ハローサマー、グッドバイ
HELLO SUMMER, GOODBYE
マイクル・コニイ Michael Coney
千葉薫訳
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)自動車《モーター・カート》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)|くたばっちまえ《ゴー・トゥ・ラックス》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)ブラウンアイズ[#「ブラウンアイズ」に傍点]
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HELLO SUMMER, GOODBYE
Authori Michael Coney
Original Copyright 1975 by Michael Coney
Published by Victor Gollancz Ltd
Japanese Copyrights 1980
Japanese translation rights arranged with E.J.Carnell Literary Agency, Essex through Tuttle-Mori Agency Inc., Tokyo
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作者から
これは恋愛小説であり、戦争小説であり、SF小説であり、さらにそれ以外のものでもある。舞台は異境の惑星で、その地には人類は存在しない。そこで、この物語をおもしろいものにするために、さまざまな仮定がなされている。
この惑星は地球とは多くの点で異なっているので、登場するエイリアンたちはヒューマノイドであることにした。ヒューマノイドであるがゆえに、かれらは人間の持つ感情や弱さのとりこである、ということだ。かれらの文明はわれわれの年代でいえば大体一八七五年頃の段階で進化している最中だが、この惑星特有の自然のためにかれらの文明とわれわれの文明とのあいだには大きな違いがいくつもある。
こういった仮定を作り上げたのは、この物語が語るに足るだけのものであり、そしてまたこれ以外の語り方ではこの物語が恋愛小説であり、戦争小説であり、SF小説であり、さらにそれ以外のものでもある――これこそわたしが望んだ姿なのだ――ということは不可能だったからだ。
[#地付き]マイクル・コニイ
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ジェーンとレディー・マーガレット――
そして、やはり神の国を愛する
キース・ロバーツに
そしてパラークシ・ブラウンアイズでありながら、
自分ではそのことに気がついていない
ダフィネに
[#ここで字下げ終わり]
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ハローサマー、グッドバイ
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アリカでのあの日のことを、ぼくはしょっちゅう思い出す。あの日、父と母とぼくの三人は忙しく飛びまわりながら、パラークシで過ごす休暇にそなえて玄関のポーチに荷物を積み上げていた。どういうものか最後には必ずパニック状態に陥ってしまう、この毎年恒例の行事のあいだ、邪魔にならないようにしているおとなの方法を、まだ年頃というわけでもないのにぼくはもう身につけていた。母はうつろな目つきでせかせかと歩きまわりながら、のべつまくなし、あれは大切なんだけどどこにあるのかしらと尋ねては、自分で自分の質問に答えている。背が高く、堂々とした父は、宝物である自動推進の|自動車《モーター・カート》用の蒸留液の罐を手に、地下室への階段をゆっくりと登り降りしている。ぼくの姿を見つめる時の父母の目には愛情がなかった。
だからぼくは邪魔にならないようにしていたが、一方、自分の荷物も忘れないようにきちんとしておかなければならなかった。すでに荷物のなかには、スリングボールとサークレット・ゲームの盤とグルーム・スキマーの模型と、組み立てないままの魚とりの網を内緒で入れてある。こっそりと車《カート》まで行って、うしろの座席のかげにペットのドライヴェットを入れた籠を隠したが、ちょうどその時、父がまたひとつ罐を持って家から出てきた。顔をしかめている。
「タンクを満タンにするのくらい手伝ったらどうだ」車《カート》のわきに罐を置くと、金《かね》のじょうごを渡して、「こぼすんじゃないぞ。近頃じゃ貴重品なんだからな」
戦争からこっちの物不足のことを言っているのだ。親父はそれ以外のことを口にしたためしがない。父が家に戻ると、ぼくはキャップをはずしてくらくらするような燃料の香りを嗅いだ。こいつには前からずっと魅かれていたんだ。液体が、とりわけ水にとてもよく似ている液体が、「燃える」ことができるなんて子供のぼくには信じられなかった。一度、友達にそそのかされてこいつを飲んでみようとした。蒸留液の主成分は、ビールやワインや、その他、旅館《イン》で出している禁制の刺激性飲料物の主成分と同じだとそいつは言ったのだ。
そこである夜、臆病風を吹き飛ばすため、暖めたレンガを抱きかかえてこっそりと地下室まで降りて行き、罐をあけて飲んでみた。飲み下した時に口と喉が焼けた様子からして、こいつでスチーム・エンジンを推進させることができるというのは納得がいく。でも、こいつを飲んで愉快になれるとは信じられない。胸はむかつくし目はまわるで、ぼくは背骨にしみこむ寒気を感じながら戸外の壁にもたれてしばらくのあいだうめいていた。こわいし、気持ちが悪いために、震えがきた。それは冬のことで、冷たい惑星、ラックスが凶眼《イーヴル・アイ》のようにぼくを見つめていた。アリカでは、冬の凍てつく夜というのは身の危険を招く可能性がある。
しかし、パラークシはぼくの頭のなかではいつも夏と暖かさと結びついており、その日、ぼくらはそこに行くことになっていたのだ。自動車《モーター・カート》のタンクにじょうごの口を射しこみ、罐を傾ける。燃料がごぼごぼと流れ出た。道の向こうで小さな女の子が三人、こちらを見つめていた。すばらしい乗り物を見て、畏怖の念とうらやましさから汚ない口をぽけっとあけている。ぼくは空《から》になった罐をこれ見よがしに置いて、次の罐を取り上げた。子供のうちのひとりが石を投げた。石はぴかぴかのペンキの表面にあたり、子供たちは喚声を上げながら逃げていった。
向かいの家並のうしろに、国会議事堂のそびえ立つ尖塔が見える。あそこで摂政が議会の議長をつとめ、ぼくの父が公務大臣の事務官として薄ぎたなくて小さな事務室で働いているのだ。父は役人《パール》で、自動車《モーター・カート》にはそれを表わす紋章がついている――だから子供たちが恨みがましく思うのだ。その点ではかれらの気持ちもよくわかる――でも直接父にあたらずに、車《カート》にやつあたりするなんて恥ずかしいことじゃないか。
ぼくはふり返ってわが家を眺めた。この地特有の黄色い石で造られた建物だ。母が何か大あわてで窓を横切った。庭では何本かの食虫植物がたくみに体をかわす虫をつかまえようと手をのばしており、ぼくはどうして今年は庭がこんなに荒れた様子に見えるのかと考えていたのを思い出した。いたる所にスプレッドウィードがおい茂り、癌細胞のように増えながらエメラルド色の絞首刑具《ギャロット》で最後のブルーポッドを絞め殺している。この草が目に見えるほどの勢いでおい茂っていく様子にはどこか冷酷なものがあり、ぼくはぞっとした。休暇から戻ってくる頃までには草が家をおおい、夜になると羽目板のすきまから忍びこんできて眠っているぼくらを絞め殺すんじゃないだろうか。
「ドローヴ!」
また新しい罐を手に、父がのしかかっていた。まずいと思って見上げると、父は妙な顔をして肩をすくめた。「心配するな、ドローヴ」父もやはり家のことを考えているのだ。「あとは父さんがやろう。荷物をまとめてきなさい」
ぼくは部屋に戻って、すばやくあたりを見まわした。いつでも、パラークシに持っていかなければならない荷物はほとんどないことに気がつくのだ。パラークシはこことは違う別世界であり、そこではこことは違う別のことをするのだから。となりの部屋で母がせかせか走りまわっている音がする。
窓台に、アイス・ゴブリンを入れたガラス壜が置いてある。もう少しで忘れるところだった。濁った液体の表面に結晶のうすい膜が見えたような気がして、ぼくは壜をじっくり眺めた。まわりを見まわすと棒切れがあったので、それでアイス・ゴブリンを慎重に突ついてみた。何も起こらない。
遠く離れた太陽が空のかなたに小さく逃げてしまい、夜になるとラックスが恐ろしい冷たい石の姿を見せたこの前の冬のあいだに、近所の子供たちのあいだでアイス・ゴブリン熱が広まった。熱中騒ぎの常として、これもそもそもどのように火がついたのかははっきりしないのだが、突然誰もかれもが飽和溶液を満たした壜を持っていて、アイス・デビルがいる海岸の沼地でとれた妙な結晶を毎日少しずつ落とし入れていたのだ。
「まさかそのいやなものは持って行かないでしょうね」ゴブリンを手に部屋から出て来ると母が叫んだ。
「だって、置いとくわけにいかないじゃないか。もうじき出てくるんだから」母の声に恐怖を感じとって、ぼくはくわしく説明してやった。「通りの向こうのジョエロと同じ時に育て始めたんだけど、ジョエロのゴブリンはおととい生まれて、指もとれかけているんだよ。ほら!」母の鼻先で壜をゆすってみせると、母はあとずさりした。
「そんな|いやらしい《フリージング》ものはひっこめて!」母は叫び、ぼくはびっくりして母を見つめた。母がこんな言葉使いをするのを初めて聞いた。父がやって来る音が聞こえたのでぼくは近くのテーブルにすばやくゴブリンを置くと向こうを向き、部屋のすみで服をまとめる作業に没頭した。
「何をしてるんだ? 叫んだのはお前か、ファヤット?」
「いえ……あの、何でもないのよ。ドローヴがちょっとおどかしただけなの。本当に何でもないのよ、バート」
父の手が肩に触れたのを感じて、ぼくはしぶしぶ父の方を向いた。冷たい目がぼくの目をのぞきこんでいる。「はっきり言っておくぞ、ドローヴ。パラークシに行きたいんなら行儀良くするんだ、いいな? ただでさえあれこれと考えなくちゃいかんのに、この上お前にばかなまねをされたらかなわんのだ。荷物を車《カート》に運んでおきなさい」
父が力づくで自分の意志をぼくに押しつけることができるのは不公平だと、ぼくはいつでも思っていた。思春期頃までに人の知能というものは完全に成長し、それからあとは下り坂なのだ。親父の場合がそうなんだと、自動車《モーター・カート》に荷物を積みこみながらぼくは恨みがましく考えた。老いぼれのまぬけがえらぶりやがって。頭で勝てないことがわかっているもんで、おどしにかかるんだ。ある意味では、ぼくが小ぜりあいで一勝したってことだな。
問題は親父がこのことに気がついていないってことだ。あちこちの部屋に出たり入ったりしてはポーチまでやって来るのだが、必死になってテンポを合わせようとしているぼくを無視している――荷物の山はどんどん大きくなっていくのだから、テンポを合わせるなんてどだい無理なのだ。親父の荷物は車《カート》の荷物置き場にどさりと投げこみ、自分のものはスペア・シートに注意深く置くことで、ささやかな復讐をしてやった。気がつくとぼくは、どうして時々母親をおどかしたくなるのだろうと考えており、それは潜在意識的に母の愚かさにやりきれなくなっているからなのだという結論に達した。母は迷信を武器のように使い、言い合いになると、議論の余地のない事実という棍棒であるかのごとく迷信を振りまわすのだ。
ぼくらは誰でも寒さを恐れている――こういう恐れは自然なものであり、明らかに夜と冬とそして寒さの影響とに対してぼくらに警告する手段として進化してきたものだ。だが、寒さに対する母の恐れは理不尽なものであり、まず間違いなく遺伝的なものなのだ。ぼくがこう主張すると母はきまって唇をすぼめ、こう言うのだ。「それは絶対に聞いてもらいたくないことなのよ、ドローヴ」ある意味でこの短い言葉は、内容といい、イントネーションといい、苦し気な不可解な表情といい、完璧だ。純粋な、格調高い演技というわけだ。
母は寒さのために姉妹を死なせており、そのことを言っているのだ。こんなことは何でもないできごとであり、多くの人が経験していることなのだが、母はこのできごとに悲劇性とドラマ性とをつけ加えるのに成功した。ズーおばの件でぼくほど悩まされた人間はいないだろう。だがぼくはあの時に襲われた恐怖をぬぐい去り、おかしな面だけを見ることができるようになっていた。
ズーおばは親父に対して何か偏見があるんだろうとぼくはずっと思っていた。が、とにかくおばは父を説きふせて自動車《モーター・カート》を借り出した――これは何よりも母の業績だったのだが。独身のズーおばは遠くの親戚にぼくを見せびらかしたがっていた。おばのロックスに引かせたバギーでは長い旅になるので、当然のことながら自動車《モーター・カート》を借りたというわけだ。冬のことだった。
道のりの半分ほど戻ってきた頃、全く人家のない土地で燃料が切れてしまい、自動車《モーター・カート》はしゅうしゅうと音をたて、やがてよたよたと止まってしまった。
「こまったねえ」ズーおばはやさしく言った。「歩かなくちゃね、ドローヴ。あんたのちっちゃなアンヨががんばれるといいんだけど」おばが使った言葉をぼくは一言一句正確に覚えている。
そこでぼくらは歩き始めた。暗くなる前に家に着くのは無理だろうということはわかっていたし、暗くなれば寒さも訪れるということもわかっていた。おまけにぼくらは寒さに備えた服装をしていなかった。おばがぼくを言い負かしたやり方にもかかわらず、ぼくには可能性を比較しておばの言い分が正しいということ、つまり自動車《モーター・カート》に残っているわけにはいかないということを理解するだけの分別があった。政府の要職にあるからといって、親父でさえも摂政が使っているような屋根つきの乗り物にはとても手が出ないのだ。
「こまったねえ」しばらくして日が沈み、不吉な天体ラックスが地平線上に輝き始める頃、ズーおばは言った。「寒くなってきたねえ」
えさをはんでいるロリンの一団を通り過ぎた。ロリンたちは音をたててむしゃむしゃやりながら枝々のあいだに座っており、そしてぼくは、もし本当に寒くなったら――恐ろしいほど寒くなったら――あのなかの一匹に寄りそって暖かい長い毛にもぐりこむことができるんだとこっそり考えていたことを覚えている。ロリンは無害で友好的な動物で、アリカ周辺では主としてロックスの連れとして使われている。寒い日にロックスが恐怖のために動きが鈍くなり、なかば麻痺してしまうことがあって、そんな時にロリンの存在がその恐怖を和らげる効果を持っているのだ。一種のテレパシーだと言う人もいる。あの夜、ぼくはロリンにあこがれの目を向け、その絹のような毛皮と怠惰で善良な性質の様子をうらやんでいた。幼かったけれどもぼくは人生の何たるかを理解しており、またズーおばをほんの少しこわがるだけの理解力もあった……。
ラックスは木々の上まで昇っており、暖かさのまるでないまがいの光を投げかけている。「忘れずに毛皮のコートを持ってくればよかった」ズーおばがつぶやいた。
「ロリンに抱いてもらえるじゃない」ぼくはいらいらしてこう提案してみた。
「あんな動物のそばまで行くなんてことにおばさんが承知するとでも思ってるのかい?」恐怖のあまり機嫌をそこねて、ズーおばはがみがみ言った。「おばさんがロックス程度だとでも言いたの?」
「ごめんなさい」
「なんだってそんなに速く歩くの? お前はそんなコートを着てて暖かいんだろ。おばさんの服は薄いんだよ」
ぼくはおばと同じようにおびえていたのにちがいない。ぼくらは家から遠く離れた所にいたし、コートを着ているのに寒さは牙のように噛みつき始めていたのだから。ぼくは両手をポケットにつっこんで、口をきかずに先を急いだ。子供であるためにぼくの方が素朴で、ぼくは心の奥でまだロリンのことを考えていた。たとえ何もかもが――ズーおばも含めて――うまくいかなかったとしても、ロリンがぼくの面倒を見てくれるだろう。
いつでもそうなのだ……。
「手をくるむのにスカーフをお貸し、ドローヴ。おばさんの服にはポケットがないんだから」
ぼくは立ち止まり、首からウールのスカーフをはずした。相変わらず何も言わないままそれをおばに渡した。おばに恐怖を爆発させるきっかけを与えたくなかったのだ。丘の上に登るとはるかかなたに明かりが見えた。ずっとずっと遠くにだ。冬の風がむき出しの足を打ち、血が冷たく心臓に流れた。ズーおばがつぶやくのが聞こえた。
「フュー……フュー……」太陽神に祈っているのだ。「フュー、凍えてしまいます。暖めてください、暖めてください……お助けください」
道のかたわらに、先のとがった、無慈悲な植物でできた低い生垣があった。ぼくらの恐怖を察し、独特の方法でそれを感じとり、ロリンが向こうの生垣の近くにまでやって来ている。ラックスの光のなかで毛深い頭を薄ぼんやりとかすませながらぼくらを興味深く見つめ、寒さのためにぼくらの震える体から文明が砕け落ちるのを待っている。
「お前のコートを借りなきゃだめだよ、ドローヴ。おばさんはお前よりも年をとっているんだし、寒さに強くないんだからね」
「お願いだからロリンの所に行こうよ、ズーおばさん」
「ドローヴ、さっきも言っただろ! あんないやらしいけだもののそばに行くなんてごめんですよ。コートをおよこし、ききわけのない子だね!」おばの手がかぎ爪のように襲ってきた。
「はなして!」ぼくはもがいたが、おばの方が体もずっと大きく、強くたくましかった。おばはぼくのうしろに立ち、コートをぐいぐい引っぱった。おばの硬直と恐怖が感じられた。
「お父さんに言いつけてやるよ、本当にこの子は。お父さんならお前の扱い方を知ってるだろうからね――あたしの手には負えない子だよ。さあ、コートを――およこしっ――たら!」おばは言葉を区切りながら激しく引っぱり、突然ぼくは下着姿で立っていた。暖かさがどんどん逃げていく。ズーおばは肩のまわりで袖を結びあわせながらひとりでぶつぶつしゃべっている。目の中にラックスの輝きが見えたかと思うと、おばはずるそうにぼくを見つめた。「ズボンをくれたらお父さんには言いつけないでおくよ、ドローヴ」
ぼくは走っていたのだがおばの音はすぐうしろに聞こえ、おばが同時にあえいだりどなったりする際の哀れな鋭い息の音も聞こえた。その時突然、ぼくは固く凍った道に体を打ちつけ、おばがぼくの上にのしかかって服をはぎとり、わけのわからぬ恐怖の声を上げていた。恐怖のなかでぼくは夢のような状態に漂いこみ、すぐに裸だということもほとんど気がつかなくなり、遠のいていくおばの足音もほとんど聞こえなくなった。その場に横たわっているうちに、ロリンがぼくを抱くのが感じられ、そしてぼくの心の中にある暖かさの理由をぼんやりと理解した。それからロリンはぼくを運び、抱擁し、半分は理解できたつぶやきで慰めてくれていた。
眠りにおちる時、ラックスの光に照らされた道を飛ぶように走りながら金切り声で叫んでいるズーおばの姿は心から消えていった。
翌日、ロリンはぼくを家まで連れていってくれて、裸のままのぼくを太陽フューに暖められた戸口の階段付近まで運ぶと、仕事で姿を消していった。意識をとりもどしたときに数匹のロリンが見えた。一匹はロックスにまたがり、下肥用|車《カート》のかじ棒のあいだでロックスを歩かせようとしている。もう一匹は畑にしゃがんで作物に肥料をやっている。別の一匹は近くのオボの木の枝からぶら下がってウインターナッツをぽりぽり食べている。ぼくは戸を開けて家に入った。その日、母は何度もぼくを風呂に入れた。くさいと言うのだ。ズーおばが監禁されたということを聞いたのはそれからかなりたってからだった。
あとになってぼくは下肥用|車《カート》を思い出した。これはめったにお目にかからない乗り物なのだ。そこでぼくは母に、どうして汚物を|町の穴《カウントピット》に捨てるかわりに畑にまかないのかと聞いてみた。ぼくは、ロリンに作物のあいだで排泄させていることを言ったのだ。
「きたないこと言わないでちょうだいよ、ドローヴ」母は忠告した。「それは全く次元の違う問題だってことぐらいわかってるでしょ。それはそうと、ロリンには近づかない方がいいわね」
パラークシへ出発した日のことに話しを戻そう。やがて、魅惑的な蒸留液の匂いをさせている自動車《モーター・カート》に荷物がすべて積みこまれた。車《カート》を使ったあとではタンクを空《から》にするのが父の方針だったが、これはある朝タンクが空《から》になっているのを発見し、ロリンが中身を飲んだのだろうと推測して以来のことだった。車《カート》が使われることはめったにない。横腹に描かれたエルトの旗によって父の地位を無言のうちに証明しながら家の外に置かれ、時の大半を過ごしているのだ。
自分の部屋にさよならを言いに行くつもりでぼくはこっそり家に戻ったが、母に呼び止められた。母はパンにウインターナッツのペーストを塗っていた。テーブルにはコカ・ジュースの壜が置いてある。
「ドローヴ、出かける前に何か食べてちょうだい。この頃あんまり食べてないんだから」
「ねえ、母さん」ぼくはいらいらして言った。「腹へってないんだよ。それにどっちにしたって好きなもんがでないんだから」
母はこの言葉を家事能力への批判とうけとめた。「あれだけのお金で、しかもこの配給制で一体どうしてみんなに食べさせていけるっていうの? どんなものだかあんたにはわかってないんでしょ。お店には何もないのよ、なんにもないんですよ。休み中家のなかでぶらぶらしてないで、今度自分で買い物に行ってごらん。そうすればどんなものだかわかるから」
「腹がへってないって言っただけだよ。母さん」
「食べ物は体の燃料だぞ、ドローヴ」父が戸口に立っていた。「蒸留液が自動車《モーター・カート》の燃料なのとおんなじだ。食べ物という形で燃料を取り入れなければ体は走らんのだ。かぜを引いて死んでしまうだろうな。父さんが政府で働いているからこそ、うちほど運が良くない人たちの手には入らない食べ物を手に入れることができるんだ。自分がどんなに幸運なのかよく考えてみることだな」
親父はこんな風にほんの二、三言でぼくを怒りのあまり気が狂いそうにさせることができ、しかも仕返しの可能性は完全にシャットアウトしてしまうのだ。自分がしていることがわかっているのだろうか。わかりきっている単純なことをくだくだと言われたり、休みのあいだ中、体と機械の教育的比喩を聞かされたりすることが、特に、お前は幸運なんだなどと言われることがどんなに嫌なものか親父はわかっているのだろうか。魚のフライとドライフルーツという食事をとりながら、ぼくはひそかに怒りで煮えたぎっていた。
母が時おりぼくの方をさぐるように見つめていたので、不機嫌なことに気がついたのかと思ったが、そんな簡単なことではなかった。最後にちらとぼくに視線を向けたあとで――その視線は「ずるい」と呼べるようなものだったが――母は父に話しかけた。
「この夏もまたあの小さな女の子に会えるかしらねえ、ほら、あの子、何て名前でしたっけ、バート?」
父はぼんやりと答えた。「罐詰工場社長のコンクの娘か? ゴールデンリップスとか何とかいったな。良い娘《こ》だ。良い娘だな」
「ちがうわよ、バート。小さな[#「小さな」に傍点]子よ。あの子とドローヴと良いお友達だったじゃないの。残念なことにお父さんが旅館《イン》の主人なのよ」
「そうか? 覚えがないな」
ぼくはもごもごつぶやいてさっさとテーブルを離れ、あの子の名前をぼくに聞いて、答える時のぼくの顔をじっと観察しようという最初のもくろみに母がとりかかる前に逃げ出した。ぼくは自室への階段を駆け上がった。
あの子は小さくはない――ぼくよりもほんの少し小さいだけで年も同じだ。名前は生きている限り決して忘れることはないだろう――パラークシ・ブラウンアイズ。
ぼくは部屋の窓辺に立って、通りの向こうの公共ヒーターのまわりで遊んでいる一団の子供たちを眺めながらブラウンアイズのことを考えた。パラークシの彼女の魔法の町で冬のあいだ彼女は何をしていたのだろう。少しはぼくのことを考えてくれただろうか。また会った時にぼくを思い出してくれるだろうか。子供時代の日々はゆっくりと過ぎ去り、一年のうちにはさまざまなことが起こる。母はああ言ったが、ブラウンアイズとぼくはお互いにほとんど知らないのだ。休暇が終わる頃にほんの数日、話をする機会があっただけなのだ。この年頃で、内気な子にできるのはこんな程度だ。
しかしあれ以来、心の目で彼女の顔を見ない日は一日たりとてない。ほほ笑む時に両頬にできる可愛いえくぼ――おまけに彼女はしょっちゅうほほ笑んでくれた――悲しんだ時の大きく見開いた、はにかんだ茶色い瞳――悲しんだのはたったの一度だけ。二人がさよならを言い、ぼくの両親がほっとして寛大な様子で眺めていた時だけだった。彼女は旅館《イン》の娘で、みんなが「酔っ払う」家に住んでいるのだ。両親が休暇が終わって喜んでいるのがぼくには良くわかった。
ぼくが最後に部屋から持ち出したのは小さな緑色のブレスレットだった。これはある日ブラウンアイズが落としたもので、ぼくは拾ったのだが返さなかった。これは再会する時の簡単なきっかけとして役に立つだろう。彼女とまた会うのがまだ恥ずかしいのだ。ブレスレットをポケットにすべりこませてぼくは階下に行き、出発の準備ができた両親に加わった。
台所を通った時、空《から》のガラス壜があるのに気がついた。ぼくはそれを手にとるとよく見つめ、そして匂いを嗅いでみた。
母がぼくのアイス・ゴブリンを棄ててしまったのだ。
[#改ページ]
最後のしたくは無言のうちにすすめられた。父が儀式的な態度でバーナーに点火し、そのあいだ、アイス・ゴブリンを処分した陰険なやり方にまだ憤慨していたぼくは言われただけの距離をおいて眺めながら、親父の顔めがけて爆発しろと願っていた。蒸発した燃料に発火する時、いつものようにこもった「フー」という音がして、まもなく連桿《ロッド》やシリンダーのあいだから蒸気が立ちのぼり、ボイラーからのぐつぐついう音は自動車《モーター・カート》の準備が完了したことを告げている。ぼくらはよじ登った。前の席には父と母が並んで座り、ぼくはうしろの、ボイラーのわきの席に座った。優しい暖かさが不機嫌を和らげてくれる。自動車《モーター・カート》のうしろに座ってむっつりするなんてことは無理なんだ。すぐにぼくらはアリカの裏通りを通って行った。みんなは黙ったままぼくらを見つめているが、去年までのように親しげに手を振ってくれる人はひとりもいない。
「|いやらしい役人《フリージング・パール》だ!」両腕がない小さな女の子が叫んだ。
ぼくらは最後の公共ヒーターを通り過ぎた。かすかに蒸気が吹き出ているチューブを垂直に組み合わせた小さなものだ。それから広々とした所に出た。両親は話をしていたが言っていることは聞こえなかった。背中のうしろでピストンがしゅうしゅう、がたがたいっているのだ。ぼくは身を乗り出した。
「ここが、ズーおばさんが見つかった所?」
もちろん、ここで見つかったなんてことはちゃんと知っていた。みんなそう話していたのだから。捜索隊が出されたようだった。重々しい毛皮と暖めたレンガで武装し、恐らくは胃を蒸留液でいっぱいにした少数の勇敢な人間たちが集まったのだろう。ズーおばは公共ヒーターの安全圏からちょうど百ペースの所で発見された。アネモネの木に抱きつき、暖を求めて心もとない避難所であるその胃に入りこもうと、つるつるした幹をよじ登ろうとしているところだった。おばは叫び声を上げ続け、指が弾力のある樹皮に深く食いこんでいたので小枝をてこにして引き離さなければならなかったそうだ。おばは裸だったと、ぼくに事情を説明してくれた人間は残忍に言った。その頃までには学校中に噂が広まっていた。着物は木がはぎとって食べてしまったのだが、ズーおばは木が持ち上げるには重すぎ、自分でよじ登るには弱りすぎていたのだ。
「おばさんのことは言わないでもらいたいわ、ドローヴ」母が言った。「忘れた方が良いこともあるのよ。ほら、すてきな眺めじゃないこと?」
グルームが満潮の時の海のゆっくりした波のように丘が目の前を過ぎていく。ところどころに根菜作物の畑があるが、大半の土地は囲いのない放牧場で、降り続ける初夏の日の光のなかでロックスがのんびりと草をはんでいる。長い冬のあとでは何もかもが緑で新鮮であり、小川や川はまだ流れている、もう少したつと暑さで干上がってしまうだろう。すぐ近くで四頭のロックスがひとつながりになって土のなかを重い鋤を引いていた。ロックスのあいだを二匹のロリンがまっすぐに歩き、時おりロックスのなめらかなわき腹を軽くたたきながら明らかに精神的な励ましを与えている。鋤の上の不安定な席には農夫がひとり座っており、意味のない農業用の叫びを発していた。太陽フューの下で生涯を過ごす多くの人間同様にかれは突然変異していた。かれの場合は右半身の余分の腕だった。その腕で鞭をふりまわしている。
ぼくらは時おり小さな村を通り過ぎ、低い玄関口からむっつりした農家のかみさんたちに見つめられ、家のなかからこっそりのぞいている子供たちの姿をみとめながら粗末な小屋で水を補給することも時々あった。このあたりは突然変異が多く、父はある男の指の数が多い手をほめた。
その男はポンプを動かし続けた。リズミカルに水がほとばしり出る。「フューが親切に見てて下さったんでさ」彼はあえいだ。「ここはきつい土地だからね。手に入る助けは何でも要るんでさ」かれの指は自動車《モーター・カート》の機械のあいだを踊りまわり、ここのピンをチェックし、あそこのナットを締めている。水タンクに古ぼけた皮のじょうごを差しこんで注意深くバケツを傾けた。
「ここいらじゃ物が不足してるんだろうねえ、戦争のおかげでさ……」父がこう思い切って尋ねたが、繁くほどの自信のなさだった。持ち場をはなれて、この原始的な田舎にいるからだろう。物置きのあいた戸の向こうにロリンの姿が見えた。嘘のようだが椅子に座っていた。
「どの戦争だね?」男は尋ねた。
赤道付近地帯の荒れ地へと旅を続け、太陽が旋回してどんどん地平線に近づいていくあいだ、ぼくはこの言葉について何度も考えた。旅行をしていると時間の観念がなくなってしまうし、初夏の絶えまない日の光のせいもあって、標準の一日が終わり次の一日が始まっても、それに伴う周期的な倦怠感以外には時の経過を告げるものはなかった。砂漠と時おり姿を見せるグラウンド・ドライヴェット、体の下の座席、それにスチーム・エンジンがたでるぽっぽっという音――これだけが存在している要素の全てのように思われる。
それから、まわり道をするはめになった。道端に故障した魚用トラックがとまっていたのだ。こわれた乗り物のわきに乗員が二人、がっくりして座っている。かれら特有のやり方で数匹のロリンが何もない荒れ地から現われ、意味もなくまねをして男たちと一緒に座った。
父は何ごとかを母につぶやいた。明らかにまっすぐ通り過ぎてしまうことを考えていたのだろうが、最後の瞬間にブレーキを踏み、トラックを数ペース行き過ぎたところでとめた。すさまじい魚の匂いがする。
「ベクストン・ポストまでなら乗せて行ってやれるぞ」父がふり返って肩ごしに叫ぶと二人は急いでやって来た。「あそこからなら連絡がとれるからな。燃料入れの上にのってもらうことになるがね。なかにはもうスペースがないんだ」
男たちはぶつぶつと礼を述べてぼくのうしろに飛び乗ってきた。そしてぼくらは再び出発した。
「やあ、坊主」ひらめく連桿の迷路の向こうからひとりが叫んだ。
「トラックは一体どうしちゃったの?」
ぼくは叫び返した。ひとりのところをかれらに邪魔されたことにぼくは憤慨し、この質問がかれを困らせるのではないかと考えたのだ。
かれは無念そうにやりとすると、ステップを渡ってきてぼくの横にどっかと座りこんだので、おかげでぼくはさらにボイラーの方に押しやられてしまった。会話のきっかけを作ってしまったことで自分に腹を立てながらぼくは前を見つめた。今度だけは親の言ことが正しかったわけだ。これは励ましてやる甲斐もない階級なのだ。
「|いまいましい《フリージング》代物がてんで動きがにぶくなっちまってな」かれは乱暴に説明した。「燃料がないからよ」かれは燃料入れの上の罐をちらと見た。「運のいい|野郎ども《フリーザーズ》は別だがな。トラックを薪燃料型に改造したんだ――こうするとボイラーの下でやたら火を燃やさなくちゃならんし、忘れずに薪を放り入れ続けなきゃならん。こいつは忘れずにきちんとやってたんだがな。悪いのは罐詰工場なんだ。チューブを掃除するブラシをよこすのを忘れやがって――チューブってのは細長い煙突みたいなもんなんだ。そいつが|糞いまいましい《フリージング》煤《すす》で詰まっちまって、|糞いまいましい《フリージング》トラックは動かんというわけだ」
「ねえ、そんなに乱暴な言葉を使わなくたっていいじゃない」
「生意気な|ちび野郎《リトル・フリーザー》ってわけか。お前の親父は何かの役人《パール》なんだろ? そうに決まってるぜ、こんな自動車《モーター・カート》をころがしてるんだからな」かれの目は相変わらず燃料の罐にちらちらと向けられ、かれの存在は圧倒的に、威嚇的になってきた。父と母は物不足の話をしながら何も気づかずに前の席に並んで座っている。
「父さんは重要な地位についてるんだ」内心の恐怖を隠そうとぼくはきっぱり言った。この言葉使いはぼくのオリジナルではない――母がしょっちゅう使う言葉をくり返しただけだ。この言葉の意味をはっきりとつかんでいないということに初めてぼくは気がついた。冬の山頂のように雪におおわれた尖塔を心のなかに思い浮かべてみる。父が一番高い塔のてっぺんに座り、部下たちがそれに続く塔にとまっている。大衆はその威厳ある様子を畏れながら塔のあいだの谷間に群がっている。
「そりゃそうだろうな。毎日毎日おんなじ机に座ってるんだろうよ――年に一度の休暇でお前らを連れて海岸までグルームを見に行く以外はな。そんな時は“|海の眺め《シー・ビュー》”とかいうホテルに泊まるんだろ」
「そんなに言うんなら教えてやるけど、父さんはパラークシに休暇用のコテージを持ってるよ」
「そんなこったろうと思ったぜ」かれは黒ずんだ歯を見せて笑いかけたが、目は相変わらず冷たいままだった。「なあ、質問させてくれよ。このおれ様が何をしていると思う?」
「魚トラックを運転してる」
「言うことはそれだけかね? そうじゃないんだぜ、坊主。おれは世界を見てるんだ。いや少なくとも」――かれは言い直した――「おれはエルトの国を見てるんだ、国中をだ。アリカとパラークシのあいだだけなんてけちなもんじゃない。パラークシの古い罐詰工場から北のホーロックスへ、そして南のイバナへと海岸中を走りまわってきたんだ。南じゃエルトはアスタと接していて、国境警備隊がいる――いや、いた、かな。|いまいましい《フリージング》戦争のおかげでこんなになっちまうまではどこが国境かなんてわからなかったんだ。そしておれは“大中央山脈《グレート・セントラル・レンジ》”の陰のなかを、古い国境の道を北にも南にも走ったことがある。あそこじゃ、太陽フューは空の炉のようで、一匹たりと同じ動物はいないんだ――そして人間も同様だ。地理はわかるんだろ?」
ぼくは教わったことはわかっていたが、今は自分の知識を見せびらかす時ではないということもわかっていた。この太った男はぼくが言うことにことごとく反対してくるだろう。ぼくのようにあんまり旅をしたことがない人間には天体を、ぼくらが住んでいるこの星を視覚化するのはむずかしいのだ。手に持ったボールだと考えろとぼくは教わった。ボールが星で、手はひとつの大陸の固まりだ。この固まりは指の第一関節にあたる“大中央山脈”と、エルトとアスタの国境とによって二分されている。半分(手の甲)がアスタで、残り半分(指)は深くのこぎり状になったエルトの国を表わしている。この手のような大陸が天体をほとんどおおっていて、三つの海だけが残っている。大きな北極海と南極海、それにこの二つの海につながっている細長く狭い海。ここを通って夏にグルームが押しよせてくる。ぼくはこれは思い浮かべられる、これだけは。
魚トラックの運転手はしゃべり続けていた。「雪と氷に閉ざされたことだってある。燃料は切れちまうし、暖をとろうにもボイラーにはほとんど熱が残ってないしな。あんな具合に服のすきまから寒さが食いこんできたら、他のやつだったら気が狂っちまっただろうが、おれは耐えぬいたんだ。湿地帯《ウェットランド》を走っててトラックが車軸まで沈んじまったこともある。アイス・デビルがタイヤはもちろんおれの足までつかみやがった――そこで、ロリンと引き具をつけたロックスとを集めてトラックを引きずり上げたんだ。海岸通りじゃグルーメットが襲ってきたんでシャベルでたたき落としてやった。しまいにはあたり一面に白い羽と赤い血が飛び散り、生き残ったやつは悲鳴を上げながら逃げて行きやがった。さあ、こいつをどう思うかね、坊主?」
「あんたはぼくの親父と同じくらいうぬぼれてると思う」ぼくは苦々しく言った。
突然かれは笑い出した。心から面白がって大声で笑い、おかげで顔のあたりに胸が悪くなるような魚くさい息がかかった。「お前の言う通りだよ。正にそのものずばり言い当てたな。大切なのは自分が自分のことをどう思ってるかってことだ――他の連中がどう思ってるかじゃないんだ。役人《パール》だって、お前の親父はそれなりに良いやつにちがいないな。さてと。友達になれるかな?」かれはぼくの鼻先に手を突き出した。その時初めて、かれの両方の手に指が二本ずつしかないことにぼくは気がついた。手首から大きなペンチが突き出しているのだ。かれの手は大陸の固まりの例として使われたことはないだろう。ぼくは友情からというよりも好奇心からこの奇妙な物体を握った。
その頃までには、仲間はずれにされたと感じたらしくかれの連れが、ぐるぐるまわっている機械の向こうからあぶなかしくぼくらのあいだに幅の狭い顔を突き出して、会話に加わっていた。喉から一インチのところで連結棒がひらめいている。かれみたいに首が長くなければ、こんな芸当は不可能だ。
こんな具合に旅は続き、ぼくはこの奇妙な道連れと一緒にいるのを楽しみ始めていた。かたわらの大男は、自分はパラークシ・グロープ、連れはジュバ・ロフティだと紹介した。そして二人は道路について次から次へと長話を作り出したが、とうとう目の前に家並が現われ、空を矢のように飛ぶ鳥がベクストン・ポストに到着したことを教えてくれた。ぼくはばかだと思われるのは嫌だったし、言われたことをみんな信じたなどとも思われたくなかった。ぼくはそう言った。
自動車《モーター・カート》のスピードが落ちた時、グロープはその二またに分かれた手でぼくの肩を握りしめた。
「大切なのは話の裏の意味なんだぞ、ドローヴ。ひとつの物語は目的があって語られるけれど、その語られ方にも目的があるんだよ。その話が本当かどうかなんてのはつまらんことさ。これだけは覚えときな」
二人はもう一度握手をし、乗せてもらった礼を父に述べ、そしてメッセージ・ポストの方に歩いて行った。それはニュース鳩の糞で真っ白になったちっちゃな小屋だった。
ぼくはベクストン・ポストに到着することを楽しみにしてはいなかった。アリカを出る前に、戦争による旅行への締めつけについての噂が流れており、戻らなくてはいけないというメッセージが届いているのではないかとぼくは半ば予期していたのだ。父がメッセージ・ポストを無視し、ニュース鳩が頭上でぱたぱたやっているなかを町の唯一の食堂に向かい、一本しかない汚ない大通りを進んで行くのでぼくはほっとした。
ベクストン・ポストは小さな町だ。メッセージ・ポストがあるということ、そして砂漠と肥沃な沿岸平野とを隔てているイエロー山脈の背に町があるということ――この二つのおかげで存在している住居と店の集まりといった程度だ。前方の丘は禿げ山で茶色く、腐食の跡が刻まれているが、あの向こうには放牧地や川や町がある。また緑色を目にするのが待ち切れない。
その時間、町の人たちは忙しくしていた。通りに集まり、新聞や乾燥食品、罐詰、奇怪な形をしたロリンの芸術の見本などを飾ったウィンドーをのぞきこみながら、まもなく出発するはずの蒸気《スチーム》バスを待っているのだ。この乗り物の主な目的は鳩を通信網の次のメッセージ・ポストまで運ぶことだが、節約のために旅客バスも兼ねている。父は新聞を買った。このへんぴな土地では、新聞はアリカで考えているものとは異なり、発表された一連のニュースをひとまとめに綴じたものだった。『ベクストン・マーキュリー』――ちらしが堂々と謳っている――『鳩の足からの直報』。ぼくらはステューバ・バーに入り、薄いスープと野菜とドライフルーツというお粗末な食事についた。水は割り当てだった。初めは全然もらえないのではないかと思ったが、父がカードをウエイターに見せたのだ。おかしな毛むくじゃらの小男だったが愛想はよかった。
父は新聞を読んでいたが、腹を立てて叫び声を上げた。
「新しい罐詰工場がオープンしたことが全然のっていないじゃないか!」
「昨日の新聞に出てたんじゃないの、バート」あたりに目をやりながら心配そうに母が言った。ぼくは母に同情した。親父は注意を引きつけるこつを心得ているのだ。バー中の人間がぼくらを見ているように思えた。
「こいつはメスラーの気に入らんだろう。ニュースは今日解禁されるはずだったんだ。何だっていつもこうへま[#「へま」に傍点]があるのか知りたいというんだ。畜生《ラックス》!」ありがたいことに父は黙りこみ、水を見つめた。
「お忘れなさいよ、あなた。お休みなんですから」なだめるように母はつぶやいた。
ぼくはひと言口をはさまざるをえないような気になった。多分、父の落胆に励まされたのだろう。「そんなことが重要なのかな。そのことを教えられても教えられなくても、大して違わないじゃない」
父の目のまわりに小さなしわが寄り、あごのすみの筋肉が痙攣している。「父さんと議会が自分たちの仕事を理解していないと言いたいのか、ドローヴ?」
これはぼくが言ったことではなかったけれど、まさにぼくが言いたかったことだった。父の思考力は衰えているし、年もとったし、自分の思考法に執着し、自分の地位の威厳に頼ることに慣れきっている。つまり、よく考えて議論をする能力がないのだ。ぼくは父を望んでいた場所に追いつめ、今や冷静かつ論理的に話をすすめて父を負かすことができるところまできた。
だがぼくは母親を計算に入れていなかった。「結構な[#「結構な」に傍点]お食事だったわ」母はきっぱりとこう言うと、父が怒りを押し殺しながら投げ捨てた新聞を拾い上げた。「あら、ごらんなさいよ。わが軍がゴルバを占領したわ。嬉しいじゃないこと」
「でも、それは話だけじゃないか、母さん」ぼくはやけになって言った。「ぼくらにわかってる限りでは、ゴルバは戦線の近くになんかないじゃない。そんな所はないのかもしれない。これまでゴルバなんて聞いたことなかったもん」
「あら、でも母さんは知ってましたよ」母は賢すぎる息子に寛大にほほ笑みながら言った。「一度、親に連れて行ってもらったのよ、小さな頃にね。きれいだったわ。川辺にあるのよ。とても古い町で、本当に変わった緑色のれんがでできた、そりゃあきれいなフューの神殿があってね……」
母はしばらくのあいだこんな調子で思い出話をし、父が落ち着きを取り戻し、ぼくが退屈してしまうまで効果的に議論の勢いを鈍くしてしまった。母が話していることが本当かどうか疑うことは思いつかなかった。ぼくはもう自分の議論のポイントを忘れてしまっていたのだ。すぐに父はまた新聞を読み始め、政府で重要な地位についている人間にふさわしく、時事問題に遅れずについていく否応なしの必要を満足させていた。
誰も人が考えることをやめさせることはできない。気がついたらぼくは三日前の新聞を父の前に置いた時のことを思い出していた――その日の新聞の代わりに置いたのだ。父はそれを非常な興味をもって読んだ。議事録、政綱、前線からの最新ニュース。スポーツ欄まで来てようやく父は、自分がこれほど熱心にむさぼり読んでいたものがどこか古臭いことに気がつき始めた。スリングボールの試合結果を入念に見ている時の父の顔に不機嫌な表情がよぎるのが見えた。その表情は父がもう一度一面をめくり、そしてとうとう日付けを見た時に一段と困惑の度合いを深めた。父の反応はぼくをがっかりさせた。怒り狂い、いらいらしてどなりもしなければ、目ざわりな新聞を丸めて火のなかに放り投げもしない。無駄に費されて決して取り返しのつかない貴重な時間について絶望と悲しみの長口舌があったわけでもなく、さらに(これが重要だが)時事の無意味さを認めもしなかったし、二度と再び印刷された言葉を真実だと思うまいと誓ったわけでもなかったのだ。そうする代わりに父は肩をすくめ、新聞を置くと窓の外をぼんやりと見つめた。すぐに目が閉じられ、父は眠ってしまった。
にもかかわらず、父が食事の値段のことで言い争っているあいだ、バーのなかで立ったまま待っているときに、あの時のことを思い出すのが気分が良いことにぼくは気がついた。
丘を下り、沿岸平野に向けて走り続けるあいだに、絶えまなく降り続ける日の光はしだいにたそがれていった。人々の態度も変わっていった。この辺では笑顔が前よりも多く見うけられるし、食料や水のために車をとめた時にも本当に友好的な様子が前よりも多く見られた。沿岸地方の気楽な生活が気楽な人種を作り出したとでもいうようだ。柔らかいたそがれの光のなかを人々はゆっくりと歩きまわり、太陽は地平線のすぐ下にまで旋回してきて、空の半ばあたりにまで深紅色のカーテンを引いている。
もちろん気温は下がっている。しかし夏はそう遠くはなく、この寒さは一時的なものに過ぎない。村々の公共ヒーターから一筋の蒸気が立ちのぼり、老人たちがパイプに背中をもたれさせて座りながら、ぼくらが通り過ぎる時に自動車《モーター・カート》の横腹についた記章を見つけると尊敬の念から会釈した。ロックスが、時には一頭だけで、また時には二頭が縦に並んで、豊作の畑から仕分けセンターへと農作物の車を引っぱっている。ここには食料難の徴候は全くない。イエローボールの木からロリンがぶら下がり、その甘い果物を下にある桶に正確に落とし入れている。他の畑では夏作物がすでに青々とした姿を現わしていた。
長いあいだ、川が道と平行して流れていたのでぼくらはできる時はいつでも自動車《モーター・カート》を川の水でいっぱいにした。このような快適な場所でさえも人々の目が不躾なまでにじっと燃料の罐にそそがれているのは明らかだった。もう罐は少ししか残っていない。パラークシに着くのにちょうど十分だと、自分の計算の正確さをありありと自慢しながら父が言った。
とうとうぼくらは海岸と漁村に到着した。そして崖の上の道をがたごとと走り、血をまき散らしたような海を眺めた時、太陽の縁が前よりも長いあいだ地平線上に姿を現わしていた。波がピンク色のしぶきとなって岩に砕けるのを見、押し寄せ、とどろく音を聞いていると、夏の終わる頃、グルームの到来と共に訪れる変化を想像するのは無理だった。海は時間を超越している。だがその海でさえも季節の支配をうけているのだ。
そこを過ぎると道はまた内陸に曲がり、船体の大きい船が引き網をつけて走っている広い入江へと続いている。十字路の橋の付近に小さな町ができていた。そこで最後の水の補給のために停車した。バケツを手に入江の土手を登り、自動車《モーター・カート》のタンクに塩水を注ぎこみ、そして出発した。ぼくらが出発する時に人々は仕事を中断して手を振ってくれた。
ようやくぼくらは年月を経た陸標を通り過ぎた。それは山腹にある昔の石造りの要塞だ。それからすぐに狭い道に入り、そして見慣れた港が目の前に現われた。船や海鳥、ぶら下がった網、漂う破片、せわしない男たち、それに魚と塩の匂いで生き生きとしている。パラークシに着いたのだ。
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パラークシは岩の多い入江のまわりに建設されている。ほとんどの建物がこの地の石で作られ、入江が谷となっている陸地側を除いて港から崖の高さにまで険しくそびえている。時がたつにつれて小さな漁村はかなりの大きさの町に発展し、家が崖から内陸の谷の斜面にまではみ出していった。十年ほど前に罐詰工場が建てられ、その結果さらにまた人口が増加した。港はもともとは地域の需要を満たすだけの規模だったが、船舶の増加に伴って港の西側の河口から伸びる長い防波堤が作られてさらに広い水面を囲いこんだ。今では漁船は、狭い道を走って工場へ魚を運ぶ小さな蒸気力の路面電車に、この防波堤の埠頭から直接荷を積むことができるようになった。内港には小規模な個人の漁師のための市もある。
パラークシに到着した時にぼくがまっさきに興味を持ったのは、父が口にした新しい罐詰工場の調査だった。これは町からかなり離れたところ“フィンガー・ポイント”として知られている岬の向こう側をまわったところにあった。古い工場は拡張するのが無理だったらしい。おまけに機械は旧式だと父はぼくに言った。
この簡単な問題に関して父とぼくのあいだに緊張が感じられた。突然ぼくは新しい罐詰工場に腹が立った。ぼくは古い工場を長いこと知っていたし、そこで働いているたくさんの人の顔も知っていた。漁船が荷をおろすのを見て、路面電車と機械の複雑さに驚嘆したりもした。あの工場はぼくの古い友達だった。それが、あの工場は旧式で、そのうちに住宅用地にするために取りこわされるだろうなどと親父は言うのだ。あれは目ざわりだとも言った。新しい工場に水揚げをおろす時に船は港に入る必要すらない。フィンガー・ポイント周辺の北の河口に荷を揚げるのだ。これだけではまだマイナス点が足りないとでもいうかのように、新しい罐詰工場は政府所有であり、父はそこで何かの顧問をしているのだ。つまり仕事がらみの休日というわけだ。
到着して二日後、ぼくは崖のあたりを散歩して岩だらけの頂上の有利な地点から新しい建物を眺め、それから何の感銘も覚えぬまま、町の南側にあるぼくらのサマー・コテージに戻った。刺すような退屈の痛みをぼくは感じ始めていた。コテージは空《から》だった。父は新しい工場に行き、母は店に出かけていた。ぼくはポーチに座り、広大なパラークシ港を見わたした。下の右手の方には防波堤の端の灯台が何とか見える。真西の地平線のそう下までは行かないところにアスタがある。敵にこんなに近いということがパラークシの生活をいくらかピリッとしたものにしているのだろう。
コテージはかなり素朴な木造の建物で、崖の頂上に近い牧草地の斜面に建っている。この他にもさまざまな形と大きさのコテージがある。ロックスがそのあいだで草をはみ、材木で背中をかいている。となりのコテージのポーチでロリンが生意気にぼくのまねをして座っている。そいつを追い払おうとしたちょうどその時、野原の向こうから近づいて来る男の姿が目にとまった。かれは歩きながらじっとぼくに目を向けており、ぼくがかれの目標であるのは明らかだった。コテージの聖域に逃げこむには遅すぎる。
「おーい、坊や!」遠くから男が呼びかけてきた。
ぼくはかれを無視し、その場に座り続けたまま爪先でほこりをつつき、男が行ってしまうことを願った。ひと目見たかれの様子は話し方と同様、それだけで十分かれの正体を告げていた。中背でずんぐりし、毛深く、陽気な顔をしており、足どりはきびきびしている。明らかに――母親の言葉を借りれば――「子供たちとすてきにうまくやっていく」タイプの人間だ。犠牲者が十分見つかるとハイキングやスリングボールの試合を指揮して、自分のことを“おじさん”と呼べと子供に言うようなやつだ。その間母親たちは、うちの母親を先頭に甘い顔をして眺め、あの人は何ですばらしいんでしょう、それに子供たちも本当にあの人が好きなのね、などと互いに意見を述べ合うのだ。
そしてこの|糞ったれ《フリージング》野郎はスリングボールでずる[#「ずる」に傍点]をして、小さな子と女の子を勝たせ、ぼくを負かせようとしやがるんだ。
「今日みたいにすてきな日の割には悲しい顔をしてるじゃないか」男がぼくの前に立ち、ぼくは顔を上げないうちからやつがにやにやしているのがわかった。
「うん」
「きみはアリカ・ドローヴだろ。会えて良かった。わたしはきみのお父さんの友達なんだよ。自己紹介させてくれないか」親しげなしわくちゃの笑顔でぼくの目をとらえ、かれはぼくを立たせると腕を強く握った。「ホーロックス・メスラーというんだ」
かれは家から遠く離れていた。ホーロックスははるか奥地、アスタの国境近くなのだから。一瞬、かれの名前に何かつかみどころのない聞き覚えがあったのだが、それはすぐに消えてしまった。「何かご用ですか?」ぼくは尋ねた。
「お父さんに会いたいんだがな」
「今、留守です」
「そうか。どこに行ったのか教えてもらえるかな?」
かれのたゆまぬ礼儀正しさでぼくは滅入っていた。お行儀のレッスンを受けているような気分だ。「新しい罐詰工場にいるんじゃないかな」気を取り直し、本当に努力をしてぼくは答えた。「これ以上お役に立てなくてごめんなさい。すぐに帰ってくると思うんだけれど。コカ・ジュースでもいかがですか?」
「どうもありがとう。でも悪いけど時間がなくてね。行かなくちゃいけないんだ」かれは突然抜け目ない目つきになってぼくをじろじろ見つめた。「退屈かい?」
「かもしれない」
「すぐにグルームがやってくるよ。きみのような少年はボートを持たなくちゃ。グルームが流れている時はボートはそりゃ面白いぜ。さてと。急いだらお父さんと工場で会えるだろう。じゃあ」かれは軽快な足どりで立ち去った。結局のところかれが気に入ったのかどうか決めかねて、ぼくはかれが歩き去るのを見つめていた。
ぼくはコテージに入って立ち止まると、母が壁に留めた地図を念入りに眺めた。小さな旗は、毎日のように新聞で報告され、そしておとなたちがひっきりなしに話し合っているエルト軍の位置を表わしている。赤い矢は進軍の主要地域だ。いたる所でわが軍が前進しているように見えるが、今、敵の先発隊が戸をノックしたとしても、さして驚きはしないだろうというところまでぼくの疑いはふくれあがっていた。ぼくは水着に着替えると浜に降りて行った。
小さな崖のくぼみのなつかしい小石の上に立つと、センチメンタルな気持ちで胸がいっぱいになってしまった。ここは去年、初めてブラウンアイズに話しかけた場所だ。ぼくは懸命に考え、目を閉じて、ロリンがしていると言われている方法で彼女の心のメッセージを投影しようとした。ここだよ[#「ここだよ」に傍点]、ブラウンアイズ[#「ブラウンアイズ」に傍点]、ぼくは念じた。ぼくに会いに浜までおいで[#「ぼくに会いに浜までおいで」に傍点]。目をあけた時、彼女はやはりいなかった……。
ぼくらが最後に会ったのは、グルームが弱まり、どしゃ降りが始まるまでのあいだの、一年のうちのあの奇妙な時期だった。見慣れぬ魚が水面を飛びはねているのをぼくが見つけ、そしてブラウンアイズが――ぼくはしばらく彼女のことを横目で見ていたのだが――それを見にやって来た。ぼくらはその魚を小石の上に置くと、膝をついて調べた。そしてついに、二人に共通した好奇心という言いわけが恥ずかしさに打ち勝ち、ぼくらは言葉を交した。その日の残りをぼくらは一緒に浜に座って過ごし、次の日には崖まで散歩した。その次の日、両親とぼくはアリカに、そして家に向かって出発したのだ。ぼくは行きたくなかった。
だが、今、ブラウンアイズはそばにいないし、冷たい水に足を入れると恐怖のおののきが背骨を伝った。そんなわけでしばらくするとぼくはコテージに戻り、母と父が帰っていたのを知った。
二人は意味ありげな態度でぼくを迎えた。これは、子供の話をちょうどしていた時に親がとる方法だ。ぼくらは食卓についた。両親はぼくに何をしていたのかと尋ね、そしてぼくが答えると二人は目くばせを交した。
父は熟れたイエローボールを食べ終わったところだった。形式ばって指先を濡らし、そしてふくと、せきばらいをした。「ドローヴ……お前と話したいことがある」
「うん?」これは真剣な響きがあった。
「お前も知っているだろうが、父さんは政府での地位に関連していろいろな任務についている。それは休みでこのパラークシにいるあいだにやってしまうのが都合がいいんだ。普通ならばこういった仕事は大して時間をとらないんだが、あいにくと今年はそうもいきそうにないと今日聞いてきたんだよ」
「言うの忘れてたけど、男の人が父さんをさがしてた。メスラーって人」
「ホーロックス・メスラーとは会ったよ。かれに礼儀正しくしただろうな、ドローヴ。あれは偉い人なんだぞ」
「うん」
「どうやら、これからは新しい工場に大分時間をとられそうなんだ。前に考えていたほど家族として一緒にいられそうにもないわけだ。お前はかなりのあいだ、ひとりでいることになるだろう」
その場にふさわしくむっつりしようとしながら、ぼくは黙っていた。
「そして、母さんがいつでもお前の用事をしてくれると思ったら間違いだ。お前はすぐに友達ができる子じゃないな。それが悪いことだと言っているんじゃないぞ。お前と友達になってもらいたくない人間もいるんだ。だが……」父は言葉を切り、考えこみながらぼくの三ペースほどうしろの一点を見つめて、話の筋道を思い出そうとしていた。
「お前にプレゼントを買ってやるという習慣はわしにはない」父は再び続けた。「人間は自分が受けとるものに対してそれだけのものを支払うべきだと信じているからだ」
「うん」
「だがお前をぼんやりと怠けさせておくわけにはいかん。そんなことをしとれば次には何かのごたごたに巻き込まれるだろう。お前に帆船を買ってやろうと思うんだがな」
「すげえいかすよ、父さん!」ぼくはびっくりして叫んだ。
ぼくの言葉使いを無視して父は何とか笑い顔になった。「シルバージャックの造船所に手頃な船があったんだ。小型のスキマーでね。お前に船員の素質があれば操縦できるはずだ」
母は甘い顔をしてぼくに笑いかけている。「お父様はご親切ね、ドローヴ」
「父さん、ありがとう」ぼくは従順に言った。
「いつでも船を取りに行けるぞ」父が言った。「パラークシ・シルバージャックにお前の父親が誰か言えばいいんだ」
次の朝、ぼくは朝食の席から立ち上がると窓の外を見た。昨日と同じたそがれの光が空をピンク色に染め、同じ動物が中庭の端で草をはんでいる。だが今日は昨日とは違う。今日は帆船を取りにシルバージャックの造船所まで行くのだ。ほの暗い海が湾の向こう側の黒いこぶのような陸地へと荒々しく広がっている。今日ぼくはあの海を探検するのだ。ぼくはコートを着た。
「町へ行くつもりなら、ちょっと待っててちょうだいな、ドローヴ。買わなきゃいけないものがあるのよ。一緒に行きましょう」ステューバのカップごしに無神経に笑いかけながら母がぼくを見上げた。
もう少しで、|凍っちまえ《ゲット・フローズン》と言いそうになったが、ぐっとこらえた。少しでも不愉快なごたごたがあったら、船の話は無しにしてやろうと、親父が耳を傾けながらこちらを見ていたのだ。
