ファウスト (上)
森鴎外全集 11
ゲーテ 著
森鴎外 訳
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目  次
薦むる詞
劇場にての前戯
天上の序言
悲壮劇の第一部
閭門の前
書斎
ライプチヒなるアウエルバハの窖
魔女の厨
散歩
隣の女の家
四阿
森と洞
マルガレエテの部屋
マルテの家の園
井の端
外廓の内側に沿える巷
寺院
ワルプルギスの夜
ワルプルギスの夜の夢
一名オベロンとチタニアとの金婚式
曇れる日
牢屋
ファウスト (上) 森鴎外全集 11
ゲーテ 著 森鴎外 訳
FAUST. Eine Trago《・・》die
Johann Wolfgang von Goethe
薦むる詞《ことば》
昔我が濁れる目に夙《はや》く浮びしことある
よろめける姿どもよ。再び我前に近づき来たるよ。
いでや、こたびはしも汝《なん》達《たち》を捉へんことを試みんか。
我心猶《なお》そのかみの夢を懐かしみすと覚ゆや。
汝達我に薄《せま》る。さらば好し。靄《もや》と霧との中より
我身のめぐりに浮び出でて、さながらに立ち振舞へかし。
汝達の列《つら》のめぐりに漂へる、奇《く》しき息に、
我胸は若やかに揺らるゝ心地す。
楽しかりし日のくさぐさの象《かた》を汝達は齎《もたら》せり。
さて許多《あまた》のめでたき影ども浮び出づ。
半ば忘られぬる古き物語の如く、
初恋も始ての友情も諸共に立ち現る。
歎は新になりぬ。訴は我世の
蜘《くも》手《で》なし迷へる歩《あゆみ》を繰り返す。
さて幸《さち》に欺かれて、美しかりぬべき時を失ひ、
我に先立ちて去《い》にし善《よ》き人等の名を呼ぶ。
我が初の数《すう》《けつ》を歌ひて聞せし霊《たま》等は
後の数をば聞かじ。
親しかりし団欒《まとい》は散《あら》けぬ。
あはれ、始て聞きつる反響は消えぬ。
我歎は知らぬ群の耳に入る。
その群の褒むる声さへ我心を傷ましむ。
かつて我歌を楽み聞きし誰彼
猶世にありとも、そは今所々に散りて流離《さすら》ひをれり。
昔あこがれし、静けく、厳《いかめ》しき霊の国をば
久しく忘れたりしに、その係《あこ》恋《がれ》に我また襲はる。
我が囁く曲は、アイオルスの箏《こと》の如く、
定かならぬ音《ね》をなして漂へり。
我《われ》慄《ふるい》に襲はる。涙《なみだ》相踵《つ》いで堕《お》つ。
厳しき心和《なご》み軟げるを覚ゆ。
今我が持《も》たる物遠き処にあるかと見えて、
消え失せつる物、我がためには、現前せる姿になれり。
劇場にての前《ぜん》戯《き》
座長。座附詩人。道化方。
座長
これまで度々難儀に逢った時も、
わたくしの手助になってくれられた君方二人《ふたり》だ。
こん度の企《くわだて》がこの独逸国でどの位成功するだろうか、
一つ君方の見込が聞きたいのだがね。
殊に見物は自分達が楽んで、人にも楽ませようとしているのだから、
わたくしもなるたけ見物の気に入るようにしたいのです。
もう小屋も掛かり、舞台も出来ていて、
みんながさあ、これからがお慰《なぐさみ》だと待っている。
誰も彼もゆったりと腰を落ち着けて、眉毛を吊《つ》るし上げて、
さあ、どうぞびっくりするような目に逢わせて貰いたいと思っている。
わたくしだって、どうすれば大勢の気に入ると云うことは知っている。
しかしこん度程どうして好いか分からないことはないのです。
何も見物が最善のものに慣れていると云うのではない。
ですが、兎に角いろんな物を恐ろしく沢山読んでいるのですな。
何もかも新らしく見えて、そして意義があって
人の気に入るようにするには、どうしたら好いでしょう。
なぜそう云うかと云うと、わたくしは一番大当りがさせて見たい。
見物が人波を打ってこの小屋へ寄せて来て、
狭い恵の門口を通ろうとして、何度押し戻されても
また力一ぱいに押し押しして、
まだ明るいうちに、四時にもならないうちに、
腕ずくで札売場の口に漕ぎ附けて、
丁度饑饉の年に麪《パ》包《ン》屋の戸口に来るように、
一枚の入場券を首に賭けても取ろうとする、
そう云う奇蹟を、一人々々趣味の違う見物の群に起させるのは
