密偵
ジョーゼフ・コンラッド/井内雄四郎訳
目 次
原著者のノート
密偵
訳者あとがき
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原著者のノート
『密偵』の成立の発端……すなわち主題や扱い方、芸術上の目的、その他、およそ作家に筆をとらせるあらゆる動機……は、私が精神的にも、感情的にも、ひとつの反動期に面していた頃までたどることができるだろう。
実のところ、私はこの作品を衝動的に書きはじめ、休みなく書きつづけたのだ。やがて作品が完成して読者の目にふれたとき、私はこの物語を書いたために非難されることになった。非難のなかには、手きびしいのもあれば、いかにも私のために悲しむという口ぶりのもあった。今それらの文章は手許にないが、その全般的な論調はきわめて単純だったと記憶している。その性格にびっくりしたこともよく覚えている。今ではみな昔話のようだが、じっさいは、それほど古いことではないのである。してみると、一九〇七年頃の私は、まだ文壇登場当時の純情さを、多分に持ちつづけていたものと思われる。今なら、どんなに世間知らずだって、この小説の舞台が薄汚いとかモラルが低劣だという非難の出ることくらいは、きっと予測できたはずだからだ。
私に対するこの反論はむろん重大だが、とくに全部が私に反対したというわけではない。じじつ、多くのひとびとは、この作品に洞察にみちた好意的な見方をしてくれたのである。それなのに、少しばかりの非難をいつまでもおぼえているとは、何という恩知らずな男だと思われるかもしれない。しかし私は、この序文を読まれた人々が、それは私が虚栄心を傷つけられたからだとか、生来恩を感じないせいだとか、即断されぬことを信じている。それとも、なかには、それが私が生れつき謙虚だからだ、と好意的に眺めてくださる人もいるかもしれない。自分では謙虚かどうかよくわからないが、少くとも私は礼儀や世間智をわきまえた人間であり、他人の言葉をだしにして自分をほめたたえることはしないぐらいの謙虚さの持主であることは認めていただけるだろう。
しかし、正確なところ、私が『密偵』発表当時の批判をここで持ち出したのは、私が謙虚だからではなく、まったく別の動機からである。私はつねに自己の行動を正当化(弁護するのではなく)したいという傾向の持主である。自分が正しかったと主張するのではなく、『密偵』を執筆した衝動の根抵には、ひねくれた意図や、人間の正常な感受性を軽蔑する気持は、まったくなかったということを釈明したいだけなのだ。
この種の弁明は、人を退屈させる危険がある。世間は一般に、ある明白な行為の動機よりも、その結果に興味を持つからである。人間は結果をみてなるほどとほほえみはしても、けっして動機調べなどは好まない。人間は明らかなことを愛し、説明には尻ごみしてしまうのだ。だが、とにかく説明をつづけよう。
その頃、私がこの小説を書く必要はなかったことはたしかである。私は、その主題を取り上げるいかなる必要性ももたなかった。今私は、物語の題材という意味と、もっと大きな問題意識という意味で、「主題」という語を用いているが、以上のことを完全に認めよう。けれども、たんに醜悪《しゅうあく》なことを扱って読者を驚かそうとか、今までと趣向を変えてびっくりさせよう、という考えは、全然念頭になかったのである。このことは、読者に信じていただきたいと思う。平素の私という人間の性格や、題材の扱い方、作品の底を流れる憤《いきどお》り、あわれみ、侮蔑《ぶべつ》、などから考えても、私が物語の背景をなす不快な薄汚さにけっして一体化していないことは、充分わかっていただけるにちがいない。
この作品を書きはじめたのは、私がはるか遠いラテン・アメリカに取材した『ノストローモ』と、きわめて自伝的な要素をもつ『海の鏡』を書くのに没頭した二年間の、直後である。前者は、私が心血を注いだ作品で、おそらく私の全作品中最大のスケールを持つであろう小説であり、後者は、私と海のふかい交わりと、私のほとんど半生を形成するにいたったそのもろもろの影響を、しばし率直に語ろうとする試みである。それはまた、世界と事物についての私の認識が、つねに機敏で強烈な想像力と情緒の反応をもたらした時代であった。しかも、この二つの作品を仕上げてしまうと、私は依然として事実にたいして忠実で純粋であることは変らなかったが、何となく自分が、たんなる空虚な感覚と、とるにたらぬ価値の世界に無意味にとり残され、道を迷ってしまったように感じはじめたのである。
じっさい、私がなにか変化を、想像力やビジョンや精神的姿勢の変化を求めていたのかどうかはわからない。いや、何も決定的な契機はなかったように記憶している。むしろ、いつのまにか、本質的な心境の変化が私に忍びよっていたのではなかろうか。作品の隅々にいたるまで、自己と読者に対し忠実に書き終えたことを十二分に意識しながら、『海の鏡』を書き終えた私は幸福な休息に身をゆだねることにした。それから、いわばまだ立ち止まって、なにも醜悪なものを求めて歩き出そうなどとは夢にも思わぬうちに、『密偵』の物語が突如《とつじょ》心にうかんできたのである。いいかえると、ある友人と、アナーキストについて、というよりはアナーキストの活動について、とりとめない話をしていたとき、彼がふと洩《も》らした言葉からヒントを得たのである。なぜ、そういう話題になったのかは、今では全然おぼえていない。
けれども、アナーキストの犯罪の無意味さやその主張、精神や行動、あるいは悲劇的な永遠の自己破壊欲に憑《つ》かれた人間のいたましい惨めさと烈しい信じやすさを恥知らずにも利用しようとする彼らの気狂いじみた軽蔑すべき態度、そういった事柄について話したことはおぼえている。私にとって、彼らの主義を絶対に許しがたいものにしたのは、こういう点であった。友人と私は、それからすぐに実例に移って、グリニッジ天文台爆破未遂事件の昔話を想いおこした。それは、理性的に考えても非理性的に考えても、とてもその動機を推測することさえ不可能な、愚かな、血なまぐさい事件なのだった。「非理性的に考えても」といったのは、およそ考え方と名がつく以上、どんな天邪鬼《あまのじゃく》な考え方にだって、それなりの論理というものがあるからである。
ところが、この兇行は、どう考えても動機がつかめないのだ。無政府主義的であろうがなかろうが、およそ思想とは無関係なことのために、ひとりの人間が、むなしくこっぱみじんになった、という事実だけが残るにすぎない。かんじんの天文台の塀には、ひび一つ入りはしなかった。
このことを私はこの友人に指摘した。友人はしばらく無言だったが、やがていつものなにげない、すべてを知り抜いているといったような口調で、「犯人は白痴同然で、そいつの姉さんはあとで自殺したそうだよ」といった。これが私たちのあいだでかわされた唯一の言葉だった。というのは、この思いもかけぬ事実を聞かされて、しばらく私はものもいえずにいるうちに、友人はたちまち別の話題に移ったからである。友人とアナーキストの接触といったら、せいぜい生涯に一度アナーキストのうしろ姿を見かけたくらいにすぎぬはずだが、どうして彼がそんな情報を手に入れたのか、私はとうていたずねる気にならなかった。だが、この友人はいろいろなひとびとと話すのが好きな男だから、この種の情報を、街路掃除人や、引退した警察官や、行きつけのクラブの得体《えたい》の知れぬ人間や、あるいはもしかすると、どこかのレセプションで会った国務大臣あたりから入手したのかもしれぬ。
しかし、私が友人の話からヒントを得たことは疑いない。それは、ちょうど暗い森から平原に脱け出したようなもので、見るものはあまりないけれど、ものを見るための光は充分あるのである。そうなのだ、見るものはあまりなかったのだ。正直なところ、私は長い間なにかを見わけようとすることさえしなかった。ただ、友人の話が「示唆《しさ》的」だという心地よい、しかし消極的な印象だけが残ったにすぎないのだ。
それから一週間後、私はたまたま一冊の本に出会った。その本は、私の記憶では、一度も評判になったことはないが、ある警察副署長の回想録であって、著者(アンダスンという名前だったと思う)は一八八〇年代のダイナマイト事件当時その職にあり、宗教的性格の強い有能な人物であったらしい。なかなか興味深い本だったが、問題の性質上ひじょうに控え目な書き方であったことは、いうまでもない。今では、もう内容をよくおぼえていないのだが、かくべつの発見はなく、事件の表面を心地よく撫《な》でている、といった感じだった。私は、ダイナマイト事件後、著者が下院のロビーで内務大臣(サー・ウィリアム・ハーコートだったと記憶する)とかわした短い会話を描いた数行に惹《ひ》かれたが、その理由を説明するのは省いておく。大臣はひどく立腹し、副署長はあれこれと弁解につとめたという。彼らの会話のなかで一番印象に残ったのは、次のようなサー・ハーコートの腹立たしげな冗談であった。
「なるほど、よくわかった。内務大臣たるわたしをつんぼ桟敷《さじき》に置いておくのが、きみたちの機密保持というやつらしいね」
いかにもサー・ハーコートをほうふつとさせる言葉であるが、それだけではない。事件には、とつぜん私を刺激するような、なにかある雰囲気があったのだ。たとえば、無色透明の溶液の入った試験管のなかに、ある液体をひとしずくたらして、結晶化作用を促進するとでもいおうか……そういえば、化学者はよく理解してくれるだろうと思う……そうした感覚が、私の心にきざしてきたのである。
それは最初私に精神的な変化を与え、静まっていた想像力を掻《か》きたてた。そして、輪郭ははっきりしているが、完全には把握できないふしぎな姿形《すがたかたち》があらわれはじめ、ちょうど結晶のふしぎな思いがけぬ形が人目を惹くように、私の注意をそそったのである。この現象(たとえ過去のことであろうと)を前にして、私は考えこんでしまった。野生の太陽と残忍な革命の大陸である南米や、自然のさまざまな相貌《そうぼう》を写し出し、世界の光を反映する広大無辺な海の現象を前にして、考えこみはじめた。次いで、いくつかの大陸をあわせたよりもっと人口が多く、人智の作り出したその偉大さにおいて、まるで自然がどう変ろうが無関心であるような巨大な都市の幻影があらわれてきた。そこには、いかなる物語をも置くのに充分な空間と、いかなる情熱も容《い》れるにたる深さがあり、どんな背景にもふさわしい多様さと、五百万の人間をすっぽり呑みつくす広大な暗黒が存在した。
圧倒的な勢いで、その市は、次の深い準備的な瞑想の時期への背景となった。無限の展望が、さまざまな方向にむかって、私の眼前に開けた。これでは、正しい進路を見出すのに、幾年もかかってしまうではないか! そう、幾年も!
しだいにヴァーロック夫人の母性愛についての構想が、確信をもって発展しはじめ、私と背景のあいだで炎と燃えあがった。秘められた彼女の情熱が背景をいろどり、同時に背景はくらい色彩をおびるにいたった。ついに、ヴァーロック夫人の物語は、彼女の悲惨な少女時代から死にいたるまで、完全な姿でくっきりとあらわれた。他のすべてのディテイル同様、まだバランスはとれなかったが、ひとつの扱いうる明確な主題として。そこまで成長するには、約三日間の日数がかかった。
『密偵』は、この物語であって、主題は扱いやすい大きさにまで縮小され、あらゆるプロットは、不条理で兇暴なグリニッジ天文台爆破事件の周囲に集中されている。これは、きわめて興味ある困難な(骨が折れるというつもりはない)仕事だった。が、私はそれをやりとげなければならなかった。それはひとつの必要性だったから。主人公ヴァーロック夫人の周りに集められ、直接・間接に「人生はあまり立ち入って眺めてはいけない」という彼女の悲劇的な信念にかかわりあう人物たちは、いずれもこの必要性から生れたものである。個人的には、私は彼女の物語のリアリティをけっして疑ったことはないけれど、私はその巨大な都市から無名の彼女を曳《ひ》き出してきて、彼女を真実味のある存在にしなければならなかった。彼女の魂にたいしてよりは、その環境にたいして、そしてまた、彼女の心理にたいしてよりは、その人間性にたいしてである。
環境を描くためのヒントには、なんら不自由しなかった。むかし私は夜のロンドンの街をよくひとりで散歩したものだが、その頃の記憶が、かつてない真剣な気持と感情で書きはじめたこの作品のなかに侵入して各ページを圧倒してしまうことをおそれ、私は、できるだけ記憶を一定の距離に保つ努力をしなければならなかった程である。この意味で、『密偵』はじっさい完全に本物の作品である。純然たる芸術上の目的、いいかえれば、アイロニカルな手法をこの種の主題に適用することも、私はきわめて入念におこなったつもりである。そういう扱い方でこそ、あわれみと侮蔑《ぶべつ》をこめて私がいわなければならないと感じたことを、すべていいあらわせるのだと確信したからである。一度これらのことを決心した私が、最後までこの方針をつらぬくことができたのは、私の作家生活のささやかな喜びのひとつである。また、ヴァーロック夫人の物語によってロンドンの舞台の前面に連れ出された他の諸人物に関しても、私はすべて創作につきもののあの重苦しい不信にうちかって、ささやかな満足を得ることができたと思っている。
たとえば、作中人物のひとり、ウラジーミル一等書記官(彼は戯画化するのに恰好の獲物であるが)がそうだ。この人物について、そういう世界にくわしいひとが、コンラッドはああいった人たちとなにか特殊な接触があったか、あるいはすばらしい直観を備えているにちがいない、さもなければ、あれほど詳細に、本質的に書記官を描けるわけがない、といったのをきいて、私はたいそううれしかった。また、アメリカからのある来客は、ニューヨークの亡命の革命家たちは、あの本はきっと自分らのことをよく知り抜いた作家が書いたものに相違ないといっている、と教えてくれた。じっさい、私は最初に作品の主題を示唆してくれた例の友人より更に革命家のことなど知らないときているのだから、これはひじょうな讃辞だった。けれども、執筆中私がときおり極端な革命家であったことはまちがいない。彼ら以上に革命的だったかどうかは疑問だが、少くとも彼らより集中的な目的をもっていたことはたしかだろう。なにも私は自慢しているのではなく、自分が仕事にうちこんだといっているのだ。
私はつねに自分があらゆる作品に打ちこんできたと考えている。こういったからといって、これもけっして自慢しているわけではない。私には打ちこむ以外には何もできなかった、といいたいだけだ。じっさい、嘘の話を書くことは、私をさぞかし退屈させたことだろう。
登場人物のある者は、法の側に立つ者も立たない者も、実在の人物にヒント(といっても、大したことはない)を得た。たぶん読者はあちらこちらで、そのことを見わけられるだろう。しかし私はここで彼らを正当化するつもりはまったくなく、犯罪者と警察のあいだの道徳的な反応についての私の見解も、少くとも全般的には論証しうることは、いいそえておかなければならない。
『密偵』が発表されてから十二年になるが、私の姿勢には少しも変りはなく、この作品を書いたことを全然後悔もしていない。最近、さまざまな事情(この序文の基調とはなんの関係もない)から、かつてはこの作品をおおっていた憤《いきどお》りと侮蔑の衣裳が剥《は》ぎとられることになったので、いわば私は作品のむき出しの骨組を眺めることを余儀なくされている。白状するが、怖るべき骨格だ。にもかかわらず、かつて悲しみと狂気と絶望にみちたヴァーロック夫人の物語をあらわしたとき、私には人間の自然な感情を傷つけるような意図は毛頭なかったことを、今日でもやはり認めざるをえないのである。
一九二〇年 ジョーゼフ・コンラッド
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ルーイシャムの愛の年代記作者
キップスの伝記作家
そして未来の歴史家である
H・G・ウェルズに
この単純な物語を
心から捧げる
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密偵
一
朝でかけるとき、ヴァーロック氏は妻の弟にほんの名ばかり店をまかせていった。そうできたのも、いつでも店はほとんどひまだったし、じっさい夕刻前はまるでお客がなかったからだ。ヴァーロック氏はおもてむきの商売には無頓着同然だった。それに、スティーヴィーには妻がついている。
店も住居も小さなものだった。それはロンドンに改造時代が訪れる以前よく見うけられた、あのよごれた煉瓦《れんが》造りの家のひとつで、四角い箱形の店には小さいガラスのはまった前面がついている。日中、戸は閉ったままだが、夕刻になると、控え目に、いかにも猜疑心が深そうに細目にあけられるのだ。
飾り窓には、裸同然の踊り子の写真、売薬よろしく包み紙に入った得体のしれぬ包み、大きく黒々と二×六と書かれた薄っぺらい黄色の閉じ封筒、まるで乾燥させるように紐《ひも》に吊した数冊のフランスの古い艶笑本《えんしょうぼん》、薄汚れた青磁の壷、黒い木製の小箱、不変色インクの瓶、ゴム印、数冊のいかがわしげな題名の本、「たいまつ」とか「ゴング」とか威勢《いせい》のいい名前をつけ、粗悪な印刷の古びたインチキ新聞が何部か置いてある。ガラス窓のなかの二つのガス灯の炎は、節約のためか、お客のためだか知らないが、いつも低くねじってある。
店の客は、しばらく窓の前をうろついて急にすーっと入ってくる少年か、大人かのどちらかだったけれど、概して金がありそうには見えなかった。
大人のなかには、オーバーの襟を口ひげのあたりまで立てている者がいた。あまり上等でない彼らのすり切れたズボンのすそには幾筋もの泥がつき、中の足だってどれもたいした物ではないようだった。彼らはオーバーのポケットに深く手をつっこみ、まるで鈴の鳴りだすのを恐れるように、肩からさきにすばやく横ざまに入って来る。
鈴は曲った細長い鉄片で戸口に吊され、それを避けるのはむずかしいことだった。ひびだらけの鈴なのに、晩方など、ほんのちょっとふれただけで、ぶしつけに悪意をこめて、お客の背後で鳴り響くしまつである。
ガラガラと鈴が鳴る。すると、その合図でペンキ塗りのカウンターのほこりだらけのガラス戸を通って、いつも奥の居間から、あわただしくヴァーロック氏があらわれるのだった。生来ねむたげな目つきで、きちんと服を着たまま、ベッドも整えずに一日中寝そべっているような感じだった。ほかの人間なら、自分のこういう容貌をあきらかに不利だと感じるにちがいない。小売業では、商人の愛想のよい魅力的な様子がすこぶるものをいうからだ。ところが、ヴァーロック氏ときたら自らの商売をよくわきまえ、自分の容貌を審美的に思い悩むということがなかったのだ。彼はいとわしい脅迫さえはねかえしそうなふてぶてしい落着き払った目つきで、どう見ても受けとった金に値しないようにおもえるひどい品物、たとえば、ひと目でなかが空っぽなのがわかる小さなボール箱、ていねいに封をした例の薄っぺらな黄色い封筒、思わせぶりな題のよごれた紙表紙の本を、カウンター越しに売り渡す。ときには、色|褪《あ》せた踊り子の写真が、まるで生身の娘よろしく愛好家の手に渡される。
ときどき、鈴の音に応じてヴァーロック夫人があらわれることもあった。彼女はゆたかなバストをぴっちりした胸衣に包み、みごとなヒップをした若い女で、髪がとても手際《てぎわ》よく結いあげられていた。夫同様落着いた目つきの彼女は、カウンターの城壁の背後で測り知れないひややかさを守りつづけた。だから、比較的感じやすい年頃の客などは、相手が女なので急にどぎまぎし、内心腹を立てながら、ふつうは六ペンスの不変色インクをひと瓶(この店では一シリング六ペンスもしたが)くれといい、外に出るやそうっと溝《みぞ》のなかにすててしまうのだ。
晩の客は襟を立て、ソフトを目深《まぶか》にかぶった男たちだった。彼らはヴァーロック夫人に親しげに会釈し、今晩はとつぶやいて、カウンターの端の跳ね蓋《ぶた》をあげ、廊下と急な階段に通じる奥の居間に入っていく。売場のドアは、ヴァーロック氏があやしげな品物を売りつけたり、社会の保護者としての使命を遂行し、家庭的美徳の涵養《かんよう》につとめている住居に通じる唯一の入口だった。今家庭的美徳|云々《うんぬん》といったのは、ヴァーロック氏がまったく家庭的な男性で、精神的、肉体的にあまり家をあけようという欲求を持たなかったからである。家にいて、妻のウィニーの心遣いと彼女の母親のうやうやしい尊敬があれば、身も心も安らぐのである。
義母は、褐色の大きな顔をし、たえず喉《のど》をぜいぜいさせている頑丈な体躯《たいく》の女だった。彼女は茶色のかつらに白い帽子をかぶり、足がはれているので歩くのに不自由を感じていた。自分はフランス人の子孫だと考えていたが、それは本当だったかもしれない。
長年連れそった、ごく平凡な酒場の主人である夫に先立たれてから、彼女はヴォクスホール橋街にほど近い、かつては立派な住宅地で今もベルグレイヴィア区〔ロンドンの高級住宅地〕に属するとある広場で、紳士相手の家具つき下宿をいとなんで、やもめ暮しを支えてきたのである。
この地理的状況は、下宿の宣伝には幾分有利だったけれど、かならずしも客は上客とはいえなかった。それでも、ウィニーは母親を助けて彼らの世話をした。母親ご自慢のフランス系のしるしは娘のウィニーにも明らかにあらわれていた。それは、彼女の艶《つや》やかな黒髪がじつに手際よく、芸術的に結いあげられていることで明らかだった。彼女の魅力はほかにもまだいっぱいあった。その若さ、丸味をおびたゆたかな肉体、澄みきった肌の色、男心をそそる測り知れない慎しみ深さである。だが、それはけっして会話の妨げとなるほどではなかった。なぜなら、下宿人が快活にしゃべっているあいだ、彼女のほうも静かに愛嬌《あいきょう》よく応えるのだったから。ヴァーロック氏はこうしたウィニーの魅力に惹かれたにちがいない。
ヴァーロック氏はときどきやってくる客で、とくにこれといった理由もなく、下宿を出入りした。たいていはインフルエンザのようにヨーロッパ大陸からロンドンに着くのだが、インフルエンザとちがうのは、到着があらかじめ新聞に出ないことと、それがたいそう簡単にはじまることだったろう。
ヴァーロック氏はベッドで朝食をとり、毎日昼まで、ときとするともっと遅くまで、静かに味わうようにベッドに寝そべっている。ところがひとたび外出すると、ベルグレイヴィア広場の仮りの宿への戻り道を探すのにたいそう難儀するらしいのだ。おそくなってから外出し、朝の三時か四時には帰ってくる。十時に目をさますと、朝食のお盆を持って入って来るウィニーに、長時間熱弁をふるった人のような弱々しいしゃがれ声で、だるそうに、愛想よく丁重に話しかける。突きでたはれぼったい目は、好色そうに、ものうげに動き、顎《あご》のあたりまで蒲団を引きあげている。そして、たっぷり甘い冗談もいえそうなぶ厚い唇は、黒いすべすべした口ひげにおおわれているのである。
ウィニーの母親の説によれば、ヴァーロック氏はまさしく紳士の典型だそうで、彼女は今まで、さまざまな≪お店≫で得た経験から、この下宿のなかに会員制高級バーのお客的な紳士らしさの理想を持ちこんだわけである。ヴァーロック氏は母親の理想に近い人、いや、じっさい、それにかなった人だったのである。
「母さん、わたしたち、むろん家具は引受けるわよ」とウィニーはいっていた。母娘は下宿をやめることにした。この先とても採算がとれそうになかったし、下宿の経営を引受けることはヴァーロック氏には重荷だったろう。おまけに、べつの仕事(ヴァーロック氏はそれがなんだかぜったいにしゃべりはしなかったが)のさまたげになるにちがいない。
ウィニーと婚約してからというものは、彼はつとめて昼前に床を離れ、地下室の階段を降りて、朝食の部屋に足を運び、身体の不自由なウィニーの母親に如才なく振舞ってみせた。彼は猫をなで、暖炉の火を掻き起し、食事をはこばせ、かすかに熱気のたちこめる居心地のよい部屋を出るときは、じつにいやそうにみえるのだが、あいかわらず深夜のご帰宅である。彼くらい立派な紳士なら当然そうすべきだったのに、ヴァーロック氏は一度もウィニーを芝居に連れて行ったことがなかった。いつも晩はふさがっているのである。
かつてヴァーロック氏は、自分の仕事はある意味で政治と関係があるといったことがある。だから、政治上の友だちには特別よくしてほしいというと、彼女はまっすぐな測り知れない視線を向けて、もちろんよ、と答えるのだった。
ほかにどの程度娘が夫の職業について聞かされているものやら、母親にはさっぱり見当もつかなかった。家具といっしょに娘夫婦に引取られたとき、母親は、店の見すぼらしいのには驚いた。ベルグレイヴィア広場からソーホ町のせまい通りへの移転は、彼女の足にひどくこたえ、すっかりはれが加わってしまったのだ。けれども、物質的なわずらいからは完全に救われ、婿のやさしい重厚な性格にはまったく安心させられた。これで娘の将来は疑いなし。息子のスティーヴィーのことだって心配する必要はないだろう。
母親は、あのあわれなスティーヴィーが悩みの種であることを認めないわけにはいかなかった。しかし、と彼女は考えた。娘が身体の弱い弟を溺愛《できあい》していることや、婿の親切で寛大な性格から考えて、このきびしい世のなかであの子の将来はまず安心だろう。それに、彼女はたぶん心の底で娘夫婦に子供がないのを喜んでいるのかもしれなかった。ヴァーロック氏はそんなことはまったく無関心だし、娘は娘で、弟のなかに一種の母性愛の対象を見出している。けっきょくあの子には、これでいいんじゃないかしら。
ほんとうにスティーヴィーは一家の厄介《やっかい》者だった。この病弱な少年は、だらりと垂れた下唇をのぞけば、華奢《きゃしゃ》な整った顔立ちの持ち主だった。彼は義務教育とかいう結構な制度のおかげで、みにくい下唇を垂らしながら学校で読み書きを習ったが、使い走りとしてはたいして役にたたなかった。言いつかった用件を忘れてしまうからだ。
お使いの途中、迷った犬や猫に出くわそうものなら、すぐに心を動かされて用事を放り出し、あとを追いかけて狭い路地を通り、かんばしからぬ小道に入りこんでしまう。あるいは、街頭の愉快な騒ぎにぽかんと口を開けて見とれて、雇主《やといぬし》に損害をかける。
かと思えば、路上に倒れた馬を見て、その痛ましさや乱暴な扱いに我慢できなくなり、このイギリス的な見世物を黙々と楽しみ、悲痛な叫びでその楽しみを邪魔されるのを好まない弥次馬《やじうま》のまっただ中で、思わず時々引き裂かれるような叫びを張りあげる。いかめしい保護の警官に連行されると、かわいそうに、たびたび自分の住所を忘れたり、少くともしばらくは想い出すことができなくなり、ぶっきら棒な訊問に会うと息のつまるくらい吃《ども》ってしまう。少年は何かにどきっとすると、恐ろしいやぶにらみになるのである。
しかし、それならむしろ頼もしいのだが、彼は一度も烈しく感情を爆発させたことがなかった。子供の頃、死んだ父親が生来の短気を破裂させると、いつも助けを求めて姉のショート・スカートの後ろに逃げこんだものだ。しかし、その反面、向う見ずな真似を仕出かすのではないかと思われていたふしもある。
十四のとき、スティーヴィーは死んだ父親の友人で外国系の保存ミルク会社の代理人をしている人の口ききで給仕にしてもらったが、ある霧の午後、支配人の留守中に熱心に階段で花火を打上げているところを見つかってしまった。彼は強烈な輪転花火や、轟音《ごうおん》を発する爆竹や一連のすさまじい花火を次から次へとすばやく発射して、まさに危機一髪という有様だった。すさまじい恐怖が建物中にひろがった。目をひきつらせ、息をつまらせた事務員は煙でいっぱいの廊下を雪崩《なだれ》をうって逃げ、シルクハットの老実業家連中はてんでに階段をころげ落ちた。
当のスティーヴィー自身はこの行為からなんら個人的満足を得た模様はなく、このあっぱれな独創的行為の動機を見出すことは困難だった。ウィニーがようやく白状させたのは後になってからだった。それもつかみどころのない支離滅裂なもので、なんでも同じ建物に勤めるほかの二人の給仕から、彼らが不正な高圧的な仕打を受けたという話をきかされて神経がたかぶり、とうとう同情のあまりあんな狂気の発作をおこしたのだという。しかし、すんでのことで商売を台無しにされかけた主人が、即座に彼を首にしたのはむろんの話である。
この愛他的な武勇伝の後、スティーヴィーは実家のベルグレイヴィア荘の台所で皿洗いを手伝ったり、下宿人の靴磨きをやらされることになった。下宿人たちはときどき一シリング、チップをくれ、とくにヴァーロック氏は気前がよかったが、こんな仕事に将来性があるはずがない。だから、娘がヴァーロック氏との婚約を告げたとき、母親はため息まじりに台所を一瞥《いちべつ》して、この先息子はどうなるやら、と考えこまざるをえなかったのである。
ヴァーロック氏は、いつでも義母と、家族の有形財産のすべてである家具を引受ける用意があるらしかった。彼はその親切な広い胸にすがるものをことごとく寄せ集めた。家具は家中でもっともひきたつように配列され、ウィニーの母親は一階の奥の二部屋に閉じこめられた。そのうちの一つで、あわれな少年は眠った。この時分までには、金色の霞《かすみ》を思わせるふわふわした薄い毛が、スティーヴィーの小さな下顎のくっきりした線にはえそめていた。彼は姉の家事を盲目的な愛情と従順さで手伝った。何か仕事をやらせたほうがいい、とヴァーロック氏が考えたからだった。
ひまさえあれば、少年はコンパスと鉛筆を使って紙に円を描くのに熱中し、ひじをひろげ、台所のテーブルに深くかがみこんで、その楽しみに夢中になった。居間の開いたドア越しに、ときどきウィニーが母親めいた注意深い視線をなげかけていた。
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二
朝十時半、ヴァーロック氏はこうした住居や家庭や商売をあとにして、西の方にでかけていった。ヴァーロックにしては、異常に早い外出だった。身体全体からは、ほとんどしたたるようなさわやかな魅力が発散していた。青いオーバーのボタンをはずしたままで着、靴は光り、剃《そ》りたての頬は一種の艶をおび、あのねむたげな目さえも、やすらかな熟睡のためにいきいきとして、ふだんに似ぬ鋭い視線を放っていた。ハイドパークの柵《さく》のあいだから、乗馬道を行く騎馬の男女……ゆっくり馬を走らせる気のあったカップル、落着いて先行するひとびと、数人でゆっくり進むグループ、交際嫌いらしくひとりで行く乗り手、帽子に前立てを付け、ぴっちりした細身の乗馬服に皮ベルトの馬丁がはるか後ろからつき従っている単騎の女などが見える。
馬車が通る。たいていは二頭立てのブルーム〔馭者台が室外にあるもの〕で、ときにはヴィクトリア〔二人乗り四輪馬車〕もまじり、たたんだ幌《ほろ》の上から女の顔や帽子がのぞいている。なかには何か野獣の毛皮が敷いてある。血走っているとしかいいようがないロンドン独特の太陽は、その光ですべてこれらの風景を荘厳にし、ハイドパーク・コーナーの中空に、時間を気にしながらおだやかに、油断なくかかっている。ヴァーロック氏の足下の歩道は散らばった日の光を受けて、古金貨の色に染まり、そこでは塀《へい》も、樹木も、動物も、人も、ことごとく形を失っている。あかがね色の光線が家々の屋根や、塀の角、馬車の鞍敷きや、馬の肌、ヴァーロック氏の広い背中にさし、にぶい錆《さび》色になっている。
だが、ヴァーロック氏は身についた錆を少しも意識しなかった。彼の目は、公園の柵のあいだからロンドンの繁栄と享楽を、満足げに眺めていた。繁栄と享楽になにより必要なのは保護するということだ。彼らの馬、馬車、家、召使を保護してやらなければいけない。ロンドンの中心、いやイギリスの中心で、彼らの富のみなもとを守ってやらなければならない。健康的な「怠惰《たいだ》」につごうのよい社会秩序をすべて保護してやらなければならない。
もしヴァーロック氏が生れつきいっさい努力をすることが嫌いでなかったなら、彼はこのとき満足げに手をこすりあわせたはずだ。ヴァーロック氏の怠惰は、その方が健康的だからという見地にもとづくのではなく、その方がたいへんつごうがいいからだった。ある意味で、ヴァーロック氏は一種のにぶい狂信、というよりはむしろ狂信的なにぶさで、怠惰を信じていた。勤勉な両親の子に生れながら、ヴァーロック氏は、男をして千人の女のうちからとくにひとりの女を愛させるあの衝動と同じように深遠で、説明しがたい絶対的な衝動から、怠惰を愛したのだ。たんなる民衆煽動家《デマゴーグ》、労働運動の雄弁家、指導者となるのにさえ、あまりに彼は怠け者でありすぎた。そんなことは面倒臭くてたまらないのだ。ヴァーロック氏が求めるものは、より完全な形の快楽だった。
あるいは、この大男はあらゆる人間の努力の効果を疑う哲学的信念に染まっていたのかもしれない。この種の怠惰には、ある程度の知性が必要で、かつ前提とされている。ヴァーロック氏とて知性がないわけではなかった。だから、社会秩序が脅やかされているという考えにたいしても、そんなはずがないだろうということを示すのになんの努力も必要ないとしたならば、あるいはウィンクぐらいはしたのではあるまいか。もっとも、じつのところヴァーロック氏の大きな出目《でめ》はウィンクには不向きであって、むしろおごそかに閉じてまどろむような目だったけれど。
いぜんとしてヴァーロック氏は肥えふとった豚のように逞《たくま》しく、無表情に歩きつづけた。満足げに両手をこすったり、自分の考えに懐疑的にウィンクしたりすることもない。彼の光り輝く靴はおもおもしく歩道を踏みしめ、その身装《みなり》全体は一本立ちの職人かとおもわれた。ヴァーロック氏は額縁屋《がくぶちや》から錠前《じょうまえ》直しにいたるまで、どんな商売人にもまちがえられたかもしれない。小なりといえども、人を使って商売している男だと思われたにちがいない。だがヴァーロック氏の周囲には、同時に、なにか一種名状しがたい雰囲気があった。
それはどんなに不誠実な仕事をやってきたところで、ぜったいに職人が染まるはずのないもので、人間のさまざまな悪徳、おろかさ、低劣な恐怖に寄生する手合いや、賭場《とば》の経営者、淫売《いんばい》屋の亭主、秘密探偵、興信所所員、それにあえていえば、強壮電気バンド売り、売薬業者に共通する道徳的ニヒリズムの雰囲気だった。といっても、筆者はこれまでべつに深く調べたわけではないから、売薬業者については保証のかぎりではない。筆者の知る範囲では、これらのひとびとはまったく兇悪な容貌かもしれないし、たとえそうだとしたところで、驚くにはあたるまい。
要するに、ここでいいたいのは、ヴァーロック氏の顔がけっして兇悪ではなかったということだ。
ナイツブリッジの手前で、ヴァーロック氏は、二輪馬車がほとんど音もなく軽快に流れるなかで乗合馬車や速足の荷馬車がやかましく行きかう賑やかな表通りから、左へ曲った。彼の帽子はこころもち阿弥陀《あみだ》にのっかり、注意深くていねいに髪がなでつけられていた。無理もない、大使館に用があるのだったから。
ヴァーロック氏は岩のごとく泰然と(もっとも、岩にしては柔らかすぎたが)、彼専用といってもいっこうに差支えない道路を歩きつづけた。広くのびた人気《ひとけ》のない道はけっして死に絶えることのない無機物的荘厳さをおび、人間の存在をおもわせるただ一つのものは、おごそかな淋しさの中で、道路の縁石に横づけされた医者の馬車だけだった。見渡すかぎりドアというドアの磨きあげられたノッカーが輝き、拭き清められた窓々は不透明な暗い光を放っていた。
すべては静かだった。一台の牛乳車が遠くをさわがしく横切り、赤い二つの車輪の上に高々と陣どった肉屋の小僧が、古代オリンピック競技の戦車の馭者《ぎょしゃ》よろしく気高く向う見ずに車を疾走させて角を曲って行ったのを除いては。
猫が一匹うしろめたい顔つきで石の下からあらわれ、ヴァーロック氏の前をしばらく走ってから、別の家の地下室にもぐりこんだ。次にあらわれたのは太っちょの警官で、どうやら街灯の柱の蔭から出て来たらしかったが、まるでこの無機物的な自然の一部も同然な無表情さで、ヴァーロック氏のことなんか、てんで目もくれなかった。
ヴァーロック氏は左に曲り、黄色い塀のかたわらの狭い道を進んだ。ふしぎなことに、塀という塀には「第一チェシャム広場」と書いてある。じっさいは、すくなくとも六十ヤード先なのだ。しかし、コスモポリタンのヴァーロック氏はロンドンの地理のふしぎさにだまされたり、驚きや怒りをもらしたりすることもなく、悠々と歩きつづけた。
ついに、ビジネス・ライクな粘り強さで広場についたとき、ヴァーロック氏はななめに渡って十番地に向った。それは二軒の家にはさまれた高いきれいな塀にある堂々たる馬車通用門の番号で、この二軒のうち当然ひとつは九番だが、あとの一軒は三十七番になっている。けれども、この家が近所|界隈《かいわい》で有名なポートヒル街に属することは、ロンドンじゅうの迷い家を監督する役目をになったこの上なく有能な市当局が、一階にかかげた表示からも明らかだった。なぜ、こういう家の番号を当然所属するべき所に戻す権限を国会に要求しないのだろうか。これは都市行政上のふしぎの一つだが(簡単な法令ですむことなのに)、ヴァーロック氏はそんな問題に頭をわずらわすことはなかった。人生における彼の任務は社会機構の保護であって、それを完全なものにしたり、ましてやそれを批判することはその範囲外なのだったから。
時間が早すぎたので、大使館の守衛は制服の左袖と悪戦苦闘しながら、あわてて番小屋から駆け出して来た。赤いチョッキに半ズボンの守衛はうろたえきっていた。側面から守衛が突進して来るのに気づいたヴァーロック氏は、大使館の紋章入り封筒を出してこれを追い払い、扉を開けた従僕も、封筒を見ると後ろへしりぞいて玄関に入れてくれた。
高い暖炉には明るく火が燃えていた。夜会服に身を包み、首に鎖をかけた老人がひとり、暖炉に背を向けて立っていた。老人は、静かなきびしい顔つきで前に拡げていた新聞から目を上げたが、動きはしなかった。茶のズボンに細い黄色のストライプをふちどった燕尾服姿の別の従僕が、ヴァーロック氏に近づいて来た。従僕は、名をきくと無言で踵《きびす》を返し、あとも見ずに歩き出した。彼は大きな絨毯《じゅうたん》を敷いた階段の左手の廊下を通って、突然、頑丈な書き物テーブルと幾つか椅子のある小部屋に招じ入れられた。従僕はドアを閉めた。ヴァーロック氏ひとりがとり残された。
彼は立ったまま帽子とステッキを一方の手に持ち、むっちりした片手でなでつけた頭をこすりながら、あたりを見まわした。
別のドアが音もなく開いた。そちらに目をやったヴァーロック氏は、最初、黒い服と、禿げた頭頂部と、しわだらけの両手と、たれ下った灰色の頬ひげしか目に入らなかった。入って来た人物は、目の前にひと束の書類を持ち、それをめくりながら、ちょっと気取った歩き方でテーブルに近づいた。大使館参事官、顧問官ウルムト氏はかなりの近視なのだった。
この賞讃すべき官僚はテーブルの上に書類を置いた。生い茂った薮《やぶ》のような眉毛と、ゆたかでつややかな灰色の長髪にかこまれたみにくい憂うつな蒼ざめた顔が見えた。黒ぶちの鼻眼鏡《はなめがね》をとりだして、不恰好な太い短い鼻にのせた参事官は、ヴァーロック氏の風采《ふうさい》にびっくりしたらしかった。太い眉毛の下で参事官の近眼がしばたいた。参事官はなんの挨拶もしなかった。まちがいなく場所をわきまえているはずのヴァーロック氏も同様だった。が、ヴァーロック氏の肩や背中あたりの線に微妙な変化が生じたことを見ても、彼が巨大なオーバーの下でちょっと背をまげたことを示していた。それは控え目に敬意をあらわした感じだった。
「ここにきみからの報告があるが」と、参事官は意外にやわらかな、疲れたような声でいいはじめ、人差し指の先を書類におしつけた。彼は言葉をとめた。早くも自分の筆跡に気づいたヴァーロック氏は、ほとんど息を殺して沈黙した。
「われわれは、イギリス警察の態度に不満を持っているのだ」と、ウルムト参事官は精神的な疲れを身体の隅々にあらわしながらいいつづけた。ヴァーロック氏は動きにこそ出さなかったが肩をすくめ、今朝自宅を出て以来はじめて口をきいた。
「それぞれの国には、それぞれの警察がありますよ」とヴァーロック氏は哲学的にいったが、相手がやはり目をしばたきつづけたので、こうつけ加えざるをえなかった。
「こういってはなんですが、当地の警察に働きかける方法が全然ないのです」
「必要なことは、ヴァーロック君」とウルムト参事官はいった。「きっと警察を刺激して、警戒させずにはおれぬような決定的な事件を、何かやってのけることだ。それはきみの仕事ではないのかね」
ヴァーロック氏はまったく無言。無意識に溜息《ためいき》をついただけだ。そして、すぐに元気のよい表情をうかべようとした。参事官は薄暗い部屋の光のせいか疑わしげに目をしばたき、曖昧《あいまい》にくりかえした。
「われわれは、警察が警戒をきびしくし、治安判事がきびしい態度をとることを望んでいる。イギリスの裁判は全体に寛大で、全然弾圧手段をとらないので、ヨーロッパじゅうの非難の的《まと》になっておる。不安を強調し、あきらかに存在しておる人心の動揺を強調すること、それがまさに現在望まれるのだ」
「ごもっとも、ごもっとも」ヴァーロック氏は雄弁に、深くうやうやしい低音でいった。それは最前の調子とはまるで別物だったので、参事官はたいへん面くらったようだった。
「民心は危険なほど動揺していますよ、参事官。この一年間の私の報告も、充分そういう状況を伝えていると思いますが」
「報告は読んだ。しかし、なぜ、あんなものを書いたのか、わしにはわけがわからんね」
落着いたひややかな口調で参事官はいいだした。
ちょっとのあいだ悲しげな沈黙があった。ヴァーロック氏は言葉を忘れたかのようだった。参事官は、じっとテーブルの上の書類を見つめ、最後にちょっと小突いてから、
「ここで明らかにされた情勢に対処することこそ、きみの最大の任務ではないか。今必要なことは、報告書の作成などではない。ある決定的な重要事実、そうだ、驚くべき事実を暴露《ばくろ》することなのだ」
「むろん、全身全力をあげて目的遂行にあたる所存です」とヴァーロック氏は、しわがれ声で、自信満々の抑揚をこめて返事した。しかし、テーブルの向い側から、ピカピカ光る眼鏡で注意深く見つめられているのを感じると、当惑してしまった。彼は、全身全力をあげる、という身振りよろしく、口を閉じた。
有能にして勤勉なウルムト参事官は、あることに感心したようにいった。
「ずいぶん肥っているね、きみは」
この言葉は、じっさい心理的な性質のものであり、活動的人生から要求されるものよりも紙とインクに親しんでいる官僚の控え目なためらいをもっていわれたのだった。しかし、これは個人的な点にふれたぶしつけな言葉とヴァーロック氏には思われた。彼は一歩後退すると、「え、何ですって?」とかすれた声で憤りをこめて叫んだのだ。この会見をまかされた参事官は、自分の手にはおいかねると思ったらしい。
「きみはウラジーミル一等書記官に会ったほうがいい。いや、ぜひそうしなくちゃいかん。ここで待ちたまえ」といいたすと、気取った歩き方で部屋から出て行った。
すぐさま、ヴァーロック氏は頭に手をやった。額に少し汗をかいている。彼は、暑いスープを吹く人のように、口をすぼめてフーッと息を吐き出したが、茶色い制服の召使いが、静かにドアのところにあらわれるまで、先程の場所から一インチも動いていなかった。落し穴に取り巻かれていると感じた人のように、身動きひとつしなかったのだ。
ヴァーロック氏は、ガス灯が一つともった廊下を通り、螺旋《らせん》階段を登って、二階の艶《つや》光りする明るい廊下を歩いて行った。従僕は、とあるドアをサッと開いて、脇にさがった。ヴァーロック氏の足は、ぶあつい絨毯《じゅうたん》を感じた。大きい部屋だ。窓が三つある。巨大なマホガニーの書き物テーブルの前のゆったりした肘掛《ひじかけ》椅子《いす》に、きれいにひげをそった大顔の青年が坐っていた。
「あなたのいう通りだ。まったく、よく肥ってるな、この男は」と青年は、書類を片手に退室しようとするウルムト参事官に、フランス語でいった。
ウラジーミル一等書記官は、気持のよい愉快な人物としてサロンで名声を博し、かなり社交界の寵児《ちょうじ》になっていた。彼のウィットは、あい矛盾する観念のあいだにある滑稽な関連を見出すことにあった。こういう調子でしゃべるとき、書記官は浅く椅子に腰かけ、まるで、親指と人差し指のあいだで面白い形を作ってみせるみたいに、左の手を挙げる。きれいにそりあげた丸顔には楽しげな当惑をうかべながら。
けれども、今ヴァーロック氏を眺める様子には、どこにもそんなところは見えなかった。書記官は深い肘掛椅子にたっぷり身を沈め、直角にひじをはって、片足をもうひとつの丸い膝の上にのせていた。すべすべしたばら色の顔には、たとえだれであろうと、ふざけたことには我慢できない異常に肥った赤ん坊といったところがあった。
「きみはフランス語はしゃべれるかね?」と書記官がたずねた。ヴァーロック氏はかすれ声でウイと答え、大きな図体を前にかたむけた。片手にステッキと帽子、片手を側にだらりとたらして、部屋のまんなかの絨毯の上に立ちながら。
彼が、どこか喉の奥深いところから出るような声で、若い頃フランスの砲兵隊にいたことがありますから、と遠慮がちにつぶやくと、たちまち、書記官は軽蔑したように意地悪く言葉を変え、今度は外国|訛《なま》りのまるでない悪達者な英語でしゃべりだした。
「なるほど、じゃあ当り前だ。で、フランスの新式野砲の改良尾栓の設計図を手に入れて、いくらせしめたかね?」
「砦にぶちこまれて重禁錮《じゅうきんこ》五年ですよ」とヴァーロック氏はいった。意外に無感動な声である。
「それにしては簡単に出られたもんだ」と書記官はいった。「とにかく、捕《つかま》ったのは当然の報いだね。しかし、なぜ捕ってしまったのかね?」
ヴァーロック氏は、「その時分あるつまらぬ女に熱をあげ、それが身の仇《あだ》となって……」と、かすれ声で一場の懺悔《ざんげ》におよんだ。
「なるほど。事件の蔭に女あり、というわけか」と書記官は軽く口をはさんだが、愛嬌《あいきょう》のよさはなかった。それどころか、なにか冷酷さがあった。
「大使館に雇われてどのくらいになる?」
「亡くなられたシュトット=ヴァルテンハイム男爵以来です」と、ヴァーロック氏は故大使を悼《いた》んで悲しげに唇をすぼめ、弱々しく答えた。
「ふーむ、なるほど。それ以来か。ところで、きみはなにか弁解したいことがあるかね?」
ウラジーミル一等書記官は、じっと相手の顔を観察しながら、鋭くたずねた。
少々驚いて、ヴァーロック氏はべつにありませんと返事をした。「手紙でここに呼び出されただけなんですよ」ヴァーロック氏はあわててオーバーのポケットから手紙を出しかけたが、嘲《あざけ》るように皮肉な目つきで書記官が眺めているので、やめてしまった。
「しょうがないな!」と書記官はいった。「そんなふうに条件を破って、いったい、どういうつもりなんだ? きみときたら、任務にふさわしい体格さえ持っていない。そんな図体で飢えたるプロレタリアの一員だって! 笑わせるね。きみはやけっぱちの社会主義者かい、それともアナーキストかね、どっちなんだ?」
「アナーキストですよ」とヴァーロック氏は鈍重に答えた。
「冗談じゃない!」と書記官は声を張りあげずに言葉をつづけた。「ウルムトさんもきみにはびっくりしていたよ。ばかをだますのとはわけがちがうぞ。ついでだが、連中は皆ばかだがね。きみはまったくどうしようもない男のようだな。きみはフランスの大砲の設計図を盗んでわれわれと関係ができ、逮捕されてしまった。わが国の政府はさぞかし困ったことだろう。あんまり、きみは抜け目ない男とは思えないね」
ヴァーロック氏は、しわがれ声で弁解につとめた。
「今お話したように、あるつまらん女にのぼせたのが身の破滅で……」
書記官は、白い大きなブクブクした手を上げた。
「そうだろうよ。若き日の恋が仇となり、というやつさ。女が金をにぎって、警察にきみを売り渡した、そういう寸法だろう?」
ヴァーロック氏の表情に悲しげな変化が現われ、一瞬、身体がぐんにゃりしたことから見て、残念ながら事実その通りだったにちがいない。書記官は膝にのせた踵を手でかかえた。靴下は濃いブルーの絹製だった。
「あんまり分別があったとはいえないな。たぶん、きみは女に弱すぎるのだ」
喉《のど》の奥から出る低い含み声で、ヴァーロック氏は、私だってもう若くはありませんから、といった。
「いや、あのほうだけは年でも直らないものだ」と書記官は、不吉なほど馴れ馴れしくいった。「いや、そうじゃないかな。きみは恋をするにはあんまり肥りすぎているからね。もし、きみが感受性のある人間なら、そんなに肥れるわけがない。ほんとうに、きみは怠けものだ。何年くらい大使館から金を貰っているのだ?」
「十一年です」とヴァーロック氏は、ちょっと不機嫌にためらって答えた。「シュトット=ヴァルテンハイム男爵がまだ駐仏大使時代、私は何回か任務でロンドンに来たのです。それから、男爵の指令でここに定住したのです。私はイギリス人なんですよ」
「きみが! 本当かい?」
「生れながらのイギリス臣民ですよ」と、ヴァーロック氏は鈍重にいった。「でも、おやじはフランス人でした。ですから……」
「いや、説明はけっこう」と書記官はさえぎった。「法律的に、きみがフランスの元帥《げんすい》だろうと、イギリスの国会議員だろうと、どっちだっていい。もっとも、もしそうだったら、いくらかわれわれの役には立ったんだろうけどね」
この空想の飛躍を聞いて、かすかな微笑がヴァーロック氏の顔にうかんだ。書記官はなおもきびしい態度をくずさなかった。
「しかし、さっきもいったように、きみは怠け者だ。ちっともチャンスを利用しようとしない。男爵時代には、大勢のまぬけな連中が大使館を動かしていた。連中が、きみみたいな人間に、情報活動の性格について誤った観念を植えつけたのだ。ぼくの仕事は、情報活動とはそんなもんじゃないってことをきみに教え、誤解を正すことだ。博愛事業とはちがうんだ。そのことを教えてやるために、わざわざここにご出頭願ったという次第だ」
ウラジーミル書記官は、相手の顔にわざとらしい困惑がうかぶのを観察して、皮肉に微笑した。
「ぼくのいう意味が完全にわかったようだね。たぶんきみだって、今の仕事をするくらいの頭はあるんだろう。現在われわれが欲するものはなにか、それは活動することなのだ」
この最後の言葉をくり返しながら、書記官はテーブルの端に長い人差し指をのせた。ヴァーロック氏の声から、しゃがれたところがすっかり消え、オーバーのビロードの襟あたりで猪首《いくび》がまっ赤になった。彼は大きく口を開き、ぶるぶると唇をふるわせながらいった。
「私の報告を調べてもらえれば、わかることですが」と彼は、腹に響くほど大きい、澄んだ低音で雄弁につづけた。「この私ですよ、わずか三月前も、ロムアルド大公のパリご訪問に際して、警報を発したのは。当地から、それがフランス警察に無電で通報され、そのおかげで……」
「やめたまえ!」と、書記官は眉をしかめてどなった。「フランス警察は、なにもそんな警報などいらなかったのだ。わめくのはよせ。いったい、どういう了見だ?」
謙虚に、しかも誇らしげに、ヴァーロック氏は、ついわれを忘れまして……と弁解につとめた。私の大声は長年野外集会や、大ホールの労働者集会で評判でして、信頼すべき立派な同志として名声を獲得するのに役立ちました。ですから、大声は私の効用の一部なのです。私が信用されたのも、その大声のお陰なのです。
「何か重大なことがあると、きまって引っ張り出されて、演説させられるんですよ」と、ヴァーロック氏はさも得意そうだった。そして、どんなにさわがしくても聴衆に私の声が聞こえないことはありませんでした、とつけ加え、いきなりその一端を披露《ひろう》したものだ。
「ちょっと失礼」というが早いか、彼はうつむいたまま敏捷《びんしょう》に重い身体をフランス窓に運び、まるで制御できない衝動に身をゆだねたように、細目に窓を開いた。書記官は驚いて身を沈めていた肘掛椅子から跳びあがり、肩越しにふり返った。警官の広い背中が、大使館の中庭越しの開いた門の向うに見える。警官は金持の赤ん坊をのせた豪奢《ごうしゃ》な乳母車が、威風堂々《いふうどうどう》広場を渡って行くのを、ぼんやり眺めているところだった。
「おーい、ポリ公!」とヴァーロック氏は、楽々と声を張りあげた、まるで囁《ささや》くような工合に。警官は何か鋭い道具で突つかれたようにくるりとふり向いた。書記官は大声で笑った。ヴァーロック氏は静かに窓を閉め、部屋の中央に戻って来た。「こんな声ですから、信頼されたのも当然でした」と、ヴァーロック氏は嗄《か》れた低音で気取らずにいった。
「その上、私は演説する≪こつ≫を心得ていたんですよ」
ネクタイを直しながら、ウラジーミル書記官は、暖炉の上の鏡にうつる相手の顔を観察した。「たぶんきみはしこたま革命家用語を暗記したんだろうな」と書記官は嘲るようにいった。「声《ヴォック・エト》……。きみはラテン語を習ったことはないだろう?」
「ありません」とヴァーロック氏はうなるように答えた。「ラテン語など知ってるはずがないでしょう。私は大衆のひとりなんですから。ラテン語なんて、だれが。そんなものは、自分の始末もできない何百人のばかどもが知ってるだけです」
半時間以上も、ウラジーミル書記官は、相手の肉づきのいい横顔や、肥えふとった身体を観察した。書記官は、同時に、自分の顔が鏡に見えるという利点があった。それはきれいにひげを剃り、丸顔で血色がよく、トップクラスの社交界で彼をかくも寵児にしたあの鋭い警句を吐くにふさわしい薄い華奢《きゃしゃ》な唇をした顔だった。突如、書記官は向きを変え、ひどく決然とした態度で部屋の中に進んできたので、奇妙に旧式な彼の蝶ネクタイの端さえも、何か脅迫するように逆《さか》立ったようだった。書記官の動きはたいそうすばやく、荒々しかった。ヴァーロック氏は横目で一瞥《いちべつ》して、内心たじろいだ。
「よくもまあ、抜け抜けと」ウラジーミル書記官は、驚くべき喉音でいいはじめた。それはまったく非英語的であるばかりか、完全に非ヨーロッパ語的な音だったので、世界中の人間の集まるスラム街を知っているヴァーロック氏にとってさえ、驚くべきものだった。
「まったく! あつかましいにもほどがある。よし、じゃあ、わかりやすくいってやろう。われわれはきみの声などに用はない。われわれの求めるのは、事実、それも世間を愕然《がくぜん》とさせる事実だけだ。このろくでなしめ!」と書記官は、あらあらしく、しかし慎重に、ヴァーロック氏にどなりつけた。
「ハイパーボーリアン〔ギリシア神話の北極の常春の国に住む人々〕みたいな態度でかかって来るのはやめてくださいよ」とヴァーロック氏は絨毯をみつめながら、かすれ声で防衛につとめた。それを聞くと、書記官は嘲るような薄笑いをうかべ、急に会話をフランス語にきりかえた。
「きみは煽動家《せんどうか》となることに一身を捧げている。煽動家本来の任務は煽動することだ。しかし、ここに保存してある報告から判断するかぎりでは、この三年来、給料にふさわしい仕事はなにもやっていないな」
「なんにもですって!」とヴァーロック氏は叫んだ、手足ひとつ動かさず、視線も上げず、声にだけ真実味をあらわしながら。
「私はですね、数回にわたって未然に……」
「イギリスの格言にいわく、『予防は治療にまさる』」と書記官は、椅子に身を投げ出してさえぎった。「だが、一般論としては馬鹿げている。予防には際限ないからね。しかし、イギリス人らしい格言だ。彼らは究極性を好まないのだ。きみも、あんまりイギリス的では困るね。それに今の場合、ばかなことをいっている暇はない。すでに、ここには悪は存在してるのだ。われわれの欲するものは予防ではない、治療なのだ」
書記官は言葉をきるとテーブルに向き直り、置いてある報告をめくりながら、事務的な口調になって、たずねた。
「もちろん、きみはミラノで開催された国際会議のことは知っているだろうな?」
ヴァーロック氏はしわがれ声で、毎日、新聞を読んでいますから、と答えた。さらにたずねられると彼は、自分が読むものはちゃんと理解しています、と答えた。これを聞いて、書記官は薄笑いをうかべ、次々と書類を走り読みしながら、つぶやいた。
「ラテン語で書いてないかぎりはだろう、ヴァーロック君?」
「中国語もですよ」とヴァーロック氏はにぶくいった。
「ふむ。きみの同志諸君の革命的熱弁がのっているが、中国語同様さっぱりちんぷんかんぷんだね」と書記官は、軽蔑したように灰色の印刷物を下に落した。
「ハンマーとペンとたいまつを組み合わせて、F・Pという見出しのついたこのパンフレットは何かね?このF・Pとは何のことなのかね?」
ヴァーロック氏は、威圧的な感じのする書き物テーブルに歩みよった。
「『プロレタリアの未来』の略称で、結社なのです」と彼は、肘掛椅子のかたわらでおもおもしく説明した。「結社の思想はアナーキズムではなくて、革命的な主張なら、すべてを受け入れる立場をとっていますがね」
「きみはその一員かい?」
「副総裁のひとりですよ」と、おもおもしくヴァーロック氏はいった。書記官は顔を上げて、この大男を眺めた。
「じゃあ、恥を知るがいい」と痛烈にいい放った。「きみの結社は、こんな薄汚い紙に愚にもつかぬ予言を刷《す》りこむ以外に能はないのか? なぜ、何か行動しないのだ? 今、ぼくの手もとには、こんな証拠があがっているんだ。はっきりいっておくが、もらっている金にふさわしいだけの仕事をやれ。お人よしのシュトット=ヴァルテンハイム男爵時代の甘い汁はもうおしまいだ。働かなけりゃ、金はやれない」
ヴァーロック氏は、頑丈な足がくずれそうな奇妙な感じを味わった。彼は一歩さがって、大きく鼻を鳴らした。
じつのところ、彼はすっかり肝《きも》をつぶしたのだ。錆《さび》色の太陽はもがきながらようやくロンドンの霧を逃れ、ウラジーミル一等書記官の私室に微温的な光を投げかけていた。その静けさのなかで、ヴァーロック氏は一匹の蝿《はえ》が弱々しく窓ガラスに羽ばたくのを聞いた。今年最初の蝿だ。燕《つばめ》よりもよく春の訪れを告げるこのちっぽけで活発な生物の無意味な努力は、その怠慢ぶりをどやしつけられたこの大男の心を不愉快に刺激した。
その間、書記官は心のなかで、相手の容貌や風采の悪口をあれこれと考え出そうとつとめていた。なんて粗野で、鈍重で、厚かましくて、気のきかぬやつなんだろう。まるで、請求書を持って来る鉛管工の親方そっくりの顔つきではないか。ときどき、アメリカ式のユーモアを使用するこの外交官は、この種の職人こそ嘘つきで、怠け者で、かつ無能の典型である、という特殊な観念を作りあげていたのである。
この男が、故大使の公文書や半公文書や親書のなかで、△という記号でしかあらわされないほど極秘の信頼厚い情報スパイだったのか。その警告に従って皇帝や大公の旅程や計画が変更され、ときにはそれをまったく延期させることのできた人物だったのか! この能なしのデブがねえ、と書記官は自分の無邪気な驚きを嘲りたくなったけれど、同時に、皆に惜しまれている故大使のまぬけさ加減をたっぷり嘲って、笑い物にしてやりたいような感じを味わった。
故シュトット=ヴァルテンハイム男爵は皇帝陛下の覚えもめでたく、歴代の外務大臣の反対を押しきって大使に親補された形だったけれど、利口ぶったペシミストにありがちな瞞《だま》されやすさでは、生前定評があった。男爵の脳裡には、つねに社会革命があり、恐るべき民主主義的激変のなかで、自分は神意によってこの世界の終りと外交の終末を見守るためにとっておかれた外交官だと思いこんでいた。男爵の悲痛な予言的公電は、長いあいだ外務省でもの笑いの種になったものだ。仲のよい皇帝が、親しくその臨終の床を訪問されたとき、男爵は「不幸なるかな、ヨーロッパよ! 汝はその子らの道徳的発狂によって滅亡するならん!」と絶叫したという。
あのじいさんは、いちばん最初にやって来たイカサマな悪党の喰い物になる運命だったのか、と書記官は、ヴァーロック氏に曖昧《あいまい》な微笑を送りながら考えた。
「きみは亡き大使の想い出をうやまわなくちゃいけないな」とウラジーミル書記官は突然叫んだ。うつむいていたヴァーロック氏の顔に、暗いうんざりしたような怒りの表情があらわれた。
「失礼ですが、手紙で来いというから、ここに来たんじゃないですか。十一年間のうちで、私がここを訪れたのはたった二回だけですよ。それに、朝の十一時に来いなんてことはけっしてなかった。ここに呼びつけるなんて無分別きわまりますね。もし、だれかに見られたらどうするんです? そうなりゃ、笑いごとじゃありませんよ」
書記官は肩をすくめた。
「私の価値が台無しになるじゃありませんか」とヴァーロック氏はカッとなって、いいつづけた。
「こっちの知ったことかね」と書記官は、もの柔らかく残忍につぶやいた。「役にたたなくなりゃ、お払い箱さ。そう、即座にバッサリとね。そう、きみは……」と眉をしかめて、目を閉じた。うまく自然な表現が見つからなかったからだ。しかし、すぐに顔を輝かせ、きれいな白い歯をちょっとのぞかせて、「首にされるまでさ」といい切った。
またもや、ヴァーロック氏は、足を伝わって流れる脱力感に、あらゆる意志の力をこめて抵抗しなければならなかった。この感じを、だれかがたくみにいいあらわしている、「ガックリ来た」と。
それを意識すると、ヴァーロック氏は敢然と顔を上げた。書記官は、彼のはげしい詰問《きつもん》的な視線をまったく静かに受けとめた。
「われわれの望むのは、ミラノ会議に強壮剤を与えることだ」と書記官は、快活にいい放った。「会議では、政治的犯罪を弾圧する国際行動をとると協議したのに、まだなんの影響もないようだ。イギリスはぐずぐずしている。たわけたことに、この国ときたら、個人の自由に感傷的な配慮ばかりしているのだ。もし、きみの同志諸君が変節した結果とすれば、我慢のならぬ話だが……」
「その点なら、私は皆に目を配っていますから」とヴァーロック氏はかすれ声でいった。
「それより、連中を全部閉じこめておくほうが、ずっと適切な処置だと思うがね。ともかく、イギリスを戦列にひきずりこまなくちゃいけない。この国のおろかなブルジョワどもは、自分たちを家から追い出して野垂れ死させることを目的にしている連中とグルになっているありさまだ。しかも、ブルジョワどもは、分別さえあれば、自分たちの階級を存続させるだけの政治力は、まだ充分に持ち合わせているはずなのだ。イギリスの中産階級がまぬけだというぼくの考えには、きみも賛成だろう?」
ヴァーロック氏はかすれ声で賛成した。
「彼らには想像力が欠けている。ばかげたうぬぼれでめくらになっている。ひとついま、痛快におどしつけてやる必要がある。いまこそ、きみのお仲間のアナーキスト諸君を活躍させる絶好のチャンスだよ。きみをここに呼んだのも、ぼくのこの考えを明らかにするためなのだ」
そして、ウラジーミル書記官は、軽蔑と恩着せがましさをまじえながら、高みからヴァーロック氏に自らの考えなるものを説きあかしていったが、それは革命運動の真の目的や、思想や、方法について多くの無智を暴露していた。黙って拝聴していたヴァーロック氏は、内心|呆気《あっけ》にとられた。
書記官は許される以上に原因と結果をごったまぜにし、すぐれた政治宣伝家と衝動的なアナーキストをいっしょくたにした。また、ことの性質上ありえない組織を想定し、あるときは社会革命結社が指導者の言葉を絶対至上視する完全に訓練された軍隊みたいにいうかと思えば、次には山峡にキャンプをはる命知らずの山賊のてんでばらばらな集団のようにいう始末である。一度ヴァーロック氏が口を開いて抗議しかけると、書記官は形のよい大きな手をあげておしとどめた。あまりおどかされたので、ヴァーロック氏は抗議しようとすることさえやめてしまった。あとは、一見身じろぎもせずに傾聴するのに似た静けさのなかで、畏れかしこんで拝聴するほかはない。
「一連の暴力行為を、このイギリスでやってみせるのだ」
書記官は落着きはらってつづけた。
「ただ計画するだけではだめだ。だれも皆気にもとめるまい。欧州大陸の半分に火がついたって、英国の世論に広汎《こうはん》な弾圧立法を賛成させることはできっこない。この国じゃ、だれも裏庭から外を見ようとしないときている」
ヴァーロック氏は咳払いしたが、心がくじけて何もいいだせなかった。
「暴力行為といったところで、なにも血を流す必要はない」と書記官は、科学の講義でもするようにいいつづけた。「しかし、じゅうぶん人心を驚かせるにたる効果的なものでなくてはいけない。たとえば、建物を破壊するのだ。現代のブルジョワがことごとく認め、崇敬|措《お》く能わざるものは何だろう、え、ヴァーロック君?」
いわれて、ヴァーロック氏は両手をひろげ、ちょっと肩をすくめた。
「きみは怠け者だから考えようとしないのだ」と書記官は、その仕草《しぐさ》を批判した。「ぼくのいうことに留意するがいい。現代の崇拝の的《まと》はね、王室でも宗教でもない。だから、宮殿や教会に手をふれてはいけない。ぼくのいってることがわかるかね、ヴァーロック君?」
ヴァーロック氏はうろたえ、ばからしくなって軽口をたたいた。「よくわかります。では、大使館などはどうですか? 次々に各国大使館を襲うんですよ」
しかし、書記官のひややかな、油断のない目つきで見つめられて、目をふせた。
「おどけるのはご勝手に。けっこうだとも」と書記官はぞんざいにいった。「社会主義者の集会では、さぞかしきみの雄弁に生彩を与えるだろうよ。しかし、この部屋はそんな所じゃない。そんな冗談口をたたくより、ぼくの言葉を謹聴《きんちょう》したほうが、はるかに身のためというものだ。今日呼んだのは事実を提供させるためだ。愚にもつかぬことをいわせるためではない。だから、ぼくがわざわざ教えてやってることを利用するよう、つとめるがいい。現代の神聖にして犯すべからざる崇拝の的《まと》は科学なのだ。きみは、なぜ同志たちに科学という名のまぬけ面《づら》をした偉物を攻撃させようとしないのか? それこそ、お得意のプロレタリアの未来とやらがやって来る前に、きみたちが粉砕しておくべきもののひとつじゃないのかね?」
ヴァーロック氏は無言だった。口を開けば、うめき声がもれそうになるからだ。
「きみのやるべきことはそれだ。君主や大統領の命を狙うのも、それなりに充分センセイショナルではあるだろう。が、昔ほどではない。みな、国家の元首には、そういう危険があるものと思っている。それはおきまりの手だ、ずいぶん大統領が殺されたからね。では、教会を襲ったとしたらどうか。最初は、非常に恐るべき事件に見えるだろうが、ふつうわれわれが考えるほど効果的ではない。はじめは、いかに革命的で、アナーキスチックだったところで、ばかな連中がそれを何か宗教的な示威運動だと思ってしまうだろう。そうすれば、われわれがその行動に与えようとした特殊な、人を驚かせるような意味からそれることになる。レストランや劇場に爆弾をしかけて人を殺したところで、やはり政治以外の情熱からやったと考えられるだろう。飢えた男が腹立ちまぎれにやったとか、社会に復讐したんだとかいうふうに。
そんなやり方は全部古いな。革命的アナーキズムの実物教育としては、もう有益じゃない。新聞はいろいろな既成の言葉で、こうした示威行動をいとも簡単に説明し去るのだ。ぼくは、ぼく自身の観点から、きみにアナーキストの哲学を教えてやろうとしているのだ。この十一年来、きみがそれに奉仕してきたと称する見地からだ。もちろん、きみの頭でもわかるようにしゃべってやるつもりだが。きみたちが攻撃しているブルジョワ階級の感受性はすぐににぶくなる。彼らには、財産は不滅だとうつるらしい。きみは、奴らの憐れみや恐怖が永続きすることを当てにはできないよ。だから、世論に影響を与える目的で爆弾をしかけるにしても、復讐やテロ以上の意図を持つ必要がある。それは純粋に破壊的でなくてはならないのだ。きみたちは、それだけを目的にするのだ。それ以外は、どんなことでも考えてはいけない。きみたちアナーキストは、あらゆる社会的創造物を断固粉砕しようとしていることを明らかにしなければいけないのだ。
しかし、ブルジョワどもの頭にそうした恐るべき妄想を疑いの余地がないくらい植えつけるには、どうしたらいいか? それが問題だ。人間のふつうの情熱では思いもつかぬ何かあるものに、爆弾をたたきつけてやればいい。当然美術館がうかんでくる。国立美術館《ナショナル・ギャラリー》を爆破すれば、いくらか騒ぎがおきるだろう。が、たいして重大なことにはなるまい。美術などはけっして彼らの崇拝の対象ではないからだ。それは、人家の裏窓を少々ぶっ壊すようなものだ。しかしだ、じっさいに人を驚かそうと思ったら、少くとも屋根くらいは吹っ飛ばす必要がある。むろん、少しは金切声がおこるだろうが、いったい金切声をあげるのはだれか? 美術家、美術評論家、そんなとるにたらない連中だけだ。奴らのいうことなど、だれが気にするものか。
だが、学問が、科学がある。収入さえあれば、どんなばかだって科学を信奉している。なんとなく、科学とはたいしたものだと信じている。科学こそ、神聖にして犯すべからざる崇拝の対象だ。教授などという手合いは、すべて皆心の底では急進主義者だから、奴らに科学はプロレタリアの未来のために道をゆずるべき時が来たことを知らせる必要がある。こういう知的な愚物がわめいてくれれば、ミラノ会議の労働者にきっと助けになる。彼らは新聞に書き立てるだろうし、たとえ物質的利益が公然と危険にさらされていなくても、憤慨することは疑う余地がない。そして、われわれが動かそうとするブルジョワ階級の利己心をおどしつけてやれるにちがいない。彼らはなにか神秘的に科学が自分らの物質的繁栄のみなもとだと信じている。
本当だとも。だから、こういう兇暴でむちゃくちゃな振舞いを見せつけてやれば、ブルジョワでいっぱいの道路や劇場を爆破するよりも、ずっと深刻な影響を及ぼすことになると思う。道路や劇場をやったところで、奴さんたちはいつもこういえるよ。
『おお! あれはたんに階級的憎しみの仕業《しわざ》だ』とね。
ところが、不可解で、説明もつかず、ほとんど想像を絶した不条理な兇暴な行為については、いったいどういえばよいのか? じっさい狂気としか呼べぬような振舞いについて? 真に恐るべきは気狂いのみだ。脅《おど》しても、説ききかせても、金をやっても、なだめられないんだから。おまけに、ぼくは文明人だ。かりにそこから最上の結果が期待できたとしたところで、きみにたんなる殺戮《さつりく》をやらせようなんて、絶対に思うわけがない。それに、そんなことぐらいで、望む結果が得られるとは思わない。殺人はつねにぼくらとともにあって、慣例みたいなものだからだ。示威運動は学問に、科学に対してでなければならぬ。
だが、科学なら何でもいいわけではない。その攻撃は驚くほど無意味で、冒涜《ぼうとく》的なものであるべきだ。爆弾は自己表明の手段であり、もし純粋数学に爆弾をたたきこめば実際、効き目があるのだろうが、そんなことは不可能にきまっている。
ぼくはきみに教えてやろうとしているのだ。きみの役割のもっと高級な原理をくわしく説明し、役に立つ議論を示唆してやっているんだ。きみがいちばん関心を持ってしかるべきなのは、ぼくの教えを実地に応用することだが、ぼくはこの会見の最初から、問題の実際面にもいくらか留意しているわけだ。で、どうかね、天文学を攻撃してみては?」
しばらく前から、肘掛椅子のかたわらのヴァーロック氏は、すでに虚脱|昏睡《こんすい》状態にあるように微動だにしなかった。それは一種の虚性的|麻痺《まひ》というべきもので、ときどき彼は、ちょうど炉辺の敷物の上でいねむりする犬がうなされてするように、軽くピクピク痙攣《けいれん》した。ヴァーロック氏は不安げな、犬のような唸り声でおうむ返しにいった。
「天文学ですって?」
ウラジーミル書記官の辛辣《しんらつ》な早口についていこうとしてヴァーロック氏は、まだ完全に狼狽《ろうばい》から立ち直っていなかった。それは彼の理解力を圧倒し、彼を腹だたせた。しかし、書記官の言葉をどこまで信じていいか疑っていたので、この怒りは複雑だった。突然、すべてこれは念入りに仕組まれた冗談ではないか、という考えがヴァーロック氏にうかんだ。
