青春・台風
ジョーゼフ・コンラッド作/田中西二郎訳
目 次
青春
台風
解説
[#改ページ]
青春
イギリスのように、いわば人間と海とが、たがいに隅々まで浸《し》みこんでいる国……海が大多数の人間の生活のなかに入りこんでいて、人間のほうも、娯楽でか、旅行でか、それとも生計の道としてか、海について多少とも、あるいは何から何まで、知っている……そういう国でないと、こんな景色はまあ見られないだろう。
マホガニーのテーブルに、酒壜《さかびん》だの、葡萄酒盃《クラレット・グラス》だの、肱《ひじ》にもたれたみんなの顔だのが映っている、そのテーブルを囲んで、私たちは腰をおろしていた。一座は、諸会社の社長が一人、会計士が一人、弁護士が一人、それにマーロウと私とだった。社長はむかしコンウェイ号の乗組員だったし、会計士は水夫を四年間つとめたことがあるし、弁護士は……上等な古酒のように生粋《きっすい》の保守党《トーリー》で、厳格な国教徒で、仲間のうちでいちばん愉快なやつで、いのちよりも名誉を大切にする男……まだ郵便船が少なくともマスト二本を横帆《おうはん》装置にして、下にも上にも張った補助帆に、さわやかなモンスーンを孕《はら》ませながら、支那《シナ》海を渡っていった、なつかしいあの頃、|P・&・O《ピー・アンド・オー》会社の船で一等航海士をやっていたのが、この男だ。私たちはみな商船の乗組員を人生の振りだしにした。私たち五人のあいだには、海という強い結びつきがあるのに、まだその上に同じ海員仲間としての親しみがあって、これはヨットが面白いの、遠洋航海が楽しいのというのとは、くらべものにならぬ親しみである。そんなものは人生を楽しむことにすぎないが、一方は人生そのものだからだ。
マーロウ(Marlow……たしか彼はこの名をこう綴《つづ》っていた、と私は思っているが)が、ある海の話を……というよりも記録に近いものを……話して聞かせた。
『うん、まあおれも、これで東洋の海を少しは見てきた人間だが、やはりいちばん忘れられないのは、初めてあっちへ行ったときのことだ。きみたちも先刻ご承知のことだが、まるで人生をまざまざと絵に描いてみせるように仕組まれたといおうか、生きるということを象徴化してみせるといおうか、そんな航海をすることがあるね。何かしらやりとげようと思って、悪戦苦闘して、はたらいて、汗みずくになって、死ぬほどへとへとになって、ときにはほんとに死んじまうことだってある……が、それでいてやりとげることができない。それも当人の失敗《しくじり》のためじゃない。ただ単に人間は大小にかかわらず何ごともできない……何ひとつできないことがあるものだ……いいかげん年をとった生娘《きむすめ》ひとり女房にすることもできなければ、たかが六百トンばかりの石炭を目的の港まで持ってゆくことさえできないものなんだ。
あのときのことはまったく思い出が深いよ。おれの東洋への初航海で、二等航海士になっての処女航海で、おまけに船長がまた、初めて船長として一船を指揮した航海だったんだ。そうなってもいい時分だってことは、きみたちならすぐわかってくれる。船長は、もうかれこれ六十になってる小男で、背幅は広いがあまりまっすぐでなく、撫肩《なでがた》で、片足の膝がほかの足よりガニ股《また》で外へまがっているところ、それ、野良《のら》ではたらく男によく見かけるだろう、妙にヨタヨタとねじれたような感じの爺《じい》さんだ。顔は胡桃《くるみ》わり面《づら》というやつで……へこんだ口の上で顎《あご》と鼻とがぶつかりそうになってる……その顔が、鉄鼠《てつねずみ》色のふわふわな毛の額縁におさまって、なんのことはない石炭の粉をふりかけた木綿綿《もめんわた》の顎紐《あごひも》をかけたようだ。そしてその老いぼれた面相に嵌《は》まってるのが、びっくりするほど若々しい、少年のような蒼《あお》い眼でね、ときとするとごく低い身分の男たちが、人並みはずれて質朴な心と正直な魂とを内部に恵まれてるために死ぬまで失わずにいる、あの純潔な表情をしている人だった。
船長がなんでおれをつかう気になったかは、まあひとつの不思議だね。おれはオーストラリア航路の優秀な快速船《クリッパ》の三等航海士をやめてきたところだったが、爺さんは優秀快速船なんて殿さま面《づら》して、もったいぶってやがるって毛嫌いしていたらしい。おれにこう言ったよ。「いいかね、この船に乗ったら、働かなきゃならんぜ」
おれは、いままでに乗ったどの船でも、やっぱり働かなきゃならなかったと言った。
「そりゃそうだが、この船はまた別だからな、どうもお前さんみたいに大きな船から来た者は……まあいいわ! 思いきって、いいことにしておこうよ。あした乗り組むがいい」
そこで翌日、おれは乗り組んだ。二十二年のむかしだ、おれはちょうど二十歳《はたち》だった。おどろくなあ、月日のたつってものは! あのときは、おれの一生でのいちばん幸福な時代のひとつだった。まあ考えてもみてくれ! はじめて二等航海士になったんだ……ほんとうに責任のある高級船員の地位だからな! ひと財産くれると言われたって、この新しい地位を捨てるつもりは、おれにはなかったね。一等航海士は、じっくりと、おれの様子を見まもっていた。これもやっぱり爺さんだが、船長とは柄《がら》がちがう。ローマ人式の鼻で、真っ白な長い顎《あご》ひげを生やして、名前はマホンというんだが、当人の主張によると、マンと発音しなきゃいけないんだそうだ。立派な親類縁者もあったけれども、どうも運に恵まれないところがあって、出世ができなかったひとだ。
船長はというと、このひとは長いあいだ沿岸航路にいて、それから地中海に、最後に西インド貿易をやった。ホーン岬や喜望峰《きぼうほう》は一度もまわったことのないひとなんだ。まあ落書きの絵みたいな字が少し書けるだけで、ペンをもつことなんぞまるで好かない。もちろん二人とも申しぶんのない良い船乗りで、この二人の年寄りといっしょにいると、おれは二人の祖父のあいだに挟《はさ》まってる小さな孫みたいな気がしたものだ。
船も年寄りだった。ジュデア号という名でね。変な名前だろう? ウィルマーとか、ウィルコックスとか……なんでもそんな名の船主だったが、その男はもう二十年も前に破産して死んじまったから、名前なんぞどうだっていいわけだ。この船はそれまでずっと、艤装《ぎそう》を解いてシャドウェルのドックに入れっぱなしになっていた。だからどんな有様だったか、ご想像にまかせるよ。まあサビだらけ、ゴミだらけ、ススだらけ……上のほうは煤煙《ばいえん》でまっくろけ、甲板は埃《ほこり》でべとべとだ。おれにしてみると、まるで御殿から出て壊れかかった百姓家へ入ったようなものだった。ざっと四百トンぐらいで、古風な巻揚機《ウインチ》があって、扉の締りは木の掛金でね、真鍮《しんちゅう》なんぞひとつだって使っていないし、船尾《とも》は大きい四角い形だった。その船尾のところに大きな字で船名が書いてある下に、ごてごてと、金箔《きんぱく》の剥《は》げた渦形の装飾があって、「斃《たお》れて後|已《や》む」という格言を下にくっつけた紋章みたいなものが描いてあった。
その紋章がひどくおれの空想を刺激したことを、おれは忘れない。なんとなく昔なつかしい気持を起こさせるロマンスめいた感じが、そこにあった……なんとなくおれの若さにうったえるものが!
バンコックむけの石炭を、北のほうの港で積みこむので、底荷を積んで……底荷は砂だ……ロンドンを出た。バンコックか! おれはぞくぞくした。六年も海にいたが、メルボルンとシドニーしか見たことはない。どちらもいいところで、途中の道も愉快だったが……さてバンコックとはね!
おれたちは北海の水先案内を乗せて、帆を張ってテムズ河から乗りだした。水先案内の名はジャーミンといって、この男は一日いっぱいストーブの前でハンカチを乾《かわ》かしながら、炊事室のなかをまごまごしていた。陰気くさいやつで、たえず鼻のあたまに涙をひとしずく光らせ、よっぽどこれまで何か困ることでもあったか、現にいま困ってるか、それとも困ることが起きそうで心配してるのか……どっちにしても何か悪いことでも起きない限り絶対に幸福になれないような顔をしていたっけ。そいつは、おれの若さも、おれの常識も、おれの船乗りとしての技量も、みんな信用の種にして、事ごとにその不信用を顔にあらわしたがっていた。
はっきり言うがね、やつの判断は当たっていたんだ。あの時分のおれは、まるでなんにも知らなかったし、いまだってたいして知ってるとは思わない。けれどもそのときのことで、おれはいまだにジャーミンのやつ、癪《しゃく》にさわる野郎だと思ってるよ。
ヤーマスの外港まで、一週間かかって辿《たど》りついてね、それから暴風《しけ》に遭《あ》った……二十二年前の、あの有名な十月の暴風《しけ》だ。大風、稲光《いなびかり》、みぞれ、雪、そして怖《おっ》そろしく海が荒れたっけ。船はびゅうびゅう吹きとばされた。舷牆《げんしょう》が打ち砕かれて甲板が水びたしになったといえば、どんなにひどい「ざま」だったか、きみたちなら想像がつくはずだ。
二日目の晩には、底荷は船首の風下側に位置を変えてしまい、その頃はもうドッガー・バンクあたりまで吹き流されていた。仕方がないからシャベルを持って下りていって、船の姿勢を直しにかかったが、さあそのだだっぴろい船艙《せんそう》の、洞穴《ほらあな》みたいに薄ぐらい、獣脂《じゅうし》蝋燭《ろうそく》の梁《はり》に立てたやつがチラチラ揺れてるところで、上では疾風《はやて》が吼《ほ》えてるし、船は右に左に気ちがいみたいによろけまわるし、そんななかでジャーミンも船長も、乗員のこらず、足許《あしもと》も定まらぬまま、濡れた砂をシャベルにすくっては風上へ投げ戻そうと、墓掘人夫の仕事に精をだしたわけさ。
船がひとつグラッとよろめくたびに、みんながシャベルを派手に振りまわしながら尻餅《しりもち》をつくのが、薄ぐらい光のなかにボンヤリみえる。ボーイの一人(ボーイは二人いた)が、その場の物凄い景色におびえたんだろう、胸が張り裂けそうに泣いていた。そのへんの暗がりのなかで、その泣きじゃくる声が聞こえていたんだよ。
三日目に暴風《しけ》はやんで、しばらくすると北国《きたぐに》の曳船《ひきぶね》が一隻、おれたちを拾いあげてくれた。ロンドンからタイン河まで、十六日かかったわけだ! ドックへ入ったときは、とうに約束の荷を積む順番は過ぎていたから、こわれ船がずらりと並んでるところに引張りこまれて、そこでひと月ばかり待たされた。ビヤード夫人(船長の名前はビヤードっていうんだ)がコルチェスターからご亭主に会いに来てね。船の上で暮らしていた。水夫連中は下船して、残っていたのは幹部船員と、ボーイと、それからエイブラムという名で呼ばれてる白黒|混血児《あいのこ》のスチュワードと、これだけだった。
ビヤード夫人は、冬の林檎《りんご》みたいに皺《しわ》だらけな、赤ら顔だが、姿は若い娘みたいにしっかりしたお婆《ばあ》さんだった。ある日ボタンかがりをしているおれの姿が目にはいったら、どうしてもおれのシャツを繕《つくろ》ってやると言って承知しない。これはちょいちょい快速船《クリッパ》へやってくるので知りあった船長の奥さん連とは、どこか勝手がちがっていた。おれがシャツを持ってゆくと、お婆さんが言うんだ。
「それから靴下は? 継ぎをあてなきゃ困るんでしょ。ジョンの……つまりビヤード船長の……ものは、もうすっかり済みましたのよ。何かすることがあると、あたしは嬉しいんですよ」
いいお婆さんだったなあ。そんなふうにおれの衣類一式をお婆さんが始末してくれてるあいだに、おれは初めて『衣裳哲学《サーター・レザータス》』とバーナビーの『キバへの騎馬旅行』〔キバは今のウズベク・トルクメン両共和国にあたる地方〕とを読んだ。そのときはカーライルのほうはよくわからなかったが、とにかくあの哲学者よりは軍人の著者のほうが気に入ったことを憶《おぼ》えている。こういう好ききらいはその後もやっぱり変わらない。軍人はとにかくひとりの人間だが、哲学者ってものは、ただの人間よりえらいかも知れんが……それより下らないかも知れないんだ。だがどっちにしたところで、ふたりとも死んでしまったし、ビヤード夫人もこの世にはいない。そして青春も、五体にみなぎる力も、天分も、思想も、成しとげた事業も、素朴なこころも……なにもかも死んでゆく………いや、なに、大したことではないよ。
やっと船積みが済んだ。乗組員も雇い入れた。腕っこきの水夫が八人、ボーイが二人。
ある晩、ドックの入口の浮標《ブイ》のところまで船を曳いて行って、いつでも出帆できる用意をすませ、風むきも上乗《じょうじょう》なので、明日はいよいよ航海がはじめられる見込みがついた。ビヤード夫人は、その晩のおそい汽車で発《た》つはずになっていた。船に錨《いかり》をおろして、おれたちはお茶をのみに行った。お茶のあいだ、みんな口数もあまりきかない……マホンと、老船長夫婦と、おれと、この四人だ。おれが最初に食事をすませ、おれの船室は船尾《とも》の甲板室にあるから、一服しようと思って、食堂をぬけだした。小雨を含んだ快い風が吹いて、ちょうど満潮だった。両開きのドックの水門が開かれて、石炭はこびの汽船が何艘《なんそう》も、闇《やみ》のなかに灯をあかあかとつけて出たり入ったりしている。プロペラが大きく水をはねかし、巻揚機《ウインチ》がやかましく音をたて、桟橋《さんばし》の上からは、しきりに呼んでいる声が聞こえる。おれは、暗い海に、紅い檣灯《しょうとう》が高いところを、緑灯が低いところを行列してすべってゆくのを眺めていたが、すると急に、一道の紅い光がカッとおれを照らして、消えて、また見えてきて、そのままになった。汽船がひとつ、目の前に船首《へさき》をもちあげてきたのだ。おれは下の船室のほうへどなった、「来てください、はやく!」
すると、びっくりしたらしい声が、すこし離れた闇のなかで聞こえた、「おい、停《と》めろ」
ベルが鳴った。ほかの声がけたたましく叫んだ、「いけねえ、あの小舟にまともにぶつかりますぜ」
この声への返事は、荒っぽい声の「よし!」で、その次には汽船が船首《へさき》の絶壁でこちらの船首《へさき》の索具《さくぐ》をかすめるように打ったズシンという響きがした。しばらくは騒がしい物音、叫び声、走りまわる足音など……。
蒸気がほえた。それから、誰かが言ってる声がした、「通れますよ」
「そっちは無事か?」例の荒っぽい声が訊《き》いた。おれは破損の個所をしらべに前部へ飛んで行ったところだったから、「無事らしいよ」とどなり返した。
「しずかに後へ退《さが》れ」と、荒っぽい声が言った。
ベルがひとつ鳴った。
「お前はなんという汽船だ?」マホンが鋭く叫んだ。そのときは汽船はもうかなり離れたところを走っている、どっしりした影法師にすぎなかった。向こうではこっちへ向かってなんとかいう名を……ミランダとかメリッサとかいう女の名みたいな……何かそんな名前をどなっていたっけ。
「これでまたひと月はここで穴ごもりだぜ」
砕けた舷牆や切れた転桁索《てんこうさく》をランプをつけて見まわりながら、マホンがおれに言った。「だが船長はどこにいる?」
気がついてみると、さっきから船長の声も聞こえず、姿も見えなかったのだ。おれたちは船尾のほうへ捜しに行った。すると悲しそうな声が、ドックのまんなかあたりから呼んでるじゃないか、
「ジュデア、アホーイ!」……いったいどうして船長があんなところに?……
「おおい!」おれたちは叫んだ。
「ここだあ、櫂《かい》なしで、ボートのなかにいるんだあ」船長の声だった。
おそくまで浜に出ていた船頭が、お役に立ちましょうかと言うから、マホンはその男に半クラウンの約束で、うちの船長を舷側まで曳いて来てくれと掛けあいをつけた。しかし梯子《はしご》を先に登って来たのはビヤード夫人だった。夫婦はあの煙るような冷雨のなかを、一時間ちかくもドックの水の上を漂っていたのだ。おれは生まれてから、あんなに驚いたことはない。
おれが「来てくれ!」と叫ぶのを聞いたときに、船長はすぐに事態を察したらしく、細君を引っ張って甲板に駆けあがり、甲板を横切って、梯子につないであるボートの中へ入ってしまったものとみえる。六十の爺さんにしては上出来だよ。あの爺さんがあのお婆さんを……生涯の伴侶《はんりょ》たる妻をだ……雄々しく小脇に抱きかかえて救《たす》けようとしてるところを、想像してみたまえ。ボートの腰掛の上に彼女を寝かして、まさに甲板へ這いあがろうとするときに、どうしたわけか、もやい綱がほどけて、二人はいっしょに流されちまった。もちろん、あの騒ぎのなかだから、船長の叫び声はおれたちには聞こえなかった。老人はきまり悪そうな顔をしてたよ。夫人のほうはいい気なもので、「こうなれば汽車に乗りそこなっても、べつに困らないわね?」
「そうだよ、ジェニーや……お前は下へ行って、からだをあたためなさい」船長は気むずかしい声で言って、それからおれたちに、「船乗りは女房なんぞに関りあってはいかんものじゃ……ほんにな。なんしろわしは船から出てしもうたんじゃからなあ。まあとにかく、さしたることも今度はあるまいて。どれ、あの汽船の馬鹿めが壊《こわ》したところを見にゆこうか」
破損はたいしたことはなかったが、それでも三週間おくれてしまった。いよいよそれも済んだとき、船長は商人どもとの用事で手が離せなかったので、おれがビヤード夫人の荷物を持って停車場へゆき、つつがなく三等客車に乗せてやった。
お婆さんは窓の扉をおろして言ったよ。
「あんたはいい若い衆ね。もしジョン……ビヤード船長のことだ……が夜になってもマフラなしでいたら、頸《くび》をよく巻いていなきゃいけないってあたしが言ったことを、あんた思いださせてくださいね」
「承知しました、ビヤードの奥さん」
「あんたほんとにいい若い衆さんだわ、いつでもジョンに……船長に……気をつけててくださることは、あたしわかっていましたのよ……」
汽車がいきなり動きだしたので、おれは帽子をとって老婦人に挨拶した。それきりあの婆さんには会わない……その壜《びん》をこっちへくれ。
翌日、海へ出た。
いよいよバンコックへむけて出発したときは、ロンドンを船出してからもう三月《みつき》たっていたんだ。はじめは、せいぜいで二週間かそこらと思っていたがねえ。
一月だったが、天気はよく晴れていた……美しく晴れた冬の天気というものは、夏よりもいちだんと嬉しいものだね。だいいち思いがけないし、すがすがしい、それに長つづきしない、するはずもないことがわかってるせいだろうね。まるで棚から牡丹餅《ぼたもち》、天の与え、思いも寄らぬこぼれ幸いみたいなものだ。
その天気が、北海を渡りきるまで、英仏海峡を越すまでつづいた。いや、リザード岬の西、三百マイルのあたりまでもつづいた。あのへんで風が南西に変り、強くなっていた。二日のうちには疾風になった。ジュデア号は大西洋のまんなかに古蝋燭箱《ふるろうそくばこ》のように立ち往生して、のたうちまわっていた。疾風は来る日も来る日も吹き荒れた。意地わるく、小止《おや》みもなく、なさけ容赦《ようしゃ》もなく、息もつかせず吹きまくる。手をあげれば届きそうなほど低く垂れた、煤《すす》だらけの天井《てんじょう》みたいに汚ない空の下で、世界は絶えまなく押し寄せる怒濤《どとう》のほかには何もない。おれたちを取りまいて荒れ騒いでいる空間には、空気と同じ分量の波しぶきが舞っているんだ。
毎日毎晩、船のまわりに聞こえるものは、吼《ほ》えたける風、さかまく海、甲板になだれこむ波の音ばかり。船も休む折がなければ、おれたちもひと息つく暇もない。つんのめったり、竪《たて》揺れしたり、逆立ちしそうになるかと思えば、尻を下に仰向けに坐りこみそうになり、うねりに会って横揺れしては呻《うめ》き声を立てるんだから、おれたちも甲板から振り落されまいとし、下にいれば寝棚にしがみついて、絶えず体を緊張させ、はらはらして心の安まるときがなかった。
ある晩、マホンが、おれの寝室の小さい窓ごしに、言葉をかけた。窓はちょうど寝台のところにあって、おれは長靴をはいたまま、まるで何年も眠らずにいたような、そのくせ眠ろうとしたってとても眠れそうもないような気分で、ベッドに横になって目をさましているところだった。彼は興奮した調子で、こう言った。
「そこに測量桿《そくりょうかん》があるかね、マーロウ? ポンプがうまく水を吸わねえんだ。大変だぜ! こりゃ冗談ごとじゃねえぜ!」
おれは測量桿を渡して、また横になって、いろんなことを考えようとしてみたが……実はポンプのことばかり考えていたんだ。おれが甲板へ出て行ったとき、みなはまだつづけてポンプ押しをやっていたから、おれの当直の番も代ってあとをつづけた。測量桿をしらべるために甲板へ持ちだした提灯《ちょうちん》のあかりで、一同の疲れきった心配そうな顔がちらりと見えた。四時間のあいだ、ずっとポンプを押していた。夜が明けるまでポンプを押し、日が暮れるまでポンプを押し、まるまる一週間ポンプを押し……入れかわり立ちかわり押したもんだ。
船はだんだん節々《ふしぶし》がゆるんできて、ひどく水が漏《も》るようになったんで……いますぐ溺れ死ぬほどじゃないが、ポンプの押しつづけでくたばる程度の漏りかただ。それにおれたちがポンプを押してるあいだに、船は少しずつおれたちからおさらばしても行った。舷牆《げんしょう》がなくなる、支柱がちぎれて飛ぶ、通風管はぶちこわれる、船室の扉は内側へ開いちまうという騒ぎだ。船じゅう一つとして濡れない個所がない。いわば少しずつ臓腑《ぞうふ》を取りだされてゆくんだ。
大ボートは、まるで魔法みたいに、綱につながれたままで、いつのまにかバラバラになっていた。このボートに綱かけをやったのはおれだったから、これほど長く海が荒れつづけても解《ほど》けなかった自分の手際を自慢したくなるくらいだった。それでもまだおれたちはポンプを押しつづけたね。天候はまだ一向に変らない。海は大釜のなかで沸《わ》きたってるミルクみたいに、いちめんに泡を敷きつめたように真っ白だ。雲はどこにも裂け目がみえない……そうだとも、まったく、人間の掌《てのひら》ほどの……十秒間とつづく裂け目もありゃしないんだ。おれたちにはもう空もなければ星もない、太陽もなければ宇宙もなかった……あるものは不機嫌な雨雲と怒りさわぐ海ばかりさ。
いのち惜しさに、おれたちは入れかわり立ちかわりポンプを押しつづけた。幾月も幾年も、まるでおれたちが死んで水夫の地獄へ行っちまって、永久にこれがつづくのかとさえ思ったよ。今日が何曜日だか、今が何月だか、今年は何年だか、いったい陸地にいたことがあったんだかないんだか、おれたちは忘れちまった。帆は吹っ飛ばされ、船はただ一枚の雨覆衣《あまおおい》をかぶって真横に傾いたまま横たわり、大海の水を全身にあびていたが、おれたちは平気の平左《へいざ》だった。白痴のような目つきになって、ポンプの把手《とって》をまわしていた。甲板へ当番の者といっしょに這いあがるがはやいか、おれは綱を持って、水夫たちとポンプとそして大檣《だいしょう》とのまわりをひとまわりする。それから、胴っ腹まで、頸《くび》まで、いや頭の上までも水びたしになったまま、休みなしに押しつづける。まったく、頭だって胴だって同じことなのさ。おれたちは乾いた感じがどんなものだか、忘れちまっていたんだからね。
ところがおれの腹のなかのどこかでは、こんなことを考えていた……ざまアみろ! これが冒険というやつだ……本で読んだのと同じじゃないか。そしてこれがおれの二等航海士としての初航海で……おれはまだたった二十歳《はたち》だ……それだのに、今おれはここで他の連中に負けずに、この苦労を耐え抜こうとしてるんだ。五分《ごぶ》もひけをとらずに、みんなといっしょにやってるんだぞ、ってね。
おれは嬉しかったよ。世界をいくつくれるったって、この経験を途中でやめようとは思わなかったね。幾度か、おれは胸の高鳴るのを感じた。この素裸にされた古船が、船尾《とも》を高く空にもちあげて激しく前のめりになるとき、訴えるがごとく、挑《いど》むがごとく、無慈悲な雨雲に向かって絶叫するかのごとく、船尾に書かれてある文句を空へ投げあげているような気がした……「ロンドン、ジュデア号。斃《たお》れて後|已《や》む」
ああ、青春! その力、その誠実、その想像力! おれにとって、ジュデア号は石炭を運ぶために地球の上をうろついているガタクリ船じゃなかった……おれにとってこの船は人生の努力、試練、試金石そのものだった。あの船のことを思うと、いまでもおれは、歓びと愛着と、いたわしさとがわいてくる……ちょうど死んだ恋人のことを思いだすように。あの船のことをおれは死ぬまで忘れまいね……壜《びん》をかしてくれ。
ある晩、例によって、さっきも話したようにマストにくくりつけられて、風のためになんにも聞こえず、いっそ死んでしまいたいと思うほどの元気さえなしに、ポンプを押しつづけていると、大きな波が甲板に崩れ落ちて、おれたちの頭から押っかぶさった。やっと息がつけるようになるが早いか、おれは職責を忘れず「しっかりしろみんな!」と呼ばわったが、そのとたん、甲板の上を流れてきた何か堅いものが、いきなりおれのふくらはぎにぶつかった。おれはそれをつかまえようとしたが、だめだった。一フィートと離れないおたがいの顔さえ見えないほど暗かったんだ……その真っ暗さは、きみたちもむろん覚えがあるだろう。
そのかぶりこみのあと、しばらくのあいだ、船の上は静かだったが、さっきのなんだか得体の知れない物が、またおれの脚にぶつかりやがった。今度はつかまえたが……それがソースパンなんだ。最初、疲労のために馬鹿になっていて、ポンプのことしか考えていなかったものだから、おれは自分の手の内にあるものがなんだかわからない。と、急に頭に浮かんだことがあって、おれは声を張りあげた。
「おいみんな、甲板室が流されたぞ。ここは放《ほ》っといて、料理番を捜すんだ」
前甲板に甲板室があって、そこが炊事室と、料理番の寝室と、水夫たちの居場所とになってる。それが波にさらわれることは幾日も前から予期していたから、水夫たちは下の船室で寝るようにさせていたんだ……船のなかで安全なのはそこだけだったからね。
ところがスチュワードのエイブラムは、まるで騾馬《らば》と同じことで、愚かにも、どうしても自分の寝部屋を離れるのはいやだという……地震で倒れかかっている厩《うまや》から出ようとしない家畜と同様、ただもう怖さの一念だったんだね。
とにかく、おれたちは捜しに行った。これは命がけだった、だって縛り綱の外へ出てしまえば、筏《いかだ》に乗ってるのと同じ物騒《ぶっそう》な身の上だからね。でもおれたちは捜しに行ったよ。甲板室は、まるで内部で爆裂弾がはじけたように、散々になっていた。たいていの物は海へさらわれて……ストーブも、水夫らの寝床も、かれらの所持品も、みんな無くなっていたが、ただ、エイブラムの寝棚のとりつけてある隔壁の一部を支えていた二本の柱だけが、まるで奇蹟のように残っていた。壊れた部屋のなかを手探りして、入っていってみると、奴《やっこ》さんいたよ、泡《あわ》や板っきれのぷかぷかするなかで、寝棚に坐りこんで、ベチャクチャひとりごとを言ってる。気が変になったんだ。これ以上の辛抱はできないほど、おびえきっているところへ、突然のショックを受けたために、申しぶんのない、不治の狂人になってしまったのだ。
おれたちはやつを拾いあげて、後尾へかついでゆき、船室の仲間のいるところへ逆さまに投げ落した。用心に用心をして下へ連れて行ってやり、どんな様子だかみていてやるなんて、そんな暇のないことは、きみらはわかってくれるだろう。下にいる連中は、階段の下で無事に奴さんを拾いあげてくれるにきまっていた。おれたちはポンプのほうへ戻らなければならないので、忙しかったんだ。このほうは放ってはおけんからね。まったく水漏りのひどいやつは、不人情なものさ。
ひとによったら、あの悪鬼のような暴風《しけ》は、まるで可哀そうな混血児《あいのこ》をひとり、狂人にするだけが目当てだったのかと思うかも知れん。嵐は、夜明け前には静かになり、翌日は快晴で、そして波が静まると、水漏りも止まってきた。新しく帆を張る段になると、乗組みの水夫連は港へ帰らせてくれと言いだした……また実際そうするよりほかに手がなかった。ボートは流される、甲板には一物も残らない、船室の物まで海にさらわれているし、みんな着のみ着のままで、何ひとつ身につける乾いた布きれもない、貯蔵品もだめになってるし、船は参っている。
それで船の向きを故国のほうへ向けかえたが、すると……どうだろう、ほんとうだと思えるかね? 風が東むきに、真正面に吹いて来たんだよ。強い風が、休みなく吹きつづけるんだ。おれたちはほとんど一インチごとに向い風を間切《まぎ》って進むほかはなかったが、それでも水漏りはたいしたこともなく、波も大方わりあいに静かだった。四時間ごとに二時間ずつポンプを押すのは、とても洒落《しゃれ》や冗談でできることでないが……が、それでもそのお蔭で、どうやらファルマスまで沈まずに流れ着くことができた。
あの港町の相当の数の人口は、海で危難にあった者を飯の種にしているから、たしかにおれたちを喜んで迎えてくれた。腹のへった船大工どもが、死骸《しがい》同然な船をみて、鑿《のみ》を研《と》いで待ちうけたわけだ。そしてまさにその通り! やつらは仕事を済ませるまでに、おれたちから散々に金をしぼり取ったよ。
船主はもうその頃はずいぶん苦しい状態にいた。修理は手間どった。それから積荷の一部を外に出し、舷側に槙肌《まいはだ》〔檜《ひのき》や槙《まき》の内皮を砕いて繊維とし、船や桶などの水漏れを防ぐため、接ぎ目に詰めこむもの〕を入れることにきまった。それが済んで、修理が終り、新しい水夫が乗船し、おれたちは出航した……バンコックへ向けてね。
一週間後に、また帰ってきた。水夫たちが言うんだ……二十四時間のうち八時間もポンプを押さなきゃならねえようなボロ船で、バンコックまで……百五十日の航程だ……ゆくのはいやだって。そこで海事新聞に、またこういう記事が出た……「小帆船ジュデア号。タインよりバンコックまで石炭輸送。水漏りと水夫らの作業拒否とのためファルマスへ帰航せり」
また出発がおくれて……もう一度トンテンカンだ。船主は一日だけ港へ来て、この船はどうしてまだ、しっかりしたもんじゃと言いやがった。気の毒に、船長のビヤード老人は、ボロ石炭船《ジョーデイ》の幽霊船長みたいに見えたよ……心配やら恥かしい思いやらでね。老人が六十で、しかもこれが船長としてはじめての航海だということを思いだしてくれ。
マホンは、こんな馬鹿げた仕事は、いずれろくなことはあるめえと言っていた。おれはいままでよりも余計にこの船が好きになり、なんとかしてバンコックまで行きたいものだと思った。
バンコックまで! なんともたまらない魅力のある地名だ、聖なる地名だ。メソポタミアなんぞくらべものになるものか。おれがまだ二十歳《はたち》で、はじめて二等航海士の地位についたことを思いだして貰いたいね、そして東洋がおれを待っているんだ。
さて新しく水夫を雇って……つまり三度目だ……出帆して、港外の停泊所に錨《いかり》をおろした。船は前よりもまたひどく水漏りする。まるであのいまいましい船大工どもが、わざと孔《あな》をあけたかと思うほどだ。水夫たちはあっさり錨の巻揚げを拒絶した。
船はもう一度、港内へ曳いてゆかれて、この港の飾りもの、名物、自慢の名所のひとつになっちまった。町のやつは、よそから来た客におれたちの船を指さしてみせて、「あすこにいる船はバンコックへゆくんだがね……もう六カ月もこの港にいるよ……三度引き返したんだ」
休みの日には子供たちがボートでそばへやって来て、「ジュデア、アホーイ!」と呼びかけて、手摺《てすり》の上に誰かの首でも見えようものなら、「小父さんどこへゆくんだい? バンコックかい?」なんて冷やかすんだ。
船には三人しか残っていなかった。気の毒な老船長は船室でボンヤリしてる。マホンが炊事をやってくれたが、これが案外にもちょいと気のきいた食事をこしらえてフランス人らしい天才を遺憾《いかん》なく発揮した。おれはいやいやながら索具《さくぐ》の面倒をみていた。もうすっかりファルマスの市民になっちまってね。どこの店もみんな顔見知りだ。理髪屋だの煙草屋だのは心易《こころやす》だてに、「お前さんたちは、いつかバンコックへゆけると思っていなさるのかい?」なんて訊《き》く始末さ。
そうして日を暮らしてるあいだも、ロンドンでは船主や保険業者や傭船主《ようせんしゅ》やが、おたがい議論の花を咲かせながら、おれたちの給料を払ってくれていたというわけだ………壜《びん》をこっちへ。
まったくいやな気持だったね。精神的には、生きるためにポンプを押すよりまだ悪かった。まるで自分たちが世間から忘れられて、誰とも関係がなく、どこへ行くという当てもないような気持だった。言ってみれば、まるで魔法にかかったように、おれたちはいつまでもいつまでもこの港内に居候《いそうろう》をして、波止場のごろつきや性質《たち》のわるい船頭どもに、孫子の代まで笑いものにされ、見せしめにされてるような、情けない気持になっちまったんだ。おれは三月分の月給と五日の休暇とを貰ったから、さっそくロンドンへとんで行った。行くのにまる一日、帰るのにも、やはりタップリ一日かかった……がそれといっしょに、三月分の給料も消えてなくなった。
いったいその給料を何に使ったのか、どうもはっきりしない。たしか寄席《よせ》へ行って、昼飯をくって、晩飯をくって、それからリージェント通りのしゃれた料理屋で夜食をくって、時間どおり帰ってきたが、一部のバイロン全集と一枚の新しい旅行用毛布と、三カ月はたらいた痕跡としてはそれだけしか残らなかった。船までおれをボートにのせていった船頭の言うことには、「よう今日は! わしゃお前さんが、あの老いぼれ船からおさらばしたとばっかり思っていたよ。あの調子じゃとてもバンコックへは行かれめえね」
「ふん、お前なんかに何がわかるもんかい」
おれは木で鼻くくったように、言うには言ったが……しかしこの予言は、実におれには面白くなかったね。
そこへ突然、誰かの名代《みょうだい》といった格の一人の男が、全権を帯びて現われてきた。顔じゅう「酒やけ」で赤くなっていて、どんなことにもめげない精力家で、そして愉快なやつだった。おれたちは一気に元気を取りもどした。廃船が一隻、舷側へ来て、積荷をはこびだし、それからおれたちの船は、船腹の銅鈑《どうはん》を剥《は》がすために乾船渠《かんドック》に入った。水が漏ったのも不思議はないや。暴風《しけ》でどうにもならないほど痛めつけられた可哀そうな船は、下のほうの板の接ぎ目から、いかにも胸がわるくて唾《つば》を吐くように、槙肌《まいはだ》をすっかり吐きだしちまっていたんだ。そうして新しく填《つ》めものをし、新しく銅鈑をかぶせ、酒|壜《びん》みたいに隙間なく包んだ。もとの廃船のところへ戻って、荷を積みなおした。
すると、ある月のいい晩に、船中の鼠が、一匹のこらずいなくなった。船は鼠に悩まされていた。やつらは帆を食いやぶり、食糧は乗組員以上に平らげ、至極《しごく》懇意そうな顔でおれたちと臥床《ふしど》と危険とをともにしてきたんだが、いよいよこれで船が航海に耐えるようになったとみると、一斉退去を決議したわけだ。おれはその光景を見物して楽しむために、マホンを呼んだ。鼠どもは一匹また一匹と、欄干の上に現われて、名残《なごり》惜しそうに肩越しに一瞥《いちべつ》をくれてから、ボトンと音たてて空っぽの廃船に躍りこむ。二人で数を勘定しかけたが、すぐにわからなくなってしまった。マホンが言った。
「まあいいやな、鼠の賢い話をおれに話してきかせたってむだだよ。やつら本当なら、船が水漏りで危なかった時分に出てゆくほうがよかったじゃねえか。鼠が利口だなんて迷信が馬鹿げてるってことの証拠だよ、これは。馬鹿野郎ども、こんな良い船を見すてて、なんにも食うものもねえあんな汚ねえボロ船へ行っちまやがる!……手前《てめえ》たちにとって何が安全で何がとくだか、あいつらのほうがお前やおれよりよく知ってるなんて、おれは思わねえよ」
それからまだしばらく話しあった後、鼠の知恵は事実上けっして人間以上のものではなく、従来はなはだ愚かしくも買いかぶられているという見解に一致したよ。
その時分には、おれたちの船の話は海峡一帯、西はランズ・エンドから東はフォアランズまで、すっかり知れわたっていたから、南海岸では水夫が雇えない。ひとり残らずリバプールから集めてきて貰って、やっともう一度……バンコックへ向けて出帆した。
風も追風《おいて》、海もおだやかで、つつがなく熱帯へ入り、古船ジュデア号は暑い日ざしのなかをのんびりと進んでいった。八ノットも速力が出ようものなら、桁《けた》も帆柱も上のほうでメリメリと音を立てるから、おれたちはそのつど、庇帽《キャップ》を頭に縛りつけたものだ。もっとも大概は一時間三マイルぐらいの割で、ゆっくりと海を渡っていった。またそれ以上の期待がもてるはずもないじゃないか。船はくたびれてるんだ……お婆さんなんだ。彼女の青春は、おれの青春……きみたちの青春……この話をこうして聴《き》いてくれる船乗仲間の諸君の青春、それがいまどうなってるかというのと同じことだったのだ、いやしくも友だちなら、過ぎ来し方の歳月と、味気ない疲れとを、誰が面とむかってはずかしめたいと思うかね?