詩人だけですね。どうぞ、君、こん度はそんな按《あん》排《ばい》に願いたいですな。
詩人
いや。どうぞあの見物と云う、色変りの寄合勢の事を
言わないで下さい。あれを見ると、詩人の霊《れい》は逃げるのです。
あの、厭《いや》がるわたくし共を、無理に渦巻に巻き込もうとする
人の波を、わたくし共の目に見せないように隠して下さい。
それと違って、詩人だけに清い歓喜の花を咲かせて見せる、
静かな天上の隠家へ、わたくしを遣って下さい。
あそこでは愛と友情とが、神々の手で、
わたくし共の胸の祝福を造って、育ててくれるのです。
あそこで胸の底から流れ出るのを、
口が片言のようにはにかみながら囁いて見て、
どうかすると出来損ね、ひょいとまた旨く出来る。
それをあらあらしい刹那の力が呑み込んでしまうのです。
どうかすると、何年も立って見てから、
やっと完璧になることもあります。
ちょいと光って目立つものは一時のために生れたので、
真《しん》なるものが後の世までも滅びずにいるのですね。
道化方
後の世がどうのこうのと云うことだけはわたくしは聞きたくありませんな。
わたくしなんぞが後の世に構っていた日には、
誰が今の人を笑わせるでしょう。
みんなが笑いたがっているし、また笑わせなくてはならないのです。
役者にちゃんとした野郎が一匹いると云うのは、
兎に角一《ひと》廉《かど》の利方だと、わたくしには思われます。
まあ、気持の好い調子に遣る男でさえあれば、
人の機嫌を気に掛けるような事はありますまい。
そう云う男は、見物の頭数を多くした方が、
却て感動させ易いから、その方を望むのです。
まあ、あなたは平気で、しっかりした態度を示して、
空想に、あるだけの取巻を附けて聞せて下さるですな。
取巻は理性に悟性に感覚に熱情、なんでも結構でさあ。
だが、おどけと云う奴を忘れてはいけませんぜ。
座長
なんでも出来事の多いが好いのですよ。
みんなは見に来るのです。見ることが大好きなのです。
見物が驚いて、口を開いて見ているように、
目の前でいろんな事が発展して行くようにすれば、
多数が身方になってくれることは受合です。
そうなればあなたは人気作者だ。
なんでも大勢を手に入れるには、嵩《かさ》でこなすに限る。
そうすれば、その中から手ん手に何かしら捜し出します。
沢山物を出して見せれば何かしら見附ける人の数が殖える。
そこで誰も彼も満足して帰って行くのですね。
纏《まとま》った筋の狂言でも、なるたけ砕いて見せて下さい。
こう骨董羹《ごつちやに》と云う按排に、お手際で出来そうなものだ。
骨の折れない工夫で、骨の折れないお膳立をするのです。
縦《よ》しやあなたの方で纏った物を出したところで、
どうせ見物はこわして見るのですからな。
詩人
いや。そんな細工がどの位悪いか、あなた方には分からないのです。
真の芸術家にどの位不似合だか、分からないのです。
その様子では、いかがわしい先生方の白人《しろうと》為《し》事《ごと》が、
あなた方の所では、金科玉条になっていると見えますね。
座長
そんな悪口を言ったって、わたくしはおこらない。
なんでも男が為事を成功させようと云うには、
一番好い道具を使うと云うところに目を附けるのです。
思って御覧なさい。あなた方は軟い木を割る役だ。
誰を相手に書くのだか、目を開《あ》いて見て下さい。
退屈まぎれに来る客もあれば、
えらい馳走に逢った跡で、腹ごなしに来る客もある。
それから一番の困りものは
新聞雑誌を読み厭《あ》きてから遣って来る。
仮装舞踏へでも行くように、うっかりして駆け附ける。
その足を早めるのは、物見高い心持ばかりです。
女客と来た日には、顔とお作りを見せに来て、
給金なしで一しょに芸をしてくれる。
一体あなた方は詩人の高みでなんの夢を見ているのです。
大入がなんであなた方は嬉しいのです。
まあ、その愛顧のお客様を近く寄って御覧なさい。
半分は冷澹で半分は野蛮です。
芝居がはねたら、トランプをしようと云うのもあれば、
娼妓の胸に食っ附いて、一夜を暴れ明かそうと云うのもある。
そうした目的であって見れば、優しい詩の女《め》神《がみ》達に
