青い麦
コレット作/石川登志夫訳
目 次
青い麦
解説
[#改ページ]
青い麦
「漁《りょう》に行くのかい、ヴァンカ?」
春雨《はるさめ》の色をおびた眼をした|つるにちにちそう《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》〔キョウチクトウ科の植物、花はあざやかな空色。ヴァンカの眼が青いことから、彼女の愛称となっている〕のヴァンカは、横柄《おうへい》にうなずいて、そのとおりよ、漁に行く格好をしてるじゃないの、と言わんばかりに答えた。つぎの当たった上着も、塩水で固くなった海岸用のサンダルも、それを証拠立てていた。作ってから三年にもなるので、丈《たけ》が短くなって、膝《ひざ》をのぞかせた青と緑の格子|縞《じま》のスカートは、小|えび《ヽヽ》や|かに《ヽヽ》をとるときだけにはくものだと、だれでも知っていた。それに、肩にかついだ二本の|えび《ヽヽ》網や、砂丘の|あざみ《ヽヽヽ》のように毛ばだって、青味がかったベレー帽にしても、見れば、これが漁に行く身支度だぐらい分かりそうなものではないか?
彼女は自分を呼びとめた少年のそばを通りすぎた。素焼《すやき》色の、均整がとれた細長い脚を大股にはこんで、彼女は海面にあらわれている岩場の方におりて行った。少年のフィリップは、今年のヴァンカと去年の夏休みのヴァンカとをくらべながら、歩いて行く彼女を見つめていた。これからも、もっと背丈をのばすつもりだろうか? もうそろそろのばすのをやめてもよい頃だ。背丈がのびたので、肉は去年以上にはついていない。かがやかしい黄金色のこわい麦|わら《ヽヽ》のように乱れた短い髪の毛は、四か月も伸ばし放しに伸ばしているのに、まだ編むことも巻くこともできないのだ。頬《ほお》や手は日に焼けて黒いのに、襟首《えりくび》は髪の下になっていて、牛乳のように白く、ぎごちなく微笑するかと思えば、大声をたてて笑うこともある。そしてまだふくらんでもいない胸の上に、ジャンパーや上着をぴったりと着ているかと思うと、水にはいるときなぞは、まるで男の子みたいに平気で、スカートもショート・パンツも、できるだけ高々とまくりあげるのだ……。
丈の高い草が生えている砂丘に寝ころんで、彼女の様子をうかがっていたこの仲間は、くぼみで二つに割れた顎《あご》を、十文字にくんだ両腕の上でゆすぶっていた。ヴァンカが十五歳と六か月になったのだから、彼は十六歳六か月になるわけだ。子供の頃は、ずっと仲よしの二人だったのに、青年期になると、次第によそよそしくなってきた。まず去年のことだが、ひどい口|喧嘩《げんか》や、意地の悪いなぐり合いをしたものだった。それがこの頃では始終、二人の間に重苦しく沈黙がおいかぶさって来るので、無理に会話をしようと努力するよりは、むしろ仏頂面《ぶっちょうづら》をしている方がましだと思うようになっているのだ。しかし狩猟や人をだますことに生まれつき向いているずるいフィリップは、自分の沈黙を神秘のヴェールで包みかくしてしまい、自分の妨げになるものを残らず反対に武器として使ったりした。彼は迷いからさめたような素振りをみせて、『言ったってしょうがないじゃないか?……きみなんかには分かりっこないんだから……』とずばりと思いきって言ってのけるが、ヴァンカの方は、黙りこんでしまい、自分が思っていることを言おうとしても言えずに、少年の気持ちを知りたいのにきけないで、ただ苦しむことしかできないのだ。そのうえ一方では、すべてを捧げたいという早熟な烈《はげ》しい本能に抵抗しながら、日ごとに変わり、一時間ごとに以前よりも、逞《たくま》しくなってゆくフィリップが、毎年七月から十月にかけての間、海上にかたむくように突き出ているこんもりと茂った森の中へ、また黒い|つのまた《ヽヽヽヽ》〔スギノリ科の紅藻植物。のりにして漆喰に使用する〕が生えている岩場へ、彼を連れて行く細い錨索《いかりなわ》を切りはしないかという懸念に、ただ精一杯耐えこらえることしかできないのだ。はやくも彼は、見るとはなしにこの女《おんな》友だちを、透明で、流動する、つまらないものでもあるかのように、いやな目つきで、じっと見ているのだ……。
多分、来年のことだろう。彼女が彼の足もとに身を投げだして、『フィル、意地悪しないで……。あたし、あんたを愛してるんだから、フィル、あたしを好きなようにして。ねえ、なんとか言ってよ、フィル……』と、女らしい言葉をささやくのは。けれど今年は、まだ子供っぽく、手に負えない気位《きぐらい》をすてないで、彼女は抵抗するのだ。だがフィリップにすれば、この抵抗が気に入らないのだ。
彼はこんな時間に、海の方におりて行く、肉づきはまだ十分ではないが、もうすでに美しいこの娘をじっと見つめていた。彼には別に、彼女を愛撫したいという欲望も、といって、なぐりつけてやりたいような気持ちもおこらなかった。ただ彼は彼女を、信頼のできる女、自分だけに約束された女にしておきたかった。彼自身だって顔を赤くするようなあの宝物――押し花にした花びらだの、色ガラスのビー玉《だま》だの、貝殻だの、草の実だの、版画だの、小さな銀の懐中時計などのように、自分の自由に処分できるものにしておきたかったのだ……。
「待ってくれよ、ヴァンカ! いっしょに漁に行くよ!」と彼は叫んだ。
彼女は歩調をゆるめただけで、振りむきはしなかった。彼は二、三歩飛びはねるようにして、彼女に追いついた。そして|えび《ヽヽ》網の一本を彼女から引ったくった。
「なぜ網を二本も持って来たんだい?」
「狭い穴で使うために、小さい袋網を持って来たのよ。それからもう一つの方は、いつもあたしが使う|えび《ヽヽ》網だわ」
彼は、青い眼の中に、その一番優しい黒い眼差しを注ぎこんだ。
「じゃあ、ぼくのためじゃなかったんだな?」
と同時に、彼は岩場の溝になっている悪路を越えさせるために、彼女に手をさしだした。するとヴァンカの日焼けした頬《ほお》に、さっと血の気がさした。普段とちがった仕種《しぐさ》の一つとか、変わった眼差しの一つとかが、彼女をどぎまぎさせるに十分だった。きのうだって、彼らは海岸から海岸へと、穴をさぐりながら、断崖を探し歩きまわったのだが、二人はお互いに助けあわなかったのだ……。彼と同じくらい機敏な彼女は、今まで、フィルの助けが必要だったことは覚えてもいなかった……。
「もう少し優しくしてくれよ、ヴァンカ!」
彼女が余りにぶっきらぼうに、大げさな仕種《しぐさ》で手を引っこめたので、彼は微笑しながら、頼むように言った。「なんだってそんなに、ぼくにつらく当たるんだい?」
彼女は、毎日のように水に飛びこむので、ひび割れがした唇をかんだ。そして|ふじつぼ《ヽヽヽヽ》が尖って生えている岩場の上を踏んで歩いた。彼女はよく考えてみたが、どうも腑《ふ》におちないことばかりだった。そういう彼の方こそ変じゃないか? 急に思いやりがあるようになって、愛想がよくなり、貴婦人にでもするように、自分なんかにも手を差しだしてくれたりして……。海藻や、|なまこ《ヽヽヽ》や、からだ全体が頭とひれだけのような|かさご《ヽヽヽ》の『狼《おおかみ》』や、赤い笹縁《ささべり》〔衣服や袋物のはしなどを布で細くふちどったもの〕のある黒い|かに《ヽヽ》や、小|えび《ヽヽ》などが透いて見える、よどんだ海水の穴の中に、彼女はゆっくりと網の袋をしずめた……。フィルの影が日の当たっている水溜まりをかげらせた。
「どいてよ! 小|えび《ヽヽ》の上に、あんたの影がうつるじゃないの。それにこの大きな穴はあたしのよ!」
彼はこだわらなかった。彼女は自分だけであさったが、気ばかりあせって、いつもほどうまくはゆかなかった。小えびは十匹も二十匹も、だしぬけに突っこんだ網から逃げて、岩の割れ目にうずくまり、そこから細いひげを出して、水を探ったり、漁の道具をあざけり笑ったりしていた……。
「フィル! 来てよ! フィルったら! 小|えび《ヽヽ》がいっぱいいるのに、どうしてもとれないのよ!」
彼はのんきそうに近づいてきて、小|えび《ヽヽ》がいっぱいいる小さな淵の上に身をかがめた。
「当たりまえだよ! きみはとり方を知らないんだもの……」
「よく分かってるわ。ただあたしは辛抱づよくないのよ」とヴァンカが気むずかしく叫んだ。
フィルが|えび《ヽヽ》網を水中に沈めた。そしてじっと動かさずにいた。
「岩の割れ目に、立派なのがいるわ……。あの角《つの》が見えないの?」とヴァンカが彼の肩のうしろでささやいた。
「見えないよ。でも平気さ。ちゃんと出てくるから」
「そう思う?」
「きまってるさ。見てろよ」
彼女がいっそう身をかがめた。すると彼女の髪の毛が、とらわれた短い翼《つばさ》がはばたくように、彼女の友だちの一方の頬を打った。彼女はうしろに身をひいたが、やがてまた、いつの間にかもとの姿勢にもどった。そしてまたうしろに身をひくのだった。彼はそれに気づく様子も見せなかった。しかし彼のあいている方の手が、ヴァンカのむき出しの日焼けした塩気ある腕を引っぱった。
「見ろよ、ヴァンカ……。一ばん立派なのが出てきたよ……」
引っこめたヴァンカの腕が、腕輪の中をすりぬけるように、フィルの手の中を、手首のところまですべった。彼がしっかり握りしめていなかったからだ。
「あんたなんかに、とれるものですか、フィル、また引っこんじゃったじゃないの……」
この|えび《ヽヽ》の活動をもっとよく追おうとして、ヴァンカは軽く握っているフィルの手の中で、自分の腕を肱《ひじ》のところまで引きもどした。緑色の水の中では、灰色の瑪瑠《めのう》のような細長い小|えび《ヽヽ》が、脚の先やひげの先で、網の縁をさぐっていた。今こそ、さっとすくう時機だった、そうすれば……。ところが漁師の方がぐずぐずしていた。多分、自分の手の中で、すなおに動かないでいる彼女の腕の肌ざわりや、一瞬ぐったりと今は自分の肩によりかかっているが、やがてはまた邪険に離れていってしまう髪の毛につつまれた彼女の頭の重みを、ゆっくりと楽しんでいたのかもしれない……。
「はやく、フィル、はやく網をあげてよ! あっ! 逃げちゃったわ! なぜ逃がしちゃったの?」
フィルはためいきをついて、自分の女友だちの上に視線をおとしたが、そこには、動揺させられた誇りが、彼の勝利をいささか軽蔑《けいべつ》しているようにみえた。彼は自由を少しも要求しないほっそりした腕をはなしてやった。そして一面に澄んだ水溜りを、|えび《ヽヽ》網でかきまわしながら言った。
「なあに! またやって来るよ……。待ってさえすればいいんだ……」
[#改ページ]
二人は並んで泳いでいた。彼の方が皮膚もずっと白く、ぬれた髪の毛の下には、黒いまるい頭が出ていた。ブロンドの女のように日焼けした彼女の方は、頭にスカーフをまいていた。無言のままでいても、申し分のない喜びがわいてくるこの毎日の海水浴のおかげで、むずかしい年頃の二人は、安らぎと幼さという両方とも危険にひんしているものを取りもどしていた。ヴァンカは彼の上に横になって、小さな|あざらし《ヽヽヽヽ》のように、空中に水をふきあげた。昼の間は髪の毛にかくされているばら色のきゃしゃな耳や、水浴の時だけにしか日の目をみない|こめかみ《ヽヽヽヽ》のあたりの白い皮膚のところが、ねじれたスカーフの下からのぞいていた。彼女はフィリップの方にほほえんだ。すると十一時の太陽のもとで、彼女の瞳《ひとみ》のえもいわれぬ青い色が、海の反射でいくぶんか緑色になった。フィリップは突然に水中にもぐると、ヴァンカの片足をつかみ、波の下で引っぱった。彼らはいっしょに『水を飲み』、吐いたり、息を切らしながら、水面に姿をまた現わした。そして彼女の方は、この幼友だちへの恋心になやむ十五歳という齢《とし》を忘れたかのように、また彼の方は、横柄で人を人とも思わぬ十六歳という齢や、美少年がいだく軽蔑心や早熟な所有者の要求なども忘れてしまったかのように、二人は笑っているのだった。
「あの岩まで泳いで行こうや!」と彼は水を切って泳ぎながら叫んだ。
しかしヴァンカはついて行かなかった。そして近くの砂浜へたどり着いた。
「もう帰るのかい?」
彼女は、まるで頭の皮をはぐように、被《かぶ》りものをむしり取ると、こわいブロンドの髪をゆすぶった。
「おひるにお客さんが一人来るのよ! 着がえするようにと、パパが言ってたわ!」
彼女は全身びしょぬれのまま駆けていった。大柄で、男の子みたいな格好だったが、がっちりした骨格と、のびのびした目立たない筋肉のために、すらりとした姿だった。フィルの言葉が彼女をとめた。
「着がえるんだって? それで、ぼくはどうすりゃいいんだい? 開襟《かいきん》シャツで食事をしちゃいけないんだろう?」
「いいわよ、フィル! 好きなようにすればいいわ! それに、開襟の方が、あんたにはずっと似合うことよ」
ぬれた日焼けした顔、|つるにちにちそう《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》のような眼が、すぐと苦悶《くもん》と嘆願と同意を求める強い気持ちを表わした。彼は尊大に黙りこんだ。するとヴァンカは|まつむしそう《ヽヽヽヽヽヽ》が咲いている海辺の牧場をのぼって行った。
ただひとりだけになったフィルは、水をたたきながら、ぶつぶつ言っていた。彼はヴァンカの好みなんか気にもしていなかったのだ。「おれがどんな服装をしたって、彼女にはいつも立派すぎるぐらいだ……。それに今年は、あいつは全然うれしい顔をしないものなあ!」
そして自分の二つの気まぐれな言葉の、はっきりした矛盾《むじゅん》が、彼を苦笑させた。今度は彼が波の上にあおむきになって、海水がとどろきわたるような沈黙で、自分の耳をいっぱいにさせていた。小さな雲が高くなった太陽をさえぎったので、フィルは眼をあけた。すると一つがいの|だいしゃくしぎ《ヽヽヽヽヽヽ》がくすんだ色の腹、先の細い大きなくちばし、飛んでいる間、曲げている黒い脚をみせて、自分の上を飛びすぎて行くのが目に入った。
「なんと途方もない考えを起こしたものだろう」とフィリップは思った。「いったい、どうしたんだろう? 彼女の格好ったら、猿が人間の着物を着たみたいじゃないか。これから聖体拝領《せいたいはいりょう》に出かける黒白の混血女の格好じゃないか……」
ヴァンカのわきには、だいたい似たような格好をした妹が、こわい麦わらのようなブロンドの髪の毛をたらした、日焼けした丸顔の中に、青い眼をぱっちり開いて、育ちのいい女の子らしく、皿のわきの、食卓布の上に、握った手首をのせていた。二着のひだ飾りのあるオーガンディーの白い同じような服が、アイロンをかけ、糊《のり》をつけて、姉と妹に着せられていた。
「タヒチ島(南太平洋中部、ソシエテ諸島の主島で、フランス領ポリネシアの中心地)の日曜日というところだな」とフィリップは心の中であざけり笑った。「こんなにみっともない彼女は、今まで見たこともないぞ」
ヴァンカの母親、ヴァンカの父親、ヴァンカの叔母、フィルとその両親、旅行中のパリのお客が、食卓を、緑色のスウェーター、縞《しま》のブレザー・コート、けんちゅう(柞蚕の糸で織った織物。中国山東省から多く産する)の背広でとりまいていた。懇意な二家族が毎年借りていたこの別荘には、きょうは、焼きたてのブリオシュとワックスの匂いがしていた。パリから来たこの白髪まじりのその紳士は、海水浴でいろいろな色にそまった大人《おとな》たちや、まっ黒になった子供たちの間に、色白でみなりのいい堂々たる風采を示していた。
「ずいぶん変わったわね、ヴァンカちゃん!」と、お客が少女に言った。
「いいお嬢さんになりましたな! いいお嬢さんに! あと二年もしたら……見たいですね!」
ヴァンカはこれを聞いて、女らしい生き生きした眼差しをお客に投げて、にっこりした。赤い唇が二つにほころびて、白い歯並びを見せた。彼女が自分の名にしている花、つるにちにちそう《ペルヴァンシュ》のような青い瞳が、ブロンドの睫毛《まつげ》でおおわれた。するとフィル自身もうっとりとさせられてしまった。「おや!……彼女はどうしたのかしら?」
布を壁にはったホールで、ヴァンカはコーヒーの給仕をした。彼女は一種の軽業《かるわざ》のような魅力をたたえて、張りきって、万事円滑に動きまわっていた。さっと風が吹きこんで来て、きゃしゃなテーブルを押し動かすと、ヴァンカは片足で倒れかかった一つの椅子をささえ、顎《あご》で吹きとばされそうなレースのナプキンをおさえたまま、しかも粗相《そそう》もせずに、コーヒーをカップに注ぎ続けた。
「ごらんなさい、あれを!」とお客は感心した。
彼は彼女を『タナグラ人形(ギリシャのタナグラの墓地から掘りだされるはにわ。さまざまな風俗の美しい娘の人形で、彩色したものが多い)』と呼んでは、無理にシャルトルーズ酒を飲ませたり、カンカール(ブルターニュの漁港で、英仏海峡にのぞむ)のカジノで、彼女に恋して、肱鉄砲《ひじでっぽう》をくらった男たちの名をたずねたりした……。
「あら! まあ! カンカールのカジノですって! でもカンカールにはカジノなんかないわ!」
彼女は歯なみのしっかりした半円をすっかり見せて笑い、白い靴の先で、バレリーナのように旋回した。艶《つや》っぽいしぐさに策略が加わった。フィリップの方は見ようともしなかったのだ。彼はピアノと銅製の花瓶《かびん》にいけた|あざみ《ヽヽヽ》の大きな花束のうしろから憂欝《ゆううつ》そうに彼女を眺めていた。
「おれは間違っていたぞ」と彼は自分に言った。「彼女はすごく美しいやあ。これは新事実だ!」
お客が蓄音器の音にあわせて、ヴァンカにバランセロ(ダンス曲の一つ)を教えてやろうと言い出したので、フィリップは戸外へすべり出て、浜辺の方へ走った。そして砂丘のくぼみにからだをまるくして寝ころび、頭を腕にのせ、腕を膝にのせた。肉感的な傲慢《ごうまん》さで満ちあふれた新しいヴァンカが、彼の閉じた瞼《まぶた》の裏にいつまでもこびりついていた。それは突然丸味をおびた肉体に生長して、すっかり武装した、こびるようなヴァンカであり、意地悪で反抗するヴァンカだった……。
「フィル! フィルったら! あんたを探していたのよ……。どうしたの、あんた?」
彼の気持ちをそそのかした女が、息を切らして、そばに来ていた。そして無理に額をあげさせようと、彼の髪の毛を無邪気《むじゃき》にわしづかみにして引っぱった。
「どうもしてないよ」と彼はしゃがれた声で言った。
彼はこわごわ眼をあけた。砂にひざまずいて、彼女はオーガンディーのいくつものひだ飾りをしわくちゃにして、インディアンの女のように、はい回っていた。
「フィル! お願い、怒らないで…。あたしに何か気に入らないとこがあるのね……。フィル、あんただって、あたしがだれよりも深く愛しているのを分かっているでしょう。なんとか言って、フィル!」
彼はさきほど自分を怒らせた束の間のかがやくばかりの美しさを、彼女の上に探した。ところが、今はもう、それはおろおろしている一人のヴァンカ、真実の恋のせつない執着と、不器用さと、卑下する思いとを、あまりに早く背負わされた一人の少女にすぎなかった……。彼女が接吻していた自分の手を、彼は引っこめながら言った。
「構わないでくれよ! きみには分からないんだ。きみには、いつも何一つ分かっちゃいないんだ!……起きろよ、さあ!」
こう言いながらも、彼は、しわになった服をのばしてやったり、ベルトのリボンを結んでやったり、風に吹かれて、さか立ったこわい髪の毛を撫《な》でつけてやったりして、探し求めたのだった。さっきちらっと見たかわいらしい偶像の姿を、もう一度、彼女の上に作りあげようと努めていたのだった……。
[#改ページ]
「夏休みも、あともうひと月半だなあ、なんてことだ!」
「ひと月よ」とヴァンカが言った。「あたしが九月二十日には、パリに帰ることは、あんたも知ってるわね?」
「なぜだい? お父さんは毎年十月一日まで、休暇じゃないか」
「そりゃそうよ。ママとあたしとリゼットの三人は、九月二十日から十月四日までの間に、秋の支度をするので、暇があるわけじゃないのよ、――通学用の服が一枚、あたしのためのコートと帽子、それにリゼットにも同じものがいるわ……。だからあたしたち、女は、つまり……」
あおむけに寝ころんだフィルは、砂をつかんで、空中に投げた。
「ふん!……『きみたち、女は……』やたらにそんなことに、もったいぶるんだな!」
「でも仕方がないのよ……。あんたなんかは、仕立てあがった背広が、ちゃんとベッドの上に出してあるでしょう。お父さんが行っちゃいけないと言うのに、店で買ったりするから、靴だけは自分で買うけど、ほかのものは、全部ひとりでに出てくるんですもの。すごく便利ね、あんたたち、男の人は!……」
フィリップは、この皮肉に応じようと、腰をひねって起きあがった。しかしヴァンカはからかっているのではなかった。彼女は自分の眼の色と同じ青い厚地のちぢみの服を、ばら色のスカラップ(えりの縁、袖口、すそなどにする扇形、波形に連続した飾り縁)で縁どりながら、縫っていた。ジャンヌ・ダルク(英仏両国間の百年戦争の末期にフランスを勝利に導いた愛国の少女)のような髪型に刈った彼女のブロンドの髪は、ゆっくりと伸びていた。彼女はときどき、それを襟首《えりくび》のところで二つに分け、青いリボンで結び、まるで小麦色の短い二本のほうきのように、両方の頬《ほお》に沿うてたらしていた。先ほどの昼食会の時から、彼女はリボンの片一方をなくしてしまっていた。それで彼女の髪の半分が、ひろげたカーテンのように、顔の半分を打っていた。
フィリップは眉《まゆ》をひそめた。
「やあ、なんてひどい髪をしてるんだい、ヴァンカ!」
彼女は夏休みで日焼けした顔を赤くした。そして髪の毛を耳のうしろにかきあげながら、彼に控え目な眼差しを投げかけた。
「わかってるわよ……。髪が短すぎるうちは、よく結べないはずよ。この結び方は、それまでの仮のもんだわ……」
「仮のままで、みっともなくてもいいのかい。それで、きみはよく平気だな……」と彼はきびしい口調で言った。
「そんなつもりじゃないわよ、フィル」
彼女があまりに優しいので、かえって彼は黙ってしまった。すると彼女は、彼の方に驚きの眼をあげた。それは彼女がフィルから寛容な態度など、ついぞ予期していなかったからだ。彼自身もこれをはげしい性質の一時的な休みだろうと思って、これから浴びる非難やら、子供らしい皮肉、それに彼が女友だちの『グレーハウンド犬の気まぐれ』と呼んでいるものやらに対する用意をととのえた。ところが彼女は寂しく微笑するだけだった。その微笑も静かな海とか、高く吹いている風が羊歯《しだ》の形の雲をえがいている空とかに、あてどもなくさまようように向けられていた。
「あたしは、あべこべよ、すごくきれいになりたいのよ。本当なのよ。ママが言ってたわ、あたしはもっときれいになれるって、でも辛抱づよく待たなきゃいけないって」
気位《きぐらい》は高いが、態度がぎこちなく、走ることには訓練されている、またからだは塩水をあびて、堅くやせているその十五歳という年齢が、彼女を、容赦《ようしゃ》しないが一方|愛撫《あいぶ》するような鞭《むち》のように、ときどき見せるのだ。だが彼女のたぐいまれな青い眼と、清純で健康な唇とは、すでに女性美の完成された作品になりきっていた。
「そうか、辛抱づよく待つのか、辛抱づよくね……」
フィルは立ちあがった。海岸用のサンダルの先で、空《から》になった|かたつむり《ヽヽヽヽヽ》の小さな殻《から》が真珠のようにちらばっている乾いた砂丘を浅く掘りけずった。辛抱づよく待つという、彼の大きなこの言葉が、夏休みの高校生のしあわせな昼寝を台なしにしたばかりなのだ。血気さかんなその十六歳という年齢は、無為《むい》や、じっとして動かないけだるさなどには順応したが、待つという考えや、辛抱づよい成熟などにはついて行けなかった。彼は両手の拳《こぶし》を突きだし、半裸の胸をふくらませ、地平線にむかって挑戦した。
「辛抱づよく待つか! きみたち、みんなの口の中には、この言葉しかないんだ! きみも、うちのオヤジも、おれの『教師』たちも、みんなそうなんだ……。ああ! まったく、うんざりだよ……」
ヴァンカは縫う手をやめてしまったが、それは青年期になっても、不格好にならない均整《きんせい》のとれた自分のこの友を、立派だなと見とれるためだった。褐色の髪、白い肌、中肉中背の彼はゆっくりと成長しつつあった。そして十四歳からは、年ごとにいくぶん伸びてゆく小さな美男子に似ていた。
「だって仕方ないわ、フィル、ほかにどうすりゃいいの? あんたは両腕をつき出しちゃってさ、『ああ! うんざりだよ』と言って呪《のろ》えば、いつも何か変わるぐらいに思ってるらしいけど。あんただって、ほかの人たちより抜け目がないってわけじゃないわ。大学入学資格試験を受けなければ。運がよければ、パスするわよ……」
「黙っていてくれよ!」と彼は叫んだ。「きみまでがうちのおふくろみたいなことを言う!」
「そしてあんたは子供みたいなことを言うのね! かわいそうな坊や、あんたのような短気で、いったいどうなると思ってるの?」
『かわいそうな坊や』と呼ばれたので、フィリップの黒い眼が、憎らしそうに彼女をにらんだ。
「どうしようとも思っていないよ!」と彼は悲しげに言った。「とくに、きみに理解してもらおうとは思っちゃいないなあ! きみはそうやって、ばら色のスカラップや、新学年の開始や、授業や、毎日のきまりきった事柄などを考えてるけど……。このぼくは間もなく十六歳六か月になるということしか頭にないんだ……」
屈辱の涙できらきら光るペルヴァンシュの眼が、それでもどうやら首尾よく笑った。
「あら! そうなの? あんたは十六歳になったというので、世界の王様になったような気がしているのね? それ、映画の影響?」
フィルは彼女の肩をつかまえて、横柄《おうへい》にゆすぶった。
「黙っていてくれと言ってるんだぜ! きみは口をあければ、ばかなことしか言えないんだ……。ぼくはやりきれないんだ。分かるかい。自分がやっと十六歳になったばかりだということがやりきれないんだよ! これから先、数年間は、やれ大学入学資格試験だ、やれ学年試験だ、やれ職業教育だという年なんだ。模索《もさく》とたどたどしい試練の年なんだ。その間にも、しくじったことは繰りかえさなければならないし、もし失敗すれば、消化しきれなかったことを、もう一度|噛《か》みなおすんだ……。親父やおふくろに対しては、がっかりさせないために、何か一つの職業が好きなような顔をしていなければならないんだ。また両親自身にしても、ぼくについて、ぼく以上に何も知らないくせに、自分たちの眼鏡に狂いないという顔つきをしようとして、むだな努力をしているのを感ずると、なおのことある職業が好きでございますという顔をしていなければならない数年がつづくんだ……。ああ! ヴァンカ、ヴァンカ、ぼくは自分の一生でこの時期がいやでたまらないんだ! なぜすぐと、ぼくは二十五歳になってしまえないんだろう?」
彼は手きびしさと一種のおきまりの絶望感にかがやいていた。早く年をとりたいという焦《あせ》りと、肉体と精神の開花期を軽蔑《けいべつ》する気持ちとが、このパリの小実業家の息子を、ロマンティックな主人公に変えていた。彼はヴァンカの足もとにすわると、なおも嘆き悲しみつづけた。
「ヴァンカ、この先なお何年もあるんだ。その間中、ぼくは、生半可《なまはんか》の大人《おとな》で、生半可な自由で、生半可な恋人でしかないんだ!」
彼女は自分の膝《ひざ》の高さのあたりで、風のために逆立っている彼の黒い髪の毛に手をおいた。そして自分の心の中で、女の知恵がかき乱すすべての気持ちを、じっと抑えて、『生半可な恋人でしかないんだって! 生半可な恋人でしかないなんてことが、いったいあるのかしら?……』
フィルは乱暴に自分の女友だちの方に振りむいた。
「きみは、なんにでも我慢しているきみは、いったい何をするつもりなんだい?」
黒い眼差しに見つめられて、彼女は、またもやかわいらしいが自信のない顔つきになった。
「同じことをするつもりだわ、フィル……。だって、あたしは大学入学資格試験は受けないつもりですもの」
「何になるつもりなんだ? 製図をやるつもりなのか? それとも薬局か? どっちにきめるんだい?」
「ママが言ってたわよ……」
彼は起きあがりはしなかったが、若駒のように、いらいらして砂をけった。
「『ママが言ってたわよ!……』か。またなんという奴隷《どれい》の卵だ! いったいその『ママ』がなんと言ってたんだ?」
「言ってたわよ」とヴァンカはすなおに繰りかえした。「自分にはリューマチスがあるし、リゼットはまだやっと八つになったばかりなんだし、遠くを探さなくとも、あたしにはうちの中ですることがいくらでもあるんだから、やがては、あたしは家計を任されるだろうし、リゼットの教育や召使いたちの監督など、いっさいを見なければならないって言ってたわ……」
「それで、いっさいか! くだらないことばかりだなあ!」
「……それに、あたしが結婚するだろうって……」
彼女は顔を赤くした。その手がフィリップの髪の毛から離れた。そして彼女は何か言ってもらえると思ったようだった。しかし彼はそれを口に出さずにしまった。
「……つまり、結婚するまでには、あたしには、いくらもすることがあるのよ……」
彼は向きなおると、彼女を軽蔑《けいべつ》するように、じろじろ見つめた。
「で、きみは我慢できるのかい? ね……五年も六年も、それ以上かもしれないのに、それで我慢できるのかい?」
青い眼は動揺したが、わきにそれはしなかった。
「そうよ。フィル、時節がくるまではね……。まだお互いに、やっと十五と十六ですもの……。気長に待つより仕方がないわよ……」
彼はこの大きらいな言葉がひどくこたえて、すっかり気持ちが弱くなってしまった。またしても、彼の幼い女友だちの純真、彼女が思いきって打ち明ける服従の誓《ちか》い、つつしみ深い、古くからの家庭を尊敬するこの女らしい流儀、こうしたものが彼に口をきけないようにさせ、彼を失望させたが、また一方では漠然と彼を落ち着かした。思春期の先の長い困難な行路を前にして、足枷《あしかせ》をはめられた牝馬《めうま》のように足踏みしながら、鼻先を冒険《アヴァンチュール》の方へ向けている元気一ぱいのヴァンカだったら、彼ははたして彼女を受け入れる気になっただろうか?……
彼は幼友だちの服に頭をもたせかけた。ほっそりした膝《ひざ》がびくっとおののいて、ぴたりと合わされた。するとフィリップは急に激しく感情がたかぶるのを覚えて、この膝のかわいらしい形を思いうかべた。しかし彼は眼をとじて、自信のある重みを持つ頭をゆだねたまま、じっとしていた。そのまま何かを待つかのように……。
[#改ページ]
フィルが、まず先に道の方に出てきた。――波のように移動する、乾いた砂にへこんでいる二本の轍《わだち》の跡と、中央には、塩でむしばまれ、まばらな草が生えている一本の土手《どて》とになってしまっている道――この道をとおって、大潮《おおしお》のあと、二輪の荷車が、海藻《かいそう》を探しにやってくる。彼は二本の|えび《ヽヽ》網の柄《え》を杖《つえ》に、|えび《ヽヽ》の魚籠《びく》を二つ肩から脇の下に掛けていた。しかし生魚を餌《え》につけた二本の細い爪竿《つめざお》と、袖を切りおとした大事なぼろ服、漁のとき着るブレザーは、ヴァンカに預けておいてきたのだった。彼は十分に働いたあとの休息をとることにした。そしていましがた彼が、八月の大潮で露出した岩と水溜りと海藻《かいそう》でできた砂漠に置きざりにしてきた漁に夢中になっているかわいらしい女友だちを待つことにした。道のくぼみに滑りおちる前に、彼は眼で、彼女を探した。傾斜した海岸の上に、太陽が反射している無数の小さな水鏡の光の間に、砂丘の|あざみ《ヽヽヽ》のように色あせた青い毛のベレー帽が一つ、ヴァンカが意地になって、なおも小|えび《ヽヽ》や桃色の|いちょうがに《ヽヽヽヽヽヽ》を探している場所を示していた。
「あんなに面白いのかなあ!……」とフィリップはためいきをついた。
彼は滑りおちると、自分の裸の上半身を冷たい砂の轍《わだち》の跡に気持ちよさそうに押しつけた。頭のそばの魚籠《びく》の中で、一にぎりほどの小|えび《ヽヽ》のしめっぽい囁《ささや》きと、蓋《ふた》をもちあげようとして引っかく一匹の大きな|かに《ヽヽ》のはさみの小ざかしい音が聞こえた……。
気持ちよい疲労や、よじのぼって来たのでまだ緊張している筋肉がふるえていることや、また塩分をふくんだ水蒸気がたちこめるブルターニュ地方の午後の色彩と暑さ、こうしたものがそれぞれにかもしだす、ほのかな、汚れのない幸福感にひたって、フィリップはためいきをついた。彼は、じっと見ていた牛乳色の空に、眼がくらくらして、坐りなおすと、もう一度びっくりしたように、自分の脚と腕のいつもとは違っている青銅色を見なおした、――それは、十六歳になるほっそりした腕と脚だったが、形こそは充実していても、まだたくましい筋肉があらわれていなかった。しかしこれは、青年としても、娘としても自慢することができる腕と脚だった。彼は、すりむいて、血が出ている踝《くるぶし》を片手でぬぐうと、塩気をふくんだ血と海水がついた手をなめた。
陸から吹いてくる微風には、鎌でかった二番生えの草(家畜の飼料として夏の初め一度刈り、やがてまた伸びてきた草を刈ったもの)や、牛小屋や、踏まれた|はっか《ヽヽヽ》の匂いがした。朝からあたりを一面支配していて変わらなかった青空が、海面すれすれのところで、少しずつ埃《ほこり》っぽいばら色と入れかわっていた。『肉体は満足し、眼は楽しみ、心臓は軽く、からっぽのように高く鳴りひびいている。そしてこの三つのものが味わうことのできるすべての喜びを、瞬間のうちに、恵まれるなどということは、人生でもそうざらにはないことだ。だから、おれはこの瞬間をけっして忘れないぞ』とまで、フィリップは自分に言いきかすことはできなかった。しかし口の両端を不安でふるわせ、眼をうれし涙でいっぱいにするためには、ただ小山羊《こやぎ》の鳴き声と、その首につるされたひびの入った鈴の音《ね》だけで十分だった。彼は、自分の女友だちがさまよっているぬれた岩場を振りかえろうともしなかった。そして彼の清純な感動からは、ヴァンカの名も出てこなかった。十六歳の少年としては、思いがけない無上の喜びの救いとして、おそらく自分と同じようなあこがれに悩んでいる少女を呼ぶことはできないのだろう。
「ちょっと! 坊ちゃん!」
彼がわれにかえったその声は、若々しく、権力をそなえていた。フィルは起きあがらずに、自分から十歩ほどのところ、海藻《ゴエモン》の道に、白いハイヒールと、ステッキを突っこんだまま立っているまっ白な服の貴婦人の方を振りむいた。
「ねえ、坊ちゃん、教えてちょうだい、この道、自動車ではこれ以上先へ入れないんじゃないの、ねえ、そうでしょう?」
礼儀上、フィリップは起きあがって、近づいた。立ったとき、裸《はだか》の上半身に、ひえびえした風と、白服の夫人の視線を感じ、彼ははじめて顔を赤くした。その夫人はにっこりとほほえんで、言葉の調子をあらためた。
「ごめんなさいね、ムッシュー……運転手が道をまちがえたらしいんですの。あれほど注意してやったのに……。この道は先で細くなってしまって、海にしか行けないんでしょう?」
「そうです。マダム、これは海藻《ゴエモン》の道路ですから」
「ゴエモンの? そのゴエモンって、ここからどれくらいあるんですの?」
フィルは思わず、ぷっと吹きだしてしまった。すると白服の夫人も快く真似てくれた。
「わたくし、何かおかしいことでも言いまして? 用心なさいよ、またわたくしに子供あつかいにされましてよ。だってお笑いになると、十二ぐらいにしか見えないんですものね」
そのくせ、彼女は一人前の男に対するように、彼の眼の中をじっと見つめていた。
「マダム、ゴエモンというのは地名ではありません。それは……海藻《ゴエモン》ですよ」
「明快なご説明ですわ」と白服の夫人は称賛した。「どうもありがとうございました」
彼女はその静かな眼差しと同じ調子の、男みたいな鷹揚《おうよう》な仕種《しぐさ》で、からかった。するとフィリップは急に疲れを感じて、ぐったりなって、気がぬけてしまった。青年が女性の前へでると、よくおそわれるあの女性的な発作《ほっさ》の一つにやられて、不髄になったのだ。
「大漁でしたの、ムッシュー?」
「いいえ、たくさんはとれません、マダム……。というのは……ヴァンカの方がぼくより余計に小|えび《ヽヽ》をとりました……」
「ヴァンカってどなた? 妹さん?」
「いいえ、友だちです」
「ヴァンカって……外国の名前ですの?」
「いいえ……つまり、それはつるにちにちそう《ペルヴァンシュ》という意味です」
「あなたと同じくらいの年頃のお友だちですの?」
「彼女は十五歳です。ぼくは十六歳です」
「十六歳ね……」と白服の夫人は繰りかえした。
彼女はなんの注釈もつけなかった。そしてちょっと間をおいてから、つけ足して言った。
「頬《ほお》に砂がついてますわ」
彼は皮膚がすりむけるほど夢中になって、頬をこすった。すると腕がだらりとまたたれさがった。『もう腕の感覚がなくなっている。このまま気を失うらしい……』と彼は思った。
白服の夫人の静かな眼差しが、フィリップを解放した。そして微笑しながら、
「あそこへヴァンカが来ましたわ」と、木のわくにはまった網と、フィリップの上着をひきずって、少女の姿が現われてきた道の曲がり角を指さしながら、彼女は言った。
「ではまたね、ムッシュー、お名前は?」
「フィルです」
と彼は機械的に言った。
彼女は握手の手を差しださなかったが、二三度繰りかえし首でうなずいて、彼に挨拶《あいさつ》した。それは内証の思いごとに、『そうよ、そうよ』と答えている女性のような様子だった。ヴァンカがかけてきたときには、白服の夫人の姿はまだすっかり消えてはいなかった。
「フィル! あの奥さんはだれなの?」
両肩と顔全体とで、彼は何も知らないと説明した。
「知らないのに、話をするの?」
