いつまでも―― usque ad finern (永遠に)……』
彼はロマンチックであったが、しかし、また同様に真実であった。彼は夕陽の光の中に、果たしてどんな姿を、どんな幻を、どんな顔を、どんな赦しを見ることが出来ただろう!……小さいボートが、スクーナー汽船を離れて、ゆっくり二つの櫂で規則的に水を打ちながら、私を連れ去りに砂丘の方へやってくる。
『それにまたジュエルもいるし』
と、ジムが、大地や、空や、海のきわみない静けさを破って言った。静けさの中に呑まれていた私は、彼の声にギョッとした。
『ジュエルもいるし』
『そうだ』
と私はつぶやいた。
『彼女が僕にとってどれ程貴重か、あなたは言わなくともお判りだ』とジムはつづけた。『あなたは彼女に会われた。そのうち、彼女はわかってくれるでしょう……』
『そうねがうな』
と、私は口をはさんだ。
『彼女は、僕を信じてもいるし』
ジムはちょっと考えて、それから急に語調を改めた。
『いったいこの次は、いつまたお会い出来るでしょうね?』と彼は言った。
『もう二度と会えん――君が出て来ないかぎり』
私は、彼の視線をさけながら答えた。彼は驚いたようには見えなかった。彼は、しばらく、ひどく静かだった。
『では、さようなら』と、やがて彼は言った。『たぶん、それもいいでしょう』
私たちは握手し、私は、鼻先を渚に着けて待っているボートの方に歩きだした。
汽船は大帆を揚げ、ジブ〔船首に張る三角帆〕を風上に向けて、紫色の海上で跳躍《クルベット》している。夕陽に帆がバラ色に染まった。
『じきまた帰郷しますか?』
ちょうど私が片脚を舷縁《ふなべり》にかけた時、ジムが訊いた。
『もし生きていたら、一年くらいのうちにね』
と私は言った。砂の上で船首水切りが軋り、ボートが水に浮かび、濡れたオールがキラッと光って、水中に突き込まれた、一回、二回。
ジムは、水ぎわに立って声を大きくした。
『彼等に言ってくれ……』
ジムが言いだした。私は、男達に漕ぐのを止めろと合図して、いぶかりながら待った。いったい誰に言うのだろう?
半ば水中に没した夕陽が、ジムの顔を真正面から照らし、その赤い光が、絶句したように私の方を無言で見つめている彼の目に映っている……
『いや――なんでもないんだ』
と、彼はちょっと片手を振ってボートを向こうに行かせながら言った。私は、汽船の甲板によじ登ってしまうまで、海岸の方を見なかった。
いつか夕陽は没していた。たそがれが東の空をおおい、渚は黒色に変わり、夜の砦そのもののように見える暗黒色の砂壁を、無限大にのばしていた。西の水平線は金色と紅色の巨大なほのおで、その中にたった一つ、大きな雲が、薄黒く、静かにうかんで、下の水上にねずみ色の影を投げている。ジムは渚に立って、汽船《スクーナー》が、しだいに進航速度をはやめて遠ざかっていくのをじっと見つめている。
私が去ったあとすぐに、二人の半裸体の漁夫は立ち上がった。疑いもなく彼等は自分たちの悲惨な、圧迫された生活を白人のご主人様に訴えており、疑いもなくジムはそれに耳を傾け、それを彼自身のこととしているのだ。なぜなら、それが彼の幸運の一部――≪全くの新しいスタート≫から生まれた幸運――彼が、自分は絶対にこれは逃がさないと私に断言した幸運の一部ではなかったか? 彼等もまた、幸運だったといえようし、そして、彼等の根気強さからすれば、けっしてその幸運をとり逃がすことはないだろう。
黒い肌をした彼等の姿が、暗い背景の中に見えなくなった後も、彼等の庇護者の姿は、いつまでも消えなかった。ジムは、頭から足の先まで白々と、夜のとりでを背景に、海を足下にして、まだヴェールにおおわれたままの幸運と並んで、いつまでも見えていた。
諸君、なんだって? いまもまだヴェールにおおわれているかって? さあ、私にはよく判らんね。私には、海岸と海の静寂の中にたたずんでいるジムの純白の姿は、巨大な謎の中心に立っているように思われた。
たそがれは、彼の頭上の空からすばやくうすれていき、細長い砂浜はすでに彼の脚下に沈んでしまい、彼自身も、もう子供くらいの大きさにしか見えない――やがて、それはほんの白いしみのようになり、それから、小さい点のようになり、その純白の一点に、暗い世界に残っているあらゆる光が集中しているように見えた……そして、突然、私は彼の姿を見失った……」
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第三十六章
この言葉でマーロウは彼の物語を終え、彼の聴き手たちは、すぐ、彼がぼんやり物思いに沈んでじっと前方を見つめている前で解散した。
男たちは二人連れ、または一人きりで時を移さず、一言も言わずにベランダへ出ていった――あの未完成の物語の最後の人間像と、その未完成さ自体のあり方と、語り手の語調が、皆に、畢竟議論しても無駄だし、説明は不可能だと感じさせたようだった。で、聴き手たちは、めいめい自分自身の印象を、秘密を持ち去るような気持で持ち去っていった。
しかし、このすべての聴き手の中にただ一人だけ、この物語の最後の言葉を聞くようになる運命をもつ者がいた。それから二年余り後に、それは、マーロウの右肩上がりの、角ばった筆跡で宛名を書いた、ぶ厚い小包の中に入って、彼の許へとどいた。
この特権を与えられた男は、小包をひらいて中を見、それから、それを下に置いて窓のそばへ行った。彼の部屋は、高いビルの最上層にあったので、彼はちょうど燈台の明り窓から外を眺めるように、澄明なガラス越しに、はるか遠方まで見渡すことが出来た。
家々の屋根の傾斜がピカピカ光り、黒い屋根棟が、黒く、波頭のない波のように果てしなく連らなっており、彼の脚下の町の底から、ごたついた、低い騒音が、絶え間なしに昇ってくる。教会の尖塔が、数知れず、やたらに散らばって、水路のない浅瀬の迷路にうかぶ浮標《ビーコン》のように立っており、吹き降りが、冬の夕暮れの薄闇とまじって降っていた。塔の大時計が、中心に甲高い、震えた叫び声を含みながら、厳《いかめ》しい音を爆発させて、殷々と時を打ちはじめた。
彼は重たいカーテンを引いた。
シェードをかけた彼の読書ランプは、樹かげの小さい池のように眠っており、カーペットには彼の足音はしない。彼の放浪の日はもう終わっていた。果てしない希望をいだき、果てしなくつづく水平線を探索する日々も、寺院のように厳粛な森林のたそがれも終わったのだ。波をのりこえ、川を横切り、山を越えて、あの永遠の謎を秘めた国を求めていったはげしい探究の旅は終わったのだ。
時を打っている! もう終わった。もう終わった。――だが、ランプの下の開かれた小包は、過去の音を甦らせ、過ぎし日の幻を見せ、その香りを再現し――はげしい、苛酷な陽光に照らされたはるか彼方の海岸に消えかかっている数多のぼやけた顔や、大勢の、入り乱れた低い声々を甦らせている。
彼はためいきをつき、腰をかけて読みはじめた。
最初に出てきたのは同封された三通の手紙だった。ぎっしり字を書いたかなりの枚数をピンで一まとめにしたものが一つ、彼がまだ見たことのない筆跡で数語をしたためた灰色っぽい四角い紙が一枚、それとマーロウからの説明的な手紙の三種だ。この最後の手紙の中から、また一通、時を経て黄色くなり、折り目がすり切れた別の手紙が落ちた。
彼はそれを拾い上げて横に置き、マーロウの手紙の最初の数行にすばやく目を走らせ、急に読むのを止め、それから、未発見の国を覗きに、警戒に目をみはり、そろそろと近づくように、注意深く読みはじめた。
「……君はまだ忘れないと思う」と、手紙の言葉はつづく。「君だけが、彼にたいして興味を示したので、彼の後日物語を伝えることにした。もっとも君は、彼が自分の運命を征服したということを認めなかったのを、小生はよく覚えてはいるが。
君は、ジムがやがて、獲得した名誉や、自ら買って出た至難な仕事や、憐憫と若さから生まれた恋に倦きてくるだろうと、彼の不幸を予言したね。君は、『そういったことを』、そういった錯覚《イリュージョン》的な満足を、その避け難い欺瞞を、よく知っていると言ったね。
君はまた言った――小生は思い出す――『自分の人生を彼等に与えることは』(彼等とは、つまり、茶色や、黄色や、黒色の皮膚をしたあらゆる人種という意味で)『自分のたましいを、けだものに売りとばすようなものだ」と。
君は主張したね、こうした行為は、人種的にはわれわれ白人種の思想である≪真理≫への鞏固な確信に基礎を置いてこそ、耐えられるし、また永続性があるのだと。その真理の名において、社会秩序も倫理的進歩の道義も確立されるのだと。『われわれは、その力を、われわれの背後に必要とする』と君は言った。
『われわれは、自分の生命を、価値ある、意識的の犠牲奉仕に投げこむには、真理の必然性とその正義の力に信頼することが必要だ。それなくしては、犠牲は、ただ忘却の彼方に投げやられ、献身は、即ち破滅への道に他ならない』と。
言いかえれば、君の主張は、われわれは身命を擲《なげう》って犠牲奉仕したいなら、よろしく兵役に服して闘うべし、さもなくば、われわれの生命は犬死だというのだ。たぶんそうだろう! たしかに君はよく知っている筈だ――小生は悪意なしに言うが――君は、一、二の危険な火中に徒手空拳で突入して、巧みに君のつばさを焦がさずに脱出した。
しかし、要点は、数ある人々の中で人もあろうにジムは、自分自身としか交渉しなかったということだ。そして問題は、最後に彼は、社会秩序や進歩のおきてより一段と高い、立派な信仰を告白したのではなかろうか? という点だ。
小生は何ごとも断言はしない。たぶん君は、これを読んだあとで、言うかもしれない――
いわゆる下世話に言う≪(疑惑の雲に隠れた)日陰の身≫という言葉は――結局――大いに真実を語っている。彼をハッキリ見ることはしょせん不可能だ――特に、事実われわれが彼の最後を見るのは、他人の目を通してだし、と。
小生は、ためらわず君に、ジムが日頃言っていたように≪ついにやってきた≫彼の最後のエピソードについて、小生の知っているすべてを伝えよう。たぶん、これは、あの至上の好機――それを経てはじめて彼はこの無疵《むきず》の世界に彼の伝言《メッセージ》を言えると、彼がいつも心待ちしていたように思われる、あの最後の、満足のいく試練であったのではないだろうか? と私は考えるのだ。
君は、小生が最後にジムを置いて出発したとき、彼が小生に、じき帰郷するか? と尋ね、そして突然私の後から『彼等に言ってくれ!』と叫んだことを覚えているだろう……小生は、ボートを止めて待った――たしかに好奇心もあったが、また内心期待をもって――だが、彼はただ『いや、なんでもないんだ』としか言わなかった。
あの時は、あれだけが全部で――あれ以上は何もなかったのだ。メッセージはなかった――われわれめいめいが、事実という言葉(それは余りにもしばしば最も巧妙に仕組んだ謎言葉よりなおいっそう難解だが)から翻訳して推測する以外にはね。
彼が、いま一度自分自身を救い出そうと試みたことはたしかだ。が、それも、君がここに同封してある灰色の大判洋罫紙を見れば判るように、失敗に帰した。
彼はここに書こうとしたんだ。君、この平凡な筆跡を見たろう? これは≪パトゥーサンの砦は≫と書き出している。彼は、自分の家を、なんとかうまく防御の場所にする意図だったんだと思う。これはすばらしいプランだ――掘りめぐらした深い溝、頂上に矢来をめぐらした土壁、そして角々には大砲が、四角い広場の各々の側の敵を全滅できるように、砲台の上に乗っている。
ドラミンは、ジムが我が家に大砲を備えつけることに賛成したのだ。こうしておけば、彼の味方は誰もみな、ここは安全な場所であって、誠実な人物なら誰でもみな、何か突発的に危険がせまった時、ここに集合して勢いを盛り返せることを知っていた。
すべてこれは、ジムのすぐれた先見の明と、彼が未来を信じていたことを示している。彼のいわゆる≪ぼくの一族≫と呼んでいた、――ジムによって解放されたシェリフ・アリの捕虜たち――は、彼等の小屋と小地面を砦の壁ぎわに持ち、ハッキリ、パトゥーサンの特定社会の人々であった。その中で、彼は無敵の主であったろう。
≪パトゥーサンのとりでは≫君の見る通り、日づけはない。この日にどんな数字を、どんな名前をつけたらいいのだ? 彼はペンを取り上げた時、誰のことを頭において書こうとしたのか、それも判らない。シュタインか――小生自身か――世間全般か――それとも、これはただ恐ろしい運命に直面した孤独な男の、ただ目的なしの驚愕の叫びにすぎないかもしれない。
≪突如、恐ろしい事態が発生した≫と彼は最初にペンを投げ出す前に書いている。その言葉の下の鏃《やじり》に似たインクのしみを見てみ給え。
しばらくして、彼はふたたび、まるで鉛の手のように重たい手つきで、また一行走り書きしている。
≪僕は是非ともいますぐ……≫
ペン先からパチパチ、インクが飛び散っており、彼は、こんどはもう書くことを断念している。もうそれっきり何も書いてない。彼は、視野も声もとどかない広大な深淵を見たのだ。小生には、これが判る。ジムは不可解な力に圧倒されたのだ。彼は、彼自身の人格に圧倒されたのだ――彼が征服しようとして最善をつくした、あの運命のたまものである、彼自身の偉大な人格に。
小生は、君にまた一通の古い手紙を送る――ごく古い手紙を。それは、ジムの手文庫の中に大切に保存されていた品だ。それは彼の父親からの手紙で、その日付けで判る通り、彼はそれを、パトナ号に乗り組む数日前に入手したらしい。こうして、ゆくりなくも、これが彼の家郷からの最後の手紙になったに違いない。
ジムはそれを、何年間も大切な宝にしていた。善良な老牧師の父は、海員の息子が気にいっていたんだ。小生は、その手紙のそちこちを拾い読みしたが、ただ父の慈愛のほかには何も書いてない。父親は彼の≪愛するジェームズ≫に、お前からの最後の長い手紙は、大そう≪正直で愉快≫だった。私はお前をけっして≪人に苛酷な断定や早まった断定≫を下すような人間には育てなかったね、と言っている。
父親からの手紙は四ページで、わかりやすい倫理や、家族のニュースがしたためられていた。――トムが、≪聖職≫についた。キャリーの夫が≪お金を損した≫。老牧師は、穏やかに神の摂理と、神の定めた宇宙の秩序を信じながら、しかし、人生に起きる小さい危険や、小さい御恵みに生々しい感受性をもっていた。
彼が灰色の髪をして、一点の曇りもないうららかな表情で、彼の本のずっしりと並んだ、色腿せた、気持のいい書斎の神聖な避難所《シェルター》に坐っている姿が、目にうかぶようだ。ここで老牧師は四十年間、良心的に、丹念に、信仰や美徳について、またわれらは人生で何を為すべきか? 唯一の正しい死に方はどういうのか? について、彼の小さい思想を何回となく検討しつづけてき、ここで彼は沢山の説教を書き上げ、ここに坐って彼は、地球のあちら側にいる彼の息子と語り合っているのだ。
しかし畢竟、父と息子をへだてている地理的距離がなんであろう? 世界のいずこにいようとも、真の美徳は一つ、信仰もただ一つ、人生において為すべき事も一つ、正しい死に方も一つしかない。老牧師は、彼の≪愛するジェームズ≫が、忘れないようにと書いていた――≪一たび悪魔の誘惑に負けた者は、その瞬間に、自分の全面的堕落と、永遠の滅亡の危険に自らを曝すのだ。それゆえ、たとえどんな動機からでも、決して悪いと信じたことは何も為ないように、固い決心をせねばならない≫ということを。
手紙にはまだその他に、愛犬のニュースと、≪お前たち皆がいつも乗っていた≫ポニー馬が老年で盲目になったので、射殺せねばならなかったというニュースがあった。最後に老父は、我が子に天の祝福を祈り、母親や、その時家にいた姉妹たち全部から愛を送ると……
長年ジムがしっかり握りしめていた手から、ヒラヒラと舞い落ちたあの黄色い、すり切れた手紙には、何も大したことは書いてなかった。あの手紙にジムはついに返事を書かなかったが、しかし、墓のように危険や闘争から解放されたあの静かな世界の一隅に住んで、乱されない正義の空気を穏やかに呼吸しているあの平和な、無色の男女の姿とどんな会話を交わしていたか、それを誰が知ろう。
ジムが、あんなに多事多難であった彼が、あの家族の一員であることさえ驚きだ。彼等には何事も起きなかった。彼等は、けっして虚を衝かれることもなく、また決して運命と取っ組み合いをいどまれることもないだろう。
ここで彼等はみな、父親の柔和な噂話に呼び覚まされ、ジムと骨肉の間の兄弟姉妹らはみな、澄んだ、無意識の目をみはり、一方私には、ついに故郷に戻ってきたジムがいまはもはや、巨大な謎の中心の単なる一白点ではなく、完全な身長をもった姿で、彼に気づかない家族の人々の悩みなき姿の中に立っているのが見えるようだ――厳《いかめ》しい、ロマンチックな様子で、しかしいつも無言で、暗く――疑惑の雲の下に。
最後の事件の話は、ここに同封した数枚にしたためてある。それは、彼の少年時代の最もとっぴな夢よりもなおロマンチックなことは認めねばなるまいが、しかしそこには、さもわれわれの空想だけが、圧倒的な運命の力を自分の上に放つかのような、一種の深刻な、恐ろしい論理があるように私には思われるのだ。われわれの思想の軽率さは、われわれの頭にはね返ってくる。剣をもてあそぶ者は、剣によってほろびる。
この驚くべき冒険は、しかも、その中で最も驚愕すべき点は、それが実話だということだが、一つの必然的な結果としてやってくる。何かそういった事が、起きる筈だったのだ。君は、こんな事件が、キリスト紀元がまだ続いている時代に起きたことに驚き呆れると同時に、一方君自身も、やはりそう繰り返すだろう。しかし、とにかく、実際にそれは起きたので――その論理を討論しても無駄だ。
小生は、その事件を君のために、さも小生自身が目撃者であるかのようにここに書いた。小生の聞いた報告は断片的であったが、小生はその断片をつなぎ合わせて、理解できる程度の絵巻物につくり上げた。
もしジム自身が話すとしたら、どういう風に話しただろうかと小生は考えるのだ。彼は小生にとてもたくさん打ち明けてくれたので、さも、そのうちに彼がやってきて、彼自身の言葉で、彼のさりげない、そのくせ感情のこもった声で、あの天衣無縫の態度で、少し当惑したように、少し悩ましそうに、少し傷つけられたように、しかし時々、彼の環境や人間関係を認識させるのにはなんの役にも立たないが、彼自身の正体をチラリと見せるには役立つ一言か一句をはきながら、その話をしてくれるに違いないような気が時折りするのだ。
彼はもう決してやって来ないのだと、信じることはなかなか難かしい。だが、私はニ度とふたたび彼の声を聞くことはないのだし、あの額のはえぎわに日焼けしない白い線をのこした、彼のなめらかな、タン・ピンクに日焼けした顔を見ることも、あの若々しい目が、昂奮にふかぶかと神秘な蒼い色を深めるのを見る時も、もう二度とふたたびないのだ」
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第三十七章
「すべては、サンボアンガ〔フィリピン、ミンダナオ島西部の海港〕近くの小さな湾から、まんまとスペインのスクーナー船を盗み取ったブラウンと呼ぶ男の大した離れ業にはじまる。
私がこの男を発見するまでは、私の聞き込みは不充分だったが、しかし実に思いがけず、私は、こいつの傲慢無礼の霊魂《いのち》がこときれる数時間前に、彼に出会ったのだった。
幸いこいつは、息苦しくぜいぜい咳込む発作の合間合間に、よろこんで話し、ただジムの事を考えただけで、邪悪な歓喜にその苦しい体でのた打ちまわって喜んだ。こうして、この男は、自分が≪結局、あの生意気な乞食野郎にし返しした≫ことを考えて、有頂天になっていた。
彼は自分のしたことに一人でほくそ笑んだ。私は、話を聞くために、この男の獰猛な、目尻がしわだらけの、落ちくぼんだ、ギラギラ光るどぎつい目を我慢しなければならなかった。私はそれをじっと我慢しながら心の中で、ある形の悪というものが、それが強烈なエゴイズムから生まれ、反抗のほのおにあおられて、自らのたましいをめちゃめちゃに引き裂き、肉体に贋物《にせもの》のすごい精力を与えるさまは、いかに狂気に近いものかを考えた。
ブラウンの話を聞くうちに私は、また、ねじけたコルネリアスの奸智が意外に深いことを、そして彼の卑劣な、ジムに対する烈しい憎しみが、復讐への誤またない道を指示する微妙な、霊感に近い働きをしたことを知った。
『おれはな、あん野郎を見たとたんに、あいつがどういう種類の阿呆か、すぐ判ったのさ』
と、断末魔のブラウンはあえぎながら言った。
『ふん、あいつが男か! べらぼうな! 奴は空っぽの贋物さ。てんで真っ向から≪俺の獲物《えもの》に手出しをするな!≫とも言えやがらねえ。畜生! そう言い切りゃ、男らしいや! あいつの高慢ちきなたましいは腐れてらあ! 奴は、おれをあすこで捕虜にしおった――だのに、おれを殺すだけの威勢がねえのよ。あるもんか! そしてこのおれを、さも蹴とばす値打ちもねえみてえに、逃がしやがるたァ何事だ!……』
ブラウンは息苦しさに必死で身もだえた……
『ぺてん師め……おれを殺さず逃しゃあがった……だから俺ゃ、結局、あいつを殺してやったのさ……』彼はまた息が詰まった……『俺ゃ、どうせ死ぬたァ判ってるが、いまは愉しく死ねるぜ。あんた……あんた、聞いてるね……俺ゃ、あんたの名は知らねえ――俺ゃ、あんたに五ポンドの札をやるぜ、もし――もし持ってりゃあな――このニュースの聞き賃にな――それでこそ、おれはブラウン様だ……』
彼はニタリと恐ろしい笑いをもらした……『紳士のブラウン様だ』
ブラウンは、これらのことを、ひどく喘ぎ喘ぎ、その痩せた、悪徳で醜悪になった茶色の顔から、黄色い目玉をギロリとむき出して私を見ながら言った。彼は左腕をピクピク痙攣《けいれん》させた。もつれたごま塩の顎鬚《あごひげ》がほとんどふところまで垂れ下がり、汚ならしいぼろ毛布が、彼の脚をおおっている。
私はブラウンを、あの世話好きなホテルの経営者ションベルクを通してバンコックで見つけたので、彼は、私を、内緒でここへ案内してくれたのだった。どうやらこの――土人どもの中でシャムの女と一緒に暮らしている白人――のらくら者で、呑んべえの浮浪者は、かの有名なブラウン紳士様の最後の数日間を、自分の宿に泊めたことを大した特権だと思っているらしい。
ブラウンが、みじめな物置小屋で私に話しながら、いわば一分でも生き永らえようと闘っている間、このシャムの女は、大きな素足で、愚鈍な粗野な顔をして、暗い片隅に坐り、鈍感にマンマの葉を噛んでいた。
時々、シャム女は立ち上がり、物を投げつけて、ドアから入ってくるヒヨコを追っ払った。女が歩くと、小屋じゅうがぐらぐら揺れた。小さい異教の神様のように、素ッ裸で太鼓腹の醜い、黄色い子供が、寝椅子の足元に立って、ポカンと指をくわえながら、瀕死の男をじいっと、静かに見物している。
ブラウンは熱狂的に話した。が、話の途中で、たぶん見えない手に喉を絞め上げられているのか、度々彼は、疑惑と、苦悩の表情で、口がきけずに、黙って私を見上げた。この男は、私が待ちくたびれて、彼の有頂天の自慢話を聞き終わらないうちに、行ってしまうのを恐れているようだった。
ブラウンは、その晩のうちに死んだが、しかし、その頃には、私は何もかもすっかり聞き終わっていた。
ブラウンについては、今は、これだけにしておこう。
これより八カ月以前に、私はサマラング〔ジャワ島北部の海港〕へ行ったとき、いつものようにシュタインの所へ出掛けた。家の庭に面した側のベランダにいた一人のマレー人が、恥ずかしそうに私を出迎えた。私はこのマレー人を、パトゥーサンのジムの家で見かけたことがある。彼はよく他のブギスの男たちと一緒に夕方やってきて、夜の更けるまで彼等の戦争の思い出話に花を咲かせたり、国家の問題を論じ合ったりしていた。