母は背が低いし、ぼくは年の割に背が高いので、歩調を合わせて歩くのは無理なのだ。母はぼくの横で足をピストンのように動かしながらせかせかと歩き、しかも腕を組んで歩きたいと主張するので、その結果ぼくら二人は酔っぱらいのように通りをよろめき歩くことになるのだ。ひっきりなしに話しかけてくるだけでなく、母はしょっちゅうぼくを見上げては甘い顔でほほ笑みかけて、二人のあいだに存在する特殊な関係を広く印象づけてしまう。ぼくはぼくで、これはぼくがひっかけた年老いた売春婦なのだとみんなが思ってくれることを願い、この体裁を強調するために努めて恥じいった顔をするのだ――こういう状況ではこれは大してむずかしいことではない。
町に着いた時、母はまだぼくをはなしてくれそうにもなかった。ぼくらは一緒に店から店へとまわり、配給制を楯に売りしぶる人間がいるたびごとに母は役人《パール》カードを見せびらかした。いくらもたたないうちにぼくは山のような品物の下でもがくはめになっており、品物を持って帰るために母がロックス車《カート》を借りた時にはほっとした。
「じゃ、もう行くからね」最後の袋を無事に積みこむとぼくは言った。
「あら、まだだめよ、ステューバが飲みたくて仕方ないの。港のそばにすてきな可愛いお店があるんだけれども、ひとりで入るの嫌なのよ。いろいろ、おかしな人に会うんですもの」
そのステューバ・バーへ行く途中で“ゴールデン・グルーメット・ホテル”の前を通ったが、ぼくはあまりはっきりと窓を見ないようにしていた。そこに誰が住んでいるのか承知の上で母がそれとなくぼくを見ていたのだ。ブラウンアイズの母親のパラークシ・アンリーが、あんまり毛深いので最初はロリンかと思った男と話をしている姿が見えたが、彼女の方はこっちを見なかった。もし見たとしても多分ぼくがわからなかっただろう。去年は一回だけ、ほんの短いあいだ会っただけなのだから。
ステューバ・バーに腰を落ち着けてしばらくすると、母が部屋の向こう端に誰かを見つけてあいさつの言葉を発しながら手を振り始めた。親父が邪魔にならない時には代わりにお袋が狂暴になり、親父に負けないくらい巧みに他人の注意を引きつけるのだ。二人の人間が立ち上がり、こちらにやって来てぼくらに加わった時、ぼくは本当に困ってしまった。女の方は母と同じ位の背恰好と年をしており、連れの男の子はぼくと同じ位の背恰好と年だった。間違いなくあのスチューバ・バーにいた人間全員が、ぼくら四人は鏡に映った互いの不気味な姿だと思ったことだろう。母は二人をドレバ・グウィルダとドレバ・ウルフだと紹介した。昨日かれらに合ったということだった。
ウルフというのは|生意気な野郎《スマート・フリーザー》だったが、かれはお行儀が良くてぼくにふさわしい友達になるだろうと母親が考えていることはすぐにわかった。実際のところ、ここで会うことも仕組まれていたんじゃないかとぼくはすでに疑っていた。グウィルダの夫が役人《パール》なのは間違いない。
ウルフはぼくに向かってにやにやと笑いかけていた。「きみが今日帆船を買うつもりなのは知ってるよ、ドローヴ」
「うん」
「ぼくはセーリングに凝ってるんだぜ。家《うち》には大きなスループ型帆船があるんだけれど、ここには持ってこられなくてね。グルーム用じゃないから意味がないだろ。きみのは平底のスキマーなんだろ?」
「うん」
「もちろんまだ使えやしないぜ。そんなことをしたらわざわざ面倒を招くようなもんだからな。グルームが来るまで待たなきゃだめだぜ」
「自分の鼻がおかしな恰好をしてるって気がついてるかい?」
「ぼく、一緒に行くよ。二人で取りに行こうぜ。船をチェックしてやるよ。パラークシの連中には注意しなきゃだめだぜ。ひとり残らず盗人なんだからな。もちろん観光客のおかげでだめになっちまってるんだ」
この時、母親がグウィルダとの速射砲のような会話をいきなり中断した。「本当にどうもありがとう、ウルフ。こんなに役に立つお友達ができたことを感謝しなくちゃね、ドローヴ。さあ、二人とも行ってらっしゃいな」
ぼくらは並んで通りを歩いて行ったが、ぼくはウルフのわきにいるとどういうわけだか自分がだらしなく、子供っぽい気がした。「バラークシはもともとはアスタ人が作ったんだって知ってたかい?」ウルフが聞いてきた。「ここはアスタに一番近い場所だろ、世界のこちら側のさ。パラークシはルネッサンス年六七三年にアスタの首領《チーフテン》に開拓された。そいつの名前はジューブ・ガボア。それから何百年かたって、エルトの遊牧民がイエロー山脈から押し寄せてきてアスタ人を海に追いやったんだ」
「泳げなかったのかい?」
「歴史の授業っておもしろいもんだね、ドローヴ。先祖のことを勉強していると自分のことや身のまわりのことなんかが色々とわかるんだ。そう思わないかい?」
「うん」
「さあ着いたぞ。シルバージャックの造船所だ。ここの係りは誰なんだい? 船はどこ?」
「さあ、ぼくは知らないんだよ。今日初めて来たんだから」
ウルフが自信ありげに建物のなかにずかずかと入って行ったのでぼくも後に続いた。それは大きな納屋のような建物で、かんな屑とタールの匂いがたちこめており、完成段階がまちまちの船で散らかっている。作業台の上にかがみこんだり、船の下にもぐりこんだり、いたる所で人が働いている。建物全体がハンマーとのこぎりと船乗りの悪態とがこだまする喧騒だった。ぼくらは誰からも無視された。ウルフは一番近くにいた男の肩をたたいた。その男は急にふり返ってぼくらを見つめた。片眼だった。顔の片側の額から顎にかけて大きな傷跡が走っている。
気分が悪くなってぼくは顔をそむけた。アリカでは先天的奇形というのは気にされることはほとんどない――注意していればどこででも見られるのだ――だが身体に受けた事故のなごりは別だ。すぐそばに、指が一本足りない男がいるのにぼくは気がついた。多分、作業中になくしてしまったのだろう。建物の騒がしさがのしかかり、ぼくは吐き気と恐怖にとり囲まれている気分になった。その時ウルフがぼくを突ついていた。
「あっちだってさ。大丈夫か? 変な顔色してるぜ。さあ行こう」
気がつくとぼくは小さな事務室におり、背後でドアがばたんとしまって、突然喧騒をさえぎった。男がひとりデスクに座っていた。ぼくらの姿を見るとかれはすぐさま立ち上がり、原始的な威嚇的態度でのしのしとこちらにやって来た。最初、かれは毛皮のジャケットを着ているのだとぼくは思ったのだが、そうではなくて腰まで裸なのだということがわかった――それにもしかしたらもっと下まで裸だったのかもしれない。かれはこれまでぼくが見たなかで一番毛深い人間で、そしてまた変わった凸面の顔をしていた。顎が鼻の方にしゃくれ、そして額はこれまた鼻の方に曲がっていて魚みたいだ。ぼくがかれに目を見張りながら突っ立っているとウルフが冷静に言った。
「あんたがパラークシ・シルバージャックだろ。アリカ・ドローヴの帆船はもう用意できてる?」
獣は――ぼくらを八つ裂きにせんばかりの様子だったが――途中で足をとめた。毛の下から大きな口が現われた。
「おお、そうともさ、坊主ども。もちろんできとるよ。シルバージャックが船の仕上がりを遅らせたなんぞと言わせはせんぞ。さ、ついといで、ついといで」
かれはぼくらを連れて作業場を通り抜け、水ぎわまで降りて行った。そこに、打ち寄せる波から数ペースのところに、今まで見たこともないほど美しい帆船があった。外側はブルーに塗られ、内側にはニスが塗ってある。初夏のたそがれの光のなかで、それは輝いているようだった。その船は平底でマストが高く、スピードが出そうだった。グルームの表面をすべって行くように巧みに設計されているのだ。長さは四ペースほどで、ぼくがひとりで帆走するのに手頃な大きさだったが、もしその気になれば少なくともあと三人は乗せられるゆとりがあった。「良さそうだね」ウルフが言った。
「パラークシで最高の小型帆船だ」シルバージャックは高らかに言った。「帆の揚げ方を教えてやろう」
「それは大丈夫さ」ウルフは言った。「前に何度も帆船を動かしたことあるからね」
「子供が何人もそう言うのをわしは聞いてきたがね、あとで必ず悲しむことになるんだ」シルバージャックは寛大な調子でこう大声で言うと、帆を引き揚げた。ぼくはこの男に心を引かれた。ウルフのやつ、好敵手に会ったなという感じだった。薄いブルーの帆がそよ風にひらめく。グルームを待たなくちゃいけないなんてがっかりだ。
ウルフは帆を見つめた。「大三角帆装備だ」とつぶやき、ニスを塗った船材の一片を拾い上げた。「これが垂下竜骨《センターボード》だ」
「ちがう、ちがう」とシルバージャック。「お前はほんとにグルーム・スキマーのことは何も知らんな。そいつはあそこにあるディンギーの部品だよ。スキマーには垂下竜骨《センターボード》はついとらん。さあ、船体を見るんだ。あの竜骨《キール》だ、短いのがあるだろ、両側にひとつずつ、それから真ん中にひとつ。スキマーに要るのはあれだけだ。お前たちは世界のこの場所を知らんのだろ。グルームが来るとな、水が濃く[#「濃く」に傍点]なるんだ」かれはてのひらを水平にしてみせた。「蒸発のためにそうなるんだ」
「せっかくだけど、パラークシのことはよく知ってるんだ。何度も来てるからね」
「観光客かね、え?」シルバージャックは最高に友好的な様子でウルフに笑いかけた。「まあいいだろう――わしがわざわざ説明したのは老婆心からでな。この船はグルーム用だ。今日こいつで乗り出したりすれば、やっかいなことになってたわけだな、坊主」かれは大声で笑いながらウルフの肩をつかみ、ぼくはひそかにかれに感謝した。
「今日はほとんどうねってないね」港の穏やかな青い水面を横目で見ながらウルフが冷ややかに言った。そして船にちらりと目を戻した。「この位の天候ならあの乾舷《フリーボード》で十分だよ。海に出てみようや、ドローヴ」
ぼくは、とうていぼくの手にはおえない性格の支配下にあった。「ねえ、待ったほうが良いと思わないか、ウルフ?」ぼくは弱々しく言った。
シルバージャックはぼくらをじっと見ていた。「こいつは誰の船なんだね、一体? ドローヴのだって聞いとったんだがな、ウルフのほうがイニシアチブを取ってるようじゃないか」
ウルフは高慢な様子でぼくを見ていた。「こわいって言うの?」
顔が熱くなったのを感じながらぼくは体をかがめ|船べり《ガンネル》を握った。ウルフがもう一方を持ち、二人で船を海にすべり込ませた。ぼくらは乗りこんだ。帆がそよ風をはらみ、船は船架《スリップウェー》から動き出していた。シルバージャックの毛深い背中が引っくり返してある大きな船の向こうに消えるのが見えた。かれはふり返りもしなかった。
パラークシを新しい角度から見ながら、内港をうめている停泊中の漁船、遊覧船、それにディンギーなどのあいだをすべり抜けて行くスリルでぼくはほとんどすぐにシルバージャックのことを忘れてしまった。ぼくらの船が走っていくあいだ、|雪あび《スノー・ダイヴァー》がマストの先からぼくらを見つめ、西の海岸の人々が仕事を中断してぼくらに向かって手を振った。処女航海が始まろうとしているということを――人間特有のあの奇妙な方法で――察したのだ。東の岸壁では小さな漁船が、公開公共市場に直接水揚げをおろしており、何百羽という|雪あび《スノー・ダイヴァー》が平屋根の上で場所を取り合いしている。しきまからゴールデン・グルーメットが見えた。誰かが窓で布をはたいている。帆の向こうに目をこらすと外港への通路が見えた。スチーム路面電車が防波堤沿いにゆっくりと走っている。機関手室から白い煙が立ちのぼり、数秒後、かん高い汽笛の音がぼくの耳に届いた時、ぼくらは高い石の突堤を通り過ぎて外港の深く青い海へとすべりこんで行った。
ウルフが口を開いた。「この船、ずいぶんと水が入っているみたいだ」かれはこう言ったのだ。
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ぼくはとも[#「とも」に傍点]の腰掛梁《スワルト》に腰をおろして舵柄を握り、ウルフの方はメーンシートを握りながら船の中央に座っていた。ぼくらは外港に着き、崖の陰から出ていくところだった。そよ風はだんだん強くなり、船を防波堤の端にある灯台の方へ勢いよく吹きやっていく。ここいらはほとんど三角波も立たず、時おり波が低い|船べり《ガンネル》を洗う程度だった。
「じゃあ、くみ出せよ、ウルフ」船長としての権限をふるってぼくは命令した。
ウルフはいらいら、そわそわしていた。「くみ出すものが何もないんだよ」
「どっちにしたってちょっぴりなんだろ」
「そんなんじゃないぜ。この船、水漏れしてる。流れこんできてるんだ。見ろよ!」
場所を変えたとたん、冷たい水たまりがぼくの足をずぶぬれにし、冷たい恐怖が足を駆け上がった。ぼくらは沈みかけていた。水は凍えるくらい冷たい。助けを求めてぼくは気が狂ったようにあたりを見まわした。ぼくらは一番近い船から何ペースも離れており、このまま野たれ死にをする前に水の冷たさでだんだんと体が冷え、頭が凍り、恐ろしい狂気に襲われる運命なのだ。
最悪の事態を直視してしまうと、ぼくはもっと実際的な問題に注意を向けることができるようになった。「もう防波堤までは行けないよ」ぼくは言った。ぼくらの左手には崖が大きく黒い姿をぼんやりと見せている。「もしかしたらあそこまで漕いで行けるかもしれない、風から抜け出てさ。ほら、浜があるぜ。岸まで行けるよ。遠くないもの」
「何で漕ぐんだよ?」ウルフは力なく尋ねた。威張りくさった様子はすっかり消えてしまい、体を抱えこみ、水がくるぶしまで上がってくるなかで震えながら中央の腰掛梁《スワルト》でちぢこまっているかれは突然小さくなってしまったようだった。目に恐怖が表れている。|雪あび《スノー・ダイヴァー》が一羽かたわらを急降下し、水に突っ込んだ時、ウルフはすごい勢いで飛び上がった。船がゆっくりゆれた。
「舵を使おう。帆をおろしてくれよ、ぼくが舵をはずすから」
ぼくは体をよじってふり向くと、冷たい水の下で手さぐりして軸を締めているナットをさがした。ウルフが声もかけずにいきなりうしろから飛びかかり、艇尾板《トランソム》にぼくの顔をたたきつけたので船が危険なくらいゆれた。ぼくは体を引き離し、何かべとべとして邪魔なものをふりはらったが、後頭部に鋭い一発をくらった。気がつくとウルフの狂った目がまっすぐにぼくの目を見つめていた。思っていたよりも早く、冷たさにやられてしまったのだ。ぼくは手をふりほどくと思いきり強くやつの顔をぶんなぐった。ウルフはぶつぶつ言いながらあとずさりし、|船べり《ガンネル》を手さぐりでさがした。やつの重心が移動した時、ぼくはどうやらやつの腹にひざ蹴りをくれてやった。
かれはあえいだ。そしてかれがまた飛びかかり、海鳥のように金切り声で叫びながら激しくなぐりかかってきた時、その目には恐怖の色が見えた。ぼくはまた倒れ、|船べり《ガンネル》から半分身を乗り出して攻撃をよけるために顔をそむけた。その時、ぼくらの下の水中をすべって来る死肉食いの細長い黒い姿が見えた。水面から半ペースほどのところを通り過ぎて行った時にその冷たい目がぼくに注がれたのは間違いない。ふり返るとまたウルフになぐられた。ぼくはやつの腕をつかまえると引っぱった。ぼくらは船の底を取っ組み合いながらころがった。とうとう、気がつくとぼくはやつの上にまたがっていた。喉をつかんで、ぼくらが喧嘩している最中に急速に増した水のなかに頭を押しつけてやるとやつのもがき方が弱まった。
「ドローヴ!」かれはうなった「はなせったら、この|気ちがい《フリーザー》! 落ち着けよ。こわいことは何もないんだぜ!」
「|くたばっちまえ《ゴー・トゥ・ラックス》!」ぼくは手をゆるめなかったが、自信はなくなりかけていた。かれの目からは狂気の表情は消えており、これは本当に起こったことなのか、それともただの空想にすぎないのだろうかとぼくは突然、疑問に感じた。「それじゃ何だって襲ってきたりしたんだ?」
「きみの方がぼくを襲ったんだぜ、覚えてないのか? 顔をな、なぐったんだ!」
「お前が飛びかかってきたからな」
「飛びかかったんじゃないんだ。帆がすごい勢いで降りてきたんでバランスをなくしたんだよ。そうしたらきみがかっとしたんだ」
「何を言ってるんだ?」ぼくは一瞬この言葉について考えたが、その間、ウルフのやけになった顔が敷板から見上げ、水かさは増え続けた。どうやら誤解があったらしい。はなしてやるとかれは席にはい戻り、ぼくらは油断なく見つめ合った。ぼくらのあいだには、くしゃくしゃのかたまりとなった帆がある。そのまわりで水が増えていく様子がぼくをまた行動に移させた。「自分でこの|いまいましい《フリージング》舵をはずしてみろ」気短にぼくは言った。
ぼくらは場所をとりかえ、ウルフがとも[#「とも」に傍点]の下に手を入れたが、冷たさが肉に突き刺さると恐怖から泣き声を上げた。すぐに体を起こしてしまった。「取れないよ」もう泣きそうだった。「この|いやらしい《フリージング》もの、取れないんだ。はまってるんだ」かれはあたりを見まわした。ぼくらは不気味な黒い崖の下にいたが、誰もぼくらを見なかっただろう。「もうだめだよ!」ウルフは泣き叫んだ。
ぼくは考えこみながら頭を切り換えた。もう船には半分まで水がたまっているが、ぼくら二人の重さのために船の外の水が|船べり《ガンネル》の上にまで届きそうになり、船内に入りこんでいる。次はどうなるのだろう? 海水が巨大な四角い滝となって四方からなだれこみ、船とぼくらをまっすぐに海底まで引きずりこむのだろうか? それとも最終的に船のなかでバランスがとれて、浸水したままで漂い続けるのだろうか?
ウルフが上げるろうばいの叫び声で告げられた解答はこの二つの可能性のあいだをとったようなものだった。スキマーは驚くほどの早さで水びたしになったが、ゆっくりと沈んでいった。すぐに沈むのは止まったが、完全に浸水したままだった。水の上に出ているものは胸から上のウルフとぼく、それにマストだけだった。しびれるような冷たさとそこから生じる恐怖とにもかかわらず、こんなばかげた状態の自分を誰にも見られたくないと願うだけのゆとりはあった。
「ウルフ」ぼくは注意深く言った。「急に動くなよ。でないと何もかもひっくり返っちまうからな。尻の下の腰掛けをはずして、そいつで浜まで漕いで行くんだ。いいな?」
同時にぼくは水の上を手さぐりしてとも[#「とも」に傍点]の腰掛梁《スワルト》を握った。ぼくら二人はがたがたと震えながら浜に向かって目に見えぬ船を漕ぎ始めた。これは異常な状況だったので、ぼくは手を動かしながらも計算に間違いがなかったかと考えたが、海面の漂流物が船尾の方に後退していくところから見てどうやらぼくらは動いているようだった。ようやくスキマーは浅瀬にたどり着き、ぼくらは降りてスキマーを浜まで引きずり上げた。
「何か言いわけを考えなくちゃだめだぜ」ウルフが言った。「どうしてきみが船を出したのか、親父さん知りたがるよ」
ぼくは無視して、二人がいる場所を見まわした。崖が水ぎわから十五ペースほどのところにそそり立っている。ぼくらがいるのは三十ペースほどの長さの小さな小石の浜だった。崖はぎざぎざなのでベテランならば何の苦もなく登れるのだろうが、ぼくは高さがこわかったし、それにウルフも同じだろうと勘ぐっていた。いずれにしてもやつが崖をよじ登り、救援隊を案内してきて英雄扱いされるというのは気にくわなかった。ぼくは崖を登れるかもしれないということは口に出さず、その代わりに崖を二ペースほど登ったところにある大きな丸い穴を指さした。そこから名状しがたいものがしたたっている。
「あれ何だろう?」
ウルフは嫌そうに排出物を見た。「下水道だろ」
「下水道にしちゃ大きいな。入りこめる位だ」
「おい、そんな考え忘れちまえよ。下水道に入りこむなんてぼくはごめんだからね、アリカ・ドローヴ」
ぼくは二人の領土をさらに探検した。海と崖に両面を囲まれたこの細長く狭い海岸にいると閉所恐怖症になりそうだったのだ。東の端まで行って海に突き出た大きな石に登ってみた。向こうに道があるかもしれないと思ったのだが、やはり石がごろごろところがっているばかりで、そのあいだに深い水たまりがあり、上には高い崖がそびえている。崖の無数の|雪あび《スノー・ダイヴァー》の巣から鳥糞石《グアノ》が落ちてくる。
ぼくは水たまりのふちまで降りて行ってなかをのぞきこんだ。水は澄んでいて緑色だ。見たところ何もないようだったが、戻ろうとしたちょうどその時、底でゆらめく緑の葉のかたまりのあいだに何か動くものが見えたような気がした。水をかきまわす棒切れをさがしていると白いものがかたわらを通り過ぎて行った。一羽の|雪あび《スノー・ダイヴァー》が同じ動きを目にとめたのだ。思わずぼくはたじろいだ――鳥が頭のすぐそばをかすめたのだ――だが水音は聞こえなかった。
目を開けてみると岩陰の池は不透明になりきらめいていた。急降下の途中でくぎづけになったまま、鳥の下半身が水面から突き出ている。水かきのある足が力なくもがいていたが、ぼくが見つめているうちにその動きはとぎれとぎれになり、そして止まってしまった。ぼくは身震いした。全てのことがあまりに突然に起こった――ぼくだっていとも気軽にこの池に手を入れていたかもしれないのだ。ぼくは石を拾って投げた。石はきらめく固い水面をかすめて飛んで行き、向こう側でバウンドすると海に落ちた。ウルフの呼ぶ声がぼんやりと聞こえたが、ぼくは不健全な魅力にとりつかれたまま水たまりを見続けていた。あきらめかけた頃に突然奇妙な結晶体が溶けて水がまた透明になり、|雪あび《スノー・ダイヴァー》がさざ波にゆられていた。死んでいる。見つめていると、銀の斑点の入った青い細い糸が地の底からあがってきてやさしく鳥を包むと、水の下に引きずり込んだ。
ぼくは震えながら岩をまた登ってウルフのところに戻った。ウルフは、生きている岩が人間の姿をとったように見える数人の子供と一緒だった。かれらは船を調べていた。
「向こうにアイス・デビルがいるよ」あいさつ代わりにぼくはこう言ったが、かれらがこちらを向いた時、ぼくは目を見張ったまま言葉をのんだ。ウルフのそばにもうひとり、小さな少年がいた。それと二人の女の子。
そのうちのひとりがパラークシ・ブラウンアイズだった。
彼女はぼくがわかって恥ずかしそうに見つめたが、また目をそらしてしまった。彼女は何も言わなかったし、ぼくも何を言ったら良いのかわからなかった。ただ三人にもぐもぐとあいさつしただけだった。もうひとりの女の子はブラウンアイズよりも背が高く、自分のことを高く買っているような様子だ――実際、ウルフの女性版というところだ。小さな男の子の方は、小さな男の子というただそれだけだった。みすぼらしくて汚ない小さな少年。軽蔑するにも値しない。
この子がまず口を聞いた。「栓をしてないでどうして船が浮くなんて思ったの?」かん高い声でこう聞いた。
屈辱を感じながら、ぼくはかがみこんだ。やつの言う通りだった。コルクをはめ込まなければいけない排水用の穴が二つ、艇尾板《トランソム》に開いていた。船置き場を出発した時の状況のためにチェックするのを忘れてしまったのだ。ぼくは非難の目でウルフをちらと見た。かれはまっすぐ前を見ていたが、少し赤くなっている。「きみが船長なんだ」よそよそしくこう言った。「海に出る前に自分の船をきちんとチェックするぐらいの頭がなくちゃね、アリカ・ドローヴ」
「あんたたち、観光客[#「観光客」に傍点]なんでしょ」言葉にたっぷりと軽蔑を含ませて、背の高い少女が言った。「何にも知らない観光客よね。船乗りのまねをしようとして」
「難波した船乗りだね」少年がつけ加えた。
「おだまり、スクウィント。でも、あたしたちが近くにいて良かったわよね、そうじゃないこと、ブラウンアイズ? あたしたちはこの土地を知ってるもの。一年中、ここに住んでるんだもの。そうよね、ブラウンアイズ?」
ぼくはこっそりとブラウンアイズを見たが、彼女はピンク色のたそがれの空のようにきれいだった。他の連中がいなければ良いのに――でももし彼女と二人きりになったとしても、口をきく度胸はないだろう。彼女はぼくが見ているのに気がつかなかった。大きな漁船がスチーム路面電車に中身を吐き出しているのを見ていたのだ。もしかして、ぼくが彼女のことを思っているほど、彼女の方はぼくを思っていないのではないだろうかとぼくは思った。でも、少なくともぼくのことを思い出してくれたのだ。
「そうだよ」何かをかじりながら、スクウィントが言った。
「ねえ、黙っててくれない、スクウィント? さあ……」背の高い少女は勝ち誇ったようにぼくらを見た。「あんたたち、自分で入りこんだこの面倒から脱け出すのにあたしたちの助けがいるんでしょ」
「こいつら、下水道からはい出してきたんだぜ、ドローヴ」うんざりしたようにウルフが言った。「ドライヴェットみたいにね」
「そんなことまた言ったら、あんたたちが飢え死にしようが、寒さで気が狂おうが放っとくわよ。それにもしあの雨水排水管[#「雨水排水管」に傍点]に入りこんでも、あたしたちの案内なしじゃ、絶対に道がわからないのよ――地下墓地《カタコーム》みたいなんだから」
「一度、知ってる子があそこで迷ったんだよ」がまんできずにスクウィントが、何だかわからぬもので口を一杯にしながら叫んだ。「その子は何日も歩きまわって本当に本当の気ちがいになっちゃったんだ。見つかった時は骸骨だったんだ。白い骨だよ。それで鳥が目玉を突つき出しちゃってたんだ」
矛盾しているとはいえ真に迫ったこの話をかみしめて、背の高い少女はつかのま沈黙した。それから満足そうにうなずいた。「覚えてるわ。あんた、覚えてる、ブラウンアイズ?」
ブラウンアイズは相変わらず海の方を見ていた。「その人たちをいじめるのやめなさいよ、リボン。その人たち、濡れてて冷えきってるじゃないの。すぐにここから連れてってあげなきゃ死んでしまうわ。あんたがそうなれば良いって言っても、あたしは嫌よ」彼女は一気にこう言って、顔を真っ赤にした。
リボンは彼女をじっと見つめていたが、やがて肩をすくめた。「スクウィント、あの穴に海草を詰めて船を戻しときなさい。さあ、あんたたち、ついてきて」彼女は下水道のなかに入りこんで姿を消した。
ウルフが後を追い、それからぼくが続いて、ブラウンアイズがしんがりを勤めた。ふり返るとスクウィントが慣れた手つきで帆を揚げているのが見えた。それからぼくは手を差しのべて、トンネルに入るのにブラウンアイズに手を貸した――もっとも彼女はひとりの方がもっと良く動けたのだろうが。前進しながらぼくはゆっくりと彼女の手を放した。手を握っている口実がなかったのだ。同時にブラウンアイズも握っていた手をゆるめたので、彼女も同じことを考えていたのだろうか、それともぼくが去年の夏のできごとを実際以上に解釈していたのだろうかとぼくは悩んだ。あいだに長い冬があったのだ。ぼくの想像力が働くのに十分な時間、そしてブラウンアイズが忘れるのに十分な時間が。
トンネルのなかではまっすぐに立っていられなかったが、ぼくらはロリンを思い出させるかがみこんだ姿勢でゆっくりと前進した。ぼくらの前では、リボンの反響する声が間違って曲がるととんでもないことになると恐ろしい警告を絶えまなく発し、そのあいだにも足もとからは引きずるような音とかん高いきーきー声が聞こえてくる、いや聞こえてくるような気がする。このトンネルは雨水排水管だとリボンは絶えず言い張っていたけれど、鼻で感じとった証拠のためにぼくはひそかにウルフに同意していた。これは下水道で、しかも鋭い匂いのするやつだ。細い流れが真ん中を流れている。トンネルの横断面はほぼ円形になっているので、足を離して行けば汚物で足を汚さずに歩けた。
リボン以外は誰も口をきかなかった。リボンはリーダーの地位についており、やがて日の光が上からしみ込んでくる地点で立ち止まった。ここでは悪臭は特にひどかった。
「ここは町の大きな魚屋の真下なの」リボンが教えてくれた。「お店が今、掃除中じゃなくて良かったわね。でないと魚くさい水がドーッと落ちてくるんだもの。ここでトンネルを右に曲がるの。左に曲がるととんでもない目に会うわけ」
彼女は左のトンネルにどんな悪夢がひそんでいるのか説明しなかったが、ぼくらはそういう質問をする愚かさがもうわかっていたので尋ねなかった。でこぼこのトンネルの天井がこちらに下がってきたので身をかがめながら、ぼくらは無言のままよろめき歩いた。
「何年も前、あたしが子供だった時に落盤があったのよ」無情な声が前方から響いてきた。「それでその時に、ごみが全部逆流したの。どうしても取れないのよね。|嫌んなる《ラックス》わ、このニオイ」
ぼくは、突然、立ち止まったウルフにぶつかった。かれは怒ったようにぼくの腹をひじで突いた。「止まったんだぜ」鋭くこう言った。神経がささくれだっているのだ。
「ここであたしは失礼するわ」残念そうな様子も見せずに。リボンは言った。「あたしのうちはもっと先だし、それに酔っぱらい[#「酔っぱらい」に傍点]がいるからブラウンアイズのところには行っちゃいけないのよ。うちに来てもらって、そこできれいになってもらえれば良いんだけど、うちの親が嫌がるのよ。うちの親は何か特別[#「特別」に傍点]なの。この意味わかるでしょ」
うしろからブラウンアイズが静かに言った。「うちに来て、そこできれいにしたいのなら、うちの方はかまわないんだけど」
「ありがとう」とぼく。ウルフは黙ったままだった。
彼女は体を斜めにしてぼくらのわきを通りすぎると、垂直の柱の壁に打ちつけられた鉄の大くぎを登って行った。一瞬手さぐりをしていたが、その時突然、上から射していた光のひびが明るい長方形に広がった。ブラウンアイズは穴から外に出ると、ぼくらを見おろして言った。「あがってきて」
気がつくとぼくはこれまで見たこともないようなわくわくする部屋にいた。天井が低く、細長く、石の壁沿いには様々な種類の樽が並んでいる。茶色くて年を経ており、母の本の一冊にあるさし絵のように神秘的で禁断の匂いがした。蝋がしたたり流れているランプが照明になっている。ぼくは悪に囲まれており、それはすばらしいことだった。隅に見慣れた罐があった。調べてみるとやはり蒸留液が入っていた。でも燃料用ではない。これは、ゴールデン・グルーメットのバーで飲んだくれて命を縮めている酒びたりの酔っぱらいのためのものだ――お袋の言葉を言い換えればこうなる。くらくらするようなアルコールの匂いが空気中に重くたちこめており、ぼくはうっとりしてしまった。
「ビールの貯蔵所だ」ロマンスも何も感じずにウルフが平然と言った。「どうして下水道に出口が続いてるの?」
「樽を洗うので」ブラウンアイズは説明した。
「密輸用の場所みたいに見えるけどな。言っとかなくちゃいけないんだけどぼくのパパは税関吏なんだ。戦争が始まってからずっと密輸が行なわれてるんでここに来てるのさ。あの蒸留液はどうして手に入れたの? あれはアスタ製だよ」
ウルフの父親がぼくのところと同様に役人《パール》だと聞いてもぼくは別に驚かなかった。ぼくがショックを受けたのは、ウルフがこんな攻撃的な態度でブラウンアイズと渡り合うことができるほど父親の仕事に関心があるという事実だった。
「彼女にかまうなよ」ぼくは興奮して言った。「|糞いまいましい《フリージング》お行儀の良さはどうしちまったんだ、ウルフ? ぼくたちはお客なんだぜ。この蒸留液は戦争が始まる前に買いだめてあったんだよ。誰でもやってるじゃないか。うちの親父だってそうさ。親父も役人《パール》だけどな」
初めてウルフは恥ずかしそうな顔をした。「ぼくが怒ってるのは、敵と取り引きできる人間がいるってことさ、ただそれだけなんだ」かれはつぶやいた。「それは裏切りだからな」
「悪いけどね、そう言われてもぼくには通じないんだよ、ウルフ。宣戦が布告されたのはある決まった日なんだ。ある日は蒸留液を輸入して、次の日には裏切るのが割の良い仕事だって言うのかい? それにその時に船が中間のところにいた人間はどうなんだ?」
ウルフが理論的な議論には弱いということをぼくはすでに見抜いていたのだが、この時もウルフはやはり丸めこまれてしまった。ウルフが戦争の倫理と現在の戦闘の歴史的背景についての自説を説明し始めた時、ブラウンアイズは感謝のまなざしでぼくを見た。
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ウルフとぼくが毛布にくるまり、十分に詰め物をした背の高い椅子に座っているあいだ、パラークシ・ブラウンアイズはワインを混ぜてある(のではないかと思われる)スープを飲ませてくれた。親が迎えに来るあいだ、ぼくらはゴールデン・グルーメットの奥の部屋で待っていた。酒場に続くドアからアンリーが忙しく出入りするたびごとに、突然奥の方から話し声と笑い声のどよめきが聞こえ、その後しばらくアルコールと煙の匂いが空気中に漂った。
ぼくは部屋の装飾にびっくりした。ぼくらの前では火がちらちらしていたけれど、これだけが、信じられないほどきちんと整理された周囲の状況のなかで唯一のでたらめな要素を構成していた。装飾品は超然として触れられることを拒みながら、衛兵のように直立している。鏡は輝き、一枚一枚の鏡が輝く無限の清潔さを映し出している。ひとつひとつのものがひとつひとつのものに対してぴったり合った角度で注意深く置かれているようだった。宗教的モチーフさえあった。向こうの壁にはルネッサンスの棚がある。“グレート・ロックス”の姿を借りた太陽神フューの像が、何本も触手があるアイス・デビルに象徴されている巨人ラックスの死体の握りしめた手から世界を引っぱっている。この部屋の装飾の多くに同じ宗教的意味合いが含まれているのにぼくは気がついた。だがこれを隣の部屋から聞こえてくる罪深い飲み騒ぎの音と結びつけることはできなかった。
ブラウンアイズが入ってきた。その後にウルフの母親と、税関吏に似合いの激しく疑い深い表情をしているところからかれの父親だろうと思われる男が続いた。「お前はばかだ、ウルフ」かれは前口上なしにぴしゃりとこう言った。「いつでもばかだったし、これからもずっとばかなんだろうな」
「息子が下品な宿屋《イン》にいるのを見つける身にもなってちょうだい」ウルフの母親が小声で嘆いたが、完全に小声というわけではなかった。ちょうどその時入ってきたアンリーに聞こえてしまったのだ。彼女は打たれたような様子だった。
「息子さんの服です」手渡しながら彼女は静かに言った。「よく洗っておきました。きれいになって、乾いてますよ」
「着てるひまはないわよ、ウルフ」包みを用心深く受け取り、指先でつまみながら母親は言った。「その毛布だか何だかわからないものを着てなさい。外にロックス車《カート》があるから」彼女はブラウンアイズとその母親に向かって愛想よくにっこりした。「息子の世話をしていただいて本当に[#「本当に」に傍点]ご親切様」
「毛布なんかじゃ町を歩けないよ!」
息子の抗議を無視して、ウルフの父親はかれの腕をつかんで戸口を引きずって行った。あっというまにかれ は消えてしまった。
ブラウンアイズとアンリーとぼくは、突然真空になってしまったような状態のなかで不安気に互いを見つめた。「ドローヴのご両親はつかまったの?」しまいにアンリーがこう尋ねた。
「あとでいらっしゃるって」
「ねえ、ぼくの服が乾いてるんだったら、それを着て帰れるんだけど」ぼくはあわてて言った。
「もちろんそんなことはだめですよ」アンリーはきっぱりと言った。「途中でお互いにすれ違ってしまうからね。遠慮しないでしばらくここにいらっしゃいな。まだ宵の口なんだもの。あたしは仕事があるけれど、ブラウンアイズがお相手しますよ。そうだろ、お前?」
ブラウンアイズが目を伏せたままうなずくと、アンリーはドアを閉めて行ってしまった。
さっきまでウルフが座っていた椅子に腰をおろして、ブラウンアイズはわずかにほほ笑みとえくぼを見せてまっすぐにぼくを見つめた。ぼくもほほ笑み返したが、何だか子供のにらめっこみたいになりかけてきたのでしまいには目をそらさなければならなかった。ぼくは膝の上でおとなしく組まれた彼女の手を見つめた。すてきな手だ、小さくてきれいで白くて。そして、さっき午後にほんのつかのまその手を握っていたことをぼくは思い出した。また握る勇気があればとぼくは願ったが、ブラウンアイズは手の届かないところに座っていた。部屋を突進して行って彼女の手を握るなんてことはできやしない。
彼女はピンクとブルーの花がついた、さっぱりした白い服を着ていたが、そのために天使のように、そして可愛らしく、手の届かないように見えた。初め着ていた汚ないジーンズとプルオーバーの方が良かったくらいだ。膝は良い形をしていて、可愛いくつをはいている。ぼくらは長いあいだ何も言わなかったらしく、もしその状態がもっと続いたならばひと言も口をきかないままだったろう。
「この服、気に入った?」彼女がそう尋ねてくれたので、もっと堂々と彼女を見るチャンスができた。
「うん。すてきだよ」
「汚れちゃったのでさっきの服は脱いじゃわなくちゃいけなかったの」
「そうだと思った。あの……ぼくをここに連れてきたんできみが面倒なことにならなけりゃいいんだけど。ぼくらをここに連れてきてってことさ。ウルフとぼくを」胸の下の方で大きな脈がどきどきと打っていて、息もつまりそうだ。
「ウルフはお友だちなの?」
「うん」具体的な話題に取りかかれたことを喜んでぼくは熱心にしゃべった。「いや、そうじゃないんだ。今日初めて会ったんだよ。お袋が仕組んだらしいんだ。いつでもぼくにふさわしい仲間を見つけたがってるからね」言葉にとげがあるといけないのでぼくは笑ってみせた。自分の母親を軽蔑するような|ばか野郎《フリーザー》だとブラウンアイズに思われたくなかったのだ。
だが彼女はほほ笑み返しただけで、また沈黙が続いた。
「本当はウルフはあんまり好きじゃないんだ」ぼくは思いあまって言った。「今日ぼくらが難破したのはあいつのせいなんだ、わかってるだろ」
彼女はまたほほ笑み、首のまわりの細い鎖からぶら下がっているものをいじっていた。それが光のなかできらめき、その正体がわかった。結晶だ。お袋が棄ててしまったのと同じようなアイス・ゴブリンから培養されたのだろうか。でも本物らしい。死んだアイス・デビルから切りとられ、悪の死を表わしているものだ。これを見てぼくはびっくりした。宗教的シンボルが少女の首にかかっている様子にはどこか威圧的なものがある。
彼女はぼくの視線を追って目を下に向け、ほんのりと頬を赤くした。「母さんがつけさせたがるの」こう説明した。彼女が手でドレスの前を伸ばしたので、薄い布がふくらみかけた胸の挑発的な曲線の形にはりついた。大いに当惑して、ぼくはあわてて目をそらした。「母さんはこんな風にとっても信心深いの」彼女は続けた。「つまり、この部屋を見てちょうだい。お願いだから……お願いだから変な風に……」
「うちのお袋だっておんなじさ」彼女が可哀想になってぼくはこう請け合った。「お袋は何でもかんでも信じてるんだ。信じるものを一生懸命にさがしてるんじゃないかって時々思っちまうくらいさ――特にこの頃はね。戦争がひどくなってからはさ。アスタ人にやられる前に心の平和を得ようと必死なのかな。きみんとこみたいにルネッサンスの棚があってね、それにピンを突き刺した戦況地図もあるんだ。どっちの方を本当に信じてるのかはわかんないけど。ぼく自身、どっちかを信じてるかどうかはっきりしないんだ」ぼくはつけ加えた。
彼女はぼくの顔を真剣に見つめていた。真剣な時の彼女は少し悲しそうな顔になる。「でも、あなたのお父さんは役人《パール》だわ」静かにこう言った。「それにあなたは奥地に、アリカに住んでいるんだもの。このパラークシはずっとアスタに近いのよ――平和な時にはアスタ人の船乗りをたくさん知ってたわ。あたしたちは戦争が行なわれているのを肌で感じてるの。あたり一面に見えるんだもの。夜になると海に閃光が見えるのよ。公共の足がなくなっちゃったからロックス車《カート》を使うか歩くかしなければならないし。それに食料もあまりないのよ、一般大衆には」
「今日、ずい分たくさん魚を見たけど」
「魚は飽きちゃうもの。それにその魚だって配給なのよ。大部分は新しい罐詰工場の方に行っちゃって、どこか奥地に送られちゃうの」
ぼくはこんな話をしたくなかった。こんなのは時間の無駄だ、せっかく二人きりでいるのが無駄になってしまう。でもこの話題を打ち切ってしまえば、もう話すことが見つからないかもしれない。何が間違ってしまったのだろうかとぼくは考え、結局ぼく自身が不慣れだからだろうという結論に達した。親密な会話でスタートしたのに、どういうわけか途中でわき道に入ってしまったのだ。多分今すぐ、ぼくはきみがきれいだと思ってると、彼女に言うべきなんだ。また胸がどきどきしてきて、そんなことは言えないだろうとぼくにはわかっていた。
「ぼく、思うんだけど……あの。親父は新しい罐詰工場の仕事をしてるんだ。多分、今年はここに長いこといることになるんじゃないかな。パラークシって良いとこだよね。ちがう?」
「お父さんはアリカで働いてるのかと思ったわ」
「ここでたくさん仕事をすることになるだろうって昨日言ってたんだ。ねえ、何だってうちの|クソ親父《フリージング》の話なんかしなきゃいけないんだ?」
「それじゃ、かなり長いこといるかもしれないのね。霧が出て、暖かい雨が降ってくる時のパラークシがきっと気に入るわよ。冬だって奥地よりもずっと暖かいの」
その時、会話をうまい具合に進めることができそうだと思ったちょうどその時、ドアが開いて酒場の露骨な騒音が部屋いっぱいに広がった。プロの旅館《イン》の主人の微笑のかけらをまだ残して、赤ら顔が現われた。ブラウンアイズの父親、パラークシ・ガースだとぼくは気がついた。
「やあ、アリカ・ドローヴ」かれはこうあいさつすると、「お邪魔だったかね」と大仰にウインクしてみせた。「手が足りないんで、ブラウンアイズを借りてかなきゃならないんだよ。悪いね。でもどんな状態かわかるだろ」かれは口ごもった。かれのうしろでは煙が渦巻き、獣めいた陽気な声がさんざめいている。「服を着て酒場の方に来たいんじゃないのかい。ご両親は気になさらんと思うんだが」
「服、持ってきてあげるわ、ドローヴ」こう言うと、ブラウンアイズは急いで出て行った。エメラルドのブレスレットのことをぼくは思い出した。今、返さなくちゃいけないだろう。
しばらくすると、ぼくは酒場の隅に座り、事の成行きを見守っていた。全てのことが予想していたのとは全く違っているのにぼくは気がついた。確かに、ここは匂うし、煙たいし、耳ざわりな笑い声や騒々しい会話でいっぱいだ。でもどういうわけか、悪の空気は、威嚇[#「威嚇」に傍点]の雰囲気はなかった。その代わり、明らかに楽しんでいる部屋いっぱいの人間が見えるだけだ。これはわけがわからない。ぼくは、ブラウンアイズがくれた何かの飲み物をすすりながら腰を落ち着け、この問題を解こうとした。
「よお、坊主!」叫び声がした。
ぼくはびっくりして顔を上げた。大きな顔がぼくの方にかがみこみ、グロテスクな手が肩をつかんでいる。にやりとすると黒ずんだ歯が現われた。ぼくはこの幽霊をぼんやりとそしていらいらして見つめたが、その時突然気がついて、少し拍子抜けしてしまった。ベクストン・ポストで別れたトラック運転手だ。何て名前だっけ? グロープだ。かれのうしろでは、柔らかい首をした相棒が長い首をこちらに伸ばして、何か黒ずんだものが入ったグラスごしにぼんやりと笑っている。
「ベクストン・ポストにいるのかと思った」気のきいた言葉を思いつけなくて、ぼくはばかみたいに口をすべらした。
グロープはよろよろとテーブルをまわって来ると、ぼくの横のベンチに腰を下ろし、向こう側の相棒に席を空けるために不愉快なほど体を近づけてきた。二人とも、ひどい匂いがする長くて黒いたばこを吸っている。ぼくは助けを求めてあたりを見まわしたが、ブラウンアイズは部屋の向こう端で、泡がこぼれているジョッキを手にいっぱい運んでいた。彼女はこんな無骨な人間たちのあいだを押し分けて行くには清潔すぎ、可愛すぎる。ぼくは突然、滅入った気分に襲われた。
グロープが耳元でどなっていた。「思い出したかい。|くそ《フリージング》トラックは腐るままに放っとかなきゃならなかったんだ。役人《パール》、こいつが今のロフティとおれ様のご身分さ。お前の親父とおんなじだ。今じゃ政府が漁場を全て接収しちまってるんだ――新しい工場だけじゃなくてさ。国家の非常時だって言いやがる。ぽんこつのトラックを拾いに行く時間なぞないんだとさ。そいつはそのままにしといて、新しいのを使えって言いやがった。住民に食い物を食わせて、グルーメットみたいになるまで魚を喉に突っこんでやらなきゃいかんってことさ、な、ドローヴ?」かれは吠えるように笑った。酔っている[#「酔っている」に傍点]んだとぼくは気づいた。
部屋の向こう側にホーロックス・メスラーの姿が見えた。小ざっぱりとした服装をしているが、見たところはこの粗野な人混みのなかで気楽にしている。ぼくを見つけると片手をあげて重々しいあいさつを寄こした。かれと親父はどういう身分関係にあるのだろう。ぼくに船を買ってやれとメスラーがどうにかして親父を説きふせたのだろうという考えをぼくは持っていた。こちらに来て、でぶのグロープから助け出してくれれば良いのに。ブラウンアイズはカウンターで、なみなみと注がれたジョッキをさらにまた父親から受け取っている。母親の姿は見えない。
「やつら、頼みもしないんだ」グロープは際限なくしゃべり続けていた。「畜生《ラックス》、頼みもしやがらないんだ――そういうことはなさらんのさ。お前たちトラック運転手はみんなわれわれのために働くんだ、ただこう言っただけでやがる。これが議会のやり方さ、頼んだりしないんだ。命令しやがるのさ」
ロフティが相棒の向こうから身をのり出してきて、ぼくに直接話しかけた。「奴隷さ」こうひと言、貴重な言葉を添えると、また元に戻ってジョッキをのぞきこんだ。
「それに教えてくれよ、相棒。教えてくれや。軍隊はどこにいるんだ? アスタの艦隊がパラークシの港めがけてやって来た時におれたちを守ってくれる軍隊はどこにいるんだ?――やつらがやって来るのは確実なんだぜ。ここはあの|いまいましい《フリージング》国から海続きで一番近いんだからな」グロープは驚いたふりをして目を大きく見開き、また状の手を動かしてその位置を示しながらかれだけに見える想像の艦隊を見つめた。それはどうやらぼくらとカウンターのあいだに錨をおろしているらしい。
「グルームが来るよ」ロフティが思い出させた。「グルームが来ればパラークシに歩いて[#「歩いて」に傍点]来られるじゃないか、まず間違いなくさ」
話し声と笑い声のどよめきがのしかかってきて、呼吸する空気もないほどだ。片側からはグロープが、もう片方からは煮こみ肉の匂いをさせた大きな、落ち着きのない女がそれぞれ体を押しつけてくる。気分が悪くなってぼくはつばを飲みこんだ。突然ブラウンアイズが困ったような顔をして目の前に立っていた。「よおー」くつくつ笑いながらグロープはつぶやいた。「何を持ってきてくれたんだい、おねえちゃん?」
「ねえドローヴ、とっても忙しいの――良かったら……」彼女は口ごもった。「良かったら手伝ってくださらない?」
心底救われた気分でぼくは立ち上がった。「喜んで」ぼくは心から言った。「何をして欲しいの?」
「カウンターのなかのものが足りなくなってるの。地下室から壜を少し持ってきてくれる? 場所、わかるでしょ」
「もちろん」
酒場の外は驚くほど涼しく、ぼくは新鮮な空気を味わいながらぐずぐずとランプに火をつけた。それから薄暗い通路を進み、階段を降りた。
地下室のドアを開けた時、一陣の不可解な冷たい風が吹いてきてランプが消えてしまった。ぼくは片手にランプを持ち、片手で手さぐりしながらよろよろと足を踏み出した。テーブル代わりになるような箱が床の真ん中にあったのをぼくは思い出した。様々な地下室の備品のなかにマッチがあったのも前に目にした。注意していたのに思ったよりも早く箱にたどり着き、向こうずねをぶつけてしまった。しばらくのあいだ、ぼくはすねをさすり、ぶつぶつ言いながらびっこをひきひきそこいらを歩きまわった。その時、箱の向こうに四角い光が見えた。
下水道に続くハッチが開いているのだ。ウルフとぼくが地下室に入った後でブラウンアイズがハッチを閉めたことははっきりと記憶に残っていたので、どうしてその後開いているのかぼくには理由が全くわからなかった――ブラウンアイズの父親がここを掃除したのなら話は別だが。でも、はねぶたを閉め忘れるなんてことはないだろう。泥棒に入られてしまうもの。
それとも密輸業者に。
床の明かりがちらちらし、どんどん明るくなっていき、そしてすぐに低い天井に床と同じ光の影が現われた。誰かが下水道をやって来る。ぼくの想像は乱れ始めた。もしここで密輸業者につかまったら、刺し殺されてしまう。ぼくはできるだけこっそりとドアの方に向かったが、恐怖のあまり方向感覚がなくなってしまっていたので気がついたら手さぐりしていたのは樽だった。光はますます明るさを増し、ぼくは催眠術にかかったように動くことができないまま見つめていた。手が一本、床から現われた。ランプを持っている。地下室全体がいきなり明るくなり、ぼくは大きな樽の陰に身を隠した。できるだけ静かに忍び足で後ずさりしていくと、壁際まで来た。そこでゆっくりと座りこんだ――あるいは恐れのあまり膝の力が抜けたのかもしれない――それから頑丈そうな材木の枠の上にのった、体が隠れるほど大きな樽の下からのぞいてみた。手は消えてしまい、ランプだけが石の床に置いてある。その横に蒸留液の罐があることにぼくは初めて気がついた。
その時、手が二本現われた。大きくて毛深い。床の端をつかんでいる。そして穴から男がよじ登ってきた。大男で、黒っぽいぼろぼろの服に身を包み、顔はロリンのようにもじゃもじゃの毛でおおわれている――男が立ち上がり、樽の前に立って足以外は見えなくなってしまう前にかれの正体がわかった。
シルバージャックだ。しばらくのあいだ足は動かないままで、かれが耳を澄ましているのがこちらにも感じられた。多分、かれの本能はその動物的な外観にふさわしいもので、ロリンと同じような方法でぼくの存在に気づいたのだろう。ぼくはさらに身を低くして、息をしないようにし、木や石に溶け込んでひとつになろうとした。とうとうかれは動き出し、裸足の足で地下室をドアまで大またに横切っていった。そこでまた立ち止まると、低く口笛を吹いた。
しばらく待っていたが、もう一度、ニュース鳩のように静かに低く口笛を吹いた。ドアの向こうに物音が聞こえ、シルバージャックはまた地下室の奥に戻って来たが、その時また別の足が静かにやって来た。かれと同じように裸足だが、毛深くはない。女の足だ。ひそひそ声の会話が交されたが、ぼくには数言聞こえただけだった。女の声はほとんど聞こえなかったが、シルバージャックがこう言うのが聞こえた。
「イザベル、グルーム前に」
それから長い沈黙が続き、そのあいだに二組の足はぴったりと向かい合い、シルバージャックと女はかすかな音を立てながら、触れ合っていた。ぼくは顔が熱くなるのを感じ、心のなかでくり返し言い続けた――今、見つかりませんように、今、見つかりませんように……。
ようやくシルバージャックは体の向きを変え、身をこごめて穴に入るとランプを取って行ってしまった。はねぶたは閉めていった。地下室はまた静かになった。女の方も行ってしまったようだったので、ぼくは隠れ場所からこわばった手足ではい出た。そこいらを手さぐりしてマッチを見つけ、ランプに火をつけた。しばらくのあいだこの事態について考えてみたが、解決法はありそうにもなかった。ぼくにできることといったら、ただ単に壜の箱を上に持って行くことだけだ。
箱を落とさないことに神経を集中させ、それ以外のことは考えないようにしながら頭をたれて酒場のドアをよろめきながら入って行くと、壁のように騒音がぶつかってきた。
冷たい手に手首をつかまれたので顔を上げると、ブラウンアイズがほほ笑みかけていた。「カウンターのうしろに持ってきてよ、ドローヴ」
ぼくはそうした。空《から》の箱の山の横に箱を置いて体を伸ばすと、ブラウンアイズの父親と母親が目の前にいた。どちらも口をきかず、それはぎごちない沈黙だった。
「ドローヴが下から運んできてくれたのよ」ブラウンアイズが嬉しそうに言った。「親切よね?」彼女はえくぼを見せて、無邪気にそして魅力的にほほ芙みかけた。
ぼくは嫌な気分だった。父親の驚き、さぐるような視線から目をそらしたが、アンリーを見るはめになっただけだった。真っ青な顔で唇だけが異様に赤い。茶色い壜を握りしめた両手はその力で白くなっている。
「何でもないさ」少しずつ離れながらぼくはみじめな気持ちで言った。
誰かが大声でビールを注文し、ありがたいことに呪文が解けた。アンリーは引き返して行き、グラスのぶつかる激しい音が聞こえたが、それもビールを注ぐとすぐさま落ち着いた。ガースは何かの冗談に大声で笑い、ビールポンプを引いた。ブラウンアイズはジョッキをいくつかつかむと、部屋の向こう側にいる客のところに運んで行った。彼女ががさつな客のそばを通り過ぎた時、そいつが彼女の腰に手をまわすのが見えた。彼女はたくみに身をひねると、何もなかった様子でやかましい一団にビールを配った。しばらくのあいだ、ぼくは殺してやりたいと思い、しかも自分の無力を感じながらそいつを見つめていたが、その時突然、どいつだったかはっきりしなくなってしまった。みんな同じように見え、そしてブラウンアイズは酒場の奥からぼくに向かってにこにこしている。彼女は別に何とも思っていないのだ。ずっと慣れっこになってきたことなのだ。彼女のことを何て知らないんだろう、彼女の人生とぼくの人生は何て違っているんだろうとぼくは初めて気がついた。
あの夜のことはこれ以上思い出せない。酒場のストックを補充するために何度か地下室に行くうちに状況は型にはまっていったようだ。気にくわない様子でブラウンアイズを見た男を殴ってやりたいと思ったことが数回あり、そのあいだにも飲んで騒いで歌うのは続いていたのだが、ぼくはほとんど気にとめなかった。
時がたち、ドアが激しく開いた時の突然の沈黙には気がついた。もうもうとした煙のなかで、あちらこちらとのぞきこみながらラックスのような顔をして戸口に突っ立っているのは親父だった。
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ぼくは見当がつかないほど長いあいだ、コテージに閉じ込められていた。目にするのは母親と父親、それに時おり、野原に建っている他のコテージの様々な住民、それだけだった。だがコテージの人たちは老人と言える位のおとなたちで、とらわれの少年の仲間ではなかった。監禁されているあいだにも太陽は水平線上に現われ、たそがれの光が明るさを増して最後には昼が夜と同じ長さになった。海は人を誘うようにきらめき、白い翼のようなディンギーの帆が、低いうなり声をあげる汽船に時おり行く手をはばまれながら、青い海原をすべっていくのが中庭《パティオ》から見える。今や真夏が訪れ、潮の流れは止まった。陽気は相変わらず、終始暖かく隠やかで、そのあいだにも自然はグルームの準備を整えているのだった。
とらわれの期間中、自分のやり方の誤りを反省し、かつ、ゴールデン・グルーメットから崖の上のコテージまで自動車《モーター・カート》で戻る道すがら、ぐすぐす泣き続けるお袋をかたわらにして親父が行なった、踏みにじられた親の立場についての熱弁をはっきりと思い出すだけの時間はたっぷりとあった。
「自分の息子が下品な宿屋《イン》で一般大衆の組野な輩と一緒に飲んだくれているのを見つけて、そこから引きずり出さなきゃいかんはめになる日が来ようとは夢にも思ってなかったぞ」
これが父のお説教の要点だったが、こいつは不公平だ。もし親父が酒場に押しこんできて、ぼくに手をあげるようなまねをしなかったら、ぼくは進んで出て行っただろう――実際、親父が戸口に立っているのを見た瞬間に帰りかけていた位なのだ。だけど親父はぼくに有無をも言わせず、ブラウンアイズや彼女の両親、それに満員の酒場の客みんなの目の前で、みっともない取っ組み合いをするはめに陥れたのだ。ある意味では、これは親父についてのぼくの先の意見の正当性を証明したわけだ。危機に直面すると、親父はいつも肉体的暴力に訴えるのだ。
次の日、父は奇妙に黙りこんでいた。まるで、父とぼくとのあいだに、厚いガラスの窓がそびえているかのようだった。お互いに顔を合わせはしたが、話をするのが不可能であることは明らかだった。母親が会話の空白を埋めようなどと思いさえしなかったならば、この状態はぼくにぴったり合っていただろう。
「いいこと、母さんたちにはお前がどこにいるのかわからなかったのよ、ドローヴ。ボートで出かけていくのを見た人がいてね――みんなの忠告に逆らったんでしょ、どうせ――それでボートが戻って来たら、あんたは乗ってないじゃないの。もうびっくりしてしまったわ。悲しみのあまり、お父様が気が狂うんじゃないかって思った位よ。母さんたちの気持ちを少しも考えなかったの?」
「パラークシ・ブラウンアイズが、ぼくの居場所を教えに来たでしょ」
「とーんでもない。何にも聞かないし、何にも知らなかったのよ。ドレバ・グウィルダと連絡をとって、彼女から、息子さんのウルフを旅館《イン》から連れて来たところだって、そして、あんたがあのおてんばと一緒にそこにいるって聞かされるまでは、何ひとつ考えがまとまらなかったのよ」
「ブラウンアイズのことを言ってるの? 母さん?」ぼくは冷ややかに尋ねたが、いささか性急に話を進めすぎたようだった。お袋はまだ勢いづいていたのだ。
「お前が、お父様やあたしの忠告に逆らってつき合っているらしい、あの女給のことですよ」お袋の顔は芝居がかって、しわくちゃになった。「ああ、ドローヴ、ドローヴ、母さんたちに対して何てことをしてくれるの、 こんな目にあうようなことは母さんたち何もしてないじゃないの。母さんのことは何も考えてくれないとしても、お気の毒なお父様のことを考えてごらんなさい。お父様のお顔に泥を塗ったのよ、お仲間の前で恥をかかせたのよ……」
こんな具合に話は数日間続いたのだが、ようやく、この問題に関するお説教のヴァリエーションが品切れとなり、お袋は非難がましい沈黙状態に陥った。解放されて、ぼくはこの不幸なできごとの全体をよりはっきりした頭で考えることができるようになった。最悪の目にはもうあった。今度はこの事件で生じた良い面を考える番だ。まず第一に、またブラウンアイズに会えた。そしてどうやら――ぼくはこんなことを考える勇気はないけれど――彼女はぼくを好いているらしい。少しでも長いあいだぼくを引き止めておこうと、彼女がぼくの居場所をわざとぼくの両親に教えなかったということは十分ありえることだとぼくは考えた。この考えにぼくは執着した。もちろん、彼女にはぼくの両親の反応など思いもつかなかったはずだ。酒場での父との見苦しいやり合いがぼくのイメージを傷つけなかったことを祈るだけだ。
第二には、シルバージャックに関するうっとりするような疑問だ。ぼくの心に疑いの影はなかった――あの男ば、アスタから酒を密輪してゴールデン・グルーメットや、それに恐らくはパラークシ中の酒場に配っているのだ。こいつはすてきな発見だったが、ただ残念なのは誰もこれを教えてやれる相手がいないことだった。親父はお袋との会話のなかで何度かシルバージャックのことを口にしていた――明らかに、あの毛むくじゃらは政府のために何か水先案内の仕事を引き受けようとしているらしい――でも、やつはこの地で、役人《パール》たちの鼻先で敵と商売しているのだ。ぼくの目には、かれはロマンチックな英雄像として映った。
こんなわけで、ぼくはのろのろと過ぎていく日々のあいだ、いくつかのすてきな考えを友にしていた。そしてとうとう、ある朝の食卓で親父がぼくに塩を取ってくれと頼み、お袋がその合い図をきっかけに、新しい服を出してくれた。親父が仕事に出かけた後で、お袋は何度かこちらを意味あり気にちらちらと見ていたが、ようやく口を開いた。