フィルは、胸の中に再び生まれてきて、さっきまでの一時的なこの束縛された気持ちをふき払ってくれた茶目っ気にもどって、自分の女友だちをじろじろと見てやった。彼は自分たちの年齢、はやくもいざこざが生じた自分たちの友情、自分自身の横暴ぶり、そしてヴァンカのじきにがみがみ言う献身ぶり、こうしたものを楽しげに意識していた。びしょぬれの彼女は、受難の聖セバスチャン(一一八八年、キリスト教徒迫害のためローマで殉職した聖者)のように、打ち傷だらけの膝《ひざ》であったが、その切り傷がある皮膚につつまれたすばらしい膝を見せていた。その手は、植木屋の下働きか、少年水夫の手だった。また緑色になったハンカチがそのネクタイになっていたし、そのジャンパーは生《なま》の|いがい《ヽヽヽ》(イガイ科の二枚貝)の匂いがした。毛ばだったその古いベレー帽は、彼女の眼と、青い色という点ではもう勝負にならなかった。この不安げで、ねたみ深く、雄弁な眼をのぞけば、彼女は女装してジェスチュア遊びをしている男の高校生そっくりだった。フィルが笑いだすと、ヴァンカは地団駄《じだんだ》ふんで、あずかっていたブレザーコートを、彼の顔に投げつけた。
「返事したらどうなの?」
彼は上着のありもしない袖に、頓着《とんちゃく》もしないで、裸の腕を通した。
「ばかだなあ、ほんとに! あれは自動車で、道を間違えた女の人だよ。もう少しで、自動車がここにはまりこむところだったのさ。あの人に教えてやったんだよ」
「あら、そうなの……」
腰をおろして、ヴァンカは海岸用のサンダルをぬいだ。すると中からぬれた砂利《じゃり》が雨のようにこぼれた。
「でもなぜあの女の人は、ちょうどあたしが来たとたん、あんなにさっさと行ってしまったのかしら?」
フィリップは答えるまでに少し間をおいた。彼はあらためて、あの未知の女の、身振りには出さない自信のほどと、しっかりした眼差し、それにその瞑想《めいそう》的な微笑を味わい楽しんだ。彼女が自分を、重々しく『ムッシュー』と呼んだことを思い出した。それに、ただ『ヴァンカ』と敬称もつけずに、ごく短く、あまりに馴《な》れ馴《な》れしく、少し侮辱《ぶじょく》したように、彼女が言ったことも思い出した。彼は眉《まゆ》をひそめた。そしてその眼差しをもって、女友だちの無邪気《むじゃき》なとり乱し方をかばってやった。彼はしばらく考えて、小説にあるような空想的な秘密に対する自分の趣味と、ブルジョワ少年らしいはにかみとを同時に満足させるどっちにも取れる返事を思いついた。
「あの人は気を利かしたんだよ」と彼は答えた。
[#改ページ]
彼は懇願《こんがん》を試みた。
「ヴァンカ、ぼくの方を見ておくれよ! 手を握らせておくれよ……。ほかのことを考えようよ!」
彼女は窓の方へ顔を向けて、そっと手を引っこめた。
「ほっておいてよ。あたし、くさくさしてるんだから」
八月の大潮のしぶきが、雨をともなって、窓いっぱいにひろがっていた。大地はすぐそこ、砂地の牧場の境のところでおわっていた。風がさらにもう一吹き吹けば、そして水泡によって、幾筋にも平行して段がついている灰色の畑のような海が、さらにもう一つ盛りあがったならば、きっとこの家までが、方舟《はこぶね》のように流されてしまうだろう……。しかしフィルとヴァンカは、八月の潮とその単調な海鳴りも、九月の潮とそのたてがみを振りみだした白馬《はくば》のような波も、毎年見て、よく知っていた。あの牧場のはずれを波は越えることができないのだということを、彼らは知っていた。そして毎年、子供の頃から、人間の支配する国のむしばまれた境界で、無力におどっている、泡だらけの革紐《かわひも》のような波を、彼らは軽蔑《けいべつ》していたのだ。
フィルはガラス戸をまた開けて外に出ると、骨を折ってそれをまた閉めた。風に向かって頭をつきだし、嵐に吹きちぎられた霧雨《きりさめ》に額を差しのべた。この柔らかい海の雨は、幾分塩気をふくんでいて、まるで煙のように空中を流れていた。彼はテラスで、朝から出しっぱなしにしておいた鉄鋲《てつびょう》を打った遊戯《ゆうぎ》用の球と、それから黄楊《つげ》製の球戯《コショネ》(球ころがしをする遊戯)の的球《まとだま》と、タンブリンやゴムボールを拾いあつめた。彼は、もう自分を喜ばせなくなったこれらの玩具を、長いこと使わなければならない仮装用の部品を片づけるように、物置の中にきちんと並べた。窓の向こうがわでは、ペルヴァンシュの眼が彼を追っていた。そして窓ガラスを伝って流れる雫《しずく》は、空の大理石模様のついた錫《すず》色にも、海の緑がかった鉛色にも影響されない、青い色をした彼女の不安げな眼から、まるでたれているように見えた。
フィルは木製の肱《ひじ》掛け椅子を折りたたみ、籐《とう》のテーブルを裏返した。彼は前を通りすぎるときも、女友だちにほほえみかけなかった。ずっと以前から、彼らは互いに相手を喜ばすために、もう笑顔をかわす必要はなくなっていた。それにきょうは、彼らを喜ばすようなことは、何もなかったのだ。
『あともう四、五日しかない、三週間にもなるのに』とフィルは思った。彼は手についた砂を、ぬれた|いぶきじゃこうそう《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》(芳香のある多年生の植物。フランスに多い)の茂みで、拭きとった。それは花を一ぱいにつけ、またそこには、雨におそわれた小さな|もんすずめ《ヽヽヽヽヽ》蜂(ハチドリ科の鳥。舌を出して昆虫を食べ、花の蜜を吸う)が、かじかんだままで、つぎの日射しを待ちわびながらとまっていた。彼は掌《てのひら》に移った清らかで新鮮な花の香を吸いこんだ。そして十歳の少年にでもあるような悲しみや、弱々しく甘《あま》い波のように打ちよせる気持ちに抵抗した。だが彼はガラス越しに、雨の長い涙としおれた|ひるがお《ヽヽヽヽ》の渦《うず》をまいた花冠《かかん》の間に、ヴァンカの顔があるのを見つけた。それは、皆の前では、分別のある陽気な娘の十五歳という年齢のかげに隠しておいて、彼だけに見せるような、すでに一人前の女としてのあの顔だった。
雲間に一筋の晴れ間ができて、にわか雨が降らなくなり、地平線の上に明るい切れ目が半ば開いていた。そこから、くすんだ白い光線が、扇《おうぎ》をさかさにしたように、ひろがった。この雨の小やみを前にして、フィリップの魂は、彼の不安な十六歳という年齢が素直に要求する恩恵《おんけい》とくつろぎとを求めて飛びたった。しかし海の方を向いていたものの、彼は自分のうしろに、閉めきった窓があり、そのガラス戸に顔を寄りかけてヴァンカがいることを感じていた。
『あともう四、五日しかない。やがてぼくたちは別れ別れになるんだ。どうしたら、よかろうか?』と彼は心の中で繰《く》りかえした。
去年の夏休みの終わることが、彼を不幸な少年にしてしまったのだが、それでもその後パリに帰り、通学生として、また学校に通うようになると、どうやら落ち着けて、日曜日ごとの慰安だけで、やがてあきらめるようになったことなど、今の彼には思い出す余裕もなかった。去年フィリップは十五歳だった。毎年誕生日がめぐってくるたびに、ヴァンカと彼に関係のないものは、いっさい、濁《にご》って、価値のない過去の中へと追いやられた。では、それほど自分は彼女を愛しているのだろうか? 彼はそう自分の心にきいてみた。だが愛という言葉以外の言葉は、見つからなかった。そこで彼は、ひどく腹を立てて、額にたれる髪の毛をかきあげた。
『もしかすると、ぼくはそれほど彼女を愛していないのかもしれないな、でも彼女はぼくのものだ! これだけは確かだ!』
彼は家の方に振りむいて、風の中で叫んだ。
「ヴァンカ! 出ておいでよ! もう雨は止んでるよ!」
彼女は扉をあけ、敷居の上に、まるで病人のように、おどおどした様子で、片方の肩を耳の方につりあげて立った。
「さあ、おいでよ! 潮がまた引いている。雨を持って行ってくれるんだろうよ!」
彼女は白いスカーフを襟首《えりくび》の上で結んで、髪を包んでいたので、まるで怪我をした女のように見えた。
「突端《はな》のところまで行こう。あの岩の下は乾いているよ」
彼女は何も言わないで、断崖の中腹に沿っている税関への小道を、彼について行った。彼らは刺すような匂いがする花|はっか《ヽヽヽ》や、名残《なご》りの香を放っている|えびらはぎ《ヽヽヽヽヽ》を踏みたおしながら進んだ。彼らのところから下の方では、海が引きさかれた旗のように、ばたばたと音をたて、滑るように岩を洗っていた。海の力は断崖の上の方まで、なまぬるい息吹《いぶ》きを押しあげてきたが、それは|いがい《ヽヽヽ》の匂いや、風と鳥が飛びながら空中から種をまいて行く岩の小さな割れ目にたまった土の香を運んできた。
彼らは自分たちの隠れ家《が》にたどりついた。そこは舳《へさき》の形をした岩に完全におおわれて、乾いていた。縁《へり》のない平《ひら》たい場所で、そこにいると、沖へ向かって今にも漕《こ》ぎだすような気分になった。フィリップはヴァンカのわきに腰をおろした。彼女は彼の肩に頭をもたせかけた。疲れきっているらしく、すぐに眼を閉じた。植物のように心地よく、柔らかな、短い産毛《うぶげ》がはえ、焦茶《こげちゃ》色の砂子《すなご》を散らした、ばら色で、ふっくらしていて日焼けした彼女の頬は、きょうは朝からあおざめていた。日光の烈しさにいたんだ果実のように、いつも少しひびが入っている新鮮な彼女の唇も、きようは同じく色あせていた。
あの昼食のとき以来、彼女は強情ながら優しくて聡明《そうめい》なブルジョワ娘のいつもの良識を振りかざして『子供の頃からの恋人』という苦情に対抗するのをやめてしまった。そして、絶望的な告白をしたり、とても手がとどかないところにある未来に悲観して、そうかといって駆《か》け落ちもできないし、このまま諦《あきら》めることはなおさら承認できないなどと、自分たちの青春を呪うような苦《にが》い確かな事実をあげて、彼女は涙を流すのだった……。彼女は、人が『|永久にさようなら《アデイュ》!』と叫ぶようにして、『あたし、あんたを愛してるわ!』と叫んだのだった。そしてまた眼に一ぱいの恐怖の色をたたえて、『あたし、もうあんたと別れられないわ』と叫んだのだった。彼らより一足《ひとあし》先に成熟したこの恋は、幼年時代を楽しいものにしてくれた。しかし今、青春時代に対しては、どっちつかずの友情を続けさせるにすぎなかった。ダフニス(ギリシアの作家ロンゴスの恋愛小説中の人物。少年ダフニスはレムノス島の羊飼いに少女クロエとともに拾われ、この二人の恋愛が牧歌的な背景の下に展開される)より無知でないフィリップは、兄としてヴァンカを大事にもすれば、また邪険《じゃけん》に扱いもしていた。そうはいうもののフィリップは、彼らが東洋の流儀にしたがって、揺《ゆ》り籠《かご》の時から結婚させられていたかのように、彼女をいつくしんでいたのだ……。
ヴァンカはためいきをもらすと、顔もあげずに眼を開いた。
「こうしてて、あんた疲れない、フィル?」
彼は、そうでもないと合図をしながら、自分の眼のすぐそばにあるこの青い眼をうっとりと見ていた。その青さは、見るたびごとに、優しく思われて、ブロンドの尖端のある睫《まつげ》の間でまばたいていた。
「ねえ、嵐がしずまったよ」と彼は言った。
「午前四時頃には、もう一度海は荒れるだろうけど……。晴れ間が出ているよ。今夜はきっと美しい満月がのぼるだろうな……」
本能的に、彼は嵐の晴れ間や、その静まったことを口にして、静かな落ち着いたイメージの方へとさそった。ところが彼女は一言も答えようとはしなかった。
「あした、ジャロンのうちへテニスに行くかい?」
彼女はまた眼を閉じたまま、飲むことも、食べることも、生きることも、もういっさいごめんだと言わんばかりに、急に腹を立てた様子で、首を振って行かないと告げた……。
「ヴァンカ!」とフィリップはきびしい調子で、頼むように言った。「行かなきゃいけない、いっしょに行こうよ」
彼女は口を半ば開いたまま、有罪の宣告を受けた女のような眼差しで海を眺めまわした。
「そんなら、いっしょに行くわ」と彼女は繰りかえした。「行かなくたって、どうって、いうことではないでしょう! また行ったって、どうってことはないでしょう? 何が変わるというわけでもないわ」
彼らは二人とも、ジャロン家の庭のこと、テニスのこと、おやつのことを考えた。純潔でいながら、逆上していた恋人同士である彼らは、あしたもう一度、自分たちを笑い好きな子供に変装させてしまうテニスのことを考えた。すると彼らには、自分たちがほとほと疲れはてたという感じがした。
『あと四、五日で、ぼくたちは別れなければならないんだ』とフィリップは思った。『そうなったら、もう同じ屋根の下で目をさますわけにはゆかなくなる。ヴァンカに会うのだって、彼女の父の家か、ぼくの父の家か、映画館か、日曜日だけということになってしまう。ぼくは今十六歳だ。十六に五を加えて二十一。それまでにはまだ、何百、そうだ何千という日数がある……。もっともその間に、幾月かの夏休みがあることはある。だが夏休みの終わりはつらい……。しかし彼女はおれのものだ……』
その時彼は、ヴァンカが彼の肩からずり落ちるのに気づいた。静かで自発的な、気づかぬような動きで、眼を閉じたまま彼女はずり落ちつつあった。岩のせまい丘を滑ってゆくので、彼女の足ははやくも宙におどっていた……。彼ははっと悟ったが、別にふるえあがりもしなかった。彼は自分の女友だちがよい機会をとらえたものではないかと、考えながら、なんとしてもヴァンカからは決して離れまいと、彼女の腰にまわした自分の腕をしっかりと抱きしめた。腕で彼女を抱きしめながら、彼は、生きていて、しかも弾力のある現実を、そしてまた生きたまま彼にしたがう用意もできていれば、彼を死への道づれにする用意もできている、この娘の肉体のたくましい成熟ぶりをしみじみと感じた……。
『死んでみたって、なんになる? まだ死ぬのは早い。せっかく自分のために生まれてきたものを、全部本当に自分のものにせず、あの世へ行くなんて、今すべきことだろうか?』
傾いたこの岩の上で、内気な青年がよく夢みるように、彼は所有ということを夢みた。しかし、時がたてば、人間の法則が自分に与えるはずの財産を享楽しようと貪欲《どんよく》に心にきめていた相続人、強欲な人間らしく振る舞うことも忘れていなかった。彼は今、初めて、自分たち二人の運命を左右する鍵を、自分の手一つに握っていた。彼女を波にまかせて見殺しにするのも、僅《わず》かな養分で、そこに花をひらく強靱《きょうじん》な種子のように、岩の先端にしがみつかせて生かすのも、意のままという立場にあった……。
彼は両腕をまるで帯のようにして、重くなりはじめた美しい肉体を、しっかり抱きしめた。そして、
「ヴァンカ! さあ!」と短く声をかけて、彼女の目をさましてやった。
彼女は立っている彼を下から、じっと見あげた。待ちかねて、真剣な表情をしている彼を見ると、彼女は死の時期がすでに過ぎ去ってしまったことを知った。彼女はむっとしながらも恍惚《こうこつ》とした心地で、フィリップの黒い眼に映る夕日の光や、その乱れた髪、口、唇の上に男性らしい産毛《うぶげ》が描いている翼形の影を認めた。そして叫んで言うのだった。
「あんたはあたしをあまり愛してないんだわ、フィル、あんたはあたしをあんまり愛していないんだわ!」
彼は何か言いたかったが、結局黙ってしまった。彼女に対して打ち明けるほどの立派な告白を持っていなかったからだった。恋がその犠牲《ぎせい》者たちを、時期よりも早く、もう苦しむことのなくなる場所に向かって駆り立て始めたとき、彼は、自分の女友だちを、封印がしてある貴重な漂流物、しかもその秘密だけが大切な漂流物として取り扱い、ヴァンカに死を与えることを拒んだ罪をふかく感じて、顔を赤らめ、うなだれてしまった。
[#改ページ]
秋の匂いが、数日前から、朝になると、海の方まで、いつの間にか入っていた。夜明けの頃から、熱くなった地表が、掘った畝溝《うねみぞ》や、脱穀《だっこく》した小麦や、湯気のたつ肥料などのほのかな匂いを、海の涼しい風に吹きはらわせる時刻になるまで、ここ数日の八月の朝は、秋の匂いがした。垣根の裾《すそ》には、露の玉が消えずにきらめいていた。そしてヴァンカが正午近く、季節を待たずに熟しきって落ちた|はこやなぎ《ヽヽヽヽヽ》の葉を拾ってみると、まだ緑色をしているその葉の白い裏はしっとりとぬれて、ダイヤのように光っていた。しめっぽい茸《きのこ》が地面から生え、庭の|くも《ヽヽ》は、夜ごとに冷《ひ》えてくるので、夕方には玩具をしまう物置の中に入りこんで、そこの天井に賢明にもならんでいた。
しかし日中は、秋の濃霧の網《あみ》からも、桑の実をいっぱいつけている茨《いばら》の茂みに張られた|くも《ヽヽ》の巣からも解放されていた。そして季節は七月に逆戻りするように思われた。中空《なかぞら》にかかった太陽は、露を乾かし、生えたばかりの茸《きのこ》をくさらし、老いすぎた|ぶどう《ヽヽヽ》の木と、その貧弱な実を|すずめばち《ヽヽヽヽヽ》で穴だらけにした。そしてヴァンカとリゼットは朝食のときから、白い服から茶褐色に出ているその腕の上部や、あらわな首を保護していたメリヤス地の軽いスペンサー(短い一種の外套)を言いあわせたように脱いでしまうのだった。
風もなく、雲一つなく、『猫の尻尾《しっぽ》』みたいな乳白色のゆったりした雲が、正午頃に現われて、やがて消えゆく以外には、動きのない日が、幾日も続いた。実に見事なほどこうした同じような日が続くので、心がしずまったヴァンカとフィリップの二人は、一年が、その一ばん温和な時期にあたって、果てることのない八月という月によって、ふわりと足枷《あしかせ》をはめられて、身動きができなくなっているのだと思いこむほどだった。
現実の大きな幸福にまぎれて、彼らは前ほど九月の別離をさほど気にしなくなった。また早熟な恋愛、秘密、沈黙、それに年毎の別離の苦しみなどによって、彼らは十五歳や十六歳の年齢で、早くも老成してしまった青春期の女と男の、悲劇的なその気分をも捨てたのだった。
近所の若い連中、彼らのテニスや漁の仲間たちが、海をすててトゥレーヌ州(中部フランスのロワール河流域地方)に行ってしまった。一ばん近くにある別荘も、みな閉ざされていた。フィリップとヴァンカの二人だけが汽船の匂いがするニスを塗った海岸の木造ホールのある大きな家に残った。絶えず軽く接触してはいるものの、ほとんど顔をあわすことのない両親たちの間で、二人は完全な孤独《こどく》を味わいつつあった。ヴァンカはフィリップに心をうばわれながらも、娘としての義務を残らず果たしていた。食卓をかざるために庭で、|がまずみ《ヽヽヽヽ》(スイカズラ科の落葉低木。初夏に白色五弁の小花を開き、果実は秋に赤色に熟す)や、けば立った|さぼてん《ヽヽヽヽ》を切ったり、菜園に出ては、初ものの梨《なし》や、おしまいの黒|すぐり《ヽヽヽ》を摘んだりした。またコーヒーの給仕をしたり、自分の父やフィリップの父のためにマッチをすって差し出したり、リゼットのために小さな服を裁《た》って縫ったりした。その自分にも、ろくに見分けもつかず、音もほとんど聞こえない幽霊《ゆうれい》のようなこの二組の両親の間で、奇妙な生活を送っていた。彼女はこの家の中で、人事|不省《ふせい》の初期のように快い、半分耳も聞こえず、半分目も見えない状態で辛抱していた。妹のリゼットは、まだこの共通の運命からのがれていて、澄んでありのままの色彩にかがやいていた。それにリゼットは、小さな茸《きのこ》が大きな茸に似ているように、ペルヴァンシュに似ていた。
「たといあたしが死んだって、あんたにはリゼットがいるわ……」と、ヴァンカがフィリップにいつも言っていたほどだった。
しかしフィリップは肩をすくめて、笑わなかった。十六歳の恋人たちというものは、心変わりも、病気も、不貞も許さないからだ。そして死ですら、彼らの人生の計画では、何かの報《むく》いとしてそれを受け入れるときか、さもなければ、それを運命の帰結として選ぶ以外に道が見つからぬときにだけ、通る道にすぎなかった。
八月の一ばんよく晴れた朝、フィルとヴァンカは、家族といっしょに食卓につくのをやめて、自分たちの背丈にふさわしい入江の一つに、昼食と海水着を持って、リゼットを連れて出かけることにきめた。これまで毎年、彼らは探検家きどりで、断崖《だんがい》のくぼみで、たびたび二人だけで昼食をしたものだった。これも今では、不安とためらいから、馴れっこになってしまった魅力のない行楽となっていた。そうはいうものの、よく晴れた朝が、この心を取り乱した子供までも若返らせて、その幼年時代から抜けだすために通りすぎた、あのもう見えなくなった関門の方を振りかえって、彼らは嘆くのだった。フィリップが先頭に立って、税関への小道を、午後からの漁のための|えび《ヽヽ》網や、泡立つ|りんご《ヽヽヽ》酒の一リットル壜《びん》とミネラル・ウォーターの壜とが音を立てている網を持ってすすんだ。海水着の上に上着を着たリゼットは、ナプキンに包んだまだ生《なま》ぬるいパンを揺すぶりながらそのあとに続いた。それから青いスウェーターとショート・パンツに身をかためたヴァンカが、アフリカの驢馬《ろば》のように、バスケットを幾つも持って殿《しんがり》をつとめた。道の曲がり角の険しいところへくると、フィリップが振りかえりもせずに叫んだ。
「待てよ、バスケットを一つ持ってやろう!」
「それには及ばないわ」とヴァンカが答えた。
そして高い|しだ《ヽヽ》の茂みの中に、妹の小さな頭と、球帽《カロット》のようなそのこわいブロンドの髪が埋ってしまったときなんか、ヴァンカはリゼットを上手に通してやった。
彼らは自分たちの入江として、二つの岩の間が断層になっているところを選んだ。そこには、潮がこまかい砂を運んでおいてくれて、海まで牛の角《つの》の形に、そこは大きく末広がりにひろがっていた。リゼットはサンダルをぬぐと、貝殻で遊んでいた。ヴァンカは褐色の腿《もも》の上に、白いショート・パンツをまくりあげ、岩の下のぬれた砂を掘って、壜《びん》を冷やすためにそこに寝かした。
「手伝おうか?」とフィリップは活気のない調子で申し出た。
彼女はそれに答えずに、笑いながら彼をじっと見つめた。彼女の眼の並はずれた青さや、果樹垣の|つばきもも《ヽヽヽヽヽ》の実《み》に見るような、つけたばかりの紅《べに》おしろいでくすんだ頬、それに歯並びの二つの曲がった刃《は》、こうしたものが一瞬、表現できぬような強烈な色彩となって輝いた。フィリップは自分がそれで傷ついたように感じた。しかし彼女が後向きになったので、彼は、行ったり来たり、すばしこく身をかがめたりして、まるで少年のように服をぬぎすてた気軽な彼女を、なんのこだわりもなく眺めた。
「分かってるわよ、ねえ、たべるための口しか持ってこなかったのね!」とヴァンカは叫んだ。
「いやね! 男って、みんなそうなんだから!」
十六歳の『男』は、この冷やかしと尊敬とをそのまま受け入れた。食卓の用意がととのうと、彼はリゼットをきびしく呼びつけた。そしてヴァンカがバターをつけてくれるサンドイッチをたべ、生《き》のまま|りんご《ヽヽヽ》酒を飲み、レタスと賽《さい》の目にきったグリュエル・チーズとを食塩にまぶし、溶《と》けそうな洋梨《ようなし》の露にぬれた指をなめた。ヴァンカは青い鉢《はち》巻きをした酌《しゃく》をする若い女のように、万事に気をくばっていた。リゼットのために、|いわし《ヽヽヽ》の骨を取ってやったり、飲み物をまぜ合わせてやったり、果物の皮をむいてやったりした。さてそれからやっと、歯並びのいい歯で、大口にせかせかと自分もたべた。引き潮の海は、数メートルのところで、ささやくように音をたてていた。海岸の高いところでは、脱穀機《だっこくき》がうなっていた。草と黄色い小さな花が生えている岩は、土の香のする塩分のない水を、彼らの近くにしたたるように落としていた……。
フィリップは片腕をまげ、枕にして横になった。
「ああ、いい天気だ」と彼はつぶやいた。
立ったまま、ナイフやコップをふくので、忙しく手を動かしていたヴァンカが、彼の上にその眼差しの青い光線を落とした。彼は自分の女友だちが見とれているとき、いつも感じるあの喜びをかくしながら、身動きもしなかった。熱い頬、つやのある唇、黒い髪が格好よく乱れて隠している額、こうした自分がどんなに美しく見えるか、彼は知っていたのだ。
ヴァンカは何も言わずに、結婚した小娘のように仕事をまた始めた。引き潮の音と、正午を告げる遠い瞳と、リゼットが小声で口ずさむ歌に静かにゆられて、フィリップは眼を閉じた。すばやく軽い眠りがおそってきた。
ひときわ高い叫び声に、彼はやむなく眼をあけた。正午の強い光と、垂直な光線とで、色を消してしまった海ぎわで、リゼットの上に身をかがめたヴァンカが、すり傷の手当てをしたり、信頼して、上に挙げている小さな手から刺《とげ》を抜いていた……。こうした姿は、また眼を閉じたフィリップの夢の邪魔《じゃま》にはならなかった。
「一人の子……。ぼくらに一人ぐらい子があったって不思議はないな……」
男性としての彼の夢では、まだ恋を知る年頃でもないのに、恋の方が一歩先んじていて、恋の寛大で単純な目的に、恋自身が追いぬかれた結果になっていた。そしてこの夢は、彼が自由にあやつれる孤独《こどく》の方へ飛んでいった。その夢では、彼はある洞窟《どうくつ》を通りすぎていたが、そこには――裸の女の重みでくぼんでいる布製のハンモックがあり、地面すれすれに羽ばたく赤味をおびた火がもえていた――やがて彼はその占《うらな》いの能力も飛ぶ力も失って、ひっくりかえり、死のふうわりした底の部分に触れたのだった。
[#改ページ]
「毎日、日が短くなるなんて、信じられないほどね!」
「なぜ、信じられないんだね? 毎年、今頃になると、おまえはきまってそんなことを言いだすけど、いくらなんでも夏至《げし》というものを変えることはできまい、マルト?」
「だれが夏至のことなんか言いました? 夏至なんかに何も頼みませんわ。だから夏至の方でも、わたしを構わないでおいてくれればいいんですわ」
「ある種の知識に対する女性の無能ぶりときたら、実に不思議だな。あのひとなんかも、潮の満ち干《ひ》きに関する法則を二十ぺんも説明してあげたのに、いわば馬の耳に念仏なんだよ!」
「オーギュスト、あなたがわたしの義兄だからといって、わたし、何もほかの人以上に、あなたの言うことを聞いてるわけじゃありませんよ……」
「おやおや、これはご挨拶《あいさつ》だね。そんな具合だから、きょうまで、あんたは嫁《よめ》にゆけなかったわけだ、マルト。さて、ぼくの奥さん、その灰皿をこっちへ押してくれないか?」
「あんたの方へ、これを押してしまったら、オードベールはどこへパイプの灰を落としたらいいんですの?」
「マダム・フェレ、ご心配は無用です。どのテーブルの上にだって、子供たちが|あわび《ヽヽヽ》の貝殻《かいがら》をいくらでも、ほうりだしていますから」
「きみがいけないんだよ、オードベール、いつだったか、きみが、『やあ、この|あわび《ヽヽヽ》の貝殻はきれいだぞ、これなら美術的な灰皿になるぞ』なんて言いだした。あの日から、子供たちが岩の上をほっつき歩くのを、きみは公然の任務としてしまったんだよ。そうだね、フィル?」
「ええ、そうです、ムッシュー・フェレ」
「フェレ、実は、きみんとこのお嬢さんが最初に始めた商売をやめてしまったのも、この任務のためなのさ。ヴァンカが何を思いついたと思う? あの小鳥と穀物《こくもつ》の商売を手びろくやっているカルボニューに、カナリヤが鳥籠の中で、嘴《くちばし》をとぐのにつかう|いか《ヽヽ》の甲を売りこもうというので、商談をすすめていたんだよ! ヴァンカ、嘘《うそ》じゃないだろう?」
「嘘じゃありません、ムッシュー・オードベール」
「この子はおてんばのくせに、思ったより商売気があるんでね。だからわたしも、ときどき惜しいと思うんだが……」
「あら、オーギュスト、あなた、またそれを言いだすんですの?」
「言いだした方がいいと思ったら、わたしは何度でも言いだすさ。おまえはこの子を家において家事見習をさせるつもりだろうが、それもいいさ。だがこの子の精神と肉体を活気づけるのに、いったいどんな糧《かて》をあてがうつもりなんだね?」
「わたしが自分を活気づけるために、あてがってるものと同じ糧ですわ。わたしが退屈して、からだを遊ばしたことなんか、一度だってありまして? あの子が年頃になったら、結婚させますわ。それで、立派なもんですよ」
「わたしの妹は古い伝統の味方だからな」
「その伝統に不平を言う夫なんか、一人もいませんよ」
「マダム・フェレ。お説には賛成です。女の子の将来はなるほど重大なことですが……。しかし、何もあせることはありません。ヴァンカはまだやっと十五ですからね……。ゆっくりと自分の行くべき道を見つければいいんですよ。ねえ、ヴァンカ! 聞いてるのかい? 被告、自分を弁護するために、なにか言うことはないかね?」
「何もありませんわ、ムッシュー・オードベール」
「『何もありませんわ、ムッシュー・オードベール!』か。そうか、気をもむことなんかないというわけだね! フェレ君、子供たちはわたしらのことなんか、問題にしてはいないんだよ! それに今夜は、二人とも落ち着いてるじゃないか!」
「遊び放題、遊んだからですよ。ヴァンカなんか、漁のときにはくショート・パンツが破れて、お尻がのぞいてる始末ですもの」
「マルト、なんです、その言葉は!」
「なんですの、あたしがパンツのことを口にしたから、『マルト、なんです!』なんておっしゃるの? いいじゃありませんか、てれ屋のイギリス人じゃないんですもの!」
「若い男の前だからさ!」
「若い男じゃありませんよ、ここにいるのはフィルですよ。ところでフィル、きみはなんの図を引いてるんだね?」
「タービンの図です、ムッシュー・フェレ」
「未来のエンジニアに敬意を表《ひょう》そう。……。ところでオードベール、きみはグルアン島(カンカールの真北にある小島。すなわちサン=ミシェル湾の入口に浮かぶ島)の上に出ている月を見たかい? ぼくはあの八月の月が、海の上にあがるのを見はじめてから十五年になるんだが、いまだに飽きないね。グルアン島は十五年前には、一本の木もなく裸だったんだから、あんな小さな木の種をまいたのは、風だけがやってのけたんだと思うよ……」
「フェレ! きみはまるで観光客にでも聞かせるようなことを言ってる。十五年前といえば、わたしがはじめて貯金した六百フランをつかうつもりで、この海岸に土地をさがしていた頃だぜ……」
「あれからもう十五年になるかね! なるほどそうだな、フィリップがまだ一人歩きもできなかった時分だから……。おい、ぼくの奥さん、ちょっと来て、月を見てごらんよ、十五年このかた、あんな色の月を見たことがあったかい?こりゃ驚いた、緑だぜ! 完全に緑だよ!」
フィリップはヴァンカの方へ何かたずねるように眼を向けた。彼女がまだ母の胎内《たいない》にいて、だれの眼にも見えないながら、すでに幾分は生命があった頃のことを、皆が彼に思い出させたからだった……。それに彼は、自分たちが夏休みに、黄金《こがね》色のこの砂浜で、いっしょにつまずきながら、よちよち歩いていた頃の、はっきりした思い出などは何一つ持っていなかった。白いモスリンを着て、褐色の肉体をした以前の小さな姿は、とうの昔に溶けてしまっていた。だが、自分の女友だちと切りはなすことのできない『ヴァンカ』という名を、胸の中でつぶやくと、膝《ひざ》がしらに焼きつくような熱い砂、掌《てのひら》に握るとすぐこぼれてしまうあの砂の思い出だけが、心によみがえってくるのだった……。
ペルヴァンシュの青い眼が、フィリップの眼と出会った。しかしそれは、彼らと同じように、なんら感動もなく、すぐとそれてしまった。
「ヴァンカ、あんたもう二階にいって、寝たらどうなの?」
「もうちょっと、ママ、いいでしょう。リゼットの遊び着にこの大きなスカラップをつけてしまうまでなの」
彼女は優しい声で、こう言った。それから自分とフィリップのそばから、家庭|団欒《だんらん》の人たち、いるのかいないのか分からないような、青白い影法師みたいな人たちを、遠くに追いだしてしまった。タービンや、航空機のプロペラや、クリーム分離器の装置の図面を引いていたフィルは、プロペラの翼《よく》に、|くじゃくちょう《ヽヽヽヽヽヽヽ》(タテハチョウ科のチョウ。栗色をおびた濃赤色の前後翅に各一個のクジャク紋がある)の羽根にあるような、くすんだ大きな眼、きゃしゃな脚、それに触角《しょっかく》などを書きたした。それから頭文字のVを書いた。それから、青鉛筆を使って、長い睫《まつげ》で縁《ふち》どられた空色の一つの目玉――ヴァンカの目玉に似てくるまで、そのVの字を変形させた。
「見ろよ、ヴァンカ」
ヴァンカは乗りだして、紙の上に、堅木《かたぎ》のような、褐色の土人の女みたいな手をおいて、微笑した。
「ばかね、あんたってば」
「こいつが、また何かいたずらをしましたか?」とオードベール氏が叫んだ。
若い二人は、少し横柄な様子で驚き、その声の方へ振りむいた。
「なんでもないんだ、パパ」とフィリップが言った。「つまらないことなんです。ぼくのタービンがよく動くように、脚をつけてやったんですよ」
「そうか、やれやれ、おまえが分別のつく年頃(七歳のことを言う)になったら、特筆大書してやるよ! こいつときたら、十六どころか、まだやっと六つというところだね!」
ヴァンカとフィリップはお愛想に微笑した。そしてもう一度、自分たちのそばでトランプ遊びをしたり、刺繍《ししゅう》をしたりしているはっきりしない人間どもを、自分たちの面前から追いはらってしまった。それでも、機械や電気の応用の方面にかけては、前途有望なフィリップの『天職』とか、絶えず話題になるヴァンカの結婚についての、幾つかの冗談が、木のざわめきのかなたから聞こえてくるように、彼らの耳に入ってきた。だれかがフィリップとヴァンカを結婚させると言いだしたので、大きなテーブルの周囲から、どっと笑い声があがった……。
「あっはっはっ! それじゃあ、まるで兄と妹を結婚させるようなもんだ! あの二人はお互いにあまり知りすぎているよ!」
「恋には、マダム・フェレ、思いがけない要素が必要なんですよ。一目惚《ひとめぼ》れのようなものがね!」
「恋は気ままなもの、掟《おきて》を知らぬ(歌劇「カルメン」の第一景でカルメンが歌うハバネラの一節)……」
「マルト! 歌われては困るな! せっかくの西北風と、お天気がつづくのを、わたしたちは喜んでいるんだから!」
……ヴァンカと自分との婚約だって? フィリップは、おおらかな憐《あわ》れみの気持ちで胸をいっぱいにして微笑した。何も婚約するほどのこともないじゃないか? ヴァンカはもともとぼくのものだ、ぼくがヴァンカのものだったようにだ。賢明にも彼らは、長期にわたる正式の婚約が、どんなに自分たちの手間どっている情熱を混乱させたかを見抜いていた。彼らは毎日かわす冗談や、たえられぬ笑い、――さては不信までも予測していた……。
……恋の中に身をひそめた彼らは、現実の人生とときおり連絡をとっているのぞき穴を、二人していっしょに閉めてしまった。自分たちの両親の幼稚《ようち》なこと、たやすく笑える気楽さ、平穏無事な未来にかけている信頼を、二人はともども羨《うらや》ましく思った。
『なんて快活な人たちだろう!』とフィリップは思った。彼は父の暗く沈んだ額に、恋の炎《ほのお》の閃《ひらめ》きの跡を、すくなくともその焼かれた跡を見つけようと探した。『ちえっ! 気の毒にこの男は、一度も恋をしたことがなかったんだ……』と彼は傲然《ごうぜん》と宣言するように言った。
ヴァンカの方も、母がおそらく人知れぬ恋になやんだ娘時代のことを思い出そうとした。ところがこの年にしては早く白くなった髪や、金縁《きんぶち》の鼻眼鏡や、この母を一だんと上品にみせるその痩《や》せた姿しか眼に入らなかった……。
ヴァンカは顔を赤くした。彼女は、愛することの羞恥《しゅうち》も、肉体と霊魂の苦悩も、わが身一つのものにしておこうと心にきめた。そして一本の道の上で、フィリップに追いつくために、この抜けがらのような影《ヽ》から離れた。それは彼らが足跡をくらまして行く道であり、またそれはあまりに重すぎ、あまりに豊富すぎる、そしてあまりに早く奪いとった分捕品をかついで行くことになるので、彼らが非業《ひごう》の死をとげることになるかもしれないと感じながら辿《たど》る道だった。
[#改ページ]
小さな道路の曲がり角で、フィルは地面に飛びおりると、自転車を一方にほうりだし、反対側の土手の白っぽい草の上に自分のからだを投げだした。
「あーあ! もうたくさんだ! へたばっちゃった! なんでまた、こんな電報をうってきてやるなんて、おれは言い出したんだろう?」
別荘からサン・マロー(ノルマンディ州の町。同名の湾に臨み、英仏海峡に通じる)までの十一キロは、さほど辛いようにも感じられなかった。海からの追い風の助けもあったし、二か所ある長い下り坂では、ひんやりと吹く風のショールが、半裸の胸をなでていた。ところが帰りには、夏も、自転車も、他人への親切も、みなうんざりしてきた。八月が炎熱の中で終わろうとしていた。フィリップは黄色くなった草を両足でけった。そして珪土《けいど》質の道路のこまかい埃《ほこり》をあびた唇をなめた。彼は腕を十文字にくんであおむけになった。一時的な充血が、まるでボクシングの試合を終わって出てきたかのように、眼の下を黒くくまどっていた。運動用の半ズボンから出ている青銅のような裸の両脚は、白い傷痕や、黒と赤のすり傷で、数週間の夏休みと、岩石の多い海岸での漁の日数をかぞえていた。
「ヴァンカを連れてくればよかったな」と彼は冷笑した。「さぞ悲鳴をあげただろう!」
しかし彼の中にいるもう一人のフィリップ、ヴァンカに夢中になっている方のフィリップ、まるで広すぎる宮殿に閉じこめられている孤児の王子のように、自分の早熟な恋心の中に閉じこめられたフィリップが、この意地の悪いフィリップに答えて言った。『もし彼女がぶつぶつ言ったら、別荘までおぶって帰ったはずだぞ……』
『そうとは限らないさ』と意地の悪いフィリップが異議をとなえた……。すると想いを寄せている方のフィリップは今度は文句を言わなかった……。
彼は、青い松や、白い|はこやなぎ《ヽヽヽヽヽ》がおおいかぶさっている塀の裾《すそ》のところに横たわっていた。この海岸のことなら、フィリップは二本の脚で歩けるようになってから、また二つの輪で走れるようになって以来、隅《すみ》から隅まで知っていた。『この別荘はケン=アンナだ。自家発電のダイナモがうなっている。しかしこの夏は、だれがこの屋敷を借りたか知らないな』塀の向こう側では、モーターがあえいでいる犬の舌打《したう》ちのような音を遠くでたてていた。銀色の|はこやなぎ《ヽヽヽヽヽ》の葉が、小川のさざ波のように、風に吹かれて逆立っていた。落ち着きを取りもどして、フィリップは眼を閉じた。
