ファウスト (下)
森鴎外全集 11
ゲーテ 著
森鴎外 訳
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目  次
悲壮戯曲の第二部
第一幕
風致ある土地
ファルツの帝都
隣接せる間多き、広々としたる座敷
遊苑
暗き廊下
燈明き数々の広間
騎士の広間
第二幕
高き円天井ある、ゴチック式の狭き室
中古風の試験室
古代のワルプルギスの夜
ペネイオス河
ペネイオス河上流
アイゲウス海の石湾
第三幕
スパルタなるメネラスの宮殿の前
中世式の空想的なる、複雑なる建物に
囲繞せられたる、砦の中庭
並びたる数箇の岩室に倚せ掛け、
生きたる草木もて編み成せる数軒の家
第四幕
高山
外山の端
僭帝の帷幕
第五幕
開豁なる土地
宮殿
深夜
半夜
宮城内の大いなる中庭
埋葬
山中の谷、森、岩、凄まじき所
訳本ファウストについて
不苦心談
ファウスト (下) 森鴎外全集 11
ゲーテ 著 森鴎外 訳
FAUST. Eine Trago《・・》die
Johann Wolfgang von Goethe
悲壮戯曲の第二部
第一幕
風致ある土地
ファウスト草花咲ける野に横りて、疲れ果て、不安らしく、眠を求めゐる。
黄《たそ》昏《がれ》時《どき》
精霊の一群、空に漂ひて動けり。優しき、小さき形のものどもなり。
アリエル
(歌。アイオルスの箏の伴奏にて。)
「雨のごと散る春の花
人皆の頭《こうべ》の上に閃き落ち、
田畑の緑なる恵《めぐみ》青人草に
かゞやきて見ゆる時、
身は細《ほそ》けれど胸広きエルフの群は
救はれむ人ある方《かた》へ急ぐなり。
聖《ひじり》にもせよ、悪しき人にもせよ、
幸なき人をば哀とぞ見る。」
この人の頭の上で、空に圏《わ》をかいてゐるお前達。
いつもの優しいエルフの流義でこの場でも働いてくれ。
あれが胸のおそろしい闘を鎮めて遣れ。
身を焼くやうに痛い、非難の矢を抜いて遣れ。
これまでに受けた怖《おそれ》を除けて胸を浄めて遣れ。
夜《よる》の暇《ひま》には四つの句《く》切《ぎり》がある。
今すぐにその句切々々を優しく填めて遣れ。
先づあの頭にそつと冷たい枕をさせて、
それから物を忘れさせるレエテの水の雫に浴《ゆあみ》させて遣れ。
そこで疲が戻つて静かに夜明を待つうちに、
引き弔《つ》つてゐた手足のあがきが好くなるだらう。
さうしてあれを神聖な光の中へ返して遣つて、
エルフの義務の中の一番美しい義務を尽せ。
合唱する群
(或は一人々々、或は二人づつもしくは数人づつ、或は交互に入り変り、或は寄り集ひて。)
あたゝけき風の戦《そよぎ》
緑に囲はれたる野に満てるとき、
黄《たそ》昏《がれ》は甘き香を
霧の衣《ころも》を降《お》り来させ、
楽しき平和を低く囁き、穉《おさ》子《なご》を
寐さするごとく心を揺《ゆ》りて眠らしむ。
かくて疲れたる人の目の前に
昼の門の扉はさゝる。
夜《よ》ははや沈み来ぬ。
星は星と浄く群れ寄る。
大いなる火も、小さき光も
近くかゞやき、遠く照る。
湖《みずうみ》に映りてこゝにはかゞやけり。
澄みたる夜《よ》の空にかしこには照れり。
いと深き甘寐《うまい》の幸《さち》を護りて、
月のまたき光華は上にいませり。
幾ばくの時かは知らねど、その時はや消え失せぬ。
痛《いたみ》も幸も跡なくなりぬ。
先だちて知れ。汝《なれ》は痊《い》えなむ。
たゞ新なる朝日の光を頼め。
谷々は緑芽ぐみ、岡は高まりて、
茂りて物蔭の沈黙《しじま》をなす。
さて穀物《たなつもの》の穂はゆらげる
波の形して収《とり》穫《いれ》の日を待てり。
汝《なれ》が願をつぎつぎに成さんとせば
たゞかしこなる光を望め。
汝は軽らかに閉ぢ籠められたり。
眠は殻《から》なり。剥《は》ぎ棄てよ。
庸《つね》人《びと》の群たゆたひ避けむとき、
自ら励ましてなすことをな忘れそ。
心得て疾《と》く手を著くる
心高き人のえなさぬことあらめや。
アリエル
聞け。遷り行く時の神ホライの駆ける風を聞け。
霊の耳には音が聞えて、
もう新しい日が生れた。
岩の扉はからからと鳴って開《あ》く。
日の神フォイボスの車はどうどうと響いて転《めぐ》る。
まあ、光の立てる音のすさまじいこと。
金笛、喇《らつ》叭《ぱ》の声がする。
目はまじろいて、耳はおどろく。
耳も及ばない響は聞えない。
潜《もぐ》り入れ、花の萼《うてな》に、
深く、深く、岩の迫《はざ》間《ま》、
木《こ》の葉《は》の蔭に閑《しず》かに住むために。
あの音に出合ったら、お前達は聾《つんぼ》になる。
ファウスト
天の《こう》気《き》の薄《うす》明《あかり》に優しく会釈をしようとして、
命の脈がまた新しく活溌に打っている。
こら。下界。お前はゆうべも職を曠《むなし》ゅうしなかった。
そしてけさ疲《つかれ》が直って、己の足の下で息をしている。
もう快楽を以て己を取り巻きはじめる。
断えず最高の存在へと志ざして、
力強い決心を働かせているなあ。
もう世界が薄《うす》明《あかり》の中に開かれている。
森は千万の生《いき》物《もの》の声にとよみわたっている。
谷を出たり谷に入ったり、霧の帯が靡《なび》いている。
それでも天の明《あかり》は深い所へ穿《うが》って行くので、
木々の大枝小枝は、夜潜んで寝た、
薫る谷底から、元気好く芽を吹き出す。
また花も葉もゆらぐ珠を一ぱい持っている深みが、
一皮一皮と剥がれるように色取を見せて来る。
己の身のまわりはまるで天国になるなあ。
上《うえ》を見ればどうだ。巨人のような山の巓《いただき》がもう晴がましい時を告げている。
あの巓は、後になって己達の方へ
向いて降りる、とわの光を先ず浴びるのだ。
今アルピの緑に窪んだ牧場に、
新しい光やあざやかさが贈られる。
そしてそれが一段一段と行き渡る。
日が出た。惜しい事には己はすぐ羞《ま》明《ぶ》しがって
背を向ける。沁み渡る目の痛《いたみ》を覚えて。
あこがれる志が、信頼して、努力して、
最高の願の所へ到着したとき、成就の扉の
開《あ》いているのを見た時は、こんなものだな。
その時その永遠なる底の深みから、強過ぎる、
《ほのお》が迸《ほとばし》り出るので、己達は驚いて立ち止まる。
己達は命の松《たい》明《まつ》に火を点そうと思ったのだが、
身は火の海に呑まれた。なんと云う火だ。
この燃え立って取り巻くのは、愛《あい》か、憎《にくみ》か。
喜《よろこび》と悩《なやみ》とにおそろしく交《かわ》る交《がわ》る襲われて、
穉かった昔の羅《うす》ものに身を包もうとして、また目を下界に向けるようになるのだ。
好《い》いから日は己の背後の方におれ。
己はあの岩の裂目から落ちて来る滝を、
次第に面白がって見ている。
一段また一段と落ちて来て、千の流《ながれ》になり
万の流になり、飛《とば》沫《しり》を
高く空中に上げている。
しかしこの荒々しい水のすさびに根ざして、七色の虹の
常なき姿が、まあ、美しく空に横わっていること。
はっきりとしているかと思えば、すぐまた空に散って、
《におい》ある涼しい戦《そよぎ》をあたりに漲《みなぎ》らせている。
この虹が人間の努力の影だ。
あれを見て考えたら、前よりは好く分かるだろう。
人生は彩られた影の上にある。
ファルツの帝都
玉座の間《ま》。閣臣帝の出御を待ちゐる。喇《らつ》叭《ぱ》の音。華美なる服装をなせる宮中の雑役等登場。帝出でて玉座に就く。天文博士帝の右に侍立す。
遠くからも近くからも寄って来た、
忠実な皆のものに己は挨拶をいたす。
そこで賢者は己の傍に来ているが、
阿房はどういたしたのだ。
貴公子
只今お附《つき》申して参る途中で、殿様の袍《ほう》の裾の
すぐ背後《うしろ》で、階《きざ》段《はし》の上に倒れました。あのでぶでぶ
太った、重い体は、誰やらがかついで行きました。
酒に酔ったのか、死んだのか、分かりません。
第二の貴公子
そういたすと珍らしいすばやい奴があるもので、
替《かわり》の男がすぐにその場へ割り込んで参りました。
実に面白い、目に立つなりをいたしています。
しかしどうも異様ですから、誰も一寸見て驚きます。
それで御守衛が矛を十文字にいたして
敷居際で留《と》めていました。
や。でもあそこへまいりました、大胆な馬鹿が。
メフィストフェレス
(玉座の前に跪《ひざまず》きつゝ。)
来ねば好《い》いがと云われていても、来て歓迎せられるのは何か。
いつも待たれていて、来ると逐い出されるのは何か。どこまでも保護を加えられるのは何か。
ひどく叱られたり苦情を言われたりするのは何か。
殿様のお呼《よび》寄《よせ》になってならないのは誰か。
名を聞くことを皆が喜ぶのは誰か。
玉座の下へ這い寄って来るのは何か。
土地をお構《かまい》になるように自分でしたのは何か。
まあ、差《さし》当《あた》りそんなに饒舌《しやべ》らんでも好《い》い。
この場ではそんな謎のような物は不用だ。
謎を掛けるのは、そこらにいる人達の為《し》事《ごと》だ。
掛けられたら、お前解け。己が聞いて遣る。
前いた阿房はどうやら遠くへ立ったらしい。
お前そいつの替《かわり》になって、己の傍にいてくれい。
(メフィストフェレス階段を登りて左に侍立す。)
衆人の耳語
新参の阿房か。○新規な難儀だな。○
どこから来たのだろう。○どうして這入ったのだろう。○
先《せん》のは倒れたのだ。○お暇乞だった。○
あいつは酒樽だった。○こいつは《こけら》だ。
さて、遠くからも近くからも寄って来た
忠実な皆のものに、己は挨拶をいたす。
丁度お前達は好《よ》い星の下《もと》へ寄った。
空《そら》には好運や祝福が書いてある。
然るに、この、いらぬ憂を棄てて、
舞踏の日のように面《めん》を被って、
面白い事ばかり見《み》聞《きき》して楽もうとしている、
この日に、一体なぜ評議なんぞをして
面倒な目を見んではならんのか。
まあ、兎に角お前達がせねばならんと云うから、
そんならそうとして、する事にした。
尚書
人間最高の徳が、聖者の毫《ごう》光《こう》のように、
殿様のおつむりを囲んでいて、それを有功に
御実行なさることは、殿様でなくては出来ません。
それは公平と申す事でございます。人が皆
愛し、求め、願い、無いのに困るこの徳を、
民に施しなさるのは殿様でございます。
しかしこんな風俗が時疫のように国に行われて、
悪事の上に悪事が醸し出されては、
心には智慧、胸には慈愛、手には
敏活があったと云って、なんになりましょう。
どなたでもこの高殿の上から、広い国《くに》中《じゆう》を
お見《みお》卸《ろし》なされたら、苦しい夢のお気がいたしましょう。
異形のものばかりが押し合って、
不法が法らしく行われて、
間違が世間一ぱいになっていますから。
家畜を盗む。女を盗む。
寺から杯や、十字架や、燭台を盗む。
そして長い間、膚《はだえ》をも傷られず、
体をも損われずにいるのを自慢話にする。
そこで原告が押し合って裁判所に出て見ると、
判事はただ厚い布団の上に息《い》張《ば》っている。
外《そと》には次第に殖える一揆の群集が
怒濤のように寄せては返しているのに。
身方の連累者の申立《もうしたて》を土台にして、
相手の罪を責めることは出来、
孤立している無《む》辜《こ》の民は、
却って「有罪」と宣告せられる。
そう云う風に世は離れ離れになって、
当然の事は烏有に帰してしまいます。
民を正道に導くただ一つの誠が
どうしてここに発展して参りましょう。
しまいには正直な人が
佞《ねい》人《じん》に、贈賄者になって、
賞罰を明にすることの出来ない
裁判官は犯罪者の群に入ります。
これでは余り黒くかいた画のようでござりますが、
実はもっと厚い幕で隠したかったのでござります。
(間《ま》。)
いずれ断然たる御処置がなくてはなりますまい。
民が皆傷《やぶ》り害《そこな》い、皆痛《いた》み悩んでいましたら、
恐れながら帝位の尊厳も贓物《ぬすまれもの》になってしまいましょう。
兵部卿
まあ、此頃の乱世の騒《さわぎ》はどうでござりましょう。
一人々々が殺しもし、殺されもして、
号令をしても皆聾《つんぼ》のようでござります。
市民は壁の背後《うしろ》に、騎士は
岩山の巣に立て籠って、
公に背いて、踏みこたえようとして、
私の戦闘力の維持に力めている。
傭兵は気短に、
給料の下《さげ》渡《わたし》をぎょうぎょうしく催促して、
それを払ってしまったら、
皆逃げてしまいそうにしている。
皆の望んでいる事を、誰でも禁じたら、
それは蜂の巣をつついたようであろう。
その傭兵が守るはずの、国はどうかと云うと、
掠《かす》められ、荒されている。
暴《あば》れるままに暴れさせて置くうちに、
国は半分もう駄目になっています。
まだ外藩の王達はおられますが、
どなたもそれを我事とはなさりませぬ。
大府卿
もう誰が聯邦の盟《ちかい》を当《あて》にしましょう。
約束の貢は、水道の水が切れたように、
少しも来なくなりました。
それにこの広いお国の中でも、占有権が
どんな人の手に落ちたと思召します。
どこへ行って見ても、新しい人間が主人になって、
独立して生《せい》計《けい》を営むと云っています。
どんな事をしていたって、見ている外はありません。
あらゆる権利を譲って遣って、もう公《おおやけ》の手に
残っている権利は一つもありません。
あの党派と云っているものなぞも、
今日になってはもう信頼することは出来ません。
賛成しても、非難しても、愛憎どちらでも
構わぬと云う冷澹な心持になっています。
身方のギベルリイネンも、相手のゲルフェンも、
手を引いて、佚《いつ》楽《らく》を貪っています。
誰が隣国なんぞを援けようといたしましょう。
てんでにしなくてはならぬ事がありますから。
金《きん》穴《けつ》の戸口には柵が結ってあって、
一人々々が掘り出して、掻き集めているだけで、
内《ない》帑《ど》はいつも明《あき》虚《がら》になっています。
中務卿
わたくしの方も随分不幸に逢っています。
毎日々々節倹をいたそうとしていて、
毎日々々費用が嵩《かさ》むばかりでございます。
それにわたくしの難儀は次第に殖えて参ります。
まあ、お料理人の手元だけはまだ不足がありません。
鹿に氈《かも》鹿《しか》、兎に野《いの》猪《しし》、
鶏にしゃも、鶩《あひる》に鴨、
そう云う生《しよう》物《ぶつ》の貢は本《もと》が確《たしか》で、
まだかなりに這入ってまいります。
それでも酒がそろそろ足りなくなってまいります。
これまでは出《でど》所《ころ》の好《よ》い、時代のあるのが、
樽を並べて積み上げて、穴蔵にありましたのに、
皆様が引《ひき》切《きり》もなくお飲《のみ》になるので、
もうそろそろ残《のこり》少《すくな》になって来ました。
此頃は町役所の貯《くわえ》までを取り寄せて、
それ大杯に注げ、鉢に注げと、
皿小鉢を卓《つくえ》の下に落すまで、お飲《のみ》になる。
その跡始末と勘定はわたくしがいたします。
猶太《ユダヤ》商《あき》人《んど》は容赦なく、
歳入を引当にいたして、いつも翌年のを
繰り上げて納めています。
飼ってある豕《ぶた》は肥えませぬ。
お褥《しとね》の鳥の羽も質に這入っておりまする。
借《かり》越《こし》のパンを差し上げるのも致方《いたしかた》がございません。
(暫く考へて、メフィストフェレスに。)
どうだ。まだその外に難儀のあるのを知っているか。
メフィストフェレス
わたくしですか。存じません。こうして殿様はじめ
皆様の御盛んな様子を拝しています。帝位の尊厳で
いやおうなしにお命じなさるに、
なんで信用が足りますまい。
智慧と働《はたらき》とで強くなっている、多方面な善意が
お手《てま》廻《わり》にあるに、なんの威力が方々に仇をしましょう。
こう云う星の数々が照っている所で、
何が寄って災難や暗黒になることが出来ましょう。
耳語
あいつ横着者だね。○巧者な奴だね。○
胡麻を磨り込みおる。○遣れる間遣るでしょう。○
分かっていまさあ。○内々何を思っているか。○
これからどうすると云うのです。○建白でもするのでしょう。
メフィストフェレス
一体この世では何かしら足りない物のない所はありません。
あそこで何、ここでは何が足りぬ。お国では金が足りぬ。
それだと云って床《ゆか》の下を掘って出すことは出来ません。
そこは智慧で、どんな深い所からでも取って来ます。
山の礦脈の中や、人家の地《ち》の底に、
金塊もあれば金貨もあります。
そんならそれを誰が取って来るかとお尋ねなさるなら、
力量のある男の天賦と智慧だと申す外ありません。
尚書
天賦と智慧だの、自然と霊だのとは信徒は云わない。
そんな話はひどく危険だから、
無神論者を焚き殺すのだ。
自然と云う罪障と、霊と云う悪魔とが、
夫婦になって片羽な子を生んで育てる。
その子が懐疑だ。
ここにはそんな事はない。殿様の古いお国には、
二《ふた》通《とおり》の門閥が出来て、
それが玉座を支えている。
それは聖者と騎士なのだ。
この方《かた》々《がた》がどんな暴風雨をも相手に闘って、
その報《むくい》に寺院と国家とを取りまかなう。
ところが腹の極《き》まらない下賤な奴の心から
反抗が起って来る。
それが背教者だ。魔法使だ。
そう云う奴が都をも国をも滅すのだ。
そう云う奴を今お前は、臆面のない笑談で、
この尊い朝廷へ口入をしようとしている。
お前達は腐った根性を守《も》り育てている。
そう云う奴は皆阿房の同類だ。
メフィストフェレス
お詞《ことば》で学者でいらっしゃることが知れますな。
なんでも手で障って見ない物は、何里も先《さき》にある、
握って見ない物は、まるで無い、
十《そ》露《ろ》盤《ばん》で当って見ない物はだ、
秤《はかり》で掛けて見ない物は目方がない、
自分で鋳たのでない銭は通用しないと思召す。
そんな話で物の足りぬのが事済にはならぬ。
断食の時の説教のような講釈でどうしようと云うのか。
こうしたらとか、どうしたらとか、際限なく云うのには厭《あ》いたぞ。
金が足りぬ。好《よ》いわ。金をこしらえい。
メフィストフェレス
おいり用の物は拵えますとも、それより多分に拵えます。
造《ぞう》做《さ》もない。しかしその造做もない事がむずかしいのです。
現《げん》にそこにある。しかしそれを手に入れるのが
術で、誰がその術に手を著けましょう。
一寸考えて御覧なさい。疆《さかい》を侵した外寇の海嘯《つなみ》に、
土地も人民も溺れた、あの驚怖時代に、
どんなにか不本意には思っても、誰彼が一番大事な物をあそこここに隠したのです。
ロオマ人が暴威を振った時から、そうでした。
それからずっときのうまでもきょうまでも、そうです。
それが土の中にじっとして埋もれている。
土地は殿様のだ。殿様がそれをお取《とり》になるが宜しい。
大府卿
阿房にしてはなかなか旨く述べ立てるな。
勿論それはお家柄の殿様の権利だ。
尚書
悪魔がお前方に金糸を編み入れた罠を掛けるのだ。
どうも只事ではないようだぞ。
中務卿
少しは筋道が違っていても好《い》いから、
御殿の御用に立つ金を拵えて貰いたいものだ。
兵部卿
阿房奴賢いわい。誰にも都合の好い事を約束しおる。
兵隊なんぞは、どこから来た金かと問いはしない。
メフィストフェレス
もしわたくしに騙されるとお思《おもい》なさるなら、
それ、そこにいます、あの天文博士にお尋なさい。
やれ躔《てん》次《じ》だの十二宮だのと、隅から隅まで知ってござる。
一つ言って貰いましょう。きょうの天文はどうですな。
耳語
横著者が二人だ。○以心伝心でさあ。○
阿房に法螺吹が。○御前近くにいるのです。○
聞き陳《ふる》した。○昔の小歌だ。○
阿房が吹き込む。○博士がしゃべるのですな。
天文博士
(メフィストフェレス白《せりふ》を附く。博士語る。)
一体日そのものは純金でございます。
水星は使わしめで、給料を戴いて目を掛けて貰う。
金星と云う女奴は皆様を迷わせて、
朝から晩まで色目で見ている。
色気のない月奴は機嫌買ですねている。
火星はお前様方を焼かぬまでも、威勢で嚇《おど》している。
木星は兎に角一番美しい照様をする。
土星は大きいが、目には遠くて小さく見える。
あいつが金《かね》になると鉛だが、余り難《あり》有《がた》くありませぬ。
値段は安くて目方が重い。
そうですね。ただ日に月が優しく出合うと、
金銀が寄って、面白い世界になる。
その上には得られないと云うものはありませぬ。
御殿でも、庭でも、小さい乳房でも、赤い頬《ほお》でも、
そんな物を得させるのは、我々の中で誰一人
出来ない事の出来る学者の腕でございます。
あれが云う詞には己には二重に聞えるが、
そのくせどうもなるほどとは合点が出来ぬ。
耳語
あれがなんの用に立つだろう。○連《から》枷《さお》で打った
跡のような洒落だ。○暦いじりだ。○錬金の真似だ。○
あんな事は度々聞きました。○そしていつも騙されました。○
よしや出て来たところで。○っぱちですよ。
メフィストフェレス
皆さんはそこに立って呆れていなさるばかりで、
大した見附物を御信用なさらない。
草の根で刻んだ人形をたよりにするとか、
黒犬を使うとか云うような、夢を見ていなさる。
あなた方の中には時たま足の蹠《うら》が痒かったり、
足元が慥《たし》かでなくなったりすると、
洒落でちゃかしてしまったり、魔法だと云って
告発したりなさるが、分からない話です。
あれはあなた方がみんな、永遠に主宰している
「自然」の奇《く》しき作用をお感じになるのです。
その生動している痕跡が、一番下の方から
上へ向いて縋って登って行くのです。
いつでも手足をつねられるような気がしたり、
いる場所が居心が悪くなったりしたら、
すぐに思い立って鍬で掘って御覧なさい。
そこには楽人の死骸がある。そこには宝がある。
耳語
わたくしなんぞは足に鉛が這入っているようだ。○
わたくしは腕が引き弔《つ》る。○それは痛風です。○
わたくしは足の親指がむずむずする。○
わたくしは背中じゅうが痛い。○
こんな塩梅だと、ここなんぞは
宝が沢山埋まっている土地でしょうか。
そんなら早くせい。もうお前は逃がさぬから、
その口から沫を出してしゃべったを
験《ため》すために、すぐその尊い場所を見せてくれ。
お前がを衝いたのでないなら、己は冠や
指揮の杖を棄てて、尊い、自分の
この手で、その為《し》事《ごと》を果そうと思う。
もしなら、お前を地獄へ遣って遣る。
メフィストフェレス
それはそこへ行く道はわたくしが知っていますが、
そこにもここにも持主がなくて埋まっている物の、
その数々は申し上げ切れない位でございます。
どうかいたすと、畝を切っている百姓が、
土《つち》塊《くれ》と一しょに金《きん》の這入った壺を掘り出す。
また外の奴は土壁の中から硝石を取ろうとして、
貧に痩せた手に、驚喜しながら、
立派な金貨の繋がったのを取り上げる。
まあ、どんな穹《きゆう》窿《りゆう》を爆破したり、
どんな深い穴や、どんな長い坑道の奥を、
奈落の底の近所まで、宝のありかを
知った人は這入ったりしなくてはならないでしょうか。
さて広い、年久しく隠してある穴倉に這入ると、
金《きん》の大杯や皿や鉢が
ずらりと並べてあるのを見るでしょう。
紅宝玉で造った杯もあって、
それを使おうと思って見れば、
傍に古代の酒があります。
そこで、そんな事に明るいわたくしの申す事を
信じて下さらなくては駄目ですが、もう疾《と》っくに
桶の木は朽ちていて、酒石が凝って桶になって、
中に酒を湛えています。そう云う尊い酒の精も、
金銀宝石ばかりではなく、闇黒と
恐怖とで自分を護って蔵《かく》れています。
そう云う所を賢者は油断なく探っています。
昼間物を見知るのは笑談ですが、
深秘は闇黒を家にしていますからね。
そんな闇黒なんぞがなんになるものか。それはお前に
任せて置く。役に立つものなら、日向へ
出んではならぬ。誰が闇《やみ》の中で横著者を
見分けよう。牝牛は黒く、猫は灰色だ。
その黄金がどっしり這入って、地の下に埋まっている壺を、お前の犂《すき》で日向へ掘り出せ。
メフィストフェレス
いえ。御自身に鋤鍬を取ってお掘《ほり》なさいませ。
百姓の業《わざ》を自らなさる程大きい事はありませぬ。
そうなさったら、黄金の犢《こうし》が群をなして、
地の下から躍り出しましょう。
そうなると、御猶予なさることなしに、喜んで
御自分と后《きさき》方《がた》との身をお飾《かざり》なさいましょう。
色と沢《つや》とにかがやく石は、
厳《いかめ》しさをも美しさをも増しまする。
早くせんか。早くせんか。いつまで掛かるのだ。
天文博士
(上に同じ。)
いえ。そのおはやりになるお心を少しお鎮めなさって、
華やかなお慰を先へお済ませなさいませ。
気が散っていては目的は達せられませぬ。
先ず心を落ち著けると云う償《つぐのい》をして、
前《まえ》なるものに由って後《のち》なるものを得なくては
なりませぬ。善を欲せば、先ず善なれ。
喜を欲せば、己が血を和平にせよ。
酒を得んと欲せば、熟したる葡萄を絞れ。
奇蹟を見んと欲せば、信仰を牢《かと》うせよでございます。
そんなら面白い事で暇を潰すも好かろう。
幸な事には丁度灰の水曜日が来る。
その間《あいだ》いつもよりも盛んに
四旬節の前の踊でもさせるとしよう。
(喇叭、退場。)
メフィストフェレス
労と功とは連鎖をなしていると云うことが、
馬鹿ものにはいつまでも分からない。
よしや聖賢の石を手にしたところで、
石はあっても聖賢はなくなるだろうて。
隣接せる間《ま》多き、広々としたる座敷、仮装舞踏を催さんがために装飾を尽せり。
先触
皆様。ドイツの境の内にいると思ってはいけません。
悪魔踊に阿房踊、また髑髏踊なんぞのある、
面白いお慰《なぐさみ》が始まります。
殿様はロオマ征伐に御いでになって、
国のため、またあなた方のお慰のために、
高いアルピの山をお越《こえ》になって、
晴やかな土地をお手に入れなさいました。
殿様は先ず難《あり》有《がた》い上沓の裏に御接吻なさって、
御威勢の本になる権利をお受《うけ》になって、
それからお冠を貰いにおいでになったとき、
一しょに坊様の帽子をも持ってお帰《かえり》になった。
そこでみんなが生れ変ったようになった。
誰でも世渡上手なものは、その帽子を
頭から頸まですっぽり被る。
すると見《み》掛《かけ》は気の違った阿房のようで、
その帽子の蔭では、どんなにえらくでも
なっていられる。あれ、もうそこらに寄って、
浮足をして分れたり、睦ましげに組んだり、
群の跡に群が続いて来るのが見えます。
機嫌を悪くしないで、出たり這入ったりなさい。
何をしたところで、せぬ前もした後も同じ事、
百千の馬鹿げた事を包んでいるこの世界は
一人《ひとり》の大きな馬鹿ものに相違ありませぬ。
庭作の女等
(マンドラの伴奏にて歌ふ。)
われ等若きフィレンチェの女《おみ》等《なら》は、
君達に愛ではやされむと、
今宵皆粧ひて、ドイツの宮居の
御栄を追ひて来ぬ。
この褐《かち》色《いろ》の渦巻ける髪を
くさぐさの晴やかなる花もて飾れり。
さて絹の糸、絹の絮《わた》、おのがじし
美しさを助くる料となれり。
なぞとや仰する。われ等はそを功《いさお》ありとし、
褒めます値ありと思へり。
われ等が造りなせる、このかゞやく花は
四つの時絶間なく咲き《にお》へり。
いろいろに染めたる紙の小《こ》切《ぎれ》に
向き合ひて所を得させたれば、
一つ一つをば笑止とも見たまはむ。
すべてには心引かれ給ふべし。
われ等庭作の女《おみ》等《なら》も
愛でたく、人懐かしげには見えずや。
なぞとや仰する。女《おみ》子《なこ》の生れながらの
さま見れば、手わざに似たれば。
先触
その頭の上に載せている籠や、手から
五色を食み出させて提げている籠に
盛り上げてある豊かな品物を見せるが好《い》い。
そして皆さんが気に入ったのを取りなさるが好い。
皆が取って、急いでこの仮屋の道を
花園に紛れるようになさるが好い。
売手も品物も、賑やかに
取り巻いてお遣《やり》なさるだけの値打はあります。
庭作の女等
さあ、お値段をお附《つけ》なさいまし。
ですけれど、市場の商ではございませんよ。
お取《とり》になる花一つごとに、それがなんの
花だと云う、面白い詞《ことば》を添えて上げます。
実れる月桂の枝
わたくしはどんな花でも妬みませぬ。
なんの喧嘩も避けまする。
それは性に合わないからでございます。
その性と申すのは、もと野山の魂で、
間違のどうしても出来ないように、
その土地々々の睦《むつみ》の印になっています。
どうぞきょうのお祭には、似つかわしい、美しい
髪に載せてお貰《もらい》申しとうございます。
穂の飾
(黄金色。)
あなた方をお飾《かざり》申す、このケレスの賜は
さぞ優しげに、愛らしくお似合なさいましょう。
用に立つので、一番願わしいこれが、
あなた方のお飾としては美しゅうございましょう。
意匠の輪飾
苔の中から咲かせてある、葵《あおい》のような、
はでな花は不思議な輪《わ》ではありませんか。
自然には常に無い物をも、
流行は生み出します。
意匠の花束
わたくしに名を附けることは、植物にお精しい
テオフラストさんも御遠慮なさいましょう。
ですけれど、皆さんのお気に入らないまでも、
どなたかには好かれようかと存じます。
そうした方のお目に留まりとうございます。
どうぞ髪にお編み込み下さいまし。
どうぞわたくしがお胸の中に
所を得ますようにお極《きめ》下さいまし。
勧誘の詞
その日その日の流行に
意匠の花は咲くが好《よ》い。
自然にかつて無いような、不思議な姿をするが好《よ》い。
茎は緑に、弔《つり》鐘《がね》形《がた》の花黄《こ》金《がね》色《いろ》。
それが豊かな髪の中から見えるが好《よ》い。
ですけれど、わたくしども
薔薇の莟
は隠れています。
それをちょっとお見《み》附《つけ》なさる方はお為《しあ》合《わせ》です。
夏のおとないが知れて、
薔薇の莟《つぼみ》に火が附く時、この為《しあ》合《わせ》が
なくて好《よ》いとは、どなたも仰ゃりますまい。
誓いますこと、またそれを果しますことが、
花の国では一様に
目をも胸をも魂をも支配するのでございます。
(仮屋の屋根の下なる緑の道にて、庭作の女等美しく品物を飾り立つ。)
庭作等
(テオルベの伴奏にて歌ふ。)
見給え。花は静かに生い出でて、
美しく君達の髪を飾るを。
木《この》実《み》は誘うものならず。
ただ味いて楽み給え。
桜の実、山《さん》桃《とう》の実、大いなる李《すもも》の実、
皆褐《かち》色《いろ》の顔を見せたり。
ただ召せ。《あぎと》と舌とにあらぬ目は
え堪えじ、よしあし定むる官《つかさ》たるに。
来ませ。楽みて、味いて、もとも好く
熟《う》みたる木《この》実《み》食《と》うべに。
薔《そう》薇《び》をこそ詩にも作れ
林檎をば噬《か》までやわ。
おん身等のその豊かなる若き群に、
われ等の伴うを許せ。
隣にて、この熟《う》みたる木実の
さわなるを、われ等も積み飾らん。
飾りたる仮屋の隅に、
面白き編物の下に、
あらゆる物皆備れり。
芽あり、葉あり、花あり、実あり。
(ギタルラとテオルベの伴奏にて、かたみがはりに歌ひかはす歌と共に、二つの群は貨物を段々に高く積み飾り、客を待つ。)
母と娘と。
嬢や。お前が生れた時ね、
帽子を被せて遣りましたが、
顔はほんとに可哀くて
体はほんとにきゃしゃでしたよ。
その時もうお婿さんが極《き》まったように、
大したお金のある内へ行くことになったように、
もうおよめさんになったように思いましたよ。
それにもう何年か
無駄に過ぎましたね。
お貰《もらい》になりそうな、いろいろな方々が
ずんずん通り過ぎておしまいなさった。
あるお方とはすばしこくお踊《おどり》だったし、
あるお方には目立たない相図を
肘でおしだったね。
いろいろな催《もよおし》もあったけれど
これまで駄目であったのだよ。
質の遊《あそび》も鬼ごっこも、
皆役には立たなかったのだよ。
きょうは皆さんが阿房になっておいでになるから、
お前襟を開《あ》けていて御覧。どなたか
お取《とり》止《とめ》申すことが出来るかも知れぬからね。
(若き、美しき女友達来てこれに加はり、親しげなる会話聞えはじむ。漁者と鳥さしと数人、網、釣竿、黐《もち》竿《ざお》、その他の道具を持ちて登場し、少女等の間に交る。此等互に相挑み、相捉へ、逃れんとし、留めんとし、その動作極めて快き会話の機会を生ず。)
樵者
(粗《そ》笨《ほん》に、躁急に登場。)
避《よ》けた。避けた。
場所がいるのだ。
わたしどもは木を伐るのだ。
その木はめりめり云って倒れる。
それをかついで行くときは、
そこらじゅうへ衝き当たる。
自分の手柄を言うようだが、
これだけは御合点を願いたい。
荒っぽい奴も
土地で働かんでは、
どんなに智慧を出したって、
上品な人ばっかりが
どうして立ち行きましょうぞ。
御合点の願いたいのはここだ。
こっちとらが汗を掻かなんだら、
あなた方は凍えましょう。
道化方
(手づつに、ほとんどをさなく。)
あなた方は馬鹿だ。
腰を屈めて生れなすった。
わたしどもは利口だ。
重荷を背《し》負《よ》ったことはない。
鳥打帽子も
ジャケツも襤《ぼ》褸《ろ》著《ぎ》も
身軽な支度だ。
わたしどもは気持好く、
いつもなまけて、
上沓ばきで、
市場へも人込へも
駆け込んで、
物見高く立ち止まって、
お互にどなり合います。
さてその声が聞えると、
どんなに人が籠んだ中でも、
鰻のように摩り脱けて、
一しょになって跳ね廻り、
一しょになってあばれます。
お褒《ほめ》なさっても、
悪口を仰ゃっても、
御尤《ごもつとも》だと申します。
寄生虫
(諛《へつら》ふ如く、物欲しげに。)
お前方、元気な、真《ま》木《き》を背《し》負《よ》った男や、
御親類の
炭焼の男は
こっちの用に立つ人達だ。
全体腰を曲げたり、
竪にかぶりを振ったり、
紆余曲折の文句を言ったり、
人の感じよう次第で
暖めも冷《さ》ましもする
二重の息を嘘《ふ》き掛けたりする
こんな面倒がなんになると思う。
それは天からだって
大した火が
来ることもあるだろうが、
竈《へつつい》の広さだけ
かっかと燃え立たせる
真木や炭の荷が
なくては済まぬ。
そこで燔《や》けている。沸いている。
烹《に》えている。渦巻いている。
ほんとに味の分かる男は、
皿までも舐《な》める男は
燔ける肉を嗅ぎ附ける。
肴のあるのを見ずに知る。
そこでお出入先の食卓で
手柄をする気が出て来るのだ。
酔人
(正気を失ひゐる。)
どうぞきょう己達にあらがってくれるな。
なんだか自由自在な心持がしているのだ。
涼しい風や気の晴れる歌も
己達が持って来て遣ったのだ。
そこで己は飲むよ。飲むよ。飲むよ。
杯を一つ打《ぶ》っ附けよう。ちりん。ちりん。
おい。そこの背後《うしろ》にいる先生。出《で》ておいで。
ちりんと遣るのだ。それで好《い》い。
かかあ奴がおこってどなって、
立派な上衣を皺にしおった。
どんなにこっちで息《い》張《ば》っても、仮装の衣裳を
掛けて置く台だと云って冷かしおった。
それでも己は飲むよ。飲むよ。飲むよ。
打《ぶ》っ附けて鳴らして見よう。ちりん。ちりん。
衣裳の台の仲間同士で杯を打《ぶ》っ附けよう。
音がしたなら、それで好《い》い。
己が迷《まい》子《ご》になっているのだなんぞと云うなよ。
己は己の気持の好《い》い所にいるのだ。
亭主が貸さないと云やあ、上さんが貸さあ。
どっちもいけなくなったって、女中だって貸さあ。
いつだって己は飲むよ。飲むよ。飲むよ。
一しょに飲め、飲め。ちりん。ちりん。
順《じゆん》送《おくり》に打《ぶ》っ附けよう。ずっと先まで。
皆遣ってくれるぞ。それで好いようだ。
どうして、どこで己が楽んだって、
そうさせてくれて好いじゃないか。
どうぞ己の寝た所に寝させて置いてくれ。もうそろそろ立っているのがいやになって来る。
合唱する群
誰も彼も飲め、飲め。さあ、頼むよ、
ちりん、ちりんの演説を。
腰掛の木の切《きれ》に、しっかり腰を据えていろ。
机の下へころがった男はそれでおしまいだ。
先触種々の詩人等を紹介す。自然詩人、宮廷詩人、騎士詩人、温柔詩人、感奮詩人あり。皆自ら薦むるに急にして押し合ひ、一人も朗読の機会を得ずして已《や》む。一人ありて短き句を唱へて、抜足しつゝ過ぎ去る。
諷刺
心《こころ》より詩人わが
喜ばむことを君知るや。
一人だに聞くことを
願はぬ詞を歌はしめよ。
(夜の詩人と冢《つか》穴《あな》の詩人とはことわりの使をおこせたり。そは屍の血を吸ふワムピイルの纔《わずか》に墓中より出でたるに会ひて、興ある対話をなす最中なるが故なり。この対話に本《もと》づきて、あるいは詩の一新体の発展し来らむも知るべからずとなり。先触已むことを得ず、このことわりを認容して、さて希《ギリ》臘《シア》神話を呼び出せり。今様の仮面を被りたれど、希臘神話はその特性をも興味をも損ふことなし。)
なさけの三女神グラチエ。
映《はえ》の神アグライア
人の世に優しさをわれはもたらす。
優しさを物贈る手に籠め給へ。
引率る神ヘゲモネ
優しさを物受くる手に籠め給へ。
願ふこと《かな》へるはめでたからずや。
楽《たのしみ》の神エウフロシネ
平《たいらか》にあらん日の限、
礼《いや》申すにも優しかれ。
運命の三女神パルチェエ
避《よ》くべからざる神アトロポス
最《もと》も老いたるわれ、こたび
糸引く人に傭はれぬ。
細き命の糸引けば、
物思ふこと多きかな。
しなやかなるが得まほしく、
いと善き麻をわれ縒《よ》りぬ。
筋筋善く揃ひ、滑《すべ》り好かれと、
賢《さか》しき指《および》もて、われ縒りぬ。
宴《うたげ》にまれ、踊にまれ、
その矩を越えむとき、
糸の限を思へかし。
心せよ、切れやせむ。
糸縒る神クロト
汝《なれ》達《たち》知れりや。きのふけふ
剪刀《はさみ》は我手にわたされぬ。
そは老《おい》人《びと》の振舞に
飽かぬ節々あればなり。
何の甲斐あらじと思ふ幾筋を、
風のむた、照る日のもとに、曳き延《は》へぬ。
得ることのさはにあるべき望の糸を、
断ち切りて奥《おく》津《つ》城《き》の底深く墜しつ。
されどわが若きすさびもしどけなく、
あやまちて断ちし糸百筋ありき。
いちはやきこの手をけふは控へんと、
剪刀をば嚢に入れてわれ持《も》てり。
かくてわれいましめに安んじをりて、
この場《にわ》をあはれみの目もて見わたす。
ゆるされたる日汝達は
戯れ遊べ、いつまでも。
糸分くる女ラヘシス
心得て過たぬわれひとり
筋々の序《ついで》する業《わざ》を守れり。
つねに醒めたるわれならば、
慌ただしさの咎《とが》はなし。
来る糸を《わく》に巻き
それぞれの道に遣る。
一筋も逸《そ》れさせじ。
輪のなりに寄りて来《こ》よ。
われ一《ひと》日《ひ》心ゆるさば、いかにかは
なりぬべき、心もとなき世の中は。
われ日を計り、年を計りて、
服部《はとり》手に取る糸一束《つかね》。
先触
皆さん、どんなに古い書物にお精しくても、
こん度来るものはお分かりになりますまい。
随分悪い事をしでかす女共ではありますが、
御覧になるには、好いお客様でございましょう。
怒の女《め》神《がみ》でございます。だとお思《おもい》なさるでしょう。
愛らしくて恰好が好くて優しくて年が若い。
附き合って御覧になると分かりますが、
どんなにかあの鳩が蛇のように噬《か》むでしょう。
一体陰険な奴ですが、きょうは誰でも
阿房になって、あらを手柄にする日なので、
あいつ等も天使としての名聞を思わずに、
都や鄙の厄介ものと名《な》告《の》って出ています。
怒の三女神フリエユ。
かつて休まぬ神アレクトオ
どうせ諦めてわたし共におたよりなさらなくては。
こんなに綺麗で、若くて、小猫のようにあまえますもの。
あなた方《がた》男の方《かた》の中で好《す》いた女のおありなさる方には、
わたしがじゃれ附いて、耳の後《うしろ》をくすぐって上げます。
そしてお心安くなって、目と目を見合せてこう云います。
「あの女はあなたの外に誰さんにも愛敬を
振り蒔《ま》きますよ。頭《あたま》は馬鹿で、背中は曲って、その上
跛《びつこ》で、奥さんになさるお積《つもり》なら駄目」と云います。
そんな風に女の方へも水を指します。
「二三週間前でしたが、あの方はあの女に
あなたの事を下げすんで話していてよ」などと
云うのです。仲直りをしても、何かしら残ります。
不親切の神メガイラ
そんな事は笑談です。婚礼をしてしまうと、
わたしが引き受けて、どんな場合にも
極《ごく》美しい幸福を気《きま》紛《ぐれ》でまずくします。
一体人は変るもので、時によって変ります。
それで誰一人願って得たものを手にしっかり持って
いないで、慣れてしまった一番大きい幸福を忘れて、
おろかにもそれより願わしいものにあこがれます。
凍えて煖まろうとして、日を跡に逃げるのです。
そう云う人の扱をわたしは一切心得ていて、
好《い》い折に禍の種を蒔かせるように、夫婦中の
悪魔と云う、お馴染のアスモジを連れて来て、
二人ずつになっている人間を腐らせます。
復讐の神チシフォネ
二心のある人を害する蔭《かげ》言《ごと》の代《かわり》に、わたしは
毒を調合したり、匕《あい》首《くち》を研いだりします。
余所の女に気を移した方は、早かれ遅かれ
お体に毒が廻るようにいたします。
そういたすと、ちょいとした間《ま》の甘いお楽《たのしみ》が、
泡立つ毒、苦《にが》い胆《きも》の汁になります。
そこには掛値もなければ、負けることもありません。
お犯しなすった罪だけは、お償《つぐのい》なさらなくてはなりません。
免除《ゆるし》のなんのと云うことを仰ゃいますな。
わたしの訴は岩に向《む》いていたします。
お聞《きき》なさい。すぐに谺響《こだま》が報の答をします。
女をお取換なすった方のお命はありません。
先触
どうぞ、皆さん、少し脇へお寄なすって下さい。
今ここへ来るのは並《なみ》の物ではありません。
御覧の通《とおり》、山が一つ押し寄せて来ます。
彩《いろど》った毛氈が、誇らしげに腋に掛けてある。
頭から長い歯や蛇のような鼻が出ている。
なんだか秘密らしい物ですが、お分かりになるように、
鍵を見せて上げましょう。項《うなじ》には優しい女が
乗っていて、小さい鞭で巧者に使っています。
今一人上に立っている、立派な、上品な女は、
毫《ごう》光《こう》がさしているので、羞明《まばゆ》くてなりません。
傍《そば》をやはり上品な女達が縛られて歩いて来ます。
一人はせつなげな、一人は嬉しげな目をしている。
一人は自由を求めていて、一人はそれを得ている。
さあ、一人々々自分の身の上を明《あか》して貰おう。
恐《おそれ》
薫《くゆ》る続《つい》松《まつ》、油の火、蝋の火微かに
入り乱れたる祭の群を照せり。
この幻の姿の中に、あはれ、
鎖は我を繋げり。
退《の》け。見苦しき、笑ふ人々。
その崩れたる顔のさまこそ怪しけれ。
我を謀らんとする人等皆
今宵我に迫り来《く》とおぼし。
見よ。あれは仇となれる身方の一人なり。
あの仮《か》面《めん》をばわれ知れり。
またあの男は我を殺さんとしつるなり。
われに見知られて、今逃げ去らむとす。
あはれ、いづ方へまれ逃れて、
世の中に隠れ避けばや。
されどかなたよりは死の我を嚇《おど》すあり。
我は猶《なお》烟と恐《おそれ》との中に捕はれてあり。
望《のぞみ》
わが礼《いや》申すを受け給へ。女《おんな》の友等。
きのふけふこそ、おん身等皆
姿を変へて楽み給はめ。
あすは必ず仮の装《よそい》を
解き給はん。
松の火の照らす下は、
わきて楽しとおもはねど、
晴やかなる日の昼に、
おのがじし心のまにま、
あるはひとり、あるは打ち群れて、
美しき野をそゞろありきし、
せまほしき事して、疲れて憩ひ、
憂を知らで日をくらし、
よろづ事足り、つねにいそしみ、
いづくへも、まらうどと
迎へられて行かばや。さらば
いづくにてか、最《もと》も善きものを
見出ださでやはあるべき。
人の世の大いなる仇二つあり。
そは望《のぞみ》と恐《おそれ》となり。われそを繋ぎて、
御身等の群に近づかしめず。
道を開《あ》け給へ。御身等は救はれたり。
塔負へる、活ける大いなる獣を、
見給へ、われは牽《ひ》きて行けり。
獣は険しき道をば厭《いと》はで、
一足づつ進み行けり。
塔の上にはしなやかに羽搏つ、
広き翼ある女神いまして、
いづ方へも向きて、
幸《さち》を授け給へり。
女神の身のめぐりには光ありて、
遠く四《よ》方《も》を照せり。
人の世のあらゆる業《わざ》の女神として、
勝利の神と名告らせ給へり。
テルシテス、ツォイロスの合体
いやはや。己は丁度好《い》い所へ来たぞ。
お前さん方は皆悪いから、小言を言わねばならん。
だが、その中で己の目星を附けているのは、
あの上にいなさる勝利の神さまだ。
あんな真っ白な羽を背《し》負《よ》って、
鷲かなんかのような積《つもり》でいて、四方八方、
自分が顔を向けさえすりゃあ、土地も人間も、
我物になると思っていなさるのだろう。
ところで、どこで誰が誉められて幅が利くのでも、
己はすぐに癪に障ってならないのだ。
なんでも低い奴を持ち上げて、高い奴を
押し落して、曲ったのを直《すぐ》な、直なのを曲ったと
云うことにしなくては、己の虫が承知しない。
己は世の中の事をそうあらせたいのだ。
先触
こら。やくざ狗《いぬ》奴。正義の杖の
誉ある一打を食《くら》え。打たれてすぐに
背中を曲げて、のた打ち廻るが好《い》い。
はあ。一寸坊の二人寄って出来た片羽者奴が、
見る見る胸の悪い塊《かたまり》になりおるな。
や。不思議だ。塊が卵になる。
そいつが膨《ふく》れ上がって、二つにはじける。
中から飛び出す二匹の獣は、
獺《かわうそ》と蝙《こう》蝠《もり》じゃないか。
獺は塵《ちり》芥《あくた》の中を這い廻って、
蝙蝠の黒い奴は天井へ飛び上がりおる。
はあ。一しょになって外へ逃げ出しおる。
あの三匹目の仲間には、己はなりたくないなあ。
耳語
さあ。奥ではもう踊っていますぜ。○いや。わたしは
もう帰ってしまっていたらと思っています。○
そろそろ怪しい物共がはびこって来て、
我々の周囲《まわり》を取り巻くのが分かりませんか。○
髪の毛の上をしゅうと云って通りますぜ。○
なんだか足にちょっと障ったようです。○
誰も怪我はしやしません。○
でもみんな気味を悪がっています。○
もう慰《なぐさみ》はすっかり駄目になりました。○
畜生奴等がこうしようと思ってしたのです。
先触
わたしは仮装の会で
先触の役を仰せ附けられてから、
御門で真面目に見張っていて、
この慰の場所へ、あなた方に禍を及ぼすものが
忍び込む事のないようにしています。
わたしはぐら附きもせねば、怪しい物を
避《よ》けて通しもしません。しかし窓から空を飛ぶ
化物が這入るかも知れません。あなた方の
魔法にお掛かりになるのを、
防いでお上《あげ》申すことは出来ません。
なるほどあの一寸坊も少し怪しゅうございましたが、あれ、
あの奥の方からもまたどやどや遣って来ますね。
あいつらがなんだと云うことは、
役目ですから、説明をしてお上《あげ》申しましょう。
しかし理解の出来ない事は、
説明も出来兼ねます。
皆さんに教えて戴きたいものです。
御覧なさい。あの人の中を遣って来るものを。
四頭立の立派な竜の車が
どこでも構わずに通って来ます。
そのくせ人を押し分ける様子はなくて、
どこにもひどい混雑は起りませんね。
丁度幻燈でもしているように、
遠い所でぴかぴかしている。色々の星が
迷い歩いて光っている。や。竜の車の竜が
鼻を鳴らして駆けて来る。道をお開《あけ》なさい。
わたしも気味が悪い。
童《どう》形《ぎよう》の馭者
止《と》まれ。
竜ども。少し羽を休めい。
己の馴れた《たづな》が応えぬか。己がお前達を
制するから、お前達も自分の体を制するが好《い》い。
そして己が励ますとき、また走って行け。
この場所で粗忽があってはならないのだ。
それ、そこらを見廻せ。お前達を感心して
御覧になる方々が、幾重にも圏をかいていなさる。
さあ。先触の先生。あなたのお流義で、
わたしどもの奔《はし》り抜けてしまわないうちに、
わたしどもの名を指して、講釈をなすって下さい。
御如才はありますまいが、
わたしどもはアレゴリアです。象形です。
先触
お前さん方の名を言うことは出来ないが、
見た所を説明することなら出来るでしょう。
童形の馭者
さあ。遣って御覧なさい。
先触
さよう。どう云おうか。
先ず、お前さんは美少年だ。
だが、まだ一人前にはなっていません。御婦人方は
お前さんが立派な男になった所が見たいでしょう。
どうも見受ける所が、お前さんは数奇者になって、
女を迷わすには持って来いと云う様子だ。
童形の馭者
その辺は可なり受け取れますね。跡はどうです。
面白い謎の詞《ことば》どもは見附かりませんか。
先触
目から黒い稲妻が出ている。髪の毛の闇夜に、
宝石で飾った紐が、晴やかな趣を添えている。
そしてその肩から踵《かかと》まで垂れている、
濃い紫の縁を取った、宝石の飾のある上衣は、
なんと云う美しい著物だろう。
意地悪く出れば、女のようだとも云いたくなるが、
なんのかのとは云うものの、今でもお前さんは
もう娘子達には好かれていますね。
恋のいろはを教えてくれたでしょうね。
童形の馭者
そこでこの車の上に座を占めておいでになる、
お立派な方をどなただと思うのですか。
先触
どうしてもお国が富んでいる、仁徳をお敷《しき》になる
王様と見えますね。御寵遇を受けるものは
為《しあ》合《わせ》でしょう。王様には此上のお望《のぞみ》はなく、
どこかで何かが足りなくはないかと、捜すように
見渡して、人に物を遣る浄い楽《たのしみ》を、
我富よりも幸《さいわい》よりも尊んでいられるでしょう。
童形の馭者
まだその辺で止めては行けません。
もっと精しく説明なさらなくては。
先触
どうも威厳は説明がせられませんな。
しかし月のようなお顔はお丈夫そうで、
脣はふっくりとして、血色の好《よ》い頬は
冠の飾の下にかがやいている。襞のある
お召物を召した所が、お気持が好さそうだ。
行儀作法はなんと申して好《よ》いか。王者のお身で
あって見れば、申すまでもありますまい。
童形の馭者
これは富の神と名に呼ばれておいでになる、
プルツス様が荘《そう》厳《ごん》を尽してお現《あらわれ》になったのだ。
この国の帝《みかど》が切にお願《ねがい》なされたので。
先触
そしてお前は誰で何をしなさるのか。
童形の馭者
わたしですか。わたしは物を散ずる力だ。詩だ。
自分の一番大事な占有物を蒔《ま》き散らして、
そして自分の器を成す詩人だ。
わたしも無限の富を有している。
自分で値踏をして、プルツス様に負けぬ積《つもり》だ。
富の神の饗応や舞踏を飾って賑やかにして、
神の持っておられぬ物を、わたしが蒔き散らします。
先触
なるほど。その自慢話はお前さんの柄にある。
しかし腕前が見せて貰いたいものですね。
童形の馭者
さあ、御覧なさい。ここでわたしが指をこう弾く。
するともう車の周囲《まわり》でぴかぴか光って来る。
それ、そこから真珠を繋いだ緒が出て来た。
(指を弾くことを停めず。)
さあ、お取なさい。金の耳飾に頸飾だ。
瑕《きず》のないに冠だ。
指環に嵌《は》めたすばらしい宝石だ。
どうかすると、ちょっとした火も出します。
どこかへ燃え附かせて遣る積で。
先触
はあ。あのおお勢が争って拾っていること。
これでは蒔く人が押し潰されそうだ。
夢を勝手に見させるように、指で宝を
弾き出すのを、みんなはこの広場一ぱいになって、
拾い廻っている。や。新しい手を出したな。
誰かが急いで手に取ると、
取った物が飛んで行く。
これはほんの無駄骨折だ。
真珠を繋いだ緒は解けて、
手にはかなぶんぶんがむずむずしている。
や。可哀そうに。棄ておった。棄てた虫が
頭のまわりを飛び廻っている。
外の奴は実《み》のある物を拾う積《つもり》で、
軽はずみな蝶々を攫《つか》まえおる。
横著小僧奴、前触だけが大きくて、
ただ金《きん》いろに光る物を蒔きおったな。
童形の馭者
見受ける所、お前さんは仮装だけの事は
披露してくれなさるが、殻を割って実《み》を見せるのは、
宮仕をする先触の為《し》事《ごと》ではないと見えますね。
それにはもっと鋭い目がいる。
だが、喧嘩にはわたしはしない。
さて、王様、わたくしはあなたに伺います。
(プルツスに向きて。)
あなたはわたくしにこの四頭曳の竜の車を
お任《まかせ》になったではありませんか。
思召どおりに旨く馭しましたでしょう。
お望の場所に来ていますでしょう。
大胆な翼を振って、あなたのために
成功の棕《しゆ》櫚《ろ》を取りましたでしょう。
あなたのために働いた度ごとに、
これまで成功しなかったことはありません。
そこであなたの額を月柱冠が飾るなら、
それを編んだのはわたくしの心と手とでしょう。
富の神プルツス
うん。己に証明をして貰いたいと云うなら、
己は喜んでこう云って遣る。「己の心を獲た奴だ。」
お前は己の意図のとおりに働く。
お前は己より富んでいる。
功を賞してお前に遣る緑の枝は、
あらゆる己の冠よりも尊いのだ。
己は皆に聞えるように、本当の事を言う。
「愛する我子よ。お前は己の気に入っている。」
童形の馭者
(群集に。)
皆さん御覧。わたしの手で蒔かれるだけの
最大の宝をわたしは蒔いた。
そこここの皆さんの頭の上に、
わたしの附けた火が燃えています。
一人の頭から余所の頭へ飛ぶのもある。
あの人には止《と》まっても、この人からは飛んで退《の》く。
稀にはぱっと燃え立って、
短い盛《さかり》の光を見せる。
だが大抵はその人の知らぬ間に、
悲しく燃えて消えるのです。
女等の耳語
あの四頭立の竜の車に乗っているのは、
あれはきっと山師よ。
あの背後《うしろ》にしゃがんでいる道化役を御覧。
ついぞ見た事のない程、
糧饑《かつえ》て痩せていますでしょう。
きっとつねっても覚えない位よ。
痩せたる人
胸の悪い女ども。寄るな、寄るな。
己はいつ来てもお前達の気には入らないのだ。
まだ女と云うものが竈《へつつい》の前にいた頃には、
己の名はアワリチアだった。倹約だった。
その頃は家の工面が好かったよ。
なるたけ多く取り込んで、外へはちっとも出さない。
己は箪《たん》笥《す》長持の中《なか》実《み》を気にした。
それが悪い道楽だったとでも云うのかい。
ところが近年になって見ると、
女は倹約なんぞはしなくなって、
悪い買《かい》手《て》と同じように、
欲しい物が金《かね》より多い。
そこで亭主の難儀は一通でない。
どっちへ向いても借財だらけだ。
女は引っ手繰られるだけ引っ手繰って、
著物にする。好いた男に遣る。
前より旨い物を食う。世辞たらたらの
男連中と、食うより一層余計飲む。
そこで己は金《かね》が前より好《すき》になった。
己はもう倹約ではなくって、吝嗇だ。
女の頭《かしら》
お前のような毒竜は、毒竜仲間で
けちにしていなさるが好《い》い。詰まりまやかしだ。
そうでなくても、男は扱いにくくなっているのに、
こいつは男をおだてに来たのだよ。
群をなせる女等
あの藁《わら》のような男に上沓をお遣《やり》。
磔《はりつけ》柱《ばしら》がなんの威《おどし》になるものか。
あいつの面《つら》をこわがれと云うのでしょうか。
竜は竜でも、木に紙を貼った竜だわ。
さあ、行って退治て遣りましょう。
先触
東西々々。己はこの杖に掛けて取り鎮める。
や。己が手を出すまでもないな。
皆さん御覧なさい。あの恐ろしい獣が
瞬く隙に周囲《まわり》の人を撥ね飛ばして、
前後二対の羽を拡げました。
鱗で囲んだ、火を噴く口を、
竜奴、おこってぱくつかせおる。
人は皆逃げてしまって、場は開《あ》きました。
(プルツス車を下る。)
おや車をお降《おり》になる。なんと云う御様子でしょう。
相図をなさると竜が動く。
櫃を車から卸して
金と吝嗇と一しょに舁《か》いて来る。
あのお方の足の下に据えて置く。
どうして置いたか、不思議ですね。
富の神
(馭者に。)
これでお前はうるさい重荷を卸した。
お前は自由自在の身だ。さあ、自分の世界へ往け。
ここはお前の世界ではない。乱れて、交って、
荒々しく、醜い物共が己達を取り巻いている。
あのお前が澄み渡った空を見渡す所、
自分を自由にして、自分だけを信用している所、
善と美とだけが気に入る所、
あの寂しい所へ往け。あそこで自分の世界を作れ。
童形の馭者
そんならわたくしは難《あり》有《がた》いお使の積《つもり》で参ります。
そしてあなたを近い親類のように敬っていましょう。
あなたのいらっしゃる所には富有がある。
わたくしのいる所の人は大した利益を得た気でいる。
中にはむずかしい境界に迷うものもあります。
あなたに附こうか、わたしに附こうかと云うのですね。
あなたに附けば、勿論遊んでいられる。
わたくしに附けば、いつも為《し》事《ごと》をしなくてはならん。
わたくしはどこでも隠れて働きなんぞはしません。
ちょっと息をすると、人がすぐに勘付きます。
どれ、お暇をいたしましょう。楽をさせて戴きますが、
小声で一寸お呼《よび》になると、すぐ帰って参ります。
富の神
さあ、これで宝の縛《いましめ》を解く時が来た。
錠前は先触殿の杖を借りて開《あ》けよう。
それ、開《あ》いた。皆見るが好《よ》い。黒《くろ》金《がね》の縛は
解けて、黄《こ》金《がね》の血が湧き立つ。
真っ先に出るのは、冠、鎖、指環の飾だ。
しかし次第に盛り上がって、自分をとろかして埋めようとする。
交互に叫ぶ群集
あれ見ろ。そこにもここにも沢山に涌いて出て、
櫃の縁まで盛り上がって来るじゃないか。〇
金《きん》の瓶《かめ》がとろける。
繋がった貨幣がのた打ち廻る。〇鋳型から
飛び出すようにズウカスの金貨の跳るのを見ると、
己の胸はわくわくする。〇
己の欲しい程の物が皆目に見えている。
あれ、地の上をころころ転がって来おる。〇
己達にくれるのだ。すぐに利用するが好《い》い。