ジムは一度、この男を私に指さして、彼は小規模だが立派な貿易商で、土地でできた小型のものだが外洋航海できる船ももっており、『あのアリの矢来を占領の時、最高の功績を立てた人です』と言ったことがあった。パトゥーサンの貿易商が、あえてサマラングまでやって来た場合は、シュタインの家へ立寄るのが自然だろうと思ったので、私はこの男を見ても大して驚かなかった。
私は、彼に挨拶をかえして先へ進んだ。と、シュタインの部屋の戸口で、私はまた一人のマレー人に出会い、それがタム・イタムだと判った。
私はすぐ、お前はここへ何の用で来たんだ、と訊いた。私は、ひょっとするとジムがここを訪問に来たのかもしれないと思った。とたんに私は嬉しくなって、昂奮した。タム・イタムは、さも返事に窮している様子だった。
『トゥアーン・ジムは家の中か?』
と、私は待ちきれずに訊いた。
『いいえ』
タム・イタムは口の中でつぶやいて、しばらくうなだれていたが、それから急に真剣な表情で、
『彼はどうしても、闘いませんでした。どうしても、闘いませんでした』
と、熱心に二回繰りかえした。もうそれっきりタム・イタムは何も言えないらしいので、私は彼を押しのけて中へ入っていった。
シュタインは、長身をかがめて、たった一人、部屋のまん中の、蝶のケースとケースの間に立っていた。
『ほほう! 君だったのか、わが友』
シュタインは、悲しそうに、眼鏡をすかして覗きながら言った。くすんだ鳶《とび》色のアルパカの背広を、ボタンをかけずに膝のへんまで着流している。頭にはパナマ帽をかぶり、蒼白い頬には、深いしわがよっていた。
『どうかしたんですか?』私は不安になって訊いた。『タム・イタムもあそこにいたし……』
『来て、少女に会ってくれ。来て、少女に会ってくれ。彼女はここにいる』
シュタインは、生半可な、忙しそうな素振りで言った。私は彼を引き止めて聞こうとしたが、彼は、優しい頑固さで、私の熱心な問いには耳も貸さない。
『彼女たちは、ここへ二日前にやってきた。わしのような老人の異国人は――彼女に会っても――何も大したことは出来ない……こちらへ来給え……若い女心というものは、人を赦さない……』
私は、シュタインが非常に苦悶しているのが判った……
『若い者には、生命力がある、残酷な生命力が……』
彼は、私の先に立って家を回りながら、口ごもった。私は、陰気な、腹立たしい臆測をしながら、彼の後についていった。シュタインは、客間のドアのところで、私を引き止めた。
『彼は、あの少女を大そう愛していたね』
シュタインが質問するように言ったので、私は、口がきけないほど苦々しい失望を感じながら、ただうなずいてみせた。
『じつに恐ろしい』と、シュタインはつぶやく。『彼女には、わしの言うことがわからない。わしは、ほんの見馴れない老人に過ぎんからな。たぶん、君なら……彼女は君を知っているし。彼女と話してくれ。こんな風にして、放っとくわけにはいかん。彼女に、彼を許してやれと言ってくれ。じつに、なんとも恐ろしいことだ』
『そうですとも』と私は、何が何だがよく判らないので、いらいらしながら言った。『でも、貴方《あなた》は、彼を許したんですか?』
シュタインは、奇妙な顔をして私を見た。
『いまに判る』
彼はそう言うと、ドアを開けて、私を力強く中へ押しこんだ。
君は、シュタインの無人の大きな邸と、そしてとても人間に住めそうもない、清潔で静寂で、そして、まるで一度も人間の目に見られたことがないようなキラキラ光る品物が一ぱいに詰まっている、あの二つの巨大な応接間を覚えているね? あの部屋は、一番熱い日でも涼しくて、そこに入ると、地下のきれいに洗浄された洞穴に入ったようにヒヤリとするのだった。
私は一つの部屋を通り抜けた。すると次の間に、少女が、大きな黒檀のテーブルの端のところに腰をかけて、テーブルの上に頭をのせ、両腕に顔をうずめているのが見えた。
ワックスで磨いた床が、まるで一枚の氷のように、ぼんやり彼女の姿を映していた。藤の陽除けが下ろしてあり、部屋は、庭の樹の葉のために妙に緑色がかって薄暗く、時々サッと強い風が吹きこんで、窓や戸口にかかっている長いドラペリー〔掛け布〕を揺り動かしていく。
少女の白い姿が、雪で作った彫像のように見え、垂れ下がっている水晶の巨大なシャンデリアが、彼女の頭上で、キラキラ光るつららのように、風でカチン、カチンと音を立てている。
少女は顔を上げて、私の近づくのをじっと見つめている。私は、さながらこの厖大な部屋が、冷たい絶望の宿ででもあるように、ぞっと悪寒を感じた。
少女は、すぐ私だと判った。そして、私が彼女を見下ろしながら立ち止まるや否や、
『彼、私を置いて行ってしまったわ』と静かに言った。『貴方がたは、いつも私たちを置いて行ってしまうのね――ご自分の目的のために』
彼女の顔は動かない。生命の熱と血潮が全部、彼女の胸のどこか近寄りがたい一点に退《ひ》いてしまったようだ。
『彼と一緒に死ぬのは楽だったでしょう』
と彼女は言葉をつづけ、さも不可解な難問を諦めたように、かすかに疲れた表情をした。
『あの人は、どうしても聞いてくれなかったわ! まるで盲人のように――でも、彼に話しているのはこの私なのに。彼の目の前に立っているのはこの私なのに――あの人の見ているのはいつも見ていたこの私なのに! ああ! 貴方がたは強情よ、裏切り者よ、真実も情けもないわ。何が貴方がたを、そんな悪者にしちゃうの? それとも、貴方がたはみんな気違い?』
私は彼女の手をとった。それはなんの反応も示さない。私が彼女の手を放すと、手はだらりと床の上にぶら下がった。その無関心さは、泪や、泣き声や、非難よりもいっそう恐ろしく、時の経過と慰めに挑戦しているようだった。畢竟、私が何を言っても、この静かな、苦痛に麻痺した心には、とても響かないだろう。
シュタインは『彼女から聞け』と言った。私は彼女の言うことを聞いた。私は、困惑し、怯えながら、彼女のゆるがない単調な口調にじっと耳を傾けて、すっかり聞いた。だが彼女には、自分が私に話していることの本当の意味が判らないのだった。私は彼女の怒りを聞いているうちに、彼女が――そしてまた彼が、不憫でたまらなくなった。
私は、彼女が話し終えてから、しばらくその場に釘づけになって立っていた。少女は、頬杖をついて、きつい目でじっと前方を睨んでいる。強い風がサッと吹き込んで、水晶のシャンデリアが、絶えず緑色がかった薄暗がりの中でカチン、カチンと音を立てている。
彼女は独り言のようにささやきつづける。
『だけど、あの人は、わたしを見ていたわ! あの人は、わたしの顔を見、わたしの声を聞き、わたしの悲しみを聞いていたわ! いつも、わたしがあの人の脚下に坐って、わたしの頬をあの人の膝にすりよせ、あの人は手をわたしの頭にのせて、二人でむつみ愉しんでいた時、あの人の心には、もうすでに呪わしい残酷と、狂気が巣食って、出る日を待っていたんだわ。その日がやってきたんだ……
そして、太陽がまだ沈まないうちに、彼にはもう私が見えなくなってしまった――あの人は盲目なの? それに、つんぼで、情のない人になってしまったわ、あなた方みんなと同じように。だからわたし、あの人のために泪をこぼさないの。決して、決して。一滴も。わたしは泪をこぼさない! あの人は、まるで≪死≫よりも悪い奴みたいに、わたしを棄てて行ってしまった。あの人は、まるで、夢の中で見たか聞いたかした嫌なものに追われたように、逃げていってしまったわ……』
彼女のじっと見据えた目は、夢の力が、彼女の腕からもぎ取って行ってしまった男の姿を、懸命に追い求めているように見えた。私は黙っておじぎをした。彼女は眉一つ動かさなかった。私はそそくさとそこを逃げ出した。
その日の午後、私は彼女をもう一度見た。彼女のそばを去ってから、私はシュタインが部屋にいないので探しに出た。私は戸外へ出て、苦しい思いに追いかけられながら、ぶらりと庭へ、あのありとあらゆる熱帯低地の植物や木の集めてある有名なシュタインの庭へ入っていった。
そして、掘割りの流れにそって歩いて行って、庭に一段と生彩を加えている美しい池の近くにある木陰のベンチに腰をかけていた。池にはつばさを刈り込まれた水鳥が、さわがしい音を立てて水にもぐったり、水をはねかしたりしている。私の後で、モクマオウの木の葉が、絶えず軽く揺れつづけ、それが私に、ざわざわ風にそよぐ、故郷のモミの木を思い出させた。
この悲しそうな、不安な音は、私の瞑想にぴったりした伴奏をかなでていた。少女は、ジムは夢に追われて彼女から逃げ去ったと言った――そういう彼女に答える言葉はなかった――こんな違犯は、許しがたいものに思えた。
しかし、そもそも人類というものそれ自身が、その偉大さと力との夢に駆られて、過度の残酷さと、過度の献身の暗い道を、盲目《めくら》めっぽう驀進しているのではないだろうか? そして結局、真理の追求とはなんであろう?
私が立ち上がって家に戻ろうとした時、シュタインの鳶《とび》色の上衣が葉むらの隙間からチラリと見え、間もなく、小径の曲がり角で、私は、彼が少女と一緒に歩いているのに出会った。彼女は小さい手をシュタインの腕にのせ、彼は鍔《つば》の広くて平らなパナマ帽の下から銀髪をのぞかせ、慈父のように優しく、騎士のように慇懃に、彼女の上にその長身をかがめて歩いていた。
私は二人を通そうとしてわきへよけて立ったが、二人は私の方を向いて立ち止まった。そのときシュタインの目は彼の足元の地面に向けられ、少女は体をまっすぐにして軽くシュタインの腕に手を置いたまま、私の肩の向こうを、黒い、澄んだ、動かない目で、陰気にじっと見つめた。
『Schrecklich(恐ろしい)』と彼はつぶやいた。『恐ろしい! 恐ろしい! いったいどうすることが出来よう?』
シュタインは、私に訴えているようだったが、しかし、彼女の若さと、彼女の前途に横たわる長い憂苦の年月とは、いっそう私の心を動かした。そして、心ではしょせん何を言っても無駄だと悟りながら、突然、私は彼女のために、ジムの弁護をはじめていた。
『君は、彼を許してやらなくてはいけない』
と私はむすび――そして自分自身の声が、音はうすれ、無反応の、つんぼの空間にむなしく消えていくように感じた。
『わたし達はみな、君の許しを願っている』
と、しばらくして私はつけ足した。
『わたしが何をしたの?』
少女は、唇の先だけ動かして訊いた。
『君は、いつも彼を信用しなかった』
と私は言った。
『あの人は、他の人たちとおんなじだったわ』
少女はゆっくり発音した。
『いや、他の人々と同じではない』
私は反対したが、彼女は、何の感情もない平板な声でつづける――
『あの人、嘘つきだわ』
とつぜん、シュタインが口をはさんだ。
『ちがう! ちがう! ちがう! お前は可哀そうな子供だ!……』
シュタインは、彼の腕にそっとのっている彼女の手をやさしくたたいた。
『ちがう! ちがう! 嘘つきではない! 真実だ! 真実だ! 真実だ!』
シュタインは、少女の石のように硬直した顔を覗きこもうとしながら、
『お前は理解せんのじゃ。ああ! なぜ君はわからんのだろう?……恐ろしい』そして彼は私に言った。『いつか、彼女に理解させよう』
『あなたに説明できますか?』
私は、じっとシュタインを見つめながら訊いた。彼ら両人《ふたり》は歩きだした。
私はその後姿をじっと見送った。彼女の長い白衣が地面に引きずり、黒髪がふさふさと垂れ下がっている。彼女は、長身の男と並んで、体をまっすぐにし、軽く歩いていく。シュタインの長い、定形《かたち》のないコートが、かがんだ肩から垂直なひだになって垂れており、彼の足はゆるやかに動いていた。
両人は、十六種の竹が一カ所に、しかし識者の目にはみなハッキリ区別できるように植えてあるあの藪(君は覚えているかもしれない)の向こうに見えなくなった。
私はといえば、この竹の杜《もり》のえもいえない優雅な美に魅せられ、その尖った葉と羽のような頭をいただき、軽やかで精力に満ちあふれ、あのためらわずすくすくと茂りはびこった、生命そのもののように鮮明な魅力に、心を奪われていた。
私は、竹林の心慰めるささやきを惜しんでそこに立ちつくし、長いことそれに見とれて立っていたのを思い出す。空は真珠色に曇っていた。それは、熱帯にはごく珍らしい、空一面雲でおおわれた日だった。そのたれこめた雲の中に、思い出が――海の向こうの海岸の思い出や、向こうの島の人々の顔が、むらがり浮かんでいた。
私はその日の午後、タム・イタムと、もう一人のマレー人を連れて馬車で町へ戻った。このマレー人の航海用の船で、あの三人は、ジムを失ったパトゥーサンの困惑と恐怖と災禍の暗黒の中を逃れて来たのだった。そのショックで、彼等は性格が変わったようだった。それは少女の情熱を石と化し、あのむっつりした無口のタム・イタムを、ほとんどおしゃべりにしてしまった。彼の不機嫌なむっつりさも、さも、興亡の瀬戸ぎわに、有力なまじないが失敗したのを目撃でもしたように、当惑した謙遜さに変わっていた。
ブギスの貿易商の方は、ためらい勝ちなはにかみ屋で、彼の話した短い話は、ごく明瞭だった。このブギスの貿易商もタム・イタムも、底深い、言いようのない不思議な気持にとらわれ、不可解な謎に威圧されていることは明らかだった」
ここでマーロウは署名をし、正確な意味での手紙は終わっていた。
この特典を与えられた手紙の受取り人は、彼のランプの火を大きくし、海上にそびえる燈台の守人のように、都会の甍《いらか》の波の上高く唯ひとり、物語のページをめくりはじめた。
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第三十八章
「すべては、私が君に話したように、≪ブラウン≫と呼ばれる男にはじまる」
と、マーロウの物語は書き出していた。
「西太平洋をぶらついたことのある者なら、彼の名前を聞いたことがあるに違いない。彼はオーストラリア沿岸の札つきの悪漢だ――たびたびそこに現われるというのではないが、しかし、故郷オーストラリアからやって来た人々の聞かされる無法者の物語には、いつも必ずブラウンが引っぱり出されたからだ。しかも、ヨーク岬からイーデン湾までを股にかけて暴れ回ったブラウンの無法物語の中で、一番お手やわらかなものでも、出るべき所で話せば、絞首刑はまちがいなしという凄いものだった。彼等はまた、ブラウンは准男爵の息子だと思われているということも、決して言いもらさなかった。
それはとにかく、この男は、あの砂金採集ブームの初期に本国の船から脱走し、数年の内に、ポリネシアのあれやこれやの群島の恐怖の的として噂にのぼるようになった。彼は土民をかどわかし、一人旅の白人の貿易商を、着のみ着のままのパジャマ姿にしてしまったり、しかもそうして、哀れな旅人の全財産を強奪した後で、猟銃で決闘しようと商人を海岸に連れ出す――事ここに至っては決闘はむしろ公平だったかもしれないが、しかしその頃には、哀れな旅人は、すでに恐怖のために半死半生で、たちまちズドンと殺《や》られてしまった。
ブラウンは、彼よりはもっと世に聞こえた彼の先輩たちと同じように、後代のいわゆる海賊だった。しかし、このブラウンと、同時代の兄弟悪漢、ブリー〔暴漢〕・ヘイスとか、口のうまいピースとか、あの香水をぷんぷんさせ、ダンドリアリー公ばりの長いほおひげをつけたダーティ・ディックと呼ばれるスマートな悪漢たちとの違いは、ブラウンの悪業は特に傲慢な性質をもち、人類全般と、特に自分の被害者にはげしい軽蔑をいだいている点だった。
他の海賊どもは、ただ粗野で、貪欲なけだものにすぎなかったが、ブラウンは、何か複雑な意図に動かされているように見えた。
ブラウンは、さも、ただ相手を軽蔑していることを吹聴したいだけのために略奪し、その静かな、罪のない旅人を、どんな兇漢でも恐怖にちぢみあがるような、狂暴残忍な仕打ちで、最後には射ち殺したり、手足を切り落としたりした。
ブラウンは、全盛期には武装した帆船を持っており、カナカ人や捕鯨船の脱出者などの混った乗組員を備え、どこまで真実か私は知らないが、一流のコプラ〔やし油の原料〕商人たちの会社から、秘密で融資されていると自慢していた。
その後、彼は、ある宣教師の妻と駆落ちした――と伝えられている。彼女はクラパム〔イギリス・ヨーク州の町〕方面から来たごく若い娘で、柔和な、偏平足の男と一ときの情熱で結婚し、とつぜんメラネシア〔豪州北東部の群島〕に移り住まされ、どうかして自分を見失ってしまったのだった。ブラウンが彼女を連れ去った頃彼女は病気で、彼の船に乗ったまま死んだ。
人の噂だと――ここがこの物語の一番不思議な部分だが――ブラウンは、暗澹たるはげしい悲しみに打ちのめされ、この女の死体の上に泣き崩れたということだ。
それから間もなく、幸運もまたブラウンから去っていってしまった。彼はマライタ沖の岩に当たって、船を失くしてしまい、さも、船もろとも海底に沈んだかのように、しばらく姿が見えなくなった。
次に噂が立ったのは、ヌカヒバで、ここでブラウンは、古いフランスのスクーナー船を軍隊から買いこんだ。その船を買ったとき、ブラウンは目前にどんなりっぱな計画を持っていたかは知らないが、南方の海は、やがて諸国の高等弁務官、領事、軍艦、国際取締法等々の出現で、ブラウンの徒輩のような紳士方が住むにはやかましくなり過ぎてきた。
たしかに彼は、荒療治《あらりょうじ》の舞台をぐっと西方に移したらしい。それから一年後に、彼は信じられない程の大胆不敵さで、しかし大して分のいい役割ではないが、ある公金を使いこんだ地方長官や、ひそかに逃亡中の一会計係と結託して、マニラ湾で道化めいた悪業を働いた。その後、ブラウンは、彼の腐れたスクーナー船で不運な闘いをしながらフィリピン群島をうろつき回り、彼はおきまりのコースを走って≪闇の力≫の盲目的共犯者として、ジムの歴史の中に入っていったのだ。
ブラウン自身の話では、パトロール中のスペインの雑役艇《カッター》がブラウンを捕えた時、彼はただ反乱者のためにほんの数挺の火砲を運搬していただけだったという。もしそうとすれば、私には、いったい彼は南ミンダナオの沿岸で何をしていたのか一向に見当がつかない。しかし私の確信では、彼はあの沿岸にそって土人の村々を恐喝して回っていたに違いない。
話の要点を言えば、パトロールのカッター艇は、監視員をブラウンの船に乗せて、船ぐるみ彼をザンボアンガの方へ連行したのだった。その途中、何かの理由で、この二隻の船はあの新しいスペインの植民地の一つに立ち寄った――結局、この事はなんの得にもならなかったが――そこには、担当の町役人が海岸にいただけでなく、丈夫ないい沿岸航行用のスクーナー船も小さな湾に投錨しており、しかもこの船は、どう見てもブラウン自身の船よりは遥かに上物だった。ブラウンは、よし、こいつをいただこうと決心したのだった。
たしかに当時ブラウンは落ち目になっていた――彼が自分の口で私に言ったように。彼が二十年間、獰猛な、侵略的な、しかも軽蔑の牙《きば》をもって悪行を積んできた世界は、彼に小さな銀貨の一袋のほかは、何一つ物質的な利益を与えてくれず、彼はその金袋を、彼の船室の中の≪悪魔様でも嗅ぎ出せめえ≫所へ隠しておいた。
だが、彼の財産はそれっきりだった――完全に、それっきりだった。彼は自分の人生に倦きがきて、いまは死ぬのも怖くなかった。
しかしこの男は、苦々しい、人を嘲った無鉄砲さで、一ときの気まぐれに自分の生命を賭けることは平気でも、牢獄に入れられることだけには、致命的な恐怖をもっていた。彼は、ただ監禁されることを考えただけでも、ぞっといわれない冷汗が流れ、神経的身震いがはじまり、全身の血が冷水に変わるような恐怖――迷信家が、幽霊に抱擁されることを考えた時のような恐怖に襲われるしまつだった。
そこで、捕獲物の予備調査に乗りこんできた町役人は、丸一日がかりで苦労して調査したあげく、やっと暗くなってから、ブラウンの少しばかりの袋入り銀貨を没収し、自分のすっぽりくるまった外套の中に隠して大いに用心しながら上陸した。そしてそれから、この役人は一策をねり、(たしかすぐその翌夕に違いない)ブラウンを捕獲した政府のカッター艇を、ある緊急な特別の用事という名目でこの海岸から追っ払うことにした。カッターの艇長は、ブラウンの船を見張る回航員を置いていないので、出発に先立って自分自身でブラウンのスクーナー船の帆という帆を全部、最後のボロ帆まで余さず運び去り、そして用心深く、彼の二隻のボートを、二マイル程離れた海岸へ引いていっておいた。
ところが、ブラウンの船員の中に一人、ソロモン群島人で、若い時誘拐されてきて、ブラウンに献身的な、全ギャング随一の切れものの男がいた。この男が、滑車からはずした全駆動部の引き索《づな》の一端を握って、約五百ヤード離れたところに投錨中の、例の上物《じょうもの》の沿岸航行船のところへ泳いでいった。
海は滑らかで、ブラウンの言い草では、湾は≪鴉《からす》の腹ん中みてえに≫暗かった。ソロモン群島人は、ロープの端を口にくわえて、舷檣《げんしょう》を乗りこえた。
沿岸船の船員たち――全部タガログ人〔フィリピン諸島のマレー種の土着種族〕――は、上陸して、土民の村で浮かれ騒ぎをしていた。船に残っていた二人の船番は、急に目を覚まして、悪魔を見た。悪魔はギラギラ目を光らせ、稲妻のような素早さでデッキに飛び乗った。二人の船番はへなへなと跪き、恐怖に体が動かなくなり、十字を切って、祈りをつぶやいた。
ソロモン群島人は、賄《まかな》い所にあった長い刃渡りのナイフを取り、祈っている船員の一人をいきなりズブリと突き刺し、つづいていま一人を刺し殺し、同じナイフで、彼は忍耐づよく、ココやしの実の繊維でできた綱をゴリゴリ切りはじめた。太綱は、ついに刃の下で水けむりを立ててパッと切れた。
それから彼は、静かな湾から、用心ぶかい叫び声を発した。その間じゅう、暗闇でじっと目をこらし、耳をすまして待ちかまえていたブラウンのギャングは、綱のこちら端を、手柔らかに引きはじめ、五分もしないうちに、二隻のスクーナー船は軽くぶつかり、帆柱をギーッと軋らせて一緒になった。
ブラウンの手下どもは、間髪を入れず、彼等の銃と、沢山の弾薬を持って新船に乗り移った。全員十六人。――二人の脱走水兵、ヤンキーの軍艦から逃げてきたのっぽの脱走兵、金髪の、単純なスカンジナヴィア人二人、白人と黒人の混血人一人、コックの柔和な支那人一人――その他は、えたいのしれない南海のがらくたども。
この連中は誰一人として、牢なんか恐れなかった。だが、彼等を我が意のまま服従させ、絞首台なんか平ちゃらのブラウンだけは、スペインの牢獄の幽霊に追われて逃げまどっていた。
逃げるブラウンは、充分な糧食を船に積み替える時間も与えなかった。静かな天候で、空気はしめりを含み、ギャングが綱を切って、かすかな沖合いの風に向かって帆を上げたとき、しとった帆は、はためきもしなかった。彼等の乗りすてた古いスクーナー船は、自分で大人しく盗んだ新船のそばを離れ、黙々として、黒い巨大な海岸線にそって夜闇の中へ滑り込んでいくように見えた。
ギャングどもはそこを遠ざかっていった。ブラウンは、私に、彼等がマカッサル海峡〔ボルネオ島とセレベス島の中間にある海峡〕の航路をつっ走った時のことを詳細に語った。それは、悲惨な、死もの狂いの物語だった。彼等は食物も水も不足しており、五、六回も土人の船に接舷して、少しばかり手に入れた。
盗んだ船に乗っているブラウンは、もちろん、どんな港へも入る勇気がない。物を買うにも金はなし、見せる証明書一枚なく、もう一度上陸するに足るまことしやかな嘘も、いまは種切れになった。
一隻のオランダ旗を立てたアラビヤの帆船が、ある晩ポウロ・ラウトの沖で碇泊中を襲い、少量の汚ない米と、一房のバナナと、水一樽を分捕った。三日間、北東からのスコールまじりの霧深い天候は、彼等のスクーナー船を、ジャワ海を横切ってつっ走らせた。
黄色いどろどろな波は、この一団の空腹な悪漢どもをずぶ濡れにした。彼等は、行手の航路を郵便船が動いているのを見つけたり、また、錆びた鉄の側面をもった、装備のととのった母国の船が、浅い海に投錨して天候の変わるのか、潮流の変わるのかを待ってるそばを通り過ぎたりした。
