恐るべき子供たち
ジャン・コクトー/佐藤朔訳
目 次
第一部
第二部
解説
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第一部
モンティエ広場は、アムステルダム街とクリシー街にはさまれている。クリシー街からは、格子門を通って、アムステルダム街からは、いつも開いている大門と、建物のアーチを突き抜けてそこに入れる。
建物の中庭が広場というわけで、その細長い中庭には、独立した小さなアトリエがあって、それが家々の高い平壁《ひらかべ》の下に隠れている。小さなアトリエには、写真屋のような暗幕付きのガラス屋根があるが、それは画家たちの住居にちがいない。そこはおそらく武器や金襴や籠に入った猫とか、ボリヴィアの閣僚の家族とかを描いた画布《カンバス》で一杯だろう。そしてアトリエの主人には、無名、有名がいて、註文が多すぎるとか、政府の褒賞《ほうしょう》がうるさいとかこぼしながら、この田舎ふうの広場の静かなおかげで、世間の荒波からまもられて暮らしている。
しかし、日に二回、午前十時半と午後四時に騒ぎがはじまってその静けさを破る。コンドルセ高等中学の低学年校が、アムステルダム街七十二番地Bに面している門を開くからである。すると生徒たちは、広場を彼らの総司令部にしてしまう。それは彼らのグレーヴ広場〔現在のパリ市庁広場。昔はストライキの集合場で、また罪人の処刑場だった〕でもある。一種の中世風の広場で、恋や競技や奇蹟劇が行なわれ、切手やビー玉の取引所になり、裁判官が罪人を裁き、刑を執行する首斬り場であり、またここで新入生をいじめる計画がゆっくり練られ、そのあとで教室で実行に移し、その用意周到なことに教師たちもびっくりするほどだ。この点、中学二年の子供たちには恐るべきものがある。来年、三年になれば、コーマルタン街のほうに移り、アムステルダム街を軽蔑し、こんどは兄貴|面《づら》をして、カバン(折りカバンも)をやめて、四冊の本を革バンドと四角の布に包むようになるにちがいない。
しかし、二年生では、自己に目ざめる力が、まだ少年期の暗い本能におさえられている。動物的な本能や植物的な本能がはたらくところをつかまえるのはむずかしい。ある種の苦痛の思い出と同じようにそれは記憶に残らないし、大人が近寄ると子供は黙ってしまうからだ。彼らは黙り込んで、生きている世界が違うような態度をとる。この名優たちは獣のように、やにわに毛を逆立てることもできるし、植物のようにつつましくおとなしく武装することもできる。そして自分たちの宗教の秘密の儀式について口走ったりなどはけっしてしない。子供たちの宗教が、いろいろな術策や、犠牲や、略式裁判や、恐怖や、刑罰や、人身御供《ひとみごくう》を必要とすることも、大人にはほとんどわかっていない。細かい点は皆目わからず、信者たちは仲間だけの隠語を使うので、偶然立聞きされても、意味はまるでわからない。取引はすべて瑪瑙《めのう》のビー玉と切手でなされる。贈りものは親分株とボスたちの懐を肥やし、秘密の集会をやっても叫び声で消されてしまう。だから、豪奢《ごうしゃ》な品物に囲まれている画家の誰かが、写真屋の暗幕の天蓋を操る紐を引っぱっても、子供たちは画家の気に入るような画題、つまり「雪合戦中の煙突掃除人」とか、「目かくし遊び」とか、「かわいい小僧たち」とかいう題にふさわしいものを、何も提供してくれないだろう。
その夕は、雪だった。雪は前の晩から降っていたので、景色は当然一変していた。広場は昔に帰ったようだった。雪は、暖かい土地からは姿を消して、ほかの場所のどこにも降らず、ここばかりに降り積っているかのように思えた。
学校へ出かけた生徒たちが、こねたり、砕いたり、詰めたり、滑って掘り返したりしたので、地面はもう固くなり、泥んこになっていた。汚れた雪が、溝《みぞ》に沿って、わだちを作っていた。結局雪は、アトリエの階段や、庇《ひさし》や、玄関の上に積っていた。窓のすき間ふさぎや、軒蛇腹《のきじゃばら》には、軽い雪がずっしり積っていたが、線を重苦しく見せるどころか、周囲に一種の情緒を与え、予感を漂わせていた。そして、夜光時計のように柔かに、自分で光る雪のおかげで、石の壁を貫いて豪華な中心部までありありとさせ、広場を小さく見せるビロードとなり、広場のなかに家具を備えつけ、魔法をかけて、幻想のサロンに変えてしまった。
下の方の眺めは、それほど快くはなかった。ガス燈がいわば無人の戦場をぼんやり照らしていた。生皮を剥がれた地面には、雨氷の裂け目の下からでこぼこの敷石が見えていた。下水口の前では、汚れた雪が傾斜していて、待ち伏せには持ってこいだった。ときどき、いまいましい北風がガス燈をほの暗くした。そして、暗い片隅には、もう戦死者をかくまっているみたいだった。
この視点からは、眺めが変って見えた。アトリエは、奇妙な劇場の棧敷ではなくなり、敵軍の通過を防ぐために、ことさら完全に消燈した住宅になっていた。
というのは、雪が降ったために、曲芸師、手品師、首斬り役人、商人たちに開放された広場の様子ががらりと変ったのだ。雪は広場に特別な意味を与える。つまり戦場専用ということだ。
四時十分から、戦闘開始となり、そのためにポーチを通り抜けるのは危険となった。このポーチの下には予備兵がひしめき、なお新手の戦闘員が、一人、二人と来るたびに人数がふくれあがった。
「ダルジュロスに会ったか?」
「うん……いや知らないね」
この返事をしたのは、仲間に助けられ、最初の怪我人を、広場からポーチの下まで連れてきた生徒だった。怪我人は、ハンカチで膝を巻き、仲間の肩につかまって、片足でぴょんぴょん跳んでいた。
聞き手は、蒼白い顔して、悲しそうな眼だった。それはまるで不具者の眼だった。びっこをひいていたし、短い外套は脚の中ほどまで下り、瘤《こぶ》なのか、何か出っぱったものか、異形なものを隠しているみたいだった。突然、彼は短外套の垂れをうしろにはねのけて、生徒たちのカバンが積み上げてある片隅に近づいて行った。すると、その歩きぶりや病人みたいな腰つきは、重い革カバンの持ち方でそんなふうに見えたのだとわかった。カバンを投げ出すと、不具者らしくなくなったけれど、その眼つきは変らなかった。
彼は雪合戦のほうに駆けて行った。
右側の、アーケードに突き当る歩道の上では、一人の捕虜が訊問されていた。ガス燈がその場景を不規則に照らしていた。捕虜《チビ》は四人の生徒につかまって、上半身を壁に押しつけられていた。大柄の生徒が、チビの脚のあいだにしゃがんで、相手の手を引っぱったり、怖いしかめ面をして嫌がるのにむりに見せつけたりしていた。形相が変化する恐しい顔がいつまでも無言なことが、犠牲者を震えあがらせた。彼は泣き出してしまい、眼を閉じて、顔を伏せようとした。そのたびごとに、しかめ面をした生徒は、汚れた雪を握って、相手の耳にこすりつけた。
蒼白い顔の生徒は、人だかりのぐるりを廻って、雪つぶての飛び交うなかを突切って行った。
彼はダルジュロスを探した。ダルジュロスが好きだったのだ。
この愛情は、愛情に関する知識以前のものだっただけに、心を痛めた。それは癒《いや》しようのない、漠然とした、烈《はげ》しい病いであり、性欲も目的もない純潔な欲望であった。
ダルジュロスは学校の雄鶏〔家禽類のなかで雄々しい覇者の風格がある〕だった。彼は戦いを挑んでくる者にも、味方について来る者にも、目をかけた。ところで、蒼白い生徒は、ダルジュロスの捲き毛と、傷だらけの膝と、何やら詰め込んだポケットのついている上衣の前に出ると、茫然としてしまうのだった。
雪合戦が彼に勇気を与えた。彼は駆けて行って、ダルジュロスと一緒になり、戦い、守り、自分がどんなに勇敢であるかを見せてやりたいと思っていた。
雪つぶてが飛び交い、外套の上で潰《つぶ》れ、壁に星形を残した。あちらにもこちらにも、闇と闇のあいまに、口をあけた赤い顔、目標を指さしている手などが、まざまざと見えた。
一つの手が、よろけながら、なおも呼びつづけている蒼白い生徒のほうを指さした。彼は石段の上に、その偶像であるダルジュロスの仲間の一人を見つけたところだ。その仲間が彼に宣告する。彼が口を開けて『ダルジュ……』と呼びかけたとき、雪つぶてがたちまち彼の口に当り、中に入り、歯を麻痺させた。笑い声が耳に入り、そして、その笑い声の方向の、参謀本部の真ン中に、ダルジュロスが突っ立っていて頬を燃やし、髪の毛をふり乱し、大げさな身振りをしているのに気づくだけの余裕があった。
もう一発、彼の胸の真ン中に命中する。暗い一撃。大理石の拳の一撃。彫像の拳の一撃。彼の頭は空っぽになる。ダルジュロスが、壇のようなものの上に立って、腕を垂らし、呆《ほう》けたようにして、超自然的な照明のなかにいるのがぼんやりと判った。
少年は地面に横たわっていた。口から溢れる血が流れて顎《くび》と首を濡らし、雪を染めた。口笛が鳴った。一瞬の内に、広場には誰もいなくなった。数人の野次馬だけが、少年の身体を囲んで重り合っていたが、一向に助けてやろうともせず、赤い泥をじっと見詰めているだけだった。ある者は、おどおどして、指を鳴らしながら、遠ざかって行った。彼らは唇をとがらし、眉をあげ、首を振っていた。他の者は、滑って、カバンの場所へ戻って行った。ダルジュロスの一味は、石段の上に、身動きもせずに立っていた。やっと、学校の生徒監と小使が、知らせを受けて姿を現わした。知らせたのは、倒れた少年が雪合戦に加わったときに、ジェラールと呼んでいた生徒だった。彼が生徒監と小使の先に立っていた。二人は病人を抱き起した。生徒監は暗闇のほうを振り向いた。
「君だな、ダルジュロス?」
「はい、先生」
「ついて来るんだ」
そして一団は歩き出した。
美の特権は測り知れない。美はそれを認めたがらない人々をさえ服従させる。
先生たちはダルジュロスが気に入っていた。生徒監は、この不可解な話にほとほと閉口の体であった。
その生徒は小使部屋に運びこまれたが、小使の細君は健気な女で、彼の身体を洗ってやり、正気に帰らせようとした。
ダルジュロスはドアの内側に立っていた。ドアの後方には、好奇心にあふれた顔が重り合っていた。ジェラールは、泣きながら友人の手を握っていた。
「話すんだ、ダルジュロス」と生徒監はいった。
「話すことなんかありません、先生。僕たちは雪合戦していたんです。雪の球がとても堅い奴だったんです。それを胸にまともに受けて、あいつは『あッ!』といって、こんなふうに倒れてしまったんです。僕は初め他の雪の球が当って鼻血を出したんだろうと思っていました」
「雪の球が胸に穴をあけることはあるまい」
「先生、先生」と、そのときジェラールという名前の生徒が答えた「こいつは雪のなかに石を入れてたんです」
「ほんとうか?」生徒監は訊いた。
ダルジュロスは肩をすくめた。
「返事をしないのか?」
「その必要がありませんよ。ほらこいつは眼を開けていますよ、直接聞いたらいい……」
病人は正気に戻っていた。頭は友人の袖口にもたせたままだった。
「気分はどうだね?」
「ごめんなさい……」
「あやまることはない。君は病人だ。気絶していたんだ」
「覚えています」
「どうして気絶したか話せるかね」
「雪の球を胸にぶつけられたんです」
「雪の球が当ったくらいで気絶するものか」
「他に何もぶつけられませんでした」
「その雪の球のなかに石が入っていたと、君の友達がいっているよ」
病人はダルジュロスが肩をすくめるのを見た。
「ジェラールはどうかしているんです」と彼はいった「君はおかしいよ。あの雪の球は雪の球だった。僕は駆けていた。きっとかっかしてたんだ」
生徒監はほっと息をついた。
ダルジュロスは出て行こうとした。そして思い直したようだったので、病人のほうに行くのだろうとみなは思った。小使がペン軸や、インクや砂糖菓子などを売っている売店の前まで来ると、ちょっとためらったあとで、ポケットから小銭を出してカウンターの縁において、中学生たちがよくしゃぶる靴の紐に似た甘草《かんぞう》の束を引き換えに取った。それから、彼は部屋を横切り、軍人式の敬礼で、こめかみに手を当て、それから姿を消した。
生徒監は病人を送って行こうと思った。前に呼びにやった車が来たとき、ジェラールはその必要はありません、とつよくいった。生徒監が付いて行くと家の者がとても心配するから、病人を家へ連れて行くのは、僕がする、ということだった。
「それに、ほら、ポールは元気をとり戻してますよ」
生徒監は、どうしても送って行くと主張もしなかった。雪が降っていた。生徒はモンマルトル街に住んでいた。
彼は二人が乗り込むのを見守った。若いジェラールが、自分の毛糸のマフラーと短外套で、友人の体を包むのを見たとき、これで自分の責任は回避できる、と考えた。
自動車は凍った地面の上をゆっくり走って行った。ジェラールは、哀れな顔が車の隅で、右に左に揺れているのを眺めていた。蒼白いために車の隅を明るくさせているような顔を、下から見ていた。閉じた眼ははっきり見えなかったが、鼻孔のかげと、血の小さな塊りが周りについている唇はよく見えた。彼はささやいた。『ポール……』ポールには聞えたけれど、どうしようもなく疲れ切っていて、答えられなかった。彼は重ねた短外套の外に手をすべらせて、ジェラールの手の上にのせた。
この種の危険にぶつかると、子供というものは両極端に動揺する。生命がしっかり根を下ろしている深さと、その力強い源泉のことを知らないので、子供はすぐに最悪の場合を想像する。だがこうした最悪の場合には、ほとんど現実味がない。子供には死を直視することがありえないからだ。
ジェラールは繰り返し思っていた。『ポールは死ぬ、ポールは死にかけている』しかし、そう堅く信じていたわけではなかった。ポールが死ぬと思うことは、夢の自然の続きであり、雪の上の旅のようなもので、それがいつまでも続くような気がした。というのは、ポールがダルジュロスを愛していたように、彼はポールを愛していたとしても、ジェラールから見ると、ポールの魅力はその弱々しさにあったからだ。ポールが、ダルジュロスのような男らしい炎のような眼にじっと眼を注ぐと、強くて正しいジェラールは、ポールを監視し、観察し、保護し、ポールがそのために燃えつきないように防いでやらなくてはならなかった。それにしては、ポーチの下で、ずいぶんばかなことをしたものだ! ポールはダルジュロスを探していた。ジェラールはわざと冷淡にポールの期待を裏切ろうとした。その気持がそのまま、彼を雪合戦に行かせ、自分はあとについて行けないことになったのだ。彼は遠くから、ポールが朱《あけ》に染って倒れるのを、遠巻きにしている野次馬と同じような恰好で眺めていたのだ。近づいて行ったら、ダルジュロスとその一味に妨げられて知らせに行けないと思って、急いで助けを求めに行ったのだった。
いまでは、ジェラールは、いつもの調子を回復して、ポールを見守っていた。それが彼の役目だった。ポールに付き添って行くことだ。こうした夢が彼を法悦の心地にまで高めてくれた。車の中の静けさ、街燈、彼の任務などが、一つの魅惑となった。親友の弱々しさが化石となり、現実的な大きさになったので、彼自身の力もようやく自分にふさわしい使い道を発見したように思えた。
ふいに彼はさっきダルジュロスを非難し、怨み言をいって、悪いことをした、と思った。彼は小使部屋の様子を思いだした、軽蔑したように肩をすくめたダルジュロス、ポールの青い眼、責めている眼、罪人をかばうために『君はおかしいよ!』といったときの必死の努力。彼はこの息のつまるような事実を退けた。彼にはいろいろな言い分があった。ダルジュロスの鉄の手が握ったら、雪の球も九枚刃のナイフより危険な塊りになる。ポールはそんなことは忘れてしまうだろう。とりわけ、どうしても、あの子供たちの現実、重大で、英雄的で、神秘的な現実に、戻らなければならなかった。その現実は、つまらない細部に養われていて、大人が介入すれば、その夢幻郷は乱暴に掻き乱されてしまうだろう。
車は大空を走り続けた。星どもとすれちがった。星の輝きは、さっと突風に吹きつけられて、曇りガラスのなかまで滲み込んだ。
突然、悲しげな二つのサイレンが聞こえた。その音は悲痛で、人間的で、非人間的になった。窓ガラスがふるえ、消防隊の疾風が通り過ぎた。霧氷のなかに描かれたジグザグの電光で、ジェラールには、連続して、吼え立てる機関の土台、赤い梯子、寓意画みたいに部署についた金色の兜《かぶと》の男たちの姿が見えた。
赤い光の反映がポールの顔の上で踊った。正気を取り戻しそうだな、とジェラールは思った。最後の疾風のあとで、彼はまた血の気がなくなった。そして、そのときジェラールは、自分が握っている手が熱かったことと、安心させてくれるこの熱さのために、ポールは夢幻のなかで遊ぶことができるなと気づいた。夢幻とはじつに不正確なことばだが、ポールは子供たちが落ち込む半意識をこのように呼んでいた。彼はその達人だった。彼は空間と時間とを支配した。いろいろな夢を装置しては、現実と結びつけるので、ダルジュロスまで感心して、その命令に従うような王国を、クラスのなかに作り、夢と現実のあわいに生きることを知った。
夢幻のなかに遊んでいるのかな、とジェラールは熱い手を握り、彼ののけぞった顔をじっと見つめながら、思いに耽った。
ポールがいなければ、この車は車にすぎず、雪は雪、燈火は燈火、この帰宅は帰宅にすぎなかっただろう。ジェラールは、自分だけで陶酔状態を作るにはあまりに気持がすさんでいた。ポールが彼を支配し、しまいには彼の影響ですべてが変形してしまうのだった。文法、算数、歴史、地理、自然科学などの勉強をしないで、目を覚ましていながら眠りに落ちることを学んだ。それは誰の手も届かないところに連れて行ってくれるし、事物にふたたび真の意味を与えてもくれる。インドの麻薬〔阿片のこと〕も、教室の机の陰でこれらの神経質な子供たちに対しては、こっそり噛む消しゴムやペン軸ほどの効果もありはしなかっただろう。
夢幻のなかに遊んでいるのだろうか?