皆しゃがんで取って、金持になろうじゃないか。〇
己達の方ではいっその事、電光石火の早業で、
あの櫃をそっくり取るとしよう。
先触
それはなんたる事だ。馬鹿な人達だ。どうするのだ。
仮装会の洒落ではないか。
今晩はもう方外の慾を出して貰いますまい。
お前さん方に金《かね》や宝を上げるのだと思うのですか。
この遊山でお前さん方に上げるには、
小銭にしろ、好過ぎるのだ。
馬鹿な人達だ。巧者な洒落がそのまま
野暮な真実でなくてはならんのですか。
真実が分かりますか。お前さん方はぼやけた
迷《まよい》の衣《きぬ》の、方々の隅を攫んで引いているのだ。
仮装会の大立物の面《めん》被《かぶり》の富の神様。
この連中をこの場から追い出して下さらぬか。
富の神
お前さんのその杖はこう云う時の用意だろう。
ちょっとの間それを己に貸して貰おう。
どれ、ちょいとそれを熾《さか》んな火に入れよう。
さあ。仮装の連中御用心だぞ。
ぴかぴかぱちぱち火の子が飛ぶぞ。
杖はもうすっかり焼けているのだ。
誰でも傍へ寄るものは、
容赦なしに焼かれるのだ。
どれ、これを持って一廻しよう。
叫喚雑《ざつ》《とう》
やあ、溜まらん。己達は往生だ。〇
逃げられるものは皆逃げろ。〇
背後《うしろ》から押す先生。跡へ、跡へ。〇
己の顔はもう熱くなって来た。〇
己はあの焼けている杖の目方で圧されている。○
己達はもう皆助からないぜ。○
仮装連中、退いた、退いた。お先真っ暗で
うようよしている人達。退いた、退いた。○
羽があると、己は飛んで逃げるがなあ。
富の神
もう囲《かこみ》は押し戻された。己の考では、
火傷《やけど》をしたものは一人もない積《つもり》だ。
群集は跡へ引く。
もう追っ払われた。
だがまた秩序の紊《みだ》れぬ用心に、
目に見えぬ鎖を引いて置こう。
先触
これは大した御成功でした。
旨く圧《おし》を利かせて下さって難有うございます。
富の神
いや。あなたはも少しこらえて見ていて下さい。
まだいろいろな混雑が出来て来そうです。
吝嗇
こうなればもう、好《すき》な程、
気楽にこの場のお客達を見ていられる。
やはり何か見るものや食うものがあると、
真っ先に出るのは、いつまでも女だな。
己もまだ心《しん》まで《さ》びてしまってはいない。
別品はやっぱり別品だ。
きょうは別に物のいるわけでもないから、
己達も安心してからかいに行かれそうだ。
だがこんな人籠の場所では、言うことが
皆誰の耳にも聞えると云うものでないから、
一つ旨い事を験《ため》して見よう。多分旨く
行くだろう。為《しか》方《たば》話《なし》で分からせるのだ。
それも顔や手足だけでは間に合わない。
一狂言書かずばなるまい。
一体金《きん》と云う金《かね》は何にでも化けるから、
こいつを湿ったへな土のようにして見せよう。
先触
あの痩せた阿房は何を始めるのだろう。
あんな腹の耗《へ》った男に洒落気があるだろうか。
あいつは金《きん》を皆団子に捏《こ》ねている。
それでも手が障ると軟になるのが妙だな。
しかしどんなに潰しても、円めても、
やっぱりいかがわしい恰好をしているなあ。
やあ。女の方へ見せに行くぞ。
みんなきゃっきゃと云って、逃げようとして、
随分見苦しい風をしおる。
横著者奴、一とおりの奴ではないと見える。
どうもあれは風俗壊乱になる事をして、
面白がっているのではあるまいか。
そうだと、己が黙って見てはいられない。
追っ払って遣りますから、その杖を下さい。
富の神
今どんな事が外から起って来掛かっているか、
あいつは知らずにいるのだ。馬鹿をさせて
お置《おき》なさい。今に悪《いた》劇《ずら》をする場所がなくなる。
法律の力は大きい。しかし困厄の力は一層大きい。
唱歌雑
山の高きより、森の低きより
暴《あ》るゝ群は今来たり。
防ぎ難き勢もて進めり。
パンの大神を祭れるなり。
誰一人知らぬ事を、彼人々は知れり。
かくて空しき境に進み入るなり。
富の神
己はお前達を知っている。パンの神も知っている。
お前達は団結して大胆な企を始めたのだな。
誰にでも分からぬ事をも、己は知っていて、
謙遜してこの狭い場所を明けて遣る。
己はお前達の好運を祈る。
これからはどんな不思議が現れるかも知れぬ。
あいつ等はどこへ歩いて這入るか知らないのだ。
用心なんぞはしていないのだ。
あらあらしき歌
やよ。粧へる群。上《うわ》光《びかり》する見せ物共。
こなたは疾《と》く馳せ、高く跳り、
地《ちた》鞴《たら》踏みとゞろかし、
あららかに、はららかしに来たり。
森の神等ファウニ
ファウニの群
面白く踊りて出づ。
《ちぢ》れたる髪に
の葉の冠《かがふり》せり。
細き、尖れる耳
波立つ髪を抜け出でたり。
鼻低く、面《おもて》広し。
されどそは皆女《おみな》には忌まれじ。
手をさし伸ぶるファウヌスには
美しき限の女、舞を辞むことあらじ。
森の神サチロス
サチロスもまた跡に附きて跳り出づ。
痩せたる脛《すね》に山《や》羊《ぎ》の足首附きたり。
その脛は腱《すじ》あらはに痩せたるが好し。
そはシャンミイと云ふ獣《けもの》のごと、
山々の巓《いただき》を興がりて見巡らんためなり。
さて自由の風に心霽《はら》して、
かの烟罩《こ》め靄《もや》鎖せる谷間深く棲み、
「我も生けり」とのどかに思へる
男、女《おみな》、穉《おさ》子《なご》等を嘲み笑はんとす。
そはさながらに、物に礙《さまた》げられずして、
かしこなる高き境の我物にのみなれればなり。
土の神等グノオメン
こゝに小走に馳せ出づる小さき群あり。
対《つい》をなし、連れ立ちて行くことを忌めり。
苔の衣《ころも》著《き》、明《あか》き火を持ち、
疾《と》く馳せ違ひ、
一人々々離れて営《いとなみ》せり。
赫《かがや》く蟻の蠢《うごめ》く如し。
縦に横に忙はしげに、
かなたこなたといそしみまどへり。
人の家に出《いで》入《いり》する、まめやかなる侏《しゆ》儒《じゆ》の
近き族《うから》にて、山の医《くす》師《し》として知られたり。
高き山に吸《すい》球《だま》掛け、
満ちたる脈より汲み出せり。
「幸《さち》あれ、幸あれ」と、勇ましく呼びて、
金《かね》堆《うずたか》く転《まろ》がし出だせり。
こは素より世のためを思ひてなり。
われ等は善き人の友なり。
さはれ惑はし盜ませんためにも、
人多く殺すこと思ひ立てる、
心驕《おご》れる人に鋼《はがね》持たせんためにも、
かの金《かね》をば世に出だすなり。
三つの戒《いましめ》を破らん程の人は、
その外の戒をもないがしろにせざらむや。
そは皆われ等の咎《とが》にはあらじ。されば
われ等の忍べるごと、おん身等も忍べかし。
巨 人
荒《あら》男《お》と名に呼ばれて、
ハルツの山にては知られたる物共なり。
もとより裸にて、力強し。
皆巨人の様して来れり。
右《め》手《て》に樅の木の杖持ち、
木《こ》の葉《は》と小枝とを編める
粗き前《まえ》垂《だれ》掛け、太き紐を腰に纏《まと》へり。
法王の許《もと》にはあらぬ衛《まもり》の士《つわもの》なり。
群なせる水の女
(パンの神を囲《いに》繞《よう》す。)
君も今来ませるよ。
大いなるパンの神は
世界の万有に
象《かたど》れる御《みす》姿《がた》なり。
厳かなれど、情《なさけ》ある神にませば、
人の遊び楽むを好み給ふ。
されば最《もと》も晴やかなる汝《なん》達《たち》取り巻きまつり、
奇《くす》しき舞を軽らかに舞ひめぐれかし。
青き穹《きゆう》窿《りゆう》の下《もと》にます時も、神は常に醒めておはす。
されど小《お》川《がわ》は君が方へ流れ寄り、
軽き風は優しく君を休ませまつらんと吹けり。
真午時にまどろみ給へば、
木《こ》末《ずえ》の一《ひと》葉《は》だに動くことなし。
すこやかなる草木の芳しき香は
声もなく静かなる空に満ちたり。
その時は水の女もまめやかにあるべきならねば、
たまたま立てりし所にぞ寐《ぬ》る。
さてゆくりなく、君が御《み》声《こえ》
鳴《なる》神《かみ》の鳴るごと、渡津海のとよむごと、
力強く鳴り響けば、
人皆奈《い》何《か》にせましと思ひ惑ひ、
戦の場《にわ》にある猛き軍人の群も散《あら》け、
入り乱れたる人等の中に立てる英雄《すぐれびと》も慄ふ。
されば敬ひまつらばや、敬ふべきこの神を、
われ等をこゝへ牽《い》て来ませるこの神を。
土の神等の代表者
(パンの神の許へ遣されたるもの。)
かの輝《かがや》ける豊かなる宝は、
糸引けるごと岩間に流れひろごりて、
たゞ宝を起す奇しき杖にのみ
おのが迷路を示せり。
その時われ等、土《つち》蜘《ぐも》の巣なす家を、
暗き岩間に営み起せり。
おん身は恵深くも宝の数々を
清き日影のさす所に分ち給ふ。
さてわれ等近きわたりに
驚くべき泉を見出でつ。
その泉かつて掛けても思はざりし宝を、
たはやすく涌き出でしめむとす。
この事はおん身能く為《な》し遂げ給はむ。
おん身の護《まもり》の下《もと》に置かせ給へ。
「いづれの宝もおん身の手にあれば、
あまねく世の中に用ゐられむ。」
富の神
(先触に。)
これはお互に腹を大きくして考えんではならん。
そして出来て来る事は、出来て来させるが好《よ》い。
一体あなたはえらい度胸のある人ではないか。
この場で今恐ろしい事が出来て来るのだ。
現在の人も後の人も、だと言い消すだろうから、
あなたの記録にしっかり留めて置いて下さい。
先触
(富の神の猶手に持ちたる杖を握りて。)
一寸坊どもがパンの神様をそろそろと
火を噴く穴の傍へ連れて行きますね。
深い底から高く涌き上がるかと見ると
またその底までずっと沈んでしまって、
穴の口が暗く開《ひら》いている。
そうかと思うと、また真っ赤に烹《に》え上がる。
パンの神様は平気で立って、
この不思議な有様を見て喜んでおられる。
真珠のような泡が左右へ飛ぶ。
どうして疑わずにこんな事をさせておられるだろう。
穴の中を見ようとして、低く身を屈められる。
や。お髯が穴に落ち込んだ。
あの綺麗に剃った腮《あご》はどなただろう。
お手で我々にお顔を隠しておられる。
や。大変な事になった。
髯に火が移って舞い上がって来る。
被っておられる輪飾に、髪に、お胸に火が移る。
歓楽去って憂愁来るというのがこれだ。
群集が消しに駆け附ける。
しかし誰一人《ほのお》を免れるものはない。
手に手に打っても叩いても、
新しいが燃え立つばかりだ。
火の中に入り乱れて、
仮装の一群は焼けてしまう。
や。口から耳へ囁き交して、
己に聞えて来るのは何事だ。
まあ、なんと云う不幸な夜だろう。
こんな歎《なげき》を己達の上に齎《もたら》すとは。
誰も聞きたく思わぬ事を、
あすの日は触れ散らすだろう。
兎に角所々で叫ぶ声が聞える。
あの御難儀なさるのは「帝」だと。
どうぞ本当でないと好《い》いが。
帝とお側の方々が焼けておいでになる。
樹《や》脂《に》のある小枝で身をよろうて、
吠えるような歌いざまをして、
一しょに滅びにおいでになるように、
惑わし奉った奴は咀《のろ》われておれ。
ああ。歓楽も度を踰《こ》えてはならぬと云う
戒を、若いもの共は所詮守ることは出来ないのか。
ああ、全能でおいでなさる通《とおり》に、君主が
全智でおいでなさることは所詮出来ないのか。
もう火が木立に燃え移った。
尖ったの舌で舐めるように
木を結び合せた屋根へ燃え上がる。
仮屋全体の火事になりそうだ。
不運はもう十二分だ。
誰が己達を助けてくれるだろう。
さしも一時の盛を極めた、帝王の栄華は
一夜の灰燼になるだろうか。
富の神
もう恐怖も広がって好《い》いだけは広がった。
そろそろ救助に掛からせなくてはなるまい。
大地が震い動き、鳴り響くように、
その神聖な杖を衝き立てて貰おう。
おい。そこの広々とした「空《くう》」に言うのだが、
一面に冷たい《におい》を漲《みなぎ》らせい。
水を含んで棚引いている霧を
呼び寄せて、そこらへ漂わせて、
燃えている群集を覆って遣れ。
雲《くも》霧《きり》は流れて、ざわついて、渦巻いて、
漂いながら滑って、徐《しず》かに籠めて、
そこでも、ここでも火を消しながら闘ってくれ。
苦艱を緩める力のある、湿ったお前達は、
あの虚妄のの戯を、
熱くない稲妻に変ぜさせてくれ。
悪霊どもがわれ等を侵そうとする時には、
魔法が験《しるし》を見せなくてはならんのだ。
遊苑
朝日。
帝と殿上人等とあり。ファウスト、メフィストフェレス上品にして目立たざる時《じ》様《よう》の粧をなし、二人皆跪《ひざまず》けり。
ファウスト
そんならあの率《そつ》爾《じ》な火の戯を御勘弁下さいますか。
(二人を揮《さしまね》いて起立せしむ。)
ああ云う笑談は己は大《だい》好《すき》だ。
突然火《か》《えん》の真ん中にいるようになったから、
己は地獄の神のプルトンにでもなったかと思った。
見れば暗黒と煤炭との中に、岩で出来た底が
現れていて、そこに火が燃えていた。数千の
猛火はかしこ、ここの裂目から渦巻き上がって、
上の方で円天井のような形に出合っていた。
閃く火の舌で作られている、その絶頂は
合って閉じるかと思えば、また離れて開いていた。
よじれた柱の並んで立っている広間の中を、
人民が長い列を作って歩くのが見えた。
それが大きい圏《わ》をかいて、己に近づいて来て、
いつもの様に己を敬ってくれた。
中には己の宮中のものも幾人か交っていた。
己は数千の「火の霊」の君主のようであった。
メフィストフェレス
畏れながらあなたが実際そうでいらっしゃいます。
なぜと云うに四大悉《ことごと》く御威厳を認めていますから。
それで服従している火だけはお験になりましたが、
今荒れられるだけ荒れている海に飛び込んで
御覧なさい。真珠の多い水底をお踏《ふみ》になるや否や、
忽《たちま》ち水が涌き立って、御身を中心にして、美しい
境《さかい》が開ける。上《のぼ》っては下《くだ》る、紫の縁《ふち》を取った、
明るい緑の波が、自然にふくらんで、立派な
御殿になる。どちらへ向いてお歩《あるき》になっても
その御殿は一足毎に附いて行く。
壁は皆活動している。矢を射るように早く、
入り乱れて動く。寄せたり返したりする。
新しい、優しい光を慕って、驚くべき海の化物が
寄って来て、打《ぶ》っ附かるが、這入ることは出来ない。
金《きん》の鱗の竜が波を彩って遊んでいる。
鮫の開《あ》いた《あぎと》を覗いてあなたはお笑《わらい》なさる。
今でもお側にいる御殿のものは楽しく暮らして
いましょうが、海の底の人気は未曾有です。
それでいて、一番お好《すき》なものに離れては
おいでなさらない。とわに爽かな、立派な御殿を、
物数奇なネレウスの娘どもが覗きに来る。
若いのはこわごわそっと来る。年上のは
横着に出掛ける。大《おお》姉《あね》えのテチスが嗅ぎ附ける。
あなたを二代目のペレウスにして抱き着いて
キスをする。それからオリンポス領の御座に。
そんな虚空な領分はお前に任せて置く。
その玉座には厭《いや》でも早く即《つ》かれるのだ。
メフィストフェレス
それから土《つち》はもう占めておいでになります。
千一夜の物語から、すぐに抜け出したような
お前がここに来たのは、実に為《しあ》合《わせ》だ。
あの宰相の娘のシェヘラツァデのように
お前も才に富んでいるなら、最上の褒美を遣ろう。
随分この現実世界は己の気に入らぬことが
度々あるから、お前は己の召すのを待っていろ。
中務卿
(急ぎて登場。)
わたくしの心《しん》から嬉しく思いまする、
このお知らせのような、最上の幸福と申すべき
お知らせを、御前で喜んで奏聞いたすことが
わたくしの生涯にあろうとは存じませんでした。
借財は皆片附けました。
爪の鋭い高利貸どもも黙らせました。
わたくしは地獄の苦を免れました。天に上《のぼ》っても
こんな好い気持の事はありますまい。
兵部卿
(続きて急ぎ登場。)
給料を割払にいたして遣しまして、
全軍に新規に契約をいたさせました。
槍兵どもは新しい血が循《めぐ》るような気になって、
酒保や女《おな》子《ご》どもまで福々でございます。
お前方、楽《らく》に胸を開《あ》けて息をしているな。
皺の寄った顔まではればれしているな。
それにひどく忙《いそが》しそうに出て来おる。
大府卿
(恰《あたか》もこの時登場しつゝ。)
どうぞこの為《し》事《ごと》をした、そこの二人にお尋《たずね》下さい。
ファウスト
いや。それは尚書様から奏聞なさるが好《よ》い。
尚書
(緩かに歩み近づく。)
長生をいたした甲斐に、嬉しい目に逢いました。
そんなら、あらゆる苦艱を歓楽に変えた、
この大切な文《もん》書《じよ》をお聞《きき》下さい、御覧下さい。
(朗読。)
「凡そ知らむことを願うものには、悉く知らしめよ。
この一枚の紙幣は千クロオネンに通用す。
帝国領内に埋もれたる無量の宝を
これが担保となす。その宝は
直ちに発掘して、兌換の用に供すべき
準備整えり。」
不届な、怪《け》しからん詐偽をしたものがあるらしい。
ここにある己の親署は誰が贋せた。
こんな罪を犯したものが刑罰を免れたのか。
大府卿
それはあなたのお筆でございます。お覚《おぼえ》が
あるはずです。つい昨晩でした。パンの神になって
いらっしゃる所へ、尚書がわたくし共と
一しょに参って、「この祭のお祝に、万民の
幸福になる件に、一筆お染下さるように」と
申すと、お書《かき》なされたので、その夜の中に
奇術を心得たものに申し附けて、
御慈愛が国中に行き渡るように、
わたくしどもが千万枚紙幣を刷らせました。
十、三十、五十、百クロオネンが別々に出来ました。
人民の喜はどんなだか、御想像が出来ますまい。
あの半死半生で、黴の生えたようであった
都を御覧なさい。皆生き上がって、楽んで
上を下へといたしています。これまでも世に
幸福をお与《あたえ》になったお名ですが、人がこん度程
喜んでお名を見たことはありません。人が皆
助かる、このお名の外の文《も》字《じ》は不用になりました。
そして人民は金貨の代《かわり》に受け取るのか。
宮中や軍隊の給料の全額払が出来るのか。
そうだと、奇怪だと思うが、認めずばなるまい。
大府卿
受け取って走って行ったものを、支えることは
所詮出来ません。稲妻のように駆け散りました。
銀行の門口は為《し》切《きり》がして開《あ》けてある。
無論手数料は取るが、一枚一枚
金銀貨と引き換えて遣っている。
それを受け取って肉屋、パン屋、酒屋へ行く。
なんでも世間の人間が半分は食奢、半分は
着奢に浮身を窶《やつ》しているらしい。
商人は反物を切っている。為《し》立《たて》屋は縫っている。
「帝王万歳」を唱えては、どこの穴蔵も景気好く、
烹《に》たり、焼いたり、皿をちゃらちゃら云わせています。
メフィストフェレス
誰でも公園の階段あたりを散歩すると、
別品が立派にめかして、人を馬鹿にしたような
孔雀の羽で、片々の目が隠れるようにして
通るのを見るでしょう。それがわたくし共に笑顔を
見せて、札に横目を使います。才智や弁説で
口説くより、早く好《い》い目が見られます。
もう誰も財布や蝦《が》蟇《ま》口《ぐち》を邪魔がるには
及ばない。札一枚なら楽に懐中に入れられる。
色文と一しょに持つにも便利だ。
坊主は難《あり》有《がた》そうに偈《げ》の本に挟んで持つ。
兵隊は「廻れ右」が早く出来るように、
胴巻を軽くする。あなたのなすった
大事業が、下々の小さい所へどう響くかと
云う話が、下卑て来まして済みません。
ファウスト
お国中で地の底深く動かずに、待っている
宝の有り余る数々は、用に立たずに
寝ています。どんな大きい計画も、
そう云う宝のためには、吝《けち》な埒《らち》になる。
空想を馳せられるだけ馳せさせて、
努力を尽しても、至らぬ勝である。
しかし深く物を察することの出来る達人は、
無際限なるものに無限に信を置きます。
メフィストフェレス
金銀珠玉の代《かわり》になる、こう云う紙幣は
便利です。値を附けたり、両換したりせずに、
持っているだけの物が分かる。酒と色とに
浮かれたいだけ浮かれられる。そして硬貨が
欲しくなれば、両換屋が待っている。
そこになくなれば、ちょいとの間《ま》掘る。
出て来た杯や鎖を競売にして、
すぐに紙幣を償却する。そして厚かましく
悪口を言う、疑深い奴に恥を掻かせて遣る。
馴れてしまえば人は外の物を欲しがりはしない。
そうなれば、御領分の国々に
宝も、金銀も、札も有り余って来ます。
いや。己の国はお蔭で大した福利を得た。
出来る事なら、功に譲らぬ賞が遣りたい。
領内の地の底はお前方に任せて置く。
お前方は宝の立派な番人だ。宝の蔵《かく》してある
広い場所を知っていることだから、
掘る時はお前方の指図で掘らせる。
宝の頭《かしら》になっている二人が協力して、
下の世界が上の世界と、相呼応して
福利を致すような位置に立っている
この場合の役目を、楽んで勤めてくれい。
大府卿
この人達とわたくしは少しも喧嘩はしますまい。
魔法使を同役にするのは大《だい》好《すき》でございます。
(ファウストと共に退場。)
そこで御殿にいるものに、一人々々札を遣るが、
それをなんに使うか言って見い。
舎人
(金を受く。)
面白く、可《お》笑《か》しく、のん気になって暮らします。
他の舎人
(同上。)
すぐに女に鎖と指環を買って遣ります。
侍従
(金を受く。)
これまでよりも倍旨い酒を買って飲みましょう。
他の侍従
(同上。)
もうかくしの中の采《さい》の目がわたくしの手をむずむずさせます。
旗手
(沈重に。)
質に入れた邸や田畑を受け出します。
他の旗手
(同上。)
これまでの貯蓄の中へ、これもやはり入れて置きます。
己は愉快に、大胆に新しい事でもするかと思った。
しかしお前達の人柄を知っていれば、大抵分かる。
それで己も分かったが、幾ら宝が悖《さか》って入っても、
お前達は本《もと》の杢《もく》阿《あ》弥《み》だな。
阿房
(進み出づ。)
下され物があるのなら、わたくしにも下さいまし。
また生き戻った所で、飲んでしまうのかい。
阿房
この魔法の紙切はどうも好く分かりません。
そうだろう。どうせろくな使いようはすまい。
阿房
また一枚落っこちました。これはどういたしましょう。
お前の手に落ちたなら、お前が取って置くが好《い》い。
(退場。)
阿房
やあ。五千クロオネン手に入った。
メフィストフェレス
二本足の酒袋奴。生き戻ったか。
阿房
これまで度々遣りましたが、今度が一番上出来です。
メフィストフェレス
額に汗を掻いて喜んでいるな。
阿房
ちょっと見て下さい。これが金《かね》に通用しますか。 メフィストフェレス
うん。お前の咽や腹の欲しがる物は皆買える。
阿房
では田地や家や牛馬も買えますか。
メフィストフェレス
知れた事だ。出しさえすれば、不自由はない。
阿房
では山林や猟場や生《いけ》洲《す》のある城もですか。
メフィストフェレス
無論だ。
お前がその城の殿様になった顔が見たいな。
阿房
はあ。今度は一つ大地主の夢でも見るか。(退場。)
メフィストフェレス
(一人。)
これでも阿房に智慧がないと、誰か云うだろうか。
暗き廊下
ファウスト。メフィストフェレス。
メフィストフェレス
なぜこんな暗い廊下へ連れて来るのですか。
あの中で面白い事が足りないのですか。
いろんな人の押し合っている御殿の中で、
洒落や目くらがしの種子がないのですか。
ファウスト
そんな事を言ってくれるな。君は昔あんな事は
厭《あ》き厭きする程しているのだ。
それに今、あそこで往ったり来たりしているのは、
己の言うことに返事をすまいと云うのだ。
己はしかし厭《いや》な事でもしなくてはならない。
大府卿と主殿とで己をせつくのだ。
なんでもお上が、ヘレネとパリスとを目の前に
出して見せろ、すぐでなくてはならない、
男と女との模範をはっきり
見たいのだと仰ゃるそうだ。
すぐに掛かってくれ。己は違約は出来ないから。
メフィストフェレス
そんな約束を軽はずみにしたのがむちゃです。
ファウスト
それは君の術がどんな成行になると云うことを、
君が前以て考えなかったのが悪い。
お上を金持にして上げたからには、
慰《なぐさみ》がしたくなられるに極《き》まっている。
メフィストフェレス
そんな事がすぐばつが合せられると、あなたは
思っていますね。クロオネンの紙の化物を
出すように、ヘレネが出されると思っていますね。
所がわたし共は今嶮しい阪の下に立っています。
非常な、縁遠い境界へ、あなたは手を出すのだ。
事に依ると、また新しい借金をしなくてはならない。
魔女や、化物や、変種《かわりだね》の一寸坊なら、
なん時でも御用を仰せ附けられますが、
棄てた物ではないとしても、悪魔の色女を
グレシアの女だと云って連れ出しては通りません。
ファウスト
またいつものだらだら拍子のお講釈を聞くのか。
君を相手にすると、万事きっと曖昧な所へ落ちて行く。
君はあらゆる故障の親元だ。
そして一帳場毎に褒美がいる。己は知っている。
君がちょっと呪文を唱えると、出来るのだ。
背後を向いている隙に、すぐ連れて来られるのだ。
メフィストフェレス
いいえ。あんな異端の民にはわたしは関係しない。
あいつ等は別の地獄にすんでいるのだ。
尤《もつと》も手段はあります。
ファウスト
それを聞こう、すぐに。
メフィストフェレス
実は極の深秘は言いたくないのです。寂しい所に
こうごうしく住んでいる女神達がある。
その境には空間もなければ時間もない。
その事を話すのは一体不可能なのだ。
それは「母」達だ。
ファウスト
(驚く。)
母達か。
メフィストフェレス
身の毛が弥立ちますか。
ファウスト
母達、母達。なんと云う異様な名だろう。
メフィストフェレス
実際異様な連中ですよ。無常の人間に知られずに
隠れていて、わたし共も名を言いたくない神です。
その家へ往くには、あなたよほど深く摩《ず》り込むのです。
そんな物に用が出来たのは、あなたのせいだ。
ファウスト
そこへ往く道は。
メフィストフェレス
道はありません。歩いたもののない、
歩かれぬ道です。頼まれたことのない、頼みようのない所へ
往く道です。思い切って往きますか。
貫《かん》木《のき》や錠前を開けるのではない。
あなたは寂しさに附き纏《まと》われます。
一体寂しいと云うことが分かっていますか。
ファウスト
まあ、そんな言草は倹約したが好《い》いかと思う。
ずっと前に出合った、
あの魔女の台所の《におい》がするようだ。
これまでも己は世間に附き合って、空虚な事を
習いもし、教えもしたではないか。
たまに己の目に映じたままを言うと、
人は却っていつもの倍やかましく反対したものだ。
己は厭な目に逢うのを避《よ》けて、
寂しい山の中へ逃げさえした。
それから丸で棄てられて、一人でいたくなさに、
悪魔に体を任せたじゃないか。
メフィストフェレス
しかし大洋に泳ぎ出して、その沖で
際限のない処を御覧になるとした所で、
溺れて死ぬる懼《おそれ》を抱きながらも、
波の立《たち》居《い》は見られますね。兎に角何か
見られますね。凪いだ海の緑を穿《うが》つ
鯨のようなデルフィインも見えましょう。
雲のたたずまい、月日や星の光も見えましょう。
それと違って、とわに空虚な遠い境には
なんにも見えません。自分の跫《あし》音《おと》も聞えません。
体を靠《もた》せて休むだけの固い物もありません。
ファウスト
昔から新参を騙し騙しした、魔法の師の中の
一番の先生のような話振をするね。
ただあべこべだ。伎倆や力量を進めさせに、
君は己を空虚の中へ遣る。
火の中に埋めてある栗を取りに遣られた、
あの猫のように、君は己を扱うのだ。
宜しい。一つその奥を窮めて見よう。
君の謂う空虚の中に、己は万有を見出す積《つもり》だ。
メフィストフェレス
いや。お別《わかれ》をする前に褒めて上げます。
兎に角あなたは悪魔の腹を知っていますね。
さあこの鍵をお持《もち》なさい。
ファウスト
こんな小さな物をか。
メフィストフェレス
まあ、馬鹿にしないで、手にお取《とり》なさい。
ファウスト
や。手に取れば大きくなる。光って来る。
メフィストフェレス
どんな貴重品が手に入ったか、分かりますかい。
その鍵が道を嗅ぎ附けて、あなたを連れて
母達の所へ行くのです。
ファウスト
(戦慄す。)
母達の所へ。ああ、聞く度に身に応える。
こんなに厭に聞えるのは、どうした詞《ことば》だろう。
メフィストフェレス
聞き慣れない詞を嫌う程、料簡が狭いのですか。
聞いた事のある詞ばかり聞いていたいのですか。
あなた位疾《と》うから不思議に慣れていなさる以上、
これからどんな詞が聞えたって、平気でなくっては。
ファウスト
いや。己だって凝り固まっている所に福を
求めはしない。戦慄は人生の最上の徳だ。
世間がどんなにあの感じをおっくうにしても、
人間はあれで非常な事を深く感ずるのだ。
メフィストフェレス
そんなら降《お》りておいでなさい。升《のぼ》っておいでなさいと
云っても好《い》い。同じ事だ。既に生じているものに
背《せ》を向けて、解き放されたものの世へおいでなさい。
もう疾っくに無くなっているものを見て
お楽《たのしみ》なさい。雲の往《ゆき》来《き》のように入り乱れた
事にお逢《あい》でしょう。そしたら鍵を揮ってお避《よけ》なさい。
ファウスト
(感奮す。)
宜しい。こう鍵を握ると、力が増して、
胸が拡がるように感じる。どりゃ、為《し》事《ごと》に掛かろうか。
メフィストフェレス
一番深い、深い底に届いたと云うことは、
焼けている五徳を御覧になると分かります。
その火の光で母達が見えるでしょう。その折々で
据わっているのも、立ったり、歩いたりして
いるのもありましょう。所有《あらゆ》る造られた物の象《かた》が
周囲《まわり》に漂っている、創造、改造の神達で、
永遠なる意義を永遠に語っておられるのです。
神達には象《かた》しか見えないから、あなたは見えない。
随分あぶない事ですが、腹を据えてずっと
五徳の所へ往って、その鍵で五徳に障って
御覧なさい。
(ファウスト鍵を持ちて厳かに命ずる如き科《しぐさ》をなす。メフィストフェレスそれを見て。)
それで好いのです。そうすると、
五徳があなたの従者のように附いて来ます。
そして平気でお升《のぼり》なさると、機運が助けて、
神達の心附かぬ間に、五徳を持って帰られます。
旨く持ってお帰《かえり》なさると、そんな為事を
大胆に始てなさったあなたの手で、例の
男と女とを夜の国からお呼になる事が出来ます。
出来た為事はあなたの功です。
それからは五徳から立つ烟が、魔法の業《わざ》で
扱えば、神々に化けるのです。
ファウスト
そこで先ずどうするのか。
メフィストフェレス
下へ降《お》りようとなさい。
力足を踏んで、段々降りて行くのです。
(ファウスト足踏して降り行く。)
鍵が旨く先生の用に立ってくれれば好《い》いが。
この世へ戻って来られるか知らんて。
燈明き数々の広間
帝、諸侯、殿上人等動揺せり。
侍従
(メフィストフェレスに。)
まだ幽霊を出して見せるお約束があるのですぜ。
早くお始《はじめ》なさい。殿様がお待兼だ。
中務卿
今もお上がお尋があった。殿様のお顔にも
掛かる事だから、延び延びにしないで下さい。
メフィストフェレス
そのために仲間が行っているのですよ。
あの男がどうすれば好いか知っていて、
どこかへ籠ってこっそり働いているのです。
なかなか一通の骨折ではありません。
なぜと云うに、「美」と云う宝を持ち上げるには、
最高の技術、哲人の秘法がいります。
中務卿
それはどんな術をなさるとも勝手です。
お上はただ早く遣って貰いたいと仰ゃるのです。
明色の女
(メフィストフェレスに。)
あなた、ちょいと。わたくしの顔はこんなに
綺麗ですが、夏になるとこんなでなくなりますの。
この白い肌一ぱいに、茶色なぽつぽつが出来て、
厭《いや》になってしまいますの。何か好いお薬を
下さいな。
メフィストフェレス
お気の毒ですね。あなたのような
別品さんが、五月にはお内の猫のように斑《ぶち》に
なるのですか。青蛙の卵と蝦《ひき》蟇《がえる》の舌とを
水に漬けて、汁を澄ませて、満月の夜に丁寧に
蒸餾《じようりゆう》して、下弦の月の夜に旨くお塗《ぬり》なさい。
春になってから、斑は出なくなりますよ。
暗色の女
まあ、あなた一人をみんなで取り巻きますこと。
わたくしにもお薬を下さいな。歩いたり、
踊ったりする時もそうですが、ちょっとお辞儀を
いたすにも、足の凍《しも》傷《やけ》で難儀しますの。
メフィストフェレス
わたしのこの足で踏んで上げましょう。
暗色の女
それは恋人同士でいたす事でしょう。
メフィストフェレス
わたしが踏むのは、もっと意味が深いのです。
どこの病気でも、同じ所で直します。
足で足を直す。外の所で外の所を直す。
いらっしゃい。好《い》いのですか。御返報には及びません。
暗色の女
(叫ぶ。)
あ、痛《いた》。あ、痛。ぴりぴりしますわ。馬の蹄で
踏まれたように。
メフィストフェレス
もうそれで直っています。
踊りたい程お踊《おどり》なさい。それから御馳走を
食べながら、好い人と踏みっこをなさい。
貴夫人
(摩り寄る。)
ちょっとお通しなすって。本当にせつないので
ございます。胸が烹《に》え返りますの。きのうまで
わたくしを大事にしていた方《かた》が、あの女に
気が移って、わたくしに背中をお向《むけ》なさいます。
メフィストフェレス
ちっと難症だが、まあ、お聞《きき》なさい。
そっとその男の傍へ寄って、
上《うわ》衣《ぎ》の袖でも肩でも、出来好い所へ、
この炭で筋を附けてお遣《やり》なさい。
すると男が後悔して、ぎくりとします。
炭はすぐにあなたが丸呑にするんです。
水や酒で飲むのではありませんよ。今夜のうちに
お寝間の前へ来て溜息を衝きます。
貴夫人
毒にはなりませんの。
メフィストフェレス
(怒る振をなす。)
なんですと。失敬な。
その炭はめったに手に入らない炭です。
随分わたし共が骨を折って焚《た》かせる、
あの罪人を焼き殺す火の炭です。
舎人
好《すき》な女がわたくしを子供だと云いますが。
メフィストフェレス
(傍白。)
もうどいつの言う事を聞いて好いか分からない。
(舎人に。)
それは余り年の行かないのに掛かっては駄目だ。
年《とし》増《ま》だと、君のようなのを珍重がるね。
(他の人々寄り集る。)
また新《あら》手《て》が来る。なんと云う御難だろう。
とうとう本当でも言って切り抜けずばなるまい。
極《ごく》の劣策だ。こんな困った事はない。
ああ。母達、母達。ファウストを返して貰いたいなあ。
(見廻す。)
もう広間の明《あかり》がぼんやりして来た。
御殿中のものが一度に動き出す。
皆おとなしく行列を作って、ここの長い
廊下をも、あそこの遠い渡殿をも歩いて行く。
はあ。あれは古い騎士の広間の大きい処に
集るのだ。ほとんど這入り切らない位だ。
大きい壁に垂《たれ》布《ぬの》が取り附けてある。
隅や龕《がん》に甲冑が飾ってある。
ここでは呪《じゆ》文《もん》なんぞはいらぬらしい。
化物どもがひとりでに出て来そうだ。
騎士の広間
燈の薄明。
帝と殿上人等と入り籠みあり。
先触
化物どもの秘密の働が、狂言の先触をすると云う、
わたしの昔からの役目を、兎角妨げて困ります。
この入り組んだ運《はこび》を当前の道理で
説き明そうとするのは、なかなか難儀だ。
椅子や腰掛はもう出ている。
殿様を丁度壁を前にしてお据わらせ申した。
暫くの間は壁紙にかいてある昔の戦争の
絵でもゆっくり御覧になるが好い。
殿様もお側の方々も、皆さんぐるりと集《あつま》って
おいでになる。背後はベンチで一ぱいになる。
化物の出る、気味の悪い場でも、好いた同士は
それぞれに隣になるように都合して据わった。
さてこう一同程好く陣取って見ますれば、
支度は宜しい。化物はいつでも出られます。
(金笛。)
天文博士
さあ、狂言を始めた始めた。殿様の
仰だ。壁になっている所はひとりでに開《あ》け。
何の邪魔もない。ここでは魔法がお手の物だ。
垂布は火事に燃えてまくれ上がるように消える。
石壁も割れて、ひっくり返る。
奥行の深い舞台が出来るらしい。どこからか
不思議な明《あかり》がさして来るようだ。
そこでわたしは舞台脇へ行っている。
メフィストフェレス
(黒ん坊のゐる穴より現る。)
ここで己は御《ご》贔《ひい》屓《き》にあずかる積《つもり》だ。
吹き込んで物を言わせるのが悪魔の談話術だ。
(天文博士に。)
あなたは星の歩く拍子が分かるのだから、
わたしの内証話も旨く分かるでしょう。
天文博士
不思議な力で、ここにかなりがっしりとした、
古代の宮殿が目の前に見えて来る。
昔天を《かか》げていたアトラスの神のように、
柱が沢山列をなして、ここに立っている。
二本位で大きい屋根を持つことの出来る
柱だから、これならあの石の重みに堪えよう。
建築家
これが古代式ですか。褒めようがありませんね。
野暮でうるさいとでも云うべきだ。どうも
荒っぽいのを高尚、不細工なのを偉大としている。
わたしどもはどこまでも上へ上へと昇る狭い柱が好《すき》だ。
剣《けん》形《がた》迫《せり》持《もち》の天井は思想を遠大にする。
わたしどもにはそう云う建物が一番難《あり》有《がた》い。
天文博士
好《い》い星の下で出来る楽《たのしみ》を難有くお受《うけ》なさい。
呪《じゆ》咀《そ》の詞《ことば》で理性を縛して置いて、その代《かわり》に
美しい、大胆な空想を
広く自在に働かせるのです。
思い切った、大きい望《のぞみ》が目で見られる。
不可能な所が信ずる価値のある所です。
(反対側の舞台脇よりファウスト登場。)
天文博士
や。術士が司祭の服を著て、青葉の飾を戴いて出た。
大胆に遣り掛けた事を、これから遣るのですね。
うつろな穴から五徳が一しょに上がって来た。
もうあの鼎《かなえ》から烟の《におい》が漲《みなぎ》って来そうだ。
この難有い為《し》事《ごと》の祝福の支度をしますね。
これから先《さき》は好運な事しかないでしょう。
ファウスト
(荘重に。)
無辺際に座を構えて、永遠に寂しく住んでいて、
しかも集《む》れいる母達よ。御身等の名を以て己は行う。
生きてはいずに、動いている性命の象《かた》が、
おん身等の頭《こうべ》を繞《めぐ》って漂っている。かつて一《ひと》度《たび》
光《こう》明《みよう》と仮《け》現《げん》との中に存在したものは、悉《ことごと》く
ここに動いている。永遠を期しているからである。
万能の権威たる御身等は、それを日の天幕の下、
夜《よ》の穹《きゆう》窿《りゆう》の下に分けて遣られる。あるものは
生《せい》の晴やかな道が受け取る。あるものは大胆な
術士が貰いに行く。そしてその術士は
人の望むがままに、赤心を人の腹中に置いて、
おおように、吝《おし》まずに不思議を見せるのである。
天文博士
あの焼けている鍵が鼎に触れるや否や、
暗い霧がすぐに広間を罩《つつ》む。その霧は
這い込んで、舒《の》びたり、固まったり、入り乱れたり、
並び合ったりして、雲のように棚引く。さあ、
鬼を役する巧妙な術を御覧なさい。物の
動くに連れて、楽の声が聞える。浮動する
音響から、何とも言えぬ物が涌く。その音響は
延びて旋律になる。柱はもとより、その上の
三《さん》裂《れつ》の飾までが音を立てる。わたしは
宮殿全体が歌っているかと思います。霧は沈む。
その軽い羅《うすもの》のような中から、調子の好《い》い歩《ある》様《きざま》で
美しい若者が出て来る。わたしは役目の上で
もう何も申しますまい。若者の名は斥《さ》して言うまでも
ないでしょう。誰もパリスを知らぬ人はないはずです。
(パリス登場。)
貴夫人
まあ、あの男盛の力のかがやきを御覧なさいまし。
第二の貴夫人
摘んだばかりの桃のようで、露も沢山ありましょう。
第三の貴夫人
恰好の好い脣が旨そうに《ふくら》んでいますこと。
第四の貴夫人
あなたあんな杯にお口をお附《つけ》なさりたくって。
第五の貴夫人
上品だとは申されなくても、好い男ですわね。
第六の貴夫人
も少し取《とり》廻《まわし》が功者だったら、猶《なお》好《い》いでしょうね。
騎士
なんだか身分は羊飼の若い者かと見えますな。
貴公子らしくはなく、行儀躾もなさそうです。
他の騎士
さようさ。半裸では好く見えるが、
鎧を着せて見たら、どうか知らん。
貴夫人
あれ。しなやかな、好《い》い様子をして据わりましたね。
騎士
あの膝に抱かれたら好いだろうと云うのでしょう。
他の貴夫人
あの肱を枕にした恰好の好うございますこと。
侍従
不作法な。わたしは差し止めたいと思いますね。
貴夫人
殿方は何につけても故障を仰ゃるのですわ。
侍従
殿様の御前でじだらくな風をして。
貴夫人
あれは芸ですわ。一人《ひとり》でいる積《つもり》ですわ。
侍従
いや。その芸がここでは行儀好くなくては。
貴夫人
あれ。好《い》い心持に寝てしまいましたのね。
侍従
今に鼾でもかくでしょう。自然そっくりでしょうよ。
若き貴夫人
(感歎す。)
あの香の烟に交って来る薫はなんでしょう。
わたし胸の底までせいせいしますわ。
やや年長けたる貴夫人
本当ね。胸に沁み込むようね。あの人の
ですわ。
最も年長けたる貴夫人
あれは体の盛になっているで、
それが醸されて不老不死の名香になって、
まわりへ一面に広がるのですよ。
(ヘレネ登場)
メフィストフェレス
こいつだな。己なんぞは見たって平気だ。
別品には相違ないが、己には気に食わない。
天文博士
わたしは正直に白状しますが、
これにはなんとも申しようがありませんな。
美人が出た。火焔の舌があっても駄目だ。
昔から女の美はいろいろに歌われている。
あれを見せられては、誰でも心が空《そら》になる。
あれを我物にした人は、余り為《しあ》合《わせ》過ぎたのだ。
ファウスト
己の目はまだあるだろうか。美の泉が豊かに
涌いて、心に深く沁むように見えると云おうか。
恐ろしい下界の旅に嬉しい限の土産があった。
世界がこれまでどんなにか無価値で、錠前が開《あ》かずに
いただろう。それがこん度司祭になってから
どうなったか。始て望ましいものになり、基礎が
出来、永存する。お前を棄てる気になったら、
己の生息の力が消えても好《い》い。昔己を
悦ばせた、美しい形、不思議な鏡像に
見えて幸福を感じさせた、美しい形は
今見る美の泡沫の影に過ぎない。
己があるだけの力の発動、感情の精髄、
傾倒、愛惜、崇拝、悩乱を捧げるのは、
お前だ。
メフィストフェレス
(棚の内より。)
しっかりなさい。役を忘れてはいけません。
やや年長けたる貴夫人
丈《たけ》もあって、恰好も好いが頭が少し小さいようね。
やや年若き貴夫人
足を御覧遊ばせ。下品に大きゅうございますこと。
外交官
上《うえ》つ方《かた》にあんな恰好のを拝したことがありますよ。
頭から足まで、わたしは美しいと思います。
殿上人
寝ている男の傍へ横著げに優しく近寄りますね。
貴夫人
あの上品な若者に比べては醜いじゃありませんか。
詩人
若者は女《おな》子《ご》の美しさに照されています。
貴夫人
エンジミオンとルナですね。画のようですね。
詩人
そうです。はあ。女神が身を屈めて、上《うえ》に伏さって、
男の息を飲もうとするらしく見えます。
羨ましい。や。接吻する。器《うつわ》は盈《み》ちた。
女監
まあ、人の前も憚らずに。狂《きよう》人《じん》染みた真似を。
ファウスト
若者奴に過分な恵《めぐみ》を。
メフィストフェレス
しっ。静かに。
化物のするように、構わずに、させてお置《おき》なさい。
殿上人
女《おな》子《ご》は足元軽く退いて、男は目を醒ましますね。
貴夫人
女が振り返ります。大方そうだろうと思いました。
殿上人
男は驚いています。奇蹟に逢ったのですから。
貴夫人
女のためには目前の事になんの不思議もないのですね。
殿上人
様子の好い風をして男の所へ帰って行きます。
貴夫人
分かりましたわ。女が男に教えるのでございます。
男はあんな時には馬鹿なものです。
大方自分が始ての相手だなぞと思うのでしょう。
騎士
わたしの目利は違いません。気高く上品ですね。
貴夫人
浮気女が。わたしはどうしても陋《いやし》いと思います。
舎人
わたくしはあの男になりとうございます。
殿上人
あんな網になら、誰も罹《かか》らずにはいられませんね。
貴夫人
あれでいろんな人の手に渡った宝ですよ。
金箔も大ぶ剥げています。
他の貴夫人
まあ、十《とお》ばかりの時からいたずらをした女ですね。
騎士
人はその場合に獲られる最上の物を取るのです。
わたしなんぞはあの残物《のこりもの》でも貰うことにします。
学者
わたしにもはっきり見えているが、正直を申せば、
本《ほん》物《もの》だか、どうだか疑わしいのです。
現在しているものは、人を誇張に誘い易い。
わたしは兎に角書いたものに縋《すが》る。読んで見ると、
こうあります。実際あの女は殊にトロヤの髯の
白い翁に気に入ったと云うのです。ところが
それが、わたしの考では、この場合に符合する。
わたしは若くはない。それに気に入りますな。
天文博士
もう童ではない。大胆な男になって、女の
抵抗することも出来ないのを、掴まえます。
腕には力が加わって、女子を抱き上げる。
連れて逃げるのでしょうか。
ファウスト
向う見ずの白痴《たわけ》が。
敢てする気か。聴かぬか。待て。余り甚だしい。
メフィストフェレス
あなたが自分でしているのではありませんか。化物の狂言を。
天文博士
ただ一言附け加えます。これまで見た所では、
この狂言をヘレネの掠奪と名づけたいのです。
ファウスト
なに。掠奪だと。己がここに手を束ねていると
云うのか。この鍵はまだ手にあるではないか。
寂寞の中の恐怖と波瀾とを経過して、
これが己を堅固な岸に連れて来たのだ。
己はここに立脚する。ここには実物ばかりある。
ここからなら、霊《れい》が鬼《き》物《ぶつ》と闘うことが出来るのだ。
ここからなら、幽明合一の境界が立てられるのだ。
遠かった、あの女を、これより近づけようはない。
今己が救って遣れば、二重に我物になるわけだ。
遣ろう。母達、々々。御身等も許してくれ。
あれを識ったからは、あれと別れることは出来ぬ。
天文博士
あなた何をします。ファウストさん。力ずくで
女子を攫《つか》まえる。もう女の姿が濁って来た。
鍵を男の方へ向ける。鍵が男に
障る。や。大変だ。やや。
(爆発。ファウスト地に倒る。男女の鬼物霧になりて滅《き》ゆ。)
メフィストフェレス
(ファウストを肩に掛く。)
お前方の自業自得だ。馬鹿者共を背《し》負《よ》い込むと、
悪魔でも損をせずにはいられない。
(闇黒。雑《ざつ》《とう》。)
第二幕
高き円天井ある、ゴチック式の狭き室。かつてファウストの住みし所。総て旧に依る。
メフィストフェレス
(帷《とばり》の背後より立ち出づ。メフィストフェレスが手に帷を搴《かか》げて顧みるとき、古風なる臥床に横はれるファウストの姿、見物に見ゆ。)
そこに寝ておれ、結んでは解けにくい
恋の絆《きずな》に誘われた不運者奴。
ヘレネに現《うつつ》を抜かしたものは、
容易に正気には帰らぬのだ。
(四辺を見廻す。)
上を見ても、右左を見廻しても、
なんにも変ってはいない。そっくりしてある。
ただあの窓の色硝子が前より曇っているようだ。
それから蜘《く》蛛《も》のいが殖えたようだ。
インクは固まって、紙は黄ばんでいる。
何もかも元の場所に置いてある。
先生が己に身を委ねる契約を書いた、
あの筆までがまだここにある。
そればかりではない。己がおびき出して取った
血の一滴が、鵞ペンの軸の奥深く詰まっている。
またと類のないこの珍品を
大骨董家に獲させたいものだ。
そこにはあの古い裘《けごろも》までが古い鉤に懸けてある。
あれを見るとあの時のいたずらを思い出す。
子供の時に己の教えた事を、青年になって
今でも吝《おし》みながら使い耗《へ》らしているかも知れぬ。
もじゃもじゃ温《ぬく》いこの外套を、今一度身に著けて、
世間では当然の事に思っている
大学教授の高慢がる真似事を、
なんだかして見たいような気にもなる。
ああしたえらがる心持に学者はなれようが、
悪魔はとうから厭《いや》気《け》がさしているて。
(取り卸したる裘を振へば、蟋《こお》蟀《ろぎ》、イタリアこほろぎ、甲翅虫など飛び立つ。)
合唱する昆虫等
好くぞ来ませる。好くぞ来ませる。
古き恩人、おん身よ。
飛びつゝ、鳴きつゝ、
われ等早くおん身を知れり。
一つ一つひそやかに
おん身われ等を造りましぬ。
父よ。百《もも》千《ち》の群《むれ》なして、
われ等舞ひつゝ来ぬ。
胸に住む小賢きものは
飽くまで隠《かく》ろひをらんとす。
それには似ずて、蝨《しらみ》等は
たはやすくぞ蛻《もぬ》け出づる。
メフィストフェレス
この若い、造られた物を見るのが、意外に嬉しい。
ただ種をさえ蒔《ま》いて置けば、いつか取《とり》入《いれ》が出来る。
もう一遍この古い毛衣を振って見よう。
そこ、ここからまた一つ二つ飛んで出る。
可哀い奴等。飛び上がり、這い廻り、
千百箇所の隅々へ、隠れに急いで行きおる。
古い箱の置いてあるあそこへも、
茶いろになった古文書や、
古壺の五味の溜まった欠《かけ》らのこの中へも、
あの髑髏のうつろな目の穴へも。
こんながらくたや、腐《くされ》物《もの》の中には、
永久に虫がいなくてはならぬのだ。
(裘を著る。)
さあ、来て己の肩をもう一遍包んでくれ。
きょうは己がまた先生だ。
さてこう名《な》告《の》った所で、詰まらないな。
己を認めてくれる人間どもはどこにいるのだ。
(メフィストフェレス鈴索を引く。鈴は耳に徹する、叫ぶ如き音を発し、その響に堂震ひ、扉開く。)
門生
(蹣《まん》跚《さん》として、暗き長廊下を歩み近づく。)
なんと云う音だ。それに響くこと。
梯子段がぐらついて、壁がぶるぶるする。その上
あの色硝子の震えている窓から、稲妻の
ぴかぴかするのが見えている。塗天井に
亀《ひ》裂《び》が入って、ほぐれた石灰や土が
上の方から降って来る。戸なんぞは
堅く錠を卸して置いたのに、不思議な力で
錠が開いてしまった。や。あれはどうだ。
気味の悪い。ファウスト先生の古毛皮を著て
巨《おお》人《ひと》のような男が立っている。あの目で
視られたり、あの手で招かれたりしたら、
こっちはそこへへたばってしまいそうだ。
逃げようか。こうしていようか。
ああ。己はどうなる事だろう。
メフィストフェレス
(招く。)
こっちへおいで。君の名はニコデムスだね。
門生
さようでございます。ああ。祈祷でもしようか。
メフィストフェレス
そんな事は廃《よ》し給え。
門生
好くわたくしの名を御存じで。
メフィストフェレス
知っているとも。年を取っても、学生を
していなさる。老書生だな。学生もやっぱり
好《すき》でそう云う風に修行し続けるのだ。そして
天分相応な、吹けば飛ぶような家を建てる。
大学者だって、家が落成するとまでは行かぬ。
所で君の先生だが、あれは修養のある人だ。
目下学術界の第一流に推されている
ワグネル先生を識らないものは世にあるまい。
毎日のように創見を出して開拓して行く先生が、
実際今の学術界を維持していられるのだ。
先生一人の周囲に、苟《いやしく》も学に志ある
聴衆は麕《くん》集《しゆう》して来る。講壇の上から
光明を放っているのは、先生一人だ。
先生が聖ペトルスのように鍵を預かっていて、
下《した》もお開《あ》けになる、上《うえ》もお開けになる。
先生が群を抜いて光り耀《かがや》いておられるので、
誰の名声も栄誉も共に争うことが出来ない。
ファウスト先生の名さえ、もう陰《かげ》になっている。
ワグネル先生は独創の発明家だから。
門生
いえ。ちょっと御免下さい。お詞《ことば》を反《かえ》すようですが、
ちょっと申し上げとうございます。こちらの
先生は万事そう云う風ではございません。
謙遜があの方のお生《うまれ》附《つき》です。ファウスト大先生が
不思議に跡をお隠しなすったのが、
諦められぬと仰ゃっておられます。
大先生さえお帰《かえり》になったら、慰《なぐ》藉《さみ》も幸福も
得られようと申されます。大先生がお立《たち》退《のき》に
なってから、当時のままにしてあるお部屋が
お帰《かえり》を待っています。わたくしなぞは
あのお部屋へ這入るのもこおうございます。一体
もう何時頃でございましょう。なんだか家の
壁までが物をこわがっているようです。さっきは
戸の枢《くるる》が震えて、錠前が開《あ》きました。そうでないと、
あなたもお這入が出来なかったでしょう。
メフィストフェレス
先生はどこにいなさるのだ。己を連れて
行くとも、先生を連れて来るともし給え。
門生
実は非常に厳しいお誡《いましめ》があるのです。そんな事を
いたして宜しいか、どうか、分かりません。お企《くわだて》に
なった大事業のために、もう幾箇月も、非常に
静《せい》寂《じやく》を守ってお暮らしになっています。学者中で
一番お優しい、あの方《かた》がお鼻の辺からお耳の
辺まで煤けておいでになって、火をお吹《ふき》になるので、
お目は赤くなりまして、まるで炭《すみ》焼《やき》のように
お見えなさいます。そして絶間なしに喘いで
おいでなさる、そのお声に、火箸のちゃらちゃら云う
物音が伴奏をいたしているのでございます。
メフィストフェレス
しかしまさか己を這入らせんとは云われまい。
己はその成功を早めて上げる人間だ。
(門生退場。メフィストフェレス重々しげに坐す。)
己がここに陣取るや否や、あそこの
奥の所に、お馴染のお客様が見える。
こん度は最新派の奴と来ているから、
際限もなく増長していることだろう。
得業士
(廊下を駆け来る。)
門《かど》の戸も部屋の戸も開《あ》いているな。
この按《あん》排《ばい》なら今までのように、
生きた人間が死人同様に
黴の中にいじけて、腐って、
生《せい》その物のために死ぬるような、
愚な事はしていぬだろう。
この家は外壁も内壁も
傾いて、崩れそうになっている。
己達も早く逃げないと、
圧し潰されてしまうだろう。
己は誰よりも大胆だが、誰がなんと
云っても、これより奥へは這入らない。
所で、きょうは妙な目に逢うぞ。
ここが、何年か前に、己がおめでたい、
なり立ての学生で、動悸をさせて
びくびくしながら遣って来て、
あの髯親爺共を信用して、
寐言を難《あり》有《がた》がった所だな。
親爺共は自分達の知った事、知っていて
信じていない事を、古臭い
破《やぶれ》本《ぼん》の中から言って聞かせて、騙しおって、
自分達の性命をも己の性命をも奪いおった。
おや。あの奥の龕《がん》のような所の
薄《うす》明《あかり》に、まだ一人据わっているな。
近寄って見ると、驚いたわけだ、
まだあの茶いろの毛皮を著ている。
実際あの別れた時のままで、
お粗末な皮にくるまっている。
あの時は己に分からなかったので、
あいつが巧者そうに見えた。
きょうはその手は食わないぞ。
どれ。一つ打《ぶ》っ附かって遣ろう。
いや。老先生。レエテの川の、人に物《もの》忘《わすれ》をさせる
濁水が、その俯向けておられる禿《はげ》頭《あたま》を底から
漬《ひた》していないなら、ここへ昔の学生が、学校の鞭の
下を疾《と》っくに抜けて来たのを、歓迎して下さい。
あなたはいつかお目に掛った時のままでおられる。
わたしは別な人間になって来ました。
メフィストフェレス
ふん。わしの鳴らしたベルで君の来られたのは
喜ばしい。あの時も君を軽視してはいなかった。
追って綺麗な蝶になると云うことは、
毛虫や蛹《さなぎ》の時から分かる。若々しい
《ちぢ》れた髪をして、レエスの著いた襟を掛けて、
君は子供らしい愉快を覚えていた。
辮《べん》髪《ぱつ》には、君、一度もならなかったのかい。
きょうは君のスウェエデン風の斬髪を拝見するね。
快活で、敏捷らしい御様子だ。絶待的無過失の
思想家なぞになって、故郷へ帰らないようになさい。
得業士
老先生。また元の所でお目に掛かりますが、どうぞ
革新せられた時代の推移をお考《かんがえ》なさって、
一語両意の下手な講釈は御遠慮下さい。
わたしどもは物の聴《きき》取《とり》方《かた》が変っていますからね。
あなたは馬鹿正直な子供をお揶《から》揄《かい》になった。
それがなんの手段も煩わさずにお出来になった。
今はもうそんな事を敢てするものはありません。
メフィストフェレス
ふん。若いものに本当の事を説いて聞かせると、
嘴《くちばし》の黄いろい時の耳には兎角逆うのだ。
所が跡で何年も立ってから、自分の体が
あらあらしく物に打《ぶ》っ附かって、それが分かると、
自分の脳天から出た智慧のように思うのだ。
そこで「あの先生は馬鹿だった」などと云うのだて。
得業士
いや。「横著者だった」となら云うかも知れませんね。
覿《てき》面《めん》に本当の事を言う先生はないのですから。
どれも皆、おめでたい子供を相手に、匙加減をして
真面目くさったり、機嫌を取ったりするのです。
メフィストフェレス
無論人間は学ばなくてはならぬ時がある。
こう見た所、君はもう人に教えても好い積《つもり》らしい。
大ぶ月日が立つうちに、君もたっぷり
経験を積んで来ただろうね。
得業士
経験ですか。泡のような、烟のような物です。
人の霊《れい》と比《くらべ》物《もの》にはなりませんね。あなただって
正直に白状なさったら、今まで人の知っていた事に
知っていて役に立つことはないでしょう。
メフィストフェレス
(間を置きて。)
もう疾《と》うからそう思っていたが、わしは馬鹿だ。
今思えばいよいよ遅鈍で、興味索然としている。
得業士
そう承れば嬉いです。兎に角自知の明がある。
今まで逢った老人の中で話せるのはあなた一人だ。
メフィストフェレス
わしは埋もれている黄《こ》金《がね》の宝を捜して、
気味の悪い炭を得て帰ったのだ。
得業士
失敬ですが、あなたのその頭脳、その禿《はげ》頭《あたま》には、