ひどく苦労をさせるのは、馬鹿正直ではないでしょうか。
まあ、わたくしの意見では、たっぷり馳走をするですな。
どこまでもたっぷり遣るですな。それならはずれっこなしだ。
どうせ人間を満足させるわけには行かないから、
ただ烟《けむ》に巻いて遣るようにすれば好い。
おや。どうしたのです。感心したのですか。せつないのですか。
詩人
いや、そう云うわけならあなたの奴隷を外から連れておいでなさい。
天が詩人には最上の権を、
人権を与えている。
それをあなたのために擲《なげう》たなくてはならないのですか。
一体詩人はなんでみんなの胸を波立たせるのです。
なんで地水火風に打ち勝つのです。
その胸から迫り出て、全世界をその胸に
畳み込ませる諧調でないでしょうか。
自然は無際限なる長さの糸に、
意味もなく縒《より》を掛けて紡《つ》錘《む》に巻くに過ぎない。
万物の雑然たる群は
不精々々に互に響を合せているに過ぎない。
そのいつも一様に流れて行く列を、
節奏が附いて動くように、賑やかに句切るのは誰ですか。
一つ一つに離れたものを総ての秩序に呼び入れて、
調子が美しく合うようにするのは誰ですか。
誰が怒罵号泣の暴風《あらし》を吹き荒《すさ》ませるのです。
夕映を意味深い色に染め出すのです。
誰が恋中の二人《ふたり》が歩む道のゆく手に
美しい春の花を蒔《ま》くのです。
誰が種々の功《いさお》を立てた人のために
見栄《みばえ》のしない青葉を誉の輪飾に編むのです。
誰がオリンポスの山を崩さずに置いて、神々を集わせるのです。
人間の力が詩人によって啓示せられるのではありませんか。
道化方
そんならあなたその美しい力を使って、
詩人商売をお遣りなさるが好いでしょう。
まあ、ちょいと色事をするようなものでしょうね。
ふいと落ち合って、なんとか思って足が留まる。
それから段々縺《もつ》れ合って来る。
初手は嬉しい中になる。それから傍《はた》が水をさす。
浮れて遊ぶ隙もなく、いつか苦労が出来て来る。
なんの気なしでいるうちに、つい小説になっている。
狂言もこんな風に為《し》組《く》んで見せようじゃありませんか。
充実している人生の真ん中に手を下《くだ》すですね。
誰でも遣っている事で、そこに誰でもは気が附かぬ。
あなたが攫《つか》み出して来れば、そこが面白くなるのですね。
誰彼となく旨がって、為めになると思うような、
極上の酒を醸すには、
交った色を賑やかに、澄んだ処を少くして、
間違だらけの間《あいだ》から、真理の光をちょいと見せる。
そうすればあなたの狂言を、青年男女の選《より》抜《ぬき》が
見物しに寄って来て、あなたの啓示に耳を欹《そばだ》てるのです。
そうすれば心の優しい限の人があなたの作から
メランコリアの露を吸い取るのです。
そうすれば人の心のそこここをそそって、
誰の胸にも応えるのです。
そう云う若い連中なら、まだ笑いでも泣きでもする。
はずんだ事がまだ好《すき》で、見えや形を面白がる。
出来上がった人間には、どんなにしても気には入らない。
難《あり》有《がた》く思うのは、出来掛かっている人間です。
詩人
なるほどそうかも知れないが、そんならこのわたくしが
やはり出来掛かった人間であった時を返して下さい。
内から迫り出るような詩の泉が
絶間なく涌いていた、あの時です。
霧に世界は包まれていて、
含《ふふ》める莟《つぼみ》に咲いての後の奇蹟を待たせられた時です。
谷々に咲き満ちている
千万の草の花をわたくしが摘んだ時です。
その頃わたくしは何も持っていずに満足していた。
真理を求めると同時に、幻を愛していたからです。
どうぞわたくしにあの時の欲望、
あの時の深い、そして多くの苦痛を伴っている幸福、
あの時の憎の力や愛の力を、耗《へ》らさずに返して下さい。
わたくしの青春をわたくしに返して下さい。
道化方
いや。その青春のなくてならない場合は少し違います。
戦場で敵にあなたが襲われた時、
愛くるしい娘の子が両の腕《かいな》に力を籠めて、
あなたの頸に抱き附いた時、
先を争う駆足に、遙か向うの決勝点から
名誉の輪飾があなたをさしまねいた時、