ジェラールの錯覚ではない。ポールが遊んでいた夢幻は、まったく別のものだった。走りすぎる消防ポンプも、彼をそこから引き離すことはできなかっただろう。
彼はその細い筋道をたぐってみようとしたが、そのひまがなかった。家に着いてしまったのだ。自動車はドアの前に止った。
ポールは自失状態からわれに返った。
「誰かに手伝ってもらおうか?」ジェラールは訊いた。
その必要はなかった。ジェラールが支えてやれば、ポールは上って行けるだろう。ジェラールが先に手提げカバンを下ろしてやるだけでよかった。
手提げカバンを持って、左手を首のまわりに巻いてしがみつくポールを抱くようにして、ジェラールは階段を登った。彼は二階で止った。緑色のフラシ天の布地の破れた古い腰掛からは、詰物の毛とバネが飛び出していた。ジェラールは、そこに大切な荷物を下ろして、右手のドアに近づいて、呼鈴を鳴らした。足音が聞こえた。停止。静寂――『エリザベート!』やはりしんとしていた。
『エリザベート!』ジェラールは、低音ながら力強くいった。
「開けてよ! 僕たちだよ」
意志の強そうな、小さな声が聞こえた。
「開けてなんかあげないわ! あんたたちは、嫌いよ! 男の子なんか、もうまっぴらだわ。こんな時間に帰って来るなんて、どうかしてるんじゃない!」
「リスベート、開けて、早く開けてよ。ポールが病気なんだ」
ちょっと間があって、ドアが少し開いた。そのすきまからまた声がした。
「病気? 開けさせるための口実でしょ。そんな嘘ついて、ほんとなの?」
「ポールは病気なんだ、急いで。腰掛の上でふるえているよ」
ドアが大きく開いた。十六歳の少女が現れた。ポールに似ていた。黒い睫毛の影の濃い青い眼は同じだし、蒼白い頬も同じだった。二歳年上のせいでどことなく輪郭が整っていたが、短い捲き毛の下の姉らしい顔は、もう単なる素描ではなく、弟の顔に柔かみを少し加味したようで、混乱しながら急ぎ足で美に向っているといった恰好であった。
薄暗い玄関に、まずエリザベートの白い顔と、彼女には長すぎるエプロンのしみが浮き上って見えた。
でたらめな話だと思っていたことが、ほんとうだったので、彼女は叫ぶこともできなかった。彼女とジェラールは、よろめいて、うなだれているポールの体を支えた。玄関に入りながら、ジェラールは事柄を説明しようとした。
「ばかね」エリザベートは溜息をついた「ヘマばかりしてるのね。そんなにどならなくちゃ話ができないの? ママに聞かしたいっていうの?」
彼らはテーブルを廻って食堂を横切り、右手の子供部屋に入った。この部屋には、二つの小さなベッド、箪笥、暖炉、それに三つの椅子があった。二つのベッドのあいだには台所兼化粧室に通じるドアがあり、そこへは玄関からも入れた。部屋を初めて見た者は、びっくりする。ベッドがなかったら物置部屋だと思うだろう。箱、下着、タオルなどが床に散らかっていた。絨毯から織り糸がはみ出していた。暖炉の中央には、石膏像がおいてあり、それにはインキで眼やひげが書き加えてあった。あちこちに、映画スター、ボクサー、殺人犯などの写真ののった雑誌、新聞、プログラムの切り抜きが鋲でとめてあった。
エリザベートは、箱を勢いよく蹴とばして、通り道をつけた。彼女は罵《ののし》っていた。ようやくのことで、本で埋もれたベッドの上に病人を寝かせた。ジェラールは雪合戦の話をした。
「ひどいわ」エリザベートは叫んだ。「わたしが看病して、病気のママの世話をしているあいだ、男たちは雪合戦して遊んでいる。ママが病気だっていうのに!」この言葉で威厳がついたことに満足して彼女は叫んだ。――「わたしは病気のママを看病しているのに、あんたたちは雪合戦をしていた。またきっとあんたでしょう、ポールを連れてったのは、ばかね!」
ジェラールは黙っていた。彼はこの姉弟の熱狂的な調子や、中学生らしい言葉遣いや、けっしてゆるむことのない緊張を知っていた。それなのに彼はびくびくして、いつもしょんぼりしていた。
「誰がポールの看病をするの、あんた、それともわたし?」彼女はつづけた。「そんなふうにばかみたいに突っ立っていて、どうするつもりよ?」
「あのねえ、リスベート……」
「何よ、あのねえとか、リスベートとか、そんなぞんざいな口のきき方しないでよ、それに……」
はるか遠い声が、その叱言《こごと》を断ち切った。
「ジェラール、ねえ君、こんな娘っ子のいうことなんか、聞くなよ……うるさくてたまりやしない」ポールが唇のあいだでささやいた。
エリザベートは侮辱されて、跳び上った。
「娘っ子ですって! そんなら、坊やたちは勝手にしたらいいわ。あんたは自分で看病するわね。呆れたわ! 雪の球をぶつけられて、ノビてしまうなんて、間が抜けているわ。心配してやって、わたしどうかしてたわ!」
「ねえ、ジェラール」彼女は同じ調子でいった。「見てよ」
いきなり、エリザベートは右脚を頭より高くあげた。
「二週間も前から練習しているのよ」
彼女はまた練習をはじめた。
「さ、もう出て行ってよ! 帰って!」
ジェラールは戸口のところでもじもじしていた。
「たぶん……」彼はつぶやいた。「医者を呼ばなきゃあいけないよ」
エリザベートは脚を蹴りあげた。
「お医者ですって? わたしがあんたの忠告をお待ちしてたとでもいうの、あんたはとてもお利口さんね。お医者さんは七時にママの診察に来るのよ。そのときポールも診察してもらうわ。さ、帰ってよ」と彼女は話を結んだ。それでもジェラールがどうしたらいいか戸まどっていると、
「あんたはひょっとしたらお医者さまなの? 違うでしょう? さ、出て行って! 出て行かないの?」
彼女はじだんだ踏み、その眼は冷酷に光っていた。彼は退却をはじめた。
彼は後ずさりして出て行き、食堂が薄暗かったので、椅子を一つ引っくり返した。
「ばか! ばかね!」少女は繰返した。「直さないでよ! また別のを引っくり返すわ! さ、帰ってよ! ドアをバタンと閉めないでね」
踊り場で、ジェラールは車を待たせておいたことを思い出した。ポケットには一文もなかった。もう呼鈴を鳴らす気にはならなかった。エリザベートは開けようとしないだろう。それとも医者と思って開けてくれるかもしれない。そうすると、罵詈雑言《ばりぞうごん》を浴びせかけるだろう。
ジェラールは、ラフィット街の叔父に育てられ、その家に住んでいた。そこまで乗せてってもらって、事情を説明し、叔父に料金を払ってもらう決心をした。
さっき、友人のポールがもたれていた片隅に身を沈めて、彼は自動車に乗って行った。わざと頭をのけぞらして車の動揺にゆれるままにしておいた。もう夢幻のなかで遊ぼうとしなかった。彼は悩んでいた。非現実的な状況のあとで、ポールとエリザベートのがっかりさせるような雰囲気にぶつかってきたところだった。エリザベートは彼の夢を醒ましてしまい、弟の弱点に残酷な移り気がまじっていることを思い出させた。ダルジュロスに征服されたポール、ダルジュロスの犠牲になったポール、それはジェラールが奴隷として仕えていたポールではなかった。ジェラールは、さっき車のなかで死んだ女を狂人がもてあそぶように振舞ったが、そのこと自体を同じような残忍さで思い浮かべたわけでもなかった。あの数分間の快感は、雪と気絶が重ったおかげであり、いわば思い違いのおかげだということがわかった。あの帰りの車のなかで、ポールが立役者のように見えたのは、消防自動車が走り抜けたときの反映で、血色が戻ったように見えたからだ。
たしかに、彼はエリザベートをよく知っていた。姉は弟に対して崇拝の気持をもち、その姉からジェラールは友情しか期待できないこともよく心得ていた。エリザベートもポールも、ジェラールがとても好きだった。ジェラールは、彼らの愛情の嵐を、彼らの視線が交わす火花を、彼らの気紛れの衝突を、彼らの毒舌を知っていた。彼は落ちついて、頭をのけぞらせて、揺れるにまかせ、首は冷たい風にあて、事態を普通に考え直してみた。しかし、こうした賢さが、エリザベートの言葉の背後に、燃えるような、優しい心があることを教えてくれたものの、思いの行きつくところは、ポールの気絶のことであり、気絶の真相であり、大人にとって気絶とは何か、またそれが困った結果になるのではないかという心配だった。
ラフィット街で、彼は運転手にちょっと待つように頼んだ。運転手は文句をいった。ジェラールは大急ぎで上って、叔父を見つけて、お人好しの叔父をいいくるめてしまった。
下では、道路には誰もいず、見渡す限り雪が積っているだけだった。運転手は、仕方がなしに、きっとメーターに出ている分も払うという奇特な客を乗せて行ってしまったのだろう。ジェラールは、タクシー代をポケットに入れた――黙っていよう、と彼は考えた。これでエリザベートに何か買ってやろう。そうすれば様子を聞きに行く口実にもなる。
モンマルトル街では、ジェラールが逃げ出したあとで、エリザベートは母の部屋に入った。この部屋は、アパートメントの左側になり、貧相な客間がついていた。病人はうとうとしていた。四カ月前に、元気一杯のときに発作に襲われ、麻痺に冒され、三十五歳だというのに、老婆のように見え、死んでしまいたいといっていた。夫は彼女をうっとりさせ、お世辞をいって、財産を捲きあげてから捨ててしまった。三時間ぐらいは、妻子のいる家庭に時たまちょっと顔を出した。いつもいざこざがあった。肝硬変で舞い戻って来た。看病しろと怒鳴ったりした。自殺すると脅し、ピストルを振り廻した。発作がおさまると、情婦のところに戻り、病気が始りそうになると、そこを追い出された。あるとき戻って来ると、あたり散らして足を踏み鳴らし、床に就いたが、二度と起きられなくなって、彼のほうで同居を拒んだ妻の家で死んでしまった。
反抗心から、この死にかけた女は、子供たちを捨てて顧みず、厚化粧をし、毎週女中を取り換え、舞踏会に行き、誰からであろうとかまわず金をとってくるのだった。
エリザベートとポールは、母親からその蒼白い容貌を受けついでいた。父親からは、無秩序と、優雅と、とんでもない気紛れをもらっていた。
どうして生きつづけるのか、と彼女は考えた。医者は、この家庭の古くからの友人で、子供たちの行末を見てくれるだろう。この頼りにならない女は、娘を苦しめ、一家の重荷にもなっていた。
「眠っているの、ママ?」
「いいえ、うとうとしているのよ」
「ポールが足をくじいたの。寝かしといたわ。お医者さんに診てもらうつもりよ」
「痛がっているのかい?」
「歩くと痛いんですって。ママによろしくって。いま新聞の切抜きをしているわ」
病人は溜息をついた。ずっと前から、彼女は娘を頼りにしていた。悩みごとについては利己的だった。そこでポールの怪我のことは深入りしなかった。
「女中はどうしたの?」
「相変らずよ」
エリザベートは自分の部屋に戻った。ポールは壁のほうを向いて寝ていた。
「眠っているの?」
「ほっといてくれよ」
「ご挨拶ね。あんた、出掛けたのね。(姉弟のあいだの隠語で、|出掛けた《ヽヽヽヽ》とは夢幻によってもたらされた状態を意味していた。|出掛けるよ《ヽヽヽヽヽ》とか、|出掛けたわ《ヽヽヽヽヽ》という使い方をした。出掛けた幻視者を邪魔することは、許しがたい過ちと考えられていた)――あんたは出掛けたのに、わたしはへとへとだわ。ずるい人ね。ずるいわ。足を出しなさい。靴をぬがしてあげる。足が凍えているわ。待ってなさい。湯たんぽを入れてあげるから」
エリザベートは泥だらけの靴を石膏像の傍において、台所に姿を消した。ガスに火をつける音が聞こえた。それから、戻って来て、ポールの服をぬがしはじめた。ポールはぶつぶついっていたが、されるままでいた。彼の協力が必要になると、エリザベートはいった「頭を上げて」とか、「足をあげて」とか、また「あんたが死んだまねをしていると、この袖が引っぱれないわ」などと。
つぎつぎに、彼女はポールのポケットをからにして行った。インキのしみのついたハンカチーフ、雷管、ポケットの毛くずがくっついている|なつめ《ヽヽヽ》のひし形の菓子などを床の上に捨てた。それから箪笥の抽だしをあけて、残り物を、象牙の小さい手、瑪瑙のビー玉、万年筆のキャップなどを、そこにしまった。
それは宝物だった。説明不可能な宝物で、本来の用途からまるで逸れて、象徴的な意味があったので、俗人から見れば、がらくた――イギリス製の鍵、アスピリンのチューブ、アルミの指輪、ヘアピンなど――にしか見えないのであった。
湯たんぽは熱かった。エリザベートは、ぶつぶついいながら、毛布をめくり、長いシャツをひろげ、兎の皮を剥ぐように昼間用のシャツをぬがせた。ポールの肉体は、そのたびごとに、そのぎごちなさを捨てた。こうした優しさに出会うと、涙が湧いてくるのであった。エリザベートは、毛布で包《くる》み、体を巻き込んでやり、さよならという身振りをつけ加えて「お休み、おばかさん!」といって、看病を終えた。それから、眼を据えて、眉を寄せて、唇のあいだから舌をちょっと見せ、体操の稽古を少しやった。
呼鈴の音が急に鳴った。音はよく聞こえなかった。ベルに布が巻いてあったからだ。医者が来たのだった。エリザベートは、彼の毛皮つきの外套をつかんで、弟のベッドまで連れて行き、事情を説明した。
「委《まか》しておきなさい、リーズ。体温計をもって来たから、サロンで待っておいで。診察してみるが、わたしはそばで人が動いたり、見られたりするのが嫌いでね」
エリザベートは、食堂を突切って、客間に入った。ここでも雪が奇蹟を行なっていた。肱掛椅子のうしろに立って、雪のせいで宙吊りになったみたいな見馴れない部屋を眺めていた。正面の歩道の街燈のきらめきが、天井に、暗い、またほの暗い、いくつもの窓を映し出していた。光線のレースが唐草模様になり、その上に本物より小さい通行人の影が動いていた。
宙吊りの部屋という錯覚は、どこか生きているみたいで、軒蛇腹と床のあいだに動かない幻影を描き出した鏡が、一層その感を深くした。時たま、自動車が、幅広い光線で、黒々とすべてを一掃した。
エリザベートは、夢幻のなかで遊ぼうとした。それは不可能だった。心臓がどきどきしていた。ジェラールと同様彼女にとっても、雪合戦の結果は、彼らの固有の伝説とは異質のものになっていた。医者が、彼女を厳粛な世界に連れ戻した。そこには恐怖が存在し、人間が発熱し、死に取り憑《つ》かれる。一瞬、彼女は中風にかかった母、死にかけている弟、隣家の女が運んでくれるスープ、コールドビーフ、バナナ、時間かまわずに食べるビスケット、女中のいない、愛情もない家のことを思い浮かべた。
ポールとエリザベートは、ベッドの中で悪口を言い合ったり、本を取り換えっこしたりしながら、飴菓子をむしゃむしゃ食べることがよくあった。彼らは数冊の本しか読まず、いつも同じものを胸がむかつくほど詰め込むようにして読んだ。このむかつきは儀式の一部であり、ベッドを細かに調べることからはじまり、パン屑を払ったり、しわをのばしたりし、つづいて恐ろしい混乱状態があって、ようやく夢幻を描くのだが、それにはこのむかつきが最上の飛び立ちに役立った。
「リーズ!」
エリザベートは、もう悲しんでなどはいなかった。医者に呼ばれて、はっとわれに帰った。ドアを開けた。
「すんだよ」と彼がいった。「そんなにあわてることはない。大したことはないけど、軽くもない。あの子は胸が弱い。ちょっとはじかれただけで参ってしまう。学校へ行くのは、もう問題じゃない。安静、安静、なによりも安静だ。足をくじいたと話したのはよかった。お母さんを心配させたってしようがない。お前はよく気のつく子だから、あてにしているよ。女中を呼んでおくれ」
「女中はもういないわ」
「結構。明日から看護婦を二人よこそう。代り番に、家事を見てくれるだろう。日用品を買ってくれるだろうから、お前は二人を監督さえすればいい」
エリザベートは礼もいわなかった。つねづね奇蹟に生きている彼女は、奇蹟を平然と受けいれた。彼女は、奇蹟を待っていた。すると、いつも奇蹟が起こった。
医師はいつもの患者を診察して、帰って行った。
ポールは眠っていた。エリザベートはその寝息に耳を澄ましながら、顔をじっと見詰めた。激しい情熱が、彼女をしかめ面から愛情の眼《まな》ざしに変えた。眠っている病人をからかうものではない。よく調べることはできる。目蓋の下に紫色のあざがあり、上唇はふくれて、下唇の上にかぶさっている。耳を弟の若い胸に押しあてた。聞きとれるこの雑音は何だろう! エリザベートは左耳をふさいだ。自分の動悸とポールのとが一緒になる。彼女は心配になる。雑音がますます増すみたいだった。これ以上ひどくなったら、死を意味する。
「ねえ、ポール」
彼女は弟を起こす。
「ん、なにさ?」
彼は伸びをする。姉のすごい顔つきを見る。
「どうしたの? 気でも違ったのかい?」
「わたしが!」
「そうだよ、君がだ。うるさいったらありゃしない。他人を眠らしておいてくれないのか?」
「他人? わたしだって眠りたいくらいよ。でも、わたしは起きていて、あんたを食べさせたり、あんたの音を聞いたりしている」
「音って何さ?」
「心臓の音よ」
「ばか!」
「大変なニュースを教えてあげようと思ったのに。わたしはおばかさんだから、止めにするわ」
大変なニュースというのには、ポールの心が動いた。しかし、見えすいた罠にはかかりたくなかった。
「大変なニュースは、しまっておくんだね。そんなの、どうだっていいよ」
エリザベートは服をぬいだ。この姉弟のあいだには、何の遠慮もいらなかった。この部屋は甲羅のようなもので、姉弟は、同じ身体の二つの手足のように、そのなかで暮らし、体を洗ったり、服を着たりした。
エリザベートは、コールドビーフ、バナナ、牛乳などを病人の傍の椅子の上におき、クラッカーとジュースを、空いているベッドの近くに運んで、そこに寝た。
彼女はむしゃむしゃ食べながら、黙って本を読んでいた。そのとき、ポールは、好奇心に駆られて、医者が何といったか聞いた。診断の結果はどうでもよかった。大変なニュースが知りたかった。ところでこれはどうも診断に関連があるとしか考えられなかった。
エリザベートは、本から眼を離さず、また絶えずむしゃむしゃ口を動かしながら、弟の質問攻めになるのもいやだし、黙殺すればあとがうるさいし、さり気ない声でいった。
「もう学校に行ってはいけないといってたわ」
ポールは目を閉じた。恐ろしい不安が、ダルジュロスの姿を思い浮かばせた、どこかよそで暮らしつづけるダルジュロス、ダルジュロスが自分の未来のどこにもいないことを。不安が高まってきて、彼は叫んだ。
「リーズ!」
「え?」
「リーズ、気分が悪いんだ」
「どうしたの?」
彼女は、足がしびれて、びっこを引きながら立ち上がった。
「どうして欲しいの」
「僕は……君が僕のそばに、ベッドのそばにいて欲しいのだ」
涙が流れ出した。彼はとても小さな子供のように、下唇を突き出し、涙と洟《はな》で顔を汚して泣いた。
エリザベートは、自分のベッドを、台所のドアの前に引っぱった。そのベッドは椅子で隔てられただけで、弟のベッドにほとんどくっついた。彼女はまた寝て、不幸な弟の手を撫でてやった。
「それ、それ」彼女はいった「おばかさん。学校に行ってはいけないといわれて、泣いている。わたしたちは、これからこの部屋に閉じこもって暮らせるのよ。白衣の看護婦もきてくれるわ。お医者さんが請け合ってくれたの。わたしはボンボンを買いに行くか、貸本屋が来たときしか外に出ないことよ」
涙は、哀れな蒼白い顔の上に、濡れた跡を描いた。そして、その数滴は睫毛の先から、枕の上にぽたぽた落ちた。
この惨《みじ》めさに不意を打たれて、リーズは唇を噛んだ。
「そんなにこたえたの!」彼女は訊いた。
ポールは頭を左右に振った。
「勉強がそんなに好きなの?」
「ううん」
「それなら、何なの? 一体? ねえったら!(彼女は弟の腕をゆすった)夢幻のなかに遊びに行こうか? 鼻をかみなさい。こっちをよく見て。催眠術をかけてあげるわ」
彼女は近寄って来て、眼を大きく開けた。
ポールは泣いた。すすり泣いた。エリザベートは疲れを覚えた。彼女は夢幻のなかで遊びたかった。弟を慰め、催眠術をかけてやりたかった。彼女は弟を理解したかった。しかし、雪の上の自動車のヘッドライトのように、眠気が、ぐるぐる廻る幅広い暗い光線になって、彼女の努力をすべて一掃してしまった。
翌日からは、家事がうまく運ぶようになった。五時半に、白い上張りを着た看護婦が、ジェラールのためにドアを開けた。彼は箱入りの造花のパルム菫《すみれ》をもってきた。エリザベートは陶然とした。
「ポールを見てやってよ」彼女は率直にいった「わたしはママの注射を見ててあげなくちゃ」
ポールは起きて、顔を洗い、髪も撫でつけ、顔色もほとんどよくなっていた。彼はコンドルセ高等中学の様子を訊いた。ニュースは仰天すべきものだった。
その朝、ダルジュロスは校長に呼び出された。校長は生徒監の訊問をむし返そうとした。
ダルジュロスは、癇癪を起して、横柄な態度で、「わかった、わかったよ!」といったようなことを答えたので、校長は椅子から身を起こして、テーブルの上に拳を突き出して、ダルジュロスを脅した。すると、ダルジュロスは上着のポケットから胡椒の袋をとり出して、その中身を校長の顔の真ン中に叩きつけた。
その結果は、恐るべきもので、驚くほど即効があり、ダルジュロスは、呆気にとられ、どこかの水門が開いて、何かが荒れ狂う洪水のように流れ出すのを、反射的に防御するかのように、椅子の上に跳び上った。この高い地点から、彼は盲目の老人が、カラーを引きむしって、テーブルの上を転げ廻り、呻《うめ》きながら、狂乱のあらゆる症状を示している光景を眺めていた。この狂乱と、ダルジュロスが前日に雪の球を投げたときのように、ぼんやり立っているのを見て、悲鳴を聞いて駈けつけた生徒監は、戸口のところで釘付けになった。
学校には死刑制度がないので、ダルジュロスを退学にし、校長は医務室に運ばれた。ダルジュロスは顔をまっすぐに挙げて、口をふくらませ、誰とも握手しようとせずに、柱廊を横切って行ってしまった。
友人からこうした椿事《ちんじ》の話を聞いて、病人がどんなショックを受けたか想像できる。ジェラールが少しも得意そうな顔を見せないので、ポールはその苦しみを見せつけるわけにもいかなかった。しかしながら、我慢し切れなくなって、彼は訊いた。
「あいつの住所を知っているかい?」
「ううん、知らない。ああいう奴は、住所を絶対に教えないよ」
「かわいそうなダルジュロス! あいつのもので残っているのは、あれだけっていうわけだ。写真をとってくれよ」
ジェラールは胸像のうしろの二枚の写真を探した。一枚はクラスを撮《うつ》したものである。生徒たちは背の順に並んでいる。先生の左に、ポールとダルジュロスが床にしゃがんでいる。ダルジュロスは腕を組んでいる。フットボールの選手のように、彼の威厳の原因の一つであるたくましい足を自慢げに見せている。