そこにある髑髏以上の価値はないでしょう。
メフィストフェレス
(恬《てん》然《ぜん》として。)
君はどの位乱暴だか、自分でも分かるまいね。
得業士
ドイツでは世事を言う人は《うそ》衝《つき》としてあります。
メフィストフェレス
(脚に車の附きたる椅子を、次第に舞台脇へずらせ来て、平土間に向ふ。)
ここの上では空気も光線もなくされそうですが、
あなた方の所へ降りさせて下さらんでしょうか。
得業士
一体もう自分がなんでもなくなって、時候遅《おくれ》に
まだ何かである積《つもり》でいるのは、僭上の沙汰です。
人間の性命は血にある。青年の体のように
血の好く循《めぐ》っているものが外にありますか。
既に有る性命から、新しい性命を造るのは、
新鮮な力を持っている、この生きた血です。
そこで万事活動している。何事をか為している。
弱者が倒れて、優者が進む。そして我々が
世界を半分占領する間、あなた方は何をして
いました。舟を漕いでいた。物を案じていた。夢を
見ていた。あの案、この案と、工夫ばかり凝らしていた。
慥《たし》かに老《おい》は冷たい熱病です。気まぐれに
悩まされての戦《わな》慄《なき》をしているのです。
人間は三十を越してしまえば、もう
死んだも同じ事ですね。あなたのような
老人は早く敲《たた》き殺すが一番です。
メフィストフェレス
こうなると、悪魔も一語を賛することが出来ない。
得業士
わたしが有らせようとしなければ、悪魔も無い。
メフィストフェレス
(傍に向きて。)
今にその悪魔に小股をすくわれるくせに。
得業士
これが青年最高の責務だ。
己が造るまでは、世界も無かったのだ。
日は己が海から引き出して来た。
月の盈《えい》虧《き》は己が始めた。
己の行く道を季節が粧って、
大地は己を迎えて緑に萌え、花を開《ひら》く。
ある夜己が揮《さしまね》いたので、あらゆる星が
一時に耀きはじめた。一体あなた方に、
世俗の狭隘な思想の一切の束縛を
脱せさせて上げたのも、わたしでなくて誰です。
所でわたしは、心の中で霊が告げる通《とおり》に、
自由に、楽んで、内なる光明を趁《お》って、
光明を前に、暗黒を後《うしろ》に、
希有の歓喜を以て、さっさと進むのだ。(退場。)
メフィストフェレス
変《かわ》物《りも》奴《のめ》。息《い》張《ば》って行って見るが好《い》い。
賢い事も、愚な事も、昔誰かがもう考えた
事しか考えられぬと云うことが
分かったら、さぞ悔やしがるだろう。しかし
あんな奴がいたって、世間は迷惑しない。
少し年が立つと、別な気になる。
もとでいるうち、どんな泡が立っても、
しまいには兎に角酒になる。
(平土間にて喝采せざる少壮者に。)
あなた方は大ぶ冷澹に聞いていますね。
好《い》い子のあなた方の事だから、構いません。
まあ、考えて御覧なさい。悪魔は年寄だ。
年が寄ったら、わたしの言うことが分かるでしょう。
中古風の試験室、奇怪なる用途を有する、繁雑にして痴重なる器械
ワグネル
(竈《かまど》の傍にて。)
恐ろしいベルの響が
この煤けた壁を震わせる。
熱心に期待している事の成不成が、
もうこれより長く決せられずにはいまい。
もう暗く濁っている所が澄んで来る。
もう一番心《しん》になっている瓶《びん》の中に、
燃え立つ炭火のように、いや、赫《かがや》く
紅宝石のように照っている物が出来て、
電光のように闇を射はじめる。
明るい、白い光が現れる。
こん度こそ取り留めんではならん。
や。なんだ。戸をがたがた云わせるのは。
メフィストフェレス
(入る。)
推参ですが、お為《ため》になる客です。
ワグネル
(懸念らしく。)
おいでなさい。好い星の下《もと》に来られました。
(小声にて。)
しかし物を言わないで下さい。それにしっかり
息を殺していて下さい。大事業が今成就します。
メフィストフェレス
(一層小声にて。)
なんですか。
ワグネル
(一層小声にて。)
人間を拵えるのです。
メフィストフェレス
人間ですと。そしてそのけむたい穴に、どんな、
色気のある男《おとこ》女《おんな》を閉じ籠めたのですか。
ワグネル
大《おお》違《ちがい》です。今まで流《は》行《や》っていた、人間の拵方は、
わたし共は下らぬ戯だと云ってしまうのです。
今まで性命を生んだ、優しい契合点ですね、
あの、親の体の内から迫り出て、遣《やり》取《とり》をして、
我と我が影像を写すようになって、先ず近いものを、
次に遠いものを取り込むことになっていた、
恵ある力ですね、あれはもう貶《へん》黜《ちゆつ》せられるのです。
よしや今《こん》後《ご》も動物はあんな事を楽むとしても、
大いなる天分を享けた人間だけは将来これまでより
迥《はるか》に高い出《でど》所《ころ》を有せなくてはならんのです。
(竈に向ふ。)
光っている。御覧なさい。こうなればただ数百の物質を
調合して、調合の為《し》方《かた》が大事ですよ、楽《らく》々《らく》と
人間と云うものの原質を組み立てるですね。
それを硝子瓶《びん》に入れて封じる、それを十分に
蒸餾《じようりゆう》するですね。そして例の為《し》事《ごと》を、こっそりと
我手で成就すると云うことになるのです。それが
今そろそろ出来掛かっているのです。
(また竈に向ふ。)
出来ますね。調合した物が動いて澄んで来る。
確信の基礎が刹那々々に堅くなって来る。
古来造化の秘密だと称えた事を、
我々は敢て悟性で遣って見ようとする。
自然が機関的に構成していた事を、
我々は結晶させて造るのです。
メフィストフェレス
人間は長く生きていると、種々の経験をするもので、
その目で見ると、この世界には新しい事は一つもない。
わたしなんぞは所々を流浪しているうちに
結晶して出来た人間の群も見ましたよ。
ワグネル
(これまで始終瓶に注目してゐる。)
はあ。昇って行く。光る。凝り固まって来る。
もうすぐに成功する。大きい企は最初
馬鹿げて見えるものだ。しかし未来ではこんな事を
偶然に委ねていたのを笑って遣ろう。
旨く物を考えることの出来る脳髄をも、
未来では思索家が造り得るはずだ。
(感歎して瓶を見る。)
優しい力が瓶に音を立てさせる。濁っては
また澄んで来る。もう出来るのだ。小さい、
可哀らしい人間が、優しい姿をして
動いている。此上我々も何を望もう。
此上世界にもなんの望があろう。秘密は
白日の下に曝露せられてしまった。
あの声に耳を傾けて御覧なさい。
あれが人の声になります。言語になります。
小人
(瓶の中にてワグネルに。)
さて、お父っさん。いかがです。笑談では
ありませんでしたね。さあ、いらっしゃい。優しく
わたくしを胸に抱いて下さい。しかし硝子の
破れるようにひどくしてはいけません。物事は
こうしたものです。「自然の物には宇宙も狭い。
人工の物には為《し》切《き》った空間がいる。」
(メフィストフェレスに。)
所で、横著者のおじさん、あなたもここにいますね。
丁度好《い》い時にいらっしゃって難《あり》有《がと》う。あなたを
ここへ来させたのは、好い廻《まわり》合《あわせ》です。わたしも
こうして出来て見れば、働かなくてはなりません。
為《し》事《ごと》に掛かられる様に、すぐに身支度をしましょう。
あなたはお巧者です。無駄をさせないで下さい。
ワグネル
一寸一言言わせてくれ。これまで老人も若いものも、
己に種々な事を問うて困らせおった。
例えばこうだ。「一体霊と肉とは旨く適合していて、
決して分離しないように、食っ附いているのに、
その二つが断えず人間の生活を難渋にしている。それを
これまで誰一人会得したものがない。
それから。」
メフィストフェレス
お待《まち》なさい。それを問う程なら、
「一体男と女とはなぜ中が悪いか」とでも問いたい。
お前さんなんぞには所詮これは分からない。
ここに為《し》事《ごと》がある。それをこの小さいのが遣ります。
小人
何をするのですか。
メフィストフェレス
(側の戸を指さす。)
ここでお前の腕を見せてくれ。
ワグネル
(旧に依りて瓶を凝視す。)
実にお前は可哀らしい子だなあ。
(側の戸開《あ》く。ファウストの床の上に臥したるが、見物に見ゆ。)
小人
(驚く。)
大した物だ。
(瓶ワグネルの手を脱して、ファウストの上の空中に懸かり、ファウストを照す。)
美しい所だ。茂った森に清い水が
流れている。女子達が著物を脱いでいる。
可哀らしい。はあ、段々面白くなって来る。
中に一人立派に別物になって見えるのがある。
第一流の英雄の種か。それとも神々の種か。
今透き通る水の中へ足を漬ける。
気高い体の、恵ある生《せい》の火が、物に触れて
形を変える、波の結晶の中で冷される。
しかしなんと云う、急な羽《はば》搏《たき》の音だろう、ざわざわ
ぴちゃぴちゃと鏡のような水面が掻き乱される。
女子達はこわがって逃げる。それに女王だけは
平気な様子で、鵠《くぐい》の王があつかましく、
馴々しく、自分の膝に摩り寄るのを、
驕《おご》った、女らしい楽しさで、見ていられる。
鵠の王は馴れるようだ。や。突然
靄《もや》が立ち籠めて来て、あらゆる
看《み》物《もの》の中の一番可哀らしい看物を、
細かに編んだ羅《うすも》の奥に隠してしまった。
メフィストフェレス
好くそんなに沢山饒舌《しやべ》る事があるなあ。
お前は小さいが、空想家としては大きいぞ。己には
なんにも見えん。
小人
そうでしょう。あなたのように
北の国に生れて、蒙昧時代に、騎士や坊主の
ごたごたの中に人となっては、目が善く
開《あ》いていないでしょう。あなたの領分は
暗黒の境です。
(四辺を見廻す。)
茶いろになった石《いし》壁《かべ》が剣形迫《せり》持《もち》の形をして、
曲りくねって、低く、朽ちて、厭《いや》らしくなっている。
ここでこの人が目を醒ますと、厄介な事になります。
即坐に死んでしまいますから。
森の中の泉、鵠、裸体の美人、こんな物を
未来を予想して夢に見ていました。
それがどうしてこの境界に馴れられましょう。
一番のん気なわたくしですが、見ていられません。
どこかへ連れて行きましょうね。
メフィストフェレス
その始末には賛成だ。
小人
軍《いくさ》人《にん》を軍《いくさ》に遣るなら、あなた
娘は踊にお遣《やり》なさい。そうなされば
万事かたが附きます。ちょっと
わたくしが考えて見たのですが、今は丁度
古代のワルプルギスの晩に当ります。
一番都合の好いのは、この人を性《しよう》に合った
境界へ連れて行って上げる事ですね。
メフィストフェレス
そんな催《もよおし》の事はこれまで聞いたことがない。
小人
それはあなたの耳には這入るはずがありません。
あなたのお馴染はロオマンチックの化物だけです。
化物でも本当のはクラッシックですよ。
メフィストフェレス
それにしてもどこへ向いて出掛けるのだ。
聞いただけで大《おお》時《じ》代《だい》の先生方の胸悪さを感じるて。
小人
あなたの遊山の領分は西北方です。
所がこん度は東南方へ飛んで行きます。
広い平原をペネイオスの川が楽に流れて、木立や
藪に囲まれて、静かな、空気の湿った入江をなしている。
平原は山の谷合まで延びていて、
上には新古二つのファルサロスがある。
メフィストフェレス
厭だな。御免を蒙りたい。暴君と奴隷との、
あの争は見たくもない。やっと済んだかと
思うと、また新規に前から始めるのだから、
己は退屈してしまう。そして実は背後《うしろ》に
アスモジがいて、揶揄《からか》っているのだとは、
誰も気が附かない。自由の権利のために
闘っているのだと云うが、好く見れば、
奴隷が奴隷と勝負をしているのだ。
小人
人間の喧嘩好《ずき》な事だけは、認めて遣らなくては
いけません。子供の時から一人々々、力《ちから》限《かぎり》に
防禦をしていて、それでとうとう人となるのです。
ここでの問題はこの人をどうして直そうかと
云うのです。あなた方《ほう》があるなら、お験《ためし》なさい。
出来ないなら、わたくしにお任《まかせ》なさい。
メフィストフェレス
それはブロッケンの趣向に、随分験《ため》して好《い》いのも
あるが、この際異端の方角には錠が卸してあるらしい。
一体グレシア人は慥《しか》と役に立ったことのない民族だ。
それでも皆を放縦な官能の発動で迷わせて、
人間の胸を晴やかな罪悪に誘うことは出来る。
己達の罪悪はどうせ陰気に思われるだろう。
そこでどうする。
小人
あなたも不断は野暮ではない。
わたくしがテッサリアの魔女と云ったら、幾らか
なるほどとお思《おもい》当《あたり》なさらないことはありますまい。
メフィストフェレス
(欲望あるらしく。)
テッサリアの魔女だと。好し。己が永《なが》年《ねん》聞いていて
見たく思った女共だ。そいつ等と
毎晩一しょにいるとなると、己の考では、
好い心持ではなさそうだ。だが験《ためし》に
お見まい申すだけなら好《い》い。
小人
その外套を下さい。
この騎士さんに被《かぶ》せて遣りましょう。
これまで通《どおり》にその切《きれ》が、あなた方を
二人共一しょに載せて飛ぶでしょう。わたくしが
明《あかり》を見せます。
ワグネル
(気遣はしげに。)
そして己は。
小人
さればですね。
あなたは内で大切な事をなさっていらっしゃい。
古い巻物を開《あ》けて見て、方《ほう》に拠《よ》って
生活の元素を集めて、あれと此とを綿密に
抱合させて御覧なさい。「何を」と云うことも
大切ですが、「奈《いか》に」と云うことが一層大切です。
わたくしはその間に世界の一部をさまよって、
画竜の睛《ひとみ》の一点を見出しましょう。そうすれば、
大目的が達せられたと云うものです。こう云う
努力には相応の酬《むくい》がありましょう。黄金、地位、
名聞、それに健康な、長い生活、それから
学問、事によったら、道徳も得られましょうか。
さようなら。
ワグネル
(悲しげに。)
さようなら。実に己はがっかりする。
もうお前にまた逢うことは出来そうにないなあ。
メフィストフェレス
さあ、すぐにペネイオスの川辺へ行こう。
小僧さん、なかなか話せるぜ。
(見物に向きて。)
とうとう我々は、自分の拵えた人間に
巻《まき》添《ぞえ》せられるものかも知れませんね。
古代のワルプルギスの夜
ファルサロスの野。闇黒。
魔女エリヒトオ
わたしはエリヒトオと云って、陰気な女だが、
これまでも度々出たように、今夜の気味の悪い
祭に出掛ける。やくざ詩人共が度はずれに
悪く云う程、わたしは悪い女ではない。一体詩人は
褒めるにも毀《そし》るにも止《とめ》所《ど》がない。谷を遙に
見渡せば、鼠色の天幕の波で白《しら》ちゃらけて見える。
一番気遣わしく、恐ろしかった、その夜の記念《かたみ》だ。
もう何遍同じ事が繰り返されたか知れぬ。これが
永遠に繰り返されるのだろうか。兎角誰も国を他人に
渡したくはない。自分の力で取って、治めているものが
国を他人に渡したくはない。なぜかと云うに、我内心を
支配することの出来ぬ人に限って、わが驕慢の
心のままに、隣の人の意志をも支配したがるからだ。
ここではそう云う大きな争の実例があったのだ。
暴力がそれより強い暴力に抗して、千の花を
編み込んだ、自由の美しい飾の輪が破れ、
こわい月桂樹の枝が王者の頭《こうべ》に巻き附いた。
こちらで大ポンペイユスが早い盛の夢を見れば、
あちらでケザルが揺ぐ金舌に耳を傾けて
夜を徹する。勝負は今だ、成《なり》行《ゆき》は世間が知っている。
赤い《ほのお》の立つ篝《かが》火《りび》が燃える。地は
流された血の反《てり》映《かえし》を吐く。そして夜の
珍らしい、不思議な赫《かがやき》に引かれて、
グレシアの昔物語の軍兵が集まる。どの篝火の
周囲《まわり》にも、昔の怪しい姿があぶなげに
よろめいたり、楽《らく》げに据わったりしている。
闕けてはいても、明るく照る月が、一面に
優しい光を放ちながら、さし升《のぼ》る。天幕の
幻影は消え失せて、火は青いろに燃えている。
はて、思いも掛けぬに、頭《あたま》の上を飛んで来るのは
なんの隕《いん》星《せい》だろう。光って、体《たい》をなした球を
照している。生《いき》物《もの》らしい。わたしに害を受ける
生物に近づくのは、身に取って不似合な業《わざ》だ。
そんな事で悪い噂を立てられるのは厭《いや》だ。
もう降りて来るらしい。思案して避けていよう。
(退場。)
(飛行のものども上にて。)
小人
ここの地《じ》の上、谷合は
余り化物臭いから、
この気味の悪い篝火の上で、
もう一度輪をかいていましょう。
メフィストフェレス
古い窓から北の国の
気味の悪いごたごたを見るように、
厭な化物どもが見える。
ここもやっぱり内同様だ。
小人
御覧なさい。背の高い女が
大股に歩いて行きます。
メフィストフェレス
こっちとらが虚空を飛んでいるので、
気味を悪がって逃げるのじゃないか。
小人
あれは構わずに行かせておしまいなさい。
そして騎士さんを卸してお遣《やり》なさい。
そうしたらすぐに蘇《よみがえ》りましょう。騎士さんは
昔話の国に生を求めているのですから。
ファウスト
(地に触れて。)
女は何処へ行った。
小人
わたくし共は知りませんが、
この辺で聞いて見ることが出来るでしょう。
急いで夜の明けないうちに、篝火から篝火へと、
聞いて廻って御覧なさい。母達の所へさえ
おいでになった方ですから、何も別にこわい目に
お逢《あい》なさることはありますまい。
メフィストフェレス
己は己でこの土地でどうかしなくてはならないが、
どうもてんでに自分だけの運《うん》験《だめし》の積《つもり》で、
あの篝火の中を通って行くより外には、
我々に都合の好い名案もなさそうだ。
それから跡で一しょになる時の相図には、
お前の明《あかり》が音をさせながら照らすようにしてくれ。
小人
ええ。こんな風に音をさせて光らせましょう。
(硝子鳴りて強く光る。)
どれ、新しい不思議を見に出掛けましょうか。
(退場。)
ファウスト
(一人にて。)
あれはどこにいるだろう。差《さし》当《あたり》此上問わずに
置こうか。この土《つち》があれを載せた土、
この波があれが方へ打ち寄せた波でなくとも、
この空気はあれが詞《ことば》を伝えた空気だろう。
ここへ、このグレシアへ、己は奇蹟で来た。己の足の
踏んでいるのが、その土地だと云うことは
すぐ分かる。眠っていた己の心に、新しく思想が
燃え立った時、アンテウスが土に触れて力を
得るように、心強くなって己は立っている。どんな
奇怪に逢おうとも、このの迷路を己は真面目に探る積《つもり》だ。
(退場。)
メフィストフェレス
(四辺を見廻す。)
どうもこの篝々を見渡すと、
己は馴れない土地に来たのが分かる。
みんな裸で、襦《じゆ》袢《ばん》だけ著たのがそこここにいる。
スフィンクスは恥知らずでグリップスは
臆面なしだ。毛の生えたのや、羽の生えたのが、
前からも後《うしろ》からも目にうつる。
それは己達だって腹の底からじだらくだが、
古代の奴と来ては余り烈し過ぎる。
なんでもこんなのは新しい見方で見て、
いろいろに上塗をしなくてはいけない。
厭な人種だ。だがこっちは新参として、
挨拶だけは丁寧に、我慢してするとしよう。
別品さん。くろうとのお年寄。御機嫌好う。
鷙《しち》鳥《よう》グリップス
(濁れる声にて。)
グリップスだ。くろうとではない。それに誰も
年寄扱は好かない。一体どの詞にも語原があって、
その響が残っている。グリップスも、栗色、苦み、
苦労、繰言、くら闇、ぐらつきなどと、
語原学上に声が通っているが、
己達は聞くのが厭だ。
メフィストフェレス
しかし御尊号グリップスの
「グリ」は繰《くり》入《いれ》の「くり」で、お気に入るでしょう。
鷙鳥
(同上。以下傚之《これにならう》。)
それはそうだ。来歴は調べてある。古来
悪くも言われたが、褒められた方《ほう》が多い。
女でも、冠でも、金《かね》でも、繰り入れれば、
繰り入れた奴に福の神は笑顔を見せるのだ。
(大いなる形のもの。)
お金の話が出ましたね。わたし共は随分集めて、
洞穴や岩の間にそっと埋めて置きました。
それを一《ひと》目《つめ》アリマスポイ共が嗅ぎ出して
あんな遠くへ持って行って、笑っています。
鷙鳥
己達が攫《つか》まえて白状させて遣る。
一目アリマスポイ等
我儘御免のお祭の晩だけは免《ゆる》して下さい。
あしたまでには皆使ってしまいます。
大抵こん度は旨く行く積《つもり》です。
メフィストフェレス
(これより先《さき》、スフィンクス等の間に坐を占む。)
この土地に慣れるのは、大ぶやさしそうだぞ。
どの男の言う事も、己には好く分かる。
スフィンクス
わたし達が霊の声を出すと、それを
あなたが体を具えたものになさるのです。
追々お心安くなりましょうが、先ずお名を仰ゃい。
メフィストフェレス
己には人がいろいろに名を附けているよ。
ここにイギリスの人がいるかい。あの連中は旅《たび》好《ずき》で、
古戦場やら、滝の水やら、崩れた石垣やら、
時代の附いた、陰気な場所やらを捜し廻るのだ。
ここなんぞはあいつ等の覗《ねら》って来そうな所だ。
あいつ等がいたら、証人になるだろう。昔の狂言で
あいつ等は己をオオルド・インイクウィチイと云った。
スフィンクス
なぜそう云いましたの。
メフィストフェレス
己もなぜか知らない。
スフィンクス
それは御存じないかも知れませんね。天文は少しは
知っていらっしゃって。只今はどんな時でしょう。
メフィストフェレス
(仰ぎ見る。)
星が飛びっ競《くら》をしている。闕けた月が明るく
照っている。己は旨い所で、お前方の獅子の皮で
ぬくもって、好い心持になっている。しかし
高い所の事なんぞ言うのは損だ。謎でも
掛けてくれ。フランス流の地口でも好い。
スフィンクス
自分の事を言って御覧なさい。それが謎に
なっていますわ。細かに分析して御覧なさい。
「善人にも悪人にも用に立つ。
欲を制して奮闘する人の鎧にもなれば、
方外な事をしでかす人の仲間にもなる。
そしてどちらもチェウスの神の慰《なぐさみ》になる。」
第一の鷙鳥
(濁れる小声にて。)
あいつは好かんな。
第二の鷙鳥
(一層濁れる声にて。)
我々になんの用に立つのだ。
右の二人
あんな見苦しい奴はここにいさせたくないな。
メフィストフェレス
(粗暴に。)
ふん。お客様の爪は、お前のその尖った爪程、
引っ掻くことが出来ないとでも思うのかい。
験《ため》して見ろ。
スフィンクス
(優しく。)
なに、いらっしゃるが好《い》いわ。
どうせ御自分でこの中をお逃《にげ》なさるのだから。
お国では好い気になっておいででしょうが、ここでは、
お見受申す所が、余り御愉快ではないのね。
メフィストフェレス
お前も体《からだ》の上《うえ》の半分は旨そうだが、
下の方の獣《けだもの》は不気味だな。
スフィンクス
あなたっ衝《つき》で、罪滅ぼしに来たのだわ。
わたしのこの爪は達者ですからね。
どうせ不恰好になった蹄のあるあなただから、
わたし達の仲間にいて、好い気持はしないわ。
(セイレエン虚空にて声を試みる。)
メフィストフェレス
あの川の傍の白楊の枝で、体をゆすって
歌っている鳥はなんだい。
スフィンクス
御用心なさいよ。随分立派な方でも、
あの歌に負かされておしまいなすったから。
歌う鳥セイレエン等
あはれ、いかなれば醜《みにく》き、怪《あや》しき
物等の中に、身を落ち著け給ふ。
聴き給へ。われ等こゝに群《むれ》なして、
調《しらべ》整《ととの》へる声して来たり。
セイレエンはかくあるべきものぞ。
スフィンクス
(同じ調にて嘲る。)
降りて来させて姿を見給へ。
耳を傾け給ひなば、
襲ひ害《そこな》ひまつらんと、
彼《かの》女《おみ》等《なら》は醜き角《くま》鷹《たか》の爪を
梢に隠して止《と》まりをれり。
歌う鳥等
な憎みそ。な妬みそ。
大空の下にちりぼへる
浄き限の喜を集めばや。
まらうどに見せまつらんため、
土の上にも、水の上にも、
晴やかなる限の振舞あらせばや。
メフィストフェレス
これはまた迷惑千万な新《しん》手《て》だ。
吭《のど》からと絃《いと》からと出る
声と声とが綯《ない》交《まぜ》になると来ている。
吭を鳴らしてくれるなんと云うことは己には駄目だ。
耳をくすぐってはくれるが、
胸までは徹《こた》えない。
スフィンクス等
胸なんと云うことはお廃《よし》なさい。自《うぬ》惚《ぼれ》だわ。
皺になった革《かわ》嚢《ぶくろ》位なら、
お顔に似合いますでしょう。
ファウスト
(歩み寄る。)
実に驚歎に価する。観照だけで満足だ。
醜怪の中に偉大な、力のある趣が見える。
なんだか前途の幸運が予想せられる。
この真率な一目は己に何を想い出させるだろう。
(スフィンクスにつきて云ふ。)
昔オイジポスはこんなのの前に立ったのだ。
(セイレエンにつきて云ふ。)
こんなのに騙されまいと、ウリッセスは麻縄で
身を縛らせたのだ。
(蟻につきて云ふ。)
これが珍宝を蓄えたのだ。
(グリップスにつきて云ふ。)
そしてこれが忠実に、間違なく守ったのだ。
己は新しい思想が胸に徹して来た。
物が偉大なだけ、記念も偉大だ。
メフィストフェレス
いつもなら、こんなものは排斥なさるのだが、
今はお気に入るようですね。
おお方好《すき》な人を捜す土地では、
化物にでも逢いたいのでしょう。
ファウスト
(スフィンクス等に。)
おい。女《おな》子《ご》達。己に言って聞せてくれ。
お前達の中で誰かヘレネを見はしないか。
スフィンクス等
わたし達はその時代にはいませんでした。
一番季《すえ》のをヘラクレスさんが殺しましたの。
ヒロンさんにお聞《きき》なさると好《い》いわ。あの方は
お祭の晩には駆け廻っています。あの方が
お相手になれば、大《たい》した手がかりが出来てよ。
歌う鳥等
おん身のためにも徒《あだ》ならじ。
嘲りて行き過ぐることなく、
ウリッセスが留まりし時、
くさぐさの事を我等に語りぬ。
青海原のほとりへ、
われ等の住む野へ来まさば、
そを皆おん身に語るべきに。
スフィンクス
あなた、騙されてはいけませんよ。
ウリッセスさんは体《からだ》を檣《ほばしら》に縛らせましたが、
あなたはわたし達の詞に縛られておいでなさい。
わたしが申した通ヒロンさんにさえ
お逢《あい》になれば、分かりますからね。
(ファウスト去る。)
メフィストフェレス
(不機嫌に。)
あの羽をばたばた云わせて鳴いて通るのは
なんだ。見えない程早く通ってしまう。
それにきっと一羽ずつ後《あと》先《さき》になって通る。
猟《かり》人《うど》もあれでは草臥《くたび》れてしまうだろう。
スフィンクス
木枯の吹いて通るように、アルカイオスの孫、
ヘラクレスの矢も届かぬように、早く飛ぶのは、
あれはスチュムファアリデスです。角《くま》鷹《たか》の嘴《くちばし》、
鴨の足をしている、あの鳥は挨拶をして
通るのです。わたし共の中へ来て、
親類附合がしたいのです。
メフィストフェレス
(怯れたる如く。)
まだその間々に音をさせて通っているね。
スフィンクス
あれはこわがらなくても好《い》いのですよ。
レルナの蛇の首ですが、胴から切り離されて
いるくせに、一《ひと》廉《かど》のものの積《つもり》でいます。
それはそうと、あなたどうしようと云うの。
そんな落著かない様子をして。どこへ
いらっしゃるの。もうここをお逃《にげ》なさるの。
あそこの合唱の連中の方ばかり向いて
御覧なさるのでしょう。御遠慮には及びませんわ。
おいでなさいな。顔の好《い》いのもいますから、何か
言ってお遣《やり》なさい。ラミエエです。色気のある
女共ですわ。臆面なしの笑顔をしていて、
サチロス仲間に気に入りますの。
山《や》羊《ぎ》の足の男は、あの中に這入って、
どんな事でも出来ますの。
メフィストフェレス
またお目に掛りたいが、このままいてくれるでしょうね。
スフィンクス
ええ。行ってあの浮気仲間に這入って御覧なさい。
わたし達はエジプト時代から、千年も同じ所に
居据わっていることに慣れていますの。
わたし達の居《いど》所《ころ》に気を附けて御覧なさい。
陰暦も陽暦も、わたし達が極《き》めるのです。
「国と国との裁判《さばき》せんと、
塔の前にぞ我等はをる。
乱れ、治まり、河溢るれど、
我等は変へず気色だに。」
ペネイオス河
(池沼、ニュムフェエ等に囲《いに》繞《よう》せられたり。)
ペネイオス河
戦《そよ》ぎ囁け、蒲《かば》の葉よ。
しばし破れし夢に、
葦《よし》の妹《いも》達《たち》、そと息嘘《ふ》き掛けよ。
柳の木立軽くさやぎおとなへ。
顫《ふる》ふ楊《よう》樹《じゆ》の梢みそかに物言へ。
凄まじき物のけはひ、
微かに物皆動かす震《ふるい》、
波の中、静けさの中より我を醒ましつ。
ファウスト
(川に立ち寄る。)
己の僻《ひが》耳《みみ》でないなら、この木立、
この梢の入り違った茂《しげり》の中から、
人の声に似た物音が
聞えるように思われる。
波もくどくどと何やら云って、
風も何やら喜び戯れているらしい。
少女ニュムフェエ等
(ファウストに。)
御身をこゝに横へ、
疲れたる手足を
涼しき所にて息《やす》め、
常に御身の得難き眠を
味ひ給はんこそ
もとも宜しからめ。
われ等さやぎ、そよめきつゝ、
囁《ささやき》を聞せまつらん。
ファウスト
己はこれでも覚めている。己の目の
見遣るあそこに、譬《たと》えようのない
あの姿を、あのままおらせて貰いたい。
不思議な程身にしみじみと応える。
夢だろうか。昔の記念《かたみ》だろうか。
これまでこんな幸に逢ったことが一度ある。
軽く戦いでいる、茂った灌木の群の
爽かな中を、水が這って通る。
荒い音は立てぬ。やっとそよめくだけだ。
百《もも》の泉が八方から集まって
浴《ゆあみ》の出来るように、浅く窪んだ、
清く澄み切った池になっている。
健《すこや》かな、若い女等の手足が
水鏡に映って、二重に、
目を悦ばせてくれる。
そして女等は中善く、楽しげに浴《あ》びたり、
大胆に泳いだり、こわごわ渉《わた》ったりしている。
そのうち、とうとう叫び交して水合戦をする。
己はこれだけの事を見て満足して、
目を悦ばせていなくてはならぬのに、
己の心はそれに安んぜずに、先へ先へと進む。
そして目はあちらの物蔭を鋭く穿《うが》とうとする。
緑に茂ったあの木の葉が
后《きさき》の姿を隠している。
や。珍らしい。入江の方《ほう》から、
威厳のある、清げなけはいで、
鵠《くぐい》も泳いで来る。静かに漂って、
優しく群れて遊んではいるが、
また世に傲《おご》り、自ら喜ぶ気色もある。
あの頭や嘴《くちばし》を動かす工合を見るが好《い》い。
中に一羽が群を凌いで大胆に、
どの鳥をも跡に残して走って行って、
誇りかに振舞うのが見える。
体中の羽根をふくよかに起して、
足《あ》掻《がき》に波を立てて、
神聖な所へ入り込んで行く。
外の鳥共は穏かに羽根を赫《かがや》かして、
あちこちを泳ぎ廻って、
折々は臆病な少女等を賺《すか》して、
后を守護する勤《つとめ》を忘れさせ、
自分々々の安危を思わせようとして、
騒がしい、晴がましい争をして見せる。
ニュムフェエ
皆さん。この青い岸の段々に、
耳を押し附けて聞いて御覧なさい。
わたしの聞《きき》違《ちがい》でないなら、なんだか
馬の蹄の音がするようですね。
今宵の祭に急《いそぎ》の使になって来るのは、
まあ、誰でしょうかねえ。
ファウスト
駆けて来る馬の蹄に
大地が鳴り響くようだ。
向うを見れば、
幸運が
もう己に向いて来たらしい。
無類の奇蹟だ。
騎者が一人駆けて来る。
智もあり勇もありそうな人だ。
眩い程の白馬に乗っている。
己の僻目でないなら、もうその人も知れている。
フィリラが生んだ名高い倅だ。お待なさい。
ヒロンさん。あなたに言いたい事があります。
人首馬身のヒロン
なんです。何事です。
ファウスト
ちょっと留《と》まって下さい。
ヒロン
いや。己は留《と》まらぬ。
ファウスト
そんなら連れて行って下さい。
ヒロン
そんなら乗れ。そうしたら、己の問う事も
問われよう。どこへ行くのだ。お前は岸に
立っているが、川を越させて遣っても好《い》い。
ファウスト
(乗る。)
どこへでも連れておいでなさい。御恩は長く
忘れません。あなたは大人物だ。高尚な教育家だ。
英雄の一種族を名の揚がるように育てたのだ。
あのアルゴオの舟に乗った立派な人達や、
その外詩人の材料になった人達を育てたのだ。
ヒロン
そんな事はそっとして置いて下さい。
パルラスでさえ師匠としては誉められない。
どうかすると、門弟は教えたも教えなかったも
同じ事で、勝手に遣って行きますからね。
ファウスト
それにあなたは草木を一々知っていて、
その根ざしを底の底まで窮めて、
創《きず》を《い》やし、病人を救って遣られる。その心身共に
健かなあなたに、わたしは載せられているのだ。
ヒロン
それは傍で英雄が創を負えば、
救って遣ることもわたしには出来る。
しかし先々の手当は
巫女や僧侶に任せて置く。
ファウスト
なるほどあなたは、人の称讃に耳を借さない
真の大人物だ。自分のようなものは、
外にいくらもあると云う風に、
話をそらしてしまうのですね。
ヒロン
お前さんなかなか辞令に巧だ。王者にも
人民にも程の好《い》い事を言う性《たち》だね。
ファウスト
でもこれだけは承認なさるでしょう。
あなたは同時代の大英雄を目撃して、
事業はその最上の人の風を慕って、
半神として誠実に暮らされたのです。
そこで御承知の英雄達の中で、あなたは
誰を一番えらいと思いますか。
ヒロン
先ずアルゴオの舟に乗った立派な人達は、
それぞれ変った、えらい所があって、
自分の授かった力量次第で、
外の人に出来ない事をしたのだ。
少壮で風采の好い事では、
ジオスコロイの兄弟が勝を占めていた。
敢為邁往の気象で身方の利を謀ったのは、
ボレアスが伜兄弟の手柄だ。
沈著で、剛毅で、聡慧で、物の相談が好く出来、
女共に悦ばれて、勢力のあったのはイアソンだ。
それから優しく、物静かに、ゆったりして、
オルフェウスは善くリラの琴を弾じた。
千里眼のリンケウスは、夜《よる》昼《ひる》油断なく
暗礁を避《よ》けて神聖な舟を進めた。
同心協力しなくては危険を凌ぐことは出来ぬ。
一人の働が皆の誉になるのだね。
ファウスト
なぜヘラクレスの事を少しも言わないのです。
ヒロン
そんな名を言って、己に懐旧の情を起させては
困るなあ。フォイボスや、またアレス、ヘルメス
なんどと云う神達は、己は見なかった。
己の目の前に見たのは、世の人が皆
神と称える、あの人だけだ。
あれは実に生れながらの王者で、
若い時は類《たぐい》のない立派さであった。
それでいて兄には善く仕えて、
美しい女子達には優しくしていた。
ゲアの胎《たい》からも、あんなのは二人と生れまい。
ヘエベエもあんなのを二人と天へ連れては行かぬ。
歌に歌おうとしても及ばぬ。
石に彫ろうとしても似せることは出来ぬ。
ファウスト
なる程塑造家が随分骨を折りますが、
どうも本《ほん》物《もの》のように立派には出来ませんね。
そこで一番立派な男のお話を承ったから、
こん度は一番美しい女のお話を伺いましょう。
ヒロン
なんですと。女の美なんと云うものは詰まらない。
兎角凝り固まったような形になり勝《がち》だ。
己は喜ばしげに生《せい》を楽みながら発現する
姿でなくては、褒めない。
美の尊さは独立している。己がいつか
載せて遣った時のヘレネなんぞは、
誰も反抗することの出来ぬ嬌態を持っていた。
ファウスト
あなたが戴せましたか。
ヒロン
うん。この背中に載せた。
ファウスト
そうでなくても心苦しいのですが、そんな難《あり》有《がた》い
背中にわたしは載せられているのですか。
ヒロン
お前さんが今しているように、あれもその鬣《たてがみ》を
握んでいたのだ。
ファウスト
わたしは全く気が遠くなる。
どうしてそんな事があったか、話して下さい。
あれはわたしの慕っているただ一人の女です。
どこからどこへ載せて行ったのですか。
ヒロン
その御返事をするのは造作はない。あの時は
ジオスコロイの兄弟があれを
賊の手から救って遣った。
しかしあれは負けていたくない性分なので、
元気を出して跡から駆けて来た。
所で兄弟の急ぐ足をエレウシスの
沼が遮り留めた。兄弟はぼちゃぼちゃ渉る。
己はあれを載せてごぼごぼ這入って泳ぎ越した。
あれは飛び降りて、濡れた鬣をさすって、
愛らしく賢しげに、しかも気高く、
世辞のある礼を言った。実に
老人の目をも悦ばせる、若い、美しさだった。
ファウスト
でもその時はまだ十《とお》ばかりで。
ヒロン
ははあ。博言学の
先生達が自ら欺いて、お前さんをも騙したのだな。
神話の女は別な物だ。あれは詩人が
都合の好いように書いて見せるのだ。
いつ丁年になるでもなく、年が寄るでもなく、
いつも旨そうな肉附をしていて、子供半分で
奪われたり、更《ふ》けてから大勢に慕われたりする。
詰まり詩人は時間に縛せられないのだ。
ファウスト
ですからあの女も時間に縛せられないが、
好《い》いのです。アヒルレウスがフェレエであれを
見附けたのも時間の外でした。不思議な幸ですね。
運命に逆《さから》って恋を遂げたのですから。
わたしだってこれ程の係《あこ》恋《がれ》の力で、またとない
あの姿を現《うつつ》に返すことが出来そうなものです。
あの偉大で、しかも優しく、尊厳で、しかも可哀い、
神々と同等な、永遠な姿をですね。
あなたは昔見られた。わたしは今見たのです。
動されずには、慕わずにはいられない美しさです。
もうわたしの心も魂も緊《きび》しく捉われて、
あれを手に入れずには、生きていられません。
ヒロン
おい。他《た》所《しよ》物《もの》。人間としてはそんなに感動して
いるも好かろうが、霊《れい》どもの仲間から見ると
気違染みている。しかし丁度好《い》い事がある。
己は毎年ちょいとの間、アスクレピオスの娘の
マントオを尋ねて遣ることになっている。
あれはいつも静かな祈を父に捧げている。
どうぞお父《と》う様の御威徳で、
医者共の夢を醒ましてお遣《やり》になって、
大胆に人を殺すことをお廃《よ》させなされて
下さいと云うのだ。巫《み》女《こ》共の中で一番好《すき》な女だ。
情深く優しくて、目まぐろしくこせつかない。
お前さんを少しあれが所に滞留させたら、薬草の
根の力で、病気を根治して上げることが出来よう。
ファウスト
直してなんぞ貰いたくはありません。魂は
丈夫です。直されて俗人同様にはなりたくない。
ヒロン
神の泉の霊験を曠《むなし》くせぬようになさい。
さあ、お降《おり》なさい。もうそこへ来たのだ。
ファウスト
どうぞ言って下さい。気味の悪い夜中に、川床の
小石を踏んで、どこの岸へ連れて来たのですか。
ヒロン
ここがロオマとグレシアとの争った所だ。右は
ペネイオスの流、左腋はオリムポスの山だ。最大の
版図が、水の砂に吸われるように滅びた。
王は奔《はし》る。公民は凱歌を奏する。頭《あたま》を挙げて
御覧。直《じき》傍《そば》に月の光を浴びて
永遠の祠《ほこら》が立っている。
巫女マントオ
(内にて夢見心地に。)
馬の蹄に
神の階《きざ》段《はし》が鳴る。
半神が来ると見える。
ヒロン
違《ちがい》ない。
目を開《あ》けて御覧。
マントオ
(醒む。)
好くおいでなさいました。闕《か》かしはなさいませんね。
ヒロン
お前さんの祠もちゃんと立っていますからな。
マントオ
今でも草臥《くたび》れずに駆けてお歩《あるき》なさいますか。
ヒロン
あなたがいつも神垣の中にじっとしていると
同じ事で、わたしは駆け歩くのが面白いのです。
マントオ
動かずにいるわたしの周囲《まわり》が廻るのです。
そしてこの方《かた》は。
ヒロン
評判の悪い祭の夜が
渦巻に巻き入れてこの人を連れて来ました。
物狂おしいような心持になって、
ヘレネを手に入れようとしていますが、どこで
どう手を著けて好いか、知れないのです。
アスクレピオスの療治を受けるに誰よりも適当でしょう。
マントオ
出来ない事を望む人はわたしは好《すき》です。
(ヒロンは去ること既に遠し。)
大胆なお方《かた》。お這入なさい。そしてお喜《よろこび》なさい。
ペルセフォネイアさんの所へ暗い廊下から
行かれます。オリムポス山の空洞《うつろ》な底で、幽界の
后《きさき》は禁ぜられた挨拶を内証で聴かれます。
いつぞやオルフェウスさんをそっと通したのも
ここです。さあ、大胆にあれより旨くお遣《やり》なさい。
(共に降り行く。)
ペネイオス河上流
(同上。)
セイレエン等
いざ、ペネイオスの流に跳り入りてむ。
かしこにて、音立てゝ波を凌ぎ、
滅びし国《くに》民《たみ》のために、歌あまた
歌はむは、われ等に似附かはしかるべし。
水なくば幸あらじ。
晴やかなる群なして急ぎ
諸共にアイゲウスの海に入りなむ。
さらばわれ等楽しき事の限を見む。
(地震。)
川床低く流れずなりて、
波は泡立ちて帰り、
地《じ》は震ひ、水はとゞまり、
砂原と岸とは裂けて烟を吐けり。
いざ、逃れむ。皆共に来よ。
怪《け》しき事、誰がためにか願はしからむ。
いざ行かむ。楽める貴きまらうど等。
ゆらぐ波赫《かがや》きて、岸を潤し、
ゆるやかに立てる海の
晴やかなる祭の場《にわ》に行かむ。
二《ふた》重《え》に月照りて奇《く》しき露もて
われ等を濡らす所に行かむ。
かしこには賑はしき自由なる生活あり。
こゝには忌まはしきなゐのふるあり。
さかしき人は疾《と》く行け。
こゝはゆゝしき所なり。
地震の神セイスモス
(地の底深くうめきひしめく。)
もう一遍力を入れて押して、
肩でしっかり持ち上げて遣れば、
地の上に出られるだろう。そしたら
なんでも避《よ》けずにはいられまい。
スフィンクス等
まあ、なんと云う、厭《いや》な震いようだろう。
こわい、気味の悪い音のしようだろう。
ぐらついたり、ぶるぶるしたり、
鞦《ぶら》韆《んこ》のように往ったり戻ったりすること。
我慢の出来ない程、厭だこと。
だけれど、地獄がそっくりはじけて出ても、
わたし達はこの場は去らない。
おや。不思議な、円天井の宮殿が
迫《せ》り上げられて来ますね。あの人です。
あの年の寄った、疾《と》っくに白髪になった人です。
いつかお産をし掛かっているレトさんを
住わせようと、波の中からデロス島を
湧き出させた、あの人です。
あの人が押したり、衝いたり、骨を折って、
アトラスの神のような風をして、
背中を屈めて、臂《ひじ》に力を入れて、
草の生えた所でも、泥や砂や小石のある所でも、
この川岸の静かな所でも、一体に
地面を押し上げているのです。
とうとうこの谷間の静かな地面の帯《おび》を
横に裂いてしまいましたね。
大きいカリアチデスのような風をして、
草臥《くたび》れっこなしに働いて、
まだ地の下で、胸の所まで、恐ろしい
石の一山を持ち上げています。
しかしもうあれから上へは上がらせません。
わたし達が据わっていますからね。
地震の神
何もかも己が一人で手伝ったと云うことは、
もう大抵世間が認めてくれそうなものだ。
己がゆさぶって遣らなかったら、
世界がこんなに美しく出来てはいまい。
画を欺く美しさに見えるように、
己が押し上げて遣らなかったら、
美しく澄んだ蒼空に
あそこの山々が聳えてはいまい。
夜の先祖の、あの混沌、あのハオスの前で、
己が骨《ほね》惜《おしみ》をせずに、チタアン共と
一しょになって、毬《まり》を投げるように、
ペリオンやオッサの山を投げた時の事だ。
己達は若い勢で暴れた挙句に、
厭《あ》きて来て、とうとうしまいに
あの山二つを、二《ふた》山《やま》帽《ぼう》子《し》の恰好に、
徒《いたずら》半分、あのパルナッソス山の上に載せた。
今ではムウサ達の尊い群と一しょに、
アポルロンさんがあそこに楽しく住んでおいでだ。
チェウスさんの椅子だって、あの雷《かみなり》の道具籠《ごめ》に、
己があの高みへ押し上げたのだ。
そこで今夜も精一ぱい
地の底から己は迫《せ》り上がって来て、
面白そうな人間共を、大声で、
新しい生活に呼び覚ますのだ。
スフィンクス等
あの、ここにそば立っているものが、
地の下から、もがいて出て来たのを、この目で
見ていなかったら、太古からあのままに
あったと思わせられてしまうでしょう。
木の茂った森が半腹まで広がって、
今でも次第に岩々が畳《たたなわ》って行きます。
しかしスフィンクスはそれには頓著しません。
この神聖な場所に、澄ましています。
グリップス
紙のような、雲母《きらら》のような黄《こ》金《がね》の
ひらひらするのが、己には隙間から見える。
あんな宝を取られるようにするのだぞ。
さあ、蟻共。掘り出しに掛かれ掛かれ。
歌う蟻の群
巨《おお》人《ひと》達《たち》のこの山を
押し上げしごと、
足まめやかなる友等、
いざ疾《と》く升《のぼ》れ。
疾く出《いで》入《いり》せよ。
この隙間なるは
粒《つぶ》ごとに皆
蔵《おさ》め置く甲斐あり。
到らぬ隈なく、
塵ばかりなるをも、
いちはやく
見《み》出《いだ》せ。
蠢《うごめ》く群よ。
皆いそしめ。
たゞ黄《こ》金《がね》を取り入れよ。
山はさてあらせよ。
グリップス
持って来い。持って来い。金《かね》を積み上げい。
己が爪で押さえている。
これが一番好《い》い錠前だ。
どんな宝でも慥《たし》かにしまって置かれる。
侏儒ピグマイオス等
どうしてこうなったか、知りませんが、
わたし共もここへ陣取りました。どこから
来たなぞと、お尋下さいますな。
兎に角ここにいますから。
生きながらえて楽しく住むには、
場所はどこでも結構です。
岩にちょいと割目が出来ると、
もう一寸坊がそこに来ています。
一寸坊の夫婦は、皆共稼で、
似合のものばかりです。
楽園以来こうでしたか、
そこの所は存じません。
わたし共にはここが結構で、
好《よ》い星の廻《まわり》合《あわせ》だと存じています。
なぜと申すと、東でも西でも、土地と云う
おっ母《か》さんは喜んで子を生み附けますから。
極小侏儒ダクチレ
あのおっ母さんは一晩に
小さいものを生んだとおりに、
一番小さいものをもお生《うみ》でしょう。
それにも似合の連《つれ》が出来ましょう。
侏儒の長老
程好き所に
急ぎて座を占めよ。
さて急ぎて業《わざ》を始めよ。
早さを強さに代へよ。
世はなほ治れり。
甲《よろい》を、戈《ほこ》を、
軍《いくさ》の群に授けむため、
鍛冶の場《にわ》を営め。
蟻等皆
群なしていそしみ
粗《あら》金《がね》持《も》て来よ。
さて数多き
最《もと》も小さき侏《しゆ》儒《じゆ》等には
木樵《こ》ることを
課《おお》せてむ。
真《ま》木《き》積み畳《かさ》ねて、
親しき火あらせよ。
炭を造れよ。
将軍
弓を取り、矢を負ひて、
疾《と》く出で立て。
かの池の畔に
あまた巣作りて、
傲《おご》りて住める鷺を
一《ひと》時《とき》に
剰《あま》さず
射て墜せ。
さらば冑《かぶと》に羽の
飾して出《い》でなん。
蟻等と極小侏儒と
誰がこっちとらを助けてくれるだろう。
こっちとらが鉄を持って来て遣れば、
あいつ等は鎖を拵えおる。
だが逃げ出すには
まだ早過ぎる。
まめに働いているが好《い》い。
イビコスの黒鶴等
殺す叫《さけび》や死ぬる歎《なげき》や
物に恐れる羽ばたきが聞える。
己達のいる、この高い所まで聞える。
あのうめき苦しむ声はどうだろう。
もう皆殺されてしまって、
海が血で赤く染まった。
鷺の品の好い飾を醜い形の
慾が奪ってしまう。
あの腹の太った、脚の曲った横著者の
冑の上に、もう取られた羽が閃いている。
おい。仲間の鳥達。列をなして
海を越して行く鳥達。
唇歯の親《したしみ》のある中の、この仇討に
己達はお前方を呼ぶのだ。
力を惜まずに、血を惜まずに、あの醜類に
永遠な敵対をして遣ろうじゃないか。
(叫びつゝ空中に散ず。)
メフィストフェレス
(平地にて。)
北の国の魔共なら兎に角己の手に合うが、
どうもこの異国の化物共は扱い憎くて困る。
やっぱりブロッケンの山は好《い》い所だ。
どこに飛び込んでも方角の知れぬことはない。
イルゼの姨《おば》さんは石に据わって番をしてくれる。
ハインリヒも我名の辻は居心が好いはずだ。
鼾《いび》岩《きいわ》が貧乏山にけんつくを食せても、
万事千年の後までも極《き》まっているのだ。
所がここに来ては、誰だってどこに立って、どこを歩いて
いるか知らない。足の下の土がいつ持ち上がるか知らない。
己がのん気に平《たいら》な谷間を歩いていると、
出し抜に背中に山が出来ている。
山と云うのも大袈裟だろうが、あの高まりでも、今まで
話していたスフィンクスと己との間を隔てるには十分だ。
ここから谷の下の方を見れば、まだ篝《かが》火《りび》が大ぶ
燃えていて、それぞれの不思議を照している。
まだ己をおびくように、避《よ》けるように、狡猾に
騙すように、女の群が空を踏んで踊っている。
そっと行って見よう。どこでも撮《つまみ》食《ぐい》をする癖の
附いている己に、何かしら攫《つか》まりそうなものだ。
妖女ラミエ等
(メフィストフェレスを誘ひつゝ。)
急がばや
いづくまでも。
またしばしたもとほり
物言ひ交さばや。
老いたるすきものを
誘ひ寄せて
報《むくい》受けさせむは、
面白からずや。
竦《すく》める脚して、
よろめき、
躓きつゝぞ来る。
われ等逃ぐれば、
足引きて
跡よりぞ来る。
メフィストフェレス
(立ち留まる。)
ひどい目に逢う事だぞ。男は本《もと》から騙されるものだ。
アダム以来三太郎は馬鹿にせられ通しだ。
誰も年を取るが、さて賢くはならないな。
随分これまで沢山馬鹿にせられたのだが。
一体腰を細くして、面《つら》に白い物を塗る人種は、
根から腐っているのが分かっている。
どこを掴まえても丈夫な所はない。
節々が朽ちてぼろぼろになっている。
それが見えていて、手に取るように知れていて、
そのくせあいつらが笛を吹くと、つい踊るのだ。
ラミエ等
(立ち留まる。)
お待《まち》よ。何か考え込んで、まごまごして立ち止まってよ。
逃がさないように、からかってお遣《やり》。
メフィストフェレス
(歩む。)
遣っ附けろ。何もおめでたく疑惑の
網に引っ掛かるには及ばない。
魔女と云うものもいなくては、
男の悪魔がなんにもなるまい。
ラミエ等
(飽くまで嬌態を弄す。)
この方《かた》の周囲《まわり》に圏《わ》をかきましょうね。
わたし達の中で、どれかがきっと
可哀くおなりなさるに違《ちがい》ないわ。
メフィストフェレス
薄《うす》明《あかり》の中で見ていれば、
お前達も別品のようだ。
そこで悪口は言いたくない。
一脚の女エムプウザ
(群に入る。)
わたしも悪くは仰ゃらないでしょう。その積《つもり》で
あなた方のお仲間に入れて頂戴な。
ラミエ等
わたし達の仲間では、あの女は余計ものだわ。
いつでも打《ぶ》ちこわしをするのだもの。
エムプウザ
(メフィストフェレスに。)
驢馬の足を持っている、お馴染の
御親類のわたしが御挨拶をしますわ。
あなたのは馬の蹄ですけれど、
兎に角お心安くなすってね。
メフィストフェレス
ここには知ったものなんぞはいない積《つもり》だった。
それに生憎そんな親類がいたのかい。
なんにしろ、古い書類でも調べなくてはなるまい。
ハルツからヘラスまで親類だらけでは。
エムプウザ
わたしはこれでなかなかす早いの。
いろんな物に化けてよ。
先ずあなたへの御馳走に
ちょっと頭を驢馬にしましたの。
メフィストフェレス
はてな。この連中ではなかなか
血筋ということを大事にしているようだ。
しかしどんな事が出来《しゆつたい》するにしても
驢馬の頭を身内にはしたくないな。
ラミエ等
あの厭な女にお構《かまい》でない。美しい、可哀らしいような物は、
あいつが皆追っ払いますの。
美しい、可哀らしい物がいても、あいつが来ると、
すぐいなくなってしまいますの。
メフィストフェレス
だがそこにいる、すらりとした
姨さん達も、わたしは皆怪しいと思う。
その薔《ば》薇《ら》色《いろ》の頬《ほ》っぺたの奥に、
化物のこわい顔がありそうだから。
ラミエ等
おお勢いますから、験《ため》して御覧なさいな。
一人お掴まえなさいな。御運が好ければ、
好《い》い籤《くじ》にお当《あたり》なさるわ。物欲しげに
くどくど仰ゃるのは可《お》笑《か》しいわ。
のろのろ遣って来て、大きな顔をしてさ。
ほんとに厭な色男だわ。わたし達の
仲間にいらっしゃったからには、
そろそろ面《めん》を脱いで、
正体をお見せなさいな。
メフィストフェレス
それ。一番の別品を掴まえるぞ。
(一人を抱く。)
しまった。箒のように痩せてけつかる。
(他の一人を抱く。)
こいつはどうだ。ひどい御面相だな。
ラミエ等
あなたのお相手には好過ぎるわ。
メフィストフェレス
小さい奴を書《かき》入《いれ》にしようと思うと、
ラチェルタ奴、手を摩り抜けて行きゃあがる。
編《あみ》下《さげ》が蛇のようにぬめぬめする。
そんなら一つ背の高いのをと思うと、
そいつはチルソスの杖のようで、
尖《さき》に松《まつ》毬《ふぐり》が附いてやがる。
どうしよう。もう一つ太った奴を掴まえようか。
こんなのは気持が好さそうだ。
これが勝負だ。遣っ附けろ。
むくむくぼてぼてしていゃあがる。東洋人の
値を好く買いそうな貨《しろ》物《もの》だ。
おや。しまった。隠子菌だ。はじけやがる。
ラミエ等
さあ、分れましょうね。ふわふわゆらゆら、
黒い群になって飛んで、稲妻のように、
飛《とび》入《いり》の悪魔を取り巻いて遣りましょう。
覚束なげに、気味の悪い圏《わ》をかきましょう。
蝙蝠のような、音のしない羽《はた》搏《たき》をしましょう。まあ、
あの人、割にひどい物に逢わずに済んだわね。
メフィストフェレス
(身慄す。)
己もまだ余り智慧は附いていないな。
北の方も馬鹿らしいが、ここも馬鹿らしい。
化物はあそこもここもねじくれてけつかる。
土地のものも詩人も殺風景だ。
どこでも助兵衛の慰《なぐさみ》が流行るように、
ここにも仮装舞踏があるのだ。
優しげな面《めん》を被った奴を押さえて見れば、
身の毛の弥立つ五体を見せられる。
せめてもっと長く持ってくれたら、
己は目を瞑《ねむ》って楽んでも好《い》いのだが。
(石の間を彷徨す。)
己はどこにいるだろう。どこへ出られるのだろう。
道と思っているうちに気味の悪い所へ出た。
平《たいら》な道を踏んで来たが、これから先《さき》は
ごろごろした石ばかりになっている。
登ったり降りたりして見ても無駄だ。
あのスフィンクス共はどこにいるだろう。
一晩のうちにこんな山が出来る程の、
馬鹿げた事があろうとは思わなかった。
魔女共が元気好く物に乗って来るついでに、ここへ
ブロッケンの山を持って来たとでも云おうか。
山の少女オレアス
(天然岩の上より。)
ここへ登っていらっしゃいな。これは古い山で、
そっくり昔の形のままでいます。
ピンドスの神山の延びて来た一番の端です。
この嶮しい岩の道を難《あり》有《がた》くお思《おもい》なさい。
ポンペイユスが越して逃げた時も、
わたしは動かずにこうして立っていました。
傍にあるまやかしの山なんぞは、
鶏《とり》が鳴けば消えてしまいます。
あれと同じで、作《つくり》物《もの》語《がたり》は出来たと思うと、
すぐにまた亡くなることが、度々あります。
メフィストフェレス
なるほど難有そうな頭をしている。
丈夫なの木の茂みを被《かぶ》っていて、
此上もなく明るい月の光でさえ、
あの木下闇には照り込むことが出来ない。
所があの森の傍を控目に光る
小さい火が通っているな。
どうしたと云うのだろう。
そうだ。小人《しようじん》だ。ホムンクルスだ。
おい。小さい先生。どこから来たい。
小人
わたくしはどうぞ本当の意味で成り出《い》でたい、
少しも早くこの硝子を割ってしまいたいと思って、
そこからここへと飛んで歩いています。
所が今まで見ただけでは、思い切って
這入り込んで行こうと思う場所がありません。
そこであなたに内証でお聞せするのですが、
哲学者を二人見附けましたよ。立《たち》聴《ぎき》をすると、
「自然、自然」と云うことを、口癖に言っています。
あの人達は下界の事に通じているはずだから、
見失わないようにしようと思っています。
あの人達に聞いたら、一番旨く遣るには、
どこへ話すが好《い》いか、分かるかも知れません。
メフィストフェレス
それはやっぱりお前が自分でする方が好《い》い。全体
化物共のいる場所では、
哲学者は歓迎せられる。世間の奴が
お腕前を拝見して、お蔭を蒙るように、
先生達は早速化物の一ダズン位は製造するのだ。
やっぱりお前も迷って見なくては、智慧は附かないよ。
成り出《い》でようと思うなら、所詮自力で遣るに限る。
小人
しかし好《い》い助言も棄てた物ではありません。
メフィストフェレス
そんなら行くが好い。どうなるか、見ていよう。
(二人別る。)
火山論者アナクサゴラス
(タレスに。)
君は強情で、人の説に服せまいとしているのだ。
君に得心させるには、これ以上に何がいるのかい。
原水論者タレス
波と云うものはどの風にも靡《なび》くが、
頑固な岩は避《よ》けて通るのだ。
アナクサゴラス
火の気《け》でこの岩は出来ているのだ。
タレス
生《いき》物《もの》は湿《しめり》で出来たのだよ。
小人
(二人の間にありて。)
どうぞわたくしを附いて行かせて下さい、
わたくしはこれから成り出《い》でたいのです。
アナクサゴラス
そこで、君、一晩にこんな山を
泥から拵えたことがあるかい。
タレス
所が、自然と云うものと、その生《いき》々《いき》した変化とは、
昔から昼夜や時間で限られてはいないよ。
一々の物の形を正しく拵えて行くのが極《きまり》で、
大体から見ても、威力を以て遣ってはいない。
アナクサゴラス
所がここでは遣ったのだ。プルトン流の恐ろしい怒《おこ》った火、
アイオルス流の蒸気の爆発力が
平地の古い上《うわ》皮《かわ》を衝き抜いて、すぐに山が