「今朝はお友だちがみえることになってるのよ、ドローヴ」
「ふーん?」
「昨日、ドレバ・グウィルダに会って、あなたをびっくりさせようと計画したの。グウィルダのすてきな息子さんのウルフがあなたに会いに来てくれるのよ。そして、二人で出かけるってわけ。すてきじゃないこと?」
「|ちぇっ《ラックス》。こんな|ひでえ目《フリージング》に会ったのもウルフのせいなんだ。ウルフはバカなんだぜ、母さん」
「ばかなことおっしゃい、ドローヴ。あの子はそりゃあ、お行儀の良い子ですよ。頼むからそんな乱暴な口のきき方をしないでちょうだいな。ウルフの前でそんな話し方をしないでね。さあ、母さん、出かけなくちゃ。たっぷり楽しみなさいね」にっこりと、とろけるような甘いほほ笑みを見せると、お袋は荷物をまとめて買い物に行った。
ウルフは午前の中頃にやって来た。カジュアルな恰好はしているのだが、ぼくには絶対にできないような――それに、したくもないような――風にきざっぼくまとめていた。「やあ、アリカ・ドローヴ」元気よくあいさつしてきた。
「おい、あの日、親に何て言った?」
かれは傷ついたようだった。「あれはみんな過ぎちまったことさ、ドローヴ。今日という日は、きみの娯楽と教養における新しい時代の始まりを印す日なんだぜ。ぼくら二人で、われらが友、シルバージャックを連れて、一般大衆がどのように暮らしを立てているのかを観察に、釣りに出かけようということに話が決まったんだ」
やつのエセおとな的態度は、この前会った時よりもさらに一段とひどくなっているらしかったが、船で出かけるという考えは魅力的だった。コテージから離れられることになるのだったらどんなことでも魅力的だったろう。「釣りの道具を持ってくのかい?」ぼくは尋ねた。「道具、さがさなくちゃならないんだ」
「道具は準備してあるはずだよ」かれは言った。「言っただろ、ドローヴ、万事計画済みだって。家《うち》の連中はこのシルバージャックとちょっとした関係があるんだ。おまけに、きみとぼくを一緒に出かけさせたがってるらしいや――どうしてだかはわからないけどね。ぼくらがお互いに似合いの友達だと考えてるんだろうな」やつは気にくわない、皮肉たっぷりのゆがんだほほ笑みを浮かべた。
ぼくらは港を目指して、丘を降りて行った。険しい道が外港の上に突き出ている地点まで来た時、ウルフは立ち止まって塀に寄りかかると、停泊中の船を見つめた。「話しとかなくちゃいけないんだけど、きみが引きこもっていたあいだに、変なことがいくつか起こったんだよ、ドローヴ」雪あび《スノー・ダイヴァー》がぼくらの目の下や横を、上昇気流に乗って舞っていた。時おり翼を閉じて、斜めに、あるいは垂直に降下してさざ波の下に一瞬姿を隠す。「ほら、あの下の所を見てみろよ」真下を指さしながらかれは言った。
ぼくは塀の上に身を乗り出した。鳥の巣でごつごつした崖は険しく切り立ち、ぼくらが難破した小さな浜辺へと続いている。アイス・デビルが潜んでいる、岩陰の池までも見えた。今は、水は穏やかで、人をあざむいているが、餌食が手の届く範囲内にいるとアイス・デビルが判断するや否や結晶化しようと身構えているのだ。「あそこがどうしたんだい?」ぼくは尋ねた。
「あの雨水排水管をちょっと調べてみたんだ」
「下水道のことかい?」
「下水道なんて呼び方はやめにしてもらいたいな。あの雨水排水管は、町のあらゆる場所に枝分かれして、ほとんどの場所の下を通っている。ぼくの意見はこういうことなんだ。つまり、夜、暗くなると、向こうの岬をまわって船がやって来る。そして、きみのコテージの下の岸めがけて、まっすぐ湾を突きぬけて来るんだ」かれは指さした。「それから、崖の下を通ってこの浜辺まで近づくと、ここで荷をおろす。そしてその品物はあのトンネルを通って運ばれるってわけさ」
「まだ、あの密輸がどうしたとかいうばかなことを話してるわけじゃないんだろうな?」ぼくは不安な気持ちで尋ねた。
「トンネルを使ってミルクを運んでるとは考えられないな」
「何かを運んでるって、どうしてそんなにはっきり言えるのさ?」
やつはずるそうな目でぼくの顔を見つめた。ぼくは初めて、やつの目と月が本当に寄っているのに気がついた。「どうしてって、見たからさ」かれは言った。
「見た?」ぼくはつぶやいた。ぼくはつい最近、密輸事件のことは口にしない方が良いだろうと心に決めたばかりだった。シルバージャックがこわいわけではなかった。あの毛むくじゃらは、間違いなく、自分のことは自分で始末できるだろう。ぼくが心配しているのは・ガースとアンリーのことだ――そして、この二人に関係深い、ブラウンアイズのことだ。ブラウンアイズが密輸のことは何も知らないのは絶対に確かだ。でなければ、品物の引き渡しが予定されていたあの晩に、ぼくを地下室に行かせるわけがない。それでも両親が関係しているのだから、犯罪行為が明るみに出れば彼女だって何らかの影響を受けるだろう。
「グルーメットの地下室で、おかしいなと思ってから。ずっとこの問題を調べてたんだ。普通は、三晩に一度、船があそこに荷をおろす、もう一度見てもきっとわかるさ。黄色い|甲板室《デッキ・ハウス》がついた船なんだ。ここで、きみの助けが要るってわけなのさ。次の荷物の引き渡しの夜に、二人であの岩陰の池のそばに隠れて、近くから連中のする事を見てやろうぜ。あの浜辺まで行くのに、きみの船を使うんだ」
「ばかなこと言うなよ!」
かれは向きを変え、ぼくらは丘を降り続けた。「考えてもみろよ、ドローヴ」何気ない調子で話しかけてきた。「何もないとしたって、面白い運動になるぜ。親父に何もかもまかせて、公の調査をしてもらうよりもずっと良いじゃないか、そう思わないか? つまりさ、間違ってるかもしれないだろ。なあ、おい、何かほかの話をしようよ、な? 最近、あのグルーメットの女の子に会ったかい。彼女、何て名前だっけ?」
「おい、いいか、彼女の名前だって、それにぼくが何日間も誰にも会わなかったことだってちゃんと知ってるんだろ!」
「ぼくら少し神経質になってるんじゃないかな?」魚市場を通り、シルバージャックの造船所に入った時、やつが他人事のように言った。やつは有無を言わせぬ態度で工場主に面会を求めた。それとほとんど同時にシルバージャック自身が姿を現わし、ぼくらを水ぎわまで案内した。すでに火がたかれ、安全弁に白い煙の柱を見せた蒸気汽艇《スチーム・ランチ》が、船架《スリップウェー》に続く埠頭に静かにとまっている。ぼくはあたりを見まわして自分の船をさがし、見つけ出した。カバーにおおわれているが、どうやらまともな様子をしているらしい。
「蒸気汽艇《スチーム・ランチ》か」ぼくは言った。蒸気汽艇《スチーム・ランチ》は浮かんでいるだけの自動車《モーター・カート》と大して変わらないとぼくは思っている。
シルバージャックはぼくの気持ちを察した。「いい船だぞ」かれは早口で、妙にうやうやしく言った。「こいつに乗ってりゃ、何の心配もいらんぞ。乗った、乗った」
「ちょっと待ってよ」ウルフが。言った。「まだ他にも来るんだ」かれは人待ち顔で町の方をふり返った。
「誰か来るなんて言わなかったじゃないか」ぼくは文句を言った。「ぼくら三人だけで釣りに行くんだと思ってたんだぜ。この船はもうこれ以上乗れないよ」
「ほら、来たぞ」ウルフが言った。
小ぎれいな恰好をした女の子が、船架《スリップウェー》に散らばった木っ端の上を優美に歩きながらこちらに向かってくる。同じようにきれいな服を着た小さな男の子の手を引いていた。最初、ぼくには連中がわからなかったが、近づいて来た時に、パラークシ・リボンと弟のスクゥイントの変装だということが見抜けた。
「ウルフ!」ぼくは切羽詰まってささやいた。「一体、あの子はここで何してるんだ? あいつの顔なんか見たくないんだ。お前、気でも違ったのか?」
「やあ、ようこそ」ウルフはぼくを無視して愛想良くこう言うと、リボンの手を取って船に乗せた。スクゥイントが恐ろしい顔でにらみつけながら後に続くと、シルバージャックは船を出した。エンジンがあえぎ、ぼくらはもやってある船のあいだをすべり始めた。この前港を見た時に比べると、ぐんと数が減っている。もっと船体の大きな船がたくさん、グルームに備えて係船してあった。
航海が始まって最初のうち、シルバージャックはご機嫌な様子で古ぼけたパイプをふかしながら舵を取り、海の話をしていた。話の内容は、本質的にはトラック運転手のグロープが話してくれたものと似ていだが、ただ、事件の舞台が陸の上ではなくて海の上で、地震や洪水の代わりに嵐や渦巻きが登場した。そのあいだ、かれの聴衆は二グループに分かれた。ウルフとリボンは話し手にはほとんど注意を払わずに操舵席《コックピット》の片側に座り、釣り糸をたらしながら、こちらには聞こえないことを二人でささやきあっている。一方、スクゥイントとぼくは何か落ち着かないが、一応仲良く向かい合わせに座っている。スクゥイントはばかみたいに口をぽかんと開けてシルバージャックの話に聞き入り、ぼくの方はウルフの裏切りについて静かに考えていた。これまでもやつのことを良く思っていたわけではなかったが、これほどまでに見下げたやつだとは思わなかった。
「そして、ほら空を見てみい、坊主」シルバージャックが聴衆のなかでただ一人謹聴しているスクゥイントに話しかけている。「あそこで輝いているフューを見ても、今、この時間に南じゃどんな具合か見当もつかんだろう。わしはそこに行ったことがある。本当だとも。流れる大きな雲に霧に、上を歩ける位濃くなった海。蒸発ってやつだな。おまけに浅瀬に近づけばアイス・デビルが船を捕えて、半年は放してくれんのだ。雨が降るまでな。何年も前、もっと若かった頃にわしはグルームを使ってたんだ。サザン・オーシャンで待つんだが、太陽がそりゃあ近くで照っていて、マストの先を焦がしちまうし、まわりの海はみんな蒸気になって消えちまうんだぞ。海んなかで雲を通して見晴らしがきくのはたった一個所だけ――そいつは南極にあるんだ――そこでわしらは、暑さと湿気で死にそうになりながらそこで待ったんだが、雲はでっかい渦を巻いて頭のすぐ上まで来るし、太陽は北に行っちまった。そしてもう何も見えなくなった時に、水がわしらを引っぱり始める。わしらは流れにのって北に連れて行かれるままにロックス車《カート》みたいに引きずられていくんだ。こうやってグルームについて行くわけさ……」
スクゥイントは目を見開いて、ウインターナッツをかじっている。
「密輸はどうなんだい?」突然、ウルフが割り込んだ。「若かった頃には密輸とずい分出くわしたんじゃないの、シルバージャック?」
こんな発言がなければまっすぐだったろう船尾の航跡が乱れ、ウルフがそれに気づいただろうかとぼくは思った。シルバージャックがゴールデン・グルーメットと関係あることをやつが知っているはずはないんだ、絶対に。
「密輪だって?」毛深い眉の下の小さな目の驚きにぼくは気がついた。「密輸だって? ああ、密輸のことは聞いたことがある」
「ねえ、聞いたことがないなんて人、いるかしら?」リボンがさえずるように言った。ぼくは彼女を苦々しく見つめた。この前見た時の彼女を想像するのはむずかしかった。汚なくてぼろを着て、下水道のなかをはいずっていたのだ。彼女はウルフのわきに座っていたが、かれの方はほとんど見なかった。事実、誰のことも見ていなかった。海を眺め、自分ひとりの熟しきった考えに浸りながら時おりこっそりとほほ笑むことで満足しているようだ。ぼくは前の彼女の方が好きだった。不愉快なまでに傲慢だが、少なくとも誠実だったからだ。
フィンガー・ポイントをまわると、荒涼とした黒い崖は、新しい罐詰工場がある入江の平たい陸へと姿を消した。波が高くなり、船が進んでいくと、かなりバウンドした。ぼくらは釣り糸を二本たらしていたが、魚は全然とれなかった。
「それで?」話のとぎれたところにウルフが口をはさんだ。
シルバージャックは、長くてこみいった物語を始めたが、その話の教訓は、密輸は――とりわけ戦時中は――引きあわないというものだった。結末近くなると、絞首台からぶら下がる犯罪者を表わして大きな毛深い手がかれの前でゆれ、声は感動のあまり震え、仕ぐさ全体が悔恨の、告解室の雰囲気を帯びてきた。罪人は死に、シルバージャックの自伝的英雄をロリンが墓地まで荷車で運ぶあいだ、話のなかの妻はハンカチに顔をうめてすすり泣いた。シルバージャックは、みごとに話したという確証を求めるかのようにぼくの方をちらちら見続けていた。ぼくは体がカッと熱くなり、落ち着かない気分になった。ぼくが知ってるということをかれはどの程度知ってるのだろう――もしかれが気がついているのなら、誰にも言うのはやめよう。やがてかれは立ち上がるとぼくに舵を取るように言いおいて席を離れた。休息が必要なのだ。かれはゆっくりと階段を降りると小さな船室に入り、背後のハッチを閉じた。ぼくら残りの連中は不安気に顔を見合わせた。ぼくらは船長を動転させてしまったらしい。
その時船が魚の群れに突っこんだので、しばらくのあいだは、ぼくを除く三人が釣り糸を巻き上げ、血やうろこをはね散らかす魚をはずし、釣り糸をまた投げて直ちに同じ作業をくり返さなければならないという激しい作業が行われた。この興奮時の最中、ぼくはリボンがすましかえった態度を捨てて、両手を血なまぐさく濡らしながらウルフやスクゥイントと一緒に懸命に働いているのに気がついた。三人が楽しんでいるらしいことに少し困惑しながらも、ぼくは必死に舵とりに専念しようとした。小さなスチーム・ディンギーが行く手に現われた。乗組員の姿が全く見えなかったので、ぼくは最初それが当てもなく漂っているのかと思ったのだが、近づいてみると|船べり《ガンネル》から釣りざおが突き出ているのが見えた。
ぼくらは入江と新しい罐詰工場のすぐ近くまでやって来た。ここの崖はフィンガー・ポイントの崖ほどには高くも険しくもないが、それでも波が白く泡立つ水ぎわには大小の岩がごろごろと重なり合っている。あのディンギーはそちらの方向に流れていっているような気がまたして、乗員は寝こんでしまったのだろうかとぼくは思った。二、三度、短く汽笛を鳴らしてみた。
リボンが、魚をかぎ針からはずす手をとめた。「子供みたいに遊ばなきゃいられないの?」
今や二十ペースほど向こうの船をぼくは指さした。魚釣りをそっちのけにして、みんなは立ちつくしたまま、漂流していく船を見つめた。ぼくはエンジンを絞って速度を落とした。船底に男がひとりあお向けに横たわっているのが見えた。腕まくらをしている。
「心臓の発作だよ」スクゥイントが当てずっぽうで言った。「釣りをしてて、でかいのがかかったんで、興奮しすぎたんだ。それで倒れて死んじゃったんだよ」
「お黙り、スクゥイント」リボンが命令した。「もっとマシなこと考えなさい。シルバージャックを連れておいで」
「わきにつけろよ」ぼくがちょうどわきにつけようとしている時に、ウルフが言った。
スクゥイントが船室から登ってきた。ピンクに染まった顔をして、少しおびえているようだった。「シルバージャックが起きてくれないんだ」かれは言った。「変な匂いをさせてるんだよ」
ぼくらの上に責任が降りかかってきた様子はまことに非現実的なものだった。ついさっきまでは楽しく釣りをしていた。それが今は、何の前触れもなしに、ぼくらは死体を二つ抱えこんでいるのだ。スクゥイントが船室で嗅いだというのは腐敗の匂いなのだろうかと取りとめもなく考えていたのをぼくは覚えている。ボイラーの圧力計は下がってしまっており、どうしたら良いのかぼくにはよくわからなかった。もう一隻の船がぼくらの船にぶつかっていて、ウルフとリボンは命令を待ってぼくの方を見ている。今は支配権を放棄しようとちゃっかり決めたのだ。水面は波立ち、崖は近くに見えた。風が強くなり、ぼくらの船をまわした。
「気持ち悪い」スクゥイントが言った。
「リボン」ぼくはきっぱりと言った。「行って、シルバージャックを起こしてみてくれないか。スクゥイント、風下に行ってなよ。ウルフ、|かぎざお《ボートフック》であの男を突ついてみてくれよ」三人が飛び上がって言うことをきいたので、ぼくは責任をもつことの強みがわかった。ひとたび命令を下してしまえば、責任ある身の人間は自由にリラックスできるのだ。ぼくは腰をおろして、事態を成行きにまかせた。
スクゥイントは船ばたで吐いていた。リボンはちらとかれの方を見ると、今度は喧嘩腰にぼくをにらんだ。「自分でシルバージャックを起こしてよ。あの船室は女が入る所じゃないわ」
その間、ウルフは|かぎざお《ボートフック》をつかみ、船が大波でゆれるためにいくらかバランスをくずしながら、とがったさお先で男の横腹を突ついた。
男の健康状態に関してぼくらが抱いていた疑いは、かれが苦痛の叫びを上げて、わき腹をつかみながら立ち上がった時に氷解した。男はいきなり悪態を矢つぎばやにつき始めたが、その声は、始まった時と同様にいきなりやんだ。突然、誰もかれもが黙りこみ、船がぶつかり合うなか、誰もかれもがびっくりして見つめていた。男が釣りざおを取り上げ、奇妙な、へら形の指で手早くリールを巻くのをぼくらは見ていた。かれは無駄のない動きで計器類をチェックし、舵輪の前に腰を下ろして、スロットルを前に倒した。ぼくらの方は二度と見なかった。エンジンが忙しく働き、水がとも[#「とも」に傍点]のまわりで沸きたった。スチーム・ディンギーはすべるようにスピードを増し、一段と加速しながら大きくカーブを描いて入江の入口目ざして行った。
ぼくらは顔を見合わせた。みんなおびえているのがぼくにはわかった。しばらくのあいだ、誰も口をきかなかったが、とうとうウルフが、ぼくらみんなの考えていることを、瞑想にでもふけっているような調子で声に出した。
「おかしいな。あいつ、アスタの方言で話してたぜ」
スクゥイントはもっとはっきりしていた。「あいつ、スパイだ」きっぱりとこう言った。「いやらしい、アスタのスパイだ」
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「追っかけようよ!」ぼくがスロットルをぐずぐずとさわっていると、スクゥイントがせっついた。「何を待ってるの?」
男の船はどんどんと遠ざかっている。シルバージャックの釣り船よりも一段と速度が出る船にちがいない。すぐにも追いかけたいという誘惑は確かにあったが、そんなやり方は先を見越していないようにぼくには思われた。捕らえようと思わずに追いかける人間はいないだろう――だが、アスタのスパイを捕らえるという考えはどうも気にくわなかった。死にもの狂いだろうし、多分、武器だって持っているだろう。「逃がしてやろう」ぼくは言った。「あとでやつのこと、報告しよう」
「逃がすだって?」ウルフが怪しむように言った。「きみは何て愛国者なんだ、アリカ・ドローヴ? ぼくらにできることといったら調べること位なんだぜ。あいつに追いついて対決するんだ。やつが正直に話せば、何にも危ないことはない」
「ついさっきは、お前が対決してるところなんか見えなかったぜ!」
「あれは状況がまずかったんだよ。アリカ・ドローヴ。わき腹を突ついた男と対決なんてできっこないだろう。それに、みんなびっくりしてたしね。こんな海の真ん中で、アスタのスパイと出くわすなんて想像できないじゃないか」
「急いで、急いでよ!」はねまわり、危なっかしいほどに船をゆすりながら、スクゥイントが叫んだ。「あいつ、逃げちゃうよ!」
「シルバージャックが何て言うか聞いてこいよ、ウルフ」ぼくはやけになって言った。
かれは船室に姿を消し、スクゥイントははねまわり、叫び続けた。リボンは思いにふけるようにぼくを見ていた。ぼくがこわがっているのだと彼女が言いかけているのがわかったので、ぼくはせっせと、小さな炉に乾いた樹皮や細い丸太を積み上げた。火は小さくなってしまっていた。これは、ボイラーの圧力が落ちているということだ。
ウルフがぼくの上に立ちはだかっていた。「シルバージャッグは酔っぱらってる」かれは言った。こんなことは全くよくあることだという様子だった。「とても決定を下せる状態じゃないな」
ぼくは体を伸ばし、海を見渡した。目に映る船はただ一隻、逃げて行くスパイの船だけだった。真夏はいつも海が隠やかな時期だ。大きな船は係船されているし、海水はまだスキマーに向いた状態ではない。「じゃ、パラークシに戻らなくちゃ」
「いつからきみが船長になったんだ、アリカ・ドローヴ?」
「シルバージャックが下に行く前に、ぼくに舵を渡したのを覚えてないのか」
「時間の無駄だよ! 時間が無駄になっちゃうよ!」スクゥイントは逆上していた。
「いいか、みんな」ウルフはリボンとスクゥイントに話しかけた。「スパイを追っかけるのに賛成の人は?」
「賛成! 賛成!」スクゥイントはわめいた。リボンは落ち着きはらってうなずいた。
「こっちが多数だな」満足げにウルフは言った。「どいてくれよ、アリカ・ドローヴ。きみの支配権を無効にするよ」
「これは反乱じゃないか!」
かれはぼくの腕をつかむと、スロットルから――ぼくの権威の象徴から――手を引きはなした。ぼくは申し訳程度に逆らいはしたが、みんながぼくの敵だという事実にははっきり気づいていた。肩をすくめて操舵席を離れると、ぼくは船室をゆっくりと歩き、むっつりしようと前甲板まで出た。ぼくは腰をおろして岸を見つめた。船室の屋根のおかげで戦勝者どもから見られないのがありがたい。ぼくは連中を静かに、そして激しく憎んだ。ウルフの横柄な態度を、リボンの傲慢な性格を憎んだ。畜生《ラックス》、よくお似合いの二人だよ。
ウルフがエンジンを全速力に上げたので、船が足元でゆれた。前方に目をやると、入江の低い岬のあいだをスチーム・ディンギーが行くのが見えた。速度を落としたようだった。スクゥイントの興奮した声が聞こえる。スパイは内陸に向かっているが、一体どこに行くつもりなのだろう。やつがエルトの海にいる理由は何であれ、指示を受ける基地があるはずだ。あの小船では外洋じゃもたないだろう。あの辺に裏切り者たちがいるにちがいない。
すぐに、ぼくらの獲物は、入江にもやっている漁船のあいだに姿を消してしまった。グルームが来た時、罐詰工場はどうやって供給物資を手に入れるのだろうかとぼくは考えた。そうなれば水位が下がり、入江まで行けるのは一番小さなスキマーだけになる。それぞれの岬には四角い建物が建っていた。その時ぼくは、それは工場への奇襲に備える見張り所に過ぎないのではないかと思った。
突然、両方の見張り所からもくもくと煙が立ちのぼり、一瞬後には強力なエンジンのとどろきが海の向こうから響いてきた。ぼくらの船のエンジンがだらだらと動いているなかでも、その音ははっきり聞こえた。ぼくらは岬のあいだまで来かかっていた。男たちがぼくらを見おろして、何か手ぶりをしている。ぼくらを停めたがっているのだ。ぼくはあわてて立ち上がると、とも[#「とも」に傍点]に向かった。船の新しい指揮官はどうも信用できないからだ。
操舵室に足を踏み入れるや否や、ぼくは、全くの無秩序状態に直面した。スクゥイントは小さな顔に決心したような表情を浮かべて、完全に前に倒したスロットルにしがみついており、同時にウルフが、かれの手と舵を引きはなそうとしている。リボンは弟をどなりつけていたが、これはどんなことがあっても進むぞという弟の決意を強めるのに役立つだけだった。
「連中は停めたがってるのよ、スクゥイント! はなしなさい、バカ。座礁しちゃうじゃない!」
ぼくの知ったことではなかった。船を難破させたいのなら勝手にしろ。ぼくには関係ないことだ。腰をおろしかけた時に、スクゥイントの目が突然、恐怖で見聞かれるのが見えた。かれは口をあんぐりあけると、狂ったようにスロットルを引いた。エンジンの速度が落ちたので、ぼくは前を見た。
前方の海面から何かが現われてきた。何か大きくて黒いもので、しずくを垂らし、水藻でおおわれている。まず初め、恐怖のなかで頭に浮かんだのは、未知の海とそこに住む未知の生き物についてシルバージャックが話してくれた不気味な話だった。ぼくらの前にそびえ立ったのはラギナ、アイス・デビルの女王、死の惑星ラックスの伝説の恋人だ。こんな立派なモンスターが、どうして小船の四人の子供なんかにわざわざかかずらうのかと思うゆとりはぼくにはなかった。目前の物体はゆれ動く触手となり、ぼくらの行く手をはばんだ。
ウルフが上舵を取ったので、船は激しく傾いた。みんなが重心を失って操舵室でよろめいた時、呪文がとけた。ぼくらと平行して走っているのは、太い、錆びた太索で、そこから何本もの鎖が垂直に海中に下がっている。どの鎖も、岬上の二つの建物のあいだにつるされており、明らかに入江を守るように、従って罐詰工場を他国からの侵入者から守るように作られていた。だが、もう一隻の船は通れた……煙の柱は、見慣れぬ船が近づくと海底からこの装置を引き上げるスイーム・ウィンチから出るものだった。
「誰か来るよ」スクゥイントがこわごわと言った。
片方の岬の下の波止場から、足の速いランチが突進してきた。ウルフが船をまわして、外洋にへさきを戻した時、前甲板に集まって、大きく複雑な機械を動かしている男たちが見えた。突然、男たちが白い雲に包まれ、妙な音――ヒュー、ドサッ――が聞こえた。突然、へさきから数ペースの海水がわき上がった。
「スチーム・ガンだ!」ウルフが驚いてうなった。「畜生《ラックス》。とまらなきゃ」ウルフはスロットルを引いた。ぼくらが静かに波間でゆれていると、砲艦が急速に近づいてきた。ウルフの顔はさっと赤らみ、すぐに恐怖が怒りに変わった。「一体どんな権利があって、ぼくらに発砲したりするんだ。こいつはどうしても知りたいもんだ! ここはエルトだぞ! やつら、気でも狂ったのか? 親父にこのことを報告してやる!」
「そうしろよ、ウルフ」ぼくは皮肉たっぷりに言ってやった。「でも、そのあいだに、話をつけてぼくらを助け出してくれよ。罐詰工場が立入禁止区域だってことはきみもぼくも承知してることだろ。あの砲艦は、ぼくらがアスタ人だと思ってるんだぞ!」
かれは悪意に満ちた顔をぼくに向けたが、砲艦が横付けになると、その顔は愛想笑いに変わった。気がつくと、スクゥイントとリボンとぼくは自然に操舵室の前方に集まり、ウルフひとり、罪の証拠たる舵を握ったまま、船尾に取り残されていた。
「子供だけだぞ!」誰かがこう叫ぶのが聞こえ、次に、男がひとりこちらに飛び移ったために船がゆれた。かれはエルト海軍のダークブルーの制服を着ており、操舵室の中央に立つとぼくらに威張り散らした。「さてと」かれは言った。「こいつは誰の船だ?」
「パラークシ・シルバージャックのものです」ウルフが熱心に言った。「船室で酔っぱらっちゃってるんで、ぼくらで動かさなきゃならなかったんです。助けてもらおうと思って来たんだけど」言葉を浪費することなどに何らの価値も認めていない海軍兵がぼくらを押しのけ、ウルフの言ったことを確かめに船室に降りて行った時、船室のドア付近で一瞬、ごたごたがあった。スクゥイントは非難の目でウルフをにらんでいた。
「スパイはどうなったのさ!」かれはかなり大きな声でささやいた。「スバイのこと話さなかったじゃないか!」
「黙ってろ!」ウルフは叱り返した。「もう話を変えることはできないし、この方が良いんだ。スパイなんて信じてくれやしないけど、シルバージャックが酔ってるっていうのは証明できるからな」
男が、気むずかしげに布きれで手をふきながら、船室から現われた。「言ったとおりだな」かれは言った。「戦時中は入江は立入禁止区域だってことを知らないのか? ばかなガキ共相手に子守女の役をやってるほど暇じゃないんだぞ。もっと大切な仕事があるんだ。あんな風に銃の下に入ってきやがって、殺されてたかもしれないとは思わんのか? それにウインチの腕に突っこんでたかもしれんぞ」
「ええ、でも大丈夫だと思ったんです」海軍士官の態度にろうばいして、ウルフはべちゃくちゃしゃべった。
ぼくはと言えば、ろうばいはしなかった。ぼくは激怒していた。この男は、ぼくにしょっちゅう出くわすことになっているらしい、傲慢タイプの|野郎《フリーザー》だ。このタイプは――ウルフ同様――自分以外の人間はみんなばかだと思っているんだ。こいつは許可なしに船に乗りこんできて、おまけに今度はぼくらにお説教しようとしてやがる。怒りの真っ赤なカーテンを通して、ぼくは自分が話しているのに気がついた。
「ぼくらは殺されやしなかったよ。あんたのキャプテンはぼくらを沈める前に事の次第を確かめるだけの頭があるだろうからね――たとえあんたになくってもさ。岬のどの銃も同じことだよ。それにあのウインチは、何かが近づいて来るのを見つけたとたんに動き始めるんだから、どんなバカだってウインチの腕を避けるだけの時間はあるじゃないか。もしぼくの言うことに同意できないって言うんなら、証拠はすぐ目の前にあるよ。ぼくらはまだちゃんと生きてるだろ。危ないことなんか全然なかったのさ」
士官は冷たくぼくを見つめていた。背が高い、不屈の男。突然、これも見せかけなのだと、かれは打ち負かされているのだとぼくは気がついた――かれが残してきたのは年と制服だけなのだと気がついた。その下では、かれは一個の知的生命体に過ぎないのだ。ぼくと同じだ。どちらが上ということもない。
ウルフが、ぼくの高揚した士気にすかさず乗じた。「それに言っといた方が良いと思うんだけど、このぼくの友達のお父さんは罐詰工場でかなり重要な地位についてるんだ、アリカ・バートっていうんだけどね」
こん畜生、ウルフ、凍ってくたばっちまえ、とぼくは思った。ぼくには親父なんて必要ない[#「必要ない」に傍点]んだってことがわからないのか? 親父なんて欲しくない[#「欲しくない」に傍点]んだってことが?
「そうなのかね?」男はまだぼくを見ていた。
人格がアイス・デビルのように結晶する瞬間というものが人生には存在するとぼくは信じている。子供時代の頼りなさ、外からの影響、服従、責任のなさ、こういうもろもろのことの果てに、自分で決心する瞬間だ。ぼくはそういう風に進んで行く。この目で見てきたし、両親や教師の意見にも耳を傾けてきた。知らないことがまだあるとは認めるけれど、ぼくの人格はもう、新しい事態に出会っても投げ飛ばされないまでに形成されているのだ。新しい事態によって世のなかをもっと知ることはできるだろうが、その世のなかに対するぼくの態度や、世のなかでのぼくの役割についての考えが変わることはない。少なくともぼくは、自分が正しい[#「正しい」に傍点]時がわかる位には他人を理解している。
そんなわけで、父親が工場で力があるということをぼくは否定しなかった。否定すればおとなげない頑固さや、人は自分の持っている武器を使わねばならぬという認識の欠如が明らかにされてしまうからだ。ぼくの前には制服姿の男が立っている。おとなの象徴、権威の象徴だ――そしてかれは打ち負かされなければならないのだ。かれを打ち負かした時、ぼくは、幼い頃からぼくの人格の成長を妨げてきた息が詰まるような重荷を取り除いたのだろう。
「そうだよ。父はアリカ・バート。ぼくはアリカ・ドローヴ、あんたがここから出てってくれたら、ぼくらはまた出発するよ。ちゃんと一人でこの船を動かせるからね」
かれは肩をすくめた。妙な表情が目の奥に浮かび、かれはつぶやいた。「そうだろうな。良い航海をな」男がくるりとふり返って砲艦に乗りこむと、砲艦は向きを変えて離れて行った。この対決はあっというまに終わってしまったので、まるで何事も起こらなかったように思えた――でも、そういうわけではない……。
ぼくがとも[#「とも」に傍点]まで行くと、ウルフは舵を放してわきにどいた。かれはぼくを尊敬のまなざしで見つめていた。これが長続きしないことはわかっていたが、しばらくのあいだ、やつはぼくを尊敬のまなざしで見つめるのだ。「すごい見ものだったよ、アリカ・ドローヴ」
港へ戻る途中、ぼくらはスパイについて話し合った。スクゥイントは、真夜中に捜索に出かけようと言った。真夜中に、あの謎の外国人を捜して罐詰工場付近をくまなくさぐってみようというのだ。リボンは、かれの理論の欠点を指摘した。真夜中にはスパイはベッドの中で眠っているだろうから、居場所を突き止めるのはむずかしいだろう。ウルフはもっとましな提案をした。
「親父さんに、工場の人間でアスタ訛のやつがいないかどうか聞いてみたらどうだい、ドローヴ?」
この解決法は気に入った――新たに手に入れた成熟を試してみるチャンスになるのではないだろうかと思ったからでもある。ただ単に、男対男として、説明を求めるのだ。酔っぱらいの船長と一緒にぼくを送り出したことで父を責めることだってできるかもしれない。
ぼくが、パラークシの港のなかをたくみに船を動かして埠頭に船をつないだ後で、ぼくらは次の朝に会う約束をした。もう午後も遅く、ウルフ、スクゥイント、リボンと別れて造船所に入った頃にはあたりは急速にたそがれていった。ぼくは、自分のスキマーが大丈夫かどうか確かめたかった。もう何日間もスキマーを見る機会がなかったのだ。
船体を調べて、上塗りについた何本かのひっかき傷のことで心配していると、シルバージャックが大きな毛むくじゃらのこぶしで赤い目をこすりながら、よろよろと近づいてきた。「何で起こしてくれなかったんだ、坊主」かれは言った。「いつ帰ってきたんだ?」
「ついさっきだよ」
「寝ちまったんだな」
「酔っぱらってたよ」
「おい、おい、坊主」かれは驚きあわてた顔でぼくを見つめていた。「そいつは、みんなに言いふらして歩くには、あまり愉快な話じゃないなあ、そうだろ?」
「忘れちゃいなよ」ぼくは行きかけたが、かれに腕をつかまれた。
「親父さんに言わんだろ?」
「どうして言っちゃいけないのかわかんないな。あんたが、ゴールデン・グルーメットに蒸留液を密輸してるのを見たってことだって話すつもりだよ」すぐさま、ぼくはこんなこと言わなければ良かったと思った。
「事務所においで、な、ドローヴ」かれは穏やかにこう言うと、ぼくの腕をはなして、ぼくに自分で決めせた。ぼくはかれの後について行った。「座りな」こう言うと、かれはデスクの向こうにすべり込んで、下品なたばこに火をつけた。「二人で話し合わにゃいかんな」
「話すことなんてない」
かれはじっとぼくを見つめた。気を取り直したようだ。「そうかね」かれは言った。「それじゃ、わしの方で話があるんだ。さてと、まずだ、この場所をちょいと見てもらいたい。ちょいとした商売だと言えるかい?」
「繁盛してるんじゃないの」
「とんでもねえ。こいつのおかげで何年間も金をすっちまってるんだ。そうしたところへだ、去年、政府が小船の数を減らす新しい漁業規則を作りやがった。密輪を減らそうって腹なんだろうな。うちには、大きなトロール船を作るような設備はないから、お前さんのスキマーみたいな、小さなレジャー用の船を作ったり、修理の仕事をしたりして生活してかにゃならん。言ってることがわかるか?」
「今のところは」
「よし。だから、わしは生きていくために、いくつかの、その、配達をして、わずかな金を稼いでるんだ。厳しいご時世なんだよ――戦争のおかげさ――それにわしは、戦争になる前に、アスタの船乗りをたくさん知っとった。良いやつらだ。だから、コネが色々とあるのさ。ほんのわずかな必需品を運び込み、連中に必要なものをほんの少し送り出す。そうすればみんなが幸せなんだ。それに、どっちみち、わしはこの仕事からすぐに足を洗うつもりなんだよ。親父さんが良い金の仕事をくれたんでな。もしお前さんがあれこれしゃべりまわったりしたら、親父さんの気持ちが変わっちまうだろう」
「父が裏切り者を雇うかどうかぼくにはわからないよ」
突然、かれは立ち上がった、威嚇的な様子はなかった。ただうんざりし、怒っているようだった。「お前の親父は役人《パール》だ。お前も同じような考え方をするんだろうな。これだけは聞くんだ、坊主。このパラークシではな、政府やら配給制やらいまいましい制限やら政府の小汚ない秘密なんぞがなかったら、誰も戦争が起こってるなんて気がつきゃしなかったろうよ。わしらはいまだにアスタと商売をしてる――こっそりとやらなきゃいかんけれどもな。前と同じ位の魚をとり、穀物を作ってる――なのに議会は、それを食っちゃいかんて言って、わしらから取り上げちまいやがる。奥地の町がいくつも飢えちまってるからだって言いやがるんだ。なら、その町は戦争前はどうやってやりくりしてたってんだ。ぜひとも知りたいもんだ。こいつは議会の戦争のようだな、わしらの戦争じゃない。どうして連中はわしらのことは放っておいて、自分でアスタ軍と戦わないんだ、わけがわからん!」
かれの声はどなり声にまで高まり、ぼくはかれを見つめた。「みんながあんたみたいな考えを持ってるわけじゃないっていうのはありがたいことだね」父のお気に入りの文句を使って、こう言ってやった。
かれは、ぼくの肩をぎゅっとつかんだ。「だがな、みんなこう思ってるんだよ、ドローヴ坊主」かれはつぶやいた。「みんなそうなんだよ。このパラークシじゃ、議会の友達は一人もおらんってことが今にわかるさ」
ゆっくりと歩いてコテージに戻る途中、ぼくはまじめに考えごとをしていた。心のなかに、ある高揚感があり、その正体を突き止めるのにしばらく時間がかかった。でも、崖の頃上への段々で立ち止まり、港の向こうで停泊している船や、向かいの山腹の家々とそのあいだにある古い罐詰工場や、働いたり遊んだりただ埠頭に座って眺めたりしている人たちを見ているうちに、はっきりわかった。
ぼくは抱きしめたいほどにパラークシの町を愛しているのだ。船を、生活を、この空気を愛しているのだ。そして、パラークシが議会と、議会が代表する統制や規則に反対だというのなら、ぼくも反対だ。一個の人間としての自分に目覚めていくなかで、ぼくは同一化できる目的を必要としていたのだろう。全く一人でやっていける者はいないということに恐らくぼくは気がついていたのだ――そして、これがぼくの目的だ。パラークシが。再び登り始めた時、一人の老婆とすれちがった。彼女は苦しみ、弱り、疲れ果ててはいるが、不屈に見えた。そして突然、彼女が、政府に支配されているこの町を象徴しているように思われ、ぼくは、彼女の腕をつかんで「お母さん、ぼくはあなたの味方です」と言いたい気分になった。
象徴的ではあるが、彼女は人間であり、恐らくは、忠実な未婚の娘を服従させる一方で関節炎の不平を言い、ベッドを濡らしているのだろうということに気づき、ぼくは手をそのまま出さずにいた。
両親は船旅の様子を詳しく聞きたがったが、ぼくは、シルバージャックの落度のことは何も言わず、手を加えた報告をしておいた。それから、こう質問した。「父さん、釣りをしている男に出会ったんだけど、そいつはアスタ訛があったんだ。やつが入江をのぼって行ったんで、正体を突き止めてやろうとぼくらも追いかけたんだよ。でも、入れてもらえなかった。新しい罐詰工場のそばで、アスタ人が何をしてるんだろう?」
父は、がっかりするほど気楽なほほ笑みを浮かべた。非常にご機嫌が良いようだった。「そこで働いてるんだろうな、ドローヴ。何人か亡命者がいたんだよ。宣戦が布告された時にアスタに住んでいたエルト生まれの人たちで、抑留される前にどうにかこうにか逃げてきだんだ。なかには、子供の頃からアスタで暮してる人もいたんだが、それでも逃げ出すか、閉じ込められるかしなきゃならなかったんだ」
「持っていたものをみんななくしてしまったのよ」母親が口をはさんだ。「アスタ人ていうのは、そういう悪魔なんだわ」
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次の朝、食事の後で、ぼくは埠頭まで降りて行った。ここ数日のうちに、輝かしい日の光は、グルームの始まりを告げる薄がすみに変わっていたが、それでもその日は良い天気で、ぼくは、何事もない日でありますようにと祈っている自分に気がついた。早朝のニュース鳩が数羽、メッセージ・ポストの高い塔のまわりを飛び交い、そして水ぎわでは雪あび《スノー・ダイヴァー》が魚市場の屋根に並んでいる。海鳥の教はいつもより少ない。多くの鳥が、グルームの到来を感じて北の方に飛んで行ってしまったのだ。魚市場での取り引きはゆっくりしていたが、ぼくはしばらく足を止めて、競売人が色々な収穫を売るのを眺めた。いつものことながら、かれの矢つぎばやの符丁がわからなかったので、しばらくしてからまたぶらぶら歩いた。まもなくしてグルームが始まり出したら、日が短くなって競売人がたくさんの魚を売り払う時間が足りなくなり、せりは夜までかかるだろう。ランプがともされ、ポータブルのヒーターが取り付けられ、はるか奥地から来た、青白い顔の買い手たちはうなずいてせり落とし、アリカやホーロックスやイバナへの船積みの手配をするのだ。
飽くことを知らぬ支配欲に取りつかれた議会は全ての品を引き取ることはせず、割り当て量を定め、水揚げの半分は、どこかの忘れ去られた倉庫で腐らせてしまうということにいつもなっていた。
魚市場の向こうには、ずっと昔に忘れられてしまった何かのできごとの記念碑が立っている。あれやこれやのちっぽけなできごとや人物のために記念碑を建てるという議会の強迫観念の理由がぼくには全く理解できない――だが、パラークシのオベリスクはすばらしい待ち合わせ場所として役に立っている。その目的は知らなくても、みんなその場所は知っているのだ。背中をこちらに向けて、海を見おろす柵にもたれながら、ウルフとリボンとスクゥイントが立っている――それにブラウンアイズもだ。突然、またあの息が詰まるような感じがして、自分がばかなまねをしそうだということがわかった。ぼくは昨日から自分と折り合いをつけているのだから、このような出会いは何の苦もないはずだということを、ぼくは思い出そうとした。
「やあ」みんなのうしろから近づき、ぼくは声をかけた。ウルフとリボンはもちろんぼくを無視して、二人だけの話を夢中になって続けていたが、スクゥイントはふり向き、ブラウンアイズもふり向いてくれた。
ブラウンアイズはかすかにほほ笑み、スクゥイントが言った。「オーケー。準備できたね?」
「準備って、何の?」
「スパイのやつをつかまえに行くんじゃないの? あいつを牢屋に入れるんだ」
「スパイなんていないんだ」ぼくは言った。ぼくは、父親が言ったことを話してやったが、かれは納得しようとしなかった。
「でも、とにかく」かれは言った。「フィンガー・ポイントの辺まで散歩に行くことに決めたんだ。そうすれば、同時に調べることもできるものね」
「あそこまで行ったって何にもならないんだぜ」ぼくはじれて言った。
ウルフがふとふり返り、ぼくがいることに初めて気がついた。「嫌ならよせよ」かれは言った。「でもぼくらは行くからね。行こうよ、リボン」かれは彼女の腕を取り、二人はぶらぶらと歩き始めた。
スクゥイントに、「おいでよ、ドローヴ」と言われ、また、ブラウンアイズがどんな態度でいるのかわからなかったし、どんなことでも仲間はずれにされるのが嫌なのは確かだったので、ぼくはついて行った。
フィンガー・ポイントへの道はまず港のはずれをたどり、それからその上の、木が生い茂った地域へと険しい登り坂になる。ぼくらは、防波堤の風下側の端にある小さなベンチでひと息入れ、漁師たちがグルームに備えて喫水の深い船を係船しているのを眺めた。それは普段は見られぬ作業だった。二十人ほどの男たちが二グループに分かれ、浮かんでいる船の両端をつかむ、特定の合図の下に、たたらを踏み、転がりやすい丸石で足をすべらせながら船を持ち上げて、水ぎわと平行に置かれたひと続きの短い丸太の上まで引っぱって行く。ロリンが何匹か手伝っていた。濡れた毛ががっしりした足でもつれ合っている。もちろん、船はこの丸太の上を、浜の置場所まで動いていくという理屈だ――だが、事はそううまくは運ばなかった。小石の大きさのために丸太が回転せず、頑固に止まったままで、船の重さで砂に沈んでしまった。ぼくはいつも、丸太なんかない方がうまくいくのではないかと思うのだが、これは全て伝統的な作業になっており、堤に見物人が並ぶなか、男たちは特別な服を身にまとい、船を引きながら歌を歌うのだ。
いつの日か、実りあるグルームのために牧師に太陽神フューへの祈りを捧げてもらうことを誰かが考えつき、全ての作業がうまくいくだろう。
ぼくは、もっと大きな船を浜に引き上げるのを見る方が好きだった。これは、乱暴だがぼくの気に入った実際的な方法で行なわれた。古い罐詰工場の線路から浜まで仮の線路が敷かれ、スチーム・エンジンが船のへさきに結びつけられる。そして、きれぎれの排気音や回転するエンジンの悲鳴のなかを、船は情け容赦もなく目的の位置へと引っぱられて行った。
ぼくらは、道と線路がぶつかる場所の木立ちの陰まで登った。枝のあいだから数匹のロリンがぼくらを見つめ、ぼくらが知覚を持つマン・トラッパーに近づきすぎるたびに、独特のやり方できゃっきゃっと声を立てて警告してくれた。この危険なアネモネの木はこの地域に多いのだ。マン・トラッパーはもともとは水生生物だったのが、数知れぬグルームの干潮で取り残されたために陸での生活に適応し、いまでは大部分の沿岸地帯にはびこっているのだという説もある。ここのは奥地で見られる種類よりもはるかに大きい。いかにも、遠い先祖はアイス・デビルとつながっているという様子だ。
木々のあいだからいまだに見えている港を見おろしていたウルフが大声を上げて立ち止まった。「見ろよ! あそこ。黄色い操舵室があるあの船だよ!」かれは指さした。「あの船のこと話してたんだよ。あれが密輸に使われてるんだ!」
ぼくらは道を離れ、木立ちのあいだをぬって崖のふちまで行った。崖っぷちのそこかしこで、大きな石が滝のようにはるか下の青い海に崩れ落ちて行く。問題の船は外港の、防波堤沿いに半分ほど行ったあたりで錨をおろしていた。ぼくらが見つめていると、甲板室《デッキハウス》から男が一人出て来ると船首の方に行き、錨の鎖をどんどんとたぐり出した。全てのことがはるかかなたで起こっているようだった。とうとう、その小さな人影は錨を甲板に置くと、また操舵室に入って行った。短い煙突から煙が立ちのぼり、船はもやってある船のあいだを前進して、係船中の一団が働いている岸を目指した。
「あれ、シルバージャックだ」畏怖の念に打たれてスクゥイントがささやいた。「シルバージャックは密輸業者だったんだ!」
何もかも承知していたという様子でウルフがこちらを向いた。「ぼくが言ったことを覚えてるかい、ドローヴ?」
「船を係船しちゃったら、もう密輸はできないぜ」ぼくは反論した。
かれは哀れむようにぼくを見た。「グルームみたいなつまらないことで、ああいう男がひるむとでも思ってるのかい? あいつはスキマーを準備してるのさ。間違いないよ。やつの準備ができたら、ぼくらはやつを待ちかまえるんだ。そうして、荷物をおろしたところを現行犯でつかまえるってわけさ」かれは突然、ブラウンアイズに目をやった。「きみはこの考えをどう思う?」
彼女は赤くなったが、ぼくには、彼女は自分の両親がシルバージャックと関係しているなんて全く知らないということが良くわかっていた。いきなり話しかけられると彼女はいつでも赤くなる、ということにぼくは前から気がついていたからだ。「本当にかれが密輪をしていると思うの?」彼女は静かに言った。
「もちろんさ、絶対だよ」ウルフはまたリボンの腕をとると、先頭に立って道に戻っていった。
ブラウンアイズとぼくはあとから黙って歩いていった。スクゥイントは嬉しさをこらえきれずに、四人のあいだをはねまわった。「シルバージャックは密輸人」と何度もはやしたて、しまいにはリボンから、お黙りと乱暴に言われるほどだった。かれはすぐさま静かになり、泥のなかで足を引きずり、口笛を吹きながら、後からついて来た。
ぼくは、前を行くリボンとウルフを見た。手を取り合い、顔を低く寄せて小声で話をしている。リボンは、確かにみごとな足が丸見えの短い服を着ており、気がつくとぼくは、歩いて行く彼女の膝のうしろを見つめていた。
「リボン、とても可愛いわね?」ブラウンアイズが言った。
この時、ぼくはへまをしてしまった。これは、リボンを犠牲にしてブラウンアイズの容姿をほめる最高の機会だったのに、ぼくにはその勇気がなかったのだ。「すてきだと思うよ」ぼくはつぶやいた。
「背の高い女の子が好きなの? あたしもリボン位背があったらな」
ぼくはふり返って彼女を見つめた。彼女は、暖かくて美しい目で、そして可愛いえくぼを見せてぼくにほほ笑みかけていた。ぼくはためらった。今思うと、ぼくは、ブラウンアイズのような女の子が好きなのだと言おうとしていたのだろう。だが、ウルフが話をやめており、聞いているかもしれなかった。
「この下に埠頭を造ってるんだ」かれは言った。「ごらんよ」
ぼくらは岬の先をまわり、道は崖のふちの方に向きを変えていた。はるか下では男たちが働いていた。シャベルを使い、車に積んだ石を引っぱるロックスを先導し、つるはしをふるい、崖の面を切り刻んでいる。でこぼこの道が埠頭から崖のすそぞいに走り、張り出した箇所の向こうで曲がって視界から消えている。
「ここは、水が深いのよ」リボンが言った。「あの道を造るのには、ずい分とたくさんの石が必要だったんじゃないかしら。でも、あれは何のためなの?」
ウルフは黙っていた。知らないのだ。
「グルームが来ると、入江から新しい罐詰工場まで大きな漁船は動かせないだろ」ぼくは説明した。「だから、どこか、荷をおろす場所が要るんで、これを造ったのさ。そうして、ロックス車《カート》で魚を工場まで運ぶんだ。線路も作るかもしれないよ。あそこの沖が」とぼくは指さした。「パラークシ海溝なんだ。あそこはグルームのあいだだって絶対に浅くならないんで、船はいつでもあの方向から近づいて、まっすぐこの埠頭まで来ることができるのさ」
「海溝のことは知ってるよ」ウルフが言った。
「あそこ、見て」ブラウンアイズが言った。
昨日まではなかった岩の茶や泡立つ白の姿が、澄みきった青い海面のところどころをさえぎっている。海面は急激に下がっていた。すぐにグルームがやって来るのだ。
フィンガー・ポイントからの出口を降り始めると木々はまばらになった。目の下には田園地帯が広がっている。はるか向こうには砂漠の入口であるイエロー山脈がようよう見え、そして青々として豊かな丘がぼくらの方に起伏している。すぐ下の入江は峡まって川となり、かすんだ日の光のなかで曲がりくねって輝き、奥地の丘のあいだに消えていく。新しい罐詰工場はすぐ真下の、ごちゃごちゃとした建物と切り開かれた土の山だ。新しい道がまるで傷跡のようにぼくらの右手を走り、パラークシまで続いている。近くの、まわりを草で開まれた土手に大きなロリンの穴がいくつもかたまってあるのにぼくは気がついた。こういう穴はパラークシ付近の土の柔らかい所では珍しくない。五十ペースも深い穴が網状につながっているということだ。入江のあたりには漁船が数隻走っていたし、建物のあいだや川岸を歩く小さな人影も見えた。船は煙をたなびかせている。
「まるで絵みたいね」うっとりとブラウンアイズが言った。一体、彼女が両親やグルーメットでの仕事から解放される時間はどの位あるのだろうかとぼくは思った。自分が住んでいる場所を本当に見る機会が彼女には一体どの位あるのだろう。
彼女の言葉通り、それは本当に絵のようで、そのせいか少し非現実的だった。気がつくとぼくは、あの小さな人影が本当の人間なのかと考えていた――かれらは本当に考えたり、トイレに行ったり、妻や子供たちと喧嘩をしたりするのだろうか――それとも、あれは、ぼくの楽しみのために用意された動くタペストリーに過ぎないのだろうか。連中が何も知らないままあくせく働いているのを高い丘の上から見おろしていると、自分が強くなった気がした。ぼくの心の動きひとつでかれらをみんなふきはらえるような気分だ……。
その後、ぼくらは川沿いの谷を通り、そして食べ物を買おうと小さな道端の店に寄った。店の主人は、まるで川と同じくらい長いあいだそこに居すわっているような老婦人だった。しわだらけで、老人によく見られるように毛むくじゃらだ。彼女はまるでシルバージャックの母親のように見え、ウルフとリボンは彼女を軽蔑して接し、おばあちゃんと呼んでは、彼女の外見や店構えについて冗談を言い合っていた。確かに、店はもっときれいでも良いはずだった。
だが、この老婆をからかって良いという理由は全くなく、二人が際限なく彼女をからかっているのを見ているとぼくは恥ずかしさのあまりかっかしてきた――でもそのうちに、こう考えた。もしぼくがリボンのようなタイプの女の子と二人きりで、彼女に印象づけようとしていたなら、同じことをしたかもしれない。こう考えると、ぼくら三人のために苦々しい気分になるだけだった。ブラウンアイズは、あまりに無邪気なので責めるわけにはいかないし、スクゥイントは子供すぎた。
「なあ」とうとうぼくは言った。「お前たち、ばかなこと言ってるのはやめろよ。何か食べ物を買わないか?」ブラウンアイズが感謝の目でぼくを見たが、ちっとも嬉しくなかった。ぼくはあとの二人と同じように有罪なのだ――いや、状況しだいでは、有罪になっていただろう。
ぼくらは乾魚とイエローボールを食べ、それを、こういう問題に関しては専門家であるブラウンアイズがアルコールではないと保証したので、午後いっぱいぼくらがのびてしまう心配のない、老婆手作りの飲み物で流しこんだ。「のどを通る時の感じでわかるのよ」ブラウンアイズはうがったことを言った。
その後、ウルフとリボンはまじめになり、まるで重大事であるかのようにこの遠征の目的を議論し始めた。
「工場付近を偵察するのかい、それとも午後いっぱい遊んでるつもりか?」ウルフが厳しく尋ねた。
「偵察!」ウィンターナッツのかけらを飛ばして、スクゥイントが熱心に叫んだ。
「あたしもそれで良いわ」ブラウンアイズが言った。
「オーケー」ウルフは切り株の上に立ち、田園地帯を見まわした。「工場はあっちだ。煙突が見える。ここと工場のあいだに川があるな。それに川に着くまでに、沼みたいなものがあるらしいや」
「沼のことは聞いたことがあるわ」リボンが言った。
「川の方に行こう」ウルフは決断を下した。「そうすれば、立入禁止区域に実際に入りこんで、ドローヴの親父さんを持ち出すようなはめにならずに、こちら岸から工場を見られるからな。それから川岸にそって、偵察しながら奥地に進み、パラークシ街道に出るって寸法だ。そこから家に帰る。いいね?」
同意のつぶやきがおこり、ぼくらは道路をはなれて、荒れた牧場を横切って川に向かった。木はほとんどない。目に入る植物といったら、害のない種類の低木のやぶと、先に行ったところの背の高い葦ぐらいだった。まもなく、足の下の地面が水びたしになり、それほど進まないうちにぼくらは、草のあいだで輝く水のなかを、両手を振りまわしてバランスを取りながら茂みから茂みへと飛び移っていた。
「ちょっと待てよ」他の部分よりも乾いた場所に着いた時にウルフが言った。「道をはずれてる。あっちの方に行かなくちゃいけないんだ」
「あっちに行ったら足が濡れちゃうぜ」ぼくは反対した。「こっち側なら地面が乾いてるじゃないか」
ウルフは、びっくりしたふりをして。ぼくを見つめた。「足を濡らすのがこわいのかい、アリカ・ドローヴ?」
経験から学ぶまでに大分時間がかかったぼくだったが、今はもう物事をあるがままに受け入れるようになっていた。「そうだよ。足を濡らすのがこわいんだ」ぼくはきっぱりと言った。「それで何かきみが困ることがあるかい?」
「ああ、いや、それならぼくらはこっちを行くから、きみは向こうを行けば良いさ」
「一緒に行くわドローヴ」にっこりしながら、ブラウンアイズが言った。
スクゥイントは二つの派閥を不安気に見やった。「ぼくはどうすれば良いのさ?」
「自分で決めるんだ、スクゥイント」ウルフが言った。
「そうかい、ありがとうよ」ウルフが自分を仲間に入れたがっていないことはわかったが、それでも姉と一緒にいたい気持ちが強いので、スクゥイントは悲しそうにしかめ面をした。「みんな、凍ってくたばっちまえ」かれはいきなりこう言うと、別の方向に歩き出した。「ひとりで行くよ」
ブラウンアイズとぼくは乾いた地面を歩き出し、他の連中の声ははるかかなたに消えて行った。すぐにかれらの姿は葦で隠れてしまった。ぼくらの前に小さな流れがあった。ぼくはそこを飛び越えると、ブラウンアイズに手を差しのべた。彼女はぼくの手をとり、同じように飛び越えた――そして今度は、ぼくは絶対にその手を放さなかった。手をつないでぼくらは大体北の方に向かって、伸び放題の草や、やぶのなかを歩いて行った。次に何をすれば良いのかぼくは考えていた。ぼくと彼女が二人きりになるといつもそうなるように、会話はとぎれてしまっている。
「今日、あなたが来てくれて嬉しかったわ、ドローヴ」何も思いつかない頭をどなりつけてやりたいような気持ちでいた、ちょうどその時に、彼女がとうとう口を開いた。「あなたのこと、心配してたの。長いあいだ会えなかったでしょ、だからまずいことになってるんじゃないかと思って。ほら、あの[#「あの」に傍点]夜によ」
「親父はアルコールってものを信用してないんだ。自動車《モーター・カート》用以外はね」
「母さんが後悔してたわ。あなたのお父さんがああいうんだって知らなかったのよ」
全く信じられないことだ。ぼくらは手をつないでいるのに、両親の話なんかしてるんだ。動物ならこんな問題は起きない。連中は口をきくことができないのだから。
「親父が悪いんだ」
「どうして?」
ぼくは忘れてしまっていた。話の筋道がわからなくなってしまっていた。ぼくは彼女の問いかけはそのままにして、歩きながらでも彼女の顔が見られるように首をまわした。彼女は地面を見つめている。まじめな顔つきだ。彼女の足は――もっと良く見えるように、ぼくは少し離れた――うん、リボンの足よりずっとすてきだ。もっとたくましく、健康そうだ。
彼女を見つめていたので、ぼくは飛び出していたやぶにつまずいて、よろめいた。ぼくの手のなかで彼女の手がきつく握りしめられた。気がつくとぼくらは歩くのをやめ、見つめ合いながら立っていた。彼女の目かぼくの目をとらえ、ぼくをじっと、じっと見つめながら彼女の顔がかすかに上を向いた。ぼくの体のなかはぶるぶる震えて、溶けてしまいそうだ。何か言いたかったが、もし口を開こうものなら、出てくるのはうめき声だけで、彼女に笑われてしまうだろうことは目に見えていた。
「あ……あたし、ここに来て良かったわ」彼女は言った。「すてきじゃない、ね? こんな風に二人でいられるなんて」
「ぼくもそう思う」ぼくはようよう答えた。
「他の人たちがずっとそばにいるんじゃないかと思ってびくびくしてたの。あなたは?」
「連中が、沼を濡らしても平気だっていうのはありがたかったね」ぼくはばかみたいなことを言った。「沼じゃなくて、足をさ」
「ドローヴ……」彼女はこう言うと、突然、言葉を飲みこんだ。とうとうぼくには、彼女もぼくと同じ位神経質になっていることがわかった。「あたし……好きよ、ドローヴ。あの、本当に好きなの」
ぼくは彼女を見つめながら、どうして彼女はこんなことが言えたのだろうかと不思議に思った――そして、ぼくも同じように感じているのだと彼女が気がついてくれることを願った。何回かぼくは口を聞いてはまた閉じ、それから彼女の手を引っぱるとまた歩き始めた。近くには雑木のしげみがあり、ぼくらが歩いて行くと木々の枝が一列に並んだ三本の十字を作り、遠くに一本の高い木が見えた。ぼくはあの場所を決して忘れはしないだろう。
まもなく、彼女の言葉で高まったぼくの気持ちは再び、その問題をもっと深く追求することができなかった自分に対するいらだちに変わった。どうしたら良かったのかはわからないが、ばかみたいに突っ立って、女の子ひとりに話をさせておくなんて最低だ。