もう一枚の写真は、彼がアタリー〔ラシーヌの悲劇の女主人公〕の衣裳をつけているものである。生徒たちは、この『アタリー』をサン・シャルルマーニュの祭日(一月二十八日)に上演したのだった。ダルジュロスは、この戯曲の標題になっている役をやりたいと主張した。ヴェールをかぶって、金ぴかの衣裳をつけて、彼は若い虎のように見え、一八八九年ごろの大悲劇女優に似ていた。ポールとジェラールがこうした思い出に耽っていると、エリザベートが入ってきた。
「これを入れてもいいかい?」ポールは二番目の写真を振りながらいった。
「何を入れるって? どこへ?」
「宝物のなかへだよ」
「宝物のなかへ何を入れるの?」
エリザベートは暗い表情になった。財物を大切にしていたからだ。宝物のなかに新しい物を入れることは、容易ならないことだった。わたしによく相談してからにして欲しいといった。
「相談しているじゃないか」弟は答えた。「これは僕に雪の球をぶつけた奴の写真だよ」
「見せてちょうだい」
エリザベートは長いこと写真を調べていたが、何も答えなかった。
ポールはつづけた。
「こいつは僕に雪の球をぶつけた。校長には胡椒を投げた。それで学校から追い出された」
エリザベートは、写真をよく調べ、思案し、あちこち歩きながら、親指の爪を齧《かじ》っていた。ついに、彼女は抽だしを少し開け、隙間から写真をすべり込ませて、閉めてしまった。
「ひどい顔しているのね」彼女はいった。「ジラフ(これはジェラールの愛称だった)、ポールを疲れさせないでね。わたしはママの所へ戻るわ。看護婦たちの監督をしなくちゃ。とても厄介なのよ。なんでもまっ先にやりたがるのよ。一分だって、放っておけないの」
そして、半分本気で、半分ふざけて、芝居がかった身振りで、片手を髪の毛にあてて、思いもすそをさばくようなふりをして、部屋を出て行った。
医者のおかげで、生活はほぼ平常の調子に戻った。こうした快適さは、子供たちにはほとんど影響を与えなかった。子供たちは自分の楽しみをもっており、それはこの世のものでなかったからだ。ダルジュロスだけがポールを学校に引き戻すことができた。ダルジュロスが退学になったとすると、コンドルセ中学は牢獄に変ってしまった。
それに、ダルジュロスの威光は、その及ぶ範囲が変りはじめた。減退するどころではなかった。反対に、この生徒はだんだん大きくなり、飛び立って、部屋の天井まで昇って行った。彼の落ちこんだ眼、捲き毛、厚い唇、大きな手、傷だらけの膝は、少しずつ星座を形づくるようになった。それらは、空間によって隔てられ、動きまわり、廻転していた。つまり、ダルジュロスは、宝物のなかの写真と一緒になったのである。モデルと写真が同一化したわけで、モデルは不用になった。抽象的な形態が美しい動物を理想化し、魔法の地域における付属品を豊富にし、彼から解放されたポールは、もはや休暇としか思えなかった病気を心ゆくまで楽しんでいた。
看護婦たちの忠告も、部屋の乱雑さを克服するにいたらなかった。それはますますひどくなり、街角のような有様になった。空箱の遠景、紙類の湖水、下着の山脈などが、病人の町であり、その背景でもあった。エリザベートは、『洗濯屋が来たから』といって、こうした主要な眺望を壊したり、下着の山脈を崩したりして、たくさん嵐をはらんだ低気圧を発生させて喜んでいたが、こうした暗雲がなければ、姉弟はどちらも生きていられなかっただろう。
ジェラールは毎日やってきたが、悪口の一斉射撃で迎えられた。彼は微笑し、頭を垂れていた。心温まる習慣で、こんな歓迎ぶりにも彼は平気だった。どんなに罵《ののし》られても何とも思わず、かえって耳に快いくらいだった。彼の平然たる様子を見て、エリザベートとポールは、彼が滑稽だとか、物に動じないとか解釈するふりをして大笑いするのだった。そして彼に関することで、姉弟にしかわからない内緒話をして、吹き出したりしていた。
ジェラールはそうした段取りをよく心得ていた。平気な顔をして、彼は辛抱づよく部屋をじろじろ見廻して、もう誰も黙って秘密にしているような最近の出来心の痕跡を探った。例えば、ある日、鏡の上に石鹸で大きな字で書き記してある文句を読んだ。『自殺は死罪である』
鏡の上に、消されずにあるこの大仰《おおぎょう》な標語は、胸像の上の鬚のような役割を果たしているにちがいなかった。今では姉弟にとっては、それが水で書かれているかのように、目には見えないも同然であった。それは他人にはわからない秘密の何か珍しい詩的な挿話があったという証拠であった。
ジェラールが何か気のきかない文句をいったので、武器の的が外れてしまい、ポールは姉に向ってだしぬけにいった。二人は、そのとき手応えのない獲物を捨てて、平常の速度を利用することにした。
「ああ!」ポールがため息をついた。「僕の部屋がもてるようになったらな……」
「わたしだって自分の部屋があったら!」
「君の部屋ならさぞきれいだろうよ!」
「あんたの部屋よりはきれいだわ!」
「ねえ、ジラフ! ポールはシャンデリヤが欲しいんですって……」
「黙ってろよ!」
「ジラフ、彼は暖炉の前に石膏のスフィンクスが欲しいのよ。それとルイ十四世ふうのシャンデリヤにエナメルを塗りたいですって」
彼女は吹き出した。
「ほんとうさ。僕はスフィンクスとシャンデリヤを手に入れるつもりだ。君にはわかるまい、頭が空っぽだから」
「いいわよ、わたしは出て行くわ。ホテル住まいするわよ。トランクの用意をしてあるの。ホテルへ行くつもり。あんたは自分ひとりで自分の世話をしたらいいわ! わたしは出て行きますからね。仕度はできてますからね。これ以上、こんながさつ者との同居はごめんよ」
こうした場面の終りは、いつもエリザベートが舌を出し、部屋を飛び出しながら、積み上げたがらくたの山をスリッパで蹴とばして崩すのだった。ポールは姉の飛び出した方向に唾を吐いた。エリザベートはドアをバタンと閉めたが、やがて他のドアが音を立てるのが聞こえた。
ポールはときどき夢遊病の軽い発作を起こした。弟のごく短い発作は、姉をびっくりさせるどころか、彼女を恍惚とさせた。こういう発作でなければ、このきかん坊をベッドから強制的に出させることができなかったからである。
長い脚がベッドからするりと出て、ふしぎな恰好で動きはじめるのを見ると、エリザベートは息をこらして、生きた彫像がうろつき、巧みに移動し、ふたたびベッドに入り、寝込んでしまうのを注意深く見まもっていた。
母親の急死が、台風を停止させた。二人は母親を愛していた。それなのに母親を大切にしなかったとしても、まさか死ぬとは思っていなかったからである。彼らは自分たちに責任があると感じたために事態は一段と悪化した。ポールがはじめて起きた晩に、部屋で姉と口論しているあいだに、母親は誰にも気づかれずに死んだからである。
看護婦は台所にいた。口論が殴り合いになり、エリザベートは、頬を燃やして、病人の肱掛椅子の傍まで逃げ場を探した。そのとき、彼女は見知らぬ女が、眼と口を大きく開けて彼女を見詰めているのに気がついて、沈痛な思いになった。
屍体の硬直した腕、肱掛椅子を握りしめた指などが、死を即座に意味し、死以外のなにものでもないある姿勢をそのまま残していた。医者はこのような急変を予想していた。子供たちだけではどうにもできないので、この石化した叫びを、生きた人間と置き換ったマネキンを、彼らの知らない怒れるヴォルテール像を色蒼ざめて眺めていた〔ウドン作のヴォルテールの座像にたとえている〕
このときの姿は、子供たちにとっていつまでも消えない印象となった。葬式のあとでも泣きぬれ、途方にくれ、ポールは再発し、医者とジェラールの叔父にやさしく慰められたりした。大人たちが、家事を見てくれるいい看護婦を世話してくれたので、姉弟はふたたび二人きりで暮らせるようになった。
母親の死の信じられないような状況は、子供たちの母親についての思い出を辛いものにするどころか、母親を崇高なものにした。母親を襲った雷撃は、彼女を不吉な死のイメージで包んでしまったが、それは姉弟が愛惜している母親とは何の関連もなかった。その上このように素朴で、野性的な人間にあっては、慣習によって哀悼を受けた故人などは、たちまち忘れ去られてしまう。彼らは世間体などは無視した。動物的本能が彼らを動かしていたので、そこには母を失った動物特有のシニスムがあった。しかし、この部屋は前代未聞なことを要求した。この母親の死という前代未聞なことは、未開人の墓所のようにして、死者を祀《まつ》った。そして、子供たちが、何か重大な事件を、そのとんでもない細部のためにいつまでも思い出すように、死んだ母親に対しては、意外なことに、夢の天国での最高の地位を与えようとしていた。
ポールの病気の再発は長びき、危険な病状になった。看護婦のマリエットは、献身的に仕事に励んだ。医者は口やかましかった。彼は安静、休息、栄養を十分にとることを望んだ。彼はきちんとやって来て、あれこれ命令し、必要な金を渡し、命令が守られたかどうか確かめたあとで帰って行った。
エリザベートは、初めはいうことをきかず、突かかってきたが、しまいにはマリエットの大きなバラ色の顔、灰色の捲き毛とその献身ぶりに抗《あらが》うことができなくなった。どんな目にあっても怯《ひる》まない献身ぶりだった。ブルターニュで暮らしている孫を溺愛しているこの婆さんは、無学のブルターニュ女だったが、子供たちの象形文字は解読してしまった。
公正な人間が判断すれば、エリザベートとポールを複雑だと思い、狂人の叔母と、アルコール中毒の父親の遺伝が見られると抗弁するだろう。たしかに複雑だが、彼らはバラのように複雑なのであり、そう判断する人と同じように複雑なのである。マリエットの方は、単純そのもののように単純であって、眼に見えないものを見とおした。彼女は容易に子供の世界に入り込んだ。他に何も求めなかった。子供の部屋の空気は、空気そのものより軽いと感じていた。ある種の細菌は高いところでは死んでしまうように、悪徳もここでは生きられなかっただろう。純粋で、軽やかな空気、そこには重いもの、下品なもの、卑しいものは入り込めない。マリエットは、世間が天才を認め、その仕事を保護するように、子供たちを認め、保護していた。ところで、単純さのゆえに、彼女はこの部屋の創造的な天才を尊敬することのできる天才的な理解力が与えられたのである。この子供たちが創造したものは、まさしく傑作であり、それは彼らが|そうであった《ヽヽヽヽヽヽ》傑作であり、そこでは知性は何の役にも立たず、その驚異は、何の自負も何の目的もないところにある傑作であった。
病人は自分の疲労を利用し、体温器を勝手に操作していたことはいうまでもない。彼は黙っていたし、どんなに悪口をいわれてももう反応を見せなかった。
エリザベートのほうは膨れ面をし、他人を軽蔑したような沈黙のなかに閉じ籠っていた。この沈黙に退屈すると、彼女はがみがみ女の役から、乳母の役へと移った。いろいろ苦心して、やさしい声を出し、爪先だって歩き、ドアの開閉にも非常に気を使って、彼女はポールを低能児扱いにし、同情すべき名札か、見すぼらしいぼろ布のように扱った。
彼女は病院勤めの看護婦にだってなれただろう。マリエットが教えてくれるだろう。彼女は、裂いたシャツ、脱脂綿、ガーゼなどを安全ピンで留めた髭のある胸像と一緒に角のサロンに何時間も閉じ籠っていた。繃帯で頭をぐるぐる巻いて、凄い眼をした、この石膏像は、どの家具の上にもおかれた。マリエットは、燈火の消えた部屋に入る度ごとに、暗がりにこれがあるのを見て、死ぬほどびっくりした。
医者は、エリザベートがこんなに変身してしまい、元に戻らないのは結構なことだといった。
しかもこれがいつまでも続いた。彼女は頑張って、その役そのものになっていた。というのは、われわれの若い主人公である姉弟は、どんなときでも、彼らが外部に見せている光景はけっして意識しているものではなかった。少くとも、それを見せつけようとしなかったし、見せようと考えたこともなかった。この魅惑的で、心に喰入るような部屋は、自分では嫌いだと思いながらも、そこに夢を託していたのだ。めいめい個室をもちたいと考えていながら、空き部屋を使う気にはならなかった。はっきりいうと、エリザベートはそのことを一時間も考えあぐねていた。しかし、今では共同部屋に祀られている死んだ母のことを思い出すと、あの場所にはまだ恐ろしいものがあった。彼女は弟の看病を口実に、部屋を変ろうとしなかった。
ポールの病気は、ますます痛みがはげしくなった。枕を巧みに積みあげた見張所のなかでじっとしたままで、彼はけいれんを訴えていた。エリザベートは、聞こうともせず、唇に人さし指をあてて、深夜に帰ってきて、靴を手にして、靴下のまま玄関を横切る若者の歩調で遠のいて行った。ポールは肩をすくめ、夢幻のなかに戻って行った。
四月には、ポールは起きられるようになった。もう長く立っていられなかった。生れたての足では体が支えきれなかった。エリザベートは、弟が彼女よりたっぷり頭半分くらい背が高くなったので、ひどく機嫌が悪かったが、聖女のように振舞って復讐をした。彼女がポールを支えたり、腰掛けさせたり、肩掛けをかけたりしてやって、まるで痛風やみの爺さんの扱いをした。
ポールは本能的に反撃の風を見せた。姉の新しい態度に、最初は面喰った。今では彼女を打ち倒してやりたいと思った。しかし、生れたとき守ってきた姉弟のあいだの決闘の規則は、ポールに適切な態度を教えた。それに、こうした受身の態度は、無精《ぶしょう》な彼の気に入ったのだ。エリザベートは、心のなかでは煮えくり返る思いだった。こんどまた、姉弟は戦法を新たにして崇高な戦いをし、そして均衡が回復した。
ジェラールはエリザベートなしにはすまなくなった。彼の心のなかで、彼女がいつのまにかポールの位置を占めていた。正確にいうと、彼がポールのなかで愛していたのは、このモンマルトル街の家であり、ポールとエリザベートのことだった。物ごとの自然の成行きで、ポールの照明は、もはや少女ではなく、娘になっているエリザベートの上にあてられた。彼女は、男の子が軽蔑する少女の年頃から、男の子たちが感激する娘の年頃に移っていったのである。
医者の命令で、面会謝絶のため見舞いに行けないジェラールはうまい方法はないかと考え、リーズと病人を海岸へ連れて行ってくれるように叔父を承知させた。叔父は独身で、金持で、役員会議で疲れ切っていた。彼は、姉の子のジェラールを養子にしたのだが、姉は未亡人だったが、このお産の際に死んだ。好人物の叔父はジェラールを育て、財産も譲ることになっていた。彼は海岸行きを承知した。自分も少し休みたいと思ったからだ。
ジェラールはさんざん悪口をいわれるものと覚悟していた。ところが意外にも驚いたことは、聖女ととんまがすぐこれに感謝の意を表したことだった。ジェラールは、この二人組が何か芝居を企んでいるのではないか、攻撃の手を考えているのではないかと思った。そのとき聖女の睫毛のあいだにぴかっと閃くものがあり、とんまの小鼻がぴくっと動いたので、これは何かの遊びがはじまったのだということだけは見当がついた。新しい一章の中途にぶつかったのだ。新しい時期がはじまったのだ。その新しいリズムに乗る必要があった。彼らがこうして礼儀正しい態度に出れば、こんどの滞在も、叔父にあまり文句をいわれないですむという予想ができて、彼はよかったと思った。
事実、どんな暴れん坊かと心配していたのに、叔父はこの姉弟がおとなしいのに感心した。エリザベートはじつに魅惑的だった。
「ご存じのように」彼女はにっこりしていった。「弟はどちらかと申せば内気のほうでして……」
「このあまめ!」ポールは口のなかでつぶやいた。しかし、ジェラールは耳をそばだてていたが、あまめということば以外は、弟は何もいわなかった。
汽車のなかで、興奮をしずめるために、彼らは一方ならぬ努力をしなければならなかった。身振りも心も生まれながら上品なおかげで、世間知らずの子供たちは、寝台車が豪華に見えるはずなのに、何ものにもすっかり馴れきっている様子であった。
当然のことだが、寝台車は彼らの部屋のことを思い出させた。そして、すぐに二人とも同じことを思っているのを感じた。『ホテルに行けば、二つの部屋と二つのベッドがあるだろう』
ポールは身動きもしなかった。エリザベートは、睫毛のあいだから、ほの暗いランプの下にある弟の蒼白い横顔を凝視していた。あちこちから眺めた末、このものを見抜く力をもった女は、ポールが世間から離れて孤独な療養生活を送ってから、一種の無気力な状態に陥りやすく、そしてそれにもう抗《あらが》わなくなっていることに気がついた。弟の顎の線は、少し引っこんでいるのに、彼女のは角ばっているのが、気になった。彼女はよく同じ文句を弟にいったものだ『ポール! あんたの顎!』それはまるで母親が『背中を真直ぐに!』とか『テーブルに肱をつかないで!』というみたいだった。ポールは何か下品なことばを言い返すのだったが、やっぱり鏡の前に立って横顔の角度をいろいろ変えてみずにはいられなかった。
一年前には、エリザベートが、自分の横顔をギリシアふうにするのだといって、物干しばさみで鼻をはさんで寝ることを考えたりした。ポールのほうは気の毒にゴム紐で首をしめつけたりしたので、赤い痕がついてしまった。そこで、顔を正面か四分の三くらい他人に向けるように決めた。
二人ともこうやって誰かに気に入られようと思ったわけではない。これは自分たちだけのための試みで、誰にもかかわりのないことだった。
ダルジュロスの支配から逃れ、エリザベートの沈黙以来、ポールは自分のなかに閉じこもり、喧嘩で火花を散らして活々《いきいき》とすることもなくなり、ただ自分の性向のままにしたがった。その弱気さ加減はひどくなった。エリザベートは正確に見抜いていた。その抜け目のない監察は、ごく小さな徴候まで見のがさなかった。彼女は小っぽけな楽しみに夢中になって、のどを鳴らしたり、舌なめずりしたりすることが大嫌いだった。この火と氷の塊りである女性は、生ぬるいものには容赦なかった。ラオデキヤの天使あての手紙〔ヨハネの黙示録〕のなかにあるように、彼女はそんなものは口から吐き出してしまった。純血種だった彼女は、ポールも純血種であることを望んだ。はじめて急行列車に乗ったこの少女は、車輪の廻転する音などを聞かないで、弟の顔をじっと喰い入るように見ていた。気違い女のような気笛の叫び声、気違い女のような煙の髪の毛の下で。それは乗客の眠りの上をときどき流れて行く感動的な叫び声の髪の毛といってよかった。
先方に着くと、失望が子供たちを待っていた。ホテルはどこも超満員だった。叔父の部屋以外は、廊下のはずれにひと部屋しか残っていなかった。そこにポールとジェラールを寝かせ、隣接した浴室に、エリザベートのためのベッドを入れたらという話も出た。結局エリザベートとポールは部屋に、ジェラールは浴室に寝ることにきまった。
最初の晩から、事態は悪化した。エリザベートは風呂に入りたがった。ポールも同じだった。彼らの冷たい怒り、互いに裏をかき、ドアを勝手にばたん、ばたん開閉させ、最後には浴室で向い合いになるという始末だった。沸き立った風呂場で、ポールは、湯気のなかで天使のように笑って、海草のようにゆらゆらしていた。これがエリザベートを怒らし、足の蹴り合いの戦法がはじまった。蹴り合いは、翌日も食卓でつづけられた。テーブルの上で叔父に見えるのは笑顔だった。その下では、冷戦が行われていた。
足と肱の戦争だけが、漸進的な変化の唯一の動機ではなかった。これには子供たちの魅力もはたらいていた。叔父のテーブルは、みなが微笑で表現する好奇心の的になっていた。エリザベートは、馴れ合いが嫌いで、他人を軽蔑していた。さもなければ、遠くにいる誰かに偏執的に夢中になったりした。これまで、彼女が熱愛したのは、ハリウッドの二枚目役者か悲劇女優で、彼女の部屋にはそんな連中の色刷の大写しの肖像が壁を埋めていた。ホテルにはそのような余地は全くなかった。家族連れは、色が黒くて、醜悪で、がつがつしていた。痩せた少女たちは、お行儀よくしていなさいと親にぶたれても、こっちのすばらしいテーブルのほうに首を曲げて見るのだった。少女たちは離れているせいで、構成された舞台かのように、足の戦争と顔の平和を眺めることができたのだ。
エリザベートにとって、美とはしかめ面、鼻挾み、ポマード、ひとりのときにあまり切れで作るちぐはぐな衣裳などに対する口実にすぎなかった。これに成功しても、彼女はうぬぼれたりせず、都会人の魚釣りが労働に対して遊びであるように、パリでの夢の遊びに対して一つの遊びになる笑いであった。彼らは、部屋から、彼らのいう≪徒刑場≫から外出して留守していた。なぜなら、彼らの愛情を忘れてしまい、彼らのポエジーを味わうこともできなかったし、マリエットに比べるととくに部屋が大切ということもないので、同じ鎖につながれて、暮さなければならない監房から、遊ぶことで逃れようと思いついたのだ。
この休暇中のホテル暮しの遊びは、食堂のなかではじまった。エリザベートとポールは、ジェラールの心配もかまわずに、叔父の眼の前でこの遊びをやった。叔父には姉弟の猫かぶりの表情しか見えなかったのである。
それは急に顔をしかめ面にして、病弱な少女たちをおどかすことだった。それには例外的な状況の協力を待つ必要があった。長いこと待ち伏せしていて、周囲の者が気づかないときに、椅子の上でぐったりしている一人の少女が、テーブルに視線を向けたりすると、エリザベートとポールは始めは微笑で迎え、ついで恐ろしいしかめ面に変えた。少女はびっくりして顔をそらした。こうした実験を何回も繰返すうちに、少女は気が弱くなって、泣き出して、母親に訴えた。母親がテーブルを眺める。するとすぐにエリザベートは笑顔になった。母親のほうも彼女に微笑を送った。そして犠牲になった少女は、叱られて、ぶたれて、動かなくなってしまった。互いに肱で突き合ったが、これが彼らの得点を示していた。この肱の突き合いは、エリザベートとポールの共謀を現わし、彼らを哄笑に誘った。部屋に帰って、彼らは笑いこけた。ジェラールも一緒になってげらげら笑った。
ある晩、まだほんの小さな少女に対して十二回もしかめっ面をしたのに、負かすことができず、先方は平気で皿のなかに鼻を突込んでいたが、彼らがテーブルを離れたとき、誰にも見られないようにして、舌をぺろりと出した。この仕返しは彼らを喜ばせ、雰囲気をすっかりやわらげた。彼らはまた別の雰囲気を作ることができた。猟師やゴルファーのように、彼らは手柄を繰返したくてたまらなかった。少女をほめて、遊び方を議論し、規則を複雑にした。攻め方は一層派手になった。
ジェラールは、エリザベートとポールに声を低くしてくれ、流れ放しの水道の栓をとめてくれ、水のなかに顔をつけてみたり、掴《つか》み合ったり、椅子を振り廻して、助けを呼んだりして追い廻したりしないように頼んだ。すると憎しみと哄笑とが同時に起こった。エリザベートとポールの豹変ぶりにどんなに馴れていたにしても、二つの痙攣している断片が集って、一つの身体になる瞬間などを予見することは誰にもできなかったのである。ジェラールはこうした現象を期待しながらも、怖れた。隣人たちや叔父のためにはそれは望ましいことだった。しかし、そのためにエリザベートとポールが共同して彼に対抗することになるのを怖れていたのである。