「オレンジエードを一杯差しあげるだけのことはありそうね、ムッシュー・フィル」と静かな声が呼びかけた。
眼をあけるとフィルは、自分の真上に、まるで水鏡にうつっているように、逆さになった女の顔がのぞいているのを見た。その顔は、幾分肥満した顎《あご》、ルージュで引きたてるようにした口、敏感そうで、引きしまった鼻孔の見える鼻先、下から見ると二つの三日月の形のような憂鬱《ゆううつ》そうな二つの眼、を逆さにして見せていた。あかるい琥珀《こはく》色の顔全体が、友情的というものとはどこかちがった馴《な》れ馴《な》れしさで微笑していた。フィリップには、いつか海藻の道路に自動車をめりこませた白服の夫人だと分かった。最初は『ちょっと! 坊ちゃん』と呼んで、つぎには『ムッシュー』と呼びなおして、彼に質問したあの夫人だった……。彼は飛びおきると、できるだけ丁寧《ていねい》にお辞儀《じぎ》をした。彼女は白い服からあらわに出ている組んだ両脚に力をこめて、はじめての時と同じように、彼の頭のてっぺんから足の爪先《つまさき》までじろじろと見た。
「ムッシュー」と彼女は真顔《まがお》でたずねた。「誓《ちか》いでもお立てになったの、それともお好きで、着るものを着てらっしゃらないの?」
冷たい血が、さっとフィリップの耳と頬《ほお》へあがったかと思うと、またたちまち熱くなった。
「とんでもありません、マダム」と彼はかん高い調子で叫んだ。「パパがお得意へ打つ電報を局へ持って行かなければならなかったんです。家にはすぐ行ける人がいなかったので。この暑さでは、まさかヴァンカやリゼットはやれませんよ!」
「わたしに喧嘩《けんか》を吹っかけるのはよしてちょうだいな」と白服の夫人が言った。「わたし、とても感じやすいんですから。ちょっとしたことにも、涙が出てくるんですもの」
彼女のそうした言葉と、かげでは薄笑いを浮かべているような、冷たい眼つきが、フィリップの心を傷つけた。彼は転んだ子供の腕をつかんで手荒に引っぱって起こすように、自転車のハンドルを握り、サドルにまたがろうとした。
「オレンジエードを一杯召しあがっていらっしゃい、ムッシュー・フィル。ね、そうなさいな」「わたし、マダム・ダルレーと申しますのよ」と彼女が言った。
「フィリップ・オードベールです」とフィルはあわてて答えた。
彼女は無関心と取れるような身振りを見せ、『お名前なんか、どうだっていいのよ』と言わんばかりに、「あらまあ」と答えただけだった。
彼女は彼とならんで歩いていた。そして撫《な》でつけたつやつやした黒髪に、日の光を平然と浴びていた。彼は頭が痛くなりはじめた。このままダルレー夫人のそばで気を失ってしまえば、考えることからも、選ぶことからも、服従することからも、いっさい解放されるのにと、彼は願ったり、恐れたりしている自分をまたしても見出して、日射病にかかったらしいと思った。
「トトートや! オレンジエードをおくれ!」とダルレー夫人が叫んだ。
フィルははっとびっくりして、気を取り直した。『塀はすぐそこだ。たいして高くもない。飛びこえさえしたら……』と思った。だが心の中で、『そうしたら、ぼくは助かる』という言葉までは言わなかった。白い服のあとについて、まぶしい石段をのぼっている間、彼は自分の十六歳にふさわしい傲慢《ごうまん》な気持ちをことごとくわが身に呼び集めた。『なんだってんだ! 取って食おうというわけじゃあるまいし!……そんなにオレンジエードを飲ませたいというのなら、飲んでやろうじゃないか……』
彼は家の中に入った。そして光線と|はえ《ヽヽ》をふせぐために締めきった暗い一室に入りながら、度《ど》を失った思いだった。鎧戸《よろいど》を閉め、カーテンをたらして、低くしてある室内の温度が、彼の息をつまらせた。彼は柔らかい家具の一つにつまずいた拍子に、クッションの上に尻《しり》もちをついた。すると、どこからともなく悪魔のような、かすかな笑い声が聞こえてきた。胸をしめつけられるような不安から泣きだしそうになった。氷のような冷たいコップが彼の手に触れた。
「すぐ召しあがらないでね」とダルレー夫人の声が言った。「トトートや、あんた、どうかしてるわよ、氷なんか入れたりして。地下室は、けっこう冷えてるのに」
白い手がコップの中に、三本の指を突っこんだと思うと、またすぐに抜きだした。ダイヤモンドの炎が、三本の指にはさまれた角形の氷に反射して光った。喉《のど》をつまらせ、フィリップは眼を閉じたまま、小口に二口ばかり飲んだが、すっぱいオレンジの味など分からなかった。しかし瞼《まぶた》をあけてみると、暗さに馴れた眼は、壁紙の赤と白、カーテンの黒といぶし金《きん》の色が見分けられた。今まで気がつかなかった一人の女が、音をたてている盆をもって姿を消した。赤と青の一羽の|こんごういんこ《ヽヽヽヽヽヽヽ》が、とまり木の上で、扇をひらくような音をさせて、羽根をひろげた。すると、わきの下に、あざやかな肉色が見えた……。
「きれいな鳥ですね」とフィルはかすれた声で言った。
「ものを言わないだけに、なおさらきれいだわ」とダルレー夫人が言った。
彼女はフィリップからかなり離れたところに腰かけていた。二人の間には、香炉《こうろ》にたいてある香《こう》の煙が、松脂《まつやに》とゼラニュームの匂いをあたりにただよわせながら、垂直に立ちのぼっていた。フィリップは裸の脚を組んだ。すると白服の夫人は、自由意志で拘留《こうりゅう》され、どっちつかずの誘拐《ゆうかい》にあったというような、贅沢《ぜいたく》な悪夢を見る心地をあおり立てるために微笑した。それでフィリップは冷静さをすっかり失ってしまった。
「ご両親は毎年この海岸にいらっしゃるんでしょう?」とダルレー夫人の優しい男のような声が言った。
「そうです」と彼は気押されて、ためいきをつくように答えた。
「わたしはよく知らないんですけど、いいところですわね。これって別に特徴もないながら、おだやかなブルターニュってところね。でも閑静な土地だわ、それにここの海の色は、くらべもののない美しさだわ」
フィリップは答えなかった。彼はわずかに残っている意識を、次第にひどくなる疲労の方に差しむけた。そして絨毯《じゅうたん》の上に、自分の心臓から出る血の最後の雫《しずく》が、規則的に息苦しく音を立てて落ちるのは、もうすぐなんだと彼は待っていた。
「あなたも、お好きなんでしょう?」
「だれをですか?」と彼は思わず、はっとして言った。
「このカンカールの海岸をですわ!」
「ええ、好きです……」
「ムッシュー・フィル、お加減が悪いんじゃありません? 大丈夫ですの? それならいいですわ。わたしって、すばらしい看護婦なんですわ……。でもこんな暑いときには、あなたがなさってるように、黙っている方が、しゃべったりするよりはましですわね。だから、わたしたちも黙っていましょう」
「そんなつもりじゃありませんけど……」
この暗い部屋に入ったときから、彼女はしごく月なみな身振りと言葉以外は、何もしなければ、何も口に出さなかった。ところが彼女の声の響きが、毎回フィリップに言い表わしようのない一種の損傷をこうむらせてきた。だから今度はまた、お互いの沈黙が、かえって恐怖となって、彼をおびやかしてきた。その場《ば》から、彼が退場する格好は、みじめであり、死物狂いだった。彼はコップを、まぼろしのような小さなテーブルにぶっつけた。また自分にも聞きとれないような幾つかの言葉を言って、立ちあがった。重い波と目に見えない障害物を押し分けて、戸口のところまで進んだ、そして窒息《ちっそく》した人のように息を吸いこみながら、やっと外を見出した。
「ああ、苦しかった……」と彼は小声で言った。
そして彼は悲壮な手つきで、心臓が鼓動《こどう》していると思われる胸のあたりをおさえた。
それから彼は突然、現実の意識をとりもどして、ばかみたいな笑いを浮かべると、ダルレー夫人の手を握って、ぶっきらぼうに打ち振り、自転車をまた手にとって、出かけた。最後の坂の上で、心配して自分を待っていたヴァンカの姿を見つけた。
「フィル、こんなに長いこと何をしてたのよ?」
彼は、瞳《ひとみ》の色が透《す》いて青く見える瞼《まぶた》越しに、この友だちのかわいらしい青い眼に接吻した。それからぺらぺらと答えた。
「ぼくが何をしたかって? そりゃ、いろんなことをしたさ! 道の曲がり角でつかまって、地下室に監禁され、強い麻酔《ますい》剤を飲まされ、素裸のままで柱にしばりつけられ、棒で引っぱたかれ、拷問《ごうもん》にかけられたよ……」
ヴァンカは、彼の肩によりかかって笑っていた。フィリップの方は神経がいら立って、にじみ出た二つぶほどの涙を睫《まつげ》から払おうと、首を振った。そして、考えた。
『ぼくの話していることが本当だと分かったら、彼女はいったい……』
[#改ページ]
ダルレー夫人に一杯のオレンジエードをご馳走《ちそう》になって以来、フィルは唇の上と、扁桃腺《へんとうせん》のあたりに、あの冷やした飲み物の焼けつくような刺激を、絶えず感じていた。あんなに苦《にが》いオレンジエードはこれまで飲んだこともないし、これからも決して飲むことはあるまいと考えた。
『それだのに、あれを飲んだときには、あの味には気がつかなかった。あとになって……それもずっとあとになって、はじめて気がついたんだ……』ヴァンカには内証にしてあるあの訪問が、彼の記憶の中で、敏感でびくびくするような傷になっていた。そこから出る微熱を、彼はそのときどきの気持ちで、高めたり、しずめたりした。
フィリップの生活は、どんなときでもヴァンカのものだった。すなわち彼の身近なところで、十二か月後に生まれ、双生児のように兄と妹みたいに結びつけられ、しかも今はまた、あすにもその恋人を失わねばならぬ恋する女のような不安にとらわれている、彼の心からの女友だちを中心に、彼は生活していたのだった。ところが彼の空想と悪夢は、現実の生活とはなんのかかわりもないのだ。ある酷暑の昼さがり、ケル=アンナの客間で、あの傲然《ごうぜん》とした重々しい白服の夫人がついでくれた一ぱいのオレンジエードを飲んでからというものは、冷たい影や、壁紙のくすんだ赤、カーテンの黒いいぶし金とのビロードなどで絢爛《けんらん》たる一つの悪夢が、フィルの生活に侵入して、日中の正常な幾時間を、部分日食のようにむしばんでいた。コップの縁《ふち》できらめいたあのダイヤモンドの炎……三本の青白い指の間で光ったさいころ形のあの氷……。とまり木の上で物を言わない青と赤の|こんごう《ヽヽヽヽ》|いんこ《ヽヽヽ》、桃の果肉のようにばら色をおびた白い羽毛の裏地をつけたその翼《つばさ》……。少年は焼きつくような、いつわりの色彩でいろどられたこうしたイメージをくりかえし思い出しながら、自分の記憶に疑いを持ったのだった。あれは多分、木の緑を強いて青いと思わせたり、ある種の色の濃淡に感覚のタッチを加えたりする睡眠中の夢が作り出した室内装飾のせいかもしれないと思ったりした……。
あの訪問から、彼はなんの喜びも持ちかえらなかった。香炉《こうろ》の中でけむっていたあの香《こう》のかおりの思い出さえが、一時は彼の食欲を減退させ、神経の異常をまねいたほどだった。
「ヴァンカ、きょうの小|えび《ヽヽ》には、安息香《あんそくこう》の匂いがすると思わないかい?」
閉めきった客間に入ったり、ビロードのように柔らかい障害物につきあたって、手探りしたりすることが、果たして喜びと言えるだろうか? 無器用な脱走ぶり、いきなり肩に日光を浴びたこと、あんなことが果たして喜びと呼べるだろうか? とんでもない、そんなものじゃない。あんなものはみんな、喜びに似ているどころか、むしろ不愉快な気持ちや、借金の苦しみに似ていたのだ……。
『あのひとに、お礼をしなくちゃあならない』とフィリップはある朝、こう思った。『いやな奴と思わせておくこともあるまい。あのひとの戸口に、花でもおいてこなくちゃあ。そしてそれからは、もう忘れてしまおう。しかしそれにしても、どんな花がいいかな?』
果樹園に咲いている|えぞぎく《ヽヽヽヽ》も、ビロードのような花びらの|きんぎょそう《ヽヽヽヽヽヽ》も貧弱に思われた。八月も終わりに近いので、野生の|すいかずら《ヽヽヽヽヽ》も、|はこやなぎ《ヽヽヽヽヽ》の幹にからまっているばらのドロシー=パーキンス(園芸品種の一つ)の花も散っていた。だが海と別荘の間の砂丘のくぼみの一つには、縁までいっぱいに、花は青く、かよわい茎全体が薄紫色をしている浜|あざみ《ヽヽヽ》が咲いていた。まことに『ヴァンカの眼の鏡』と呼ぶにふさわしかった。
『そうだ、青|あざみ《ヽヽヽ》にしよう……、ダルレー夫人のところでも、銅の花瓶《かびん》にいけてあったっけ……。青|あざみ《ヽヽヽ》なんか贈ってもいいものかしら? 門の鉄格子にひっかけてこよう……中には入らないで……』
十六歳という年頃にしては、精いっぱいの知恵をはたらかせて、彼はヴァンカが疲れて、気分がすぐれず、やつれ気味《ぎみ》で、気むずかしく、青い眼の下に薄紫色の隈《くま》をつくり、木陰に横になって、海水浴にも散歩にも出かけるのをいやがる日を、じっと待っていた。彼は一ばん見事な|あざみ《ヽヽヽ》をこっそりと切って束《たば》ねたが、そのブリキのような固い葉で、両手をひどく傷つけてしまった。彼は、ブルターニュ地方特有の晴れた日に、自転車で出かけた。こうした日には、霧が大地をつつみ、乳色《ちちいろ》の気体が海の色と溶《と》けあっているのだった。白いリンネルのズボンと、取っておきの厚地のジャージーの背広とに窮屈《きゅうくつ》な思いをしながら、ケル=アンナの塀のところまで自転車で行くと、鉄格子の門のところへは、からだをかがめて歩いていった。そして自分に不利な証拠物件でも捨てるように、|あざみ《ヽヽヽ》の花束を庭の中へ投げこむことにした。彼はまずこれからの自分の身振りをよく考えてから、囲いの塀が別荘にほとんど接しているあたりをねらって、武器の石投げ器を使う要領で、腕を動かした。すると花束は空中に舞いとんだ。フィリップは叫び声を聞いた。やがて砂利をふむ足音が聞こえてきた。つづいて聞きおぼえのある、怒りで息をつまらせた声が、耳に入ってきた。
「こんないたずらをするばか者は勘弁《かんべん》してあげないから……」
侮辱されたと感じて、彼は逃げだすのをやめたので、いらいらいしている白服の夫人に、鉄格子の門のところで見つかってしまった。彼の姿を見ると、彼女は顔色を柔らげ、しかめた眉《まゆ》をひらき、肩をそびやかした。
「あなたがやったのじゃないかと、わたしも気がつけばよかったのに」と彼女は言った。「こんなことなんでもないわ」
彼女はここで、弁解の言葉を待ったが、それは出てこなかった。それというのも、フィルが彼女に見惚《みと》れて、きょうもまた白い服を身にまとい、そのうえ唇に紅《べに》をつけ、眼の縁を黒ずんだ褐色に隈《くま》どって、顔をひかえ目に引立たせていたことを、心の中で漠然と彼女に感謝していたからだった。彼女は自分の片方の頬に手を持っていった。
「まあ、こんなに血が出ているわ!」
「ぼくもです」とフィリップも意地になって言った。
そして傷だらけの両手を差しだした。彼女は身をかがめると、フィルの掌《てのひら》についている小さな真珠のような血のかたまりを、その指でつぶした。
「わたしのために摘《つ》んでくださったの?」と彼女はさりげない調子でたずねた。
この愛嬌《あいきょう》のある、育ちのよい女性に対して、彼は田舎者みたいな態度を示している自分を責めながら、わずかにうなずいて答えるだけだった。しかし彼女は気にさわった様子も、驚いた表情も見せなかった。
「ちょっと、お入りにならない?」
彼は首を横に振って答えた。すると彼の無言の抗議が、顔のまわりに髪の毛を散らし、その顔には、ほかのあらゆる表情が消えて、ただ不思議なきびしい美しさだけがあらわれた。
「これは青……それもなんとも言えない青ですわ……。銅の鉢《はち》にいけましょうね……」
フィルの顔が幾分なごやかになった。
「ぼくもそう思ってました」と彼は言った。
「さもなければ、灰色の陶器の壺《つぼ》がいいかもしれません」
「そうですわね。お望みでしたら、その方にいたしますわ……。灰色の陶器の壺にね」
ダルレー夫人の声に、一種の素直さがこもっているのに、フィルはびっくりした。彼女の方でも、それに気づくと、じっと彼の眼の中を見つめた。そしてまた、もとの気楽な、ほとんど男のような微笑を見せて、声の調子を変えた。
「ねえ、ムッシュー・フィル……おたずねしたいことがありますの……。簡単なことですけれど……。この見事な青|あざみ《ヽヽヽ》を、あなたはわたしのために、わたしを喜ばせるために、お摘《つ》みになりましたの?」
「そうです……」
「すばらしいわ。わたしを喜ばせるなんて。でもあなたは、これをいただくわたしの喜びよりも――いいですか、ここのところをよく分かってくださいね――これを摘《ヽ》んで、わたしの前に差し出すご自分の喜びの方に、ずっと心をひかれてらっしゃるのではありません?」
彼には、彼女の言葉がよく耳に入らなかったので、まるで聾唖《ろうあ》者のように、話している彼女を見つめて、口の形と、睫《まつげ》のまたたきに気をとられていた。彼にはいったいなんのことか分からなかったので、行き当たりばったりに返事をした。
「あなたに喜んでいただけると思ったからです……。それにオレンジエードをご馳走《ちそう》になっていますから……」
それまでフィルの片方の腕においていた片手を、彼女は引っこめると、半分閉めかけてあった門扉をいっぱいに大きく開いた。
「では坊ちゃん、いいからもうお帰んなさい。二度とここへくるんではありませんよ」
「どうして?」
「わたしを喜ばしてくださいなどと、だれもあなたに頼みませんわ。これからは、きょうみたいに、青|あざみ《ヽヽヽ》をわたしに投げつけるなんて、そんなご心配はご無用よ。さようなら、ムッシュー・フィル。それともこのつぎには……」
彼女は、きっとした額《ひたい》を、すばやく二人の間に閉ざした鉄格子にもたせかけて、小道の上で身動きもせずにいるフィリップをじろじろと見ていた。
「それともこのつぎには、わたしがあげたオレンジエードのお返しに、刺《とげ》だらけの花束を贈ろうなどというのではなく、ほかの理由で、ここに来てくださるのなら、それはまた別ですけど……」
「ほかの理由で……」
「まあ、なんてあなたの声は、わたしの声に似てきたのでしょう、ムッシュー・フィル! そのときこそ、わたしの喜びが問題か、あなたの喜びが問題か、ちゃんと分かるときですわ。ムッシュー・フィル、わたしはね、乞食《こじき》か飢《う》えた人しか愛さないのよ。だからもし、もう一度来てくださるなら、そのときはね、乞食みたいに物をねだる手を差しだしていらっしゃいな……。さあ、ムッシュー・フィル、お帰りなさいな!……」
彼女は鉄格子を離れた。そしてフィリップはその場を立ち去った。追い出され、おっぱらわれたにもかかわらず、彼は男としての誇《ほこ》りだけは失わずに持って帰ってきた。そしてその思い出の中では、生々しい血のあとを頬《ほお》につけた女の顔を、門扉の黒い唐草模様が、|がまずみ《ヽヽヽヽ》の枝のように飾っていた。
[#改ページ]
「転ぶよ、ヴァンカ、サンダルの結び目がとけてる。ちょっと待って……」
フィルは急いでしゃがむと、二本の白い毛糸の紐《ひも》をつまんで、疾走と跳躍とに適した細いからだの、獣《けもの》の脚を思わせる、やせていて、ふるえる褐色《かっしょく》の踝《くるぶし》の上に十文字に結んだ。かたくなった皮膚も、無数の傷あとも、その踝《くるぶし》の美しさをそこねてはいなかった。細い骨格には、ほとんど肉らしい肉はなく、わずかに曲線の美しさを支えるだけの筋肉がついているだけだった。ヴァンカの脚は情欲をそそるものではなく、人が純粋の様式からうける、あの一種の賛美の気持ちを呼びおこした。
「待ってと言ってるじゃないか? 歩いていたんじゃ、紐《ひも》が結べないよ!」
「いや、ほっといてよ!」
ズックの靴をはいた裸の足が、おさえていた両手からすり抜けると、ひざまずいていたフィルの頭の上を、鳥が飛びたつように飛びこえた。ラヴァンド香水の香と、アイロンをかけたリンネルや海藻の匂いを、彼は感じた。これがヴァンカの匂いをつくりあげていたのだった。そして彼は三歩ばかり先のところにいる彼女を見あげた。彼女は上から下まで彼を見つめて、暗いにごった眼の光をそそいだ。それは変わりやすい海の色合《いろあ》いを真似ようとしなくなっていた。
「どうしたって言うんだ。わがまますぎるぞ!人が親切にサンダルの紐を結んでやろうというのに! ヴァンカ、本当に、きみは手におえない女の子になったなあ!」
フィルの騎士のような態度は、侮辱《ぶじょく》されたラテンの神さまを思わせる、金色にかがやくその顔にはそぐわないものだった。黒い髪をいただいた彼の顔は、未来の口ひげ――あすはかたい毛になるはずでも、今はまだビロードの生えはじめの薄ひげにすぎない――のなさけない外観によって、わずかに美しさがそこなわれていた。
ヴァンカは彼に近づいてこなかった。驚いた様子で、まるでフィルに追いかけられでもしたかのように、息を切らしていた。
「どうかしたの? ぼくが痛くでもしたのかい。刺《とげ》でもささったのかい?」
彼女は身振りで『ちがうわ』と答えると、機嫌をなおしてサルビアとばら色の|たで《ヽヽ》の咲きみだれている間に倒れるように坐り、踝《くるぶし》まで服のへりを引っぱった。きびきびして見ていても気持ちのよい敏捷《びんしょう》さと、舞踏の才能から生まれたような稀《まれ》に見る均整とが彼女のあらゆる動作を支配していた。フィルに対するその優しさ、ひたむきな友情は、男の子のする遊びとか、スポーツの上の対抗意識によって、彼女をきたえあげてきた。この対抗意識は、彼女が生まれると同時に現われたものだったが、いよいよ愛情がつのってきた今でも、まだおとろえず残っていた。体力が日ごとに驚くほど増加するにつれて、二人の間からは、信頼と柔和さが次第に外に追いだされていった。そして、色をつけた水に差した|ばら《ヽヽ》は、吸いあげる水によって、その花の色を変えるように、二人の優しさの本質は、愛情によって変わりつつあった。それにもかかわらず、やはり二人はときどき自分たちの愛情をすっかり忘れてしまって、いがみあっていたのだった。
暗い空色のヴァンカの眼差しには、なんの非難もふくまれていないのに、フィリップは彼女の眼差しを長い間支えていられなかった。彼女はただびっくりしているらしく、森の中で散歩している人に出会って、ためらったり、あわてたりするが、逃げだそうとしない牝鹿のように、荒い息づかいをしていた。彼女は自分が今その手から逃げてきたこのひざまずいている少年にたずねるよりは、むしろ自分自身の本能に質問しているのだった。彼女は自分がある不信に、また一種の反発心に支配されたけれども、絶対に羞恥心《しゅうちしん》に支配されたのではないと知っていた。この二人の深い愛情にあっては、羞恥心などは問題にならなかったのだ。
しかしヴァンカの油断しない清純さは、ふとした警告から、フィリップの身辺に一人の女性が現われたことをさとっていた。彼がこっそりと煙草を吸ったり、あまい菓子をつまみ食いしたりしたのではないかというように、彼のまわりの空気を、彼女がかいでいることもあった。彼女は二人の話を、びくっと飛びあがるほど横柄《おうへい》な沈黙とか、彼にショックと重苦しさを感じさせる眼差しとかで、中断させることもあった。また夕食前の散歩中、彼女の手をあずけていた自分のよりは小さいが、きゃしゃではないフィルの手から、もぎとるように手を振りほどくこともあったのだ……。
ダルレー夫人への三度目と四度目の訪問を、フィルはべつに苦労もせずにヴァンカにかくしておくことができた。しかしフィルに対する愛情にもえた魂が、突進したり、探《さぐ》ったりして、汚点を発見し、さてそのうえで身をひそめてしまう眼に見えぬ触角《しょっかく》に対しては、距離も城壁も、なんの役にたつだろう?……二人の深い愛情の秘密の上に接木《つぎき》されたこの小さな宿《やど》り木《ぎ》のような秘密が、実際にはまだ潔白なフィリップを、道徳上の醜《みにく》さで傷つけていた。妹に対する兄のような愛情をいだく恋人として、彼は日頃横暴ぶりを発揮しているのだから、ヴァンカを奴隷《どれい》あつかいにするのが当然なのに、そんな場合でも、この頃ではフィルが優しくしてくれるのに、彼女は気づいていた。妻を裏切った夫がよく示すあの親切さが、彼の心の中に忍びこんで、かえって彼の身辺に疑惑《ぎわく》の影をただよわせていたのだ。
ヴァンカのわけの分からぬ不機嫌をたしなめたフィリップは、今度こそは持ち前の横柄な態度をくずさずに、駆けだしたい衝動《しょうどう》をおさえながら、別荘への道を引きかえした。ケル=アンナで一時間後に、ダルレー夫人に頼まれた通り、お茶のご馳走《ちそう》になるつもりだろうか? 頼まれたと書いたが、これはちょっと違うようだ……。あの女にできるのは命令することだけだ。そして彼女が乞食《こじき》と飢えた人の列に加えたこの少年を、感情を押しかくした冷酷《れいこく》さで、操縦すること以外にはなかったのだ。これは、卑下する気持ちなど起こさない乞食であり、また彼女から離れているときには、初心《うぶ》で均整のとれたこの行きずりの少年に、白い手で給仕したり面倒をみたり、冷たい飲み物をついでくれたり、果物の皮をむいたりしてくれるような女を、感謝の念もなしに思い出すことのできる乞食でもあった。とはいうものの、幼年時代からの恋によって、大人にまつりあげられ、しかも純潔だけをまもってきた青年を、果たして初心と呼べるだろうか? ダルレー夫人は、こうして喜んで屈服する、気の弱い犠牲者《ぎせいしゃ》を見つけたつもりだろうが、実は目はくらんでいても、用心深い敵手に出くわしただけだった。口の中はかわき、物欲しげに両手は差しだしてはいるものの、この乞食は、決して敗北者らしい顔付きをみせなかった。
『あの少年は抵抗するだろう』と、ダルレー夫人は推測していた。『あの子は用心している……』と考えてもみた。しかし、そういう彼女も『あの女の子があの少年を守っている』とまでは気づかなかった。
フィリップは、砂地の牧場にいるヴァンカに、家の中から声をかけることができた。
「二回目の郵便を取りにいってくるよ! 何かきみ、用はないかい?」
用はないという身振りによって、ヴァンカの頭のまわりには、切りそろえた髪が、日の光をあびた車輪のようにひろがった。そこでフィリップは自転車に飛びのった。
ダルレー夫人は、彼を待っていた様子もなく、本を読んでいた。しかしこの客間の行きとどいた薄暗さといい、奥手《おくて》の桃や、三日月形に切ったキプロス島(地中海の東端、トルコ南岸とシリアの沖に位置する島)の赤いメロンの匂いとか、ぶっかき氷の上にそそいだブラック・コーヒーの香とかが立ちのぼっているほとんど眼に見えないようなテーブルといい、彼を待っていたことを物語っていた。
ダルレー夫人は、読みかけの本をおいて、立ちあがりもせずに、手を差しのべた。薄暗い影の中に、彼は白い服と白い手を見ていた。黒ずんだ褐色のアイシャドーの中に、それだけ浮かびあがった黒い眼は、いつになくゆるやかに動いていた。
「眠っていらっしゃったのではありませんか?」とフィルは無理に社交的な丁重《ていちょう》さを自分に課して言った。
「いいえ……とんでもありませんわ。でも、お暑くはありませんの? お腹がすいてるんでしょう?」
「分からないんです……」
ケル=アンナの入口にくるとたんに、なんだか喉《のど》が渇いてきて、それに食物の匂いが敏感に鼻についてきた彼は正直に、ためらいながら、ためいきをついた。この匂いに対する敏感さは、同時に彼の喉をしめつけるなんとも名づけようのない不安な気持ちさえなかったら、食欲と呼んでも差し支えないものだったろう。それでも女主人は、やはり彼をもてなしてくれた。彼は銀の小さなスプーンにのせて、アニス(芳香のある植物。その実で糖果やボンボンをつくる)の味がする軽いアルコール飲料をしみこませたうえ、粉砂糖を振りかけたメロンの赤い果肉をすすった。
「ご両親はお元気、ムッシュー・フィル?」
彼はびっくりして彼女を見つめた。彼女はうわの空で、自分が言った言葉も耳に入らないようだった。袖口で彼はスプーンの一つをひっかけた。それは絨毯《じゅうたん》の上に、かすかな鈴の音をたてて落ちた。
「無器用な方……。ちょっとお待ちなさいね……」
彼女は片手で、彼の手首をおさえ、もう一方の手で、フィルの袖を肱のところまでまくりあげると、自分の熱い手の中に、フィルの裸の手をしっかりと握りしめた。
「ほっといてください!」とフィルは大声で叫んだ。
彼は激しく腕を動かした。コーヒーの台皿が一枚彼の足もとでくだけた。耳鳴りがしている耳の中で、『ほっといてよ!』というヴァンカの先ほどの叫びが木霊《こだま》となってひびいた。すると彼はダルレー夫人の方へ、怒りと質問とでいっぱいな眼差しを向けた。彼女は身動きもしなかった。さっき彼が振りはらった手は、穴のあいた|ほらがい《ヽヽヽヽ》のように、彼女の膝《ひざ》の上に開かれたままだった。フィリップは、このはっきりと意味を示している不動の姿を、長いこと見まもっていた。彼は頭をたれると、支離滅裂な、避けられない映像が二つ三つと彼の前をかすめて通るのを見た。それは夢の中で飛ぶときのような、空を飛ぶ映像であり、水をくぐるとき、逆さになった顔にひだのような波が触れる瞬間のあの落ち方にも似た落下の映像でもあった――やがて感激もなく、考え深くゆっくりと、ことさらに度胸をすえて、彼はそのむき出しの腕を、女の開いた手の中にもどした。
[#改ページ]
十一
フィリップが白服の夫人のところから出たときは、すでに午前一時半頃になっていた。
両親のいる別荘を抜けだすためには、家中の物音がすっかりとだえ、明りが消えるのを待たねばならなかった。掛金《かけがね》がおりたガラス戸が一つ、それ自身の重量で閉まるようになっている木柵《もくさく》が一つ、それから先には、道路があり、自由が待っていた……。果たしてこれが自由だろうか? 幾つもの枷《かせ》をはめられた思いで、彼はケル=アンナの方へ歩いた。ときどき空気を吸うために足をとめながら、左手で心臓のあたりをおさえ、首をうなだれるかと思うと、月に向かって犬がほえるように頭をあげるのだった。海岸の高いところまでくると、断崖《だんがい》の中腹に、自分の両親とヴァンカの両親――それにヴァンカが眠っている家を見ようとして、振りかえった……。三つ目の窓、木造の小さなバルコニー……。彼女はあの二枚の鎧戸《よろいど》を閉めた向こうに眠っているはずだ。少し横を向いて、泣くために隠れてする女の子のように、片腕を枕にして、眠っているはずだ。襟首《えりくび》から頬にかけてよく切りそろえた髪の毛を扇《おうぎ》形にひろげているにちがいない。彼は子供の頃から、ヴァンカの寝姿を何度となく見てきた。彼女が眠るときにしか見せないあの悲しげな優しい姿を、彼はよく知っていた。
心と心が通《かよ》って、その感応《かんのう》で彼女の目をさましはしないかと心配して、彼は間もなく、足もとを案内してくれる上弦の月の光に乳色にかすんでいる闇《やみ》の中で、白く見える道路の方にそれた。乙女の睡眠の底で、やっと弱くなった不安と愛情が、用心深く彼にしがみついているのが感じられた。最初の情事におもむく途上にある十六歳の少年を、こおらせる冷たい恐怖にもまして強く、彼女の不安と愛情との重量が、おそらくこの試練を苦役に変えてしまうのではあるまいか? そしてまたおそらくこの誇らしげな有頂天を度胸のない好奇心に変えてしまうのではあるまいか?……しかし帰りには、海岸の反対側の斜面を、先ほど出かけたときよりもゆっくり登った。彼はその斜面で、出かけたときと同じ息苦しそうな身振りで、月に呼びかけながら、今度は急ぎ足で走って、ほんの一瞬しかためらわなかった。
『二時だ』とフィリップは、村の大時計に耳をかたむけながら数えた。澄《す》んだ四点鐘と、二時を告げる重々しい鐘の音《ね》が、塩気をふくんだ、なまぬるい濃い霧の中をふうわりと流れた。彼は土地の人の言いならわしを真似て、『風向きが変わったので、教会の大時計が聞こえるのだ、天気が変わるんだな……』とつけたして言った。すると、この耳|馴《な》れた言葉のひびきが、とても遠くから、過ぎ去った生活の中から聞こえてくるような気がした……。彼は別荘の前にある花壇を縁《ふち》どる芝生に腰をおろすと、急に泣きだした。そして自分の涙を恥ずかしく思った。しかしやがて、これがうれし泣きだとさとった。
彼のそばで、何者かが大きなためいきをもらした。別荘の番犬が、足もとの闇《やみ》にまぎれて、砂をまいた小道に眠っていた。フィルは身をかがめて、ほえなかったこの親切な獣《けもの》の、猪《いのしし》のような毛並みとかわいた鼻づらをなでてやった。
『ファンファール……おい、ファンファール……』
しかしブルターニュ気質《かたぎ》の老犬は、起きあがると、手の届かないところへと、古い袋みたいな音をたてて、寝なおそうと行ってしまった。
牧場の裾《すそ》の濃い霧の下に眠る小潮の海は、ぬれたリンネルのような、かすかな音を刻々たてている弱い小さな波を、浜辺へと運んでいた。あるときには霧よりも白い|はこやなぎ《ヽヽヽヽヽ》の梢《こずえ》で、あるときには|まゆみ《ヽヽヽ》(ニシキギ科の落葉灌木)の生垣の上で、あざけり笑うように猫の鳴き声を真似る|ふくろう《ヽヽヽヽ》のほかは、目をさましている鳥は一羽もいなかった。
フィリップの心は、馴れてはいるが、今は見ちがえるほど変わっているこの場の背景を、ゆっくりと元通りにしてみた。人間を除外したこの夜の静けさが、彼に避難《ひなん》所を提供してくれた。また、彼のこれまでの生活や毎年夏をすごすこの心地よい土地と、色彩とか芳香とか光――この光の隠れた源《みなもと》は、鋭い矢のような光や青白い幅《はば》のせまい光の瀑布《ばくふ》を降りそそいでいたのだが、――これらの見分けがつかない嵐がうずを巻いているあの場所や雰囲気《ふんいき》との間に、必要な中間地帯を彼に提供してくれていたのだ。ここの生活とは違って、白服の夫人の別荘では、家具といい生花《いけばな》といい、その本来の均衡をうしなって、家具はその牝鹿《めじか》のやせた脚を見せ、生花はその葉の毛ばだった裏や、清らかな水につかったそのかたい茎を見せていた。そしてあの別荘は、女の手や唇が平穏な世界の全滅を思うままにやってのけるような、また雷雨が晴れてあの空にかかる虹《にじ》みたいな、弓形のあらわな腕が心から喜んでいた大変動を、あの手や唇が思うままにたけり狂わせるような、――油断のならない場所であり、雰囲気であったのだ……。
しかし少なくとも彼は、自分が通りぬけてきたその嵐を、背後に置きざりにしてきた。彼がいっしょに持ち帰ってきたのは、泳ぐ者の疲労と、陸地にたどりついた難破《なんぱ》した人のなんとなくほっとするあの共通の気持ちだった。しばしば自分を傷つけてまで、無限の夢に富んだ長年の苦悩を、今後の夢をなくさせてしまうような喜びと交換する世間の青年たちよりは好運に、フィルは今、ただ快い陶酔感《とうすいかん》でぐったりとして帰ってきた。それは、浴びるほど酒を飲んだ酔っぱらいが、からだを動かすと、体内に、燃えるようでしかも強くないアルコール分の抜けてしまった酒の冷《ひ》えた塊《かたまり》がゆれるのを感じるあの意識だった。
夜明けにはまだ間があったが、夜空の半分がすでに他の半分よりも明るく、大空を二つに分けていた。|はりねずみ《ヽヽヽヽヽ》だろうか、それとも普通の|ねずみ《ヽヽヽ》だろうか、ごく小さな動物が小きざみに走りながら、土を引っかいた。明け方の光の前触《まえぶ》れをする最初の一吹きの風が、二、三枚の花びらを小道の上にころがしたかと思うと、そのまま吹きちらして消えてしまった。いっさいのものが、また動かなくなった。はるか遠方の大時計で、夢を見ているように三時の鐘が続いて鳴った。最初の鐘は澄《す》んで近くに、あとの二つの鐘は風に吹かれて息苦しく聞こえた。一つがいの|だいしゃくしぎ《ヽヽヽヽヽヽヽ》が、そのひろげた翼の帆のようなはばたきの音が聞こえるほど低く、フィリップの上を通りすぎた。そして海をわたるその鳴き声が、この青年の開け放しで無防備の記憶の中で、自分といっしょに成長してきた麦穂《むぎほ》のようにブロンドの頭をまっすぐに立てた少女と、黄金色の海岸とにつながる、清純な十五年という年月の奥底まで、しみとおった。
彼は肉体的な努力をして立ちあがった。今しがたここ――白い木柵《もくさく》のそば、寝ていた犬のそば――にからだを休めていた者が、前日、ケル=アンナの方を恐る恐る振りかえりながら、この同じ白い木柵によりかかり、寝ていた犬をうわの空で撫《な》でていた者と同一の人間だと、彼は強いて認めようとした。しかしそれはできなかった。
彼は熱い両手で顔をこすった。その手はいつもより柔らかな感じで、ある匂いがしみこんでいた。それは鼻孔のところに固まらせようとすると、かえって飛びちってしまうくせに、もろい葉をつけたかぐわしい、ある種の植物の香気のように、あたりにただよっていた。このとき、ヴァンカの部屋で、鎧戸《よろいど》の薄板の間から、ランプの光がもれたかと思うと、すぐにまた消えた。
『彼女は眠っていないな。時間を見たんだ。なぜ眠らないんだろう?』
建物の壁ごしに、彼には手にとるように分かるのだった。ヴァンカがどんなふうに片腕をのばしてランプをつけ、銅製のベッドにぶらさげてある小さな懐中時計をのぞいたか、それから電燈を消しながら、手入れの行きとどいた子供らしいラヴァンド香水の匂いのする髪の毛と頭を、枕の上に横たえたか分かった。寝苦しい夜なので、海水着の肩当てで日の光を避けたところだけが白く残っている、日焼けした一方の肩が裸のままになったことも、分かっていた。そして彼の女友だちのたくましく長く伸びた肉体の形が――毎年予想どおりに、新しい美しさをそなえてゆく、なじみ深い肉体が――目に浮かんで、彼をうっとりとさせた。
避けがたい帰結として、やがて恋愛の用途にささげられるこの清純な肉体と、――洗練された誘拐《ゆうかい》に熱中し、掠奪者の素質にめぐまれ、熱狂的な執念《しゅうねん》をそなえ、魅惑的で偽善的な愛の手練手管《てれんてくだ》にたけたあのもう一人の女の肉体との間に、どんな共通点があるのだろうか?