書記官はにっこりと白い歯をのぞかせた、えくぼをうかべた丸い肥った顔を、逆立った蝶ネクタイの上に得意げに傾けながら。この聡明な、社交界の貴婦人たちの人気者は、微妙な警句を吐くときの気取った態度を用いたのだ。書記官は椅子に浅く腰をかけ、白い手を上げて、親指と人差し指の間で、微妙な示唆をデリケートに保っているように思われた。
「これ以上よい方法があるはずがない。これは人間性への最大の配慮と、もっとも兇暴な愚鈍さとを組み合わせたものだ。いくらジャーナリストが器用だといったって、天文学に恨みをもつプロレタリアがいるなんて世間に思いこませられるものか。そこに飢えの理由などをこじつけるのはまず無理だろう。それに、ほかにもいろいろ利点がある。この文明の世のなかに、グリニッジ天文台の名を知らぬ者はあるまい。チャーリング・クロス停車場の地下の靴みがきだって、その名前くらいは耳にしているよ。どうかね?」
そのユーモラスな優雅さで上流社会に令名高いウラジーミル一等書記官の顔は、シニカルな自己満足に輝いた。そのさまは、書記官の才気をひどく喜ぶ聡明な貴婦人たちをびっくりさせたにちがいない。
「そうとも」と彼は軽蔑的な薄笑いをうかべてしゃべりつづけた。「本初子午線を吹っ飛ばせば、かならずや憎悪のわめき声がおこってくるだろう」
「難しい仕事ですな」とヴァーロック氏はもぐもぐといった。それしか安全な言い方がないのを感じたからだ。
「どうした、手許にきみの同志がいるじゃないか? みな粒よりの連中なんだろう? 往年のテロリスト、ユントじいさんは、帽子にグリーンの日覆いをつけて、毎日ピカデリー〔ロンドンの大通り〕をうろついているし、仮出獄された革命の使徒マイケリスもいる。まさか、あの男の住所を知らんとはいわせないぞ。きみが知らなけりゃ、こっちで教えてやる」と書記官は、脅迫がましくいいつづけた。「もし、きみが自分だけが秘密資金リストにのっている唯一の人間だと考えているとしたら、それはお門《かど》ちがいというものだ」
あまりに荒唐無稽なこの提案を聞いて、ヴァーロック氏は足を少々もじもじさせた。
「それに、ローザンヌの一党はどうしたい? ミラノ会議の最初の指令で、ここに集結しているんじゃないのかね? 英国はたわけた国だからな」
「しかし、金がかかりますよ」とヴァーロック氏は本能的に答えた。
「そうは問屋がおろさないぞ」書記官はびっくりするほど本物の英語のアクセントで反駁《はんばく》した。「毎月の給料はくれてやるが、なにか騒動をおこすまでは、余分の金はびた一文やらない。しかも、もし近々にでなかったら、給料だってやらないぞ。きみのおもてむきの商売は何なのかね? なんで暮らしてることになっている?」
「店をやってるんです」
「店! なんの?」
「文房具や新聞のですよ。妻がなにして……」
「だれがだって?」と書記官は、中央アジア的な喉音で相手の言葉をさえぎった。
「妻がですよ」ヴァーロック氏はちょっとかすれ声を高くした。「私は結婚してるんです」
「これは驚いた!」と書記官は心から驚いて叫んだ。「結婚してるだと! そのくせ、アナーキストを名乗っているのか! なんたる滑稽さだ。しかし、きみ、それはたんに話の方便だろう? アナーキストは一生独身を通すものだ。それは周知の事実だよ。アナーキストが結婚できるはずがない。変節行為になるんだよ」
「私の妻はちがいます。第一、あなたに関係ないことでしょう」とヴァーロック氏はもぐもぐといった。
「いや、大ありさ。きみは任務には全然不向きな男だと確信しはじめたね。結婚してるという言葉で、きみの信用はゼロになった。なぜ、独身でいられなかったのだ? これがきみの気高い愛情というやつなのかね? 一方では革命を愛し、他方では女房を可愛がるというわけで、きみは不用の人間になりつつある」
ヴァーロック氏は頬をふくらませ、荒々しく息を吐き出した。それだけだった。はやくも忍耐で身を守ることにしたのである。これ以上長くやっつけられてはたまらない。
書記官は突然ぶっきら棒な、きっぱりした超然たる態度になって、「もう行ってよろしい」といった。「ダイナマイト騒動は絶対にやること。ひと月|猶予《ゆうよ》を与える。ミラノ会議は中断状態だ。再開の前に、ここでなにか起せなかったら、きみは首だ」
今度はまた調子を変え、無節操な軽薄さで、「ぼくのいったことをよく考えたまえ、ヴァーロック君」と手をドアの方にふってみせ、恩着せがましい口調で、軽蔑したようにこういった。
「本初子午線を襲うことだ。きみはぼくほどよく中流階級というものを理解してないな。彼らの感覚はくたびれているんだ。本初子午線をやっつけること。これほどいい、たやすい方法はないね」
早くも書記官は椅子から立ちあがり、薄い繊細な唇をユーモラスにふるわせながら、ヴァーロック氏が帽子とステッキを手におもおもしく部屋を出て行く姿が鏡にうつるのを眺めていた。ドアが閉った。
従僕が突然廊下にあらわれ、ヴァーロック氏を中庭の角にある小さな戸から退《さが》らせた。門番は彼が出て行くのを完全に黙殺した。ヴァーロック氏は腹立たしい夢でも見ているように、もと来た道をたどった。彼の心は物質的な世界とはあまりにかけ離れていたので、さして道を急いだわけではなかったにもかかわらず、彼の肉体(むろん精神も。さもないと氏に対してたいそう失礼な言い方になるだろう)は、ちょうど西から東へ大きな風の翼に運ばれたように、たちまち店の戸口の前に舞い戻った。
ヴァーロック氏はカウンターの後ろにまっすぐ進み、そこにある木の椅子に腰をおろした。だれも邪魔をする者はいなかった。グリーンの粗ラシャのエプロンをつけたスティーヴィーは、遊戯でもしているように一心に誠意をこめて二階を掃除中だったし、台所にいたウィニーは鈴の音で居間のドアのところにあらわれ、ちょっとカーテンをどけて薄暗い店内をのぞきこんだだけだった。彼女は帽子を阿弥陀《あみだ》にかぶった夫の大きな図体が影のようにそこに坐っているのを見ると、すぐにストーブの側に戻って行った。
一、二時間たったとき、彼女はスティーヴィーのエプロンをとってやり、自ら弟の手や顔を洗ってやるのをやめて以来十五年間変らない断固たる口調で、手と顔を洗っておいでといいつけた。
まもなく、彼女は食事の盛りつけから視線を上げ、テーブルのところに来たスティーヴィーが不安をおし隠した自信ありげな様子でさし出した手と顔を調べた。むかしは父親が怒るので、この儀式がきわめて有効なものと認められたのである。けれども、今や、あのもの静かなヴァーロック氏が家庭生活のなかで、荒い言葉を使うことはなかっただろう。あの極度に感じやすいスティーヴィーに対してさえも。ただウィニーがそうしたのは、口には出さないけれど、夫は食事のとき少しでも清潔さが欠けると気分を害したり、衝撃を受けるのではないか、と考えたからにすぎない。
父親の死後、ウィニーはもはや弟のためにふるえる必要はないだろう、そう思うととても心が慰められた。彼女は弟が傷つくのを見るのが我慢できなかった。ほんの子供の頃、弟をかばって、目をギラギラと輝かしながら、たびたび父親とにらみあったものだ。しかし今の彼女には、とてもそうした激しい感情をあらわせそうには見えなかった。
ウィニーは食事の盛りつけを終え、テーブルを居間に出し、階段の下のところから、「母さーん!」と呼んだ。それから、店に通じるドアを開けて、「アドルフ!」と静かにいった。
ヴァーロック氏の位置は変っていなかった。一時間半ものあいだ、手足ひとつ動かさなかったらしい。彼は重そうに立ち上り、オーバーと帽子のまま無言で部屋に入って来た。日光がほとんど射さない暗い不潔な路地の奥の、あやしげな品物を並べた薄暗い売場の裏手にあるこの家では、主人が黙りこくっていること自体は、なんら驚くには当たらないのだった。
ただ、その日の沈黙はとても考え深げだったので、ウィニー母娘もそれに影響され、無言で食卓につき、少年が例の発作的なおしゃべりをはじめないかと案じ顔で、油断なく目をそそいでいた。ヴァーロック氏の向いでは、少年がうつろに見つめながら、大変おとなしくいい子にしている。もしかして、彼が一家の主人に不快感を与えはしないか、そう案じて、この二人の女たちは少なからぬ不安を味わった。「あの子ときたら」と彼女たちはそっといいあうのである。「ほとんど生れ落ちた日から、悩みの種だったわ」
今は亡き父親がこんな異常な息子を持ったのを恥じていたことは、生前彼がスティーヴィーにひどくあたりがちだったのを見てもわかることであった。なぜなら、父親はとても感じやすく、人として、父親として、まったく正真正銘の苦しみを味わっていたからである。父親の死後、母娘は少年が独身の下宿人たちの邪魔をしないよう気をつけねばならなかった。なにしろ、彼らは皆変り者で、すぐに機嫌を損《そこ》ねやすいのだ。そのため、少年の存在はいつも母娘の悩みの種になっていた。ベルグレイヴィアの朽ちかけたアパートの地下の食堂では、将来彼が救貧院の附属病院に入れられる姿が母親につきまとって離れなかったものだ。
「本当に、おまえ」と彼女は娘にいうのがつねだった。「あんないい旦那さんを持たなかったら、あの子はどうなったかしれやしないよ」
ヴァーロック氏は、とりたてて動物好きでない人が妻の愛猫に示す程度の承認をスティーヴィーに与えてくれた。寛大だがお座なりなこの承認は、愛猫の場合となんら本質的に変るところがなかった。母娘はこれ以上を期待できないことは承知していたが、それでもヴァーロック氏が義母からうやうやしい感謝を得るには充分だった。はじめの頃、寄辺《よるべ》ない生活に苦しめられ懐疑的になっていた母親は、ときどき不安げに娘にたずねたものだ。
「ねえ、おまえ。ヴァーロックさんはあの子の面倒をみるのがいやになりはしないかね?」
すると、ウィニーはいつも軽く頭を振ってみせたが、一度かなりぞっとするようなふてぶてしさで答えたことがある。
「それだったら、まずわたしに飽きるはずだわ」
後に長い沈黙が来た。ストールに足を乗せた老母は、この女らしい意味深重な答えに茫然として、真意をつかもうと努力するかにみえた。じっさい、なぜ娘がヴァーロック氏と結婚したのか、彼女にはまったく理解できなかった。それは大変分別に富む選択であり、すばらしい結果を生みはしたけれど、娘はもっと釣合いのとれた年頃の男と結婚することを望んでいたはずではなかったのか。
以前、ウィニーは隣り街の肉屋の一人息子で家業を手伝っている逞《たくま》しい若者と、たいそういそいそと出歩いた頃がある。じっさい若者はまだ親のすねかじりの身だったけれど、商売は順調で、その前途は洋々たるものだった。若者は彼女を幾度か観劇に連れて行き、二人の婚約を聞かされるのではないかと母親が冷や冷やしはじめたとき(スティーヴィーをかかえて、こんな大きな下宿をどうしてひとりでやっていけるだろうか)、ロマンスはにわかに終り、ひどくだるそうに娘は歩きまわるようになった。そして、天の助けか、ヴァーロック氏があらわれて二階の正面の寝室を借り、それ以来あの若者のことはもはや口の端にのぼらなくなった。それはあきらかに天の配慮だったのだ。
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三
「……あらゆる理想化は人生を貧しくする。人生を美化することは、その複雑な性格を奪い、それを破壊することだ。そんな仕事は道学者どもにまかせればいい。歴史を作るのは人間だ。しかし、人間は頭のなかで作るのではない。人間の意識のなかで生れた思想など、もろもろの事象の歩みのなかでは大した役割を演じやしないのだ。道具と生産……経済的諸条件の力が、歴史を支配・決定するのだ。資本主義は社会主義を生んだ。そして、財産を保護するために資本主義が作り上げた法律がアナーキズムを生む。社会組織が将来どんな形をとるかだれに予測できるだろう。だから、予言的空想にふける必要がどこにある? そんなものは、せいぜい予言者の心を解釈できるだけだ。なんら客観的価値を持ちえない。そんな暇つぶしは道学者どものやることだ」
アナーキズムの使徒、仮出獄者のマイケリスは、まるで胸の脂肪に弱められ、圧迫されたかと思えるような抑揚のないゼイゼイ声でしゃべっていた。彼は、暗いじめじめした独房のなかで十五年間、立腹した市民社会の下僕たちに脂肪のつく食物をあてがわれて肥育《ひいく》されたかと思えるほど巨大な太鼓腹《たいこばら》と、蒼白い、なかばすき通ったむくんだ頬をして、きわめて衛生的で桶のように丸い牢獄から出て来たところだった。以来このアナーキストは自分の体重を一オンスだって減らそうとはしないのである。
なんでも噂によると、さる富豪の未亡人が彼の健康を回復させるため、彼を三シーズンつづけてマリエンバート〔チェコスロヴァキアの温泉地〕に送ってくれたという。ところが、一度などは某国皇帝とともに同地の好奇心をわかつはずだったのが、警察から十二時間以内に退去することを命じられ、その後この殉教者はあらゆる温泉地での逗留を禁止され、今ではすっかりあきらめきっていた。
マイケリスは、どうみても関節とは思えない人形同然の屈曲部がついた肘《ひじ》を椅子の背になげかけ、短い肥った股の上に少し背をかがめて、炉格子のなかにぺっと唾を吐いた。
「そうだ、おれはいろいろと考える暇があったのだ」とマイケリスは、単調につけ加えた。「社会はたっぷり瞑想する時間を与えてくれたというわけさ」
暖炉の向い側の、ふだんヴァーロック夫人の母親だけが坐れることになっている≪ばす織≫の肘掛椅子では、カール・ユントが歯のない口をかすかに黒く歪め、くすくすと無気味な笑いをもらした。この自称テロリストは老いて頭は禿げ、顎《あご》からは雪のように白いちぢれた山羊《やぎ》ひげをたらし、光の消えた両眼には卑劣な害意にみちた異常な表情が残っていた。ユントは椅子から立ち上ったとき、痛風でみにくくはれた筋だらけの手を前に突き出したが、そこには残る力をふり絞り、最後のひと突きをあびせようとする瀕死《ひんし》の殺し屋の努力を思わせるところがあった。ユントは手の下でふるえる太いステッキにすがり、大声で凶暴にいった。
「わしはつねに手段を選ぶにあたっては、一切のためらいをしりぞけ、勇敢にして自ら率直に破壊者を名乗り、世界を腐らせているあの諦念的ペシミズムとやらの害毒に犯されておらぬひとびとの一団を夢みておった。自らをも含めて何ものにも憐れみを持たず、人類のために永遠に死と協力するひとびと、わしはそういう人間にお目にかかりたいと、いつも望んでおったのだ!」
ユントの小さな禿頭がふるえ、白いちぢれた山羊ひげがコミカルに揺れた。慣れない者には、彼の言葉はまったく理解できなかっただろう。ユントの衰えた情熱は、その無力な獰猛《どうもう》さの点で、老いたる好色漢の興奮に似ていたが、喉は涸《か》れ、歯茎は歯が抜けて舌端が埋まりそうだったので、ほとんど相手には伝わらなかった。部屋の他の隅のソファーに陣取ったヴァーロック氏は、二度ほど唸《うな》って深甚《しんじん》なる賛意をあらわした。
老テロリストは、やせた首をゆっくりまわした。
「だが、わしはけっしてそういう男を三人も集められなかった。まったく、あんたの気色の悪いペシミズムなどうんざりだ」とマイケリスに噛みついた。そういわれて、マイケリスは長枕同然の太い股をほどき、突如憤然として椅子の下に足をすべらした。
このおれが、ペシミストだと! とんでもない! その非難は言語道断だと、マイケリスは大声を出した。ペシミストどころか。おれはすでにあらゆる私有財産は、そこに内在する悪の発展によって論理的・必然的におわりつつあることを目撃しているのだ。財産所有者はめざめたプロレタリアと対決しなければならないばかりか、相戦うことを余儀なくされる。そうだ、闘争、戦いは私有財産権の条件であり、その滅亡は必至なのだ。ああ、おれの信念を支えるためには、何も感情的興奮や、雄弁や、怒りや、血のように赤いはためく旗のビジョンや、運命づけられた社会の地平線に立ち昇る毒々しい復讐の太陽の比喩を要しない。冷徹な理性こそがおれのオプチミズムの基礎なのだ、とマイケリスは豪語した。そうだ、オプチミズムこそが……。
彼は苦しげな言葉づかいを止め、一、二回|喘《あえ》いでから、つけたした。
「じっさい、もしおれがオプチミストでなかったら、この十五年間、なにか自殺する方法が見つからなかったとでも思うのかね? それに、最後には、頭をぶつけて死ぬのにはおあつらえ向きの独房の壁があったんだからな」
マイケリスの声からは、息切れのためまったく情熱や生気が失せ、大きな蒼ざめた頬はいっぱいなかみのつまった袋のようにたれて、筋一本ふるえなかった。しかし、のぞき見るようにほそめられた目は少々狂人的にすわり、この不撓不屈《ふとうふくつ》のオプチミストが、夜独房に坐って瞑想中だったとき示したにちがいない自信たっぷりな抜け目なさがうかんでいた。その前では、あせたグリーンの帽子の日覆いを横柄に肩に投げかけて、カール・ユントが立っていた。暖炉の前には、元医学生で、F・P・パンフレットの主要執筆者、同志オシポンが腰をおろし、頑丈な足をのばして、深靴の底を炉格子の火に向けていた。
オシポンの容貌は粗野なニグロ・タイプで、おしつぶした鼻に突き出た口、雀斑《そばかす》だらけの赤ら顔にちぢれた黄色い髪をし、巴旦杏《はたんきょう》のような目が高い頬骨の上からもの憂《う》げににらんでいた。服装はといえば、グレイのフランネルのシャツにサージの上衣を着、絹の黒ネクタイのほどけた端がボタンをとめた胸のところにたれている。オシポンは椅子の背に頭をのせ、大きく喉をのぞかせながら、長い木のパイプにはさんだ煙草を唇に運び、まっすぐ天井に煙を吹かしていた。
マイケリスは彼の思いを、孤独な隠遁《いんとん》の思想を追いつづけた。それは監獄の生活のなかで彼に許され、幻想裡にあらわれた信仰のように発展したものだった。マイケリスは聴き手の共感や反感や、その存在などをまったく無視して自分ひとりでしゃべったが、この習慣は、白塗りの独房の壁のなかで、社会的溺死者の巨大な死体置場にも似た河っぷちの陰惨醜悪な、窓のない煉瓦造りの建物の地下墓場的な静寂のなかで、希望を失わず、ひとり言をいう習慣から生れたものだった。
彼は議論が苦手であった。議論によって自らの信念がぐらつくからでなく、他人の声を聞くだけで痛ましい困惑をおぼえ、たちまち考えが混乱するからだ。彼の考えは、水のない砂漠よりもっと不毛な精神的孤独の中で、長い間、生きた人間の声と争ったり、批判されたり、賛成されたことが一度もないのだった。
今や、だれもマイケリスの言葉をさまたげる者はいなかった。そこで彼は恩寵《おんちょう》の行為のごとく抗しがたく、完全に彼を支配してやまないその信念を再び告白した。人生の物質面に見出される運命の秘密、過去とかかわり未来を形成する世界の経済的条件、そして人類の精神的発展や、その情熱の衝動を導くあらゆる歴史や思想のみなもとについて、マイケリスは語りつづけた。
同志オシポンの耳障りな笑い声がこの長広舌をぴたりとやめさせた。マイケリスの舌は突然もつれ、少々有頂天だった目は狼狽《ろうばい》のあまり落着きを失った。彼は、潰走《かいそう》した考えをまとめるかのように、一瞬ゆっくりと両眼を閉じた。沈黙が来た。ヴァーロック氏の居間は、すでにテーブルの上の二つのガス灯やまっ赤に燃える炉格子で、ひどく暑くなっていた。
ヴァーロック氏は重そうにしぶしぶソファーから立ち上り、台所に通じるドアを開けてもっと風を入れた。すると松材のテーブルの前にたいそうおとなしく坐って、無数の求心円や側心円を描いているスティーヴィーの無邪気な姿が丸見えになった。それらのまばゆい円の渦巻は、形が同一で、もつれあい、たがいに渾然と交叉して、宇宙の渾沌《こんとん》や、想像もつかぬことを試みようとする狂人の芸術を象徴していた。この芸術家は全然振り向きもせず、仕事に没頭し、背中がふるえていた。頭蓋骨《ずがいこつ》のつけ根で深くくぼんだほっそりした首は、いまにも折れそうに見えた。驚いて、またかと唸りながら、ヴァーロック氏はソファーに戻った。
すりきれた紺サージの上衣を着たアリグザンダー・オシポンの長身が低い天井の下にぬうっと立ち上り、長い間の硬直した不動の姿勢を振り落して、台所に歩いて行き(二段ばかり降りたところにあった)、少年の肩越しにのぞきこんだ。オシポンはもったいぶっていいながら、戻ってきた。
「たいしたもんだ。じつに特徴的だ。まったく典型的だ」
「何がたいしたものなんだ?」ソファーの隅にまた腰をおろしたヴァーロック氏が唸った。オシポンは顎《あご》で台所の方をしゃくり、教えてやるといわんばかりにぞんざいに説明した。
「ああいう絵を描くのは、この種の変質の特徴なのさ」
「すると、あの子が変質者だというわけかね」とヴァーロック氏がもぐもぐといった。
ドクターという綽名《あだな》の同志オシポンは、学位こそないが元医学生で、衛生の社会主義的側面について各地の労働組合で巡回講師をつとめたことがあり、『中流階級をむしばむ病い』という題名の通俗医学書(廉価なパンフレットで、即座に警察に押収されてしまったが)の著者であった。彼は、カール・ユントやマイケリスとともに正体不明の赤色委員会なる団体の代表として、文筆による宣伝活動に従っていた。今やオシポンは、科学と始終つきあっていなくては普通のにぶい人間にはとても備わるはずのない、あの我慢のならぬ魯鈍《ろどん》な自己満足の視線を、少なくとも二つの大使館でお馴染みの、だが無名のヴァーロック氏に向けた。
「科学的にはね。あの種の変質のきわめてみごとな例だよ。耳朶《みみたぶ》を見りゃ充分だ。ロンブローゾ〔イタリアの精神病理学者で、刑事人類学の創設者。一八三六〜一九〇六〕を読めばわかると思うけど……」
ヴァーロック氏はソファーの上に不機嫌そうに大きな図体をのせ、チョッキのボタンの列を眺めつづけたが、かすかに頬が紅潮してきた。最近ヴァーロック氏は、科学という言葉(それ自体としては、この言葉は腹立たしいものではなく、たんに漠然とした意味を持つにすぎないのだが)のどんな派生語が耳に入っても、ほとんど超自然的な明瞭さで、あのたまらなくむかむかするウラジーミル書記官のイメージが、心のなかに喚起されるのである。科学の驚異のひとつとして分類されてしかるべきこの現象は、荒々しい悪態をつきたいような恐怖と憤りをヴァーロック氏の中に駆りたてるのだった。
しかし、ヴァーロック氏はなにもいわなかった。口を開いたのは、いつも執拗なカール・ユントだった。
「ロンブローゾのばかもんが!」
おそるべきうつろな凝視でオシポンはこの痛烈な悪罵《あくば》に対抗した。光の消えた目……それは大きい骨張った額の下の深い翳《かげ》りを暗くしていたが……をしたユントは、まるで腹立ちまぎれに噛《か》みしめるかのように、二言《ふたこと》目には唇の間に舌の端をはさみながらもぐもぐといった。
「ロンブローゾほどのばかはおりゃせん。奴にとっては、犯罪者すなわち囚人じゃ。なんと単純ではないか。それでは、ひとを牢に閉じこめ、無理矢理おしこんだ連中はどうか。そうとも、おしこんだのじゃ。それに、いったい犯罪とは何かね? 大勢の貧しい不幸な囚人の歯や耳を調べて出世した、この大馬鹿野郎はそれを知っとるのかね? 歯や耳が犯罪者を特徴づけるだと? 冗談もいい加減にせい。さらには、法律とは何なのかね? それは飽食した連中が飢えた者から身を守るために発明した焼きごてではないか。飢えた者の肌におされた焼きごて。そうだ、それにちがいあるまい。ここにおっても、彼らの厚い皮膚が焼ける匂いや、じゅうじゅういう音が聞こえてくるわい。こうして囚人がでっちあげられ、ロンブローゾのような阿呆が愚にもつかんことを書きちらかすんじゃ」
ユントのステッキの握りと足は激情にふるえ、日覆いの垂れにおおわれた胴体は、歴史的な反抗の姿勢をとりつづけた。彼は社会の残酷さに汚された空気をかぎつけ、むごたらしい音に耳をそばだてるかのようだった。その態度には異常な暗示力があった。このほとんど死に損《そこな》いのダイナマイト戦のベテランは、かつては偉大な役者なのだった……演壇において、秘密集会において、あるいはまた個人的な会見において。
ユントはこれまで社会的建築物にたいして、自らは小指一本挙げたことがない。彼は全然行動人ではなかったし、懸河《けんが》のごとき熱弁をふるって、民衆を激しい情熱の奔流のなかにおし流す雄弁家ですらなかった。ユントはもっと狡猾《こうかつ》な意図から、無智のもつ盲目的嫉妬や掻き立てられた虚栄心、貧窮の苦しみやみじめさ、あるいはまた、正義の怒り、憐憫《れんびん》、反抗などの高貴な理想主義的幻影のうちにひそむ衝動を掻き立てる傲慢な、毒々しい役割を引き受けたのだ。今はからになり、不用になって、もはやその役目を終った≪がらくた≫の堆積の上に放り出されようとしている古い薬瓶のなかの毒薬の余香のように、彼の悪しき才能の影はいまなお彼にまつわりついていた。
仮出獄者マイケリスは、口を結んだまま、かすかに微笑した。蒼ざめた月のような顔は沈痛にうなずいてみせた。マイケリス自身囚人のひとりだったのだ。おれの皮膚は赤く焼けた焼きごての下でじゅっと音を立てたものだ、と彼は静かにつぶやいた。だが、同志オシポンはすでにユントの不意討ちから立ち直っていた。
「あんたにはわかっちゃいないんだ」と彼は軽蔑的にいいはじめたが、急に言葉を止めてしまった。まるで、彼の言葉の響きに導かれたように、ゆっくりとこちらに向けられたユントの顔の、洞窟《どうくつ》を思わせるまっ暗な目が恐ろしくなったからだ。彼はちょっと肩をすくめて、議論を打ち切った。
だれにもかまわれないで動きまわるのに馴れていたから、スティーヴィーはすでに台所のテーブルから立ち上って、絵を持って寝に行くところだった。
ちょうど、居間のドアに来たとき、彼はユントの雄弁な、ぞっとするような形容を全部聞いてしまった。円をいっぱい描いた紙が彼の指からぱらりと落ちた。スティーヴィーは、肉体的苦痛への病的な嫌悪と恐れで、突然その場に釘づけされたように、この老テロリストを見つめて立ちつくした。皮膚に焼きごてをおしつけられたらひどく痛いことは、彼には充分よくわかっていた。おびえた目が憤りに燃え上った。ずいぶん痛いんだろうなあ。彼はだらりと口を開けた。
またたきもせず火を見つめていたマイケリスは、その思索をつづけるのに必要な孤独感を取り戻した。楽天的な言葉が唇から流れだした。資本主義は、その制度のなかに競争の原理という毒をもって生れたため、その揺藍《ようらん》時代から早くも滅亡を運命づけられているのだ、とマイケリスはいった。大資本家は、小資本家を喰いつくし、大量に生産力や道具を集中させ、産業過程の完成をはかり、狂気のように自己の拡大を企てるが、結局のところ、悩めるプロレタリアがそれを合法的に受け継ぐ道を準備し、組織し、ゆたかにし、用意しているにすぎないのだ。
マイケリスは「忍耐」という崇高な言葉を口にしたが、ヴァーロック氏の居間の低い天井に向けられた彼の澄んだ青い目は、天使のように清らかな確信をうかべていた。戸口のスティーヴィーは、興奮もおさまって、魯鈍《ろどん》のうちに沈みこんだようだった。
同志オシポンの顔は怒りにふるえた。
「じゃあ、何もする必要はないというのかね?」
「そうはいわないよ」とマイケリスはおだやかに抗議した。真理についての彼のビジョンは大層強烈になったので、今度は他人の声を聞いたくらいでは崩れることはなかった。彼は赤々と燃える石炭を眺めつづけた。未来への準備が必要だ。彼は偉大なる変化はたぶん革命の騒乱のなかでもたらされる、ということは喜んで認めた。しかし、と彼は主張した。
革命のプロパガンダは高潔な良心を要する緻密《ちみつ》な仕事だ。それは世界の指導者を教育することであり、帝王学同様に注意深くしなければならない。経済的変化が人類の幸福、道徳、知性、歴史に及ぼす影響について、世人が無智な間に、革命のプロパガンダは慎重に、いや、おずおずとさえ推進されねばならないだろう。なぜならば、歴史は道具で作られるのであって、思想で作られるのではないからだ。すべては経済的条件によって変化する、芸術も、哲学も、愛も、道徳も、いや、真理それ自体も。
炉格子のなかの石炭が軽くガサッと音を立てて崩れた。刑務所の砂漠のビジョンの隠者、マイケリスは、はげしく椅子から立ち上った。気球のようにまん丸いマイケリスは、まるで自己を回復した世界を抱きしめようと悲痛な絶望的な試みをしようとするかのように、短い肥った腕をひろげ、熱っぽく喘《あえ》いだ。
「未来は過去同様に確実だ。奴隷制も、封建制も、個人主義も、集産主義も。おれは法則を述べているのだ。空疎な予言をしているのではない」
同志オシポンが軽蔑したようにぶ厚い唇をとがらしたので、ニグロじみた容貌が強調された。
「冗談じゃない」オシポンはおだやかにいった。「法則や確実性などあるもんか。大衆を教育するプロパガンダなんて糞《くそ》くらえだ。大衆がなにを知ろうが問題じゃない、たとえ彼らの知識がいかに正確でもね。おれたちにとってただひとつ大切なことは、彼らの感情の状態だ。感情なくして行動はありえないよ」
彼は言葉を切り、それから控え目に、だがきっぱりとつけくわえた。
「おれはいま科学的にいっているんだ。そう、科学的に。なんだい、ヴァーロックさん? なにかいったかね?」
「いや、べつに」とヴァーロック氏は唸った。じつはオシポンの気に喰わぬもの言いにむうっとして、「こん畜生め」とつぶやいたのだが。
すると、今度は歯の抜けた老テロリストが毒づいた。
「わしが現在の経済状態の性質をどう呼ぶか知っとるかね、あんたたち? わしはだ、人喰い土人的だというんだ。そうともよ、奴らは人民のプリプリふるえる肉や、温い血でその欲望を肥やしてやがるのよ」
スティーヴィーはこの恐ろしい言葉をごくりと喉を鳴らして呑みこみ、まるでその毒がたちまち体内にまわったように、台所のドアの踏み段にぐったりとしゃがみこんでしまった。
マイケリスはなにも聞こえた様子はなかった。唇は永遠に膠《にかわ》で貼りあわせたようで、ふくれた頬はまったく動かなかった。当惑のまなざしで彼は自分の丸い硬い帽子を探し、まん丸い頭の上にのせた。丸味をおびた彼の肥った身体は、カール・ユントの骨張った身体を支えながら、椅子の間を低く漂っていくといった感じだった。老テロリストはふるえの止まぬ爪のような手を上げ、やつれた容貌に影を与えている黒いフェルトの鍔広帽《つばひろぼう》をぐっと粋《いき》にかたむけて、ゆっくりと動きはじめた。彼は一歩ごとにステッキで床を打った。彼を家から外に送り出すのはかなりの仕事だった。なぜなら、彼はときどき考えこむように立ち止って、マイケリスが押してやるまで動こうとしなかったから。
おだやかなマイケリスは、兄弟のようなやさしさで彼の腕をつかんだ。二人の背後では、両手をポケットにつっこんで、逞《たくま》しいオシポンがかすかな欠伸《あくび》を洩らした。猛烈な乱痴気《らんちき》騒ぎをやったあと世のなかに倦きはてたノルウェーの船員よろしく、光沢エナメル皮のひさしつきの青い帽子を金髪の後ろにうまくのっけながら。
ヴァーロック氏は無帽で、重たいオーバーをひっかけたまま、伏目がちに客を外に送り出した。
ヴァーロック氏は荒々しさをおし殺して、彼らの背後から扉を閉め、鍵をまわして、かんぬきを掛けた。彼は同志たちに不満だった。ウラジーミル書記官のダイナマイト哲学に照らしてみると、彼らは救いがたいむなしい存在のように見えた。
革命政策でのヴァーロック氏の役割が観察することにある以上、自宅でも、あるいは大きな集会でも、彼が自ら活動のイニシヤティヴをとることは不可能だ。慎重第一だからである。ヴァーロック氏は、自らが重んじる憩いと安全を脅やかされた四十過ぎの男のもっともな憤りに動かされ、いったい、カール・ユントや、マイケリスや、オシポンのような連中から、何が期待できるというのか、と嘲るようにつぶやいた。
店のまん中で燃えているガス灯を消すため立ち止って、ヴァーロック氏は道徳的思索の深みに沈みこんだ。彼は、似た者同士の洞察で、仲間の誰彼に裁決をくだした。
カール・ユントは怠け者だ。今はただれ目のばあさんに面倒を看《み》てもらっているが、これは昔|蕩《たら》しこんで友だちのところからさらってきたしろ物で、後では一再ならず溝《みぞ》のなかにおっぽり出そうとしたほどだ。
ところが、しあわせな男もあるもんじゃないか、女はいつもあいつのところに戻ってきた。あのじじい奴《め》、毎朝健康のために散歩するらしいが、さもなけりゃ、今どきグリーン・パークの柵の脇で、あいつが乗合馬車から降りるのを手伝ってくれる人間などいるわけがない。頑固でやかまし屋のばばあがくたばった日には、威張りくさったあのじじいもおしまいだ。烈士カール・ユント老一巻の終りにきまってる。
ヴァーロック氏の道義心は、また金持の老夫人をパトロンに持つマイケリスのオプチミズムに向けられた。この夫人は最近マイケリスを自分の持家の田舎《いなか》の別荘に送ってくれたのである。
奴はすてきな人道主義的怠惰のなかで、何カ月も木蔭の小道を散歩していられるんだ。オシポンはオシポンで、この乞食根性の男は、世間に貯金通帳つきのばか娘どもがいるかぎり、なんの不自由もなく暮らしていけることはまちがいない。
ヴァーロック氏の性格は、なんら仲間と変るところがなかったが、自分ではほんの小さな相違をたてに彼らとの間に明確な一線をひいていた。そこにはある種の満足感があった。なぜならこの人物のうちには因襲的なお体裁を気にする本能が強く、社会革命家の大部分に共通する性格的欠点である、あらゆる労働への嫌悪だけが、その本能にうちかっているにすぎなかったからだ。明らかに人間は、社会の利点や便宜《べんぎ》にたいして反抗するのではなく、社会の道徳や抑制や努力という形でそれに支払うべきことにたいして反抗するものなのだ。
概して、革命家の多くは訓練や労働の敵である。また、その正義感にとって、この要求された値がとてつもなく大きく、いとわしく、抑圧的で、厄介で、不当に屈辱的で耐えがたく感じられるような性格を持った人間がいるものだ。彼らは狂信家だ。そして、その他残りの社会的反抗は、あらゆる高貴な、またはよこしまな幻想の母であり、詩人、改革者、ほら吹き、予言者、放火狂の友である虚栄心によって説明されるのだ。
ヴァーロック氏はしばらく瞑想の淵に沈みこんでいたが、こうした、深い抽象的思索に到達したわけではない。たぶんそういう能力がなかったからだろうし、とにかくその暇がなかったのだ。
彼の瞑想は痛ましくも突如《とつじょ》、知人のひとり、ウラジーミル書記官の記憶によって断ち切られた。書記官こそ、その微妙な精神的類似性によって、彼が正確に裁断できる男だった……。危険な男だ、とヴァーロック氏は思った。かすかな妬《ねた》ましさがヴァーロック氏の心に忍びこんだ。仲間の奴らは、書記官のことなどつゆ知らず、養ってくれる女もいる。ぶらぶらと日を送っていっこうにさしつかえない。ところがどうだ、おれには養ってやらなければならぬ女がいる。
ここで、女との連想作用から、彼はそのうち寝なくてはならぬことに気がついた。それなら、今すぐではいけない理由はあるまい。ヴァーロック氏はほっと溜息をついた。寝ることは、彼にとって、同じ年齢や気質の者にとって当然そうあるべきほど楽しいことではないのだった。彼は不眠を恐れた。不眠はそのお相手に彼を選び出したのだ。彼は腕を上げて、頭の上で燃えるガス灯を消した。
まばゆい一条の光が居間のドアを通って、カウンターの背後にある店の部分に流れこんだ。彼はひと目で銭箱のなかの銀貨の数を確認できた。わずかな金だけれど、利益を調べるのは開業して以来、これが最初である。おもわしい額ではなかったが、この商売をはじめたのは、べつに商業的な理由からではない。彼はたやすく金儲けができるうしろ暗い取引きへの本能的な傾きから、この特異な商売を選んだのだ。
そのうえ、今の仕事は警察の監視外の領域に彼を連れ出すことがない。それどころか、公然たる位置を彼に与えてくれる。ヴァーロック氏は警察とひそかに関係があったから……もっとも、警察などはどうでもよかった……こうした状況は利点となることは明らかだった。ただ、生活手段として、それだけでは不充分なのだ。ヴァーロック氏は抽出《ひきだ》しから銭箱を引き抜き、店を出ようと振り向いたとき、まだ義弟が階下にいるのに気がついた。
いったい、何をしているんだろう、ヴァーロック氏は心のなかでいった。この奇妙な動作は何だろう? 彼は義弟をうろんげに眺めたが、何も訊かなかった。スティーヴィーとかわす言葉ときたら、朝食後なにげなく「靴」とつぶやくくらいのものだ。それさえ直接命じたり頼んだりするというよりも、概《がい》して自分の欲求を伝える形をとるのである。
じっさい義弟に何といっていいかわからないので、ヴァーロック氏はちょっと驚いた。彼は居間のまん中に立って、無言で台所をのぞきこんだ。もし話しかけたら、どんなことが起るだろう。突然この少年も自分が養わなければならぬという事実に思いあたると、何だかひどく奇妙な気がした。彼は今まで、義弟のそういう面をまるで考えたことがなかったのである。
まったく、ヴァーロック氏はどう少年に話しかけていいのか見当がつかなかった。彼は少年が台所で身振りをしたり、ひとりごとをいっているのを見つめた。少年は檻《おり》のなかの興奮した獣のようにテーブルの周りをぐるぐるまわっている。試しに、「もうおやすみ」といってみたが、全然効き目はない。
彼は少年の動作を石みたいに見つめるのを中止すると、銭箱を手に、だるそうに居間を横切った。
階段を登るとき、ヴァーロック氏は全身的なけだるさをおぼえた。原因は純粋に精神的なものだけれど、彼はその不可解な性格にびっくりした。なにか病気の前兆でなければよいが。
彼は暗い踊り場に立ち止って、自らの感覚を調べた。しかし、暗闇にひろがった軽いいびきの連続音が彼をさまたげた。物音は義母の部屋から来るのだった。もうひとり厄介者がいる、そう思いながら、ヴァーロック氏は寝室に入って行った。
妻はベッドの脇のテーブルにのせたランプの栓を一杯にねじったまま……二階にはガス灯はなかった……眠りこんでいた。シェードの投げかける光が、頭の重みでくぼんだ白い枕の上にまばゆく降り注いだ。彼女は両眼を閉じ、黒髪を何本かに編んで、やすんでいた。名前を呼ばれて彼女は目をさまし、夫が自分の上にそびえているのを見た。
「ウィニー ! ウィニー !」
最初、彼女は静かに横たわり、ヴァーロック氏が手にした箱をみつめたまま、身動きしなかった。だが、弟が下で方々を跳びまわっていると聞くと、いきなりベッドの端にとび起きた。夫の顔を見上げながら、彼女の裸足はスリッパを求めて絨毯《じゅうたん》の上を探した。
「あの子はどう扱っていいかわからん」とヴァーロック氏は不機嫌にいった。「あかりをつけっ放しにして、ひとりで階下に置いておくのは感心せんな」
ヴァーロック夫人は、無言ですばやく部屋を横切った。彼女の白い姿の後ろでドアが閉った。
ヴァーロック氏は銭箱をテーブルの上に置き、オーバーを脱いで遠くの椅子に投げた。上衣とチョッキがそれにつづいた。ストッキングのまま彼は部屋中を歩きまわり、落着かなげに両手を喉にあて、妻の衣装だんすの扉にはめてある長い姿見の前を行ったり来たりした。それから、肩からズボン吊りをはずし、荒々しくブラインドを引上げ、つめたい窓ガラスに額をおしつけた。それは、彼と、煉瓦やスレートや石などそれ自体醜悪で、人間に敵意を持つ物質の、冷たく暗い湿った無愛想な堆積との間にひろがった一枚のもろいガラス板であった。
ヴァーロック氏は、じっさい肉体的苦痛に近い力で、あらゆるドアから潜在的な敵意が流れてくるのを感じた。警察のスパイほど完全に人間を裏切る職業はあるまい。それは、無人の乾燥した平原のどまん中で、乗馬に突然倒れられて死なれてしまうようなものだ。
なぜ、彼がこの比喩《ひゆ》を思いうかべたかというと、かつて兵隊時代、たくさんの軍馬にのった経験があり、最初落馬したときの感覚が今よみがえってきたからである。将来の見通しは、彼が額をくっつけている窓ガラス同様、まっ暗であった。突如、きれいにひげを剃りあげた才気|煥発《かんぱつ》のウラジーミル書記官の顔が、輝くばら色の顔色につつまれて窓ガラスにあらわれた、ちょうど破滅的な暗黒の上におされたピンクの印形のように。
このまばゆい中断された幻影はとてもなまなましかったので、ヴァーロック氏は窓からとびさがり、大きな音をたててブラインドを下した。この幻がもっとあらわれてはこないだろうか。彼は不安のあまり度を失って口もきけず、妻がふたたび部屋に戻ってきて、静かな事務的な態度でベッドに入るのを眺めただけだった。それは、この広い世界で絶望的な孤独を彼に感じさせた。
ヴァーロック夫人は、「驚いたわ。まだ起きてるのよ」といった。
「気分がすぐれんのだよ」
彼は冷汗のにじんだ額に手をやって、つぶやいた。
「めまいがして?」
「うん、とても工合が悪い」
彼女はもの慣れた妻らしく落着いて、自信ありげに病気の原因を述べ、おきまりの薬を挙げた。しかし、ヴァーロック氏は部屋のまん中に立ちつくし、うなだれた頭を悲しそうにふった。
「そんなとこに立っていると、風邪ひくわよ」とウィニーはいった。
彼はやっと着がえを終り、ベッドにもぐりこんだ。下の静まりかえった狭い通りに、規則的な足音がこちらに近づき、ゆっくり決然として遠ざかって行った、まるで通行人が、夜中永遠にガス灯からガス灯へと果てしなく歩きはじめたように。踊り場の古時計のねむたげな音が、はっきり寝室に聞こえて来た。
ウィニーはあおむけになり、天井を見つめながらいった。「今日の売上げはほんのちょっぴりよ」
やはり同じ姿勢で、ヴァーロック氏は重大なことをいいだそうとするように咳払いしたが、こう訊いただけだった。
「階下のガスを切ったかね?」
「ええ」
ウィニーはきまじめに答え、しばらくして、「あの子、今夜ずいぶん興奮してるわ」とつぶやいた。
スティーヴィーの興奮など、ヴァーロック氏にはどっちでもいいことだった。が、彼はおそろしく目がさえて、ランプを消したあとに訪れる暗闇と静寂に向きあうことをおそれた。そこで、あの子は寝ろといってもきかんのだ、といってみた。
まんまと罠《わな》にかかってウィニーは、これはあの子が生意気だからではなく、ただ興奮してるせいだ、とくどくどと説明しはじめた。ロンドンじゅうの同い年の少年で、あの子くらいすなおで、おとなしい子はいないわ、と彼女は主張した。だれかほかの人が、あの子の気持を動転させるようなことをいわないかぎり、あれほどやさしくて、いうことをよくきく重宝な子はありゃしないわ。
彼女は横たわった夫の方に向き直り、肘で身体を支えながら、スティーヴィーが家族の有用な一員であることを信じさせようと夫にせまった。少女時代、不幸な弟を見て病的にたかめられた熱烈な母性愛のため、血色の悪い彼女の頬にかすかな黒っぽい赤味がさし、黒いまぶたの下で大きな目がきらきらと光った。すると、彼女は年より若く見えた。ヴァーロック夫人は昔と同じくらい若々しく、ベルグレイヴィア荘時代、独身の下宿人に映じたよりも、はるかにいきいきとした感じになった。ヴァーロック氏は妻の言葉など気にもとめなかった。それは、まるでぶ厚い壁の向うで彼女がしゃべっているようなものだ。彼をわれに帰らせたのは、彼女の様子だった。
ヴァーロック氏はこの女を高く買っていた。この評価の感情は、妻の激情めいたものを目のあたりにして刺激され、彼の精神的苦しみに新たな痛みをつけ加える結果になった。妻の声がやんだとき、ヴァーロック氏は窮屈そうに身体を動かしていった。
「このところ、気分が悪くてな」
こういったのは、これをきっかけに心配事をすべて妻に打明けようと思ったからかもしれない。
けれども、彼女はまた枕に頭を置き、天井を見つめながらいいつづけた。
「あの子はここで皆が話してることを、あんまり耳に入れすぎるのよ。あの人たちが今夜来ることがわかってたら、わたしと同じ時間に寝させるようにしたんだけど。あの子、人民の肉を食べたり、血をすするなんて話を立ち聞きしたもんだから、気持が動転したのよ。あんなことをしゃべって、いったい何になるのかしら?」
彼女の声には、憤りをこめた侮蔑《ぶべつ》の響きがあった。
今度は、ヴァーロック氏の反応は充分だった。
「カール・ユントに訊いてみろ」彼は乱暴にどなった。
彼女は、「あんないやなじいさんになんか」といった。マイケリスはいい人ね、と彼女は率直にいった。逞しいオシポンについては、何もいわなかった。彼の前だと、石のように控え目な態度になり、なにか落着かぬ気持にさせられるのである。
ふたたび、彼女は長年の愛情と心配の的《まと》であるスティーヴィーの話に戻った。
「あの子にこんな話を聞かせちゃだめ。全部本当にしてるの。深くは理解できないのね。だから、話を聞いて興奮してしまうんだわ」
ヴァーロック氏は無言だった。
「あたしが降りていくと、まるであたしが誰かわからないみたいに、にらみつけたわ。あの子の心臓は早鐘《はやがね》のように鳴っていた。興奮がおさまらないのよ。あたし、母さんを起して、あの子が眠ってしまうまでいっしょにいてくれって頼んだの。あの子が悪いんじゃない。ひとりで放っとけば、ちっとも迷惑をかけない子なんだもの」
ヴァーロック氏は黙っていた。
「あの子を学校になんか上げなけりゃよかった」出し抜けに、ヴァーロック夫人はまたいいだした。
「いつも、窓のところから例の新聞を持ち出して読むの。顔を真っ赤にして、読みふけっているわ。あんな新聞、月に十二枚も売れやしない。置いといたって、飾り窓の場所ふさぎになるだけよ。そのうえ、オシポンが毎週一部半ペニーのF・P・パンフレットを持ちこむし、あんなパンフレット、全部で半ペニーだってあたし買わないわ。本当にくだらないことばっかり。先だっても、スティーヴィーが一部持ってたわ。
なかに、新兵の耳をちょんぎっておきながら、なんにも咎《とが》められなかったドイツの将校の話がのってるの。なんて残酷な話でしょう! その日の午後、あの子は全然手がつけられなかった。血が煮えくりかえるような記事だった。でも、あんなこと印刷してなんになるんだろう。ありがたいことに、あたしたち、ドイツの奴隷じゃないわ。ね、そんなこと、こちらに関係ないでしょ?」
ヴァーロック氏は答えない。
「あたし、あの子から肉切りナイフを取りあげなけりゃならなかった」
彼女は、今はちょっとねむそうな声になって、いいつづけた。
「スティーヴィーは大声をあげ、足をふみならしてすすり泣いたわ。残酷なことを考えるだけで我慢できない子なのよ。もしそのとき例のドイツ将校がいたら、豚みたいに刺し殺したと思うわ。それも当然ね。たいして憐んでやる必要のない人間がいるんだから」
彼女は口をつぐんだ。その長い沈黙のあいだに、彼女の動きのない目の表情は次第に瞑想的になり、膜がかかってきた。
「あなた、気分はよくなって?」と彼女はかすかな、遠くから聞こえるような声で訊ねた。「もう、あかり消す?」
暗黒を怖れるヴァーロック氏は、眠れそうにないという暗たんたる確信から無言になり、ひどく無気力になった。
「うん、消してくれ」
やっと最後に、ヴァーロック氏はうつろな声でいった。
[#改ページ]
四
白い模様入りの赤いテーブル掛けにおおわれた三十ばかりの小さなテーブルがあり、その大部分は地下のホールの濃い茶色の壁板と直角に並べてあった。ややアーチ形の低い天井からはたくさん球のついた青銅のシャンデリヤが吊され、窓のない壁一面には、中世の服装をしたひとびとが狩猟や戸外の酒宴をする場面を描いた退屈きわまるフレスコ画が描かれていた。緑色の革ジャケツを着た従僕は狩猟ナイフをふりまわし、泡だったビールの大コップを高々と差し上げている。
「ぼくのまちがいでなけりゃ、きみこそこのばかげた事件の内情を知っている人だと思うがね」
逞しいアナーキスト、同志オシポンは前かがみに深くテーブルに肘をのばし、すべて両足を椅子の下に突っこんでいった。彼の両眼は、兇暴な熱心さで相手を見すえていた。
鉢植えの棕櫚《しゅろ》にはさまれた入口近くの堂々たる堅形のセミ・グランド・ピアノが、突然挑戦するようにすばらしく、勝手にワルツをひきはじめた。その騒音は耳を聾《ろう》するばかりだった。はじめ同様、出し抜けに音楽が止むと、満々とビールの入った重たいガラスのジョッキを前にして、オシポンと差し向かいで坐っている薄汚れた、眼鏡の小男が、静かに一般論をのべた。
「原則的には、われわれの一人がある任意の事実について、なにを知ろうが知るまいが、はたからとやかくせんさくするべきではない」
「その通り」とオシポンがおだやかに低く同意した。「原則的にはね」
血色のいい大きな顔に頬杖をついて、オシポンはじっと見つめつづけた。
眼鏡の小男はひややかにビールをひと口飲み、またジョッキをテーブルに戻した。平べったい大きな耳が、頭蓋骨《ずがいこつ》の両側からぐっと突きでている。おれが親指と人差し指ではさんだら、おし潰せそうにもろい感じだな、とオシポンは思った。小男の円い額は眼鏡の縁で止っているかに見え、脂《あぶら》光りのする、不健康な色をした、平べったい頬には、黒い頬ひげが貧相にショボショボ生えている。あわれなほど貧弱な体格に、すこぶる自信たっぷりな態度が滑稽だった。男の話し方はぶっきら棒で、奇妙に印象的に黙りこくる癖があった。
オシポンはまた、つぶやくようにいった。
「今日は長いこと外に行ってたのかい?」
「いや、午前中ずっと寝ていた」と小男は答えた。「なぜかね?」
「いや、べつになんでもない」とオシポンはいった。彼は熱心に見つめ、なにか探り出してやろうという欲望で心がぞくぞくした。しかし彼は明らかに相手の圧倒するような、平然たる様子に脅えているようだった。大男オシポンは、この同志と話をすると……それはめったにないことだったが……精神的に、それどころか肉体的にさえ、自己の無意味さに悩まされるのだった。が、彼は思いきってまた訊いた。
「ここへは歩いて来たのかい?」
「いや、乗合馬車だ」小男は即座に答えた。
小男は、遠くイズリントン〔ロンドン北部の区〕の、わらや紙屑の散らかっている薄汚い通りにあるちっぽけな家に住んでいた。そこでは、放課後、グループ別に分けられた児童の群が、かん高い、喜びのない叫び声を挙げながら走ったり、喧嘩したりした。彼のいる裏手のひとり部屋には、ばかに大きな人目をひく戸棚があった。彼はこの部屋を家具つきで、女中相手の洋服屋を細々といとなんでいる二人の初老の独身女から借りていた。小男はこの戸棚に頑丈な南京錠をかけていたが、ほかの点では模範的な下宿人で、迷惑をかけたり、世話をやかせたりすることはなかった。ただ風変りなのは、部屋を掃除させるときはその場に立ち会いたいと主張することと、外出のときはドアに錠をかけ、鍵を持って行くことだった。
オシポンは、この丸い黒縁眼鏡の男が乗合馬車の二階におさまって街々を通り、家々の塀や、なにも知らずに歩道をあゆむ人々の流れに、自信たっぷりな視線を落す姿を想像した。この眼鏡を見ただけで、壁が揺らぎ、ひとびとが死に物狂いに逃げ去る光景を想像して、オシポンのぶ厚い唇に病的な微笑の影がうかんだ。もし、彼らが知っていたら! さぞやあわてふためいたことだろう。
オシポンは低い声で訊いた。
「ここにずうっと坐っていたのかね?」
「一時間かそこいら」
小男はぞんざいにいって、黒ビールをぐーっと飲んだ。男のあらゆる動作……ジョッキのつかみ方、ビールの飲みっぷり、重いジョッキを置いて腕ぐみをするポーズ……には、断固とした確信にみちた正確さがあって、唇を突き出し、身体をかたむけて相手を見つめる逞しい大男のオシポンでさえ、優柔不断の権化に見えてしまうのだった。
「一時間か」とオシポンはいった。「じゃあ、あんたは今し方おれが街で聞いたニュースを、まだ知らんだろう?」
小男はかすかに頭をふっただけで、まったく無関心な様子だったので、オシポンはすぐそこの広場で聞いたのだ、と思いきってつけたした。新聞売りの少年が彼の鼻先でそのニュースをどなったのだ。
まったく予期しない出来事だったから、驚いて気が動転してしまって、喉の乾きをいやそうと、ここに来なくっちゃいけなかったのさ。「しかし、きみに出会おうとは、まるで思っちゃいなかったよ」と彼は、テーブルに肘をついて、きっぱりとつぶやいた。
「いや、ときどき来る」小男は腹立たしいほどのひややかさを守っていった。
「きみたちのだれもこのニュースを知らないとは驚いたもんだ」とオシポンはつづけた。「まったく、きみたちがだれも知らないとはね」と彼はおずおずと繰返した。輝く目の上で、まぶたが落着かなげにまたたいた。あきらかに遠慮がちなこの態度は、この冷然たる小男の前では、彼が信じられないほど不可解な臆病さにおちいることを物語っていた。小男はまたジョッキを持ち上げ、ビールを飲み、ぶっきら棒な自信ありげな身振りでテーブルに置いた。それだけだ。
オシポンはなにか相手の言葉か合図を待ちうけたが、だめだった。彼は思いきって、無関心を装って訊ねた。
「きみは」と彼は一段と声を低くした。「くれといって来たら、だれにでも、あれをやるつもりかね?」
「おれの絶対的ルールは、だれにも拒まぬ、ということだ、せっぱつまった場合は」と、小男は決然と答えた。
「それが原則かね?」
「そうだ」
「すると、きみはそうしても安全だと思っているのか?」
血色の悪い顔に自信たっぷりな様子を与えている大きな丸眼鏡が、ひややかな光りを放ち、まじろぎもせぬ不眠の眼玉のように、オシポンと向きあった。
「そうだ。つねに、どんな状況においても。何がおれを止められるというのか? なぜ、そうしてはいけないのだ? そんなことをなぜ再考する必要があるのだ?」
オシポンは、用心深く訊ねた。
「それでは、もし刑事《でか》がくれといっても、渡すのかい?」
相手はかすかに微笑した。
「勝手に来るがいいさ。結果はきみにもわかるだろう。奴らはおれを知っているし、おれも先方を残らずご承知だ。おれのそばになど来るもんか、ほんとうに」
男は血の気のない薄い唇を閉じた。オシポンがいいだした。
「しかし、だれかをよこして、きみをペテンにかけることだって可能だよ。わかるかい? そうやって品物を受け取っといて、その証拠を種にきみを逮捕するのさ」
「何を証拠に? たぶん、無免許で爆発物を扱った罪くらいのことだろう」
これは嘲《あざけ》るように冗談をいったのだった。しかし、男の痩せた蒼白い顔は無表情のままで、この言葉もぞんざいにいわれたのだった。
「奴《やっこ》さんたちのうち、そうやっておれを捕えようとしてる者が一人でもいるとは思えんな。逮捕状など請求できるものか。むろん、おれは一人二人のことをいっているんじゃない。奴らの内でいちばん偉い奴のことをいっているんだ」
「なぜ?」
「おれがぜったいに例の品物の最後のひと握りを身体から離さないようにしているのをよく承知してるからだ」と小男は、上着の胸に軽くふれ、「ぶ厚いガラスのフラスコのなかにね」とつけ加えた。
「それはぼくも聞いているが」
オシポンはかすかな驚きをこめていった。「しかし、おれは……」
「向うはご承知さ」小男はてきぱきとさえぎった、その華奢《きゃしゃ》な頭より高い、まっすぐな椅子の背にもたれながら。
「おれはぜったいに逮捕されっこない。どんなお巡りだって、この仕事は得にならないからな。おれみたいな男を相手にするには、正真正銘、むきだしの、ぶざまなヒロイズムが必要なんだ」
またも、男は自信たっぷりに唇を閉じ、オシポンは苛立ちをおさえた。
「それとも、向う見ずか、まったくの無智が必要だね」彼はいい返した。「警察は、きみが自分から六十ヤード以内の物なら、全部破壊できる爆薬をポケットに持ち歩いていることを知らない者を、使えばいいんだからね」
「おれは、何も、おれを絶対に消すことはできないなんていったおぼえはない」と小男はいった。「だが、それでは逮捕したことにならん。おまけに、見かけほど簡単に行くもんじゃない」
「冗談じゃない」とオシポンは反対した。「そんなことはあんまり当てにしない方がいい。通りで、六人の刑事《でか》に後ろから飛びかかられたらどうする? 抱きすくめられたら、何ができるっていうんだい?」
「できるとも、おれは夕刻はめったに外出しないし、夜はぜったい出ないからね」と男は平然と答えた。「歩くときは、いつもズボンのポケットに忍ばせた弾性ゴムの玉をおさえている。玉をおすと、ポケットの中のフラスコの雷管が働き出す。写真機のレンズの空気シャッターの原理と同じことだ。管は……」
小男は、チョッキの脇の下から出て上衣の胸の内ポケットに入っている細い茶色い虫のような恰好の弾性ゴム管を、すばやくちらりとオシポンにのぞかせた。彼の服は、なんともいいようのない茶色の混紡で、地はすり切れてしみがつき、汚い皺《しわ》ができて、ボタン孔は裂けていた。
「雷管は一部は機械作用で、一部は化学的に働くんだ」と小男はなにげなく尊大に説明した。
「むろん瞬間的にだろう?」軽い身ぶるいをおぼえながら、オシポンがつぶやいた。
「それどころか」相手はしぶしぶ答えたが、そのため唇が悲しげにねじれたようだった。「玉を押してから爆発するまで、たっぷり二十秒はかかる」
「えへーっ」とオシポンは呆《あき》れて口笛を鳴らした。「二十秒だと! ぞっとするな! それでもきみは平気かね? おれだったら、気が変になるぜ」
「きみのことなんか、知るもんか。むろん、それがこの装置の弱点だが、おれが自分で使うためにあるんだからな。一番困るのは、爆発の仕方がいつもわれわれに不利になる、ということだ。おれはどんな状況にも適応できて、しかも不測の変化に対応できるような雷管を発明しようと努力しているんだ。変化が自在で、しかも完全に正確な装置を。じっさい知能を持った雷管をね」
「二十秒か」
もう一度オシポンは唸った。「うーむ! ぞっとする! すると……」
ちょっと頭をまわして、眼鏡の小男は、この有名なシレナス・レストラン地下のビヤホールの寸法を目測するふうだった。
「ここのだれも助かる見込みはないな」男は宣言した。「今階段を昇って行くあの二人連れだって」
階段の足もとのピアノが臆面もなく、猛然とマズルカを奏でた、ちょうど粗野な図々しい幽霊が自分を見せびらかしているように。鍵盤がふしぎな上下運動をした。次いですべてが静まりかえった。
しばらくのあいだ、オシポンはまばゆいビヤホールが恐ろしい暗黒の穴蔵に変化して、くだけた煉瓦《れんが》や手足の吹っ飛んだ死体が累々と横たわり、息のつまるような恐ろしい煙を吐き出す光景を想像した。
この破滅と死のビジョンはあまりに鮮烈だったので、オシポンはまた身ぶるいをした。男は満足げに、悠然とオシポンを眺めていた。
「けっきょく、身の安全を守るものは、己れの性格だけだ。おれくらい泰然自若たる人間は、世界広しといえどもめったにいないな」
「どうしてそうなれたのかねえ」オシポンは唸った。
「性格の力だ」小男は声を上げずにいった。どう見ても貧相な唇からこの断言がもれたので、オシポンは下唇をぎゅうっと噛みしめた。
「性格の力だ」男はこれ見よがしに落ち着きはらって繰り返した。
「おれは人に恐れられる手段を持っている。だが、きみ、それだけじゃ自分を守るのには全然役に立たない。効果的な方法は、おれは意のままにその手段を用いる男だと、みんなに信じこませることだ。じじつ、みな、おれにそういう印象を抱いている。これは絶対的だ。だから、おれは恐れられているんだ」
「みんなのなかにだって、沈着な性格の人がいるだろうが」とオシポンは不吉につぶやいた。
「あるいはね。だが、それはあきらかに程度問題だ。たとえば、おれは彼らに何の感動も受けない。だから、彼らは必然的に劣者なのだ。彼らの性格は、因襲的な道徳の上に築かれている。その道徳は社会秩序に頼っている。おれのはちがう。すべての人工的なものから自由だ。彼らはあらゆる種類の因襲に縛られている。彼らの依存する世界は、あらゆる束縛や思想にとり囲まれた歴史的事実であり、どこからでも攻撃できる複雑な組織された事実だ。ところが、おれは死に立脚する。死はいっさいの制約を知らず、攻撃されることがない。従っておれの優位はあきらかだ」
「飛躍した言い方だな」オシポンは冷たく光る眼鏡を見ながらいった。「このあいだ、おれはカール・ユントが同じようなことをいってるのを聞いたことがあるよ」
「カール・ユント」小男は、さげすむようにつぶやいた。「あの国際赤色委員会代表氏は、一生ポーズ屋の、影みたいな男だ。三人代表がいるんだろう、え? きみがそのうちの一人だが、後の二人の名はいわぬとしよう。しかしね、きみのいっていることは無意味だよ。きみらは革命のプロパガンダのご立派な代表だ。ところが、困ったことに、きみらはお仲間の乾物屋やジャーナリスト先生同様自分で物を考えられないばかりか、まるっきり性格というものを持っていない」
思わず、オシポンは怒りの発作をおさえられなかった。「あんたはおれたちに何を求めているんだ?」
彼は声を殺して叫んだ。「あんた自身、いったい何を求めているんだ?」
「完全な雷管だ」断固たる返事が帰って来た。「なんて顔をするんだ、オシポン。きみときたら、なにか決定的なことをいわれるのさえ我慢できない男だな」
「どんな顔をしようと勝手だろう」オシポンは怒って、熊のように吠えた。
「きみたち革命家は」小男は悠々と自信たっぷりにつづけた。「そのじつ、きみらを恐れている社会的因襲の奴隷なのだ。その防衛に立ちあがる警察同様に。きみらは因襲を改革しようと望む以上、そうにちがいあるまい。これは、むろん、きみらの思想を支配せざるをえない。そして、きみらの行動もだ。かくして、きみらの思想や行動は中途半端になるというわけだ」
男は静かに言葉を止めた。息苦しい無限の沈黙がつづくかと思われた。しかし、男はほとんどすぐに言葉をついだ。
「きみらは反対勢力、たとえば警察となんら変るところがない。先日、おれは突然トッテナムコート・ロードでヒート主席警部に出喰わした。向うはしげしげとおれを眺めた。が、おれは見もしなかった。一瞥《いちべつ》をくれてやるだけで充分だ。奴さんはいろんなことを考えていた……上役のこと、自分の評判、法廷のこと、給料のこと、新聞のこと、そのほかいろいろだ。だが、おれは完全な雷管の発明のことしか頭になかった。ヒートなど全然問題じゃなかった。奴のとるにたらぬことといったら、そう、とうてい適当な比較の対象も浮かばぬくらいだが、あるいはカール・ユント程度かな。まあ、似たようなものだ。一人はお巡りで、一人はテロリストだが、同じことさね。遵法《じゅんぽう》と革命……同じゲームの正反対の動きだよ。根本的には怠惰の一種なのだ。奴《やっこ》さんは自分の小さなゲームをやってるし、きみらプロパガンダの連中だって変りゃしない。しかし、おれはちがう。一日十四時間も働いて、時には飢え死にしかけることがある。実験でちょいちょい金を喰ってしまって、二日くらい飯抜きでやらなくっちゃいけない。それでよくビールを飲む金があるなって顔つきだな。そうさ、おれはもう二杯やったよ。じきに三杯目のお代わりさ。これはおれのささやかな祭日なのだ。一人で乾盃してるんだ。悪いかね? おれはひとりで、まったくひとりで仕事をする勇気がある。長いあいだ、それでやってきたんだ」
オシポンの顔は赤黒くなっていた。
「完全な雷管を目指してかい?」とかぼそい声でひやかした。
「そうさ」小男はいいかえした。「立派な定義じゃないか。委員会だの、代表だのというが、きみたちの活動の性格をいいあらわすのに、この半分も正確な言葉が見当るかね。おれこそ真のプロパガンディストだよ」
「その議論はやめにしよう」個人的な問題には超然たる風でオシポンはいった。「おれの話できみの休みを台無しにしやしないかと思うんだが、じつはね、今朝グリニッジ公園で、爆弾で吹っ飛んだ奴がいるよ」
「どうして知っている?」
「二時からこの方、号外でそのニュースをどなり通しさ。新聞を買って、ここに駆けこんだら、きみに出会ったというわけだが、今ポケットに入っている」
オシポンは新聞を引っぱり出した。それは、まるで楽天的な信念の温か味で赤らんだような大判のばら色の紙だった。彼はすばやく紙面に目を走らせた。
「あ、あった、あった。これだ、グリニッジ公園爆破事件か。そう遠くはないな。霧の今朝、七時半。震動はロムニー街とパーク・プレイスでも感じられた。木の下の地面には、巨大な穴が開き、折れた枝や、くだけた根っこで充満した。こなごなになった犯人の死体が周囲一面に散乱していた、か。これでおしまいさ。あとは単なる新聞屋《ぶんや》のひとりぎめ。これは疑いもなく、天文台爆破のふらちな試みだなんて書いていやがる。ふーむ、そんなこと当てになるもんか」
オシポンはしばらく無言で新聞を眺めてから、相手に渡した。
小男はぼんやり見つめたあと、黙って下に置いた。
最初に口をきいたのはオシポンのほうだったが、まだ憤りからさめていなかった。
「この肉片はひとりの人間のもので、従って、犯人は自分も爆死したと推測される、か。これじゃ、きみの休日も台無しだね。きみは、こんな活動を予想したかい? おれは、このイギリスで、こんなことが計画されているとは、まるで思ってもみなかった。現在の状況じゃ、そいつは犯罪以外の何物でもない」
ひややかな軽蔑をこめて、小男は薄い黒い眉毛を挙げた。
「犯罪! 犯罪とは何かね! そんな言葉に何の意味がありうるというんだ?」
「なんていったらいいかな? どうしても流行の言葉を使う必要があるんだが」とオシポンは、苛立っていった。
「つまり、こんどの事件がおれたちの立場に悪影響を及ぼす可能性があるっていうことさ。それで充分だろう。おれは、最近きみが例の物を人に渡したと確信しているがね」
オシポンはじっとにらみつけたが、小男はひるむ様子もなく、ゆっくりと首をたてにふった。
「やっぱり、そうだったのか!」F・P・パンフレット編集者オシポンは、熱心に低く叫んだ。「で、きみはこんなふうに頼まれれば、誰にでも最初の者に渡してしまうのか?」
「まさにその通り。忌々《いまいま》しいことに社会秩序は紙とインクの上に築かれているんじゃない。だから、きみたちがどう思おうと勝手だが、おれは紙とインクで社会秩序にとどめを刺せるなどとは思わんのだ。そうだとも、もらいに来さえすれば、男だろうと、女だろうと、馬鹿だろうとおかまいなしに、もろ手を挙げて爆弾を渡してやるつもりだ。きみらがどう思ってるか、おれにはわかってる。しかしな、おれは赤色委員会の指図は受けない。そのことできみらがイギリスを追われようが、逮捕されようが、首を切り落されようが、おれは平気だよ。われわれ個人に何が起ろうと、そんなことは少しも問題ではないのだ」
小男は熱のない、ほとんど感情をあらわさない無頓着さで語った。オシポンは心のなかですっかり感心し、相手の超然たる態度を見習おうとつとめた。
「もし、警察が自分たちの仕事をわきまえていれば、きみはピストルで穴だらけにされるか、まっ昼間、後ろからたたきのめされるだろうよ」
小男は、落着きはらった自信たっぷりの様子で、すでにその点は考えてあるらしかった。
「そうさ」と即座にうなずいて、「しかし、そのためには、警察は自分の慣例とまず対決しなけりゃいかんだろう。わかるかね? それにはひじょうな勇気がいるのだ。特別な勇気が」
オシポンはウィンクしてみせた。
「もし、きみがアメリカで実験室を開けば、たしかにそんなことが起るだろうがね。向うじゃ、儀式張った慣例なんてないんだから」
「アメリカまで行って確かめてくるつもりもないがね。とにかく、きみのいう通りだ」小男はうなずきながら、「アメリカ人の方が性格を持っている。彼らの性格は本質的に無秩序なのだ。おれたちにとっては、肥沃《ひよく》な土地、立派な土地だ、このアメリカっていう国は。アメリカには破壊的要素が根を下しており、国民の性格は全般的に放縦《ほうじゅう》だ。すばらしいじゃないか。彼らはおれたちを撃ち殺しはするかもしれないが、しかし……」
「きみの話はあんまり飛躍しすぎるよ」オシポンは、心配げに不機嫌に唸った。
「論理的じゃないか」小男は抗議した。「論理にも幾種類かある。これは啓蒙的な論理だ。アメリカはあれでいい。危険なのは、観念的な遵法《じゅんぽう》観を持っているこの国だ。国民の社会的精神は慎重な偏見にとらわれていて、そいつがわれわれの仕事に致命的なのだ。人はイギリスがわれわれの唯一の隠れ家だという! だから、かえって始末が悪い。おれたちが隠れ家に何の用がある。この国では、きみたちはパンフレットや計画を口にするだけで、なにひとつ実行しない。カール・ユントのような手合いには好都合なはずだ」
ちょっと肩をすくめて、また小男は悠然と、自信たっぷりに言葉をつづけた。
「われわれの目的は、遵法の迷信と崇拝の打破にあるべきだ。ヒートのような連中が、まっ昼間、民衆の承認のもとに、おれたちを撃ち殺すようになってほしいものだ。そのときこそ、おれたちの闘いはなかば勝利を占め、古い道徳は博物館行きになるだろう。これがきみたちの目的であるべきだ。ところが、きみたち革命家には、それが全然わからない。将来もね。きみらは未来の計画を描き、現存するものからひき出した経済組織の夢想に自己を忘れている。しかし、必要なことは、新しい人生のため、すべてを一掃し、さっぱりと出直すことだ。その余地さえきみらが作ってやれば、未来は自然に生れて来る。だから、もしそうするだけ爆弾が充分あるとしたら、おれは方々の街角にごっそり爆弾をしかけてやりたいものだ。だが、じっさいは、そう沢山ないから、完全な信頼できる雷管の発明に、ベストをつくしているという次第だ」
オシポンは深い海のなかを泳ぐような気持を味わっていたが、この最後の言葉に、まるで救助板のようにしがみついた。
「なるほど。雷管か。公園で例の男をきれいに吹っ飛ばしたのは、あんたの雷管のひとつだったというわけか」
オシポンと向いあった小男の決然とした土気色の顔に、暗く怒りの影が走った。
「困難な点は、じっさいいろいろな実験をやらなくちゃいけないということだ。要するに、それらの実験はしなくてはならんのだ。その上……」
オシポンは口をはさんだ。
「例の男の身許はだれだい? われわれは何も知らないんだ、本当に。だれに爆弾を渡したのか教えてくれないか?」
「教えてくれか」と小男は、サーチライトのようにオシポンに眼鏡を向け、ゆっくり繰返した。「今となっては、反対はできまい。ひと言でいおう、ヴァーロックだ」
好奇心に駆られ、椅子から数インチ立ち上っていたオシポンは、これを聞くと、横っ面を張り飛ばされたように、また椅子の上に崩れ落ちた。
「ヴァーロック! いや、そんなはずがない」
小男は、落着きはらって、軽くうなずいた。
「本当だ。ヴァーロックだ。しかし、おれが最初にやってきた頓馬《とんま》に爆弾を渡した、などとはいわせないぞ。おれの知るかぎりでは、あいつはグループのすぐれた一員だったのだ」
「その通り」とオシポンはいった。「すぐれた一員だった。いや、正確にはそうじゃないな。あの男は情報活動全般の中心で、いつもイギリスに渡って来る同志たちを迎え入れていた。重要というよりは、重宝な男で、思想といえるほどのものはなかった。昔はフランスのいろいろな集会で演説してたようだが、でも、とくに雄弁というほどではなかったと思う。あの男は、ラトールやモーザーとか、ああいうじいさんたちみんなから、信頼されていた。奴が実地に示した唯一の才能といえば、なんとかうまく警察の目を逃れる、という才能くらいだろう。ここでは、警察からそれほど目をつけられていたとは思えなかった。正式に結婚していてね。女房の金で店をはじめたらしいが、採算はとれていたようだった」
オシポンは急に話をやめ、ひとりごちた。
「あの女《ひと》はこれから先どうするのかなあ」
そして、考えこんでしまった。
小男はことさら無関心をよそおって待っていた。彼の生まれははっきりしなかった。一般には、ただ「教授」という綽名《あだな》で知られていたが、その由来は、かつてどこかの工業大学で科学の実験助手をつとめたことがあるからだ。彼は待遇が不当だと学校当局と喧嘩をし、その後染料工場の実験室にポストを得たが、そこでもまた待遇のことで不当に扱われたのである。彼の努力、貧乏、立身出世の苦しい闘いの結果、彼は自分の価値をあまりにも信じこんでしまったので、世間が彼を「正当に」扱うことは極度に困難だった。なぜなら、「正当」という観念は、多分に個人の忍耐にもとづくものだからである。「教授」には天分があったが、諦《あきら》めという偉大な社会的美徳に欠けていた。
「知的には、つまらん男だった」とオシポンは、やもめになったヴァーロックの妻と、その商売のことを考えるのを中止して、大声でいった。
「まったく平凡な男だった。ところで、教授、きみがもっと同志と接触しないのはまちがっている」と彼は非難がましくつけ加えた。