出来なくてはならぬようにしたのだ。
タレス
そこでそれ以来どうなったと云うのだい。
山が出来ている。詰まりそれで宜しい。
こんな喧嘩で暇を潰して、辛抱強い世間の奴を
引き摩り廻しているばかりでは駄目だ。
アナクサゴラス
そこで岩の割目を賑わすように、
その山がミルミドン族や、ピグマイオスや
ダクチレや、蟻、その外の小さい、まめな
連中を、うようよ涌いて来させるのだ。
(ホムンクルスに。)
そこでお前方だが、始終世棄人のように引っ込んで
生きていて、大きな事を企てたことがない。
もし人の上に立って見る気になられるなら、
一つ王冠を被《かぶ》らせて貰ってはどうだ。
小人
タレス先生はどう思召します。
タレス
わたしは
勧めたくないね。小さいものに交っていれば、小さい事が
出来る。大きいものと一しょになれば、小さい
ものも大きくなる。あの黒鶴の群を見い。
あれは今騒ぎ立った人民を威しているのだが、
帝王をでもやっぱりあの通《とおり》に威すのだ。
尖《とが》った嘴《くちばし》や爪を揮って、
今小さい奴等の上へ卸して来る。
もう否運の影が閃いている。事の起《おこり》は
小さい奴等が平和な池を取り巻いて、
猥《みだり》に鷺を殺したからだ。ところが、
雨と降った、殺生の矢が、今は残酷な、
血腥《ちなまぐさ》い復讐の報《むくい》を受けることになった。今はあの
虐殺を敢てした一寸坊の血が見たいと云う、
鳥仲間の怒を招くことになった。
盾も冑も槍も、もう用には立たぬ。
一寸坊共がもう鷺の羽の飾をなんにしよう。
あのダクチレや蟻なんぞの隠れるのを見い。
もう全軍が色めく。逃げる。瓦解する。
アナクサゴラス
(間《ま》を置きて、荘重に。)
今まで己は地《じ》の下の威力を称えていたが、
この場合では上の方へ向いて祈らねばならぬ。
御身よ。上にいて、永遠に古びずに、
三つの称号、三つの形《ぎよう》相《そう》を持っている、
ジアナ、ルナ、ヘカテの三一の神よ。我民草の
惨害を見て、おん身に祈る。
御身よ。胸を披《ひら》く神、情深き神、静かに
見えている神、力強く優しい神よ。
御身の陰翳の物凄い《あぎと》を開《ひら》いてくれられい。
昔ながらの威力が不思議を待たずに見たい。
(間。)
祈《いのり》が余り早く聞かれたのか。
天を仰いでした
己の祈が、
自然の秩序を紊《みだ》したのか。
目に恐ろしく、常ならず見える、
女神の円く限られた玉座が、次第に、次第に
大きくなって、近づいて来る。
その火が気味悪く赤くなって来る。もうそれより
近くなってくれるな。脅かすような、力強い巡《じゆん》歴《れき》。
御身は己達をも陸をも海をも滅ぼすだろう。
それではテッサリアの女共が、無遠慮な幻術の
心安立から、歌で、御身が軌道を離れて降りて
来られるようにしたと云うのは、本当か。おん身に
迫って一番ひどい禍を招いたと云うのは本当か。
明るい盤が周囲《まわり》から昏《くら》くなって来る。
や。突然裂ける。光る。赫《かがや》く。あのぱちぱち
しゅっしゅっと云う音はどうだ。それに交《まじ》って
雷が鳴る。暴風《あらし》が吹く。
己は玉座の段《きだ》に身を委ねて罪を謝する。
これは己が招いた禍だ。
(地に俯《うつ》伏《ぶせ》になる。)
タレス
好くいろんな物が見えたり、聞えたりする男だな。
何事があったか、己にはさっぱり分からない。それに
己にはそんな事を一しょに感じることも出来なかった。
お互に白状するが好い。今は気違染みた時刻だ。
ルナは前々通《どおり》、自分の場所に、
気楽に浮いていなさるのだ。
小人
でもあっちのピグマイオス共の居《いど》所《ころ》を御覧なさい。
今まで円かった山が尖って来ました。
わたくしには恐ろしい衝突が感ぜられました。
岩が月から墜ちて、すぐに
なんの遠慮会釈もなく、
敵も身方も押し潰して殺したのです。
しかし兎に角わたくしは、
一夜のうちに、下からと上からと同時に、
創造的にこんな山を拵えた
技術を称えずにはいられません。
タレス
まあ、落ち着いていろ。あれはただ思想上の出来事だ。
一寸坊の醜類共は滅びてしまうが好い。
お前は王にならいで、為《しあ》合《わせ》だった。さあ、これから
晴やかな海の祭へ行こう。あっちの流義では、
不思議な客を待っていて、敬ってくれるのだ。
(共に退場。)
メフィストフェレス
(反対の側を攀《よ》ぢ登りゐる。)
この通《とおり》己は嶮しい岩の阪道や、の古木の
ごつごつした根の上を、難儀しながら登っている。
国のハルツの山では、一体に児《チヤン》に似た
樹《や》脂《に》の《におい》がしている。それに硫黄が手近だが、
あれも好《すき》だ。グレシア人共のいるこの辺では
そんなはちっともしない。
一体地獄の責苦の火を、こっちでは
なんで焚き附けるか、聞いて見たいものだ。
の木の少女ドリアス
お国ではお前さん気の利いた方《かた》でしょうが、
余所へおいでなすっては駄目ですね。
そんなにお国の事なんぞを思い出さないで、
この難有いの木をお拝《おがみ》なさいな。
メフィストフェレス
いや。誰でも棄てて来た事を恋しく思うものだよ。
居慣れた所は、いつまでも天国だ。
それはそうと、あそこの洞穴の中の
薄昏がりに三人しゃがんでいるのはなんだ。
ドリアス
あれは闇の女フォルキアデスです。気味が悪いと
お思《おもい》なさらないなら、往ってお話をなさいまし。
メフィストフェレス
行かれない事はないよ。や。見て驚くなあ。
己は負けない気だが、こんな物はまだ見たことが
ないと云って退《の》けるより外ないぞ。これはまた
マンドラゴラの根のお化よりひどい。
この三人の化物を見たからは、
一番古く嫌われている罪悪だって、
ちっとも醜いとは云われまい。
国の地獄では一番ひどい所の入口にも、
こんな物は我慢して置いて遣らない。
ここでは美の国だと云うにこんな物が生える。
それを古代と云って褒めるのだ。
や。動き出した。己を嗅ぎ附けたらしい。
何やらぴいぴい云いおる。血を吸いそうな蝙《こう》蝠《もり》奴が。
闇の女フォルキアデス
きょうだい達。ちょいと目をお貸《かし》。祠《ほこら》のこんな
近所まで、誰が来たか、聞いて見るから。
メフィストフェレス
姉えさん方《がた》。御免なさい。お傍へ参って
お三人の祝福を戴きたいのです。
お馴染もなくて出掛けたのですが、わたくしの
思違《おもいちがい》でなけりゃあ、遠い御親類のはずです。
随分古い難有い神達にもお目に掛かりました。
オプスやレアさんには、しっかり頭を下げました。
きのうでしたか、おとついでしたか、混沌の子の、
御きょうだいのパルチェエ達にも逢いました。
しかしあなたのような方を拝むのは始てです。
もう饒舌《しやべ》らずに、ただ難有がっていましょう。
フォルキアデス
この幽霊は物の分かる男らしいね。
メフィストフェレス
ただどの詩人もあなた方を歌わぬのが妙ですね。
どうしたのでしょう、どうしてそんな事が出来たでしょう。
こんなお立派な方々の肖像を、ついぞ拝したことがない。
ユノやパルラスやウェヌスばかり彫らないで、
彫刻家の鑿《のみ》もあなた方を写して見れば好《い》いに。
フォルキアデス
寂しい暗い所に引っ込んでいるものですから、
ついそこに気が附きませんでしたよ。
メフィストフェレス
無理もないですね。あなた方が世に遠ざかって
誰にも逢いなさらず、誰もあなた方を拝まないのだから。
一体豪奢と芸術とが座を分けて据わっていて、
毎日大理石の塊《かたまり》が英雄の姿になって、
さっさと股を広げて歩いて出るような
土地に住んでいなされば好《い》いに。
そう云う。
フォルキアデス
お黙《だまり》。人をおだてないで下さい。
望があったって、なんになるものかね。
夜生れて、夜のものに親んで、人には丸で
知られず、自分にさえ知られずにいるのだもの。
メフィストフェレス
そうだとして見れば、わけもない事です。
人に委任して御覧になると好《い》いのです。
お三人で目を一つと歯を一本と使っておいでになる。
そこでお三人の御本体を、一時お二人《ふたり》でお摂し
なさるとして、三人目のお姿をわたくしに
お貸《かし》なさることも、神話学上お差支は
ないでしょう。
フォルキアデスの一人
どうだろうね。好かろうか。
他の二人
いたして見ましょう。でも目と歯とは貸されません。
メフィストフェレス
それでは一番好《い》い物をお除《のけ》になるのです。
どうしてお姿がそっくり似せられましょう。
一人
わけはありません。片々の目を瞑《ねむ》って、
鬼歯を一本お見せなされば好《い》いのです。
そうなされば、横顔がすぐにそっくり
わたくしどもに似ておいでなさいます。
メフィストフェレス
難有い事です。好《い》いですか。
フォルキアデス
好うござんす。
メフィストフェレス
(横顔をフォルキアデスにする。)
これでもう混沌の秘蔵息子になりすました。
フォルキアデス
それはわたし達が混沌の娘だと云うことは確かです。
メフィストフェレス
これでは半男半女だと冷かされても為《し》方《かた》がない。
フォルキアデス
改めてのきょうだい三人の中で誰が美しかろう。
こちらは二人で目も歯もあります。
メフィストフェレス
己はもう誰にも見られぬようにせんではならぬ。
地獄の水《ぬか》潦《るみ》で悪魔を威す姿だからな。
(退場。)
アイゲウス海の石湾
(月天の頂点に懸かる。)
セイレエン等
(岸の岩の上あちこちにゐて、笛を吹き、歌ふ。)
夜の恐ろしき紛《まぎれ》に、
テッサリアの奇《く》しき女《おみ》等《なら》、
君を猥《みだり》におろしまつりしこともあれど、
今は君静かに自《みずか》ら掌《つかさど》らす夜の空より、
優しく赫《かがや》く影を流して、
顫《ふる》ふ波を眺めまし、
その波間に浮き出づる
群を照させ給へ。
美しきルナの神よ。いかにもして仕へまつらん。
ただ御恵を垂れ給へ。
ネエレウス族とトリイトン等と
(海の怪物として。)
汝《なむ》達《たち》広き海原とよもし、
今一際鋭《と》き音《ね》を高く立てよ。
深き底なる民呼び継ぐべし。
恐ろしき《あぎと》の風を脱《のが》ると、
我等静かなる片蔭に寄り集へり。
優しき歌われ等を誘ふ。
見給へ。われ等は喜ばしさの余《あまり》に、
黄《こ》金《がね》の鎖を身に纏《まと》ひ、
玉を嵌《は》めたる冠《かがふり》に、腕《かいな》の輪をさへ、
帯をさへ添へて飾りぬ。
こは皆君等が賜なり。
君等、この入江の神等。
舟摧《くだ》けて沈みし宝を、われ等がために、
歌の力もて引き寄せ給ひぬ。
セイレエン等
憂きこと知らぬ漂《ただよい》の世を、
魚は海の涼しき国に、平《たいら》けく
楽しく過すものとは、早く知れり。
さはれ。祭の場《にわ》に賑はしく集へる君等よ。
けふは君等が世の常の魚に優れるを、
われ等は見ばやと思へり。
ネエレウス族とトリイトン等と
こゝに来るに先だちて、
われ等早く思ふよしありき。
女《め》男《お》のはらから達。いざ、今疾《と》く行かむ。
世の常の魚に優ると云ふ、
最《もと》も力ある証《あかし》を見せむため、
けふはいさゝかの旅せば、足りなむ。
(共に退場。)
セイレエン等
皆つと去りぬ。
追風のまにまに
サモトラケさして真《ま》直《すぐ》に去りぬ。
尊きカベイロイの国へ行きて、
何をかせんとすらん。
測り知られず、何物にも似ぬ神々なり。
とことはにおのづから生《あ》れ出《い》でて、
常に何ぞともみづから知らずと云ふ。
恵深きルナの神よ。
高き空にさながら、優しくいませ。
夜の長く続きて、
われ等の日に逐はれざらむために。
タレス
(岸にて小人に。)
お前をネエレウスの爺《じ》いさんに紹介するのは
造《ぞう》做《さ》はない。あれが住む洞穴も遠くはない。
しかし厭《いや》な、苦虫を噛み潰したような面《つら》の奴で、
強情で手におえないて。
あの不機嫌な親爺には、人間世界の
全体のする事が、いつも気に食わない。
所があいつには未来の事が分かっている。
だから誰でも遠慮して、いる所にいさせて、
敬って置いて遣るのだ。その上あいつは
いろいろな人の世話もしてくれたのだ。
小人
験《ためし》に門を敲《たた》いて遣りましょう。まさかすぐに
硝子をこわして、火を消されもしますまい。
海の神ネエレウス
己の耳に聞えるのは人間の声か知らん。
どうもすぐに心《しん》から腹が立ってならない。
りきんで神々の境に達しようとする生物だが、
そのくせ永遠にどん栗の背《せく》競《らべ》をする約束に
出来ている。昔から己は神らしく休んで
いられるのに、善い物を助けたくてならない。
所で昨今の為《し》上《あげ》を見ると、まるで己が
智慧を貸したものとは思われないのだ。
タレス
所が、おじさん、世間ではやはりあなたを
頼《たのみ》にしています。あなたは賢者だ。門前払を
食わせないで下さい。この人間らしい火を御覧。
あなたの御意見通《どおり》にする気でいるのだ。
海の神
意見だと、昔から人間が意見を聴いた例《ためし》があるか。
気の利いた詞《ことば》はごつごつした耳には這入らない。
何度遣って見て、自分で自分に呆れても、
人間はどこまでも我《が》を通して行くのだ。
他所者の女が、あいつの色気を網でからんで
しまわぬうちに、あのパリスにだって親同様に
意見をした。グレシアの岸に大胆に立っていたあいつに
己の心の目に写った事を云って聞せた。
烟は空に満ち、赤い色が漲《みなぎ》って、
棟《むなぎう》梁《つばり》は燃え、下には虐殺が行われている。
トロヤの復讎の日だ。千載に伝えて、
活きた画のように、人の知っている恐ろしさだ。
横著者奴、老人の詞を笑談だと思いおった。
情欲のままに振舞った。イリオスの都は落ちた。
長い艱《なやみ》の果《はて》にしゃっちこばった巨《おお》人《ひと》の死骸だ。
ピンドスの山の鷲の待っていた馳走だ。
ウリッソスにだってそうだ。キルケの手管も、
キクロオプスの禍も、己が言って聞せたのだ。
あいつの躊《ため》躇《らい》、あいつの部下の軽はずみ、
何もかも言って聞せた。それが役に立ったか。
よほど遅くなってから、十分揺られた挙句に、
波の恵で待《もて》遇《なし》の岸へは著いたのだが。
タレス
そう云う振舞は賢者に苦痛を与えるでしょう。
しかし善人はまた遣って見るものです。
一毫の報恩も、善人に大喜をさせて、
万《ばん》斛《こく》の不義理を十分填め合せるでしょう。
わたし共のお頼は容易な事ではない。
あの小僧はこれから成り出《い》でたいと云うのです。
海の神
己の久し振の上機嫌を損ねさせてくれるな。
きょうはまるで違った用のある日だ。
己の娘達、ドオリス族の海少女が
皆来るように言って置いた。
あんな美しい立居の女は、オリムポスの山にも、
お前方《がた》の世界にも、またとあるまい。
しなやかに、竜の背からネプツウヌスの馬に
乗り換えて来る。泡の上にでも
浮き上がることが出来るように
水に親しく馴れている。
一番美しいガラテアは、彩《いろ》い赫《かがや》き、
ウェヌスの常の座、貝の車に乗って来る。
あれはキプリスが己達に叛いてから
パフォスで神に祀られているのだ。
あれがウェヌスの後《あと》継《つぎ》になって、祠のある土地や、
車の玉座を占めてから、もう久しくなる。
帰れ帰れ。親として己が楽む、きょうの日に、
心に怒、口に悪口は禁物だ。
形を変えるプロテウスの所へ往け。どうして
成り出でられるか、化けられるか、あの化物に聞け。
(海の方へ退場。)
タレス
これはまるで無駄な手《て》数《すう》だった。プロテウスに
逢ったところで、すぐ消えてしまうだろう。
相手になってくれた所で、呆れるような事、
戸まどいをするような事しか、言っては聞せまい。
しかし兎に角意見が聞きたいと云うのだから、
験《ため》しに出掛けて見るとしよう。
(退場。)
セイレエン等
(上の方、岩の上にて。)
遠《おち》方《かた》より波の境を滑りて
寄り来《く》と見ゆるは何ぞ。
風のむた
白帆の進み近づくごと、
姿あざやかにも見ゆるかな。
あはれ、浄められたる海少女等よ。
いざ、諸共に岩を降《お》りなむ。
声さへ、汝《なむ》達《たち》にも聞えずや。
ネエレウス族とトリイトン等と
われ等の手に載せ、かしづきて来ぬるもの、
君等の心を悦ばせざらめや。
大《おお》亀《がめ》ヘロネの甲《こう》の鏡
厳《いか》めしき姿を写し出せり。
われ等が傅《かしず》きて来ぬるは神々ぞ。
君等畏《かしこ》き歌を歌へ。
セイレエン等
御身はさゝやかなれど
御《み》稜《い》威《つ》は大いなり。
淪《しず》むものを救ひます神等、
昔より斎《いつ》きまつる神等はこれ。
ネエレウス族とトリイトン等と
治まれる世の祭せむと、
カベイロイの神等を迎へ来ぬ。
この神等の畏く振舞ひ給ふ境には、
ネプツウヌスの神も平《たいら》けくまつりごち給はむ。
セイレエン等
舟の砕けむとき、
われ等おん身等に及ばず。
逆はむよしなき御《み》稜《い》威《つ》もて、
舟人を救ひませば。
ネエレウス族とトリイトン等と
三《みは》柱《しら》をば迎へまつりぬ。
四《よは》柱《しら》めの神辞みましぬ。
その神宣《の》らさく。皆に代りて思ひ量《はか》る、
われぞ真《まこと》の神なると。
セイレエン等
かくては一人《ひとり》の神、あだし神を
嘲り給ふことゝなりなむ。
君等たゞ福《さいわい》を尊び、
禍を恐れてあれ。
ネエレウス族とトリイトン等と
実《まこと》は七柱の神おはせり。
セイレエン等
さらば残れる三柱はいづくにおはする。
ネエレウス族とトリイトン等と
われ等は知らず。
オリムポスの山にてや問はまし。
かしこにはまだ誰も思ひ掛けぬ
八柱目の神もやいまさん。
そもわれ等に憐を垂れ給ふらめど、
皆未だ全《また》くは成り出《い》でまさぬなるべし。
得られぬ物に
あくがれます饑《うえ》の神等、
譬《たと》へむ物なき神等は
果《はて》なく成り出《い》でむとし給ふなり。
セイレエン等
日のうち、月のうち、
いづくに神等いまさむも、
祈る習をわれ等は棄てじ。
そはその甲斐あればなり。
ネエレウス族とトリイトン等と
この祭執り行ふわれ等の誉
いかに高く挙がるかを見よ。
セイレエン等
いづくにて、いかに赫かむも、
誉はいにしへの
英雄《すぐれびと》のものならじ。
黄《こ》金《がね》なす羊の毛皮は手に落ちぬれど。
君等カベイロイを迎へまつらば。
一同
(合唱として繰り返す。)
黄金なす羊の毛皮は手に落ちぬれど。
我等、君等カベイロイを迎へまつらば。
(ネエレウス族とトリイトン等と過ぎ去る。)
小人
あの不恰好な神様達は、
この目には悪い土器の壺のように見えます。
ところが学者達がそれに頭を
打《ぶ》っ附けて破《わ》ろうとしています。
タレス
こう云うのが人の欲しがる物だ。
《さび》が附いて貨幣の値が出るのだ。
変《へん》形《ぎよう》の神プロテウス
(見えざる所にて。)
己のような年寄の昔話の話手にはこんなのが気に入る。
異形なだけ難《あり》有《がた》い。
タレス
プロテウスさん。どこにいるのだ。
変形の神
(応声法にて近く遠く。)
ここだ。ここだ。
タレス
古い洒落だが、己はおこりはしない。
しかし友達に好い加減な事を言うな。
自分のいない所から声を出しているな。
変形の神
(遠く。)
さようなら。
タレス
(小声にて小人に。)
ついそこにいるのだ。一つ光らせて
お見せ。あいつは魚《いお》のように物見高い。
どこに身なりを拵えて、じっとしていても、
火にはきっとおびき寄せられて出て来る。
小人
まあ、硝子をこわさないように用心して、
光を出して見ましょう。
変形の神
(大亀の形して。)
その優しい、美しい光を出しているのはなんだ。
タレス
(小人を蔽ひ隠す。)
宜しい。見たけりゃあ、傍へ寄って見させよう。
しかしちょっとした手《て》数《すう》を面倒がらないで、
人間らしい二本足になって出てくれ。
己達の隠しているものを見るのは、
己達の好意、己達の意志のお蔭だ。
変形の神
(品好き形を現す。)
世《よわ》渡《たり》上手の掛引をまだ覚えているな。
タレス
まだ色々に化けることを道楽にしているな。
(小人を露呈せしむ。)
変形の神
(驚く。)
光る一寸坊だな。まだ見たことがない。
タレス
智慧を借りて成り出《い》でようとしているのだ。
当人の話に聞いたが、
妙なわけで半分世に出て来たのだそうだ。
精神上の能力には不足はないのに、
手に攫《つか》まれるような、確《しか》とした所がない。
今までの所では、目方と云っては硝子だけだから、
先ず体を拵えて貰いたいと云う志願なのだ。
変形の神
お前が本当の生《きむ》娘《すめ》の倅と云うのだ。
まだ出来るはずでないのに、もう出来ている。
タレス
(小声にて。)
それからも一つ外な方面から見ても難物だ。
己の考えた所では、こいつは半男半女だ。
変形の神
それは却て旨く行くかも知れない。
打《ぶ》っ附かり放題、間《ま》に合うだろう。
だがここでは余計な思案はいらない。
先ず広い海に往って始めるのだ。
最初は小さい所から遣り出して、
極小さいものを併呑して恐悦がる。
それから段々大きくなって、
うわ手の為《し》事《ごと》が出来るように成り上がるのだ。
小人
ここは好い風の吹いて来る所ですね。
こう青い若木の《におい》がする。好いですね。
変形の神
そうだろう。可哀い小僧の云う通《とおり》だ。
もっと先ではもっと好い心持になる。
そこの狭い岬では、
がもっとなんとも云えなくなる。
そこの前へ行くと、今浮いて来る
行列が十分近く見える。
さあ一しょにあっちへおいで。
タレス
己も行こう。
小人
珍らしい化物の三人連だ。
ロドス島のテルヒイネス魚尾の馬と竜とに乗り、ネプツウヌスの三尖杖を持ちて登場。
合唱の群
いかなる荒波をも鎮むる、ネプツウヌスの
三《みつ》股《また》の杖を鍛ひしはわれ等なり。
雷《いかずち》の神濃き雲を舒《の》ぶるとき、
その恐ろしきはためきにネプツウヌス応《こた》ふ。
上《かみ》よりは尖れる稲妻射下せば、
下《しも》よりは幾重の波の潮《しお》沫《なわ》を迸《ほとばし》り上らしむ。
かゝる時その間にありて憂へつゝ闘ふものは、
揺《ゆ》られ揺られて、皆遂に底深く沈めらる。
されば彼神けふ我等に指揮の杖を借し給へり。
いで、我等は晴やかに、落ち居て心安く浮びてあらむ。
セイレエン等
日の神に身を委ねまつれる、
晴れたる日に称へられたる君等に、
切《せち》にルナの神を敬ひまつるこの時、
われ等礼《いや》申す。
金工テルヒイネス
上《かみ》なる穹《きゆう》窿《りゆう》にいます、めでたき女神よ。
御《み》同《はら》胞《から》の日の男《お》神《がみ》の称へらるゝを喜び聞《きこ》しめせ。
畏《かしこ》きロドスの島に御耳を借し給へ。
御《み》同《はら》胞《から》を称へまつる、果《はて》なき歌の声かしこより
立ち升《のぼ》らん。彼神日の歩《あゆみ》を始め、業《わざ》を
果しまして、火の如く赫く目してわれ等を見給へり。
山も、市も、岸も、波もめでたく明《あか》く、
彼神の御《みこ》心《ころ》に《かな》へり。われ等の周囲《めぐり》を
霧立ち籠むることなし。よしや忍びやかに
立つことあらむも、一《ひと》照《てり》照《て》り、一《ひと》吹《ふき》吹《ふ》かば、島は
浄めらるべし。さて彼神は己が姿を百《もも》の形に
写せるを見まさん。若者あり、巨《おお》人《ひと》あり、暴《あら》きあり、
優しきあり。神々の御稜威を厳めしき人の
形には、われ等始て造り出だしつ。
変形の神
勝手な歌を歌わせて、勝手な自慢をさせて
置くが好《い》い。日の神聖な、生きた光のためには
死物は笑談に過ぎない。いつまでも
厭《あ》きずに物を解かして、物を造っている。
あいつ等はその形を金で鋳て、
一《ひと》廉《かど》の物を拵えた気になっているが好い。
あの高慢な連中が詰まりどうだと云うのだ。
なるほど神々の形が仰山らしく立っていた。
ところが地震がこわしてしまった。
もう疾《と》っくにまた解かされている。
下界の為《し》事《ごと》はどんなにしたって、
詰まりどこまでも無駄骨折だ。
生活には波の方が余計役に立つ。
お前を常《とこ》世《よ》の水の都へ連れて行くのは
変形の神の鯨だ。
(変形す。)
そりゃ。化けた。
そこへ行くと、お前、旨く行くのだ。
己がこの背《せな》の上に載せて行って、
渡津海と縁《えん》結《むすび》をさせて遣る。
タレス
造化を新規蒔《まき》直《なお》しにして見ようと云う
殊勝な望だから、望通《どおり》に遣って見るが好《い》い。
手ばしこく働く用意をするのだ。
永遠な法則に随って働いて、
千万の形を通り抜けて行くのだから、
人間になるまでは大ぶ暇があるぞ。
(小人変形の神の鯨に乗る。)
変形の神
魂を据えて湿った遠い所へ一しょに来るのだぞ。
そこへ行けば、竪にも横にも生活を広げて、
勝手に活動することが出来るのだ。
ただ余り上《うえ》の仲間に這入ろうとしてもがくな。
人間になってしまうと、
もうおしまいだから。
タレス
まあ、その時になってからの事だ。その時代の
立派な人間になるのも、随分結構だ。
変形の神
(タレスに。)
お前のような性の人間になれと云うのだな。
そんなのは暫くは持つ。
もう何百年か、色の蒼い化物の仲間に
お前のいるのを見ているから
セイレエン等
(岩の上にて。)
月の周囲《めぐり》に濃き暈《かさ》なして、
まろがる雲は何の雲にか。
鳩なり。光の如き、真白なる翼して、
恋に身を焦す鳩なり。
この恋する鳥の群をば
パフォスの市送りおこせつ。
晴やかなる喜、明かに満ちわたりて、
われ等の祭は闌《たけなわ》なり。
海の神
(タレスに歩み近づく。)
夜道を歩く人間が、あの月の暈を
空気の現象だと云ったそうだが、
己達のような霊《れい》の仲間では、そうでないことを
知っている。本当の事を知っている。
あれは昔から覚え込んだ、
特別な、不思議な飛方をして、
己の娘の貝の車に乗って来る
案内をする鳩共だ。
タレス
静かな、暖い巣に
神聖な物が生きながらえているということは、
すなおな男に気に入る通《とおり》に、
己も一番好い事だと思う。
リビアのプシルロイとイタリアのマルシと
(海の牡牛、海の犢《こうし》、牡羊に乗れり。)
キプロスの荒き岩《いわ》室《むろ》に、
海の神にも塞がれず、
地《な》震《い》の神にも崩されず、
常《とこ》世《よ》の風に吹かれつゝ、
上れる代に変らぬ、
静かに覚《さと》れる、楽しき心を持ちて、
われ等キプリスの車を蔵《おさ》め持《も》たり。
さて優しき波のゆきかひに、
夜の囁くとき、
新に生れたる徒《ともがら》の目を避《よ》きて、
はしき少女を載せて来《き》なんとす。
われ等ひそかにいそしむもの等は
鷲をも、翼ある獅子をも、
十字架をも、月をも怖れず。
上《かみ》つ方《かた》にて国を立て、位に即き、
入り代りて立ち働き、
かたみに逐ひ遣り、打ち殺し、
穀物《たなつもの》をも、青人草をも刈り倒すに
任せてん。今はわれ等
はしき少女を率《い》て来なんとす。
セイレエン等
やゝ賑はしく、程好く急ぎ、
車の周囲《めぐり》に、幾重か圏《わ》をかき、
蛇のうねりせる列《つら》をなし、
列と列と入り乱れ、
近づき来たるよ。汝達。憎からず暴《あ》れたる、
逞しき女《おみ》等《なら》、ネエレウスのたけき族《うから》。
傅《かしず》き来たるよ。優しきドオリスの族、
ガラテア、母の似姿を。
厳めしさは、神々と同じく見ゆる、
尊き、死《しに》せぬ姿ながら、
また優しき人の世の女《おみな》に似て、
誘《さそ》ふたをやかなる形あり。
ドオリス族
(群をなしてネエレウスの前を過ぐ。皆鯨に乗れり。)
ルナの神よ。われ等に光と陰とを借させ給へ。
若きこの群を明《あきら》けく照しませ。
われ等は父のみ前に、願ふ心もて、
夫《おつ》等《とら》を率《い》てまゐりぬ。
(ネエレウスに。)
こは岸噛む波の怒れる牙《きば》より
われ等の救ひ出《い》だしし若者等なり。
蒲の上、苔の上にをらせて、
温め、日の光に近づかしめき。
その光はわれ等の賜ぞと、まめやかに
熱き口《くち》附《づけ》してわれ等に報いつ。
優しき人々を恵のみ心もて見ませ。
海の神
高き価ある事をいしくも併せ得つるよ。
人に恵を与へ、みづからも楽みて。
ドオリス族
父君、われ等の業《わざ》を褒めまし、
われ等の享けし楽《たのしみ》をゆるしまさば、
とはに若きこの胸に、夫等を死《しに》せず、
堅く寄り添ひてあらせ給へ。
海の神
汝《なむ》達《たち》、美しきものを取り得しを喜び、
若者を夫《おつと》と教へかしづけ。
さはれチェウスならではえ允《ゆる》さぬ事を、
われいかでか授くることを得む。
汝達を揺《ゆ》り弄《もてあそ》ぶ波は、
恋をもとはにならしめねば、
靡く夢の覚めむ日待ちて、
おだしく陸《くが》へおくり返さむ。
ドオリス族
めぐしき童《わら》等《わら》。われ等は惜めど、
悲しくも今より別れなむ。
とはに渝《かわ》らぬ盟《ちかい》を願へど、
神等そをゆるし給はず。
少年等
われ等すなほなる舟《ふな》人《びと》の子を、
君等今のごと、長く養ひまさばとぞ思ふ。
かつて知らぬ、めでたき日を送りぬ。
これに増す願あらめや。
(ガラテア貝の車に乗りて近づく。)
海の神
好《い》い子。お前だな。
ガラテア
お父う様。嬉しい事。
鯨。少しお待《まち》よ。わたしは目が放したくない。
海の神
もう行ってしまった。はずみのある、
圏《わ》をかくような動方《うごきかた》をして、行ってしまった。
あれも胸になんと思っても為《し》方《かた》がないのだ。
ああ。己を連れて行ってくれれば好《い》いに。
それでも一年の間の填《うめ》合《あわせ》になる程、
ただ一目見るのが嬉しい。
タレス
万歳。万歳。何遍繰り返しても好《い》い。
己は真と美とが骨身に徹《こた》えて、
盛んに嬉しくなって来た。
何もかも水から出て来たのだ。
何もかも水で持っているのだ。
大洋。どうぞ己達のために永遠に働いていてくれ。
お前が雲を送り出して、
何本かの小《こ》川《がわ》を流れ出させて、
中位な川をあちこちうねらせて、
大川を出《で》来《か》してくれなかったら、
山や平地や世界がどうなろう。
一番新しい性命を保たせてくれるのはお前だ。
反響
(登場者一同に呼ぶ。)
一番新しい性命の出て来る源はお前だ。
海の神
今ゆらつきながら遠くを戻って来るが、
もう目と目を見合せるようには通らない。
儀式めいて伸びた鎖の
圏を造ろうとして、
おお勢の群がうねっている。
それでもガラテアの貝の車だけは、
今ちょいと見える。あ。またちょいと見える。
あの群の中で
星のように光っている。
どんなに遠い所にいても、
やはり近く、真《まこと》らしく、
浄く、明るくきらめいて、
あの可哀い姿は群集の中に照っている。
小人
この恵《めぐみ》ある湿《うるおい》の中では、
何に明《あかり》を浴《あび》せて見ても、
美しくないものはない。
変形の神
この性命の湿の中で、
お前の明《あかり》も始て
好い音《ね》をして照るのだ。
海の神
なんの新しい秘密を、あの群の真ん中で、
己達の目に打ち明けて見せようとするのだろう。
ガラテアの足の傍《そば》、貝の車の辺《へん》で光るのはなんだ。
恋の脈の打つのに感動させられているように、
ぱっと燃えるかと思うと、また愛らしく微かに光る。
タレス
あれはプロテウスがホムンクルスを騙して
連れて来たのだ。肆《ほしいまま》な係《あこ》恋《がれ》の兆《しるし》だ。
悶えて声を立てるうめきが聞えそうだ。
あの赫く玉座に触れて砕けるだろう。
今燃え立つ。今光る。もう流れ散る。
セイレエン等
打ち合ひて光りて砕くる彼波を
照らし浄むるは、いかなる火の怪《あやしみ》ぞ。
赫きて、ゆらめきて、こなたへ照りてぞ来る。
夜闇の水の面《おも》に燃ゆる物等よ。
めぐりには総て火流る。
この事共を皆始めしエロスの神よ。汝《なれ》に任せむ。
畏《かしこ》き火に囲まれたる
海を称《たた》へむ。波を称へむ。
水を称へむ。火を称へむ。
稀なる奇《く》しき蹟を称へむ。
皆々
優しく、恵ある風を称へむ。
奇《く》しき事多き岩《いわ》室《むろ》を称へむ。
こゝなるもの皆祀らばや、
地《つち》、水《みず》、火《ひ》、風《かぜ》の四つを皆。
第三幕
スパルタなるメネラスの宮殿の前
ヘレネと捕はれたるトロヤの女等の群と登場。パンタリス合唱の群をひきゐる。
ヘレネ
沢山褒められもし、毀《そし》られもしたヘレネが
わたくしです。今著いた海岸から来ました。
ポセイドンの波の恵、エウロスの風の力で、
フリギアの平《たいら》な野から、抗《あらが》う高い背に載せて、
故郷の入江へ送り込まれた、その間の
波の止《とめ》所《ど》のないゆらめきにまだ酔っています。
メネラス王はあちらの下の方で、軍人の中の
勇士達と凱旋の祝をしていられます。
お父《と》う様チンダレオスがパルラスの岡から
帰って建てられて、クリテムネストラとは女同士、
カストル、ポリデウケスと親しくわたくしが
遊んで育った頃、スパルタのどの家よりも
美しく飾られた、この尊い御殿。
お前はどうぞわたくしを迎え入れておくれ。
お前達、鉄の門の扉にわたくしは会釈します。
昔お前達がさっと開《ひら》いてくれて、大勢の中から
選ばれて来たわたくしの前へ、壻君メネラス様の
お姿が赫《かがや》いておあらわれなされたのだ。
わたくしが夫人に似合わしく、王の急ぎの使《つかい》を、
相違なく果すように、また聞いて通しておくれ。
わたくしをここへ入れておくれ。運悪く、ここまで
附き纏《まと》って苦めた物は、皆残して這入りましょう。
わたくしがなんの気なしに、尊いお役を承って、
キテラのお社へお参《まいり》をしに、この門を出て、
お社でフリギアの賊に捕われてから、ほんに
色々な事があった。それが世間一ぱいの評判じゃ。
だが、誰でも自分の事を昔話のように
作られると、それを聞きたくはないものだ。
合唱の群
どうぞお后様、お持《もち》になっていらっしゃる
一番尊い物をお嫌《きらい》なさいますな。
一番大きい為《しあ》合《わせ》はあなたお一人で
お受《うけ》になりました。誰よりもお美しいと云う
お誉でございます。英雄は名を轟かして、
息《い》張《ば》って歩いて行きますが、
その強情も、あらゆる物に打ち勝つ
美の前には意《こころ》を曲げてしまいます。
ヘレネ
もうお廃《よし》。わたくしは夫《おつと》と舟に乗って来て、
夫《おつと》のお指図で、お先《さき》へ都へ帰された。
しかしどう云う思召だか、わたくしには分からぬ。
妻として帰るのか。后として帰るのか。
それとも王様の御心痛の生《いけ》贄《にえ》、グレシアの民の
久しく忍んだ不運の生贄として帰るのか。
わたくしは取られた。だが、捕われたか、それは
知らぬ。不死の神がわたくしに、二《ふた》面《おもて》のある名《みよう》聞《もん》と
運命とを授けたのが、美しく生れた身の怪しい
同行者で、それがどうやらこの門口では、陰気な、
嚇《おど》すような風をして、傍に附いているような。
なぜと云うに、空洞《うつろ》な舟にいた時から、夫《おつと》は
めったにわたくしの顔も見ず、優しい詞《ことば》も掛けられぬ。
向き合っていて、何か工《たく》んでいられるらしかった。
そして前の数艘の舟の舳先が、エウロタ川の
深い入江に這入って、岸に触れると、神の教でも
受けたように云われた。己の兵士は隊の順序に
ここで上陸するが好《よ》い。海岸に整列させて
検閲する。お前は先へ行くが好《よ》い。
神聖なエウロタ川の、豊饒な岸に
どこまでも沿うて、湿った牧場の敷物の上に
馬を駆って、昔ラケデモンが厳めしい
山に近く囲まれた、豊かな、広い畑を作った、
美しい平野に行く著くまで帰れ。
そして高い塔の聳えている王宮に這入れ。
そこに己が気の利いた、年の寄った、
取締役の女と一しょに、残して置いた
女中共がいる。その人数を調べて見い。
お前の父が残して置いて、それに己が
戦争の時も平和の時も、添えて貯えた、沢山の
宝を、お前取締役に出させて見い。
何もかも相違なく整理してあるだろう。
なぜと云うに、置いて出た物が皆、帰った時に
残っていて、置場所も変っていないのが、
王侯たるものの特権だ。人臣には何一つ
変更する権能は授けてないのだと云われた。
合唱の群
さあ、追々にお蓄《たくわえ》になった、数々の宝を
御覧になって、お目をもお胸をもお慰めなさい。
鎖や冠の飾は、皆つんと澄ましていて、
一《ひと》廉《かど》のえらい物の気になっていますが、
あなたがいらっしゃって、さあ、来いと仰ゃれば、
皆急いで御用を勤めようといたします。
あなたのお美しいお姿と、金や真珠や
宝石との戦争が拝見いたしとうございます。
ヘレネ
それから夫《おつと》はこう云われた。そこでお前
品物の整理してあるのを、改めて見た上で、
神聖な祭の式を行う時、生贄を扱うものの
手許にいる、数だけの五徳と、
いろいろな入《いれ》物《もの》とを取り揃えろ。
鼎《かなえ》や、鉢や、平たい、円い籠がいる。
尊い泉で汲んだ、清い水を頸の長い瓶に
入れたのと、火の早く移る、乾いた
薪とが用意してなくてはならぬ。
それから好《よ》い、研いだ小刀を忘れるな。
その外の事はお前見計らって置け。
わたくしを追い立てるようにして、こう云われた。
だけれどその指図をなさる夫《おつと》が、オリムポスの
神達に殺して供える生物を、何とも斥《さ》して
云われなかった。不審な事ではあるけれど、
わたくしは別に心配せずに何もかも神達に
お任せするから、お気に召すようになさるが好《よ》い。
死ぬる人間のわたくし共は、福《さいわい》でも禍でも、
こらえてお受《うけ》申します。これまでも折々は
土に押し附けた獣の項の上に、祈祷と共に
重い斧が振り翳《かざ》されても、祭の主《ぬし》がその贄を
殺すことの出来なかったことがある。不意に
敵が押し寄せたり、神達がお止《とめ》なさるからだ。
合唱の群
未来に出来ますことは、お分かりになりませぬ。
お后様、御安心遊ばして、
お進《すすみ》なさいまし。
善い事も悪い事も、
不意に人の手から出来てまいります。
前以てお知らせがあっても、信ぜられませぬ。
トロヤの都は焼けて辱《はずかめ》の死を
目の前に見ましたではございませんか。
それでも御一しょにここへ参って、
あなたにも、為《しあ》合《わせ》者《もの》のわたくし共にも
恵ある、空《そら》の赫く日や、
国の一番美しい所を見て、
楽しく御奉公をいたすではございませんか。
ヘレネ
どうなっても好《よ》い。長い間離れて、恋しがっていて、
どうやら失ってしまったらしかったこの御殿が、
どうしたわけともなく、また目の前にあるのだから、
直《すぐ》に這入って行くのが、未来に何があろうとも
わたくしの務だ。だけれど子供の時に飛び越した
高い階段を、どうも大胆には踏んで行かれぬ。
合唱の群
哀《あわれ》に捕われて来た皆さん。
あらゆる悲を
遠く投げ棄てておしまいなさい。
お帰《かえり》が遅れはしても、
却てしっかりした足《あし》附《つき》で、
御先祖の御殿の竈《かまど》の前に、
楽しくお近づきになる
御主人様、ヘレネ様の
お福《ふく》を分けてお戴《いただき》なさい。
幸運を元に返し、
出て行った人を呼び戻す、
尊い神様達をお称《たたえ》なさい。
捕われたものは徒《いたずら》に
人《ひと》屋《や》の軒から、故《こき》郷《よう》を慕って、
両《りよう》の臂《ひじ》を開いて歎くのに、
放たれたものは
羽が生えたように、どんな艱難をも
飛び越すのではありませんか。
遠くにお出になった、このお方をば、
ある神様がお掴まえなすって、
お若くていらっしゃった昔の、
口に言われぬ
お喜やお歎を、
改めてお思出しになるように、
イリオスの荒された都から、
新しく飾られた
古い御先祖の御殿に
お連《つれ》戻《もどし》になったのです。
先導の女パンタリス
(合唱の群を率ゐて。)
皆さん、歓楽で取り巻かれた唱歌の道を離れて、
あの御門の扉を振り向いて御覧なさい。
どうなすったのでしょう。お后様があらあらしい
お歩振《あるきぶり》でこちらへ出ておいでになりますね。
お后様。どうなさいました。お召使達が御挨拶を
申し上げる代《かわり》に、御殿の中で、どんなお厭《いや》な事が
おありになったのでしょう。お隠し遊ばしますな。
お厭な御様子、不意の驚《おどろき》と気高い腹《はら》立《だち》との
闘っている御様子が、お顔に見えておりまする。
ヘレネ
(扉を開きたるままになし置き、感動して。)
チェウスの娘に生れたわたくしは、常の事を
怖れはせぬ。軽く撫でる驚《おどろき》の手は身には障らぬ。
だけれどもこのお城で、大《おお》昔《むかし》の古い闇から出て、
火山の口から湧く、焼けた雲のように、
今でもいろんな形をして升《のぼ》って来る恐怖には
英雄の胸でもおののかずにはいられまい。
きょうはわたくしの帰って来るのを、地獄の
眷《けん》属《ぞく》が待ち受けていた。度々通った、
長く恋しがっていた門口ではあるが、わたくしは
暇乞をして出た客のように、ここを出て帰りたい。
いや、そうはしたくない。日のさす外《そと》へは脱《のが》れたが、
縦《たと》えどんな悪魔が逐うても、これから先《さき》へはもう逃げぬ。
どうにかしてお祈《いのり》をして、浄められた竈の火に、
夫を迎えると同じように、わたくしを迎えさせる。
先導の女
あなたを敬って、お附申している女中共に、
お后様、何事にお逢《あい》になったかお聞せ下さいまし。
ヘレネ
わたくしの見た物は、お前方も今目《ま》のあたり
見るだろう。もし古い夜が、自分の拵えた形を、
すぐ深い自分の懐に埋めなかったら、見るだろう。
しかし知らせるために、話《はなし》だけはして聞せよう。
わたくしが差《さし》当《あたり》のお務を考えながら、謹んで
御殿の厳めしい、内の間《ま》取《どり》に這入って行くと、
荒れ果てた廊下の沈黙《しじま》に、わたくしは驚いた。
耳に急いで歩く人達の足音も聞えず、
目に用ありげに忙《せわ》しく働く様子も見えず、
いつも余所のものが来てさえ優しく会釈する
取締役もいず、女中一人も出ては来ない。
それから竈の据えてある辺に近寄って見ると、
消えた炭火の微《なま》温《ぬる》く残っている光で、床《ゆか》の上に
いる人が見える。なんと云う覆面をした大女だろう。
眠っていると云うより、物を案じているらしい。
事によったら、夫《おつと》が用心に言い附けて跡に残した
取締役の女ででもあろうかと思って、主人らしい
詞で、起って働くように指図して見た。しかし
襞のある著物に身を包んで、女は働かずにいる。
とうとう威すように云うと、女はわたくしを
家や竈から逐うように、右の臂を動かした。
わたくしはおこって女に背《せ》を向けて、階段の方へ
すぐに急いだ。その上には夫婦のいる、飾られた
タラモスの牀が高く据えてあって、その隣が
宝蔵なのだ。その時怪しい女は急に起って、
往く先に立ち塞がって、目をも心をも惑すような
怪しい恰好、痩せた、背の高い体、空洞《うつろ》な、
血走った、どんよりした目を、わたくしに見せた。
しかし口で言うのは徒事《いたずらごと》だ。詞で物の形を
造るように組み立てることは出来ぬ。
あれをお見。大胆に明るみへさえ出て来た。
だけれどもここでは、王様が帰られるまでは、こっちが
主人だ。日の神フォイボスは美の友で、夜の生んだ
醜い物を洞穴へ入れるか、退治るかしてくれよう。
(フォルキアデス閾の上、戸《こ》枢《すう》の間に現る。)
合唱の群
わたくし共は、《ちぢ》れた髪が顳《こめ》《かみ》に波を打っては
いますけれど、いろいろな目に逢いました。
戦争の悲惨、イリオスが落ちた夜《よる》、
恐ろしい事も沢山
見ています。
押し合う兵士が埃を蹴立てて、あたりを
暗くして騒いでいる中に、神様達のお呼《よび》になる
声が響き、野原を越えて、城壁の方へ、
黒《くろ》金《がね》なす争《あらそい》の声が響いたのを
聞いています。
おう。イリオスの城壁はまだ立っていました。
しかし火《か》《えん》はもう隣から
隣へと這い渡って、
自分で起した風に煽られつつ、
ここかしこから夜の町へ
広がって行きました。
烟と熱と舌のように閃く《ほのお》の燃《もえ》立《たち》との
間から、ひどくおおこりになった
神様達が、巨《おお》人《ひと》のような、不思議な姿をなされて、
周囲《まわり》を火で照された、暗い烟を穿《うが》って、
歩み近づいておいでになるのを、逃げながら
拝みました。
そんな混乱を本当に見ましたやら、それとも
恐怖に縛られたわたくし共の心が
造りましたやら、もうなんとも申すことは
出来ません。しかしここで
この恐ろしい物を目で見ていますことは、
確かに承知いたしております。
もし恐怖がわたくし共を控えて、
そんな危険を冒さぬようにしないものなら、
手で掴まえてでも見られましょう。
闇《やみ》の女フォルキアデスの娘の中で、
お前はどれだえ。
どうしてもあの一族と
比べて見ずにはいられないね。
闇に生れて、一つの目、一本の歯を
かわるがわる使っている。
フォルキアデスの一人のお前が、事に依ったら
来たのだね。
日の神フォイボスさんの見《み》極《きわ》める目の前へ、
美と押し並んで、
お前のような醜い物が
よく思い切って出られたね。
好《い》いよ。構わないから出《で》ておいで。
日の神さんの神聖な目は
ついぞ影と云うものを見たことのない通《とおり》に、
醜い物は見ませんからね。
だけれど残念な事には悲しい不運が、
わたくし共死ぬる人間に迫って、
永遠に咀《のろ》われた廃物《すたれもの》が美を愛するものに
起させる、言うに言われぬ目の苦痛に
逢わせずには置きませぬ。
そんならお前、恥を知らずにわたくし共に
向って出て来たお前、お聴《きき》。
神様のお造《つくり》になった、為《しあ》合《わせ》者《もの》の
咀う口から出る咀《のろい》や、いろいろの嘲《あざけり》の
脅《おびやかし》をお聴。
闇の女フォルキアデス
美しさと廉恥とが、下界の緑の道を
手を引き合って一しょに歩かぬと言う諺は
古いけれど、その意味はいつまでも高尚で、真実だ。
二つの物の間には、深く根ざした、古い憎《にくみ》がある。
そこでいつどこで道の上で行き合っても、
敵《かたき》同士は互に背中を向け合う。そしてどいつも
またひどい勢でずんずん歩いて行く。廉恥は
悲しげだが、美しさと来ては平気な顔で歩いて行く。
そこへ老《おい》と云うものが来て、早く縛って遣らぬと、
とうとう地獄の空洞《うつろ》な夜に包まれるまで歩いて行くのだ。
そこでお前達、横著者奴は、遠い国から高慢げに
遣って来おった。丁度あの咳枯《しわが》れた高《たか》声《ごえ》をして
鳴いて通る黒鶴の群のようなものだ。我々の
頭の上を、長い暗い行列をして鳴いて通ると、
声が下へ聞えるので、静かに歩いている旅人が
つい誘《さそ》われて上《うえ》を見る。しかし鳥は鳥、旅人は
旅人で、自分々々の道を行く。この場合もそうなるだろう。
お前達は何者だ。国王の尊い御殿を、酒の神を
祭るマイナデスのように荒々しく、酔ったように
跳ね廻って好いのか。犬の群が月に吠えるように
御殿の取締役に向いてほざいて好いのか。どんな
種《すじ》性《よう》のものだか、わたしが知らぬと思っているか。
兵卒が生ませて、戦争が育てた、生《なま》若《わか》い女原奴。
色気違奴。自分も男に騙されながら、男を騙して、
公民の力をも、軍人《いくさびと》の力をも萎えさせおる。
お前達の群になっているのを見ると、畑の緑の
作《さく》物《もつ》を掩《おお》いに降りて来る蝗《いむなし》を見るようだ。
余所の努力を食い潰す奴《やつ》等《ら》奴《め》。切角芽を出す
国の富を撮食《つまみぐい》で耗《へら》す奴等奴。生捕られて、市に
売られて、貿易の貨《しろ》物《もの》にせられた奴等奴。
ヘレネ
こりゃ。主人のいる前で、召使に悪口を言うのは、
無礼にも主人の持っている家の掟を破る為《し》業《わざ》だ。
褒めて好《い》いものは褒め、叱って好いものは叱る。
それはわたくしの外のものには出来ないはずだ。
その上威力赫くイリオスの都が囲まれ、落され、
滅びた時、あれ等が尽してくれた誠実を、
わたくしは満足に思っている。また流《さす》離《らい》の間の
数々の難儀の時、誰も自分の事ばかり考えて
いるはずだのに、あれ等のしてくれた奉公もある。
あの機嫌の好《よ》い皆に、今《こん》後《ご》も世話がして欲しい。
主《しゆう》は奴《ぬ》婢《ひ》がどう仕えるかを見て、何者かとは問わぬ。
だからお前もうお黙《だまり》。皆に厭な顔をせぬが好《い》い。
これまで王様の御殿を、わたくしに代って、大切に
守っていたなら、それはお前の手柄にしよう。
こうして主人が帰ったからは、お前は手をお引《ひき》。
そうせぬと、褒める代《かわり》に罪せねばなりませぬぞ。
闇の女
なるほど、奉公人を叱るのは、神の恵を受けた王様の
奥方が、長の年月御殿を治めた報《むくい》に得られた
大切な権力で、今《こん》後《ご》もそうあって宜しいでしょう。
さて改めてお認められなされた奥方のあなたが、
お后、女《おん》主《なあ》人《るじ》の昔からの席にまたお就《つき》になるからは、
宝物をも我々一同をもお受《うけ》取《とり》なされて、疾《と》うから
弛んでいる《たづな》を緊めて、お指図をなさるが好《よ》い。
ですが、何より先に、あなたのような美しい鵠《くぐい》の
傍《そば》では、羽もろくに揃わぬ、べちゃべちゃ云う鶩《あひる》に見える、
この多数を抑えて、年寄を庇《かば》って下さい。
先導の女
お美しい方の傍では、醜《しこ》女《め》は猶《なお》醜《みにく》うございますね。
闇の女
賢い人の傍では、分からずやは猶分からずやだ。
(これより下、合唱の群より一人づつ出でて答ふ。)
第一の女
闇のエレボスが父親で、夜《よる》が母親だとお云《いい》。
闇の女
恥知らずのスキルラと従姉妹同士だとでも云え。
第二の女
お前さんの系図にはいろんなお化《ばけ》がいましょうね。
闇の女
お前は親類を捜し出しに地獄へでも行け。
第三の女
地獄にいるものも若過ぎて、お仲間になりますまい。
闇の女
盲爺《めくらじじ》のチレシアスに色でもしかけろ。
第四の女
オリオンの乳《おん》母《ば》さんがお前さんの曾《ひい》孫《まご》でしょう。
闇の女
おお方ハルピイアイが糞《ふん》の中で育てた子だろう。
第五の女
そんなに骨と皮になるには、何を食べておいでなの。
闇の女
お前達の吸いたがる血なんぞは食わないよ。
第六の女
御自分が死骸でいて、やはり死骸が食べたいのね。
闇の女
その恥知らずの口に光るのはウァムピイルの歯だ。
先導の女
お前が誰だと、そう云ったら、その口が塞がりますよ。
闇の女
自分が先へ名《な》告《の》るが好《い》い。互の身の上だろう。
ヘレネ
その荒々しい言《いい》合《あい》を、鎮めに中へ這入るのは、
歎かわしいが、腹は立たぬ。忠実な召使の間に、
密《ひそ》かに醸されている争程、上に立つ主人の
損になる物は外にあるまい。そうなると、言《いい》附《つけ》の
反響が、手早く為《し》遂《と》げた事実になって、素直には
もう帰って来ぬ。その反響は、自分も迷って、徒《いたずら》に
罵っている主人の身の周囲《まわり》に、我儘な響動《とよみ》を
作って狂い廻るようになる。そればかりではない。
お前達は行儀を忘れた腹《はら》立《たち》の余《あまり》に、不吉な、
恐ろしい異《いぎ》形《よう》のものを呼んで、わたくしの傍《そば》へ
近寄らせた。わたくしは故郷の園《その》にいながら、
地獄へ引き込まれたような気がする。これは昔の
記憶だろうか。我身を襲う物狂《ものぐるい》だろうか。都々を
荒す、恐ろしい夢の姿が、あれが皆我身であった
だろうか。今も我身だろうか。今後《こんご》もそうだろうか。
女子達は慄えている。それに年寄のお前一人
平気でおいでだ。分かるように言ってお聞せ。
闇の女
それは誰でも、長い間、いろいろな幸福を享けて、
跡で顧みると、どんな神の恵も夢かと思われます。
あなたなんぞは格外な恵を受けておいでになる。
生涯お逢になった男は、どんな大胆な、思い切った
事をでも、すぐするように、恋い焦がれた人ばかりで、
最初からあのテセウスの様な、立派な姿の、しかも
ヘラクレスに負けぬ力の男が、言い寄りましたね。
ヘレネ
そう。まだ十歳の、靭《しな》やかな鹿を、アッチケの
アフィドノスの城へ連れて行かれたっけね。
闇の女
それから間《ま》もなく、カストル、ポリドイケス兄弟に
救い出されて、選《よ》り抜《ぬ》いた人達の争の的になられた。
ヘレネ
だけれど、打ち明けて云えば、アヒルレウスそのままの
パトロクロス様が誰よりも内々好《すき》であったっけ。
闇の女
それを父上の思召で、あの大胆な航海者で、また
内をも善く治めるメネラスにお妻《めあわ》せなされた。
ヘレネ
娘をお遣《やり》なされた上、国の政治もお任せなされた。
その女《め》夫《おと》中《なか》に生れたのが、ヘルミオネだったっけ。
闇の女
ところが遺されたクレタ島を大胆に争おうとする
遠征の留守に、余り美し過ぎた客が来られた。
ヘレネ
それはあの時後家同様であった上、そのために
どれだけの禍を受けたやら。思い出させて貰うまい。
闇の女
自由に生れた、クレタ人のこの婆々が、囚人《めしゆうど》、奴隷に
せられたのも、あの戦役のお蔭であった。
ヘレネ
それでも直《すぐ》にこの城の取締の女中にせられて、
城をも、切角の戦利品をも、お預《あずけ》になったのね。
闇の女
それはあなたが棄て置いて、塔で囲んだイリオスの
都と、そこの歓楽とに、引かれておいでなされたから。
ヘレネ
歓楽なぞとお云《いい》でない。この胸の中一ぱいに
際限のない苦労が注ぎ込まれたではないか。
闇の女
それでも世間の噂には、あなたは分身の術で、
イリオスにも、エジプトにもおられたとか。
ヘレネ
物狂おしい心の迷を入り乱れさせてくれるな。
今でさえどれが自分か分からずにいるものを。
闇の女
そればかりか、運命のあらゆる定《さだめ》に逆って、
早い恋をしたアヒルレウスも、空洞《うつろ》な影の国から
出て来て、お傍に慕い寄ったとか聞きましたが。
ヘレネ
あの方《かた》も影、わたくしも影で、逢ったと云うまでの事。
物にも書いてある通《とおり》に、あれはほんの夢だった。
ああ。わたくしはもう消えて、このまま影になりそうだ。
(合唱の群の一半に倒れ掛かる。)
合唱の群
お黙《だまり》よ、お黙よ。
厭な目《め》附《つき》をして、厭な事を言う人ね。
歯が一本しかない、その口から、
そんな恐ろしい禍の門《かど》から、
ろくな事は出はしない。
情《なさけ》ありげに見える意《い》地《じ》悪《わる》、
羊の毛皮を著た狼の怒は、
首の三つある狗《いぬ》の《あご》より
わたしには猶恐ろしい。
そんな悪い工《たくみ》の、根ざし深く
狙っていた勢が、いつ、どこで、
どうはじけて出るのかと、わたくし共は
おずおずして聞いています。
優しい、十分慰《なぐ》藉《さめ》になるような、
憂き事を忘れさせる、軟い、恵ある詞の代《かわり》に、
過ぎ去った、総ての事の中から、
善い事よりは悪い事をと、引き出して来て、
今の光を
打ち消すと同時に、
ほのかに赫く未来の明《あかり》さえ、
お前さん、曇らせてしまいますね。
お黙よ、お黙よ。
もうお体から立ち離れそうにしている
お后様の魂を
お取《とり》止《とめ》申して、昔から
日の照した姿の中で、一番美しい
あのお姿をそのままお置《おき》申したいから。
(ヘレネ恢復してまた群の中央に立つ。)
闇の女
羅《うすもの》に包まれていた時から目を悦ばせて、今は目《ま》映《ばゆ》いように光って君臨している、
きょうの日の太陽も、浮雲の間から出て貰おう。
お前は恵ある目で、世界がお前の前に展開しているのを見ておくれ。
皆はわたしを醜いと云って嘲っても、わたしはこれでも美と云うものを見分けている。
ヘレネ
眩暈《めまい》のした時わたくしを取り巻いていた寂しい境からよろめきながら出て来たので、
こんなに疲れている体を、暫くはまた休めていたいが、
突然どれ程意外な事に出合うまでも、男らしく心を持って、気を取り直すのが、
后の役目で、また人皆の役目であろう。
闇の女
その厳めしさと美しさとを取り帰して、我々の前にお立《たち》になった、
あなたのお目を見ますると、何かお指図がありそうな。何のお指図か。さあ、仰ゃって。
ヘレネ
お前達、無益な争に暇を潰した入《いれ》合《あわ》せに、支度をおし。
王様のお申付なされた生贄を、急いで用意させておいで。
闇の女
鉢に五徳に鋭い鉞《まさかり》、洗う水も燻《いぶ》す火も、何もかも
御殿に用意してあります。何を生贄になさいます。
ヘレネ
それは王様が仰ゃらぬ。
闇の女
仰ゃいませんか。お笑止な。
ヘレネ
何をそう気の毒がるのか。
闇の女
その生贄はあなた様。
ヘレネ
そんならこの身か。
闇の女
それとこの女《おな》子《ご》達。
合唱の群
まあ、どうしよう。
闇の女
鉞でお切られなさるのです。
ヘレネ
気味の悪い。もしやそうかと思っていた。
闇の女
どうも致方《いたしかた》がございますまい。
合唱の群
まあ。そしてわたくし共は。
闇の女
御主人は上品なお死《しに》をなさる。
だがお前方はあの屋根の搏《は》風《ふ》を支えた梁《うつばり》に、
黐《もち》に著いた鶇《つぐみ》のように、並べて吊るされるのだ。
(ヘレネと合唱の群とは、兼て工夫せられたる、立派なる排列をなし、驚き呆れる様にて立ちゐる。)
闇の女
幽霊共。素《もと》わが物でもない白昼《はくちゆう》に、別れると云うに
驚いて、木《で》偶《く》のように凝り固まって立っていおる。
人間もお前方と同じ幽霊だが、美しい日の光に、
すなおには暇乞をしともながる。それでも誰一人引き受けて
頼んで最期を緩めて遣り、救って遣るものはない。
人間は皆それを知っている。そのくせ覚悟の好《い》いのは少い。
兎に角お前方は助からぬ。どりゃ、為《し》事《ごと》に掛かろうか。