旋風にも譬《たと》えつべき、烈しい舞踏をした跡で、
宴《うたげ》に幾夜をも飲み明そうとする時などがそれです。
それとは違って、大胆に、しかも優しく
馴れた音じめに演奏の手を下して、
自分で極めた大詰へみやびやかな迷の路を
さまよいながら運ばせる、
それはあなた方、老錬な方々のお務です。
そしてわたくしどもはそのあなた方にも劣らぬ敬意を表します。
老いては子供に返るとは、世の人のさかしらで、
真の子供のままでいるのが、老人方の美点です。
座長
いや。議論はいろいろ伺ったが
この上は実行が拝見したいものですね。
あなた方のように、お世辞を言い合っている程なら、
その隙に何か役に立つ事が出来そうなものです。
気乗のした時遣りたいなどと、云っているのは駄目でしょう。
気兼をして遅疑する人には、調子が乗っては来ますまい。
詩人と名《な》告《の》って出られた以上は、
兵を使うと同じように、号令で詩を使って下さい。
わたくしどもの希望は御承知の通だ。
なんでも強い酒が飲ませてお貰《もらい》申したい。
どうぞ早速醸造に掛かって下さい。
きょう出来ないようなら、あすも駄目です。
一日だって無駄に過してはいけません。
髻《たぶさ》を攫んで放さぬように、出来そうな事件を
決心がしっかり押えなくてはいけない。
またその決心がある以上は、押えたものを放しはなさるまい。
そこで厭でも事件は運んで行くですね。
御承知の通この独逸の舞台では
誰でも好な事を遣って見るのです。
ですからこん度の為事では
計画や道具に御遠慮はいらない。
上《うわ》明《あかり》も大小ともにお使い下さい。
星も沢山お光らせなすって宜しい。
水《みず》為《じ》掛《かけ》も好い。火《か》《えん》も好い。岩組なども結構です。
鳥もお飛ばせなさい。獣もお駈けらせなさい。
造化万物何から何まで
狭い舞台にお並べ下さい。
さて落ち着きはらって、すばしこく、天からこの世へ、
この世から地獄へと事件を運ばせてお貰い申しましょう。
天上の序言
主。天宮の衛士。後にメフィストフェレス。
天使の長三人進み出づ。
ラファエル
昔のままの節《ふし》博《はか》士《せ》で、同《はら》胞《から》の星の群と、
日は合唱の音《ね》を立てている。
そして霹《はたた》靂《がみ》の歩《あゆみ》をして
極《き》まった軌道を行く処まで行く。
天使の中で誰一人その理《ことわり》を知ってはいぬが、
それを見たばかりで、天使は皆強みを覚える。
天《あめ》地《つち》のなりいでた日に較べても、不可思議な、
崇高な万物は同じ荘厳を保っている。
ガブリエル
そして早く、不可思議に早く
美しい大地がみずから回転している。
天国のような明るさと
深い、恐ろしい夜とが交代する。
巌石の畳み成せる深い底から
幅広い潮流をなして海は泡立つ。
その巌も海も、永遠に早い軌道の歩《あゆみ》に
引き入れられて、共に廻《めぐ》るのである。
ミハエル
そして海から陸《おか》へ、陸から海へ、
暴風は怒号して往き、怒号して返る。
その往いては返る競争で、吹き過ぐる周囲《めぐり》に
深甚なる作用の連鎖が作られる。
ともすれば雷《らい》電《でん》の破壊の焔が
道のゆくてに燃え上がる。
しかし、主よ、御身の使徒等は
御身の世の穏かなる推移を敬っている。
三人共に
天使の中で誰一人御身の心を知ってはいぬが、
これを見たばかりで、天使は皆強みを覚える。
そして御身が造れる一切の崇高な万物は
天《あめ》地《つち》のなりいでた日と同じ荘厳を保っている。
メフィストフェレス
いや、檀那。お前さんがまた遣って来て、
こちとらの世界が、どんな工合になっているか見て下さる。
そして不断わたしをも贔《ひい》屓《き》にして下さるのだから、
わたしもお前さん所《とこ》の奉公人に交って顔を出しました。
御免なさいよ。ここいらの連中が冷かすかも知れないが、
わたしには気取った言《いい》草《ぐさ》は出来ない。
わざと気取って見たところでお前さんが笑うだけだ。
それとも笑うなんと云うことはもう忘れていなさるかしら。
奉公人達の云う日だの星だのの事はわたしは知らない。
わたしは人間と云う奴の苦むのを見ているだけだ。