やがて遊びがひろがった。ホール、街路、海岸、花壇というふうに、その領域をひろげて行った。エリザベートはジェラールに手伝うように強制した。このギャングたちは、分れたり、走ったり、よじのぼったり、しゃがんだり、しかめ面をして、恐怖をまき散らした。家族連れは、首の曲った子供や、口をあんぐりあけた子供や、出目の子供を連れてきていた。親たちはぶったり、叩いたりして、彼らの散歩を禁止し、家に閉じこめてしまった。この災厄がようやくおさまったのは、他の楽しみが見つかったときだった。
その楽しみというのは、万引だった。ジェラールは、自分の怖れを表わすこともできずに、言うなりになった。この万引は、盗みそのものを目的にしていた。そこには利益とか、禁断の実に対する欲望などはまじっていなかった。死ぬほどの恐怖があれば十分だった。子供たちは、叔父と一緒に入った店から、何の値打ちもない、何の役にも立たないものでポケットを一杯にして出てきた。役に立つものを盗むことは、規則で禁じられていた。ある日、エリザベートとポールは、フランス語で書かれているという理由で、一冊の本を返してくるようにジェラールに厳命した。ジェラールが『何か非常にむずかしいもの』を、エリザベートが命じた『例えば如露のようなもの』を、盗んでくるという条件で、それを赦してもらった。
気の毒な少年は、姉弟に大きな外套を着せられて、重い心で、その仕事をやった。その様子がいかにも不器用で、如露のこぶが異様だったので、金物屋は信じられないというふうに、長いこと彼らを見送っていた。――『歩いて! 歩くのよ! ばかね!』エリザベートはジェラールにささやいた。『こっちを見てるじゃないの』危険な道角で、彼らはほっとして、それから急いで逃げだした。
ジェラールは、その晩、カニに肩をはさまれた夢を見た。それは金物屋だった。彼は警官を呼んだ。ジェラールは逮捕された。叔父は彼を廃嫡《はいちゃく》にした、など…・…
盗品は、カーテンの環、ねじ廻し、切換えスイッチ、荷札、特大の運動靴などで、ホテルの部屋に山積していたが、旅行中の宝物で、出歩きの婦人が本物の真珠を金庫にしまって、贋物の真珠をつけて出るような贋物の宝物であった。
訓練が足りなく、罪を犯すほど純真な子供たち、善と悪とを見分けることのできない子供たちの行為の奥にひそんでいたものは、エリザベートに関していえば、このような泥棒ごっこで、ポールが心配な無気力になる傾向を立ち直らせたいという本能であった。ポールは、追いつめられ、脅《おびや》かされて、しかめ面したり、駈けたり、罵ったりして、もう天使のように笑うことをしなくなった。エリザベートがその直観的再教育の方法をどこまで押し進めたか、これはあとでわかるだろう。
彼らは家へ帰ってきた。彼らがぼんやり眺めてきた海の塩気のおかげで、能力が倍加するほど体力を蓄えてきた。マリエットが見違えるほどだった。彼らは彼女にブローチを贈ったが、これは盗品ではなかった。
この頃からようやく、部屋が沖へとさしかかった。その帆幅はさらにひろく、積荷は危険になり、波頭はますます高くなった。
子供たちの奇怪な世界では、浮身をして、遠く進むことができた。阿片のゆるやかさに似て、スピードの記録に劣らず、緩慢であることも危険であった。
叔父が旅行に行ったり、工場視察に出掛けたりするごとに、ジェラールはモンマルトル街に泊った。クッションを積み重ねた上に寝て、古マントをかぶって寝た。正面には、劇場みたいに、ベッドが立ちはだかっていた。この劇場の照明は、ただちに始まるドラマのプロローグの前ぶれだった。事実、電灯がポールのベッドの上にあった。ポールは、それに赤い安木綿の切れ端をかぶせた。彼女は罵り声をあげて、飛び起きて、安木綿をはずした。ポールがそれをまたかぶせる。互いにぼろ布を取りっこしたあげくポールは姉をやっつけて、電球にまた布をかぶせ、プロローグは弟の勝利に終った。というのは、海から帰って以来、ポールのほうが姉を抑えていたからだ。ポールが起きられるようになって、彼の背がのびたことを確かめてみて、リーズの心配は確実なものになった。ポールはもう病人の役割に甘んじなくなり、ホテル滞在の精神療法は、目的から外れてしまった。彼女が『この人は何でも楽しくてたまらないのよ。映画は楽しくてたまらない、本は楽しくてたまらない、音楽は楽しくてたまらない、椅子も楽しくてたまらない、柘榴水《グルナルデイマ》も巴旦杏水《オルジヤ》も楽しくてたまらないっていうわけ。あら、ジラフ、うんざりだわ。見てごらんなさいよ。ポールが舌なめずりしているわ。仔牛みたいな間抜けな顔してね!』などと、彼女がいくら皮肉ってもむだだった。弟はもうねんねではなくて、りっぱな大人に変っていることを思わないわけにはいかなかった。レースでいえば、ポールのほうがほとんど頭一つ彼女を抜いていた。部屋を見ればそのことが明らかであった。上が、ポールの部屋だった。彼は苦労せずに、夢の小道具にさわったり、見たりできた。下は、エリザベートの部屋だった。彼女が自分の小道具が欲しいと思うと、しびんでも探すような恰好をして、探したり、もぐったりしなければならなかった。
しかし、彼女はすぐに責め方を発見して、奪われていた得点を取り戻した。彼女はこれまで男の子の武器を使ってきたが、いままで使ったことがなくて、いつでも使える状態にある女らしさで知恵をはたらかすことにした。そこでジェラールを歓迎した。観客のいることは役に立つし、見物人がいればポールに対する責め方も激しくできると感じたからだ。
部屋の劇場は夜の十一時に開いた。日曜以外は、マチネーはなかった。
十七歳のエリザベートは、十七歳に見えた。ポールは十五歳なのに、十九歳にも見えた。彼は外出した。彼はうろついていた。楽しくてたまらない映画を見て、楽しくてたまらない音楽を聞いて、楽しくてたまらない女の子のあとをつけたりした。その女の子が娼婦だったりして、つきまとってくればくるほど、なお楽しいと思ったりした。
家へ帰ってから、彼は町での見聞を報告した。原始人みたいな偏執狂的な率直さでそれを物語った。この率直さと、まったく邪心のないことが、彼の吐くことばは、皮肉と正反対であり、無邪気の極致であると思わせた。姉は質問したり、からかったり、不機嫌になったりした。急に、他の人なら気にもならないようなつまらないことに怒ったりした。そしてすぐにつんとすまして、そこいらの新聞を引っつかんで、大きくひろげて、そのうしろに隠れてはすみまで読みはじめたりするのであった。
ポールとジェラールは、いつも夜の十一時と十二時のあいだに、モンマルトルのビヤホールのテラスで逢うことになっていた。帰りは一緒だった。エリザベートは大門の軋むにぶい音を聞いて、玄関をぐるぐる歩き廻って、いらいらしながらやきもきしていた。
大門の音がすると、彼女はいそいで持ち場を離れた。部屋に駆け込んで、腰かけ、爪みがきを取り上げた。
彼らは、エリザベートが腰かけ、ヘヤネットをかぶり、ちょっと舌をだし、爪をみがいているのを見た。
ポールが着物をぬぎ、ジェラールが部屋着を見つけて、彼をベッドに入れてやり、寝かせつけた。すると、部屋の精霊が三度ノックして、芝居が始まった。
もう一度強調しておくが、この劇場の主役たちは、見物人の役をつとめる者まで、一つの役を演じる気はさらさらなかった。こうした原始的な無意識のせいで、彼らの芝居は永遠の若さを保っていたのだ。自分ではまるで気がつかないでも、芝居(それを部屋といってもいいが)は、神話の崖っぷちをさまよっていた。
赤い安木綿が、舞台装置全体を赤い色でぼんやりと浸していた。ポールは素っ裸で歩き廻り、ベッドをなおしたり、シーツをのばしたり、枕で物見櫓を作ったり、椅子の上にがらくたを置いたりした。エリザベートは、テオドラ〔ビザンチンの女王〕のように、左肱をつき、唇をぎゅっと結び、厳然たる顔で、弟をじっと見詰めていた。右手で頭の皮がすりむけるほど掻きむしった。それから長枕の上のポマードの瓶からクリームをすくって、すりむけたところに塗った。
「間抜けだなあ!」ポールがいって、さらにつづけた。
「こいつの間抜け面と、クリームを見るほど、胸くそ悪いものはない。アメリカの女優がすりむくと、ポマードを塗るって、新聞で読んだのさ。それは毛の生えた皮膚にはいいと信じているんだよ! ねえ、ジェラール!」
「何だい」
「聞いているのかい?」
「ああ」
「ジェラール、あんたはとてもいい人よ。こんな男のいうことを聞かないで、おやすみなさいな」
ポールは唇を噛んだ。その眼は燃えていた。エリザベートの濡れて、大きく開いた、崇高な眼の下で、ポールは寝て、毛布に包まり、頸の位置をためしていたが、ついに起きあがって、毛布をはねのけた。ベッドの内側が理想通りには具合がよくなかったからだ。
それが理想通りになると、どんなに強制しても彼をベッドから引き出すことはできなかった。それもただ寝るといったものではなかった。ミイラになったようなものだった。体を帯紐でぐるぐる巻きにし、食べ物や神聖ながらくたを身の周りにおいた。彼は亡霊たちの国へと出掛けたのである。
エリザベートは自分の登場を決定する道具立てができるのを待っていた。四年もの間、前もって何の段取りもつけないで、毎晩芝居ができたのは信じられない気がした。二、三手直しをするだけで、いつも芝居が繰返されたからである。おそらくこれはこれらの教養のない連中が、何かの命令にしたがって、さながら夜になると花が花弁を閉じる法則と同じように不思議な操作をやっていたのであろう。
エリザベートが修正を提案した。彼女は意外な用意をしていた。ある晩、彼女はポマードを捨てて、ベッドの下にもぐり込んで、そこからガラスのサラダボールを引き出した。そのボールにはざりがにが一杯入っていた。エリザベートはそれを胸に押しつけて、美しいむき出しの腕で抱きかかえ、ざりがにと弟のあいだに食いしん坊らしい視線を走らせた。
「ジェラール、ざりがにはどう? さあ、さあ、いらっしゃい。よだれが垂れそうだわ」
彼女はポールが胡椒、砂糖、芥子に眼がないことを知っていた。これらをパンの皮につけて食べるのだ。
「糞ッたれめ!」ポールはつぶやいた。「ざりがになんか嫌いなくせに。胡椒も嫌いなくせに。むりしているよ。わざとよだれが垂れそうだなんて」
ざりがにの場面は、ポールがもう我慢しきれなくなって、どうか一つくれと頼むまでつづけられた。こうなると彼はエリザベートの思いのままで、彼女は逆らった弟の食い意地をこらしめるのだった。
「ジェラール、男の子が十六歳にもなって、ざりがにが欲しいって、ぺこぺこするくらいみじめなことってある? きっと敷物を舐めたり、四つんばいで歩くことだってするわ。だめよ、持って行っちゃ。起きて、取りにきたらいいのよ! ほんとに、いやらしいわ。なりばかり大きいくせに、動こうともしない。食べたくてしようがないくせに、何もしないでいる。わたしがざりがにをやらないのは、弟のことが恥しいからよ」
それからは神託に変った。エリザベートが神託を述べるのは、彼女に神がのりうつり、三脚|床几《しょうぎ》〔デルポイの神殿で巫女《みこ》が座っている床几〕の上で、霊感にあふれていると感じる晩だけだった。
ポールは耳をふさいだり、または本をさっと取って、声高らかに朗読した。サン・シモンやボードレールが、恭《うやうや》しく取り上げられた。神託のあとで、ポールは、
「聞いてくれ、ジェラール」といって、声高らかに読みつづけるのだった。
僕は愛す、その悪趣味を、雑色のスカートを、
そのいびつな、大きなショールを、
しかもそのせまい額を
彼はこの素晴らしい詩句が部屋を讃え、エリザベートの美しさを讃えることになることに気づかずに朗読していた。
エリザベートは新聞を取り上げた。ポールの声をまねたつもりの声で、彼女は三面記事を読んだ、ポールは『よせよ、よせったら!』と叫んだ。姉は絶叫を止めなかった。
すると、彼女が夢中になっていて、新聞のうしろにいる弟のほうが見えないのをいいことに、ポールは腕を出して、ジェラールが止める前に、牛乳を力一杯彼女にぶちまけた。
「卑怯者! 悪党!」
エリザベートは憤慨して息が詰りそうだった。新聞は濡れた雑布のように皮膚にべったりつき、牛乳はそこら中からぽたぽた垂れ落ちた。それでもポールは姉が泣きだすだろうと思っていたのに、彼女は感情を抑えてしまった。
「ねえ、ジェラール」と彼女はいった。「手を借してよ、タオルを取ってきて、拭いてよ。新聞は台所へ持ってって」それから声を低くして「弟にざりがにを食べさせようとしてたのにね……あんた、一つ食べない? 気をつけてね。牛乳で濡れているから。タオル持ってきた? どうもありがとう」
ポールが眠りかけたころに、ざりがにのことがまた問題になった。彼はもうざりがになんか欲しくなかった。彼は眠りへの出帆の用意をしていた。食欲もすっかりなくなり、身は軽くなり、手足はしばられたようになって、死者たちの河に乗り出していた。
この時こそ、エリザベートが弟の邪魔をするためにあらゆる知恵をしぼるべきクライマックスだった。不本意にも弟を眠らせながら、彼女はしまったとばかり起き上がり、ベッドに近寄って、サラダの鉢を弟の膝の上においた。
「さあ、意地悪さん、わたしはそうでもないのよ。ざりがにをご遠慮なく、どうぞ」
気の毒なポールは、眠りの流れから上のほうに重い頭を持ち上げた。目は腫れぼったく、くっついて、口はもはやこの世の空気を吸っているようではなかった。
「さあ、食べてよ。欲しかったくせに、もう欲しくないの。食べなさい。さもないと、行ってしまうわよ」
すると首を斬られた男が、この世と最後に接触するみたいに、ポールは唇を少し開けた。
「ためして見なくちゃわからないじゃないの。さ、ポール、そら、あんたのざりがによ!」
彼女は殻を割って、その肉を歯のあいだに押し込んでやった。
「眠りながら食べているわ! 見てよ、ジェラール! そら見て。とてもおかしいわ。がつがつしている! がまんしきれないのね!」
そして専門家みたいな興味を示して、エリザベートはこの仕事をつづけた。小鼻をふくらませ、舌を少し出していた。まじめくさって、辛抱強く、背中をまるめて、彼女は死んだ子に食べものを詰め込んでいる気違い女そっくりだった。
この教訓的な状景から、ジェラールは一つのことだけ覚えていた。エリザベートが初めて親しげな口をきいたことだった。その翌日、彼のほうから親しげな口をきいてみた。ぶたれるかなと思ったのに、彼女のほうでも親しげな口をきいてくれたので、ジェラールはそこに深い愛情を感じた。
部屋での夜の儀式は、いつも朝の四時までつづいた。そのために目覚めは遅かった。十一時ごろに、マリエットがカフェ・オ・レを運んできた。それを冷めるままにしておいて、またひと寝入りした。二度目に起こされたときは、冷たいカフェ・オ・レなんか魅力がなかった。三度目は、もう誰も起きなかった。カフェ・オ・レは、茶碗のなかでしわができていた。そうなると一番いいのは少し前に店を開けた階下のカフェ・シャルルに、マリエットを使いに出すことだった。彼女はサンドウィッチと食前酒を買って帰ってきた。
ブルターニュ生まれのこの女中は、家庭料理を作らしてもらいたかったのだが、その方針を曲げて、機嫌よく子供たちの気まぐれ通りにしていた。
時には、彼女が子供たちを追い廻して、食卓につかせ、むりやりに食事をさせることもあった。
エリザベートは、パジャマの上にコートを着て、片手を頬にあて、肱をついて、夢見るように腰掛けていた。そのポーズは、科学、農業、歳月を現わす寓意的な女性を想わせるものがあった。ポールは、ほとんど裸かで椅子の上で体をゆすっていた。どちらも幕間に、幌馬車で休んでいる旅芸人のように黙々と食事をしていた。昼間は彼らにとって重苦しいものだった。空虚のように思えたのだ。流れのようなものが、彼らを夜のほうに、再び生気を取り戻す部屋のほうに曳きずって行った。
マリエットは、大切な無秩序を台なしにすることもなく部屋の掃除をすることに馴れていた。四時から五時までは、下着置場に改造した角部屋で縫い物をした。夕方になると夜食の仕度をして、家へ帰って行った。ポールは、ボードレールのソネに登場するような娼婦を探しに、人影のない夜の町をさまよった。
エリザベートは、ひとり家に残って、家具に囲まれて落着き払っていた。彼女が外出するのは思いがけないものを買いに行くときだけで、それもいそいで帰ってきて、どこかにそれを隠してしまうのだった。彼女は一人の女が死んだ部屋があるために、不気味に思いながら部屋から部屋へとうろつき廻っていた。しかし、それも彼女のなかに生きている母親とは、何の関係もないことだった。
こうして不安は、日が暮れるにつれてますます大きくなった。すると彼女は、闇に浸された部屋のなかに入って行った。そして部屋の中央にすっくと立った。部屋は闇に沈み、姿を消し、孤児はブリッジの上の船長のように立って、目を据え、両手を垂らして、闇に吸い込まれて行った。
常識的な人なら呆気にとられるような、こうした家やこうした生活が実際にあるものだ。二週間もつづくはずがないような無秩序が何年もつづくとは、そのような人は理解に苦しむだろう。ところがこうした怪しい家や怪しい生活が、いろんな期待に叛《そむ》いて、ちゃんと、数多く、不法にも維持されている。しかし、こうした趨勢が一つの力であったとしても、その力のためにこのような事態が凋落に向っているのだから、常識が間違っているともいえないだろう。
変り者とその反社会的行動は、彼らを排斥する人々の世界の魅力をつくっている。悲劇的で軽薄なこれらの連中が呼吸している旋風のために捲き起こされるスピードに、人々は窒息せんばかりになる。それは子供っぽいことから始まり、初めの内は単なる遊びとしか思えないのである。
こうして、モンマルトル街では、けっして弱まることのない単調でしかも烈しいリズムで、三年間というものが過ぎた。エリザベートとポールは、双生児の二つのゆり籠にいれられたように暮らしつづけた。ジェラールはエリザベートを愛していた。エリザベートとポールは、互いに愛し合いながら、傷つけ合っていた。二週間ごとに、夜になるときまってひと悶着あって、エリザベートはトランクの用意をし、ホテル暮らしをすると言い張った。
毎晩のように強烈な夜、毎朝のように重苦しい朝、長い午後になると子供たちはきまって漂流物になり、昼最中《ひるさなか》のもぐらのように盲目である。エリザベートとジェラールが一緒に外出することもあった。ポールは快楽を求めに出掛けた。しかし、彼らが見たり、聞いたりしたものは、彼ら個人のものではなかった。彼らは、曲げることのできない法則に従う者として、それを部屋まで持って帰って、共有の蜜をつくるのであった。
これらの哀れな孤児たちは、人生が一つの闘争であり、彼らは密入国者として存在し、運命が彼らを寛大に扱い、大目に見てくれているなどとは夢にも考えなかった。主治医とジェラールの叔父が、彼らの面倒を見てくれるのは当然だと思っていた。
富は一つの天分であり、貧しさも同じ天分である。貧乏人が金持になると、贅沢な貧しさをひけらかす。エリザベートとポールは、どんな富もこれ以上生活を変えることができないほど富んでいた。眠っているあいだに財産が舞い込んできたにしても、眼が醒めてそれと気がつかなかっただろう。
彼らは安易な生活や安易な風俗に対する偏見に反駁し、哲学者のいう「仕事で無駄遣いする柔軟で軽快な生命の驚くべき力」を発揮していた。
将来の計画、勉強、地位、就職運動などには、贅沢な犬が羊番に気をとめない以上に、彼らは無関心だった。新聞では犯罪記事だけを読んだ。ニューヨークのような兵営では受け入れられず、パリ暮らしをせざるを得ないような型破りの種族だった。
だからジェラールとポールが、エリザベートの中に突然みとめた心変りも、実際的な考察から決定されたものではなかった。
彼女は仕事をしたいといった。女中みたいな役はもうご免だというのだ。ポールは好きなようにやったらいい。自分はもう十九歳にもなって、体力も衰えてきたし、このままではもう一日も我慢できないというのだった。
「ねえ、ジェラール」と彼女は繰返した。「ポールは自由なのよ、それなのにぐずで、能なしで、間抜けで、のろまだわ。わたしはひとりで世間に出るつもりよ。それに、わたしが働かなかったら、あの子はどうなって? わたし、働くわ、職を探すわ。そうしなくちゃ」
ジェラールにはわかっていた。やっとわかったところだ。これまでにない新しいモチーフが部屋を飾りはじめた。ポールは、香気に染って、|あの世に出掛けようとして《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、荘重な口調で述べられる、新しい罵倒に耳を傾けた。
「可哀そうな子」と彼女はつづけた。「力を貸してやらなくちゃ。まだ病気がひどいのよ、知ってるでしょ。お医者さんがね……(いいのよ、ジラフ、この子は眠ってるわ)お医者さんのいっていることが、とても心配なの。雪の球が一発当っただけで、引っくり返って、学校をやめさせられたのよ。むろん、この子が悪いせいじゃないわ。その点をどうのこうのというつもりはないけれど、わたしとしては不治の病人を抱え込んだようなものだわ」
「畜生、畜生!」眠ったふりをしていたポールはそう思ったが、顔がひきつり、その口惜しさを表情に出してしまった。
エリザベートは、目ざとくそれを見て、黙ってしまった。そして、巧妙な刑吏のように、また忠告を求めたり、弟に同情したりした。
ジェラールはポールの顔色がいいとか、背丈がのびたとか、力が強くなったとか反対のことをいった。すると姉は、弟が弱々しいとか、食いしん坊だとか、元気がないとか答えた。
ポールががまんし切れずに、もぞもぞして目がさめたふりをすると、エリザベートは優しい声で何か欲しくはないかと訊いて、話題を変えてしまった。
ポールは十七歳だった。十六歳のときから、二十歳のように見えた。ざりがにだの、砂糖などでは、もう満足できなかった。エリザベートは、調子をあげるべきだった。
眠ったふりをしているのはポールにとって不利で、それより一戦を交えたほうがいいと思えた。そこでわめき出した。エリザベートの苦情はたちまち罵倒に変った。ポールの怠けぶりは、犯罪的で、けがらわしい。姉さんを殺す気だ。姉さんにすっかりおんぶするつもりだろう。
逆にポールからすると、エリザベートは、ほら吹きで、変り者で、役に立たず、何にもできない、能なしの女ということになる。
そうまでいわれると、エリザベートは言葉を行動に移さざるを得なくなった。彼女はジェラールに、彼が女主人を知っている大きな洋裁店に紹介して欲しいと頼んだ。売り子になって、働くというのだ!