二本のほっそりしたマストを立てた白い、瀟洒《しょうしゃ》なイギリスの砲艦が、ある日、彼等の船首のはるか前方を横切っていった。また別の時、重たい帆柱をつけた黒いオランダのコルベット艦が、彼等の船尾側の上に高々とそびえて、霧の中で死んだようにのろのろと進んでいった。
こうして、やつれ、土色の顔をし、飢えに狂い、恐怖に追われたこの全くの屑の一団は、とがめられず、あるいは無視されて、これらの船々のそばを滑り抜けていった。
ブラウンの考えでは、マダガスカルへ行く積りだった。ここで彼等は、このスクーナー船をタマタヴ〔マダガスカル東部の主要港〕で売っぱらい、しかも何も尋問されないか、あるいはたぶん船の証明に何か偽造書類を手に入れることを期待していた。しかし、そこへ行くにはインド洋を横断せねばならず、この長い航海に向かう前に、どうしても食物が必要だった――また水も。
たぶんブラウンは、パトゥーサンのことを聞いたことがあったのだろう――でなければ、ただふとパトゥーサンという名が小文字で地図に書かれているのが目についたのかもしれない――ある土侯国の川の上流にある、通常の航路からも、海底電線の末端局からも遠くへだたった、完全に無防備のかなり大きな村だろう。
彼は、この種の略奪は以前にもしたことがあった――その時は海賊稼業でやったのだが、こんどは、絶対必要な、死ぬか生きるかの瀬戸ぎわだった――あるいは、牢に入るか否かの。牢か自由か!――自由だ! よし、俺ゃ必ず食い物を手に入れてみせるぞ――去勢牛も――米も――さつまいもも、しこたまさ。
哀れなギャングどもは、口の中をなめ回した。――そうとも、俺たちのスクーナー船に産物の積荷をおどし取るんだ――誰知るもんか――本物の、チャリンチャリンいう金貨銀貨もだ! あすこの酋長や村長どもをゆすりゃ、分けてくれるさ――
ブラウンは私に、俺は、酋長や村長どもの足を火あぶりにしても、強奪してみせるつもりだった、と話した。私は彼の言葉を信じる。彼の手下もまた彼を信じた。彼等は、大声に万歳を叫ばない無言の一群であるが、しかし、狼のように残忍に身がまえした。
天候については、彼等は幸運だった。もし数日無風の日がつづいたら、あのスクーナー船上は、目も当てられない恐ろしい飢餓地獄と化していたろうが、しかし、陸からも海からもそよ風が応援してくれ、スンダ海峡〔スマトラ島とジャワ島の間〕を出てから一週間足らずで、ブラウンは、漁村からピストルの射程内にあるバトウ・クリング河口ちかくの沖合いに投錨した。
ギャングの中十四人は、スクーナー船の長いボート(これは積荷のために使われていた大型ボートだった)に詰まって川をさかのぼりはじめ、後には二人の手下だけが、十日間飢えをしのげるだけの食物を与えられてスクーナー船の番人に残された。
潮流も帆も好調で、ある午後、ぼろな帆を揚げた大きな白いボートは、海風に吹かれながら、パトゥーサン流域に肩で押し分けて進んでいった。中には、十四人の揃いも揃った痩せかかしどもが、ギラギラ目を光らせ、安物のライフル銃の引き金を指でいじりながら、空腹そうに前方を睨んでいる。
ブラウンは、一たび彼が姿を現わせば、村々は愕然と恐怖にちぢみ上がるものと打算していた。ギャングどもは、最後の上げ潮にのってパトゥーサンに漕ぎ入ったが、ラージャの矢来の中からは何の気配もない。川の両岸にある最初の家々は、まるで棄て去られた空家のように見えた。
数隻のカヌーが、河上のほうを、全速力で飛んでいく。ブラウンは、この場所の厖大さに度胆を抜かれた。どこもかしこも深い静けさに包まれて、家並みにはさまれている場所はそよとも風がない。二本のオールがとり出され、ボートは上流にむかって前進をつづけた。ブラウンは考えた――よし、住民が抵抗を考えるひまの無い中に、町の中心部に上陸することだ、と。
しかし、どうやらバトウ・クリングの漁村の村長は、時宜を得た警告を発してあったらしい。長いボートが回教寺院(これはドラミンの建てたもので、破風も屋根の華頂も、彫刻をほどこした珊瑚で飾った建物だった)のところまで漕ぎ上ると、その前方の広場には人が大勢集まっていた。
喊声《かんせい》があがり、つづいてドラが川岸じゅうで一斉に鳴りひびいた。川上のどこかで、二門の小さい真鍮の六ポンド砲が火を吹き、球形弾が、さえぎるものの無い川面を飛んできて、ザーッと水しぶきが日光にきらめきながら噴き上がった。
回教寺院の前でおたけびを上げている大勢の男たちは一斉射撃をはじめ、はげしい飛弾が潮流をななめに切って乱れ飛んだ。川の両岸からも、ボートをめがけて、不規則な連続射撃がごうごうと火蓋を切り、ブラウンの男どもも、死物狂いの早射ちで応戦した、オールはすでに引っこめてあった。
この川は、満潮の際には、潮流の変化がひどく速くやってくる。ほとんど烟の中にかくれて中流に浮かんでいたボートは、とつぜん、船尾を前にして後に流されはじめた。山腹にたなびいた長い雲のように、川の両岸にそって屋根の下に水平にたちこめた烟霧のしまも、いよいよ濃くなっていった。
嵐のような喊声《かんせい》、ガンガン鳴りひびくどらの音、ゴーンゴーンとうなる太鼓の音、けたたましい怒号、一斉射撃のとどろき、実に耳をつんざくばかりの凄まじさだったが、その中でブラウンは、面喰らいはしたが、しかし断固として舵柄を握りつづけ、小癪にも防御戦に出たこの人々にたいして、心中に火焔のような憎悪と憤怒を燃え上がらせていた。
ブラウンは手下が二人負傷し、彼の退路が、ツゥンク・アラングの防御囲いの中から出てきた数隻のボートに、町の下手で遮断されたのを知った。ボートの数は六隻で、どれも男を満載している。
こうして包囲されながらも、ブラウンは、狭い入江《クリーク》の入口を見つけた。(ここは、かつてジムが、干潮のとき飛びこんだクリークだった)いまは、満々と水をたたえている。
ブラウン一味は長いボートをここに乗入れて上陸し、省略して言えば、彼等は、アラングの矢来より約九百ヤード離れた、そして実際その高所からラージャの邸を一眸の下に見下ろせる小さい山の上に陣取ったのだった。
小山の中腹は裸だったが、頂上には数本の木が生えていた。一味はさっそくこれを切り倒して胸壁をつくり、日没までには、かなり堅固な防御陣を敷いた。一方、ラージャのボートは、その間奇妙な中立状態で、川の中に浮かんでいた。
陽が沈むと、たくさんの松明の明りが、あかあかと川の前面を照らし、陸の側に二列に並んだ家並みの間に、屋根や、細いヤシの木の群や、重たい果樹の木立が、黒い浮彫になって見えた。
ブラウンは、自分の陣地の周囲の草を焼き払う命令を出した。ゆっくり立ち昇っていくけむりの下で、低い、細いほのおの環が、素早く小山の中腹へと這い下っていく。そちこちで、乾いた藪がゴーッと邪悪な音を立てて高く燃え上がった。大火事は、小人数の一味のライフル銃のために邪魔物のない、ひらけた発砲地帯をつくって、それから森の緑や、小川の泥岸にそってくすぶりながら消えていった。
小山とラージャの防御囲いの柵との中間にある湿った窪地に生い茂った細長い叢林は、竹の幹の大爆裂音をともないながら、こちら側の火事を食い止めた。空は黒く、なめらかで、星が一ぱいだった。黒くなった地面には、低く地を這っている小枝が静かに煙を立てていたが、それも、やがてそよ風によって全部吹き払われてしまった。
ブラウンは、潮がまたさしてきて、彼の退却を遮断した戦闘ボートが入江《クリーク》に入れるようになり次第、相手は攻撃してくるものと予期していた。ともかく、彼が小山の下に置いてきたボート、いま、弱々しく光っている濡れた干潟の上に黒い塊のように横たわっている彼の長いボートは、必ず奪い去られるものと覚悟していた。
しかし、川の中のボート群はなんの動きも見せない。ラージャの矢来や建物越しに、ブラウンは水上にボートの灯りを見た。あのボートはみな、河幅いっぱいにひろがって投錨しているらしい。他にもまだ幾つも灯りが浮かび、水面を動き回ったり、岸から岸へ横切ったり、また戻ったりしている。上流の方にむかって立ち並んだ家々の長い列にも、はるかな曲がり角まで、ずらりと灯りが動かずに光っており、その更に向こうの孤立した奥地にも、数多の灯りがきらめいている。
巨大《おお》きく、あかあかと燃え上がっている無数の篝火《かがりび》に照らされて、建物や、屋根々々や、土人がその上に家を建てている黒い杭が、目のどどく限りはるか彼方まで、くっきり浮き出して見える。じつに壮大な光景だ。
十四人の死物狂いの闖入《ちんにゅう》者どもは、切り倒した木々の後にぺったり腹ばって顎だけもたげ、川の上流何マイルにもわたって延び拡がり、無数の怒れる男で満ちているように見えるその町の動きを見渡した。
ギャングは誰も互いに口をきかなかった。時々、一声大きな叫び声や、どこかひどく遠方で発砲された一発の銃声が聞こえた。しかし、彼等のいるあたりは、少しの動きもなく、まっ暗で、静まり返っていた。彼等は忘れられてしまったようだった。さながら、全住民が夜を徹して騒ぎ昂奮しているのは、彼等とはぜんぜん無関係なことで、さながら彼等はすでに死んでしまったかのようだった」
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第三十九章
「あの晩のあらゆる出来事は非常な重大性をもっていた。というのは、あの状態は、たまたまジムが戻ってくるまで、少しも変化せずにそのまま続いていたからである。
ジムは、一週間余り奥地に行って留守をし、最初の反撃を指揮したのはダイン・ウァリスだった。あの勇敢で聡明な青年(白人の方法に倣って戦う戦略を心得ている)は、この問題を彼独りで片付けてしまいたいと思ったが、しかし、人々を使いこなすことは、彼の力では及ばなかった。
ダイン・ウァリスには、ジムの持つ人種的威光も、また無数の超自然の力をもっているという名声もなかった。ジムのように、絶対に人々の期待を裏切らない真実と勝利の化身ではなかったのだ。ダイン・ウァリスは人々から愛され、信頼され、崇拝されてはいたが、でもやはり彼等土人の一人であり、一方ジムは、われわれの一人だった。その上、白人のジムは、彼自身が強い干城《かんじょう》であり、不死身だったが、ダイン・ウァリスの方は、殺されることもあり得る人間だった。
こうした口にこそ言わないが皆の心に根を張っている思想が、町の要人たちの意見を支配していた。彼等はこの緊急の非常事態を討議するため、ジムの砦に集合していた――まるで留守の白人の住居へ来れば、知恵と勇気が生まれると考えてでもいるように。
ブラウンのギャングどもの射撃は、いままでのところ上出来というか、幸運で、町の防御者の中には六、七人の怪我人が出ていた。負傷者はベランダに寝かされ、家族の女たちに看護されていた。
川の近くに住む婦女子たちは、騒動の最初に、川の近くの住所から砦へ移されていた。ここではジュエルが大いに有能に、意気軒昂として一同を指揮しており、ジム自身の人民は、防御柵の下の彼等の小さい部落を立退き、一団となってとりでの中に逃げこみ、守備隊を形成してジュエルによく服従していた。避難民たちはジュエルの周囲に集まり、彼女は、非常に不幸な最終まで、事件全体を通して、すばらしい、勇敢な女丈夫振りを発揮した。
ダイン・ウァリスは、最初に危険の通達を受けるとすぐ、ジュエルの許へ駆けつけたのだった。というのも、君は知っているだろうが、パトゥーサン中で、火薬の倉庫を持っていたのはジムただ一人だったからだ。
ジムと手紙で密接な関係を保っていたシュタインは、オランダ政府から五百樽の火薬をパトゥーサンに輸出する特別の認可を得ていたのだ。火薬庫は、小さいが頑丈な丸太小屋で、外は土ですっかり塗装してあり、ジムの留守中は、ジュエルがこの倉庫の鍵を持っていた。
夜の十一時にジムの食堂で開かれた会議でジュエルは、ダイン・ウァリスが直ちに、活発な行動に出るべきだという主張勧告を支持した。彼女は、長いテーブルの上座にあるジムの空の椅子のそばに立ち上がって、雄々しい、情熱的な弁舌をふるったため、しばらくの間、集合した村人たちは思わず賛同のつぶやきを交わし合ったということである。
一年間以上も自分の家の門外に姿を現わしたことのなかったドラミン老人も、大骨折りしてここへ運ばれてきていた。審議会の空気は、敵への許すまじき怒りがみなぎっており、もし御老体が一言賛成したら、直ちに行動が開始されたに違いない。しかし、愛息の火のような勇気を知り抜いているドラミンは、あえて一言も発しようとしなかったのだと私は思う。結局、会議はぐずぐず長引いてしまった。
ハージ・サマンという男が、長々と主張しだした。
『あの非道な、残酷な男どもは、どの道必ず死ぬに決まっている。彼等はあの丘の上にいつまでも頑張って餓死するか、さもなければ、自分のボートで逃げようとして、入江にいる伏兵たちに射ち殺されるか、あるいは、ちりぢりになって森林の中に飛び込み、そこで一人ずつ滅びていくかのいずれかだ』
そして彼は、適切な戦略を用いれば、あの邪悪な他国人どもを、戦争の危険を犯さずに滅ぼすことが出来るだろうと論じたので、彼の言葉は非常に重要視された――本来のパトゥーサン人には特に。
町民の心を不安にしたのは、ラージャのボートが、決定的な瞬間に失敗したことだった。この会議にラージャを代表して出席したのは、掛け引きのうまいカッシムだった。カッシムはほんの少ししか喋らず、ニコニコしながら、ごく柔和な打ちとけた態度でただじっと聞くだけだったが、そのくせ腹の中は誰にも判らなかった。
代表一同が坐って議論している間中、使者たちは、絶えず、ほとんど数分おきに、侵入者どもの行動の報告をもって到着した。途方もない、大げさな流言が飛んでいた。河口に大砲数門と、更に大勢の男ども――そのある者は白人で、他は黒い皮膚で、血に飢えた恐ろしい風貌の男どもを乗せた大きな船が待機している。彼等は、われわれパトゥーサン人を全滅しようとして、いまにも沢山のボートに分乗してやってくる等々。
一般の人々は、身近に不可解な危険が迫ったという気持に襲われはじめた。庭に集まった女たちの中では騒ぎがもちあがった。悲鳴が上がり、走り回り、子供たちは泣き叫び――ハージ・サマンが出て行って婦女子を静めた。
次に、とりでの歩哨が、何か川の上で動いているものに向かって発砲し、すんでに、一人の村人が、家族の女達と、家庭用具と、十二、三羽の鶏をカヌーに乗せてやってくるところを、誤って射ち殺すところだった。これで人々の混乱はいっそうひどくなった。
その間も、ジムの家の中では、ジュエルの前で会談がつづけられていた。ドラミンはすさまじい顔をして重たく坐り、代る代る話し手の顔を見ながら、雄牛のようにゆっくり息をしていた。彼は、最後にカッシムが、ラージャのボートは、主人ラージャの矢来柵を防御するのに人手が必要だから中に引き揚げさせると宣言し終わるまで、口を開かなかった。
ジュエルは、ダイン・ウァリスに、どうぞジムの代人として発言してくれと懇願したが、父親の前では決して意見を言おうとしなかった。ジュエルは、あの侵入者どもを即刻追い払わねばという心配から、ジム自身の部下をダイン・ウァリスに提供しようと申し出た。が彼は、チラリと一、二回ドラミンの顔を見てから、ただ首を横に振った。
ついに会議は解散になった。決定した事柄は、クリークの最も近くの家々には、敵のボート支配権を獲得するために、強力に兵を集めようということだけだった。つまりギャングのボートそれ自体には表向きなんの手出しもせずにおいて、山上の盗賊どもがつい誘われて船で脱出しようとしたら、狙い定めた発砲で、誤またずギャングの大方を射ち殺すという段取りだった。
そして、それでも生き延びて脱出する者を遮断し、更にギャングの後続部隊が海からやってくるのを防ぐために、ドラミンは、ダイン・ウァリスに、ブギスの武装した一隊を引率して、パトゥーサンから十マイル川を下ったある地点に行き、その岸に野営陣地を設けて、カヌー群で川を閉鎖するように命令した。
ドラミンが、新手の敵が到着するなどという事は絶対にあり得ないと信じていたことは確かだ。ドラミンは、一にも二にも、ただひたすら自分の息子を危険な場所から遠ざけたい希望に支配されてこの命令を出したのだと、私は考える。
ギャングどもが町に突入してくるのを防ぐため、川の左岸通りの端に、日中、尖り杭の防御柵を打ち建てる工事がはじめられた。老|首長《ナホーダ》ドラミンは、そこは自分が指揮したい旨を宣言した。直ちに、ジュエルの監督で、火薬と、弾丸と、雷管の配給が行なわれた。
一方、七、八名の使者が、居所の判明していないジムを探しに、各方面に遣わされることになった。これらの使者たちは夜明けに出発した。しかしその時にはすでに、カッシムは、包囲されているブラウン一味と連絡をつけた。
あの老獪な外交家で、ラージャの腹心のカッシムは、ジムのとりでを出て主人の許へ帰ろうとした時、例の卑劣漢コルネリアスが庭にたむろしている人々の中に黙ってこっそりまぎれこんでいるのを見つけ、自分のボートに同乗させて連れ去った。カッシムは、腹に一つの計画があり、コルネリアスを通訳に使おうとしたのだ。
こうして、明け方ブラウンが、いよいよ俺の立場も絶望だなと考えていると、沼地の下草の茂った窪地の方から、媚びた、震え声が聞こえてきた――英語で――どうぞそこへ登って行かせて下さい、わっしの身の安全保証をしてくれれば、いま大した重大用件で参上します――
ブラウンは欣喜雀躍した。この俺に話しかける奴が出たからにゃ、もうしめたもんだ、俺ゃ、もう狩り立てられたけだものじゃねえぞ――
この頼もしげな呼びかけで、ギャングどもは、どこから生命とりの一撃がやってくるか見当がつかず、恐怖に憑かれた盲人群のように、ただただ虎視眈々として警戒怠りなかった恐ろしい緊張が、一ぺんにふき飛んでしまった。だがブラウンは、内心の嬉しさを隠して、さも不承不承の振りをしてみせた。
窪地の呼びかけ声は言った。『わっしは白人でがす、哀れな、落ちぶれた、ここに長年住んでいる年寄りでがんす』
しっとりと冷たい霧が山腹にたちこめており、双方からまた幾度か叫び交わした後で、ブラウンは怒鳴った。
『じゃ、来い、だが一人だぞ、いいか、一人だぞ!』
しかし実際は――とブラウンは、その時の自分の手も足も出ないみじめさを思い出して、怒りに身もだえながら私に言った――一人だろうが大勢だろうが、同じだった。深い霧でギャングどもには、二、三ヤード前方しか見えず、たとえこの上どんな裏切りをされようと、彼等の立場は、もうこれ以上悪くなりようはなかった。
やがて、コルネリアスが、ぼろな汚ないシャツとパンツ一枚、頭にふちの破れたソウラの茎の帽子をのせ、素足という不断着姿で、ためらいながら、時々とまっては覗くような恰好で耳をすまし、ななめに上の防御陣へ登ってくる姿がぼんやり見えた。
『来い! 貴様は安全だぞ!』
とブラウンが叫び、他の連中は、じっと目をみはって見ている。彼等の生きる希望のすべては、突然、この落ちぶれ果てた、賤しい新来者に集中された。コルネリアスは、深い沈黙の中を、ぶざまに切り倒された木の幹をやっと乗越えると、ぶるぶる震えながら、いやな疑いっぽい顔で、ギャングどもの鬚《ひげ》むじゃの、心配そうな、不眠にやつれた死物狂いの雁首《がんくび》を見回した。
三十分ほどコルネリアスと密談を交わしているうちにブラウンは、パトゥーサンの国内事情に目が開かれた。ブラウンは、すぐ油断なく立ち回った。――こいつは生き延びられそうだ、大いにその可能性があるわい。だが、コルネリアスの申し出について話し合う前に、先ず、信頼の保証として、幾らかの食い物を運んで来いとブラウンは要求した。
コルネリアスは、ラージャのご殿の側《がわ》の山腹をのろのろ這うように降りて行った。そしてしばらくすると、数人のツゥンク・アラングの家来が、少しばかりの米と、トウガラシと、魚のひものを持って登って来た。これでも何もないよりはどれ程ましか判らない。
しばらくしてコルネリアスが、カッシムを伴って戻ってきた。カッシムはサンダルを穿き、紺色の布で首から足のくるぶしまですっぽり包んで、この上なしの上機嫌の、信じ切った表情で現われた。そして、慎重にブラウンと握手を交わし、コルネリアスと三人水入らずで懇談のため、わきへ寄り集まった。
ブラウンの手下どもは、やっと自信を取りもどし、互いに背中を叩き合い、物知り顔に彼等の親分の方をチラチラ見ながら、せっせと料理にとりかかった。
カッシムは、ドラミンやその一族のブギス人どもが大嫌いだったが、しかしそれよりいっそう、最近の新しい社会秩序を憎んでいた。そこでカッシムはふと、この白人どもと、ラージャの追従者どもとが一緒になったら、ジムの戻ってくる前に、ブギス人達を攻撃して征服することが出来るだろうと思いついたのだった。
それからカッシムは腹の中で推理した――その暁には、一般町民どもは、まず、だいたいジムから離れるに違いない。そうすれば、あの貧民どもを保護していた白人ジムの時世は終わりだ。そのあとで、この新しい同盟者どもは料理してしまえばいい。あいつ等には友人はいないだろう――
カッシムは、ジムとこんどの白人どもとは性格が違うことを完全に見抜けたし、これまでに白人もかなり見ているので、この新来の白人どもは、追放された、祖国の無いやからだと見抜いていた。
ブラウンは、厳しい、何を考えているか計り知れない態度を持ちつづけている。ブラウンは、最初にコルネリアスのそばへ行かせてくれと頼む声を聞いた時は、ただ、これで脱出の抜け穴ができるかもしれないという一縷の希望を持っただけだった。
が、それから一時間足らずのうちに、ブラウンの頭の中は別の考えで沸きかえっていた。ブラウンは、極度の必要に迫られて、パトゥーサンへ食物と数トンのゴムと、できれば一握りの金とを盗みにやってきたのだった。が、いまやカッシムからああいう交渉を申し込まれて、彼は、パトゥーサンの国中を盗み取ることを考えはじめたのだ。
――どうやら、すでにある忌々しい野郎が、明らかに何かそういった事をやり遂げやがったらしい――おまけに一本|独鈷《どっこ》で。だが、それ程上出来のはずはねえ。一つ、おれとその野郎とで一緒に仕事をしよう――そして、何もかもすっからかんに絞り取ったあとで、そっと退散するんだな――
ブラウンは、カッシムと折衝しているうちに、自分は相手に、河口に大勢の男どもを乗せた大きな船を持っていると想われているのに気がつきだした。カッシムはブラウンに、この数多くの大砲と人間を備えた大船を、即刻ラージャを応援のために川を上ってきてくれとたのんだ。
ブラウンはこころよく承知した振りをし、こうして狐と狸の交渉は、互いに腹の中では相手を信用せずに進められていった。活動的で礼儀正しいカッシムは、ラージャと相談するためにせっせと大股でラージャの御殿とブラウンの山との間を、午前中に三回、往ったり来たりした。
ブラウンは、協定を結びながら腹の中で、――おれのあの船倉にゃごみの山しかねえ。そのみじめなスクーナー船が、武装した大船の身代りになり、船にゃ支那人と、レヴューカ〔フィジー群島中の小島〕の波止場ゴロ上がりのびっこの野郎しかいねえが、それが大勢の男のすべてを代表するとは、まことに結構至極なことだわい――と考えて、たけだけしい歓びにほくそ笑んでいた。
午後に、ブラウンは更に食物の分配と、幾らかの金を貰う約束と、彼の部下の陽除けのためにござの供給とを受けた。部下どもは、焦《や》けつく日光から守られて陽除けの下に横たわり、いびきを立てて寝込んだ。が、ブラウンは体を太陽にむきだしにして一つの切り株に腰をかけ、町や川の景色を眺めてたのしんでいた。ここには、これから略奪する戦利品がしこたまあるぞ。
コルネリアスは、盗賊どものキャンプで大いにくつろいで、ブラウンの横に坐り、そちこちの場所を指さしてはあれこれと勧告し、彼自身の見方でジムの人柄を説明し、彼流に、ここ三年間にパトゥーサンに起きた出来事を話してきかせた。
ブラウンは、一見無関心に、景色に見とれている様子をしながら、一言も聞きもらさず、じっときき耳を立てていた。が、しかし、いったいこのジムというのはどんな人物なのか、どうもハッキリつかめなかった。
