ロード・ジム(上)
ジョウゼフ・コンラッド/蕗沢忠枝訳
目 次
ロード・ジム(上)
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第一章
彼は、六フィートよりたぶん一インチか二インチ低く、逞しい骨格で、わずかに肩をかがめ、頭を前につき出して、突進してくる牡牛を連想させる、下から見据えるような動かない視線で、まっすぐ進んで来た。
彼の声は深く、大きく、彼の動作は、少しも不愉快さを含まない一種の頑固な自信を見せていた。それは、ごく自然で、明らかに、他の人に対すると同様に、自分自身に向けられたもののようだった。
彼は一点のしみもないほど清潔で、頭の上から足の先まで純白の衣服をまとい、船具会社の水上店員として生活していたいろいろな東洋の港で、大そう人気があった。
水上店員は、およそ天下になんの試験もパスする必要はなかったが、しかし、この職業の人間は抽象的な才能を持ち、それを実践で証明しなければならなかった。水上店員の仕事は、海に投錨しようとする船が現われると、他の諸会社の水上店員を抜いて、帆にしろ、蒸気にしろ、オールを漕ぐにしろ、とにかくレースに勝ってその船に一番乗りをし、その船の船長に愉快に歓迎の挨拶をし、彼にカードを――つまり、船具商店の取引きカードを――押しつけ、そして、船長が初めてその海岸に来た場合に、彼が船で食べたり飲んだりできるさまざまの品が一ぱい詰まっている、大きな大洞窟のような自分の店へ、断固として、しかし生意気でなく、案内してくるのが役目である。
この店で、船長は、船を航海に耐える、美しい船にするありとあらゆる物品を、船の大索《おおづな》につける鎖ホックの一式から、船の船尾《とも》彫刻の図案をあつめた金箔装の本にいたるまで手に入れることが出来、一度も会ったことのない船具店主から兄弟のごとくに迎えられるのである。
ここには、涼しい客間、安楽椅子、各種の酒瓶、葉巻、書き物用具一式、港規則の写し、それと、海員の心から、三カ月の航海の苦塩を溶かすあたたかい歓迎とが、待っている。
こうして一度つけられたコネは、その船が港にいる間じゅう、水上店員か毎日船を訪問することで保持される。
水上店員は、船長にとって、よき友のごとく忠実で、息子のごとく魅力的であり、ヨブ〔旧約聖書ヨブ記の主人公、忍耐と信仰の典型とされている〕のごとく忍耐づよく、女のごとく献身的で、愉快な飲み友達のごとく楽しい人物でなければならない。あとから、請求書は送られる。
それは美しい、人間味のある職業である、それだけに、よい水上店員は逸品である。
こういう抽象的な才能のある水上店員が、また海員として育てられたという特点を持っている場合は、彼は、傭い主にとって多額の金を払い、かなり機嫌をとってもかかえられるだけの値打ちがある。ジムはいつも高いサラリーと、悪魔でも忠誠をつくさずにいられない程、大事にされて傭われていた。
が、それにもかかわらず、彼は、恩知らずもいいところ、とつぜん、仕事を投げ出して行ってしまうのだった。彼の傭い主たちにとっては、ジムの言う退職の理由は、まるで不得要領だった。傭い主たちは、彼が背中を向けて立ち去るや否や、呆れて「忌々しい大馬鹿野郎!」と言った。これが、ジムの絶妙な感受性にたいする彼等の批判だった。
海岸の商業にたずさわる白人や、船の船長たちにとって、彼はただジムで――それっきりだった。もちろん、彼はちゃんと別の名前を持っていたが、彼は懸命に、その本名を言われまいとしていた。
篩《ふるい》のように穴だらけの彼の匿名は、人柄を隠すためではなく、ある事実を隠すためだった。その事実が匿名の穴を押し分けてもれると、それがどこで起きようと、彼はいつあたふたとその港を去って、別の港へ行くのだった――大てい、更に東の方へ。でも彼はいつも港から離れなかった。それは、彼が海から追放された海員で、抽象的な才能を持っていたからで、水上店員の仕事にしか適さなかったからである。
彼は、いつもあとを濁さず、整然と陽の昇る方へ向かって東へ東へと退却して行き、匿した事実は、いつも思いがけなく、しかも不可避的に、彼を追いかけていくのだった。
こうして、数年のうちに、彼はつぎつぎと、ボンベイ、カルカッタ、ラングーン、ペナン、バタヴィアで知られ――こうした碇泊地の各所で、彼はただ水上店員ジムで通ってきた。
その後、彼は耐えられないものへの自らの鋭い知覚に追われて、永久に港町や白人たちから逃れて、ジャングルの村のマレー人の中へ、処女林の中へ入って行き、そこで、彼のあの悲しい才能を隠して住んだ時、一語が、彼の一音節の匿名に加えられた。すなわち、人々はトゥアーン・ジムと呼んだ。トゥアーンとはマレー語の尊称で、われわれが言うなら――ロード〔イギリスの貴族の尊称〕・ジムである。
もとは、彼は牧師の息子である。立派な商船の船長の多くが、この敬虔と平和の住家である牧師の家から出ている。よき牧師であるジムの父親は、不可知の神について、一方、過《あやま》たざる神の摂理で、奇しくもこの世で王の御殿に住める人々の心の平和を攪乱せず、他方、同じ摂理で、賤《しず》が苫家《とまや》に住む人々の愛と正義感を助長するような、そういうある知識を持っていた。
丘の上の小さい教会は、葉むらのスクリーンを透して見た、苔むした灰色の巌のようだった。教会はそこに何世紀もの間立っていたが、でも周囲の木々は、たぶん、最初の土台石を置いた時を覚えているに違いない。
その下手には、牧師館の赤い玄関が、牧草畑や、花壇や、樅《もみ》の木のまん中に、あたたかい色で光っている。後には果樹園があり、左手には舗装した家畜の庭があり、煉瓦の壁にそって傾斜したガラスの温室が取りつけてある。
ジムの家族は、何世紀もの間、牧師生活をつづけてきた。しかし、ジムは五人の息子の一人で、文学の課程を終わると、海の職業がいいことが自ずと明らかになり、彼はすぐ、高級船員養成船に送りこまれた。
そこで彼は少しの三角法と、上|檣《しょう》の帆桁《ほげた》をわたる術を学んだ。彼は大ていの人から好かれた。彼は航海術では三位を占め、第一カッターの整調を漕いだ。
彼はすばらしい肉体と、しっかりした頭脳を持ち、マストの上の動作も実にみごとだった。彼の持ち場は前檣楼で、しばしばそこから、危険のまっただ中にあってはじめて光彩を放つ宿命をもった男の軽蔑をもって、褐色の流れに二つに切り割られている、平和な無数の屋根を見下ろした。周囲の平原には、まばらに、工場の煙突が、すすで汚れた空を背景に、どれも鉛筆のように細く、垂直に立っている。大きな船が港を出て行き、広い船幅の渡し船がひっきりなしに動いているのが見えた。はるか彼の脚下で小さいボートか浮かんでおり、遠い彼方の海は雄大に霞み、この冒険の世界には、血を沸かす壮快な生活の希望があった。
下甲板では、彼はともすると二百人の話し声の喧騒の中にうっかり我を忘れ、はやくも彼の心は、かねて愛読した文学書の中の海洋生活を夢みはじめるのだ。彼の空想はひろがる――自分が、沈没する船から人を救う有様、ハリケーン〔大竜巻〕の中でマストを切ってのけ、救助の綱を持って大波の中を泳ぎ抜ける光景――ただ独り島に漂流し、素足に半裸体の姿で、どうにか飢餓を食い止めようと、木一つないむきだしの砂州《さす》を貝を探して歩く。彼は、熱帯の海岸で蛮人どもと対決し、外洋で水夫の反乱を鎮圧し、大洋の波浪にもてあそばれている小さいボートの中で、絶望している人々の心を元気づける――いつも、義務にたいしては献身の模範で、本の中のヒーローのように断固として怯《ひる》まない。
「事故だ。行こう」
ジムはパッと立ち上がった。若者たちは続々はしごを駈け登っていく。上で、騒々しい、あわて走る音や叫び声が聞こえた。彼は昇降口《ハッチ》を走り抜け、ハッと立ちすくんだ――あっけにとられたように。
それは冬の日の夕暮れだった。強風は午《ひる》から一段と強くなり、川は船の往来が止まっていたが、いまは、大洋の上に大砲の一斉射撃をあびせるような響きを断続的に爆発させ、ハリケーンの強さで吹きまくっている。
どしゃ降りの雨がななめにぴしぴし打ちつけたり、静まったりし、時折りジムは、チラリと、潮流がさかまき、とんぼ返りを打ち、小舟が海岸にごった返しにたたきつけられている威嚇するような光景を見た。猛烈に吹きまくるしぶきの中に動かないビルディング、重そうに放り投げられている投錨中の船幅の広い渡し舟、もち上がったり沈んだりして水しぶきの中で窒息している巨大な桟橋の光景。
大風には残酷な狙いがあり、甲高いうなりを上げて吹きまくる風や、地上と空との獰猛な動乱には狂暴な真剣さがあり、それは、彼をめがけてくるように思われ、ハッと畏怖で息が止まった。ジムは立ち止まった。彼はぐるぐる旋回させられているような気がした。
彼は突きのけられた。
「カッターに人員配置!」
若者らが彼のそばを駈け抜けていった。
嵐を避けて走りこんだ一隻の地回り船が、投錨中のスクーナー船にぶつかり、船の教官の一人がこの事故を目撃したのだ。若者の群がドッと手すりによじ登り、ダビット〔ボートを吊り上げる先の曲がった二本一組の柱〕の周囲に群らがった。
「衝突だ。俺たちのすぐ先だ。サイモンズ氏が見つけたんだ」
誰かに突きとばされて、ジムはよろよろと後檣にぶつかり、とっさにロープをつかんだ。碇泊所に鎖でつながれた老齢トレーニング船は、船体じゅうを震わせて優しく風の方に頭を下げ、その乏しいリッギング〔操帆装置〕は深いバスの音で、その海の青春の日の歌を喘ぎ喘ぎ口ずさんだ。
「下ろせ!」
ジムは、ボートに人員か配置され、すばやく手すりの下に降ろされるのを見て、その後を追いかけた。水の飛び散る音が聞こえた。
「吊り綱を放せ!」
ジムは前にのりだした。
舷側で、川が泡立ち、沸騰している。カッターが、薄暮の中で、潮と風の魔力にかかって一瞬間動きがとれず、母船と並んで波にもまれているのが見えた。カッターの中の叫び声が、かすかにジムの耳に入った。
「オールを整調《そろえ》ろ、若造、もし人を救う気なら! 整調《そろえ》ろ!」
とつぜん、カッターは船首《へさき》を高くもたげ、波の上にオールを高く上げて跳躍し、風と潮の魔力を打ち破った。ジムの肩が、誰かにギュッと掴まれた。
「遅すぎたな、君」
船長は、いまにも船から飛び降りようとしているその少年の肩に手をかけて引き止め、ジムは、目に敗北の苦痛をうかべて見上げた。船長は同情するように微笑《わら》った。
「またいいチャンスかあるさ。これで君は、機敏になることを学ぶんだ」
甲高い歓声がカッターを迎えた。カッターは半ば水びたしで、ぐしょ濡れの二人の疲れきった男を船底に救い上げて、踊りながら戻ってきた。
いまやジムには、風と海の動乱も脅迫もごく陋劣《ろうれつ》なものに見えてき、その無能のこけ脅しに畏怖した自分がいよいよ悔まれた。いま彼は、それをどう考えればいいのか判った――俺はもう風なんかものとも思わんぞ。俺は、もっとすごい危険にだって立ち向かえるんだ。俺はそうするとも――誰よりも立派に。
もう一抹の恐怖も残っていなかった。でも彼は、そのタベは、あのカッターの前オールの漕ぎ手――少女のような顔をして、大きなグレーの目をした青年――が下甲板の花形である間は、一人離れてふさぎこんでいた。デッキでは、この青年を囲んで、熱心な質問の矢が放たれた。青年は話しだした。
「僕は、ちょうど彼の頭がひょっこり現われたのを見て、サッと水中に≪つめざお≫を突き出した。その先端のかぎホックが、彼のズボンに引っかかり、僕はすんでに船から落っこちるところだった。もし、サイモンズのおやじさんが舵柄を離して僕の脚をふん掴んでくれなかったら、僕は落ちていたな――ボートはほとんど水びたしさ。
サイモンズのおやじさんは、立派な先輩だ。僕はあの大将が、僕たちにむっつりしても、ちっとも気にしねえな。大将、僕の脚を握ってる間じゅう僕に悪たれていたが、でも、そういうし方でしか大将は僕に、しっかり≪つめざお≫にしがみついてろと言えねえのさ。
サイモンズのおやじさんは、ものすごくカッとくるほうだ――そうだろう? いや――チビの金髪の方じゃない! もう一人の、ひげの生えた大きな男のほうさ。僕たちが、やっとであの大男を舟に引っぱり上げると、先生うめきやがるのさ、
『おお、俺の脚! おお俺の脚!』
そう言って、目をひっくり返しやがった。想ってもみろよ、あの大男が、少女みてえに気絶するとはな。この中に、≪つめざお≫で引っかけられて気絶する奴いるかな?――僕ならしないな。そいつが、ひげの先生の片脚に、ひどく深く突きささったのさ」
そう言って若者は、わざわざ下甲板に持ってきていた≪つめざお≫を皆に示し、センセーションを巻き起こした。
「いや、馬鹿な! 彼氏の肉に突きさすもんか――先生の半ズボンさ。むろん、たんと血は出たがね」
ジムは、こんなのは哀れな虚栄だと思った。大風はそれ自身の見せかけの恐ろしさと同様に、贋《にせ》物のヒロイズムを満足させた。彼は自分の虚を衝いて、この危機一髪の救助に自分に余裕ある用意をさせなかった、大地と空の残虐な騒動が腹立たしかった。
その他の点では、彼はむしろカッターに乗らないでよかったと思った。というのは、それほどの英雄的業績でなくとも、彼には結構間に合ったからだ。つまり彼は、功績を立てた連中以上に、自分の知識をひろめることが出来たのだ――すべての人がひるんだ時、その時こそ、――といま彼は確信ができた――僕だけは、風と海の贋の威嚇に対処するすべを知っているのだ。僕は、それをどう考えるべきか知っているのだ。
私心なく冷静にみれば、風と海のこけおどしなどは、陋劣《ろうれつ》なものだ。彼はあのときの激情が自分の中からあとかたもなく消え去っているのを知った。そして、あの仰天し、よろめいた事件の窮極的結果として、ジムは、誰の目にもつかず、騒がしい若者の群れから離れて、彼の冒険欲に新たな確信と、ある意味で多角的な勇気を得たことを大いに喜んだ。
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第二章
二年間のトレイニングの後に、ジムは海へ行き、空想の世界ではおなじみのいろいろの地方へ行き、ふしぎにもそこらに一向冒険らしい冒険のないのを知った。
彼はたくさん航海をした。そして、空と水の間の生活の不可思議な単調さを知った――彼は人々の批判、海の厳しい要求、また彼にパンを与えてくれる日々の無味乾燥な、苛酷な仕事に耐えねばならなかった。――そしてその唯一の報酬は、仕事を完全に愛するということだった。
この報酬は、ともすると彼から逃げた。しかし、ジムは引き返せなかった。なぜなら、海の生活ほど、魅惑的で、幻滅的で、人をとりこにするものはまたと無いからである。
それに、彼の前途は洋々たるものだった。彼は紳士的で、沈着で、おとなしく、自分の義務に完璧な識見を持っていた。そして、まだごく若いのに、ジムは立派な船の一等航海士〔副船長格〕になっていた――男の内面的価値を、男の沈着の限界を、その素質を、明るみにさらけだし、その抵抗の特質を、仮面をはいだその秘めた正体を、他の人々にたいしてだけでなく、また自分自身にも暴露するあの海のさまざまの出来事によってまだテストもされずに――
その頃たった一度だけ、彼はもう一度チラリと海の真剣な怒りを見た。この事は、人々が考えているほど、そう度々ハッキリ、人の目に見えるものではないのだ。冒険や大風の危険にはさまざまの種類があり、ほんの時たましか、その顔に悪意ある暴力の意図を現わさない――人間の心や頭に、この紛糾した事故や、この大暴風雨は、人間に敵意をもって、不可抗力の魔力で向かってきており、自分から希望も恐怖もいっしょくたに奪い去り、疲労の苦しみも休息の望みももろともに砕き去ろうと野放しの残酷さで襲ってきているという鬼気迫る感じを与えることは、稀である――これこそ人間がかつて見、知り、愛し、よろこび、または憎んだすべてのものを崩壊し、滅ぼし、根絶することを意味し、すべてのこよなく貴重なものや必要なもの――日光、思い出、未来を――貴重な世界のすべてを完全に人間の視界から掃蕩《そうとう》することを意味する――つまり、人の生命を奪い去るという単純な、恐ろしい行為によって。
ジムは、ある週の初めに、帆柱が倒れてきて怪我をした。その時のことを、彼のスコットランド人の船長は、後でよく言った――
「おい君! よくあれで生きてられたな。僕には全く奇跡としか思われんぜ!」
ジムは幾日も仰向けに伸びたままで、ぼーっとして、打ちひしがれ、まるで不安地獄の底にいるように苦しめられていた。彼は、ついにはどうなろうと気にしなくなり、明るい気分の時は、自分の無関心さを買いかぶっていた。
危険というものは、目に見えない時は、ごく不完全にボーッとしか人間の頭に入ってこないものだ。恐怖は影のようにぼやけてくる。そして、人間の敵であり、あらゆる恐怖の生みの父である想像力は、刺戟されないと、くたびれた、もの憂い感情の底に沈んで寝てしまう。
ジムは、揺れる船室の乱脈な有様のほかは何も見なかった。彼はそこに横たわり、小さい、散らかり放題の部屋のまん中に、当て木を付けて締めくくられ、心ひそかに、デッキに行かなくてすむのを喜んだ。
しかし時々は、どうしようもない急激な苦痛が彼の全身をわしづかみにし、彼は毛布の下で喘ぎ、身もだえた。するとやがて、こんなはげしい苦痛の生活につきものの、愚鈍な動物的な意欲が湧きあがり、どんな犠牲を払ってもここから逃れたい必死の欲望で胸がはち切れそうになった。が、やがてまた気持のいいお天気が戻ってきて、彼はもう、そんな事は考えなくなるのだった。
しかし、ジムの足のびっこはまだ癒《なお》らず、船がある東洋の港に着いた時、彼は入院しなければならなくなった。恢復はのろく、彼はあとに取り残された。
病院の白人棟には、あとたった二人の患者しかいなかった。甲板の昇降口《ハッチ》から落ちて脚を骨折した砲艦の事務長と、いま一人は、近くの田舎から来た一種の鉄道請負師で、こちらは何かえたいの知れない熱帯病にかかっていた。この請負師は、病院の医者をよくよくの藪《やぶ》だと思っているらしく、いつも、彼のタルミ人〔南部インド及びセイロン島に住むドラヴィダ族〕の召使いが倦きずに、よく献身的に病院へこっそり持ちこんでくる売薬を、ひそかに愛用していた。
三人の患者は、互いに身の上話を語り合い、たまにはトランプ遊びもしたり、またパジャマ姿であくびをして、一日中一言も言わずに、安楽椅子でぶらぶらしたりした。
病院は丘の上に建っており、優しいそよ風が、いつも大きく開け放した窓から入ってきて、がらんとした裸の部屋に空ののどけさや、大地の快いけだるさや、東洋の海の魅惑的ないぶきを運んできた。その微風には、無限のいこいや、果てしない夢を連想させる芳香がただよっていた。
ジムは毎日、庭のしげみ越しに、町の屋根の向こうに、海岸に生えているシュロの葉ごしに、東への航路の碇泊場を眺めた――碇泊場には、点々と、陽気な太陽を浴びて花輪で飾られた小島が散在し、そこに投錨中の船はおもちゃの船のようで、そのにぎにぎしい活動振りは、休日の盛観に似ている。その上空には、東洋の空が永遠にうららかに晴れ渡り、微笑した東洋の海の平和がひたひたと水平線まで満ちあふれている。
ジムは、もうステッキなしでまっすぐに歩けた。彼は故郷へ戻る何かいい機会を深しに、町へ下りていった。ちょうどその時は何もなかった。そして待っている間に、彼は自然と、港にいる同業者たちと知り合いになった。
こういう人々には二種類あった。その一つは、ごく少数で、そこにたまにしか姿を見せない人々で、謎のような生活を送っており、海賊のようにはげしい気性で、夢想家の目をし、底知れないエネルギーを持っていた。
この連中は、文明に先んじて、未開の海の暗黒所で、気違いじみたプラン、希望、危険、企画の錯綜した迷路に住んでいた。この人々のとりとめのない、幻想的な生活の中では、彼等の死だけが、もっとも合理的な確実性をもって達成できる、唯一の明瞭な出来事であった。
大多数の者は、ジムと同じように何らかの事故でそこに放り出された人々で、いまも母国の船の高等船員の資格をもっていた。この連中は、いまでは、母国の艦船で働くことは、状況も悪くなっており、任務は一段と苛酷だろうという見通しで、それに大海の嵐の危険もあり、戻ることを怖がっていた。
彼等は、いつしか東洋の空と海の永遠の平和のしらべに調子を合わせていた。連中は、短い航路や、上等のデッキ椅子や、大勢の土人の下級船員どもや、その上に立つ白人だという優越性を愛した。この連中は骨の折れる仕事は考えただけで身震いがし、浮き腰で、呑気な生活を送っていた――始終解雇すれすれの線で、始終次の職を待っており、勤め先は、ドイツ人であれ、アラビア人であれ、混血人であれ――もし楽な仕事なら、悪魔大王の所にも勤めただろう。
この連中はのべつ幕なしに、幸運の回ってくる話をしていた――誰々は、どういう風にして、支那の沿岸でボートを委された――ぼろい仕事だ――誰それは、どういう工合にして、日本のどこかでひどく楽な職を手に入れた――誰々は、シャムの海軍でうまいことをやっている。そして彼等のすべての話の中には――彼等の行為、彼等の顔つき、彼等の人柄の中には――どこかぶよぶよした所が、くされた所が――一生を、安泰にのらくら遊び暮らそうという決意があった。
ジムにとって最初は、こういうゴシップ屋の群集は、世間では海員と言っているが、影法師より実体のないものに見えた。しかし、やがて彼は、この連中の有様に、彼等がこんなにも僅かの危険と労力とで結構裕福にやっている様子にある魅力を見出した。そのうち、初めの軽蔑感のほかに、また別の感情が湧き上がってきた。そして、とつぜん彼は故郷へ戻る考えをすてて、パトナ号の一等航海士〔副船長格〕のポストについた。
パトナ号というのは、小山のように古い地方船で、グレイハウンド種の猟犬のようにやせさらばえ、ぼろぼろの水タンクよりもひどく錆び腐蝕していた。
この船は支那人の所有で、アラビア人が用船し、一種の背国者ともいうべきニュー・サウス・ウェルズに住むドイツ人が船長をしていた。このドイツ人は、公然と祖国を罵倒するのが大好きだったが、しかし、明らかにプロシャの宰相ビスマークの勝ち誇った強硬政策を笠にきているらしく、自分より弱いあらゆる人々にたいして残忍無情で、紫色の鼻と、赤い口ひげに併せて、いかにもいわゆるビスマークの≪鉄血≫バリの態度をしていた。
パトナ号は、外側にペンキを塗って、中をしっくいで誤魔化し、蒸気を上げて木製の桟橋に横づけになり、八百人の巡礼者がその船に追いこまれた。
巡礼たちは、船の三つの通路《タラップ》からぞろぞろ船内に流れこみ、彼等は天国の信仰と希望にせき立てられて流れこみ、彼等は一言も喋らず、一言もつぶやかず、後も振り返らずに、パタンパタン、ペタペタと絶え間なしに素足の音を立てながら流れこんだ。そして、デッキの四方に張りめぐらしてあった境界の柵がとり除かれると、船首や船尾の方に流れ、口を開いているハッチから流れ下り、船内の隅々にまでいっぱいになった。――水が水槽に満ちるように、水が裂け目や割れ目に流れこむように、水が黙々とふちまで一ぱいになるように。
信仰と希望を持った、愛情と思い出を持った八百人の男と女、――彼等は北や南や、東洋のはずれからやってき、ジャングルの小径を踏み、川を下り、浅瀬にそって快走帆艇《プラーウ》で沿岸を航行し、小さいカヌーに乗って小島から小島に渡り、苦難を経、見慣れない光景に出会い、珍らしい恐怖に仰天しながら、ただ一つの希願にささえられて、そこに集まってきたのだった。
彼らは荒野の淋しい小屋から、人口の多い|campong《カンポン》〔マレー語で、村、部落の意〕から、海辺の村々からやって来た。一つの思想に呼ばれて、彼等は出てきた――彼等の森や、彼等の開拓地や、彼等の統治者の保護や、彼等の繁栄、彼等の貧困、彼等の若き日の環境を、彼等の祖先の墳墓を後にして。
彼等は、塵と汗と、あかにまみれ、ぼろぼろになってやってきた。家族群の先に立った強い男たち、ふたたび家郷に戻る希望のない腰のまがった老人たち、恐れを知らない目で物珍らしそうにチラチラ見ている若い少年たち、乱れた長い髪を垂らした恥ずかしそうな少女たち、顔をつつみ、眠れる赤子を、この厳しい信仰の幼い無意識の巡礼者たちを、汚れた頭巾の端にくるんで、しっかり胸に抱きしめている内気な妻たち。
「この家畜どもを見てみろ」
と、ドイツ人の船長は、彼の新しい一等航海士に言った。
この敬虔な旅行のリーダーのアラビア人が最後にやって来た。彼は美男で、厳粛で、白いガウンと大きなターバンをつけ、ゆっくり歩いて乗船した。一群の召使いが荷物を持って一列にあとにつづき、パトナ号は錨を上げ、波止場を後にした。
船は二つの小島の間をすすみ、帆船の投錨地をはすに横切り、小山の半円形の影が映っている中を滑走して過ぎゆき、次に泡立っている砂州《さす》の岩だなのすぐそばを進んでいった。
アラビア人は船尾に立ち、声高らかに、朗々と海の旅人の、祈祷を捧げた。彼はこの旅行に、いと高き神の恩寵を祈り求め、この人々の労苦と、彼等の心に秘めたねぎごととに神の祝福を嘆願した。
汽船は、薄闇の中を《マラッカ》海峡の静かな水面を蹴って進んだ。巡礼船の船尾はるかに、不信心の非回教徒らによって危険な州の上に立てられたねじ杭のような燈台は、そのほのおの目で、さも、船が信心のお使いをしているのを嘲笑してウインクしているように見えた。
船は海峡を通り抜け、湾を横切り、赤道直下の≪第一度線≫航路を進みつづけた。それは、晴れわたった空の下を、焼けつく、雲一つない空の下を、すべての思想を殺し、心を圧迫し、あらゆる力とエネルギーの衝動を枯らす燦爛《さんらん》たる日光に包まれた紅海に向かって、まっしぐらに進んだ。
そして、その不吉な、壮麗な、かがやく空の下に、深い碧水の海が静かに、一つの動きもなく、一つの波も、一つのさざ波も立てずに――ねっとりと、よどみ、死んでいた。
パトナ号は、かすかにシュッシュッと音を立てながら、その平らに光る滑らかな水上を通っていく――空を横切ってけむりの黒いリボンを拡げ、生命なき海上に、幻の汽船が描いていく幻の航路のように、たちまちに消え去る白い泡のリボンを船のうしろに残しながら。
毎朝太陽は、さながらその巡回を巡礼者の歴程と歩調を合わせているように、船尾から正確に同じ距離の所に、光の音の無い爆発で姿を現わし、午には船の上まで追いつき、敬虔な目的をもった人々の上にその燃える光線を集中し、滑るように通りすぎて下降をはじめ、毎夕、進みゆく船のへさきの前方に、同じ距離をおいて、神秘に沈んでいった。
船中の五人の白人たちは、船の中央部に、おびただしい人間の積荷から孤立して生きていた。デッキには、へさきから船尾《とも》まで、一面に白い屋根の天幕が張りめぐらされ、かすかなふんふんいう音、低い悲しいつぶやき声だけが、大洋の巨大なほのおの上に人間の群集が存在することを示していた。
こうして、静かな、熱い、重苦しい日々が、一つ一つ、さも船跡に永遠に口を開けている深淵の中に落ちていくように消えていき、そして船は、一すじのけむりの下に一人ぼっちで、まるで、天から容赦なく降りそそぐ火焔に焼き焦がされたように、無限大の光の中を、黒くくすぶりながら着々とその航路を進みつづけた。
夜が、船の上に祝祷のように下った。
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第三章
驚くべき静けさが世界一面にみなぎり、広がり、星は、そののどかな光芒とともに、永遠の安全性の保証を地上に降りそそいでいるように見えた。
西に低く光っている弧状の新月は、黄金の延べ棒から跳ねとんだ細い金の削りくずのようで、一枚の氷のようになめらかで涼しい、アラビア海は、その完璧な水平面を、完全な円を描いた暗い水平線にむかって延ばしている。
プロペラは、まるでその音も安全な宇宙機構の一部であるかのように、一つの停止もなく回転しており、パトナ号の両側には二本の深い水のひだが、波のない光の上に永久に黒々とつづき、ひだの一直線の分水線の中だけ、シュッシュッと低い音を立ててわずかな白い泡の渦と、わずかな波と小波と、わずかなうねりが爆発して後にのこり、船の通ったのち一瞬間海面をさわがせて、優しいしぶきを上げながら静まっていき、ついに水と空の円形の静寂の中に呑みつくされ、黒点のように動く船体が、永久にその中心に残された。
ジムはブリッジに立って、その静かに黙している大自然の容貌から、子供が母親の穏やかな優しい顔に育《はぐ》くむ愛の確実さを読みとるように、無限の安全さと平和の確信を深ぶかと胸に吸いこんだ。
デッキの天幕の下では、厳しい信仰に生きる巡礼者たちが、白人の叡知と勇気にその身をゆだね、回教に帰依《きえ》しない白人の力と爆発物を積んだ白人の鉄の船とに信頼して、安らかに眠っていた――ござの上に、毛布の上に、むきだしの板の上に、ありとあらゆるデッキに、あらゆる暗い隅々に、その身を彩色した布に包み、汚れた襤褸《ぼろ》にくるまり、頭を小さい包みの上に載せ、顔を折り曲げた腕におしつけ、ありとあらゆる恰好で眠っていた。男たち、女たち、子供たち、若者を連れた老人、頑丈な連れと一緒のよぼよぼな年寄り――すべての者が、死の兄弟である眠りの前に平等に。
船のスピードにあおられて船首《へさき》の方から吹いてきた一陣の風が、高い舷檣《げんしょう》の間の長い、暗い空間を通り抜け、横たわった体の列の上を走りすぎた。丸いほやの中のランプの薄暗いほのおが、そちこちに、テントの張り材から下がっており、そのぼんやり下を照らした、船の目に見えない震動でかすかに震えている光の輪の中に、上《うわ》向きの顎、二つの閉じたまぶた、銀の指環をはめた黒い手、破れた布をかけた貧相な手足、後に反りかえった頭、素足の脚、さも刀で切ってくれと差し出したように延ばしたむきだしの喉が見えた。
裕福な人々は、重たい箱類やほこりまみれのござで家族のために安全な眠り場をつくっており、貧しい人々は、彼等の全所持品をぼろ布の中にしっかり包んで枕にし、互いに並び合って寝ている。独りぼっちの老人たちは、脚を祈祷カーペットの上にちぢめ、両手で耳をおさえ、肘を顔の左右につけて眠っており、一人の父親は肩をいからせ、立て膝の上に額をのせて髪をもじゃもじゃにし、片腕を命令するように延ばして、仰向けに眠っている少年のそばで、元気なくうたたねしている。
死体のように白布で頭から脚の先までくるんだ女が、左右の腕のくぼみの中に、裸の子供を抱いている。リーダーのアラビア人の所持品が、右手の船尾にうず高く積まれて、輪郭のくずれた重たい土|饅頭《まんじゅう》をつくり、その上で貨物ランプが揺れ、その後に、ごった返したいろいろの形がぼんやり見える――光る太鼓腹の真鍮の瓶、デッキの椅子の脚かけ、槍の刃、荷包の枕にもたせかけた古い剣のまっすぐな鞘《さや》、錫《すず》のコーヒー沸かしの口。
船尾の手すりの上の測程器が、信仰者の巡礼船が一マイル行ったたびに、定期的に一つだけリーンと音を打ち鳴らしている。眠っている大群集の上に、時々夢に悩まされた者のかすかな、忍耐づよい吐息がうかび上がる。
とつぜん船底の方で、ガチャンと短い金属的な音がひびき、シャベルで石炭をかき集める音が、バターンと炉を閉める音が、まるで、下でその神秘な音のするものを扱っている男たちが、残忍な怒りでもいだいているかのように、獰猛な音で爆発した。だが、汽船のすらりと背の高い船体は、そのむきだしのマストを一揺りもせず、近づき難いうららかな空の下の、かぎりなく静かな水を不断に切り割りながら、なめらかに進んでいく。
ジムは斜めに歩いていった。彼の足音が、深い静けさの中で、まるで見張っている空の星々がこだまするように、自分自身の耳に大きく聞こえる。彼の目は水平線のあたりをさ迷い、じっと手のとどかない彼方をむさぼるように見つめているように見え、事件の近づいてくる影に気づかなかった。
海上にある唯一の影は、煙突から重そうに流れ出る黒煙だけで、その巨大な吹き流しの終わりは、いつも空に溶けこんでいた。
二人のマレー人が、黙々と、ほとんど身動きもせずに、一人ずつ舵輪の両側に立って舵を取っており、その真鍮のふちが、羅針儀の投げている長円形の明るみの中で、ピカピカ断片的に光っている。時々、黒い指の手が、舵輪の回転している矢を交互に離したり掴んだりするのが、光に照らされている所だけ見えた。舵輪の鎖が、|車地の胴体《キャブスタンバレル》のみぞを重そうに軋る。
ジムはチラリと羅針儀の方を見、手のとどかない水平線をちょっと見回し、あまりの平穏さに、ゆうゆうと体をねじって、関節がバリバリ音を立てるほど大きく伸びをした。そして、まるでその無敵の平和な光景で傲慢になったかのように、もう一生涯どんな事が起きようと平気のような気持になった。
時折り、ジムはなんという事もなく、操舵機ケースの後の低い三脚テーブルの上に四つの画びょうで留めた海図をぼんやりながめた。海の深さを描いたその紙は、支柱に吊るした手提ランプの光の下に、光った表画を見せていた。かすかに光る海面のように、平坦で滑らかな表面だった。両脚規のついた平行定規がその上に横たえてあり、昨日正午の船位置が、小さい黒い十字形で印してあり、ペリム〔アラビア半島南西端、アデン湾と紅海の間の港〕までしっかり鉛筆で一直線を引いて、船の進路を示している――たましいが聖地に行く道程が、救いの約束、永遠の生命の報いに至る道が。そして鉛筆は、裸船の円材が安全なドックの水の中に浮かんでいるように、その尖ったしんの先をソマリ沿岸〔アフリカ東部海岸地方〕につけて、丸く静かに横たわっている。
「じつに、船は着々と進行しているな」
と、ジムは驚嘆しながら、船と空のこの高度の平和に、何かしら感謝の気持で考えた。こんな時、彼の頭は、いろいろな勇敢な行為のことで一ぱいだった。彼はこういう夢や、自分が空想の世界で見事功績を立てる夢を愛した。それらは、人生の最上の部分であり、人生の秘かな真実であり、隠れた現実だった。
その夢は雄渾な迫力と、朦朧とした魅力を持ち、それらはジムの眼前を英雄的な足どりで通っていった。それらは彼のたましいを連れ去り、たましいを限りない自身の聖い麻薬で酔わせた。夢幻の世界では、ジムは何一つ敢然と立ち向かえないものはなかった。
彼はこの思想がすっかり気にいって思わず微笑し、ほんのお座なりに、監視の目を前方に向けていた。そして、ふと後を振りかえると、船の竜骨が海上に、ちょうど鉛筆で海図に黒い直線を引いたように、まっすぐな一直線の白い条《すじ》の船跡を引いているのが目に入った。
灰バケツが大きい音を立て、機関室の通風機がガチャン、ガチャン上がったり下がったりし、この錫の通風機の音は、彼の見張りも終わりに近づいたことを告げた。
彼は満足とともに、彼の自由な冒険の夢をつちかってくれる夜のしじまのあのうららかさから離れねばならない名残惜しさに、ためいきをついた。彼は少々眠たくもあった、そして、心地よいけだるさが彼の四肢を駈けめぐり、さながら彼の全身の血が、あたたかいミルクにでも変わったような気持だった。
彼の船長が、パジャマ姿で、寝巻きのジャケツを胸をはだけたままひっかけ、騒々しい足音を立ててやってきた。赤い顔をし、まだほんの半起きで、左目をつぶり、右の目を馬鹿のようにどんより見据え、その大頭を海図の上に垂れて、ねむたそうに手足を掻いた。彼のむきだしの肌には、何かぞっとするいやらしさがあった。むきだしの胸は、まるで眠っている間に脂肪がふき出しでもしたように、柔らかく、てらてら光っている。
船長は、荒々しい、生気のない、板の端をやすりでこすったようなかすれ声で、一言職業的な言葉を言った。彼の二重あごのひだが、顎の関節の真下に袋をくくり付けたように垂れ下がっている。ジムは答えた。彼の言葉には、目上への敬意がこもっていた。しかし、船長のいやらしい肥満した姿は、その瞬間、まるでいま初めてその正体を見たように、ジムの心に永久に、この愛する世界にひそむあらゆる邪悪な、下卑たものの権化として焼きついた――われわれは心の中では、自分を取りかこむ人々の中にわれわれの救いを信じ、われわれの見る光景の中に、われわれの聞く音の中に、われわれの肺臓を満たす空気の中に、われわれの救いを期待しているのだが。
細い金の剃刀《かみそり》のような新月が、中空をゆるやかに下の方に沈んでいって薄暗い海面に姿を没し、空の彼方の永遠の世界は、星をちりばめて一面にキラキラと光りだし、そのいっそう暗さを深めた半透明の光る半球形で、不透明な半円形の海をおおい、地球に近づいてきたように見えた。
船があまり滑らかにすべっていくので、さながら人間を満載した惑星が、すごいスピードで太陽群(ぞっとする静かな孤独の中に、未来の創造物の誕生を待っている)のうしろの暗い天の空間を疾走しているのに似て、船の進行の動きは、人間の感覚には知覚できなかった。
「いやもう、下は熱いのなんのって」
と、声がした。
ジムは、そちらを振り返らずに微笑した。
船長は、動かずに、広い背中をそっちに向けている。わざと、いかにもお前の存在なんか無視してるぞと見せつけるのが、この背信のドイツ人の癖だった。そうでなく相手と喋りたい時は、彼は振り返ってむさぼるようなギラギラした目を向けるや杏や、下水管からドッと汚水がほとばしり出るように、口から泡をふきながら、口ぎたないたわごとの猛烈な連発をはじめる。
いまは、船長はただ不機嫌にぶつぶつ唸っただけだった。ブリッジの階段のてっぺんにいた二等機関士は、濡れた両手で汚ならしいぼろの汗拭きを、もみくちゃにしながら、悪びれもせずに熱さをこぼしつづける。
――水夫どもはこの上甲板で、いい涼しい目をしてやがる。だが一体全体あいつ等はなんの役に立つってんだ、知りてえもんだ! 可哀そうな機関士たちゃ、とにかく船を進行させにゃならん。それにこの連中は、他の仕事だってよく出来るんだ。全くよ、この連中は――
「うるせえ、だまれ」
と、ドイツ人が鈍重な声でうなった。
「はあ、そうかね! うるせえ、だまれか――それで、何か一つ間違いが起きりゃ、あんたは俺たちんとこへ飛んでくるんだろ、ちがうかね?」
と機関士はつづける。
「――俺ゃ、熱さで半うでになってるんだ。だが、うだろうがうだるまいが、とにかく今はもうどれ位え悪行をしようと平ちゃらさ。どうせ俺ゃこの三日間、悪い野郎どもが死んでから行くあの焦熱地獄で、大した訓練を受けてきたんだ――誓ってそうとも!――その上俺ゃ、下のものすげえ騒々しい音で、いいかげん聾《つんぼ》になってるんだ。下じゃ、忌々しい、ごたついた、表面圧縮式とかぬかす、くされた鉄屑山が、いや、ガチャンガチャン、ガランガラン古いデッキウインチ〔巻き揚げろくろ〕どころの騒ぎじゃねえくそやかましい音を立てやがるんだ。
いったいなんで俺ゃ、毎日毎晩、あんな地獄で生命をちぢめなきゃならねえのか、一体全体、なんで、五十七回転して飛び回ってるぼろ船の仕事場の屑野郎の仲間入りしなきゃならねえのか、とんと俺にゃ合点がいかねえ。きっと俺ゃよっぽど、生命知らずの向こう見ずに生まれついたに違えねえや。俺ゃ……」
「貴様、どこで飲んだ?」
と、ドイツ人がひどく獰猛に、しかし、脂肪の固まりを切ってつくった不恰好な人形のように、羅針儀箱の、ランプの光をあびて身動きもせずに立ったまま訊いた。
ジムは、遠ざかっていく水平線を見ながら微笑みつづけていた。彼の心はおおらかな気持で一ぱいで、彼の頭は、自分自身の優越を瞑想していた。
「飲んだ!」
機関士は、愛想のいい軽蔑した声で鸚鵡《おうむ》がえした。彼は両手で手すりにだらりとぶら下がり、まるで脚のぶらぶら動く影絵のような恰好だ。
「あんたに貰ったんじゃねえよ、キャプテン。あんたは、もっとずっとけちん坊さ、全く! あんたは、いい男に一滴の酒をふるまうよりは、死なせるほうが好きだろう。そいつが、あんた達ドイツ人の言う≪経済≫さ。一文|吝《お》しみの百損てやつよ」
彼はふとセンチメンタルになった。機関長が、十時頃、彼にウイスキーを四口飲ましてくれたのだった。――「いいか、きっと一口だけだぞ!」――機関長はいい親爺だ。
だが、この古狸を寝床から引っぱり出すことは――五トンクレーンにも出来ない相談だった。こればっかりは出来ない。とにかく今夜はだめだ。大将は枕の下に最上等のブランデーの瓶をつっこんで、子供のように気持よく眠っていた。パトナ号の船長の太い喉からは、低いゴロゴロいう音がもれてき、その音の上で、シュヴァイン(豚《ぶた》)という言葉が、かすかな微風の中で羽毛が気まぐれにはためくように、高く低く舞っていた。
船長と機関長は、かなり長年の旧友だった。二人とも、ずっとある支那人の所で勤めていた――それは角ぶちの塵よけ眼鏡をかけ、紅い絹紐を灰色の弁髪《べんぱつ》に編みこんだ、愉快な、悪賢い老支那人だった。
パトナ号の本港の波止場界隈の噂では、この二人は、鉄面皮な使いこみにかけては、≪およそ考えられる限りのありとあらゆる事を、ぐるで上手にやってのけてきた古狸ども≫であった。
外観は、二人は正反対だった。一方は目のどんよりした、意地の悪い、柔らかく肥満した曲線型。いま一人は、痩せて、すかすかで、老馬の頭のように長い骨っぽい頭をし、頬は落ちくぼみ、こめかみも落ちくぼみ、冷淡な、どんよりした、落ちくぼんだ目をしていた。
機関長は、その昔どこか東の方で――広東《かんとん》か、上海《しゃんはい》か、あるいは横浜かの沖で座礁した。たぶん彼は、正確に何処であったか場所を覚えようともしないし、また難破の原因も気にしないのだろう。それはいまから二十年も昔のことだったが、彼は若さのおかげで、その難破船の中から静かに水上へ蹴り出ていった。そしてこのエピソードの思い出は、その中にほとんど不幸の痕跡を残さなかったということは、彼にはひどく悪いことだったかもしれない。
その当時は、ここらの海で汽船旅行が流行しだしており、この職業にたずさわる男は当初はごく数も少なく、彼はどうやらうまくいっていた。彼は初顔の人たちとみると、陰気な低い声で、自分は≪この界隈では古顔だ≫という事をつぶやいた。
この男が動くと、彼の衣服の中で骸骨がガタガタ揺れだしたように見えた。彼の歩くというのはただぶらぶらすることで、彼はこうして、四フィートの長さの桜材のキセルの先についた真鍮の雁首に詰めた麻薬入りの、香りのないタバコをふかしながら、さもかいまみた大真理から哲学を編み出そうとする思想家よろしくの勿体ぶった、低能の厳粛さで、いつも機関室の天窓のあたりを、ぶらぶら歩き回っていた。
機関長は、普段はけっして自分の秘蔵の酒をふるまうどころではなかったが、あの晩は、自分の主義にお別れしたので、彼の次席の、お脳の弱いウオッピング〔ロンドン東部、テームズ河畔の古い船着場のあった地区〕生まれの二等機関士は、思いがけないご馳走とお酒の力で、すっかり愉快に、生意気に、お喋りになってしまったというわけだ。
ニュー・サウス・ウェルズのドイツ人の怒りは最高点に達した。彼は、排気管のようにぷっぷっと荒い息を吐いた。ジムは、この場面《シーン》をいささか面白くは思ったが、下へ行ける時が待ち遠しかった。見張り番の最後の十分間は、発射をぐずぐずしている銃のように苛立たしい。あの男たちは、英雄的冒険には縁なき衆生だ。とはいえ、彼等はべつに悪人ではない。船長自身でさえ……
船長があえぐたびに腹の巨大な肉塊が盛りあがり、そこからゴロゴロとつぶやき声や、わけの判らない汚ならしい言葉が、ぽろぽろこぼれ出る。だが彼は、これにしろ何にしろ、強く嫌うにはあまりに一ぱい機嫌でけだるかった。
とにかくこういう連中の性質は、ジムにはどうでもよかった。彼は連中と肩をすり合って働いてはいるが、彼等はジムに指一本触れることは出来なかった。ジムは彼等と同じ空気を吸ってはいたが、しかし、ぜんぜん別種の人間だった……船長め、機関長を呼びに行くかな?……
人生は生きやすく、ジムはあまりに自信満々だった――この連中のことを本気で気にするには、あまりに自信満々だった……彼の瞑想と、立ったままで秘かにまどろむ彼の夢幻三昧との開きは、蜘蛛の糸よりも細かった。
二等機関士は論点を経済と勇気の問題に早変わりさせて言いだした。
「誰が酔っぱらってるって? 俺が? いや、とんでもねえ、キャプテン! そりゃ違う。あんたももういいかげん、機関長は、雀に酒をふるまうほど大まかな男じゃねえって事位いは、知ってもいい頃ですぜ。全くさ。
俺はね、生まれてこの方、酒に酔っぱらったためしはねえんだ。まだ、この俺様を酔っぱらわせるような代物は醸造されていねえのさ。呑み競争で、もしあんたがウイスキーを幾樽も飲み干すんなら、俺の方は、火の酒を飲んで見せるぜ、誓って、それでも胡瓜《きゅうり》みてえに涼しい顔でいられるって。
俺ゃ、もし自分が酔っぱらったと思やあ、ここから海へ飛びこんで――自分を片付けちゃうぜ、誓って。そうするとも! 確かだ! けっしてブリッジから転ろげ落ちたりはしねえよ。いってえ、今夜みてえな晩は、俺ゃどこで空気を吸やいいんだね、え? あの下甲板で、あの害虫どもと一緒にかね? まさか――冗談じゃねえぜ! それに俺は、あんたが俺に何をしようと怖かねんだ」
ドイツ人は二つの重たいげんこつを高く振り上げ、一言も言わずにそれを振り回した。
「俺ゃ、いったい怖いってどんな事だか知らねえな」と、二等機関士は、しんから確信しているらしい情熱をこめてつづけた。「俺は、この腐れた帆船の中で、ありとあらゆるひでえ仕事をするのも恐れねえ、誓って! あんたにとっちゃ、この世に俺みてえな生命知らずの奴がいるのは嬉しいことさ。もしいなかったら、いったいあんたはどうなるんだ――あんたや、ボール紙みてえな――全くボール紙みてえな、鉄板をはりつけたこのぼろ船は? あんたにとっちゃ、何もかもごく結構なことさ――あんたはこの船から、あれやこれやで金力を手に入れる。だが俺ゃどうだ――俺ゃ何をもらえるんだ? 一月けちな百五十ドルで、衣食自弁ときてる。俺ゃあんたに恭しくお尋ねしますがね――うやうやしくですぜ――一体全体こんないまいましい仕事を、ポイとうっちゃらねえ奴がいますかね? 危ねえ仕事さ、全く、危ねえとも! ただ、俺ゃ、あの怖えもの知らずの野郎どもの一人だから……」
二等機関士は手すりを放し、さも空中に彼の勇気の形と大きさを示そうとするような大きな身振りをした。彼の甲高い細い声が、語尾を長く引っぱって海上を走り、彼は、いっそう強い表現力のある言葉をさがして、爪先立って前に行ったり後に行ったりし、とつぜん、背後から棍棒でなぐられでもしたように、ドタンと前にのめった。
「畜生!」
と、彼はころびながら言った。彼の叫びにつづいて、一瞬間、あたりは静まりかえった。ジムと船長は、一斉にふらふらと前によろめき、あわててしゃんと起き直り、体をひどく硬くして立ち止まって、呆然と滑らかな海面を見つめた。それから彼等は、空の星を見上げた。
何事が起きたんだろう? エンジンの音はガタガタつづいている。地球が運行中に阻止されたんだろうか? さっぱりわけが判らない。すると突然、静かな海と、雲のない空とが、動かずに立っている彼らの前で、口を開けた破滅の眉の上にぶら下がっているように、怖ろしく不安定に見えだした。 機関士は、体をのばしたまま垂直にはね反り、またへなへなと崩れてかたまりになった。このかたまりが、いかにも悲しそうな含み声で言った。
「いったいこれはなんだ?」
かすかな雷鳴、ひどく遠方で鳴っている雷鳴のようなかすかな音、いや、音というより、ほとんど震動にすぎないものが、ゆっくり通りすぎ、船は、その雷が海底深くで鳴りでもしたかのように、それに呼応して震えた。
舵をとっている二人のマレー人の目が、キラリと白人たちの方を向いた。が、彼等の黒い手は、舵輪の取っ手をしっかり握ったままだ。行進中の尖った船体が、さもふやふやと柔軟になったように、ふんわり数インチずつ浮き上がるように思われ、またふたたび硬く落ち着いて、滑らかな海面を切って進む仕事にもどった。船体の震えは止まり、かすかな雷鳴もパッタリ止んだ――さながら船は、水が震動し空が低くうなっている狭い海峡を横断し終えたかのように。
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第四章
それから一カ月かそこら後に、ジムは法廷の辛辣な質問に答えて、その時の経験を正直に、ありのまま語ろうと努めながら言った――
「船はたとえそれか何事であったにしろ、棒の上を這っていた蛇が倒れるように、ふわりと楽に転覆しました」
この譬喩は適切だった。質問は事実を狙い、この公式の審問は、ある東洋の港の警察裁判所でおこなわれていた。ジムは高い証人台の上に立ち、冷たい厳めしい部屋で、燃えるように赤い頬をしていた。彼の頭上高く、大きなパンカ〔天井から吊るし機械で動かす大きなやしの葉の扇〕が優しくそちこちに動いており、下の傍聴席からは、たくさんの目が一斉に彼を見ていた。――黒い顔、白い顔、赤い顔、人々は、まるでジムの声に魅せられたように、狭いべンチにキチンと並んで腰をかけ、じっと耳をすまして聴き入っている。
ジムの声は大そう大きく、我ながら驚くほど大きくひびき渡った。あたりは静まりかえって彼の声のほかは何の音もせず、彼の答えを強要する恐ろしく明瞭な質問は、彼の胸の中で苦しみと痛みの姿に変わり――人間の良心を攻める恐ろしい訊問のように、無言の辛辣さで彼をさいなんだ。
法廷の外では太陽がギラギラ輝き――室内の巨大なパンカ扇の風にぞっと身震いし、屈辱に頬を焼かれ、彼を見つめた数多《あまた》の目に心臓を突き刺された。
きれいに鬚を剃った冷静な顔の裁判官は、二人の赤ら顔の海洋裁判所補佐の間から、死人のような蒼白い顔を出してジムを見た。
天井の下の広い窓から射す光が、上からこの三人の男の頭や肩を照らし、じっと目を見据えた聴衆が影のように見えるほの暗い大きな法廷の中で、三人だけが獰猛にハッキリ浮き出ている。彼は事実を要求した。事実を! 彼等は、さも事実が何かを説明できるかのように、ジムに事実を述べろと強請した。
「君は、何か水面すれすれに漂っている、例えば、水浸しの難破船のような物に、船が衝突したと結論した後で、君の船長から、船首へ行って、何か破損したかどうか確かめるように命じられたんだね。で君は、衝撃の強さからして、そういう事はありそうだと考えましたか?」
と、裁判官の左に坐っていた補佐が訊いた。この補佐は、薄いU字形のあごひげを生やした、頬骨の突起した男で、両肘をデスクの上にのせ、顔の前で自分の毛むくじゃらな手を組み合わせ、考え深い蒼い目でジムを見ていた。いま一人は、ものうげな、人を馬鹿にしたような男で、椅子の背にもたれて反《そ》りかえり、左腕をぐっと延ばして指先で吸取紙をそっと叩いている。その二人のまん中で、裁判官は広い肘掛椅子にまっすぐに腰掛け、頭を心持ち一方の肩の方にかしげ、胸の上で腕を組んでいる。彼のインキ壷のそばのガラスの花瓶には、数本の花がいけてある。
「そうは思いませんでした」とジムは言った。「僕は、騒動を起こさせないために、誰も呼ばず何の音も立てないようにと言われました。この用心はもっともだと思いました。僕は、天幕の下に吊るしてあったランプを一つ取って船首の方へ行きました。
船首艙の艙口《ハッチ》を開けると、中で水のはねる音がしました。そこで僕は、ランプの吊りひもを伸びるだけ下へ降ろし、船首艙はすでに半ば以上水浸しなのを見つけました。その時、吃水線の下に大穴が開《あ》いているに違いないと考えました」
ジムは言葉を切った。
「なるほど」
大男の補佐が、吸取紙に向かってねむそうに微笑《ほほえ》み、指は絶えず音を立てずに紙を叩きながら言った。
「その時は、僕は危険のことは考えませんでした。少し仰天していたかもしれません。この事はみな、あまり静かに、あまり突然起きましたから。僕は、船には、船首艙と前船艙とを区切っている防水遮断壁《コリジョン・バルクヘッド》のほかに遮断壁《バルクヘッド》はないのを知っていました。
僕は船長にこの報告をしようとして戻って行きました。そして二等機関士が、船橋梯子《ブリッジ・ラダー》の下で起き上がろうとしているのに出会いました。彼は呆然として、左腕を骨折したらしいと話しました。僕が船首の方へ降りていってる間に、彼は梯子段のてっぺんから滑り落ちたんです。彼は叫びました。
『大変だ! あの腐れた遮断壁《バルクヘッド》は、アッという間に崩壊《くずれ》ちゃって、忌々しいぼろ船は、鉛のかたまりのように海へ沈んじまうぞ』
機関士は右腕で僕を押しのけ、叫びながら僕の前を梯子を駈け登って行きました。
僕はそのあとから続いて駈け登り、ちょうど船長が、機関士に飛びついて彼を仰向けに叩きのめしたのを見ました。船長は、二度と叩きませんでした。彼は立ったまま機関士の上に体をかがめて、怒ったように、でもごく低い声で言っています。船長は機関士に、デッキの上で騒ぎ回っているひまに、なぜ早くエンジンを止めに行かないんだと言っていたようです。僕は船長が言うのを聞きました。
『起きろ! 走れ! 飛べ!』
船長は悪たいもつきました。機関士は右舷の梯子を滑り下り、天窓を走り回って右舷側の機関室の仲間のところへ飛んで行きました。そして、走りながらうめきました……」
ジムはゆっくり言った。彼はその時の光景をよく生々と、すばやく思い出した。彼は事実を求めているこの裁判官たちに、いっそうよく報告するために、こだまのように、機関士のうめき声を出してみせることも出来ただろう。彼は最初はむっと反撥を感じたが、やがて、結局ただ細密正確な供述だけが、このぞっとする事件の背後にある本当の恐怖を示すことができるのだと考えるようになった。
審判官たちがひどく熱心に知りたがっている事実というのは、目に見え、手で触れることができ、五官でハッキリ感じられ、あの千四百トンの汽船と、時計で二十七分間の出来事という時間と空間を占めたものであった――すなわち、事件の顔形、いろいろな表情、目に印象づけられた複雑な外観、そしてその他の何か、目に見えない何か、邪悪なたましいが忌わしい肉体に住むように、この事件の中にひそむ破滅に導く悪霊――それらすべてを網羅した全貌であった。
ジムは、これを皆の前に明らかにしようと懸命だった。これは普通の事件ではなく、その中に起きたあらゆる一つ一つの出来事がみな極めて重要で、それに幸い、彼は何もかも覚えていた。彼は真実を明るみに出すために語りつづけたかった、たぶん、彼自身のためにも。そして彼は慎重に語りつづけながら、一方において、彼の頭は、彼のまわりに殺到し、彼を同類の人々から切り離す、事実の垣の厚く囲んだ円の中をぐるぐる懸命に飛び回っていた。それは、高い矢来の囲いの中に閉じこめられた獣《けもの》が、夜、半狂乱で、弱い個所はないか、割れ目は、よじ登る場所は、体を押し出して脱け出す隙間はないか? とぐるぐる走り回っているのに似ていた。頭がこうして珍らしく必死で活躍していたことが、彼を時々、話しながらためらわせた……
「船長は、ブリッジの上を絶えずそちこち歩きつづけていました。彼は見たところ充分冷静そうでしたが、ただ、彼は何回もころびました。そして一度は、僕が立って話しかけているのに、船長はまるで盲人のように、僕に突き当たるのも知らずに、まっすぐ歩いてきました。僕の言うことに、何もハッキリした返事をしません。キャプテンは一人でぶつぶつ言っており、僕に聞きとれた数語はただ、
『忌々しい蒸気め!』と『畜生、蒸気め!』――で、何か蒸気についてでした。僕は考えました……」
ジムは論点がずれてきた。的《まと》をついた質問が、苦しいさしこみのように彼の言葉を遮り、彼は急にひどく消沈して、疲れたようだった。彼は的に近づいてきた、彼はそこへやってきた――すると、いきなり、残酷に話を妨げられ、彼は≪イエス≫か≪ノー≫かで答えることを命じられた。
彼は誠実に、短く、「ハイ、しました」と答えた。そして美しい顔で、大きな立派な体格で、若い憂いにしずんだ目をして、証人台の上でしゃんと肩をそびやかし、他方彼のたましいは、身もだえ苦しんでいた。
ジムは、もう一つ、いかにも的をついた、そして実に無益な質問に答えさせられ、それからまた待たされた。彼の口は、まるで砂塵を食べさせられたように味気なくパサパサに乾き、やがて、海水を飲んだあとのように塩辛く、苦々しくなった。
ジムは汗にぬれた額を拭き、乾いた唇を舌で舐め、ぞっと背すじを身震いが走るのを感じた。
大男の補佐はまぶたを伏せて無頓着に、悲しそうに、音を立てないで紙を叩きつづけている。いま一人の補佐の目は、日焼けした指を組んだ上から、優しい光をうかべているように見えた。裁判官の体が前方に揺れた。彼の蒼白い顔が、花の近くでためらい、それから椅子の肘つきの上に横向きに落ち、彼は片方の掌の上にこめかみを休めた。
パンカ扇の風が、人々の頭上に、体に大きな垂れ布を巻きつけた黒い顔の土人たちの上に、肌のようにぴったりして見える太綾織りのスーツを着、膝に丸い髄《ずい》の帽子をおいて、ひどく熱そうに固まって坐っているヨーロッパ人たちの上に、渦巻き流れており、一方、壁にそって、長い白い上衣のボタンをきちんとはめた廷丁たちが、そろそろ歩きながら時々機敏にそちこちに飛んで行っている――すあしで、赤いサッシをつけ、頭に赤いターバンをのせて、幽霊さながらに音を立てずに走り、レトリーバー種猟犬のように油断なく。
ジムは、答えの合間合間にぼんやり周囲をながめていたが、ふと一人の白人が、他の人々から離れて、顔は疲れて曇ってはいるが、しかし静かな澄んだ目で、興味ありげにまっすぐこちらを見ているのに目が止まった。
ジムは、また一つの質問に答えながら、すんでに叫び出しそうになった――
「いったいこんな事を訊いて、なんの役に立つんだ! 何の役に!」
彼は、そっと片脚を踏み鳴らし、唇を噛み、人々の頭ごしに向こうを見た。彼の目が、あの白人の目とバッタリ合った。彼に、向けられていたその白人の目は、他の連中の魅せられたように見つめている目ではなかった。それは知的な意志力をもった目であった。
ジムはそれから次の質問までの間に、ちょっと考えるだけの心のゆとりを持った。この白人の男は――とジムは考える――さも俺の肩ごしに誰かか、何かが、見えるような目で俺を見ている。俺は前にこの男と会ったことがある――たぶん通りで。だが確か、一度も言葉を交わしたことはないはずだ。
幾日も、長いこと幾日も、ジムは誰とも話をしなかった。彼は黙って、とりとめもなく、独房の囚人か、または荒野で道に迷った旅人のように、独りで果てしない自間自答を繰りかえしていたのだ。
――いま俺は、目的はあるにしろ実はどうでもいいくだらない質問に答えている。だが今後は一生涯、俺は二度とふたたびこの問題を口にしないかもしれない――
彼は真実に、真剣に陳述すればするほど、いよいよ、もう言葉なんかは俺にはなんの役にも立たなくなってしまったんだ、という考えが深まり強まるだけだった。
――だか、あそこにいるあの白人の男は、俺のこのどうしようもない窮地に気づいているらしいな――ジムはじっとその男の顔を見た。そしてそれから、最後の別れを告げた後のように、決然と目をそむけた。
その後、世界の遠い果てで、いくたびとなく、その傍聴席でジムを見つめていた白人の男マーロウは、懐しくジムを思い出し、ついにある時、詳細に、ジムの思い出話をするのをこころよく承知したのだった。
たぶん夕食後、ヴェランダで、花をつけた静かな緑葉に囲まれて、深い薄暮の中に、点々と火のついたタバコの先を浮かばせながらがいいだろう。長い、大きな籐椅子の一つ一つには、聴き手が黙って坐っている。
時々、タバコの小さい赤い光が急に動いて大きくなり、もの憂い手の指と、深ぶかとくつろいだ顔の一部を浮き上がらせたり、またピカッと赤い閃光が、冷静な額の一部が影をおとしている二つの物想いに沈んだ瞳を照らし出したりした。――そして、最初の一言を言い出すと同時に、椅子に長々と延びて休息していたマーロウの体は突然静止し、まるで彼のたましいはつばさを拡げて長い時の経過を飛び戻って行ってしまい、遠い過去の世界から、唇を通して話しかけているかのようだった。
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第五章
「うん、そうだ。私は訊問を聴きに行った」と、マーロウは言った。「そして今になっても、なぜ自分か出席したのか、不思議な気持が抜けない。私は、人間各自には守護《まもり》の天使がついてると喜んで信じるよ――もし諸君が、われわれ各自には、同様になじみの悪魔もついているという私の意見に賛成ならね。
私はとにかく自分だけ例外だと感じたくないし、それに私は、彼がいることを知っているから――むろん、悪魔がさ――だから、諸君もそうだと潔く白状してもらいたいんだ。もちろん、悪魔を見たことはないが、しかし、状況的証拠に基づいて言うんだ。悪魔は正しくそこにいて、悪意で、私をああいった種類のことに陥れるんだな。
どんな種類の事かって、君は訊くのか? そりゃ、あの取調べの事とか、野良犬の事とかさ――君は、まさか汚ならしい、土人の野良犬が、法廷のヴェランダにいる人々の足をさらって躓かせるとは思わんだろう?――ところが、そういった種類の事が、曲がりくねった、思いがけない、全く悪魔的な方法で、私を、いろんな弱点や、残酷さや、かくれたすごい伝染病を持った人々にぶつからせるんだ、ヨブに誓って! そして彼等は私の姿を見ると、彼等のいまいましい厄介な秘密を打ち明けはじめるんだ、まるで、私には、人知れず自分の心に打ち明けている秘密がないかのように、まるで――ああ、助けてくれ!――まるで私には、この命数つきて死ぬる日まで、自分自身を苦しめる自分自身についての秘密事項を、十二分に持ち合わせていないかのように。
こういう有り難い目に会うのは、いったい私が何をしたからだというのだ! あえて言うが、私も他の人たちと同様に、自分自身のことで一ぱいなんだし、そして私の記憶力だって、この谷にいる普通の旅人なみだし、君たちにも判るとおり、私は何も特別、他人の告白を聴く道具にぴったりの人間というわけではない。ではなぜか? 判らん――まあ、夕食後の暇つぶしの話の種にとでも考えるかな……
チャーリー君、君のご馳走はすてきにうまかった。おかげで、ここに居並ぶ面々《めんめん》は、ちょっと体をこするのさえ、大仕事のように考える。こういう男達が、いま諸君の気持のいい椅子の中でごろごろしながら考える――『俺たちゃ、骨の折れる事はまっ平だ。まあ、マーロウ君に話させよう』
話せか! そうしよう。それに、噂もだいぶ知れ渡った後だし、海抜二百フィートの高地で、上等の葉巻の箱は手許にあり、星は光っているこんなさわやかな、気持のいい晩には、ジム君の話もしやすい。今夜は、われわれの中の最上の者でも、人間はみな天の情けで黙許されてこの世に生きているだけで、よく十字光に照らして行く道を選び、貴重な一分一分に、やり直せない人生の一歩一歩によく注意して、最後には立派にこの世を去れるだろうと信じ、――しかし結局あまり自信はないが――そして、畢竟人間は人生の旅路で袖すり合わせる人々から、ほんの微々たる援助しか期待できないものだということを、つい忘れさせられるような晩だからね……
もちろん、広い世間のそちこちには、一生涯、ご馳走の後で葉巻を喫っているような人生を送る人々もいる。気楽な、愉快な、空虚な、そしてたぶん、何か奮闘物語で彩られた、しかしその物語も終りまで話さないうちに忘れられてしまう――終りまで話さないうちに――たとえ、こんな主人公の人生にも、何か終りがあったにしろ。
私は、あの取調べの時、初めて彼と目が合った、諸君は知っているに違いないが、何か海に関係を持っている連中は、誰も彼もみなあそこに来ていた。というのも、あの事件は、謎の海底電信がアデン〔アラビア南西部の英国保護領〕から来て以来われわれはみな噂、取り沙汰をはじめ、幾日となく悪評|囂々《ごうごう》だったからだ。私が≪謎≫というわけは、たしかにあの報道はむきだしの事実を、およそできる限りのむきだしな、醜い事実を含んではいたが、ある意味で謎だったからだ。
港じゅうは、この噂だけで持ち切りだった。朝、私か自分の専用室で着替えをしながら隔壁ごしに聞いた最初の言葉は、従僕のパルシー教徒のデュバッシュが、食器室で、おふるまいのコーヒーをすすりながら給仕と喋っているパトナ号の噂話だった。私は上陸するや否や誰か知人に出会う、すると最初の言葉は――
『君、これ以上凄い話を聞いたためしがあるかね』
で、それを言う男の種類によって、ニタリと皮肉な笑をうかべるか、悲しそうな顔をするか、または一言二言悪たいをつくかだった。全くの赤の他人同士も、この話題を楽しむだけのために、互いに親しそうに呼びかけ合い、町のあらゆるイカレたのらくら者達は、この事件を肴《さかな》に一パイ乾杯しようと酒場へやってきた。
港湾事務所でも、ありとあらゆる船舶ブローカーの所でも、諸君のエイジェントの所でも、この話題はセンセーションを巻き起こし、白人も土人も混血人も、諸君が埠頭《ふとう》を登って行くと石段の上に半裸体でうずくまっている船頭たちまで、この話で持ち切りだった――全く!