でも、ぼくらはまだ手をつないだままだったし、歩きながらぼくが彼女の手を固く握ると、彼女も握り返してくれたので、ぼくはまた幸せな気分になった。やがてぼくらは、葦や、やぶのなかを曲がりくねって横たわる、大きな、浅い湖に着き、しばらくのあいだじっと立ち、何も言わずに湖を見ていた。しかし今度は、二人とも考えることがたくさんあったので、これは気楽な沈黙だった。
その時、突然、何もかもが変わった。
ブラウンアイズの方が先に見つけたのだと思う。ぼくの手をぎゅっと握りしめて、彼女はかすかにあえいだ――そしてちょうどその時、ぼくは湖面がゆれるのを見た。
それは、湖の腕が視界から消える、その曲がり角をまわってやって来た。それは、氷の輝きのように湖面を渡り、きらめく結晶の腕を一本、そしてもう一本と伸ばした。宝石をちりばめたようにきらめく、ダイヤモンド形のくさびが、あっというまにすきまを埋めて、どんどんと前進し、広がって行く、そのあいだ、湖はうめき、きしんでいたが、突然静かになり、鈍く、透明な固体となった
はるかかなたから、恐怖に満ちた、かん高い悲鳴が聞こえてきた。それから、切迫した男の叫び声が聞こえた。
「湖にアイス・デビルがいるんだわ!」ブラウンアイズが叫んだ。「誰か、つかまったのよ!」
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湖の表面全体は今や午後の光のなかで、磨かれた銀器のように輝いている。結晶化の際のひびはもう消え、湖はひとつの同質の固まりとなった。ただどこかに、あの輝きの下のどこかに、アイス・デビルが潜んでいるのだ……足を上げると、ぱちっという音がした。ついさっきまでは水びたしで、弾力のあった地面が今は固くなり、草のあいだで、湖と同じ冷たい輝きを放っている。また、ウルフの叫び声が聞こえた。
「行こう」ぼくはこう言うと、ブラウンアイズを引っぱって行った。アイス・デビルがぼくらの存在を感づいているといけないので、鏡のような、固い地面は避けて、ぼくらは注意深く、伸び放題、荒れ放題の草の上をやぶからやぶへと進んだ。気がつくとぼくは、ひとつぽつんと離れた草むらでゆらゆらしながら、どちらにも進めなくなっていた。次の草むらまでは遠すぎてとても飛び移れない。ふり返ると、ブラウンアイズも危なっかしくゆれているのが見えた。「どうしよう?」ぼくは尋ねた。「引き返せるかい?」
「ええ……」彼女はふり返り、やって来た道を見た。遠くでリボンが悲鳴を上げた。「でも、それじゃどうにもならないんじゃない、ドローヴ。アイス・デビルはこのあたりの水を全部凍らせちゃったわ。湖の上を歩かなきゃ、あたしたち出られないわ」
「大丈夫なの?」
「みんなそう言ってるわ。歩き続けていれば、そしてアイス・デビルに他に考えることがあれば大丈夫だって……もしあたしたちをつかまえようと思えば、今つかまえている人を放さなくちゃならないの」
「オーケー。ぼくが先に行くよ」
ぼくは結晶化した湖に足を踏み出した。足の下の湖は岩のように固い。ぼくは体をかがめて、不安な気持ちで湖面にさわってみた。冷たかったが、そうびっくりするほどでもなかった。また、本物の氷のようにすべるわけでもない。ブラウンアイズに向かってうなずくと、彼女はぼくの手にしっかりとつかまって、草むらからおりてきた。ぼくは、年の割に、妙にセンチメンタルな気分でこう考えたのを覚えている。行くんなら、二人一緒だ。
「二人はどの辺?」ブラウンアイズが尋ねた。「ウルフはあっちの方から叫んでいたような気がするけど」彼女は、湖の腕が葦のあいだに消えていくあたりを指さしだ。ずい分と遠いように見えた。「あそこでまず凍り始めたのよ。あの角を曲がった所」
ぼくらは歩き始めた。足下のモンスターを邪魔しないようにこっそりと歩き、小声で話した。しばらく行くと向こう岸に着き、それからとげやぶや葦のあいだをうねり、輝く道に沿って歩いた。ウルフの叫び声がまた聞こえ、突然、三十ペースほど先のやぶの向こうにウルフとリボンの姿が見えた。
リボンの顔は苦痛のあまり真っ青で、ウルフは彼女の足首の上にかがみこんでいた。ぼくらが近づくと、かれは顔を上げた。「アイス・デビルに足をつかまえられちゃったんだ」
二人は、一番近くの草むらから数ペースのあたりで、湖の表面に座っていた。「こんな所で何してたんだ?」ぼくは尋ねた。「この辺にアイス・デビルがいるのは知ってたんだろ。乾いた地面の上を行くべきだった言ったじゃないか」
「ああ、そうさ、ぼくらはそうしなかったさ。今さら、そんなことを言っても遅いんだよ。済んだことをいつまでもぐだぐだ言ってないで、これから何をするべきか考えなくちゃいけないんじゃないか」
もちろん、かれの言い分が正しかった。ぼくはかれの横にひざまずいた。リボンの右足がしっかりと湖にはさまれている。ちょうど足首の上あたりがはさまれていて、透明な結晶を通して足先と、そしてさらに哀れなことに、まだ足元にはまっている赤い靴とがかすかに見えた。締めつける力はかなりのものにちがいなく、彼女がもっと悲鳴を上げないでいることにぼくは驚いた。
「どうしよう?」ウルフが尋ねた。
みんな、ぼくのことを見ていたが、他の誰にもできない時にどうしてこのぼくが解決策を考えつかなければならないのか、ぼくにはわからなかった。「ブラウンアイズ」ぼくは言った。「しばらく、リボンのそばにいてやってくれない? ウルフと話があるんだ」そうすれば、とらわれの少女をこれ以上おびえさせることなしに、この絶望的な状況について話し合うことができると思ったのだ。
ウルフとぼくは、やぶのなかまで退いた。「この前、同じことが鳥に起こるのを見たんだ」ぼくは、雪あび《スノー・ダイヴァー》の死の話をした。「リボンが動いている限り、アイス・デビルには彼女が生きてることがわかって、攻撃はしてこないだろう。触手がそれほど強いとは思えないんだ――この位大きなアイス・デビルでもね。あれはただ、死体を包みこんで引きずり降ろすための細いつるなんだよ」
「うふ!」身震いしながらウルフはうなった。顔は真っ青で、汗びっしょりだ。「工場まで助けを呼びに行こうか? みんなにつるはしを待ってきてもらえるぜ、それで砕いて彼女を助け出せる」
「それじゃだめだと思うよ。アイス・デビルは握力が弱くなったと感じた瞬間に溶けて、またあっというまに固まるさ。そうやって彼女をもっとしっかりつかまえるし、多分、他にも何人かつかまえちまうよ」
「じゃ、どうするんだ?」
ぼくは懸命に考えた。可能な解決策はひとつあったが、リボンがそれを受け入れることができるかどうか、ぼくにはわからなかった。でも、やってみるだけのことはある。ウルフに説明すると、かれもぼくと同じように疑わしげな様子だった。
ぼくらは、女の子たちの所に戻った。ブラウンアイズが期待をこめて見上げたが、ぼくらの顔つきを見て、すぐに目をそらした。ウルフはリボンのかたわらに腰をおろし、彼女の手を握った。
「リボン」ぼくは言った。「きみにやってみてもらいたいことがあるんだ。できるだけじっとしててもらいたいんだよ。できるだけ長いあいだ、全く動かないで欲しいんだ。そうすれば、アイス・デビルはきみが死んだと思うだろう。わかった?」
彼女はうなずいた。頬が涙で光っている。
「そして、アイス・デビルが手をゆるめて、湖が水に戻った瞬間に、うしろに飛びのくんだ」ぼくは指さした。「あそこに、草むらがあるだろ。アイス・デビルが追いついて、また湖を固まらせる前に、あそこまで行くんだ。ぼくらはあそこに立ってて、きみが来たらつかまえてあげるからね」
彼女はウルフを見た。 「アイス・デビルがあたしに手を出してくるまで、ここで待てってことなの、ウルフ?」
ウルフはぼくの方をちらりと見た。「その通りだよ。じゃ、いいかい?」
ぼくらは彼女をそこに残し、安全地帯まで退却した。彼女はぼくらを見つめ、体を丸めてじっとさせようとする時に、ほほ笑もうとさえした。見ていると、彼女にはそれが無理だということがわかった。凍った湖から冷気が彼女の体のなかに入りこみ、どんなに努力しても――そして彼女は本当に懸命だったが――寒さがもたらす恐怖からくる無意識の震えはおさえようがなかった。リボンがどんなに自分自身に向かって、こわくはないのだと言いきかせても、彼女の体は、彼女がこわがっていると主張し、それを証明するために震えるのだ……ぼくらは彼女を見つめ、彼女を可哀想に思った。励ましの言葉をささやいたり、冗談を言ったりしたが、何の役にもたたなかった。彼女は無情な結晶につかまったままだった。
「だめだわ」とうとう彼女がつぶやいた。彼女は冷たくなった両腕を振り、動かした。
ぼくにはもう他の方法は考えられなかった。アイス・デビルは、彼女が静かになるまで彼女を放さない。そして彼女は、死ぬまで静かになれないのだ。たとえぼくらが彼女を殴って人事不省にさせようという気になれたとしても、湖のなかの生き物は彼女の呼吸、心臓の音をかぎつけることができるだろう。こいつは、こういう問題の専門家なのだ。こうやって生きているのだから。
ぼくらは彼女を見やっていた。時おりウルフが非実際的な提案をし、ぼくらがそれを受け入れないといってがみがみ文旬を言った。「結局のところ」スチーム・ガンで湖を砲撃しようという案をぼくらに拒絶された後で、かれは喧嘩腰で言った。「ぼくらは何でもかんでもやってみなくちゃいけないんだ。彼女をただこのままにして、死なせたいのか? もっとましな考えがあるのか? あきらめるよりは、どんなことでもやってみる方が良いに決まってるじゃないか!」
驚いたことに、リボンがこう言った。「ウルフ、少し黙って、あたしたちに考えさせてくれないこと?」
その時までに、ぼくはあることを思いついていた。ばかげた考えかもしれないので、細かい点は話すわけにはいかなかった――それに、うまくいくかどうか、みんなが賛成してくれるかどうか、確かではなかった。例えばウルフは、そんな考えは敗北主義的なものだ、わらにすがるようなものだ、病的な心の幻想だと軽蔑するだろう。
「彼女を助け出せると思うんだ」ぼくは慎重に言った。「でも、これがうまくいくためには、きみとブラウンアイズは向こうに行って、ぼくらをしばらく二人だけにしてくれなくちゃいけないんだよ、ウルフ」ぼくは、ぼくの少女の目に浮かんだ苦痛から目をそらした。
ウルフは、困惑はしたが、ほっとしていた。責任を免れようとしているのだから。もちろん、はったりはきかせてきた。「自分が何を言ってるのかわかってるんだろうね、アリカ・ドローヴ。きみが失敗してリボンが死ねば、きみひとりで責任を負うことになるんだぜ」
こうおどしておいて、かれはブラウンアイズの手を取り、去って行った。
かたわらに座った時、リボンは黙っていたが、しばらくすると、見えない足をじっと見つめていた顔を上げると、こう言った。「それで?」
「かなり長いあいだ、じっとしてられる? そしてぼくを信じてくれる?」
「わ……わからないわ。ねえ、どうしようっていうの、ドローヴ?」
「教えちゃったら、うまくいかないんだよ。話しちゃったらきみは期待し始めるだろう。でも、期待して待ってるのは荷が重すぎるんじゃないかと思うんだ。これは、困ってる時に時々起こることなんだよ。それだけなんだ。ただ、きみがおびえちゃって、それを要求したりしなければ起こるだけなんだ」
「ああ」彼女はまたほほ笑もうとした。「それじゃ、教えてくれない方が良いかもしれないわね。ね……ドローヴ……?」
「うん?」
「もっとそばに座って、腕をあたしにまわしてくれないかしら。その方が良いの……そんなに困った顔をしないでよ。ブラウンアイズには見えないわ。あっ……」彼女は顔をしかめ、足首をつかんだ。「痛いわ、ドローヴ。とても痛いわ」彼女はぼくの腕のなかで体を堅くしたが、それから震えながら力を抜いた。「ここ、とっても寒いわね」
「何か話すんだ、リボン。痛みのことをあんまり考えないようにするんだ。きみのことを話してよ。きみのこれまでの人生を話してくれるだけの時間はあると思うんだ」ぼくは、ぼくの顔の隣にある血の気のない顔に笑いかけようとした。「とにかく、始めてみてよ」
「あなた、あたしのことあまり好きじゃないんでしょ? 大部分はあたしのせいだってことはわかってるわ。でも、あなただって、とてもむかむかする人間になることがあるのよ、ドローヴ。わかってて?」
「ああ。でも、憎しみのことは話すんじゃない。その代わりに、自分が困っている動物だと考えるんだ。動物は憎まないからね。動物は、足が痛いからと他人を責めたりはしない。罠をしかけた人間を責めることだってしないんだ」
彼女は少し泣き、そして言った。「ごめんなさい、ドローヴ。あなたの言う通りだわ。あたしがここに閉じこめられてるのは、あなたのせいじゃないものね。あたしと、あのウルフのバカのせいなのよね。あん畜生。もしここから出られたら、あいつに、あたしがどう思ってるか、あいつの鼻がどんなにまが抜けて長いか教えてやる!」
「リボン!」ぼくは叱った。「憎しみがあっちゃ、うまくいかないんだよ」だが、彼女の言うことは当たっている。ウルフは本当に鼻が長いのだ。「あいつの目がくっついてるのに気がついたことある?」ぼくは興味を覚えて聞いてみた。
「しょっちゅうよ」彼女はくすくす笑いさえしたが、その何気なしの動作のためにさらに苦痛が増したので、また目が曇った。
「リボン」ぼくは急いで言った。「きみはとてもすてきだよ。きみの言う通り、初めて会った時はきみのこと、あんまり好きじゃなかったけれど、きみのことが良くわかってみると、きみがとっても可愛くなってきたんだ……それにすてきだ」ぎごちなく話し終えながら、ぼくはどうして自分にこんなことが言えるだけの勇気があったのだろうかと考えていた。そして、それは、彼女の方がぼくのことをどう思っているのかぼくがあまり気にしていないからだということに気がついた。
「あなたは立派よ、アリカ・ドローヴ。ちっちゃな欠点はあるけれど」彼女の目は青かった。彼女は長いあいだ考えこんでいたが、ようやくこう言った。「もし、ここから出られたら、ね、あ……あたし、もっと良い子になるわ。もしかして……もしかして、もっとたくさんの人が本当のあたしをわかってくれたら、みんな、あたしのことをもっと好いてくれるんじゃないかしら。あなたと同じように、自分が悪い印象を与えてるんだってことはわかってるの。これからは……ひとつ約束してくれる、ドローヴ?」
「ああ」ぼくはあいまいな返事をした。
「もしあたしがここから出られて、そしてあたしがまた悪くなってるって思ったら、つまり、いばったり、嫌な感じだったりしたら、注意してくれる?」
「いいよ」
彼女が本気なのはぼくには良くわかっていた。それからぼくらは、体をぴったり寄せ合って時々震えながら、もっと話をした。彼女は何度か笑おうとし、また、それ以上に泣いた――だがそれは、がまんできない痛さのあまり、そっと泣いたのだ。万事につけて彼女は本当に勇敢だったとぼくは思う。ウルフにはもったいない。
そして、ようやく、ロリンがやって来た。
連中がやって来るところは見えなかったが、しだいに、湖の向こう岸からぼくらのことを見ている姿が目に入ってきた。少なくとも八匹のロリンが低い木立ちの陰にじっと立っているようだったが、ロリンを数えるのは容易なことではない。体が毛むくじゃらなので、遠くからだと重なり合って見えてしまうのだ。
ぼくは、リボンがどういう態度をとるか心配だった。「リボン」ぼくは静かに言った。「向こうに、ロリンが何匹かいてね、ぼくらを助けてくれるんじゃないかな。これをぼくは待ってたんだよ。連中がここに来て、きみにさわっても、叫び声をあげたり、もがいたりしないでおくれよ、ね?」
彼女は息をのみ、自信なさそうに、ぼんやりした姿を見た。「何匹いるの? たくさんいるみたいだけど。大丈夫なの? 何をしようとしてるの?」
「落ち着いて。きみにさわる、それだけさ。リラックスして、連中が近づくままにするんだよ」
彼女の震えを押えようと抱き寄せると、彼女はぼくの服に顔をうずめた。ロリンはしばらくぼくたちを見ていたが、それから一斉に凍った湖面を渡ってこちらに近づいて来た。連中が近づいてくると、リボンがそれを感じとっているのがぼくにはわかった。体の震えが激しさを失い、腕をぼくに巻きつけると抱きしめたからだ――ぼくは静かにその状態を受け入れた。
彼女はささやいた。「ドローヴ、ロリンは近くにいるの? もうあんまりこわくないわ。ごめんなさいね、子供みたいで」
「もう来てるよ」
かれらはぼくらのまわりに立ち、濃い顔の毛で全く表情を隠して、ぼくらを見おろしていた。かれらの存在に静かさが、かれらが生み出す希望が感じられた。ぼくがうしろに退くと、かれらはリボンに近づいた。
ロリンがまわりにうずくまるのを彼女は見ていたが、その目には嫌悪感も憎しみもなかった。かれらが手を触れた時にも、彼女はひるまなかった。かれらがさらに近づいて、彼女を腕に抱きかかえた時、彼女はぼくを見て、無言で問いかけてきた。
「好きにさせておくんだ」ぼくは言った。「リラックスしてれば良い。心配するんじゃない。眠るんだよ」
しばらくすると、彼女の目が閉じられ、ロリンの腕に支えられた体の力が抜けた。ぼくは草むらまで戻り、安全な所に立った。見ているとロリンの心の芳香が感じられて、ぼくまで眠たくなってきた。今やロリンは動きを止め、頭を毛深い胸にうずめた姿勢でリボンのまわりに集まっている。輝く湖の上の無言の絵だ。ぼくも腰をおろそうとしていた……。
次にぼくが覚えているのは、足もと近くの湖が液体の形でひたひたとうち寄せるなか、ロリンがだらんとしたリボンの体を運びながらこちらに走り寄り、そのうしろでしなやかな触手が、がっかりしてゆれている光景だった。リボンをぼくのかたわらに横たえると、一番大きなロリンが長いことぼくの目をのぞきこんでいた。それからロリンは行ってしまった。
ぼくはリボンの方を見た。彼女は身動きひとつしなかった。顔は青ざめてはいるが、隠やかだ。やましい気持ちであたりをうかがってから、ぼくは彼女の柔らかい胸に手をあててみたが、心臓の音も、呼吸も感じられなかった。暖かささえなかった……。
多分、ぼくは必要以上に長く手をそこに置いていたのだろう。とにかく、しばらくすると彼女の胸の奥でかすかな鼓動が起こるとだんだん強くなり、動悸がしっかりしてくるにつれて顔の色も急速に戻ってきた。そして彼女はまた息をし始めた。暖かさが戻ってきたのであわてて手をひっこめると、彼女は目を開いた。
「あら……」彼女はかすかにほほ笑みを浮かべてぼくを見つめ、何かを思い出したようにさっと自分の体にさわった。ぼくは顔が熱くなるのを感じた。「何があったの、ドローヴ? あたし、どうしてここにいるの?」
「ロリンがきみを湖から引っぱり出してくれたんだ」ぼくは手短に説明して、立ち上がった。親密な時は終わったのだ。ぼくらは何かを分け合い、その結果、お互いをもっと良く知ることができた。二人ともそのことは喜んでいるだろう――だが、もう事態は平常に戻ったのだ。「みんなをさがしに行こう」ぼくは言った。
彼女は勢いよく立ち上がった、ショックの跡も全くなく回復しているし、足首のまわりのかすかな青あざ以外はけがもしていない。これがロリンのやり方なのだ。「あたし、どの位眠ってたのかしら?」
「連中がきみをおろしたのとほとんど同時に目をさましたんだよ。」
「そう。あの……ありがとう、ドローヴ」彼女はぼくの手を取った。「友達ね?」彼女は真剣だった。
「ああ」ぼくはおどおどして笑った。
ぼくらは、乾いた地面の上を通りながら沼を抜けた。「ブラウンアイズに対して、もっとうまく思ってることが言えれば良いのにね」いたずらっぽくぼくを見ながら、彼女が笑った。「でないと、彼女、とてもがっかりしちゃうわよ」
顔がほてるのが感じられた。「一体何だってそんなこと思うのさ、ぼくが……? ああ……何だって……?」
突然、ブラウンアイズとウルフが川岸近くに立っているのが見え、ぼくは、まるで赤く焼けているかのようにリボンの手を放した。
「こんなことするから、そう思うのよ、あなたが、ああ」彼女が笑いながらぼくのまねをした。
説明をし、ブラウンアイズから――明らかに彼女は、リボンとぼくが余儀なく親しくなったことを怒っていた――何回かさぐるようにちらちらと見られたあとで、ぼくらは再び、川岸にそって歩き始めた。午後も遅く、太陽は沈みかけていたので、暗くなる前にパラークシに着くために、ぼくらは偵察を省略した。
向こう岸の工場から煙が一筋立ちのぼり、一方埠頭では、数隻の漁船が水揚げをおろしている。大きな船の何隻かはすでに浜に引き上げられているが、残りは、入江が干上がった時に倒れないように足をつけて浅瀬に置いてある。スチーム・トラックが船置き場からぽっぽっと出てきて、ほこりをもうもうと巻き上げながら、パラークシ街道へと向かって行った。
しばらく疑っていたが、ブラウンアイズはまたぼくの手を握っており、残りの二人から取り残された時にぼくが、リボンとよりも彼女と一緒にいる方がずっと良いとはっきり言ったので、彼女はぼくの手を固く握り、幸せそうにおしゃべりを始めた。ぼくはいささか楽しみながら、前を行く二人を見ていた。ウルフはリボンの腕を取り、歩きながら彼女の方に身をかがめていた。そして、かれの鼻が本当に長いのがよく見えた――おまけにとがっている。まるで大きくてやせこけた鳥みたいだ。ブラウンアイズにそう言うと彼女は笑ったが、しばらく間《ま》をおいた後でこう言った。
「でも、リボンはとても可愛いと思わない?」
この言葉は前にも聞いたような気がするが、今後は間違いなく答えるつもりだ。この自信は一体どこからわいてきたのだろう。
「可愛いけど、人形みたいだ」ぼくは批判的に言った。「きみの方がずっと可愛いと思うよ、ブラウンアイズ」
ぼくを見つめた彼女の瞳は大きくなり、しまいには、太陽神フューがそこから輝いているように思われた。それから彼女は、大きくにっこりと、えくぼを見せて、満足したほほ笑みを浮かべた。「本当にそう思う?」彼女はささやいた。ぼくの関節が音を立てるような気がするまで固くぼくの手を振りしめた。
この幸せな瞬間に、ウルフがいつものように邪魔をした。「きみたち、あっちを見てみろよ。あれ、何だと思う?」
いくつかの姿が見えた。その正体が何であれ、それは大きく、防水布でおおわれていた。川岸沿いに一定の間隔で配置されている。ふり返ってみると、その列は岬の方にまで伸びていた。それが何なのか全く想像がつかなかったが、何か邪悪な感じがした。はるかかなたまで続いて並んでいる様子には、どこか残忍なところがあった。
「親父に開いてみるよ」ぼくは自信なく言った。ぼくが何を言っているのかわからないふりをする時の父親の無表情な顔が頭に浮かんだ。ぼくらに知られてもかまわないのなら、あの物体があんな風におおわれでいるわけがないじゃないか。
パラークシに帰る道すがら、ぼくらはこの謎について話し合ったが、それも、スクゥイントがまだ戻ってきていないというしらせを聞いたとたんにどこかに消し飛んでしまった。
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10
リボンの家は、町の北の端、港から奥まった所にあった。町はずれを歩いていた時に、彼女が何か飲んでいかないかとぼくらを誘った。みんな暑く、喉が乾いていたし、彼女の家が一番近かった。ブラウンアイズとぼくも誘われたので、ウルフは少し腹を立てたことだろう。彼女の家はとても小さかったし、貧しい漁師の娘とつき合っているということがもれなく知られてしまうのは、かれのプライドにとって打撃だからだ。だが、すぐにぼくらはそんなことは忘れてしまった。
リボンの父親が、小さな居間でぼくらと会った。「どうしてあの子と別れたのか説明してくれ。あれはまだ子供だぞ。お前は、あれの面倒を見る責任があるんだ!」かれの名はパラークシ・ストロングアームといったが、正にぴったりの名前だった。その小さな部屋を怒りで一杯にさせているような様子は、本当に威嚇的だった。
「あの子がどんなに冒険好きかよく知ってるだろ」母親のパラークシ・ウナが口をはさんだ。「いつでもあの子から目を離しちゃいけないのはわかってるくせに」
「母さん、あの子は勝手に行っちゃったのよ」リボンは力なく言った。
「お前はそう言うがな、どうしてあの子をさがさなかったのか、おれにはわからん。どうしてあの子を連れずに帰ってきたんだ?」
リボンは青ざめていた。震えており、今にも泣き出しそうだった。「先に帰ってると思ったんですもの。そう考えたから……」
「考えた? 考えただと? お前の悪いところはな、考えんということだぞ!」ストロングアームは、はからずもぼくの父親のお気に入りのせりふをくり返してどなった。「いいか、お前をせっかんしてやるぞ。お前はずっとこいつを望んでたんだろ。だから今、くれてやる。きっとだぞ!」
リボンは泣き出しており、ウルフは当惑で顔をこわばらせたまま、何も言わずに突っ立っていた。誰かが何かしなくちゃいけない。
「リボンがアイス・デビルにつかまったんです!」ぼくは狂ったようにしゃべり出した。「彼女を自由にするのにすごく時間がかかっちゃったんで、スクゥイントは先に帰ってるんだろうって本当にそう思ったんです!」
「この子がどうしたって?」娘を見つめた時のこの大きな男の顔に、著しい変化が起こった。「どこをつかまえられたんだ? 大丈夫か? どうしてそんなことになった?」
「足……足をつかまえられたの」リボンはすすり泣いた。「もう大丈夫よ、本当に大丈夫なの」
ストロングアームはひざまずき、無骨な手でリボンの足のあざになった部分を優しくさすっていた。「可哀想に」かれはささやいた。「もう痛くないのか? すまんかった……すまんかったな、どなりつけたりして」かれは、彼女の靴を脱がした。「座ってごらん」かれが顔を上げた時、目が濡れているのが見えた。「ウナ、湯を持ってきてくれ」
かれらはリボンの足をお湯につけ、それから軟膏をすりこみながら、彼女を慰め、何だかんだと彼女のことで全くうんざりするほど大騒ぎをした――おかげで、どうしてリボンがこういう子なのかということがぼくにははっきりわかってきた。お前は美しくて賢い子だよ、としょっちゅう言っている親と一緒に暮していれば、やがてそれを信じるようになるにちがいない。
その後、すっかり変わったストロングアームは、リボンを助け出した時の働きのことで何度もぼくにお礼を言い、欲しければ全世界をくれるとまで約束した。かれの言い方を借りれば、ぼくが政府のぐうたら野郎の息子にもかかわらずだ。そしてようやくぼくらは、前よりも落ち着いた態度で、スクゥイントの――かれはまだ帰ってきていなかった――問題に戻った。
「あいつは多分、造船所でシルバージャックのろくでなしとぶらぶらしてやがるんだろう」ストロングアームはこう推測した。「あそこで時間をつぶし過ぎるって、おれはしょっちゅう言ってたんだ。行って見てくるとするか。ブラウンアイズはグルーメットをさがしてくれ。ドローヴとお前――名前は何てんだ? ウルフか。ウルフは自分の家に戻ってあたってみてくれ。またここで会うことにしよう。良いな?」
町を通り、港の横の丘を登った時には、もう暗くなっていた。ぼくは心配になってきていた。スクゥイントがぼくの両親を訪ねる理由など全く思いつかない――それに、スチーム・ランチの一件以来、シルバージャックに対するあの子の評価が下がっているのは確かだから、造船所にいるとも思えない。かれがどこにいるかぼくには見当がつかなかった。パラークシには帰らず、その代わり、足を折って川岸のどこかに横たわっているのではないかとぼくは思い始めていた――それとも、もっと悪い場合は、アイス・デビルかアネモネの木につかまっているかもしれない。
予期していた通り、ぼくが着いた時、かれは家にはいなかった。ただ、両親は二人とも居間に座っていた。二人だけの時、両親は一体何をしているのだろうと、ぼくはしょっちゅう思っていた。お互いに、ひどく退屈な相手にちがいないのに。戦争の話をし、それから母親が地図にピンを刺すために正しい場所を見つけるのを、父親が手伝ってやるのだろう。
「どうしたのかと思ってたのよ」母が言った。「心配してたのよ、わかるでしょ、ドローヴ」
「パラークシ・スクゥイントが来てないかどうか見るためにちょっと寄っただけなんだ」ぼくは説明した。「迷子になっちゃったんだ。戻って、さがすのを手伝わなくちゃ」
「そんなことはいかん」父親の声は、ぼくが良く知っている断固たる調子を帯びていた。「わしは自分の息子が、夜中に漁師のせがれをさがして田舎をほっつきまわることなんぞ許さんからな。お前は家にいて、ベッドに入るんだ」
「漁師のどこがいけないのさ?」ぼくはかっとして尋ねた。「漁師がいなくちゃ、あの|いまいましい《フリージング》罐詰工場なんかうまくいかないじゃないか!」
全面的な大喧嘩が始まりかけていることを遅まきながら感じて、母親が小さな驚きの声を上げた。「お父様は、漁師は敬意を表すべき人種だとお考えなのよ、ドローヴ」母はぺらぺらとしゃべった。「母さんもそうですよ。だけど、だからと言って、連中の子供があなたにふさわしい遊び相手だと考えているということにはならないわ」
「遊び相手だって! |ちぇっ《ラックス》、母さんはぼくがまだガキだと思ってるの?」
「お前が自分の母親に向かって、そんな風な乱暴な口のきき方をするのは許さんぞ、ドローヴ!」
「そいつは困ったな、父さん。ぼくはしゃべりたいことをしゃべるからね!」
「ああ、フュー……ああ、フュー……」母親が嘆いた。
「もう良い」親父はむっつりと言った。「もう良い。今度はお前も少し言い過ぎたぞ。やめ時というのを知らんらしいな。こういうふるまいは友達から習ったとしか思えん。母さんやわしからは習えんものだからな。部屋に行って、出るんじゃないぞ。後で会おう」
腕力では父の方が強いので、これ以上議論しても無駄なことはわかっていた。うんざりすることに、母は騒がしい声をあげて泣いている。かなり長いあいだここにいることになりかねないという気持ちでぼくは部屋に行った。窓をあけて外を見た。地面まで降りて、逃げてしまいたいという誘惑にかられたが、それでは何の解決にもならないという事実で思いとどまらされた。野原への入口で明りが見えたので目をこらしていると、自動車《モーター・カート》が一台、静かに草の上をやって来た。
最初はリボンの父親がぼくを迎えに来たのかと思ったのだが、かれには車《カート》なぞ簡単に手に入らないということが頭に浮かんだ。工場から親父の仲間のやつが来たにちがいないとぼくは判断した。車《カート》はコテージのすぐ近くに止まり、警笛を一回、短く鳴らした。玄関が開く音がしたのでぼくはカーテンの陰に隠れた。親父が車《カート》の所まで歩いて行くと、男が降りてきて、低い声であいさつをした。ホーロックス・メスラーだ。
二人にはどこかこそこそした様子があった。どうして家のなかに入らないのだろうかとぼくは考え、母親やぼくに話の内容を聞かれたくないからだという結論に達した。
「もちろん、スクゥイント少年の捜索のことは聞いてるだろうね」メスラーが話している。
「息子から聞きました」同じように低い声で父が言った。「加わりたがっていたが、やめさせたんです」
「なぜ?」
「それは……」父はこの質問にとまどっていた。「つまり、変に思われるでしょうから……議会関係の人間の息子が……」
「バート、きみは愚かだし、子供というものも全くわかっていないね」嬉しいことに、メスラーがこう叱りつけた。「捜索に加わらない方が変に思われるだろう。ただでさえ、町とわれわれの関係はまずくなってるんだ。少なくとも、われわれは一般大衆の生活と要求から全く分離しているわけではないということを息子に示すだけの分別ぐらい身につけていてくれたまえ」
「簡単にはいかんのです……」父はつぶやいた。「あれはえらく乱暴で」
「それはきみの問題だろ。ともかく、そのことで会いに来たんじゃないんだ。悪いしらせだ。イザベル号が遅れる」
「またですか? 何てこった。この分じゃ、あれがグルームを乗り切るのはむずかしいぞ!」
「わたしもそれが心配なんだよ。今のままでは、新しい埠頭に荷をおろさなければならないだろう――こいつはうまくないんだ。とにかく、明日一番に、この面のことをきみに準備してもらいたい。準備万端整えておかなくちゃならんのだ。できるだけ早く崖の道が完成するように手筈を整えてくれよ」
「わかってます。わかってますとも」
メスラーは突然、くすくす笑った。「そんなに心配そうな顔をするなよ、バート。万事うまくいくさ」かれは車に乗りこむと、去って行った。
そのすぐ後で、親父はぼくの部屋に入ってきた。ぼくは無表情に父を見た。
「お前の実にひどい無礼な態度について考えてみたんだが」父はぎごちなく言った。「酌量の余地がある事情だったのかもしれないという結論に達したよ。友達のことを心配するあまり、われを忘れたのだろう。お前は若い。若い者というのは、自制力を失ったり、抑制がとれなかったりするんだ。もっと大きくなれば、わかるようになるだろうが――」
「ねえ、足を折って寒さと闇のなかに横たわっているのかもしれない小さな男の子の捜索に加わるのを許してくれる、と言おうとしてるの?」
父は大きく息を飲んだ。口を開いたが、また閉じてしまった。ようやく口がきけるようになると、「ここから出て行け」と、吐き出すように言った。
リボンの家の外に、大人数の人々が集まっているのが見えた。パラークシ・ストロングアームの話を聞く顔に、手にしたたいまつの光が赤くゆれている。リボンの父親が、家の二階の窓から話しかけているなか、ぼくはブラウンアイズのそばに行き、彼女の手を握った。
「ここには五十人ほど集まっている」かれはどなった。「このように出かけてきてくれたことを感謝する。乗り物を使わしてくれと、新しい罐詰工場にメッセージを送ったんだ」
「連中がおれたちのために何かしてくれても良い頃だ!」誰かが叫ぶと、同意のつぶやきが起こった。
その時、一連のロックスが角をよろよろと曲がってきた。ロリンに連れられ、大きな車《カート》を引いている。さらに何頭かが続き、しまいには、狭い通りがいっぱいになった。ロックスは頭をたれて、ちらちらする光のなかで忍耐強く立っていた。
「それまで、こいつを使うことにしよう。これは古い罐詰工場がご親切にも貸して下さったものだ」ストロングアームは続けた。「時間を無駄にしたくない。みんな乗ってくれ、出発しよう!」かれは姿を消した。数秒後に正面玄関から出てくると、人混みをせわしくかき抜けた。顔には何の表情もなかった。かれの妻とリボンが後に続き、たくさんの見物人が後に続くなか、三人は先頭の車《カート》に乗りこんだ。
「ドローヴ、いらっしゃいよ」ブラウンアイズはこう言うと、ぼくを前の方に引っぱった。ぼくらは、魚の匂いがぷんぷんする、一番手近な車《カート》に乗りこみ、車内に並べられた箱に座った。他の者も加わり、やがてぼくらは十五人ほどで押し合いながら、お互いの体の暖かさに感謝した。夜の冷気のために空気は新鮮で、大勢の人が手近な公共ヒーターから嫌々離れるのをぼくは見た。死んだ惑星、ラックスが頭上の暗黒のなかで石のように無情にきらめいている。ぼくは横に座っているブラウンアイズのことをとても意識して、しばらくすると彼女に腕をまわした。車《カート》の向こう側で白い歯がにやりと光ったのが見えたかと思うと、たいまつの明かりのなかにブラウンアイズの父親のガースが、ぼくらを寛大に見つめている姿が浮かんだ。
その時、ロックスが前進して車《カート》が動き出したので、ぼくらはお互いにぶつかった。狭い通りをがらがらと行くと、すぐに、町から出る本道に出た。ロリンが事態の緊急性をロックスに伝えていたので、ロックスは毛深い頭を前に突き出して、常にないスピードで歩いて行った。ぼくらの車《カート》には火のついたたいまつが二本と、さらに、捜索が始まった時に使うたいまつの束が床に置いてあった。だがさしあたっては、必要なだけの明かりはあった。真っ赤な光が無数の目のように、まわりの窓々から反射してくる。ぼくは急に寒さを意識して、身震いした。ブラウンアイズは尋ねるようにぼくを見たが、また厚手のロックス毛のコートに身をうずめた。彼女を抱いた腕に力をこめると、彼女はひとりでにっこりした。その時、二人とも事態がどんなに深刻であるかを思い出したのだろう。ぼくは、スクゥイントが寒さの中で迷子になっている最中に間違ったことを考えた自分を恥ずかしく思ったのを確かに覚えている。
それからぼくは、ブラウンアイズに対する気持ちはスクゥイントの苦境とは関係がないのだと自分に言いきかせた。すると少し気分が楽になった。
パラークシの郊外に通じる長い丘を登っていく時、ロックスの爪がぼろぼろの道の表面をひっかきまわしたので、ロリンがそばに寄って来た。太い腕を先頭のロックスの首にまわし、恐らく、激励の思いを放射したのだろう。すぐ前の車《カート》にシルバージャックが座っているのが見え、壜を口に持っていった時、それがきらりと光るのがわかった。ぼくはかれからロリンへと目をうつし、似ているのにびっくりするのと同時に、最近聞いた、ありえそうにもない話を思い出した。シルバージャックの母親は、何年も昔に、フィンガー・ポイントの近くでロリンと寝たというのだ。
ようやく丘の上に着くと、工場の光がはるかかなたまでにらみながら、ぼくらの眼下に横たわっていた。四台の車《カート》が次々と並び、ストロングアームが燃えるたいまつを持って立ち上がった。
「ここから出発する」かれは叫んだ。「みんな広がって、川に向かって丘をジグザグに降りるんだ。できるだけ、まっすぐ一直線になるようにな」声はしっかりしていたけれど、やつれた顔には緊張があらわれていた。「沼まで行ったら注意しろ。アイス・デビルがいるからな。それぞれの車《カート》から何人か出て、色々見て歩く先発隊になってもらいたいんだが。妙だと思う叫び声や何かに耳をこらしててくれ。すぐに、新しい工場から乗り物が来るはずだ。そうすれば本当に行動に移れるぞ」
新しい工場から、ロックスの背にまたがって丘を登り、使いが帰ってきた。
「何だと!」ストロングアームはどなった。「何だと?」かれは、ぼくらの方を向いた。光のなかで顔がやつれて見える。「乗り物は貸せないそうだ」かれは荒々しい声で言った。「権限を持ってないと、監視が言いやがったそうだ! 一体こいつは何て国だ?」
「あそこまでおりてって、こわしちまおうぜ!」大きな男がこう叫ぶと、同意の声が一斉に上がった。
「いかん!」ストロングアームは叫んだ。「頼むから、ここにいる目的を忘れんでくれ。最初に息子を見つけ出す。それから……」かれの声は低くなり、とても小さくなったのでほとんど聞きとれないほどだった。「それから、工場にとりかかるんだ……」
その時、スクゥイントは父親に恵まれているな、という思いが浮かんだのをぼくは覚えている。かれほど捜索隊を組織するのに適した人間はいないだろう。かれに直接、かかわりのあることだからというだけではない。かれは物事をなす術《すべ》を、全くの人間性の力と、そして多分、ほんの少しの肉体的な威嚇とによって、人々を自分の意のままに従わせる術《すべ》を生まれつき身につけているようだ。後になってブラウンアイズから聞いたところでは、ストロングアームは町で何の役職についているわけでもないのに非常に尊敬され、町の業務のリーダーと見なされているそうだった。
ブラウンアイズにリボン、それにウルフとぼくはだらだらと伸びていく列の真ん中に配置され、最後にスクゥイントを見た場所に行くよう言われた。左を見ると、はるかフィンガー・ポイントのあたりまでたいまつが見えた。右には、列が奥地深くまで広がっている。捜索隊が準備しているうちに町からさらに志願者が到着し、人数は今や優に百人を越していたにちがいない。眼下の川沿いの谷では、ロックス車《カート》とその乗員が手当たりしだいの捜索を行なっている光が動いていた。
ぼくらは、腕が痛くなるまでたいまつを頭の上にかかげ、丘をゆっくりと降りて行った。時おり、ブラウンアイズとぼくは、やぶの中に丸まった姿を見つけたが、近寄ってみるとそれはいつでも眠っているロリンであったり、ロックスであったり、さらには、とげやぶであったりさえした。ぼくは、ロリンのことを不思議に思っている自分に気がついた。もしスクゥイントが見つかるものならば、ロリンが、困っている人間の感情を見つけ出すことができるその神秘的な能力で見つけ出すだろう。
後になると、川岸への沼地のなかをゆっくりと歩き始めたので、列の進み具合は遅くなった。ぼくらは、ブラウンアイズとぼくが初めて自分の気持ちを打ち明けた場所を通り過ぎ、それから、リボンがつかまった場所に向かった。そのあいだ中、たいまつのゆれる光が暗い水の上できらめくなかを、細心の注意を払って進んで行った。列の先の方からの時おりの問いかけの叫びと答以外は、何も見えず、何も聞こえなかった。ぼくらはとうとう川まで来た。ぼくはブラウンアイズのそばに行くと、二人で、暗い河口のゆっくりと動くさざ波ごしに向こう岸の工場の明かりを見つめた。岸をもっと行った所に、ウルフとリボンが一緒に立っているのが見えた。
突然、ウルフの叫び声が聞こえた。かれはかがみこみ、リボンに何か見せていた。
「何だい?」ぼくは叫んだ。
かれはふり返った。「イエローボールの皮なんだ。これは……」かれはリボンの方を向くと、二人で指さしながら何かささやいた。「こっちに来いよ!」かれは叫んだ。
ぼくらがそばに行くと、ウルフが目の前の泥を指さした。だんだんに潮がひいたために岸と水のあいだの幅広い黒い泥の部分が露出しており、指さした部分に印が、泥のなかの跡が見えた。ぼくはたいまつを高く上げ、岸からおりてぬかるみに沈みながら、もっと近づいた。一本の長いみぞが暗い水のなかへと続いており、そのみぞと平行して、小さな深い足跡が一筋見えた。誰かがこの地点から船を押し出したのは明らかだ。乗りこみ、そして漕ぎ出す……どこに向かってだろう? 目的地は工場以外にはありえない。
「きっとスクゥイントの足跡よ」リボンが言った。「小さいし、それに、工場のまわりをうろつくなんてあの子がやりそうだわ。そういうことをしてはいけないってことを承知しているんですもの」
「何を見つけたんだ?」岸から叫び声が聞こえた。たいまつが軽くゆれながら縦隊を作り、こちらに向かって来た。捜索者たちが、新たに指令を受けるためにまた集まってきていた。すぐに、ぼくらのまわりに大きな人垣ができた。ストロングアームが到着し、人混みを押し分けてくると、秘密を打ち明けてくれと祈るようにみぞ跡を喧嘩腰ににらんだ。
「あの子は工場にいるにちがいない」ようやくかれは言った。「ここで船を見つけ、好奇心にかられて川を漕いで渡ったんだ。そうに決まっている」かれは上流の方に足を踏み鳴らして進んで行った。「|いまいましい《フリージング》工場に行くぞ、みんな!」かれがこう叫ぶと、燃えるたいまつの縦隊は川岸沿いにかれの後を追った。
パラークシ街道が川を渡る橋は少し離れていたが、ストロングアームは恐ろしいほどのペースで先頭を行き、ぼくらはまもなく向こう岸に渡り、一団となって新しい工場へ向かっていた。希望的な雰囲気が全体にみなぎり、そのうちにボイラー・ハウスの麻袋の山の上で眠っているスクゥイントが見つかるだろうとみんな信じていたとぼくは思う。
とうとう、高い針金の囲いと、立入禁止区域を示す目ざわりな掲示がぼくらのたいまつの光のなかで輝いた。ぼくらが立ち止まると、ストロングアームはこん棒で高いゲートをたたいた。「入れろ! 入れろ!」
針金の向こうの小屋から監視が一人出て来た。かれは光を受けて目を細めながら、ぼくらじっと見た。「何の用だ?」
「そんなにびっくりしたふりをするな!」ストロングアームは叫んだ。「おれたちが来るのは聞こえていたはずだぞ。ここを開けて入れてくれんか? 息子がなかにいるんだ」
「ここには息子なんぞいない」監視はにべもなく言った。
「お前はパラークシの人間じゃないな、え? お前なんか知らんぞ――だが、もしお前がおれのことを知っていたら、おれは欲しいものは手に入れる性質だということも知ってるだろう。さあ、ゲートを開けろ。そうすれば、お前らが貸してくれなかった乗り物のことは二度と言わん」
「ここは立入禁止区域だ。誰も入れてはいかんという命令なんだ」
「おい、いいか、きさまら!」ストロングアームはわめいた。「おれがぶちこわしちまう前に、このゲートをあけておれたちをなかに入れろ! 聞こえるか?」
一瞬の沈黙があった。ぼくは、ウルフがひじを突ついているのに気がついた。「こいつはまずいぞ」かれはささやいた。「ぼくの親父は政府のために働いている。ぼくはかかわりたくないな。きみももっと賢くなれよ。明日、会おうな、多分……」やつはこそこそと去っていき、ぼくは軽蔑の目で見送った。リボンはかれがいなくなったことにほとんど気がついていなかった。父親のことを心配そうに見つめていたのだ。
「きさまはつんぼか?」ストロングアームはどなったが、何の返事も返ってこないのでこう言った。「よしわかった。こいつはそっちから望んだことだぞ、小僧。ロックスはどこだ? ロックスをこのゲートに縛りつけて、引き倒しちまうんだ」人混みのうしろの方でがやがやすると、人垣が分かれて、動物を連れた男たちを通した。
「ロリンはどうしたんだろう?」嫌な予感がして、ぼくはブラウンアイズに尋ねた。もしスクゥイントがなかにいれば、ロリンがそれを感じとって良いはずだ。だが、ロリンはどこにも見当たらない。ロックスは落ち着かず、ゲートのそばに立ちながら、捜すような目であちこちを見つめている。
「よし、それで十分だ!」監視が叫んだ。建物のなかから制服姿の男たちが一列になって出てきていた。かれらはスプリングライフルを持っており、撃鉄を起こすと群集に狙いをつけた
「今度ゲートの方に来たやつは誰でも撃つぞ」監視は冷たく言った。「十分楽しんだだろう。みんな家に帰るんだ」
ストロングアームの首の血管がふくらみ、こぶしが握りしめられるのを見た時、ぼくはかれがゲートに突進して、素手で引き裂くつもりなのかと思った。かれの妻がかれの腕をつかんだ。そしてリボンが二人のもとに駆け寄り、父親とゲートのあいだに割りこんだ。
かれは妻と娘の頭ごしに監視をにらみながら、長いことじっと立っていた。それから力を抜き、肩をすくめ、向きを変えた。ぼくのそばを通り過ぎた時、かれの顔がたいまつの光のなかに見えた。口を開き、目は恐ろしいほどうつろだった。
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11
その後の数日間、ぼくは、パラークシの住民のあいだに生まれつつある一体感を感じていた。これは前から存在していたのだろうが、ぼくが何人かの町の住民と近づきになって初めて気がついた、ということはありえる。これまでの夏には両親がいつでもぼくと一緒にいて、自動車《モーター・カート》でドライヴしたり、浜に行ったり、船旅を計画して出かけたりで、野原の他のコテージの住人以外とはほとんど口をきかなかった――かれらもみんなぼくたち同様に、休暇で来ているのだ。
にもかかわらず、人々が本能的とも言えるべき方法でひとつにまとまろうとしていることをぼくは確信していた。かれらはまるで傷ついたかのようで、また、さらに傷つこうとしているのを知っており、お互いに仲間を必要としていた。フューの神殿への参拝者がぐんと増えた――人々が急に信心深くなったというわけではない。集まりたかったからだ。町の新聞はメッセージ・ポストから入ってくるニュースをのせるだけではなく、町の集会や、地方業務に対する議会のやり方についての一般大衆の手紙や意見を報告し始めた。人々は出会うと腕を握り合い、また、配給のことで店主に文句を言うのをやめてかれらに同情した。夜になると戸外に在り、何十年越しの宿根を水に流して、近所の人々とおしゃべりをした。
逆境の時にはこのように人々が団結するという話を聞いたことがあるが、こうしてみると、これはある程度理解できることだ。ぼくを不安にさせることがひとつあった。誰に対してぼくらは団結しているのだろう? 論理的な答えでは、それは敵のアスタだ――だが、戦争が話題になっているのをほとんど聞いたことがない。アスタが配給のことで非難されているわけではない。政府が非難されているのだ。蒸留液の不足、立入禁止区域の激増、海で時おり起こる船の損失、あらゆる災害や難儀、こういうものは全て政府の責任なのだ。
両親とのあいだに武装的中立が存在している最中に、ぼくはこのことを父に話してみた。
父は考え込んでいるようだった。「町にいるお前の友だちの感情には気がついているよ、ドローヴ」ようやく、驚くほど控えめにこう言った。「もちろん、わしらはそれで困っている。罐詰工場は重要な事業だし、今この瞬間にも、わしらがここから送り出している供給物資がなければ生きのびられない奥地の町がいくつもあるんだ。工場を第一の目標としているアスタの破壊活動者が地域内にいるので、厳重な保安処置をとらねばならん。だが、一般大衆について言えば、かれらは苦難をこうむるはめとなるのだから、スケープゴートを求めるのも当然だろうな。アスタは水平線のはるかかなただが、政府はすぐ手の届くところにある。だから政府が非難されるわけだ。これは遺憾なことだが、人々というのはこういう考え方をするものなのだ」
ぼくはいささかびっくりして、父を見つめていた。初めて、ぼくをおとな扱いにして話してくれたのだ。これは気分の良いものだった。「工場がスクゥイントのことでもっと力になってくれてたら、みんな、多分、もっと友好的だったんじゃないかな」ぼくは隠やかに言った。
「非常に不幸なできごとだな。関係した監視たちは厳しく叱責されたよ。わしらはくまなくさがしてみたが、あの子供は工場の構内のどこにもいなかった」父はあやまっているかのようだった。「だが、これでわしの言うことが証明されるぞ、ドローヴ。西は海から奥地はイエロー山脈まで、選ぶ場所はごまんとあるのに、どうして大衆は、あの子が工場の腹の中に消えたと考えることにしたのかね?」
これはかなり理屈にかなっていたが、ぼくの心に、ぞっとするようなスクゥイントの姿を焼きつけた。何か大きな機械を調べていてバランスを失って回転する刃のなかに落ち、そのうちだんだんと、多量の罐詰に姿を変えて現われてくる……。
工場ゲートでの対決以来、ウルフはおとなしくしていた。時おり、母親と一緒に町を歩き、人前でぼくらが知り合いだなどということを認めたくないほど大量に品物を買いこんでいるのを見かけた。カードを見せびらかして、配給制を無視することは大衆との関係を悪くするばかりだと、どうして政府が雇用人たちにはっきりさせないのかぼくにはわからなかった。
そのあいだにも、トラックはぼくらほど恵まれていない町々への品物を運び、地響きを立てて町を走り抜け、奥地の道に消えて行った。ぼくはブラウンアイズと一緒に多くの時間を過ごし、また二人でよくリボンの家を訪ねた――最初は同情の気持ちを表わすためと、スクゥイントに関する最新のニュースを聞くためだった。だが日がたち、希望が小さくなっていくにつれて、かれらを慰め、悲しみから気を紛らわせるためになっていった。かれらは仲の良い一家で、この事件を非常に深刻に受けとめていた。リボンは自分を責め、ほとんど口もきかなかったし、ストロングアームは、スクゥイントがいなくなった夜に、リボンの落胆の一因となるような言葉をぼくらに言ったことで自分自身を責めていた。
夜、ぼくらがリボンの部屋で、ベッドに座りこみ、ぼくらをうつろに見つめる彼女を励まそうとしていると、何人もの客がやって来た。寝室は家の正面にあったので、人々がやって来るのを見ることができた。息子を失った家族への見舞いとして、食べ物か酒が入っている包みを抱えてくる人もいた――だが普通は、手ぶらでやって来た。時には二、三人で、きっぱりした足どりで近づいて来る。ストロングアームはかれらを居間に招き入れると、ドアを固く閉ざす――それを開けるのは、妻にもっと飲み物を持ってくるよう命じる時だけだ。居間に十二人かそれ以上招き入れることもたびたびで、ある夜など二十人以上いた。その夜はブラウンアイズの両親も来ていたので、彼女が後で、何をしていたのかと尋ねてみたのだが、納得のいく答えは得られなかった。リボンにも聞いてみたが彼女は知らなかったし、気にかけてもいなかった。
行動隊が結成された様子だったが、ぼくらにはどういう性質の行動がなされようとしているのか見当がつかなかった。
そのあいだに、グルームがやって来た。
ある日、ぼくらはリボンを埠頭に連れ出した。彼女を家から出すのに骨が折れたが、いったん港に着いてみると、あたりの活発な様予が彼女を明るくしたようだった。今では、大きい船は全て係船され、ドックは鮮やかな色に塗られた小さなスキマーで一杯だった。水位はとても低かった。水面は、溶けた鉛のように、重く、うねっている。
ぼくは、ぼくのスキマーのロープを杭からほどくと、引っぱった。小船がこちらにすべってくると、ロープは糖みつのようなゆっくりとして、粘り気のあるしずくを垂らした。みんなが乗り込むと、ぼくは帆を揚げた。船の動きにつれて疲れたようなさざ波がぼくらのまわりに広がったが、すぐに消えてしまった。風につかまり、ぼくらは静かに港口へとすべって行った。|雪あび《スノー・ダイヴァー》はもう姿を消している。体重が軽くて浮力があるために、グルームの濃い水には不向きなのだ。海面より下にもぐることはできないだろう――その代わり、グルームは新しい敵を連れてきた。
グルーメットが、グルームを追って南から飛んできていた。たくさんの大きな白い鳥が魚市場の屋根にとまり、船からおろされた水揚げを貪欲に見つめている。外港に出るために船と船のすきまを航行していると、グルーメットが一羽、下にたらした足で海面をかすめ、翼の先で小さなさざ波を起こしながら、低く近づいてきた。どんよりした水の上におりてとまり、広い背中の上で大きな翼をはばたかせながら、ぼくらが通り過ぎるのを冷たく見ている。ぼくはうっとりと見つめた。この鳥はぼくにとって、パラークシと、そして年に一度の休暇の持つあらゆる意味とを象徴しているのだ。
ぼくの心を読んだように、ブラウンアイズが尋ねた。「いつ家に帰っちゃうの、ドローヴ?」彼女の目はさびしそうだった。
「|ちぇっ《ラックス》。そんな話はよせよ。時間はまだたっぷりあるさ――それに、親父は新しい工場にすっかり縛りつけられてるしね」
口にこそ出せなかったが、心の奥には、ぼくらはもう二度と家には帰らないのかもしれない、いつでもパラークシにいることになるのだ、という思いがあった。この考えはあまりにすばらしいので、じっと検討してみることがむずかしかった。確かに、両親はアリカのことを全く口に出さない。それにいつもならこの時期になると母親が、家に帰るのは何てすてきなことだろうと言い始めるのだ。ぼくは、父親が工場のことであらゆる種類の困難に陥り、その結果、永久にここにとどまらなければならないことになれば良いと願っている自分に気がついた。
リボンはまじめな顔でぼくを見ていた。「多分、ここにいるわよね、ドローヴ」そんなことを言って欲しくなかった。それはあまりに魅惑的な運命だ。だが、彼女が口をきいてくれるのはありがたかったので、ぼくはあいまいな返事をし、一方ブラウンアイズは希望に輝いてほほ笑んだ。
突然、重たい水に、きらめく銀色の斑点が現われた。小魚の群れが深い所にいられなくなり、海面から飛び上がって、船のあいだを泳ぎ出したのだ。その後を、グラブが体をくねらせ、食いつきながら追っている。グルーメットの群れが空から襲いかかり、安全な水のなかにまたもぐることができずに海面でもがき、立ち往生していたグラブを、一羽の大きな鳥がつかまえた。
「おい、坊主ども!」魚を半分ほど積んだスキマーが近くを通った時、こう叫び声がした。舵柄を握っているのは紛れもないシルバージャックの姿だ。かれの二人の活動的な乗組員は船の両側から大きな網を羽のように投げこむのに忙しくしている。船が進んで行くにつれて、海面にほとんど触れるか触れないうちに、動けなくなっている魚をすくい取っていく。パラークシの湾はグルーム時の釣りには特に向いているのだ。多くの海の生物を追い立ててグルームが北に動くにつれて、ともすれば魚はこの湾内に閉じこめられてしまうからだ。
ぼくらはちらりと顔を見合わせた。ぼくはスパイのこと、密輸のこと、そして当然スクゥイントのことを考え始めた。これは、リボンのためのこの養生の遠出では避けたい話題だ。ぼくは彼女を見た。彼女はかすかにほほ笑み、目をぼくからそらした。彼女は雨水排水管が外に出ている、あのぼくらが難破した浜を見つめていた。シルバージャックは通り過ぎて行き、暗い瞬間も通り過ぎてくれたことと思う。
そのうちにぼくらは小さな灯台がある防波堤の端に着き、外海に乗り出した。湾は、風に吹かれた金銀の糸のように海面で踊る魚で活気にあふれ、グルーメットは白い雲となって絶えず襲いかかっては、その貪欲な叫び声であたりをいっぱいにしていた。そのあいだをスキマーが行き来している。順風を受けて帆はふくらみ、網を広げて、グルームの豊かな収穫を取りこんでいる。
まだ日はたっていなかったが、これは記録的なグルームのようだった。もう何日かすれば、もっと大きな魚が海面に追い上げろれてくるだろう。巨大なウィンゲットやフラッティー、人食いスニントなどだ。その頃には、哺乳類のグルーム・ライダーがひれを振りまわして海面を飛びはね、南からやって来るだろう。ふくれ上がった水の上で、血なまぐさい争いが起きるのだ。最後にはベレットが来る。鋭い歯を持つ、ほっそりとした腐肉あさりの魚で、グルームが残したものは何でも食べてしまうのだ。グルームが終わりに近づいている時に泳ぎに行くのは浅はかなことだ……。
リボンは見るからに前よりも元気そうで、興味深そうに魚の動きを眺め、ぼくらのまわりの海に集まっている見なれぬ生物を見ては叫んだ。彼女は突然指さした。「あれ、何?」
海のはるかかなた、だが湾を目ざして、大きな船が一隻、煙をたなびかせながら進んでいる。
「大型船だ」ぼくがこう言った時、一瞬、渦巻くグルーメットの群れが分かれ、もっと良く見えた。「取り残されちゃったんだな。浜に引き上げてやらなきゃ」
「どこ?」ブラウンアイズが興味をおぼえて海を見つめた。「入江のそばまでは来られないわよ。もう浅過ぎるもの。それに入江の暗礁はまっすぐに海溝に落ちこんでるわ。だから連中は、個人の漁船や何かのあいだをぬってあの船を内港にまで引っぱってくるしかないけれど、そんなことすれば、もういっぱいになっちゃうわ。連中がそんなことしたら、色々と面倒なことになるわね」
ぼくらが暗黙のうちにその船は「連中」のものだと考え、その到着が必ずパラークシに損害を与えるだろうと考えている様子は面白かった。
「ここに着く前に、アスタ軍に沈められちゃえば良いんだ」ぼくは言った。
リボンの家に帰った時、彼女はぼくらの方を向くと、「ありがとう」と言った。
「どうして?」ブラウンアイズが尋ねた。「いつだって一緒に来てくれてかまわないのに。ねえ、ドローヴ?」
「ああ」
「おじゃましたくをいのよ」ぼくの顔を見ながら、リボンは言った。
ぼくはまた新たな危機を迎えていたが、ぼくがそうと気がつかないまま、その危機はぼくに忍び寄っていた。ぼくはある程度、おとなの支配に打ち勝ち、自分自身の価値に自信がついたし、自分が他の誰とも本当に[#「本当に」に傍点]対等なのだということがわかり始めていた――前は、一人でそう思っていただけなのだ。今度は――ぼくはどこまで行きたいのだ? みんなを踏みつけたいのか?