『その男の名前はなんだ? ジム! ジム! ただそれだけじゃ、男の名前には足りねえな』
『みんな、ジムと言ってます』コルネリアスは、あざけるように言った。『トゥアーン・ジムとここではね。白人の世界なら、ロード・ジムというわけでさあ』
『奴は何者だ? どこからやって来たんだ? 奴はどんな種類の男だ? イギリス人か?』
と、ブラウンは訊いた。
『ええ、ええ、奴はイギリス人でさあ。わっしもイギリス人でね、マラッカ生まれの。あいつは馬鹿者でがす。あんたは、ただあいつを殺しさえすりゃいいんだ。そうすりゃ、あんたはここの王様ですよ。ここのものは、何もかもみんな、あいつのもんですからな』
と、コルネリアスは説明した。
『どうだ、近えうちに、そいつと誰かでここを山分けにするって手は』
と、ブラウンは半ば独り語《ごと》のように言った。
『だめ、だめ。いい方法は、チャンスのあり次第奴を殺すことでがす。そうすりゃ、あんたはなんでも出来るって』
コルネリアスは、懸命に殺しの一本槍で頑張る。
『わっしゃ、ここに長年住んでいてよう知っとる。それであんたに、親身の忠告をしてますんじゃ』
ブラウンは、こんな会話をしたり、また腹の中で、いずれは俺のえじきになるんだ、と決めているパトゥーサンの景色を満足げに眺めたりして午後の大部分を過ごし、一方部下たちは休息していた。
その日、ダイン・ウァリスのカヌーの一隊は、一隻ずつこっそり、クリークから一番遠い岸のかげから漕ぎだし、ブラウンの退却に備えて川を封鎖するため下っていった。この事をブラウンは気づかなかったし、日暮れの一時間前に山へ登ってきたカッシムも、わざとブラウンに教えなかった。カッシムは、この白人ギャングの船が川を上ってきてくれることを願っていたので、川岸を閉鎖したニュースが、ブラウンの意気を沮喪させるのを恐れたのだ。
カッシムはしきりにブラウンに、大船の召集命令を出すようにすすめ、同時に、信頼できる随者を提供して、この者が、極秘の使者として(とカッシムは説明した)陸路づたいに河口に行き、ブラウンの大船に乗船して≪命令≫を渡すことにしてはどうかと提案した。
しばらく考えてからブラウンは、それがいいだろうと、自分の手帳から一ページを破り取り、それにただ≪俺達はうまくいってる。大仕事だ。男を監禁しろ≫と書きつけた。
カッシムに密使として選ばれた頑強な若者は、忠実に言われた通り実行し、それからその褒美に、船番をしていた支那人と波止場ごろ上がりに、突然まっさかさまにスクーナー船の空《から》の監禁室に突き落とされ、二人のギャングどもは、それから急いで昇降口《ハッチ》のふたを閉じた。この使者がそれからどうなったかは、ブラウンは話さなかった」
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第四十章
「ブラウンの目的は、カッシムを外交でもてあそんで、時をかせぐことだった。本番の仕事の一撃を行なうには、そのジムという白人こそ一緒に仕事の出来る奴だと、ブラウンは考えずにはいられなかった。
ブラウンは胸算用した――そのジムという野郎は、結局、土人どもをこういう風に牛耳っているからには、べらぼうに利口な奴に違いないが、ひとり狼の悲しさに、用心深く、ゆっくり、のるかそるかのだまし取りの他に手がないんだ。その面倒苦労を無くして一挙に全土をバッサリやろうというこの俺の援助の申し出を、奴に拒絶できよう筈はない。
この俺、ブラウン様が、彼に力を貸そうというんだ。奴はすぐ≪渡りに船≫さ。何もかもたちまち了解、了解だ。もちろん、俺たちゃ分け合うんさ。あそこにゃ砦があるって話だ――すべてその白人の意のままに用意万端ととのって――大砲を備えた本物の砦が(これはコルネリアスから聞いた話だった)そう思うとブラウンの血は涌き立った。俺を一度だけ、その砦の中へ入れさせてくれさえすれば……
俺は、まず謙虚な条件を持ち出そう。だが、あまり卑屈すぎちゃいけねえ。どうやら、あの白人は馬鹿じゃなさそうだ。俺たちゃ、兄弟みてえに仲良く一緒に仕事をしよう、そして……そして、時が来たら、待ってましたとばかり奴に喧嘩をふっかけて、一発で万事解決といくか。
略奪者の恐ろしい、待ちきれない気持で、ブラウンは、一刻も早くその白人と話をしたい欲望に駆られた。この土地は、すでに自分の意のままに、めちゃめちゃに引き裂こうと、絞り取ろうと、投げ棄てようと勝手なようにさえ思えてきた。
――さて一方カッシムの方は、その間、一にも二にも食糧のためにだましておくことだ。しかし要点は毎日何か食い物を手に入れることさ。それにブラウンは、あのラージャの負担で戦争をはじめ、彼の一行を射撃で迎えたここの住民どもに一と泡吹かせるのに異存はなかった。彼は闘いに飢えていた。
私は君にこの部分の物語をうまく出来ないのを残念に思う。これは勿論、主にブラウン自身の口から聞いた話である。≪死≫の手に喉元を絞めつけられながら、私に自分の胸の中を打ち明けているあの男の途切れ途切れのはげしい言葉は、むきだしの残酷な目的と、自分自身の過去にたいする奇妙な復讐的な態度と、人類全体に反逆する彼の盲目的な信念とは、放浪の喉切り蛮人の首領が、得々として≪我こそ神の懲罰を与える者なり≫と自称するあの狂信に近いものがあった。
明らかに、こんな性格の基礎をなす天性の無感覚な残忍性が、失敗や不運や、最近の窮乏状態や、いま彼の気づいた自分の絶望的な立場によって、いっそう荒《す》さみ切ったことはたしかだ。しかし何よりも最も驚くべきことは、ブラウンは一方においてジムを抱きこむ裏切りの同盟を計画しながら、他方、すでに腹の中では白人ジムの運命も死もすっかり計算ずみで決定しており、ほとんど我しらず、しかもその上、横柄な、無造作な態度でカッシムと陰謀をめぐらしているといった、八方裏切りのやり口を見れば、彼が本当に欲しているのは、彼に挑戦したこのジャングルの町をめちゃめちゃに破壊し、町中が死体でおおわれ、火焔に包まれるのを見ることなのだと判る。
ブラウンの残忍な、喘ぎあえぎ言う声を聞いていると、彼がその丘の頂上から町を見渡して、町中が殺戮と略奪で阿鼻叫喚の巷と化している光景を空想している姿が、私の目に彷彿とうかんだ。
クリークに一番近いあたりは、一見住民が棄てて逃げ去った廃屋のように見えたが、実は、どの家も、数名の武装した男が中にかくれて油断なく見張っていたのだ。
とつぜん、長く延びた空地の向こう――所々に低くこんもり茂った小さい藪や、掘り穴や、ごみ山があり、その間に踏み慣らした小径の通っている――に、ぽつんと、とても小さく一人の男が浮かび出た。男は、街路に入り、そのはずれにある戸を閉め切った、暗い、死んだような建物の立ち並んでいる方へとぶらぶら歩いていく。たぶん、川の向こう岸へ逃げていた住民の一人が、何か家財道具でもとりに戻ったのであろう。
明らかに男は、ギャングの立て籠っている山からクリークをへだててこんなにも遠方のこの通りは、ぜったい安全だと思っているに違いない。すぐ通りの角を曲がれば、急場に建てた簡単な防御杭の矢来ができており、中には、友人たちが大勢いる。男は呑気に歩いていった。
ブラウンはこれを見た。そしてすぐ、一種の副指揮官の役をしていたヤンキーの脱走兵をそばへ呼んだ。ひょろ長い、関節のだらんとしたこの男は、無表情な顔で、彼のライフル銃をだらしなく引きずりながら前へ出てきた。
ブラウンから用事を聞くと、ヤンキーの脱走兵は、その黄色いレザーのような肌をした頬に二本の深いしわをよせ、歯をむきだしてニタリと殺人狂的な、自惚れた笑いをうかべた。彼は百発百中をほこる男だった。ヤンキーは片膝を地面につけ、切り倒した木の枝の間にしっかり銃を据え、狙いを定めて発射し、すぐ立ち上がって眺めた。
遠方の男は、爆音の方を振りむいて一歩前に出、ためらうように見えたが、急に四つん這いに倒れた。ライフルの命中弾の鋭い爆音につづく静けさの中で、兇漢はじっと獲物をみつめながら、あすこに倒れた黒ん坊の奴は、もう二度とふたたび体のことで友人に世話をやかせる時はあるまい、と思った。
射たれた男の手足が、胴体の下で四つん這いに走ろうとして、空しく早く動くのが見えた。その人影一つない空地に、大勢の狼狽と驚愕の叫び声が上がった。男は顔を下にして倒れたまま、もう動かなくなった。
『あれで、町の奴等に、俺たちの威力を見せてやったのさ』と、ブラウンは私に言った。『奴等の頭に、急死の恐怖をたたき込んだってわけだ。それが俺たちの狙いさ。奴等は、一人対二百人だが、これで奴等は一晩中、考えこみゃがったぜ。奴等の誰一人として、こんな長距離弾があろうたあ、夢にもご存知なかったって訳さ。ラージャの家来のあの乞食野郎は、目玉を頭から飛び出さして、山の下を偵察してやがったよ』
ブラウンはこう言いながら、震える手で、彼の蒼い唇の上のうすい泡を拭こうとした。
『一人対二百人。一対二百……その俺が、恐怖をたたきつけてやったのさ……恐怖を、恐怖をさ、ね、あんた……』
ブラウン自身の目玉も眼窩から飛び出している。彼は後に倒れかかり、骨と皮ばかりの指で虚空を掴みながらまた起き上がり、毛むくじゃらの体を弓形に曲げ、何か伝説にある人間獣のように、横目でギョロリと私を見据え、発作のあとでやっと言葉が言えるようになるまで、悲惨な、恐ろしい苦しみに、口を開けたままのた打ちまわった。あの身の毛もよだつ光景は、一生忘れることが出来ない。
それから更にブラウンは、わざと敵に発砲させてクリークに添って隠してあるかもしれない伏兵の所在を突き止めるため、ちょうど諸君が、水中にステッキを投げてスパニエル犬にそれを取りにやるように、子分のソロモン島人に、クリークのボートまで降りて行って、オールを一つ取ってこいと命じた。
だが、これは失敗に終わり、子分は、どこからも一発も発砲されずに無事に戻ってきた。
『あすこにゃ誰もいねえな』
と、手下の誰かが言った。
『あたりめえよ』とヤンキーが言った。
その時はもうカッシムは、大いに感動し、喜び、そしてまた不安になって戻って行った後だった。カッシムは、彼の曲がりくねった政略遂行のために、ダイン・ウァリスに使者を遣わして、白人どもの船が川を上ってくるという報告が入ったから警戒しろと伝言させた。
カッシムは、白人の船の力を彼なりに最小限に小さく言って、ダイン・ウァリスに、是非その船の通過を食い止めるように熱心に勧告した。このふた心ある行動は、ブギスの兵力を分割して弱まらせようというカッシムの目的に根ざしていた。
一方カッシムは、その日の中に町に集合しているブギスの酋長たちに使者を遣って、自分は侵入者どもに退散を説き勧めていると断言し、砦にも使者を送って、ぜひラージャの人々のために火薬をくれと熱心にたのませた。ツゥンク・アラングが、謁見広間の銃架で錆びついている二十挺かそこらのマスケット銃のために、とりでから火薬を貰ったのは、もうずっと前のことだった。
山のギャングとラージャの宮殿とで公然と交渉がはじまったという報せは、あらゆる人々の心を動揺させた。もはや人々は、どちら側につくかを決める時だと、誰からとなく言われはじめていた。間もなく大した流血の惨事が起き、それから大勢に大災難がふりかかるのだろう。すべての人々が明日の来るのを確信できた秩序ある社会組織、平和な生活、ジムの手によって建てられた平和の殿堂は、その夕べ、いまにも血みどろな廃墟と崩れ去ろうとするかに見えた。
貧しい人々は、すでに藪に隠れたり、川上へ逃げたりしていた。上流階級の大勢は、ラージャのところへご機嫌うかがいに行きはじめた。だが、ラージャのところの若者どもは、乱暴に彼等を中へ押しこんだ。
老いたツゥンク・アラングは、恐怖と不決断にさいなまれてほとんど頭が狂っており、あえて土産物もなしでやって来た者達に、むっつりして返事もしなかったり、また狂暴に嘲ったりした。連中はすっかり怯えて退散した。
ただドラミン翁だけは、自分の同族たちを一つにまとめ、断固として自分の作戦をすすめていた。彼は即製の矢来の後の大椅子の王座につき、乱れ飛ぶ風説にはびくともせず、耳もかさず、深い、内にこもった雷鳴のような声で、命令を発していた。
夕闇があたりを包み、まっ先に、まるで地面に釘づけにされたように両腕を拡げてのびているあの男の屍を隠した。それから、運行する夜の天体が静かにパトゥーサンの上に滑ってきて止まり、無数の惑星はキラキラと地球の上に光輝《ひかり》の雨を降らせた。
ふたたび、町のむきだしの部分に、大きな数多の篝火《かがり》が、唯一の街衢《がいく》にそって炎々と燃え上がった。ずっと遠方から遠方まで、そのまばゆい光の上に屋根々々の傾いた直線や、小枝で編んだ壁の断片がごたごた押し合って浮き上がった。そちこちに、垂直の黒いしまに見える一群の高い棒杭の上に、小屋全体が光をあびて高く浮かんでいる。そしてこの住宅の列全部は、揺れるほのおに照らされてまだらに明減し、ねじれながら、川上から土地の中心部の闇の中へ、ゆらめきゆらめき逃げていくように見えた。
深い静寂の中で、巨大な火焔は音を立てずに間断なく燃えつづけ、山麓の暗がりの中まで延びていたが、しかし川の向こう岸は、砦の前の河岸にたった一つ篝火が燃えているだけで、あとは全部暗く、空には、はるかに大群集の足を踏み鳴らす音か、大勢の低いつぶやき声か、あるいは非常に遠方の大滝の音かとも思われる震音が、しだいに大きく空気をゆるがせて湧きおこっていた。
この瞬間だったと、ブラウンは私に告白した、彼は手下どもの方に背中を向けて坐り、この全景を見ているうちに、彼はこの全土と人々を軽蔑し切って、残酷な自信に満ち満ちていたにもかかわらず、ついに俺も石の壁に突き当たったな、という絶望感に襲われたのだった。
もし彼のボートがその時川に浮かんでいたら、彼はきっと、長いこと追撃され、海で飢餓地獄に陥る運命を承知の上で、こっそり逃げ出そうとしたに違いなかった。果たして逃げおおせたかどうかは、はなはだ疑問だが、とにかく彼は、これは実行しなかった。次の瞬間、ふと町を突破して脱出することが頭にうかんだが、彼は、最後はあかあかと照らされた街道で、家々から犬ころのように射ち殺されるのがおちだと良く判っていた。
畢竟、向こうは二百人対一人だ――とブラウンは考えた、一方、彼の手下どもは、ふた山のくすぶっている燃えさしの周囲にごたごた集まって、カッシムの外交のおかげの最後のバナナをむしゃむしゃ食べたり、数本のやまいもを焼いたりしていた。コルネリアスは、彼等の中に坐って、陰気な顔でうたた寝している。
やがて、白人ギャングの一人がボートにタバコを置いてきた事を思い出し、ソロモン島人が無事にオールを取ってきたことに励まされて、自分もそれを取りに行くと言いだした。この言葉に、他の者は元気づいた。ブラウンに、行ってもいいかと許可を求めると、
『行け、そしてくたばるがいい』
と、あざけるように答えた。彼も、暗闇の中をクリークまで行くのに、べつに危険はないと思ったのだ。手下は、片脚を木の幹の上に投げかけ、姿を消した。少しすると、彼がボートによじ登る音がし、次に出てくる音がした。
『あったぞ』
と男は叫んだ。
つづいて、山麓のその場所で、ピカッと閃光がはしり、爆音が一つ上がった。
『射《や》られた』と男が叫んだ。『気をつけろ、気をつけろ――俺ゃ射《う》たれたぞ』
そのとたんに、ギャングのすべてのライフル銃か発砲した。小山は小さい火山のように、火と爆音を夜闇の中に吹き出した。
そして、ブラウンとヤンキーが毒づいたり、咳《せき》をしたりしながら、狼狽した手下の発砲を止めたとき、クリークから深い、疲れたうめき声が聞こえてき、そのあと、毒薬で血管の血が凍るかと思うばかりの胸を裂く悲しい泣き声がつづいた。
その時、ある力強い声が、クリークの向うで、数語ハッキリ、わけの判らない言葉を言うのが聞こえた。
『誰も発砲するな』とブラウンは怒鳴った。『あれはなんと言ってるんだ』……
『お前たち聞こえるか、丘の上の者? 聞こえるか? 聞こえるか?』
異国語の声は三度繰り返された。
コルネリアスは、それを通訳して、ブラウンに答えをうながした。
『聞こえるぞ、と言え!』
とブラウンは叫んだ。
すると声は、よく響く、堂々たる伝令者の口調で、ぼんやり見える荒地の端で絶えず移動しながら宣告した――パトゥーサンに住んでいるブギス国の者達と、丘の上の白人達の間には、互いに信用も、同情もなく、交わす言葉もなく、平和もないのだ――
藪がガサガサいい、でたらめの一斉射撃が鳴りひびいた。
『畜生、馬鹿野郎』
と、ヤンキーがいらいらして銃の台尻を地面に置きながらつぶやいた。コルネリアスは、それを翻訳した。
丘の下の負傷した男が、二回、『上へ運んでくれ! 上へ運んでくれ!』と叫んでから、また悲しい声でうめき出した。彼は、山麓の黒い地面にいた時やまたボートの中に、かがんでいた間は安全だった。どうやら彼は、タバコを見つけた嬉しさの余り、いわば我を忘れてボートの敵陣側に飛び出したらしい。高く乾いて横たわっていた白いボートを背景に、飛び出したギャングの姿がくっきり浮き上がった。クリークのその場所は、幅七ヤード位で、たまたまそこに、一人の男が向こう岸の藪に伏せていたのだった。
その伏せていた男は、ほんの最近パトゥーサンへ来たばかりのトンダノ〔セレベス島北東端〕のブギス人で、午後に射殺された住民の親類だった。あの大した長距離射撃は、実に目撃者たちの胆を冷やした。全く安全な所にいた男が、友人たちの見ているまん前で、冗談を飛ばしながら射ち倒され、人々は、この暴虐無惨な行為に、苦々しい憤怒の炎を燃え立たせたのだった。
シラッパという名の、その射たれた男の肉親は、その時、現場からほんの数フィート先の防御柵の中にドラミンと一緒だった。ここらの奴等を知っている諸君は、この男が自発的に唯一人で暗闇の中をメッセージをもたらしたのは、じつに稀な勇気であることを認めてやらねばなるまい。
男は、空地を這って横切り、左にそれてボートの反対側に出たのだった。彼は、とつぜんブラウンの手下が叫んだときびっくりした。そして銃を肩に当てて坐った姿勢をとり、相手が飛び出して姿を現わした時、引き金を引き、ぎざぎざな散弾を三発、哀れな悪漢の腹にまともに射ちこんだのだ。それから、地面にぺったり伏せて、鉛玉の雹《ひょう》が、彼のすぐ右手の藪を切り倒し、なぎ倒して降ってくるあいだ、自分の生命は無いものと諦めていた。その後で、彼は体を二つ折りにし、終始ひらりひらり体をかわして何かの陰に隠れながら、メッセージを叫んだのだった。そして最後の言葉を言い終わるや否や、わき道にすっ飛び、しばらく体を地面にぴったりつけて横たわっていた。それから、無傷で家に戻り、子々孫々にまで伝わるすばらしい勇名を残したのであった。
丘の上では、よるべないギャングどもが、消えるにまかせた、ふた山の小さい燃えさしを囲んで、首うなだれていた。彼等は唇を固く結び、伏目がちに元気なく坐り、下の相棒のうめき声を聞いていた。彼は強い男なので死ぬのに骨が折れ、唸り声がいま大きくなったかと思うと、こんどは奇妙な、低い、苦痛のうめき声に変わった。傷ついた男は時々悲鳴を上げ、またちょっと黙ってからうわごとのように、長々とわけのわからない泣きごとをつぶやくのが聞こえた。彼は静かにしていなかった。
『行ってなんの足しになるんだ?』
ブラウンは、小声で悪たれていた子分のヤンキーが、いまにも下へ降りて行きそうにしたのを見て、一度冷酷にたしなめた。
『そりゃそうだな』
と、脱走兵は不承不承思いとどまって言った。『だけどよ、あすこで負傷した野郎が泣いてるのは、いい気持じゃねえな。あのうめき声は、他のみんなに、この先どうなるか、やけに先を案じさせるみてえだ、なあキャプテン』
『水くれえ!』
と、負傷した男が、突然びっくりするような強い、ハッキリした声で叫び、それからまた弱々しくうめきだした。
『そうだ、水だ。水が処理《よく》してくれるさ』と、いま一人のギャングが諦めたようにつぶやいた。『いまに、たくさんの水が。満潮がやってくるさ』
ついに潮が満ちて、苦しみの叫びも悲しみの声もかき消された。そして、暁近く、ブラウンがパトゥーサンを前にして、頬杖をついて坐り、難攻不落の山の絶壁をじっと見つめでもするように、その全土を睨んでいた時、どこか町の遠くで、真鍮の六ポンド砲の短い砲声が鳴りとどろいた。
『ありゃなんだ?』
と、ブラウンは、自分のまわりをうろうろしているコルネリアスに訊いた。コルネリアスは耳をすました。音をつつんだ大きな歓声の渦が、町の上を川下の方に流れていき、大太鼓が一つとどろきはじめ、他の楽器がそれに呼応してドンドン、ブーブー鳴りだした。点々と小さな光が町の暗い半面にかがやき出し、一方、煌々と巨大な篝火に照らされた部分からは、深く長々と、低い歌声が聞こえだした。
『彼が戻った』
とコルネリアスが言った。
『なんだと? もう? おい本当か?』
とブラウンが訊いた。
『そうだ! そうだ! たしかだ。あの音を聞きなせえ』
『いったいなんでみんな、あんなに大騒ぎしてるんだ?』
とブラウンは追求した。
『嬉しいからだ』と、コルネリアスは鼻嵐をふいた。『あいつは大した豪え男さ。だが、それでもやっぱり、あいつは何も知らねえ子供なんで、みんなはあいつを喜ばせようとして、仰山な音を立てるんだ。みんな、もっとましな喜ばせ方を知らねえのさ』
『おい、あの男に近づくにゃ、どうしたらいいだろうな?』
とブラウンが言った。
『あいつの方から、あんたに話しに来ますさ』
と、コリネリアスは断言する。
『そりゃどういう意味だ? いわば散歩にでも来るみてえに、ここへやってくるってのか?』
コルネリアスは、暗闇の中で威勢よくうなずいた。
『そうだ。あいつはもうすぐここへやって来て、あんたと話をする。あいつは、まるっきり馬鹿みてえさ。あいつがどんな大間抜けか、いまに判るとも』
ブラウンは信じられないという顔をした。
『いまに判る。いまに判る』
とコルネリアスは繰り返した。
『あいつは怖がらねえ――なんにも怖がらねえ。あいつはやって来て、あんたに、彼の住民をそっとしておけと命令するだろう。誰も、あいつの住民に手を出すなと。あいつは小せえ餓鬼みてえな奴だ。奴は、まっすぐあんたの所へ来ますって』
ああ! 彼はジムをよく知っていた――ブラウンの言い草ではないが、あの≪さもしいチビのスカンク爺い≫のコルネリアスは。
『ええさ、たしかに来ますとも』と、コルネリアスは熱をこめて言いつづける『そうしたらキャプテン、あんたは、あの銃を持ってる背の高い男に、奴を射てと言いなせえ。あんたは、ただあいつを殺しさえすりゃいいんだ。そうすりゃ、誰もみんなちぢみ上がって、その後は一切合財あんたの気随気儘さ――お気に召すままになんでもかんでも徴発して、――お好きな時に消え失せる。ハッ! ハッ! ハッ! ハッ! すげえぞ……』
コルネリアスは夢中で、待ちきれなくなり、ほとんど踊り出さんばかりだ。
ブラウンは、思わず振り向いて肩ごしに彼を見た。その目に、自分の子分たちが露にぐっしょり濡れ、やつれ、おびえ、ぼろぼろの姿で、冷たくなった灰や露営の寝わらの散らかった中に坐っている姿が、仮借なき暁の光に照らし出されて見えた」
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第四十一章
「最後の瞬間まで、水平線をはなれた朝日がその上に躍りかかるまで、西岸の火は煌々と、澄んで燃えつづけた。そして次の瞬間ブラウンは、丘に近い家並の間に動かずに立っている一群の有色人の姿の中に、全身白ずくめのヨーロッパの服に白いヘルメットをかぶった男を見た。
『あれがそいつだ、見なせえ! 見なせえ!』
コルネリアスが昂奮して言った。
ブラウンの手下どもは全員飛び上がり、艶のない目をして彼の後に集まってきた。一群のあざやかな色彩の衣服をつけた黒い顔が、白衣の人をまん中にして、ギャングの小山を見ていた。
ブラウンの目に、むきだしの腕をもたげて目に入る日光をさえぎっている人々や、また褐色の腕がこちらを指さしているのが見えた。――いったいあの男は何をする気だろう?