ある者は憤慨したり、面白がってジョークを飛ばしたり、≪一体全体パトナ号の奴等はどうしたってんだ?≫と議論は果てしなくつづいた。
この状態は二週間かそれ以上もつづき、結局、この事件に含まれていた謎は、また悲劇的なものであることが明らかになり、そういう考えが優勢になりだした。――それは、ある晴れた朝、港湾事務所の石段ぎわの木蔭に立っていた時、四人の男が桟橋を渡ってこちらに歩いてくるのを見た時からだ。
私は、しばらく、一体全体どこからあの奇妙な一行は湧いて出たんだろう? といぶかしんでいた。そしてとつぜん、思わず心に叫んだ、
『こいつらだ!』
たしかに彼等だった。三人は人並の大きさ、一人は、生きた人間の大きくなる権利をぐっと超過した巨大な胴体の男で、日の出一時間後ころに入港したデール航路の外航船で、上等の朝食をたっぷり腹に入れて、たった今上陸したところだった。
それに間違いない。私は一目で、パトナ号の愉快な船長を見分けた、彼は、このよき古き地球をきれいにぐるりと巻いている恵まれた熱帯地帯中で、一番肥え太った男だ。その上、九カ月かそこら前に、私は、ジャバのサマラング港で彼に出会っていた。
その時、彼の汽船は道をふさいで積荷をしており、彼はドイツ帝国の制度をののしりながら、一日中、そして毎日毎日、デ・ジョングの奥でビールびたしになっており、ついに、日頃は眉一つ動かさずにビール一本一ギルダーを請求しているさしものデ・ジョングも、私をわきへ手招きし、彼の小さい、レザーばりの厚い面《つら》の皮をしかめて、私にそっと打明けるように言ったものだ。
『商売は商売ですが、でもね、船長さん、この男ばかりはうんざりですよ。チェッ!』
私は木蔭から彼を見ていた。彼は先に立って少し急いで歩いており、強い日光を浴びて、彼の巨躯が呆れた風体で浮き出している。彼の姿は、サーカスの赤ん坊象が後脚で立って歩いている光景を連想させた。彼は、おまけにひどく豪勢な恰好をしていた――はでなグリーンと濃いオレンジ色の縦縞のよごれた寝巻を着、素足にぼろぼろの藁《わら》のスリッパを穿き、誰かの棄てた髄の帽子をかぶっているが、この帽子がまたひどく汚なくて、彼の頭の半分のサイズもない小さいやつを、マニラ麻のロープのほつれで、その大頭のてっぺんに縛りつけている。
こういう体格の男は、借り着をする段になると、全く歩が悪いことは、諸君判るでしょう。大将は大あわてで、右も左も見ずに、私の三フィートそばを馬車馬のように通りすぎ、自分の職権剥奪のためか、事故報告のためか、あるいは何のためにせよ、自らは青天白日の気持で、港湾事務所の二階をどんどん登って行った。
どうやら彼は、直ぐ主任海員監督官に言葉をかけたらしい。アーチー・ルースベル監督は、ちょうどこの時オフィスに入ってきたところで、話によれば、先生は出所第一番にまず自分の書記長に大目玉を食わせて、おもむろに彼の奮闘の一日を開始しようとしたところだった。
諸君の中には、この主任海員監督官を知っている人もいるだろうが――彼は世話好きな、チビの混血ポルトガル人で、情けない骨と皮ばかりの首を長くして、いつでも船長たちから何か食べられる物を――塩づけの豚肉一切れ、ビスケット一袋、数個の馬鈴薯、なんでもかまわず、いまにも飛びついて貰おうとしている。
私は思い出すが、ある航海の時、彼に航海用のストック品の余りから、生きた羊を一匹チップにやったことがある。べつに何かしてもらう積りではなかった。――どうせ彼には何も出来っこないんだ――が、自分は役得を得る神聖な権利があると信じこんでいるあの先生の子供のような信念が、私の心をくすぐったからだ。その信念の強さは、ほとんど美しいほどだった。ポルトガル人種の土根性か――むしろ混血人のそれか――それと気候の……しかし、諸君気にし給うな。私も、どこの土地に生涯の友を持っているかは知っている。
さて、このルースベルの言うには、彼は朝、書記長に一席厳しい説教を――官吏の道徳についてだと思う――していた時、ふと後で、一種の忍びやかな騒動の音が聞こえたので振り返ると、こはいかに、当人の言い草では、何か丸い、巨大な、千六百ポンド入りの砂糖の大樽を縞のフランネルで包んだのに似たものが、事務所の広い床のまん中に、さか立てて置いてあるのが目に入った。
彼はあまり胆をつぶしたので、かなり長いこと、それが生きものとは気づかず、じっと坐って、いったいなんの目的で、どういう方法で、あの品物を俺のデスクの前へ運んできたんだろう? といぶかっていた。
次の間につづくアーチ道は、パンカ引きの人々、掃除夫たち、警官たち、艇長たち、港の機動艇の船員たちで一ぱいで、みな首を長くし、ほとんど互いに前の人の背中によじ登らんばかりだ。全く暴動騒ぎだ。
その頃、縞フラノの砂糖樽君は、やっと引っぱったり、突いたりひねったりして帽子を頭から払いのけ、ルースベルに軽くおじぎをして前に進み出た。ルースベルの話では、この光景があまり彼の心をかき乱したので、しばらくの間は、相手の言葉を聞いても、いったいあの怪物は何しに来たのか、さっぱり判らなかった。怪物は、耳ざわりな、悲しげな、そのくせ大胆不敵な声で、何か自分に話しており、やがて少しずつ、アーチーは、これは、パトナ号事件の顛末だと判ってきた。
ルースベルは私に言った、彼は、自分の前にいるそのバケ物が誰だか判るや否や、急にひどく気分が悪くなった――アーチーはとても同情もろくて、じきに気が顛倒する男なんでね――が、しゃんと気を取り直して、叫んだ。
『黙れ! 君の話は聞けん。君は所長のところへ行くんだ。私はたぶん君の話は聞かれん。君の会う人はキャプテン・エリオットだ。こっちだ。こっちだ』
アーチーは飛び立ってその長いカウンターを走って回り、相手を引っぱったり、押しこんだりして進んだ。相手は、驚きはしたがしかし最初は素直にされるがままになり、個人用オフィスのドアのところで初めて一種の動物本能からしりごみし、怯えた牡牛のように鼻嵐をふいた。
『さあさあ! どうしたんだ? 行こう! さあさあ!』
アーチーはノックをせずにパッとドアを開け、
『パトナ号の船長です、所長』と叫んだ。『入んなさい、船長』
アーチーは、老所長が、書き物の上に伏せていた顔を余り急激にもたげたので彼の鼻眼鏡が下へ落ちたのを見て、あわててバタンとドアを閉め、彼のサインを待っている書類の載っている自分のデスクに逃げ帰った。しかし、所長室で爆発した騒動があまり恐ろしかったので、彼は自分の名前のつづりを思い出せないほど気が顛倒してしまった。
アーチーは、東西両半球の中で最も感じ易い海員監督官だった。彼は所長室の叫びを聞いた時、まるで自分が、空腹なライオンに人間を投げ与えたような感じだったと断言した。たしかに大した怒鳴り声だった。私は階下にいてそれを聞いたし、その声が、海岸のドライブ道を横切って音楽堂までハッキリ聞こえたことを、あらゆる理由で信じるね。
エリオット爺さんは、大した毒舌のストックを持っており、大声で怒鳴った――その上、誰を怒鳴りつけているのかも一向にかまわなかった。きっと大将は、インド総督自身をでも怒鳴りつけたに違いない。私はよく彼の言い草を聞いた――
『わしは、力の限界まで出世したし、わしの恩給は、至って安全だ。少しは小金もたまった。もし彼等が、わしの義務観念が気に入らんけりゃ、わしは、すぐにでも、この職を投げて故国へ戻るよ。わしは老人で、いつも自分の心に言っているんじゃ、いまわしに大事なのは、わしの死ぬ前に娘の結婚式を見たいことだけじゃ』とね。
エリオット爺さんは、この点では少し気違いじみていた。彼の三人の娘たちは、とてもいい娘だったが、見たとこはびっくりする程彼にそっくりで、彼が娘たちの結婚に暗い見通しをもって目を覚ましたその朝は、港湾事務所の連中は、所長の目つきでそれと察してみな身震いした。所内の連中は言った『老大将、今朝はきっと誰かを朝飯代わりに食っちまうぞ』
でもあの朝は、エリオット老人は、あの回教に改宗したドイツ人を食いはしなかったが、しかし、もしこの隠喩をつづけることを許してもらえるなら、言わばこなみじんに噛みつぶしてしまった。そして――ああ! 彼をふたたびつまみ出した。
こうして、ほんの数分のうちに、私は、彼の怪物的巨大な体が急いで下りてきて、外の石段に立ち止まっているのを見た。彼は沈思黙考のために、私のすぐそばに立ち止まり、大きな紫色の頬をぶるぶる震わせた。彼は拇指を噛んでいたが、しばらくすると、バツの悪い横目で私を見た。
この男と一緒に上陸した他の三人の奴は、小さくかたまって少し離れたところで待っている。黄白色の顔をした、賤しい小男で、片腕に吊り包帯をしており、いま一人は青いフランネルの上衣を着た細長い人物で、木っ端のようにドライで、箒のようにひょろひょろして弱そうで、下に垂れた灰色の口鬚をし、低能の気軽さであたりを見回している。
三人目は、すらりと姿勢のいい、肩幅の広い青年で、両手をポケットに突っこみ、しきりに話し合っているらしい他の二人に背中を向けて立っている。彼は、じっと人のいない音楽堂の向うを見つめている。
ガタガタな辻馬車が一台、ほこりまみれで、ベニス式のブラインドをつけ、このグループの向う側に急に止まり、馭者は、右脚を膝の上に載せて、一心に自分の足の爪先を調べはじめた。しかし、あの若者は身動きもせず、頭を動かすことさえしないで、ただじっと音楽堂ごしに陽光を見つめている。
これが、私がジムを見た最初だった。
彼は、若者だけにあり得るあの冷然とした、近づき難い様子に見えた。彼は清潔な四肢をもち、清潔な顔をして、しっかり大地を踏みしめて立ち、かつて太陽が照らした青年の中で、最も有望な青年に見えた。
私は彼を見ながら、自分はパトナ号事件の事で彼の知っている事は皆知っているし、その上、少しは彼の知らない点まで知っていると考えると、急に、彼が仮面をかぶって私から何かを盗もうとしたのを見つけでもしたように、彼にたいして無性に腹が立ってきた。彼は、あんなに健全に見える権利はない筈だ。
私は考えた――そうか、もしこんな立派な見かけの人間が、あんな風に身を誤り堕落することが出来るなら……そして私は、かつて目撃したイタリアのバーク帆船の船長が、彼の能なし船員が船で一ぱいの碇泊地で、飛行投錨をしながらへまをして、彼の錨をめちゃめちゃにからみ合わせてしまった時にしたように、私も自分の帽子をたたきつけて、ただくやしさ無念さからその上で踊りたくなった。
私は、彼がそこで見るからにさも気楽そうにしているのを見て、自問した――あの男は馬鹿なのか? 無神経なのか? 彼はいまにも一曲口笛を吹きだしそうに見えた。そしていいかね諸君、私は他の二人の態度についてはちっとも気にならなかったんだ。そいつらの人柄は、どうやら世間で騒ぎ立てており、いずれ、公儀の取調べの対象になろうとしている、あの物語にぴったりだった。
『あの二階の老いぼれの気違い詐欺師め、俺のことを犬と呼びやがった』
と、パトナ号の船長は言った。逆上していた彼には、私の顔が判ったかどうか――私は、彼は気がついたように思うが、しかし、とにかく、二人の目はバッタリ合った。彼はギラリと目を怒らせ、私はニッと微笑した。≪犬≫は、開け放した窓から私の耳に入った署長の毒舌の中では、一番手やわらかいあだ名のほうだった。
『そう言ったのか?』
私は妙に黙っていられなかった。
彼はうなずいて、また拇指を噛み、声をひそめて小声で悪たいをついた。それから頭をもたげ、陰気な、怒ったような目でずうずうしく私を見て言った――
『ふん! 太平洋はでっけえよ、君。いまいましい君たちイギリス人なら、どんな悪い事でも出来るぜ。俺ゃ、どこへ行きゃ俺のような男が楽々と住める場所があるか知ってるのさ。俺ゃアーピア〔サモアのウポロ島の港、ここにスティーヴンスンの墓があるので有名〕にも、ホノルルにも、結構いい知人がいるんだ……』
彼は考えるように言葉を切った。私はたやすく、彼がそれらの場所で知り合った連中はどんな種類の人間か、想像できた。私自身も、数人ならずこの種の人々と知人であることを、べつに隠そうとは思わない。男は時には、人生は、どんな人と交際しても同じように愉しいかのように、振る舞わねばならない場合もある、
私には、そういった場合の経験もあり、またその上、そういった自分の必要性に、いま更いやがる振りはしない。なぜなら、その悪い仲間の中のかなり多くは、道徳がないため――道徳(?)――さあ、なんといったらいいか? 構えた態度がないし、またその他の同様に深い理由から、普通の世間体のいい商人の二倍も啓発的で、二十倍も面白いからさ。――君たちが本当の必要からでなしに、習慣や、臆病さや、お人好しや、その他いろいろな卑劣な、いいかげんな理由からご馳走に招待する、あの尊敬すべき盗人商人の二倍も二十倍もね。
『君たちイギリス人は、みな詐欺師だ』
と、わが愛国的フレンズブルクだか、シュテチン〔ポーランド北西部オテル河口の、もとドイツ領でハンザ同盟市〕だかの生まれのオーストラリア人は言葉をつづけた。だが今私は、バルト海沿岸のなんという名の上品な小島が、あの大した鳥の巣になって汚されたか、全く思い出せない。その大鳥君は言う――。
『いったい何を怒鳴りやがるんだ? え? 教えてもらいてえもんだ。君たち英国人だって、他の国民となんら選ぶところはない。それを、あの老いぼれ詐欺師め、俺のことをひどく大騒ぎしやがって』
彼の太い胴体が、一対の柱のような脚の上で震えた。頭から脚の先まで震えた。
『それが、君たちイギリス人の年中行事さ――忌々しい大騒ぎをするのが――つまらん小さな事のために。それというのも、俺が、忌々しい君の国に生まれなかったためよ。イングリッシ・ゼントルマンでねえからさ。俺の船員免許状を取り上げるがいい。取れ取れ。俺ゃ免許状なんかいらねえ。俺みてえな男は、君らの忌々しい船員免許状なんか欲しかねえんだ。そんなもの、つばをひっかけてやらあ』
彼は唾を吐いた。
『俺ゃ、アメリカ市民になってやる』
彼はぷりぷり怒り、いきまき、さも、彼をその地点から立ち去らせまいとして掴んでいる、何か目に見えない神秘な手からくるぶしを振りほどこうとするように脚を引きずりながら叫んだ。彼はあまりカッとなったため、その弾丸型の丸い頭のてっぺんから、本当に湯気を立てた。
私は、何も神秘な力に妨げられて立ち去らなかったわけではない。好奇心というやつは、最も露骨な感情で、私はそれにとらわれ、このすべての情況があの若者にどういう影響を与えるか見たくて、そこに釘づけになっていたのだ――いまあの若者は、両手をポケットに突っこみ、歩道に背中を向けて、音楽堂の芝生の向こうのマラバー・ホテルの黄色い柱廊玄関を、そこから友人が用意して出て来しだい一緒に散歩に行こうとしている男のような様子で、じっと疑視めている。
そういう風に彼は見え、そして、これは憎むべきことだった。私は、彼が気も顛倒し、狼狽し、徹底的に打ちのめされ、虫針で突き刺されたカブトムシのように、のたうちもがくのを見ようとして待っていたのだった――そして私は、また、それを見るのを半ば恐れた――もし、こんなことを言って、諸君が判ってくれるなら、発見された男をじっと見守っているほど、恐ろしいことはない――罪を犯しているところを発見されたのでなく、犯罪的弱さ以上の弱さを。
最も月並みな種類の堅固さでも、われわれが法律的意味の罪人になることを防いでくれる。しかし人間の未知の弱さ、といっても多分、諸君は、世界のどこかの土地でありとあらゆる藪に生命とりの毒蛇がひそんでいはせぬかと疑うように、どこかにそれが潜んでいるのを疑ってはいるだろうが――われわれが警戒したり、しなかったり、陥らないように祈ったり、雄々しく軽蔑したり、圧えつけたり、あるいは一生の大半無視しつづけてきた、隠れひそんでいる未知の弱さからは、誰一人として安全な者はいない。
そういう弱さの罠に陥ちて、われわれは悪口を言われたり、絞首刑になったりするような事をしでかすが、しかし、たましいだけは立派に生き永らえ――断罪を越えて生き永らえ、絞首刑を越えて生き永らえることもあり得るのだ、誓って! またある事柄は――それらはまた時にはごく小さく見えるが――それによってわれわれのある者が、全く、そして完全に破滅してしまう事柄もある。
私は、そこにいる若者をじっと見守った。私は、彼の外見が好きだった。私は彼のような外見を知っていた。彼は、良家の生まれだ。彼はわれわれの一人だ。彼はそこに、彼のようないい血統のすべての者を代表して、決して利口でも面白おかしい人物でもないが、しかし、その生存の基盤が高潔な信仰と、勇気ある本能に根ざした男女を代表して立っていた。
勇気と言っても、私は軍隊的勇気や、市民的勇気や、また何か特別な種類の勇気を指すのではない。私のいう勇気とは、誘惑に真っ正面から立ち向かうあの生来の能力のことである――無知な(果たしてそうか否か神のみぞ知る)、気どらない、迅速さ――低抗力、ね、諸君、もしお望みならぶしつけと言ってもいいが、しかしこよなく貴重な――内的外的恐怖を前にして、自然の威力や、人間を廃頽させる魅惑的な力を前にして、考えずに本能的に抵抗する、祝福された頑固さ――そしてそれは、真実の持つ力への、実例の持つ伝染力への、思想の勧説《かんぜい》力への不死身の信念に支えられた、誘惑への抵抗力である。
思想なんか! それらは、諸君の頭の後ドアをノックして、その度に少しずつ君の実体を奪っていき、もし君がまともな生涯を送り、安楽に死にたいと思うなら、あくまでしがみついていなくてはならない、あの少数の単純な一般概念への信仰を、ちっとずつ攫《さら》って行ってしまう放浪者だ、漂泊者だ!
この事は、ジムとは直接に何の関係もないが、ただ彼は見たところ、あの善良な、勇敢な人物に見えたのだ――われわれが、人生でこういう人間に取り囲まれたく思うような、知的悪ふざけや、いわば神経の倒錯にかき乱されていない、あの才人でない馬鹿な、善良な種族の極めて代表的人物に。
ジムは、そして体力の強そうなところから、諸君が――比喩的な、職業的な言い方をすれば――デッキの管理をまかせたく思う種類の若者だった。私は、まかせたく思うと言ったが、それには彼を知らねばならないのだ。私は船長時代に、随分若者たちをレッドーラッグ号に勤務させるため、海の技能《わざ》を仕込んだものだ。そしてその技能全体の秘訣は短い一語で表現できたが、そのくせ、毎日新たに若い頭にたたきこまねばならず、ついにはその言葉が、あらゆる目覚めている時の思想の構成分子となり――ついには、彼等の若い眠りのあらゆる夢に現われるようになった!
海は私に親切だった。しかし、私の手で訓練されて出て行ったあの少年たちの事を思い出すと、ある者はいまは成長して大人になり、ある者はいま頃はもう溺れて死んでしまっているだろうが、しかし、誰もみな立派な海員で、私は自分がその点も不成功であったとは思わない。
もし私が明日帰郷すれば、きっと二日と経たないうちに、日焼けした若い一等航海士が、ドックの出入口かどこかで私に追いつき、私の帽子の上で、新鮮な太いバスの声でたずねるだろう。
『僕を覚えておられませんか、船長? ほら! チビの何々です。これこれの船でお世話になりました。あれは、僕の最初の航海でした』
そして私は、昔は、この椅子の背よりも高くはなかった、途方にくれている小ちゃい小僧を思い出すのだ――母親は、そしてたぶん姉も、波止場で、シュンとして静かに、そのくせあまり気が顛倒していて、埠頭の間を静かに滑っていく船に向かってハンカチーフを振ることさえ忘れて立っている。――あるいは、なかなか立派な中年の父親が、早朝彼の息子を見送りについてきて、自分がいかり巻揚機にすっかり興味をもってしまって朝じゅう船に居り、長居をしすぎて、ついに息子に≪さよなら≫を言う時間もなく、あわてて陸によじ登らねばならなくなる。船尾楼《プープ》から指導員の浅水水先案内《マド・パイロット》が、私にむかってといて下さいと語尾を長く引っぱって叫ぶ、
『ちょっと、止め綱で船を止めてくれ兄弟。上陸したい紳士がいるんだア……上んなさい、旦那。すんでに、タルカフアノ〔チリの国のサンチャゴの南方、太平洋岸〕まで連れてかれるとこでしたな。さあ、いまだ。心配ないですよ……オーライ。もう一度前へ綱をたるませて』
引き船は地獄のようなけむりを吐き、踏みとどまり、古い川をかき回して水を沸返らせ、上陸した紳士は膝の塵を払っており――親切な汽船のボーイが、紳士の置き忘れていった雨傘を彼の後から投げる。
すべてがごく海にふさわしい。父親は海にちょっとした犠牲を捧げ、そしていま彼は、その事をもうなんとも思っていない振りをして家へ戻っていく。そして、よろこんでやって来た小ちゃい海のいけにえは、翌朝になる前に、もうひどく船酔いしているだろう。
しかし、やがて少年は、船のあらゆる小さい神秘と、一つの偉大な秘密とを習得した頃には、彼は、海の定めるままに生きるも死ぬもふさわしい人物になっているだろう。そして、投げる度に必ず海が勝つ、この馬鹿な銭《ぜに》投げゲームに加わってきた男は、重たい若い手に背中をポンと叩かれ、快活な若者の声を聞いてよろこぶのだ――
『僕を覚えておられますか、船長どの? チビの何のなにがしです』
ほんとにこれはすばらしいことだ。それはわれわれに、少なくとも一生に一度、職業を誤らなかったことを告げてくれる。私はこうして背中を叩かれ、その叩き方があまり強くて顔をしかめ、その日一日中、ほのぼのとした幸福感にひたり、あの真心こもった叩きのおかげで、この世の淋しさが和らいだ感じでベッドに入るのだ。
私が、チビのなんの何がしを覚えていないか! 全く、私は是が非でも、どれが正しい種類の顔かを、知らねばならないのだ。私は、ただチラリと一目見ただけで、その若者にデッキをまかせて、両眼を閉じてぐっすり眠っただろう――そして、絶対に! 完全だったろう。
私のこの考えには、底知れぬ恐ろしさがあった。私の眼前に立っている青年は、一見新しい一ポンド金貨のように純金に見えたが、しかし、パトナ号事件から推せば、彼の金には何かいまわしい卑金属のまざりものがあった筈だ。どの位? 最も少量――最も少量の一滴、何か世にまれな、呪うべきまぜものか。最も少量の一滴! しかし、彼は私に――彼独特のちっとも気にしない様子でそこに立っていて――彼は私に、あるいはあの青年は、結局ただの真鍮に過ぎないのではなかろうか? と怪しませた。
だが、私には、そうは信じられなかった。実際は、私は、彼が船の名誉のために、あがき、もだえるのを見たかったのだ。
他の二人の能なしどもは、やがて彼等の船長の姿を見つけて、ゆっくりわれわれの方へ歩いてきた。二人はぶらぶら歩きながらお喋りし合っている。私は、肉眼で見えないと同じ位この連中を無視していた。
彼等は互いに顔を見合わせてニヤリと笑った。たぶん、冗談を言い合っていたのかもしれない。その一人は腕を骨折した奴で、いま一人の灰色の口髭を生やしたひょろ長い男は機関長で、いろんな方面でかなり悪評の高い人物だと判った。こんな連中は、取るに足りない。
彼等は近づいてきた。船長は石段に仁王立ちになって自分の脚と脚の間から、生気のない目でじっと下の二人を見ている。彼は、何かしら恐ろしい病気で、未知毒薬の神秘な作用で、体が異常な巨大さに脹れ上がったように見えた。
彼は頭をもたげ、二人の部下が自分の前で待っているのを見、そのふくれ上がった顔を異様に、あざけるように歪め――彼等に何か言い出そうとしたのだと思う――が、その瞬間、ある考えがパッと頭にうかんだらしい。
船長の厚ぼったい、紫がかった唇が、一言も言わずに閉まり、彼は決心したようによたよた辻馬車の方へ歩いて行き、車全体が、ポニー馬も何もかももろともに一方にかしいでしまいそうな無茶苦茶な獰猛さで、苛立ちあわててドアの把手を引っぱりはじめた。
脚を組んでとろとろしていた馭者は瞑想から揺り起こされ、たちまちはげしい恐怖のしるしを表わし、両手で手綱を握りしめ、馭者席から後を振りかえって、巨体の運搬を強要しているこのもの凄い巨人を見た。
小さい車体は、大きい音を立てて揺れ動いた。前かがみの真っ赤な首すじ、張り切った太いもも、うす汚ないグリーンとオレンジ色の縞の厖大な盛り上がった背中、あのけばけばしい汚れた巨大な塊り全体が、小さい馬車にもぐり込もうという努力は、見ている者に、とても入れまいというおどけた、そのくせ恐ろしい感じを与えた。ちょうど高熱にうかされた病人を怯え、すくませる、あの奇怪な、そしてハッキリした夢幻のような感じだった。
彼の姿が消えた。私は、辻馬車の屋根がまっ二つに裂け、車輪の上の小さい箱が、熟した綿花のさやがはじけるように、はち切れはせぬかと半ば予想した――が、車体はただギーギー音を立て、スプリングをぺしゃんこにつぶして沈んだだけで、とつぜん、ベニス式ブラインドが一つ、ガラガラと下りた。そしてその開いた窓に彼の肩が押しつけられてふたたび現われ、彼の頭が、檻に生け捕られた気球のように、汗をかき、たけり狂い、ぶつぶつ言いながら突き出、ふくらみ、ぐらぐら揺れた。
彼は生肉の塊のようにしめった赤いこぶしをやけに振り回しながら、辻馬車の馭者の方に手を延ばした。そして、出発しろ、行け! と馭者を怒鳴りつけた。何処へ? 太平洋の中へだ、たぶん。
馭者は馬に鞭を当てた。ポニーは鼻嵐を吹き、一度後脚で立ち、天馬空を行く全速力で走りだした。どこへ? アーピアへか? ホノルルへか? 彼の前途には、自らを遊び楽しませることの出来る六千マイルにわたる熱帯地帯が横たわっていた。私は、彼の正確な行く先は聞かなかった。
鼻嵐を吹いたポニーは、アッという間に彼を縹渺と未知の世界に連れ去ってしまい、私は二度とふたたび彼の姿を見なかった。そして私だけでなく、彼がぐらぐらな小さい辻馬車の中に坐り、もうもうたる白塵を上げながら角を曲がって飛び去って以来、彼の姿をチラリとでも見かけた者は、誰一人もなかった。
彼は去って行き、見えなくなり、消え失せ、逃亡してしまった。そして奇妙なことにまるで彼はあの辻馬車を自分で占領でもしてしまったように、私は、あの細長い耳をした栗毛のポニーと、哀愁をおびた、足が炎症を起こしていたタルミ人の馭者とに、二度とふたたび出会ったことがない。
太平洋は全く大きい。しかし、果たして彼は、自分の才能を発揮するいい場所を見つけたかどうか、事実は、彼が箒に乗った魔女のように、空間の中に飛び去ったところまでで切れている。
片腕に吊り包帯をかけたチビの二等機関士は、馬車の後を追いかけながら絶叫した――
『船長! おーい、船長! おおーい、おおーい!』
しかし、数歩走ると急に立止まり、うなだれて、すごすごと戻ってきた。
ガラガラいう猛烈な車輪の音に、あの若者は、その場所に立ったままでくるりと後を振り向いた。彼はその他にはなんの身動きも、なんの動作も、なんの素振りもしなかった。そして辻馬車が走り去ってしまった後も、そのままそちら向きになっていた。
このすべての事は、私がそれを話すのにかかる時間より、ずっと短い瞬間の出来事だった。なぜなら私は、諸君によく判らせようとして、自分の眼前で同時に起きたいろいろの事柄を、ゆっくり解説的に話しているからだ。
次の瞬間、アーチーからパトナ号の哀れな難船者たちを少し世話してやれといって遣わされた混血人の書記が、出会い頭にこのシーンにぶつかった。書記は真剣に左右を見回し、お役目大事と、無帽で走り出してきた。彼は、主要人物の船長に関する限りでは、惜しくも逃げ去られる運命だったが、しかし他の連中には仰山な豪ぶった態度で近づいていき、ほとんどアッという間に、腕に吊り包帯をし、やけに騒動を起こしたがっていた二等機関士との大喧嘩に捲きこまれてしまった。
――『俺ゃ、人の命令なんざァ受けねえぞ――そうとも、べらぼうな。俺が、気取った、混血の、チビの下級書記なんぞのうそ八百のこけおどしに怖じけてたまるか。俺ゃ、≪あんな問題にならねえ事≫で、悪おどしはされねえぞ。もしパトナ号の噂話が本当なら、≪なお更そうよ!≫』
吊り包帯は、自分のしたい事、自分の望みを、自分はこれからベッドに横になる決心だと、わめき立てた。
――『もし君が、神様に見棄てられた堕落し果てたポルトガル人でなけりゃ、君は、病院こそ俺の行く所だってことぐれえは知ってるだろう』
と彼の叫ぶのを私は聞いた。
彼は、健在なほうの腕のげんこつを書記の鼻の下に押しつけた。群衆がむらがりはじめた。混血の書記は狼狽したが、しかし、全力をふるって威厳をつくり、自分の意図を説明しようとした。
私は、終りを見とどけようとせずに立ち去った。
しかし、たまたま、その頃私の船員が入院していたので、取り調べの始まる前日に、彼を見舞いに行き、白人棟にあのチビの奴が片腕に副《そ》え木を当て、すっかり頭が変になって、仰向けに寝ころんでいるのを見た。
そして、ひどく驚いたことに、いま一人の、下向きに垂れた白い口髭の、ひょろ長い人物もまたそこに居たのだった。私は、この男が、喧嘩の間半ばふんぞり返り、半ば足を引きずり、懸命におびえている様子を見せまいとしながら、こそこそ逃げて行くのを見たことを思い出した。彼はこの港では、まんざらのよそ者ではないらしく、困った時にまっすぐ行ける場所、マリアニの玉突き兼呑み屋が、市場の近くにあった。
あの言うもいやらしいならず者のマリアニは、あの機関長を知っていて、他の一、二の場所で彼の悪事に力を貸したことがあったが、いわばその前で土下座をし、つつしんで自分の悪名高い小屋の二階に、たくさんの酒瓶を備えて閉じこめた。機関長は、身の安全について何かぼんやり不安を感じており、かくまって貰いたかったらしい。
しかし、マリアニは、それからずっと後に(彼がある日、私のボーイに幾本かの葉巻の借金の催促に船へやってきた時)あの機関長には、長年前に受けた何かけがらわしい恩への感謝から、≪何も聞かずに彼のためにもっともっと尽したかった≫と私に語った。彼は、泪の光っているひどく大きな黒と白の目をぐるぐる回しながら、筋肉たくましい胸を二回ドスンドスンと叩いて、
『アントニオはけっして忘れません――アントニオはけっして忘れません!』と叫んだ。
彼の受けた悪徳の恩が正確にどんなものだったか私は知らないが、しかし、それがなんであったにしろ、機関長はマリアニの二階で、一脚の椅子とテーブル、片隅にはマットレス、床には落ちた漆喰が散らばった中で、不合理に怯え、おじけて、マリアニの惜しみなくふるまう酒の強壮剤で元気をつけなから鍵をかって閉じ籠っていた。
これは、三日目の夕方までつづいた。が、とつぜん彼は、二声三声恐ろしい悲鳴を上げて、このムカデの棲み家から、身の安全を求めて脱走せねばならない妄想の発作を起こした。
彼はドアを蹴破り、生命からがら一跳びででこぼこな小さい梯子段を飛び下り、そのままふわりとマリアニの腹の上に落ち、立ちあがるや否や、脱兎のように通りへ飛び出した。
警官が早朝に、塵芥《ごみ》山の中から彼を引っぱり出した。最初彼は、絞首刑にするために連れて行かれるのだと思い、英雄のごとくに自由のために闘ったが、私が病院で彼のベッドのそばに腰をかけた時は、彼は二日間ごく静かにしていた後だった。
彼の白い口髭をはやした、やせたブロンズの顔は、枕の上で、幼児のたましいを持った、戦い疲れた兵士の顔のように、立派で静かに見えた――もし、彼の目のうつろな光が、ちょうどガラス窓の後に、えたいの知れない恐怖の姿が黙って蹲っているように、その中に妄想的恐怖のひそんでいることを暗示しなかったとしたら。
彼があまりひどく静かなので、私は、何かあの有名な事件の説明を、彼の見地から聞き出せるかもしれないという妙な望みが湧きはじめたのだった。なぜ私は、結局、自分にとっては、名誉なき労苦の共同体とある行動の基準への忠誠によって結合された海員という、漢然とした男子の一団体のメンバーとしてという以外に、なんの関係もない一事件の悲しむべき詳細を、そんなに、骨折って調べようとするのか、自分でも判らなかった。
諸君は、もし言いたいならそれを不健康な好奇心だと言ってもいいが、しかし、私は、何かを見つけたいというハッキリした考えを持っていた。たぶん、無意識に、私は何か、何か深刻な、罪を償う原因を、何か慈悲ぶかい説明を、何か信じられる釈明の影を、見つけたいと望んでいたのだ。
私はいま、自分が不可能なことを望んでいたのがよく判る――私は、人間の創り出すものの中で最も頑固な幽霊を静めて出ないようにしようと望んだのだ――霧のように立ち昇り、寄生虫のようにこっそりと、絶えず人間を蝕みつづけ、死の確実性よりもなおいっそう心を寒々とさせる苦しい疑惑を――行為の確定基準の中で王座についている君主である疑惑を、押え静めようとしたのだ。
これは人間をつまずかせる、最もてごわい相手だ。これこそ、すさまじい恐慌と、小さい、人知れぬ悪事を生み出すものであり、これこそ、破滅の本当の影である。
私は奇跡を信じたのだろうか? そして、なぜ私は、それをあんなに熱心に求めたのだろう? 前に一度も見たこともないあの若者のために、何かほんの僅かの弁明を見つけたいと願ったのは、私自身のためだったろうか? しかしあの若者の外観だけが、彼の弱さを知った私の思想に一脈の個人的関心を加え――彼の弱さが神秘的な、恐ろしいものになり――われわれすべての者に降りかかろうとしている破滅的運命の暗示のように思われたのは、畢竟われわれの青年時代が、――その頃は――彼の青年時代に似ていたからではあるまいか?
こうしたものが、私の詮索のひそかな動機であったのではないか。私はまぎれもなく、奇跡を探していた。こんなに長い時日を経た今になって、私に奇跡的だと感じられることは、ただ私の大した馬鹿さかげんだ。私は本気で、あのやつれた、うさんくさい病人から、疑惑の幽霊に対抗する何か魔除けを手に入れようと願ったのだ。
私は、かなり必死でもあったに違いない。二言三言、通り一ぺんの、親切な言葉をかけ、相手がちょうど、まともな普通の病人がするように、もの憂い気易さですぐ応答《こたえ》ると、一刻の猶予もなしに、私は真綿でくるんだように、微妙な質問を中にくるんで、≪パトナ≫という言葉を出した。
私は利己的に繊細だった。彼を驚かしたくなかった。私は彼のために何も心配などしていなかった。私はこの男に腹を立ててもいないし、また同情も感じなかった。彼の経験は、私にとってはぜんぜん重要でもなんでもなく、彼の罪の贖《あがな》いは、私にはどうでもよかった。この男は、生涯小さな罪悪を犯しながら年をとり、もはや霊感も、憐憫も、彼を悔い改めさせることは出来ない状態だった。
彼は、『パトナ』と、質問するように繰り返し、ちょっと思い出そうと努力する様子だった。
『その通り。わしは、ここじゃ古顔だ。わしは、あの船が沈むのを見たんじゃ』
私は、こんな馬鹿げた嘘に、いまにも怒り出しそうになった。が、男はすぐ、すらすらとつけ足した。
『あの船は、蛇やとかげや、爬行動物でいっぱいじゃったぞ』
この言葉が、私を止めた。いったいこの男は何を言ってるんだろう? 彼のどんよりした目の後でふらふらしていた恐怖の幻影が、ピタッと立ち止まって、悲しそうに私の目を覗きこんだような感じだった。
『みんなは、夜半直〔午前零時から四時までの当直〕の時間に、わしを寝床から追ん出して、船の沈むのを見させたんじゃ』
と、彼は回想するような口調でつづけた。とつぜん、彼の声が、ギョッとするほど強くひびいた。私は、自分の愚かしさが残念だった。白人棟の見通しの中には、純白のかぶりものをつけてひらひらしている看護尼僧の姿はない。しかし、向こうの空の鉄製ベッドの列の中ごろに、碇泊地に投錨中の船から来た事故の患者が、額に白い包帯をいきにななめに巻いて、褐色のやせた体で起き上がった。いきなり私の面白い病人が、烏賊《いか》の長い触腕のような細い腕をぐいと延ばして、私の肩に爪を立てた。
『わしの目だけが上等で良く見えるからじゃ。わしはな、視力が強いんで有名なんじゃよ。それで、みんなは、わしを呼んだってわけだろうな。わしの他には誰一人、船の沈むところを見た早目の者はいなかったぜ。だが、みんな、船が当然沈んだのを見て、声を揃えて讃美歌を唱ったんじゃ――こういう風にな』……
狼のような吼え声が、私のたましいの隅々までもかき回した。
『おお! あいつを黙らせろ』
と、事故の患者が苛立って泣き声を上げた。
『あんたは、わしの言うことを信じないだろうな』
と、白い口髭の病人は、何とも言いようのない自惚れた様子でつづけた。
『まったく、ペルシャ湾のこっち側にゃ、わしのようないい目の奴は一人も居らんよ。このベッドの下を見てみなされ』
もちろん、私は、そう言われるや否やちょっと腰をかがめて覗いた。きっと誰だってそうしただろう。
『あんた、何が見えましたかな?』と、彼が訊いた。
『なんにも』
私は、すごく恥ずかしい気持で言った。相手は、粗野な、ひるませるような軽蔑の表情で、ハッと私の顔をみつめた。
『その通り。だが、もしこのわしが見れば、見えるんじゃ――全く、どこにも、わしのようないい目の者は居りゃせんよ』
ふたたび彼は私に爪を立て、懸命に彼の腹を割った話を聞かせようとして、私を下に引っぱった。
『何百万というピンクの蝦蟇《がま》。わしのようないい目はどこにもない。何百万というピンクの蝦蟇。あれを見るほうが、船の沈没するのを見るよりなお更悪いな。わしは、一日中でも、船の沈むのを見物しながら、プカプカ煙草をふかしていられるわい。なぜ、あいつ等は、わしのパイプを戻してくれんのじゃろう? わしは、あの蝦蟇どもを眺めながら一服したい。あの船は、蝦蟇《がま》でいっぱいじゃったぞ。奴等は、見張ってなくちゃいけなかったぜ、なあ君』
彼はひょうきんにウインクした。
汗が私の顔から彼の上にしたたり落ち、私の濡れた背中に教練用の上衣がべっとりついた。午後のそよ風が寝台の列の上をあわただしく吹いていき、カーテンの硬いひだが垂直に揺れ動き、真鍮の窓掛け棒がガタガタ音を立て、空のベッドのカバーが、ずらりと並んだまま、むきだし床の近くで、音を立てずに風に吹きまくられた。私は骨の髄までぞっと身震いした。
熱帯の柔《やさ》しい風があのむきだしの病棟では、故郷の古い納屋にいる時の冬の大風のように、寒々と吹きすさんだ。
『あの男に、大声で叫ばせないで下せえよ、旦那』
遠くから叫んだ事故の患者の苦しい怒った怒鳴り声が、壁と壁との間に、トンネルの中の叫び声のように、震えてひびき渡った。爪を立てた手が私の肩を引っぱり、彼は物知り顔に私に流し目を送った。
『船はピンクの蝦蟇《がま》でいっぱいでしたぜ、ねえ、それで、わし達ゃ、ごく内密に、そいつ等を洗い流しちまわなくちゃいけなかったってわけでね』
と、彼はひどく早口にささやいた。
『ぜんぶピンク。ぜんぶピンクで――マスティフ犬ぐれえでっかくて、頭のてっぺんに目が一つで、醜《きた》ねえ口のまわりじゅうにかぎ爪があり、おお、やだ! やだ!』
ガルバニー電気のショックのようにピクピクと早い痙攣が、平らなベッド・カバーの下のやせた、昂奮して動いている脚の輪郭を表わした。彼は、私の肩をつかんでいた手を離し、その手を何か虚空に浮いているものを掴もうとするように延ばした。彼の体が、ハープの糸を放した時のように緊張したまま震えた。そして私が見下している間に、彼の目の中の恐怖の幻影は、彼のどんよりした目を押し分けて現われた。
その瞬間、上品な静かな輪郭をした彼の老兵らしい顔は、みるみる人目をぬすむ老獪さと、忌わしい警戒心と、死物狂いの恐怖で、腐れ、変質していった。
彼は叫び出しそうになるのを抑えて――
『シッ! いったいいま彼等は下で何をしてるんだろう?』
と、声も所作も妄想的用心深さで床を指しながら訊いたが、その意味が不気味にパッと私の頭にひらめき、私はくだらん事にすぐ感づく自分の利口さにひどくうんざりした。
『彼等はみな眠っている』
と、私は彼をじっと見守りながら答えた。それだ。彼の聞きたかったことはそれだ。彼を静めるのは正にこの言葉なんだ。
彼は、ほっと長い安堵のためいきをついた。
『シーッ! 静かに、落ちついて。わしはここじゃ古顔だ。わしゃ、あのけだものどもを知っとるとも。最初に動いた奴の頭をガーンとへこませてやるぞ。あれにゃ余り大勢乗っていすぎたし、それに船は、十分以上は浮いていなかった。』
彼はまた喘いだ。
『急げ』
とつぜん彼は悲鳴を上げ、それから間断なく叫びつづけた。
『奴等がみんな目を覚した――奴等は何百万人もいるぞ。みんなでわしを踏んづけて行く! 待て! おい、待て! わしは奴等を蝿のようにこなごなにして山積みにしてやるぞ。待ってくれ! 助けてくれ! たすけてくーれーッ!』
果てしなくわめきつづけ、私は完全に失敗した。遠くで、事故の患者が、万事休すというように、両手で包帯した頭をかかえるのが見えた。顎までエプロンをした包帯交換手が、まるで双眼鏡から覗いた景色の向うの方に小さく、病棟の遠い端に現われた。
私はかなり参っていたことを白状し、これ以上騒動を起こさずに、長い窓の一つから部屋を出て、外の廊下に逃れた。わめき声が執拗な復讐のように私を追ってきた。私は人の使っていない階段の中休み段へ折れていった。すると急にあたりはひどく静かになり、その中で私はやっと自分の取り乱した思想を整えることができ、むきだしの光った階段を下っていった。
下で、私は、病院に住みこみの外科医の一人に出会った。彼は庭を横切ろうとしていたが、私を見ると呼び止めた。
『貴方の部下をお見舞いにいらしったんですか、船長? 明日は、退院させられると思いますよ。しかし、ああいう馬鹿者たちは、自分の体に気をつけること一つ考えんですな。あのね、ここには、あの巡礼船の一等機関士もいますよ。じつに奇妙な症例でね。最も悪質のアル中による振戦|譫妄《せんもう》症です。
あの男は、例のギリシア人かイタリア人の呑み屋で、三日間ひどく飲みつづけたんです。その結果どうなるか、想像できるでしょう? なんでも、ある種のブランデーを、一日四瓶ずつ明けたという話です。もし本当なら、じつに驚異ですな。胃袋がボイラーの鉄張りででもあるんでしょうか。
頭は、おお! 頭はもちろん、だめですが、しかし奇妙なのは、あの男のたわごとには、ある種の秩序のあることです。私は、それがなんだか見つけ出そうとしています。あんな譫妄性精神錯乱状態のうわごとに、あの一脈すじの通った論理をもっているとは最もめずらしいことでね。言い伝えだと、幻覚を見る錯乱の患者は、蛇を見るんだが、彼は見ない。よき古き言い伝えも、今日日《きょうび》は額面通りにいかず、割引ですよ。ああ! 彼の――ええ――幻覚は、カエル類ですな。ハハ! ハハ! いや、真面目な話、私は、狂乱のたわごとをいう症状に興味をもったのは、彼が初めてです。
彼は当然死んでいた筈ですよ、あんな盆と正月が一緒に来たような凄い痛飲をして暴れ狂ったんですからな。おお! 彼は実にタフな男だ。二十四年間、熱帯の海で暮らしたこともまたね。
貴方、本当に、ぜひちょっと彼を覗いてご覧なさい。上品な容貌の大酒飲みですよ。私がいままでに会った中で、最も異常な驚くべき男です! もちろん、医学的にね。いかがです?』
私は医者の話を聞いている間じゅう、いつも通りの礼儀正しい興味をもった様子を見せていたが、しかし、いまは、さも残念そうな様子を装って、どうも時間が無くてとかなんとか小声でつぶやき、そそくさと握手をして立ち去った。
『もしもし』
と、医者の声が私の後から追いかけてきた。
『彼は、あの取り調べには出席できませんよ。奴さんの証言は重要なんでしょうか?』
『いや、ぜんぜん』
と、私は門のところから叫びかえした」
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第六章
「当局も明らかに同じ意見であった。取調べは延期にならなかった。それは法にしたがって指定日に開かれ、それが人間的興味ある事件のため、出席者は大勢であった。
この事件の事実については、何も疑惑はなかった――あの一つの核心的事実については、という意味だが。パトナ号がどうして船体に傷がついたかは実証されなかった。法廷も、それが実証されることは期待しなかったし、全聴衆の誰ひとりそれを気にする者はなかった。
にもかかわらず、さっきも言ったように、港のあらゆる船員たちは出席しており、海運業に関係のある者は、みんな出かけてきていた。この人々が気づいていたにしろ、いなかったにしろ、彼等をそこに惹きつけたものは、全く心理的興味で――人間感情の強さ、力、恐怖について、何か本質的なものが暴露されることを期待したからだった。が、当然、そういうものは何一つ暴露されなかった。
進んでそれと正面からぶつかろうとしていた、そしてそれの可能な唯一人の男の取り調べは、すでに判明している事実のまわりを無駄に堂々めぐりするだけで、それに投げられる質問遊戯は、金槌で鉄の箱の外を叩いて、中味を見つけようとするに等しかった。とはいえ、畢竟公式調査とはこういったものである。その目的は根本的ななぜ? ではなしに、この事件の表面的ななぜ? だったからだ。
若者は、それを調査官に話すことが出来ただろうし、また、それこそ聴衆の興味をもっていた事だったが、彼に向けられた質問は、必然的に彼を、例えば、私などには知る価値のある唯一の真理であったろうと思われる事柄から、他へそらせてしまった。取り調べを任命された当局が、人間のたましいの状態を質問するということは、しょせん期待できないのだ――それとも、あれは、ただ人間の肝臓の状態の調査会かな?