自分本位にも、ブラウンアイズといつも一緒にいたいからといって、リボンが一人ぼっちでみじめな思いをする原因になりたいのか?
衝動的にぼくはリボンの手をつかんだ。「いつでも一緒に来てよ。ぼくたち、きみにそばにいてもらいたいんだ」
彼女の顔金体が輝き、スクゥイントの失踪以来初めて、彼女は本当に幸せそうに見えた。
夜になってから、ストロングアームがぼくらに言った。「神殿に来んかね?」かれとウナはコートを着ているところだった。
ぼくはびっくりしてかれを見た。「神殿なんて行かないことにしてる」
かれは笑った。「太陽神フューだのグレート・ロックスだの、そんな話を聞かされるわけじゃないさ。町民の集会なんだ。政府の代表が来ることになってる」
「親父じゃないと良いけど」
「違うよ。お前さんがそいつに会ったことがあるかどうかはわからん。最近やって来たやつで、話のわかる人間のようだ。ホーロックス・メスラーというやつさ」
ぼくらが神殿に着いた時には、かなりの人が集まっており、知っている顔も何人かいた。意味ありげなことには、演壇に立っている連中はストロングアームの家に出入りしているのをぼくが見た人たちだった。リボンとブラウンアイズとぼくは、聴衆の一団と一緒に座ったが、ストロングアームは即席に設けられた舞台に上がると、ほどなく、机をたたいて開会を宣言した。
「パラークシの諸君」かれは大声で言った。「今日ここに集まったのは、議会のやり方で気に入らんことがたくさんあるからだ。ここにいるホーロックス・メスラーは役人《パール》で、ご親切にも出席して下さり、質問に答えて下さるそうだ。おれは自分でしゃべるのは好かんので、メスラーに進めてもらうことにする」
かれが不ぞろいの喝采を受けて座ると、ホーロックス・メスラーが聴衆を考え探げに見まわしながら立ち上がった。「まず最初に、この集会は公式なものではないということを申し上げねば――」
さっと怒りで顔を紫色にして、ストロングアームが踊り上がるように立った。「そんなものは省いちまえ、メスラー」かれはわめいた。「おれたちは公式かどうかなんてことには興味がないし、お前の言い逃れにも興味がないんだ。お前さんをここに連れてきたのは、事態をきちんとするためなんだぞ。だからさっさと進めろ!」かれが腰をおろすと、聴衆は今度は割れるような喝采を浴びせた。
メスラーはおずおずとほほ笑んだ。「失礼した。わたしが悪かった。ストロングアームの言う通りだ。集会は現に今こうして行なわれているのだから、その状態が公式かどうかなどというのは関係ないことだな」かれは口をつぐみ、それからこれまでの戦況を要約し始めた。父から前に聞かされていたことなので、ぼくの注意は散漫になった。ぼくは両手を椅子のわきでぶらぶらさせながら気を紛らわしていたが、気がつくと、片手にブラウンアイズの手を、もう片手にはリボンの手を握っていた。これは望んでいたことだった。
「従って、最新のニュースでは、われわれは大部分の前線でアスタの進軍を阻んでいるわけだ」しばらくすると、メスラーはこんな事を話していた。「だが、南では突破されてしまった。いくつかの主要な町がやつらの手に落ち、海からの侵略の可能性も見逃がすことができないのだ。この場合、パラークシは目標にされるかもしれないわけだ」
「じゃ、銃はどこだ?」誰かが叫んだ。
「町の然るべき保護は準備されている。それは確かだ」メスラーは答えた。「もちろん諸君は、前線への供給物資をよそにまわすことはできないということを正しく理解してくれるだろう。今現在、銃を必要としているのは、われわれのこの国を救うために戦っている勇敢な兵士たちなのだ!」
かれは一息ついたが、拍手を期待していたとしたら、がっかりしたわけだ。疑い深いささやきが聞こえたほどだった。ぼくのうしろの男が、この点に関する会衆の気持ちを一言で表わした。「われわれのこの国だなんて糞くらえ!」かれは、どなった。「パラークシはどうなるんだ?」
「パラークシにおいても、戦況はきわどく、周到な監視下にある」メスラーは続けた。「工場付近に敵のスパイがいるという報告があった――工場はわれわれの戦いの努力に絶対に必要なものだから、そのうちに立入禁止区域をもう一度定め直すことになるかもしれん。そんなことにならないように願ってはいるがね。本当にそう願ってはいるのだが」
かれは続けて、公共の利益を考えずに物事を自分ひとりで処理する者を、夜、徒党を組んで田舎をうろつき、結果的にアスタのスパイをかばっている者を、非合法で非公認の集会を組織して議会の時間を――戦争努力を続けることに費やされる方がずっと良い時間を――無駄にする者を非難した。つまりかれは、物静かで説得力のある口調で攻撃的な話をし続け、陽気なおじさん風の笑い顔で言葉のとげを消したのだ。
かれは聴衆を感服させたとは言えないが、少なくとも壇上に飛び上がってくる者はいなかった。ストロングアームは顔をしかめていたし、かれの取り巻き連中はこそこそとささやき合っていたが、話をさえぎろうとする動きはなかった。
「従って、長く苦しい考察の結果、議会は、この不評判の手段をとるしか道がないということを遺憾に思っている」メスラーがこう話していたが、ぼくはまた聞きそこなったのにちがいない。かれが何を話しているのかわからなかった。聴衆は怒ってぶつぶつ言っていた。
「あんたにはどんな権限があるんだ?」ブラウンアイズの父親が壇上のテーブルから叫んだ。「そんな命令ではわしの商売はめちゃくちゃになってしまう。あれは工場なのか、それとも政府の省か何かなのか?」
「今は戦時中だから、われわれには地区緊急処置を取る権限があるのだ」メスラーはかれにこう告げた。聴衆のあいだから騒がしい声が上がった。
「どんな手段?」ぼくはブラウンアイズにささやいた。
「夜間外出禁止令」
「何だって! やつらは何をこわがってるんだ?」
「リボンのお父さんやその仲間だと思うわ……ドローヴ、これはつまり、夜は外に出られないってことでしょ」彼女の表情は心細げだった。
ぼくらのまわりでは聴衆がはねまわり、叫んでおり、神殿の管理人が心配そうな顔をしているのが見えた。暴動にでもなれば、ここにある飾り物は危険にさらされるだろう。象徴である水晶はメスラーに投げつけるかっこうな飛び道具だ。
その時、沈黙が、驚きの沈黙が生じた。武装した制服姿の男たちの一団が演壇のうしろから現われて、メスラーのうしろに並んだのだ。この役人は、静けさのなかで口を開いた。
「いや、戒厳令を布こうというのではない。いくらかの軍隊が地区警察の手助けと、防衛の目的のために町に駐屯することになる。万一アスタが攻撃してきた場合にも、この町を守る手段は用意してあるということを確信して休みたまえ。御静聴、感謝する」
「ちょっと待て!」めんくらって、ストロングアームが立ち上がった。どういうわけか指揮権が失われ、集会は敗北に終わってしまったのだ。「おれたちは自分を守ること位できるぞ! こんな殺し屋どもは必要ない!」
メスラーは悲しげにかれを見つめた「パラークシ・ストロングアーム――何を望んでいるのだ? きみは、政府が面倒を見てくれないと文句を言った――それなのに、われわれがきみの望んだ保護を与えても、まだ満足しない。実際のところわたしは、きみは単なるトラブルメーカーに過ぎないのではないかと思い始めているよ……」
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12
翌朝、ぼくはブラウンアイズを訪ね、二人でフィンガー・ポイントまで行ってあの大きな船の着くのを見ようという計画を立てた。高い所からなら、それが港の方に向かっているのか、それともブラウンアイズが言ったように新しい埠頭に向かっているのかわかるだろう。
「あの船は昨日の夜、ポイントの沖で錨をおろしたって、みんながグルーメットで噂してたわ」彼女は言った。「何か軍需品を運んでるんだわ。外洋でアスタの軍鑑に攻撃されて、エンジンがこわれたんだって誰かが言ってたの。グルーム前に来れば良かったのにね」
ぼくはまた、ゴールデン・グルーメットがニュースと情報の交換所の役目を果たしていることにびっくりした。ブラウンアイズが話してくれるニュースは、父が熱心に読んでいる新聞よりもずっと新しく、正確だった。
集会での彼女の父親のあしらわれ方に同情して、ぼくらはリボンを訪ねた。彼女は元気そうで、気晴らしができることを明らかに喜んでいた。ストロングアームはまだ怒り狂っていて、市民軍を組織するなどと乱暴なことを話していたのだ。ウナひとりに厄介事をまかして、ぼくらは大通りを通って港に向かった。ぼくらはしばらくのあいだ集会の話をしたが、リボンのことを考えて話題を変えた。夜間外出禁止令はその夜にも布かれそうで、ブラウンアイズは喜んでいなかった。父親がこうむる商売上の損失はかなりのものだろう。
記念碑のそばにウルフが立っていた。珍しく母親と一緒ではなく、途方にくれている様子だった。運が悪いことにぼくらを見つけ、急いで近づいてきた。当惑したそぶりなど見せずに、気楽に笑っている。結局、かれはぼくらのことを何日も避けていたので、もうかれに会うことはないだろうとぼくは思っていたのだ。
「ちょうど会いたかった連中だ」かれは陽気にあいさつし、歩調を合わせながらリボンの腕を取りさえした。彼女が何の表情も見せずにかれを見ると、かれも突然、思い出した。「ああ……スクゥイントのこと、何かわかった?」
「何も」リボンは非常に静かに答えた。
「可哀想に。ひどい話だね。ずっと考えていて、ひとつ思いついたんだ。こう思わないか――」
「おい、その話はよせよ」リボンが悲しそうに唇をかむのを見て、ぼくはぴしゃりと言った。「何か他のことを話そうぜ」スクゥイントがいなくなってから二十日以上たっており、この問題をむし返しても何にもならないのだ。
かれは貴族ぶった驚き方をしてみせて、ぼくをその長い鼻であしらった。「おい、アリカ・ドローヴ、ひとりの子供の命が危険にさらされてる時には、どんな提案だって考えてみるだけの価値はあるはずだとぼくは思ったんだ。つまり、スクゥイントが一人で行くのを許された時にぼくは居あわせたから、とても済まない気がしてるんだ――きみだってそうだぜ。ぼくが思うに、単に自分本位な……」
リボンがかれの腕を振りほどき、ぼくの肩に顔をうずめて激しくすすり泣いたので、かれの声はしだいに小さくなった。「お願いだから、かれを黙らせて、ドローヴ」彼女は身も世もないように泣き叫んだ。「がまんできないのよ!」
ぼくは、こういう事態を処理する知恵を身につけていなかった。まわりの人に好奇の目で眺められながら、すすり泣く少女を抱いて、ぼくはパラークシ港の混雑した波止場に立っていた――だが誰ひとりとして、ブラウンアイズ以上に興味深げに見つめている者はいなかった。リボンへの彼女の同情は急速に消えてしまったようだった。何をしたら良いのか、何を言ったら良いのかぼくには全く思いつかなかった。できることといったらせいぜい、まじめさと心配とが正しい割合で混ざり合っている(そう願いたいが)表情を作ることだけだった。片手はまだブラウンアイズの冷たい手のなかにだらりと握られ、もう一方の手はリボンの肩を気乗りせぬまま抱いている。
唯一の慰めは、ウルフがぼく以上にまごついていることだった。口をぼんやりとあけ、顔色を変えている。「あの……」やつは口ごもった。「本当にごめんよ、リボン。わからなかったんだよ、つまり……」
この時、ぼくは周囲の目を忘れ、義憤にかられた対策を講じることができた。結局ぼくはリボンをこの田舎者から守る英雄であり、保護者なのだ。ぼくの方が有利なのは間違いない。実際、もしぼくがウルフなら、一目散に逃げ出しているだろう。「黙れよ、ウルフ」ぼくは言ってやった。「お前の困ったところはな――」
その時、買い物の荷物を抱えてお袋がやって来るのが目に入った。
ぼくはリボンの向きを変えて、放した。「もう行こうよ」あわてて言うと、ブラウンアイズの手を固く握り、無作法なことだがお尻をてのひらで押してリボンを促した。ウルフは当惑しながら、駆け足でついて来た。母親を見たのはぼくだけだったと思う。ぼくらは波止場の角を曲がり、フィンガー・ポイント街道に出た。
「ねえ、本当に悪かったよ」ウルフがあえいだ。かれは、ぼくらがかれから逃げていると思ったのだ。
浜に引き上げられた船のあいだまで来てもう安心なので、ぼくは立ち止まった。みんなも、当惑顔でぼくを見ながら止まった。「オーケー。お袋があそこにいたんだよ。別にお袋がこわいわけじゃないからな。ウルフ、余計なことは言わなくて良いぞ――人前で見苦しい場面に巻きこまれてるところを見られたくなかったんだ。後であれこれ聞かれるのはたまらないんだよ。さてと、もう大丈夫かい、リボン?」
彼女は涙に濡れた顔でぼくにほほ笑みかけた。「もう大丈夫よ、ドローヴ、ありがとう」
「もし一緒に来たいのなら、おかしなことは言うんじゃないぞ、良いな、ウルフ?」
「ああ」かれは気まり悪そうだった。
「大きな船を見にフィンガー・ポイントまで行くところなんだ。やつが一緒でもかまわないかい、リボン?」
「平気よ」彼女は静かに言った。
かくして、ウルフは喜んでランクを一段下げ、ぼくらの小さなグループにまた加わった。
ぼくらはポイントの上に立ち、明るく、ゆったりとした海を見渡した。海面は跳びはねる魚でまだら模様となり、グルーメットは際限もなく襲いかかっては口いっぱいに生きた餌をくわえ、飲みこみながら高く舞い上がって崖の上と同じ高さの上昇気流に乗るのだった。それから――何羽かはとても近くを飛びまわっていたので魚を飲みこむのが見えるほどだ――旋回し、油を引いたような波間すれすれにまでらせん降下する。あまりに低く飛ぶので、下向きの、袋があるくちばしにさらに魚をさらい込んでいる最中に、時おり足で細い跡を水に描くほどだ。
あの船は錨を上げて、ぼくらの方に進んできていたが、岸まではまだ千ペースはある。常にない方法で曳航されていた。四隻のスチーム・ランチが二隻ずつ舷側に並んでいる。だが引き船は、お互いに対して、前にというより横に引っぱるように配置されている。
リボンが説明してくれた。「あれは、グルームにつかまった大型船なの、わかるでしょ。濃い水のために持ち上がってしまって、不安定になってるのよ。だから引き船が必要になったわけ。今、両側からぴんと張った綱を伸ばして、バランスを保たせようとしてるの。|檣頭見張り台《クローネスト》にいるあの人が見える?」彼女は、一本のマストの半分ほどの所にある台にいる、ぼんやりと見覚えがある人影を指さした。「かれは傾斜表示器を持っていて、引き船を監督してるのよ。船が傾き始めると、そちら側の二隻の引き船には綱をゆるめるように、反対側にはもっと引くように合図を出すの――そうやってまたまっすぐに戻すわけ。そうしながら、埠頭のそばまでゆっくりと動かしてくる。近づいたら、二隻の引き船に代えて、陸から太索を取りつけて、ウインチで横向きに引っぱり上げるってわけよ」
「こういうのを前に見たことがあるんだね、リボン」ウルフが優しく言った。
「何度かね。クローネストのパイロットとしてよくうちの父が雇われたんだけど、今日はいないわ。あれは役人《パール》の船でしょ。やつら[#「やつら」に傍点]のために働いたりするもんですか」彼女がこう言った口調には非常な軽蔑が含まれていたが、ウルフはさらに質問を続けてさらりとかわし、全体的に、胸が悪くなるほどの思いやりと礼儀正しさを見せてふるまった。
しばらくして、ぼくはブラウンアイズに言った。「少し歩こうよ」
ぼくらは、崖の頂上に座っている二人を残して、木立ちのあいだをぶらついた。ブラウンアイズはしばらくおとなしかったが、聞かれない所まで来ると、辛辣に言った。「彼女があんなにあなたを[#「あなたを」に傍点]頼りにしてるなんておかしいわね」
ぼくは胃が沈みこむような感じがした。「どういう意味?」
「波止場で泣いてた時に、リボンがあなたに[#「あなたに」に傍点]、だ、だきつき始めたのがおかしいって意味よ。それに彼女はいつでも、どこにでもあたしたちと一緒に来るわ。あなたと彼女はいつでも二人で話してるみたいよ、いつだってね」彼女が鼻をすすったので、泣き出しかけていることがわかり、ぼくは絶望的を気分になった。今日はついてない。「それに、昨日の夜の集会であなたが彼女の手を握ってたのをあたしが知らなかったなんて思わないでちょうだいな」
ぼくは草の上に座ると、彼女のことも引っぱって座らせた。暖かい午前半ばで、そばにあるものといえば木々だけだった。彼女は頭を下げてまっすぐに座り、手をぼくの手におとなしくあずけている。「もしぼくが彼女のそばにいたかったのなら、きみを散歩に誘ったりするわけがないじゃないか」ぼくは道理にかなったことを言った。
彼女はまたすすり上げ、肩をふるわせたが、突然、髪の毛を目から払いのけるとまっすぐにぼくを見つめた。「あたし、負けたのかもしれないって思ったの」驚くほど穏やかな声で彼女は言った。「あなたが悪いわけじゃないから、きっとあたしが悪いのね。リボンのことも責められないわ。でも、あなたを失いかけているような気がして、どうしたら良いのかわからなかったのよ」
「ぼくを失ったりしてないよ」ぼくはみじめな気持ちでつぶやいた。
「ね、聞いて。あなたとリボンのあいだには何かあるわ。何かあるって、あたしにはわかるの。どうしてだかはわからないけれど、あなたはいつも、彼女が困っている時に助けてあげたり、不幸な時にそばにいたりしてあげるわ……色んなことを分けあってるみたいだわ。まるで……まるで一緒にいることになってるみたい。あなたとわたしのあいだには何にも起こらない。手をつないで歩く位で、もっと親密になれるようなことは何にも起こらないんだわ」
「どういう意味なんだい? 何かを起こらせることなんてできないぜ」
彼女答えなかった。じっとぼくを見つめていた。計算でもしているようなあまりに考えこんだ表情なので、まるでぼくのブラウンアイズではないみたいだ。手をはなすと、服を伸ばして草の上にあお向けになった。さらに表情が変わり、まるで眠っているようだ。ぼくは彼女の見つめ方が気にかかり、彼女が両腕を上げて頭のうしろで組み、背中を少しそらした時には思わず目をそらしてしまった。赤くなっていたんじゃないかと思う。
「こっちを見てよ、おばかさんね」彼女はささやいた。
ぼくは彼女を不安な気持ちで眺めた。まるで彼女が深い湖で、ぼくはそこに何が潜んでいるのかわからずおびえながらも、魅せられているようだった。相変わらずあのとろんとした表情をしながら、彼女の目はまだぼくの目を見つめている。ふくよかな唇が開いており、舌が動くのが見えた。
彼女は青い服を着ていたが、首にネックレスはつけていなかった。ぼくの目は、初めて眺める彼女の胸からウエストにかけての、夢うつつにさせるような美しさを見まわし、それから非常に大胆なことにぼくは手を伸ばして腰にさわった。ウエストには細いベルトが巻いてあり、彼女の丸みで腰のあたりの服が突然、ふくらんでいる。服をそっとなでながら視線を、青い服の下から褐色の太ももが現われているところまで動かしていった。今感じ始めているように感じるのは悪いことなのだろうかと、ぼくはぼんやりと考えた。それから、ブラウンアイズもそうなることを望んでいるのだと直観的に理解できたので、悪いことではないにちがいないと決めた。ぼくは、彼女のえくぼができた膝やふっくらしたふくらはぎを眺め、そして、彼女の小さな白い靴から顔へと視線を戻した。彼女の唇には、けだるいほほ笑みが浮かんでいた。
「あたしみたいに可愛い子とつき合うのはすてき?」彼女はそっと尋ねた。
「ブラウンアイズ……」ぼくはもぐもぐ言った。「ぼく……」
「じゃ、キスしてちょうだい、ドローヴ」彼女がささやいた。
ぼくは彼女の上にかがみこみ、唇を彼女の唇に不器用に押しあてた。彼女の腕がぼくの首にからみつき、ぼくの胸のなかで何かが起こった。突然、ぼくらの唇はずっと柔らかくなり、さらに重なり合い、言葉にならない長い喜びの声を上げながら、彼女が舌でぼくの舌に触れてくるのが感じられた。
とうとう、もう起き上がる時間だろうと思った時、彼女はためらいながらぼくを見ていた。何かを言いたいのだが、切り出すまでに少し時間がかかった。
「ドローヴ」ようやく彼女は言った。「笑わないって約束してくれる?」
「うん」
「言いたいことがあるんだけれど、これはもっと年を取った人が言うようなことなの」彼女は早口で言った。「だから、おかしいかもしれない。ドローヴ……?」
「うん?」
「あたし、死ぬまであなたを愛してるわ、ドローヴ」
二人のところに戻った時、かれらは別々に座って水面を眺めており、話ははずんでいなかった。ぼくらが近づく音を聞きつけて、明らかにほっとしたようにリボンが顔を上げた。
「一体、お二人さんは何をしてたの……ああ……」ぼくらをさぐるように見た時、彼女の表情が変わり、それからかすかなほほ笑みが顔をよぎった。ウルフは黙ったまま、眼下の船を見続けていた。船は埠頭のかなり近くまで接近しており、クローネストの男の顔が見えた。
シルバージャックだ。
「雇えたなかではかれが一番だったのね」ぼくがそのことを教えると、リボンが言った。「結局、かれは海のことは良く知ってるもの。あんなに当てにできない人間でさえなければ良いのに」
ぼくらは、船がさら近づいてくるのを眺めた。ぼくがこれまで見たなかで一番大きい船だった。二本マストだ――だが今は帆は全部巻き上げてある。船尾の粉々の円材や、何だかわからぬ残骸が、アスタの砲撃を証明している。船の中央には高い煙突がそびえ、そのわき、船体の両側には大きな外輪がついている。これもこわれていた。外輪がゆっくりとまわると、かぎ裂きになった材木がぶら下がった。甲板には白い帆布でおおわれた物がたくさんあり、どうやら船倉は積荷で一杯のようだった。にもかかわらず船は非常に喫水が浅く、雪あび《スノー・ダイヴァー》が漂っているように、グルームの上に不安定に浮かんでいる。
「まずいことが起きたんだわ」突然、激しい声でリボンが言った。
人影が甲板で身ぶり手ぶりし、シルバージャックに合図している。船が危険なまでに傾いてしまったのに、引き船は海面から突き出ている岩を避けて注意深く動いているので、それを直すのに手間どっているのだ。汽船はゆっくりと傾き、とうとう大きな外輪の水かきのひとつが半分ほど水中に沈み、シルバージャックは傾いたマストから海に身をのり出した。右舷の引き船二隻は、耳ざわりな蒸気の音を立て続けに上げながら、汽船をまっすぐにしようと懸命に引っぱった。下の埠頭からかすかな叫び声が聞こえた。
濃い水が引き船の船尾のあたりをゆっくりと動くなか、船はかなり長いあいだ、不安定なバランスでゆれながら、そこに浮かんでいた。
「甲板の荷物なのよ」リボンがつぶやいた。「引くのよ、バカ!」彼女は引き船をせきたてた。「引きなさいったら!」
彼女は漁師の娘であり、船と、その乗組員とには特別の感情を抱いていた。こういう事態に際しての責任感だが、ぼくなんかにはとても持てっこないものだ。だから、船が引っくり返れば良いと思っている自分に気がついた時も、ぼくはあまり自分を責めなかった。全てのことが非常にエキサイティングなできごとなので、汽船が無事に停泊してしまったら何ともしまらない結末となってしまうだろう。
ゆっくりと、渋々と、船はまっすぐになった。こわれた外輪装置のあいだから水がぼたぼたとしたたり落ちる。反対側の太索がぴんと張って船を支え、リボンは安堵の声をもらした……。
悲劇は、ゆっくりと必然的に起こった。左舷の引き船の一隻がプロペラをまわし、同時に汽笛で警報を鳴らすなど、海上でせわしない様子を見せた。へさきの柱に取りつけた長い太索が切れたのだ――あるいは、柱自体が恐ろしく引っぱられたために折れたのかもしれない。太索は空中に舞い上がり、襲いかかる蛇のように、だがもっとゆっくりと、高く、重たく、汽船に向かってうねった。ものすごい、きしるような音をたてて引き船はバックして岩にぶつかり、スクリューは花崗岩に喰いこんで粉々になった。それから、裂けるような、つんざくような悲鳴が上がった。宙に舞った太索が支索《ステー》や横静索《シュラウド》のあいだを切って、汽船の甲板の上を弧を描いて飛び、男たちが四方に飛び散るなか、最後にはマストに巻きついて、もつれたロープや針金や帆布のなかに引き倒したのだ。マストが海の方に傾いた時、シルバージャックの姿は、ぶざまにダイビングして脱出した。かれはすぐに浮かび上がり、埠頭目ざして力強く泳いできた。
そのあいだに、汽船はまた傾いており、今度は何もそれを止めることはできなかった。リボンは顔をそむけたが、目には涙が浮かんでいた。彼女にとってこの船はあらゆる船を表わしており、男たちの誰かが父親であるということもありえるのだ。ぼくは彼女に腕をまわして、眺めているあいだ抱きしめてあげた。今はブラウンアイズも気にしないことはわかっていた。
左舷の積荷が解けて機械のひとつひとつがごろごろと動き出し、甲板を転がって右舷の荷物にぶつかったので、そのうちのいくつかも動き出した。汽船はさらに傾き、積荷が低く、ゆっくりとした水しぶきを上げて片側から落ちていくなか、男たちも海に飛び込んだ。船体がゆっくりと水から持ち上がった時、底が緑色に塗られていて、海草や貝のしみがついているのが見えた。
事態の悲劇性がようやくぼくにも身にしみてわかってきた。多分、リボンの震える体を通してぼくに伝わってきたのだろう。ブラウンアイズはぼくの手を握りながら辛そうに見おろし、ウルフは、この悲劇全体がかれの優しい感性にはきつすぎるとでもいうように、奇妙な、気むずかしい嫌悪の表情を浮かべている。こうしてぼくらは汽船が転覆するのを見つめていたが、まもなく、見えるものと言えば長く、カーブした船底だけとなり、引き船はなす術《すべ》もなく、打ち負かされてまわりに浮かんでいた。
大半の乗組員は埠頭に向かって泳いでいた。グルームのおかげで浮かび上がり、すばやく、楽に泳いでいる。何の危険もなかった。この事件の唯一の悲劇は船が失われたことだけだった。男たちの何人かは引き船に上がりこんだかと思うとすぐさま、おそろしい口論を始めた。そのあいだにもグルーメットはあたりに舞い降りており、ぼくは、グルームがこれ以上進んでいなかったのは幸いだったと考えていたのを覚えている。濃度が最高の時だったら、命を奪うグルーム・ライダーが海面を飛びはねてこの場にやって来ただろう。そしてその後には腐肉食の魚が……
重苦しい海のなかから響いてくると思われる、低い、ごうごうといううなり声が聞こえた。水が炉にまで達してボイラーが爆発したので、ひっくり返った船の背が蒸気と破片を吹き上げた。材木、機械、恐ろしいことに人間に似た形のものなどが空中に吹き飛ばされた。ぼくは、大きなピストン棒が崖の頂上と平行になるほど、最大の弧を描いて長いこと空中に漂っていたが、とうとう落下して、ほとんど水しぶきも上げず、静かにぽとんと海面に落ちるのを見ていた。
長いたばこのような船が海面下に消え、パラークシ海溝の底に、二度と戻らぬ姿を沈めていくと、大きな泡が、最後のあえぎのようにゆっくりと立ちのぼった。
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13
ぼくは、自分を取りまくおとなの世界の懸念にほとんど考慮を払わない年齢だった。厳密にはその世界の手中にあるのだが、その趨勢などは気にもとめなかったし、両親がむっつりした顔で陰気に黙りこみながら家のなかを歩きまわっているのを見ても、わざわざその理由を尋ねるようなことはまずしなかった。どのような危機であろうと、すぐに終わるだろうという確信があったからだ。この態度の副産物のひとつが、母親の地図に対する疑いだった。エルトの戦旗を後退させながら――こうやって、われわれの母国をアスタ軍に与えるのだ――お袋は大いに涙にくれかねなかったが、ぼくにとっては、それはただの旗に過ぎなかった。色を塗った一枚の紙きれの裏にある象徴性を理解できなかったのだ。
しかし、あのフィンガー・ポイントでの一日以降に急速に起こった様々なできごとによって、ぼくはこのもうひとつの世界の存在と、それが今現在、ぼくに作用しているという事実とを認識せざるをえなくなった。
汽船の沈没の次の日の朝早く、家に客が来たのだが、そのこと自体がぼくを変えていただろう。だがベッドのなかは気持ちが良かったし、窓ごしには湾が見渡せた。朝食の席でどんな話が行なわれているのか、ぼくの知ったことではなかった。自動車《モーター・カート》がやって来る音が聞こえ、最初は玄関で、それから一階で話し声がしたが、ぼくは気にとめなかった。ぼくは、ブラウンアイズのことや昨日話し合ったことを夢に見ながら横になっていた。
だがとうとう服を着て、下に降りて行った。父と母は心配そうな顔でテーブルについていた。
そして、ホーロックス・メスラーもいた。かれは朗らかに笑いかけてきた。会話がまた始まった時、ぼくははっきりと――これは珍しいことではないが――ぼくが来たので話題がたくみに切り変えられたという印象を受けた。子供の耳には入れたくないことが話されていたのだ。
今、三人が話しているのは、何だか良くわからぬ事の時間と場所だった。父のお気に入りの出だしは、話のポイントに触れずに他のおとなと、人の気をそそるような会話を続けて、ぼくを気がかりで狂わんばかりの思いにさせることだった。
「魚市場は、午前半ば頃までにはもっと静かになるでしょう」親父が話している。「早朝の水揚げが売り切れるでしょうからな」
「夜が一番良かったんだが」メスラーが考え深げに言った。「だが、われわれが夜間外出禁止令をみずから破ることはできんしな。いや、午前中頃しかないだろう」
「神殿ですか?」
「そうだろうな。何か非常に……威厳がない雰囲気だからな、野外集会というのは」
「何についての集会?」ぼくは尋ねた。
父はぼくの方にちらと目を走らせただけだった。「承知しました」きちょうめんに唇をぬぐうと、立ち上がった。「告示を点検して、神殿のスタッフを組織しておきます」
「わたしは後で行くよ」腰かけたままでメスラーは言った。「別に急いではいないんだ。こういった時には時間をかけて考えをまとめたいのでね。そうすれば野次に取り乱すこともないからな」
「野次ですって?」親父の表情はいかめしかった。「野次などないと良いですなあ!」
「ばかなことを言うなよ、バート」メスラーはくすくす笑った。「野次なんていつだってつきものさ。ゲームの一部なんだよ」
ぶつぶつ言いながら父は出て行き、その直後に自動車《モーター・カート》の動く音が聞こえた。メスラーはぼくの方を向いた。「あとで町まで乗せていってあげられると思うよ、ドローヴ。わたしの車《カート》が外にあるんだ」
「まあ、ご親切にありがとうございます、ホーロックス・メスラー」ぼくが答える前に母が言った。「ホーロックス・メスラーにお礼を申し上げなさい、ドローヴ」
「ああ」ぼくは言った。
「この間、きみがパラークシ・ブラウンアイズやリボンと一緒に神殿にいるのに気がついたよ」目をきらりと光らせてメスラーが言った。
「あの子たちと一緒の時間がそれは長過ぎるんですよ」母親がぐちをこぼした。「何度も言ったんですけれど、効き目がなくて。聞こうともしないんですから。飲み屋の娘に政治活動家の娘ですからね」
「ウルフのことを忘れないでよ、母さん」ぼくは口をはさんだ。「役人《パール》の息子だぜ」
メスラーは大っぴらに笑った。「息子さんのことは心配しなさんな、ファャット。自分で友達を選ばせなさい。それに、息子さんが一般大衆と近づきでいるのは悪いことじゃない。役に立つようになるかもしれませんよ」
ぼくは最後の言葉の感じが気に入らなかったので用心して黙っていたが、その間にも母親は物不足や配給制のことをぺちゃくちゃとしゃべり続けていた。そんな話題は全くわかっていないことなのにだ。だが、知らないからといってお袋の話が止まるわけではない。
その後、メスラーとぼくはかれの自動車《モーター・カート》に乗り込み――それは、父の車《カート》よりももっと常々としたものだった――そして町まで行った。記念碑の下に触れ役が立っており、かたわらのポータブルの汽笛の火が燃えていた。ぼくらが通り過ぎた時にかれが汽笛のハンドルを引いたので、狭い港いっぱいにかん高い悲鳴がこだました。それからかれは大声で集会のことを告げ始めた。ぼくは、まわりのむっつりした顔に気がついた。人々は、政府が召集する集会はどんなものであれ不愉快な結果になりそうだと見抜いているのだ。
工場に向かう代わりに、メスラーはフィンガー・ポイント街道に出た。すぐにぼくらは、はるか眼下にきらめく海を見おろしながら、木々のあいだの小道をがたごと走っていた。ぼくはいらいらした。町で降りて、ブラウンアイズを訪ねるつもりだったのに、その機会を与えてもらえなかったのだ。かれは、昨日、ブラウンアイズとぼくが座った場所の近くでとまると、ぼくに降りるように合図した。ぼくらは一緒に崖のふちまで行って、海を眺めた。グルーメットは前よりも増えており、何隻かの小さなスキマーが眼下に見えた。好奇心の強い乗組員たちが、難破のあとはないかと、海の深みをのぞきこんでいる。新しい埠頭ではほとんど何も行なわれていない。クレーンが所在な に突っ立ち、二、三人の男がロックス車《カート》のまわりに座っているだけだ。
「じゃ、ストロングアームのことはかなり良く知ってるんだね」不意にメスラーが言った。
「うん」
「かれがこの辺で一番の船乗りだということはわかっている……正直に言うとね、ドローヴ、われわれは困ってるんだ。昨日のイザベル号の沈没のおかげで、政府にとって事態が非常に厄介になってしまってね。きみもこのことは今日の集会で聞くだろう」
イザベル号、この名前には聞き覚えがある。
「われわれはあの船を引き上げたいんだ」かれは続けた。「そのためには、この地域の海とグルームについての完全な知識がある人間が必要だ。熟練した船乗りが必要なんだ――だがそれだけじゃない。乗組員を集められ、バブル・ダイバーを潜るように説得でき、潮や濃度や流れを読むことができる人間が必要なんだ」
ぼくの頭に奇妙な考えが浮かんだ。理由はわからない。メスラーは、ぼくがイザベル号の沈没を近くで目撃したということに気がついていない――実際の関係者は別として、見ていた者はほんのわずかな漁師に過ぎず、しかもたまたまその時通りかかっただけで、遠すぎてあまり良く見えなかったと思っているのだろう。
「このあいだの集会であんな風に扱われたから、ストロングアームが役人《パール》の手助けをするとは思えない」ぼくはきっぱりと言った。
メスラーの目が大きくなった。こっけいなまでにうろたえているようだ。「何が起こっているのだ?」かれは尋ねた。「何が起こっているのだ? 議会を助ければ、自分自身やパラークシ中の人々を助けることになるんだぞ。どうして、こんな敵意ある態度が出てくるんだ? パラークシの連中は、敵が誰だかわかっていないのか? みんな、気が狂ってしまったのか?」
「あなたにわからないのなら、ぼくにもわかりっこないさ」ぼくはつぶやいた。町に戻りたかった。メスラーから逃げ出したかった。ストロングアームに圧力をかけてくれとぼくを説得にかかるつもりなのではないかと思ったのだ。
「グルーム……」激情からわれにかえって、メスラーがつぶやいていた。「それが、底にあるんだな。だから、ここの連中は他の者とは違っていると考えるんだ。グルームが連中を結びつけている。生活様式全体がひとつの現象に合わせて作られている……」かれはひとり言のように話しながら、重たい海を見つめていた。「奥地では、それが砂漠であったり、農業であったり、産業であったりする。戦争が起きるまでは、ホーロックスでは自動車《モーター・カート》産業が拡張しつつあったんだが、知っているかな? エルト最大だ。だが、シュガープラントの栽培がうまく行かなかったので、燃料のほとんどをアスタから輸入しなければならなかった。そして戦争になった時……わたしの町では、職を失った人間がたくさんいた、知っていたかね?」
「あなたの町で何が起こっているのか、ぼくが知ってるわけがない」ぼくは無愛想に言った。おとなには腹が立つ。いつでも辛い時期のことをだらだらと話すんだ。
かれはじっとぼくを見ていた。「知るわけがない? ある意味ではきみは、きみ自身の町よりもずっとパラークシに近いんだな。なぜそうなのかな。グルームがきみたちの血そのもののなかに入りこんでいるようだ」かれはにっこりした。そしてわれにもなくぼくは、かれがぼくをパラークシのなかに含めてくれたことを嬉しく感じた。「誓ってもいいが、一年のうちのこの時期にパラークシの人間が体のどこかを切れば、濃い血が流れるよ。なのに、連中は何も知らんのだ。あるがままのグルームを受け入れるばかりで、理由を、裏の意味を考えてみようとしない」
「どうしてそんな必要があるのさ?」ぼくはいらいらした。「グルームは事実なんだ。起こるんだ。それだけで十分じゃないの?」
ぼくらの下では、一隻の大きなスキマーが、歓迎の腕を広げるかのようにネット・ブームを伸ばして静かに、風もない海の上を動いている。突き出した岩のあいだを注意深く縫って進んでいたが、それからものうげにゆれながら向きを変え、海溝に沿って海の方に向いた。舵柄を握っていたのはストロングアームだったので、かれはいつもの漁場からこんなに離れてあそこで何をしているのだろうとぼくは訝かった。
「きみにはがっかりしたよ、ドローヴ。ここの人間と同じように話すんだな。まるでグルームがいつも共にあるみたいにね。いいかね、何事にも始まりというものがなくてはいかん。昔はグルームはなかった。海は一貫して同じだったし、ほとんど同じ水位だった、一年中ね」
これは想像し難いことだったので、ぼくはそう言った。「ぼくらの世界は、楕円形の軌道で太陽フューのまわりをまわっている」ぼくは、習ったことを引用した。「夏にはフューに近づくので海が蒸発して、グルームが起きるんだ。大気中から水分が濃縮されるので、どしゃ降りの雨になる。冬が寒いのは、太陽からずっと遠く離れているからだ。簡単なことだよ。」
「じゃ、どうしてグルームは、南から北に流れるんだ? 蒸気のために曇っていなくちゃいけないはずなのに、どうして空が晴れているんだね?」
「わかるわけないじゃないか」
「わからなくちゃいけないんだよ、ドローヴ――過去のある時期には、きみはその答えを見つけるだけの好奇心を持っていたはずだからだ。今は……」かれはポケットから紙とコンテを引っぱり出した。「われわれの星は、太陽フューのまわりの軌道の方向に対して直角に自転している。ごらん」
そう言うとかれは紙の下半分にフューを表わす円を描き、それから四季を通じてのぼくらの世界を表わした、一連の小さな円を楕円形のコースに並べた。「もちろん」かれは言った。「割合は合っていないし、軌道は、冬にはここに書いたよりもずっと広がる。だが、これでも今の目的にはかなうからね」
ストロングアームの船はどんどんとはるかかなたに遠ざかっており、ぼくはもっとましな分別があるにもかかわらず、天文学の講義に興味を覚え始めていた。多分、メスラーが優秀な教師だったのだろう、あるいは――もっと可能性が高いことだが――かれが説明してくれているのが、ぼくがいつも知りたかったが、怠けていて答えを見つけようとしなかったことだったのかもしれない。
かれは、この星のそれぞれの位置に、AからHの文字を入れた。「位置Aは真冬だ」かれは説明した。「つまり、太陽から最も遠く、昼と夜の長さが同じ時だ。さてと、地軸は軌道に対して直角だということは話したね」それぞれの円の上に、北から南にかけて直径を引いた。「だが、もうひとつ重要なことがある。太陽との関係において、われわれの星はその軌道の方向とは逆方向にゆっくりと回転しているんだ。これはつまり、夏が始まる時――位置Cだが――太陽は南極の上で輝いているが、八十日後には北極上で輝いている、ということだ。わかるかね?」
ぼくは、コンテの印がついた紙を見つめて、それを目の前に浮かび上がらせようとした。手頃なスリングボールが二つあれば、もっと簡単だったろう。だが、ぼくはあきらめるつもりはなかった。「わかった」ぼくは言った。
「つまり、こういう事が起きるんだ。夏が始まる時に、太陽が南極上で絶えまなく輝いて大規模な蒸発を引き起こすので、蒸発し続けるサザン・オーシャンの海水を補充しようと、セントラル・オーシャンの狭い海峡を北から南へ潮が流れる。そして真夏までには――これは位置Eだが――パラークシの昼はまた夜と同じ長さになり、南極の暑さもある程度やわらいで、完全に釣り合いのとれた位置関係となる。南極の巨大な雲の層は、正常な風の循環運動のおかげで、極地域内にとどまる。
それから星は徐々に回転して、太陽に北を向ける」
ぼくにも様子がわかってきた。「つまり、今度はノーザン・オーシャンが蒸発するんだ」ぼくは言った。「だけど、海水がセントラル・オーシャンを通って流れ、補充しようとパラークシを通過する時には、それは普通の海水じゃない。もう蒸発してるんだ。だから濃いんだ。それがグルームなんだね」
メスラーは熱心な様子で笑った。「これは面白い問題だよ。今でもわからないことがたくさんある」かれはまた図を指さした。「とにかく、グルームは位置Gで最高に達する。その後は星は太陽から離れて行き、急速に冷え、雲が内側に広がってくる。位置Hの頃になると、どしゃ降りの雨が降り始め、乾いた冬が来るまで続く。そして、また同じことが始まるわけだ」
ぼくは海を見つめた。低い潮にもかかわらず、パラークシ海溝がセントラル・オーシャンの真ん中に走っているあたりでは、まだ海はとても深い。「蒸発で、この水の量が変わるなんて信じられない」ぼくは言った。「こんなにあるのに」
メスラーはうなずいた。「そうだな。だが、これはセントラル・オーシャンだ。ここは深くて狭いんだが、それは、この大陸が星を取り巻いていた頃の大きな地震のせいだそうだ。亀裂が生じて、エルトとアスタを引き裂き、ノーザン・オーシャンとサザン・オーシャンをくっつけた――アスタの海岸線がこの辺の海岸と非常に良く似ているということを知っているか? くっつけることができる位なんだ。だが、極海というのは常に今のところに存在しており、大きな平鍋のように浅い。太陽が常に輝いていれば干上がってしまう。残ったものがグルームなんだ」
南から、重たげな翼にのって、密集したグルーメットの群れが近づいていた。鳥たちは崖の近くに低く舞い降りると、海面をさらってがつがつと餌をあさった。ぼくはしばらく考えていた。そして言った。でも、それでも何にも違わない、そうでしょ? 話してくれたことを証明することはできないし、わかったからといって前より良くなるわけじゃない。無知でいるのはよくないと証明したわけでもない。グルームはそれでも続いてる」
かれはあの陽気な笑いを浮かべた。「それが人生さ。それじゃきみは、ストロングアームの手助けを得ようとして、わたしが時間を無駄にするだろうと感じてるんだね?」かれはきっぱりとした態度で立っていた。
ぼくは紙きれをまとめて、かれに気づかれませんようにと祈りながら、ポケットに押しこんだ。「ためしてみれば良いさ」ぼくは言った。「でも、どうにもならないよ」
ぼくは、ゴールデン・グルーメットにブラウンアイズを尋ねた――もう、大胆に酒場のなかに入っていく習慣が身についていたのだ――すると、少数の客が集会の話をしていた。ブラウンアイズは当座忙しかったので、ぼくは話に耳を傾けながらぶらぶらしていた。彼女の両親が話をしていた。
「なぜやつらが集会を開くのかわからん」かれは怒って話していた。「この前と同じことになるのになあ。ホーロックス・メスラーの野郎が立ち上がってくだらん事をしゃべる。こっちはそいつを聞いてなきゃならん。そして最後にやつは何か新しい規則を急に持ち出してきて、それでボディーガードに守られながら逃げ出すってわけだ。何の話し合いもなければ、質問をするチャンスもない。行くのはよそうかと思ってるんだ。こんないまいましい事はボイコットすべきだぜ」
「それで思い出したが」初老の男がつぶやいた。「今日は憲兵の姿をあまり見かけんなあ」
ガースはすぐに機嫌を直し、大声で笑いとばした。「そして見ることはないだろうぜ。やつら、顔を見せるのがこわくって、小さくなってるんだ。昨夜、数人がやつらに乱暴したんだが、それ以来姿を見せないのさ」
トラック運転手のグロープがびっくりした顔をした。「多分、集会はそのことについてだぜ。でも、おれたちの警察はどうしたんだ? 止めなかったのかい?」
「その時、そばにいなかったのさ。いいか、今日び、役人《パール》が町に顔を出すのは賢いことじゃないんだ」ガースはちらりとぼくを見た。「お前さんは含まれてないんだよ、ドローヴ。おれたちの一員みたいなもんだからね」かれの妻のアンリーが、請け合うようにぼくに笑いかけた。
「だけど、おれは役人《パール》なんだぜ。今まで気がつかなかったけどな」グロープがつぶやいた。「おれは今はやつらのために働いてるんだ」
「それじゃ、武装してた方が良いぞ。さてと……」ガースが話を打ち消すような態度でカウンターの向こうから出て来た時、ブラウンアイズが部屋に入ってきた。「午前中はもう店を閉めても良いだろう。ホーロックス・メスラーの野郎にまた客を全部とられちまった……」
神殿での光景は前と良く似ていたが、ただ今度は、ぼくは隣にいたにもかかわらずリボンの手を握らなかった。ぼくらは最前列に座っていたが、壇上の高みから見おろしていて、ブラウンアイズがぼくの両手を握りながらぼくに寄りそっているのを見つけた父親の非難の視線にぶつかった。今はそういうことをする時でもないし、またそういう場所でもないぞと親父が考えているのが聞こえるほどだった。
メスラーはぼくらを待たせなかった。両手をうしろに組んで演壇にまで進み出たが、かれの表情はいつになく真剣だった。「今朝は良いニュースはお聞かせできない」かれは言った。
パラークシがかれの正直さを評価してくれるだろうと思っていたのなら、悲しいことにそれは間違いだった。「それじゃ、口をつぐんで家に帰れ」誰かがわめいた。「お前がいなくても問題は山とあるんだ、メスラー!」みんながもじもじしたり、ささやいたりし、叫び声もいくつか混じっていた。
「ならば、最悪のことを、今すぐ話そう!」メスラーは初めてかっとなってどなり返した。「そのことについて諸君やわたしにできることは何もないのだから、座って話を聞きたまえ!」かれは喧嘩腰にあたりをにらみつけた。
しばらくすると比較的静かになったので、かれは話を続けた。「ご存知の通り、汽船イザベル号が昨日、フィンガー・ポイント沖で遭難したが、幸いなことに人命はほとんど失われなかった。さて前にも申し上げたが、議会は常に一般大衆に心底関心を寄せており、この困難な時期における諸君の驚嘆すべき努力を高く評価している。もちろん、このような忠節への返礼として、パラークシをアスタの略奪者どもから守るのが議会の義務である。そして、これがわれわれの意図だった」かれは悲しそうにぼくらを見つめた。「そして、これがわれわれの意図だったのだ」
リボンが身を寄せてささやいた。「だが不幸なことに……」そしてぼくは声を出して笑ってしまったが、そのために父からじろりとにらまれた。
「だが不幸なことに、われわれの希望は打ち砕かれた」メスラーは続けた。「汽船イザベル号と共に海溝の底に沈んでしまった。そうなのだ、友よ。イザベル号に積んであったのは銃に弾薬、われわれのこの町を守るために待ち望んでいた軍需品なのだ」かれは口をつぐむと疲れたように聴衆を見つめ、この不幸の大きさが鈍いパラークシ町民の頭にしみこむのを待った。
ストロングアームが尋ねた。「おれたちは身を守るためのものを何も手に入れられないだろうと言っているのか?」
「そうではない。幸いなことに、代わりのものが手に入ることになり、今度は陸路で運ばれる。だが、あと何日もかかるだろう。何日も」
「どの位だ?」誰かが大声で尋ねた。
「そう――三十日ほどだ」メスラーは先を急いで続け、ぱらぱらと起こった落胆の叫び声を聞こえないようにした。「工場の労働者たちはすばらしく働いてはいるが、前にも言った通り、生産の大半はどうしても前線に送らねばならないのだ。そして、今度も悪いニュースなのだが、敵が多くの地点を突破して、現在、アリカのすぐ目の前まで来ているのだ!」
突然、戦争が胸にこたえ、生まれた家が敵の軍隊に占領されている様子が頭に浮かんだ。「つまり、議会がぶんどられちまうかもしれないってことか?」ガースが希望をこめて尋ねた。「つまり、アリカが首都だってことは知ってるんだ。そう教えられたからな。だから、議員たちが銃を渡されて、勇ましくこの国を守ってくれるってことかい?」
この警句を歓迎した歓喜のほとばしりは、聴衆の意見に関して何の疑いも残さず、ホーロックス・メスラーは真っ赤になった。
「その通りだ、ばか者め!」かれはわめいた。「面白がっているが良い。できるうちに楽しんでおけ。イエロー山脈を越えてアスタ軍が殺到してきた時には笑ってはいられないんだからな!」
ストロングアームが壇上を横切り、メスラーの近くに立ったので、この議会人は不安そうに少し移動した。
「おれたちだって逃げやしないぞ」かれは静かに言った。
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日がたち、老人たちがゴールデン・グルーメットでビールをすすり、賢そうにうなずきながら、これは覚えているなかで最も濃いものだと言うまでにグルームは激しくなった。驚くべきほどの水揚げが魚市場や防波堤の埠頭でおろされるので、(主義としてはともかくも)新しい罐詰工場にまわされる大量の魚を惜しむ者は誰もいなかった。近頃の水揚げのほとんどは、町の人間の目から隠れたフィンガー・ポイント先の新しい埠頭に運ばれたが、港から道路を使って運ばれるものもいくらかあった。入江は長いこと干上がっていた。