(フォルキアデス手を打ち鳴らす。それを合図に、戸口に覆面したる侏儒等現れ、以下のフォルキアデスの命令を、一々即時に執行す。)
お前達、陰気な、円《まる》まっちい慌《あわ》者《ても》等《のら》奴《め》。こっちへ
転《ころ》がって来い。腹さんざ荒《あら》すことが出来るのだ。
金《きん》の角《つの》附《つき》の贄の置卓《おきづくえ》を、場所に据えて置け。
銀《ぎん》の台の縁《ふち》に、光るように鉞を置け。
気味の悪い黒血の汚《けがれ》を洗うのだから、
水《すい》瓶《べい》を一ぱいにして置け。どうせ直《すぐ》に
首と胴とは離れるのだが、兎に角立派に括《くる》んで、
葬ってだけは貰うはずの生贄殿が、
お后はお后らしく膝をお衝《つき》になるように、
この五味の上へ、立派に毛氈を布いて置け。
先導の女
お后様は物思に沈んで、片脇に立っておいでになる。
女中達は刈られた牧の草のように萎れている。
女中仲間の年上の、神聖な義務ですから、
大《おお》お婆《ば》あさん、わたくしがお前に物を言いましょう。
この連中は向う見ずに、お前を見損って逆ったが、
お前は賢くて、経験もおありだし、好意も持ってお出のようだ。
どうにか助かる道があるなら言って聞せて下さいな。
闇の女
それは言うのは優しいよ。御自分がお助かりなされ、
附《つき》物《もの》のお前方も助かるのは、お后の思召次第だ。
御決心が、火急な御決心がなくてはならない。
合唱の群
糸を繰るパルチェエの中の一番貴いあなた、一番賢い占《うらない》女《おんな》シビルレのあなた。
金の剪刀《はさみ》の股《また》をすぼめて持っていて下さい。そして救《すくい》の日を知らせて下さい。
踊の時になってから跳ねて、その跡で可哀い
人の傍で休息したい、わたくし共の手足が、
もう気味悪く、ぶらぶら吊るし上げられて、浮いているように見えますから。
ヘレネ
あれ等には、まあ、臆病がらせてお置《おき》。わたくしは悲しくはあるがこわくはない。
それでも助かる道があるとお云《いい》なら、それは嬉しく思ってそうしましょう。
賢い、眼界の広い人には、随分度々不可能だと
思われる事も可能になるものだ。さあ、それをお言《いい》。
合唱の群
さあ、仰ゃい。早く仰ゃい。飛んだ頸飾で、この頸に
巻き附きそうに威している、厭な、気味の悪いを、
どうしたられられましょう。あらゆる神様達の中の
貴い母神様、レア様が、不《ふ》便《びん》がって下さらぬと、そのに
掛かる時の事が、もう息が切れ、息が窒《ふさ》がるように、早くから感じられています。
闇の女
話の長い筋道を、黙って聞いているだけの我慢が、
お前方、お出来かい。色々なわけがあるからね。
合唱の群
我慢が出来ますとも。聞く間は命があります。
闇の女
一体誰でも内にいて、宝の番をしたり、御殿の
壁の割目を繕ったり、雨の漏らぬように屋根を
直したりしているものには、生涯運が向いて来る。
それと違って家の閾の神聖な一筋を、軽はずみに
馬鹿にして、うかうかとした足《あし》附《つき》で、踏み越えて
出て行ったものは、帰って来た時、元の場所が
なくなってはいないでも、何もかも変っているか、
事に依ったら、こわれているのを見るでしょう。
ヘレネ
なぜお前そんな知れ切っている言《いい》草《ぐさ》をお言《いい》だい。
話をおしのはずじゃないか。喧嘩の種をお蒔《まき》でない。
闇の女
事実の話をするのです。非難なぞはしません。
メネラス王は海賊の業《わざ》をして、港から港へと、
島や岸辺をどこでも戦って行かれる。そして
持って帰られた宝は、御殿の中に寝かしてある。
イリオスの攻撃には長の十年も費された。
凱旋の道中は何年掛かったやら、わたしも知らぬ。兎に角
現にチンダレオスのこの御殿の場所は
どうなっていると思われる。それに周囲《まわり》の御領分は。
ヘレネ
さてもさてもお前は悪口が癖になって、
小言でなくては口が利けなくなっているのかえ。
闇の女
葦の茂った岸を洗って、放飼《はなしがい》にしてある鵠を
浮ばせて、広々とここの谷合を流れている、あの
オイロタス川が早瀬になって落ちる
タイゲトスの山を背に負って、スパルタの背後を
北へ登って行く、この谷山には久しく住む人も
なかったのに、キムメリオイの闇から出て来て、
谷の奥深く、こっそり徙《うつ》って来た、大胆な種族が
あって、攀《よ》じ登られぬ、堅固な砦を築き上げ、
その界隈の土地をも民をも、勝手に虐《しえた》げている。
ヘレネ
好くそんな事が出来たものね。不思議なようだが。
闇の女
それには時が掛かったのです。二十年位前からでしょう。
ヘレネ
一人《ひとり》の頭《かしら》を戴いているかえ。賊の仲間は多いかえ。
闇の女
賊ではありません。しかし頭《かしら》は一人いる。わたしの
所へも遣っては来たが、悪口は言いたくない。何でも
取れば取られるのに、自由な贈物《おくりもの》を受けるので、
課税ではないと云って、少し取って帰って行った。
ヘレネ
どんな男かえ。
闇の女
悪くはありません。わたしには
気に入った。捌《さば》けた臆面なしで、グレシアなどに
類のない、教育のある、物分かりの好《い》い男だ。人は
あの種族を野蛮だと云うが、中で誰一人残酷な
事をしたとは思われぬ。イリオス攻撃の時には、
こっちの英雄達も大ぶ人肉を食ったではないか。
わたしはあの男の大人物な処に目を附ける。頼《たのみ》に
しても好さそうだ。それに砦が立派だ。御自分の
目でお見なさるが好《い》い。あなた方の御先祖が
ただ何と云う事もなく、一つ目のキクロオプスの
為《し》事《ごと》のように、自《じ》然《ねん》石を直《すぐ》に自然石の上に
倒し掛けて、積み上げた石垣とは違う。あっちでは
何もかも鉛直に、水平に、規則正しく遣ってある。
外から見なさるが好《い》い。鋼鉄《はがね》を磨いたように平《たいら》に、
接《つぎ》目《め》が合って、がっしりと、天に聳えている。
登ろうと云っても、その登ろうと云う考からして
滑り落ちる。中には大きな御殿の間《ま》取《どり》がしてあって、
あらゆる種類の、あらゆる用に立つ建物が
それを取り巻いている。大小の柱、大小の迫《せり》持《もち》、出窓や
出入の廊下が見える。それに紋が所々に
附いている。
合唱の群
紋とは。
闇の女
お前方も見たはずだが、アイアスの
楯の上にも巻き附き合った蛇が附いていた。
テエバイを囲んだ七人も、一人々々その楯に
意味の深い形《かた》を附けていた。夜《よる》の空に照る
月や星もあった。女神もあった。軍人も、梯《はしご》や、刀や、
松《たい》明《まつ》や、その外平和な都を意地悪く侵そうとして、
威しに使う種々の物を、形《かた》にして附けていた。
わたしの話す勇士の群も、先祖から伝わった、
そう云う紋を、美しく彩って附けているのだ。
獅子や、鷲や、鳥の爪だの、嘴《くちばし》だの、その外花も、
鳥の羽も、孔雀の尾も、種々の獣の角もある。
青、赤、黒や、金、銀の筋を引いたのも見られる。
世界程ある、際限もなく広い座敷々々に、
そう云う紋の附いた楯が沢山並べて懸けてある。
お前方には好《い》い踊場だ。
合唱の群
そして踊る殿方は。
闇の女
この上もないのがいる。金《きん》髪《ぱつ》の若々しい男の群だ。
皆青春の薫がする。土地の人ではお后に余り近く寄った時、
あのパリスだけその薫がした。
ヘレネ
お前は柄《がら》にない事を
言い出したね。そして詰まりどうしようと云うの。
闇の女
それはあなたのお詞次第です。真面目にはっきり
好《い》いと仰ゃい。その砦にお連《つれ》申します。
合唱の群
どうぞ
好《い》いと仰ゃって、皆を御一しょにお助《たすけ》下さいまし。
ヘレネ
そう。あのメネラス王がわたくしの体に害を
お加《くわえ》なさる程、残忍でおいでなさるとは思われぬが。
闇の女
あの後《ご》家《け》のあなたに、強情に思《おもい》を掛けて、とうとう
望を遂げたデイフォボスに、奮闘して死んだ
パリスの同《はら》胞《から》に、類のない体刑を加えたのを、もう
お忘《わすれ》なされたか。鼻や耳を殺ぎ、その上にも創《きず》を
附けられた。目も当てられぬ残虐をせられた。
ヘレネ
それは男にせられたのだ。わたくしゆえに。
闇の女
その男ゆえ、あなたにも同じ事をなさるでしょう。
美人は共有にはならぬ。それを専有していた人は、
誰とももあいにせぬように、寧打ち砕いてしまう。
(遠くより喇《らつ》叭《ぱ》聞ゆ。合唱の群震慄す。)
あの喇叭の響が、耳をも臓腑をも、引き裂くと同じように、
昔し持っていて、それを無くして、今持っていぬ物を、
永く忘れぬ男の胸には、嫉妬がしっかりと
爪を打ち込んで放さぬものだ。
合唱の群
あれ。あの角《かく》の声をお聞《きき》でないか。打《うち》物《もの》の光をお見でないか。
闇の女
王様いつでもお著なされい。相違なく何事もわたしが好んで申し上げる。
合唱の群
そしてわたし達は。
闇の女
分かり切っている。お后の死は目の前に見えている。
お前方の死もその中に含まれている。いや。どうもお前方の助かりようはない。
(間。)
ヘレネ
あの、思い切って差当り、わたくしのせねばならぬ
事を考えた。お前は仇なす禍《まが》津《つ》日《ひ》だ。それは好く
分かっている。福《さいわい》をも禍に転じまいものではない。
だけれどその砦へだけはお前に附いて行こう。
その外は心得ている。胸の奥に、ひそやかに后が
隠している事は、誰にも分からせずに置く
事としよう。さあ、婆々、案内をおし。
合唱の群
まあ、どんなにか喜んで、足早に
わたくし共はまいりましょう。
死をば背後《うしろ》に、
そば立つ砦の
越すこと出来ぬ
墻《かき》をば前に。
末には遂に
恥知らずの詐《いつわり》の謀に落されたが、
一度はお后様をお護《まもり》申した、あのイリオスの
城のように、その砦がまたお護申してくれれば好《よ》い。
(霧ひろごりて、遠景を罩《こ》め、前景をも便宜に掩ふ。)
おや、おや、まあ。
皆さん。振り返って御覧なさい。
今まで好《い》い天気だったじゃありませんか。
それにオイロタ川の尊い流から、
帯のように霧がゆらめき升って来ます。
葦の緑で飾られた、
美しい岸がもう見えないのね。
楽しげに睦じく泳いでいた、
優しいように、傲《おご》ったように、自由に、
軽げに滑っていた、あの鵠《くぐい》も、
まあ、もうわたしの目に見えなくなったわ。
でも、おや、
あれの鳴くのが、わたしには聞えてよ。
人が死を知らせるのだと云う、
咳枯《しわが》れた声で遠くに鳴くのが。
約束通《どおり》命の助かる福《さいわい》の代《かわり》に、
滅びるのだと云うことを、とうとう
あれがわたし達に知らせるのでなければ好いが。
その鵠に似た、長い、美しい、白い頸をした
わたし達と一しょに、あの鵠のお種《たね》の
お后様もお滅びなさるのだと云うことを。
まあ、気になること、気になること。
もう周囲《まわり》の物が
残らず霧に包まれてしまった。
お互に顔も見えないじゃないか。
何をしているのでしょう。歩いているのでしょうか。
ちょこちょこ歩きに、地の上を
浮いて走っているようですね。
なんにも見えなくって。亡《もう》者《じや》の案内をなさる
ヘルメス様が先に立っておいでなさりはしないの。
厭な、夜《よ》の灰色に明ける、手に障らない物の
一ぱいいる、籠み合っていて、いつまでも空洞《うつろ》な
地獄へ連れ戻そうと、厳《きび》しくお指図なさる
金《きん》のお杖が光ってはいなくって。
おや、急に暗くなったわ。濃い鼠色な、壁のように茶色な
霧が光を見せずに立って逃げて、楽《らく》に前の見える目に、石垣の立っているのが見えるわ。
中庭だろうか。深い濠《ほり》の中だろうか。兎に角
気味の悪い所だわ。皆さん。わたし達は捕虜になってよ。
これまでにない、ひどい捕虜になってよ。
(中世式の空想的なる、複雑なる建物に囲《いに》繞《よう》せられたる、砦の中庭。)
先導の女
気早で痴《おろか》な、ほんに女《おな》子《ご》染《じ》みた女子達だね。
目先の事に支配せられ、幸不幸や、天気模様に
弄《もてあそ》ばれ、幸《さいわい》をも不《ふ》為《しあ》合《わせ》をも、落ち著いてこらえる
事が出来ぬ。仲間同士でお互に、はしたなく
抗《あらが》い合い、邪魔をし合う。やれ嬉しい、やれ
悲しいと、同じ調子に泣いては笑う。まあ、お黙《だまり》。
お后様がこの場合に、気高いお心から、御自身のため、
お前さん方のために、どうお極《きめ》下さるか、それをお聞《きき》。
ヘレネ
こりゃ。占《うらない》女《おんな》ピトニッサ。どこにおいでだ。名はなんと
云うか知らぬが、暗いこの砦の穴の中から出ておいで。
もしや、その不思議な首領に、この身の来たのを告げて、
優しく迎える用意をさせに行ったのなら難《あり》有《がた》い。
そのお方《かた》の所へ、早くわたくしを連れておいで。
わたくしはもう休みたい。流《さす》離《らい》の果《はて》が見たい。
先導の女
お后様。どこを御覧になっても駄目でございます。
厭《いや》な姿が消えました。別に歩いたとも思わずに、
どうした事か、霧の中からここへ来ました、その霧の
中にでも留《と》まりましたか。それともあなたを
丁寧にお迎《むかえ》申させようと、主人《あるじ》を尋ねに参って、
多くの物をただ一つに、不思議に合せたような砦の
迷《めい》路《ろ》に迷っておりますのか。いや。あれを御覧
遊ばせ。あちらの上《うえ》の方に、廊下にも、窓にも門《かど》にも、
大勢の家《け》隷《らい》共が心得貌にすばしこく、あちこちと
歩き廻っておりまする。鄭重にお客様を
歓迎いたす徴《しるし》ではございますまいか。
合唱の群
ああ。胸が開《ひら》けたわ。あれ、あちらを御覧。
年の若い、可哀らしい男の群が、行儀好く、
徐《しず》かな歩《ある》附《きつ》きで、立派な行列を作って、降《お》りて
来ますのね。どうしたのでしょう。あの若者の立派な
群は、誰の指図で、こんなに早くお支度をして、
行列を作って出て来ましたのでしょう。何が一番
感心だと申しましょうか。可哀らしい足《あし》取《どり》か。
白い額を囲んでいる、波を打った髪の毛か。
丁度桃のように赤くって、そして柔い毛の
生えている、あの両方の頬っぺたか。あれに
食い附いて遣りたいわ。だが、丁度そんな事をして、
言うのも厭なこと、口が一ぱい灰になったのに
懲りているから、気味が悪くて出来ないわ。
だが一番美しいのが
前へ出て来ますね。
持っているのはなんでしょう。
御《お》座《まし》の段《だん》に、
氈《かも》にお茵《しとね》、
戸張やら、
天蓋のような飾やら。
あれ、もうお后様が迎えられて、美しい
お茵にお就《つき》遊ばしたので、
お頭《かしら》の上に
雲の飾をお戴《いただき》になったように
天蓋がゆらゆらしている。
さあ、お進《すすみ》。
一段一段に
真面目に並ぶのですよ。
お立派、お立派、も一つお立派ね。
こんな歓迎なら、祝福しなくては。
(合唱の群の詞《ことば》にて言ふ事共、次第に施行せらる。)
児童と青年と、長き列をなして降りたる後、ファウスト中世騎士の宮中服を著け、階段の上に現れ、品好く徐に歩み降る。
先導の女
(念を入れてファウストを見る。)
あの感心してお上《あげ》申して好《よ》いお姿、気高い立《たち》居《い》、
愛想の好《よ》いそぶりを、昔から例《ためし》のあるように、
神様達があのお方《かた》に、仮にちょいとの間《ま》お授《さずけ》
なされたのでないなら、男同士の戦争も、美しい
女を相手の小《こ》迫《ぜり》合《あい》も、あのお方のなさる事が
何一つ成功しないと云うことはありますまい。
やはり誉められておいでなさる殿方を、この目で沢山
見ましたが、どの方よりもこのお方がお立派です。
徐かな、真面目な、十分敬意をお表しなされた
足《あし》取《どり》でおいでになる。お后様。あちらへお向《むき》遊ばせ。
ファウスト
(縛《いまし》めたる男を一人随へて歩み寄る。)
この場合にふさわしい、鄭重な御挨拶、尊敬を尽した
歓迎の代《かわり》に、自分の職責を忘れて、主人の義務までを
果させずにしまいました、この不埒な家隷を
鎖に繋いで、あなたの前へ引いて来ました。
さあ、下《した》にいて、この貴婦人に、犯した罪の申立《もうしたて》をしろ。
奥方。これは珍らしい、遠目の利く男ですから、
高い望楼の上で、方《ほう》々《ぼう》を見廻させて置きました。
そこにいて、高い空《そら》をも、広い土地をも、鋭く
目《ま》守《も》っていて、そこ、ここで何事があるとか、
周囲《まわり》の丘から、この堅固な砦のある谷へ掛けて、
どう云うものが通るとか云うことを、それが
牧畜の群であろうが、また軍隊であろうが、
見逃してはならぬのです。そして人民なら
保護し、敵兵なら打ち散らします。それが
なんと云う懈《おこたり》でしょう。あなたがお越《こし》になる。
それをこの男は知らずにいる。これ程の貴い
お客を、義務として鄭重にお迎《むかえ》申すことが、
出来なくなる。横著で一命を失った男ですから、
もう疾《と》っくに屍《しかばね》を我血の中に横えていて好い
奴《やつ》です。しかしあなたお一人《ひとり》の思召で、お罰し
なさるとも、お赦《ゆるし》なさるともして戴きましょう。
ヘレネ
どうもお察し申す所が、わたくしをお験《ためし》なさる
思召かと存じますが、指図をさせる、裁判を
させると仰ゃるのは、まあ大した権力をこの身に
お貸なさいますことね。さようなら裁判官の
第一の務《つとめ》ゆえ、被告の申立を聞きましょう。さあ、お言《いい》。
望楼守《もり》リンケウス
膝を衝かせて下さい。拝ませて下さい。
死なせて下さい。生きさせて下さい。
神のお授けなされたこの貴婦人に、
わたくしはもう身を委ねています。
朝の楽《たのしみ》を待って、日の歩《あゆみ》はどうかと、
東の空《そら》を見ていますと、
不思議にも突然
日が南から升《のぼ》って来ました。
谷を見ず、岡を見ず、
天地の遠い境を見ず、
わたくしは無二のお姿を拝もうと、
その方ばかり見ていました。
リンクスと云う獣が高い木の上にいるような
眼力をわたくしは授かっていましたのに、
今は深い眠の暗い夢を醒まして見ようと
骨を折るような気がして来ました。
どうにも見当が附かなくなりました。
甍《いらか》か。塔か。鎖した門か。
霧が立つ。霧が消える。
こんな女《め》神《がみ》がお出《で》になる。
目と胸とをお姿の方《ほう》へ向けて、
優しい光を吸い込みました。
目《ま》映《ばゆ》いお美しさで
この目をすっかりおくらましなさいました。
わたくしは番人の務《つとめ》を忘れました。
吹かねばならぬ角の笛をすっかり忘れました。
思召通《どおり》に、わたくしを殺そうとなさいまし。
お美しさがあらゆる怒をなだめてしまいます。
ヘレネ
わたくしの身から起った罪を、わたくしが罰することは
出来ません。まあ、どうしよう。あらゆる男の心を
惑わして、その身をも、どんな大切な物をも護って
いられぬようにするとは、なんと云う残酷な運が
わたくしに附き纏《まと》っていることだろう。神や、半神や、
英雄や、悪魔までが、今勾《かど》引《わか》すかと思えば、また騙して
堕落させ、果し合い、あちこちへ流離《さすら》わせ、迷《まよい》の衢《ちまた》を
どことなく引き廻して歩かせ、一度ならず、
二度も、三度も、四度までも世を乱し、禍の数々を
起させるようになるとは。どうぞその善い方《かた》を
あちらへ連れて行って、解放してお遣《やり》下さい。
神に欺かれた人に恥辱は与えられませぬ。
ファウスト
わたくしはこの場で、善くお射《い》中《あて》になる方《かた》をお見《み》上《あげ》
申すと同時に、射中てられたものを見て、驚く外
ありませぬ。弦を離れた矢がこの男を傷けた、その弓を
目《ま》のあたりに見ます。続《つぎ》々《つぎ》に放たれる矢は悉《ことごと》く
わたくしに中ります。この砦や間《ま》取《どり》一面に、羽を
著けた矢が風を切って飛んでいます。これでは
どうなるでしょう。どんな忠義な家隷をも、あなたが
突然叛かせておしまいになる。城は危くなります。
どうやら麾《き》下《か》の軍隊が、お勝《かち》になってお負《まけ》に
なることのないあなたに、もう服従しそうです。
これではわたくしは総ての物を捧げて、迷った
臣下を引き連れて、あなたに降る外ありません。
この砦にお這入《はいり》になるや否や、城主の席も総ての
物もお手にお入《いれ》になったあなたを、任意に、誠実に、
おみ足の下《した》に伏して、主君と仰がせて下さいまし。
望楼守
(手に箱を持ち、同じく箱を担へる男等を随へて登場。)
お后様。また御前に戻って参りました。一《ひと》目《め》お見《み》
下さるようにと、おねだり申した金持も、
あなたにお逢《あい》申すや否や、自分は同時に乞食の
貧しさと、王侯の富《とみ》とを得たと感ずるでしょう。
わたくしは今までなんでしたか、そして今は
なんでしょう。何を思って好いやら、して好いやら。
目がどれ程鋭くたって、それがなんになりましょう。
御前からは、その稲妻も挑ね反されます。
わたくし共は東から遣って来ました。
それは西の国の災難でした。
その列《れつ》の首《かしら》はその列の尾を知らぬ、
長い、幅の広い民《たみ》の群でした。
先《さき》の一人は倒れても、二人目が踏み止《と》まる。
三人目の槍が役に立つ。
殺された千人は気に留めませむ。
一人々々百倍強くなっています。
押し合って進んでまいりました。
その場所々々を我物にしてまいりました。
しかしきょうわたくしが厳しい指図をする土地で、
あすは他人が盗《ぬすみ》をします。
わたくし共は見廻しました。忙しい見ようです。
一番美しい女を撈うものもある。
足の丈夫な牡牛を盗むものもある。
馬は残らず取って来ました。
わたくしだけは、まだ人の見たことのない、
一番珍しい品物を捜しました。
外で人が持っているような物は、
わたくしは枯草同様に思いました。
どんな嚢の中も見え、
どんな箪《たん》笥《す》も透き通らせる鋭い目の
見る方へ附いて行って、
宝をわたくしは捜し当てました。
そして金を堆《うずたか》く手に入れました。
しかし一番美しいのが宝石です。
あなたのお胸に青く照るには、
中で緑柱玉が宜しゅうございましょう。
海の底から出た一滴の卵形の真珠を、
お耳とお口との間にゆら附かせましょう。
お頬《ほお》の紅《べに》にけおされる紅宝玉は
お気に召さぬかも知れません。
そう云う稀な宝の限を、わたくしは
ここで御前へ持って出ます。
幾度かの血腥《ちなまぐさ》い戦争の獲《えもの》を
おみ足の下へ供えるのでございます。
こんなに沢山箱の数を持ち出しましたが、
鉄の箱はまだこれより多うございます。
あなたにお附《つき》申すことが出来るなら、
お宝《たから》庫《ぐら》を一ぱいにいたして上げます。
あなたがお座にお就《つき》になったばかりで、
智でも、富でも、勢でも、
類《るい》のないお姿の前へ、
もう項《うなじ》を屈め、腰を曲げて参りますから。
これは皆わたくしが我物にして、大事に護っていましたが、
それが離れてお手許へ参ります。
貴く、珍しく、結構な物だと存じましたのが、
もうなんでもなくなって見えまする。
これまで持っていた物が消え失せて、
刈られて枯れた草のようになりました。
どうぞ晴やかなお目で一《ひと》目《め》御覧になって、
元の価のあるものになさって下さいまし。
ファウスト
それはお前が大胆に働いて儲けた重荷だが、
そっちへ退《の》けろ。お叱《しかり》はあるまいが、お褒《ほめ》は
戴かれぬ。もうこの砦の懐にあるだけの物は、皆この
お方《かた》の物だから、別に出して上げるには及ばぬ。
あっちへ行って、宝のあるだけを、順序好く
積み上げて、ついに見られぬ奢《おごり》の優れた見《み》物《もの》を
拵えろ。蔵の円天井を晴れた空のように赫《かがや》かせて、
生きていぬ物の生活の天国を造れ。そして
お歩《ある》出《きだ》しなさる時、急いでお先《さき》に立って、
花模様の絨段を敷き続いで行って、
柔い床がおみ足に障るように、この神《こう》々《ごう》しい
お方《かた》がまぶしくお思《おもい》なさらぬ程度で、しかも
此上のない耀《かがや》きがお目に触れるようにしてくれ。
望楼守
殿様のお言《いい》附《つけ》になったのはやさしい為《し》事《ごと》だ。
家隷がする段になると、遊半分に出来る。
あのお美しい方《かた》の御威勢で
性命財産が支配せられているのだから。
もう全軍がおとなしくなって、
刃が皆鈍って来た。
あのお美しい姿の前では、
日の光も濁って冷えて来る。
目で拝むものが豊かなので、その外の物は
何もかも虚《から》になって、無くなってしまう。
(退場。)
ヘレネ
(ファウストに。)
わたくしお話《はなし》申したい事がありますから、この傍へ
おいで下さいまし。あいた場所がお待《まち》申しています。
そうして下さると、わたくしの地位も固まりましょう。
ファウスト
先ず跪《ひざまず》かせて、身をお委《ゆだね》申す心持を述べるのを
お許《ゆるし》下さい。そしてお傍へお引《ひき》上《あげ》なさる
そのお手に、接吻をおさせ下さい。わたくしを
境界の知れぬお国の共治者としてお認《みとめ》下さい。
またあなたのために、崇拝者と従者と番人とを
一人で兼ねているものだとお思《おもい》下さい。
ヘレネ
わたくしは色々な不思議を見《み》聞《きき》いたして、驚いて
いますのでございます。そして伺いたい事が沢山
ございます。それはそうと、只今の男の詞が
奇妙で、そして優しく聞えるのはなぜでございましょう。
それを最初にお教《おしえ》なすって下さいまし。
声と声とが譲り合って、詞が一つ耳に入ると、
次に外《ほか》の詞が来て、先《さき》のをいたわっていましたが。
ファウスト
臣下の物の言《いい》様《よう》があなたのお気に入るようでは、
歌をお聞《きき》になったら、きっとお喜《よろこび》なさるでしょう。
耳をも心をも底から楽ませる歌ですよ。
しかし直《すぐ》に稽古して御覧なさるが一番確かです。
掛《かけ》合《あい》の詞があれを誘い出します。呼び出します。
ヘレネ
あんなに美しく話されましょう、どうしたら。
ファウスト
やさしい事です。ただ出《で》れば好《よ》い、心《こころ》から。
そしてもし胸に係《あこ》恋《がれ》が溢れると、
顧みて問います、楽《たのしみ》を誰か
ヘレネ
共に享けると。
ファウスト
そこで心の見る所は、過去未来の縁を絶ち、
現在ばかりがなんでしょう。
ヘレネ
それが世の幸《さち》。
ファウスト
さよう。宝です。利益です。財産、手形です。さて
奥書は誰がしましょう。
ヘレネ
それはこの我《わが》手《て》。
合唱の群
砦の主《ぬし》に奥方様が
お優しくなさりょうとも、
誰が御無理と存じましょう。
皆さん打ち明けて仰ゃい。
あのイリオスが恥かしい滅びようをして、
わたくし共が恐れ歎いて、迷路を
辿りはじめてから、度々なって
いたように、身は今も捕虜になっています。
男に可哀がられ附けている女と云うものは、
選《えり》嫌《きらい》はしませんが、
男を味って見る目がありますわ。
ですから、金《きん》色《いろ》の《ちぢれ》髪《がみ》をした牧童にでも、
どうかして遣って来た、黒い、剛《こわ》い毛の
ファウヌスにでも、時と場合で、
ふっくりした、こっちの手足を
すっかり自由にさせて遣るものですわ。
お二人《ふたり》が段々摩り寄っていらっしゃって、
軟かい物を詰めた、お立派な
お椅子の上で、
もうお肩とお肩、お膝とお膝が障るように、
互におもたれ掛かりなすって、
お手をお絡《からみ》合《あい》なすって、お体をゆすっていらっしゃる。
どんな内証のお楽《たのしみ》をも、
お上《かみ》はお控《ひかえ》なさらずに、
みんなの目の前で
思い切ってお見せ附け遊ばすのね。
ヘレネ
わたくしは自分がひどく遠くにいるようにも、ひどく近くにいるようにも
思われますが、それでも「ここにいます、ここに」と心《しん》から申したいのでございますのね。
ファウスト
わたくしは息が出来ない位で、体は慄えて、詞は支《つか》えます。
時も所も消えてしまって、夢ではないかと思っています。
ヘレネ
わたくしは色香が闌《すが》れたようにも思われ、また元の処女《おとめ》に戻ったようにも思われて、
自分が糸で、知らないあなたと、離れぬように織り交ぜられたような気がしますわ。
ファウスト
またとないこの出《で》逢《あい》を、そう穿《うが》ってお考えでない。
存在は義務だ。それが刹那の間《あいだ》でも。
闇の女
(劇《はげ》しき態度にて登場。)
恋のいろはのお稽古を、たんとなさるが好《よ》い。
ふざけながら、恋の理窟を御研究なさるが好《よ》い。
理窟を捏《こ》ねながら、懶《なま》けて恋をお為《し》続《つづ》けなさるが好い。
だがもうそんな暇はありませんよ。
天気模様の変ったのに気が附かぬのですか。
せめてあの喇《らつ》叭《ぱ》の音だけでも聞くが好《い》い。
災難はもう遠くはない。
メネラス王が大軍を起して、
お前方を責めに来るのだ。
手痛い軍《いくさ》の支度をするが好《い》い。
その女を手に入れた報《むくい》には、
今に勝ち誇った兵卒共に取巻かれて、
あのデイフォボスのように切りさいなまれる。
廉《やす》物《もの》のおきゃん達が最初に吊るし上げられて、
跡にはすぐにその女を、贄《にえ》卓《づくえ》の前で
研ぎ澄ました鉞《まさかり》が待ち受けているのだ。
ファウスト
不遠慮な邪魔が、うるさく押し掛けて来おる。
非常な事にでも、無意味な慌《あわただ》しさは嫌《きらい》だ。
どんな美しい使者をでも、悪い便《たより》は醜《みにく》く見せる。
それにお前は一番醜い女で、悪い便ばかりを好んで
持って来おる。しかしこん度はお前無駄をした。
お前は空《から》の息《いき》で空気をゆするが好《よ》い。今なんの
危険があろう。あってもそれは徒《いたずら》な威《おど》しだ。
(信号喇叭、塔の上にての爆音、種々の金笛吹奏、軍楽、大軍の行進通過。)
いや。すぐにここへ、好く一致した勇士の群を
呼び集めて、あなたに見せます。
婦人を堅固に保護することの出来る男でなくては、
婦人に愛して貰う権利はない。
お前方、北方の青春の花。
お前方、東方の華やかな武力。
お前方に勝利を得させるに違《ちがい》ない、
久しく抑えた、静かな怒《いかり》を持っている人々。
これまで国々を破った、
鋼鉄に身を堅めて、鋼鉄の中を抜けて来た人々。
お前方が歩き出すと、大地が震う。
お前方が歩いて行った跡には轟《とどろき》が残る。
ピロスから己達は上陸した。
老将ネストルはもういなかった。
拘束するに及ばぬこの軍《ぐん》が
幾多の小王国を打ち破って通った。
さあ、すぐにこの城壁の下から、
メネラス王を海へ押し戻せ。
海上をさまよい歩いて、覘《ねら》ったり盗んだりするが好《い》い。
それが王の好《すき》な業《わざ》だ、天職だ。
隊長達。己がお前方に会釈する。
お前方を指揮するのはスパルタの后だ。
山や谷を略取して后のお前に献じてくれ。
国内の所得はお前方の所得にする。
ゲルマアネの槍《やり》使《つかい》。
お前は堡塁に拠《よ》って、コリントスの湾を守れ。
百の谷があると云うアハイアは、
ゴオテの勇士、お前に防がせる。
フランケの自由な軍《ぐん》はエリスへ進め。
ザックセの土着の兵にメッセネは任せる。
北《ほく》方《ほう》のノルマネは海上を掃蕩して、
アルゴリスの港を手広に経営しろ。
さて各《おのおの》そこに土着したら、外へ向けて
力を展べ威を赫かすことが出来よう。
しかしスパルタは后の年来の居城だから、
お前方の領地の上に据えて置く。
何不足のない国々で、各《おのおの》福を受けるのを、
后は上《かみ》で御覧になる。
許可や権利や光栄を、安じてお前方は
后のお膝下へ受けに出ることが出来るのだ。
(ファウスト座を降る。諸将囲繞して、詳細なる指揮命令を受く。)
合唱の群
一番美しいものを手にお入《いれ》なさる方《かた》は、
何より武勇を先《さき》になすって、気を利かせて
兵器を調えてお置《おき》なさるが好《い》い。
この世で一番優れたものを、いかにも旨く
取り入って手にお入《いれ》なすったでしょうが、
落ち著いてそれを持っておいでなさることは出来ません。
横著者がずるずると諂《へつら》い寄ることもあり、
盗人が大胆に奪って行くこともあります。
その御用心をなさらなくてはなりません。
ちょっと合図をなさると、強い人達が
寄って来てお指図を聴くように、
こんなに勇ましく、賢く、人を手懐けて
お置《おき》になったから、外の方々よりここの殿様は
優《すぐ》れていらっしゃると存じて、お誉《ほめ》申します。
皆さんはお指図通《どおり》お働《はたらき》なさるでしょう。
そうしたら、御自分のお為にもなって、
殿様も御満足に思召しましょう。
御名誉はどちらにもおありになりましょう。
なぜと申しますと、こんなお強い持主の物を
誰が横取をいたすことが出来ましょう。
お后はあなたの物です。そういたして上げたく存じます。
わたくし共と一しょに、内は堅固な城壁で守り、
外は強い軍隊で護って下さるから、
猶《なお》更《さら》いつまでもそうしてお上《あげ》申したいのです。
ファウスト
誰にも豊かな国を遣るのだから、
この人々に約束した褒美は
立派なものだ。もうそれぞれ立たせよう。
己達は真ん中にいて守っている。
エウロッパの山脈の端に、狭い丘陵の
帯で繋がっている半島よ。あの人々は競って、
八方から波の打ち寄せる所で、
お前を守っていてくれるのだ。
早くから后を仰ぎ見ていたこの国は、
あらゆる国を照らす日の下で、
今后の領地になって、どの人種の
いる所も、永遠に幸福を享けるが好《い》い。
エウロタ川の葦の戦《そよぎ》の中で、
卵の殻を破《わ》って、光りながら出て来て、
貴い母や兄弟を目《ま》映《ばゆ》がらせた昔の事を、
后は思われるが好《い》い。
あなたの方にばかり向いて、この国は
栄の限を見せています。
世界中があなたの物になっていても、
取り分けて本国をお愛しなさい。
山々の棘《とげ》々《とげ》しい巓《いただき》が、まだ日の冷たい矢を
背に受けてこらえていても、
もう岩々がどこやら緑掛かった色を見せて、
山羊が意地きたなく貧しい餌をっている。
泉は涌く。小川は集まって流れ落ちる。
もう谷や半腹や平地が青くなって来る。
地面が断続して、百の岡をなしている上を、
叢雲が広がって渡るのを御覧なさい。
角のある牛が分かれ分かれに、足《あし》取《どり》を用心して
断崖をさして歩いて行く。
しかし岩壁が穹《きゆう》窿《りゆう》になって、百の洞を作っているから、
どの獣の宿をもすることが出来る。
それをあそこでパンの神が護っている。
そして茂った谷の濡れて爽かな所に、
生《せい》の少女のナペアイが住んでいる。また狭く並んだ木々が
高みにあこがれて枝を上《うえ》へ伸ばしている。
ここは古い林だ。の木は強く立って、
剛情らしく枝と枝とを交えている。
甘い汁を孕んだ、優しい槭《もみじ》はすらりと立って、
枝葉の重荷を弄んでいる。
静かな木蔭には、母親らしく、
生《なま》温《ぬる》い乳《ちち》が涌いて、人や羊の子の飲物になる。
平地の人の食料になる、熟した果も遠くはない。
そして切り込んだ木の幹からは蜜が滴る。
ここでは健康が遺伝する。
頬も脣も晴やかになる。
人が皆その居《いど》所《ころ》々々で不死になる。
皆満足して健かでいる。
そこで優しい子が浄い日に育って、
人の父たる力を得《え》る。
わたし共は見て驚いて、
いつまでも人か神かの問を決し兼ねる。
それだからアポルロンは牧者の姿でいた。
牧者の美しいのがあれに似ていた。
なぜと云うに、自然が浄い境を領していると、
あらゆる世界と世界とが交感する。
(ヘレネの傍に坐す。)
こんな風にわたしは成功した、あなたも成功した。
もう過去なんぞは背後へ投げ棄てましょう。
第一の世界に属しているのは、あなただけだから、
最高の神の生ませたものだとお感じなさい。
堅固な砦があなたを閉じ籠めもしない。
スパルタに隣るアルカジアが、永遠の若さで、
楽《たのしみ》の多い世を久しく送らせようと、
わたし共二人を引き留めていもしない。
祝福のある土地に住むように誘《さそ》われて、
あなたは一番晴やかな運命の中に逃げ込まれた。
王者の座がそのまま生きた草《くさ》木《き》の家になる。
アルカジアめく幸福を二人は享けましょう。
(場所全く一変す。並びたる数箇の岩室に倚《よ》せ掛け、生きたる草木もて数軒の家を編み成せり。家は鎖されたり。周囲に岩石の断崖ありて、その辺まで緑の木立の蔭を成せるを見る。ファウストとヘレネとは見えず。合唱の群分かれ分かれになりて、あたりに眠れり。)
闇の女
女《おな》子《ご》供《ども》がもうどの位寝ているか、わたしは知らぬ。
わたしがはっきり目で見た事を、夢にでも見たか、
それもわたしには分からぬ。どれ起して遣ろう。
小娘共びっくりするだろう。信ずることの出来る奇蹟の解決を、
やっとの事で見ようと思って、
下《した》の方《ほう》に据わって待っている鬚男のお前方も同様だろう。
さあ、出ろ、出ろ。髪をゆすって、
目をはっきりさせろ。瞬《まばたき》なんぞしないで聴け。
合唱の群
さあ、お話《はなし》、お話。こんな岩なんぞ見ているのは退屈だから、
どんな不思議があったか言ってお聞せ。
聞いても本当に出来ないような事を聞くのが一番好《すき》だわ。
闇の女
寐て起きて目をこすりこすり、もう退屈がるのか。
そんなら聴け。この洞、この岩屋、この庵には、田舎に隠れた
恋中の二人のように、殿様と奥様とが
かくまわれていなさるのだ。
合唱の群
あの、この中に。
闇の女
世間の附《つき》合《あい》を絶ってしまって、わたし一人にそっと奉公させていなさる。
お傍で大事にしては下さったのだが、ああした中の腹心に似合わしく、
わたしははずしているようにした。あちこち歩いて、
薬の功能を知っているから、木の皮や根の苔などを
採って来る。その留守は差《さし》向《むかい》さ。
合唱の群
お前さんの話を聞くと、あそこの中に森や野原や川や湖水があって、
別な世界でも出来ているようだわ。飛んだ造《つくり》話《ばなし》をするのね。
闇の女
お前方は分からないから、言って聞せるが、あそこはまだ窮めたことのない深い所さ。
奥には座敷が座敷に続き、庭が庭に続いている。それをある時、物を案じながら見て廻った。
すると出し抜けに笑声がして、明《あき》座敷に谺響《こだま》を起していたのだ。
ふいとそっちを見ると、男の子が一人奥様の膝から殿様の膝へ飛び附いている。
それからまた逆に殿様から奥様へ飛び附く。甘やかす、ふざけさせる、たわいなく
可哀がって揶揄《からか》う、笑談に声を立てる、喜んで叫ぶ、それが交る交るだから、わたしは
ぼうっとした。羽のないジェニウスのような裸の子さ。ファウヌスに似ていて、
獣らしくはない。それが堅い床《ゆか》へ飛び降りると、床がそれを弾き返して、
虚空に高く飛び上がらせる。二度三度と
弾き返しているうちに、その子の頭が高い円天井に
障るじゃないか。心配げに奥様がそう云うのさ。
「飛び上がるなら、何遍でも、勝手にお飛び上がり。
だが、飛んで逃げるのじゃないよ。空を飛んで歩くことは止《と》めて置くよ」と云うのさ。
殿様も傍から意見している。「お前をそんなに飛び上がらせる、その弾く力は地《じ》にあるのだ。
地に生れた神アンテウスのように、お前の足の親指の尖が地に障ると、
すぐにお前に力が附くのだ」と云っているのさ。
そんな風で、鞠《まり》が敲《たた》かれて飛ぶように、ここの岩の
並んでいる上を、こっちの岩角からあっちの岩角へと、あちこち飛び廻る。
そのうち出し抜けに荒々しい谷の穴へ落ちて見えなくなった。
もう駄目らしかったのさ。奥様は泣き出す。殿様は機嫌を取る。
わたしは気にしながら、肩をゆすぶっていたのさ。ところがその子がまたどんな様子をして
出ただろう。その谷に宝でも埋まっているのか。
花模様の縞のある衣裳を立派に著て出て来た。
臂《ひじ》からは総がぶらぶら垂れている。胸の辺《へん》には紐がひらひらしている。
手には金《きん》のリラを持っている。丸で小さいフォイボスの神のように、
元気好く、谷の上に覗いている岩の角へ出ている。こっちは皆あっけに取られる。
奥様と殿様とは、嬉しさの余《あまり》に、交る交る抱《だき》附《つき》競《くら》をする。
無理はない。その子の頭の上の光りようと云ったらない。
金《きん》の飾が光るのか。非常に強い霊《れい》の力が《ほのお》になって燃え立つのか。容易には分からない。
そんな風で、まだ子供だのに、永遠な旋律が体の
節々を循《めぐ》っている、あらゆる美なるものの未来の
製作者だと云うことを、もう知らせて、その振を見せて立ち振舞っている。
今にお前方その様子を見たり聞いたりして、何もかも感心してしまうだろう。
合唱の群
クレタ生れの小《お》母《ば》さん。
それをあなた奇蹟だと云うの。
あなたこれまで教《おしえ》になる詩なんぞを
聞いたことがないのでしょう。
イオニアやヘルラスに、
ずっと昔の先祖の代からある、
神や英雄の沢山の話を
聞いたことがないのでしょう。
今頃出来る事は
なんでも皆
美しかった先祖の代の
悲しい名残ですわ。
あのマヤの子の事を歌った、
真実よりも信じたい、
可哀らしいに比べると、
あなたの話はなんでもないわ。
その子は可哀らしくて丈夫でも、
やっと生れたばかりの赤さんなの。
それを蔭言の好《すき》な保姆《おんば》さん達が
智慧のない空《そら》頼《だのみ》に、
綺麗な、軟かい毛織の襁褓《むつき》にくるんで、
結構な上《うわ》著《ぎ》を巻き附けていました。
ところが、その横著赤さんが、
大事に押さえ附けていた、
紫の蝉脱《もぬけ》の殻を、平気でその場に残して置いて、
まだどんな形にもなるような、
しかも弾力のある手足を、
もう横著に、可哀らしく、しっかりと
抜き出しましたの。丁度あの育ち上がった蝶々が、
窮屈な蛹《さなぎ》の中から、すばやく羽を広げて
脱け出して、遊半分、大胆に
日の一ぱいにさしている、《こう》気《き》の中を
飛び廻るようでしたの。
そんな風に、この横著赤さんは
ひどくすばやくて、盗坊や詐偽師や、
その外あらゆる慾張る人間に、
いつまでも恵《めぐみ》を垂れる、悪い神様になりましたの。
赤さんは間《ま》もなくそれを、
ひどくすばやい手際で見せ附けましたの。
海の主《ぬし》の神様の三《みつ》股《また》をちょいと取るかと思うと、
軍《いくさ》の神のアレエス様のお剣をさえ、
旨く鞘から抜き取ります。
日の神のフォイボス様の弓矢も、
燃える火の神のヘファイストス様のやっとこも取る。
あの火に遠慮しなかったら、お父う様チェウスの
稲妻さえ取り兼ねなかったのです。
でもとうとう恋の神のエロス様とは角力を取って、
小股をすくって勝ちました。それから
キプリアの女神様がお可哀がりになると、
その隙にお胸の帯を取りました。
浄き旋律の、愛らしき絃《いと》の声、洞の中より聞ゆ。一同耳を傾け、暫くにして深く感動せしものゝ如し。これより下に記せる「間《ま》」の処まで、総て音の揃ひたる奏楽を伴はしむ。
闇の女
あの可哀らしい声をお聞《きき》。そして
昔話なんぞはさっさと忘れておしまい。
そんな古い神様の連中は
打ち遣ってお置《おき》。時代遅《おくれ》だ。
誰ももうそんな事が分かってくれるものはないのだ。
我々はもっと高い税金を払わせられているのだ。
人の胸に徹《こた》えさせるには、自然の胸から
出て来なくてはならぬと云うのが、その税金だ。
(岩の方へ退く。)
合唱の群
こわいおばさん。お前さんもこの媚びるような
物の音《ね》がお好《すき》なの。わたし達は、
今病気が直ったようで、なんだか好《い》い心持で、
そして涙脆くなって来ましたわ。
心の中が夜が明けたようになって、
世界中にない事を、わたし達が
自分の胸の中で見附けるのだから、
日の光なぞは消えさせて下さい。
ヘレネ。ファウスト。上に記しし衣裳を著けたるエウフォリオン。並に登場。
童子エウフォリオン
わたしの歌う子供の歌をお聞《きき》になると、
それがすぐにあなた方のお慰《なぐさみ》になりましょう。
わたしが調子に乗って跳《は》ねるのを御覧になると、
あなた方のお胸も跳《おど》りましょう。
ヘレネ
人間らしく為《しあ》合《わせ》にしてくれるだけには、
愛は上品な二人を近寄らせるのですが、
神のような喜《よろこび》をさせるには
結構な三人組を拵えますのね。
ファウスト
一切解決がこれで附いたのだ。
己はお前の物で、お前は己の物だ。
こうして縁が繋がれている。
これより外に、どうもなりようはない。
合唱の群
年来思い合っておいでになったお心が、
この坊っちゃんの柔かい赫《かがや》きになって
御夫婦の上に集っています。このお三人の
一組をお見上げ申すと、難《あり》有《がた》いようですねえ。
童子
さあ、わたしを飛ばせて下さい。
さあ、わたしを跳《は》ねさせて下さい。
どんな高い所の空気の中へも
升《のぼ》って行くのが
わたしの望《のぞみ》です。
もうその望に掴まえられています。
ファウスト
好《い》い加減にしろ。好い加減にしろ。
おっこちるとか、怪我をするとか
云うような事に出合って、
大事な息子が己達を
台なしにしないように、
余り思い切った事をしないでくれ。
童子
もうこれより長く地《じ》の上に
止《と》まっていたくはありません。
わたしの手や、
わたしの髪や、
わたしの著物を放して下さい。
皆わたしの物じゃありませんか。
ヘレネ
自分が誰の物だか、
考えておくれ、考えておくれ。
やっと美しく揃った
わたしの物、お前の物、あの人の物を
お前がこわしたら、わたし共がどんなにか
歎くだろうと云うことを、考えておくれ。
合唱の群
なんだか、このお三人の組はもう程なく
ちりぢりにおなりなさりそうですね。
ヘレネとファウストと
どうぞ二《ふた》親《おや》に免じて、
余り活溌過ぎる、
劇しい望を
控えてくれ、控えてくれ。
そして静かにおとなしく
この土地を飾っていてくれ。
童子
そんならあなた方の思召ですから
我慢していましょうね。
(合唱の群を穿《うが》ちて過ぎ、舞踏に誘ふ。)
この機嫌の好い人達の周囲《まわり》を
廻って跳《は》ねるのは、よほど楽《らく》です。
節《ふし》はこれで好《い》いの。
足《あし》取《どり》もこれで好いの。
ヘレネ
ああ、それは好《い》い思《おも》附《いつき》だよ。
その美しい女《おんな》達《たち》に
面白い踊をさせてお遣《やり》。
ファウスト
もうこんな事は早く済ませてくれれば好い。
こんな目くらがしのような事は
どうも己には面白くない。
(エウフォリオンと合唱の群と、歌ひ舞ひつゝ、種々の形に入り組みて働く。)
合唱の群
そんなにして両手を
お振《ふり》なさいますと、
その波を打った髪をゆすって
お光らせなさいますと、
その足でそんなに軽く地を踏んで
お歩《あるき》になりますと、
そして折々手足を
お入れ違わせなさいますと、
可哀らしい坊っちゃん、
それで思召はもう《かな》いました。
わたくし達は皆心《しん》から
あなたをお慕《したい》申します。
(間。)
童子
お前達は皆足の軽い
鹿どもだね。
さあ、もっと傍《そば》で
新しい遊《あそび》をしよう。
わたしが猟人だよ。
お前達は獣《けだもの》だよ。
合唱の群
わたくし達を掴まえようと思召すなら、
余り早くお駆《かけ》なさらないが好《い》いわ。
可哀らしい坊っちゃん。
どうせわたくし共は皆
しまいにはあなたに抱き附きたいと
思っているのでございますから。
童子
森の中へ往こう。
木や石のある所へ往こう。
造《ぞう》做《さ》なく手に入るものには
気が向かない。
無理に手に入れたものが
ひどく嬉しいのだ。
ヘレネとファウストと
なんと云う気軽な事だろう。なんと云う
騒ぎようだろう。好《い》い加減にはさせられそうもない。
まるで角の笛でも吹くように、
谷にも森にも響き渡っている。
なんと云うふざけようだろう。叫びようだろう。
合唱の群
(一人々々急ぎ登場。)
わたくし達を馬鹿にして、恥を掻かせて、
前を通り抜けておしまいなすったのね。
みんなの中で一番気の荒いのを
お掴まえなすったのね。
童子
(一少女を抱き登場。)
この強情な小さい奴を連れて行って、
無理にでも遊ぶ積《つもり》だ。
己の楽《たのしみ》に、己の愉快に、
厭《いや》がる胸を抱き寄せて、
厭がる口にキスをして、
力と意地とを見せたいのだ。
お放しよ。こんな体の肌の下にも、
心《こころ》の力も意地もあってよ。
わたしの意地だって、あなたのと同じ事で、
そうわけもなく挫かれはしません。
あなたわたしが狭鍔《せつぱ》詰まっていると思って、
そのお腕を大層たよりになさることね。
しっかり掴まえていらっしゃい。わたし笑談に
お馬鹿さんに火傷《やけど》をさせて上げてよ。
(火になりて燃えつゝ天に升る。)
わたしに附いて高い空《そら》にお上りなさい。
わたしに附いて窮屈な墓へお這入《はいり》なさい。
消えてしまった的《まと》をお掴まえなさい。
童子
(身辺に残れる火を払ふ。)
ここは森の木立の間に
岩が畳《かさな》り合っているばかりだ。
こんな狭い所が己になんになろう。
己は若くて元気じゃないか。
風がざわざわ鳴っている。
波がどうどう響いている。
どちらも遠く聞えている。
あれが近い所なら好《い》い。
(岩を踏みて、次第に高き所へ跳り登る。)
ヘレネ、ファウスト及合唱の群
シャンミイの獣の真似でもするのか。
おっこちはしないかと思って、ぞっとする。
童子
次第に高い所へ登らなくては。
次第に遠い所を見なくては。
これで自分のいる所が分かった。
地《じ》にも親しく、海にも親しい、
これは島の真ん中だ。
ペロップスの国の真ん中だ。
合唱の群
この山と森との中におとなしく
暮そうとはお思《おもい》なさらないの。
今に道端や岡の上にある
葡萄の実だの、無花果だの、
金《きん》色《いろ》の林檎だのを
採って上げます。
ねえ、こんな結構な国に
結構にしていらっしゃいましな。
童子
お前方は平和の夢を見ているのか。
夢を見ていたい人は見ているが好《い》い。
戦争。これが合図の詞《ことば》だ。
戦勝。これが続いて響く音《おん》だ。
合唱の群
誰でも平和の世にいて、
昔の戦争の日に戻りたがる人は、
望《のぞみ》の幸《さいわい》に
暇乞するのですわ。
童子
危険の中から危険の中へ、
自由に、どこまでも大胆に、
自分の血を吝《おし》まないように、
この国が生み附けた人々だ。
この抑えることの出来ない人々には、
高尚な志が授けてある。
闘う人々には
総て福利が与えてある。
合唱の群
上《うえ》を向いて御覧なさい。あんな高い所へお登《のぼり》
なすってよ。それでも小さくはお見えなさらない。
武装しておいでなさるような、軍にお勝《かち》なさるような、
鉄や刃《は》金《がね》でお体が出来ているような御様子ね。
童子
掩堡もなければ、墻《しよう》壁《へき》もない。
一人々々自信の力で遣って行く。
物にこたえる堅塁は
金鉄のような男児の胸だ。
人に侵されずに生きていようと思うなら、
早く軽装して戦場に出ろ。
女は娘子軍になるが好《い》い。
小さい子までが皆勇士になるが好《い》い。
合唱の群
あれは神聖な詩だわ。
天《てん》へ升って行くが好《い》い。
あれは一番美しい星だわ。
次第に遠く遠く光って行くが好《い》い。
どうしたってその声がわたくし達の所へ
届かないことはない。どうしたって聞えてよ。
聞くのが好《すき》だわ。
童子
なに。己は子供になって出て来はしない。
武装してこの青年は来たのだ。
強い、自由な、大胆な人達に交って、
胸ではもう手柄をしている。
さあ、行こう。
ああ、あそこに
名誉の衢《みち》が開《あ》いている。
ヘレネとファウストと
まだこの世に、やっと生れて来たばかりで、
晴やかな幾日かに、やっと出合ったばかりで、
眩暈《めまい》のするような階段を踏んで、
お前は憂の多い境へあこがれて行くか。
己達の事を
なんとも思わぬか。
この可哀らしい家庭が夢であったか。
童子
あなた方あの海の上の雷《かみなり》の音をお聞《きき》でしょう。
そこの谷々に谺響《こだま》しています。
塵の中に、波の上に、兵と兵とが出会って、
迫り合って苦戦するのです。
そして死は
掟です。
それはそうしたものなのです。
ヘレネ、ファウスト及合唱の群
恐ろしい事。気味の悪い事。
お前には死が掟かい。
童子
わたしに遠くから見ていられましょうか。
いやいや。往って艱難辛苦を倶にします。
上の人々
暴《ぼう》虎《こ》馮《ひよ》河《うが》だ。
死ぬるが命《めい》か。
童子
でも行かなくては。
もうわたしの羽が広がります。
あちらへです。行かなくては。行かなくては。
飛びますから、悪く思わないで下さい。
(エウフォリオン空に飛び騰る。刹那の間衣裳の身を空中に支ふるを見る。頭よりは光を放てり。背後には光の尾を曳けり。)
合唱の群
イカルスですね。イカルスですね。
まあ、おいたわしい事。
(美少年ありて、両親の脚の下に墜つ。この屍はその人の姿かと疑はる。されどその形骸は直ちに消え失せ、毫《ごう》光《こう》は彗星の如く天に升り去り、跡に衣と袍《ほう》とリラの琴と残れり。)
ヘレネとファウストと
ああ、喜の跡から
すぐに恐ろしい憂が来た。
童子の声
(地底より。)
お母あ様、この暗い国に
わたしを一人で置かないで下さい。
(間。)
合唱の群
(輓歌。)
なんの一人で置きましょう。どこにおいでなさいましょうと、
あなたは知った方のはずです。
あなたはこの世をお去《さり》なすっても、
誰の胸もあなたをお忘《わすれ》申すことは出来ません。
あなたをお悔み申すことも出来ない位です。
御運命を羨ましがって歌うのですから。
喜《よろこび》の日にも悲《かなしみ》の日にも、あなたの歌と意地とは
美しくまた大きゅうございました。
立派なお家柄で、大した御器量で、
この世の福を受けにお生れになったのに、
惜しい事には、早くそれをお亡くしなすって、
お若い盛りにお隠れになりました。
世間を観察する、鋭い御眼力があって、
あらゆる人心の発動に御同情なすって、
優れた女の限に思われておいでになって、
特色のある詩をお作《つくり》になりました。
しかしあなたは断えず検束のない網の中へ
お駆け込みなすって、
民俗や国法に
無謀にも御牴触なさいました。
それでもおしまいには極《ごく》高尚な御思案が、
清浄な勇気に重きを置かせて、あなたは
立派な物を得ようとなさいました。
だがそれは御成功になりませんでした。
誰が成功するでしょう。これは不幸の極《きわみ》の日に
国《くに》民《たみ》皆血を流し口を噤みます時、
運命がその中に跡をくらます
悲しい問題でございます。
だがいつまでも歎《なげき》に屈めた首を屈めているには
及びません。新しい歌に蘇ります。なぜと云うに、
土地はこれまでそう云う歌を産んだように、
これから後もそれを産みましょうから。
(全き休憩。音楽息む。)
ヘレネ
(ファウストに。)
美と福とが長く一しょになってはいないと云う
古い諺を、残念ながらこの身に思い合せます。
命の緒も愛の絆《きずな》も切れました。どちらをも
痛ましゅう思いながら、つらいお別《わかれ》をいたします。
お別《わかれ》にもう一度寄り添わせて下さいまし。
さあ、地獄の女《め》神《がみ》、子供とこの身とをお引《ひき》取《とり》下さい。
(ヘレネがファウストに抱き附く時、その形骸は消え失せ、衣裳と面紗とファウストの手に留まる。)
闇の女
(ファウストに。)
その一切の物の中から残った物を、しっかり持っておいでなさい。
その衣裳を手から放してはいけませむ。
もう悪鬼共が褄を引っ張って、
地獄へ持って行こうとしています。
しっかり持っておいでなさい。お亡くなしなさった
女《め》神《がみ》はもういない。しかし神《こう》々《ごう》しい跡は残っている。
値踏の出来ぬ程尊い恵を忘れずに、
向上の道にお進《すすみ》なさい。お命のある限、あなたはそれを力に
所有《あらゆ》る卑しい境を脱して、《こう》気《き》の中をお升《のぼり》なさい。
いずれまた遠い、極《ごく》遠い所でお目に掛かりましょう。
(ヘレネの衣裳散じて雲となり、ファウストを包擁して空に騰らしめ、ファウストは雲に駕して過ぎ去る。)
闇の女
(エウフォリオンの衣と外套とリラの琴とを地上より拾ひ上げ、舞台の前端へ出で、遺物を捧げ持ちて語る。)
これでも旨く取り留めたと云うものです。
無論は消えてしまいました。
しかし何も世間のために惜むには当りません。
これが残っていれば、詩人に免許を遣り、
商売忌敵の党派を立てさせるには十分です。
わたしは技倆を授けて遣ることは出来ませんが、
せめて衣裳でも貸して遣ることにしましょう。
(舞台の前端にて、一本の柱の下に坐す。)
先導の女
さあ、皆さん早くおし。魔法は破れました。
古いテッサリアの婆あさんの怪しい、心の縛《ばく》は解けました。
耳よりも心を迷わする、籠み入った音の、
演奏の酔も醒めました。さあ、地獄へ降《くだ》りましょう。
お后様はしとやかなお歩《ある》附《きつ》きで、
急いでお降《くだり》なされた。忠義な女中達はすぐお跡を
お慕《したい》申すが道です。お后様には不可思議なお方の
玉座の側でお目に掛かられることでしょう。
合唱の群
お后様はどこにだって喜んでおいででしょう。
地獄でもペルセフォネイア様とお心安くなすって、
外のお后様同士御一しょに、
息張って上《かみ》に立って入らっしゃるのですもの。
わたし共はそれとは違って、低いアスフォデロスの野の奥に、
実のならない柳や、ひょろひょろした
白楊の木のお仲間にせられていて、
何を慰《なぐさみ》にして日を送りましょう。
面白くもない、お化のような囁をいたすのが、
おお方蝙蝠の鳴くように