当局の仕事は、結果をきびしく追求することで、率直のところ、臨時の裁判官と二人の航海裁判所補佐人では、それぐらいが関の山だろう。べつに私はこの連中が馬鹿者だと言うわけではない。裁判官は、ごく辛抱づよかった。補佐人の一人は、赤っぽい口髭をつけた、敬虚な気質の帆船船長だった。
――いま一人の補佐人は、ブラヤリーだった。大物のブラヤリー。諸君の誰かは、大物ブラヤリーのことを聞いたことがあるに違いない――ブルー・スター海運の優秀船の船長だ。そらあの男だ。彼は、自分に押しつけられたこの補佐人という名誉ある地位に極度にうんざりしているらしかった。ブラヤリーは、また一生に一度も過誤を犯したこともなく、事故に会ったことも、災難に会ったこともなく、着々と昇進して妨害されたためしもなく、彼は人生に不決断などという言葉を知らない幸運児の一人で、ましていわんや自己不信などは言うも愚だ。
三十二歳の若さでブラヤリーは東洋航路の最優秀船の船長となり――のみならず、彼はそのことを無上の名誉と考えていた。世界中に、これほどすばらしいことはない、もし諸君が単刀直入に訊けば、彼はきっと、正直いって俺ほどすばらしい船長は他にはないなと、告白しただろう。人選、当を得たりってところだ。十六ノットのはがねの汽船オサ号の船長になれない他の人類は、むしろ哀れむべき存在というわけさ。
ブラヤリーは、海で人々の生命を救い、何回か難破した船を救済し、金のクロノメーター〔経度の測定に使われる極めて正確な時計〕を海上保険業界から贈呈され、立派な銘を刻んだ望遠鏡を、ある外国政府から、これらの善行の記念に贈られていた。
ブラヤリーは自分の功績や報償を強く意識していた。私は、この男をかなり好きだったが、しかし、私の知人のある者は――それもごく柔和で友好的な人々だが――どうにもこうにも彼が我慢ならなかった。彼は、自分自身を、この私などより遥かに優れていると考えていたことは疑う余地もない――まったく、もし諸君が、東洋か西洋の皇帝であったとしても、諸君は、彼の前で劣等感を持たざるを得なかっただろう――しかし、私は、本当の侮辱感は湧かなかった。
彼は、たとえ私がなんであろうと、たとえ私がどんなにか事の役に立たないにしろ、私を軽蔑したりはしなかった――判るでしょう? 私は、軽蔑するに足りない無視してよい存在だからだ――理由はただ、私は彼のような地上の幸運児ではなく、私はオサ号の船長モンターニュ・ブラヤリーではなく、私は彼のように、船乗り道の傑物で不屈の勇者であることを証明する銘刻のあるクロノメーターや、銀台の望遠鏡の所有者ではないからだ。それに私は、ブラヤリーと違って、自分の功績や報償への鋭敏な感覚も持たず、その上、彼のようにこの種の猟犬中最高の黒いレトリーバー犬の愛と崇拝を独占してもいないからだ――なぜなら、こんなすばらしい犬に、こんな風に愛された、こんなすばらしい男は、いまだかつて無かったからだ。
たしかに、このすべてを無理に押しつけられ強要されるのは腹立たしいことに違いないが、しかし、畢竟、私もこういう致命的な不利な条件をもった他の無数のとにかく人間の仲間だと考えると、私は、このブラヤリーという男のもつ何か漢然とした魅力に免じて、彼の人の善い、軽蔑的な憐憫の私への分け前を、どうやら我慢して受けることができた。
私は、この彼の魅力をハッキリさせたことはなかったが、しかし、私は時たま、彼を羨ましく思うことがあった。人生の苦悩の毒牙は、彼の平穏無事なたましいに、ピンの先で滑らかな巌石の面を掻いたほどの痛みも与えることはできなかった。
私が、調査会を司会している気取らない青い顔の裁判官の横にいる彼を見ると、彼の自己満足が、私や世間に、みかげ石のように堅い表面を見せていた。
このブラヤリーは、それから間もなく自殺した。
ジムの事件など彼には退屈きわまるものだったに違いない。取調べを受けている若者にたいするブラヤリーの限りない軽蔑に何か恐怖に近い気持をいだきながら私がいろいろ考えていた時、たぶん彼は、無言で、誰も知らない自分自身の事件を審問していたのだろう。そしてブラヤリーの自分自身への判決は、絶対有罪であったに違いない。が、彼はその証言の秘密を、あの身投げの時、我が身もろとも海底に沈めてしまった。
もし私が人間について何か理解しているとすれば、その問題は、もちろんブラヤリー当人にとっては最も重大なことであったに違いないが、実は、ごく些細な問題が、彼の思想を目覚まし――彼の人生に何か思想が生まれ、いままでそんな思想などというものとの交際を知らなかった男としては、とても生きていられなくなったのだ。
私は立場上、その問題が金銭問題でもなく、酒でもなく、女の問題でもなかったことを知っている。
ブラヤリーは、ジムの取調べが終わってほとんど一週間も経たず、そして往航に港を出発してから三日もしないうちに、船から海に投身したのだった――まるで、海のまん中のカッキリその地点で、彼はとつぜん、他界の門が、彼を歓迎するために大きく開かれたのを発見したかのように。
しかし、これはとつぜんの衝動ではなかった。ブラヤリーの白髪《しらが》頭の副船長は、第一級の海員で赤の他人には親切ないい老人だが、しかし船長との関係は私の知るかぎりの副船長じゅうで最も不機嫌不愛想な男で、彼は目に涙をうかべて私に話した。その朝、彼がデッキへ出て行くと、ブラヤリーは、海図室で何か書いていたようだ。
『四時十分前で、夜半直は、もちろん、まだ交代になっていませんでした』と彼は言った。『船長は、私がブリッジの上で二等航海士に話している声を聞くと、私に部屋へ入れと言いました。私は行くのが嫌やでした。それは本当です、マーロウ船長――私は、お恥ずかしいことですが、気の毒なブラヤリー船長が、どうにも我慢できなかったんです。いったい人間て奴は、どんな原料で作られているのか、全くえたいの知れない代物《しろもの》です。ブラヤリー船長は、まあ私の頭は数に入れないまでも、あまり大勢の頭を乗り越えて昇進してきて、人にひどく自分を小さく感じさせ、ただついでに、ちょっと≪お早う≫と言っただけでも、相手に劣等感を与える呪わしい特徴を持っていました。私は、義務でしか彼に≪サー≫の尊称をつけず、それも、できるだけていねいな口をきくように努力してのことでした』(彼はここで、ひそかに得意になった)
私は度々、どうしてブラヤリーは、この男の熊度を、半航海以上堪えられたかと不思議に思うのだ。
『私には妻も子供もおります』と、白髪の副船長はつづけた。『そして十年間この会社に務めており、いつも、この次こそ船長に昇進させてもらえるだろうと期待しつづけてきました――私は大馬鹿者です。ブラヤリー船長は、ちょうどこういう風に言いました。≪ここへ入って来給え、ジョーンズ君≫と、あの彼のいつもの威張った声で≪ここへ入って来給え、ジョーンズ君≫と。私は中へ入りました。
≪一緒に船の位置を書こう≫と、船長は手にコンパスを持って、海図の上にかがみながら言います。服務規定で、勤務の終わりかけている船員は、当直の終わりしだい、そうすることになっています。でも、私は返事もせず、彼が小さい×印で船の位置をしるし、日付と時刻を書きこむのを見ていました。
私は、いまもありありと、彼がキチンとした字で数字を書いている姿が目に浮かびます。八月十七日、午前四時。年は赤インクで海図の上部に書くことになっていました。彼は海図をけっして一年以上使いませんでした、ブラヤリー船長はね。私は、その海図をいまも持っています。
書き終わると、彼は立ったまま自分のつけた印を見下ろしてひとりで微笑み、それから顔を上げて私を見ました。
≪このままあと三十ニマイル進み≫と彼は言います。≪そして、海峡を抜けたら、君は、二十度南へ進路を変えるのだ≫と彼は言います。
私たちは、あの航海の時、ヘクター・バンクの北へ向かっていました。私は、とにかく、どうせ進路を変える前には彼を呼ばなければならないんで、いったい彼は何をやきもき騒いでいるんだろうといぶかしみながら、≪オーライ、サー≫と言いました。ちょうどその時、四時を告げる八点鐘が鳴りました。私達がブリッジに出ると、二等航海士が当直を終えて立ち去る前に、いつものように、≪測程器で七十一マイル≫と言いました。
ブラヤリー船長は羅針盤を見、それから、くるっと周囲を見回しました。あたりは暗く、澄んでいて、極地に近い高緯度地方の霜の晩のように、満天にすべての星がハッキリ見えました。とつぜん、彼は、ちょっと小さいため息をついて言いました。
≪おれは船尾へ行くから、絶対に間違えっこないように。君のために測程器をゼロに戻しておいてやろう。このままの進路であと三十ニマイル行けば、もう君たちは安全だ。そうだな――測程器を六パーセント追加に調整しよう、そして、ダイヤルでは三十マイル走るように。そしたら、君はすぐ二十度右舷に転針するのだ。すこしでも無駄に走ることはないからね――そうだろう?≫
私はいまだかつて彼がこんなに沢山、一気に喋るのを聞いたことはありませんでした。それも、無駄としか思えないようなことを。私は黙っていました。
彼は梯子を下りて行き、そして犬も、いつも彼の動くたびに昼となく夜となく必ず後からついて行くように、彼のあとから、鼻づらを先に突き出して滑り下りて行きました。彼の靴のかかとが、コツコツ後甲板にひびき、それから彼が立ち止まって、犬に言うのが聞こえました。
――≪戻れローバー。ブリッジの上へ行け! さあ行け、行け――上れ≫
それから、彼は暗がりの中から私に声をかけました。
≪その犬を海図室に閉じこめてくれ、ジョーンズ君――いいね?≫
これが、私が彼の声を聞いた最後でした。マーロウ船長。この言葉が、人の聞いている所で語った彼の最後の言葉です、サー』
ここで老人は、すっかりおろおろ声になり、
『ブラヤリー船長は、哀れなけものが、自分の後について海に飛びこむだろうと心配したんです、判りますか?』老人は震え声でつづける。『そうなんです、マーロウ船長、彼は、私のために測程器を調整してくれ、彼は――貴方、信じられますか?――彼はそれに油までさしておいてくれました。測程器の近くに、給油器か彼の置いたままになってありました。
甲板次長が、四時半に、ホースを持って船尾を洗いに行き、やがて、彼はホースを投げすて、ブリッジに駈け登って来ました――
≪どうぞちょっと船尾へ来てください、ジョーンズさん≫と甲板次長が言います。≪おかしな事があるんです。あれに自分は手を触れたくありません≫
それは、ブラヤリー船長の金のクロノメーター時計で、手すりに鎖でていねいに下げてあります。
私はそれを見たとたんに、ハッと胸をつかれ、判ったんです、船長。私は脚がへなへなになってくずれ折れました。まるで、ブラヤリー船長が飛び込む姿をこの目で見たかのようでした。いまはどのくらい後に置いてきぼりされているかまで、ありありと判りました。船尾上部の測程器に、十八・四分の三マイルと出ており、大|檣《しょう》のまわりから四個の鉄のS字形索止め栓が失くなっていました。体を沈めるための重りに、あれをポケットに入れていったんでしょう。しかし、ああ神よ! 四個の索止め栓が、ブラヤリー船長のような逞しい男にとってなんでしょう。たぶん、最後の瞬間に、さしもの彼の自信も、ほんのちょっと、ゆさぶれたでしょう。
それは、彼が全生涯を通じて唯一度だけ、心の動揺に負けたしるしだと思います。でも、その一度だけで、ブラヤリー船長は、あとは金輪際、一かきも泳ごうとはしなかったことを私は保証します――もし、彼が事故で船から落ちたとしたら、丸一日中、ちゃんと海上に浮かびつづけて、わずかなチャンスを期待して平然と待つだけの勇気が充分あったことを保証すると同様にね。
そうです、船長。彼は誰にもひけをとりませんでした――たとえ自分自身でもそう言ったにしろ。彼がそう言うのを私は一度聞きましたが。彼は夜半直の間に、二通手紙を書きました、一通は会社、いま一通は私宛に。
彼は、私への書中にこまごまと航行術について教えてくれ、――私は、彼がこの世に生まれる前から、もうこの職業に就いていました――そして私が是非オサ号の指揮をつづけるようにと、上海にいる会社関係の人々との折衝について、ねんごろに、尽きないヒントを与えてくれました。彼は、父親が最愛の息子に書き遺したように書いてくれました。マーロウ船長。そして私は、彼より二十五も年上で、まだ彼が半ズボンも穿かないうちから、塩水の味を知っていたのです。
ブラヤリー船長は、船の所有者への手紙で――それは私に読めるように開封したままでした――自分はいつも皆さんのために任務を果たしてきた――いまの瞬間まで――そして、今でさえも、皆さんの信頼を裏切ってはいない、なぜなら、船には、彼に探せる限りの最も有能な海員を残していくのだから――と、私のことですよ、船長、この私のことですよ! 彼は会社側に、彼の人生最後の行為が、会社側の彼への信頼をことごとく奪い去ってしまうのでなかったら、私の忠実な奉仕と、彼の熱心な推薦に免じて、彼の死によって出来た空席に人を配する時、是非私を次回船長として御配慮ねがいたいと。そしてこういう風に、もっともっといろいろね、マーロウ船長。私は、とても自分の目を信じられませんでした。それを見て私は体中がいやにジーンとして妙な感じでした』
老船員は、ひどく狼狽の様子で、目の隅にある涙を大べらのような幅広い拇指の端でつぶしながらつづける。
『貴方は、ブラヤリー船長は、ただ不運な男に昇格の最後のチャンスを与えるために、海へ身を投げたとお考えでしょうね、旦那。いったいどんなショックのために、あんなにすごく大急ぎで逝ってしまったのか、そしてこの私は、その死のおかげで指揮者になった男なのかと考えると、一週間ほどは、ほとんど気も狂わんばかりでした。
でも、心配ありません。ピーリオン号の船長が、オサ号に転勤になり――上海で上船しました。――グレー・チェックのスーツを着、髪の毛をまん中から分けた、チビでお喋りの気取り屋でね。
――≪おお――僕は――おお――君の新しい船長でね、ええと――ええと――おお――ジョーンズ君≫
彼は香水びたしで――すんでにムッと鼻が曲がりそうでしたよ、マーロウ船長。私の彼を見ている顔付きで、彼は舌がもつれたらしく、彼は、何か私が船長になれなくてがっかりしたろうという事を、ぶつぶつ何か言いました。
――≪君には、どうせ判る事だから、すぐ知っちまうほうがいいだろう、僕のピーリオン号の副船長は、あの船の船長に昇格した――もちろん、僕にはなんの関係もない事だが――船会社は、なんでも一番よく知っているらしいね――君には気の毒だった……≫
私は言いました。
≪ジョーンズじじいの事なら、ご心配なく、サー。ジョーンズの畜生め、どうせあんな奴は、どんな目に会わされようと、もう慣れっこです≫
私は、≪きざ≫船長のデリケートな耳にひどいショックを与えたのがハッキリ見えました。わたし達が初めて一緒に中食をする時のことです。彼は、船の中にいる連中のあれやこれやの不愉快な作法のあら探しをはじめました。私はまだあんな声は、≪パンチとジュディのショー≫〔こっけいなあやつり人形、パンチというせむしで鼻が長く、曲がったグロな男が子供を絞殺したり、妻ジュディを打ち殺したりする〕以外の場所じゃ聞いたためしがありません。
私は強く歯を食いしばり、目をじっと自分の皿に釘づけにして、こらえられるだけこらえて平和を装っていました。でも、ついに何か言わずにいられなくなりました。彼はピョンと爪先立って飛び上がり、チビの怯えたおんどりみたいに、彼のきれいな羽を逆立てました。
≪この俺は、死んだブラヤリ一船長よりは、扱い難い人間だといまに判るそ≫
≪もう判りましたよ≫
と私はひどくむっつりした声で、でも、ステーキを切るのにひどく忙しそうな振りをして言いました。
≪君は悪党じじいだ、ええと――おお――ジョーンズ君。その上君は、職場で悪党じじいで知れ渡っている≫
と、彼は私に向かってキーキー言います。いまいましい下働き人どもが周囲に立ち止まって、ポカンと口を耳から耳まで開けて聞いています。
≪俺はならず者かも知れんが≫と私は答えます。≪しかし、君がブラヤリー船長の椅子に坐っているのを、指をくわえて我慢する程は、堕落しちゃいないぞ≫
そう言って、私はナイフとフォークを下に置きました。
≪君は、その席へ、自分が坐りたいんだな――どうだ図星だろう≫
と、彼はあざ笑います。
私はサロンを出て自分のぼろをまとめ、それを運んだ船荷人足どもが、ふたたび仕事に取りかかる前に、自分の手荷物全部を足もとに置いて、波止場に立っていました。そうです。あてどない流浪の身で――岸に――十年間の職場をすて――そして六千マイル彼方には、ただ私の俸給に頼って食っている哀れな女と四人の子供がいます。
そうです。マーロウ船長! 私は、ブラヤリー船長が侮辱されるのを聞くよりは、むしろ職を投げ捨てました。ブラヤリー船長は、私に、彼の大切な夜間用双眼鏡を遺してくれました――いまここにあります。そして、彼は私に、犬の世話をたのみました――犬もここにいます。おい、ローバー、可哀そうな奴。船長はどこだ、ローバー?』
犬は悲しそうな黄色い目で私たちを見上げ、もの淋しい声で一声ほえ、そしてテーブルの下へもぐりこんだ。
これは、みな、二年後に、あの海上の廃墟ファイヤー・クイーン号の船中であったことで、その時このジョーンズは、この船の責任者になっていた――これもまた全くの奇縁で――マザーソンから委任されてね――人々が一般に気違いマザーソンと呼んでいる――ほら、諸君知ってるだろう、まだ占領地にならない前に、ハイフォン〔インドシナ半島北東部・北ベトナムの海港〕にいつも住んでいたあの人物さ。
ジョーンズ老人は、鼻をつまらせながら話しつづけた――
『そうです、旦那。ブラヤリー船長は、地球の他の場所はいざしらず、ここでは、いつまでも覚えられています。私は船長の最期の一部始終を彼の父上に手紙で書き送りましたが、梨のつぶてでした――有り難うとも、またこん畜生! とも――なんにも言ってきません! たぶん御両親は、息子のそんな話は、聞きたくなかったんでしょう』
あの涙ぐんだ目をしたジョーンズ爺さんが、禿げ頭を赤い木綿のハンカチで拭き拭き思い出話をし、そばで犬が悲しそうに吠えている光景、彼の思い出の唯一の社殿《やしろ》である、あのアオバエの卵を生みつけた船室のむさくるしさは、ブラヤリーの追憶の姿の上に、なんとも言えずみすぼらしい哀感《ペーソス》のヴェールを投げかけた。
生前、自らの輝くすばらしさをあんなに確信していた彼の、死後の運命の復讐は、ほとんど彼の生涯からその本当の恐ろしさを欺し取ってしまった。ほとんど! いや、たぶんことごとく。果たしてどんな嬉しがらせの虚《むな》しい期待に誘われて、彼は我れと我が生命を断ったのか、誰がその真意を知ろう?
『いったいなんであの方は、あんな早まったことをなさったんでしょう、マーロウ船長――お判りですか?』
ジョーンズは、両の手の平と手の平を強く圧し合わせながら訊いた。
『――いったいなぜでしょう? それが、私を当惑させます! いったいなぜ?』
彼は、ピシャッとその低い、しわのよった額をたたいた。
『もしブラヤリー船長が貧乏で、年寄りで、借金を背負っていたのなら、いざ知らず――それに、けっして見せびらかしなんかじゃなし――さもなきゃ、気違いだ。しかし、彼は気の狂うようなお人じゃなし、違いますとも。私を信用して下さい。いやしくも副船長は、自分の船長のことなら、およそどんな事でも知っています。ブラヤリー船長は、お若くて、健康で、裕福で、なんの心配も苦労もない方でした……私はここに坐って、時々ジーンと考えこんでしまい、しまいには頭がガンガン鳴り出します。きっと何か理由があったんです』
『ジョーンズ船長、この点は、私を信用し給え』と私は言った。『その何かは、けっしてわれわれ二人のどちらにとっても、大して心をかき乱すような事じゃなかったろうさ』
すると、まるでキラリと光が、彼の渾沌たる頭の中に射し込んだかのように、哀れなジョーンズ老人は、驚くべき深刻な最後の言葉を見つけた。彼は鼻をかみ、悲しそうに私の方にうなずいて言った。
『そうです、そうです! 貴方も私も、ね、旦那、まだ自分自身のことを、そう懸命に考えたことはありましなんだね』
もちろん、私とブラヤリーとの最後の会話の思い出は、そのすぐ後に起きた彼の死についてのいろいろな知識で色づけられている。
私が最後にブラヤリー船長と話し合ったのは、あの取調べの進行中だった。最初の散会のあとで、彼は私と通りでバッタリ会った。彼はいらいらしている様子で、私はこれに驚いた。彼が話をしようとする時のいつもの態度は、完全に冷静で、さも彼の話し相手の存在は可成りいいおどけででもあったように、一脈の愉快さと、そしてつまらん相手を我慢してやるといった気味があった。
『ぼくは、あの取調べの役員にされちゃってね』
と、ブラヤリーは言い出し、しばらく、毎日出廷する不便さを大げさにこぼした。
『おまけに、いったいいつまでつづくのか判らん。まあ、三日位だとは思うが』
私は黙って彼の言うのを聞いていた。その時の私の考えでは、これもまた、いつもに負けず劣らずの彼の一流のもったい振りの一つのし方だった。
『あんなものがなんの役に立つんだ? あれこそ、この上なしの馬鹿らしい陳述だ』と彼はむきになって言う。
私は、あれには選択の自由がまるでないと言った。
彼は、一種の鬱憤のようなはげしさで私を遮った。
『僕はあすこにいる間じゅう、自分が馬鹿のような気がしてね』
私は思わず彼を見上げた。これは大分話せるぞ――ブラヤリーとしては――彼がこんなことを言うとは。彼は急に言葉を切り、私の上衣のたれを掴んで軽く引っぱり、
『いったいなぜ、われわれは、あの若い奴を苦しめるんだろう?』と訊いた。
この問いは、彼の心にあったある考えとじつによく共鳴した。私は、あの姿をくらました回教改宗者の姿を目に浮かべながら、すぐ答えた。
『それが判ってたまるか――もしあの若者が、君たちにそれを許したんでなけりゃね』
私は、ブラヤリーが、かなり謎めいていた筈のあの言葉に、いわば同調したように見えたのでびっくりした。彼は怒ったように言った。
『そりゃ、そうだとも。若造は、彼のあくどい船長が逃亡したのが判らないのか? いったい、彼は何が起きるのを期待してるんだ? 何も彼を救うことは出来ない。彼はもうおしまいだ』
私たちは黙って数歩歩いた。
『なぜ、あんな屈辱を忍ぶんだ?』
彼は、東洋的な強い表現力で叫んだ――子午線五十度の東洋の痕跡を見せるあの力強い。
私は、彼の考え方をひどく不思議に思ったが、しかし今になってみると、あれは全く彼の性格の中に根ざしていたものではないかと思う。気の毒なブラヤリーは、心の底では、自分自身のことを考えていたに違いない。私は彼に、パトナ号の船長は、かなり私腹を肥やしていたという評判で、ほとんど何処へ行ってもやっていく方法があるんだということを指摘した。
ところがジムは、その反対だった。
政府は彼を暫く水夫の家に泊めており、たぶん彼は、自らを祝福するびた一文も持っていなかったろう。逃げ出すには幾らか金がいる、
『そうだろうか? 必ずしも、そうとは限らんな』
私のまた何か言った言葉にたいして、ブラヤリーは苦々しく笑って言った――
『まあ、それなら、彼は二十フィート地下にもぐり込んで、そこに居ればいい! 天にかけて! 僕ならそうするね』
私は、なぜ彼の口調が私をムッとさせたのか判らないが、私は言った。
『あの若者のように、もし逃げても、誰もわざわざ彼を追いかける者はいないことを百も承知で、なお、あくまで止ってやり抜くという一種の勇気もあるさ』
『何が勇気だ!』と、ブラヤリーは唸った。『そんな種類の勇気は、男がしゃんと正しく生きていくにはなんの役にも立たんよ。僕は、そんな勇気なんか一文の値打も認めん。だが、もし君が、あれは、いまは一種の臆病――柔弱さだと言うならだ。いい話がある。僕は二百ルピー〔印度などの貨幣単位=三十セント〕上げるから、もし君があと百ルピー出すなら、合わせて、あいつを明朝早く、さっさと立ち去らせることを君引き受けんか。あの若造は、もし今にも気か狂いそうでなけりゃ、紳士だ――理解するだろう。彼はそうせねばならん!
あの非道な悪魔的公表は、あまりひど過ぎる。あそこに彼は坐っていて、一方それを、あらゆるあの忌々しい土人ども、船長ども、インド人水夫ども、操舵員どもが、聞いただけで赤っ恥で焼け焦げて灰になっちまいそうな証言をしている。
これは実に言語道断だ。どうだ、マーロウ、これは言語道断だと、君考えないか? 君感じないか? いまは、感じるだろう――おい――海員として? もしあの男が逃げ去ってしまえば、これはみな、すぐ止んでしまうんだ』
ブラヤリーは、これらの言葉をいつにない生気を帯びた口調で言い、そして、さも自分の財布を出そうと手を延ばすようだ。
私は彼を制止して、冷たく、だがあのパトナ号を棄てた四人の男の卑怯さを考えると、僕には、それ程ご大そうに心配してやる気にはなれないと言い切った。
『それでも、君は、自分を海員と呼ぶのか』
と、ブラヤリーは怒ったように言った。私は、そう自分を呼んでいるし、事実またそうである事を望むと言った。
彼は、私の言葉を聞き終わると、彼の大きな腕で、私から、私の個性を奪い去って群集の中に押しやるような身振りをした。
『最も悪いことは』と、ブラヤリーは言った。『君たちはみんな、職務尊厳の観念を持たないことだ。君たちは、自分は何を為すべき任務があるか、充分に考えておらん』
私たちは、そう話しながらゆっくり歩いていたが、いま、港湾事務所の向かいで立ち止まった。ここから、パトナ号の巨大な船長の姿が、ハリケーンに吹き飛ばされた小ちゃな羽毛のように、全くかき消えてしまった地点が見えた。
私は微笑した。ブラヤリーはつづけた――
『これは、海員の不名誉だ。われわれの中には、それは、あらゆる種類の人間がいる――大勢の中のある者は、大したならず者だ。しかし、畜生! われわれは、職業的品位を保持せねばならん。でなければ、われわれは、そこらをずぼらに歩き回っている鋳掛《いか》け屋とえらぶところが無くなってしまう。
われわれは信頼されているんだ。君判るね?――信頼されている! 正直のところ、僕は、アジアからやってきた巡礼どものことなんかは、なんとも思っちゃいない。しかし、品位ある海員は、古ぼろの俵を満載した荷船にも、ああいう態度はとらんだろう。
われわれ海員は、一つの組織団体ではない。われわれを一つに結んでいる唯一のものは、ただそういった種類の品位、道義をもっているという名前だ。あんな事件は、人の海員というものへの信頼をぶちこわす。ある者は、海員生活のほぼ一生涯、生命がけの頑張りを見せる必要なしでいくこともある。しかし、その必要が起きたときは……ハハ!……もし僕なら……』
彼は急に言葉を切った。そして改まった語調で、
『いま君に二百ルピー渡すよ、マーロウ、だから、君はあいつに話してくれ! しようのない男だ! こんなところへのこのこ出て来なきゃよかったのに。実はね、僕の船員の中には、彼を知っている奴かいると思うんだ。父親は牧師で、いま僕は思い出したんだか、去年、サセックスの友人の家に厄介になっていた時、一度会ったことがある。もし僕の記憶違いでなけりゃ、あの老牧師は、かなり船員の息子が気に入っているらしかった。それを思うとぞっとする。僕自身は、そうするわけにいかんが――しかし君なら……』
こうしてジムについて配慮する彼に、私は、チラリと、自らの真実と、まがいものとをもろともに海の管理にまかせて、死んでいく数日前のブラヤリーの真の姿を見たのだった。
もちろん、私は、手出しをすることを断わった。この彼の最後の口調――『しかし君なら……』(気の毒なブラヤリーには、どうしてもああいう言い方しか出来なかったんだ)が、まるで私は虫けらよりも取るに足りないという意味にひびいて、私は憤然とし、どうしても彼の申し出を受諾できなかったのだ。
そして、こうして憤慨させられたためと、また何か他の理由のために、私は心の中で、この取調べは、あのジムにたいするこらしめで、彼がそれに正面からぶつかっているのは――実際としては、彼自身の自由意志で――彼の忌わしい事件の罪ほろぼしだ、と考えた。私は前には、これ程の確信はもっていなかった。
ブラヤリーは、むっとして行ってしまった。その頃は、彼の精神状態は、いまよりもっといっそう私には謎であった。
翌日、私は遅れて法廷に入って行き、ポツンと一人で坐っていた。もちろん、私は昨日のブラヤリーとの会話を忘れることは出来なかったし、いまは、その当の二人が私の目の前にいるのだ。その一人の方の態度は、陰気にずうずうしく、いま一人の方は、軽蔑的な、うんざりした様子だ。
しかし、この二つを比べて、この中の一つの態度は、他の一つより真実だとも言えなかったし、そして私は、ハッキリ、この中の一つは、けっして真実ではなく、本心とは別な仮面であることを知っていた。
本当は、ブラヤリーは、うんざり退屈してはいなかった――彼は激怒していた。そして、もしそうとすれば、では、ジムの方も、本心は、ずうずうしいのではないのかも知れなかった。
私は、彼はそうではないとみた。ジムは絶望しているのだ、と私は想像した。その時、私と彼の視線がバッタリ合ったのだった。目と目が合い、そして、彼が私を見たその目は、私が何か彼に話しかけようとする意志を持っていたにしろ、それをくじいてしまうような表情だった。
どちらの仮定でも――ずうずうしさにしろ、絶望にしろ――私は、彼には何の役にも立ちそうもないと感じた。これは裁判の二日目のことだった。
二人の目と目が合ってから間もなく、取調べはふたたび翌日に延期された。白人たちは、すぐ、ぞろぞろと外に出はじめた。ジムは、そのしばらく前に、証人台から退くように言われていたので、最初のグループの中にまじって外へ出ることが出来た。
私は、ジムの広い肩幅と、頭の輪郭が、開かれたドアの光の中に浮き出しているのを見た。そして自分はゆっくり、誰かふと私に話しかけた見知らぬ男と話しながら出口の方へ歩いて行き――法廷の中から、ジムがベランダの手すりに両肘をのせて、数段の階段をぼつぼつ下りて行く人々の小さな流れに背中を向けているのを見かけた。あたりには、人々のつぶやき声や、足を引きずって歩く靴の音がしていた。
法廷の次の事件は、金貸しに加えられた暴行殴打であったと思う。被告――まっすぐに白い鬚を垂らした威厳のある老村民――は、ドアのすぐ外のござの上に、息子たち、娘たち、養子たち、その妻たち、そして、その他に彼の全村民の半数とおぼしき数が、彼を取り巻いてしゃがんだり立ったりしていた。
背中の一部と、黒い一方の肩をむきだしにして、細い金の輪を鼻につけたすらりとした黒人の女が、とつぜん、甲高い、意地の悪い声で話し出した。私と一緒の男は、本能的に彼女を見上げた。私たちは、その時ちょうどドアを通り抜けて、ジムの逞しい大きな背中の後を通りかかった。
この村人たちが黄色い犬を連れて来たのかどうか、私は知らない。とにかく、犬が一匹いて、土人の犬独特のあのこっそり黙ったやり方で、人々の脚の間をくねくねと出たり入ったりしていたが、私の連れが、ついそれにつまずいて犬の上に転んでしまった。
犬は音も立てずに飛びのいた。男は、低い笑い声を立てなから、少し荒立った声で、
『あのいやらしい野良犬を見給え』
と言った。そして、それからすぐ、私たちは、大勢の人が押しこんできて、別れ別れになった。私はちょっと離れて壁ぎわに立ち、連れは、人波にもまれながら階段を下りて見えなくなった。
ジムがくるっと私の方に向き直るのが見えた。彼は一歩前へ進んで、私の行手をさえぎった。もう、彼と私だけだった。彼は、しぶとい決意の色を見せて、ギラリと私を睨みつけた。
私は、いわば、まるで森の中で凶漢に≪止まれ!≫とピストルをつきつけられたような感じだった。
その時は、もうベランダには人は居ず、法廷の中の物音も、動く人影も無くなっていた。建物はひどくひっそりして、中のどこかずっと奥の方で、東洋的な声が一つ、みじめにすすり泣くのが聞こえた。例の犬は、ドアから忍び込もうとしていたが、急に坐って、蛋《のみ》を追いはじめた。
『僕に何か言いましたか?』
ジムは、ひどく低い声で訊き、体を前にのりだした。それほど私の方にではないが、しかしキッと私に向かって――もし私の言う意味が諸君に呑みこめるなら。
私はすぐ『いいや』と言った。
ジムのその静かな口調の中には、何か私に≪自分を防御しろ≫と警告するひびきがあった。私はじっと彼を見つめた。ひどく森の中で出会っている感じだが、ただ、その争点は、一段と不明瞭だった――恐らく彼は、私の金が欲しいわけでも、生命が欲しいわけでもある筈はなく――私がやすらかな良心でただ引き渡したり、また防衛したり出来るものを望んでいるのではなさそうだ。
『貴方は、言わなかったと言う』と、彼はひどく陰気に言った。『しかし、僕には聞こえた』
『何かの間違いだろう』
私はすっかり途方にくれて、そして、けっして彼から目を離さずに反対した。
彼の顔を見つめていると、陰《かげ》に陰がわずかずつ重なっていき、嵐の前の静けさの中に、暗闇が、神秘に深まっていく、あの轟然と雷鳴のとどろく直前の、暗くなる空を見つめているようだった。
『私の知っているかぎりでは、私は、君に聞こえる所で何か言った覚えはない』
私はきっぱりと正直に断言した。私は、この出会いのばかげた不合理さに、少し腹も立ってきた。いまになってみると、私は生まれてこの方、この時ほど、すんでになぐられかかったことはなかったと思う――私は文字通り言っているんだ、にぎりこぶしで殴られることを。
私は、その偶発性を、空気の中におぼろに予知した。けっして、ジムが私を能動的に脅迫していたのではない。その反対に、彼は奇妙に受動的だった――諸君、判りませんか? しかし、彼は険悪に顔をしかめ、彼はそう例外的な大男ではなかったが、壁をも粉砕できそうに見えた。最も私を元気づけた徴候は、彼の一種ののろい、重々しい躊躇で、これは、私の動作と語調の真実さが相手にひびいたためらしかった。
私とジムは互いに向き合った。法廷では、殴打暴行事件の裁判が進行中だった。私の耳に、法廷の中の声が聞こえてきた――
『そうです――水牛――棒きれ――ひどい恐怖のあまりに……』
『貴方はどういう意味で、朝じゅう僕をじっと睨んでいたんだ?』
と、やがてジムが言った。彼は顔を上げて私を見、それからまた伏目になった。
『君は、われわれ全部が、君の感受性を尊重して、下うつ向いて坐っているとでも思っていたのか』
私は鋭く反駁した。私は、彼のどんなナンセンスにも、大人しく譲歩する積りはなかった。
彼はふたたび目を上げ、そして、こんどはじっと正面から、私の顔を見つめつづけた。
『いや。それはいいんだ』
と、彼は、この言葉が本当であることを、自分自身でよく思案している様子で言った――
『それは、いいんだ。僕は、あれは終わりまでやり通す。ただ』――
そして、ここで彼は少し早口になった――
『僕は、誰にも、法廷外で、僕を罵倒することは赦さん。貴方は連れと一緒だった。貴方は彼に言った――おおそうとも――僕には判っている。上出来だったな。貴方は彼に言うことは言ったが、しかし実は、僕に聞かせる積りだったのだ……』
私は彼に、たしかに君は何か途方もない妄想につかれているんだと断言した。いったいどうしてそんな妄想が起きたのか、私にはてんで判らなかった。
『貴方は、僕が怖くてそれを怒れないだろうと思ったんだ』
と、彼は、ほんのかすかに苦々しさを含んで言った。
私は、この言葉のほのかな陰影に気づく程度の興味は感じたが、しかし、やはり少しも判っていなかった。だが、この言葉の何がそうしたのか、あるいは、ただその言葉の語調のためかもしれないが、私は、とつぜん出来るかぎり彼を許し、受け入れてやろうという気になった。私は、自分が思いがけず窮地に追い込まれて迷惑している気持を棄てた――きっと、何か彼の間違いなんだ。彼はヘマをやったんだ、そのヘマは、何かぶざまな、不首尾のものに違いないと直感した。
私は、ちょうど、いわれのない、ひどい信頼を早く切り詰めたいと切望するように、この騒動をみっともないからという理由で早く終わらせたいと切望した。
一番奇妙な点は、こうしていろいろより高尚なことを考えている最中に、私は、この顔合わせが、最後は、説明もつかない、そして私を途方もないおかしなものにする不名誉な喧嘩に終わらせることになるかもしれない可能性に――いや、十中八、九そうなりそうな見込みに、私にうろたえ、ある戦慄を意識したことだ。
私は、パトナ号の仲間たちから不名誉か恥か何かそういったものを背負わされた男として三日間有名になった彼に、あこがれてはいなかった。彼は、おそらく、自分のした事をなんとも思ってはいないか、でないにしろ、少なくとも、自分自身では、もう充分立派に申し開きをしたつもりだろう。
彼はいま、静かな、のろっとした様子でさえあるが、それにもかかわらず、彼がものすごく何かを怒っていることは、べつに魔法使いでなくとも見てとれた。私は、方法さえ判っていれば、どんな犠牲を払っても、彼をなだめたく切願していたことはたしかだ。でも、私にはそれが判らなかった、諸君のご想像通り。まったくの暗黒で、一点の光もない。
私たちは、互いに黙って向き合った。彼は約十五秒間ぐずぐずし、それから一歩近づき、私は筋肉一つ動かさなかった積りだか、打ちかかってくる手を避ける身構えをした。
『たとえ貴方が人の倍もある大男で、六人力の強さでも』と彼はごく静かに言った、『僕はやはり、僕が貴方をどう思っているか、ハッキリ言うだろう。貴方は……』
『待て!』
と、私は叫んだ。彼は一瞬間、止まった。
『君が、僕をどう思っているか言う前に』と、私は口早につづけた。『君、いったい僕は君に何を言ったか、あるいはしたか、教えてくれんかね?』
その後につづく沈黙の間に、彼は憤然として、私を検分し、一方私は、法廷の中から聞こえてくる、偽りの告発にたいして興奮してぺらぺらと説論している東洋的な声に邪魔されなから、私は超自然的努力で、懸命に、自分の記憶をたどっていた。
次の瞬間、私たちは、ほとんど一緒に口を開いた。
『僕はじき君に、僕がそうでないことを見せて上げる』
彼が、危機を暗示する語調で言った。
『僕は絶対に知らん』
と私は、同時に、真剣に反対した。
彼は軽蔑した目で、私を粉砕しようとした。
『いま貴方は、僕が恐れないのを見て、それからこそこそ逃げ出そうとしている。さあ、どっちがのら犬だ! おい?』
それで、やっと私は判った。
彼は、さも、こぶしを打ち下ろす場所を探しているように、じろじろ私の顔を見た。
『僕は誰をも赦さん』
と、彼は威嚇するようにつぶやいた。まったく、恐ろしい間違いだ。これですっかり彼の正体が判った。私がどれ程ショックを受けたか、とても諸君に判ってはもらえない。彼は、私のその感情がいくらか顔に表われたのを見たらしく、彼の表情がほんの少し変わった。
『とんでもない!』と私は吃りながら言った。『まさか君は、僕がそんな事を言ったとは……』
『だが、僕はたしかにこの耳で聞いたんだ』
彼は、この悲しむべき騒ぎが起きて以来はじめて、声を荒立てて主張した。それから、かすかな軽蔑を含んでつけ足した。
『では、あれは貴方じゃなかったのか? それならいい。僕は、もう一人を探そう』
『馬鹿なまねはよせ』と、私は激昂して叫んだ。『ぜんぜん、そうじゃないんだ』
『でも僕は聞いた』
彼は、ゆるがない陰気なねばり強さで言った。
ある人は、彼の強情さを笑ったかもしれない。私は笑わなかった。おお、私は笑わなかった! 自分自身の自然の衝動によって、彼ほどこんなに残酷に、曝し物にされた男はかつてなかった。ただの一言が、彼から、彼の思慮分別を根こそぎ剥ぎ取ってしまったのだ――衣服がわれわれの肉体の品位を保つために必要である以上に、われわれの内面的人格の体面にとって必要な、あの思慮分別を。
『馬鹿なまねはよせ』と私は繰りかえした。
『だが、もう一人の男はそう言った、貴方はそれを否定はしまい?』
彼はたじろぎもせずじっと私の顔を見つめて、ハッキリ発音した。
『そう、僕は否定はしない』
私は、彼の目を見つめ返しながら答えた。が、ついに彼の目は、私の指さした方についてきて、下を見た。最初、彼はさっぱり理解できないようだったが、次の瞬間面食らい、やがて愕然とし、そして、まるで犬が怪物で、彼はまだ前に一度も犬を見たことがないかのようにおびえた。
『誰も、夢にも君を侮辱などはしない』と私は言った。
彼は、呪いの偶像のように身動きもしないみじめな動物をじっと見つめた。犬は、耳をピンと立て、とがった鼻づらを戸口に突っこんで坐っていた。そして、とつぜん、機械細工のように、パクンと蝿に食いついた。
私は彼を見た。とつぜん、彼のきれいな日焼けした顔の赤みが頬の下からパッと濃くなり、みるみる額にひろがり、彼の巻き毛の髪の根元まで真っ赤になった。耳もひどく赤くなり、彼の澄んだ蒼い目までが、カッと血が頭にのぼったためずっと黒っぽくなった。
彼の唇が少し開き、さも、いまにもワッと泣き出しそうに震えた。私は、彼があまりの恥ずかしさに一言も物が言えないのを見てとった。失望のためもあったろうか――誰が知ろう? たぶん彼は、雪辱のために、慰撫のために、私を殴りつけることに期待をかけていたのだろうか?
彼は、この喧嘩のチャンスから、どんな救いを期待していたか、それを誰が知ろう? 彼は、それから何かを期待するほど天真爛漫だった。しかし、彼はこの事件で、何も得ず、ただ自分を丸出しにした。
彼は自分自身としては、ごく率直に――私のことはしばらくおいて――こういうし方で、何か効果的な論駁に到達したい強烈な望みを持っていた。そして、星まわりが、皮肉にも不都合だったのだ。哀れなことだ。
私は、門の外へ出てしまうまでは、ふたたび彼に追いつかなかった。私は、最後には少し走りさえしたが、しかし息を切らして彼の肘のそばまで行くと、君は逃げるのか、と彼を非難した。
彼は、
『けっして!』
と言って、追いつめられて歯向かうように振り向いた。
私は、けっして君が僕から逃げ出そうとしているという意味じゃなかったんだと説明した。
『誰からも――地球上の人間のたった一人からでも、けっして逃げたりはしません』
彼は強情な態度で断言した。私は、われわれの中の最も勇敢な男でも逃げるのがいいと思うだろうあの一つの明々白々の例外を指摘するのを我慢して控え、心の中で、彼はすぐ自分自身でそれに気づくだろうと思った。彼は、私が何か言おうとして考えている間、忍耐づよく私を見上げていたが、私には、とっさの場合何も考え浮かばず、やがて彼は歩きだした。
私も後れないように歩きだし、彼を失うまいと懸命であわてて、自分について間違った印象を与えたままで彼と別れることは考えられない――自分について――と私は口ごもった。私は終わりまで言おうと努めながら、この言葉の間が抜けているのに我なからびっくりしたが、しかし、言葉のもつ力は、その構文の意味や論理とはなんの関係もないものだ。
私が馬鹿みたいにもごもごつぶやいたことが、彼をよろこばせたらしい。彼は、非常に強い自制力か、さもなければ、すばらしい精神的弾力を証するごく慇懃《いんぎん》な穏やかさで、私の言葉を遮った――
『全く僕の間違いです』
私は、この表現のし方にひどく驚いた。彼は何かごく些細なことについて言っているみたいだった。彼はその悲しい意味がわからなかったんだろうか?