「何もありゃしない!」と彼は大きな声で言った。
きのうも彼は、ヴァンカが自分のものになるまでの時間を、辛抱強く計算したものだった。それだのにきょうは、自分の肉体に、敗北の戦慄《せんりつ》と快感を残したあの愛の手ほどきのために青ざめて、フィリップは狂った映像を前にして、からだごと後ずさりするのだった……。
「共通のものなんか、何もありゃしない!」
夜明けが急速にやってきた。しかし明けそめる黎明《れいめい》の赤い色を一面に浴びている、塩気をふくんだ濃い霧を吹きはらう風はなかった。フィリップは別荘の敷居をまたいで、まだ息づまるような夜気が立ちこめている自分の部屋へと音もさせずに登った。そして一人前の男になった自分の顔と、鏡の中で対面しようと急いで鎧戸《よろいど》を開けた……。
疲労でやつれた顔の中に、彼が見たものは、隈《くま》どられて大きく見える苦悩した眼、赤い口にふれたため紅《べに》のついた唇、額にたれかかる乱れた黒い髪、――男の顔立ちというよりは、むしろ傷ついた少女のそれに似た嘆いているような顔立ちだった。
[#改ページ]
十二
フィリップが寝ついた頃には、ヴァンカが毎朝一つかみずつ投げ与える穀類を、|ごしきひわ《ヽヽヽヽヽ》がねだる声がしていた。フィリップのふるえおののいている眠りは、この小鳥の軽いさえずり声に悩まされた。そして彼の浅い夢は、このさえずり声を、頭にかぶさっている重苦しい兜《かぶと》からむしりとったまるまった金属の小さなけずり屑《くず》に変えた。彼がすっかり目をさましたときには、よすぎるほどの晴天は、卵を産んだ雌鳥《めんどり》の声や、蜜蜂《みつばち》の羽音や、小麦の脱穀機のうなりを反響させていた。海は緑色になって北西の涼しい風をうけて波立っていた。白い服をきたヴァンカが、窓の下で笑っていた。
「どうかしたの? どうしたのよ? ねえ、フィル! 眠り病にかかったの?」
すると壁の古いしみのように、|きづた《ヽヽヽ》か地衣《ヽヽ》のように、ほとんど目に見えないほどになっていて、二人の若者から無視されている影《ヽ》のような家の者までが、ヴァンカのまわりに現われて、
「どうかしたのかい? どうしたんだ? |けし《ヽヽ》の実でも食べたのかい?」と繰《く》りかえして言った。
フィリップは二階の自分の窓から、みなを見おろしていた。その口は半ば開き、顔色には一種無邪気な恐怖が現われて、青白いのに気づいて、ほかの人たちの笑いを消して、まずヴァンカの笑いが消えた。
「あら! あんた、病気なの?」
まるでヴァンカから小石でも投げつけられたように、彼はさっと身を退いた。
「病気かって? よし見てろよ、ぼくが病気かどうか? いったい今、何時だ?」
窓の下で、また笑い声が起こった。
「十一時十五分前よ、ねぼすけさん、泳ぎに行きましょうよ!」
彼はうなずくと、窓を閉めた。窓ガラスにツル織りの布を張ってあったので、彼はまたもや夜の奈落《ならく》に押しこめられてしまった。思い出の渦巻《うずまき》が、黒く、油のようにぬるぬると、勿体《もったい》ぶって、明るい方へと伸びて、光る噴出物の間を流れていた。そしてそれは、金色になるかと思うと肉色になり、ぬれた瞳とか、指輪とか、爪《つめ》とかの光にかがやいていた……。
彼は寝着間をぬぎすてて、勢いよく海水着を着こんだ。そしていつものように半裸で降りてゆかずに、ガウンの紐《ひも》を注意深く結んだ。
ヴァンカは海辺の牧場で、彼を待っていて、田舎《いなか》のパンのような茶褐色の細い腕と長い脚を、静かに日に当てて焼いていた。色のあせた青いスカーフの下の、彼女の比類のない青い色が、フィリップに、冷たい水に対する渇《かわ》きと、塩からい波や微風に対する欲望をおこさせた。それと同時に彼は、日ましに女らしくなる肉体の否みがたい迫力と、精巧に彫りあげられた頑丈《がんじょう》な膝《ひざ》がしらと、腿《もも》の伸び伸びした筋肉や誇らしげな腰つきをじっと眺めていた。
「なんという逞《たくま》しさなんだろう!」と彼は一種の畏敬《いけい》を感じながら、こう思った。
二人はいっしょに海へ飛びこんだ。ヴァンカが楽しそうに脚や腕でおだやかな波をたたいたり、歌いながら水をはき出している間に、フィリップは青い顔をして、寒さにふるえるからだを抑えながら、歯を食いしばって泳いでいた。ヴァンカの裸の両足がフィルの一方の足をしめつけた。彼はとっさに泳ぎをやめ、さっと垂直に潜ると、数秒後にまた浮かびあがった。しかし彼は少しも復讐《ふくしゅう》しようともせず、二人の水浴を一日中で最も楽しい時間にしてくれる、この|あざらし《ヽヽヽヽ》のような叫びや、競争や、格闘などという毎日の慣例を無視してしまった。
熱い砂の上に、二人は腰をおろすと、心の中で互いに相手を非難した。ヴァンカは小石を握ると、五十メートルの沖合いにのぞいている角《つの》のような突起のある小さな暗礁《あんしょう》をねらって命中させた。フィリップは自分が女友だちにこんな男の子の遊びを仕こんだこともすっかり忘れてしまって、目を疑うばかりに驚嘆した。彼は自分が柔和で、いつもの自分以上のものになって、今にも気絶しそうだと感じた。それに彼が前夜、初めての情事にでかけるために、子供の頃からの家を抜けだしたことを示すような男性的な尊大さは、どこにも見られなかった。
「おひるだわ! フィル! 教会でおひるの鐘が鳴ってるわ、聞こえて?」
立ちあがるとヴァンカは、先をそろえた、ぬれた髪を振り動かした。別荘の方へ二三歩ふみ出した彼女の足が、小さな|かに《ヽヽ》を一匹ふみつぶした。すると|くるみ《ヽヽヽ》を割るような音がした。フィリップはぞっと身をふるわせた。
「どうしたの?」とヴァンカが言った。
「きみが小さな|かに《ヽヽ》をふみつぶしたんだ……」
彼女は振りかえると、褐色の桃のような頬と、まっ青な眼と、白い歯並びと、赤い口の内側を、白日のもとで見せながら言った。
「それがどうしたっていうの? 初めてじゃないでしょう? あんただって、生きている|かに《ヽヽ》をちぎって、|えび《ヽヽ》網の餌《えさ》にするじゃないの?」
彼女はフィリップより先にかけだすと、砂丘のくぼみを一飛びに飛びこえた。一瞬間、彼女が大地から離れて、両足をぴったりつけ、前こごみになって、まるで一かかえの空気をすくいあげでもするように両腕を輪《わ》にして宙に浮かんでいる有様を、彼は見たのだった。
『彼女はおとなしいとばっかり思っていたんだがな』とフィリップは考えた。
彼は昼食にさまたげられて、昨夜の思い出にふけることはできなかった。その思い出は、真昼間のこの時刻には、うとうととまどろんでいて、暗いその巣の奥で、ほんの僅《わず》か動いているだけだった。彼は、詩情をたたえた青白い顔についておせじを言われても、口数と食欲のないのを批判されても、そのまま聞き流していた。ヴァンカは気にさわるほど快活にはしゃいで、さかんに食べていた。フィルは彼女を観察していたが、好意は持てなかった。彼女が|いせえび《ヽヽヽヽ》をひき裂く手の逞《たくま》しさとか、髪の毛をはねのける首の動きの高慢さとかが、とても目についてしかたがなかった。
『おれはもっと快活にしなくちゃならないんだ』と彼は思った。『彼女は何も疑ってはいないんだ』しかしまた同時に、彼女のこの苛酷な明朗さが苦にもなった。そして夏になると、ブルターニュの小さな湾《わん》の周囲をためらいがちにまわっているあの雷雲の一つのように、その辺をうろうろして自分の裏切り行為にびっくり仰天して、ヴァンカが麦や稲のように、わなわなと身をふるわせてくれるなら、かえっていいなと胸の奥では願った。
『彼女はぼくを愛していると言っている。事実、ぼくを愛していてくれる。しかし以前は、もっとそわそわして落ち着いていなかったのに……』
昼食後、ヴァンカは蓄音器をかけて、リゼットを相手にダンスをした。彼女はフィリップにも無理にダンスをさせた。彼女はカレンダーで潮時をしらべて、四時の干潮をねらって網の用意をした。また、フィリップのまわりや別荘のあちこちで、高校生のような叫び声と、タールを塗った糸や、古いポケット・ナイフを探す声をあげた。そしてヨードと海藻の匂いのしみた漁のとき着る穴のあいた上着の匂いを、歩いたあとにただよわせていた。フィリップは、大きな異変や幸福のあとにくる眠気におそわれ、疲れはてて、彼女を執念深い眼差しで追って、神経質に拳《こぶし》を握りしめていた。
『たった三言《みこと》で、彼女を黙らせてやれるんだがなあ……』しかし彼には、自分がその三言を口に出さないことが分かっていた。そして熱い砂のくぼみの中で、ヴァンカの膝《ひざ》を枕に眠りたいという思いで苦しんでいた。
海岸ぞいで、彼らは小|えび《ヽヽ》だの、侵略者をおびやかすために、扇形の鰭《ひれ》や喉を、虹の七色にそめて、空気でふくらます|ほうぼう《ヽヽヽヽ》を見つけた。しかしフィルは、岩かげや波間のこうした獲物を取る気力もなく、ただ追いかけていた。水溜りに照りかえす日光をひどくまぶしがったり、ぬるぬるした髪の毛のような|あまも《ヽヽヽ》の上では、まるで無経験者みたいにすべったりした。彼らは|いせえび《ヽヽヽヽ》を一匹つかまえた。またヴァンカは|あなご《ヽヽヽ》がかくれている『溜り』を乱暴にひっかきまわした。
「ほら、この通り、たしかにいるわよ!」と彼女は、ばら色の血でそまった鉄製の鉤《かぎ》の先を見せながら、叫んだ。
フィルは青い顔をして、眼を閉じた。
「ほっといてやれよ、そんな奴は」と息苦しい声で、彼は言った。
「とんでもないわ! きっとつかまえてみせるから……。でも変ね、どうかしたの?」
「どうもしないよ」
彼は自分にも合点の行かない苦悩を、できるだけ隠そうとした。昨夜、かぐわしい暗闇の中で、彼を一人前の男に、そして勝利者にしようという欲望にもえる腕に抱かれて、彼が得たものは、いったいなんであったろうか? 悩む権利だろうか? 優しみもない無邪気な少女の前で、気を失って倒れる権利だろうか? それとも生物の生命や、その生身から流れでる血を前にして、説明できぬ身ぶるいをする権利だろうか?……
彼はむせびながら、空気を吸いこむと、両手を顔にあてて、いきなりすすり泣きだした。はげしく嗚咽《おえつ》がこみあげて、腰をおろさずにはいられなくなった。ところがヴァンカは血にまみれた鉤《かぎ》を手にして、人を拷問《ごうもん》にかけている女のように突立ったままだった。彼女は身をかがめたが、別にたずねてもみなかった。しかもすすり泣きの、以前とは異なった、はっきりした抑揚と調子を、音楽家として聞いているだけだった。彼女はフィリップの額に手を差しのべたが、触れないうちに引っこめてしまった。唖然《あぜん》とした表情がその顔から消えると、そこにはきびしい表情があらわれた。そしてまた年齢を超越したにがにがしい悲しげなしかめ面《つら》と、泣きくずれている少年のうろんな意気地なさに対するきわめて雄々しい軽蔑《けいべつ》の念があらわれた。やがて魚が中ではねている|ラフィヤやし《ヽヽヽヽヽヽ》で編んだ魚籠《びく》と、|えび《ヽヽ》網を気をつけて拾いあげ、鉄製の鉤を剣のようにベルトにはさむと、しっかりした足どりで、あとも見ずに遠ざかって行った。
[#改ページ]
十三
彼は夕食になる少し前まで、彼女の窓を見なかった。彼女は漁のときの着物を、自分の眼の色に忠実な、ばら色のスカラップで飾った青い厚地のちぢみの服に着かえていた。そして彼女が白い長靴下と、鹿皮の靴をはいているのに、彼は気がついた。この日曜日のような身なりが、彼に不安を与えた。
「夕食にだれかお客があるんですか?」と彼は家族の影《ヽ》の一人に聞いた。
「お皿の数をかぞえてごらんよ」と影は肩をそびやかしながら答えた。
八月も終わりかけていて、早くもランプの明りで、夕食をとっていた。あけ放した戸口からは、まだ赤銅色《しゃくどういろ》の紡錘《ぼうすい》形の雲が一つ浮いている緑色の夕空が眺められた。人影のない海は、燕《つばめ》の羽根のような青黒い色をして、眠っていた。そして夕食をとっている人たちの話が途ぎれると、小潮どきの潮が倦《う》むように規則正しく小さく差してくる音が聞こえた。フィリップは影《ヽ》たちの間に、ヴァンカの眼差しをさがした。それは、長い幾年月の間、二人を結びつけてきたあの目に見えない絆《きずな》の糸の力をためすためだった。この糸があればこそ、食事の終わり、季節の終わり、一日の終わりに、きまっておそいかかるあの侘《わび》しさに、この昂奮《こうふん》した純粋な二人は耐えつづけてきたのだ。ところが彼女の方は、皿の上に眼を伏せていた。釣燭台の光は、彼女のふっくらした瞼《まぶた》に、まるい褐色の頬に、小さい顎《あご》に、光沢をつけているにすぎなかった。彼はなんだか見捨てられたという気がした。そして彼は夜目にも白く見える、ケル=アンナへ通じる道――ゆらめく三つの星によって急《せ》かせられるように、ライオンの形をして海中へ突出している半島のかなたを探しもとめたのだった。これからのち数時間、夕日が黄金色にそめているあの空がもう少し青みがかった灰色に変わり、なお幾つかのきまり文句、『おや、まあ、もう十時よ。子供たちや、おまえたちは、この家では、十時に寝ることなんか忘れてしまったようね?』だとか、『マダム・オードベール、わたしきょうは、これといって別に変わったことは何もしませんでしたよ。それなのに、休まないで働きつづけたように疲れましたわ……』という言葉が聞かれた。これからだ、幾つかの皿がかちあう音、裸《はだか》のテーブルの上にドミノの牌《はい》をうちつける音、半分以上も眠っているのに、寝に行くのをぐずっているリゼットの泣きわめいている声などが聞こえるのだ……。それから人知れず傷ついたヴァンカの眼差しを、心の中の微笑を、信頼を、取りもどすための試みをするときになったら、そのときこそ、いよいよ、あのときがくるはずだ、前夜、フィリップがこっそりと抜けだしたあの同じ時刻が……。彼はそれを、はっきりした欲望も計画もなしに考えていた。ヴァンカが不機嫌なために、やむなくもう一つ別の避難所へ、別の優しい肩へ、少女の恋の敵意に傷つけられたこの快楽の回復期にあるさし迫って必要な効果のある激しさの方へと、それは退却するような気持ちからだった……。
こうしたおきまりの行事は、一つ一つ実行されつつあった。女中がむずがるリゼットを連れていった。マダム・フェレがきらきら光るテーブルの上に、ダブル・シック(ドミノの牌に六が二つ記してあるもの)の牌をおいた。
「ヴァンカ、外に出てみないか? どのランプにも蛾《が》がぶつかっていて、うるさくてたまらないんだ」
彼女は答えずに、彼について外に出た。二人は海のほとりに、黄昏《たそがれ》がいつまでも残しておくあの明るさを見出した。
「肩掛を取ってきてやろうか?」
「いいえ、いらないわ」
彼らは海辺の牧場から立ちのぼって、|いぶき《ヽヽヽ》|じゃこうそう《ヽヽヽヽヽヽ》の匂いがする、青味をおびたごく軽い水蒸気をあびながら、二人とも歩いた。フィリップは女友だちの腕をとるのをひかえていた。そしてこうした自分の慎重《しんちょう》さにぎょっとした。
『いったい、ぼくたち二人の仲はどうなったのだろう? お互いに相手を見失ってしまったのだろうか? あそこであったことなどヴァンカはまだ知らないのだから、多分ぼくだけがあのことを忘れてしまえばいいのかもしれない。そうすれば、ぼくら二人は以前のように幸福にも、以前のように不幸にも、以前のようにまた結ばれるかもしれないのだ?』
しかし彼はこの希望的な観察に自己催眠的な信頼をよせてはいなかった。それというのも、ヴァンカが彼のそばを、あの深い愛情も消えうせてしまったかのように、冷淡に静かに歩いていたし、彼女の仲よしである自分の苦悩にさえ気づいてくれない有様だったからだ。そんなわけで、フィルには、|あの時間《ヽヽヽヽ》が迫ってくるのがひしひしと感じられるのだった。そしていつぞや|とらぎす《ヽヽヽヽ》(大西洋フランス沿岸に多く棲息する食用魚)に刺された翌日、包帯をした腕が、上《あ》げ潮で焼きつくような痛みをおぼえたときと同様な悪寒《おかん》におそわれるのだった……。
彼は立ちどまって、額の汗をふいた。
「息がつまりそうだ。ぼくは具合が悪いんだ、ヴァンカ」
「そうね! とても具合が悪そうだわ」と木霊《こだま》のように、ヴァンカの声が答えた。
彼は彼女のわだかまりが一時とけたものと信じて、声や身振りに、熱をこめて言った。
「ああ、きみは親切だね! ああ、ぼくは大好きさ!……」
「違う、あたしは親切でなんかないわ」と彼女の声がさえぎった。
この子供らしい言葉がフィリップに希望を残した。彼は女友だちの裸の腕を握った。
「怒っているんだね、ぼくにはよく分かってる。きょう女みたいに泣いたので……」
「違うわ、女みたいでなんかなかったわ……」
彼は暗がりで顔を赤くして、言い訳をしようとした。
「きみにも分かると思うんだよ、穴の中にいる|あなご《ヽヽヽ》を、きみはいじめたろう……。|いせえび《ヽヽヽヽ》用の鉤《かぎ》についたあの|あなご《ヽヽヽ》の血……。ぼくは、あれを見たら急に、胸が変になってしまって……」
「ええ! そうでしょうとも、胸が……変になってしまったのね……」
その声の調子がとても物わかりがいいようだったので、フィリップは思わず固唾《かたず》をのんで、『何もかも知っているらしい』と思った。彼は自分をぺちゃんこにするような啖呵《たんか》と、涙と不平の爆発を待った。それなのにヴァンカは黙ったままだった。それで雷鳴のあとの静かな休止のように、長い間《ま》をおいてから、彼はおずおずと質問をしてみた。
「ぼくがあんなに弱虫なので、もうぼくを愛していないように見せてるのかい?」
ヴァンカは彼の方へ、かたい生垣のような髪にかこまれた星雲のように淡く闇《やみ》に浮かべた顔を向けた。
「あら! フィル、あたしはいつでもあんたを愛してるわ。まずいことには、あのことが何も変えはしないのよ」
彼は心臓が飛びあがって咽喉《のど》にぶつかるような思いがした。
「そうかい? それなら、ぼくがあんなに『女々《めめ》しかったり』、みっともなかったりしたことは許してくれるんだね?」
彼女はほんの一瞬しかためらわなかった。
「そうよ、許してあげるわ、フィル。でもこれもまた、何も変えはしないのよ」
「変えないって、何を?」
「あたしたちをよ、フィル」
彼女がまるで巫女《みこ》のような優しさで話したので、彼はこれ以上聞きだせなかったが、それにしても、これで満足する気にはなれなかった。ヴァンカの方は、こうした心の奥の動きにあわせて、彼についてきた。それは巧みに、次のように付け加えたからだった。
「まだあれから三週間もたっていないけど、あたしたちが結婚するまで、これから先四、五年は待ち遠しい思いをしなければならないということから、あたしもあんたも喧嘩《けんか》をして騒いだときのことを、あんた、覚えている?……でもね、フィル、あたしはもう一度昔にかえって子供にもどりたくなったの、きょうは……」
八月の夜の清らかな青味をおびた空気の中で、目の前に浮いているこの『きょうは』という巧妙で油断のならない言葉を、彼女が強調するなり、注釈するなりしてくれるのを、彼は待った。しかしヴァンカは、はやくも沈黙で武装する手段を心得ていた。そこで彼は、念をおすように言った。
「じゃあ、もうぼくに怒っていないんだね? あすからぼくたちは……ヴァンカとフィルになるんだね、今まで通りに? いつまでも?」
「そうよ、いつまでもね、フィル……。いらっしゃい。帰りましょう。冷えてきたわ」
彼女は彼が言った『今まで通りに』という言葉を繰りかえしてくれなかった。だが彼はこの中途半端な誓《ちか》いと、一瞬、握った冷たい手だけで満足した。というのは、ちょうどそのとき、井戸の釣瓶《つるべ》を巻く鎖《くさり》の音、井戸|側《がわ》にぶつかる空《から》の手桶《ておけ》の音、開かれた窓の金棒づたいにすべるカーテンのきしみなどという、人間たちがたてるきょう一日の最後の物音が、フィリップに、前夜、別荘の戸口をあけ、こっそりと抜けだそうと待っていたあの同じ時刻を告げたからだった……。ああ! 見なれぬ部屋のあのほそ暗い赤い光……。ああ! 憎むべきあの幸福、徐々におちこんで行くようなあの死、ゆるやかな羽ばたきによって戻ってくる生命……。
前夜以来、ヴァンカから一種の赦免《しゃめん》を与えてもらいたいと望んでいたのに、その口調だけはいかにも誠実がこもっているが、言葉尻がにごっている、どっちつかずの赦免を、彼女からいざ与えられてみると、彼は、専横的なあの美しい妖婦《ようふ》がくれたあの贈物の値打ちを、男として急に思いなおしてみるのだった。
[#改ページ]
十四
「パリへお帰りの日取りはおきまりになりましたの?」とダルレー夫人がたずねた。
「ぼくたちが帰るのは、毎年九月二十五日なんです」とフィリップが答えた。「でもそのときには、その月の日曜日の加減で、出発が二十三日とか二十四日とか、または二十六日とかになることがあります。でも二日以上狂うことはほとんどありません」
「そうですの……。つまりあと半月でお立ちになるのね。半月後のこの時刻には……」
フィリップは砂浜の近くでは平らで白く、遠くの低くたれこめている雲の下のあたりでは、|まぐろ《ヽヽヽ》の背のような色をしている海から眼をはなして、驚いた様子でダルレー夫人の方を振りむいた。タヒチ島の女が着る服のように、ゆったりした白い布地をまとい、小ざっぱりと髪を結《ゆ》いあげ、肌の色と同じ色の白粉《おしろい》をつけた姿で、ゆったりと彼女は煙草をくゆらせていた。そして彼女からそう遠くない位置に腰をかけた、彼女と同じように褐色の髪を持ったこの美少年が、彼女の弟以外のものだと知らせる何ものもそこにはなかった。
「それで、半月後の今時分は、どこにおいでですの?」
「ぼくは……ボワ(ブーローニュの森のこと。パリの西方に位置する森林で、パリの人たちの散歩の場所)の湖水にいるでしょう。さもなければブーローニュのテニス・クラブに、あれと……いいえ……友だちといっしょにいるでしょう」
彼は顔を赤くした。というのは、ヴァンカの名前があやうく口に出そうになるのを、ようやくこらえたことと、ダルレー夫人が、彼女にしばしば美青年のような外観を与えるあの男性的な微笑を浮かべながら、にっこりと微笑したからだった。フィリップはむっと腹をたてた小さな崇拝者の不機嫌が表情に出ているその顔だけでも、せめて隠そうとして、海の方へ顔をそむけた。力強い柔らかな手が彼の上におかれた。すると、くもった海から眼差しを離さない彼のほころびた口もとから眼にかけて、甘美な苦悩の表情が立ちのぼり、白と黒からなる輝きが瞼《まぶた》の間に消えた……。
「悲しんだりしてはいけないわ」とダルレー夫人が優しく言った。
「ぼく、悲しんでなんかいません」とフィリップがはげしく抗議した。「あなたはお分かりにならないんです……」
彼女はつやのある髪の頭をさげた。
「たしかにそうですわ。わたしには分かりませんわ。みながみなまで分かるというわけではありませんのよ」
「おや、そうですか……」
フィリップは自分を、あの恐ろしい秘密から解放してくれたこの女を、真底からの不信を抱きながら、じっと見つめた。まだ赤くなっているこの二つのかわいらしい耳の中では、喉《のど》を切られた人が立てる叫びに似た、低い、息のつまるような、あのときの叫び声が今でも響いているだろうか?……目立つほどの筋肉もないあの二本の腕が、気を失いかけた彼を軽々と抱きかかえて、この世からあの世へと運んでくれたのだ。彼の口に、ただ一つの全能の言葉をうつそうと、人の生命が恐ろしい一つの痙攣《けいれん》となっている深い箇所から弱々しい反響となって聞こえてくるような歌をかすかに呟《つぶや》くために、口数の少ないこの口は前にかたむいてきたのだ……。彼女はあのとき、もうなんでも知っていたのだ……。
「みながみなまでというわけではありませんけどね」と彼女は、フィリップの沈黙が、まるで何かの返事を要求していたかのように、こう繰《く》りかえして言った。「でもあなたは、わたしから色々ときかれるのを喜んでいらっしゃらないんでしょう。もっともわたしも、ときどきぶしつけすぎますものね……」
『そうだ、稲妻みたいなものだ』とフィリップは思った。『稲妻がジグザグと走っているあの瞬間には、まっ昼間さえ、暗い影にかくれている秘密まで、いやでもあばかれてしまうんだもの……』
「それでね、ただわたしは、あなたが平気でわたしと別れて行けるか、それだけが知りたかったんですのよ」
若者は自分の足に眼をおとした。刺繍《ししゅう》をした絹のゆったりした服が、彼を近東のプリンスに変装させ、美しくしていた。
「あなたの方はどうなんです?」と彼はぎごちなくたずねた。
ダルレー夫人の指にはさんであった巻煙草の灰が、絨毯《じゅうたん》の上に落ちた。
「わたしのことは問題ではありませんわ。問題はフィリップ・オーベールで、カミーユ・ダルレーではないんですわ」
カミーユという、この男性にも女性にも通用する洗礼名を聞いて、彼はもう一度びっくりして彼女の方に眼をあげた。『カミーユ……。そうだ、彼女はカミーユというんだ。別にこの名でなくてもいいんだ。なにしろぼくは、心の中でこのひとを、マダム・ダルレー、白服の夫人、または彼女と呼ぶだけで十分なんだから……』
彼女はゆったりと煙草をくゆらして、海を眺めていた。若いのだろうか? たしかにまだ若い、三十か、三十二くらいだ。このひとも、心の底が知りにくかった。落ち着きはらった人たちの表情の最大限が、節度のある皮肉、微笑、謹厳《きんげん》さといった以上には出ないのと同様だ。雷雨をはらんだ沖合いから眼をそらさずに、彼女はまたその手をフィリップの手にかさねると、彼の思惑にはかまわずに、自分の利己的な快楽のために、ぎゅっと握りしめた。この小さいながら力強い手につかまえられると、彼は自白をせがまれたような気持ちになって、押しつぶされた果実が汁を出すように、思わず口をきいてしまった。
「もちろん、ぼくは悲しいですよ、でも不幸にはなるまいと思っています」
「そうですの? でもなぜ不幸にはならないとお思いなの?」
彼は弱々しく彼女に向かって微笑した。その様子がいじらしく、不器用だった。彼女がひそかに彼にそうあってほしいと願っていたそのままだった。
「なぜって」と彼は答えた。「きっとあなたがなんとか都合をつけてくださるだろうと思うからです……。そうでしょう、なんとか都合をつけてくださるでしょう?」
彼女は肩をあげ、ペルシャ風の眉《まゆ》をつりあげた。そしてことさらに努めてその微笑にいつもの平静さと、軽蔑《けいべつ》の気持ちを与えようとした。
「なんとか都合をね……」と彼女は繰りかえした。「というのは、もしわたしの思い違いでないなら、ここでわたしがしていたように、わたしに気が向いたら、家へあなたをご招待しますし、またあなたは学校の勉強や……家庭の事情が許すとき、わたしに会いにきてくださる工夫《くふう》だけなさればいいということなんですの?」
彼女の言葉の調子に彼はびっくりした様子を見せた。しかしダルレー夫人の視線をどうにか受けとめた。
「そうです」と彼は答えた。「それ以外に、ぼくは何ができましょう? いけないとおっしゃるんですか? ぼくは好き勝手なことをしている浮浪児《ふろうじ》ではありません。それに、まだ十六歳と六か月の子供なんですから」
彼女の顔が次第に赤くなった。
「何もいけないなんて言いませんわ。でも女のひと……もちろん、わたし以外の女のひとでいいのよ、その女のひとがひとりでいるとき、ただそのときだけ――あなたがそのひとをお望みだってことが分かったら、その相手のひとの心を当然傷つけるかもしれないということに、あなたは気がつかないかしら?」
フィルは小学生のような生真面目《きまじめ》な注意力を集中して、彼女の言葉に耳をかたむけた。そして、思わせぶりなことを言う彼女の口もとと、嫉妬《しっと》にもえながら、そのくせ何も要求していない彼女の眼に、フィルの大きく見開いた眼は釘づけになっていた。
「そうは思いません」と彼はためらわずに言った。「ぼくはあなたが傷つくとは思いません。『ただそのときだけ』とおっしゃるのですか?ええ……ぼくが望むのは、そのときだけです……」
彼はまた同じような幸福に陶然《とうぜん》とし、同じように顔を青くして、またも途中で言葉をきり、黙ってしまった。そしてカミーユ・ダルレーの落ち着いた大胆な振舞は、彼女がしでかしたことに対する世間の思惑を気にしてぐらついた。ところが目がくらんだように、フィリップが首を前にぐったりたれたので、この屈服の動作が一瞬、男を征服するこの女を得意にさせた。
「わたしを愛していらっしゃるのね?」と彼女はひくい声で言った。
彼はびくっとして、恐れるように彼女を見つめた。
「なぜ……なぜそんなことをおききになるんです?」
彼女はその冷静さと、疑りぶかいその微笑を取りもどした。
「冗談ですわ、フィリップ……」
向こうみずなことを言う相手を非難する気持ちから、彼は眼差しで彼女に問いかけることを、すぐにはやめなかった。
『もし大人だったら、「愛してます」と言ったに違いない』と彼女は思った。『でもこの少年は、わたしがもし、しつこくたずねたら、きっと涙を流して、接吻しながら、わたしを愛していないと泣き叫ぶだろう。しつこくたずねてやろうかしら? そうしたらこの子を追いだすか、それともわたしが身をふるわせながら、彼の口から、自分の勝利の限界がどの程度のものかを知るか、結局そのどっちかになるわけじゃないかしら?』
彼女は胸のあたりに、暗い小さな痙攣《けいれん》を感じ、さりげなく立ちあがると、フィルの存在などは忘れたかのように、開けはなたれた張出し窓のところへ行った。岩の根に四時間以上もさらされて、海の水をほしがっている青い小さな|いがい《ヽヽヽ》の匂いが、花も終わりになった|いぼた《ヽヽヽ》の木が発散する下剤用に煎《せん》じる|にわとこ《ヽヽヽヽ》のような濃い匂いといっしょに入ってきた。
見かけは放心したような様子で、窓によりかかっていたダルレー夫人は、自分の背後に横になっている若者の気配を感じながら、彼女の身辺から去らないある願望の重荷を、背負いつづけていた。
『わたしを待ってるんだわ。わたしから得られる快楽を計算してるんだわ。わたしがこの子から得たものは、どんな行きずりの女でも、手の届くものだったわ。そのくせ、この気の小さいブルジョワの息子は、家庭のことをきくと取りすましたふうをするし、学校のことを話すように言うと勿体《もったい》ぶるし、ヴァンカの名が出ると沈黙と羞恥《しゅうち》の砦《とりで》の中に立てこもってしまうんだから……。この子はわたしから一ばん易《やさ》しいことしか教わらなかった……。事実それは一ばん易しいことだ……。この子がここへくるたびに持ってきて、見せて、着物を着ると同時にまた持ってかえって行くのが、あの……あれだったのだから……』
彼女は自分が『愛情』という言葉の前でためらっているのに気づくと、窓を離れた。フィリップは、彼女が飢《う》えたように近づくのを、見つめていた。彼女は彼の肩に両腕をかけ、少し乱暴に押すと、その裸の片腕の上に、褐色の髪の頭をひっくりかえした。こうして抱きかかえるようにして、彼女はせまくて暗い王国へといそいだ。その王国に安住するかぎり、彼女の思いあがった心は、うめき声を苦悩の告白だと信じることができたし、またそこに安住するかぎり、彼女のように歓楽《かんらく》を求める女まで、逆に人に恩恵をほどこしているという錯覚《さっかく》にひたることもできるのだった。
[#改ページ]
十五
夜のあいだ数時間降りつづいた小雨が、サルビアの花をぬらし、|いぼた《ヽヽヽ》や、|もくれん《ヽヽヽヽ》のゆれ動かない葉のつやをまし、松のこずえの行列毛虫の巣をつつむ保護用の薄いヴェールを破らずに露の玉をのこしていた。風は海上をしずかに吹いていたが、戸口の下では、かすかな、人をいざなうような声で、また焼栗《やきぐり》や熟した|りんご《ヽヽヽ》などについてひそかに話す去年の思い出をこめたような声で歌っていた……。この風にさそわれて、フィリップは起きるときに、麻の上着の下にくすんだ青い毛編みの上着を着こんだ。そして彼の睡眠が純粋さと平穏さをうしない、夜ふけてからやっと眠り始めるようになってからは、毎度のことながら、ひとりおくれて朝食をすませた。彼は壁のかげを通りすぎ、明るいテラスを探しでもするかのように、ヴァンカを探して駆《か》けまわった。しかし彼女の姿は、湿気がワニスを塗った板張りやキャンバスの匂いを強くしているホールにも、テラスにも見つからなかった。けぶるような霧雨《きりさめ》が空気をしめっぽく匂わせ、ぬらすほどでもなく机にまとわりついた。|はこやなぎ《ヽヽヽヽヽ》の黄色くなった落葉が一枚、一瞬フィリップの目の前で、わざとらしい優しい格好で揺れていたが、やがてくるりとひるがえって、急に目に見えない重みをましたように、勢いよく落ちた。彼が耳をすますと、台所では竈《かまど》に石炭を投げいれる、冬を思わせる音が聞こえた。どこかの部屋で、妹のリゼットが鋭い声で異議をとなえていたが、やがて泣きだした。
「リゼット」とフィリップが呼んだ。「リゼット、姉さんはどこにいるの?」
「知らないわ!」と涙でつまった小さな声が、泣きうめきながら言った。
一陣の突風が屋根のスレート瓦《かわら》を一枚はがして、フィリップの足もとでみじんに砕いた。彼は、運命が自分の前で、七年間の不幸を約束するという鏡を砕きでもしたかのように、茫然《ぼうぜん》とそれを見つめた……。彼は自分を少年のように、そして幸福から見はなされたように感じた。そうは言うものの彼は、ライオンの形をしたあの岬《みさき》のかなた、松の木かげにおおわれた別荘で、抑制しがたい女のエネルギーにひかれて、意気地がなくなっている彼の姿を見たがっているに違いない女の名を呼ぶ気には、全然ならなかった……。彼は家の中を一まわりしたが、女友だちのブロンドの頭も、青|あざみ《ヽヽヽ》のように青い彼女の服も、新鮮な茸《きのこ》のような白いふわふわした木綿の白い服も見つからなかった。膝《ひざ》のほっそりしてやせた長い二本の褐色の脚も、彼を迎えにいそいで駆《か》けよってはこなかった。幾分薄紫がかった二、三種類の青さをたたえた青い二つの眼も、彼の眼の渇《かわ》きを癒《いや》すためにどこにも花のようにひらいてはくれなかった……。
「ヴァンカ! どこにいるんだい、ヴァンカ!」
「あたし、ここにいてよ」と静かな声が、彼のすぐそばで聞こえた。
「物置の中かい?」
「物置の中よ」
窓のない、入口からしか明りの入らない小屋の、ひんやりした光線の中に、彼女はしゃがみこんで、使い古した敷布の上にひろげたがらくたをいじっていた。
「何してるんだい?」
「見たら分かるでしょう。片付けものをしてるのよ。整理してるんだわ。もうじきに帰るんですもの。だから、しておかなければいけないのよ……。ママの言いつけよ……」
彼女はフィリップをじっと見つめた。そして折りまげた膝《ひざ》の上に両腕を十文字に組んで休んだ。彼はそうした彼女にみすぼらしい辛抱強そうな様子を見出して、むっとなった。
「そんなこと急ぐことはないよ! それになぜ自分でそんなことをするんだい?」
「じゃだれがするの? ママがしたら、また持病の心臓リューマチスがはじまるでしょう?」
「女中だってやれるじゃないか?……」
ヴァンカは肩をそびやかし、また仕事をつづけた。働く蜜蜂《みつばち》のつつましやかな唸《うな》り声に似た声でつぶやく女工員みたいに、低い声で独り言を言いながら、
「これはリゼットの海水着……緑のと……青のと……縞《しま》のと……みんな捨てるよりしかたがないわ……こっちは……あたしのばら色のスカラップがついた服……。もう一度、洗濯《せんたく》をする値打ちがあるかもしれないわ……。一|足《そく》、二足、三足、あたしの海岸用のサンダルだわ……。そしてこれはフィルの分……。フィルの古くなった網織りのワイシャツが二枚……。袖付けは破れているけど、身頃はまだしっかりしてるわ……」
彼女はこの網織りの切れ地をひろげてみて、二か所に鉤裂《かぎざ》きを見つけると、口をとがらした。フィリップはすまなさそうな顔もせず、敵意をいだきながら、彼女をじっと見つめていた。彼には、朝のこの時間も、瓦《かわら》屋根の下の灰色の光線も、つまらないこんな仕事も、不愉快だった。すると、かなたのケル=アンナでの秘めた恋の時間のときにも思いつかなかったある比較が、はからずも今ここで始められたのだった。それは、まだヴァンカそれ自身にも達しない比較だった。少年期を通じて彼の宗教だったヴァンカにも、最初の恋の冒険における劇的な避けがたい陶酔《とうすい》のために敬遠されていたヴァンカにも達しない比較だった。
つぎだらけの敷布の上にひろげられたぼろ切れの中で、あら塗りさえしていない煉瓦《れんが》の壁の間で、肩のあたりが色あせた紫がかった色の上っ張りを着た少女の前で、ある比較が始められていた。毎日の海水浴と潮風とが、しっとりと柔らかにしている先のそろった髪の毛を、うしろにかきあげるために、彼女はひざまずいたまま、仕事の手をやすめた。半月前から、陽気なところが少なくなったけれど、彼女は以前より落ち着きを見せ、フィリップを心配させるほど片意地で、むらのない機嫌のよさを見せていた。ジャンヌ・ダルクふうの髪型をしたこの若い世帯持ちのいい女が、自由に愛することのできる時期がくるのを待ち遠しく思って、彼を道連れに、本気で死のうとまで、思いつめたのだろうか? 眉《まゆ》をしかめた少年は、この変化を推しはかっていたが、彼女を見つめているくせに、ほとんどヴァンカのことは考えていなかった。こうして眼の前にいてくれると、彼女を失う危険はなくなり、彼女を取りもどそうとあせって、もうやきもき心配することはなかった。しかしただ、ある比較が彼女が原因となって、始まっていた。思いがけずも感じたり悩んだりするこの新しい能力と、ある海賊的行為をはたらく美しい女が最近彼に与えた狭量とが、ちょっとしたショックにも燃えあがった。そしてさらに、平凡な者に向かって、その平凡とその知恵とを非難することによって作られる心の気高さへの第一歩とか、人生の裏面に対する真摯《しんし》な不公平とかが生まれてきたのだ。世間の人々が、軽率にも肉体的と呼んでいる感動の世界を、彼は発見したばかりでなく、十分であるとは言えない完全な美しさが揺《ゆ》らめく恋の祭壇を、官能的に美化する必要性まで知ってしまっていた。ビロード、洗練された音楽のような声、香料など――触角を聴覚を視覚を満足させてくれるもの――に対して目覚めはじめた渇望《かつぼう》を感じていたのだ。彼はこういう自分を非難しようとはしなかった。なぜなら、ありあまるほどの陶酔《とうすい》感を味わえば、自分がますます心地よくなってくるように思えたし、またケル=アンナの暗闇と神秘の中で身につけた近東風のあの絹の服は、彼の魂をさらに高貴なものにしてくれたからだ。