おれたちはジュデアに不平は言わなかった。少なくともおれたち幹部の者にとっては、まるで自分たちがこの船のなかで生まれ、この船のなかで育ち、永の年月《としつき》この船のなかで暮らして、ほかの船なんぞ知りもしないような気さえしたものさ。生まれ故郷の村の古ぼけた教会堂が、本寺の大|伽藍《がらん》でないことに文句をつけたいと思わないのと同じことさね。
それにおれには若さがあったから、それだけ辛抱もしやすかった。行手には東洋というもの、人生そのものの魅力のすべてがあるし、またこの船で試練を受けて、立派にそれを切りぬけてきたという気持もあった。それからまた、何百年前に、この同じ船路《ふなじ》を、おれに劣らぬ苦しい思いをして、棕櫚《しゅろ》と香料と黄いろい砂浜の国、ローマのネロよりもっと残虐で、ユダヤのソロモンよりもっと豪奢《ごうしゃ》な王様たちが、茶色の人民どもを支配してる国へと、海を渡って行った人々のことも、おれは考えた。老いさらばえた小帆船は、寄る年波と積荷の重みとで、のろのろと進んでゆくんだが、乗ってるおれは無知と希望との若さにはちきれんばかりの生活を味わっていたんだ。
いつ終るとも知れぬ日々の明け暮れを、船はのろのろと進んでゆく。ぴかぴかの新しい鍍金《めっき》が夕日を照りかえして、暮れかかる海原《うなばら》の上に、船尾の「ロンドン、ジュデア号、斃れて後已む」という文句を叫び立ててるような気がした。
やがてインド洋に入って、ジャバ岬をさして北へ向きを変えた。風は軽かった。幾週間かすぎた。斃《たお》れて後|已《や》むの意気で、船は波の上を這いずってゆく。本国のやつらは延着の掲示を出そうと思いはじめた。
ある土曜日の夕方、ちょうどおれは非番だったが、水夫たちから、衣類の洗濯をしたいから規定外に一、二杯、バケツに水を貰ってくれと頼まれた。おれは時刻も遅かったし、飲料水のポンプの栓をひねりたくなかったから、前部|艙口《ハッチ》に貯《たくわ》えてある補助タンクの水を使おうと、艙口蓋《ハッチぶた》を開く鍵を手にして、口笛ふきながら前甲板のほうへ行った。
意外も意外だったが、それに劣らずぞっとさせられたのは、艙内の悪臭だった。まるでこの穴蔵のなかで、何百というパラフィン油のランプが燃えつづけ燻《いぶ》りつづけていたのかと思うほど。とても入っちゃいられない。おれといっしょにいた水夫が、咳をしながら、「おかしな臭《にお》いですねえ」と言った。
おれはわざと無頓着《むとんじゃく》な顔をして、「健康にはいいって話だがな」と答えて、船尾のほうへ行った。
まず第一に、甲板中央の通風孔の四角い凹《へこ》みへ、首を突っこんだ。蓋《ふた》をあげると、うすい霧みたいな、ほのかな靄《もや》の吐息のような、目にみえるほど際だった烟霧が、入口から立ちのぼった。ちょいと嗅《か》いでみてから、おれは静かに蓋をした。そんなもの、むせるほど吸うには及ばんからね。積荷が燃えてるんだ。
翌日は、まともに煙を吐きはじめた。そうなんだ、そんなことは当然はじめから想像のつくことなんだ、だって、もちろん石炭は怪しい代物《しろもの》じゃないけれども、この積荷はあんなふうに無理な扱いを受けて、そのために粉々《こなごな》に壊れたんだから、どうみても鍛冶屋《かじや》のつかう粉炭みたいになっちまっていたのだ。それから今度は水に濡れた……それも一度や二度じゃない。廃船から積みもどしをしてるあいだ、毎日雨が降っていたところへ、今度の長旅で熱《ほて》らされたから、よくある例で自然燃焼を起こしたわけだ。
船長は自分の部屋におれたちを呼んだ。テーブルの上に海図がひろげてあって、老人の顔は曇っていた。そして言うには、「西オーストラリアの海岸は近いが、わしは目的地へ向かって進みたいと思う。いまはハリケーンの季節でもある、が、船首《へさき》はどこまでもバンコックのほうへ向けたままで、船火事とたたかうことにしよう。乗員のこらず蒸焼きになるまでも、どこの港へも逃げこまん決心じゃ。まず空気を入れんようにして、このいまいましい燃焼を窒息させる手段《てだて》を講じようじゃないか」
おれたちはその手段を講じた。すみからすみまで桟《さん》どめをしたが、それでも船は煙を吐いた。煙は、あるかないかの隙間から洩れつづけ、隔壁やおおいのあいだから湧《わ》きあがってくる。糸のようにかぼそく、目に見えぬ膜のように、あちらからもこちらからも、どう考えてもわからぬことだが、いたるところから洩れて出るのだ。船長室へも、水夫室へも、いつのまにか侵入した。甲板のおおいをかぶせた場所さえも冒した。大檣帆桁《メーンヤード》の上まで臭った。煙が出てくるところをみれば、空気が入ってることは、わかりきった話だ。まったく情けなくなった。火事は、窒息させられるのはお断わりだというんだ。
そこで水を使ってみようということになり、艙口蓋をとりのけた。ものすごい煙、白っぽくて、黄いろっぽくて、濃厚な、べとつくような、濛々《もうもう》とした、息のつまりそうな煙が、檣頭の木冠《トラック》までのぼった。みんな船尾へ退却した。やがて毒煙の雲が風で吹き散ったから、そのあとは普通の工場の煤煙程度の濃さになった煙のなかで、みんな働くことになった。
おれたちは圧水ポンプをとりつけて、ホースを下へおろしてみたが、それもじきに破れちまった。どうもね、これが船と同じくらい年をとった……前代の遺物的ホースでね、修繕もききゃしない。その次には船首《ヘッド》ポンプを押して、吸いあげた水をバケツで運んで、そんなふうにしてインド洋の海水を大艙口《メーン・ハッチ》からふんだんに流しこむことで、どうにかまあ助かった。日光にきらめく水の流れが、厚い層をなして這いあがってくる白い煙のなかへ落ちて、石炭の黒い表面に消えていった。煙にまざって湯気が立ちのぼる。底なしの樽《たる》へ水を注ぎこむように、おれたちは海の水を流しこんだ。あの船では、船から水を吐きだすのもポンプ、船へ水を注ぎこむのもポンプ、どっちにしてもポンプのご厄介になる運命だったんだね。自分たちが溺れ死ぬのを助かるために水をさんざん汲みだしたあとで、おれたちは焼死をまぬかれるために気違いみたいに水を船のなかへ注ぎこんでたのさ。
それでもまだ、斃《たお》れて後やむつもりで、波しずかな空の下を、のろのろとのたくって行ったんだ。まるで奇蹟みたいに純潔な空、奇蹟みたいに濃い紺色の空だった。
海は宝石と見まがうばかり磨《みが》きがかかって、蒼くって、澄みとおって、キラキラ眩《まぶ》しくって、それが八方にひろがって、ぐるりと水平線までつづいている……つまり地球ぜんたいがひとつの宝玉、一個の遊星を渾然《こんぜん》たる一顆《いっか》の雄大|魁偉《かいい》なサファイアに仕立てたという風情《ふぜい》なのだ。ひろびろと凪《な》いだ海原にかがよう光の上を、ほとんどわからぬぐらいの速さですべってゆくジュデア号は、どんより煤けた濛気《もうき》に包まれ、軽くゆっくりと風下へなびき去る、ものうげな雲をまとっている……この荘麗をきわめた海と空とを汚す病毒のような雲を。
いままでのところ、もちろんおれたちには火は見えなかった。積荷はどこか底のほうでくすぶっていたんだ。あるとき、マホンと二人ならんで仕事をしていると、爺さん妙な微笑《わらい》をうかべておれに言った、
「なあおい、これでちょいとした水漏りでもしてくれさえすりゃあ……それ、はじめて英仏海峡《チャネル》を出た、いつかのときみてえによ……この火事をピタッと消しとめられるんだがなあ。そうだろう?」
おれは返事の代りにほかのことを言ってやった。「鼠のことをおぼえてるかい?」ってね。
おれたちは、火事とたたかいながら、まるで何事もないような調子で、慎重に船を進めた。スチュワードは料理をこさえて、おれたちの食事の世話をした。他の十二人の乗組のうち、四人ずつ休んで八人ずつ働いた。船長もふくめて、ひとり残らずこの順番をまもった。みんな平等だったし、友愛とまでいうには少し怪しいかも知れんが、おたがいに好意はたっぷり持ちあっていた。
一人のやつが、艙口《ハッチ》へバケツの水をぶちまけながら、「がんばれエ、バンコックまで!」とどなって、ほかの者が大笑いすることなぞもあった。しかしまあ大抵は、みんな口数すくなく、真面目で……そして咽喉《のど》ばかり渇《かわ》いていた。ああ! そりゃもう、ひどい渇きかただったね! だから水は大切にしないではいられなかった。ひどく切りつめて使ったものさ。船はくすぶる、太陽《てんとう》は焼きつく……壜《びん》をたのむ。
おれたちは、やれることはなんでもやった。火の燃えるところまで石炭を掘りおこすことさえやってみた。もちろん、うまくはゆかなかった。誰だって一分とは下にいられないんだ。はじめに降りて行ったマホンは、なかで気絶しちまったし、マホンを救いだしに行った男も同じ目にあった。おれたちは二人を甲板へ担《かつ》ぎあげた。それからおれが飛びこんだが、それは人ひとり甲板へ引き揚げるのはわけはないということを教えるためみたいなもんだった。もうそのときはみな利口になっていたから、なんでも箒《ほうき》の柄《え》か何かに錨鎖《びょうさ》の鈎《かぎ》をしばりつけて、あっさりおれを釣りあげちまった。おれはシャベルを下へ置き忘れたが、引っ返して取ってくるとはさすがに言わなかった。
形勢はだいぶいけなくなってきた。大ボートを海へおろした。第二ボートもおろす用意をすませた。船尾《とも》の吊柱《つりばしら》にも、十四フィートのが一隻あったが、船尾のほうはまだ安全だった。
そのうちに、どうだろう諸君、煙が急に減ってきたんだよ。おれたちはいままでの倍も精だして船底に水をだぶつかせた。二日たったら煙はまったく出なくなった。みんな口許をほころばせてにこにこした。それが金曜日だった。土曜日は仕事を休んだが、もちろん船は例日どおり進ませた。水夫たちは二週間ぶりで洗濯をし、顔を洗い、特別献立のご馳走にありついた。やつらは自然燃焼なんぞなんだと馬鹿にしたような口ぶりで、火事を消しとめたのはおれたちだぞと言わぬばかりの鼻息だった。とにかく、みんな一人一人が大きな身代をひとつずつ相続したような気分になったものさ。しかし、例のいやな火のにおいは、まだ船に付きまとっていた。ビヤード船長は目はくぼみ、頬はこけちまった。あの爺さんがあれほど脚がまがって猫背だとは、おれはそのときまで気がつかなかった。
船長はマホンと二人で、鼻をくんくんいわせながら、ちっとも嬉しくなさそうな顔で、艙口《ハッチ》や通風孔のまわりをうろついていた。そのとき急におれは、あのマホンが気の毒に、もうたいへんな年寄りだということに気がついた。おれはといえば、まるで勝ちいくさの大海戦に大手柄でも立てたように、嬉しくもあり、得意でもあった。ああ! やっぱり「青春」だよ!
その晩は好い天気だった。朝がた、本国がえりの船が、帆柱だけ見せてすれちがって行った……何カ月ぶりかでみる最初の船だった。しかしおれたちも、とうとう、陸地が近くなってきた、ジャバ岬はあと百九十マイル、ほぼ真北に当たっていた。
次の日、八時から十二時までがおれの当番だった。朝飯のときに船長が言うには、「不思議じゃなあ、あの臭いがまだ船室からなくならんが」
十時ごろ、一等航海士が船尾楼にいたから、おれはちょっと中甲板へ降りた。大工の仕事腰掛が大檣《だいしょう》の船尾寄りに据えてある。おれはパイプで煙草をのみながら、それに凭《よ》りかかっていると、大工が、若いやつだったが、そばへ来ておれに話しかけた。
「どうです? うまくいったじゃありませんか、ええ?」と、こんなことを言ったが、そのとたんに、この馬鹿、腰掛を前にかしげようとしてるなと思ったので、腹を立てた。
「おい、いかんよ、大工」と、言ったかと思うと、たちまちなんだか途方もない妄想《もうそう》にとらわれたような、妙な気分になって……つまりどうしたことか、おれは空中に跳《は》ね上がったような気がしたんだ。抑えられていた息を一度にどっと吐きだすような……千人の巨人がいちどにプウ! と叫んだような……そんな音が周囲に聞こえて、鈍い衝撃に肋骨《ろっこつ》が急に痛むのを感じた。たしかに夢じゃなかったのだ……おれは空中にいて、おれの体は短い放物線を描いていたのだ。だが短かったとはいえ、おれの記憶してる限りでは、次のような順序で幾つかのことを考えるぐらいの時間はあった。
「こりゃ大工の仕業《しわざ》じゃないぞ……なんだろう? 何かの椿事《ちんじ》だ!……海底火山の噴火かな?……石炭だ、ガスだ!……しまった! おれたちは吹っとばされるんだ……ひとりも助からんぞ……ああ後部ハッチのなかへ落ちる……底のほうに火が見える」
艙内の空気のなかに浮かんでいる炭塵《たんじん》が、爆発の瞬間、赤ぐろく、ぼうっとみえた。ピカリと瞬《またた》きひとつするあいだ、はじめ腰掛が傾いてから、一秒を微分したぐらいの時間のうちに、おれは積荷の上にペチャンコになって伸びていた。起きあがって這いだした。まるで毬《まり》がはずむような早業《はやわざ》だった。甲板には吹きたおされた木材が、嵐のあとの森の樹々のように折り重なって横だおしになって、目もあてられぬ有様だ。泥だらけの布の、べらぼうに大きなカーテンが、おれの前にしずかに揺れてる……それが吹きちぎられた大檣帆《だいしょうはん》なんだ。いますぐ帆柱もぶっ倒れるだろう、おれはそう思ったから、後甲板の梯子《はしご》めがけて四つん這《ば》いで逃げだした。最初に目に入った人間はマホンで、皿みたいに目をまるくして、口をあいて、白髪《しらが》が一本残らず頭のまわりに逆立ってるところは、まるで銀色の後光のようだ。
爺さんがちょうど降りようとしているときに、中甲板がむくむくと動きだし、盛りあがり、みるみる木端《こっぱ》微塵《みじん》になるという光景にぶつかり、梯子段のてっぺんで立ちすくんでしまったのだ。
おれが信じられないおももちで爺さんの顔をみつめる、爺さんも一種奇妙な、驚いたような物珍しいような顔つきでおれをみつめた。自分の髪の毛も、眉毛《まゆげ》も睫毛《まつげ》もみんななくなり、若者らしい口髭《くちひげ》も燃え落ち、顔は真っ黒で片頬は裂け、鼻はそげて顎《あご》からは血が出てるとは、おれは知らなかった。
おれは庇帽《キャップ》と、スリッパ片方とを失い、シャツは破れてボロボロだった。そんなことも、何ひとつおれは気がつかずにいた。船がまだ沈まずにいて、後甲板もそっくりもとのまま……それに何よりも生きてる人間に会ったということに、おれはびっくりしていた。
そればかりでなく、空もおだやかなら海もひっそりしてることが、なんとも意外だった。つまりおれは驚天動地のすさまじい光景を見るだろうと予期していたらしい……壜《びん》をくれないか。
どこからともなく……空中からか、青空のなかからか……おれには見当がつかなかったが、船を呼んでる声が聞こえた。やがて船長の姿が見えた……ところが親爺《おやじ》、気が変だ。おれにむかって、しきりに、「船室《キャビン》のテーブルはどこにある?」って訊《き》くんだから、こんなことを訊かれたおれは、突きとばされるほど怖くってね。それもそうだろう、たったいましがた空へ吹きとばされて、驚きでガタガタ慄《ふる》えてるところなんだ……まったく、いったいおれは生きてるんだろうかと思った。するとマホンが両足で地だんだ踏みはじめて、船長をどなりつけた。
「なんです船長! あんた、甲板が吹っとばされたのがわからんのですかい?」
おれもやっと口がきけるようになり、とても馬鹿げた手落ちでもあって申しわけないと思ってるような、へどもどした調子で、「船室のテーブル、どこか存じません」
なんだか、途方もない夢でもみてるようだったよ。
さてその次に船長がなんと言いだしたと思うね? 帆柱をなおせと言ったんだよ。ひどく落ち着き払って、何か物思いに耽《ふけ》ってるような様子で、前檣下桁を直角にしろと言ってきかないんだ。
「いったい全体、生き残ってるやつがあるかないかさえ、わからないんですぜ」マホンは涙を流さんばかり、こう言った。
すると、「大丈夫」と船長はおだやかに、「前檣下桁を横にするぐらいの者は生きとるだろうさ」
親爺さんは、ちょうど寝台のなかでクロノメーターを巻いてるときに、例のショックでくらくらとなったらしい。とたんに頭に来たことは……あとで自分で話したがね……船が何かに衝突したなということで、それで船室へ駆けこんだ。するとテーブルがどこかへ雲がくれしたことに気がついた。甲板が吹き上げられたんだから、テーブルはむろんのこと、船尾の貯蔵室へ落ちこんだのだ。今朝みなで朝飯を食った場所に、床《ゆか》に大きな穴ぼこができてるのを爺さんは見た。だからなんともたまらなく不思議な気がして、あまり強烈な印象を受けたものだから、甲板へ上がってから見たり聞いたりしたことは、それにくらべると、つまらん小さなことばかりだった。のみならず、いいかね、舵輪《だりん》のそばに誰もおらず、自分の船の方向がそれてることを、すぐに爺さんはみてとった……だからただもう、このみじめな、裸にされて甲板のなくなった、ぶすぶす燻《いぶ》ってる爆薬みたいな船を、もう一度もとの通り目的地の港の方角へ向き直らせることしか考えなかった。
バンコック! めざすは彼地《かのち》だ。つまりだな、このおとなしい、猫背の、ガニ股の、不具にちかい小男じいさんは、一途《いちず》に自分の考えだけに凝りかたまって、おれたちが興奮してることなぞいっこうご存じなく、泰然自若《たいぜんじじゃく》としていたわけさ。有無《うむ》をいわさぬ号令の手真似で、おれたちに前へゆけと合図をしてから、ご当人は自分で舵《かじ》をとりに行っちまった。
だからさ、おれたちが手始めにやった仕事は、つまりあれさ、難破船の帆桁《ほげた》なおしさ! 誰も死なんし、働けなくなったやつもなかったが、その代りひとり残らず多少の怪我をしていた。まったくきみたちに見せたかったね! なかには、ぼろぼろのシャツを着て、まっくろな顔は石炭運びの人夫か煙突掃除そこのけで、イガ栗《ぐり》あたまに刈りこんだようだが本当は頭の地肌まで焦げついた、鉄砲丸《てっぽうだま》みたいな頭になってるやつもいた。そうかと思うと、下の見張番で、寝棚がつぶされて目をさましたときは、すっとばされていたのがあり、いつまでも慄えがとまらず、おれたちが働きだす頃になっても、まだうんうん唸《うな》っていたっけ。だがみんな働いたよ。リバプールで狩りあつめた水夫たちは、からだも頑丈だが、腹もしっかりしていたね。おれの経験では、みんなそうだね。そういうガッチリした性根《しょうね》を植えつけるのが海だよ……やつらのぼやっとした鈍いこころを取りまいてる、あの広漠とした寂寥《せきりょう》だよ。ああ! まあそれはそれだ!
おれたちは蹴《け》つまずいたり、這ったり転んだり、こわれもので向う脛《ずね》をすりむいたり、船の方向を変えたりした。檣《マスト》は立ってはいたが、甲板の下でどの程度に焦げてるものか、それはわからなかった。海はあらかた凪《なぎ》だったが、西から大きな横波が来て、船をゆすった。檣はいつ倒れるかわからない。おれたちは心配しながら、見上げていた。あいつがどっちへ倒れるか、誰にも予想はつかんからね。
それからおれたちは船尾《とも》へ退いて、あたりを見まわした。甲板は足の踏み場もないほど板の横だおしになったのや端の持ち上がったのや、バラバラになった木片や、ぶちこわれた木細工ばかりだ。そのごたごたのなかから、マストが、もつれた下草のなかの大樹のように屹立《きつりつ》している。そういう壊れものがあちこちにかたまってるあいだに、何か白っぽい、ねばねばしたものがいっぱい詰まって、もくもくと動いている……何かべっとりした霧のようなものが。目にみえぬ火の煙が、朽木でむせかえる谷間の、毒を含んだ濃霧のように、またも立ちのぼり、甲板を這っているのだ。ものうげな鬼火が、もう木片の塊《かたまり》のあいだからチロチロと炎の舌を吐きはじめている。そこここに真直ぐ立っている角材が、火あぶり柱を思わせる。帆索《ほづな》の止め座の半分は前檣帆《ぜんしょうはん》をつきやぶって吹っとび、そのみっともない泥だらけの帆布の裂け目に、ひとところ、青空がかがやくばかりの青さを見せていた。何枚かの板が、たがいに保《も》ちあったまま、一部分だけ欄干《らんかん》から落ちかかり、一方の端が舷側《げんそく》ごしに突き出て、向こうに何もない舷門のように、いや千尋《ちひろ》の海へみちびく舷門、死への入口のようにみえた……いますぐその板の上を歩んで行って、この馬鹿ばかしい苦労におさらばしろと、おれたちを誘ってでもいるかのように。それなのに、空中か、青空のなかか……幽霊が、目にみえぬ定かならぬものが、なおも船を呼んでいるじゃないか。
分別のあるやつがいて、海の上を見わたしたら、そこに舵手がいた。さっきは無我夢中で海へ飛びこんだのだが、いまは一生懸命で船へ帰ろうとしているのだ。船足におくれまいとして、大声で呼びながら、人魚男のように猛烈に泳いでいるんだ。ロープを投げてやり、まもなく舵手は、全身滝のように水を滴《したた》らせながら、へとへとになっておれたちに取りまかれていた。船長は舵をすて、ひとり離れて欄干に肱《ひじ》をつき、手で顎を支えて、じっと考えこみながら海を睨《にら》んでいた。今度は何を言いだすかな? おれたちは自問した。おれは考えた……さて、これは何かみたいだぞ。すばらしい事件だ。これからどんなことになるのかな。ああ、やっぱり青春だよ!
突然、マホンが、ずっと遠くの後方に一隻の汽船をみつけた。ビヤード船長が言った。
「いまならまだ、あの船のお蔭で、なんとかなるかもしれん」
おれたちは旗を二本揚げた。これは海の国際語で、「火災。即時救援を乞《こ》う」という意味だ。汽船はみるみる大きくなり、やがて前檣に二本の旗を出して返事した。「本船は貴船の救援に赴《おもむ》きつつあり」
半時間後には、汽船は風上側でおれたちと舷をならべ、呼べば答える近さに機関を止めて軽く横揺れしていた。もう落着いていられず、みんな声をそろえて興奮してどなった。「爆発があったんだあ」
ブリッジに立っている白いへルメットの男が、「よおし! 大丈夫だ、大丈夫だぞ!」と叫んで、うなずき、微笑み、まるでおびえた子供をあやすように慰め顔で手を振っていた。ボートが一隻おろされ、長い櫂《かい》でこっちへ海を渡ってきた。四人のカラッシュ人が、大きく櫂を操っていた。おれがマレー人の水夫をみたのは、このときが初めてだった。その後、やつらとは馴染《なじみ》になったが、そのときおれが感心したのは、やつらの無頓着なことだった。やつらは舷側まで来て、舳手《じくしゅ》なんぞは立って、鈎竿《かぎざお》をこっちの大檣静索環《メーン・チェーンズ》にひっかけさえしたが、頭をあげてこっちを見ようともしないんだ。船で爆発に会った人間なんてものは、もう少し注意を払ってもらったっていいはずだと、おれは思ったよ。
木端《こっぱ》のように乾からびて、猿のように素ばしこい小男が、甲板へあがってきた。それが汽船の一等航海士だった。ひとわたり眺めまわしてから、小男は叫んだ、「おお、みんな……船から離れるほうがいいぜ」
おれたちは黙っていた。そいつは船長としばらく二人きりで話して……議論しているようだった。それから二人して一緒に汽船へ行った。
船長がやがて帰ってきて、聞かされたところによると、汽船の名はサマヴィル号、船長の名はナッシュ、郵便を積んで、ウェスト・オーストラリアからバタビヤ経由シンガポールへゆく途中で、できればアンジャーかバタビヤまでおれたちの船を曳いていってくれることに相談がまとまったのだそうだ。そこまで曳かれてゆけば船腹に孔をあけて火を消すことができるから、そこからまた航海をつづけようというのだ……バンコックへね!
親爺さんは、だいぶ興奮した様子だった。「まだまだそれくらいのことはやるぞ!」マホンに向かって、えらい剣幕でこう言っていた。そして空に向かって握り拳《こぶし》を振りまわしていた。誰もひと言も口だしはしなかったよ。
正午になって、汽船は曳航《えいこう》をはじめた。背の高いすらりとした姿で先に立ち、七十|尋《ひろ》の曳綱《ひきづな》の先には、ジュデア号の残骸がのこのことついてゆく……もくもくした煙の雲のなかから、檣頭《しょうとう》だけが頭を高く突きだして快速でついて行った。帆を巻くために、おれたちは帆柱へあがった。帆桁の上でむせかえりながら、それでも膨《ふく》らんだ帆をていねいに扱った。どうしてもどこへも行けぬ運命のこの船の帆を、おれたちがみんなして丁寧に巻いてる姿が、諸君の目にうかぶだろうか?
いつなんどき、このマストが引っくり返らんとも限らんのだと、思っていない者は一人もない。高みからは煙で船の姿も見えないんだが、みんな折目正しく畳《たた》んで綱をかけ、心をこめて働いていた。
「着港巻きあげだぞ……いいか、上の連中!」下からマホンがどなっていた。
きみたち、このときの気持がわかるかね? 一人として、いつものとおりに下へ降りられると思ってるやつはなかったと、おれは思うよ。ところが無事に降りてみると、水夫たちはこんなことを言いあっていた。
「なあおい、おいらあみんな、ひと塊《かたまり》で、真っ逆さまに海んなかだと思ったぜ……柱から何からいっしょによ……嘘だと思ったらなんとでも言っていいぜ、ほんとに」
「そのことよ、おれも腹んなかでそう思ってたんだ」
傷だらけ包帯だらけの案山子《かかし》みたいなもう一人が、くたびれた声で合槌《あいづち》を打ってる。そして忘れて貰いたくないことは、この水夫たちが、しっかりと服従の習慣をしつけられていない手合だということだ。傍目《はため》には、なんの取柄《とりえ》もない罰あたりな無頼漢の寄りあいにすぎんだろう。その連中を何がこうさせたか……前檣帆の中腹部をきちんと畳ませたいと思い、二度それを落すようにおれが命じたとき(もし服従してくれたらどんなに嬉しいことだろうと、意識してそう考えて、やらせたんだ)何がやつらをしておれの命令に従わせたか? なんだろう、あれは? あの手合には海員としての職業上の名誉なぞ問題じゃない……誰が模範を示したでもなく、誰におだてられたわけでもない。義務の意識がそうさせたのでもないんだ。……その気にさえなれば……また大抵のときにはその気になるんだが……ずるけたり、怠けたり、逃げたりすることは、みんなよく心得てる連中なのだ。それともやつらをあすこまで連れてきた一カ月二ポンド十シリングの銭《ぜに》がそうさせたか? みんな給料が倍になっても十分だとは思っていない。そうじゃない、やつらの心にある妙なもの、生まれつきの、微妙なもの、そしてけっして滅びないもの、それがかれらをそうさせたのだ。フランスやドイツの商船の水夫らだったら、そうはしないとは断言しないが、あのときと同じようにやるかどうか、こいつは疑問だと思う。あのやりかたには完全さがあった、主義のように堅固で、本能のように巧妙なもの……何か秘密なものがそこに露《あら》わになったといおうか……かれらのうちに隠れていたもの、民族の差別をつくったり、国民の運命を形成したりする、善にせよ悪にせよ天賦の資質が、そこに露骨に出てきたのだ。
火事とたたかいはじめて以来、初めておれたちが火をみたのは、その晩の十時だった。曳船で速力が出たから、燻《くすぶ》っていた破損物に風を送ったのだ。甲板の壊れた破片の下から青い火が現われてきた。炎はところどころに斑点《はんてん》のようになって揺らぎ、螢《ほたる》の光みたいにちらちら動いて這いまわってるように見えた。最初におれがそれに気づいて、マホンに告げた。
「そんならもう勝負はきまったな」とマホンは言った。「もう曳かれるのをやめたほうがいいぜ、さもねえと急に前も後も一度に燃えあがって、逃げる暇もねえことになる」
おれたちは大声でどなり、汽船に気づかせるためにベルを一度に鳴らしたが、むこうは相変わらず曳きつづける、とうとうマホンとおれとが、船首《へさき》へ行って、斧《おの》で曳綱を切らなければならなかった。綱の結びをほどいてる暇などなかったからね。船尾《とも》へ帰ろうとしたとき足許の木片の荒野を舐《な》めてる紅い舌が見えた。
もちろん汽船のほうでは綱の切れたのにすぐ気がついた。ひと声高く汽笛を鳴らし、大きな円を描いて灯火が振りまわされるのが見え、するするとこちらの舷側ちかく並ぶところまで来て、そして止まった。おれたちは後甲板にぎっしり一団になって、それを見ていた。ひとり残らず小さな包みか嚢《ふくろ》かを、やっとのことで持ちだしていた。
突然、先のねじれた円錐形の炎がパッと燃えあがり、黒い海面に光の輪を投げ、その輪の中心に二艘の船が並行にならび、しずかに波に浮かんでいた。ビヤード船長はまだ鉄格子《てつごうし》の上に腰をおろしたまま、もう何時間も唖《おし》のように黙りこくっていたが、このときゆっくりと立ち上がって、おれたちの前を通り、後檣帆《こうしょうはん》の横静索のところまで進みでた。
ナッシュ船長が呼ばわった。
「さあ早く! よく聞きなさいよ。わしの船は郵便《ゆうびん》行嚢《こうのう》を運んでるでなあ。あんたがたをボートにのせてシンガポールまで連れてゆこうよ」
「ありがとう! だがいらんぞ!」おれたちの船長が言った。「わしらは船の先途《せんど》をみとどけにゃならんでなあ」
「こっちはこれ以上は待てんわい」相手は叫んだ。「郵便じゃからね……そうじゃろが?」
「そうとも! そうとも! こっちは大丈夫じゃ」
「そんならええわ! シンガポールであんたらのことを報告しよう……さらばじゃ!」
汽船の船長は手を振った。こっちの水夫たちは静かに荷物を床へ落した。汽船は前進して、光の輪の外へ出て、炎々と燃える光の眩《まぶ》しさに、たちまちのうちにおれたちの視界から消えて行った。そして、そのときおれは、自分が小ボートの艇長として、はじめて東洋と見参することになるのだなと思った。素敵なことだ、とおれは思った。古船に対して誠実をつくすのは素敵なことだった。おれたちはこの船の最期《さいご》をみとどけるべきだった。ああ、燃えあがる青春の輝き! ああ、炎上する船の炎よりも眩《めくる》めく青春の熱火、この広い地球に魔法の光を投げ、大胆不敵に空までも舞いあがり、やがて海よりも残酷、無慈悲、酷薄《こくはく》な「時」の力で……黒白《あやめ》もわかぬ黒い夜に包まれた、燃える船の炎のように……消えてゆくのが定業《さだめ》なのだ。
*
老船長は、例のおだやかな、しかも揺るぎない態度で、救えるだけは船の備品を救うのが、出資者に対するおれたちの義務の一部だということを、おれたちに注意した。そこでおれたちは、前部のほうが盛んに燃えているので昼間のように明るい船内で、後尾のほうへ仕事しに行った。
たくさんな「がらくた」を運びだした。おれたちの出せなかったものに何があったろう? 馬鹿ばかしく螺旋針《らせんしん》の多い古いバロメーターのために、おれには命を賭《か》けるほどの値打があった……いきなり煙が押し寄せてきたので、おれは危ないところで逃げおおせたのだ。食糧その他いろいろの貯蔵品、帆布の巻束《まきたば》、コイルにした綱、後甲板はまるで船具のバザーのようになり、ボートは舟べりまで物を詰めこまれた。はじめて指揮をとった船の品物だから、老人は持ち出せるだけ持ち出して帰りたがったのだと思う人もあるかもしれん。爺さんは実に、じつにおだやかだったが、たしかに平静を失ってはいたね。
どうだろう、これなんか諸君には信じられるかね? 船長は古い中錨の鎖を幾フィートかと、小錨とを、大ボートで持ちだそうと言ったのだぜ。おれたちは、「は、は、承知しました」とおとなしく答えて、内証《ないしょ》でそれらを欄干ごしにすべり落としちまったよ。重い薬箪笥《くすりだんす》も、ふた袋の生珈琲《なまコーヒー》も、ペンキの罐《かん》いくつか……どうだい、ペンキだぜ!……その他さまざまの品も、同じようにして捨てられた。それからおれは二人の水夫といっしょにボートに乗り込んで積んだ品物の荷積みをやり、いよいよ本船を離れるときに差支えのないように、そのときまでに用意しておくことを命じられた。
おれたち三人は何もかもキチンとかたづけたし、大ボートは船長が指揮するはずだったから、帆柱もちゃんと立てたし、だから少しのあいだ腰をおろしても、おれはべつに悪いとは思わなかった。おれの顔は皮がむけてひりひりするし、手足は折れたかと思うほど痛むし、肋骨《あばらぼね》のありかがみんなわかるし、背骨がたしかに曲ったと断言したいくらいだった。船尾《とも》につないだボートは、濃い影法師になって横たわり、あたり一面、火炎に明るんだ円《まる》い海を見ることができた。船首《へさき》から巨大な炎が天に冲《ちゅう》して鮮やかにみえた。すさまじくはためき燃える炎は、鳥の羽ばたきのような、雷鳴のとどろきのような音を立てた。パチパチと物の爆《は》ぜる音、大きく爆発する音、そして炎の中心から火花が上空に躍りあがる、それがまるで人間が求めて苦労をするため、水漏りのする船に乗るため、燃える船に乗るために生まれついてきた火宅の人生を、象徴するかのようだった。
おれの困ったことは、横波をまともに受けている本船が、あるかないかの風……ほんの息をしてるだけの……を受けてるだけなのに、ボートのやつらが、安全な船尾《とも》のほうにじっとしていないで、ボート特有ののろまな動きかたで、ややもすれば船尾突出部《カウンター》のほうへ出たがり、そこから今度は船側にゆらゆらと動いてゆきそうになることだった。やつらは物騒にそのへんにぶつかりまわり、火炎のほうへ近づくばかりか、船は絶えず横揺れしてはボートの上へかぶさりかかるし、またもちろんのこと、いまにもマストが横たおしに海の上へ倒れてくる危険は絶えずあったわけだ。ボート係のおれと二人の水夫とは、櫂《かい》だの鈎竿《かぎざお》だのを使って、一生懸命、危険から遠ざけようと骨折ったけれども、いますぐここを離れてわるいという理由はひとつもない以上、絶えずこんな苦労に忙殺されることが、だんだん癪《しゃく》にさわってきた。船の上にいる連中の姿はおれたちには見えないし、ぜんたいなんでこんなにぐずぐずしてるのか、皆目《かいもく》想像がつかなかった。ボートの水夫たちは、小さな声で文句を言っていたが、おれは自分のやるべき仕事をやった上に、ともすればごろりと横になって万事を成り行きまかせにしたがるこの二人の監督もしなければならなかった。
とうとうおれは呼んだ。「おおいデッキのひと!」
すると誰か顔をだしてのぞいたから、「こっちはもう用意できたぞ」とおれは言った。出ていた首が引っ込んで、すぐにまた出た。
「船長からですがね。『よろしい、ボートが船にぶつからんようによく気をつけてくれい』ってことです」
三十分たった。たちまち、ものすごいワアッという叫び声、ガラガラと物のくずれる音、ジャランジャランと鎖のひびき、シュウシュウという水のなかの音、それといっしょに何百万ともしれぬ火花が、船の真上からすこし傾いてムクムクと揺れて立ってる煙の円柱の真っただ中へ噴きあがった。吊錨架《つりびょうか》はとうに焼き払われていて、ふたつの赤熱した大錨《おおいかり》も、同じく赤熱した二百|尋《ひろ》の錨鎖を引きずったまま、海の底に沈んでしまっていた。船は戦慄《せんりつ》し、炎の団塊はいまにも崩れそうに横になびき、そして前部上檣が倒れた。まるで火矢のように下向けに飛んで海中へ突っ込んだやつが、あっという間にボートから櫂一本と離れぬところへ跳《は》ねあがって、火光に明るんだ海の上に、静かに、黒々とただよった。
おれはもう一度デッキを呼んだ。しばらくして、案外にほがらかな、だがそのくせ口を閉じたまま物をいおうとしてるような含み声で、「すぐ行きます」と知らせておいて、引込んでしまった。
ずいぶん長いあいだ、おれは火のうなる音、吼《ほ》える声のほか、何も聞かなかった。口笛の音もそのなかに交じっていた。ボートは跳ねたり、もやい綱を引張っり、じゃれあうようにボート同士ぶつかったり、横っ腹を突っついたり、そうかと思えばまた、いくらおれたちが骨折っても、本船の胴っ腹へ束《たば》になって寄りついてゆく。おれはもうこれ以上の我慢ができなくなったから、綱を伝わって船尾から甲板へ這い上がった。
まるで真昼のような明るさだった。こんなふうにして這《は》い上がった真正面に、いちめんの火炎を眺めるのは、縮みあがるような光景だった上に、その熱気も、初めはとても耐えられそうに思えなかった。船室からひきだした長椅子のクッションの上に、ビヤード船長が、両脚を折り縮め、肱枕《ひじまくら》をして、火光を全身にたわむれさせながら眠っていた。他の連中が何事に熱中していたか、諸君わかるかね? みんな船尾《とも》の甲板に車座になって坐りこみ、まんなかに置いた箱の蓋をあけ、パンやチーズを食ったり、壜詰《びんづめ》のスタウトを飲んだりしてたのさ。
やつらの頭の上で、めらめら凄い舌をくねらせている火炎を背景に、火蛇《サラマンダー》みたいに居心地よさそうに飲み食いしてるところは、まさに一団の凶暴無残な海賊を髣髴《ほうふつ》させたね。火はやつらの白眼《しろめ》のなかで瞬《またた》き、破れたシャツから覗いてるわずかな白い肌に照り映えている。どいつもみな戦場で受けてきたような痕跡《しるし》を身につけている……包帯まいた頭、吊《つ》った腕、膝を巻いた汚れた布など……そしてどいつもみな股《また》ぐらに酒壜を一本ずつ抱いて、手にはチーズの塊を持っている。
マホンが立ち上がった。やつの美しくはあるが人のあまりほめない頭、鈎鼻《かぎばな》の横顔、白い長い顎鬚《あごひげ》、それから手に持ったまだ栓を抜かぬ酒|壜《びん》、そのどれをとっても、狼藉《ろうぜき》と惨禍《さんか》とのただなかで昔ながらの酒盛りをやってる不運な海賊どもの一人らしくないところはない。
「船中での最後の食事だ」
やつは真面目くさって説明した。「今日は朝からなんにも食ってねえのに、これだけのものを残していったってなんの役にも立たねえからな」
酒|壜《びん》をふりまわして、眠ってる船長のほうをさし示し、「親爺はなんにも咽喉《のど》を通らんというから、おれがひと休みさせてやった」と言葉をつづけて、おれが目をまるくしたのをみると、「お前《めえ》は気がついてるかどうか、なあ若いの、おれゃ知らねえがな、あのひとはもう幾日も前から、眠ったというほど眠ってはいねえんだ……それにボートに乗っちまえば、とても眠れるもんじゃねえからな」
「そのボートが、こんな馬鹿さわぎをいつまでもやってると、もうじきなくなっちまうぜ」おれは腹を立てて、そう言った。そして船長のところへ行って、肩をゆすぶった。親爺、ようやく目をあくにはあいたが、びくとも動かない。
「船長、出発する時分です」とおれは静かに言った。
船長は苦しそうに起きあがり、火のほうを、船のまわりでキラキラ瞬《またた》いてる海……そしてずっと遠くのインキのように黒い、黒い海の上を眺めた。冥府《めいふ》へ通う街道のように暗い、暗い夜空に、うすいヴェールのように懸った煙をすかして、おぼろに光る星々を眺めた。
「いちばん若い者から先だ」と老人は言った。
そこで未熟な水夫が、手の甲で口許を拭き拭き立って、船尾手摺《タフレール》を乗りこえ、姿を消した。他の者があとにつづいた。一人のやつは、いざ乗りこえるときになって、ちょっと立ちどまって壜《びん》の酒をのみほし、大きく腕をふりまわして火中にその壜《びん》を投げこんだ。「これでもやらあ!」と、彼はどなった。
船長は心なぐさまぬ風情《ふぜい》で、ためらっていたから、おれたちはしばらくひとりで最初の指揮をとった船と別れを惜しませることにした。それからおれがも一度あがって行き、やっと親爺を連れだした。もうその時刻だった。後甲板の鉄のところは、触っても熱かった。
そこで大ボートの舫索《もやいづな》が切られ、ひとつにつながれた三隻のボートは船を離れて漕《こ》ぎだした。船を去ったのは、爆発からちょうど十六時間の後だった。マホンは第二ボートを宰領し、おれがいちばん小さいやつ……例の十四フィートのやつ……を引き受けた。大ボートはもっと大勢乗りこめたのだが、船長が船の備品を助けられるだけ助けねばならん……出資者のためにさ……と言ったものだから、そこでおれは初めて指揮者になれたのだ。おれのボートには水夫二人、ビスケットひと袋、肉数罐、それにひと樽《たる》の飲料水があった。天気が悪くなったら、おれたちは大ボートに収容してもらうことになりそうなので、あまり離れずにいろと命令を受けていた。
ところで、おれが何を考えたと思うかね、諸君? おれはできるだけ早く他のボートから離れようと思ったのだよ。つまり初めての指揮を、すっかり自分ひとりでやりたかったのさ。一本立ちで海を渡る機会が仮にえられるとしても、艦隊なんぞに加わるのはいやだと、おれはかねがね思っていたんだ。よし、自分ひとりで陸へ着けてやろう、他のボートを置き去りにしてやろうとね。青春だよ、何もかも青春だよ! おろかな、愛すべき、美しき青春だよ。
だがおれたちは、すぐには出発しなかった。船の先途をみとどけなくちゃなならんのだ。
そこでボートは夜っぴてうねりの波に揺りあげられたり揺りおろされたり、そのあたりに漂っていた。みんなはうとうとしたり、目をさましたり、溜息ついたり、唸《うな》ったりした。おれは燃えてる船を眺めた。
暗黒の天と地とのあいだに、船は血潮のような火光の戯《たわむ》れに射られて紫色の円盤となった海の上で……ぎらぎらと不吉な光を放つ水の円盤の上で、すさまじく燃えていた。天に冲《ちゅう》する鮮麗な炎、巨大で、しかも孤独な炎が、大海のただなかから燃えあがり、その頂きから黒煙が絶えまなく空に噴き出ている。船はすさまじく燃えていた、夜陰に積まれた葬《はふ》りの薪《たきぎ》のように、悲しげに、しかも壮大に、海にとりまかれ、星に見まもられつつ、燃えていた。
壮麗な死が、あたかも神の恵みのごとく、天の賜物のごとく、苦しみの多かった生涯への報償のごとく、その生涯の終わりにこの老いた船を訪れたのだ。倦《う》みつかれたその亡魂が、星屑《ほしくず》と海との手にゆだねられる姿は、まさに栄光にかがやく凱旋《がいせん》の光景のように、ひとの心をうごかすではないか。檣《しょう》は夜明けのすぐ前に焼け落ちて、爛々《らんらん》たる火花が炸乱《さくらん》し噴騰《ふんとう》して、根気よく心をこめて見まもる夜を、海原の上に黙々と横たわっている広大無辺の夜を、飛び交う火花でいっぱいにしたかと思われた。
夜が明けると、もはや船は、なおも漂う煙雲の下に浮かんで、燃える石炭の大塊を内に抱き、一堆《いったい》の焼け焦げた燃え殻に成り果てていた。
やがて櫂が出され、ボートは一列になって、母船の亡きがらのまわりを、まるで葬列のように一周した……大ボートが先頭に立ってね。
ちょうど船尾《とも》にさしかかったとき、一道の火炎が憎々しく、おれたちのほうへ噴きつけてきて、急に船は舳をさきに、蒸気のはげしい水音を立てながら沈んで行った。焼け残った船尾は最後に沈んだ。だが、例のペンキはもうなかった。ひび割れて、剥《は》げ落ちてしまっていた。そしてもう、いまは文字もなく、言葉もなく、あの船の信条とあの船の名とを、さしのぼる朝日にきらめかせる不屈の魂にふさわしい傲岸《ごうがん》な工夫も、この世にはなくなってしまった。
おれたちは北へ進路をとった。快風が起こって、正午ごろには三隻が最後にいっしょになった。おれのボートには帆柱も帆もなかったが、予備のオールで帆柱をつくり、帆桁には鈎竿《かぎざお》をつかい、ボートの日除けを帆にして張った。たしかに帆柱は高すぎて艇身にはつりあわなかったが、風がうしろから吹けば他の二隻を抜き離してやれるぞと思って、おれは愉快だった。おれは他のボートを待っていなければならなかった。それから、いっしょに船長の海図を見て、堅パンと水の打ちとけた食事のあと、最後の指令をうけた。といっても簡単なものだ……舵を北にとる、できるだけ離れぬようにする。
「あの応急|艤装《ぎそう》に気をつけろよ、マーロウ」と船長は言った。そしてマホンは、おれが大得意でやつのボートを追い越すとき、例の鈎鼻に皺《しわ》を寄せて、呼びかけたものさ、「気をつけねえとな、若いの、お前の船は水の底を帆走るようになるぜ」
あいつは意地のわるい爺いだったよ……いまあいつの眠ってる深海が、あいつをおだやかに揺すって、未来|永劫《えいごう》、やさしくあいつを揺すってくれますように!