『僕こそ、許して下さい』と彼は言葉をつづけ、そして少し陰気につづけた。『あの法廷で僕をじろじろ見ていた人々が、あまり馬鹿に見えたんで――つい、あんな事を僕が想像したんです』
ふしぎにも、とつぜん私は、彼について新しく目が開けたように思った。私は不思議そうに彼を見た。そして、彼の臆さない、計り知れない目とぶつかった。
『僕は、こういったことは、我慢できないんです』と、彼はごく単純に言った。『そして、我慢する積りもありません。法廷では別です。僕は、あれに耐えなくては! そして、それも出来ます』
私は、彼を理解した振りはしない。彼が私に覗かせた彼自身の姿は、絶えず動き移り変わっている濃霧の細い裂け目からチラッと見た景色のように――チラリチラリと生々した詳細な断片が現われては消え、土地の全貌については何も一貫した概念を与えないのに似ていた。
それらは、人の好奇心をそそり立てるだけで、満足は与えない。定位を正しく認識する目的には役立たなかった。全体として、彼は私を惑い迷わした。こういう風に、私は、彼が夕刻遅く私から立ち去ったあとで、彼の要点をつまんだのだった。私は数日間マラバーホテルに投宿していたので、強いて招待して、彼と一緒に食事をした」
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第七章
「外国航路の郵船がその日の午後入港してき、ホテルの大食堂は、百ポンドの世界一周券をポケットに入れた人々で半ば以上一ぱいだった。見るからに世帯じみた恰好で、まず旅の途中だというのにもうお互いにうんざりし合っている夫婦づれもいる。大人数の団体もあり、小人数のグループもあり、独りぼっちの旅行者で真面目くさって食事をしている者や、また独りでご馳走を食べ荒している者もいた。
しかし、誰もみな、故郷の家でし慣れていたように考えたり、話し合ったり、冗談を言ったり、顔をしかめたりしており、そして、ちょうど二階にある彼等のトランクと同じように、新しい印象を利口に受け入れようとしている。これからは、この人々は、あれやこれやの場所を通ったというレッテルをつけられるだろうし、彼等の荷物もそうされるだろう。この人々は、彼等が外国へ行ってきた人物だというこの区別をいつまでも大事にするだろうし、そして、彼等の旅行カバンについているアラビア糊づけの切符を、記録的な証拠として、彼等の啓蒙的企画の唯一の永遠的足跡として、大切に保存するだろう。
黒い顔の召使いたちが、音を立てずに、磨き上げた広大な床の上を軽快に歩いて行く。時々少女の笑い声が、彼女の頭と同様に、無邪気に、うつろに聞こえてき、とつぜん、食器の音が静まった中に、ニヤニヤして一食卓を囲んだ人々に、頓智のある潤色をした、船内スキャンダルのおかしな話をしている気取った、語尾を長く引っぱった言葉が聞こえてきた。
二人の放浪性の老女たちが、腹の皮がよれそうに滑稽にめかしこんで、金のかかった二つのかかしのように、キョトンとした無表情な奇怪な顔をし、色あせた唇で互いにささやき合いながら、メニューの間を毒々しく通っていく。
少量の酒はジムの心を開き、彼の舌をゆるめた。彼の食欲も盛んだったのに私は気づいた。食は、私たちが知人になる道を開いたあのエピソードを、どこかに埋めてしまったように見えた。あれは、もうこの世では、二度と問題にならない事のようだった。
そして、私の前にある、いつもまっすぐに私の目を見ている水色の、少年っぽい目、若い顔、逞しい肩、ふさふさした金髪の巻毛の根元だけ白い線を残した広い、赤銅色の額、この外観は、見ただけで私のあらゆる共感を呼んだ――この率直な様子、素朴な微笑、若々しい真面目さ。
彼は正しい部類の青年、彼はわれわれの一人だ。彼は、一種の落ち着いた腹蔵なさと静かな態度で、真面目に話した――でもそれは、雄々しい自制心、不遠慮、無神経、驚くべき無意識、大した欺瞞の結果だったかもしれない。誰がそれを知ろう! 私たちの口調は、まるで第三者のこと、フットボールの試合のこと、去年の天候のことを話し合ってでもいるようだった。私の頭はさまざまの仮定の海にただよい、やがて私は会話のチャンスをみて、相手の気にさわらないように、全体として、この取調べは、君にはひどく辛かったろうと言った。
彼はいきなり片腕を、テーブル・クロースをよぎってニュッと突き出し、皿のそばにあった私の手をつかみ、じっと私を見据えた。私は全くびっくりしてしまった。
『さぞ、ものすごく辛かったことだろうな』
と私は、彼のこの無言の感情表現に狼狽して吃り吃り言った。
『あれは――地獄だ』
彼は、含み声でとつぜん叫んだ。
時も時、こんな言葉が爆発したので、近くのテーブルにいた、二人のきれいに身じまいした世界一周旅行の男たちは、ギョッとして、食べかけのアイス・プリンからこちらを見上げた。私は立ち上がった、そして、二人で、コーヒーとタバコをのみに、表のギャラリーに入っていった。
小さい八角形のテーブルに、ローソクの群れがガラス球の中で燃えており、硬い葉をした植物の植えこみが、気持のいいやなぎ細工の椅子のセットを区切っている。高い窓々から射す長い光の列を赤っぽい柱身にあびた二本の円柱と円柱の間に、夜が、キラキラと黒く、豪華なドラベリー〔垂れ布〕を垂らしたように見える。船々の碇泊灯が、遠くに、沈みかけた星のようにまたたいており、碇泊地の向こうの小山が、停止している雷雲の丸い、黒い、大きなかたまりのように見える。『僕には逃げられなかった』と、ジムは言いだした。『船長は逃げた――彼はそれで結構だ。僕には出来なかったし、僕は逃げない。彼等はみんな何かかにかで、あれから免《のが》れたが、でも、僕はそうはいかない』
私は、じっと注意を集中し、椅子の中で身動きすることさえしなかった。私は知りたかった――そして今日まで、私は真相を知らず、ただ推量するだけだった。彼は、さも何か生来潔白だという確信が、いつも彼の心の中で身もだえている真相をせき止めていたかのように、自信にみち、同時に消沈していた。
彼は、よく人が、≪私にはとても二十フィートの壁はジャンプ出来ませんな≫と自分の無能力を認める時のような口調で、まず最初に、彼は、いまはもうけっして家へは戻れないと前置きした。するとこの宣言で、私はふとブラヤリーの言った言葉を思い出した。
――≪サセックスの老牧師は、どうやら彼の海員の息子がだいぶ気に入っているらしかった≫
ジムは、自分が特別≪気に入られている≫ことを知っていたかどうか私は知らないが、しかし、彼の≪僕のおやじ≫と言う時の口調は、私に、この善良な田舎の老牧師は、開闢以来大家族のいろいろの煩労で苦労してきた男の中で、ほぼ一番立派な男らしいという印象を与えた。この事は、べつに口に出してジムが言ったわけではない。が、さも心配そうに言ったので間違いなしに本当で、また実にすばらしいことだったが、しかし、それは、ここから遠く離れた、この物語とは別な要素をもった生命だという胸を刺す辛い意味も加味されていた。
『おやじは、いま頃は、国の新聞で全部見てしまっている』とジムは言った。『僕はもう、気の毒なおやじさんに二度と会わせる顔がない』
私は、目を上げて彼を見る勇気はなかった。彼はつけ加えた。
『僕にはどうしても説明ができない。おやじは理解してくれないだろう』
これを聞いて、私は彼を見上げた。彼はぼんやり考えこみながらタバコをふかしていたが、しばらくすると、元気を出してまた話しだした。
彼はすぐに、私が、彼と彼の仲間たち――共犯者(そう呼ぶことにしよう)――をごちゃまぜにしないようにという希望をハッキリ示した。ジムは、彼等一味の一人ではない、彼は全然別だということを。私は、何も不承認のしるしは示さなかった。私は、畢竟なんの実も結ばないつまらない真実を振りかざして、彼の行手に現われる、いと小さな救いの片鱗をでも、奪い去る気持は、更になかった。彼自身、どの程度にそれを信じていたか私は知らない。いったい彼はこれから何をやろうとしていたのか私は知らない――たとえ何にしろ彼がもしやろうとしていたのなら――そして、実は彼もまた判らなかったんではないかと私は思う。なぜなら、自己認識のぞっとする暗影から逃れるために、自分自身が巧みに現実の己を知ることをごまかし回避しているのを、自ら完全にわかっている人間は一人もいないだろうから。彼が、あの≪馬鹿らしい取調べが終わった≫後で、何をしたらいいかと考えている間じゅう、私は音一つ立てなかった。
明らかにジムは、ブラヤリーと同様に、法律の命じるこの裁判の議事を軽蔑していた。やがて彼は、今後はどうしていいのか途方にくれる、と私に話すというより、むしろ自分で声に出して考えるといった風に告白した。――免許状は失くなり、職歴はめちゃめちゃになり、他へ行く金もなし、彼の知る限りでは、なんの仕事も見つからず――
母国なら、たぶん、何が仕事があるだろう。が、それでは故郷の人々に助けを求めに行くことになる。これはしたくない。とすると、せいぜい平水夫になるほか手がない――まあ、どこかの汽船で、操舵員の職ならば手に入るだろう。操舵員位ならできるだろう……
『君、ほんとうに出来ると思うのか?』
と、私は無慈悲に訊いた。彼は飛び上がり、石の手すりのそばへ歩いてゆき、じっと夜闇を見つめた。そして、すぐ戻ってきて、その若々しい顔を、じっと感情を殺している苦痛に曇らせて、私の椅子のそばに、高く立った。彼は、私が彼の船の舵をとる能力を疑っていないことは、よく承知していた。
彼は少し震えを帯びた声で私に訊いた。『なぜ僕はそんな事を言うのかって? 貴方は本当に限りなくご親切ですね。貴方はあの時も僕を笑いもなさらなかった』――ここで彼はもぐもぐ口の中で言いだした『あんな間違いをして、ね――まるで自分を大間抜けの馬鹿丸出しにした時も』
私は、かなりはげしく遮って、私には、あんな間違いは、笑うべき事柄ではないのだと言った。ジムは坐って、ゆっくりコーヒーを飲み、最後の一滴まで飲み干した。
『あれは、僕が一寸でも、痛いところを突かれたと認めたって意味じゃありません』
『違う?』と私は言った。
『違います』彼は静かにキッパリ断言した。『あの時、貴方は、すんでに何をするところだったと思いますか? それがお判りですか? そして、貴方自身はそう思いませんか?』……彼はゴクリと何かを呑んだ……『貴方自身は思いませんか。の――のら犬だと?』
そう言って――私は誓う! 彼はその答えを知りたそうに、私を見上げた。これは質問であったらしい――正真正銘の素直な質問で! しかし、彼は答えを待っていなかった。私が驚きから立ち直らないうちに、彼はさも夜闇の面に書いてある何かを読み取ろうとでもするように、前方の虚空を見つめながらつづけた。
『いまは、すっかり覚悟ができています。僕は用意がありませんでした、不用意でした――あの時は。僕は自分を弁解したくはありません。しかし、説明したいんです――誰かに理解ってもらいたい――誰かに――少なくとも一人の人に! 貴方に! 貴方でいけないって法はないでしょう?』
自分の道義心の正体を誤解の火から懸命に救おうともがく人間個人の苦闘かいつもそうであるように、それは厳粛で、また少しおかしくもあった――この貴重な因襲観念は、人生ゲームのもろもろの規則の一つに過ぎず、ただそれだけなのだが、しかし、それでも、これは自然の本性に限りない影響力をもっていると仮定されているために、そしてその失敗の恐ろしい刑罰のために、ものすごく有力だった。
彼は静かに彼の話をしはじめた。
ボートに乗って思慮ぶかい夕陽の光をあびた海上に浮かんでいたあの四人をひろい上げたデール航路の汽船の船中で、一同は、最初の一日が終わると二日目からは、皆に横目でじろじろ見られるようになった。でぶの船長が、何か難船の話をして、他の者たちは黙っており、最初は、この話が受けいれられていた。たとえ残酷な死からとまではいわなくとも、少なくとも、残酷な苦しみから運よく救ってやった哀れな難船者たちを、厳しく詰問する者はいない。
後で、ゆっくり考えてみれば、このアヴォンガル号の高級船員たちは、この事件には、≪何か、いかがわしい点≫があったと気づいたかもしれないが、しかし勿論、彼等は、そんな疑惑は、自分の胸一つにおさめておくだろう。彼等は、海で沈没した汽船パトナ号の船長、副船長と二人の機関士を拾い上げた。それで、だいたい、彼等には充分であった。
私はジムに、彼がそのアヴォンガル号の船中で過ごした十日間の気持については尋ねなかった。その部分について彼が話したところから私が勝手に推測すれば、彼は、半ば、自分の発見に呆然としていた――自分自身についての発見に――そして、たしかに、その恐るべき重要さを充分に感知することの出来るただ一人の人に説明しようとして努力していたのだ。
諸君は、彼が、その重要さを最小限度に縮小しようと努めたのでないことを理解しなくてはいけない。それだけは、私が保証するし、そこに、彼の特徴があるのだ。
彼が上陸して、彼もその中でみじめな一役を買っているあの事件について、予想もしなかった結論が下されているのを聞いた時、彼はどんな激情を経験したか、その気持については何も私に語らなかったし、それを想像することは難かしかった。彼は、自分の足元から大地がまっ二つに裂けたように感じただろうか? どちらだろうか? 私には判らない。しかし、彼か間もなく、なんとかして新しい足場を築いたことはたしかだ。
彼は上陸して丸二週間、海員ホームで待っており、その頃、そこには六、七人の男達も同宿していて、私は少し彼の噂を耳にした。この連中のだれた無神経な頭には、ジムは、他のいろいろな欠点に加えて、その上陰気で不機嫌な奴に思えたらしい。
彼はその頃、ひねもすベランダで長椅子に体を埋めて過ごし、彼の墓場のような部屋から、食事の時か、夜おそくしか出て来ず、その時も、彼は周囲の者から孤立して、不決断に、黙々と、家のない亡霊のように、桟橋の上をふらふらしていた。
『僕は、あの間中に、生きた人間には三言と話さなかったと思います』
と彼は言って、私の同情心を大いにそそった。そしてすぐつけ足した。
『もし言葉を交わし合えば、あの連中の誰かは、必ず口をすべらして、僕がそれだけは我慢しまいと決心している何かを言い出すにちがいない、喧嘩さわぎはしたくない、と思ったからです。いやだった! あの時は、喧嘩はしたくなかった。僕はあまりに――あまりに……僕はとても、そんなことをする勇気はなかった』
『それで結局、遮断壁《バルクヘッド》は、最後まで持ちこたえたわけか』
私は快活に言った。
『ええ持ちこたえました』と彼はつぶやいた。『でも僕はハッキリ言いますが、バルクヘッドは、ぎゅっと抑えつけてる僕の手の下で、ふくれ上がってきました』
『古い鉄でも、時にはどれ程のはげしい緊張に堪えるか、実に驚くほどだ』と私は言った。
彼は、椅子の背に仰向けに体を投げ出し、両脚をピンと延ばし、腕をだらりと垂れて、かすかに数回うなずいた。それは、この上もない悲しい姿だった。
とつぜん、彼は頭をもたげ、ピンと体をおこし、平手で強く自分のももを打った。
『ああ! なんというチャンスを取り逃してしまったんだ! おお神よ! なんという、チャンスを取り逃したんだ!』
彼はカッと激怒して叫んだが、しかし、その最後の≪逃した≫という言葉は、苦痛に絞り出された叫びに似ていた。
彼はふたたび黙ってしまい、一瞬間、あの彼を夢中にさせた失われたチャンスのいぶきを吸うように鼻孔を張りひろげ、あの取り逃した殊勲をはるかに追い求めるはげしい憧れの表情で、静かになった。
もし私が驚くか、ショックを受けたと考えるなら、諸君は一つならず、いろんな意味で私を誤解している! ああ、彼は空想的な奴だった! 彼は、さぞ空想に自分を投げ出し、自分を没入させたことだろう。私は彼の目の中に、彼の内面的生命のすべてが、帆を危険な程に一ぱいに張って夜の中に突進し、大胆不敵な大望の夢の世界にまっしぐらに突っこんでいくのを見た。
彼には、自分の失ったものを悔んでいる暇はなかった。いま彼はあまりに完全に、自然に、自分の獲得し損じたもののことで心が一ぱいだった。彼は、わずか三フィートの空間をよぎって彼を見守っている私から、はるか遠くへ行ってしまっていた。
一瞬ごとに彼はより深く深くロマンチックな功績の夢の世界へ突入していった。ついに彼はその中心に行き着いた! 不思議な至福の表情が彼の満面にひろがり、彼の目が、二人の間で燃えているローソクの光にキラリと輝いた。彼は力強く微笑した! 彼は心髄に突入した――心髄に。それは、諸君の顔もまた私の顔もけっして浮かべないであろう恍惚たる微笑だった、ね、諸君。
私は、次の一言で、彼を現世にかっさらって来た。
『もし君が、あの船にしがみついていたらという意味かね?』
彼は急にギョッと、痛々しい目で、驚き、困惑し、苦しい顔で、まるで星の国から転ろげ落ちでもしたように、茫然と私の方を振りむいた。諸君も私も、こんな顔をして誰かを見ることはけっして無いだろう。彼は、さながら冷たい指先で心臓に触れられたかのように、底深い身震いをした。そして最後にため息をついた。
私は、慈悲ぶかい気持になれなかった。彼の矛盾した無思慮が人を怒らせたのだ。
『君は、前もって知っていなくて不運だったな』
と、私は、ひどく不親切な気持で言った。しかし、この不実な皮肉は、相手になんの害も与えずに落ちたいわばひょろひょろ矢のように彼の足元にポタンと落ち、彼はそれを拾い上げる気もなかった。たぶん、彼は、それを見もしなかったのかもしれない。
やがて、彼は椅子の中でぶらりと手足をのばして言った。
『いまいましい! ほんとに、ふくれ上がったんです。僕がランプを持って下甲板のアングル鉄にそって歩いていると、僕の手の平ぐらい大きい鉄板の錆びたかけらが、自然に剥げ落ちてきた』
彼は額に手を当てた。
『かけらは、僕の見ている前で、何か生きもののように動いて飛び落ちました』
『そりゃ、君は、かなり嫌やな気持だったろうな』と、私はさりげなく言った。
『貴方は、僕が自分のことを考えたと思いますか? 僕の後には、前中間甲板だけでも百六十人の人々が、ぐっすり眠っており――そして船尾にはもっと大勢が、そしてデッキにはいっそう大勢が――眠っている――そんなこととは夢にも知らずに――たとえ、充分逃れる時間かあったとしても、船にはボートの三倍もの乗客がいるのに――
僕はそこに立っているうちに、鉄板の穴がバッと開いて、寝ている彼等の上にザーッと激流が突進してくるのが目に見えるようだった……僕はどうしたらいいだろう――どうしたら?』
ジムが、人で一ぱいの洞穴のような暗がりの中で、船艙ランプの光が、大海の圧力に向こう側から押されている遮断壁《バルクヘッド》の一部を照らし、耳には何も知らずに眠っている人々の寝息を聞きながら唖然と立ちつくした姿を、私はありありと目に描くことが出来る。彼が錆びた鉄片の落ちたのに愕然とし、たちまち死が全員を呑みつくすという認識に圧倒されて、じっと鉄壁をねめつけている姿を、私は目に浮かべることが出来る。
この出来事は、私の聞くところでは、船長の言いつけでジムが二度目に船の前部に来た時のことで、どうやら船長は、ジムをブリッジから追っ払いたかったらしい。ジムは最初に、大声に叫んで、すぐこの全員を眠りから恐怖の中に呼び起こしたい衝動を感じたが、しかし、あまりにも自分の無力さに圧倒されて、叫ぶ声も出なかった、と彼は私に話した。これが、よく人の言う、舌が口蓋にくっついてしまったというのだろう。
『余り口が乾いて』と彼はこの時の状態を簡潔な言葉を使って表現した。
次の瞬間、ジムは音を立てずに第一ハッチをよじ登って甲板に出ようとした。そこに船内の通風のため装備してあった帆布通風筒が、ふと揺れて彼に触わると、彼は帆布に軽く顔を触れられただけで、すんでに、ハッチの梯子からたたき落とされるところだった。
彼は前甲板に立って、また別の眠っている群集を見たとき、膝がガクガク震えたと告白した。その時は、エンジンの音は止まって、蒸気が吹き出していた。その深いゴーゴーいう騒音が、真鍮の線条のように夜闇を震動させていた。船が震えた。
そちこちで、頭がござからもたげられ、ぼーっとした姿が起き上がって坐った姿勢になり、しばらく眠むたそうに耳をすまして、ふたたび、箱類や、ウインチや、通風機などが山とごった返している中に沈んでしまうのを彼は見た。
彼は、これらの人々は、あの奇妙な物音がなんの音か気がつく程度の知識もないのを知った。鉄の船、白い顔の男たち、あの無知な回教徒の大衆にとっては、目に入るすべての光景が、耳に入るすべての音が、みな同じように物珍らしく不思議で、永久に理解できないままにそれだけ信頼できたのだ。ジムはふと、この事は幸いだったと思った。しかし、そう考えることは実に恐ろしかった。
彼は、どんな男も彼の立場にあったらそう思っただろうが、船はいまにも沈むだろうと信じていたのだ。大海の水が船に入らないように防いでいるぼろぼろな鉄板は、いまや海水の圧力にふくれ上がり、土台を掘り崩されたダムのように、たちまち致命的崩壊を来たし、急激な氾濫が、一挙に全員を呑みつくすに違いないのだ。
彼は、ずらりと横たわっている体を見て立ちつくした。自らの死の運命を知り、声無き死人の仲間たちを見渡している宿命の男。
彼等は、みな死んだ! いかにしても彼等を救うことは出来ない! たぶん、彼等の半数を乗せるボートがあったにしろ、時がない。時がない! 彼は口を開いて何かを言うのも、畢竟無駄、手や足を動かすのも無駄に思えた。
三言も叫ばないうちに、あるいは三歩も歩かないうちに、彼は、人間どもの死物猛いのあがきで白いしぶきだらけになった海で、救いを叫ぶ阿鼻叫喚の巷と化した海中で、のたうち回っているだろう。救いの道はない。
彼は、完全にその通り起きるだろう光景を想像した。彼は、ハッチのそばでランプを手に、身動きもせずに立ったまま、その時の苦難のすべてをまざまざと心の中で経験した――彼は、苦難の最後の詳細な点まで経験した。彼は、法廷で話すことの出来なかったこの話を私に語りながら、ふたたび、それをまざまざと心の中で経験し直したと私は思う。
『僕は、いま貴方をハッキリ見ていると同じ位ハッキリ、自分には手のほどこしようもないことを見ました。僕は、自分の全身から、生命という生命がことごとく抜け去っていくように感じた。僕は、このままそこに立って待とうかと考えた。あと何十秒もあるまい……』
とつぜん、蒸気の吹き出す音が止まった。あの騒音は、心をかき乱したが、しかし急な静けさは、なお耐えがたい息苦しさを与えた。
『僕は、溺れる前に窒息して死ぬような気がしました』と彼は言った。
彼は自分の生命を救おうとは考えなかった、と断言した。彼の脳裡に現われては消え、また現われる唯一の判然とした思想は――八百人の人々と七隻のボートという考えだった。
『僕の頭の中で、誰かが大声に言っていた』と彼はやや物狂おしく言った。『八百人の人々と七隻のボート――時間はない! それを考えてみろと』
彼は小さいテーブルの向こうから、私の方へ身をのりだし、私は、つとめて彼の凝視を避けた。『貴方は、僕が死ぬことを恐れたと思いますか?』
彼がひどく険《けわ》しく、低い声で訊いた。彼はバタンと音を立てて、開いた手をテーブルの上におろした。ぐらぐらとコーヒー・カップが踊った。
『僕は恐れなかったと誓う用意があります――僕は恐れなかった……神かけて―― 恐れなかった!』
彼はぐっと体をまっすぐにし、腕を組んで、顎を胸の上に落とした。
瀬戸物食器の音が、高い窓からかすかに聞こえてきた。ドッと笑い声が聞こえて、数人の男がひどく上機嫌でギャラリーへ出て来た。彼等は、互いにカイロ〔エジプトの首都でナイル河口に近い東岸にある〕の頓馬たちのひょうきんな思い出話をし合っていた。青白い、心配そうな顔をして、そっと長い脚で歩いていた青年が、市場の買物のことで、もったいぶって肩を怒らした、赤ら顔の世界旅行者にひやかされている。
『いや、まさか――僕がそんなにまで、ひどいだまされ方をしたと思うんですか』
と、その青年は、大へんむきになって、思案しながら訊いた。
音楽バンドの連中が引き揚げ、行きがけに椅子に腰をおとした。マッチが燃え上がり、一秒間、幾つかの無表情の顔と、白いワイシャツと平らな艶薬を塗った光る胸とが照らし出され、うたげの陽気さで元気に話している大勢の話し声の遠い騒音が、私には、無限の遠方から聞こえてくる、馬鹿らしい音に思えた。
『船員の何人かは、第一ハッチの僕の腕のとどきそうな所に眠っていました』とジムはまた話し出した。
あの船には |kalashee watch《カラシー・ウォッチ》〔船員見張り〕が置いてあり、夜間は全乗組員は眠り、ただ操舵員たちと見張員たちが交代で見張りをしていた。ジムは、一番近くの奴の肩を掴んでゆすぶってやりたい衝動を感じたが、しかし彼はそうしなかった。何かが、彼の腕を両脇に垂れたまま動かなくした。彼は恐れてはいなかった――おお、けっして! ただ、彼はそう出来なかった! それだけだ。
彼は、たぶん死は恐れなかったが、しかし、実は諸君、彼は突然の切迫した事態を恐れたのだ。彼の忌々しい鋭い想像力が、彼に、あらゆる周章狼狽の恐怖、人を踏んづけ踏み倒す我れ勝ちの突進、哀れな悲鳴、水浸しのボート――彼がかつて聞いたことのある海の災禍のあらゆるぞっとする出来事を、まざまざと心に描き出させたのだ。
彼は、死を諦めたかも知れないが、しかし、彼は、その上に恐怖の加わらない、静かな、一種の平和な夢心地の死を願ったのではないかと思う。
死の覚悟のできている人は、それ程めずらしくはないが、しかし、そのたましいに何ものも突き通せない強い決意の武器をよろい、勝ち目のない闘いを最後まで戦い、希望は刻々に薄れ、平和の願望はいや増しに強まり、ついに生きようとする願望を征服してしまうまで、戦い抜く用意のある人に会うことはごく稀である。
われわれここにいる者の中誰か、これを見たことはないか? 自分自身の中にああいった感情を――この極度に疲れた感情を、努力の空しさ、永遠のいこいを切望する気持を、経験した者がいはしないだろうか? 不合理な暴力と戦ったことのある者は、それをよく知っている――難破してボートで漂流した人々、荒野で道に迷ったさすらい人、大自然の無謀な力と戦った人々、あるいは、愚かな群集の残忍性と戦った人々は、それをよく知っている」
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第八章
どのくらいの間、ジムはハッチのそばに切株のように身動き一つせず、いまにも船が足元に沈み、激流が後から彼を呑み、木っぱのように投げつけるだろうと覚悟してじっと立ちつくしていたのか、私には判らない。あまり長いことではない――たぶん、二分間かそこら。
彼には誰だか見分けられない二人の男が、眠たそうに話しはじめ、また、彼にはどこだかハッキリしない所で、奇妙に足を引きずって歩く音が聞こえた。これらのかすかな音の上に、おおいかぶさるように、惨事の前のあの恐ろしい静けさが、崩壊寸前のあの苦しい静けさがあった。
その時ふと彼は、もしかしたら、突進していって、船が沈んだ時ボートが浮くように、ボート繋止《けいし》帯の索をぜんぶ切り放す時間があるだろうかと考えた。パトナ号は一つ長いブリッジを持っており、ボートは全部そこに上がっていた、その一方の側に四つ、反対側に三つ――そして一番小さいボートは、左舷に、操舵機とほぼ並行して。
彼は、信じてもらいたい切望をありありと見せて、自分は、即座に役立つための用意をしようと、極く注意ぶかくしたのだと断言した。彼は己の義務を知っていた。彼は、そこまでは、充分立派な副船長だったと、私はあえて言う。
『僕はいつも、自分は最悪の事態に対する用意があると信じていました』
と彼は、心配そうに私の顔をじっと見ながら説明した。私は、男の微妙な不健全さの前から目をそらして、その健全な主義に賛成してうなずいた。
彼は、よろよろしながら走り出した。ずらりと並んだ頭につまずいて転ばないように、脚の上をまたいで行った。とつぜん、誰かが下から彼の上衣をつかみ、切ない声が彼の肘の下から聞こえてきた。彼の右手に持っていたランプの光が、上向きになった黒い顔を照らした。その目も、声と一緒に彼に嘆願している。彼は、何回となく、しつこく、祈るように、ほとんど絶望的に繰り返している≪水≫という言葉を理解できる程度のアラビア語を聞き覚えていた。彼は上衣をぐいと引いて逃げようとしたが、こんどは腕が彼の脚に抱きついてきた。
『そいつは、溺れる者がしがみつくように僕にしがみつきました』と彼は印象的に言った。『水、水! いったいどんな水のことだろう? こいつは何を知っているんだろう? 僕は出来るかぎり静かに、放せ、行かせてくれ、と言った。彼は僕をせき止めている、時は迫り、他の人たちも身動きしはじめた。僕は時間が欲しかった――ボートが浮かぶように索を切る時間が。
男は、こんどは僕の手をつかんだ。そいつはいまにも叫び出しそうな気がして心配だった。僕の頭にチラッとこれだけでも充分騒動がもち上がるだろうという考えが閃いた。僕は自由なほうの腕を後に引いて、彼の顔にランプを投げつけた。ガラスがチャリンチャリン鳴って明りが消えたが、なぐられて男は手を放し、僕は走り出した――僕はなんとしてもボートのそばへ行こうとした。
男は、後から僕にとびついてきた。僕は男の方を振り向いた、彼はどうしても静かにしていない、彼は叫び出そうとする。僕は半ばこいつの喉を絞めつけて、やっと彼が何を欲していたか判った。彼は水が欲しかったんだ! 飲む水が。飲み水は厳しい割当制だった、ね、そして彼には、僕も何回か見かけた小さい男の子がいた。この彼の子供が病気で喉がかわいたのだ。
男は、僕の通りかかった姿を見つけて、少し水をくれとたのんだのだった。それっきりだった。僕たちは暗闇の中をブリッジの下へ来ていた。彼は、僕の手首を掴みっきりで、どうしても追っ払えない。僕は自分の船室へ走っていって、僕の水瓶をひっ掴み、それを男の手の中に突っこんだ。男は消えた。その時はじめて、僕は、自分自身がどれ程喉がかわいていたかに気づいた』
ジムは肘の上によりかかり、片手を目の上に当てた。
私は背すじがぞくぞくするような感じだった。このすべてには何か異常な、特有のものがある。彼の眉をおおっている手の指がかすかに震えている。彼は短い沈黙を破ってつづけた。
『こういうことは、一人の人間にはたった一度しか起きない、そして……ああ! そうだ! まあいい……僕がやっとブリッジに着くと、あいつ等はボートの一つを敷台からはずしていた。一隻のボートを! 僕が梯子段を駈け登ろうとした時、いきなり強い一撃が肩に落ちた。辛うじて頭をはずれて。それでも僕は止まらなかった。すると、機関長は――彼等は、その時は、彼を船室から起こしてきていた――ふたたびボートの足掛けを振りかざした。なぜか、僕はもう何を見ても驚かなくなっていた。
こうしたことはみな、ごく自然に見えた――そして恐ろしい――恐ろしいことに。僕はすばやく体をかわしてその浅ましい気違いの一撃を避け、彼をまるで小さい子供のように持ちあげてデッキからどけようとした。すると彼は、僕の腕にもたげられながら、小声で叫びだした。≪よせよ! よせよ! 俺ゃ君を、あのニグロの一人かと思ったんだ≫
僕は彼を向こうへ投げつけた。彼はブリッジにそって横すべりして行き、チビ――二等機関士――の脚に下から突き当たった。船長は、せっせとボートを降ろしていたが、振りむき、野獣のように哮えながら頭を低く前に突きだして、僕の方にむかってきた。
僕は、石のように身じろぎ一つしなかった。僕はそこにこの壁のように、がっちり立っていた』と、彼は指の関節で軽く彼の椅子のそばの壁を叩いた。
『まるで僕は、こんなことを、前にみんな聞いたり見たりしたことがあるようだった、すでに二十ぺんも、こんなこと全部を経験したみたいだった。僕は彼等を恐れなかった。僕は、にぎりこぶしを後に引いて身構えた。すると船長は、急に立ち止まってつぶやいた――
≪ああ! お前か。手を貸してくれ、早く≫
そう船長は言いました。早く! と、まるで誰か、船の沈没より早く出来る者がいるかのように。≪船長、なんとかしないんですか?≫と、僕は訊いた。
≪するさ。逃げるんだ≫と、彼は自分の肩ごしにつっけんどんに唸った。
僕はその時、彼の言っている意味が判らなかった。あとの二人は、その時はもう立ちあがって、二人揃ってボートの方へつっ走って行った。二人はどたどた重そうに走り、ぜいぜい息を切らせ、互いに押しのけ合い、ボートや船を罵り合い僕を罵った。すべて低い小声で。
僕は身動きしなかった、口もきかなかった。僕は船の傾斜を見守った。船は、まるで修羅場の造船台に乗ったように静かだった――ただ、こういう恰好で』
彼は手を上に差しあげ、手の平を下むけにし、指先を下に傾斜させてみせ、『こういう恰好で』と繰りかえした。
『僕の前方には水平線が、船首の上に鐘《ベル》のようにハッキリ見えた。僕は遠方の海面が、黒く、キラキラして静かなのを見た――池のように静かな、死んだように静かな、海がいまだかつてあんなに静かだったためしはない程静かな――とても僕には見るに堪えないほど静かなのを。
貴方は、とても支えをしても保《も》たないほどぼろぼろに腐れた、一枚の古鉄によって辛うじて沈没を免れながら船首を下に突っこんで浮かんでいる船を見守ったことがありますか? ああ、そう、つっかいですか? それは考えましたとも――僕はおよそ考えられるだけのことは考えました。 しかし貴方は、五分間で鉄板の遮断壁《バルクヘッド》につっかいが出来ますか――いや、たとえ、五十分かけるにしろ? それをしに降りて行く男たちをどこで手に入れられますか? それに、つっかいの材木――材木! 貴方は、もしあのぼろぼろのバルクヘッドを見たとしたら、修理のために最初の一撃を与えようと、大木槌を打振る勇気があったでしょうか? あっただろうなどと言わんで下さい、貴方はあれを見ていないんだ。見れば、誰にも出来ない。
畜生! 大槌を振るうからには、少しは直るチャンスがあると信じなくては、たとえ千に一つのチャンスでも、少なくとも、何かチャンスらしいものを。しかし、あのぼろ鉄では、貴方は千に一つのチャンスも信じなかったでしょう。誰も信じなかったろう。
貴方は、ただそこにつっ立っている僕を野良犬のようにやくざ者だと考えるが、では貴方なら何をしたか? 何を! 判らんでしょう――誰にも判らない。対抗するには時が必要です。貴方なら僕に何をさせたでしょう? この眠っている人々を恐怖で狂乱させてどこに親切があるか、しょせん僕一人では救うことはできない――いかにしても救うことは出来ないのに? ねえ! 僕が貴方の前のこの椅子に坐っているのと同じくらいこれは確かに本当のことだ……』
彼は数語ごとに早く息をし、さも、話の効果を苦にしているように、チラッチラッと私の顔にすばやい視線を投げた。
でも、彼は私に話しているのではなく、彼はただ私の前で、目に見えない人格と論争しているのだった、彼に敵対し、そして離れない彼の存在の相棒――彼のたましいのいま一人の所有者と。その論争点は、法廷の取調べの能力のとても及ばないところだった。それは人生の本質についての微妙な、重要な論争で、裁判官はいらなかった。
彼は同盟者を、援助者を、共犯者を欲した。私は包囲され、盲目にされ、おびきよせられ、おどされて、いまにも討論にハッキリ参加する危険を犯しそうに感じた。だがこの討論は、もし彼のもつあらゆる幻影幻想に――それ自体の幾つかの主張をもつ高潔な幻影や、自らの要求をもつ不面目な幻影のすべてに公平であろうとすれば、結局決定は不可能の討論であった。
ジムを実際に見たことがなく、彼の言葉を、私の感情をまじえた復《また》聞きでしか聞かれない諸君には、どうにも説明がつかない。私は、彼の話を聞きながら、想像も及ばぬ不可解なことを理解しろと強制されているような気がした――そして、およそこんな感じほど不愉快なものはなかった。
私は、あらゆる真実の中に隠れている因襲と、本質的にはまことである嘘《うそ》の上にひそむ因襲とを見させられた。彼はあらゆる側面に同時に訴えた――不断に太陽の光にむいている側にも、また月の向こう半球のように、時たまおずおずと灰色の光を縁におびるだけの不断の暗黒の中にこっそり存在する人間のあの暗い側面にも。
彼は、私をゆさぶった。私はそれを白状する。私は潔く白状する。
あれは、名もない、つまらん出来事だ――なんとでも諸君の好きなように。――破減した若者、大衆の中の一人――とはいえ、彼はわれわれの一人である。あの出来事は、蟻群の洪水のように、ぜんぜん重要なことではないが、それでいて、彼の態度の神秘性は、さながら彼が第一線の人物であったかのように、まるで、そこに含まれた茫漠とした真理が、人類の人間という概念に影響を及ぼすほどの重要性をもっていたかのように、私の心を強く捉えた……」
マーロウは言葉を切り、消えかかった葉巻に新しい生命を吹きこみ、すっかり話のことを忘れてしまったように見えた。そして、急にまた話しだした。
「もちろん、私の落度だ。本当に興味をもってしまう必要はなかったのだ。あれは私の弱点だ。彼の弱点はまた別だった。私の弱点は、私の欠点は、附帯的なこと――外部的なことにたいして――弁別力を持たないことで、隣りの男の持っているのがバタ屋のボロ荷か、立派なリネンかの見分けもつかなかった。隣りの男――そうなんだ。私は、いままでに大へん大勢の男に出会っている」
マーロウは、一瞬間淋しい顔になってつづけた――「それも、みなある――ある――衝撃(と言っておこう)をもって出会っている。例えば、この男の場合のように――そして、どの場合も、結局私の見たのは、単に人間にすぎなかった。いまいましいデモクラシー的直感力は、全くの盲目よりはましかもしれないが、しかし私にはなんの便宜も与えなかったことは確かだ、諸君。人々は、相手が、彼等の立派なリネンを考慮するものと期待するのだ。ところが、私はけっしてこういうことで感激熱狂することの出来ない人間なのだ。
ああ! それは弱点だ。それは弱点だ。そして、やがて優しい夕べがやってきて、大勢の男たちは、トランプのホイストをするのもおっくうになり――そして物語を……」
彼はふたたび言葉を切って、たぶん、激励の一言を待っていたが、誰も何も言わなかった。ただ家主だけが、さも、しぶしぶお務めで言うように、つぶやいた――
「君は実に微妙だ、マーロウ」
「誰が? 私が?」
と、マーロウは低い声で言った。
「いや、いや! しかし、彼はそうだ。そして私は、この物語を成功させようとしてそう努めたにしろ、畢竟、無数の明暗、色調を捕えそこなっているのだ――それらは、実にすばらしく、無色の言葉で表わすのは実に困難だ。なぜなら、ジムは、繊細微妙でありながら、また実に単純なんで、ますます問題を複雑至難にしてしまった――あのこよなく単純な、気の毒な青年は!……ヨブにかけて! 彼は驚くべき男だった。
彼はそこに坐って私に話しており、ちょうど私の目の前で私と対坐すると同じように、彼は何ものに直面することも恐れず――また、何ものを信ずることも恐れなかったろう。全く神話的清純さで、そして大したものだ、実に大したものだ! 私は、まるで、彼が私をじらせて思う壷にはめようとしていはせぬかと疑ってでもいるように、ひそかにじっと彼を見守った。
彼は自信満々で、正々堂々と、≪正々堂々とだ、諸君!≫対抗できないものは何もなかった。彼は、≪あんなに背が高く≫なって以来――といってもまだ≪ほんの少年≫だが、陸と海とで人間を襲い得るあらゆる難儀に対抗する用意を怠らなかった。彼は誇らしげに、この種の先見くらいは持っていたと告白した。彼はいろいろな危険とその防御を考案し、最悪の事態を予想し、最善をつくして練習してきた。彼はきっと、この上ない気高い、揚々たる生活を送ってきた青年に違いない。
諸君、想像できるだろうか? 冒険につづく冒険、大した栄誉、じつに勝ち誇った進歩! そして自分の賢明さへの深い自覚が、日毎に彼の内面生活を飾っていく。彼は自分を忘れ、その目はかがやき、そして彼の一言ごとに、私の心は、彼の途方もない不合理な光に照らし探されて、重苦しくなってきた。私は、笑う積りはなかった。そして微笑まないようにと、鈍重な顔をした。彼はいらいらした様子を見せた。
『いつでも、起きるのは、予期しないことさ』
と、私は和解するような口調で言った。
『ふん!』
と、彼は、私の鈍感さに苛立ったように言った。彼は、予期しない事なんかがなんだ、人間のとても想像も及ばない事件でないかぎり、けっして何ものも彼の完璧に用意のととのった状態に打ち勝てっこなかったんだ、という意味らしかった。
彼はまったく虚を衝かれた――そして彼は、水と大空と、船と、人々に向かって、呪いの言葉をささやいた。ありとあらゆるものが彼を裏切った! 彼がトリックにかかって、ああいった高潔な覚悟をきめ、小指一つ動かせなくなっていた時、一方、あの他の連中は、ハッキリ現実に必要なことを見てとり、あのボートのことで互いにころがり合い、汗水たらして死物狂いになっていた。
そこで彼等は、最後の瞬間に何かヘマをやらかした。どうやら、連中はうろたえ、慌てふためいたために、何か妙なことをして、一番目のボートの敷台の差し込みボルトをギュッと中へ押しこんでしまったらしい。たちまち、彼等はこの致命的な事故で、大方いかれていた頭が完全に狂ってしまった。
人々の寝静まった沈黙の世界に静かに浮かんでいる動かない船の上で、あの乞食どもが時と戦いながら、四つん這いになったり、絶望して立ち上がったり、引っ張ったり、押したり、毒々しく怒鳴り合ったり、いまにも殺し合い、いまにも泣き出し、互いの喉に飛びかからんばかりなのを、ただ死が、冷酷な目の断固とした工事監督のように、彼等の後に黙って立っている恐怖だけでやっと食い止めて、あのボートを解き放とうと死物狂いになっている有様は、さぞかしものすごい光景だったに違いない。
おお、そうとも! さぞかしすごい光景だったに違いない。ジムはそれをぜんぶ見た。彼は軽蔑しながら、苦々しく、そのことを話した。彼はある六感で、それを詳細に知っていたと私は断言する。目でなく六感で。なぜなら、彼は連中やボートの方をチラリとも見ず――たった一度チラリと見向くこともせず、一人離れて立っていたと私に誓ったからだ。私はジムの言葉を信じる。
彼は、船の脅かすような傾斜を見つめ、この、安全この上もないまっ最中に発見されたいま停止状態の危険を見守るのに忙しすぎ――彼の逞しい想像力は、頭上に一本の毛で天井からぶらさげられた剣に見とれ、それに心を奪われていた。
彼の眼前の世界は何一つ動かない、彼はなんの邪魔もなく描写することができた――とつぜん、黒いスカイラインが上向きに揺れ、厖大な、平らな水面が急に上に傾き、すばやく静かに持ちあがり、残酷に投げつけられ、深淵につかまれ、絶望的にもがき、星の光が墓の丸天井のように彼の頭に永久に四方からおおいかぶさった――彼の若い生命の反撥――暗い最期。
彼は死ねた! 誓って! それが出来なくてどうしよう? そして、諸君覚えててくれ給え、彼のその描写のし方は、完成した画家のそれのようだった。彼は、敏捷に、事実に先回りして視るという、気の毒な天賦の才を持った男だった。
その才能が彼に示した光景は、彼をぞっと、足の底から首すじまで冷たい石のようにしてしまい、しかも彼の頭の中では、思想が乱舞していた。びっこの、盲目《めしい》の、無言の思想の踊りを――恐ろしいちんばの旋回舞踏を。
私は諸君に言わなかったかな、彼は、さも私が彼を縛ったり、自由にしたりする権力を持っているかのように、私の前に自供したと? 彼は、畢竟彼にはなんの役にも立たないのに、私から赦免されようとして、深く深く掘り下げていった。これは、どんなに厳粛な嘘も罪を酌量することの出来ない、誰にも助けられない判例で、ここでは彼の創造主が、罪人を、己自身の勝手にさせてあるように見えた。
ジムはブリッジの右舷に、ボートの騒ぎからできるだけ離れて立っていた。それは、いまも気違い沙汰の昂奮で、陰謀のようにこそこそ続けられている。二人のマレー人は、その間、相変わらず舵輪を握りつづけていた。
まあ諸君、この珍無類の海のエピソードの役者たちを、心に描いてみ給え――四人は、すさまじい勢いで、しかもこそこそボートいじりに無我夢中であり、三人は、全く不動の姿でそれを傍観しており、その下では、何百人もの人間が、全く何も知らず、甲板の天幕におおわれて、彼等の疲れ、彼等の夢、彼等の希望もろともに絶滅しようとするの瀬戸ぎわに、見えざる手によってせき止められ、おさえつけられているのだ。
彼等がその通りであることは、私には疑う余地はなかった。船がああいう状態であり、これこそ、最も致命的な、恐ろしい、事故の描写であった。ボートのそばのあの乞食どもが、おじけて気違いのようになったのももっともだった。正直のところ、もし私がそこにいたとしたら、私は、船が次の一秒間に沈まずに水上に浮かんでいるというチャンスに、贋金の一文をさえ賭けなかっただろう。
だのに、やはり船は浮かんでいた! この眠っている巡礼者たちは、あくまでも、彼等の巡礼の旅を完成する運命だったのだ。まるで、この巡礼たちがそのお慈悲を世に告白している全能の神が、彼等の謙虚な証言をいましばらく必要とされ、下界を見下ろして、大洋に、≪汝船を沈めるなかれ≫と合図されたかのようだった。もし私が、古い鉄がどれほど強靱になれるか――時には、われわれが時たま見かける、影のようにやつれ果てながらなお人生の圧迫に雄々しく立ち向かうある人々の精魂のように、古鉄も強靱であり得ることを知らなかったら、彼等の脱出は、実に限りなく不可解な出来事として私を悩ましたことだろう。
私に、この二十分間の中で少なからず不思議に思えるのは、あの二人の操舵手の態度だ。この二人は、取調べの時、証拠事実を述べるためエイドンから連れて来られたあらゆる種類の土人群の中にいた。
その一人は、ひどいはにかみやなのを懸命にこらえており、大へん若い上に、滑らかな黄色い、愉快な顔をしているのでいっそう若く見えた。私はすっかり覚えているが、ブラヤリーが通訳を通してこの男に、君はその時どう考えたかと訊くと、通訳は彼とみじかい会話を交わしてから、法廷のほうに向き直り、勿体ぶった様子で言った――
『彼は、何も考えなかったと申します』
いま一人は、忍耐づよいしょぼしょぼした目の、白髪の巻毛のたくさんある頭に、洗いざらしの青木綿のハンカチをスマートにひねって巻いた、顔はすごく凋《しな》びて落ちくぼみ、褐色の皮膚が網の目のような皺《しわ》のために一段と黒く見える男で――自分は、船に何か悪い事がふりかかったのは知っているが、なんの命令もなかった、何も命令を受けた覚えがない、だから、舵輪から離れなかったのが当然ではないか? と陳述した。
更に質問すると、彼はその痩せた肩をぐっと後に引いて、
『いえいえ、めっそうな、あの時白人様たちは、けっして死ぬのが怖えで船を逃げ出したりしたんじゃねえでがんす。わしゃ今でも、そんな事は絶対に信じねえでがす。きっと何か秘密の理由《わけ》があったのかもしれねえ……』
と、彼は物知り顔に老いた顎をしきりに動かした。
『ハハァ! そうだ、秘密の理由だ。わしは、てえした経験者なんで、あの白人のチューアンに是非知ってもらいてえでがんす』――と彼は、頭を上げようともしないブラヤリーの方を向いて言った――『わしは、海で大した長年の間白人がたに仕えましたで、おかげ様でたくさんの知識を授かったでがす』――
そして突然、老操舵手は昂奮に震えながら、われわれ聴衆が魔法にかかったようにじっと耳をすましている前で、ペラペラとたくさんの奇妙な発音の名前やら、死んでいった船長たちの名前、忘れられた母国の船の名前、聞き慣れた名前を、さも懐しそうに羅列しはじめた、さながら、長年にわたって物言わぬ時の手が、彼等に働きかけていたかのように。
ついに、法廷はこの老いた土人を止めた。廷内は静まりかえった――静けさは、少なくとも一分間はつづき、それは、深いつぶやき声に優しく移っていった。
このエピソードは、二日目の裁判のセンセーションで、あらゆる聴衆を感動させた、ジムを除いて他のすべての人々を。ただジムだけは、不機嫌に最初のベンチの端に坐って、何か神秘な弁護をしようという考えに憑かれたように見える、この途方もない、いまいましい証人をけっして見上げようともしなかった。
それでこの二人のインド人水夫たちは、もしそれが運命だったら、死に呑まれていただろうあの舵が利く程度の微速力もない船の舵輪にへばりついていたのだ。白人たちは、二人の方をチラリとも見ず、たぶん、彼等の存在を忘れてしまったのだろう。
たしかに、ジムはそれを覚えていなかった。彼はどうしようもなかったことは覚えていた。彼は、いまは一人きりでどうしようもなかった。ただ船と一緒に沈むほか、どうにもしようがなかった。その事で騒ぎを起こしても無駄だ。そうじゃないか? 彼は、音一つ立てず、ある種の英雄的行動を考えて体をしゃちこばらせ、棒立ちになって待っていた。機関長が、用心深くブリッジを横切って走ってきて、彼の袖を引いた。
『来て助けてくれ! 後生だ、来て助けてくれ!』
機関長は爪先でボートのところへ走り帰り、すぐまた、たのんだり、罵ったり同時にしながら、彼の袖を引っぱりに戻ってきた。
『機関長は、僕の手にキッスしただろうと思う』と、ジムは荒々しく言った。『そして次の瞬間、彼は僕の顔の前で泡をふきながら、ささやいた。
≪もし俺に時間さえあったら、お前の頭蓋骨をたたき割ってやりてえよ≫
僕は彼を押しのけた。するといきなり、彼は僕の首をふんづかんだ。畜生! 僕はそちらを見ずになぐりつけた。
≪お前、自分の生命が惜しくないのか――この大腰抜け?≫と、彼は泣き声を出す。腰抜け! 大腰抜けと呼んだ! ウァッハッ! ハッ! ハッ! ハッ! と、あの男は僕を笑った――ウアッ! ハッ! ハッ! ハッ!……』
ジムは身をのけぞらせ、体をゆすって笑った。私は一生の中に、あの笑い声ほど苦々しい声を聞いたことはなかった。その声は、馬鹿者や、玉突きや、市場などのことで笑い愉しむ闇の力のように落ちてきた。
薄暗い、長いギャラリーの中には、いまは話し声はなく、蒼白いしみのような幾つかの顔が、一斉にこちらを振り向き、あたりの静けさは、茶匙がベランダのはめ石床の上に落ちた音が、小さい、銀鈴の叫び声のようにひびき渡るほどに深まっていった。
『そんな笑い方をするな、周囲《まわり》に人がいるじゃないか』と私は忠告した。『みんなによくないよ、ね、君』
彼は最初は聞こえたらしいなんの素振りもしなかったが、しばらくすると、何か恐ろしい光景の中心をさぐろうとでもするように、ぜんぜん私の顔をそれた一点をじっと見据えて、無頓着につぶやいた。
――『おお! みんなは、僕を酔っぱらいだと思うでしょう』
そして、そのあとで、もう二度と声を出すまいと思われるような顔をした。しかし――心配はない! 彼は、いまは、ただ自分の意志力だけでは生きることを止められないように、話し止むことは出来ないのだ」
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第九章
「『僕は心の中で言っていた、≪沈め――畜生! 沈んじまえ!≫』
この言葉を皮切りに、彼はふたたび話しだした。彼は、早く万事終わればいいと願った。彼は残酷に一人とり残され、頭の中で、呪うように、この言葉を船にたたきつけていた。同時に、一方において彼は、この下等な喜劇の場面《シーン》を見物する特権をよろこんだ私の判断では、彼等はまだあのボルトのことで騒いでいた。船長は命令していた。
『下へ入って、持ち上げてみろ』
他の連中は、当然こっそりこの難役を逃れようとした。何しろ、ボートの竜骨の下へ体をぺしゃんこにしてもぐり込んでいて、もし突然船が沈んだ場合は、実に目も当てられない。
『なぜ船長しないんです――一番体が強えでしょう?』と、チビの機関士が泣き声を出した。
『畜生、べら棒な! 俺ゃ厚ぼったすぎる』
と、船長は絶望してぶつぶつ言った。
その光景は、天使でさえも涙を出して笑うほど滑稽だった。連中は、しばらくぼんやり立っていたが、とつぜん、機関長は、またもやジムのところへ飛んで来た。
『来て助けてくれよ、おい! たった一つのチャンスを投げすてるとは、気でも狂ったのか? 来て助けてくれ、おい! おい! あれを見ろ――見ろよ!』
そして、ついにジムは、相手が狂気のようなしつこさで指している、船尾の方を見た。音もなく黒い突風雨《スコール》が、すでに空の三分の一を呑んでいるのを見た。例年あの頃には、こういうスコールがどういう風にやってくるか、諸君は知っている。
最初、水平線が暗くなるのが見える! それだけだ。やがて、雲が一つ、壁のように不透明に立ち昇る。一直線の縁《へり》に病的な白い光をならべた水蒸気が南西から飛び立ち、満天の星を呑んでいく――その影が水面に飛びひろがり、たちまち、海と空とは一つの暗い深淵と化す。しかもあたりは実に静かだ。雷鳴もなく、風もなく、なんの音もせず、稲妻のひらめきもない。と、次の瞬間、暗い無限の空間に鉛色のアーチが現われ、闇の波動に似た大波のうねりが一つ二つ走りすぎ、とつぜん、風と雨とが、さも何か固いものの中から爆発したような特殊な激烈さで襲撃してくる。
こういう雲が、彼等の見ていない間に現われていたのだ。彼等はふとそれに気づき、もし完全な静けさの中なら、船がいま数分間は浮かびつづけている幾らかのチャンスがあるにしろ、海がごく微かに動揺しても、その瞬間に船は終わりだと、しごくもっともな推測をした。
こんな突風雨《スコール》の爆発に先立つ海のうねりに、船が二度首を動かしただけでも、また終わりで、たちまち海に飛びこんでしまい、それは、いわば長いダイヴィングに延長されたように、下へ下へと、ついに海底まで潜っていってしまうだろう。
ここで、また新たな恐怖の狂態が演じられ、彼等は極度に死を嫌悪する新たな道化の一幕を見せることになった。
『雲は、黒かった、真っ黒だった』
と、ジムは陰気に着実に話をすすめる。
『黒雲は背後からこっそり、われわれの上に忍び寄った。忌々しい奴め! それまでは、僕の頭の底には、まだ幾らか希望があったと思う。僕にはよく判らないが。しかし、とにかく、それも今は全く消え失せた。僕は、自分がこうして闇の力に捕《つか》まったのを知って逆上した。僕は、まるで罠に陥ちたように怒った。僕は本当に罠に陥ちたんだ! 熱い晩でもあった、僕はよく覚えている。そよとの風もなかった』
彼はその時のことをあまりよく覚えていて、椅子の中であえぎ、私の目の前で汗をしたたらせ、息苦しそうに見えた。たしかに、それは彼を狂わせ、それは、新たに彼を打ちのめした――しかし、それで彼はまた、すっかり忘れていた、彼がブリッジに走ってきたあの重大な目的を思い出した。彼は、船から、救命ボートを切り放つ積りであったのだ。
彼はナイフをサッと取り出しで、まるで何も目に入らないかのように、何も聞こえないかのように、誰一人船にいるのを知らないかのように、夢中で索を切りはじめた。連中は、ジムがめちゃくちゃに頭がおかしくなり、気がふれたんだと思ったが、この無益な時間の浪費をやかましく反対しようとはしなかった。
ジムは、すっかり切り終わると、切りはじめた地点に戻った。そこには機関長が待ちかまえていて彼をひっ捕まえ、まるで彼の耳を噛もうとするように、乱暴に彼の頭にぴったり顔をつけて囁いた――
『この大馬鹿野郎! あの大勢のけだものどもがみんな水へ入った時、お前は、ちょっぴりでもボートに乗れるチャンスがあると思うのか? ヘッ、奴等は、よろしくボートに乗って、そこからお前の頭をたたきつぶすぜ』
無視されると、船長は両手でジムの肘をにぎりしめた。彼は、一カ所を神経質に、ズルズル歩きつづけながらつぶやいた。
『ハンマーだ! ハンマーだ! おーい! ハンマーをとって来い』
チビの二等機関士は、子供のような泣き声を出した。しかし、腕は折れ、危険は迫っているが、彼はどうやら連中の中では一番腰抜けでなくなったらしく、実際に、勇気をふるい起こして、ハンマーを取りに機関室へ走っていった。公平のところ、これは生やさしい事ではなかったに違いない。ジムは、二等機関士が、追い詰められた男のようにサッと死物狂いの形相を投げ、一声低い、泣き声を放って走り去ったと私に話した。
彼はすぐハンマーを手に、よじ登って戻ってき、いきなりボルトに飛びついた。他の連中は、すぐジムを諦めて、助太刀に走り去った。ジムの耳に、ハンマーのコツコツ打つ音と、はずれた敷台の落ちる音が聞こえた。ボートは放たれた。その時だけ、彼は振り返って見た――その時だけ。しかし、彼は遠くに離れていた――遠くに。彼は私に、自分がいつも遠くに離れていたことを知ってもらいたがった、彼とこの連中との間――ハンマーを持った連中との間には、何も共通なものは無かったことを。けっして何一つ無かったことを。
きっとジムは、自分はこの連中から、横切ることの出来ない空間によって、克服できない障害によって、底無しの淵《ふち》によって、ハッキリ切断されていると考えていたに違いない。彼は、彼等から出来るかぎり遠く離れていた――全船幅いっぱいに。
彼の脚はその離れた一点に、そして彼の目は、連中が一緒に頭をかがめ、共通の恐怖にさいなまれて奇妙な恰好に揺れているぼんやり見える姿に、釘づけになった。
ブリッジに備えてある小テーブルの上の支柱から下がっている手ランプ――パトナ号には、船の中央部に海図室がなかった――が、連中のせっせと働いている肩や、背中を曲げてひょいひょい動いている後姿の上に光を投げている。彼等はボートの船首を押した。彼等は、夜闇の中に押した。彼等は押していて、もうジムの方を振り向こうともしない。
連中は、さも、本当にジムがあまり遠方すぎるかのように、あまり彼等からどうしようもない程離れているかのように、一言呼びかける値打も、チラリと振り返るか、一つの合図をする値打もない程離れてしまっているかのように、彼を見放してしまった。
彼等はジムの受け身の英雄的行為《ヒロイズム》を振り返り、彼の克己の苦痛を鑑賞する暇はなかった。ボートは重たく、彼等は掛け声一言叫ぶ息の余裕もなく、船首を押していたのだ。しかし、彼等のその恐怖に混乱し、風に吹かれたもみがらのように自制力を吹き飛ばされた死物狂いの活躍振りは、全く、茶番劇で立回りを演じている道化役者よろしくのおどけに見えた。
連中は、両手で押し、頭で押し、生命惜しさに全身の重みをぶっつけて押し、彼等の全精魂を傾けて押した――ただし、首尾よく船首がダビットから離れたとたんに、彼等はパッと一斉に手をはなし、われ勝ちにボートに乗りこもうとした。当然の結果として、ボートは突然勢いよく揺れ戻り、彼等はめちゃくちゃにぶつかり合いながら後に突き倒された。彼等はしばらく途方にくれ、思いつくかぎりの獰猛な悪たいを声をひそめて吐き散らし、もう一度やりなおす。三度、こういう事が起きた。ジムはそれを私に、むっつり考えこみながら話した。彼は、その茶番劇の一つの動作も見落とさなかった。
『僕は、彼等を唾棄した。彼等を嫌悪した。僕は、そのすべてを見ねばならなかった』
と、彼は、私を暗い、注意ぶかい目でじっと見ながら、なんの誇張もせずに言った。
『これ程恥ずかしい試練を受けた男が、またとあろうか!』
彼は、言いようのない憤怒に、気も狂わんばかりの男のように、しばらく両手で頭をかかえていた。
これらは、ジムが法廷で説明出来なかった事だ――私にさえ説明できなかった――もし私が、時々途切れる彼の言葉と言葉の間の空白にひそむ意味を理解することが出来なかったら、私は、彼の告白を聴く資格はほとんど無かっただろう。
彼の不屈の精神に襲いかかるこの攻撃には、嘲笑的な、執念ぶかい、悪意にみちた復讐の意図があった。彼の忍耐力の試練には、道化の要素が――その死か? 恥か? と選択をせまる脅迫の中には、滑稽に顔をしかめてみせる人を卑しめ堕落させる要素があった。
ジムは事実のままを物語り、私はそれを忘れはしなかったが、しかし、いまこの年月をへだてて、私には、彼の言った通りの言葉は思い出せない。ただ私に思い出せるのは、彼は、出来事を赤裸々に話していきながら、彼の心にある暗い、深い遺恨を、私にすばらしくハッキリ伝えたという事だ。
二回、彼はもはや終わりが来たと確信して目をつぶり、二回、また目を開けねばならなかった、その度に、彼は、非常な静けさに包まれたあたりの暗黒が一段と深まったのに気づいた。音のない雲が、天頂から船の上に影を落として、人で満ちあふれている船のあらゆる音を消し去ってしまったようだ。もう、甲板の天幕の下からも、声は聞こえない。
彼は、目を閉じる度ごとに、死の床に横たわった群集の体が、まざまざと、心眼に映った。目を開けると、ぼんやり、四人の男が、頑固なボートと狂人のように闘いもがいている姿が見えた。
『彼等は、ボートが揺れもどるたびに何回もよろよろと押しもどされ、互いに悪たれながら立ち上がり、それから急に、またもや一団となって突進した……全く、抱腹絶倒のこっけいさだ』
ジムは伏目のまま注釈した。それから、陰気な微笑をうかべてしばらく私を見あげなから、『僕は愉快な生涯が送れる筈だ、断然! なにしろ、まだ死ぬまでに何回となく思い出して、あの珍無類の光景を見られるんだからな』彼はふたたび伏目になり、『見たり聞いたり……見たり聞いたり』
と、じっと虚《うつ》ろに地面を見つめながら、長い間を置いて、二回繰りかえした。
やがて彼は立ち上がった。
『僕は、もう目を閉じたっきりにしようと決心した、だがそう出来なかった』と彼は言った。『僕は出来なかった、そして、それを誰に知られてもかまわない。誰でも、悪口を言う前に、そういう事を経験してみればいい。さあ経験してみるんだ――そして、僕より立派にやってみるんだな――それだけだ。
僕は、二度目にパッと目を開けた、そして口も一緒に。船が動くのを感じたのだ。船は、船首をちょっと水に浸し――それから、船首を上にもたげた、そっと――そして、ゆっくり! 永久に続くかと思われるようにゆっくり、そして、実にごくわずかずつ。船はここ幾日間も、この程度の動揺さえしなかったのだ。
雲が真上を疾走して行き、この最初の大波のうねりは、鉛の海の上を走っていくように思えた。その動きには生気がなかった、だが、それは、僕の頭の中の何かをひっくり返した。
貴方なら何をしたでしょう? 貴方は自信がおありだ! そうでしょう? 貴方ならどうするでしょう、もしいま――この瞬間に――この家が動いたら、貴方の椅子の下で少し動くのが感じられたら? 飛び下りる! 誓って! 貴方は、その席から一跳びで、あそこの灌木の藪まで飛んでいるでしょう』
彼は、石の手すりの向こうの夜闇に向かって、サッと腕を伸ばした。私は静かにしていた。彼は私を、ひどくがっちりした、ひどく厳格な目で見た。全くそれに相違なかった。私は、いまは弱い者いじめされていた。そして私は、それは君の言う通りだなどと言って、あの事件に何か関係を特っているに違いない致命的な承認をしてしまわないために、そういうしるしの言葉や素振りをしてはならないのだ。
私は、この種の危険を犯す気持はまったく無かった、諸君、忘れないでくれ、私の前には彼がおり、実際、彼はわれわれ同志の一人にあまりそっくりで、私は、うっかりすれば、たちまち彼に引きこまれてしまう危険に曝されていたことを。
しかし、もし諸君が知りたいなら、私は話してもいいんだが、実はこの時私は、チラリと素早い目で、ジムの指した、あのベランダの前の草地のまん中の黒いしげみまでの距離を計った。
『君、それは大げさだよ。私の跳躍は、せいぜい君の指したより五、六フィート手前までしか飛べんよ』
と、私は逃げた。そして、これだけが、私の言えるかなり確かなことだった。
いよいよ最後の時が来た、とジムは考えた。そして彼は身動きしなかった。よしんば彼の思想は、頭の中を放浪していたにしろ、彼の脚は、板に釘づけになっていた。この時彼はまた、ボートの周囲にいた連中の一人が、とつぜん後ずさりし、両腕を上げて虚空をつかみ、よろめいて、くず折れるのを見た。男は、ハッキリ倒れたわけではな<、機関室の明り窓の側に肩をよりかからせ、背中を弓なりに曲げて、ただ、へなへなと滑るように坐りこんだだけだった。
『これは、ドンキー・エンジン係でした。窶《やつ》れた、青白い顔の、ぼうぼう口髭を生やした奴でね。三等機関士をしていた』
と彼は説明した。
『死んだんだったね』
私は言った。私は、法廷で何かそういったことを聞いた。
『という話です』
と、彼は陰気な無関心さで言った。
『もちろん、僕は知らない。心臓が弱かった。あいつは、しばらく前から、体の調子が悪いとこぼしていた。昂奮。力の出し過ぎ。本当のことは悪魔しか知らない。ハッ! ハッ! ハッ! 彼も死にたくなかったことだけはよく判る。全く茶番じゃないですか? 彼はだまされて自分を殺したんだ! だまされた――正しくそうだ。だまされたんだ、天に誓って! ちょうど僕のように……ああ! もし彼がただ静かにさえしていたら、もし連中が、船が沈むと言って、彼を船室から連れ出しに行った時、もし彼が連中に≪うるさい、行っちまえ!≫と言ってさえいたら! もし彼が、ただ両手をポケットに突っこんで傍観し、彼等をののしってさえいたら!』
ジムは立ち上がり、こぶしを振って、キラリと私を睨み、それから坐った。
『チャンスをつかみ損った、え?』と私はつぶやいた。
『なぜ、貴方は笑わんのです?』と彼は言った。『地獄のたくらんだジョークだ。心臓が弱い!……僕も時々、心臓が弱けりゃよかったと思う』
私は、これを聞いで苛立った。
『君がか?』と、私は根深い皮肉をこめて怒鳴った。
『そうです、貴方は判らんですか?』と彼は叫んだ。
『君の願いは、それ位が関の山かも知れんな』
と、私は怒って言った。
彼はチラリと、まるっきりなんのことか通じないような目で私を見た。この私の毒矢もまた、全く的《まと》をはずれ、そしてジムは、外《そ》れた矢などを気にする男ではなかった。全く、彼は余りにも疑わなすぎた。彼は、矢にも網にもかからない男だった。私は、私の投げた矢が棄て去られたのを――彼は、弦のビーンと鳴るのをさえ聞かなかったのを、私はよろこんだ。
もちろん、あの時、ジムは男の死んだことを知る筈はなかった。次の瞬間――彼が船にいた最後の瞬間――、海が巌を打ちまくるように、出来事と激情の嵐が、折り重なって彼にぶつかってきた。私は、比喩をことさらに使ったが、これは、彼の話を聞いていると、彼は終始一貫、不思議な受け身の幻想を持ちつづけており、さも彼は行動したのでなく、彼に白羽の矢を立てて悪戯のいけにえにしようとした悪魔的力に翻弄されたかのように考えさせられたからだ。
最初に彼を攻撃してきたのは、重たいダビットがついに揺れ出し、すりなから動揺する音でそのぞっとする軋る音が、デッキから彼の体に伝わり、彼の足の踵を伝って脊髄を通り、頭のてっぺんまで滲み通っていった。
次の瞬間、烈風雨《スコール》がいまはひどく近くなり、二度目の、いっそう重たい大波のうねりが、無抵抗の船体を脅かすような高さにもち上げた。彼が思わず息をのんだ瞬間、恐怖におののく悲鳴が、短剣のように彼の頭と心臓を突き刺した――
『下ろせ! 後生だ下ろせ! 下ろせ! 船が沈むぞ』
それにつづいて、ボートの吊り綱が荒々しく滑車の中をすべり、大勢が、甲板の天幕の下で、愕然とした声で話し出した。
『さあ、この乞食どもが叫び出したとなると、その悲鳴は、死人でも目を覚ましそうだった』とジムは言った。
ボートがしぶきを上げて文字通りに水の中に落ちた音につづいて、連中が中でころげ、よろけるうつろな音が、混乱した怒鳴り声と入りまじって聞こえた。
『ホックをはずせ! ホックをはずせ! 押し出せ! ホックをはずせ! いのちがけで押し出せ! スコールがそこまでやってきたぞ……』
彼は頭上高くに、かすかに風の音を聞いた。彼の脚の下から、苦しい泣き声が聞こえてきた。舷側で、途方にくれた声が、回転《スイヴェル》ホックをののしり出した。全船にわたって、蜂の巣をつついたような騒ぎがはじまっていた。そして彼は、このすべての話を私に話していたと同じ静かな調子で――なぜなら、ちょうどこの時、彼は顔も声もごく静かな態度だった――いわばほんの微かな警告もなしに、つづけて言った――
『僕は、彼の脚につまずいた』
この時初めて、私は、彼が身動きしていたことを聞き知ったのだった。私は、思わず驚きの唸り声を出した。何かが、ついに彼を驚愕の余りに動かしたのだ。しかし、いつそうなったのか、彼の不動の姿勢を破った原因は何か、彼は、風に根こそぎにされた樹木が、自らなぜ大地に倒れているのか知らないように、まるで知っていなかった。
ただ、すべてのものが、彼に迫ってきたのだった――恐ろしい物音、恐ろしい光景、死人の脚が、――ヨブに誓って! 彼の喉の中に、地獄の悪戯《ジョーク》が兇暴に押しこまれた。しかし――いいかね諸君――彼は、自分の食道がそれを飲みこむ動作をしたことは決して認めようとしないのだ。
彼が、どれほど彼の幻想のいぶきを私に浴びせかけることが出来たかは、実に驚くばかりだった。私は、まるで黒魔術で屍を甦らせる物語に魅せられたように、じっと聴き入っていた。
『三等機関士は、ごく静かに体を横向きにかがめた、そしてこれが、僕が船にいて彼を見た最後でした』と、ジムはつづけた。『僕は、彼が何をしようと一向気にしなかった。彼の様は、さも、これから起き上がろうとするように見えた。僕はもちろん、大将は起き上がるんだなと思った。僕は、彼がすぐ走って僕を追い越し、他の連中につづいて手すりからボートに飛び込むものと予期していた。
僕は、連中が下の、ボートの中を歩き回り、さも下から叫び声の矢でも射ち上げるように、≪ジョージ≫と呼ぶのを聞いた。それから三人は声を合わせて、大声に叫んだ。三つの声は、僕の耳に別々にとどいた――、一つは悲鳴のように、一つは、絶叫のように、咆吼のように。ウォ!』
ジムは少し身震いした。私は、彼が、さも高い所から強い手で髪の毛を引っぱられているかのように、ゆっくり立ち上がるのを見た。上へ向かってゆっくりと――背一ぱいに立ち上がり、彼の膝がしっかり動かなくなると、引っぱっていた手が彼を放したように、彼は立ったまま、わずかにふらふらとした。彼は、顔にも、動作にも、声にも、非常な静けさを暗示しながら言った。
『連中は叫んだ』
――そして私は思わず、その暗示された静寂を透して、まざまざと聞こえてくるだろうその幻の叫び声に耳をそばだてた。
『あの船には、八百人の人々が乗っていた』
彼は、じっともの凄く虚ろな凝視で、私を椅子の背に釘づけにしながら言った。
『八百人の生きた人々が。だのに船長らは、一人の死人に、ボートに飛び降りて生命びろいをしろと叫んでいた――
≪飛べ、ジョージ! 飛べ! おーい、飛べ!≫
僕は、片手を、ダビットにかけて立っていた。僕は大へん静かにしていた。あたりは真っ暗になっていた。空も海も見えなかった。船側に、ボートがどしんどしん突き当たる音がし、しばらく、下のボートからは、なんの音もしなかった。しかし、僕の脚下の船の中は、話し声で一ぱいだった。
とつぜん、船長が怒鳴った。
≪大変だ! スコールだぞ! スコールだぞ! 漕ぎ出せッ!≫
シューッと最初の雨と最初の突風がやってくると同時に、連中は金切り声を張り上げた。
≪飛べよ、ジョージ! お前を受けてやるぜ! 飛べッ!≫
船はゆっくり首を突込みはじめ、雨は、海が破れたように船の上を洗い流した。僕のキャップから飛び去り、吐いた息が喉の中へ叩き返された。僕は、さながら塔のてっぺんに立っているような気持で、またしても狂気した金切り声を聞いた――
≪ジョオーージ! おーーい、跳ベヨーッ!≫
船は、僕の脚下で頭から先にどんどん沈んでいく……」
ジムは、思案しながら片手を顔の上にもたげ、さも、蜘蛛の巣に悩まされてでもいるように、指でつまむような動作をし、それからたっぷり半分間ほど、じっと、開いた自分の手の平を見つめていて、だしぬけに言った――
『僕は飛んだ……』彼は言葉を切り、凝視をそらせ……『らしいです』とつけ足した。
彼は澄んだ青い目で悲しそうに私の方を振り向いた。自分の前に傷つき、唖然として、立っている彼を見ていると、私は、子供っぽい災禍の前に無能な老人の、興味と深い同情のまじった悲しい諦めと悟りの気持に圧倒された。
『そうらしいな』と私はつぶやいた。
『僕は、上を見上げるまで、その事をぜんぜん知らなかった』と彼は急いで説明した。そして、これもまたあり得ることだ。諸君は彼の言葉を、困惑した小さい少年の話を聞くように聞いてやらなくてはいけない。彼は知らなかったんだ。
どういうわけか、そういう事が起きた。もう二度とふたたび起きないだろう。彼は、一部分誰かの上に飛び下り、漕ぎ手座の向こうに倒れた。彼は、左側の肋骨がぜんぶ折れたような気がし、次の瞬間彼は転がって、ぼんやり、彼の棄てて来た船が頭上にそびえているのを見た。赤い舷灯《げんとう》が、霧を透かして小山の崖《がけ》鼻にある焚火を見るように、雨の中に大きく光っていた。
『船は、城壁よりも高く見えた。船は、ボートの上に断崖のようにそびえて見えた……僕は、死にたかった!』と彼は叫んだ。『もう戻れない。僕は、まるで井戸へ飛びこんでしまったかのようだった――底知れぬ深い穴の中へ……』」
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第十章
「彼は指を組み合わせて、またほどいた。まさしくその通りだ。彼は本当に、底無しの深淵に飛びこんでしまったのだ。彼は、二度とふたたびよじ登っていくことのできない高所から、転落したのだ。
ボートはすでに船首《へさき》を通りすぎて前方へ疾走していた。あまり真っ暗で、その時彼等はお互いの顔が見えなかったし、それに、みな猛雨に目をふさがれ、半分溺れかかっていた。まるで洞窟の中を洪水に押し流されて行くようであった、と彼は私に話した。
彼等はスコールに背中を向けた。船長は、ボートがつねにスコールの前になるように、船尾《とも》でオールをしっかり握っていたらしい。二、三分間、暗黒の中の大洪水を衝いて世界の終わりが来たかのようだった。海は『幾万の湯沸しが煮え立ったように』シューッと音を立てた。これは彼の比喩で、私のではない。
最初の突風雨《スコール》のあとは、大して風は吹かなかったらしい。彼自身、訊問のとき、その晩海はけっして荒れなかったと認めている。彼は船首にしゃがんで、ひそかにチラリと後を振りかえってみた。たった一つ、黄色いマストの先の灯りが、いまにも消えようとする最後の星のように、高く、かすかに光っていた。
『まだそこに光っているのを見て、僕はギョッとした』と彼は言った。それが彼の言葉であった。彼をギョッとさせのは、ではまだ溺れてしまわないのか、ということだった。明らかに彼は、あの忌わしい出来事が、出来るだけ早く済んでしまうことを望んでいたのだ。
ボートの中の人間は、誰も音一つ立てない。暗黒の中をボートは飛んでいったように思われたが、しかし勿論、まだそう遠くまで行った筈はない。次の瞬間、ザーッと豪雨が頭上を走りすぎ、つづいてシューッと巨大な、気も狂わんばかりの鋭い炸裂音が、遠くまで雨のあとを追って消えていった。
そのあとは、ボートの側面を洗うかすかな音のほかは何も聞こえない。誰かの歯が、ガタガタはげしく音を立てている。手が彼の背中にさわった。弱々しいかすかな声が言った。
『お前、いたのか?』
もう一つの声が、ふるえながら叫んだ。
『船が沈んだぞ!』
彼等はみな一斉に立ちあがって船尾の方を見た。もう灯りは見えなかった。どこもかしこもまっ暗だ。細い、冷たい霧雨が彼等の顔をたたきつけた。ボートがかすかにかしいだ。歯がいっそうガタガタ音を立て、パタッと止み、それからまた二回ガタガタいって止まったあと、やっと男は震えをこらえて言った。
『や―や――やっと、ま、ま―ま――間に合った……ブルルル……』
機関長とわかる声が、不機嫌に言った。
『おれは船の沈むのを見た。ひょいと後を振り返った時だった』
風はすっかり止んでいた。
彼等は、悲鳴でも聞こうとするかのように、半ば頭を風上の方に向けてじっと暗闇の中に目をこらした。最初彼は、夜が眼前の光景を漆黒に塗りつぶしているのを感謝した。が、次の瞬間、まだなんにも実際に見ておらず、また聞いてもいないことが、何となく、恐ろしい不運の極点のような気が、してきた。
『ふしぎじゃありませんか?』
彼は、自分の辻褄の合わない話を自分でさえぎってつぶやいた。
私には、それ程奇妙には思われなかった。きっと彼は、これまで無意識の中に、現実は、彼の空想の創り出した恐怖の半分も苦しい、ぞっとする、復讐的なものである筈はないと確信していたのだ。で、この最初の瞬間に、彼の心はあらゆる苦悩にかきむしられ、彼のたましいは、あらゆる恐怖を、八百人の人間が、真夜中、突然恐ろしい死に襲いかかられる絶望を、味わい知ったに違いない、と私は思うのだ。でなくて、どうして彼は言う筈があろう――?