彼はおろかにも、ある曖昧《あいまい》な気前のいい意図《いと》のままになっていた。着飾って、香油をつけた較べようもないほど美しいヴァンカを望んでいる自分自身には気づかずに、少しも飾らずに汚ない姿で、しゃがんでいる彼女を見て受けた憂鬱《ゆううつ》さだけを強調した。彼の口からひどい言葉が幾つか飛びだしたが、ヴァンカはそれに返事をしなかった。彼はますます気むずかしくなったが、それでも彼女はわずかに返事をしただけだった。そこで彼は侮辱的な言葉を口にしたが、やがて自分の粗暴が恥ずかしくなった。落ち着きを取りもどすのに多少の時間と努力を要した。それから一応自分が悪かったという後悔する気持ちで詫《わ》びを言ったが、彼にはこれが自分にも気持ちよく感じられた。その間にも、ヴァンカは辛抱強い手つきでサンダルを一足ずつ紐《ひも》でむすび、ばら色の貝殻や、ひからびた|たつのおと《ヽヽヽヽヽ》|しご《ヽヽ》のいっぱい入っている着古したセーターのポケットを裏返したりした……。
「こんなことになるのも、きみが悪いからだよ」とフィリップが結論をくだした。「きみは何にも返事をしない……。だから、ぼくもむきになるんだ、むきにね……。きみは平気で、いじめられるままになってる、なぜなんだい?」
彼女は深い愛情の計算と譲歩の中で熟《じゅく》した賢明な女の眼差しで彼をつつんで、
「あたしをいじめている間は、少なくとも、あんたはそこにいてくれるもの……」と言った。
[#改ページ]
十六
『ぼくたちのここの生活も、今年はいよいよこれでおしまいだ』とフィリップは海を眺めながら憂欝《ゆううつ》そうに思った。『ヴァンカとぼくという、二人でいることによって、たった一人でいるよりも二倍も幸福になれる二重の人間、フィルとヴァンカという人間が、今年はこれで、ここで命を終わろうとしている。これが恐ろしいことでないと、どうして言えよう? なんとかぼくに防ぐことができないものだろうか? そのくせぼくは、何もできないでいる……。そればかりか、今夜、十時すぎには、多分もう一度、夏休みの最後に、ダルレー夫人のところへ行くかもしれない……』
フィリップはうなだれた。すると頭から幾筋かの黒い髪がたれさがった。
『もし今、こんな時間に、ダルレー夫人のところへ行かなければならないとしたら、ぼくは断わるに違いない。なぜだろう?』
夕立雲の間にはさまれた鈍い太陽の下に、ケル=アンナへ通じる道は、丘の中腹にはりつくようにして登り、やがて埃《ほこり》にまみれて灰色になった堅い|ねず《ヽヽ》の茂みのかなたに消えていた。まぎれもない嫌悪感にかられて、フィリップは目をそらした。『今はそうだ……。しかし今夜はどう変わるか分からない……』
三度、ケル=アンナにお茶に招かれて行ったが、その後は、両親の心配とヴァンカの疑いをはばかって、彼は昼間の訪問をあきらめていた。それにごく年の若い彼に、家を抜けだす口実も、たちどころに種がつきてしまった。またあるときは放縦《ほうじゅう》な少年の思いあがりから、またあるときは心ならずも最愛の妻を裏切った夫の憂欝《ゆううつ》な悔恨に似た気持ちから、ひそかに自分の情婦とも、あるいは自分の『主人』とも呼んでいるあの女の肌にも、その薄着にも、またケル=アンナにも浸みこんでいたあの強烈な、樹脂のような香水の移り香を、彼は家の人に気づかれはしないかと警戒していた……。
『家の人に気づかれまいと、あの関係は、これっきり、これでおしまいにしなければならない。なぜだろう?』
砂の上に肱をついたり、または見とがめられるのを恐れるというよりは、むしろ恥ずかしい気持ちから、部屋に閉じこもって、手あたり次第に本を読んだけれど、一冊として、こんなありふれた失敗から、人が死ぬような重大な結果がうまれるなどとは、教えてはいなかった。いったい小説というものは、肉体の恋愛にたどりつくまでの準備に、百ページ、あるいはそれ以上のページをついやしても、いざ肉の行為そのものの記述となると、たった十五行で片づいてしまうのだ。それにまたフィリップは、自分の記憶の中をいくら探してみても、若者がたった一度の堕落《だらく》によって、少年期と純潔から解放されると書いてある書物は思いあたらなかった。それより、こうした若者は、幾日も幾日もつづくまるで地震のような、深刻な変動によって、心が動揺するというのが普通だった……。
フィリップは立ちあがると、秋分の潮が縁まで打ちよせて、けずられた海辺の牧場に沿って歩いた。返り咲きの花をつけた|はりえにしだ《ヽヽヽヽヽヽ》の茂みが、髪の毛のような細い根から養分をとり、わずかに身を支えて、浜辺の方へかたむいていた。『ぼくが小さかった頃には』とフィリップは考えた。『|はりえにしだ《ヽヽヽヽヽヽ》の茂みは、海辺の方へかたむいていなかったんだ。ぼくが大きくなっている間に――少なくとも一メートル――は海が砂浜をけずりとってしまったんだ……。それなのにヴァンカときたら、|はりえにしだ《ヽヽヽヽヽヽ》の茂みの方が前進したのだと言ってきかないんだ…』
この|はりえにしだ《ヽヽヽヽヽヽ》からほど遠くないところは、浜|あざみ《ヽヽヽ》が青い色をしているところから、『ヴァンカの眼』と呼ばれていた。いつかフィルがケル=アンナの塀越しに投げこんだ刺《とげ》だらけの贈り物、花ざかりの|あざみ《ヽヽヽ》の花束をこっそりとこしらえたのは、あそこだった……。きょう見ると、花は干《ひ》からびて、小さな谷の内側に、焼けたように見えていた……。彼は一瞬立ちどまっていたが、まだ非常に若すぎたので、枯れた花とか、傷ついた小鳥だとか、こわれた指環とかに、恋愛が託すような神秘的な意味を考えて、微笑するまでにはなっていなかった。そこで彼は自分の悩みを振りはらい、肩をはり、おきまりのあの誇らしげな身振りで、髪の毛をはねながら、初の聖体拝受者たちに格好な冒険小説に似合いそうな非難を心の中で、自分に向けながら、つぶやいた。
『さあ! 弱気をおこすのはもうよそう! 実際に、ぼくは言えるんだ、今年こそ、ぼくはいよいよ一人前の男になったと! それに、ぼくの未来も……』
彼は、心の中で言っている言葉が聞こえたような気がしたので、思わず顔を赤くした。自分の未来だって? 一か月前にも、そのことを考えてみた。漠然とした大きな背景の上に、幼稚だが、細部まで正確に描かれた未来を、一か月前に見ていた。――未来、その関門として試験の連続、何度でもやりなおす大学入学資格試験、『どのみちやらなければならないのだ』という理由から、いやいやながらもするつまらない勉強――未来とヴァンカ、この方の未来はヴァンカでいっぱいだった。ヴァンカの名において、彼の未来は呪《のろ》われてもいたし、また祝福されてもいた。
『夏休みの初めの頃は、ぼくもずいぶんあせったものだ』とフィリップは考えた。『しかし今では……』と彼は不幸な男の眼差しと微笑とを見せた。彼の口の上は日毎に黒ずんできた。また綿毛のような細い産毛《うぶげ》は、口髭を野原のかたい草にたとえるなら、森の干《ほ》し草のように柔らかかったが、それは幾分彼の口をはれぼったく見せ、泣きしずんでいる子供の口もとのように発熱させていた。カミーユ・ダルレーの視線、あのはかりしれない、ほとんど執念ぶかそうな視線が、行きつ戻りつして注がれたのは、この口だったのだ。
『ぼくの未来、なあにぼくの未来なら……。しごく簡単さ……。もし法律の勉強をしないのなら、ぼくの未来は、パパの店に務めることになるんだ。ホテルや館《シャトー》へおさめる冷蔵庫だとか、自転車のヘッド・ライトや部品の金具の販売だ。大学入学資格試験にパスしたところで、すぐ店に勤めれば、やれ得意先回りだ、やれ商品の通信事務だというわけだ……。パパはあの商売で、車を持つほどは儲《もう》けちゃいない……。ああそうだ、まだ兵役がのこっていたっけ……。ぼくは、いったい何を考えていたんだろう?……大学入学資格試験にパスしたら、というところまで考えていたんだ……』
かぎりない倦怠《けんたい》と、なんの秘密もないような未来が包みかくしているすべてのものに対する深い無関心とに押しかえされて、彼の努力は、ぷっつり途切れてしまった。『もしあんたがパリの近くに入営するなら、その間あたしは……』とヴァンカのかわいらしい声が、フィリップの記憶の中で、この夏以来のいろいろな計画をささやいた。しかし今では、そうした計画は、皆、色あせて、味気なく、艶《つや》のなくなった紙の上で、ばらばらに切りこまざかれて散ってしまった。彼の希望のはなやかな範囲は、日暮れや夕食の時間、ヴァンカや、リゼットを相手にチェスをして遊ぶ時間以上にははみださなかった、――むしろリゼットを相手にする方がよかった、彼女のやんちゃな八歳という年齢や、鋭い眼つきや、抜け目ないおませ振りが、フィリップの心の重荷をかるくしてくれた、――それからのちに、快楽に身をささげに行く時間がくるのだった……。『それにしても、ぼくが出かけてゆくことだって、確実というわけじゃない』と彼は考えた。『いや、ぼくは行かないかもしれない。気がちがうほど焦《こ》がれてもないんだし、秒読みをして待ってるわけじゃないし、|ひまわり《ヽヽヽヽ》が光の方を向くように、ケル=アンナの方ばかり見ているんじゃないんだ。今からでもぼくは、自分自身である権利を取りもどし、以前《ヽヽ》愛していたすべてのものに、引きつづき心をよせることだってできるんだ……』
うっかりして、この以前《ヽヽ》という言葉をつかってしまったが、彼はこの言葉を、自分の生活の二つの部分の間にしっかりと固定していた。そして『ああ! そうだあれはこれ以前《ヽヽ》のことだった……。思い出した、あれはあのちょっと後《ヽ》のことだった……』という具合に、自分の一生のあらゆる出来事が、神秘的であるとともに、またあまり重要でない目印、この道しるべの棒杭に、突きあたらなければならないのかということには気がついていなかった。
彼は軽蔑《けいべつ》と嫉妬《しっと》のまじった気持ちで、級友の通学生のことを思いうかべた。彼らはあやしげな家の敷居を期待におののきながらまたぎ、そのあと、なにくわぬ様子をしながらも、嫌悪の気持ちから顔を青くし、高慢ちきな格好で、口笛を吹きながら、また出てくるのだ。そして、それきり、そのことはもう考えようともしないが、やがてまた、そこへ足を向け、戻って行く。しかもそのために、勉強も遊びも、かくれて吸う煙草も、政治やスポーツの議論も中断せずに、すべて以前通りにやっている。『ところが、ぼくときたらどうなんだ……。つまり罪は彼女にもあるんだろうか、ぼくは何もほしくないんだ、彼女さえもほしくないというのに?……』
沖合いから、ひとかたまりの霧が押しよせて、海岸までやってきた。それは海上にある間は、岩石の多い小島をやっとかくすほどの棚びく糸がほぐれた小さなカーテンにすぎなかった。風の流れがそれをとらえ、かきまわしたかと思うと、目がくらむほど、それを入江の上に運びこんで、圧縮して、深い霧にしてしまった。一瞬にしてフィリップは霧の中に沈み、海も砂浜もわが家もすべて消えうせてしまうのを見た。そして水蒸気の風呂《ふろ》につかったようになって、咳きこんでしまった。海の気象の驚嘆すべきものになれている彼は、別の風の流れがこれを吹きはらってくれるのを待ちながら、この天地|晦冥《かいめい》の境地、この象徴的な盲目の世界を楽しむのだった。そしてこの奥には、澄みわたる月のように、髪の中から現われた静かな顔と、ほとんどなんの身振りもしない遊んでいる手とがかがやいていた。『彼女はじっと身動きもしない……しかし彼女はぼくに返すべきだ、時の流れと、渇望《かつぼう》と、待ち遠しさと、好奇心とを……。このままでは不公平だ……。ぼくは彼女を恨むぞ……』
彼は反逆と忘恩とに自分をかりたてようとした。まだ十六歳と六か月にしかならないこの少年は、恋愛というものが恋人たちをして、生きることをあまりに急がせ、死を待ちこがらせるということを知らないのだ。そしてまた、彼ら恋人たちの途上には、ある不可解な命令の力によって、肉の重さでおもくなった美女の伝道師が配置され、それが時の流れをくいとめ、精神を眠らせ、また満足させ、肉体にはその陰で成熟するように忠告するのだということを、この少年は知らないのだ。
霧のかたまりは、牧場からまるで敷布でもはがすように、空中に吸いあげられて、急に消えた。そして草の葉の剣のような先には一つ一つその日限りの水の縁飾《へりかざ》りを、毛ばだった葉には真珠のような露の玉を、なめらかな葉にはしっとりとしたワニスを残していた。
九月の太陽は、遠い方は青く、近いあたりは底の砂で緑に見える海面に、若々しく澄《す》んだ黄色い光をそそいだ。
フィリップは海からの霧が通りすぎてしまうと、息づまるような廊下から外に出たみたいに、全身に風と光をあびて、息をついた。そして岩の断層に、ふたたび咲いた|はりえにしだ《ヽヽヽヽヽヽ》の金色の花がきらきら光るのを見ようと、陸の方を振りむいた。すると自分のうしろに、霧が運んできて、そこに置き忘れて行った幽霊《ゆうれい》とでもいうように、無言で立っている一人の男の子を見出して、びっくりした。
「何か用かい、坊や? きみはぼくらに魚を売りにくるカンカールの子だろう?」
「うん」とその子が言った。
「台所にはだれもいなかったのかい? きみ、だれかをさがしてるの?」
その子供は自分の赤毛の髪についた埃《ほこり》をはらった。
「頼まれてきたんだよ、奥さんから……」
「どこの奥さんから?」
「こう言ってくれって、『わたしは行ってしまったとフィルさんに伝えておくれ』って」
「どんな奥さんだい?」
「ぼく、知らないんだ。奥さんが言ったんだ。『わたしはきょう、急に立たなければならなくなったとフィルさんに伝えておくれ』ってね」
「そのひと、どこできみにそう言ったの? 道でかい?」
「そうだよ……。乗ってた自動車の中からさ……」
「乗ってた自動車の中から……」
フィリップは一瞬眼を閉じ、大げさに、
『ヒュー……ヒュー……ヒュー……乗ってた自動車の中からだって……。そうだったのか。ヒュー……。ヒュー……』と口笛を吹きながら、額に手をあてた。さて眼を開けて、彼は走り使いの子供をさがしたが、もうその姿は見えなかった。そこで彼ははっきりしているくせに、たちまち消えてしまうあの午睡の夢の一つかと思った。しかし断崖の小道を登りながら、遠ざかって行くあの不吉な子供の姿を、そしてその藁《わら》のような髪の毛と、半ズボンの四角い青味がかった継切《つぎき》れとをみとめたのだった。
フィリップは、カンカールの少年の眼に、まだ自分が見えるとでも思ったか、愚かにも傲慢《ごうまん》な格好をした。
『ふん……。彼女が行ってしまったところで、たいして変わりはないや、一日ぐらい早かろうと、おそかろうと、……どのみち行ってしまうひとじゃないか!』
しかしほとんど全部が肉体的苦痛である奇妙な苦痛が、彼の内部に現われ、胃と同じ高さのあたりに生まれた。彼はその苦痛がつのるままにまかせ、何か神秘的な忠告にでも耳をかたむけるように、頭を小ざかしげにかしげた。
『自転車で追いかけてみたら……。でも、彼女がひとりでなかったら? 彼女がひとりだったかどうか、あの子につい、きかないでしまったな……』
自動車の警笛が、遠く海岸ぞいの道から聞こえてきた。重々しくこもるようなその音が、一瞬苦痛を柔らげてくれたが、それも束《つか》の間、その苦痛は下腹部にうけた拳闘《けんとう》のスィング痙攣《けいれん》のように、はげしくフィリップにおそいかかった。
『おかげで今夜は、彼女のところへ行こうか行くまいかと、迷う必要もなくなったじゃないか……』
彼は急に、月光を浴びたケル=アンナの閉ざされた別荘を思い浮かべ、灰色の鎧戸《よろいど》や、黒い鉄柵や、鉢植えのゼラニュームを想像して、身をおののかせた。彼は乾いた牧場のくぼみに横になり、ジステンパーに苦しんでいる若い猟犬のようにころげまわり、規則的に両足を動かして、砂地に生えた草をけとばしはじめた。大きな雲が流れて、その厚いふくらんだ白い色を見ていると、軽い吐《は》き気がしてきたので、彼は眼を閉じた。そして砂地の草をリズムをつけてけりながら、拍子を正しくとって、小声で歌った。お産をする女もこんな具合に苦しむのだ。子供を産むために、その胎児を揺りうごかして、産声《うぶごえ》を聞くまでは、次第にうめき声を高めながら、うなりうめき続けるのだ。
フィリップは眼を開くと、はっとして意識を取りもどした。
『いったい、ぼくはどうしたというんだ? 彼女がぼくたちより先に立って行くのは、ちゃんと分かっていたことだ。彼女のパリの住所も電話も知っている……、それに彼女が行ってしまったからといって、ぼくはどうだっていうんだ? あれはぼくの情婦であって、恋人じゃない……彼女がいなくなっても、ぼくは立派に生きて行けるんだ』
彼は腰をおろして、牝牛の大好物の、数珠《じゅず》つなぎに這っている|かたつむり《ヽヽヽヽヽ》を槍《やり》の穂《ほ》のような草の葉からつまみ出した。彼はむりに笑いとばして、つとめて粗暴になろうとした。
『彼女は行ってしまう。それもいいさ。あの女は、どうせひとりじゃなさそうだ……。内輪《うちわ》の話は話したがらなかったけれど、あれもそのためだったらしいな……。いいじゃないか、ひとりだろうと、ほかにだれかいようと、どうせ行ってしまう女だ。それでぼくが何を失うというんだ? つぎの一晩のお楽しみくらいなものさ。ぼくの立つ前の一晩だ。その一晩だって、さっきも考えたけど、はたして自分が望んでいたかどうか、はっきりとは分からなかったんだ。ぼくはヴァンカのことしか頭になかった……。結局、楽しい一晩さえあきらめれば、すむことなんだ……』
ところが、彼の心の中を、風のようなものが吹きすぎると、幼年学校の生徒でも使いそうな言葉も、見せかけの確信も、内心の冷笑も、みな一度吹きとんで あとにはさむざむとしたむき出しの心の表面と、カミーユ・ダルレーの出発が意味するもののはっきりした意識だけが残った。
『ああ……彼女は行ってしまった……、彼女は行ってしまった、手の届かないところへ。ぼくにあれを与えてくれた女、ぼくにあれを与えてくれた女……彼女がぼくに与えたもの、それはなんと言ったらいいか? 名のつけようのないものだ。それを彼女はぼくに与えてくれたんだ。ぼくがクリスマスをうれしがる子供でなくなって以来、彼女だけがぼくに与えてくれたんだ。ほんとに与えてくれたんだ。だから彼女は取りあげることもできるわけだ、だから彼女は取りあげてしまったまでだ……』
褐色の彼の顔に、血の気《け》がさし、にがい涙が彼の眼をぬらした。彼は裸の胸を見せるように服をはだけ、両手の指で、髪の毛をかきむしった。なぐり合いをしたばかりの激怒した男のように、息を切らし、子供っぽいしゃがれ声で大きく叫んだ。『ほんとうは、今夜こそ、ぼくは楽しみにしていたんだ!』
彼はその顔を、両手の拳《こぶし》をあてた上半身を、視線を、見えないケル=アンナの方へ向けた。だが早くも南の空をおおう一かたまりの雨雲が、あのさびしい丘の頂きを包んでいた。それを見てフィリップは、全能の神のいたずらによって、カミーユ・ダルレーを知った宇宙のあの地点が抹殺《まっさつ》されてしまえばいいがと思うのだった。
彼のいるところから数歩ひくいところ、崩れやすい砂の小道の上で、だれかが咳をした。この小道は切石と丸太で、田舎ふうに階段を組んであるのだが、毎年二十回も砂浜へくずれ落ちてしまうのだった。フィリップは牧場すれすれのところに現われて、ゆっくり登ってくる半白の頭を認めた。すると彼は、どんな子供も持っている巧みなごまかし方で、自分の混乱と、裏切られた男の激しい怒りを押しかくし、無言のまま、平静に、父が登ってくるのを待った。
「坊主《ぼうず》、ここにいたのか?」
「そうです。パパ」
「ひとりかい? ヴァンカは?」
「知りません、パパ」
フィルはたいした努力もせずに、自分の顔に褐色の髪の少年らしい賢そうな愛想のよい仮面《かめん》をつけていた。彼の前にいる父は、いつもと変わらぬ父に似ていた。すなわちヴァンカとも、フィリップとも、カミーユ・ダルレーとも呼ばない地上のすべての人間と同じように、少しぶよぶよした、輪郭《りんかく》のぼやけた、愉快な人間らしい外観を備えていた。フィルは辛抱づよく、父が一息つくのを待った。
「釣はしなかったんですか、パパ?」
「それどころか! 散歩をしてきたよ。それよりルケレックが|たこ《ヽヽ》を取ったんだ……。そうさな、このステッキくらい、|たこ《ヽヽ》の足の長さはこのくらいあったね。すごい奴だよ。リゼットなら、悲鳴をあげるだろうよ! とにかく注意しなさい、おまえたちも泳ぐときには」
「だってパパ、あんなもの危なかあないよ……」
フィリップは自分があまり腕白《わんぱく》すぎる、空々《そらぞら》しい高すぎる調子で、言いかえしたのに気がついた。父の突きだした灰色の眼が、何か聞き出そうとするように彼の眼を見つめていた。両親たちに立ちまじって、秘密に満ちた生活をしている息子を保護し、孤立させてしまおうとする霧を吹きはらいながら、何事も見透かしてしまうこの澄んだ父の眼差しを、彼はささえかねたのだ。
「悲しいのかい、坊主《ぼうず》、ここを立つのが?」
「ここを立つのがって?……でもパパ……」
「そうさ。おまえがわたしと同じような気持ちなら、年々ここを離れるのが悲しくなるはずだよ。この土地も、あの別荘も、それからフェレ家の人たちも……。毎年いっしょに夏をすごして愉快に暮せる友だちなんて、そうざらにあるものじゃないことが、大人になったら分かるだろうよ。なあ、坊主、休みの残りを大いに楽しむんだな。楽しい時はあともう二日だ。おまえよりもっと不幸な人間がたくさんいるんだからね……」
しかし、こんなふうに話しながらも、父親はすでに影《ヽ》の人たちの間にもどっていた。父親は、息子のどっちつかずの言葉や、視線を心配して、この影《ヽ》の人たちから、さっき抜け出てきたのだった。くずれやすい坂道を越すために、フィリップは父に腕をかした。彼はこうした冷たく不憫《ふびん》な親切を父に示したが、これは、父親が落ち着いた老人であり、息子の方は恋愛や肉体の苦悩を知り始め、助けを求めることもなく、この世の中で、ただひとりで悩むということに誇《ほこ》り感じるような、心が混乱している青年である場合、一般に子の方から父親へと逆に与えられる親切だったのだ。
別荘が建っている狭い、平らな台地と同じ高さまでくると、フィリップは父の腕をはなした。そして一時間ほど前から、人間としての彼の孤独にふさわしい場所として定めたところに、ふたたび引きかえそうと、砂浜の方に降りようと思った。
「どこへ行くんだね、坊主?」
「あそこへ、パパ……下の浜へ……」
「急ぐのかい?……ちょっと来てごらん。別荘のことで、少し説明しておきたいんだ。おまえも知ってる通り、フェレとわたしの二人で話をきめたよ。別荘を買いとるんだ。もう大分前から、おまえたち子供の前でも、話していたから、うすうす知っていると思うが……」
フィルは、嘘《うそ》をつくことも、自分を家族の人たちの会話から切りはなして聾《つんぼ》にしていたあの理由を打ち明けるわけにもゆかないので、返事をしなかった。
「来てごらん、説明してやろう。まず、わたしの考えだ、――フェレも同意しているが――別荘の両側に平屋を増築するんだ、そうすれば、その屋根がちょうど今の二階にあるおもな二つの部屋のテラスに使えるわけだ……。分かるかね?」
フィルは利口そうな顔つきで、うなずいた。そして正直に父の言葉に耳をかたむけようと努めた。ところが、どんなにそうしようとしても、一つの言葉『張出し』という言葉が出てくると、彼は度を失ってしまった。そして心の中で、どんどんと坂道をおりて、例の不吉な男の子が、彼にあのことを伝言した場所までおりてしまった……『張出し……張出し……ぼくは張出しでとまっているんだ』そのくせ、彼は父にうなずいて見せていた。そして子としての務めをはたすためのきびきびした彼の眼差しは、父の顔から別荘のスイス風《ふう》の屋根へ、その屋根から新しい建物を空中に描きだすオードベール氏への手へと移った。『張出し……』
「わかったかね? わたしたちはそうするつもりでいるよ、フェレとわたしはね。それともおまえがフェレの娘の意見を入れて、することになるかもしれないな……。なぜって、だれが生き残り、だれが先に死ぬか、だれにも分かったものじゃないからね……」
『やあ、また始まった!』とフィリップは解放された気持ちから、飛びあがらんばかりになって、心の中で叫んだ。
「わたしの言うことがおかしいか? 何もおかしいことなんかないよ。おまえたち子供ときたら、死ぬことなどまるで考えたことはないのだな!」
「考えますとも、パパ……」
『死……。これは親しみのある、理解のできる言葉だよ……。毎日でも使う言葉だ……』
「いずれこれから先、おまえがヴァンカと結婚するかもしれないということは、大いに有り得ることなのだからな。少なくとも、お母さんはそう思っている。だがまた、おまえがヴァンカと結婚しないということも大いに有り得ることだ。おや、何がおかしいのかね?」
「パパの言ってることがです」
『パパの言ってることと、また両親たちや、分別盛りの人たち、それに世故《せこ》にたけていると自称する人たちの単純さと、無邪気なこと、それから不安に感ずるほど考え方が純粋なこともですよ……』と彼は言いたかった。
「いいかね、さしあたって今は、これについてのおまえの意見はきかないよ。今、おまえが、『ぼく、ヴァンカと結婚したいんです』と言おうと、『ぼく、ヴァンカとは結婚したくありません』と言おうと、わたしには、少しも変わりないことなのだ」
「へえ、そうなんですか?」
「そうだとも。だが、まだ若すぎるよ。おまえはなかなか立派だが、しかし……」
父親の突き出た眼が、ここでもう一度フィリップをじろじろと見るために、混乱した世界から抜けだした。
「だがしかし、もうしばらく待たなくちゃいけないよ。フェレの娘の持参金もたいしたことはなかろう。しかしそんなことは問題じゃあるまい? 新世帯のうちは、ビロードも、絹ものも、金ぴかもなくてすむものだ……」
『ビロードも、絹ものも、金ぴかもか……。ああそうだ、ビロードに絹に金ぴか……赤に黒に白――そうだ、赤に黒に白だ。――それからコップの中のダイヤモンドのように切った、あの氷のかけらだ……。ぼくのビロード、ぼくの贅沢《ぜいたく》、ぼくの情婦、そしてぼくの主人……。あの余分のものがなかったら、いったいどうすごしたらいいのだろう……』
「働くんだ……。最初のうちはつらいが……。まじめにやるんだ……。自分たちがどんな時期に生きているか、よく考えてみることだ……」
『痛い。ここが、胃のあたりが。胸の中に見える、くすんだ赤と、白と黒を背景にした、あの紫色の岩は大嫌いだ……』
「家庭生活……大事にされるほど……。そうだとも……まず白いパンだ……坊主……。おや、どうした?」
とぎれとぎれに聞こえていた父の声と言葉が、ひたひたとせまってくる静かな水音にまぎれて、聞こえなくなった。フィリップは肩にうけた軽いショックと、一方の頬に枯草がちくちくする感触以外は、何も感じなかった。やがて海水のいつも変わりがない気持ちのよい唸《うな》りを突き抜けて、さまざまな声の響きが、まるで鋼《はがね》をかぶせた小島で切られるように、聞こえてきた。それでフィリップは眼を開いた。すると彼の頭は母の膝《ひざ》の上にいこっていた。そしてすべての影《ヽ》が輪になって、彼の上にその敵意のない顔をのぞかせていた。ラヴァンド香水をしませたハンカチが鼻孔に触れると、彼は、金色に、ばら色がかった褐色に、透明な青い色に染まって、彼と|影たち《ヽヽヽ》の間を取りなしていたヴァンカに向かって、ほほえみかけた……。
「かわいそうな坊や!」
「顔色がよくなかったと、わたしが言った通りでしょう!」
「わたしと二人で話をしていたんだ。そこのところだ、わたしの前でだ。ところが、急にぱったりと倒れたんだ……」
「このくらいの男の子って、みんなこれだから困るんですよ。胃の具合もかまわずに、ポケットにいつもいっぱい果物をつめこんで……」
「それに、煙草を吸い始めたのも、いけないんじゃないかな?」
「かわいそうに! この坊やは眼に涙をいっぱいためてますよ……」
「当たり前ですわ! 反動で気がゆるんだんですよ……」
「気を失ってたのは、わずか三十秒ぐらいなものさ、あんた方を呼んだら、すぐ治ったからね。さっきも言ったけど、この子はそこにいて、わたしたちは二人で話をしてたんだよ、すると……」
フィルは身軽に起きあがったが、その頬は冷え冷えとしていた。
「まだ動いてはいけませんよ!」
「さあ坊主、わたしにつかまるんだ……」
ところが彼はヴァンカの手を握っていた。そして無表情に微笑していた。
「治りました、ありがとう、ママ、もう治りました」
「ひょっとしたら、ちゃんと寝たいんじゃないこと?」
「いいえ、外の空気にあたっていた方がいいんです……」
「ヴァンカの顔つきを見てごらん! あんたのフィルは死んではいませんよ。さあ、連れていらっしゃい。でもなるべくテラスにいるんですよ!」
影《ヽ》たちは好意を示す手を握ったり、元気づける言葉をなげたりしながら、一段となってゆっくりと遠ざかった。母親の眼差しが、もう一度こちらにかがやいた。そしてフィリップは、にっこりともしないヴァンカと二人だけになった。彼は口をちょっと動かしたり、もう大丈夫だよというふうに、うなずいてみせたりして、彼女の快活さを誘いだそうとした。しかし彼女は『いや』という合図《あいず》を、身振りで答えるばかりで、フィリップを見つめるのをやめなかった。褐色の日焼けした顔色を少し緑色にしていたその青白さ、太陽が焦茶《こげちゃ》色の光線を流しこんだその黒い眼、小さいがしっかりした歯をのぞかせたその口などに、彼女は見惚《みと》れていた……。『なんてあんたは立派なんでしょう……。でも、なんてあたしは悲しいんでしょう……』と、ヴァンカの青い眼は、こんなふうに言っていた……。しかし彼は、この眼の中にあわれみは読みとらなかった。そして彼女は、まるでステッキの握りでも差しのべるように差しだして、海女《あま》か、テニスの選手にふさわしいかたい手を、彼に握らせていた。
「おいでよ」とフィリップは小声で頼むように言った。「きみに説明するからさ……。なんでもないんだよ。でも静かなところへ行こう」
彼女はついてきた。二人は厳粛《げんしゅく》な気持ちで、密室のかわりに、岩の頂きをえらんだ。そこはときおり大潮のときには波でぬれることもあるが、潮がはこんでくる大粒《おおつぶ》で乾きのはやい砂でいっぱいだった。二人のうちのどちらも、あかるい更紗《さらさ》の壁布と松板の壁で仕切った部屋の中で、心の秘密というものが打ち明けられるものだとは、考えてもみなかった。この板壁は反響がひどくて、夜、別荘の住人の一人が電気のスイッチをひねったり、咳《せき》をしたり、鍵を落としただけでも、すぐ人の気配が、部屋から部屋へと伝わってしまうのだった。この二人のパリ生まれの子供は、彼らなりに社交的な性質ではなかったので、秘密がもれやすい人間の隠れ場所から、ちゃんと逃げだすことを心得ていた。そして自分たちの清純な恋と劇的場面を安全にかくすために、ひろびろした牧場のまん中とか、岩の頂きの縁《ふち》とか、波がうがった海岸の中腹のきわとかを探すことにしていたのだ。
「四時だよ」とフィリップは太陽の位置を見ながら言った。「腰をおろす前に、きみのおやつを取ってきてあげようか?」
「おなかなんか、すいてないわ」とヴァンカが答えた。「あんたはどうなの、おやつがほしいの?」
「う、うん、いらない。さっきのちょっとした目まいのおかげで、食欲がぜんぜんなくなっちゃった。奥の方におすわりよ。ぼくは縁の方でいいんだ」
彼らは気どらずに話し合っていたがそれでも、自分たちが重大な言葉を用意し、またそれをほとんど同じくらいに、これから秘密をあばこうとして、まず沈黙しているのだということを知った。
九月の太陽が、白い服の裾《すそ》からのぞいているヴァンカの艶《つや》のいい褐色の両脚に、反射していた。彼らの足もとには、流れてゆく霧がなめるように過ぎて、しずめて行ったおだやかな波のうねりが、ゆるやかに踊り、次第に濃く青空の色を映していた。|かもめ《ヽヽヽ》が鳴いていた。そしてマンガ島の影から帆をはって、小舟が一列になって現われ、沖合いへと漕ぎだしていった。甲《かん》高くふるえる子供の歌が、微風にはこばれて聞こえてきた。フィリップは振りかえると、身振いをして、いらだたしげな呻《うめ》き声のような声をもらした。一ばん高い断崖《だんがい》のてっぺんに、一人の男の子が、青みがかった作業ズボンに赤毛の頭という姿で立っていた……。
ヴァンカはフィリップの視線をたどった。
「そうよ、あの子だわよ」と彼女が言った。
フィルは冷静にかえっていた。
「きみはあの子のことを言ってるんだろう、あれは魚売りの女の子供かい?」 ヴァンカはかぶりを振って、
「さっき、あんたに話しかけた子供よ」と訂正した。
「ぼくに……」
「あの奥さんの出発を、あんたに知らせてきた男の子だわよ」
フィリップは太陽のかがやきと、腰が痛くなる砂と、頬をこがすそよ風が急に憎らしくなった。
「なんの……なんのことを言ってるんだい、ヴァンカ?」
彼女はこれに答えるほど、自分を卑下するようなことはしなかった。そして言いつづけた。
「あの男の子は、あんたを探していたわ。そしてあたしに出会ったんで、先にあたしにしゃべっちゃったのよ。それにしても……」
彼女は言いかけた言葉を、宿命論者のような身振りで結んだ。フィルはほっとしたような気持ちで、深いためいきをついた。
「ああ……じゃきみは知ってたんだね……。何を知ってたんだい?」
「あんたについてのことよ……。ついこの頃よ。三、四日前に、みんな一度に知ってしまったのよ。でも、その前からも疑っていたわ……」
彼女は口をつぐんだ。フィリップは、青い瞳の下、子供のようにいきいきした彼女の頬の上のあたりに、夜毎の涙と不眠のあとが、真珠母《しんじゅも》色にあらわれているのに気づいた。それは人目をしのんで悩まねばならない女の瞼《まぶた》だけに見られる、月明りの色、あのサテンの光沢に似たものだった。
「そうだったのか」とフィリップは言った。「それなら話しやすいな、それとも、話してほしくないというなら別だけど……きみのいいようにするよ」
彼女は唇のはしの小さな震《ふる》えをおさえていたが、泣きだしはしなかった。
「う、うん、話しましょうよ。その方がいいと思うの」
彼らは、話し合いの最初の言葉を口にしたときから、世間の喧嘩《けんか》や嘘《うそ》にありがちなきまり文句を封じてしまったことに、ほろ苦《にが》い同じ満足を感じた。高いところに立って、くつろぎを感じるということは、英雄か、俳優か、子供でなければできないことだ。この二人の子供は、自分たちの恋愛から、必ず気高い苦悩が生まれるにちがいないと、狂おしいまでに念じていた。
「ねえ、ヴァンカ、初めて会ったとき、ぼくは……」
「いや、いやよ」とヴァンカは大急ぎでさえぎった。「そんなことじゃないわ。そんなことをきいてるんじゃないのよ。そんなことは知ってるわよ。あすこの、海藻の道の下でのことでしょう。あたしがそれを忘れたとでも思ってるの?」
「でも」とフィリップは抗議した。「忘れるも、忘れないもない、あの日は何にもなかったんだよ、何しろ……」
「やめて! やめてよ! あのひとのことを話してもらおうと思って、あんたをここへ連れてきたとでも思ってるの?」
ヴァンカの言葉の調子の素朴なきびしさにあって、彼は自分の言葉の調子が自然な気持ちも後悔の念も、ともに欠いていたことに気づいた。
「あたしに、あんたたちの恋愛物語を聞かせようっていうの? でもそのご親切には及びません。先週の水曜日、あんたが帰ってきたとき、明りは消してたけれど、あたし起きてたのよ……。あんたが泥棒みたいに帰ってきたのを見てたのよ……。もう明け方だったもの。あんたのあの顔つきったら……。それですぐ探ってみたわけよ、当たり前でしょう……。こんな海岸ですもの、なんだってみんな人は知ってるわよ。何も知らないのは、うちの両親たちだけだわ……」
フィリップは気を悪くして、眉《まゆ》をよせた。ヴァンカの心の中で嫉妬《しっと》にかられて、頭をもたげてきた女性の根底ともいうべき残忍性が、彼の気にさわったのだ。この宙に浮かんだような避難所にたどりついたとき、やがては長い告白に変わってゆく涙ながらの柔らかい打ち明け話が、自分にはできると思っていた。ところが、こんなひどい面皮《めんぴ》をはぐようなやり方や、手っとり早く容赦なく片づけてゆく彼女の態度が、彼には許せなかった。美しくもあり、気持ちのよい話の順序を省略してしまうようなことをして、いったいこの話し合いは、どこへ行くつもりなのだろう?