ブラウンは、あたりを見まわした。山林は四方から、勝ち目のない勝負の試合場を取り囲んだ城壁のように彼をつつんでいた。ブラウンは、もう一度自分の子分どもを見た。軽蔑、疲れ、生きたい欲望、もう一度チャンスを掴みたい願望――ここを墓場にしたくない気持が、――彼の胸の中で荒れ狂った。
国じゅうの力に支配されて立っているその白衣の男は、その恰好から判断すると、双眼鏡でブラウンの位置を調べているらしかった。ブラウンは、手の平を外にして両腕を振り上げ、サッと丸太の上に飛び上った。有色人の群は、ぴったり寄りそって白人を取り囲んでおり、二回、白人に払いのけられて後ずさりした。ついに白人は皆を払いのけて一人でゆっくり歩きだした。
ブラウンは、ジムが、まだらに茂っている棘《とげ》のある藪の間を、見え隠れしながらほぼクリークのそばに来るまで、丸太の上に立っていた。それから、ブラウンは飛び下り、自分から彼の方へ下りていった。
二人は顔合わせした。そこは、ジムが人生で第二回目の必死のジャンプをした場所からあまり離れていなかったと――ジムをパトゥーサンの生命の中に、人々の信頼と、愛と、確信の中に上陸させた、あのジャンプの場所とたぶん同じ地点ではなかったかと、私は思うのだ。
ジムとブラウンとはクリークをへだてて向き合い、互いに口を開く前に相手の人物を理解しようとして、じっと見つめ合った。彼等の目には、二人の対立がハッキリ映ったに違いない。ブラウンは一目でジムを嫌悪したことを私は知っている。
ジムを一目見た瞬間、ブラウンのあらゆる希望は消え失せた。彼の会いたかったのは、こんな男ではなかった。そのため、ブラウンはジムを憎んだ――そして、肘のところでちょん切れた碁盤じまのフランネル・シャツを着、ごま塩のひげをはやし、肉の落ちくぼんだ、まっ黒に日焼けした顔のブラウンは、心の中で、相手の若さと自信と、その澄んだ目と、明るい態度を呪った。
こいつの前には洋々たる前途がある! この野郎は、助太刀してくれりゃなんでもやる、と言うような男にゃ見えねえ。こいつはあらゆる強味を備えてやがる――財産、身の安全、権力。こいつの側にゃ、圧倒的な力がある! 腹も空いていねえし、死物狂いでもなし、ちっとも怖れてなんかいねえらしい。
ジムの衣服は白いヘルメット帽から、ズックの脛当《レギンク》や白塗りの靴にいたるまで、非常に清潔できちんとしていたが、これは、ブラウンの暗い、苛立った目には、彼が自分の人生形成において、これまで軽蔑し、嘲ってきたものと同類に見えた。
『君は誰だ?』
ジムが、ついに、彼のいつもと変わらない声で訊いた。
『俺の名はブラウンだ』と相手は大声に答えた。『ブラウン船長だ。お主の名はなんだ?』
ジムはしばらく黙っていて、さも相手の問いが聞こえなかったかのように、
『君はなんでここへ来たんだ?』と静かにつづけた。
『それを知りてえのか』と、ブラウンは苦々しげに言った。『言うのは造作ねえ。腹が空いたからさ。それで、お主はなんでここへ来たんだ?』
『そう訊くと、あの野郎はギョッとしやがった』
と、ブラウンは、この二人の男の間で交わされた不思議な会話の皮切りを私に話しながら言った。二人はただ泥どろな川底のクリークをへだてただけだったが、しかし彼等は、あの全人類の参与する人生観の相反する両極に立っていたのだ――
『あの野郎は、おれがそう訊くとギョッとして、顔を真っ赤にしやがった、質問されるにゃ理由《わけ》がでっかすぎたんだろうさ。俺ゃあいつに言った、お主、もしこの俺を、どうとも勝手にできる死人みてえに考えてりゃ、実はお主自身の生命も、俺とどっこいどっこいだぞ。俺ゃあすこに、しじゅうお主に狙いをつけて、ただ俺の合図を待っている野郎を置いてあるんだ。――だがあの男は、そう聞いてもちっとも驚かなかった。もともと、自分の意志で俺の方へやってきた野郎だからな。
≪俺たちゃ、どっちも死人てことにして、その土台で、互角に話し合おうぜ。死の前にゃ、人間はみんな平等さ≫とおれは言った。≪俺はここじゃ、罠にかかった鼠《ねずみ》みてえなもんだが、しかし俺たちゃこの罠へ追いこまれた以上、お主、窮鼠猫を噛むってことを知ってるか≫
あいつはすぐ俺の言葉をさえぎった。
≪鼠が死んじまうまで、罠の近くへ行かなければ噛まれんよ≫
そこで俺ゃ言った。≪そういったゲームは、お主の友達のこの土人どもにゃ上等さ。だがお主は、鼠にさえ、そうヤバイ仕打ちはしねえ純白な人柄と俺は睨んだのさ≫
そうだ、俺ゃあの男と話をしたかった。だが、生命乞いをするためじゃなかった。俺の部下どもは――まあ――あいつ等はどうだったにしろ――俺ゃとにかく、あんな野郎に生命乞いはまっ平さ。俺のあいつに望んだのは、奴が悪魔の名でやってきて、悪魔同士で問題を片付けることだった。
≪畜生!≫あいつが郵便ポストみてえに静かに立ったきりなんで、俺ゃ言った。≪まさかお主、毎日双眼鏡を持って、俺たちがまだ何人生き残ってるか、数えに出て来たかねえだろう。さあ来い。お主のあの忌々しい群集を引き連れて来るなり、さもなきゃ、神かけて、俺たちを公海に出して餓死させろ! お主は≪自分の住民≫だの≪自分も彼等の一人だ≫なんて言うが、お主だって、昔は白人だったじゃないか。そうだろう? いってえ、そんなこと言ってなんの益があるんだ。いってえお主はここで、そうべらぼうに貴重な何を見つけたんだ? おい? たぶんお主は、俺たちにそこへ下りて行かれちゃ困るんだろう? そっちゃ、二百人対一人だ。でも俺たちに、下の平地へ下りて来てもらいたかねえだろう。
ああ! 俺ゃ、お主らからやっつけられる前に、目にものみせてやると約束するぞ。お主は、俺が無害の住民を卑怯に攻撃すると言ったな。この俺が無害同様で餓死しかかってる時に、そいつ等が無害だなんてことを考えていられると思うのか? だが、俺ゃ、卑怯じゃねえ。お主も卑怯な真似はするな。さあお主、群集を引き連れて戦うか、さもなきゃ、全悪魔にかけて、俺たちゃお主の害のねえ町の半分を、行きがけの駄賃に、砲火の烟霧の中で天国へ送ってやるぞ!≫』
ブラウンはもの凄かった――この話を私にしながら――この苦悩にあえぐ、骸骨の男は、あのひどい物置小屋のみじめな寝床で、顔を膝の上で苦痛に引きつらせながら頭を上げ、邪悪な凱歌を奏するように私を見た。
『俺ゃ、そうあの男に言ったのさ――俺ゃ、なんと言やいいか、ちゃんと心得ていたんだ』
と、ブラウンはまた話し出した。最初は弱々しく、しかし努力して、やがて信じられない位のはやさでたちまち火のような毒舌を吐けるようになった。
『≪俺たちゃ、森へ逃げこんで、一群の生きた骸骨みてえにさ迷い歩いて次々に倒れ、まだ本当に死んでいねえうちから蟻の餌食になるようなことはしねえぞ。おお、するもんか……≫
≪君には、もっとましな運命を受ける資格はない≫とあいつが言った。
≪ではお主は、どんな資格があるんだ?≫と俺は怒鳴った。≪お主はここでこそこそ隠れ歩きながら、やけにやれ責任だ、やれ無害の生命だ、やれ義務だとほざいているが、いってえどんな運命を受ける資格があるんだ?
俺がお主のことを知らねえように、お主も俺のことを知るめえ? 俺は食い物のためにここへ来たんだ。聞こえるか?――食い物を腹に詰めこみにだ。で、お主はなんの為に来たんだ? ここへ来た時、何をたのんだ? 俺たちゃ、お主に、戦いか、さもなきゃ、やって来た方へ戻る道を開けてくれという他は、なんにもたのみゃしねえ……≫
≪僕はいま君と闘おう≫
と、あいつは小さな口ひげを引っぱりながら言った。
≪俺ゃ、お主に俺を射たせてやるぞ、よろこんで≫と俺は言った。≪ここだろうが、どこだろうが、俺にとっちゃ同じ結構な最期さ。俺ゃ、自分のいまいましい運命に倦き倦きした。だが、それじゃ俺だけが楽すぎる。いわば同じボートに俺の部下どもが乗ってるんだ――そして神かけて、俺ゃ、自分だけ苦労から飛び出して、みんなを沈みかけた船に残しておくようなまねはしねえ男さ≫と俺は言った。
あいつは立ったまましばらく考えていたが、やがて、≪君はあちらで何をしでかしたんで、そんなにいじめられるんだ?≫ と下流の方に頭を振りながら俺に訊いた。
≪俺たちゃ、互いに身の上話をするためにここで顔合わせしたのかね?≫と俺はあいつに訊いた。
≪したけりゃお主から始めたらどうだ。いやだ? まあ、俺も聞きたかねえ。そっとしまっときな。どうせ俺のと五十歩百歩のこたあ判ってる。俺ゃ生きてきた――お主もそうさ――ただお主は、さもつばさのある人間で、汚ねえ地面に触らずに飛び回っていたような豪《えれ》え口をきいてるがな。
まあ汚ねえこたあ汚ねえさ。俺にはつばさはねえからね。俺ゃ一生に一度だけ怯えたために、いまここにいるんだ。なんに怯えたか聞きてえか? 監獄さ。そいつが俺を怯えさせたのさ、覚えときな――もし何かお主の役に立つなら。
俺ゃ、お主がなんに怯えて、この忌々しい穴へ逃げこんだのか訊きたかねえ。だがお主はここで、きれいな落《お》ち穂《ぼ》を見つけたらしいな。それはお主の幸運で、俺の幸運は――早く射ち殺して貰いてえとたのむ特権か、さもなきゃ自由に出てって、好きなように餓死しろと、蹴り出されるのをおたのみ申す特権さ≫』
ブラウンの衰弱した体は、その小屋で彼を待っている≪死の神≫さえ追っ払ってしまったように、ひどく熱狂的な、自信満々の、邪悪な歓喜に揺れ震えた。その狂った自我愛の屍は、暗い恐怖の墓場から立ち上がるように、ぼろと窮乏の中から立ち上がった。
その時ブラウンはジムにどのくらい嘘を言ったか、またいま彼は私に、どの位嘘を言っているのか――そして、自分自身をいつもどの位偽っていたのか、私には判らない。虚栄心が、われわれの思い出に恐るべきごま化しをするものだし、あらゆる情熱の事実は、それをいつまでも生き生きとさせるためには、幾らかの見せかけが必要だ。
冥土の門のそばに乞食姿で立ったブラウンは、現世の顔に平手打ちを食わせ、唾をはきかけ、彼の悪業の底を流れていた無限の軽蔑と反抗を、その顔に投げつけたのだった。ブラウンはすべての者を――男も女も、蛮人も、商人も、ならず者も、宣教師も――そして≪あのたくましい顔をした乞食野郎≫のジムも、――みな征服した。私は彼にこの in articulo mortis〔ラテン語で死の言葉の意〕の凱歌を、全地球を脚下に蹂躙したというこの断末魔のイリュージョンを、彼に与えることを惜しまなかった。
ブラウンが不潔な、ぞっとする姿で、苦痛にさいなまれながら自慢話をしていた間じゅう、一方私は、人々の語り草になっている彼の全盛期時代のエピソードを思い出さずにはいられなかった――その盛んなりし一年かそこらの間に、ブラウン紳士の船は、幾日も幾日も、白い砂浜に黒点のように宣教師の家の見える、緑でかこまれた小島の浮かんでいる青い海の沖合をうろついているのが見受けられた。そしてその間、一方ブラウン紳士自身は上陸して、メラネシアの生活が堪えられないロマンチックな少女に魔術をかけ、彼女の夫の宣教師には、ブラウンのすばらしい回心の希望をいだかせたのだった。気の毒な宣教師は、≪ブラウン船長がもっと善い生活に入るように神に帰依《きえ》させてみせる……≫と、いつか打ち明けたことがあるそうだ。≪神の栄光のためにブラウン紳士を仕止めて、西太平洋の商船の船長ってのがどんなものか、空の上の方々に見せてえばっかりにさ≫――と、かつてある狡猾な目をしたのらくら者が語っていた。――
この名にしおう荒くれのブラウンがまた、瀕死の女と駈落ちして、彼女の死体の上に滂沱《ぼうだ》として涙を流した男でもあったのだ。
『てんで大きな赤ん坊みてえに泣き騒いでさ』と、当時ブラウンの船の副船長をしていた男は、いつまでも倦くことを知らずに人々に語り伝えた。
『一てえ全てえあの女の何処がそんなによかったのか、もし俺にそれが判りゃ、病気のカナカ人どもに、死ぬほど蹴とばされてもいいぜ。だって、諸君! あの女は、ブラウン紳士が船の中へ連れてきた時にゃ、もう意識不明で、船長の顔も見分けられなかったんだぜ。彼女はただキャプテン・ブラウンの寝台に仰向けに横たわって、すごくキラキラ光る目でじっと船の梁《はり》を見つめているきりだった――そして、それから死んだ。ひでえ悪性の熱病にやられてたんだと思うな……』
私は、いま断末魔のブラウンが鉛色の手でもつれた鬚のかたまりを払いながら、むっとする寝床の中から、彼はいかにして、あの忌々しい、清浄無垢な≪俺に触るな≫といった風の超然とした若造を、うまく口車にのせ、一杯くわせ、狙いを的中させたかと話すのを聞きながら、心の中で、彼のこの物語をぜんぶ思い出していた。
ブラウンは、恐れを知らない兇漢ではあったが、しかし彼は『あすこには有料道路のように広く、そこに入れば、彼の二束三文の安いたましいは振り回され、裏返しにされ、ひっくり返されてしまう』一つの道があったことを、『――神かけて!』認めたのだった」
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第四十二章
「たぶんブラウンは、ただそのまっすぐな道を眺めることしか出来なかったと私は思う。彼は、自分の見たものに心をかき乱され、困惑したらしく、再三話を中断して、釈明するように言った。
『俺はあの男を、あすこで、すんでにすべり落とすとこだった。俺にゃ、あいつがつかめなかった。いったいあれは何者だ?』
そして、しばらく狂暴な目で私をじっと睨んでから、彼はまた歓喜の叫びを上げたり、あざ笑ったりしながら話しつづけるのだった。
私には、クリークをへだてたこの二人の男の会話は、いまでは、運命の女神が最後を見透す冷たい目で見物している最も致命的な決闘のように思われる。
たしかにブラウンには、ジムのたましいを裏返して見ることはできなかった。しかし、全くブラウンの手の届かない所にあったジムの精神が、あの闘争の苦《にが》さを十二分に味わわされなかったと思うなら、それは大きな誤りだ。これらはかつてジムの放棄した世界の密使どもで、世界は彼等とともに、退却する彼を追跡しているのだった。ジムが自分はそこに住む資格がないと思った、あの≪海の向こうの世界≫から来た白人たち。畢竟、これが、ジムを襲ったすべてだったのだ――脅迫も、ショックも、彼の仕事への危難も。この悲しい、半ば憤慨し、半ば諦めた感情が、ジムの時折りもらす数語の中を貫いており、それが、ジムの性格を読み取ろうとするブラウンを困惑させたのだと思う。
ある偉人たちは、その偉さの大部分が、自分らの道具と狙いをつけた者たちの中に、自分の仕事にぴったりの才能特性を見いだす能力のおかげだが、ブラウンも、さも本当に偉大だったかのように、彼の犠牲者《いけにえ》たちの最大の長所と短所を見抜く悪魔的天分を持っていた。
ブラウンは、ジムが、ぺこぺこ媚びへつらって征服できるような男でないことを看破した。それで、彼は用心ぶかく自分自身を、不運や、非難や、災害に敢然と立向かっている男のように見せかけた。
数挺の銃の密輸などは大した悪事じゃない、という点をブラウンは指摘した。パトゥーサンへ来たことについては、俺が食べ物を貰いに来たのでないと誰に言い切れるか? ここの忌々しい奴等は、俺たちに質問するひまもなく、いきなり両岸から鉄砲をぶっ放した――
と、ブラウンはずうずうしく主張したが、実際は、ダイン・ウァリスの精力的な行動は、最大の災禍を防いだのだった。というのは、ブラウンは、この場所《まち》の大きさを見るや否や、心の中で、よし、上陸して足場が出来しだい、そこら中に火を放ち、生きているものと見ればなんでもかでも射ち殺し、全住民をおどし、恐怖させてやろうと、決心したからだ。
力の差があまり大きすぎるので、彼の目的達成のわずかなチャンスは、ただこの方法によるほか得られなかったからだ――と、ブラウンは私に、咳きこみながら論じた。
しかし、彼は、ジムにはこの事は隠していた。そして、俺たちは困難苦労し、飢えていたんで、これこそ正真正銘の事実だ、まあ論より証拠、俺の部下どもを見てやってくれと彼は言った。ブラウンが一声高い口笛を吹くと、彼の手下は全員、丸太の上に全身を現わして一列に立ち並び、ジムには、そのうらぶれた姿がよく見えた。
――俺たちは、村の男を射ち殺したことは殺した――まあ、そりゃそうだ――が、しかしこれは戦争だったんだろう? 秘密の血なまぐさい戦争で。それに、あいつはきれいに殺されたぜ、胸に貫通銃瘡を受けて。いまクリークに倒れている俺の子分みてえな、哀れな死にざまじゃなくな。俺たちゃ、あいつが腸《はらわた》を散弾に引き裂かれた断末魔のうめきを、六時間も聞かされたぞ。とにかく、これで殺しは一対一だ……
そして、このすべてを、ブラウンは、重なる不運に駆りたてられて、ついにはどこでもかまわず無茶苦茶につっ走るようになった男の、うんざりした無鉄砲さで言い切った。
彼がジムに、一種のやけっぱちの、そっけない率直さで、お主自身も――いまこそまっすぐだが――『暗闇の中で自分が死ぬか生きるかの羽目になった時、他に誰がいようと――三人、三十人、三百人いようと――他人のことはかまわずに、自分が生きようとした』その気持は判るだろう? と訊いた時は、さながら、悪魔が彼の耳にいい入れ知恵をしているかのようだった。
『それを聞くと、あの野郎は、たじたじとしやがった』と、ブラウンは私に自慢した。『あいつはすぐ、正義の矛《ほこ》で俺を攻撃することをやめた。そして、なんにも言わずにただ棒立ちになって、雷様のようにこわい顔で――俺を見ずに――地面を見ていた』
ブラウンはジムに、俺たちが、陥ちこんだ死の穴から、手当たりしだいの方法で外へ出ようとするのを、お前はこんなにひどく苛酷に裁くが、そういうお前自身は、まだ一生の間に、何一ついかがわしい事をした覚えはないのかと訊いた――そして、こうした事を次から次へと。そして粗野な話の中に、一貫して、畢竟、お前も俺も同じ白人種で、共通の経験を持った人間同士だという一脈の微妙な関連性を織りこんだ――吐き気を催す共通の罪過をほのめかし、さもお互いの頭も、お互いの心も、一つきずなに結ばれているような、ひそかにジムの前科を知っているような暗示を与えた。
ついに、ブラウンは地面に大の字に身を投げだして、横目でじっとジムを見守った。ジムはクリークの向こう側に立って、自分の脚を細い枝で打ちながら、物思いにふけっていた。視界にある家々は、さも疫病にあらゆる生命を奪い去られでもしたように、静まり返っている。しかし、家々の中からは、たくさんの隠れた目が、クリークを間にはさんだ二人の男と、座礁した白いボートと、半ば泥の中に埋まっている第三の男の死体とにじっと注がれていた。
川の面には何隻かのカヌーがふたたび動きはじめており、パトゥーサンは、白人のご主人が戻ったので、社会はもう安全だという信念を取り戻しつつあった。
右岸は、家々の高台や、岸にそって繋《つな》ぎ止められた筏《いかだ》や、水浴の更衣所の屋根の上まで人で一ぱいで、声も聞こえず、姿さえろくに見えないのに、瞳を凝らしてラージャの矢来の向こうの丘をみつめていた。広大な、不規則な円をえがいた森林の環は二カ所を光る川が破って流れており、円の中はひっそりと静かだった。
『この沿岸から立ち去る約束をするか?』
と、ジムが訊いた。ブラウンは、いわば何もかも諦め――仕方なしに受諾するという風に、片手を上にあげて落としてみせた。
『そして、武器を引渡すか?』
ジムがつづけた。
ブラウンは急に体をぴんと起こして、向こう岸を睨んだ。
『俺たちの武器を渡せと! 欲しけりゃ、俺たちの歯強《はごわ》い手からもぎ取ってみろ。お主は、俺がおじけて気が狂ったと思うのか? とんでもねえ! 武器と俺の着ているこのぼろとは、船の上のあと数挺の後装銃《ブリーチローダ》を除きゃ、俺がこの世で持ってるすべてだ。俺はその全部を、マダガスカルで売りっぱらうつもりさ――万一、そこまで行き着けたらだ――船から船へと食い物を貰いながら航海してな』
ジムはこれに何も言わなかった。やがて、彼は手に持っていた細い小枝を向こうに投げすてて、まるで独り語のように言った。
『俺にその力があるかどうか判らない……』
『判らない! だのにたった今、この俺に武器を渡せと言ったのか! それもいいだろう』とブラウンは叫んだ。『じゃ、もし奴等がお前にはこうすると言っといて、俺に別のことをしたらどうなんだ』ブラウンは急に目に見えて穏やかになり、つづけた。『お主には力はあるさ。でなけりゃ、いままでの話はみな、意味がないじゃないか? いったいお主はなんのためにここへ来たんだ? 時間つぶしにか?』
『よろしい』
ジムは長いこと黙っていて、それから突然顔を上げて言った。
『君の退散のためにきれいに道を開けるか、さもなくば、一戦まじえるとしよう』
ジムは、くびすを返して立ち去った。
ブラウンはすぐ立ち上がったが、ジムの姿が最初の家々の間に隠れるのを見とどけるまでは山へ登らなかった。彼はそれっきり、二度とふたたびジムを見なかった。
山へ登る道で、ブラウンは、コルネリアスが肩の間に頭を垂れて、ぶざまな恰好で歩いているのに出会った。彼はブラウンの前に立ち止まり、
『なぜ、あいつを殺さなかったんです?』
と、不機嫌な、不満な声で詰問した。
『なぜって、俺にゃ、それよりもっとましなことが出来たからさ』
ブラウンは面白そうに笑って言った。
『うそだ! うそだ!』コルネリアスは力をこめて反対した。『そんな事が出来るもんか。わしはここに長年住んでいる』
ブラウンは、不思議そうにコルネリアスの顔を見上げた。彼に対抗して武装したパトゥーサンの生活にはいろいろの面があり、彼にどうしても判らない事があった。コルネリアスは、こそこそと斜に川の方角へ通りすぎていった。いまやコルネリアスは、この新しい友人から去っていこうとしていた。
コルネリアスは、自分をがっかりさせた事件経過に憤懣やるかたなく、そのため彼の小さい、黄色い老いた顔は、一きわしわだらけになったように見えた。そして彼は横目でそちこちをチラチラ見ながら、ジムを殺すという固い一念を決して諦めずに、山を降っていった。
それから後は、事件は一瞬の停滞もなくすばやく進んでいく――暗い源から発する流れのように、人々の心から流れ出て。そして我々は、その渦中にあるジムの姿を、主にタム・イタムの目を通して見ることになる。少女の目もまた、ジムを見つめつづけてきたが、しかし彼女の生命は、余りにもジムの人生とからみ合っていた。そこには、彼女の情熱と、いぶかりと、怒りと、そして何よりも彼女の恐怖と、彼女の赦せない恋があった。
忠僕タム・イタムの方は、ジムを理解することの出来ないのは他の人々と同様だが、彼を動かすものはただ忠誠の一念だけで、彼の白人の主人への忠誠と信頼はじつに強烈で、彼を圧倒したはげしい驚愕さえもが、ジムのふしぎな失敗を一種の悲しく受けいれる気持にまで和らげられていた。タム・イタムの目は、終始ただ一人の姿をしか見ていなかった。そして、あらゆる困惑の迷路を通り抜けながら、彼はなおもあの護衛と、従順と、深い心遣いの態度を持ちつづけていた。
彼の主人は、丘の上の白人たちとの会談を終わって、ゆっくり歩きながら通りの防御柵の方へ戻ってきた。誰もみな彼が戻って来たのを見て歓んだ。ジムが向こうへ行っている間じゅう、人々は彼が殺されはしないかと恐れ、さらにその後に来るものを恐れおびえていたからだ。
ジムは、ドラミン老人の引き籠っている家に入って行って、長いこと、このブギス民族の首長と二人きりでいた。たしかに彼は、ドラミンと共に今後の方針を語り合っていたに違いないが、その会話に立ち会った者は一人もいなかった。ただ、タム・イタムだけは、できるだけドアにぴったり体をつけて、彼の主人が言ってるのを聞いた――
『そうです。僕は、これが僕の意志だとすべての人々に知らせます。しかし僕は他の誰よりも先に、そしてたった一人、貴方だけに話したのだ、おお、ドラミン。なぜなら、僕が貴方の心と、その心の最大の望みを知っていると同様に、貴方は僕の心をよく知っているからです。そして貴方はまた、僕が、人々にとって善いことしか考えないこともよくご存知です』
そして彼の主人は、戸口の板金をもたげて外へ出、彼タム・イタムは、チラリと、中でドラミンが椅子に腰かけ、両手を膝の上におき、じっと足元をみつめているのを見た。
その後に、タム・イタムは主人に従って砦《とりで》に行ったが、ここにはブギスとパトゥーサンの住民の重立った者全部が会談のために召集されて来ていた。タム・イタム自身としては、幾らか戦いのあることを希望していた。
『もう一つの丘を乗っ取ることなんかがなんだ!』と、彼は無念そうに叫んだ。
しかし、町では大勢の者が、あの丘の強欲非道のよそ者どもは、こちらの勇敢な男たちが戦いの用意をととのえている光景を見ただけで、恐れて立ち去ってしまえばいいと希っていた。もしギャングどもが、ただ退去してくれれば、これに越したことはないと。ジムの戻ったことが、夜明け前に砦から射ち出した大砲や、そこの大太鼓の音で知らされてから、パトゥーサンをおおっていた恐怖は、巖《いわお》の上に乗り上げた波のように、くだけて、小さくなり、あとにはただ昂奮と、好奇心と、果てしない臆測のまじった泡を残したきりだった。
人口の半ばは防御の目的で家から出され、川の左岸の通りに住んで、とりでの周囲に群がっており、ふと瞬間的に、あのギャングに脅かされた対岸の彼等のもう棄てて住まなくなっている家々が、兇漢の火で焼けるのを見たいような気持になったりした。一般の切望は、一刻も早く事件の片付くのを見たいことだった。食物は、ジュエルの配慮で、避難者たちに配られていた。
誰一人、彼等の白人はどういう風にこの事件を片付けるのか知らなかった。ある者は、これはシェリフ・アリとの戦争よりも悪いと言った。あの時は、多くの人々は無一物で何も失う心配がなかったが、いまでは誰もみな、何か失うべき物を持っていた。みなは、町の二カ所の間をあちらこちらに往き来しているカヌーの動きを、興味をもって見守った。
二隻のブギスの戦闘船が、川を防御するため流れの中央に投錨しており、一すじの烟が、両方の船のへさきから立ち昇り、船の中で昼飯をたいていた。この時ジムは、ブラウンとドラミンとの会見を終え、川を横切って、彼のとりでの水門を入った。
とりでの中の人々はワッとジムを取り囲んだので、彼はなかなか家の方へ進めなかった。ジムは昨夜到着した時、わざわざ桟橋まで下りて来たジュエルとほんの数語交わしただけで、それからすぐ向こう岸にいる頭たちや闘士たちの仲間に加わったので、ここの連中は、まだジムに会っていなかったのだ。
人々は、歓呼の叫びを上げながら彼のあとを追いかけた。一人の老婆が、ジムの戻った嬉しさに気違いのように人を押しのけて進み寄り、わしの二人の息子さが、ドラミン様と一緒にいるが、盗賊どもの手にかかって怪我しなかったかどうか、教えて下せえと怒鳴り声でせがみ、ドッと皆を笑わせた。そばで見ていた五、六人が、老婆を向こうへ引っぱって行こうとしたが、彼女は身もだえして叫んだ。
『わしをおそばへ行かせてくんろ。こりゃ何事だいね、おお、マホメット教徒方? こんな時笑うなんて場違いだんべ。あいつ等は、人を殺したくてがつがつしてる血に飢えた盗人どもでねえのか?』
『お婆さんをここへ居させてやれ』
と、ジムは言った。とつぜん、あたりはシュンと静まりかえった。ジムはゆっくり、
『誰もみな安全である』
と言って、皆の大きな安堵のためいきと、大きな満足のつぶやき声がまだ消えないうちに、家の中へ入っていった。
疑いもなく、彼は、ブラウンに海へ帰る道を開けてやろうと決心ができていたのだ。彼の運命は、反対されても、なお彼の決行を強要していた。彼は初めて、公然と口に出された反対に直面して、なおも彼の意志を断行せねばならなかった。
『あれこれと沢山の話が出、最初、私のご主人様は黙っておられました』と、タム・イタムは言った。『夕闇がおとずれ、それで私は長いテーブルに何本もローソクをつけました。酋長様方はテーブルの両側に坐り、奥様は、ご主人様の右手に坐りきりでした』
ジムが話し出した時、いままでになく状勢が困難だったことが、いっそう彼の決意をつのらせたようだった。――白人どもは、いまは丘の上で私の返事を待っている。白人どもの頭《かしら》は、私に、白人の国語で話し、他国の言葉では説明の困難ないろいろの事をハッキリさせた。あの白人たちは、苦難のために善悪の区別のつかなくなった間違った人々である。たしかに、何人かの生命はすでに失われたが、しかし、なぜ一戦を交えて更にそれ以上の生命を失うのか?