『僕は、とっさにあの呪わしいボートから飛び下りて泳ぎ帰り――半マイル――いやもっと――どんなに遠くともぜひあの現場まで行って見なくてはならない気持に駆られました……』
なぜ、こんな衝動が起きたのか? 諸君には意味が判るだろうか? なぜ、現場に戻るのか? もし自分も溺れ死ぬつもりなら――なぜ、そのボートの舷側で溺れないのだ? なぜ現場に戻るのか――まるで、すべては死に呑みつくされたことを確かめて、自分の空想を鎮めねばならないかのように?
私は諸君に挑戦する。誰でも、私と違う別の説明が提案できるなら、してみて下さい。それは、暗霧をすかしてチラリと仄めくあの怪奇な、胸躍る一瞥である。それは、驚くべき、異常な真理の暴露である。彼はそれを、この上もない自然なことのように言ってのけたのだ。
彼はその衝動とたたかい、やっと抑えつけると、急にあたりの静けさが意識されだした。彼はこのことをわざわざ私に言った。海の静けさ、空の静けさがとけ合って、一つの漠々たる無限の静寂をつくりだし救われた、脈打っているこれらの人々の生命を死のような静けさでとりまいている――
『一本のピンがボートの中に落ちる音さえ聞こえるようでした』
と彼は、何かひどく感動的な事実を話すとき自分の感受性を抑制しようとする人のように、唇を妙に引きつらせながら言った。
静寂! 彼をあのような彼に創造することを望まれた神のみが、彼の心がその静寂をどう理解したかを知り給うのだ。
『地上のどんな場所も、あんなに静かになり得ようとは考えませんでした』と彼は言った。『海と空とが見分けられませんでした。茫々として何も見えず、何も聞こえず。かすかな光一つなく、一つの形もなく、物音一つしない。まるですべての陸地は破片も残さず海底に沈んでしまい、地上の人間は、ボートにいる僕とこの乞食どものほかは、ことごとく溺れ死んでしまったかと思われるばかりでした』
彼は、コーヒー茶碗や、ビールのグラスや葉巻の吸殻のちらばった中に握りこぶしをついて、テーブルの上に身体をのりだした。
『僕はそう信じたようです。ありとあらゆるものが沈没してしまい――すべては終わったと……』彼は深いためいきをついた。……『この俺もろともに』
マーロウは急に体をピンとさせて、勢いよく彼のシャールート葉巻を向こうへ投げすてた。葉巻はおもちゃのロケットのように、蔦《つた》のドラベリーの間を赤い尾を引いてすっ飛んでいった。誰一人身動きしない。
「おい、これを君達はどう考える?」
マーロウは、急にいきいきした声で叫んだ。
「彼は自分を偽らない、自己に忠実な男じゃないか? 彼の救われた生命は、彼の足元に地面が無くなったために、彼の目に何も見えなくなったために、彼の耳に何の声も聞こえなくなったために、終わってしまったのだ、寂滅だ――おい! そして、いつも空は雲に閉ざされ、海は波打たず、空気は動かない。夜ばかりだ、沈黙ばかりだ。
その沈黙がしばらくつづき、それから突然、彼等は一斉に動きだし、自分達が生命びろいしたことを騒ぎだした。
『俺ゃ初めから沈むと知ってたぜ』『一分間遅れたら駄目だったな』『間一髪さ、ゲッ!』
彼は何も言わなかった。止んでいた微風がまた優しく吹きはじめ、海は恐怖の沈黙のあとの反動的なお喋りの声に合わせて柔《やさ》しい波の音を立てはじめた。
――船は沈んでしまった! 船は沈んでしまった! それは疑う余地もない。誰にもどうする術《すべ》もなかったのだ。彼等はまるで止めようとしても止められないように、同じことを何回も繰り返して言った。船の沈んだことを疑う者は誰ひとりいなかった。船の灯りは消えた。たしかに。灯りは消えた。船は沈む運命だったのだ……
その話しぶりを聞いていると、彼等が後に置き棄ててきたのは、まるでただの空《から》船でしかなかったかのようだ。彼等は、あの船は一度沈みはじめればたちまちおだぶつなんだ、と結論した。それが彼等に一種の満足を与えたようだった。あの船は、沈むのにけっして手間取る筈はない――『鉄板みたいに、アッという間に沈んじゃったんだ』と彼等は互いに保証し合った。
機関長は、船の沈む瞬間にマストの先の灯りが『燃えているマッチを投げ棄てたように』落下するのが見えたと断言した。
それを聞くと機関次長(二等機関士)はヒステリックに笑い声を立て、
『俺ゃよ――よかったよ、俺ゃよ―よ――よかったよ』
彼の歯はまたしても『電気仕掛の音出し器官のようにガタガタ音を立てはじめた』とジムは言った。『それから機関次長は、急に泣きだした。子供のようにおろおろ泣き叫び、急に息を止めては、また泣きじゃくった。≪ああ、いたい、いたい! ああ、どうしよう! ああ、いたい、いたい!≫彼はしばらく静かになったかと思うと、また急に泣き出すのだった。≪ああ、腕がいたいよ! ああ、いたい、いたい、う―う―う―うでが!≫
僕は彼を打ちのめしてやりたかった。彼等の何人かは船尾座に坐っていた。僕にはただ彼等の輪郭が見分けられるだけだった。いろいろな声が、ぶつぶつ、ざわざわ言っているのが聞こえてきた。どれもこれも僕にはひどく耐え難かった。それにひどく寒かった。僕は何も出来なかった。もし身動きしたら、いまにも海へ飛びこんで、泳ぎだしそうな気がしたのです……』
ジムの手がそっとまさぐるように酒のグラスを握り、それから急に、まるで真っ赤に焼けた石炭にでも触ったように引っこんだ。私は酒瓶を一寸向こうへ押しやった。
『君、もう少し飲まないか?』
彼は怒ったように私の顔を見て聞きかえした。『僕は、酒の力をかりなくとも、話すべき事は話せると思いませんか?』
世界観光旅行の連中は、寝室へ引きあげていってしまった。部屋には、一つぼんやり白い姿がまっすぐな影をつくっているほかは、私達二人だけになった。が、その姿も、私達がそちらを見ていると、ペコンとおじぎをし、一寸ためらい、黙って退場していった。夜が更けていくが、私はジムを急がせなかった。
彼がこうして、みじめな気持でいる真っ最中に、仲間たちが誰かをののしりだしたのが聞こえてきた。
『おい、お前なんでボートへ飛びこむのをためらったんだ、このキじるし?』
と、怒った声が荒々しく言った。機関長が船尾座をはなれて、さも『この上なしの大馬鹿野郎』に敵意でももっているように、前方へふらふらやってくる足音がした。船長がオールを握ったままの席から、むっとさせる耳ざわりな声で罵倒しはじめた。ジムがこの騒ぎに思わず顔を上げたとき、『ジョージ』という名前が耳に入り、暗闇で、誰かの手が、いきなり彼の胸元をなぐりつけた。
『おい、何とか返事しねえのか、この阿呆?』誰かが一種の義憤をもって詰問した。『彼等は、僕を追求していたんです』と彼は言った。『彼等は僕の悪口を言っていたんです――僕の悪口を……ジョージという名前で』
彼は、言葉を切って私の方を見つめ、ちょっと微笑いかけたがまた目をそらして話しつづけた。
『あのチビの二等機関士が、僕の鼻のま下に頭を突っこんで、≪おや、おめえは、あの忌々しい航海士の野郎じゃねえか!≫
≪なんだと!≫とボートの向こう端から船長が怒鳴った。
≪まさか!≫
と、一等機関士が金切り声を上げ、彼もまた漕ぐのを止めて僕の顔を眺めました』
急に風が止んだ。また雨が降りだし、海が夕立にあうときの、あの柔らかい、絶え間ない、神秘な小さいささやきが、夜の闇の中に、四方から立ちこめてきた。
『彼等は最初は驚きのあまり、それ以上は何も言いませんでした』彼は静かに言った。『そして、僕には何が言えるでしょう?』
彼は一寸ためらい、それからまた努力して言いつづけた。
『やつ等は、ぼくをさんざん罵倒しました』彼の声はささやくように低くしずみ、ときどき、ひどく嫌悪するものの話をでもするように、はげしい軽蔑をこめて急に大きくなった。
『彼等が僕のことをなんと言おうとかまわんです』彼は厳として言った。『僕は、彼等の声の中に憎悪のひびきを聞きました。それもいい事だ。彼等は、僕があのボートに居たことが赦せなかったのです。彼等はそれを憎んだ。それが彼等を狂暴にしたのです……』彼は短く笑った。――『しかし、それで僕は離れていられた――見て下さい! 僕は腕をこう組んで、じっと船べりに腰かけていました!……』
彼はテーブルの端っこに器用に腰かけて、腕を組み……『こういう風にです――判りますか? 軽くうしろに一突きされれば――ほんのちょっと――ほんのちょっと』
彼は眉をしかめて、中指の先で額をたたきながら、心に滲みるような声で言った。
『しじゅう、その考えが頭にありました! しじゅう。それに雨――冷たい、雪どけ水のように冷たい――もっと冷たい、どしゃ降りの雨が僕の薄い木綿の服に――けっして一生に二度とふたたび、僕はあんな寒い思いはしまいと思う。それに空も、まっ暗――どこもかしこもまっ暗闇。どこにも星一つ、明り一つない。あの忌々しいボートと、三匹の賤しい雑種犬が、木の上の盗人を吠え立てるように、僕の前でガミガミ怒鳴っているあの三人の外には、闇のほか何もありません――
『ガミガミ! ガミガミ! お前そこで何してやがるんだ? 豪《えれ》えもんだよ! こんなボートにお手を触れるにゃ勿体ねえ花の盛りの紳士様。おい、おめえ夢から醒めたのか? それでこっそり入って来たのか? おい、そうか? ガミガミ! ガミガミ! 貴様は生きてくのに向かねえ野郎さ。ガミガミ! ガミガミ!
『彼等二人は、互いに相手よりもひどく吠え立てようと懸命でした。もう一匹が、雨を通して、船尾《とも》から吠えつきました――姿は見えない――誰だか判らない――何か汚ないたわごとを叫んで、ガミガミ! ガミガミ! ワン、ワン、ワン、ワン! ガミガミ! ガミガミ!
『それを聞いているのは快かった。それが僕を生かしてくれました、ほんとうです。それが、僕の生命を救ってくれました。こうして彼等は、まるで怒鳴り声で僕を海に突き落とそうとしているかのように吠えつづけました!……≪おいっお前《めえ》、飛び下りる勇気があったな。誰もお前なんか、ここへ呼びゃしねえよ。もし貴様だと判ってたら、俺ゃ突き落としてやるんだった――このスカンク野郎。貴様、ジョージをどうしやがったんだ? ボートへ飛び込む勇気をどこで拾ったんだ―― この腰抜けめ? 俺達三人で、貴様を海へ投げこんでも文句あるめえ?……
『彼等は息を切らして吠えたけります。夕立が海上を通り過ぎていきました。あとは無の世界です。ボートの周囲には何一つなく、物音一つしません。――彼等は、僕が海中に飛びこむのを願っていたかって? もちろん! もし彼等が静かにさえしていたら、彼等の望み通りになっていたと思います。僕は海へ飛びこんでいたと! 彼等は、突き落とせただろうかって? ≪やってみろ≫と僕は言いました。≪二ペンスで飛びこんでやるぞ≫
≪貴様にゃ二ペンスでも勿体ねえや≫と彼等は声を揃えて叫びました。
あたりがあまり暗いので、彼等の誰彼が動いたときだけ、僕は人のけはいを感じました。天に誓います! 僕は、彼等にやってみてもらいたかった!』
私は思わず叫ばずにいられなかった。『なんという途方もない事件だ!』
『悪くはないでしょう――え?』彼はさもびっくりしたように言った。『彼等は、僕があのドンキー・エンジン係を何かの理由で殺したと信じている振りをしたんです。なんで僕がそんな事をしましょう? そして、なんで僕がそんな事を知りましょう? ただどうして、僕はあのボートに乗ってしまったんでしょう? あのボートに――僕は……』
彼の唇のまわりの筋肉が無意識に引きつってしかめ顔になり、彼のいつもの表情の仮面を引き裂き――一瞬キラリと、電光一閃稲妻が雲の渦の秘部を覗かせるように、何かはげしい、短命な、啓示を覗かせた。
『僕は乗った。僕は明らかに彼等と一緒にボートにいた。そうでしょう? 人間が、あんな事をする羽目に迫い込まれることは恐ろしいことじゃありませんか? そして、その責任を負うなんて? 彼等がわめき立てている彼等のジョージについて、僕が何を知りましょう?
僕は、あの男がデッキの上に丸くなって倒れるのを見たのは覚えています。≪人殺しの腰抜け!≫と船長はわめきつづけていた。彼は、この一語のほかには言葉を知らないように、これだけを叫びつづけました。僕は気にしませんでしたが、ただ彼のうるさい声が、僕の癇にさわりだしました。
≪うるさい、黙れ!≫と僕は言いました。すると彼は忌々しげにせい一ぱい金切り声をはり上げました。
≪貴様はあいつを殺したな、貴様はあいつを殺したな≫
≪いや、殺さん≫と僕は叫び返した。≪だが、いますぐ貴様を殺してやるぞ≫
僕はパッと立ちあがった。すると彼は、ものすごい大きな音を立ててドスーンと漕手座の上に仰向けに倒れた。なぜだか判りません。余り暗くて。たぶん、後へとびのこうとしたんでしょう。僕は依然として船尾の方を向いて立っていた。すると、あのみじめなチビの二等機関士か泣き声を立てた。
≪お前、まさか腕の折れた俺をぶんなぐりゃしねえだろうな――それに、お前は自分を紳士だと言ってるじゃねえか≫
重たい足首がドシン、ドシンと聞こえてきた。――一つ――二つ――そしてぜいぜい、ぶうぶう唸る声が。もう一人のけだものが、船尾のオールをガタガタいわせながら、僕の方に向かってくる、彼の巨体がむくむくと、大きくまるで霧の中か夢の中の人間のように大きく、動いてくるのが見えた。
≪さあ来い≫と僕は叫んだ。僕は彼を綱くずの俵のように海に放り込むところだった。しかし彼は立ち止まり、ぶつぶつ独り言を言って後へ戻っていった。たぶん、風の音を聞いたんだろう。僕は聞かなかったが、最後の強風が吹いてきたのだ。彼は、オールの場所へ戻っていった。僕は残念だった。僕は、やってみたかった……』
彼は、曲げた指を開いたり握ったりし、彼の両手が熱を帯びて残酷に震えていた。
『落ちついて、落ちついて』と私はつぶやいた。
『え? 何です? 僕は昂奮なんかしていませんよ』
彼はひどく傷つけられたように抗議し、思わず痙攣的に彼の肘がコニャックの瓶を倒した。私は椅子を軋らせながらサッと体を前へのりだした。
彼はまるで鉱山が彼の後で爆発でもしたようにピョーンと跳び上がり、床まで着かないうちに半ばこちらを振り向き、足をちぢめてかがんだまま、驚愕に目をみひらき、鼻孔のあたりを蒼白くした顔を私の方にむけた。つづいて、いかにも困惑した表情で、
『ほんとに済みません。僕はまったく不調法者で!』
と、ひどく困ったようにつぶやいた。そのうち突然、こぼれたアルコールの刺戟的な芳香が、涼しい、清らかな、暗夜の酒宴の席をつつんだ。食堂《ホール》の灯はみな消されて、私達のローソクだけがただ一つ長いギャラリーにまたたいており、列柱は、切妻から柱頭のあたりまで黒い影に変っていた。
港湾事務所の建物の高い一角が海岸のドライブ道をよぎって、あたかも黒い山が近くで見たり聞いたりしようとして忍び寄ったように、鮮明な星空にくっきり突き出ていた。
彼は無関心な風をよそおった。
『僕は、はばからず申しますが、いまの僕はあの時ほど落ち着いてはおりません。あのとき僕は、どんなことでもする覚悟だった、あんなのは些細なことですが……』
『まったく、君はあのボートの中で大活躍をやったね』と私は言った。
『僕は覚悟をきめていました。』と彼は繰りかえした、『船の灯が消えたあとでは、ボートの中でどんなことが起きようと――たとえどんなことが起きようと――世間には判りっこない。僕はそう感じて、よろこびました。
あたりの暗さもちょうど手頃です。僕達は広大な墓地の中に、生きながら埋められた人間のようでした。地上とはなんの関連もない。誰一人、地上の人間と意見を交わすこともできない。何をしてもかまわない。何事も問題じゃない』
ジムはこの会話をはじめてから三回目の、耳ざわりな笑い声を立てた。が、あたりには人はなく、大将酔っぱらったな、と彼のことを思う者もなかった。
『恐れもなく、法律もなく、音も聞こえず、人目もないわれわれ自身の目でさえ見えない、すくなくとも――朝日が昇るまでは』
私は、彼の言葉の暗示的な真実さに打たれた。広い海の上で小さいボートに乗っているのは、何か奇異な感じだ。死の影をのがれてきた生命の上には、狂気の影が落ちかかるらしい。
諸君は、諸君の船が君を見すてて沈没したとき、全世界が君を見棄てたように感じるだろう。諸君をつくり、諸君を抑制し、諸君の面倒をみてくれた世界が。それはさながら深淵の上を漂いながら広大無辺の世界と接触していた人間のたましいが、突然、どんな度はずれの英雄主義でも、どんな途方もない愚行でも、あるいは忌わしい行為でも、出来る自由を与えられたようなものである。
もちろん人間の信仰、思想、愛憎、確信、または目に見える物質的なものの状況についてなら、人生には、人間の数に劣らぬくらい無数の難破船がある。しかし、いまのこの難破船には、何か彼等の孤立をいっそう完全なものにする何かひどくみじめなものがあり、あのボートに乗った人々をいっそう完全に他の人類から切り離し、人間の行為についての理想が、かつて一度も試されたことのない、悪魔的な、ぞっとする運命のいたずらというか、実に極悪非道の環境状況があった。
ボートの他の連中は、ジムが中途半端な逃避者であったため彼に腹を立て、彼は彼で、すべてのことに対する憎悪を、彼等の上に集中したのだった。ジムは、この連中が、ぞっとするいやな逃避のチャンスをジムの行手に置いたというので、もの凄い復讐をしてやりたかったのだ。
諸君、ボートに身を託して大洋にいで、人間のありとあらゆる思想、情感、感激、情緒の底にひそむ不合理性の真相を明かしてくれ給え。
ボートに乗っていた連中が、ついになぐり合いにならなかったのは、あの海独特の災禍につきものの道化た賤しさのためだった。それは悪魔が人間を軽蔑し切ってたくらんだあらゆる嚇し、あらゆるもの凄い効果的な偽装、すべての終わりが来たかとばかりの見せかけだった。が、悪魔の恐ろしいたくらみは、いつも勝利のせとぎわで、人間の強固な信念によって打ちくだかれるのだった。
私は、しばらく待っていて訊いた。
『それで、何か起きた?』
むだな質問だ。私はすでに、彼のほのめかした狂気の沙汰のために、きざしを見せた血の雨のために、彼を励ます一掬の慈悲をと祈る必要のないことを知り抜いていた。
『なんにも』と彼は言った。『僕は本気でやるつもりでしたが、しかし彼等は、ただ騒ぐだけがのぞみだったんです。何も起きませんでした』
朝日が昇ってみると、ジムは、最初に船首《へさき》で飛び上がったそのままの姿勢でいるのだった。なんという執拗な闘志だろう! 彼は一晩中、舵柄を手に握りしめていたのだ。
彼等は、舵を取りつけようとしていた時、つい海中にとり落としてしまい、そのあと、ボートを親船から引き離そうとして一気にあれもしよう、これもしようと右往左往しているうちに、はずみで舵柄を船首の方に蹴とばしたのだろう。それは長い、重たい堅い木で、ジムは、明らかに六時間以上も、それをしっかり握りしめていたのだ。これを執拗な闘志と呼ばずにおられようか!
諸君、彼が半ば夜通し顔を雨にさらし、暗黒に目をこらしてじっと黒い人影を見つめ、かすかな動きを見守り、船尾の方にたまたま聞こえる低いつぶやきに耳をそばだて、黙々と仁王立ちにふんまえた姿を想像してみ給え! 不屈の勇気か、それとも恐怖のためか? 諸君はどう考えます? それに耐久力も否定できない。
とにかく、彼は六時間のあいだ守勢を持ちつづけたのだ。ボートが風のまにまに、ゆるやかに走ったり、止まって浮かんだりしているとき、彼は六時間、油断ない不動の姿勢をつづけたのだ。
その間に、海は静まり、やがて眠りにおち、雲は彼の頭上を通りすぎていった。その間に、空は、無限につづく苛烈な暗黒の空間が、やがて淡い光を帯びた薄明の空にかわり、しだいに輝きをましてきらめきはじめ、東の方が白み、空の真上が青みがかってきた。それにつれて船尾の方にあったしみのような黒い影がしだいに輪郭を見せて浮き上がり、肩、頭、顔、顔の造作が見えだし――こちらを向いて、陰険にじっと睨んだ目、もじゃもじゃな髪の毛、破れた衣服、まぶしそうな赤いまぶたが、白い暁に照らし出された。
『彼等はまるで一週間も、酔っぱらって貧民窟をほっつき回っていたような風態でした』
と、ジムは生き生きと描写した。それから、静かな一日を予告するような陽の出であったということを何かつぶやいた。諸君は、あらゆることを天候と結びつけて考えるあの船乗りの習慣を知っているでしょう。
そして私は、彼が数語つぶやくのを聞いただけで、さながら水が身震いして、光の球を生みだしているように、見えるかぎりの海面が震え、厖大な波紋をえがき、その中から、太陽の下|縁《へり》がしずかに水平線をはなれてゆき、最後のそよ風がほっと安堵のといきをついて軽く一吹きする光景が、まざまざと目に浮かぶのだった。
『彼等は三匹のきたないフクロウのように、船長をまん中にして、船尾に肩と肩をすり合わせてすわり、じっと僕を睨んでいた』
彼は、一滴の強力な毒薬をコップの水に垂らすように、平凡な言葉の中に毒気を含ませ、憎しみをこめて言った。が、私の心は、まだあの陽の出の光景にとらわれていた。漠々と透《す》み切った空の下で、あの四人の男が海の孤独の中に捕われ、一方独りぼっちの太陽は、この一点の生命にはおかまいなしに、さも、自分自身の燦爛たる美しさを空の高みから観察しようとするかのように、透明な天のカーブを昇っていく光景を、私は想像していた。
『彼等は、船尾から僕に呼びかけました』とジムは言った『さも、われわれは仲よしであったみたいに。彼等は呼びかけます。彼等は僕に、利□になって、その≪仰山なこん棒≫を棄てろ、とたのみました。いったいなんで、そうやってこん棒なんかを握りつづけているんだ? 俺達ゃ、お前になんにも悪さはしねえじゃないか――そうだろう?――なんの悪さもしなかった……なんの悪さも!』
ジムは、肺臓に詰まった空気が吐き出せないかのように、顔を真っ赤にした。
『なんの悪さもしない!』と彼はどなった。『僕は、貴方の判断にまかせます。貴方はお判りでしょう。判りませんか? 判りますね? なんの悪さもしない! べらぼうな! あれ以上のどんな悪さかできるか? そうだとも、僕はよく知っている――僕は飛び降りたんだ。そうだとも。僕は飛び降りたんだ! 僕は貴方に、飛び降りたと話しましたね。しかし、彼等は全く、誰の手にも負えない奴だったんです。彼等が、まるでボート・フック〔ボートを桟橋や他船に引き寄せたり離したりする時に使う、先端にフックのついた長い棒〕を延ばして、僕を引っぱり下ろしたみたいであることは明瞭です。貴方には判りませんか? 判って下さい。さあ、言って下さい――ハッキリどうだか言って下さい』
彼は不安な目でじっと私を見つめてたずね、頼み、挑み、嘆願した。
私は、つぶやかざるを得なかった。
『君は苦しい試練に会ったね』
『とても堪えられないほどの』と、彼はすばやく私の言葉に飛びついた。『僕には、半分の勝目もなかった――あんなギャング相手では。
そして、こんどは、奴等は親しげに僕に呼びかけるんです――おお、いかにもひどく親しげに!――俺たちゃ仲良しの船員同士じゃねえか、みんな一つボートでさ。できるだけ損のねえようにしようぜ。俺たちゃ、お前に、なんにも悪気はなかったんだ。ジョージのことなんか糞くらえだ。ジョージは最後のドタン場に何か取りに自分の船室へ戻って、来客どもにふん捕まったんだ。あいつはたしかに大阿呆さ。気の毒にゃ違えねえが……と、彼等は僕の方を見、唇を動かし、ボートの向こう端から頭を振り――三人の男どもは、呼び招いています――この僕を。
――お前こっちへ来たっていいだろう? どうせ飛び下りたんじゃねえか?――僕は何も言わなかった。僕の言いたいことは、言葉では言えなかった。もしあの時僕が口を開いたとしたら、きっとただけもののように咆哮《ほえ》るだけだったでしょう。僕は自分に、いったい俺は、いつこの悪夢から目醒めるのだ? と自問しつづけました。
彼等は大声に、早く船尾へ来て、静かに船長の言うことを聞け、と僕を呼んでいます。――俺たちゃ、夕方までにゃ、他の船に拾われるに違いない――スエズ航路の船はぜんぶここを通るんだ。現に北西の方に汽船のけむりが見えてるじゃねえかと。
僕はそのかすかな、かすかなしみ、海と空との境に低くたなびいている褐色の霧を見て、ぼくは愕然とした。
僕は彼等に、ここからでも、そっちの話しはよく聞こえると怒鳴りかえした。船長は烏《からす》のようにしわがれた声で――貴様の便宜のために、俺が大声を張り上げて話せるかってんだ、と毒づきはじめました。
≪あんたの話し声が、陸の人々に聞こえやしないかと心配なのか?≫
と僕は訊いた。船長は、僕を八つ裂きにでもしかねまじい形相で睨みつけた。機関長は、船長に、僕をうまくあやすようにとすすめました。こいつはまだ頭がおかしいんだ、と彼は言いました。船長は太い肉の柱のように船尾に棒立ちになり――なんだかんだと言いつづけていた……』
ジムは、そのまま考えこんでしまった。
『それで?』と私はうながした。
『彼等がどんな作り話をでっち上げようと、それが僕に何の関係があるんだ?』と彼は無鉄砲に叫んだ。『あいつ等は、自分の言いたいことを言えばいい。それは彼等の勝手だ。だが、僕は本当のことを知っている。彼等がどんな作り話を人々に信じこませようと、僕に真実を変えさせることはできない。
船長は、僕にいろいろ話したり論じたり、――話したり論じたりした。彼はいつまでも喋りつづけた。とつぜん、僕は足がへなへなと力無くくず折れるのを感じた。僕は疲れて気分が悪く――死ぬほど疲れ切ってしまった。
僕は手から舵棒を落とし、彼等の方に背中をむけて、最前列の漕手座に腰をかけました。もうたくさんだ。彼等は後から僕に声をかけます。――おい判ったろうな――俺たちの言うことは本当だろう、一言のこらず本当だろう?
確かに本当だ! 彼等流に。僕は、彼等の方を振りかえらなかった。彼等が一緒になって、べちゃべちゃ喋るのが聞こえた。
≪あの阿呆、なんにも言やがらねえぜ≫
≪いやあ、野郎、よく判ってんのさ≫
≪放っとけ、放っとけ、大丈夫だよ≫
≪あんな野郎に、何ができるかってんだ?≫
やつに何ができるか? おれたちゃみな、一つ、いわば一つ穴のムジナじゃねえか? 僕は聞かないように努めた。
水平線上のけむりは、いつしか北方に消えてしまった。あたりは死のように静かだ。彼等は水樽の水を飲み、僕も飲んだ。それから彼等はあくせくと舷縁《げんえん》の上を帆でおおった。帆をふなべりに拡げました。
≪すまねえが、見張っててくれねえか?≫
と、彼等は帆《ズック》の下にもぐりこみ、おかげで彼等の姿は見えなくなった! 僕は、生まれた日からまだ一時間も眠らなかった人間のように、へとへとに疲れているのに気づいた。日光がキラキラまぶしくて水が見えない。
やがて彼等の一人がズックの下から這い出し、立ってあたりをキョロキョロ見回して、また下へもぐり込んだ。帆《ズック》の下から大きないびきが聞こえてきた。彼等のある者は眠れるのだ。少なくとも一人は。でも僕には出来ない! どこもかしこもギラギラと光が一ぱいで、ボートはその光芒《こうぼう》の中をまっしぐらに落ちていってるようだ。ときどき僕は、ハッと自分が漕手座に坐っているのに気づいて、ひどく驚いた……』
彼は片手をズボンのポケットに入れ、頭を曲げて考えこみなから、私の椅子の前を規則正しい歩調で往ったり来たりしはじめ、時たま、自分の前から目に見えない闖入《ちんにゅう》入者を追い払おうとするかのような所作《しぐさ》で右手をもたげた。
『貴方は、僕が気が狂いだすんだとお思いでしょうね』と彼は語調を変えて話しだした。『そう思われるのもむりがない。もし僕が帽子を落としてしまったことを覚えておいでなら。太陽は、東の果てから西の果てまで、僕のむきだしの頭の上を容赦なく照らしながらのろのろと進んでいきました。でも、その日は、僕はなんの危害も受けなかったようです。太陽は、僕を気違いにすることはできなかった……』
彼の右腕が、狂気の観念を払いのけるように動き……『また、僕を殺すことも出来ませんでした……』ふたたび彼の腕が、死の影を追い払うように動いた。……『太陽は、僕と一緒に休憩しました』
『そうだったか?』
私は、この新しい反転にひどく驚き、彼がぐるりと一回転して、全然新たな一面を見せたこの経験を、自分もかなりよく理解できるという共感の表情で彼を見た。
『僕は、脳膜炎にもならず、また死にもしませんでした』と彼はつづけた。『僕は、自分の頭上の太陽のことなんか、全然気にしなかった。僕は、木蔭にすわって考えている人と同じように冷静だった。あのでぶのけだものの船長は、ズックの下から大きな五分刈りの頭を突き出し、魚のようなどんよりした目を細くして僕を見上げ、≪ばかやろう! 死んじまうぞ≫と怒鳴って、すぐ亀のように首をひっこめた。僕は彼を見た。僕は彼の声を聞いた。でも、彼に思考の邪魔はされなかった。ちょうどその時僕は、俺は死なないだろうな、と考えていました』
ジムは、前を通りすぎながら、私の考えをさぐろうとするように、チラリと注意ぶかい視線を私の顔に落とした。
『つまり君は、自分は死ぬかどうか思案していたわけだね?』
私は、できるだけ無感覚な口調で訊いた。彼は立ち止まらずにうなずいた。
『ええ、僕は、あそこに坐っていたとき、そういうことを考えました』
そう話しながら、ジムは空想の中で彼のボートの端まで数歩あるいて行き、それからくるりと向き直り、両手を深くポケットの中につっこんで戻ってきた。そして、私の椅子の前で急に立ち止まり、私の顔を見下ろし、
『信じて下さいますか?』
と、はげしい情熱をこめて訊いた。私は、彼が私に話そうと思うことは、なんでもこころよく絶対的に信じることを厳かに誓わざるを得ない気持になった」
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第十一章
「彼は頭を一方にかしげて私の言葉を聞き、そして私は、彼をつつんでいる霧の裂け目から、ふたたびチラリと、その中に動いている彼と彼の人となりとを一瞥した。
ガラスの球の中で薄暗いローソクの火がジリジリと小さい音を立てて燃えており、ただその光だけで、私は彼を見なければならなかった。
彼の背後には澄んだ星のきらめく暗い夜空がひろがり、そのはるかな光輝の中を、一瞬間、後退していく飛行機の列が通りすぎたあと、夜闇は一段と暗さを増した。しかし、その神秘な光は、さながらその瞬間に、彼の中にある青春がキラリと光を放って消えたかのように、一瞬間、彼の少年のような顔を私に照らしだして見せたのだった。
『貴方は、こうして僕の話を聞いて下さって、とてもいい方ですね』と彼は言った。『ほんとに有り難いです。それが、僕にとってどれ程有り難いことか、貴方にはとてもお判りになりません。貴方にはとても』……彼は、なんと言っていいのか言葉がないというようだった。
あの光は、チラリとではあるがハッキリ彼を見せてくれた。彼は、われわれが自分の身近に置いてみたいと希うような、われわれが、自分自身も若き日にはああであったと想像したいような青年であった。その風貌は、われわれと若き日の夢を共有する友であることを語っていた。
その容貌を見ると、われわれが、すでに遠い過去となり、消え失せ、冷え切ってしまったと思っていた夢が、さながら別のほのおが近づいたために再び燃え上がり、深い深い心のどこかで再び光を放ち……熱を放ったような感じだった!……そうだ。私はあの時、チラリと、しかしハッキリ彼を見た……そして、ああいう彼を見たのは、あれが最後ではなかった……
『僕のような立場の者にとって、信じてもらえることが――年上の人に自分の心を打ち明けられることが、どんなに有り難いか、貴方にはとても判りません。それ程、難かしい――すごく不公平な――とても理解しにくいことです』
ふたたび霧がたちこめてきた。ジムには私が幾つ位に見えただろうか?――そうして、どのくらい賢明に。でも、ちょうどあの時私自身が感じていた半分も、年寄りには見えなかっただろうし、私自身が知っている半分も、無益に賢い男だと思わなかったに違いない。
およそこの世に海洋生活を職業として人生を遠く船出し、すでに浮き沈みの人生を経ている人々ほど、生死の瀬戸ぎわに立った青年が、かがやく目で、実は彼自身の燃えるひとみの反映にすぎないあの厖大な大洋の面のかがやきに見入っている姿ほど、強く心を惹きつけるものはない。
われわれ一人一人を海に追いやったものは、壮大な漠然とした期待、朦朧としたすばらしい栄光、途方もなく美しくはげしい冒険欲で、それは彼等自身のものであり、唯一の報酬であった!
われわれは何を得たか?――まあ、そのことは言わないことにしよう。しかし、われわれの中に、誰か微笑を禁じ得る者があるだろうか? 他のどんな生活にも、海の生活ほど現実から遠く離れた幻想《イリュージョン》はなく――他のどこにも、これ程あらゆる夢幻の生まれるところはなく、――ここほどすばやく幻減――ここほど、完全に征服されてしまう人生はない。
われわれはみな、同じ欲望をもって海洋生活をスタートし、同じ知識を得てそれを終え、同じ神秘な魔力の思い出を胸にいだきしめて、呪わしい陸のきたない日々を送ったではないか? では、その輝くきずなを復活させ、思い出を呼びかえす強い力が自分の身近に現われたとき、海洋生活者同士の友情のほかに、より広い、強い感情が湧きあがり――その感情が男を子供に結びつけたとしても、べつに不思議はないであろう。
彼は私の前に、年齢と知恵とは真理の苦しみを癒し得るものと信じて立っており、私に、最もひどい悪魔的な苦境、白ひげの老練家たちが内心ほくそ笑みながら厳かに頭を振るような恐ろしい苦境に陥った若者としての真の姿をチラリと見せた。
それに彼は、死ぬことを考えていたのだ――困った奴め! 彼は自分の生命を救い、一方生命の美妙な魅力は、すべてあの晩船とともに消え失せてしまったと信じているので、死について考えるようになったのだ。ごく自然なことだ! たしかに、同情を叫び求めるのは悲劇でもあり滑稽でもあり、私が彼に同情をこばんだからといって、べつに人と変わっているわけではないであろう?
こうして私が彼を見ているうちに、霧はもうもうと裂け目の中に流れこんでき、彼の話し声はつづいた――
『僕はすっかり途方にくれました。まさか、こんなことが起きるとは予期しなかったので。これは、例えば、戦争とはわけが違いますからね』
『違うね』
と私は認めた。彼はまるで急に大人になったように一変して見えた。
『何も確信がもてません』と、彼はつぶやいた。
『ああ! 君は確信がなかったんだね』
と私は言った。するとかすかなため息の音が、夜空を飛ぶ鳥の羽音のように私達の間をよぎり、私の心は慰められた。
『ええ、そうです』彼は勇気をふるって言った。『僕の話も、なんだか、あの連中の作った忌々しい話に似ています。ただけっして嘘の話ではありません――でも、やはり真実でもありません。何かです。……まっ赤な嘘なら誰にもよく判りますが、この事件の真相と誤りとの間には、紙一重ほどの開きもありません』
『君はそれ以上のどんな真実を望むのか?』と、私は訊いた。しかし、私の声があまり低かったので、彼には聞こえなかったらしい。彼は、さも人生の道は、無数の裂け目で網の目のように分裂錯綜しているかのように議論をすすめる。彼の声はもっともに聞こえた。
『仮りにもし僕がああしなかったら、――つまり、もし船に残っていたとしたらどうだったでしょう? そう。あとどの位の間? 一分間――三十秒。そうです。あと三十秒したら、きっと僕は海中へ飛びこんでいたでしょう。そして、最初に自分の前に流れてきたものになんでもかまわず、しっかりしがみついたでしょう――櫂《かい》でも、救命具でも、(ボートに敷く)すのこでも――-なんにでも。そう思いませんか?』
『そして助かっただろうな』
と、私は口をはさんだ。
『生きる積りだったでしょう』と彼は言い返した。『そして、それは、あの時の気持以上です。あの僕が』……彼は、さも何か胸の悪くなる薬でも飲もうとするように身震いし……『飛び下りた時の』と、体を痙攣させるような努力で発音し、その緊張が、空気の波動で伝わってきたかのように、私の体を椅子の中で少し動かした。彼は伏目にじっと私を見つめ、
『僕を信じてくれますか?』と叫んだ。『誓います!……いまいましい! しまったことをしてしまった。貴方は、ここに僕を連れてきて話させ、そして……ぜひ信じなくちゃ!……貴方は、信じるとおっしゃいましたね』
『むろん信じるとも』
私は、当然のことのように答えた。その語調が彼を静める効果を生んだ。
『失礼しました。もちろん、貴方が紳士でおられなかったら、僕はけっしてこんなに何もかも話したりしません。前からよく判ってた筈です……僕も――僕も――紳士です……』
『そうとも、そうとも』
と私は口早に言った。ジムは真正面からじっと私の顔を見つめ、それからゆっくり視線を移した。
『これで、結局なぜ僕がしなかったか……あの連中のように逃げて行かなかったかお判りですね。僕は、自分のしでかした事に怯えたくないんです。それに、もしあくまで船に残っていたとしても、僕は結局、最善をつくして生きようとしたに違いありません。人間は何時間も浮かんでいられるし、――公海のまん中で――そして、大した害も受けずに救助されることがよくあります。僕は、他の大勢の人達より長く浮かんでいられたでしょう。僕の心臓はどうもなりません』
ジムは、ポケットから右のこぶしを引き出して胸板をたたいた。その音が、おおって音を消した爆発音のように夜闇の中にひびいた。
『そうだね』と私は言った。
彼はわずかに両脚をひらき、顎を胸にうずめてじっと考えながら、
『髪の毛一すじの差です』とつぶやいた。『これとあれとは、ほんの髪の毛一すじの差もない位です。そしてあの時は……』
『深夜に髪の毛一すじを見分けるのは困難だね』
私は少し意地悪に口をはさんだ。諸君は、私が何を海洋生活者の一致結束と考えているか判るでしょう? 私は、まるでジムが私をだましでもしたように――この私を!――私の若き日の夢を持続するすばらしいチャンスをだまし取りでもしたように、まるで彼が、われわれ海の男の生活から、その魔力の最後の火花を奪い去りでもしたように、彼に対して悲しい憤りを感じた。
『それで、君は母船から脱出したんだね――すぐに』
『飛び下りたんです』と、彼は私の言葉を鋭く訂正した。『飛び下りたんです――忘れないで下さい!』
と、彼は繰りかえした。私は、彼のその明瞭な、それでいて不明瞭な意図は何だろうかといぶかしんだ。
『まあ、そうです! たぶん、その時僕はそれが判らなかったんです。でも、それから時間がたっぷりあったし、またあのボートにはどんな明るさもありました。そして、僕は考えることが出来た。もちろん、真相は誰にも判らないが、でもそのために僕は、少しも荷が軽くなったとは思いません。この点も信じて下さい。
僕は、あの連中の作り話はみなまっ平でした……嫌いです……ええ……僕はけっして嘘はつくまい……そう望みました……それが、僕の望みでした――ねえ、そうでしょう。貴方にしろ、誰にしろ、僕に真実を語るのを恐れさせることが出来ると思いますか?……僕は――僕はけっして語ることを恐れません。そして、考えることも恐れませんでした。僕は、それにまっ正面からぶつかりました。
僕は逃げ出そうとはしませんでした。最初は夜、もしあいつ等がいなかったら、あるいはそうしたかもしれない……いや! 金輪際しない! 僕は、彼等に、けっしてその満足は与えない。彼等はもう充分悪さをしました。彼等は話を作り上げ、たぶん自分でも信じたでしょう。しかし、僕は真相を知っていますし、僕はそれを、今後の行為で償うつもりです――自分一人きりで。
僕は、あんな汚らわしいずるい事に賛同する積りはありませんでした。しかし、結果はどうだったでしょう? 僕はさんざんにやっつけられ――実を言えば、人生がいやになっています。しかし、それを――あんな風に回避したとてなんの益がありましょう? その行き方は間違っています。僕は信じます――僕は、あんな回避は何ものをも解決しないだろうと信じます』
ジムは往ったり来たりして歩いていたが、この最後の言葉とともに急に私の方を振り向いた。
『いったい、貴方は何を信じますか?』
彼は、はげしい語調で訊いた。そして、それっきり黙ってしまった。とつぜん、私は深い、やりきれない疲労感におそわれた。あたかも私は夢幻郷の虚空を果てしなくさ迷いつづけ、その無限の広さに私のたましいは悩まされ、肉体は疲れ切っていたのに、彼の声で夢から覚めたかのようだった。
『……それは何ものをも解決しないでしょう』
彼はしばらくしてから、強情に私の頭上でつぶやいた。
『だめです! どうしても、正面からぶつかるほかありません――僕一人で――そして、別のチャンスを待つのだ――見つけるのだ……』」
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第十二章
「あたりは静かで、聴覚の限界には一つの音もなかった。ジムと私との間に垂れこめた彼の感情の霧が、彼の苦闘でかき乱されでもしたかのように揺れ動き、その形なきヴェールの切れ目から凝視する私の目に、彼の姿は、象徴画の中の人物のように、明瞭な形をしながら不明瞭な、模糊とした哀訴を孕んでいるように見えた。
つめたい夜の空気が、私の手足に厚い大理石の板がのしかかっているように重たく感じられた。
『わかった』
と、私はつぶやいた。それは他のどんな理由より、むしろ、俺は俺のこのしびれて無感覚になった状態を破ることができるぞ、と自分自身に証明するためだった。
『アヴォンガル号は、ちょうど日の出前に僕たちを拾い上げました』と、ジムは陰気に言った。
『まっすぐ僕たちの方へ走ってきて。僕たちは、ただ坐って待っていました』
それから長いこと黙っていて、彼は言った。
『連中は、彼等の作り話をしました』そしてまた重苦しい沈黙のあとで、『その時初めて、僕は自分の決心は何か判りました』と彼はつけ足した。
『君は、なんにも言わなかったんだね?』と、私はささやいた。
『僕に何が言えますか?』彼はやはり低い声で訊いた。……『軽い衝撃。船が止まった。破損の個所を確かめた。乗客に騒動を起こさせずに各ボートを下ろす処置をとった。最初のボートが下ろされたとき、突風雨で船は沈んだ。鉛のように沈んだ。……これが明々白々の事実です』……ジムは頭をうなだれた……『そして、これ以上恐ろしいことがありますか?』
ジムは私の目をじっとまともに見つめなから、唇を震わせた。
『僕は飛び下りた――そうでしたね?』ジムは極度に落胆狼狽のていで訊いた。『今後、僕は生きてそれを贖わねばならないんです。あんな話はどうでもいい』……彼は一瞬間両手をきつく握りしめ、チラリと左右の暗闇を見まわし、『あれは、死人を瞞すようなものです』と、口ごもった。
『ところが、死人は一人もいないのだ』と、私は言った。
それを聞くと、ジムは私を離れてむこうへ歩いていった。やがて彼は、私の方に背中をむけて、ぴったり手すりによりそい、さながら夜の平和と清浄さを賞讃しているかのように、しばらくそこに立っていた。脚下の庭園に生えている灌木の花の香りが、ぷんぷんとしめった空気の中にただよっている。彼は、足早に私のところへ戻ってきた。
『だが、そのことは関係ないです』
と、彼はひどく強情に言った。
『たぶんね』
と、私も同意した。私はそろそろ彼がたまらなくなりだした。結局、私が何を知っていよう?
『船の乗客が死のうと死ぬまいと、僕は逃避することは出来ません。僕は生きて償いをしなくては。そうでしょう?』
『まあ、そうだね――もし君がそういう風に考えるのなら』と、私は口ごもった。
『もちろん。僕はよろこびました』彼は何か別のことを考えながら、無頓着に言った。『その事が暴露したとき』と、彼はゆっくり言って顔を上げた。
『初めてパトナ号のその後の話を聞いたとき、僕はほっとしました。僕は実にほっとしました、あの叫び声は――貴方に、僕が叫び声を聞いたことを話しませんでしたか? 言わなかったのか。そうか、実は聞いたんです。助けを求める大勢の叫び声が……雨の中を風のまにまに。僕の空想だったんでしょう。だが、僕にはほとんど事実としか……なんて馬鹿なんだろう……他の者には聞こえなかったのに。
僕はあとで、他の連中に訊いてみました。誰もみな、聞かないと言った。聞かない? でもその時でさえ、僕の耳には聞こえていた! 僕は、あるいは知っていたのかもしれない――だが、まさか生きていようとは考えなかった――ただ耳をすまして聞いていた。ごくかすかな叫び声が――毎日毎日。
すると、ここのあのチビの混血人がやってきて、僕に言いました。
≪パトナ号は……フランスの砲艦に……綱でエイデン〔アラビア南西部の英国保護領〕へ引いていかれた……取調べが……海事保安署で……海員ホームで……君たちの食事と宿泊の手筈ができている!≫
僕は、彼と一緒に歩いて行き、好んで沈黙をつづけました。で、ここではなんの言い合いも起きませんでした。ただ想像がかけめぐるだけで。僕は、彼を信じるほかありませんでした。僕の耳には、もう何も聞こえませんでした。あのいつも耳に聞こえた叫び声に、僕はもうすんでに堪えられなくなるところだったかもしれない。それに、あの悲鳴は、ますますひどくなっていた……いよいよ大きくなったという意味です』
彼はじっと考えこんだ。
『でも実際には、僕はなんにも聞かなかった! まあ――そうしておきましょう。しかし、灯りは! 灯りは確かに消えた! 灯りはわれわれに見えなかった。確かに消えた。もし灯りがついていたら、僕は泳ぎかえったでしょう――僕は母船に戻って、船側から叫んだでしょう――僕は、母船の人々にそこへ乗せてくれとたのんだでしょう。……僕はチャンスを掴んだでしょう……貴方は僕を疑いますか?……僕があの時どう感じたか、貴方は知らないでしょう?……貴方には、僕を疑う権利はないでしょう?……僕はあの時、すんでに泳ぎかえるところでした――わかってくれますか?』
彼の声が急に低くなった。
『でも、灯りはチラリとも見えませんでした――ほんのチラリとも』と、彼は悲しそうに抗議する。『もし見えたとしたら、僕はいまここにいなかったでしょう。判ってくれますか? 貴方はいまここにいる僕を見て――まだそれを疑いますか?』
私は首を横に振って否定した。ボートが母船からまだ四分の一マイルもはなれないうちに、船の灯りが見えなくなったという問題は、大論争をまきおこした。ジムは、最初のスコールが通りすぎたあと、灯りはなんにも見えなかったと主張し、他の連中も、同じことをアヴォンガル号の船員たちに保証した。
もちろん、人々は頭を横に振ってニヤニヤ笑った。法廷で私の近くに坐っていた一人の老船長は、白いほおひげを私の耳にすりつけてつぶやいた。
『むろん、奴等は嘘を言いますワ』
しかし、実際として、誰も嘘は言わなかった。マストの先の灯りが、マッチを投げ捨てたように下へ落ちたと話した機関長さえもが。少なくとも意識的には。けだし、こういう肝臓をもった男なら、こっそり自分の肩ごしに後を盗み見した時、目尻にチラリと浮かんでいる火花を見たかもしれないが。とにかく彼等は、視野のとどくかぎり、どんな種類のどんな灯りも見なかったし、その説明は、ただ一つしかなかった――船は沈んだのだと。
それはたしかに慰めになる説明であった。船は沈んだというこの予想の事実がすぐ頭にうかび、それに違いないという性急な判断を下させたのだ。彼等が他の説明をあれこれ思いめぐらさなかったのも、不思議はない。
しかし、真実の説明はごく単純で、一度ブラヤリーがこの説明を提案すると、法廷は二度とこの問題を云々《うんぬん》しなくなった。
諸君は記憶されませんか。あの時船は止まって、船尾を高くもたげ、船首《へさき》を水中に低く下げて、夜中進行してきた進路に頭を向けて横たわっていた筈である。こうして、船は均衡を失って不安定な状態だったので、スコールがその一方の側を少し打つと、船はまるで錨をつけでもしたように、急にぐるりと頭を風の方に向けたのだった。この急激な位置の変化で、船の明りはみな、アッという間に、風下に当たっているボートからは見えなくなったわけだ。
もし灯りか見えたら、たぶんそれは無言の訴えであったろう――黒雲の中に明減するその小さな光は、神秘な力をもつ人間のまなざしのように、後悔と憐憫の情を呼び覚ますことができたかもしれない。その光はきっと、『わたしはここですよ――まだここにいますよ』と囁いたであろう……最もよるべない見捨てられた人間の目も、それ以上雄弁に訴えることはできなかったであろう……
しかし、船は、さもボートの人々の運命をさげすむように、くるりと背中を向けてしまった。船は重荷を負って、航海の新たな危険を頑強にねめつけようとするかのように、急に向き直り、さもハンマーに打ちくだかれて不分明な死をとげるのが定まった運命ででもあったかのように、やがて解体場の中で命数を終えるまでふしぎに生き永らえた。
あの船に乗っていた巡礼者たちが、≪運命≫からどんな種々様々な最期を与えられたかは、私は知らないが、すぐ近い未来では、翌朝の九時頃、一隻のフランス砲艦が、レイニオン〔マダガスカル島東部にあるフランス領島〕から帰国の途中、この船を発見した。砲艦長の報告は、世間に知れわった。――
艦長は、頭を下にしていまにも沈みそうに危険な恰好で静かなかすんだ海上に浮かんでいるあの蒸汽船はいったいどうしたことかと、確かめるために、自分の砲艦の進路を少しそらせて行ってみた。船にはイギリス国旗が、ユニオンを下にしてひるがえっていた(パトナ号の土民の水夫長にも、夜明けに遭難|信号《シグナル》の倒旗をかかげる分別はあったのだ)。しかし、その船のコック達は、いつもの通り炊事室で食事の用意をしていた。デッキは羊の檻《おり》のように人でいっぱいだった。手すりはどこもかしこもずらりと人だかりで、ブリッジの上は人間ですし詰め、何百千もの目はじっと前方を見つめたきりで、砲艦がその遭難船と船首をならべて横づけになっても、その大群集の唇は、まるで魔力にでもかかって閉ざされたように、みな固く閉じたきりだった。
フランス人は声をかけて呼ばわったが、ハッキリした返事は得られなかった。そこで彼は、双眼鏡でデッキの上の群集が疫病にやられたのでないことを確かめてから、ボートをさし向けることにした。二人の士官が遭難船に行って水夫長の話を聞き、このアラビア人と話してみたが、何が何やら要領を得ない。
しかし、もちろん船が危機に瀕《ひん》していることは一目瞭然だった。砲艦の士官たちはまた、ブリッジの上に一人の白人が平和に丸まって死んでいるのを見つけてひどく驚いた。『この死体で強い好奇心が湧きあがりました』と、それからずっと後に、私はシドニー〔豪州南東部の海港〕のカフェーで、ある午後、この事件をよく覚えている年配のフランス海軍大尉にひょっこり出会って聞いたのだった。
私はふと、この事件が、実に人間の弱い記憶力と長い時の経過にいどむ異常な力をもっているのに気づいた。それは一種の不気味な生命力をもって、人々の心の中に生き永らえ、いつまでも人々の口の端にのぼるようだった。私はそれから何年も経たのちに、数千マイルへだてた所で、たびたびこの事件が、およそ思いもかけない人々の話題にのぼったり、ごく遠回しにほのめかされたりするのに出会って、いかがわしい愉しさを味わった。
現に今夜も、われわれの間で、これが話題になったじゃないか? しかもここには、海員は私一人きりだ。それを記憶しているのは私だけだった。それなのにこの事件が話題になった! もしこの事件を知っている互いに未知の二人の男が、地球のどこかでバッタリ出会ったとすれば、彼等が別れるまでには、必ず宿命的な正確さで、この事件は二人の話題にのぼるのだった。
私はこのフランス士官とは初対面だったが、一時間後には、私たちは互いに生涯の友のようになっていた。彼は特別話し好きにも見えなかった。折目正しい制服を着た静かな大男で、黒っぽい酒が半分ほど入っている大コップの上にねむたそうにうつむいて腰かけていた。肩章は少々色褪せ、きれいに剃った頬は大きく、青白く、彼はいかにも嗅ぎタバコの好きそうな人物に見えた――お判りでしょう?