ぴいぴいと聞えることでしょう。
先導の女
名を揚げたでもなく、優れた事を企てるでもないものは、
四大に帰る外はない。さあ、おいで。
わたしは是非お后様のお側へ行きたい。
人格には功ばかりでは足りない。忠実がなくては。
一同
まあ、これで日向《ひなた》へ出られましたね。
もう人と云う資格はなくなったのが、
自分にも分かるようです。
だが決して地獄へは帰りますまいね。
永遠に活動している自然は、
わたし達、霊共に信頼していますから、
こちらも自然にすっかり信頼していて好《い》いのです。
合唱の群の一部
わたし達は、この百千の枝の囁く揺《ゆら》ぎ、ざわ附く靡《なび》きの中で、
笑談にくすぐり、そっとおびいて、生の泉を根から梢へ上げさせましょう。
たっぷり葉を著けたり、花を咲かせたりして、
あの乱髪をふわふわと自由に栄えるように飾って遣りましょう。
実《み》が落ちると、すぐに面白く暮らしている群が押し合って、
急いで集まって来て、取って食べようとしますでしょう。
そして皆が一番古い神様達の前へ出たように、わたし達の周囲《まわり》にしゃがむでしょう。
他の一部
わたし達はやさしい波のように体をゆすって、機嫌を取って、
この滑《すべ》っこい岩壁の、遠くまで鏡のように光っているのに身を寄せましょう。
鳥の啼声でも、葦の笛の音でも、よしやパンの神の恐ろしい声であろうとも、どんな声にも
耳を傾けて聞いていて、すぐに返事をして遣りましょう。
ざわつきの返事なら、ざわつきでしましょう。
雷《かみなり》なら、こっちの、震り動かすような雷を、二倍にして、また跡から三倍にも十倍にもして聞かせましょう。
第三部
きょうだい達。気の軽いわたし達は小川と一しょに急ぎましょう。
あの遠い所の美しく草木の茂っている丘が好《すき》ですからね。
それから次第に流れ落ちて、マイアンドロスのようにうねって、
先ず外《そと》牧場に、それから内牧場に、それからまた家の周囲《まわり》の畑に水を遣りましょう。
あそこに平地や、岸や、水を越して、すらりと空を指《さ》している
糸杉の頂が目《めじ》標《るし》になっています。
第四部
お前さん達はどこへでも勝手に飛んでおいで。わたし達は、棚に葡萄の茂っている、
あの一面に畑にしてある岡を取り巻いて、翔《かけ》っていましょう。
あそこでは朝も晩も、葡萄造《つくり》が熱心に、優しい限、手を尽して、
実《み》のりを覚束ながっているのが見られます。
鋤鍬で掘ったり、根に土を盛ったり、摘んだり、縛ったりして、
あらゆる神様達を、中にも日の神様を祈っています。
意気地なしのバクホス様は忠義な家《け》隷《らい》にも余り構わずに、
小屋に寝たり、洞の中で物にもたれて、一番若いファウニと無駄話をしたりしています。
あの神様の夢見心の微《ほろ》酔《よい》に、いつでもいるだけの酒は、
遠い世の後まで、冷たい穴蔵の右左に並べてある
甕《かめ》の中や、革嚢の中にしまってあります。
しかしあらゆる神様達、中にも日の神様が、風を通し、
濡らし、温め、日に曝《さら》して、実の入った房を堆《うずたか》くお積《つみ》累《かさね》になりますと、
葡萄造《つくり》のひっそり働いている所が、急に賑やかになって来て、小屋の中にも音がします。
幹から幹へと騒ぎが移って行きます。
籠がみしみし、小桶がことこと、担《にな》桶《いおけ》がきいきいと、
大桶まで漕ぎ附けます、酒《さけ》絞《しぼり》の元気な踊まで。
そこで浄く生れた、露たっぷりな葡萄の房の神聖な豊けさが、
不作法に踏まれ、醜く潰されて、泡を立て、とばしりを跳ねさせて交り合います。
そこで銅《ど》鑼《らに》鐃《よう》《はち》の音が耳を裂くように聞えます。
これはジオニゾスの神様が深《しん》秘《ぴ》の中からお現れなすったからです。
山羊の脚の男神様が、山羊の脚の女神達と踊って出て来る、その間に
セイレノスを載せた、耳の長い獣《けだもの》が締まりのない大声で叫びます。
何一ついたわりません。割れた蹄が所有《あらゆ》る風俗を踏みにじります。
所有《あらゆ》る官能がよろめき、渦巻きます。厭《いや》な、ひどい騒ぎに耳が聾になります。
酔っぱらいが杯を捜します。頭も腹も溢れます。
誰やらあちこちにまだ世話を焼いてはいますが、それは騒ぎを大きくするばかりです。
無理はありません。新しい濁《にごり》酒《ざけ》を入れるには、古い革嚢を早くあけたいのですから。
(幕下る。)
闇の女フォルキアス舞台の前端にて、巨人の如き姿をなして立ち上がり、屐《くつ》を脱ぎ、仮面と面紗とを背後へ掻い遣り、メフィストフェレスの相を現じ、事によりては、後序を述べ、この脚本に解釈を加ふることあるべし。
第四幕
高山。屹立せる、稜角ある岩の頂。一団の雲たなびき来て、岩に倚《よ》りて止まり、突出せる段の上に降る。雲破る。
ファウスト
(現れ出づ。)
晴れた日に陸や海を越して、穏かに己を載せて来てくれた
雲の乗《のり》物《もの》に暇を遣って、
足の下に極《ごく》深い寂しさを見卸しながら、
己は十分気を落ち著けて、この絶頂の岩端に足を踏み入れる。
雲は散らずに、ゆっくり己の身を離れる。
その群がまろがった列になって、東を指《さ》して行くのを、
感心して、驚いて、己の目が見送っている。
雲は動きながら破《わ》れて、波立って、形を変える。
何かの形に纏《まと》まるらしい。そうだ。見《みち》違《がえ》ではない。
日に照された褥《しとね》の上に、美しく体を横えて、
巨人のように大きくはあるが、神々達に似た女が現れている。
見えるわ、見えるわ。ユノか、レダか、いや、ヘレネか。
あの神《こう》々《ごう》しく可哀らしく変化して目に映ること。
や。もういざってしまう。遠い氷山のように、
幅広く堆《うずたか》く、不極まりな形をして、東の空に止《と》まって、
移り行く日の大きい意味を目《ま》映《ばゆ》く写している。
それでもまだ己の額や胸の辺には、薄い、明るい
霧が漂って、優しく、冷たく、気を霽《は》らしてくれる。
それが今たゆたいながら、軽々と、次第次第に
高く升《のぼ》って一しょになる。目の迷か、あの姿は
疾《と》うに失った、若かった昔の、無上の物じゃないか。
心の奥の一番早く出来た宝の数々が涌き上がる。
軽快にはずんだアウロラの恋を己に見せる。
あの最初の快速には感じても、理解することの
ほとんど出来ぬ一《ひと》目《め》がこれだ。そのくせ捉え得て見れば、
どの宝よりも赫《かがや》くのだ。あれ、あの形の美は霊の
美のように増して来て、解けずに、《こう》気《き》の中に升って、
己の心の内の最善の物を持って行ってしまう。
七里靴一つぱたりと地を踏みて出づ。間もなくまた一つ出づ。メフィストフェレス脱ぎて降り立つ。靴は急ぎ過ぎ去る。
メフィストフェレス
これなら可なり歩いたと云うものだろう。
ところで、あなた、なんだと思っているのです。
こんな不気味な所の真ん中で、恐ろしい岩穴の
《あご》を開《あ》けている処で雲から降《お》りるなんて。
わたしはこんな所も好く知っています。しかし
この土地ではありません。地獄の底で見たのです。
ファウスト
なんに附けても馬鹿げたお伽話を知っていて、
こんな時にまでそれをさらけ出すのかい。
メフィストフェレス
(真面目に。)
昔神様がわたし共を、真ん中一面に永遠な火が
熱く燃え立っている、底の底のどん底へ虚空から
堕しておよこしなすった時の事ですね。
なぜお堕しなすったと云うことも知っていますがね。
わたし共は明るいことは明る過ぎる場所で、
随分籠み合った、窮屈な体《からだ》附《つき》していたのです。
悪魔連一同ひどく咳をし出しまして、
上からはごほんごほん、下からはぶうぶう云わせます。
地獄は硫黄の臭と酸とで一ぱいになる。
その瓦斯《ガス》ってない。それが非常な物になって、
幾ら厚くても、国々の平たい地盤が
程なくどうどうと鳴って、はじけたのです。
そこで尻尾《しつぽ》を撮《つま》んで倒《さか》さに吊るしたように
これまでどん底であった所が、こん度は絶頂になります。
なんでも上を下へと云う結構な教訓は、
この時悪魔連が発明したらしいのです。
わたし共は押し籠められていた、熱い穴から逃れ出て、
自由な空気の結構さ加減の絶頂に来ましたからね。
これは無論秘密で、大事に隠して置いて、
人間には後になってから知らせて遣るのですが。
ファウスト
己のためには、山は高尚に沈黙しているもので、
どうして、なぜ出来たとは、己は問わない。
自然が始て自分で自分の基礎を立てた時、
地球を綺麗に円めたのだ。山は山、谷は谷になった所を
面白がって、岩と岩、頂と頂を並べたのだ。
そして旨く斜面を附けて岡を拵え、なだらかな勾配で、
次第に低く、谷まで下るようにしたのだ。
その所々で、草木が緑に芽ぐんで、生長する。
自然が慰《なぐさみ》をするのに、何も物狂おしい
渦巻なんぞをさせなくても好いのだから。
メフィストフェレス
あなたはそんな風に言いますがね。
なるほどそれがあなたには太陽のように明かでしょう。
しかしその場にいたものは、そうでないことを知っています。
まだ地の底があの下の方で、煮え上がって、火を噴いて
流れていた時、わたしはそこにいました。
まだあのモロホの槌が、岩と岩とを敲《たた》き合せて、
山の欠《かけ》らを遠方へ飛ばせていた時です。今でも外から来た、
何千斤かの重さの物が、国々に動かずにいる。
あれを飛ばせた力を誰が説明しますか。哲学者には分からない。
そこに岩が在る。そのまま在らせる外、為《し》方《かた》がない。
随分今まで行き著く程考えたのです。
ただ淳樸な下民にはそれが分かっていて、
縦《たと》え人がなんと云っても、自分の考を改めない。
その疾うから煉れている考はと云うと、あれは奇蹟だ。
悪魔の手柄になるのですね。
行者共は信仰の杖を衝いて、魔の岩とか、
魔の橋とかを見に行くではありませんか。
ファウスト
ふん。悪魔がどう自然を観察しているかと聞いて見て、
それを顧慮するのも、無価値ではないよ。
メフィストフェレス
自然は有《あり》のままでいるが好い。わたしは構わない。
は衝かない。わたしは見ていたのだ。
わたし共は大きい事をし出《で》来《か》す連中です。
騒動と暴力とむちゃとで遣るのです。そこの岩山が証拠です。
さてこれからいよいよ分かるようなお話をするとして、
この地球の表面はお気に入りましたかな。
兎に角あなたはこの世界の国々と、その立派さ加減とを、
随分際限もない広さに、御覧になったのですが。
しかしどうも満足と云うことのない先生だから、
これなら欲しいと云う物もなかったでしょうね。
ファウスト
所が、有るよ。大きい物が己の心を惹いた。
なんだか、当てて見給え。
メフィストフェレス
それは造《ぞう》做《さ》はありません。
わたしはある都を選《よ》り出しますね。真ん中には
市民の食《くい》物《もの》の不気味さがあります。
曲がりくねった、狭い町、とんがった搏《は》風《ふ》、
けちな市場、大根、菜っ葉、葱がある。
脂の乗った肉を啄《つつ》きに、
青蠅の寄る屠肉場がある。
いつでも、あなた、行って御覧なさるが好い。
きっと賑やかで、臭いのです。
それから僭上に、上品らしい見えをする
大《おお》通《どおり》や広い辻がある。
それからしまいには、関門で為《し》切《き》ってないと、
場末がどこまでも際限なく延びる。
そこでわたしは、馬車の車輪がごろごろと
あっちへ走って往き、こっちへ走って来《き》、
散らばった、うようよする蟻の群が
永遠に馳せ違うのを楽んでいるとしましょう。
そこでわたしは馬や車に乗って出ると、
いつもそいつ等の中心になって、
千百の人間に敬われるとしましょう。
ファウスト
そんな事では己は満足しない。
人口が繁殖して、自分の流義で、
気楽に口腹を養って、場合によっては
教育を受け、学問をするのを見て喜んで
いるうちに、ただ叛逆人が出来上がるのだ。
メフィストフェレス
それからわたしは、自分で見ても壮大だと思うように、
面白い土地へ、慰《なぐさみ》のために城を造らせましょう。
森や岡や原や牧や畑を、
立派に庭園に築き直させましょう。
緑いろに聳えた垣の前に、天鵝絨のような牧や、
髪《はつ》の如き道や、巧に結《ゆ》った生《いき》木《ぎ》の屋根や、
岩組で築いた滝や、種々の噴水がある。
真ん中はすなおに升るが、
脇からは形が変って小さく噴き出る。
それから一番の美人を畜えるために、
気の置けない、のん気な小《こ》家《いえ》を立てさせましょう。
限のない月日を、なんとも言えない
面白い、差向いの寂しみに暮そうと思うのですね。
わたしは美人と云ったが、
それは一人ではない。わたしの女と云うのは、
いつでも複数に考えて言うのですからね。
ファウスト
悪く現代的だ。サルダナパアルの驕奢だ。
メフィストフェレス
そう仰ゃると、大抵お望の見当が附きますね。
そいつは飛び離れて大胆です。
もう大抵月宮の近所まであなたは升ったのですが、
やはり天上界へ気が引かれているのでしょう。
ファウスト
大《おお》違《ちがい》だ。この地球上に
まだ偉大な事業をする余地がある。
驚歎すべき物が成就しなくてはならぬ。
己はまだ大胆な努力をするだけの元気を感じている。
メフィストフェレス
では名聞を博せようと云うのですね。
あなたは女英雄の色になっていただけありますね。
ファウスト
主権を取るのだ。占有するのだ。
事業が一切だ。名聞はいらぬ。
メフィストフェレス
いらなくても、詩人が出て来て、
あなたの栄華を後世に伝えて、馬鹿話で
馬鹿の真似をさせるように、人をおびくでしょう。
ファウスト
ところがそれが兎に角君の得《とく》にはならぬのだ。
人間の欲望が君に分かるものか。
君の皮肉な、悪辣な、厭《いや》な性質で、
人間が何を要求するかが分かるものか。
メフィストフェレス
どうでも好いから、あなたのお望どおりにさせましょう。
そこであなたの気まぐれの範囲をお打《うち》明《あけ》なさい。
ファウスト
己の目は海の沖に捕えられていた。
水が涌き立って、堆く盛り上がった。
それが凪いで、平《たいら》な岸の一帯を襲わせに、
波をばら蒔《ま》いた。
それが癪に障った。あらゆる権利を尊重する
自由の精神を、専横の心が、
喜怒哀楽に鞭うたれた血の勢で、
感情の悩《なやみ》に陥らせるようなものだ。
己は偶然かと思って、また瞳を定めて見た。
波は止《と》まって返して行く。
息張って為《し》遂《と》げた目的から退いて行く。
また時が来ては、同じ戯を繰り返すのだ。
メフィストフェレス
(見物に。)
あれではなんの新しい事も聞き取られませんね。
そんな事は千百年前からわたしも知っている。
ファウスト
(興奮して語り続く。)
波は自分が不生産的で、その不生産的な力を
八方へ逞うしようとして這って来る。
膨《ふく》れて、太って、転がって、荒《あれ》地《ち》の
厭な境に溢れる。寄せては返す波が
力を恃《たの》んで専横を窮めていて、
さて引いて行った跡に、何一つ己を恐怖させる程の事を
為遂げてはいない。溜まらんじゃないか。
検束のない四大の、目的のない威力だ。
そこで己の精神は自力の限量以上の事を敢てしたい。
あれと闘って勝ちたいのだ。
それは出来る事だ。あの汎濫する性質はあっても、
どんな丘陵でもあると、避《よ》けて滑《すべ》って通る。
いかに傍若無人に振舞っても、
瑣細の高まりも中流の砥《しち》柱《ゆう》になって、
瑣細の窪みも低きに就かせる。
そこで己は心中で急に段々の計画を立てる。
あの専横な海を岸から遠ざけて、
干潟の境界を狭めて、
海を遙かに沖へ逐い返したら、
さぞ愉快な事だろう。
己はその計画を一歩一歩心に運《めぐ》らして見た。
これが望だ。己はこれをはかどらせる積《つもり》だ。
(見物の背後、右の方遠き所より、鼓の音と軍楽と聞ゆ。)
メフィストフェレス
造做もない事です。あの遠くの鼓が聞えますか。
ファウスト
また軍《いくさ》か。智者の聞くことを好まぬ響だ。
メフィストフェレス
戦争でも平和でも好い。己《おのれ》を利するように
それを利用しようと努めるのが賢いのです。
あらゆる好機会を待つのです、窺うのです。
機会はあります。さあ、先生、お掴まえなさい。
ファウスト
そんな謎なら、己は御免を蒙る。
どうしろと云うのだ。手短かに言い給え。
メフィストフェレス
わたしは歩く途中で聞きましたが、
お気の毒な殿様が大頭痛の様子です。
御承知のあの人です。御一しょに機嫌を取って、
虚偽の富を手に入れさせた時は、
あの人は世界中を買い占めることが出来ましたっけ。
一体あの人は余り早く即位をなさったので、
快楽の受用と国家の政治とが、
随分一しょに出来て、
そうするのがひどく都合が好く、また結構でもあると、
飛んだ間違った判断をせられたのです。
ファウスト
大変な間違だ。命令をする人は、
命令その物に快楽を覚えんではならん。
高遠な意志が胸に一ぱいあって、
何を思っているか、それを誰一人窺うことが出来ぬ。
そして一番忠実な臣下の耳に囁いて、
それが行われると、天下瞠目する。
そんな風で、永く最高の地位、最大の権威を保つのだ。
受用は人を陋《いや》しゅうする。
メフィストフェレス
あの人はそんな風ではありませんね。
受用をしたのです。どんなにかしたでしょう。
そのうちに国は無政府の状態になって、上下交々《こもごも》争い、
兄弟牆《かき》に鬩《せめ》ぎ、相殺し、
城と城との間、市と市との間、工業組合と
貴族との間、僧官と僧侶と信徒との間、
それぞれに争が出来、
目を見合わするものは皆敵である。
寺で人が殺される。関門の外に出れば、
旅客も商人も性命財産があぶない。
そこで人民一同が可なり大胆になった。
自家防禦で生存するのです。遣って見ればそれでも行《い》けますよ。
ファウスト
それは行《い》く。歩く。跛《びつこ》を引く。倒れてまた起きる。
それから翻筋斗《とんぼがえり》をして、転《ころ》がって一しょに死ぬる。
メフィストフェレス
その状態でいて、誰も苦情を言ってはならないのですね。
てんでに頭を出そうとする。また随分出しもする。
極小さい人物がしっかりした奴と云われる。
そこで余りひどいと、一番好い人までが言い出す。
とうとう豪《えら》い奴等が根を固めて置いて謀叛して、
こんな宣言をしました。「治めてくれるのが君主だ。
当代は治めようともせず、治める力もない。
新しい君を選んで、国に新しく魂を入れて貰おう。
そしたら個人を堅固に保護してくれて、
その新設せられた社会では、
平和と正義とが相嫁《とつ》ぐだろう」と云うのです。
ファウスト
坊主でも言いそうな事だな。
メフィストフェレス
坊主が言ったのです。
そして便々たる腹に本領安堵をさせました。
外のものより余計に交ぜ返したのは彼奴等です。
一揆は広がる。神聖にせられる。
そこでわたし共が機嫌を取って上げた、あの殿様は、
今この場で多分最後の決戦をするのでしょう。
ファウスト
気の毒だな。あんな分《わけ》隔《へだて》のない、好い人だから。
メフィストフェレス
さあ、おいでなさい、見物しましょう。「生きている間は有望だ。」
こっちの手でこの狭隘から救い出しましょう。
今一度救えば、後の千度も救うことになります。
采《さい》の目はまだどう出るか、分からない。
殿様の身に運があれば、その麾《き》下《か》に人もある。
(二人は山の中腹を踰《こ》えて前に出で、谷間の陣を望む。鼓、その他の軍楽下より聞ゆ。)
あの陣地を御覧なさい。旨く取ってあります。
わたし達が這入って行けば、全勝ですね。
ファウスト
君はここで何を遣って見せる積《つもり》だ。
まやかし、目くらがし、空虚な見えだろう。
メフィストフェレス
戦争に勝てる計略を遣るのです。
どうかあなたも前途の目的を考えて、
気を大きく持つことに、腹を極めて下さい。
殿様に玉座と版図とを保たせて上げた上で、
あなたは御《ご》前《ぜん》に平伏して、海岸一帯の地を
所領にお貰《もらい》なさることが出来るのです。
ファウスト
そうか。君も随分色々な事をして来たが、
そんなら今度は会戦に一つ勝って見せ給え。
メフィストフェレス
なに。勝つのはあなたです。
こん度はあなたが上将軍だ。
ファウスト
「それが己に適当な高座だろうよ。」
まるで知らない為《し》事《ごと》で、采配を振るのだから。
メフィストフェレス
幕僚をお拵《こしらえ》なさい。そうすれば元帥は枕を高うしていられます。
戦争のらんぼうは疾《と》うから知っていますが、
戦争のさんぼうは、こん度前以て、
山奥の原人で編成して置きました。
あいつ等を集めたものには、利運が向きますよ。
ファウスト
あそこに武器を執って来るのは、あれはなんだ。
君、山の中の人民共を煽動したのかい。
メフィストフェレス
なに。ペエテル・クウィンチェの役者の組と同じ事で、
やくざな中の選《えり》抜《ぬき》です。
(三人の有力者登場。)
メフィストフェレス
やあ。奴《やつこ》共があそこに来ました。
御覧の通、年配も区々《まちまち》で、
被服装具もそれぞれ違います。
だが存外御用に立つでしょう。
(見物に。)
当節はどの子供でも、
鎧と武《む》者《しや》領《えり》とが大《だい》好《すき》です。
符牒のような、実《み》のない奴等ですが、
それだけ却ってお気に入るでしょう。
喧嘩坊
(年若く、軽装して、はでなる服を著る。)
どいつでも己と目を見合せりゃあ、
すぐ拳骨をに叩き込むのだ。
逃げ出すような臆病者は
後髪を攫《つか》んで引き戻して遣る。
はやとり
(男らしく、武具好く整ひ、奢りたる服を著る。)
そんな実のない喧嘩なんぞは
笑談同様の暇潰しだ。
何にもひるまず取り込んで、
外は一切跡にする。
かたもち
(年寄りたり。厳かに武器を執りて、下に服を著ず。)
それも余り役には立たぬ。
大財産もすぐ蕩《とろ》けて、
生活の川水に流れ落ちる。
取るのも悪くはないが、持っているのが一層好い。
万事この薄黒い野郎に任せて御覧なさい。
あなたの物を何一つ、人手には渡さない。
(一同群がりて山より下る。)
外山の端
鼓と軍楽と下より聞ゆ。帝の帷《い》幄《あく》開張せらる。
帝。上将軍。護衛者等。
上将軍
この丁度好い狭隘へ
全軍を密集して背進させたのは、
今から見ても、熟慮した計画でした。
決戦が勝利に帰するのを、わたくしはまだ確信しています。
どうなるかは、今に分かるだろう。
その背進が敗走に似ているのが、己には不愉快だ。
上将軍
あれ、あの我軍の右翼を御覧なさい。
戦略はああ云う地形を望むのです。
丘陵が余り嶮しくもなく、余り行進し易くもない。
我には有利で、敵には危険だ。
我兵があの波状をなしている平地に半ば隠れていれば、
敵の騎兵もうかとは来ません。
いや。今となればその処置を称讃するより外はない。
我軍の精神も手腕もここで験《ため》されるのだ。
上将軍
あの中央の牧の平地で、
我部隊が勇《ゆう》悍《かん》に闘っているのを御覧なさい。
空中に、朝霧の中に、日に照されて
槍の穂尖がきらめいています。
あの大方陣が真っ黒に波を打っていますね。
数千の士卒が大功を立てようとあせっています。
あれで多数の気力が分かります。
敵の力を分割することが、あれになら出来ましょう。
うん。こんな美しい戦況を、己は始て見る。
我兵には倍数だけの威力があるなあ。
上将軍
我左翼については別に申すことはございません。
嶮しい岩山を勇士が守っています。
今武器が一面に光っている、あの石道が
狭い谷の重要な通路を掩《えん》護《ご》しています。
ここで期せずして敵の兵力が一敗地に塗《まみ》れるのが、
もうわたくしには見えるようです。
あそこに弐心の親戚共が遣って来おる。
己をおじだ、従《い》兄《と》弟《こ》だ、兄弟だと云って、
次第次第に我儘になって、玉座に尊敬をなくさせ、
命令の杖に威信をなくさせ、
それから同士討をして国内を荒し、
とうとう一しょになって己に刃向かって来たのだ。
部下の群は腹が極まらずに観望していて、
風《かぜ》向《むき》の好い方に附こうとしているのだ。
上将軍
間牒に出した、信用の置かれる一兵卒が、
今岩を降りて来ます。旨く遣って来たか知らぬ。
第一の間牒
こっちの為《し》事《ごと》は旨く参りました。
大胆に、狡猾に立ち働いて、
随分あちこちと潜《もぐ》って来ました。
所がたんと思わしいお土産もありません。
忠実なお身方のように、
殿様に心からの尊敬をいたしているものは多いが、
そのくせ袖《しゆう》手《しゆ》傍《ぼう》看《かん》の分《いい》疏《わけ》しかしません。
内乱の萌《きざし》があるの、民心が危険だのと。
自己の安全を謀るのが、利己主義の教だ。
恩義も情誼も、義務心も名誉心もない。
罪悪が盈《み》ちて来ると、隣家の火災で
身を焼くと云うことが分からぬのか。
上将軍
二人目のが帰って来る。そろそろと降りて来る。
あの疲れ切った兵卒は、手足が震えているらしい。
第二の間牒
最初は面白半分の暴行が、
怪しげにはかどるのを見ていました。
そのうちに思い掛けず、急劇に
新しい帝王が擁立せられました。
それから群集が指図通《どおり》の路を取って、
野原を進んで参るようになりました。
押し立てられた偽朝の旗に、
皆附いて来るのです。羊のような根性の奴等が。
僭号を称える奴の出来たのは、己の利益だ。
己が帝王だと云うことが、これで切に感ぜられる。
単に一軍人として己は甲《よろい》を著たが、
今それが高遠な目的があって著たことになった。
今まで己ははでな限の祝に出て、
何一つ闕けた事のない時も、危険のないのが惜しかった。
お前方の流義で、己に為《し》合《あい》を勧めた。
あの時己は胸を躍らせて、中世の為合の気分になっていた。
もしお前方が疾《と》っくに戦争に反対しなかったら、
己は今頃大手柄を顕しているだろう。
またいつかの催《もよおし》の夜《よる》、鏡に向うように火の境を覗いて見て、
その火と云うものが恐ろしく肉薄して来たとき、
己の胸には独立特行の決心が附いた。
あれは幻影だが、しかし偉大な幻影だった。
己は夢現の境に、勝利と名誉とを夢みた。
当時等閑にして過した事を、己は今取り返したい。
(偽帝の挑戦に応ぜんとして使を発す。ファウスト甲を著、半ば鎖せる《かぶと》を戴き、三人の有力者上に記せる衣裳を著、武具を取り装ひて登場。)
ファウスト
多分お叱《しかり》はあるまいと存じて、参著しました。
危険はなくても、御用心はおありなさるが宜しいでしょう。
御承知の通《とおり》、山の中の人民は平生物を案じて、
岩に現れた自然の文章を読んでいます。
もう疾っくに平地を遁れた霊どもは、常よりも
岩石に同情を寄せています。霊どもは
金《きん》気《き》をたっぷり帯びて立つ、尊い気《き》の中で、
迷路のような谷間に潜んで、密《ひそ》かに働いています。
その唯一の欲望は、絶えず分析したり、湊合したり、
試験したりして、新しい物を発見したがるに過ぎませぬ。
霊の力の静かな指で、
透き徹る形を築き上げて、
その結晶の永遠な沈黙の中に、
上《うえ》の世界の出来事を窺うのです。
それは己も聞いている。お前の詞《ことば》にはあるまい。
だが、それがこの場でなんの用に立つのか。
ファウスト
サブスの裔《すえ》の魔術師で、ノルチアに住んで
いるものが、あなたに誠実に帰服しています。
昔あの男は恐ろしい否運に迫られていました。
もう焚《たき》附《つけ》がぱちぱち云って、《ほのお》の舌が閃きました。
体の周囲《まわり》に積み上げた、乾いた薪には
児《ちやん》や硫黄の棒が交ぜてあったのです。
神も人も悪魔ももう助けようのなかった時、
御威勢が燃ゆる鎖を絶ちました。
ロオマでの事でした。それをひどく恩に被《き》て、
あの男はあなたの前途に目を著けています。
あの時から自分の事は考えずに、ただあなたの
お為《ため》に、天文を観、深秘を探っています。
あれが御救助に参るようにと、火急の用事を
わたくし共に托しました。山の力は偉大です。
あそこで自然が、自由に非常な力を展《のば》すのを、
魯《おろか》な僧侶共は魔法と申すのです。
祝の日に機嫌好く遊びに機嫌好く来る客を
出迎えて挨拶するときでも、あの押し合い
急《せ》ぎ合いして、一人毎にその間《ま》を狭める客を、
こっちでは歓迎する。それとは違って、
運命の秤《はかり》がどちらに傾くかと云う、
心許ないその日の朝、力強く身方を助けようと、
わざわざ出て来る、忠実な人なら、
己は此上もなく歓迎しなくてはならぬ。
とは云うものの、大切なこの刹那には、
抜かれるのを待つ刀《かたな》から、勇ましい手も引いて貰わんではならぬ。
敵身方と立ち別れて、数千の人が争っている、
この刹那は尊敬して貰わんではならぬ。
独立するのが男だ。宝冠玉座を望むものは、
自身にそれだけの値打がなくてはならぬ。
己に刃向かって起って、帝だの、この国の主《ぬし》だの、
大元帥だの、百官の司だのと、
僭称している非類は、
この手一つで死の国へ衝き落さんではならぬ。
ファウスト
それはそうでもございましょうが、大事を成そうと思召すには、
首《こうべ》を賭《と》することは宜しゅうございますまい。
あの冑と云うものは鶏冠《とさか》や立《たて》毛《げ》で飾ってあるではございませんか。
あれは人の勇気を励ます頭を保護する武具です。
頭がなくては、手足は何になりましょう。
頭が寐入れば、体は皆萎える。
頭が傷けば、体は皆傷く。
頭が《い》えれば、体は皆えるのです。
それゆえいざと云う時には、腕はすぐ己《おの》が強さを利用して
盾を挙げて頭を禦《ふせ》ぎ、
刃はすぐ自分の職務を心得て、
受け流してはまた切り込みます。
丈夫な足も幸運な仲間をばはずれまいと、
打たれた敵の項《うなじ》を踏みます。
己の怒もその通《とおり》だ。驕った敵の素《す》首《こうべ》を、
足の台《だい》にして遣りたい。
使者等
(帰り来る。)
わたくし共は余り優待もせられず、
余りお役にも立ちませんでした。
手強い、立派な、こちらの口上を、
先《さき》では古い洒落だと申して笑いました。
「お前の所の帝王はもう行方不明になったのだ。
そこの谷間に谺響《こだま》がしている。
あれが記念《かたみ》は何かと云えば、お伽話に云う通《とおり》、
昔々あったとさだ」なぞと、無礼を申しまして。
ファウスト
それでは動かぬ忠義の心で、お側にいる
我々の望どおりになったのだ。
あれ、あそこに敵が寄せます。身方はきおって待っています。
攻撃をお命じなさい。好い時期です。
ここでは己は指揮をすまい。
(上将軍に。)
責任は、侯爵、やはりお前の手に委ねて置こう。
上将軍
そんなら、右翼、さあ、進め。
丁度今坂道に掛かっている、敵の左翼は、
もう一足と云う所で、験《ため》された忠誠の
壮んな力に譲らんではなるまい。
ファウスト
それではどうぞ、この元気な物共を、
すぐあなたの戦列に加えて、
隊の士卒と深く入り交らせ、
一つになって、大きい伎倆を揮わせて見て下さい。
(ファウスト右の方を指す。)
喧嘩坊
(進み出づ。)
己に顔を向けた奴は、上と下とが砕かれた上でなくては、
顔を向け換えることは出来ぬ。
己に背中を向けた奴は、頸と頭《あたま》と髪の毛とが
忽《たちま》ちぐにゃりと項に垂れる。
そこでわたしが荒れる通《とおり》に
お前様の兵卒が棒や刀《かたな》を振り廻したら、
敵は自分の血の中に
一人々々倒れましょう。(退場。)
上将軍
中央部隊は徐かに続いて、
十分の威力を以て、巧に敵に当ってくれ。
あの少し右の方では、敵がもう奮起して、
我軍の計画を動揺させているのだから。
ファウスト
(中央の有力者を指さす。)
そこでこの男にも御命令を受けさせてお貰申したい。
素早くて、傍《はた》を鼓舞して猛進する男です。
はやとり
(進み出づ。)
官軍の勇気には、
分捕熱も加わらなくてはいけません。
偽《にせ》皇帝の贅沢な幕の中を、
皆に目当にさせるが好《い》い。
もう長くは椅子の上で、きゃつも息張ってはいられまい。
どれ、その隊の先頭に立ちましょう。
陣中の女商人はやえ
(はやとりに寄り添ふ。)
わたしこの方《かた》のお上さんにはなっていないが、
やっぱりこの方が一番好《すき》な人なのよ。
わたし達の取《とり》入《いれ》をする好い秋が来たのね。
女は握るときは凄いもので、
取るに遠慮はしませんわ。
勝軍にはいつも先へ出てよ。どんな事でも出来るから。
(二人退場。)
上将軍
兼ねて予期していた通《とおり》、敵の右翼は我左翼に
猛烈に衝突して来た。あの狭隘の岩道を
是非取ろうとして奮進する敵兵に、
身方は一人々々抗抵するに違ない。
ファウスト
(左の方を揮《さしまね》く。)
そこでどうぞこの男もお見《み》知《しり》置《おき》を願います。
強い物に強い物の加わるのは、損のない道理ですから。
かたもち
(進み出づ。)
左翼に御心配はありません。
どこでもわたしがいさえすれば、持った物は亡くさない。
昔の話にある通《とおり》、稲妻の火が落ちて来ても、
わたしの持った物は放しません。(退場。)
メフィストフェレス
(上の方より降り来る。)
さあ、御覧なさい。あの背後《うしろ》の方で、
どのごつごつした岩穴からも、
武装した兵隊が押し合って出て来て、
元から狭い山道を一層狭くしています。
甲冑に、太刀と盾とで、
身方の背後に石垣を築《つ》いて、相図をすれば打って出る
用意をして待っています。
(小声にて解事者等に。)
どこから連れて来たなんぞと、野暮を言うのじゃありませんよ。
無論わたしはぐずぐずせずに、
あたり近所の甲冑蔵をさらけ出した。
あれでも徒《か》歩《ち》立《だち》もあり騎馬もあり、
まだこの世の物らしい風をして蔵の中に立っていた。
昔は騎士だ、帝王だと云っていたのだが、
今は蝸《でで》牛《むし》の殻ばかりだ。
その中へ色々な怪物が潜り込んで、支度をして、
中昔をそのままに、蘇らせて見せるのだ。
中《なか》実《み》は悪魔の小僧でも、
この場はやんやと云わせるのだ。
(声高く。)
御覧なさい。打ち合わぬうちから勇気を出して、
急《せ》きあって、金《かな》物《もの》をからから云わせています。
旗竿に結んだ旗のちぎれも、爽かな風に
吹き靡《なび》けて貰いたがって、あんなにじれています。
昔の勇士が今様の戦争に出たがって、
待ち構えているのだから、どうぞ察して遣って下さい。
(上の方より恐ろしき金笛の音聞ゆ。敵軍たじろく。)
ファウスト
地平線は暗くなった。
ただここかしこに意味ありげな
赤い火の光が見えるばかりだ。
もう刃が血に染まって光っている。
岩も、森も、吹く風も、
大空さえも我軍を助けるのだ。
メフィストフェレス
右翼はしっかりこたえている。
中にも目立って見えるのは、あの素早い大男の
喧嘩坊のハンス奴が、
あいつの流義で働いているのだ。
最初は腕をただ一本振り上げたと思ったが、
もう十二本も振り廻している。
只事ではないな。
ファウスト
あのシチリアの海岸に立つと云う
霧の話をお聞《きき》になったことはありませんか。
あそこでは昼の空に清くゆらいで、
丁度空《そら》の中程の高さに、
特別な蒸気に映って、
不思議な影が見えまする。
市街が見えたり隠れたりする。
庭園が浮いたり沈んだりする。そう云う画《え》図《ず》が次々に、
《こう》気《き》を穿《うが》って出て来ます。これも同じわけです。
しかしいかにも心許ない。どの長い槍の尖も、
皆稲妻のように光って見える。
殊に身方の部隊の槍は、穂尖から穂尖へと、
小さいが忙しげに飛んでいる。
余り怪物臭いじゃないか。
ファウスト
お免《ゆるし》下さい。あれは過ぎ去った
霊なる物の名残です。
航海者の皆祈誓を掛ける
ジオスコロイの同《はら》胞《から》の火です。
あれが今霊験の限をここで見せるのです。
しかし自然が己達に対して、
不思議の限を見せるのは、
誰の為《し》業《わざ》か、それが聞きたい。
メフィストフェレス
別な人ではありません。
殿様の御運を胸に蓄えている、あの尊い先生です。
余りきびしい迫害を、敵が御身に加えるので、
先生は心からおこっています。
よしや自分の身は棄てても、あなたを助けて
御高恩に報いたいと云っているのです。
そう云えば、いつか人民が讙《かん》呼《こ》して、己を連れて廻ってくれた時、
己も己の威勢を験《ため》して見たいと思ったので、
好《よ》い機会と見て、思案もせず、
あの親爺の白鬚に涼しい風を送ったまでだ。
無論坊主共は慰《なぐさみ》をし損ねて、
あれからは己の事を好く思わなくなった。
それに何年も立ってから、
あの時喜んでした事の報《むくい》に、今ここで逢うのかなあ。
ファウスト
心から出た善行の報《むくい》は次第に大きくなります。
どうぞ一寸上の方を御覧下さいまし。
今先生が何か相図をせられそうです。
お気をお附《つけ》なさいまし。今それが現れます。
や。空高く舞う鷲の跡を、すさまじい勢で
グリップス鳥が追い掛けおる。
ファウスト
気を附けて御覧なさい。善兆です。
昔話にばかり聞く
グリップス鳥の分際で、
まことの鷲と戦うとは。
今は大きい輪をかいて、二羽が覗い寄っている。
それと見る間《ま》に
もう双方から飛び附いて、
頭や胸を掻き裂こうとする。
ファウスト
御覧なさい。あの笑止なグリップス奴は、
引っ掻かれ、引っ裂かれ、身を傷《そこな》うばっかりで、
とうとう獅子の尾を垂れて、
あの絶頂の森の中へ飛び込んでなくなりました。
なるほど、お前の判断する通《とおり》かも知れぬ。
不思議ではあるが、さもあろうか。
メフィストフェレス
(右に向きて。)
数度の突撃が功を奏して、
敵は余儀なく退却します。
まだ覚束ない抗抵を試みながら、
右へ右へと崩れ掛かり、
その乱戦の結果として、
主力の左翼に混乱を来します。
我部隊の、堅固な前列は
右に方《ほう》嚮《こう》を転ずるや否や、
電光の如くに敵軍の虚に附け入ります。
あれ、双方の大軍が、
暴風《あらし》に打たれる波のように、
火花を散らして奮闘します。
これより花々しい軍は想像にも及びません。
この会戦には勝ちましたね。
(左側にてファウストに。)
あれを見い。あそこが己には心許ない。
あそこの我拠点がどうもあぶない。
礫の飛ぶのも見えぬ。
低い岩には、もう敵が上《のぼ》っている。
上の岩はもう身方が棄てた。
あ、今だ。敵の一団が
次第に肉薄して来た。
もうあの狭隘を取ったかも知れぬ。
祝福のない努力の結果はこれか。
お前方の奇術も徒労であったぞ。
(間。)
メフィストフェレス
はあ。あそこへわたしの二羽の鴉《からす》が来ました。
なんの便《たより》を持って来たやら。
悪い知らせでなければ好《い》いが。
笑止な鳥奴。何をする気か。
あの岩の上の激戦の中から、
黒い帆を揚げてこっちへ来おる。
メフィストフェレス
(鴉等に。)
さあ、己の耳の側へ来て止《と》まれ。
お前の保護してくれるものが、滅びると云うことはない。
お前の献策は道理に《かな》っているからな。
ファウスト
(帝に。)
鳩と云う鳥が、餌を貰い子を育てる巣へ、
遠い国から帰ることは、
あなたも聞いておいででしょう。
ここに大事な差別があります。
平和に鳩の便があれば、
軍には鴉の使があります。
メフィストフェレス
これは重大な悲報に接しました。
あの岩角で我勇士が
難儀しているのを御覧なさい。
手近な高地はもう敵が占めました。
あの狭隘が敵手に落ちると、
身方の立場は困難です。
やはり己は騙されたのか。
お前方は己を網に入れた。
その糸が身に絡《から》むのを、己は気味悪く思っているのだ。
メフィストフェレス
御落胆なさいますな。まだ敗北はいたしません。
耐忍と機智とは結局まで入用です。
末になって来ると、事情は切迫するものです。
わたくしは慥《たし》かな斥候を持っています。
命令権をわたくしにお授《さずけ》下さい。
上将軍
(この隙に歩み寄る。)
この人達と御結托なされたのを、
わたくしは疾《と》うから心配していました。
幻術では堅固な幸福は得られません。
もうこの戦況を一転する策はない。
為《し》始《はじ》めた人が片を附けるが好《よ》い。
わたくしは指揮の杖をお返し申しましょう。
いやまた好運の向いて来ることもあろうから、
それまで杖はあずかって置け。
己はあの忌々しい情報や、
この男の鴉《からす》附《づき》合《あい》が厭《いや》でならぬ。
(メフィストフェレスに。)
どうもお前に杖は遣られぬ。
お前は適任の男ではなさそうだ。
だが命令はしても好い。救われるものなら救ってくれ。
まあ、どうにかなるようになる事だろう。
(上将軍と共に帷幄の中へ退場。)
メフィストフェレス
そんならあの鈍い棒に身を護って貰うが好《い》い。
己達にはあんな物は余り役に立ちそうでない。
なんだか厭に十字架に似ているて。
ファウスト
そこでどうする。
メフィストフェレス
もうする様にしてあります。
さあ、黒い従弟《いとこ》共、急用だ。お前達は山の大《おお》湖《みずうみ》に往って、
ウンジネに己から宜しくと云って、
水の影を借りて来てくれ。
なかなか学びにくい女の奇術で、
あいつ等は物の体《たい》と影とを分けて使う。
所で誰が見てもその影を体《たい》だと思うから妙だ。
(間。)
ファウスト
あの鴉共が水の少女《おとめ》に
心《しん》からお世辞を言ったと見えるな。
あれ、もうあそこへ流れて来出した。
方々の水《みず》気《け》のない兀岩の上に、
たっぷり泉の早瀬が涌く。
敵の勝利ももう駄目だ。
メフィストフェレス
随分意外なお待受ですから、
どんな大胆な登《のぼり》手《て》も途方に暮れるでしょうて。
ファウスト
もう一本の小《こ》川《がわ》が何本にもなって、勢強く流れ落ちる。
谷間に隠れては、倍の水《みず》嵩《かさ》になって出て来る。
一本の滝になって、弓なりに落ちる。
それがまた忽ち平《たいら》な、幅広な岩の上に広がって、
しぶきを飛ばして、あらゆる方角へ流れて、
段々になって谷底へ落ちて来る。
大胆に男らしく抗抵した所で、なんになろう。
大波が押し流そうとして寄せるのだから。
こうひどく溢れて来ては己までがぞっとする。
メフィストフェレス
わたしなんぞにはその水の贋《にせ》物《もの》は丸で見えません。
騙されるのは人間の目だけだ。
わたしはこの不思議な出来事が面白くてなりません。
やあ。群になって逃げ出しますね。
馬鹿共は水に溺れるかと思うのだ。
陸《おか》にいるのに、為《し》方《かた》で、水を吹き出す真似をして、
滑稽な、泳ぐような身振をして駈けている。
もう全軍の騒《そう》擾《じよう》になった。
(鴉等再び来る。)
お前達の事を大先生の所で褒めて遣る。
だがここで自分が先生になって遣って見る気なら、
これから火を焚いている鍛冶屋へ往け。
あの一寸坊共が、草臥《くたび》れると云うことなしに、
金や石を赤く焼いて敲《たた》いている所なのだ。
そして随分念の入った口上を言って、
黒《くろう》人《と》の消さずに焚いているような、
ぴかぴか光る、ぱちぱち鳴る火を所望して来るのだ。
遠い空の稲妻や、
一番高い所から瞬く隙に落ちる星は、
夏は毎晩見られもしよう。
だが木立の茂みの中で稲妻がしたり、
湿った土に打《ぶ》っ附かって星がしゅっと云うのは、
そうめったには見られまい。
そこでお前達、何も大して面倒を見なくても好《い》いが、
最初は丁寧に頼んで見て、それから出せと指図するのだ。
(鴉等退場。白《せりふ》の通の事共実現す。)
メフィストフェレス
敵は目の前が真っ暗だ。
一足踏むのも心許ない。
どこの隅にも鬼火が燃える。
出し抜けに目《ま》映《ばゆ》い光物がする。
そこいらは皆至極好い。
この上何かこわい音でもさせようかな。
ファウスト
あの蔵の穴から出されて来た空洞《うつろ》な武具が、
外《そと》の風に当って気丈夫になったと見えて、
あそこの高い所で、さっきからがたがたかちゃかちゃ、
不思議な怪しい音をさせているなあ。
メフィストフェレス
そうです。もう止《と》めても止《と》まりませむ。
結構な昔の世に戻ったように、
騎士らしく打って廻る音が、もうここへ聞えますね。
籠《こ》手《て》やら脛《すね》当《あて》やらが、
ゲルフェンになり、ギベルリイネンになって、
永遠な闘《たたかい》を繰り返す。
先祖から受けた習慣で、頑強に遣っていて、
媾話なんぞは誓ってしない。
もう物音が大ぶ広がって来た。
悪魔の手伝う催しは皆そうだが、
しまいに功を奏するのは党派の憎《ぞう》悪《お》で、
止《とど》めを刺すまでそいつを息《や》めないのだ。
なかなか気持悪く、人に驚慌を起させるように、
どうかするとまた大袈裟に、悪魔らしく威して、
物音を谷々へ響き渡らせますね。
(奏楽団の初め戦争の騒擾を学びたるが、終に晴やかなる軍楽の音に変ず。)
僭帝の帷《い》幕《ばく》
玉座。奢《しや》侈《し》なる周囲の装飾。
はやとり。はやえ。
はやえ
とうとう一番先へここへ来たのね。
はやとり
己達より早くは鴉《からす》にも飛べまいよ。
はやえ
まあ、好《い》い物がうんとあるわねえ。
どれを先に取ろうかしら。どれを跡にしようかしら。
はやとり
ほんに幕の中に一ぱいあるのだから、
己にもやっぱり手が著かない。
はやえ
この敷物なんか丁度好《い》いわ。
わたしどうかすると随分ひどい所《とこ》に寝るのだから。
はやとり
ここに鋼鉄《はがね》で宵の明星が拵えてある。
己はとうからこんな物が欲しかったのだ。
はやえ
この金糸で縁を取った緋の引廻しね、
こんなのが疾《と》うから欲しかったわ。
はやとり
(武器を手に取る。)
こいつはこれで重宝だぞ。
人を敲《たた》き切って置いて、先へ出られる。
お前もう随分たくし込んだが、
まだ何一つろくな物は取らないなあ。
そのがらくたはそこに置いて、
この箱を一つ持って行け。
これは兵隊に払う給金で、
中《なか》実《み》は金貨ばっかりだ。
はやえ
まあ、恐ろしく重いこと。
わたしには持ち上がらないわ。
はやとり
早くしゃがめよ。しゃがむのだよ。
己が背中へ背《し》負《よ》わせて遣る。
はやえ
おう痛。わたしもう駄目よ。
重くて腰が折れそうだわ。
(箱転がり落ち、蓋開く。)
はやとり
見ろ。金貨が一ぱいだ。
早く取らねえか。
はやえ
(蹲《うずくま》る。)
早くこの前掛にしゃくい込んでおくれよ。
この位持って行けばかなりあるわねえ。
はやとり
それが好《い》い好い。早くしろよ。
(女立ち上がる。)
や、大変。前掛に穴が開《あ》いているぜ。
立っている所《ところ》にも、歩いて行く先にも、
お前金《かね》をばら蒔《ま》いているじゃねえか。
我帝の護衛等
この大切な場所で何をしている。
お手元金になぜ手を著ける。
はやとり
なに。こっちは体を売物にして出たのだから、
勝利品の割前を貰うのです。
敵の天幕に来れば、これは極《き》まりだ。
こっちもやはり兵士だから。
護衛等
いや。そんな奴は我々の仲間には向かぬぞ。
兵士と盗坊とは兼ねられぬからな。
こっちの殿様の方へ来るものは、
正直な軍人でなくてはならぬ。
はやとり
所が正直と云う奴は分かっていらあ。
すぐに徴発と来るのだ。
お前さん達だって一つ穴だ。
「よこせ」と云うのが仲間の挨拶だ。
(はやえに。)
往けよ。持っている物は引き摩って行くのだ。
ここでは己達はもてないからな。(退場。)
第一の護衛
おい。なぜすぐにあいつの横っ面《つら》を
ぶんなぐって遣らないのだ。
第二の護衛
なぜだか己は力が抜けて手が出せなかった。
変に怪物臭い奴等だから。
第三の護衛
己もなんだか目の前に
火花が散るようで、好く見えなかった。
第四の護衛
己もなんと云ったら好《い》いか知らんが、変だよ。
きょうは一日厭《いや》に暑くて、何やら気になるように、
息が詰まるように蒸々《むしむし》していた。
平気で立っている奴がある。遣られて倒れる奴がある。
手《て》探《さぐり》で歩きながら人を切る。
刀を一振振る度に、敵は倒れる。
目の前には霧が掛かっているようで、
耳はがんがん鳴っている。
始終そんな風で、とうとうここへ遣って来たが、
どうして来たのか、自分にも分からないのだ。
帝と四諸侯と登場。
護衛等退場。
どうしてこれがこうなったにしても、兎に角会戦には勝った。
逃げた敵はもうちりぢりに野原に散らばった。
玉座は空しく残っていて、絨緞にくるまれながら、
微《ほの》かに見える宝物が所《ところ》狭《せ》きまで置いてある。
己達はここで立派に身方の護衛を随えて、帝王の威厳を以て、
県々《あがたあがた》の使者を待ち受けるのだ。
どの方面からも好い便《たより》が来る。
国内は平穏になって、民は帰服したそうだ。
よしや戦争に幻術が手を貸したとしても、
詰まり戦うことは自分で戦ったのだ。
昔から偶然の事が軍隊の助《たすけ》になったことは往々有る。
隕《いん》石《せき》がある。敵陣の上に血が降る。
身方を鼓舞して、敵の心をひるまする
怪しい物音が岩穴からした例《ためし》もある。
敗者は殪《たお》れて、謗《そしり》は必ず下流に帰し、
勝者は栄華を受けて、助くる神を称《たた》う。
命令を須《もち》いずして、万民信服し、
異《い》口《く》同《どう》音《おん》に「神よ我等汝を称う」と呼ぶ。
しかし今まで己は忽《ゆるかせ》にし勝《がち》であったが、敬虔な目を
今我胸に注いで、ここに最高の価値を認める。
年若な、気軽な君主は徒《いたずら》に日を送りもしょうが、
年を取っては重大な、刹那々々の意義を考える。
だから己は今すぐに、お前達四人の元勲と、
《こん》内《だい》外一切の事を掟てようと思う。
(第一の臣に。)
侯爵。軍隊の巧妙な部署をしたのはお前だ。
それから機を見て大胆な処置に出《で》たのもお前だ。
以後は平時相応な事業をお前に托する。
お前を式部卿にして、この刀《とう》をお前に授ける。
式部卿
今まで国内に働いていた、忠実な軍隊が、
玉体と御《み》位《くらい》との固《かため》に、疆《さかい》を安く戍《まも》る上は、
代々お住まいなさる広い城の大広間で、祭の日に
御膳部の用意をいたすことをお許《ゆるし》下さいまし。
清浄にして献上し、清浄にお給仕をいたして、
尊いお側を離れませぬ。
(第二の臣に。)
次には天《あつ》晴《ぱれ》の勇士であって、しかも優美に、おとなしい
お前を侍従長にする。これは容易な役ではない。
お前は宮中一切の職員の頭《かしら》だ、好く和合せぬと、
職員が己の役に立たぬ。主君にも、同僚にも、
誰にも気に入るようにして、これからお前
職員一同の模範になってくれんければならぬ。
侍従長
善人をば助けて遣り、悪人にも害を加えず、
その上潔白で欺かず、沈著で偽らなかったら、
上《かみ》の御意図に副《かな》うわけで、必ずお気に入りましょう。
ただこの胸の中をお見《み》抜《ぬき》下されば、それだけで満足いたします。
お祭の日の事まで想像いたして宜しゅうございましょうか。
あなたが食卓にお就《つき》になれば、
わたくしは金《きん》のお盥の耳を持っていて、お楽《たのしみ》の央《なかば》に
折々お手をお滌《すすぎ》なさる時、お顔を拝して喜びましょう。
いや。己は今重大な事を思っていて、祭の事は
考えぬが、それは宜しい。それも務《つとめ》の励《はげみ》になる。
(第三の臣に。)
次にお前には光禄卿を申附ける。猟の事、鳥《と》屋《や》、
菜《さい》園《えん》の事は、今後お前に受け持たせる。
月々出来る物の中で、好《すき》な物を選《よ》ることは
己に任せて、料理を旨くさせてくれい。
光禄卿
味の好いものを差し上げて、御賞味あそばすまでは、
わたくしは義務として、何も戴かずにいましょう。
御料の季節を早めたり、遠方の品を取り寄せたり、
厨《くりや》の役人と打ち合せて、油断なくいたしましょう。
尤《もつと》も食卓の飾にする初《はつ》物《もの》や珍《ちん》物《ぶつ》はお好《このみ》なさらず、
滋養になる常の品がお望《のぞみ》だとは存じていますが。
(第四の臣に。)
どうも祭の話は所詮逃《のが》れられぬと見えるから、
次には若い勇士のお前を、良《うん》令にして遣《つかわ》そう。
その役になったからには、好い酒がたっぷりと
いつも穴倉にあるようにいたして置け。
しかし自分は節酒して、うかと機会に誘われて、
酔ってしまわぬようにいたせ。
良令
殿様の御信任さえ受けますると、若い者も、
三日見ぬ間に、立派な男に変っています。
わたくしも一つ大宴会の時を想像いたしましょう。
金や銀の、美しい盃で、なるたけ立派にわたくしが
御殿の食卓を装飾いたしますが、
しかし一番結構なお杯は御用に取って置きましょう。
それは透き徹《とお》ったヴェネチアの玻璃《ビイドロ》で、
中《なか》に楽《たのしみ》が待ち受けて酒を旨くし、酔わせませぬ。
しかしさような宝を手《た》頼《より》にいたすは尋《よの》常《つね》で、
寡欲のお徳はそれに増すお身の備でございます。
この大切な日にお前達に言おうと思った事だけは、
お前達、慥《たし》かな口から、信じて聞いたことだろう。
綸《りん》言《げん》は重いもので、授けた物に相違はないが、
それを確めるには書《かき》物《もの》がいる、印《いん》璽《じ》がいる。
方式に《かな》うように、それを調えて取らする事は、
その司《つかさ》のものが然るべき時にいたすであろう。
(大司祭兼相国《しようこく》登場。)
円天井の建物も、土台の石に重《おもり》を托して、
それで永く崩れずに立っている。
そこにいる四人の諸侯を見い。今差当り内廷を
維持して行くに有利だと思う廉々《かどかど》を話していた。
国内全体の政治に関した事は、これから五人に
しっかりと申し附けて置くことにしよう。
お前達の領分は余《よ》の臣下より立派にしたい。
そこで己に叛いたもの共の地所を併せて、
今直《すぐ》にお前達の領地界を広めて遣《つかわ》す。
お前達には随分結構な土地を遣った上に、
今後譲受、買受、交換の折毎に、
それを広めて行く権利をも授ける。
その外領主として正当に行うはずの廉々は、
故障なく行うように、この場できっと許して置く。
裁判官としては最後の審判をいたして好《よ》い。
その審判に異議は申させぬことにする。
それから賦割、利足、献納物、道銭、租金、税金から、
塩や鉱産物の専売、貨幣の鋳造まで、皆差し許す。
これは己の感謝の意を十分に表するために、
帝位の次に引き上げたお前達であるからだ。
大司祭
一同に代って厚くお礼を申し上げます。
我々を強く堅固になさるのも、詰まり王室のお為《ため》でござります。
まだお前達五人に托する一層重い事がある。
現に己は生きていて、これからも生きていたいが、
祖宗歴代の鎖《くさり》は、落ち著いた己の目を、
邁《まい》往《おう》の衢《みち》から畏敬の道へ呼び戻す。
己もいつかは親族に別れずばなるまい。
その時は、お前達、己の世《よ》嗣《つぎ》を選んでくれい。
宝冠を戴かせた上、贄《にえ》卓《づくえ》に登らせて、
騒がしかった世の末を、太平に結んでくれい。
相国
誇《ほこり》を深い胸に蔵め、敬《うやまい》を色に表《あらわ》して、
人臣の最上たる諸侯がお前《まえ》に拝伏します。
忠義の血がこの脈を漲《みなぎ》り流れておりまする間は、
我々は君の意志で働く、一つの体《からだ》でござります。
そこで最後に言って置くが、これまで申し渡した
一切の事は、追って書《かき》附《つけ》にして、親署して遣《つかわ》す。
総てお前達の所有物は自由に処理して宜しいが、
分割することはならぬ。それが唯一の条件だ。
また己に貰った物を、どれだけ殖やしていようとも、
それをそのままお前達の嫡子に譲って遣って好《よ》い。
相国
国家の栄《さかえ》、我々の栄のため、大切なお定《さだめ》を、
直《すぐ》様《さま》、謹んで記録に留めまして、
浄書、封《ふう》緘《かん》は記録所で扱わせます。
どうぞ御親署を遊ばして下さりませ。
それでは一同暇を取らせる。大切な日であるから、
銘々この場を引き取って、内省いたしているが好《よ》い。
(世俗の四諸侯退場。)
大司祭
(一人残りて、荘重に言ふ。)
相国は引き取りましても、大司祭は残りました。
あなたのお耳に入れたい諫《いさめ》の情に駆られまして、
父のような心がお身の上を気遣うのでござります。
この喜《よろこび》の日に何の気《き》遣《づかい》があるのか。それを申せ。
大司祭
こう云う日に、神聖な、あなたのお心が、
悪魔と結托しておいでなさるのを、いかにも苦痛に存じます。
無論見《み》掛《かけ》は御《み》位《くらい》が安全なようでござりますが、
惜むらくは主《しゆ》や法王の祝福がおありなさりません。
法王がもしお聞《きき》になったら、すぐに神聖な御権威で、
罪の深いこの国をお罰しになりましょう。
あなたが戴冠式の日に、今殺そうと云う悪魔師を、
お救《すくい》になったことを、法王はまだお忘《わすれ》にはなりませぬから。
お冠から出た、特赦の第一の光は、
クリスト教世界に危害を与え、咀《のろ》われた人の頭《こうべ》に落ちました。
どうぞお胸にお問《とい》になって、擅《ほしいまま》に受けられた
この幸福の一分を,ロオマへお返しなさりませ。
あの悪魔がお身方をしに出て参って、
あなたが偽貴族の甘い詞《ことば》をお聴《きき》納《いれ》になった時、
あなたの帷幕の張ってあった、あの一帯の丘陵を、
過を悔いて、敬虔に、ロオマへ御寄附なさりませ。
山や茂った森の広がっている限、
肥えた牧場になっている高地も、魚の多い、澄んだ湖水も、
迂《まが》りながら急いで谷に灌《そそ》ぐ、無数の小《こ》川《がわ》も、
下の牧場や、原や、谷《たに》合《あい》になっている、広い低地も、
そっくり御寄附なさりませ。そうなされたら、お詫がって、
お赦免になるでございましょう。
いや。思い掛けぬ失錯を教えられて恐《きよ》懼《うく》に堪えぬ。
寄附の地所の境界は、お前勝手に極《き》めてくれい。
大司祭
先ず取り敢えず、あの罪悪の場所であった、
咀われた土地を、なるべく早く、尊い祭の場所にすると、
御沙汰をなされて下さりませ。厚い石壁が忽《たちま》ち聳え、