ジェラールは、彼女を連れて、女主人に会いに行ったが、エリザベートがあんまり美しいのにびっくりしたようだった。残念ながら、売り子という職業は、外国語をいくつか知っている必要があった。マネキンの資格でしか採用できなかった。ところが、洋裁店には前からアガートという親のない子がいた。この子に、エリザベートを預ければ、職場の心配はなくてすむだろう、と思われた。
売り子か? マネキンか? エリザベートにはどっちでもいいことだった。しかし、マネキンになれということは、彼女に初舞台を提供することだった。話がまとまった。この上首尾は、もう一つ珍しい結果をもたらした。
「ポールはびっくり仰天するわ」と彼女は予想した。
事実、どんな薬の利き目のせいか、芝居気はまったくなしで、ポールは猛烈に腹を立てて、僕は淫売婦の弟なんかになりたくないとか、いっそのこと姉さんは街娼になったほうがいい、などと身振りを交えて、どなり散らした。
「通りであんたに会うかも知れないなんて」とエリザベートは答えた「いやなこった」
「それに」とポールは嫌味をいった「姉さんは、お気の毒に鏡で自分の顔を見たことがないんだ。笑われるだけさ。一時間のうちに、お尻を蹴とばされて、くびさ。マネキンだって? 見当違いだよ。案山子《かかし》でもやらしてもらったほうがましだな」
マネキンたちの部屋は、ひどい苦難だった。それは初入学の第一日の苦難であり、生徒たちの悪ふざけであった。エリザベートは薄暗いところから出て、スポット・ライトの下で、高い台に登る。彼女は自分が醜いと思っているから、何かとんでもないことが始まると思い込んでいた。彼女の動物のような美しさが、厚粧化をし、くたびれ切ったモデルたちを傷つけた。だが、彼女はモデルたちの嘲笑を凍らした。妬《ねたま》しく思って、みな彼女からことさら顔をそむけた。こうした仲間はずれは、とてもつらかった。エリザベートは仲間たちを真似ようとした。観客に説明を求めるかのようにして、観客のほうに歩いて行き、その面前まで行くと、こんどは軽蔑したように、くるりと背を向けていってしまうやり方を、じっと観察していた。彼女のような女は理解してもらえなかった。彼女の美しさを殺してしまうような、目立たない服を着せられた。アガートの替え玉といった恰好だった。
エリザベートにとって未知の、宿命的な、暖かい友情が、こうした親のない二人の女を結びつけることになった。二人の困難さは似ていた。衣裳の着替えのあいまに、白い仕事着を着て、彼女たちは、毛布のなかに坐り込んで、本を取り替えっこしたり、お互いに打ち明け話をしたり、心を暖め合ったりしていた。
そして、地下室で職人が作った部品が、最上階の職人が作った部品とうまく合うように、アガートは例の部屋のなかに難なく入り込んできた。エリザベートは、弟が少しぐらい抵抗することを期待していた。「その子はビー玉みたいな名前なのよ」と前もっていっておいた。ポールは、彼女の名はなかなかいい、フランス語の一番美しい詩の一つ〔ボードレールの「悲しくさまよって」のこと〕では快速帆船《フレガート》と韻を踏んでいる、と述べるのであった。
ジェラールをポールからエリザベートへと移らした仕掛けが、アガートをエリザベートからポールに向けさせた。この例は思いがけないことではなかった。ポールはアガートの前だと心が騒いだ。自分を分析することの不得意なポールが、この親なし子を|楽しいもの《ヽヽヽヽヽ》のなかに分類した。
そこで、彼は知らないうちに、ダルジュロスの上に積みあげていた夢のもやもやした塊りを、アガートの上に移してしまった。
ある晩、少女たちが部屋にやってきたとき、彼は雷に打たれたような啓示を受けた。エリザベートが宝物を説明していたとき、アガートはアタリーの写真〔ダルジュロスの扮装したもの〕をつかんで、叫んだ。
「あたしの写真を持っているじゃないの」それが妙な声だったので、ポールはアンティノエの若いキリスト教徒のように、両肱で体を持ちあげて、墓場から顔を出した。
「あんたの写真じゃないことよ」エリザベートがいった。
「ほんと。衣裳がちがうわ。だけど信じられないくらい似ている。こんど持ってくるわ。あたしとぜんぜんそっくりよ。あたしの生き写しだわ。誰なの、これ?」
「女の子じゃないわ。コンドルセ中学の生徒でね、ポールに雪の球をぶつけた子よ……ほんとうにあんたに似てるわね。ポール、このひとダルジュロスに似てると思わない?」
ちょっといわれただけで、これまで彼が考えまいとしてきた二人の似てる点が、急にはっきりしてきた。ジェラールは、あの不吉な横顔をみとめた。アガートが、ポールのほうを向いて、白い台紙を振りまわした。すると、ポールには真紅《まっか》な薄暗がりのなかに、ダルジュロスが雪の球をぐるぐる廻す姿が見え、あのときと同じような衝撃を受けたように感じた。
彼はうなだれて、消え入りそうな声でいった。
「ちがうよ、君。似ているのは写真さ。君はあの男とぜんぜん似ていないよ」
この見えすいた嘘は、ジェラールを不安にした。誰が見てもそっくりだったのだ。
事実、ポールはこれまで心の底に埋もれた熔岩に触れることをけっしてしなかった。その深層はあまりにも大切だったし、自分自身の不器用さを恐れていた。|楽しいもの《ヽヽヽヽヽ》は噴火口のふちで止って、その水蒸気が恍惚たる感じで、彼をしびらせるのだった。
この晩から、ポールとアガートのあいだに、お互いに交叉した糸で布地が織られた。時間が償いをつけて、特権が入れ替わった。溶けることのない愛情で、他人を傷つけた、あの誇り高いダルジュロスが、気の弱い少女に変貌し、ポールに支配されることになった。
エリザベートは写真を抽だしのなかに放り込んだ。その翌日、それが暖炉の上に出してあるのを発見した。彼女は眉をひそめた。何もいわなかった。頭だけがはたらいた。霊感が閃いて、ポールが壁にピンでとめた暴力団員《アパッシュ》ども、探偵たち、映画スターたちはみな孤児のアガート、ダルジュロス=アタリーによく似ていることに気がついた。
この発見は、エリザベートを名状のできない、息の詰るような混乱に陥れた。これはひどすぎる。ポールはこっそり隠しているんだわ。ごまかしている。あれがごまかしているのなら、こっちも一緒になってごまかしてやる。わたしはアガートに近づいて、ポールを除け者にして、何を訊かれても知らん顔しているから。
部屋のなかにいる顔が、どれも一族らしい様子になるのは、事実だった。ポールにそのことを指摘してやれば、びっくりしたのにちがいない。彼が追及していたタイプは、無意識に追及していたのだ。自分ではタイプなんかないと思っていた。ところが知らないうちに、このタイプが彼に及ぼした影響と、ポールのほうが姉に及ぼした影響は、ギリシア式の破風で、二本の線が下部で相反して、上方で交叉しているように、彼らの無秩序は、何本かの直線が途中で、必然的に交り合うのであった。
アガートとジェラールは、乱雑な部屋を共有していて、それはますますジプシーのテント生活に似てきた。馬だけがないけれど、ぼろを着た子供たちは十分いた。エリザベートは、アガートを泊める提案をした。マリエットが「空き部屋」を片づけてくれればいい。アガートなら悲しい思い出を起こすこともない部屋だ。「ママの部屋」は、前に見たことのある人、それを思い出す人、夜になって暗くなるのを立ったまま待っている人には、つらい部屋だった。
アガートは、ジェラールに手伝ってもらって、数個のスーツケースを運び入れた。彼女はすでにこの家の習慣、夜更かしや、睡眠や、喧嘩や、無秩序や、嵐や、凪《なぎ》や、カフェ・シャルルや、サンドウィッチのことは、よく知っていた。
ジェラールは、マネキンたちの帰りの出口で、少女たちを待ち伏せていた。ジェラールたちはぶらぶら歩きをしたり、すぐモンマルトル街の家に帰ってきた。マリエットはいつも冷たい夕食を用意しておいてくれた。彼らはそれを食卓の上以外どこでも食べた。翌日になると、ブルターニュ生まれの婆さんは、卵の殻を集めて廻るのであった。
ポールは運命が彼のために与えてくれた償いを早く利用したいと思った。ダルジュロス役を演じたり、彼の尊大ぶりをまねすることはおぼつかないので、部屋にころがっていた昔風の武器を使用した。つまりアガートをひどくいじめるのであった。エリザベートは、彼女のために弁護した。するとポールはぐるになって姉を苦しめるために、おとなしいアガートに味方した。四人の孤児たちは、それぞれがそれを有利だと思った。エリザベートは会話をもつれさせる方法を思いつき、ジェラールは一時《いっとき》息をついた。アガートは、ポールの傲慢さと、彼自身とに眩惑された。アガートが姉を罵倒する口実になってくれなかったら、ダルジュロスではないポールには、傲慢さを発揮することはできなかったろう。
アガートは喜んで犠牲者になった。なぜならこの部屋には愛情の電流が充満していることを感じたからだ。そのどんなに猛烈な衝撃を受けても危険ではなく、海のオゾンの香りが蘇らしてくれるからだ。
アガートは、コカイン中毒者の娘で、いじめ抜かれたが、両親はガス自殺してしまった。ある大きな洋裁店の支配人が同じ建物に住んでいた。彼が娘を引き取り、女主人のところへ連れていった。見習奉公をしたあとで、彼女はマネキンとして衣裳を着られるようになった。ここで彼女はつかみ合いや、悪口雑言や、意地悪な悪ふざけを知った。部屋の連中が彼女をすっかり変えてしまった。この連中には岩に砕ける波、頬を打つ風、羊飼いの衣類を剥ぐいたずらな稲妻などを思わせるものがあった。
このような違いがあっても、麻薬の家で、彼女は、薄暗がり、脅迫、家具を壊してしまう追いかけっこ、夜食べる簡易食などと慣れっこになっていた。モンマルトル街での普通の少女なら呆気にとられるようなことでも、彼女は驚かなかった。彼女は厳格な学校を出ていたので、その学校の制度が、彼女の眼や小鼻のまわりに、何か野性的なものを刻み込んだ。それが最初、ダルジュロスの尊大さと見間違われたのであった。
部屋のなかでは、アガートは上昇し、まるで自分の地獄から天にのぼるようなものだった。彼女は生きた、呼吸した。不安になるようなものは何もなかった。友達が麻薬を使うのではないかと心配する必要もなかった。というのは、彼らは生まれつきの、嫉妬深い麻薬の影響を受けて振舞っており、麻薬を使うのは彼らにとって白の上に白を、黒の上に黒を重ねるようなものだったからである。
しかしながら、一種の錯乱状態になることもあった。熱っぽい雰囲気が部屋を歪んだ鏡に映し出すことになった。すると、アガートはふさぎこんで、生まれつきの、神秘な麻薬であってもやはり有害ではなかろうか、どんな麻薬も結局はガスで窒息することになりはしないかと思い悩むのであった。
それが、バラストを投げ捨てて、平衡が取り戻されると、そうした疑いも消えて、彼女はほっと安心するのであった。
しかし、麻薬は存在した。エリザベートとポールは、生れながらにして、血のなかにこの驚くべき物質を循環させていた。
麻薬は周期的にはたらき、その外見は変化した。外見の変化と現象の周期の異った段階は、一挙に起こるわけではなかった。その推移は眼に見えず、混沌とした中間地帯をつくり出した。物事は新しい構図を形成するために、あべこべに動いて行った。
例の夢幻の遊びは、エリザベートの生活でも、ポールの生活でも、ますます重要でなくなっていた。ジェラールは、エリザベートにうつつを抜かしていて、もう遊ばなかった。姉と弟はまだやってみようとしたが、うまくいかないのでいろいろしていた。二人とも|出掛ける《ヽヽヽヽ》ことがなかった。夢幻の糸が途切れて、彼らはただ茫然とした感じだった。実際は、他の場所に出掛けていたのである。自分から外部に抜け出す術には慣れていたのだが、彼らは自分の内部に埋没する新しい状態を放心と呼んでいた。ラシーヌの悲劇の心理的な葛藤が、ヴェルサイユ宮の祭典では神々を出現させたり、引込ませたりするために詩人が用いた仕掛けに変ったのである。だから彼らの祭典はすっかり混乱してしまった。自分のなかに沈潜することは、訓練を要するけれど、それは彼らには不可能なことであった。そこで出会うものは、暗闇であり、感情の亡霊に他ならなかった。『チェッ! チェッくそ!』と、ポールはぷりぷりして叫んだ。皆が顔を上げた。ポールは夢幻《オンブル》の国に出掛けられなくて怒っているのだった。この『チェッ!』は、遊びの間近まで行きながら、アガートのある身振りを思い出して、邪魔された不機嫌を現わしていた。これはアガートの責任だといって、この不機嫌を彼女にぶちまけるのだった。この八ツ当りの原因は、あまり単純なので、ポールには内面的にわかり、エリザベートは外側からすっかりわかった。エリザベートもまた、沖に乗り出そうとしていたが、いろいろと思い悩んで、方向を誤っていたが、自分から抜け出す口実はすばやくつかんでしまった。彼女は弟の恋の恨みを思い違いしていた。『アガートはあの男に似ているもんで、ポールがいらいらするのだわ』と彼女は呟いた。そして、この姉弟は、以前は解決できないものを巧みに分析したものだったが、自分たちを分析することは不得意なので、またもやアガートをだしにして罵り合いの口喧嘩を始めるのだった。
あまり大声を出すと、声がしゃがれてくる。口喧嘩もゆっくりになり、終ってしまう。そして、この仇敵同士は、自分たちが現実生活にとらわれており、それが夢の世界を侵し、無実なものばかり充満している子供時代の植物的生活をめちゃめちゃにしたことに気がつくのだった。
エリザベートがダルジュロスの写真を宝物の中に入れた日、自己保存のどのような不思議な本性が、どのような魂の反射作用が、彼女の手を躊躇させたのだろうか? ポールを、その悩みとは釣り合わない、軽快な声で、『これを入れてもいいかい?』と叫ばせた別の本性、別の反射作用は、おそらく彼女のそれらの影響だったろう。どちらにしても、ダルジュロスの写真は、無害というわけにはいかなかった。ポールは、現行犯でつかまった人が、快活そうな様子で、何か出まかせをいうように、そのことを持ち出したのだ。エリザベートはさして気乗りもしない様子で賛成し、人を馬鹿にした身振りをして、部屋を出て行ったが、それはポールとジェラールに対して、自分は万事承知しているし、彼らが小細工を弄して反抗してきたところで平気だということを目的としていた。
前にもいったように、抽だしが沈黙していることが、次第に陰険にこの写真を事物化してしまったので、アガートが腕のさきに振り廻したとき、ポールは写真をあの神秘的な雪の球と同じ物だと思ったのも無理からぬことであった。
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第二部
数日来、部屋は大揺れだった。エリザベートは、ポールにはまったく関係のない何か|楽しい《ヽヽヽ》こと(と彼女は強調した)を隠しているふうを見せたり、ぼんやりほのめかしたりして、彼を苦しめていた。彼女はアガートを相談役、ジェラールを共犯者として扱っていた。そしてこのほのめかしがわかりそうになると、眼くばせをした。この企みは思いの外うまくいった。ポールは好奇心に身を焦がして、じりじりしていた。ただ自尊心からジェラールやアガートの側につくことができなかった。この二人には、口を割ったら絶交するといってエリザベートが黙っているように仕向けたのにちがいなかった。
ついに好奇心が勝った。エリザベートが『楽屋口』と呼んでいたところで、彼はこの三人を待ち伏せていた。そして、スポーツマンふうの青年がジェラールと、洋裁店の前で待っていて、この連中を車に乗せて連れ去るのを見つけた。
その晩の情景は怒りの激発だった。ポールは、姉のエリザベートとアガートはけがらわしい淫売婦で、ジェラールをポン引き扱いにした。僕はこの家を出るよ。女どもは男を引き込んだらいい。どうせこうなるだろうと思っていたよ。マネキンっていうのは淫売婦、それも下等な淫売婦だ。姉貴はアガートを啣《くわ》えて来た猟犬で、何もかもジェラール、そうだ、ジェラールの責任だ。
アガートは泣き出した。エリザベートが、落ち着き払って『いわしておけばいいわ、ジェラール、この人、ばかげているわ……』といったけれど、ジェラールは怒って、あの若者は叔父が知っていて、名前はミカエル、アメリカ系のユダヤ人で、大変な金持だ。だから陰謀は止めにして、ポールに紹介するつもりだった、と説明した。
ポールはそんな『いやらしいユダヤ人』を紹介してもらうのは断る、明日、待ち合わせの時間に、あいつをなぐりに行く、とわめいた。
「恐れ入るよ」ポールは憎しみで眼をぎらぎらさせてつづけた。「ジェラールと君は、あの娘《こ》を連れ出して、そのユダヤ人の腕に押しつけた。おそらく売り飛ばそうって、いうんだろうよ」
「見当ちがいだわ」エリザベートが答えた「あんたにはっきりいっておくけど、あんたのとんでもない思いちがいよ。ミカエルは|わたし《ヽヽヽ》のためにきて、わたしと結婚したがっているのよ。あの人、わたしも気に入ったわ」
「結婚? 結婚するって、君とね! 気でも狂ったのかね。いったい、鏡を見たことがないのかい。君は結婚できる柄かね、醜い女で、ばかでね! それも飛びきりのばかもんさ! あいつは君をからかっているのだ! だましているのさ!」
そういって、彼はけたたましく笑った。
エリザベートは、ユダヤ人とか、そうでないとかいうことは、ポールにとっても、彼女にとっても問題にならないことは承知していた。彼女は熱っぽくなり、とてもいい気持だった。彼女の心が大きくひろがって、部屋の壁までふくらむかのようだった。ポールのこうした笑い方は、大好きだった! 顎の線がなんと残忍になることか! 弟をこれほどなぶりものにするのはなんといい気持か!
その翌日、ポールは自分がこっけいだったと思った。彼の八つ当りは程度を越していた。アメリカ人がアガートに焦《こが》れているんだとばかり思っていたことなどは忘れてしまい、『エリザベートは自由だ。彼女は誰とだって結婚し、誰の夫にだってなれる。僕にとってはどうだっていいことだ』と思った。なんだってあんなにかっかとしたんだろう。
しばらくすねてはいたが、次第に説き伏せられて彼はミカエルと会うことになった。
ミカエルはこの部屋とはまったく対照的だった。その対照があまりにもはっきりし、著しかったので、その後は子供たちの誰もこの部屋にミカエルを招じ入れようとしなかった。彼らから見れば彼は外部を現わしている人間だった。
一見しただけで、彼は地上の人間だった。彼は地上に何でも持っていて、スポーツカーだけには夢中になることがあるようだった。
この映画スターのような青年は、当然ポールの偏見を打ち破るにちがいなかった。ポールは負けた、惚れ込んだ。この小さなグループは、街々を車ですっ飛ばした。これは四人の共犯者たちが部屋に帰らざるを得ない時間と、ミカエルが天真爛漫に眠ることにしている時間以外はそうした。
ミカエルは、夜の共謀の際にも評判を落とさなかった。みんな彼を夢想し、崇拝し、すっかり別格扱いにしていた。
その後で彼と会ったとき、彼は自分が『真夏の夜の夢』のなかで、ティターニア〔妖精の女王〕が眠っている人々に与えたのと同じ魅惑を持っているなどとは思ってもみなかった。
「なぜわたしはミカエルと結婚しないのだろう?」
「なぜエリザベートはミカエルと結婚しないのかな?」
別々の二つの部屋が、近い将来に実現されるにちがいない。驚くべきスピードで、彼らは不条理な考えを抱き、それぞれ部屋のプランを頭で描いたりした。それは一つの皮膜でつながった双生児が、インタヴューに際して、野心的に未来の計画をそれぞれ漏らすのに似ていた。
ジェラールたちはじっと我慢していた。彼はそっぽを向いた。ジェラールが巫女や聖処女と結婚するなどは思いも寄らなかった。映画でよくあるように、若いレーサーが彼女をさらっていく必要があった。彼なら聖地の禁制など知らないから、そんな無茶もできるだろう。
そこで、部屋は前のままであった。結婚の支度は進められていた。均衡はかろうじて保たれていた。舞台と客席のあいだに、道化役者が椅子を高く高く積み上げたときに、嘔き気を催すようなあの均衡であった。
目まいがするような嘔き気が、砂糖菓子の味気ないむかつきに変った。この恐るべき子供たちは無秩序を、感覚の汚らしいごった煮を、腹に詰め込んでしまった。
ミカエルは物事を別の目で眺めていた。君は神殿の処女と婚約したね、などといわれようものならびっくり仰天したであろう。彼からすればすばらしい少女を愛し、彼女と結婚するだけであった。彼は、にこにこしながら、彼女にエトワール広場の屋敷と、自動車と、財産を提供したのである。
エリザベートは、自分の部屋をルイ十六世式に飾りつけた。サロン、音楽室、体操室、プールなどは、ミカエルに任せておいた。それに、とても変っただだっ広いホールは、仕事部屋みたいであり、食堂のようでもあり、ビリヤード室にも、フェンシング場にもなったが、そこには樹々を見下ろすような高いガラス窓がついていた。アガートはエリザベートについていくことになっていた。エリザベートは、彼女のために、自分の部屋の真上に、小さい続き部屋を用意しておいた。
アガートはあの部屋と縁切りになるのが辛かった。彼女はあの部屋の魔力とポールとの親密さを思って、こっそりと泣いていた。あのような夜々はどうなってしまうだろう? 姉と弟の間の接触が途切れて、そこから奇蹟が飛び出したのだ。こんどの別離、この世界の終り、この難破は、ポールもエリザベートも平気のようだった。彼らは行為の直接的な、また間接的な結果を慮《おもんぱか》ろうともせず、また名作劇が筋の進行や結末の接近などを一向に気にしないように、そんなことを問題にしなかった。ジェラールは自分を犠牲にした。アガートはポールのいうがままに従った。
ポールはこういった。
「これはとても具合がいいや。叔父さんが留守のときは、ジェラールがアガートの部屋(もうママの部屋とはいってなかった)を使える。そして、ミカエルが旅に出たら、娘たちはこの家に帰ってくればいい」
娘たちということばは、ポールが結婚を納得せず、行く先き先きを不安に思っていることを意味していた。
ミカエルは、ポールを説得して、エトワール広場の屋敷に住まわせようとした。彼は孤独を貫く計画を固守して、それを断ってしまった。そこでミカエルは、マリエットぐるみで、モンマルトル街の家の費用を一切合財面倒見るように請け合った。
花婿の計り知れない財産を管理している人たちが立ち会って、簡単な結婚式をすませたあとで、ミカエルは、エリザベートとアガートが落ち着くまで、一週間ほどエーズ〔南仏のエースとマントンのあいだの古い村〕ですごすことに決めた。彼はこの村に家を建築中で、大工たちが指図を待っていた。彼はスポーツカーで出発した。家庭生活は、帰ってから始めることになっていた。
しかし、部屋の精霊が監視していた。
このことを書く必要があるだろうか? ミカエルは、カンヌとニースのあいだの路上で事故死した。
彼の自動車は車体が低かった。首に巻いた、翻っていた長いマフラーが、車輪の轂《こしき》のまわりに捲きついた。マフラーが彼の首をしめ、無残にも首を刎《は》ねてしまった。自動車がスリップし、立木にぶつかって、ぺちゃんこに潰れてしまったあいだに。自動車は静寂な廃物となり、一つ残った車輪が富籤《とみくじ》の輪みたいに、ゆっくりと空転していた。
遺産相続、署名、管理人たちとの相談、服喪《ふくも》と疲労など、結婚については、法的な手続のことしか知らなかった若妻はすっかり参ってしまった。叔父も医者も財政的援助をする必要がなくなって、労力だけを提供することになった。だからといってより感謝されるというわけでもなかった。エリザベートは、彼らに厄介なことは何もかも任した。
管理人たちと協力して、彼らは書類を分類し、計算し、もはや単に数字を表すだけになり、それも想像を絶する額の数字となったものを総計した。