話の糸口は、彼が幾つかの≪ホーム・ニュース紙≫を、向かい側にいた私に、大理石のテーブル越しに渡してくれたことがきっかけとなった。私はべつに読みたくはなかったが、有り難うと言った。
私たちは、二、三ごく単純な言葉を交わし、ふと気がつくと、知らぬ間にあの事件に花を咲かせており、彼等が≪あの死体にどれ程好奇心≫をそそられたかを話していた。彼はたまたまあの時のフランス砲艦に乗り合わせた士官の一人であったのだ。
私たちは、ここへやってくる士官たちのために諸外国の洋酒を用意してあるカフェーにいたが、彼は、たぶん黒スグリの実酒らしい黒っぽい、薬みたいな代物《しろもの》を一口すすり、片目でチラチラコップの中を覗きながら、軽く頭を振った。
『まるっきりわけが判らんですな――ねえ君』
彼は無頓着と思慮ぶかさの奇妙にまじり合った表情で言った。私にはすぐ、それが彼等にとってどれ程不可解な事件だったか納得できた。
砲艦に乗っていた人々の中には、誰も、水夫長の話が判るほど英語のできる者はいなかった。それに、二人の士官たちの周囲は大へん騒々しかった。
『人々は、わたし達の周囲にむらがってきました。あの死んだ男の周囲には人垣ができていました』と士官は説明した。『事態は急を要しました。船の人々は昂奮しだしました。――そうですとも! そういう大群集――お判りでしょう?』
彼は理知的な気ままさで叫んだ。船のあの浸水した遮断壁は、あのままそっとしておくのが一番安全だと、彼は艦長に言った。見てもぞっとするような破損したひどい古鉄だった。
士官たちは直ちに二本の大綱を船に運んでパトナ号に引き綱をつけた――船尾を先にして――この場合、方向舵はあまり水面から遠く離れていて大して舵をとる役には立たなかったので、船を後向きに引くほうか賢明だったのだ。それに、こうすれば、遮断壁に海水の抵抗が和らぐからで、なにしろこいつは実に最大限度の注意を要する代物《しろもの》だったと、フランス士官は重々しい流暢さで説明した。
私は心の中で、きっといま知己になったこの士官は、パトナ号救出の件では、最も強い指導権をもっていた人物に違いないと考えざるを得なかった。
彼は、いまはもう余り活動的ではないが、信頼できる士官に見えたし、またある意味でいかにも海の男らしかった。しかし、彼が太い指を軽く腹の上で組んでそこに坐っているところは、人生の神秘である苦悩と悲嘆をおおうヴェールにも似た平和な、そして単純な表情をうかべて、百姓たちの訴える罪や、苦しみや、悔悟の言葉に優しく耳を傾けるあの嗅ぎタバコの好きな村牧師を思わせた。
彼は、肩章と真鍮のボタン付きのフロックコートの代りに、そのおおらかな顎の上までずらりとボタンのついた、すり切れた黒い法衣《スタン》を着るにふさわしい感じだった。彼は、広い胸を規則正しくふくらましながら――まったく、あなた自身海員としてご想像できるでしょうが、実にひどい仕事でしたな、と語りつづけた。
そして話が一段階すむと、彼はわずかに体を私の方にのめらせて、ひげを剃った唇をつぼめ、スーッと優しい小さい音を立てて空気をはいた。
『幸い』と士官はつづける。『海はテーブルのように滑らかで、この部屋と同じくらいしか風がありませんでした』……
じっさいここは、耐えれないほど重苦しい空気で、ひどくむし暑かった。私の顔は、まるで恥ずかしさに真っ赤になった若者のように、カッと上気していた。
フランス砲艦は、と彼はつづけた、『もちろん』航路を一番近くのイギリス港に向け、そこで責任を終えた、『有り難いことにね』……彼は平らな頬を心持ちふくらました。『なぜといえば、いいですか、われわれは難破船を引っぱっていく間中、二人の操舵員に斧を持たせて大綱のそばに立たせておき、すぐ引き綱をわれわれの船から切り離せるようにしておいたんです、船が万一の場合……』
彼は、自分の言う意味をできるだけハッキリさせようとして、重たいまぶたを下向けにバチバチ動かした。
『貴方ならどうします! 誰だって、ただ全力をつくすだけでしょう』
そしてしばらく、彼はその重々しい不動の姿に、あきらめの表情を帯びさせようとしてもじもじした。
『二人の操舵員が――三十時間――ずっとそこに。二人!』
と、フランス士官は右手を少し上にあげて、二本の指を示しながら繰りかえした。これは後にも先にも、彼が私に見せた初めての|身振り《ジェスチャー》だった。この動作で、私は士官の手の裏側にある、――ハッキリ銃創のあととわかる――星形の傷に気づいた。
そして、この発見で私の視力が前より鋭くなったのか、私はもう一つ古い傷あとを見つけた。こめかみの少し下からはじまって、一方の小びんの短い灰色の毛髪《かみ》の下で見えなくなっている――槍のかすり傷か、剣で切られた傷あとだ。
フランス士官はふたたび腹の上で手を組んだ。
『わたしは、船に残っていました。あの――あの――どうも記憶が悪くなってね。ああ! パットナだ。そうだそうだ。パットナだ。まったく滑稽なほど物忘れする。わたしは、あの船に三十時間乗っていました……』
『君が!』と、私は叫んだ。
彼はやはりじっと自分の手を見つめながら、少し唇をつぼめた。が、こんどはスーッという音はもれなかった。
『士官が一人残るのがいいと思ったのでね』彼は私心のない静かな表情で、まぶたを上げて言った。『難破船に残って見張りをつづけるために』……
彼は何気ないためいきをついた……『そして、シグナルで引き船と連絡したり――お判りでしょう?――何やかやのために。それに、これは、わたしの意見でもあったのです。われわれは砲艦のボートをいつでもすぐ降ろせる用意をととのえ――そして、わたしもパトナ号で同じ方法をとり……やっと! まあ出来るだけやったというわけです。あれは微妙な立場でしたな。三十時間。パトナ号の者が、わたしに何か食べ物を用意してくれました。でも、酒など――呼べど叫べど――一滴もなし』
彼は、相も変わらぬのろりとした態度と、おだやかな顔の表情には何一つ変化は見せず、何かふしぎな方法で、私に、ひどくうんざりしたという気持を伝えた。
『わたしは――ねえ君――酒なしで物を食うとなると――からきし駄目なんです』
フランス士官は手足一つ動かさず、顔の筋肉をピクリともさせずに、どれ程その想い出にいらいらしているかを私に感じさせたので、私は、彼がその時の不満苦情を大げさに話しだすだろうと思っていた。しかし、彼はすっかり忘れたように、何の苦情も言わなかった。
フランス砲艦の人々は、引いてきた難破船を彼の言葉だと『港の当局』に引き渡した。彼は『当局』があまり冷静な態度で受けとるのに驚いたそうだ。
『まるで、≪港のお豪方≫は、こんなような滑稽な拾い物なら毎日持ち込まれるとでもいいたそうな冷淡さでした。彼等に比べれば、貴方は全くすばらしい――貴方は別人だ』
彼は背中を壁にもたせて、あら粉袋のようにおよそ感情の表情などみじんも示さない恰好で言った。――たまたまあの時、港には一隻の軍艦とインドの海軍汽船が入っており、これら二隻の船のボートが、パトナ号からその乗客全員を下ろしてくれた時のめざましい活動振りには、彼は感嘆していた。それこそ最高技術の極致で、とても探知することのできない神秘な、ほとんど奇跡的な、驚くべき成果をもたらした。
『二十五分間――時計を手にもって――二十五分間。たったそれきりです』……
フランス士官はお腹の上に手をおいたまま、組んだ指をほどいたり、また組んだりした。そしてその方が、彼が感嘆のあまり両手を高く振り上げたより、私にはずっと感銘的であった……
『あの人々全部を上陸させました――彼等の小さい手荷物もろともに――見張りの水兵たちと、あの興味深い死体のほかは。二十五分間で』……
その海軍士官の彼は、いま伏目になり、頭を少し一方にかしげて物知り顔に舌をまるめ、あのすばらしい仕事振りの醍醐味《だいごみ》を味わっているように見えた。彼は、それ以上はなんの感動も表わさずに、彼の賞讃は高く評価されるべきだと私に信じこませた。それから、彼はふたたび前の不動の姿勢にもどって話し続けた。――彼等の砲艦は、出来るだけ早くツーロンに行けという命令を受けていたので、それから二時間内に出航した。
『それで、わたしの生涯のこのエピソードには、いまもって不明瞭なことがたくさん残されました』」
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第十三章
「そう言いおわると、フランス士官は前のままの姿勢で、すなおに沈黙状態に甘んじている風だった。私も、彼のおつき合いをしていた。やがて突然、しかしあわただしくではなく、さも彼の不動の姿勢に発言の指定時刻が到着したかのように、彼は穏やかなしゃがれ声で言った。
『ああ! じつに時の経つのは迅いもんだ!』
これ以上平凡な言葉はないが、しかし、この言葉は、その瞬間に私が心に描いていた思いとぴったり合致した。いかにわれわれが、半びらきの目と、半ばつんぼの耳と、眠っているような頭で人生を送るか、思えば実に驚くべきことだ。たぶん、それでいいのかもしれない。この鈍感さのためにこそ、人生は数限りない大多数の人々にとって、それほど耐えやすく、そんなにも歓迎されるのかもしれない。
それでも、ハッキリまなこを開いて――ありとあらゆることを――一瞬にして――見、聞き、理解する、あのまれな目覚めのひと時を、人生に全く経験しないという人は、ほんの少数かもしれない――そして、その経験からわれわれはふたたびあの心地よい半眠りの状態に戻るのである。
彼が口をきいたとき、私は目を上げて彼を見た。そして、まるでいま初めてこの男を見たかのように感じた。私は見た――彼が胸に顎をうずめているのを。彼の上衣の不恰好な折り目を。固く組み合わせた手を。彼がただそこに置いてきぼりにされたことを奇妙に暗示するその不動のポーズを。
まったく、時は過ぎ去った。時は彼に追いつき、彼を追いこして過ぎ去った。時は、どうしようもないほど彼を後に置いてきぼりして行ってしまった、この二、三の貧しいプレゼントを残して――鉄灰色の髪の毛、重たく疲れた褐色、二つの傷あと、一対の錆びた肩章。――偉大な名声の素材であるあの堅実な、信頼できる男子の一人。太鼓やトランペットでにぎにぎしい埋葬をされずに、不朽の成功の基礎《いしずえ》の下に埋められたあの数に入らぬ生命の一つ。
『わたしはいまヴィクトリュース号(当時この船は、フランス太平洋艦隊の旗艦だった)の少尉です』
彼は壁から肩を二、三インチはなして、自己紹介するように言った。私はテーブルのこちら側で軽く頭を下げ、自分は、いまラッシカッターズ湾に投錨中の商船の船長をしていると彼に話した。
彼はこの船をきれいないい船だと――『注目していた』と言った。彼は、例の感情をあらわさない冷静な態度で、この船に大した敬意を表した。彼はありありと息をはずませて、
『ああ、そうですとも。黒く塗った――大そうきれいな――大そうきれいな船ですな』
と、繰りかえした。そのとき私は、彼が賞讃のあまりに頭をかしげたとさえ思った。
しばらくすると、フランス士官は少し体をひねるようにして、われわれの右手のガラスドアの方を向き、
『陰気な町ですな』と、じっと通りを見ながら言った。
それはよく晴れた日だった。寒いはげしい南風が吹きまくっており、通行人の男女が歩道で風にたたかれ、街路の向こう側の陽光をあびた家々の正面に、高くうずまいた砂塵がもうもうと舞い上がっているのが見えた。
『わたしはここへ、一寸脚をのばしに上陸しましたが、しかし……』
彼は終わりまで言わずに、深い休息の底に沈んでしまった。そしてしばらくすると、
『ねえ――話してくれませんか』と、重たそうに意識の世界に戻ってきて言いだした。『いったいこの事件の底には何があったのです――正確のところ? どうも奇妙です。例えば、あの死んだ男とか――その他何やかや』
『それよりもっと奇妙な――生きた男たちもいましたし』と私は言った。
『その通り、その通り』
彼は聞きとれるか聞きとれない声で賛成し、それから、さも熟考のあげくのように『たしかにそうだ』とつぶやいた。
私は楽な気持で、この事件の中で一番自分の興味をひいた問題を彼に話した。彼にはそれを知る権利があるように思えたから――彼は三十時間、パトナ号に乗っていたではないか――彼は、いわば事件の後を引き継いだではないか。彼は≪彼の最善を≫つくしたではないか?
彼は、前よりもまた一段と牧師らしく、またいかにも精神を集中した様子で――たぶん伏目になっているせいか――じっと私の話に聴き入った。一、二回、彼は『悪魔め!』とでも言うかのように眉をつり上げた(やはり目は伏せたまま)。
一度、彼は声をひそめて、『ああ、ばかな!』と静かに叫んだ。そして私が話し終わると、彼は思案するように唇をつぼめ、それから一種の悲しそうな口笛を吹いた。
他の人の場合だったら、それは退屈か無関心のしるしであったかもしれない。しかし彼は玄妙不可思議なしぐさでそれをし、いかにも彼の不動の姿が深く感応し、ちょうど卵に滋養物が一ぱいのように、彼は貴重な思想で一ぱいの感じを与えた。しかし、やがて彼はごく慇懃に、ほんのささやくように低く、
『大そう興味深いお話ですな』と言ったきりだった。
そして、まだ私が失望から立ち直らないうちに、彼はなかば独り言のようにつけ足した。
『そこだ。そこだ』
彼の顎が、いっそう深く胸に沈み、彼の体が、椅子の中でいっそう重量をましたように見えた。
いったいそれはどういう意味です? と私が訊こうとしたとき、何かを予告する一種のふるえが、彼の全身を走りすぎたようだった――まだ風の吹いてくるのが感じられない前に、かすかな小波が、よどんだ水面に見えてきたように……
『それで、その気の毒な若者は、他の連中と一緒に逃げ出したんですな』
彼は厳粛に、静かに言った。
なぜか私は思わず微笑《ほほえ》んだ。ジムの事件に関連して、私が心から微笑んだのは、これが初めてだったように記憶している。しかしなんとなくこの単純な言い方が、フランス語でおかしくひびいたのだった……C'est enfui avec les autres と少尉の言った言葉が。
そして、とつぜん私は、この男の鑑識力に驚嘆した。彼は事件の核心をすぐ理解したのだ。彼は、私が懸念していた唯一のポイントを、しっかり把握したのだ。
私は、さも自分がこの事件について専門家的な意見をもっているように感じていた。しかし、彼の動じない、円熟した静けさは、大家《エキスパート》が事実を把握するその静けさであって、彼等にとっては、われわれの困惑や狼狽は、ほんの児戯にひとしいものであった。
『ああ! 若い者のことだ! 若い者のことだ!』と、彼は甘やかすように優しく言った。『結局、人はそんなことでは死なない』
『では、どんな事で死ぬんです?』私はすばやく訊いた。
『恐れたために』
と、彼は説明して、それから酒をすすった。
私は、彼の負傷した手の小指の方から三本の指が硬直して互いに独立して動かず、そのため不恰好な手つきで大コップをわしづかみにするのを見た。
『人間は、いつでも恐れている。□では強そうに言うが、しかし……』
フランス士官は妙な手つきでコップを下に置いた。
『恐れが、恐れが――ねえ君――いつもここに、恐れがひそんでいます』……
と、彼は、胸の真鍮のボタンの近くのいつかジムが、俺の心臓はどうもならない、と言ってボーンと叩いたあの場所に手を当てた。私は、自分では気づかなかったがきっと何か賛成のしるしを見せたに違いない。それで彼はいっそう語勢をつよめた。
『そうです! そうです! 誰でも口では豪そうに言う。強そうに言う。それは結構です。しかし結局、われわれは他の人よりそう特別利口でもなければ――また特別勇敢でもありません。勇敢! 勇敢なものはいつでも見られます。私は世界を股にかけてきました』
と彼は真面目な落ち着いた声でスラングを使って言った。
『世界のありとあらゆる場所で、わたしは勇敢な人々に――有名な勇者に会っています! 進めッ!』……彼は無頓着な様子で酒を飲んだ。
『勇敢――お判りでしょう――軍籍にあれば――勇敢にならざるを得ない――職業がそれを要求します。ね、そうでしょう?』彼の言うことはもっともに思われた。
『さて! その勇敢な人々の誰もが――誰もがです、もし正直なら――もちろん――勇敢にはある頂点があると白状するでしょう――ある頂点があると――われわれの中の最上の人間でも――どこかに、われわれがすべてのものを放り出してしまうある頂点があると。そして、われわれは、この真実を離れて生きることはできない――ね、そうでしょう?
ある困難な環境が組み合わされれば、必ず恐れが顔を出す。ひどい怯気《おじけ》が。そして、たとえこの事実を信じない者にとっても、やはり恐れはつきまといます――自分自身への恐れが。それは絶対です。わたしを信用しなさい。そうです。そうです。……わたし位の年になれば、自分の言うことに確信がもてます――断じて!』……
フランス士官はまるで抽象的叡知の代弁者のように落ち着きはらって話していたが、ここに至って、両手の拇指をおもむろに回しはじめて、その超然たる効果を一段と強めた。
『明瞭です――そうですとも!』と、彼はつづける。『われわれは、たとえどれ程固い決心をしていたとしても、ほんの頭痛か、消化不良の発作だけで、たちまち……例えば、わたしの例ですが――わたしがそのいい証拠です。やれやれ! いまこうして話しているこのわたしが、かつては……』
彼はコップの酒を飲みほして、ふたたび拇指を回しはじめた。
『いやいや、人はそんなことでは死なない』
彼が私的なエピソードの先を話してくれそうもないと知って、私はひどくがっかりした。しかしこのエピソードは、もちろん彼の弱さを暴露した物語の一例だから、彼に強いてたのむわけにもいかない。私は黙って坐っていた。すると彼もまた、そうするのがさも自分にも一番気持がいいといわんばかりに黙っている。こんどは拇指さえ静かになった。
とつぜん、彼の唇が動きだした。『そうなんですよ』彼は静かにまた前の話題をつづけた。『人間は、生まれながらにして弱虫なんですな。それが難関です――そうですとも! もしそうでなかったら、さぞ楽だったでしょうな! しかし習慣――習慣――必要――他人の目――お判りでしょう? 人間は、それで痩せ我慢します。それに、自分たちより一向に豪くもない人々が、危機にのぞんで平然としている例を見たりして……』
語尾が消えた。
『あの若者はこういった勇気を刺戟するものが何もなかった――そうお思いでしょう――少なくともあの瞬間は』と、私は言った。
彼は寛大な表情で眉を上げた。
『そうとも、そうとも。あの問題の若者は、最上の性質を持っていたかもしれない――最上の性質をね』
士官は少し息を切らせながら繰りかえした。
『君が寛大な見方をしてくれて嬉しい』と、私は言った。『あの青年自身のこの事件における感情が――ああ!――じつに有望だし、それに……』
テーブルの下で靴を引きずる彼の足音がした。私は言葉を切った。彼は重たいまぶたを引き揚げた。まさしく引き揚げた――他の言葉では、彼のそのゆっくり落ちつき払った動作を描写することはできない――そして、おもむろに目を大きくみひらいて私を見た。私は、深ぶかと黒いひとみを取りまいた二つの小さいはがねの輪に似た二つの細い灰色の目ぶちと向き合った。その大きな重たい体からくる鋭い視線の一瞥は、戦闘斧にかみそりの刃をつけたような、極度に鋭敏な感じだった。
『どうも失礼』
と、彼は礼儀正しく言った。そして右手を上にもたげた。体が前に揺れた。
『われわれ年をとると、人間の勇気というものは、決してただ自然に生まれ出るものではないということがよく判ってくるものだと……まあ、わたしは思っています。あの事件は、なにもそう狼狽するほどの事はないですな。この一つの真理が判れば、なお更彼は一生をめちゃめちゃにしてはならない……
しかし名誉――名誉、ねえ君!……名誉……これこそ現実の力です――そうですとも! これを失ったとき、人生はなんの価値がありますか』……
フランス士官は、驚いた雄牛が草の中からもがき上がるように、重々しい烈しさで急に立ち上がった……
『名誉を失ったとき――ああ、それだ! 例えば――だが、わたしには何も言えない――わたしにはなにも言えない――なぜなら――君――わたしは名誉のことは何も知らんからです』
私も立ち上がった。そしてわれわれの態度に無限の慇懃さをこめて、まるで床の間の二匹の陶器の犬のように、互いに無言のまま向き合った。畜生! 彼はシャボン玉を突きこわしてしまった。男の言葉を空談に化してしまおうと待ち伏せしていた害虫が、われわれの会話に暗い影をおとして、それをただの空虚な音にしてしまった。
『なるほど』私は当惑の微笑をうかべて言った。『しかし、名誉を失ったことが判らないほど挽回することは出来んでしょうか?』
彼はいまにも反駁しそうだったが、口をひらいた時は、もう気が変わっていた。
『これは、君、わたしには立派すぎる話題です。――分に過ぎます――わたしは、名誉などについては何も考えません』
士官は、傷ついた手の拇指と人差し指でまびさしをつまんで持っていた帽子の上に、重々しくおじぎをした。私もおじぎをした。私たちは揃っておじぎをし、互いに大いに儀式ばって足を後に引いた。それを、汚ならしい給仕の標本のようなボーイが、まるで代金を払って演劇を見物でもしているように、批評がましい目で見ている。
『勤務がありますので』
とフランス士官は言った。そしてまた礼儀正しく足を後に引いた。
『では失礼』……
『では失礼』……
士官のたくましい背中のうしろで、ガラスのドアが威勢よく揺れた。彼はたちまちはげしい南風にとらえられ、片手で頭をおさえ、両肩を怒らせ、コートの裾をパタパタ強く脚に叩きつけられながら風下へと追いやられていった。
私はふたたび独りでしょんぼり椅子に坐った――ジムのことで失望して。あの事件から三年以上も経って、まだその傷あとが生々しく残っているのを、もし諸君が不審に思われるなら、私は諸君に、ほんの最近彼に会ったことをお知らせしなくてはならない。
私は、サマラング港〔ジャバ島北部の海港〕で、シドニー港向けの船荷を積みこむと、まっすぐやってきた。これは全く面白くない仕事で――さしづめここのチャーリーなら、≪合理主義的取引きの一つ≫と呼んだだろう――そして、サマラングで、私はジムのことを少し見聞きしてきたのだった。
この時ジムは、私の推薦でデ・ジョンのために働いていた。水上店員。『俺の水上代理人』と、デ・ジョンはジムを呼んでいた。およそこれ以上慰安にとぼしい、輝やかしい夢にめぐまれない、じみな生活様式は想像できない――保険外交員のほかにはね。
チビのボッブ・スタントンは――ここにいるチャーリーは、彼をよく知っていたはずだが――この水上店員の辛酸を嘗《な》めつくしていた。この、ボッブというのは、のちに、セフォラ号の遭難のとき、ある貴婦人の侍女を救おうとして溺死した男さ。たぶん諸君も覚えているだろう、スペイン沖で濃霧の朝突発した、あの汽船衝突事件の犠牲者だ。
この時、すべての乗客はみなきちんとボートに詰められて難破船から引き離されていたが、ボッブはふたたび船に近づき、少女を連れにデッキへよじ登った。どうしてこの少女だけが後に残っていたか私は知らないが、ともかく、彼女は完全に狂乱の状態で――どうしても船を離れようとせず不気味な死神のようにデッキの手すりにしがみついている。避難した各ボートから、ハッキリ二人のもつれ争う姿が見えた。しかし哀れなボッブは、船員切ってのチビの一等航海士で、一方女は、靴をはいて立つと一七五センチもある大女でその上馬のように強かったそうだ。
この二人の――≪どっちもしっかり!≫の綱引きよろしくの闘争。少女はひっきりなしに金切り声を立てつづけ、ボッブはときどき自分のボートに、危い! 船から離れてろ! と絶叫する。……乗組員の一人は、思い出し笑いを隠しながら私に語った。
『その光景はね、旦那、なんともいやはや、てんでわんぱく小僧が、自分のおふくろさんと組み打ちしてるみたいでしたよ』
この同じ老船員は言った。
『とうとうスタントンさんは、その娘っ子を引っぱるのを諦めて、立ったままじっと女を見つめていました。後から思や、大将きっと腹ん中で、いまに海水がザーッと侵入して、彼女を手すりから引きはなし、俺に女を救うチャンスを与えてくれるだろう、と考えていたに違いありません。俺たちゃ、恐ろしくて、とてもボートを船に横づけできませんでしたよ。
そのあとすぐ、ぼろ船は、とつぜん、右舷にかたむいて沈没してしまいました――ゴーッと。その吸込みはじつに凄惨で、生きたものも死人も、何一つ絶対に浮き上がってはきませんでした』
哀れなボッブが、生前しばらく陸で暮すようになったのは、恋愛問題にまきこまれたからだと私はにらんでいる。彼としては、永久に海とはおさらばしたい気持で、地上のあらゆる至上の幸福を掴んだような自信をもっていたが、しまいには、保険の勧誘をやるようになった。ボッブのリバプールの従兄だかにすすめられたらしい。彼はよくその方面の経験談をみんなに話した。みんなはボッブの話を聞いて涙の出る程大笑いしたが、当人は、その効果がまんざらでもなかったらしく、上機嫌で、倭人《こびと》の精のように顎ひげを胸まで垂らしたチビの体を、みんなの中に爪先立って背のびしながら言ったものだ――
『お前たち乞食ども笑うんなら勝手に笑えよ、だがな俺の永遠のたましいは、あの水上店員の仕事を一週間しただけで、しなびた豆ぐらいに縮んじまったのさ』
ジムのたましいは、彼の人生の新しい境遇に、どういう風に自分を順応させたか私は知らない――私は始終ジムのために、彼の生命をつなぐ何か仕事を見つけてやるのに忙しすぎた。――が、彼の冒険好きな心が、渇き苦しんでいたことはよく判っていた。彼の新しい職業には、彼の心の飢えを満たす食物《かて》はたしかに何もなかった。
そういうジムを見るのは心苦しかったが、でも彼は、賞讃せずにはいられない明朗さで、頑固にその仕事と取り組んでいた。
私は、ジムが見すぼらしくこつこつ働いている姿を、これは英雄じみた彼の空想への罰だ――彼が分に過ぎたすばらしいものを渇望する償いだという一種の見解をもって、絶えず見守っていた。彼は、自分を栄誉にかがやく競馬馬のように空想するのが好きだった余りに、いまや彼は、行商人の荷馬車馬のように、うらぶれた労役をする運命になったのだ――彼は閉じこもり、首うなだれ、一言も言わない。
――それで結構だ、大いに結構だ――ただ、あの手に負えない糸を引くパトナ号事件が、時々、突如として姿を現わし、ジムが幻想的な、はげしい爆発を起こすことさえなかったら……不幸にしてあの東海のスキャンダルは、けっして消滅しなかった。そして、そのために私は、ジムのことはもう永久にすっかり片付いた、と安心することが出来ないのだった。
私は、フランス人の士官か行ってしまったあと、坐ったままでじっとジムのことを考えていた。が、ほんのさっき士官とあわただしく別れの握手をしたデ・ジョンのつめたく陰気な裏店での話の関連を考えていたのではない。
私は、何年も前に、消えかかった短いローソクの光を浴びて、マラバー・ホテルの長いギャラリーで、寒々とする夜闇に背中をむけたジムと、水入らずで対坐していたあの晩のことを考えていたのだった。
ジムの頭上には、母国の法律という敬うべき剣が、危く彼に切っ先を向けてぶら下がっていた。判決は明日だったか――それとも今日だったか?(もう深夜をずっと過ぎていたが、二人はまだ別れようとしなかった)冷酷非情な石のような顔の裁判官は、暴行殴打事件についての罰金と投獄期限の申し渡しを終えたのちに、ジムのうなだれた頚《うなじ》を打つために、恐るべき法の剣を振り上げることになっていた。
この夜のジムと私との交りは、まるで死刑囚との語らいの最後の徹夜のようだった。彼にも罪はあった。彼は罪を犯した――私が自分自身の心に繰りかえして言ったように、ジムは罪を犯し、もうおしまいだった。が、それなのに私は、正式裁判の単なる末梢的な処分から彼を免れさせたかった。
私は、なぜ自分がそうしたいのか、その理由を説明する振りはしない――私には出来そうもない。しかし、もし今になってもまだ諸君が一種の見解を持っていないとすれば、それは私の物語がひどく曖昧であったのか、あるいは、諸君があまりねむたくて、私の言葉の意味を掴みそこなったからに違いない。
私は、自分の道義心《モラル》を弁護しようとはしない。私がブラヤリーの逃避プランをジムにすすめた衝動には――そのきわめて原始的な単純さには、べつにモラルはなかった。私のポケットにはルピー貨幣があった――大いにジムのために役立てたいとポケットの中に用意されていた。そら! 貸付け、もちろん貸すのだ――それと、もし必要なら、ラングーンの友人宛に、ジムの就職をたのむ紹介状を……もちろん! 大喜びで書くつもりだった。私は、一階の自分の部屋に、ペンもインクも紙も持っていた。そして話をしながらも、早く手紙を書きはじめたいあせりを感じていた――
×年×月×日、午前二時三十分……われわれの長年の友情に免じて君にお願いするが、何卒、このジェイムズ――君のために、何か仕事をお与えいただきたい。ジェイムズ君は、云々、しかじか……
私はこの手紙に、ジムについていろいろ書こうとさえしていた。彼は、たとえ私の同情に応じなかったにしろ、結局、彼自身のためにいっそういいことをしたのだった――彼は、私の同情心の源まで行き着いて、私のエゴイズムの秘めた感受性をゆさぶったのだった。
私は、諸君に何も隠すまい。もし隠そうとすれば、私の行動は――誰の行動でも、ある程度の神秘さを持つ権利はあるが――いっそう不可解なものに見えるだろうし――また第二には――明日になったら、諸君は私の誠実さを、これまでの他の教訓もろとも忘れてしまうであろうから。
このジムとの渡り合いで、ハッキリ、粗野な言い方をすれば、私には非の打ちどころはなかった。しかし、ジムに逃亡をすすめた私の微妙な不道徳な意図は、罪人であるジムの単純な道義心によって打ち負かされてしまった。
私は、自分の希望がなんであろうと、とにかくジムは正式に裁判処分を受ける決心であることを知った。そして、これ以上論及すれば、彼の若さが私に強く反駁してくるだろうと感じたので、もう余りすすめなかった。彼は、もう私が疑うことを止めたと信じこんだ。
彼の口にも出さず、ほとんどハッキリ表現することもできない野性の希望には、何かすばらしい立派なものがあった。
『逃亡! そんなことは、とても考えられません』
ジムは頭を振って言った。
『私は君にこれを提供する。しかし私は、けっしてどんな種類の感謝も要求しないし、また期待もしない。君はただ、都合のいいときに金を返してくれ給え、そして……』
『ほんとに有り難うございます、全くご親切さま』
彼は顔も上げずにつぶやいた。
私は、彼をじっと見守った。この男にとっては、未来はさぞ、恐ろしく不安なものに見えるに違いない。しかし彼は、全く自分の心臓にはなんの異常もなかったかのように、ひるみも、たじろぎもしなかった。私はムッと怒りを感じた――この晩私が義憤を感じたのは、いまが初めてではない。
『あの忌々しい裁判沙汰は、何もかも、まったく苦しい、ひどいもんだと思うな、君みたいな男にとっては……』
『そうです、そうです』
と、彼はじっと床を見つめたまま低く二回つぶやいた。その様子は、胸も裂けそうに切なく痛ましかった。
彼は立ち上がった。ローソクの光の上に彼の長身が高く浮きあがった。彼の頬の柔かいむくげと、その若い顔の滑らかな肌の下に温かくみなぎっている赤味が、私の目にしみた。諸君は信じられるにせよ、信じられないにせよ、それは私に忿懣やる方ない痛ましさと切なさを感じさせた。それは私を怒らせ、残忍な気持に駆り立てた。
『そうとも』と私は言った。『そして、正直のところ私には、君がこの苦杯を最後の一滴まで飲みほして、いったいなんの利益があるのか、ぜんぜん判らんな』
『利益!』
と、彼は静かにつぶやいた。
『忌々しい、そんなものが判るか』
と、私は憤怒して言った。
『僕は、その事をすっかり貴方に判っていただこうとしてお話ししてきました。でも、結局これは僕のトラブルです』
ジムは、さも答えられない難問でも考えているようにゆっくり言った。
私は反駁しようとしたが、急にすっかり自信がなくなってしまった。すると、さもジムもまた私に見切りをつけたかのように、半ば独りごとのようなつぶやき方をした。
『行ってしまった……病院へ行ってしまった……あいつ等は一人として、それに正面からぶつかろうとしない……あいつ等は!……』
彼は、軽蔑するようにちょっと手を動かした。
『しかし俺は、このことを乗り切らなくちゃいけない。そして俺は、どんなことも逃避しちゃいけない』
彼は黙った。そして、さも幽霊にでもとりつかれたように、じっと前方を見つめた。彼の自覚を失った顔に、つぎつぎに侮蔑や、絶望や、決意の表情が映った――魔法の鏡に、この世のものならぬ怪奇な姿がぞろぞろ通りすぎるのが映るように、それらは代るがわる映っては消えた。彼は、偽りの幻影《まぼろし》や、厳しい亡霊に取り囲まれて生きていたのだ。
『ああ! 馬鹿馬鹿しいよ君』と私は言いだした。
彼は苛立たしそうに身動きして、
『貴方は、理解して下さらなかったようですね』
と鋭い刺すような口調で言い、それから、まばたきもせずにじっと私の顔を見つめた。
『僕は、難破船から飛び下りたかもしれませんが、でも逃げ隠れはしません』
『私は、君を傷つけるつもりじゃなかったんだ』と私は言った。そして愚かにもつけ加えた。『君より優れた人々だって、時には逃避が得策だと悟ることだってあるさ』
ジムは顔中真っ赤になった。私は狼狽して言葉を呑み、自分の舌で半ば窒息しそうになった。
『たぶん、そうでしょう』
彼は、しばらくして言った。
『僕は、それほど立派ではありません。そうする余裕はありません。僕は是非ともこのことと闘って克服する義務があります――いまも、それと闘っています』
私は椅子から立ち上がった。全身が硬直した感じだった。気まずい沈黙がつづいた。その沈黙を破るために、私は軽快な口調で、
『こんなに遅いと思わなかったなあ……』
と言うより他にいい知恵はうかばなかった。
『もう、こんな話はうんざりなさったでしょう』彼はぶっきら棒に言った。『そして実を言うと』――彼はあたりを見回して自分の帽子をさがしはじめた。『僕もそうです』
そうだ! ジムはこの唯一の申し出を拒んだのだった。彼は、私の助力の手を斥けたのだ。そして、いまにも行ってしまいそうだ。手すりの向こうには、夜が、さも彼を餌食にしようとして、逃げ出してくるのを狙い、待ち伏せでもしているように見えた。彼の声が聞こえた。
『ああ! ここにあった』
彼は帽子が見つかったのだ。数秒間、私たちは風の中でためらった。
『君、どうします裁判が終わったら……』
私はごく低い声で訊いた。
『たぶん破滅するでしょう』
彼はしわがれた声でつぶやいた。私は多少知恵をとりもどして頭がきくようになり、この答えは、さりげなく聞き流すのが一番だと判断した。
『じゃあ……終わったら、出発前にもう一度、是非顔を見せてくれ給え』
『結構です。裁判で、僕が煙のように消されちゃうってことも無いでしょう――そういう幸運はね』
と彼はいかにも苦々しげに言った。そして、いよいよ別れの瞬間に、彼は曖昧に何かもごもご口ごもったり、身動きしたりしてもの凄くためらっており、それは私をひどくまごつかせた。神よ彼を赦したまえ――私を! 彼はその空想的な頭で、私は彼と握手するのが嫌やではないだろうかと怯《ひる》んだのだ。口に出して言うには、恐ろしすぎることだ。
私はとつぜん、人々が断崖の上から踏みはずそうとする男を見て思わず大声を上げるように、彼にむかって叫んだようだ。二人は甲高い声を上げ、彼は悲痛にニッと白い歯をみせて私の手をおしつぶしそうに掴み、神経質な笑い声を立てた。
ローソクの火が小さくジリジリ音を立てて消え、暗黒の中から、一声、低いうめき声が私の耳にはいってきて、ついにことは終わった。彼は立ち去っていった。
夜が彼の姿を呑んだ。彼は恐ろしく不器用な男だ。おそろしく。彼が長靴で砂利をふむ早い足音がジャリジャリと聞こえてきた。彼は走っていた。ひた走りに走っていた、どこにも行く所はないのに。そして、彼はまだ二十四歳にもなっていなかった」
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第十四章
「私は、その夜はほとんど眠らず、翌朝は、急いで朝食をすませて、ちょっとためらっただけですぐ自分の船に早朝の巡視に行くのをとり止めた。
これは大へん悪いことだった。というのは、私の副船長は、真っ正直で優秀な男ではあったが、ひどく暗い想像力の持ち主で、予期した時にちゃんと女房から手紙が来ないと、怒りと嫉妬に狂気し、仕事はめちゃめちゃになり、誰にでもみな喧嘩を吹きかけ、自分の船室にこもって泣きわめいたり、さもなければ、船員を暴動寸前にまで駆り立てるほどひどい獰猛な性質になる人物だった。
この事は、私にはいつも全く合点がいきかねた。副船長夫婦は、もう結婚して十三年にもなるし、私は、まえにちょっと彼の細君を見たことがあるが、正直のところ、あんな不器量な女のために、男が罪の淵《ふち》に飛びこむほど自暴自棄になるとは、とても考えられないことだった。
私がこういう自分の見解を、哀れな副船長セルヴィンに教えるのを控えたのは、間違っていたかもしれない。大将はその事のために自らこの世に地獄を作っていたし、私も間接には被害を受けていたが、しかし、ある種の誤ったデリカシーが、私を妨げたのだ。
海の男の結婚生態は、面白い題材で、私は諸君にいろいろ面白い実例を話すことができるが……しかし、いまは場所も時もふさわしくないし、それに、われわれはジムについて語っており――ジムは未婚の男である。
もしジムの空想的な良心か、彼の誇りか、あるいは彼の青春の不運や災害を誘発するあらゆる途方もない亡霊や厳めしい幻影どもが、どうしても彼に断頭台から逃げ去ることを許さないなら、私は、是非にも彼の首がころげ落ちるのを見に行かざるを得ない衝動に駆られた。
私は、法廷のある方へと歩いていった。私はそこで大して感動をうけたり、啓発されたりしようとは願いもしなかったし、また大した興味や恐怖を感じようとは期待もしなかった――われわれは、前途にいくばくかの生命のある限り、時折り愉快な、いい恐怖を持つことは、有益な修養にはなるが。同時に私はまた、今更そうひどく意気が消沈しようとも予想しなかった。
ジムの刑罰の無惨さは、寒々とする浅ましい雰囲気にあった。犯罪の実際の意味は、人間共同社会の信頼を裏切ったということで、その見地からすれば、ジムはけっして賎しい裏切者ではなかったが、しかし彼の裁判処分は、重箱の隅をつつくようなあら捜しだった。
高い足場の絞首台もなければ、赤い布も(タワー・ヒル処刑場では死刑執行の合図に赤い布を掲げただろうか? その筈だが)なく、恐れおののいた大群集が彼の罪過におびえ、彼の運命に涙を流すこともなく――暗い懲罰の空気はただよっていなかった。
私が歩いていくと、澄んだ陽光は罪人を慰めるにしては余りに情熱的にキラキラと輝き、大通りは、みじんに砕けた万華鏡さながらにさまざまな色彩の乱舞だった――黄、みどり、ブルー、まばゆい白、裸体の褐色の素肌の肩、真っ赤な幌《ほろ》をつけた牛車、とび色の体に黒いビーズをつけ、汚れたレース付きの靴をはいて歩いている土人の子供の群、切り目の少ない黒ずんだ制服を着てレザーのベルトをしめた土人警官。警官は、さも彼の輪廻《りんね》に迷うたましいが、あの予知できない神の出現を――諸君はあれを何と呼ばれるか? 権現《アバター》――の裁きを畏れ苦しんでもいるような東洋人独特のあの哀調をおびた目で、私を見上げた。
法廷の庭のただ一本の木のかげに、例の暴行殴打事件に関係した村民たちが、まるで東洋旅行記の本にあるキャンプの色つき石版画の絵のように、グループをなして坐っている。前庭の一すじの細いけむりと、草をはんでいる一群の動物は、ほとんど人の目に入らなかった。黄黒色の壁が木の上にそびえ立ち、日光を反射している。
法廷は陰気に、ひどく大きく見えた。薄暗い部屋の高い所で、やしの葉の大扇《バンカ》がいくつかぶらぶらぶらぶら揺れている。そちこちに、垂布《トレープ》を着た姿が、高い壁のために小さく見えて、ずらりと並んだ空のベンチの間に、さも敬度な瞑想にでもふけっているように身動きもせずに立っている。
裁判で敗れた原告は、でぶでぶしたチョコレート色の男で、頭をつるつるに剃り、肥った胸をむきだし、鼻柱の上部に光る黄色い階級マークをつけて、尊大に不動の姿勢をかまえて坐っている――ただ彼の目だけがピカピカ光って薄暗い中でくるくる動き回り、鼻孔が呼吸のたびに大きくひろがったり、つぼんだりしている
ブラヤリーが、いかにも一晩中石炭殻の小道を全速力で走りまわってでもいたように疲れ切った様子で、彼の席に着いた。この敬虔な帆船の船長は、いまにも立ち上がって、≪諸君よ、祈って悔い改めなさい≫と熱烈な勧告をしたい衝動を抑えかねてでもいるように昂奮した様子で、そわそわと身動きしている。
きちんと髪を整えた裁判官の頭は、下からきゃしゃに青ざめた地肌がすいて見えて、大病人が髪を洗ってブラッシをかけ、ベッドの中に支え起こされたときの頭に似ていた。彼は、花瓶――一束の紫色の花に数本の茎の長いピンクの花を生けた――をどかし、両手で一枚の長い、青っぽい紙を掴んでそれにサッと目を通し、前腕を机のへりで支えて、平坦な、ハッキリした無頓着な声で高々と読みはじめた。
誓って! 私はさっき絞首台だの首がころげ落ちるのと馬鹿馬鹿しいことを言ったが――いまのこれは、首斬りよりいっそう悪いと、私は諸君に断言する。ここには、斧を打ち下ろした処刑後にくる、ほっとした安堵も休息の希望もなく、ただ重苦しい結末感が、すべての上に暗く立ちこめている。
この裁判には、死刑宣告のもつあらゆる冷酷な復讐精神がみちみちており、国外追放宣告のあらゆる残忍性がこもっていた。あの朝、私はそう感じた――そして今でさえ、私は、ありふれた一出来事を、法廷があんなに大袈裟にとったという否定しがたい事実の痕跡を見るように思うのである。
その当時、私がどれ程このことを強く感じたかは諸君のご想像にまかせる。たぶんそのために、私はあの結末を承認することができなかったのだ。この事はいつも私につきまとい、私はいつもまるでまだこの事件が実際にけりかついていないかのように、それについての人々の意見を熱心に聞きたがった――神かけて! 例えば、例のフランス士官とか。彼自身の母国の宣告が、まるで機械が物を言うように、無感動な、杓子定規な言葉で言われた。裁判官の頭は、半ば紙のかげにかくれ、彼の前額が石膏製のように見えた。
判決の前に、いくつかの質問があった。第一は、パトナ号はあらゆる点で航海をするにふさわしい船であったか? という質問であった。法廷はそれを否定した。次は、この事故が起きるときまで、船は妥当な、船乗りらしい注意をはらって航海をしていたか? という問いであった。法廷の人々は、これには≪イエス≫と答えた。なぜだろうか?
次に彼等は、この難破事故の正確な原因を明示する証拠は何もないと断言した。たぶん、海中に浮かんでいた漂流船がぶつかったのであろう。私自身の記憶では、松材を積んだノルウェーの小型帆船が、あの頃行方不明になって匙を投げられていた。そして正にあれこそ、スコールの中で転覆し、船底を上にして何カ月も浮かんでいそうな代物――闇の中で船々に衝突して難破させようと、海洋をうろつき回っている一種の海の悪鬼であった。
こうしたさ迷える船の屍どもは、あらゆる海の恐怖がひんぴんと出没する北大西洋では、よく見かけられるものであった。――濃霧、氷山、悪さをしたがっている船の屍、吸血鬼のように、人間のあらゆる体力も精魂もつき果て、希望さえ消え失せるほど執拗にからみつく長い、不吉な疾風の横行する北大西洋では。
しかし、ここでは――ここらの海では――事故は、意地悪い特別な摂理による配置に似てかなり稀で、もし摂理が時たまエンジン係を殺すとか、また死よりも一段と悪い不幸をジムにもたらすとかいう目的を持っているのでなければ、全く無目的の悪魔的いたずらとしか見えなかった。
しばらくの間、私には裁判官の声がただの音にしか聞こえなかった。が、やがて、それはハッキリした言葉に聞こえてきた……
『自らの明々白々な義務を全く無視し』とその声は言った。次の文はなぜか私は聞きのがし、そして次に……『危険に際して、信頼をもって自己に託された人命や財産を捨てて顧みず』……
声はなだらかにつづき、やがて止んだ。白い額の下の一対の目が、チラリと紙のへりの上から陰険な視線を投げた。私はあわててジムを探した――さも彼が雲隠れしたことを予期していたかのように。
ジムは大そう静かだった――が、彼はそこに居た。彼はきれいな桜色の顔ですわっており、ひどく熱心にじっと聴いている。
『それ故……』と、声は一段と語調をつよめて又はじまった。
ジムは唇をわずか開き、目をみはって、デスクの後にすわった男の言葉にじっと聴き入っている。その言葉は、やしの大扇のつくった風の上にふわりと乗って静かな廷内にただよい、それがジムに与える影響をじっと見守っていた私の耳には、ほんの法廷用語の断片しか聞きとれなかった……
『当法廷は……船長グスターフ某……ドイツ生まれ……ジェームズ某……航海士……免許を取り消す』
あたりは静まりかえった。裁判長は紙を置き、椅子の一方の肘つきにもたれて横向きになり、気楽にブラヤリーと話しだした。人々は外へ出はじめ、他の連中が代って中へ入ってきた。私もドアの方へ歩きだした。
外に出ると、私はじっと立ちどまっていて、ジムが門の方へ行こうとして私のそばを通ったとき、腕をつかんで彼を引き止めた。彼が私の方を見ると、私はまるで彼のいまの境遇は自分の責任のような気がしてきて心が騒いだ。彼は、さもこの私が人生の悪の化身かなどのような目で私を見たのだった。
『これでもうすっかり済んだ』
私は吃りながら言った。
『ええ』と彼はしゃがれ声で言った。『ですから、もう誰方も……』
ジムは自分の腕を掴んでいる私の手をふりほどいた。私は、遠ざかって行く彼の後姿をじっと見送っていた。長い通りなので、彼の姿はしばらくの間見えていた。
彼はゆっくり、そして、さも一直線に歩くのが困難のように、両脚を少しひらいて歩いていた。ちょうど彼の姿が見えなくなる寸前に、彼は少しよろめいたようだった。
『船から落ちた男』
私のうしろで底深い声がした。振りかえると、ちょっと知り合いの西オーストラリア人が立っていた。名前は、チェスターといった。この男も、ジムを見送っていた。
チェスターは、巨大な胸まわりとマホガニー色のきれいに剃った無骨な顔と、鼻の下に鉄灰色の濃い、針金のような口ひげを持った荒くれだった。彼は、真珠採取、難破船略奪、貿易、それと捕鯨もやっていた。彼自身の言い草では――海賊のほかは、男が海でできることは、なんでもかでもみなやりおったという。太平洋の南と北が、彼の常道の狩猟場だったが、彼は安いボロ汽船を買いあさりに、はるばる遠征してきたのだった。
最近チェスターは、どこかで鳥糞石《グアノ》島〔海鳥の糞が蓄積して硬化してできた小島、グアノは燐肥料に用いられる〕を発見した――彼はそう言っていた――が、しかし、そこに近づくことは危険で、投錨も、安全とは考えられないと。
『金鉱のようにすばらしい代物さ』と叫んだ。『そいつが、ウォールポール礁〔ニュー・カレドニアの東南〕のどまん中に。そして、もしどうにも、錨を打つ四十ひろ以内の海底がないとすれば、さあ、どうしたもんですかな? ここらには、竜巻も起こるし。しかし、こいつは第一級の逸品ですぜ。金鉱と同じ位すばらしい――いやそれ以上だ!
だが、それをやってみる一人の阿呆もいない。わしには、その現場ちかくまで行く一人の船長も、船主も見つからんのさ。そこでわしは、そのおたからを、自分で運んでくることに決心したのさ』……
そのために、チェスターは汽船が必要で、彼はちょうどその頃あるパルシー教徒〔回教徒の迫害を避けて八世紀ごろインドに逃げたペルシア系のゾロアスター教の一派〕の商会と、九十馬力の古いブリッグ帆船式の時代遅れの代物のことで、交渉に夢中なことを私は知っていた。われわれは、数回会って言葉を交わした間柄だった。
チェスターは、物知り顔にジムの後姿を見送りながら、
『大将、悲しんでましたか?』
と、軽蔑するように訊いた。
『非常に』と私は言った。
『じゃ、もう大将、だめだな』と彼は言った。『いったい法廷《あの》大騒ぎはなんですか? 馬鹿馬鹿しい。法廷《あれ》が男をつくったためしはない。われわれ、物事は事実ありのままに見えなくちゃね――もしそれができなきゃ、いっそすぐ降参しちゃうほうがええ。どうせこの世じゃ、なんにも出来やしねえ。わしを見て下さい。わしはけっして何事も、深刻に悲しんだりしねえことにしていますよ』
『そう、君は物事をあるがままに見てますな』と私は言った。
『いまおれはね、相棒がやってくりゃいいと思ってるんで、それが、おれの見たいものです』チェスターは言った。『おれの相棒を知ってますかね? ロビンソンのおやじさん。ええ、ロビンソン。あんた知らんのか? あの悪名とどろくロビンソンを。ひと頃、今生きてるどんな金持ののらくら野郎どもよりも、もっとしこたま阿片を密輸したり、もっと沢山の封印した金銀をせしめた男ですぜ。
人の話じゃ、ロビンソンのおやじさんは、いつも、ひどい濃霧で神様でなきゃ人の顔の見境いもつかねえ時に、おっとせい漁業の帆船に乗ってアラスカ方面へ航行したそうだ。鬼神のロビンソン。あれこそ男の中の男だ。大将は、あの鳥糞石《グアノ》島の時もおれと一緒だった。こいつは、大将にとっても、一世一代の最上のチャンスでね』
チェスターは、私の耳に口をつけて言った。
『キャニバル?――ええ、ずっとずっと前に、人々は大将を、そう呼んでましたな。じゃあんた話を覚えてますか? あの話? スチュアート島〔ニュージーランドのサウス島の南方の島〕の西海の難破事件。そうそう、七人だけ岸へたどり着き、どうやら互いに仲たがいしたらしいね。ある者は余りひねくれ過ぎていてどうにもならねえ――奴等は、この不運をどう善処していいか判らない――事実をあるがままに取ることが出来ない――事実あるがままに、ねえ君! それで、どういう結末になったか? 見えすいたこと! いざこざだらけ。まあ、結局、頭でもぶんなぐって殺しちまったんでしょうよ――ざまあみろってとこですよ。こういう奴等は、死んだほうが人のためだ。
さて話は進んで、女王のお召し艦ウォルヴェリン号の一隻のボートが、ロビンソンが、生まれたばかりのような素っ裸で、大型海草《ケルプ》の上に跪いて、何か讃美歌かなんか唱っているのを見つけたってわけです。その時は、淡《あわ》雪が降ってましてね。
ロビンソンは、ボートが岸から一、二間のところへ着くまで待っていて、それから立ち上がって逃げた。大勢が、岸の丸石のあたりをてんやわんやで一時間も追っかけまわし、遂に一人の海員の投げた石が幸運にも大将の耳の後にあたり、彼は気絶して倒れました。彼独りかって? むろんです。
でも、これもあの漁業スクーナーの難破事件と同じで、神様は、この物語の善も悪もお見通しでね。沿岸警備の役人どもは、大して調査もせずに、大将を帆布《ズック》に包んで、急いで海へ投げ込んでしまった。暗黒の夜がやってくる、嵐になりそうな夕方。そして船艦からは、五分間ごとに合図の大砲を鳴らしてね。――それから三週間後に、ロビンソンは、ピンピンしてまた現われました。
彼は、海岸でどんな大騒ぎが起きてもけっして狼狽せず、口を固く閉じて一言も言わず、人々に勝手にギャーギャー騒がせておきました。彼が船を失くしたことは残念だったが、その他の点では、大将は立派なもんで、人々が悪口雑言いって罵っても馬耳東風。これこそわしの求める男の中の男さ』
ブラヤリーは手を上げて、通りの下手にいる誰かに合図をした。
『大将は小金をもってるんでね、おれは彼に、あの仕事の仲間入りをしてもらわにゃならなかったのさ。是非とも! あんな掘出物を投げちまうのは罪だし、それにおれ自身は一文無しなんで。それが、身に痛切にこたえてね。しかし、おれは、物事をちゃんとありのままに見られるんで、誰かと仕事を共同でせにゃならんのなら、ロビンソンにかぎると考えてるわけでね。今朝わしは、大将を食後ホテルに残して、ある考えがあって、自分だけ法廷へ出向いていった。……ああ! お早う、ロビンソン船長。……これは、わしの友人です。ロビンソン船長』
白い太綾織り亜麻布のスーツを着た、痩せおとろえた老船長が、老いてふらふら震える頭にグリーンの線でふちどりしたヘルメット帽をのせ、よちよち足を引きずって通りを横切り、私達のそばへやってきて、両手で雨傘の柄につかまって立ち止まった。薄黄色いしまのある白髪が、彼のウエストのへんまで固まって垂れている。
彼はけげんそうに私の方を見て、しわしわなまぶたをしばだたいた。
『ごきげんよう』
『ごきげんよう』
彼は細い声で愛想よく言って、ふらふらと体を動かした。
『少し耳が遠いんでね』
と、チェスターが、わきでそっと言った。
『君はこの老人を、安物の汽船を買うために六千マイル以上も引っぱってきたのかね?』
私が訊いた。
『六千マイルはおろか、おれはこの人を見た瞬間に、一緒に世界を二回りもしようと思ったぜ』
チェスターはひどく力をこめて言った。
『汽船がおれ達の運勢を開くんだ。オーストラレーシア〔オーストラリア、ニュージーランド、及び付近の南太平洋諸島の総称〕中の船長や船主が誰も彼もみんな大馬鹿野郎だからといって、なにもおれの咎じゃないだろう? ある時は、三時間もねばってオークランドの男に交渉したこともある。
≪船を出してくれ≫とおれは言った。≪船を出してくれ。その礼に、最初の積荷の半分を、無料で上げる――ただ、いいスタートを切るためだ≫するとその男は、≪俺ゃ、もし世界中に他に船を出す場所が無かったとしても、そんな事をするのはまっぴらだぜ≫と言った。もちろん大阿呆さ。すごい巌にさかまく潮流、投錨の場所はなし、切り立った断崖のそばの停船。どんな保険会社でも、こんな危険な船の契約はおことわりだ、とても三年以内には積み出せっこないとね。――馬鹿な!