そしてジムは、彼の聴衆や、集まっている頭領たちに、諸君の幸福は私の幸福であり、諸君の損失は私の損失で、諸君の悲しみは私の悲しみだと宣言した。彼は、まじめな顔で聴いている人々を見回して、私が諸君と相たずさえて闘った日のことを、思い出してくれと言った。彼等は、ジムの勇気を知っていた……
ここで、その時を思い出すいろいろな囁き声がもち上がり、ジムの話は遮られた……それからジムはまた言った――私は決して諸君をあざむいたことはない。長年、諸君と私は一緒に暮らしてきた。私はこの土地を愛し、ここに住んでいる人々に非常に大きな愛情をいだいている。もしあの鬚の生えた白人どもを無事に退散させてやるならば、もしこれによって諸君に何か危害の加えられた場合は、私は生命を賭けてそれに応答《こた》える用意がある。
丘の白人どもは悪い事をする奴等だが、しかし、また運も悪かったのだ。私がかつで一度でも、諸君に間違った忠告をした事があるか? 私の言葉が、かつて一度でも人々に災禍をもたらしたことがあるか? とジムは訊いた。彼は、あの白人どもとその子分とを、生かしたまま去らせるのが一番だと信じていたのだ。それは、小さいプレゼントになるだろうと。
『諸君がいろいろ試して、いつも真実だと認められたこの私は、いま諸君に、彼等を逃がしてやってくれとお願いする』
と、ジムは、ドラミンの方を向いて言った。老|首長《ナホーダ》は身動きしなかった。
『では』とジムは言った。『わが友よ、君の息子のダイン・ウァリスを呼んで来給え。私は、この仕事のリーダーにはならない』」
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第四十三章
「ジムの椅子の後にいたタム・イタムは愕然とした。この宣言は、大したセンセーションを巻き起こした。
『彼等を逃がしてやってくれ。なぜなら、これは、諸君を一度もあざむいたことのない私の知恵の最善の勧告だからだ』とジムは主張した。
一座は静まり返っていた。
庭の暗がりで、大勢の声をしのんだ囁きや、足を引きずる音が聞こえた。ドラミンは彼の重たい頭をもたげて、畢竟丘の白人どもの心を読むことは、手で空に触ろうとするように至難だと言ったが、しかし――彼はついにジムに同意した。
他の者たちも、こもごも意見を言い合った。『それが一番だ』『彼等を行かせてやろう』などと。だが、大部分の者は、ただ『わしは、ジム様を信じている』とだけ言った。
ジムの意志へのこの単純な形の同意というところに、全状況の重要なポイントがあった。彼等の信念、彼の真実性が。そしてジム自身に、俺もついに、海の彼方の広い世界で決して落伍者になったことのない罪過なき人々と、対等になれたと感じさせる、あの信を裏切らない誠実さの証明が。
シュタインの言った『ロマンチックだ!――ロマンチックだ!』という言葉が、ジムの失敗や彼の美徳に無関心な世界にも、また深い嘆きと永遠の別離にうろたえて、彼のために泪を流すことを拒んでいるあの熱烈な、しがみついた愛情にも、いまは決して彼を引き渡さないであろう、あの遥かな天上の世界に鳴りひびいているように思われる。
ジムの最後の三年間の真実そのものの生活が、人々の無知や、恐怖や、怒りに対抗して一日一日と進められだした瞬間から、私の目には、彼はもはやあの最後に見た時のように――暗い海岸と薄暮の海に残された微かな光を一身に集中した一つの白点――とは見えず、彼を最も愛した少女にとってさえ、いつまでも残酷なそして解き得ぬ謎のままであるジムの孤独なたましいは、よりいっそう偉大な、いっそう哀れなものに見えだしたのだ。
明らかに、ジムはブラウンを疑ってはいなかった。彼を疑う理由はなかったし、彼の話が本当らしいことは、彼の粗笨《そほん》な率直さや、自らの悪業の結果と道義を受けいれる一種の男らしい誠実さが保証しているように思われた。しかしジムは、このブラウンという男が、自分の意志が抵抗に会ってくつがえされた時、目的を妨害された専制君主のような怒りと復讐心に荒れ狂う、ほとんど信じられない程のエゴイストであることは知らなかったのだ。
だが、ジムは、ブラウンを疑ったわけではないとしても、彼は、万が一何かの誤解が生じて、衝突が起き、流血の惨事が突発することを心配していたことはたしかだ。
このため、マレーの酋長たちが帰ってしまうとすぐ、ジムはジュエルに、これから砦を出て、町で指揮をとらねばならぬから、何か食べ物を持ってきてくれとたのんだ。ジュエルは、彼が疲れていたのでこれに反対すると、彼は万一何事かが起きたら、自分はいつまでも自責の念に苦しむことになるだろうと言った。
『おれは、この土地のすべての生命にたいして責任があるんだ』とジムは言った。
彼は、最初は気分がふさいでいたが、ジュエルは大皿小皿をタム・イタムから受けとって(これはシュタインからジムに贈られた正餐用食器だった)自分で夫にお給仕した。しばらくするとジムは元気になって、彼女に、君はもう一晩砦の指揮をしてくれと言った。
『われわれの住民に危険がふりかかっている間は、僕たちは眠っちゃいられないんだよ、ね、ジュエル』
とジムは言った。そして、やがて彼は冗談のように、ジュエルは彼等全員の中でベストワンの男子だと言った。
『もし君とダイン・ウァリスが、君らのいいように処理していたら、あの丘の哀れな悪漢どもは、今日は一人も生き残っていなかったろうな』
『あの人たち、とても悪い奴なの?』
と、ジュエルはジムの椅子にもたれかかりながら訊いた。
『人間というものは、われわれよりそう大して悪くない者でも、時には悪い事をするものだよ』
ジムは、ちょっとためらってから答えた。
タム・イタムは、ご主人に従って砦の外の桟橋へ出て行った。夜空は澄んでいたが、月はなかった。そして川の中央は暗かったが、両岸とも岸辺の水には、≪ラマダン〔回教徒の断食日〕の晩≫のように、たくさんの篝火の灯りが反映《うつ》っていた。戦闘船が、静かに暗い航路の中をただよったり、また投錨したり、大きな水音を立てて動かずに浮かんでいたりした。
その晩、タム・イタムはたくさんカヌーを漕いだり、ご主人に従って歩いたりした。彼等は、火が赤々と燃えている通りを往ったり来たりし、幾つもの小人数の部隊が野外の警戒をしている郊外の奥地に行ったりした。
トゥアーン・ジムは命令を下し、皆それに服従した。最後に、彼等は、その晩ジムの身内の分遣隊が防御に配置されているラージャの矢来へ行った。老いたラージャはすでにその朝早く、彼の女たちの大部分を引き連れて、一つの支流の岸辺にあるジャングルの村近くの彼の小さい家へ逃げていた。
後に残されたカッシムは、さも勤勉に活躍していたような様子で会議に出席し、昨日の外交をなんとかうまく説明してのけようとした。彼は皆からよそよそしい態度をされたが、懸命にニコニコしつづけて、ひそかに警戒を怠らず、ジムが厳しく、今晩は自分の部下たちがラージャの防御柵に駐在すると申し出ると、カッシムはさも大喜びの様子をして見せた。会議が解散してから、カッシムが外で、戻って行くあれこれの酋長たちに近づいて、大きな、さも感動したような声で、ラージャの財産をラージャの留守に守っていただいて有り難いと、言葉をかけているのをタム・イタムは聞いた。
十時頃に、ジムの部下たちはラージャの矢来の中へ行進していった。ここは、グリークの関門をなす要地なので、ジムは、ブラウンが下を通り過ぎて行ってしまうまで、ここに居残るつもりだった。防御杭を並べた柵の外の、平らな草の多い場所に、小さい篝火《かがり》が焚かれ、タム・イタムはご主人のために小さい折りたたみ椅子をすえた。
ジムは、タム・イタムに眠るようにすすめた。タム・イタムはござを持っていって、少し離れた場所に横たわった。彼は、まだ夜が明けないうちに、重要な旅行をせねばならないことを知っていたが、眠ろうとしても眠れなかった。彼のご主人は、両手を腰に当て、うつむいて篝火の前を往きつ戻りつしていた。ジムは悲しい顔をしていた。タム・イタムは、ご主人が近づいてくる度に、眠っている振りをした。そして、自分が始終ご主人を見守っていることが、知られないようにと祈った。ついに、彼の主人は立ち止まり、横たわっている彼を見下ろして優しく言った。
『もう時間だ』
タム・イタムはすぐ起き上がって用意をした。彼の使命は、ブラウンのボートより一時間かそれ以上前に川を下っていって、川下を防衛しているダイン・ウァリスに、正式に、決定事項として、丘に立て籠った白人どもは、邪魔せずに通り抜けさせてやる事になったと伝言することだった。ジムは、この仕事は、他の誰にもたのめなかった。
出発前に、タム・イタムは、一つの形式として(というのは、実際には、タム・イタムのジムに対する立ち場は全く知れ渡っていたから)何かしるしの品をとたのんだ。『なぜなら、トゥアーン、このメッセージは重大で、貴方さまの御言葉を、私は持って行くのですから』
彼の主人は、最初に一方のポケットに手を入れ、次に別の方に入れ、最後に、彼がいつも身につけていたシュタインの銀の指環を人差指から抜き取ってタム・イタムに与えた。
タム・イタムが使命の旅に出発する時、小山の上のブラウンのキャンプは暗く、たった一つ小さい火が、白人どもの切り倒した木々の枝をすかしてチラチラ見えるだけだった。
夕方早く、ブラウンは、ジムから折りたたんだ一枚の紙を受けとっていた。それには次のようにしたためてあった。
≪君のために道を開ける。朝潮に君のボートが浮かびしだい出発しろ。君の部下によく注意させるように。クリークの両側の藪と入口の防御棚とには、武装した男がいっぱいだ。戦っても君には全く勝ち目はないが、しかし、君は流血は望まないと僕は信じる≫
ブラウンはそれを読んで、紙をずたずたに引き裂き、それを持参したコルネリアスの方を振り向いて、からかうように言った。
『さようなら、俺のすばらしき友よ』
コルネリアスは砦の中にいて、午後じゅうジムの家の周囲をこそこそ歩き回っていたのだった。それを、ジムは、コルネリアスが英語で話せ、ブラウンとは顔見知りだし、暗がりを近づいて行っても、マレー人と思われてブラウンの手下から、万一にも誤って射たれる心配はないだろうというので、手紙を届ける役に選んだのだ。
コルネリアスは、手紙を渡してからも立ち去らなかった。ブラウンは小さな焚火のそばに坐っており、他の連中はみな横になっていた。
『あんたに、いいことを教えて上げられるんだがな』
コルネリアスはむっつりしてつぶやいた。ブラウンは知らん振りをしている。
『あんたは、あの男を殺さなかった』と、コルネリアスはつづける。『それで、どんな得があったかね? 殺せば、あらゆるブギスの家から戦利品が取れた上に、ラージャから金が貰えただろう、それだのに今、あんたはなんにも無しだ』
『さっさと帰《けえ》った方がいいぜ』
ブラウンは、コルネリアスの方を見ようともせずにがみがみ言った。しかし、コルネリアスは勝手にブラウンのそばに坐り、時々彼の肘をつつきながら、ひどく早口に耳打ちしだした。
コルネリアスの話を聞いて、ブラウンは毒づきながら身を起こした。コルネリアスは、ただ川下に武装したダイン・ウァリスの一隊がいることを告げたのだった。
最初ブラウンは、自分がジムに完全に裏切られ、あざむかれたと思ったが、少し考えてみて、やはり相手に瞞す意図などはあり得ないと確信した。で彼は黙っていた。すると、しばらくしてコルネリアスは、どうでもいいような口調で、わしゃ、川を出る別の道をよく知ってるんだがね、と言った。
『そいつあ、知ってても悪くねえな』
ブラウンがきき耳を立てて言った。するとコルネリアスは、町でどういう事が起きてるかとか、会議でどういう話があったかという事を、眠っている人々に目を覚まさせないように話す時のように、ブラウンの耳に口をあてて、単調な低い声で、あれこれとゴシップをはじめた。
『じゃあ、あの男は、俺を手出しの出来ねえようにしたと思ってるんだな?』
と、ブラウンはごく低い声でぼそぼそ言う……
『そう。あの野郎は馬鹿者です。小ちぇ子供よ。あいつはここへやって来て、わっしの物を盗んじまやがった』と、コルネリアスは単調な低い声でつづける。『そしてあいつは、すべての人々に自分を信用させた。だが、もし何か事件が起きて、人々が奴を信じなくなりゃ、ふん、あいつは行き場所がねえだろう。それからね、あんたをあの川下で待ち伏せてるブギスのダインてのはね、お頭、あんたが最初ここへ来た時、あんたを狩り立てたその野郎ですぜ』
ブラウンは無頓着に、それじゃそいつのそばは避けた方がいいなと言った。すると、同じ無関心な、考えこんでいる様子でコルネリアスは、わしゃ、あんたのボートが通れる位え幅の広い、ウァリスの陣地の後を通ってる裏水路を知っているんだ、と断言した。
『だが、静かにしなきゃ駄目だぜ』と、コルネリアスは後から思いついたような言い方をする。
『なぜって、一カ所、わしらの船が、彼のキャンプのすぐ後を、やけにすぐそばを通るんでね。奴等はボートを引き上げて、岸で露営してるんです』
『ああ、おれ達ゃ、ネズミみてえに静かにする術を知ってるぜ、心配するな』
とブラウンは言った。
コルネリアスは、では、もしわしが、ブラウンの船をその裏水路へ案内していくとなれば、わしのカヌーも引いていってくれるな、と条件をつけた。『わしゃ、早く町へ戻らにゃまずいんでね』と彼は説明した。
夜明け二時間前に、外部の見張りから、ラージャの矢来内に、白人の盗賊どもが彼等のボートのところに降りて行くという報せが入った。それからごく短時間のうちに、パトゥーサンの果てから果てまて、あらゆる武装した男は警戒態勢に入った。が、しかし川の両岸は依然として静まり返っており、時々パッとほのおを大きくして燃え上がっている数々の篝火がなかったら、町はさも平和な時のように眠っていると見えただろう。
濃霧が川の上に低く垂れこめて、何物も見えない一種の灰色の光が立ち籠めているような錯覚を起こさせた。ブラウンの長いボートがクリークから川へと滑り出た時、ジムは、ラージャの矢来の前方の低い地面の先端に立っていた――ここは、彼がパトゥーサンの岸に初めて足をかけたあの地点だった。
一つの影がぼんやり現われ、灰色の靄の中で、たった一つ、ひどく大きく、それでいて絶えず人の目に見えがくれしながら動いている。その影の中から、低い話し声がぼそぼそ聞こえてきた。
舵柄を握ったブラウンの耳に、ジムが静かに言うのが聞こえた。
『道を開けた。邪魔は何もない。霧のある間は、君は潮流のままにまかせるほうがいいだろう。だが、間もなく霧は上がるだろう』
『そうだ、間もなく、何もかもハッキリするだろう』とブラウンが答えた。
矢来の外にマスケット銃を持って立っていた三、四十人の男たちはハッと息が止まった。私がシュタインのベランダで見たブギスの貿易船の持ち主も、この連中の中にまじっていたが、ブラウンのボートは、ジムの立っている低い突端にすれすれに通って行き、その一瞬、山のように大きくなり、その地点におおいかぶさるように見えたと私に話した。
『もし君が、一日沖で待っている気があるなら』と、ジムが呼びかけた。『僕が、君たちに何か送らせよう――去勢牛と山いもと――その他僕に出来る品を』
影はどんどん動きつづけた。
『ああ。そうしてくれ』
と、霧の中から単調な含み声が聞こえた。じっと耳をそば立てていた大勢の聴き手には、その言葉がなんの意味か誰にも判らなかった。そして、やがて舟に乗ったブラウンと彼の手下どもは、なんの音も立てず、幽霊船のように向こうに消えていった。
こうしてブラウンは、霧の中で誰にも見られずに、長いボートの艇尾座に、コルネリアスと肘と肘をくっつけ合って坐ったまま、パトゥーサンから出て行った。
『たぶん、あんたは、小さい去勢牛をもらうんだろうって』とコルネリアスが言った。『ああ、そうさ。去勢牛。山いも。もしあの男がそう言ったのなら、たしかに手に入るだろうさ。あいつはいつも真実を語ったからな。あの野郎は、わしの物をなんもかも盗んじまやがった。たぶんあんたは、たくさんの家々から戦利品を奪うより、小ちぇ去勢牛の方が好きに違えねえ』
『おい、黙らねえか、でねえと、ここの誰かが、てめえをこの忌々しい霧ん中へ放り込むかも知れねえぞ』
とブラウンが言った。
ボートは立往生の様子だった。何一つ、舷側をたたく水さえ見えず、ただ水けむりだけが飛び、したたり、かたまって彼等の髯《ひげ》や顔からポタポタ落ちた。
全く異様で、不気味だったとブラウンは私に話した。誰もみな各自が、さながら一人ぼっちでボートに乗って漂流しているような感じになり、幽霊どもがため息をついたり、低くつぶやいたりしながら、あたりをさ迷っているような気がした。
『放り込みゃいいだろう、え? だが、わしゃちゃんと、ここが何処かぐれえは知ってますぜ』とコルネリアスが不機嫌につぶやいた。『わしゃ、長年ここに住んでたんでな』
『この霧を透かして見えるほど、長くは居めえ』
ブラウンは、役に立たない舵柄の上で片腕を振り回しながら、後にだらりと寄りかかって言った。
『そうだよ。その位え長くいたとも』
と、コルネリアスはつっけんどんに唸った。
『そいつは、便利だな』と、ブラウンが言った。『それじゃ、おめえが言ったあの裏水路を、こういう風に目隠しでも探せると言うのか?』
コルネリアスはぶうぶう唸った。そしてしばらく黙っていて、
『あんた、疲れて漕げねえのか?』と訊いた。
『べらぼうな!』
ブラウンは、だしぬけに大声で叫んだ。『オールを出せ』
霧の中で大きなぶつかり合う音がしたが、しばらくすると、それは、見えない櫂栓《かいせん》に、見えないオールの軋る、規則的な音に変わった。その他には、何の変化もなく、水中に突っ込んだ櫂の水かきがかすかに水をはねかす音さえ無かったら、まるで軽気球に乗って雲の中を漕いでいるようだった、とブラウンは言った。
その後は、コルネリアスは口を閉じたきりで、やがて震え声で、誰かに、長いボートの後に曳いてきた彼のカヌーから水をかい出してくれとたのんだだけだった。
霧はしだいに白んで、前方が明るくなってきた。左手に、ブラウンは、さながら立ち去っていく夜の後姿のような黒々としたものを見た。突如、鬱蒼と葉の茂った大枝が彼の頭上に現われ、無数の小枝の先が静かに水をたらしながら、舷《ふなばた》すれすれにきゃしゃな曲線をえがいていた。コルネリアスは一言も言わずに、だまってブラウンの手から舵柄を取った」
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第四十四章
「二人は、二度とふたたび話し合わなかったと思う。ボートは、狭い、傍《わき》水路に入っていき、オールの水かきをぼろぼろに崩れた土手の中に突っこんで船を押し進めていく。あたりは、その深淵から木のいただきまで一ぱいに立ち籠めた霧の上に、さながら巨大な黒いつばさが広がっているような暗さだった。
頭上の枝々から、薄暗い霧を通してザーッと大つぶの水滴が降ってくる。コルネリアスが何かぶつぶつ言うと、ブラウンは部下たちに銃に弾丸をこめろと命じた。
『くたばる前に、貴様らに仇を討つチャンスをやるぞ、この陰気なイザリどもめ!』とブラウンは、彼のギャング達に言った。『いいか、せっかくの機会を逃がすんじゃねえぞ――この犬ども』
低いうなり声がその言葉に答えた。
コルネリアスは、自分のカヌーがちゃんとしてるかどうか、しきりに気をもみだした。
一方、タム・イタムは、その頃旅の目的地に着いていた。霧のため少し遅れたが、彼は南岸の堤から離れないようにしながら着々と漕ぎ進んだ。やがて、太陽がすりガラスの球の中の火のように燃え出した。川の両側に岸が黒いしみのように現われ、その中にいくつか、円柱のような形や、高い所に曲がりくねった枝の影らしいものが見えた。川の上はまだ霧が濃かったが、しかし厳重に見張りがついていて、タム・イタムがキャンプに近づくと、二人の男が白い霧の中から現われ、彼に荒々しく声をかけた。
タム・イタムが答えると、間もなく一隻のカヌーが、彼の舷側にやってき、彼はその漕ぎ手たちとニュースを交換し合った。万事オーケーだ。苦難は去った。カヌーの男たちは、タム・イタムのカヌーの側面を掴んでいた手を放し、すぐ見えなくなった。
タム・イタムはなお進んでいくと、大勢の人声が静かに水の上を伝って聞こえてき、いまや渦を巻いて晴れ上がっていく霧の下に、数多の小さい焚火が、背の高い細い立木や藪を背にして、砂原に燃えている。
ここにも見張りが置いてあり、彼は呼び止められた。彼はサッと最後の強い二漕ぎでカヌーを川岸につけながら、自分の名を叫んだ。大きなキャンプだった。男たちが大勢そちこちにかたまってしゃがみ、低い声で、早朝の会話をささやき合っている。たくさんの細いけむりが、ゆっくり白い霧の上に渦巻いている。地面の高い所に、幾つかの小さい宿泊所が酋長たちのために建ててある。マスケット銃が小さいピラミッド形に積み重ねてあり、長い槍が、火の近くの砂の中に一本ずつ突き刺してある。
タム・イタムは、豪そうな態度でダイン・ウァリスの所へ案内しろと言った。彼の白人の主人の親友は、木の枝を組んだ上をござでおおった一種の小屋掛けの中で、一段と高い竹でつくった寝椅子に横たわっていた。
ダイン・ウァリスは目を覚ましており、お粗末な神社に似ている彼の寝所の前には、焚火があかあかと燃えていた。首長《ナホーダ》ドラミンの一人息子は、タム・イタムの挨拶に親切に答えた。彼はまず、メッセンジャーの言葉が真実である証明に、あの指環をダイン・ウァリスに手渡した。ダイン・ウァリスは肘の上によりかかりながら、さあ言え、そしてニュースを全部話してくれと言った。タム・イタムは、尊敬されている昔ながらの形式にならって言いはじめた。
『ニュースはいいニュースです』
そしてタム・イタムは、ジム自身の言葉を伝えた――丘の白人どもは、酋長たち全部の承認を得て立退きつつあり、川下を通過することを許されたと。ダイン・ウァリスが一、二の質問をすると、タム・イタムは、昨日の会議の議事を報告した。ダイン・ウァリスは、手渡された指環をすぐ右手の人差指にはめて、それをいじりながら、終わりまでじっと注意ぶかく聴いていた。
必要なことを全部聞き終わると、彼はタム・イタムに食事と休息をとるようにと退かせた。そして直ぐ、警備隊に、午後引揚げるための命令が発せられた。
そのあと、ダイン・ウァリスは目を開いたままふたたび横になった。一方彼の従者たちは、火のそばで彼の食事の用意をしており、そのそばにタム・イタムも坐って、町の最近のニュースを聞きにぶらぶら集まってきた連中に話をしていた。霧は、太陽に食《は》みつくされようとしていた。
いまにも白人どものボートが現われるだろうと予期されている主流の展望のきく流域には、優秀な見張りが置きつづけられた。
この時ブラウンは、二十年間世界を軽蔑して渡り、不敵な悪虐非道の末に、世間並みな盗人の成功を彼に与えることを拒んだ世界に、最後の復讐をしたのだった。それは冷酷無慈悲な残虐行為で、彼は臨終に、不屈の挑戦の思い出のようにそれを思い出して自らを慰めていた。
ブラウンは、彼の手下どもを、ブギス人たちの陣営と背中合わせになる島の、同こう岸にひそかに上陸させ、それから島を横切らせた。