「あの男は、きみに、なにか洩らしたかね? そう、自分の計画についてなにかいったかい? おれは彼とは一カ月会っていなかった。あの世へ行ったなんて嘘みたいな気がするな」
「おれには、ある建物に示威運動をしかけてやるつもりだといっていた」と教授がいった。「爆弾を準備する都合上、そこまで訊く必要があったのだ。おれは完全に破壊できるほどの持ち合わせがないと断わったが、熱心にせがまれて最善をつくさざるをえなくなった。あいつが公然と手で持ち運びできるのが欲しいといったので、おれはたまたま手もとにあった古い一ガロン入りのワニス罐《かん》を使ってはどうかと提案した。彼はその考えが気にいった。だが、おれは少々骨が折れた。最初底を抜いて、あとでまたハンダづけしなくちゃならなかったからな。使用準備ができると、周りにしめった粘土をつめ、そこにきっちりコルク栓を締めた広口のぶ厚いガラスの壷で、十六オンスの|X《エックス》二緑色火薬を入れたやつをおさめた。雷管は罐《かん》のねじ蓋につないでおいた。うまいやり方だった、時限と衝撃を連結させたんだから。おれはその仕組をヴァーロックに説明してやった。それは薄い錫《すず》の管で……」
オシポンは上《うわ》の空できいていた。「で、どんな事態が起ったんだろう?」と話をさえぎった。
「わからん。きっと、接触を生じる上部をきつく締めて、時限を忘れてしまったんだろう。時限は二十分だ。時限をつなぐと、鋭い衝撃を受けるとたちまち爆発する仕掛だが、彼はあんまりきっちり時限をかけすぎたか、爆弾を落したかのどちらかだろうと思う。接触は完全だった。とにかく、それは明らかだ。仕組は完全に働いたのだ。しかし、ふつう、まぬけな奴は、あわてふためくと接触を作ることをますます忘れがちなものだ。おれはそういう種類の失敗がいちばん心配だった。だが、ひとりの手には負えぬほど、まぬけな連中が多すぎる。どんな奴にでも扱える雷管など、望むほうが無理というものだ」
小男は給仕を呼んだ。オシポンは心に悩みのある放心した目つきで、硬直したように坐っていた。給仕が金を持って立ち去ると、彼は元気を出し、不平満々にいった。
「まったく不愉快きわまるね。ユントは一週間も気管支炎で床についていて、二度と起き上れっこないし、マイケリスはどこか田舎で贅沢三昧《ぜいたくざんまい》ときやがる。ある流行の出版社が五百ポンドで執筆を依頼したのだ。どうせ、大失敗にきまっている。あいつは牢屋のなかで、まとまって物を考える力を失ってしまったからね」
教授は立ち上って、上衣のボタンをかけながら、あたりをひややかに見わたした。
「どうするつもりだ、きみは?」とオシポンはもの憂げにたずねた。彼は中央赤色委員会の非難を恐れていた。それは、どこという定まった所在地を持たず、その会員について正確には何も知らなかったけれど。もし今度の事件がもとでF・P・パンフレットの発行に割当てられたささやかな援助金を停止されることになれば、その時こそ彼はヴァーロックの不可解な愚行をじっさい遺憾《いかん》に思わざるをえないだろう。
「過激な行動に連帯意識を持つことと、愚かしい暴挙とは別だ」と彼は不機嫌に、荒々しくいった。「ヴァーロックの身に何が起ったか知らないが、どこか謎の点がある。だが、要するに彼はあの世へ行ったのだ。信じようと信じまいとそれは勝手だが、現在の情勢では、戦闘的な革命グループのとりうる唯一の政策は、こんなばからしい行動とは全然無縁であることを主張することさ。その主張をどうやってひとびとに信じさせるか、おれは頭を悩ませているのだ」
ボタンを留め、行きかけた教授は、立ち上っても椅子に坐ったオシポンくらいの身長だった。教授はオシポンの顔に眼鏡を向けた。
「きみたちが悪いことをしていない証明書を警察に請求したらどうかね。警察は、きみたちのだれが昨夜どこで寝たかも全部知っているよ。もし、頼みこめば、あるいは公式の証明書を出すのを承知してくれるかもしれない」
「おれたちがこの事件と無関係なことは、警察がよく知ってるはずさ。しかし、連中が何をいうかは別物だが」
オシポンは苦々しげにつぶやいた。彼はかたわらに立っている見すぼらしいふくろうのような小男を無視して、考えこんでしまった。
「すぐさまおれはマイケリスをつかまえて、集会で彼に心から演説させる必要がある。民衆は彼をセンチメンタルに尊敬しているんだ。奴は名前が知られている。それに、おれも大新聞の記者と幾人か接触がある。マイケリスのいうことは愚にもつかないが、あいつはそれを民衆に呑みこませる特殊な才能がある」
「糖蜜のようにか」と教授が、無感情な表情を守りながら、低い声で半畳《はんちょう》を入れた。
立腹したオシポンは、まったくひとりぼっちで考えている人のように、ほとんど聴きとれぬ声でいいつづけた。
「馬鹿野郎! おれにこんな下らぬ仕事を残して死にやがって。おまけにおれは……」
オシポンは唇を噛みしめて坐っていた。直接ヴァーロックの店に行って情報を聞いてくるのは嬉しい話じゃない。彼の考えでは、もう店は警察の罠《わな》になっているはずだった。
奴らは、きっと何人か逮捕するにきまってる、とオシポンは義憤に似た気持で考えた。なぜなら、他人の過失で革命家としての彼の生涯さえ、脅威にさらされているのだったから。しかも、もしそこに出かけなければ、たぶんきわめて重大な情報を知らずにいるという危険を犯すことになる。
さらによく考えてみると、夕刊の通り、じっさい公園のなかで吹っ飛ばされたのがあの男だとすると、その身許を確認できるはずがない。してみると、アナーキストたちがよく出入りするのがわかっていて、ふだんから目をつけられているほかの場所、たとえばシレナス・レストランの入口以上に、警察がヴァーロックの店を厳重に見張る特別な理由は何もない。結局はどこに行こうと、周囲に警察の目が光っていることに変わりない。だが、それなのに……。
「どうすればいいのかな?」と彼は自らに相談するようにつぶやいた。
彼の間近で、落着きはらった嗄《しゃが》れ声が、馬鹿にしたようにいった。
「ヴァーロックの細君に懸命にすがることだな」
こういうと、教授は行ってしまった。この洞察に不意を討たれて、オシポンはギクリとしたが、絶望的に見すえたまま、椅子に堅く釘づけされたように、動かなかった。
腰掛けさえない、孤独な頼りないピアノが、突然勇敢にも音を立てて、いろいろな国の歌を弾きはじめ、最後に「ブルー・ベルズ・オブ・スコットランド」でオシポンを送り出した。
彼はゆっくりと階段を登って、玄関ホールを横切り、道路に出た。いたましい、おかまいなしの音楽が、次第に背後で消えていった。
大きな玄関口の前の、歩道から離れた溝のところで、わびしげな新聞売りの列が、新聞を売っていた。春も浅い、うすら寒い陰うつな日だった。印刷インクで汚れたぐんにゃりしたやくざな新聞の山は、汚れた空やぬかるんだ街々や、薄汚いボロ服の人々とすばらしい調和を示しており、むさくるしいポスターは、つづれ織のように遥かに伸びた縁石を飾っていた。
午後の新聞の商いはせわしなかった。しかし、足早で途切れることのない人の流れにくらべれば、物の数ではなく、だれにもかまわれずに売りさばかれている、といった感じだった。オシポンは人の流れに入りこむ前、急いで両側を眺めてまわした。しかし、すでに教授は消えていた。
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五
教授は通りを左へ折れ、硬直したように頭をしゃんと立てて群衆の中を歩いて行った。だれもみなこの矮小《わいしょう》な人物の上に、ほとんどそびえんばかりだった。彼が落胆していないふりをしたところでむなしいことだった。が、それはただ感情の面にすぎなかった。教授の思想のストイシズムは、今度の失敗やそこいらで動揺することはないのである。この次こそ、あるいはその次こそ、痛烈な打撃を加えてやろう。恐るべき社会の不正を保護する法律的概念という大建築物の堂々たる正面に、最初の割れ目をあけるような打撃を、なにか世間をあっといわせるような打撃を加えてやろう。
教授は貧しい生れで、その容貌はせっかくのかなりな天分を妨げるほどみすぼらしかったが、彼の想像力は、貧乏のどん底から出世して富と地位を得たひとびとの出世談によって、早くから燃え上っていた。彼の過激で、ほとんど行者めいた純粋な思想は、世間についての驚くべき無智と結びついて、彼の前に権力と名声のゴールを置いたのである。それは、ただ実力さえあれば、手練手管《てれんてくだ》や、引立てや、如才《じょさい》なさ、財産がなくても到達できるはずだった。
こうした見地に立って、教授は当然自分は文句なしに出世する資格があると考えていた。
彼の父は、引っこんだ額をした病弱な暗い情熱家だった。父親は、ある名もない、だが厳格なキリスト教の一派の巡回牧師で、自らの正しさをこの上なく確信していたが、気質的に個人主義者であるこの息子にあっては、学校での学問が徹底的に非国教派の秘密集会的信仰にとってかわり、その道徳的態度は、気狂いじみた清教徒的野心に変わっていた。彼はそれをなにかこの世の尊いもののようにはぐくみ、野心がさまたげられると、その目は、うわべだけの、堕落した冒涜《ぼうとく》的な道徳を持つ世のなかの真の性格に見開かれるようになった。もっとも正当な革命の道さえも、信念の仮面をかぶった個人的感情によって用意されるものなのだ。
教授の憤りは、それ自身のうちに、自己の野心をみたすため破壊活動におもむくという罪から、彼を赦免《しゃめん》してくれる窮極的な大義名分を見出したのだ。
世間の合法に対する信仰を破壊してやる、というのは、彼のペダンティックな狂信主義が生んだ不完全な公式にすぎない。が、既存の社会秩序の骨組は、ただなんらかの形の全体的あるいは個人的な暴力によってのみ、効果的に粉砕することができる、という教授の無意識の信念は、正確で誤りないものだった。おれは道徳の使者なのだ。この考えが彼の心にすわっていた。
教授は仮借なく大胆に自らの役目を果たすことによって、勢力と個人的名声らしきものを獲ち得たが、これは彼の烈しい復讐心に叶《かな》っていた。それは復讐への苛立ちをしずめてくれるのだ。おもうに、もっとも熱烈な革命家すら、たぶんそれなりに、他の人間同様ひとしくやすらぎを求めているのではあるまいか。なだめられた虚栄心、みたされた欲望、あるいはしずめられた良心のやすらぎを。
群衆にまぎれこんだこのあわれな小男は、ズボンの左ポケットに片手をつっこみ、不吉な自由のこの上ない保証である弾性ゴムの球を軽く握りながら、己れの力について自信ありげに思いめぐらしていた。だが、しばらくすると、彼は乗物で雑沓する道路や、男女の混みあった歩道の光景に、しだいに不愉快になってきた。教授が今いるのは、膨大《ぼうだい》な人間のほんのごく一部がいるにすぎぬ長いまっ直な通りだったが、それでも彼は周囲一面や、はては無限につらなる煉瓦の建物に隠された地平線の端にいたるまで、恐るべき強大な数の人間を感じたのだ。彼らはバッタのようにおびただしくあふれ、蟻《あり》のように勤勉で、自然の力のように物を考えず、盲目的に整然と一心不乱に進んで行く。彼らは感情や論理に無感覚であり、おそらくは恐怖を感じることもない。
恐怖を感じない! それこそ教授がもっとも恐れている疑いだった。しばしば外を歩いていて平素の自分から脱け出したときなど、彼は人間について、こうした恐ろしい、分別ある不信感を持つことがあった。もし、彼らを動揺させることができなかったら、どうしよう? 人間を直接把握しようという野心を持つひとびと、たとえば、芸術家、政治家、思想家、改革者、聖者には、このような瞬間が訪れるものだ。彼らにとってこれは軽蔑すべき感情状態であって、それに対して、孤独が至上の性格を与えるのだ。
教授は、はげしい誇らしい気持で、貧しい家々の荒野のなかに埋もれた錠前をかけた戸棚つきの彼の部屋、完全なるアナーキストがひそむにふさわしい隠れ家を思った。もっと早く乗合馬車をつかまえられる場所に行こうと、彼は人通りの多い街路から、板石で舖装した狭い薄暗い路地に急に曲った。一方の側には、低い煉瓦建ての家々が、その薄汚れた窓のなかに、いやしがたい頽廃の盲《めし》いた瀕死《ひんし》の表情を、破壊を待ちうける空っぽの殻を示しており、反対側では、生命はまだ完全には去っていなかった。
一つきりのガス灯に面して、古道具屋の店先があんぐりと暗い口を開けていた。そこでは、テーブルの脚が茂みとなってからみあい、丈の高い姿見が、衣裳ダンスの奇怪な森をくねって走る暗く狭い小道の奥深く、森のなかの水たまりのように、かすかな光を放っていた。空いた所には、セットをなさない二つの椅子といっしょに、あわれな寄辺《よるべ》のない長椅子が置いてある。
教授以外を除いては、その道を歩いているただ一人の男が、反対の方向から背の高いまっ直な姿をあらわした。男は、突如成勢のいい足取りをピタリと止めた。「よう!」と男はいって、道の片方に油断なく立った。
早くも、教授は立ち止っていた。すぐさま半分向きを変えたので、片方の壁に肩がほとんどふれそうになった。右手を宿無しの長椅子の背に軽く置き、左手をズボンのポケットのなかに、深く意味ありげにつっこみながら。丸いぶ厚い縁の眼鏡が、その不機嫌な落着きすました容貌に、≪ふくろう≫じみた性格を与えていた。
それは、ちょうど生気にみちた邸宅の脇廊下での出会いのようなものだった。長身の男は、黒いオーバーのボタンをきちんと留め、傘を持っていた。阿弥陀《あみだ》にかぶった帽子から、額があらわにのぞき、薄暗がりのなかでひどく白く見えた。黒い眼窩《がんか》には射るような眼玉が光り、熟した小麦色の長い天神ひげの先が、四角い、剃り上げた顎《あご》を際立たせている。
「あんたを探しとったわけではない」と男はぶっきら棒にいった。
教授は一インチも身動きしなかった。巨大な都会の騒音は、なにか曖昧《あいまい》な低いつぶやきに変わっていた。特殊犯罪部ヒート主席警部は語調を変えた。
「急いで家に帰るところかね?」と警部は、からかうように無邪気に訊ねた。不健康な顔つきをした破壊の精神的|担《にな》い手である小男は、社会を脅迫から守る役目を託されたこの警官を吟味しながら、ひそかに自己の個人的威信をよろこんだ。
自らの残忍な欲望をいっそう満足させるため、ローマ元老院にわずかひとりの人間しかいないことを望んだ、かのカリギュラ皇帝より幸せなことには、教授はこの官憲のうちに、彼が挑戦したあらゆる権力、法律、財産、弾圧、不正の力を見出していたからだ。すべての敵を目にするや、教授は、自己の虚栄心の至上の満足のもとに、平然と敵に立ち向かい、まるで恐ろしい兇兆を見たときのように、敵は狼狽して彼の前に立ちつくすのだ。教授はすべての人間にたいする彼の優越を確認するこの偶然の出会いを、心のなかで楽しみ味わった。
それはまさに偶然の出会いだった。ヒート主席警部は、午前十一時少し前グリニッジから第一信を受けとって以来、不愉快なあわただしい一日を送ってきた。まず第一に、彼がある高官にアナーキストはまったく活動する気づかいはない、とうけあってから一週間とたたぬうちに、例の兇行が企てられたという事実がしごく腹立たしかった。
もし、彼がなにか断言しても大丈夫だと思ったときがあったとしたら、まさにそのときだったに相違ない。警部は限りない自己満足をおぼえながら、そううけあったのだ。というのは、高官は、明らかにこういう断言を大変聞きたがる人だったから。
警部は、たとえ破壊活動が計画されたにせよ、絶対に二十四時間以内に特殊犯罪部が気づくはずだ、と断言した。彼がこういったとき、そこにはおれは部一番の腕利きだ、という意識があった。さらに、彼は真の賢者なら差控えただろうようなことさえいったのだ。だが、警部は非常に賢いわけではなかった……少くとも真の意味では。真の賢明さとは、この矛盾だらけの世界では何物をも確信しないということだが、もし彼が真に賢かったとしたら、現在のような地位を得ることはできなかっただろう。それは上役を警戒させて、昇進のチャンスを摘んでしまっただろう。そして、彼の出世はきわめてすみやかであった。
「アナーキストのうちだれひとりとして、昼夜を問わず逮捕できぬ者はありません。われわれには、彼らの動きはつねにわかっているのです」
警部はそう断言したものだ。すると、高官はにっこりとほほえんだ。ヒート警部ほど高名な警官にとっては、これはまことにしかるべき言葉であって、まったくいい気分だった。
高官はこの言明を信じた。それは事物の合目的性についての彼の概念と一致したからだ。高官の知恵は官僚特有のものだった。さもなければ、彼は警察と陰謀者の間の密接な関係のなかで、ときに思いがけずつながりが消え、時間と空間に突然穴があく、という理論を越えた経験の問題について考えたはずである。
あるアナーキストを、つねに細大洩らさず監視することは可能である。だが、不思議なことに、彼の姿を数時間見失ってしまう時が必ずやって来る。その間に、何か悲しむべき事件(たいていは爆発事件)が発生するのだ。
ところが、事物の合目的性の観念に酔っていた高官は、警部の言葉に微笑したのだった。そして今、アナーキスト対策きってのベテラン、ヒート主席警部は、その微笑を想い出して当惑しきっていた。
しかし、日頃は落着いたこの高名な警部がふさいでいたのは、なにも上司の微笑の記憶のせいばかりではない。例の朝、至急次長の私室に呼びつけられて驚きを隠せなかったのが腹立たしかったからである。出世した人間の本能で、概して名声は業績と同様態度によって作られる、ということを彼は学んでいた。だから、事件の電文に接した際の自分の態度は、次長によい印象を与えなかったと感じた。彼は目をまん丸くして「そんなばかな!」と叫んだからである。
すると、次長は読み上げたあと机の上に投げ出した電文を、ぐっと指の先で押しつけて、逆ねじを喰わせたのだ。警部は答える術《すべ》を知らなかった。いわば、指先に押し潰《つぶ》された形で、不愉快きわまる経験だった。それに、なんともまずいことが起きたものだ。彼はこう確信を表明して、事態をとりつくろわなかった己れの失態に気づいていた。
「ひとつだけ即座にお答えできますが、監視中のアナーキストは、本件とは完全に無関係であります」
敏腕刑事としての彼の誠実さはゆるぎなかったが、彼は今、この事件については曖昧《あいまい》に注意深く態度を保留したほうが、もっと自分の名声にかなっていただろう、と思った。と同時に、もしまったくの部外者が事件にたずさわることになれば、自分の名声を維持するのは難しいことも知っていた。
ほかの職業でもそうだが、部外者は警察にとって有害である。次長の口調は、聞く者の歯が浮いてしまうほど苦《にが》り切ったものだった。
朝飯以来、ヒート警部は何も食べていなかった。彼はただちに現場検証におもむいて、しこたま公園で、冷たい不健康な霧を吸いこんだ。それがすむと病院に足をのばしたが、グリニッジでの調査がやっと終ったとき、すでに食欲を失ってしまっていた。警察医とちがって、元来人間のバラバラ死体を間近で調べるのに慣れていなかったから、病院の一室でテーブルの上から防水布が取り除けられたとき、眼前にさらされた遺体を見て衝撃を受けてしまったのである。
テーブルの上には、掛布がわりにもう一枚防水布が拡げられ、四隅が折返してあった。それは焼け焦げて血だらけのボロぎれの山をおおっており、人食い土人の饗宴の材料のようなものがなかばのぞいていた。
それを見てたじろがぬためには、かなりの勇気が必要だった。有能なる刑事、ヒート警部は踏みこたえはしたものの、すぐには前に進むことができなかった。所轄《しょかつ》署の制服の警官は無感動にあっさりいってのけた。
「これで全部です。集めるのに苦労しました」
爆発後、最初に現場に駈けつけたのはこの巡査だった。巡査はそのことを繰り返した。
霧のなかでなにか激しい閃光《せんこう》状のものが見え、その時キング・ウィリアム・ストリート・ロッジの戸口で管理人と立話中だった巡査は、衝撃で全身がふるえた。彼は木立のあいだを天文台に急行した。「一生懸命に走ったのです」と巡査は繰返した。
ヒート警部は気難しく不快げにテーブルに背をかがめ、相手に勝手にしゃべらせた。病院の門番ともうひとりの男が、布の端を折り返して後ろに引下った。警部の目は、まるで屠殺場とボロぎれ屋で集めてきたようなこの恐るべき物体を眺めまわした。
「シャベルを使ったね」
警部はいくつかの小石と、茶色い樹皮の細片と、針のように細い砕けた木の破片に目をとめていった。
「はあ、一カ所使いました」
警官は鈍重に答えた。「管理人に鍬《すき》を取りにやらせたんでありますが、自分がそれで地面を引っ掻いてる音を聞いて、管理人は額を木に押しつけて、まっ蒼《さお》な顔をしておりました」
警部はテーブルに用心深く身をかがめ、喉にこみあげて来る不快感と闘った。人間の肉体を名状しがたいコマ切れに変えた激しい破壊的暴力は、その無慈悲な残酷さで警部をぞっとさせた。理性の上では、じっさいは一閃の稲妻同様、瞬間的だったことは承知していたが。
どんな人間だか知らないが、この男は瞬時に死んだのだ。しかも、想像を絶する苦痛なしに肉体が崩壊状態に達するということは、とうてい信じられぬような気がした。生理学者ではなく、ましてや哲学者ではなかったけれど、ヒート警部は恐怖の一形態である同情の力によって、一般的な時間の概念を超越することができた。瞬間的だと!
警部は、人間がめざめた瞬間、長い恐ろしい夢を見たように感じたり、溺死者が流されながら最後に水面に顔を出し、恐るべき鮮やかさで過去の全生涯を想起したりすることを、通俗読物などで読んだのを想い出した。説明しがたい意識の存在の神秘が彼を悩ませた。
ついに、彼は目を二回|瞬《またた》く間に、長い間の残酷な苦痛と精神的苦悶がすべて回想されるのだ、という恐るべき観念を発展させた。その間にも、ヒート警部は、静かな顔つきで、安上りの日曜の夕食に使おうと肉屋の屑《くず》肉の上にかがみこむ貧乏な客のように、少々気づかわしげに注意深く、テーブルの物体を眺めつづけた。他方では、どんな聞き込みのチャンスをもおろそかにしない、優秀な刑事の鍛え上げた才能が、自己満足的で支離滅裂な巡査のおしゃべりを追っていた。
「犯人は金髪でした」と巡査は静かにいって、間を置いた。「ばあさんの供述では、金髪の男がメイズ・ヒル駅から出て来るのを目撃したそうです。上り列車の発車後、二人の男が停車場からあらわれたのに気づいたそうですが」と彼はゆっくり話しつづけた。「二人が連れだったかどうかはわかりません。大きい方の男にはとくに注意しなかったが、片方の男は金髪のやせ形で、片手に塗りのブリキ罐《かん》を持っていたと証言しております」
「そのばあさんを知ってるかね?」
テーブルに目をすえて警部はつぶやいた、永久に身もとが割れそうにない男の捜査のことをぼんやりと心のなかで考えながら。
「はあ、隠居した居酒屋の家政婦をやっている女で、ときどきパーク・プレイスの礼拝堂に出ていますが」巡査は重々しくいって、また横目でテーブルを見た。
それから、突然、「それで、見つかったのはこれで全部です。金髪やせ形で……。足を見て下さい。自分は最初片足ずつ拾い上げたのですが、どこから手をつけていいかわからんくらい肉片が散乱しておりました」
巡査はしゃべるのをやめた。罪のないかすかに得意げな微笑が巡査の丸顔に子供っぽい表情を与えた。
「犯人《ほし》はつまずいたんですな」と巡査は断言した。「自分も走っている最中につまずいて、頭からひっくりかえりましたから。あの辺はいっぱい根っこが出ておりまして、犯人はつまずいて、その拍子《ひょうし》に携えていた爆弾が胸もとで破裂したにちがいない、そう思っておりますが」
意識のなかで繰返される「身許不明」という言葉の響きが警部をひどく悩ませた。彼は自分で情報を得るために、この謎の事件の底の底までさかのぼってやりたかった。警部は職業的好奇心の強い人間だった。それに、忠実な公僕として、犯人の身許を割り出し、世間に彼の部の有能さを証明したい、と願っていたことだろう。しかし、それは不可能なように思われた。問題の第一条からして判読できないのだ。恐るべき兇行という以外にはなんら手掛りがないのである。
生理的嫌悪を克服して、警部は確信のないまま、良心を慰めるため手を伸ばして、一番小さな切れ端を取上げた。それは細いビロードの布切れで、三角のダークブルーの切れっ端がさがっていた。彼は目の前にそれをかざした。すると、巡査が口をひらいた。
「ビロードの襟ですよ。奇妙なことに、ばあさんはそれに気づいてました。ビロードの襟つきのダークブルーのオーバーだったそうで、それこそばあさんが見た男にまちがいありません。ビロードの襟《えり》もなにもかも、全部ここに揃っています。自分は、郵便切手ほどの大きさのものだって、なにひとつ見落しはしなかったつもりです」
ここのところで鍛え上げた警部の能力は、巡査の声を聞くのをやめた。彼はもっとよく見ようと窓の一つに歩み寄った。
上質の黒ラシャの三角の生地を綿密に調べているあいだ、部屋からそむけた彼の顔には、びっくりしたような強い好奇心の表情があらわれた。いきなり彼はそれを引きはがし、ポケットに突っこむと部屋のほうに向き直り、ビロードの襟をテーブルに投げ返した。
「おおいをかけて」
警部は一同に短く命令した。もう見もしなかった。そして巡査の敬礼を受けながら、急いで獲物を持って行ってしまった。
折よく来あわせた列車が、彼をロンドンの中心部に連れ帰った。三等車室のなかで、ただひとり警部は深いもの思いに沈みこんだ。
この焼け焦げた布切れは、信じられないほど貴重だった。彼はそれがこれほど偶然に入ったことに驚かざるをえなかった。まるで、運命の女神が彼の手のなかに押しこんでくれたも同然だった。だが、もろもろの事象を自由に操ろうと望む普通の人間なりに、警部はこの棚ボタ式の成功に不信を抱きはじめた。成功を押しつけられたみたいだ、というただそれだけの理由からである。
成功の実際的価値は、少なからず本人の見方による。運命の女神は見境なく、なんの分別も持ちあわさない。もはや、ヒート警部は、この朝かくも恐ろしい程完全に自滅した男の身元を公的に確認することが望ましい、とは見なしていなかった。しかし、彼の部がどんな見解をとるか自信はなかった。部にやとわれる者にとって、部とはさまざまな考えや、ときとするとそれ自身の気紛れすら持った複雑な個性なのである。部はそこで働くひとびとの忠実な献身に依存する。そして、彼らの献身的な忠実さはいくぶん愛情をまじえた軽蔑と結びついており、そのため、いくらか甘さが生じている。自然の恵み深い定めによって、いかなる人物もその従者には英雄とは感じられない。それがいやなら、英雄は自分で服のブラシをかけなければなるまい。
同じように、いかなる部もそこで親しく働く者には、完全無欠に賢いとは思われない。部全体が持つ知識は、そのなかのあるひとびとのそれに及ばないのであり、元来が公平な組織である以上、完全に知るということは絶対にできないのだ。むしろあまり知りすぎないほうが、部の能率に役立つだろう。
ヒート警部が考えこみながら列車を降りたとき、彼の心には職場にたいする一点の不実さもなかったけれど、女や組織にたいする絶対的忠実さの上にしばしば訪れるあのねたましい不信感とまるで無関係というわけでもなかった。
警部が教授に出喰わしたのは、こういう精神状態においてであった。肉体的にひどく空腹でありながら、彼はまだ先程の光景に吐気をおぼえていた。普通の健全な人間を怒りっぽくさせるこういう状態のもとでは、教授との出会いはとくに歓迎すべからざるものだった。彼は教授のことなど考えていなかったし、個々のアナーキストのことなど、まったく念頭になかったからだった。
ともかく、事件の様相はいかに人間が愚かであるかを警部に考えさせずにはおかなかったが、そういう抽象的なことは彼のように非哲学的な男にはすこぶる腹立たしく、具体的には我慢のならないほど憤ろしいことなのだった。
警察生活の最初の頃、ヒート警部は窃盗《せっとう》というもっと活動的な形の犯罪を担当していた。この分野で彼は名を挙げた。昇進して別の部署に移ったあとも、当然一種の愛情に似たものをそこにもちつづけていた。窃盗は愚行とはまったくちがう。それは人間の勤勉さの一つであり、じっさい誤ったものであるにせよ、勤勉をむねとする世界でおこなわれる一種の勤勉である。窃盗は陶器製造や、炭鉱、畑、道具|研磨《けんま》業などと同じ理由からなされるのである。それは労働なのであって、ほかの労働とことなる点は、その性格の危険さにあった。つまり、その危険さは関節硬直、鉛毒、爆発性メタンガス、塵埃《じんあい》にあるのでなく、簡単にいって法律用語で「懲役七年」と称されるものに存するのである。
むろん、警部はこれらのあいだの重大な道徳的相違に気づかぬわけではない。が、追われる泥棒とて、このことは知っていた。彼らはある諦念をもって、ヒート警部もお馴染《なじみ》の道徳のきびしい掟《おきて》を受け入れているのだ。泥棒とは充分な教育を受けられなかったために悪の道に踏み込んだ市民仲間なのだ、と警部は信じている。この相違を考慮すれば、彼は泥棒の気持を理解することができた。なぜなら、じつのところ、泥棒の心理や性格は警官のそれと同じだからである。彼らは同じ約束を認め、お互いの商売の方法や、きまりについての理解を持っている。それは相互の利益となり、一種の親愛感が彼らの間にうちたてられている。
同じ組織の産物ながら、一方は有益で、他方は有害と区別されてはいるが、彼らはそれなりの方法で、だが本質的には変りない真面目さで、その組織を当然のこととして受け入れているのだ。
ヒート警部の心は反逆の思想を受け入れることはできなかったが、泥棒は叛逆者とはちがう。
若いころ、警部はその体力、冷徹で不撓《ふとう》不屈《ふくつ》の態度、勇気、公明正大さによって、泥棒たちから多くの尊敬といくばくかの阿諛《あゆ》を獲得し、彼は自分がうやまわれ、讃美されるのを感じたものだった。
教授という綽名《あだな》のアナーキストから六歩のところで立ち止って、警部は泥棒の世界をなつかしく思った。あの正気で、病的な思想を持たず、きまりに従って行動し、既存の権威を尊敬し、いっさいの憎悪や絶望に染まっていないあの世界を。
この讃辞を社会体制のなかの正常なものに捧げたあと(なぜなら窃盗《せっとう》の観念は、彼の本性には財産所有権の観念と同じように正常に思えるのだから)、ヒート警部は立ち止って教授に声をかけたことや、駅から警視庁への近道だというのでその道を通った自分がすこぶる腹立たしかった。
「あんたに用はないよ」
警部はふたたび尊大な大声でいったが、それはやわらげても何か威《おど》すような響きがあった。
教授は動かなかった。内心の嘲笑で歯ばかりか歯茎までむき出して、身体中がふるえていたが、すこしも声には出なかった。
警部は無分別にも、こうつけ加えた。
「今のところはな。用があれば、どこであんたを見つけるか、ちゃんとわかってるからな」
これは警察官が犯罪者に口をきく際の伝統にふさわしい、まったく本来の言葉づかいだったが、それはこの伝統や作法にはずれた、無礼きわまる応対に出会った。警部の前の弱々しい小男は、ついにこういい放ったからだ。
「そのときには、きっと新聞にあんたの死亡記事がのるだろうね。それがなんの価値があるか、いちばんよく知ってるのはあんた自身なんだよ。どういう記事がのるか、あんた容易に想像できるだろう。もっとも、わたしといっしょに埋葬されるという不愉快な目には会うわけだがね。あんたの同僚の刑事が精一杯われわれの死体をよりわけてくれるだろうとは思うけどね」
ヒート警部はこんなことをしゃべる人間にたいしてごく健全な軽蔑を感じていたけれど、この恐るべき暗示は彼の上に作用せずにはおかなかった。とるにたらないこととしりぞけるには、彼はあまりに多くの洞察力と正確な知識を持ちすぎていた。
この薄暗い路地は、壁に背を向け、かぼそい自信たっぷりな声で語る黒髪の華奢《きゃしゃ》な小男のために、不吉な色彩をおびたかにみえた。警部の旺盛で頑強な生命力にとって、どう見ても生きるのに不適格な相手の肉体的なみじめさは、不吉としかいいようがないのである。かりに、自分が不幸にもこういう悲惨な姿に生れついたなら、いつ早死しようと勝手にしやがれという気になるではないか。生への欲望は警部をしっかととらえていたので、またあらたな吐き気の波が冷汗となって彼の額に浮かんできた。
曲りくねった薄汚い路地を通って、都会生活のつぶやきや、左右の目に見えぬ通りを行く車の低いゴロゴロいう音が、貴重ななつかしさと胸にしみるようなやさしさをこめて、警部の耳に聞こえてきた。警部とて人間なのだ。
しかし、警部はまた一箇の男子でもあったから、こんな言葉を聞きずてにするわけにはいかなかった。
「そんな文句は子供をおどすのにはいいだろう」と警部はいい返した。「しかし、おれはあんたから手を引きやしないよ」
侮蔑もこめず、ほとんどきびしいまでの静かさで、警部はみごとにいってのけたのだ。
「ごもっとも」と小男はいった。「しかし今ほどすばらしい時はないね。真の信念に生きる男にとって、今は絶好の自己犠牲のチャンスなんだ。こんなつごうのいい、慈悲深いチャンスはまたとあるもんじゃない。あたりには猫一匹いやしないし、この古ぼけたぼろ家の列が、その場でおびただしい瓦礫《がれき》の山に変るくらいのものだからね。生命、財産にこれほど損害をかけないで、わたしを捕えるチャンスは今以外に絶対にありっこないだろう。それに、あんたは生命や財産を守るために金をもらっているんだから」
「あんたは、だれに口をきいているんだ」とヒート警部は断固としていった。「今あんたを捕えたところで、どうにもならんよ」
「なーるほど。で勝負は?」
「結局われわれが勝つことは確実さ。それには、きみらを見つけ次第狂犬のように射ち殺さなければいけないことを皆に信じさせることが必要だが。それが勝負というものさ。しかし、わたしにきみらのいう勝負とやらがわかってたまるもんか。きみら自身だってわかっちゃおるまい。そんなことをしたところで、何の得にもならんだろうが」
「ともかく、それで得したのはあんたの方ですよ、これまでのところは。しかも、やすやすと。あんたの月給の件は別として、われわれが何を求めているか理解できないからこそ、あんたは、名声を得られたんじゃないかな」
「じゃあ、きみらは何を求めているというのかね?」
警部は、時間の浪費に気づいてあわてた人のように、早口に軽蔑的にいった。
完全なるアナーキストは微笑しただけで、薄い血の気のない唇はひらかなかった。警部は優越感をおぼえ、警告するように指を挙げて、忠告をこころみた。
「なんだか知らんが、ともかく諦めることだ」
とはいえ、彼の口調は泥棒の名人に忠告してやるときほど親切ではなかったが。
「諦めるんだ。おれたちがきみの手におえないことが今にわかるよ」
教授の唇にとまっていた微笑が揺れた。ちょうど内奥の嘲《あざけ》るような気分が自信を失ったかのように。
ヒート警部はつづけた。
「あんた、嘘だと思っているんだろう? あたりを見まわしてみろ。それで充分だ。おれたちは大勢いるんだから。とにかく、あんたはへまをやっている。泥棒ならもっとうまくやらないと、飯の喰い上げになるところだが」
攻略しがたい大衆が背後についていると警部にほのめかされて、教授の胸にくらい怒りが燃え上った。教授はもはやあの謎めいた、嘲《あざけ》るような微笑を浮かべなかった。数の抵抗力、圧倒的な鈍感な大衆という事実こそ、この不吉な孤独者につきまとって離れない恐怖だったからだ。彼はしばらく唇をふるわせ、それから締めつけられたような声でいった。
「あんたよりわたしのほうがうまく自分の仕事をやっていると思うがね」
「いい加減にしろ!」と警部は急いでさえぎった。
今度は教授は声を出して笑った。教授は笑いながら立ち去ったが、その笑いは永くはつづかなかった。
狭い路地からにぎやかな大通りに出たとき、彼は悲しげな顔つきのみじめな小男に戻っていた。教授は、空や大地の様子に不吉な冷淡さを示し、雨や太陽にもまったく無関心に歩いて行く浮浪者のような、力ない足取りで歩いていった。
しばらく後を見送っていたヒート警部は、きびしい天候をものともせず、この世で自分がある使命をゆだねられ、人々の精神的支持を得ていることを意識する人間の、あのわざとらしい活発さで歩き出した。この巨大な都市の全市民、この国の全国民、いやこの地球上で闘っている何億のひとびとが、泥棒や乞食にいたるまで、すべて彼の味方なのだ。
そうだ、現在の仕事において、泥棒が彼の味方であることはたしかなのだ。彼の活動全体をみんなが支持しているという意識は、ヒート警部を勇気づけ、現在のこの問題と取組む気持をおこさせた。
警部の直面する問題とは、直接の上司である特殊犯罪部次長をどう扱うかということであった。それは、忠実な信頼できる部下にとって永遠の問題だ。アナーキズムはこの問題に特殊な色彩を与えたが、それ以上ではない。
じじつヒート警部はアナーキズムについてほとんど考えたことがなかった。彼はアナーキズムをやたらに重視しなかったし、まじめにそれを考える気持にはとてもなれなかった。警部にいわせると、アナーキズムはむしろ公安妨害の性格をおびており、それは善意と浮かれさわぎへの愛すべき傾向を意味する泥酔の持つ、あの人間的な理由も持たず、たんなる乱暴|狼籍《ろうぜき》にすぎないのだ。犯罪者として眺めたとき、アナーキストはまったく階級ではない。ここで教授を想い出して、ヒート警部は威勢のいい歩調をゆるめもせず、「あの気狂いめが」とつぶやいたものだ。
泥棒を逮捕するのは、これとはまったく別問題だ。そこには、最良の者が、完全に納得できるルールのもと、勝利を得るあらゆる種類の戸外スポーツにつきものの、あの真剣さがある。
ところが、アナーキスト相手にはなんのルールもない。それは警部にはいとわしいことだった。アナーキズムはまったくばかげたことであるにもかかわらず、大衆の心を煽動《せんどう》し、高位高官に影響を与え、国際関係に作用する。
歩きながら、警部の顔には、きびしい、仮借ない侮蔑の表情が頑固に浮かんだ。彼の心は、監視下にあるすべてのアナーキストの上に走った。奴らのうちだれ一人として、昔おれが接触したあの泥棒たちの半分も勇気がない、いや十分の一もありはしない。
本庁に戻ると、警部はすぐ次長の私室に通された。次長はペンを片手に、青銅と水晶製の巨大なインクスタンドを拝むように、書類のちらばった大きなテーブルの上にかがみこんでいた。蛇に似た伝声管が次長の木の肘掛椅子の背に結びつけてあり、大きく開かれたその口が、今にも次長の肘に噛みつきそうだった。
この姿勢で次長はただ視線を上げただけだった。まぶたは彼の顔より一層暗く、しわが走っていた。すでに報告があって、アナーキストの動静はすべてちゃんとわかっていたのだ。
こういうと次長は目を落し、すばやく二枚の書類に署名した。それからペンを置いて椅子に背をもたせかけ、この高名な部下に探るような視線を向けた。ヒート警部はうやうやしく、だが何を考えているのかわからないような態度でこれに対応した。
「最初、きみがわたしにロンドンのアナーキストはこの事件とまったく無関係だ、といったのは正しかったと思う。わたしはきみの部下がみごとに連中を見張っていることに感心しているんだ。しかし、もしきみがグリニッジから何も有力な手掛りを見つけずに帰ったのだとすると、これは世間にわれわれの無智を告白することになる」と次長はいった。
次長はゆっくりと、いわば注意深く発言した。彼の思考はほかに移る前に、あるひとつの言葉の上に止まるように見えた。まるで言葉は、彼の知性が誤りの海をおぼつかなげに渡って行くための踏石であるように。
警部はたちまち明晰《めいせき》な、事務的な態度で、捜査の結果を説明しはじめた。次長は椅子をちょっと廻し、ほそい足をくんで頬杖をつき、片手で両眼をおおった。話をきく彼の態度には、どこか固苦しい、もの悲しげな優雅さがあった。頭をゆっくりとかしげたとき、その漆黒の髪の毛の両側に、磨き上げた銀のような微光が走った。
ヒート警部は心のなかでさっきいったことを思いかえすように待っていた。しかし、じっさいは、もっと発言したほうがよいかどうか熟考中なのだった。次長は警部のためらいをさえぎって、訊ねた。
「犯人は二人だったというんだね?」
警部の考えでは、それは充分ありうることだった。二人の男は、天文台の塀からそれぞれ百ヤードの所から出発したのだ、と彼は思った。
彼はまた、なぜ片方の男が見つけられずにすばやく公園から逃げられたかを説明した。
そう濃い霧ではなかったが、それが男に幸いしたのです。どうやら、男は相棒をひとりで仕事させるため、現場に送り届けて来たらしい。例のばあさんがこの二人連れがメイズ・ヒル駅から、出て来るのを目撃した時間と、爆発音が聞こえた時間を考慮してみると、相棒がこっぱみじんに吹っ飛んだとき、男はすでに、グリニッジ・パーク駅に着いていて、次の上り列車を待っていたものとおもわれます。
「こっぱみじんにか」と次長は、まだ顔をおおったままつぶやいた。
警部は口数少く、強烈な表現で現場の惨状を語った。「さぞや検屍官|陪審《ばいしん》が喜ぶでしょう」と、彼はぶきみにいった。
「われわれが陪審にいえることは何にもないだろうな」と次長はもの憂げにいった。
次長は視線を上げ、しばらく警部のあいまいな様子を見つめていた。彼は生来幻想を持たない人間なのだ。部というものは、それぞれの忠誠観をもった部下たちによって支配されていることを彼は知っていた。
次長が官吏生活をはじめたのは、ある熱帯の植民地においてだった。そこでの暮しは彼の気に入った。警察関係の仕事だったが、彼は原住民の兇悪な秘密結社をつきとめ、根絶させるのに大成功をおさめた。それから、そこを永久に去り、かなり衝動的に結婚した。世間的には、それはすばらしい結婚だった、妻の親類は有力者だったのだから。
しかし、妻は噂だけで植民地の気候をきらったので、彼は意に染まぬ現在の仕事につかなければならなかった。彼はあまりに多くの部下や上役に自分が頼っていると感じていた。世論というあのふしぎで、身近な感情的現象は、彼の心に重くのしかかり、その非合理的性格で、彼を驚かせるのだった。次長が、善悪にたいする世論の力を、とりわけ悪にたいする力を誇大視したのは、無智からであることは疑いない。そして、きびしいイギリスの春の東風は(妻には合っていたが)、人間の動機や、組織の効率への彼の全般的な不信をつよめたのだ。とくに、昨今の役所の仕事のむなしさは、彼の感じやすい肝臓をおびやかした。
次長は立ち上ると身体をしゃんとのばし、痩身《そうしん》には不似合な重々しい足取りで部屋を横切って、窓の所に行った。窓ガラスを雨が流れていた。上から見下ろすと、短い通りは、突然の大洪水できれいに押し流されたように、濡れて人影一つ見えない。大変ひどい一日だった。まず薄ら寒い、息もつまるような霧に始まって、今は冷たい雨に濡れている。ガス灯は明滅し、おぼろな炎は周囲に溶け去るかに見えた。このなかで、人間の傲慢な主張などみじめな天候に抑圧され、軽蔑や、驚きや、同情に値する、巨大な救いがたい虚栄心と感じられるのだ。
「まったくひどいものだ」
次長は窓ガラスの近くに顔を寄せて考えた。「もう十日も、いや二週間もこんな天気続きだ」
しばらく、彼は完全に思考を停止し、彼の頭は三秒間のあいだ、まったく静止した。それから、次長はぞんざいにいった。
「で、聞きこみをやって、捜査線上のもうひとりの犯人を追ったというわけかね?」
必要な手段がすべてとられたことは疑いない、と次長は思った。ヒートという男は、むろん犯人を追う仕事は百パーセントわきまえている。第一、それはどんな新米でも当然とるはずのおきまりの手続きだ。あの二つの小さな駅の改札係りに訊けば、男たちの様子についてさらに詳細がわかるだろう。回収した切符から、その朝二人が乗車した所もすぐにわかる。こんな初歩的なことを無視するはずがない。
むろん警部は、老婆がすすんで証言に来たとき、これらの手を直ちにうった。彼はある停車場の名を挙げ、「二人はそこから乗ったんですな」といった。「メイズ・ヒルで切符を受けとった改札係りは、証言とぴったりの男がふたり、改札口を通ったのを覚えていました。看板絵描きか、室内装飾業者風の、高級労働者という感じだったそうです。大きいほうの男は、ピカピカするブリキ罐《かん》を持ち、後部の三等車から降りて来ました。プラットフォームの上で、男はついてきた金髪の若い男にそれを持たせました。これはグリニッジのばあさんが巡査部長にいったことと完全に一致しています」
まだ顔を窓に向けながら、次長はこの二人がじっさい事件に関係があるのかどうか疑わしい、といった。警部の推論は、急いでやって来た男につき倒されかけた日雇いのばあさんの証言に全面的に頼っているにすぎない。じっさい、確実な実質的論拠はなにもない。ほとんど当てにならない突然のインスピレーションの上に組み立てられているだけではないか。
「率直なところ、じっさいばあさんはインスピレーションにうたれたんだろうか?」
次長はきびしく皮肉たっぷりに、いぜん室内に背を向けたまま訊ねた、まるで夜の闇になかば隠れた巨大な都市を見つめるのに心を奪われたように。次長は、彼のおもな部下のひとりであり、ときどきその名が新聞にのるところから、社会の勤勉・熱心な保護者のひとりとして世間に知れ渡っている男が、「ところが次長、天の助けというものでしょうか……」と低い声でしゃべり出したときさえ、振り向きもしなかった。
警部はすこし声を大きくした。
「現場に、まばゆいブリキ罐の破片がありました。それがかなり有力な証拠です」
「すると、奴らはその小さな田舎駅から来たわけか」
いぶかしげに次長は感慨をもらした。彼は、メイズ・ヒル駅で回収した三枚の切符のうち、二枚にはこれこれと名が書いてあり、汽車を降りた第三の男は、改札係りと顔馴染のグレイヴゼンド〔ロンドンの東南三キロの所にある港市〕の行商人だったと聞かされた。
ヒート警部は、自らの忠実さや努力の価値を意識している忠実な召使のように、いくぶん不機嫌に、きっぱりした語調でこの情報を伝えた。
次長は大海のように巨大な外の夕闇から、まだ振り返らなかった。
「駅から出て来たのは、外国のアナーキストだったというんだね」と次長は、窓ガラスに向っていった。「しかし、その説明はかなり苦しいね」
「ごもっともです。しかし、例のマイケリスがどこか近くの別荘に泊っているんでないとすると、ますます説明がつきません」
現在のやっかいな事件に思いがけず飛びこんできたこの名を耳にしたとき、次長はぼんやりと考えていたクラブでの日課の、ホイスト〔カードゲームの一種〕パーティのことを荒々しく心の中から追いやった。このゲームは、なんら部下の助力なしで、自分の腕前を立派に示せるという点で、彼の生活のもっとも楽しい習慣だった。彼は、毎日晩飯に帰宅する前、五時から七時のあいだクラブに出かけて、人生のあらゆる不愉快なことを忘れるのだった、まるでホイストが精神的不満を癒《いや》すありがたい妙薬であるかのように。
彼の仲間は、暗いユーモアをもったある有名な雑誌の編集者と、意地悪そうな細い目をした無口な老弁護士と、落着きのない茶色い手をした、みるからに軍人らしい単純な老大佐の三人だった。彼らはたんにクラブでの知合いにすぎず、ホイストの席以外の場所で会うことはなかった。しかし彼らはみな、ホイストが人生のひそかな苦しみの特効薬でもあるかのように、悩む者同士といった気持でやって来るらしかった。
だから、毎日太陽がロンドンの無数の屋根の上に傾く頃、確固とした深い友情の衝動に似た、熟れた楽しい苛立ちが、次長の仕事の疲れをやわらげるのだった。今やこの楽しい感情は、なにか一種の肉体的ショックによって、彼の体内から消えてしまい、社会の保護という彼の職務に対する特殊な関心がそれにとってかわったのだ。これは正確には関心と呼ぶべきではなく、むしろ彼は自らの手にした武器に突然鋭い不信を感じたというのが最も適切だったかもしれない。
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六
人道主義の使徒、仮出獄者マイケリスのパトロンの貴婦人は、次長の妻のもっとも有力で、著名な親戚のひとりであった。夫人は彼女をアニーと呼び、いまだにあまり賢くないまったく世間知らずの娘扱いにしていたが、次長を友好的に……ほかの有力な親類がけっして全部そうではなかったにもかかわらず……受け入れてくれた。
夫人ははるか若いころすばらしい結婚をし、上流社会のひとびとや、出来事を、しばらく身近に眺めた時代もあった。夫人自身偉大な貴婦人のひとりだった。
今では年こそとったけれど、彼女は、まるで時間とは愚劣な大衆が盲従する卑俗な因襲であるかのように、時間を軽蔑し、無視し切るあの例外的な性質をもっていた。もっとしりぞけやすいほかの多くの因襲も、やはり性格上の見地から、彼女の承認を得ることができなかった。彼女を退屈させるか、あるいは彼女の軽蔑や同情の妨げになったからである。
賞讃は夫人の知らぬ感情であった(それが彼女の高潔な夫のひそかな嘆きのひとつだったが)。第一に、それはつねにある程度の平凡さに染められているからであり、第二には、ある意味で自らの劣等性を認めることになったから。
率直なところ、夫人は平凡さや、劣等性を考えることのできぬ性格であった。彼女がやすやすと、恐れるところもなく、何事もズバリといってのけられるのも、すべてを自分の社会的地位の観念から判断するからである。
行動の上でも、夫人はやはり何物にもとらわれなかった。彼女の如才なさは純粋な人間性からで、その肉体的な活力はつねに抜群で、静かで心地よい卓越さをほこっていた。だから、三つの世代が彼女に無限の賞讃をよせ、最後の世代は彼女をすばらしい女性と呼んだほどだった。聡明で、一種の高邁《こうまい》な単純さの持主である彼女は、社交界のゴシップだけに興じる大勢の女たちとはちがった意味で好奇心が強く、合法的・非合法的であるとを問わず、地位、才気、傍若無人《ぼうじゃくぶじん》さ、幸運、非運の上で平々凡々たる一般世間にぬきんでたすべての者を、自分の圏内に引きよせて、晩年を楽しんでいた。彼女は、王族、芸術家、科学者、若い政治家、あるいは軽い実質のないコルクさながらにプカプカ浮きながら時流の方向をもっともよく示すあらゆる年齢・境遇の山師《やまし》達を家にむかえいれ、彼らの話を聴き、看破し、理解し、評価して、自らを啓発するのだった。
いい換えれば、夫人は世の中の動きを見守るのを好んだのだ。彼女は現実的な心を持っていた。だから、人間や事物についての彼女の判断は特殊な偏見にもとづいているとはいうものの、完全に誤ることはめったになかったし、けっして頑迷ではなかった。夫人の客間は、このひろい世界で、おそらく次長が職業上の公的な理由以外で、仮出獄の囚人に会うことができる唯一の場所であったろう。
ある日の午後、仮出獄者マイケリスをそこに連れてきたのがだれだったか、次長ははっきりとは覚えていない。たしか名門出身で、いつも滑稽新聞の冗談の≪ねた≫にされていた、型紙破りの同情で有名なある代議士だったにちがいない。当代の名士や、平民出身の有名人が、彼女の気高い好奇心の殿堂に自由に人を連れて来たからだ。六つの高窓から差込む光のなかで、立ったり腰かけたりしている大勢の客の話し声がざわめく大きな客間の奥、長椅子や幾つかの肘掛椅子が心地よい隅をなしているメッキ枠の色|褪《あ》せた青い絹張りの衝立《ついたて》の蔭に一度入ってしまうと、いったいだれに出喰わすのかだれも全然見当がつかないのである。
近頃のマイケリスに対しては、昔彼が警察の護送車から囚人を救い出そうとする無暴な計画に加わったかどで残酷にも終身刑を宣告されたとき、拍手|喝采《かっさい》したあの庶民感情が、まったく逆転していた。計画では、馬を射殺して、護衛の警官をおどすだけだったのが、不幸にもそのうちのひとりを殺してしまったのだ。
警官の死後には妻と三人の幼い子供が残された。彼の死は、その防衛と幸福と栄光のために毎日人が任務に倒れる領域全般にわたって、激しい怒りと、犠牲者へのいやしがたい大きな同情をまき起した。三人の首謀者は絞首刑に処せられた。ほっそりした若者で、熱心に夜学に通っていた錠前屋のマイケリスは、だれかが殺されたことさえ知らなかった。彼の役目は数人のほかの仲間と護送車の後部ドアをこじあけることだったから。
逮捕当時、マイケリスはひと束の合鍵と大きな≪のみ≫を両方のポケットに入れ、手には短い金てこを持っていた。どう見ても強盗のいでたちである。しかし、これほどきびしい判決を受けた強盗はかつていなかっただろう。巡査の死は彼をみじめにしたが、計画の失敗もまた彼をみじめにした。この感情を彼は陪審員席に隠そうとせず、満員の法廷は彼を驚くほど後悔不充分だと考えた。判決をくだす際、裁判官は感情をこめ、若い被告の堕落と無感覚を批判した。このことが彼の判決を、いわれもなく評判にしたのである。
マイケリスの釈放が有名になったのも、こうしたあいまいな理由からであった。ひとびとは、彼の投獄の感情的な面を、自らのためか、あるいはわけのわからぬ目的のために利用しようとした。マイケリスは、無邪気で単純な心から、ひとびとのするがままにまかせておいた。何事がわが身にふりかかろうと、それは彼にはすこしも重要ではないのである。この点で、マイケリスは自己の信仰の瞑想にふける聖者めいたところがあった。彼の思想の性格は、人を理性的に信服させるようなものではなかった。それは、矛盾と曖昧《あいまい》だらけのなかで不屈の人道主義的信条を構成していた。彼は平和主義的信念の微笑を唇に浮かべ、率直な青い目をふせて……人の顔を見ると、孤独のなかで発展したインスピレーションがかきみだされるので……この思想を人に説くというよりは告白するのだった。
次長は、マイケリスが橈船の奴隷の鉄の玉よろしく一生身について離れないグロテスクな救いがたい脂肪につつまれて、あの特徴的な悲しげな姿勢で、衝立《ついたて》の内部の特別席を占めているのを見た。仮出獄の使徒は、夫人の長椅子の上手《かみて》の席で、まるで頑是《がんぜ》ない子供のように己れを意識せず、おだやかな静かな声で語っていた。じっさい、彼にはどこか子供っぽい魅力が、胸に訴えるような信じやすさがあった。彼はなんびとをも猜疑《さいぎ》の目で眺める必要はなかった。彼は未来をかたく信じ、未来への道は、あの有名な牢獄の壁のなかでひそかに彼に啓示されたのだから。
彼は好奇心にとむ偉大な夫人に世界の未来について決定的な観念を与えることはできなかったにせよ、そのおだやかな信念や尊敬すべきオプチミズムによって、なんなく彼女に感銘を与えることができたのだ。
ある思想的単純さが、社会の両極にある静かな魂に共通する。夫人は偉大であったけれど、それなりに単純な面もあった。マイケリスの意見や信条が夫人を驚かせたり、ショックを与えたりしなかったのも、彼女が自らの高い地位に立って、それらを判断したためである。まさしく、彼女の同情は、この種の男にたやすく動かされやすかった。彼女自身|搾取《さくしゅ》的な資本家でなかったし、いわば経済的条件の外にある人間だったから、心から庶民の苦しみに同情することができた。彼女は実生活でそうした苦しみをまるで知らず、この概念をとらえるため、まず心のなかでそれを想像する必要があった。
次長はこの二人のあいだにおこなわれた会話をよくおぼえている。彼自身は無言で聞いていたが、それはどこか刺激的だった。いや、精神的にまじわろうとする、はるかへだたった遊星の住人の努力のように、最初からむなしいことがわかっているだけに、感動的ですらあった。この人道主義的情熱のグロテスクな化身は、とにかく人間の想像に訴えかけてやまぬ人物だったのだ。
ようやくマイケリスは立ち上り、夫人のさし出した手を、悠々と親しげに、大きなクッションのような掌でしばらく握っていた。それから、つんつるてんのツィードのジャケツの下でふくれ上った、四角い大きな背中を、客間のなかば隠された隅に向けた。そして、静かな慈愛深い視線を周囲に投げかけながら、客間を通って遠くの扉の方へ重そうに身体を運んで行った。偶然、ひとりの長身の輝くような娘と視線があうと、彼は無邪気に微笑し、後を追う客たちの視線に気づかずに、部屋から出て行った。
マイケリスの社交界でのデビューは成功した。まったく嘲笑のささやきさえ聞こえぬほど、うやうやしい成功だった。中断された会話は、また前と同じ調子でつづけられた。窓際で二人の婦人と話し中だった姿勢のいい、足の長い活動的な感じの四十男《しじゅうおとこ》が、思いがけず感に耐えぬように大声でこういったのを別にすれば。
「百三十キロはあるな。五フィート六インチの身長で。かわいそうに。まったく恐るべきもんだ!」
次長といっしょに衝立《ついたて》のかげに残された夫人は、ぼんやりと彼を見つめながら、端麗な考え深げな老顔の蔭で、自らの精神的印象を整理しているふうだった。かすかな微笑を浮かべた灰色の口ひげの、ふとった元気そうな紳士たちや、優雅だがきっぱりした感じの二人の老婦人や、昔のダンディふうに幅広の黒ひものついた金ぶちの片眼鏡をかけ、きれいにひげをそり上げた、こけた頬の男が衝立をまわって近づいてきた。うやうやしい遠慮がちな沈黙が、しばらく支配した。
それから、夫人は恨むというよりは抗議するような憤《いきどお》りをみせて叫んだ。
「あの方を革命家扱いするなんて! なんてばかな」
にらみつけられて、次長は弁解をつぶやいた。
「危険な革命家ではないでしょうがね」
「そうですわ。じっさいそう思いますわ。あの方、ただ信じていらっしゃるだけよ。聖者のような性格の方なんですもの」と夫人は断言した。
「それなのに二十年も投獄するなんて。あまりばからしくて身震いがするわ。せっかく今釈放されても、あの方の身内は皆どこかにいらしたか! すでに世を去っていらっしゃる。ご両親はおなくなりだし、結婚なさるはずだった女性は、入牢中におなくなりになった。手仕事をしようにも、必要な技術は忘れていらっしゃる。あの方はこのことを、とてもやさしい、静かな口調でお話しになったわ。でも、牢獄では時間がたっぷりあったから、いろいろ考えることができたっておっしゃったけれど、すばらしい償いもあったものねえ! もし革命家があんなふうなら、わたくしたちその前にひざまずいてもいいんじゃないかしら」
夫人はいくらか嘲《あざけ》りをおびた声で話しつづけた。うやうやしく、紋切型に夫人に向けられたひとびとの顔の上で、陳腐な社交界的な微笑がこわばった。
「お気の毒に、マイケリス様は、もうご自分の面倒も見られないくらい。だれかがすこしお世話をして差上げなくっちゃ」
「何か治療を受けるようにすすめるべきですな」
離れた所から、活動的な感じの男が、軍人のような声で熱心にいった。彼は年にしてはすこぶる丈夫で、着ている長いフロック・コートの生地さえも、まるで生物組織のように、しなやかな完全さを持っていた。
「あの人はじっさい足が不自由なんだから」男は感情をこめてつけたした。
このきっかけを歓迎するように、他のひとびとも急いで同情の言葉をつぶやいた。「まったく驚くべきことだ」、「ひどいねえ」、「おいたわしいこと」
さっきの片眼鏡をかけたひょろ長い男は、きどった様子で「奇怪な話だ」と感想をのべた。かたわらのひとびとは、この意見の正しさを認めて、たがいにほほえんだ。
そのときも、そのあとも、次長は自分の考えは一切いわなかった。彼の地位からして、仮釈放の囚人について個人的意見をのべることはできなかったからである。しかし、じっさいは、マイケリスはいささか狂信的なところはあるが、人道主義的なセンチメンタリストであり、蝿《はえ》一匹故意にきずつけることのできない人間だ、という夫人の意見には同感だった。だから、今度の厄介なダイナマイト事件で突如マイケリスの名が出てきたとき、彼はそれがマイケリスにとっていかに危険であるかを理解したのである。
たちまち次長の心は、マイケリスに対する夫人の評判ののぼせぶりに戻った。彼女のひとりよがりの親切は、マイケリスの自由がすこしでも妨げられることに我慢できないだろう。それは深く、しずかで、確信にみちた熱中だった。夫人は彼が社会に無害な人間だと感じているばかりか、そう口に出していいもしたし、ついにはそれは彼女の絶対主義的な心の混乱によって、一種の論破しがたい確証となっていた。
それはあたかも、この率直な子供のような目と、肥った天使のような微笑をもった男のグロテスクさが、すっかり彼女を魅惑してしまったようだった。彼女は彼の未来に関する理論をほとんど信じるようになっていた。なぜなら、それは彼女の抱く偏見にとっていとわしいものではなかったから。夫人は社会構成のなかの新しい財閥的要素が嫌いだったし、人間の発展手段としての産業主義は、その機械的で冷酷な性格のために、異常にいとわしく感じられた。穏健なマイケリスの人道主義的希望は、完全な破壊ではなく、たんに現体制の完全な経済的破滅をめざすにすぎない。じじつ彼女は彼の思想のどこが道徳的に有害なのかわからなかった。それはただ大勢の「成上り者」をかたづけるだけではないか。
彼女が「成上り者」を嫌い、信用しなかったのは、彼らがどこからか成上ったからでなく(彼女はその理由は否定した)、世界についてまったく無智だからであり、そのことが、彼らの粗雑な認識と、貪欲《どんよく》な心の第一の原因となっているからである。全資本の絶滅とともに、彼らも滅びるにちがいない。しかし、社会的な価値は、全体的破滅(マイケリスが啓示を受けたように、その破滅が全体的だと仮定すれば)によっても変動しないし、最後の金がなくなっても、身分のある人間には影響しないはずである。夫人は、それが彼女の身分にどう影響するのか考えることができなかった。彼女は、無関心の害をまぬがれた老人特有の落着きはらったこわいものしらずで、こうした発見を次長に説いてきかせた。
次長は、処世術の上からも、性格の上からも、人の気にさわることはすまいと注意していたから、いつもだまって夫人の話に耳をかたむけていた。彼は、マイケリスのこの老いたる弟子にある種の愛情を感じていた。この感情は複雑であって、少々彼女の名声や個性にもとづくものではあったけれど、おもに感謝の気持から出ていたのである。次長は、夫人の家で好意を持たれていることを感じていた。彼女は親切そのものだった。経験をつんだ女なりに、実際的な賢さも持ちあわせていた。もし彼女が寛大にもアニーの夫としての彼の権利を充分認めてくれなかったなら、彼の結婚生活ははるかにやりにくいものになっていただろう。
彼の妻は、さまざまなちっぽけな利己心や、嫉妬や、羨望《せんぼう》にとらわれた女だったけれど、彼女におよぼす夫人の影響たるやすばらしいものだった。ただ不幸にも、夫人の親切や賢明さは非理性的で、きわめて女らしく、扱うのに苦労したけれど。彼女は、女性のある者がそうなるように、こずるいやっかいな男性化した老人でなく、生涯完全に女であった。いつも夫人を思うとき、次長は女を感じるのである。彼女こそ女性的なるものの完璧な典型であり、真の、あるいは情熱に浮かされて語るあらゆる種類の男たち、説教師、幻想家、予言者、改革者に、よろこんで、やさしい純真な熱烈な保護の手を差しのべてやるのだった。
次長は、妻のよき偉大な友であり、その点で彼自身のよき友である夫人に深く感謝しながらも、マイケリスの運命を考えて愕然《がくぜん》とした。いかに間接的にせよ、マイケリスが今度の事件に関係があるとにらまれて逮捕されれば、彼がまた投獄されて、少くとも残る刑期を終えなければならないことは、ほとんどまちがいないだろう。そうなれば、ぜったいに生きて娑婆《しゃば》の土をふめるわけがない。次長は自らの職務とはまるで不似合なことを考えた(とはいえ、彼が人間味に富んでいたからではなかったが)。
「もしあの男がまた逮捕されたら」と次長は考えた。「彼女はけっしてわたしを許してくれないだろう」
この種の考えをそっと率直にもらすとき、人はなんらかの自嘲的な反省を伴わずにはいられない。いやな仕事に従う人間はだれしも、なぐさめになるような夢を多く守りつづけることは不可能である。仕事への嫌悪や、魅力の欠如は、仕事それ自体から、人間にまでひろがってしまう。われわれが完全に自己|欺瞞《ぎまん》の楽しさを味わえるのは、偶然の幸運からわれわれに定められた仕事が、自己の資質にかなったときだけだ。
今の仕事を次長は好んでいなかった。かつて遠い地球の一隅でたずさわった任務には、非公式の戦争めいたなぐさめがあり、すくなくとも、戸外スポーツに似た危険や興奮があったのだが。
実際の彼の活動はおもに行政方面だった。しかしある程度冒険的な性格もあった。四百万の大都会のなかで机にしばりつけられて、彼は自らを皮肉な運命の犠牲者と見なしていた。この同じ運命が、彼を、熱帯の気侯に極度に過敏な女……彼女の繊細な性格や趣味を証明するほかのいろいろな制約のほかに……と結婚させてしまったのだ。
次長は自らの驚きを皮肉に批判したが、さっきの不似合な考えを心の中から追いやりはしなかった。自衛の本能が、彼のなかで強く働いていたからだ。それどころか逆に、心のなかでいっそう正確に、力をこめて繰返した。「畜生! もしヒートに勝手なまねをさせておいたら、マイケリスは牢屋にぶちこまれて脂肪ぶとりで死んでしまうぞ! そうなれば、あの人はけっしておれを許してくれはしまい」
白のカラーに黒服の次長の痩身は、身じろぎしなかった。後頭部の短く刈った髪には白いものが光っている。あまり長い沈黙がつづいたので、ヒート警部は思いきって咳ばらいした。効果はあった。次長は、背を向けたまま、この仕事熱心で頭のきれる部下にいったからだ。
「マイケリスが事件に関係があるというんだね?」
警部はきわめて確信ありげに、だが慎重に答えた。
「そうです。そう考えられるふしが充分あります。とにかく、あんな男には、世間で勝手な真似をする資格がないのです」
「しかし、決定的な証拠が必要だね」次長はつぶやいた。
ヒート警部は、頑固に彼の頭脳と情熱に突きつけられている黒いせまい背中に眉をつりあげた。
「わけはありませんよ、充分な証拠を集めるのは」
心にやましさのない警部は、満足げに答えた。「その点は大丈夫です」
彼は全然その必要もないのに、張り切ってつけたした。というのは、もしこの事件に世間が憤慨して湧き返ったなら、彼らの手のなかにこのアナーキストを放り出すのはたいそうすばらしい考えに思われたから。しかし世間が騒ぐかどうかはわからない。結局それは新聞の書き方次第だ。とにかく、ヒート警部は牢屋へ囚人を供給することが仕事であり、法律的本能を持つ男だったので、当然投獄こそあらゆる法律の敵にふさわしい運命だと信じていた。この信念に頼りすぎて、彼はヘマをやった。思わず自惚れた笑い声をたてて、こう繰返したからだ。
「ご安心ください、次長」
この一年半、役所の組織や部下への立腹をおしかくしてきた次長には、これはあまりな言い方だった。彼はいわば丸い孔にうちこまれた四角い釘だった。もっとかどのとれた人間ならちょっと肩をすくめて、おとなしくあきらめて身を入れることもできただろうが、彼は役所の伝統的な≪そつ≫のない円満さに毎日侮辱されているように感じていた。とくに腹立たしいのは、自分がかくも部下に頼らなければならないということだった。
警部の軽い笑い声を聞くや、次長は電流のショックで窓からはねとばされたように、くるりとこちらを振り向いた。彼は、こうした際に特有の自己満足が、警部の口ひげの下にひそんでいるのを認めたばかりか、その丸い目がさぐるように、彼の背中を見つめていた痕跡《こんせき》をとらえた。そして相手の熱心な視線がたんなる驚きの表情に変る前に、一瞬双方の目が出会った。
まさに次長はその地位にふさわしい、ある資格をそなえていた。突如疑惑がめざめたのだ。警察のやり方について次長の疑惑(警察は彼の組織した半軍事団体ではなかったから)を喚起することは、容易だったといって差支えない。これまで疲れて眠っていたにしろ、それはまどろんでいたにすぎないのだ。次長はヒート警部の情熱と才能を評価していたが、それもほどほどで、けっして精神的な信頼は抱いていなかった。「この男は今何かやろうとしているな!」彼は心のなかで叫んだ。すると、急に腹が立ってきた。まっしぐらに机に戻ると、彼は乱暴に腰を下ろした。
「おれは書類の山に埋まって」と次長は無分別に腹を立てて考えた。「手のなかにあらゆる糸をおさめていると思われている。ところが、おれは今つかんでいる糸を持っているだけで、端っこのほうは奴らが勝手なところに結びつけられるのだ」
彼は頭を挙げ、精力的なドン・キホーテに似た、輪郭のくっきりした痩せた長い顔をヒート警部に向けた。
「今のきみの切札は何かね?」
警部はじっと見つめた。彼の丸い目は、さまざまな犯罪者をにらみつけるときのように、まったく動かず、瞬きひとつしなかった。すると犯罪者なら、しかるべき警告を感じて、無実な心を傷つけられたり、素朴をよそおったり、むうっと観念した口調で自供をはじめるのだ。しかし、今の彼の無表情な職業的な視線の背後には、ある驚きがかくされていた。
特殊犯罪部の片腕ヒート警部は、こうした侮辱といらだちを微妙にまじえた口調で話しかけられることに慣れていなかった。警部は新しい思いがぬ経験に不意討ちされたひとのように、ひきのばすような口調でいいだした。
「マイケリスについてどんな証拠があるのか、とおっしゃるんですね?」
次長は、警部の弾丸型の頭や、頑丈な顎の線の下にたれているヴァイキングを思わせるひげや、肥りすぎてその決然たる性格がそこなわれている満月のような青白い顔や、眼尻のずるそうなしわを眺めた。そして、この有能かつ世間の信頼あつい官憲を目的ありげに見守っていたとき、突然インスピレーションのような確信が生れてきた。
「きみが部屋に入ってきたとき」次長は一語一語慎重にいった。「最初にきみの心にあったのはマイケリスじゃないね。あるいはあの男のことなど全然念頭になかったと思われる理由がある」
「そう思われる理由ですって?」
ヒート警部はまったく驚いたように低くいった。彼はこの事件に、なにか複雑微妙で、発見者の側にある程度不誠実を強いるような面を見出していた。それは老練、慎重、分別という名のもとに、多くの人事をめぐるある点で生じてくる種類の不誠実だった。この瞬間、突如演技の最中に演芸場の支配人が隅から舞台に飛び出してロープをゆさぶり出したとき、綱渡り芸人が感じるに相違ないような気持を彼は感じた。憤りや、骨を折るかもしれないという直接的な懸念だけではない。こんな背信行為をやったらおれは精神的不安を招くだろうという意識を感じているのだ。俗にいえば「ひどいこと」になるんじゃないか。それにおれの顔に泥を塗る心配もある。人間は自らの存在以外にもっと確実な物と自分を結びつけ、社会的地位か、やむなくやっている仕事の性質か、あるいはたんに自らが幸福にも味わっている優越的な無為のうちに彼のプライドを確立しなければならないものなのだ。
「そうさ」と次長は答えた。「マイケリスのことなどきみが全然考えていなかったというつもりはないが、明らかに今のきみの言葉には、完全に率直だとはいえないところがあるよ。だって、じっさいもしそんな手掛りがあるのなら、なぜきみ自身か、部下のひとりを現場へやって、すぐに追及しなかったのかね?」
「そんな手落ちをわたしがするとお考えですか?」
警部は、できるだけ思慮深くいった。思いがけず全能力をかたむけて自己のバランスを守らなければならなくなった警部は、この点にとびついて次長からお小言を喰った。次長が少し眉をひそめて、「今の言葉はおだやかじゃないな」といったからだ。
「しかし、きみがいい出したからいうんだが」と次長はひややかにつづけた。「わたしのいうのはそういうことではない」
彼は言葉を止め、くぼんだ目でじっと前を見た。そこには「きみにもわかってるはずだが……」という言葉が暗黙のうちに充分あらわれていた。立場上、犯人の胸にひそむ秘密を追って戸外に出ることを禁じられた次長は、部下を材料に雑然と真実を追求することに、その能力をふるう傾向があった。この特異な本能は欠点とはいえず、むしろ自然なものだった。次長は生れながらの刑事だったのである。
職業の選択にあたって、彼を無意識に支配したのはこの本能であった。かつて彼がそれに裏切られたことがあったとしても、たぶんそれは結婚という例外的な情況においてだけである。しかも、それもまた自然だった。彼は表を歩きまわることができなかったので、この本能を世間から引きこもった役所の仕事のなかで、自分が接しうる人間に対してふるったのだ。われわれは決してわれわれ自身であることをやめられぬ存在なのである。