おれは、すんでにこの男の前に跪いて嘆願しそうになった。≪しかしな、よく目を開けて、ありのままに見てくれ≫と、おれは言ったよ。≪巌やたつまきなんか糞食らえだ。まあ、ありのままによく見てくれ。あすこには鳥糞石《グアノ》があり、クイーンズランド〔豪州北東部の州〕の砂糖栽培者たちは、先を争って――先を争って波止場に押し寄せること請合いだ≫……
だが、馬鹿はどうしようもない……≪チェスター、そいつはお前の冗談だろう≫と男は言うんだ……冗談《ジョーク》だと! 俺ゃ泣き出したかったよ。ここのロビンソン船長に聞いてみな……
それからまた、別の船主にも会ってみた――ウェリントン〔ニュージーランドのノース島南部の海港〕にいた白いチョッキを着たでぶの男で、こいつは、わしのことを、ぺてん師かなんかのように思ったらしかった。
≪一体全体、あんたはどんな頓馬を探してるのか知らんが、あいにくと俺は、いまひどく忙しいんでな。さいなら≫と男は言った。
俺ゃ、こいつを両手でふんづかまえて、奴の事務所の窓からこっぱみじんに放り投げてやりたかった。だが、やめといた。わしは副牧師のように柔和に、≪考えてみてくれ。もう一度考えてみてくれ。おれは又明日来るから≫と言った。奴は口の中で≪明日は一日中留守する≫とか何とかぶつぶつ唸っていた。
階段のところで、俺ゃ口惜しさの余りに、正に壁へ頭をたたきつけそうになった。ここにいるロビンソン船長はよく知っている。あのすばらしい宝物が、白日の下に空しく横たわっていると思うと、俺はたまらなかった――砂糖|黍《きび》を空までとどく程生み出してくれるあの宝物が。ああ、クイーンズランドの宝くじ!
そして、最後の試みに行ったブリズベン〔豪州の東部の海港〕では、おれは狂人だと言われた。馬鹿どもめ! おれの出会った唯一の物わかりのいい人間は、馭者で、彼はおれをそこら中乗り回させてくれた。あの男は、失脚した大物らしかったな。ねえ! そうでしょう、ロビンソン船長? いつか貴方に、ブリズベンの馭者の話をしたでしょう――覚えていますか? あの男は、物を見分けるすばらしい目を持っていた。彼は一目ですべてを見抜いた。あの男と話すのは、全く愉快だったな。
ある晩、おれは、船主どもと渡り合って忌々しい一日を送り、胸くそが悪くてたまらず、≪わしは酔っぱらうぞ。一緒に来いよ。おれは酔っぱらうぞ。でねえと気が狂ってしまいそうだ≫と言った。
≪俺ゃ、あんたの味方だ、さあ、どこへなり乗ってって下せえ≫と馭者は言ってくれた。もしこの男がいなかったら、わしは何をしでかしていたか判らない。ほら! そうだね、ロビンソン船長』
チェスターは相棒のわき腹をこづいた。
『ヒ! ヒ! ヒ!』
老人は笑いながらぼんやり通りの下手を見おろし、それから疑わしそうに、悲しげな、かすんだ瞳で、私の顔をしげしげと見た。……『ヒ! ヒ! ヒ!』……
老人は雨傘の上にいっそう重くよりかかって、地面に視線を落とした。私は言うまでもなく、いままでに何回も逃げ出そうとしたが、チェスターはそのたびに私の上衣を掴んで引き止めた。
『ちょいと。名案があるんだ』
『いったい、君の忌々しい名案てなんだい?』と、ついに私は爆発した。『まさか君は、私が君たちの仲間入りするとは……』
『いや、いや、ちがう。たとえ、あんたがそうしたがったにしろ、もう遅すぎた。わし達ゃ汽船は手に入れちゃったよ』
『そいつは、汽船の化けものだろう』と私は言った。
『スタートを切るにゃ、あれで結構だ――わし達にゃ、豪そうなナンセンスなんかは無駄さ。そうだね、ロビンソン船長?』
『そうだ! そうだ! そうだ!』
老人は地面を見つめたまま、しわがれ声で言った。ふらふらしていた頭が、この決意の言葉といっしょに恐ろしいばかりに揺れ動いた。
『貴方が、あの若者の知り合いだってことは、わしに判っている』
チェスターは、ずっとさっきジムの姿が消えた通りの方に向かってうなずきながら言った。
『大将は、昨夜マラバー・ホテルで貴方と一緒に食事をしていた――そう聞いている』
私は、その通りだと言った。するとチェスターは、自分も、ホテルでちゃんとした生活をしたいんだが、ただ今のところ、一文も無駄にはできない――『あの事業は、いくら金があっても多過ぎるってことはない! そうだね、ロビンソン船長?』――と、肩をそびやかして、ぼってりした口髭を撫でた。一方名にしおうロビンソンは、かたわらで咳きこみながら、ますますしっかりと雨傘の柄にしがみつき、段々下に沈んで、いまにも大人しく老いた骨の山になってしまいそうに見えた。
『老人が金ならみな持っているんだ』とチェスターは自身ありげにささやいた。『俺ゃ、忌々しい勧誘をして回って、すっかり無一物になってしまった。だが、ちょいと待ってくれ、ほんのちょいとだ。運は開けようとしている』……
彼は、私がいらいらしている様子を見ると、急にびっくりして叫んだ。
『おお、べらぼうな! おれは貴方に、およそ類のない、すばらしい話をしているのに、貴方は……』
『私は人と約束があるんでね』
私はおとなしくたのんだ。
『それがどうしたってんだ!』チェスターは、しんから驚いたように言った。『そんなの、待たしとけばいい』
『その通りを、現にいま私はしているんだ』と私は言った。『いったい君は何を望むのか、それを早く話してくれたほうがよくはないか?』
『ああいうホテルを二十も買い集めたいのさ』と、相手は独り言のように唸った。『それと、そこに泊っている男ども全部もな――その二十倍もな』そして彼は活発に頭をもたげた。『わしは、あの若者が欲しいんだ』
『私には、さっぱり判らない』と、私は言った。
『あの男は、もう駄目さ、ね?』
チュスターはきびきび言った。
『そういうことは一向に判らんな』
と、私は反対した。
『だって、君自身で、奴さんはひどいショックだって言ったじゃないか』とチェスターは議論する。『まあ、おれの意見じゃ、若者が一度……とにかく、彼はほとんどもう駄目だ。ところが、このわしは、誰か人物を探していて、ちょうどあの若者にぴったりの仕事を持ち合わせている。つまり、おれの島で、奴さんに仕事をしてもらいたいんだ』
チェスターは意味深長にうなずいた。
『わしは、あすこへ四十人の人夫を送りこむつもりだ――たとえ盗んででも。だが、誰かが、その連中を働かせなくちゃ。おお! おれは公明正大にやるとも。ちゃんとなまこ板の屋根つきの木小屋に住ませて――おれはホバート〔オーストラリア東南タスマニア島の港〕に、おれの六カ月の先づけ手形で、その資材を工面してくれる男を知ってるんだ。そうとも。誓ってさ。
それから、水の供給もね。おれは飛びまわって、誰かから半ダースばかり鉄タンクの古物を掛売りしてもらうよ。雨水をとるんだ。どうだな? あの若者にやらせようぜ。あの男を、人夫どもの最高の親方にするんだ。どうだ、名案じゃないか? 君どう思うね?』
『ウォールポールには、一年じゅう一滴の雨も降らないことがある』
私は、笑うにも笑えないほどびっくり仰天して言った。
チェスターは唇を噛んで、当惑のていだった。
『まあいい、なんとかして、そいつは手配しよう――さもなきゃ、船で水を運び上げるんだ。畜生! そんなのは今の問題じゃない』
私は黙っていた。私の頭に、ジムが影一つない巌石の上にいる姿がうかんだ――膝まで鳥糞石の中に埋もれ、海鳥のけたたましい鳴き声を聞き、頭上には白熱の太陽がギラギラと照りつけ、目のとどく限り漠々たる空と漠々たる大海が、熱暑の中で共に震え、ぶつぶつ沸騰している。
『たとえ最悪の敵でも、そんなことはすすめられない……』と私は言いだした。
『君どうかしたのかね?』チェスターは叫んだ。『おれは、あの男にいい給料を払おうってんだぜ――つまり、事がすべり出しさえすりゃね、もちろん。そいつは、丸太をころがすように楽なことさ。ただなんにもせずに、腰に六発拳銃をつけて……むろん、彼は、四十人の人夫が何かしでかすだろうかと怖がることはない――六発拳銃を二挺持ってるし、それに、武装してるのは大将だけだし! 見かけよりは、ずっといい仕事さ。おれを助けて、奴さんを説き伏せてくれないか』
『だめだ!』と私は叫んだ。
ロビンソン老人は、ちょっと陰気にかすんだ目を上げ、チェスターは、無限の軽蔑をこめて私を見た。
『それじゃ、あんたは、どうしてもあの男にすすめないのか?』
と、彼はゆっくり言った。
『もちろんだめだ』
私は、さもこの男が、人殺しの手伝いをしろと頼みでもしたように憤慨して答えた。
『その上、たしかに彼もことわるだろう。彼はひどく悲観しているが、私の知るかぎりでは、発狂してはいない』
『あの男は、もうこの世じゃなんの役にも立たない』と、チェスターは言った。『ただ、おれの役にだけは立ったのにな。もし貴方が、物事をあるがままに見ることさえできたら、あれこそ彼にうってつけの仕事だかな。その上……そうとも! あれこそ最上にすばらしい、確実なチャンスだ……』
チェスターはとつぜん怒り出した。
『おれは、どうしでも男が必要だ。よし!……』
彼は足を踏み鳴らして苦笑した。
『とにかく、あの島が、彼の足の下に沈没してしまわないことは請け合う――それに、どうやらあの奴さんも、沈没という点ではちょいと特別らしいしな』
『さようなら』
と私はぶっきら棒に言った。
彼はさも、君は話にならない頓馬だといわんばかりに、私の顔を見た。
……『さあ、行かなくちゃ、ロビンソン船長』彼はいきなり老人の耳に口をよせて叫んだ。『あのパルシー教徒の連中が、契約を結ぼうとしておれ達を待っている』
彼は相棒の腕をぎゅっと掴んで向き直らせ、肩ごしにギロリと私を睨みつけた。
『おれは、あの若造のために親切をしようとしてたんだぞ』
と、チェスターは、私の血をにえくり返させるような態度と口調で断言した。
『有り難めいわくだ――彼の名にかけて』
と、私は応答した。
『おお、君は悪魔のように抜目がない』と彼は嘲笑した。『だが結局、君も他の奴等と同じさ。あまりお高くとまりすぎるぞ。自分があの男に何をしてやれるってんだ』
『私は、あの男に何かしてやれるとは思っておらんよ』
『してやらんのか?』
と、チェスターは唾をとばしながら言った。彼の灰色の口ひげが怒りに逆立ち、そのそばに悪名高きロビンソンは、傘の柄を杖にし、私の方に背中をむけて、よぼよぼな辻馬車馬のように忍耐づよく、静かに立っている。
『私は、鳥糞石《グアノ》島を見つけなかったんでね』
と、私は言った。
『君は、手を引っぱってそこへ連れて行かれたって、絶対に見つけられるもんか』と、彼はしっぺがえした。『ところが、この世の中じゃ、利用する前に、まず見つけるのが第一さ。その現物を、ありのままに、よくよく徹底的に見ることだ』
『そして他人《ひと》にも見せるんだな』
私は、チラリと彼のかたわらにいる老人のかがんだ背中を見ながら、当てつけて言った。
チェスターは、私の方に鼻嵐をふいた。
『彼の目は、まだよく見える――心配するな、彼は生意気な若造とは違うぞ』
『おお、違うのなんのって!』と、私は言った。
『さあ行きましょう、ロビンソン船長』
彼は一種見事なうやうやしさをこめて、老人の帽子のつばの下で叫んだ。≪聖なる恐怖≫居士は素直に小さく飛び上がった。
汽船の幽霊が彼等を待っている――あのすばらしい島には幸運が待っている! 彼等は、奇妙な二人のアルゴノート〔ギリシア伝説。アルゴーという船に乗って≪黄金の羊毛≫を捜すためコルキス国へ遠征した勇士〕だ。
チェスターは姿勢を正し、堂々と、征服者然とした態度で大股にゆうゆうと歩いて行き、いま一人は、ひょろ長く、老い朽ち、うなだれて彼の腕に釣り下がり、よぼよぼと必死でその痩せずねを引きずってついて行く」
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第十五章
「私は、すぐにはジムを捜しに行かなかった。それというのも、本当に、どうしてもすっぽかせない約束が他にあったからだ。
不運は時に重なるもので、私は自分のエイジェントの事務所で、ちょうどマダガスカル〔アフリカ南東岸の沖にあるインド洋上の仏領の島〕からすばらしい仕事のためのちょっとした企画をもってやってきた男に釘づけにされてしまった。
それは、家畜と弾薬筒と、あるラヴォナロウ王子という方の何かに関する仕事だった。しかしこの全企画の中心は、何とかいう提督――ピエール提督だったと思うが――の愚行に根ざしていた。何もかもそこから出発しており、マダガスカルからやってきた男のこの提督への絶大な信頼は、いくら強調しても言葉足らずといった様子だった。
彼は、額から魚のようにキラキラする丸い目玉の飛び出した、前額部の隆起した男で、長髪をオールバックに撫でつけていた。この男は、一つお気に入りの秘蔵の言葉を持っており、それを絶えず得々として繰りかえした。
『最小限度の危険で、最大限度の利益をあげる――これが僕のモットーです。どうです?』
彼は私に頭痛を起こさせ、私の昼食をまずくしたが、当人自身は、私の提供したランチをペロリと平らげた。私は、別れの握手をして彼をおっ払うやいなや、まっすぐ水辺にむかった。
私は、ジムが桟橋の欄干《らんかん》によりかかっている姿を見つけた。彼のすぐわきで、三人の土人の船頭たちが、五アンナ銀貨のことで喧嘩をして、恐ろしい格闘をはじめていた。ジムは、私の近づいていく足音に気づかなかったが、私の指がちょっと彼に触れると、さも捕まっていたものが放たれでもしたように、くるっと向きなおった。
『見ていたんです』
ジムは吃りながら言った。私はなんと言ったか覚えていない。とにかく口数は少なかったが、でも彼はたやすく私についてホテルへ来た。
彼は従順な様子で、なんの感情も示さず、むしろ私が来て彼を連れ去るのを待ちうけてでもいたように、子供のように素直についてきた。だが、彼の従順さにそれほど驚く必要はなかった。ある人にとってはひどく大きく、また他の人にとってはむしろ一粒のからし種よりも小さく見えるこの地球上のどこにも、現在の彼は――なんと言ったらいいだろうか?――引っ込む場所がないのだ。それだ! 引っ込んで――独りきりになる場所が。
彼はごく静かに私と並んで歩いて行き、チラリチラリとあちこち見たり、一度は振り返って、前すそを腰の辺から斜めに裁った上衣を着て黄色いズボンをはき、無煙炭のかたまりのように黒いつるつる光る顔の土人の機関兵の姿を見送ったりした。
しかし、彼が果たして何か見たかどうかは疑わしく、彼は私と一緒にいることさえハッキリ意識していたかどうか怪しいものだ――もし私が、ここで彼を左に向けさせ、あそこで彼を引っぱって右に向けさせたりしなかったら、きっと彼は、自分のまっすぐ前をどこまでも、壁にでも突き当たるまで方角もかまわず行ってしまったに違いない。
私はジムを私の寝室へ連れて行き、自分はすぐ坐って手紙を書きはじめた。
ここだけが世界中で(たぶん、ウォールポール礁脈のほかは――しかし、あそこは、そう手近にはないし)彼が社会からわずらわされずに全く独りきりになれる唯一の場所だった。あの忌々しい事――彼の言い草を真似れば――は、彼を消し去りはしなかったが、でも私は、さながら彼がそうされたかのように振る舞った。
私は椅子に腰掛けるやいなや、中世の筆写者のように机の上にかがみこみ、ペンを握った手を動かすほかは、懸命に、ひたすら静かにしていた。私は、音を立てることを恐怖したとまでは言えないが、しかし、さも部屋の中に何か危険なものがいて、もしちょっとでも身動きの気配を示せば、たちまちそれが飛びかかってくるかのように、じっと静かにしていた。
部屋には、あまり家具はなかった――この種の寝室がどんなものか諸君はご存知と思うが――蚊帳《かや》をかけた一種の四柱式寝台、二、三脚の椅子、私の書いているテーブル、むきだしの床。一枚のガラスのドアが、二階のべランダに向かって開いており、彼はそちらに顔を向けて立っていた――できるかぎりひっそりと、独りきりになったといえ、身も世もない辛い気持で。
夕闇がせまってきた。私は、さも不法なことでもするように、できるかぎり体を動かさず、音を立てないようにローソクに火をつけた。
彼が非常に辛い気持でいることは明らかだが、私も辛かった。私は、白状するが、あまりの辛さに、いっそ彼が悪魔にでも食われてしまうほうが、少なくとも、ウォールポール礁脈へ行ってしまえばいいとさえ希ったほどだった。私は一、二回、結局、こんなどうしようもない災難を上手に処理《さば》くのは、チェスターのような男でなくてはだめかもしれないと考えた。
あの奇妙な理想主義者のチェスターは、すぐ、それの実際的な用途を見つけた――いわば的確に。人にそう想わせただけでも相当なものだ。たぶんチェスターは、想像力の乏しい人々にとっては謎であり、まったく絶望的に見える事柄の真の姿を、本当に見抜いていたのかもしれない……
私はいつまでも、いつまでも書きつづけた。私は、返事の滞《とどこお》っていたあらゆる手紙を片付け、それから、私から手紙をもらうことを期待する筈のない人々宛に、ぜんぜん意味のない、とりとめのない世間話の手紙を次から次へと書きつづけた。そして、時々チラリと横目で彼の様子をうかがった。ジムは同じ場所に釘づけになっていたが、背中を時折り痙攣的に震わせ、両肩がピクッと急にもち上がる。――彼は闘っている――彼は息をするために闘っているかに見えた。
ローソクのまっすぐな炎でみな一つ方向に投影している大きないろいろの物影が、陰気な意識をもっているように見え、そっと盗み見している私の目には、家具の動かないのが、いかにも耳をそばだてて注意しているように見えた。
私はせわしく物を書きつづけながら、一方しだいに空想的になってきた。そして、ちょっとペンの走る音が止むと部屋はシーンと完全に静まり返っているのに、私の思想は、急にはげしい威嚇のような轟き――海を吹きまくる重たい強風などの――によって深く攪乱された。
諸君の何人かは私の言う意味を判ってくれると思うが――一種の敗北感のしのびよってくるあの心配、苦悩、焦燥の錯雑した気持。――私はそれを自認するのは愉快ではなかったが、しかしそれは、私の忍耐力にある静かな功徳《くどく》をもたらした。といっても、ジムの緊迫した感情に堪えるために、私にその功徳が必要だったというのではない。ただその場の空気をのがれるためなら、手紙を書いていればよかったのだ。もし必要なら、赤の他人に宛てた手紙を書くことだって出来たし。
とつぜん、私が新しい便箋を取り上げたとき、低い物音が聞こえた。これは、二人で一緒にこの部屋へ閉じこもってから、薄暗い静まりかえった部屋の中で私の聞いた最初の物音であった。
私は頭を下げたままで、書く手を止めた。かつて病人のベッドのそばに夜を徹して付き添ったことのある人は、夜番の静寂《しじま》の中に、こういうかすかな音を聞いたことがあるに違いない――あの拷問にかけられた肉体から、疲れ果てたたましいから、しぼり出されるような音を。彼はいきなり、あらゆる窓ガラスが鳴りひびく程すごい勢いでガラスドアを押した。そして外へ出た。私は息を殺し、その他に何を聞くという当てもなく耳をそばだてた。
彼は本当に、空しい形式をあまり深刻にとりすぎる。チェスターの手厳しい批評では、あんな形式は、物事を事実あるがままに見ることの出来る人なら一顧にも価しないというのに。空しい形式。一片の羊皮紙。そうだとも。だが、それと、上陸不可能のグアノ堆積物とは、ぜんぜん別個の問題だ。あんなグアノなんかのために、明らかに胸を引き裂くような切ない思いをしている人間も、世の中にあることはあるが。
階下の食堂から、銀やコップの触れ合う音にまじって、ドッと大きい笑い声が流れてきた。開け放したドアから、私のローソクの光輪が、彼の背中に淡い光を投げている。その向こうは、どこもかしこもまっ暗闇だ。彼は、暗い絶望の大海の岸に立った孤独の人影のように、茫漠とした暗闇の縁《へり》に立っていた。その闇の中には、ウォールポール礁脈はあるにはあった――たしかに――暗い虚空の中の一点、溺れる者にとっての一本の藁《わら》が。
私のジムへの同情心は、その時の彼を世間に見せたくなかった。彼が人に見られることは、私自身にとっても辛かった。彼の背中は、今はもうあえぐために震えてはいない。おぼろに見える彼の姿は、いまは静かに、矢のようにまっすぐ立っている。
この静けさが、鉛が水中に沈むように、私のたましいの底にジーンと沈んできて、私はその重さに耐えきれなくなり、一瞬私はしんから、いっそ彼が死んでくれて、葬式を出すのが私の役目であってくれればと希った。
国の法律さえもが、彼を見捨てたんだ。彼を葬り去るのは、いとたやすい親切だったろう! それこそ、世間知と大いに調和したことだろう――われわれの愚行、弱さ、われわれはやがてみな死すべき運命であることを思い出させるすべてのものを見えなくし――失敗の思い出、心の奥にひそむ恐怖、死んだ友人の屍などを、ひたすら隠し葬り去るのが世間知というものの本領であるから。たぶんジムは、あのことを余り真剣にとりすぎるのだ。そして、もしそうだとすれば、では――チェスターの申し出は……
ここで私は新しい便箋を取りあげ、断固として書きはじめた。彼と暗い大海との間には、私自身のほかに何もなかった。私は強い責任を感じた。もし私が一言言えば、あの身動きしない、苦しんでいる若者は、暗黒の海に飛びこんで、――藁《わら》にしがみつくだろうか? いま私は、一つの音を立てるのがどれ程難かしいことかを思い知った。声に出した一言は、不気味な力をもっている。いったい、なぜ声をかけてはいけないんだ?
私はせっせと書きつづけながら、絶えず自問を繰りかえした。とつぜん、白紙の、ペン先の真下のところに、チェスターとあの老いたパートナーの二人の姿がごくハッキリ、完全に現われた。さも、何か玩具の光学機械の中に再現でもしたように、大股に、身振りをしながら――
私は、しばらく二人を見つめていた。いけない! あの二人は、誰かの運命の中に入りこむには、あまりに非現実的で無茶すぎる。それに私の一言は、遠くまで――非常に遠くまで進んでいき、弾丸が≪広い空間≫の中を飛んでいくように、≪長い時≫の中を進んでいって、破壊をもたらすかもしれない。私は黙っていた。そこのドアの外で、ジムは光に背中をむけ、さも目に見えない無数の敵に縛られ、さるぐつわをはめられでもしたように、身動きもせず、声も立てない」
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第十六章
「彼が愛され、信頼され、さも英雄であったように彼の名前の周辺に、すばらしい力と勇気の伝説がつくり上げられ、賞讃される日は近づきつつあった。それは真実性のあることで――私は諸君に保証する。それは、いま私がここに坐って彼について話しているという事実と同様に、たしかな事実である。
彼は、一ヒントで自分の欲望の顔を知り、自分の夢の形を見知る才能を持っていた。――もしあの力がなかったら、この世には一人の恋人も冒険家もいなかっただろうが――彼は大した名誉と牧歌的《アルカディア》幸福を(彼の清浄潔白なことについては何も言うまい)未開の奥地でとらえた。それはジムにとっては、他の人々にとっての市街の名誉や牧歌的《アルカディア》幸福に劣らずいいものであった。
至上の幸福は、至上の幸福――さあなんと言ったらいいだろう?――それは、地球上のありとあらゆる地点で、黄金の杯から飲み干されている。その醍醐味は君のものだ――君だけのものだ。そして君はそれに、好きなだけ酔いしれていいのだ。
ジムは、諸君がいままでの話から推察されるように、この杯を深く飲み干す素質《たち》の男だった。私は、彼が、美酒の酔いに完全に有頂天といえないまでも、少なくともその霊酒に唇をつけて上気しているのを見た。だが、彼はそれを直ぐに手に入れたのではない。諸君もご承知のように、しばらくの間彼は苦しみ、私は心配した――私の信用貸しが戻らないのをとおっしゃっても結構です――彼がひどい船業者たちの中で過ごした試練の時期もあった。
いまや私は、彼が燦然とかがやいている姿を見て、すっかり安心したかどうかは知らない。あれは、私が彼を見た最後であった――彼は全身に強い光を浴び、堂々とあたりを威圧し、しかも彼の周囲――森の生活や人々の生活と――完全に調和して、すっくと立っていた。私は深い印象を受けた。しかし、結局これは永続しない、束の間の印象にすぎなかったことを私は認めねばならない。
彼は、自分と同種族の白人たちから遠く離れてただ一人、自然を愛する人々だけに親しく信義をつくすあの≪大自然≫と密接につながり、自分の孤独に守られて生きていた。しかし私は、彼の安全な姿を、自分の目にしっかり印象づけることはできない。私はきっと、ホテルの私の部屋の開け放したドアの向こうに見た彼の姿を、自分の失敗の単なる結果をあまり真剣にとりすぎて悲しんでいる彼の姿を、いつも思い出すだろう。
もちろん私は、私の努力から何らかのよいものが――そして何らかの輝やかしいものさえもが生まれたことを歓びはするが、でも時折は、もし自分が、ジムとあのチェスターの忌々しい寛大な申し出との間に立ちはだからなかったとしたら、自分はもっと平和な気持でいられただろうと思うのだ。
ジムのあふれるばかりの豊かな想像力は、ウォールポール島を――あの大洋のまん中の見捨てられた絶望の孤島を――いったいどう理解しただろうかと考えるのだ。だが、私は、彼の消息を聞く日はなかったかもしれない。チェスターは、その後オーストリアの港に立ち寄って、時代おくれのブリッグ帆船を修理し、二十二人の船員を乗せて太平洋に出航したという話だが、彼のその後の運命は謎で、それと関係のありそうな唯一のうわさは、それから一カ月ほど後に、ウォールポール礁脈一帯を、大旋風《ハリケーン》が吹きまくったということだけである。
ついにアルゴー船一行の痕跡は何一つ現われず、その難破のニュース一つ聞かない。一巻の終わり! 太平洋は、はげしい、怒りやすい大洋の中では最も思慮ぶかい海である。冷たい南極もまた思慮ぶかく秘密を守る――しかしこちらの方は、もっと墓場式に。
そして、こういう思慮ぶかさには、とにかくわれわれすべてが心から受けいれることのできる幸福な最期という感じがする――その他に、死という思想を我慢できる何があろうか? 終わり! 終わり!(Finis)これこそ、生命の家から、死という暗い運命の影を追い払う強力な言葉である。そしてこれが――私がこの目でジムの耀く姿を目撃し、またジム自身の口から本気で保証されたにもかかわらず――彼の成功を回想して欠けているのを残念に思うのだ。
たしかに、生命のあるかぎり希望はある。が、しかし、また恐怖もある。私はけっして自分が彼にしてやった行為を後悔しているという意味ではなく、またその結果をなげいて夜も眠れない振りなどはしない。それでもやはり、問題はただ有罪になったことだけなのに、彼は、自分の不名誉を重大に取りすぎたと思わざるを得ないのだ。
彼は――もしこう言っていいなら――私にはハッキリ理解できない人物であった。彼は、私には明瞭な人物ではなかった。そして、彼自身、自分がよく判らなかったのではないかと疑われる。
彼は立派な、繊細な感受性と、繊細な感情と、立派な野心を――一種の昇華され、理想化されたわがままを持っていた。彼は――もしこう言わせてもらえるなら――非常に立派な男だった。非常に立派で――非常に不運だった。もう少し粗野な性格だったら、とてもあの緊張に堪えられなかったろう。きっと挫折してためいきや、つぶやきや、ばか笑いと妥協してしまったに違いない。なお一段と粗野な人物だったら、きっと何も感ぜず、傷つけられもせず、全然私の興味をひかなかったことだろう。
だが彼は、犬に投げ与えたり、チェスターに渡すには惜しいほど、余りにも興味ぶかい、余りにも不運な男であった。私は便箋の上に顔をむけて坐っているとき、そう感じたのだった。その時ジムは、私の部屋で、ひどくしのびやかに、喘ぎながら、やっと苦しい息をしていた。
私は、彼がさも身投げでもしようとするようにベランダに走り出た時、そう感じたのだった。そして、彼が、さながら暗い絶望の海岸に立った人のように、いつまでもドアの外で、夜闇の背景に向かって力無くたたずんでいた間に、私のその感じはますます深くなった。
とつぜん、重たい雷鳴が聞こえて、私は頭を上げた。音は遠のいていくようだったが、いきなりギラリともの凄い光が盲《めしい》た夜の顔の上に落ちた。光は、途方もなく長い間、目もくらみそうにギラギラ閃きつづけた。
雷鳴がいよいよはげしくなっていく中で、私は彼が、光の海の岸にくっきり黒く、釘づけになっているのを見た。煌々たる光閃の絶頂に、とつぜん、最もすさまじい落雷とともに、あたりはふたたび暗黒に戻り、彼の姿は、まるで原子になって吹っ飛んでしまったかのように、目くらんだ私の眼前から全く消え失せてしまった。
一陣のたけり狂った風が通りすぎ、一とき、狂暴な手が藪を引き裂き、木々の梢をゆすぶり、ドアをバタンバタンいわせ、ビルの正面にそってあらゆる窓々を壊していくかと思われた。
彼は中へ入ってきて、ドアを閉め、私がテーブルの上にかがみこんでいるのを見た。私は急に、彼は何を言いだすだろうとひどく心配になり、私の不安は恐怖に近かった。
『タバコを一本いただけますか?』
と、彼がきいた。
私は頭を上げずに、タバコ入れを押した。
『僕はタバコが――タバコが――すいたくなりました』
と、彼はつぶやいた。私はとても気が軽くなった。
『うん、ちょっと待ってくれ給え』
と私は愉快そうにうなった。彼はそちこち二、三歩歩いていた。
『もう止みましたね』
彼の声がした。遠雷のくだける音が一つ、遭難信号の砲声のように海の向こうから聞こえてきた。
『今年は、季節風《モンスーン》が早く終わるな』
彼はどこか私の後の方で、打ち解けた口調で言った。これに元気づけられて私は、最後の封書に宛名を書きおわるやいなや振りかえった。彼は、部屋のまん中で、むさぼるようにタバコを吸っており、私の動いた音が聞こえても、彼はなおしばらく、私の方に背中をむけたままだった。
『さあ――だいぶがんばったぞ』と、彼は急にくるっと向き直って言った。『何か償えた――たくさんじゃないが。だが、これからどういう事が起きるんだろう』
彼の顔にはなんの感情も表われていなかった。ただ、さも長いこと息を止めてでもいたように、その顔は少し黒ずんでむくんでいるように見えた。彼はしぶしぶ微笑んで、私が黙って彼を見つめていると、またつづけた……
『しかし、有り難うございました。――貴方のお部屋を――とても助かりました――ひどくやっつけられた奴にとって』……
庭に、雨がヒューッと風を切って降りしきる音が聞こえる。窓のすぐ外で、雨樋《あまどい》が(きっと穴が明いているに違いない)しくしく奇妙な泣きじゃくりと、ゴボゴボ悲しそうな泣き声を立て、その合間合間に急に発作的に静かになる、悲しみの茶番劇でもやっているような音を立てている……
『しばらくの避難所……』と、彼はつぶやいてまた黙ってしまった。
ピカリと色あせた稲妻が窓ガラスの黒い枠の間から射しこんで、また音もなく消えていった。私は、いったいどういう風にして近づいたら一番いいだろうかと考えていた。(私は、彼にまた怒って飛び出されたくなかった)と、ふと彼が小さな笑い声を立てた。
『今じゃ、浮浪者も同然だ』……
彼の指の間で、タバコがけむりを立てている……
『ただ一つの――ただ一つの宝もない』彼はゆっくり発音した。『だが……』彼は黙った。雨がまた二倍のはげしさで降ってきた。『いまに、すべてを取り戻す何かのチャンスを見つける決心です。必ず!』
彼は、私の足元をじっと見つめながらハッキリささやいた。
私には、いったい彼は何をそれほど取り戻したがっているのか、いったい彼は何を失ったのをそんなにひどく悲しんでいるのかよく判らなかった。ことによると、それは口に出して言えないほど大した損失なのかもしれない。チェスターの言葉によれば、くだらん馬の皮のはし切れだそうだが……彼は、私の返事を聞きたげに顔を見上げた。
『まあ、人生にそれだけの時があったらね。だが、そんなことは、あまり当てにしないんだな』
私は不合理な敵意をもって、声をひそめてつぶやいた。
『誓って! 僕は、まるでなんにも僕に指一本触れられなかったような感じです』と、彼は地味な確信にみちた声で言った。『もし、あの事が僕を叩きのめすことが出来なかったとすれば、≪時≫が足りない心配はありません――やがて這い上がり……』
私はふと思った――こんな彼のような理由から、この世には、浮浪者や漂浪者の大群が後を断たないのだ――地球のあらゆる下水の中へ中へと行進してくる大軍が。彼は、私の部屋を、あの≪ちょっとの避難所≫を出るやいなや、この軍隊の一員に加わり、底なしの穴の中に向かって旅をはじめるのだろう。
少なくとも私は、なんの妄想もいだいていなかった。が、その私もまた、ほんのさっきは、あれほど≪言葉の力≫というものに自身があったのに、いまは、口をきくのが怖かった――ちょうど、いまにも飛び立ちそうな野鳥を掴みそこなうのが怖くて手が出せないように。
われわれは、他人《ひと》の心深く秘めた真に必要なものをしっかり掴もうとした時、はじめて、共に空の星をながめ、共に太陽の暖かさをよろこんでいる人間同士というものが、実はいかに不可解な、揺れたゆたう、朦朧とした存在であるかを知る。
手を差しのべて、じっと相手を見つめているうちに、肉と血でおおわれたその肉体は溶け失せ、あとにはただ、肉眼に見えず、手で掴めない、気まぐれな、慰めがたい、逃げやすい霊だけが残るような――まるで孤独こそ人間存在の辛い、絶対的な条件であったかのようだ。私はとつぜん、ふしぎな強さで、もし今彼を闇の中へ取り逃してしまったら、けっして自分を赦せないだろうという気持に圧倒され、彼を失うのを恐れて、何も言いだせなかった。
『では。有り難うございました――重ねがさね。貴方はほんとに――ええ――なみなみならぬ――全く、お礼の言葉がありません……なみなみならぬご親切! どうして、こんなにして下さるのか、判りません、本当に。でも、もし何もかもがこんなに残酷に僕に飛びかかってこなかったら、これ程まで有り難くは感じられなかったでしょう。なぜなら、底を割れば……貴方ご自身も……』彼は身震いした。
『たぶんね』と私は口をはさんだ。彼は顔をしかめた。
『とにかく、僕の責任でした』
彼は鷲のようにじっと私を見つめた。
『そして、それも本当だ』と、私は言った。
『ええ、でも僕はあの罪を背負って最後までがんばりました。もう誰にも、あの事で罵らせません――罵れば、僕は怒る』
彼はこぶしを握りしめた。
『それでこそ君らしい』
と、私は微笑して言った――内心の悲しみは神のみぞ知る――が、ジムは威嚇するように私を見た。
『それは貴方に関係ないことです』
と彼は言った。一瞬間、不屈の決意が、通り過ぎる影のように彼の顔に現われて消えた。次の瞬間、彼は前と同じ可愛い、善良な少年の困惑した顔にもどった。
彼はいきなりタバコを投げすて、
『さようなら』
と、切迫した仕事が待っているのについ長居をし過ぎた人のように、急にあわてて言った。そして、そのまま一、二秒間身動き一つしなかった。
ゴーッとしのつく豪雨があたりを掃滅する洪水のようなすさまじさで重たく落ちてき、つづいて橋梁を崩壊し、樹々を根こそぎにし、山々を転覆させるかとばかりの耳をつんざく怒号が轟然と鳴りとどろいた。さながら孤島に漂流したように、私たちが不安な一時の避難をしているこの暗い静けさに向かって、まっさかさまに砕け、渦巻くかと思えるこの巨大な、ぶつかってくる水流に立ち向かうことは誰にも出来なかった。穴の明いた雨樋《あまどい》がゴボゴボ、パシャパシャ音を立てては中断し、またパシャッ、パシャッとさも誰かが生命がけで泳ぎ苦闘しているのをあざけっているような、いやらしい嘲笑に似た音を立てている。
『雨が降っているし、それに私は……』と、私は抗議した。
『降っていようと、晴れていようと』と彼は不愛想に言いだして急に黙ってしまい、そのまま窓の方へ歩いていった。そしてしばらくして、
『まるで大洪水だ』と窓ガラスに額をおしつけ、『それに暗い』とつぶやいた。
『うん、ひどく暗いね』と、私は言った。
彼はかかとでくるっと回転し、部屋を横切り、私が椅子から飛び上がる前に、もう廊下へ出るドアを開けていた。
『待った』と私は叫んだ。『私は君と……』
『今夜はもうお夕食をご馳走になるわけにはいきません』
彼はすでに片脚を部屋の外に踏みだしながら私に言った。
『いや、ぜんぜんそんなつもりじゃないんだ』と、私は怒鳴った。それを聞くと、彼は出た脚を元へ戻したが、それでも、信用できなそうに、そのままドアの境目に立っている。私は間髪を入れずに――君、馬鹿なまねはよして、部屋へ入ってドアを閉め給え、と熱心にすすめた」
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第十七章
「やっと彼は中へ入ってきたが、そうしたのは主に雨のためだったと私は思う。ちょうどその時雨は恐ろしいどしゃ降りだったが、われわれが話している中に、しだいに静まってきた。
彼の動作はしごく穏やかで落ち着いていた。その様子は、生まれつき無口な人間が、ある考えに心を奪われているといった風だった。
私の話というのは、彼の境遇の物質的な方面についてであって、狙いは一にも二にも、ただ友も無く、家もない男に襲いかかろうとする堕落、破滅、絶望から彼を救うためだった。どうか私の援助を受けてくれと、私は彼に懇願し、諄々として説得した。そして、彼のひどく真面目な、若々しい、滑らかな、あの何かに心を奪われたような顔を見上げるたびに、私は、あの神秘な、何とも説明できない、形なき幽玄な夢を追って苦闘する、彼の傷ついたたましいにとって、私の援助などは、何の役にも立たず、むしろ邪魔のような気がして不安になった。
『君だって、普通の人間と同じように、食ったり、飲んだり、屋根の下に眠ったりするつもりだろうと思うが』
と、私はいらいらしながら言ったのを思い出す。
『君は、当然君のものであるこの金を、どうしても受け取れないと言うんだね』……
彼は、ほとんど彼のような人物にできる限りの恐怖の身振りをした。(彼には、パトナ号の船員として、三週間と五日間の給料が支払われることになっていた)
『なるほど。だが、それっぽっちじゃとにかく少なすぎる。それに、差し当たって明日はどうする? 明日はどこへ向かう? 君は生きていかねばならんだろう……』
『そんなことじゃないんです』という答えが、彼の息のしたから小さくもれた。私は聞こえない振りをして、なおも、君の度の過ぎた上品《デリカシー》さなど、いいか悪いか疑問だ、という議論をつづけた。
『どう考えても、君は私に援助させてくれなくてはいけない』と、私は結論した。
『貴方には出来ません』
彼はとても単純に、優しく、そしてある奥深い思想を固守しながら言った――私にはそれが、暗闇の中に微かに光る深い地底の水たまりのようにチラチラ光って見えはするが、ハッキリ見きわめるまで近づくことは、とうてい不可能だった。私は、彼の均整のとれた巨体をつくづく眺めながら、
『とにかく、目に見える点で君の援助はできる。それ以上できる振りはしない』と言った。
彼は、私の方を見ずに疑わしそうに頭を振った。私はカッときた。
『そう、できるとも』と私は言い張った。『それ以上できる。現に私はそれ以上をしている。私は君を信用し……』
『金を……』と彼が口を出した。
『まったく君は、悪魔にでも食われろと言いたくなるぞ』
私はわざと憤慨した口調で叫んだ。彼は驚いて、笑った。
私は、一挙に攻撃をおし進めた。
『いや、ぜんぜん金なんか問題じゃないんだ。君はあんまり皮相的すぎる』と、私は言った。そして同時に心の中で考えた――そうだ、これで行くんだ! そしてたぶん、実際そうなんだ。結局。
『この手紙を私は君に持っていかせたいんだ。この宛名の主に私はいまだかつて物をたのんだことはないが、いまは、君のために、自分の親の件で一度だけあえてその好意を利用させてもらいたいという立場で書いた。私は、無制限に君の責任を引きうける。いま私はそれをしている。そして実際、もし君がその意味を少し考えてみてさえくれれば……』
彼は頭を上げた。雨は降り止んで、ただ雨樋だけが窓の外で、ポタポタ馬鹿らしい涙のような音を立てつづけている。部屋の中はひどく静かだ。ローソクの静かなほのおが短刀のような形にまっすぐ上に燃え上がり、暗闇はそこから逃げて、部屋の隅々にかたまっている。しばらくすると、彼の顔は、ローソクの柔かい光を浴びたせいか、早くも暁の光につつまれたかのように、ほのぼのと明るくなった。
『全く!』と彼は喘いだ。『貴方は気高い方だ!』
もしとつぜん、彼が舌を出して私を嘲笑したとしても、私はこれ以上の屈辱を感じはしなかったろう。私は心の中で自嘲した――ざま見ろ、この卑劣なおせっかい屋め……彼は目をかがやかして、正面からじっと私の顔を見つめた。が、そのかがやきには一点の嘲笑のかげもまじっていない。
たちまち彼は、糸であやつられる木製人形のように、ピョコンと動きだした。両腕をぐいと上にもたげ、それからピシャリと音を立てて下におろした。まるで別人になった。
『だのに、俺はちっとも気づかなかった』と彼は叫び、それから急に唇を噛んで顔をしかめ、『俺はなんという大馬鹿者だったんだ』と恐れ、畏《かしこ》まった口調でゆっくり言った……
『貴方は実にいい方ですね』と彼は、こんどは低い声で叫んだ。そして、さもいま初めて見たかのように、いきなり私の手を握ったが、またすぐその手を離した。
『そうだ! これこそ俺が――貴方が――僕が……』
彼は口ごもり、それからまた前の鈍重な、強情とも言える態度に戻って、重々しく言いだした。
『僕は、まるでけだものになってしまう……もし今僕が……』そして彼の声は途切れた。
『いいんだ、いいんだ』と私は言った。私は彼が、不思議な高揚した感情を示したのに驚いた。いわば私は、偶然に糸を引っぱっただけで、木製人形の動かし方を、よくわかっていたわけではない。
『さあ、もう失礼しなくては』と彼が言った。『全く! 貴方は僕を助けて下さいました。じっとしていられません。あれこそ僕に必要なもの……』彼は戸まどったような感嘆の目で私を見た。『あれこそ……』
もちろん、あれこそ彼を救う糸だった。十中八九私は彼を飢餓から救い出した――ほとんどきまって深酒と結びつくあの特殊な飢餓から。それだけのことだ。この点私は一つの自惚れもいだいてはいなかった。でも私はじっと彼を見ながら、ここ二、三分のうちに、彼があんなにも明瞭に心の中に受けいれたあの事は、いったいどういう本質のものなのだろうと驚きいぶかった。
私はただ彼の傷ついた魂《たましい》が、つばさの折れた鳥のように、どこかの穴の中でバタバタ羽ばたいたり、跳ねたりしながら、静かに餓死するまでの間、彼の肉体が人並みに食べたり飲んだり、泊ったり、いわゆる人生のいとなみをまともに出来るようにと、彼の手に幾らかの資金を無理に押しこんだだけだった。これを、私は彼に押しつけたのだ。たしかに、それは小さな事だった。だのに――見ろ!――それを受けとった彼の様子からすると、それは、ローソクのほのかな光の中に、大きな、朦朧とした、大入道の影法師のようにそびえて見えた。
『僕には何も適当なことが言えませんが、どうぞお気になさらんで下さい』と彼がだしぬけに言った。『なんにも言えないんで。すでに昨晩も、貴方は僕に限りなくご親切でした。僕の話を聞いて下さり、――ねえ、僕は本当に、一度ならず有頂天になりました。頭のてっぺんがふっ飛んでしまいそうな気持でした……』
彼は急に走りだした――じっさい走った――そちこちに走っていき、両手をポケットに突っこみ、また勢いよくポケットから引き出し、帽子をポンと頭の上に投げた。
私は、まさか彼がこんなに軽やかに元気よくなろうとは想いもよらなかった。私は彼を見ながら、一枚の枯葉が渦巻く風の中で舞っている姿を連想しているうち、ふと、ふしぎな不安に、漠然とした疑惑に、押しつぶされそうになった。
とつぜんジムは、さもある発見に足を止められたように、じっと立ちすくんだ。
『貴方は僕を信頼して下さった』と彼はまじめに重々しく言った。
『おお! 後生だ、君――そんなこと言わんでくれ!』
私は、さも彼に傷つけられでもしたように懇願した。
『わかりました。もうこれから何も申しません。しかし、考えないわけにはいきませんが……ご心配なく!……でも、いつかお目にかけます……』
彼は足早にドアの方へ歩いていき、うつむきながら立ち止まり、落着いた足どりで戻ってきた。
『僕はずっと、もし人間が過去を清算して甦生できるものならと考えつづけていました……するといま貴方は……ある程度……そうです……甦生』
私は手を振った。彼は後を振り返らずに外へ出て行った。彼の足音が、閉じられたドアの後にしだいに消えていった――真昼の陽光の中を、ひるまずにしっかり歩いて行く男の足音が。
私はただ独り、淋しい一本のローソクと共に取りのこされた。私は妙に気がはずまなかった。もはや私は、人生行路の曲がり角ごとに振り返って、われわれの残す善や悪のつまらん些細な足跡を、四方八方から攻撃する豪勢な包囲陣のすがたを眺めているほど若くはなかった。
私は思わず苦笑した――考えてみれば、結局私たち二人のうち、光明のあるのは、まだしも彼の方だった。私は悲しい気持になった。彼は、過去を解消し、新規甦生すると言ったかな? さも、われわれ各自の運命の頭文字は、消せども消えぬ固い巌石のおもてに、不滅の文字で刻まれていなかったかのように」
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第十八章
「それから半年後に、私は友人から手紙をもらった。彼は皮肉な、中年を過ぎた独身者で、変わり者だという評判の男で、製粉所を持っていた。
友人は、私の熱心な推薦状から推して、私が知りたがっているだろうと、その後のジムの完成振りを詳しく書いてよこしたのだった。明らかに、おだやかな、期待にそむかない完成ぶりだった。
――『これまで小生は、いかなる人物にたいしても、いいかげん諦めて我慢するといった程度の気持以上のものを持つことが出来ず、今日まで、この猛暑の季節でさえ一人で住むには広すぎる家に、ただ独りで住みつづけてきました。が、小生はしばらく前から、彼を私の家に一緒に住ませています。私のその判断には誤りはなかったようです』
この手紙によると、私の友人は、ジムに対して、仕方なしに我慢するという気持以上のものを持ったらしかった。もちろん友人は、その理由を、いかにも彼らしく説明していた。まず第一、ジムは、この暑中にも、いつも新鮮ですがすがしい感じだった。もし彼が女であったら――と私の友人は書いていた――彼は芳ばしい花のようだったろう、あるけばけばしい熱帯の花のようではなく、――謙虚に咲いた――スミレの花のようにつつましい。
ジムはもう六週間も一緒に住んでいるが、まだ一度も、なれなれしく私の友人の背中をポンと叩いたこともなく、また彼に≪おじさん≫と声をかけたこともなく、また時代おくれの老いぼれと感じさせたこともなかった。ジムは、あの癪《しゃく》にさわる若者独特のお喋りなどは微塵も持たなかった。
ジムはいつも上機嫌で、口数少なく、有り難いことにけっして才人ぶらない――と、私の友人は書いていた、しかし、ジムは友人の機知を静かに鑑賞する才は充分に持ち合わせていたらしく、友人は一方において、ジムの天真爛漫さを面白がった。
――『まだ彼には朝露がおりており、小生は、彼に自宅の一室を与えて食事を共にするという名案を思いついて以来、自分が前より凋んで感じられなくなりました。先日彼は、わざわざ部屋を横切って、小生のためにドアを開けてくれることを思いつきました。そして小生、長年、人間というものにこれほど深ぶかと接触したことは無かったように感じました。奇妙じゃありませんか?
もちろん、あの青年には何かあるだろうとは思います――何か、ごく小さなかすり傷が――そして、君はそれについて万事ご承知だが――しかし、もしそれが確かに恐ろしい悪事なら、是非何とかして忘れてやりたい。小生としては、全く、彼はせいぜい果樹園の盗人をしたくらいが関の山だろうとしか想えません。彼は果たして、もっと悪い事をしたんですか?
たぶん、最初に君が教えてくれるべきだったろうが、しかし、われわれはお互いに、あんまり長らく聖人になりすましていたから、君は、われわれも、若い頃には悪い事をしたのを忘れたのかも知れんね?
いまに、彼の過去の罪がなんだかを君に聞かなくてはならなくなるだろうが、その時は聞かせてくれるだろうね。小生は、それがなんであるか多少判るまでは、自分から彼に尋ねたくないんだ。それに、まだ早すぎる。まだあと数回、彼にドアを開けてもらってからにしよう……』
こう私の友人は書いていた。私はひどく喜んだ。――ジムがこんなに立派に伸びていくことや、この手紙の語調や、私自身の賢明さを。俺のしたことは正しかった、俺は彼の性格を誤たずに見抜いたし、その上……そして、もしそこから何か予期しなかったすばらしい幸運が生まれてきたらどうだろう?