『きっと彼女は、死にたがっているにちがいない』と彼は思った。『いつかもこの同じ場所で、彼女は死のうとしたのだ……。今度もまた彼女は死にたがるにちがいない……』
「ヴァンカ、約束しておくれよ……」
彼女は彼の方を見ないで、耳を突きだした。彼女の全身が、この浅はかな動きによって、皮肉とわがままを表わしていた。
「そうだ、ヴァンカ……。約束しておくれよ。この岩の上でも、また地球上のどんな場所でも……命を捨てるようなことはしないって……」
彼女は大きく眼を開いた。するとその瞳の青い光が、力強いすばやい視線となって、彼の顔を射すくめた。彼は目がくらむ思いだった。
「なんですって? 捨てる……命を捨てるんですって?」
彼はヴァンカの肩に両手をかけると、経験に富んだ顔で、うなずいた。
「ぼくには、きみというものが分かってるんだ。六週間も前にも、理由もないのに、この同じところから滑りおちようとしたじゃないか、ところが今度は……」
彼がしゃべっている間、呆《あき》れかえっていたヴァンカは、弓形の眉毛を眼の上で、高々と吊りあげていた。彼女は肩をゆすると、フィリップの両手を払いのけた。
「ところが今度は、どうだというの?……死ぬんですって?……なぜなのよ?……」
この最後の言葉を聞いて、彼は顔を赤くした。するとヴァンカは、この赤面したことを、彼の返事と受けとった。
「あの女のために、あたしが死ぬの?」とヴァンカは叫んだ。「あんた、気でもちがったの?」
フィルはいらだって、痩《や》せた芝の草むらをむしりとった。すると急に四、五歳も、彼は幼く見えた。
「いつだって、人は気ちがいさ。女が何を望んでいるのか知ろうとしたり、したいと思ってることを女自身が心得ているかどうか考えてみる場合にはね!」
「でも、あたしは知っててよ、フィル。ちゃんと知っててよ。それにあたしが何を望んでいないかもね! 安心してちょうだいな、あたし、あの女のために死んだりはしないから! 六週間前だったわ……。そうよ、たしかにあたし、あんたのために死のうとしたのよ、それからあたしのために……あたしのためにね……」
彼女は眼を閉じ、頭をのけぞらせ、その最後の言葉を愛撫《あいぶ》するような声で言った。そうした彼女の姿は、限りない幸福にひたって、顔をあおむけにし、眼をとじるあらゆる女に、不思議なほどよく似かよっていた。これを見て、フィリップは、一ばん力強く抱きしめている瞬間でさえも、眼をとざし、身をまかせきっているくせに、彼との間に距てをおいている女の妹のようなものを、ヴァンカの中に、はじめて認めるのだった……。
「ヴァンカ! ねえ、ヴァンカ!」
彼女は眼を開いて、身を起こした。
「なあに?」
「ねえ、このまま死なないでおくれ! まるで気絶している顔つきだったよ!」
「あたし、気絶なんかしてないわ。やれ気づけ薬の壜《びん》だ、やれオーデコロンだと騒ぐのは、あんたの方こそお似合いよ!」
ときどき、憐れみぶかく、二人の間に子供らしい残忍さがしのびこんだ。彼らはそこから、力を引きだし、日こそちがうが正気にかえったことに、あらたな気力を得て、またもや彼らの年長者みたいな気ちがい沙汰に身を投《とう》ずるのだった……。
「死んじまうよ」とフィリップが言った。
「きみは、ぼくをとても苦しめてるんだよ」
ヴァンカは笑った。それは、傷ついた女ならだれでもしそうな、せわしく喘《あえ》ぐような、不愉快な笑いだった。
「すてきだわ! 今度はあんただわ、苦しめられるのは、そうでしょう?」
「そうだ、たしかにその通りだよ」
彼女は、思いがけぬほど鋭い、怒った鳥のような叫び声をあげた。フィリップはびっくりして、震えあがった。
「どうしたんだ?」
彼女は動物のように、ひろげた両手をついて四つん這いになった。そして急にはめを外《はず》し、怒って顔をまっ赤にしたのを、彼は見たのだった。まるで二枚の板のように、彼女の髪の毛は、かたむいた顔を両側からはさんで、乾いた赤い唇を、いきりたった息づかいでひろがった短い鼻と、炎のような青い色にかがやいた二つの眼だけが、そこからのぞいていた。
「だまんなさいよ、フィル! だまんなさいってば! あたしがあんたを苦しめるんですって! あたしを裏切ったあんたが、嘘《うそ》つきの、大嘘つきのあんたが、ほかの女のためにあたしを見捨てたあんたが、よくも愚痴《ぐち》なんか言えるわね、よくも苦しいなんて言えるわね! 恥も良識も情けも、あんたにはないんだわ! あんたがあたしをここに連れてきたのも、あたしに、このあたしに、自分があの女としたことをきかせるつもりだったんでしょう! ちがうと言うの? ちがうと言うんなら、どうなのよ? ねえ、言ってみたら、どうなの?」
疾風にのった|うみつばめ《ヽヽヽヽヽ》のように、彼女は女特有の怒りに身をまかせて叫びたてていた。彼女はまたもや坐りこんで、両手で岩の破片を一つ探りあてると、遠く海へ向かって、フィリップを驚かせるほどの力で投げつけた。
「おだまりよ、ヴァンカ……」
「いいえ、だまるもんですか! 第一、あたしたちは二人きりだし、あたしは叫びたいのよ!叫びたくなるのもむりないでしょ、ねえ、そうじゃない? あんたがここへあたしを連れてきたのは、あの女としたことを全部、話したり、思い浮かべたりしたかったからよ。話す自分の声を聞くのが、あの女のことを話したり、女の名前を口にするのが、うれしいからなのよ、そうでしょう、あの女の名前を言うのが、うれしいからよ、もしかすると……」
彼女はふいに、意外にも男のような拳固《げんこ》でフィルの顔をなぐりつけた。これには、彼ももう少しのところで彼女に飛びかかり、本気で、なぐり合いになるところだった。しかし彼女が今しがた、わめきたてた言葉が彼を引きとめた。そして、彼の男性としての生まれつきの慎《つつ》ましさが、ヴァンカが知っていた事実、また率直にちゃんと知っていると、ほのめかした事実を前にして、彼を後ずさりさせた。
『ぼくが彼女に語ることによって味わう喜びを、彼女は考えているんだ、信じているんだ……。ああ、あんなことを想像するのが、ヴァンカ、このヴァンカだとは……』
一瞬、彼女は口をつぐんだ。それから喉《のど》のつけ根までまっ赤にしながら、咳をした。小さな涙が二すじ、眼から流れでた。しかし彼女はまだ、優しくなって、無言で涙にくれるような気持ちにはなっていなかった。
『結局ぼくは、彼女がどんなことを考えていたのか、今までぜんぜん分からずにいたのだろうか?』とフィリップは考えた。『彼女の口からもれる言葉の一つ一つが、ぼくにとって意外だった。ちょうど彼女が、泳いだり、飛びはねたり、石を投げたりするときに、たびたび見せられるあの力と同じように……』
彼はヴァンカの動きを警戒して、彼女から目をはなさなかった。彼女の、顔色と眼の輝くばかりの色合い、ほっそりした姿のきりっとしたところ、長い脚をつつんでいる白い服のぴんと張った襞《ひだ》、それらを見ていると、さっき彼を草の上に、じっと身じろぎもせずに寝かせたあのほとんど心地よいとさえ感じた苦悩は、遠いところに追いやられてしまうのだった……。
彼は言葉が途切れた合間を利用して、さらにすぐれた冷静さを示そうと思った。
「ぼくはきみを、なぐり返しはしなかったよ、ヴァンカ。きみの言葉には、ぼくをなぐったきみの身振り以上に、なぐられる資格があったんだ。でも、ぼくはきみをなぐらなかった。われを忘れてなぐっていたら、生まれて初めて、女をなぐったことになる……」
「どうせ、そうでしょうよ」と彼女はしゃがれた声で、さえぎった。「あたしより先に、だれかほかの女をなぐるんだわね。このあたしは、何をされるにも、あんたの最初の女にはなれないのよ!」
この嫉妬《しっと》の中のがめつさが、かえってフィルを安心させた。彼はもう少しで微笑するところだったが、ヴァンカの執念ぶかい目つきが、彼に冗談めいたことは言うなと、思いとどまらせた。二人はだまりこんでマンガ島の向こうに太陽が沈み、そして花びらのように、内側に折りかえしたばら色の斑紋《はんもん》が一つ、すべての波頭《なみがしら》の上でおどっているのを見ていた。
何頭かの牝牛の首につけた鈴が、断崖《だんがい》の上で鳴った。さっき、あの不吉な子供が歌をうたっていたあたりには、黒い山羊《やぎ》の角《つの》のはえた顔があらわれて、鳴いた。
「かわいいヴァンカ……」とフィリップはためいきをついた。
彼女は憤然として、彼を見つめた。
「そんなふうに呼べて、このあたしを?」
彼は頭をさげた。
「かわいいヴァンカ……」と、またためいきをついた。
彼女は唇をかんで、喉《のど》をつまらせ、眼をはらせて、どっとこみあげてくる涙をおさえるのに精一ぱいの力をだした。そして泣きだすのをおそれて、口もききかねていた。フィリップは、紫がかった丈《たけ》の短い苔《こけ》でかざられた岩に首筋《くびすじ》をもたせかけて、じっと海を眺めていて、おそらく彼女を見ていなかったようだ。彼は疲れていたし、天気もよくて、この時刻や、その時刻特有の香気とわびしさとに否応《いやおう》なしに誘われて、『ああ! なんて幸福だろう!……』とか『なんて苦しいんだろう……』とためいきまじりにもらすと同じように、『かわいいヴァンカ……』と、ためいきをついたのだった。戦場でたおれた年老いた兵士が、忘れていた母親の名をうめき呟《つぶや》くように、彼の新しい苦悩が、唇の上に生まれた最初の言葉、いちばん昔の言葉を吐きだしたのだった。
「だまってよ、意地悪、だまってよ……。あたしにあんなひどいことをしておいて……。あんなひどいことをしておいて……」
彼女は涙を彼に見せた。それはビロードのような頬に、あとものこさずに流れ落ちた。太陽が涙のあふれた彼女の眼に差しこんで、青い眼をいっそう大きく見せた。すっかり傷ついているのに、けなげにもいっさいを許している恋の女が、ヴァンカの顔の上半部にかがやいていた。悲嘆にくれた少女は、幾分|滑稽《こっけい》ではあったが、その口や、わななく顎《あご》によって、かわいらしく渋面をつくっていた。
フィリップは、かたい枕《まくら》にもたれたまま、自分自身のけだるさに誘われて柔らげられたその黒い眼を、彼女の方に向けた。怒って熱くなったこの小娘のからだからは、ばら色の|えにしだ《ヽヽヽヽ》の花か、踏みにじられた緑の麦に似かよった金髪の女の匂い、陽気で鋭い匂いが発散して、ヴァンカが動く度毎に、フィリップにあの精力的なたくましい気持ちを十分に感じさせるのだった。そのくせ、彼女は泣きながら、『あたしにあんなひどいことをしておいて……』と、つぶやいていた。彼女は流れる涙をとめようとして、片手を噛《か》んでみた。するとそこに、彼女の若い歯形の半円が、赤紫色のあととなって残った。
「野蛮《やばん》人……」とフィルは、見知らぬ女にでも言うような温かい思いやりをこめて、小声で言った。
「あんたが思っている以上にね……」と彼女は同じ調子で言った。
「でも、ぼくには言わないでおくれよ!」とフィリップは叫んだ。「きみの言うことは、ちょっとしたことまで、おどかしに聞こえるからね!」
「前だったら、約束に聞こえると言ったはずよ、フィル!」
「同じことさ!」と彼は、はげしく抗議した。
「なぜなの?」
「なぜって」
彼は心の中で、よく用心しようときめて、草の葉をかみしめた。そして彼の年齢や最初の情事が、彼の中に強化した精神の自由の要求、お愛想や気休めに嘘《うそ》をつく権利の要求、こうした要求をひそかに準備する気持ちを、明確な言葉で言いあらわすことは、彼にはとうてい不可能だったのだ。
「あとになって、あんたがあたしをどんなひどい目にあわせるかと思うと、心配だわ、フィル……」
言うだけのことを言ってしまったというのか、彼女はぼんやりしているようだった。しかしフィリップは、彼女がどんなに反発することができるか、また魔法によって、その全力を取りもどすことができるか、よく知っていた。
「そんな取りこし苦労はおよしよ」と彼は手短かに頼んだ。
『あとになって……あとになって……。そうか、未来を差し押さえようというわけだな……。こんなときに、未来の色合いがどんなになるかなんて考えている、まったく運がいい女だ! 鎖《くさり》でつなぎとめておかなければ気がすまないことが、こんなことを言わせるんだ……。死にたいなんていう気持ちは、とうに忘れているんだ……』
あらゆる種類の女性に課せられている忍従の使命と、不幸の中に身をおいて、貴重な資材を採掘する鉱山のように、その不幸を掘ってきた尊い本能とを、彼は腹立ちまぎれに、見くびってしまった。夕暮れがせまるし、疲労も手伝って、彼は、愛しあっている二人の救い主のために素朴な方法で戦いつづけるこの闘争的な少女には、ほとほと手をやいた。彼は夢うつつのうちに、ヴァンカの存在を忘れて、濛々《もうもう》たる埃《ほこり》を水平に舞いあげながら走る自動車のあとを追いかけた。そして白いヴェールのターバンを巻いた頭が眠ったまま寄りかかっている窓ガラスに、道ばたの乞食《こじき》のように取りすがった……。彼には細かいところまで一つ一つ見えた。黒くした睫《まつげ》、唇のわきのつけぼくろ、びくびく動く引きしまった鼻孔、間近で、ああ! ごく間近でしか見惚《みと》れたことのない顔立ちだった……。心を取り乱し、肝《きも》をつぶして、彼は立ちあがった。そしてヴァンカと話している間、苦痛がしずまったことにひどく驚きながら、やがてまた、おそいかかってくるにちがいない苦痛にひどくおびえていた……。
「ヴァンカ!」
「どうしたの?」
「ぼく……気持ちが悪いんだ……」
さからいきれない腕が、彼の腕をぐっとつかむと、この切り立った巣の中で一ばん安全な場所へ、彼をむりやりに押し倒した。彼が岩の縁のところでよろめいたからだった。倒されると彼はもう争おうとはしなかった。そしてただ、
「落ちて死んでしまうのが、いちばん簡単かもしれない、でも……」
「まあ! なあに、そのざまは!」
彼女はこの下品な叫び声のあとは、口にする言葉を探さなかった。彼女はぐったりした少年の肉体を、自分のわきに寝かせると、褐色の髪の頭を、肉が乗って幾分円味をおびてきた初々《ういうい》しい自分の胸に抱きしめた。フィリップは、柔らかい腕の中で近頃身につけてしまった意気地のない受身の習慣に身をまかせていた。このとき彼は、我慢ができぬ苦しみにやっと耐えて、あの松脂くさいお香《こう》の匂いや、手がとどく乳房を探したかもしれなかったが、彼が苦もなく呟《つぶや》いた言葉は、とにかく『かわいいヴァンカ……。かわいいヴァンカ……』という名前を呼ぶ言葉だけだった。
彼女は地上のすべての女性が、腕にかかえ、膝《ひざ》をそろえて揺すぶるあのリズムで、彼を揺すぶってやった。彼女には、これほど不幸で、これほど自分にいとしい彼がのろわしかった。気が狂って、精神錯乱の状態で、彼が女の名を忘れてしまってくれればいいがと、彼女はねがいながら、心の中で彼に、『いいわよ、いいわよ……。今にあたしがどんな女だか見せてあげるわ……。あんたをひどい目にあわせてあげるから……』とののしっていた。しかし、こう思いながらも、彼女はフィリップの額から、大理石にきざまれた細かい亀裂のような、一筋の黒い毛を払いのけてやった。そしてきのうまでいっしょに笑ったり、駆《か》けまわったりしながら、自分の腰に馬乗りにさせて遊んだこの青年の肉体の重みや、新しい接触を味わいたのしんだ。フィリップが半ば眼を開いて、失ったものを取りもどしてくれと嘆願するように、彼女の視線を探すと、彼女は空《あ》いている方の手で、かたわらの砂をたたきながら、永遠の悲劇の女主人公のように、心の奥で叫ぶのだった。『ああ! なぜあんたのような人が生まれてきたんでしょう!』
この間にも、彼女はすばしこい眼で、遠く別荘のあたりを見張りながら、水夫のように太陽の沈み具合を計っていた。『もう六時すぎだわ』すると、砂浜とわが家の間を、風にひるがえる服に身をつつんだ白鳩のようなリゼットが通って行くのに気づいた。彼女は、『ここに、あと十五分以上もいてはいけないわ。でないと、人が探しにくる。それまでによく眼を拭いておかなければいけない……』と考えた。それから彼女は、魂も肉体も、愛情も、嫉妬《しっと》も、なかなかしずまらない怒りも、岩の中の巣と同じように堪えがたくもあり、生来のものでもある心の宿も、元通りに取りもどすのだった……。
「起きなさいよ」と彼女は小声で言った。
フィリップは、ぶつぶつ不平を言い、のろのろと動かなかった。彼女には、彼が今では、不平と無気力を、非難と質問よけに利用したことが分かった。さっきまで、ほとんど母性的であった彼女の腕が、ぐったりした彼の襟首《えりくび》や、熱っぽい上半身を揺すぶった。すると抱擁《ほうよう》から抜けだしたこの重荷は、またもや、嘘《うそ》つきで、得体《えたい》の知れない、どこの者か分からぬ、彼女を裏切るかもしれない、あの女の手で磨かれて、別人にされてしまった若者にかえってしまった……。
『黒い牝|山羊《やぎ》みたいに、二メートルの縄《なわ》の端につないでおけたら……。それとも、一つの部屋の中に、あたしの部屋の中に、閉じこめておけたらいいのに……。いっそのこと、あたし以外に女のいない国へ行って暮らしたらよかったんだわ……。さもなければ、あたしがすごく……すごく美しいとか……。またはこの人がちょうど、あたしに看護できる程度の、病気になってくれればいいんだわ……』と彼女の頭の上を、ゆらゆらと動く影みたいなこうした思いが、走りすぎた。
「これから、きみどうするつもりだい?」とフィリップがきいた。
迷いから覚めたようにわれにかえった彼女は、彼の顔立ちをつくづくと見た。いずれは、感じはいいが、どこにでもいるようなかなり平凡な褐色の髪をした男の顔立ちになるにはちがいないが、現在はまだ数えで十七歳という年齢が、なお当分は男盛りになる一歩手前でとどまっている顔立ちだった。彼女には、二目と見られない、そして秘密を見せてしまう汚辱の痕《あと》が、この優しい顎《あご》や、怒りの表情に巧みなこのととのった鼻などに、あらわれないのに驚いていた。『でも、こんなに優しそうな褐色の眼と、青白いほどの白眼に、ああ! あたしは、そこに別の一人の女が、姿を映したことがちゃんと分かってるのよ……』彼女は、いやな思いを振りはらうように、頭を左右にふった。「これから、あたしがすることですって? お夕食の支度をすることだわ。あんたも、そうしなさいよ」
「それだけかい?」
彼女は立ちあがると、弾力のある絹のベルトでしめられた服をひきのばした。そしてフィリップとわが家と海をよく注意して見張っていた。すっかり寝入った海は、灰色に冷たくなって、夕日の輝きを映しだすことを拒んでいた。
「それだけよ……でも、あんたが何かするならまた別だわ」
「何かって、どんなことを言うんだい?」
「分かってるでしょう……出かけるのよ、あの奥さんを見つけに行くのよ……。あんたが愛してるのは、彼女だと決めることよ……。あんたの両親にそれを知らせるのよ……」
彼女はまるで乳房を押しつぶそうとでもするかのように、機械的に服をひっぱりながら、優しみのない、子供らしい顔つきで話していた。
『彼女の乳房は、|じんがさがい《ヽヽヽヽヽヽ》の貝殻の形をしている……また日本の絵によくある円錐形の小さな山の形をしている……』
彼は心の中で、はっきりと『乳房』という言葉を発音したのに気づいて、顔を赤らめた。そしてこの非礼の罪を着た。
「ヴァンカ、ぼくはそんなばかな真似は一つだってしないよ」と彼はあわてて言った。「でも万一、ぼくにもそんなことをみんな、せめてその半分でもできたら、きみはどうするか知りたいな?」
彼女は泣いたために、いっそう青みを増した眼を大きく開いた。だが彼には、そこに何一つ読みとることはできなかった。
「あたしがどうするかって? あたし、別に生き方を変えたりしないわよ」
彼女は彼に挑戦するつもりで、嘘《うそ》をついていた。しかし彼女のいつわりの眼差しの下に、彼は頑固《がんこ》さと、どんなことでもやってのけるような、安らぎもない粘り強さを見てとったり、探りだしたりした。そしてそれは自分に恋仇《こいがたき》があると分かるとすぐに、恋する女としての自分を守り、恋人と生命とに、自分を結びつけるものだったのだ。
「きみは柄《がら》になく、分別のある娘になったね、ヴァンカ」
「そう言うあんたは、また柄になく気取ってるわね。さっきあんたは、あたしが死にたがっていると思ったでしょう? 男が浮気したからって、死ぬなんて、あたしはご免《めん》だわよ!」
彼女は喧嘩《けんか》をする子供がするように、片手を開いて、彼の方につきだした。
「浮気か……」とフィリップは腹を立てながらも、得意になって、繰《く》りかえした。「このぐらいのこと、ぼくの年頃の若者にはだれだってあるさ……」
「だから、馴れなければいけないと言うんでしょう」とヴァンカがさえぎった。「結局、あんたが、あんたの年頃の『若者のだれ』とも変わっていないということにね」
「かわいいヴァンカ、はっきり言っておくけど、娘というものは、そんなことを口にしたり、耳にしたりしてはいけないんだよ……」
彼は眼を伏せて、大げさに唇をかみ、それからつけ足して言った。
「ぼくの言うことを信じてくれよ」
彼はヴァンカに手をかして、二人の避難所の入口によこたわっている長い片岩質の層や、ついで税関の小道と彼らとの間にある|はりえにしだ《ヽヽヽヽヽヽ》のひくい茂みを飛びこえさせた。そこから三百メートル先の海辺の牧場を、白い服のリゼットが、白い|ひるがお《ヽヽヽヽ》のように駆《か》けまわっていた。そして彼女の褐色の小さな二本の腕が、さかんに手真似をして、『いらっしゃいよ! あんたたち、遅刻だわよ!』と信号を送っていた。ヴァンカは両腕をあげて答えた。だが坂をおりる前に、もう一度フィリップの方に振りむいた。
「フィル、あたしがあんたの言うことを信じられないのは当然だわよ。もしそうでないとしたら、きょうまでのあたしたちの生活は残らず、あたしたちが嫌いな本の中に出てくるような詰《つま》らないあの作り話の一つにすぎないことになるんですもの。あんたはあたしたちのことを話すとき、『若者はだとか、娘はだとか……』言うわね。また『ぼくの年頃の若者はだれでも浮気だ……』とも言ったわね。でもね、フィル、あんたは過ちを犯しているのよ……ね、あたしは静かに話してるでしょう?……」
彼は幾分やきもきしながら、当惑げに、彼女の話を聞いていた。というのは、ちょうどそのとき、彼は自分の大きな悲しみの燃え残りや、散らばった刺《とげ》を一ところにかき集めようとしても、それがうまくゆかないでいたからだった。どんなに自信ありげに見せても、ありありと分かるヴァンカの極度の心配が、またそれを錯乱させてしまいそうだった。そのうえ夕風が急に意地悪く吹いてきた……。
「なんだい! まだ言うことがあるのかい?」
「とにかく、あんたは過ちを犯したんだわ、フィル、なぜって、あんたは|あれ《ヽヽ》をあたしに求めるべきだったのよ……」
今の彼には、欲望もなく、疲れていて、早くひとりになりたかった。そのくせこれから長い一夜を過ごさなければならないと思うと、恐くてしょうがなかった。彼女は叫びや、憤慨《ふんがい》や、または不純な心の動揺を当てにして待っていたのだ。ところが彼は近寄せた睫毛《まつげ》の間から、彼女を頭のてっぺんから足の先まで、じろじろと見つめるだけだった。そして言った。
「かわいそうに!……ぼくに『求めろ』って言うけど、いったいそれで何を許そうと言うんだい?」
彼は彼女が腹を立てて黙りこむのを見た。あざやかな血の気が赤く彼女の頬《ほお》にのぼって、褐色の喉《のど》の皮膚の下を引いていった。彼は片腕で彼女の両方の肩を抱きよせ、ぴったり寄りそって、小道を歩いた。
「かわいいヴァンカ、きみはどんなばかなことを言ってるか、分かってるのかい! 無知な娘のばからしい言い分だからいいけど、そんなものは神さまにお返しして、お礼を申しあげるよ!」
「神さまには、ほかのことでお礼をおっしゃいよ、フィル。あたしは神さまがおつくりなさった最初の女と同じくらい、なんでも知っていると、あんたは思わない?」
彼女は彼から離れようとはせずに、顔を向けないで、横眼で彼を見た。それから自分の前のけわしい道を眺めていたが、またフィリップを見た。フィリップの注意は、瞳の動きで、|つる《ヽヽ》|にちにちそう《ヽヽヽヽヽヽ》の青さから、貝殻の内側の真珠母色の白さに交互にかわる彼女の眼尻にひきつけられていた。
「ねえ、フィル? そう思わない? あたしが同じくらい知っていると……」
「静かに、ヴァンカ! きみは知らないんだ。何も知らないんだ」
彼は小道の曲がり角で、彼らの足をとめさせた。灰色で丈夫な、まるで金属の鋳形《いがた》に流しこんだように、ほとんど皺《しわ》もない海からは、青い色がすっかり消えていた。沈んでしまった太陽は、水平線の上にさびしげな赤い長いあとを残していた。その上には、夜明けの光りよりも明るい緑の光のよわい帯がひろがって、一番星がぬれたように輝いていた。フィリップはヴァンカの両方の肩にまわした腕をしめつけ、もう一方の腕を海の方へ伸ばした。
「静かに、ヴァンカ! きみは何も知らないんだ。それは……たいへんな秘密だもの……。とても大きい……」
「あたし、もう大人よ」
「違う、きみには、ぼくが言おうとしていることが分からないんだよ……」
「いいえ、よく分かってるわ。あんたもあのジャロンさんとこの子供みたいだわ。あの子、日曜日に、教会の聖歌隊に出ているわ。自分を偉そうに見せたいので、『ラテン語って、すごくむずかしいんだよ!』って言うの。それだのにラテン語なんてまるで知らないのよ」
彼女は顔をあげて、突然笑いだした。フィリップには、こうもまたたくまに、しかもこんなに自然に、悲劇から笑いへと、驚愕《きょうがく》から皮肉へとかわるのが不愉快だった。おそらく夜になったので、火のような官能によって悩まされた平静さや、それが続く間、降りしきる雨を真似《まね》て、血潮が耳もとでざわめく沈黙を、彼は求めはじめていたかもしれなかった。ほかの青年たちがよろめいたり、冒涜《ぼうとく》の言葉をはきながらまたぐ悪所《あくしょ》の敷居のところで、彼をしりごみさせたあの恐れや、危険にみち、ほとんど口もきけないほどのあの束縛に、彼は今あこがれていたのだった。
「おだまりったら。意地悪をしたり、下品なことをしたりするんじゃないよ。きみがそれを知るようになれば……」
「でも、あたし、早く知りたくてたまらないのよ!」
彼女は心にもないことを言い、下手な女優のように笑っていた。それは、その心の中では、すべてのものが恐れのために震えおののいていることをかくすためでもあり、また最悪の危険を冒しても、絶えず、もっともっと余計に悩むチャンスを、報酬《ほうしゅう》が与えられるまで探しもとめる無視されたすべての少女と同じように悲しいのだ、ということをかくすためだった……。
「お願いだ、ヴァンカ! ぼくを苦しめるのはよしておくれ……。そんな態度は、あまりきみらしくないよ!……」
彼はヴァンカの肩にかけていた腕をおろすと、別荘の方に足早におりた。彼女も、小道がせばまったところにくると、早くも霧にぬれて刈りやすくなっている草むらを飛びこえながら、彼といっしょに歩いて行った。そして影《ヽ》たちに見せるための顔を準備しながら足をはこんで、フィリップに小声で言った。
「あたしらしくないんですって?……ちっともあたしらしくないんですって?……でも、フィル、これは、なんでも知ってるあんたの知らないことなのよ……」
二人は、自分たち自身にも、また自分たちの秘密にもふさわしい物腰で、食卓についていた。フィリップは自分の『頭の錯乱』を口にして笑い話の種にしたり、心|遣《づか》いを要求したり、一同の注意を自分の方にひきつけた。それは、厚い縁飾《へりかざ》りのように、眉《まゆ》の上のところで、切りそろえた絹みたいな金髪のかげになっているヴァンカの輝かしい眼に、傷ついた|ばら《ヽヽ》のような隈《くま》ができているのを、皆が気づきはしないかと恐れたからだった。ヴァンカの方でも、わざと子供のように振舞っていた。スープが出ると、彼女は早速シャンパンが欲しいと言い出した。
『フィルに元気をつけてやるためよ、ママ!』そして注がれたポムリー(シャンパン酒の銘)を息もつかずに飲みほしてしまった。
「まあ、ヴァンカったら!」と影《ヽ》の一人がたしなめた……。
「やらせておきなさいよ」と寛大なほかの影《ヽ》の一人が言った。「それくらい、害にもならないじゃありませんか」
夕食が終わる頃、フィリップの視線が、夜の海に浮かぶ見えないマンガ島や、夜の中にとけこんでしまったあの白い街道や、道路の埃《ほこり》をあびて化石のようになった|ねず《ヽヽ》の茂みを探しているのを、ヴァンカは見つけた。
「リゼット」と彼女は叫んだ。「居眠りしているフィルを、つねっておやりなさい!」
「こいつ、血の出るほどつねったぞ!」とフィリップはぼやいた。「ひどいちびだなあ! 涙が出るほど痛かったよ!」
「あら、ほんと、ほんとだわ!」とヴァンカは鋭い声で言った。「ほんとに涙が出てるわよ!」
彼が白いフランネルの上着の下で、腕をさすっている間、彼女は笑いつづけた。だが彼は、ヴァンカの頬や眼の中に、シャンパンがもやした炎と、彼を不安にする一種の用意周到な狂気を見のがさなかった。
しばらくたって、霧笛《むてき》が暗い大波のはるか彼方で鳴りひびいた。すると影《ヽ》の一人が遊戯台の上で黒い点のあるドミノの牌を動かす手をやすめた。
「海上は霧らしい……」
「さっきグランヴィルの燈台が、危険なところに光を当てていましたよ」ともう一人の影《ヽ》が言った。
この霧笛の音が、海岸ぞいの道を走る自動車のうなるような警笛を思い出させた。フィリップはさっと立ちあがった。
「また始まったわ!」とヴァンカがからかった。
自分の気持ちをかくすことが上手な彼女は、影《ヽ》たちに背を向け、悲しげな眼差しで、フィリップを見まもっていた……。
「違うよ」とフィリップは言った。「ただぼくは、眠くてたまらないんだ。失礼して寝かせてもらいます……。ママ、お休みなさい、パパ、お休みなさい……。フェレのおばさん……お休みなさい……」
「伜《せがれ》や、今夜は、おまえのくどいほどのおしゃべりは勘弁してやるよ」
「うすいカミツレ茶を一ぱいもたしてあげようね?」
「忘れずに、窓を大きく開けておくんですよ!」
「ヴァンカ、フィルの部屋へ気付け薬の瓶《びん》をもってってあげたでしょうね?」
親切な影《かげ》たちの声が、幾分しおれた乾燥薬草の甘い匂いのする守護の花綵《はなづな》のようになって、戸口のところまで彼を追ってきた。彼はヴァンカと毎日のおきまりの接吻をかわしたが、それはいつも差しだされる頬をはずれて、耳の方へ滑ったり、首や産毛《うぶげ》がはえている口もとへと滑るのだった。それからドアがしまって、憐れみ深い花綵《はなづな》がぷつりと切れ、彼はひとりぼっちになった。
月のない夜に向かって大きく開かれた彼の部屋が、彼をよそよそしく迎えた。彼は黄色いモスリンの袋をかぶった電球の下に立って、ヴァンカが『男の子の匂い』と呼んでいた匂いを、敵意をいだきながらも、優しく吸いこんだ。それは教科書とか、明後日の出発のために準備された革製のスーツ・ケースとか、ゴムの靴底の瀝青《チャン》とか、上等な石けんや香水から、立ちのぼる匂いだった。
彼は特に苦しいわけではなかった。しかし島流しにされたような気持ちと、無意識の状態におちいる以外には救いようのない全身の疲労を感じるだけだった。彼はいそいで横になると、ランプを消して、壁ぎわの場所を本能的に探し求めた。そこに、少年時代の彼の悲哀や、発育熱が、寝台の縁に折りこんだ敷布と、花模様の壁紙とでつくられた避難所、安全な夜を見出したのだった。そして満月や大潮や、七月の雷雨によってもたらされたさまざまの夢が、この避難所に当たってくだけちったのだった。彼はすぐに眠りにおちた。しかしそれは耐えがたいほどはっきりした、しかもいつも通りの夢を見るためだった。ここでは、カミーユ・ダルレーがヴァンカの顔をしているかと思えば、またかしこでは、ヴァンカが権力を振りまわして、彼に対して淫《みだ》らな手品のような冷淡さで勢いをふるっていた。ところが彼の夢の中では、カミーユ・ダルレーもヴァンカも、フィリップをただだれかの肩に頭を急いでもたせかけようとするだけの幼い男の子、十歳の少年としてしか思い出してはくれなかった……。
彼は目を覚ました。時計を見ると、十二時十五分前を示していた。静かに眠る家の中で、空《むな》しい彼の一夜が熱に浮かされたように消えてゆくのをさとった。彼はサンダルをつっかけると、入浴用のガウンの打ち紐《ひも》を腰の上にむすんで、階下におりた。
上弦の月が断崖とすれすれのところにかかっていた。赤味をおびた鎌型の月は、あたりの風景の上に光を投げてはいなかった。そしてグランヴィルの回転燈台は、赤い燈火と緑の燈火で、かわるがわるに月の光を消しているかのように見えた。しかしこの月の光のおかげで、夜の闇《やみ》は、緑のかたまりみたいな茂みをおおいかくしてはいなかった。また別荘の白い漆喰《しっくい》壁が、表面の桁《けた》の間で、ほのかに燐光を発しているように見えた。フィリップはガラス戸を開けはなって、安全だが物さびしい避難所にでも入るような気持ちで、この心地よい夜の中に入った。彼は、十六回の夏休みに踏みかためられて、湿気がなくなったテラスに、じかに腰をおろした。ここの土の中からは、ときどき錆《さ》びついて古くなった十年、十二年、十五年も前に埋《う》められたままの玩具のかけらが、リゼットのシャベルで掘りだされるのだった……。
こうしてだれからも離れていると、彼は自分がひとりぼっちで、利口でおとなしい子のように思えてきた。『大人になるというのは、たぶんこんなことかもしれない』と彼は考えた。非宗教的教育が、自分を見守る者としての神をあてがわれなかったすべての無信仰の善良な少年と同じように、今の自分の憂欝《ゆううつ》と知恵とを、何者かに捧げたいという無意識な要求が、いたずらに彼を苦しめるのだった。
「あんたなの、フィル?」
その声は風に吹かれた木の葉のように、彼のところまでおりてきた。彼は立ちあがると、足音を立てないように、木製のバルコニーのある窓の下まで歩いた。
「そうだよ」と彼は囁いた。「眠っていなかったのかい?」
「きまってるじゃないの。あたしもおりてくわ」
彼女は物音もたてずに、彼のそばにやってきた。夜の陰影そのものに溶けこんだシルエットの上に浮かびあがった明るい顔が近づいてくるのを、彼は見た。
「きっと寒くなってくるよ」
「大丈夫だわ。青いキモノを来てるから。それに今夜は、温かいわ。でもここにいるのはよしましょうよ」
「なぜ、眠らないんだい?」
「眠くならないのよ。考えごとをしていたの。ここにいるのはよしましょうよ。だれかの目を覚まさせるといけないんですもの」
「こんな時間に、浜へおりてゆくのは、ぼくは賛成しないよ。きっときみは、風邪をひくよ」
「風邪をひくなんて柄じゃないわ。でも浜へなんかちっとも行きたくないのよ。ね、反対に、上の方を少し散歩しましょうよ」
彼女は聞きとれないほどの声で話していた。ところがフィリップは彼女の言葉を聞きもらさなかった。響きがないこの声が、彼には何よりもうれしかった。それはもうヴァンカの声でもなければ、どんな女の声でもなかった。それはほとんど目にも見えない、親しい調子をもった小さな存在だったし、散歩と静かな夜ふかし以外には、これといった辛辣《しんらつ》なところも、計画すらも持たない小さな存在だった……。
彼は何か障害物につまずいた。するとヴァンカが彼の手をとって支えた。
「ゼラニュームの鉢よ、あんたには見えないの?」
「うん」
「あたしにも見えないのよ。でもあたしには、盲の人みたいにそれがちゃんと分かるし、そこにあるのを知ってるのよ……。気をつけてね、その横の地面にスコップがおいてあるはずだから」
「どうして分かるんだい?」
「そこにあるような気がするのよ。ぶつかったら、石炭用のシャベルみたいな音がするわ……。ブーン! ほら、言わないことじゃないでしょう?」
こうした茶目気たっぷりな囁《ささや》きが、フィリップをひどく喜ばせた。十二歳の当時、夜の魚取りをしたとき、満月の光が魚の腹におどっているぬれた砂の上にかがみこんで、こんなふうに昔、ヴァンカは囁いたものだ。今、その昔のヴァンカと同じように優しいヴァンカを、この影法師の中に見つけて、彼は気のゆるみとうれしさで、泣きだしそうになった……。
「思い出さないか、ヴァンカ、夜中に魚取りをした晩のことを、あのすごく大きな|ひらめ《ヽヽヽ》のことを……」
「それから、あんたは気管支カタルにかかったわね。おかげで、夜の魚取りは禁じられてしまったわ……。ねえ、聞いてよ!……あんた、ガラス戸を閉めてきたの?」
「閉めなかったよ……」
「風が出てきたので、戸がばたんばたんと音を立ててやしない? ああ! やっぱりあたしが何から何まで気をつけなければだめなのね……」
彼女は姿を消すと、空気の精《せい》のように、また戻ってきた。足どりがいかにも軽いので、フィルは彼女が戻ってきたことを、彼女より先に風がはこんできた香水の匂いで推測したほどだった……。
「ヴァンカ、きみのその匂いはなんだい? ずいぶんよく匂うね!」
「もっと小声で話してよ。暑かったので、おりてくる前に、頭に香水をふりかけてきたの」
彼は何もそれには答えなかった。しかし目覚めた彼の注意力は、なるほど何ごとにも、ヴァンカがよく気がつくとさとった。
「先に通って、フィル、あたし柵《さく》の戸をおさえてるから。畑のサラダ菜を踏んではだめよ」
耕された地面から立ちのぼる野菜畑の匂いで、近くに海があるのに気づかなかった。密生した|たちじゃこうそう《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》の低い生垣で、フィリップは裸の脛《すね》をすりむいた。彼は|きんぎょそう《ヽヽヽヽヽヽ》のビロードのような鼻づらを、手さぐりしながら通りすぎた。
「ヴァンカ、知ってるかい。この野菜畑にいると、木立《こだち》が茂っているので、家からの物音はまるで聞こえないということを?」
「だって、フィル、今じぶん、家の中で物音なんかしないわよ。それに、あたしたち別に悪いことをしているわけじゃないわ」
彼女は虫にくわれて早く熟しすぎた麝香《じゃこう》の匂いのする小さな|なし《ヽヽ》を拾いあげた。
彼女がこの果物にかみつき、それから投げすてる音を、彼は聞いた。
「何をしてるの? 食べてるのかい?」
「黄色い|なし《ヽヽ》よ。でもあんたにあげるほどおいしくはなかったわ」
こうしたものに拘束されない気性《きしょう》が、かえってフィリップの漠然《ばくぜん》とした警戒心をすっかりぬぐい去ってはくれなかった。何かの精《せい》のようにあまりに優しく、軽快で、晴れ晴れとしたヴァンカを見て、ふと彼は、墓の中から出てきたような、修道女の笑いの中にひびく気が狂ったみたいなあの気高さを、そうした不思議な快活さを想像した。『彼女の顔を見てみたいものだ』と彼は思った。そして、ひびきのない声や、遊び好きな小娘のような言葉が、さっき岩の巣の中で、自分の顔に立ち向かった怒りと逆上《ぎゃくじょう》で真赤にかがやいて、痙攣《けいれん》したあの顔から、洩《も》れているのかもしれないと思うと、彼は身震いした……。
「ヴァンカ、ねえ……。帰ろうよ」
「ええ、そうしましょう。でも、もう少し。もう少し、あたしのために我慢してよ。あたし、すごく気持ちがいいの。あんたは? 二人ともいい気持ちなんですもの。夜って、なんて楽に生きることができるんでしょう! でも、部屋の中ではだめね。そうなの! あたし、二三日前から、自分の部屋が大嫌いになってしまったのよ。ここだと、あたし恐くないの……。あら、螢《ほたる》が飛んでるわ! こんな季節はずれに? だめよ、取っちゃだめよ……。ばかね、何に驚いて、そんなに震えあがってるの! 猫が通ったのよ、今のは。夜、猫は野鼠をつかまえるのよ……」
彼は小さな笑い声を聞きつけた。するとヴァンカの片腕が彼の腰を抱きかかえた。彼はあらゆる息吹《いぶ》きや、あらゆるかすかな物音に、聞き耳を立てた。不安にかられながらも、このやむことのない微妙な調子の囁《ささや》きに、心をひかれた。ヴァンカは暗がりをこわがるどころか、知りつくしたなつかしい国の中を歩きまわるように歩いて、フィリップに、この国を説明したり、真夜中について話したりして、盲目のお客のように彼を引っぱり回した。
「かわいいヴァンカ、帰ろうよ……」
彼女は|ひきがえる《ヽヽヽヽヽ》のように、『おお』という小さな叫び声をあげた。
「あんたはあたしをかわいいヴァンカと呼んでくれたわね、ああ! なぜいつも、夜でないんでしょうね! 今こうしてここにいると、あんたはあたしを裏切った男でなくなってしまうわ、あたしもあんたに悩まされた女でなくなっちゃうのよ……。ああ! フィル、すぐ帰るのはよしましょう、ちょっとの間、あたしを幸福にしておいてね、恋をしている女にしておいてちょうだい。夢の中のあたしのように、あんたを信頼させておいてちょうだい、フィル……フィル、あんたはあたしが分かっていないんだわ」
「そうかもしれないな、かわいいヴァンカ」
二人はかたい干し草のようなものにつまずいてよろめいたらしく、それがかさかさと音を立てた。
「|そばがら《ヽヽヽヽ》だわ」とヴァンカが言った。「きょう殻竿《からざお》でたたいていたもの」
「どうして知ってるんだい?」