上陸の瞬間にこっそり逃げ出そうとしたコルネリアスは、ちょっとの間、全く無言で逃げようとつかみ合ったが、すぐ諦めて、下草がまばらな場所へ案内していくことになった。ブラウンは、コルネリアスの骨と皮ばかりの両手を後手に回して一緒くたにブラウンの大きなこぶしの中に一握りにし、時々乱暴に前へ突きとばして、彼を前進させた。
コルネリアスは魚のようにおし黙って、卑劣に、しかし、いまや前方にぼんやり大きく見えてきた己の大願成就を前にして、彼はあくまで忠実にその目的を追いつづけた。
小さい森のはずれで、ブラウンのギャングどもは各自分散し、身を隠して待機した。ダイン・ウァリスの陣地は、彼等の眼前に端から端までハッキリ見通せ、しかも向こうは誰一人、こちらに気付く者はいない。ブギスの誰一人として、丘の白人たちが、島の裏側にある狭い水路を知っていようとは夢にも考えなかった。
ブラウンは、時期到来とばかりに、
『やっちまえッ!』
と叫んだ。
十四発が一斉に鳴りひびいた。
タム・イタムは私に、驚きがあまりにひどかったので、死んだり負傷したりして倒れた者のほかは、最初の発砲のあと、しばらくの間は、誰一人身動きする者もなかったと語った。やがて一人の男が悲鳴を上げ、その悲鳴につづいて、すべての人の口々からものすごい狼狽と恐怖の叫び声が上がった。
無茶苦茶な恐怖にかられて、人々は、洪水を恐れた家畜の群のように、海岸づたいにあちこち走りまわり、わき立ち、殺到して逃げまどった。その時数人の者は川に飛びこんだが、大多数は、最後の発砲が終わってからやっとそうした。
三回、ブラウンの一味は人群れをめがけて発砲し、ブラウンだけが姿を見せて、毒づいたり叫んだりした。
『低くねらえ! 低くねらえ!』
タム・イタムは、最初の一斉射撃で、何が起きたかを悟ったと言った。彼は無傷だったが、地面に倒れて、まるで死んだように、しかし目は開けて横たわっていた。
最初の発砲の音で、寝椅子に横になっていたダイン・ウァリスは飛び起き、さえぎるもののないむきだしの海岸に走り出た。ちょうどその瞬間、第二回目の発砲で、弾丸を前額部に受けた。タム・イタムは、ダイン・ウァリスがサッと両腕を大きく振り上げて倒れるのを見た。
そのとたんに、非常な恐怖が彼を襲った――その前にはなかった恐怖が……と、タム・イタムは言っている。白人どもは、来た時と同じように退散した――姿も見せずに。
こうして、ブラウンは彼の不運の恨みを晴らしたのだった。この恐ろしい暴動の最中でさえ、彼は正義を貫いている人間のような優越感を――彼の通俗的な欲望の包みの中に、この正義という抽象的なものを持っていたことに注意したまえ。これは粗暴な、裏切りの大虐殺ではないのだ。これは教訓、懲罰だと。――これは、われわれ人間性の、曖昧な、恐るべき属性の一証左で、われわれが考えるほど、ひどく遥かな奥深くにひそんでいるものではないようだ。
そのあと、タム・イタムの目にもとまらずに白人たちは引揚げてしまい、人々の眼前から全くかき消すように消え去り、スクーナー船もまた、いわば品物が盗まれた時のように、いつとなしに消え失せていた。
しかし、それから一カ月後に、一隻の白い長いボートが、インド洋で貨物船に拾われたという話である。白いボートには、虫の息の、二人の焼け乾き切った、黄色い、どんよりした目の骸骨のような男と、いま一人、俺の名はブラウンだと宣言した権威者らしい男とが横たわっていた。彼のスクーナー船は、ジャワの砂糖を積んで南に行く途中、ひどい水漏りがはじまり、たちまち沈んでしまったとブラウンは報告した。その時残った六人の船員のうち、ブラウンと二人の子分だけが生き残っていたのだ。が、その二人は、彼等を救った貨物船の中で死んだ。ブラウンは生きのびて私に会ったので、彼は最後の幕切れまでその役割を演じていたわけだ。
だが、どうやらこの連中は、島を立ち去る時に、コルネリアスのカヌーを解き放すのを怠ったらしい。コルネリアス自身は、ブラウンが、射撃の皮切りに、お別れの祝儀代りにポンと一蹴りしてつき放した。
タム・イタムは、やがて死人たちの中から起き上がり、あのナザレ人〔異教徒、コルネリアスの意〕が海岸の死体や消えかかった焚火の間を右往左往して走り回っているのを見た。
彼は小さな叫び声を上げた。そして、いきなり水ぎわに走っていき、死物狂いでブギスのボートの一つを川の中に入れようとした。『それから、彼は私の姿を見るまで』と、タム・イタムは私に話した。『立って頭をひっかきながら、重たいカヌーを見つめて、立っていました』
『で、コルネリアスはそれからどうなった?』
と私は訊いた。
タム・イタムは、じっと私を見ながら、彼の右腕を意味深長に動かして、
『二回、私が突き刺しました、トゥアーン』と言った。『あいつは、私が近づいていくのを見ると、いきなり気違いのように地面に身を投げ出し、足でバタバタ蹴りながら大声で泣き叫びました。あいつは、剣の切先きを感じるまで、怯えた雌鶏《めんどり》のようにギャーギャー悲鳴を上げました。そのあとは静まって、倒れたまま私をじっと睨んでいましたが、みるみる奴の目からは生気が失せていきました』
それがすむと、タム・イタムはぐずぐずしていなかった。彼は、この恐ろしい報せを砦に誰よりも早く持っていくことの重要さを悟っていた。
もちろん、ダイン・ウァリスの部隊には大勢生存者が残っていたが、しかし極度の驚愕に、ある者は川を泳いで向こう岸に逃げ、他の者は藪の中に逃亡した。事実、彼等はいったいあの発砲は誰の仕業か――またもっと大勢白人の盗賊がやってくるのか、それとも白人どもは、すでにパトゥーサン全土を占領してしまったのかどうかも、本当には判っていなかった。
彼等は、大がかりな裏切りの犠牲者で、とことんまで滅亡する運命に陥ちたのだと想像していた。幾群かの者は、それから三日後まで出てこなかったという話だ。
それでも数人は、すぐパトゥーサンへ戻ろうとしたし、そしてまたあの朝川をパトロールしていたカヌーの中の一隻は、襲撃の瞬間に、キャンプの見えるところにいた。最初、そのカヌーに乗っていた男たちは、川に飛びこんで反対の岸に泳いでいったことはいったが、しかし後から彼等はまたカヌーに戻り、こわごわ上流に向かって出発した。この連中より、タム・イタムは一時間早く到着した」
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第四十五章
「タム・イタムが狂気のように櫓《ろ》を漕いで町の見えるところまでやって来た時、女たちは家々の前の高台に群がり集まって、ダイン・ウァリスの小艦隊の戻るのを待ちうけていた。
町はお祭り気分だったが、そちこちには、まだ槍や銃を手に持った男たちの姿が歩き回ったり、群をなして海岸に立っているのが見えた。支那人の各商店は、早くから店を開いていたが、しかし、市場は空で、とりでの一角にまだ立っていた歩哨が、タム・イタムの姿を見つけて、中の人々に大声で知らせた。
門が大きく開いた。タム・イタムは岸に飛び下りると、まっしぐらに中へ駈けこんだ。最初に出会ったのは、家からやってきたジュエルだった。
タム・イタムは取り乱し、息を切らし、唇を震わせ、すさまじい目をして、まるで突然魔術にでもかかったように、しばらくの間、彼女の前に棒立ちになっていた。が、それから急に、ひどく早口に言いだした。
『あいつらは、ダイン・ウァリスと他の大勢を殺しました』
少女は両手を強く握りしめた。そして最初の言葉は『門をお閉め』であった。
とりでの守備隊は大方自分の家へ戻っていたが、タム・イタムは、当番で残っていた数人を各自の家に急き立てた。少女は、他の者たちが走り回っている間、庭のまん中に立っていた。そして、タム・イタムがそばを通ると、
『ドラミン』と絶望的に叫んだ。
彼はその次に通る時、彼女の考えにたいして、口早に答えた。
『そうです。でも、私たちは、パトゥーサンじゅうの火薬を持っています』
ジュエルは、タム・イタムの腕をつかんで家を指さし、
『彼を呼び出して』と震えながらささやいた。
タム・イタムは階段を駈け登った。彼の主人は眠っていた。
『私です、タム・イタムです』と、彼はドアの前で叫んだ。『急ぎの報せです』
ジムが枕の上で寝返りを打ち、目を開けるのを見て、タム・イタムはすぐ言い出した。『ご主人様、今日は悪日です、呪いの日です』
彼の主人は肘杖をついて起き上がり、耳をそばだてた――ちょうどダイン・ウァリスがしたように。タム・イタムはすぐ話し出した。秩序立てて話そうと努めながら、ダイン・ウァリスをパングリマ〔マレー語、戦いの指揮者の意〕と呼びながら言った。
『パングリマは、それから彼ご自身のボート長に声をかけられました≪タム・イタムに何か食べ物を上げろ≫』――
すると彼の主人は、床に足をおろして、ひどく不安そうな顔でタム・イタムの顔を見たので、彼は言葉が喉につまってしまった。
『言え』とジムは言った。『彼は死んだのか?』
『あなた様は、お生命《いのち》長いように!』と、タム・イタムは叫んだ。
『全く、この上もない残酷な裏切りでした。指揮官《パングリマ》は最初の一斉射撃で外に走り出られ、そして倒れ……』
彼の主人は窓のそばへ歩いて行き、握りこぶしで雨戸を打ちたたいた。雨戸が上がって、部屋が明るくなった。すると彼の主人はしっかりした声で、しかし口早に、彼に、すぐ追撃のため船隊を召集しろと命令し、この男のところ、あの男のところへ行け――使者たちを派遣しろと言った。そして言いながらベッドの上に腰をかけ、前かがみになって急いで靴の紐をむすび、それから突然顔を上げた。
『なぜ、お前はここに立っているんだ?』彼は真っ赤になって訊いた。『ぐずぐずするな』
しかし、タム・イタムは動かなかった。
『お赦し下さい、トゥアーン、でも……でも』
彼は口ごもった。
『なんだ?』
彼の主人は恐ろしい顔をして、両手でギュッとベッドの端を掴み、前にのりだして大声で叫んだ。
『あなたのしもべが、人々の中に出て行くことは、危険であります』
と、タム・イタムは一寸ためらってから言った。
ジムはやっと理解した。彼は、かつて衝動的に船から一つジャンプしたという小さい事のために一つの世界から退却し、そして、いまや彼自身の手で築いたもう一つの世界は、彼の頭上にこなごなに崩れ落ちてきたのだった。彼の従者が、彼自身の住民の中に出て行くことが危険だ!
その瞬間に、ジムは、彼の心に思い浮かんだこんな災禍に挑戦できる唯一の方法で、この災禍に挑戦する覚悟をきめたのだと私は信じる。しかし、私の聞いた話は次のようだ――彼は一言も言わずに自分の部屋を出て、あの長いテーブルの上座に坐った。ここは、彼がいつも彼の世界の問題を調整し、毎日、彼の心に確実に生きている真理を宣言してきた場所である、彼は、闇の力に、もう二度とふたたび彼のたましいの平和を奪われてはならないのだ。彼は、石像のように坐っていた。
タム・イタムはうやうやしく、防御の準備をほのめかした。ジムの愛した少女が入ってきて彼に話しかけたが、彼は手でそれを制した。少女は、その手に籠る強い無言の力に畏れをなした。彼女はベランダに出て、さながら身をもって外の危険から彼を護ろうとするかのように、敷居の上に腰かけた。
どんな思想が、彼の頭を通り抜けていったのだろう――どんな思い出が? 誰がそれを知ろう? 何もかも去ってしまい、かつて一度世間の信頼を裏切った彼は、いまやふたたび、すべての人々の信望を失ったのだった。
その時、彼は何か書こうとした――誰かに宛てて――そして、断念したのだと私は思う。
孤独が彼にせまってきた。かつて人々は生命《いのち》をかけて彼を信頼した――ただ彼等自身の生命を救うために。だが、彼等は、いつかジムの言ったように、決して彼を理解することは出来なかった。
部屋の外にいる者には、なんの音も聞こえなかった。ジムは音一つ立てなかった。やがて、夕暮れが近づくと、彼はドアのそばへ来て、タム・イタムを呼んだ。
『どうだね?』とジムは訊いた。
『みんな、大へん泣いています。大へん怒ってもいます』
と、タム・イタムは言った。ジムは彼を見上げて、
『お前は判っているな』とつぶやいた。
『はい、トゥアーン。貴方のしもべは判っております。そして門は閉じてあります。私たちは戦わねばならないでしょう』
『戦う! 何のために?』と、ジムは訊いた。
『私たちの生命のためです』
『俺には生命はない』
と、ジムは言った。ドアのそばの少女が一声叫んだのをタム・イタムは聞いた。
『それが誰に判りましょう?』と、タム・イタムは言った。『勇気と知恵で、私たちは脱出することも出来るでしょう。人々の心には、ひどい恐怖もあります』
タム・イタムは、ジムと少女を一緒に後に残して、漠然とボートや公海のことを考えながら外へ出た。ジュエルがそこで、彼女の幸福を奪われまいとしてジムと必死で争った一時間かそこらのことについて、私は、彼女からとぎれとぎれに聞いたことを、ここに書くだけの勇気はない。
ジムには何か希望があったかどうか――何を彼は期待したか、何を彼は想像したか――それは私には言えない。彼は断固としてゆるがず、そして彼の一徹なたましいは、孤高がいやましてくるにつれて、彼の崩れ去った生活の廃墟の上に、立ち上がっていったように思われる。
少女は『逃げて!』と彼の耳に叫んだ。彼女には理解できなかった。ジムには戦い取る目標がなかった。彼は、その力を別な方法で証明し、致命的な運命そのものを征服しようとしていたのだ。
ジムは庭へ出た。そしてその後から、ジュエルは長い髪の毛をふり乱し、物狂おしい形相で、息を切らせ、よろめきながら外に出てきて、戸口によりかかった。
『門を開け』
と、ジムは命じた。それから、とりでの中にいた彼の身内の者たちの方を向いて、各自の家へ戻るようにいとまを出した。
『いつまででございますか、トゥアーン?』
一人がおずおずと訊いた。
『一生涯だ』
とジムは暗い口調で言った。
悲しみの世界の扉が開いてそこから吹いてきた一陣の風のように、川べり一帯をおそった泣き叫ぶ悲嘆の嵐が通りすぎると、町はしんと静まり返った。しかし、ひそひそと種々様々の風説が乱れ飛び、人々の心ははげしい驚愕と恐ろしい疑惑で一ぱいだった。あの盗賊どもは、やがてもっと大勢を連れて、巨大な船に乗って戻って来る、そしてもう誰一人逃れることは出来ないだろう……大地震の時に人々の頭にみなぎるようなどうしようもない不安の気持で、彼等は恐ろしい疑惑を囁き合い、何かものすごい不吉な前兆を目の前にしたように、互いに顔を見合わせた。
太陽が森に沈みかけた時、ダイン・ウァリスの死体がドラミンの村落《カンポン》に運ばれてきた。四人の男がそれを担い、息子の戻りを門まで出迎えた老いた母親の送った白布で、きれいにおおってあった。彼等がダイン・ウァリスをドラミンの脚下に置くと、老人は両手を膝にして静かに坐ったまま、長いことじっと見つめていた。
ヤシの葉がやさしく揺れ、果樹の小さい葉が彼の頭上でさやさやと動いた。ドラミンの一族は一人残らず武装をととのえてそこに来ており、やがて老|首長《ナホーダ》は目を上げた。彼はその目を、さも、そこに見えない息子の顔を探してでもいるように、おもむろに群集の方に動かした。そしてふたたび、おとがいを胸にうずめた。大勢のささやき声が、かすかな葉ずれの音とまじり合った。
タム・イタムと少女をサマラングに連れてきたあのマレイ人もそこに居合わせた。
『私は、他の大勢ほどは怒っていませんでした』
と、マレイ人は私に言った。だが彼は『頭上に垂れこめた雷雲のような人間の突発的運命』に、ただただ畏れおののき、愕きに打ちのめされていた。
マレイ人は私に話した。ドラミンの合図でダイン・ウァリスの死体から白布がとりのけられると、人々がよく≪白人の御主人様の親友≫と呼んだ若い彼が、まるでいま目覚めようとするかのように、まぶたを半開きにして少しも変わらない姿を現わしていた。
ドラミンは、何か地面に落としたものを探しているかのように、少し前かがみになった。彼の目が、たぶん傷でも探すのだろう、死体を頭のてっぺんから足の先までさぐるようにじっと見つめた。傷は、額で、小さかった。みんなが黙々として静まり返っている中で、そばに立っていた一人が、かがんで、ダイン・ウァリスの硬直した手から銀の指環を抜きとった。そして黙ってそれをドラミンの前に差し出した。
その見慣れたしるしを見て、狼狽と恐怖のつぶやき声が群集の中を走った。老酋長はじっとその指環を見つめていたが、とつぜん、胸の奥深くから、一声、傷ついた牡牛の咆哮のように力強い、苦痛と憤怒のすさまじい叫びを上げた。その言葉はなくともありありと判る彼のはげしい怒りと悲しみの怒号は、人々の心に非常な恐怖を湧き起こさせた。
そのあと、しばらく異常な静けさがあたりを包み、死体は四人の男に担われて少し離れた所に運ばれた。彼等がそれを一本の木の下に置いたとたんに、一声長い叫び声を立てて、家中の女達が一斉に泣きだした。彼女たちは甲高い泣き声を立てて嘆き悲しんだ。夕陽は沈み、女たちの悲しい慟哭《どうこく》の絶えま絶えまに、二人の老人が、高い唱うような声で、コーランを詠唱するのが聞こえた。
この頃、ジムは、砲架の上によりかかって川を眺め、家の方に背中を向けていた。少女は戸口で、さも走ってきて行き詰まりにぶつかったように喘ぎながら、庭をへだてて彼を見ていた。タム・イタムは、主人からあまり遠くない所に立って、じっと何事か起きるのを待っていた。とつぜん、静かに物想いにふけっていた様子のジムが彼の方を向いて言った。
『けりをつける時がきた』
『ご主人様、なんでございます?』
タム・イタムは敏捷に前へ進み出て訊いた。彼には主人の言った意味が判らなかったが、ジムが動き出すや否や、少女もまた動き出して、庭に下りていった。他の誰の姿も目に入らないようだった。
少女はかすかによろめき、中ほどまでくるとジムを呼んだ。彼はまた静かに川の面を眺めている様子だったが、大砲に背をもたせて振りかえった。
『あなた、戦うでしょう?』と彼女が叫んだ。
『戦わねばならない訳は何もない。何も失ってはいない』
とジムは言い、そう言いながら一歩彼女の方へ進んだ。
『あなた、逃げて下さる?』少女はまた叫んだ。
『逃げることはできない』
ジムはそう言って急に立ち止まった。彼女もまた立ち止まり、黙って、むさぼるようにじっと彼を見つめた。
『それで、あなたは出て行くの?』
と、彼女はゆっくり言った。ジムはうなずいた。
『ああ!』
彼女は心を覗き込もうとするようにじっと彼を見つめながら叫んだ。
『あなたは気違いか、でなきゃ嘘つきだわ。あなたはあの晩を覚えてるでしょう? あの晩、私があなたに、私を置いて行って下さいってお願いしたら、あなたは、決してそんな事は出来ないって言ったでしょう? そんなことは不可能だって! 不可能だって! あなた覚えてらっしゃるでしょう、決して私を置いて行かないって言ったのを? なぜなの? わたし、あの時あなたに、約束してくれってたのまなかったわ。あなたは、たのまないのに約束なさったわ――覚えてらっしゃるでしょう』
『もういい。可哀そうなジュエルよ』と彼は言った。『俺は、お前が持っていても値打ちのないものだ』
タム・イタムの言うには、両人が話し合っている間も、ジュエルは魔につかれたように、大声で、痴呆のように笑っていたそうだ。彼の主人は、両手で頭をかかえた。彼はいつものようにキチンと盛装していたが、帽子はかぶっていなかった。
とつぜん、ピタリと少女の笑い声が止まった。
『最後に、もう一度訊くわ』と、彼女は威嚇するように叫んだ。『あなた、ご自分の身を防御なさる?』
『何ものも、俺に指一本触れることは出来ないのだ』
と、ジムは、荘厳なエゴイズムの最後の火花の中で言った。
少女は両腕をひろげ、前にのめるように彼に走り寄った。そして彼の胸に身を投げかけ、彼の頚を抱きしめた。
『ああ! でも、あたしは、あなたをこうして抱いて放さない』と彼女は泣いた……『あなたは、あたしのものよ!』
ジュエルは彼の肩の上でむせび泣いた。
パトゥーサンの空は血のように真っ赤で、無限に広く、切り開かれた血管のようにあかあかと流れていた。巨大な太陽が、木々の梢に真紅の姿をすり寄せ、その下の森林は、黒々と不気味に見えた。
タム・イタムは私に、あの夕方は、天が怒り、恐ろしい形相をしていたと話した。私には充分信じられた。パトゥーサンのあたりは、ほとんどものうい風が動いた位だったが、ちょうどあの時、六十マイルとはなれない沿岸を、たつまきが通過したことを私は知っているからだ。
とつぜん、タム・イタムは、ジムが彼女の腕をふりほどこうとしているのを見た。少女は、頭を後にのけぞらせて必死で放すまいとする。彼女のふさふさとした髪の毛が地面に引きずった。
『来てくれ!』
主人に呼ばれて、タム・イタムは、ジュエルの手をほどく手伝いをした。彼女の指をふりほどくのは大へんだった。
ジムは彼女の上に体をかがめてじっと真剣に彼女の顔を見つめ、それからいきなり船着場へ走り出した。タム・イタムはその後を追って駈け出し、駈けながら後を振り返ると、少女がもがきながらやっと立ち上がるのが見えた。
ジュエルは数歩追いかけて走り、それから重たく、へなへなとくず折れてしまった。
『トゥアーン! トゥアーン!』と、タム・イタムはジムを呼んだ。『後を見て下さい』
しかし、すでにジムはカヌーに飛び乗り、櫂《かい》をにぎって立っていた。彼はうしろを振り向かなかった。タム・イタムは、カヌーが桟橋をはなれるとき、やっと後から這いあがった。
少女はその時、両手を強く握りしめて水門のところに跪いていた。そしてしばらく嘆願するような姿勢でいたが、やがてサッと立ち上がり、
『あなたの嘘つき!』と、ジムの後から絶叫した。
『赦しておくれ』とジムが叫んだ。
『絶対に、いやよ! いやよ!』と彼女は叫び返した。
タム・イタムは、ジムの手から櫂《かい》を取った。自分が坐っていて、ご主人が漕ぐのは、どうも不都合なので。船が向こう岸に着くと、彼の主人は、タム・イタムにもうこれ以上来るなと命じた。が、彼は遠くから、ジムに従いて行き、ドラミンの村落《カンポン》への坂を登っていった。
あたりは暗くなりはじめていた。そちこちに松明が光っている。道で出会った人々は、みな愕然として、急いでわきへよけてジムに道を譲った。上手の方から女達の泣き叫ぶ声が聞こえてきた。ドラミンの庭は、従者をつれた武装のブギス人と、パトゥーサン人で一ぱいだった。
この集会は、本当はなんの為だったか私は知らない。これは戦争の用意だったか、それとも復讐か、それとも、彼等を脅した侵略者に反撃を加えるためだったのか? 人々は、それからも長い間、あの長い髯を生やして、ぼろを着た白人どもの戻ってくる恐怖におののいて、見張りをつづけていた。彼等は、あの呪わしい、汚ない白人どもと、彼等自身の主人の白人との正確な関係は、ついに理解できなかった。これらの単純な頭にとってさえ、哀れなジムは、いつまでも疑惑の雲に光をさえぎられた人物であった。
ドラミンだけは、一対の燧発《すいはつ》拳銃を膝に、巨大に、わびしく、武装した群集と向かいあって、彼の肘掛椅子に坐っていた。ジムが現われると、誰かの叫び声ですべての頭は一斉にそちらを振り向き、次の瞬間、大衆は左右に道を開いてあけ、ジムは、目をそむけた人垣の中を歩いて行った。彼の後にささやき声やつぶやき声がつづいた。――≪彼があらゆる災いを仕組んだんだ≫≪彼はまじない師だ≫……ジムはそれらを聞いた――たぶん!