日没まえ、どしゃ降りの驟雨《しゅうう》が、ずっと後になっていた二隻のボートの上にかぶさったので、そのときがしばらくのあいだ、あの二隻の見おさめになった。
明くる日、見わたすかぎり水と空ばかり、おれは自分の鳥貝の殻の……つまりおれが最初に指揮した船のだね……舵をとっていた。午後になって、遠くのほうに船の上檣帆だけが見えたが、口には出さなかった。部下の水夫たちは気がつかなかった。そうさ、おれはその船がひょっと本国帰りだったら困ると思ったのさ。東洋の入口まで来て引っ返す気にはなれなかったからね。おれはジャバへむけて舵をとっていたんだ……これもまた聖なる地名さ……バンコックと同様にね。おれは幾日もつづけて舵をとっていたよ。
雨ざらしのボートで海をうろつくのがどんなものか、いまさら話すまでもないだろう。夜も昼も、幾日も凪《なぎ》がつづいて、漕いで漕いでも、水平線の円のなかで魔法にかけられたように、ボートがじっと動かなくなってしまったかと思ったことを、おれは憶《おぼ》えてる。暑さが激しく、驟雨《しゅうう》で艇が水びたしになり、命かわいさに夢中でかいだした(もっとも飲料水の樽はお蔭でいっぱいになった)ことも憶えてるし、十六時間ぶっ続けに石炭殻みたいにカラカラに口を乾かしながら、舵櫂を艫《とも》にくっつけて、はじめて指揮をとる自分の船を荒波わけて押し進めようとしたことも憶えている。それまでというもの、おれは自分がどのくらい好い船乗りだか知らなかったのだ。二人の水夫のくたびれきった顔、元気のない様子も、おれは憶えている(そしておれの青春と、二度とふたたび帰ってはこないその気持とをも、おれは憶えている……海が滅びようと陸がなくなろうと、人間ぜんたいが死に絶えようと、おれだけは永久に生き残れるという、あの気持、喜びにも、危険にも、恋にも、むだな努力にも……そして死にすらも、おたがい人間を誘い寄せる、あのインチキな気持だねえ。わが力に対する勝ちほこった自信、ひと握りの土塊《つちくれ》に宿る熱い命、年ごとに光がうすれ、年ごとに冷えて、縮んで、そして消えてしまう……ああ、あまりにも早く、あまりにも早く……命そのものよりも前に消えてしまう……こころの灯《ともしび》。
さて、こんなふうにして、おれは東洋に見参した。おれはあの世界の秘密の場所も、魂の真の奥底までも見ては来たが、だが朝空には青く、遠《とお》どおに、真昼はうすい霧のように、暮れがたは鋸《のこぎり》の歯の形した紫色の城壁のように、山々の高い輪郭をながめた、あの小さなボートのなかから、いつもおれは東洋を見ていたのだということを、いまになっておれは知った。おれのこの手には櫂を握った感触が残っている、おれのこの目には焼けつくような蒼い海のまぼろしが見える。またおれには入海がみえる……鏡のようにたいらかで、氷のように光沢《つや》があり、闇のなかでぼんやりと光ってる広い入海だ。薄ぐらい遠い陸地の影の上に、赤い光が燃えていて、夜はなごやかであたたかい。痛む腕でオールを引いているとき、急に一脈の風が流れてきた、ほんのかすかななまぬるい、花々や香木のめずらしい芳香を含んだ風が、静かな夜のなかから流れてきた……おれの顔をかすめた東洋の最初の吐息がそれだった。おれは一生あれを忘れることはできん。魑魅《まどわし》のように、神秘なよろこびの約束をささやかれたように、そこはかとなく、しかも逃れがたい魅力なのだ。
この最後の一段を、おれたちは十一時間かかって漕いだ。二人が漕いで、休む番になった一人が舵柄をとって坐るのだ。そのときはあの湾の赤い光を見わけていたから、たぶんそれが小さな沿岸まわりの船の着く港の標識だろうと推察した。おれたちは異様な、船尾《とも》の高くなった二隻の船が停泊しているそばを通り、いまはひどく弱くなっている光のほうへ近寄ってゆくと、波止場の出っぱりの端にボートの鼻をぶつけた。あまり疲れて、目が見えなくなっていたのだ。水夫たちはオールを手放すと、まるで死んだように座板から落ちて倒れてしまった。
おれはボートを杭《くい》につないだ。潮流がやさしく小波《さざなみ》をたてた。陸《おか》の香りたかい暗がりは、幾つかの大きな塊にわかれ、おそらく樹木の山のように生い茂った森だろう……無言の、夢のような形をしていた。そしてその森の足許に、半円形の浜辺が、まるで幻覚のようにぼんやりと浮かんでいる。光もなく、動くものもなく、音ひとつなかった。神秘の東洋が、花のようにかぐわしく、死のように黙《もだ》し、墓のように暗く、いまおれの眼前にあるのだ。
それからおれは、とても言いようもないほど疲れて、そのくせ征服者のように胸おどらせて、ちょうど深遠な、運命の鍵を握る謎の前に出たように、眠りもなく恍惚《こうこつ》として、そこに腰をおろしていた。
櫂の水を飛ばす音、調子を揃えて水を切る音が水面にひびいて、浜辺の静寂のため格別に音たかく聞こえたので、おれは飛びおきた。一隻のボート、ヨーロッパのボートが、入ってくる。おれは死人の名前を呼び起こして、「ジュデア号よ、アホーイ!」と呼んだ。かすかな叫び声がそれに答えた。
船長だった。この旗艦に、おれは三時間だけ先んじたのだ。そして親爺さんのくたびれた慄《ふる》え声がふたたび聞けたことを喜んだ。
「お前かいな、マーロウ?」
「その波止場の鼻に気をおつけなさいよ、船長」と、おれは叫んだ。
老人のボートは注意ぶかく近寄ってきた。そしておれたちが助けた……出資者のために……深海用の測量綱を錨《いかり》にしてそこに停泊した。おれは自分のもやい綱をゆるめて、大ボートの隣まで下っていった。艇尾にみすぼらしい姿で、夜露にぬれ、膝のなかに両手をさしこんで、船長は坐っていた。水夫たちはもう寝入っていた。
「いや恐ろしい目に会うたよ」と老人はつぶやいた。「マホンはうしろにおる。そう遅れてもおらんが」
おれたちは、まるで陸地に目をさまされるのを恐れるかのように、低い……ごく低いささやき声で、話をした。大砲だろうが、雷だろうが地震だろうが、あのときの水夫どもを目ざますことはできなかったろう。
話しながらあたりをみまわし、おれは海上の闇のなかを航行する明るい灯火をみた。「湾を過ぎてゆく汽船がありますね」とおれは言った。
ところが過ぎてゆくのではなく、入ってくるところだった、いやそれどころか、汽船はすぐそばまで来て、投錨《とうびょう》した。「どうじゃ、あの船がイギリス船かどうか、見とどけてくれんか」と老人が言った。「たぶんわしらをどこぞへ連れて行ってくれようわい」
彼はひどく神経質に心配していた。そこで殴ったり蹴ったりして、おれは部下の水夫を夢遊病状態まで引き起こし、これに櫂を渡して、自分も一丁とり、汽船の灯火めがけて漕ぎだした。
船内で人のつぶやき声、機関室の空虚な金属的な鳴り音、甲板の足音などが聞こえた。舷窓はむきだした目玉のようにまるく光っていた。人影がうろうろし、ブリッジの上の高いところにも影法師のような姿があった。その男がおれのオールの音を聞きつけた。
すると、まだおれが口をひらかぬさきに、東洋がおれに話しかけた……が、それは西洋の声だった。謎のような、運命の鍵を握ったような沈黙のなかへ、奔流のように言葉が注ぎこまれた。聞きなれぬ怒り声で、そのなかにちゃんと纏《まと》まった英語の単語どころか文章さえもまざっているのには、そこだけ意味はわかりよかったが、かえって一層おどろかされた。その声は猛烈に悪口雑言《あっこうぞうごん》を吐きちらした。口をつく罵詈《ばり》が、おごそかな湾内の静寂をやぶった。
その声は、はじめおれを「豚」と呼んで、それからとてもここで言えない形容詞へと……しかも英語で……急速調になった。高みの男は二つの国語で声たかく叱りつけた。まったく腹の底から怒ってるらしいので、おれはひょっとすると宇宙の調和を破る大罪を犯したのかも知れんぞと、危うく思いこみそうだった。こっちからは向こうの顔はほとんど見えない、が、奴《やっこ》さんぶっ倒れやしないかと、おれは心配になった。
急に、相手はだまったので、おれにはやつが海豚《いるか》のように鼻息を荒くフウフウいってるのが聞こえた。おれは言った……
「この汽船はなんというんだい?」
「なんだと? なんという汽船だと? そういうきさまは誰だ?」
「海火事おこしたイギリスの小帆船で難波した船乗りだよ。今晩ここへ来たんだがねえ。おれは二等航海士だ。船長は大ボートにいるがね、お前さんの船でどこまでか連れてってくれまいかと言ってるんだ」
「なんだい、こりゃ驚いた! なるほど……この船はセレスチャル号で、シンガポールからの帰り船だ。朝になったら船長と相談しようよ……それでと……つまりだ……いまおれの言ったことを、お前きいてたのか?」
「まあ湾内どこにいたって聞こえただろうなあ」
「わしはまた土地のボートだと思ってな。ところで、いいか、聞きなさいよ……あのクソいまいましいぐうたら野郎の大悪党の番人め、また寝込んじまやがった……あの畜生野郎がわるいんだ。灯火《あかり》が消えたもんだから、おれは危うくそのいめえましい出っ鼻にぶっつかりそくなったんだ。野郎めがこんな悪戯《いたずら》しおったのは、これで三度目だわい。さて、ちょっと訊くが、こんな馬鹿な話で、腹を立てずに我慢する人間がおると思うかね? 誰だってこんな目にあえば気が狂うの当り前だろうが。おれは報告してやる……代理領事にそう言って、免職させてやるわい、まったく……見なさい……灯火が消えとる。消えとるじゃろう? ちがうか? 灯火が消えた証人に、あんたを連れてゆくからな。あすこに灯火がなくてはならんことは、わかりきった話じゃ。赤い光を……」
「それならあったよ」おれは穏やかに言った。
「あったが、消えとるじゃないか、きみ! こんなことを話しあっとってなんの役に立つかい? 消えとることはきみの目で見ればわかるだろうが?……わからんかね? もし貴重な汽船がこの神にみすてられた岸辺へ着こうと思えば、どうしても灯火が要《い》るんじゃ。野郎め、わしはこの貧乏くさい波止場の端から端まで蹴りまわってやるわい。嘘だと思うなら、まあ見とるがいい。わしはな……」
「じゃ、船長に、連れてって貰えると話していいんだね?」
「よし、連れてってやる。おやすみ」ぶっきら棒に、男は言った。
おれは漕ぎ帰って、出鼻にボートをつなぎ直して、それから、ようやくのことで眠ることにした。おれは東洋の沈黙と顔をつきあわせた。その言葉のあるものも聞いた。だが次におれが目をさましたとき、沈黙は、かつて一度も破られたことがないかのように完《まった》かった。おれは光の洪水のなかに横たわっていた。空がこんなに遠く、こんなに高く見えたことはそれまでになかった。おれは目をあいて、動かずに横になっていた。
すると、そのときおれは東洋の人々をみた……かれらはおれを見物していた。出鼻の端から端まで、人間が鈴なりだった。褐色の、青鋼色の、黄色の顔を、おれはみた。黒い目、その光、東洋の群集の色濃い風俗。そしてこれらすべての人々はひと言もつぶやかず、溜息《ためいき》ひとつせず、身じろぎさえもせずに凝視しているのだ。ボートを、夜のうちに海の外からかれらの土地へ来た男たちの寝姿を、凝視している。動くものはひとつもない。棕櫚《しゅろ》の葉もしずかに空にそそり立っていた。岸辺では枝ひとつ動かず、隠れた家々の茶色の屋根か、緑の茂みのあいだから、まるで重い金属の鋳物《いもの》のように静かに日に照らされている大きな葉のあいだから、わずかに覗いている。これは昔の航海家の見た東洋だ、昔ながらの、神秘な、光りかがやき、しかも黒ずんだ、生きていてしかも少しも変わらぬ、危険でしかも楽しみ多い、あの「東洋」だ。そしてここにいるのが、その住民だ。
おれは急に身を起こした。動揺の波が、群集の端から端まで伝わり、まるで水の上の漣《さざなみ》のように、畑の上をわたる風のように、首から首に伝わり、からだがからだを揺すって、出鼻の上を伝わったかと思うと……またすべてが静かになった。
いまになって、おれはわかった……湾の広い屈曲、かがやく砂、無限にしてしかも変化に富む豊かな緑樹、夢の国の海のような蒼海原《あおうなばら》、好奇心にみちた群集の顔、溌刺《はつらつ》たる色彩のかがやき……そのすべてを映す海、浜辺の曲線、岬の鼻、静かにうかぶ艫《とも》の高くなった異様な船、そして西方から来て疲れて……陸地も住民も、日光の激しい照りつけも何も知らずに……眠っている男たち、かれらをのせた三隻のボート。
水夫たちは座席に身を投げだし、舟底の板で体を折りまげ、死人のように無頓着な姿勢で眠っている。大ボートの艫《とも》に背をもたせた老船長の首は、胸のあたりまで落っこちて、まるでいつになっても目をさましそうもない人のように見える。その向こうには老マホンが、顔を空にむけ、長い白い顎ひげは胸の上までひろがり、まるで舵柄《かじづか》を握ったその場所で射ち殺されたかのようだ。それからボートの舳《へさき》にからだを折りまげた男は、両腕でボートの突鼻《とっぱな》を抱えこみ、舷の上縁に頬をあてたままで眠っている。東洋は音もなくかれらを眺めていた。
それ以来、おれはこの世界の魅力を知った。その不思議な岸辺を、静かな海を、褐色の国民たちの国を、跡をつけ、足音をしのばせて、狡猾《こうかつ》なネメシスが、じっと横になって待ちかまえ、知恵や知識や武力を誇るあまたの征服者の跡をつけ引っ捕える国、それをおれは知ったのだ。だがおれにとっては、東洋のすべては、おれの青春のあのまぼろしのなかに含まれるのだ。そのまぼろしは、おれがあの若い目をみひらいてそれを見た、あの瞬間に、すべてあった。おれは海との格闘から、そのまぼろしに突きあたった……そしておれは若かった……おれはそれがおれを見ているところを見た。そして、これこそは、残っているすべてなんだ! ただの一|刹那《せつな》だ。力と、ロマンスと、かがやきにみちた一刹那……みな青春のもてるものだ! ……見知らぬ岸にゆらぐ太陽の光、忘られぬ時、吐息のための時、そして……いや、さようならだ! ……夜だ……さようなら……!』
彼は飲んだ。
『ああ! あの頃はなつかしい……なつかしいあの頃。青春と海。魅惑と海! ささやき、吼《ほ》えたて、息の根を絶やす……善良で、強い海、塩辛《しおから》くて、苦い海だ』
また、彼は飲んだ。
『ありとある不可思議なものに賭けて言うが、おれは信ずるね、あれはやっぱり海なんだ、海そのものなんだ……それともあれは青春だけだろうか? 誰にもわからんことだね。だがここにいるきみたちは……諸君はみんな、人生から何ものかを得ている……金にせよ、恋にせよ……陸へあがってから得たもの、何によらずさ。……だが諸君、われわれが若くて、海に出ていた頃、若さのほかにはなんにも持たず、辛《つら》い思いと、時たま自己の力をためす機会とだけ……ただそれだけだが、おたがい何よりも口惜《くや》しいのはそれがなくなったことだ、そのほかには何ひとつくれない海……あの海の上で過ごした頃が、われわれの一番いいときだったのではないかね?』
そこで私たちはみな、彼に向かって頷《うなず》いた。銀行家も、会計士も、弁護士も、私たち一同、静かな一枚の茶色の海のような光沢《つや》のあるテーブルごしに、彼にむかって頷《うなず》いた。
そのテーブルの上に、私たちの皺《しわ》の寄った顔が映っていた。労苦と、ごまかしと、成功と、恋との極印をのこした顔が映っていた。待っているうちに消えてしまうもの……息つく暇に、瞬く間に、青春や、活力や、ロマンスのまぼろしやといっしょに、うつろい消えてしまうもの……そうしたあるものを、いまもなお、つねに変りなく、熱心に人生から得ようと求めている私たちの疲れた目が、そこに映っていた。(完)
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台風
一
汽船ナン・シャン(南山)号のマクホア船長の人相は、その顔の材料のまとまり工合からいって、彼の心とぴったり似合っていた。堅固さとか愚劣さとかを示す格別な特徴ある顔ではなく、いや、これぞといった判然とした特徴は何もない、ごくありきたりの、手ごたえのない、ものに動じない顔であった。
ただひとつ、それも時折であるが、彼の風貌から察しられる気質といえば、それは「てれ」性《しょう》である。陸で、事務室などにいるときの彼は、日焼けのした顔にあるかないかの微笑をうかべて、眼をふせているからである。その眼をあげれば、まっすぐに相手をみまもる眼差し、そして眼の色は青いということが誰にもわかる。髪は明るい色で、ごく細く、こめかみからこめかみまで、きれいに禿《は》げた頭の円屋根を、ふわふわな絹のような留め金で受けとめているようだ。顔に生えた毛のほうは、これと反対に、燃えるようなニンジン色で、唇のへりまで短く刈った赤銅《しゃくどう》の針金を植えこんだかと思われる。どんなに丹念に顔を剃っても、燃えたつような金属性のかがやきが、頭をうごかすたびに頬の表面に浮かんで消える。身の丈《たけ》は中背《ちゅうぜい》より少し低いほうで、いくらか猫背で、四肢が頑丈なために、彼の衣服はいつも腕や脚にくらべて、ひとまわり窮屈にみえる。緯度のちがいというものがわからないかのように、彼は茶色の山高帽、同じく茶系統の三つ揃いの背広、ぶかっこうな黒の長靴を身につけていた。
こうした上陸時の服装は、彼のがっしりした体躯《たいく》に、ひきしまった武骨さをまじえたスマートさを添えていた。細い銀の時計鎖をチョッキに垂らし、そのたくましい毛むくじゃらの手首に最上等の瀟洒《しょうしゃ》たる洋傘を、だがたいていは巻かずに握ってでなくては、決して船から陸へあがらなかった。
舷門まで彼を見送る一等航海士のジュークスは、ときどき、その有様を見かねて、だがこの上もなくやさしい声で、「船長、ちょっと失礼」と言いながら、うやうやしく洋傘を取り、尖《さき》の石突きを高くもちあげ、襞《ひだ》をひと振りしてからくるくると器用に巻いて、船長に手渡すことがある。それをまた生まじめすぎるほど荘重な顔つきでやってのけるので、機関長のソロモン・ライト氏は、甲板の明り取り窓の上で朝の葉巻をふかしながら、思わずうかんだ笑いをかくすためによそを向くのが常だ。
「おお! なるほど! しあわせな傘だ………ありがとうよ、ジュークス、ありがとう」とマクホア船長は心からうれしそうに、眼をふせたままでつぶやくのである。
昨日につづく今日をつつがなく過ごしてゆくのには十分な想像力をもち、またそれ以上には持ちあわせていないので、彼はいつも平静にみずからを持していた。またその同じ理由によって、彼は決してうぬぼれに陥らなかった。およそ怒りっぽくて、横柄で、機嫌のとりにくいのは、想像力の強い上役にかぎるので、わがマクホア船長の指揮する船はいつも春風|駘蕩《たいとう》の、のどかな「浮かべる家」であった。
まったく、彼にとっては、空想の翼を走らせることの夢にも不可能なことは、時計職人が二ポンド金鎚《かなづち》一本と細身|鋸《のこぎり》一挺だけのほか道具を使わずにクロノメーターを組み立てることができないのと一緒だった。とはいえ、これほど生きてゆくというぎりぎりの現実だけに没頭している人間たちのおもしろくもない生活にも、それぞれの解きがたい謎の一面はあるものだ。たとえばマクホア船長の場合でも、ベルファストの小雑貨商の、どこといって申し分のない息子だったのに、いったいどういう魔がさして家出をして船乗りなんぞになったのか、とても理解できないことである。ところが事実、彼は十五の歳にそれをやってのけたのだ。
おたがいがこのことをよくよく考えてみるならば、この地上の蟻塚《ありづか》のなかへ、一本の途方もなく大きな、強力な、見えざる手がつっこまれて、それが人間どもの肩口をつかまえ、めいめいの頭をごつんごつんぶっつけあわせ、無我夢中でいる大衆の顔を、思いもよらぬ目標へ向かわせ、夢にも知らぬ方角へさし向けているのだ、とでも考えたくなるだろう。
この彼の親不孝な愚かな行ないを、彼の父親は最後までゆるそうとしなかった。
「あいつがおらんでも、わしらはべつに困りもしなかったじゃろうが」と父親は後になって口ぐせに言ったものだ。「商売というものがあるからのう。おまけにあいつは一人息子じゃしな!」
彼の家出の後、母親はひどく泣き悲しんだ。書き置きをするなどということは全然思いつかなかったので、八カ月後に、チリのタルカワノから最初の手紙が着くまでは、みなは死んだものとして悲しんでいたのだった。
その手紙もごく短いもので、「外海の航海中はたいへん好天気でした」などと書いてあった。しかし書いた彼の身にすれば、そのなかで大切な知らせといえば、彼の乗った船の船長が、ちょうどこの手紙を書いた日に、正式に彼の名を二等水夫として船の帳簿へ書きこんでくれた、ということだけであったようだ。「私にはそれだけの仕事がつとまるからです」と彼は注釈していた。母親はまたもや涙にかきくれ、父親は父親で、「トムのやつは阿呆《あほう》じゃ」の一句で複雑な気持を表現した。
この父親は肥った男で、ひとをからかうのが上手だったので、息子との文通のなかでも、まるで薄のろな人間に対するように、多少の憐れみを加えながら、死ぬまで息子をからかいつづけたのである。
マクホアの帰省は、こんな事情だから当然にごく稀《まれ》で、したがって幾年かのあいだにはほかにも両親にあてて幾度か手紙を書き、次々と自分の地位の昇進したことや、広い地球の上で彼の渡りあるいた場所について知らせてきた。それらの信書のなかには、「ここはたいへん暑いところです」とか、「クリスマスの日、午後四時に、船は幾つかの氷山に出会いました」とかいう文章がみいだされる。年老いた両親はそのためにたくさんの船の名や、それらの船を指揮する船長の名を……のみならずスコットランドやイングランドの船主の名や、多くの海の名、大洋の名、海峡や岬の名、木材とか米とか綿花とかの積み出しで名を得ている耳なれぬ異国の港の名……さらには息子の意中の若い女性の名までも……知るようになった。
その娘の名はルーシーといった。マクホアはこの名をかわいらしいと思っているかどうかを手紙に書くなどということは、てんで思いつかなかった。そのうちに両親は死んだ。
やがて記念すべきマクホアの結婚の日が来たが、これは彼がはじめて船長になった記念すべき日から間もなくのことであった。
だがこうした出来事はすべて、汽船ナン・シャン号の海図室で、疑う余地のない気圧計の下降を前にして彼が立っていた朝よりも、はるかに遠い昔のことである。この下降は……計器が優秀なこと、季節、地球上における船の位置等を計算に入れて考えるに……はなはだ縁起のわるい性質の予言であった。しかしこの人物の赤ら顔はどんな種類の内心の動揺をも表にあらわさなかった。前兆などは彼にはなんの意味もなく、予言の知らせもそれがいよいよ実現して身近に迫るまでは、彼には発見することができなかった。
「気圧はさがっている、間違いない」と彼は思った。「きっと度はずれにいやらしい天気が、このへんをうろついておるのじゃろう」
ナン・シャン号はいま、船底にそこばくの積荷を積み、熱帯の各地の植民地で数年間の出稼ぎをした二百人の中国人|苦力《クーリー》が故郷の福建省の村々へ帰るのをのせて、開港場の福州へむけて北上する途中であった。今朝は快晴で、油を流したような海は白波ひとつ光らせずにのたりのたりとうねり、空には太陽の暈《かさ》らしい、奇妙な、白い露のような一点があるだけである。中国人をぎっしり詰めこんだ前甲板は、くすんだ色の衣類や黄色い顔や辮髪《べんぱつ》に埋まり、風がなく、蒸し暑いので、肌ぬぎになった肩があちこちに散らばっている。
苦力たちはあぐらをかき、雑談し、喫煙し、あるいは手摺《てすり》ごしに海を眺めていた。なかには舷側《げんそく》ごしに海水をくみあげてざぶざぶかけあっている者もあり、幾人かはハッチで眠っているかと思えば、幾組か、六人ずつで米飯の皿と小さな茶碗をのせた鉄製の盆をかこんできちんと坐り、食事している者もある。しかもどの「中華の民」もみなこの世での全財産を身のまわりから離さず持っている……ガチャガチャ音のする錠前つきの、角《かど》に真鍮《しんちゅう》の飾りのある櫃《ひつ》で、そのなかに各自の勤労によって稼ぎためたものが納めてあるのだ。何枚かの礼服、線香、またときに若干の阿片《あへん》、かれらの社会だけに値打のある得体の知れぬ「がらくた」が少々、それに少額の銀ドルの貯金……石炭の沖仲仕《おきなかし》をしてはたらいた金、博奕《ばくち》場からけちな金|儲《もう》けで儲けた金、百姓をして大地からつかみとった金、炭鉱や、鉄道工場や、おそろしいジャングルのなか、重い荷を肩に負って、汗みどろで稼いだ金……そうして辛抱づよくこれだけ残して、盗まれまいと用心し、必死に執着していとおしんでいるのがこの貯金だった。
十時ごろ、台湾海峡の方角から横うねりがかかりはじめたが、これらの船客たちはたいして気にかけなかった。それはこのナン・シャン号が、船底が平たく、底に止め木がついている上に、船の横幅が広いので、荒天の航海に格別にしっかりした船だという評判をとっているからだった。ジュークス氏は、陸でメートルをあげているときなど、「おいらの姐《ねえ》ちゃんは、きりょうもいいが気だてもいいぞ」などと気焔《きえん》を吐く。マクホア船長はこの船を高くは買っていても、そんな大声で、またそんな大げさな文句で吹聴《ふいちょう》しようなどとは一度も思ったことはない。
たしかにこの船はいい船であったし、また齢をとっていなかった。タイの貿易商会シグ・アンド・サンズの注文で、ダンバートンで建造されてからまだ三年にならない。細部まですっかり仕上げられ、汽船としての活動の一歩を踏みだす用意万端をととのえ進水したとき、造船所の人々は得意顔でこの船を眺めた。
「シグ商会から、安心のできる船長にこの船を運ばせてくれとたのまれているんだが」と社主の一人が言うと、その共同社主《パートナー》はちょっと考えてから言った。「たしかマクホアが、いま陸にいるはずですが」
「そうかね? そんならすぐに電報をうちたまえ。あの男ならおあつらえむきだ」上席の社主が、一瞬のためらいもなく、こう言った。
翌朝、マクホアは落ち着きはらって、造船所の社主たちの前に立った。細君に突然の、だがあまり大げさでない別れを告げたあと、彼は夜行の急行でロンドンを発《た》ってきたのだ。細君はもと相当に羽ぶりのよかった老夫婦の娘であった。
「わしたちが船までおともしましょう、船長」と上席の社主が言い、三人は船首《へさき》から船尾《とも》まで、内竜骨からずんぐりした二本マストの檣冠《しょうかん》まで、ナン・シャン号の完成ぶりを検分することになった。
マクホア船長はまず手始めに自分の上着を脱いだ。それを蒸気巻揚機《ウインチ》の端にひっかけたが、この巻揚機なども最近の技術の進歩を体現するもののひとつだった。
「叔父は昨日の便で、あなたを推薦する手紙をシグ商会へあてて書きました……あちらでも引き続きあなたにこの船をおまかせすることはまちがいありません」と年若のパートナーは言った。「中国沿岸地方で、この大きさの船のなかでは一番あつかいいい船をあずかるわけだから、あんた、威張《いば》れますぜ、船長」
「そうですか? どうも、ありがとう」マクホアはあいまいにつぶやいた。彼にとっては遠い将来のことは、眼のかすんだ旅客にひろびろとした風景の美が縁遠いのと同じで、少しもピンと来なかった。そしてそのとき彼の眼はちょうど船室のドアの錠前にとまって、意気ごんだ彼はつかつかとそこへ歩みより、ドアの把手《とって》をすごい力でがちゃがちゃ動かしはじめ、持ち前の低い真剣な声で、「どうも近ごろの職人はたよりにならんな。新品の錠前だというに、一向に利《き》かんじゃないか。ちっとも動かん。ほれ、どうです? おわかりか?」
造船所の向こうの事務所で、叔父甥《おじおい》の社主は二人きりになると……「叔父さんはあの男をシグにずいぶんほめ上げてやりましたね。どこがそんなに気に入ったんです?」いささかの軽侮《けいぶ》をこめて、甥が訊いた。
「おまえたちの気に入りそうな、しゃれた船長らしいところは、あの男にはないよ」年上のほうが無愛想に答えた。「『ナン・シャン』の大工のかしらはあっちにいるか?……おお、入ってくれ、ベイツ。テイトのとこの者が船室のドアにあんな利かない錠前をつけたのをほっとくのはどういうことだ? 船長はひと目みたらすぐに気がついたぞ。すぐにとりかえさせなさい。一事が万事だよ、ベイツ、……一事が万事さ……」
そこで錠前はとりかえられ、その後ナン・シャン号は東洋へ船出した。マクホアはその艤装《ぎそう》についてほかに何も言わず、自分の船を自慢するようなことも、指名を受けた感謝の言葉も、自分の将来についての満足の意を表する文句も、一言半句も吐かずに行ってしまった。
気質的には多弁でも無口でもないのだが、彼は話をする機会がほとんどなかった。もちろん仕事の上では口をきいた……指図《さしず》をしたり、命令を与えたり、等々のことがあった。しかし過去は彼からみると過ぎたことだし、未来はまだないのだから、その日その日の実際に即した事柄については何も言う必要がなかった……なぜなら事実は、圧倒的な直截《ちょくせつ》さでみずから語ることができるものだから。
シグ老人は言葉数の少ない人間を好んだ。また、「この男は与えられた命令以上の仕事をしたがらないやつだとわかっている」人間が好きだと言っていた。マクホアはこういう要求にあてはまる人物だったので、つづけてナン・シャン号の指揮をとりつづけ、この船でシナ海のあちこちを用心ぶかく航海する仕事を引き受けていた。
ナン・シャン号は最初は英国船として登録されたが、しばらくしてシグ商会はシャム国籍に変えるほうが得策だと判断した。国籍を変えるもくろみがあるという話を聞いて、ジュークスは、まるで人格上の侮辱でも受けたように気をもみだした。ぶつぶつひとりごとを言ったり、軽い冷笑を洩《も》らしたりしながら、歩きまわった。
「自分の船の旗じるしに、みっともないノアの箱舟みたいな象なんぞをくっつけることを考えてみろ」
彼は一度機関室のドアの前で啖呵《たんか》を切った。「そんなことに我慢するおれじゃないぞ。こんな仕事、こっちからごめんこうむらあ。どうです、ラウトさん、あんた、胸くそがわるくないんですか?」
機関長は、いい職場の値打をよく知っている人間らしく、咳ばらいしただけで返事しなかった。
新しい国旗がナン・シャン号の船尾《とも》にひるがえった最初の朝、ジュークスはいまいましそうに船橋からそれを眺めた。しばらくは自分の感情とたたかっていたが、やがて言った。「妙な旗を立てて航海する羽目になったもんですねえ、船長」
「旗がどうかしたかね?」マクホア船長は質問した。「わしにはどこもわるくないように思えるが」
そしてわざわざ船橋の端までいって、仔細《しさい》に眺めた。
「まあ、わたしには妙に見えますよ」すっかり癇癪《かんしゃく》をおこしたジュークスはこうどなって、船橋をとびだしてしまった。
マクホア船長はこんな所作にびっくりした。しばらくして、彼は静かに海図室へ入り、『万国船舶信号法略号簿』をあけて、万国の国旗が整然と色とりどりに並んでいるページを見た。その図版の上に指を走らせて、シャムのところへ来ると、彼はその赤地に白象をあらわした図案を熱心に観察した。これほどはっきりした模様はないくらいのものだ。だが念には念を入れよと、その本の色刷りの図と船尾《とも》の旗竿につけてある本物とをくらべてみるために、船橋へ本を持ちだした。
さて、虫をおさえてその日の勤めを果たしていたジュークスが、次に船橋に出てきたとき、彼の上役が言った……
「あの旗にはどこにも間違いはないよ」
「へえ、ありませんか?」甲板ロッカーの前に膝をついて、やけに予備の錘索《おもりづな》をひっぱりだしながら、ジュークスは口のなかで答えた。
「うん、ないとも。わしは本をしらべた。縦が横の倍あって、ちょうどまんなかに象が描いてある。陸《おか》の連中は、土地の旗のつくりかたぐらい知っとるはずだとわしは思ったんだ。当然の話だ。きみはまちがっておったぞ、ジュークス……」
「は、船長」ジュークスは激昂《げっこう》して立ち上がり、しゃべりだした。「わたしに言えることは、その……」彼はふるえる手で巻いた索条の端をさがした。
「もういいんだよ」マクホア船長は彼の非常な愛着を感じている小さなキャンバスのたたみ腰掛にどっしり腰をおろして、ジュークスをなぐさめた。「きみに注意してもらいたいことは、みんなが慣れるまで、あの象をさかさにして旗をあげないようにすることだ」
ジュークスは新しい錘索を前甲板へ投げて、大声で、「おおい、ボースン……そいつをよく濡らしとくのを忘れるな」とどなってから、絶大な決意をかためて自分の指揮者のほうへ向き直った。が、マクホア船長は船橋の手摺に心地よさそうに肱《ひじ》をのばしていた。
「なぜかというとな、さかさにすると、遭難信号とみられるからだよ」彼は言葉をつづけた。「きみはどう思う? あの象は、わしらの旗のユニオン・ジャックに代るような性質のもののように思われるが……」
「その通りです!」ジュークスのどなった声があまり大きかったので、ナン・シャン号の甲板にいた者はみんな船橋をふりかえったほどだった。それから彼は溜息《ためいき》をつき、急にあきらめた口調で、「たしかに、そうなったら、さぞみじめな景色でしょうな」と弱気に答えた。
後刻、彼は機関長をつかまえて、内緒《ないしょ》話をした。「ちょっと、おやじの近状《きんじょう》を報告しますがね」
ソロモン・ラウト氏(通称としては、のっぽのソルとか、ソル親爺とか、ラウト神父などといわれる)は、どこの船でも自分が乗組じゅうで一番背が高いので、いつしか自然と前かがみの、ゆったりした大人《たいじん》らしい格好をする癖がついてしまった。頭髪は薄くて赤黄色、そげた頬は蒼白く、骨っぽい手首、学者のように長い手も蒼白く、まるで一生涯ずっと日陰で暮らしてきた人のようだ。
彼はジュークスを見おろすようにして微笑し、煙草をふかしつづけながら、親切な伯父さんが興奮した少年の話に耳をかしてやっているように、静かにあたりに眼をくばって聴いていた。やがて、大いに感興をそそられはしたが、いつものそっけない調子で、彼は訊《き》いた……
「で、きみは仕事におさらばしちゃったのかい?」
「いや」ジュークスは、ナン・シャン号の摩擦《フリクション》巻揚機《ウィンチ》のやかましい唸《うな》り声に負けまいとして、くたびれた元気のない声を張りあげた。ウインチはいま全部が稼動《かどう》中で、貨物を吊り鎖にひっかけては高々と長い腕の先端まで巻き揚げるのだが、すぐまたガラガラと荒っぽく荷物をほうりだすめにやっているとしかみえない。吊り鎖はウインチのなかで唸《うな》り、縁材にぶつかり、舷側ごしにひどい音をたてた。蒸気が船の長い灰色の船腹を包んでもくもくと立ちのぼるなかで、船ぜんたいが身をふるわせていた。
「いいや」とジュークスは叫んだ。「やめませんでしたよ。やめてなんになりますか? まるでこの隔壁へ辞表をたたきつけると同《おんな》じことでさあ。ぼくはああいう人にはなんにもわからせることはできないと観念しましたよ。まったく、あの人には往生した」
ちょうどそのとき、陸《おか》から帰ってきたマクホア船長が、洋傘を手に甲板を横切るのがみえた。ひとりの物悲しげな、沈着な中国人が、紙の底の絹沓《きぬぐつ》をはき、これまた洋傘を持って、船長のうしろにつきそっていた。
ナン・シャン号の主《ぬし》は、いつもの癖で自分の長靴をみつめながら、やっと聞きとれる程度の声で、今度の航海では福州へ立ち寄る必要ができたことを言い、ラウト氏に、明日の午後一時きっかりに汽罐《かま》をたいて用意しておいてもらいたいと希望した。彼は帽子をうしろへずらして額の汗を拭きながら、なんの用事にしろ上陸するのは億劫《おっくう》なもんだ、と述懐した。
船長を見おろして立つラウト氏は、ひと言の返事もせず、右の肱を左の掌でまさぐりながら、渋い顔をして煙草をふかしていた。
さて次には同じ控え目な声でジュークスに、前部中艙から荷物をすっかりかたづけるように指令された。二百人の苦力《クーリー》がそこへ入れられるのだという。ブン・ヒン商会がそれだけの人数を郷里へ送還するのだという。食糧として、米二十五袋がすぐサンパン〔中国語。中国をはじめ東南アジア沿岸や河川で用いる、筵《むしろ》の帆と雨覆いをそなえた小舟〕で届けられるはずだ。マクホア船長の話では、全部が七年年期の苦力たちで、めいめい樟製《くすせい》の櫃《ひつ》をひとつずつ持っている。そこで、大工にすぐ仕事を始めさせて、下甲板の前部にも後部にもずっと三インチの厚さの板を取り付けさせ、それらの櫃が荒天のときに動き出さないようにしなければならない。ジュークスはすぐそのほうの処置をとるほうがいい。