細い足を組み、やせた手で頬杖をつきながら、次長はますますこの事件に興味がわいてきた。ヒート警部は彼の洞察に完全に値するほど立派な敵ではないが、ともかく彼の知る範囲ではもっとも相手として不足のない男だ。既成の名声にたいする不信は、看破《かんぱ》者としての次長の能力にまことに似つかわしかった。
彼は遠い植民地時代、知合いだったある肥った富裕な老土人|酋長《しゅうちょう》を想い出した。代々の総督はこの酋長を白人によってたてられた秩序や法律を断固支持し、擁護してくれる友人として信頼し、重宝してきた。ところが、次長が猜疑心から調べたところ、酋長はまず第一に自分自身の味方であり、ほかのだれの味方でもないことがわかったのだ。酋長は厳密な意味での裏切者ではなかったが、自分の利益や幸福や安全にたいする当然の配慮から白人への忠誠を誓い、しかも多くの危険な隔意をもった人間だったのである。天真|爛漫《らんまん》たる二枚舌のうちにどこか無邪気なところがある男……。それにもかかわらず、危険なことには相違なかった。
次長はあることを発見した。酋長も大男で、むろん皮膚の色は別だが、ヒート警部の容貌は、この土人の記憶をよみがえらせたのだ。目や唇が似ているわけではない。だから奇妙なのだ。しかし、アルフレッド・ウォーレス〔イギリスの博物学者〕は、マライ群島についての有名な書物のなかで、アール諸島〔ニューギニア南西にある群島〕のまっ黒な肌をした裸の老土人が奇妙に故国の親友に似ていることを発見した、と語っているではないか。
現在のポストに任命されて以来、はじめて次長は自分が月給にふさわしい仕事をしようとしているのを感じた。それは楽しい感情だった。「化けの皮をはがしてやるぞ」彼は思慮深げに警部をみつめながら考えた。
「わたしは、そんなことをいっているんじゃない」ふたたび次長はいい出した。「むろんきみは職務に精通している人間だ。だから、わたしは……」
彼は急に言葉を切って、調子を変えた。
「マイケリスに対して、どんな決定的な証拠があがったのかね? むろん二人の容疑者……二人いたと、きみは確信しているが……が、今マイケリスが住んでいる村から三マイル以内の駅から降りてきたという事実は別にしてだよ」
「それだけでも充分あの男を洗う価値がありますよ」とヒート警部は落着きを取り戻していった。相手が賛成するように軽くうなずいたので、この高名な警官はさきほどの腹立たしい驚きをやわらげられたくらいだった。というのは、警部は根は善良な人間で、立派な夫、子煩悩《こぼんのう》な父親だったからである。さいわい彼は愛すべき性格によって世間や部の信頼もあつかったから、代々の次長にたいして友好的な感情を持つようになっていた。
警部は今まで三人の次長に仕えている。最初の次長は、白い眉毛に赤ら顔のぶっきら棒な軍人肌で、非常な気短かだったが、きわめて扱いやすい人物だった。これは定年で辞めた。二番目は紳士の典型で、己れや他人の立場をすばらしく心得ており、外地に栄転する際、ヒート警部の働きのおかげで(本当の話だ)勲章を授けられた。この上役と働くことは、警部にとって誇りであり、喜びでもあった。三番目の今の次長は最初から少々ダーク・ホース的で、一年半を過ぎた現在でも、警部にとっては依然としてどこかダーク・ホース的なところがあった。彼はこの次長は一風変っているが、おおむね無害な人物だと信じていた。その次長が今しゃべっている。警部はうわべはうやうやしく(それはたんなる義務で、まったく意味はない)、だが心のなかでは寛大に我慢して承《うけたま》わっていた。
「ロンドンから別荘に行く前に、あらかじめマイケリス自身がそのことを届け出たのかね?」
「はい、そうです」
「そこで何をしているんだろう?」その点は百も承知で次長は訊ねた。
別荘は苔《こけ》むした瓦屋根の家で四部屋あったが、マイケリスは二階の虫喰いだらけの樫《かし》の机の前にある古い木製の肘掛椅子にようやく腰をおしこみ、昼も夜も、わななく斜めの字体で、『ある囚人の自叙伝』を執筆中だった。それは人間の歴史における一種の黙示録になるはずだった。ただひとり四部屋からなる小さな田舎家に閉じこもっているという状態は、彼のインスピレーションには幸いした。ちょうど牢獄のなかにいるような感じだったから。ただ、ここでは古巣の刑務所のように専制的な規則に従って運動するといういとわしい目的で、瞑想を掻き乱されることがけっしてない、という点がちがっていた。
マイケリスは、いったい太陽がまだこの地球上に照っているのかどうかもわからないくらいだった。執筆の疲れが汗となって彼の額からしたたり落ち、輝かしい情熱が彼を駆り立てた。それは彼の内的生活を解放し、彼の魂を広い世界に放ってやることだった。彼の無邪気な烈しい虚栄心は、なにか運命的に予定された崇高なもののように思われた(もっとも、最初彼の情熱は、五百ポンドの謝礼を払うという出版社の申し出によってめざめたのだったが)。
「もちろん正確なことがわかればいちばん望ましいのだが」と次長は遠まわしにいった。
こうした用心深さを見て、また心のなかで憤りながら、ヒート警部は、最初から田舎の警察にはマイケリスの到着を知らせてあるのだから、数時間以内に完全な報告が得られるはずです、といった。署長に電報をうって……。
こうして、警部はかなりゆっくりしゃべった。その間にも、彼の心はすでに結果を推量しているらしかった。彼がちょっと眉根にしわをよせたのが、その外面的な証拠だった。だが、急に彼の思索は中断された。
「もう電報はうったんだね?」
「いや、まだです」驚いたように警部は答えた。
突然次長は組んでいた足をほどいた。動作がだしぬけだったので、こう彼が訊ねたときのなにげない様子と対照的だった。
「たとえば、きみはマイケリスがこのダイナマイトの準備に関係したと思うかね?」
警部は考え深い態度をとった。
「そうは思いませんが、現在議論する必要はありません。あの男は危険人物と接触しておりますからね。釈放後一年たらずで、赤色革命委員会代表に選ばれたくらいです。まあ彼にたいする一種の儀礼だろうとは思いますが」
そして警部は少々腹立たしそうに軽蔑的に笑った。マイケリスみたいな男に気を使いすぎるのは、おかどちがいの不法な感情ですらある。二年前、特種をほしがる感情的なジャーナリストたちが出所したマイケリスを有名人に仕立てあげてしまったことが、以来警部の心にしこりを残していた。
どんなに些細《ささい》な嫌疑ででも、マイケリスを逮捕することはまったく合法的ではないか。外見から判断して、それは適切・正当な処置なのだ。前任の二人なら、すぐにこのことがわかったはずだ。ところが、この次長ときたひには、イエスもノーもいわないで、まるで夢にふけっているようにそこに坐っているだけではないか。その上、適切かつ正当だというほかに、マイケリスを逮捕することは、いくぶん警部を悩ませているある小さな個人的困難を解決することになるわけだ。この困難は、警部の名声、なぐさめ、任務の効果的な遂行にかかわっていた。
今度の事件について、マイケリスがいくらか知っていることは疑いないとしても、たいして知っているはずのないことは警部に確信できた。それでいいのだ。あいつはおれが見当をつけているほかの連中よりはるかに知っているまい、と彼はかたく信じていた。しかし、彼らを捕えることは捕物ゲームの規則にてらして合法的とは思えなかったし、もっと厄介な問題だった。前科者のマイケリスには、こういう規則の保護が大して与えられていない。こんな法律上の便宜《べんぎ》を利用しなければ、愚かというものである。マイケリスを大げさにほめあげた新聞は、ただちにまた感情的な憤りをもって彼をたたくにきまっている。
ヒート警部はこの予想の正しさを確信し、おれは輝かしい勝利をおさめられると考えた。だから、ごく平凡な妻子持ちの市民として、気狂いじみた教授とかかわりあい、事件に巻きこまれることをいとう気持が、胸の奥深くで無意識のうちに働いていた。
この感情は路地で偶然教授と出会っていちだんと強められた。警官は、犯罪者との役目を離れた私的な接触から満足すべき優越感をあじわい、権力への虚栄心や、民衆にたいする卑俗な権勢欲は相応にみたされるものだ。ところが「教授」との出会いは、こうした優越感を警部に残してくれなかった。
警部は教授など人間のなかに入れていなかった。手のつけられない気狂い犬、ほっといてしかるべき奴にすぎない。べつに教授がこわかったからではない。それどころか、いつか捕えてやるつもりでいた。しかし、まだ現在はお手並を示すときではないだろう。彼の考えでは、折を見てゲームの規則に従って、正式に効果的に逮捕してやる≪はら≫だった。
個人的な、あるいは公的な多くの理由から、これが警部の強い気持だった。だから、今回の事件では、どんな結末になるのか、まるで見当がつかない薄くらがりの工合の悪い路線を通って、マイケリスという名の静まりかえった合法的な側線に入って行くことだけは避けなければならない。警部には、それこそが正しいやり方であるように思われた。彼は、まるで先程の質問を良心的に再考しているように、こう繰り返した。
「爆弾のことについては正確にはいえませんな。どうしてもわからんかもしれません。しかし、なんらかの点であの男が事件に関係があるのは明らかです。それをみつけ出すのはさして困難じゃないでしょう」
警部の顔には、泥棒仲間にひどく恐れらている、あのお馴染のいかめしい尊大な冷淡さがあった。警部は「微笑する動物」である人間のひとりにはちがいなかったが、ほほえんだりはしなかった。そのかわり、心のなかで、次長の受動的なものわかりのよい態度に満足した。次長は静かにつぶやいた。
「すると、きみはその方面を捜査すべきだという考えなんだね?」
「はい、次長」
「確信があるのかい?」
「あります。それこそ、われわれが追うべき真の線です」
頬杖をついていた次長は、急にすーっと手をひいた。そのため、彼の身体は、そのもの憂げな態度から見て突然崩れてしまうように見えた。が、反対に次長は大きな書き物テーブルに鋭い音を立てて手を置き、たいそう機敏に坐り直した。
「わたしが知りたいのは、なぜ今まできみはその考えを頭のなかから追い出していたのか、ということだ」
「頭のなかから追い出すですって」と警部はゆっくりとおうむ返しにいった。
「そうさ。きみがこの部屋に呼ばれるまでは」
ヒート警部は、衣服と肌のあいだが不快なほど暑くなったように感じた。それはかつてない、信じがたい経験だった。
「むろん」と彼はできるだけわざとゆっくりいった。「もしマイケリスに手を出していけない理由があるのなら……その理由を私は何も知りませんが……、所轄の警察に彼を追わせる必要はないでしょうね」
こういい終るには、ずいぶん時間がかかったので、だまって次長が聴いていたことは驚くべき忍耐強さだと思われた。たちまち、次長は反撃してきた。
「理由などないよ、わたしの知るかぎりでは。こんなトリックをわたしに使うなんてけしからんな、ヒート君、ひじょうにいかんぞ。それに公正を欠いている。君はわたしにこんな謎解きをさせるべきではない。じつのところ、わたしは目をぱちくりさせてるんだ」
次長は口をとじ、次いでもの柔らかにつけたした。
「いうまでもないだろうが、これはここだけの話だよ」
この言葉は警部の気持をやわらげるどころではなかった。裏切られた綱渡り芸人の怒りが彼の内部でつよく働いていた。しかし、信頼されている公僕としてのプライドで、彼は恥知らずな興行のように彼の首を折ろうとしてロープがゆさぶられたのではない、という確信に満足した。だれかを恐れているようだ。歴代の次長はやってきては去って行く。だが価値ある主席警部の椅子はそんなつかの間のものではない。
警部は首を折ることなど恐れてはいない。自己の演技をそこなわれることのほうが、彼の激しい誠実な怒りの理由だったのだ。
人は心のなかでだれを軽蔑することも自由だから、ヒート警部の考えは威嚇《いかく》的で、予言的な形をとった。
「次長め」と彼は丸い、たえずきょろきょろする眼を上司の顔に据《す》えながら考えた。「あんたには自分の立場がわかっちゃいまい。今の地位もそう長くはあるまいよ、本当に」
腹立たしいことに、この考えに答えるように、ふと次長の唇にもの柔らかな微笑が通りすぎた。次長の態度は実務的で屈託がなかった、その間にもぴんと張った綱をゆさぶり続けながら。
「では、その点についてきみが発見したことに入ろうじゃないか」
「馬鹿《ばか》が椅子からおさらばするのももうじきだ」と警部の心のなかの予言はつづいた。だがすぐに思い返して、上役という奴はたとえ首になっても(これが警部の心に浮かんだ正確なイメージだった)、去りぎわに部下の向う脛《ずね》をけっとばすくらいのひまはあることに気がついた。彼は伝説上の怪蛇のような視線をとくにやわらげず、無感動にいった。
「今その点に入るところです、次長」
「よろしい。じゃあ、なぜきみは今までそれを避けていた?」
綱から飛び降りようと決心した軽業師の警部は、不機嫌な顔であっさり地面に降り立った。
「私は」と彼はゆっくりとポケットから一枚の焼け焦げた濃紺の布切れをとり出しながらいった。「住所を書いた布切れを持ってきました。こっぱみじんに吹っ飛んだ男のオーバーについていたものです。むろんオーバーは彼のではなくて、盗んだものかもしれませんが。しかしこれをご覧になれば、そんな仮定は全然成立しませんよ」
彼はテーブルに歩みよって、注意ぶかく布地のしわをのばした。ときどきカラーの下から洋服屋の名前がみつかることがあるので、死体置場の吐気をもよおすような肉塊からひろってきたのである。ふつうそういうものはあまり手掛りにならないが、やはり……。
彼は何か役立つものが見つかるとはさして期待していなかった。まさか、カラーの下ではなく襟の裏側に不変色インクで住所を書いた四角いキャラコの切れが注意深く縫いこんであろうとは、全然思いもかけなかった。
警部は手を動かした。
「だれにも気づかれぬように持ってきました。それが一番だ、と思ったもので。必要とあれば、いつでも提出できます」
次長はちょっと椅子から立ち上ると、布切れをテーブルの自分の方に引きよせた。彼はだまってそれを見ながら坐っていた。
ふつうの煙草の巻紙よりちょっと大き目のキャラコ地に、ブレット街三十二番地と書いてある。次長は心の底から驚いた。
「なぜこんなものをつけて歩きまわっていたのか、わたしにはわからんな」と彼は警部を見上げていった。「まったく変な話だ」
「むかしホテルの喫煙室で、事故や急病に備えて、全部の上衣に住所氏名を縫いこんだ老紳士に出会ったことがありますよ」と警部はいった。「八十四だそうですが、とてもそんな年には見えませんでしたが。突然記憶を失うひとたちのことを新聞で読んで、それがこわいからといっていましたっけ」
次長が≪ブレット街三十二番≫とは何かねと訊ねたので、彼の追憶は急に中断された。不正な策略で地面に追い落された警部は、だれに気がねをすることもなく、大道を歩もうときめていた。あまり次長に知らせすぎるのは部のためによくないが、職務への忠誠心が要求する以上に情報をとめておくのも正しくない。かりに次長が今度の事件を迷宮入りさせる気なら、それをふせぐことはむろん不可能だ。
そこで彼は簡単に答えた。「店があるのです」
彼の方から活発に答える理由は少しもなかった。
次長は切れ地に目を落しながら、さらに説明を待ちうけた。それ以上なにも説明がなかったので、彼はおだやかに辛抱強く質問をつづけて、情報を手に入れはじめた。こうして、次長はヴァーロック氏の商売の性格や、容貌や、名前を知ることができた。
間があった。次長は視線を上げ、部下の顔がどこかいきいきしているのを発見した。二人は無言で見つめあった。
「むろん部にはその男に関する記録はありません」と警部がいった。
「わたしの前任者たちはこのことをなにか知っていたのかね?」
次長はまるでお祈りをするように机に両肘をつき、拝み手をしながら質問した。もっともその目には何も敬虔《けいけん》な表情はなかったが。
「いいえ、ご存知なかったと思います。いってなんになるでしょう? ヴァーロックのような種類の人物は、おおやけにすると全然役に立たなくなるのです。わたしには彼の身許がわかっていて、警察に役立つように使えれば、それで充分でした」
「すると、ヒート君、きみは現在のきみの地位と、そんな私的な情報が両立すると思っているのかな?」
「はい、そう思います、完全に。まったく正しいと思います。こう申してはなんですが、次長、わたしの今日あるはこのおかげです。ベテランと目《もく》されとるのもそのためです。これはわたしの私的な事柄なのです。フランス警察にいる友人がほのめかしたところでは、ヴァーロックという男は某国大使館のスパイだ、という話でした。わたしはこの問題は、私的な接触、私的な情報、私的な利用という問題だと思っておるのです」
次長は心のなかで、この高名なる警部殿の精神状態は下|顎《あご》の輪郭に影響をおよぼしていると見える、まるで奴さんの職業的名声についての強烈なプライドが下顎のあたりに宿っているようだ、とつぶやいたが、「なるほど」と静かにいったきり、そのことは念頭から追放してしまった。で、頬杖をつきながら訊ねた。
「では、もし≪個人的≫にいえばだね、きみはこのスパイとどのくらいのあいだ個人的に接触しているのかね?」
この質問にたいするヒート警部の≪個人的≫な答えは、あまりに≪個人的≫なものだったので、蚊《か》の鳴くような声でしか答えようがなかった。
「次長がいらっしゃるはるか以前からですよ」
≪公的≫な面になると、警部の答弁は格段に明確になった。
「最初ヴァーロックに会ったのは七年ちょっと前、例の国の王女二人と首相の当地訪問があったときでした。自分は賓客《ひんきゃく》警護に関するあらゆる準備を命じられておりました。当時、駐英大使はシュトット=ヴァルテンハイム男爵で、たいそう神経質な老人でしたが、ギルド・ホール〔ロンドン市会議事堂〕で晩餐会が催される三日前の晩、わたしにちょっと会いたいといってきたのです。
下に降りて行くと、王女と首相の馬車が玄関にとまっていて、オペラ見物に出かけるところです。すぐに二階に戻ってみると、両手を握りしめて男爵が哀れ心痛の態《てい》で、寝室のなかを行ったり来たりしているのです。大使は、たしかに貴国警察と貴下の能力には満腔《まんこう》の信頼をよせてはいるが、たったいま無条件でその情報を信頼していいある人物がパリから着いたばかりだから、その情報を一応きいてくれないか、というわけです。
男爵はすぐさまわたしを隣りの薄暗い化粧室に連れて行きました。そこには大きなオーバーを着た大男が帽子とステッキを手に、ぽつんと椅子に坐っていました。男爵は男に『話したまえ』とフランス語でいい、たぶんわたしは五分ばかりも彼と話したでしょうか。情報というのはたしかに驚くべきものでした。
それから男爵はわたしを脇によんで、興奮した口調で男のことをほめそやすのです。ふたたびふりむいたときは、男は幽霊のように消えていました。椅子から立ち上ると、裏階段からそっと出て行ったんでしょう。あとを追うひまはなかったのです。わたしは大急ぎで大使について表階段を降りて、一行を無事劇場にとどける必要がありましたので。
しかし、その晩自分は男の情報に従って行動しましたよ。正確かどうかはわかりませんが、ともかく重大な情報でしたからね。ともかく、王女のロンドン訪問当日、われわれを物騒なごたごたから守ってくれたことはたしかです。
さて、わたしが主席警部に昇進してからひと月かそこらたった頃、ある日、以前どこかで見かけた大男がストランド街の宝石屋から急いで出てくるのに気づいたのです。自分はチャーリング・クロス〔ストランド街西端の繁華な広場〕に行くところでしたから、あとをつけ、道の向い側に部下の刑事がひとりいたので、この大男の行動を二日ほど見張って報告するよう合図しました。
翌日の午後、部下がやってきて、例の男はその日の午前十一時半に戸籍事務所で下宿の娘と結婚し、マーゲイト〔英国ケント州の海岸の保養地〕に一週間の新婚旅行に出かけた、と報告しました。刑事は馬車に荷物が運ばれるのを目撃したのです。なぜか、男のことが念頭から去りませんでした。だから、次に仕事でパリに行ったとき、パリ警視庁の友人にそのことを話すと、友人はこういうのです。
『 きみの話から判断すると、その大男は赤色革命委員会のかなり名のある取巻きで、密使をつとめている人物にちがいない。生れはイギリスだそうで、数年来ロンドンの外国大使館の情報スパイをしていると思う』 これをきいて、自分は完全に記憶がよみがえりました。彼こそシュトット=ヴァルテンハイム男爵のところで会ったあの男じゃないか。あんたのいう通りだ、わたしは友人にいいました。わたしのいくらか知るかぎりでも、彼は情報スパイでしたから。それから友人は骨を折って彼についての完全な記録を探し出してくれました。知るべきことはすべて知ったほうがいいとわたしは思ったのです。今彼の経歴をおききになりたくはないでしょうね?」
次長は首をふった。「目下重要なのは、きみとその男の関係の話だけだよ」
彼はもの憂げな深くくぼんだ両眼をゆっくりと閉じ、今度はすばやくひらいた。だいぶ生き返ったような視線になっていた。
「今お話していることは、公的な性質のものではありません」と警部はきびしくいった。「ある晩、わたしは男の店に入って氏名を告げ、最初の出会いのことを想い出させてやりました。彼は眉毛ひと筋動かさず、今は結婚して落ち着いているのだから、このささやかな商売の邪魔をしないでくれ、と頼みました。わたしは、きみがなんかけしからぬことに首をつっこまぬかぎり、警察には手を出させぬようにしてやろう、とうけあったのです。これが相当よかったようですな。だって、われわれがひと言《こと》税関にいえば、あれがパリやブラッセルから持ってくる荷物はドーヴァでひらかれて没収されることは確実だし、たぶん結局は起訴されたでしょうからね」
「じつに不安定な商売だな」と、次長がつぶやいた。「なぜそんなものに手を出したんだろう?」
警部は軽蔑したように冷然と眉をあげた。
「おおかた海の向うでこんな品を扱ってる連中にコネがあったんでしょう。あいつのつきあいそうな奴らですよ。それに奴は怠け者ときているし」
「で、彼を保護してやる見返りは何かね?」
ヒート警部は、ヴァーロック氏の見返りの品についてくわしく語ることを好まなかった。
「あいつはわたし以外の者には大して役に立たんでしょう。ああいう男を使おうと思えは、こっちがあらかじめいろいろ知ってなきゃいかんのです。わたしは彼がくれる手掛りを理解できるのです。それに、手掛りが欲しいときには、たいていくれるんですよ」
警部は突然用心深く考えこんでしまった。してみると、この男の名声の大部分はヴァーロックなる人物のおかげだな、と次長は一瞬考えて、あやうく微笑をかみころした。
「わたしは、もっとひろく使えるように、チャーリング・クロスとヴィクトリア担当の部下たちにいいつけて、ヴァーロックがだれと会っているか、いちいち見張らせてあります。彼は始終新しく着いた者と会っているし、後でもその行先をつかんでいます。そういう任務を割当てられとるようですね。いつでもわたしが至急ある人物の居所が必要だという場合には、ヴァーロックに教えてもらうくらいですから。もちろんこの関係をどう維持するかは心得ています。この二年間に三回とは彼に会っていませんし、用があれば無署名の手紙を送って、わたしの秘密の住所に、やはり無署名の返信をもらうようにしてあります」
ときどき次長はかすかにうなずいた。
ヴァーロックは革命国際評議会の主要メンバーの信頼を深く得ているとは思わないが、一般に信用されていることは、まったく疑う余地がない、と警部はつけたした。
次長は意味ありげに「しかし今度は裏切られたというわけだな」といった。
「怪しい動きは何も感じなかったですよ」と警部は反駁《はんばく》した。「こっちが何も訊かなかったのだから、向うからいえるはずがない。ヴァーロックは警察の部下ではない、われわれから給料をもらってるんじゃないんです」
「そうさ」次長はつぶやいた。「あれはある国の政府に雇われてるスパイなんだ。ぜったいあの男に白状させられっこないよ」
「わたしは独自の行き方をやりますよ」と警部は宣言した。「その時がきたら、奴を始末してかたをつけますが、皆に知られては工合の悪いことがあるもんです」
「秘密についてのきみの考えとは、上司をつんぼ桟敷《さじき》に置いておくということらしいね。少し行きすぎじゃないか? あの男は店に住んでいるのかい?」
「だれですか? ヴァーロック? ええ、そうです。細君の母もいっしょだと思います」
「家を見張らせてあるのかね?」
「いいえ、やってもむだでしょう。家に出入りする仲間の幾人かは監視させてありますが、奴は今回の騒ぎとは無関係だと思いますよ」
「じゃあ、これをどう説明するんだ?」
次長は机の上の切れっ端《ぱし》をあごでしゃくった。
「まるで見当がつかんのです。説明のつけようがありません。わたしの持ってる知識じゃ無理です」
警部は確固不動の名声を得た人間らしく率直に認めていった。「少くとも現在では、事件といちばん関係が深いのはマイケリスだろう、と思っています」
「マイケリス?」
「そうです。ほかの連中のことは全部説明がつきますから」
「公園から逃げたらしい片一方の男は?」
「今頃は高飛びしてるでしょう」
次長は部下をじっと見つめた。それから急に立ち上った、まるでなにか行動を起そうと決心したように。
じつをいうと、彼はその瞬間ある魅力的な誘惑に従ったのだ。警部は、もう退ってよろしい、明朝早くこのことについてまた相談したいから来るように、といわれるのを聞いた。無表情に聞き終わると、警部は落着いた足取りで部屋を出て行った。
次長の計画がなんであったにせよ、デスクワークとはまったく無関係だったことはまちがいない。デスクワークなど部屋に閉じこめられるだけで、あきらかに現実性に欠け、彼の生活の害毒となっていた。そうだ、関係があるはずがない。さもなければ、突然彼を訪れたあの全般的な敏捷《びんしょう》さは、いったいどう解釈できるのだろう?
ひとりになるが早いか、次長は衝動的に帽子を探してかぶった。次にふたたび腰を下ろして、問題全般を考えだした。すでに≪はら≫はきまっていたので、長くはかからなかった。ヒート警部がだいぶ家路をたどった頃、次長も役所を離れていた。
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七
次長はぬかるんだ塹壕《ざんごう》のような狭い短い通りを歩いて行った。それから広い大通りを横切って某省の建物に入り、ある高官の若い無給秘書に会見を申し入れた。
色白のすべすべした顔の秘書は、頭をまん中からきちんとわけ、大きい身だしなみのいい学生といった感じだったが、うさん臭そうに要件を聞き終わると、息をひそめていった。
「大臣が会ってくださるだろうかですって? わかりませんねえ。一時間ほどまえ議会から戻って、次官と打合わせをすまされて、またお出かけのところです。次官を呼びよせてもよかったんですがね、軽い運動がてら歩いて議会へ往復なさるんですよ。この会期中それが大臣の唯一の運動でしてね。わたしは愚痴をこぼしてるわけじゃない、むしろ散歩を楽しんでいますがね。大臣はわたしの腕にすがったまま、ものもおっしゃらない。ひどく疲れて、ご機嫌がよくないんです」
「グリニッジ事件のことで伺《うかが》ったんですが」
「ああ、なるほど! 大臣は警察におかんむりですよ。しかし、まあ、たってとおっしゃるなら、きいてきましょう」
「ええ、どうぞ。恐縮です」
秘書は次長の大胆さに感心した。彼は無邪気な顔つきをととのえると、ドアをあけ、優秀な特別扱いにされている子供のように自信にみちて、なかに消えた。秘書はすぐにまたあらわれて、次長に合図した。自分のためにあけられたドアを通ったとき、次長は大臣とたった二人で大きな部屋にいるのを見出した。
色白の面長で巨大な体躯《たいく》をした大臣は、ふくれていく人間のような感じがした。大きな二重顎に下《しも》ぶくれの、薄い灰色のほほひげにふちどられた卵形の顔。洋服屋には気の毒な話だが、ボタンをとめた黒の上衣のまん中には縦横にしわが走っており、ちょうど上衣のボタンを最高に酷使しているような感じだ。猪首《いくび》の上にすわった顔には、下まぶたのはれぼったい目が威圧的な鉤鼻《かぎばな》の両側から尊大に見下しており、その鼻たるや、あおざめた大きな顔からすこぶる貴族的に隆起しているのだ。まばゆいシルクハットと一対の古びた手袋が長いテーブルの端に置いてあり、やはりふくれ上って巨大に見える。大臣は大きな長靴をはき、炉絨毯《ろじゅうたん》の上につっ立ったまま、なんの挨拶もしなかった。
「またダイナマイト騒動が起るのかね」すぐさま大臣は深い、きわめて静かな声で訊ねた。「くわしい説明はいらん。わしはそんな時間はない」
この無骨で巨大な高官の前では、次長は樫《かし》の木に話しかける葦《あし》も同然のかぼそさだった。じじつ連綿とつづいた大臣の家系は、その古さにおいて田舎のいかなる樫の老木をもしのぐのである。
「いいえ、けっしてそんな話ではありませんが」
「そうか。しかし、その点についてのきみの保証ときたら」と、大臣は広い大通りに面した窓に軽蔑したように手をふって、「国務大臣のわしをばかに見えさせることらしいな。ひと月とたたぬ前、きみはこの部屋でああいう種類のことは起るはずがない、と断言したじゃないか」
次長は窓の方を静かに見た。
「失礼ですが、エサルレッド卿、わたくしはいかなる確約もする機会がなかったと思いますが……」
傲然《ごうぜん》たる視線が今や次長の上にすえられた。
「そうだったな」深い落着いた声があやまりを認めた。「わしはヒート警部を呼びにやった。現在の部署では、きみはまだまだ新米にすぎん。仕事のほうはどうかね?」
「毎日なにかしら学んでおります、閣下」
「もちろんだ。これからもそうあってほしい」
「ありがとうございます。エサルレッド卿、今日あることを耳にいたしました。しかも一時間たらず前です。今回の事件には、いくら深くのぞきこんでも、普通のアナーキストの破壊活動には見られぬ要素がたくさんありまして。ここへ伺ったのも、そのためです」
大臣は手を腰にあて、大きな手のひらを尻に置いた。
「なるほど。先を話したまえ。ただし簡単に」
「ご心配なく、閣下」
次長は確信ありげに悠然と話しはじめた。
説明の最中に、大臣の背後の掛時計の針が七分を経過した。それは暖炉と同じく黒大理石にずっしりとした時間の目盛をつけた、頑丈なまばゆく光る時計だった。次長はいちいち綿密に註釈をつけ、どんな小さな事実をももりこんで話した。大臣は話をさえぎるそぶりやつぶやきひとつしなかった、まるで十字軍の鎧《よろい》を脱がされて、身体に合わないフロックコートを着せられた祖先の王侯貴族の像のように。次長は自由に一時間しゃべっていいような気がした。しかし彼は分別を失わず、七分がすぎると突然最初の言葉を結論に使用して、説明を終えた。あまりすばやくて断固たるものだったので、大臣は快い驚きを感じさせられた。
「本件は表面的には重大に見えませんが、じつは異常なものです。すくなくともその正確な形におきましては。したがって特別の措置が望まれます」
大臣の声は深くなり、確信にあふれた。「わしも同感だ。外国の大使も加わっていることだしな」
「大使のことは、」と痩身の次長は、しゃんとした姿勢でかすかに微笑していった。「わたしはその方向をおし進めるようなばかなことはいたしません。それにその必要は全然ないのです。わたしの推測が正しければ、大使が関係していようと、門番が加わっていようと、それはたんなる事実にすぎないのですから」
エサルレッド卿は洞窟《どうくつ》を思わせる大きな口をひらいた。鉤鼻がそのなかをのぞきそうだった。そしてそこから低いゴロゴロという音が聞こえてきた、ちょうど嘲笑的な憤《いきどお》りにみちた遠くのオルガンの音のように。
「いやはや、この連中ときたらまったく手に負えぬ。東欧ふうのやり方などここに持ちこんできて、どうするつもりかね。トルコ人だってもっと礼儀をわきまえておろうが」
「しかしなんですが、エサルレッド卿、これまでのところ具体的なことはすこしもわかっていないのです」
「わかっておらぬと! しかし、きみは事件をどう見とる? しかし、簡単に」
「奇妙に子供じみた鉄面皮《てつめんぴ》な大胆さだと思います」
「性悪な小僧どものいたずらを我慢するわけにはいかん。うんとこらしめる必要がある」
大臣の身体はさらにふくれ上って、傲然《ごうぜん》たる視線が、次長の足許の絨毯をはげしくにらみつけた。
「われわれは……しなくてはならぬ。で、簡単にいって、全般的にどう思うかね? いや、詳細はいらん」
「原則的に、情報スパイの存在は許されるべきでないと断言いたします。かえって悪の実際的危険を助長する傾きがあります。スパイが情報をでっち上げるのは常識です。暴力による政治的革命行動の領域において、職業的スパイは事実そのものをねつ造し、一方で競争をそそり、他方ではそれに対処して無考えに法律を作らせる、という二重の悪をまきちらすのです。しかしながら、この不完全な世界は……」
絨毯の上に静止した大臣は、大きな両肘をひろげたまま、太い声でせっかちにいった。
「わかりやすくいってくれ」
「はい、エサルレッド卿、不完全きわまる存在です。したがいまして、本件の性格がわかるやいなや、わたしはこれは極秘裡に処理すべきことと考えまして、あえて伺った次第です」
「よろしい」と大臣は二重顎の上から満足そうに見下した。「警察にも、ときには国務大臣を信用できると考える者がおるとは嬉しいな」
次長はにっこりした。
「じつのところ、現在の段階でヒートを更迭《こうてつ》したほうがよいかと思いますが……」
「何? ヒート?」大臣は露骨《ろこつ》に敵意を見せて叫んだ。「愚物なのかね?」
「いいえ、とんでもない、閣下。わたしの言葉を誤解なさらぬよう」
「じゃあ、なんだ? きれすぎるのか?」
「いいえ、少くとも平常は。わたくしの推測の根拠は、すべてヒートから出ています。わたしが独力で発見した唯一のことは、彼は例の男を個人的に利用している、ということです。だれがそれを非難できましょう? 彼は古参の刑事です。じっさい自分には仕事の道具がいるんだ、といいました。しかし、わたしは、この道具は彼の個人的財産ではなくて、特殊犯罪部に渡されるべきものと考えます。部への忠誠はスパイの個人的所有の廃止にまでおよぶと考えているのです。ところが古顔のヒートは、わたしがスパイのモラルを誤解し、その効果を攻撃したと非難し、そのようなやり方はならず者の革命家たちに保護を差し伸べるも同然だと悪口をいうにちがいありません。まさしく彼にはそう思えるでしょう」
「ふむ。きみのいいたいことは?」
「まず第一に、財産をそこなったり、生命を奪うようないかなる暴力行為も、アナーキズムの仕事どころか、何か別のもの、錦《にしき》の御旗《みはた》をかついだ犯罪にすぎません。ふつう考えられているよりはるかに、これが多いのです。第二には、外国政府に傭《やと》われているこうした連中の存在は、ある程度われわれの監視の効力を破壊することは明らかです。この種のスパイは、もっとも向うみずな陰謀家よりはるかに無鉄砲になりえます。あらゆる拘束から自由で、完全な否定に必要な信念すらなく、無法という言葉に含まれている合法ささえ持っておりません。三番目には、革命家グループのあいだのかかるスパイの存在は……われわれは彼らを置いておくといって非難されるのですが……すべての確実さを殺してしまいます。閣下は先日ヒート主席警部から破壊活動のおそれなしという確約をおききになった。それはけっして根拠のないものではなかった。しかも、こんなエピソードが起るんです。わたしはそれをエピソードと呼びます、なぜなら、あえて申せば、本件はエピソードなのですから。いかに狂暴にせよ、かかる行為は絶対に全体的計画の一部ではありえないのです。ヒート警部を驚かせ、当惑させた事件の特異性は、わたしの目にはその性格が明瞭《めいりょう》です。わたしは詳細を避けてお話しているわけですが、閣下」
「その通りだ。しかし、なるべく簡単に」
熱心なうやうやしいジェスチャーで次長はそう努力するつもりであることをほのめかした。
「今回の事件には妙にばかげた脆《もろ》さが見られます。それがわたしに事件の背後に入りこんで、たんに狂信主義者の個人的な思いつき以外の≪何か≫を発見できそうだ、というすばらしい希望を与えてくれるのです。と申しますのは、事件は疑いもなく計画的です。じつの犯人は現場までだれかに連れて行かれ、そこでひとりでことを運ぶように急いで放り出されたらしく思われます。わたしの推測ですが、犯人はこの目的で外国から連れてこられたんじゃないでしょうか。ということは、当然彼は道をきくだけの英語も知らなかったという結論が生れます。彼が金つんぼで、唖《おし》だったという空想を受け入れれば話は別ですが。しかし、まあ、こんなことはまるで根拠がなく、偶然の事故で彼が自爆したことはあきらかです。べつにふしぎはない。しかし、あるふしぎな小事実が残ります。服につけた住所がほんの偶然から見つかったのです。嘘みたいな話ですが、それだけにかえってそれを説明する解釈は、事件の核心にふれざるをえないのです。ヒートにはこの事件をあたれと指示してありません。自分でやってみるつもりです。件《くだん》の住所とは、ブレット街のある店で、某国駐英大使だった故シュトット=ヴァルテンハイム男爵の信任厚いある情報スパイのものです」
次長は口をつぐみ、それからつけ加えた。「まったく有害な奴らですよ、閣下」
伏目だった大臣は次長の顔を見やるため、しだいにぐっと頭を後ろにそらしたので、ひどく尊大に見えた。
「なぜヒートにまかせておかん?」
「彼が古参の部員で、自分なりの道徳を持ってるからです。ヒートには、わたしの捜査方針はおそるべき職務の転倒と見えるでしょう。彼にとって明白な職責とは、捜査中にひろいあげた何か些細《ささい》な証拠にもとづいて、できるだけ多くの有名なアナーキストに罪を着せる、ということです。ところが、上役たるわたしはアナーキストの無罪を証明するのに躍起《やっき》となっている、そうヒートはいうにちがいありません。わたくしは詳細にわたることなく、できるだけこの曖昧《あいまい》な事件をはっきりとご説明しようと努力しておるつもりですが」
「ヒートがか? そうかね?」と堂々たるエサルレッド卿は傲然《ごうぜん》とつぶやいた。
「残念ながらその通りでして。閣下やわたくしなどには想像もつかぬような怒りと憎しみをもってです。ヒートは立派な警官です。彼の忠誠心に不当な負担をかけてはならない。それがいつもまちがいだというんです。おまけに、わたしはヒート警部に与えることが望ましい以上の自由さを欲しています。ヴァーロックなる人物を見逃す気は毛頭ありません。それが何かはよくわかりませんが、彼は自分と事件との関係がこれほどすぐに響いてきたのを知って、びっくり仰天《ぎょうてん》するでしょう。彼をおどしつけるのはさして困難ではない。しかし、われわれの真の目的は、その背後にあります。わたくしは彼にしかるべき個人的安全を保証してやっていただきたいと思うのですが、閣下」
「承知した」と大臣はいった。「なるべく多くの事実を見つけてきてほしい、きみなりの方法でな」
「時を移さず今晩から実行しなければなりません」
エサルレッド卿はフロックコートの垂れの下の手を動かし、頭をそらせて、じっと次長を眺めた。
「わしは今夜遅く議会がある。もしわしが残ってるようだったら、新しい情報を持って議会に来てほしい。きみを待つようにトゥードルズにいっておこう。きみをわしの部屋に連れてくるようにとな」
トゥードルズ、この若々しい顔つきの大臣秘書の大勢の家族と親類は、将来彼がいかめしい高い地位につくことを願っていた。そして彼がひまなとき出入りしている社交界は、この綽名《あだな》で彼をひいきにした。毎朝たいてい朝食の席で、妻や娘の唇にこの名がのぼるのをきいて、大臣もニコリともせずこの名で呼ぶことにしたのだった。
次長はびっくりした。そしてひじょうに感謝した。
「では、きっとおひまなときに議会にうかがって、新しい事実をお知らせいたしましょう……」
「ひまなどありはせん」大臣はさえぎった。「しかし会ってやろう。今はもう時間だ。きみも出かけるんだろう、次長?」
「はあ、エサルレッド卿。その時間だと思います」
大臣はぐっと頭を後ろにひいたので、次長を見下すためには、ほとんど両眼を閉じなければならなかった。
「ふうむ。で、なにかね、きみは変装して行くのかね?」
「変装というほどのことは。もちろん、服は変えますが」
「むろんのことだ」
どこか放心したような横柄さで大臣は答え、ゆっくりと大きな顔をまわし、肩越しにしのびやかな弱々しい音をたてている巨大な大理石の時計を横目でにらんだ。鍍金《めっき》した時計が、大臣の背後でいつの間にか三十五分をすぎている。
時計が見えなくなったので、その間次長は少し神経質になった。しかし大臣は静かな顔を彼に向けて、「よくわかった」と口をつぐんだ、まるで故意に時間を軽視するように。
「しかし、最初きみがこの方向に乗り出したのはなぜかね?」
「わたくしがいつも考えておりますことは……」と次長ははじめた。
「いや、けっこう。それはわかってる。で、直接の動機は?」
「なんと申しましょうか、従来のやり方にたいする新人の反抗、直接情報を知りたい欲望、なにか苛立った感情からとでも。やっているのは昔からの仕事ですが、仕組みがちがうのです。若干《じゃっかん》わたしの弱点をなぶる気味がありますね」
「きみがそれにうち勝つことを祈っとる」
エサルレッド卿は、柔らかいが輝かしい農夫のように幅広いがっしりした手を差出して親身にいった。次長は握手して、退出した。
表の部屋でテーブルの端に手をついて待っていたトゥードルズが、生来の陽気さをおし殺して寄ってきた。
「どうです? うまくゆきましたか?」彼はもったいぶってたずねた。
「ええ、完全に。おかげさまで」と次長は答えた。次長の長い無表情な顔は、いつ何時《なんどき》くすくす笑いだしそうな相手のいかめしさと奇妙に対照的だった。
「それはけっこうでした。しかし、まじめな話、大臣がご自分の漁業国有化法案を攻撃されてどんなに怒っておられるか、ご想像もつかないでしょうね。野党は社会革命のはじまりだ、なんて抜かしてますよ。むろん一種の革命的なやり方にはちがいないけれど、奴さんたちも礼儀を知りませんよ。個人攻撃などを……」
「新聞で拝見しました」
「ひどいでしょ、え? しかし毎日どれだけたくさんの仕事が大臣を待っているか、おわかりにならないでしょう。全部ご自分でなさるんです。この問題はだれにもまかせておけないらしいんです」
「それなのに、わたしのおしゃべりを半時間もきいてくださった」
「おしゃべり? なるほど。それはけっこうでした。しかし、それなら来ないでいただきたかったなあ。このことで大臣はずいぶん身心をすりへらしておられるんですから。道々わたしの腕にすがられるやり方でもわかります。それにわたしは思うんです、途中はご無事だろうかってね。マリンズは今日の午後、配下の者たちにここを行進させましたよ。街灯ごとに警官が立っていて、こことパレス・ヤードのあいだですれちがう人間ときたひには、二人に一人は明らかに刑事です。こんな事態はすぐに大臣の神経にこたえますよ。いったい外国からきたアナーキストが、なにか大臣に投げつけたりしないでしょうか? そうなれば国家的災難です。かけがえのない方なんですよ」
「あなただってそうだ。大臣はあなたが頼りですよ」と次長は平然といった。「何かあれば、おふたりともあの世行きですよ」
「わたしみたいな若僧が歴史に名を残すには、それが手っとり早い方法でしょう。大臣の殺害が小事件扱いにされるほど、イギリスの大臣はまだ大勢殺されていませんよ。しかし、まじめな話……」
「歴史に名を残したけりゃ、なにかしなくっちゃだめですよ。まじめなところ、おふたりの現在の危険は過労だけだ」
呼吸のあった秘書は、この言葉を歓迎してくっくと笑った。
「漁業法案で殺されるもんですか。遅くまで働くのは慣れていますからね」
だが一瞬自分の陽気さが心にとがめたのか、若い秘書は、手袋をはめるひとのように、政治家特有の不機嫌な態度になりだした。
「大臣の力強い知性はどんな量の仕事にも耐えうるでしょうが、わたしが案じるのは大臣の神経の点です。例の口ぎたないチーズマンを筆頭に反動家どもは、毎晩大臣を侮辱し放題なんですよ」
「もし大臣が大改革をはじめると主張なさったら」と次長はつぶやいた。
「時がきたのです。そしてエサルレッド卿こそ、その仕事をなしとげうる唯一の偉大な人物なのです」
革命的なトゥードルズは、次長の静かな瞑想的な視線の下で、烈しく主張した。どこか遠くの廊下で熱心にベルが鳴った。秘書はじっと耳をすませた。「おでかけです」彼は低く叫ぶと、帽子をわし掴《づか》みにして部屋から出て行った。
次長はゆっくり別のドアから出た。ふたたび彼は広い大通りを横切り、狭い道を通って、あわただしく役所に戻った。私室のドアのところまで足早にくると、ドアを閉める前に机を眺め、しばらく立ちつくした。それからずーっと床を見渡し、椅子に坐って、ベルを鳴らして待った。
「主席警部は帰ったかね?」
「はあ、半時間前に」
「そうか」次長はうなずいた。彼は額から帽子をずらせ、静かに坐りながら、唯一の物的証拠を持って行ってしまうとはヒートらしい厚かましさだな、と思った。しかし敵意は感じなかった。珍重されている古参の部下は、勝手なまねをするものだからだ。たしかに住所を縫いこんだオーバーのきれっぱしは放っておくべきものじゃない。彼にたいする警部のこの不信のあらわれを念頭から追いやると、次長は一通の手紙をしたためて、妻に至急送った。その晩夕食をともにする約束だったマイケリスのパトロンの例の夫人にお詫びしておいてくれ、という内容である。
洗面台と一列の木の桶と棚のついた奥の間で、彼は短いジャケツを着、浅い丸帽子をかぶった。すると、いかめしい褐色の顔が驚くほど長く見えた。暗い情熱家のくぼんだ目と落着きはらった物腰をもち、冷徹な思索型のドン・キホーテに似た次長は、また部屋の中に戻ってきた。
つつましい影のようにすばやく彼は部屋を離れ、すっかり水が流れ出した泥だらけの水族館のような通りに降りた。陰うつなしめり気が次長を包んだ。家々の壁はぬれ、通路の泥は燐《りん》のように光っていた。チャーリング・クロス停車場横の狭い道からストランド通りに出たとき、次長の姿は周囲に溶けこんでいた。彼は夕方などよく暗い街角を通る奇妙な外人のひとりとまちがえられたかもしれない。
次長は歩道の端で立ち止った。彼の鍛《きた》え抜いた目は、道路にあふれる光と影の雑然たる動きのなかに、一台の馬車が近づくのを認めた。彼はなんの合図もしなかった。
だが、馬車の低いステップが縁石《ふちいし》ぞいに足許にきたとき、たくみに大きな車輪の前に飛び乗り、けだるそうに前をみつめた馭者《ぎょしゃ》がほとんど客に気づかぬうちに、引き窓から行先を告げていた。
馬車は長くは走らなかった。馬車は急に大きな洋服屋の前の二つの街灯のあいだで止った。長い店舗の列はすでに薄いなまこ鉄板を降ろしていた。引き窓のあいだから金を渡し、客はすうーっと行ってしまった。
馭者《ぎょしゃ》は気味の悪い、妙にぞっとするような気持をおぼえたが、貨幣の大きさには満足した。それに馭者は文学的な教育を受けていなかったから、ポケットのなかの金が枯葉に変ってしまうかもしれない、などという恐れに心を悩ませたりはしなかった。
職業柄、彼は乗客の世界から超然としていた。彼らの行動に少しだけ関心を持つにすぎなかった。すぐに馭者が手綱《たづな》をぐいと引いたことでも、彼の哲学がなんであるかがわかっただろう。
はやくも、次長は角のイタリア料理屋でボーイに注文していた。それは鏡と真白なナプキンで腹をすかした客をひきつける細長い狭い店のひとつで、気取ったところはないけれど、ある独特の雰囲気、つまりもっともみじめな必要にせまられたおちぶれたひとびとを愚弄《ぐろう》するいんちき料理の雰囲気があった。この不道徳的な雰囲気のなかで、次長はさらに周囲に溶けこんだようだった。彼は孤独と悪への自由を意識し、むしろ愉快にさえなった。簡単な食事の支払いを終え、立って釣りを待つあいだ、彼はガラスにうつる自分の姿を見、外人みたいに見えるのにびっくりした。
次長は自分の姿をひどく珍しそうに、もの悲しげな目つきで眺め、突然思いついてジャケツの襟を立てた。この変化は彼には賞讃すべきものに思われた。黒い口ひげをひねり上げると、これで変装は完了した。この小さな変化で微妙に容貌が変ったことに満足して、「これで間にあうぞ」と次長は考えた。「おれは少々濡れて、はねがかかりそうだな」
彼はかたわらのボーイとテーブルの端の銀貨に気がついた。ボーイは片目で金をにらみ、もう片方の目で、盲人のように近よりがたい様子で遠くのテーブルに進んで行く、さして若くない長身の娘の背中を追っていた。女は店の常連のひとりらしかった。
外に出た次長は、このいかさま料理屋にしげしげと通ううちに、客は皆それぞれの国民的・個人的特徴を失ってしまうことに気がついた。これは奇妙なことだった。イタリア料理はかくもイギリス独特の存在だったから。彼らは体裁よく前に置かれた料理と同じく、めいめいの特徴や国民性を失って、職業的、社会的、人種的に、個性が全然あらわれてこないのだ。このイタリア料理屋のために彼らは造られたかと思われるほどだった、もしこの店が彼らのために造られたのではないとすれば。
けれども、後の仮定は考えられそうにもなかった。このあたり以外に開店するにふさわしい場所はありえないからだった。ほかのところでは、こんな得体のしれぬ人間に会えるはずがなかっただろう。日中彼らがどんな職業に従事し、夜はどこに寝に行くか、正確に知ることは不可能である。次長自身、アイデンティティを失っていた。彼の職業をあてることは、だれにも不可能だったろう。
寝る件については、彼も心のなかであやふやだった。帰宅できないというのでなく、何時頃帰って寝られるかということだ。にぶい音をたてて、家々のガラス戸が背後で閉った。楽しい独立感が次長をとらえた。すぐさま彼は街灯の点在する泥濘《でいねい》と、じめじめした漆喰《しっくい》の巨大な街に入って行った。煤煙と水滴からなる雨のロンドンの暗さにつつまれ、おしつけられ、つらぬかれ、窒息させられた巨大な街のなかに。
ブレット街はそう遠くはなかった。それはまっ暗なあやしげな家々や、夜間、商人がいなくなった店舗《てんぽ》に囲まれた三角形の空地の横から細く分かれた通りだった。角の果物屋だけが強い光と色彩のきらめきを放っていた。その向うは黒一色。この方向を通る幾人かの歩行者は、ひと足でまばゆいオレンジとレモンの彼方に消えた。足音ひとつ反響しなかった。
冒険好きの次長は、遠くから彼らを興味ありげに見守った、まるで役所の机やインク・スタンドから数千マイルへだたった密林のなかで、たったひとり待伏せられたように心の軽くなるのを感じながら。生来軽薄なところのない次長が、重要な任務を前にしてこれほど心が浮き立つというのは、われわれのこの世界は結局たいしたことがない、ということを意味するのかもしれない。
巡回の警官が、黒い影をオレンジやレモンの輝きに投げかけて、ゆっくりとブレット街に入って行った。まるで犯罪者のように身をかくして、次長は警官の戻るのを待った。が、警官は永遠に姿を消したかのようだった。ブレット街の反対側から出て行ったにちがいない。
そう結論すると、次長は今度は警官に代ってブレット街に入り、安食堂のぼんやりともった窓ガラスの前に大きな車が止っているのに出会った。馬方《うまかた》はなかで食事中だった。馬はうつむいて、脇目もふらずにまぐさ袋の餌を喰《は》んでいた。さらに行くと、新聞やボール箱、本を積み上げたヴァーロック氏の店の飾り窓からあやしげなぼんやりした光が洩《も》れているのが見えた。次長は道の反対側からそれを見ながら立ち止った。ここにまちがいない。雑多な商品の影におおわれた飾り窓のかたわらでは、半開きの戸から細いガス灯の光が舗道にもれていた。
次長の背後では、馬車と馬がひとつに溶けあって、なにか四角い背中をした黒い化物が道を半分ふさいでいるかのように見えた。
突然、蹄鉄《ていてつ》を踏み鳴らす音、激しいじゃらじゃらいう音、荒々しく鼻を鳴らす音がした。ブレット街の片方の端には広い道路をへだてて大きな繁昌《はんじょう》した酒場があり、そのけばけばしい不吉な光は、ヴァーロック氏のささやかな住居の周囲の物影とはりあって、通りの暗さを押し戻し、いっそう暗く陰うつにしているようだった。
[#改ページ]
八
ウィニーの母親は、金|儲《もう》けしか頭にない幾人かの冷淡な酒場の店主たち(今は亡き、不幸せな夫の知り合いだったが)にうるさく頼みこみ、何とかその心をすこし溶かして、とうとう金持の下宿屋が生活に困った仲間の未亡人のために作ったある養老院に入ることを許された。
この計画は、不安を持つ者にありがちな抜け目のなさから考え出されたものだったが、彼女はひそかに、断固として実行した。それはちょうど、ウィニーが夫に向って「母さんときたら、この一週間というもの、ほとんど毎日馬車代を使うのよ」といった頃に当っていた。彼女はこの言葉をぐちっぽくいったわけではない。病弱な母親を大事にしていたからだ。ただこの突然の外出熱にいささか驚いたからにすぎない。
それに対し、ヴァーロック氏の態度もそれなりに、すばらしいものだった。そういった妻に「考えごとの邪魔をするな」とうるさそうにいっただけだった。
しばしば彼は長いあいだ深く考えこんでいた。それは馬車代の五シリングなどよりずっと重要な問題であり、哲学的静けさでそのすべての面を考えることは、馬車代よりは比較にならないほど難しい問題だった。
ひそかに抜け目なく目的を達成すると、この勇敢なる老婆は、そのことをすべて娘に打明けた。老いた母親の魂は勝ちほこり、その心はふるえていた。彼女は娘の無口で静かな性格を恐れ、感嘆し、娘が恐ろしく黙りこくっているだけにその不興をまねくことを一層恐れていた。しかし老母は内心不安だったにもかかわらず、その三重顎や、肉のたるんだ肥った身体、歩けなくなった両足が生み出したうやうやしい外面的な落着きを失っていなかったのだ。
母親の知らせがあまり意外だったので、ウィニーはふだん話をきくときの習慣をかなぐりすて、やりかけていた家事をやめてしまった。店の奥の居間で家具にはたきをかけていた彼女は、母親の方に向き直ると、「なぜそんなことしたの、母さん?」と怒りで叫んだ。
このショックの大きさたるや、事実を黙って超然と受け入れるという彼女の人生における力であり保護物だった態度を揺さぶるほどのものだったにちがいない。
「ここで充分楽をさせてあげたじゃない?」
しかし思わずそういって、次の瞬間ふたたび彼女ははたきをかけはじめ、いつもの態度を取り戻した。老母はつやのない黒のかつらによごれた白いキャップを被《かぶ》り、おびえて黙りこくるばかりだった。
椅子が終ると、ウィニーは夫が帽子とオーバーのまま座るのが好きなソファーの後部のマホガニー材の部分に、はたきを走らせた。彼女は一心に仕事をつづけたが、すぐにまた訊ねないわけにはいかなかった。
「どうやって入れてもらったの、母さん?」
彼女の人生哲学は物事の内部に立ち入らないということだったが、この好奇心はその点にはふれておらず、許されてしかるべき質問だった。それはただ入る方法にふれただけにすぎない。母親はこの質問を、まじめに話しあえる機会として熱心に歓迎した。
母親は沢山の名前を並べ立て、人間の容貌に、時間がいかに破壊作用を及ぼすか、たっぷり本筋から離れた感想をつけたしながら、長々と娘に返事をした。名前の多くは死んだ夫の同業の友達だった。彼女は、准男爵で国会議員をつとめ、かつ慈善事業団体の会長である某大|醸造《じょうぞう》業者の親切と庇護にとくに謝意を表し、くわしく話してきかせた。これほど彼女が興奮したのも、議員の秘書と約束して会ってもらえたからである。
「本当にていねいな方だったよ。黒ずくめの服装でね。やさしい、かなしそうなお声なのさ。ひどくやせて、ものしずかで、影みたいな方だったよ、おまえ」
ウィニーは母親の話が終るまではたきがけを延ばしていたが、いつものように無言で二段下った台所に行ってしまった。
老母はこのひどい知らせを娘がすなおに聞いてくれたことにすこしばかり嬉し涙をこぼしながら、家具の始末に抜け目なさを発揮した。それは彼女の持物だったから。ときには、それが自分の物でなければよかったのに、と彼女は思ったりした。彼女のヒロイズムの精神はまったく見上げたものだった。だが、若干《じゃっかん》のテーブルや椅子や真鍮《しんちゅう》のベッドなどの家具類の処分方法が、遠くにまで害をおよぼす大問題となることがありうるのだ。自分では家具がいくつかあればことたりた。それだって、さんざん拝み倒して入れてもらった慈悲深い養老院が、入院者にむき出しの板張りと、安っぽい壁紙をはった煉瓦作りの建物しか提供してくれないからだった。
彼女は遠慮していちばん値打のないガラクク品を選んだが、ウィニーは気づかずじまいだった。物事の内部に立ち入らないのが彼女の生き方で、母親は当然もっとも気に入った品を選んだはずだ、ときめていたからだ。ヴァーロック氏はといえば、彼の深い瞑想は万里の長城よろしく、むなしい労力と幻影にすぎぬこの実在世界から孤絶していた。
家具選びがすむと、残りの品物の処分がとくに問題になった。その置き場所はむろんブレット街だが、彼女には子供が二人いる。娘は賢明にもヴァーロック氏というすてきな夫と結婚して将来の心配はないが、息子は財産もなく、それに少し変っている。法律的権利や、とくに可愛い、ということを別にしても、将来の地位を考えてやる必要がある。かりに家具を持たしたところで、けっして将来の備えにはならない。スティーヴィーだって家具を持つ権利はあるけれど、直接与えたりすれば、完全な被保護者である彼の立場をそこなうことになる。老いた母親が恐れたのはそのことだった。それにまたヴァーロック氏は、彼の坐る椅子が義弟のものだということに感情的に耐えられないにちがいない。
紳士相手の下宿屋の長い経験から、母親は人間の性格の持つきまぐれな面について、暗い諦めきった観念を抱いていた。もしヴァーロックさんが、突然あの子なんかどっかへ行ってしまえ、という気になったら、どうしよう? さらには、どんなに注意をはらっても、家財の分配のことで娘に腹を立てさせることになるかもしれない。そうだわ、あの子はやっぱり何も持たずに、姉夫婦に頼っているのがいい。だからブレット街を去るとき、彼女は娘にいったのである。「あたしが死ぬまで待つにはおよばないよ。ここに残した物は皆おまえの物なんだからね」
帽子をかぶったウィニーは、母親の後ろから黙ってオーバーの襟元を直してやった。彼女は無表情な顔で母親のハンドバッグと傘を持っていた。母親の生涯で最後の馬車代となるかもしれない三シリング六ペンスをはらうときが来たのだった。
ウィニー親子は店の戸口にあらわれた。彼らを待ちうける馬車は、もしそういう諺《ことわざ》があるとしたら、「真実は戯画よりも残酷である」という格言の恰好の例だったたろう。横づけされたのは、老いぼれ馬にがたびし車、馭者《ぎょしゃ》台には不具の馭者を乗っけたロンドンの貸馬車だった。とりわけこの馭者は老母を面喰らわせた。男の左袖から突き出た鉄の義手を目にするや、にわかに彼女はこれまでの雄々しい勇気を失った。
「どう思うね、おまえ?」と自信を失って彼女はためらった。大きな顔の馭者は、つまった喉から絞り出されるような声で懸命にすすめた。馭者台から身を乗り出して、彼は異様な怒りをこめていうのだった。
「今頃になって、どうしたってえんだ? こんなやり方ってあるかよ」
馭者の巨大な汚れた顔は、ぬかるんだ通りのなかでまっ赤になっていた。第一、もし心配なら、当局がおれに免許証をよこすはずがねえじゃねえか? 彼は必死にいった。
この地区の警官が親しげに目くばせして、馭者の怒りをしずめた。警官はとくに思いやりもこめず、ふたりの女にこうとりなした。
「この男は二十年来馬車屋をやってるけど、一回も事故を起したことはないですよ」
「事故なんてとんでもねえや!」馭者は軽蔑したようにいった。
警官の証言で、騒ぎはしずまった。七人の弥次馬《やじうま》もたいてい散らばった。ウィニーは母親について車に乗りこみ、スティーヴィーは馭者《ぎょしゃ》台に登った。少年のぽかんとした口もとや悲しそうな眼は、現在の事柄への彼の精神状態をあらわしていた。
馬車は狭い町並みを通って行った。目と鼻の所にある家々の前面がゆっくり揺れながら過ぎ、馭者台の後ろで窓ガラスが今にも割れんばかりにガタガタと音を立てるので、馬車が動いていることは中にいてもよくわかった。骨の出た背中から足のあたりまで馬具をずらせた馬は、無限に辛抱強く爪先で小刻みに踊りをおどっているようだった。広大なホワイト・ホールの建物にくると、車外の風景は揺れ動くのを中止した。長く延びた大蔵省の建物の前では、ガラスの揺れる音が無限につづいた。そして、時間それ自身が停止したかのようだった。ついにウィニーが口を開いた。
「あんまりいい馬じゃないわね」
馬車の影のなかで彼女の目がじっと前方に光った。馭者台のスティーヴィーはぽかんとした口を閉じ、それから熱心に叫んだ。
「やめてっ!」
手綱をしぼった馭者は知らん顔だった。聞こえなかったのかもしれない。スティーヴィーの胸はあえいだ。「鞭《むち》で打たないで!」
馭者は白くなった毛が密生した、何色ともつかぬ酒びたりのふくれた顔をゆっくり向けた。大きな唇は紫色だった。彼はよごれた手の甲で、あごに生えたひげをぐいとこすった。
「鞭で打っちゃいけない!」少年は烈しく吃《ども》った。「馬が痛がるよ」
「鞭で打つな、か」馭者は考え深そうにつぶやくと、またすぐに鞭をふるった。これは彼の心が残忍で邪悪だったからではなく、馬車代を稼がねばならなかったからだった。
しばらくの間、塔や小尖塔のある聖スティーヴン寺院の塀が黙って静かに、りんりんと鳴る馬車を見つめていた。だが、橋の上で騒ぎが起った。スティーヴィーが突然馭者台を降りはじめたのだ。舖道の上で叫びがあがった。ひとびとが駆け寄り、馭者《ぎょしゃ》は怒りと驚きで罵声《ばせい》をあげながら手綱を引いた。ウィニーは窓を下げ、幽霊のように蒼ざめた顔をのぞかせた。車内の母親は悲痛な声で叫んだ。
「怪我はなかったかい? 怪我は?」
少年は怪我しなかった。馬車から落ちさえもしなかった。しかし、いつものように興奮してろくに口もきけなかった。窓のところで、「重すぎる、重すぎる」と吃るだけで精一杯だった。ウィニーは弟の肩に手を置いていった。
「スティーヴィー! すぐに席にお戻り。二度と降りようとしちゃだめよ」
「歩くよ、歩くよ。歩かないといけないんだ」
歩く必要を強調しようとしながら、少年はまったくわけのわからぬことを口ごもった。少年の思いつきの前には、肉体的不可能など存在しなかった。彼は息ひとつきらさずに、やすやすと老いぼれ馬と走りつづけたにちがいない。しかしウィニーはきっぱりとこの願いをしりぞけた。
「なんてことを考えるの! そんな話ってないわよ。馬車について走るなんて!」
馬車のまん中では、おびえた無力な母親が懇願した。
「そんなことさせないでおくれ、ウィニーや。迷子《まいご》になってしまうよ。お願いだから」
「ええ、絶対に。次にはこの子、なにをやらかすかしら。ヴァーロックさんがこの話をきいたら、きっと嘆くわよ、スティーヴィー。本当に。きっと悲しむわ」
≪ヴァーロックさんが嘆き悲しむ≫、この考えはいつも少年の本質的に従順な心に強く作用した。彼はさからうことをすべてやめ、絶望的な顔つきでふたたび席に登った。
馭者《ぎょしゃ》は、恐ろしい顔を少年に向けた。
「兄ちゃん、あんなふざけたまねを二度とするんじゃねえぜ」
ほとんど聞こえないくらいの厳しい小声でこういうと、馭者は最前《さいぜん》のことを重々しく思い返しながら馬車を走らせた。
馭者の心には、それはなにか不可解な出来事として残った。彼の精神は、長年馭者台に腰かけてきびしい風雪にさらされてきたために、かつての快活さは失われたが、なおかつ自立性や公正さに欠けていなかった。彼はこの少年は酔っぱらっている、という仮説をおごそかにしりぞけた。黙りこくって肩を寄せ、がたびしの道中に耐えてきたふたりの女は、スティーヴィーの騒ぎで沈黙を破られた。
「母さんたら、好き勝手なことをして。あとで不幸になったって、自分が悪いのよ。それに養老院に入ったって、しあわせになれるとは思えないわ。家でじゅうぶん安楽にできたじゃない。こんなふうに養老院に入ったりして、世間じゃわたしたちのこと、なんていうかしら?」
馬車の騒音にさからって、老母は熱心に声を張り上げた。
「なにをおいいだい。おまえはあたしの最愛の娘じゃないか。ヴァーロックさんも……」
ヴァーロック氏のすばらしさをたたえる言葉がうまく浮かんでこなかったので、老いた母親は涙に濡れた目で馭者台の屋根を見た。それから、車の進み工合を眺めようと窓から顔を出すふりをして、顔をそむけた。この振舞いは無意味だった、すでに馬車は歩道のふちに近づきつつあった。
夜が、不吉で騒々しく、絶望的でみだらな南ロンドンの夜が、老母の最後の馬車の旅の上に訪れていた。家々の低い前面のガス灯の中で、黒と藤色のボンネットをかぶった、彼女の大きな頬がオレンジ色に輝いた。
寄る年波に生来の胆汁質、それに最初は妻として、後にはやもめとして、苦しく悩み多い生活の試練のせいで、母親の顔色は黄色くなり、赤面するとオレンジ色になった。この女はつつましい性格だったが、逆境にきたえられ、顔を赤らめるような年ではなかったはずだ。しかし、じっさい彼女は恥ずかしさと後悔で娘の前でまっ赤になり、養老院行きの馬車のなかで……この養老院たるや、ご親切にも、将来もっと窮屈な棺桶に入ったときの訓練のために作られたか、と思われるくらい、狭くて、お粗末きわまる建物だったけれど……娘に見られないようにしなければならなかった。
世間がどう思うかだって? 母親は娘のいう世間、つまり自分がうまく頼みこんで養老院に入れてもらうのに成功した亡夫の友人や、ほかのひとびとが、娘夫婦をどう思うか充分知っていた。以前には自分の泣き落し上手がわからなかったけれど、世間が養老院行きをなんと思うかは正確に推察できた。男には、おしつけがましい残忍さと、遠慮がちな繊細さが共存している。彼女が唇をきつくかみしめ、表情たっぷりに聞かれたくない様子を示すと、亡夫の友人たちは彼女の現在の境遇を根掘り葉掘り聞き出すことをやめた。すると、男は急に興味を失うものなのだ。女とは没交渉でいてよかったと、彼女はひとかたならず思った。女は性冷淡、すこぶる好奇心旺盛ときてるから、どんなひどい仕打を娘夫婦から受け、哀れ養老院入りを決意するにいたったか、正確に知りたがるにきまっている。
追いつめられた女がするように、彼女が大声でわっと泣き出したのは、例の醸造業者の秘書が、当然のことながら彼女の依頼にたいして現在の身の上を訊ねたときだった。痩せた慇懃《いんぎん》な秘書は茫然と眺めていたが、やむをえず質問をあきらめ、慰めの言葉をかけることにした。本会は、お子さんのない寡婦《かふ》以外の方を入れる規定はありませんが、かといって、じっさいあなたに資格がないわけじゃありません。ただ委員会としましては、ですね、くわしく伺って慎重を期さなくてはなりませんので。娘さんご夫婦に迷惑をかけたくないというお気持は、重々察しますよ……云々《うんぬん》。
しかし彼が深く失望したことには、この老女はさらに烈しく泣き出したのだった。
黒い汚れっぽいかつらに、汚れた白木綿のレースをつけた古い絹服を着たこの大女の涙は、まさしく悲しみの涙だった。勇敢で、軽率で、ふたりの子供を深く愛すればこそ泣いたのである。息子の幸福のために、しばしば娘は犠牲にされる。今の場合、彼女が真実を隠したことは、娘を中傷する結果になった。むろん、娘は独立している。お互いに絶対会うはずがないひとびとの批評など気にする必要はない。ところがかわいそうにスティーヴィーは、わたしのけなげさと大胆さ以外に、なにひとつこの世で自分の物と呼べるものを持ってはいない。
ウィニーの結婚当初母親が味わった安堵《あんど》感は、時がたつにつれ薄れていった(なぜなら、いかなるものも永久ではないのだから)。そして彼女は、ブレット街の暗い寝室に閉じこもって、やもめ暮しで得た経験の教えを想いおこした。それも無意味な苦々しさで想い出したのではない、彼女の諦めはほとんど神々しいばかりだったから。この世にあるものはすべて朽ち果てる、気立てのよい者に親切をおこないやすいようにすることが大切だ、そして娘のウィニーはもっとも献身的な姉で、自信にみちた妻だ、とけなげな母親は考えたのだ。ウィニーの弟思いには、彼女のストイシズムといえどもたじろいだ。それだけは彼女のペシミスチックな人生観のただひとつの例外として認めないわけにはいかなかった。
しかし、娘の結婚生活を考えると、こうした甘い希望は断固しりぞけなくてはならない。一家がヴァーロック氏の親切にすがるのをやめればやめるほど、ますます娘の結婚生活は永続するだろう、というのが彼女の冷徹な見解だった。ヴァーロックさんはむろん娘を愛している。しかし、それだけになおさら、水入らずで暮したいんじゃないかしら。
こうして、子供への愛情と深慮遠謀《しんりょえんぼう》から、娘の家を出ることにしたというわけだった。
この作戦の効用は、それによってスティーヴィーの権利が精神的に強化されるだろう、ということである。母親はそれなりに抜け目ない女だった。かわいそうにあの子はあんなに気立てのいい役に立つ子なのに(そりゃ、ちょっとは異常だけど)、充分な足場を持っていない。少年はベルグレイヴィア荘の家具同様、なによりも母親の所有物だという理由からか、母親ともどもヴァーロック氏のもとに引き取られたのだったけれど、自分が死んだらどうなるだろう、そう自問するとこわかった(彼女はある程度想像力をそなえていた)。それに自分が死んでしまえば、スティーヴィーの身の上になにが起るか知りようがない。考えるとぞっとする。しかし、もし彼女が家を出て、ウィニーに少年を渡してしまえば、彼に直接すがらせるという利点を与えることになる。これこそ母親の雄々しい大胆さが微妙に認めたことだった。
じじつ母親が娘の家を離れたのは、息子の一生を永久に安定させようという計画からである。ほかのひとびとが物質的な犠牲を捧げるところを、母親はこういうふうにやったのだ。それしか方法はなかった。おまけに、この方法なら、その工合を見ることができる。よかれ、あしかれ、臨終の床でおそろしい不確実さに悩まされることもない。とはいえ、それはつらい、ひどくつらい決心にはちがいなかった。
馬車はやかましく進んだ。まったく異様な最後の旅だった。それはたいそう乱暴で大がかりで、動いている感じは全然しなかった。なにか中世の刑罰道具めいた固定装置か、不活発な肝臓を直すための新奇な発明機械のなかでゆさぶられている感じだった。ひどくもの悲しい旅だった。
母親の声が響いた、苦痛の叫びのように。
「なるべくたんと会いにきておくれよ、ウィニー」
「もちろんよ」ウィニーは短く答えた、まっすぐに前をみつめながら。
馬車は魚フライの匂いのたちこめる、湯気におおわれた油光りする店の前を通った。ガス灯が燃えている。老母はまた悲しげに叫んだ。
「坊やには日曜ごとに会わなくっちゃ。あれはあたしに会いにきてくれるだろうね……」
ウィニーはにぶく叫んだ。
「むろんよ。ひどく淋しがるにきまってるじゃない。なぜ少しは母さん、そのことを考えてくれなかったの」
そのことを考えなかっただと! けなげな母親は、玉突きの玉のように喉から飛び出そうとする始末の悪い感情をぐうっと呑みこんだ。
ウィニーはぶすっとして、しばらく黙りこんだ。やがて、いつにない口調でいった。
「はじめは、あの子は手が焼けると思うわ。落着かなくなって……」
「なんにしても、あの子がヴァーロックさんの邪魔をしないようにするんだよ、おまえ」
こうして母娘は、一家の新しい情況を話しあった。
馬車が揺れた。母親はいくつかの不安をのべた。スティーヴィーはひとりで来られるだろうか?