ポールとエリザベートが生まれつき持っていた富への適応性については、前にも述べたが、そのせいでそれ以上何か富をふやすことなどはできないことであった。遺産相続がそのいい証拠だった。劇的な事件の衝撃のほうが、彼らを大きく変えた。彼らはミカエルを愛していた。結婚と死という驚くべき事件が、この秘密の美青年を、秘密の地域に運び入れた。生きたマフラーが彼の首をしめたために、例の部屋のドアが彼に対しても開かれた。そういうことがなければ、ミカエルはけっしてこの部屋に入れなかったにちがいない。
モンマルトル街で、姉と弟が髪を掴んで喧嘩していたころ、ポールが熱望していた独り暮らしの計画も、アガートが家を出てしまったために味気ないものになった。この計画は、自己中心の貪欲さのあった時代には意味があった。年齢を重ね、欲望が増してきた今となっては、全く無意味になった。
こうした欲望とはいったい何なのかはっきりしなかったけれど、ポールはあんなに望んでいた孤独が何の役にも立たないだけではなく、逆に、その恐るべき虚しさのために、彼の胸に空洞ができたことに気づいた。そこで、気分がすぐれないのを理由に、彼は姉と同居することを承知した。
エリザベートは弟にミカエルの部屋をあてがった。その部屋は広い浴室を挟んで彼女の部屋と隣り合っていた。下男たち、三人の混血児と下男頭の黒人たちは、アメリカへ帰国したいと申し出た。マリエットは同郷のブルターニュ女を雇った。運転手は残った。
ポールが引き移って来るとすぐに、寝室は改造された。
アガートは、上の階で、ひとりきりなので怖がっていた……ポールは円柱つきのベッドでよく眠れなかった……ジェラールの叔父がドイツの工場視察に出掛けた……結局、アガートはエリザベートのベッドに寝るようになり、ポールは寝具を引っぱってきて、ソファの上に塒《ねぐら》を作り、ジェラールは自分のショールを積み重ねた。
自動車事故以後、ミカエルは、どこへ持って行っても、勝手に作り変えられる抽象的な部屋に住んでいた。聖処女! ジェラールは正しかった。彼も、ミカエルも、世の男は誰であろうと、エリザベートを所有することなどはできないだろう。愛情は彼にこの不可解なサークルを示し、そのために彼女は人間的愛情から孤立し、それを侵すものは生命を失うという危険があった。仮にミカエルがこの処女を所有したところで、聖堂は所有できなかっただろう。彼は死んで初めてそこに住めるようになったのである。
この屋敷には、半ばビリヤード室、半ば仕事部屋、半ば食堂といったふうなホールがあることは、読者諸君も覚えているだろう。この妙なホールは、それらのいずれでもないので、何の役にも立たないという始末だった。階段に敷きつめたじゅうたんは、右側のリノリウムを横切って、壁際までのびていた。部屋に入ると、左側に吊り燭台みたいなものの下に、食堂のテーブルがあり、数脚の椅子と、好きなような形に折り曲げられる木製の屏風が見えた。この屏風が食堂らしい部屋と仕事部屋らしい部屋を遮《さえぎ》っており、仕事部屋には長椅子、革張りの肱掛椅子、廻転式の書棚、地球の平面図があって、もう一つのテーブルのまわりに雑然と並べられている。テーブルは建築家用のもので、その上に反射鏡のついた電気スタンドがあり、それがこのホール全体の唯一の光源であった。
揺り椅子がいくつかあったが、がらんとした感じの空間を通り過ぎると、ビリヤード室がある。ここも静まり返っていて、どきっとするほどだ。ところどころに、高い窓ガラスから天井に向けて、見張り用の光線が投げかけられ、床に近いほうは外部から照明され、まるでフットライトのようで舞台めいた月光のなかに一切を浸していた。どこかに龕燈《がんどう》でもあるのか、窓のどれかがすーっと開いて、泥棒が音もなく跳び込んでくるのではないかといった感じだった。
この静寂と、このフットライトは雪景色を思い出させた。前にモンマルトル街で宙に浮かんだように思えたサロンを、それからまた雪のためにホールぐらいの大きさに縮小した雪合戦前の、モンティエ広場全体を思い浮かべさせた。それはまったく同じような孤独であり、期待であり、ガラス窓のために蒼白いあの建物の正面にそっくりだった。
この部屋は、建築家が台所か階段をつけ忘れて、もうどうしようもないといった、とんでもない計算上の手ぬかりがあるかのように見えた。
ミカエルはこの家を改築した。だが、いつも結局はそこへ出るという袋小路の問題はどうにも解決がつかなかった。しかし、ミカエルのような人間にとっては、計算上のミスは、生命の発露だった。機械が人間化されて、負ける瞬間だった。生きているとは思えない致命的な点は、生命が遮二無二逃げ込んだ場所であった。やりきれない建築様式と、コンクリートと鉄の大群に追いつめられて、生命は、この大きな片隅に避難したのだった。それは地位を追われた王女が、何も彼も身につけて逃亡する姿に似ていた。
この屋敷に感心して、こういう者もいた。『余計なものは何もない。無そのものだけだ。大金持にとっては、やはりちょっとしたものだ』ところがニューヨークに惚れ込んでいる連中は、この部屋を軽蔑したにちがいないが(ミカエルもそうだったが)、これがどんなにアメリカ的であるかを夢にも思ってみなかったのである。
鉄や大理石よりもはるかに、この屋敷は、オカルト信者、接神論者、クリスチャン・サイエンス派〔信仰によって万病が癒えると説く〕、クー・クラックス・クラン〔反ユダヤ的秘密結社〕を、女相続者に神秘な試練を課する遺書、葬儀屋クラブ、廻転するテーブル、エドガー・アラン・ポーの夢遊病者たちを物語っていた。
この狂人病院の応接室、死人が物質化して、その死を遠方から知らせるための理想的な装置は、四十一階の大聖堂、内陣、祭壇などに対するユダヤ的な好みをさらに示していた。上流婦人たちはオルガンを弾いたり、蝋燭を点《とも》したりしながら、ゴチック風の礼拝堂に住んでいた。なぜなら、ニューヨークは、ルルドより、ローマより、全世界のどんな聖都よりも、蝋燭を多く消費するからである。
このホールは、ある種の廊下を横切れない子供、夜眼が醒めると、家具がみしみしいう音が聞こえたり、ドアの把手が廻る音が聞こえたりするときに怯《おび》える子供たちのために作られている。
そしてまた、このがらくたで一杯の奇怪な部屋は、ミカエルの弱味でもあり、彼の微笑、その魂の最良の部分を現わしていた。その弱味は、彼の内部に何かが、子供たちと出会う前から存在していたことを示し、そして、その何かが彼を子供たちにふさわしい人間にしていた。それが部屋から彼を追い払うのは正当ではなく、また彼の結婚と悲劇が宿命的であることを証明していた。ある大きな神秘がそこに明かされそうになっていた。エリザベートがミカエルの妻になったのは、彼の財産のためでも、力のためでも、彼の優雅さのためでもなく、彼の魅力のためでもなかった。彼女は彼の死のために、その妻となったのだった。
そして、子供たちが、このホールは別として、屋敷のなかの方々に、部屋を探したのは、当然だった。彼らの二つの部屋のあいだを、苦悩する魂のようにさまよった。眠れない夜は、鶏が鳴くと逃げ出す軽やかな亡霊ではなくて、なおも家のなかに漂っている不安な亡霊だった。ようやくそれぞれ部屋を持ち、もうとり消す気などは起きず、彼らは狂人のように部屋に閉じ籠もるか、部屋から部屋へと敵意をもった足どりで、唇を固く結んで、短刀を突きさすような視線で歩き廻っていた。
このホールは、子供たちに呪縛するような声で呼びかけずにはおかなかった。それは彼らを少々恐れさせ、その閾《しきい》をまたぐ妨げとなった。
彼らはこの部屋の奇妙な魔力の一つに、それも少なからぬ魔力があるのに気がついた。このホールは、ただ一つの錨《いかり》につながれた船のように、あらゆる方向に勝手に漂っていた。
どこか他の部屋にいると、ホールはどっちにあるのかわからなくなるし、そのなかに入ってしまうと、他の部屋と関連した位置が見当つかなくなる。台所のほうから聞えるかすかな皿の音で、ようやく方向がきまるといった具合だった。
このような物音と魔法は、子供のころスイスのホテルで過ごしたときのことを思い出させた。ケーブルカーに乗ったあとで夢心地でいると、ホテルの窓は下界の上に垂直に開いており、氷河は正面のすぐ眼の前に迫っていて、そのダイヤモンドで出来た宮殿は通りの向い側にあるように見えた。
こんどはミカエルの番で、子供たちをしかるべきところへ案内し、金の葦《あし》〔聖都への道しるべとして用いる〕を引き抜いて、境界線を描き、彼らに場所を指し示すのであった。
ある晩、ポールが寝るのをエリザベートが邪魔するので、彼はふくれて、ドアをばたんと閉めて、飛びだしていき、ホールのなかに逃げ込んだ
観察は、彼の苦手だった。しかし、彼は放射物を烈しく受けいれて、たちまちそれを録音し、自分用にオーケストラに編曲した。
光と影の面が交替する、この神秘な廊下に入り、誰もいないスタディオの装置のなかに閉じこめられると、彼はたちまち何物も見落したり聞きのがしたりしない、用心ぶかい猫に変身した。その眼は光り輝いた。立ち止って、からだをまるくし、匂いを嗅いだりした。この部屋をモンティエ広場にしたり、夜の静けさを雪の降る夜にすることはできないが、前世にすでに見たものを心の奥でふたたび見出すのであった。
彼は仕事部屋をじろじろ見て、立ち上って、歩き廻り、肱掛椅子を孤立させるように屏風を廻し、そこに横になった。そして満ち足りた思いで、|出掛けよう《ヽヽヽヽヽ》とした。ところが、装置が人物を捨てて、行ってしまった。
彼は苦しんでいた。自尊心が傷つけられた。ダルジュロスの身替りの人物にたいする復讐は、みじめにも失敗した。アガートが彼を支配したのである。そして、彼女を愛しており、その優しさによって支配され、征服されるままでいなければならないことを理解しないで、彼はそっくり返って、立ちはだかり、自分の悪魔だと信じたものと、悪魔的な宿命と格闘をした。
樽の水をゴム管で別の樽にあけるには、ちょっと呼び水するだけで足りる。
翌日、ポールは、気持を変えて、セギュール夫人〔十八世紀の童話作家〕の『休暇』に出てくるような小屋を作ることにした。屏風を集めて、ドアを一つつけた。上の方が開いているこの囲いは、この場所の超自然的な存在に加わることになったが、無秩序に満ちあふれていた。ポールはそのなかに、石膏像、宝物、本、空き箱などを持ち込んだ。汚れた下着が積み上げられた。そうした光景を映している大きな鏡。折畳み式ベッドが肱掛椅子の代りになった。赤い安木綿の布がスタンドにかぶせてあった。
初め何回か見物に来たが、エリザベート、アガート、ジェラールは、このような家具の魅惑的な風景から離れて暮らすことが出来なくなり、ポールを追いかけてそこに引越してきた。
みなは生き返った。キャンプを張った。月光と影の溜りを利用した。
一週間たつと、魔法壜がカフェ・シャルルの代りとなり、屏風が、リノリウムで囲まれた孤島であるただ一つの部屋を作っていた。
別々の部屋で気まずくなって以来、アガートとジェラールは、自分たちは邪魔者だと感じ、ポールとエリザベートの気むずかしさ(それは意気の上らない気むずかしさだったが)は、失われた雰囲気のためだと思って、二人でよく外出した。彼らの深い友情は、同病相憐むものの親密さであった。ジェラールにとってエリザベートがそうであったように、アガートはポールを地上はるかに高い存在であると思っていた。二人とも恋をしていたが、不平をいわず、あえて自分たちの愛情をはっきりさせようとはしなかった。台座のほうから頭をあげて、それぞれの偶像を崇めていた、アガートは雪の若者を、ジェラールは鉄の処女を。
ジェラールも、アガートも、自分たちの熱情が報いられて、好意以上のものが得られるなどと思いもしなかったろう。彼らはエリザベートとポールが、寛大にしてくれることをすばらしいと思い、姉弟の夢にのしかかることを恐れ、自分たちが重荷のように思えるときは、慎重に身を引くのであった。
エリザベートは自動車のことを忘れていた。運転手がそのことを思い出させた。ある晩、彼女はジェラールとアガートを散歩に誘って出た。ポールは、ひとり家に残って、いつもの姿勢で閉じこもっていたが、自分が恋をしていることを発見した。
彼はアガートの贋物である写真を、めまいがするほど見詰めていた。この発見は彼を化石にした。目から鱗《うろこ》が落ちた。彼は組合せ文字を解読する人に似ていて、初めは文字が絡んでいるように見えた意味のない線が、もう目につかなくなった。
屏風には、女優の支度部屋のように、モンマルトル街で破いて持ってきた雑誌の肖像がべたべた貼ってあった。それらは、明け方に接吻のような大きな音を立てて開く蓮の花の咲くシナの沼に似て、殺人犯の顔や女優の顔を一挙に咲かせていた。ポール好みの顔が、鏡ばかりの宮殿でますます数を増しながら浮かび上ってくるのであった。それはまずダルジュロスに始って、暗い街頭で拾った下らない娘っ子を映し、それから薄い仕切り板のなかにいる女たちの顔がちらつき、最後にアガートの顔になって純化された。真の恋になるまで、何と多くの準備と、下書と、修正が必要なことか! 自分は若い娘と生徒ダルジュロスが偶然似ていることの犠牲だと思っていたポールは、運命がいかに悠然と武器を運び、照準を定め、心臓を見つけるものであるかを思い知った。
そして、ポールの秘密の趣味、特殊なタイプへの趣味などは、ここでは何の役割も果たさなかった。運命が数多くの少女のなかから、エリザベートのコンパニオンとしてアガートを選んだからである。だから、そもそも誰の責任かとなると、ガス自殺の一件まで遡《さかのぼ》らねばならなかった。
ポールは二人がめぐり会ったことに感嘆したが、彼の突然の彗眼《けいがん》が自分の恋にだけに限られていなかったら、その驚きは果しないものだったろう。そうなれば彼は運命の仕業がどんなものかに気づいたであろう。運命はレース編みの女たちの針の動きをゆっくりと真似て、クッションのように僕たちを膝の上にのせて、針で突きさしていくのである。
自分をしっかりさせ、安定させるには不向きな部屋で、ポールは自分の恋を夢想していたので、最初はアガートを何か現実的な形でそれと結びつけることをしなかった。彼はひとりで恍惚としていた。ふいに彼は鏡のなかの自分の顔がふやけているのを見て、自分の愚行に対して気むずかしい表情をしていることを気恥しく思った。前には悪に対しては悪をもって報いようとした。ところが、彼の悪は善となってしまった。そこですぐにでも善には善をもって報いようとした。そんなことは可能であろうか? 彼は恋していた。それは彼も愛されているとか、いつかは愛されるだろうということを意味するものではなかった。
他人に自分を尊敬させるなどとは思いも寄らないので、アガートが尊敬してくれるのは、嫌悪の情から生ずるとさえ思われた。そう考えると苦しくはなるけれど、自尊心からくると思われていたわけのわからない苦しみとは、もう何の関係もなかった。その苦しみは彼の心に溢《あふ》れ、苛《さいな》み、解答を要求した。その苦しみは少しも静止していなかった。動き廻って、何をなすべきかを探し求めなければならなかった。打ち明けるなんてとうていできないだろう。それにどこで打ち明けたらいいのか? 共通の宗教の儀式、宗教分裂を考えると、内通などはとうてい不可能だし、混沌たる生活様式では、特定の日時に特別のことを認めることなどはほとんどあり得ないので、思い切って打ち明け話をしたところで、そのことばは本気とは思われないだろう。
彼は手紙を書くことを思いついた。一つの石が投げられ、静寂がみだされた。二つめの石は、その結果は予想もつかないけれど、彼の代りに結末をつけてくれるだろう。この手紙(速達)は運まかせになるだろう。それがみんなが集っているところに着くか、アガートひとりのところに着くか、それによって反響もちがってくる。
彼はその動揺を隠し、翌日までは仏頂面していて、その間を利用して手紙を書き、顔の赤いのを見られないようにと思った。
この戦略はエリザベートを焦立たせ、可哀そうなアガートをしょんぼりさせた。彼女はポールに嫌われ、彼は自分を避けているのだと思い込んだ。翌日、彼女は病気だといって、寝てしまい、食事も部屋でとった。
ジェラールと差し向いで陰気な夕食をしてから、エリザベートは急いでジェラールをポールのところへやって、わたしがアガートの風邪を看病しているあいだに、彼の部屋に入り込み、本音を吐かせて、なぜわたしたちに腹を立てているのか探ってくるようにと頼んだ。
エリザベートは、アガートが腹匍《はらば》いになって、枕に顔を埋めて、涙に濡れているのを見つけた。エリザベートは蒼くなった。家中のただならぬ気配が、彼女の魂のなかの眠っている層を目ざめさせた。彼女は何か神秘を嗅ぎつけ、それが何であるかを考えた。彼女の好奇心は限りなく高まった。彼女は不幸な娘をなだめ、撫でてやり、白状させてしまった。
「あたし、愛しているの。大好きなの。それなのに、あの人はあたしを軽蔑している」アガートはすすり泣いた。
そうなの、恋していたの。エリザベートはほほえんだ。
「さあさ、おばかさん」アガートがジェラールのことをいっているのだと思って、彼女が叫んだ。「どんな権利があって、あの人があんたを軽蔑するのか聞きたいもんだわ。あの人がそういったの? 違うの? じゃあ、あの人、運がいいわ、あのおばかさん! あんたが愛しているのなら、あの人、結婚すべきよ、あんたもそうよ」
アガートは、エリザベートに蔑《さげす》まれもせず、思いも寄らない解決をすすめられたので、この年上の女の単純さにうっとりして、安堵の色を見せて、泣きくずれた。
「リーズ……」彼女は年若い寡婦の肩にもたれて呟いた。「リーズ、あんた親切ね、とても親切ね……だけどあの人、あたしを愛していないわ」
「ほんとなの、それ!」
「そんな話、とてもだめだわ……」
「でも、ジェラールは内気なのよ……」
エリザベートは、肩を涙で濡らしながら、ゆすったり、あやしたりしながらいいつづけた。そのときアガートは体を起こした。
「でも……リーズ……ジェラールじゃないのよ。あたしの話しているのはポールよ!」
エリザベートは立ち上った。アガートは口ごもった。
「ゆるして……ゆるしてね」
エリザベートは眼を据えて、手をだらりと垂らし、瀕死の母の部屋にいたときのように、立ったままで気が沈んでいく思いだった。前に、母親が母親でない死んだ女に変っていくのを見たときのように、アガートを見詰めていた。すると涙に濡れた少女ではなくて、不吉なアタリーの姿が、家のなかに忍び込んできた女賊の姿が、目に浮かんできた。
彼女はすべてを知りたいと思った。そこで気を静めた。ベッドの端に腰かけた。
「ポールなの! 驚いたわ。考えても見なかった……」
声を優しくして、
「びっくりさせるじゃないの! 呆れたわ。驚いたわ。聞かせてよ。すぐ話して」
そして、もう一度相手を抱きしめ、体を揺ってやり、打ち明けやすいように仕向け、うまい手を使って、暗闇に隠れているさまざまの感情を明るみに引き出した。
アガートは涙を拭き、鼻をかみ、体を揺られながら、打ち明け話をした。彼女は胸襟《きょうきん》をひらき、自分でもはっきりことばにしかねていた告白まで、エリザベートに対して打ち明けてしまった。
エリザベートは、この控え目で、気高い愛が物語られるのをじっと聞いていた。ポールの姉の首や肩にもたれて話していた少女は、髪の毛を機械的に愛撫してくれる手の上には、情け知らずの裁判官の顔があるのを見たら、さぞ驚いたことであろう。
エリザベートはベッドを離れた。彼女はほほえんだ。
「ねえ、ちょっと休んでなさい。心配しないで。なんでもないことよ。ポールに話してくるわ」
「だめ、だめよ。あのひと何も気がついていないんだから。お願い! リーズ、リーズ、話さないで……」
「委《まか》しておいて。あんたはポールを愛している。これでポールがあんたを愛していれば、万事文句なしよ。わたしはあんたを裏切ったりしないから、安心なさい。何気なく話しかけて、気持を聞き出してみるわ。わたしを信頼して、眠っていなさい。部屋から出ちゃだめよ」
エリザベートは階段を降りていった。彼女はネクタイで腰にゆわえたタオル地の部屋着を着ていた。その部屋着は長すぎて歩きにくかった。しかし、彼女は機械的に降りていき、そのかすかな音しか聞こえないメカニスムに動かされていた。このメカニスムが彼女を操り、部屋着の裾がサンダルの下にならないようにしたり、右へ左へ曲がるように命じたり、ドアをいくつか開け閉めさせていた。自分が自動人形になった感じで、いくつかの行為をするためにネジを巻かれ、途中で壊れない以上は、動いていなければいけないように感じた。心臓は斧で打たれたようにドキンドキンし、耳はガンガン鳴り、こうした積極的な足どりにふさわしい考えは何も思いつかなかった。夢ならこのように近寄ってきて、何かを考えつかせる重々しい足音を聞かせてくれ、飛翔よりも軽やかな動きをあたえ、銅像の重々しさを潜水夫の身軽さとを結びつけてくれる。
エリザベートは、重々しく、軽やかに、飛ぶように、頭のなかには何もなく、廊下に沿って行った。その部屋着が踵《かかと》のまわりを泡立つようにくるんで、まるで中世の画家が、超自然的な天使像を描くときのようであった。彼女の頭のなかには、かすかなざわめきが聞え、その胸には樵夫《きこり》の打ち込む斧の規則正しい音がするだけだった。
そのときからこの若い娘は、もうけっして立ち止ったりはしなかった。部屋の精霊が彼女に憑《の》りうつった。犯人にはアリバイを成立させることばを啓示したりする精霊と自由に一体になった。
こうして歩いて行くと、エリザベートは、例の人気のないホールに通じる小さな階段の前に出た。ジェラールがそこから出てきた。
「あなたを探していたところです。ポールが変なんです。あなたを呼んできてくれって。そちらの病人はどんな具合?」
「偏頭病よ。寝かしておいてくれって」
「あれの部屋に見舞いにいくつもりだけど……」
「行かないほうがいいわ。休んでいるから。わたしの部屋へ来ないこと。わたしがポールに会ってくるあいだ、私の部屋で待っててちょうだい」
ジェラールがおとなしく服従することを確信していた彼女は、ポールの部屋に入った。たちまち昔のエリザベートが眼覚め、作りものの月や雪などの非現実な戯れ、きらめくリノリウム、互いに影を落している無用の家具、中央にはシナの町があって、聖域になっていて、高い柔かい壁が部屋を守護している様子をじっと見つめていた。
彼女は壁を一廻りして、一枚の板をのけて入ると、ポールが床に坐っていた。上半身と首を毛布にあてて、泣いていた。その涙は壊れた友情の上に注いだものでもなく、アガートの涙にも似ていなかった。それは睫毛《まつげ》のあいだに溜り、大きくなって、溢れだして、ぽたぽたと滴《したた》り、半分開いた口を囲んで流れてから一緒になり、そこに止まり、それから他の涙と同じようにまた流れて行った。
ポールは、速達のショックはさぞ大きな結末になるだろうと期待していた。それがアガートの手許に届いていない筈はなかった。ところが音沙汰がなく、こうして待たされているのは、息の根が止まるほど辛いことだった。用心深く、黙っていようと誓ったのだが、それに耐えきれなかった。どうあっても、ほんとうのところが知りたかった。不確かなことは、やりきれなかったのだ。エリザベートは、アガートの部屋から出てきたのだ。彼は姉に訊いた。
「速達って何よ?」
いつものやり方どおりだったら、エリザベートはきっと口喧嘩を始めただろう。ポールに黙れとか、返答はどうだとか、もっと大きな声を出せとかいえば、彼女もすぐ気がまぎれただろう。ところが、裁判官を前にして、ポールはすべてを告白した。自分の発見、不器用さ、速達のことなどを告白し、姉に対して、アガートが彼を嫌っているかどうか教えて欲しいと哀願した。
この続けざまの打撃は自動人形に攻撃を開始し、その目標を変えるように仕向けただけだった。エリザベートは、この速達の話には呆気にとられた。アガートはそれを知っていて、知らん顔していたのか? 速達を開くのを忘れていたのか? そして、筆蹟に見覚えがあったので、開けようとしていたところなのか? 彼女は彼に会いに来ようとしたのだろうか?