「わかったね、ジュークス?」ここにいる、中国の人は福州まで船で一緒に行く……まあ通弁みたいな役をすることになるだろう。ブン・ヒンの手代で、場所を一見しておきたいと言っている。ジュークス、きみこの人を前甲板へ案内してやってくれんか。「わかったね、ジュークス?」
以上の指示を聞くあいだ、ジュークスは適当な個所で、お役目の「はい、船長」と相槌《あいづち》を入れるのを忘れはしなかったが、一向に気乗りがしていなかった。彼のそっけない「さあ、来たまえ、ジョン君。見る『ある』よろし」で、その中国人が彼のうしろについて歩きだした。
「きみ、見たければ、どこでも見るよろし」と、ジュークスは言ったものの、外国語の苦手な彼のことだから、中国式英語《ビジョン・イングリシュ》をやたらと切り刻んだだけだった。彼はあいている艙口《ハッチ》を指さした。「きみら、寝るのに一番上等な場所をとる、いいな?」
人種的優越感に似合わしいがさつな口調だったが、彼はかならずしも不親切ではなかった。中国人はもの悲しげに、無言で艙口《ハッチ》の暗闇をのぞきこんだが、それはまるで大きな口をあけた墓穴の縁に立つ人の姿であった。
「この下、雨、はいらないね……わかるか?」ジュークスは指摘した。「いつもお天気よろしい日つづく、ね、苦力の人、上へ出る」
空想しながら、だんだん熱心になって、話をつづけ、「こんなふうにする……フウーッ!」胸を張って、頬をふくらませて息を吐いてみせた。
「いいかね、ジョン? 息をする……新鮮な空気、ね。気持いいね、そうだろ? みんな、パンツ洗う、もの食べる、上でね……わかるな、ジョン君?」
口と手を使って、彼は大げさに米の飯を食べたり、衣類を洗ったりする動作をやってみせた。閑雅な憂愁の翳《かげ》をふくんだ、とりすました身のこなしに、この黙劇に対する不信をかくして、中国人は巴旦杏形《はたんきょうがた》の眼をジュークスから艙口《ハッチ》へ、それからまた彼に向けた。「たいへん、よろし」低い沈んだ声でつぶやいたかと思うと、するすると甲板を、障害物をよけながら、急ぎ足に歩いていった。鼻につんとくる何か値段ものの商品を詰めこんだきたない麻袋が十個ばかり吊るしてある下へ、腰を低くもぐりこんで、彼は姿を消した。
そのあいだに、マクホア船長は、もう船橋に上がって海図室へ入ったが、ここには二日ばかり前に書きはじめた手紙が書き終えられるのを待っていた。これらの長たらしい手紙はいつも「わがいとしの妻よ」ではじまっていたが、給仕は、床を掃除したり測器箱に「はたき」をかけたりの合間に、ちょいちょい盗み読みをした。彼のほうが、もともとこれらの手紙の受取り主になるはずの女性の眼を喜ばせる以上に、それに興味をそそられたようだ。ほかでもなく、その理由は、そこにはナン・シャン号のひとつひとつの航海の模様がこと細かに述べられているからであった。
船長は事実に忠実で、また彼の意識に映るものはもっぱら事実に限られていたので、彼はそれらの事実を何ページにもわたってこつこつとていねいに書き綴った。これらの手紙の宛先であるロンドン北郊にある家は、弓形の張り出し窓の下にちょっとした庭があり、「みば」のいい奥行きの深い玄関があり、玄関のドアにはまがい物の鉛の窓枠ながら着色ガラスが嵌《は》められていた。家賃は年四十五ポンドを払ったが、マクホア夫人は(首のあたりのやせこけた、態度の横柄な気取りやだが)、まがりなりにも淑女らしいところがあり、隣り近所でも「とてもいいご身分の奥さん」と思われていたから、彼はその家賃も高すぎるとは思っていなかった。この細君の一生のただひとつの秘密といえば、夫がいよいよ船乗りをやめて、ずっと家に住みつくことへの救いのない恐怖だけだった。
彼女のほかに、同じ棟《むね》の下に、リディアと呼ぶ娘とトムという息子とが住んでいた。二人とも、その父親とは至って馴染《なじみ》がうすかった。かれらからすれば、父親は、ある晩ふいにやって来て、食堂で煙草をふかし、家で泊っていく、たまにしか来ないけれどもひどく威張っているお客にすぎない。背の高いやせた娘は、概していうと、この父親を恥かしく思っていた。少年のほうは活発な男の子らしい率直さ、朗らかさ、こだわりのなさで、あからさまに、徹底的に無関心にすごしていた。
そしてマクホア船長は、中国の沿岸から年に十二通ずつの便りを出し、いつも心細い調子で「子供たちへもよろしく」と伝言を頼み、末尾には「御身を愛する夫より」と署名するのだったが、昔から無数の人々に使われてきたこれらの言葉が、文字の形とは無関係に、すりきれて、意味さえもぼんやりしたものになっているように、まことに淡々たる印象しか与えなかった。
シナ海は、北のほうも南のほうも狭い海である。島嶼《とうしょ》、砂洲《さす》、暗礁、流れが速くて変りやすい潮流……そうした毎日のことでありながら油断のできぬ事象、それでいて、なおかつ船乗りには明瞭な断固たる言葉で話しかけてくる錯雑した事象にみちた海だ。かれらの語る言葉は、事実を尊ぶマクホア船長に力づよく訴えるものがあるので、彼は下の船長室を出て、あらましは船橋で日を送り、ときによると食事も運ばせるし、夜も海図室で睡眠をとる有様だった。そんなわけで、家郷への便りも海図室で書かれた。どの手紙にも例外なく、「この航海はいままでずっと快晴が続きました」という文句か、さもなければ、同じことが別の言いかたで書かれていた。そしてこの文句もまた、驚くべき執拗《しつよう》さでくりかえされながら、他の文句と同様、申しぶんなく正確な事実の記述であった。
ラウト氏も同じく手紙を書いた。ただ、船中の誰ひとりも、彼にペンを持たせた場合にどのくらいお喋りになるものかは知らなかった、なぜならこの機関長は自分の机に鍵《かぎ》をかけるだけの頭のはたらきのある男だったから。
彼の妻女は夫の文章を大いに愛読した。夫婦のあいだには子供がなく、大柄な、胸のふくらんだ、陽気な四十女《しじゅうおんな》のラウト夫人は、テディントン近くのささやかなコテージに、歯の抜けた夫の老母といっしょに暮らしていた。彼女は朝食の席上で夫からの便りに元気に眼をとおし、おもしろい一節があるとうれしそうにはずんだ声を張りあげて、耳の遠い老婦人に読んで聞かせるが、読むたびにかならず、「ソロモンがこう言ってます!」と断わることを忘れない。
彼女は未知の人に対しても、よくこの「ソロモン曰《いわ》く」をあびせかけ、馴染のない本文《テキスト》からの思いもかけぬ諧謔《かいぎゃく》にあふれた引用で、相手をめんくらわせるという悪戯《いたずら》をやった。新任の牧師補がはじめて彼女のコテージを訪問した日にも、彼女は機会をとらえて、「ソロモンが言いましたように、『船で海へ出る技師たちは、船乗りらしいさまざまの不思議をみる』そうでございますのね」
そのときお客が顔色を変えたので、彼女は言葉をとめて眼をまるくした。〔旧約詩篇一〇七の二三、二四「舟にて海にうかぶ大洋《おおうみ》にて事《わざ》をいとなむ者はエホバのみわざを見、また淵にてその奇《くす》しき事跡《みわざ》をみる」これはダビデ王の歌だが牧師補はその子ソロモン王のことと思って面くらったのである〕
「ソロモンが……おお! ……奥さま!」青年は顔をまっかにしてどもった。「実際、わたしは……どうも……」
「ソロモンはあたしの主人ですのよ」彼女は椅子のなかでのけぞりながら大声で説明した。おかしくてたまらないので、彼女は眼にハンカチをあてて遠慮会釈《えんりょえしゃく》もなく大笑いしたが、青年のほうは無理に笑顔をつくって控えてはいたものの、陽気な女たちとつきあったことがないので、この女はよっぽど気の毒な気ちがいだと思いこんでしまった。その後この二人はごく仲のいい友達になったが、それは彼女に不敬虔《ふけいけん》な意図がなかったことを認めてから、牧師補は彼女をたいへん立派な婦人だと考えるようになったからで、やがては彼もソロモンの知恵の断片がとびだしてきても、あまり尻ごみしないで受け取れるようになった。
細君の話によると、あるときソロモンは言ったそうである。
「おれに言わせると、船長は、どんな間抜けでも悪党よりはましだ。阿呆ならあつかいようがあるが、悪党は抜け目がなくて、つかみどころがないからな」と。
これはマクホア船長の正直という、それ自体は粘土の塊《かたまり》みたいにずっしりと明白な特定の場合からひきだされた軽率な概括《がいかつ》であった。
ところで、ジュークス氏だが、これは概括も不得手な上に結婚どころかまだ婚約の相手もないので、かつての同僚であり、いまは大西洋航路の定期船に二等航海士として乗り組んでいる親友に、ラウト氏とはまた違うやりかたで心のうちをぶちまけるのを習わしとしていた。
何よりもまず彼は東洋貿易の有利な点を強調し、西洋航路に比してその優《まさ》る所以《ゆえん》を説くのが常であった。彼は極東の空と海と船と、気楽な生活とを讃美した。ナン・シャン号は汽船として決して一といって二とさがらぬ船だ、と彼は主張した。
「おれたちは金ボタンの制服なんぞ着てはいないが、そのかわりみんな兄弟も同然に暮らしている」彼は書いた。「食事もみんないっしょで、たらふくうまいものを食っている………機関方の連中も連中としてはめずらしく品がよくて、機関長のソル爺さんはそっけない朴念仁《ぼくねんじん》だ。おれとは仲好しだ。さて親爺だが、まずあれほどおとなしい船長はどこにもいないだろう。ときにはひとの欠点がわかるだけのあたまがないんじゃないかと思うくらいだ。だがそうじゃないんだよ。そんなことはありえない。
親爺はもうずいぶん長いこと船長をやってきた。何ひとつ実際にばかなこともせず、誰ひとりにも心配をかけずに自分の船をちゃんと動かしているんだからね。部下に文句を言う楽しみを味わうだけのあたまがないんだとおれは思う。だからっておれはそこへつけむようなことはしない。そんなこと、軽蔑するね、おれは。毎日のきまった仕事以外のことで、親爺はこっちの言うことの半分もわからんらしい。ときどきおれたちはそれを笑い話のタネにするがね、やっぱりこういう男といっしょにいるのは退屈だね……長いあいだにはね。
ソル爺さんに言わせると、船長はあまり話の種を持っていないというが、話の種どころか! 第一、てんで口をきかないんだ。このあいだおれは船橋の下で機関士の一人とおしゃべりをしていたが、船長はそれを聞いてたものとみえる。おれが見張り当番に立とうと思って上がっていくと、親爺は海図室から出てきて、舷灯《げんとう》をのぞきこんだり、羅針盤を見たり、星空をすかしみたり、よっぽど長いあいだそこらじゅうを見まわしていた。それが親爺のいつもの仕事なんだ。そのうちに、おれに向かって言いだした。
『いましがた、左舷の通路で話をしていたのはきみか?』
『は、そうです』
『第三機関士とか?』
『は、そうです』
船長は右舷のほうへ行って、小さな自分の床几《しょうぎ》に腰をかけて、ものの半時間ばかりというもの、たった一度クサメをするのが聞こえたきりで、あとは何ひとつ物音を立てずにいた。それからしばらくして、おれは船長が立ち上がった音を聞いた。ぶらぶらと、おれのいる左舷へやってきた。
『わしはきみらがあれだけ話すことがあるのが、どうしてもわからん』船長が言うんだ。『たっぷり二時間じゃ。きみを叱ってるのじゃないぞ。陸《おか》の人間が、一日じゅう喋っているのは知っている、夜になると、また腰をおろして、酒をのみながら喋っている。きっと何度でも同じことを喋ってるにちがいない。わしにはわからん』
こういう話を、きみは聞いたことがあるかい?
しかも親爺さんは、そのことであんなに辛抱づよかった。おれはすっかり申しわけがなくなっちまったよ。もっとも、ときには腹の立つこともある。もちろん、親爺を怒らせるだけの甲斐《かい》があったって、誰もそんなことはしようとはしない。しかしその甲斐もないんだ。親爺はまったく底抜けに人がいいから、よしんば誰かが親指を鼻のあたまにくっつけて、親爺さんにむかって指を振ってみせたって、むこうはただ、あいつはどうかしたんじゃないかと、まじめに訝《いぶか》しがるだけだ。
親爺は一度おれに向かって、いったい世間の人はどうしてあんな変な真似をするんだか、わしにはわからなくて困ると、あっさり言ったことがある。親爺さんはものごとにくよくよするほど、あたまがはっきりしていない、それが真相なんだ」
こんなふうにジュークス氏は、腹ふくれるばかりの思いのたけを、縦横に空想をはたらかせながら、大西洋航路の親友に書き送った。彼は自分の正直な意見を書きつづったのである。
マクホアのような人間の心を動かそうとしたって仕方がない。もし世の中がああいう人間ばかりで出来ているなら、人生はジュークスにとって一向におもしろくもない、なんの得るところもないものに思われたであろう。
こういう意見を抱《いだ》いたのは彼ひとりではなかった。海洋そのものが、まるでジュークス氏の人のいい忍耐づよさを共有するかのように、この沈黙の人、たえず眼をふせて、人目にそれと知られる唯一の目的は陸にいる三人の家族のために食物と衣類と住む家とを与えることだけで、無心に波の上をうろつきまわっている、この船長をアッとおどろかすようなことをしようとは一度も企てたことがなかった。悪天候は、もちろん彼は知っていた。彼は人なみにずぶ濡《ぬ》れになり、気持の悪い思いをし、くたびれたが、そのときだけそのように感じて、やがて忘れてしまった。したがって全体としては、家郷への手紙に快晴だったと報告してきたのも間違いではなかった。
だが彼は実は、あの底知れぬ威力と野放図な怒りとを、ただの一度もかいま見たことがなかった……それは疲れきって過ぎ去ることはあっても決してなだめられることのない怒りであり、ほかならぬ激情の海の怒りと狂暴さとである。彼はそれが存在することを知っていたが、それはわれわれが犯罪や醜行の存在を知っているようなものであった。それについて話には聞いていたが、それも都会の平和な市民、戦争や飢饉《ききん》や洪水について話には聞いていても、……なるほど、街の喧嘩《けんか》にまきこまれたり、いっぺんぐらいは夕飯をたべなかったり、夕立に遭《あ》って濡れ鼠《ねずみ》になったぐらいのことはあっても……これらのものが何を意味するかを知らないのと同じことであった。
マクホア船長は長年、大洋の表面を船で押しまわしてきたけれども、それはある人々が人生のうわずみだけをすくって一生をすごし、ゆるゆると平穏な墓へくだってゆくが、最後まで人生について何も知らず、そこに包蔵《ほうぞう》される不義、暴虐、恐怖を知る機会を与えられないのと同じことであった。海にも陸にも、こういう幸運な人間……あるいは運命にも海にも相手にされない人間といおうか……がいるものなのである。
二
気圧計のぐんぐん下降するのを見ながら、マクホア船長は、「いやらしい天気が、そのへんをうろついておるわい」と思った。これがまさに彼の思ったことだった。彼には適度にいやらしい天気の経験はあった……「いやらしい」という語は船乗りにとっては適度に不快な天候に適用される言葉だ。かりに、世の終りは大気の破滅的な激動によって最後的に成しとげられると、争う余地のない権威者から彼が告げられていたとしても、やはり彼はこの告知を「いやらしい天気」という単純な観念で解釈し、それ以上の想像を加えないだろう、なぜなら彼には地質学的大変動の経験がなかったし、信ずるということはかならずしも理解することを意味しないからである。彼の生国では賢明にも国会の立法によって、一船の指揮者たるにふさわしいと認められるためには、颶風《ぐふう》、旋風、台風等のような旋回性の暴風雨についての簡単な質問に答えることができなくてはならないことになっていた。そして現在、台風の季節にシナ海を航行するナン・シャン号の指揮をとっているからには、彼もたぶんそうした質問に答えたことがあるのだろう。しかし答えたとしても彼はそれをひとつも憶えてはいない。
とはいえ彼は、このべたべたする蒸し暑さに不快にされていることは意識した。船橋へ出てみたが、この圧迫感からは逃れられなかった。空気はよほど息苦しいようだ。彼は魚のように口をぱくぱくあけて喘《あえ》いだ。そしてどうも自分はたいへんにからだ工合がわるいようだと思いはじめた。
ナン・シャン号は、ゆるやかに起伏する灰色の絹地に似た表面と光沢とをもつ円形の海上に、つかの間に消えてゆく航跡を残しながら進んでいた。光を失って色あせた太陽は、異様に自信のなさそうな明るさのなかに、鉛のような熱気を送ってくる。中国人たちは甲板のあちこちにぐったりと寝そべっていた。かれらの血の気のない、やつれた黄色の顔は、黄疸《おうだん》患者の顔のようである。
マクホア船長は船橋の下にあおむけにのびている二人の男を特に眼にとめた。かれらが眼を閉じるや否や、かれらは死んだようにみえた。しかし他の三人はむこうの前甲板で野蛮な声で言い争っていた。一人の大男は、ハーキュリーズのような肩をむきだした半裸体で、巻揚機《ウインチ》にぐったりもたれかかっている。甲板に坐っている他の一人は、膝を高く、頭を女の子のように横にかしげて、自分の辮髪《べんぱつ》を編んでいたが、その全身からも、指のひとつひとつの動きからも、底知れぬけだるさが感じられる。煙は苦しそうに煙突からもがき出て、空に吹き流される代りにおどろな雲のようにひろがって、硫黄《いおう》の臭いを発散しながら甲板じゅうに煤《すす》の雨を降らせていた。
「いったいそこで、なにをしとるんじゃ、ジュークス君?」マクホア船長がたずねた。話しかけるというよりはつぶやきかけるような調子ではあるが、いつになく烈しい言葉づかいで問いかけられ、ジュークス氏はまるで五番目の肋骨《ろっこつ》の下を突かれたように体をびくりとさせた。彼は船橋へ低いベンチを持ってこさせ、そこへ腰をおろして、一本のロープを足もとに垂らし、一枚のキャンバスを膝の上にひろげて、余念なく帆縫針《ほぬいばり》を動かしていたのだ。顔をあげると、その眼には驚きからきた無邪気さ、素直さの表情がうかんでいた。
「いやちょっと、この前の航海で作った、石炭の積み揚げ用の袋を縫っているんです」彼はおだやかに説明した。「この次の石炭積みのときに要《い》るもんですから」
「ほかのはどうなったんだ?」
「ほかの? むろんいたんじまいましたよ、船長」
マクホア船長は、まだ思い切りわるく一等航海士を上から睨《にら》んでいたが、やがて、おおかた袋は半分以上、海へ捨ててしまったんだろうが、「どうせほんとうのことはわかりゃすまいよ」という陰気で意地のわるい意見を発表して、船橋のむこうの端へひっこんでしまった。こっちが何もしないのに、こんな思いがけない文句を言われて腹を立てたジュークスは二針目で針を引き抜き、仕事をほうりだして立ち上がると、畜生、なんて暑いんだと低い声で天気をののしった。
推進機が水をたたき、前甲板の三人の中国人はなぜかばかに急に喧嘩をやめ、辮髪を結んでいた男は膝がしらを抱いて、つまらなそうに膝のむこうをみつめていた。薄ぼんやりした日ざしが船上を照らして、憂欝な影を投げていた。うねりの寄せるのが一瞬ごとに高く、速くなって、船はそのなめらかに深くくぼんだうねりの底でのめるように傾《かし》いだ。
「はてな、あんなひどいうねりが、いったいどこから来やがるんだろう」よろめいた足をふみしめながら、ジュークスが大声で言った。
それを正直に受けて「北東だよ」とマクホアが、むこうから答えた。「いやらしい天気がその辺をうろつきまわっとるんだ。行って気圧計を見なさい」
海図室から出てきたときのジュークスは、よほど考えこんだ、心配そうな顔つきに変っていた。船橋の手摺につかまって、前方をみつめた。
機関室の気温は百七十度にのぼっていた。いらだった人声が、怒りっぽく金属のぶつかり、こすれる音にまじって、とげとげしい胴間声《どうまごえ》のわめきになって、明り取り窓や火夫室の食器受け孔《あな》をつたわって聞こえてくる。まるで手足が鉄で、咽喉は青銅ででも出来た人間どもが下でどなりあっているかのようだ。二等機関士は、火夫たちが蒸気力を弱くしたといって当り散らしていた。この男は鍛冶屋《かじや》のような腕をしていて、みんなから怖れられているのだが、この午後ばかりは火夫たちは乱暴に彼に口答えをして、やけっぱちで火室の蓋をたたきつけるように閉めた。とたんにやかましい音がやんで、二等機関士が甲板へ姿をあらわした。煤《すす》で黒い縞《しま》になって汗びっしょりで火夫室から上がってきたところは、井戸から出てきた煙突掃除夫そのままだ。食事差入れ口から頭をだしたかと思うと、彼は火夫室の通風筒をよく手入れしておかなかったといってジュークスに文句をつけはじめた。返事のかわりに、ジュークスはあやまるような、なだめるような手真似で、風がないんだ……どうにもしようがない……きみだってわかるだろう、という意味を通じさせた。だが相手はそんな言いわけには耳をかさない。汚れた顔に白い歯が怒って光った。
おれは下の野郎どもの頭をぶんなぐる手間は厭《いと》わねえがな、畜生……と彼は言った……きみら罰あたりの水夫たちは火夫の罰あたりどもをぶんなぐってさえいれば汽罐《かま》は焚《た》けるもんだと思ってるのか? 冗談じゃねえや、少しゃ風だって要るんだぞ! それができねえなら、おらあ死ぬまで雑巾《ぞうきん》がけの新米水夫でいたほうがましだ! それから機関長も機関長だ、正午《ひる》からこっち、圧力計の前で癲癇《てんかん》みてえな騒ぎをおこしたり、気でもふれたように機関室んなかを行ったり来たりしてらあ。おい、ジュークス、おめえはそこになんのためにつっ立ってると思うんだ、おめえのやくざな、ろくでなしの、腰抜け水夫どもに、通風筒を風の向きに変えさせることぐらいできねえのか?
ナン・シャン号の「機関室」と「甲板《デッキ》」の間柄が兄弟同様なことは、世間もみんな知ってることじゃないか。だから……とジュークスはからだを乗りだして、そんな無茶なことを言わないでくれと、虫をこらえて相手をなだめた……船長も船橋の向こう側にいることだから、と。
だが二等機関士は、船橋の向こう側に誰さまがいようとおれの知ったことかい、と乱暴に言い放ったので、さすがのジュークスも、それまで困ったわからずやだと我慢していたのが、たちまちカッとなって、そんなら勝手に上がってきて自分で好きなようにいじくってみるがいいや、きさまのような薄のろに風が入れられるなら入れてみろと、遠慮のない言葉で相手になった。
二等機関士は待ってましたとばかり駆け上がってきた。左舷の通風筒に、まるで引っこ抜いて海へ投げこもうとするような勢いでとびついた。だが通風帽をわずか二、三インチまわしただけで、莫大《ばくだい》な体力を使い果たしたように、へとへとになってしまった。彼が操舵室《そうだしつ》のうしろ側へもたれかかったので、ジュークスはそばへ歩み寄った。
「ああ、なんてこった!」機関士は弱々しい声をだした。空へ眼をやって、それから、どんよりした視線を下へ、水平線のところまで下げた……その水平線が四十度の角度に傾いていて、傾いたまましばらく動かないようだったが、やがてゆっくりと水平にもどった。
「ふう! なんてこった! いったいこりゃ、何事がはじまったんだね?」
ジュークスは長い二本の脚をコンパスのように開いて立ち、おまえとはあたまがちがうぞという態度をとった。
「いよいよあいつがやってくるんだ」と彼は言った。「気圧計がどんどん下がってるぜ、ハリィ。それなのに、あんなばかげた騒ぎをまきだして……」
「気圧計」という言葉が、二等機関士の猛烈な反感を再燃させたらしい。新しく全精力をふるいおこして、彼はジュークスに、低い、物騒な声音《こわね》で、そんなくだらねえ道具なんぞ、おめえの爛《ただ》れた咽喉へ押しこんじまえ、と指令した。
おめえの真赤な気圧計なんぞ、だれが相手にするもんかい! 落ちてきてるのは蒸気だ……蒸気だぞ、おい! 火夫どもは眼をまわしかける、機関長は腑抜《ふぬ》けのようになる、あいだに挟《はさ》まったおれは、こんなみじめな思いをしたことはねえや。いつ何どき船もろともに海の外へ吹き飛ばされようと、かまうもんか。
もう少しで泣きだすかと思われたが、ちょっとひと息入れると、彼は陰気に「やつら、眼をまわさしてやる」とつぶやいて、走り去った。機関室の入口で立ちどまって、異常な照りかたをしている太陽にむかって拳を振るような格好をしたかと思うと、「おうっ!」とひと声叫んで暗い穴へ躍《おど》りこんでしまった。
ジュークスはふりむくと、マクホア船長の猫背の肩と大きな赤い耳とが眼に入った。船長は向こう側からこっちへ来ていたのだ。彼は一等海航士の顔は見ずに、すぐに言った。「ずいぶん乱暴な男だなあ、あの二等機関士は」
「なに、なかなかいい機関士ですよ」とジュークスは不平そうに言い返した。「蒸気が十分にあがらないんです」と早口に付け加えて、近づいてくる動揺に備えるために手摺《てすり》につかまった。
マクホア船長は不意打ちを食って、二、三歩よろめいたが、ようやく日覆いの支柱にぶつかるようにして踏みとどまった。
「不埒《ふらち》な男だ」彼はまだ拘泥《こうでい》していた。「もし改めんようなら、できるだけ早い機会にやめさせずばなるまい」
「暑さのせいですよ」と、ジュークスは言った。「何しろこの天気です。聖人さまだって雑言したくなりますよ。甲板にいてさえ、ぼくなんか、まるで頭を毛布にくるんでるような気がします」
マクホア船長は顔を上げた。「ジュークス君、きみ、でたらめではあるまいね、ほんとに頭を毛布にくるんだことがあるのかね? なんでそんなことをしたんだね?」
「そりゃ、言葉のアヤですよ、船長」ジュークスは頑固に言い返した。
「どうもきみたちはそれだからいかん! 聖人さまが雑言するとはなんの話かね? 言葉をつつしんでもらいたい。雑言を吐く聖人とはどんな聖人じゃ? たぶん、きみのような聖人だろうて。それにしても、毛布となんの関係がある……天気だってそうだ……、わしは暑さのために雑言は吐かん……そうじゃろ? 不潔な、むかっ腹を立てるから吐くんじゃないか。そうにきまっとる。それを、そんなものの言いかたをして、なんの役に立つかね?」
こんなふうに、マクホア船長は話のなかで物の譬《たと》えを出すことをいましめたが、最後にいかにも見下げ果てたというように鼻を鳴らし、「けしからん! あの男、気をつけなければこの船から追い出してやる」と、ものすごい憤《いきどお》りの言葉を発したので、さすがのジュークスも愕然《がくぜん》とした。
それで、ジュークスは、叱られて心を入れかえるような男ではないから、こう考えた。「ふうん、おどろいたね! 誰かがうちの親爺に新しい思想を吹っ込んだらしい。なるほど、むかっ腹と言いたきゃ、言うがいい。それが天気のなせる業《わざ》にきまってるじゃないか。ほかに何がある? 天気はすでにして天使をすら喧嘩っ早くした……いわんや聖人をやだ」
甲板の中国人たちはみな、息も絶えだえに見えた。
沈みかかっている太陽は直径が小さくなり、かがやきのない茶褐色に燃えていて、すでに朝から幾百万の世紀が過ぎ、もはやその終末に近づいているかと見える。濃い雲の壁が北のほうに見えてきた。ぶきみな暗いオリーブ色を帯びて、低く、動かず、海に垂れて船の行手に横たわる頑強な障害物の観があった。船は、力尽きて屠所《としょ》に追われる生きもののように、その方向へよろぼい進んだ。赤銅色《しゃくどういろ》の残光は徐々にうすれて、暗い頭上の空には大きな、心もとなげな星の群れが現われ、まるで地上から吹き上げられたかのように、瞬きがひときわ強く、低く波の上に懸《かか》っていた。八時になって、ジュークスは航海日誌を記入しようと海図室に入った。
彼は下書帳から走航マイル数と針路とをていねいに転記し、「風」の欄《らん》へは正午以後の八時間を上から下まで「凪《なぎ》」と書き飛ばした。いつまでもやまない単調な船の横揺れに、彼は腹が立ってたまらなかった。どっしりしたインク・スタンドまでが、わざと意地わるくペンを避けてでもいるかと思うほど机の上をすべって逃げるのだ。
「摘要」と見出しのある広い欄に、「暑熱耐えがたし」とまで記入したところで、彼はペン軸をパイプみたいに口にくわえ、まんべんなく顔の汗を拭《ふ》いた。
「側面よりの高きうねりに船の横揺れはなはだし」とまた書きだしたが、ここで彼は「はなはだしでは言い足りんな」と自分で評を加えた。彼は続いて記入した。「日没、北及び東に低い雲の壁ありて、おだやかならず。上空雲なし」
ペンを握ったままテーブルの上に乗り出して、彼が戸口からのぞくと、そのかぎられた視界、二本のチーク材の脇柱のあいだを、すべての星屑《ほしくず》が闇の空へと飛び上がってゆくのがみえた。その一つ残らずが相携《あいたずさ》えて空に消えると、あとはただ黒一色に埋めつくされ、空と同じ暗澹《あんたん》とした海に、遠く光る泡立ちがわずかに白い閃光《せんこう》をまたたかせているだけだ。横揺れにつれて空に消えた星の群れは、船が揺れ戻るのといっしょにまた姿をみせた。光の点というよりは明るい濡れた光沢をもつ小円盤ほどの大きさで、かがやく一団となってサーッと降りてくる。
しばらく、ジュークスはこの飛行《ひぎょう》する星屑を眺めていたが、やがて記入した。「八時。うねり増大。船は難行し、かつ甲板に波をかぶる。夜にそなえて苦力《クーリー》を船艙《せんそう》に収容。気圧計はさらに下降しつつあり」
ここで、ひと息を入れて、「たぶん、これでべつにどうなるというわけでもないだろう」と自分に言いきかせてから、思いきりよく次の言葉で日誌を結んだ。「台風接近の徴候歴然たり」
出口で、彼はわきへよけなければならなかった。マクホア船長が声もかけず、合図もなく、戸口階段をまたいで入ってきたからだ。
「おい、ドアを閉めてくれ、ジュークス君」彼が内側からどなった。ジュークスは振り向いて、言われたとおりにしながら、皮肉につぶやいた。
「ふん、風邪《かぜ》を引くとでも思っているんだな」
彼は下で甲板当直の番だったが、無性に気の合う人間と話がしたくなって、二等航海士にほがらかに声をかけた。「まあ、たいしたこともなさそうだね……どうだい?」
二等航海士は、甲板の傾斜に調子をあわせながら、船橋をあちこちしていた。刻み足にひょろひょろと下がったかと思うと、今度は苦労して坂を這いあがるのだ。ジュークスの声に彼は前方を向いたまま立ちどまったが、返事もしなかった。
「おい! こいつは大きいぞ」長いうねりに合せて、手が床板にとどくほど身を斜めに平均をとりながら、ジュークスが言った。今度は二等航海士は、それがどうしたと言わんばかりに咽喉を鳴らした。
彼は中年の貧相な小男で、歯が悪く、顔にはさっぱりひげがなかった。彼は上海《シャンハイ》で急場しのぎに補充されたのだ、というのはその航海のとき、イギリスから乗り組んだ二等航海士がわざと(マクホア船長にはなぜなのかついにわからずしまいだった)本船に横づけの空《から》の石炭船へ落ちて、脳震盪《のうしんとう》を起こし、腕か脚かを一、二本、骨折もしたので、陸《おか》の病院へ送りこまれ、船の出港を三時間も遅らせるという出来事があったのだ。
ジュークスはそんな不愛想な咽喉の音ぐらいではたじろがなかった。「シナ人たちも下でさぞかし愉快にやってるこったろうな」彼は言った。「ぼくの知ってるうちじゃ横揺れには一番楽なこの船のことだ、連中も幸せというもんさ。そら来た! こいつはたいしたもんじゃなかったね」
「いまに見ていろよ」二等航海士が鼻を鳴らした。
とんがった鼻のあたまが赤くなっているのと、うすい、締った唇とのために、この男はいつも怒っているように見えた。そして無礼なやつだと思われるほど言葉が簡潔すぎた。非番のときは始終ドアを閉め切った船室に入ったきりで、物音ひとつ立てないので、みなは姿を消すとすぐに眠ってしまうものと思っていた。ところが当直時間に起こしに行くと、きまって寝棚にあおむけにひっくりかえって大きな目をあけ、うす汚れた枕の上から、いらいらとこっちを睨みつけている彼にでっくわす。手紙などは書いたことがなく、またどこからも便りを貰おうとも思っていないようだった。一度だけウェスト・ハートルプールの町のことを口にしたことがあったが、それもひどく憎らしそうに法外な下宿料を取られたことを言っただけだ。
彼は世界じゅうのあちこちの港にいる、必要に応じて補充される種類の人間のひとりだ。そういう人間は能力もあり、これといって悪徳の証拠もないが、みじめなほど金に詰まっていて、明らかに敗残者らしい影をひきずっている。かれらは急場の折に乗り組んでくるのだが、およそ動く船なら選《え》り好みせず、自分の過去については同僚たちに何ひとつ喋ることもせず、初めから腰掛けの気持をかくすこともなく、わが殻に閉じこもり、船にとっては困るようなときにさっさと下船してしまう。
すなわちかれらは、他の連中なら船を離れることを怖れるような寂《さび》れきったどこかの港で、あいさつもなく姿を消してしまうのだ。道連れといっては、まるで玉手箱のように大げさに綱をかけた、貧弱な海員箱ひとつ、それを持って、これでやっと船の塵《ちり》をふり払ってせいせいしたといった顔つきで行ってしまうのだ。
「いまに見ていろよ」大きな揺れに、背中をジュークスのほうへ向けたまま体の均衡をとり、「てこ」でも動かぬ姿勢で、彼は繰り返した。
「もうじきえらい目に会うと言うのかい?」若者らしい興味を見せて、ジュークスが反問した。
「言うかって? おれは何も言わねえ。おれの腹は、きみらにゃわかりゃしねえよ」
ジュークスの質問の罠《わな》なんぞ抜け目なく見やぶるぜ、とでもいうように、小男の二等航海士は、自慢と軽侮と狡猾《こうかつ》の混じり合った調子で吐きだすように言った。「そうだとも、わかるもんかい! おれが知ってたからって、おまえさんたちに馬鹿になんかされてたまるもんか」彼はひとりごとのようにつぶやいた。
ジュークスはいそいで頭をはたらかせて、この二等航海士は下劣な取るにも足りない「けだもの」だと反省した。あのかわいそうなジャック・アレンが石炭船なんかに墜落しなければよかったのに、と残念がった。船の前方はるかにわだかまっている暗黒は、あたかも地球の星影あかるい夜を透《すか》して見るもうひとつの夜のようだ……神の創りたまえるわが宇宙の彼方《かなた》にある広大無辺際の星なき夜が、この地球を核心とする輝ける天球の低い裂け目から、凄絶《せいぜつ》絶対の静寂を覗かせているかのように。
「どんなことがあるか知らないが」ジュークスが言った。「まっすぐに突っこむだけさ」
「ふん、言ったね」相変わらずジュークスに背を向けたまま、二等航海士はこの言葉にとりついた。「言ったのはきみだぜ、覚えておけよ……おれじゃねえぜ」
「何を、うるせえやい!」ジュークスがあけすけにののしると、相手はしてやったりと、クスクス笑いだした。
「言ったのはきみだぜ」また繰り返した。
「それがどうした?」
「まともな立派な船員が、とんでもなく先の見えねえことを言ったために、船長といざこざを起こしたのをおれは見ているよ」二等航海士は熱っぽい口調で答えた。「ああ、だめだ! きみにはおれの腹はわからねえ」
「あんたは本音を吐くまいと、えらくびくびくしてるね」この変てこな言いがかりにすっかり嫌気《いやけ》がさして、ジュークスは言い返した。「ぼくは自分の考えを言うのを誰にはばかることもないよ」
「そうだよ、おれなどにはね。たいしたことじゃないさ。おれなんか、どうでもいい人間だ、よくわかってるんだ」
船は、しばらくはだいぶ落着いていたが、またもや次から次とだんだん激しく横揺れが続きだした。それでジュークスも体の均衡をとるのに忙しくて、口を開く間もなかった。激動がやや静まるのを待って、すぐ彼は言った。「どうも、こりゃ少し薬がききすぎるね。どういうことになるかは知らんが、ぼくはあのうねりに船首《へさき》を向けるべきだと思うよ。親爺さんは、いましがた寝に行ったばかりだ。ぼくが船長に口もきけないようだったら、なんとでも言いたまえ」
ところが、海図室のドアを開けると、船長は本を読んでいた。マクホア船長は横になっているどころか、片手で本棚のはしをつかみ、他方では開いた部厚な本を目に近づけて立っていたのだ。
ランプはジンバル〔船内で物を水平に保つための十字吊り装置〕で揺れ、隙間のできた棚の本はあっちへこっちへすべりだし、長い気圧計はブルンブルンと輪を描き、テーブルは休みなくその傾斜度を変えた。この混乱のさなかにあって、身を支えたマクホア船長は、本の奥からこちらを見て訊ねた。
「どうしたね?」
「うねりがますますひどくなります、船長」
「ここにいてもわかるよ」マクホア船長はつぶやいた。「何か変わったことかね?」
本の奥からこちらを見る目の真剣さに、内心あわてたジュークスは、てれかくしににやりと笑ってみせた。
「めちゃくちゃに揺れますね」おずおずと彼は続けた。