あの子も今じゃそれほどぼんやりしてないわ、ウィニーは主張した。
その点で二人の意見があった。あの子はずっとよくなっている、それは否定できない。いくらか心が晴れ、彼らは馬車の騒音のなかで声高に話した。
突然また母親は心配になった。養老院に来るのには、乗合馬車を乗り換えて、少し歩かないといけない。あの子にはとても無理よ! 母親は愕然《がくぜん》として悲しんだ。ウィニーはじっと前を見た。
「そんなにとりみだしちゃだめよ。むろんあの子は会いに行くべきだわ」
「いや、おまえ、会わないようにするよ」
母親は目をぬぐった。
「おまえにはあの子を連れて来る暇があるはずがないし、もし途中で迷って、だれかにとがめられでもしたら、名前や住所を忘れちまって、何日間も迷子になってしまうんじゃないかねえ」
たとえ照会するあいだだけでも、スティーヴィーが孤児院の付属病院に収容されることを考えると、彼女の心は締めつけられるようだった。彼女はプライドの高い女だった。ウィニーの視線はじっと考え深げになっていた。
「毎週は連れて来られないわ。でも心配しないで。長い間迷子にならなくてすむ方法を考えておくわ」
母娘は奇妙な衝撃を感じた。馬車のがたつく窓の前に煉瓦《れんが》の柱があらわれた。急に恐ろしい騒音や振動が止んだので、ふたりの女はびっくりした。なにが起ったんだろう?
彼らは深い静寂のなかで、おびえてじっと坐っていた。ついにドアがひらかれて、馭者《ぎょしゃ》の荒々しい異様なかすれ声が聞こえた。
「着きましたぜ!」
一階にそれぞれくすんだ黄色い窓のある一列の小さな切妻造りの家々が、暗い広々とした芝生を取り囲んでいた。そこには潅木《かんぼく》が植えられ、馬車の響きがにぶくこだまする広い道路の光と影から仕切られていた。馬車は、一階の窓に明りひとつない小さな家の前で止った。鍵を手に、最初母親が後ろ向きに降りた。馬車代をはらうため、ウィニーは敷石道の上で待った。
スティーヴィーは荷物を家に運ぶのを手伝ってから、ガス灯の下に立った。馭者は銀貨を眺めた。大きな、よごれた掌のなかで、それはたいそうちっぽけに見え、このはかない悪しき世のなかで人間の情熱的な努力と勇気の無意味さを象徴するようだった。
馭者は応分に支払われたのだ、一シリング銀貨を四枚。彼は憂うつな問題の驚くべき名辞かなんかのように、黙りこくって銀貨を見つめていた。ゆっくりお宝を内ポケットに収めるとき、馭者はくたびれた服の底をまめまめしく掻《か》きまわした。ずんぐりした、こわばったような体格の男だった。ほっそりしたスティーヴィーは両肩をややいからし、温かそうなオーバーのポケットに深く両手をつっこんで、むっつりと道の端に立っていた。
馭者は考え深げな動作を止め、あるふしぎな記憶にうたれたようだった。
「おや、兄さんですかい!」と男はいった。「も一度馬を見ておくんなさい」
少年は馬を眺めた。重荷から解放された馬の臀部《でんぶ》は異様にもり上って見えた。小さいこわばった尻尾《しっぽ》は心ない冗談でくっつけられたようで、古い馬皮を貼りつけた板のような痩せた平べったい首は、大きな骨張った頭の重みで地面にたれていた。耳はぞんざいにたれ下っている。暑苦しい静けさのなかで、痩せおとろえた物いえぬ馬は、肋骨《ろっこつ》や背骨から湯気を立てていた。馭者《ぎょしゃ》は脂じみたボロボロの袖口から突き出た義手で少年の胸を軽くたたいた。
「え、兄さん。あんた、夜中の二時頃まで馭者台に坐っていたいと思うかね?」
少年は相手の縁の赤くなった残忍な細い目を、うつろにのぞきこんだ。
「この馬はびっこじゃねえぜ」と男は熱心につづけた。「どっこも悪いとこなんかありゃしねえんだ、本当によ。あんたは……」
馭者の潰《つぶ》れたいきみ声は、その言葉に熱っぽい打明け話の感じを与えていた。少年のうつろな視線は、ゆっくりと恐怖に変りつつあった。
「わかるでしょ、夜中の三時、四時まで冷《し》え切って腹ペコで酔っ払ったお客を探さなくっちゃいけないんですよ」
男の紫色の頬には、白くなった毛がぼうぼうと生えていた。野苺《のいちご》の汁で顔をよごしながらシシリアの無邪気な牧童にオリンパスの神々について語ってきかせたヴァージルのシレニウスのように、彼は少年に自分の暮し向きのことを語った。このはかない世のなかで、一家の主人の苦しみたるや、ひじょうなものなのだ。
「あっしは夜勤の馭者でね」どこか誇らしげな怒りをこめて男はいった。「酔っ払いどもが停車場でくれるものをいただかなくっちゃいけねえんだ。家にゃ女房と四人の餓鬼がいるんですから」
父たる者の務めについてのこの恐るべき宣言は、すべてを静まりかえらせたかと思われた。沈黙が支配した。その間にも、ガス灯の光を受けて、この世の黙示録《もくしろく》的悲惨さを象徴する老いた馬の横っ面から、湯気が立ちのぼった。
馭者はうなって、かすれ声でつけたした。
「生きるのも楽じゃないやね」
スティーヴィーはしばらく顔をけいれんさせていたが、いつものようについに感情を爆発させてしまった。
「ひどいや! ひどいや!」
少年の視線は暗くおびえながら、馬の肋骨の上に据えられていた、まるで周囲の世界の不正と目をあわせるのを恐れるように。ほっそりした彼の身体つきや、ばら色の唇、すみきった蒼白い顔色は、頬の上に生え初《そ》めた黄金色のにこ毛にもかかわらず、彼に病弱な少年らしい感じを与えていた。少年はおびえて子供のように唇をとがらせた。
小柄ながっしりした馭者は、透明な腐食液でいたんだような細いきびしい目で少年を眺めた。
「馬にもきついけど、あっしみたいな貧乏人にはもっときつい世の中でさ」とやっと聞こえるくらいの声でいった。
「か、かわいそう、かわいそう!」
スティーヴィーは同情にふるえながら両手をいっそうポケットに突っこんで吃った。彼はなんにもいえなかった。あらゆる苦しみや悲惨にたいする感じやすさや、馬や馭者を幸福にしてやりたいという気持がたかまって、ついには彼らを自分の家に連れて行って寝かせてやりたい、という奇妙な願いにまで達したからだった。そんなことが不可能であるくらい少年にはわかっていた。少年は狂人ではなかった。いわば、それは象徴的願望であり、叡智《えいち》の母である経験から生れたために、とても明瞭になっていた。だから、幼い頃おびえ、悲しみ、魂の暗いみじめさを味わいながら暗い隅っこにうずくまっていると、いつも姉のウィニーがやって来て、彼を安らかな港かなんかのように寝床に連れて行ってくれたものだった。
名前や住所のような単なる事実は忘れやすかったけれど、スティーヴィーは感覚を忠実に記憶していた。同情して寝床に連れて行くという方法は、一般には通用しにくいのが欠点だが、もっともすぐれた方法にはちがいない。馭者を見ながら、少年はそれがはっきりわかったのだ。彼は狂人ではなかったからだ。
少年など眼中にないように馭者はゆっくりと出発準備をととのえ、馭者台に登りかけた。が最後の瞬間、なにか漠然とした理由で、……あるいは馬車屋稼業がいやになっただけかもしれないが……動作を中止した。たたずんだ馬に歩みよると、馭者は手綱をつかみ、力|業《わざ》よろしく右腕でぐいと馬の大きな疲れはてた顔を肩の高さまで持ち上げた。
「さあ、来な」彼はそっといった。
びっこをひきながら、馬が動き出した。この出発には、なにか峻厳《しゅんげん》なものがあった。ゆっくり廻る車輪の下で、踏みつけられた砂利が泣き声をあげた。隠者のように考え深げに歩む痩せた馬の足が、光の下から、小さな養老院の建物の尖り屋根や、弱々しく明りのともった窓にぼんやりと囲まれた空地の暗闇のなかに消えて行った。
砂利の泣き声は、ゆっくりと馬車道を進んだ。ふたたび馬車は門灯のあいだにあらわれ、一瞬手綱を握りしめ馬の顔を持ち上げて進む肥った小男と、棒のように孤独な威厳をもって歩んで行く痩馬の姿がうかび上った。家鴨《あひる》のようにこっけいに暗い低い馭者席が揺れていた。馬車は左に曲った。門から五十ヤードと行かない路上に居酒屋が一軒あった。
あとに残されたスティーヴィーはポケットに両手をつっこみ、憤りに手をかたく握りしめながら、むっつりとうつろな目を光らせた。直接・間接に、苦痛にたいする彼の病的な恐れに作用するような出来事に会うと、扱いにくい少年になるのである。義憤に、華奢《きゃしゃ》な胸は張り裂けんばかりにふくれ上り、まっ正直な目は、やぶにらみになっていた。
スティーヴィーは自らの無力を知る点ですぐれて賢かったけれど、怒りをおさえられるほど賢くはなかったのだ。彼の普遍的な憐憫《れんびん》には、貨幣の両面のように不可分離に結びついた二つの面があった。どはずれた同情の苦しみにつづいて、純真な、だが呵責《かしゃく》ない激怒の痛みがやってくるのだ。
彼がむなしい肉体的興奮のしるしであるこの二つの状態を外にあらわすと、ウィニーはその性格を少しも理解できずに彼をなだめたし、母親ときたら物事の根本的原因を求めてこの束の間の人生を浪費したりすることはぜったいにしなかった。そのほうが経済的で、たいそう思慮ありげに見えるし、いろいろと利点がある。どうみても人はあまり知りすぎないほうがよい。おまけに、こういう考え方は生来の怠惰にぴったりするのだ。
母親が永遠に子供たちの家を去った晩……いわば、この世を去った晩……ウィニーは弟の心理を探ろうとはしなかった。むろん少年は興奮しきっていた。養老院の玄関口で、ウィニーは、もし坊やが訪ねて来ても途中で長いあいだ迷わずにすむ方法をきっと見つけておくわ、と母親にうけあって、少年の腕をとって歩き出した。少年はひとり言さえいわなかったが、彼女はごく幼い頃からの特殊な姉弟愛で、弟がじっさいひどく興奮しているのを感じ取った。彼の腕にすがるふりをしてしっかりつかまえながら、ウィニーはこの場にふさわしい言葉を考えた。
「ねえ、スティーヴィー。いい子だから道を渡るとき、ちゃんと姉さんのこと気をつけてね。そして最初に馬車に乗ってね」
男としてこう保護を頼まれると、スティーヴィーはいつものようにすなおに承知した。彼は頭を挙げ、胸を張って、「心配するなよ、姉さん。心配ないったら」と、子供っぽいおずおずとしたところと、大人のようにきっぱりしたところをまぜあわせたそっけない口調でいった。彼は姉に腕を貸して大胆に進んだ。下唇はだらりとしたままだった。人生のあらゆる快楽のなかで、気狂いじみてふりそそぐガス灯の光にその貧しさを愚かしくもさらけ出した薄汚い大通りの上では、この驚くほどよく似た姉弟は通行人の目をひかずにはおかなかった。
角の居酒屋の前に四輪馬車が止っていた。そこではガス灯の光は強烈なまがまがしさに達し、馭者台には人の姿は見えなかった。あまり車がぼろいので、溝《みぞ》に投げこまれたかのようだった。
その馬車にウィニーは見おぼえがあった。それは死の馬車を思わせるグロテスクなみじめさとぶきみなもの凄《すご》さの極致《きょくち》であり、深くいたましい姿だった。すぐに馬に同情してしまうウィニーは(もっとも自分が馬車に乗ってるときは別だが)漠然といった。「かわいそうに!」
しりごみしてスティーヴィーは、姉をぐいと引っぱった。「かわいそう、かわいそう!」と彼は思いやり深く叫んだ。「馭者もかわいそう。ぼくに話してくれたよ」
弱々しい孤独な馬の姿が、少年を圧倒した。彼はこづかれながら強情にその場に立ちつくし、人間と馬の惨めさにたいして新たなる同情をあらわしたかったにちがいない。しかし、それはひじょうな難問題だった。「馬、かわいそう。人、かわいそう!」
彼はこう繰返すのが精一杯で、この言葉だって自分の気持をあらわせるほど強いものとは思えなかった。だから「ひどすぎらあ!」と唾《つば》をとばせていった後、口をつぐんでしまった。スティーヴィーは言葉を自由に使いこなせる人間ではなかったから、彼の考えは明瞭さと正確さに欠けていた。そのかわり、ふつうの人間以上に深く完全に感じることができるのだ。この短い叫びには、他者を苦しめることによって生きなければならないみじめさ、つまり家にいる子供たちのために哀れな馬を殴りつけなければならない貧しい馭者への少年の怒りと恐怖のすべてがこめられていた。彼は自らの経験から殴られるとはどういうことか知っていた。ひどい世の中、ひどいや、ひどいや!
少年のたったひとりの姉で、保護者で、後見人であるウィニーは、こうした深い洞察を持たなかった。その上、彼女は馭者の魔術的雄弁を聞いていなかった。「ひどいや!」という叫びの内面については、まったく知っていなかった。
「さあ、行くの、スティーヴィー。いつまでもそんなことしてちゃだめ」
少年はすなおに従った。けれども今や大層みじめだった。彼は半分意味をなさない言葉、互いに脈絡のない言葉で構成され、完全にはならない言葉をつぶやきながら、力なく歩んだ、まるで想い出すかぎりのすべての言葉を彼の感情にあてはめて、なにか適当な考えをひき出そうとしているようだった。とうとうそれが見つかった。突然足を止めて、少年はいった。
「貧乏な人には、ひどい世の中」
こういうが早いか、彼はすでにこの言葉とはお馴染なのに気がついた。これは少年の確信を無限に強めたが、同時に憤りの気持も増した。こんなことをしただれかを罰してやらなくっちゃ、うんときびしく罰してやらなくっちゃ、と少年は感じた。懐疑的どころか道徳的な人間だったから、彼はたやすく正義の激情に揺さぶられるのである。
「ひどいよ!」と少年は短くつけたした。
ウィニーには弟が大層興奮しているのがわかった。
「だれにもどうしようもないの。おいで。そんなことでわたしのこと気をつけられて?」
おとなしくスティーヴィーは足を早めた、自分が姉の役に立てるのが自慢だったから。完全無欠な彼の道徳がそう要求したから。しかし、少年は大事な姉が教えてくれたことで心を痛めた。だれにもどうしようもないだって! 少年は暗い気持で歩いたが、すぐにパッと明るくなった。世界のふしぎさに当惑した多くの人間の例にもれず、ときおりスティーヴィーは地上の組織的権力を信じて安心するのだった。
「警察があるさ」少年は自信たっぷりにいった。
「警察はそんなためじゃないのよ」足早に歩きながらウィニーは素気《そっけ》なくいった。
スティーヴィーの顔がずうっと長くなった。考えこんだのだ。考えれば考えるほど、彼の下あごはだらりとたれ下った。ついに絶望的な放心した顔つきで、少年は考えるのをあきらめた。
「そうじゃないの?」あきらめたものの、びっくりして彼はつぶやいた。「そうじゃないの?」
ロンドン警察こそ、悪をおさえつける慈悲深い機関だと理想化していたからだ。≪慈悲深い≫という観念は、とくに少年の青い制服を着たひとびとの強さにたいする意識と密接に結びついていた。少年は、まっ正直な信頼をもってあらゆる警察官を愛した。だから、警察が二枚舌を使うと聞いて心を傷つけられ、ひどく腹を立てた。スティーヴィーは率直で、真昼のように公明な性格だった。じゃあ、猫っかぶりなんかして、警察はどういうつもりだろう? すべてを額面通りに信じる姉のウィニーとちがって、彼は事物の核心に迫りたかった。彼は腹立たしげに誰何《すいか》するように問いつづけた。
「じゃあ、警察は何のためにあるの? ねえ、何のためにあるの?」
ウィニーは議論をきらった。だが最初母親との別れを悲しむあまり弟が憂うつの発作に襲われないかと恐れたので、むげに議論をしりぞけることはしなかった。皮肉でもなんでもなく、彼女は中央赤色委員会代表であり、アナーキストの個人的友人で社会革命の信奉者であるアドルフ・ヴァーロックの妻として、おそらくは不自然と思われないいい方で返事をした。
「なんのために警察があるのか、坊や知らないの? 警察はね、なんにも持たない者が、持ってる者から、なにかを奪ったりしないようにするためにあるのよ」
彼女は「盗む」という動詞を使うことは避けた。この言葉は正直で繊細な弟をつねに不愉快にするからだ。スティーヴィーは≪変って≫はいたけれど、いくつかの単純な道徳を熱心に教えこまれていたので、それにもとるような言葉を聞いただけで、恐怖でいっぱいになるのだった。彼はいつも言葉に感じやすかった。今の姉の話は彼を動かし、愕然《がくぜん》とさせた。彼の知性は鋭く張り切った。
「なぜ?」彼は熱心にたずねた。「お腹がへっても、盗《と》ってはいけないの? いけないの?」
彼らは立ち止っていた。
「そう、それでもだめ」
ウィニーはしかるべき乗合馬車を路上に探しながら、富の分配の問題に心を悩ましたことのない人間の落着きで答えた。
「そう、だめなの。でも、そんなこと話してなんになるの? 坊やはひもじくないじゃないの」
彼女は青年らしくなったかたわらのスティーヴィーをすばやく一瞥《いちべつ》した。心のやさしい、魅力的な、愛すべき少年だわ。ただ、ちょっと、ほんのちょっと、変ってるだけよ。それ以外の見方では弟を眺められなかった。この少年は味気ない彼女の人生、怒る情熱、勇気、憐憫《れんびん》、自己犠牲の情熱さえ失った彼女の人生のなかで、たったひとつの情熱と結びついていた。
「わたしが生きてるかぎり、おまえをそんな目に会わせないわ」とつけたすことはしなかったが、そうしてもよかっただろう。そのためにこそ、彼女は効果的な手段をとったのではなかったか。ヴァーロックはとっても立派な夫だし、スティーヴィーを好きにならない者がいるはずがない、というのが彼女の正直な感想だった。
「急いで、スティーヴィー」突然彼女は大声をあげた。「あの緑色の馬車を止めて」
もったいぶって片腕に姉をつかまらせたスティーヴィーは、なおも義憤にふるえながら、近づいて来る馬車をみごとに止めてみせた。
それから、一時間後、ヴァーロック氏はカウンターの後ろで読んでいた、いや、ともかく眺めていた新聞から目をあげて、けたたましく鈴の音を鳴らしながら妻がスティーヴィーを従えて店に入り、二階の階段へと店を横切って行くのを見た。妻の姿は彼には気持よかった。それがヴァーロック氏の性癖なのだ。最近彼と感覚世界の現象のあいだにヴェールのように降りた気むずかしい考え深さのために、義弟のことは目にとまらなかった。彼はまるで幽霊でも見るように、ものもいわずにじいっと妻の後ろを見送った。
家庭でのヴァーロック氏はしわがれた静かな声でしゃべったけれど、最近、その声は全然聞こえたことがなかった。いつものように短く「アドルフ!」と晩飯に呼ばれたときも、彼の返事は聞こえなかった。帽子を阿弥陀《あみだ》にかぶったまま、平然と彼は食事を終えた。これは戸外の生活が好きだからというのではなくて、外国で喫茶店通いをした頃の習慣なのである。そのため、ヴァーロック氏の家庭にたいする忠実さは、無作法で長続きしそうにないという印象を与えた。
ひびの入った鈴の音に応えて、彼は二度ばかり無言で席を立って店のなかに消え、また黙って食事に戻った。この間ヴァーロック夫人は右手の空席を鋭く意識して、いなくなった母親をひどく淋しく思った。そして彼女の視線は石のようになった。スティーヴィーもまた、床が暑くてたまらないように、食卓の下の足をもぞもぞさせた。沈黙の権化ヴァーロック氏がまた席につくと、ウィニーの目つきは微妙に変り、義兄を大層|畏《おそ》れてやまぬスティーヴィーは足を動かすのをやめた。少年は義兄にうやうやしい同情的な目を向けた。兄さんは悩んでいるんだ。ヴァーロックさんは悩みごとがあるんだから邪魔をしちゃいけないのよ、と馬車のなかで彼は姉から教えられていた。死んだ父親の立腹、下宿人の怒りっぽさ、極端に沈みがちな義兄の性格が、スティーヴィーの自制のおもな力となっていた。これらの感情はすぐに引きおこされ、いつもわけがわからなかったが、とりわけヴァーロック氏の感情はスティーヴィーの上に大きな効き目をおよぼした。だって、ヴァーロックさんはいい人なんだもん。
ウィニー母娘は確固とした基盤の上にこの倫理的事実をうち立てた。彼らは描象的道徳とは無関係なさまざまの理由から、ヴァーロック氏の背後でこの事実をうち立て、定立し、神聖化したのである。ヴァーロック氏はこのことに気がつかなかった。正直なところ、彼は義弟に≪いい人≫だと思わせようとは全然思わなかった。しかも、彼は≪いい人≫にされ、それどころか、スティーヴィーの知るかぎり唯一の≪いい人≫にされてしまったのだ。なぜなら、ベルグレイヴィア荘の下宿人はみな一時的な没交渉の客ばかりで、彼らについて母娘が知ってることといえば、たぶんその深靴くらいのものだったろう。
父親の教育的影響はといえば、彼の乱暴を悲しんだこの母娘が、その犠牲者であるスティーヴィーに≪いいお父さん≫と説けるどころではなかった。それではあまりに残酷だったし、おそらくスティーヴィーはそんなことは信じなかっただろう。ところが、ヴァーロック氏に関するかぎり、少年の信頼を妨げるものはなにもなかった。得体が知れないけれど、ヴァーロック氏はあきらかに≪いい人≫なのだ。
この≪いい人≫が悩んでいる。それはスティーヴィーにとって畏《おそ》れおおいことだった。彼はたびたび義兄にうやうやしい同情の視線を向けた。このふしぎな義兄にこれほど親密な結びつきをかつて感じたことがなかった。彼には義兄の悩みが理解できた。スティーヴィーは自分も悲しくなってしまった。同じ心配なんだ。この不愉快な状態に気をとられて、彼は足をもじもじさせた。いつも彼の感情は手足を動かすことでわかるのだ。
「静かにおし、スティーヴィー」
ウィニーは権威と愛情をこめていった。それから夫の方を向き、本能的な巧妙さでみごとに調子を変えて訊ねた。「今晩出かけるの?」
そう訊かれるだけでヴァーロック氏は不愉快らしかった。彼は不機嫌に頭をふり、しばらく皿の上のチーズを見つめながら、目を伏せて静かに坐っていた。
すぐにヴァーロック氏は席を立って、出て行った。店の戸口の鈴がやかましく鳴り響いた。こんな出し抜けな振舞いをしたのは、はたを不快にさせようと思ったからではなく、どうにも気持が落着かなかったからだ。外出してよくなるわけではない。彼の求めるものはロンドンのどこにも見つからなかった。しかしヴァーロック氏は外出した。
彼は暗い通りを歩き、明るい街並を抜け、けばけばしい酒場を二軒まわり、半分夜明しする気があるようだった。結局帰宅すると、ぐったりとカウンターの後ろに腰をおろした。不吉な考えが、飢えた黒い猟犬の一群のように彼の周囲に殺到した。戸を閉め、ガス灯を消してから、ヴァーロック氏は猟犬につきまとわれて二階に上った。それは眠ろうとする人間には恐ろしい護衛だった。
ウィニーはしばらく前に床についていた。掛蒲団の下にかすかに描き出されたゆたかな肉体、枕にのせた頭、頬の下に置かれた手……。放心したヴァーロック氏に、それはやすらかな心を持った者に訪れるすみやかなる眠気のしるしとうつった。雪のようにまっ白な敷布を背景に、彼女の大きな黒い目がにぶく見つめた。彼女は身動きしなかった。
彼女は物に動じない性格だった。物事はあまり立ち入って眺めてはならないことを彼女は深く感じていた。この本能が彼女の力であり、知恵だった。しかし夫の沈黙は長いあいだ彼女の心に重くのしかかっていた。それは当然彼女の神経に作用した。横たわったまま身動きせず、彼女は静かにいった。
「そんなにソックスだけで歩きまわっていたら、風邪をひくわよ」
この妻らしいこまやかな注意は、ヴァーロック氏をびっくりさせた。下で長靴を脱いだとき、彼はスリッパをはくのを忘れ、檻《おり》の中の熊みたいに音を立てずに寝室のなかを歩きまわっていたのだ。
妻の声を聞くと、ヴァーロック氏は歩くのをやめ、夢遊病者のように無表情な目で長いこと見つめたので、彼女は蒲団の下でかすかに手足を動かした。が、白い枕のなかに沈んだ黒い頭は動かなかった、頬を片手にのせ、まじろぎもしない大きな黒い目をして。
無表情に夫に見つめられながら、踊り場越しの母親の部屋を想い出して、彼女は鋭く孤独の痛みを感じた。これまで一度も母親と別れたことがなかったのだ。母娘はつねによりそっていた。
母さんは行ってしまった、永久に行ってしまった、彼女はひとりごちた。彼女は幻想を持たなかった。でも、スティーヴィーが残ってるわ。
「母さんはしたいことをしたんだわ。なんのつもりか全然わからないけど、あなたに飽きられたと思ったからじゃないことはたしかよ。こんなふうにわたしたちを放って行くなんて、ずいぶんひどいわねえ」
ヴァーロック氏は読書家ではなかった。彼の比喩の力は限られていた。が、今の状況の奇妙な性格は彼に、沈没寸前の船から逃げ出す鼠《ねずみ》のことを思い出させた。ほとんどそう口に出しかけたほどだった。彼は疑り深く、怒りっぽくなっていた。あのばあさんがそれほど目先がきくなんてことがありうるだろうか? こんな疑いにいわれがないことはあきらかだ。そこでヴァーロック氏は沈黙を守りつづけた。もっとも完全に無言だったわけではなく、「あるいはそれでいいのかもしれん」と重々しくつぶやいたのだが。
彼は服を脱ぎはじめた。ヴァーロック夫人は身じろぎもせず、夢でも見ているような静かなまなざしで凝視した。彼女の心臓もまた何十分の一秒か停止したように思われた。その夜、彼女は俗にいう≪われにもあらぬ≫気持を味わった。たったひとつの言葉にも、いろいろ異なった意味が、しかもたいてい不愉快な意味が含まれている、ということが彼女を圧しつけた。「それでいいのかもしれん」だって? これはいったいどういう意味だろう。でも彼女はむなしい臆測にふける女ではなかった。物事は立ち入って眺めてはならない、とかたく信じていた。
ウィニーはそれなりに実際的で抜け目なかったから、時を移さず、弟の話題を持ち出した。彼女の一途《いちず》な決心は、あやまたぬ性格と本能的な力を持っていた。
「これから二、三日のあいだ、どうやってあの子を慰めていいかわからないわ。母さんがいないのに慣れるまで、朝から晩まで悩むでしょうね。あんなにいい子なんですもの。あたし、あの子なしじゃやっていけないほどよ」
ヴァーロック氏は無関心に服を脱ぎつづけた。だだっぴろい絶望の砂漠の孤独のなかで服を脱ぐ人のように一心に考えを集中しながら。このうるわしい地球、われわれの共通遺産は、彼の心にはこううつったのである。内も外もしんとしていたので、踊り場の淋しい掛時計の音が、仲間を求めるように部屋のなかに忍びこんで来た。
ベッドに入ると、ヴァーロック氏は妻の背後で黙ってうつぶせになった。彼の太い腕が、投げ棄てられた武器か、いらなくなった道具のように掛蒲団の外に放り出された。その瞬間、ヴァーロック氏はすべてを妻に打明けようとしかけた。それはちょうどお誂《あつら》え向きの瞬間のように思われた。横目で眺めると、白い寝間着をまとった妻の肉づきのいい肩や、後頭部、夜は黒いテープで端を結わえて三つに編んだ髪が見えた。彼は打明けるのをやめた。
ヴァーロック氏は義務として妻を愛していた。いいかえれば、人が自分のおもな所有物を愛するように妻を愛した。床《とこ》につくために編んだこの頭、このゆたかな肩には親密な神聖さ、家庭の平和の神聖さがあった。彼の妻は未完成の臥像のように動かなかった。ヴァーロック氏は妻の見ひらかれた目が空っぽの部屋をのぞきこんでいたのを想い出した。彼には妻は謎だった。生命ある存在特有の謎だった。しかし、故シュトット=ヴァルテンハイム男爵の人騒がせな至急便のなかで、つねに△と記されたこの評判の情報スパイは、こうした謎を掘り下げるような人物ではなかった。彼はおどかしやすい人間で、その上、怠け者ときていた。往々にしてお人よしの秘密であるあの怠惰である。愛情と、臆病と、怠惰から、彼はこの謎にふれるのはやめにした。いつでも充分その時間があるだろう。しばらく彼は眠気を誘うような部屋の静寂のなかで、黙って苦しみをこらえた。それから急に思いきってこう宣言した。
「おれは明日ヨーロッパ大陸に行ってくる」
妻はもう眠ってしまっただろうか、よくわからない。じっさいは、ヴァーロック夫人は夫の言葉を聞いた。彼女は大きく目を見開き、物事はあまり立ち入って眺めるべきではないと本能的に確信して、静かに横たわりつづけた。しかも夫がこうした旅に出るのはべつに珍しくはない。たびたび夫は海を渡って、パリやブラッセルから商品を仕入れて来るのである。ブレット街の店の周りには小さな顧客のグループが形づくられていて、それは気質と必要性のふしぎな一致から生涯スパイとなることを定められたヴァーロック氏がいとなむどのような商売にも固有な私密の結びつきであった。
彼はしばらく待ってから、つづけた。
「一週間か、ひょっとしたら二週間、帰れんかもしれない。昼間はニールのおかみさんに来てもらいなさい」
ニールのおかみさんというのはブレット街の派出婦だった。彼女は放蕩者の指物師《さしものし》との結婚の犠牲者で、大勢の乳飲み児を抱えて苦しんでいた。まっ赤な腕をし、腋《わき》の下まで粗いズックのエプロンをかけたおかみさんは、石けん水やラム酒の匂い、ごしごし洗う大きな音、ブリキの桶のカタカタいう音に貧乏人の苦しみを吹きこんだ。
深慮遠謀《しんりょえんぼう》のヴァーロック夫人は、まるで何でもないような口振りでいった。
「一日中あの人を雇う必要はないわ。スティーヴィーとふたりでちゃんとやれるんですもの」
踊り場の孤独な掛時計が、永遠の深淵《しんえん》へ十五回、時を打ってから、彼女は訊ねた。
「明りを消しましょうか?」
「うん、消してくれ」とヴァーロック氏は、嗄《かす》れ声でぽつんといった。
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九
十日後、ヴァーロック氏はヨーロッパ大陛から戻って来た。旅行にも心が晴れず、帰宅の喜びにも浮かぬ顔つきをし、暗い、悲しげな、疲れきった様子で、騒々しく鈴の音を鳴らしながら家に入って来た。鞄《かばん》を手に、うなだれてまっすぐカウンターの後ろを歩き、ドーヴァーからずうっと歩き通したように椅子にくずれ落ちた。
まだ早朝だった。飾り窓のいろいろな品物にはたきをかけていたスティーヴィーは、振り返って、畏れのあまりあんぐりと口を開けた。
「ほら!」とヴァーロック氏は床の上の鞄を軽くけった。鞄に飛びついたスティーヴィーは意気揚々と向うに運んで行った。その動作があまり敏捷だったので、ヴァーロック氏は呆気にとられた。
鈴の音を聞いて、居間の炉格子に無鉛を塗っていたニールのおかみさんが、早くもドアのすき間からのぞいた。そしてエプロン掛けの汚れた身体のまま立ち上って、台所のウィニーに旦那さんのお帰りだと知らせに行った。
ウィニーは、店の内側の戸のところまでしか出迎えに来なかった。
「何か食べるでしょ?」離れた所から彼女は訊いた。
ありうべからざる提案に気をのまれたように、ヴァーロック氏はちょっと頭を振ったが、一度居間に入ると、出された朝食を断わりはしなかった。
彼は帽子を阿弥陀《あみだ》にかぶり、重たいオーバーの端を椅子の両側に三角形にたらして、まるで外にいるような恰好で食事をとった。茶色い油布を掛けた食卓の向い側で、ウィニーは放浪のユリシーズの帰還をむかえたペネロペーのように彼の帰宅にふさわしい妻らしい話題を静かに話しかけた。ペネロペーとちがって、彼女は夫の留守中|機織《はたおり》はしなかったけれど、そのかわり、二階の部屋を徹底的に掃除し、幾つかの商品を売り、マイケリスと数回会ったのだ。最後に会ったとき、マイケリスは彼女にロンドンかチャタムかドーヴァー沿岸のどこか田舎の別荘で暮らす予定だと告げた。
カール・ユントも≪あの家政婦のばあさん≫の腕にすがって、一遍やって来たわ。ほんとにいやな人ねえ、あのユントって人は。
カウンターの後ろにたてこもり、無表情な顔とぼんやりした目つきでそっけなく迎えた同志オシポンについては、彼女はひと言もいわなかった。この逞しいアナーキストについての彼女の心の動きは、彼女がちょっと言葉を止め、ごくかすかに頬を染めたことであらわされていた。家庭内の出来事のなかにスティーヴィーの話題を持ち出せるやいなや、彼女はあの子はとてもふさいでいたのよといった。「それもみんな母さんのせいよ」
ヴァーロック氏は「畜生!」とも「スティーヴィーなんか勝手にしやがれ!」ともいわなかった。夫の考えがよくわからないウィニーには、この寛大な慎しみ深さは理解できなかった。
「でも、あの子がいつもみたいによく働かないっていうわけじゃないのよ」と彼女は言葉をつづけた。「これまで随分役に立ったわ。わたしたちのためにいくら働いても働きたりないみたい」
ヴァーロック氏は、右側の華奢《きゃしゃ》な蒼ざめた少年に何気ない眠たげな視線を向けた。この視線は批判的ではなく、まったくなんの意図も持たなかった。かりに、その時ヴァーロック氏が瞬間的に義弟はまったくのごく潰しだと思ったにせよ、それは漠然とした束の間の考えにすぎなかっただろう。そこにはときに世界をゆり動かす考えとなるような、ああした力と持続性が欠けていた。彼は椅子にもたれて帽子を脱いだ。すると帽子を食卓にのせるかのせないかのうちに、スティーヴィーが飛びついてうやうやしく台所に運んで行ったので、またもやヴァーロック氏はびっくりした。
「あの子はあなたのためならなんでもするわ」と、ヴァーロック夫人はあいかわらず落着いていった。「たとえ火のなかにでも飛びこむわよ」
注意深く彼女は話をやめて、台所の戸へ耳をかたむけた。
台所ではニールのおかみさんが床をごしごしこすっている最中だった。スティーヴィーを見ると、おかみさんは悲しげにうめいた。すぐに同情しやすい少年がときどき姉のウィニーからもらう小遣いをまきあげてやろうと思ったからである。おかみさんは、ごみ箱や汚水に住む水陸両棲動物の一種のように水溜りの上に四つんばいになり、びしょ濡れの汚れた姿で、いつもの通りこう前置きをはじめた。
「坊ちゃんは若さまみたいに何もなさんないで、まったくけっこうなご身分ですねえ」
それにつづいて、安物のラム酒と石けん水のいやな匂いでみじめったらしいもったいをつけ、あわれなほど貪慾《どんよく》な貧乏人のおきまりのぐちがはじまった。おかみさんはごしごしと床をこすり、たえず鼻をつまらせながら、饒舌《じょうぜつ》にこぼしつづけた。彼女は必死であった。薄い赤鼻の両側では、かすんだ目が涙でいっぱいだった。じっさい彼女は朝、何か刺激の必要を感じていたのだ。
居間のヴァーロック夫人はわけ知りにいった。
「またニールのおかみさんが頑是《がんぜ》ない子供たちのことをこぼしはじめたわ。でも、あの人がいうほど全部子供が小さいはずはないわ。自分でなにかやれるほど大きい子だっているはずだもの。あんな話は、ただスティーヴィーを興奮させるだけよ」
その通りだった。少年が台所の食卓を拳《こぶし》でたたく音が聞こえた。いつものように同情が昂じて、自分のポケットのなかに与える金が一シリングもないのを発見して腹を立てたのだった。少年はニールのおかみさんの窮状をすぐに救えなかったので、そのためにだれかが苦しむべきだと感じた。
ヴァーロック夫人は立ち上り、そんなたわ言をやめさせようと台所に入って来た。彼女はきっぱりと、だがおだやかにそうさせた。彼女は、この派出婦が金を手にするやいなや、角の安酒場、つまりその悲しみの人生の避けがたい停車場に駆けつけて、きつい酒を飲むだろうことがよくわかっていた。何事も奥に立ち入ろうとしない人間の言葉としては、それは意外な深みがあった。
「もちろん、あの人を元気づけるのは酒だけよ。もしあたしがニールのおかみさんだったら、やはり同じことをするでしょう」
その日の午後、居間の暖炉の前で居眠りばかりしていたヴァーロック氏が、最後にはっと目をさまして、散歩に行って来るといったとき、ウィニーは店からいった。「あの子も連れてって、あなた」
ヴァーロック氏はその日三度目にびっくりして、ばかみたいに妻を見つめた。彼女はしずかに話をついだ。なにかやっていないときは、あの子はいつも家でふさぎこんでいる。それを見ていると、こっちも落ち着かなくって不安なの、と彼女は打ち明けた。もの静かな彼女にしては、それは誇張したように聞こえた。だが、本当なのである。少年は不幸な家畜のように悩み、暗い踊り場に登って行って膝を立て、両手で頭をかかえながら、大きな掛時計の足許の床に坐りこんでいるのだった。薄くらがりのなかで大きな目を光らせている蒼ざめた顔に会うのは心配でたまらない。弟がそこでそうしていると考えると、彼女は心が休まらないのだ。
この驚くべき珍奇な考えには、ヴァーロック氏は慣れっこになっていた。夫として、彼は当然妻を寛大に愛していたが、大きな反対が心に浮かんできた。彼はこんなふうにそれをいいあらわした。
「あの子はおれとはぐれて、街のなかで迷ってしまうかもしれんぞ」
彼女は自信たっぷりに頭をふった。
「そんなことないわ。あなたはあの子を知らないのよ。とってもあなたを尊敬してるわ。もし万が一、道に迷っても……」
彼女はちょっと口を閉じた、ほんのちょっとだけ。
「かまわないで散歩してていいわ。心配しなくっていいの。きっとすぐに無事に帰って来るわ」
妻の楽天ぶりはまたもヴァーロック氏を驚かせた。
「そうかな」彼は疑わしげにうなった。しかし、スティーヴィーは見かけほどばかじゃないのかもしれん。それは女房がいちばんよく知ってるはずだ。彼ははれぼったい目を向けて、「うん、じゃあ来させなさい」といった。それからふたたび、もの思いに沈んだ。
店の戸口にいたので、ヴァーロック夫人にはスティーヴィーが夫に従って運命の散歩に出かけるのが見えなかった。彼女は二人が汚らしい通りを歩いて行くのを見守った。
ひとりは頑丈な大男。もうひとりは細い首をしたやせた小男で、すき通った大きな耳の下からちょっと肩をそびやかしている。ふたりとも同じ地のオーバーに黒い丸い帽子……。服装の類似にふるい立って、ヴァーロック夫人は空想をはせた。
「父子《おやこ》みたい」
そしてあわれな弟にとって、ヴァーロック氏は父親も同様だと思った。これもみんなわたしがやったんだわ、と彼女は気がついた。そしておだやかな誇らしさで、数年前の彼女のある決心を祝福した。それは当時|若干《じゃっかん》の努力と、幾らかの涙を伴ったものだが。
日がたつにつれ、彼女は夫がスティーヴィーとの散歩が気に入ったらしいのを見て、いっそう嬉しくなった。今では散歩に出かけるとき、ヴァーロック氏は飼犬を呼ぶような気持で少年を呼ぶのだった、むろん、犬を呼ぶ時とは同じ態度ではなかったけれど。ときには、家のなかで珍しそうにスティーヴィーを眺めていることもあった。彼の無言はあいかわらずだったけれど、前ほどぼんやりしたところがなくなり、ときとすると活発そうに見えた。彼自身の動作は変ってしまった。これは好転と見なしてよかったかもしれない。
スティーヴィーはどうかというと、もう時計の下でふさぎこんだりせず、部屋の隅でおどかすような調子でひとり言をいうのだった。
「なにをいってるの、坊や?」と訊ねられると、目を開いてやぶにらみで姉を見た。また、ときどきこれといった理由もなしに拳を握りしめ、円を書くために与えられた紙と鉛筆を台所の食卓に放り出して、ひとりで壁に向ってしかめ面をしていることがあった。これは変化にはちがいないが、好転ではない。スティーヴィーの様子はすべて興奮のせいだと彼女は考えた。夫と同志の会話から、スティーヴィーは聞かせてはいけないことを耳にしてしまったのではなかろうか?
ヴァーロック夫人は、それが心配になりはじめた。「散歩」の途中、夫がいろいろな人に会って話すことは当然ありうる。それ以外の原因はほとんど考えられない。ヴァーロック氏の散歩は彼の戸外活動の欠くべからざる一部をなすものだが、これまで彼女は一度も深く調べたことがない。
事態は微妙だ、と彼女は思った。しかし、彼女は店のお客に深い印象と驚きすら与え、ほかの訪問者には少々呆れるくらい近づきがたくした、例の測り知れぬ平静さでそれに対応した。
スティーヴィーに聞かせていけないことがあるんじゃないかしら、と彼女は夫にいった。興奮するだけよ。興奮せざるをえないんだわ。だれだってそうよ。
それは店のなかだった。ヴァーロック氏は何もいわなかった。しかし彼の反論はおのずと明らかだった。あの子をおれの散歩相手にきめたのは、ほかならぬおまえじゃないか、といおうとして、彼は思いとどまった。公平な第三者から見て、その瞬間のヴァーロック氏は寛大なること人間とは思えなかったはずである。彼は棚から小さなボール箱を下ろし、中をたしかめて、静かにカウンターの上に置いた。その間まったく無言。やがて、ヴァーロック氏はあの子はしばらく町を離れたほうがよくはないかね、ただ、あれなしじゃおまえがやっていけんだろうが、といった。
「あの子なしじゃ、やっていけないだろうって!」とヴァーロック夫人はゆっくりおうむ返しにいった。「たとえあの子のためだって、そんなことできないわ。そんなこと! いいえ、もちろんやっていけるわ。でもあの子にはどこも行く所がないじゃないの」
ヴァーロック氏は茶色い紙とひもの玉を取り出しながら、マイケリスが田舎にいるのだとつぶやいた。そこには来客もないし、聞かせていけない会話もない。マイケリスは本を書いてるところさ。
マイケリスさんていいひとねえ、とウィニーはいった。カール・ユントは大嫌い。いやったらない、あのじいさん。
オシポンについてはなにもいわなかった。スティーヴィーは大喜びするにきまってるわ。マイケリスさんはいつもあの子に大層やさしくて、親切ね。あの子が気に入ってるみたい。ほんとにいい子なんだもの。
「あなたも最近すっかりあの子が好きになったようね」と彼女はちょっと間を置いて、ゆるぎない自信をもっていった。ヴァーロック氏はボール箱を荷造りしながら、ひもを乱暴にひきちぎり、心のなかでそおっと悪態をついた。それから例の嗄れ声で、おれがスティーヴィーを田舎に連れて行って、マイケリスの所にちゃんとあずけて来てやろう、といった。
翌日彼はこの計画を実行した。少年は異存を唱えなかった。狐につままれたような面持ながら、むしろ熱心なようだった。姉がこっちを眺めていないときなど、しばしば彼はヴァーロック氏の沈んだ顔つきに物問いたげな率直な視線を向けた。彼の表情ははじめてマッチを持たされて、擦《す》るお許しの出た子供のように誇らしげで、心配そうで、緊張しきっていた。弟の従順さを喜んだウィニーは、あんまり田舎で洋服を汚しちゃだめよ、と説教した。
この言葉に少年は尊大な怒ったような目つきをした。保護者であり後見人である姉に、彼がそんな子供らしい依頼心のない目つきをしたのは、これが最初だった。彼女はほほえんだ。
「まあ、怒らなくたっていいじゃないの。ちょっと目を離すと、泥だらけになるくせに」
ヴァーロック氏は早くも少し歩き出していた。
こうして母親の雄々しい決心と弟の田舎行きの結果、ヴァーロック夫人は前にもまして、店のなかばかりか、家庭内でもひとりっきりのことが多くなった。なぜなら夫は散歩に行かなければならないからである。
グリニッジ公園で爆発事件があった日、彼女はさらに長いことひとりっきりだった。夫はその朝ひじょうに早く家を出て、ほとんど夕刻まで帰宅しなかった。彼女はひとりでいるのが気にならなかった。表に行きたい気持は全然ない。天侯が悪すぎるし、店の方が表より気楽である。彼女はカウンターの後ろで縫物をしながら、けたたましい鈴の音とともに夫が帰って来るまで目をあげなかった。外の足音ですでに夫と察していたのだ。
黙りこくったヴァーロック氏が帽子を眼深にかぶったまま、まっすぐ居間のドアに向ったとき、彼女は目をあげないで静かな声でいった。
「本当にいやな天気ねえ。あの子に会いに行ってたの?」
「いや」
ヴァーロック氏は静かにいうと、思いがけぬ烈しさで後ろのドアをバタンと閉めた。しばらく彼女は縫物を膝に投げ出して、じっとしていた。やがてカウンターの下に縫物を片づけて、立ち上ってガス灯をつけた。夫はじきにお茶を欲しがるだろう。自分の魅力を信じるヴァーロック夫人は、夫婦生活のなかで夫から大ぎょうな応対やていねいな態度を期待しなかった。そんなものはせいぜい古くさい虚礼にすぎず、現在では最上流社会でも棄てて顧みられない。彼女のような階級の基準には、つねに無縁である。第一、おそらく昔だって厳密に守られた例《ためし》はないだろう。彼女は夫に礼儀を求めなかった。彼は善良な夫であって、その権利には忠実な敬意を払っていた。
ふだんのヴァーロック夫人なら、居間を通って台所に行き、自らの魅力を確信する女の完全な落着きをもって夕食の仕度に取りかかっただろう。けれども、ごくかすかなガタガタという音が耳に響いてきて、この不思議な得体の知れぬ物音が彼女の注意をとらえた。次に物音の性格があきらかになったとき、驚きで彼女はぴたりと立ち止り、心配になった。彼女は手にしたマッチ箱のマッチを擦り、居間の食卓の上のガス灯のひとつに点火した。いたんでいたガス灯は最初びっくりしたようにヒューと音を立て、それから猫のように気持よさそうにゴロゴロと鳴りはじめた。いつになく、ヴァーロック氏のオーバーはソファーの上に脱ぎ棄ててあり、やはり脱ぎ棄てられたにちがいない帽子がソファーの端にひっくり返っていた。
ヴァーロック氏は暖炉の前に椅子を引き寄せ、フェンダーのなかに足をつっこみ、両手で頭をかかえて燃えさかる炉格子の上に低くかがみこんでいた。彼の歯は抗しがたい烈しさでガタガタと鳴り、巨大な背中全体が同じような烈しさで震えている。ヴァーロック夫人はびっくりした。
「濡れてるわ」彼女はいった。
「いや、たいして濡れやせん」深く震えながら、ヴァーロック氏はうなるようにいった。歯鳴りをおさえるのが精一杯だった。
「あなたを床につかせなくちゃ」彼女は心から心配そうにいった。
「心配するな」とヴァーロック氏はかすれた鼻声でいった。
たしかに彼は朝七時と午後五時の間にひどい風邪をひくように工夫したのだ。
ヴァーロック夫人は夫のかがんだ背中を見た。
「今日はどこに行ってたの?」彼女は訊いた。
「べつにどこにも」彼は低いしめつけられたような鼻声で答えた。その態度は悩みのある不機嫌さか、ひどい頭痛がすることを示していた。この返事が不充分で率直でないことは、この静まり返った部屋のなかでいたましいほどあきらかだった。彼は弁解がましく鼻を鳴らし、「銀行に行った」とつけたした。ヴァーロック夫人は注意した。
「あなたが!」彼女は静かにいった。「何のため?」
ヴァーロック氏は炉格子の上に顔をかざし、露骨にいやそうにいった。
「金を出しにだ」
「どういう意味? 全部おろしたの?」
「そう、全部」
彼女は貧弱なテーブル掛けをていねいに拡げ、ナイフとフォークを二つずつ食卓の抽出しから取り出し、突然規則的な手つきを休めた。
「なぜそうしたの?」
「すぐに入用かもしれないからね」軽くいおうとして追いつめられたヴァーロック氏は、漠然と鼻を鳴らした。
「何のことかわからない」食卓と食器棚の間にまだ立ちながら、彼女はまったくなにげない口調でいった。
「おれを信用してればいいんだ」むしゃくしゃしてヴァーロック氏はいった。
彼女はゆっくりと戸棚に向き直り、ゆっくりと「ええ、信用しているわ」といった。そして整然と食事の仕度をしはじめた。
彼女は皿を二枚出し、パンとバターを置き、ひっそり静まり返った家のなかで、黙って食卓と戸棚の間を往き来した。ジャムを出そうとして、彼女は現実的なことを考えた。「一日じゅう外出してたんだから、お腹がへってるはずね」
そして冷肉を取りにまた戸棚のところに行った。彼女はうなり声をたてているガス灯の炎の下に肉を置き、火にかじりついて動かない夫を一瞥《いちべつ》してから、二段低い台所に降りた。ナイフとフォークを持って戻って来たとき、彼女はようやくまた口をきいた。
「信用したからこそ、あなたと結婚したんじゃない」
暖炉の棚飾りの下で背を丸め、両手に顔を埋めていたヴァーロック氏は眠ってしまったかに見えた。お茶の用意ができると、ウィニーは低い声で呼んだ。
「アドルフ」
ヴァーロック氏はすぐに立ち上ったが、食卓につく前ちょっと身体がぐらついた。彼女はナイフの先を調べてお皿の上に置き、冷肉の方に夫の注意をうながした。胸にあごを埋めて、ヴァーロック氏は妻の言葉にも知らん顔をした。
「風邪だから栄養をとらなくっちゃ」
ヴァーロック夫人はひとりぎめにしていった。
ヴァーロック氏は顔を挙げ、頭をふった。目が血走り、顔はまっ赤だった。指で頭を掻きむしったので、毛がモジャモジャになっている。まさに散々|放蕩《ほうとう》しつくしたあとにやって来る不快さ、憤《いきどお》り、憂うつをあらわすような不名誉きわまる様子だった。だが、ヴァーロック氏は放蕩者ではない。その品行においてはご立派なものである。彼の顔つきは、風邪熱のせいにちがいなかった。彼はコーヒーを三杯飲んだが、食物には全然手をつけず、勧められると陰気にいやそうに尻ごみした。とうとうヴァーロック夫人はいった。
「足が濡れてるんじゃない? スリッパをはいたほうがいいわ。今晩はもう外出しないんでしょ」
彼は不機嫌に鼻を鳴らし、濡れていないという身ぶりをした。どっちにしろ、そんなことはかまわないのだ。スリッパの件は黙殺されてしまった。
ところが晩の外出の件は、意外な発展を示した。ヴァーロック氏が考えているのはそんなことではなく、もっと大きな計画のことなのだ。彼がぼそぼそした不機嫌な声で明らかにしたのは、至急海外移住を考えているということだった。彼の心にあるのが、フランスかカリフォルニアのどちらなのかはあまり明瞭ではなかったが。
この漠然とした宣言はあまりに意外で、ありうべからざる、想像もつかないことだったので、その効果は失われた。ヴァーロック夫人は夫から世界の終りが到来したとおどかされたときのように、落ち着き払っていった。「なんて考え!」
彼はすべてがいやになり、「疲れたよ、それに……」といいかけて、妻に押しとどめられた。
「ひどい風邪をひいてるからよ」
肉体的に、いや精神的にさえもヴァーロック氏がふだんの状態でないことは一目瞭然《いちもくりょうぜん》だった。暗うつなためらいが、しばらく彼を沈黙させた。それから移住の必要性について、いくつかの暗い一般論をつぶやいた。
「移住する必要」とヴァーロック夫人は、夫の向い側で腕を組み、静かに椅子にもたれて繰り返した。
「だれがあなたにそうさせるのか知りたいわ。あなたは奴隷じゃないわ。この国じゃ、だれも奴隷になる必要はないの。だからあなたも奴隷になるのはやめなさいよ」
彼女は言葉を止め、ゆるぎない率直さでいった。「商売はそれほど悪くないし、あなたには安楽な家庭があるじゃない」
彼女は部屋中を、隅の戸棚から炉格子の暖かい火まで見まわした。あやしげな品物を並べた店、ぶきみな薄暗い窓、暗い路地に疑り深く細目に開けられた戸。ヴァーロック氏の家庭はこうした物の背後に心地よくおさまって、そのあらゆる家庭的体裁や安楽さにおいて、じじつ立派なものなのだ。
献身的で愛情深いヴァーロック夫人は、目下マイケリスの所で霧深いケント州の小道など田園生活を楽しんでいる弟のスティーヴィーが家にいないことを淋しく思った。彼女のあらゆる母性愛は、ひたぶるに弟が恋しかった。この家こそ、弟の家庭でもあるのだ、屋根も、戸棚も、掻き起された炉格子の火も。
こう考えたときヴァーロック夫人は立ち上り、食卓の反対側に歩み寄って、感激で胸がいっぱいになった。
「それに、あなたはわたしに倦《あ》きていないし」
ヴァーロック氏は無言。ウィニーは後ろから夫の肩に身をかがめ、額に接吻した。彼女はそうしたままでいた。表の世界からは、ささやきひとつ聞こえて来なかった。つつましやかな店内の薄くらがりのなかでは、歩道の足音は消えてしまうのだ。食卓上のガス灯だけがあいかわらずうなり声をあげていた。
この突然の長い接吻のあいだ、ヴァーロック氏は両手で椅子の端をつかんで僧侶のごとく動かなかった。妻の唇が除けられたとき、彼は椅子を倒して立ち上り、暖炉の前に立った。もはや彼は背を部屋に向けていなかった。麻薬をのんだようなむくんだ顔で、その目は妻の動きを追い求めた。
静かに動きまわって、ヴァーロック夫人は食卓を片づけた。分別にとむ家庭人らしい口調で彼女は落ち着いて夫の考えを批判した。あなたの計画は考えてみるまでもないわ。
あらゆる見地から彼女は非難した。彼女が案じるのは、スティーヴィーの幸福だけだった。その点から考えても、ひどく≪風変りな≫弟をにわかに外国に連れては行けないように見える。それだけでも充分反対する理由になる。この根本的問題を論じているうちに彼女はすっかり熱中してしまった。その間、茶碗を洗うため彼女はあらあらしくエプロンをかけた。そして自分の声がだれからも反対されないのに興奮したように、ほとんど突き刺すようにこういいさえした。
「もし外国へ行くのなら、わたしついて行かないわよ」
「おまえなしでおれが行くはずがないだろう」
ヴァーロック氏は嗄《しゃが》れ声で答えた。この時、響きのない彼の個人生活の声がふしぎな感動でふるえた。早くもヴァーロック夫人は自分の言葉を後悔していた。実際の意図以上に冷たく聞こえたからだ。それは不必要なことがらの持つ愚かさという感じもした。じつのところ、彼女はそんなつもりは全然なかったし、いわば天邪鬼《あまのじゃく》にそそのかされた言葉にすぎないのである。しかし、彼女は最前の言葉などなかったようにする方法を心得ていた。
彼女は肩越しに振り返り、暖炉の前にのっそりと立っている男に、大きな目でなかばずる賢い、なかば残酷な一瞥《いちべつ》を与えた。ベルグレイヴィア荘時代のウィニーなら、体裁もあったし、男を知らなかったから、とてもそんな目つきはできなかっただろう。だが、この男は今や彼女の夫なのだ。その上、もはや彼女は処女ではない。彼女は仮面のようにおごそかな無表情な顔で、丸一分のあいだ、じいっと夫を見つめつづけ、いたずらっぽくいった。
「そうね。わたしが恋しくなるにきまってるわ」
ヴァーロック氏はびくっとした。「その通りだ」彼は前より大きな声でいい、両腕を拡げて一歩妻の方に進み寄った。彼の表情にあるなにか疑わしいものが、いったい妻をしめ殺そうとするのか、抱擁しようとするのかはっきりわからないように思わせた。が、彼女の注意は鳴り響く鈴の音にそらされた。
「お客さんよ。あなた。出てちょうだい」
ヴァーロック氏は立ち上った。ゆっくり両腕が下った。
「出てちょうだい」もう一度彼女はいった。「わたしエプロンのままなの」
ヴァーロック氏は石のような目で無表情に従った。顔をまっ赤に塗ったロボットのような感じがした。この類似には、自己の内部にある仕掛けを意識するロボットの持つばかげた様子さえあった。
彼は居間のドアを閉めた。ヴァーロック夫人は足早にお盆を台所に運び、茶碗やなにかを洗った。次に手を休めて耳をすました。物音ひとつ聞こえて来ない。お客は長いあいだ店内にいた。それは買物客にきまっている。もしお客でなければ、夫が中に招じ入れるはずだ。彼女はぐいとエプロンの紐をはずし、椅子の上に投げ出した。そしてゆっくり居間に歩いて行った。
ちょうどその時ヴァーロック氏が店から戻って来た。行ったときはまっ赤だった顔が、今度は蒼白くなっている。先程の熱っぽいぼんやりした表情は、わずかのあいだに当惑しきった顔つきに変わっている。彼はまっすぐソファーの所に歩いて行き、まるで手をふれるのがこわいように、そこに置かれたオーバーを見下ろして立っていた。
「どうしたの?」彼女は低い声で訊ねた。半分開いた戸のあいだから、まだお客がいるのが見える。
「今晩出かけなくちゃいかん」ヴァーロック氏は、オーバーを拾おうとさえしないでいった。
無言でウィニーは店の方に行き、背後のドアを閉め、カウンターの後ろに入った。ゆったりと椅子に掛けるまで、彼女はまっ正面からお客を見なかった。が、そのときまでに、客が痩せた背の高い男で、先をぴんとひねった口ひげをはやしていることは気づいていた。じつをいえば、客はちょうどそのとき、ひげの先をひとひねりしたのである。立てた襟から長い痩せた顔がのぞいていた。そしていくらかはねがあがり、濡れている。髪は黒く、少しくぼんだこめかみの下からくっきりと頬骨の線が覗いている。まるで見知らぬ男だ。それに買物客でもない。ヴァーロック夫人は静かに相手を見つめた。
「大陸から来たんですか?」しばらくして彼女は訊いた。
男はちゃんと彼女を見ないで、ただかすかに奇妙な微笑を浮かべただけだった。彼女の悠々とした無関心な視線が、男の上に止った。
「英語はわかりますか?」
「ええ、わかります」
男のアクセントにはどこも変ったところはなかった、ゆっくりしたもの言いの中になにか努力した跡が感じられるのを除いては。かねがねヴァーロック夫人は、そのさまざまな経験から外国人のなかにはイギリス人より見事に英語を話せる者がいる、という結論にたっしていた。居間のドアをじいっと見つめながら彼女は訊ねた。「ずうっと英国にいらっしゃるつもりはないんでしょ?」
見知らぬ男はまた静かにほほえんだ。親切そうな口許と探るような目つきをした男だった。彼はちょっと悲しげに……そう見えたのだが……頭をふった。
「主人がちゃんとお世話すると思います。さしあたり、ギリアーニさんのところに数日お泊りになるのがいちばんよ。コンチネンタル・ホテルっていう名前です。個室で静かな所よ。主人がそこにご案内すると思いますけど」
「けっこうですな」男はいった。急にきびしい視線になっていた。
「主人とはお知合い? もしかしてフランスにいた頃の?」
「お噂はうかがってます」
客はゆっくりと精一杯の口調でいったが、どこかわざとらしいぶっきら棒さが感じられた。
間があった。それから客はずっと自然な調子で訊ねた。「もしかしたら、ご主人はわたしを通りで待とうとして出かけられたんじゃありませんか?」
「通りで?」ヴァーロック夫人は驚いてきき返した。「そんなはずありません。ほかには出口はないんですから」
しばらく彼女は平然と坐っていたが、やがて席を離れ、ガラス板をはったドアから居間をのぞきに行った。突然彼女の姿はドアを開け、なかに消えた。
すでにヴァーロック氏はオーバーを身につけていた。しかし、なぜ、めまいか気分が悪そうに両腕をついて食卓にもたれているのか、彼女にはわからなかった。
「アドルフ」彼女はちょっと大きな声で呼んだ。ヴァーロック氏は身を起した。
「あの人を知ってるの?」彼女は早口に訊ねた。
「名前はね」ドアに気狂いじみた視線を投げかけながら、彼は不安そうにささやいた。
彼女の美しい無関心な目が、嫌悪の焔《ほのお》に燃え上った。
「カール・ユントの仲間なのね、あのいやなじいさんの」
「そうじゃない、そうじゃない」ヴァーロック氏は、せわしげに帽子を探しながら抗議した。しかしソファーの下から帽子を拾い上げたとき、帽子の使い方を知らないようにじっと手に持っていた。
「とにかく、あの人あなたを待ってるのよ」彼女は最後にいった。「ねえ、アドルフ、あの人あなたを最近悩ましていた大使館のひとじゃない?」
「大使館のひと?」驚きと恐怖でひどくぎくりとして、ヴァーロック氏は問い返した。「だれがおまえに大使館のことをしゃべったんだ?」
「あなたよ」
「おれが? おれがおまえに大使館のことをしゃべっただって!」
彼は大層おびえ、当惑したように見えた。
ヴァーロック夫人は、あなたが最近寝言のなかでちょともらしたのだ、と説明した。
「何て? 何ていったんだ? おまえはどんなことがわかったのだ?」
「なにもたいしてわかりゃしないわ。ほとんど意味のないことみたいだったわ。ただね、なにかあなたが悩んでることだけはわかったけど」
彼は帽子を頭の上に突き挙げた。真紅の激怒の流れが顔を走った。
「意味のないこと? 大使館の奴ら? 連中の心臓を順番にちょん切ってやりたいくらいだ。勝手に奴らに見張らせておけっていうんだ。おれの頭のなかには、いってやりたいことが山ほどあるんだ」
ヴァーロック氏はかっとして、食卓とソファーのあいだを歩きまわった。はだけたオーバーが何回も角にひっかかった。激情がひいて行き、顔はまっ蒼になった。鼻の孔がぴくぴく震えていた。ヴァーロック夫人は、実生活の問題を持ち出して夫の興奮をさまさせた。
「とにかくね」彼女はいった。「だれだか知らないけど、なるべく早くあの人を帰して、わたしのところに戻ってきなさいよ。あなには一日か二日、静養が必要よ」
ヴァーロック氏の怒りはしずまった。彼は蒼ざめた顔に決心をみなぎらせ、早くもドアを開けていた。そのとき、ウィニーが小声で呼び戻した。
「アドルフ! アドルフ」
ぎくっとして彼は戻って来た。
「おろしたお金はどうしたの? ポケットのなかにあるの? それよりね……」
彼は妻の差出した掌を馬鹿のようにしばらく見つめた。それから額をたたいて、
「お金? あ、そう、そう! なんのことかわからなかったんだ」
彼は胸ポケットから新しい豚皮の紙入れを取り出した。ヴァーロック夫人は黙って財布を受け取り、出て行った夫とお客の後から鈴が鳴りやむまで静かに立っていた。それからはじめて紙幣を抜き出し、金額を調べた。調べ終ると、彼女はしーんとしたひとりぼっちの家のなかで、思慮深げな疑り深い面持であたりを見まわした。彼女のこの結婚生活の住居は、まるで森のまん中にあるように心細く、不安なように思われた。思いつくかぎりのずっしりと頑丈な家具のあいだのどの隠し場所も頼りなく感じられ、強盗が来やしまいかという彼女の恐れをつのらせるばかりだった。
それは至上の能力と奇蹟的な洞察をそなえた理想的な観念であった。抽出しは問題外だ。そこはまっ先に強盗が目をつけるだろう。ヴァーロック夫人は急いでホックを二つはずし、服の胸衣の下に紙入れをすべりこませた。こうやって夫の資本を始末し終えたとき、彼女は客を知らせる鈴のやかましい音がむしろ嬉しかった。彼女は客向けのいつもの平然としたまなざしと石のような表情になって、カウンターの後ろに入って行った。
店のまんなかに一人の男が立ち、すばやい冷たい目つきで周りを見まわしている。男の目は壁に走り、天井を眺め、床を見た、すべて一瞬の間に。男の金色の口ひげの先があごの線の下にたれている。彼は親密とはいえないにせよ、昔からの知合いのような微笑をうかべた。以前会ったことがあるのをヴァーロック夫人は想い出した。彼女は≪買物客相手の視線≫をたんなる無関心さに柔らげ、カウンターをはさんで男と対峠《たいじ》した。男は幾らか親しげに、近寄って来た。
「ご主人はいますか、奥さん?」
彼は気安い、ゆたかな声で訊ねた。
「いいえ外出しました」
「それは残念。ちょっと個人的なことで伺いたくて来たんだが」
まさにその通りだった。ヒート主席警部はじじつ事件から外されてしまったので、ずうっと歩いてわが家に帰り、スリッパにはき換えようとさえしたのである。だが、いろいろと腹立たしい屈辱的なことを考えているうちにひどく仕事がいやになってきて、気晴らしに外出することにきめたのだった。いわばぶらりと、友人としてヴァーロックを訪ねても差し支えないだろう。
ヒート警部が個人として外出する際、ふだんの乗物を利用したのも一市民としての資格においてである。乗物はたいていヴァーロック氏の住居の方向に走っていた。自らの私的な資格を終始重んじる警部は、ブレット街近辺の立番やパトロール中の警官とまったく会わぬように注意した。この注意は、名前の知られていない次長などより、彼のような地位にある者にはずっと必要なのである。一市民ヒートは、犯罪者仲間では≪こそこそ歩き≫と呼ばれて非難されるようなやり方で、ブレット街に入って行った。グリニッジで拾った布切れがポケットにあった。個人の資格でそれを取出すという気はまるでなかった。それどころか、このスパイのほうから自発的に何をいい出すか知りたいと思っていた。警部が望んだのは、ヴァーロック氏の話がマイケリスを有罪にできるようなものである、ということだった。それはおもに職業上の良心的な願いから来ていたが、道徳的な価値がなかったわけではない。ヒート主席警部はまさに正義の僕《しもべ》だった。
ヴァーロック氏の不在は、警部を失望させた。
「じきに戻られるのがたしかなら、ちょっと待ってもいいですよ」
じき帰るとはヴァーロック夫人は全然保証しなかった。
「わたしが必要な情報はごく個人的なことです」警部は繰り返した。「わたしの意味がわかりますか? ご主人がどこに行ったか教えてくれませんかね?」
彼女は頭をふった。
「知りません」
カウンターの後ろの棚にある箱を整理しようとして、彼女は背を向けた。警部はしばらく考え深そうに彼女の背中を眺めていた。
「わたしがだれかおわかりですな?」彼はいった。
ヴァーロック夫人は肩越しに見たが、そのひややかさは警部を驚かせた。
「わたしが警察の者だということはおわかりですな」と彼は鋭くいった。
「そんなことは、どうでもいいでしょ」ヴァーロック夫人はふたたび箱を並べはじめながらいった。
「わたしはヒート、特殊犯罪部主席警部のヒートです」
ヴァーロック夫人は小さなボール紙の箱をその場所にきちんとおさめ、手をだらりとたらして重たげな目で向き直った。沈黙がしばらく支配した。
「するとご主人は十五分前にお出かけですな。で、いつ戻るかいわなかったんですか?」
「ひとりで外出したんじゃありません」ヴァーロック夫人はそっ気なく答えた。
「すると、お友だちと?」
彼女は後頭部に手をふれた。髪は完全にきちんとなっていた。
「知らない人よ」
「なるほど。どんな種類の人です? 教えてもらえませんか?」
ヴァーロック夫人は教えた。警部は長い顔で口ひげをはね上げた痩せた黒髪の男が来たと聞いたとき、うろたえた様子で叫んだ
「畜生、そうにきまってる。時を移さずに行動したんだ!」
直接の上司のこの非公式な行為には心の底でひどく腹が立ったけれど、警部はドン・キホーテ的な人間ではなかった。ヴァーロック氏の帰りを待つ気はすっかりなくなった。ふたりがなにしに外出したかは知らないが、いっしょにまた戻って来ることは考えられる。この事件はきちんと追求されていない、ひどい邪魔が入っているんだ、とヒート警部は思った。
「残念ですが、お待ちする時間はないようですな」
ヴァーロック夫人は、この言葉をぼんやりと聞いた。そのあいだ中彼女が超然としているのが警部には印象的だった。そして、それが彼の好奇心をそそった。彼はもっとも普通の市民のようにさまざまな感情にゆさぶられて、迷っていた。
「奥さん」と彼はじっと相手を見すえていった。「もしなんでしたら、ちょっとばかり様子を教えてくれませんか」
美しいにぶい目で警部の視線を返しながら、ヴァーロック夫人はつぶやいた。
「様子! 様子ってなんのことでしょう?」
「なんだ、そのことを少々ご主人と相談しに来たんですよ」
その日の朝、ヴァーロック夫人はいつものように新聞をのぞきはした。しかし、外出はしなかった。商売にならないから、新聞売子はけっしてブレット街には入って来ない。その上、人通りの多い大道を流れる彼らの叫び声は店の敷居《しきい》にたっしないで、汚れた煉瓦のあいだで消えてしまった。夫は家に夕刊を持って帰らなかったし、かりに持って来たところで、彼女は見ていないのだから、なにも事件のことを知っているはずがない。だから、ヴァーロック夫人は静かな声にほんとうに驚きの色を浮かべてそう答えた。
しばらくのあいだヒート主席警部は相手のあまりの無智さを信じられなかった。彼はぶっきら棒にむき出しの事実を述べた。ヴァーロック夫人は目をそらした。
「ばかげてるわ」彼女はゆっくりいった。「英国には圧迫された奴隷なんていないのに」
警部は注意深く待った。それ以上なにも彼女の口から出なかった。
「するとご主人は帰宅して、なにもあなたにいわなかったんですかな?」
返事のかわりに、ヴァーロック夫人はただ首をふった。もの憂い当惑させるような沈黙が店内を支配した。警部は耐えがたい苛立ちをおぼえた。
「ご主人に話したいことがもうひとつある。たいしたことじゃないがね」
彼は落着いていい出した。「われわれの手にオーバーが入ったんです。盗まれたのだろうと信じていますがね」
ヴァーロック夫人はその晩とくに泥棒が気になっていたから、服の胸に軽く手をふれた。
「うちじゃなくなったオーバーなんてありませんよ」彼女は静かにいった。
「変ですな」と一個人としてのヒート主席警部はいった。「お宅じゃたくさん不変色インキを置いていますな……」
警部は小瓶を取り上げ、店のまん中のガス灯に当てて見て、「紫ですな」と元に戻した。「おかしいな。オーバーの内側に、お宅の住所を不変色インキで書いた布切れが縫いこんであったんですよ」
低い叫び声をあげて、ヴァーロック夫人はカウンターにもたれかかった。「じゃ、弟のよ」
「弟さんはどこです? 会えますか?」警部は短く訊いた。
「いいえ、家にいません。その名札はわたしが書きました」
「すると、今どこに?」
「田舎のお友だちの所よ」
「オーバーは田舎から来たんだが。で、友だちの名は?」
「マイケリス」彼女はこわくなって、つぶやいた。
ピューと警部は口笛を吹いた。すばやく眼が動いた。
「しめた! なるほど。すると弟さんはどんな人? 頑丈な体格で、黒髪?」
「ちがいます」ヴァーロック夫人は熱心に叫んだ。「それはきっと泥棒のほうよ。スティーヴィーはほっそりして金髪よ」
「なるほど」警部はうなずくようにいった。
驚きと心配で動揺してヴァーロック夫人が警部を見つめているあいだ、彼はいろいろと質問した。そして、その時彼が検屍し、たいそう吐気を催したバラバラの死体がこの若者のものであり、若者が感じやすく、ぼんやりで、風変りで、赤ん坊の頃から彼女が面倒を見てきたことを聞き出した。
「弟さんはすぐに興奮しますか?」
「ええ、でもなぜオーバーをなくしたんでしょう?」
ヒート警部は突然半時間とたたぬ前に買ったピンク色の夕刊を取り出した。彼は競馬に興味を持っていた。職業柄、人を見たら泥棒と思うことを余儀なくされた警部は、夕刊の競馬の予想を無限に信じることによって、人間の胸のうちにある人を信じる本能を救っているのである。
最終版の夕刊をカウンターに投げ出すと、また彼はポケットに手をつっこんで、屠殺場やボロぎれ屋で集めたかと思われるようなガラクタのなかから幸い見つけ出した布切れを取り出して、ヴァーロック夫人に見せた。「わかりますか?」
彼女は機械的に両手で受け取った。みる間に彼女の目が大きくなった。
「ええ」と小声でいって、頭を挙げ、ちょっと後ろによろめいた。
「なぜこんなに引きちぎれたんでしょう?」
警部はカウンター越しに彼女の手から布切れをひったくった。疲れ切ったように彼女は椅子の上に坐ってしまった。
警部は考えた。「これで身許は完全に割れたぞ」
その瞬間、彼はすべての驚くべき真相を瞥見《べっけん》した。ヴァーロック氏が「もうひとりの男」なのだ。
「奥さん」と彼はいった。「あなたは自分で気づいている以上に、この事件を知っているらしい」
無限の驚きに茫然として、ヴァーロック夫人はものもいえずに坐っていた。どんな関係がこの間にあるのだろうか? 身体じゅうが硬直してしまって、彼女はけたたましい鈴の音にも頭を向けることができなかった。警部だけが音の方に振り向いた。
ヴァーロック氏は戸を閉めた。しばらく彼らは互いに見つめあった。彼は妻には目もくれず、警部の方に歩み寄った。彼がひとりで戻ったので、警部はほっとした。
「あんたか!」ヴァーロック氏は鈍重につぶやいた。「だれを追っかけてるんです?」
「べつにだれも」警部は低く答えて、「あんたにちょっと話がある」
ヴァーロック氏は依然として蒼ざめてはいたものの、断固としたところがあった。そして、あい変らず妻のほうを見なかった。
「じゃあ、こちらへ」そして居間に入って行った。
ドアが閉るや、ヴァーロック夫人は椅子から跳び上り、開け放そうとするようにドアに走り寄った。が、そうしないで、ひざまずいて、鍵孔に耳をつけた。
ふたりの男は部屋に入ると同時に立ち上ったにちがいない。はっきりと警部の声が聞こえてくる。しかし、警部が夫の胸に決然と指を押し当てているのは彼女には見えなかった。
「もうひとりの人物はあんただな。目撃者がいるんだ」
すると夫の声がした。
「それならすぐにわたしを逮捕したらどうなんです。あなたにはそうする権利がある」
「いや、とんでもない。きみが身柄をあずけたのがだれか、わたしは重々知っている。あの男は自分でその始末をつけなければなるまい。しかし、まちがっちゃいかん。犯人がきみだということを知ったのは、このおれなんだ」
次には、ただつぶやきしか聞こえなかった。警部が夫に例の布切れを見せているのにちがいない。なぜなら、夫の声が前より少し大きくなったから。「女房がそんな工夫を思いついたとは全然気づかなかった」
しばらくのあいだ、またヴァーロック夫人はぶつぶついっている声しか聞こえなかった。彼女の頭には明瞭な言葉の持つ暗示のほうが、その謎めいたつぶやきよりも恐ろしかった。警部の声が高くなった。
「あんたは気でも狂ってたにちがいない」
暗い怒りをこめて夫の声が聞こえた。
「ひと月ばかりというもの、わたしは気が変だった。しかし今はちがう。すべては終ったんだ。こんなことはみんな頭から追いやって、あとは勝手にしやがれっていうんです」
沈黙があった。そして警部のつぶやきがした。
「なにを追いやるっていうんだ?」
「みんなですよ」と夫の叫び声が聞こえ、それから声がひじょうに低くなった。しばらくすると、また大きくなって、「あんたとは数年来の付き合いだが、わたしは役に立つ男だったでしょう。信頼すべき男、そう信頼すべきね」
古くからの付合いともちかけられて、警部はすこぶる不快を感じたらしい。警告するような口調が聞こえてきた。「あの男の約束などあまり当てにせんほうがいい。おれがきみの立場ならずらかるところだ。警察はきみの後を追わんだろう」
夫の軽い笑い声がした。
「なあるほど。あんたは自分のためにほかの人間もわたしと手を切ることを望んでいるんですね。いや、いや、今わたしをお払い箱になんかできませんよ。わたしはあまりに長いこと彼らに忠実すぎた。だから、今こそすべてをばらす必要がある」
「それなら、勝手にするがいい」警部が冷淡な声で同意した。「しかし、きみはどうやって現場から逃れたのかね?」
「わたしはチェスターフィールド通りに向っていました」と夫がしゃべるのが、ヴァーロック夫人の耳に入った。
「その時どかんという音がして、わたしは走り出しました。霧の朝でした。ジョージ街のはずれを過ぎるまで、だれにも会わなかったんです。本当ですよ」