「ちょっと待ってね、ポール。大事な話があるのよ。アガートは速達のこと、話さなかったわ。速達が飛び逃げる筈はないでしょう。必ず探して来るわ。階上《うえ》へ行って、すぐ戻ってくるからね」
彼女は急いで部屋を出た。そして、アガートが嘆いていたのを思い出して、速達は玄関においたままになっているのではないかと気がついた。外出したものはいなかった。ジェラールは手紙に関心がなかった。速達を階下において行ったとすると、それは今でもそこにあるかもしれない。
速達はそこにあった。皺くちゃで、内側に折れ曲った黄色い封筒は、枯葉みたいな恰好で盆の上にのっていた。
彼女は灯りをつけた。筆蹟はポールので、怠け学生の筆太の筆跡だったが、封筒には自分の名前が書いてあった。ポールがポールに手紙を書いたわけだ! エリザベートは封を切って開けた。
この家にはレターペーパーなどはなかった。どんな紙でもそこいらにあるものに書いた。彼女は方眼紙、つまり手当り次第の紙の切れはしを開いた。
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アガート、怒ってはいけないよ、ぼくはきみが好きだ。ぼくは間抜けだった。きみはぼくを憎んでいると思い込んでいた。だけどぼくはきみが好きだっていうことがわかった。もしきみがぼくを好きになってくれないなら、ぼくは死んでしまう。お願いだから、ぜひ返事をくれ。ぼくは苦しい。ぼくはホールから動かないでいるよ。
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エリザベートは、少し舌を出し、肩をすくめた。宛名が差出人と同じなのは、ポールが、われを忘れ、大急ぎで、自分の名前を封筒に書いてしまったせいだ。彼女はいかにも弟らしいと思った。変えようたって、変らないだろう。
封筒が玄関でぐずついていたんで、ブーメランのように、ポールの手に舞い戻ってきたとしても、ポールは返送されたことで落胆して手紙を破って、絶望してしまうにちがいない。エリザベートは、弟が自分の放心のせいで、みじめな思いをするのを防いでやろうとした。
彼女はクロークルームの化粧室に入り、速達をこなごなに破き、その痕跡を流した。
不運な弟の傍に戻って、彼女はこう話した、アガートの部屋に行ってみたが、アガートは眠っていて、速達は箪笥の上に置き放しになっていた。黄色い封筒で、そこから家計簿の紙がはみ出していた。この封筒は、ポールの机の上によく似た封筒の束があったので、すぐ見分けがついた、と。
「アガートはそのことを何もいわなかったかい?」
「そうよ。わたしが速達を見たことさえ、あのひとに知られたくないわ。それに、あのひとに何か問い質《ただ》したりしてはだめよ。わたしたちがどんなに話しかけても、知らないふりをするのにきまっているわ」
ポールは、手紙がどんな結果を生むか考えてもいなかった。欲望が楽観的予想へと彼を引きずっていた。こんな深淵、こんな落し穴があるとは、思いも寄らなかった。涙が彼の厳しい顔の上に流れた。エリザベートは慰め、アガートがジェラールに対して抱いている愛情について告白してくれたことや、ジェラールもアガートを愛しており、二人の結婚の計画があるらしいなどと事細かに話して聞かせた。
「妙ね」彼女は強調した。「ジェラールが、そのことをあんたに話さないのは。わたしのことは恐がっていて、口も利けなくなるけど。あんたとなら、違うわ。あんたがあの二人を馬鹿にしているとでも思ったんでしょ」
ポールは黙ったまま、この思いがけない暴露の苦汁を飲み込んだ。エリザベートはその話題をますますひろげた。ポールはどうかしている! アガートは単純な少女だし、ジェラールは好ましい若者だ。彼らは似合いのカップルだ。ジェラールの叔父は老齢だ。ジェラールは、いずれ金持になり、自由になり、アガートと結婚し、ブルジョワの家庭を築くだろう。彼らの幸運を妨げるものは何もなかった。それを横から邪魔したり、もめごとを起こして、アガートを悩まし、ジェラールを絶望させ、二人の将来をめちゃめちゃにするのは、残酷だし、罪なことだ、そう、罪深い話よ。ポールにはそんなことはできる筈もない。ポールは気紛れに動かされているだけだよ。よく考えてみれば、気紛れでは、愛し合っている二人に対抗できないことがわかるでしょ。
一時間も、彼女はしゃべりつづけて、正当な立場のために弁護した。彼女は興奮して、堂々たる弁論をまくし立てた。彼女はすすり泣いた。ポールはうなだれて、頷《うなず》き、姉の腕のなかに身を委ねていた。若い男女が彼のところに打ち明けにきても、彼は何もいわないで機嫌よく迎えてやると、彼は約束した。速達のことをアガートが黙っているのは、あの手紙も気紛れの結果だと思い、相手を怨みもせずに、忘れてしまう決心を示していた。しかし、あの手紙のあとでは、しこりが残るかもしれず、ジェラールもそれを意外に思うだろう。婚約となれば万事がおさまり、二人の気も晴れ、それから新婚旅行がそのしこりも一掃してしまうだろう。
エリザベートは、ポールの涙を拭いてやり、毛布に巻き込み、城塞から出て行った。彼女にはなすべき仕事があったのだ。殺人者はつぎつぎに斬りつけ、一息ついて考えたりしてはならないことを、心の底の本能が知っていた。夜の蜘蛛のように、糸をひき、暗闇の四方に罠を張りめぐらし、重々しく、軽やかに、疲れもせずに、彼女はその道を歩きつづけた。
ジェラールは彼女の部屋にいた。待ちくたびれていた。
「どうだった?」彼は叫んだ。
エリザベートは睨みつけた。
「呶鳴《どな》る癖が直らないのね。大声出さなければしゃべれないのね。あのね、ポールは病気よ。あのひとはばかだから、自分では気がつかないけど、眼と舌を見ればわかるわ。熱があるのよ。風邪をひいたのか、前の病気が再発したのか、お医者さんが診断してくれるわ。ちゃんと寝ているように、あんたに会ったりしないようにいっといたわ。ポールの部屋で泊ったら……」
「いや、帰るよ」
「待って、話があるのよ」
エリザベートの声は荘重だった。彼女はジェラールを坐らせ、その前を縦横に歩き、アガートをどうするつもりなのか訊ねた。
「どうするって、なぜ?」
「なぜですって?」それから、乾いた、するどい口調できいた。あんたは人をからかっているのだろうか、アガートはあんたが好きで、結婚の申込みを待ちわびていて、なぜあんたが黙っているのかわからないでいるのを、本当に知らないのだろうか、と思っているのよ、と。
ジェラールは唖然として眼を見開いた。両腕は垂れたままだった。
「アガートが……」彼は呟いた……「アガートがね……」
「そうよ、アガートよ!」エリザベートは激しく言い放った。
彼はほんとうに間ぬけだった。アガートとよく散歩しているので、それに気がつくべきだった。そこで、エリザベートは、少しずつこの少女の信頼を恋愛に変えて行き、日付をあげたり、証明したり、夥《おびただ》しい記録でジェラールを動揺させた。アガートは、ジェラールがエリザベートを愛していると思って悩んでいる、それは滑稽なことで、財産の点から、彼女、エリザベートでは、どうしたって問題にならない、と付言した。
ジェラールは穴があれば入りたいと思った。こうした俗っぽい非難は、金銭問題に無関心な、エリザベートの態度に似つかわしくなかったので、彼はこの言葉を聞いてひどく狼狽した。彼女は相手の狼狽ぶりを利用して止《とど》めを刺そうとした。そうして、彼の頭上に痛みを加えて、そんな窶《やつ》れた眼でわたしを睨《にら》まないで、すぐアガートと結婚し、私が仲裁役をしたことは絶対に口外しないようにと言い含めた。ジェラールが鈍感だからわたしひとりこんな役をしなくてはならないし、アガートがわたしのおかげで幸福をつかんだなどと思ったら、どうにもがまんができない、と彼女はいった。
「さあ、さあ、これから一仕事だわ」彼女はしめくくった。「あんたは寝なさい。わたしはアガートの部屋へ行って、知らせてくるわ。あんたは彼女を愛しているのよ、あんたは途方もない夢に酔っていたのよ。眼を醒ましなさい。好運だと思いなさい。わたしにキスして、あんたは世界で一番幸福な男だといってしまいなさい」
ジェラールは呆気にとられて、いわれるままに、娘が命令したとおりのことをいった。彼女は彼を部屋に閉じ込め、その網をなおもひろげながら、アガートの部屋へと登って行った。
殺人犯の犠牲者のうちで、若い娘が一番抵抗することがある。
アガートは、打撃を受けてよろめいたが、なかなか怯《ひる》みはしなかった。しかし、エリザベートが、ポールには恋はできないとか、誰も好きになれないのだから、アガートも愛していないとか、あの男は自分で自分をだめにしてしまい、利己主義の怪物だから、信じ易い女を破滅させるが、それに反してジェラールのほうは、世にも珍しい、誠実で、情熱的で、未来を保証してくれる、などとくどくどいうので、アガートはさんざん言い争ったあげく、草臥《くたび》れ切って、自分を夢に結びつけていた束縛をゆるめることができた。エリザベートは、アガートが、額に髪の毛がぺったりついた顔をのけぞらせ、片手を傷ついた心臓のあたりにのせ、他方の手を床の上に小石のように動かずに垂らして、シーツから外に乗り出してぐったりしているのをじっと見まもっていた。
エリザベートは彼女を抱き起こし、白粉をつけてやり、ポールは彼女の心の中などは気がついていないのだから、ジェラールとの結婚のことを楽しそうな顔をしてやれば、永久に気づくことはないと断言した。
「ありがとう……ありがとう…・…あんたは親切ね……」と不幸な娘はしゃくりあげた。
「お礼なんかいいのよ。お休み」エリザベートはそういって、部屋を出た。
彼女は一瞬立ち止った。彼女は重荷を下ろして、晴れやかで、残酷な気持だった。階段の下まできたとき、心臓がまたどきどきし始めた。何か足音のようなものがした。足を上げようとしたときに、ポールが近付いてくるのが見えた。
彼の長くて白い部屋着が一隅を明るくした。すぐにエリザベートは、彼がモンマルトル街にいた頃、何か気に入らないことがあると必ず起こした夢遊病の軽い発作にかかって歩いていることがすぐにわかった。彼女は手すりに寄りかかって、足をぶらぶらさせて、一寸たりともうごかないようにした。ポールが夢から醒めて、アガートのことを聞かれるのを恐れたからだ。しかし、ポールには彼女の姿が眼に入らなかった。彼の視線は、もはや燭台の上にも、飛び立たんばかりの女の上にもなく、階段を見詰めていた。エリザベートは、自分の心臓が、樵夫《きこり》の打つ斧のように鳴り響いて、弟に聞かれるのに違いないことを恐れた。
ちょっと立ちどまってから、ポールは引き返した。エリザベートはしびれた足を下ろして、弟の足音が静寂のほうに遠ざかって行くのをじっと聞いていた。それから、彼女は部屋に戻った。
隣の部屋は静かだった。ジェラールは眠ったのだろうか? 彼女は化粧台の前に立った。鏡が彼女の心を騒がした。彼女は眼を伏せて、恐ろしい手を洗った。
ジェラールの叔父の死期が迫っているように感じられたので、婚約と結婚が急いで行われることになり、めいめいがその役を演じながら、寛大さを競って、見せかけの上機嫌を粧《よそお》っていた。内輪だけの式で、ポール、ジェラール、アガートは、とても陽気そうにしていたが、それがかえってエリザベートに重苦しい感じを与え、式の背景には何かしら致命的な沈黙が漂っていた。エリザベートは、自分の巧みな捌《さば》き方でみなを災難から救い、自分のおかげでアガートはポールの無秩序の犠牲でなくなり、ポールはアガートの卑俗さの犠牲でなくなる、と考えたが無駄であった。ジェラールとアガートは同一レヴェルの人間だし、自分たち姉弟の仲介で求め合うようになったのだから、一年もたてば子供に恵まれて、こうした巡り合わせに感謝するだろう、と何度も考えたが無駄であった。病理学的な眠りから醒めかけたときのように、あの残忍な夜の振舞いを忘れ去ろうとしたが無駄だったし、保護者としての智恵を実際に働かせてあのようになったと考えても無駄であった。不幸な人たちの前に出ると不安を覚え、そうかといって三人だけ一緒にしておくのも心配だった。
一人ひとりに関しては、彼女も自信があった。彼らはデリケートな人間だから、いろいろな事実をつき合わせて見て、エリザベートを悪くとったり、彼女の悪意のせいにする惧《おそ》れはなかった。悪意といったって、どんなのを? なぜ? またどうして? エリザベートは自分に訊ねてみて、一向に答えられないので安心した。彼女はこの不幸な人たちを愛していたのだ。彼らを犠牲者にしてしまったのは、彼女の利害からであり、情熱からだった。彼らをかばってやり、助けてやり、彼らが将来その証拠がわかるような窮地から、自分勝手だが、彼らを救い出したのだ。この辛い仕事は、彼女の心臓にこたえた。しかし、そうしなければならなかったのだ。そうする必要があったのだ。
「そうする必要があったのだわ」エリザベートは危険な外科手術のことを話すかのように繰返した。彼女のナイフがメスになった。その夜、すぐに麻酔をかけ、手術をする決心をしなければならなかった。結果は上々だった。しかし、アガートの笑い声に、夢を破られて、彼女は机に腕を垂らし、この作り笑いを聞き、ポールの悪い顔色やジェラールの愛想のいい苦笑などを見て、ふたたび疑惑に戻り、恐怖と、執念深く浮かんでくる細かな場面や、あの晩の亡霊たちを払いのけた。
新夫婦たちが新婚旅行に出かけたので、ポールとエリザベートは二人切りになった。ポールは衰弱して行った。エリザベートは城塞のなかで一緒に暮らし、ポールを監視し、夜も昼も看病した。医者は、症状のはっきりつかめない病気の再発を理解しかねた。屏風で囲まれた部屋には呆れて、ポールをもっと快適な部屋に移すようにすすめた。ポールが反対した。彼は新しい毛布にくるまって暮らしていた。赤い安木綿が、頬を両手ではさみ、据わった眼をし、暗い心配にやつれたエリザベートの上に、光を投げていた。赤い布地は、病人の顔を染め、前に消防ポンプの反映がジェラールに幻想を抱かせたように、エリザベートに幻想を抱かせた。それがもはや偽りによってしか養われていないような女に、安心を与えるのであった。
ジェラールの叔父が死んだので、彼とアガートを呼び戻した。若い夫婦に一階を全部譲るといって、エリザベートが言い張ったけれど、彼らはラフィット街に新居を構えた。これは夫婦が仲よくして、平凡な幸福を作って満足し(彼らに一番似合っている唯一のもの)、エリザベートたちの屋敷の不規則な雰囲気に恐れをなし始めたせいだ、とエリザベートは推測した。ポールは新夫婦が姉の申し立てを聞くのではないかと恐れていた。エリザベートから彼らの決心を聞いたとき、彼は安心した。
「あの人たちは、私たちのような人間が自分たちの生活を台なしにしてしまうと思っているのよ。ジェラールが面と向ってそういったわけじゃないけれど、わたしたちの例がアガートのためにならないと心配しているのよ。ほんとよ、これ、嘘をいっているわけではないわ。叔父さんそっくりになってしまったのよ。聞いてて、わたし呆れたわ。芝居をしているのではないか、自分の滑稽さを承知の上ではないかと思ったくらいだわ」
ときどき、夫婦はエトワール広場の家へ来て、昼食や夕食をたべた。ポールも起きて、食堂に出た。そしてマリエットの祝福の下で、不幸を嗅ぎつけるこのブルターニュ生まれの婆さんの淋し気な祝福の下で、またも気詰まりな話が始まるのだった。
ある朝、食卓につくときであった。
「ぼくが誰に会ったかあてて見給え」
ジェラールが朗らかにポールにいったが、ポールは怪訝《けげん》そうにちょっと口をとがらしただけだった。
「ダルジュロスさ!」
「まさか」
「そうなんだ、ダルジュロスさ!」
ジェラールは道路を横断しようとしていた。ダルジュロスは、小型の自動車を運転しながら、すんでのところでジェラールを轢《ひ》くところだった。車が止った。ダルジュロスはジェラールが遺産相続したことをもう聞いていたし、叔父の工場をいくつも経営しているのも知っていた。そのどれかを見せて欲しいといっていた。彼の見当は狂っていなかった。
ポールはダルジュロスが変ったかと訊いた。
「相変らずさ。顔色が少し白くなったくらいだ……アガートの兄貴だと思っても間違いないね。前ほど傲慢じゃなくなった。とてもやさしいんだ、とても、まったく。フランスとインドシナのあいだを行ったり来たりしている。どこかの自動車工場の代理人をやってるらしい」ジェラールをホテルの部屋まで連れて行き、いつまでも「雪の球」とつき合っているか、と訊いた。……「雪の球の奴」とは、つまりポールのことだった。
「それで?」
「ぼくはきみとよく会うと、答えてやった。すると、彼が訊くには『いまでも毒薬が好きかね』と」
「毒薬?」
アガートは、びっくりして、跳び上った。
「むろんさ」ポールは突っかかるように叫んだ。「毒薬は、すばらしい。学校にいる頃、毒薬を手に入れたくて夢中だった。(ダルジュロスが毒薬に夢中だったので、ぼくがそれにかぶれた、といったほうが正確かもしれない)」
アガートは、なぜそんなものを欲しがるのかと訊いた。
「理由なんかない。毒薬が欲しいから、手に入れたいだけさ。すばらしいぜ。毒蛇、毒草が欲しいように、毒薬が欲しいのだ。ピストルを持っているのも同じさ。そこさ、そこなんだ、それがわかってくれればいい。毒薬だからね。すばらしいんだ!」
エリザベートは賛成した。アガートとは逆に、彼女は部屋の精霊にしたがって賛成したのだ。彼女も毒薬は大好きだった。モンマルトル街の頃に、彼女はにせの毒薬を作って、瓶にいれ、不気味なレッテルを貼り、不吉な名称を発明した。
「まあ、恐ろしい! ジェラール、みんな頭が変よ! しまいには監獄行きだわ」
アガートのこうしたブルジョワ的反抗が、エリザベートを喜ばせた。若夫婦の態度は想像していたとおりで、そんな想像は失礼に当ると思っていた心配も消えてしまった。エリザベートはポールに目くばせをした。
「ダルジュロスはね」ジェラールが言葉をつづけた。「シナや、インドや、西インド諸島やメキシコの毒薬や、毒矢に塗る毒や、拷問用の毒、復讐のための毒、犠牲《いけにえ》に使う毒などを取り出してくれた。笑いながら、こんなことをいっていた。『|雪の球《ヽヽヽ》にいっておいてくれ、おれは卒業してからも変ってないって。いつも毒薬を集めたいと思っていたが、いま集めているのだ。さあ、この玩具をあいつに持って行ってやってくれ』とね。」
ジェラールは、ポケットから新聞紙にくるんだ小さな包みを出した。ポールと姉は、じれったそうに眼を輝かした。アガートは、部屋の反対側に立ちつくしていた。
彼らは新聞紙を開いた。綿のように裂けるシナ紙にくるまれて、拳《こぶし》くらいの大きさの黒ずんだ球が出てきた。切り口には、キラキラ光る、赤っぽい傷口が見えていた。他の部分は土色で、松露《しょうろ》状の形をし、新鮮な土のような芳香がし、一方、玉葱《たまねぎ》やゼラニウムのエキスのような強烈な匂いがした。
みんな黙り込んでいた。この球が沈黙を課したのである。それは一匹の爬虫類状であり、いくつもの頭があって、何匹もの蛇が絡み合ってるみたいに、魅惑的で、また嫌悪を覚えさせた。そこからは死の幻惑が発散していた。
「こいつは麻薬だ。麻酔薬だ。毒にはならない」ポールはいった。
ポールは手を出そうとした。
「さわっちゃ駄目!(ジェラールが止めた)毒か、薬か、こいつはダルジュロスが君にくれたものだが、絶対にさわるな、といっていた。それに君は無頓着だ。こんな不潔なものは、どうしたって君に預けておけないよ」
ポールは憤慨した。エリザベートの説に同意した。ジェラールは滑稽きわまる、叔父さんそっくりだ……
「無頓着ですって?」エリザベートは嘲笑した。「見てなさいよ!」
彼女は新聞紙ごと球をつかむと、テーブルの周りを廻って、弟を追いかけ始めた。彼女は叫んだ。
「お食べ。お食べよ」
アガートは逃げた。ポールは跳び上って、顔を手で隠した。
「これが無頓着なの! 勇敢だっていうの!」息を切らしたエリザベートがからかった。
ポールは言い返した。
「ばか。自分で食べてみろ」
「ありがとう。そして、死ねっていうの。そしたら、あんたは幸福すぎるわ。|わたしたち《ヽヽヽヽヽ》の毒薬は、宝物のなかに入れておくわ」
「匂いが移ってしまうぜ」ジェラールがいった。「鉄の鑵《かん》にしまっておくほうがいいよ」
エリザベートは球をくるんで、ビスケットの空鑵のなかに押し込んで、姿を消した。ピストルや、口髭のついた胸像や、本などが雑然とのせてある宝物の箪笥の前までくると、彼女はそれを開けて、ダルジュロスの写真の上に空鑵をのせた。彼女はちょっと舌を出して、注意深く、ゆっくりと、蝋人形に針を突き刺して呪いをかける女の姿勢で、空鑵をおいた。
ポールは学校時代のことを思い出した。ダルジュロスを真似て、末開人と毒矢の話ばかりをし、ダルジュロスに感心してもらいたくて、郵便切手の糊に毒を塗って、大量殺人を計画したり、毒の致死量なんか一瞬たりとも考えず、ただこの怪物に気に入られようとした。
ダルジュロスは、彼の言葉どおりになるこの奴隷のことを忘れず、これですっかり見くびってしまったことになる。
黒い球の存在が、姉と弟をとても興奮させた。部屋は秘密の魔力で豊かになった。この球は、革命の同志たちの生きた爆弾となり、その胸が火薬と愛情の星であったというロシアの娘たちの一人になった。
しかも、ポールは突飛なことを派手にやって、ジェラールが(エリザベートのいうところでは)アガートを守ろうとするのを喜んでいた。それだけアガートに挑戦する甲斐があったのだ。
エリザベートのほうは突飛なことや危険を平気でやってのける昔のポールを見て、宝物の意味を忘れないでいるのを喜んでいた。
黒い球は、ポールにとって、みみっちい雰囲気に対抗する錘《おもり》を象徴していたし、アガートの領域が次第に後退する希望ともなっていた。
しかし、このお守りだけでは、ポールを治すには十分でなかった。彼は体が弱り、痩せて行き、食欲がなくなり、次第に無気力な沈滞に陥って行った。
この屋敷では日曜日には、家中の者を休ませるというアングロ・サクソンふうの習慣を守っていた。マリエットは魔法壜やサンドウィッチを用意して仲間と一緒に外出した。彼女たちの掃除の手伝いをしていた運転手は、自動車を一台持ち出して、通りがかりの客を目当てに稼ぎに出かけた。
その日曜日は、雪が降っていた。医者に注意されたので、エリザベートは、カーテンを引いて部屋で休んでいた。五時だった。ポールは正午からうとうと眠っていた。彼はひとりにしてくれ、姉さんは部屋に戻って、医者の注意どおりにしてほしいと姉に頼んであった。エリザベートは眠って、ポールが死んだ夢を見ていた。彼女はホールに似た森を横切っていた。なぜなら、木々のあいだから漏れる明るみが、暗がりで区切られた高窓から落ちていたからだ。彼女はビリヤード台、椅子、テーブルなどが森の空地に据えられているのを見た。彼女は「『あの小山《モルヌ》〔インド洋の島にある小山〕』まで行かなくちゃ」と思った。夢のなかでは、小山《ヽヽ》がビリヤード台の名前になった。彼女は歩いたり、飛んだりしたが、そこまで行けなかった。疲れて、眠ってしまった。突然、ポールが彼女を起こした。
「ポール」彼女は叫んだ。「ポールなの。死ななかったのね?」
ポールは答えた。
「いや、死んだのさ。でも死んだばかりなので、君はぼくに会えるし、これからだっていつも一緒に暮らせるよ」
彼らはまた歩きだした。長い道のりのあとで、彼らは小山に着いた。
「ほら」ポールがいった(彼は自動採点器〔ビリヤードの得点表示装置〕の上に指をおいた)「|告別のベルを聞いてごらん《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》」採点器は全速で表示し、森の空地を電信のパチパチという音で充満させた……
エリザベートは汗びっしょりで眼を醒まし、凄い目つきで、ベッドに腰かけていた。ベルが鳴った。屋敷には召使いがいないのだ、と考えた。悪夢から醒めきらず、彼女は階段を降りて行った。真白な突風とともに、髪を振り乱したアガートが玄関に飛び込んできて、叫んだ。
「ポールは?」
エリザベートはわれに帰って、悪夢を振い落した。
「ポールですって」彼女はいった。「どうしたの、いったい? ポールはひとりでいたいといってたわ。いつものように眠っていると思うけど」
「早く、早く」アガートは息を切らして叫んだ。「走って行きましょ。毒を呑むって手紙をよこしたのよ。駆けつけてきても手遅れだろう、姉さんは部屋から追い払っておくって」
マリエットは、その手紙を四時にジェラールの家へ届けたのだった。
アガートはエリザベートを突き飛ばした。彼女は自分がまだ眠っているのか、これは夢のつづきかと思いながら、石のように立っていたのだ。やっと二人の女は走りだした。
白い木々が立ち、疾風《はやて》の吹くホールのなかでエリザベートの夢はまだつづき、ビリヤード台はむこうのほうで小山《モルス》のままだった。その小山は地震の廃墟で、現実が悪夢から引き出すことのできないものであった。
「ポール! ポール! 返事をしてよ! ポール!」煌々《こうこう》と明るい囲いのなかは静まり返っていた。そこから悪臭が漏れていた。なかに入ると、変事はすぐに眼に入った。不吉な匂いが部屋に立ちこめ、ホールまで達していた。彼女たちはそれが松露と玉葱とゼラニウムのまじりあった赤黒い匂いだとわかった。ポールは姉と同じタオルの部屋着を着て、寝ていた。瞳孔が開き、顔はすっかり様変りしていた。高い窓から射し込む雪明りは、疾風のたびに息づいて、鼻と頬骨の上だけに光線を受けていた青白い仮面の上に、影の位置を移動させていた。
椅子の上には、毒薬の球の残りや、水差しや、ダルジュロスの写真などが雑然と並べてあった。