「そうさ! ひどいもんだな……なかなかひどい。何か用かね?」
こう言われて、ジュークスは足もとがあやしくなり、自信がぐらつきだした。
「船客のことなんですが」一本の藁《わら》をもつかむ人の心理で、彼は応じた。
「船客?」船長は大まじめな顔で反問した。「どんな船客かね?」
「あの、シナ人のことです、船長」話を続けるのがすっかりいやになりながら、ジュークスは説明した。
「シナ人だと! そんならそうと、なぜあっさり言わんのだ? きみが何を言っているのか、わからなかった。苦力《クーリー》のことを船客などというのは聞いたことがないからね。なるほど、船客か! 何を思いついたのかね、きみは?」
マクホア船長は人差指を挟んで本を閉じると、腕を下ろしたが、まるで見当がつかんという顔をした。「なんできみはシナ人のことを考えているんだね、ジュークス君?」と、彼は質問を発した。
追いまくられたように、ジュークスは、思いきって言った。「船は甲板水びたしで、揺れています、船長。船首《へさき》を風上にお向けになったらと思ったんですが……しばらくの間でも。波が少しでも落着くまで……きっと、じきやむと思いますが。船首《へさき》を、東へです。こんなにひどい横揺れは、わたし、初めてです」
彼は相変わらず戸口に頑張っていたが、マクホア船長は本棚をつかんでいる手が怪しくなって、大急ぎでそれを放すことに心を決めると、ドサリと寝椅子へ倒れ込んだ。
「船首《へさき》を東へ?」起き直ろうともがきながら、彼は言った。「それじゃ、四|点《ポイント》以上も針路から外《そ》れてしまうよ」
「はい、そうです。五十度です……つまり、この横波を正面から受ける程度に船首《へさき》を回すんです……」
マクホア船長はやっと半身を起こした。彼は本も落とさず、椅子から転げ落ちもせずにすんだのだ。
「東へか?」このときになって、ようやく驚きの念が生じたらしく彼はくりかえした。「だが……。きみはこの船の行先はどこだと思っているんだね? シナ人どもを楽にしてやるために、高性能の汽船を四|点《ポイント》も針路からはずせ、と言うのか! いやはや、わしも世の中のばかげたことをいやというほど聞いてはきたが……これはまた……。おいジュークス、知らない人間だったら、わしはきみが酒にでも酔っぱらってるとでも思うことだろう。四|点《ポイント》はずして……。あとはどうなる? 正常コースへもどすために、四点余分に反対側へか。帆船を扱うようにわしがあっさり汽船の舵を回すだろうなどと、どうしてきみは思いついたのかね?」
「それほどの船じゃありませんよ」むきになって、ジュークスは言葉を返した。「今日の午後なんか、揺れにゆれて、何もかもおっぽりだしそうな勢いでした」
「おお! そうだとも! そういうきみは、ぼんやり突っ立って、流れるにまかせる気だったろう」
やや興奮の面持《おももち》を見せて、マクホア船長が言った。「いまはもう、ぴったり凪《な》いだじゃないか、え?」
「そうです、船長。しかし、何か普通でないことがありそうですね、たしかに」
「そうかも知れん。わしは思うんだが、きみはあの悪天候の進路を避けるべきだ、と考えているようだね」
マクホア船長の態度も、声の調子も素朴きわまる感じで、そして視線は床のオイル・スキンの雨衣に釘《くぎ》づけにしたままだった。だから彼は、ジュークスの顔にあらわれた気まずさも、憤懣《ふんまん》と新しい尊敬との入りまじった表情も、見のがしてしまった。
「さて、この本だがね」閉じた本で自分の腿《もも》をかるくたたきながら、彼は慎重に語をついだ。「さっきから荒天の章を読んでいた」
それは事実だった。彼は荒天の章を読んでいたのだった。はじめ海図室へ入ったときは、彼にはその本を取り出そうなどという気はさらになかった。その場の空気が……たぶん、給仕が言いつけられもせずに、船長の大長靴とオイル・スキンの雨衣とを海図室へ持ち込んだのと同じ空気だろう……彼の手を本棚に向けさせた、とでも言えようか。そして腰をおろす暇さえ惜しんで、さっそく荒天の項に取っ組んだのだ。台風の突き進む半円周、左または右回りの四分円周、進路曲線、中心の移動見込み、風向きの変化や気圧計の読みとり、などに彼はわれを忘れた。彼はこれらの事項を現在の自分にぴたっと当てはめようとしてみたが、おびただしい言葉、たくさんの記述、すべての研究と推測とが、一片の確信の曙光《しょこう》さえも与えてくれないことに、馬鹿らしさと腹だちとをおぼえてきた。
「こりゃ、くだらん本だよ、ジュークス」と彼は言った。「ここに書いてあることをひとつ残らず信じるとしたら、台風の背後へ出るために、のべつ海上を走り回っていなくてはならんよ」
そこで、彼はまた本で腿をたたいた。ジュークスは口を開いたが、何も言わなかった。
「台風の背後へ出る! きみはそれがわかるかね、ジュークス君? この上もない阿呆なことだよ!」
重苦しく床をみつめながら、ひと息入れて、マクホア船長は叫んだ。「この本は、婆さんでも書いたのではないかと、きみも思うだろう。わしもふとそう考えた。台風の尻を追っかけるのがいいことなら、わしはいますぐ針路を変えて……どこへ変えるのか、知ったことじゃないが……途中にうろついているらしいこの悪天候の尻尾について、北の方からそろりそろりと福州へ向かうことになる。北からだぜ! わかるか、ジュークス君? 三百マイルの遠回りと、それに結構な石炭代の追加支払いだ。この本にあることが福音書ほどに真実だとしても、わしにはそんなことはとてもできんよ、ジュークス君。きみはそれでも、わしに……」
ジュークスは一言もなく、これほどの感情と雄弁の発揮されたのに感嘆していた。
「だが、実を言えば、この著者が正しいのかどうか、どうもわからんのだよ。強風にぶつかるまでは、それがどんなものか、どうしてわかるかね? 著者はこの船に乗ってるわけでもないだろう? まあいい。ここに、こんなことが書いてある、嵐の中心は風から八点ばかり離れている、とね。ところが、気圧計がこれほど下がっても、風は出ていないじゃないか。著者のいう中心なるものはどこにあるんだ?」
「まもなく吹き出すでしょうよ」ジュークスがもそっと言った。
「それなら、吹かせるさ」マクホア船長は憤然と威厳をみせて言った。「ただ、なんでも本にあると思ったら間違いだ、ということをわかってもらいたかったのだよ、ジュークス君。風を避けたり、嵐を遠回りしたりのこれらの法則はな、ジュークス君、素直に考えてみれば、わしにはまるで馬鹿げたこととしか思えないよ」
彼は眼を上げて、ジュークスが疑わしそうに自分を見ているのに気がつき、自分の言おうとすることをくわしく説明しようとした。
「これはな、シナ人どもを楽にしてやるためにどれほどの時間か知らぬが、船首《へさき》を波に向けて、やりすごそうというきみの突拍子もない考えと、似たり寄ったりの珍妙なものだ。だってそうじゃないか、われわれの当面の仕事は、定められた金曜日の正午までに、かれらを福州へ送りとどけることなのだからね。天候のせいで遅れるなら……結構さ。きみの航海日誌が天候について端的に語ってくれる。だが、予定の針路から道草をくって、まず二日遅く入港して、『そのあいだ、どこにいたのですか、船長?』とでも訊《き》かれたとしよう。わしはなんと答えたらいいかね? 『悪天候から逃げまわっていました』とでも答えるか。『よっぽどひどかったのですね』と言うにきまっている。こっちは『わかりません』と言わなきゃならん。『手際よく避けていましたので』どうだね、ジュークス? 今日の昼から、わしはこれを考え抜いたのだよ」
彼はまたいつもの、見るでもなく、想像を働かせるでもない眼を上げた。これまで誰も、彼がいちどきにこれだけ多くのことを喋るのを聞いた者はなかった。戸口で両手をひろげているジュークスは、まるで奇蹟の立ち会いに招待された人のようなものであった。彼の眼が語っているのはかぎりない驚異であり、顔いちめんに、とても信ぜられぬという表情が宿っていた。
「嵐は嵐さね、ジュークス君」船長は言葉をついだ。「そして高性能の汽船ならそれに立ち向かうべきだよ。世界じゅうをうろついている悪天候はおびただしいものだ。適切なことは、メリタ号のウィルソン老船長のいわゆる『暴風戦術』なんか当てにしないで、それを突き抜けることだ。先だって、陸《おか》でのことだったが、わしの隣のテーブルに陣取った一団の船長たちがあって、ウィルソンが連中にその話をしているのを聴いていた。わしは阿呆くさくなったよ。猛烈な嵐の鼻をあかして……と、たしかそんな言葉を使ったと思うが……五十マイル以内に近寄らせなかった、という話だった。あの男はそれをちょいとした頭の冴《さ》えだと言っていた。五十マイル離れて猛烈な嵐があることがどうしてわかったか、わしにはてんで合点がいかない。まるで狂人のたわごとを聴いているようだった。ウィルソン船長はあの年で、もう少しものを知っていると思ったが」
マクホア船長はちょっと口を休めてから、ふと言った。「きみは下の当直の番じゃないかね、ジュークス君?」
ジュークスはびっくりしてわれに返った。「そうでした、船長」
「どんな小さな変化でもあったら、わしを呼ぶように言いついでくれたまえ」と、船長は指示した。彼は本を棚へ返すのに半身を伸ばし、それから両脚を寝椅子へのせた。「ドアが半開きにならんように、よく閉めていってくれよ。わしはドアの音を立てられるのには我慢がならんからね。まったく、この船には、ろくでもない錠前ばかり付けおって」
マクホア船長は眼を閉じた。
休息をとろうとして、彼はそうしたのだ。彼は疲れていた。徹底的な議論をつくして、長年の思索のあいだに成熟した信念をぶちまけたあとで経験する、あの精神的な虚脱感を、彼は味わっていた。事実、彼は信仰の告白をしたのであって、それは彼だけが知っていることだった。だがその効果はてきめんで、現にジュークスがドアの外側で、かなりの時間、頭を掻《か》きむしっていたではないか。
マクホア船長は眼をあけた。
彼は自分が眠っていたに違いないと思った。だが、あの大きな物音はなんだ? 風か? それなら、なぜ呼びに来なかったのか? ランプはジンバルで揺れ、気圧計は輪を描いて揺れ、テーブルは刻一刻その傾斜度を変えた。頭のほうのぐんなり折れた大長靴が一足、寝椅子のそばをすべって行く。彼はとっさに手を出して、その片方をつかまえた。
ジュークスの顔がドアの隙間に現われた、顔だけである。ひどく赤い顔で、眼をぎょろつかせている。ランプの光が跳ね、紙が一枚舞い上がり、一陣の風がマクホア船長を包んだ。半長靴に足をつっこみながら、彼はジュークスのいきまいた、はれぼったい顔に、待ちかまえた視線を向けた。
「とうとうやってきました」ジュークスが声を張り上げた。「五分まえです……いきなりでした」
パタンとドアが閉まって顔が消えた。重い水しぶきが閉じたドアの外側をたたいて、まるでこの室に溶《と》かした鉛をバケツ一杯ぶっかけたようだった。腹の底にこたえる嵐の唸《うな》りにまじって、すでに口笛にも似た突風の叫びが高く聞こえてくる。密閉した海図室も、もう掘立小屋のように隙間風がみちている。
マクホア船長は、猛烈な勢いで床をすべってゆく靴の他の一方を引っつかんだ。あわてているわけではないが、即座にはうまく足が突っ込めない。彼が脱ぎすてておいた短靴などは、部屋じゅうを端から端へ走り回って、まるで小犬がじゃれ合っているようだ。立ちがりざま、彼はやけくそにそれを蹴飛ばしたが、むだ骨折りだった。
雨衣を取ろうとして、彼はフェンシングの突きの格好で突進した。そしてそれを羽織《はお》る間も、狭い部屋のなかをよろけまわった。両脚を大きく踏んばり、首を前へ突きだし、ややふるえる太い指先で、彼は荒天帽の紐を顎《あご》の下でていねいに結びかけたが、顔はひどく真面目だった。鏡の前で、ボンネットをかぶる女の人そっくりの仕草《しぐさ》で紐を結び終ったが、そのあいだも突如として船を巻きこんだこの混乱のなかから、いまにも大声で自分の名が呼ばれるのを期待するかのように聞き耳を立てていた。
騒音はますます大きくなる、それが何を意味するにせよ、それに立ち向う覚悟を固めて、まさに部屋を出ようとしている暇にも、それは彼の耳をみたしていた。それはもはや喧騒《けんそう》の極に達した……風の吹きつける音、波のくだける音に加えて、疾風の来襲を知らせる遠い巨大な太鼓の早打ちにも似た、大気の長々しく深い振動音。
ランプの明りの下にしばし立ちどまった彼の姿は、戦《いく》さの身支度で着ぶくれして、ぶざまで、みっともなかったが、気の配りは十分に、顔は紅潮していた。
「これだけ着ると重いな」彼はつぶやいた。
ドアをあけようとすると、たちまち風にさらわれた。把手《とって》にしがみついたまま、彼は戸口から引きずり出され、その瞬間、今度は閉めようとするドアを押し返す風と組み打ちしていた。ドアがようやく閉まろうとした瞬間にさっと忍びこんだ風の舌が、ランプの炎を嘗《な》めつくした。
船首《へさき》の方向に、彼は、数知れぬ明滅する白い閃光《せんこう》の上に、巨大な暗黒が横たわるのを見た。右舷正面には、惜しみなく砕けては散る波の荒野の上に、二、三の大きな星が低く懸《かか》って、狂奔する煙を透して見るかのように、にぶい光を明滅させていた。
船橋ではひと塊《かたまり》の人たちが、靄《もや》のかかったような操舵室の窓の明りをたよりに、大車輪で立ち働いている、その頭や背中がぼんやり見えた。
と、急に暗黒が、その窓のガラスを一枚、次に一枚と、呑みこんでいった。闇に呑まれた男たちの声が、嵐のときによくあるように、繋《つな》がりのない断続する叫びとなって、マクホアの耳をかすめ去った。地からでも湧いたように、ジュークスが彼のそばに姿を現わして、頭を下げてわめいていた。
「当直が……操舵室の鎧戸《シャッター》をおろしました……ガラスが……心配……吹っこむんです」
ジュークスは彼の指揮者の非難の声を聞いた。
「こんなことが……起こる……どんなことでも……わしを呼べ……言っといた」
ジュークスは風の唸《うな》りに唇をふさがれながら、言い訳をした。
「微風……船橋に……とどまって……突然に……北東……避けえた……あなた……確かに……聞いた……思った」
ふたりは雨覆いの避難所に逃げ込んで、まるで喧嘩みたいな大声を張り上げて、ようやく話が通じた。
「ぼくは水夫たちを集めて、通風筒に全部覆いを冠《かぶ》せました。甲板に残っていたのは成功でした。船長が眠っているとは気がつかなかったので……。なんですって、船長? なんですか?」
「なんでもないよ」マクホア船長が叫び返した。「結構だ……と言ったのだよ」
「いやはや、どうも! 今度こそやられましたね」ジュークスは吠《ほ》えるように述懐《じゅっかい》した。
「きみ、針路は変えんだろうな?」声を振りしぼって、マクホア船長が駄目を押した。
「変えませんよ、船長。もちろんです。風がまともに吹き出したのです。そして、こんなに波も真っ向《こう》から来るんです」
船が突っ込んで、まるで船首部を何か固いものに乗り上げでもしたように、衝撃を受けた。一瞬、音がとだえたと思う間もなく、高い水しぶきが風にあおられて、二人の顔にいやというほど降りそそいだ。
「できるかぎり船はこのままだぞ」と、マクホア船長がわめいた。
ジュークスが眼から塩水を拭《ぬぐ》っている間に、星がみんな消えていた。
三
手あたり次第に海に投網《とあみ》を入れて、かかってくる半ダースほどの若い航海士のどれをとってみても、ジュークスほどに間に合うやつは滅多にあるまい。彼も最初の疾風《スコール》でこそ、その怖るべき猛烈さに少々ひるんだ様子だったが、早速に気を取り直すと、まず水夫たちを狩り集め、駆り立て、暮れ方のうちに手をつけなかった甲板の出入口を全部、当て木でしっかりと押さえさせた。生きのいい大声で「おおいみんな、急いで手を貸してくれ!」と叫んでわれから先に立ったが、そうしながらも彼は内心、「覚悟はできてるぞ」と独《ひと》りごちた。
しかしそれと同時に、事態が予期以上のものであることを、彼は次第に覚《さと》ってきた。頬に感じた空気の最初のそよぎからしても、嵐は雪崩《なだれ》のような加速的圧力を持っているような気がした。猛烈な水しぶきが、ナン・シャン号の船首《へさき》から船尾まで、すっぽり包みこんで、船は規則的な横揺れのさなかで、恐怖に気でも触れたかのように、たちまちにして身をよじり、前につんのめりだすのだった。
ジュークスは考えた。「こりゃ冗談ごとじゃないぞ」
彼が船長と大声を張り上げて説明し合っている間に、眼の前を夜の闇の幕があわただしく下りてきて、手を出せば触れるかとさえ思われた。それはまるで、遮蔽《しゃへい》されていたこの世の光が、本式に消されたにも似ていた。船長がすぐ側にいてくれることが、ジュークスには理屈なしにうれしかった。船長がただ甲板へ出てきたというだけで、ジュークスは嵐の重圧の大半を肩替りしてもらったかのように、気が楽になった。これこそ、指揮者の地位にある者の威信であり、特権であり、また責任でもあるわけだ。
マクホア船長としては、金輪際《こんりんざい》、この種の救いを誰からも期待することはできない。これが指揮者の孤独というものだ。彼は嵐の眼を観察する船乗りの、あの何物をも見のがさぬ用意周到さで情況を読みとろうとしていた……それは剣士が敵手のかくれた底意をさぐり、攻撃の目標と力とを推し測るために、その眼に見入るのと同じだ。強風は無際限の暗黒の彼方から、彼に向かって吹きつけてくる。脚下に船の不安な動揺を感じながら、しかも船の形さえ定かには見わけられないのだ。情けないことになったものだ。盲人の頼りなさにうちひしがれながら、彼はじっとして、静かに来るものを待っていた。
夜昼の区別なく、沈黙をまもるのが彼の常だった。彼のすぐわきでは、突風を食らいながら、ジュークスがさも愉しそうにわめき上げているのが聞こえた。
「これじゃ船長、いきなり一番ひどいやつに見舞われたに違いないですね」
かすかな稲妻のひらめきが、洞窟《どうくつ》のなかに……泡だつ波がしらを床《ゆか》とする暗い隠れ部屋にでも射しこむように、あたりを照らした。
その薄気味の悪い一瞬、稲妻は低く垂れこめた積乱雲や長い船体の傾斜、頭《ず》突きの形で化石したような、頭を前に出した船橋の船員たちの黒い影などを映しだした。闇はふたたびこれらすべてを蔽《おお》って鼓動した。そこへとうとう本物がやってきた。
天が怒りの鉢〔新約黙示録十六章一節〕を叩きつけたとでも言おうか、それはまことにすさまじくも迅速なものだった。まるで巨大なダムを風下へ切って落としたかのように、圧倒的な衝撃とものすごい洪水とが八方から船を押し包んでしまった。一瞬にして、人々は接触を絶たれた。これこそ強力な風のもつ解体力だ。それは、すべての物を仲間から引き離してしまう。地震、地すべり、雪崩、それらはいずれも言わば偶然に……激情をともなわずに……人間を襲うのだ。が、凶猛な暴風は、まるで個人的な怨《うら》みでもあるかのように人を襲い、手足を押え、心に食い入り、精神をすら追い出そうとするのだ。
ジュークスは彼の指揮者から引き離されてしまった。彼は風に吹き上げられて、ひどく遠くへ運ばれたような気がした。すべての物が消え去った……驚いたことに、しばらくは、思考力さえ失せていた。それでも片方の手が、手摺《てすり》柱をつかんでいた。この経験の真実さを否定してみたところで、心の苦痛が軽減されるものではない。若いとはいえ、彼とてもすでに幾度かの荒天に際会していたから。したがって最悪の場合だって推測できぬとは夢にも思っていなかった。
ところが今度ばかりはあまりにも波の想像を絶しているので、そもそも船が沈まないでいるのが不思議だった。同じ意味で、たぶん、自分が生きていることも信じられなかったはずなのだが、幸か不幸か、当面、わが手をもぎ取ろうとする風に抵抗して、あらんかぎりの力を振り絞らなければならなかったので、そんなことを考える余裕がなかっただけである。そればかりか、なかば溺《おぼ》れ、無惨なまでに痛めつけられ、息の根も止まりかかっているという自覚を通して、かえってまだ完全に参っているのではないという自信が戻ってきた。
彼は、自分ひとりが支柱にかじりついて、危ないせとぎわを長い長い時間を過ごしたような気がした。雨は降り注ぎ、流れ落ち、滝とほとばしった。彼はあえぎながら息をした。のみこむ水はときとして味がなく、ときとしてからかった。この風雨の大動乱のなかでは、へたに開けたら視力も奪われそうな気がして、彼はほとんど眼をしっかりとつぶったままでいた。思いきって急いで瞬《またた》きしてみると、飛び散る雨と波しぶきとを弱々しく照らし出している右舷灯の蒼白いかすかな光が見えて、彼はいくらか安心した。
たまたま彼がその舷灯を見ているとき、ふくれ上がる大波に光が射したかと見ると、たちまちにしてその波が灯を消してしまった。その波頭はくずれ落ちて、彼の周囲に荒れ狂っているものすごい咆哮《ほうこう》に、さらに新たな力を加えたが、ほとんど間髪を入れず、いままで抱きついていた支柱が、彼の腕からもぎとられてしまった。背中が何かにぶつかったと思うと、急にからだが浮き出し、そして持ち上げられた。このときの彼の最初の感じでは、シナ海がそっくりそのまま船橋へのし上がったものとしか思えなかった。次に、少し正気になって、自分はもう海へ押し流されたものと判断した。その絶大な量の水のなかでこづきまわされ、投げ飛ばされ、転がされているあいだ、大あわてで、彼は心のうちに「神様! 神様! 神様! 神様!」と唱えつづけた。
突然、みじめさと絶望にやりきれなくなって、彼は是《ぜ》が非《ひ》でもこのなかから逃れ出ようという気違いじみた決心をした。そして、まず腕と脚とでもがきはじめた。ところが、この哀れなもがきをはじめるとすぐに、自分がどうやらひとつの顔、一枚の雨衣、誰かの半長靴とからみあっているのがわかった。彼はそれらに遮《しゃ》二無二《にむに》しがみついたが、つかんでは放し、またつかみ、また放し、をくりかえしているうちに、ようやくのことで頑丈な二本の腕にしっかりと抱きとめられた。彼も、そのがっしりした太いからだに、ぴたっと抱きついた。相手は船長だった。
ふたりは幾度となく反転しながらも、組んだ腕にいよいよ力を入れた。と、急に、水はふたりをまっさかさまに突き落し、乱暴に叩きつけた、ぶつかったところは操舵室の横で、息を切らし、打ち身をこしらえたふたりは、風のなかで辛うじてよろめき起《た》ち、手あたり次第の物にかじりつくほかはなかった。
急場を切り抜けたジュークスは、おのれの感情に向けられたこの上ない狼籍《ろうぜき》を逃れでもしたように、怖気《おぞけ》をふるった。これで彼の自信も少々ぐらついてきた。ぬば玉の暗闇のなかで、わが身近にいると信じられる船長に向かって、当てもなく、こめかみの張り裂けるほど、彼は夢中で呼びかけた。
「あなたですか、船長? あなたですか、船長?」
すると、その返事に、遠くのほうで叫ぶような、ひどく遠くのほうでぶりぶり彼をたしなめているような言葉がただひと言、「そうだ」と聞こえてきた。波が次つぎとまた船橋を越えはじめた。両手でつかまったままの彼は、ふせぐ術《すべ》もなく裸の頭を波の洗うにまかせた。
船の動揺は度はずれていた。傾斜の激しさにはまったく魂の消えそうな心細さだった。縦揺れのときは、船がまるで穴のなかへ逆落しになって、そのたびごとに壁にぶち当るのかとさえ思えた。左右に揺れると、まともに横ざまに倒れ、破壊的打撃でもとへ戻るところなど、ジュークスには棍棒《こんぼう》で殴られた男がくずおれる前にふらふらしているのと同じように思えた。嵐は闇のなかで巨人のごとくに吼《ほ》え立てわめきまわって、全世界がただの暗い谷間に化したかと思われる。ときにはまた、吹きつける風が、集中的な衝撃力でトンネルを吹き抜ける一本の棒のような空気の流れとなって船につきあたり、船はすっぽり水面から持ち上げられ、瞬間、空中に停止して、いたずらに舳《へさき》から艫《とも》まで全身をふるわせている。それから、またもや沸《たぎ》り立つ大釜に投げ返されたように、前後左右にころげまわる始末になる。
ジュークスは一生懸命に精神を統一して、事態を冷静に判断しようと努めた。
より強力な突風で無理やり平らに圧《お》しならされた海は、次に盛り上がるときにはナン・シャン号を首尾もろとも雪白の泡のなかに呑みこみ、両側の手摺を越えて、夜の闇へとくずれ去る。莫々《ばくばく》たる暗雲のもと、蒼白くひろがり行くこの眩《めくる》めくばかりの泡だちのなかに、マクホア船長はわびしい光景をかいま見た……黒檀《こくたん》のように黒い小さな斑点が二つ三つ、艙口《ハッチ》の屋根、板付けにされた船室の天窓、覆いを冠《かぶ》った巻揚機《ウインチ》の頭、一本のマストの根元。これが、彼の船について見ることのできるすべてだった。
彼と、ジュークスと、大波の一撃に設備もろとも押し流されてはたいへんと戸締りも厳重に舵手のたてこもっている密閉した操舵室と……それらを載せた船橋の覆う船の中央部は、まるで波に洗われて見え隠れする磯辺の岩だ。波が沸きたち、乗り越え、流れ落ち、打ち寄せる離れ岩のように……難船した人々が力尽きるまでしがみついている、磯波の洗う岩のように……それは休みなく、絶え間なく、浮いたり沈んだり横に転げたり、その岩は奇蹟的に何かのはずみで海岸から押し出されて、海の上を転がっているかのようだ。
ナン・シャン号は、この暴風雨の無慈悲な、破壊的な憤怒の劫掠《こうりゃく》に会っていた。斜桁帆《トライスル》は余分の括帆索《ギャスケット》からむしりとられ、二重に繋いでおいた天幕は吹き飛ばされ、船橋は洗い流されて一物をとどめず、雨覆いは破れ裂け、手摺はひん曲り、遮蔽幕《しゃへいまく》はめちゃめちゃで……その上ボートが二隻まで奪《と》られていた。いずれも、波の衝撃と包囲のうちに、言わば溶けてしまったかのように、音も聞こえず、眼にも触れずに消え去っていたのだ。
後になって、また大波が船の中央部を襲ったとき、ジュークスはその白い耀《かがや》きのなかで、一対の吊り柱が真っ暗闇から黒々と裸で躍り出して、一本の滑車|索《づな》が風に舞い、鉄張りの滑車が空中に躍っているのを認め、初めてわが三ヤードうしろで何が起こったかを知ったほどだった。
彼はわが指揮者の耳を求めて頭を突き出した。彼の唇がそれに触れた……大きな、肉付きのよい、濡れた耳だった。その耳に、彼は不安そうに吹き込んだ。「ボートがとられました、船長」
そしてもう一度彼はあの声を聞いた。ふりしぼった、弱々しい響きではあるが、このとてつもない騒音のただなかで、あたかも暗澹《あんたん》とした嵐の荒野の彼方、どこか遠い平穏な地点から聞こえてくるような、人の心をなごめないではおかない声だった。もう一度彼はひとりの「男」の声……かぼそくはあっても不屈の響きをもち、滅びることなき思慮と決意と目的とを伝える力をもち、天柱くだけ、審判の下る最後の日においても、なおかつ揺るぎなき言葉を吐く……その声を聞いた。
遠い遠いところからでもくるように、その声は彼に呼びかけていた……「わかったぞう」
ジュークスはよくわかって貰えなかったのではないかと思った。
「ボート……ボートですよ……船のボートです、船長! 二隻とられました!」
自分の一フィートのところにありながら、しかもひどく遠い同じ声が、ものわかりよくわめいた。「やむをえんよ」
マクホア船長は決して顔を向けはしなかったが、ジュークスには風の加減でさらに聞き取れた。
「しようが……あるまい……こんな……突き抜けるとき……。何かをうしろへ……すてるほかない……あたりまえだ」
ジュークスは用心してさらに耳を傾けた。だが、それ以上は聞こえなかった。マクホア船長の言いたいことはこれで全部なのだ。そしてジュークスは、猫背の背中をわが前に見るというよりは、むしろ心眼に描き出した。濃い闇が不気味に光る海面にのしかかってきた。もはや万事休すという漠然とした観念が、ジュークスを捉えた。
幸いにして、操舵機が破壊されないですめば、おびただしい水量が甲板を裂くとか艙口《ハッチ》を破るとかしないですめば、機関が止まらないですめば、このものすごい風にもめげずに船の進路が確保されれば、そしてときたま目にしては胆《きも》を冷やす、あの船首《へさき》部はるかに高く白い飛沫を揚げる怖るべき激浪に呑みこまれてしまわないですめば……そのときこそ、船は脱出の機会がある。このとき、何か彼の心のなかでひっくり返るものがあって、ナン・シャン号はもう助からない、という感じが先に立った。
「船はもうだめだ」こう彼はひとりごちたが、この考えに思いもよらぬ新しい意味でも見つけたかのように、心がひどくたかぶるのを感じた。こういう出来事がいずれは起こるにきまっていたのだ。いまとなってはどうにも防ぎようがないし、応急処置の取りようもない。乗組員は役に立たぬし、船自体が長くは保《も》つまい。この天候はあまりにも不可抗力だ。
気がつくと、ジュークスの肩に重い腕が一本、のばされてきた。そしてこれに応《こた》えて、彼はすぐに船長の腰に手をまわした。
ふたりはこうして漆黒《しっこく》の夜を、風にさからって抱きあい、頬をすり寄せ、耳に口を当て、さながら二隻の老朽船が舳《へさき》は舳、艫《とも》は艫でくくりつけられたように、ひとつになって立っていた。
それでもジュークスには、船長の声が前より高く聞こえるというわけにはいかなかったが、だいぶ近くはなって、まるで暴風の仮借ない襲撃に対抗するかのようにそれは彼に近づき、円光の静謐《せいひつ》なかがやきにも似て、人の心をなごませる不思議な力がそこにはあった。
「水夫たちはどこへ行ってしまったか、知らんか?」
その声が訊ねたが、それは力づよいと同時にはかなく、風の力に打ち勝つとみれば、瞬時にして消え去ってしまった。
ジュークスも知らなかった。暴風の最高潮のときには、みんなはそろって船橋にいた。それがどこへもぐりこんでしまったのやら、彼にも全然見当がつかない。いてくれれば役にも立つだろうに、いまのところ姿ひとつ見せない。とにかく船長に知りたいと言われて、ジュークスは悲しかった。
「水夫たちにご用ですか、船長?」気になって、彼が訊ねた。
「知っとかなくてはな」と、マクホア船長が言った。「しっかりつかまれ」
おたがいにしっかりつかまった。またもや襲った荒れ狂う憤怒の爆発、風の恐るべき突進が、船を完全に安定させた。すべての大気が言ってみれば、すさまじい勢いで船を残して流れ去り、ものすごい唸《うな》りを立ててこの陰暗の地球から飛び去ろうという安危《あんき》の分かれる瞬間、これはまた子供の揺り籠《かご》かなんぞのように、船はただ忙しく軽快に揺れていたのだ。
二人は息が詰まった。眼をつぶったまま抱き合う腕に力をこめた。衝撃の激しさから考えて、暗闇を棒立ちとなって押し寄せたと思われる水柱が、船に突き当り、一瞬にしてくずれ、くずれたと見る間に、頭上から砕けよとばかりに船橋へなだれ落ちて、その重圧にあわや海の底まで沈められたかと思われた。
この雪崩の飛沫のほんの一片が、足といわず頭といわず、かれらを晦冥《かいめい》のうちに包みこんで、耳も口も鼻も塩水で一杯になった。さらに洪水は二人の脚をとり、腕をねじり、顎《あご》の下を奔流した。眼をあけると、一見、船の残骸のようななかを、沸きたつ泡の塊が駆けめぐっている。船はストレート・パンチを食《くら》ったかのように、もう戦意がなかった。このものすごい打撃の前には、喘《あえ》ぐ心臓もまた降参した。ところが不意打ちに、まるでこの敗残からもがき出ようとでもするかのように、船は遮二無二《しゃにむに》あばれだした。
闇のなかで、波は四方から押し寄せて、予定どおり船を破滅させようとしているかに見えた。波の仕打ちには船への憎しみがあり、その打撃には残忍さがこもっていた。まるで、狂乱する暴徒の前に投げ出された一人の人間のようなもので、情け容赦なくこづかれ、殴りつけられ、担《かつ》ぎ上げられ、投げ下ろされ、踏みにじられた。マクホア船長とジュークスとはかたみにしっかりと抱きあったまま、騒音に耳は聾《ろう》し、口は風にとざされていた。外部から加えられる肉体的|凌辱《りょうじょく》は、あたかも制約のない感情の爆発と同じく、深い精神的な苦痛をもたらした。暴風の絶え間ない咆哮《ほうこう》にまじって、ときとして気味わるく頭上をかすめ行く荒々しくも身の毛のよだつ叫喚《きょうかん》、その叫喚のひとつがあたかも翼あるもののごとく、船に襲いかかったので、ジュークスは負けてはならじとわめき返した。
「これでも船は大丈夫ですか?」
この叫び声は彼の胸からもぎ取られるように出た。それは頭のなかにひとつの考えが生まれるのと同じで、意識してのことではなく、彼自身にも何も聞こえてはいないのだ。それは……発想も、意思も、発声も……たちまちにして消え失せ、叫びはわずかに声なき旋律を荒れ狂う大気の波動に付け加えたに過ぎなかった。
彼は反応を期待はしなかった。どんな反応をも。
なぜといって、この場合どんな答えができるというのか? ところが間もなく、驚いたことには例の弱々しくはあるが断固とした声が、低いながらにこの大騒音に掻き消されもせず、彼の耳に入ってきた。
「保《も》つだろうよ!」
それは、囁《ささや》きよりも聞きとりにくいようなにぶいわめきだった。そして少したって、声はふたたび聞こえてきたが、大洋の波浪とたたかう船のように、あたりの雑音になかば消されていた。
「そうしたいものさ!」
その声は……低く、寂しく、無感動で、希望とか恐怖とかの想念とはおよそ縁のないものだった。それから風に吹き散らされて、あとは支離滅裂になった。「船……。これは……。決して……どうにか、……せいぜいのところ」
ジュークスはそれ以上は断念した。
すると、急に嵐の暴威に耐える何かの足場を得たかのように、声が強まり、はっきりしてきて、終りのほうが切れぎれながら耳に入ってきた。
「どんどん槌《つち》を振って……造船技師たち……感心なものだ……。そしてたまたま……エンジンも……。ラウト……いい男だ」
マクホア船長がジュークスの肩から腕を引いた。闇のなかだったから、ジュークスにすれば船長は消えてなくなったと同様だった。全身の筋肉を強く引き締めていたジュークスは、今度は洗いざらい力を抜いてしまった。さんざんに殴りつけられて睡魔《すいま》に襲われるときのような、言いようのない睡気《ねむけ》と隣り合せに、底知れぬ不安が彼をさいなんだ。風が頭を引っつかんで、肩からもぎとってしまいそうだった。着衣はいっぱいに水を含んで鉛のように重く、氷の鎧《よろい》が融《と》けるかとばかり冷たく、そして雫《しずく》を垂らした。彼は身ぶるいをした……それがかなり長いこと続いた。両手でしっかりつかまりながら、彼は肉体的にしだいに自由を失いかけていた。心は当てどなくぼんやりと自分の上に集まっていて、何かに軽く膝のうしろを押されたときなど、諺《ことわざ》に言う、皮膚から飛びだすほどびっくりした。
前へ飛びだす拍子に、彼はマクホア船長の背中に突き当ったが、船長はびくともしなかった。すると、そのとき一本の手が、彼の太股《ふともも》を掴んだ。凪《なぎ》が来ていた……恐るべき風の小休止、嵐の息吹《いぶき》の停止だ……全身を掻きむしられるような気がした。水夫長だった。ジュークスはこの手には見おぼえがあって、骨太で大きなところなど、まるで人間の新しく出来た種族の手のようだった。
水夫長は風にさからって、四つん這いで船橋へ来たところで、頭のてっぺんに一等航海士の脚が触れたのだった。すぐさま彼は半身を起こして、ジュークスのからだを目下の者らしくていねいに、遠慮しながら、下のほうから探り上げた。
彼は不器量な、寸足らずの、がさつな五十男で、毛が剛《こわ》く、脚が短く、腕が長く、まるで年老いた猿だった。膂力《りょりょく》はすばらしかった。毛深い前腕のさきについている、茶色の拳闘のグラブのように大きなまるまるとした手には、どれほど重い物でも玩具のようなものだった。灰色の胸毛とこけおどしの態度としゃがれ声とを別にすれば、彼には水夫長という概念に当てはまる持ち味はひとつとしてなかった。彼の人のよさはむしろ愚鈍に近かった。彼は相手の言いなり次第で、性格的に投げやりなお喋りのほか、一オンスの積極性もなかった。これらの理由で、ジュークスは彼を好かなかった。ところがマクホア船長は、この男を第一級の下士官と考えているらしく、いつもそのためにジュークスの軽侮を買っていた。
彼は恐るおそるジュークスの外套を掴《つか》んで起き上がったが、これも暴風のさせる業《わざ》だった。
「どうした、水夫長、どうしたんだ?」癇癪《かんしゃく》を起こして、ジュークスがどなった。いったいこのインチキ水夫長が船橋になんの用がある?