「そんなに簡単にいったのか!」警部の驚く声が聞こえた。「爆発には胆《きも》を潰したろうな?」
「ええ、あまり早く爆発しすぎましたからね」夫の暗いかすれ声がいった。
ヴァーロック夫人は鍵孔に耳をおしつけた。唇は蒼ざめ、手は氷のようだった。二つの黒い孔のような目をした彼女の蒼白い顔は、炎につつまれたようだった。
ドアの向うの声は大変低くなった。ときどきしか言葉が聞きとれなかった、ときに夫の声が、ときとすると警部のなめらかな声が。
警部がこういうのが聞こえた。
「すると、木の根っこにつまずいたんだね?」
しばらく、夫の声が饒舌《じょうぜつ》をふるった。
次いで警部がなにか訊問に答えているように力をこめていった。
「もちろんだ。こっぱみじんに吹っ飛んだ。手足、砂利、衣服、骨、木切れ、みんなごったまぜになってしまった。死体を集めるために、シャベルを持って来なければならなかったほどだ」
突然ヴァーロック夫人は立ち上り、耳をおさえてカウンターと壁の間をよろめきながら行った。狂った彼女の目は、ヒート警部の残したスポーツ新聞に気がついた。カウンターにぶつかりながら、彼女は新聞を鷲掴《わしづか》みにして、椅子のなかにくずれ落ちた。拡げようとしたとき、彼女はこの楽天的なばら色の紙を引き裂いて、床の上に放り出した。
ドアの向うでは、ヒート主席警部が情報スパイのヴァーロック氏にいっている。
「それでは、きみは弁論のとき、じっさい一切を喋るつもりだね?」
「そうです。すべてをしゃべってしまうつもりです」
「しかし、きみが思ってるほど信じてもらえんかもしれんよ」
それから警部は考えこんだ。事件がこう動けば、多くのことが明るみに出るだろう。それは有能な人間によってたがやされて、はじめて個人にとっても社会にとってもはっきりした価値を持つ情報の荒地にすぎないのだ。かえすがえすも次長のお節介が残念だ。おかげでマイケリスは無傷のままだろうし、「教授」の室内ダイナマイト工場は明るみに出てしまうにちがいない。アナーキストの監視組織はすべてくずれ、新聞には際限なく不祥事がいろいろと載るだろう。
この見地から、突然警部の心には、新聞とは阿呆相手に性懲《しょうこ》りもなく馬鹿が書くしろものだ、という観念がひらめいた。だから、先程の言葉に答えてヴァーロック氏が次のようにいったとき、警部はひそかに賛成するところがあった。
「おそらくね。しかし、わたしが白状すれば多くのことがめちゃくちゃになりますよ。わたしは信頼すべき男だった、この点でもわたしの言葉は信頼できるでしょうな」
「もし、きみがそうさせてもらえればの話だろう」とヒート警部は皮肉っぽくいった。
「法廷にひき出されるまえに、きっときみはお説教されるな。しかも結局は胆を潰すような判決を受けて刑務所《ムショ》行きだ。おれはさっききみが話していたあの人間をあんまり信用しとらんのだ」
ヴァーロック氏は、眉をしかめて傾聴した。
「今のうちにずらかれ。これが忠告だ。わたしはまだなんの命令も受けていないし、すでにきみが逃走したと信じている者がいるくらいだ」とヒート主席警部は、≪者≫という言葉にとくべつ力を入れて話しつづけた。
「ふーむ」とヴァーロック氏は、心を動かされて叫んだ。グリニッジから戻って以来、彼は名もないちっぽけな酒場で大部分の時を過したのだが、こんなうまいニュースはほとんど期待していなかったからである。
「というのがわたしの印象だな」と警部はうなずいて、「消えるんだ。ずらかるんだ」
「どこへ?」とヴァーロック氏はうなった。彼は頭を挙げ、居間の閉ったドアを見つめながら弱々しくつぶやいた。
「今夜わたしを連れ出してもらえるとありがたいんですがね。そうっと逃げますから」
「できればな」主席警部はヴァーロック氏の視線の方向を追いながら、嘲笑的にうなずいた。高名なスパイの額に、うっすらとひや汗が浮かんだ。冷然としたヒート主席警部の前で、ヴァーロック氏は秘密ありげに声をひそめた。
「あの子は薄のろで、責任能力は皆無でした。どんな法廷だって、すぐにそれがわかるはずですよ。精神病院行きが本当でした。もし……されるとしたら、それこそあいつにとって最悪の事態じゃなかったかと思いますよ」
ドアの把手《とって》に手をかけて、警部は耳もとにささやいた。
「薄のろだったかもしれん。しかし、あんただって頭がおかしかったにちがいない。なぜ、こんな気狂いじみた真似をしたのかね?」
ウラジーミル一等書記官を思い浮かべ、ヴァーロック氏はずばりといった。
「北方の豚野郎め!」と烈しくいって、「みんなあの紳士|面《づら》した奴のせいなんだ」
沈着な目つきの警部は「わかってる」というかわりに短くうなずいて、ドアを開けた。
カウンターの背後にいたヴァーロック夫人の耳に、けたたましい鈴の音に送られて警部が帰って行くのが聞こえたかもしれない。しかし、その姿は目に入らなかっただろう。カウンターの後ろの持場に彼女は硬直したように坐っていた。足もとには二つにちぎれた汚れたピンク色の新聞紙が拡げてあった。彼女はぴくぴくと掌を顔におしつけ、まるで自分の皮膚は本当は仮面であって、それを乱暴にはぎ取ろうとするように、指先を額におし当てていた。彼女の完全に動かない姿勢は、ただ泣きわめき、頭を壁にたたきつけたりする以上に、かえってよく怒りと絶望の興奮や、悲劇的な激情の持つあらゆる激しさをあらわしていた。
足早に威勢よく部屋を横切るとき、ヒート主席警部はちょっと彼女を一瞥《いちべつ》しただけだった。そして、ひび割れた鈴が鳴り止んだとき、ヴァーロック夫人の傍では何物も動かなかった、まるで彼女の姿勢のうちにすべてを金縛《かなしば》りにする魔力がこめられているように。T字形のランプ受けの端に置かれた蝶形のガス灯の炎さえゆらめかずに燃えていた。
ガス灯の光を吸いとってしまいそうなにぶい茶色の棚のついた店内では、彼女の左手の結婚指環が、ごみ箱に棄てられたすばらしい宝石を思わせる色あせぬまばゆさで異常に燦然《さんぜん》と輝いていた。
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十
次長はソーホーの近くからウェストミンスターの方向に軽快に馬車を走らせ、日没することなき大英帝国の中心で車を降りた。この聖域を警備する任務にとくに感激した様子もない屈強な警官たちが、次長に敬礼した。議会といえば、何百万人の心のなかでまず浮かぶのは≪世界に冠たる≫、この議会だろう。だが、それにしては粗末な玄関を通って、最後に彼は軽薄な革命主義者トゥードルズ秘書の出迎えを受けた。
この身ぎれいで親切な青年は次長が早くやって来たのにびっくりしたけれど、そぶりには出さなかった。彼は真夜中頃ちょっと気をつけてくれればいい、と大臣からいわれていたのである。こんなに早く次長が姿をあらわしたのは、ともかく事態が悪化した証拠だ、とトゥードルズは結論した。親切で陽気な青年にありがちな、極端な同情家だったから、トゥードルズは自分が「ボス」と呼んでいる大臣が気の毒になった。次長にも同情した。彼には、次長の顔が前よりもっと無表情になり、おそろしく馬面《うまづら》になったような気がした。
「なんてふしぎな、外人みたいな容貌をしているんだろう」秘書は、ちょっと離れた所から快活な親しげな微笑を送りながら考えた。大臣室に同行する途中、たちまち秘書は相手の失敗の気まずさを言葉の山の下に埋めてやろうという親切な意図でしゃべり始めた。
今夜の大攻撃はどうやら失敗しそうですよ。あのいまいましいチーズマンの手下は臆面もなく統計をでっち上げて、薄っぺらな議会に情け容赦《ようしゃ》もなく孔を開けようとしてるんです。ぼくは毎分ごとにその統計を計算してやろうと思ってます。しかし、そうすると、大喰いのチーズマンにゆっくり晩飯をとらせるひまを与えることになるんでね。どっちにしても、「ボス」に帰宅するように説得することはむりですね……云々。
「大臣はすぐに会われると思います。たったひとりで部屋に坐って、魚のことばかり考えておられるんですよ」と秘書は快活にいった。「さあ、行きましょう」
この無給の若い秘書は、親切な性格だったけれど、人間共通の欠陥を逃れてはいなかった。失敗そのものといった顔つきの次長を苦しめることは望まなかったが、彼の好奇心はたんに同情の気持におさえられるにはあまりに強すぎた。途中でちょっと振り返って秘書は訊ねた。
「ご収穫は?」
「犯人をおさえました」と次長は少しも反発したところのない調子で短く答えた。
「それはよかった。お偉方は、小さなことで失望させられるのが、大嫌いなんですよ。あなたにはご想像もつかないでしょうけれど」
この深遠な言葉を吐いたあと、ベテランの秘書は考えこむふうだった。とにかく、たっぷり二分のあいだなにもいわなかった。それから、「吉報ですねえ。しかしなんですねえ、じっさいあなたが考えていらっしゃるほど簡単な事件なんでしょうか?」と訊いた。
「小鰯《こいわし》の使い方をご存知ですかな?」と今度は次長がいった。
「ときには罐詰に使いますね」秘書はくっくと笑いながらいった。漁業問題に関する彼の知識はほんの駆け出し程度だった。その上、ほかの産業についての彼の無智ぶりとくらべても、おそろしくひどかった。「スペイン沿岸には鰯の罐詰工場があって……」
次長はこの見習い政治家をさえぎった。
「そうです。しかしときには鰯《いわし》で鯨《くじら》を捕ることもありますよ」
「鯨を! うへっ!」と秘書は小声でいった。「すると鯨を追ってらっしゃるわけで?」
「正確にはちがいますな。わたしが追っているのは小鮫《こさめ》みたいなものです。あなたはたぶん小鮫がどんなもんだかご存知ないでしょう」
「いや、知ってます。われわれは首まで専門書の山に埋っていますから。棚という棚は全部本でいっぱいですよ。挿絵入りでしてね。小鮫とは、すべすべした顔でひげがあって、危険で獰猛《どうもう》な面つきをした、まったくいまいましい魚のことでしょう」
「盗賊と烙印《らくいん》つきのね」と次長は相手の学殖をたたえながら、「しかし、わたしのはきれいにひげをそっているんです。あなたも会ったことがあるはずだ。頭のいい男ですよ」
「ぼくが会ったことがあるって!」信じられないように秘書がいった。「そんなはずがありません」
「『エクスプローラ・クラブ』でね」と次長は静かにいった。そのすこぶる特権的なクラブの名を聞くと、秘書はぎょっとしたように沈黙した。
「そんなばかな」彼は畏れにうたれた声で、抗議した。「どういうことなんです? そこの会員ですか?」
「名誉会員ですよ」次長は低くつぶやいた。
「まさか!」
相手があまりびっくりしたようだったので、次長はかすかにほほえんだ。
「このことはぜったいに内緒ですよ」
「あんなひどい奴は今まで見たことがない」弱々しげに秘書はいった。まるで驚きのために一瞬あらゆる日頃の快活さを失ったように。
次長は彼をちらと見た。大臣の部屋の扉に着くまで秘書は怒ったようにいかめしい沈黙を守りつづけた。こんな不愉快な、心を動揺させるような事実を暴露した次長に腹を立てているようだった。それは「エスクプローラ・クラブ」の極端な非開放性や、社会的純粋さについてのトゥードルズの考えに大変動揺を与えたのだ。この秘書氏が革新的なのは政治においてだけだった。全般的にこの世界はすばらしい所だというのが彼の信念であり、彼はこの世で自分に割当てられた歳月のあいだ、自己の社会的信条や個人的感情を変えることなく維持しようと望んでいたのである。
扉の所で彼は側に退《さが》っていった。
「ノックなしでお入りください」
灯光の上には全部グリーンの絹のかさがかけてあり、どこか森のような深々とした暗さを部屋に与えていた。大臣の傲慢《ごうまん》な目は、じつは彼の肉体的弱点だった。彼はそれをひとに隠していて、機会があると、正直に目を休めるのだった。
最初部屋に入ったとき、次長は大きな蒼白い顔を隠した白い手しか目に入らなかった。幾枚かの細長い紙と鵞《が》ペンが数本机の上に散らかしてあり、開いた公文書箱が側にあった。大きな机の表面にはあとはまったく何も置いていなかった。身じろぎもせず神秘的に見守っている小さな外衣《トーガ》をまとった青鋼の像を除いては。
すすめられて、次長は椅子に坐った。薄くらがりのなかで、彼の特徴である長い顔や黒髪や痩せた身体がいっそう彼を外国人らしく見せた。
大臣は驚きや熱心さ、感情をまったく示さなかった。彼が弱い目を休めている態度はすこぶる瞑想的だった。次長を見ても、その態度は少しも変らなかった。もっとも口調はそうではなかったが。
「やあ、もうなにか見つけたのか? 第一歩にして早くも意外な事実に出会ったというわけかね」
「必ずしも意外とは申せませんが、エサルレッド卿。わたくしが出会ったのは、ある心理的状態でした」
大臣はちょっと身体を動かした。
「はっきりいいたまえ」
「はい、エサルレッド卿。むろんご承知でしょうが、犯罪者というものは、ときにだれかに告白したいという抑えがたい欲望を感じるものです。そして往々にして警察が告白の相手になるのです。わたしは、ヒート君がひどくかばってやろうとしているアドルフ・ヴァーロックなる人物のうちに、そういう心理状態に置かれた男を見出しました。比喩的にいうと、ヴァーロックはわたしの胸に自らを投げ出したのです。わたしはただ彼に身分を名乗り、今度の事件の背後にきみがいることを知っているんだといってやれば、それで充分でした。われわれがそのことを知っているというのは、さだめしヴァーロックにはふしぎだったでしょう。
しかし彼はただちにすべてを受け入れました。その意外さに彼は一瞬たりとも拘束されなかったのです。あとはただ彼に、だれがきみにそれをさせたのか、そしてじっさいにやったのはだれか? と訊ねるだけで充分でした。
最初の質問には彼は熱っぽく答えました。第二の質問には、わたしはヴァーロックの義弟で白痴の青年の仕業《しわざ》だ、と推測しています。とにかく、ひじょうに奇妙な事件ですが、今ここで全部をお話するには、あまりに長すぎると考えています」
「で、きみはなにがわかったというのかね?」
「まず第一に、前科のあるマイケリスは本件とはまったく無関係だということです。その証拠に、白痴の若者は今朝八時まで彼と田舎の別荘にいたくらいです。おそらく、マイケリスは今でも事件のことはなんにも知っておりますまい」
「その点はたしかかね?」
「はい、大臣。ヴァーロックは今朝マイケリスの別荘に出かけて、散歩という口実で、義弟を連れ出したのです。はじめてのことではなかったから、むろんマイケリスは全然あやしみませんでした。その他のことにつきましては、このヴァーロックという男の怒りがすべてを疑いの余地を残さぬほど示しております。閣下にも、わたくしにも、彼の異常な行動の意味をまじめに受けとることは困難ですが、なおかつ、それは彼に大きな印象を与えたものと思われます。現在ヴァーロックはほとんど放心状態にあるのです」
次に次長は、手で目をおおいながら静かに坐っている大臣に、ウラジーミル一等書記官のやり口や性格についてのヴァーロック氏の解釈を簡単に伝えた。そうしながら、彼は幾分自己満足を禁じえないようだった。
しかし大臣は「じつにばかげた話だな」といった。
「そうです。だれだって悪質な冗談だと受けとるにきまってます。ところが、このヴァーロックなる男は、大まじめに考えてしまったらしいのです。書記官に脅かされたと思ったのでしょうね。むかしヴァーロックはシュトット=ヴァルテンハイム男爵と直接に連絡をとっていて、それで自分の仕事は大使館になくてはならぬものと思いこむようになりました。だから、ウラジーミルの言葉はずいぶん無礼な警告と響いたわけです。さぞ、かーっときたことでしょう。彼は怒り、恐れました。わたしの印象ですが、じじつヴァーロックは大使館は彼をお払い箱にするだけでなく、なんらかの形で売り渡すことができると思ったにちがいありません。そして……」
「きみはどのくらいヴァーロックといっしょにいたのかね?」大臣は大きな手で、次長をさえぎった。
「四十分くらいでしょうか。その晩借りたのですが、コンチネンタル・ホテルというかんばしくない評判のホテルの一室でした。ヴァーロックは犯罪のあとに訪れるあの反動的気分に影響されていました。彼を冷酷な犯罪者と呼ぶのは正しくありません。計画的に義弟を殺したのでないことあきらかで、義弟の死にショックを受けたようでした。わたしにはそれがわかりました。たぶん感受性の強い男なのか、あるいは義弟が好きだったのかもしれません。彼は義弟がうまく逃げられることを望んでいたはずです、それならだれにも罪をかぶせることはまず不可能でしょうから。とにかくヴァーロックは義弟が捕まるかもしれないという危険以外、意識的に危険なことをやったわけではないと思います」
推測をやめて、しばらく次長は考えていた。
「しかし、その場合ヴァーロックがどうして事件と自分のかかわりあいを隠しおおせると思ったのか、わたしにはわからないのですが」と、≪親切な≫ヴァーロック氏にたいするスティーヴィーの献身ぶりや、その風変りな無口さを知らない次長は言葉をついだ。以前、例の花火騒ぎで姉のウィニーがなだめたり、すかしかしたり、どなったり、そのほかいろいろと手をつくしても口を割らなかったスティーヴィー、忠実なることこの上ないスティーヴィーだったのだ。
「まったくわかりません。捕まるということなど全然念頭になかったのかもしれません。とてつもない話ですが、エサルレッド卿、わたくしにはヴァーロックの煩悶《はんもん》は、あらゆる悩みの解決策として自殺を選んだ後でこりゃ無駄だったと気がついた衝動的な人間みたいな感じなのです」と次長は弁解的な声で説明した。
しかし、とてつもない話には、特有の明晰《めいせき》さが存在する。大臣は腹を立てた様子はない。というのは、大臣はほのぐらい影になかば沈んだ巨体と大きな頭をちょっと動かして、押し殺したような、だが力強い声で笑ったからである。
「きみはヴァーロックをどう扱ったのだ?」
即座に次長は答えた。
「妻のところにたいへん戻りたがっているようだったので帰してやりました、エサルレッド卿」
「そうか。しかし姿をくらましはせんかね」
「お言葉を返すようですが、わたしはそうは思いません。ヴァーロックがどこに行けるでしょう。それにご念頭に入れていただきたいのは、彼は同志からの危険も勘定に入れなければならない、ということです。彼には持場があります。どうやってそれを離れる口実がつきましょう。しかし、かりに行動の自由があるとしたところで、ヴァーロックはなんにもしますまい。目下の彼は、なにか決心しうるほど充分な気力がないのです。それともうひとつご指摘したいことは、もしわたくしが、彼を拘禁《こうきん》した場合、わたしたちはある行動をとる必要があり、それにはあらかじめ閣下のご意向を伺う必要があった、という点です」
大臣は重々しく立ち上った。ほの暗い部屋のなかで堂々たる影のごとき姿だった。
「わしは今夜検事総長と会おう。明朝きみを呼びにやることにする。なにかほかにいうことがあるかね?」
次長も起立していた。痩せたしなやかな姿だった。
「べつにございません、エサルレッド卿。事件の詳細を除きましては」
「いや、詳細はいらん」
大臣の巨体は、≪詳細≫にたいする肉体的な恐怖にひるんだように思われた。それから大きな堂々たる体躯が次長に近づいて、大きな手を差しのべた。
「ヴァーロックには細君があるといったな?」
「はい、エサルレッド卿」
次長は差出された手をうやうやしくとっていった。「れっきとした細君です。彼は、大使館でウラジーミルと会ってから、自分はすべてを棄て、店も売り払って英国を離れるつもりだったが、女房が外国行きを承知しないことは確実だったのでやめた、といっていました。夫婦関係を特徴づけるこれ以上の証拠はございますまい」と、かつて自分も妻から外国行きを拒否された経験のある次長は、ちょっと乱暴にいった。
「そうです。正真正銘の細君です。そして殺されたのは実の義弟でした。ある意味では、われわれは家庭の悲劇に立ちあっているのです」と次長は軽く笑った。しかし、すでに大臣の思いは彼方をさまよっているように見えた。内政問題か、あるいは異教徒チーズマンにたいする勇ましい十字軍的な戦いを思っているのだろうか。次長はそっと、気づかれないように退出した、あたかもすでに忘れ去られた人のように。
次長は、彼自身十字軍的本能を持っていた。ヒート主席警部を不快にさせたこの事件は、次長には十字軍を進める天から与えられた出発点と感じられた。彼はこの点からはじめようと、固く心に期するところがあった。彼は道々憤りと満足感のいりまじった気持で、そのことやらヴァーロック氏の心理を考えながら、ゆっくり歩いて帰宅した。
客間がまっ暗だったので、次長は二階に上って服を替え、考え深い夢遊病者のように寝室と更衣室のあいだを歩きまわって、しばらく時をすごした。しかしマイケリスのパトロンであるあの貴婦人の宴会に出席するためふたたび外出したとき、この考えは振り落されていた。
次長はそこで歓迎されることはわかっていた。二つの客間のうち小さいほうに入ったとき、ピアノのそばの小さなグループに妻の姿が見えた。名前が出かかっている若い作曲家が、ピアノ用の椅子から、年寄りらしい背中をしたふたりの肥った男と、若々しい背中をした三人のほっそりした女たちと議論を交しているところだった。衝立《ついたて》の後ろの夫人のところには、客は二人しか見えない。ひとりは男、ひとりは女で、夫人の長椅子の横にある肘掛椅子にそれぞれ坐っている。夫人は次長に手を差出して、
「今夜おいでになれるとは夢にも思いませんでしたわ。アニーの話では……」
「ええ、わたし自身こんなに早く仕事が片づくとは思っていませんでした」
それから声をひそめて、「お喜びください。マイケリスは事件とはまったく無関係でしたよ」
夫人は腹を立てた様子で、「なんですって? 警察じゃマイケリスが関係があると思っていたの? なんてばかな!」
「いいえ、そんな……」と次長はうやうやしく反対して、「われわれだってそれ位の頭はありますよ」
沈黙が訪れた。肘掛椅子の若い男は話をやめ、かすかな笑みを浮かべて見守った。
「お二人は以前、お会いになったことがおありかしら?」と夫人はいった。
紹介されて、ウラジーミル一等書記官と、次長は固苦しくていねいに挨拶した。
「この方わたくしをおどかしていらっしゃるのよ」とウラジーミル書記官の横に坐っている女が、彼のほうに頭をかしげて突然いった。
この女に次長は見おぼえがあった。
「しかし、こわそうなお顔じゃありませんね」と次長は、疲れた静かなまなざしで彼女を入念に見まわしていった。この家ではいずれはだれかに会うものだ、と彼は思った。ウラジーミル氏のばら色の顔は微笑におおわれた、なぜなら彼は才人だったから。けれどもその目は確信にあふれた人のように真剣だった。
「でも、少くともわたくしをおどそうとなすったことよ」と女はいい直した。
「たぶん習慣の力でしょう」抗しがたいインスピレーションに動かされながら、次長はいった。
「ウラジーミルさんはねえ」と彼女はゆっくりと愛撫するような発音でいいつづけた。
「グリニッジ爆破事件のことで、いろいろこわいことをおっしゃるの。爆弾なんか仕掛ける人たちを世界じゅうで弾圧しなければ、わたくしたち、何が起るかいつも心配して、ぶるぶるふるえていなければいけないみたい。わたくし、今度の事件がそれほど重大とは知りませんでしたわ」
ウラジーミル一等書記官は聞こえないふりで長椅子に身をかたむけて、ひくい声で愛想よく話していたが、次長がこういうのが耳に入った。
「いや、ウラジーミルさんが事件の真の重大性をきわめて正確に認識しておられたことはたしかですな」
このでしゃばりのお巡りめ、いったい何を狙《ねら》っているんだろう、とウラジーミル書記官は考えた。
先祖代々専制的な警察の犠牲者だったウラジーミル書記官は人種的、国家的、個人的に警察を恐れていた。この恐怖は彼の判断や、理性や、経験からまったく独立し、遺伝的弱点となっていた。彼は生れつきそうだったのだ。しかし、あるひとびとが猫に対して抱く非合理的な恐れにも似たこの感情は、イギリス警察に対する彼の大きな侮蔑を妨げるものではなかった。
書記官は夫人の言葉に答えると、次長のほうへ心持ち椅子のなかで向きを変えた。
「われわれがこういう人間には大層経験がある、といわれるんですね。そうです、その通りですよ。われわれは彼らの活躍にまったく悩まされています。ところが、イギリスでは……」と彼は当惑したような微笑をもらして、ちょっとためらって、「あなたがたは彼らの存在を喜んで辛抱していらっしゃるから」
そしてきれいに剃り上げた頬に笑くぼを浮かべた。それから、「あえてこんなことを申し上げるんですよ。じじつそうなんですから」と前よりやや重々しくつけ加えた。
ウラジーミル氏が言葉を終えたとき、次長は視線を落した。会話がとぎれた。
ほとんどすぐに書記官は辞し去った。彼が椅子に背を向けるやいなや、次長も立ち上った。
「もうお帰り? アニーといっしょにお帰りかと思っていましたのに」とマイケリスのパトロンの夫人はいった。
「今夜まだちょっと用事があるのを想い出したものですから」
「あれに関係あること?」
「ええ、ある意味では」
「とおっしゃると? おっしゃいよ。このおそろしい事件に?」
「ちょっといいにくいな。ともかく裁判になって評判になるかもしれませんよ」と次長はいった。
彼は急いで客間を離れ、まだ玄関でウラジーミル書記官が大きな絹のハンケチで注意深く喉を巻いているのを見た。後ろにオーバーを持って従僕がひかえていた。戸口のところには戸を開けようとべつの従僕がひとり。次長はオーバーを着せてもらい、すぐ外に出た。
玄関の石段を降りてから、次長はどちらに行こうか思案するように立ち止った。開かれた戸のあいだからこれを見ていたウラジーミル書記官は玄関にとどまり、葉巻を取り出してマッチを探した。年輩の召使いが静かな心づかいを見せて、服のなかから取り出して渡した。が、火は消えてしまった。
従僕が戸を閉めた。書記官はゆっくりと念入りに大きなハバナ葉巻の火をつけた。最後に玄関を出たときに、いまいましいことにあのお巡りがまだ舖道に立っているのを見た。
おれを待っているのだろうか? ウラジーミル書記官は二輪馬車を探しながら考えたが、どこにも二輪馬車の影はなかった。縁石の側に四輪馬車が二台止っていた。ランプは静かに燃え、馬は石像のようにじっと動かない。馭者《ぎょしゃ》は大きな鞭の白い革紐さえ動かさず、大きい皮の袖なし外套にくるまって坐っている。
書記官は歩き出した。すると、お巡りも黙ってこちらに近づいて来た。四歩目のとき、ウラジーミル書記官はかっとして不安になった。とてもこんなことは長く耐えられない。
「いやな天気ですな」と乱暴に、うなるようにいった。
「いいえ、おだやかな天気じゃありませんか」
次長は静かに答えて、しばらく無言だったが、「われわれはヴァーロックという男を捕えましたよ」となにげなくいった。
ウラジーミル書記官はよろめきも、たじろぎもせず、歩調を変えることもしなかったが、「何ですって?」と叫ぶのをおさえることはできなかった。
次長は同じ言葉を二度と繰り返さなかった。
「あなたはヴァーロックをご存知ですな」と同じ調子でいった。
書記官は立ち止って、喉音でいった。
「なぜそうおっしゃるんです?」
「わたしがいうんじゃない。ヴァーロックがそういったんです」
「嘘つき犬めがッ」とウラジーミル氏は幾分東洋的ないい方をした。が心のなかでは、イギリス警察の驚くべき賢さに、ほとんど畏れの念を抱いた。この点についての意見の変化があまり急だったので、彼は少し気分が悪くなり、葉巻を投げ棄てて、歩きつづけた。
「今度の事件でいちばんわたしが喜んだのは」と次長はゆっくりしゃべりながら歩きつづけた。「今まで実行する必要を感じていたある仕事をするのにこの上ない出発点ができた、ということです。つまりですね、この国からあらゆる外国のスパイや警察やその種の犬を追放する、ということですよ。厄介千万な奴らだ、とわたしは思っている。まったく危険な要素だ。しかし、いちいち彼らを個別的に探し出しても成功するはずがない。唯一の方法はですね、彼らを雇うひとびとに、そういう連中を使うことはまずいと感じさせてやることですな。われわれにとって、事態は度を越した危険なものになりつつあるんです」
ふたたびウラジーミル氏はちょっと立ち止った。
「どういう意味です?」
「ヴァーロックを裁判にかければ、こういう危険やひどさがあきらかになるということですよ」
「そんな男のいうことなんか誰が信じるもんですか」とウラジーミル書記官はいった。
「正確で豊富な証拠があれば、世間も納得するでしょう」次長は静かにいいつづけた。
「すると本気でそうするつもりですか?」
「われわれは彼を捕えたんです。ほかに仕様がないでしょう」
「結局、悪党の革命家どもの嘘つき根性をあおる結果になるだけですよ」と書記官は抗議した。「なぜそんなに大騒ぎしたいんですか? 見せしめのため? それともなんですか?」
相手が心配していることはあきらかだった。これで次長はヴァーロック氏の言葉の真実をたしかめたので、ひややかにいった。
「実利的な面もありますな。じっさい、われわれは沢山|材料《ネタ》があるから、真の犯人を挙げることだってできる。イギリス警察は無能だとはいわせませんよ。どんな口実でも、われわれはいかさまに悩まされっぱなしでいるつもりはないのです」
書記官の口調が、高飛車《たかびしゃ》に変った。
「私自身は、あなたの意見に賛成できませんな。それは利己的な意見というべきです。私自身祖国に対する愛情は疑う余地はないが、同時にわれわれは立派なヨーロッパ人でなくてはいけない、とつね日頃感じている。つまりわたしは政府や国民のことをいっているんです」
「その通り」次長はぽつんといった。「ただあなたはヨーロッパを別の端から見ておられる。しかしです」と彼はおだやかにいいつづけた。「外国政府にイギリス警察の無能さをこぼさせはしませんよ。今回の事件をご覧なさい。いかさまで調査しにくい事件だったが、われわれは半日以内で文字通りこっぱみじんになった男の身許をたしかめ、事件の組織者を見つけ、背後の煽動《せんどう》者を知ったじゃありませんか。われわれはもっと踏みこむことだってできた。しかし、境界のところで踏み留ったのです」
「すると、このきわめて教えるところの多い犯罪は、外国で計画されたということになる」とウラジーミル一等書記官は、すばやく口をはさんだ。「あなたは外国で計画されたと認められるんでしょう?」
「ええ、理論上は。理論上は外国で出来たのです」次長はそれとなく某国大使館をあてこすった。「しかし、これは事件の一ディテイルにすぎません。あなたにこんなことをお話しするのも、われわれの警察にもっともご不満なのが、あなたの国の政府だからですよ。おわかりですか、われわれがそれほど無能ではないということが。わたしはとくにあなたにわれわれの成功をお知らせしたいと思いましてね」
「それはご親切なことで」ウラジーミル書記官は、ひくくつぶやいた。
「われわれは当地のあらゆるアナーキストを捕えることができます」と次長はまるでヒート主席警部の受け売りのように話しつづけた。「今必要なことは、安全のために例のスパイと手をお切りになることですな」
ウラジーミル書記官は、通りすがりの二輪馬車に手を挙げた。
「ここにお入りになるんじゃありませんか?」と次長は、とある堂々とした社交的な感じの建物を見上げていった。ガラス戸を通して大きなホールの光が広い階段の上に落ちていた。書記官は無表情な目つきで、馬車に坐って、黙って行ってしまった。
次長自身その建物には入って行かなかった。それは「エクスプローラ・クラブ」であった。今後そこで某国大使館一等書記官ウラジーミル氏の姿がたびたび見うけられることはなくなるだろう、という考えが次長の心をかすめた。時計を見た。まだ十時半だった。次長は大層充実した晩を過ごしたのだ。
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十一
ヒート主席警部が立ち去ったあと、ヴァーロック氏は居間を歩きまわり、ときどき開いたドアのあいだから妻を眺めた。「あれはもうなにもかも知っている」と彼は考えた、妻の悲しみに同情し、自分のことに幾らか安心を感じながら。
ヴァーロック氏は偉大さには欠けていたかもしれないが、やさしい気持を持つことはできた。妻に恐ろしい知らせを打ち明けなければならないと考えて発熱したけれど、自分の代わりにヒート主席警部がやってくれた。結果的にはそれでよかった。あとは妻の悲しみと顔をつきあわせればいい。
ヴァーロック氏は、義弟の死がもとで嘆き悲しむ妻と対面することになろうとは全然予想しなかった。死の破局的な性格は、こじつけの理由や説得的な雄弁で説き伏せることはできない。彼はかくも非業な義弟の死を意図したことは一度もなかったし、死ぬとは夢にも思わなかった。生前もそうだが、死んでもなおさら迷惑をかける奴だ。ヴァーロック氏が自分の計画が成功すると思ったのは、スティーヴィーの奇妙に人をいっぱい喰わせる頭ではなく、その盲目的な従順さや献身を頼りにしての話だった。
ヴァーロック氏に、さして人の心理が読み取れたわけではない。しかし、スティーヴィーの狂信性の深さは計算ずみだった。彼があえて望んだのは、スティーヴィーが指示通り天文台の塀から引き返し、前にくりかえし教えておいた道を通って、公園の外で自分と落ちあうことだった。ダイナマイトを置いて戻って来るのには、どんなばかでも十五分もあれば充分だ。それに教授は十五分以上もつと保証したではないか。ところが、あいつはひとりになるや五分以内につまずいて、すっかりおれを精神的にめちゃくちゃにしてしまった。彼はあらゆる事態を想定していたが、それだけは予想しなかった。
ヴァーロック氏は、少年がぼうーっとして道に迷い、探した結果どこかの警察署か、田舎の救貧院で保護されるとか、逮捕されてしまうことはありうると考えていた。しかし、たびたびいっしょに散歩したとき沈黙を守ることがどんなに必要か念入りに教えこんであったので、少年の忠実さには大いに信用していた。逍遥《しょうよう》派の哲学者よろしくロンドンの街々を散歩しながら、ヴァーロック氏は微妙な論理にみちた会話によって少年の警察観を変えてしまった。どんな賢人といえども、これほど注意深い讃美すべき弟子を持ったためしはなかっただろう。あまり従順で自分を崇拝してくれたので、なにか少年がいとしくなったくらいだった。
いずれにせよ、ヴァーロック氏は彼の関係がこれほど早く露見するとは予期しなかったにちがいない。妻が弟のオーバーの襟《えり》の内側に住所を縫いこんでおくという注意を思いつくとは、とうてい考えてもみなかったことだった。人間はすべてを考え抜くことはできないものだ。あの子が散歩の途中で迷い子になっても、心配いらないわ、と妻がいったのはこのことを指していたのか。大丈夫あの子は戻って来るわ、と妻は保証した。その通り。あいつは復讐しにあらわれたのだ!
「ふうむ、なるほど」とヴァーロック氏はびっくりして、つぶやいた。あなたがあの子に目をくばる手間をはぶいてあげるだと! どういうつもりでいったんだろう? たしかに好意でいったのだ。ただあらかじめそのことをおれに知らせておくべきだった。
ヴァーロック氏は店のカウンターの後ろに歩いて行った。妻をきびしく責めるためではない。怒る気持はまったくなかった。事件の思いがけない歩みが、彼を宿命論者に変えたからだ。今となっては、どうしようもない。
「こんなつもりじゃなかったのだ」とヴァーロック氏は妻にいった。
夫の声を聞いて、ヴァーロック夫人は身をふるわせた。彼女は顔から手を離さなかった。故シュトット =ヴァルテンハイム男爵の信任厚いスパイは、重い執拗なにぶい目つきでしばらく妻を眺めていた。ひきちぎられた夕刊が足もとにある。新聞ではくわしいことを知ることはできない。これはどうしても妻にいっておく必要がある。
「まったくいやな奴だ、ヒートは」とヴァーロック氏はいった。「おまえの気持を動転させたりして。こんなふうに女に知らせるなんてひどいじゃないか。おれはどうやっておまえに打ち明けたものかと悩んだ。一番いい方法を考えながら、何時間もチェシャー・チーズのパーラーにすわってな。わかってくれ、こんなつもりはまるでなかったのだ」
この言葉に偽りはない。彼がダイナマイトの爆発で大きな衝撃を受けたのも、妻を愛すればこそである。
「坐っておまえのことを考えていると、心が暗くなった」とヴァーロック氏はつけ加えた。
ヴァーロック夫人はまたかすかに身体をふるわした。彼はそれに心を動かされ、妻が顔を隠しつづけたので、しばらくひとりっきりにしたほうがよかろうと思った。こう繊細な思いやりを見せて、彼は満足しきった猫のようにガス灯がごろごろ唸り声を立てている居間にまた引き下った。食卓の上にはウィニーが妻らしい心づかいから置いたナイフとフォークと半塊のパンと冷肉がある。ヴァーロック氏は今はじめてそれに気がつくと、肉とパンを切ってたべはじめた。
彼の食欲は、心が冷たいからではなかった。朝飯抜きで家を出て、その日一日じゅうなにも摂《と》らなかったせいである。元来活動的な性格ではなかったから、ヴァーロック氏は例の決心を固めたときには、すっかり興奮して喉が締めつけられるようで、なにも固形物を呑みこめないような気がしたのだった。
マイケリスの別荘は、監獄の独房のように食料にとぼしかった。というのは、この仮出獄のアナーキズムの使徒は少しばかりのミルクとかび臭いパン屑で生きていたのだ。おまけにヴァーロック氏が別荘に着いたとき、彼は粗末な食事を終えて、もう二階に上ったあとだった。創作の苦しみと喜びにひたっていたマイケリスは、下からヴァーロック氏がどなっても返事もしてくれなかった。
「一日か二日スティーヴィーを家に連れて帰るからな!」
そして返事を待たずに、従順なスティーヴィーを連れて、すぐに別荘を出て来たのだった。
今やあらゆる行動が終り、思いがけないすばやさで手のなかから運命が取り去られてみると、ヴァーロック氏はひじょうな肉体的なむなしさを感じた。彼は肉とパンを切り、テーブルの側に立って夕食をむさぼり、ときどき妻のほうに視線を走らせた。彼女があいかわらず動かないことが、彼の思索のやすらかさを乱した。彼はふたたび店内に戻って、彼女の間近に歩み寄った。手で顔をおおった彼女の悲しみが、ヴァーロック氏を不安にした。むろん彼女が大層動揺することは予期していた。が、元気を出して欲しいものだ。ヴァーロック氏の宿命観は、すでにこの新しい危機を受け入れて、妻のあらゆる助力と忠実さを期待した。
「しょうがないじゃないか」と彼は暗い同情的な口調でいった。「ねえ、おまえ、ふたりで将来のことを考えなくちゃいけないよ。おれが捕ったら、おまえは自分のことでうんと頭をしぼらなくちゃいけないんだよ」
ヴァーロック氏は、言葉を止めた。彼は妻の胸がけいれんするようにもり上がるのを見た。これはヴァーロック氏を安心させなかった、なぜなら、彼の考えでは、今自分たちに要求されているのは、冷静さや決断など、精神的動揺とはあい容れない感情だったから。彼はやさしい気立ての人間だった。帰宅したとき、彼はスティーヴィーへの妻の嘆きを全面的に認めてやる用意があった。ただ彼女の悲しみの性格や程度を理解できなかっただけだ。しかし、彼にとって、それを理解することは、自分で見るのをやめないかぎり不可能なことで、これもやむをえなかったかもしれない。
ヴァーロック氏はびっくりして、失望を感じた。少し口調が荒くなった。
「こっちをごらん」とややあって、いった。
顔をおおっている手の下から、ヴァーロック夫人の押し出されたように弱々しい、ほとんどあわれっぽい返事が聞こえてきた。
「生きているかぎり、あなたなんか見たくないわ」
「え、何ていった?」とヴァーロック氏は、この言葉の表面上の文字通りの意味に愕然とした。あきらかに妻は理性を失っているのだ。それは大げさな悲しみから生れた、たんなる叫びにすぎない。ヴァーロック氏は、その上に夫の寛大さというマントを投げかけた。彼の心は深みに欠け、人間の価値は外見の中にあるという誤った観念を持っていたので、妻にとってスティーヴィーの価値がどう見えるかを理解できなかった。あんまり大層に考えすぎる、彼は思った。
皆あのヒートの奴のせいだ。いったい女房を驚かせてなんになるのだ。しかし、いつまでもこんなことをつづけさせておくわけにはいかない、女房は気狂いになってしまう。
「おい、そんなに店のなかに坐ってちゃだめじゃないか」
彼はきびしさを装っていった。幾分腹も立っていた。もしふたりで夜中こんなふうに起きているつもりなら、さし迫った実際的な問題を語りあわなければならない。
「いつ何時《なんどき》、だれがやって来ないともかぎらんからな」と彼はつけ加えて、ふたたび待った。
ヴァーロック夫人の上には、何の変化もあらわれない。彼は死の動かしがたさという観念に思い当り、調子を変えて、やさしくいった。
「なあ、ウィニー、悲しんだって、あの子が生き返るわけじゃなし」
そして、苛立ちとあわれみのまじった気持で、妻を抱きしめてやりたくなった。ちょっと身体をふるわしたほか、ヴァーロック夫人は明らかにこの言葉にはまったく心を動かされた様子はなかった。感動したのはヴァーロック氏だけだ。
単純な彼は自分の言葉に感激して、一身上のことをのべて妻の分別をうながそうと思ったのだ。
「ほどほどにしないか、ウィニー。もし死んだのがおれだったら、どうなったと思う?」
彼は妻がわっと泣き出すものと漠然と予想した。が、彼女は動かない。心持ち背を傾けて、完全に測り知れない静けさを守っている。憤《いきどお》りと驚きに似た気持で、ヴァーロック氏の心臓はいちだんと早くうちはじめた。彼は妻の肩に手を置いていった。
「ばかなまねはおよし、おまえ」
なんの反応もなかった。顔を隠している女に話しかけたところで意味はない。ヴァーロック氏は妻の手首を握った。にかわづけしたように固かった。ひっぱられて彼女の身体は前に揺れ、ほとんど椅子から落ちそうになった。
あまりにぐんにゃりした感触に驚いて、ヴァーロック氏が彼女を椅子の上に戻そうとしたとき、突然彼女の全身はこわばって彼の手を振り離し、居間を横切って台所に駆けこんだ。おそろしく敏捷な動作だった。顔がちらと見え、妻の目がこちらを見ていないのがわかった。
それはまるで椅子とり争いをしているようだった。たちまちヴァーロック氏は妻の席を占めたのだ。彼女のように両手で顔をおおいはしなかったが、暗い考え深さがヴァーロック氏の顔をおおった。投獄は避けられない。今ではそれを逃れたいとは思わない。牢獄は墓場と同じく無法な復讐からの安全な場所だ。しかも、そこでは希望の余地があるという利点がある。
ヴァーロック氏が眼前に見たものは、失敗した場合にすでに考えてあったように、牢に入れられ、早目に釈放されて、どこか外国で暮すことであった。そうだ、正確にはそれは彼が恐れたような失敗ではなかったが、やはり失敗であることには変りない。おれはほとんど成功の一歩手前だったのだから、おれのこのふしぎな能力の証拠をつきつけて、おれをさんざんなぶり者にしたウラジーミルを手ひどくおどしつけてやれたのに。もし女房がスティーヴィーのオーバーの裏に住所を縫いこむという不幸な考えさえ持たなかったら、今頃おれは大使館で限りない名声を得ることができたはずだ。
ヴァーロック氏はばかではなかったから、自分が義弟の上におよぼす影響の異常な性格に、すぐ気がついたのだった。しかし、この原因、つまりスティーヴィーの未来を案じた二人の女が少年に吹きこんだ教えのことは正確には理解していなかった。
「ヴァーロックさんは賢くて、親切な人なのよ、スティーヴィー」彼は、予想しうるあらゆる偶発事にたいして、少年の本能的忠実さと慎重さを正確に見抜き、それを計算に入れておいた。
スティーヴィーの死は人間味のある、やさしい夫ヴァーロック氏をおびえさせた。しかし、死の永遠の判断力に匹敵するものはなにもないのだから、あらゆる角度から見て、これはむしろ有利かもしれない。チェシャー・チーズの小さなパーラーで当惑と恐怖のうちに坐りながら、彼はそう認めないわけにはいかなかった。スティーヴィーの非業《ひごう》の死は痛ましいかぎりだが、ウラジーミル書記官が彼をおどした目的は、塀を爆破させることではなく、世間に精神的動揺を与えることだったから、所期の目標は達成されたことになる。彼はいろいろと骨を折り、心配したが、予定した効果はあげたといえるだろう。
ところが、まったく思いもかけず事件がブレット街に波及したとき、それまで地位を守ろうとして悪夢にとらわれた人間のようにもがいていたヴァーロック氏は、運命論者よろしくすっかり打撃を受け入れてしまった。じっさいだれが悪いわけでもない。暗闇で蜜柑《みかん》の皮にすべって足を折ったようなものだ。ヴァーロック氏は溜息をついた。
妻にはなんの恨みがましい気持もない。おれの服役中あいつが店を見なければなるまい、と彼は考えた。最初はスティーヴィーのことをひどく悲しむだろうな。
彼は妻の健康や精神がとても心配だった。家のなかにたった一人で、どうやって孤独に耐えていけるだろう? そのあいだに身体を損ねでもしたらよくない。そうしたら店はどうなる? 店は財産なのだ。ヴァーロック氏の運命論は彼のスパイとしての破滅は認めたが、完全に破滅するつもりはなかった。そのわけは、妻への思いやりからだということは、ヴァーロック氏のために認めてやらなければいけないだろう。
台所の目に見えない所にいる黙りこくった妻のことが彼をおびえさせた。あれの母親がいてくれさえしたらなあ。しかし、あのわからず屋のばばあは……。腹立たしい当惑が彼をとらえた。あれにいっとく必要がある。時と場合によっては、男は死物狂いになるってことをな。
しかし、ヴァーロック氏はすぐには話しに行かなかった。なによりまず、今夜はもう、商売などしている時ではない。彼は立ち上って通りの戸を閉め、店内のガス灯を消しに行った。
こうして家庭の周りに孤独を確保してから、ヴァーロック氏は居間に入って、台所に視線を走らせた。
彼の妻は、よく晩方スティーヴィーが紙と鉛筆を手に宇宙の渾沌《こんとん》と永遠を象徴するおびただしい円を描いて遊んでいた椅子に坐っていた。彼女は食卓の上に腕を曲げ、その上に頭を置いていた。彼は彼女の背中や髪の結い工合をしばらく見つめ、台所のドアから離れた。これまで彼らの家庭生活の基礎となっていた彼女の哲学的な、ほとんど侮蔑的な無関心さのために、現在悲劇が起きたにもかかわらず、ヴァーロック氏が彼女と心を通わせることは難しかった。
この困難を彼は鋭く味わった。彼はいつもの檻のなかの大きな獣のような様子で、居間の食卓の周りをぐるぐる歩きまわった。
好奇心は自己啓示の一型式であり、整然と無関心を守りつづける人間は、つねに幾らか神秘的に見える。ドアの近くを通るたびに、ヴァーロック氏は不安そうに妻を見た。彼女がこわいわけではない、自分は妻に愛されていると思っていた。しかし、かつて彼女は彼に打明け話をさせたことがなかった。そして今彼がしなければならない告白は、大層心理的な性格のものである。致命的な運命のたくらみが存在し、ときにある観念が心のうちで成長してついには外的な存在を、いいかえると、それ自らの独立した力を、ひいては暗示的な声をさえ獲得するにいたるということ、こんなことを、どうして告白の経験にとぼしい彼がはっきりと伝えることができようか。まさか肥った才気|煥発《かんぱつ》なきれいにひげをそり上げた顔につきまとわれ、ついにそれから逃れようとする気狂いじみた欲望が叡智《えいち》の子のように思われてきて……云々とはいえないではないか。
某国大使館一等書記官のことを心の中でこう言及しながら、ヴァーロック氏は戸口で立ち止った。そして怒った顔で、拳を握りしめて、台所の妻に話しかけた。
「おれの相手がどんな悪党だか、おまえにはわからんのだ」
彼はまた食卓をまわりはじめ、ふたたび戸口に来たとき足を止めて、二段高いところから目を光らしていった。
「わからず屋の、危険千万で、人をばかにした野郎なんだ。永の年月おれみたいな男を……! そのことでおれは頭をしぼってきた。おまえはそれを知らなかった。むろん当り前だ。結婚以来七年間いつも危い目をじっと我慢してきたなんていう必要はないからな。おれはおれを愛してくれる女を心配させるような男じゃない。おまえには関係ないことだ」
またもやヴァーロック氏は食卓の周りを歩きながら、いきまいた。
「有害な畜生めが!」と戸口からいった。「面白半分おれを苦境に追いこんで、飢え死にさせようとしやがって。奴がその冗談を喜んでいるのがおれにはわかった。おれほどの男をな! なあ、おい、世間のお偉方《えらがた》が今まで無事に生きられたのも、おれのおかげなのだ。おまえが結婚したのは、そういう男なんだ!」
ウィニーはすでに椅子から立ち上っていた、食卓の上に腕を拡げたまま。ヴァーロック氏はそこに彼の言葉の効果を読みとることができるように、妻の背中を見つめた。
「この十一年間、おれが自分の生命を危険にさらして摘発《てきはつ》しなかった暗殺計画などひとつもありゃせんのだ。ポケットに爆弾を隠した何十人っていう革命家を追っ払って、国境で逮捕するようにしたのは、このおれだ。男爵は自国にとってこのおれがどんなに貴重な存在か承知していた。そこへ、突然あの豚めが来やがった。なにも知らんくせに威張りちらしやがって!」
ヴァーロック氏はゆっくりと階段を二段降りて台所に行き、戸棚からコップをひとつ取り出して、流しに近づいた。目は妻を見ていなかった。
「男爵は、朝の十一時におれを呼びつけるようなばかなまねはしなかった。ロンドンには、おれが大使館に入って行くのを見たら、早晩平然とおれを殺そうとする者が二、三人はいる。おれみたいな人間を、むやみに人目にさらすなんて、じつにばかけたひどい仕打ちじゃないか」
ヴァーロック氏は流しの栓をひねり、次々と水を三杯ばかり喉に流しこんで、烈火のような怒りをしずめた。ウラジーミル一等書記官の行為は、彼の内部組織を燃え上らせる灼熱《しゃくねつ》した焼印のようなものだった。この恩知らずな行為には我慢できない。社会が庶民に課する烈しい労働に従事しないかわりに、この人物はたゆむことなき忠実さでスパイ活動にはげんできたのだ。ヴァーロック氏のうちには、忠実の貯えがあった。彼は雇い主に、社会の安定という大義に、そして自らの愛情に忠実であった。ヴァーロック氏の愛情への忠実さは、彼が流しにコップを置いて向き直り、こういったことからもあきらかだろう。
「おまえのことを考えなかったら、すんでのことに奴の喉首をひっとらえて、暖炉のなかに頭をつっこんでやるところだった。あんなピンク色のすべすべした顔の野郎なんかに負けてたまるもんか……」
ヴァーロック氏は、まるでそれには疑問の余地がないというように、最後まで言葉をいい終えはしなかった。生れてはじめて、彼はこのひややかな女に打ち明けて話しているのだった。事件の特異性や、この混乱した出来事から生じた個人的感情の力と重要性は、彼の心からきれいさっぱりスティーヴィーの死を忘れさせてしまった。スティーヴィーの怒りと恐怖にみちた生涯や、その非業の死は、しばらく彼の心から去っていた。
この理由から、ヴァーロック氏は視線を挙げたとき、妻の目つきが彼の気持とあわないのにびっくりした。それは狂暴だとか、散漫だとかいうのでなく、異様で、彼の向うのなにかある一点に据《す》えられているらしい、という点でヴァーロック氏には不満だった。この印象は大変強かったので、彼は肩越しに振りかえってみた。なにもない、白く塗った壁のほかは。
ウィニーの立派な夫である彼の目は、壁の上に何の字も見出さなかった。ふたたび妻のほうに向き直って、彼は若干《じゃっかん》強調するように繰り返した。
「おれはきっと奴の喉首をひっつかんでいたはずだ。たしかにおまえのことが頭になかったら、奴を半殺しにしていただろう。奴が警察を呼ぶ気はなかったことはたしかだった。理由はわかるだろう、え?」
心得顔に目くばせしたヴァーロック氏に、ウィニーは全然夫のほうを見もせずに、響きのない声で、「わかんないわ」といった。「いったい、今あなたはなんのことを話しているの?」
疲れはてたヴァーロック氏に、大きな失望が襲った。彼は波瀾《はらん》にみちた一日を過ごし、神経は極度に苦しめられたのだ。気が狂いそうなひと月の後、意外な破局で幕を閉じ、嵐にゆさぶられた彼の精神が欲するのは、休息であった。
スパイとしての彼の人生は、だれにも予測できずに終了した。ようやく、なんとか今一夜の眠りを得られるだろう。しかし妻を見ながら、ヴァーロック氏は、それが疑わしく思えてきた。あれはあんまり思いつめすぎる。いつもらしくないじゃないか。
彼は「元気を出すんだ」と努力して同情的にいった。
「できてしまったことはしょうがないじゃないか」
彼女はかすかにびくっとした。まっ蒼な顔は筋ひとつ動かない。ヴァーロック氏は、彼女を見ずに重々しくいった。
「もうおやすみ。おまえに必要なのは、たっぷり泣くことだ」
この意見は、すべての人間がひとしく賛成するところだろう。空にただようもやほど実質的なものはないように、あらゆる女の感情は結局涙の洪水に終る。これはだれもが理解していることだ。そして、もしスティーヴィーが彼女に絶望的に見つめられながらその腕のなかで病死したのだったなら、彼女の悲しみは烈しい純粋な涙の洪水に救いを見出したにちがいない。彼女にも、人間の一般的運命のしるしを受け入れるだけの諦めは、無意識にあった。彼女は人間の運命に頭を悩ますことはなかったけれど、それが深く見つめるに耐えられないことは知っていたのである。だが、スティーヴィーの痛ましい死……ヴァーロック氏は、それには大きな災害の一部としてのごく挿話的な性格しか与えなかったけれど……は、ちょうど灼けた鉄を両眼におしつけたように、彼女の涙の泉を涸らしてしまった。同時に、彼女の心はこわばり、冷却して氷の塊となり、たえずひそかに身体をふるえさせつづけ、なにも書いてないまっ白な壁を見つめながら凍った瞑想的な表情をとらせていたのである。彼女の性格は哲学的な慎しみ深さを脱いだとき、烈しく母性的となり、じっと動かぬ頭のなかに数々の思いをくり拡げさせた。
こうした思いは、あらわされるというよりはむしろ想像されるのだ。ヴァーロック夫人は他人に対しても、自分に対しても無類に寡黙《かもく》な女だった。彼女は裏切られた女の怒りと当惑をこめて、ごく幼い頃からの苦しみにみちた弟の生涯を回想し、自らの人生を眺めてみた。それは人類の思想や感情の上に傷跡を残して去ったすぐれたひとびとの生涯のように、ただ一つの目的と気高い霊感との結合につらぬかれたところの人生だった。だが、彼女の回想には高貴と荘厳が欠けていた。妖精の宮殿のように、灯光やカットグラスがまばゆく輝く実家のベルグレイヴィア荘の、暗い人気《ひとけ》のない最上階で、ろうそくを頼りに弟を寝床に連れて行く自分の姿。それだけがヴァーロック夫人のビジョンに映じた、ただひとつの輝かしい想い出だった。
彼女は想い出す、弟の髪をすき、エプロンを結んでやったのを(彼女だってまだエプロン姿なのだ)、ほとんど同年の、だがそれほどおびえていない子供が、別の幼いおびえきった子供に与えてやった慰めを、あるいは怒り狂う父親(それほど長くはつづかなかったが)にドアを死物狂いで閉めたことを、そしてまた、父親すれすれに火掻き棒をたたきつけ、呆然とした父の怒りが唖《おし》のような畏れにみちた沈黙に変るのを。
これらの狂暴な情景につづいて、父としての誇りを傷つけられた男の激しい粗野な怒声が聞こえる。
「がきの一人が鼻汁をたらした白痴で、もう一人が性悪《しょうわる》のあまっ子とは、おれも呪《のろ》われたもんだ」
それがかつてのヴァーロック夫人の姿なのだった。
またもや彼女はこういうぞうっとするような言葉を耳にした。たちまちベルグレイヴィア荘の陰うつな影が彼女の両肩に舞い降りた。それは彼女をおしつぶすような記憶であり、沢山の階段を際限もなく朝食のお盆を上げ下げする疲れ切った光景であり、下宿料のことでいつまでもいい争ったり、地下室から屋根裏部屋まで果てしなく掃いたり、はたいたり、磨いたりする光景であった。その間にも、無力な母親ははれた足でよたよたと汚れた台所で料理を作り、彼らの悩みの無意識のみなもとであるスティーヴィーは下宿の殿方たちの靴を流し場で磨いているのだった。
しかし、この光景には暑いロンドンの夏を思わせる息吹きがあった。晴着を着、黒髪の上に麦わら帽子をかぶり、木のパイプを口にくわえた若者がその中心にいた。愛情がこまやかで、陽気な若者は、人生の輝く流れを下る船旅のこの上ない道連れであった。ただ彼の船は非常に小さくて、いっしょにオールを漕ぐ相手の女性を容れる余地しかなく、船客を収容するだけの能力はなかった。
ウィニーは、この若者がベルグレイヴィア荘の玄関から去って行くのを、涙に濡れた目でこらえた。彼は下宿人ではなかったのだ。
アドルフ・ヴァーロック氏が件《くだん》の下宿人だった。怠け者で宵《よい》っ張りで、朝はねむたそうな目で冗談をいったりしていたけれど、はれぼったいまぶたの下には惚れっぽい光を隠していて、ポケットのなかにはいつも小金を持っていた。彼の人生のもの憂い流れには、どんな種類の光もなかった。それは人目につかずに流れた。しかし、彼の船は広々として見え、船客の存在を当然のこととして黙って認めてくれた。
ヴァーロック夫人は、彼女がスティーヴィーの安全のために忠実に支払った七年間の生活を想い出しつづけた。彼女の安全は確信となり、静かな水溜まりのように澱《よど》んだ深い家庭的感情となった。その注意深い表面は、まったくのばかでない女なら、どんな女の心でも目覚めさせるにちがいない堕落した明るさを持つ逞しい同志オシポンの厚顔無恥な色目にもほとんどゆらぐことはないのだった。
さっき台所で夫の大声がしてから、数分しかたっていない。すでにヴァーロック夫人の眼は、二週間とはたたぬ前のあるエピソードを見つめていた。極度に瞳孔《どうこう》を拡大させ、彼女は夫とスティーヴィーが店を出てブレット街をぴったり並んで行く情景を凝視した。それは彼女の才能が創り出した存在の最後の場面であった。それはすべての優雅さや魅惑とは無縁であり、美や、品のよさにもほとんど欠けているが、感情の一貫性や、不撓不屈《ふとうふくつ》の目的という点で賞讃に値する場面だった。この最後の情景は、きわめて創造的な慰めと、形態の相似性と、暗示的な詳細の忠実さを持っていて、思わず彼女は、彼女の人生の至上の幻を再現したかすかな、いたましいつぶやきをもらした。それは彼女の血の気のない唇の上に消えた。
「父子に見えたかもしれないわ」
ヴァーロック氏は歩みを止め、心労にやつれた顔を挙げた。
「え? なんていった?」
返事がなかったので、彼はまた不吉に歩きつづけた。それから、ぶ厚い拳をおどすように振って、どなりはじめた。
「そうだ、大使館の奴らだ。大した奴らだ。一週間以内に、地下に潜りたいと思うようにしてやるぞ。え、なんだって?」
頭をたれて、彼は横目で見た。ヴァーロック夫人は白い壁を見つめている。なにも書いてない壁……完全にまっ白な壁、走って行って頭をぶつけてもうつろな壁を。彼女は椅子のなかでまったく動かず、もし信頼する神の裏切りによって、突如夏の空から太陽が消えたとしたら、地球上のひとびとの半数が驚きと絶望のうちにとるであろうような静けさをとりつづけていた。
「大使館のろくでなしどもめ!」とヴァーロック氏は顔をしかめ、狼《おおかみ》のように歯をむき出していった。「半時間ばかり、なかで棍棒を持って自由にさせてくれたらなあ。さんざん殴りつけて、ひとり残らず骨をへし折ってやる。だが心配無用、おれほどの男を表に放り出せばどんなことになるか、教えることも忘れやしないぞ。おれの働きを世間の奴らに見せてやるから。おれはこわくなんかないぞ。全部ばらしてやるんだ、あらゆる悪事を。用心してるがいい、大使館の野郎どもめ」
こういう調子で、彼は自らの復讐への渇きを宣言した。それはきわめて当を得た復讐であり、彼の生来の性格にぴったりしていた。また、それは彼の力で可能な範囲にあり、同志の地下活動を密告する彼の職業にまさにたやすく順応できる、という長所があった。アナーキストたると、外交官たるとを問わず、ヴァーロック氏にはどちらも同じことだった。もともと人間なんか尊敬しないのだ。彼の侮蔑は、自らの活動する範囲全体に、平等にばらまかれた。だが、革命的プロレタリアートの一員……疑いもなく彼はそうだった……として、社会的身分差別への敵対感もかなりあった。
「どんなことがあったって、今のおれを止められやしないぞ」と彼はつけ加え、まっ白い壁を見つめる妻を、断固として眺めた。
台所での沈黙はつづいた。ヴァーロック氏は失望した。妻がなにかいってくれるかと期待したからだ。顔全体と同じように、彼女の唇はふだんのように閉ざされて、彫像のごとき不動性を保っている。しかし、現在女房に口をきいてもらう必要はないのだ。ふだんから、ひどく口数の少い女だからな。
ヴァーロック氏は、心の奥底にひそむさまざまな理由から、自分に身をまかせた女はすべて信頼する傾向があった。だから妻を信じきっていた。彼らの調和は完全ではあったが、正確なものではなかった。それは、妻の無関心と、怠惰で秘密主義の夫の心の習慣に適応した無言の調和といえる。彼らはふたりとも、事実や動機の核心にふれることを差し控えていた。
この慎しみ深さは、ある意味ではお互いの深い信頼のあらわれであるが、同時に彼らの親密さにある曖昧《あいまい》な要素を導き入れた。どんな形の夫婦関係も完全ではない。ヴァーロック氏は妻が自分を理解していると思いこんでいたけれど、それでも、そのとき彼女がなにを考えているか、ぜひ知りたいと思ったにちがいない。それは彼に慰めを与えただろう。
この慰めが、なぜヴァーロック氏に否定されたか。それには幾つかの理由がある。肉体的障害がまず挙げられる。ヴァーロック夫人は、充分声が出せなかったのだ。彼女は金切声と沈黙のあいだになんらの選択を認めなかったから、本能的に沈黙を選んだ。
ヴァーロック夫人は生来無口だったし、彼女の頭を占める考えには、人を麻痺させずにはおかない兇暴性があった。頬からは血の気が失せ、唇は灰色に変り、驚くべき不動性が彼女を包んだ。彼女は夫のほうを見ずに、自分の考えを追っていた。
「この男があの子を連れてって殺したのよ。殺すために家から連れ出したのよ。殺すために、あたしのところから連れてってしまったんだわ」
彼女の全存在は、この結論のない気狂いじみた考えに責めさいなまれた。それは彼女の血管、骨、髪の根っこのなかに入りこんだ。彼女は心のなかで、聖書的な哀悼の態度をとった。彼女は両手で顔を隠し、衣服をひきちぎり、頭のなかは、嘆きと悲しみの声でいっぱいだった。が、歯は烈しく喰いしばられ、その涙の出ない目は怒りに燃え上った。彼女は屈服するような女ではないのだった。
元来ヴァーロック夫人が弟の上に差しのべた保護は、烈しい憤りの色彩をおびていた。彼女は戦闘的な愛情で弟を愛さなければならなかった。彼女は弟のために闘い、自己にさからってさえ闘った。弟を失ったとき、彼女は裏切られた激情の苦しみとともに、敗北の苦さを味わった。それはふつうの死の打撃ではなかったし、そのうえ、彼女からスティーヴィーを連れ去ったのは死ではない。連れ去ったのは夫なのだ。彼女は夫が弟を連れ出すのを、手ひとつ挙げずに目撃し、ばかのように、盲目のばかのように、それを見逃したのだ。
夫はスティーヴィーを殺してから、家にいる彼女のもとへ帰って来た、ちょうどほかの男がその妻のところに帰って来るように。彼女は喰いしばった歯のあいだから、壁に向ってつぶやいた。
「それなのに、あたしときたらあの男が風邪をひいたのかと心配したりして」
この言葉を聞きつけるや、ヴァーロック氏はそれを利用した。「なんでもなかったのだ」と不機嫌にいった。「おまえのことが心配で、おれは気が転倒してたんだ」
ヴァーロック夫人はゆっくり頭を向けて、視線を壁から夫に向けた。ヴァーロック氏は指先を口にくわえて、床を見つめていた。
「しかたがないじゃないか」と彼はだらりと手をたらしてつぶやいた。「おまえもしっかりしなくちゃいかん。うんと頭を働かしてくれ。おれたちのあいだに警察を持ちこんだのはおまえだ。しかし、心配はいらん、二度とおれはこんなことをいいやしないから」と寛大にいった。「おまえはなにも知らんことだ」
「そうよ」と彼女は、まるで死体が口をきくようにいった。
話の筋道が見つかって、ヴァーロック氏は、じっさい気がかりな様子で、「おまえを責めているんじゃない。おれは奴らの度肝《どぎも》を抜いてやるぞ。牢屋に入ってしまえば、おれがなにをしゃべろうと安全だからな、わかるか。しかし、二年ぐらいは出られんことを覚悟してくれ」といった。「それは、おれよりおまえのほうが楽なはずだ。おまえには仕事があるからな。ところがおれは……。なあ、ウィニー、今の商売をそのあいだおまえがやらなくちゃならん。仕事のことは充分わかっていると思う。おまえには立派に頭があるんだ。店を売るときが来たら、そういうよ。うんと気をつけてな。留守中仲間がおまえを監視しているにちがいないが、できるだけうまく秘密を守ってくれ。おまえのすることを、誰にも覚らせてはいけない。しゃばへ出たとたん、ばっさりやられるのはご免だよ」
こうして、ヴァーロック氏は賢明に、用心深く将来の問題を論じていった。正確に情勢をつかんでいるヴァーロック氏の声は暗かった。起ってほしくないことが、ことごとく起ったのだ。未来は不確実になった。あるいは、彼の判断はウラジーミル一等書記官の獰猛《どうもう》な愚行への恐れで、一時的にくもったといえるかもしれない。だが、四十すぎた男が失業するという見込みにあわてふためくのも無理はないだろう。とくに彼が政治警察のスパイをつとめ、自身の高い価値を意識し、高官たちに評価されて安定した状況にあるときには。
今や、それが一気に崩れたのだ。彼は寒気をおぼえた。心は明るくなかった。復讐の欲望から秘密をあばき、世間の前に自らの仕事を誇示しようとするスパイは、死物狂いの血に飢えた同志の憤激の的になる。この危険を、ヴァーロック氏はなんら不当な誇張を加えずに、妻の前に明らかにしようとつとめた。彼は繰り返し、革命家たちにばっさりやられることはいやだ、と述べたのだ。
ヴァーロック氏はまっすぐ妻の目をのぞきこんだ。拡がった妻の瞳が、その底知れぬ深みのなかに彼の視線を呑みこんだ。
「ばっさりやられるのはいやだ。おれはおまえを愛しすぎているからな」
ちょっと神経質に笑って、彼はいった。ヴァーロック夫人の幽霊のように動きのない顔に、かすかな赤味がさした。過去のまぼろしと縁を切って、彼女は夫の言葉を耳にしたばかりか、それを理解したのだ。
彼女の精神状態と極端にくいちがったこの言葉は、少々彼女を窒息させかけた。彼女の精神状態の長所は、その単純さにあった。しかし、それはある固定観念にあまりに支配されすぎていたから、健全とはいいがたかった。彼女の頭は、七年のあいだ不快にも思わずにいっしょに暮してきたこの男が、あの子を連れていって殺したんだ、身心ともに慣れ、信頼していたこの男が、弟を連れていって殺したんだ、という考えにみたされていた。
普遍的で、無生物の様相さえ変化させるその形、その実質、その効果において、これはじっと坐って永遠に驚きあぐねるにふさわしい考えだったかもしれない。ヴァーロック夫人は坐ったきり動こうとはしなかった。この考えを横切って、お馴染の帽子とオーバーを着、彼女の頭の上を長靴でどんどんと踏みつける夫の姿が去来する。たぶん、あの男はなにか話しているらしい。しかし、彼女の瞑想は、あらかた夫の声をおおいつくしてしまった。
しかし、ときどき夫の声が聞こえ、幾つかの意味を持った言葉が聞こえることがあった。それは概して希望的観測を述べているのだが、そのたびごとに、彼女の拡大した瞳孔は、彼方をじいっと凝視するのをやめ、暗い測り知れない注意をもって、夫の動作を追っていた。スパイ業に関することはすべて知り抜いているヴァーロック氏は、彼の計画や裏工作が成功するだろうという判断を持っていた。全般的に見て怒れる革命家の刃《やいば》を逃れることは容易だろうと確信した。
これまでの彼は、彼らの憤りの烈しさや職業的な面での手まわしのよさを、しばしば誇張しがちで、あまり幻想は持てなかった。なぜなら、誇張した判断といえども、まず精密な測定を土台とするのだから。この二年、この二年という長い歳月のあいだに、どんなに多くの美徳や不名誉が忘れ去られたかも、彼は知っていた。この確信からして、妻へのはじめての告白は、楽天的なものだった。
ヴァーロック氏はまた、自分の確信を示すほうが得策だと考えた。それはこのあわれな女を元気づけるだろう。釈放された暁《あかつき》には……それは彼の人生のすべての調子に合わせて、むろん秘密にされなければならないが……時を移さず、ふたりでどこかに姿を消すことにしよう。跡をくらますことについては心配するな、おれにまかせてくれ。悪魔だって気づかないようにやる方法を知っているのだ。
ヴァーロック氏は、自慢するように手を振った。彼はただ妻をはげまそうと望んでいるだけだ。それは彼女への思いやりから出ていることはたしかだったが、不幸にも相手の気持と合っていなかった。夫の言葉を聞き流してきたヴァーロック夫人は、彼の自信たっぷりな口調が癇《かん》にさわりだした。今さらわたしにいってなんになるの。その固定観念の前で、言葉などがなんの役に立つだろう。
彼女の黒い視線は、自分の無罪を主張している男、かわいそうに「あの子」を家から連れ出してどこかで殺した男を追った。それがどこだったかは正確に想い出せない。が彼女の心臓は、目に見えて烈しくうちはじめた。今やヴァーロック氏はもの柔らかな、家庭的な口調で、われわれの前途にはまだ静かな人生が残されている、と断固たる信念を述べているところだった。
この人生は、静かなものであるにちがいない。そして、いわばひとびとの肉体を草として、その蔭に菫《すみれ》のようにつつましく過さなければいけないのだ、それをヴァーロック氏は次のようにいいあらわした。
「しばらく日蔭で暮すことさ。むろんイギリスから離れてな」
こういったとき、彼がスペインか、南米のどちらを考えていたのかは明らかでない。が、ともあれ、どこか外国であることはまちがいなかった。
この言葉は、ヴァーロック夫人の耳に入ったとき、決定的な影響をおよぼした。この男は外国行きの話をしているわ。それはまったく脈絡《みゃくらく》のない印象だったけれど、精神的な習慣の力はヴァーロック夫人に、すぐさま自動的にこう訊ねさせるほど強いものだった。
「スティーヴィーはどうするの?」
これは忘却の一種である。が次の瞬間、彼女はもはやその心配は必要ないのに気がついた。そんなことは今後けっして心配いらないわ。あの子は連れ出されて殺されたんだ。死んでしまったのだ。
この驚くべき事実が、彼女の理性を刺激した。彼女は夫を愕然《がくぜん》とさせるようなある結果に気づきはじめた。もうこの男と、この台所に、この家にいる必要がなくなった……だって、あの子は永遠に死んだんだもの。
瞬間、ばねにはじかれたようにヴァーロック夫人は立ち上った。しかし同時に、もはやこの世には彼女を引きとめる、なにものもないことに気がついて、この無力さが彼女を押しとどめた。
ヴァーロック氏は、夫らしく案じるように妻を眺めた。
「どうしたんだ?」と不安げに訊ねた。妻の黒い目のなかにあるなにか異常なものが、彼の楽天的な気持を掻き乱した。まさにその時、ヴァーロック夫人は、わたしはこの世のあらゆる絆《きずな》から切り離されたんだ、と考えはじめた。
向うに立っているあの男によって代表される存在との契約は終った。わたしは自由な女になったのだ。もし、ヴァーロック氏がなんらかの方法で、妻のこの考えを知ったなら、非常なショックを受けたことはまちがいない。心の問題については、つねに無頓着な寛大さの持主だったけれど、しかもつねに自分に価値があるから愛されている、と彼は信じていたからだ。
この点では、彼の倫理観はその自惚《うぬぼれ》と一致していて、あいもかわらぬありさまだった。彼の夫婦生活も、まさにかくあるべし、と確信するヴァーロック氏なのだった。いわば、彼は、自分は愛される魅力に欠けていない、と信じながら、年を取り、肥えふとり、頑丈になったといえる。
無言で妻が台所から歩き出したとき、彼は失望した。
「どこに行く?」と彼はかなり鋭い声でいった。「二階か?」
戸口のヴァーロック夫人は、その声に振り向いた。恐怖から生じた本能的慎重さ、この男が近づいて来てさわられることへの極端な恐れから、彼女は軽くこっくりした。唇がふるえていた。楽天的な夫、アドルフ・ヴァーロック氏はそれをかすかな漠然とした微笑と思いちがえた。
「そうか」と彼は乱暴にいった。「寝て身体を休めることだ。お行き。おれも行くよ」
「自由な女」になったヴァーロック夫人は、じっさい自分がどこに行こうとしているのかわからなかった。硬直したようなしっかりした足取りで、彼女は夫の言葉に従った。
ヴァーロック氏は妻を眺めた。彼女は階段に消えた。
ヴァーロック氏は失望を感じた。もし彼女が彼の胸に身を投げかけてきたのなら、もっとうれしかったのに、という気持がした。だが彼は寛大で、度量が広かった。あれはいつも感情を外に出さない静かな女だ。ヴァーロック氏自身ふだん愛しているなどと口に出していう男ではなかったが、今晩はふつうとはちがう。それは、男が、はっきりした同情や愛情によって元気づけられたいと望む時ではないか。
ほっと溜息をついて、彼は台所のガス灯を消した。ウィニーへの彼の同情は真実烈しかった。彼女の頭をおおう淋しさを考えたとき、思わずヴァーロック氏は居間で涙をこぼしかけた。この気分のなかで彼は苦しみの多いこの世を去ったスティーヴィーをひどく悼み、悲しみに沈んでその最期を思った。あんなへまをして死にさえしなかったなら!