歌《か》者《しや》の座に朝日がさし込み、段々建て添えられる寺院が
十字形に広がり、信者のいる中の間《ま》が延び、高まり、
歓喜する信者の群が、
熱心に立派な門から籠み入って、
天に聳立つ塔の上から、鳴り響く第一の鐘の音が、
山にも谷にも聞え渡り、再造の恩が受けたさに、
懺《ざん》悔《げ》の民が寄って来るのが、もう心に浮んで来る。
どうぞこの霊場の落成の日に早く逢いたい。
上《かみ》の御臨場が当日の最大の光栄でござりましょう。
なるほど神の徳を称え、己の罪障を消滅させるには、
そんな大工事で、真心を広く知らせるも好かろう。
好《よ》い。己の心の澄んで来るのが、もう分かるようだ。
大司祭
御決裁と文書の作成とを、相国としてお願申します。
その寄附の合式証書をお前作って、己の前へ持って来い。
己は喜んで署名をいたして遣《つかわ》す。
大司祭
(暇乞して起ち、出口にて顧みる。)
さて追って出来上がりまする寺院には、
十分《ぶ》一金、利足金、上納金なんど、一切の租税を、
永遠に御免除下さりませ。立派に維持してまいるにも、
綿密に経営いたすにも、大した費用が掛かります。
かような荒地へ、至急に工事をいたすには、
戦利品の財宝を多少お下《さげ》渡《わた》し下さりませ。
その外遠方の材木、石炭、スレエトなんぞを使うと申すことも、
申し上げずには置かれません。
運搬だけは、説教いたして、人民に負担いたさせます。
冥加《みようが》のために運んで来て、祝福を受けるのでござります。
(退場。)
いや。己の身に負った罪は重くて大きい。
風来の魔法使奴が己にえらい迷惑を掛けおった。
大司祭
(また帰り来て、最敬礼を行ひつゝ。)
今一つ申し上げます。あの評判の悪い男に、
全国の海岸をお遣《つかわ》しになりましたね。
あそこの十分《ぶ》一金、利足金、上納金、一切の租税も、懺悔の思召で、
寺院へ御寄附なさらぬと、あの男が寺院の罰を受けます。
(不機嫌に。)
あれはまだ海の底で、土地にはなっていないのだ。
大司祭
権利を戴いて忍耐していれば、時節が参るのでござります。
お詞は有功だと、わたくし共は心得ておりましょう。
(退場。)
(一人残る。)
あの様子では国を皆遣っても満足はすまいなあ。
第五幕
開《かい》豁《かつ》なる土地
旅人
うん。あれだ。あの勢の好い、
茂った古木の菩提樹だ。
こんな長旅をして来て、
またあれを見ることか。
波風に、あの沙《すな》原《はら》へ
打ち上げられた時、
己を舎《やど》してくれたのはあの小《こ》屋《や》だ。
これが昔の場所なのだ。
実に祝福して遣りたい主人《あるじ》であった。
人を助けることの好《すき》な、正直な夫婦だった。
しかしあの時もう大ぶ老人であったから、
もう再会することは出来まい。
ああ。ほんに敬虔な人達であったなあ。
戸を叩こうか。呼んで見ようか。おい。
今も猶《なお》客を好んで、積善の余慶を受けているなら、
己の挨拶を聞いてくれい。
媼《おうな》バウチス
(甚だ老いたり。)
お客様。お静かになすって下さいまし。
爺《じ》い様を休ませて下さいまし。
年寄は長く寐なくてはちょいと寤《さ》めている間に、
しっかり働くことが出来ませぬ。
旅人
おばさん。昔御亭主と一しょに、
若いものの命を助けて下さったのは
あなたですか。その時のお礼を
聞いておもらい申したいのですが。
半分死んでいた、わたしの口を、
まめに養って下さったバウチスさんはあなたですか。
(翁登場。)
わたしの荷物を、骨を折って、波間から
引き上げて下さったフィレモンさんはあなたですか。
あの恐ろしい、不慮の事の跡始末は、
あなた方に、あなた方の所の
手早く焚き附けた火の光に、
白《しろ》金《がね》のように鳴った鐘の音に任せてあったのだ。
そこでわたしに今一度外《そと》へ出て、
あの果《はて》のない海を見渡させて下さい。
わたしに据わって祈祷をさせて下さい。
わたしは胸が一ぱいになっているから。
(旅人沙原に歩み出づ。)
翁《おきな》フィレモン
(媼に。)
晴やかに花の咲いている、あの庭へ
急いで食卓の用意をおし。
お客は走り廻って、驚いていても好《い》い。
目で見ながら、不思議に思っているのだから。
(旅人の傍に来て立つ。)
荒波がしぶきを飛ばして、
お前さんをひどい目に逢わせた海が、
花園のようになっているのが見えますでしょう。
天国のような画《え》図《ず》になって見えるでしょう。
わたしも年を取って、もう昔のように手ぐすね引いて
人を助けようとしてはいられませんが、
わたしの力の衰えるに連れて、
波も遠く沖の方へ引きました。
賢い殿様の、大胆な御家《け》隷《らい》衆が、
溝を掘って、土手を築《つ》いて、
海の権力を狭めて、
代って主《ぬし》になろうとせられます。
並んで緑に栄える牧場や、草苅場や、
畑や、村や、森の出来たのを御覧なさい。
だが早くあちらで何か上がって下さい。
もう今に日が入ってしまいます。
あのずっと遠くに帆が見えていますね。
夜《よる》泊まる港を捜しているのでしょう。
鳥だって塒《ねぐら》は知っていますから、
今あそこに出来ている港をさして行くのでしょう。
あの遠くに青い縁《へり》の見える、
あそこがやっと海なのです。
右も左も、広い間《あいだ》が
皆賑やかな人里になっています。
(庭にて三人卓を囲みて坐す。)
なぜあなたは黙っていて、お中《なか》が透いていましょうに、
一口も物を上がりませんか。
あの不思議な話が聞きたいと仰ゃるのだ。
話の好《すき》なお前が言ってお聞せ申すが好《い》い。
そうですね。奇蹟だとでも申しましょうか。
今になってもわたくしは気が鎮まりません。
どうもあの出来事は
正《しよう》当《とう》な事ではございませんからね。
でもこの海岸をあの方《かた》にお授《さずけ》になったお上《かみ》が、
なんで罪の深い事をなされよう。
その御沙汰はお使《つかい》が鳴物を鳴らして触れて
この家の前をも通ったじゃないか。
工事に手を著けられた場所は、
この沙原から遠くない所でございました。
天幕や小屋が最初に出来ましたが、
間《ま》もなく草《くさ》木《き》の緑の中に、立派な御殿が立ちました。
昼《ひる》間《ま》は御家隷達が鋤鍬を使って、
無駄に騒いでばかりお出《いで》になるようでしたが、
夜《よる》沢山火が燃えていた跡に、
翌日は立派に土手が築《つ》いてございました。
牲《にえ》にせられて血を流した人達があったとかで、
夜《よる》苦しがって泣く声がいたしまして、
海の方へ火が流れて参ったと思いますと、
朝はそこが溝になっておりました。
不人情な檀那で、この小屋や地面を
欲しがってお出になります。
隣で息《い》張《ば》っていらっしゃるので、
こちらではただ恐れ入っていなくてはなりません。
でもこの地面の代《かわり》に、新しく拓いた土地の
立派な場所をくれようと仰ゃったのだ。
あんな海であった土地を頼《たのみ》におしでない。
やはりこの高い所を持ちこたえている事ですよ。
さあ、みんなでお堂《どう》へ這入って
夕日の名残を惜みましょう。
そして鐘を撞いて、据わって、お祈《いのり》を上げて、
昔からの神様にお縋《すがり》申しましょう。
宮殿
広き遊苑。真直に穿《うが》ちたる大溝《こう》渠《きよ》。
老いさらぼひたるファウスト沈思しつゝ歩めり。
望楼守リンケウス
(通話筒にて話す。)
日は入り掛かる。
遅れた舟が面白げに港に這入って行く。
大きな舟が一艘、
掘《ほり》割《わり》をこちらへ来掛かっている。
彩《いろど》った旗が心地好く靡《なび》いて、
強い檣《ほばしら》がいつでも用に立つように聳えている。
お前に乗り込んでいる船長は嬉しい事だろう。
福《ふく》がお前を待ち兼ねているだろう。
(沙《すな》原《はら》にて撞く鐘の声す。)
ファウスト
(耳を欹《そばだ》つ。)
また咀《のろ》われた鐘の音《ね》がする。
不意に矢を射掛けるように、ひどく己を傷《きずつ》けおる。
目の前には己の領地が果《はて》もなく横わっているのに、
背後《うしろ》からは懊《おう》悩《のう》が己を揶揄《からか》う。
物《もの》妬《ねたみ》の声がこんな事を思い出させる。
己の立派な領地は不浄だ。
あの菩提樹の岡、茶いろの家、朽ちそうになった、あの寺は
己のではないと思い出させる。
保養にあそこへ行って見ようと思うと、
余所々々しい影が己に身《み》顫《ぶるい》をさせる。
あれは目に刺された刺《とげ》、足の蹠《うら》の刺《とげ》だ。
ああ。こんな所にはもういたくない。
望楼守
(同上。)
あの彩った舟が、
爽かな夕風に気持好く帆を揚げて近寄ること。
どんなにか堆《うずたか》く、大箱、小箱、嚢などを積み上げて、
急いで持って来るだろう。
外国の産物を、豊富に、雑駁に積みたる華麗なる舟。
メフィストフェレス。三人の有力者。
合唱の群
それ、陸《りく》揚《あげ》だ。
それ、もう著いた。
わが保護者に、
わが主《しゆ》に幸《さいわい》あれ。
(陸に上りて、荷を陸に運ぶ。)
メフィストフェレス
これで運《うん》験《だめし》をしたと云うものだ。
檀那さえ褒めてくれれば、万歳だ。
たった二艘の舟で出て、
二十艘にして港へ帰った。
大した為《し》事《ごと》をしたと云うことは、
積荷を見れば分かるのだ。
自由な海は人の心を解放する。
思案なんぞを誰がしているものか。
なんでも手ばしこく攫《つか》むに限る。
肴も捕《と》れば舟も捕る。
舟三艘の頭《かしら》になると、
四艘目の舟も、鉤索で引き寄せる。
お気の毒だが、五艘目も助からない。
暴力のある所に正義は帰する。何を持っているかが問題だ。
どうして取ったかは問題にならぬ。
舟《ふな》軍《いくさ》と貿易と海賊の為《し》事《ごと》とは、
分けることの出来ない三一同体だと云うのが《うそ》なら、
己は航海業の白人《しろうと》だ。
三人の有力者
礼も言わねば挨拶もせぬ。
挨拶もせねば礼も言わぬ。
檀那に臭い物でも
持って来て上げたようだ。
檀那は厭《いや》な
顔をなさる。
王者の獲《えもの》も
お気には入らない。
メフィストフェレス
此上御褒美を貰おうと
思っているなら、間違だ。
てんでに取るだけの物は
取っているじゃないか。
有力者
あれはその折々の
退屈凌ぎだ。
割前は平等にして、
もらわなくては。
メフィストフェレス
何より先に
宝《たから》物《もの》を
上《うえ》の座敷々々に
並べるのだ。
そこで檀那が数々の品物を、
お出になって御覧になって、
そこで一々何もかも
精しく当って見なさるが、
なかなかごまかさせては
お置《おき》なさらぬ。
さてその上で乗組員に
御馳走は何度もあるのだ。
五色の鳥はあした来る。
その世話は己がしっかり引き受ける。
(荷物を運び去る。)
メフィストフェレス
(ファウストに。)
あなたは顔を蹙《しか》めて、陰気な目をして、
優《すぐ》れた好運の話をお聴《きき》取《とり》になりますね。
雄大な智謀が功を奏して、
岸と海との和親は成就した。
岸を離れる舟を、海は喜んで引受けて、
脚早く遠方へ持って行く。
ここにいる、この御殿にいる、あなたの手が
全世界を抱擁しておいでになると仰ゃっても好《い》い。
最初手を著けたのはこの場所でした。
ここに始て小屋掛をしました。
そしてあの時溝を掘った所に、
今は忙しい艫《ろ》が波を切っています。
あなたの智略と、御家《け》隷《らい》の骨折とで、
水と土《つち》との利を収めたのです。
丁度ここから。
ファウスト
そのここが咀《のろ》われている。
それがひどく己を悩ましているのだ。
気の利いたお前に己は打明けるが、
それが己の胸を断えず刺して、
もう辛抱が出来なくなった。
どうも口に出すのも恥かしい事だ。
実はあの岡の上にいる爺《じじ》婆《ばば》を逐い除けて、
あの菩提樹の蔭に己は住みたい。
あの何本かの木が我物でないのが、
世界を我物にしている己の興を損ずる。
己はあそこから四方を見渡されるように、
枝から枝へ足場を掛けさせ、
十分に展望の利くようにして、
己のしただけの事を見渡し、
土着した人民共の安堵するように、
賢く政治をして遣りながら、
未曾有の人為の大功を
一目に眺めていたいのだ。
富を得ていながら、闕けた事を思う程、
苦しい事は世間にない。
あの鐘を聞き、菩提樹の花を嗅げば、
寺の中か、墓の中にいるような気がする。
物毎に自由になる威勢が
あそこの砂に挫かれる。
どうしたらこれを気に掛けずにいられよう。
あの鐘が鳴れば、己は気が狂いそうだ。
メフィストフェレス
そうでしょうとも。そんな気になる事があっては、
面白くなく日をお暮しになるのは当《あたり》前《まえ》だ。
誰も無理とは云いません。あの鐘の音《おと》は、
誰の上品な耳にも厭に聞えます。
あの咀われた、ぼおん、ぼおんが
晴れた夕空をも曇らせて、
産湯から葬式までの、
あらゆる世間の出来事に交って聞える。
まるで人生と云うものが、ぼおんとぼおんとの間の、
消えてしまった夢のようだ。
ファウスト
どうも人の片意地と反抗とが
どんな立派な成功をも萎《いじ》けさせるので、
大きい、恐ろしい苦痛の中に、
正義の心さえ倦み疲れてしまうようになるのだ。
メフィストフェレス
ここでなんの遠慮がいるものですか。
疾《と》っくの昔新開地へお遣《やり》になっても好かったのだ。
ファウスト
そんなら往って、あれを立ち退かせてくれい。
爺婆のために己の見立てた、立派な地所は、
お前、前から知っているはずだ。
メフィストフェレス
なに。そっとさらって行って、据えて置けば、
見返る隙に起き上がっています。
圧制も、受けた跡で、立派な住いを見れば、
我慢が出来るものですよ。
(鋭く口笛を吹く。)
三人の有力者登場。
さあ、来い。殿様の御沙汰がある。
それからあしたは乗組員の宴会だ。
有力者
随分まずいお待受でした。
御馳走位あっても好《い》い。
(退場。)
メフィストフェレス
(見物に。)
やっぱりここでも昔あった事がまたあるのです。
ナボトの葡萄山と云うのがありましたっけね。
深夜
望楼守
(城の望楼にありて歌ふ。)
物見に生れて、
物見をせいと言い附けられて、
塔にこの身を委ねていれば、
まあ、世の中の面白いこと。
遠くも見れば、
近くも見る。
月と星とを見る。
森と鹿とを見る。
万物を永遠なる
飾《かざり》として見る。
そして総てが己に気に入るように、
己自身も己に気に入る。
幸《いわい》ある我目よ。
これまで見た程の物は、
何がなんと云っても、
兎に角皆美しかった。
(間《ま》。)
だが己は自分の慰《なぐさみ》にばかり、
こんな高い所へ上げられているのじゃない。
闇黒の世界から、なんと云う気味の悪い
恐怖が己を襲って来ることだろう。
二《ふた》重《え》に暗い菩提樹の蔭から、
火の子が飛び出して来た。
風に飜《あお》り立てられて
火勢はいよいよ強くなる。
や。あの苔蒸して湿って立っていた、
中《なか》の小屋が燃え上がる。
早く救って遣らんではなるまい。
いや。もう救うことは出来まい。
ああ。不断火の用心を善くしていた、
人の好い老夫婦が、
烟の獲《えもの》にせられてしまう。
なんと云う恐ろしい災難だろう。
《ほのお》が燃え立って、黒かった苔の屋《や》が
火の中に赤く立っている。
あの地獄の猛火の中から
老人達は逃げ延びただろうか。
梢の間から、葉の間から
火の舌が閃き出ている。
枯枝にちょろちょろ火が移って、
すぐに焼けては落ちてしまう。
我目よ。あれを見なくてはならぬか。
己はこんなに遠くが見えなくてはならぬか。
落ちた大枝の重りで、
小さい祠は潰れてしまう。
もう木の頂が、尖ったに、
蛇のように纏《まと》い附かれた。
空洞《うつろ》な幹が根まで焼けて、
真っ赤になって立っている。
(長き間《ま》。歌。)
つね人の目を慰めた
幾百年の樹も滅びた。
ファウスト
(出窓にありて砂原を望む。)
上の方《ほう》から聞えるのは、なんと云う歎《なげき》の歌だろう。
今はあの一《ひと》言《こと》一《ひと》声《こえ》がもう時機に後れている。
望楼守が泣いている。
心の奥で、早まった業《わざ》が己を悩ます。
あの半分炭になった幹には気の毒だが、
こうなれば菩提樹の木立を伐り開いて、
眼界を遮る物のないような
望楼をすぐ立てよう。
己の情《なさけ》に救われた恩を思って
楽しく余年を送る、
老人夫婦の住んでいる
新しい家も、もう目に見るようだ。
メフィストフェレスと三人の有力者と
(下にて。)
大急ぎで遣って来ました。
御免なさい。穏和手段は駄目でした。
戸を叩いても叩いても、
とうとう開《あ》けてはくれません。
懲りずに叩いて、ゆさぶるうちに、
朽ちた扉は倒れました。
大《おお》声《ごえ》でどなったり、ひどく嚇《おど》したりしたが、
どうしても聴きません。
兎角そんな時の習《ならい》で、
聴きもしない、聴こうともしない。
しかしわたし共はぐずぐずせずに、
あいつ等を早速逐い退《の》けて遣りました。
老人共は大した苦みもしませんでした。
驚いて倒れたきり、死んだのです。
旅人が一人隠れていて、
切って掛かりましたから、片附けました。
荒《あら》為《し》事《ごと》をしている、ちょいとの間《ま》に
炭火がそこら中へ散らばって、
藁に移りました。そこで三人が
旨く火葬になるわけです。
ファウスト
己の詞《ことば》が耳に聞えなかったのか。
交換しようとは云ったが、強奪しようとは云わなかった。
無謀な暴挙を己は咀《のろ》う。
責任はお前達が分けて負うが好《い》い。
合唱の群
古い詞が聞えるぞ。
威勢にはすなおに靡《なび》け。
大胆で逆《さから》いたけりゃ、
家も地面も身も賭《か》けろ。
(退場。)
ファウスト
(出窓の上にて。)
星がもう光を隠して、
火も下火になって来た。
風がそよそよと吹いて来て、
烟を己の方《ほう》へ吹き靡ける。
早まって言い附けた事を、早まってした。
や。なんだ。影のような物が来る。
半夜
灰色の女四人登場。
第一の女
わたしの名は不足だ。
第二の女
わたしの名は罪だ。
第三の女
わたしの名は憂だ。
第四の女
わたしの名は艱《なやみ》だ。
三人諸共に
戸が締まっていて這入られませんのね。
中《なか》には金持がいるから、這入りたくもないわ。
不足
そんならわたし影になるわ。
わたしなんでもなくなるわ。
奢っている人はわたしに顔を背けるのね。
お前《まえ》方《がた》は這入られもしないが、這入ってもならないわ。
わたし錠前の穴から這入ってよ。
(憂消え失す。)
不足
さあ、皆さん、一しょにここを逃げましょうね。
わたしお前さんの傍に引っ附いて行ってよ。
わたしお前さんの跡から食っ附いて行ってよ。
三人諸共に
雲が出て来て、星が隠れたのね。
あの奥の、遠い、遠いところから、
兄弟が来ますのね。あれ、あそこに。兄弟の死《し》が。
(退場。)
ファウスト
(宮殿にて。)
四人来て、三人帰った。
話の意味は分からなかった。
なんだか艱《なやみ》と云うような後《しり》声《ごえ》が聞えて、
その跡から陰気な死《し》と云う詞《ことば》が聞えた。
空洞《うつろ》な、怪物染みた、鈍い声であった。
まだ己は圏《わ》の外《そと》へ遁れずにいるが、
どうぞ己の生涯から魔法を除《の》けて、
呪《じゆ》文《もん》と云うものを綺麗に忘れたいものだ。
そして自然の面《めん》前《ぜん》に男一人になって立ったら、
人間として生きる甲斐があるだろうに。
己も、闇黒の中を探って、傲慢な詞で
身をも世をも咀《のろ》った、あの時までは、男一人であったのだ。
今は怪異があたりの空気に満ちて、
どうして避《よ》けて好いか、分からぬ。よしやある時
昼の日が真面目に、晴やかに笑ってくれても、
夜《よる》が己を夢の網に捕えてしまう。
心嬉しく新《にい》草《くさ》の野を見て帰れば、鳥が啼く。
なんと啼くか。凶事と啼きおる。
虚妄の糸が旦《あけ》暮《くれ》この身に纏《まつわ》って、
形が見える。物を告げる。警戒を勧める。
そこで己はいじけて孤立している。
門ががたりと云う。そして誰も這入っては来ぬ。
(竦然として。)
誰かいるのか。
そのお尋には否《いな》とは申されませぬ。
ファウスト
そしてお前は誰だ。
兎に角ここに参っているものです。
ファウスト
下がれ。
いえ。ここはわたくしのいて好《よ》い所です。
ファウスト
(初め怒り、既にして自ら慰む。)
だがな、用心していろ。呪文なぞを唱えるなよ。
耳にはわたしの声が聞えなくても、
その方《かた》の胸にはしっかり響きましょう。
これでわたしは色々に姿を変えて、
人を随分こわい目に遇わせますの。
陸《おか》にいても、海にいても、
心配げなわたしは、いつもお連《つれ》になっています。
誰も来いとは申しませんが、わたしはいつも附いていて、
お世《せ》辞《じ》も言われ、咀われもします。
あなた、憂をまだ御存じなかったの。
ファウスト
己は世の中を駆けて通った。そしてあらゆる歓楽を、
髪を攫《つか》んで引き寄せるようにした。
意に満たないものは衝き放し、
手を脱《はず》れたものは勝手に逃がし、
ただ望を掛けては、望を遂げ、
また新しく望を掛け、そんな風に勢好く、
生涯を駆け抜けた。初は盛んに、押《おし》強《つよ》く遣ったが、
今では賢く、落ち著いて遣る。
この世の中はもう知り抜いた。
その埒の外《そと》へ出抜ける当《あて》は無い。
誰にもしろ、目《ま》映《ばゆ》そうに上《うえ》を向いて、
天の上に自分のようなものがいると思うのは、馬鹿だ。
それよりしっかり踏み止《と》まって、周囲《まわり》を見ろ。
えらい奴には世界が隠《かくし》立《だて》はせぬ。
何も永遠の境にさまようには及ばぬ。
自分の認識した事は、手に握ることが出来る。
そうしてこの世で日を送るが好《い》い。
よしや怪物が出ていても、自分は自分の道を行くが好《い》い。
そのゆくてには苦もあろう。楽もあろう。
どうせ、どの刹那にも満足はせぬのだから。
誰でもわたしが手に入れると、
その方《かた》には世界はなんにもなりませぬ。
永遠の闇が被さって来て、
日が出もせねば入りもせぬ。
目や耳は満足でいながら
心の内には闇が巣を食う。
世の中のどの宝をも
その方《かた》は手に入れることが出来ぬ。
福《さいわい》も禍もその折々の気まぐれになって、
有り余る中《なか》で餓えている。
嬉しい事も、つらい事も、
次の日へ送って行《い》く。
よしや向うが見えていても、
物が出来上がると云うことはありません。
ファウスト
廃《よ》せ。己はその手は食わぬ。
そんな無意味な事は聞きたくない。
そこを退《の》け。その称《となえ》言《ごと》には、どんな賢い男も
惚《ぼ》かされてしまいそうだ。
往こうか、来ようか、
決心がその方《かた》には附きません。
開《ひら》けている道の途中を、探《さぐり》足《あし》で、
小股に、よろけながら歩いている。
次第に方角が立たなくなって、
見《けん》当《とう》が皆間違って来て、
小さくなりながら、人の邪魔になって、
溜息を衝いては、息苦しがる。
息は詰まらぬが、元気も無い。
絶望はせぬが、諦念《あきらめ》も附かない。
こう云う絶間のない経歴《へめぐり》、
惜みながら措くこと、嫌いながらすること、
楽《らく》になったかと思っては、また悩されること、
おちおち寐ないで、気分の直らぬことが
体をその場に釘附にしていて、
地獄に堕ちる支度をさせます。
ファウスト
咀われた悪《あく》霊《りよう》奴《め》。お前達は人間を、
幾度となく、そんな風に扱うのだ。
当《あたり》前《まえ》の日をもお前達が、網に罹《かか》ったような煩悩の、
厭《いや》な混雑にしてしまうのだ。
霊《れい》の厳《きび》しい結托は引き放しにくくて、
附いた悪霊の退《の》かぬことは、己も知っている。
だが、こりゃ、憂、お前の密《ひそ》かな、強い力をも、
己は認めて遣《つかさわ》さぬぞ。
いえ。わたしがすばやく咀って置いて、
あなたに背中を向けるとき、わたしの力をお験《ためし》下さい。
一体人間は生涯盲《めくら》でいるものです。
そこで、ファウストさん、あなたは盲に今おなりなさい。
(ファウストに息を嘘《ふ》き掛け、退場。)
ファウスト
(失明して。)
夜が次第に更けて来たらしい。
だが心の中には明るい火が赫《かがや》いている。
己の思っただけの事は早くしてしまわんではならぬ。
主人の詞の外に重いものはない。
家《け》隷《らい》共。一人も残らず、寝牀から起きい。
大胆に己の工夫した事を、面白く己に見せてくれ。
道具を手に持て。鋤鍬を使え。
極《き》めた為《し》事《ごと》をすぐしてしまえ。
掟を守って、急いで励めば、
無類の立派な功が立つ。
この大業を完成するには、千本の手を使う
ただ一つの心があれば十分なのだ。
宮城内の大いなる中庭
松《たい》明《まつ》。
メフィストフェレス
(支配人として先に立つ。)
寄って来い。這入って来い。
よろめく死《し》霊《りよう》共《ども》。
骨と筋と紐とを繕い合せた
半《はん》端《ぱ》物共。
死霊レムレス
(合唱。)
御用を早速勤めましょう。
聞きはつりました所では、
どうやら広い地面があって、
それをわたくし共が戴くのだそうですね。
先を尖らせた杙《くい》も、測量に使う
長い鎖も、ここにあります。
だがなぜ呼ばれたのだか、
実はもう忘れました。
メフィストフェレス
ここではそんな技師のするような手数はいらぬ。
尺は自分の体で取るが好《い》い。
一番背の高い奴がそこへ横に寝ろ。
外の奴等は周囲《まわり》の草を取れ。
親爺共を葬る時にしたように、
長方形に掘り窪めろ。
御殿から出て、狭い家に這入る。
どうせしまいはこんな馬鹿気た事になる。
死霊
(おどけたる態度にて土を掘る。)
己も若くて生きていて、色もした。
なんだか随分好かったかと思われる。
どこかで好《い》い音《おと》がして、面白そうだと、
己も出掛けて踊ったものだ。
そのうち老《おい》と云う横著ものが、
杖を持って来てくれた。
己はちょっと躓《つまず》いて、墓の戸口へ転げ込んだ。
なぜまたあの戸が折《おり》悪《わる》く開《あ》いていたやら。
ファウスト
(宮殿より出で、戸口の柱を手もて摸索す。)
あの鋤のからから鳴るのが、実に好《い》い心持だ。
あれは己に奉公している物共だ。
土をその所に安んぜさせ、
波を程好き界に堰き留め、
海の周囲《まわり》に厳《おごそ》かな埒を結うのだ。
メフィストフェレス
(独言。)
そのお前さんが土や木の束《たば》で《つつみ》を築《つ》くのも、
詰まり己達のために骨を折るのだ。
なぜと云うに、お前さんは水の魔の
ポセイドンに大御馳走をするのだから。
どの道お前方は助からない。
四大は己達とぐるになっていて、
なんでもしまいには滅びるのだ。
ファウスト
支配人。
メフィストフェレス
ここにいます。
ファウスト
どんな手段をでもして、
人夫を集められるだけ集めて、
馳走と嚇《おど》しとで元気を附け、
金も遣り、おびきもし、虐《しいた》げもせい。
そして計画した溝《こう》渠《きよ》がどれだけ延びたか、
毎日己に知らせるようにせい。
メフィストフェレス
(中音にて。)
こっちの聞いた知らせには、
溝渠の話なんぞはないが、薨《こう》去《きよ》の話ならあるのだて。
ファウスト
あの山の麓に沼があって、
悪い蒸気がこれまで拓いた土地を皆汚している。
あのきたない水の決《はけ》口《くち》を附けるのが、
最後の為《し》事《ごと》で、また最上の為事だ。
そこで己は数百万の民に土地を開いて遣る。
安全ではないが、働いて自由に住まれる。
土地は肥えて草木が茂る。
大胆に働いた民等の築いた、高い丘を繞って、
新開地に面白そうに、すぐ人畜が居《い》著《つ》くのだ。
よしや外《そと》では海の潮が、岸の縁まで騒ぎ立っても、
ここの中《なか》は天国のような土地になっている。
海の潮が無理に土を抱《だ》き込もうとして、
意地きたなく岸を噬《か》んでも、
衆人力を一つにして、急いでその穴を填《う》めに往く。
好《よ》い。己の服《ふく》膺《よう》しているのは、
人智の最上の断案で、それはこうだ。
凡そ生活でも、自由でも、日々これを贏《か》ち得て、
始てこれを享有する権利を生ずる。
だからここでは、子供も大人《おとな》も年寄も
そう云う危険に取り巻かれて、まめやかな年を送るのだ。
己はそう云う群を目の前に見て、
自由な民と共に、自由な土地の上に住みたい。
己は「刹那」に向って、
「止《と》まれ、お前はいかにも美しいから」と呼びたい。
己のこの世に残す痕は
劫《こう》を歴《へ》ても滅びはすまい。
そう云う大きい幸福を予想して、
今己は最高の刹那を味うのだ。
(ファウスト倒る。死霊等支へ持ちて地上に置く。)
メフィストフェレス
この男はなんの楽《たのしみ》にも飽かず、なんの福《さいわい》にも安んぜず、
移り変る姿を追うて、挑んで歩いた。
そしてこの気の毒な奴は、
最後の、悪い、空洞《うつろ》な刹那を取り留めて置こうと思った。
己に随分手痛く逆《さから》ったものだが、時は功を奏して、
親爺奴、今ここの沙《すな》の上に身を委ねた。
時計は止《と》まった。
合唱の群
止《と》まった。そして真夜中のように
黙っている。針は落ちる。
メフィストフェレス
落ちる。用は済んだ。
合唱の群
過ぎ去った。
メフィストフェレス
過ぎ去ったと。馬鹿な詞だ。
なぜ過ぎ去らせるのだ。
過ぎ去ったのと、何もないのとは、全く同じだ。
何のために永遠に物を造るのだ。
そして造られた物を「無」に逐い込むのだ。
今何やらが過ぎ去った。それになんの意味がある。
元から無かったのと同じじゃないか。
そして何かが有るように、どうどう廻《めぐり》をしている。
それよりか、己は「永遠な虚無」が好《すき》だ。
埋葬
死霊
(単吟。)
こんなにまずい家の普請を誰がした。
鋤で、鍬で。
死霊等
(合唱。)
麻の襦《じゆ》袢《ばん》の陰気男のお前には
ちと出来過ぎた。
死霊
(単吟。)
こんなにけちな座敷の飾を誰がした。
卓《つくえ》もない、椅子もない。
死霊等
(合唱。)
ありゃちょいとの間借りたのだ。
掛取共の多いこと。
メフィストフェレス
体は倒れている。霊が逃げようとしている。
早くあの血で書いた手形を見せよう。
どうも此頃は悪魔の手から霊を取り上げるに、
色々な手段があって困る。
もう昔の流儀では間に合わない。
新しい流儀にはまだ慣れていない。
昔は己がひとりで遣ったが、
今は手伝を連れて来なくちゃならない。
どうも己達は何をするにも都合が悪くなった。
在来の習慣も、昔の権利も、
何一つ引《ひき》当《あて》にすることが出来ない。
元は極《き》まって最後の息と一しょに飛び出すのを、
己が待ち受けていて、極《ごく》すばしこい鼠のように、
ひょいと、堅く握った拳の中に攫《つか》むのだった。
所が今では霊《れい》奴《め》が用心深くなって、
陰気な場所を、厭《いや》な死骸の、胸の悪い家を容易に出ない。
とうとう互に嫉《にく》み合う元素が、
情なくもそいつを逐い出してしまうのだ。
そこで朝から晩まで己は苦労するのだが、
いつ、どんな風に、どこから出るかが、厄介な問題だ。
死と云う古い奴《やつ》がすばやい力を亡くしてからは、
果して死んだかと云う事からが、長い間疑わしい。
己がしゃっちこ張った体に色目を使っていると、
それはただ見《み》掛《かけ》だけで、そろそろ動き出すことがある。
(羽の生えたる神人の如き、奇怪なる呪《じゆ》咀《そ》の挙動。)
さっさと遣って来い。もっと駈足をして来い。
角の直《すぐ》な先生に、角の曲った先生。
どれもどれも、正真正銘の悪魔の門閥家だ。
ついでに地獄の《あご》も持って来い。
勿論地獄にはが沢山、沢山ある。
そいつが身分次第、位階次第で呑み込むのだ。
だが未来へ逐い込む、この最後の洒落を遣るのに、
格別窮屈に選《よ》り分けるわけではない。
(左の方《かた》に恐るべき地獄の開《ひら》く。)
や。地獄の口の糸切歯が開《あ》いた。
吭《のど》の天井から恐ろしい勢で火《か》《えん》が涌き出る。
そしてその奥の沸き返る蒸気の中に、
永遠に燃えている、《ほのお》の城が己に見える。
赤い波が歯の直《じき》後《うしろ》まで打ち寄せて来る。
咀《のろ》われた奴等が助かりたさに泳ぎ附く。
ところをハイエナの牙めく牙にひどく噬《か》まれて、
奴等は心細い、火の中の彷《さま》徨《よい》をまた繰り返す。
あの隅々にはまだ気の附かなかった物を
沢山に見ることが出来る。狭い間《あいだ》に許多《あまた》の恐怖がある。
まあ、こんな風に罪人共を威《おど》かすも好かろう。
どうせ夢だ、まやかしだとしか思ゃあしない。
(短き直なる角の胖大鬼等に。)
おい。火のような頬っぺたをした、太った横著者共。
硫黄で肥えて、好く燃えているぞ。
短い、動いたことのない、木の株のような項《うなじ》をしているな。
今に燐のように光る物が出るから、
ここの下の所で待っていろ。それが霊《れい》だ。
羽の生えたプシヘエだ、それをむしると、きたない蛆《うじ》になる。
己がそいつに極印を打って遣る。
その時火の渦巻く中を持って逃げて貰うのだ。
なんでも体の下の方《ほう》に気を附けていろ。
食もたれ奴。それがお前達の職分だ。
霊《れい》殿《どの》がその辺にお住いになっているか、
それはしかとは分からない。なんでも臍《へそ》には住みたがる奴だ。
あそこから飛び出すかも知れないから、
好く気を附けているのだぞ。
(長く曲れる角を戴ける痩鬼等に。)
そっちの風来もの共。羽の生えた巨《おお》人《ひと》共。
お前達は止《とめ》所《ど》なく虚空を攫んで見てくれ。
臂《ひじ》をずっと伸ばして、尖った爪を見せて、
ふらふら飛んで逃げる奴を掴まえてくれなくちゃならない。
奴は古家の中にいるのが厭に違《ちがい》ない。
それに天才と云う奴はすぐ上へ抜けたがるのだ。
(上右の方より光明さす。)
天人の群
罪《つみ》人《びと》免《ゆる》し、
塵に命あらせんため、
ゆるやかに天《あま》翔《がけ》り来《こ》よ。
御《みつ》使《かい》よ。
天《あま》の族《うから》よ。
たゆたふ列《つら》の
空《そら》に漂ふ隙に、
あらゆる物の上に
やさしき痕を留めよ。
メフィストフェレス
厭な音《おと》が聞えるぞ。溜まらない調子だ。
待ちもしない夜明と一しょに上の方から来おる。
敬虔がる趣味の奴に気に入りそうな、
野郎とも娘っ子とも附かない歌いざまだ。
己達がやけになって、人間の根だやしをしようと思ったことは、
お前達も知っているはずだ。
なんでも己達の工夫した、一番ひどい罪悪を、
奴等は祈って救うに丁度好いとしている位だ。
畜生奴。陰険に遣って来やがる。
これまで幾人横取をして行かれたか知れない。
己達の武器を、奴等は使って、己達を退治るのだ。
あいつ等もやっぱり悪魔だ。ただ仮《め》面《ん》を被っているだけだ。
ここで負けようものなら、永遠な恥辱だ。
墓の側へ寄って、穴の縁《ふち》をしっかり守っていろ。
合唱する天使等
(薔薇の花を蒔《ま》く。)
色赫《かがや》ける、
高き香《か》送る薔《そう》薇《び》の花よ。
閃き、漂ひ、
みそかに物を活かすものよ。
小枝を翼とせる、
蕾《つぼみ》の封《ふう》の披《ひら》かれたるものよ。
疾《と》く往きて花咲け。
春よ。芽ぐめ。
紅に、はた緑に。
楽土を
憩へるものに与へよ。
メフィストフェレス
(悪魔等に。)
なんだって屈《こご》んだり、びく附いたりするのだ。
それが地獄の流儀かい。蒔くなら蒔かせて、こたえていろ。
銘々持場に就くのだ。
多分奴等は、こんな花を雪のように降らして、
火のような悪魔を埋めてしまう積《つもり》だろう。
お前達が息をすれば、融けて縮《ちぢ》れてしまうのだ。
ぷっぷと吹くのだ。頬《ほお》膨《ふくれ》奴《め》。それで好《い》い、好《い》い。
お前達の息で飛んでくる花の色が皆褪《さ》める。
そうひどく遣るな。鼻を塞いで、口を締めい。
やれやれ、余りひどく吹き過ぎたのだ。
どうも程と云うものを知らぬから困る。
縮《ちぢ》れたばかりなら好《い》いが、乾いて、茶色になって、燃えるわ。
もう毒々しい赤い火になって、飛んで来る。
皆固まっていて、こたえろ。
や。勢が挫けたな。丸で意気地がなくなった。悪魔共。
そろそろへんな不気味な熱さを感じて来おったな。
天使等
(合唱。)
尊き花《はな》弁《びら》、
悦ばしきは
愛を広く世に施し、
心の願ふ
喜《よろこび》を生ぜしむ。
真《まこと》の詞《ことば》は
澄める《こう》気《き》の中に、
とはの天人の群に、
到る処に曙光を仰がしむ。
メフィストフェレス
馬鹿者共、咀われていろ。恥をかきおれ。
悪魔ともあろうものが逆立をして、
不細工な体で翻筋斗《とんぼがえり》をして、
けつから先《さき》へ地獄に堕ちて往きゃあがる。
自業自得の熱い湯に難《あり》有《がた》く這入るが好《い》い。
己はここにこたえているぞ。
(漂ひ来る花を払ひ払ひ。)
鬼火奴。逃げんか。どんなに光っても、
握ると、胸の悪い、べとべとした物になるのだ。
何をふら附くのだ。引っ込まんか。
厭に児《ちやん》か硫黄のように、項に引っ附きゃあがる。
天使等
(合唱。)
汝《なん》達《たち》の物ならぬ物をば
汝達避《さ》けでは《かな》はじ。
汝達の心を乱るものをば
汝達の受け容るべきことかは。
さはれ尚力強く迫り来んときは、
我等心を励さでははじ。
愛する人をば
たゞ愛のみ引き入るゝものぞ。
メフィストフェレス
ああ。頭が燃える。胸が、肝《きも》が燃える。
悪魔以上の火だ。
地獄の火よりよほど痛い。
お前達、失恋の人達が、棄てられて、
首を捩じ向けて、恋人の方《ほう》を見て、
恐ろしく苦しがるのは、こんな火のせいだね。
己もへんだぞ。妙にあっちへ顔が向けたくなる。
あいつ等と仲直りの出来ぬ喧嘩をしている己ではないか。
いつも見ると、ひどく厭なのだがな。
なんだかおつな物が己の体に染み渡ったようだぞ。
己はあの妙に愛くるしい餓鬼共が見たくてならない。
何もここで悪態を衝いてならんと云うわけはあるまい。
もし己が旨くぼかされてしまったら、
跡になって馬鹿だと云われるのは誰だろう。
大嫌な横著小僧共。
どうも厭に愛くるしく見えてならないぞ。
おい。綺麗な餓鬼共。己に言ってくれ。
お前達もやっぱりルチフェルの裔《すえ》ではないか。
いかにも可哀らしいなあ。ほんにキスでもして遣りたい。
丁度好い所へ来てくれたように思われてならぬ。
なんだか内証らしく、小猫のように、物欲しげな様子が、
もう千遍も見たことがあるようで、
己は気楽に、好い心持になった。
見れば見る程美しくなりゃあがる。
もっと傍へ来ないかい。己を一目見てくれんかい。
天使等
往きますとも。なぜあなたお逃《にげ》なさるの。
今傍へ往きますから、そこにいられるなら、おいでなさい。
(天使等回旋しつゝ、この場所を全く填《うず》む。)
メフィストフェレス
(舞台の前端へ押し出さる。)
お前達は己達を咀われた霊だと云っているが、
そっちの方《ほう》が本当の魔法使《つかい》だ。なぜと云って見ろ。
お前達は男をも女をも迷わすのだ。
己はなんと云う怪しからん目に逢う事だろう。
一体この火が愛情の元素なのかい。
己は体《からだ》中《じゆう》がその火のようになっているから、
項に焼け附くのが分からん位だ。
そんなにふらふら往ったり来たりしないで、降りて来い。
そしてその可哀らしい手足を、少し人間らしく働かさないか。
実にその真面目くさった所が似合っているなあ。
だが一度で好《い》いから、ちょっと笑って見せてくれ。
そうしたらどんなにか己が喜ぶだろう。
あの色気のある奴が互に見交す目《め》附《つき》だ。あれがして貰いたい。
口の角《すみ》をちょっと引き吊らせてくれれば好《い》いのだ。
おい。そこの背の高い小僧。
己は貴様が一番好《すき》だ。その坊主面はちっとも似合ってはいない。
少し色気のある目で見ないかい。
それにもっと肌の見えるような風が出来そうなものだ。
その長い、襞のある襦袢は行儀が好過ぎる。
おや。あっちへ向いたな。餓鬼奴。
旨そうな背後《うしろ》附《つき》をしていやがるなあ。
合唱する天使等
愛の等よ。
いざ澄む方《かた》へ向け。
己《おのれ》を咀ふもの等を、
真《まこと》よ、救へ。
かくて喜ばしく
悪を逃れて、
諸共に
救はれよ。
メフィストフェレス
(気を取り直す。)
己は妙な気がするぞ。体中が、ヒオッブのように、
火ぶくれだらけになって、自分でも気味が悪いが、
同時にまた自分を底まで見窮めて、
自分と自分の種族とに信頼して、凱歌を奏しているのだ。
悪魔の高尚な部分は助かって、
愛の祟が皮の上に出た。
もう厭な火は燃えてしまった。
そこで己はお前達一同を咀って遣る。それが当然なのだ。
合唱する天使等
聖《せい》なる火よ。
周囲《めぐり》にその火の燃えなむ人は、
世にありて、善き人と共に
安らかに思ひてぞあるべき。
汝達諸共に
起ちて称へよ。
風は浄められたり。
霊よ、息衝け。
(天使等ファウストの不死の霊を取り持ちて空に升《のぼ》り去る。)
メフィストフェレス
(あたりを見廻す。)
はてな、どうしたのだ。どこへ行ってしまったのだ。
丁年未満の奴等。出し抜けに来やがって、
獲《えもの》をさらって天へ升って行きゃあがったな。
道理でこの墓の傍で、撮《つまみ》食《ぐい》をしそうにしていたのだ。
己はたった一つの大きな霊を取られてしまった。
己の質に取って置いた、高尚な霊なのを、
それをすばしこく掻《か》っ撈《さら》って行きやがったな。
そこで誰に苦情を持ち込んだら好《い》いだろう。
誰が己の已得権を恢復してくれるだろう。
手前、年が寄って人に騙さりゃあがったぞ。
自業自得だ。ひどく景気が悪いぞ。
己は馬鹿げた下手を遣った。外聞の悪い。
大《おお》為《し》事《ごと》が無駄になってしまった。
不《ふ》仁《じ》身《み》になっている悪魔のくせに、
劣情や無意味な色気を出したからな。
世間を知った己が、子供らしい、
途方もない事に掛かり合っていて見れば、
跡になって、己のした馬鹿さ加減は、
小さくない事になるのだて。
山中の谷、森、岩、凄まじき所
山の上、巌穴の間に、神聖なる隠遁者等分かれゐる。
合唱の声と谺響《こだま》と
揺《ゆら》ぎて靡《なび》き寄る木立。
傍《かたわら》に畳《かさな》る巌《いわお》。
絡み附く木の根。
幹と幹とはひたと並べり。
谷川は波立ちて迸《ほとばし》り、
いと深き岩《いわ》穴《あな》は蔭をなせり。
獅子は黙《もだ》ありて優しく、
我等の周囲《めぐり》を歩み、
尊き境を、
聖《せい》なる愛の御《み》庫《くら》を畏み守れり。
感奮せる師父
(虚空を昇降しつゝ。)
とはなる喜《よろこび》の火。
燃ゆる愛の契。
沸きかへる胸の痛《いたみ》。
泡立つ神の興《きよう》。
征《そ》箭《や》よ。我を貫け。
槍よ。我を刺せ。
杖よ。我を砕け。
雷火よ。我を焼け。
徒《いたずら》なるものを
渾《すべ》て散《あら》けしめ、
とはなる愛の核《かく》心《しん》たる、
とはなる星を照らしめよ。
沈思せる師父
(低き所にて。)
深き谷底の上に、
わが脚《あし》下《もと》なる巌《いわお》の重くすわれる如く、
千筋の小《お》川《がわ》の、
恐ろしき滝のしぶきと、流れ落つる如く、
おのが強き力もて、
木の幹の真《ま》直《すぐ》に空《くう》に聳ゆる如く、
所有《あらゆ》る物を造り、所有る物を育つる
大威力の愛現前せり。
森も石《いわ》根《ね》も波立つ如く、
激する水音は身の周囲《めぐり》に聞ゆれど、
怒号しつゝも心優しく、
谷間の土を肥やさんため、
その豊かなる滝の水は滝壺にぞ流れ落つる。
毒ある霧を懐ける
下界の空気を浄めんため、
雷火は赫《かがや》きつゝぞ下《くだ》り撃つ。
こは皆愛の使なり。
この身の周囲《めぐり》にありて、永遠に物を造る力を、この使は宣伝す。
あはれ、その力よ。鈍き官能の埒に限られ、
緊《きび》しく煩悩の鎖に繋がれ、
冷かに、糾紛せる霊の艱《なや》める、
わが胸のうちをも照せよかし。
あはれ、神よ。わが思量を黙《もく》せしめ、
わが饑《う》ゑたる心を照せよかし。
天使めく師父
(高低の中間の所にて。)
や。あの髪の毛のゆらめくような樅の木立の間《あいだ》を抜けて、
靡いて来る暁の雲はなんだろう。
あの雲の中《なか》に生きているものを中《あ》てて見ようか。
あれは穉い霊《れい》共《ども》の群だな。
合唱する神《こう》々《ごう》しき童子の群
お父うさん。わたくし共はどこを飛んでいますか。
好《い》い方《かた》。わたくし共はなんですか、仰ゃって下さい。
わたくし共は為《し》合《あわ》せです。
誰にも、誰にもこの世が、ほんに楽《らく》でございます。
天使めく師父
子供達。夜なかに生れて、
精神や官能の半分醒めた子供達。
両親がすぐ亡くした代《かわり》に、
天使の群が儲物をした子供達。
愛する人が一人《ひとり》いると云うことは、
お前達も感じているだろう。好《い》いからこっちへ来い。
兎に角、為合せもの共、
世間の艱難は少しも知らないのだな。
己の目と云う、
この世で用に立つ道具の中へ降りて来い。
そして己の目を我物にして使って、
この土地の様子を見ろ。
(師父童子等を目の中に受け容る。)
あれが木だ。あれが岩だ。
あれが落ちて行って、
恐ろしい瀬になって、
嶮しい道を縮める水の流だ。
神々しき童子等
(目の中より。)
大《たい》した見《み》物《もの》でございますね。
でもここは余り陰気です。
恐ろしくて体が震えます。
好《い》い方《かた》。親切なお方《かた》。逃がして下さいまし。
天使めく師父
そんなら段々高い世界へ昇って行け。
そして神様が傍《そば》においでになって、
力を添えて下さるのだから、いつも浄い為《し》方《かた》で、
いつとなく次第に大きくなるが好《い》い。なぜと云って見ろ。
それが広大な《こう》気《き》の中に出来ている、
霊共の餌《えさ》だ。
それが広がって神々しさになる、
永遠な愛の啓示だ。
合唱する神々しき童子の群
(山の絶頂をめぐりつゝ。)
うれしく
手を輪に
繋ぎて動き、
尊き心を歌へ。
畏《かしこ》く教へられて
汝《なん》達《たち》よすがを得ん。
さて汝達が敬ふ神を
拝むことを得ん。
天使等
(ファウストの不死の霊を載せてやゝ高き空中に漂ふ。)
悪の手から、
霊の世界の尊い一人が救われました。
「誰でも、断えず努力しているものは、
われ等が救うことが出来る。」
それにこの人には
上の方《ほう》からも愛の同情が加わっています。
神々しい群が
心《しん》からこの人を歓迎します。
やや未熟なる天使等
愛して下さる、
聖《せい》なる贖罪の少女達の手で授けて下さった、あの薔薇の花が、
わたくし共を助けて勝たせてくれました。
この霊の宝を手に入れる
大きい為《し》事《ごと》を成就させてくれました。
わたくし共がそれを蒔《ま》くと、悪が避《よ》けました。
わたくし共がそれを中てると、魔が逃げました。
慣れた地獄の刑罰の代《かわり》に
悪霊共が愛慾を起しました。
あの年の寄った悪魔の先生でさえ
鋭い苦痛を身に覚えました。
さあ、凱歌を挙げましょう。為《し》事《ごと》は出来ました。
やや成熟せる天使等
どうもわたくし共には
下界の屑を舁《か》き載せて持っているのがつろうございます。
よしやその屑が石綿で出来ていても、
清浄ではございません。
強い霊の力が
元素を
掻き寄せて、持っていると、
霊と物との二つが密接して
一つになった両面体を割くことは、
どの天使にも出来ません。
それを分けることの出来るのは、
ただ永遠な愛ばかりでございます。
やや未熟なる天使
岩山の巓《いただき》のめぐりに、霧のように棚引いて、
それから気《け》近《ぢか》く動いて来る
霊共の振舞が
今わたくしに感ぜられます。
雲が澄んで来て、
神々しい子供達の賑やかな群が、
わたくしに見えます。
下界の縛《いましめ》を遁れて、
輪になって集って、
天上
新しい春と飾《かざり》とを味っている
子供達でございます。
この人も、追々すっかり得《とく》の附くように、
最初はちょっと
この子供達と一しょになるが宜しゅうございましょう。
神々しい童子等
蛹《さなぎ》のようになってお出《いで》なさるこの方《かた》を、
わたくし共は喜んでお引《ひき》受《うけ》申します。
そういたすと、わたくし共は
天使の質《しち》を持っているわけになりまする。
この方《かた》に引っ附いている綿屑を
取って上げて下さい。
もうこれで聖《せい》なる生活にお入《いり》になって、
美しく、大きくおなりなさいました。
マリアを敬う学士
(最高き、最浄き石《せき》龕《がん》にて。)
ここは展望が自由に利いて、
心が高尚になる。
あそこを、漂って昇って行きながら、
女達が通り過ぎる。
あの真ん中に、星の飾をして、
立派な方《かた》がおいでになる。
あれが天《てん》妃《ひ》だ。
あの光明で己には分かる。
(歓喜して。)
ああ。世界の最高の女《じよ》王《おう》。
あの青く張った
天の幔幕の中で、
あなたの秘密を拝ませて下さい。
男の胸を
厳《おごそ》かに、優しく動して、
聖なる愛の喜《よろこび》を以て、
あなたに向わせる物を、受け容れて下さい。
あなたが荘重にお命じなさると、
我々の勇気は侵されないようになります。
あなたが満足をお与《あたえ》下さると、
熱した心が忽《たちまち》に爽かになります。
最も美しい意味での神《かみ》少女《おとめ》よ。
尊むに堪えたる神《しん》母《ぼ》よ。
我等がためには選ばれたる天妃よ。
神々と同じ種《すじ》性《よう》なる女《め》神《がみ》よ。
あなたの周囲《めぐり》を繞《めぐ》っている
軽い雲があります。
あれは贖罪の女達です。
お膝元で
《こう》気《き》を吸って、
お恵《めぐみ》を仰いでいる
優しい群です。
お障《さわり》申すことの出来ぬあなたにも、
誘惑に陥り易い人達が
たよりに思ってお近づき申すことは、
禁じてないのです。
あの人達は自分の弱みの方《ほう》へ引き込まれると、
救って遣るのがむずかしいのです。
意欲の鎖を自分の力で引きちぎることが
誰に出来ましょう。
斜に、平《たいら》な床《ゆか》を踏む足は
どんなにか早く滑るでしょう。
目《め》附《つき》や挨拶や世辞の息に、
誰が騙されずにいましょう。
(赫く神母天《あま》翔《がけ》り来る。)
合唱する贖罪の女の群
とはの国々の空《そら》へ
おん身は翔り来給ふ。
譬《たと》へん物なきおん身よ。
恵深きおん身よ。
われ等の訴ふるを聞き給へ。
大いなる女罪人
ファリセイの人々に嘲られつつも、
神々しく浄められたる御《み》子《こ》の御《み》足《あし》のもとに、
バルサムなす涙を流しし
愛に頼りて願ひまつる。
奇しき香《か》をいと多く滴《したた》らせし
瓶《へい》に頼りて願ひまつる。
尊き御《み》手《て》御《み》足《あし》を柔かに拭ひまつりし
髪に頼りて願ひまつる。
サマリアの女
昔はやくアブラムが家畜の群に水飼ひし
泉に頼りて願ひまつる。
救世主の御《み》脣《くちびる》に冷かに触るゝことを得し
釣《つる》瓶《べ》に頼りて願ひまつる。
かなたより灌《そそ》ぎ来て、
とはに清く、さはに溢れ、
あらゆる世界を繞り流るる、
清き、豊かなる泉に頼りて願ひまつる。
エジプトのマリア
主を据ゑまつりし
いと畏き所に頼りて願ひまつる。
警《いまし》めて門《かど》より我身を押し出だしし
腕《かいな》に頼りて願ひまつる。
沙漠にて我が怠らずなしし
四《よ》十《そ》年《とせ》の贖罪に頼りて願ひまつる。
わが沙《すな》の上に書きつる
喜ばしき別《わかれ》の辞に頼りて願ひまつる。
三人諸共に
大いなる罪ある女《おみな》子《こ》共《ども》を
傍《たはら》より遠ざけ給はで、
贖罪の利《り》益《やく》を
永《とこ》遠《しえ》に加へ給ふおん身なれば、
ただ一たび自ら忘れしのみにて、
過《あやまち》すとも、自ら暁《さと》らざりし、
この善き霊《れい》にも、
ふさはしく御《み》免《ゆるし》を賜へ。
贖罪の女等の一人
(かつてグレエトヘンと呼ばれしもの。神母に縋《すが》りまつりて。)
較べる物のないあなた様。
光明の沢山さしているあなた様。
どうぞお恵深くお顔をこちらへお向《むけ》遊ばして、
わたくしの為《し》合《あわせ》を御覧なされて下さいまし。
昔お慕われなされたお方《かた》、
今はもう濁《にごり》のないようにおなりなされたお方が
帰っておいでなさいました。
神々しき童子等
(輪なりに動きて近づきつつ。)
もうこの方《かた》は手足が大層伸びて、
わたくし共より大きくおなりになりました。
おお方《かた》大事にお世話をして上げた御返報を
沢山なすって下さるでしょう。
わたくし共は人の世の群から
早く引き放されましたが、
この方はお学《まなび》になったのです。
おお方わたくし共にお教《おしえ》なすって下さるでしょう。
一人の贖罪の女
(かつてグレエトヘンと呼ばれしもの。)
難《あり》有《がた》い霊の群に取り巻かれていらっしゃるので、
新参のあの方は自分で自分がお分かりにならない位です。
まだ新しい生活にお気が附かない位です。
それでももう難有い方々《かたがた》に似ておいでになりました。
御覧なさい。下界の絆《きずな》を皆切って、
古い身の皮からそっくり抜け出しておしまいなすって、
新しい若々しいお力が、
霞の衣《ころも》の表《おもて》に顕れておいでなさいます。
あの方にお教《おしえ》申すことをお許《ゆるし》下さいまし。
まだ新しい日の光を目《ま》映《ばゆ》がっておいでなさいますから。
赫く神母
さあ、おいで。お前もっと高い空《そら》へお升《のぼり》。
お前がいると思うと、その人《ひと》も附いて行くから。
マリアを敬う学士。
(俯伏して崇拝しつつ。)
悔を知る、優しきもの等よ。
汝《なん》達《たち》皆畏き境界に
虔《つつし》みて身を置き換へんため、
救《すくい》の御《み》目《め》を仰ぎまつれ。
あらゆる向上の心は
皆汝《なんじ》が用をなせかし。
童貞女よ。神母よ。天妃よ。女神よ。
永く御《み》恵《めぐみ》を垂れ給へ。
合唱する深秘の群
一切の無常なるものは
ただ影像たるに過ぎず。
かつて及ばざりし所のもの、
こゝには既に行はれたり。
名状すべからざる所のもの、
こゝには既に遂げられたり。
永遠に女性なるもの、
我等を引きて往かしむ。
訳本ファウストについて
私が訳したファウストについては、私はあの訳本をして自ら語らしめる積でいる。それで現にあの印行本にも余計な事は一切書き添えなかった。開巻第一の所《いわ》謂《ゆる》扉一枚の次に文芸委員会の文句が挿んであるが、あれも委員会からの注意を受けて、ようよう入れたのである。その裏に太田正雄さん、文壇での通名木下杢太郎さんがこの本の装釘をして下すったと云うことわりがきがドイツ文で書き入れてあるが、あれも文芸委員会の文句を入れるに極まってから、その紙の裏が白くなるので、それを避けるために、思い立って入れた。それは太田さんに尽力して貰って難《あり》有《がた》く思っていたので、何かの機会に公に鳴謝したいと思っていたからである。文芸委員会が私にその機会を与えてくれたのである。それ以上には何物も書き添えて無い。この極端な潔癖の結果として随分可《お》笑《か》しい事が生じた。それはあの印行本二冊のどこにもファウストの作者ウォルフガング・ギョオテの名が出ていぬと云う事実である。これはある人が注意してくれたので、私は始て気が附いた。この注意を受けたのは、まだ本文を校正していた時であったから、どこかへギョオテの名を入れて入れられないこともなかった。しかし私は考えた。諺に大師は弘法に奪われたとか云うようなわけで、ファウストと云えばギョオテのファウストとなっているから、ことわるまでもないと考えた。そしてそのままにして置いた。
さて太田さんの事を言ったから、ついでに話してしまうが、太田さんは印行本の扉の枠とペエジの頭にある摸様とをかいて下すった。初めどんな物をかこうかと相談して下すったので、第一部はゴチック第二部はアンチックと云う風にして下さいと願った。アンチックは造《ぞう》做《さ》は無いが、ゴチックはなんにしようかと、太田さんは迷って、随分暇を潰してあれを捜して下すった。即ちミュンステルのドオムから取って下すったのである。太田さんのして下すった事はこればかりでは無い。訳本全部を一校して下すった。実に容易ならぬ骨折をして下すったのである。この事はどこでも公言して無いから、この機会を利用して公言して置く。
訳本に何物をも書き添えないと云うことは、ほとんど従来例の無い事かと思う。しかしこれには単に訳本をして自ら語らしめる、否訳文をして自ら語らしめると云う趣意ばかりで無く、別に理由がある。大抵訳本に添えて書くべき事は、原書の由来とか原作者の伝記とか云うもので、その外は飜訳の凡例のような物であろう。その原書の由来と説明とは、所謂ファウスト文献、一層広く言えばギョオテ文献があって、その汗牛充棟ただならざる中にいくらでもある。現に昨年あたりから出たものだけでもエンゲルだとか、トラウトマンだとか、シャアデだとか、流布本ばかりでも沢山ある。進んで専門的の記載となると、いよいよ談が面倒である。しかし私はクノオ・フィッシェルの四冊になって出ているファウスト研究を最尊重する。そこであの本の内容をほとんど全部書いて「ファウスト考」と題して文芸委員会へ出して置いた。それから作者の伝記の方も、同じように専門的記載が際限も無いのは別として、私は流布本のビイルショウスキイのギョオテ伝を、最も便宜に纏まったものだと認めている。そこで私はあの本の初版に拠《よ》って、「ファウスト作者伝」と云うものを書いて、これも文芸委員会へ出して置いた。但しビイルショウスキイは「ウルファウスト」を知って「ウルマイステル」を知らなかった。「ウルマイステル」はビイルショウスキイが死んだ後に発見せられたからである。そこで私の作者伝の中で、ウィルヘルム・マイステルの処はウルマイステル発見始末に拠って書いてある。ビイルショウスキイの本もウルマイステルの事を取り入れて改版せられたが、その本は私が文芸委員会へ作者伝を出した日までには、まだ舶載せられていなかったのである。