真のドラマの演出は、普通に想像されるものとはまったく異っている。単純で、偉大で、細部の奇妙なことが、われわれを戸惑わせる。二人の若い娘たちは、はじめはただ呆然としていた。しかし、ありえないことを認め、それを受け入れ、未知のポールをまさしく彼であると確認しなければならなかった。
アガートは走り寄り、跪《ひざまず》いて、息のあることを確かめた。そこに一縷《いちる》の望みがあった。
「リーズ」彼女は促した。「ただ立っていないで、着替えさせてちょうだい。この恐しいものは麻薬で、なんの害もないかもしれないわ。魔法壜を探して、大急ぎでお医者を呼んできてよ」
「お医者は狩りに行っているわ……」みじめな女はつぶやいた。「今日は日曜日で、誰もいないわ……誰もいない」
「魔法壜を探してよ、早く、早く! 息はあるけれど、冷え切ってるわ。湯たんぽがいるわ、熱いコーヒーを飲ませなくちゃ!」
エリザベートは、アガートが落ちついているのに驚いた。ポールにさわったり、話したり、動き廻ったりすることがどうしてできるのだろうか。湯たんぽが必要なんてどうして知っているのだろうか。雪と死の宿命にたいして、どうして常識的な力で立ち向かうことができるのだろうか。
急にエリザベートは元気を奮い起こした。魔法壜は彼女の部屋にあった。
「毛布をかけてやってね!」彼女は囲いの反対側から叫んだ。
ポールは息をしていた。この毒薬は麻薬であろうか。それを死ねるだけ呑んだらどうかなどと四時間もあれこれ考えた末に、彼はもうひどく苦しい段階を通り越していた。手足はもう存在しなくなっていた。宙に浮いている感じで、昔の幸福感をほとんど取り戻していた。しかし、口のなかが乾き、唾《つば》がすっかりなくなって、咽喉や舌がカサカサになり、まだ感覚のある個所の皮膚には、だるくてたまらない感じがあった。彼は水を飲もうとした。その手許が狂って、椅子の上でない所を探った。その内に足と手がしびれてきて、もう動かなくなった。
眼を閉じるたびごとに、同じ光景が現われた。女の灰色の髪をつけた巨きな牡羊の頭や、眼を抉《えぐ》られた兵士たちが革紐で足を木の枝に結えつけられて、銃を担いだまま硬直して、枝の周りを初めはゆっくりと、次第にますます速く廻ったりした。その心臓の鼓動はベッドのスプリングに通じ、そこから一種の音楽が漏れた。その腕は木の枝となり、その樹皮は太い血管で蔽われていたが、兵隊たちはその腕の周りを廻り、同じ光景がふたたび始った。
人事不省に陥ってぐったりとしたポールは、ジェラールがモンマルトル街まで送ってくれた日の、あのむかしの雪や、消防自動車や、夢幻のことを思い起こした。アガートはすすり泣いていた。
「ポール、ポール、あたしを見て、何か話して……」
苦い味が彼の口にひろがった。
「飲みもの……」と呟いた。
彼の唇はへばりついて、かさかさ鳴った。
「ちょっと待って……エリザベートが魔法壜を取りに行ったから。湯たんぽを熱くしているのよ」
ポールは繰返していった。
「飲みもの……」
水が欲しかったのだ。アガートはその唇を湿《しめ》してやった。アガートはポールに話してほしい、こんなばかなことをしたわけを聞きたい、そしてハンドバックから手紙を出して、これを説明してもらいと頼みながら、ポールに見せた。
「君が悪いのだよ、アガート」
「あたしが悪い?」
そこでポールは、一語一語区切って、ささやくように、真相をぶちまけた。アガートは話を止めさせ、叫び声をあげて、弁解をした。罠が開け放たれて、その陰険な仕掛けが露《あらわ》になった。死にかけている男と若い女は、その罠に触って、引っくり返して、悪魔的な装置の歯車を一つ一つ外していった。彼らの対話から、犯罪者としてのエリザベートが浮かび上ってきた。それは夜訪ねてくるエリザベートであり、悪賢い、執念深いエリザベートであった。
彼らは彼女の仕業がやっとわかって、アガートは叫んだ。
「生きるのよ!」
ポールは呻《うめ》いた。
「もう遅い!」
そのときエリザベートは、あまり長いこと彼らを二人きりにしておくのが心配でたまらず、魔法壜と湯たんぽを持って戻ってきた。押し黙ったような沈黙が、黒い死の球の匂いに代っていた。エリザベートは、背中を向けて、真相がばれたとは少しも気づかずに、箱や瓶を動かしたり、コップを探して、それにコーヒーをついだりしていた。彼女は二人の被害者のほうに近づいた。彼らの視線が、彼女にじっと注がれていた。すざまじい意志がポールの上体を起き上らせた。アガートがそれを支えた。二つ並んだ顔が憎悪に燃えていた。
「ポール、飲んじゃだめよ!」
このアガートの叫びが、エリザベートの動作を止めた。
「おかしいじゃないの」エリザベートは呟いた。「わたしが弟を毒殺したいと思っているみたい」
「あんたなら、そうするかもしれないわ」
死と死が重なり合った。エリザベートはよろめいた。
彼女は答えようとした。
「悪魔! けがらわしい悪魔!」
ポールの叫んだこの恐ろしい言葉は、弟に話すだけの体力が残っていると思わなかっただけに、エリザベートにとっては重大だったし、二人きりにしておいた心配が、正しかったのだ。
「けがらわしい悪魔! けがらわしい!」
ポールは叫びつづけながら、喘いだ。瞼のあいだから、青い視線で、とぎれることのない青い炎で、彼女を射すくめた。皮膚がけいれんし、ひきつって、彼の美しい口を歪め、涙の泉まで涸れた渇きが、視線にその発熱したような輝きと、狼のような燐光を帯びさせた。
雪が窓ガラスに吹きつけていた。エリザベートは後じさりした。
「ええ、たしかにその通りよ。わたしはやきもちをやいてたの。あんたを失いたくなかった。わたしはアガートが嫌いよ。あの子があんたを家からさらっていくのが許せなかった」
告白が彼女を偉大にし、真実で装い、策略の衣裳を剥《は》いだ。苦しむ女がうしろに垂らした捲き毛は、残忍な小さい額をむき出しにし、濡れた眼の上に広く、建築物のように見せた。彼女は部屋と一緒になってひとりでみんなに対抗し、アガートに挑み、ジェラールに挑み、ポールに挑み、全世界に挑んでいた。
彼女は箪笥の上のピストルを握った。アガートが大声をあげた。
「射つつもりだわ! あたしを殺すつもりだわ!」彼女はうわ言をいっているポールにしがみついた。
エリザベートはこの優雅な女と射とうなどとは思いもしなかった。彼女は片隅に追い詰められて、自分の生命の代償を有効に取り引きしようと決心した女スパイが、その覚悟のほどを示す本能的な身振りでピストルを握ったのだった。
神経的な発作や末期の苦悩を前にして、彼女は自分の挑戦の相手を失った思いだった。偉大さは何の役にも立たなかった。
すると呆然としたアガートは、急にこんな場景を見た。一人の気違い女が分裂症状になり、鏡に接近し、しかめ面をしたり、髪の毛をむしったり、とんでもないほうを見たり、舌を出したりしていた。なぜなら、エリザベートは、自分の内部の緊張感とは一致しない休止にがまんしきれず、その狂気をグロテスクなパントマイムで表現し、ひどく滑稽な仕草で人生をやりきれないものにし、生きられる範囲を後退させて、ドラマのために自分が除け者にされ、もう支えてくれるものがないような瞬間まで辿り着こうとしたのだ。
「このひと気違いになったわ! 助けて!」アガートはなおわめき立てた。
気違いという言葉が、エリザベートを鏡から離れさせ、その発作を静めた。彼女は平静になった。震える手の間に、武器と空虚とを握りしめた。彼女はうなだれながら立っていた。
彼女は部屋が目の眩《くら》む坂の上を終末のほうへと辷《すべ》って行くのを知っていたが、その終末までは間があるし、それを生きなければならなかった。緊張はゆるまなかった。彼女は、数えた、計算した、掛け算や割り算をし、日付や建物の番号を思い出し、それを合計したり、間違っては計算し直したりした。ふと彼女は、夢のなかに出てくる小山《モルヌ》は『ポールとヴィルジニー〔ベルナルダン・ド・サン=ピエールの有名な恋愛小説〕』にあることを思い出した。あの小説では「小山《モルヌ》」は丘の意味だった。あの小説で起こったことはイル・ド・フランス〔パリ中心の州の古名〕だったのかなと思った。イル(島)の名前が数字に代った。イル・ド・フランス、イル・モーリス、イル・サン・ルイ。彼女は名前を暗誦し、置き変え、ごっちゃにして、真空をつくり、うわ言めいてきた。
彼女の平静さがポールを驚かした。彼は眼を開けた。彼女のほうが彼を見つめた。そして、遠ざかり、落ち込んでいく眼のなかで、神秘な好奇心が憎しみに変るのを見た。エリザベートは、この表情に出会って、勝利の予感がした。姉弟の本能が彼女の支えとなった。この新しい視線から自分の視線を離すことなく、彼女は無気力に同じことをやりつづけた。彼女は計算し、計算し、暗誦した。そして彼女が真空状態をひろげて行くにつれて、ポールは催眠にかかり、夢幻を見つけ、軽やかな部屋に戻ってきた。
熱のために彼女は明晰になった。彼女は魔法を発見した。亡霊を支配した。それまでは蜜蜂の流儀ではたらき、サルペトリエール精神病院の患者と同じように、自分のメカニスムについては無関心で、はっきり理解しないままに作り上げてきたものを意識して、自分で操作した。中風患者が、例外的な事件のショックで立ち上るのにそっくりだった。
ポールは彼女についてきた。ポールがやってきたことは、明らかだった。この確信が、彼女の不可解な頭脳のはたらきの基礎になっていた。彼女はその手を動かし、ポールを魅惑しながら、さらにつづけ、つづけ、つづけた。早くも、彼女は確信していたが、ポールはアガートが首にしがみついているのを感じなかったし、彼女の訴えなどを聞いていなかった。この姉と弟にどうしてそんなことが聞えただろうか。アガートの叫び声は、二人が伴っている死の讃歌の音階よりも低く響いていた。彼らは昇って行く、並んで昇って行く。エリザベートはその獲物をさらって行く。ギリシアの俳優の踵の高い靴をはいて、彼らはアトリード〔ギリシア悲劇の世界で、肉親殺しや近親相姦などが行われる一族〕の地獄から離れていく。もはや、彼らを許すのには全能の神の審判によっても十分ではあるまい。彼らはその霊感に頼るしかない。あと数秒、勇気を持ちつづければ、彼らは肉体が溶解し、魂が抱き合い、近親相姦などは入り込めない場所にまで行き着くだろう。
アガートは、別の場所で、別の時代でわめいているのだ。エリザベートとポールは、そんなことを、窓ガラスをゆるがす荘厳な吹雪ほどにも気にしていなかった。ランプのすさまじい照明が黄昏に代った。ただ、赤い布地の血の色を受けたエリザベートのいるほうは別で、彼女はそこで外界から守られ、真空地帯をつくっていた。電光の真只中にいるポールを眺めていた彼女は、自分のいる暗闇のほうに彼を引いて行った。
死に瀕している彼はますます衰弱した。彼はエリザベートのほうに、雪のほうに、夢幻のほうに、子供部屋のほうに向っていた。細い蜘蛛の糸が彼を生命に結びつけ、何か混乱した想いをその石のような肉体に結びつけていた。彼には自分の名を叫んでいる背の高い人物が、姉だかどうだかよくわからなかった。エリザベートは、恋する女が男の快楽を待つために自分の快楽を遅らせるように、指を引き金にかけて、弟の死の痙攣を待っていたからである。彼女は再会を願って叫び、弟の名を呼んだ。彼らが死の世界で自由に振舞えるようになる、あのすばらしい瞬間を待ち構えていたのだ。
ポールは、疲れ果てて、頭をのけぞらした。エリザベートはこれが最後だと思い、ピストルの銃身をこめかみにあてて、引き金をひいた。彼女が倒れると、恐ろしい音を立てて、屏風の一つが倒れ、彼女の下になった。すると雪の窓ガラスの蒼白い微光が見え、囲いのなかでは爆撃されたような都市の内部が開いて、秘密の部屋は観客たちに開かれた劇場のようになった。
この観客たちを、ポールは、窓ガラスの背後にはっきりと見た。
アガートは、恐怖に釘づけになり、黙ったまま、エリザベートの死骸から血の流れるのを見ていたが、他方、ポールは雪合戦で赤くなった鼻、頬、手が、戸外で、霧氷と溶けた氷の溝のなかで、押し合っているのをまざまざと見た。顔や、短外套や、毛糸のマフラーに見覚えがあった。彼はダルジュロスの姿を探した。彼だけが見当たらなかった。彼の身振り、大げさな身振りだけが眼に映った。
「ポール! ポール! 助けて!」
アガートはふるえながら、かがんだ。
だが、彼女はどうしろというのか。何をしようというのか。ポールの眼は光りが消えた。糸は切れた。飛び去った部屋のあとには、悪臭と避難所にいる小さな女だけが残っている。その女も、小さくなり、遠ざかり、そして消えてしまった。
サン・クルー 一九二九年三月
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解説
コクトーの有名な警句に「青年は安全な株を買ってはならない」というのがあるが、これは一九一八年の夏に避暑地ピケーで書いたもので、第一次大戦直後に新しい文学、芸術運動が起こりつつあった最中のことである。
コクトーはサティやピカソと合作で、『パラード』というバレエを製作し、バレエ・リュスがこれを上映して、さんざんの悪評を蒙《こうむ》った。サティの音楽も、ピカソの衣裳や背景も、コクトーの台本も喧《かしま》しく、野蛮で、奇異で、これまでの優雅な、調和のとれたバレエを見なれた観客は、型破りのものを見せつけられて憤慨して、大変なスキャンダルとなった。これを見て「こんな馬鹿げているものと知っていたら、子供を連れてくるのだった」といった紳士がいたそうだが、『パラード』を見たり、聞いたりして楽しむためには、子供の無垢の眼や耳を必要としたのであろう。
コクトーの作品の魅力は、大人から見れば喧しく、野蛮で、奇異なところにあった。けっして「安全な株」とは思えず、買い主に危険の覚悟を求める冒険に誘い込む賭みたいなものであった。そこで彼は早くからサティ、ストラヴィンスキー、「六人組」などの前衛的な音楽家たちと結びついて、舞台芸術、彼のいう演劇のポエジーを創作して、華々しい不成功を繰返したのである。
前衛的な音楽は、いつも喧しく、野蛮で、奇異なものに聞えるけれど、黒人音楽と同じように、少し聞きなれてくると、単調で、素朴で、秩序立っていることがわかる。伝統的な完成された音楽に比べれば、破壊的で、無秩序に聞えるだけのことで、黒人音楽にはそれなりの秩序があるように、前衛的な絵画にも文学にもひとつの方式があり、秩序がある。それだけに時が経てば騒々しいと思われたものも落着き、尖端を切ると思われていたものも当り前になって、つぎの新しい絵画や文学と替ってしまう。そうしたことで絵画や文学の伝統が形作られて行く。
それをコクトーは得意の警句で「伝統は時代ごとに変装する」といっているが、コクトーもまた「作品ごとに変装」しているので、われわれはその仮面を見破ってコクトーの真の表情をとらえなければならない。例えば彼の作品のなかによく登場する天使だが、天使はいろいろに変装して、他の作中人物の運命を左右したり、詩人に大きな影響をあたえたりする。
しかし、天使といっても、コクトーの場合、それは女性的で、純粋で、主人公を保護し、善導する天使ではなく、むしろ猛々しく、粗野で、主人公を苦しめ、懲罰し、ときには堕落させる。それは彼がいつも天使を死の死者と考えているからに他ならない。中でも「天使ウルトビーズ」というのは、彼の詩にも戯曲にも映画にも出てくるし、他の作品でも名前を変え、または役割を変えたりして登場する。これはコクトーが、「死の死者」である天使に、脅かされ、懲らしめられながらも、天使を懐かしみ、憧れ、いつも忘れかねているせいである。
それは彼の中学生時代の仲間にダルジュロスという名の生徒がいたことにいくらか関係がありそうである。しかし、コクトーがあちこちで倣岸《ごうがん》な美少年として書いているダルジュロスに、特定のモデルがいたとは思えない。それは何人かの少年の合成からなるダルジュロスであり、そしてまた天使ウルトビーズのような人物であったと考えられる。そのことを一番よく示しているのが『恐るべき子供たち』のなかに出てくるダルジュロスである。彼は男性的な美少年で、猛々しく、不良仲間の首領株であり、彼に憧れて慕ってくる少年を苦しめ、傷つけ、ついには死に至らしめる。まことにこのダルジュロスこそは「死の死者」としての役割を無意識のうちに果たしている象徴的な存在といっていい。
コクトーの中学生時代は、良家の子弟でありながら、家庭では甘やかされて育ち、学校では成績も悪く、相当不良がかっていたようである。そのためコンドルセ中学から退学を命ぜられ、大学入学資格《バカロレア》をいくど受けても落第する始末だった。コクトーがのちに減刑運動を行った泥棒作家のジャン・ジュネなども、相当の不良少年で、極めて悪条件のもとに育ったがために悪の道へ引きずり込まれたのであるが、コクトーは違う。ブルジョワの家庭に生れながら、いつも型破りで、ひとりよがりで、わがままな「悪い生徒」であった。つまり学校の勉強などはろくにせず「劣等生の特権」ばかりを発揮して、遊び廻っていた。そして大人の世界ではとうてい考えられないことを発見したり、夢想する少年期を過ごした。そこでは物事は思いがけないかたちで進行し、また異常に増殖し、そして消滅して行く。普通の大人なら「子供のことだから」と大目に見たり、軽視したりする、忘れ去ってしまうような些事が大事なのであり、詩人はそれらを蘇らして再構成している。
普通の大人なら「劣等生の特権」があるなどとは夢にも思わない少年期、それをコクトーは小説のポエジーに仕立てて『恐るべき子供たち』を書き上げたのである。彼が三十九歳のときで、詩人として、劇作家として、小説家として、かなりの実験的な仕事を発表し、文壇的なスキャンダルをいくども惹き起こしたあとでのことだった。
小説家としてのコクトーは、それまでに、『ポトマック』『山師トマ』『グラン・テカール』の三作があり、四作目として『恐るべき子供たち』を書き、その後しばらくして『ポトマックの最期』(一九三九年)を著したが、小説は全部で五編で、ポエジーの様式としては一番数が少ないほうである。
『恐るべき子供たち』は、一九二八年にコクトーが阿片中毒の治療のために入院したサン・クルー病院で十七日間で書いたといわれているが、これと同じ時期に彼は『阿片』という絵入りの随想録のような書物を書いている。小説のほうは友人の画家クリスチャン・ベラールが見舞いに来て、一人の少女が自殺し、その弟が修道院に入ったという話をして行ったのがヒントになっている。この姉弟はジャンヌ・ブルゴワンとジャン・ブルゴワン(のちにパスカル修道士)といって、コクトーもその少し前から彼らを知っていて、その暮しぶりに深い興味を持っていたようである。
コクトーは一九二三年に愛弟子のラディゲに死なれてから、悲しみのあまり、阿片を用いるようになった。彼の友人たちも多少なりとも阿片をのんでいたようだが、コクトーほどたびたび阿片中毒の治療を受けるくらい愛用した者はいなかった。それだけに『阿片』という奇書には、阿片にとりつかれた者の恍惚と絶望のはげしい落差、夢と現実が定かでない忘我の境を、真実に迫った文章とデッサンで、表現していておもしろい。しかも、その合間に、彼の文学論や芸術論が縦横にちりばめてあり、何か物を書くということが解毒作用にもっとも有効にはたらいたと思えるほどである。禁断症状の前後には頭の回転がことに早くなり、筆を持つ手がすべるように動いたようで、それが『恐るべき子供たち』のような小説を一気に書き上げさせることになったのであろう。
コクトーは若いときからデッサンが得意で、彼には絵画的なポエジー(ポエジー・グラフィック)と称する画集が数冊あり、晩年には諸所の壁画を描き、陶器つくりにも熱心だったが、その他バレエの台本、映画製作など、視覚的な表現が好きでもあり、それがまた巧みな詩人であった。『阿片』のなかのデッサンにしても、解毒治療の最中の詩人の激しい苦痛や異常な感覚が絵画的に巧妙に表現されており、どこか『恐るべき子供たち』の夢幻の世界と相通ずる異常な雰囲気を描いている。しかし、これとてコクトーのように何度も解毒治療を受けた経験のある者からすると厳密な言い方にはなるまい。
「阿片にまつわる伝説は終りにすべきだ。阿片は半夢≪ドミ・レーヴ≫をはぐくむ。感覚を眠らせ、心臓を昂《たかぶ》らせ、精神を軽快にする」
この小説は、子供たちの半夢の状態における愛憎の悲劇を描いた軽快で重々しい小説である。
*
この小説のなかで「恐るべき子供たち」は四人おり、それはエリザベートとポールの姉弟、ジェラールとアガートの一組だが、いずれも孤児である。孤児であるからこそ、自由であり、孤独であり、またお互いに求め合う面もあるが、この四人の組合せはそれほど単純ではなく、ときに偽りで結びついたりして、どこまで彼らの本心かわからないところがある。少年少女は素朴で、純粋で、単純で、正直だなどというのはとんでもない話で、彼らなりの腹黒い計略やごまかしがあり、仲間うちではわかっていても、大人にはわからない秘密がある。彼らの保護者である医師や叔父のような大人たちは、彼らの日常生活さえまるでわかっていない。ブルターニュ生まれの女中マリエットだけが、直観的に子供たちの世界を理解し、その無秩序ぶりに反対したり、不平をいったりしなかった。燗熟したブルジョワ家庭に狂い咲きのように育った姉弟に黙々と仕えているこの田舎女は、ボードレールを育てた同名の女中のように「寛大な心の持ち主」であり、この小説のなかで一番まともな女であった。
エリザベートは、この小説の女主人公にふさわしく、専横な独裁者らしい悲劇的人物で、彼女こそラシーヌの劇『アタリー』に扮すべき人物であった。ところが実際は、ポールの憧れの的であったダルジュロスと、ポールが秘かに愛していたアガートが、学校劇か何かでアタリーの役を演じていた。アガートの舞台写真を見て、ポールがダルジュロスそっくりだと思って感動する場面があるが、それもほんとうはアタリーをとおして姉のエリザベートに強く惹かれていたせいだったかもしれない。こうした二重写しや思い違いは、この小説のいたるところにあり、一つのイメージは他のイメージを遠くから呼び掛け、また応え合っている。
『アタリー』という芝居は、コクトーの好きな作品で、サラ・ベルナールの演じたのを見て、彼は「参った」というほど感激している。アタリーはまことにラシーヌ的な悲劇の人物で、おのれの権勢を築くために残酷非道なことも辞さないが、異教の神を信ずる彼女がエホバの神殿に闖入したがゆえに、幾多の劇的な曲折ののちに敵方の計略にはまって暗殺されてしまう。その神殿は、外界から遮断された、閉鎖的な、脱出不能の場所であった。
エリザベートもまたある意味において非情な女で、策略を弄してポールとアガートのあいだを裂き、ポールを自殺に導き、みずからもピストルでこめかみを射って死んでしまう。それもやはり外界から遮断された「部屋」のなかの出来事であった。しかし、この小説の驚異は、死の直前になって、ポールの憎しみが消えて、かえってエリザベートの眼ざしのとりことなって、半夢の世界に遊ぶ二人が一心同体となり、ともに手を取り合って昇天して行くことにある。それは阿片のもたらす夢幻の世界と同じであるが、ポールはダルジュロスが贈ってくれた阿片で自殺を計ったのだった。エリザベートは、弟よりもはるかに知的で、計算的で、弟に術を施して夢幻の世界に誘うことも知っていた。つまり彼女は「部屋の亡霊」まで支配して、彼を魅惑しつづけることもできた。この鉄の処女は、いつも積極的で、意欲的で、自在に変貌を重ねながら、ついには死までももてあそんで勝利を収めてしまう。しかしこの「部屋」も、姉弟が死んでしまえば、聖域ではなく雑然たる大部屋であり、彼らが大事にしていた宝物などは、がらくたにすぎない。二人の自殺によって、あらゆる照明は薄れ、輝きは消え、死体さえも飛び去ったかのように、部屋はがらんどうで、あとにはただ「悪臭と避難所にいる小さな女だけが残っている。どの女も、小さくなり、遠ざかり、そして消えてしまう」のであった。そしておそらく窓外に雪景色だけがほの白く残っていたであろう。
そこでこの最終場面は小説の冒頭の雪合戦の場面と連結する。雪合戦のとき、ポールはダルジュロスの投げた雪の球≪白い球≫を受けて、血を吐いて倒れた。そして最後にやはり彼はダルジュロスからもらった阿片≪黒い球≫を飲んで自殺した。「学校の雄鶏」といわれた偶像的存在であったダルジュロスが、この小説に登場するのは、初めと終りだけであるが、彼はいつもどこかにいて(例えばアガートの姿を借りて)ポールを見張っていたような気がする。エリザベートは、彼のことを知らないが、アガートをとおしてダルジュロスに嫉妬していたとも思われる。このような人物関係はこの小説ではレース編みのような対照的イメージや反復するイメージによって美しい模様を織りなしている。それが作中人物にとっては罠となり、それに足をすくわれたり、危地に追い込まれたり、また自縄自縛になったりする。
『阿片』のなかでこんなことを、コクトーは書いている。
「阿片は僕たちのスピードを変え、重り合ったり、交錯したり、お互いにまったく無関心とさえ思える世界について、明確な直感をあたえてくれる」
ここにこの小説の創作の鍵がある。精神をスローモーションにすると、表面的なきらびやかさや洒落っ気などは消えて、単純で、逞《たくま》しい線が浮かび上ってくる。それが案外、クラシックな、単一なアクションをこの小説から引き出すことを可能にする。
コクトーはこの小説について『六十枚のデッサン集』(一九三四年)を公けにしている。原本は、ベルナール・グラッセ版(一九二五年)を参考にしながら、リーヴル・ド・ポーシュ本(一九七三年版)に拠り、なお鈴木力衛氏の既訳や英訳本(R・レーマン訳)などを参照した。(訳者)