緊張にみちた危険な企てをなし終えたあと、タフそのものの冒険者に訪れるあのいやしがたい空腹感が、またもやヴァーロック氏をおそった。スティヴィーの葬式用の焼肉よろしく置いてあるロースト・ビーフが彼の気をひいた。ふたたびヴァーロック氏はたべはじめた。彼は鋭いナイフで大きく肉片を切り取り、パンなしで礼儀も忘れてがつがつと腹いっぱいにつめこんだ。その間当然聞こえるはずの妻が寝室を歩き廻る音が聞こえないのに、彼は気がついた。たぶん暗闇でベッドに坐っているのだろう。
そう思うと、食欲がなくなったばかりか、後を追って二階に行こうという気持もなくなった。彼はナイフを置いて、心配そうにじいっと耳を澄ませた。
とうとうウィニーの足音が聞こえたとき、彼はほっとした。突然彼女は部屋を横切って、窓を開け放った。しばらく静寂があった。窓から顔を出している様子が想像できた。やがて窓わくをゆっくり降ろす音がした。次いで数歩あるいて腰かける音が聞こえた。あらゆる点で家庭的なヴァーロック氏は、家中のすべての物音を知り抜いていた。彼は頭上で足音がしたとき、まるで実際その場を見ているように、彼女が外出用の靴をはいているのを知った。
この不吉な兆候にヴァーロック氏は軽く肩をすぼめ、食卓から離れて、一方に首をかしげながら、暖炉に背を向けて立った。そして当惑のあまり指先を噛んだ。物音を頼りに、ヴァーロック氏は妻の動きを追った。
ヴァーロック夫人は荒々しくあちらこちらを歩きまわり、今は戸棚の抽出し、次は洋服だんすの前に出し抜けに止ったりした。衝撃と驚きの一日の収穫である無限の倦怠が、彼の気力をすりへらした。
ヴァーロック氏は妻が下に降りて来るのを聞くまで、目をあげなかった。予想通り、外出の装いだ。彼女は自由な女になったのだ。
さきほど寝室の窓を開けたとき、ヴァーロック夫人は「助けてーっ、人殺しー!」と叫ぶために、あるいは表に身を投げるために開けたのだった。彼女は自由をどう利用していいのか正確にわからなかった。彼女はふたつにひき裂かれ、互いに精神的操作がよく調整されていないように見えた。
静まりかえって、端から端まで人っ子ひとりいない街路は、無罪をかくも確信するあの男に味方して、彼女をしりぞけた。だれか来はしないかと恐れて、彼女は叫び声を出さなかった。明らかにだれも来る様子はない。彼女の自己保存の本能は、あのきたならしい深い溝に落ちることを尻ごみした。彼女は窓を閉め、ほかの出口から外に出ようと身仕度をした。自由な女になったのだ。顔をおおう黒いヴェールにいたるまで、彼女は徹底的に身づくろいをととのえた。
彼女が居間に姿をあらわしたとき、ヴァーロック氏は彼女が左の手首から小さなハンドバッグを下げているのさえ目にした。もちろん、母親のところに飛んで行くのだろう……。
所詮《しょせん》女は退屈な動物だ、という考えがヴァーロック氏の疲れた頭に浮かんだ。だがそんな考えを長いこと頭に留めておくには、彼はあまりに寛大だった。虚栄心を残酷に傷つけられたこの男は、その振舞いにおいて依然として度量がひろく、苦い笑いをもらしたり、侮蔑《ぶべつ》的な身振りをしたりしなかった。彼は、真に偉大な心から、ただ壁にかけられた木製の時計をチラと眺め、完全に静かな、しかし断固とした口調でこういっただけである。
「八時二十五分だよ、ウィニー。こんな遅く外出するのはばかげている。外出したら、絶対に今夜中に帰れっこない」
ヴァーロック氏の伸ばした手の前で、彼女はぴたりと立ち止った。
「向うに着く頃には、お母さんは床についているよ。なにもこんなことを急いで知らせる必要はないじゃないか」彼は重々しくつけ加えた。
母親のところに行く、この考えくらいヴァーロック夫人の気持からかけ離れたことはなかった。その考えに彼女はしりごみし、背後に椅子があるのを感じたので、その手触りに従って腰を下ろした。彼女の考えは、ただ永遠に家の外に行ってしまいたい、ということにすぎなかった。もしこの感情にまちがいないとすれば、それは彼女の生れと地位に似つかわしい洗練されない精神的形態をとった。
「それくらいなら、一生おもてを歩きまわったほうがましだわ」と彼女は思った。
が、この若い女の精神は、その物理的な強さの点で史上最大の烈震《れっしん》も及ばぬショックを受けたので、ちょっとしたことや、なにげない接触に左右された。彼女は帽子とヴェールを手に、ちょっと立ち寄った客のように椅子に坐った。妻が一時的にだけ黙って従ったような感じが、少し気にさわったが、ヴァーロック氏はその瞬間的なすなおさにはげまされて、威厳をもっていった。
「いっとくが、ウィニー、今夜はここにいろ。いいかげんにするんだ。おれの周りにお巡りを連れこんだりして。おまえを責めてるわけじゃないが、おまえがしたことには変りない。そんな帽子は脱いでしまいなさい。今夜外出させることはできないぞ」
ヴァーロック夫人の心は、夫の宣言を病的な執拗さでとらえた。あたしの目の前で、スティーヴィーをどこかに……その瞬間、それがどこか彼女は想い出せなかった……連れ出して殺した男が、あたしを外に行かせまいとしている。むろんだわ、スティーヴィーを殺した以上、絶対にあたしを行かせるはずがない。
狂人特有の烈しさを持ったこの論理で、ヴァーロック夫人の支離滅裂な頭は実際的に動きはじめた。
あの男の横をすべり抜け、戸を開けて走り出すことは可能だ。しかし、後からあの男が追いかけて来て、わたしを抱きすくめ、店のなかに引き戻すにちがいない。あたしはひっかき、けとばし、噛みつくことができるだろう、それに突き刺してやれば。でも、それにはナイフがいるわ。
彼女は、測り知れない意図を持つ謎の覆面の訪問者のように、自分の家のなかで黒いヴェールをかけて静かに坐っていた。ヴァーロック氏の心がひろいとはいえ、それは決して人間以上のものではなかった。とうとう彼は怒りだした。
「なにかいえないのか? 人をじらせてばかりいて。そうとも、おまえのだんまり戦術は承知しているぞ。これまでにも見たことがあるんだ。しかし今は効かないぞ。まず、そのヴェールをとりなさい。ミイラに話しているんだか、生身《なまみ》の女に話しているんだか、わからんじゃないか」
彼は前に進むと、手を伸ばしてヴェールを引きはがし、いまだに測り知れない顔をむき出しにした。それを見たとき、彼の苛立った怒りは、岩にたたきつけられたガラスの泡のようにくだけてしまった。
「それでいい」と、瞬間の不安をおしかくそうとしていった。そして暖炉のそばのもとの場所に戻った。妻が自分を棄てる、などということは全然思いもしなかった。やさしい寛大な夫、ヴァーロック氏は、すこし自分が恥ずかしくなった。おれになにができるだろう、すべてはすでにいいつくされた。はげしくヴァーロック氏は抗議した。
「本当だとも、おれは方々を探したのだ。あの仕事をさせる者を見つけようとして、わが身の危険を犯したほどだった。しかし、繰り返すが、それをするほどの気狂いや、飢えた男を見つけることはできなかったのだ。おまえはおれのことをどう思っている、人殺し、それともなにかね? あの子は死んだが、おれがそれを望んでいたとでも思っているのか? あの子は死に、その苦しみは終った。そして、われわれの苦しみがはじまろうとしている、まさにあの子が吹っ飛んだために。おまえを責めるわけじゃないよ。ただあの子の死がまったくの偶然だったことを理解してほしいのだ。道路を横断しようとして、バスにひかれた、とでも思ってくれないか」
ヴァーロック氏の寛大さにも限りがあった。彼とて人間であり、妻が信じたように化物ではなかったのだ。彼は言葉を止めた。うなるとき白い歯並の上に口ひげが上ったので、彼は考えこんでいるさして危険でない動物、すべすべした頭に、あざらしより陰うつで嗄れた声をしたのろまな動物といった表情になった。
「その点では、おれもそうだが、おまえにだって責任がある。そうさ、好きなだけおれをにらむがいい。おまえの眼力は承知しているよ。万が一、おれが殺すつもりでスティーヴィーを連れ出したのなら、おれを殴り殺したってかまわんよ。どうやって危機を切り抜けようかと心配で半分頭がぼうっとしているおれの前に、いつもおまえはあの子を出しつづけた。なぜ、あんなことをしたのだ? わざとおまえがしたと思うじゃないか。そうじゃないってことが、おれにわかるはずがない。おまえはね、ふて腐れて、どこも見ないで黙りこくっているが、おれのいうことをいったいどの程度、心のなかで理解してるのだ」
ヴァーロック氏の嗄れた、家庭的な声がしばらくとだえた。彼女はひと言も答えない。沈黙に出会って、彼は今の言葉を恥じた。だが、夫婦喧嘩で温厚な男がよくやるように、恥ずかしさのあまり別の角度からおし進めた。
「ときどきひどく黙りこむな、おまえは」と彼は声を上げずにまたいい出した。「人によっては、かっとしてしまうぞ。さいわいおれがそれほど短気でないからいいようなものだが。おれはおまえを愛している。しかし、いいかげんにするんだ、今はそんな時じゃない。ふたりでこれからのことを考えなくてはいけない。それに、おまえが今夜おれについてばかげた話をしに外出することを許すわけにはいかんのだ。そんなことは認めないぞ。考えちがいはよせ。もしあの子を殺したのがおれだっていうのなら、おまえだってそうじゃないか」
ヴァーロック氏のことばは、その感情の真剣さと陳述の率直さにおいて、これまでこのあやしげな商いとスパイ業……それは凡庸な人類が不完全な社会を精神的・肉体的堕落の危険から守ろうとして作り出した貧弱な手段だったが……の報酬で支えられてきた家で述べられたいかなる言葉をも凌《しの》いでいた。彼がこんなことをいったのも、自分が侮蔑されたと感じたからだ。だが、街路の日がけっして差しこむことのない暗いこの店の背後の住居では、沈黙の礼儀作法は、外見上少しも掻き乱されなかった。
まったく端然と夫の言葉を聞き終えると、彼女は訪問を終えた来客のように帽子とジャケツをつけ、椅子から立ち上り、片方の腕を差し出して夫に歩み寄った、まるで無言で別れを告げるように。顔の左半分で一方の端からたれたレースのヴェールが、彼女のこわばった動作に雑然とした固苦しさを与えている。だが彼女が炉絨毯のところまで来たとき、ヴァーロック氏はもはやそこに立っていなかった。自分の長ったらしいお説教の効果を見るために目をあげもせず、ソファーの方に行ってしまったからだ。
ヴァーロック氏は疲れ果て、真に夫らしい気持で諦めきっていた。秘密の傷つきやすい弱点をいためつけられたことを感じていた。
もしあいつがこの恐ろしい沈黙を守ってすねつづけたら……いや、そうするにきまっている。その技術ときたら達者なもんだ。いつものように、彼は愛用の帽子の運命におかまいなく、どっかりソファーの上に身を投げ出した。帽子は自分の面倒を見ることに慣れていたので、勝手にテーブルの下の安全な隠れ場所に転って行った。
疲れたな、とヴァーロック氏は思った。ヴァーロック氏の神経はこのひと月のあいだ、あの計画と不眠症に悩まされ、その果てに訪れた驚くべき失敗にみちた今日一日の意外さと苦しみに、最後のぎりぎりまで使い果たされてしまった。おれはくたびれた。人間は石で出来てるわけじゃない。みんな勝手にしやがれだ!
ヴァーロック氏は、外出着のままで、いかにも彼らしい休息をとった。はだけたオーバーの端が床に横たわった。彼はソファーの上にあおむけになった。だが、もっと完全な休息が、睡眠が、すべてを忘れさせる数時間の甘い眠りがほしかった。それは後でおとずれるだろう。
さしあたり、彼は身体を休めることにして、こう考えた。「あれがこんなくだらない態度をやめてくれるといいんだが……。じっさい腹が立つ」
他方、自由を回復したというヴァーロック夫人の感情には、なにか不完全なものがあったにちがいない。彼女はドアのほうに進むかわりに、暖炉の平板に両肩でよりかかった、ちょうど旅人が塀にもたれて休息をとるように。布切れのように頬にたらした黒いヴェールや、部屋中のすべての光を吸収するじっと動かない黒い視線は、彼女の顔にかすかな兇暴さを与えていた。彼女は取引をした女だった。ヴァーロック氏がそれをちょっと疑っただけで、彼は自らの愛情観に非常な衝撃を受けたにちがいない。今や彼女は、売買契約を正式に終えた人が、自分の側になにか不足な点があるのに気づいたときのように、決断をくだしかねてためらっていた。
ソファーの上のヴァーロック氏は、肩の位置を動かして完全に楽な姿勢をとり、こうしたみなもとから生れるどんな願望にも劣らぬ敬虔《けいけん》な願いを洩らした。
「グリニッジ公園になど行かなけりゃよかった」と彼は嗄れ声でうなった。
陰《いん》にこもったこのつぶやきは、願いごとの持つつつましさと一致して、控え目な音量で小さな部屋をみたした。この適当な長さの音波は正確に数学的に増大し、部屋中のあらゆる物の周りに流れ、まるで石造りのようなヴァーロック夫人の頭にひたひたと押しよせた。信じられないかもしれないが、彼女の大きな目はさらに大きくなったように見えた。夫のあふれんばかりの心の願いが、音となって彼女の記憶のうつろな場所に流れこんだ。
グリニッジ公園、グリニッジ公園! それはあの子が殺された場所だわ。公園……くだけた枝、ちぎれた木の葉、砂礫《されき》、こまぎれになった肉と骨、あらゆる物が花火のように吹き飛んだのだ!
ヴァーロック夫人は先程聞いたことを、まるで絵のように想い出した。シャベルであの子の遺体を拾い集めなきゃいけなかったっていっていたわ。
抗しがたいおののきに全身をふるわせ、彼女は目の前に地面から掻き集めた肉片でいっぱいのシャベルを見た。このまぼろしを彼女は絶望的に目を閉じてしめ出した。彼女のまぶたにばらばらになった手足が雨のように降り注いだあと、スティーヴィーのちぎれた頭がひとつだけひっかかり、花火の最後の星のようにゆっくりと消えて行った。彼女は目を開いた。
彼女の顔はもはや石のようではなかった。だれでもが、彼女の容貌や視線のうちに微妙な変化があらわれ、新しい驚くべき表情を与えたことに気がついただろう。それは徹底的な分析に必要な暇と安全を与えられた有能なひとびとがほとんど気づくことはないが、ひと目見て、その意味を誤解するはずがない表情である。
夫との取引きが終ったことについて、ヴァーロック夫人はもはや疑いを持たなかった。今や、彼女の精神は支離滅裂ではなく、意志の抑制のもとに働いた。
しかしヴァーロック氏はなんにも気がつかず、極度の疲労から生じるオプチミズムのあの悲しむべき状態で休息をとっていた。彼は妻をふくめて、もはや世のなかのあらゆるひとびととのごたごたを避けたいと思った。おれは自分に価値があるから妻に愛されている。ヴァーロック氏は彼女の現在の沈黙をそう都合のいいように解釈した。だれもこの主張に反駁《はんばく》することはできなかっただろう。あれと仲直りする時だ。だんまりはもう充分長くつづいた。彼は小声で妻に呼びかけ、沈黙を破った。「ウィニー」
「ええ」と自由な女であるヴァーロック夫人はすなおに答えた。彼女は知力を、発声器官を自由に用いることができた。今や彼女はほとんど超自然的なほどあらゆる自分の身体組織を完全に支配できるのを感じた。もう契約は終ったのだから、それはすべて彼女自身のものなのだ。ヴァーロック夫人は目が見えだし、ずるくなった。即座に夫に返答したのも、目的あってのことである。彼女はソファーの上のあの男が、彼女のしようとしているある行為にとって大層好都合な位置を変えることを望まなかった。彼女は成功した。あの男は動かなかった。しかし返事をした後、彼女は休息をとる旅人のように、しどけなく暖炉によりかかっていた。べつに急ぐことはない。彼女の面は静かだった。
あの男の頭と肩は、ソファーの背で彼女から隠されている。男の足に彼女は視線をすえつづけた。こうして彼女は謎めいた静けさと、突然の落着きを守っていた。とうとうヴァーロック氏が夫らしい威厳をもって、「こっちへ来いよ」と独特の調子でいうのが聞こえ、彼女が坐れるようにソファーの場所が少し空けられた。
それは乱暴なようにも響いたが、彼女には夫が自分の身体を求めるときのお馴染《なじ》みの言い方だった。
すぐさま彼女は進み出た、まるで今なお契約によってあの男に縛りつけられている忠実な女のように。
彼女の左手が軽く食卓のはしをすべった。そしてソファーの方に進んだとき、かすかな物音ひとつたてずに肉切りナイフが皿から消えていた。床板の鳴るのを聞いて、ヴァーロック氏は満足した。彼は待ちうけた。ヴァーロック夫人は近づいて行った。
スティーヴィーの魂が隠れ家をもとめて保護者兼後見人である姉の胸にまっしぐらに飛びこんできたように、彼女の顔はひと足ごとに弟の顔に似通ってきた、だらりとたれた下唇や、軽いやぶにらみにいたるまで。
しかし、ヴァーロック氏にはそれが見えなかった。彼は天井を見つめながら、横たわっていた。天井や壁の上に、ナイフを握りしめた手が動いて来る影が見えた。それは上下にゆれた。緩慢《かんまん》な動きだった。それは彼が手やナイフを認めることができるほど充分ゆっくりしていた。このゆるやかさは、彼がたっぷりその意味や、口中にもり上る死の味をあじわうに充分だった。妻は発狂したのだ、人殺しの気狂いになったのだ。
彼女の動作があまり緩慢だったので、この発見がもたらした最初の麻痺《まひ》的な力はすぎさり、次いで、あの兇器を手にした狂人と恐るべき格闘を演じて勝利を得ようという断固たる決意が訪れた。ヴァーロック氏は食卓の後ろにとびこみ、重い木の椅子で彼女を床に打ち倒すという防戦計画をたてることはできたが、じっさいは、彼に手足を動かす時間をあたえるほどゆっくりしたものではなかった。すでにナイフは彼の胸に突き刺さっていた、彼の側からのいかなる抵抗にも出会うことなしに。偶然はこうした正確さを持つものだ。ヴァーロック夫人は、ソファーの横腹に加えたこのひと突きのうちに、逢か大昔の暗黒の祖先の遺産を、洞窟《どうくつ》時代の単純な残酷さを、酒場時代のいびつな苛立たしい憤りをこめた。
刺されたはずみにちょっと向きを変え、密偵アドルフ・ヴァーロック氏は、「なにをする」と抗議の言葉をつぶやいて、手足ひとつ動かさずに絶命した。
ヴァーロック夫人は、ばたりとナイフをおとした。死んだ弟との異常な類似は去り、今やまったく正常に戻った。ヒート主席警部にスティーヴィーのオーバーの切れっ端を示されて以来、彼女ははじめて深い、ほっとした吐息をもらした。腕を組み、ソファーの上に身体を倒しながら。
彼女がそうしたゆったりとした姿勢をとったのは、ヴァーロック氏の死体を見守ったり、満足げにじいっと眺めたりするためでなく、まるで嵐の海上にあるように、しばらく床が上下・左右にゆれたためだった。彼女はめまいをおぼえた。が、落ち着いていた。まったく完全に自由な女になったのだ。今や彼女には、なんの欲望も、なすべき仕事も残っていない。彼女の熱烈な献身を要求したスティーヴィーは、もはや生きてはいないのだ。
イメージで考えるヴァーロック夫人は、今やまぼろしに悩まされることがなかった。完全に思考は停止していた。身動きせず、ほとんど死体のように完全な無責任さと、果てしない暇を持つ女に変ってしまった。
ソファーの上に憩う故アドルフ・ヴァーロック氏も、この点まさにご同様だった。妻のほうが呼吸しているという事実を除けば、このふたりはまったく完全に一致した。これまで彼らの尊敬すべき家庭生活の基盤だったむだな言葉や身振りを省き、慎重につつましく生きて行くという一致である。
今≪尊敬すべき≫といったのは、彼らの家庭が、秘密の職業や、あやしげな品物の商いから生じて来るさまざまな問題を、上品に口をつぐんで糊塗《こと》してきたからである。ヴァーロック夫妻の家庭的品位は、最後の瞬間まで、はしたない金切声や、ほかの誠実さとはきちがえた行為によってかき乱されることはなかった。そして現在の兇行の後も、この世間体は不動と沈黙のうちにつづけられた。
居間ではなにひとつ動かなかった。ついに、ヴァーロック夫人はゆっくりと頭を挙げ、さぐるように、不審そうに、掛時計を見た、部屋のなかのチクタクという音に気がついたのだ。その音は次第に大きさを増し、その間彼女の意識は、時計は耳に聞き得るほどの音をたてないことをはっきり想い出した。いきなり、こんな大きな音をたてはじめたということだろうか。文字盤は九時十分前を指している。時計など彼女にはどちらでもよかった。チクタクという音はつづいていた。時計のはずがない。そう彼女は結論して、物音のする場所をたしかめようと耳をすませた。彼女の暗いまなざしは壁にそって走り、ちらつき、おぼろげになった。チク・タク・チク・タク……。
しばらく耳をそばだててから、ヴァーロック夫人は夫の死体にゆっくり目を落した。夫は大層家庭的でお馴染《なじみ》の姿勢をとっていて、彼女は、家庭生活になにか新しい現象がおきたという意識に悩まされずに眺めることができた。ヴァーロック氏はいつものように憩い、気持よさそうに見えた。
身体の位置からして、ヴァーロック氏の顔は、その未亡人である彼女には見えなかった。彼女の美しいねむたげな眼は音の方向をたどり、ソファーのはしの向うから少し突き出した平らな骨製のものを認めて動かなくなった。それは家庭で用いる肉切りナイフの柄だった。どこも変ったところはない。ただナイフがヴァーロック氏のチョッキに直角に突き刺さり、そこからなにかがしたたり落ちている、ということをのぞけば。
滴が点々と床布の上に落ち、その音は狂った時計のようにいっそう早く、兇暴になった。絶頂にたっしたとき、この音はぽたっ、ぽたっという連続音に変った。彼女は、不安の影を顔に走らせながらこの変化を見守った。黒い、かすかな、早い流れ……。血だ!
この予期しない情況のなかで、ヴァーロック夫人は無為・無責任の態度を放棄した。
突然彼女は、スカートをつかみ、かすかな叫びをあげて、戸のほうに走った、まるでこの流れが破滅的な血の最初のしるしであるように。途中食卓を見つけると、生き物のように両手で突きとばしたが、その力があまり烈しかったので、食卓は大きく軋《きし》りながらしばらくすべって行き、肉片をのせた大皿が騒然と床にくだけ落ちた。
それから、すべては静寂。戸のところに来て、ヴァーロック夫人は立ち止った。食卓の移動で床のまん中にさらけ出された夫の丸い帽子のてっぺんが、彼女の突進する風にあおられて、かすかにゆれた。
[#改ページ]
十二
ヴァーロック氏の未亡人で、忠実な故スティーヴィー(彼は無邪気にも自分が人道主義的な仕事にたずさわっていると確信して、粉みじんに爆死したのだった)の姉であるウィニー・ヴァーロックは、居間のドアの向うに走り出ることはしなかった。血のしたたる音を逃れてここまで走ってきたのだが、これは本能的な嫌悪の動作にすぎない。
彼女はうなだれて、じいっと見つめながら立ち止った。まるで長い歳月の間、小さな居間を走り通してきたように、彼女はドアのかたわらで軽いめまいをおぼえてソファーにもたれかかったが、ほかの点では、無為と無責任の深い静けさを自由にあじわっていた最前の彼女とは、まるで別の女になっていた。もはや、めまいはない。頭はたしかである。その反面、彼女はもはや平静ではなかった。とてもこわかった。
彼女が夫のほうを見るのを避けたとしても、それは夫がこわかったからではない。そういう恐怖感はなかった。夫は安楽そうに見えたし、おまけに死んでいる。ヴァーロック夫人は、死者にたいして無意味な妄想は持たなかった。何物も死者をよみがえらせることはできない、愛であろうと、憎しみであろうと。彼らは人に何事をもなしえない。彼らは無である。
彼女の心は、いとも簡単に殺されたあの男への一種のきびしい軽蔑にみちていた。あの男は一家の主であり、ひとりの女の夫であり、かわいいスティーヴィーを殺した男なのだ。しかし、今やあらゆる点でなんの価値もない。身につけた衣服、オーバーや長靴、床にころがった帽子より、実際的な価値がない。ゼロだわ、見る値打ちもないわ。あれはもうかわいそうなスティーヴィーを殺した男ではない。みながヴァーロックを探しに来たとき、部屋にいる唯一の殺人者は……あたし自身ではないか!
あまり手がふるえて、ヴェールを結ぶのに二回やりそこなった。彼女はもはや、くつろいだ無責任な人間ではなかった。彼女はこわかった。ヴァーロック氏殺害はわずかひと突きでおわったので、彼女は喉のなかでひきさかれるような悲鳴をおし殺したり、血走った目に涙が乾くのを待ったり、今はぼろ屑にもひとしいあの男に弟を奪われて、気狂いじみた怒りを燃やさずにすんだ。それは曖昧《あいまい》な動機から出た一撃であった。ナイフの柄を伝って床にこぼれた血は、それをまぎれもない殺人事件に変えてしまった。
ヴァーロック夫人は日頃物事を深く見つめない女だったが、今やそうすることを余儀なくされた。この行為のうちに、彼女はつきまとう顔や、非難の影や、後悔のまぼろしや、その他いかなる種類の観念的事物をも見出さなかった。彼女の恐れるのは絞首台だけだった。彼女は観念的に絞首台を恐れた。
ある種の物語の挿絵《さしえ》を除けば、これまで彼女は一度もこの人間の正義の最後のあかしを見たことはなかったけれど、今やはじめて、鎖や人骨で飾られ、死者の目をついばむ鳥にとりかこまれた絞首台が、暗い嵐の吹きすさぶ背景のなかに立つさまを想像した。
これは充分恐ろしいことだった。彼女は学問のある女ではなかったが、もはや絞首台は物語のなかのように不吉な河や、風吹きすさぶ岬にではなく、牢獄の庭に建てられているというくらいの知識は、自国の諸制度にたいして持っていた。
夜明け、四方を取り囲む塀。まるで奈落に落されるように、殺人犯は連れ出されて処刑される。恐るべき静寂。新聞にはいつも「その筋の立会いのもとに……」と書いてある。
彼女は苦しみと恥辱に鼻孔をふるわせ、床の上を見つめながら、彼女の首に絞首索をかける仕事を無言で進めていくシルク・ハットの大勢の見知らぬ紳士のあいだで、たった一人ぽっちの自分の姿を想像した。
いや、いや、ぜったいそんなことはいや!
だけど、どうやって殺すのだろう? このように静かな処刑の詳細を想像できないことが、彼女の漠然とした恐怖になにか気も狂いそうなあるものをつけ加えた。新聞は処刑の詳細についてはいっさい伝えない、ただ一つのことを除いては。それは簡単な報告の最後に、いつもある気取りをもって、述べられているのを彼女は想い出した。と同時に、残酷な焼けるような痛みが頭にやってきた。≪吊し縄の長さは十四フィートであった≫
まるで焼けただれた針で脳髄《のうずい》をひっ掻かれたようだった。この記事は、肉体的にも彼女に作用した。窒息にさからおうとして、彼女の喉は波状的にけいれんし、ぐいっと引く絞首縄の感覚があまりになまなましかったので、彼女は肩から、頭がひきはがされるのを防ごうとするように、両手で頭をおさえてしまった。
≪吊し縄の長さは十四フイートであった≫
いやよ、絶対にいやよ! とっても我慢できない!考えることさえ耐えられない。とっても我慢できない。
そこでヴァーロック夫人はすぐさまテムズ河に行って、橋の上から投身自殺をしようと決心した。
ふたたび彼女はヴェールを結ぼうとした。顔は覆面《ふくめん》したようで、いくらか帽子に花をあしらったほかは頭から足のつま先まで黒ずくめの彼女は、機械的に時計を眺めた。時計は止ってしまったにちがいない。さっき見たときからわずか二分しかたっていないとは、とても信じられない。そうだ、その間ずっと止っていたにちがいない。
じつをいえば、あのひと突きのあとはじめてヴァーロック夫人が深く楽な息をもらしてから、現在テムズ河に身投げしようと決心を固めるまで、わずか三分たったにすぎない。しかし彼女にはそれが信じられなかった。人殺しに復讐するため相手を殺した瞬間、あらゆる時計は停止する、とだれかに聞いたか、読んだかしたおぼえがある。それはどちらでもかまわない。≪橋へ行って上から飛びこむ≫……とはいえ、彼女の動きはのろかった。
ようやく彼女は身体をひきずって店を横切り、ドアを開けるのに必要な気力を見出すまで把手につかまっていなければならなかった。街並は彼女をおびえさせた、だってそれは刑場か、テムズ河のどちらかに通じるのだから。
橋の欄干《らんかん》から飛び降りる人のように、彼女は腕をひろげ、頭を先にして、やっと戸口の階段に出た。それは、どこか溺死《できし》をおもわせるところがあった。
ねばついた湿気が彼女を取り包み、鼻孔に入りこみ、髪の毛にからみついた。じっさい雨が降っているわけではなかったが、ガス灯にはどれも錆《さび》色の小さな霧のかさがかかっていた。車馬の姿はなかった。暗い通りにある安食堂のカーテンをひいた窓が、舗道とほとんど同じ位置のところで四角い汚れた血のような色の光をかすかに写している。そちら側へゆっくり身体をひきずって行きながら、なんてあたしはひとりぼっちなんだろう、とヴァーロック夫人はおもった。
それは本当であった。あまり本当すぎて、だれか知合いの顔に突然会いたくなったくらいだが、派出婦のニールのおかみさん以外、だれも思いつかなかった。だれひとり彼女の知合いはいなかった。
あたしが死んでも、だれも悲しんでくれる者はいないだろう。しかし、彼女が母親の存在を忘れてしまったと考えてはいけない。そうではないのである。
彼女は献身的な姉であり、母親のよき娘であった。母親はつねに支えを求めて彼女にすがった。この母親から慰めや忠告を期待することは不可能だ。スティーヴィーの死んだ現在、その結びつきはこわれたかに見える。こんな恐ろしい話をもって年老いた母親と向きあうことはとうていできない。それに場所が遠すぎる。今の彼女の行き先はテムズ河しかない。ヴァーロック夫人は、母親のことを忘れようとつとめた。
彼女は一歩あゆむごとに、これで最後かと思えるような意志の力をふるわなくてはならなかった。身体をひきずるようにして、彼女は食堂の窓の赤い灯を通りすぎた。「橋へ行って、上から飛びこむんだ」と彼女はすさまじい執念で繰り返した。うまく手をのばして、彼女はくずれようとする身体を街灯の柱で支えた。
「朝までにそこに着くことはけっしてできないだろう」と彼女は考えた。死への恐怖が、絞首台を逃れようとする彼女の努力を麻痺させた。彼女はもう何時間も、通りをよろめいているような気がした。
「けっしてそこに着けないだろう」と彼女は思った。「通りをうろついているところを見つかるわ。あんまり遠すぎるんだもの」黒いヴェールの蔭で喘《あえ》ぎながら、彼女は柱にしがみついた。
≪吊し縄の長さは十四フィートであった≫
あらあらしく街灯の柱をおしやって、また彼女は歩き出した。失神の波がまたもや大海原のようにヴァーロック夫人に襲いかかり、その胸から心をすっぽり押し流した。「けっしてそこに着けないだろう」とつぶやきながら、突然彼女は立ち止った。身体が少し揺れた。「けっして……」
いちばん近くの橋に行くことさえ完全に不可能なことを認めながら、ヴァーロック夫人は、国外逃亡を考えた。
この考えは突如彼女にやって来た。殺人者は逃亡する。国外へ、スペインかカリフォルニアへ。それらはたんなる名前にすぎない。人間の栄光のために作られた広大な世界は、彼女にはただ、だだっぴろい白紙にすぎなかった。彼女はどこに向ってよいのかわからなかった。殺人者には、友人や、親類や、助力者がいる。彼らは知識を持っている。ヴァーロック夫人にはなにもなかった。あらゆる人殺しの大罪を犯した者のなかで、彼女はもっとも孤独であり、広いロンドンでたったひとりぼっちだった。そして、さまざまな驚異と汚泥と、迷路のような街路とおびただしい灯を持つ大ロンドンは、女ひとりではとても這い上ることのできない暗黒の深淵の底に落ち着いて、絶望的な夜のなかに沈んでいた。
彼女の身体は前に揺れた。倒れはしないかと恐れながら、ふたたび彼女は、盲目的に歩きだした。数歩進んだとき、思いがけず感動的な支えと安全を彼女は見出した。頭を挙げると、ひとりの男が彼女のヴェールをまじまじと見つめていた。
同志オシポンは、見知らぬ女を恐れなかった。彼は心にもないデリケートな心づかいから、明らかにひどく酔っぱらっているらしい女に近づくのを遠慮するような男ではなかった。オシポンは女好きだった。彼はこの女を大きな掌で持ち上げて、遠慮なくのぞきこんだ。ついに「オシポンさん」というかすかな声が聞こえたとき、ほとんど彼は女を地面に落しかけた。
「奥さんじゃありませんか!」彼は叫んだ。「どうしてこんな所に?」
彼女が酔っぱらうなどということは、とうてい信じられないように思われる。しかしだれにそれがわかるだろう。この疑問に立ち入るかわりに、オシポンは親切にも同志の妻を与えてくれた運命を落胆させまいと、彼女を胸に抱きよせようとした。驚いたことに、相手は大層やすやすと抱きよせられた。いや、しばらく、彼の腕にもたれさえした。それから身をほどこうとした。オシポンは親切な運命に無礼なことをしようとは思わなかった。なにげないふうに彼は腕をひっこめた。
「わたしがだれだか、わかる?」とだいぶ足もとがしっかりしてきたヴァーロック夫人は口ごもった。
「もちろんですよ」と即座にオシポンは、「奥さんが今にも倒れやしないかと心配でした。ぼくは、このところずうっと奥さんのことばかり考えていたんです。いつ、どこで会ったって、忘れるもんですか。いつもあなたを思っていました、はじめて会ったときから」
ヴァーロック夫人の耳に、この言葉が入った様子はなかった。「うちに来るところだったの?」不安げに彼女は訊ねた。
「ええ」とオシポンは答えた。「新聞を見るなりすぐにね」
じっさいは、彼は大胆な行動に出るべきかどうかきめかねて、たっぷり二時間はブレット街の界隈を忍び歩いていたのである。この逞しいアナーキストは、大胆不敵な征服者ではなかった。これまで一度も、彼女が彼の視線に少しでもはげましになるような目つきで応《こた》えてくれたことがなかったのを、彼は想い出した。
そのうえ、考えてみると、店は警察に見張られているはずだし、革命にたいする自分の共感を警察に誇大視されたくない。今でさえ、正確にはどう行動すればよいのかわからない。いつもの情事とくらべて、今度のは重大な冒険なのだ。そこにどれだけ多くの可能性がひめられており、どれだけ踏みこめば成果が得られるのか……もしチャンスがあればの話だが……わからない。高鳴る心をおさえるこうした複雑な事情のため、オシポンの口調はそれにふさわしいまじめなものになった。
「どちらまで?」と低く訊ねた。
「なんにもきかないで!」と烈しさをおし殺して、ヴァーロック夫人は身体をふるわせながら叫んだ。彼女の強烈な生命力は、死を考えてしりごみした。「どこに行っても……」
この女はひどく興奮しているが完全に正気だ、とオシポンは結論を下した。
しばらくのあいだ彼女は無言だった。次に、まったく意外な振舞いに出た。オシポンの腕の下に手をすべりこませたのだ。この行為そのものもたしかに彼を驚かせたが、その明瞭な断固とした性格にもびっくりした。しかし、ことはデリケートだったので、同志オシポンは微妙に振舞った。彼は自分の頑丈な肋骨《ろっこつ》にかるく女の手をおしつけるだけで満足した。と同時に前に押し出されるのを感じて、衝撃に従った。
ブレット街のはずれで、オシポンは左に導かれるのに気がついたが、反対しなかった。角の果物屋にはオレンジやレモンのまばゆい輝きが消えていた。ブレット街はまったくの暗黒だった。幾つかの三角形の街灯のおぼろげな暈《かさ》や、街路のまん中の台上の三つの明りを除いては。
みじめな夜を、彼らの黒い影が家のない恋人のように、手をつないでゆっくり塀にそってすべって行った。
「もしあなたに会いに行くところだったっていったら、なんて答えて?」
ヴァーロック夫人は、彼の腕をきつく握りしめながらいった。
「ぼくくらい、いつでも喜んで奥さんの悩みを助けようとする者がいるはずがないって答えますね」とオシポンは、おそろしく話が進んだもんだと考えながらいった。じっさい、このデリケートな情事の進展は、ほとんど彼の息をのませるほどだった。
「わたしの悩み!」と彼女はゆっくりおうむ返しにいった。
「そう」
「じゃ、どんな悩みかわかって?」異常な烈しさで彼女はささやいた。
「夕刊を見てから十分後に」と熱心にオシポンは説明した。「ぼくはある男に会った。たぶん一、二回店で奥さんも会ったはずです。彼と話したあと、もはやぼくの心にはなんの疑いも残らなかった。奥さんのことを心配しながら、やって来たんです。はじめて会ったときから、口ではいえないくらい愛していました」と彼は激情をおさえきれないように叫んだ。
どんな女でも、この言葉を疑うはずがない、とオシポンが考えたのは正しかった。しかし彼は、相手が溺《おぼ》れる者特有のすさまじい自己保存欲でこの言葉を受けとめたことは知るよしもなかった。彼女にとって、この逞《たくま》しいアナーキストは生の輝かしい使者とうつったのだ。
彼らは足並みをそろえて、ゆっくり歩いた。
「そうだったのね」ヴァーロック夫人はかすかにつぶやいた。
「ぼくの目でわかったはずでしょう」とオシポンは確信をこめていった。
「ええ」かたむけた男の耳に彼女はささやいた。
「ぼくの恋は、あなたには隠せなかった」とオシポンは話しつづけた、ヴァーロック氏の店の値打ちや、彼が銀行に残したにちがいない預金の金額といった物質的な推測から、心をそらそうとつとめながら。事件の感傷的な面に、もっぱら彼は心を向けた。心の奥底では、自らの成功に少々|呆《あき》れ返っていた。ヴァーロックはいい奴だった。衆目の見るところ、たしかにじつに立派な夫だった。とはいうものの、オシポンは死者に味方して自分の幸福と争う気はなかった。彼はきっぱりと同志の亡霊にたいする同情をおし殺して、ささやきつづけた。
「ぼくは自分の心を隠せなかった。あまりにも奥さんのことで頭がいっぱいだった。きっとあなたはぼくの目の中にそれを読みとったと思う。しかし、ぼくにはよくわからなかった。あなたはいつも、あんまりよそよそしかったし……」
「しょうがないじゃないの」彼女は叫んだ。「あたしは立派な妻だったのよ……」
彼女は言葉を止め、いわば自分に話しかけるように、不吉な憎しみをこめてつけたした。「あの男がわたしをこんなにしてしまうまでは」
オシポンはこれを聞き流して、勝手にしゃべりつづけた。
「ヴァーロックがあなたにふさわしい男だとは一度も思ったことがない」と彼は故人への忠節を投げ棄てて、「あなたはもっと良い運命に値する人だ」
苦々しげに彼女はさえぎった。
「良い運命! あの男はわたしから七年間をだましとったのよ」
「あなたは幸せそうでした」とオシポンはこれまでのなまぬるい態度を弁解しようとつとめた。「だから、ぼくは臆病になった。あなたは彼を愛しているように見えた。ぼくは驚いた。そして、ねたんだ」
「あれを愛しているって!」とヴァーロック夫人は侮蔑と憤《いきどお》りにあふれた低い声で叫んだ。「愛しているっておっしゃるの! あたしはあれの良い妻でした。あたしは分別のある女でした。あなたは、あたしがあの男を愛していると思ったのね! そうでしょ、トム」
トムと呼びかけられて、同志オシポンは誇らしさでぞくっとした。彼の名はアリグザンダーであり、友人のなかでも、とくに親しい者だけがトムと呼んだのだから。それは友情のしるしであり、それ以上の親しさを示すものだったから。
誰から彼女がその名を聞いたのか、オシポンは全然わからなかった。聞いたばかりか、彼女がそれを記憶のなかに、おそらくは心のなかに、しまいこんでおいたことは明らかだった。
「ねえ、トム、あたしはほんの子供だったの。あたしは疲れて、へとへとでした。ふたりの人間がわたしの上におぶさって、もうこれ以上わたしは何もできないみたいでした。母さんと弟のふたりよ。弟は母の子というより、あたしの子も同然で、八つにもならぬあたしが、たったひとり、二階で毎夜弟をひざにのせていたの。そうして、それから……。弟はあたしのものだった。そうよ。あなたにはわからないわ。だれにだってわかりっこないわ。このあたしに何ができたでしょう。ひとりの青年がいて……」
肉屋の若者との過ぎし日のロマンスの想い出が、絞首台の恐怖にひるみ、死への反抗にみなぎる心の中で、チラとかいま見た理想のイメージのように、執拗に彼女の心によみがえった。
「それが当時あたしの愛した男よ」と彼女はいいつづけた。「向うでもあたしの目にそれを読みとったと思うわ。彼は週給二十五シリングだった。彼の父親は、足の悪い母親と、白痴で気狂いの弟をかかえた女と結婚するようなばかなまねをするんなら、勘当するぞって彼をおどしたの。でも、彼があたしにつきまとうので、とうとうある晩、勇気を出してあたし彼の面前で戸をバタンてしめてしまった。そうしなけりゃならなかったの。あたしは大変彼を愛していた。でも週に二十五シリングじゃあ!
その頃、もう一人の男がいた。申し分のない下宿人だった。若い女になにができて、街で身体を売るほかに? 彼は親切そうだったし、とにかくあたしを欲しがっていた。母さんとあの子をかかえて、あたしになにができて? イエスってあたし答えたわ。彼は善良そうで、寛大で、お金があって、なにもいわなかった。七年間、七年間、あの男の良い妻だった、あたし。あの親切で、寛大な男のね。そして彼はあたしを愛した、そうよ。彼はあたしを愛し、ときどきあたしは自分でも……。七年ものあいだ、あたしはあの男の妻だった。それなのに、あの男がどんな人間か知ってる? あのあなたの親友が? 彼は悪魔だったのよ!」
低くいわれたこの言葉の人間のものとも思われぬ烈しさが、同志オシポンをすっかり圧倒した。向き直ってヴァーロック夫人は両腕で男をひっつかみ、暗い静まりかえったブレット街で、たれこめる霧のなかで彼と向いあった。
あらゆる人生の物音は、ブレット街では、アスファルトと煉瓦と窓のない家々と無感覚な石ででき上った三角形の井戸のなかに消え失せるかと思われた。
「そうとは知らなかった」と彼は弱々しい間の抜けた様子でいった。この滑稽な顔つきは、絞首台の恐怖に憑《つ》かれた女には気づかれなかった。「しかし、今はわかる。よくわかりますよ」と彼はあわてていった。心のなかでは、あの眠ったように静かな夫婦生活の表面下で、いったいヴァーロックはどんなひどい仕打ちを女房にしたんだろうと臆測をめぐらせていた。じっさい恐ろしいことだ。
「わかりますよ」とまた彼はいい、突然の霊感にかられて、ふだんよく使う「かわいそうに!」という言葉のかわりに、「不幸な女《ひと》だ!」と高邁《こうまい》なる同情の意をあらわした。これはふだんとちがっている。彼は賭金の大きさを決して見失うことはなかったけれど、なにか異常なことが起っているのを感じたのだ。「不幸な、見上げた女《ひと》だ!」
別の言葉を思いついて彼はうれしかったが、ほかにはもう見つからなかった。
「ああ、しかし今ではご主人は死んでいる」そういうだけで関の山だった。この控え目な叫びに、彼は多くの憎しみをこめてみせた。ヴァーロック夫人は狂気のようにオシポンの腕をつかんだ。
「そうよ。あの男は死んだわ」と彼女は放心したようにささやいた。「本当に。あなたはわたしのしたことをいい当てたわ。わたしのしたことを!」
この叫びの名状しがたい調子には、なにか勝利と、救済と、感謝をほのめかすものがあった。言葉の意味はそっちのけにして、彼の注意はことごとくそちらに引きつけられてしまった。
この女はどうかしているぞ、なぜこんなにはげしく興奮しているんだろう、と彼は思った。グリニッジ公園事件の隠された原因は、ヴァーロックの結婚生活の不幸な事情に深く根ざすのではないかとさえ思いはじめた。あの男はわざと、あんな異常な自殺方法を選んだのではないだろうかとさえ疑った。それにちがいない! 事件のまったくのむなしさとおろかしさは、これで説明がつく。現在の状況には、アナーキストの示威行動を必要とするものはなにもない。まったくの逆じゃないか。そのことは、ほかの革命家と同じようにヴァーロックもよく承知していたはずだ。
もし奴が全ヨーロッパや、革命家仲間、警察、新聞、うぬぼれ屋の「教授」を、たんに愚弄《ぐろう》したにすぎないとすれば、これはなんというすばらしい冗談だろう! まずそうにきまってる、とオシポンは驚いて考えた。あわれな男だ! ヴァーロック夫婦のなかで、じっさい悪魔なのは夫のほうじゃあるまい。
「ドクター」という綽名《あだな》のアリグザンダー・オシポンは、元来男の友人のことは寛大に眺める傾向があった。彼は腕につかまっている同志の妻を見やった。女の友人については、きわめて実際的に考えるほうだった。なぜ彼女が夫の死の真相を知ってもらいたがるのか、彼にはわからない。が、そんなことにはあまり心を悩まさなかった。女はしばしば狂人のような話し方をするからだ。
それにしても、どうして彼女は知ったんだろう。新聞からは、たんなる事実以上のことはまったくわからないはずだ。グリニッジ公園でこっぱみじんに吹き飛ばされた男の身許はまだ警察にわかっていないのに。どう見ても、ヴァーロックが自分の計画を……それがなんであるにせよ……彼女にほのめかした、とは考えにくい。この問題はすこぶるオシポンの関心をそそった。彼はぴたりと立ち止った。彼らはブレット広場の三つの側にそって進み、また街のはずれに出た。
「どうやって最初それを知ったんです?」と彼は相手の打明け話の性格にふさわしい調子でいおうと心がけて訊いた。
しばらく彼女は烈しくふるえていた。それから、ぼんやりした声でいった。
「警察から。主席警部が来たの。ヒートって名だといったわ。彼はわたしに……を見せたの」彼女は声をつまらせた。「おー、トム、シャベルで遺体を掻き集めなけりゃいけなかったそうよ」
乾いたむせび泣きでヴァーロック夫人の胸がもり上った。すぐにオシポンは口がきけるようになった。
「警察! もう警察が来たって? ほんとうに、主席警部のヒートがあなたのところに直接に!」
「ええ」やはりぼんやりと彼女は答えた。「来たわ。それだけよ。とにかく来たんだわ。それでオーバーの切れっ端を見せてくれたの。それだけの話。これに見覚えがあるかって訊ねたのよ」
「ヒート! ヒートだって! で奴はなにをした?」
ヴァーロック夫人は首をうなだれた。「べつになんにも。なにもしないで帰ったわ。警察は片方の男を追ってたから」と悲劇的につぶやいて、「別の人がまた訪ねて来たの」
「別の? 別の警部って意味?」とひどく興奮して、まるでおびえた子供のようにオシポンは訊ねた。
「わからない。とにかく来たの。外人みたいな人だった。大使館の人かもしれないわ」
新しい衝撃を受けて、同志オシポンはほとんどおし潰されかけた。
「大使館! 自分が何をしゃべっているか、わかっているの? 大使館って、いったいなんの話です?」
「チェシャム広場にある大使館よ。ヴァーロックがずいぶん恨んでたわ。でも、あたしに関係ない。それがどうしたっていうの?」
「で、その男はなにをしました? なんていいました?」
「憶えてないわ。なんにも……。どうだっていいじゃないの。もうきかないで」とうんざりしたようにヴァーロック夫人は嘆願した。
「わかった。もうききませんよ」とオシポンはやさしくいった。じっさいそのつもりだった。女のあわれっぽい声に感じたのではなく、この暗い事件の深淵に自分が落ちかけているのを感じたからだ。
警察! 大使館! こいつは驚いた。結局陰険な道にふみこむのを恐れて、オシポンは断固としてあらゆる推論や、臆測や、仮定を頭のなかから追い出した。ここに女がいて、完全に彼に身をまかせている。彼のおもな関心はそれだった。だが、すべてを聞かされた今、もはやなんにも驚くことはない。
だから、突如安らかな夢からさめたように、ヴァーロック夫人がただちに大陸に高飛びする必要を烈しく説きはじめたとき、彼は少しも叫んだりしなかった。残念がるふりもせず、汽車は朝までないと答えただけだった。彼はおぼろな霧に包まれたガス灯の光のなかで、黒いヴェールにおおわれた女の顔を考え深げに眺めながら立っていた。
彼女の黒ずくめの姿は、彼のかたわらで夜に呑みこまれた、まるで黒い石塊から半ば彫りぬかれた像のように。彼女がなにを知っており、どの程度警察や大使館と関係があるのか、それはまったくわからない。
しかし、もし彼女が逃亡したいと思ったところで、彼が反対を唱える筋合いはない。主席警部だの、外国の大使館員だのという連中とこれほど奇妙に親しいあの店は、おれの行く場所じゃない。そいつはほっといたほうがいい。しかし、ほかに残ってるものがある。貯金だ! 金だ!
「朝まで、どこかにわたしをかくまって」と彼女は当惑した声を出した。
「じつはね、奥さん、今いる所に連れてくわけにはいかないんだ。友だちと合部屋なんでねえ」
彼は自分も幾らか困りきっていた。朝になりゃ、必ず刑事がどの駅にも張りこむだろう。
「でも、そうしなけりゃいけないわ。全然わたしを愛してないの? いったい、今なにを考えてるの?」
烈しくそういうと、彼女は落胆のあまり握りしめた両手をだらりとさせた。
沈黙があった。霧がたれこめていた。ブレット街は完全にまっ暗だった。だれ一人、たがいに向きあったこの男女の近くにやって来る者はいなかった、雌を求める宿なしのならず者の雄猫さえ。
「たぶんどこか安全な泊る所が見つかると思うけど」とオシポンはとうとういった。「しかし、じつをいうと、行って訊いてみる金がないんですよ。たった数ペンスしかない。ぼくら革命家は金がないからね」
ほんとはポケットには十五シリングあったけれど、彼はこうつけたした。
「それに、ぼくらの目の前には旅のことがあるしね。朝までしなければいけないのはそのことだな」
ヴァーロック夫人は、無言で動かない。同志オシポンの心はちょっと沈んだ。明らかに彼女はなんの提案もする様子がない。いきなり彼女は自分の胸をつかんだ、まるでそこに鋭い苦痛を感じたかのように。
「あるわ」と彼女は喘《あえ》いだ。「お金はあるわ。充分に、トム。ここから逃げましょう」
「いくらあるの?」慎重なオシポンは相手に動かされないで訊ねた。
「お金ならあるっていったでしょ。有金《ありがね》全部よ」
「どういうこと? 預金の全部、それとも何?」と彼は疑わしげにいったが、しかしどんな幸運にも驚かない気持になっていた。
「そうよ、そうよ!」彼女は落ち着かなげに、「全財産を、今持ってるの」
「いったい、どうやってもう金を持ってるんです?」オシポンはふしぎに思った。
「彼がくれたわ」彼女は突然ふるえながら低い声で答えた。
同志オシポンは、たかまる驚きをしっかりとおししずめた。「なるほど。ではぼくたちは、助かった」とゆっくりいった。
彼女は彼の胸に顔を埋めた。じゃあ、歓迎しよう。この女は預金をいっさい持っているんだから。彼女の帽子がその激情を隠していた、そしてヴェールもまた。オシポンの愛の表明は少しも欠けるところがなかったが、けっしてそれ以上には出なかった。彼女は、さからいも、激情に身をゆだねもせず、いわばなかば、感覚を失ったように、受動的に彼の愛を受け入れた。男のゆるい抱擁から、彼女は苦もなく身を離した。
「あたしを助けてくれるわね、トム」と彼女は泣きくずれ、身をほどきながら、なお彼の湿ったオーバーの折襟をつかんでいた。「助けて。かくまって。あたしを捕えさせないで。もしそんなことになったら、まずあたしを殺して。絞首刑もこわいけど、とても自分じゃ死ねないわ」
いやな女だ、おかしなことばかりいいやがる。彼女はオシポンの胸になにか漠然とした不安を吹きこみだした。彼の返事は不機嫌になった。大切な考えで頭がせわしかった。
「なにをそんなに恐れているんです?」
「あたしがなにをしなければいけなかったか、あなた想像がつかないの?」
彼女は叫んだ。烈しい言葉に頭はガンガン鳴り、現在の自分の立場の恐ろしさを見せつけるなまなましい、ぞっとするような心配にとりのぼせて、彼女は自分の支離滅裂な言葉が明瞭そのものだ、と思いこんでいるのだった。それは彼女の頭のなかでだけ完全で、じっさいは相手に聞こえるように話していないのだ。
いっさいを打ち明けてほっとした、そう思って彼女はオシポンのあらゆる言葉を特殊な意味にとっていたのに、彼の知っていることは、彼女のとはまるでちがうのだ。
「ねえ、わからなかった?」
彼女は弱々しい声でいった。「あたしがなにを恐れているか、すぐにわかるわ」苦しげに、暗くつぶやきつづけた。「いや、いや、捕《つかま》るのはいや。まずあたしを殺すって約束して!」
彼女はオシポンの折襟をゆさぶった。「絶対にいやよ!」
そんな約束などするまでもない、と彼は短く請けあった。しかし充分注意して、はっきりとさからうことは避けた。これまでだいぶ興奮した女を扱いなれていたし、概して経験から、それぞれの場合に応じて知恵を働かせて対処してきたからだ。現在の場合、彼の知恵は別のことで忙しかった。女のたわごとなど水に消えてしまうが、適当な乗物がない、という問題がまだ残っていた。大英帝国が島国だということが、彼には腹立たしかった。「まるで毎晩、厳重に国に戸締りするみたいじゃないか」
彼は、ちょうど背中に女を背負って坂をよじ登らなければならないときのように困り果てた。急に彼は額をたたいた。頭をしぼったあげく、サウサンプトン=サン・マロ航路を思いついたのだ。船は真夜中に出航する。十時半の汽車がある。
彼はほがらかになり、すぐ行動しようと思った。
「ウォータールーから行くんだ。時間は充分ある。結局うまく行くと思うな。今頃急にどうしたの? 方向がちがうよ」と彼は抗議した。
ヴァーロック夫人は男の腕に自分の腕を入れ、ふたたびブレット街にひきずって行こうとした。
「出るとき、店のドアを閉めるのを忘れたの」彼女はひどく興奮してささやいた。
店や店内にあるものは、すべて彼の気をひかなくなっていた。オシポンはどこで欲望を制限するべきか承知していた。彼はまさに「それがどうしたの? ほっとけよ」といおうとして思いとどまった。些細なことで議論したくない。この女はあるいは引出しのなかに金を忘れてきたのかもしれない、そう思って彼はかなり歩調を早めさえした。
けれども、承知しながら、ヴァーロック夫人の熱病につかれたような早足のあとに遅れがちになった。
最初店はまっ暗に見えた。ドアは半分開いている。飾り窓にもたれて、彼女は喘《あえ》いだ。
「だれもいない。おや、居間に明りが」
オシポンは首をのばして、店の暗闇のなかにかすかな明りを見た。
「なるほど」
「忘れたのよ」ヴェールの陰から、かすかにヴァーロック夫人の声がした。オシポンは彼女が先に入るのを待っていると、「行って消して来て。さもないと気が狂いそうよ」と彼女はいっそう大きい声を出した。
この奇妙な動機から出た依頼に、彼は直接さからいはしなかった。
「金はどこ?」と彼は訊ねた。
「わたしが持ってる。行って、トム、早く。消して……。ねえ、行って!」と背後からオシポンの両肩をつかんで、彼女は叫んだ。
力ずくで頼まれるとは思っていなかったので、彼は突かれて店のなか深くころげこんだ。彼は女の力にびっくりし、そのやり口に腹を立てた。しかし、引き返して表の彼女にきびしく抗議したりはしなかった。
だんだんオシポンは、女の奇妙なそぶりが気になりはじめた。それに、今は断じて女のご機嫌などとる時期じゃない。彼は苦もなくカウンターを避け、静かに居間のガラス戸に近づいた。窓ガラスの上のカーテンがちょっとひいてあったので、把手をまわそうとして、まったくなにげなくなかをのぞきこんだ。なんの考えも、意図も、好奇心もなかった。そうしないではいられなかったから、のぞいたにすぎない。そしてソファーの上で静かに休んでいるヴァーロック氏を発見したのだった。
声にならない悲鳴が胸の奥底からほとばしり出て消え、かわりにべとついた、むかつくような感じが口にわいた。同時に同志オシポンの精神は、狂気のように後ろに飛び退った。しかし、その身体は知的な導きなしに取り残されて、本能的に把手にしがみついた。逞しいアナーキストは、よろめきさえしなかった。
彼はガラスに顔を近づけ、恐怖に飛び出た目でじっと凝視した。逃げるためなら、彼はなんでも投げ出したにちがいない。しかし理性が戻ってきて、把手を離してはいけないと彼に教えた。これはいったいなんだろう。狂気か、悪夢か、それとも罠か、かくも残忍な狡猾《こうかつ》さで彼をおびき寄せたのは?