ジムが松明の明りの中に入っていくと、女達の泣き叫ぶ声がパッタリ止んだ。ドラミンは頭を上げない。ジムは、黙って彼の前にしばらく立っていた。
やがてジムは左手を見、整った歩調でそちらへ進んでいった。ダイン・ウァリスの母親が死体の枕下にうずくまっており、乱れた灰色の髪の毛が、彼女の顔をかくしていた。ジムはゆっくり歩いて行き、白布をもたげて彼の死んだ友人を見、それから一言も言わずに布を下に落とした。そしてゆっくり、前の場所へ戻っていった。
『彼が来た! 彼が来た!』
と口から口にささやきが伝わり、彼の動いていくところにつぶやきが流れてきた。
『彼は、彼自身の首にかけて誓った』
と、一つの声がハッキリ言った。ジムはそれを聞くと、群集の方を振り向いた。
『そうだ、俺の首にかけてだ』
数人がたじたじと後ずさりした。
ジムは、しばらくドラミンの前で待ち、それから優しく言った。
『私は、悲しんでやってきた』彼はふたたび待った。『私は覚悟して、武装せずにやって来た』と、ジムは繰り返した。
肥った重たい老人は、くびきにつながれた牡牛のように、その大きな額を下にさげ、膝の上の燧発拳銃をつかんで懸命に立ち上がろうとした。ドラミンの喉から、ゴロゴロと息詰まるような、残酷な音が出た。彼の二人の従者が後からその巨躯を支え起こした。
ドラミンの膝の上に置いてあった指環がころげ落ちて、白人の脚にぶつかり、そして哀れなジムは、夕陽をあびて夜の砦のように見えるこの海岸線の中で、白い波でふちどられたこの森林の壁の中で、かつて彼のために名声と、恋と、成功の扉を開いたその護符をチラリと見下ろした。
ドラミンはよろめく足を踏みしめようと懸命にがんばり、彼を支えている二人の介添もろともぐらぐら揺れ動いた。彼はその小さい目に物狂おしい苦痛と怒りの表情をうかべ、側に立った者をぞっとさせる獰猛な光にギラギラ目を光らせてジムを睨んだ。ジムは松明の光を浴びて、無帽で、身をこわばらせて立ち、まっすぐ正面からドラミンの顔を見つめた。ドラミンは、腰をかがめた介添の若者の首に重たく左腕でつかまりながら、ゆっくり右手をもたげ、彼の息子の親友の胸を射ち抜いた。
ドラミンが右手をもたげたとたんに、サッとジムの後から飛び退いていた群集は、発射と同時に、騒然となだれを打って、ジムのまわりに走りよった。
人々は、白人が、誇らしげな、断固としたひるまない視線を左右に投げて、それらすべての者の顔を見たと言っている。そして次の瞬間、彼は片手で口をおおい、前に倒れて死んだ。
これで終わりである。彼は疑惑の雲の下で、その心は人々に不可解のまま、忘れられ、赦されず、そしてかぎりなくロマンチックにこの世を去っていった。
彼の少年ぽい夢が駈けめぐっていた最も熱狂的な頃でさえ、彼は、こんな途方もない成功の幻を見ることは出来なかった! けだし彼は、最後の誇らしげな、断固とした視線を向けたあの短い瞬間に、東洋の花嫁のようにヴェールにおおわれて彼の傍に侍していた、あの≪幸運≫の顔を、初めてハッキリ見たのであろう。
しかし、われわれは、世に知られない名声の征服者である彼が、彼の崇高なエゴイズムに呼ばれて、その合図のままに、嫉妬深い恋人の腕から身をふりほどいて行った姿が目に浮かぶのだ。彼は、朦朧とした≪理想の行為≫という花嫁と、残酷な結婚式を挙げるために、生きた女から去っていった。彼は満足したろうか――いまこそ完全に? 私にはよく判らない。だが、われわれにはそれが判っていいはずだ。
彼はわれわれの一人で――かつて私は、この世に呼び出された死者の亡霊のように、彼の永遠に変わらない節操を保証する証人になったではないか。
結局、私はひどく間違っていたのだろうか? 彼のもうこの世にいないいま、時として私には、彼が実在したという現実感が、はかり知れない、圧倒的な力でせまってくることがある。しかしまた誓って言うが、時々は、この世の恋情の中をさ迷っている肉体を去った魂魄が、彼自身の冥府の世界に、いつでも命令しだい、戻る用意をととのえていたように、彼が私の目から忽然と消え去ってしまう瞬間もある。
誰が知ろう? 彼は計りがたい神秘な心で去って行ってしまい、可哀そうな少女は、シュタインの家で、一種の静かな、無気力な生活を送っている。
シュタインは、最近めっきり老けこんだ。彼は自分でもそれを感じて、たびたび『わしはこのすべてを後に残していく準備をしている、後に残していく準備を……』と、悲しそうに、彼の蝶々の方に手を振りながら言っている」
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解説
ロード・ジム(Lord Jim)の著者ジョウゼフ・コンラッドについて、米国の著名な批評家ヘンリー・メンケン(H.L. Mencken)は書いている。「彼の作品には何か大自然の現象の膨大さを肌に感じさせるものがある。彼はすべてのルールを超越する。たぶん彼より偉大な小説家はあったであろうが、しかし、コンラッドは、かつて小説を書いた人の中では無比の、飛びはなれて最も偉大な芸術家であると私は信じている」
このジョウゼフ、コンラッドがかつては一介の船員であり、彼が特異な、すばらしいリアリズムの手法で駆使している英語が、彼の母国語でないということは、実に世界文壇の驚異である。しかもコンラッドはその生いたちからして苦難の道はけわしく、コンラッド伝の著者である評論家F・ベインズ(Focelyn Baines)は――彼は病弱の身に苦しめられ、金もなく、自信もなく――と、コンラッドの作家としての日々の苦闘がなみなみでなかったことを書いている。けだし英国近代小説界に異彩をはなつこの作家が、異常な苦闘の中から生みだした傑作『ロード・ジム』が、はげしい特異性と、したがってある種の厳しい難解さをもつことは当然で、こういう意味からも、まず彼の生いたちにさかのぼる必要がある。
アポロ・ナーレチ・コジェニョーフスキー(Apollo Nalecz Korzeniovski)がイーヴリーナ(Evelina)と結婚して一年半後の一八五七年十二月三日に、彼らの長男で独り児が誕生した。場所は南ポーランド、ウクライナ(Ukraine)、ベルディチェフ(Berdichev)。これが、後年世界の文壇にジョウゼフ・コンラッドとして名声をはせたイギリスの文豪の出生である。
幼児は、父母の祖父から一つずつ名をもらってユーゼフ・テオドルと名づけられ、さらにポーランド国民詩人の中で最高の地位を与えられたアダム・ミッキェーヴィッチ(Adam Mickiewicz, 1798―1855)の愛国の抒情詩「コンラッド・ヴァレンロート」(Konrad Wallenrod 1828)の主人公の名にちなんでコンラッドという名が加えられた。つまり全部言えば、ユーゼフ・テオドル・コンラッド・ナーレチ・コジェニョーフスキーという長い姓名である。この中のナーレチというのは、騎士の家系を表わす名称である。
この名が示すように、父アポロは旧い名家の出で、地主で紳士階級であったが、この家系には、代々恐るべき血が流れていた。一口に言えば、彼の作品『ロード・ジム』の中の登場人物、シュタインのいわゆる――ロマンチック――という範疇に属する血統と言えるかもしれない。この家系には、アポロの父、つまりジョウゼフ・コンラッドの祖父の代からして、夢想的で非現実的な男子が続出し、その誰もが言い合わせたように哀しい末路をとげている。しかし、祖父テオドルは空想家ではあったが、また勇敢な騎兵将校でもあった。
一方母親イーヴリーナ・ボブローフスカ(Bobrovska)の方は、かなり実直な家系で、アポロの熱烈な求婚は、少女の父親の強硬な反対に直面した。父親のもっともな言い分によれば、アポロは実務的な明敏さも才能も欠き、怠け者で、祖先から継承した財産を管理するという口実で、仕事もせずに、のらくらと読書したり、書き物をしたり、乗馬をたのしんだりしている浪費家で、娘の夫としては最も不安な男だというのである。
失意のアポロが故郷ポドーリア(Podolia)に戻って土地管理人の職についている間に、イーヴリーナの環境にも変化が起き、まず結婚反対者の父が死に、母親も夫の意志をついで結婚に反対していたが、運命は偶然にも、この未亡人の母と娘をアポロの住むポドーリアの近郷に住ませることになった。アポロの再度の求婚がついに実を結んだのは、彼がイーヴリーナに一目惚れしてから八年後である。そして、その間に、愛情の板ばさみで苦しんだイーヴリーナのきゃしゃな肉体は、いまは病弱に近いものになっていた。
二人は一八五六年五月に結婚し、やがて、妻の実家から贈られた金でウクライナのベルディーチェフに土地を持って落ち着いた。時にアポロは三十六歳、イーヴリーナは二十三歳。
しかし、娘の結婚を憂苦したイーヴリーナの父親の生前の予言は時とともに実現していき、三年後には、アポロは仕事に失敗して土地を手放し、抗しがたい己の性格に引きずられてか、「文学とポーランド独立運動」に身を投ずるようになった。これまでにアポロには二編の喜劇『喜劇《コメディア》』と『金欲のために』の他に数々の神秘主義的で愛国的な詩作があり、翻訳もしていた。やがて彼は、当時のポーランド文壇の大御所でポーランドのスコットと称されるクラジェフスキー(Joseph Ignatius Kraszewski 1818―87)の文学グループに参加した。住居も、この歴史小説家およびカソリック・ビショップの住む、知的活動の中心地ズィトーミエシュ(Zytomierz)に移した。アポロはここで小説家の友人と共訳でユーゴーの『世紀の伝説』、『エルナニ』、『マリオン・ドロルム』などを次々に出版し、自作の劇も上演されるに至った。一方彼は「ウオサウ」という憂国雑誌の主筆もつとめ、その家はいつも憂国の志士たちの会合の場所であった。
当時ポーランドはロシアとオーストリアに分割統治されていたが、祖国を独立させようとする叛乱、革命運動はひきもきらず、多年にわたって現在のベトナムのように、苦難と動乱の道をたどりつづけていた。愛児ジョウゼフ・コンラッドが産ぶ声を上げた一八五七年も、ポーランドは革命の失敗によって自治制も撤回され、クラコウ共和国もオーストリアに合併されてしまった受難時代であった。
それからわずか三年余り経た一八六一年五月に、アポロはついに単身ワルシャワ(Warsaw)に出て、独立運動の急進派と交わり、やがてその中心的人物になった。時しもロシアはクリミア戦争に敗れて、新皇帝は懐柔策をとるようになっていたが、ポーランド人たちはこの機に乗じて母国を奪回しようと、多年の独立の夢に油をそそがれたのだった。ついにアポロはロシアの官憲に捕えられ、翌一八六二年五月には危険人物として、ロシアのヴォログダー(Vologda)に流刑される身となった。虚弱な妻も、当時四歳のコンラッドもアポロに同行することになった。アポロから従兄への手紙には、「ここでは、一年が二つの季節に分れている。白い冬と緑の冬。白雪に閉された冬は九カ月続き、緑の冬はニカ月半。いまは緑の冬だが、ここ二十一日間連日雨降りで、今後いつまで降続くのだろう。ここでは生活は一つの悪夢で、病魔に犯された生ける屍である」(一八六二年六月)
この殺人的ヴォログダーの気候で、イーヴリーナと幼児の健康はみるみる蝕まれていったが、幸い一八六三年の夏には、やや気候のましなチェルニーホフ(Chernikhov)に移された。イーヴリーナは息子と共にノヴォファストフで兄タデーウシュと数カ月を過ごすことを許され、親戚や友人が集ってきて彼女たちを慰めた。が、結核の餌食となった彼女は、再びチェルニーホフに戻って間もない一八六五年の四月、ついに薄幸な生涯を終った。コンラッドは七歳であった。母の兄タデーウシュは、父子の生活費とコンラッドの教育費一式を負担してよく面倒をみた。
アポロは回想録の執筆かたがた我が子に小学課程の教育をはじめたが、しかし、それよりいっそうコンラッドの心を奪ったのは、父親の翻訳したシェークスピアやユゴーで、彼はまたディケンズやセルバンテスも愛読した。が、一年後にアポロは、愛児コンラッドに陰惨な生活の影響を与えるのを恐れて、故郷ウクライナに送り還し、それから五年間、母方の伯父タデーウシュの家に寄寓させた。この間をコンラッドは、生涯を通じてもっとも幸福な時代だったと言っている。ここにはタデーウシュの娘ジョセフィン(Josephin)や同年輩の遊び友だちがおり、伯父は幼いコンラッドの衰えた健康を回復させようとして、自ら二カ月も彼をオデッサの海岸へ連れて行って保養させた。ここで多感な少年は、やがてその若いたましいを奪うにいたる「海」を、初めて知ったのだった。
これ程幸せであったが、コンラッドは、やはり父恋しさにホームシックになり、アポロも息子のいない淋しさにたえかねた。で、少年の祖母は、十月にコンラッドをチェルニーホフの父親の許へ連れていったが、間もなく、少年は病気でふたたび祖母に連れられて父の許を去らねばならなかった。
しかしアポロ自身の健康は、妻を奪った結核にいまは自ら侵されて日増しに弱っていった。やがて彼はかつてポーランド文化の栄えたクラーコフへ移ったが、衰弱はひどく、心は亡妻の想い出に奪われていたようである。「父は母の周忌には、いつもじっと母の写真を見つめています――一日中なんにも食べず、なんにも言わずに」と、少年はある来客に言った。この父は、ついに一八六九年五月に死に、芸術と愛国の夢に憑かれた多難な生涯の幕を閉じた。おびただしい民衆が、遠近から馳せあつまり、彼の葬列に参加した。
時にコンラッドは十三歳であった。しかし一方このクラーコフの生活は、彼の生涯にとってもっとも深い意義をもたらした。彼はここのセント・アンネという公立学校に入学することができ、ここでその特異の天分を認められ、ついに終生の願望であった海へのあこがれに端緒をつけることができた。十七歳のとき彼は、ついに野望がかなって海員の生活に入り、絶海の波のまにまに身をゆだねて航海の旅路をつづけた。
彼が初めてイギリスの土を踏んだのは一八七八年二十一歳のときのことで、彼は異邦人としての隘路を切りひらくために、まず英語の勉強をしなければならなかった。しかし彼の驚くばかりの語学の天分は、のちに彼をして、母国語でない英語で作品を発表させるまでに至ったのである。若いコンラッドは、多分に『ロード・ジム』の主人公を彷彿させるような、夢に憑かれた、繊細多感な海の勇者であったらしい。
やがてコンラッドは英国商船の海員となり、あちこちに航海をつづけ、その間に後年彼の作品に躍動する人物や自然にたいする観察と経験をつんだ。彼が航海を媒介としていかに世界各国各様の人々を知ったかは、彼のあらゆる作品の中に必ず何カ国かの人種が入り乱れている点からも窺える。『ロード・ジム』の中でも、様々の人種が登場し、言語も、ドイツ語、フランス語、マレー語がひんぴんと顔を出し、ラテン語さえまじっている。
コンラッドがイギリス商船の船長になったのは二十七歳の時で、この年に彼はイギリスに帰化し、以来十年間船乗生活をつづけ、この期間の後半から彼はひそかに執筆をはじめた。彼の処女作『オルマイヤの愚行』が刊行されたのは一八九四年で、彼はそれと同時に永年の海上生活に別れを告げ、文筆に専念する生涯に入った。つまり、この年こそ後年世界の文学界に名声をはせたイギリスの文豪ジョウゼフ・コンラッドがこの世に誕生した年といえるであろう。
爾来三十年間、一九二四年に六十九歳でケント州、ビショップバーンで生涯の幕を閉じるまでに約三十編に及ぶ長編短編を発表した。コンラッドの作品のほとんどが海洋小説であることは、彼の海への愛着とその履歴からみて、まことに当然のことといえよう。彼の多くの作品は海と空とを背景とし、これに登場人物として船乗を配し、舞台も船とか島とか、広い外界から隔絶された場所が圧倒的に多いが、彼の筆致のおもむくところは、海も空も船も――船の甲板や船室、船艙、機関室などまでが――作中に躍動し、いずれもみな登場人物におとらぬ生命のいぶきを撒きちらすあたりは、まさにコンラッドの独壇場であろう。もちろん、彼の作品が人間心理を深く掘り下げ、その複雑微妙な進展を異常な鋭さで追求していることは明かであるが、同時にあらゆる事象を克明に描き出そうとする努力がみなぎっており、大洋、船、河、森林、大空、建物などの中にさえ真、善、美を見出そうとしている。この意味で、彼の作風は多分に自然主義的であり、ロマン主義的であると同時にリアリズム的色調に富んでいる。
私は作者の略歴の中に、彼の父親の生涯をやや詳細に書いたが、これは、父親の生涯やこの間のコンラッドの生いたちが、表面に見えない遠景となって、かなり本質的な、広範な陰影を作品に与えていると感じたからである。例えば、『ロード・ジム』の中の語り手で、一種のアンタゴニスト的役割を演じているマーロウは、コンラッドの母方の伯父タデーウシュを多分に彷彿させる。愛のまなこを持ちながら、いつも不可解な気持でヒヤヒヤしながら相手を見守っていた男――ジムを見守るマーロウ。アポロ父子を見守るタデーウシュ。
作品中でマーロウは何回か「私はついにジムの姿をハッキリ見きわめることが出来なかった」と言っている。作者はマーロウの口を、目を通して、あれ程ジムの人間像をいきいきと、克明精緻に描写させながら、一方では、あくまでマーロウにとっては、ジムを一つの神秘な存在に終始させている。もちろん、この神秘性を、作者コンラッドはシュタインの口を通して「ロマンチック」と解明させている。しかし、シュタインのこの「彼はロマンチックなのだ」という説明は、一瞬千鈞の重きをもってマーロウと読者にハッと開眼の感じを与えるが、またたちまち雲か霧のように、ふわふわと宙に浮き上がってしまう運命をもっている。こうして、コンラッド文学のリアリズムとロマンティシズムの双の高嶺は、この長い物語全体を通して、雲霧の中に出没しつづける。
『ロード・ジム』全編を通じてマイナーの人物はごく克明精密に、明快にさえ描かれている一方、主人公の描写となると実に微妙で捕え難いのである。ジムもコンラッドのあらゆる作品の顕著な特徴の例にもれず、高度の強烈な道徳的感覚の所有者であるが、それさえ、作者はいつも「ジムのロマンチックな良心」という故意に曖昧な言葉で呼び、絶対にジムの気高いモラル性を、単純な、因襲的な言葉では表現していない。
ジムが悪辣なパトナ号の船長や大自然の威嚇に足をすくわれて、八百人の乗客を見すててボートで逃げ、その罪の意識に生涯つきまとわれ、全力をつくしてその償いをしようとして頑張り、やっとよき償罪の足場をマレーの土人界に見出して幸福と夢を取り戻した時、再び、過去のあの一つの罪過の影がせまってくる。ジムが最後に、完全な罪の償いとして悟った道は、自分の生命をなげうつことであった。無実の罪を着て、人々の誤解の雲の下で、ジムは「誇らしげな、ひるまない視線を」群衆の上に投げて死んでいく。これ程ハッキリした強烈な道徳意識が、ジムを死に追いやり、また彼を放浪させつづけたのだが、コンラッドは、唯一度も、それを露骨な、世間に衒《てら》う、見え透いた「善」や「道徳」の形では表わしていない。むしろそうしたものは、コンラッドから見れば鼻持ちならぬ卑劣悪徳の中に入るのだ。コンラッドがジムを通して描こうとする崇高な道徳性とは、即ち彼が苦労して芸術性の中にやっとチラつかせ得るほど捕捉しがたい、感受し難い、高度のものなので、ここにこの作品の大きな難解さがあると思う。
メンケンが断言するようにコンラッド文学の代表作であり、「最高度の芸術作品」である『ロード・ジム』が、散文的な解明のメスの手に負えない代物であることは、ある意味でゴッホ、シャガール、マチスなどの抽象画と同様である。この作品を読むに当って読者は、多面鏡から放射される無数のジムのイメージを、それもまた極めて印象派的タッチで、しかもリアルな手法で描かれているのを、自分で統一して理解していかなくてはならない。この非散文的に、印象派的に放出されているジムのイメージをキャッチしそこなえば、この物語のバックボーンは崩壊し、愚にもつかない妙な物語に取られてしまう危険さえ、無きにしも非ずである。
最後に、作者コンラッド自身の面影を多分に宿していると言われている「ジム」の人となりを理解する一つのヒントとして、コンラッド伝の著者ジェーン・オーブリイ(Jean-Aubry)の短い抜萃をここに引用する。
「コンラッドのマナーは、単純さと遠慮ぶかさとが交りあっていた。――彼は冗談まじりの声で次の質問に答えた。ひどくぶしつけな質問ではあるが、しかしわれわれはこの答えの中に、未来の『ロード・ジム』の作者の誠実な、無口な性格の足跡を見出すことが出来るのである。
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一、貴方の性質の主な特性は?
答え――怠け者
二、貴方はどういう方法で自分を愉しませますか?
答え――引っ込んでいることで。
三、誰の名を聞くと、貴方は胸がドキドキしますか?
答え――誰の名を聞いても、すぐドキドキします。
四、貴方はどんな幸福を夢みますか?
答え――決して幸福は夢みません。現実を望みます。
五、貴方の夢の女性はどこに住んでいますか?
答え――スペインの城に。
六、貴方は女性のどういう特質が一番好きですか?
答え――美。
七、貴方はどうなりたいと思いますか?
答え――死にたいです。
八、貴方の一番好きな花は?
答え――スミレ。
九、貴方はどこの国に住みたいですか?
答え――知りません。たぶん、ラップランドに。
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これはジョウゼフ・コンラッドがまだコジェニョーフスキー船長といわれていた頃のエピソードである。
最後にコンラッドの主な著作年譜を掲げておく。
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1895 Almayer's Folly
1896 An Outcast of the Island (邦訳名『文化果つるところ』)
1898 Youth(邦訳名『青春』)Heart of Darkness(邦訳名『闇の奥』)
1900 Lord Jim
1903 Tyhoon(邦訳名『台風』)
1906 The Mirror of the Sea
1911 Under Western Eyes
1912 A Personal Record
1915 Victory
1919 The Arrow of Gold
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一九六五年初春 蕗沢忠枝