「あたしたちが言い争っていた間、二本の殻竿のたたく音が聞こえなかった? あたしには聞こえたわ。お掛けなさいな、フィル」
『彼女には聞こえていたって……。彼女はあのとき夢中だった、ぼくの顔をぶって、つじつまの合わないことを口ばしっていたんだ、――それだのに彼女は二本の殻竿のたたき合う音を聞いていたんだ……』
思わず彼は、女のあらゆる感覚にみられる用心深さを、もう一人の女の巧妙さと比較してみた……。
「行かないで、フィル! あたしは意地悪はしなかったでしょう、泣きもしなかったし、あんたを責めもしなかったでしょう……」
ヴァンカのまるい頭と、よく切りそろえた絹のような髪の毛が、フィリップの肩の上にかたむいて、熱い頬が彼の頬をあつくした。
「接吻して、フィル、お願い、お願い……」
彼は彼女に接吻した。彼自身の喜びには、自分の欲望を満たすことしか考えない極端な若さからくる不手際《ふてぎわ》と、自分から求めもしないのに奪われたあの接吻のなまなましい思い出とがまじっていた。ところが彼は、自分の唇に押しつけられたヴァンカの口の形と、さっき彼女がかんだあの果物の風味を知ったのだった。そしてこの口が開こうと、見出そうと焦《あせ》り、また惜しげなく秘密を明そうと焦っているのを知ると、――彼は暗闇の中で、心が動揺した。『ぼくたちが堕落してしまえばいいんだ』と彼は思った。『ああ! 早く堕落してしまいたい、それよりほかに仕方がないんだ。彼女だってもうそうなることしか望んでいないんだから……。ああ、なんとヴァンカの口は、避けることができないのだろう、そしてまた中が深いんだろう。最初にちょっと触れたときから、こんなに巧妙なんだろう……。ああ、堕落してしまおう、早く、少しも早く……』
しかし所有するということは、なかなか骨の折れる奇蹟だ。彼がどうしても解《と》きほごすことのできない狂おしい片腕が、フィリップの襟首《えりくび》にからみついていた。彼はそれを振りほどこうとして頭を揺りうごかした。するとヴァンカは、フィリップが接吻をやめようとするのかと思って、かえっていっそう強く締めつけてきた。ついに彼は自分の耳もとのこわばった手首をつかむと、ヴァンカをそばがらの床《とこ》の上に投げだした。彼女は短いうめき声をあげて、もう動かなくなった。しかし彼が彼女の上に恥《は》ずかしそうに身をかがめると、彼女はまた彼を抱いて自分のそばに寝かした。そのまま二人は苦難を共にした恋人たちでもするような僅かの憐《あわ》れみと、愛想のよさと、控え目を互いに見せあいながら、しばらくの間、ほとんど兄妹のような、楽しいやすらぎを味わった。フィリップは自分の片腕に、仰向けになっている姿の見えないヴァンカを抱いていた。しかし自由なもう一方の手は、刺《とげ》の先や岩角で浮彫りのようになっているまだ見たこともない滑らかな箇所や傷痕のある肌をさすっていた。彼女は一瞬笑おうとつとめて、小声で頼むように言った。
「あたしのひどくすりむいたところなんかほっといて……。|そばがら《ヽヽヽヽ》だけでも、もうくすぐったいんだもの……」
しかし彼は、彼女の声の中で、息づかいがふるえているのを聞いていた。そして彼もまたふるえていた。彼は彼女のこれまでいちばん知らなかった部分、彼女の口へと絶えず戻ってゆくのだった。果てしがないので一息ついている間に、彼は一とびに起きあがって、駆《か》けて家へ帰ろうと決心した。ところがいざヴァンカから離れてみると、急に、肉体的に虚脱感を覚え、ひやりとする空気と抱くもののない空虚な腕に嫌悪の情を覚えたので、勢いこんでまた彼女のところへ戻った。すると彼女もこの勢いにさそいこまれて、彼にしがみつき、とたんに二人の膝《ひざ》がもつれあった。このとき彼は『かわいいヴァンカ』と彼女を呼ぶ力を見出した。それは彼が彼女から得ようとしているものを、快く与えてくれとも、またそれを忘れてくれとも、どっちともつかない哀願するような控え目な調子だった。彼女は彼が何を求めているかよく分かった。そしてもう、いら立って、おそらく我慢ができないほどの沈黙と、一刻も早くわれとわが身を傷つけようとする焦《あせ》りとを示すばかりだった。彼は短い抵抗のうめき声を聞くとともに、動作が機械的に粗暴になるのに気づいた。だが彼が傷つけつつある肉体は、逃げようともせずに、すべての慈悲を受けるのを拒んでいた。
[#改ページ]
十七
彼は短時間だが熟睡した。起きてみると、家の中が空っぽになっているような気がした。ところが階下におりてみると、別荘番も、彼のむっつりした犬も、自分の魚取り道具も見えた。そして二階からは、毎日おきまりの父の咳《せき》が聞こえてきた。彼は|まゆみ《ヽヽヽ》の生垣とテラスの壁の間に身をひそめて、ヴァンカの窓をうかがった。よく吹きまわる微風が溶けこんでいた雲を散らしていた。振りかえると、荒い三角波の上に、カンカールの漁船がかたむいて、帆をつらねているのをフィルは見つけた。別荘のどの窓もまだ眠ったままだった。
『でも彼女は眠っているのだろうか? あのあとでは、娘はだれでも泣くものだと聞いているけれど。たぶんヴァンカも今、泣いているのかもしれない。今こそ彼女は、いつもぼくたちが砂の上でするように、ぼくの腕を枕にからだを休めるべきだ。そうしたら、ぼくは彼女にこう言ってやろう。「あれは嘘《うそ》なんだ。何事も起こらなかったのだよ! きみは今まで通りのヴァンカなんだ。すごく大きな喜びでもなかったあの喜びを、きみはぼくに与えはしなかったんだよ! 何もかもほんとにあったことじゃないのさ。きみを急にぼくの腕の中で死人のようにぐったりと重くさせ、始まったかと思うとすぐ途切れてしまったあのためいきも、あの歌も、ほんとではなかったんだ。もし今夜、ケル=アンナに向かって、あの白い道を登って姿を消し、あすの夜明け前にひとりで帰ってくるとしても、ぼくはきみに気づかれないようにうまく秘密にやるはずだ……。さあ、海岸へ散歩に行こう、リゼットもいっしょに連れて行こうよ」』
満足に与えられもせず、満足に受けとられもしなかったあの喜びが、やがては完全になることができる作品だということを、彼は想像もしていなかった。青春の気高さから、彼はひたすら、十五年間のうっとりするような生活、比類のない愛情の生活、純潔で愛しあう双生児のように過ごしてきた二人の十五年間を、こんなことで破滅させてはならないと、それを救うことばかり考えていた。
『ぼくは彼女に言ってやろう。「ぼくたちの愛情、フィルとヴァンカの愛情は、あんな場所、あんな|わら《ヽヽ》が逆立っているような|そばがら《ヽヽヽヽ》の床《とこ》なんかと違うところへ行きつくはずだと、きみも思ってるんだ。それはまたきみの部屋、ぼくの部屋のベッド以外のところに行きつくはずのものなんだ。それは確かなことだ、はっきりしていることなんだ。ぼくを信じてくれよ! 知りもしない女から、あんなおごそかな歓喜をぼくは与えられたが、生きた|うなぎ《ヽヽヽ》から取り出した|うなぎ《ヽヽヽ》の心臓のように、あの女から遠く離れた今でさえ、まだあのときの歓喜に心臓が鼓動しているほどだもの。ぼくたちの愛情が、ぼくたちにとってどんなにすばらしいものになるか、それこそ分かったものじゃない? それは確かなことだ、はっきりしてることなんだ……。しかしたとえぼくが間違ってるとしても、きみはぼくが間違っていると知ってはいけないんだ……」』
『ぼくは彼女にこうも言ってやろう。「あれは早すぎた夢なんだ、精神錯乱なんだ、拷問《ごうもん》なんだよ。その間きみは、ああ、ぼくのかわいい仲間よ、ぼくの残酷な仕事のけなげな助手よ、きみは自分の手をかんでいたんだ。あれはきみにとってたぶん恐ろしい夢だったに違いない。ぼくにとっては、突然孤独におちいるより、もっと悪い屈辱であり、もっとよくない肉体的快楽だったんだ。だがもしきみが忘れてくれさえしたら、そして、もうとっくに夜によって情《なさけ》ぶかくヴェールをかけて隠してくれたあの思い出を、ぼく自身が消してしまえさえしたら、まだ何も失ってはいないのだ……。違うよ、ぼくはきみのしなやかな脇腹《わきばら》を両膝で締めつけたりはしなかった。それよりもぼくを、きみの腰にまたがらせておくれ、そして砂の上を駆《か》けようよ…」』
金棒の上を滑るカーテンの音が聞こえたとき、彼は勇気を振るいおこして、どうやら顔を振り向けないでいられた……。
外壁の上に押しあけた鎧戸《よろいど》の間に、ヴァンカの姿があらわれた。彼女は幾度も繰りかえして大きくまたたきをして、自分の前を視線を動かさないで、ぼんやりと見つめた。それからふさふさした髪の毛の中に両手を差し入れて、乱れた髪の中から、枯れた小枝を一本引きだした……。きっとフィリップの姿を探しているのだろう、乱れた髪の間のかしげたその顔の上には、微笑と赤い色がいっしょにあふれていた。すっかり目を覚ました彼女は、部屋の中からつやのある陶器の柄のある壺《つぼ》をとってきて、木製のバルコニーで緋《ひ》色の花をつけているフクシアに注意深く水をやった。それから好天気を約束する澄みきった青空を眺め、毎日歌っていた歌を歌いだした。フィリップは|まゆみ《ヽヽヽ》の茂みから、陰謀でもたくらんでそこへやって来た男のように、じっと何か起こりはしないかと見張っていた。
『彼女は歌っている……。ぼくはこの眼でそれを見、この耳で聞いているのだから、信じなくちゃいけない、彼女は歌っているんだ。それに今フクシアに水をやっていたんだ』
彼の現在の願いに一ばんふさわしいこのような出現の仕方は、当然彼を喜ばせるはずだったが、彼はただの一瞬間もそうは考えなかった。彼は自分の期待がはずれたことばかり気になった。そしてとても初心《うぶ》な彼には、物事を分析して考えることができず、飽くまでも自分の場合と比較しようとした。
『ぼくはあの夜、同じこの窓の下で倒れたものだった。なぜならぼくの少年時代と現在の生活との間に、雷《かみなり》が落ちたように思いがけなく、一つの啓示が降ってきたからだった。それなのに彼女はどうだろう、歌ってるじゃないか、いま歌なんか歌ってる……』
ヴァンカの眼は、朝の海と青さをきそっていた。彼女は髪をくしけずると、また口をむすんだまま、そのかわいらしい鼻歌を歌い続け、かすかな微笑を浮かべていた……。
『彼女は歌っている。朝食にはきれいになっておりてくるだろう。そして彼女は「リゼット、血がにじむほどフィルをつねっておやりなさい」と叫ぶだろう。たいした喜びもなかったかもしれないが、たいした痛みもなかったらしい……彼女はまったく無傷なのだ……』
彼はヴァンカがからだを乗りだし、木製のバルコニーに胸を押しつけて、フィリップの部屋をのぞいているのを見た。
『あの隣の窓にぼくが姿を見せたら、手摺《てすり》をまたいで彼女のそばへ行ったら、彼女はぼくの首に飛びついてくるだろう……』
『ああ、カミーユ、ぼくが「自分の主人」と呼んでいたあなたよ、なぜあなたはときどき、この自然な様子をした処女よりも、すばらしいものに思われたのでしょうか? あなたはぼくにすべてを告げずにいってしまった。もしあなたが贈与者としての思いあがりだけから、ぼくを愛してくれていたなら、きょうこそ初めてぼくを憐《あわ》れに思ったはずです……』
人影もない窓からは、かすかな幸福そうな歌声が聞こえてきたが、それはもう彼の心を動かさなかった。彼は、今歌っているこの娘が数週間後には、この同じ窓辺で自分を有罪だと思い、うろたえ、泣くことがあるかもしれないとは考えてもみなかった。彼は肱をついた片腕のくぼみに顔をかくし、自分の心の下劣なことや、堕落や、寛大さについて静かに考えた。『英雄でもなければ、死刑執行人でもない……。わずかな苦しみと、わずかな喜び……。ぼくが彼女に与えたのは、ただこれだけ……ただこれだけだったのだ……』
[#改ページ]
解説
コレットの人と文学
〔生いたち〕
カブリエル=シドニー・コレット(Gabrielle-Sidonie Colette)は一八七三年一月二十八日、フランスの中央部、現在のイヨンヌ県の西南部サン=ソーヴール=アン=ピュイゼーという小さな町に生まれた。
コレットの父はジュール=ジョゼフ・コレットといい、一八二九年九月二十六日、フランスの西東部地中海にのぞむ、ヴァール県の軍港トゥーロンで生まれて、サン=シール陸軍士官学校を一八五二年陸軍少尉として卒業して、当時創設されたばかりの新しいアルジェリアの連隊に所属された。ところが一八五四年三月三十日アルジェから乗船、沿岸地方の戦線に参加、赫々《かくかく》たる武勲《ぶくん》をたてたが、アルマの戦いで負傷してしまった。その結果同じ年の十二月陸軍中尉に昇進、間もなく翌年の九月には、二十六歳で、陸軍大尉になった。出世は早く、将来は明るかった。
一八五六年ジュール・コレットはその所属の連隊といっしょに再びアルジェリアに戻ったが、時のフランス帝国皇帝ナポレオン三世はオーストリアと戦争状態にはいったので、ジュール・コレットは自分の所属するアルジェリア歩兵連隊とともに、今度はマック・マオン将軍の指揮下で、イタリア戦線で戦うことになった。しかし一八五九年メレニャーノの戦いで負傷、左脚を切断するのやむなきに至ったので、軍務を放棄した。
退役したジュール・コレットは大蔵省の役人となり、サン=ソーブール=アン=ピュイゼーの収税吏に任命せられ、この任地には一八六〇年八月九日に着任した。こうした閑職の中で、彼は三十四歳以後の生活を送るのであるが、このソーヴールに来て間もなく、のちにコレットの母となるシドニー・ランドウと知りあいになる。彼女は当時未亡人で、その夫はアルコール中毒患者で、地所持ちの貴族だった。
コレットの父ジュールは退役軍人とはいえ、なかなかの文学趣味の持ち主で、ラマルティーヌ風《ふう》の詩を書いたり、また多くの文芸雑誌を購読し、当時の文壇にも詳《くわ》しかった。コレットは幼時を回顧して、父について次のように語っている。
「トゥーロンに生まれた父は、南仏生まれの環境から詩、華麗な脚韻《きゃくいん》とか、詩節とかに生来興味を持っていた。父は詩をつくって、わたしにそれを朗読してくれた。また自作でない詩もよく朗読してくれたものだった」
さてコレットの母はアデール=ウージェニー=シドニー・ランドウといって、一八三五年八月十三日パリに生まれた。生後数週間後に母が死亡したので、同じ年の十月二日に、サン=ソーヴールから十キロへだてたメジールという村の、農家ギレに里子にやられた。しかし父の死後、シドニーはベルギーに在住のフランスの新聞記者をしていた兄弟に引きとられた。シドニーはやがて一八五七年一月十五日、ベルギーの首都ブリュッセルに近いシャルベックの町役場で、ジュール・ロビノー=デュクロと結婚式を挙げた。しかしコレットの話によれば、この結婚はシドニーには幸福をもたらさなかったという。彼女の夫となったジュール・ロビノーは彼女より二十一歳年上で大きな屋敷に住み、召使も大勢使う身分で、大地主だったが、酒飲みで、すでにアルコール中毒患者だった。若い妻は幾度かこの悪癖をなおそうとしたが、またすぐに夫は酒びたりの生活に戻ってしまうのだった。夫のジュール・ロビノーは酒癖のため、その死期を早めたらしく、一八六五年一月三十日、五十一歳で、莫大な財産をこの若き妻に残して死亡した。やがてジュール=ジョセフ・コレットとの再婚の噂《うわさ》が、この未亡人をなやましたが、彼女はちゃんと機の熟するのを待って、同じ年の十二月二十日、トゥーロンからジュールの両親が出てくるのを待って、ジュールと再婚の手続きをした。
新夫のジュール・コレットはジュール・ロビノーの遺《のこ》した大きな屋敷に移り、夫婦の間に数年後二人の子が次々に生まれた。一八六八年に生まれた男の子はレオ《レオポール》といい、一八七三年に生まれた女の子はガブリエル・シドニーといった。このガブリエルこそ、後にコレットの名でフランス文壇にその文才をうたわれるのである。
ところでジュール・コレットが管理をするようになったこの莫大な財産も、結婚後間もなく減りはじめた。彼が実業家の素質を持ちあわせなかったからだ。戦場で武勲《ぶくん》をたてた彼も、ピュイゼーの農家の経営には無知だった。彼は結婚後一年たらずで、不動産を手離し、両親から相続した家屋も売り払ってしまった。不動産も株券も次々に人手に渡り、ついに一家はロワレ県のシャティヨン=コリニーにあるアシール・ロビノー・デュクロの家に立ち退かざるを得なくなるのである。家庭経済はジュールの年金しか頼るものがなくなり、一家は大きな屋敷を捨て、せまい小さな家に暮らすことになった。コレットの青春時代への郷愁の念は、後に彼女が結婚して、パリの暗いアパートで日をすごすときになって、ますます大きくなり、あらゆる作品の中に表われてくるのである。
コレットが生まれたとき、母シド《シドニー》は三十八歳だった。幼い頃の母を思い出して、コレットは次のように記している。
「シドがわたしを生んだとき、わたしの一生涯の主要な人物シドにとって、四十年という年月は、ほとんど荷厄介には感じられていなかった。しかし、わたしが生まれてからは、シドはふとり、醜《みにく》くなりはしないがまるまると肥えて、娘のようなからだつきを強調していた服を着るのをやめねばならなかった。それ故彼女が惜しいと言っていた青い服、刺繍《ししゅう》がしてある白い花飾りのついた、とても裾《すそ》がゆったりした上等なリンネルのスカートを、わたしは今でも持っている。そのベルトはやっと四十八センチほどしかないのだ」
このシドの青い服をコレットは度々の引越しにも大事に持って歩き、一九二八年刊行された作品『シド』の中にも、これが描かれている。
さて、この母シドは日曜日ごとに教会堂のミサに列席したが、いつもコルネイユの古典劇の本を持参し、ミサの間これを読みふけっていた。しかし司祭のミロとは仲が好く、この立派な司祭と互いに草花の苗や、さし枝を交換しあっていた。また彼女は非常に古典を好み、ことにサン=シモンの『回想録』を愛読して、いつも枕もとに置いて、眠られぬときは、これを読んでいた。シドの日日は家や庭、そして子供や夫で多忙だった。破滅が家族におそいかかってきたとき、金銭上のやりくりが、毎日の気苦労に加わったにもかかわらず、彼女はいつもその笑いを失わず、最後までその陽気な気持ちを持ちつづけた。それは、まるで地上の楽園さながらだった。「光と影がさっと走りすぎ、苦痛の下にからだを折り曲げていても、子供たちと草花と動物に飾られたおおらかで気まぐれな楽園だった」とコレットは自分の家庭について語っている。
コレットが幼年時代を過ごした家も庭も非常に静かだった。はにかみやの子供たちはそこで無言のまま遊んでいた。夏休みになると、寄宿生だった兄たちが家に帰ってきた。コレットも時には彼らといっしょに遊ぶこともあった。しかし兄たちは本をもち、木の枝に腰かけて、ひとりっきりになることばかり考えていた。また時には、田舎を駆《か》けまわり、服に鉤裂《かぎざ》きをつくり、脚の皮をすりむいて、夜にならなければ帰らなかった。それでコレットはひとりだけで遊ぶことが多かった。野生の若い動物のように、庭の塀《へい》にのぼったり、畑や森をうろついたりした。朝は日の出前に起き、妙なる虫の鳴き声や、動物の朝の叫び声に耳をかたむけ、草や花に触りながら、露の中に横になった。
〔少女時代〕
こんな具合に、コレットは自然のふところに抱かれて成長した。十九世紀の末頃、地方での市町村立の義務教育は、宗教教育をほどこさない組織になっていた。彼女はサン=ソーヴールの小学校に通ったが、これは両親が兄たちのように彼女を寄宿舎に入れなかったからだった。もちろん彼女があまりにおてんば娘だったからだ。そしてどうやら初等教育免除をとることができたが、彼女が十二歳の頃、すでに家庭は財政上の支障が起きていた。コレットは一八八五年から一八八九年まで、中学課程を自宅で勉強することにし、綴字《ていじ》法の正しい知識、古典の解釈、算数、代数と幾何の初歩、自然科学、物理、化学、道徳、公民科、歴史、地理などを学んだ。
彼女の家庭教師だったテラン嬢は、コレットが文科的科目にはすぐれた才能を示したが、科学的科目に苦手《にがて》だったことを認めている。彼女が受けた教育はこんな簡単なものだったが、彼女はこれを読書によって補《おぎな》った。当時の地方の中産階級では多くは自宅に、子供の読むように書物をそなえた図書室を持っていた。コレットの家にもたくさんの文学書をならべた図書室があったので、彼女はこれを片っぱしから読みはじめた。最初に読んだのがラビッシュとドーデとメリメだった。中でも特に好きだったのは、メリメの長編小説『シャルル九世年代記』だった。
デュマの『三銃士』は兄たちは夢中になったが、彼女は気に入らなかった。これよりも『女王の頸《くび》飾り』に非常に感動させられた。こうした読書について、コレットは次のように語っている。
「ずいぶん前から、まだろくに本も読めないのに、わたしはまるで犬小屋の中の犬のように、二冊のラルース辞典の間にまるくなって入りこんだ。ラビッシュとドーデは早くから、わたしの幸福な子供の頃の先生だった。また同時に、頑固《がんこ》だが魅力あるメリメは、当時八歳だったわたしの眼を、ときどき理解できぬ光で眩《くら》ましてくれた。また『レ・ミゼラブル』もそうだった。これは、なんとすばらしい本だったろう! デュマはあまり好きではなかった。ただその『女王の頸《くび》飾り』だけは別だった。数日間、夜になると、夢の中で、処刑された女主人公のジャンヌ・ド・ラ・モットの首筋が紅《あか》く染まるのを見たからだ。童話には一も二もなく夢中になってしまった。馬車に乗ったお姫さまが大好きであり、『森の眠れる美女』を、三日月のかかった夜空の下で夢見たり、『長靴をはいた猫』に熱中したりしたものだ。だが、読書といってもたくさんの本を読んだわけではない。要するに、同じ本を繰《く》りかえし繰りかえし読んだにすぎない。しかも、そのどれもが、わたしには必要欠くべからざるものだった。こうした本のあること、その匂い、その書名の文字、その表紙の革の木理《もくめ》がなつかしかったのだ」
バルザックを読みはじめたのも、七、八歳頃で、この文豪の作品はその後も度々折を見て読みかえして、引越しや離婚のときも、必ず手許から離さず愛読していた。一八六九年刊行の二十冊よりなる紅《あか》いさめ革の全集は、パレ・ロワイヤルの彼女の部屋でも、いつも手のとどくところに置いてあった。またゾラの本は父が書き物机にしまってあったので、彼女は好奇心を燃やしていた。あまり彼女が読みたいと言うので、母はゾラの作品の中から、『ムレ神父の過《あやま》ち』『パスカル医師』『ジェルミナール』を出して与えたが、それでも彼女は満足せず、隠し場所から盗み出して、庭の中に身をひそめて、ゾラの作品を読みふけった。
ところが、森や畑を駆《か》けめぐり、数々の文芸作品を読みふけっていた、こうした生活も、コレットの家が没落したので、一家はサン=ソーヴールを去って、シャティヨン=コリニーで医者を開業しているコレットの義兄アシールの許に一八九〇年移転しなければならなかった。やがて、この小さな家で、彼女は学校をやめて、両親のそばで暮らすことになった。時にコレットは十七歳だった。当時、父のジュールはサン=シールの陸軍士官学校の同期生であるアルベール・ゴーチェ=ヴィラールと交際していて、この人の息子のアンリは新聞記者となったばかりで、ときどき一家をシャティヨンに訪ねてきた。コレットの持つ優美さとその特質は、この三十歳をこえたパリ生まれの男に強い印象を与えた。
コレットはアンリと十八歳で婚約し、二年後に彼と結婚することになる。このアンリこそ文学史上ではウィリーと呼ばれ、コレットの文学的才能を最初に見出し、これを目覚めさせた人だった。
〔修業時代〕
コレットはアンリとの結婚によって、自分の生活を一変させようと思った。一八九三年五月十五日、二人は結婚したが、コレットは二人の出会いから、婚約時代を経て結婚までのいきさつについて、何も語っていない。夫のアンリの方もまた何も口にしていないので、この時期のことはまったく霧にかくされて分からない。ただコレットはこの未知の新しい世界を、ミュッセの作品中のニネットとニノンが見る夢とは違ったものだとは思っていなかった。彼女は愛を夢見て、結婚のことを考えていた。ところがアンリの方はこの娘が財産もなく、ただ好奇心ばかり強い結婚相手だったのには、たしかに意外だと思ったにちがいなかった。午後四時に教会堂で結婚式をすませた二人は家族のほか数人のお客にかこまれて、食事をし、その翌日にはパリに向け出発したのだった。
さてこの夫のアンリは一八五九年八月十日、パリ郊外のヴィリエ=シュール=オルジェで生まれて、パリで、出版屋を経営していた父アルベールの許で育ち、コンドルセ国立高等中学校を卒業、その後コレージュ・スタニスラスに学んだ秀才だった。ギリシャ語ラテン語が得意で、とくにフランス語の詩では一等賞を受けた。大学入学資格試験にパスしてから、家業の出版屋につとめ、後にポリテクニックの出版元の支配人となり、代数学や科学書を刊行した。また文学方面でも、一八七八年には十四行詩集《ソネット》を、一八八二年には高踏派詩人に関する随筆を、翌年にはマーク・トウェインに関する随筆を発表した。また新聞雑誌にも寄稿、やがてヴェルレーヌ、モレアス、ド・レニェなどとならんで、カルチェ・ラタンの新聞『リュテース』に寄稿した。その後音楽批評にも筆を染め、音楽専門家エルンスト、ド・ブレヴィル、ヴュイエルモーズたちと力をあわせて、コンセル・ラムルー管弦楽団の『通信欄』に執筆したし、『ラ・ルヴュ・ブランシュ』『ラ・ルヴュ・アンシクロペディック』『国際音楽雑誌』に音楽評論を掲載するようになった。
アンリの風貌《ふうぼう》については、コレットはその『パリのクロディーヌ』の中で、次のように書いている。
「モージ(ウィリーの別名)は大きな肩を揺りうごかしていた。短い鼻、垂れさがった瞼《まぶた》の下に飛びだした青い眼、子供のような無邪気《むじゃき》な口の上にある大きなすごい口ひげなどが目につく。また腹を立てているときなどは、その目は船窓のようにまるく大きくなり、首筋は充血して真赤になる。その様子はまるで幾分|かえる《ヽヽヽ》に似た小さな牛を見るようだった」
さて一八九四年、コレットは緑色の服を着て、義父の腕にすがって、ポリテクニックの舞踏会に姿をあらわしたが、その眼差しには悲しみがあふれていた。結婚は幸福とは言われないようだった。当時彼女の住居はセーヌ河の左岸の狭い通りの一つ、ジャコブ街二十八番地にあった。このアパートは二つの中庭にはさまれて、薄暗く、彼女の心を傷つけ、彼女を麻痺《まひ》状態におとしいれた。ついに彼女の健康がむしばまれ、病気となり重態と医者に診断された。田舎から母が枕元に駆《か》けつけて看護することになった。病臥中、ウィリーの二人の友人マルセン・シュヴォブとポール・マソンが毎日のように、彼女を見舞い、シュヴォブはトウェインやディケンズを読んできかせ、剽軽《ひょうきん》なマソンは作り話をして彼女を喜ばした。また彼はコレットの回復期には、この夫妻をブルターニュ州の海岸の町ベル=イル=アン=メールに同伴した。コレットが海辺に行ったのは、これが初めてだった。太陽と光線にうえていた彼女は、すっかり気分がよくなり、病気は全快し、夫について、この小さな町を散歩した。
田舎の雰囲気《ふんいき》がコレットに適していることを知った夫のウィリーは、彼女の気晴らしに、彼女の故郷サン=ソーヴールを訪問することにした。一八九五年七月、コレットは夫といっしょにサン=ソーヴールへ行き、そこで小学校を訪問した。ちょうど夏休みの初めの頃なので、かつて習った旧師のテラン嬢や、寄宿舎にまだ残っていた数名の生徒たちと昼の食事を共にした。食後、コレットはテラン嬢と二人でピアノの連弾をして打ち興じた。ウィリーはコレットから度々彼女の幼年時代の思い出を興味深く聞いていたので、ぜひとも本に書くように、彼女にすすめた。それでこの故郷への旅行も、その思い出を新たにさせるのに十分役立つと思った。この旅行の後、ウィリーは彼女をドイツのバイロイトへ連れて行き、ワグナーの音楽を聞かせた。この音楽が彼女の気質を揺りうごかすだろうと期待したからだった。それから数年後、『学校のクロディーヌ』『クロディーヌは去る』の二つの背景ができあがった。パリに戻ったコレットは、ウィリーの指示にしたがって、その思い出の起草にとりかかった。
ウィリーはこの原稿を一度は読んだが、失望して書き物机の引き出しにほうりこんだ。ところがある日、引き出しを整理したとき、この原稿を発見し、厳重に再びコレットに仕事を始めるように言いつけ、本の広告にも十分注意をはらい、『学校のクロディーヌ』という表題のこの本のために、人の注意をひくような絵入りの表紙を準備した。そして一九〇〇年、ウィリーの著書として、ついにパリのオルランドルフ社から、その第一刷が発行された。これには巻頭にウィリーの序文がついていたが、大好評で、コレットはすぐ次作の準備にかからなければならなかった。かくしてその後は毎年、新しい小説が出版された。すなわち一九〇一年から一九〇三年までに、『パリのクロディーヌ』『家庭のクロディーヌ』『クロディーヌは去る』の三冊が出された。そのあとは、『ミーヌ』(一九〇四年)が出版され、翌年には『ミーヌの迷い』が本になった。「クロディーヌもの」の成功から、コレットは、つつましいジャコブ街のアパートから、クールセル街九十三番地に移転した。この家は当時ある近代画家のアトリエで、仕事場、廊下、客間がついていた。
やがて「クロディーヌもの」の評判が高くなるにつれて、それを劇化して舞台で上演しようとする動きが出てきた。ミュジック・ホールの舞台に出ていたポレールという若い女優がクロディーヌの登場人物にぴったりで、コレットにも幾分似ていたので、ウィリーはこの女優を抜擢《ばってき》して、一九〇二年一月二十一日、プロローグのついた三幕物の喜劇『パリのクロディーヌ』を、ウィリーとリュヴェーの脚色によって、ブーフ=パリジアン座で上演して、これも小説と同じように大成功だった。
「クロディーヌもの」のすばらしい評判で気をよくしたウィリーは、自分がこれらの作品の本当の作者でないと非難されながらも、なお多くの収入を妻から得ようと心掛けて、自分の出身地であるフランシュ=コンテに一軒の別荘を買って、コレットの才能をのばそうと試みた。この別荘で、彼女はやっと自分の名前がウィリーといっしょに書かれた本『動物の対話』(一九〇四年)を発表するのだ。この本の序文は、シュヴォブと仲のいい詩人のフランシス・ジャムに依頼した。コレットがジャムの詩を愛誦していたからだった。
さてウィリーとコレットの仲はどうだっただろうか? たしかにコレットは夫を愛していたが、しかしウィリーは決して忠実な夫ではなかった。友人たちも彼が放蕩者《ほうとうもの》だということを認めて、「ウィリーは女道楽で、女たちに甘かった」と言っている。たしかにウィリーは夫として、操縦しにくい男だったようである。田舎娘から急にパリの女になったコレットは、いつもウィリーの影の存在にすぎず、里《さと》母の意見にいつもしたがって行動していた。ついにコレットはクールセル街からヴィルジュスト街に、かわいがっていた猫と犬を連れて、移ってしまい、モルニー公爵の娘であるベルブーフ侯爵夫人の庇護《ひご》のもとにウィリーと離婚することになり、この侯爵夫人と同居してしまった。一方ウィリーの方はクロトワにメグ・ヴィラールという女性と同棲し、やがてこの女性と結婚することになる。いずれにしてもウィリーとの結婚はこれで終止符をうつことになって、コレットはまた新しい生活を始めるわけだ。
〔ミュジック・ホールの生活〕
「わたしは七年間ミュジック・ホールで暮らした。それはわたしの生活の中で一番平穏な年月でした。修道院に隠退したわけなんですよ!」と後にコレットが、探訪記者のルフェーヴルに語っているミュジック・ホールでの生活が始まった。しかし最初の夫ウィリーに対する思慕の情はなかなか断ちがたく、「ああ! わたしは若かったし、あの人を愛していました! どんなにわたしは苦しんだことでしょう!」とその作品『さすらいの女』(一九一〇年)の中には彼女が書いたほど、コレットはウィリーを非常に愛していた。しかし前述のごとく別居離婚という悲しい経路をたどり、彼女は一応、ヴィルジュスト街に移転し、実際は「ミシー」と呼んでいたベルブール伯爵夫人の家、ジョルジュ・ヴィル街二番地の家に身を寄せていたのだ。コレットはミシーの好意に感謝して、後にその作品『|ぶどう《ヽヽヽ》の蔓《つる》』の中の二つの短編を、ミシーに捧《ささ》げている。
コレットが舞台生活を始めたのは、生活を支えるためだったが、これは彼女がほかにこれといって身につけた職業を持っていないためだった。しかし幼年時代から木登りが彼女の毎日の楽しみだったから、コレットのからだはしなやかで、身のこなしに軽かった。それに一九〇五年頃、まだウィリーといっしょの時分、ウィリーは彼女のために、パントマイムの教師であるジョルジュ・ワーグを雇ってくれたことがあった。コレットはワーグからパントマイムのレッスンを受けたわけだ。そして翌年マテュラン座で、フランシス・ド・クロワッセとジャン・ヌゲスのだんまり芝居『欲望・恋愛・妄想《もうそう》』で観客の前に立ったのだった。またこの伯爵夫人も、ある集まりで、やはりワーグの指導の下にパントマイムを演じているので、コレットとの仲はますます親密になり、一九〇七年、侯爵夫人のクロトワの別荘で、コレットは夏を過ごし、また前の夫のウィリーも近くの別荘で、新しい伴侶《はんりょ》のメグ・ヴィラールと暮らしていた。ワーグは弟子のコレットのことを忘れていずに、この年の十一月一日、シャントリエに作曲を依頼して自分が脚色したパントマイム『肉体』をアポロ座で上演し、コレットが出演した。これはコレットが舞台生活の中でも、一ばん成功したものの一つだった。それがため、コレットとワーグは、この年から一九一一年までパリはもちろんのこと、地方や外国でも、このパントマイムを絶えず再演した。
一九一一年、コレットはスペイン舞踏家という振れこみで『バット=ダフ』という暗示的な題名の下に、アン=スフラのある酒場で、『バ=タ=クラン』を演じ、また一九一一年と一九一二年にはゲーテ=モンテパルナッス座で『夜の鳥』の舞台に出演した。またこの年はワーグ演出によるギリシャのパントマイム『恋の牝猫』を演じた。ワーグと協力した六年間、この二人の芸術家が上演した四つのパントマイムは、彼らのレペルトワークとなって題名、舞台衣装、舞台装置を変えては、頻繁に各所でフット・ライトをあびた。一方コレットの作品『パリのクロディーヌ』もウィリーとリュヴェーの脚色で、彼女自身クロディーヌの役に扮《ふん》して、ブリュッセルやリヨンで上演されて大きな評判を得た。そのほか一九〇九年八月にはスイスで、グザンロフとギュマンの共作による喜劇『彼女の最初の旅行』に出たりした。
この時期、すなわち一九〇八年三月十日、コレットはレオン・タイラードの紹介で、フェミナの会で最初の講演をしている。この舞台生活の間、彼女は執筆を中止しただろうか? ところが彼女はペンを捨てるどころかますますその舞台裏で、書きつづけていた。まず最初友人のそれぞれにあてて詩的な散文の小品である短編を書いた。牝猫の肖像である『ノノンシュ』はウィリーに、『白い夜』『灰色の日々』『最後の火』はクロトワで書かれた作品でミシーに、『動物の対話』の中でも有名な、褐色と黒の縞《しま》のある牝牛の話はメグ・ヴィラール嬢に、『魚とり競技』は忠実な友人のレオン・アメルに、『リヴェエラの春』は、コート・ダジュールで、コレットに宿をかした女性ルネ・ヴィヴィアンに、それぞれ献呈された。
クロトワのミシーの許に同居していたコレットは、その後サン=マローの近く、ブルターニュ州のロズヴァンに別荘を持つようになり、ここで必要な休息をとり、物を書く暇《ひま》を見出した。一九一〇年、『さすらいの女』が出版されたとき、アカデミ・ゴンクールはこの作品の価値を認め、ギーヨーム・アポリネールの『異端教祖株式会社』とゴンクール賞を争うことになったが、結局この二つの作品は落ちて、ルイ・ペルゴーの『|きつね《ヽヽヽ》から|かささぎ《ヽヽヽヽ》まで』が受賞した。しかし、彼女の作品が高い評価を得たことによって、コレットは完全にウィリーから解放され、一人前の小説家として、世に知られるようになった。『動物の対話七編』(一九〇四年)『感情|疎開《そかい》』(一九〇七年)『|ぶどう《ヽヽヽ》の蔓《つる》』(一九〇八年)『のんきな尻軽女』(一九〇九年)『さすらいの女』(一九一〇年)『ミュジック・ホールの裏面』(一九一三年)『桎《かせ》』(一九一三年)などが、この期間の作品である。
〔記者時代〕
ウィリーと別れたコレットの前にやがて、聡明で、明るい将来を約束された美男子が現われる。この魅力ある褐色の髪の男こそ、アンリ・ド・ジュヴネル男爵だった。一八七六年生まれのド・ジュヴネルは貴族の出で、コレーズ地方に特に愛着をいだいていて、ヴァレツに「カステル=ノヴェル」という城を持っていた。一度結婚したが、その後離婚し、二人の男の子があった。彼はコレットと知り合いになった頃は、ド・コマンジュ夫人と関係があった。そして日刊新聞『ル・マタン』の共同編集長の職にあって、政界とパリの上流社会と深い接触があった。財産はないが、かなり快適な暮らしをしていて、贅沢《ぜいたく》を好んだ。コレットの生活は一九一一年の暮れ、幸福に満ち満ちていた。彼女はコルタンベール街五十七番地の緑にかこまれたスイス風の家に、ド・ジュヴネルが呼びよせた母といっしょに住んでいた。彼女はミュジック・ホールで働き、時には地方に巡演に出たし、母は『ル・マタン』社で働いているのだった。コレットはついに翌年の九月、ド・ジュヴネルの家族をカステル=ノヴェルの城に訪れ、皆からあたたかく迎えられ、その年の十二月十九日、彼と結婚した。そして翌一九一三年七月三日、女の子ベル=ガズーを生んだのだった。この子の誕生したとき、コレットは『桎《かせ》』を書いていて、毎週『パリ生活』に原稿を送っていたのだが、お産のために一時執筆を中止しなければならなかった。
男爵夫人となり、一家の主婦として、召使とともに家庭で暮らさなければならず、そのうえ子供も生まれたので、コレットはミュジック・ホールの生活を断念するのやむなきに至った。一方、彼女はド・ジュヴネルの指導でジャーナリズムの世界にはいり、『ル・マタン』の記者として、フランス共和国大統領選挙にはヴェルサイユ宮殿に出かけたり、また下院や重罪裁判所に出入りした。こうして『ル・マタン』紙上に、コレットの記事が掲載されるようになり、彼女の記者生活が華々しく始まったのだった。ところが一九一二年九月二十五日、母が死亡するという不幸が起こった。コレットはその喪《も》をわずかに親しい友達だけに知らせて、悲しみを隠していた。コレットの母の死に対して、ド・ジュヴネルは丁重な弔意《ちょうい》と深い愛情とを彼女に示したが、これからこの二人の関係はますます親密になり、結婚までに進んだのだった。
コレットの幸福な結婚生活も、フランスの上下を激しく動揺させた一九一四年の大戦によって中断させられた。その夏、ロズヴァンの別荘はコレットによって、部屋の家具が新調されたばかりで、一家はこの別荘ですばらしい避暑生活を送っている最中だった。暗黒な戦雲はますますフランスの明るい空をおおい、ド・ジュヴネルは陸軍少尉として召集された。コレットもまた『ル・マタン』の記者として、急遽《きゅうきょ》パリに戻らねばならなかった。彼女の夫は戦線に在って、彼女は銃後をまもる長い時間がやって来たのだ。ロズヴァンの別荘には娘ベル=ガズーを残したままだったが、これには厳格な教育者であり、乳母である英国人のドレパー嬢をつけた。またド・ジュヴネルがヴェルダンで戦っている間、彼女は篤志看護婦として、戦傷者の手当をすることになり、病院に改造されたサイリーのジャンソン高等中学校に配属された。しかし夫との別居に苦しんだコレットは一九一四年十二月、あらゆる辛酸をなめて、ヴェルダンの激戦地にたどりつき、夫と再会し、クリスマスをいっしょに過ごしたのだった。戦線に滞在中、コレットは『パリ生活』と『ル・マタン』に幾つかの記事を送った。一九一五年に、イタリア駐在報道員として、ローマやヴェネチアにいた彼女は、一九一六年にはコモ湖畔《こはん》のチェルノピーノへ赴《おもむ》き、そこで休暇をもらった夫と会い、翌年十二月にはフランス政府の委員となった夫が外交協商会議に出席するのに同伴して、またローマへ行ったのだった。
一方コレットが住んでいたパリのコルタンベール街の家は壁面の一部がくずれ落ちてしまったので、やむをえずシュシェ大通り六十九番地のエーヴ・ラヴァリエールの家を借りて移転し、一九一六年の終わりまで、そこに身を落ち着けることになる。夫のド・ジュヴネルは一度銃後の勤務にかわるが、また一九一八年の初め、戦線に帰ったので、コレットはなんの消息もないままに、一人暮らしを余儀なくされる。しかしついに、大戦も終わり、コレットは以前の正常な生活に戻った。そして『ル・マタン』のコント欄に采配《さいはい》をふり、劇評を担当した。
この記事時代には、コレットは小説を発表しなかった。なにしろ規則的に新聞に記事を供給しなければならなかったからだ。こうした記事を編集して、発表する一方、この間出版したのが『動物の平和』(一九一六年)で、コレットの動物小説の続きである。しかしこの中の大部分のものは、大戦前に、そして娘のベル=ガズーが生まれる前に書かれたものである。『破壊の中の子供』と『足ののろい時間』は、ともに一九一四年から一九一七年までの戦争のルポルタージュである。