台風はジュークスの神経をいためつけてしまった。はっきりとはわからぬが、水夫長のあげるしわがれ声には、生きいきとしたうれしさがこもっていた。決して間違いではない。この老いぼれ阿呆め、何かを喜んでいるのだ。
水夫長の他方の手がも一人のからだを見つけたらしく、声の調子が変わって訊きはじめた。
「これはあんたですかい、船長? あんたですかい、船長?」風が彼の叫び声を窒息させた。
「そうだぞ」マクホア船長が大声で応えた。
四
水夫長がさんざんに叫び、わめいた揚句《あげく》に、マクホア船長に了解させえたことは、なんとわずかに「前部中甲板のシナ人がかたまって持っていかれました、船長」という、奇怪な報告だけだった。
ジュークスは風下にいて、この二人が自分の顔から六インチと離れぬところで声を張りあげているのを聞いたが、それが夜の静けさのなかに、半マイルも先で、田圃《たんぼ》を挟んで話している二人の声のようだった。
マクホア船長が癇《かん》を立てて、「何? なんだって?」と訊けば、一方はしゃがれ声をふりしぼった。「かたまって……見ました……、凄い景色でしたよ……報告しようと……思った」
動こうにも動けない、どうしようもない激しい暴風にかこつけて、ジュークスは知らぬふりをした。その上、若さのせいで、最悪の事態に処していかに冷静にふるまうかで一杯で、自然どんな形の活動でも、とても受けつけられぬ状態だった。彼は怯《おび》えてなどいなかった。これには自信があった。なぜなら、もう明日の日の出は見られまいと固く心に決めていながら、落着いていられたからだ。
これは英雄的な無為ともいうべき瞬間で、どんな古つわものにも、ときとして免れえないところである。ふりかえってみて、高級船員の多くはかならずや一度ぐらいは、混乱のさなかに、ふと船の全員がこのような放心的な冷静さに陥ってしまった、という経験があるにちがいない。自信があったとはいえ、ジュークスには人間なり暴風雨なりについての広い経験があったわけではない。彼は落ち着いている……落ち着きはらっている、と自分では考えていた。だが、内心びくびくものだったのは事実だ。あまりだらしがなくて、われながら愛想が尽きるというほどではないにしても、まず世間なみには怖かった。
それは無理やり精神を麻痺《まひ》させられたようなものだった。長い、長い嵐の重圧がそうさせたのだ。高調したまま果てしもなく続く破局の緊張。極度の混乱のなかでわずかに命の綱にすがりついている肉体の困憊《こんぱい》もあった。それは虎視眈々《こしたんたん》と、隙あらばと狙っていて、人間の胸の奥ふかくにもぐり込んでくる疲労であり……あくまで頑固に、地上すべての恵みのうち、生命それ自体をすら二の次にしても、まず平和を欲する人の心を叩きつけ、悲しませる疲労だった。
ジュークスは、自分で思ったよりもはるかに強く自由を失っていた。どうにかかじりついてはいたが……濡れそぼち、冷えきり、手も足もしびれていた。そして、一瞬、ひらめくような幻覚が走って(溺れかけた人間がその一生を回想すると言われるように)、現在とはなんのかかわりもないあらゆる記憶がよみがえってきた。
たとえば、父親を思い出した……立派な実業家だったが、事業の不幸な危機に際して病床の人となり、そのまま潔《いさぎよ》くあきらめて死んでいった。もちろんジュークスはそんな事情を思い出したわけではなかったが、ふだんなら全然考えてもみないのに、この場合、気の毒な父の顔がはっきりと目に映ったのだった。それに、ほんの子供の頃、テーブル湾の船の上でしたトランプ遊び……この船はその後、乗組員もろとも行方不明になった。初めて乗り組んだ船の船長の濃い眉毛。また彼は母親を思い出した……その昔、ぶらりと母の部屋へ入っていって、彼女が本を読んでいたときと少しも変らず、一片の感傷もまじえずに……その母もまた既に亡《な》い……貧しく夫に先立たれて、わが子の躾《しつ》けにはたいへん厳格だった、気丈な母親。
こんな回想も、一秒とは続かなかった。いやたぶん、それよりも短かかったろう。重い腕が彼の肩に落ちて、マクホア船長の声が耳もとでわが名を呼んだ。
「ジュークス! ジュークス!」
その声には深い懸念《けねん》の響きがあった。風は圧力のあらんかぎりを投げかけて、船を波のあいだに釘づけにしようとしていた。波は浮きつ沈みつの丸太も同然に、船の上を洗い流し、すさまじいとどろきは一つになって遠方からおどろおどろに船を威嚇《いかく》した。寄せ波は波頭にまがまがしい光を掲げて闇のなかから躍り出し……沸騰狂乱して蒼白い閃光《せんこう》を放射する泡だちの光は、ひとつひとつの波が華奢《きゃしゃ》な船体に押しかぶさり、滝と落ち、奔流する有様を映し出した。一瞬たりとも、きれいさっぱり船から水気の消えることはなかった。
からだを固くしていたジュークスは、めくら滅法にもがく船の動きに、不吉な予感をおぼえた。船はもはや一定の目的をもって動いているのではない。破滅のはじまりなのだ。
マクホア船長の声のあわただしい焦慮《しょうりょ》の調子が、お先まっくらな、小うるさい愚痴のあらわれででもあるかのように、ジュークスを不快にした。
嵐の呪文《じゅもん》が、ジュークスをとりこにしてしまっていた。からだの自由を失うばかりか、心まで奪われていた。口もきけぬ緊張に動きがとれなくなっていた。マクホア船長は辛抱づよく呼びつづけたが、二人のあいだには風が頑固な楔《くさび》のように割りこんでいた。
船長はジュークスの頸《くび》に石のようにぶらさがった、それで急に二人の頭の側面がぶつかりあった。
「ジュークス! おい、ジュークス君というに!」
とてもだまらせることのできない声だ、彼は答えなければならなかった。いつもの調子で、答えた、「……はい、船長」
すると即座に、嵐にまどわされ、平和へのあこがれをいやが上にもつのらせていた彼の心情は、訓練と命令の暴虐に猛然と反抗した。
マクホア船長は航海士の頭をしっかりと曲げた肱《ひじ》のなかへ抱きこんで、押しつけた唇がそれにむかってわめきたてていた。ときどきジュークスも口をだして、急いで「気をつけて、船長!」と注意したこともあり、マクホア船長のほうで真剣に「そら、しっかりつかまれ!」と叱咤《しった》することもあって、暗黒の全宇宙が船とともによろめくかと思われた。かれらは休んだ。だが船はまだ浮かんでいた。それでまたマクホア船長がどなりだすのだ。
「……話では……全員が……持っていかれた……どうしたことか……見てこなくては……」
はじめ颶風《ぐふう》が全力で船を襲ったとき、甲板のあらゆる部分はただちにもちこたえられなくなった。胆《きも》をつぶして怖れおののいた水夫らは、さっそく船橋の下の左舷通路へ避難してしまった。そこは船尾《とも》の方角にドアがあったが、それも閉めてしまった。こうして通路はまっくらで、寒く、陰欝だった。船が大きく揺れるごとに、一同は闇のなかで唸り声をあげ、何トンとも知れぬ水が上からかれらに襲いかかる途《みち》をさがしてでもいるかのようにあちこちから洩れてきた。水夫長は声あらくみなを鎮めていたが、後に彼の語ったところによれば、これほど箸《はし》にも棒にもかからぬ連中をあつかったことはなかった、とのことだ。ここにいれば危険はないし、結構いごこちもよかったので、かれらは何ひとつしようとしない。それでいて、かれらはまるで病気にかかった子供のように、いくじなくぶつぶつ愚痴《ぐち》ばかりこぼしていた。そのうち一人が、せめて灯《あか》りでもあって、おたがいの鼻でも見えたら、これほどいやな気持でもなかろうと言いだした。こうして闇のなかに寝そべって、この罰あたり船が沈むのを待ってるのは気が狂いそうだ、と彼は言った。
「それならなぜ外へ出て、ひと思いにかたをつけねえんだ?」と水夫長が彼に開き直った。
このひと言が激しい罵詈雑言《ばりぞうごん》を誘いだした。水夫長は自分もありとあらゆる憤りに堪えかねる思いがした。いわばやつらはランプが、何もないところからひょこり飛びだしてこないといって文句をつけているようなものだ。つまり溺れ死ぬために灯りがほしいといって泣いてやがるのだ……どうせ溺れるくせに! やつらの罵詈譫謗《ばりざんぼう》の無理なことはわかりきっていながら……つまり前甲板にあるランプ室までは誰だって行くことはできないのだから……やっぱり水夫長はひどく気がもめてきた。彼はこんなふうに自分に難題をふっかける水夫たちはわからずやだと知っていた。だから彼はそう言ったが、結果はみんなから逆にやっつけられてしまった。それで彼は気むずかしく黙りこくってしまうことで逃げるほかはなかった。同時に、かれらの不平、不満、落胆、愚痴がひどく気になった。けれどもそのうちに気がついてみると、中甲板に六個の球形ランプが吊ってあり、そのうち一個ぐらい減らしても苦力《クーリー》たちに迷惑をかけることもなかろう、と気がついた。
ナン・シャン号には船を横に仕切った石炭庫があって、ときとして船艙《せんそう》に使われていたが、前部中甲板とは鉄扉で通じていた。そこはちょうどそのときは空いていて、そこへの出入口は運よく例の通路の一番前のマンホールであった。したがって水夫長は全然甲板へは出ないでそのなかへ入ることができたわけだが、おどろいたのは水夫たちのうちの誰ひとり、そのマンホールの蓋をはずすのに彼を助ける者がなかったことだ。それでも彼は手さぐりでそっちへ行ったが、途中に寝そべっている一人の水夫はどいてさえくれなかった。
「おい、おれはおめえたちが欲しがってるランプをとってやろうとしてるだけなんだぜ」いっそう情けない気持で、水夫長は説教した。
勝手に行って、袋のなかへでも頭をつっこむがいいや、とへらず口をたたくやつがいた。残念ながら誰の声だかわからなかったし、暗くて顔も見えなかったが、もしわかったら……彼は船長に話した……野郎が沈もうと泳ごうと知ったこっちゃねえ、そいつに頭をぶつけてやるんだった。だがそれにもかかわらず、たとい死んだっていい、灯りのひとつぐらい持ってこられることを、やつらにみせてやろうと、彼は決心した。
船の横揺れがはげしいので、動作のひとつひとつが危険だった。横になるだけでも、たいへんな労働だ。石炭庫のなかへ降りるときも、あやうく頸の骨を折るところだった。彼はあおむけに落ちこんで、すがる物とてなく、そのまま端から端へと威勢よく行きつもどりつ、すべっていたが、置き忘れられた一本の鉄の棒が……おそらく石炭掻きの一部だろう……そいつが自分といっしょにごろごろすべる仲間ときていたから、物騒《ぶっそう》な話だった。この棒が、まるで猛獣といっしょにいるほど神経を疲れさせた。炭の粉で塗りこめられたこの石炭庫の内面は、それこそ真っ黒な闇だから、その鉄棒は見ることはできなかったが、そいつがすべって音を立て、そちこちにぶつかるのが、いつも頭の近所に聞こえていた。それにまた音も特別に大きいようだった……まるで横桁《よこげた》ほどもあるかと思うほど、ズシンズシンとひびいた。左舷から右舷へ、そしてまたもとのところへと、はねとばされながら、なんとかからだをとめようと石炭庫のすべすべした壁面にやみくもに爪を立てているあいだも、彼はこのことだけは気がついているほど、たいした音だった。中甲板へ通じるドアがピッタリ合っていないので、底のほうにひと筋の薄あかりが射していた。
船乗りのことではあり、まだからだも元気だったので、彼は立ちあがるのにさほどの手間も要《い》らなかった。それに運もよかったのだろう、起きあがるときに、片手が例の鉄棒にかかったので、それをひろいあげた。さもなければ、それに脚を折られるか、少なくともふたたびぶっ倒される心配があったのだ。
最初、彼はじっと立っていた。こういう暗闇では船の動きの勝手が知れず、予測もできず、それに応じた身のこなしも容易でないから、安心がならない。瞬間、ひどく臆病になり、「また突っ走りゃしないか」と怖ろしくて、動こうにも動けなかった。あんな石炭庫のなかで粉々にたたきつけられるのは真っ平ごめんですからね、と彼は話した。
彼はもう二度まで頭をぶっつけたので、少々ふらふらしていた。まだ鉄の棒のガラガラドシンが耳のはたではっきりと聞こえるようで、手のなかで強く握りしめてみて、間違いなくわが手にあることを確かめたほどだった。こんな下のほうでも、嵐の荒れ狂うさまが手にとるように聞こえ、なんとはなしにそのことに驚きを感じた。嵐の咆哮《ほうこう》は、石炭庫の空虚のなかで、何かしら人間味を帯びていて、人間の怒りと苦悩……広大ではなくて限りなく残忍毒悪な……を表わしているような気がした。おまけに船が揺れる度ごとに、船艙《せんそう》で、五トン以上もある荷物が、どしん、ごろごろと動くような地響きが……深い、重い地響きが感じられる。だが積荷のなかにそんな大きな物はない。何か甲板にでも? いやそんなはずはない。そんなら舷側に? それもありえないことだ。
彼はすべてこれらのことを、船乗りらしく迅速に、的確に、要領よく考えたが、結局はわけがわからないままだった。にもかかわらず、この物音は、頭上の甲板に奔流する水音とともに、外部から伝わってくるものだった。風の音かしら? そうにちがいない。風の音が下のここまで、おびただしい狂人の群れの叫びのように、とどいてくるのだ。そうなって、彼もまた……たとい溺《おぼ》れ死ぬだけのことであろうとも……むしょうに灯火がほしくなり、なんとかして早くこの石炭庫から抜けだしたいと、ひたむきに望んでいる自分に気がついた。
彼は閂《かんぬき》をひいた。重い鉄扉が蝶番《ちょうつがい》の上でまわった。そして、これはまるで嵐の轟音《ごうおん》にむかって扉を開いたようなものだった。かすれた叫喚の突風が、彼にぶつかった。風はやんでいた……しかも頭上の水音すらも掻き消されるほどに、首を絞められ、いまにも息の詰まりそうな叫喚のかもしだす手のつけられぬ混乱がそこから聞こえた。彼は戸口の幅いっぱいに両脚を踏んばって、首をのばした。そしてまっさきに目についたのは、彼がわざわざそのためにやってきた品物だった。いっぱいにひろがる薄くらがりの上に、激しく揺れている六個の小さい菫色《すみれいろ》の焔《ほのお》だ。
そこは一見、鉱山の坑道のように、中央に支柱が一列につづき、頭上には横梁《よこはり》がずっと並んで、それらが前方のくらがりのなかへ、模糊《もこ》として溶けこんでいる。そして左舷の側に、船の側壁のひとつの凹《へこ》みのように傾斜した輪郭をみせて、ひとつのかさばった集塊が、ぼんやり見えた。部屋じゅうが、たくさんの影と形をなして、絶え間なく動いていた。水夫長は目をみはった。船が右舷へかたむいて、土砂《どしゃ》くずれの形をしたその集塊のなかから、ものすごい叫喚が起こった。
いくつもの木片が唸《うな》りを生じて飛び動いた。厚板だな、と文字どおりびっくり仰天して、頭をうしろへそらせながら、彼は思った。彼の足もとを、人間が一人、あおむけに眼を開いたまま、両腕をあげて頼りなくもがきながら、すべっていった。次にまた、頭を脚のあいだに入れ、両手を握りしめて、転がりだした石のように弾《はず》みをつけてすべってゆくのがあった。この男の辮髪《べんぱつ》が空を切ってなびいた。彼は水夫長の両脚にしがみついたが、そのとき開いた掌から、ピカピカした白っぽく平たい円い物がころがりだして、水夫長の足にあたった。見るとそれは一ドル銀貨で、あまりおどろいたので彼は声をあげた。素足で踏んだり足ずりしたりするあわただしい音に、咽喉からとびだす叫び声をまじえて、左舷に盛りあがっていた、のた打つ人間の山が、舷側を離れて、ゆっくりともがきながらすべりだし、にぶい残忍な響きとともに、右舷にぶつかった。叫喚はやんだ。
風の絶叫のなかに、水夫長は長い呻《うめ》き声を聞いた。頭と肩、蹴上げる足の裏、振り上げる拳、のたうちまわる背中、脚、辮髪《べんぱつ》、顔……解きほぐすすべもない紛糾を、水夫長は見た。
「おう、助けてくれ!」思わずゾッとして叫ぶが早いか、彼はこの無惨な光景に蓋をするように、鉄扉をバタンと閉めた。
以上の話をするために、彼は船橋へやってきたのである。彼はこれを自分の胸にだけしまっておくことができなかった。そして船中にただひとり、この胸のつかえを吐きだす相手がいたのだ。彼の戻り道、通路の水夫たちは彼をばか野郎とののしった。どうしてあのランプを持ってこねえのだ? 苦力《クーリー》のことなんぞ、誰が心配するもんかい? そして甲板へ出てみて、すでに土壇場へ来ている船の有様を知ると、下のほうのことなんぞは問題でなくなってしまった。
最初、彼はちょうど船が沈みかけたときに通路を出てきたのだと思った。船橋への梯子《はしご》はすでに流されてしまっていたが、後甲板いっぱいに溢《あふ》れた大波が、彼を浮きあがらせた。それからしばらくのあいだ、環つきボールトにつかまり、ときどき息をついたり、塩水をのまされたりしながら、うつぶせになっていなければならなかった。胆をつぶし、われを忘れた彼は、後へ戻るのも忘れて、手と膝で這い進んだ。そういう格好で、ようやく彼は操舵室の後部へとりついた。
この比較的安全な場所で、彼は二等航海士に会った。甲板の人たちはもうとうの昔に一人のこらず流されてしまったものと思っていただけに、水夫長はびっくりしながらもうれしかった。彼は熱心に船長の所在をたずねた。
二等航海士は、まるで生垣《いけがき》の陰の意地のわるい小さな獣のように、低く横になっていた。
「船長だと? 海へはまっちまったさ。おれたちをこんなひでえ目にあわせておいてよ。おれの知ってるところじゃ、一等航海士もご同様だね。阿呆の仲間さ。どっちみち、どうでもいいこった。いずれはどいつもこいつもみんなお陀仏《だぶつ》になるんだ」
水夫長はまたもや激しい風のなかへ這いだした。誰かが見つかるだろうなどと、それほど当てにしたわけではなく、彼の言うところによれば「あの人」……二等航海士から離れたい一心だった。浮浪者が冷酷な世間へ顔をだすように、彼はおずおず這いだしていった。やがて、ジュークスと船長とを見つけて、あの大喜びになったのだ。中甲板の出来事などは、もうそのときは、彼にとって二の次のことだった。その上、話を聞いてもらうのが容易なことじゃない。しかし、彼はようやくのことで、中国人たちが箱もろともにかたまって揺るぎだしたこと、それを報告しに自分がここへ昇ってきたこと、を伝えることができた。水夫たちは、一同異状ありません。ほっとすると、そこで、腕と脚で機関室電信器の台……柱ほども太い鉄の鋳物《いもの》……にかじりついたまま、彼は尻餅をついたようにへたばってしまった。こいつが流されるとなりゃ、なあにおれだって覚悟はきめるさ。苦力たちのことは、もう彼の念頭からすっかり消えていた。
マクホア船長はジュークスに、降りて様子をみてきてほしいという意向を、わからせた。
「見てから、どうすればいいですか、船長?」全身ずぶ濡れの胴ぶるいのせいで、ジュークスの声は羊の啼《な》き声のように哀れだった。
「まず見てくれ……水夫長が……動きだしたと……言ってる……」
「あの水夫長は、大ばか野郎ですよ」ジュークスはふるえ声で吠《ほ》えた。
自分に対する船長の途方もない要求に、ジュークスはむかっ腹をたてた。自分が甲板を離れる瞬間に、船が沈むにきまっているような気がして、とても行く気になれなかったのである。
「わしは知る義務がある……ほうってはおけん……」
「やつらは落ち着きますよ、船長」
「喧嘩……水夫長は、喧嘩しとると言うた……なぜだろう? 許しておけん……この船で……喧嘩など……むろんきみをここへ置いて……万一わしが波にさらわれたら……止めるんじゃ……なんとかして。きみが見て、わしに知らせる……機関室の伝声管で。そんなに度たび……ここへ上がってくる……必要はない。危険だ……甲板を……うろうろするのは」
頭をわきの下に抱えこまれているので、ジュークスはこの怖るべき提案をじっと聞いていなければならなかった。
「そんなに長く……きみが行方《ゆくえ》知れずでは……困る……船は……しない。ラウト……いい男だ……船は……たぶん……これを切り抜ける……まだ大丈夫だ」
たちまち、ジュークスは自分が行かねばならぬことを了解した。
「船は切り抜けられると思いますか?」彼は絶叫した。
しかし、答えは風に呑まれてしまって、ジュークスはただ一語、非常に力のこもった、「……いつでも……」という言葉が聞きとれただけだった。
マクホア船長はジュークスを放すと、今度は水夫長の上に腰をかがめて、「一等航海士といっしょに引っ返せ」とわめきたてた。ジュークスには、わが肩から腕がほどかれたことだけしかわからなかった。おれは命令を与えられて自由になったわけだが……さて何をしに? 彼は腹だちまぎれに、うっかり手を離して、とたんに吹き飛ばされてしまった。もはや船尾から海へ吹き払われるのを止めてくれる何物もないかと思われた。彼はあわてて身を投げ伏したが、あとを追ってきた水夫長が、彼の上に折り重なった。
「まだ起き上がっちゃだめですぜ、ジュークスさん」水夫長は叫んだ。「おちついて!」
波がひとつ、洗い去った。ジュークスは水夫長がしどろもどろに、船橋梯子がなくなっていることを説明するのをどうにか了解した。
「あんたの手を取って、降ろしてあげまさあ」水夫長はわめいた。
彼はまた、煙突がもしかすると押し流されてしまうかも知れないとか、なんとか叫んでいた。ジュークスはそれも極めてありうることだと思い、そして汽罐の火が消え、船が絶望となるときを思い描いた……、水夫長は彼のそばでわめきつづけた。
「なんだって? なんて言ってるんだ?」ジュークスはせつない気持で叫んだ。
すると相手はくりかえした。「わしのこんなとこを見せたら、女房のやつ、なんて言うでしょうねえ?」
例の通路は、もうだいぶ浸水して、暗闇のなかで水のはねる音がしていたが、水夫たちは死んだように静まり返っていた。だがこの静けさも、ジュークスがそのなかの一人につまずいて、通行の邪魔だと口ぎたなくののしったことで破られた。すると、二、三の者が、声は低いが、懸命な調子で問いかけた。
「航海士さん、助かる見込みはあるんでしょうか?」
「きさまたちばか野郎どもなんか、どうだっていうんだ?」彼は荒っぽく答えた。いっそのこと、水夫たちのまんなかにぶっ倒れて、もう二度と動けなくなればいいと思った。だが連中は元気が出たらしく、「気をつけて! そのマンホールの蓋に注意してくださいよ、ジュークスさん」と口々にお追従《ついしょう》まじりに言いながら、彼を石炭庫へ降ろしてくれた。水夫長はそのあとから転がり落ちて、なんとか起きあがると、さっそく言った。
「女房のやつ、ぬかすでしょうぜ、『それ見たことか、ばか親爺が、船乗りなんかになるからさ』ってね」
水夫長はいくらかの資産があって、折があればそのことを吹聴《ふいちょう》した。彼の女房……肥《ふと》った女だ……と、もう大人になっている二人の娘とは、ロンドンのイースト・エンドで八百屋をやっていた。
暗闇のなかで、脚をふらつかせながら、ジュークスはかすかに響く遠雷のような物音に耳をかたむけた。いわばすぐ身近で、圧《お》し殺した叫喚とでもいうべきものが、絶えず聞こえるのだ。そして頭の上からは、さらに大きな嵐の騒音が、これに加勢した。彼はめまいがした。この石炭庫のなかでは、彼にとってもまた、船の動揺が何か勝手がちがって恐ろしく、まるでいままで船に乗ったことがなかったかのように、彼の決心をぐらつかせた。
彼はそこから逃げだしたくなった。が、マクホア船長の声を思い出すと、それもできなかった。船長の命令は行って見ることだった。それがいったいなんの役に立つのか、教えてもらいたいものだ。業が煮えてきて、よし、見てやるぞ……もちろんのことだ、と彼は自身に言いきかせた。しかし水夫長が、ぎこちなくよろめきながら、ドアのあけかたに注意してください、なかはものすごい喧嘩になってるんだから、と警告した。するとジュークスは、いったいなんのためにやつらは争うんだ、と、ひどくからだが痛みでもするように、じれったくなって訊ねた。
「ドル! ドルですよ、ジュークスさん。連中のあのおんぼろ箱が、みんな口をあけちまったんでさ。お金はいちめんにばらまかれて、やっこさんたちはそれを追っかけてでんぐりかえったり……ひっかいたり、噛みついたりの大らんちきをやってるわけです。ちょっとした地獄の見本ですよ」
ジュークスはぎくしゃくと扉をあけた。背の低い水夫長が、彼の腕の下からのぞきこんだ。ランプのひとつが消えているのは、たぶん壊《こわ》されたのであろう、怨《うら》めしそうな咽喉にひっかかった叫びと、奇妙な喘《あえ》ぎ……中国人たちの苦しい胸から吐きだされる音……とが、二人の耳にワーンと押し寄せた。強力な一撃が船の脇腹に加えられた。水が恐ろしい衝撃で甲板へ落下し、空気の赤っぽくよどんだ薄ぐらい舳《へさき》のほうに、ジュークスが見たものは……ひとつの頭が激しく甲板にぶつかり、二本の太い脛《すね》が高く泳ぎ、たくましい幾本もの腕がひとつの裸身にまつわりつき、あんぐり口をあけ目を据《す》えた黄いろい顔がひとつ、上を睨《にら》んですべってゆく……そういった光景であった。
からっぽの櫃《ひつ》がひとつひっくりかえって、ガラガラ音をたてた。ひとりの男が蹴られでもしたように跳ねあがると、頭を下にして落ちてきた。そしてもっと奥のほうでは、はっきりとは見えないが、堤防をころがり落ちる岩石の集塊のように、大ぜいの者たちが甲板を足で打ち鳴らし、めったやたらに腕を振りまわしながら地すべりをしていた。艙口《ハッチ》梯子には木の枝に蜜蜂がたかったように、苦力《クーリー》たちが目白押しにひしめいていた。
梯子のどの段にもうようよ鈴なりにかじりついたかれらは、当て木をかった艙口蓋の下側を、気でもふれたように拳でたたきつづけている。上の甲板に荒れ狂う水の音が、苦力たちのあげる阿鼻叫喚《あびきょうかん》のあいまに聞こえてくる。船はまたもやひどく傾斜して、かれらは止り木から落ちはじめた。まず一人、それから二人、やがて残り全部が大きな叫びをあげて、まっしぐらに落ちてしまった。
ジュークスは途方にくれた。水夫長が荒っぽい声で心配そうに、「なかへはいらんでくださいよ、ジュークスさん」ととめた。
そのあいだにも、船は絶えず跳ね上がり、その場ぜんたいがひんねじられるようにみえた。
船が大波に乗りあげたときには、これらの人間がみなひと塊《かたまり》になって、自分の上へほうりだされるのではないかと、ジュークスは心配になった。彼は背後へとびのき、扉を閉め、ふるえる手で閂《かんぬき》をおさえた……
一等航海士が姿を消すと、船橋にひとり残されたマクホア船長は、すぐさま操舵室まで横ざまににじり寄った。ドアが外開きのため、なかへ入るまでには彼は強風と大格闘をしなければならなかった。そしてなんとかして身を入れたとたんに、彼自身まるで木口《きぐち》を通して射《い》こまれでもしたように、背後でドアがパタンと閉まった。こうして彼は把手にもたれて室内に立っていた。
操舵機からは蒸気が漏れていて、狭い室内のことだから薄い靄《もや》がこめ、羅針函《らしんかん》のガラスが楕円形に光っていた。風は吼《ほ》え、うなり、悲鳴をあげ、ふいに騒がしく突風が襲うと、激しい飛沫のなかにドアや鎧扉《よろいど》をゆさぶった。長い締め索《づな》に吊された、ふた巻きの錘索《おもりづな》と小さなズック袋とが、大揺れに揺れてまた戻ると、隔壁にからみついた。足もとの格子蓋はいまにも浮きだしそうで、波のひと洗いごとに、ドアの周囲の隙間から水が激しく噴《ふ》きこんだ。舵機を操っている男は、もうとうから帽子も上着もかなぐりすてて、縞木綿《しまもめん》のシャツの胸をはだけたまま、歯車箱によりかっていた。彼が手にしている真鍮《しんちゅう》の小さな車輪などは、よく磨いた華奢《きゃしゃ》な玩具とも見受けられた。彼の首の筋は硬く細くとびだし、咽喉のくぼみが黒く見えて、顔面はまるで死人のように動かず、やつれはてていた。
マクホア船長は目をぬぐった。彼をいま少しのことで押し流すところだった波が、はなはだ困ったことに、その禿頭《はげあたま》から暴風雨帽をさらってしまったのだ。ずぶ濡れに濡れて黒ずみはしたが、明るい色のふわふわした毛髪が、彼のむきだしの頭の鉢に花綱のように巻いた、ひと「かせ」の木綿糸に似ていた。塩水にテカテカ光った彼の顔は、風と飛沫の刺激で真紅だ。まるで炭罐《すみがま》の前から汗びっしょりで離れてきたばかりのように見えた。
「きみはここだったか?」彼は太い声でつぶやいた。
二等航海士は、これより少し前に、操舵室にもぐりこんでいた。彼は膝を立て、握り拳《こぶし》を両のこめかみに押しつけて、片隅にじっとしていた。そしてこの姿は、一種の思いつめた片意地に加えて、怒りと悲しみとあきらめと屈服とを示していた。彼は悲しそうに、そしてつっかかるように口を開いた。
「そうだ、もうわっしの下甲板当直の時間でしたよ、そうじゃなかったんですかい?」
舵機の蒸気装置が音をたてて止まり、また音をたてた。そして舵手の眼球がそのひもじそうな顔からとびだしたところは、まるで羅針函のガラスの奥の指針面が美味《おい》しい肉のご馳走ででもあるかのようだった。仲間のみんなからすっかり忘れられたように、彼がどれほどの時間、舵を操らされていたものやら、知っているのは神様だけだろう。ベルも鳴らされなければ、交替の者も来なかった。船の日課は風に吹き飛ばされてしまったが、それでも彼は船首《へさき》を北北東に持ちこたえようと努力していた。ひょっとすると、もう舵は奪《と》られてしまい、汽罐の火は消え去り、機関も壊れてしまって、船はいつなんどき死骸のように横たおしになるかわからない。彼はへまをして船首の方向を見失うまいと気を使ったが、それもそのはず、指針面は軸の上でのたくりながら両側へ大きく揺れるのみか、ときとするとぐるりと一回転しかねまじくみえたのだ。
彼は精神的な緊張の苦しさに耐えてきた。また操舵室が流されはせぬかという不安にも耐えてきた。山のような波が次から次と襲いかかった。船が命がけの水くぐりをやったときは、彼の唇の両端はひきつった。
マクホア船長は操舵室の掛時計を見上げた。それは隔壁へねじ針でとめられていて、白い文字盤の水に黒い二本の針がまったく静止しているようにみえた。時刻は朝の一時半だった。
「一日すぎた」彼はぼそぼそとひとりつぶやいた。二等航海士はこれを聞くと、廃墟《はいきょ》のなかに嘆く人のように頭をあげて叫んだ。「夜明けは見られませんぜ」
彼の手首と膝とが激しくふるえるのがみえた。「いや、金輪際《こんりんざい》! とてもだめだ……」
彼はふたたび両の握り拳で顔を挟んだ。
舵手のからだが少し動いたが、頭は首の上で揺るぎもせず……一定の方角へ向けて柱に取りつけられた石の首さながらだった。もう少しで半長靴をはいた脚をさらわれそうになった横揺れの最中に、マクホア船長は倒れまいとよろめきながら、きびしく言い放った。「その男の言うことなんぞに、耳をかすんじゃないぞ」
それからがらりと調子を変えて、ひどく沈痛な声でつけ加えた。「この男は勤務についていないのだ」
舵手は黙ったままだった。颶風《ぐふう》があばれまわって、息づまるような小部屋をゆすぶった。そして羅針函の灯はずっとまたたきつづけた。
「きみは交替してもらえなかったね」マクホア船長は下を向いたまま、言葉をつづけた。「でもな、根《こん》かぎり舵にくっついていてくれ。きみはこの船の癖をのみこんでいるでな。いまここでほかの者が来たって、へまをしでかすぐらいが関の山じゃ。とてもできまい。子供の遊びとは違うからな。それにみんなは、たぶん下の仕事で手いっぱいじゃろうし……きみ、できそうかね?」
操舵装置が跳ねあがって、ふいに短い音を立て、燃えさしのように煙を吐いた。すると一点を凝視したままの不動の男が、まるで身体じゅうの感情を唇に集めたかのように爆発させた。
「誓って、船長! 誰も話しかけなければ、いつまでだってやっていけます」
「ああ! そうか! いいとも……」船長ははじめて目をあげてその男を見た。「……いいとも、ハケット」
そして船長はもうこの問題は忘れ去ったようだった。彼は機関室への通話管の前にかがみこんで、合図の口笛を吹き、顔をさげた。下のラウト氏が応《こた》えたので、マクホア船長はさっそく唇を通話口にあてた。
嵐の咆哮《ほうこう》のなかだから、彼は口と耳とを交替に通話管にあてがったが、機関士の声はきびしく、いまや戦《いく》さの真最中、といった調子で響いてきた。火夫の一人はだめになり、他の連中はへばってしまって、二等機関士と補助汽罐の火夫とが汽罐焚《かまた》きをしています。三等機関士は蒸気弁《スチーム・バルブ》にかかりきりです。機関は人の手でなんとか保《も》っている状態です。上の様子はどんなですか?