右のファウスト考とファウスト作者伝とは訳本ファウストと同じ体裁にして訳本を発行した富山房から発行して貰うように、私は要求して置いた。これはまだ実行はせられぬが、多分そうなる事だろうと思う。この二つの本が出ると、外の訳書の初や終に書き添えてある位の事は、その中に備わっていると云っても好かろう。そうして見れば、訳本その物には別に煩わしい書添をしなくても好くはあるまいか。
そんなら翻訳の凡例はどうかと云うに、私は実際凡例として書く程の箇条を持っていない。総てこの頃の私の翻訳はそうであるが、私は「作者がこの場合にこの意味の事を日本語で言うとしたら、どう言うだろうか」と思って見て、その時心に浮び口に上ったままを書くに過ぎない。その日本語でこう言うだろうと云う推測は、無論私の智識、私の材能に限られているから、当るかはずれるか分らない。しかし私に取ってはこの外に策の出だすべきものが無いのである。それだから私の訳文はその場合のほとんど必然なる結果として生じて来たものである。どうにもいたしかたが無いのである。
世間では私の訳を現代語訳だと云っている。しかし私は着意して現代語にしようとするのでは無い。自然に現代語となるのである。世間ではまた現代語訳だと云うと同時に、卑俗だとしている。少くも荘重を闕いでいると認めている。しかし古言がやがて雅言で、今言がやがて俚言だとは私は感じない。私はこの頃物を書くのに、平俗は忌避せぬが、卑俚には甘んぜない。それは人の平俗だとしている今言で荘重な意味も言いあらわされると思って、今言を尊重すると同時に、今言を使うものが失脚して卑俚に堕ちるに極まっているとは思わぬからである。兎に角私の翻訳はある計画を立てて、それに由って着々実行して行くと云うよりは、寧 《むしろ》水到り渠成ると云う風に出来るに任せて遣っているのだから、凡例にもなんにもならぬわけである。
訳本ファウストにはまだ正誤が公にして無い。しかし出来てはいる。あの本を発行している書《しよ》肆《し》富山房は初第一部を千五百部印刷して神田の大火に逢った。その時千部は焼けて五百部残った。幸な事にはまだ紙型が築地の活版所から受け取って無かったので、これは災を免れた。そのうちに第一部の正誤が出来たので、一面紙型を象《ぞう》嵌《がん》で直し、一面正誤表を印刷することを富山房に要求した。第一部の象嵌は出来た。しかし燼余の五百部は世間の誅《ちゆう》求《きゆう》が急なので、正誤表を添えるに遑《いとま》あらずして売り出された。そこで第一部は未正誤本が五百部世間に流布していて、その他は象嵌済の正本なのである。第二部の正誤は私の作ったのが目下富山房の手にある。これも紙型は象嵌で直し、未正誤本には正誤表を添える積でいたところが、世間の誅求が急なので、未正誤本が正誤表を添えずに売り出された。現に世間に出ているのも富山房にあるのも、第二部は悉《ことごと》くこの未正誤本である。第二部の紙型象嵌はまだ出来ない。これから象嵌をして、今後印刷するものが象嵌済の本になるはずである。こう云うわけで第一部の五百部と第二部のやや大なる部数とは、未正誤本で世間に出ている。その罪ほろぼしにはファウスト考かファウスト作者伝かを出す時、ファウスト第一部第二部の正誤表を併せて添えることを、富山房に要求してある。
正誤の事を言ったから、ついでに書物の誤と云うものについて、今少し話したい。書物の誤で自分の心附いた限は、写本や活版を校正する時に直すことが出来る。ファウストの場合では校正の時私と太田さんとの心附いた限の訂正をした。次に本が出来てから目を通して正誤をすることが出来る。ファウストの場合では佐佐木信綱さんが好意を以て一読して下さることになった。そこで私と佐佐木さんとの心附いた限が正誤表に上ったり、また象嵌で直されたりすることになる。その外特にある箇条に関して教を受けて正誤した事もある。その一例は第一部でグレエトヘンが恋の成否を占う花はステルンブルウメと原本にある。それを江南紫と書いたが、私自身に不安心なので、牧野富太郎さんに問い合せた。すると牧野さんが精しく調べて返事をして下すった。どうもドイツで単にステルンブルウメと云っている花は日本には産せないらしい。随って和名漢名なども無さそうだ。そこで属名のアステルに改めた。また原本の闕字について、藤代禎輔さんに相談したこともある。この話をする機会に佐佐木さんにも牧野さんにも藤代さんにもここで鳴謝する。
書物の誤が自身や友人の手で発見せられずにしまうと、余《よ》所《そ》から指せられることになる。指せられた誤は著者訳者の不学無識から生じたものとして罪せられる。縦《たと》い正誤してから後に心附いていても罪せられることは同じである。翻訳の上では、世間が期待と興味とを以て歓迎する誤訳問題がここに成り立つ。最初文芸委員会がファウストを訳することを私に嘱《しよく》した時、向軍治さんが一面委員会の鑑職の足らぬを気の毒がり、一面私の謙抑しないのを戒めて下すった。世間は向さんの快挙を見て、それからは誤訳者と云えば私、私と云えば誤訳者、誤訳書と云えばファウスト、ファウストと云えば誤訳書と云うことにしている。私はこれから向さんにもその外の人にも沢山教を受けることであろう。私はどんな書物にも誤はあるものだと思う。そして私の書いた書物にはそれが沢山あるだろうと思うのである。これはどんな本にも誤はあるから、私の本にもあっても好いと云うのでは無い。私はどこまでも誤の無いようにしたい。教を受けて改めたいと思っている。
どんな本にも誤があると云うことについて、今度発見した可《お》笑《か》しい事があるから、ついでに話す。私はファウストを訳するのに、オットオ・ハルナックの本を使っていた。それは第一部第二部が一冊になっていて、前後を照し合せて見るに便利だからである。そして何か疑わしい事があると、三冊になっているゾフィインアウスガアベを出して見た。さてもう全部訳してしまってからの事である。ある日化学をしている友人が来たので雑談をしているうちに、私がこう云った。「ギョオテは詩人で同時に自然学者だ。それにファウスト第二部で悪魔が地の下に堕《おと》されて、苦しまぎれに上からも下からも臭い瓦斯《ガス》を出したと云う処に、硫酸を出したと云ってある。硫化水素でも出したか知らぬが、硫酸は出すまい。」こう云てしまって、ふと原文を見る気になってゾフィインアウスガアベを出して見た。すると「シュウェエフェルスタンク・ウント・ゾイレ」と書いてあって、「硫黄の臭と酸と」と云うことになっている。硫酸では無い。友人が覗いて見て、「硫化水素も酸だから、硫化水素だとしたところで、それで好い」と云って笑った。私は驚いてハルナック本を出して見ると、「ゾイレ」の前に「ヒイフェン」の標識がある。それで硫酸になったのである。ハルナックの本で私の発見した誤はこれ一つで、それも偶然発見したのである。第二部の正誤には硫酸の硫の字を削ることにした。
訳本ファウストが出ると同時に、近代劇協会は第一部を帝国劇場で興行した。帝国劇場が五日間連続して売切になったのは、劇場が立って以来始ての事だそうだ。そこで今日まで文壇がこの事実に対して、どんな反響をしているかと云うと、一般にファウストが汚《お》涜《とく》せられたと感じたらしい。それは先ずファウストと云うものはえらい物だと聞いてわけも分からずに集まる衆愚を欺いて、協会が大入を贏《か》ち得たのは、尾《び》籠《ろう》の振舞だと云うのである。これは一応尤《もつとも》らしいが、また強《あなが》ちそうも言われぬかと思う。ファウストがえらい物だと云うことは事実だとして好かろう。縦い訳本は悪くとも、多数がそのえらい物の影を趁《お》って集まるのは悪い事では無い。それを集まらせるのも悪い事では無い。どんな立派な催にもやじ馬は交る。バイロイトの劇場が開かれた時だって、集まった人の多数はなり金や道楽者や半可通であったそうだ。本国ドイツでファウストを興行したって、見物が皆ファウストを解する人から成り立ってはいない。分からず屋はいつも多数に相違無い。それが日本で興行せられるからは、分からず屋の数が一層大きいかも知れない。先頃日本に来られたオイゲン・キュウネマンさんはある宴会の席で私に言われた。「ファウストの思想は所詮日本人には解せられまいと云う人がある。あなたが訳したと云うのが、事実上それを反駁したようなものではあるが、この問題について、あなたはどう思う。」私は答えた。「日本人だってファウストの思想が分からぬはずはないと思う。」キュウネマンさんの詞《ことば》から推すと、ドイツ人の中のあるものは日本人を分らず屋ばかりだとしていると見える。その位だからドイツで興行した時の見物と日本で興行した時の見物とを較べたら、日本ではドイツの場合より分からず屋が多かろうと云う推定は下されよう。しかしそれを埋め合せる事柄が無いとも言われない。それはドイツで平常興行せられる場合と違って、東京で始て興行せられた時には、教育のある人がわりに多く見に往ったかとも察せられるのである。要するにファウストに限って日本での興行を無意義だとするのは誤っていはすまいか。それを無意義だとすると、なんの興行だって無意義になりはすまいか。
これは単に興行したと云うだけを汚涜だと見たのであるが、進んで奈《い》何《か》に興行したかと云う側から汚涜を見出した人があるらしい。それは私の訳が卑俚なのとある近代劇協会々員の演出が膚浅なのとで、ファウストが荘重でなくなったと云うのである。もしそうだとするなら、それは演出者が私に誤られたものとして、私は演出者に謝しても好い。しかしこの方面の批評をした人の中には、「世間がファウストを本質以上に買い被っていた迷を、私の平俗な文と演出者の率直な技とで打破したのだ、私と演出者とは偶像破壊者だ」と云った人もある。これは一種の諷刺のようにも聞き取られるが、ある友達の云うには、あれはやはり真に偶像破壊と云うことを快事だとして言ったのだろうと云うことである。それはどちらにしてもマルチン・ルテルの聖書のドイツ訳だって、当時は荘重を損じたように感じたのだから、ファウストを訳する人は、私のように不学無識でなくても、多少こんな意味の誚《せめ》を受けずにはいられぬはずではあるまいか。私はルテルを以て自ら比するものでは無い。ファウストを訳するのは人々の自由である。第一部は既往にも訳した人があった。未来において一層荘重な新訳が出るならば、私もそれを歓迎する一人たることを辞せないだろう。
不苦心談
ファウストを訳した時の苦心を話すことを、東亜之光の編者に勧められた。然るに私は余り苦心していない。少くも話の種にする程、苦心していない。こう云うのがえらがるのでないことは勿論である。また過誤のあった時、分《ぶん》疏《そ》をするために予め地をなして置くのでもない。これは私の性質と境遇とから生じた事実である。あるいはそれではギョオテに済むまいと誚《せ》められるかも知れない。しかしこれまで舞台に上されるファウストを日本語で書いた人もなく、またそう云う人が近い将来に出そうでもなかったので、無謀かは知らぬが、私がその瀬踏をして見た。これは苦労性の人には出来ぬ事かも知れない。私の性質と境遇とが、却て比較的短日月の間にそれをさせたのだと云っても好いかも知れない。
ファウストの善本は無論ゾフィインアウスガアベである。私はそれを持っている。然るに私は零砕の時間を利用して訳するのだから、三冊物を持ち歩くことが出来ない。それでハルナック本から訳した。ただ疑わしい処をゾフィインアウスガアベで調べて見ただけである。コンメンタアルの類も多少持っている。それも一々読んで置いて訳したのではない。ただ疑わしい処をコンメンタアルで調べて見ただけである。こう云う方法に従ったのは、単に手数を省こうとしたのではなかった。手を抜こうとしたのではなかった。私は当初から原文を素直に読んで、その時の感じを直写しようと思っていたのである。
ファウストの訳本は最初高橋五郎君のが出た。次いで私のを印刷しているうちに、町井正路君のが出た。どちらも第一部だけである。私は自分が訳してしまうまで、他人の訳本を読まずにいた。第一部も第二部も訳してしまってから、両君の第一部の訳を読んで見た。そして両君の努力を十分に認めた。尤《もつとも》高橋君のは昔発表せられた時瞥《べつ》見《けん》して、舞台に上すには適していぬと云うことだけは知っていた。そう云うわけで、私は両君の影響を受けてはいない。早く出ていた高橋君の訳を参考しなかったのも、やはり原文を素直に読んで、その時の感じを直写しようと思っていたからである。
私は高橋君の努力をも町井君の努力をも十分に認めているが、中にも高橋君が非常に綿密に研究せられた処のあるのを見て感心している。原文とイギリス訳とを対照せられたのは決して、徒労ではなかった。
私は自分の訳本ファウストについて、一度心の花に書いたことがある。その中に正誤表を作った事や、象《ぞう》嵌《がん》で版型を改めた事を言った。然るにその正誤表がまだ世間に行き渡っていない。そこで正誤表を作ったと云うのは虚言だと云う人がある。あれは虚言ではない。正誤表は先ず第一部のが出来て、多少世間に出ている。次いで第二部のが出来て、これも多少世間に出ている。就中《なかんずく》私の手許から贈遺した本には、正誤表の出来た後、それを添えなかったことはない。書《しよ》肆《し》富山房も誠意がないではなかったが、買った本は誰が買ったか分からぬので、正誤表の送りようがないと云うことであった。帝国劇場で第一部の興行のあった時、第一部の正誤表は出来ていたので、富山房はそれを劇場で配布しようかとも云った。しかし私は本を読む人と劇を観る人とは自ら別だから、それは無益だろうと云った。さて今既に印刷し畢《おわ》っているファウスト考には、右の第一部、第二部の正誤表を合併して、更に訂正を加えて添えてあるのである。
正誤表に載せてある誤には、誤植もあれば、誤写もある。原稿は私の書いたのを、筆工に写させた。それが印刷所に廻ったのである。原稿を口授して筆受させたのだと云う人があるが、そうではない。誤植や誤写の外に、誤訳がある。誤植や誤写は自分に発見し易いが、誤訳はそれがむずかしい。人に指摘して貰って知ることが多い。私は今日まで指摘して貰って、私のそれを承認した誤訳を、ここに発表しようと思う。それは指摘してくれられた人には、没すべからざる恩誼があるから、それに対して公に謝したいためである。
しかし体に疵《きず》のある人は、衣服でそれを掩《おお》っていられる限は掩っている。人に衣服を剥がれるまでは露呈しない。精神上にも自家の醜は隠される間は隠している。そればかりではない。フランスの誰やらの本に、大賊が刑せられる時、人間の一番大切なる秘密を語ろうと云った。人が何かと問うた。賊は「白状するな」と云ったと云うのである。これは処世法の最深刻なるものかも知れない。これに反して、人に余儀なくせられたのでなく、ことさらに自家の醜を白状した人が稀にはある。ルソオの如きがそれである。しかしルソオは精神病になり掛かっていたらしい。私の誤訳を指摘してくれられた人達の指摘の形式は、よしや私がそれは承認するにしても、私にそれを発表することを余儀なくしてはいなかった。その形式が座談になっているのは、その席で礼を言えば済む。私信になっているのは、礼状を遣れば済む。公開書になっているのも、罵《ば》詈《り》がしてあれば、棄て置いても好い。あるいは棄て置くのが最紳士らしいかも知れない。また先方にも過誤がある場合には、それを捉えて罵詈の返報をすることも出来る。必ずしも自ら屈して自家の過誤だけを発表しなくても好い。然るに私はここにそれを敢てしようと思う。私は公に謝するのだと云った。それは美徳である。自分の行為が美徳に合うことは喜ばしくないでもないが、私はその美徳のためにのみこの挙に出づるのではない。発表した方が愉快だからである。即ち身勝手である。
第一に指摘してくれられたのは、興行の時メフィストフェレスを勤められた伊庭孝君である。第一部で、ファウストの書斎に魔除のペンタグランマが画いてある場所は、シュウェルレである。これはチュウルシュウェルレで敷居である。それが鴨居と訳してあった。ダハシュウェルレと云う語もないではないがふと上の方に画いてありそうに思っただけの間違であった。丁度これと似た事が今一つある。それは第二部で、メフィストフェレスがファウストの旧宅に這入った時、家が震動してエストリヒから土が落ちると云うことがある。エストリヒとは床である。それが天井に使ってある。しかし土が落ちるとしてあったので、これは私が誤らずに済んだ。
伊庭孝君が今一つ指摘してくれられたのは、第一部でグレエトヘンが花占をする時、花弁をむしる、あの花弁である。あれが原文にブレッテルとしてあったので、私は葉と訳した。それは後に牧野富太郎君に尋ねて知るまで、あの植物の形をはっきり想い浮べていなかったためである。ブレッテルはブルウメンブレッテルだと云って聞せてくれられたのは伊庭君である。この誤訳は牧野君の意見をも質した上で私が承認した。
第二に指摘してくれられた人は杉梅三郎君である。伊庭君の忠言は度々逢うので、座談のついでに聞いたのだが、杉君はわざわざ手紙で知らせてくれられた。それは第一部の閭《りよ》門《もん》の外で、娘等に物を言い掛ける一老女である。アルテと書いてある。アルテはアイネ・アルテである。それを複数に誤って老人等と訳してあった。アルテが一老女だと云うことは、どのコンメンタアルにもある。高橋君も町井君も正しく訳していられる。それを私はうっかり誤った。苦心しなかった結果である。私は杉君に返事を遣って、礼を言った。それから後に逢った時、第二部をも細閲して貰うように頼んで置いた。
十一
第三に指摘してくれられた人は向軍治君である。これは新人と云う雑誌に出ている。第一部の劇場にての前戯に、道化方がアイン・ブラアウェル・クナアベのいるのは劇場の利方だと云っている。この確《しつか》りした男は役者である。それを作者と誤って訳した。すぐその跡で、道化方が作者にブラアヴであれと云っているので、誤ったのである。イギリス訳には役者と云う語が入れてあるのがある。どのコンメンタアルにも役者とことわってある。高橋君も町井君も正しく訳している。それを私はうっかり誤った。そしてその誤のために、次の数句のうちにあるデンをデルと見誤った。向君には私はまだ礼を言わずにいる。新人の書振では、私なんぞが礼を言ったって受けられぬかも知れない。しかし兎に角ここで感謝の意だけ発表して置く。新人には別に二三の指摘がしてあったが、それは私のここで発表しようと思っている事件の範囲外だと、私は認める。
十二
以上のうちで伊庭君の指摘せられた誤訳は、他の誤植や誤写なんぞと一しょに、最初別々に印刷した第一部と第二部との正誤表に載っているが、杉君と向君との指摘せられた誤訳は両部を合併して、ファウスト考に添えるはずの正誤表にだけ載っている。私は今後幾度でも、機会を得次第に正誤して行く積であるから、あらゆる読者に尚沢山指摘がして貰いたい。そして私の苦心の足りなかった処を補って貰いたい。これはファウストには限らない。先頃沼《ぬ》波《なみ》武夫君は一幕物の中のサロメの誤訳を指摘してくれられた。近《ちか》比《ごろ》伊庭孝君は同書の中の痴人と死との誤訳を指摘してくれられた。それ等も改版の折に訂正したく思っている。
十三
私は誤訳をしたのを、苦心が足りなかったのだと云った。そんなら私がもっと物に念を入れる性質で、もっと時間に余裕のある境遇にいたら、誤訳をしないだろうかと云うに、私はそうは思わない。人間のする事業に過誤のない事業はない。書物に誤謬のない書物はない。飜訳に誤訳のない飜訳はない。あるはずである。それをあらせまいと努力するより外ない。私は私の性質と境遇との許す限り、この努力をしようと思う。
四箇条の誤訳は、皆極平易な句に過ぎぬ。そうでないのは所《いわ》謂《ゆる》「とがき」などである。今後は難渋な句の誤訳をも、もしどこかにあったら、発見して貰いたい。私は訳本ファウストを読まれる人達に、一層深い望を属《しよく》している。
エルフ
Elf 妖精。精霊。
レエテ
Lethe ギリシア神話で、冥界に流れているとされる川。その水を飲むと、現世のことをすべて忘れるという。
ホライ
Horai ギリシア神話の季節の女神たち。天空の番人でもあり、神々のためにその門を開く。
フォイボス
Phoibos 太陽神アポロンの別名。
まじろいて
まばたきして。
曠ゅうしなかった
怠らなかった。
ファルツ
Pfalz 王城。
お構になる
追放される。
耳語
耳打ち。
木っ端。
毫光
円光。後光。神・聖者の体から出てその背後を飾るという。
ギベルリイネン
Ghibellinen 皇帝党。
ゲルフェン
Guelfen 法王党。
内帑
国庫。
躔次
星の宿り。
純金
占星術では、太陽・月・水星・金星・火星・木星・土星を、それぞれ金・銀・水銀・銅・鉄・錫・鉛で代表させる。
機嫌買
機嫌が変わりやすいこと。
二重に聞える
メフィストフェレスの囁く言葉を、天文博士がくり返しているため。
連枷
稲や麦の脱穀に使う道具。長い柄の先に穂を打つ棒がついている。
人形
不老長寿と富をもたらすまじないに用いられた曼《まん》陀《だ》羅《ら》華《げ》の根のこと。地中の宝を護持するという醜い小悪魔アルラウネに形が似ているので、アルラウネとも呼ばれる。
紅宝玉
ルビー。
灰の水曜日
四旬節の第一日。
四旬節
復活祭前の日曜を除く四〇日間で、キリストの受難と死をしのんで斎戒・精進する。その直前に行なわれる享楽的な行事が謝肉祭。
聖賢の石
錬金術によって作られる万能の妙薬。
上沓
ローマ法王の上ばき。
お冠を貰いにおいでになった
一〇〜一六世紀、ドイツ国王はローマへ行き、法王から神聖ローマ皇帝としての戴冠を受けた。
マンドラ
Mandola リュート属の古楽器で、マンドリンの前身。
ケレス
Ceres ローマ神話の穀物の神。
テオフラスト
Theophrastus(前三七二頃〜前二八八頃)古代ギリシアの哲学者。アリストテレスの弟子で、「植物学の父」と呼ばれる。
テオルベ
Theorbe リュート属の低音部用の古楽器。
ギタルラ
Guitarra ギター。
鳥さし
鳥もちを塗った竿で鳥を捕る人。
粗笨
粗雑。ぞんざい。
ワムピイル
Vampir 吸血鬼。
グラチエ
Gratiae ローマ神話の神。ギリシア神話では優雅の女神カリテス(Charites)と呼ばれ、普通はヘゲモネの代わりに繁栄の女神タリアを入れる。
パルチェエ
Parcae ローマ神話の神。ギリシア神話ではモイライ(Moirai)。本来はクロトが生命の糸を紡ぎ、ラヘシスが運命を授け、アトロポスが生命の糸を断ち切る役だが、ここではアトロポスとクロトの役を取り換えている。
風のむた
風とともに。
序する
順序よく並べる。
糸を巻きつける道具。
服部手
機を織る人。
フリエユ
Furiae ローマ神話の神。ギリシア神話では復讐の女神エリニュエス(Erinyes)と呼ばれ、親殺しなど反社会的な罪を犯した者を情容赦なく追及し罰する、正義と秩序の守護者。本来は、体に蛇を巻きつけた見るも恐ろしい姿をしている。
アスモジ
Asmodi 結婚を妨害する悪魔。
山が一つ押し寄せて来ます
理想的な国家を寓意する巨象。勝利の女神ヴィクトリアを乗せ、「知恵」に御され、人間を惑わす「希望」と「恐怖」を捕縛して連れている。
テルシテス
Thersites ホメロスの『イリアス』に登場する醜悪な人物。アガメムノンらの英雄を中傷する。
ツォイロス
Zoirus 作品のあらさがしをしてホメロスを攻撃したアテナイの修辞学者。
パン
Pan ギリシア神話の牧畜の神。ヤギの脚と角を持ち、粗野で好色だが、葦笛の名手。
地鞴踏み
地団駄。
あららかに、はららかし
散り散りばらばらにする。
ファウニ
Fauni ローマ神話の山野の精ファウヌス(Faunus)の複数形。ギリシア神話のサテュロスと同一視される。
サチロス
Satyros サテュロス。ギリシア神話の山野の精。とがった耳や角、長い尾、蹄のついた脚などを持ち、快活・好色で踊り好き。
シャンミイ
Chamois カモシカ。
グノオメン
Gnomen 地中に住む小妖精。
三つの戒
モーセの十戒の中の「盗むなかれ、姦淫するなかれ、殺すなかれ」をさす。
水の女
水の精。ニンフの一種。
世界の万有
「パン」には「全」という意味もあり、パンの神は世界全体の神とも考えられた。
御声
パンの神は、腹を立てたときや戦いのとき、すさまじい大声を発して相手を恐慌に陥れたという。ここから「パニック」という語が生まれた。
富の神が車から下ろした櫃。
時様の
流行の。
率爾な
無礼な。
プルトン
Pluton ギリシア神話の冥界の神ハデスの別名。
ネレウス
Nereus ギリシア神話で「海の老人」と呼ばれる海神の一人。予言と変身の力を持ち、五〇人の美しい娘(ネレイデス)がいた。
テチス
Thetis ネレイデスの一人。ギリシア神話の「アルゴオ船の英雄たち」の一人ペレウスと結婚し、アキレウスを産んだ。
シェヘラツァデ
Scheherazade シェエラザード。『千夜一夜物語』の語り手の娘。
色文
恋文。
偈の本
偈は仏教用語だが、ここでは祈祷書のこと。
悖って
盛んに。たくさん。
ヘレネ
Helene ヘレナに同じ。
パリス
Paris トロイアの美貌の王子。
縁遠い境界
キリスト教の悪魔であるメフィストフェレスにとって、古代ギリシアは魔力の通じない異教の世界である。
「母」達
ゲーテがその自然哲学に基づいて創作した概念。「母」達の国には、時空を超越してあらゆるものの原型・理想型が保存されていると考える。美の原型としてのヘレネも、そこへ行けば得られる。
五徳
火鉢などの火の上に置いて、やかんや鍋などをのせる三〜四本脚の台。ここでは鼎のことか。
黒ん坊
芝居の黒子のこと。
アトラス
Atlas ギリシア神話の巨神族の一人。天を支える柱の番人、もしくは自らの肩で天を支える怪力の持ち主。
剣形迫持
上部がとがったアーチ。ゴシック建築様式の特徴の一つ。
司祭
ヘレネに仕える美の司祭。
三裂の飾
古代ギリシアの建築様式であるドリス式円柱のフリーズに見られる装飾。
取廻
立ち居振る舞い。
上つ方
身分の高い人。
エンジミオンとルナ
Endymion, Luna ローマ神話の月の女神ルナ(ギリシア神話のセレネ)は美貌のエンデュミオンを恋するあまり、彼を不老不死の眠りにつかせて虜にする。画題として有名。
十ばかりの時
ヘレネは、まだ一〇歳とも一二歳とも言われる少女のとき、アテナイの英雄テセウスにさらわれたことがあった。
蜘蛛のい
クモの網(巣)。
蹣跚として
よろめきながら。
麕集
群がり集まること。
聖ペトルス
Petrus 新約聖書「マタイによる福音書」で、イエスから天国の鍵を授けられたとされる使徒ペテロ。
戸締まりのための落とし桟。
得業士
学士。
スウェエデン風の斬髪
当時流行した、スウェーデン王グスタフ・アドルフ風の刈り上げ髪。
思想家
フィヒテらのドイツ観念論哲学に対する諷刺。
盈虧
満ち欠け。
推参
自分から押しかけて行くこと。
貶黜
官位を下げてしりぞけること。
美しい所だ
以下、小人が語るのは、ファウストが見ている夢の情景。ゼウスが白鳥に姿を変えてレダに求愛するという、ヘレネの出生にまつわるギリシア神話の有名なシーン。
白鳥の古名。
ペネイオスの川
Peneios 現ピニオス川。ギリシア中東部、テッサリア平原を東流してエーゲ海に入る大河。
ファルサロス
Pharsalos テッサリア地方にある古都。紀元前四八年、カエサルがポンペイウスを破った古戦場。
アスモジ
Asmodi 結婚を妨害する悪魔。ここでは不和一般の悪魔とみなされている。
テッサリアの魔女
テッサリア(Thessalia)は悪魔や妖怪の多い所で、その魔女は好色で知られる。
画竜の睛の一点を見出しましょう
小人が肉体を得て、人間として完成すること。
古代のワルプルギスの夜
第一部のワルプルギスの夜を古代ギリシアの舞台に移し換えたもので、ゲーテの創作。カエサルとポンペイウスの会戦記念日である八月九日の前夜、ファルサロスの古戦場に精霊たちが集う。
魔女エリヒトオ
Erichto ポンペイウスが決戦の勝敗を尋ねたというテッサリアの夜の魔女。
ポンペイユス
Pompejus(前一〇六〜前四八)。古代ローマの政治家・軍人。カエサル、クラッススとともに第一回三頭政治を行なったが、後にカエサルと対立、ファルサロスの戦いで敗退した。
ケザル
Caesar(前一〇〇〜前四四)。カエサル、シーザー(英)。古代ローマの将軍・政治家。ポンペイウスを倒して独裁権力を揮ったが、ブルートゥスに暗殺された。
アンテウス
Antaeus ギリシア神話の恐ろしい巨人アンタイオス(Antaios)のこと。海神ポセイドンと大地の女神ガイアの子で、大地に触れることによって無敵の強さを発揮する。ヘラクレスは彼を担ぎ上げて退治した。
スフィンクス
Sphinx 上半身は人間の女性、下半身は獅子で、翼を持つ怪物。謎をかけて解けない人間を食い殺していたが、オイディプス(Oidipus)に解かれて死ぬ。
グリップス
Gryps 鷲の頭と翼、獅子の体を持つ怪物。黄金の守護者。
アリマスポイ
Arimaspoi グリップスの強敵で、巨大アリから黄金をぶん取る、一つ目の民族。
オオルド・インイクウィチイ
Old Iniquity「古い悪徳」の意。
チェウス
Zeus ゼウス。ギリシア神話の最高神。天空の支配者として全世界に君臨する。
セイレエン
Seiren 人間の女性の頭と鳥の体を持つ怪物。美しい歌声で船乗りを惑わし、船を難破させるという。
まらうど
来客。
オイジポス
Oidipus ギリシア神話のテーベの王オイディプス。スフィンクスの謎「朝は四本足、昼は二本足、夜は三本足のものは何か」を「人間」と解いた。
ウリッセス
Ulysses ユリシーズ(英)。ギリシア神話の英雄オデュッセウス(Odysseus)のローマ名。航海中、セイレーンの誘惑を切り抜けるため、船員たちの耳に蝋を詰めさせ、自分の体をマストに縛りつけさせたという。
ヘラクレス
Hercules ギリシア神話最大の英雄。「十二の難行」を成し遂げたのをはじめ、数々の武勇伝がある。
ヒロン
Chiron ギリシア神話の英雄たちを教育した賢者ケイロン(Cheiron)のこと。半人半馬のケンタウロス族の一人で、ヘラクレスの毒矢が因で死ぬ。
アルカイオス
Alkaios ヘラクレスの育ての父であるアンピトリュオンの父。
スチュムファアリデス
Stymphalides ギリシア神話に登場する人食いの怪鳥。アルカディアのステュムパロス湖畔の森に棲み、人々を苦しめていたが、ヘラクレスによって退治された。
レルナの蛇
Lerna 前項と同様、ギリシア神話でヘラクレスが成し遂げた「十二の難行」に登場する怪獣。アルゴス地方のレルネの沼地に棲む多頭の水蛇で、切っても新しい頭が生えてくる。
ラミエエ
Lamiae 妖艶な媚態で男を誘惑し、殺して肉と血を貪る魔女。
ニュムフェエ
Nymphe ニンフ。ギリシア神話の山川草木の妖精たち。しばしば美しい乙女の姿で登場する。
フィリラ
Philyra ギリシア神話の海の妖精ピリュラ。馬に変身したクロノスと交わり半人半馬のケイロン(前出「古代のワルプルギスの夜」の項参照)を産んだ。
アルゴオの舟に乗った立派な人達
ギリシア神話の大冒険物語「アルゴ船遠征譚」に登場する勇者たち。船長イアソン以下、ヘラクレス、ペレウス、リュンケウス、オルペウスなど錚々たる乗組員五十余名。
パルラス
Pallas パラス。ギリシア神話の主神ゼウスの娘で、戦争・技芸・都市の守護神であるアテネ女神の別名。オデュッセウスの友人メントルの姿に変身して、オデュッセウスの子テレマコスの教育にあたった。
ジオスコロイ
Dioskuroi ディオスクロイ。ギリシア神話のレダの双子の息子カストルとポリュデウケスのこと。カストルは馬術に、ポリュデウケスは拳闘に優れ、テセウスに略奪された妹ヘレネをスパルタに連れ戻した。
ボレアスが伜兄弟
ギリシア神話の北風の神ボレアス(Boreas)の双子の息子カライスとゼテスのこと。怪鳥ハルピュイアイに悩まされていた姉妹のクレオパトラと夫のトラキア王ピネウスを救った。
イアソン
Iason アルゴ船の船長。異父兄ペリアスから王位を奪還するための条件である金羊皮を求めてコルキスへ遠征し、同行した勇者たちと数々の苦難を乗り越えて目的を達成する。
リンケウス
Lynkeus ギリシア神話のメッセネ王アパレウスの子。地下の鉱脈さえも見抜くとい眼力の持ち主で、アルゴ船の遠征では操舵手として活躍した。
アレス
Ares ギリシア神話の戦争の神。ゼウスとヘラの子。ローマ神話ではマルス。
ヘルメス
Hermes ギリシア神話の商業と交通の神。ゼウスの使者で、死者を冥界へ案内する。
ゲア
Gaia ガイア。ギリシア神話で、源初の混沌から最初に生まれた大地の女神。
ヘエベエ
Hebe ギリシア神話の青春の女神ヘベ。死後、天上へ昇ってヘラクレスの妻となった。
アヒルレウス
Achilleus アキレウス。勇猛果敢で足が速く、トロイア戦争で大活躍するギリシア神話の英雄。『イリアス』の主人公。死後、地上に帰り、やはり冥界から戻ったヘレネと結婚し、一子オイフォリンをもうける。
アスクレピオス
Asklepios ギリシア神話の医術の神。やはり医療の神でもあったアポロンの子。
マントオ
Manto ギリシア神話では、テーバイの偉大な盲目の予言者テイレシアスの娘だが、ゲーテはアスクレピオスの娘に変えている。デルフォイのアポロン神殿の巫女。
版図が、……
紀元前一六八年、マケドニア南部ピドナでの戦いで、マケドニア王ペルセウスはローマ軍に敗れ、古代ギリシアの時代が終わった。
ペルセフォネイア
ギリシア神話のゼウスとデメテルの娘、ペルセポネ(Persephone)のこと。冥界の神ハデスの妻。
いつぞや……
死んだ最愛の妻エウリュディケを求めて、オルフェウスが冥界へ行ったときのこと。
アイゲウスの海
Aigeus エーゲ海。
忌まはしきなゐ
地震。
セイスモス
Seismos ギリシア神話の海神であり地震の神でもあるポセイドンのこと。
レト
Leto ギリシアの神話で、ゼウスとの間にアポロンとアルテミスを産んだティタン女神。ゼウスの妻ヘラによる迫害を逃れて、デロス島で出産した。
カリアチデス
Karyatides ギリシア建築で用いられる女身を象った支柱。
ハオス
Chaos カオス(混沌)。
チタアン
Titan ティタン。地(ガイア)と天(ウラノス)から生まれ、ギリシアの神々のさきがけとなった巨神族。ここでは、巨人として生まれたポセイドンの子をさす。
ペリオンやオッサの山
いずれもテッサリアにある山。ポセイドンの子である二巨人は天上の神々に挑戦して、二つの山をオリンポスの山の上に積み上げた。ゲーテは、オリンポス山をパルナッソス山に変えている。
ムウサ
Musa ムーサ。ミューズ(英)。ギリシア神話の学芸の女神。
アポルロン
Apollon アポロン。ギリシア神話の代表的な神の一人。知性・秩序の保護者で、音楽・詩歌・弓術・医療・牧畜をつかさどる。ムーサたちを従えてパルナッソス山に住む。
ピグマイオス
Pygmaios 伝説の小人族。鶴と戦って滅んだという。
ダクチレ
Daktyle ギリシア神話に登場する精霊。優れた鍛冶の技術を持つ。
イビコスの黒鶴
イビコス(Ibykos)は古代ギリシアの抒情詩人。その殺害を目撃した黒鶴が復讐を助ける話を、 シラーが詩に書いている。
唇歯の親
親しい間柄。
イルゼの姨さん
イルゼンスタインの擬人化。
ハインリヒ
Heinrich ブロッケン山中にある長い岩壁の名。鼾岩、貧乏山も同様の地名。
妖女ラミエ
ラミエエに同じ。
たもとほり
徘徊し。
エムプウザ
Empusa 獣や草木から美女まで、何にでも自在に化ける、ロバの脚をした魔女。
ハルツ
Harz ドイツ中部の山岳地帯。
ヘラス
Hellas 古代ギリシア人がギリシアをさす呼び名。
書入
抵当。かた。
ラチェルタ
lacerta トカゲ。
チルソスの杖
ディオニュソスに心酔してつき従う女たちが手にしていたという杖。
隠子菌
ホコリタケの類。
オレアス
Oreas 山の精。ニンフの一種。
ピンドス
Pindos ピニオス川の水源で、テッサリアの西を限る山脈。
ホムンクルス
Homunculus ラテン語で「小さな人間」の意。錬金術師パラツェルズスによれば、人間の精子を密閉したフラスコに入れておくと、肉体を持たずに妖精のような力を発揮するホムンクルスができるという。ワグネルによって作り出された小人のこと。
アナクサゴラス
Anaxagoras(前五〇〇頃〜前四二八頃)古代ギリシアの哲学者。万物は無数の元素(種子)から成ると考え、混沌不動の世界に秩序と運動をもたらす根本原理があると主張した。
タレス
Thales(前六世紀後半)古代ギリシアの哲学者。万物の根源は水であるとし、それまで神話的にしか考えられていなかった世界の生成を、初めて実体として説明した。
ミルミドン族
Myrmidon アキレウスに従ってトロイアに遠征した、テッサリアの一種族。元はアリだったが、ペストで減った人口を補うためにゼウスが人間に変えたという。
ジアナ、ルナ、ヘカテの三一の神
Diana, Luna, Hekate ローマ神話における月の女神は、地上ではディアナ、天上ではルナ、地下の冥界ではヘカテと呼ばれ、三位一体の神と考えられた。
瀝青。 ピッチ。 アスファルト。 コールタールなど炭化水素化合物の総称。
ドリアス
Dryas ギリシア神話の木のニンフ。
フォルキアデス
Phorkyades ギリシア神話で「海の老人」と呼ばれる海神の一人ポルキュスと、 妖怪のケトとの間に生まれた三人娘。 生まれながらに白髪の老婆で、一つの目と歯を共有して、暗い洞穴に住む。グライアイ(Graiai)とも呼ばれる。
マンドラゴラ
Mandragola 曼陀羅華。
オプスやレア
Ops, Rhea オプスはローマ神話の豊穣の神。レアはギリシア神話のティタン女神の一人で、クロノスと結婚し、ゼウス、ヘラ、 ポセイドンなどギリシア神話の主要な神々を産んだ。
ユノ
Juno ローマ神話の女性と結婚の女神。ギリシア神話のヘラと同一視される。
ウェヌス
Venus ヴィーナス(英)。ローマ神話の庭や畑の女神。ギリシア神話の愛と美の女神アフロディテと同一視される。
トリイトン
Triton ギリシア神話の海神ポセイドンの息子で半人半魚の海神。ほら貝を吹いて荒海を鎮めた。
サモトラケ
Samothrake エーゲ海北東部、黒海近くにある島。周囲は絶壁で、船が近づけない。
カベイロイ
Kabeiroi エーゲ海北部で古くから秘教的に信仰されていた豊穣の神々。サモトラケでは水難からの守り神として祀られ、姿は小さいが強力で、自己増殖するという。
意見をした
パリスがヘレネを誘惑してトロイアへ帰ろうとしたとき、老海神ネレウスがトロイアの滅亡を予言した。
イリオス
Ilios 開祖イロスの名に因むトロイアの別名。
ピンドスの山の鷲
トロイアを滅ぼしたギリシア軍のこと。
ウリッソス
Ulyssos ウリッセスに同じ。
キルケ
Kirke ギリシア神話の太陽神ヘリオスの娘で、恐ろしい魔女。彼女の住む島へ上陸したオデュッセウスの部下たちを豚に変えてしまう。
キクロオプス
Kyklops ギリシア神話で、オデュッセウスを苦しめる一つ目の人食い巨人。オデュッセウスはワインで眠らせ、目を焼きつぶして難を逃れる。
万斛
非常に多いこと。
海少女
海神ネレウスとドリスとの間に生まれた五〇人の海のニンフたち。
ネプツウヌス
Neptunus ネプチューン(英)。ローマ神話の海神。ギリシア神話のポセイドンと同一視される。
キプリス
Kypris「キプロスの女神」の意で海の泡から生まれキプロス島に上陸したアフロディテ(ヴェヌス)をさす。
パフォス
Paphos キプロス島南岸にある都市。キプリスを祀る大神殿がある。
プロテウス
Proteus ギリシア神話の「海の老人」と呼ばれる海神の一人。予言の力を持ち、ポセイドンに仕えた。
御稜威
威光。威徳。
あだし
他の。
羊の毛皮
「アルゴ船遠征譚」で、イアソンがコルキスまで取りに行った金羊皮のこと。
ロドス島
Rhodos 太陽神ヘリオスの信仰が盛んなエーゲ海東部の島。
テルヒイネス
Telchines ギリシア神話で、ロドス島の原住民とされる魔術師たち。鍛冶・金工の技術に長じ、ポセイドンの三叉の矛を作ったという。
己の娘
ガラテアのこと。
リビアのプシルロイとイタリアのマルシ
Psylloi, Marsi いずれも蛇使いの種族。ここではガラテアの従者。
十字架をも、月をも
鷲・翼ある獅子・十字架・月は、それぞれローマ・ヴェネチア・キリスト教徒・トルコの象徴で、この順序でキプロス島を占領し支配した。
青人草
人民。
いしくも
よくも。けなげにも。
おだしく
安らかに。そっと。
スパルタ
Sparta ペロポネソス半島南部にあった古代ギリシアの都市国家。全市民が受けた厳格な軍事教育で有名になる。
メネラス
ギリシア神話に登場するスパルタ王メネラオス(Menelaos)。トロイアの王子パリスに奪われた妻ヘレネを、トロイア戦争に勝って取り戻す。
エウロス
Euros 東風の神。
フリギア
Phrygia 小アジアのフリギア州にあったトロイアをさす。
チンダレオス
Tyndareos ギリシア神話に登場するスパルタ王。亡命中に、白鳥に変身したゼウスが妻のレダを誘惑し、ヘレネが生まれた。
パルラスの岡
パラス(アテネ女神)を祀るアクロポリスのこと。
クリテムネストラ
Klytaimnestra クリュタイムネストラ。ヘレネの姉妹で、アガメムノンの妻となる。
カストル、ポリデウケス
Kastor, Polydeukes ヘレネの双子の兄弟で、ディオスクロイと呼ばれる。
キテラのお社
スパルタ領キテラ島(Kythera)にあるアフロディテを祀る神殿。
フリギアの賊
トロイア王子パリスたちのこと。
エウロタ川
Eurotas スパルタを流れる川。
ラケデモン
Lakedaimon スパルタの開祖ラケダイモン。スパルタは妻の名スパルテに由来する。
マイナデス
Mainades ギリシア神話の酒神ディオニソスに仕えた酒乱の巫女たち。
エレボス
Erebos ギリシア神話のカオス(混沌)の息子。姉妹のニュクス(夜)と交わって、アイテル(大気)やヘメラ(昼)をもうけた。「暗黒」の意で、冥界の深みをさすこともある。
スキルラ
Skylla スキュラ。六つの頭と一二の足を持ち、腰につけた犬の頭が船乗りたちを餌食にしたという海の怪物。
チレシアス
Teiresias テイレシアス。ギリシア神話に登場するテーバイの大予言者。アテネ女神の裸体を見たために、あるいは蛇の交尾を見たために盲目にされたという。
オリオン
Orion ホメロスの時代にすでに星座になっていた、ギリシア神話の巨人の狩人。
ハルピイアイ
Harpyiai 人間の女の上半身を持つ怪鳥。「アルゴ船遠征譚」では、食卓を食い荒らした上に糞で汚し、トラキア王ピネウスを苦しめる。
テセウス
Theseus アテナイ最大の英雄。幼いヘレネを略奪して妻にしようとした。
アフィドノス
Aphidnosアッティカのアピドナイ。テセウスがヘレネを幽閉した所。
パトロクロス
Patroklos トロイア戦争の雄将アキレウスの無二の親友。パトロクロスの戦死がアキレウスを奮い立たせ、ギリシアを勝利に導いたという。
イリオスにも、エジプトにもおられた
エウリピデスの『ヘレネ』によれば、パリスと共にトロイアにいたのは幻のヘレネで、本物はエジプトにいたという。
首の三つある狗
冥界の入口を守る恐ろしい番犬。
糸を繰るパルチェエの中の一番貴いあなた
運命の三女神のうち、生命の糸を断ち切るアトロポスのこと。
シビルレ
Sibylle アポロンに献身した褒美に予言の能力を授けられた女の名で、その名声によって神託を告げる巫女の代名詞となった。
レア
ウラノス(天)とガイア(地)の娘で、ゼウスの母。
オイロタス川
エウロタ川に同じ。
タイゲトスの山
Taygetos ペロポネソス半島の最高峰。
キムメリオイ
Kimmerioi 冥界の入口にあるという、暗い常夜の国。
Aias トロイア戦争でアキレウスに次いで活躍した勇敢な武将。彼の持つ大きな楯は文字通りギリシア軍の防壁だった。
テエバイを囲んだ七人
オイディプス追放後のテーバイ王位継承争いでテーバイを攻めた、アルゴス王アドラストス以下七人の勇者たち。
デイフォボス
Deiphobos トロイアの王子。兄パリスの戦死後、ヘレネを妻とするが、木馬の奇計によってギリシア軍に攻め込まれ、残酷に殺される。
もあい
他の人といっしょに事を行なうこと。もやい。あいあい。催合。
角の声
角笛の音。
禍津日
災いを起こす神。
オイロタ川
エウロタ川に同じ。
ピトニッサ
Pythonissa アポロンを祀るデルフォイ神殿の所在地ピトや、その巫女ピティアから来た言葉で、予言者や占い師の代名詞。ここでは「闇の女」をさす。
望楼守リンケウス
アルゴ船の操舵手と同名。目がよく利くことを暗示している。
ヘレネのいたスパルタのある方角。
緑柱玉
エメラルド。
先のをいたわっていましたが
古代ギリシアのヘレネには未知な脚韻のこと。
ピロス
Pylos ペロポネソス半島南西部の港都。
ネストル
Nestor ピロス王ネレウスの子。ピロスがヘラクレスに襲撃されたとき不在で、ただ一人生き残り、トロイア戦争では長老として活躍した。
ゲルマアネ
ゲルマン人。以下ゴオテ(ゴート人)、フランケ(フランク人)、ザックセ(ザクセン人)、ノルマネ(ノルマン人)は古代ヨーロッパに割拠した民族。
コリントス
以下アハイア(アカイア)、エリス、メッセネ、アルゴリスはペロポネソス半島の地域名。
卵の殻を破って
ヘレネは、白鳥に変身したゼウスの娘なので、卵の形で生まれたという。
ナペアイ
Napaiai 水の精。
アルカジア
Arkadia ペロポネソス半島中央部にある丘陵地帯。古来、牧歌的な理想郷として芸術の題材になってきた。
ジェニウス
Genius 天使。
リラ
竪琴。古代ギリシアの代表的楽器。
イオニア
Ionia 小アジア西岸中部の地域。ホメロスの生地で、芸術・哲学が栄えた。
ヘルラス
ヘラス。
あのマヤの子
ゼウスとマヤ(Maja)の子であるヘルメスのこと。盗人の神でもあり、生まれながらに悪賢かった。
海の主の神様
三叉の矛を持つポセイドンのこと。
アレエス
アレス。
ヘファイストス
Hephaistos ギリシア神話の火の神。鍛冶・金工の技術に優れていた。
エロス
Eros 神々や人間たちの結婚をつかさどる、ギリシア神話の愛の神。
キプリアの女神
キプリスに同じ。
ペロップスの国
ペロップス(Pelops)は、ギリシア神話で神々から永劫の罰を受けたタンタロスの子。王女を争奪して得たピサをはじめ、彼が征服したペロポネソス半島をさす。
イカルス
Ikaros アテナイの名工ダイダロスの子イカロス。ミノス王によって迷宮に閉じ込められた父子は、父の作った翼を蝋で身につけて脱出するが、イカロスはうっかり太陽に近づき過ぎ、蝋が溶けて墜死してしまう。
その人
ギリシア独立戦争に義勇軍を組織して参戦し、戦地で病没したイギリスの詩人バイロンのこと。バイロンをモデルにした童子の果敢な死に、バイロンへの哀悼の意が籠められている。
アスフォデロス
Asphodelos 冥界一面に青白い花を咲かせるというユリの一種。
マイアンドロス
Maiandros 蛇行することで有名な小アジアの川。
バクホス
Bakchos バッコス。ギリシア神話の酒神ディオニュソスのローマ名。ニンフに育てられ、いつもシレノス(次項参照)やサテュロス、マイナデスたちを従えているという。
セイレノス
Seilenos シレノスとも言う。ディオニュソスにつき従う、酒好きだが賢明な老人。パンの神とニンフとの子で、馬の耳や尾を持ち、ロバに乗っていることが多い。
レダ
Leda ヘレネの母。
アウロラの恋
アウロラ(Aurora)はローマ神話の曙の女神。初恋のこと。
七里靴
一歩で七里進むという魔法の靴。
モロホ
Moloch エホバの攻撃に対し、岩を砕き山を築いて抗戦したという邪神。牛身の火神ともいう。
サルダナパアル
Sardanapal 放蕩逸楽の限りを尽くしたことで有名な、伝説的なアッシリア最後の王。
便々たる
肥満している様。
本領安堵
世の中が変わっても、領地をそのまま所有させること。
ペエテル・クウィンチェ
Peter Quince シェイクスピアの『真夏の夜の夢』に登場し、素人芝居をする大工ピーター・クインスのこと。
帷幄
戦場で作戦を立てるために張る天幕。陣幕。
サブス
Sabus サビーニー人。前二九〇年頃ローマ人に征服されたイタリア中部地方の古代民族。
ノルチア
Norcia イタリア中部サビニ山地にある町で、魔術師が多く出た。
解事者
事情通。訳知り。
同胞の火
ギリシア神話の双子神ディオスクロイは、暗夜や荒天のとき帆柱に聖エルモの火となって現われ、船を守ってくれると信じられた。
先生
ローマで帝に助けられたノルチアの魔術師のこと。
ウンジネ
Undine 水の精。
大先生
悪魔の王サタンのこと。
鋼鉄で宵の明星が拵えてある
星形をした中世の武器の一種。
引廻し
ケープ。マント。
内外
城内城外。
光禄卿
宮中の食事をつかさどる役職の長官。
良令
酒造係。
綸言
天子の言葉。
印璽
天子の印と国家の印。
相国
宰相。
バウチス
Baucis、次のフィレモン Philemonとも、オウィディウスの『変形譚』に登場する老夫婦の名。信仰心あつく親切で、仲よくつましく暮らす老夫婦の典型。
通話筒
メガフォン。
ナボトの葡萄山
旧約聖書「列王紀・上」第二一章に出てくる故事。サマリア王アハブの宮殿のそばにナボトの葡萄畑があった。アハブはそれを欲しがり、ナボトに譲ってくれるよう頼んで断られると、ナボトに濡れぎぬを着せて殺し、畑を手に入れる。
レムレス
Lemures ローマ時代、民間で信仰された死者の霊。
聞きはつり
聞きかじる。
ポセイドン
Poseidon ギリシア神話の海の支配者。地震や馬の神でもある。海底の宮殿に住み、三叉の矛を手に、青銅のひづめと黄金のたてがみをもつ馬が引く戦車に乗って現われる。ここでは、メフィストフェレスによって悪魔扱いをされている。
服膺
いつも心にとめて忘れないこと。
無限に長い時間。
襦袢
経帷子のこと。
プシヘエ
Psyche プシュケ。霊魂。
ルチフェル
Lucifer 神に反逆して地獄に落とされ、悪魔になった堕天使。
ヒオッブ
Hiob 旧約聖書「ヨブ記」の主人公ヨブのこと。第二章七節に、サタンがヨブの体一面に腫れ物をつくって苦しめる話がある。
征箭
戦場で使う矢。
大いなる女罪人
新約聖書「ルカによる福音書」第七章で、イエスの足を涙で洗い、髪でぬぐい、接吻して香油を塗る罪の女。マグダラのマリアとされている。
ファリセイの人々
Pharisaei パリサイ人。
バルサム
Balsam 香油。
サマリアの女
新約聖書「ヨハネによる福音書」第四章に、イエスから水を乞われるサマリアの女。
エジプトのマリア
「聖者行状記」に出てくる聖女。過去の淫蕩な生活を悔い改め、マリアのお告げに従って、四八年間も砂漠で贖罪を続けた。
訳本ファウストについて
『心の花』第一七巻第五号(大正二年五月一日発行)に発表。
文芸委員会
大逆事件を機に、明治四四年、文芸に対する懐柔抑圧政策の一環として政府が設置した調査審議機関。文学賞の授与、海外古典の翻訳等の事業を行なったが、内部対立から、鴎外訳『ファウスト』以外に成果を見ず、大正二年に廃止された。
木下杢太郎
(一八八五―一九四五)。詩人・劇作家・医学者。本名太田正雄。新詩社に加わり、『スバル』『明星』等に耽美的作品を発表。
ミュンステル
Mu《・・》nster ドイツ中西部の工業都市。中世から栄え、ドーム、教会、市庁舎などの古建築が残っている。
クノオ・フィッシェル
Kuno Fischer(1824〜1907)。ドイツの哲学史家。『近世哲学史』の他,ドイツ古典文学の美学的分析などがある。
ファウスト考
大正二年一一月一七日刊。
ビイルショウスキイ
Alpert Biolschowsky(1847〜1902)。ドイツの文学史家。
ファウスト作者伝
『ギョオテ伝』として大正二年一一月一七日刊。
ウルファウスト
一七七五年、ゲーテがワイマールに移住した当時に書かれた『ファウスト』第一部の原型。執筆後ほぼ一〇〇年たった一八八七年発見された。
ウルマイステル
『ウィルヘルム・マイスターの演劇的使命』と題された『ウィルヘルム・マイスターの修業時代』の前身作品。一九一〇年、ゲーテの女友達だったバルバラ・シュルトヘス夫人とその娘による筆写原稿が発見され、出版された。
佐佐木信綱
(一八七二―一九六三)。歌人・国文学者。『万葉集』研究をはじめとする和歌の史的研究や評釈に多大な業績を残した。
牧野富太郎
(一八六二―一九五七)。植物学者。日本の近代植物分類学の確立者であり、その成果を『牧野日本植物図鑑』にまとめた。
藤代禎輔
(一八六八―一九二七)。ドイツ文学者。京大教授。明治三三年、夏目漱石と同船でベルリン大学へ留学した。
オットオ・ハルナック
Otto Harnack(1857〜1914)。ドイツの文学史家。シュトゥットガルト大学教授。ゲーテ研究家。
ゾフィインアウスガアベ
Sophien-Ausgabe 一八八七年から一九一九年にかけて刊行されたいわゆるワイマール版全集(全一四三巻)のこと。
「ゾイレ」の前に「ヒイフェン」
ゾイレ Sa《・・》ure は酸,ヒーフェン Hyphen はハイフン。
近代劇協会
大正一年、上山草人、伊庭孝らによって創立された新劇の劇団。逍遙、鴎外を顧問に「ヘッダ・ガブラー」「ファウスト」等を上演した。
帝国劇場
明治四四年、東京丸の内に建てられた、日本最初の本格的洋風劇場。
オイゲン・キュウネマン
Eugen Ku《・・》hnemann(1868〜1946)。ドイツの文学史家、哲学者。ブレスラウ大学教授。
不苦心談
『東亜之光』第八巻第九号(大正二年九月一日発行)に発表。
東亜之光
明治三九年、日露戦争後の青年たちへの思想的啓蒙・救済を目的に、井上哲次郎が発刊した総合雑誌。鴎外は「追儺」「電車の窓」等の短篇をはじめ、詩、評論、翻訳を多数発表した。
ファウストの善本
書誌学的に正統で、信頼の置けるテキスト。
コンメンタアル
注釈書。
高橋五郎
(一八五六〜一九三五)。評論家・翻訳家。宣教師ブラウンの学僕として語学を修め、『漢英対照いろは辞典』などを刊行。
心の花
明治三一年、佐佐木信綱が発刊した、彼が主宰する短歌結社竹柏会の機関誌。初期には文芸誌的な広がりを持ち、逍遙、鴎外、露伴ら多彩な寄稿者を擁した。
伊庭孝
(一八八七―一九三七)。俳優・演出家・評論家。明治四五年『演劇評論』を創刊、草創期の新劇運動に活躍。後には浅草オペラをはじめとして、歌劇の日本移入に尽力した。
新人
明治三三年、海老名弾正によって創刊されたキリスト教主義の総合雑誌。進歩的・自由主義的神学に立ち、植村正久と闘わせた「福音主義論争」は有名。
沼波武夫
(一八七七―一九二七)。国文学者・俳人。号は瓊《けい》音《おん》。明治四三年、雑誌『俳味』を創刊して俳諧史研究を発表。一高、東大等で教鞭を執る。
ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ
(Johann Wolfgang von Goethe)
一七四九―一八三二年。ドイツの詩人、作家、自然科学者、政治家。フランクフルトに生まれ、ヴァイマールに没。〈疾風怒濤〉の潮流の代表者。『若きヴェルテルの悩み』『イタリア紀行』『西東詩集』他。
森鴎外(もり・おうがい)
一八六二(文久二)年一月一九日、石見国(島根県)津和野に、藩医静男と峰子の長男として生まれる。本名、林太郎。藩校養老館で漢籍・蘭学を学んだのち、一八七二(明治五)年上京。一八八一年東京医学学校(東大医学部)予科卒業。陸軍軍医となり、一八八四年ドイツへ留学。一八八八年帰国し、以後軍医学校校長、軍医総監等を歴任。この間、自ら創刊した『しがらみ草紙』等を舞台に「即興詩人」「雁」「阿部一族」「渋江抽斎」「歴史其儘と歴史離れ」「審美論」等、翻訳、創作、評論、研究に目覚しい業績を残した。一九二二(大正一一)年七月九日萎縮腎のため没する。
本作品は一九九六年二月、ちくま文庫として刊行された『ファウスト 森鴎外全集11』を底本とした。
なお、電子化にあたり解説を割愛し、二分冊とした。
ファウスト (下)
森鴎外全集 11
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2002年1月25日 初版発行
著者 ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ
訳者 森鴎外(もり・おうがい)
発行者 菊池明郎
発行所 株式会社 筑摩書房
〒111-8755 東京都台東区蔵前2-5-3
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