〔作家時代〕
第一次世界大戦の一九一九年になって、『のんきな尻軽女』以後また創作に精を出し、『ミツー或いはどういうふうに才気が娘のところに来るか』を発表した。これは戦時中の休暇を許された軍人のパリ生活と、ミュジック・ホールの雰囲気《ふんいき》との混合物である。女主人公のミツーは休暇中の陸軍中尉に夢中になる若い踊り子である。
そして平和が回復すると、コレットの偉大なる創作時代が始まるのである。すなわち彼女の名声を確立した小説『シェリー』が準備されたのである。コレットは胸の中にこの人物を大事にしまっておいた。一九一一年まで、この小説の源はさかのぼって、シェリーという名も最初はクルークと呼ばれていたのである。さてこの『シェリー』だが、これは一九二〇年一月に『パリ生活』の週刊の一回分として世に出た。この小説は多くの議論をひきおこした。人生の五十路《いそじ》の坂にかかった女性レアと美貌《びぼう》な男妾《じごろ》シェリーとの物語であるこの『シェリー』こそ、コレットをして、はじめて作家と認めさせた記念の作品である。ジードやブルーストの交遊は最初まだ彼女がウィリー夫人であったとき、アルマン・ド・カイヤヴェ夫人の家で、二人が会って以来、一事途絶えていたが、大戦後はまた復活して、コレットはその作品『ミツー』をブルーストに送り、彼は率直に批評し、賛美の言葉をもって、これにこたえた。コレットの方もブルートスを二十世紀の最も優れた作家として尊敬していた。一九二六年コレットはフレデリック・ルフェーヴルに対して躊躇《ちゅうちょ》せずに、「現代の最も優れた作家の一人は、もちろんブルーストです。彼の著書が出版されることは、わたしにとって真の大事件です」と語っている。またジードも以前フランシス・ジャムが『動物の対話』に序文を書いたことを非難していたが、『シェリー』を読み、そのスタイルを賞賛して、コレットに手紙を書いたほどであった。なおレオポール・マルシャンの協力を得て、『シェリー』は劇化され、一九二一年一二月一三日、ミシェル劇場で初演されることになった。そしてそれ以来百二回も上演され、ついに一九二二年二月二十日には、この劇場の支配人たちの求めで、コレットはレアの役を演ずるために舞台に再び立ったのだった。
その間にコレットは『クロディーヌの家』という書名で、一九一一年から一九二一年まで次々と書いてきた一連の記事を、フェレンツィ社から出版した。この作品の中で、コレットは、母を重要な登場人物として、田舎での若い日の詩的で理想的なあの世界を示す清浄な生活を描いている。
さて『シェリー』が成功した後、コレットはもう一つほかの小説を創作し始めた。この表題は最初『出発点』という名がついていたが、単行本として出版されたときには『青い麦』と呼ばれるようになった。ブルターニュの海岸ロズヴァンがこの作品の背景に使われているが、これはコレットの別荘がここにあったからである。
大戦があったにもかかわらず、ここ数年はコレットは幸福だった。夫も復員して帰宅したし、万事うまく行きそうだった。夫のド・ジュヴネルは、一九二一年、民主党左派としてコレーズ県選出の上院議員となった。コレットも夫のあとに従いカステル=ノヴェルやパリで政界の人たちと交わったが、彼女には政治上の動揺が理解できず、なんの興味も持てなかった。夫がジュネーヴの国際連盟の代表に任命されたときも、コレットの興味をひいたのは作家という職業だったので、彼女はパリに留り、自分の活動を続けた。夫婦間の不和が、一九二二年に現われはじめた。夫のド・ジュヴネルはほかの女性たちに気を移し、ついにジェルメーヌ・パタという女性と夫との関係をコレットは認めなければならなかった。このパタという女性から、コレットはヒントを得て、後に『第二の女』という作品を書いている。さて翌年には、事態はいよいよ危機をはらむようになり、やがてその年の十二月には、夫はコレットの許から完全に立ち去り、一九二四年には離婚しなければならなくなるのである。これに先立って、コレットは苦悩のうちに、これに忍従することになる。そしてこの苦悩と孤独《こどく》をまぎらすために、講演旅行に精出すことになり、フランス各地に、出掛けるのである。そして一九二四年二月十六日、ついにこの離婚のために、コレットは、『ル・マタン』における寄稿家の地位を失わねばならなくなった。『ル・マタン』との関係を断たれたコレットは、やむをえず『ル・ジュルナル』に寄稿することになり、やがて『ル・フィガロ』『ル・コティディアン』『ラントランジャン』と各紙に各種の記事や、劇評を執筆することになる。
一方また、金銭上の問題がコレットを悩ました。莫大な浪費を切りつめなければならなかった彼女は、パリのシュシェ大通りの小さな家と、ロズヴァンの海辺の別荘だけを残すことにし、孤独の生活に甘んじて、パリでは、一九二四年四月まで義理の息子であるベルトランの世話をやき、また夏休み中は、ロズヴァンの別荘で、友だちにかこまれて生活し、畑いじりに没頭したり、生活の基礎を再び獲得するために闘争したりした。これより先、一九二〇年九月には、すでに作家として認められていたコレットはレジオン・ド・ヌール勲章を授与され、『シェリー』と『クロディーヌの家』の二つの作品によって、彼女の芸術の絶頂に到達していたのだった。
〔第三の結婚〕
一九二四年、中編小説集『女の秘密』と、色々の消息を集めて一冊とした『日々の思いがけぬ事』を出版した。そしてこの年のなかば頃、新しい小説『シェリーの最後』の準備にかかり、翌年これを書きあげた。しかし生活の糧《かて》を得るために、彼女は『ル・コティディアン』の文芸部にポストを獲得しようと企てた。ところが交渉は成立せず、単に寄稿するだけにとどまった。講演と寄稿だけでは十分に生活を維持することができなかったコレットは、もう一度『シェリー』のレアを舞台の上で演ずることにした。そして首尾よく、マルグリット・モレノを彼女のこの計画に同調させることができ、モンテ=カルロとマルセイユにおける『シェリー』の再演のポスターに、一九二四年十二月、この二人の名を出すことになった。一九二五年二月には、ドヌー劇場で、またルネサンス劇場では、三月六日から四月二日まで、この劇を上演することができた。
この年の冬はパリでは雨が多くて不愉快だったので、モレノはコレットに南仏の太陽の下で復活祭を過ごすようにすすめた。四月の初旬、カップ=ダイユのモレノの友人の家で、彼女は真珠の仲買人で若いパリっ子モーリス・グードケットに再び会った。グードケットはついに自動車で、コレットと連れだってパリに帰らねばならぬ仕儀《しぎ》になってしまった。そしてこの旅行こそ、友情という意志表示の下に、結果は結婚に結びつくものだった。ウィリーのような文士でもなく、ド・ジュヴネルのような政治家でもなかったグードケットは控《ひか》え目《め》で、穏かで、永遠の仲間だった。作家に対して限りない感嘆の気持ちを抱いていた彼は、コレットの仕事を整理し、彼女の作品を普及させるのに専念し、献身的な努力を惜しまなかった。
一九二五年の夏は、一九一一年以来の習慣を破って、コレットはロズヴァンへは行かず、グードケットの言葉に従って、サン=トロペの近くのラ・ベルジェリに彼が借りておいた別荘に出かけた。コレットはこの別荘について、「オレンジ色と青い色の家で、森の中に土台なしで建てられていた。その周囲は、植林した山と、海でかこまれていた」と語っている。また、
「|いちじく《ヽヽヽヽ》は熟しきって、|ぶどう《ヽヽヽ》は甘い。なんという風土でしょう! ニース地方の風土はまるでほかの遊星の風土のようです。わたしたちをびっくりさせるような午後や、涼しい夜を考えてみて下さい。風通しのいい緑の葉のトンネルは、たまらない数時間を忘れさせてくれます。これはまったく不思議です」
と、コレットは感嘆して、ある友に書き送っている。こんなふうに熱在してしまった彼女は、ついにロズヴァンの別荘を売りはらって、サン=トロペの小さな港付近に、家を買うことになった。そしてこの別荘を「マスカット|ぶどう《ヽヽヽ》」と名づけたのである。このプロヴァンス地方の家が、彼女の新しい小説『生活の誕生』の道具立てに役立つのである。そしてコレットは再び、園丁、土方《どかた》、泳ぐ魚、それから料理人にもなるのである。彼女はこの別荘を、好んで休息し、また仕事をする場所にしたのである。そして一九三八年まで、毎年の夏をこの「マスカットぶどう」で過ごすことになるのである。
さて一九二五年の夏の間、コレットはグードケットと連れ立ってトゥールーズ、フォア、コートレ、ラ・ブルブール、サン=ジャン=ド=リューズ、ドーヴィルなどの湯治場《とうじば》を『シェリー』をもって巡演した。一九二六年の二月にはパリが、そしてまたミシェル劇場が『シェリー』を喜んで迎えてくれた。『ラ・ルビュ・ド・パリ』誌上では、女優としてのコレットを弁護して、「コレットの演技より飾りけのない、くつろいだ、そして誠実な演技はない」とジェラール・ド・ヴィルが好意的な批評を書いた。
しかし中には必ずしも有利な批評ばかりではなかったが、とにかく一九二五、二六、二七年はコレットにとって舞台での生活が続いた。『シェリー』と『さすらいの女』がフランス国内だけでなく、ベルギーやスイスでも上演され、以前と同じように成功した。一方コレットはこの頃、フランス劇場の支配人ルーシェがこのバレーの脚本をコレットに依頼し、作曲をラヴェルに懇願したのだった。コレットはいつもと違ってわずか八日間でこの脚本を書きあげ、ラヴェルの方も二、三の変更を示しただけで、すぐに作曲にとりかかった。ただルーシェの最初の題名は『わが娘のためのバレー』であったが、ラヴェルには娘がなかったので、この最初の題名だけを変えなければならなくなり、『子供と呪文』となったのである。
一九二六年の春、コレットはグードケットといっしょに北アフリカを旅行し、パシャのマルケシュ・エル・グラウイの賓客《ひんきゃく》となった。このモロッコの印象は『モロッコ覚え書』の中に書いてある。
さてそれからパリへ帰ると、彼女は早速現実の生活に直面しなければならなかった。色々と各方面に活動しているにもかかわらず、彼女には金銭上の心配があった。「マスカット|ぶどう《ヽヽヽ》」荘の支払いを済ますにも、ロズヴァンの別荘を売却する必要があり、この買い手がまだ現われなかった。経費を節約し、買い手を待つために、シュシェ大通りの小さな家を貸すことにし、彼女はボージョレ街九番地、パレ=ロイヤルの質素な中二階に住むことにした。しかしこの日光も射さない寒い不健康なトンネルのような部屋で暮らしたコレットは度々気管支カタルにかかってしまったので、クラリッジ・ホテルの最上階に引越してしまった。そしてこのホテルの隣の部屋に、グードケットも移転してきて、いつかパレ=ロワイヤルにある別のアパートに入ろうと狙《ねら》っていた。これは一九三〇年の暮れのことで、コレットは、一九三五年の初めまでは、この日当たりのいい狭い部屋に住んでいなければならなかった。その後コレットとグードケットはマリニャン・ビルの隣り合った二つのアパートに引越したが、彼女が狙っていたパレ=ロワイヤルのアパートには、一九三八年の夏の終わりにならなければ入ることができなかった。そしてその間、すなわち一九三五年四月三日に彼らは結婚したのだった。
コレットは相変わらず講演旅行をつづけ、ルーマニアからウィーンまで出掛けて行ったが、舞台の方はかなり早く止めてしまった。この反動が文学上の活動としてあらわれた。すなわち一九二六年には『シド』を発表した。彼女はことにこの『シド』では、『クローディヌの家』の手法をたどって、彼女の芸術の絶頂に到達した。一方『生活の誕生』では、コレットは新しいジャンルに手を着けた。この作品は半分はフィクションであり、半分は現実に基礎をおいている。登場人物はヴィアルとエレーヌ・クレマンで、「マスカット|ぶどう《ヽヽヽ》」荘を背景にして、コレットに夢中になっている若いヴィアルに、エレーヌが熱い愛をささやく。コレットはこれを見て恋を諦《あきら》めるのである。ヴィアルのモデルは、あのグードケットなのである。『シド』のような自叙伝風の物語は、やがてみな恋愛を取りあつかう小説と交代するのである。すなわち、この後『第二の女』(一九二九年)『牝猫』(一九三三年)などが発表されるのである。
一年ほど前からコレットとグードケットは、白い壺とか箱とかに、黒や赤でコレットの署名を入れた品物を売る美容院を開店することを計画し、一九三二年六月一日、店をミロメスニル街六番地に設けた。また一方では、文芸講演とメイキャップの話を、コレットはして歩いた。六十歳に近い彼女の生活は、汽車の中とか、ホテルとか、健康に悪い寒すぎたり、暑すぎたりするホールの中で過ごさなければならなかった。関節液|溢出《いっしゅつ》という病気のあとでも、一九三三年の冬のさなか、ナント、ラ・ロシェル、カンヌに旅行した。またこの間、アメリカ映画に出演した。しかし懸命に経営したにもかかわらず、事業の方ははかばかしくなく、ついに彼女は落胆のあまり、美容院の方も閉めてしまった。これで彼女には作家の道しか残っていなかったのである。
さてコレットの文名が高くなるにつれて、公式の名誉を授ける噂《うわさ》が、各方面から彼女のもとに伝わってきた。まずアカデミ・フランセーズの会員の候補者に挙げられた。すでに一九二三年に、ジャン・リシュパンがコレットをアカデミ会員の候補者に推《お》したという噂があった。しかしこれはルネ・ボワレーヴの反対で、コレットのアカデミ入りは沙汰《さた》やみになってしまった。次はアカデミ・ゴンクールだった。最初のクールトリーヌの代わりに、コレットの名が候補者として挙《あ》がったのは一九二六年だった。雑誌『レ・ザンナル』はコレット有利を報道したが、これも見込みちがいで、コレットがアカデミ・ゴンクール会員になったのは、一九四五年で、やがて一九四九年には、その会員長となった。また彼女はそれまでに、一九三五年に、ベルギー王立アカデミのフランス語及びフランス文学部門の会員になれるように推挙されていた。これはノアイユ夫人の死亡により空席になったためであるが、一九三六年四月四日、コレットはこれを受諾した。彼女が少女時代、母といっしょに暮らし、また彼女の劇やパントマイムが上演されたことのあるベルギーが、こうして彼女に敬意を払ったわけである。
一九三三年から一九三八年までの期間は、劇評の時代だった。コレットは『ル・ジュナル』『レクレール』『ラ・ルヴュ・ド・パリ』『ル・プティ・パリジアン』の各紙に劇評欄を持っていた。彼女の各批評の数々は『黒い女の双生児』の中にまとめてあり、その全集でも一冊分の量になっている。一方、美容院の経営をやめてからは、グードケットはなお一層コレットのジャーナリズムの仕事を助け、一九三八年には、コレットといっしょに『パリ=ソワール』に寄稿し、また二人でモロッコに渡り、『マッチ』や『マリー=クレール』に記事を送った。またコレットは煙草の広告の小冊子を書いたりしたが、創作の方も、『ベラ=ヴィスタ』『|言い合い《デュオ》』などの小説を書きあげ、発表した。
〔晩年〕
一九三九年第二次世界大戦が勃発《ぼっぱつ》し、コレットの上にも新しい苦悩がおそいかかった。一九二五年以来毎年つづけてきたコート・ダジュールでの避暑も断念しなければならなかった。総動員令が下るという噂《うわさ》を彼女はディエップで聞き、パリのパレ=ロワイヤルの自宅に帰ると、ドイツに対して宣戦布告のニュースが伝わった。彼女は週末を過ごすために、モンフォール=ラモリーに買っておいたその所有地へ出掛けたが、すぐパリへとってかえし、このフランスの首都の中心で、一週間活動的な生活を始めた。彼女はすべてのフランス人にラジオで呼びかけ、また米国向け放送も行なった。一九四〇年はコレーズ県のキュルモントにある娘が所有していた城館に疎開せざるをえなかった。この「緑の墓」ともいうべき城館の中には、もう何一つニュースは入ってこなかった。そこで彼女はパリにぜひとも帰りたく思い、その第一段階としてリヨンに移り、その年の九月にやっとパレ=ロワイヤルの自宅に帰ることができた。
第一次大戦のときと同じように、彼女には苦しい日々が続いた。彼女の作品の中にもその名が出ている親友が、一九四一年十二月、ドイツ軍当局によって、ユダヤ人であるという罪によって逮捕せられ、コンピエーニュの収容所に入れられたのだった。彼女はこの友人を釈放させようと努力し、ドイツ軍占領の終わるまで心配しつづけた。占領軍の新しい逮捕の計画の裏《うら》をかくために、グードケットはパレ=ロワイヤルのアパートで夜を過ごさないようにし、やがて非占領地帯へ向けてパリを離れた。
戦時中、コレットはずっとパリの人たちと苦しみをわかちあい、近隣の人たちを助け、彼女よりも恵まれない友だちを救った。彼女の役割は通俗的なあらゆる数多くの問題について、大衆の相談に応ずることだった。すなわち経済料理の作り方とか、最良の防寒方法とかを教えることだった。コレットの住むパレ=ロワイヤルのせまい地域では、小さな商店のおかみさんから、門番のおばさん、果てはいわゆる貞淑と呼ばれる貴婦人まで、彼女を知らない者はないようになった。一九一四年におけると同じように、彼女が話す事柄は、日々の生活の中に彼女が見ることができることだった。それというのも、彼女にとっては、英雄的行為というものは毎日の生活の中に隠されているからだった。一九四四年に発表された『わたしの窓から』の中で、コレットはこの暗い数年の間、パリの彼女が住んでいた区域を写生し、ドイツ占領下のフランスの生き生きとした社会学的証言と、パリ市民の静かな抵抗運動《レジスタンス》をわれわれに伝えている。肉体的と精神的な苦痛をコレットは勇気をもって堪え忍んだのである。
さて、平和が回復しても、コレットの人望は少しも衰えなかった。彼女はすでに七十歳をこえた年齢だったが、絶えず書きつづけるほど若々しい思考力を持っていた。身のまわりの世話をする忠実なポーリーヌと、出版の仕事やその他の事務の管理をするグードケットに助けられて、コレットは安らいだ精神を作家としての彼女の唯一の務《つと》めにそそぎ込むことができた。フランス国内はもちろんのこと、ベルギー、スイスにまで東奔西走して、倦《う》まずたゆまず講演をしたり、舞台に立ったりした。ただ一九四三年だけは関節炎の苦痛のため、動けなかったので、断念しなければならなかった。しかしこの苦痛を耐えて、コレットは次々に小説を書きつづけた。中でも一九四四年に発表された『ジジ』は彼女の月桂冠であった。そして『ホテルの部屋』『ジュリー・ド・カルネラン』『軍帽』のいずれにも、戦争のことは記《しる》されていないのである。コレットは自分の世界を取りもどすような著作を、平然として書きつづけていた。すなわちそれは一九〇〇年代の恋愛小説、花柳界の小説であった。
フィクションから離れた場合、彼女は『宵《よい》の明星』とか、『青い信号燈』とかいう作品の中で、自分の思い出を語っている。また『正確に写した顔立』の中では、現代人の横顔を描き、注文による著作『植物誌のために』の中では、草花の描写をしている。やがて一九五〇年に、『全集』を世に出すことによって、その創作活動に終止符を打つことになるのである。
〔死と葬儀〕
コレットは形而上学的な不安を何一つ表わしたことはなかった。神の名はその作品の中では稀《まれ》にしか表明されなかった。しかもそれは偶然に、意味なく使われている。彼女の「地上すれすれの精神」は超越性というものを探し求めはしなかったし、神秘や目に見えないものには感覚の範囲外にあって、彼女はこれらを理解しようとは努めなかったのである。神の存在に関しては、「来世というものは暇をもてあそんでいる人たちの時間つぶしである」というヴァレリーの言葉を自分の言葉にしていたのかもしれない。コレットはマルローやカミユのように、人間の条件の苦悩につきまとわれることはなかった。死は宿命的だが、そんなことを考えたって何の役に立とう、いったい死は何を変えることができるのだろう? 人生を楽しみ、些細《ささい》なことや感動によってわれわれに与えるすべてのものの享楽に身をゆだねることが、彼女のつつましい目標だったのである。すべての生きとし生けるものに対する彼女の限りない尊敬は、病気と死を彼女にいとわしいものだと思わせた。こうした考えは、その後も変わらなかった。コレットは自分の感情に忠実だったので、あれほど愛していた母の葬式にも参列しなかった。死んだ母の姿を見るのが嫌だったし、自分の心の中に、生きている母の面影を大事にしまっておきたかったからであった。
友人で女流作家でもあるジェルメーヌ・ボーモンと夫のグードケットは、コレットの死に対する態度を確認していた。夫は死に関して、実際的な取りきめしか、話し合っていなかった。そしてコレットは一九五四年八月三日午後七時半頃、パレ=ロワイヤルの自宅で、ランプが燃料の最後の一滴までつかい果たし、その炎がだんだんと弱まるように、静かに消えるように息をひきとった。
一九二〇年以来、コレットの栄誉はますます大きなものになり、強固なものになった。彼女は生きている間に公式の名誉をになった知名の現代作家の中で、ただひとりの女性である。晩年は同僚の文学者たちの尊敬を一身にあつめていた。アンドレ・ジードは彼が死ぬ少し前に、仕事を中断してコレットに会いに行った(ジードは一九五一年二月十日に死んでいる)。パレ=ロワイヤルのコレットの隣人である作家のジャン・コクトー、ルイ・ジュヴェの演出に関係していた舞台装置家のクリスティアン・ベラール、俳優のジャン・マレーが彼女を訪問した。ジャン=ポール・サルトルもコレットといっしょに写真を取らせた。そしてまたコレットは、自分が会員であったアカデミ・ゴンクールの有名な夕食会を、最後まで司会したのである。
さて、コレットの死去の報に接するや、フランス政府は、作家のポール・ヴァレリーの場合と同じように、彼女を国葬にした。女性でこうした国家的尊崇を受けたのは、コレットが初めてであった。コレットの友人のカトリック教徒の人たちは、宗教的な葬儀で彼女の葬式を行ないたかったようであったが、パリの大司教はこれを拒絶し、これがため数多くの論争がひき起こった。結局、最終的にはコレットの葬儀は市民葬として行なわれることになった。霊柩台《れいきゅうだい》は、約二十年間コレットが住んでいた家の窓の下にあるパレ=ロワイヤル公園に建てられた。夏休みの最中にもかかわらず、八月八日土曜日の葬儀当日は、彼女の遺体をその墓所に見送るために、同僚が参列していた。文部大臣をはじめとして、アカデミ・ゴンクールからはロラン・ドルジュレス、ベルギー王立アカデミのフランス語及びフランス文学部門からはリュク・オメルがそれぞれパレ=ロワイヤルの正面広場で弔辞《ちょうじ》を読みあげた。次に、同じアカデミ・ゴンクール会員であるフィリップ・エリアが記した葬儀の模様の報告をかかげておく。
「この歴史的な日、重苦しい暑さは、急にこの朝には涼しくなった。パレ=ロワイヤル正面広場には、心地よい風が、霊柩台をおおいかくした大きな三色旗の襞《ひだ》を、生き生きと動かしていた。そしてこの微風は太陽でいたまないように花をかばっていた。しかし正午すぎ、柩《ひつぎ》が土の中におりると、ペール=ラシェーズの墓地の上に、雷雨が烈しくにわかにおそってきた。午前中の涼しさが、群衆を集めるのを容易にしていた。柱廊《ちゅうろう》の向こうから会場のアーケードの下まで、避難し密集した群衆の数は驚くべき数だった。ヴァレリーの葬儀は、立派だったが、アカデミックな壮麗さでほとんど民主的なところがなかった。ジューヴェの葬儀は、人ごみと、人気俳優目あてのサイン帖でいっぱいだった。今度は、それがパリだった、パリがコレットの喪《も》に服したのだった。この場所の選択は誠心誠意から浮かんだ考えによるものだった。葬式の申し分ない配列、長い行列のあとにつづく比較的簡素なもの、輝かしい雰囲気《ふんいき》、新しくいっぱいに葉がつくこの頃、遠くを眺めると、間隔をおいて身軽に|はと《ヽヽ》が寄り集まっている日除《ひよ》けをさげた窓は、飾緒《かざりお》を次々に垂れていた。すなわち、すべてが競い、すべてが調和していた。花で飾った長い供物台《くもつだい》の上には、ミュジック・ホール協会と曲馬団の花環が、エリザベート女王の名が記されているベルギーの国旗の色をしたリボンをつけた紅ばらの花環とならんでいた――この偶然の皮肉をわたしは表現することができるだろうか?――『レ・レットル・フランセーズ』の紫色のダリヤは『ル・フィガロ』の貴族的な花に寄りかかっていた。
コレットの読者は大多数は女性だと考えられていたが、それがこの日よく分かった。その大多数の女性は、皆喪服を着ていなかったし、皆そんな服装をするまでもなかった人たちで、そんな格好を見られても気にかけていなかったにちがいない。この公式の葬儀が人間愛の性格を帯び、わたしに恩恵という言葉を言わせるのは、これらの女性たちによるにちがいない」
コレットの遺体が横たわっているペール=ラシェーズの簡素な墓地の平らな墓石には、次のような銘《めい》だけが刻《きざ》んである。
ここにコレット
とわに眠る
一八七三〜一九五四
[#改ページ]
作品
〔成立の背景〕
『青い麦』はコレットの円熟期ともいうべき時代の作品で、彼女の傑作といわれる『シェリー』を一九二〇年発表してから、つづいて、一九二二年には『クロディーヌの家』を世に出している。こうした名作のあとを受けて、『青い麦』ははじめてコレットという単独の名前で、一九二三年に、パリのフラマリオン書店から出版された。
コレットはこの作品を『クロディーヌの家』や『シェリー』のように、はじめは週刊の一回分として筆をとったのであるが、その後、一冊にまとめて完成している。この作品の背景となっているのは、前述の通り彼女の別荘のあったロズヴァンのカンカール風《ふう》の景色であって、彼女は夏の間その海辺をくまなく歩いて、『青い麦』の各所に、その美しい風景描写を見せている。おもな登場人物は若い少年少女だが、これは彼女のまわりに遊んでいた義理の息子たちや、自分の娘をモデルにしている。そしてその顔立ちや特徴を作品の中に生き生きと描きだすことができたようである。
元来、彼女の別荘のあるロズヴァンというところは地図にも載《の》っていないような海辺の小さな村で、海岸は北北西に面していて英仏海峡の波が岸辺を洗っているのである。この南西約三キロほどに、この小説の舞台になっているカンカールの町があり、この町の海岸は西を向いていて、サン=ミシェル湾に臨んでいる。さて、この別荘に当時いつも大勢の彼女の友だちが滞在していた。すなわちコレットの評伝を書いているジェルメーヌ・ボーモン、エレーヌ・ピカール、レオポール・マルシャン一家、それに義理の息子たちがその滞在客だった。だから、こういう避暑客が『青い麦』のモデルになったと想像できるのである。そしてカンカールのブルターニュ風の岩石の多い海岸を舞台として、若いモデルの少年少女がこの恋物語の中心人物として活躍するのである。
〔文学史上の位置〕
第一次大戦のあと、名作『シェリー』を発表してからのコレットは、いよいよ円熟の期に到達して、数々のすぐれた作品を書いた。『青い麦』はこの時期の最初に生まれた小説で、コレットのこの時期の名作中に入るだろう。始終変わらぬ愛の悲劇を描いて、結婚や家庭の幸福にめぐまれなかった彼女の生活が、この作品の中に反映しているのは想像にかたくない。少年、少女、動物、庭園、果樹園、こうしたすべてのものが、逸楽、光り、吐息、匂いの中に一つのものになったように融合し、その上に、彼女の言葉は宇宙のきらめきを奇蹟的に巧みに表現しているのである。
またこの小説は一種の心理小説である。そういう意味で、フランス小説の伝統をついでいる。有産階級の恋愛を取りあげたポール・ブルジェ、女性心理の解剖《かいぼう》にすぐれた手腕を見せたマルセル・プレヴォ、ひいてはあの風俗描写や心理解剖で上層有閑階級をたくみに描いたマルセル・プルーストにも通じたものがあると言えよう。
参考までに、『コレット、その生涯と作品』の著者で、文芸評論家であるジャン・ラルナックの批評をあげよう。それには、「形と色と香の世界の前に感嘆することは、ノワイユ伯爵夫人とならんでコレットの独壇場《どくだんじょう》であった。官能を超越しようとつとめることはせず、この二人の牧神《パン》の娘らは、この感覚を楽しむことに満足した。二人は雲や|からすむぎ《ヽヽヽヽヽ》のかげに神をみつけてゆくジョノなどの神話的思念は知らなかった。生活の中にしっかりとすわって、ひたすらそこから彼女らは日常の幸福を取りだした。この異教崇拝《パガニズム》が得られたことは、まったくこの二婦人に感謝してもよかろう。心理分析の幾世紀を経、肉の実体を感傷的な誇張法のかげにかくした『べそかきのロマンチスム』を経て、人はあの新鮮な生きかえるような風のそよぎを求めていた。口と肉の喜びに悔いなくひたりたかったのである。『青い麦』、『生活の誕生』には何かある昂揚《こうよう》するもの、異教徒的《ヘレチック》なものがある。フィルやヴァンカはわれわれのダフネであり、クロエである。(中略)彼女らの芸術の水晶を透して、世界はなんと輝いて見えることだろう! あれほどペンと弁舌の技術家たちがその読者、その聴衆を憂愁に、不安に、絶望に、恐怖に突き落としているときに、二人は生きる喜びを教える以上のことをした。二人は生きる喜びを感染させたのである」(山田九郎氏訳)とコレットを、ノワイユ夫人とならべて賛美している。
〔愛の心理〕
この小説はコレット独特のテーマ、「愛」を主軸として構成されている。以前コレットはロンゴスの『ダフニス』を読んでいるので、主人公の十六歳の少年フィルをこのダフニスにたとえて、筆を進めている。すなわち少年期から青年期にはいろうとする時期の少年の肉欲にあこがれている心理の描写である。心もからだもまだ清純であるのに、はやくも異性のからだを求める官能の炎によって、少年フィルは日夜悩みつづけるのである。
この対象になるのが幼なじみで、毎年ブルターニュの海岸で夏を過ごす、一歳下の少女ヴァンカであり、またもう一人は、ふいに彼の前に姿をあらわした三十女の「白服の夫人」ダルレー夫人である。
ヴァンカに対しては、フィルは彼女が海岸におりて行く、肉づきはまだ一人前の女ほど完成していないほっそりした美しい姿態をじっと見つめたり、別荘の夕食会の際のヴァンカの白いオーガンディ服を着た晴れ姿を批判したり、砂浜から起きあがるヴァンカの乳房を「じんがさがいの形をしていて、日本の絵に出てくる円錐形の山に似ている……」などと言って赤面しながらも、渇望の言葉をはいたりして、ついに「かわいいヴァンカ」と呼びつつ、また彼女の苦痛の短い訴えを聞きつつ、ヴァンカとの幼い肉体の交渉にはいるのである。そして最後に「彼女に与えたのは、僅《わず》かな苦痛と僅かな喜びにすぎなかった」と嘆き悲しむ。ここに報いられない愛があり、「灰色の愛」ともいうべき、愛のテーマが描きだされる。
また一方「白服の夫人」に対しては、十六歳という年齢相当なずるさから、ヴァンカが気分が悪くて部屋に閉じこもっているのを幸いに、この夫人に以前オレンジエードのご馳走《ちそう》になったお礼に、砂浜に咲いている浜|あざみ《ヽヽヽ》を花束にして、ケル=アンナの別荘の赤と白の壁紙や黒といぶし金のカーテンという華麗でしかも薄暗い部屋の中で、ダイヤモンドの輝く白い指で、氷を入れてもらう妖《あや》しい雰囲気《ふんいき》に、フィルはひきつけられ、その上、この三十女との交渉を求めようとする。しかし「欲しいものがあるなら、乞食《こじき》のように手を差しのべておいでなさい」と夫人から軽くあしらわれてしまう。
しかし異性の肉体を求めるフィルの本能が二度三度と夫人の別荘に彼の足を向けさせるのだった。そして彼の食欲ともいうべきこの欲望は、口紅を濃く塗ったダルレー夫人の誘惑に負け、夫人を性の師とあおぎ、夫人のやわらかい白い手の上に熱い自分の手をかさね、乞食のように快楽という施し物を求めて、夫人といっしょに暗い未知の王国へと急ぐのだった。だがこの暗い燈影の中で、彼を一人前の男に祭り上げようと企てる征服者の美女の腕の間から得たものは、なんであったろうか? 肉体をもてあそばれた彼に残ったものは、悩む権利であり、気の強い無邪気《むじゃき》な娘の前で、失心する権利であったのである。そしてここにも、コレットの説く、はかない愛の幻影がある。
〔自然の風物〕
次にコレットの特色ともいうべき自然の描写がこの作品の中にあふれている。霧、雨、露、日光、月、雲、空、海岸、波、潮、岩石、砂浜、牧場、土の匂い、こうした森羅万象が、植物、動物をともなってこの小説の中に登場してくる。ブルターニュ州のカンカール付近の風景は、コレットが実際に、毎年のように夏、散歩し、眺め暮らしてきたもので、生き生きとした描写は、まのあたり、その光をあおぎ、その匂いをかぐ思いがする。数《かず》限りない自然現象が、細かい筆致で描かれて、まことに詩的で、雪月花を友にしてきたわれわれ日本人にも親しみやすく、単なる心理解剖の小説とは違っている。
〔動植物愛〕
それに動物、植物が、これまた無数に登場する。ただこの小説には、コレットのほかの小説とは少し違って、彼女の愛する猫は出てこないようであるが、老いた番犬が登場して、若い恋人たちの緊張した感情を柔げている。そのほか、小えび、かさご、|かに《ヽヽ》などの海辺の動物から、だいしゃくしぎ、かもめ、こんごういんこなどの鳥が、この小説の影の引立《ひきた》て役となって、暗い愛のドラマのその場その場を印象づけて、欠くことのできない役割を演じているのである。
〔色彩〕
この小説の中で、コレットは数多くの色彩をそのパレットから作り出して、作品の各所を美しく飾って見せている。第一に青である。ヴァンカの眼の色である|つるにちにちそう《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》の青さが全編を透して誇らしげに点滅する。「春の雨の色をしたペルヴァンシュ」とか「そこは、生えている青い|あざみ《ヽヽヽ》の色から『ヴァンカの眼の鏡』と呼ばれていた」とか、「砂丘の浜あざみの花のようにあせた青い毛糸のベレー」とか、いたるところに青い色が躍動している。こうした色彩感覚の描写はほかの作家には見られないことである。
この青い色が少女の象徴なら、白はダルレー夫人の象徴である。「白いハイヒール姿でステッキをついて立つ白服の夫人」と白い色を青い色に対して強調して、この年増《としま》の女性を浮彫りして見せている。「白い手が三本の指をコップに入れる」とか、「白いヴェールのターバン」とか、「壁紙の赤と白」とかダルレー夫人の周囲には白い色が氾濫《はんらん》しているのである。そしてヴァンカの青い色と対照的なおもしろさを表わしている。
その他、赤、黒、金色《こんじき》、緑、灰色、ばら色、むぎわら色、真珠母色、等、等、ほとんどあらゆる色が彼女の絵具箱から飛びだして、華やかな色彩のシンフォニーをかなでている。コレットにとっては、色彩は重要なモティフとなっていることに注目しなければならない。
〔文体〕
コレットの文体は、詩的、感覚的、音楽的である。しかも語彙《ごい》が豊富で、古典的な格調をそなえていて、叙述も美しいリリシズムをたたえている。文芸評論家ガエタン・ピコンは、「コレットはすばらしい作家であり、ある点においては比類を絶した作家である。彼女にあっては、正確な言葉|遣《づか》いが疑いもなくだれもがおなじ程度においては持ち合わせていない観察と、官能的想像力との天賦《てんぷ》の才に結びついている。そしてこの官能はその深さを増すために、厳格な限界のなかに閉じこもることが必要だったのである」と言っている。この『青い麦』においても、コレットのリズムある散文は、他の作家と違う別の魅力を読者に感じさせるであろう。
[#改ページ]
代表作解題
『シェリー』(一九二〇年)
この作品は、コレットの最大傑作ともいうべき小説である。大年増《おおどしま》のレアが十七才のシェリーを愛する愛欲の物語である。五十歳になるレアにとっては、これが最後の恋である。シェリーに寄せる愛情の中に、母性愛的な要素のあるのは当然のことである。また自由奔放に生きてきて、数多くの情事に身をゆだねたレアは、美貌でみごとな肉体の所有者シェリーを、自分の男妾《ジゴロ》として、深い愛情を彼にそそぐのである。しかも肉欲に明け暮れるレアの愛情の中には、誠実で律儀なものがある。だがやっと少年から青年になろうとするシェリーにとっては、年増女のこのような複雑な心理は理解できない。彼はレアによってはじめて生命を与えられ、一人前の男となる。レアの愛情のそそぎ方も、母性愛的な慈愛と献身とによって行なわれ、自分勝手なわがままな態度を避けている。こんなことからシェリーは知らず知らずの間に、レアとの生活から、自分を切り離して生きてゆくことができなくなる。やがて結末にあらわれるこの二人の男女の別離は、二つの生命の終焉《しゅうえん》を暗示している。
『シェリーの最後』(一九二六年)
前記『シェリー』の後編とみなされるべき作品。コレットは『シェリー』の結末で、レアとシェリーの生命の終焉《しゅうえん》を暗示したが、この作品の中で、その暗示が実現される。この作品は、前編につづいて、愛の刑罰であり、レアに対する異常なシェリーの情熱が罰を受けるのである。すなわち、シェリーは結婚し、一人前の男として世に出ても、レアの爛熟《らんじゅく》した肉体の思い出から、自分を解放することはできない。かつて自分を溺愛《できあい》してくれた女が、五十歳を越えた大年増だとは、どうしても彼には信ずることはできない。こうした以前の愛欲生活の追憶、そしてその悔恨《かいこん》がシェリーの心に付きまとい、彼を悩ます。一方また第一次大戦後の激動する時世に、彼は適応して生活してゆくことがむずかしくなる。シェリーはみずから自分の生命をたつ。
『第二の女』(一九二九年)
劇作家の妻であるファニーは、夫のタイピストであり、また家族同様の待遇をしている若い女性ジャンヌと夫の仲に疑惑をいだき、自分の感情を押しころしながら、ひとり煩悶《はんもん》している。すなわち夫の浮気で苦労する人妻の物語である。しかし、この人妻ファニーの苦悩は、身の不幸を嘆き悲しむ女の苦悩ではなく、こわれた幸福の破片を拾いあつめて、別の幸福をつくるように、その破片をつぎはぎしようとする努力に対する悩みなのである。やがてファニーは生活の調和をこわさないように、夫と若い女性と自分との三角関係を肯定《こうてい》してしまう。このテーマは一種の愛の放棄《ほうき》である。この小説の中にも、コレット独特の愛欲の姿が描きつくされていて、驚嘆に値する作品となっている。
『牝猫』(一九三三年)
この作品の中でも、妻の夫に対する肉欲の欲望が悲劇の原因となっていて、主人公は若い夫婦である。この夫婦の生活の中に、牝猫が介在して悲劇をひきおこす。妻のカミーユは自分たちの夫婦生活に不満を持って、満たされない欲望に悩んでいる。そして夫のアランがかわいがっている牝猫に嫉妬《しっと》をおぼえ、これを虐待《ぎゃくたい》する。こうした妻の残酷な仕打《しう》ちが、ますます夫婦間に溝《みぞ》をつくってしまう。コレットの作品では、猫の占める位置は大きい。
『言い合い』(一九三四年)
裏切られた愛をテーマとする小説というよりも、むしろ感受性に関する小説であり、愛の真実を語った作品。妻アリス宛《あ》ての男の手紙を、妻が大切に隠してしまっておいたのを、夫のミッシェルが見つけ、これを読み、彼は妻の姦通《かんつう》を知って愕然《がくぜん》とする。そして彼は妻の不貞をなじったり、また思いかえして自分をおさえ、妻を許そうとする。やがて妻と別れようと考えたり、何事もなかったように思いなおそうとして、あげくのはて、その心の痛手《いたで》にたえきれず身を投げて自殺してしまう。男の手紙はアリスにとっては、なんでもない古疵《ふるきず》にすぎないのだが、ミッシェルにとっては、これが苦悩する愛のドラマの出発点なのである。
『ジュリー・ド・カルネラン』(一九四一年)
主人公ジュリー夫人は、今まで何人も夫を変えるような乱脈な生活を送ってきた女で、現在は独り暮らしをしている。そして彼女は相変わらず、若い男を相手に放縦な毎日をすごしていたが、自分も未練を持っているし、相手もまた自分に今でも未練を持っているだろうと思っていた前の夫の一人が、自分以外の女によって愛されていることを知って、自分の生活に自信を失い、力つきてしまうという物語である。
『ジジ』(一九四三年)
自由奔放である十五歳になる少女ジジは、躾《しつけ》のやかましい、母がわりの祖母アルヴァレス夫人に育てられている。そこへ醜聞で名の高い、金持ちの放蕩《ほうとう》息子ガストンに求婚される。ジジは厳格な祖母たちがこの結婚に反対するのに耳をかしながらも、やがて女心に男というものを意識し始め、ついにこの男の腕の中に飛びこんでしまう。この小説は若い娘の微妙な心理を描いて、コレットの作品の中でも白眉といえよう。清純な少女を女主人公としているが、その母親は父のないジジを生み、おまけに子供の面倒もみないというジジの母親、オペラ・コミックの自堕落な二流歌手アンドレの存在が、愛欲の世界から脱皮しているとはいうものの、やはりコレットの一面をのぞかせている。