「相当ひどいよ。おおかた、きみたち機関方に頼ってるところだな」マクホア船長は言った。
航海士は、まだそっちへ降りていかんかね? 来ない? ふうむ、もう間もなく行くじゃろ。ラウト君。来たら、ジュークスに伝声管から話させてやってくれんか?……甲板への通話管でね。というのは、わしはすぐまた船橋へ出ていくから。シナ人たちのあいだで、何か面倒が起こってね。どうも喧嘩しているらしい。いずれにしろ、喧嘩はさせておけんからね……
ラウト氏が通話口を離れ、マクホア船長の耳に、エンジンの響きが船の心臓の鼓動《こどう》のように伝わってきた。ラウト氏の声が下で何か叫んでいるのが遠く聞こえてくる。船が船首《へさき》を波につっこんで、エンジンの響きがシューッと大きな音を立てたかと思うと、ばったり止まった。マクホアの顔色は無感動に、その目はぼんやりと、うずくまった二等機関士の姿にそそがれていた。
ふたたびラウト氏の叫び声が下から伝わってきて、機関の音は生き返り、たどたどしく……次第に急速に変わっていった。
ラウト氏が通話管に戻った。「やつらがどうしようと、たいした変わりはありませんぜ」と早口に言ったが、またいらだたしげに、「船のやつ、もう二度と浮かび上がらない気かと思うほど、よくもぐりますね」
「ひどい荒れだ」船長の声が上から言った。
「波の下を走らせるなんてことのないようにたのみますよ」ソロモン・ラウトは通話管から吠えた。
「まっ暗なところへ雨でね。どうなるものやら見当もつかん」船長の声が応じた。「舵が操《あやつ》れる程度に……船を……動かし……つづけて……くれなくてはいかんよ……あとは運次第じゃ」一語一語を、明瞭に発音した。
「できるだけ、やっています」
「上のここでは相当ひどく……やられているよ」船長の声はおだやかに流れた。「でも……適当に……やっている。もちろん、操舵室が流されるようなことになったら……」
注意ぶかく聞き入りながら、ラウト氏は何か情けなさそうに口のなかでつぶやいた。しかし上のおちついた声が、急にはきはきして訊ねた。
「ジュークスはまだ姿を見せんかね?」それから少し待って、「手を貸してやってもらいたいがな。用事をかたづけてここへ昇ってきてもらいたいのだ、万一に備えてな。船を見てもらいたいよ。わしはひとりっきりだでな。二等航海士はやられてしまって……」
「なんですって?」ラウト氏が頭を離して、機関室に向かって叫んだ。それからまた通話管に戻ってどなった。「さらわれたんですか?」そして通話口へ耳をあてがった。
「怖気《おじけ》づいたのさ」上からの声があっさりと話しつづけた。「まったく困ったことさ」
首をまげて聞き入っていたラウト氏は、これを聞くと目をむいた。そこへ、何か組み打ちでもするような音と、切れぎれの叫び声とが聞こえてきた。彼は耳をそばだてた。そしてそのあいだ、三等機関士のビールは腕をあげて、太い銅パイプの側面に取り付けてある小さな黒い輪の縁《リム》を、両の掌で持ち上げていた。まるで何かの遊戯の正しい姿勢ででもあるかのように、彼はそれを捧げ持っているように見えた。
ふらつかぬ用心に、彼は白い隔壁に肩を押しつけ、片膝をまげていたが、ベルトに挟んだ汗ふきタオルが尻の上に垂れていた。彼の滑らかな頬は汚れて上気し、瞼《まぶた》についた炭粉はまるでメーキャップの黒い限《くま》どりのように白眼のいきいきした輝きを強調し、彼の若々しい顔にいくらか女らしい、異国的な、そして魅力ある色彩をそえていた。船が前後動するようなとき、彼は手をすばやく動かして、その小さな輪をもちあげるのだった。
「気が触れおって」通話管では船長の声がだしぬけにしゃべりだした。「わしに打ってかかった……、たったいまじゃ。殴り倒してしまわにゃ……、そら。聞こえたかね、ラウト君?」
「悪魔め」ラウト氏が罵《ののし》った。「気をつけろ、ビール!」
彼の叫びは、警戒ラッパの吹奏のように、機関室の鉄壁のあいだに鳴りひびいた。白塗りのこの鉄壁は、屋根のような傾斜を見せて、天窓の薄明のなかに高くそびえている。そしてこの高い空間は記念塔の内部に似ていて、鉄格子の床で仕切られ、いろんな高さで灯が瞬き、目にみえぬ汽筒《きとう》の加圧で機械が上下動をしている中央部には、薄闇の影がたゆたっている。颶風のもたらすあらゆる騒音が一団となってかもしだす強烈な音響は、よどんだ温気《うんき》のなかにたちこめている。部屋じゅうに熱した金属の臭い、油の臭いがただよい、蒸気の靄《もや》が薄くかかっている。波の襲撃があるたびに、激しい衝撃が一方の壁から向こう側へと貫いた。
閃光が、蒼白い長い焔のように、磨かれた金属面に揺れる。足もとの床面から、すごく大きな曲柄頭《クランク・ヘッド》が、真鍮《しんちゅう》と鋼鉄の光を反射しながら、交互に頭をだしては……消えてゆく。いっぽう、骸骨の腕や脚みたいに関節の太い連桿《コネクティング・ロッド》が、あくまで正確にその曲柄頭を押しさげてはまた引きあげている。そして底のほうの薄くらやみでは、幾本ものピストン・ロッドが着実に作動し、滑頭《クロシ・ヘッド》が回頭し、影と光をあびて、金属盤がゆったりと摺《す》れあっている。
ときとすると、この強力で規則ただしい連動が、まるで生物が突然に惰気に襲われでもしたかのように、いっせいに速度を落すことがある。こんなとき、ラウト氏の眼玉は、その艶《つや》のわるい馬面《うまづら》のなかで、いっそう暗く燃えるのだった。彼はこれまでの奮闘を、ずっと絨毯製《じゅうたんせい》のスリッパを穿《は》いてやっていた。安物の短いぴかぴかしたジャケツが、わずかに彼の腰を覆い、白い手首が窮屈な袖口から突き出ていて、まるでこの騒動で背丈が伸び、手足が長くなり、顔の色がますます悪くなり、眼が落ちくぼみでもしたかのようだった。
彼はわざとそうでもしているように、あるときは高いところに、あるときは姿の見えなくなるほど低いところにと、休みなく動きまわっていた。そしてめずらしくじっとしていると思うと、発動装置の前の手摺につかまって、揺れるランプの光に、右手の白壁の気圧計と水準計とから眼を放さずにいる。二本の送話管の口が彼のわきでポカンと口をあけている。それに機関室電信器の盤面は、数字のかわりに簡単な文字を書いた大きな時計に似ていた。針の軸をめぐって一連の文字が筆太に黒ぐろと目立って、大きな叫び声を力づよく象徴している。前進、後退、徐行、半速、停止。そして太い黒い針が下方の全速という文字を指していて、このように特に見せられると、鋭い叫び声が注意を惹《ひ》くのと同じく、際《きわ》だって眼についた。
上のほうで、大いばりで顔をひそめている、かさばった木箱入りの低圧気筒は、ピストンの動くたびにかすかな音をたてるが、それを別にすれば、エンジンは音もなくきっぱりとなめらかに、急速にあるいは緩慢《かんまん》に鋼鉄の四肢をはたらかしていた。そしてこれらすべて……白い壁、動く鋼鉄、ソロモン・ラウトの足もとの鉄の床、頭上の鉄格子づくりの床、影と光……は、波が舷側を激しく洗い去るごとに、絶えず一様に高く傾斜してはまた落ちこんでゆくのだ。高々とそびえるこの部屋ぜんたいが風の大きな音をうつろに反響して、てっぺんで立木のように揺れ、烈風にあっちへ傾き、こっちへ傾《かし》いで、いまにも顛倒《てんとう》しそうにみえる。
「きみ、はやく上がって行かなきゃだめだ」ジュークスが機関室の戸口に姿をみせるや否や、ラウト氏は大声で言った。
ジュークスの眼つきはおちつきなく、酔ってでもいるようで、充血した顔はまるで寝すごしでもしたように腫《は》れぼったかった。彼は苦心|惨憺《さんたん》の道中をしてきたのだ。ものすごい気魄《きはく》で突破してはきたが、精神の緊張はすなわち体力の消耗に通じていた。彼は石炭庫からとびだすと、途方にくれている水夫たちをかきわけて暗い通路によろめき出たが、連中は踏みつけられながらも四方八方から畏《おそ》るおそる、「何が起きたんですか、ジュークスさん?」とひそひそ訊ねる始末だった……それから火室への梯子《はしご》に取り付いたのだが、あまりあわてたので鉄の桟《さん》を何本も踏みはずし、まるでシーソーに乗ったように前後に揺られながら、井戸のように深く、焦熱地獄のように真っ黒なところへ降り立った。船底の水は、船が揺れるごとに遠雷のようにとどろき、石炭塊は鉄の斜面を小石のなだれるにも似た音をさせて、端から端へと移動していた。
火室では誰かが痛そうに呻《うめ》き、死んだように伸びているからだの上にかがみこんでいる者もいた。元気な声でののしっているのも聞こえる。それぞれの火口からのぞかれる焔は、ビロードのような黒一色に静かに映《は》える燃える血の池ともみえた。
一陣の突風がジュークスの襟首に突きあたったと思う間もなく、もうそれが彼の濡れた足首のあたりを流れていた。火室の通風筒はブンブン唸《うな》っていた。六個の火口の前では上半身すはだかの、ものすごい二人の男が、よろけたりかがんだりしながらシャベルと取っ組んでいた。
「やあ! だいぶ風通しがよくなったぜ」二等機関士が、まるでずっとジュークスの出現を待っていたように、さっそくわめいた。補助汽罐係の火夫は、眼の覚めるほど色白で、赤いちょび髭を生やした「いなせな」小男だが、口をきくのも忘れて夢中ではたらいている。かれらは目下フルに汽罐を焚《た》いていて、そのため家具運搬の空車が橋を渡るときのような、腹の底にひびく音をさせながら、部屋じゅうのすべての騒音に対して低音部を引き受けていた。
「ひっきりなしに吹きやがるぜ」
二等機関士がまたわめいた。百個ものシチュー鍋を磨きたてるような音をさせて、通風筒の口から塩水がだしぬけに彼の肩へ降りかかったので、彼は猛《たけ》り狂ったように森羅万象からわが身までも呪《のろ》いに呪ったが、そのあいだも作業の手は休めなかった。金物の激しくかちあう音がして蓋が開くと、炉の炎々と燃えさかる蒼い焔が彼のまるい頭を照らし、しゃべり散らす口もとと不敵な面がまえを映しだしたが、また音を立てると、鉄の眼玉の白熱した瞬《またた》きのようにもとに戻ってしまった。
「ご結構な本船はいったいどこにいるのかね? そっちじゃわかっているのかい? ええ、おい! 水のなかかね……それともどこなんだ? やけに水が入りこむぜ。通風帽が地獄へでも吹っ飛ばされたのか? おいったら? なんにも知らんのかい……きみほどの立派な船乗りがよ……?」
一瞬ためらったが、ひとつ横揺れが来たおかげで、ジュークスは火室を逃げだすことができた。そして機関室の広さと静けさと明るさになじむ間もなく、船が後部をはげしく水中に突っこんで、彼はまっしぐらにラウト氏のほうへつんのめっていった。
触手のように長い一等機関士の腕が、バネ仕掛けのように伸びて、彼をうけとめようとしたが、衝突を用心してジュークスを通話管のほうへ旋回させた。同時にラウト氏は力をこめてまた言った。「どんなにつらくとも、急いで上がっていかんといけないぜ」
ジュークスは通話管にむかって、「そこにおいでですか、船長?」と叫んで耳をすました。何も聞こえてこない。
ふいに風の吼《ほ》え声が、じかに彼の耳に入ってきたが、すぐさま小さな声が静かに嵐の音を押しのけた。
「おお、きみ、ジュークス君か?……どうだ?」
ジュークスは話そうとして、少しでも時間が惜しかった。洗いざらい報告することだって簡単だった。むっとする中甲板に閉じこめられ、箱の列のあいだに船酔いに苦しみ、戦々兢々《せんせんきょうきょう》として倒れている苦力たちを、彼はまざまざと描きだせる。そのうち、箱のひとつ……いや、たぶん、いちどきに五、六個か……が揺れでずりだし、他の箱をたたきだし、胴腹がはじけ、蓋がポカッとあいて、間抜けな中国人たちが財産を失うまいといっせいに立ち騒ぐ。そうなると、もう船の揺れるたびに、木片が飛び、衣類が引き裂け、ドル貨がころがりまわる騒動のなかを、そっちこっちの乱暴者どもが、端から端へと投げだされる。混乱がいったんはじまったら、連中だけでは止めようがない。もはや力ずく以外に手段はないのだ。これは災厄だった。彼はそれを眼《ま》のあたりにみて、そして言いうることはそれだけだった。何人かはきっと死ぬことだろう。そして生きている者どもは争いつづける……。
彼は言葉がつまずきあうほど、次から次と狭い通話管に詰めこんだ。言葉は、嵐の船橋にひとり踏みとどまっている、さながら明晰《めいせき》な理解力の沈黙ともいうべきものに吸いこまれていった。そしてジュークスにしてみれば、そうでなくてさえ船を挙げての大困難の最中、降ってわいたこの忌むべき厄介ごとから、一時も早く解放してもらいたかった。
五
彼は待った。エンジンが眼の前でのろのろ回っている。それがだしぬけに急回転をはじめる瞬間、ラウト氏の「気をつけろ、ビール!」という叫び声で、ぴたっと止まるのだった。これらのエンジンがまるで心あるもののように運転を休止し、回転なかばで静止し、重い曲柄《クランク》が傾斜の途中で停止するところなどは、まるで危険と時の経過とを心得てでもいるかと思われた。
やがて一等機関士からの「そら、いまだ!」の号令と、食いしばった歯のあいだから吐きだされる息の音とともに、エンジンは差し止められた回転を完了して次の回転に移ってゆく。
それらの運動には用心ぶかい知恵のかしこさと、巨大な力の思慮とがあった。正体もない船を辛抱づよくなだめつすかしつして怒濤《どとう》を乗り越え、台風の眼にむかって突き進む……これこそが機関部の仕事なのだ。時とするとラウト氏の顎《あご》が胸に沈んで、途方にくれたかのように眉根を寄せ、エンジンを眺めていることがある。
ジュークスの耳から嵐の音を押しのけたさっきの声が、また始まった。「水夫たちをつれてきてくれ……」そしてひょいと切れてしまった。
「やつらをぼくがどう扱えるというんです、船長?」
鋭い、思いがけぬ猛烈な音が、突如として爆発した。三対《さんつい》の眼は期せずして電信盤にとんで、まるで悪魔にさらわれでもしたように針が全速から停止へ跳ねるのをみた。こうして機関室のこの三人は、船が一か八《ばち》かの跳躍をこころみようとして身構えるような妙な尻ごみを、船体の停止にまざまざと感じとった。
「停船だ!」ラウト氏がわめいた。
誰ひとりとして……甲板でただ一人わが眼を疑うほどのとんでもない高さで押し寄せてくる真っ白な波頭の一線を見ている当のマクホア船長ですらも……誰ひとりとして、この波の嶮《けわ》しさ、この走る水の壁のうしろに颶風《ぐふう》が掘りさげた空洞の恐るべき深さを知ってはいないのだ。
波は船をめがけて追いかけてきたが、ナン・シャン号は、ひょいと止まって、ぐっとひとつ身がまえするように、それから船首《へさき》をもちあげて躍りあがった。すべてのランプの焔が沈んで、機関室をくらくした。ひとつはとうとう消えてしまった。何トンとも知れぬ水が甲板に崩れ落ちて、引き裂くような音をたて、渦巻き、沸きたち、荒れ狂うさまは、さながら船が大瀑布《だいばくふ》の下へおどりこんだのに似ていた。
下の機関室では、みな茫然自失《ぼうぜんじしつ》、ただ顔をみあわせるばかりだ。
「端から端まで洗っていきやがったな、畜生!」ジュークスがどなった。
船はあたかも世界の涯《はて》をすべり落ちるように、波の残した空洞へと、まっしぐらに落ちこんだ。機関室は、地震にゆすぶられる塔の内部さながらに前方へかたむいて、人々の胆《きも》を冷やさせた。金物の落ちるすさまじい音が火室のほうで聞こえた。このぞっとする船の傾斜はかなり長くつづいて、ビールは手と膝をつき、四つん這いで機関室から飛び立とうとでもするかのように這いだすし、ラウト氏のほうは下顎をだらんとさせ、つくりつけたような落ちくぼんだ顔をゆっくりと振りむけた。
ジュークスは眼をつむっていて、そんなときの彼の顔つきは、盲人のそれのように、手のほどこしようもなく空虚で温順にみえた。
ようやくのことで、船はよろめきながらも徐々に浮き上がったが、まるで船首《へさき》で山をひとつ持ちあげているほどの難儀《なんぎ》ぶりだった。
ラウト氏は口を閉じた。ジュークスはまたたきをした。そして小柄なビールはいそいで立ち上がった。
「こんなやつをもう一度かぶってみろ、それでお陀仏《だぶつ》だぜ」一等機関士が言った。
彼とジュークスは顔を見あわせ、同じ思いが二人のあたまに浮かんだ。船長! そうだ、何もかもさらわれてしまったにちがいない。舵機も奪《と》られて……船は丸太同然か。もう一切がおしまいだ。
「いそげ!」眼をむいて、疑わしげにジュークスを睨みつけ、ラウト氏が割れるような声で叫んだ。ジュークスはそれに、まだ思いきれない視線で答えた。
電信器の呼鈴が鳴って、かれらもすぐ冷静にもどった。黒い針がひと飛びに停止から全速へ下りたのだ。
「そら、いまだ、ビール」ラウト氏が声をあげた。
蒸気が低い音をたてた。ピストン・ロッドが動きだした。ジュークスは耳を通話管にあてがった。
船長の声は待ちかねたようにひびいてきた。その声はこう言った。「お金は全部ひろえ。そしてすぐ手を貸してくれ。きみにはこっちで用事があるんだ」これだけだった。
「はあ?」ジュークスは呼びかけたが、返事はなかった。
彼は戦場の敗残者のように、よろめき歩いた。彼はどうしたことか、左の眉の上に切り傷を受けていて……骨に達する傷だった。自分は全然それに気がつかなかった。首もくじけんばかりのシナ海の水を多量に頭からかぶったので、その傷口は浄《きよ》められ、洗われ、消毒されていた。そのため出血はなくて、ただ赤い裂け口をみせているだけだった。眼の上のこんな傷と、乱れほうだいの頭髪と、乱雑な服装とのため、彼はまるで拳骨《げんこつ》のなぐりあいで叩きのめされた男のようだった。
「ドル貨をひろわなくちゃいけないんだとさ」彼はなんということなしに哀れっぽい笑いを浮かべて、ラウト氏に訴えた。
「それがどうしたね?」ラウト氏が容赦なく反問した。「ひろう……? おれの知ったことじゃない……」
それから、からだじゅうの筋肉をふるわせながら、わざといっそう親爺ぶった口調で言った。「後生だ、もう行ってくれよ。きみたち甲板《デッキ》の連中とつきあってると、ばかになりそうだ。上じゃ例の二等航海士が親爺さんに乱暴したんだぜ。知らんのかね? きみたち仲間は暇すぎるもんだから、頭がおかしくなってくるんだよ……」
この言葉に、ジュークスは、さすがに怒気がむらむらと起こるのを感じた。そうか、暇すぎるか、なるほどな……一等機関士への憎しみを腹いっぱいにたぎらせて、彼はもとの道を引っ返した。火室では、ふとっちょの補助汽罐の火夫が、舌を切り取られでもしたように、黙々とシャベルを動かしていた。ところが二等機関士は、船のボイラーを焚《た》くことだけは忘れない、怖いもの知らずの躁狂患者のように、相変わらず朗らかだった。
「もしもし、ぶらぶら士官さん! あのね! あんたのとこの水夫どもを使って、この灰を少しかたづけさせてくれませんか? これじゃ息が詰まりそうだ。ひでえもんだ! ねえ! もし! 『水夫と火夫とはたがいに助けあうこと』って一条を思いだしてくださいよ。おい! 聞いてるのかい?」
ジュークスは遮二無二《しゃにむに》、昇って逃げようとする、相手は顔をあげて後ろ姿を追いながらわめきたてた。
「口がないんですか? なんの用でこの辺をうろちょろしてるんですよう? お前さんの仕事はいったいどんなことなんだい?」
狂暴な怒りがジュークスをとりこにした。通路の闇のなかにいる水夫たちのところへ戻った頃には、やつらが少しでも尻ごみしやがったら、残らず首をひねってやる、くらいの気持になっていた。この考え自体が、また彼をあおりたてた。もうあとへは引けない。やつらを行かせなきゃ。
割りこんできた彼の猛烈さに、水夫たちも巻きこまれた。もともとかれらはすでに彼の行ったり来たり……彼の動きの真剣さとあわただしさに、興奮し、驚いていたのだ。その彼を、眼よりは感じで……寸時の逡巡《しゅんじゅん》もゆるさぬ一同の生死を左右することにかかりきっている……ひどく偉い人のように見ていた。ひと言、口をきいただけで、かれらが素直に、次から次へと石炭庫へとびこんでゆく重い音が聞かれた。
かれらは何をなすべきか、はっきりとは知らなかった。「仕事ってなんだ? 何をするんだ?」と、おたがいに訊ねあう有様だった。水夫長が説明しはじめた。大乱闘の音がかれらを驚かした。強い衝撃が、暗黒の石炭庫に強く反響して、かれらはひしひしと身の危険を感じたほどだ。水夫長が扉をさっとあけたときは、まるで鉄の船腹をもぐりこんできた突風の渦巻きが、これらすべての人間のからだを、塵埃《じんあい》のように吹き上げでもしたかと思われた。入りまじる怒号、嵐のような喧騒、兇暴なつぶやき、起こっては消える叫喚、足ずりの音などが、打ち寄せる波の音とごちゃまぜに聞こえた。
しばらくは水夫たちも入口をふさいだまま、驚きに眼をみはった。ジュークスはそのあいだを強引に押し通った。口もきかず、ひたすらにとびこんだ。苦力《クーリー》のべつの一群が、死地を求めるのにも等しく、釘づけの艙口《ハッチ》を破って水びたしの甲板に逃がれようと梯子にとりついていたが、前と同じく落ちこぼれて、ジュークスは地すべりに埋められた人のように、かれらのなかに姿を消してしまった。
水夫長が大あわてでどなった。「それ、はいるんだ。航海士を救いだせ。踏み殺されてしまうぞ。さあ!」
かれらは進撃した。……胸でも、指でも、顔でも、容赦なく踏みつけ、衣類の山に足を踏みこみ、木の破片を蹴とばして。
だが、かれらがジュークスまで行きつかぬうちに、中空にもがく苦力たちの無数の手のあいだから、やっと彼が上半身をあらわした。さっき彼が姿を消した瞬間、上着のボタンは全部ちぎられ、背中は襟元まで裂け、チョッキは破れて開きっ放しだった。中央でもみあっている中国人の一団は、船の動揺につれて、黒々と、もやもやと、たよりなく、ランプの薄明りの下を眼ばかり光らせて、片方へ地すべりしていった。
「おれのことは放っておけ……阿呆めらが。おれは大丈夫だ」ジュークスが絶叫した。「連中を前部へ追いだせ。船が前へのめったときを逃がすな。前へ追っぱらうんだぞ。隔壁へ追いつめろ。詰めこむんだ」
ごった返す中甲板へ、水夫たちがとびこんできたのは、煮えたぎる大釜のなかへ冷たい水をぶちこんだようなものだった。騒動も一時は下火になった。
中国人の大きな部分が、非常に固いひとつの塊をつくっていたので、水夫たちは腕を組みあわせ、船のすさまじい突っこみを利用して、一挙にひとまとめに前部へ押しこむことができた。かれらの背後で、小人数の群れやばらばらの連中が、まだ壁から壁にころげまわっていた。
水夫長が怪力ぶりを発揮した。彼は長い腕をひろげ、大きな手で二本の支柱を握ると、取っ組んだ七人の中国人が玉石のころがるようにとびこんでくるのを、ガッチリと受けとめた。彼の節々《ふしぶし》が音をたてた。彼が「ハーッ」とやると、連中はばらばらになって吹っとんだ。
ところで、船大工はもっと頭のいいところをみせた。誰にもなんとも言わずに通路へ取って返して、さきに眼をつけておいた積荷用の道具……鎖とロープの対巻き……を運びこんだ。これで命綱が張りめぐらされた。
抵抗は全然なかった。多少のいざこざはあったにしても、ゆえ知れぬ恐怖の悪あがきにすぎなかった。よしんば苦力たちは、最初こそころげ散ったドル貨を追って騒ぎだしたにしても、その頃はもう足を取られまいために懸命だったのだ。ただもうかれらは放りだされまいとして、めいめいの咽喉首をつかみあっていた。何かしらに手がかりの出来た連中は、わが足にとりつき、しがみつく者どもを蹴散らしながら、結局は横揺れを食ってもろともに甲板へ投げだされるのが落ちだった。
白い鬼たちの入来はかれらをちぢみあがらせた。かれらは殺しにきたのか? 群れから離されて水夫たちの手に落ちた一人びとりは、はなはだ他愛なかった。なかには足を持ってわきへ引きずられても、大きな眼をじっと据えたまま、まるで死体のようにされるままの者がいた。そちこちに、憐れみを乞《こ》うかのようにひざまずく苦力もいた。恐怖のあまり、言うことをきかぬ数人などは、固い拳骨《げんこつ》を眉間《みけん》に見舞われて、ちぢみあがっていた。傷を負った者たちは乱暴にあつかわれても眼をしばたたくだけで、不平ひとつ言わなかった。顔には血が流れて、剃《そ》った頭にはすりむけたところ、引っ掻き傷、打ち傷、裂け傷、深い切り傷などが見られた。深傷《ふかで》の原因は、大部分は箱からとびだした壊れた瀬戸物にあるらしい。そこここで、眼をぎょろつかせた中国人が、解けた辮髪《べんぱつ》を振り乱して、血の流れる足の裏をいじっていた。
痛い目にあっておとなしくなり、少々は平手打ちも食わされて興奮もさめ、かえってあとが怖いような荒っぽい言葉で元気づけられた後、苦力たちは目白押しに並ばされた。床に並んで坐ったかれらは、亡者《もうじゃ》然と首うなだれていて、端のほうでは大工が二人の水夫にてつだわせながら命綱を締めたり結んだり、せわしく動きまわっていた。水夫長は片手片足で支柱に抱きついたまま、腕に押しつけたランプに火をともそうと大童《おおわらわ》で、そんな暇にも始終うなり声をだしているところは、せっかちなゴリラそっくりだった。
水夫たちは、落穂《おちぼ》ひろいみたいにくりかえしかがみこんで、手当り次第のものを石炭庫へ投げこんでいた。衣類、木片、こわれた瀬戸物、それにドル貨までジャケツのなかへ拾いこむ。それらのがらくたが腕いっぱいになると、水夫はその度に戸口のほうへよろけていく。そして悲しげな、吊りあがった眼が、彼の姿を追いかけた。
船が揺れるごとに、長い列をなして坐った「中華の民」は、ばらばらに前へかたむき、船首《へさき》を突っこむごとに剃った頭の列が端から端まで鉢合せした。甲板を流し去る波の音がしばらくでもおだやかになったときなど、大車輪のおかげでまだからだがふるえているジュークスも、中甲板での自分の獅子奮迅《ししふんじん》の活動の結果、いくらかでも風を鎮めえたのではないか、波がごうごうと舷側を打っているとはいいながら、ある静けさが船にやってきたのではないか、という気がした。
中甲板からすべての物がかたづけられた……水夫たちにいわせると、難破貨物だった。水夫らは苦力たちの頭や垂れた肩の線はるか上に突っ立ってよろけていた。そこここで、苦力がすすり泣くような息づかいをした。ランプの灯が強く射すところでは、とびだした肋骨《ろっこつ》や黄いろい沈鬱な顔、うなだれたいくつもの首筋が、ジュークスの眼についたし、自分の顔に向けられたにぶい視線にも出会った。あれほどの騒ぎのあと、死体がひとつも見当らないことは彼をびっくりさせたが、また多くの苦力たちがいまにも息を引き取りそうな様子なのは、むしろみんな死んでいるのよりもなおさら哀れを深く感じさせられた。
急にひとりの苦力がしゃべりだした。その痩《や》せて硬《こわ》ばった顔のあたりを灯がゆらめいた。彼は吠える猟犬のように頭を振りたてた。石炭庫から、ドル貨のころげて立てるカチン、チリンという音が聞こえてきた。すると、その男は腕をのばし、口を黒々とあけ、わけのわからぬ咽喉声を出したが、とても人間の声とは受け取れず、獣がものを言おうとでもしているような、不思議な感じをジュークスに与えた。
さらに二人の者が、ジュークスには激しい非難と取れるようなことを口走りはじめた。他の者たちもブウブウ唸《うな》りながら、うごめきだした。ジュークスは急いで、水夫たちに、中甲板から退散するように命令した。彼はしんがりをつとめ、後ずさりで扉を出たが、すでにつぶやきは大声のざわめきとなり、犯人を追求でもするように、無数の手が彼を追いかけた。水夫長が閂《かんぬき》をかけて、落ち着かぬ様子で「風が凪《な》いだようですね、ジュークスさん」と言った。
水夫たちは通路へ戻って喜んでいた。めいめいの者が内心、どたん場になれば甲板へとびだせると思っていて……これはせめてもの慰めだった。船の腹のなかで溺死するのは、考えただけでもひどく厭な気持のするものだ。さて、中国人をかたづけてみると、かれらはまたもや船の形勢が気になりだした。
ジュークスは通路から出ると、立ちさわぐ水に咽喉《のど》首までひたる仕儀になった。ようやく船橋へたどりついて、まるで視力が不自然に鋭くでもなったように、ぼんやりと物の影を捉えることができるのを知った。彼はかすかな外形をみた。それはなじみの深いナン・シャン号ではなくて、記憶に残る何物か……ずっと昔、眼にしたことのある、泥の岸につながれたまま立ち腐《ぐさ》れた一隻の丸裸の老朽船だった。ナン・シャン号はその種の廃船を思いださせた。
風はすっかり凪いで、微風すらなく、あるものとてはわずかに船の傾斜で起こる、ありやなしの気流だけだった。煙突から吐きだされる煙も、船の上部にたゆたっていた。彼は前部へと進みながら、その煙を吸わされた。機関のたのもしい響きが伝わってきたし、壊れた装具のかちあう音とか、打ち壊された何かの破片が船橋をガラガラころがる音といったような、さきほどまでの大騒音にも負けずに残った小さな音どもも聞こえてきた。まがりくねった船橋の手摺につかまってうずくまった船長の姿もかすんで見えたが、じっと動かず、まるで床板に根を生やしたようだった。
思いも寄らぬこの大気の静けさに、ジュークスは圧迫を感じた。
「かたをつけました、船長」彼は息をはずませて話しかけた。
「きみならやるだろうと思っていたよ」マクホア船長が答えた。
「そうでしたか?」ジュークスはひとりつぶやいた。
「風が急に凪いでね」船長がまた言った。
ジュークスはとうとう食ってかかった。「あれが生まやさしい仕事だなんてお考えでしたら……」
だが、船長は相変らず手摺にかじりついたままで、眉ひとつ動かさなかった。「本によると、峠はまだ越していない」
「やつらの大部分が船酔いと恐怖とで、半分死んだようになっていなかったら、われわれの一人として、あの中甲板から生きては帰れませんでした」ジュークスが言った。
「かれらから見ても、公正な処置を取っておくべきだよ」マクホア船長は頑固につぶやいた。「そんなことまで、本には書いてないがね」
「ですが、ぼくが水夫たちに早々に引き揚げるように命令しなかったら、やつらはわれわれに襲いかかったにちがいありません」ジュークスは熱っぽく言いつのった。
叫びがささやきほどにしか聞きとれなかったあとなので、この驚くばかり静まった空気のなかでは、普通の調子で話しても、大そうはっきりと、鳴りひびかんばかりに甲高《かんだか》く聞こえた。二人はまるで暗くて響きの強い丸天丼の下ででも話しあっている気持がした。
垂れこめた雲の入り乱れた隙間から、二、三の星の光が暗黒の海を照らして、気ままに上下に動いている。時おり、円錘形の波の頭《かしら》が船に倒れこんで、水びたしの甲板のわきに水泡《みなわ》と合体した。そしてナン・シャン号は円い雲の槽《おけ》の底で、激しくころびまわっているのだ。
中心の静穏さをめぐって狂おしく旋回する、この濃霧の環が、言いようもなく無気味な形をした不動不変の障壁のように、船を取り巻いていた。壁のなかでは、内部の動揺に刺激されたかのように、海が跳ねて尖《さき》のとがった小山をつくり、小山どうしがぶつかりあっては、猛烈に舷側を打ちたたいた。そして、荒れ狂う嵐のかぎりない悲嘆、低い慟哭《どうこく》の響きが、怖るべき静寂の境を越えた遠い彼方から聞こえてくる。マクホア船長は何も言わぬ。そしてジュークスの早耳は、彼の視界を容赦なくさえぎるぬばたまの闇に、見るよしもなく突進する怒濤の、陰にこもった低い唸《うな》りを、ふととらえた。
「もちろん」ジュークスは憤ろしくしゃべりだした。「連中はわれわれが機会をつかんで掠奪《りゃくだつ》をはじめたと思ったのです。そりゃそうでしょう! あなたはおっしゃったのです……『お金をひろえ』と。ですが、言うは易く行なうは難《かた》しです。やつらにはこっちの考えなんか、わかりっこありません。われわれはとびこんで……まさに連中と正面衝突です。一気にやっつけねばなりませんでした」
「まあ、うまくいって……」ジュークスの顔を見ようともせずに、船長は口をにごした。「公正な処置だけは取っておかなくてはね」
「これがすんでも、まだ面倒は残りそうですよ」
心たいらかでないジュークスは言葉をつづけた。「連中が少しでも元気が出たら、わかりますよ。われわれの咽喉首へ噛《か》みついてきますぜ、船長。忘れないでくださいよ、船長、本船は英国籍じゃないんですからね。やつら、こんなことは先刻ご承知です。癪《しゃく》にさわるシャムの旗だ」
「おたがいが乗り組んでいることに変りはないさ」マクホア船長が言葉をはさんだ。
「面倒はまだ終ってやしません」よろめいてつかまりながら、予言でもするように、ジュークスは言い張った。「もう難破したようなものですからね」と、小さな声で付け足した。
「面倒はまだ終らんとも」マクホア船長も半分聞き取れるほどの声で、肯定した……。「ちょっと船を見ていてくれ」
「甲板を離れるんですか、船長?」ジュークスは、まるで彼のひとりぼっちになるのを待って、嵐が襲いかかってくるとでも思っているように、あわててたずねた。
打ちひしがれて孤立無援、遠い星の世界の光をあびて、山なす波の荒れ狂うなかで死闘するわが船の姿を、彼はじっくりと眺めた。船の動きは緩慢《かんまん》で、その力の過剰を白い蒸気の雲として、暴風の静まりかえった中心部へと吐きだしている……その噴射の腹にこたえる響きは、あたかも再度の試合を待ちきれずに催促する海の巨獣の咆哮《ほうこう》に似ていた。
その音がはたとやんだ。静かな大気が呻《うめ》いた。ジュークスの頭上では、二、三の星が黒い雲霧の落し穴をのぞきこんだ。この狭い星空の光を受けて、まるいちぎれ雲のどす黒い下端が、船にしかめつらを見せている。星もまたこれが最後とでもいうように、熱心に船を見つめていて、その光芒《こうぼう》の集まるところ、寄せた眉根にかかる王冠の形にみえた。
マクホア船長は海図室にいた。この部屋には灯火がなかった。それでも、いつもきちんとして住んできただけに、彼には室内の乱雑さが感じられた。肱掛け椅子が倒されていた。本はみんな床にころがり落ちていた。靴の下でガラスを踏みしだいた。マッチを手さぐりでさがして、奥の深い棚でひと箱みつけた。彼はマッチをすり、まぶしそうに眼尻に皺《しわ》を寄せて、その小さな火を気圧計へ持っていった。ガラスと金物で出来た気圧計の眩《まぶ》しい頭部が、絶えず彼に点頭した。
気圧はとても低く……その低さは信じられないほどで、マクホア船長は思わず唸《うな》った。マッチの火が消えたので、彼はあわてて太い不器用な指で別の一本をとりだした。
ガラスと金物の気圧計の頭部の前で、ふたたび小さな焔が燃えあがった。彼の眼が、まるで眼に見えぬ徴候を見出そうとでもするように、じっと細くなって、それに注がれた。その物々しい顔つきの彼は、偶像の祭壇に香を焚く半長靴をはいた、異装の邪教徒ともみえた。気圧計の見違いではない。こんな低さは、彼の経験でもかつてないことだった。
マクホア船長の口から低い口笛が洩れた。彼はわれを忘れていて、マッチの火が燃えつきて青い焔をあげ、指さきを焦がして消えるまで気がつかなかった。こりゃどこかに狂いがあるにちがいあるまい!
ソファのそばの壁に、ねじ釘で取りつけた別なアネロイド気圧計があった。彼はそちらへ向きを変えて、またマッチをすった。
この計器の白い盤面は隔壁から彼をみていて、人間の頭脳などは、無機物の中立性によってのみわずかに誤らずにすむことを、どうだ、否定しえまい、と語り顔だった。もはや疑いの余地はなかった。マクホア船長は盤面にむかって舌打ちをしてから、マッチ棒をすてた。
さては最悪の事態がこれから来るのか……そして本の言うことが真実ならば、この最悪の事態たるや、はなはだ恐るべきものなのである。いままでの六時間の経験で、いやらしい天気とはどんなものかについての彼の観念は改められていた。
「すさまじいことだろうて」と心中、彼はひとりごちた。マッチをつけても、気圧計のほかは、彼は何ひとつ見ようともしなかった。それでも何かのはずみで、水筒と二つのコップが置き台からとびだしているのが眼についた。これによっても船がどれほど揺すぶられたものか、彼にもいっそう切実に合点がいった。
「こんなとこでも見なければ、本気にはできまい」と彼は考えた。それに彼のテーブルの上も、きれいさっぱりだった。定規《じょうぎ》も、鉛筆も、インク・スタンドも……すべて定まった位置を占めていた品々がなくなっているところなど、いたずらな手がひとつひとつ取り上げて、濡れそぼった床の上へ抛《ほう》りだしたのかとも思われた。颶風が侵入して、整然とした彼の私室をかきみだしてしまったのだ。前にはこんなことは一度もなかったから、さすがの船長も恐怖に腹の底までゆすぶられた。しかも最悪の事態はこれからなのだ!
彼は、中甲板の騒動が手遅れにならぬうちに発見されたのを幸運と思った。結局、船は沈まなければならぬとしても、これで少なくとも、歯をむき、爪を立てていがみあっている大ぜいの者どもを乗せたまま、ではなくなったわけだ。修羅《しゅら》を燃やしながらでは、とてもかなわない。そして彼のこの気持には、一種の人間的な意志と、漠然とではあるが物事のけじめをつける良識とが含まれていた。
これらのとっさの思考にも、その根源に本人の性格を反映した鈍重さがつきまとった。彼は手を伸ばして、棚の元の隅にさっきのマッチ箱を戻した。いつでもそこにはマッチがあることになっていた……彼の命令で。給仕はずっと以前から、彼のこの命令を心に銘じていた。「一箱……ちょうどここへな、いいか? そんなに一杯つめないで……わしの手のとどくところへな、給仕。いつなんどき、大急ぎで要《い》るかも知れんでな。いいか、気をつけてな」
そして、彼自身としてはもちろんのこと、几帳面にきめた場所に置くように注意した。いまもそのとおりにしたのだが、まだ手も引かぬうちに、二度とこのマッチ箱を使うことはあるまい、という考えがふと頭をかすめた。
この想念の生々しさに彼もたじたじとして、ほんの束《つか》の間ながら、あらためて指さきに力がこもった。それはまるで、この小さな物体が、われわれをこの長たらしい憂き世につなぎとめる、あらゆるささやかな絆《きずな》の象徴ででもあるかのようだった。
とうとうマッチ箱から手を離して、ソファに倒れこんだ彼は、また吹きはじめた風の音に耳をかたむけた。
まだ強くはない。ただ、波の洗う音、激しい飛沫の音、四方八方から船にとびこむ波が相撃《あいう》って立てるにぶい音、などが聞こえるだけだ。この船はもはや甲板をきれいに整頓するような機会もあるまい。
それにしても、大気の静けさは驚くばかり緊張した不安定なもので、あたかも頭上に剣を支える一本の髪の毛にも似ていた。嵐はこの怖るべき休止によって、船長の心の警戒線を突破し、口を開かせた。彼は船室の孤独と暗黒とのなかで、彼の胸のうちにはじめてめざめた他のもう一人の人間に話しかけるかのように、口走った。
「この船を、失いたくないのう」なかば声をだして、彼は言った。
他人に見られず、海からも船からも離れて、ただ一人、ひとりごとを口走ることなど、あったためしのないわが身の日常生活の流れからさえ外れて、彼は寂然と坐っていた。両手を膝に、猪首《いくび》を垂れ、深い息を吐いて、経験したこともない倦怠《けんたい》感に身をまかせていたが、この倦怠が精神的緊張のもたらした疲労の結果だとは、まだはっきりわかってはいなかった。
彼の席から洗面台のロッカーの扉に手がとどいた。なかにタオルがあったはずだった。案の定。うまいぞ……。それを取りだして、まず顔を拭き、次に濡れた頭をこすりはじめた。彼は暗闇でせっせとタオルを使ってから、やがてタオルを膝の上にして動かなくなった。深い静寂の一瞬が過ぎて、この部屋に人が一人いようなどとは思いも寄らぬ気配だった。やがて、ひとつのつぶやきが口から洩れた。
「船はまだ切り抜けられるかも知れん」
あまり長いあいだ、船橋を留守にしたことにふと気づいたように、マクホア船長がそそくさと甲板へ姿を見せたときには、凪《なぎ》はもう十五分以上もつづいていて……さすがに彼の貧弱な想像力をもってしても、ちょっと長すぎて、耐えがたい気がした。船橋の前のほうにいたジュークスは、そのまま動かずに、さっそく話しかけてきた。食いしばった歯のあいだから押しだすような、うつろな彼の声は、ふたたび海上に濃くなってきた闇のなかへ流れ散ってゆくかのようであった。
「舵手を交替させました。ハケットがね、もうだめだと音《ね》をあげましたんでね。舵輪《だりん》のわきに、死んだような顔をしてのびています。初手のうちなんか、出てきて、あれに替ってやろうというやつが誰もいませんでね。あの水夫長なんか、ぼくがいつも言うとおりで、さっぱり役に立ちません、よっぽど自分で出かけていって、誰でも一人、首根っ子をつかまえて連れてこようかと思いました」
「まあいいさ」と船長はつぶやいた。彼はジュークスのそばに立って気を配っていた。
「二等航海士もなかにいます、頭を抱えてね。やっこさん、怪我でもしたんですか、船長?」
「いいや……気がふれたのさ」マクホア船長はぶすっと答えた。
「でも、ひっくり返りでもしたようにみえますぜ」
「わしも突き飛ばさんわけにはいかなかった」と船長は説明した。
ジュークスはじれったそうに溜息《ためいき》をついた。
「まただしぬけにやってくるぞ」マクホア船長は言った。「あっちからだろうな。まだわからんがね。本なんてものは、いたずらに人の頭を混乱させ、神経質にするだけだね。今度のはひどいよ、だがそれでお終《しま》いだ。潮時よく嵐に立ち向かえるように、うまく船をまわせれば……」
それから一分が過ぎた。いくつかの星がせっかちにまたたいて、姿を消した。
「あの連中は、安全な状態にしてやってくれたか?」沈黙に耐えきれぬかのように、船長が急にまたしゃべりだした。
「苦力たちのことを言ってらっしゃるんですか、船長? あの中甲板に、縦横に命綱を張っておきました」
「そうかね? いい思いつきだったね、ジュークス君」
「報告を……お待ちだったとは考え……ませんでした」ジュークスは言ったが……船の動揺で、誰かが彼のからだを揺すぶっているかのように、言葉がとぎれとぎれになった……「あの七面倒《しちめんどう》な仕事の……成り行きを。とにかく、ぼくらは納めました。しょせん、どうでもいいことになるのかも知れませんが」
「公正な処置だけはしておくべきだよ……たかがシナ人だけに、なおさらな。連中にもわれわれと同じ機会を与えるのさ……まあ、いい。船はまだ沈んではいないのだ。風の強いとき、下のほうに閉じこめられているなんて、苦しいもんだよ……」
「お話があったとき、ぼくもそんなふうに考えました、船長」むっつりとジュークスが口を入れた。
「……たとい、粉々にたたきつぶされないにしてもね」しだいに熱を帯びて、マクホア船長の言葉はつづいた。「よしんば船があと五分と保《も》たないとわかっていても、わしには自分の船中で、あんなことを放っておくことはできないよ。とても我慢のならんことだよ、ジュークス君」
岩の深い割れ目にひびきわたる叫びにも似た、うつろなこだまが船に近づいて、また去っていった。最後に残った星が、その創成期の燃える雲霧にもどるかのように、ぼうっと大きくなって、船に覆いかぶさる底知れぬ暗黒とたたかっているとみえたが……消えてしまった。
「さあ来たぞ、いいかね!」マクホア船長がつぶやいた。「ジュークス君」
「はいっ、船長」
ふたりの姿はおたがいの眼にかすんできた。
「この船がこれを突破して、向こう側へ出ることを信じなければいかん。直截《ちょくせつ》簡明なこった。この際、ウィルソン船長の暴風雨戦術なんぞ、てんで問題になりゃせん」
「そうです、船長」
「船はまた何時間というもの、もぐったり、洗われたりだよ」船長がもぐもぐ言った。「今度は甲板にも持っていかれるものはたんとはあるまいがね……きみとわしのほかはな」
「一蓮托生《いちれんたくしょう》です、船長」ジュークスは息を詰めてささやいた。
「きみはいつも取り越し苦労をするね、ジュークス」マクホア船長は一流のたしなめかたをした。
「もっとも、二等航海士のだめになったのは事実だが。聞いているかね、ジュークス君? きみ一人残って、というような……」
マクホア船長は途中で言葉を切ったが、ジュークスは周囲を見まわしながら、沈黙をまもった。
「どんなことがあっても、あわててはいかんよ」やや早口になって、船長はしゃべりつづけた。「船をいつも風上に向けておく。言うやつには言わしておけ、だが最もひどい波は風といっしょにくるものさ。立ち向かう……常に立ち向かう……これが突破の唯一の道さ。船乗りとしてはきみはまだ若い。立ち向かうんだ。誰だってそれで結構やっていけるんだ。冷静な頭でな」
「はいっ、船長」ジュークスは答えたが、胸のうちに波立つものがあった。
つづいての二、三秒を船長は機関室に話しかけて、返答をえた。
そんなこんなで、ジュークスはなんとなく自信がわくのをおぼえた。暖い息吹《いぶき》のように外部から受けた感動のおかげで、どんなことにもひけ目を感じないですむ自信がわいたような気がした。暗黒の遠いつぶやきが耳に忍びこんできた。彼はびくともせずにそれに耳を傾けたが、鎖帷子《くさりかたびら》に身をかためた戦士が敵の剣さきをみまもるように、にわかに身内に自信のみなぎるのをおぼえてのことだった。
黒山の波のあいだを、激しい動揺に生死を賭《と》して、船は休みなく進んだ。船は夜の闇にひと筋の蒸気を綱として、船腹深くごうごうの音をたてていた。ジュークスの思いは、一瞬、飛ふ鳥のように、好漢ラウト氏が満を持《じ》して待つ機関室を翔《か》け抜けた。エンジンの音がやんだいっとき、彼にはすべての音が鳴りをひそめたかと思われた。この底抜けの静けさのなかを、マクホア船長の声があわただしく響きわたった。
「あれはなんだ? 突風だろうか?」……その声は、ジュークスがかつて聞いたこともない大きなものだった。「船首《へさき》だな。都合がいい。船はまだ助かる見込みがあるぞ」
風の低い唸《うな》り声は一歩一歩と近づいてきた。前面にはすでにねむたげな眼ざめのつぶやきが聞きわけられ、遠い彼方には進み、かつひろがる複雑な騒音が高まっていた。そのなかには無数のドラムを打ち鳴らすにも似た、怖るべき突進の響きがあり、靴ふみ鳴らして行進する大軍の歌声とも思えるものがまじっていた。
ジュークスにはもう船長の姿がはっきりと見わけられなかった。暗黒はいやが上にも船を覆いつくした。彼もせいぜいのところ、肱《ひじ》を張ったらしい、頭をもちあげたらしいといった気配から、船長の動きを判断するほかはなかった。
マクホア船長はいつになく急《せ》きこんで、オイル・スキンの雨衣の一番上のボタンをはめようとしていた。狂瀾《きょうらん》をまきおこし、船を沈め、樹木を根こそぎにし、頑丈な障壁をひっくり返し、飛ぶ鳥を地上にたたきつける力をもつ颶風は、その途上でこの寡黙《かもく》の男に出遇い、万策をつくした揚句《あげく》、ようやくのことで彼の口から数言を絞りとることに成功した。怒りを新たにした風が、彼の船に襲いかかる寸前、取りようでは痛心しごくといった調子で、船長はつくづくと言ったものだ。
「わしはこの船を沈めたくない」
結局、彼はその苦難をまぬかれた。
六
からりと晴れわたって、陽がかんかん照りつけるある日、煙をはるか前方へなびかせる微風に乗って、ナン・シャン号は福州の港に入ってきた。この入港はすぐに陸でも気がついて、港にいあわせた船乗りたちが言った。
「あれあれ! あの船を見ろよ。なんだい、あれは。シャムの船……かね? 恐れ入った代物《しろもの》だ!」
事実、それは巡洋艦の副砲の遊動標的になりました、と言わぬばかりだ。小口径砲弾の乱射をもってしても、上部構造をこれ以上徹底的に壊滅状態にすることはとてもできまい。そしてそれは、世界の涯《はて》からでも来た船のように……真実、この船はその短い航程をはなはだ遠く航海してきたのだ。まったく、この船は「あの世」の岸をすら見てきたのだったが、たいていの船はそこまでいったら、乗組員も二度とふたたび娑婆《しゃば》の土は踏めないものと言われていた。檣冠《しょうかん》や煙突のてっぺんまで塩がこびりついて灰色になっていた。あるひょうきんな船乗りが言ったように、まるで「乗ってる連中がどこかの海の底からこの船を引き揚げて、ここへ売りにでも持ってきたようだ」った。自分の当意即妙に調子づいて、その男はさらに、「現状のままで」五ポンドなら出していいと値をつけた。
船が落着いてまだ一時間もたたぬうちに、鼻のさきが赤くて、いぶり頭の貧弱な小男が、サンパンから租界《そかい》の埠頭《ふとう》にあがると、さっそくふりかえってナン・シャン号へ拳骨《げんこつ》を振った。太鼓腹に不似合いな痩《や》せこけた脚に、眼をうるませた、一人ののっぽが近づいてきて、その男に言葉をかけた。
「おさらばをきめたところかね……え? すばやいこった」
この男は青いフランネルの汚れた服を着て、泥だらけのクリケット靴をはいていた。手入れもせぬごま塩の口髭《くちひげ》がだらりと垂れ、かぶった帽子の庇《ひさし》と山のあいだから、二た所も日ざしがさしこんでいた。
「今日は! きみはここで何してるんだい?」
ナン・シャン号の前二等航海士は、握手しながら、せかせかと質問した。
「仕事待ちさ……格好な機会をねらってね……体よく追っ払われちまったんだよ」破れ帽子の男は、ひっかかるような味もそっけもないぜいぜい声をだした。
二等航海士はまたもやナン・シャン号めがけて握り拳を振った。「あれにゃ伝馬船《てんません》もどうかと思うのが乗ってやがってね」
憎悪《ぞうお》に身をふるわせて言ったが、相手はそわそわとあたりを見まわしていた。
「そうかね?」
しかし彼の眼は、埠頭にあるがっしりした海員箱に留まっていた。それは茶色に塗って縁どりをした帆布の覆いをかけ、新しいマニラ麻の綱でからめてあった。彼は新しい興味をわかして、その箱を見た。
「あの癪《しゃく》なシャムの旗でなけりゃ、おれもごてて痛ぶってやるんだっけが。文句の持っていきどころがないやね……でもなきゃ、あいつに思い知らしてやるところだった。ペテン師め! 一等機関士にぬかしやがるのよ……こいつもインチキだったが……おれが腰を抜かした、とね。海に出るといっても、およそあれほど何も知らん頓馬《とんま》どもの集まった船もないもんだ。いや、まったく! てんでお話にもなんにも……」
「お給金は全部取ったかね?」彼のみすぼらしい知り合いが、ふいに訊《き》いた。
「うん。乗ってるうち全部払ってくれたのはいいが」二等航海士は憤然として、「『朝飯は陸《おか》でしたまえ』ときやがった」
「さもしい野郎だな!」のっぽの男は、何げなしに相槌《あいづち》をうって、舌なめずりをした。「ところで、ちょっと一杯、どうだい?」
「やつめ、おれを殴りやがった」二等航海士がののしった。
「ほう! 殴ったって! まさか?」青服の男はさも心外だといった面持で、やたらと動きまわった。「ここじゃ話もできん。すっかり話を聞きたいね。殴ったんだって……え? 誰かにきみの箱を運ばせよう。壜《びん》詰めビールをのませる静かな格好な家なら知ってるから……」
双眼鏡で陸を眺めていたジュークス氏は、後になって一等機関士にこう言った。
「わが前二等航海士は上陸そうそう、友人をひとり見つけてね。風来坊そっくりの男をね。ふたりが連れだって埠頭《ふとう》を出ていくのを見ましたよ」
復旧修理の槌《つち》の音、鉄板取り付けの響きもマクホア船長には一向邪魔にならなかった。きちんと整頓した海図室で彼の書いた手紙には、ひどく興味をそそられる個所があって、例の給仕は盗み読みをするところを、すんでのことに二度までつかまりそこなったほどだ。
だが、マクホア夫人は、ロンドンの家賃四十ポンドの家の客間で、あくびを噛み殺した。……たぶん、淑女のたしなみだろう……ほかには誰もいなかったのだから。
夫人はタイル張りの暖炉《だんろ》のそばで、フラシ天を張った金色塗りの畳み椅子に身をのばしていた。炉棚《ろだな》には日本の扇がいつも飾ってあり、炉では石炭が赤々と燃えていた。手紙をかざして、彼女は何枚もの便箋《びんせん》のそちこちに、やれやれといった眼を走らせた。中身がそっけなくて、さっぱりおもしろくない……冒頭の「わがいとしき妻よ」から、結びの「御身を愛する夫より」にいたるまで……それは何も彼女の罪ではない。
こんな船のことがわかるなどと思うのは、思うほうの間違いよ。そうかといって、やっぱり夫から便りをもらうのはうれしいものだ。しかしそれがどうしてなのか、彼女はつきつめて考えてみたことがなかった。
「……台風《タイフーン》と呼ばれている……航海士は気が進まなかったらしい……。本にもない……。そのままに放っておくことなど、考えることさえできぬ……」
手紙が乱暴にめくられた。「……二十分以上も続いた静けさ」と、彼女は上《うわ》の空で読みとばした。そして次のページの第一行に、ふと彼女の心ない眼をひいたのは、「またお前や子供たちに会おう……」という文句だった。彼女はじりじりした。あの人はいつも家へ帰ることばかり考えている。いままでにこんなにいい給料を貰ったことはないというのに。どうしたというのかしら?