なぜだろう? なんのためだろう?
この夫婦に関するかぎり、彼の良心はまったくやすらかで、なんのうしろめたさも感じなかったから、自分が得体のしれぬ理由で彼らに殺されるという考えが、彼の心を……というよりはみぞおちを……横切って、むかつくようなめまい、不快感を後に残した。彼は一瞬、ひどく気分が悪かった。それは長い一瞬だった。
その間、ヴァーロック氏は眠りをよそおって、ひどく静かに横になっていた。何か彼なりの理由があるのだろう。姿こそ見えないが、表のまっ暗な淋しい通りでは、彼の女房が無言で戸口をかためている。これはすべて警察がとくにおれのために考え出したなにか恐ろしい用意なんだろうか。そんなはずはない、オシポンは謙虚にもこの想像をしりぞけた。
ヴァーロックの帽子を見つめているうちに、彼には現在目撃している場面の真の意味がわかりはじめた。それは異常で、なにか不吉な合図のような気がした。帽子はふちを上にして、黒々と長椅子の前の床に横たわっている、まるでまもなくヴァーロック氏を見物しにやって来るひとびとからお布施《ふせ》を受けとろうと用意しているように。
逞しいアナーキストの目は、帽子から移動した食卓にうつり、しばらくこわれた皿を眺め、長椅子に憩う主人のなかば閉じた目がこちらを白くにらむのを見てどきりとした。ヴァーロック氏は睡眠中というよりは頭を曲げ、左胸を一心に見つめるようにしながら横臥《おうが》している感じだった。
ナイフの柄に気づいたとき、同志オシポンはガラス戸に背をそむけ、はげしくむかついた。
通りに面した戸がガタンと鳴った。オシポンの魂は恐怖にとび上った。安全・無害な主人の住むこの家は、なおかつ恐るべき罠《わな》たりうるのだ。わが身になにが降りかかっているのか、今やオシポンにはさっぱりわからなかった。
カウンターの端に足をとられ、オシポンはぐるりと一回転し、苦痛の叫びをあげてよろめいた。狂ったように鳴り響く鈴のなかで、彼は女が発作的に抱きついて、両腕が脇にぴったり押しつけられるのを感じた。
つめたい唇が彼の耳を這いながら、ささやいた。
「お巡りよ! 見つけられたわッ!」
オシポンはもがくのをやめた。絶対にこの女はおれを放しっこないだろう。彼の頑丈な背中に、彼女の指が万力のようにからみついた。足音が近づくあいだ、彼らはぴったりと胸を寄せ、苦しい早い息づかいをした、まるで死物狂いの闘いを演じているように。じじつ、それは死のような恐怖との闘いだった。
巡回の警官はヴァーロック夫人をちらと見た。しかし、彼はブレット街の一方の端の明りのついた方向からやって来たので、彼女の姿は暗闇のなかのゆらめき以上のものではなかった。それすらも警官にはさだかでなかったから、べつに急ぐ必要を感じなかった。
店の前に来たとき、警官は早目にドアが閉められているのを知った。そのこと自体、なんら変ったところはない。巡回の警官たちはこの店について特別の指示を受けてはいたが、店内のことは不祥事でも起らないかぎり介入してはいけないきまりだった。ただ観察したことだけは、すべて報告しなければいけないのだ。
とくに観察することもなかったが、暗闇に不審なゆらめきがあったことだし、義務感と良心を満足させるつもりで、警官は道路を横切って、ドアを当ってみた。その鍵は永遠にお役目ごめんとなって、今は亡きアドルフ・ヴァーロック氏のチョッキのポケットにおさまっている。戸口のバネ仕掛の挿し錠は、いつものようにゆるぎなかった。
この良心的な警官が、把手をゆさぶっているあいだじゅう、オシポンは冷い唇がまたもや彼の耳を這うのを感じた。
「もし入って来たら、あたしを殺して。ねえ、トム、あたしを殺して」
行きしなに、ほんの形ばかり店の窓に暗い提灯《ランタン》の光を向け、警官は行ってしまった。内側の男女は胸をよせあって、しばらく喘ぎながらじっと立っていた。次いで女の指がほどけ、ゆっくりと両腕を脇におろした。
オシポンはカウンターにもたれた。逞しいアナーキストは、ひどく支えがほしかった。ほとんど口をきくのもいやだった。なんて恐ろしいことだ。ようやく彼はかなしげにこういった。それは、少くとも自らの位置をさとったことを示すものだった。
「もう二分遅かったら、ぼくは提灯《ランタン》を持ってこの辺をうろつくお巡りの奴にぶつかるところだった」
ヴァーロック夫人は身じろぎもせず、店のまん中で熱心に頼みこんだ。
「ねえ、行って明りを消して、トム。気が狂いそう」
はげしく彼が身振りをするのがおぼろげに見えた。どんなことがあったって、おれを居間に行かせることなんかできゃしないぞ。オシポンは迷信家ではなかったが、床には血がありすぎた。帽子のまわりは、べっとり血が溜っている。心のやすらぎを得るのには、いや首が無事つながるのには、おれはあんまり死体のそばに行きすぎたかもしれない、とオシポンは判断した。
「ほら、あのメーターのところ! そら、あの隅の」
逞しいオシポンの姿が無骨な影をひきずって店を横切り、従順に隅っこにうずくまった。
もっとも、この従順さには優雅なところはなかった。焦《あせ》って彼はもぞもぞ探した。突然チェッというつぶやきとともに光が消え、ヴァーロック夫人の喘ぐようなヒステリックな溜息が聞こえてきた。夜だ。この世で人間の忠実な労働の必然的報酬である夜が、裁かれた革命家、≪昔の同志の一人≫、社会の謙虚なる保護者アドルフ・ヴァーロック氏の上に訪れたのだ。シュトット=ヴァルテンハイム男爵の至急便に登場する、あの測り知れない貴重な情報スパイ△、忠実にして正確、法と秩序の讃美すべき信頼あつき僕《しもべ》、自分が価値があるために妻に愛されていると単純にも信じこんだ、たったひとつの愛すべき理想主義的欠点の所有者の上に。
オシポンはまっ暗な、むうっとする部屋の空気を通って、手探りでカウンターにたどり着いた。
店の中程にいるヴァーロック夫人のふるえ声が、必死に彼に抗議した。「絞り首なんかいや、トム。絞り首なんか……」と泣き出した。
カウンターのところから、オシポンは忠告した。「そんなにわめくなよ」
それからじいっと考えこんだようだった。「ひとりで殺《や》ったのかい?」とうつろな声で訊ねた。しかし、彼のなかにあるなにかしら落着いたものが、ヴァーロック夫人を感謝と信頼のまじった気持で一杯にした。
「そうよ」と彼女はささやいた。
「信じられない」オシポンはつぶやいた。
「だれだって信じないでしょう」
オシポンが動きまわり、居間のドアの錠がガチャッと鳴るのが聞こえた。ヴァーロックの霊よ、安かれとばかりに鍵をかけたのだ。こうしたのは、ヴァーロック氏の安息の永遠的性格への尊敬や、そのほかのいかなる漠然とした感傷的な配慮からでもない。家のなかにまだ誰がひそんでいるのやら、まるで確信がもてなかったからにすぎない。
彼はこの女を信用できなかった、というよりは、この驚くべき世界のなかでなにが真実であり、可能であり、蓋然性《がいぜんせい》を持つのやら、今ではまったく判断できなくなっていた。まず警部と大使館員にはじまり、果てはどこで終るのやら見当もつかない、この異常な事件……だれかが刑場で消えることはたしかだが……のため、オシポンはすっかりおびえ、信じたり、疑ったりするあらゆる力を失っていた。
おれは晩の七時以後どう時間を過ごしたか、アリバイを証明できないではないか、そう考えて彼はぞっとした、なぜならその間ブレット街をうろついていたからだ。彼は自分をここに連れこみ、まごまごしていると共犯の罪をなすりつけるかもしれないこの兇暴な女がこわくなった。恐ろしいことだ、なんと早く、こんな危険にまきこまれ、ひきずりこまれたことか。この女と出会ってから、まだ二十分ちょっとしかたっていないのに。
ヴァーロック夫人は力なく声を上げ、あわれっぽく懇願した。「あたしを死刑にさせないで、トム! 国外に連れてって。あんたのために働くわ、奴隷にだってなるわ。あなたを愛するわ。この世でわたしひとりぼっちよ。あなた以外に誰がわたしに目を向けてくれるでしょう!」
しばらく彼女は黙った。それから、ナイフの柄からしたたる無意味な血の筋が周囲に作り出した孤独の深みのなかで、おそるべきインスピレーションが自分のうちに湧き上るのを見出した。……ベルグレイヴィア荘の立派な娘であり、アドルフ・ヴァーロック氏の忠実にして尊敬すべき妻であった彼女のうちに。
「あなたに結婚してくれなんていわないから、ね、お願い」と彼女は恥ずかしそうにささやいた。
暗闇のなかで彼女は一歩近寄った。オシポンは胆《きも》をひやした。もし彼女が突然またナイフを取り出して彼の胸を刺そうとしたところで、オシポンは驚きはしなかっただろう。彼はなんの抵抗もできなかったはずだ。その時のオシポンには、彼女に近づくなと警告するだけの気力さえ残っていなかった。
「ヴァーロックさんは眠っていたのかい?」と彼は洞窟から聞こえてくるような奇妙な声で訊ねた。
「いいえ」と彼女は叫んで、口早につづけた。「ちがうわ。眠っていたんじゃないわ。あの男は何事もおれに手出しはできん、とわたしにいったの。あいつはわたしの目の前から、かわいい、無邪気な、罪もない子を連れ出して……わたしの子をよ……殺しておきながら、まるで気持よさそうに長椅子の上で寝そべっていたの。わたし、表にとび出してあいつの見えないところに行こうと思ったくらいだった。わたしにこういうの『こっちへ来い』だって。そして、おまえだってあの子の死には責任があるじゃないかっていったの。聞いてるの、トム? 『こっちへ来い』だって。あの子を死なせて、わたしを生ける屍《しかばね》にしておきながら」
彼女は沈黙し、また夢うつつのように繰り返した。「血と泥が、血と泥が……」
同志オシポンの上に大きな光明がさした。
すると公園で吹っ飛んだのは、あの薄のろの弟だったのか。してみると周りの者一同の頓馬さ加減はなおさら完全に……いや、とほうもなく思えてくる。
あまりの驚きに、オシポンはすこぶる科学的な叫び方をした。「あの変質者が……なんたることだ!」
「こっちへ来い、だって」またヴァーロック夫人の声が高くなった。「いったい、あいつはあたしをなんだと思ってるの? いって、トム。こっちへ来いだって! わたしに! このわたしに! あたしはナイフを眺めていた。もしあいつがそれほどあたしの身体を求めているのなら、行ってやるつもりだった。そうよ。そうよ、あいつのとこにあたし行ったの、お名残りにね……ナイフを持って」
オシポンは、この女がひどくこわくなった。この変質者の姉、自らも人殺しタイプの変質者、……でなければ虚言癖のこの女が。あらゆるほかの恐怖に加え、彼は科学的にこの女がこわくなった。それは測り知れない複雑な恐怖だった。恐怖のあまり、ついに彼は暗闇のなかで、いかにも外見は落ち着いた考え深い様子になった。なぜならオシポンはまるで半分意志も知力も凍ってしまって、動くこともしゃべることも困難になったからだ。だれも彼のこの死のような顔を正視できる者はいなかったにちがいない。おれは死んだも同然だ、と彼は思った。
彼は一フィート跳び上った。思いがけず、ヴァーロック夫人の鋭い恐ろしい悲鳴がこの家の慎しみ深い連続した静寂を破ったからだ。
「助けてっ、トム! 助けてっ、死ぬのはいや!」
彼は走りよって、手探りで女の口をふさいだ。悲鳴はおさまった。しかし、駆けよるとき、彼女を押し倒してしまった。今や彼女が彼の足にからみついているのをオシポンは感じた。オシポンの恐怖は絶頂に達し、一種の狂乱となった。幻覚が見え、精神錯乱の特徴があらわれた。じっさい彼の目には蛇が見えた。彼は女が蛇のように彼の身体に巻きつき、離れようとしないのを見た。彼女は≪死のごとく≫ではなくて、死そのもの、生の伴侶だったのだ。
感情の爆発で救われたように、ヴァーロック夫人は今は静まりかえった。彼女は床に倒れたままあわれっぽくつぶやいた。
「トム、今さらあたしを棄てることはできないわ、足であたしの頭を踏み潰《つぶ》さないかぎり。あたしあなたを放さないわよ」
「立つんだ」とオシポンはいった。
彼の顔は店内の深々とした暗黒のなかでも見えるほど蒼白かった。ヴェールをかぶったヴァーロック夫人は、顔も見えず、ほとんど姿が見えなかった。なにか小さな白いものがゆれて、彼女のいるあたりの動きを示した。帽子に挿《さ》した花だった。
暗闇のなかで、それは立ち上った。床から彼女が起き上ったのだ。すぐに表に逃げ出さなかったことをオシポンは後悔したが、そうしても無駄だとすぐに気がついた。だめだ、こいつが追いかけて来るだろう。金切声を挙げながら追って来て、とうとう声を聞きつけたお巡りが全部追跡に加わるにきまってる。そうなったら、なにをいわれるかわかったもんじゃない。
彼は恐怖のあまり、闇のなかで女を絞め殺そうという気狂いじみた考えが瞬間心にひらめいた。前よりもっとこの女がこわくなった。おれはこの女につかまったのだ! 彼は自分がスペインかイタリーのどこか名もない村で、絶望的な恐怖のうちに生きるのを見た。ある朝おれが死んでいるのが発見される。胸にナイフをつき刺されて……あのヴァーロック同様に。
ほうっと彼は深い溜息をもらした。動く勇気もない。ヴァーロック夫人は彼女の救世主の色よい返事を、無言で待ち受けた、彼の考え深い沈黙に慰めを見出しながら。
突然オシポンは、ほとんど自然な声でいった。
「外に出よう、汽車に遅れる」
思索は終った。
「どこに行くの、トム?」おずおずと彼女は訊ねた。もはや自由な女ではなかった。
「最初パリに行こう、いちばんいい方法だ……。安全かどうか先に出て見てくれないか?」
彼女は従った。おし殺した声が、注意深く開けたドアのあいだから聞こえた。
「大丈夫よ」
オシポンは外に出た。そうっと気を配ったにもかかわらず、がらんとした店の閉ったドアの後ろで鈴が鳴り響いた。まるでやすんでいるヴァーロック氏に、彼の妻が同志に伴われて最後に出発するのをむなしく警告しようとつとめるように。
ふたりはすぐに馬車をひろった。中で逞しいアナーキストは説明しはじめた。今なお彼の顔は蒼ざめ、緊張しきった顔に、目が半インチも陥没《かんぼつ》したようだった。
「駅に着いたら」と奇妙に単調な声で彼は説明した。尋常ならざる方法で万事を考え抜いたらしかった。「お互いに知らない同士のように、先にきみが駅に入って行く。ぼくは切符を買い、きみの手にすべりこませる。それからきみは一等の婦人専用待合室に入って、汽車が出る十分前までそこにいる。やがてきみはそこを出る。外にぼくが待っている。きみはぼくを知らないように最初にプラットフォームに入る。そこでは警察が見張っているかもしれない。きみは女の一人旅という恰好さ。ぼくは顔を知られているから、ぼくといっしょだと、ヴァーロックの奥さんが駈落《かけお》ちするとさとられてしまうだろう。わかったかい、きみ?」と彼は努力してつけたした。
「ええ」と彼女は答えた、絞首台と死の恐怖にすっかりこわばって、彼にもたれて坐りながら。
「わかったわ、トム」
それから恐ろしいルフランをひとりごちた。「吊し縄の長さは、十四フィートであった」
相手から目をそらしたまま、オシポンは重病の後、型をとってまもないしっくいの面のような顔でいった。
「ついでに切符を買う金を、今あずかっておかなくちゃ」
前方の泥よけを見つめながら、彼女は胸衣のホックを外して新しい豚皮の財布を手渡した。彼は黙って受けとると、どこか胸の奥深くしまいこんだらしかった。そうして上衣の外をぽんとたたいた。
これらのことは、すべて互いに一回も視線を交すことなくおこなわれたのだ。彼らはゴールの最初の印が見えてこないかと見張っている二人の人間のようだった。角を曲って、橋に向ったとき、はじめてオシポンはまた口を開いた。
「中にいくら入っているんだい」と、彼はまるで馬の耳のあいだに坐っている小鬼にゆっくり話しかけるように訊ねた。
「わからないわ」彼女はいった。「あの男がくれたの。数えなかったわ。その時はそんなこと考えなかったもの。あとになって……」
彼女はちょっと右手を動かした。それは一時間とたたない前、致命的な一撃を男の心臓に加えた手だったが、このちょっとした動作が大層表情たっぷりだったので、思わずオシポンはふるえ、わざと大げさにつぶやいた。
「寒いなあ。身体の芯《しん》までぞっとするよ」
ヴァーロック夫人は、逃亡の前途をまっすぐに見つめた。ときおり、道路越しに吹きやられる黒い吹き流しのように、≪吊し縄の長さは十四フィートであった≫という文句が、彼女のはりつめた視線のなかに入りこんでくる。黒いヴェールを通して、彼女の白目が面を着けた女の目のように光った。
オシポンのこわばった様子はどこか事務的で、奇妙に公式的な表情があった。彼は急にまた口を訊いた、まるでものをいうために留め金を外したように。
「ねえ、ヴァーロックは自分の名で銀行に金をあずけたの、それともだれかほかの名義?」
ヴァーロック夫人の面を着けた顔と大きく光る白目が、こちらを振り向いた。
「ほかの名義?」と彼女は考え深そうに繰り返した。
「正確に答えてくれ」と素早く走る馬車のなかでオシポンは説教した。「ひどく重要なことなんだ。わけを話そう。銀行は紙幣の番号を控えている。もしこのお札《さつ》が彼の本名で支払われたなら、彼が死んだとわかったとき、警察がぼくたちをつけるのに役立ってしまう。だってぼくらはほかに金がないんだからね。ねえ、ほかに金はないんだろ?」
彼女は首を振った。
「全然ないの?」オシポンは問いつめた。
「銅貨が数枚あるだけ」
「それなら危険だ。とくに注意して金を使わなくちゃ。ぼくはパリのある安全な両替屋を知ってるけど、そこでこの紙幣を変えるのにたぶん全額の半分以上はなくなると思うんだ。また、もう一つの場合、つまりヴァーロックが誰かほかの名前、たとえばスミスという名かなんかで預金を引き出したとすれば、その金は使ってもまったく安全だ。わかるかい? 銀行には、このスミス氏とヴァーロックが同一の人物だと知る方法がないんだよ。きみが正確に答えることがどんなに大切か、わかるだろう? で、さっきの質問に答えられるかい? たぶん答えられないと思うけど、どうなんだい?」
ヴァーロック夫人は落ち着いて答えた。
「やっと想い出した。あいつの名で預金したんじゃないのよ。プロウザーって名前で預けてあるって、わたしにいったことがあるわ」
「たしかかい?」
「ええ、まちがいないわ」
「彼の本名を銀行が知っているとは考えられないだろうか? それとも誰か銀行の人かなんかが……」
彼女は肩をすくめた。
「わたしにわかるわけがないわ。そういうことがありうるっていうの、トム?」
「いや、あるとは思わないけどさ。わかったら、もっと安心できるのにっていうことさ。さあ、着いたぞ。最初にきみが降りてまっすぐに入って行くんだ。敏捷に行動してくれよ」
オシポンは後に残り、ばら銭で馭者《ぎょしゃ》に払った。彼が綿密な用心深さで組立てた計画が実行に移された。サン・マロ行きの切符を手にヴァーロック夫人は婦人専用待合室に入り、オシポンはバーに行って七分のあいだに熱い水割りブランデーを三杯ほどひっかけた。
「風邪を追っ払うためだよ」と彼は親しげに女給にうなずいて、微笑しながらいった。そして≪悲しみの泉≫で飲んだ人のような顔つきでバーを出た。
駅の時計に彼は目をやった。時間だ。彼は待ちかまえた。
ヴァーロック夫人は時間通りに出て来た。ヴェールを下し、平凡な死そのもののように全身黒ずくめで、安物の白い花を幾つか帽子に飾っている。
笑っている小グループの近くを彼女は通りすぎた。彼らの笑いはあるひと言で吹き飛ばすこともできただろう。彼女の歩き方はけだるそうだったが、その背中はまっ直ぐだった。
同志オシポンは恐怖にみちて彼女を後ろから見守り、自分も歩きはじめた。汽車は横づけにされ、開いたドアの周りにはほとんどだれもいなかった。
時期や、ひどい天候のせいもあって、乗客はほとんど見当らなかった。ヴァーロック夫人は空っぽの車室にそってゆっくり歩きつづけ、最後にオシポンが後ろから肘《ひじ》にさわった。
「ここがいい」
彼女は入った。周囲を見まわしながら、オシポンはプラットフォームに残った。彼女は身体を前に乗り出してささやいた。
「どうしたの、トム? 何か危険なことがあるの?」
「ちょっと待ちたまえ。車掌だ」
彼女はオシポンが制服の男の袖をひくのを見た。彼らはしばらく話していた。
「承知しました」と車掌がいって、帽子に手を掛けた。オシポンは戻ってきていった。「ぼくらの車室にだれも入れないように頼んだんだ」
ヴァーロック夫人は座席で身を傾けた。
「あなたはなにもかも考え抜いているのね。わたしを棄てるつもりじゃないでしょうね、トム?」と発作的に苦しげに訊ね、ヴェールを乱暴に上げて、自分の救世主の顔を見た。
彼女の鉄石を思わせる顔があらわれた。この顔から、白い輝く球体のなかの二つの黒い孔のように燃えつきて乾いた、大きな光のない目がのぞいた。
「危険なんかないさ」と彼はほとんど恍惚《こうこつ》として女の目をのぞきこみながらいった。絞首台から逃走中のヴァーロック夫人には、それは力と愛情にみちあふれたものとうつった。この熱情は深く彼女を感動させた。
鉄石のような顔から、きびしいこわばった恐怖が消えた。同志オシポンはじっと見つめた。いまだかつて、これほど自分の恋人の顔を見つめた男はいなかっただろう。
ドクターと綽名《あだな》されるアナーキスト、アリグザンダー・オシポンは|≪猥褻《わいせつ》な≫医学パンフレットの著者であり、かつては、さる労働者団体の社会衛生学講師をつとめたことがある。彼はあらゆる因襲的道徳のきずなから解放された人間だったが、科学の法則には従った。オシポンは科学を信じるのだ。
彼はこの女、変質者の姉、自らも殺人者タイプであるこの変質者を≪科学的に≫凝視した。彼はヴァーロック夫人を見つめ、ロンブローゾを呼び出した、ちょうどイタリアの移民がお気に入りの聖者に自己をゆだねるように。オシポンはこの女の頬、鼻、眼、耳……を凝視した。悪性だ! 決定的だ!
男の熱心な注目にあって、蒼ざめたヴァーロック夫人の唇はかすかにほっと開かれた。彼はまた彼女の歯にも視線を集中した。一点の疑いもない……、殺人者タイプだ!
たとえオシポンがおびえた魂をロンブローゾにゆだねなかったとしたところで、それは科学的根拠に立って彼が自らの霊魂の存在を信じられなかったからにほかならない。霊魂のかわりに彼は科学的精神を持っていた。オシポンは駅のプラットフォームの上で、思わず性急なぎくしゃくした言葉で、いかに自分が「科学的」であるかを証明してしまったのだ。
「まったく異常な若者だった、きみの弟は。もっとも興味深い研究の対象だった。ある意味では完全なタイプだった、完全だった!」
内心びくびくしながら、彼はこうしゃべった。愛する亡き弟に捧げられたこの讃辞を耳にしたヴァーロック夫人の暗い目に、豪雨《ごうう》を予知する一条の光線のようにチラリと光るものが見え、身体が前にかしいだ。
「ほんとにそうよ」彼女は唇をふるわせて、静かにささやいた。「あなたはずいぶん弟に目をかけてくださったのね。あなたを愛してたの、トム」
「きみたちくらいよく似た姉弟がいるとは、ほとんど信じられない」と、オシポンは早く汽車が出てくれないかと神経質な苛立ちをおさえ、変らぬ恐怖を声にあらわしていった。「まったく。あの子はきみにそっくりだった」
この言葉はとくに感動的でも、同情的でもなかったが、たかぶったヴァーロック夫人の感情につよく作用するには充分だった。かすかな叫びをあげ、両腕を投げ出して、とうとう彼女は泣き出した。
オシポンは客車に入ってあわててドアを閉め、今何時かと外に顔を出した。まだ八分ある。最初の三分間、ヴァーロック夫人は、烈しく絶望的に泣きつづけ、次いで幾らか回復すると、涙をふんだんに流してむせび泣いた。彼女は、彼女の救い主に、生の使者である男に話しかけようとつとめた。
「おお、トム! あの子が残酷にもあたしから連れ去られたのに、どうしてあたしは死ぬのがこわいんでしょう。どうして? なぜこんなに臆病なんだろう!」
ヴァーロック夫人は、彼女の人生の唯一の対象を声をあげて悼んだ。優雅さ、魅力、高貴さすらないが、そのために殺人まで犯さざるをえなかったあの目的への高邁《こうまい》な忠実さにみちた人生の対象を。苦しみにおいてゆたかだが、表現において貧しい、あわれなひとびとの嘆きのつねとして、彼女の真実の叫びは、偽りの感情の言葉のどこからか拾ってきた使い古した作り物の表現をとった。
「あたしとしたことが、なぜこんなに死ぬのがこわいんでしょう、トム! あたしは努力したわ、でもこわいの。自殺しようとして、できなかった。あたしって冷酷なのかしら? こんなひどい目に会っておきながら、充分じゃないみたい。だから、あなたがあらわれたとき……」
彼女は言葉をとめ、あふれ出る感謝と信頼の念で、「一生あなたのために生きるわ、トム!」とむせびながらいった。
「車の片方の隅に行って、プラットフォームから離れていたまえ」とオシポンは懇願するようにいった。彼女はこの救世主にやすやすと料理されるがままにまかせた。
オシポンは前よりもっと烈しい涙の発作が訪れつつあるのを見守った。この兆候を、彼はあたかも秒読みでもするように、どこか医者めいた様子で眺めていた。
ついに車掌の笛が鳴った。汽車が動き出すのを感じたとき、オシポンは上唇を無意識に噛みしめたので、狂暴な決意にみちた歯がのぞいた。ヴァーロック夫人は笛の音を耳にしたけれど、なんにも感じなかった。
救世主オシポンは無言で立っていた。汽車の動きが早くなり、女の大きなすすり泣きにあわせて、大きくガタンゴトンという音を彼は感じた。
それから大股に二歩、客車を横切ると、落着いてドアを開け、外に飛び出した。彼が飛び降りたのは、プラットフォームの最先端だった。
この死物狂いの計画にかけた決意はひじょうなものだったので、彼はいわば奇跡的に、ほとんど空中で客車のドアをバタンと閉めた。
それから、射たれた兎のように前につんのめった。そして傷つき、振りまわされ、死のように蒼ざめて、息を切らしながら立ち上った。だが、落着いて、すぐさま周りに集ってきた興奮した駅員の群れに完全に応対することができた。オシポンはおだやかな、説得力のある声でこう説明した。
妻がブルターニュにいる危篤《きとく》の母親のもとに急いで出発したのだが、当然のことながらひどく気持が動揺していて、自分はとてもそれが心配だった。だから妻を励まそうとしているうちに、最初汽車が動き出したことに全然気づかなくて……。
「それじゃ、なぜサウサンプトンに行かなかったんですか?」というみなの叫びに、オシポンは三人の乳飲み児を抱えた若い世間慣れない義妹がたったひとり家に残っている。電報局も開いていないし、彼のいないのにさぞかし驚くだろうと思って、と反論した。だから、自分は衝動的にやったのだ。
「でも、これからは絶対にこんなことはしませんよ」と彼は弁解し、駅員にほほえんだ。そしてチップを一同にはずんで、びっこ一つひかずに、駅を出て行った。
生れてはじめて多額の紙幣を手にしたオシポンは、外で馬車屋のすすめをことわった。「足があるからね」
慇懃《いんぎん》な馭者に、彼はちょっと親しげに笑ってみせた。
オシポンは歩くことができた。彼は歩き、橋を渡った。数分後、ウェストミンスター寺院のずっしりした不動の塔は、オシポンの金髪が街灯の下を通過するのを見た。ヴィクトリアの燈火も彼を目撃した、そしてスロウン広場や、公園の柵も。
ふたたび同志オシポンはとある橋の上にいた。
ひややかな影に包まれたふしぎに不吉な河は、幾筋にも光って下の黒々とした静寂のなかを流れ、彼の注意をひいた。長いこと、彼は欄干から身を乗り出して、テムズ河を眺めた。頭上で、時計塔がやかましい音をたてた。彼は時計の文字盤を見上げた。十二時半、英仏海峡の夜は荒れている……。
また同志オシポンは歩きはじめた。その夜、彼の逞しい姿は、冷たい霧におおわれた泥だらけの道に化物のようにまどろむ巨大な都市ロンドンの遠く離れた場末で見出された。彼の姿は静まり返った死の街々を越え、ガス灯の立ち並ぶ深閑とした鉄道線路のふちに際限もなくまっすぐにのびるあやしげな家々の風景のなかに消えて行った。
彼は、多くの広場や、小路、競技場、共有地《コモン》を通り抜け、人生の流れから落伍した屑にもひとしい人間が、無気力な絶望的な生をいとなんでいる名もない無数の単調な町を通って行った。
彼は歩きつづけた。そして突然薄汚い芝生が植わった前庭に折れて、ポケットから鍵を出し、小さな汚らしい家に入った。
服のまま、オシポンはベッドに身体を投げ出した。たっぷり十五分は静かに横たわっていたろうか、それから起き上って膝を引き、両足をかかえこんだ。
夜明けが訪れたとき、彼は目を開いて、そのままの姿勢だった。この男は、こんなに長いあいだ遠くまでなんの目的もなく疲れずに歩くことができ、また手足や、まぶたひとつ動かさずに、何時間でも静かに坐っていられるのだった。
しかし、遅い太陽の光が部屋のなかに差しはじめたとき、オシポンは腕をほどいて枕の上に倒れた。彼は天井を見つめた。突然両眼が閉じた。同志オシポンは光線のなかで眠ってしまった。
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十三
その部屋のなかで、壁の食器棚についた巨大な蝶番《ちょうつがい》は、みじめな不恰好な形や質の悪さに悩まされることなく目を留めることができるただ一つの対象だった。それはふつうの商売では大きすぎて売れず、とうとうわずか数ペンスでロンドン東部の船舶用品扱い商が教授に売り渡したものだった。
部屋は大きく、清潔で、体裁もよかったが、わずかに食欲を除くほかの持主のあらゆる人間的欲望の枯渇《こかつ》を示す貧相さがあらわれていた。壁紙以外、壁にはなにもなかった。それは砒素《ひそ》のような緑色をし、あちらこちらぬぐいがたいしみで汚れ、無人の大陸の色あせた地図を思わせるよごれが目についた。
窓際の樅《もみ》材のテーブルには同志オシポンが坐って拳で顔を支え、むき出しの床板の上には、例の一着しかない安物のツィードの上衣に身を包んだ教授が、信じられぬほど傷《いた》んだスリッパをばたつかせ、ふくれ上がったジャケツのポケットに深く両手をつっこんでいた。
教授は最近マイケリスを訪問したことをオシポンに語っている最中だった。
あの完全なアナーキストは少し背中が曲ってきたな。ヴァーロックの死んだことは、なんにも知らなかった。むろんだ、絶対に新聞を見ないんだから。新聞を見ると、気がめいるからだ。それはまあ別として、おれは奴の小屋に歩いて行った。どこにも誰もいない。返事があるまで六回も怒鳴らなくちゃいけない始末だ。まだぐっすり眠ってるのかと思ったが、まるでちがう。もう四時間も執筆中だとさ。ちっぽけな田舎家のなかで、原稿の山に埋って坐っていたよ。側のテーブルに半分食いさしの生《なま》の人参《にんじん》があった。奴の朝飯だ。現在、生人参と少しばかりの牛乳で生活してるんだ。
「どうだった、そんなものを喰ってて?」と同志オシポンはぼんやりといった。
「天使のようだったね。おれは床から奴の原稿を拾って読んでみたが、その理性の貧困は驚くべきものだった。まるで論理がない。筋道を立てて考えられないのだ。しかし、そいつはどっちだっていい。奴さんの伝記は、三部に分れ、信念、希望、慈愛という題だった。今マイケリスは、庭と花壇のある素晴らしい大病院みたいな世界を苦心して計画しているよ。そこでは強者は弱者の保護に身を捧げるという次第さ」と教授は言葉を止めた。
「こんなばかな話ってあるかね、オシポン、弱者だと! それはこの世のあらゆる悪の源泉ではないか!」と教授は冷酷な確信をこめていった。「おれの夢みる世界では、弱者はすべて屠殺場の家畜のように皆殺しにされるはずだ、とあいつにいってやった。わかるか、オシポン? それはあらゆる悪の源泉なのだ! 弱者、無気力な者、愚かな者、臆病な者、心の弱い者、奴隷根性の者、こういった奴らがわれわれの不吉きわまる支配者だ。力を持っているのは奴らだ。奴らは大勢だ。奴らがこの世の王者なのだ。奴らを皆殺しにすること、皆殺しに! それが唯一の進歩への道だ。おれの考えに従うがいい、オシポン。まず大多数の弱者を滅ぼし、次に比較的強い者を根絶するのだ。わかるかね、オシポン? 最初にめくら、唖、つんぼ、次いで跛《びっこ》にかたわ……という工合にだ。あらゆる腐敗、あらゆる悪徳、あらゆる偏見、あらゆる因襲は、自らの運命に見まわれなくてはならぬ」
「すると、だれが残るかのね?」オシポンは窒息したような声で訊ねた。
「おれだ……もし強さをたもてば」土色の顔をした矮小《わいしょう》な教授は断言した。もろい頭蓋骨の両側から突き出した膜のように薄い大きな耳が、突然サーッとまっ赤に染まった。
「弱者からのこの圧迫に、おれはずいぶん苦しんできた」と教授は断固としていった。「しかしおれは力なのだ。だが時、時間が問題だ、われに時を与えたまえ! ああ、大衆はあまりに愚かで、憐れみも恐怖も感じる力がない。ときどきおれはすべてが奴らに味方してると思うことがある。そうだ、すべてが……おれ自身の武器である死さえもが」
しばらく沈黙があった。完全なるアナーキストが、すばやくスリッパをばたつかせる音だけがしみ渡った。しばらくして、「おれといっしょにシレナスでビールでも飲まないか」と逞しいオシポンがいった。
提案は受け入れられた。その日教授は彼なりに機嫌がよく、同志の肩をたたいていった。
「ビール! そうするか! 飲んで陽気にやろう、われわれ強者も明日は死ぬ身だからな」
彼は忙しく靴をはき、そのあいだ中ぶっきら棒な断固とした口調でしゃべった。
「どうかしたのか、オシポン? 陰気な顔つきだな。おれを放そうともしないで。聞くところによると、愚にもつかん酒場に入り浸りだそうじゃないか。どうしたんだ? 女|漁《あさ》りはもうやめか? 強者を養うは弱者の義務なり、じゃないか、え?」
彼は片足を踏み鳴らし、もう片方の紐を結んだ靴を拾い上げた。それは頑丈で、ぶ厚い底がつき、何回も修理した、靴墨一つ塗ったことのないしろものだった。
「なあ、オシポン、女たらし」と教授はニヤリと気味悪く笑って、「これまできみの犠牲者のうちで、きみのために自殺した女がいたかね……それともきみの勝利はいまだ完全ならずかね? なぜなら、血だけが偉大さを保証することができるからだ。血だ、死だ。歴史を眺めるがいい」
「おまえみたいな奴は地獄へ行け」とオシポンは顔を向けずにいった。
「何だって? 地獄などは強者のために弱者が考え出した神学的希望にすぎん。きみに対するおれの感情はな、オシポン、友情ある軽蔑さ。きみときたら蝿《はえ》一匹殺せんのだからな」
しかし乗合馬車に乗って酒場に向う途中、教授は元気を失った。歩道に群がる民衆を眺めるうち、彼の信念は疑惑と不安の重圧の下に掻き消された。それは帰宅後、巨大な蝶番《ちょうつがい》のかかった大きな食器棚のある部屋に長いこと閉じこもって、ようやく振い落せたほどだった。
「まったくの話が」と後ろの席に坐ったオシポンは、肩越しにいった。「マイケリスの奴は、美しい明るい病院みたいな世界を夢みているんだね」
「そうさ。弱者を救おうという無限の慈悲をお持ちになられるのだ」と教授は嘲笑した。
「愚かなことだ」オシポンは認めた。「弱さを直すことなどできるものか。だが結局マイケリスはたいしてまちがっていないかもしれない。二百年もしたら、世界を支配するのは医者だろう。すでに科学が支配している。あるいは影だけかもしれないが、とにかく支配している。あらゆる科学は、結局弱者でなく強者を直す学問になるべきだ。人間は生きることを欲する……生きることを」
「人間は」と自信たっぷりに鉄ぶち眼鏡を光らせて教授がいった。「己れの欲するものを知らずさ」
「しかし、きみは知っている」とオシポンはうなった。「今きみは時間が欲しいといった。医者はきみに時間を与えるだろう……もしきみが立派な人物なら。強者のひとりときみは称している、きみのポケットのなかにきみ自身ばかりか、他の人間を二十人も永遠のなかに投げこめる武器を持っているからね。しかし永遠なんて呪うべき孔さ。きみに必要なのは時間なのだ。もし二年を与えてくれる人がいたら、きみはその人を主人と呼ぶにちがいない」
「おれの言葉は」と、馬車から降りようと席を立ちながら教授は格言めかしていった。「神もなければ、主人もなし、ということだ」
オシポンはあとに続いた。
「命が尽きて横たわる時まで待つんだね」と踏み段を跳び降りながら彼はいい返した。「下劣で薄汚いちっぽけな命がね」と道路を横切りながら彼は言葉をつづけ、縁石《ふちいし》のほうにぴょんぴょん跳んだ。
「オシポン、おれはきみをまやかしだと思っているんだよ」と教授は有名なシレナスのドアを横柄《おうへい》に開けながらいい放った。小さなテーブルに着いたとき、彼はこの親切な考えをさらに発展させた。
「きみは医者でさえない。しかし変った男だよ。きみは、世界じゅうの人間はまるで医者のいうことを聞く患者のように、すなおに革命家のいうことを聞くと思いこんでいるようだな。まったく予言者もいいとこだ。だが、いったい未来など考えてなにになる!」
教授はグラスを挙げて、静かにいった。「現在の破滅に乾杯!」
教授はビールを飲み、また奇妙に気まずい沈黙に落ちこんだ。海岸の砂のように無数で、破壊しにくく、扱いにくい人類のことを思うと、気が重くなった。ダイナマイトの轟音《ごうおん》さえ、無限の無気力な砂粒のなかに、反響ひとつ残すことなく、消え失せるのだ。たとえば、今度のヴァーロックの事件がある。今そのことを考えている人が、どこにいるだろう。
突然オシポンは、ある神秘的な力に促されたように、幾重にもたたんだ新聞をポケットから取り出した。
その音で教授は頭を挙げた。
「なんだい、その新聞は? なにかのってるのか?」
オシポンは、おびえた夢遊病者のようにびくっとした。「なんでもない。ほんとになんでもない。十日前の新聞だ。ポケットに忘れていたんだ」
しかし、彼はそれを投げ棄てずにポケットに戻す前、ある記事の最後の行をちらっと見た。こう書いてあった。
≪この狂気か、絶望の行為は、永遠に測り知れない謎に包まれているようだ≫
見出しの終りには、こうあった。
≪英仏海峡連絡船から、婦人船客、謎の投身自殺≫
オシポンはこのジャーナリスティックなスタイルの名文句をよく覚えていた。
「この狂気か、絶望の行為は、永遠に測り知れない謎に……」一語一語すべてを彼はそらんじていた。そしてこの逞しいアナーキストは、うつむいて長い間物想いに沈みこんだ。彼は存在の根本から、このことにおびやかされた。ケンジントン公園のベンチや、あるいは中庭の側で、ものにした女たちとあいびきしようとすると、いつも彼女たちに≪測り知れない謎≫についてしゃべってしまいはしないか、という恐れにつきまとわれた。
オシポンは、これらの行のなかで彼を待ち受けている狂気を、科学的に恐れるようになった。それは一つの執念、一つの苦痛であった。最近では、彼は女たちとの約束を幾つかすっぽかしてしまった、彼の男性的なやさしさと感情にみちた言葉の響きは、女たちにつねに無限の信頼を与えたものだったが。
さまざまな階級の女たちの信じやすさは、彼のエゴイスチックな欲求を満たし、彼の手中にいくらかの物質的利益をもたらした。生きるために彼はそれを必要とした。それはそこに≪在った≫のだ。けれども、こういった状態で、もはやそれを利用できない現在、彼は自身の理想や肉体を飢えさせる危険を犯すようになった。「この狂気か、絶望の行為は……」
全人類に関するかぎり、≪測り知れない謎≫に≪永遠に包まれている≫ことはまちがいない。だが、あらゆる人間のうちで、彼だけがこの呪われた知識からけっして逃れられないとしたら、どうだろう。同志オシポンの知識は、新聞記者同様に正確であった……≪測り知れない謎≫の入口にいたるまで。
彼はよく知っていた。連絡船の舷門係がなにを見たか、彼は知っていた。
「黒服に黒いヴェールのご婦人が、深夜、波止場で舷側にそってうろついていました。船でいらっしゃるんですか、奥さん、とわたしははげますように訊ねたのです。こちらへどうぞ。ご婦人はどうしていいかわからない様子でした。わたしは助けるようにして船にのせましたが、身体が弱っているようでしたね」
オシポンはまた船のホステスがなにを見たか知っていた。蒼白い顔の婦人がひとり、空っぽの婦人用船室の真中に立っている。お休みになったら、とホステスはすすめた。婦人は口をきくのもひどくいやそうで、なにかとても悩んでいるらしかった。次には、婦人は船室から去っていた。そこでホステスは甲板へ探しに行った。そして、この親切な女は、件《くだん》の不幸な婦人が覆いをかけた座席のひとつに横になっているのを発見した。目は開いているが、なにを訊いても答えようとしない。たいそう具合が悪いようだ。ホステスはボーイ長を呼んできて、椅子の側で、この異常な悲劇的な船客のことを相談した。
ふたりは聞こえるような低声(なぜなら、婦人はなにも聞こえない様子だったから)で、サン・マロの領事館や、イギリスにいる婦人の家族に連絡することを話しあった。それから彼らは婦人を下に移す準備を整えに行った。じっさい、顔から察するかぎり、彼女は今にも死にそうに見えたから。
だが、同志オシポンは知っていた。彼女の絶望的な白い顔の背後では、旺盛な生命力が恐怖と絶望に抵抗し、絞首台への気も狂わんばかりの盲目的な恐怖を上まわる生への執着があがいていたことを。
オシポンは知っていた。けれども、ホステスやボーイ長はなにも知らなかった。五分とたたぬうちに戻ってきたとき、もはや婦人が座席にいなかったこと以外には。
婦人はどこにもいなかった。彼女は消えたのだ。時間は午前五時、けっして偶然の事故ではない。一時間後、ひとりの船員が椅子の上に残された結婚指環を発見した。指環は少し湿り気をおびて、木に喰いこみ、その光りが船員の目をとらえた。内側に、一八七九年六月二十四日と日附が刻まれていた。「この狂気か、絶望の行為は、永遠に測り知れない謎に……」
同志オシポンはうつむいた頭をあげた。この島国の大勢の名もなき女性の恋人であるオシポンは、アポロのごとき金髪の頭を挙げたのだ。
他方、教授は落ち着かなくなっていた。彼は立ち上った。
「待てよ」とオシポンは早口にいった。「いったいきみは、狂気や絶望について、なにを知ってるというんだ?」
乾いた薄い唇を舌の先でなめながら、教授は威厳をもっていった。
「そんなものはありはしない。あらゆる情熱は今や失われたのだ。世界は平凡で、弱々しく、なんの力も持たない。そして、狂気や絶望こそひとつの力なのだが、世界を支配する愚かな弱者の目には、力は罪とうつる。オシポン、きみは平凡だ。警察にうまく事件をもみ消されたヴァーロックも平凡だ。警察はヴァーロックを殺した。警察も平凡だ。すべて平凡な奴らばかりだ。狂気と絶望? そいつをおれの梃子《てこ》代りにくれれば、おれは世界を動かしてお目にかけよう。きみは脂《あぶら》ぎった市民どもが罪と呼ぶものを考え出すことさえできない。きみには力がないのだ」
教授は演説をやめ、ぶ厚い眼鏡を残忍に光らせながら皮肉に微笑した。
「おれにいわせれば、きみは小金をゆずられたそうだが、頭のほうは少しもよくならんな。ミイラのように不景気な顔で、ビールを飲んでるじゃないか。じゃあ、これで失敬」
「受け取ってくれないか」とオシポンは白痴的な笑みを浮かべて、相手を見上げた。
「なにを?」
「遺産だ。全部きみにやる」
教授は微笑しただけだ。服はほとんどずり落ち、修理の連続で形のこわれた靴は鉛のように重く、一歩歩くごとに水が入りこんだ。
「では明日ある薬品を注文するから、その勘定書をすぐにきみのところに送ることにしよう。ひどく必要なのだ。いいかい」と教授はいった。
オシポンはゆっくりうなずいた。彼は孤独だった。≪測り知れない謎が……≫
彼は目の前の空中に自分の脳髄がぶら下り、測り知れない謎のリズムにあわせて鼓動しているのを見た。脳髄は明らかに病んでいた。
≪この狂気か、絶望の行為は……≫
戸口の近くの機械ピアノがあつかましくワルツを奏でた。それから、むっつりと、急に黙りこんだ。ドクターと綽名《あだな》される同志オシポンは、シレナス・ビヤホールを出た。戸口で彼はためらった、さしてまぶしくない光線に目をしばたたかせながら。ある女の自殺を報じた新聞がポケットにあった。彼の心臓はそれにたいして動悸をうった。女の自殺……この狂気か、絶望の行為。
オシポンは行先かまわず、通りにそって歩いた。彼はある女(アポロのごとく神々しい彼の頭を信じている年取った保母だったが)との待合わせの場所とはちがう方角に歩いて行った。いや、彼はそこから遠ざかった。彼はどんな女とも顔をあわせることができなかった。それは破滅だからだ。オシポンは考えることも、働くことも、眠ることも、たべることもできなかった。そのかわり、喜びや、期待や、希望をもって、ビールを飲みはじめた。それは破滅だった。大勢の女の感情や信頼によって支えられた彼の革命家としての経歴は、≪測り知れない謎≫によっておびやかされた……ジャーナリスティックな表現のリズムにあわせ、誤った動悸を搏《う》つ人間の脳の謎に。
≪この狂気か、絶望の行為は、永遠に測り知れない謎に……≫
彼の身体は車道の端へ傾いて行った。
「おれはひどく工合が悪いらしい」と科学的洞察をもってオシポンはつぶやいた。
ヴァーロック氏から受け継いだ大使館の情報活動資金をポケットに入れ、すでに彼の逞しい身体は、まるで将来避けられないデモ行進の訓練をしているように、車道の端を歩いていた。そして、早くもまるでサンドイッチマンになる心がまえができているように、広い肩や、神々しい金髪を戴いた頭をうなだれていた。
一週間以上前のあの晩同様、彼は行先など気にせず歩きつづけた。疲れも感じず、なにも感じず、なにも眼に入らず、なんの音も耳に入らなかった。≪この狂気か、絶望の行為は、永遠に測り知れない謎に……≫
だれ一人|顧《かえり》みる者もなく、オシポンは歩いて行った。
そしてまた、頑迷な教授も歩いて行った、いまわしい人間大衆から眼をそむけながら。教授は未来を持たなかった。そんなものは軽蔑していた。教授自身が力なのだ。彼は心のなかで、破滅と破壊のイメージを愛撫した。彼は歩いた、かよわく、とるにたらず、薄汚く、みじめったらしく。
世界を再生するのには、狂気と絶望が必要だという単純きわまる思想を抱いたこの恐るべき男を眺める者は、だれ一人いなかった。教授は死のごとく疑われず、人間で充満した町を、疫病《えきびょう》のごとく歩いて行った。(完)
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訳者あとがき
コンラッドに「エイミー・フォスター」という短編がある。イギリスのある片田舎の海岸に、ひとりのポーランド人青年が、乗っていた移民船が暴風で難破して流れつく。ひと言も英語をしゃべれないこの異国人を村人は虐待するが、エイミーという娘が同情して一緒になる。青年は次第に村の生活に慣れ、子供までできたが、ある年、高い熱を出し、ポーランド語ではげしくうわ言をいいつづける。夫のいうことがまったく理解できぬエイミーはおびえて赤ん坊を抱いて戸外に駆け出し、青年はひとりぼっちで苦しみながら、獣のように死んでゆく。
故国喪失のポーランド人コンラッドの内面を微妙に象徴するような暗い、ペシミスチックな作品である。また妻のジェシーの回想録によると、コンラッドは晩年になるにつれて英語をしゃべるのが下手になり、その最期も、隣室にいる彼女が気づかぬほど、ひっそりと静かなものだったという。
ソルジェニツィンの亡命は私たちに、作家にとって母国とは何か、という問題をあらためて深く考えさせた。この誠実な反体制作家が死よりも国外追放をおそれたのは、それによって自らの文学が創造の土壌《どじょう》を失って、枯渇《こかつ》することを案じたからだった。
なるほど、作家にとって母国との結びつきは必ずしも絶対的なものではなく、作家は人間のもっと基本的な感情や心理を的確に把握することによって、どこの国に移されても自己の文学を生かすことができるという考え方も出てくるかもしれない。政治的イデオロギーとナショナリズムが不幸な癒着《ゆちゃく》を示しがちな今日、こういう芸術活動と祖国の相互関係についてのコスモポリタニズムは、一見さわやかにうつる。しかしポーランド生まれのこの作家は、故国喪失の痛みを、さまざまな屈折した形で、その作品中であらわすことを余儀なくされたように思われる。
コンラッドは、本名をユーゼフ・テオドル・コンラッド・ナウェンチ・コジェニョフスキー Jozef Teodor Konrad Nalecz Korzeniowski といい、一八五七年帝政ロシヤ支配下の南ポーランドに生まれた。両親ともにポーランドの貴族的な地主階級の出身であり、父アポロはペテルスブルグ大学に学んだインテリで、シェイクスピア、ユーゴーなどの西欧の文学を翻訳し、自分でも詩や戯曲を書くなど文学的才能に恵まれた人だった。
十九世紀のはじめから、ポーランドではツァーの暴政に耐えかねて叛乱が続発し、アポロも、ポーランド独立運動急進派の闘士として、一八六一年ロシヤ官憲に逮捕され、妻と四歳になるコンラッドとともに北ロシヤに流された。流刑地の生活はきびしく、まずコンラッドが七つのとき母が、ついで四年後父が病没し、十一歳で孤児となったコンラッドは母方の伯父の家に引き取られた。父の兄弟も、二人のうち一人は一八六三年の武装蜂起で死亡、一人はシベリアに送られて死んでいる。コンラッドがツァーリズム、ドストエフスキー、ロシア語をはじめとしてあらゆるスラブ的なものに烈しい嫌悪と反感を示したのも、こうした不幸な記憶から生まれた錯綜《さくそう》した心理的・思想的反応というべきだろう。
やがて十六歳のコンラッドは、周囲の反対を押しきってマルセーユに行き、船員となった。幼児から孤独な生活の中で読み耽《ふけ》った海洋小説や旅行記の影響からだとも、政治犯の息子として祖国の息づまるような雰囲気が耐えがたかったからだともいわれるが、その原因はさだかでない。おそらくその両方とも本当だろう。ただ後年イギリスの作家として名を挙げたコンラッドは、きわめて名誉を重んじる人柄だっただけに、苦しむ祖国を見棄てたというポーランドからの非難には深く心を傷つけられ、つねに罪の意識を抱いていたようだ。彼の作品にしばしば裏切りの罪とその償いという主題が扱われるのは、決して彼のこうした内面と無縁ではない。
コンラッドがはじめてイギリスの土を踏んだのは一八七八年、以来イギリス船員として勤務、八年後イギリスに帰化し、船長の資格を得た。そして一八九四年、コンゴ旅行で損ねた健康がもとで永遠に海と訣別し、イギリス人と結婚して、作家生活に入った。その第一作が、五年前から多忙な船員生活の暇をみて執筆し、作家エドワード・ガーネットの推薦でロンドンのフィッシャー・アンウィン社から出版された『オールメヤーの阿呆宮』(一八九五)である。そしてこれを機に名もジョウゼフ・コンラッド(Joseph Conrad)とイギリスふうに改めた。
ゆたかな色彩とイメージをちりばめた処女作で、コンラッドは「マライ群島のキプリング」と賞讃をもって文壇に迎えられ、以来一九二四年、未完の長編『サスペンス』を残してイギリス、ケント州の自宅で急逝するまで、多くの長編、短編、評論、劇作を発表し、生前すでにイギリス文学を代表する作家となった。おもな作品には、アンドレ・ジードが愛惜してやまない「ナーシサス号の黒人」(一八九七)、「青春」(一八九八)、「台風」(一九〇一)などの海の短編、コンゴ旅行の異常な体験を夢魔的な雰囲気で再現した中編『闇の奥』(一八九九)、そして『ロード・ジム』(一九〇〇)、『ノストローモ』(一九〇四)、『密偵』(一九〇六)、『西欧の眼の下に』(一九一〇)、『偶然』(一九一二)、『勝利』(一九一四)などの長編がある。
このように、コンラッドはきわめて順調に作家に転身し、友人あての手紙の中で血のにじむような創作の苦しみを絶えずこぼすことはあったにしろ、恵まれた後半生を送ったというべきである。「だれもコンラッドのように烈しい人生を送った者はいない」というジードの言葉があてはまるのは、彼の前半生についてだけである。ある意味では、後半生は彼の思想の形成に参加せず、彼は作家となるまでにたくわえていた人間や世界に関する主題と視点を、その作品の中で、さまざまな角度から、つねに深め、発展させ、結晶化したといえるだろう。とにかく、二十一歳で英語を学びはじめた異国人が、三十七歳で英語で小説を発表し、ついにはイギリス文学を代表する輝かしい星のひとつとなり、いわゆる「コンラッド的散文」と呼ばれる独自の絢爛《けんらん》たる密度の高い名文を生み出したということは、世界の文学の中でも、きわめて稀有な例であろう。
文学史的にいうと、コンラッドが活躍したのは、アーノルド・ベネット、ジョン・ゴールズワージイ、H・G・ウェルズらと同じか、ほぼ同じ頃である。しかし自然主義的手法で当時のイギリス社会の問題とまっこうから取り組んだ彼らの作品は、今読んでみるとどうにも印象が薄くて、ものたりない。人間の本性や存在の意味に対する根源的な懐疑や不安が少しも示されていないからだ。あくまで人間は外から眺められ、外から描かれるにすぎない。しかしコンラッドはフロベール、モーパッサンなどフランス自然主義作家から学んだ手法を発展させ、人間の内面の探究に適用して、フォークナー、グレアム・グリーンら現代作家への道を開拓した功労者だった。コンラッドが誇る現代的な魅力のひとつは、ここにある。
たとえば、彼の傑作『ロード・ジム』を見てみよう。四十五のセクションと視点的人物マーロウ……これも彼の開拓した特殊な手法のひとつだ……を持つこの複雑な実験的作品の中で、コンラッドはロマンチックなイギリス船員ジムの生涯に託して、人間の内面にひそむ悪の可能性を鋭く追求した。人はだれでもジムのように、自己について幻想を持ち、自己の深奥を見つめることを避けようとする。だが人間は、ある危機的な瞬間、あらゆる理想や信念をすて、他者を裏切って、みにくい真実をさらけ出す。しかも理想やモラルをすべて失った人間は、存在以前の状態、石ころと同じ状態にあるにすぎない。ではどうすればよいかというと、結局作中人物のひとり、シュタインがいうように、「破壊的要素に身をひたすこと」、つまり永遠にきびしい二律背反に耐え、実りなきモラルを守り抜くほかはない。『ロード・ジム』の持つ意味は、「神なきドストエフスキー」コンラッドが、超越者に頼らず、いっさいの人間の問題を、あくまで人間の次元で考え抜こうとした、こういうきびしい実存主義的な姿勢にある、と私は考えている。この作品の中には、祖国を棄てた作者の罪の意識が象徴的に表現されていることは否定できないが、その面にばかりこだわることは、作品の持つ意味をそこなうことになりかねない。やはり、孤独の探究者、人間性の深淵の透徹した凝視者コンラッドをこそ、私たちはまず読みとるべきだろう。
しかし、そればかりでない。『ロード・ジム』の中には、政治的主題に対するコンラッドの関心が明瞭に示されている。イギリス、オランダなど西欧列強の勢力がしのぎをけずる南洋の島々、メッカ詣でのアラビア人巡礼の一行を残して、浸水する船からいち早くボートで逃げだした白人の高級船員たち、主人公をとりまく原住民たちの最終的な不信と疑惑……。この作者の政治的関心が、『闇の奥』におけるベルギーの帝国主義的搾取へのグロテスクな諷刺《ふうし》を生み、『ノストローモ』、『密偵』、『西欧の眼の下に』という作者の中期に書かれた三大政治小説に結晶化されるのである。
南米の架空の国コスタグアナの革命を描いた『ノストローモ』、ロンドンのアナーキストの地底の世界に降下した『密偵』、スイスに亡命した帝政ロシヤのアナーキスト・グループに取材した『西欧の眼の下に』……これらの作品は、むろん、政治的プロパガンダや、政治的告発の文学ではありえない。コンラッドは徹底して政治という人間の公的営為に対して懐疑的であり、文学は政治に優越すると信じた芸術派の作家のひとりであった。しかし帝政ロシヤ支配下のポーランドに生まれ、幼いころ独立運動のために死んだ両親を持つコンラッドは、政治という支配・被支配の枠組をつねに鋭く、いや過敏なくらい鋭く意識するよう条件づけられていた。政治とは、彼にとって観念でも抽象的な存在でもなく、肌で感じた息苦しい現実であり、個人の生活をまきこみ、破壊させる巨大で冷酷な実在であった。したがって、彼のいわゆる政治的な作品が政治を拒む視点から描かれ、つねに政治の外的ドラマに巻きこまれた個人の内的悲劇の追求、悪夢的な政治的状況の濃密な喚起を特色としているのは当然であろう。
近年コンラッドは生前にもまして高い本質的評価を与えられ、実存主義的な視点と、政治的な視点から主に論じられているが、この二つのコンラッド観は、決して隔たったものでも、異質のものでもないということは、とくに強調しておかなければならない。この二つの要素を緊密に結びつけ、高次のものにたかめたところに真のコンラッドが存在する。たとえば、ドス・パソスの三部作『U・S・A』(一九三八)を思わせる壮大なスコープと重量感を持つ『ノストローモ』でも、血なまぐさい革命の中に孤独と裏切りの主題が暗く執拗に流れ、作品の密度をいっそうたかめてゆく。政治の外的ドラマのうちに個人のドラマを見、個人のドラマの外側に政治の圧力をつねに意識して、いわば実存主義的な政治小説とでもいうべき新しい領域を切り開いたところに、コンラッドのユニークな価値が認められる。換言すれば、彼の政治小説はもろもろの主題が注ぎこみ、溶けあってできた複雑な大河であって、その検討を抜きにしては、彼の文学の明確な位置づけは成立しないことになろう。
こうして見てくると、評論家のF・R・リーヴィスのように、コンラッドをイギリス小説の「偉大な伝統」に属する作家と見ることには大きな疑問が残る。人間をその内面において見つめようとする彼の姿勢はスラブ的、というよりはより端的にはドストエフスキー的であり、イギリス、西欧の市民社会の本質的構造に対する彼の洞察は、イギリス生まれのイギリス作家には期待すべくもない深い比類ないものである。文化人類学の増田義郎氏は、「コンラッドと西欧」という犀利な短いエッセイの中で、コンラッドはポーランドというヨーロッパのマージナルな部分に生まれたことにより、西欧の社会の冷徹な観察者であるよう規定され、その意味で彼をポーランド、フランス、イギリスなどの、クロス・カルチュラルな接点に立つヨーロッパ作家として見ておられるが、私もこの観方に賛成である。コンラッドについての以上の略述からも、『密偵』の性格や特色はほぼ察せられると思うので、ここでは簡単な解説を記すだけにとどめておく。
『密偵』(The Secret Agent)は、序文にもあるように一八九四年二月十五日の実際のグリニッジ天文台爆破未遂事件にヒントを得、一九〇六年作者四十九歳のときに仕上げられた。「ロンドン・タイムズ」によれば、犯人は、アナーキスチックな雑誌「コモンウィール」の編集者ヘンリー・サミュエルズの義弟でマルシャル・ブルダンという外国の青年だったという。
この小説を眺める上で、当時のアクチュアリティを見落すことは許されない。一九世紀末のイギリス社会は、表面的には一応の安定を示していたが、さまざまな急進的な政治運動が底にあり、ときおり表面に爆発した。すなわち一八八二年にはアイルランド独立運動の過激派による総督殺人事件が、翌八三年にはダイナマイトによるいくつかの暗殺計画があり、八五年には衆議院でダイナマイトが爆発した。さらに八六年には、トラファルガー広場で社会民主主義者の団体が警官隊と衝突し、流血の惨事をひきおこした。また、この作品には、オシポン、カール・ユント、マイケリスなど外国名前の革命家が登場するが、実際ロンドンは多くの帝政ロシヤの革命家の溜り場であって、クロポトキン公爵、ステプニアクなどの著名人もその中にいた。
『カサマシマ公爵夫人』(一八八六)のヘンリー・ジェイムズと同様、コンラッドはこうした時代のアクチュアリティの真実の証人として登場し、時代の底にひそむ不安と崩壊の感覚を、的確に捉えている。いうまでもなく、ある小説の価値は、それが含むところのアクチュアリティの程度によって決定されるべきではない。しかし私たちがまず注目すべきは、アナーキストを通して社会の表面下でうごめく破壊的要素を把握した彼の想像力の鋭さであるだろう。コンラッドにとって、想像力とは現実の本質を明晰に認識し、実在するさまざまな事物についての知覚を、大いなる高次の創造へと高め、形象化する能力を指していたのである。
トーマス・マンはその卓抜な「コンラッド論」の中で、『密偵』のうちに、「きわめてイギリス的な感覚と精神で書かれた反ロシヤ的な物語」を見出し、作品の主題は「イギリスとロシヤの政治的イデオロギーの戦い」だと述べている。たしかに本作中では、あらゆるロシヤ的なものや人物は、作者の毒々しい諷刺を逃れていない。残忍・狡猾《こうかつ》で、異常に警察を恐れるウラジーミル一等書記官、怠け者で救いがたいオプチミストのマイケリス、無能な女蕩しオシポン、血なまぐさい過去がつきまとう老いぼれの狂信的テロリストのカール・ユント、小人という劣等感に歪められた滑稽な誇大妄想狂の「教授」。これらの人物中、わけても二重スパイ、アドルフ・ヴァーロック氏の造型は、比類ない独創だった。この怠惰で好色な大男が、実は、きわめて社会に忠実で、社会の秩序と安定のために働くスパイだったとは。
しかしコンラッドは、トーマス・マンが見たように、ロシヤ的なものだけを諷刺《ふうし》し、憎しみを注いだわけではない。祖国喪失の保守主義者コンラッドにとって、イギリスの秩序と自由は憧憬の対象だったことは疑いない。だが彼は出世欲に憑かれた警察官僚や、社会をおびやかしつつある危機にまるで鈍感な老政治家をも戯画化することによって、自らの憧憬の対象にも鋭い批判をあびせかけ、イギリス的な政治的風土のはらむ危険をも予測した。
コンラッドとドストエフスキーの精神的血縁関係は、しばしば指摘されてきたところである。たとえば『西欧の眼の下に』のプロットは、ただちに『罪と罰』を想い出させるし、『密偵』の白痴の登場や、暗い悪夢のような雰囲気、アナーキストへの悪意にみちた戯画化は、『悪霊』のイギリス版といえるかもしれない。だがコンラッドがこの予言者的なロシヤ作家と異なるのは、その冷たい徹底した離脱の姿勢にある。とりわけ『密偵』は、作中のいかなる思想や人物とも、「偉大なぞっとするような距離」を一貫して保ち、彼の政治小説中でも、もっとも政治を拒む視点、政治を嫌悪すべきアイロニーと見なす視点から描かれている。いいかえれば、ドストエフスキーは気狂いじみた情熱と渾沌《こんとん》にみちた『悪霊』の急進派の世界を、反動家として眺め、諷刺したのに反し、コンラッドは政治的意図を持たない保守主義者として、すべてを拒み、相対化視し、諷刺したのである。
ここで、コンラッドはなぜあれほどドストエフスキーを憎み、恐れながら、くりかえしその影の下に入ったのか、なぜたびたびアナーキストの世界に惹かれたのかという疑問が当然浮かんでくる。
アメリカの文芸評論家アーヴィング・ハウは、コンラッドにとって、ドストエフスキーの意味は「あまりにもロシヤ的」であるどころか、彼の内部と深く密接に関連していたのだという。なぜなら、このロシヤ作家のうちには、彼がそこから逃亡した忌わしい過去の雰囲気や情緒的パターンが再現され、彼のうちなる革命の血を点火しかねなかったから。
こう考えると、コンラッドの公的信条である保守主義と、アナーキズムへの執拗な関心は、実は基底において結びつくことがわかる。彼は自らのうちなるアナーキーなるものへの親和感、闇と破壊への共感を意識すればするだけ、イギリス的な秩序と安定によってあらわされる保守主義に必死にしがみついたのではなかろうか。『密偵』のうつろでぞっとするような離脱感は、こうした彼の内部状況の逆説的で、誠実な表現にほかなるまい。
しかし、すでに述べた孤独の探究者、コンラッドの姿は、この作品にも明瞭にあらわれている。すべての登場人物たちのあいだには、どんな精神的なつながりもなく、架橋しがたい亀裂が永遠に横たわっている。たとえば、暗い夜の寝室で苦しみ抜き、まんじりともしないヴァーロック氏に、もっぱら溺愛する弟のことしか語らない妻のウィニーの描写の中に、読者は人間の孤独についての作者の沈痛な凝視と、このエトランジェ自身のいたましい精神的風景を見出すことだろう。この解説の冒頭に引いた「エイミー・フォスター」の主人公と、コンラッドのイメージが微妙にオーバー・ラップしてくるのは、こういう瞬間である。
その他、『密偵』の均整のとれた劇的な構成、アイロニカルで、たぶんに印象主義的なその文体、鮮明なイメージによる巨大都市ロンドン(ある意味では、この≪非現実の市≫こそ、本作の主人公である)の濃密な喚起などにもふれなければならないが、すでに紙数がつきたので、この辺でやめておく。
最後に、この訳書は一九六六年思潮社から『スパイ』と題して発行され、同社社長・小田久郎氏のご好意で、八年後、河出書房新社から『密偵』という題で改訳して出すことを許されたものである。改題した理由は、十九世紀末イギリスに取材したこの作品には、『密偵』という題の方が時代的雰囲気と人物の内面をより強く感じさせて、ふさわしいのではないかということと、わが国のコンラッド研究家のあいだでは、最近この邦訳名がほぼ定着してきたということによる。また、河出書房新社の貝塚俊隆氏は、多忙な中をくわしく訳稿に眼を通し、多くの貴重な助言を与えてくださった。両氏に心から感謝申しあげたい。
今回、グーテンベルク21の大和田伸氏から拙訳を同社のインターネット・ライブラリーに収めたいというありがたい申し出を戴いた。二ヶ月の改訳期間も戴いた。多忙な毎日のなか、可能なかぎり手を加えたが、まだまだ不満なところがある。ともあれ、この機会を与えてくださった大和田氏の並々ならぬご好意には感謝の言葉もない。
一九九六年十二月二十五日
〔訳者紹介〕井内雄四郎(いのうちゆうしろう)
一九三三年生れ。早稲田大学文学部教授。現代英文学、比較文学専攻。早稲田大学大学院博士課程修了。主要著訳書、『現代イギリス流行作家たち』(共著、評論社)、『現代イギリス小説序論―政治と実存』(南雲堂)、ソール・ベロー『宙ぶらりんの男』(太陽社)、マーガレット・ドラブル『夏の鳥かご』(新潮社)、『季節のない愛』(原題『ギャリックの年』、サンリオ)、ジェニファー・ドースン『寒い国』(新潮社)、アイリス・マードック『誘惑者から逃れて』(集英社文庫)ほか。