みんなの心配にもかかわらず憲兵隊はパラークシではほとんど見かけられなかった。時たま、文字通り旗を掲げて大挙して、工場の監視の黒ずんだブルーとは全く違う真紅の制服に身を包み、エルトのシルバー・ロックスがはためく長い旗ざおを目立つ所に立てながら、大通りを行進していった。ぼくらの国の紋章は力と忍耐、不屈の精神、それにさらに深い宗教的な意味とを表わしていると言われているが、パラークシの人々には人気がなく、この不幸な時期にそんな旗を見せびらかすのは侮辱に他ならないと考えられた。反対の行進を組織しようという試みもいくつかあったが、ストロングアームがそれに反対だということが明らかになって、これはしだいに立ち消えになった。
「派手な恰好をして足並そろえて歩くっていうのは、やつらにはひとつしか考えがないってことみたいなものさ」かれはつぶやいた。「これが役人《パール》やああいう連中のやり方なんだ。いばりくさって歩きまわることや、アリカで耳にする儀式なんかがな。あんな連中みたいになりたいのか?」
少なくとも、エルトの旗が見せびらかされる時に、それに反対して掲げる自分たちの旗をパラークシは持つべきだと誰かがおずおずと提案すると、かれはこう言った。「旗やその他のまがい物の印は必要ない。おれたちの町の名前だけで十分なんだ――それでおれたちが誰か、何者かみんなにわかるんだ。おれたちはこの町に住み、この町で働き、そして時々はお互いを好きになり助け合う――だが、それで十分だ。おれたちはまだ一人一人の人間だし、ずっとそのままでいるんだ」かれは突然、にやりとした。「おかげで役人《パール》どもには的がしぼりにくくなるぞ」
ぼくはストロングアームが好きだったが、かれはあまりに狭量であり、その意見は急速に真の問題をおおい隠しているというホーロックス・メスラーの意見に賛成しがちになることも時々あった。ぼくは、イザベル号の引き上げについてのメスラーの申し出をわざわざ言い出すこともしなかった。それに対する態度がどんなものであるかわかっていたからだ。
だが、そのうちに、パラークシは戦争中の国の一部であり、アスタ軍による占領が、現在の比較的恵み深い役人《パール》の政府に取って代わる、残念ながら唯一のものである、ということをみんなに実感させるようなできごとが二件起こった。
「アリカが陥落したよ」ある朝、朝食の席で、メッセージ・ポストから直接送られてきた、一枚の不吉な通信物を読みながら父が言った。
母親はやかましい声をたててすすり泣き始めると、食卓から立ち上がり、急いで部屋を出て行った。
しばらくのあいだ、お袋はアスタの旗をアリカに刺しに行ったのだろうか、それともさらにお祈りをするために戦況地図はもう密かに処分されるのだろうかと考えながら、ぼくは席についていた。それから、前にも思い浮かべた、ぼくの部屋で眠っているアスタ人の光景がまた心に浮かび、このしらせはこっけいなものではないのだということがわかった。パラークシのことをすごく愛してはいたが、アリカはぼくが生まれ、これまでの人生の大半を過ごしてきた場所だ。もう二度と前と同じ姿には戻らないだろう。反撃してアスタ軍を追い出したとしても、そこにはやつらの痕跡が残されているだろう。いままでにも激しい戦闘があったのだから、ぼくらの家が破壊されてしまったということもありえる。
幾日も前に、太陽神フューはぼくらの味方だとぼくに言ったあの言葉を、お袋はどうやってこのニュースと一致させているのだろうとぼくは思った。数日前のメスラーの天文学の講義を思い出したので、フューの恩恵は潮の流れしだいなのだとお袋に言ってやろうかなどとも考えたが、思いもかけずに同情心がわいてきて、思いとどまった。
その代わり、ぼくは父に食ってかかった「議会はそのことに対して何をしてるのさ?」ぼくは尋ねた。「摂政はどこにいるの?」官服をまとい、小さな車《カート》に乗った議員たちを従えて、砂漠を越えてベクストン・ポストに向けて走る、ロックス車《カート》上の摂政の堂々たる姿が思い浮かんだ。
「議会は撤退した」父は言った。「お前に教えてもかまわんだろう。すぐにみんなに知れわたるだろうからな。パラークシが政府の臨時の所在地として選ばれたんだ。全く名誉あることだぞ、ドローヴ。ある議員がわしらの家にお泊まりになるだろうし、町のしかるべき家庭でその他の準備が整えられる。摂政には、新しい工場にひと続きの部屋が用意されているんだ」
これにはどこかこっけいな面があるように見えたが、ぼくは、赤の他人が家に入りこむという見通しの方に心を奪われていた。うちには部屋がない。これはただのサマー・コテージだ。礼儀正しくしなければならない他人にうろうろされたくなかった。「ちえっ」ぼくはつぶやいた。「ぼくの部屋を使うと良いよ。ぼくはグルーメットに泊まるから」
驚いたことに、かんしゃく玉は破裂しなかった。その代わり、父は考え深げにぼくを見つめた。「恐らく、それが一番良い方法かもしれんな」ようやくこう言った。もちろん、父が一番望まないのは、議員がここにいるあいだの、家庭内の破壊的な影響なのだ。「グルーメットに続き部屋を用意させよう。ふさわしい部屋に住んでもらわなくちゃならんからな」
「良かったら、自分でやるよ、父さん」ぼくはあわてて言った。
「好きにしろ」父は関心がそれた表情になっていた。ぼくが邪魔にならなくなりそうなので、議員に良い印象を与えられる方法をもう算段しているのだ。
パラークシが政府の新しい所在地に選ばれたのは、ここが陸路ではアスタから一番遠い地点であり、従って敵の大群が到達する最後の場所であるからだった。近頃、わが軍は何をしているのだろうとぼくは訝しんだ。最近では良いニュースは滅多に聞かれないようだ。言葉での情報はゆがんだ心象《イメージ》を生み出すことがあるということにぼくはすでに気がついていたが、その朝、町に向かって歩いている時、ぼくはこういうイメージのひとつに悩まされていた。アスタの大群がぼくらを海に追い払い、ルネッサンス年一〇〇〇年頃にかれらが同じ場所でこうむった敗北を逆転する様をぼくはまざまざと思い浮かべていたのだ。かれらが浜辺で叫び声を上げ、スプリングライフルを振りまわすなか、ぼくらはどんどんと海の深みへ入って行き、太矢がぼくらのまわりに落ちて小さな水しぶきを上げるのだ。
だが、その同じ日に二番目の危機が訪れた時、それは見たところ議会が考えてもいなかった方向からやって来たのだった……。
ぼくはまっすぐゴールデン・グルーメットに行くと、この旅館に泊まることになる――もちろん、彼女の両親が同意すればだが――というニュースをブラウンアイズに伝えた。ぼくらは酒場の裏のあの幾可学的な部屋にいたのだが、彼女はぼくの首に腕を投げかけると、喜びと一人占めを表わす長い長いキスをした。その時、彼女の喜んだ叫び声を聞きつけて、アンリーとガースが入ってきた。ブラウンアイズはすぐさまニュースを伝えた。
「そうさなあ、おれには良くわからんのだが」ガースはぼくを見ながら、疑わしそうに言った。
「お父さんがそう言ったって、本当に確かなの、ドローヴ?」アンリーが尋ねた。神殿の壇上で見かけたことを別にすれば、親父についての彼女の最も鮮明な記憶は、少し前の酒場での不快な乱闘に集中しているのだ。あの時親父は、ガースやアンリーやブラウンアイズや客や、それに建物の構造についてまで自分がどう思っているか、いやというほどはっきりさせたのだ。
「議員が泊まることになるんで、親父はぼくの部屋が要るんだ」ぼくは言った。「ぼくはここに、普通のお客のように泊まりたいんです、本当に」
ガースがあけっぴろげな微笑を浮かべた。「そういうことなら、大歓迎だし、普通の客とは違ってくるさ。一番良い部屋を用意してあげな、ブラウンアイズ」
彼女はぼくを案内して、じゅうたんが敷いてあるにもかかわらず激しくきしむ階段を登り、勾配が様々に変化している曲がりくねった廊下を通って、明るい真鍮のノブがついたぶ厚いドアの前まで来た。彼女はそのドアをあけるとわきにどき、ぼくがなかに入るのを期待するように見つめた。
まず目に入ったのはベッドだった。一連のロックスでも寝られそうな代物だ。広々としていて、真鍮細工の飾りが施してあり、その大きさで部屋の大半を占領しているようだった。右手には重々しい、黒ずんだ箪笥があり、反対側の壁際には鏡板を張った鏡台が置いてある。ぼくは窓まで行って、外を見た。魚市場を越えて内港の船が見えた。向かい側の丘は木々と灰色の屋根の家々におおわれてそびえ立ち、フィンガー・ポイントに続く道が斜めに横切っている。長い坂道をロックスと車《カート》を導いて登って行く姿が見えた。ロックスにはロリンがまたがっている。
ぼくはブラウンアイズの方をふり返った。「すてきな部屋だ。ご両親に入ってくるお金もきっとすごいんだろうね」
「二人ともそのことはあんまり考えてないと思うわ。あなたが泊まってくれるのを喜んでるのよ」
ぼくらはベッドの上に座って二、三回飛びはね、それからキスした。どういうわけかキスしているあいだにうしろに倒れてしまい、その方が楽なように思われたのでぼくらはそのままでいた。それからブラウンアイズが言った。「こんな風に端から垂らしてたので、足がつれちゃったわ」そこでしばらく放してやると、彼女はベッドの上にはい上がった。ぼくも後に続き、二人で横になった。彼女の体全体がぼくの体に押しつけられているのが感じられ、ぼくらはまたキスした。
「愛してるよ、ブラウンアイズ」初めてぼくは言った。
彼女に見つめられながら、ぼくは半ば彼女の上に身を横たえた。彼女の顔は言葉で言い表わせないほどきれいだった。彼女はほほ笑んで言った。「その方が良いわ、ドローヴ。一緒に寝ているみたいだもの」
ぼくもほほ笑み返したが、彼女の言葉の含みに思い当たって、少し赤くなっていたかもしれない。考えていることを隠そうとまたキスしたが、その時、体がぼくを裏切ったことに気がついた。彼女にもぼくが心中何を考えているかわかったにちがいない。しばらくのあいだ彼女はぼくを強く抱き、ほんの少しぼくに向けて体をくねらせたが、それからぼくらは黙って体を離した。彼女は当惑した顔をしていた。「ねえ、ドローヴ」彼女は静かに言った。「立った方が良いんじゃない、ね? あたしたち……あたしたち、こんなこといけないわ。まだおとなじゃないもの」
ぼくらはあわててベッドから降りると、見つめ合いながら立った。ぎしぎしいう階段に足音が聞こえた。
「とにかく、ぼくらはベッドのなかにいたんじゃない。ベッドの上にいたんだ」そしてぼくらは笑い、ぎごちない瞬間は終った。
アンリーが部屋に入ってきた。「まあ、お二人さん、楽しそうだこと」彼女はびっくりして言った。「お部屋、気に入って、ドローヴ?」
「これまで見たなかで最高です。本当にここに泊まれるの?」
「摂政にふさわしい部屋なら、あなたにもふさわしいわね」彼女は笑った。
ブラウンアイズがぼくを見てにやにやした。「嫌がるといけないと思って、話さなかったの。前にパラークシにいらした時に、摂政がこの部屋にお泊まりになったのよ」
「へえ……」ぼくはいくらかの畏敬の念をこめてベッドを見つめた。そこに横たわりながら摂政は何を考えたのだろう、眠りながらどんな夢を見たのだろう。ドアの外には護衛が立っていたのだろうか。ブラウンアイズはエルト中で一番可愛い女の子だと思わなかっただろうか――そしてぼくはこう考えた。もしかれがそう思ったのなら、あん畜生を暗殺してやる……。
「もちろん、あたしはそのことをあんまり覚えてないの」ブラウンアイズが言った。「その時、たったの三つだったんですもの」そしてぼくは笑った
後で、アンリーとブラウンアイズが何か母と娘の私的な会話を交わした後、ブラウンアイズとぼくは魚市場を抜けて記念碑に向かった。魚のうろこや生臭い水のおかげで足元の石がすべりやすいため、どちらかが転ぶといけないのでぼくらは手をつないだ。
「魚がどんどん大きくなってるわ」彼女が意見を述べた。「魚の大きさでグルームの状態がわかるのよ」男たちが残忍なスパイクを手に歩きまわり、魚を突き刺してはかごに放りこんでいる。ぼくらは埠頭沿いに歩いていった。
「お母さんに何て言われたの?」ぼくは尋ねた。
彼女は立ち止まると、腕を手すりにあずけて、どんよりとうねる水を見つめた。いつものように様々な奇妙な物が浮かんでいる。ロープのあまり、網のコルクの浮き、死んだ魚、びしょびしょの紙。パラークシの港の瓦礫の山の中にさえ、ロマンチックな雰囲気はあるのだ。ブラウンアイズは黄色のプルオーバーとブルージーンズに着がえていたが、絶対に前よりもずっと可愛く見えた。そう思うのは愛のためなのだろうか。
「あなたと二人で寝室にいるのは良いことじゃないって母さんは言うのよ。だから、寝室だってどの部屋だって同じじゃないの? ってあたし言ったの。そうしたら母さん、まあ、全く同じってわけじゃないんだよ、お前、って……」この時ブラウンアイズは、母親の困った声をみごとにまねた。「とにかく結果としては、日の入りから日の出までのあいだはあなたの部屋に行かないって約束したの。危険な時間に思えるんですって」
「ふーん」ぼくはがっかりした。
「でも母さんは単純だから、あなたをあたしの部屋に入れないって約束させるのを忘れたわ」「良かった」ぼくはもう話題を変えたかった。そちらの方向に向かう事態が、ぼくがコントロールできないほどどんどん進んでいるような感じがしたのだ。「今朝は何をしようか?」
「リボンのところに行く?」
「ねえ、たまにはいつもと違ってリボン抜きで行かれないかな。今朝はウルフが彼女のところに行くから、彼女は大丈夫だと思うんだ。ぼくのスキマーで出かけようよ」
ブラウンアイズが熱心に賛成したので、ぼくらはシルバージャックの造船所に入った。シルバージャック本人は見当たらなかったので、ぼくらはかんなくずや引っくり返った船のあいだを船架《スリップウェー》に向かった。すぐにぼくらはスキマーの帆装をすませ、港をすべって行った。ぼくが舵柄を握り、ブラウンアイズはへさきに横たわった。ぼくらはしょっちゅう見つめ合っていたらしく、誰かと衝突しないようにぼくは何回も乱暴にコースを変えなければならなかった。
人々が埠頭から手を振り、他の船からぼくらの名前を呼んだ。そして初めてぼくは、ぼくらがどんなに人目につくのか、役人《パール》の息子と旅館《イン》の娘がいつも一緒にいることに人々がどんなに注目しているのか気がついた。前だったらたまらなく当惑しただろうが、今はぼくはそのことを楽しみ、美しい彼女と一緒のところを見られて得意に感じていることに気がついた。
ぼくらは外港に出ると、防波堤と平行に走った。ブラウンアイズの服装に何か違ったところがあるという考えがぼくの頭に浮かんでいた。黄色のプルオーバーに関係した何かだ。
「ねえ、ブラウンアイズ」ぼくはためらいながら言った。「きみ、何て言うか……セクシーだよ、それ着てると」
彼女はいきなりにこりとすると、自分の体を見おろした。喉の奥で脈が強く打っているのが感じられ、心臓はどきどきしている。「本当にそう思う?」彼女は嬉しそうに尋ねた。「多分そう思うんじゃないかと思ってたの。だからこれを着てきたのよ。本当は小さ過ぎるの。来年にはもう……ああ。ドローヴ、あたしたちに来年があると思う? あなたのことをそれは愛してるの、こわいのよ」
「ぼくは冬中ここにいるよ」ぼくは自信をもって言った。「いつもここにいるよ、だってもう……」あの考えが戻ってきた……。
「アリカのこと聞いたわ。お気の毒に」彼女は優しく言った。
「大丈夫。もう、ここがぼくの家さ……」だが心のなかには、避けられない別れがひっかかっていた。毎年夏になるとぼくらはパラークシにやって来て、毎年大雨が始まる前に帰っていた。これが事の常だった。ぼくの抗議を無視して父親が全力をふるって――ぼくらの言葉による討議が行き詰まった時にいつもやるようにだ――ぼくを荒れ野の前哨地に引っぱっていく光景が想像できた。
ぼくらは防波堤の端で上手《タック》まわしで向きを変え、フィンガー・ポイントに向かった。漁船が大挙して出ており、海のはるか沖には見慣れぬ輪郭の大きなスキマーが三隻いた。魚だけに集中し、他のことには目もくれずにグルーメットがそばを急降下するので、ぼくらはしょっちゅう頭を下げなければならなかった。岩がすべるように過ぎて行くのを見ながら、ぼくらは崖のすぐ下近くを走り続けた。
「ドローヴ……」長く、気持ちの良い沈黙の後でブラウンアイズが言った。「パラークシに何かの組織ができてるような気がするの、あなたに話した方が良いと思って。今朝グルーメットでみんなが、議員はどうやってここに泊まるつもりなんだろうって話してたの。それで、うまくいくわけないって言う人がたくさんいたの。特権をふりかざして、配給制や夜間外出禁止令を無視してあたしたちの家に住んで、議員がこの辺をうろうろするんなら、議員はあっというまに死んでることになるかもしれないって言うのよ。こんなこと言うなんて恐ろしいと思うわ」
「そんなにひどいことになってるのかい?」町の人たちはぼくがいるところではそんなに自由にはしゃべらなかった。何もかも親父に筒抜けになるという誤った想像をしているのだ。
「本気だと思うわ。つまり、議員のことなんか心配じゃないんだけれど、そのうちの一人がご両親の所にも泊まることになってるって言ってたでしょ。あなたのお母さんやお父さんに何かが起きるんじゃないかなんて思いたくないのよ、あなたのためにね」
これに対する皮肉な答えはたくさんあったが、ぼくは思いとどまった。ブラウンアイズは優しすぎて理解できないだろう。
「あそこ見てごらんよ!」ぼくは指さした。「岩の横」水ぎわに何か大きいものがあり、静かに波間にゆれている……。
「まあ……」ブラウンアイズはそちらに目をやった。
ぼくはもっと近づいてみた。そのあたりは岩がぎざぎざになっているので、波はほとんど動かなかったが、とがった岩で船が引き裂かれる光景が頭に浮かんだ。それは頭を下にして漂っていた。濃い水なので沈まないのだ。「ロリンだ」ぼくは言った。
「ひどいわ……どうしよう、ドローヴ」
ぼくがどうするか決めようとしていた時、妙な、風を切る音が聞こえ、頭上の岩の一部が大きな音とともに砕け飛んだかと思うと滝のようになだれ落ち、低い水しぶきを上げて海に沈んでいった。水しぶきはすぐに静まった。ぐるりと向きを変えると、先ほど目にしたあの三隻のスチーム・スキマーが今はもう非常に近づいており、防波堤の外側を囲んでいるのが見えた。その甲板のスチーム・ガンから白い煙が立ちのぼっている。
アスタの軍艦だった。パラークシを砲撃しているのだ。
イザベル号と同様にその三隻にも外輪がついていたが、似ているのはそこだけだった。アスタの船はスキマーだ。機動性のため帆はついておらず、その代わり、両側に二つ、特大の外輪がついている。三隻は突然、その長さいっぱいほどに一斉に内まわりに向きを変えると、また海に出て行った。外輪がぐるぐるまわり、まるで自動車《モーター・カート》のようにグルームの表面を走って行くようだ。煙突が耳ざわりなシュッシュッという音を気ぜわしく上げ、青白い煙を垂直に吐き出すなか、船は加速し、南に向きを変えると銃を打ち鳴らしながら港に向けてまた突進してきた。
アスタの船であろうとなかろうと、この三隻はすばらしいものだ。それぞれの船に二本の高い煙突があり、船体中央に大きな船楼がある。エンジンも大きいにちがいない。スキマーなので乾舷《フリーボード》はほとんどないが、最高速度の時は、船体がまるで水に触れていないように見える。船首前方に短いマストが立っており、邪悪なアスタの旗がひるがえっていた。デザイン化された金色のシュガープラントが赤地の上に描かれている。甲板はスチーム・ガンでいっぱいだ。
アスタ軍がまた通り過ぎて行った時、このすばらしい兵器の上でせわしく働いている人影が見えた。どうして敵はスピードを落として、都合の良い時に町を砲撃しないのだろうかとぼくは思ったが、アスタ軍はいつでも反撃を受けることを予期しているのだろうと悟った。実際、大きな弾丸が頭上を飛んでいくのが見えたほどだ。弾丸は漂っている死体のそばの崖に当たったが、今度は崖くずれはなかった。
ブラウンアイズはひるんだ。弾丸が弧を描いて外港の上を飛び、町のなかに消えていくのを見る彼女の眼に恐怖の色はなく、ただ悲しみと深い心配だけが浮かんでいた。「どうしようもないのね」彼女は力なく言った。「どうして、あたしたちに銃をくれないのかしら、ドローヴ?」
「そのつもりだって言ってるよ」ぼくはつぶやいた。役人《パール》の息子であるが故に、ぼくはある意味で責任を感じていた。「こういうことは時間がかかるんだよ、ブラウンアイズ」
「もしグルーメットに弾が落ちたら、メスラーを殺してやるわ!」彼女は興奮して言った。
攻撃は終わった。三隻のスキマーは外洋に向けて疾走しており、行きすがら数隻の小さな漁船を撃破していった。三隻はすぐにかなたのもやのなかに消え、穏やかな海に乱暴な記憶を残していった。グルーメットが水中へもぐり、魚がきらめき、飛びはねた。敵はいなくなったのだ。
損害は少なかった。その午後遅く、記念碑で臨時の集会が開かれて被害の報告が行なわれたが、それによると、被害は古い罐詰工場で打ちこわされた二台のロックス車《カート》、外洋で沈められた漁船が三隻に内港で沈められたものが二隻、弾丸が突きぬけたオラブ・パン屋の屋根――そして多くのパラークシの誇り。それは論争的な集会となり、新しい工場に向けての行進について激しい論議がなされたが、ストロングアームが入港してきて、どうにかみんなを落ち着かせた。「そのうち時期が来る」かれは不吉なことを言った。
夜間外出禁止令のためにみんなが急いで家に帰る少し前に、ぼくらはリボンと会った。「ねえ、あなたたちのどちらか、シルバージャックを見なかった?」彼女は尋ねた。「かれがイザベル号の水先案内をしてたって話したら、父さん、一日中かれをさがしてるのよ」
「ああ……見かけたよ」ぼくは重い気持ちで答えた。
「覚えてないわ、ドローヴ。どこで?」ブラウンアイズは当惑していた。
「かれは……あのね、崖下のあの死体覚えてるだろ? あれはロリンじゃないんだよ、ブラウンアイズ。確かなんだ。水で転がった時に横顔が見えたんだ。間違いなくシルバージャックだったよ」
少女たちはぞっとしてぼくを見つめた。「あたしたち、どうするの、ドローヴ?」リボンが尋ねた。
「メスラーと話してみるよ」ぼくは言った。突然、恐ろしい疑惑が胸に浮かんだ――そして、ぼくらがイザベル号の沈没を目撃していたことをメスラーは知らないのだと思い出した。
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グルームが頂点に達すると、政府は、明らかに以前は考えてもいなかったらしい、夜間外出禁止令の実施における実際的な困難に直面した。かれらはアリカやホーロックスといった、はるか南東の内陸から来た連中だった。メスラーでさえ、あれだけの天文学的知識がありながら、太陽が常に輝いて暗闇がなくなる時、夜間外出禁止令の理由がなくなる時――そして、役人《パール》と供給品の謎めいた出入りのための秘密の時間がなくなる時――が近づいているのだということを思い出せずにいた。今や、工場に出入りするトラックは衆人の目にさらされて市中をとどろき過ぎ、憲兵隊は暗がりに乗じて秘密の使命を果たすことができなくなった。
もっともなことながら、アスタの攻撃から数日間は、メスラーや部下たちはなりをひそめていた。町では不吉なささやきが交され、記念碑で臨時の集会が開かれずに一日が終わることはまずなかった。新しい工場――ここは今や、役人《パール》の活動の中心であると認められていた――への代表団のリーダーになってくれと、ストロングアームに頼む連中もいたが、かれは断固とした態度を取り続けていた。得るものは何もない、というわけだ。工場ゲートでの集会はいかなるものであれ、銃でおどされて追い払われるということをかれは知っていたのだ。
ぼくは数回両親を訪ねたが、二人の気分がどんどんと沈んでいっているのを感じた。二回目の時に、家に知らない人間がいた。父がかれをゼルドン・スローンだと紹介してくれたが、ぼくは、アリカにある議事堂をたびたび訪れた時にかれを見かけたことがあるような気が何となくした。「他の議員も来てるの?」ぼくは尋ねた。「町では知らない人間は見かけないけど」
父の顔がこわばった。「そして見かけることはないだろうな。パラークシのお前の友達のあいだにこれほどの敵意が高まったために、立派な人間が町に入るのは賢明なことではないなどという事態になったのは全く残念だよ。ゼルドン・スローンはわしらとここにいるために安全だ――だが、議員が、あの獣のストロングアームがうろうろしているなか、町中を歩いているところなど想像できるか? そんなことはまず無理だろう。議員たちは工場に泊まらねばならないんだ――極めて不自由な状態で、とつけ加えるべきだろうな」
「まあ、まあ、バート」笑いながらスローンが言った。「そうひどいわけじゃないさ」
「わしはこの町と関係があるのが恥ずかしい。住人は支配者に何の尊敬も抱いておらん、無知ないなか者に過ぎんのだ!」父はぼくの顔をにらみつけていた。かんしゃくの発作に襲われて、スローンがいることをすっかり忘れているのだ。「ホーロックス・メスラーが今日、連中に話をすることになっているんだが、それは時間の無駄だし、それに危険なことだとわしは言ってやった。だが、そうしたら……」父はわれに返って、むりやり笑ってみせた。「メスラーはああいう男だからな。自分の義務の遂行となると、恐れを知らぬ人間だ」
ぼくらはさらに話をしたが、ぼくは、スローンは感じの良い人間で、親父のばかげた熱弁はそういうものとして受けとめてくれる、分別のあるタイプだということがわかった。その後、台所で母親と少し話をして、戦況地図のことを聞いてみたが、母はそのことを話たがらなかったので、しばらくしてからぼくは、何かホッとした気持ちで帰った。
町に向かって歩いていると、触れ役の汽笛の音が聞こえ、魚市場に着いた時には、メスラーが引っくり返した枠箱の上に立って打ち解けた態度で小人数のグループに話しかけていた。かれは、根本的な接近を図ろうと神殿の壮麗な雰囲気を捨てたのだった――それと同時に、前宣伝も省いて、ずっと少ない聴衆がかれの意見の主眼点を口伝えで町の残りの人間に伝えてくれることを当てにしていた。こうすることで、団結した反対とそれに伴うごたごたの可能性を排除したのだ。
魚市場の屋根の下での音響効果は良くなかったし、開いた側面からグルーメットが絶えず入りんでは人々に神経質に頭を下げさせ、耳ざわりな叫び声を上げて魚の小片の所有をめぐって争っていた。にもかかわらず、ぼくらはみな、メスラーの演説の要点を理解できた。
アスタ軍が奥地の主要な産業都市を侵略したために、パラークシを守るための軍需品の供給がやむをえず遅れているらしい。アスタの軍艦による最近の攻撃を考えてみると、これは非常に不幸なことだ――だが、政府はこの状況を立て直すためにできる限りのことをしているのだと確信して良いものと考えて欲しい。われわれの偉大な町の戦争への努力に対して政府は大いに感謝しており、その返礼として、不評であることは十分わかっていたが、当面必要であった保安措置を緩和する。夜間外出禁止令は撤回される。憲兵隊は目下撤退中である。
「警察はおれたちを守るためだって話だと思ったがな!」誰かがどなったが、遅すぎた。メスラーはほほ笑み、うなずきながら箱を降り、待っていた自動車《モーター・カート》に乗りこむところだった。
ぼくは走り、人混みをかき分けて車に近づき、呼びかけた。「ちょっとお話がしたいんですが、ホーロックス・メスラー?」
すでに腰をおろしていたが、かれは顔を上げてぼくを見た。にっこりして、運転手に何か言うと、隣に乗るようぼくに合図した。すぐにぼくらは、人々がやじり、不満の声を上げ、石を投げるなか、パラークシの通りを走っていた。自分を取り囲んでいる激しい敵意にぞっとして、気がつくとぼくは震えていた。結局のところ、役人《パール》でいるというのはあまりすばらしいことではないかもしれないと、ぼくは思った。しばらくのあいだ、石が車《カート》の木造部分をがらがらと転がり落ちていたが、やがて邪魔はいなくなり、ぼくらは町から離れていた。
メスラーが運転手に止まるよう命じ、そしてぼくの方を向いた。「きみが工場に来たがるとは思えないのでね」笑いながらこう言った。「さてと、何をしてあげようか、坊や?」かれが、子供とうまくやれる素晴らしい人柄をぼくに向けて放射したので、かれの目は魅力と喜びできらめいていた。町の敵意はかれにはほとんど影響していなかった。もう忘れてしまっているのだ。お袋ならこう言うところだ。わざわざお前とお話しして下さるなんて、ホーロックス・メスラーは何てご親切なんでしょうねえ。
「あのね」ぼくは乱暴に言った。「シルバージャックを見なかった?」
間《ま》があき、平らな大通りを過ぎ、ぼくらに続いて丘を登り始めたトラックの排気音がうるさくなるのが聞こえた。ここいらには家は数軒しかなかったが、向かい側の今にも倒れそうなコテージの窓から老婆がぼくらを見つめているのが見えた。
「シルバージャックはきみの友達だったっけな?」メスラーは尋ねた。目のきらめきは消えている。
「友達ってわけじゃない。知ってただけさ。ちょっと待ってよ」ぼくは、二人が過去形を使っていることの重大さに思いあたり、罠にかかったのだろうかと思った。「“だった”ってどういう意味? かれが死んだとでも言うの?」ちゃんと驚きの調子が声にこもっていたと思う。
丘をこちらに登ってきながら、トラックが警笛を鳴らし続けていたが、十分通り過ぎるだけの余地はあった。メスラーはかすかに顔をしかめた。
「リストを見ていないのかい? 神殿に掲示してあるよ。シルバージャックは、イザベル号沈没の時の犠牲者の一人なんだ。運が悪かったんだな。恐ろしい事だ」
心臓はどきどきし、てのひらはじっとりしていた。トラックの騒音ががんがんと近づいてきた時、ぼくはかれの方を向いてその顔をにらみつけると、自動車《モーター・カート》から飛びおりようと身がまえた。この時だった。この時ぼくは、役人《パール》たちに、お袋や親父に、人殺し野郎共みんなに最後の別れを告げたのだ。かれはそのことをぼくの表情から読みとった。今やかれの目には友情はなかった。おじ[#「おじ」に傍点]ぶった恩きせがましさはなかった。かれを非難しようと口を開いた時、かれはぼくから目をそらし、目を見開いて丘の下を見つめた。
「どうしたんだ? 車《カート》から離れろ! 急いで!」
ぼくらが自動車《モーター・カート》から降りた時、トラックの運転手が座席から飛び出して、ぼくらの足もとの土の上に転がった。向こうの方では、大群衆が無言のまま、はっきりした目的を持って、丘を波のように登ってきている。運転手がいなくなったトラックは、音をたててぼくらのわきを通り過ぎた。ふり返ると、トラックがまだぷっぷっと煙を上げながらも速度をゆるめ、金属の車輪をきしませながら道の片側にそれると、溝にはまって傾いて止まるのが見えた。
運転手は起き上がり、奇形の手でメスラーの袖をつかんでいた。「ここから逃げ出そう!」かれはわめいた。グロープだ。
「どうしたというんだ?」
「トラックだよ!」かれは叫んだ。「爆発しそうなんだ! おれはベストをつくしたんだぜ、メスラー。フューにかけて言うが、おれはベストをつくした。町から運び出したんだからな」
不気味にくすぶっているスチーム・トラックをちらりとふり返ると、ぼくらは町に向かって駆け降り、公共ヒーターの心強い巨体の陰で止まった。すぐに反対側から丘を駆けあがってきた町の連中が一緒になった。ストロングアームが先頭に立っている。かれはグロープの腕をつかんだ。「お前の気ちがいみたいな運転のおかげで、少なくとも三人がけがをしたんだってことをわかってるのか?」
「崖の道をくだってたら、安全弁がきかなくなったんだ」泣きそうな声でグロープは説明した。「もう町に入りかけてたし、圧力はどんどんあがってく。走り続けるしかなかったんだよ。トラックが爆発する前に町を通り抜けなきゃならなかったんだ! 自分の命を危険にさらしたんだぜ、わかるか?」
ストロングアームの表情はいかめしかった。「もし誰かが死ねば、お前の命は危険にさらす価値もなかったことになる」かれは静かに言った。かれは丘を見上げた。二百ペースほど向こうで、乗りすてられたトラックから、人をあざむくほど静かに蒸気があがっている。トラックは木炭車だった。炉が燃え、圧力があがるなか、待つこと以外何もできなかった。もしこれが自動車《モーター・カート》のように蒸留燃料で動くのであれば、バーナーを閉じることができ、トラックは無事かもしれない。ぼくらは黙って見つめていた。
「少なくとも、トラックは工場に戻る途中だったんだ」誰かが言った。「だからからっぽだろ。損害はトラックだけさ」
「それだけだと良いがな」ストロングアームが不吉なことを言った。
グロープは激しく震えていた。以前にぼくが知っていたあの冷静で頑固な奇形とはすっかり変わってしまっている。太い首を汗がしたたり落ちて、垢のあいだにピンクの筋をつけている。太った胸が震えた。「ここを離れよう!」かれはいきなり泣き叫んだ。「近すぎるぞ!」
メスラーは老けこみ、挫折した様子だった。しばらくのあいだ、ストロングアームを見つめて黙っていた。が、ようやく、口を開いた。「この人たちを家に帰してくれた方が良いと思うんだがね、ストロングアーム」かれは静かに言った。「トラックが爆発した時にけが人を出したくないんだよ。群集を解散させてくれると大変ありがたいんだがね」
最初、ストロングアームは、びっくりしたようだった。それから、目を細めた。「かまわんよ、メスラー。一か八か賭けてみるさ。役人《パール》のトラックが爆発するなんてのは、命を危険にさらしても見るだけの価値がある見せ物だと、町の連中は思うだろうよ。」
リボンがやって来た。だが父親はトラックを見るのに忙しくて気がつかなかった。何が起きているのか教えてやると、彼女は興奮して目を丸くした。「ブラウンアイズは見そこなってがっかりするわね」彼女は言った。
「どこにいるの?」
「グルーメットで、あなたを待ってるわ」
「ちぇっ。今は行けないよ。トラックがいつ爆発するかもしれないんだ」
リボンはぼくに向かってにやにやした。「ただのトラックの方があなたのブラウンアイズよりも面白いって言うの?」
その時、ウルフが急いでやって来た。「ああ、そこにいたのか」かれは、貴族的な嫌悪感をこめて大群集を見まわした。「ちぇっ、何て人混みだ。ここから出ようよ、リボン。埠頭を散歩するにはもってこいの日じゃないか」
リボンは傲慢にかれを見つめた。「あたしがここを出て、あなた[#「あなた」に傍点]と埠頭を散歩すると思ってるのなら、あなた、本当に単純ね。とにかくあなたは、何が起こってるのか尋ねようともしなかった。わたしたちがまるでロックスみたいに、ボケーッとここに突っ立ってるんだと思ったんでしょ」
これは、ぼくが最初に会った時の――そして最初に嫌った時の――リボンの姿そのものだった。ウルフが相手役なのをぼくは喜んだ。
メスラーが近づいてきて、ぼくらの腕をつかんだ。「みんな、家に帰るんだ、良い子だから、な?」
「凍っちまえ、メスラー」ぼくは言った。
ウルフはあんぐりと口を開けて信じられぬという顔でぼくからメスラーそしてリボンへと目を移した。リボンはくすくす笑って、ぼくの手を握った。ウルフはこれを見て息をのみ、そして言った。「わかりました。ホーロックス・メスラー」そして向きを変えると丘を駆け降りていった。
メスラーはまだぼくを見つめていた。年老いた顔と、そして何かがあった。「ドローヴにリボン、わたしのためにこうしてくれ」かれは言った。「わたしのためにだ。摂政の役人《パール》のためにではない、良いね? みんなを解散させて家に帰らせるようストロングアームに頼んでくれ、お願いだ」
「ねえ、本当のことだけど、メスラー」リボンがさえずった。「どんなことでも、あたし、父に対して何か言える力はないのよ。それに絶対――」
ぼくは彼女の腰を抱くと向きを変え、耳もとにささやいた。「リボン、頼むから聞いてくれよ」
「何?」
「みんなを立ちのかせるのが重要なことかもしれないって本当に思うんだよ。これには何かある、ぼくらが知らない何かがね。メスラーは真剣だ。わかるだろう。やつが悪党だってことはわかってるけど、一番の悪だとは思えないんだ」
「わたしのこと可愛いと思うって言って」
「おい、そう思ってるのは知ってるくせに。ただ、ぼくがこう言ったなんてブラウンアイズにはしゃべるなよ」
「まあ、人生てとても複雑じゃないこと」リボンは目を輝かせ、メスラーの方をふり返った。「わかったわ。できるだけのことはしてみる。ドローヴに頼まれたからするのよ、良いこと?」
彼女は父親のところに歩いて行くとかれをわきへ引っぱった。彼女が静かに話しかけている時、かれがこちらに目をやったのが見えた。
二人を見つめるメスラーの様子にはどこか萎縮し、哀れなところがあった。腕に触れると、かれははっとした。
「オーケー」ぼくは言った。「どうしてあんたたちがシルバージャックを殺したのか教えてよ」
かれは目を伏せ、何も言わなかった。しばらくすると、まじめな顔つきでリボンが戻ってきた。「ごめんなさいね、ドローヴ。やってはみたのよ。でも、何か妙なことが起きてるって父さんは考えてるの。何かトラックの積荷に関係あることがね。なかに何があるのか確かめるためにみんなここにとどまるべきだって言うのよ」
「でも、なかには何もないよ」そのことを考えまいとして、ぼくはつぶやいた……。
メスラーが口を開いた。「とにかくありがとう、ドローヴ。それにリボンも。きみのお父さんは良いやつだよ。味方につけておくのがためになるタイプだ。敵が誰だかわからない時にね……もう行くよ。二人とも仲良くな、それにあのすてきな、可愛いブラウンアイズとも……」
人混みのなかをのん気なほどの様子で通り抜けながらかれは行き始めたが、ぼくらの別れには、これが最後だという雰囲気があった。ぼくはかれを追って走り、腕をつかまえた。「メスラー! スクゥイントに何が起こったの?」
かれはふり向いたが、聞こえたのかどうかはわからなかった。かれの目の寂しさを見た時、ぼくは自分の質問を忘れてしまったのだろう。かれが手をふりほどいたのか、それともぼくが放したのかはわからないが、とにかくかれは人混みを離れて丘を登っていった。
「メスラー!」ストロングアームがどなった。「戻ってこい! ここにいるんだ!」
かれはメスラーがぼくらから逃げ出し、工場の聖域に急いでいるのだろうと思ったのだ。ぼくには直観的にわかった。メスラーが求めているのは別の聖域だ……。
メスラーはスチーム・トラックの運転手台に乗りこむとそこに座った。穏やかで思慮深げで正常な様子だった。ぼくらがみんな待ちかまえている時、群集も静かになり、突然リボンのすすり泣きが聞こえてきた。ぼくの手を握る力が強くなった。
ほどなく、ボイラーが爆発した。
それは、ぼくが予期していたものではなかった。ぼくは、轟きと閃光と、大地をゆるがし、向かいのコテージの屋根からスレートを吹き飛ばすような震動とを考えていた。何か巨大で壮観なものを期待していたのだ。
だが、実際に起こったのは鋭い音と、それに続く、大きな滝の底の音のような、絶えまないどよめきの殺到だった。あっというまに道には蒸気の大きな雲があふれ、煮え立ち、渦巻き、こちらに向かって丘を流れ落ちてきた。群集は散り散りになって走った。そしてリボンとぼくも手をつなぎながら一緒に走った。しばらくして立ち止まってふり返ってみると、何もかも終わったようだった。おどおどと、そして神経質に笑いながら、人々はまた丘に登った。
蒸気はほとんど完全に吹き散らされていた。ボイラーから一筋、二筋立ちのぼっている。ここから見ると何の損傷も見えず、メスラーはまだ運転席に座っていた。事の正常さに、ぞっとするような恐怖が背中を伝った――そして、シュッシュッという鼓動のような排気音が聞こえた時には、恐ろしさのあまり叫び声を上げたのだと思う。「かれがトラックを動かし始めたんだわ」一人の女性が何度もくり返していた。「トラックを動かし始めたんだわ」群集はためらったが、その時ストロングアームが進み出た。
「別のトラックじゃないか、みんな!」かれはどなった。「工場からやって来るぞ!」
運転席の死んだ男のことを誰も口に出さない様子は妙だった。ぼくらはトラックのうしろに集まり、数人が上に登って、おおいの下に何かあるぞと叫びながら帆布をほどき始めた。ぼくの目は、静かに蒸気を立てているメスラーの方にさまよい続け、何故だかはわからないがぼくらはかれの許しを得るべきだという気持ちがした、死んだ人間の乗り物を略奪するなんて良いことじゃない。その時、トラックの上を男たちが飛びまわったのでかれは動き、頭がうしろに倒れて顔が見えた……かれはあっというまに死んだのにちがいない。同じ位置でじっと座ったまま……。
勝利の叫び声のなか、帆布は投げすてられた。トラックの両脇とうしろががたがたと倒れた。荷台の上に、大きくて黒い機械がいくつも現われた。「スチーム・ガンだ!」誰かが大声を上げた。「こいつはおれたちのスチーム・ガンだぜ! もうアスタの船が来ても大丈夫だ!」
ストロングアームは荷台に登り、手をあげて喝采を静めた。「確かにこいつはスチーム・ガンだ」かれは叫んだ。「だが、おれたちのためのものじゃなかったんだ。つい少し前にメスラーが魚市場で言ったことを思い出してみてくれ。遅れていると言ったんだ、銃はまだ何日も届かないと言ったんだぞ。とすると――この銃は誰のものなんだ? からっぽだとされているトラックで町をこっそりと通っていったこの銃だ」
「工場だ!」男が叫んだ。「何てこった、やつら、町より先にてめえたちの心配をしてやがるんだ!」
「そういうもんさ」嫌悪のわめき声がおさまった時、ストロングアームは言った。「やつらは議会を新しい工場に移した。議会は守られなければならん、パラークシはどうとでもなれ、というわけだ。これが役人《パール》どもの考え方さ。だがメスラーは罪の意識に直面できなかった。おれたちが真相を知った時にやつにとる仕打ちに直面できなかったんだ。だから自殺したんだ。これが議会の罪悪の証拠でないとしたら、これは一体何なのかおれにはわからん。さてと」かれは一丁の銃の長い銃身をたたいた。「連中は、こいつについては罪の意識を感じる必要はないぞ。こいつを防波堤に取りつけよう」
「ねえ、全部の部品がここにあるわけじゃないんだ」ぼくはリボンに言った。「それぞれの銃に炉とボイラーが必要なんだよ。これだけじゃ役にたたないんだ」
彼女はぼくを見つめ、リボンにしては極めて鋭いことを言った。「あたしたちに要るのは銃なのよ、ドローヴ。炉やボイラーは不必要だわ」
ぼくはにやりとしたが、近づいてくるトラックの騒音が聞こえたのでちょっと歩いて丘を見上げた。運転手が群集を見てスロットルを絞ったので、トラックはゆっくりとこちらにすべってきた。
「あいつも調べるべきだろうな」ストロングアームは言った。かれはトラックの荷台から飛びおりると、太い腕を上げて道の真ん中に進み出た。トラックは数ペース先で止まり、運転手がおずおずと顔を出した。
「どうしたんだ? 何が起きたんだ?」
「ちょっとした事故さ」ストロングアームはかれに教えた。「さてと、お前さん。そのトラックで何を運んでるんだ?」
運転手は舌で唇をなめた。「ああ、罐詰だよ、決まってるじゃないか。罐詰工場から何を運んでくると思ってるんだ? 奥地の町のための魚の罐詰さ」今や、ぼくらはみんなまわりに集まっていた。運転手の視線はもう一台のトラックのうしろに積まれた銃の方に向けられっぱなしだった。
「今は魚の罐詰が食べたい気分だな」ストロングアームは言った。かれは向きを変えるとトラックのうしろにまわり、帆布を引きはがした。「こいつは残念だ」かれは静かに言った。「罐詰は売り切れらしいな。トラックはからっぽだ」かれは運転席のわきに飛びおりると、その大きな手でおびえきったた運転手をつかんだ。「トラックはからっぽだぞ、この嘘つき野郎!」
「おれ……おれ誓っても良いよ、やつらがトラックは満杯だって言ったんだ」
恐怖で震えながら、グロープが立っていた。「そしてやつらは、おれのはからだって言いやがったんだ、あん畜生!」かれは泣き叫んだ。「おれたちは役人《パール》にだまされてたんだ!」
「おい、黙れ!」うんざりしたストロングアームがぴしゃりと言った。「どんなまぬけな運転手だって、自分のトラックが一杯だかからっぽだか、感じでわかるだろう。お前ら二人は役人《パール》に雇われてるんだから、お前たちも役人《パール》になっちまったんだよ。誰かこいつらを縛り上げて、神殿に連れて行け。こいつらに後で話があるからな。さて、この銃をこっちのトラックに積むんだ。こんな困難な時期にからのままで走るのは不経済だからな……」
後に、銃が防波堤まで運ばれると、ストロングアームとリボンとぼくはグロープのこわれたトラックのそばに立っていた。メスラーの死体は片づけられていた。ストロングアームは丘の、道路が見えなくなり、曲がりくねって新しい工場へとくだっていくあたりを見上げていた。太陽は明るく、不変で、もう何日もたったかのように天高く、獰猛だった。
「やつらは、おれたちの利益を考えているようなふりをしてたんだ」かれは静かに言った。「だがそのあいだに、穴に隠れたドライヴェットのようにおびえきって、てめえたちのちっちゃな要塞を作っていやがった。善良な連中が殺し合っているあいだ、野郎どもはぬくぬくとしてやがるんだろうか。おい……」ゆっくりとした喜びの表情がかれの顔に広がった。「アスタ軍がやって来た時、おれたちが自分で仲直りすることができたらすげえじゃないか。そうすりゃ、みんなにこにこして家に帰れて、役人《パール》どもはちっぽけなとりでに座らせておきゃいいんだ。まわりを銃で固めて、撃つ相手もいないままに……」
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事の進み具合がとても急速なので、正常な夜と昼の観念がなくなってしまったなか、太陽フューは頭上をまわり、グルームは頂点に達した。ゴールデン・グルーメットは終日開店しており、ガースとアンリーとブラウンアイズとぼくは交替で、また時に、商売が最高潮に達すると全員一緒に働いた。時おり、四人のうちの一人か二人が疲れ切ってこっそり抜け出し、ベッドに倒れこんで数時間眠り、また仕事に戻っていくのだった。ブラウンアイズとぼくは部屋が近いことを利用したことはなかった。二人とも疲れ切っていて、愛どころではなかったのだ。
一度、彼女の部屋の前を通った時に物音がしたのでぼくは困惑した。たった今、酒場に彼女を残してきたところだったからだ。このところ部屋はどこもふさがっていた。役人《パール》やその他の避難者たちがパラークシという中心点に向けてエルト中から集まってきているのだ。こういった遍歴者の一人が間違った部屋に入ってしまったということは大いにありそうなことだ。どこかの間抜けがぼくの彼女を待ち伏せしているのではないだろうかと心配しながらぼくは戸をたたき、しばらくしてからなかに入った。
ブラウンアイズの母親が泣きながらベッドに横たわっていた。部屋を出ようとした時に、彼女が低い声を上げたので、ぼくは気まずい思いをしながら、ベッドのわきに近づいた。
「どうしたの、アンリー?」ぼくは尋ねた。
彼女はぼんやりとぼくを見つめた。目から涙が流れている。それから手を伸ばして、ぼくの手を取った。彼女の手は冷たかった。こんな暖かい部屋のなかにいるのに震えていた。その時になっても、彼女がぼくが誰だか完全に気がついていたのかどうか、はっきりしなかった。ぼくは手をほどくと、彼女に毛布をかけてやり、そこを出た。しばらくすると彼女はまた酒場に降りてきて、飲み物を給仕し、笑い、客たちと政治の話をした。まるで何事もないようだった。これまでもずっと何でもなかったようだった。
客足がと絶え、ガースがブラウンアイズにこう言い出す時が来た。「ドローヴと休憩したらどうだ。船に乗るか、散歩するか何かしたらどうかね?」かれは心配そうに娘の顔をのぞきこんだ。「顔色が悪いぞ。陽にあたらなくちゃだめだ。店の方は母さんと二人で大丈夫だから」
「本当に大太夫、父さん?」ブラウンアイズはこう尋ね、ぼくに笑いかけた。
「二人で行っておいで」アンリーが笑った。「ガースの気が変わらないうちにね。そうだ……町の向こう側には行くんじゃないよ、いいね?」
「どうして?」
「今日、銃を集めるって役人《パール》が言ってるんだ」ガースがむっつりと言った。「そんな度胸が連中にあるのかね。だから誰もここにいないのさ、みんな防波堤にいるよ」
ぼくらは黙ったままスキマーのしたくをした。二人ともシルバージャックのことを考えているのがぼくにはわかった。数人が船架《スリップウェー》の船のあいだでまだ仕事をしていたが、ここの持ち主の毛深い姿と突飛な個性が消えてしまうとこの場所はどういうわけかからっぽのようだった。今は造船所は誰のものなのだろう。シルバージャックには、この仕事を引き継ぐ親戚でもいたのだろうか。かれがイザベル号を無事にドックに運んでくるためにできる限りのことをした後、岸に向かって泳いでくるところを考えると、胸のなかにゆっくりと怒りの感情がわいてきた。それを埠頭の役人《パール》が……何をしたのだろう? 向かって泳いでくるところを撃ったのだろうか?