その晩、私は、自分の船の天幕の下でデッキ椅子に体を休めながら(ここは香港《ほんこん》の波止場だった)ジムのために、夢のお城の最初の石を置いた。
それから私は北方に旅行した。戻ってくると、友人からのいま一通の手紙が私を待っていた。私はまっ先にその手紙を開封した。
――『小生の知るかぎりでは、一本のスプーンも失くなっていません』と、最初の一行の走り書き。『しかし、小生には、そんなものを調べる興味もなかった。ジムは朝食のテーブルの上に、一片の形式的な短い置手紙をのこして去って行ってしまった。馬鹿らしいというか無情というか。たぶん両方でしょう――そして、どちらでも、小生には同じです。
君が、また誰か謎の若者を小生の許へよこされないために一言言わせてもらうが、小生はこれを限りに、キッパリ、永久に店を閉鎖することにしました。これが小生の犯した最後の奇行です。小生が気にしているなどとは絶対に思わんで下さい。しかし彼は、テニス会ではひどく惜しまれており、小生は、自分自身のためにテニス・クラブで、もっともらしい嘘を言っておきました……』
私は友人の手紙をかたわらに投げすてて、テーブルの上の手紙の束の中を探しはじめ、やがてジムの筆跡を見つけた。
諸君、信じられますか? こんな事は百に一つあるか無しかの悪運だ! しかし、ジムは、その百番目の悪いくじに当たった! パトナ号の例のチビの二等機関士が、多少窮地に陥ちいったあげく、偶然この製粉工場の機械の世話をする一時傭いに傭われてきたのだった。
『僕には、あのチビのけだものが慣れ慣れしくするのが、とても堪えられませんでした』
と、ジムは贅沢に暮らせたはずの身を、そこから南方に七百マイルもへだたった港から手紙をよこしていた。
『僕は現在、船舶雑貨商のエグストローム・ブレーク店で――まあ――正しく呼べば外交員をしております。僕は、保証人として貴方のお名前を拝借いたしました。もちろん、彼等はよく存じ上げていて、もし貴方が一言僕のためにお書き下されば、永久雇用になれます』
私は、夢のお城の残骸にまったく押しつぶされてしまったが、でも勿論、彼の望みどおりの手紙を書いた。そして、その年のまだ終わらないうちに、私は新しい用船でそちら方面に行き、彼に会う機会があった。
ジムはまだエグストローム・ブレークの会社におり、われわれはその店から通じている≪客間≫と呼ぶ部屋で会った。その時彼は船の宿舎からやってきて、まるで格闘の身構えのように頭を下向けて私と向き合った。
『何か言いわけがあるか?』
私は握手が終わるやいなやはじめた。
『手紙で申し上げました他にはなんにも』と、彼は頑固に言った。
『あの二等機関士の奴が、くだらんお喋りかそれとも何かしたかね?』
と、私は訊いた。
ジムは困惑の微笑をうかべて私を見上げた。
『おお、いいえ! 彼はしません。彼はあの事件を二人だけの一種の秘密にしていました。あいつは、僕が製粉場へ行くたびに、忌々しい、曰くありげな妙な素振りをしました――さも、≪俺たちゃ何もかも知り合った仲さな≫と言うように、勿体ぶった慇懃な態度で僕にウインクしたり』
ジムはどかんと椅子に腰かけて、自分の脚をじっと見下ろした。
『ある日、偶然、僕はあの二等機関士と二人きりになりました。すると、あいつは生意気にも言うんです、
≪やれやれ、ジェームズさん≫――僕はあそこでは、まるで工場主の息子かなぞのように≪ジェームズさん≫と呼ばれていました――≪また二人一緒になりましたね。ここの方が、あの古船よりよっぽどましだ――ね、そうでしょう?≫……
ぞっとするでしょう、え? 僕は思わず彼を見ました。するとあいつは、万事心得ているさ、という様子をして、≪心配するなよ、若旦那≫と彼は言います。≪俺ゃ、紳士は一目で見抜けるんだ、貴方のような紳士がどういう気持か、俺ゃよく判るよ。だがな、是非、俺にこの仕事をつづけさしてくれよ。俺だってさんざん苦労したぜ。あのぼろの、古いパトナ号騒動のことでさ≫
全く! 恐ろしかった。僕はどうしていいのか、なんといっていいのか途方にくれた。が、ちょうどその時、ご主人のデンヴァー氏が廊下で僕を呼ぶ声が聞こえました。昼食時だったんで、僕はデンヴァー氏と一緒に庭や花壇を通り抜けて家の方へ歩いて行きました。デンヴァー氏は、いつものように親切に僕をからかいはじめました……あの方は僕が気に入っておられたようです……』
ジムは、しばらく黙ってしまった。
『彼は僕をお好きでした。それでいっそう僕は辛くなってしまって。あんなすばらしい方が! あの朝、あの方は、僕の腕に手をさし入れて腕を組みました……デンヴァー氏も、僕に心を割った親密な態度をなさいました』
ジムは思わずぷっと短い思い出し笑いをして、急に顎をがっくりうなだれた。
『ふん! あのチビの賤しい二等機関士の奴が僕に言ったことを思いだすと』ジムは突然震え声で言いだした。『僕はとてもたまらなくなった……貴方にはお判りでしょう……』
私はうなずいた……
『デンヴァー氏は、まるで父親のようにして下さった』と彼は叫び、急に声が低くなった。『僕は、あの話をしなければならない立ち場に追いこまれました。僕は、もうとても、このままでは続けられない! そうでしょう?』
『それで?』
私は、しばらくしてからつぶやいた。
『僕は、むしろ出て行くほうがいいと思いました』と、彼はゆっくり言った。『そして、あの事を、葬ってしまわねばならないと』
店で、ブレークがエグストロームを甲高い声で口ぎたなく怒鳴り散らしている声が聞こえた。
この二人の店主は、長年一緒にやっているが、毎日店のドアが開いた瞬間から閉まる寸前まで滑らかな漆黒《しっこく》の髪をした、不幸な、イタチのような丸い目をした小男のブレークが、自分のパートナーを絶え間なしに一種の悲しそうな、とげとげしい声で怒りを哮えている声が聞こえた。
この果てしない、のべつ幕なしの怒鳴り声は、他の据付け家具と同様にここの定着付属物の一つで、初めて来た外国人でさえ、≪うるさい≫とつぶやくか、急に立ち上がって≪客間≫のドアを閉める以外には、全くこの声に無関心になるほかなかった。
エグストローム自身は、骨太の肥ったスカンジナヴィア人で、濃い金髪の顎ひげを生やし、いつもせかせかと忙しそうな動作で傭人に命令したり、小荷物を照会したり、店の立ち机で勘定書をつくったり、手紙を書いたり、あの騒々しい怒鳴り声の中で、全くの金《かな》つんぼのように振る舞っていた。時折り彼は機械的に≪シーッ≫と言うが、それはなんの効果《ききめ》もないし、また効果を期待されてもいない。
『ここでは、みんな僕に大そう親切です』と、ジムは言った。『ブレークはちっと下品ですが、でもエグストロームはいい人です』
彼はすばやく立ち上がり、整った歩調で窓に立っている三脚望遠鏡のそばへ歩いて行き、沖合の碇泊地に向けて目を当てた。
『あそこにいるあの船は、今朝じゅう風がなくて進めず外海にいましたが、いま微風が出たのでこちらへ入ってきます。僕は行って、あの船に乗らなくては』
と、彼は辛抱するように言った。
私たちは黙って握手し、ジムは向こうを向いて行きかけた。
『ジム!』
と私は叫んだ。彼は片手をドアのハンドルにのせて振り返った。
『君は――君は、幸運らしいものを投げ棄てたね』
彼は、ドアのそばから、またわざわざ私のそばまで戻ってきた。
『あんなすばらしい、立派な方に――どうして僕にそんな事が出来ますか? どうして僕に出来ましょう?』彼の唇が引きつった。『ここでは、そんな事はどうでもいいんです』
『おお! 君は――君は――』
私は言いかけたが、適当な言葉がなく、言いよどんだ。だが、どうしてもピッタリした言葉は無いと気づく前に、もう彼の姿は消えていた。
外で、エグストロームの深い優しい声が、
『それは、サラ・W・グレンジャー号だぞ、ジミー。お前が、その船に一番乗りせにゃならんぞ』と言ってるのが聞こえた。
するといきなり、ブレークの声が、怒ったボタンインコのように怒鳴った。
『船長に、ここの俺たちの店に、大将あての手紙が来てるって言え。それで大将つかまるぞ。聞こえたかね。おい君、お前の名前はなんだったっけ?』
するとジムが、何か少年らしいひびきのある口調で、エグストロームに答えるのが聞こえてきた――
『オーライ。一つボート・レースをやりましょう』
彼は、その悲しい取引きの仕事を、ボート漕ぎの中に逃避しているように見えた。
私はその旅行では二度とジムに会わなかったが、次の旅行(私は六カ月の用船契約をむすんでいた)の時、あの店へ行った。ドアから十ヤードばかりのところまでくると、ブレークの怒鳴り声が私の耳に入り、中へ入ると、彼はチラリと私の方を、実にひどい、いやな目つきで見た。エグストロームは、満面をほころばし、大きな骨っぽい手を握手にさしのべながら進んできた。
『またお会いできて全く嬉しいですな、船長……シーッ……いま頃はここへ戻ってもいい頃だと考えていましたぜ。何ですか、旦那?……シーッ……ああ! あの若者! 彼はもういませんよ。さあさあ客間へお入んなさい』……
ドアがバターンと鳴って閉まると、ブレークの甲高い声が、荒野で死物狂いで怒鳴っている声のようにかすかになった……
『わたし達も、大へん不便になってしまってね、いや、全くひどい目に会いましたよ――全く……』
『彼はどこへ行きました? 知っていますか?』と、私は訊いた。
『いや、それは聞いても無駄ですよ』
エグストロームは頬ひげを生やし、手を両わきにブラリと不恰好に垂らし、時計の細い銀鎖をひだをとった青いサージのチョッキの上にごく下まで垂らして、慇懃に立ったまま言った。
『ああいう男は、特別どこへも行きはしません』
私は、ニュースにあまり心を痛めていたので、彼にその断言の説明をもとめる心のゆとりがなかった。エグストロームはつづけた。
『彼が去ったのは――ええと――なんでも、紅海から戻りの巡礼者の一行をのせた汽船が、プロペラの水かきが二つ失くなったのを補給しにここへ立ち寄った日でしたな。今から三週間前です』
『何かパトナ号事件について、誰か何か言いませんでしたか?』
私は最悪の事態を恐れながらたずねた。エグストロームはびっくりして、まるで私が魔法使いかなぞのように、じっと顔をのぞきこんだ。
『へえ、そうですよ! 一体全体どうしてそれがお判りです? 数人がここでその話をしていました。一人二人の船長と、波止場のヴァンロウ機械店のマネージャーと、その他二、三人と私とで。ジムもここへ、サンドイッチとビール一杯食べに来ていました。私たちは忙しい時には――ねえ船長――ちゃんとした昼食をするひまが無いんでね。
ジムはこのテーブルのそばに立って、サンドイッチを食べており、私たち他の者は望遠鏡をとりまいて、あの汽船がこちらへやってくるのを見ていました。
やがて、ヴァンロウ店のマネージャーが、パトナ号の船長の話をはじめました。この男は、前にパトナ号の船長の船を修繕したことがあったんで、あの船がどれ程古いボロ船であったかを話し、それからそれへとパトナ号の思い出話をはじめました。そして船の最後の航海の話になり、ここで私たちみんなが、一斉に口をはさんだわけです。
誰かがああ言えば、また他の者はこう言い――いえ大したことじゃない――貴方や誰でもが言うようなことですよ。するとある者が笑い出しました。
ところが、サラ・W・グレンジャー号の船長のオブライエンというステッキを持った大のやかまし屋のじいさんが――ちょうどここでこの肘掛椅子に坐ってみんなの話を聞いていましたが――いきなり持っていたステッキでドーンと床を叩いて、大声に怒鳴りました。
≪スカンクめ!≫……
みんながびっくりして飛び上がりました。
ヴァンロウのマネージャーは、私の方にウインクして言いました。
≪いったいどうしたんですね、オブライエン船長?≫
≪どうしたも、こうしたもあるもんか!≫とオブライエンのじいさんはまた怒鳴りはじめました。≪お前達インディアンどもは何を笑っとるんじゃ? 笑いごとじゃないぞ。こいつは人間性のつらよごしだ――そうだとも。わしは、あのパトナ号の奴等と一つ屋根の下にいることはまっ平じゃ。そうとも!≫
老人は特に私の方を見て言ったようでした。で、私は礼儀上合槌を打たないわけにいかなくて、≪スカンクめ!≫と言いました。≪むろんですとも、オブライエン船長。わたしも、あんな奴等をここへ入れるのはご免です。だからオブライエン船長、この部屋は絶対安心ですよ。さあ、少し冷たい飲み物でも召し上がって下さい≫
≪君のおごる酒なんかいらんよ、エグストローム≫と、彼は目をキラキラさせて言います。≪わしは飲みたい時は、自分でくれと怒鳴るよ。だが今日は帰る。もうこのあたりが臭くなってきたぞ≫
この言葉に、他の者はみなドッと笑い、老人の後からぞろぞろ出て行きました。
すると旦那、あの忌々しいジムの奴め、手に持っていたサンドイッチを下に置き、テーブルを回って私のところへやってきました。テーブルじゃ、あいつのコップに、ビールが満々とあわ立ってふちからこぼれています。
≪僕は行きます≫と言うんです――ちょうどこういう風に。≪まだ一時半にならないぜ≫と私は言います。≪まあ、タバコでものんだらどうだね≫私は、彼が、もう仕事に行くという意味だと思ったんです。私は、大将がここを出て行くつもりだと判ったときは、全く呆然として、両腕がダラリと下へ落っこちましたね――ええ!
あんな男は、そうおいそれと見つかるもんじゃありませんからねえ、旦那。全くボート漕ぎの鬼ですよ、どんな天候であろうと、客船を見ればよろこんで、何マイルでも沖へ漕ぎ出して行きます。一再ならず船長がここへやってきて、まっ先に言うことは、≪君んとこじゃ、またなんていう向こう見ずの大した水上係を手に入れたんだ、エグストローム。俺が、真昼でも手さぐりで小帆の下を歩いていると、濃霧の中をすっとんで俺の船首の水切りのま下に、ボートが一隻やってくるじゃないか。半ば水中に没しかけ、水しぶきはもうもうとマストの上をこえ、船底には二人の黒人がおびえており、一人の海神が舵柄を握って叫んでいる。ホーイ! ホーイ! その船オーイ! オーイ! 船長! オーイ! オーイ! エグストローム・ブレーク店の者が、第一番にお声をかけます! オーイ! オーイ! エグストローム・ブレーク店! モシモシ! オーイ ヤーイ! 黒人どもを蹴って――縮帆の外に出――その時ゴーッとやってきた突風雨をあびながら――オーイ、進路の前方に急流があるぞ、展帆して走りなさい、僕が船をリードして入港させる、と俺に向かって叫んだ――あれは人間じゃない、海神だ。俺は一生の間に、あんなすごいボートのあやつり手を見たことがない。まさか、酔っぱらってたんじゃあるまい? あんなに物静かな、その上優しい口調の若者だし――俺の船へ乗船してきたとき、少女のように頬を染めてさ……≫
じっさい、マーロウ船長、ジムが一たび海上へ出れば、沖にいる新手の船の契約取りは、誰一人として大将に歯の立つ奴はいませんでした。他の船商人どもは、ただ昔ながらのお客をやっと引き止めとくのが関の山で、それに……』
エグストロームは感きわまった様子だった。
『そうですとも、旦那――まるでジムは、この会社のために一隻の船を獲得するために、古ボートで百マイルの荒波を越えていくのもいとわない風でしたよ。たとえこの会社が彼自身の所有《もの》で、全部自分の利益になったとしても、あれ以上のわざは出来っこありませんな。それを、いまや……とつぜん……こうです! で、私は腹ん中で考えた≪ハハア! 給料の値上げか――問題はそいつだな――そうだろう? いいとも≫と私は言います。≪俺にゃなにもあんな大騒ぎはしてみせなくたっていいんだぜ、ジミー。ただ幾ら欲しいと言ってみな。理に合ってりゃ幾らでも出してやるよ≫
ジムは、さも何か喉につまって呑み下せないように、じっと私を見ました。≪ご一緒にいられないんです≫≪一体全体、その途方もねえ冗談はなんのまねだ?≫と私はききます。彼は頭を振り、私は彼の目を見て、もうあいつの心はすでに遠くへすっ飛んでしまっているのを知りました。で私は、あいつの方に向き直って、こてんこてんに罵ってやりました。
≪いったい何から逃げ出すんだ?≫と私はききます。≪お前を誰がふん捕まえようってんだ? いったい何におじけたんだ? お前にゃネズミ程の分別もねえのか、ネズミだって、いい船からは出て行かねえぞ。ここよりいい勤め口がどこにある?――ああだのこうだのとごたらく言うな≫
彼はうんざりしたようでした、≪この船は沈まねえぞ≫と私は言います。とたんに、彼は高く飛び上がりました。≪さようなら≫彼は私に向かって主人のようにうなずきながら言います。≪貴方は、口で言う半分も心は悪い人じゃない、エグストロームさん。僕は誓いますが、もし僕が出て行く理由を知ったら、貴方はけっして僕をここに置かないでしょうよ。≫≪それこそお前が一生の間に言った嘘の中の一番の大嘘さ。俺にゃちゃんと、この俺の気持は判ってる≫と私は言います。私は、余りの物狂おしさについ逆上して笑い出しました。
≪貴様、本当に、ここにあるこのコップのビールを飲んで行くひまもねえってのか、このひょっとこ乞食め?≫
いったい彼に何事が起こったのか私は知りませんが、まるであの男はドアのありかも見つけられないようで、全く、何かこっけいでしたよ、船長。私は自分で、彼のビールを飲みました。≪そうか、お前がそれほど急ぐなら、お前のビールでお前の出発の乾杯をしよう≫と私は言います。≪ただ、俺の言葉をよく覚えとけ。最後にこれだけは言っといてやる。もし貴様この遊戯をつづけていくと、間もなく、この地球にゃお前の住む場所はなくなるぞ――それだけだ≫――彼は暗い目で一度私を見て、それから、おびえた小ちゃい子供のように外へ走り出しました』
エグストロームは苦々しそうに、鼻嵐をふき、ふしだらけの指で、鳶《とび》色の顎ひげをしごいた。
『それ以来、ちっとでも役に立つ男は、一人も手に入りません。私の仕事は、あれが居なくなって以来、ただもう苦労、苦労、苦労の連続です。ところで船長、貴方は一体全体どこであの若者に出会いなすったんです――もしお訊きしていいんだったら?』
『彼は、パトナ号のあの最後の航海のとき副船長だったんだ』
私は、いくらか説明する必要があると感じて言った。しばらくの間、エグストロームは指を頭の片側の髪の毛の中に突っこんだまま、ひどく静かになってしまい、それから急に爆発した。
『それで、一体全体、どこのどいつが、そんな事を気にしますか?』
『誰もしないと思うね』と私は言いだした……『それをあいつはいったいなんのために――とにかく――こんな風にやりつづけるんだろう?』
エグストロームは、とつぜん左の頬ひげを口の中に突っこみ、呆然と仁王立ちになって叫んだ――
『呆れた! だから俺はあいつに、地球はお前がはね回るにゃ狭すぎると言ったんだ』」
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第十九章
「私は諸君に、この二つのエピソードをお話ししたが、それは少なくとも、ジムが、新生活の新しい環境の下で、どう身を処していたかを示すためである。まだまだこういったことは、私の両手の指で数え切れないほど沢山あった。
どれもこれも一様に、ごく高潔な馬鹿らしい意図に色どられており、その行為の空しさは深刻で胸を打った。人間がまぼろしを、掴もうとして両手をひろげ、持っていた日毎の糧《かて》を投げすてるのは、散文的なヒロイズムの行為かもしれない。男どもは以前にもそういう事をした(ただし、長く人生を生きたわれわれは、≪社会の除け者≫をつくるのは、幻にとり憑かれたたましいではなく、飢えた肉体であることをよく知ってはいるが)。そして、このようにパンを投げ棄てずに、パンを食べて生き、今後も毎日パンを食べる積りの連中は、こうした高尚な愚行を拍手喝采した。
ジムはじっさい不幸な男だった。あれほど向こう見ずの勇気がありながら、過去の暗影から脱出することが出来なかったのだ。いつも、彼の勇気には疑わしい点があった。真相は、ある事実の幽霊が出ないように出来ないことらしい。われわれはそれに真正面からぶつかるか、あるいは避けるかで――私は、顔なじみの幽霊に、ウインクすることの出来る男を一人二人知っている。
明らかにジムは、ウインクする部類の男ではなかった。しかし、私にどうしても判断のつかないのは、彼のこの種の行為は、結局、彼の幽霊を避けることになるのだろうか、それとも、強引に立ち向かうことになるのだろうかという点だった。
私は、ただそれを発見しようとして、ちょうどわれわれのあらゆる行為の局面を看破しようとする時のように、精神的洞察を精一ぱい引きしぼってみたが、その紙一重の差はひどく微妙で、どちらとも言えなかった。それは、私には、逃避ともとれたし、また一種の闘争ともとれた。
が、一般の人々の間では、ジムは≪ころがる石≫として知られるようになった。なぜなら、これが彼の一番奇妙な点だったからで、しばらくすると、ジムが転々と職をかえてさ迷い歩いた圏内(直径約三千マイルにわたる広さの)では、誰彼の風変わりな性格が近郷に知れわたると同様に、ジムのことはすっかり世間に知れわたり、有名にさえなった。
例えば、バンコックで彼が職をみつけた船舶仲介造船材商のユッカー兄弟の会社で、彼が、海岸から遠く離れた川の上流の丸太小屋界隈にまで知れ渡っている自分の秘密を抱きしめて、陽光をあびながら歩き回っている姿は、いたましいばかりだった。
ジムが下宿していたホテルの経営者のションベルグは、生来どうしてもそのあたりのスキャンダルやゴシップを喋り回らずにはいられないという、毛むくじゃらの、いかにも男性的な態度のアルザス〔フランス北東部地方〕人で、両肘をテーブルに突いて、高価な飲み物をすすりながら、好奇心のとりこみたいなすべてのお客に、尾ひれをつけて改作したジムの話を聞かせた。
『それで、いいですかね、そいつがまたこの上なしのいい男なんですよ、まったく優秀な若衆でしてね』
と、それがこのホテルの主の寛大な結論だった。その話は、ジムがバンコクにいた時丸六カ月泊っていたこのションベルク・ホテルへちょいちょいやってくる行きずりの群集には、意味深長のニュースだった。
私は、赤の他人たちが、いい子供を好きになるように、ジムを好きになるのに気づいた。彼の態度は控え目だったが、彼の風采、彼の髪、彼の目、彼の微笑が、どこででも行く先々で彼に友人をつくった。そして、もちろん、彼はけっして愚者ではなかった。
私は、ジムの傭い主で、ひどい消化不良で顔は醜いが心は優しい、そしておそろしいびっこで歩くたびに頭が九十度ずつ大振りになるシーグムント・ユッカー〔スイス生まれ〕が、ジムのことを、彼はあの若さで大した≪才能《キャパシティ》≫だと、さも立方体の≪容積《キャパシティ》≫の問題かなぞのように断言するのを聞いた。
『ひとつ、彼を田舎へ送ったらどうです?』
と、私は熱心に提案した。(ユッカー兄弟は、奥地に居留地とチーク材の林を持っていた)
『もし君の言うように、彼に才能《キャパシティ》があれば、彼は奥地でもじき仕事のコツを掴むだろう。彼は体格がひどくいいし。健康状態はいつも上々だし』
『ああ、全くだ! この国にいて、消化不良にやられないだけでも大したもんだ』
気の毒なユッカーはチラリと自分のめちゃめちゃな胃のくぼみを盗み見しながら、羨ましそうにため息をついた。私が部屋を出るとき、シーグムントは考えこみながら机をたたいて、つぶやいていた。
『そりゃ、いい考えだ。そりゃ、いい考えだ』
しかし不幸にして、その夕刻、ホテルで不愉快な事件が起きた。
私はこの事でジムをひどく咎めるべきかどうか知らないが、しかし、たしかに残念な出来事だった。それはバーの乱闘の部類に属するもので、相手は、名刺の卑しい名前の下に、シャム国海軍中尉と列挙している藪睨みのデンマーク人だった。この男は、もちろん、玉突場では全くどうしようもない下手くそだったが、負けるのは嫌いだったらしい。
このデンマーク人は、さんざん飲んでいたので、第六ゲームが終わる頃から荒れだして、ジムが金を使うことに何か軽蔑的な悪口を言った。そこに居合わせた大部分の人々はなんと言ったか聞こえなかったらしいが、その悪口を聞いた人々は、ぜんぶハッキリ覚えているらしく、すぐさまそれがあんな恐ろしい結果を生んだことに、ただ唖然とした。
とにかく、そのデンマーク人が泳ぎを知っていたのは、不幸中の幸いだった。都屋はベランダに向かって開いており、その下をメナム川が黒々と幅広く流れていたからだ。何か荒かせぎに出掛ける途中らしい支那人を満載した小舟が、その溺れかけたシャム王の士官を海から拾い上げた。一方ジムは、真夜中ごろひょっこり、帽子もかぶらずに、私の船へやってきた。
『部屋中の者に知られちゃったようです』
と、彼は、いわばまだ格闘で息切れしているかのように喘ぎながら言った。彼は、原則としては、こういう事か起きたのはすまなく思うが、しかし、あの場合は、『ああするより他なかった』と言った。
しかし彼を狼狽させたのは、彼の重荷の正体が、あたかも彼が一日中それを肩にかついで大通りを歩き回ってでもいたように、一人残らずに知れ渡ってしまったことだった。当然、その後彼はここに止まれなくなった。彼は、身のほどもわきまえぬ獰猛な乱暴を働いたといって、世間中から非難された。ある者は、あの時ジムは、みっともなく酔っぱらっていたと断言し、他の者は、彼の気転のなさを批判した。ションベルクでさえ、ひどく当惑した。
『彼は、ほんとにいい若衆ですがねえ』と、私に議論がましく言った。『なんせ、相手の中尉は一級の男子でもあるし。あの人は、毎晩、わたしのホテルの定食をあがってたんでね。それに、玉突きのキューも折られるし、あれは赦せませんな。今朝はまっ先に、私は中尉のところへ謝りに行きました。まあどうやら私の方は無事におさまりそうですが、でも、まあ考えてごらんなさい、船長、もし誰も彼もが、あんなことをおっぱじめたら、どうです!
それにあの中尉は、ひょっとすると溺れ死んだかもしれなかった! また私の方は私の方で、隣りの通りへちょっと一っ走りして新しいキューを買ってくるってわけにいかず。なんせ、ヨーロッパまで、手紙で注文しなきゃ手に入らない代物でね。だめだめ! ああいう癇癪持ちはだめだ!』
……亭主は、この問題がひどく頭にきたらしい。
これは、ジムの――彼の退却行路中の最悪の事件だった、この事件を、私は誰よりも一番悲しんだ。というのは、たとえ彼はある人々から、『おお、そうとも! 知ってるとも。彼はここらを転々とした男さ』と言われたにしろ、でも彼はなんとかしてその過程で、自分をめちゃめちゃにされることは避けてきていた。
しかし、この最後の事件は、私をひどく不安にした。もしあのすばらしい微妙な感受性が、ついに彼を居酒屋の大乱闘に捲きこむまで極端に走るとすれば、たとえじれったい馬鹿にしろ、憎めない男だという評判を失って、普通のごろつきと同じに言われるようになるだろう。私は、彼に絶大の信頼を置いてはいたが、しかし、そんな事になった場合、悪名から本物の浮浪人になり下るまではほんの一歩だと、あやぶまずにはいられなかった。
諸君は判るだろうが、その頃には、私はもう彼から手を引くことなどはとても考えられなくなっていた。私は、彼をバンコックから私の船に乗せて、一緒に長い航海に出た。彼がどれほどしり込みし、遠慮しているか、見るも哀れであった。
船上の人は、たとえただの乗客でも、船に興味を持って、自分をとり巻く海洋生活を画家のような批判的なよろこびをもって眺め回し、例えば、他の男の仕事振りを見物したりするものだ。あらゆる意味で、海員はみなデッキに出ている。が、私のジムは、まるで密航者のように、大方下に隠れていた。
私も、つい彼の気持にさそわれて、普通なら航海中に自然二人の船乗りの間で取り交わされる職業的な話題を話すことを避けた。幾日も、私たちは一言も言葉を交わさず過ごし、私は彼のいる前で、自分の船員に命令を与えることを極度に避けた。時折り、彼と私の二人きりがデッキで一緒になったり、また船室で顔合わせしたりした時、私たちは互いに目のやり場がなかった。
私は彼を、諸君の知ってるように、デ・ジョンと一緒の持ち場において、ともかく彼を片付けたことを一応よろこびはしたが、しかし私は、彼の立ち場がいまや堪えがたいものになりつつあることを納得させた。彼は、これまで自分の地位を投げ棄てるたびにすぐ、それにまさるとも劣らない新しい地位にはね返ることのできたあの弾力を幾らか失っていた。
ある日、海岸に出て行くと、彼が埠頭に立っていた。港の投錨地の水と沖合の海とが、上方に向かって渺々と延び広がった一枚の滑らかな平面となり、遠い沖合に投錨している船々が、不動のまま空中に浮かんでいるように見えた。
彼はボートを待っていた。ボートは、われわれの脚下で、これから出航する船に積み込む小荷物を積んでいた、私とジムとは、ちょっと挨拶をかわして、そのまま黙って立っていた――二人並んで。
『全く、こんな仕事には殺されそうだ』
と、彼がだしぬけに言った。
彼は私の方を見て笑った。それでも彼は、たいてい私を見ると何とかして微笑んだ。私は返事をしなかった。私は彼が、自分の仕事のことを言っているのでないことはよく判っていた。デ・ジョンと一緒で彼はごく楽な仕事をしていた、にもかかわらず、彼の一言を聞くや否や、私はすぐ、たしかに彼はこの仕事で≪殺されそう≫なんだと信じた。私は彼の方を見ようともせずに言った。
『君は、こちら側の世界を全然捨てないか? カリフォルニアか西部の海岸でも試してみては? 君がその気なら、当たってみよう……』
彼は少し自嘲的に私をさえぎった。
『べつに、こちら側も向こう側も、変わりはないでしょう?』……
私はすぐ、彼の言う通りだと確信した。べつに変わりはない。彼の望むのは救助ではなかった。私にはおぼろげながら、彼の望んでいたものは、彼がいわば待っていたものは、何か説明しがたい――何か好機といったものだと判ったような気がしてきた。
私は、いままでにいろいろな好機を彼に与えたが、それはただ彼のパンを稼ぐ好機にすぎなかった。だが、誰にそれ以上の何かが出来よう? 状況はきわめて絶望的だ。またしても私は、気の毒なブラヤリーの言葉を思い出した。
『彼は二十フィート地下にもぐって、そこに住むんだな』
そのほうが、こうして地上で不可能なことを待ちぼうけるよりましだ、と私は考えた。しかし、私にはそれさえ確信はなかった。
その時、その場で、彼のボートが埠頭から数間も離れないうちに、私は心の中で、よし、今夕シュタインの所へ行って相談しようと、決意していた。
このシュタインという人物は、當みうやまわれている貿易商だった。彼の≪商社≫(それはシュタイン会社といって、シュタインの言うには、一種のパートナーが、マラッカ〔東インド諸島中のインドネシア領の群島〕の管理をしているそうだ)は、最も人里離れた僻地に、産物を蒐集するたくさんの取引場を設立し、諸島を股にかけた厖大な貿易事業網を持っていた。
しかし、私が切に彼の忠告を求めようとした理由は、必ずしも彼が富豪で尊敬すべき人物だからではない。彼は、私の知っているかぎり最も信頼のおける人間の一人だったので、私は、自分のこの至難な問題を打ち明けたかったのだ。
素朴で不屈の、そして知的な好人物から発するいわば優しい光が、彼の面長の無髯の顔を明るく照らしていた。その顔には下向きの深いしわができており、いつも坐って仕事をしている人のように青白かった――じっさい、彼の生活は、それからあまり遠くなかった。
髪の毛は薄く、大きい気高い額から後に撫でつけてあった。ふと、シュタインという男は、きっと二十歳の頃も、六十歳の今とごくそっくりの顔をしていたに違いないという気がした。それは学者の顔で、ただ、ほとんど白髪の太く濃い眉毛と、その下からチラリと覗く断固とした、観察の鋭い視線だけが、彼の学者らしい容貌と調和していないとも言えた。
彼は背が高く、体がゆったりしていた。わずかに猫背で、無邪気な微笑《わら》い方をするため、彼はいつでも人の相談事をよろこんで聞く慈悲ぶかい人柄に見えた。彼の青白い大きな手をした長い腕は、ほんの時たま、慎重に何かを指さし、明示する身振りをした。
私はついにシュタインのことを言う段になったが、彼はこの外貌と、まっすぐで寛大な性格とともに、不敵なたましいと、肉体的勇気とを持っていた。それは、もし体の自然の作用――例えば強い消化力――のように、全くそれ自体を意識しないものではなかったら、向こう見ずと言えるほどの、恐れを知らぬ勇気であった。
時どき世間では、ある人のことを≪彼は冒険家だ≫という。しかしこういう言葉は、シュタインには当てはまらないようで、彼は東洋に住んでいた若い頃は、おだやかなボール遊びをしていた。これはみな遠い昔のことで、私は彼の身上話と、彼の財産の源泉《オリジン》とを知っている。
彼はまたかなり著名な自然科学者で、いやむしろ博学な蒐集家だった。昆虫学が彼の専攻であった。彼の蒐集はタマムシ属の昆虫と長角類――かぶと虫類のすべて――で、その恐ろしい、小型の怪化物どもが、死んで動かず、恨めしそうに見えた。
シュタインの蝶の蒐集品は、ガラス箱の中に生命なきつばさをひろげて美しく、舞うような姿で収められ、彼の名声を世界のはるか彼方までひろげた。この冒険家で、かつてはマレーのサルタン(この君主のことを彼は『わしの気の毒なマホメット教徒のボンソウ君』とよりほか呼ばなかった)の顧問であった貿易商シュタインの名は、数多の死んだ昆虫のおかげで、彼の生涯や彼の性格については何一つ知らず、また知ろうともしたがらないヨーロッパの知識人の間に広く知られるようになった。
しかし、私はシュタインの人柄を知っていたので、彼こそ、ジムの苦境と私自身のそれとを打ち明けるのに極めてふさわしい人物だと考えたのだった」
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第二十章
「夕方おそく、私は、ごく薄暗い灯りのついた豪壮な、しかし人気のない食堂を通り抜けて、シュタインの書斎へ入った。
家は静寂そのものだった。白いジャケツと黄色いサロンの一種の制服を着た年寄りの、厳めしいジャワ人の召使いに案内されて行った。男は、書斎のドアを開けると低く、
『おお、ご主人様!』
と小さく叫んで横にどき、まるで、ただ案内役をするときだけ一時姿を現わす幽霊のように、消え失せてしまった。
シュタインは椅子と一緒にくるりとこちらに向きなおり、それと同時に、眼鏡が額の上に押し上げられたようだった。彼は静かな、ユーモアを含んだ声で私を歓迎した。
巨大な部屋の一角の、彼の書き物机の立っている隅だけが、シェードをかけた読書ランプに煌々と照らされており、広大な書斎のその他の場所は、洞窟のように形なき暗闇の中に消えている。
一定の形と色の黒っぽい箱のぎっしり詰まった幅の広い棚が、床から天井までとはいかないが、しかし約四フィートの幅の黒い帯状に、壁々のすそをぐるっと取り巻いている。かぶと虫類のカタコーム〔トンネル状の埋葬場〕である。
不規則な間隔で、木製の平板《タブレット》がかかっている。灯りがその一つを照らし、金色の文字で書いたColeoptera〔甲虫類〕という言葉が、厖大な薄闇にむかって神秘な光を投げている。
蝶の蒐集を納めたガラスのケースは、細脚の小さい何脚かのテーブルの上に、長く三列に陳列されている。そのケースの一つは、陳列場から移して、一面に黒く細かいペン字を書きこんだ長方形の紙片の散らばっている机の上に置いてある。
『そう、来てくれたか――そうか』
と、彼は言って、手を、濃いブロンズ色のつばさを雄大にひろげた一匹の蝶のケースの上で振った。差渡しが二十センチ近く、すばらしい純白の翅脈《しみゃく》の入った、絢爛たる黄色の点でふちどりした、何とも言えぬ崇高な蝶だ。
『たったもう一つだけ、こういう標本が君のロンドンにあるが、それだけで――もう他にはない。私のこの蒐集を、小さい郷里の町へ遺贈するつもりだ。何か私のものをと思ってね。これが最上なんで』
シュタインは椅子の中で体を前にのりだし、顎をケースの正面につけて、じっと熱心に見入った。私は彼のうしろに立っていた。
『驚異だ』
と彼がつぶやいた。まるで私の居ることは忘れてしまったようだ。
彼の経歴は奇妙だった。バヴァリア〔ドイツ南部の州〕に生まれ、二十二歳の青年の時一八四八年の革命運動に参加した。身が危くなったのでやっと脱出し、最初にトリエスト〔アドリア海の北端、トリエスト湾に臨む海港〕の貧しい共和主義の時計製作者の許へ避難した。
そこで彼は安物の時計を仕入れ、その行商をしながらトリポリ〔アフリカ北部のリビアの一部〕に向かった。――じっさい大した出だしではないが、それが幸運を開いた。というのは、そこで彼はあるオランダ人の旅行者に出会った――それはかなり有名な男だったに違いないが、私はいまその名を覚えていない。その男は自然科学者で、彼を一種の助手に傭って、東洋へ連れていった。
シュタインとこの旅の自然科学者とは、一緒になったり、別れたりしながら、多島海の島々を、四年間かそれ以上も昆虫や烏を蒐集して旅行をつづけた。
それからその自然科学者は母国へ戻り、シュタインは戻る家郷がないので、セレベス〔東印度諸島の一つ〕の奥地――もしセレベスに奥地があるといえるなら――に、彼が旅行中にふと出会ったある老貿易商と一緒に居残ることにした。
この老スコットランド人は、当時その国に居住することを許されていた唯一人の白人で、そこのワジョウ国の最高支配者である婦人の友人で、特権を与えられていた。
私は度々シュタインから、その軽い半身不随の老人が、次の発作でこの世を去る少し前に、シュタインをその土地の宮廷に紹介したときの有様の話を聞いた。そのスコットランド人は、いかにも族長然とした白髭をつけた堂々たる体躯の大男であった。彼は、あらゆる統治者や首長や頭《かしら》が集合し、女王である肥ったしわだらけの婦人(大そう遠慮なく言う方だとシュタインは言った)が、天蓋の下の高い椅子に腰掛けている会議室へ入っていった。
老スコットランド人は、ステッキをドシンドシンと突いて片脚を引きずり、シュタインの腕をつかんで、彼を女王の椅子の前へ連れて行った。
『女王様やラージャ様方、ご覧下さい、これは私の息子でございます』と彼は非常に大声で言った。『私は、貴方がたのお父上たちと貿易をしてきましたが、私が死んだら、この子が代って、貴方がたや御子息さま方と、取引きをいたします』
この単純な形式的な手続きで、シュタインは、スコットランド人の特権ある地位と彼の貿易の在庫品全部を、その国の船の通れる唯一の河の岸にある要害堅固な家とともに受け継いだのだった。
それから間もなく、大そう雄弁なこの老女王は逝去し、国は様々の王座を狙う贋物たちに悩まされるようになった。シュタインは、女王の若い子息の一味に加わった。これが、それから三十年後にもなおシュタインが『わしの気の毒なマホメット教のボンソウ』としか呼んだことのない若い皇子である。
シュタインとボンソウ王子とは数えきれない偉業のヒーローとなった。二人は、すばらしい数々の冒険をし、ある時は、ほんの二十人ばかりの従者をつれてあのスコットランド人の家にいて大軍隊に包囲攻撃され、そこで一カ月間持ちこたえたそうだ。今日でも、たしか土人たちは、あの戦さを語り草にしていると私は思う。
一方、シュタインはその間、自分自身のために、手に入るかぎりの蝶やかぶと虫類を採集することをけっして止めなかったようだ。
こうして約八年にわたる戦いの後に偽りの講和協定、突然の暴動、和解、裏切り等々がつづき、ついに永久的平和が確立するかと思われたちょうどその時、彼の『気の毒なマホメット教のボンソウ』は、大成功の鹿狩りから意気揚々として戻り、自分自身の王宮の門前で、下馬しようとした時暗殺された。
この事件で、シュタインの地位は非常に不安定なものになった。しかし、もしその後、日ならずして、ボンソウ王子の妹(『わしの愛する妻、王女』といつもシュタインは厳かに呼んでいた)を失う事件が起きなかったら、たぶん彼は、そこに踏み止まったに違いない。
この王女との間にシュタインは一人の娘をもうけたが、母と子供とは、伝染性熱病で、その間三日をへだてずに二人とも死んでしまった。
シュタインは、この残酷な喪失に耐えられず、国を出た。こうして、彼の生涯の最初の冒険的な部分は幕をおろした。
それにつづく後半の生涯は、あまりな変貌のし方で、もし片時も彼を離れない切実な現実の悲しみがなかったら、この奇妙な後半の生活は、彼には夢としか思えなかったに違いない。
彼は少額の金を持っていたので新しい生活をはじめ、何年かするうちに相当の財を築いた。彼は最初は島々を大いに旅行して回ったが、しかし、しだいに老いの影がしのびより、最近は、めったに、町から五、六キロ離れたところにある自分の邸を離れなかった。彼の家は、周囲を数々の馬小屋、事務所、数多の召使いの住む竹の家々にとりかこまれた、厖大な庭園のある大邸宅だった。
彼は毎朝、自家用馬車を駆って白人と支那人の従業員のいる彼のオフィスのある町へと出掛けていった。彼は数隻のスクーナー船と地船《じぶね》からなる小船団を持っていて、大規模に島々の産物の取引きをしていた。
このほかは、彼は静かな孤独の生活をつづけていたが、しかし人間嫌いではなかった。書物もたくさんあり、蒐集もあり、分類、標本製作、ヨーロッパの昆虫学者との文通、彼のお宝の解説やカタログ作成に時をすごしていた。
これが、いま私がべつにハッキリした希望もなく、ただジムの問題を相談にやってきた相手の男の経歴である。ただ彼の言うことを聞くだけでも、私はなんとなく気が楽になるだろう。
私は早くそうしたかったが、しかし、彼が熱心に、ほとんど夢中で、一匹の蝶に見惚れている姿に、私は静かに敬意を表した。――彼はさも、そのブロンズ色にきらめく蝶の脆いつばさの上に、その純白の翅脈の中に、その陸離たる斑紋の中に、ほかの何かが――死によって損われない燦爛たる美を見せているこのデリケートな生命なき薄羽のように、死してなお滅亡にいどむ何かの幻を見ているかのように、じっと見惚れている……
『驚異だ』
と、彼は私を見上げてさっきの言葉を繰りかえした。
『見給え! この美――しかし、そんなものより――この正確さ、この調和。しかも、こんなに脆く! しかもこんなに強く! しかも、こんなに一点の狂いもなく!これが自然だ――途方もなく巨大なもろもろの力のバランス。あらゆる星がそうだ――そしてあらゆる草の葉がそうだ――偉大な、力ある宇宙は、完璧な均衡を保って産み出す――これを。この不思議を。この――大自然の傑作を――偉大な芸術家だ』
『昆虫学者がこんな風に話すのは、いまだかつて聞いたことがありませんな』と私は快活に言った。『傑作! では、人間はどうです?』
『人間は実に驚くべき作品だが、しかし、傑作ではないな』
シュタインは、じっとガラスのケースを見つめながら言った。
『たぶん、芸術家が少し狂ってたんだ、え? 君はどう思う? 時どき、わしは、人間てのは、招かれもしない場所へやってきた、どこにも安住の場所のない奴のような気がする。だって、もしそうでないなら、なぜ人間はあらゆる場所へ行きたがるのか? なぜ人間は、あちこち走り回って自分のことを大宣伝して回ったり、星の話をしたり、草の葉をかき分けて山野を駈け回ったりするのか?』
『蝶々を捕まえたりね』
と、私は口をはさんだ。
彼は微笑って、また椅子に戻って脚をのばし『まあ、かけ給え』と言った。
『わしは、世界に珍らしいこの蝶の標本を、あるよく晴れた朝、自分で捕まえた。実に大した感激だったな。こんな世にまれな標本を捕まえるのは採集者にとってどんな悦びか、君には判らん。君にはとても』
私は揺り椅子の中で気楽に微笑んだ。
シュタインは、じっと壁を見つめながら――しかしその目は、壁をこえて遠い彼方を見つめているように見えた――話しだした。
ある晩、『気の毒なマホメットのボンソウ』からの使者が到着して、彼に、自分の邸へ来てくれるようにとたのまれた。ボンソウの邸は、馬道で十七、八キロ、小さい森のあちこちに散在する耕地を越えた場所にあった。
早朝に、彼は、小さい娘のエンマを抱きしめ、彼の妻の『王女』に家の采配をまかせて、要害堅固な自邸を出発した。彼は、妻が片手を彼の乗馬の首にかけて並んで歩きながら、門のところまで彼を見送ったときの様子や、彼女が白いジャケツを着、髪に金のピンを挿し、拳銃つきの茶色い革ベルトを左の肩にかけていた様子を説明した。彼は言った。
『彼女は、よく世間の女たちが言うように、私に、よく用心して、暗くならない中に帰って来て下さい、貴方がたった独りでお出掛けになるなんて、ほんとに、とてもいけない事だわ、と言いました。時は戦争中で、国内は不穏の気がみなぎり、わしの従者たちは邸に弾丸よけの雨戸を立て、ライフル銃に充弾していた。
そして彼女は、自分のことはけっして心配しないで下さいと言った。わたくしは、貴方のお帰りまでは、どんな敵が来ようとも家を守り抜きますからと。私は嬉しくて微笑った。彼女がこんなに勇敢で、若く、強いのを見るのは好ましかった。私も、その時は若かった。
門のところで、彼女は私の手を取り、強く握りしめて後にさがった。私は、門の外で馬を立ち止まらせ、門の閂がかかる音を聞いてから走りだした。
私は七、八キロ駆け足で走った。昨夜の雨のあと、霧はカラリと上がり――大地の面はきれいに洗われ、いきいきと無邪気に私にむかって微笑んでいた――可愛い子供のように。
とつぜん、誰かが一斉射撃をあびせた――二十発。少なくとも私にはそう思えた。弾丸が耳の中でうなり、私の帽子が、頭の後にふっとぶ。小さい陰謀だったんだね。奴等は私の気の毒なマホメット教の王子を瞞して私を呼び出させ、そして、あの伏兵を置いたんだ。
私は一瞬間でその全貌を見抜き、考える――こいつは、ちょっと術策を要するぞ。――私の馬は鼻嵐をふき、跳び上がり、前脚で突立つ。そして私はずるずると頭を馬のたてがみにのせて前方にのめった。馬は歩き出す。私は片眼で、馬の首ごしに、薄い雲烟が私の左手の竹林の前にたなびいているのを見てとった。
私は考える――ハハア! 伏兵諸君よ、なぜ、もっと待ってから射たなかったんだ? まだ射程じゃないぞ。おお、まだだ! 私は右手で自分の拳銃をにぎる――静かに――静かに。
結局、この悪漢は、ほんの七人だけだった。彼等は草の中から起き上がり(腰に巻いた)サロンをまくし上げ、頭上に槍を振りかざし、馬をふんづかまえろと叫び合いながら走りだす――私を死んだと思ってだ。
私は、ここのドア位まで彼らを近くに来させ、次の瞬間、バン、バン、バン――それも一発ずつ狙い射ち。また一発、男の背中に向かって射ったが、はずれる。すでに遠のきすぎている。
それから、私は、清浄な大地がほほえみかけている中に唯一人馬にまたがる。地面には三人の男の死体が横たわっている。一人は犬のように丸まり、いま一人はあお向けに倒れ、さも太陽の光をよけようとするように片腕を眼の上にのせている。三人目の男は、ごくゆっくり片脚をちぢめて膝立てし、一蹴りでまたピンと伸ばす。私は馬上から、じっと注意ぶかくそれを見守っているが、もうそれっきりだ――全く動かない――とても静かだ。
何か生きている気配はないかと彼の顔を見たとき、私は何かかすかな影のようなものが彼の額の上を通るのを感じた。それは、この蝶の影であった。このつばさの形を見たまえ、この種類は強い飛翔力をもっていて高く飛ぶ。
私は目を上げて、蝶がひらひらと舞って行くのを見た。私は考える――いったいこんな事があり得るだろうか? と、たちまち蝶は見えなくなった。私は馬から降り、ごくゆっくり馬を引いて歩きながら、片手で拳銃をにぎり、目を上下左右、ありとあらゆる所に回して探しまわった!
ついに、蝶が、十フィート向こうの小高い塵芥山の上にとまっているのを見た。たちまち、私の心臓は早鐘のように鼓動を打ちだした。私は馬を放し、一方の手に拳銃を持ったまま、もう一方の手で、頭から柔かいフェルト帽をむしり取った。一足。落ち着いて。また一足。パタッ! つかまえた! 立ち上がったとき、私は昂奮のあまり木の葉のようにわなわな顫えていた。そして、この美しいつばさを拡げてみて、なんという世にも珍らしい、すばらしい完璧な標本をつかまえたんだろうと確認したとたんに、私は頭がくらくらし、感動のため脚から力が抜けて、へなへなと地面に坐ってしまった。
私は、かつてあの自然科学者のために採集していたとき、あの種類の標本をぜひ一つ自分で所有したいものだと探し求めていた。私は長い旅をし、そして非常な窮乏に耐え、眠ればこの蝶の夢をみていた。それが、いまや突然、私はこの掌中にそれを握ったのだ――自分自身の所有として! 詩人《ポエット》(彼はそれをボエットと発音した)の言葉を借りれば――
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かくて遂にそを我が手中にとらえ、
ある意味にてそを、我がものと呼ぶ』
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彼はこの最後の言葉にひとしお感慨をこめて急に声をおとし、ゆっくり私の顔から目をそらした。そして黙ってせっせと長い羅宇《らう》のキセルにタバコを詰めはじめ、それから拇指を静かに詰め口にあてて、意味深長な目でふたたび私の方を見た。
『そうなんだ、ねえ君。あの日、わしは申し分なかった。一番の敵を大いに攪乱したし、自分は若くて強かった。友人もあった。女の愛《ラブ》(彼はロワと発音した)もあり、子供もあり、心の海は満々と満ちあふれていた――そして、かつて夢にまでみたこの蝶さえも、自分の手に入ったのだ!』
シュタインはマッチをすった。火が勢よく燃え上がった。彼の考えぶかい静かな顔が、一度ピクッと引きつった。
『親友、妻、子供』
と、彼は小さなけむりをじっと見つめながら、ゆっくり言った――
『フーッ!』
マッチが消された。シュタインはといきをつき、ふたたびガラス箱の方に向きなおった。さも彼の一息が、その瞬間、彼の夢の対象であったあの絢爛たるものの生命を呼び戻しでもしたかのように、そのもろい、美しいつばさが微かにふるえた。
『仕事は』と、彼はとつぜん、散らばっている紙片を指しながら、普段の優しい、快活な声で言いだした。『大いに発展しています。いままで私は、この珍らしい標本の説明をしていたが……いや! で、君のグッド・ニュースはなんです?』
『実を言えばね、シュタインさん』と、私は自分でも驚くほど熱心をこめて言った。『私はここへ、説明にやってきたんです、ある標本の……』
『蝶の標本?』
シュタインは、おどけた熱心さで訊いた。
『いや、それほど完全なものじゃありません』
私は急に、いろいろの疑惑が湧きあがって、元気がくじけた。
『男です!』
『ハハア、そうか!』
と、彼はつぶやいて、微笑んだ顔を私の方にむけた。そして急に真顔になって、しばらく私を見ていたが、やがてゆっくり言った。
『なるほど――私もやはり男だが』
いかにも彼らしい言い方だ。彼は、堅人《かたぶつ》の男を、打ち明け話の瀬戸際にためらわせるほど、すばらしく寛大で相手を元気づける術を心得ていた。しかし、たとえ私はためらったにしろ、それはほんのちょっとの間だった。
シュタインは脚を組んで坐ったまま、私の話を聞いていた。時どき、彼の頭は、噴煙の大爆発の中にすっかり見えなくなり、同情のうなり声が、その雲の中から聞こえた。
私が話し終わると、彼は組んだ脚をとき、パイプを下に置き、椅子の肘掛けに肘をついて両手の指先を合わせ、熱心に私のほうへ身を乗りだした。
『よく判った。その青年はロマンチックなのだ』
シュタインは、私のために患者に診断を下し、最初私は、なんだ、こんなに単純なことだったのかと、唖然とした。じっさい、私たちの会談は、医者の立会いに似ていた――学者らしい風貌のシュタインが机に向かって肘掛け椅子にすわっており、他方私は、心配そうに、少しわきに寄って彼と向き合っており――私は自然、こう質問した――
『これはどうしたらいいでしょう?』
彼は長い人差し指を立てた。
『治療法はただ一つしかない! ただ一つの事だけが、われわれを、われわれ自身である事から脱却させ、癒してくれる!』
立てていた指が、バタッと小さい音を立ててデスクの上に下りた。彼がさっきあんなに簡単に判らしてくれた患者の病症は、いまやいっそう簡単になったようだ――そして全く絶望的に。しばらく沈黙がつづいた。
『そうですな』と、私は言った。『しかし、厳密に言えば、問題は、いかにして治癒するかではなく、いかにして生きるかです』
彼は少し悲しそうに頭を振って同意した。
『もっともだ! もっともだ! 概して、君の大詩人の言葉を借りれば〔シェークスピア、ハムレット中の名句〕――それが問題だ……』彼は同情するようにうなずきながらつづけた……『いかにして生きるか! ああ! いかにして生きるか』
シュタインは、指先をデスクに突いて立ち上がった。
『われわれ人間は、じつに多種多様の生き方をする』と、彼は言いだした。『この壮麗な蝶は、小さい塵芥《ごみ》山を見つけて、その上に静かに止まった。しかし人間は、けっして自分の泥山の上に静止しない。人間は、こうしたがるかと思うと、またああしたがる……』
彼は、片手を上にあげて、また下ろし……
『人間は聖人になりたがり、また悪魔になりたがる――そして、目を閉じるたびに、≪実にすばらしい奴である≫自分自身を見る――余りすばらしくて、とても実際にはなれる見込みのない……夢の中で……』
シュタインは、ガラス箱の蓋を下ろした。自動式の錠がカチッと鋭い音を立てた。彼は、両手で厳かにそのガラス箱をもたげて、元の場所へもどし、ランプの明るい光輪の中から出て、次に薄暗い光の円の中を横切り、ついにランプの光の全くとどかない、形なき暗闇の中へと入っていった。
それは、あたかもその数歩で、彼はこの有形の複雑な世界の外に運び出されてしまったような奇妙な印象を与えた。彼の高い姿が、さも実体を失った影のように、音もなく暗闇の中でかがみこんだり、動いたり、見えない物の上をさ迷ったりしているようだ。彼の声が、神秘な影のように何かしている姿がチラリと見える遠方から、もはやあの鋭敏な声ではなく――距離に柔らげられ豊かに、重々しくひびいてくるように思われた。
『それに、われわれは始終目を閉じきりではいられないので、ここに本当の苦労が――心の痛みが――人間苦がある。ねえ君、誰だって、自分の力が不足だったり、知恵が足りないために、自分の夢が実現できないのを知るのは、気持のいいものじゃないからねえ。そうとも!……しかも、いつだって、自分はこんなにすばらしい奴なのに! どうして? なんで? ああ! これはいったいどうしたことか? ハッ! ハッ! ハッ!』
蝶たちの墓地をさ迷っていた影法師は、とつぜん嵐のように哄笑《こうしょう》した。
『そうだ! この恐るべき事実は、また実に奇妙だ。この世に生まれて夢にとり憑かれた人間は、海にはまった人間に似ている。もし未経験者がするように、がむしゃらに空中に這い出ようとすれば、溺れてしまう――そうじゃないか?……だめだ! それではだめだ!
方法は、この己れを破滅せんとする海に自分をまかせ、その水の中で君の手足を働かせて、深い深い海自体に、君を浮き上がらせるのだ。で、もし君が私に――いかにして生きるか? と訊くなら――』
彼の声が、さもその暗闇の中で何かの知恵にささやかれ、霊感を受けでもしたように、急に異常な力強さでひびいた。
『君に教えよう! それも、道はたった一つきりだ』
シュッシュッとあわただしく彼のスリッパの音がして、彼の姿が薄明りの輪の中に高くそびえ、とつぜん、明るいランプの光輪の中に現われた。片手をピストルのように私の胸にむかって延ばし、その深くくぼんだ目は、私を刺し通すようだったが、彼のピクピクする唇からはなんの言葉も出ず、あの暗闇の中で見えた確信のはげしい歓喜は、彼の顔から消えた。
私の胸を指していた彼の手は下にさがり、やがて、彼はまた一歩近づいて、その手を優しく私の肩にかけた。そして悲しそうに言った。彼にはたぶん、まだけっして人に語ったことのないいろいろの事があったろうが、ただ余り長年独りぼっちで生きてきたので、彼はそれを忘れてしまった――忘れてしまった。彼は遠い暗がりの中で吹きこまれた確信を、光によってぶち壊されてしまったのだ。彼は腰をかけ、両手の肘をデスクの上について、額をこすった。
『だが、やはりあれは本当だ――あれは本当だ。己を破壊する海の中に、自ら沈みつかって』……
彼は低い声で、私の方を見ずに、両手で頬杖をついて言った。
『それが唯一の方法だった。夢を追っていく、そして、なおも夢を追っていく――そしてこうして――ewig(永遠に)――usque ad finem(永遠に)……』
シュタインの低い確信のささやき声で、私の前には、暁の平原のほのぼのと白みかかった水平線が、渺々と、しかしぼんやり開けてきた感じだった。――それとも、あれは、夜の近づいた薄暮の光だったろうか? そのいずれかを決める勇気はなかったが、しかし、それは、実体の把捉できないほのかな詩情を穴の上に――墓の上に投げかける魅惑的な、欺きやすい光だった。
シュタインの人生は、高潔な思想のための犠牲と情熱にはじまり、彼は非常に遠く、さまざまな方法で、初めての不案内な道を旅し、どこを行く時も、ためらわず雄々しく進み、したがって恥ずることも後悔もなかった。ここまでは、彼は正しかった。たしかに、これが正しい人生の生き方である。
しかし、それにもかかわらず、人間たちが数多の墓や落とし穴の間を分けてさ迷い歩いている大平原は、依然として幽玄な詩情の薄暮の光の中に、その中央は暗くかげり、さも炎の深淵にとり巻かれてでもいるように周囲は明るくふちどられ、わびしく荒れ果てていた。
ついに私は沈黙を破って言った――貴方自身こそ、誰よりもロマンチックだと。
シュタインはゆっくり首を振り、それから、チラリと、忍耐づよい、質問するような目で私を見た。そして、お恥ずかしいことだね、と言った。
私たちは、頭を突き合わせて、何か実際的なことを――ジムのために実際的な治療法を――悪弊を癒す――を見つける代りに、二人の無心な少年のように腰かけて話し合っており、シュタインは、おどけた、鷹揚な微笑をうかべて――大した悪弊を癒す――実際的治療法をね――と繰りかえした。
にもかかわらず、私たちの話は、一向に実際的にならなかった。私たちは、さも、二人の会話から血肉を持った肉体を除外しようとしているかのように、あるいは、彼はただ一つの誤った精神、苦しんでいる無名の影にすぎないかのように、ジムという名を口にすることを避けた。
『いかん!』と、シュタインは立ち上がりながら言った。『今夜は、君ここへ泊って、明朝、二人で何か実際的なことをしよう――実際的な……』
彼は二股の燭台に火をつけ、私を案内して歩きだした。私たちは、シュタインの持ったともしびの光に付添われて、いくつかの人気のない暗い部屋部屋を通りすぎていった。光は、うねうねとワックスを塗った床の上をすべって行き、そちこちで磨き上げたテーブルの面をサッと照らし、家具の断片的な曲線の上に飛び、遠方に並んだ鏡にピカリピカリと垂直に閃めいては消え、その間を、二人の男の姿と、チカチカと揺れる二つのほのおとは、透明な空間の深みを黙々と、忍びやかに横切っていった。
シュタインは一足先に、慇懃に前かがみの姿勢でゆっくり歩いていった。その顔には深ぶかと何かに耳をすましているような静けさが漂い、白いしまのある長い亜麻色の巻毛が、彼のわずかにうつむいた頚に薄く散っていた。
『彼はロマンチックだ――ロマンチックだ』と、シュタインは繰りかえし、『そして、これはひどく悪いことだ――ひどく悪い。……大へん良いことでもあるがね』と、つけ加えた。
『でも、彼はそうでしょうかな?』
と、私はたずねた。
『確かに』
と、シュタインは言って、華麗な燭台をかかげたまま、私の方は見ずに、ピタリと立ちどまった。『明らかに! 何か、彼に内なる苦痛を与えて、彼に自分自身を知らせるのか? 何が、君と私に、彼の――存在を感じさせるのか?』
その瞬間、私はジムの存在を信じるのが困難だった――故郷の田舎牧師の家から出て、砂塵にかすむように群集の中にぼんやり見えなくなり、物質界ののるかそるかの相剋の喧騒にその声をかき消されて。――しかし、やがて、彼の不滅の実体が、私に強くせまってきた!
私はそれをハッキリ実感した。ちょうど、われわれがこの高雅な静けさにつつまれた部屋部屋を通りぬけて、滑って行く光の中をすすんで行くうち、その明減するほのおをあびて、底知れぬ、透明な深淵の中にしのび入っていく二人の人間の姿が突然パッと浮かび上がるように。――その瞬間私たちは、美そのもののように、神秘の静かな水中に半ば没して、捕えがたく、朦朧と浮かび上がった絶対的真理の近くに接近したのだった。
『たぶん、彼はそうでしょう』
私はちょっと笑って認めたが、それが意外に大きくあたりに反響したので、私は急いで声を低くしてつづけた。
『しかし、シュタインさん、貴方はたしかにそうですな』
彼は、首を深くうなだれ、灯を高くかかげて、ふたたび歩きだした。
『まあ――私も存在している』と、彼は言った。
彼は私の先に立って歩いて行く。私は彼の動作を目で追ったが、私の目に映ったのは、商会の首領ではなく、午後の名士接待会の大切な賓客でもなく、各学会と手紙を交換している人物でも、また行きずりの自然科学者を歓待する大家の主でもなかった。私の見たのは、ただロマンチストという宿命を背負った現実の彼であった。彼はその運命に断固とした足どりで従っていき、その人生は低い身分にはじまり、高潔な熱狂、友情、愛、戦争に――あらゆる気高いロマンスの要素によって豊かに色どられていた。
私の部屋のドアのそばで、シュタインは私の方を向いた。
『ええ』と、私はさも会話のつづきを言うような口調で言った。『そして、いろいろの夢の中でも、特に貴方は愚かにもある蝶の夢にとり憑かれていた。ところがある晴れた朝、貴方の夢が行く手に現われ、貴方はそのすばらしい好機会を逸さなかった。そうでしょう? ところが、彼は……』
シュタインは片手をもたげた。
『そして君は、私がどれ位多くの好機をとりにがしたか、私の行く手に現われたどれ位多くの夢を捕え損ったか知っているかな?』
と、彼は残念そうに頭を振った。
『そのあるものは、とてもすばらしかったろうと思う――もし私がそれを実現させていたらね。君、そういうのが幾つ位あったと思う? たぶん、私自身にだって判らない位たくさんだ』
『彼のはすばらしいかどうか知らんが』と私は言った。『とにかく彼は、たしかに一つの好機を掴みそこなったことは知っている』
『誰もみな、一つ二つそういう覚えがある。そして、それが悩みの種だ、――大きな悩みの種だ……』
彼は敷居の上で握手をし、燭台を高くさし上げた自分の腕の下から、私の部屋の中を覗いた。
『ゆっくり休みたまえ。そして明日、二人で、何か実際的なことをせにゃならんね――実際的なことを……』
彼自身の部屋は、私の寝室よりもっと先にあったのに、私は、彼がいま来た道をまた引返していくのを見た。
シュタインは、彼の蝶のところへ戻っていくのだ」