紙をめくり返して、前を読んでみる、ということに彼女は気がつかなかった。もしそれさえしたら、そこには十二月二十五日の午前四時から六時にかけて、マクホア船長は、この荒れ模様では船はもう一時間とは保《も》つまい、したがって妻にも子にも二度とふたたび会うこともあるまい、と真剣に考えたということが書いてあったのだ。
結局、誰ひとりこのことを知る者はなかった(マクホア夫人は手紙をすぐどこかへ失くしてしまうので)……ただ、この述懐を読んで大いに感銘を受けた、あの給仕を別にしては。あまり感銘が大きかったので、給仕はこの「九死に一生をえた」事情の一部を料理番に披露《ひろう》したくて、もったいぶって言ったものだ。
「おやじさんでさえ、おおかたはだめだと、あきらめていたんだぜ」
「どうしてそれがわかるんだ?」兵隊あがりの料理番は、ばかにしたように反問した。「まさか、きみなんかに話したわけじゃないだろう?」
「そりゃ、まあそんな意味のことを洩らしたのさ」給仕がしゃあしゃあと言ってのけた。
「おきやがれ! それがほんとなら、今度はこのおれに話しにくるぜ」老料理番は肩ごしにひやかした。
マクホア夫人は気をつけて、さきに眼をやった。「……公正な処置をとる……。哀れなものたち……。幸い片脚を折った者が三人と、それにひとり……。この件はそっとしておいたほうがいいように思った……。真っ当なことをしたつもりだ……」
彼女は手をおろした。ない。家へ帰ってくるようなことは、それ以上書いてない。きっと、あれは思いつきの殊勝な気持を言ってみただけなのだろう。
マクホア夫人の心は安らいで、部屋のなかは黒大理石の時計……土地の宝石店で三ポンド十八シリング六ペンス払わされた……が、ひそやかに時を刻むだけだった。
ドアがあいて、脚の長い、スカートの短い年頃の娘が、部屋へとびこんできた。じみな色の、どちらかといえば癖のない髪の毛が、ゆたかに肩に散っていた。母親を見て、立ちすくむと、青い、さぐるような眼を手紙に向けた。
「お父さまからよ」マクホア夫人がつぶやいた。「おまえ、リボンはどうしたの?」
少女は頭に手をやってから、口をとがらした。
「お父さま、お達者よ」マクホア夫人は億劫《おっくう》らしく言葉をつづけた。「あたしにはそう思えるの。お父さまは、決してそんなことを知らせてくだすった例《ため》しはないんだけれど」
母親は軽く声をたてて笑った。少女の顔になげやりな無関心が浮かんで、マクホア夫人のやさしい誇らかな眼差しが、そういう彼女を包んだ。
「帽子をとっていらっしゃい」やがて夫人が言った。「買物に出かけるのよ。リノムの店で売り出しなの」
「まあ、うれしい!」少女は大喜びで、意外なほど真剣に声をはずませ、すぐに部屋をとびだしていった。
空は灰色だし、歩道は乾いていて、気持のよい午後だった。洋服屋の店の前で、マクホア夫人は、ゆったりした仕立てに黒玉をちりばめた黒のマントを羽織り、満開の造花を飾った帽子の下から、気むずかしげな奥様顔をのぞかせた女に微笑《ほほえ》みかけた。ふたりはたちまち手っとりばやくあいさつやら感嘆詞やらを交わしはじめたが、急いでしゃべってしまわないと、街が大きな口をあけて、この楽しみをそっくり呑みこんでしまっては困る、といった調子だった。
ふたりのうしろに、高いガラスのスイング・ドアがあった。人々は出るも入るもならず、男たちは辛抱づよくそばに立って待っていた。リディアは敷石の隙間をパラソルの尖端でほじるのに余念がない。マクホア夫人の話はなおも早口につづく。
「ありがとうございます。宅はまだ帰りそうにもございませんのよ。そりゃ、いつも留守なのはたいへん寂しゅうござんすけれど、まあ元気でいてくれるのが何よりの慰めですの」
マクホア夫人はひと息入れたが、「あちらの気候が宅によく合いますのでね」と、にこやかに付け足すのを忘れなかったが、これでは気の毒なことに、マクホアはまるで保養のために中国へ出かけている、といった口ぶりだ。
一等機関士も帰ってきそうになかった。ラウト氏にいたっては、収入のよい勤めのありがたさを身にしみて知っていた。
「ソロモンが言ってますわ、この世に不思議は絶えないもんだって」ラウト夫人は、炉辺《ろべ》の肘掛椅子にいる姑《しゅうとめ》にむかって、楽しそうに声をかけた。ラウト氏の母堂は、黒の指なし手袋のなかのしなびた手を膝においたまま、ちょっと身じろぎをした。
機関士の細君の眼は活発に紙面に躍った。
「うちの人の乗ってる船の船長さん……まあ、単純な人のようだったけど、おぼえていらっしゃる、お母さん?……その人がね、何かずいぶん手際《てぎわ》のいいことしをしたそうよ、ソロモンが言ってるわ」
「そう、ね」老婦人はおだやかに受けた……白髪の頭を垂れ、生の灯火の最後のゆらめきにじっと見入るといった、高齢の人に特有の、あの澄みきった心境をみせて。「おぼえているようにも思いますがね」
ソロモン・ラウト、ソル老、ソルおやじ、親分、気さくなラウト、などと呼ばれて……今日では若者たちの気のおけぬ相談相手であるラウト氏も、この老母が生んだたくさんの子供たち(いまは一人しか残っていない)の末のほうの赤ん坊だったこともある。そんなわけで、彼女の記憶には十歳前後の少年としての彼……北部の大きな機械工場へ年期奉公に出たよりもずっと前のころ……が一番印象に深かった。それからは会うことも稀なままに歳月が過ぎ去って、時という霞《かすみ》をへだててはっきりと彼の顔を思いだそうとすれば、はるかに昔へ戻らねばならぬ始末だった。したがって母堂としては、ときとすると嫁が誰か知らぬ人の噂でもしているような気のすることすらあった。
ラウト若夫人はがっかりした、「ふん、ふん」彼女は手紙のページをめくる。「なんてじれったいんでしょう! どんなことだか書いてないのよ。それがどれほど重要なことか、あたしにはわかるまいって。おもしろいわね! そんなに手際のいいことって、いったいなんでしょう? 中身を話してくれないなんて、うちの人も意地がわるいわ!」
細君はそれ以上、何も言わずに、殊勝な顔色で読んでいたが、とうとうしまいに腰をおろすと、炉の火に見入ってしまった。機関士は例の台風については、一、二語ふれただけだった。だが、何かの拍子で、しきりに陽気な女房の顔が見たくなった、というようなことが言いてあった。
「お袋さんさえ面倒を見なくてすむなら、わたしは今日にもきみに旅費を送りたい。そうして、きみはこっちでちんまりした世帯をもつ。すれば、時折はわたしもきみに会えるんだが。おたがい、だんだん若くなっていくわけでもなし……」
「あの人は元気よ、お母さん」自分を励ましながら、ラウト夫人は溜息をついた。
「あれはいつだって、強い丈夫な子でしたよ」母堂はもの静かにうなずいた。
ところが、ジュークス氏の便りはどうだったか、まことに活気|横溢《おういつ》、委曲をつくしていた。それを貰った大西洋貿易勤務の友人は、勝手に内容を自分の定期船の同僚たちに話してきかせた。
「ぼくの知ってる男がね、あの台風のとき……そら、ふた月まえ新聞で読んだ……自分の船でおこった世にもめずらしい事件を知らせてきたんだ。それがまた妙ちきりんなことでね。その男の書いていることを自分で読んでみたまえ。手紙を見せるから」
その文面には、快活でしかも不屈の決意を印象づけるように配慮された文句があった。ジュークスとしてはそれを本気で書いたのであって、書くときには事実そう思っていたのだった。彼は中甲板の光景をまざまざと描きだした。
「……ぼくの頭にひらめいたのは、この面くらったシナ人どもには、われわれがやけくそな強盗などではないんだ、ということすらわかるまい、という懸念《けねん》だった。先方が強い場合には、シナ人とやつらの金とを別にするのは禁物だ。こんな時化《しけ》の最中に、連中から物を取り上げようというのには、われわれだってがむしゃらにならざるを得なかったのだが、この乞食どもにどれほどの理解がありえよう?
そこで、考え直す暇もなく、ぼくは大いそぎで水夫たちを引き揚げさせた。われわれの仕事はすんだ……船長の望んでいた仕事がだ。やつらがどう解釈したかを訊く間もなく、われわれはさっさと出てきてしまった。もしやつらがあれほどこっぴどく痛めつけられず、めいめいに立ちあがる勇気があったとしたら、われわれはかならずやめちゃくちゃにやっつけられていたことと思う。いやはや! まったくうまくいったものさ。ところで、きみなど、一生大西洋岸をうろうろしていたって、自分からこんな仕事にぶつかるなんてことは、およそ考えられないことだろう」
そのあと、船の受けた損害を玄人《くろうと》らしく並べてから、彼はこんなふうに書き綴った。
「ところで事がいよいよ七面倒になってきたのは、嵐がおさまった後のことだった。つい先だって船籍をシャムに移したのが、災いのもとさ。船長にはね、そこんとこの違いがわからなくて……『われわれが乗り組んでいる以上』……なんて言っているんだ。この人には神経の抜けているところがあって……と言ってしまえばそれまでだが。まず、でくの捧相手と思ってもらえばいい。しかしそれとは別に、シナ海を稼《かせ》ぎまわる船に、何か問題が起きた場合、定まった領事もなく、どこを捜しても自国の砲艦ひとつ見えず、訴えるさきもないなんてのは、無性に心細いものだよ。
ぼくの考えは、これらの連中をさらに十五時間かそこら、中甲板に釘づけにしておく点にあった。福州への距離がだいたいそんなものだったのでね。福州にさえ着けば、おそらくはどこかの軍艦がいて、いったんその庇護下に入れば、もう安全だった。なぜなら、船で喧嘩さわぎがある場合に、軍艦の艦長は……イギリス、フランス、オランダ、いずれの国籍たるとを問わず……白人を保護するに相違ないからね。その上でわれわれはマンダリンというか、タオタイというか、呼び名はどうでも、眼鏡なんぞかけて、かごに乗って、臭い街をねりあるく、例の連中に、苦力どもとかれらの金とを引きわたすことによって、厄介ばらいができるわけだ。
ところが親爺《おやじ》さん、これを納得しない。この事件を内密にしたい気なんだ。いったんそう考えだしたら、もう蒸気巻揚機をもちだしたって、あの頑固あたまからその考えを引き抜くことはできゃしない。彼は船名と船主たちのため、すなわち「関係者一同のため」に、できるだけ事を荒立てたくない、と言ってぼくを睨むんだよ。ぼくはカッとしたよ。言うまでもなく、そんなふうに秘密にしておくことなんか、できるはずがない。苦力どもの木箱も、もうそのときはいつものように保管され、どんな嵐にもびくともしないだけに処置されてはいたがね。ところでその整理がまた、きみにはとても想像がつかんほどの大変な仕事だったのさ。
それはそうとして、ぼくは立っていることもできないほど疲れていた。三十時間近く、われわれは一人として休息らしいものをとっていなかったのでね。船長にしたところが、顎《あご》をさすったり、頭のてっぺんを撫でまわしたり、いたずらにくよくよするのみで、まだ長靴を脱ぐ思案もうかばない始末さ。
『どうぞ船長』とぼくは言ってやったよ。『何はともあれ、ぼくたちのほうで受け入れ態勢の用意ができるまで、連中を甲板へは出さないでいただきたいのですが』とね。だがね、万一あの乞食どもが襲いかかるようなことのあった場合、実を言えば、ぼくにはなんの対策もあったわけではないんだ。船に乗っけたシナ人どもとの悶着《もんちゃく》なんて、決して冗談事ではないからね。それにぼくは欲も得もなく疲れていた。『ぼくとしては、あのドル貨を全部やつらのなかへ投げこんで、勝手にとりっこをさせておいて、その間に休息させていただきたいのですが』とぼくは言ったものさ。
『むちゃを言うね、ジュークス』こっちのからだがむずむずするような例の調子で、のんびりと顔をあげて、船長は言うのだ。『関係者一同に公平な方法を考えださねばいかんよ』
お察しと思うが、ぼくには仕事の絶え間がない。そこで水夫たちに仕事を言いつけてから、ちょっと横になろうと思った。寝棚《ねだな》へ入って十分とは眠らないうちに、もう給仕のやつがとびこんできて、脚をひっぱるという始末なんだ。『お願いですから、ジュークスさん、来てください! いそいで甲板へ出てください。さあ、来てくださいってば!』
給仕のやつ、すっかりぼくをあわてさせやがった。ぼくは何が起こったのやら知らなかった。また颶風でも……それとも何か。風の音なんか、してやしない。
『船長が連中を出しているんです。ああ、連中を出しているんですよ! 甲板へとびだして、われわれを助けてください、ジュークスさん。一等機関士はたったいま、拳銃を取りに駆けおりていきました』
あの阿呆の言うことは、まずこんなところだった。だが後に聞いてみると、ラウト親爺はただきれいなハンカチを取りに下りただけだと断言した。何はともあれ、ぼくはズボンのなかへ跳びこんで、後甲板へとんで出た。たしかに船橋の前のあたりが騒々しい。四人の水夫が水夫長と船尾《とも》ではたらいていた。シナ沿岸の船は例外なく船室にライフル銃を備えているが、ぼくはそれを何|挺《ちょう》かもちだしてかれらに配って、さきに立って船橋へ向かった。途中ソル老人に出会ったが、やつはびっくりして、火のついてない葉巻を夢中でスパスパやっていたっけ。
『さあいっしょに』とぼくは呼びかけた。
われわれ同勢七人は、海図室へ進撃した。すべては既にすんでいた。親爺さんは相変わらず、腿《もも》まである大長靴にシャツ姿で立っていて……みたところ、じっと思案をめぐらしているらしい。ブン・ヒン商会のおめかし手代もそばにいたが、これはまた煙突掃除人さながらの汚れようで、顔色もまだ蒼ざめていた。ぼくはすぐさま失敗《しま》ったと気がついた。
『いったいその子供だましみたいな格好は何かね、ジュークス君?』
いつにない怒りようで、船長がとがめた。白状すると、これにはぼくは一言もなかったさ。『ジュークス君、お願いだから、みんなから銃だけは外させてくれんか。でないと、そのうち誰かが怪我をするにきまっている。いやはやこの船も瘋癲《ふうてん》院そこのけというとこかね! さあ、眼を覚まして。ここでわしとブン・ヒン商会の中国の方《かた》とにてつだって、あの金の勘定をしてもらいたいのだ。顔を見せたついでに、あんたも手を貸してくれるね、ラウト君。手が多いほど、いいからね』
ぼくがちょっと眠っている間に、彼は万事、腹づもりを決めたらしい。われわれの船が英国籍か、でなくても例えば香港《ホンコン》のようなイギリスの港へこの苦力どもを下ろすんだったら、問い合せやら苦情やら、クレームやら何やかやで、忙殺されたことだろう。ところがこれらのシナ人たちは、かれらの国の役人どもを、われわれ以上に心得ていたのだ。
艙口《ハッチ》の蓋はとうの昔に取り払われて、一昼夜カンヅメにされていたあと、苦力たちは全員、甲板へ出ていた。やつれた獰猛《どうもう》な顔が、これほどおびただしくかたまっているのをみると、変な気持になってくる。乞食どもは何もかもが嵐に吹きちぎられたものとばかり思っていたかのように、いまさららしく空とか海とか船とかを食い入るように眺めていた。それになんの不思議があろう! 白人ならば魂も身にそわぬほどのことを、かれらはやってのけてきたのだ。
シナ人にもともと魂なんかあるものか、と言う人もある。しかしかれらは、恐ろしく不死身なものを身につけている。ひどい怪我をした連中のうち、ひとりの男など片眼がすっかり飛び出してしまっていた。鶏卵の半分ほども、顔から飛び出しているのだ。白人なら一カ月の臥床《がしょう》ものだろう。ところがこの男ときたら、何事もなかったような顔つきで、仲間のあいだをあちこちとわけ歩いて、話しこんでいるのだ。その連中の騒がしさといったら大変なものだったが、それでも船長があの禿《は》げ頭を船橋の正面にあらわすと、おたがいおしゃべりをやめて、一様に下から見上げたものだ。
どうも船長は、いったん腹づもりをきめると、ブン・ヒンの手代を下へやって、連中に手放したお金を取り戻せる唯一の方法を説明させたらしい。後になっての話だが、苦力全員が同じ土地で同じ期間かせいだのだから、拾ったお金を全員に均等に分配すれば、連中からみても能《あた》うかぎり公正な処置をつけたことになる、と考えたと、親爺は言ったっけ。それにめいめいのお金の区別がつかず、船へ乗るときいくら持っていたと訊いたところで、やつらは嘘八百を並べて、とどのつまり勘定の合わなくなるのが落ちだろう、とも言っていた。その点、彼の言は正しいと思う。福州で顔をあわせるシナの官吏にお金の処置を一任するほどならば、むしろ苦力どものために、直ちにめいめいのポケットに入れてやるほうがましだ、とも言った。連中だってそう思ったことだろうさ。
われわれは日の暮れぬうちに配分を終った。その光景たるや、ちょっと見ものだった。波は高く打っているし、船はみたところ、難破船だし、シナ人どもは分け前をもらいに一人ひとり船橋へよろめき出るし、船長ときては相も変わらぬ大長靴にシャツ姿で、海図室の入口に頑張って、お金の分配に汗だくだ。そうしては気に入らんことがあると、ぼくやラウト親爺に当たり散らす。動けなくなった苦力たちの分は、船長が自分で取っておいて、第二|船艙《せんそう》へ持っていってやったよ。三ドルばかり余ったが、これは一ドルずつ、怪我の最もひどい三人へ分けられた。
そのあとでわれわれはまた仕事へもどって、びしょびしょのぼろの山とか、形も何もわからない、雑多なこわれ物とか、名のつけようのない物とかを甲板へ全部はこびだして、やつらの取るにまかせた。
これはたしかに、当事者たちにとって事を穏便《おんびん》にすませる方法としては、理想に近いものだった。贅沢三昧《ぜいたくざんまい》の郵便船のハイカラ船員さん、以《もっ》ていかんとなす? 老一等機関士も、あれ以外にやりようがなかった、とあっさり言っていた。船長は先だって、ぼくに述懐してね、『本にもないようなことが、世の中にはいろいろとあるものだ』とさ。彼のような鈍物としては、今度の一件などはうまく切り抜けたものだと思うよ」(完)
[#改ページ]
解説
『青春』Youth(一八九八)と『台風』Typhoon(一九〇一)とは、英国作家ジョーゼフ・コンラッド Joseph Conrad(一八五七〜一九二四)の初期の短編小説のうちの代表作で、彼の作品中、世界的に最も親しまれているものでもある。
「七つの海」を支配し、「太陽の沈むときがない」と誇った大英帝国、そう名乗っていた第二次世界大戦までのイギリス国民は、ちょうど『青春』の最初のページにも「海と人間とがたがいに隅々まで浸《し》みこんでいる」と形容されているような、切っても切れない海との親しみをもち、少年たちの多くは海を愛し海の冒険にあこがれた。『ロビンソン・クルーソー』や『ガリヴァー旅行記』の昔から、この国の文学もまた海とその冒険を描き、語るのが一つの伝統となっている。ロマンティック時代にはバイロン卿の『チャイルド・ハロルドの遍歴』や『海賊』、コールリッジの『老水夫行』のような詩が生まれ、ヴィクトリア朝ではR・L・スティーヴンソンの『宝島』が世界の少年の血を沸かせ、そして十九世紀末から二十世紀初頭へかけては、このコンラッドの海洋文学がその伝統を継いだわけである。
実際に、コンラッドは十七歳から三十七歳まで船員生活をし、イギリス商船の船長として、アジア、アフリカ、西インド等、世界のあらゆる航路に航海の経験を積んだ人である。本書の本文を読まれた読者は、作者が海の上の、船の生活を、その壮大な自然の無限の変化、それとたたかう人間の無力さと勇ましさを、実に見事に生々と描いていることにおどろかれることだろうが、それが作者の前半生のゆたかな経験にもとづくのは勿論として、同じような経験をもった何千、何万の海員たちのなかで、ひとりこの作家だけがこれらの不朽の作品にその体験のあとを定着しえたという、芸術的創造の秘密、そのことに深い驚異を味わっていただきたいと思う。
だが、コンラッドについてもっと驚くべき事実は、彼が元来イギリス人でなく、海のない国ポーランドの、しかも生枠《きっすい》のポーランド貴族の出身だったということである。十七歳まで海を見たことさえなかった。英語はイギリス船に乗り組んでからおぼえたのである。そうして前記のように中年までほとんど文筆に関係のない船員生活を送ってから作家に転身し、たちまちにして最もイギリス文学らしい海の文学で名を成した上に、後半生では一流大家として多幸な作家生活を送った。そればかりではない、現代の英米の批評家は口をそろえてこの作家の小説の先駆的な意義をたたえ、これまであまり顧みられなかった晩年の諸作についても再評価を要求する声がさかんである。
事実、同時代の諸大家のうちで今日もっとも学者の研究がさかんなのは、ヘンリ・ジェイムズ、ジェイムズ・ジョイスとともにジョゼフ・コンラッドなのである。もちろん外国語で作品を書いた文学者はほかにもあるが、右にいったような際立った例は、コンラッド以外には見あたらない。またポーランドは第一次欧州大戦後まではロシア、ドイツ、オーストリア三帝国に国土を分割され、民族の統一と独立とを失っていた不幸な国だったから、ピアニストのショパンや物理学者キュリー夫人のように学問芸術の天才が外国で名を成した例は少なくない。しかし科学や音楽、絵画などにくらべて、文学という、その国土、民族と切り離せない言語を媒体とする芸術の領域で、これほどの成功をかちえたのは、いっそう驚異的な事実といわねばならない。私には国民性の問題について論じる資格はないが、コンラッドが英語文学の上で発揮した個性の特質的なもののなかには、そのポーランド人としての民族的美質から発したもののあることが、いつかは説明されるときが来るかもしれぬと思うのである。
コンラッドは一八五七年十二月三日、西ウクライナ、ポドリア州のベルデュツェフ村に生まれた。ポーランド人としての実名はヨゼフ・テオドール・コンラード・ナレチ・コゼニオフスキーという。両親とも土地の地主貴族の出身で、ヨゼフはその一人息子だった。父親は文学のたしなみもあり、祖国の独立を志す愛国者でもあった。
ここで彼の生地について簡単に説明しておくが、ウクライナはいうまでもなくポーランドではなく、現在ソビエト連邦に属する共和国であり、ベルデュツェフは人口五万余の都市として繁栄している。だがこの地方はほぼ十四世紀から十八世紀末まではポーランド領であって、コンラッドの祖先はウクライナ人農民の上に支配階級として立ってはいたが、政治的には帝政ロシアの圧制のもとに住んでいたわけである。したがってポーランド人は民族の悲願たる独立は第一次大戦後に達成したが、本来ウクライナ人の国であるポドリア地方は二度とポーランド領にはならなかったのである。
さてコンラッドが三歳のときに、父のアポロは愛国的秘密結社に加わっていた廉《かど》でロシア官憲に捕えられ、北ロシアに流刑された。妻子をともなうことを許されたので、幼児はこのときから流浪の生活に入る。母のエヴェリーナはやがて肺結核にかかり、一八六五年に死んだ。二年後には父親も同じ病気になり、息子とともにクラコフに住んでいるあいだに、ついに亡妻のあとを追った。孤児となった十一歳の少年は母方の叔父タデウス・ボロフスキーの庇護《ひご》のもとに中等教育を受けた。
コンラッドが船乗りになりたいという希望を申し出て叔父をおどろかしたのは十四歳の頃からであるという。彼がはじめて海を見たのは家庭教師につれられてスイス、イタリアへ旅行し、ヴェニスを訪れた一八七三年、十五歳のときだというから、彼の海員志望はおそらく英仏の小説を耽読《たんどく》した影響であったと見られている。とにかく叔父を説きふせて一八七四年九月、ただ一人マルセイユへゆき、フランス人に手づるを得て翌十月に初めてフランス船に乗り組むことができた。
三年半のフランス下級船員の経験を積んだ後、一八七八年四月、はじめてイギリス船に乗り組み、六月にはイギリスの土を踏んだ。オーストラリア航路を往復した後、一八八〇年、ロンドンで三等航海士の試験にパスした。その後は幾つかの船に乗り組んで世界各地へ行ったが、なかでもインド洋、マレー群島、シャム湾など、後年の彼の海洋小説の舞台となった地方へ頻繁に航海した。一八八三年七月に二等航海士、八六年十一月には宿願の船長の資格を得た。そして同じ八六年八月には帰化してイギリス国籍も取得した。
一八九〇年にベルギー領コンゴへ行き、コンゴ川を上下する汽船の船長となった。この中央アフリカの経験で彼はいちじるしく健康を損じたが、精神的には異常な内的生活の深い転機を経験した。
名作『闇の奥』Heart of Darkness はコンゴを背景とした文明人の精神的堕落、その恐怖を描いているが、事実、彼はこのコンゴ時代に処女作『オルメイヤーの阿呆宮』 Almayer's Folly の大部分を執筆したのである。「アフリカは船員コンラッドを殺して、作家コンラッドを生んだ」とまで言われるほど、人間性の深淵、その「闇の奥」をかいま見る運命がコンゴで彼を待っていたと思われる。してみれば、コンゴ以前の経験に取材した本書の二短編のような作品を読む場合でも、その作者がコンゴの体験を踏まえて書いたものであることを忘れてはならないであろう。
コンラッドは五年間を費やした処女長編『オルメイヤーの阿呆宮』を、当時のすぐれた作家兼批評家エドワード・ガーネットの推薦で一八九五年に出版することができた。小説は好評で、ガーネットや二、三の出版者の激励で海上生活をやめる決心がつき、翌九六年には三十八歳で二十三歳の処女ジェシー・ジョージと結婚し、イングランドのケントで作家生活に入った。
その後の順調な執筆生活で後年イギリス近代小説の至宝と目されるにいたる諸名作を次々に書き上げたわけだが、それらは鑑賞力のある読者に支持され、批評家たちの推讃を受けてはいたが、広い大衆からもてはやされることはなかった。そうなったのは一九一二年の『運命』がアメリカの「ニューヨーク・ヘラルド」紙に連載されてからであった。コンラッドの個々の作品についての諸家の評価はきわめて区々であって、私自身にはまとまった意見を述べることはできないが、大体において世紀の変り目前後に書かれた作品に傑作が多いというのが定評のようである。一八九七年の『ナーシッサス号の黒ん坊』The Nigger of the "Narcissus"、一九〇〇年の『ロード・ジム』Lord Jim、一九〇四年の『ノストロモ』Nostromo 等が有名であるが、『ノストロモ』はコスタグアーナ Costaguana という南米の架空の国を設定しての政治小説で、これをコンラッドの畢生《ひっせい》の傑作と認める人が多く、二十世紀の英語小説中の最高作とさえ激賞する批評家もある。一九〇六年の『密偵』The Secret Agent と一九一〇年の『西欧人の眼から』 Under Western Eyes の二長編は海とはまったく無関係な、国際的政治陰謀をとりあつかった作品であり、密告、裏切といった行為を人間性の深い暗い面として心理的に剔出《てきしゅつ》した点で近年のコンラッド再評価の対象となっている。
晩年のコンラッドは名声と同時代や後輩文学者の友情に支えられて、多産な作家生活を送った。作品では一九一四年の『勝利』Victory がふたたび東洋を舞台として人間への不信に苦しむ性格をとりあつかった「最後の傑作」と見られている。
一九二四年八月三日、心臓発作でケント州ビショップスボーンの自邸で六十六歳の生涯を閉じた。
『青春』は船火事を起こして沈没する東洋航路のボロ帆船に乗組んだ若い無経験な船員の話である。はじめて高級船員の地位を得て、あこがれの東洋へゆく若者の、どんな自然の脅威、生命の危険も自分の青春への贈物としか感じない、挫折《ざせつ》を知らぬひたむきな、哀しいばかり無知な、生の希望の物語である。青春……それが消えやすく、うつろいやすい、はかないものであることもまた、「まるで人生をまざまざと絵に描いてみせるように」この話が教えてくれる。消えやすい故に美しいこの希望というものを、だが主人公がどんな賢者の知恵よりも確かに経験したこと、それが動かすことのできぬ真実だとこの短編は読者にうったえる。
また『台風』は、モンスーンの風土に住むわれわれにはごく親しい南シナ海の自然の大荒れに、人類がその頃やっと対抗できるようになった蒸気船という、いわゆる文明の利器が、まともに台風にぶつかった一回の経験を語っている。その経験をうけとめる船の上の個々人の意識がどうあろうとも、そこに海があり、その暴烈な海にもてあそばれながらとうとう乗り切ってしまった弱くて強い人間がある、という根源的な印象……それを私はやっぱり真実と呼びたいと思うが……そういう真実を、読者はみのがさずにとらえるだろう。コンラッドはこの頑固な真実を、『青春』の主人公に似た若いジュークスと対照されるマクホア船長という地味な、愚直な、いくらか滑稽でもある人物の人間像に定着させることに、見事に成功している。
この二つの短編からわれわれが受け取る感銘の深さは、物語の筋とか、作者の思想とか、簡単に割り切って説明のつかない、複雑な、こまやかな、あふれるばかり豊かなイメージと、そこにたゆたう情感とが醸《かも》しだすものである。
かつて私はこの特色を「細部《デテール》の作家」という言葉で言いあらわしたことがあるが、それはこの作家の人生についての洞察そのものよりも、洞察した真実を表現する技巧の見事さを強調しすぎる嫌いはあるにしても、芸術家としてのこの作家の比類のない資質を特徴づける上で誤まってはいなかったと思う。むしろ、このような細部《デテール》の微妙で、豊富で、しかも的確な表現にうちこみ、作品の、文章の一行一行にまで個性の誠実な努力を刻印することで、はじめて作家はおのれが人生から読み取った真理の片鱗《へんりん》を読者に伝えることができる、というのがコンラッドの信念であった。
「無慈悲に驀進《ばくしん》する時間の流れから、一瞬の勇気を鼓して、消えやすい人生の相のひとつをつかみとるのは、創作の仕事のほんの始まりに過ぎない。やさしい実直な心持でとりかかったこの仕事は、もはや疑うことなく、選《え》り好みも恐れもせずに、かのつかみとった断片をば偽りもごまかしもない真心こもった情調《ムード》として、あらゆる人々の眼前にうかびあがらせることである。その脈動、その色、その形を示すのが仕事だ。そしてその動き、その形、その色を通じてその真実の本体をあきらかにすること……その感動的な秘密を、おのおのの手ごたえ確かな瞬間の中核にひそむ緊張感や情熱を、読者のまえにあらわにすること、これが仕事だ。こうした一意専心な努力のなかで作者は、もしも彼がその名に値いし、かつ幸運であるならば、あるいはことによったらそうした偽りもごまかしもない、情調の明晰《めいせき》さに到達できるかもしれず、そうしてついにはそこに示された悔恨なり憐憫《れんびん》なり、また恐怖なり喜悦なりのヴィジョンが、それを観る人々の心に、あの間違いない人類不動の連帯感を呼びさますこともあろう」(一八九七年、『ナーシッサスの黒ん坊』の序)
このような「一意専心な努力」のうちに細部の真実が積み重ねられ、はじめて芸術作品の究極の目標である「全人類をこの可見の世界に結合するところの連帯感」……私がさきに本編の二つの作品の示す「真実」と呼んだもの……が示現する。それは作家が生活の場で「消えやすい人生の相」のひとつとしてつかみとった認識に対応するものではあるが、一意専心な表現の努力を通じて「幸運」に、後代のわれわれにまで届けられたものなのである。
同時に、この努力のめざすところを、コンラッドが「偽りもごまかしもない真心こもった情調」と呼んでいることに注目したい。たとえば『青春』の若者のあこがれた東洋の謎《なぞ》、「狡猾《こうかつ》なネメシスが、じっと横になって待ちかまえ、知恵や知識や武力を誇るあまたの征服者の跡をつけ、引捕える国」という暗示的な数行は半世紀後のアジアの動乱を予言しているし、『台風』のマクホア船長が、その鈍物らしい風貌にも似ず、虐《しいた》げられた東洋の下層民衆のために、一八八〇年代の当時としてはめずらしい公正な処置をつけた挿話《そうわ》にも、後代のわれわれには中国大革命を遂行させた歴史のすさまじいエネルギーを連想させずにおかない。それらはポーランド生まれのイギリス船員が、何かの機会に「驀進《ばくしん》する時間の流れから一瞬の勇気を鼓してつかみとった」直観の確かさを物語る例であって、近年にわかに盛んになったコンラッド再評価が偶然でないことを理解させる例でもあるだろう。(訳者)
〔訳者紹介〕
田中西二郎(たなか・せいじろう) 英文学者。一九〇七(明治四十)年東京生まれ。東京商科大学(現一橋大学)卒。主な訳書、グレアム・グリーン「おとなしいアメリカ人」、メルヴィル「白鯨」、コンラッド「青春・台風」他。