そしてゆっくりとした流れにのってかれはフィンガー・ポイントをまわり、役人《パール》たちは、腐肉食いかグルーム・ライダーが死体を始末してくれると考えたのだろう。今はもう死体はなくなっているだろう。だが一方では、干潮のためにまだ崖下の岩のあいだに取り残され、傷ついた姿をさらしているかもしれない。かれがあの事故で行方不明になったという役人《パール》の話が偽りであることを示す、罪の証しのスプリングライフルの矢が刺さったままで。
この言葉もぼくを悩ませた。「行方不明」というのはどういう意味だ? イサベル号から行方不明になった者は一人もいない。死んだ人たちは甲板の下に閉じこめられて、ボイラーが爆発した時に粉々に吹き飛ばされたのだ。かれらに何が起こったのか、ぼくらは知っている、グルーメットに食べられてしまったのだ。「行方不明」というのは、ぼくのお袋にのみふさわしい、気どった、楽観的な婉曲語で、ある日かれらがまた見つかり、全てうまくいくかもしれないという意味を含んでいるのだ
「ねえ、本当に出かけたいの、ドローヴ?」ブラウンアイズが心配そうに尋ねた。
「ごめん。考えごとをしてたんだ、それだけさ」そよ風を受けて帆はふくらんでいる。「さあ行こう」ぼくらは船によじ登ると、出発した。水はにかわのようで、隔離された港のなかをゆっくりと流れている。こうして海の上に出ると、暗い気持ちが消え始めた。気がつくとぼくはへさきにいるブラウンアイズを見つめていたが、これはもっと気分を良くしてくれる効果があった。何隻ものスキマーが停泊しており、ロープや鎖が持ち上がり、ねっとりした水面に落ちると、長い、ゆったりとしたしずくがしたたった。漁師たちの大半は、役人《パール》が到着する時のできごとを見ようと町に残っていた。厄介な事が起こらなければいいがとぼくは願った。
さわやかな風にのって外港にすべり出ると、防波堤の人混みが見えてきた。町の大半が集まっていたにちがいない。長い銃身を勇ましく海に突き出し、線路に沿って並べられた三台の大きな銃のまわりに、人々がグループを作って集まっている。黒い鉄の上に真っ白いグルーメットが止まり、大きく広げた翼で縄張り争いをしている。この鳥たちは群集がこわくないのだ。
何人かが手を振ったので、ぼくはもっと近づき、防波堤が建てられている石の土手道近くを走った。「役人《パール》はいつ来るの?」ぼくはどなった。
「すぐにさ」もう一人一人の顔が見える。リボンと父親が見えた。ウルフの姿はない。リボンはぼくらに向かって狂ったように手を振り、笑い、叫んだ。ぼくらも叫び返し、走り続けた。ブラウンアイズはぼくのことを意味ありげに見つめており、ぼくは不安の痛みを感じた。
「また起こったわね、ドローヴ?」彼女ははっきりしないことを言ったが、ぼくにその意味がわかると確信していた。
「うん?」
「あなたと彼女が、新しい工場の道で起こったトラックの爆発に巻きこまれたのに、あたしはどういうわけか、一緒じゃなかったってことよ」
「ブラウンアイズ、あれは仕方なかったんだ。愛してるよ」
彼女の目は優しくなった。「わかってるわ。でもそれでも、そういうことで仲間はずれになっているうちに、最後にはあなたからも仲間はずれになっちゃうんじゃないかと思ってこわいのよ。そんなことないわよね、ドローヴ?」
「あるわけないさ」どうしてこんなに罪の意識を感じるのだろうと思いながら、ぼくは言った。「走り続けようよ。でないと、彼女が一緒に来たがるよ」実際、リボンはぼくらに笑いかけながら、ぼくらのコースと平行に防波堤を歩いていた。「それに彼女も変わったわ」ブラウンアイズが言った。「この頃、違う人みたい。あんまりいばらないし、前よりもすてきだし……どうして彼女はあんなにすてきなの?」ぼくらの上をそれは自信をもって歩いている、紛れもなく美しい少女を見上げ、いきなり失望してブラウンアイズが低い声で嘆いた。
「おとなになって、分別がついてきてるんだよ」ぼくは言った。「ぼくらみんなに起きることさ。この夏が終われば、ぼくらは誰一人として前と同じじゃないよ……ある意味でそれがこわいんだ。とてもたくさんのものを、あっというまになくしてしまったような気がするんだ。たくさんのものを手に入れもしたけどね」ぼくはあわててつけ加えた。
防波堤からがやがやと意見やら憶測やらが聞こえてきたおかげで、ぼくはこのぶざまな状況から救われた。ブラウンアイズが帆を下げると、小さな船はねばつく海面の上でほとんど一瞬のうちに止まった。ぼくらは、港の向こう側を走る道路がカーブしているあたりを見つめて、待った。ぼくらのそばでは騒ぎが起こっていた。長くてしなやかな大きな銀色の魚が一匹、しばらくのあいだ海面でもがいていたのだが、グルーメットがもう襲っても大丈夫だと判断したのだ。鳥たちは金切り声を上げ、一団となってぼくらのまわりを旋回し、魚に向かって急降下すると鋭い爪で切り裂いたが、そのうち一羽が魚の頭に近づきすぎた。細長い魚は食いつき、ばたばたする白い翼の先をくわえると恐ろしい力で引っぱり、グルーメットを連れたまま水中に沈むことに成功した。水面に白い羽が数枚浮かんでいたが、それもすぐに動かなくなった。血が、散らないまま、血だまりや筋になって浮かんでいる。
スチーム・トラックが二台、港の道をやって来た。絶えまなく警笛を鳴らして見物人を行く手から追い払っている。荷台は制服姿の男たちで一杯だ。先頭のトラックには真紅の憲兵隊が乗り、後の二台に工場の監視のずっとくすんだ色の姿が見える。トラックは防波堤の路肩の、浜に引き上げた大型船の近くに止まり、兵隊たちが飛びおりた。かれらはスプリングライフルを構えていた。「誰もばかなまねをしなければいいけど」ブラウンアイズが言った。「あの人たちの様子が気にいらないの。まるで銃を使いたがってるみたいな感じなんだもの。あの新しい工場での時みたいにね」
見物人たちはどなり、こぶしを振っていたか、落ち着けと叫ぶストロングアームの声が聞こえた。兵隊は一団となって、防波堤を歩調をそろえて行進していた。その後をトラックがゆっくりと進んでいく。たった一人だけ、仲間の手をふりほどいて兵隊の前に走り出し、一行の行く手をさえぎった者がいた。何が起こったのかぼくには良くわからなかった。突然かれの姿は、ぼくの低い視点から消え、兵隊たちは容赦なく行進を続けた。かれらは最初の銃のところで止まると、トラックがわきに近づくのを待った。家並の向こうに、また一筋の煙が立ちのぼった。すぐに、移動クレーンを押しながら、機関車が姿を現わした。クレーンの台は赤い制服で一杯だった。
割合と短時間で銃は積みこまれ、軍隊がそれに続いて乗りこむとトラックは、むなしい野次や侮辱に追われながら去って行った。ストロングアームはぼくらの上に立っていた。頭をうなだれ、肩を落としている。リボンがかれに近づき腕をまわすと、爪先立ちしてかれの耳に何かささやいた。かれは彼女に向かってみじめに笑うと、大きな手で彼女の肩を抱いた。二人は歩いて行った。
「聞いて、ドローヴ……」ブラウンアイズがしょんぼりと言った。「リボンのことであんなばかなことを言ってごめんなさい。あたし、彼女が好きよ、本当に」
灯台をまわり、西風に逆らって防波堤の海側で風上に間切る頃には、群集は散り散りになっていた。銃は、三日のあいだだけ、みずからを守るという、権力を嘲弄するという、独立を確立するという、パラークシの決意の象徴だったが、もう取りはずされてしまった。ぼくは、ゴールデン・グルーメットでの騒ぎの後で父親にコテージに閉じこめられた日々を思い出した。
ブラウンアイズとぼくは沈んだ気分だった。太陽は熱く、天気はうっとうしくて湿気があった。グルーメットが海面から小魚を能率的に取りのぞいたのに、今や大きな魚が上まで押し上げられてきており、断末魔の苦しみの進み具合に応じてあるものは弱々しく、あるものは狂ったようにもがきながら、あたりに横たわっていた。海底からは様々な残骸が浮き上がってきている。水びたしになり、朽ち果てた材木や、おい茂った海草や、浮きかす。海は悪臭を放っていた。
「結局、船で出かけるのはあまり良い考えじゃなかったのかもしれないわね」ブラウンアイズが言った。「いつでも戻って、代わりに散歩に行かれるのよ。今日は海に出てるのは気持ちが良くないわ」
「もう少し行ってみようよ」ぼくは言った。「ポイントの沖まで行けば、そんなにひどくはないかもしれないよ。あの辺は潮が速いからね。ここで見られるのは、あたり一面のごみばっかりだ」ぼくはちょっと思っていることがあったが、ブラウンアイズを動転させたくなかった。死体がまだ崖の下にあるかどうか確かめたかったのだ。そしてまだ残っていたら、死因をつきとめたかった……。
ブラウンアイズは悲しそうに海を見つめていた。彼女の考えもぼくのと同じだったのだろう。死体が潮のせいであそこに残っていないとしたら、この近くを漂っていることもありえる。漂流物にぶつかるたびに彼女ははっとして、心配そうに船べりからのぞきこんだ。
「ドローヴ」海を見ながら、突然彼女は言った「グルーム・ライダーがいるんじゃないかしら」彼女は指さした。一陣の白い突風が水平線近くに現われた。
「きっとグルーメットだよ」ぼくは彼女を安心させようとした。「どっちにしても、浜辺近くを離れないようにしよう。何か起こったらいつでも岩に飛び移れるからね」ぼくは崖下に船をそっと走らせた。
ぼくらは死体を見つけた場所を通り過ぎたが、何の痕跡も見当たらなかった。近くを、大きな黒い魚が腹を上にして浮かんでいる。一羽のグルーメットがその死体に対する権利を主張し、輝く肉に爪を突き立てながら、油断のない目でぼくらを見つめている。まもなく、水がきれいになり始めるとブラウンアイズは目に見えてほっとし、リラックスし、ぼくらはフィンガー・ポイントをまわった。「かれは死んだのね」何分も息を止めていたように深いため息をつきながら彼女は言った。「死んじゃった、死んじゃった、死んじゃったのね」
「役人《パール》に殺されたんだ。メスラーに当たってみたんだけれど、何も言おうとしなかった。でもぼくにはわかったんだよ。かれが岸に向かって泳いで来るのをぼくらが見たすぐ後で、撃たれたにちがいない。もうかれには用はないっていうんだろうね、あいつらめ」
「そうね。ね、こんな話やめましょうよ、ドローヴ。ねえ、この服、気に入った?」
この幼稚な切り換えにぼくは思わず笑ってしまった。「うん、でも黄色いプルオーバーはどうしちゃったんだい?」
「ああ……」彼女は赤くなった。「母さんがあれを着ちゃいけないって言うの。あれは……小さ過ぎるって。わかるでしょ。本当に小さ過ぎるのよ」
「セクシー過ぎるって意味だろ。お母さんはひやひやしたんだよ、ぼくが……ああ……」自分から深みにはまってしまったので、ぼくは混乱して中断した。
「見て、新しい埠頭だわ」ブラウンアイズがうまく話をつないでくれた。「イザベル号が沈んでも、あそこをしょっちゅう使うと思う?」
「そうじゃないかな。あれ一隻のために作ったわけじゃないだろうからね。前はここで漁船が荷をおろしてたんだ……畜生。見ろよ!」
一頭のグルーム・ライダーが陽なたぼっこをしながら岩の上に座っていた。ぼくらのスキマーを見ると鼻を鳴らして頭を上げ、五十ペースほど向こうで水にすべりこんだ。手足を振りまわしてあっというまに加速し、グルーム・ライダーは文字通り濃い海面の上を飛んでこちらに向かってきた。
「伏せて、ドローヴ!」ブラウンアイズが緊迫した声で言った。
恐怖のあまり口をからからにしてぼくは言われた通りにし、そっと身を伏せてスキマーの底に横になった。ブラウンアイズも同じようにしてぼくの横に身を伏せ、心配そうな目で静かにぼくを見つめた。そよ風が当たらなくなったので、太陽が服の上をかんかんに照らし、ぼくは汗をかいていた。もっともこれは暑さのためだけではなかったが。
グルーム・ライダーがまともにゆすぶったのでスキマーがゆれた。怒りのほえ声が上がった。怒って鼻を鳴らし、あせりながらグルーム・ライダーがまた薄い船体に体当たりしたので、ねっとりとしたしずくとなって水がぼくらのまわりに振りそそいだ。それからしばらくのあいだ全てが静かとなり、ぼくらはグルーム・ライダーの荒々しいあえぎ声に耳を傾けながら息をひそめていた。
船が少し傾き、ぼくらの上に影が落ちた。ぼくが体をずらせてもっとブラウンアイズにくっついた時、丸い頭が船べりから現われてあちらこちらを向き、人をあざむく優しい目で、近眼のようになかの様子をうかがった。そいつの息のおかげで船は魚くさくなり、ぼくは慎重に、静かにつばをのんだ。長いあいだグルーム・ライダーとぼくは見つめ合っていた。
それから、うんざりしたような鼻息とともに黒い頭が引っこみ、船は鋭い、きっぱりした音を一度たててゆれた。グルーム・ライダーが船から離れ、泳いで行ったのだ。ぼくらは横たわったままできるだけ静かに息をした。帆はたるみ、暑さは厳しくなり、そよ風が完全にやんでしまったということが明らかになった。とうとうぼくは体を楽にして座り、危険を冒して船べりから大急ぎでのぞいてみた。
海は鏡のように平らだ。あのグルーム・ライダーは百ペースほど向こうで水と戯れ、死んだ魚をかみ散らし、怒って鼻を鳴らしてグルーメットを追い払いながら、ゆっくりとした水しぶきをあげている。ブラウンアイズが、急に動いてグルーム・ライダーの注意をこちらに向けさせないように注意しながら、ぼくの横に起き上がった。「どうするの、ドローヴ?」彼女はささやいた。「埠頭に向かって漕いだりしたら見つかってしまうわ」
ぼくは岸の方を見て、距離をはかった。「何か急いでやらなくちゃ。どんどん沖に流されてるからね」ぼくは海を見まわした。太陽が一時的に霧で隠れたので、海はどんよりとした灰色になっている。近くに、他よりも色が濃いように思われる、かなり広い海域があった。ずっと遠く、入江の入口付近から平たい長いさざ波が、寄せ波のように、一筋の潮流のようにこちらに向かってくる。「あれ何だろう?」ぼくは尋ねた。
ブラウンアイズの声は震えていた。「あれ……あれはグルーム・ライダーよ、ドローヴ。群れになってるの。普通そうやって動くの。さっきのはきっとはぐれ者だったんだわ」
「ああ……やつら、何をするの?」
「あたしたちを沈めちゃうの……去年起こったことなんだけど、漁師がグルーム・ライダーの群れにつかまったの。船に飛びこんできて、それで……」
詳しく話してもらう必要はなかった。人間ほどの大きさがある強力な獣の大群がぼくらのちっぽけなスキマーに集まってきて、低い船べりを飛び越えるところが目に浮かんだ……。
気がつくとぼくは港近くの、海が暗くなっている場所を見つめていた。まるで海が、その表面をおおっている汚物にうんざりしてげっぷをしているように、大きくゆるやかな泡が浮かび、はじけている。
ぼくのかたわらでは、ブラウンアイズが静かな声で話していた。「……あんまり時間がないわ、ドローヴ。思うんだけど……思うんだけど、あたしたち知り合うのにそんなに時間を無駄にしなかったわよね。キスしてちょうだい、早く」
かがみこんで、長く激しいキスをしてあげると、彼女はぼくにしがみつき、肩にすがって泣いた。ぼくはグルーム・ライダーが貪欲な群れをなして向かってくるのを見ていた。ぼくは船底から櫂を取り上げ、それを手にして構えた。手もとにあるものときたらこれ一本だけだったが、死ぬべき時も来ないうちに死ぬなんて意味がない。こんなにこわかったのは生まれて初めてだったが、それでもぼくはブラウンアイズのことと、やつらは彼女をやる前にぼくを殺さなければならないぞということを考えていた。
近くにいたグルーム・ライダーが祝宴を中断し、浮力のある水に高々と浮かびながら顔を上げた。近づいてくる群れを見ると向きを変え、ひれを振りまわし、水しぶきを残しながら西の沖合いに去って行った。ぼくは岸の方に目をやった。もう遠過ぎる。埠頭に着く前にグルーム・ライダーの群れに追いつかれてしまうだろう。
ブラウンアイズがぼくの腕のなかで体を固くした。ふり返って海面を見つめていたのだ。「見て!」彼女はあえいだ。「ああ、ドローヴ、見て!」
海面の下の黒い影が形をとり、しっかりとしたものになり、輪郭が鋭くはっきりとしてきている。さらに泡が浮かんでははじけ、湿った材木やロープやタールの匂いが広がった。ぼくは船ばたごしに見つめた。目の焦点が合うと、甲板や折れた円材やハッチが見えた。みんな、パラークシ海溝の深みから浮かび上がり、こちらにゆっくりと漂ってきている。それは不気味な光景だった。ぼくは当座の危機やグルーム・ライダーのことを忘れ、迷信のために震えていた。グルームがイザベル号を海底から引き揚げたのだ……。
折れたマストのぎざぎざの端が二十ペースほど向こうの海面から突き出た。肉体から分離した魂のように、あいだに入った銀色の水面で下の残骸から隔てられている。だがすぐに黒い操舵室がしずくをたらしながら現われた。無恰好で、窓は割れているが、見分けはついた。ハッチのふたが見えてきた。ねばり気のある水がいやいや切れ、新鮮な空気が船倉に入ったために、静かなうめき声を上げている。まもなく甲板全体が、重い水銀のような水をしたたらせて姿を現わした。
ぼくは櫂を水に入れると漕ぎ、船とのあいだの短い距離をスキマーを走らせた。そのあいだにもグルーム・ライダーはどんどんと近づいており、飢えたうなり声が聞こえた。ぼくらを見つけたのだ。ぼくらを殺そうと列を詰めたので横隊が一点に集まっている。その時スキマーがイザベル号の重い材木にぶつかった。ブラウンアイズが甲板によじ登るあいだ、ぼくは押えていた。その後、まだ櫂を手にしたまま、ぼくも続いた。だが急いだあまりすべってしまい、スキマーが足下を流れて行くのが感じられたかと思うと、ぼくは海の方に落ち、光と闇が炸裂するなか、頭が暗い船体にぶつかった……。
固いものをつかみ、指を突き立て、まだ半分朦朧としながらも、今はもう追いついているにちがいない食肉動物への恐怖に駆られてぼくは前と上に体を引っぱった。どの位気を失っていたのだろう、どの位……? もがきながら頭を上げると、空の輝きを背景にしたブラウンアイズの姿が目に入ってきた。ぼくの上に立ちはだかり、櫂を振り上げてぼくらのまわりを跳びはねる物影を必死に打ちすえている。
ぼくは這った。体の下の甲板が形を取り始めてきている。グルームのために甲板がゆっくりと浮かんで、持ち上がるのが感じられたし、ブラウンアイズが櫂でたたきながら、息を切らして絶望的な悲鳴を上げているのも聞こえた。「かれから離れてよ、畜生、かれから離れて、かれから離れてったら……」
ぼくはよろめきながら立ち上がり、必死になって頭と目から霧をふり払った。それから進み出ると、声にならない声を上げ、うつろな目をしながら鈍い動物を打ちすえているぼくのブラウンアイズからそっと櫂を受け取った。ぼくは三頭の死体を船べりからころがした。水は今や少なくとも二ペースほど下まで来ている。死体は重々しい水しぶきを上げて落ちた。グルーム・ライダーがあっというまに群らがり、引き裂き、低い鼻声をあげながらむさぼり食った。まもなくやつらは西に去って行った。
ブラウンアイズは両手を頬に押し当てて、また考え始め、震え始めていた。足と肩に切り傷があり、可愛い服は半分ほど破れて、腰のあたりにずたずたになって垂れ下がっている。ぼくは彼女を抱きかかえてハッチまで連れて行き、座らせた。それから、シャツの残った部分を引き裂いて水に浸し、できるだけ慎重に彼女の傷を洗った。肩に深い切り傷があって血がにじみ出ていたが、可愛い胸は無傷のままだった。ぼくはそこをきれいに拭いてやり、そっとキスした。それからためらったのだが、慎み深くしているよりも大切なことがあるのだと心に決めたし、腰のあたりに血が見えたので、彼女を立たせると服の残りをぬがせた。ヒップに軽い切り傷があったので、洗ってキスしてやり、残りの部分も洗った。そのあいだ彼女はほほ笑み、前にひざまずいているぼくの髪をなで始めた。
「今度はあなたよ」彼女がせきたてるように言ったのでぼくも服をぬぐと、彼女はゆっくりと、そしてくまなく洗ってくれた。ぼくは自分がけがをしているのかどうかわからなかった。彼女は後ずさりすると、長いあいだ、あけすけにぼくを眺め、そしてにこっとした。
「あたしたちに何も起こらなかったなんて誰にも言えないわよね?」彼女は言った
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折れたマストとねじれた煙突がぬるぬるしたしずくをたらし、海草でおおわれているので、この部分は海底に埋まっていて、グルームが激しくなるあいだ、イザベル号の錨の役割を果たしていたのだろうとぼくらは推論した。それからとうとう引っぱられて自由になり、甲板の積荷のほとんどがなくなったために船はどんどんと浮かび上がって、海面近くまで来るとまっすぐに向き直ったのだ。
ぼくらは二人ともこのニュースを急いでパラークシに持ち帰ろうとはしなかった。
ぼくらはしばらく甲板に横になって休んだ。熱い太陽が傷を乾かし、ブラウンアイズが結晶できらめいている姿はまるで美しい宝石のようだった。また服を着るのは無駄なように思われたし、あたりには船も見えなかったので、ぼくらは、水びたしになった材木が乾いてきらめき始めた甲板を歩きまわり、機械や残った甲板の積荷を見たりしたが、たいていはお互いを見ていた。
どうにか操舵室のドアを開けることができたので、湿った帆布をひと巻き引きずり出して甲板に置き、何回かたたんでベッドのようにした。ゆっくりと湯気が立ち始めたのでブラウンアイズを見ると、ぼくを見つめ返す彼女の輝いた顔には真面目な、命がけとも言えるほどの表情が浮かんでおり、彼女の視線が、恥ずかしくなるほどさぐるような、飢えた様子でぼくの体をなめまわした。それから彼女はいきなりくすくす笑い出し、ぼくをつかんだ。ぼくらは体から結晶をふりまきながら激しく、楽しく抱き合い、ばかみたいに笑った。
この後何度も考えたことだが、ぼくらがあれほど深く愛し合っていたというのは本当に幸いなことだった。そうでなければ、ぼくらはどちらも何をしたら良いのか本当に知らなかったので、ぶざまな事になっていたかもしれない。ぼくらは笑いながら、暖かい、湿った帆の山に倒れ込んだ。布が体にまつわりつくので体をくねらせたが、お互いに離れたくないのでぎごちなかった。ぼくらはできるだけたくさん、そしてできるだけくまなくお互いにさわっていたかった。一瞬の間《ま》があり、気がつくとぼくらは裸で、これまでよりもずっと近づいて、大の字に横たわっていた。そして二人が何も知らないということ以外には、おとながしているこのすばらしい秘密の行為をぼくらが行なうことを邪魔するものは何もなかった。
そこでぼくはブラウンアイズの塩味のする柔らかい唇にキスし、いつのまにか彼女の上に寝ていた。彼女はぼくの下で体を動かしている。足を広げ、腰がぼくに触れている。ぼくは彼女に押し入った。それが、ぼくがしなければいけないことだったからだ――そして彼女がひるむのが見えたので急いでやめた。彼女に痛い思いをさせてしまったので、泣きたいほどだった。
「お願い、ドローヴ。続けて」彼女はほほ笑みながらささやいたが、この時、目じりから涙が流れるのが見えた。そこでぼくは続けたが、突然彼女が暖かく、柔らかく、美しく、ぞくぞくしたものになり、何もかもうまくいき出した。すぐにぼくらの動きは気が狂ったようになり、全てのことが心とは無関係に運んでいた。ぼくにはこの事態を左右する術《すべ》はなかった。それは起こっていた、起きてしまっていた。ブラウンアイズがうめいている。「ドローヴ、ああ……」ぼくの目を見つめる彼女の目は激しく、ぼくらは十分に近づけなかった。十分に近づけない。その時、びっくりするような、すばらしい爆発が起こり、また起こり、また起こり、また……起こり……。
全てすんだ後、太陽はまだ輝いて、まだ頭上にあったので、二人がどの位横になっていたのかはわかりようがなかった。あくびをして手を伸ばすと、そばでブラウンアイズが動くのが感じられた。ぼくは彼女の腰をなで、キスした。目を開き、彼女はにっこりすると、体を押しつけてきた。「ドローヴ……?」
「ねえ、出発した方が良いんじゃないかな。町で必要な品がこの船にはあるんだ」甲板の積荷のなかで二丁のスチーム・ガンがまだ残っていたし、パラークシが今すぐにも必要としている軍需品がさらに船倉にあるのは間違いなかった。
「あら、嫌だわ。もう一度愛してもらいたいのよ、ドローヴ。何度も何度も何度もよ。永久にここを離れたくないわ。ね、どういうことかわかる?」ふくれっつらがにやっとした。「あなた、あたしと結婚しなくちゃならなくなるのよ、ドローヴ。あなたがどうやってあたしを誘惑したか、父さんたちに話すわ。そうすれば結婚しなくちゃいけないのよ。そうして毎晩毎晩、永遠に愛し合うの。あたしたち、摂政が寝たベッドで二人で寝るのよ」
「ブラウンアイズ、話したりしないだろ、ね?」
「今すぐ愛してくれなきゃ、話すわよ」
ぼくは即席のベッドからあわてて這い出した。そうでもしないと、二度と出られなくなってしまう。彼女の貪欲なちっちゃな手がずっと追いかけてきて、ぼくは一度は戻りかけたが、どうにか逃げきり、立ち上がった。「おいで」ぼくは言った。
彼女は反抗的にぼくを見上げた。「あなたがしたがってるのはわかってるのよ。あたしのことはだませないわよ」
「ブラウンアイズ、そりゃ、ぼくだってしたいさ。でも、わからないのかい? 町と役人《パール》との争いにけりをつけるチャンスができたんじゃないか。できるだけ早く、誰かがまたけがをする前に話してやらなくちゃいけないんだ。その後で、ご両親が働いているあいだにきみの部屋に行くからさ。わかった?」
「絶対そうしてくれなきゃ嫌よ」彼女は立ち上がると、ゆっくりと服の切れ端を着たが、そのあいだ中、いたずらっぽくぼくに笑いかけていた。
「おい、よしてくれよ」ぼくは急いで服を着てしまっていたので、今度はブラウンアイズをつかまえて、ぼくの気を狂わせようと彼女がわざと小さな胸を片方むき出しにしていた部分を直してやった。パラークシに着いて、ブラウンアイズとまた会ってから六十日がたったのだという思いが浮かんだ。難波した浜にいた、あの汚ない服を着た内気な小さな少女と、自分の美しさがぼくに及ぼしている力を完全に理解しているこの魅惑的な若き美女とを一致させるのはむずかしかった。ぼくも彼女と同じように急速に成長したのだろうかとぼくは訝しんだ――そして思った。多分そうだろう。
今やぼくはさらに大きな論点から、ぼくの環境の将来という見地から、戦争の現実という見地から考えることができた。六十日前は、沈没船の浮上を当局にしらせに急いで戻るなどということは考えもしなかったろう。かれらが自分たちで見つけるにまかせて、スリングボールをするか、ドライヴェットを競争させるかして遊んでいただろう。
ぼくらはスキマーに乗りこんで、イザベル号のきらめく船体から離れた。また風が出てきており、帆がふくらみ、ぼくらはすぐに防波堤とパラークシを目の前にしてフィンガー・ポイントをまわっていた。グルーム・ライダーの姿は見えなかったが、ぼくは岸近くを走り続けた。一度だけふり返ってみると、イザベル号が砂糖をまぶしたケーキのようにグルームの上できらめきながら浮かんでいるのが見えた。どの位あのままでいるだろうか。グルームは標準の日にちで数日のうちに終わり始める。船は不安定な浮力を失って、またパラークシ海溝の底に沈んでいくだろう。そうなる前に積荷をおろして、浜に引き上げることができるはずだ――もっとも、あの船を修理するのが経済的だということはありえないだろう。ボイラーの爆発で船底がはがれてしまっているのだ。
ようやくぼくらは港に着き、今は亡きシルバージャックの造船所の船架《スリップウェー》まで進んだ。スキマーを水から引っぱり上げ、マストと帆をはずしてボートハウスの隅にしまった。それから、ぼろぼろの恰好なので人目につくのを意識しながら――それに、ぼくらが愛し合ったことをどこかのばかが気がつくことだって大いにありえる――埠頭を歩いた。
リボンとウルフが退屈そうな様子でパン屑をニュース鳩に放りながら、記念碑の台座に座っていた。無理もないことだが小さな鳩たちはすっかり神経質になっており、グルーメットの大きな影が頭上を通るたびに飛び散っている。パラークシのメッセージ・ポストに到着する前にグルーメットにやられてしまう鳩の数が多いために、近頃では前線からの情報はとぎれとぎれだ。届いたわずかなニュースは励みになるようなものではなかった――実際、何も知らないでいる方が時として良いのではないかというぼくの意見を裏づけるのに足りるようなものだった。
リボンはぼくらを一目見て、全てを了解した。秘密めかした微笑を浮かべて、こう言った。「あなたたち、二人で楽しんできたみたいね? たまには秘密を教えてくれなきゃだめよ、ブラウンアイズ。だけど今は、何か服を着なくちゃね。みんな見てるわ」
ブラウンアイズの胸がまた飛び出しているのかと思ってぼくはぎくりとしてふり向いたが、彼女は見苦しくない恰好だった。でも、リボンの言っていることはわかった。ぼくの彼女は、ぼろをまとった姿なのに人目を引き、輝いている。肌は新しい姿を帯びたようだ。これは必ずしも、グルームの結晶のためだけではない。そして可愛い顔は、落ち着きと、完全な気どりにはあと一歩足りない満足した喜びの光を放っている。愛の要塞からぼくらにほほ笑みかける彼女の姿にぼくは見とれてしまったが、リボンが残念そうに含み笑いするのが聞こえた。
そのあいだウルフは、ぼんやりと鳥にパン屑を投げていた。「ねえ、一日中ここに座ってなきゃいけないのかい?」かれは文句を言った。
「ねえ、黙っててよ」リボンはぴしゃりと言うと、またほれぼれとブラウンアイズを眺め始めた。「ね、何をしてたの?」彼女は尋ねた。「つまり、他には[#「他には」に傍点]何をしてたの?」
「リボン、きみのお父さんにすぐに会いたいんだ」ぼくは言った。「イザベル号がまた浮かんできたんだよ」
「まあ……わかったわ」リボンはすぐさま立ち上がった。特に驚いた様子もなかった。海岸付近では、こういうことはよくある現象なのだろう。「神殿にいると思うのよ。一緒に行くわ。何か持ち出せるようなもの、残ってて?」
「銃が二丁、甲板にあった。でっかい穴が船底にあいてるけど、船倉にはまだたくさん入ってると思うんだ。アスタの軍艦がまた近づいてきても、防げるくらいのものはあるんじゃないかな」
「あたしたちが銃を持っているのを役人《パール》が許してくれたらね」考え込みながらリボンは言った。
「今となっちゃ、無理に取り上げようなんてしやしないさ。あれは町のためのものだって話だったじゃないか。覚えてるだろ?」
「なくなってしまってからそう言ったのよ」リボンは意味ありげに言った。彼女の父親が同じような皮肉癖を持っていなければ良いが、とぼくは思った。さもないと、町と役人《パール》との和解というぼくの望みはどうにもならなくなってしまう。
ブラウンアイズとリボンとぼくは大通りを通って神殿に向かい、少しあいだをおいてウルフもついて来た。今のようにひどい服装のぼくらと一緒にいるところを見られるのは恥ずかしいが、事の成り行きから仲間はずれにされたくないのだ。岸に降りてから、ブラウンアイズはほとんど口をきいていなかった。彼女がすることといえば、一人で静かにほほ笑み、彼女を見つめる人全員に――そして、ぼくらがパラークシの大通りを歩いて行くと誰もかれもが彼女を見るのだ――叫びかける幸せを発散することだった。そして、彼女がぼくの手にしがみつく様子から、誰が原因なのかみんなにわかる……どうして彼女の両親に会うことができるだろうかとぼくは考えた。
神殿では、不愉快な光景がぼくらを待っていた。ストロングアームがトラック運転手たち――グロープともう一人の男だ――を、詳細な点などにはほとんどおかまいなしに尋問しているところだった。「よーし、お前ら!」かれはわめいていた。「さあ、答えてもらおう。もし魚を送り出していないのなら、一体全体、魚はどうなっちまってるんだ? 食っちまうのか?」縛られて床に横たわっている二人の上にかれはそびえ立った。
グロープがすすり泣いた。「知らないんだ、本当に知らないんだよ……おれはただ運転するだけで、質問なんかしなかったんだ」かれは奇妙な、二またの手の一本をひねって縄から抜き、延々とけとばされるあいだもう一本を防ぐかのように突き出していた。
「お父さん!」リボンが呼ぶと、ストロングアームはすぐにふり返ったが、娘を見ると顔つきが変わった。ぼくが心中思ったのは――そして、これは前にも思ったことがあるのだが――親と子供が愛し合うというのは可能なのだ、ということだった。ぼくはどこで失敗してしまったのだろう? それからストロングアームはブラウンアイズとぼくを見た。子供に甘い親の微笑が普通の友情の微笑に変わったが、これはこれで、おとなが浮かべているのを見るのはすてきなことだ。「ドローヴとブラウンアイズが大切な話があるんだって」リボンが言った。
「おめでとう」まるで初めて会ったようにうっとりとブラウンアイズを見つめながら、ストロングアームは無味乾燥な口調で言った。「お前さんは幸せなやつだな、ドローヴ」
ぼくは思わず笑い出してしまったが、ブラウンアイズは顔を赤らめさえしなかった。「そうじゃないんだよ、ストロングアーム」ぼく言った。「ぼくのスキマーで海溝の向こうまで出かけてたら、イザベル号が浮かんできたんだ」ぼくは、事の次第を説明した。
「まだそこにあるって言ったな?」ぼくが終わらぬうちにかれは言った。
「高く浮かんでたんだな?」
「甲板の銃をおろしたらもっと高く浮かぶよ」
「よし、そうしよう……そうするぞ」
かれは懸命に考えながら、のそのそ歩きまわっていた。「人手と船を集めることができしだいすぐにだ。おれのスキマーがあるし、可哀想に死んじまったシルバージャックのが造船所に一隻あると。それにボーディングとビッグヘッド……四隻で十分だろう。二丁しか銃は残ってないって言ったな、え? そいつは残念だ……」かれは囚人に話しかけた。「おれが戻ってくるまでかなり時間があるから、考える暇はたっぷりあるぞ。そしてこいつを忘れるなよ。今日、兵隊どもがあの銃を取り返しに来た時、やつらはお前たちも一緒に取り返そうなんてしなかった。どっちの味方につくか決める時には、このことをよく考えてみるんだ」
「父さんがどこにいるか知ってる?」ぼくはストロングアームに尋ねた。
かれの目が冷たくなった。「少し前に町を抜けて新しい工場の方へ行くのを見かけたよ。スローンというやつと一緒だった。親父さんに何の用なんだ?」
「うん、もちろんイザベル号のことを教えようと思ってさ。新しい埠頭には役人《パール》は一人もいなかったからイザベル号を見ていないんだ。浮かんできてるのもまだ知らないと思うんだよ」ストロングアームにぼくの意志を話したのは間違いだったとぼくは思い始めていた。
「自分で見つけるように放っておけないのか?」
「ストロングアーム、わからないの? これは役人《パール》と町が仲良くなるチャンスなんだよ。役人《パール》は銃を約束した。そして今それがあるんだ――ぼくらの銃さ。盗んだものだなんて言われない銃なんだよ。イザベル号から荷をおろして、銃を組み立てるのを手伝ってもらえるし、扱い方も教えてもらえるよ。アスタ軍が丘のすぐ上まで来てるっていうのに、こんな風に喧嘩してるわけにいかないじゃないか!」
ぼくが話すのをかれは見ていた。そして話し終えると、かれは頭をふった。「お前の気持ちは気に入ったよ、ドローヴ。だけどお前と一緒に役人《パール》を信用することはできん。心配するな。どうなるか今にわかるさ。行って親父さんに話してこい――ただ、おれの娘は遠慮させてもらうよ。イザベル号のまわりでどえらい戦いになるのが目に見えるんだ」
ロックス車《カート》を借りて、ブラウンアイズとぼくは丘を登って町を出た。初め、ロックスはのろのろとして、嫌がっていたが、ぼくらが困っているのを見てロリンが近くの木から降りてくると、ロックスをあやつり、隣を速足で歩いて促してくれた。おかげで丘の頂上に着くことができた。川沿いの谷が目の下に広がっている。
入江はほとんど干上がっており、茶色い土が一筋、畑と空地を横切っている。泥地のあいだを流れる川はきらめく糸のようだ。工場の建物から煙が一筋のぼっている。この前立入禁止区域を見た時にはなかった、新しい建物がいくつかあるのにぼくは気がついた。ゲート近くには使われていないトラックが一列に並び、入江の乾いた水底には、引き上げられたスキマーや大型船が散らばっている。工場はまるで眠っているように、捨てられたように見えた。
この地点でロリンはぼくらを残し、丘のとげやぶのあいだを、急斜面にあいたいくつもの穴の方に向かって走って行った。ロックスは満足してゆっくり歩いている。はるか下では動きが見られた。監視が一人小屋から出てきて、ゲートを開けたのだ。トラックが蒸気を吐き出し、一番大きな建物から労働者たちが、交替になってぞくぞくと出てきた。かれらがトラックに取りつけたトレイラーに入りこむと、車全体がかん高く警笛を鳴らして動き出し、ぼくらの方に向かって丘を登ってきた。あたりの時間が止まったような静けさのなかでは、この突然の動きは妙にそぐわなかった。
「まだあたしのこと愛してる?」いきなりブラウンアイズが尋ねた。
ぼくは彼女を見つめた。「どうしてそんなこと聞くのさ? 決まってるじゃないか」
「まあ……」彼女は嬉しそうにほほ笑んだ。「そう言ってくれるのを聞きたかっただけなの。あなたの気が変わったってことだってありえるでしょ。男の人はしょっちゅう気が変わるもんだって母さんが教えてくれたわ。一度……あの……わかるでしょ、女の子を誘惑しちゃうと……」
ぼくらはロックス車《カート》のなかですでに近くに座っていたが、腕をもっと伸ばせば彼女の胸にさわれることがわかって、ぼくはさらに彼女に寄りそった。「誰の方が誘惑したのか思い出してくれよ」ぼくは言った。
この時、トラックとトレイラーが通り過ぎ、家路に向かうパラークシの労働者たちが行きすがら手を振り、口笛を鳴らした。ぼくは向こう見ずな気持ちになって、手をそのままにしておいた。後で、ゴールデン・グルーメットで噂になるだろう。ぼくは思った。
ようやく、ぼくらは工場ゲートで車《カート》を止め、降りた。金網ごしにうさん臭そうに見つめながら、監視が近づいてきた。「アリカ・バートに会いたいんだ。ぼくらがここに来てるって伝えてくれない?」ぼくはもったいぶって頼んだ。「ぼくは息子のドローヴで、これはぼくのガールフレンドのブラウンアイズ」
こう名のりをあげれば監視がぱっと気を付けの姿勢をとるかと期待していたのだが、ぼくはがっかりした。かれは何かつぶやいて行ってしまった。そしてかなりたってから戻ってきて、かんぬきをがたがたいわせてゲートを開けた。「ついて来い」ゲートをまた閉じながら、かれはぶっきらぼうに言った。それから速足で歩いて行った。
ブラウンアイズと二人で息を切らしながらかれの後を追うあいだ、まわりの状況を理解する暇はほとんどなかった。いたる所に大きな箱があり、シートでおおわれたもっと大きな物もあった。パラークシに住んでいる工場労働者たちは当然のことながら、新しい罐詰工場の性質について何度も質問を受けていたが、かれらは大して役にはたたなかった。かれらにわかる限りでは、新しい工場は古い工場とほとんど同じだった。機械は新しいが、最終的な製品は変わらなかった。からのトラックの事件を思い出して、ぼくは、かれらはこの製品をどうするのだろうとつかのま考えた。建物は、思っていた以上に複雑だった。丘から見おろした時には、その大きさについて本当のイメージを持っていなかったのだ。頭上には細い通路が走り、また地下に消えていくはしご段がある。「燃料」と記されたタンク、「水」と記されたタンク、緑のドアに黄色のドアに青いドア。
監視があけたのは黄色いドアだった。かれはわきに退き、ぼくらに入るように合図した。ぼくらは窓がひとつあり、机と椅子、それにニュース鳩の籠と背の高い戸棚とがある部屋にいた。父親を除いては、この部屋には他に注目すべきことはなかった。父は椅子に座り、疑うような怒りの目でぼくらを見つめていた。
「この説明はしてもらえるんだろうな」ようやく父は口を開いた。無限の威嚇をこめたゆっくりした声だった。
「もちろんさ、父さん。大切なことでなかったら来やしなかったよ」単純で理想主義的なばか者かもしれないが、ぼくはまだ、内乱の前兆をくい止めることが重要だと考えていたのだ。「ねえ、ブラウンアイズとぼくは――」
だが父は、かんしゃくを古典的に表現して、勢いよく立ち上がった。「半分裸で、その売女を腕にぶら下げた恰好でここまでこそこそやって来て、わしをこの仕事全体の笑いものにしたということをわかっているのか? おまけにわしの目の前でその女の名前を口に出すんだな? しかも、みんなに見せびらかしながら、そいつをわしの前まで連れて来たりして。そいつは子供なんかじゃないんだぞ。何てことだ、こんな日が来るとは考えもしなかった……」
「――フィンガー・ポイントのあたりなんだ」その間ぼくは、がんこに話を続けていた。「それで襲われている最中に、イザベル号がグルームの上に浮かび上がったんだよ。どうにかスキマーをわきに寄せることができてね、それで、ブラウンアイズがぼくの命を救ってくれたんだ[#「ブラウンアイズがぼくの命を救ってくれたんだ」に傍点]。しばらくしてから、見てみたんだけど――」
「今、何て言った?」
「ブラウンアイズがぼくの命を救ってくれた、っていったんだよ。ブラウンアイズがね」
「イザベル号があそこに浮かんでいるということを言いたいのか?」
「そうさ、町の人たちにはもう話したんだけれど、もう引き揚げグループを作っているよ」
「やつらに何を話したって?」
「町の人たちにはもう――」
「お前の言ったことはわかってる。お前の言ったことはわかってるよ」父は突然黙りこむと、大きな目をしてぼくを見つめた。父はぎょっとしている、何かぼくの言ったことでひどくおびえているのだとわかるのに、それほど時間はかからなかった。父は年老いて見えた。死にかけている[#「死にかけている」に傍点]ようだった。ズーおばさんがぼくから服をはぎとった時と同じだ。ホーロックス・メスラーが蒸気のなかの死に向かって歩いていった時と同じだ。これはぼくら二人のあいだのいつもの喧嘩ではないぞということがわかり始めた時、胃が震えた。今度は何かが狂ってしまった。恐ろしく狂ってしまった。「ここで待っていなさい」ようやく父は言った。「二人とも、ここで待っているんだ」父は部屋から走るように出て行き、ドアをぴしゃりと閉めた。
ブラウンアイズはぼくを見ていたが、彼女もおびえているようだった。
「親父はばかなんだよ。きみのことをあんな風に呼んだりして、ごめんよ」
「何かまずいことがあったのよ、ドローヴ。思うんだけど……思うんだけど、あの銃は町のためなんかじゃなかったんだわ。リボンの父さんが正しいのよ。銃はここで必要なんだわ。でも今度は、パラークシは銃を守るために戦うだろうって、あなたのお父さんもわかってるのね」
「ちぇっ。ぼく、どうしてこんなことに首を突っこんじゃったのかな、ブラウンアイズ?」
「お父さんと仲直りできると思ったからよ、だからでしょ。お父さんが喜んでくれると思ったのよ。そして喜ばせたかったんだわ。お父さんのことを嫌いなのは知ってるわ、ドローヴ――でも、お父さんを嫌いになりたくないのね」
この時ドアが開き、大きく、喧嘩腰の監視が二人入ってきた。「一緒に来るんだ」一人がブラウンアイズの腕をつかんで言った。「その汚ない手を放せ!」ぼくは叫んだ。かれに飛びかかったが、もう一人がぼくをつかまえ、両腕を背中にまわして押えつけた。ぼくは狂ったようにけとばしたが、片方がぼくの届かないところでブラウンアイズをドアから引きずり出すあいだ、もう片方がぼくをつかまえていた。彼女は悲鳴を上げ、つかまえた腕のなかで体をくねらせたが、かれは彼女の腰にまわした腕の力を強め、残る手で、こぶしを振りまわす彼女の手をつかまえた。そして二人は出て行き、ぼくはしばらくのあいだ、残った監視と空しく戦った。かれはくすくす笑うだけで、肩がぼきぼき鳴るまでぼくの腕をひねり上げた。
ようやくもう一人の監視が戻ってきた。「オーケー、放していいぞ」息を切らしてやつは言った。ぼくはドアに走った。
外には誰もいなかった。ドアのある建物が並んでいる。どのドアも閉ざされ、物音ひとつ聞こえない。その向こうに、針金の囲いが見える。頭上では太陽が照りつけ、目もくらむような輝きのなかに黒い影が落ちている。
「彼女はどこだ?」ぼくは叫んだ。「彼女に何をした?」
二人の監視は歩き去っていくところだった。ぼくはかれらを追いかけ、腕をつかんだ。かれらはぼくの手を払いのけると、歩き続けた。
その時、かすかに彼女の呼ぶ声が聞こえた。「ドローヴ! ドローヴ!」ぼくは声が聞こえてきた方向に目をこらしたが、初めは何も見えなかった。ぼくは小さな小屋を通り過ぎた。
その時、囲いに沿って彼女が走っているのが見えた。ぼくの方を見て、溝を飛び越えている。彼女はぼくを見つけて立ち止まり、ぼくが彼女に向かって走っていくあいだ、腕を差し出して、泣いていた。
ぼくはためらい、監視がにやにやしながら眺めている、閉ざされたゲートの方を見た。それからブラウンアイズの方を向いたが、きっとぼくも泣いていただろう。「やつら、ぼくらに何をしたんだ?」ぼくは口のなかでつぶやいた。「あいつら、ぼくらに何をしたんだ?」
彼女は囲いの外で、ぼくはなかだった。
ぼくらのうちのどちらかが囚人なのだ。
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囲いは少なくとも五ペースの高さがあり、網細工で堅牢に作られていた。ブラウンアイズとぼくにできることといったら、指を触れ合うことだけだった。ぼくらはしばらくこうしたまま見つめ合い、ほとんど口をきかなかった。考えても仕方がないとわかっていたからだろう。当局は、おとなの世界は、ぼくがつがわせたくなかった一組のペットのドライヴェットを引きはなした時と同じように、非人間的にきっぱりとぼくらを引きはなしたのだ。彼女と二人でそうして立っていると、自分のなかにどんなに哀れでいやおうなしの獣が住んでいるのか初めてわかった――最近のすばらしい考えにもかかわらずにだ。変わりつつある態度だの、芽ばえ始めたおとならしさだの、頂点に達しつつある知性だのといったたわごと――こんなものは全て、自分の女から引き裂かれたさびしさの前では無意味で的はずれだ。
ぼくたちは一度ゲートまで行って、監視を納得させようとした。だが、この種類の人間たち全てと同様に、かれもただ、命令を受けているのだと言うだけだった。
「誰の命令なんだ?」ぼくはかれをどなりつけた。「そんなとんでもない命令を誰から受けた?」
かれの目には同情の色があったかもしれないし、なかったかもしれない。ぼくにはわからない。かれはただこう言っただけだった。「お父さんの命令だよ、アリカ・ドローヴ」
外側にいるブラウンアイズは全く孤独に見えた。目に入る範囲内に人影はない。はるかかなたのイエロー山脈と、そして木々と畑と丘と空地が見えるだけだ。近くには穴を掘ったあとの土の山があり、地面はトラックやロックス車《カート》の跡を残し、平らに踏みつけられて草などほとんど生えていない。そこにブラウンアイズが立っている。一ペースも離れていないところに立ち、悲しそうに泣きながら、ぼくの指先をなでている。新しい女らしさの輝きと興奮が消え去った今、ぼろぼろの服を身にまとった姿は哀れだった。彼女は傷ついた子供のようだった。そして実際、彼女は傷ついた子供であり、ぼくの心と体は彼女への愛で痛んだ。
その時二人の監視がやって来て、父が会うと告げた。かれらはぼく腕をとり、連れて行った。建物にさえぎられて見えなくなるまで、ぼくは肩ごしにブラウンアイズを見つめていた。
かれらはぼくを連れて階段を降り、いくつものドアを通り、いくつもの蒸留燃料ランプがランプ受けから同じように光を投げかけている廊下を通っていった。ようやくひとつのドアをノックして、待った。
ドアを開けたのは母親だった。母のわきを通り過ぎてなかに入ると、そこはふつうの部屋だった。普通の家の部屋と変わりない――ただ、窓がついていなかった。テーブルや椅子、その他のありふれた家具がある。どの家でも見られるように新聞が散らかり、ありふれた食品入れや装飾品や、その他、家を型作る品がある。ただひとつ、普通でない要素は、こういったものがここにあるということ、罐詰工場の下にあるということだ。
お袋はぼくに笑いかけていた。「おかけなさいな、ドローヴ」こう言われて、ぼくは機械的に従った。「ここが新しい家なのよ。気に入った?」
あたりを見まわすと、向こうの壁の戦況地図が見えた。アスタの旗は大変近づいており、パラークシを中心とした海岸地帯を取り巻く、ぴっしりあいだがつまった円を作っている。母はぼくの視線を追ったが、微笑がさらに広がった。「でもここまではやって来ないわよ、ドローヴ。ここにいれば安全なのよ。誰も手を出せやしないわ」
「一体何を話してるんだよ、母さん? 町はどうなるの? パラークシの人たちはどうなるのさ? これは一体どういうことなの?」
「あの人たちのためにも部屋があるんじゃないの? 死ぬ人だってなかにはいるわよ。善良なる者が救われるのよ」
いつものお袋にしても、妙な話し方だった。「あの金網じゃアスタ軍を食い止められそうにもないよ、母さん」ぼくは言った。
相変わらず狂気じみた微笑を浮かべて、お袋は言った。「まあ、でも銃があるわ、たくさん、たくさん銃がね。そうよ、たくさん、たくさん、たくさんね」
「ぼく、出て行くよ」ぼくはつぶやくと、片目で母親を見ながらドアの方に向かった。母はぼくを止めようとしなかったが、ちょうどドアまで来た時に、そこを開けて父親が急いで入ってきた。「おお、いたか」父はぶっきらぼうに言った。「よし、話をはっきりさせておこう。お前の部屋はあのドアの向こうで、そこで眠るんだ。それ以外は、金網のなか、どこでも好きな所に行ってかまわん。ただし、緑のドアと赤いドアのなかには入るな。みんなの邪魔にならんようにしていろ、それだけだ。何かおかしな事をしでかしたら、部屋に閉じこめるぞ。ここは軍の建物なんだ、わかったか?」
「新しい政府所在地かと思ってたよ。ここで誰を統治してるの?」
「そのうち議員たちに会わせてやるが、礼儀正しくするんだぞ」
「わかったよ、父さん。そしたら、ブラウンアイズをなかに入れてくれる?」
父の忍耐はすぐにかんしゃくに変わった。「お前と取り引きはせんぞ、ドローヴ! 自分が何様だと思ってるんだ? あの娘は自分の居場所である外にいるんだ!」
「わかった」ぼくは父を通り過ぎてドアまで行った。「それじゃ監視にぼくを外に出すように言ってくれない?」
「ああ、フュー……ああ、フュー……」お袋がすすり泣いた。
親父が乱暴にぼくの腕をつかんだ。「いいか、わしの言うことを聞くんだ、ドローヴ。話し合うのはあとで、その暇ができた時にする。今はただ、この世のなかには二種類の人間しかいないのだということだけ言っておく――勝者と敗者だ。単純なことなんだ。わしに関する限り、家族が勝者の側に立つことを確実にするのがわしの義務なのだ。わからないのか、お前のためにやっているんだぞ?」
「いいこと」お袋が泣き声で言った。「少しは考えなきゃいけないわ、ドローヴ。お父様の立場にどんな影響があると思ってるの、もしもお前があんな――」
「黙れ!」父がわめいた。母をぶつのではないかとぼくは一瞬思った。父の顔は土色で、口はゆがんでいた。それから突然勢いをなくし、ぼくらから離れて腰をおろした。ぼくは父を見つめた。正常に見える。いや、それ以上だ。口を開いた時、その声は穏やかだった。「いつか、わしがしようとすること全てがどうして反対されたり、愚かな行動で反撃されたり、誤解されたりするのかわかることだろう」父は言った。「わしがお前に一緒にいろと言うのはな、ドローヴ、そうしなければお前が死んでしまうことがわかっているからだ。そしてわしは息子に死なれたくないのだ――信じてもらえるかな? そしてお前にも言っておくがな、ファヤット、今やこの場所は議員でいっぱいで、平均的な地位で較べればわしは雑魚に過ぎんのだということを忘れるな。それからドローヴ、お前にも想像できるだろうがここはスペースが限られているんだ。そして誰にでも金網のなかに連れてきたい友達や親戚がいる。だが連れてはこられんのだ――そしてわしは雑魚だから、お前の、その、ガールフレンドをなかに入れてやれんのだということを理解してくれるだろうな。さてと」交互にぼくらを見つめながら、父は静かに言った。口のすみのかすかな動きが、父は辛うじて完全に参ってしまうことを免れたのだと示している。「わしの意見がわかったと、お前たち二人に言ってもらいたいな」
「この子のためにあたしがどんなに働いて苦労してきたか考えると――」
「おいで、ドローヴ」明るい笑顔を浮かべて父が言った。ぼくの腕を取った手は本当にやさしかったが、ぼくを部屋から追いたてるように出し、廊下を歩いていった。ぼくらはいくつものドアを通り、階段を登って、外の光のなかに出た。太陽は隠れていた。空気はかすみがかかっているが、まだとても暖かい。服が肌にくっつき始めた。ぼくはすぐさまあたりを見まわしてブラウンアイズを探し、金網の向こうの地面に心細そうに座っているのを見つけた。
父は空気の匂いを嗅いでいた。「どしゃ降りが始まりそうだな」機嫌よく言った。「本当にどしゃ降りになりそうだぞ。議員たちに知らせなきゃな。議員たちに知らせなきゃ。二年前のどしゃ降りを覚えてるか、ドローヴ? 地下室が水びたしになって、お前のドライヴェットが溺れてしまったな。泳ぎはできるんだが、水が籠の天井よりも高くまで来てしまったんだ。あれでわしらはみんなひとつ勉強したな、ドローヴ。勉強した、そうだな……」
ぼくはうんざりして、そろそろと父から離れようとしていた。父はぺちゃくちゃしゃべりながらついてきた。「あそこにいるのはお前のガールフレンドだな、ドローヴ? 可愛い子だ。可愛い……行って話をしてこい。あんな風にひとりぼっちで座っているなんて可哀想に。お前の母さんを思い出すよ……」突然父は立ち止まり、じっとしたまま南の方を眺めた。ぼくは不安な気持ちでその視線を追ったが、いつものフィンガー・ポイントの高い木々とロリンの小さな姿以外には何も見えなかった。ふり返ると、父はまたブラウンアイズを見ていた。「おいで」こう言うと、勢いよく彼女に向かって歩き出した。
彼女は期待をこめてぼくらを見つめていたが、ぼくが首を振ると顔を曇らせた。
父が口を開いた。「お嬢さん、これまであんたに無礼な態度をとってきて、すまなかった。わしの言ったことや、こんな風にドローヴを連れ去ったことを許してもらいたいんだが」父の口調はしっかりしており、正常だった――しかも心からのものだった。「やむをえぬ理由があるのだということを信じてもらいたいのだ」
ブラウンアイズは父を見上げた。目が濡れている。「どんな呼ばれ方をされても気にしないわ。こ、これまでだってひどいことを言われてきたもの……で、でも、ドローヴを連れてってしまったことは許さない。こんなひどい仕打ちを受けたのは生まれて初めてよ。あなたは悪い人にちがいないわ」
大人数の群集が現われ、丘の端に群がってこちらに向かって降りてきているパラークシ街道をぼんやりと眺めながら、父はため息をついた。「お父さんがすぐにここに来るだろう」父は言った。「一緒に帰るのが一番よいと思うがね。そして信じてくれ、本当にすまないと思っているのだ。ゲートまでおいで、二人とも」
父はまた自分を押えていた。「ゼルドン・スローンとジュバ・リプテルを連れてこい」監視に命令した。「そして軍隊に警報を出すんだ。急げ!」監視は走って行った。小屋のなかで居眠りをしていて、群集が近づいて来る音に気がつかなかったのだろう。父はふり返り、また考えこみながら丘を見上げた。
ブラウンアイズはゲートの外にいて、ぼくはなかにいたが、二人を隔てているのは重たいかんぬきだった。ぼくはゲートまで行って、一番下のかんぬきを引っぱり始めた。父がぼくを引き離したが、はなはだしく乱暴というわけではなかった。
「ここから出してよ、畜生!」ぼくはもがきながら叫んだ。「ぼくがなかにいようと外にいようと、父さんには関係ないじゃないか!」
父が緊張するのが感じられた。「お前もわしの言うことを聞いていなかったのか、ドローヴ?」静かにこう言うと、ぼくを放した。しばしかっとなって、ぼくは外に出してもらえるのかと思ったが、ゲートまで行くと、まわりは監視や兵隊でいっぱいだった。かれらはスプリングライフルの撃鉄を起こしたまま、囲いの内側に一定の間隔をあけてすばやく並んだ。しゅっしゅっ、ごろごろという音が聞こえ、移動スチーム・ガンがゲートのわきに運ばれてきて、金網の小さな穴から銃身を突き出した。兵隊が長く一列に並んだ長四角の物体からカバーをはずしているのが見えた。前に――大分前に――川の向こう側からぼくらが見たあの物体だ。これもまたスチーム・ガンだった。大きな敷地の周囲に均等に置かれていた。建物のなかから、蒸気があがっているポータブルのボイラーを引きずって、さらに兵隊が現われた。
ぼくは父をにらみつけながら、食ってかかった。「どうしたっていうの?」ぼくは叫んだ。「やって来るのはパラークシの人たちなんだよ! 一体ぼくらの敵は誰なのさ?」
「わしらを殺したがる者は誰でも敵なのだ」父はこう言うと、命令を下しながら監視たちのあいだを歩いていった。ゼルドン・スローンと、ジュバ・リプテルであろうと思われる人物とが急速に近づいて来る群集を見ながら近くで話をしているのが見えた。しばらくすると、スローンが拡声器を口まで持っていった。
「よーし」かれは高々と言った。「これ以上近づくな!」
いくらか離れた所で、群集の主力はひるんだが、ストロングアームの大きな体は前進し続けた。しばらくもみ合った後で、リボンが制止の手を振り切って後を追った。
ぼくは、監視グループのそばに立っている父親に近づいた。父は無表情にぼくを見た。「もし、父さんの部下たちがみんなを撃ったら、真っ先に父さんを殺すからね」
父はパラークシの人々の方を見やった。「お前は過労なんだよ、ドローヴ」どうでもいいようなことを言った。「下に降りて母さんといるのが一番良いぞ」
ストロングアームは無事にゲートのところで立ち止まった。リボンがわきで息を切らしているのを見つけていく分うるさがって見おろしていたが、それから大声で言った。「責任者は誰だ?」
「わたしだ」ゼルドン・スローンが答えた。
ストロングアームは沈黙し、そして言った。「この銃を誰に向けて使う気なのか教えてくれるだろうな。おれたちの敵はアスタ人だと思っていたんだ。なのにこの銃はおれたちに向けられているようだが」
そしてスローンもまた、あの表情を浮かべていた。あの死の表情を。「わたしをからかうのはやめたまえ、パラークシ・ストロングアーム」かれはきっぱりと言った。「わたしたちは二人ともこのジェスチャー遊びの理由を知っているんだ。さあ、それを話してみたまえ。話すんだ!」
ストロングアームは両手で金網を握りしめた。握った力のために指が白くなるのが見えた。「よし、わかった」かれは押さえた調子で言った。「おれたちはイザベル号に登ったんだ。積荷はパラークシを守るための銃と弾薬だと、そう言ったな。それじゃわけを教えてくれ。どうして、あそこに積んであった品は全部アスタ製なんだ? 銃に弾丸に備品、罐詰に燃料、みんなアスタ製だ! どうして議会が敵と取り引きしてるんだ?」かれの声は高まり、怒号となった。「お前たちはどっちの味方なんだ?」
自制しきれなくなってストロングアームが力なく金網をゆさぶるあいだ、スローンは黙っていた。とうとうリボンがかれの手を網からはずした。かれはふり向き、ぼんやりと彼女を見つめたが、彼女が何事かささやくとうなずいた。次にリボンはブラウンアイズに話しかけたが、彼女は泣きながら激しく頭を振った。それからストロングアームがブラウンアイズの腕をしっかりとつかみ、三人は町の人たちの一団に戻っていった。ストロングアームに引っぱられながら、ブラウンアイズはずっと肩ごしにふり返っていた。
監視が父に言うのが聞こえた。「発砲しますか、アリカ・バート」
そして父が言った。「心配するな。かれらはもう死んでいるのだ」
ずっと後になって、かれらはまたやって来た。今や雨がしきりに降り始めており、寒くなってきていた。霧が川から立ちこめ、渦を巻いている。ぼくらはかれらがパラークシから丘を降りてくるのを眺めた。そしてその頭上には蒸気がたなびいている。かれらは、こちらの銃の射程距離のなかに入る前に分散して、畑や溝や沼地のあいだに位置を占めたが、かれらの二丁の銃からはいまだに蒸気があがっていたので、役人《パール》たちは正確に狙いを定めることができ、パラークシからの一発に答えて一斉射撃を浴びせかけた。一度、ようやく始まった短い夜まぎれてかれらが囲いを襲ってきたが、蒸留燃料の明かりの下で撃退され、多くの死体を残していった。長いあいだ、ぼくは敷地のそちら側には近づけなかった。死体のなかに知っている顔があるのではないかとこわかったのだ。そしてある朝、死体は全て片づけられていた。
ぼくは敷地内を歩きまわり、外の世のなかを見てはブラウンアイズの姿が見えないかと思って時間の大半を過ごしたが、今では町の人たちはめったに姿を現わさなかったし、恐らくは彼女が囲いに近づくことを許さなかったのだろう。ぼくは工場のまわりの銃や他の設備を調べてみたが、かなりの量のものがアスタ製であることに気がついた。このことについて父親やゼルドン・スローンに尋ねてみたが、二人とも話してくれなかった。このために、ストロングアームが正しいのではないかというぼくの疑いはますます強くなった。つまり、信じられないことだが、エルト議会はアスタと何らかの協定を結んでいたのだ。多分、戦争は終わっているのだ。
議員や摂政のことが絶えず話題になるにもかかわらず、ぼくは一度もかれらを――ゼルドン・スローンを除いて――見かけなかった。ぼくはかれらの存在を疑い出し、どういうわけかぼくらはぼくらの小さな閉鎖された世界、兵隊、監視、ぼくの両親、スローン、リプテル、そして行政官と家族とからだけで成り立っている無意味な世界にいるのだという感じが強まった。ぼくは自問し続けた。ぼくらはここで何をしているのだ? どうして戦っているのだ?
誰も教えてはくれないだろう。みんな忙しすぎるし、神経質すぎた。だが、砲火がやんでかなりたったある日、ゼルドン・スローンがぼくをかれの事務室に呼んだ。
「ホーロックス・メスラーが死ぬ前に、きみはこの太陽系について実用的な知識を持っていると教えてくれたんだよ、ドローヴ」ぼくが腰をおろしてかれをにらみつけると、かれは愛想よく言った。「かれがやめたところからわたしが続けても構わないだろうね。知ってもらうことが大切なのだ。そうすれば色々なことの説明がつく――そして、工場内でのわたしたちの立場の説明の足しになるかもしれないのだ。きみはわたしたちと一緒に生活しなければいけないんだよ。わたしたちを憎まないことの方が簡単だとわかるだろう。わたしたちの助けになってもらえるかもしれない」
「うん」
「さてと」かれはコンテを一本取り出すと、メスラーが描いたのと同じような図を描いたが、これはもっと小さくて、紙の余白が大分あった。「太陽フューのまわりの楕円形の軌道にのったわれわれの星の移行のことはもう知っているね。これは証明済みの事実なのだが、ごく最近までは、フューが二重のらせんを描いてわれわれのまわりをまわっていると考えられていたのだ」かれはくすくす笑った。「こいつはすてきな考えだと思うんだがね。しかしだ……ここ数年のうちにわれわれの天文学者たちが多大な理論的仕事を成し遂げた。かれらは軌道を物事の道理にかなったものとして説明することはできたのだが、かれらを悩ます二つの要素があった」
「まずひとつには、われわれの星がもともとはフューの一部であったのだが、それがちぎれたか、あるいははじき出されたかしたのだと仮定することは論理的だ。だが、もしそうであれば――どうしてこの星はその軌道に対して直角に[#「直角に」に傍点]自転しているのだろう? 論理的には、同じ面か、あるいはそれにきわめて近いところで自転するはずなのだ」
「そして二番目には、軌道内に説明のつかない摂動が発見されたのだ」
かれは中断し、思いにふけりながらぼくを見つめて、ジョッキをすすった。「この二つの点はきみの興味を引かないかね、ドローヴ? そのはずだよ。これはわれわれの天文学者たちに興味を起こさせ、その結果、ある、さらに進んだ理論が生まれたのだ」
「最初の理論は、過去のある時期には、われわれの世界と太陽フューとのあいだには何の関係もなかったということを前提にしたものだった。われわれは太陽の一部ではない。どこかよそからやって来たのだ、というわけだ。宇宙をさまよっていてつかまったわけだ」
「二番目の理論は、すぐに事実であることが証明された。われわれの軌道における摂動は巨大惑星ラックスによって引き起こされたのだ」
「そして望遠鏡の発明のおかげで、この二つの理論がひとつの事実となった。ラックスがわれわれと同じ平面を自転していることがわかったのだ。ラックスとわれわれの星はかつては同じ系《システム》の一部だった――いやわれわれがラックスの一部であったのかもしれないのだ――そして太陽フューがよそ者だったんだ……」
かれはこの言葉に余韻を持たせた。しまいにぼくは言った。「グレート・ロックス・フューがアイス・デビル・ラックスの手からぼくらを引きはなしたっていうナンセンスが本当なんだって言ってるの? フューが、ラックスのまわりの軌道からぼくらを引きずり出したっていうのが?」こんな話を聞かされるのはうんざりだった。お袋の言うことが正しいと証明されたようなものだ。
「本当のことなんだよ。だが、話はまだ半分しか終わっていない。これには両面あるんだ……」
「今や、ラックスがわれわれを引き戻す時が来たのだ」
長い沈黙が続き、部屋が暖かいのにぼくは震えていた。何年も何年ものあいだ、太陽フューが星々のなかの小さな点となり、ラックスが空に冷たく輝くところを想像して震えていた。永遠の暗闇、永遠の寒さ。これはこの世の終りだ。この世の終りなのだろうか?
「何年ぐらい?」ぼくはささやいた。「またフューが見られるまで、何年ぐらいなの?」
「それほど長いことではない」かれはためらった。「四十年、という計算だ。食料もあるし燃料もある――イザベル号に積んであった蒸留液はなくなってしまったがね。文明は続くよ……われわれの手でね」
「でも、他の人たちはどうなるの?」本当のところ、ぼくが考えていたのはブラウンアイズのことだけだった。ぼくも含めて役人《パール》たちみんなが地下で暖かく、ぬくぬくとしているあいだ、ぼくのブラウンアイズは寒さのために苦しい死をむかえるのだ。
自分がしゃべっているということ、スローンが答えているということ、まもなくして自分が震えながらわめき散らしていたということ、声はかすれ、顔は涙で濡れているということをぼくは意識していた。しばらくすると、何も言うことはなくなったように思われた。もう言いようがなかった。ぼくは自制しようと努めながら、こう考えていた。どうにかして、ここから出てやる――さもなきゃ、ブラウンアイズをここに入れてやる……スローンは座ったまま、ぼくが気を取り直すのを辛棒強く、同情して待っていた。ようやくぼくは言った。「じゃ、アスタとの戦争はみんな見せかけだったの?」声がまだ震えていた。
かれは静かに言った。「いや、戦争は本当だよ。実際に戦争は起こったのだが、そのあいだにある天文学上の事実が明らかになり、同時にある計算がなされたのだ。その結果、戦争を続けていた方が都合が良いと考えられた。それだけのことさ」
「そりゃそうだろうさ!」ぼくはまたわれを忘れ始めていた。「そうすりゃ、自分たちの側の人間に対してここの防備を固めるような安全策がとれるものね。アスタ人とエルト人がやっつけ合っているあいだにさ……そして親父は……親父はこのことを知ってたんだ、ずっと……あんたたちの嘘の戦争で死んだ人たちのことを、今、死んでいっている人たちのことをこれっぽっちも考えてないのか?」
「いずれにしてもかれらは死ぬのだ。ひとつの主義のために死んでいく方が幸せというものさ……いいかね、ドローヴ、きみの気持ちはわかる」かれはもっともらしいことを言った。「この話をしたのは、きみが、ストロングアームに聞く耳を持たせることができる唯一の人間かもしれないと思ったからだ。かれに仲間たちを解散させてもらいたいのだよ。わたしたちを襲ったところで何もならないことは、きみだって認めるはずだがね」
「凍っちまえ、スローン」ぼくは荒々しく言った。「かれらが役人《パール》どもを道連れにすればするほど、ぼくは嬉しいよ。そしてかれらだってそうさ。あんたが言ったように、主義のために死ぬ方が良いからね」
「それは消極的な態度だな、ドローヴ。主義というのはこの際もう問題ではないんだ」
「それで、スクゥイントやシルバージャックはどうしたの? あの二人も殺したんだろ?」
かれはため息をついた。「きみが好むと好まざるとにかかわらず、きみはわたしたちの一員であり、勝者の一員だということをわかってもらいたいな。ああでもしなければ、スクゥイントとシルバージャックは、われわれの作戦の性質に気がついてこの計画を危うくした。だから抹殺されなければならなかったのだ。その時わたしはここにいたわけではないが、もしわたしがホーロックス・メスラーだったとしても、同じ手段をとらざるをえなかっただろう。われわれの目的があまりに早いうちに世間に知られてしまったら、作戦全体がだめになってしまう可能性もあったのでね――そしてこれは、アスタ沿岸の避難所《シェルター》網にも当てはまるのだ」
「それはつまり」ぼくは痛烈に言った。「アスタも同じような計画をたててるってことだね。夜間外出禁止のあいだに重要な品を交換してたんだろ。これは単に好奇心から聞くんだけど、その避難所《シェルター》に入ってるのはアスタの大衆なの、それとも政府?」
「ばかなことを言うもんじゃないよ、アリカ・ドローヴ」かれは疲れたように言った。「手を貸してくれるつもりがないのなら、わたしの前から消えてくれないか?」
何日かして、町の人たちがまた攻撃してきた。今度は人数も武器も前より多かった。交戦が一番激しいあいだ、ぼくは外に出ることを許されなかったが、それでもアスタ軍が――エルト中で激しく戦ってきたあげくに取り残された部隊だ――ストロングアームやその仲間たちと手を結んだことがわかる位には様子を見てとれた。これはもちろん、ゼルドン・スローンが恐れていたことだった。争いは数日間続いたが、そのうち砲撃はまばらになり、とうとう役人の守りは破られないまま終わってしまった。ぼくは、こちら側は多くの軍勢を失ったのだということに満足しようとしたが、とてもそんな風に思える性質ではないことがわかった――おまけに、議員たちと摂政は無傷のまま、地下の穴ぐらにじっとしているのだ。
「これで、どうしてわたしたちがこの場所を強固にしたかきみにもわかっただろう」後にスローンが言った。「アスタ軍とパラークシは、必然的に平和を意味することになる協定を結んだ。だがかれらは誰か攻撃する相手を見つけなければならなかった――われわれ以上に都合の良い的があるかね? そしてそのために連中は何を得た? われわれを殺せば、何が手に入る? そのことを考えてみたまえ。でも、わざわざ答えを言いに来る必要はないよ。わたしにはもうわかっているからね。それに、きみは多くの命を救っていたかもしれない、ということもわたしにはわかっている……」
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日がたつにつれて、パラークシの人々を見かけることはほとんどなくなった。霧が濃くなり、雨量が増して、間断のない冷たい豪雨となった。視界は五十ペースほどに狭まった。パラークシの人々にとって、これは囲いに突進するのに理想的な時であり、防御担当の者たちもこのことに気づいていた。何日間も監視が敷地の周辺にぴったり固まって立っていたが、攻撃はなかった。ある意味で、これは驚くべきことではなかった。この荒れた天候では、傷つくことを考えただけでもぞっとする――濡れた大地に血を流しながら横たわり、寒さが体に食いこんできて、死という慈悲深い調停があいだに入る前に長い狂気が訪れるということを考えただけでも……監視たちは厚手の毛皮を着、ひとりひとり、しょっちゅう新しいものと取り換えられる熱したれんがを持っていた。
ぼくは兵隊や監視の宿舎でほとんどの時間を過ごし、自分の部屋には寝るために戻るだけだった。パラークシに来てから、いや、それ以前から父がぼくについてきた嘘を知った今となっては、父と話すのがむずかしかった。ぼくが疑うたびに父があんなにすぐ怒り狂ったわけもわかった。ぼくがニュース報道の正確さや、戦争そのものに疑問を抱いた時、父はあわてたにちがいない。一体母親はどの程度まで知っていたのだろう。
この避難所《シェルター》網は最初に思っていたよりもずっと大きかった。立入禁止区域がたくさんあったが、すぐに大体の地取りの様子がのみこめた。罐詰工場施設は今や忘れ去られていた。その目的は達せられ、製品はしまい込まれたのだ。
地下は四|層《レベル》に分かれていた。地面に一番近い部分が監視と兵隊の宿舎だ。幾人かの看護婦とコックを除いて、実質的に男性だけの区域になっている。その下の層《レベル》は役人《パール》の一般団体だ――ぼくの両親も含めた、行政スタッフとその家族というわけだ。このなかにはアスタ人もたくさんおり、ぼくは、ウルフとリボンとスクゥイントとぼくとがスパイを追いかけていると思っていた時の愛国心の気持ちを苦々しく思い出した……。
この下には――そしてここから、立入禁止区域が始まるのだが――議員たちとその家族、二百人ほどが住んでいる。かれらを見かけることはめったになかったし、かれらは決して地上に出て来ようとしなかった――急速に悪化しつつある天候を考えれば、これはそう驚くべきことではなかった。恐らく、ゼルドン・スローンが、ぼくが話をした唯一の議員だったろう。だがしばらくすると、そのかれも行政区域ではほとんど見かけられなくなった。明らかに、防衛の責任の大半を父にゆだねたようだった。この下に、摂政とかれの側近が住んでいる層《レベル》があるのはわかっていた――だが、それ以上細かいことはつかめなかった。
こういった各層へ通じるドアは色分けされており、それぞれの層《レベル》は戸外に出られる通路を独自に持っていた。黄色いドアはみんなが使えるもの、青いドアは行政官とそれ以上の人間、緑は議員とそれ以上の人間、そして赤は――ぼくは、赤いドアは二つしか知らなかった――摂政とその側近だけが使えるドアだった。
観念的に考えてみると、時おりこの避難所《シェルター》は、ぼくがかつて知っていた外の世界の縮図に見えることがあった……。
さらにいくつかの疑問が解けた。監視や兵隊たちがぼくの主たる情報源だった。スクゥイントはぼくらが考えた通りに川を渡り、隠れ場所を求めて走っている時に動物と間違えられて監視に意味もなく撃たれたのだった。スローンはああ言ったが、スクゥイントが工場の性質に気づいたのかどうかは誰にもわからなかった。
だが、シルバージャックは気づいたのだった。シルバージャックは、イザベル号の積荷のなかにアスタの品物を見つけたのだ……。
そのうち、外の世界がまたぼくたちの関心のなかに入ってきた。ある日、監視の一人が叫び声を上げたので、兵隊たちが外に走り出た。ぼくも外に出る群れについて行ったが、初めはひしめく群衆のおかげで騒ぎの原因がつかめなかった。が、突然、囲いの向こうに人影が見えた。心のなかで、ブラウンアイズ! と叫びながらぼくは走って行ったが、彼女はいなかった。渦巻く霧のなかに十五人ほどの人間が立っている。ぼくらのなかにはもう忘れてしまった者もいる世界から来た幽霊が、無言のままぼくらを見つめて立っている。兵隊たちのあいだに父がいた。父が発砲命令を下すのをぼくは観念して待っていたが、父もまた、全体に漂う不可解な喜びの雰囲気に影響されたようだった。最初のショックが過ぎると、兵隊たちは新来者たちに呼びかけて、知人の消息を尋ねたり、意味もなく笑ったり叫んだり、背中をたたき合ったりした。その間、この見知らぬ人間たちは金網ごしに謎のような視線を向けていた。
それから無言の一団は背中の荷から幾巻もの帆布やロープや支柱をおろし始め、すぐにぞんざいなテントを組み立てた。さらに、丸太をうず高く積んだ手押車を引っぱった二人が到着した。大きなたき火が焚かれ、かれらはそのまわりに群がった。ゆらめく輝きに顔を染めているうちに、暖かさがかれらの目からむき出しの恐怖をぬぐい去り、かれらは考えたり、お互いに話したり、そして最後にはぼくらにも話しかけたりすることができるようになった。現在のみじめな環境のなかで発狂したり死んだりするかもしれない危険を冒してまで、パラークシの快適な石造りの家を捨ててくるなんて、これは一体どういう人たちなのだろうかとぼくは考えた。兵隊たちは金網ごしに自分たちの食べ物を放ってやった。父親が口を堅く閉じたまま眺めているのが見えた。
時がたつにつれてかれらの数は増え、キャンプは小さな村ほどの大きさになった。「キャンパー」たち(こういう呼び方ができていたのだが)に食料や薪を与えることを禁じる命令が兵隊たちに出された。
やがて、パラークシの顔見知りの人たちの大半がキャンパーに加わり、ある素晴らしい、悲しい日、ブラウンアイズが到着した。ぼくらは金網ごしにぎごちなく、痛さをこらえてキスをかわした。両親もすぐにやって来ると彼女は言った。ストロングアームや、リボンやウナ、それにその他大部分の人間がもう来ていた。同じ日に、ウルフと両親が到着した。かれらはキャンパーたちの一団には加わらずにゲート近くに立ち、叫んだり囲いをゆさぶったりした。
「何の用だ」父が尋ねるのが聞こえた。
「そりゃ、なかに入りたいんだよ。わたしを知っているだろ、アリカ・バート。わたしは政府のために働いているんだ。入れてくれるよう要求する」父親の変わらぬ表情を見て、ウルフの父の声は不安そうに高まった。
「遅すぎたんだ」父は言った。「誰もなかに入ることは許されん。あらゆる便宜ははかられているんだ」父はぎごちなく言った。
ウルフの母親が早口で話し始めた。「ねえ、バート、あたしたちには入る権利があるのよ。こういう時に面倒を見てもらえる、そのためにこそクレッグは政府のために働いているんですよ。役人《パール》の妻でいるっていうのは簡単なことではないわ、本当よ。お店では一般大衆の意地の悪さと立ち向かわなければいけないし……」
ぼくは、リボンがかれらのところに近づいてきていたのに気がついた。突然彼女は言った。「こんな人たちを入れたらだめよ、アリカ・バート。この人たちは気どり屋なんだから」それまでぼくは、本当はリボンのことに気がついていなかった。それほどブラウンアイズの到着に心を奪われていたのだ。今、彼女を見て、ぼくはショックを受けた。彼女は痩せてしまい、顔がとがり、老けて見えた。それに汚ない様子だった。
「ひどい話ね」ウルフの家族がおどし文句を叫びながら霧のなかに消え、リボンが父親のテントに戻った後でブラウンアイズが言った。「わかるでしょ、彼女、“下品”になったわ」心配そうにぼくを見つめながら、彼女はぼくのお袋のお気に入りの言葉をわざと使った。「本当のところ、こんな風に言いたくはないわ、ドローヴ――でも、彼女はその通りなんですもの。すっかり冷たくて意地悪になっちゃったわ。もう仲良くやっていけない」
ブラウンアイズの父親のガースが、次の朝、金網まで大またにやって来た。かれがキャンプを見るのはこれが初めてだった。後からやって来たのだ。かれはブラウンアイズの腕を、あまり優しいとは言えぬ様子でつかんだ。「その野郎から離れろ!」
「で、でも、ドローヴよ!」
「こいつは役人《パール》野郎だ。こんなやつとつき合っちゃいかん!」
ぼくはかれを見つめた、昔、ぼくらはいつでもうまくやっていたのに、何がかれに起こったのかぼくには理解できなかった。かれの顔はこわく、やつれていた。
「父さん、かれは向こう側にいるしかないのよ!」ブラウンアイズは叫んだ。「出してもらえないんですもの!」
「その通りだ。だが、やつが熱心に出ようとしてるとも思えんな。なかには四十年分かそれ以上の暖房と食料があるんだぞ。出たがるわけがないじゃないか?」大衆が本当の事態を知っているのを耳にしたのはこれが初めてだったが、どうしてかれらは気づいたのだろうかとぼくは思った。それが重要だというわけではない。これは長いあいだ隠しおおせるような種類の情報ではないからだ。
かれはブラウンアイズの腕を引っぱり、彼女は金網にしがみついて、叫んでいた。「放して、父さん! 前はこんなじゃなかったじゃないの。お願いだから母さんを連れてきてちょうだい。母さんが話してくれるわ。母さんならこんなまねは許さない……」
すぐにかれは苦々しい顔をして、腕をゆるめた。「母さんは死んだ」かれは冷たく言った。「昨夜、死んだんだ。母さんは……母さんは自殺したんだよ」
「まあ……」金網を通して、ブラウンアイズの指がぼくの指を求めた。彼女は目から涙を流しており、ぼくは、抱きしめてやりたい、慰めてやりたいと絶望的に思った。
「だから一緒においで。おれは、母さんの死の責任を役人《パール》に負わせるんだ。だからお前がこんな風にここにいるのを許すわけにはいかん。お前は自分の仲間を裏切っているんだぞ! かれらがお前のことをどう考えているか、おれは知らんぞ!」
ブラウンアイズは長いこと目を閉じて、両手で金網にしがみついていた。まつげの下から涙が流れ落ちるのが見えたが、彼女は突然体をこわばらせると金網から手を放し、父親の手を振りほどき、くるりと向きを変えて父親と向かい合った。
「ねえ、聞いて」震える声で彼女は言った。「そして、父さんが言う仲間っていうのを見てちょうだい。あそこで、ストロングアームがアスタの将軍と話をしてるわ。ついこのあいだまではすぐに殺し合ったでしょうね。議会にそう言われたから。向こうの方を見て。リボンが金網ごしに役人《パール》の兵隊といちゃついてる。すぐにかれらは彼女を撃たなくちゃならないかもしれないわ。議会にそう言われてね。このテントや小屋のなかでみんな仲良くしてるけど、それは今は誰も憎しみ合えと言わないからよ。あたしたちはすぐに死ぬことになっているけれどもね。そしてこのなかに父さん、父さんがいるのよ。それであたしにドローヴを憎めって言いつけて、可哀想な母さんを言い訳に使うんだわ。あたしたちから離れてちょうだい」
ガースは彼女を見つめ、そして肩をすくめると向きを変え、キャンパーたちのなかに去って行った。ブラウンアイズの言葉の半分も聞いていたかどうかぼくにはわからない。そしてもし聞いていたとしても、理解できなかっただろう。何よりもまずかれには、抵抗が大きすぎるということ、戦うには激しすぎるということがわかっただけなのだ。ブラウンアイズはかれの後を目で追っていたが、こうつぶやくのが聞こえた。「ごめんなさいね、父さん……」
その後数日間、ブラウンアイズはしょっちゅう避難所《シェルター》のなかでの生活の様子を尋ねたが、ブラウンアイズであるが故に、彼女の一番の関心は、ぼくがそこでたまらないほど魅力的な女の子を見つけて、彼女が、残されたわずかなぼくまでをも失ってしまうのではないかということだった。「行政官の家族のなかには何人か女の子がいるよ」ぼくは認めた。「でも、あまり話したことはないんだ。ぼくは、その、連中と一緒にされたくないんだよ、きっと。きみがここに来る前は、たいていは兵隊たちとカードをして時間をつぶしてたんだよ」
彼女は金網伝いに目を走らせて、リボンがいつものように囲いごしに兵隊たちとおしゃべりをしているのを見た。「わからないわ」彼女は言った。「本当に[#「本当に」に傍点]寒くなったらどうなるのかしら。そしてあたしたちは……あたしたちはみんな死ぬのね。そして兵隊たちは何も守るものがない。あの人たちはみんな四十年間も避難所《シェルター》のなかでただ座ってるの?」
この時、最後の言葉を聞きつけてストロングアームが近づいてきた。「もちろん、そんなことはないさ」かれは静かに言った。「あの建物の倉庫がどれほど大きいかは知らんが、六百人ほどの議員と役人とその家族がいることは知っている――それに少なくとも同じ位の兵隊がいるにちがいない。誰が連中の目的にかなうんだ。おれたちが死んじまって、ここからいなくなれば……」
ぼくはそのことを考えたくなかった。「どうしてみんなはここに来てるの、ストロングアーム?」ぼくは尋ねた。「どうしてパラークシに戻らないのさ? 家のなかの方がずっと暖かいだろうに」
かれはにっこりした。「みんながここに集まってきてキャンプを始めた時に、おれもそいつを心のなかでずっと尋ねてたんだよ。おれはやつらになぜ行くんだって聞いてみた。そうしたら何て言ったと思う? ここにいても仕様がないじゃないか、だとさ。だからしばらくして、おれもここに来た。そして今じゃ、答えがわかったんだよ。自分が死にかけてるのはわかっているが、どこかよそに命が見えた時、それに寄り添いたくなるのさ。ほんの少しでもその命がこすり取れて自分につかないかと思ってね」
そしてどしゃ降りは続いた。日が短くなり、雨が雪に変わった。ブラウンアイズとぼくは、二人で金網際に小屋を建てて、政府のヒーターで暖を取りながら何時間もそのなかに座り、見つめ合い、金網を通して指を触れ合った。ぼくらは思い出すことはほとんどないくせに、年とった人々のように思い出話をするのだった。二人のあいだには秘密はなかったし、現在の状況の不平等についての責め合いもなかった。機会さえあれば一緒にいられるのだと二人ともわかっていたし、将来、その機会が訪れないこともわかっていた。だからぼくらは昔の話をし、一度だけ愛を交した時の静かな、くわしい思い出話で自分たちを苦しめた。
外では、潮位が上がり、入江はまた満ち、浜に引き上げられていた船が無人のまま流れ出し、潮の流れにのって海へ漂って行った。たき火の火が弱まり、恐怖のために、深くなりつつある雪のなかをたき木を探して歩くことができなくなると、キャンパーたちのあいだに、時おり、否応なしに走っている姿が見うけられた。ぼくらの二つに分かれた小屋のなかでブラウンアイズと座っていると、寒さが心のなかに入りこんでそこに狂気を植えつけた時の悲鳴がよく聞こえてきた。そうして哀れな肉体は寒さを取り払おうと本能的に走り出すのだ。血液が循環してある程度の暖かさや正気を取り戻す前に、ほとんど間違いなく極度の疲労と衰弱が訪れる――そして、食料の当てがいぶちがひとつ減るのだ。
多分、最も悲しいことはリボンの崩壊だろう。物質的な持ち物、可愛い洋服――さらに悲劇的なことには可愛い顔までも――を全て失ってしまった今、彼女は最後の特質、残されたリボンの小さなかけらにしがみついた。彼女の性《セックス》だ。
日がたつと、彼女の父親はほとんど彼女の話をしなくなり、ぼくは一度だけ彼女と話をした。彼女はぼくに、敷地の反対側、囲いが川と向き合っている、ゲートの向こうまで来て欲しいと頼んだ。川辺で立ち止まり、金網ごしに彼女がコケティッシュな表情をしてみせた時、ぼくは心が重くなった。
「あたし、なかに入らなきゃいけないのよ、ドローヴ」彼女は言った。「手を貸してくれなきゃだめよ。あなたのお父さんはゲートの鍵を持ってるわよね」
「いいかい」ぼく彼女の視線を避けながら、もぐもぐ言った。「ばかなこと言わないでくれよ、リボン。たとえ鍵を手に入れることができたとしても、ゲートにはいつも監視がいるし、第一、そんなこと無理だよ」
「ああ、監視ね」彼女はうきうきと言った。「監視のことは心配しないで。いつでもやり過ごせるのよ。あたしのためなら何でもしてくれるわ――あそこには女はほとんどいないのよ。こういう状況で女が持っている力をわかってないようね、ドローヴ」
「頼むからそんな話し方はよしてくれよ、リボン」
「かれらの宿舎にあたしを隠すことができるって言ってるわ。あたしがいるなんて誰にもわからないわよ。結局のところ、あなたもあたしが一緒になかにいた方が良いんでしょ、ね、ドローヴ? 前にあたしが可愛いって言ったじゃないの。それにあたしだってあなたに良くしてあげられるのよ。気に入るはずよ、ね? いつだってあたしを愛したがっていたじゃないの、ドローヴ」彼女は恐ろしいほほ笑みを浮かべた。悪夢のようだった。
「リボン、そんなことを聞くのはがまんできないよ。きみを助けてあげることはできないんだ。ごめんよ」ぼくは行きかけた。吐いてしまいたかった。
彼女の声は耳ざわりで、かん高くなった。「あんたはいやらしいやつよ、残りの連中と同じように役人《パール》よ! これだけは言っとくわ、アリカ・ドローヴ。あたしだって生きたいし、あんたと同じように生きる権利があるのよ。そして生きのびるために身を落とさなければいけないのなら、どうあったってそうするわよ!」彼女は老婆のようなひび割れた声で笑った。「本当にあたしがあんたと寝たがってるなんて思ってやしないでしょうね? よしてよ。考えただけでぞっとする。あんたたち男っていうのはみんな同じ、汚ない獣ね。獣よ! それにあんたのそのうぬぼれ! 何だってあたしがあんたを欲しがってるなんてあんたが思ったのか、あたしにはわからないわ!」
過去のために、真実のために、ぼくはこれだけは言わなければならなかった。ぼくは彼女のところまで戻り、言った。「リボン、きみがぼくを欲しがってるなんて、ぼくは一度も言わないよ。長いこと、ぼくの方がきみを欲しかったんだ。いつだって、少しだけきみを愛してたからね。このままの状態でいたいんだ」
一瞬、彼女の目が優しくなり、昔のリボンがそこから顔をのぞかせた。だがすぐにアイス・デビルが戻ってきて、彼女の考えをねじ曲げた。「愛?」彼女は金切り声を上げた。「あんたには愛って何だかわかってないし、あのちびの気どり屋のブラウンアイズだってそうよ。愛なんてないのよ――あたしたちは自分をだましてただけ。本当のものはこれだけよ!」彼女は大きく腕をふると、工場を、囲いを、吹き積もる雪を指さした。
解決の道はひとつしかなかったので、ぼくはそれを取った。ぼくは囲いで金切り声を上げている彼女を残して、静かに歩き去った。彼女の言葉がぼくの存在自体に襲いかかったので、囲いのわきの小さな掘っ建て小屋にまた入りこんだ時に、ぼくのブラウンアイズが向こう側にいて、ぼくを愛してくれ、愛はまだ存在していると示してくれ、愛はいつだって存在するのだと保証してくれているのを見て、ぼくはびっくりしてしまうほどだった。
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20
時が過ぎた。雪は小降りになり、やがてやんだ。空が晴れ、夜にはまた星が現われた。厳しく、冷たく輝いている。太陽フューは小さい。これまで見てきたのよりもずっと小さく、昼と夜とを区別するだけの光はまだ与えてくれていたが、正午でさえも凍てつくような空気を暖めることはできなかった。この星がラックスの手にしっかりと握られた時、昼はどの程度の明るさなのだろうかとぼくは考えた――そういう日を見ることができるというわけではない。避難所《シェルター》の入口ははるか地下で、暖かさを封じこめておくために長いこと封鎖されているだろう。スローンに尋ねても良かったのだが、かれとはずっと会っていなかった。そして父親の天文学の知識は乏しかった。
雪がやみ、空気が澄んだために、またイエロー山脈までも見渡せるようになった――もっとも山脈は今や真白く、四十年間はそのままだろう。近くでは、フィンガー・ポイントのオボの木々の、空の薄い青を背景にしたピラミッドのような姿が見える。そのあいだにアネモネの木が動きもせずに立っている。荒涼とした風景だ。生命のしるしは、深い穴がある急斜面の雪に黒い姿を見せて動いている、数匹のロリンだけだった――それと、囲いの外側でキャンプしている人類の哀れな残党だ。
ある日、ぼくの粗末な小屋の帆布の入口が開かれ、父が体を二つに折って入ってきた。ぼくのわきに腰をおろすと、囲いの向こう側にいるブラウンアイズに目をやった。ぼくらのあいだでは、ヒーターが気持ち良くつぶやいている。「何の用?」ぼくはつっけんどんに尋ねた。この小屋はプライベートな場所、ブラウンアイズとぼくの二人だけのものだ。父の存在は神聖冒涜だ。
「ヒーターを持って行かなければならんのだ」父は手短に言った。
「凍っちまえ、父さん!」
「すまん、ドローヴ。わしはお前のためにできるだけのことはしたんだ。監視に引き取りに来させる代わりに自分で来た位なんだぞ。だが、避難所《シェルター》内で噂がたってな。下で必要な時に、このヒーターは燃料を不経済に使ってると言うんだ。お前が外でこいつを使うのを許されてるのはえこひいきだと言う者もいてな。すまんがそいつを持って行かなくちゃならん。たき火をするんだな」
「小屋のなかでどうやってたき火をするんだよ、ばからしい」
「こんな話をしていてもどうにもならんぞ、ドローヴ」父はヒーターをつかんだが、すぐにののしり声を上げて放し、やけどした指をなめた。「畜生!」父はどなり、怒り狂ってぼくを非難した。「お前がまともな口のきき方を頭に入れとくことができないのなら、監視にこの小屋をこわさせてやる!」父は飛び出して行ったが、そのすぐ後で監視がやって来た。
ブラウンアイズとぼくは金網際に大きなたき火を燃やして、それ以来屋外で会うことにしたが、前と同じというわけにはいかなかった。ぼくらはみんなの目にさらされていたし、さらに悪いことには、たき火が人々をひきつけた。かれらが火のまわりに群がるのは無理もないことだが、このためにもう自由に話ができなくなり、ブラウンアイズとぼくにとっては困ったことだった。ぼくらが話し合っている内容のいくつかを聞いて、みんな、ぼくらは気が狂っていると思っただろう。
そのあいだにも、キャンパーたちの状況は悪化していた。毎朝、前日よりもあたりの人数が減っている。毎晩、誰かがこごえて断続的な眠りからさめ、パニック状態になり、飛び上がって走り、また走る……急斜面の踏みつぶされた地域の向こうの深い雪には、この恐ろしい寒さのなかで命を維持していく努力が苛酷であることが判明した人々の足跡が点在していた。さらに悪いことに、この足跡の多くはみんなの目にさらされた、動かぬ山となって終わり、キャンパーたちに、遅かれ早かれ自分もああなるのだとしょっちゅう思い出させるのだった。
ストロングアームは意志の力で寒さを撃退してとどまっていたし、かれの妻、ウナも同様だった。ブラウンアイズの父親は、金網での理性を失った激情からほどなくして、あっけなく死んだ。かれが死ぬのを見るのは悲しかった。ブラウンアイズは数日間、悲しみに沈んでいた。リボンは、一日咳をし、胸の痛みを訴えた後、ベッドのなかで死んだ。ブラウンアイズは彼女のためにも泣いたが、ぼくはほとんど苦しみを感じることができなかった。ぼくは何日も前にリボンを失っていたのだ、金網が川とぶつかっている所で……。
毎朝、快適なベッドで一晩暖かく眠った後で敷地内に出て行き、金網の向こうの悲しい姿を見ると、ぼくは後めたい気分になった。しょっちゅうぼくは、かれらのために食べ物をこっそり持ち出したし、時には蒸留液の小びんも持ち出した――これは飲むためにだ。蒸留液は燃料として使うにはあまりに貴重すぎた。にもかかわらず、何をしようと、ぼくは自分が誤っているとぼんやりと感じていたし、ぼくの暖かい手から贈り物を受けとる時のかれらの非難の目つきがこの感じを強めた。かれらは、ぼくが持って来る物のためにぼくを必要としていたが、ぼくという人間を憎んでいた。
ストロングアームとブラウンアイズは違った。ストロングアームはキャンパーたちのリーダーであり、かれの大きな姿はどこにでも見られた。薪を探して掘り、テントや小屋を建て直し、走っている人間を追いかけては肩にかついで連れて帰り、かれらの目がはっきりしてまた生き返るまでひっぱたき、こごえた頭に理性をどなってたたきこむ。
そしてブラウンアイズは……彼女は決して負けなかった。たとえアイス・デビルが足までやって来たとしても、彼女は走り出したりしなかっただろう。彼女は相変わらず落ち着いており、美しく、少し痩せはしたがさほどというわけでもなく、狂気のなかでの、毛皮にくるまれた小さな正気の包みだった。避難所《シェルター》を出て囲いに向かうといつでも彼女が働いているのが見えた。それから顔を上げてぼくを見つけ、歓迎の叫び声を小さく上げてこちらに走って来る。金網にさえぎられて足を止め、両手を広げて立ち、いつもしてくれるようにぼくに愛のほほ笑みを投げかけてくれる。
これがいつかは終わるのだ、ある朝、彼女がいなくなってしまうのは避けられないのだ、こう考えるとぼくは悪夢を見るのだった。そして毎朝、昨日よりも寒い日に向けてドアを開くと、胸のなかの恐怖は、彼女の小さな姿がぼくに会いに金網まで走って来るのを見た時にのみ和らげられる、肉体的な苦痛にまで達するのだった。
そしてとうとう、それは起こった。ある朝、彼女はいなくなってしまった。ストロングアームもいなくなってしまった。みんないなくなってしまった。ぼくは囲いまで走り、人のいなくなったテントや小屋、まだくすぶっているたき火、雪のなかの多くのトラックを狂ったように見つめた。だが、誰もいなかった。ぼくは書きつけがないかとあたりを見まわした。もしかしたら、みんな薪をさがしに行ったのかもしれないと考えたのだ――だが、一言もなかった。何もなかった。
みんな、二度と戻ってこなかった。
「もちろん、パラークシに戻ったのさ」父は言った。「そもそも、あそこを離れるべきじゃなかったんだ。まあ、注意深く配給制限をしていれば、あと一年か、いや二年位はもつだろう」
母親はほほ笑み、ぼくには二人が、二人の言い方を借りればぼくの不幸な「状態」が終わったことにほっとしているのがわかった。「この層《レベル》には本当に良い方たちがたくさんいるのよ、ドローヴ。あなたはみなさんにお会いする機会がこれまでなかったわね。もちろん、お父様は何もおっしゃらなかった――だけれど、あなたがしょっちゅう一般大衆のそばをうろうろしてるのは、あたしたちにとって、それは“厄介な”ことだったのよ。あなたが戻ってきて嬉しいわ」
二日後、ぼくは、ぼくらの部屋に女の子がいるのを見つけた。ぼくと同い年位で、お袋とコカ・ジュースを飲んでいた。すぐさま、ぼくはこの状況に疑いを抱いたが、母親が部屋を出て行った時にこの疑いは正しいことが証明された。「ちょっと出かけなくちゃいけないのよ、ドローヴ」お袋は朗らかに言った。「母さんがいないあいだ、イェルダのこと、お願いできるわね」
お袋は、退屈そうにコカ・ジュースをのぞいて笑っている嫌な女の子を腹を立てて見ているぼくを残して出て行った。女の子の顔はウルフを思い出させた。似ているのはそれだけではなかった。彼女にはバストが全然ない。さらにこれに追い打ちをかけるようなものだが、六歳の時の深く傷ついた恋愛沙汰以来、ぼくは、イェルダという名前が大嫌いなのだ。
彼女は歯を見せた。「お母様って本当に良い方ね」
少なくとも、彼女は議論の余地のある話題に取り組むことを恐れてはいないわけだ。「お袋は気が狂ってるんじゃないかと思うんだ」ぼくは言った。
「お母様とあたしって、いろんなところが似てるのよ」イェルダは続けた――ぼくを無視している――いや、あるいはまたそうではないのかもしれない。「あたしたち二人とも、お料理とか服を縫ったりとか、そういうことが大好きなの。お母様があたしよりそんなに年が上だなんて気がつかなかったわ。とっても動作が若々しいんですもの。本当よ」
「幼稚なくらいにね」
「コカ・ジュースはいかが、ドローヴ?」
「そいつは大嫌いなんだ。コカ・ジュースを飲むのはバカと女だけさ」
「ねえ、あなたって失礼な人じゃないこと?」突然イェルダは攻勢に出た。ぼくはすでにもう負けていたので、がっくりした。気分が悪いし、疲れているしで、戦うどころではなかった。「ねえ、あたし、ここに来なくちゃいけないってわけじゃなかったのよ。そうしたかったら、今すぐ帰ることだってできるのよ、ドローヴ。あなた、あたしのこと好きじゃないんでしょ――あたし、人を見抜くのが早いのよ。あたしを見た時から嫌ってたでしょ。どうしてなの?」彼女は辛辣な敵意をむき出しに、ぼくをにらみつけた。
「イェルダ」ぼくは苦心しながら言った。「ごめんよ。きみをいじめようとしてたのは、気分が滅入ってたからなんだよ。それにたまたまなんだけど、ぼくはお袋が嫌いだし、コカ・ジュースが嫌いなんだ。だからきみは、まずい話題を選んじゃったんだよ。もう一度やり直そうよ、ね?」
彼女はすでに立ち上がり、帰りかけていたが、こう聞いてためらった。「そうね……そうね、良いわ。わかったわ、優しくするって約束してくれればね。あたし、ここに来ることだってどうしようかと思ってたのよ。だって、みんな、あなたとどこかの女の子の噂をしてるんですもの。だけど……あなた、サークレットをするの? サークレット盤がお部屋のすみにあるのを見つけたものだから。あたし、サークレット、うまいのよ。いつでも兄さんを負かしちゃうの」
ぼくは、過去に踏み込んだようだった。胸のないぼくの遊び友達はまた楽しそうにほほ笑みながら、得点計算用の数取りを準備しているが、すぐに鼻をほじくり出すか、トイレに行くことになるだろう。
そこでぼくらはサークレットをしたが、ぼくには自分が楽しんでいるのか、いないのか、わからなかった。だが、ブラウンアイズのことを考えなかったあいだが少しだけあり、少なくとも時間はつぶれた。つぶさなければならない時間はこれからたっぷりあるのだ。ぼくらは、この層《レベル》にいる子供たちのことを話したが、イェルダはかれらをみんな知っているようだった。好きな子はたくさんいるが、残りの子は憎らしいばかりで、しょっちゅう彼女の髪を引っぱるのだと言った。「でも、あなたは好きよ、ドローヴ」彼女は言った。「男の子ってふつうは乱暴だし、嫌な匂いがするけれど、あなたはすてきだわ。またお邪魔して、一緒に遊んでも良いかしら……」
母親が帰ってきた時、ぼくはまだ疑うように宙を見つめていた。「イェルダはどこ?」お袋はすぐさま尋ねた。「彼女に失礼なことはしなかったわよね、ドローヴ」
「トイレにいるよ」
「まあ、良かった。とてもすてきなお嬢さんのようね、そう思わない? 健康そうだし、わがままでもないし。お父様や母さんが、あなたにつき合ってもらいたいと思うような子よ」
「ねえ、母さん、本当に本気なの? つまり、今話してること、本当に考えてるの? ぼくが誰だかわかってないんじゃないの?」
お袋は寛大な微笑を浮かべた。「もちろんよ。それに、あなたが戻ってきてくれて本当に良かった。お父様もあたしも、そりゃさびしかったのよ――だけど、ここ二百日程、とても忙しかったものだからね。考えてもみて――アリカを出てから、まだ二百日しかたっていないのね。時がたつのって早いわ……ペットのドライヴェットがいなくてさびしいでしょう」
そしてお袋のこの言葉でぼくは、ドライヴェットをアリカの家からこっそり持ち出して、その後ずっと自動車《モーター・カート》の座席の下に置いたままなのを思い出し、自責の念に駆られた。旅行の二日目までに、みんな死んでしまっただろう。匂わなかったのが不思議なくらいだ。
お袋の気に入るように遊ぶことは、髪が白くなり、歯が抜け落ち、ぼくはショートパンツをはくには大きくなり過ぎたかもしれないとお袋が考え始めるまで道化師のようにお袋の前ではしゃぎ、お袋のためにある種の永遠の子供時代を取り戻すことは可能なのだろうかと、ぼくは思った。
その夜遅く、摂政がご出席になった(こう父は畏れはばかった調子で言ったのだが)多層《マルチ・レベル》会議の後、父がいくらか興奮して部屋に帰ってきた。ぼくらはみんな、名前を変えることになるらしかった。
「生まれた場所はもう何の意味もない」父は言った。「そして、新しい出発をするべき時が来たと議員たちは考えているんだ。この点でわしらはみんな一緒だと、かれらは言っている――従って、どこの出身かということはもう重要でもなんでもないんだよ」
「その通りよ、バート」お袋が言った。「そりゃ、あたしはいつも、あたしたちはどこか、その……“すぐれている”って感じてたわ。首都の出身だからってことでね」
「わしらだけがアリカ出身じゃないんだよ、ファヤット」父は上機嫌でくすくす笑った。「それにアリカ自体がもうただの名前に過ぎん。誰もいなくなった廃墟の意味のない寄せ集めなんだよ」
ぼくは、父の機嫌をそこねるには疲れすぎている気分だったので、慎重に口を開いた。「それじゃ、ぼくらはこれから何て名になるの、父さん?」
「新しい敬称は、わしらが住んでいる層《レベル》に基づくことになるんだ。そうすれば、名前を名のった時に、その人間の身もとが完全にわかるからな。この方がずっと良い。ずっとていねいだよ。古いシステムだと、地位について誤解が起きやすかったからな。従って、摂政に続いて、その側近は“ナンバー2”という敬称をつけるんだ。議員は“ナンバー3”――わしらの友、スローンは、ゼルドン・スローンではなくて、ナンバー3・スローンとなるわけだな。そして、こいつを覚えておいてもらいたいもんだな、ドローヴ。それとも、教えてやろうか?」そして父はあけっぴろげに笑った。――「ナンバー4・ドローヴ」
その夜、ベッドに横たわりながら、ぼくは自分が何度も何度もその名前を心のなかでくり返しているのに気がついた。最後にはそれは、眠りをさまたげるあの強迫観念のひとつとなってしまった。ナンバー4・ドローヴ、ナンバー4・ドローヴ、ナンバー4・ドローヴ……。
ぼくは軽い頭痛と、倦怠感をおぼえながら目覚めた。そして気がつくと、兵隊や監視のことを考えており、かれらはナンバー5になるのだろうかと考えていた。父親は、昨夜、かれらのことは何も言わなかった。外を見てみようかと思って、ぼくは暖かい服装をした。最後に冷気のなかに出てからかなりたっている。新鮮な空気で気分が良くなるだろう。妙な夢とちらちらするイメージの一晩だった。部屋は寒く、ズーおばがのしかかるように立っていると思ってぼくは何度も目が覚めてしまった。
ぼくは階段を登り、黄色のドアの前で立ち止まった。ハンドルにさわってみたが、鍵がかかっている。耳を澄ましてみたけれど、兵隊の宿舎からのいつものかすかな話し声が聞こえない。不安な気持ちに気がついて、階段を急いでまた降りると、廊下をやってくる父に出会った。「ドローヴ!」ぼくを見つけて呼んだ。「ドアをいじったか?」
「ぼくじゃないよ。起きたばっかりだもの」
「おかしなことだな……おかしなことだ……」父はひとり言のようにつぶやいた。「スローンが今日、会いに来てくれと言ったのは絶対確かなんだが、ドアに鍵がかかっている。緑のドア全部に鍵がかかっているんだ。議員たちのところに行くことができん。困ったな。重要な問題を話し合わなくちゃならんのに」父は突然、身震いした。「寒くないか。暖房をチェックしなくちゃな」
「兵隊たちのドアも鍵がかかってるよ」ぼくは言った。
父は当惑した顔をした。「本当か? そうなのか? そうか、会議の時に何かそんな話が出たっけな。燃料節約のために、あまり各|層《レベル》のあいだを行ったり来たりしない方が良いだろうと……恐らく、誰かが会議での決定を誤解したんだろう。話し合ったのは黄色いドアのことだけだったんだがな。そうだ、そうにちがいない」つぶやきながら、父は急いで去って行った。
ぼくは階段を登った。毛皮に身をくるんでいるのに、父親の困惑した顔にズーおばの姿を認めて、ぼくは震えた。アリカでのあの恐ろしい一夜の記憶が、今やはっきりと心のなかに甦った――そしてそれと共に、何か別のものも。ひとつの疑問だ。何か、恐怖の意味に関係あること、伝説の意味に関係あることだ。
後手にドアを閉め、囲いの雪を見つめて立った時、風は強かった。ゲートが開き、風に吹かれて音を立てているのにぼくは気がついた。今はもう、閉め出すべき人間がいないのだ。ぼくは、グレート・ロックスのことを考えた。
伝説はどの位、真実に近いものだろう? グレート・ロックス・フューが、アイス・デビル・ラックスの触手から世界を引きはなしたという考えを最初に作り上げたのは誰なんだろう? そして、いつの日か、このプロセスは逆転するかもしれないと示唆したのは?
確かにそれは、過去の試練を生き抜いた人間でしかありえない。自由になる科学技術が何ひとつないのに、その人間はどうやって生き抜いたのだろう? 科学技術を身に着けていたわけがない。もしそうならば、何かその痕跡が残っているはずだ――結局残っているのは、大凍結《グレート・フリーズ》が四十年間だけ続いたということだ。
気がつくと、寒さがその冷たい指先でぼくの心を突つくのでぼくは早足で歩いていた――そして初めてぼくは、どうして[#「どうして」に傍点]寒さがこわいのか疑問に思った。それは本能なのだとこれまで教えられてきた。痛みが負傷の危険を警告するように、恐怖が凍死の危険を警告してくれるというのだ。だが、どうして恐怖がなのだろう? 寒さだけでも十分な警告じゃないだろうか?
それが、この前の大凍結の恐怖を生き抜いた人間の心から受け継がれてきた、民族の記憶でないとしたら……
そしてその時、ぼくはとうとうかれらに勝ったことを悟り、目をくらませ、切りつけてくる寒さのなかに立ちながら大声で笑った。かれらは生き残れない。人工の穴のなかで生き残るには、無器用すぎるし、利己的すぎる。そしてたとえ何らかの奇跡で生き残れたとしても、再び太陽がかれらの顔を照らす時、かれらは年老いて、恐ろしく年老いて地表まではい上がり、安堵の涙を流すのだ。そしてかれらの子供たちまでもその幼年時代を失い、船を走らせたこともなければ、雲を見たこともない、グルームに乗って走ることもないのだ。かれらは敗者なのだ。
寒さが体に食いこんできた時、ぼくは、足をつかまえられた可愛い少女の幻を見た。彼女はすぐに眠りに落ち、やがて、眠っていたことを全く覚えていないまま、時の経過を全く覚えていないまま無事に目覚める。
そして最近の、からの小屋、からのテント……。
そしてずっと昔、小さな少年がすがすがしく、満ち足りた気分で、戸口の階段で目覚める。眠っているあいだは、息もしなければ、心臓も鼓動しなかった……。
年を取ることもなかった。
ぼくの思考力は弱まっていったが、恐怖はなかった。ぼんやりと、ブラウンアイズが見える。相変わらず若く、新しい太陽の下でぼくにほほ笑みかけ、相変わらず新しいぼくらの愛を示してキスしてくれる。もうすぐだ。この眠りには記憶がないのだから……。
やがて、ロリンがやって来た。
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訳者あとがき
本書『ハローサマー、グッドバイ』は、英国SF作家マイクル・コニイの一九七五年の作品である。
作家マイクル・コニイ及びそのSFシーン上の位置については、本文庫既刊『ブロントメク!』の解説で、山田和子氏が詳しく論じておられるので、ここでは本書について感じたことを一、二述べるだけにする。
作者自身が述べているように、本書は「恋愛小説であり、戦争小説てあり、SF小説であり、さらにそれ以外のもの」である。これにさらに「青春小説」というジャンルを加えても良いだろう。事実、(あえて誤解を恐れずに言えば)本書を翻訳中、「SF物」を訳しているという意識を訳者はほとんど持たなかった。訳者の関心はもっぱら、若きヒーローの心の成長に向けられていた。
「青春小説」――この言葉に対する訳者のイメージには、例えば、J・D・サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』があるのだが――の主要テーマのひとつは、主人公の精神的成長・脱皮であろうが、本書でも作者は主人公ドローヴにこう言わせている――「この夏が終われば、ぼくらは誰一人として前と同じじゃないよ……」
ただ、「青春小説」という言葉を使ったために、この作品が妙に甘ったるい、感傷的なものと思われると困るので、一言つけ加えさせていただくと、思春期の少年と少女のひと夏の恋愛と成長(こう書くと、またまた通俗的なイメージを読者に与えそうだが)を描くコニイの筆は淡々としたものである。
エイリアンの戦争、惑星の軌道が引き起こす特異な自然現象「グルーム」、密輸業者、謎につつまれた罐詰工場、緊迫した状況下でのヒーローとヒロインの結びつき――ドラマチックな道具立てはいくらでもそろっているのだが、作者の語り口は地味に地味にと意識的におさえているのではないかと思えるほどあっさりとしており、過度の感情移入は全く感じられない、すがすがしい読後感が残る作品である。
訳者の一方的事情でかなり遅れた本書の出版に際してお世話になった、サンリオ出版部の佐藤守彦氏、広井隆一氏に、この場を借りて厚く御礼を申し上げる次第である。
[#地付き]一九八〇年夏
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底本:「ハローサマー、グッドバイ」サンリオSF文庫、サンリオ
1980(昭和55)年9月5日発行
入力:iW
校正:iW
2007年9月29日作成