人間と云うこの世界の小さい神様は今も同じ性《たち》に出来ていて、
それこそ天《あめ》地《つち》のなりいでし日と同じ気まぐれを保っています。
お前さんがあいつ等に天の光の影をお遣りなさらなかったら、
も少しは工合好く暮して行くのでしょうがね。
人間はあれを理性と謂ってどうそれを使うかと云うと、
どの獣よりも獣らしく振舞うために使うのです。
まあ、お前さんの前だが、飛足のある虫の中の
《こおろぎ》と云う奴のように
飛んだり跳ねたりばっかりしていて、
直ぐ草の中に潜っては昔のままの歌を歌う。
草の中だけで我慢していてくれれば結構だが、
どのどぶにも鼻を衝っ込みゃあがるのですよ。
お前の云うことはそれだけかい。
いつでも苦情ばかり言いに来るのか。
いつまで立っても下界の事がお前には気に入らないのか。
メフィストフェレス
そうですね、檀那。わたしにはいつも随分厭《いや》に見えますね。
人間と云う奴が毎日苦んでいるのを見ると、気の毒になってしまう。
わたしでさえもう揶揄《からか》って遣るのが厭になる位です。
ふん。お前ファウストを知っているか。
メフィストフェレス
あのドクトルですかい。
うん。己《おれ》の子分だ。
メフィストフェレス
さようさ。あいつは妙な行《いき》方《かた》でお前さんに奉公しています。
あの変人はこの世の物を飲みも食《く》いもしませんね。
湧き立つ胸のごたごたが遠くの方へとあいつをこがれさせる。
自分が変だと云うことを半分知っているのでしょう。
天の一番美しい星を取ろうとしているかと思えば、
地の一番深い楽《たのしみ》をも極めようとしています。
そして遠い望も近い望も、
あいつの湧き返っている胸に満足を与えないのですね。
なるほど、あれは今の処で夢中で奉公しているが、
早晩《いつか》心の澄む境へ己が導いて行って遣る。
見い、植木屋でも、緑に芽ぐむ木を見れば、
翌年は花が咲き実がなるのを知るではないか。
メフィストフェレス
どうです、檀那、何を賭けますか。あいつに裏切をさせて、
お前さんさえ承知なさりゃあ、
そろそろわたしの道へ引き込んで遣りたいのですが。
それはあれが下界に生きている間は、
お前がどうしようと、己は別に止めはしない。
人は務めている間は、迷うに極まったものだからな。
メフィストフェレス
それは難《あり》有《がと》うございます。なぜと云うに、死《し》人《びと》なんぞに
構っているのは、わたしゃあ本《もと》から厭ですから。
わたしゃあふっくりした、色《いろ》沢《つや》の好い頬っぺたが一番好《すき》だ。
亡者が来りゃあわたしゃあ留守を使って遣ります。
猫だって死んだ鼠は相手にしませんからね。
宜しい。そんならお前に任せて置く。
あの男の霊《れい》を、その本源から引き放して、
お前にそれが出来るなら、
お前の道へ連れて降りて見い。
だがな、いつかはお前恐れ入って、こう云うぞよ。
「善《よ》い人間は、よしや暗黒な内の促《うながし》に動されていても、
始終正しい道を忘れてはいないものだ」と云うぞよ。
メフィストフェレス
好うがす。ただ少しの間の事です。
この賭に負ける心配はない積りだ。
わたしの思い通りになったら、
どうま声で勝《かち》鬨《どき》を揚げさせて下さい。
あの先生に五味を食わせて見せます。旨がって食います。
わたしの姪の、あの評判の蛇のように。
好い。今度もお前の気《き》儘《まま》にさせて遣る。
己は本からお前達の仲間を憎んだことはない。
物を否定する霊《れい》どもの中で、
己の一番荷厄介にしないのは横着物だ。
一体人間のしている事は兎角たゆみ勝ちになる。
少し間が好いと絶待的に休むのが好きだ。
そこで己は刺戟したり、ひねったりする奴を、
あいつ等に附けて置いて、悪魔として為事をさせるのだ。
さてお前達、本当の神の子等はな、
生々《いきいき》した、豊かな美しさを見て楽むが好い。
永遠に製作し活動する生々《せいせい》の力が、
愛の優しい埒《らち》をお前達の周囲《めぐり》に結《ゆ》うようにしよう。
お前達はゆらぐ現象として漂っているものを、
持久する思《し》惟《ゆい》で繋ぎ止めて行くが好い。
(天は閉ぢ、天使の長等散ず。)
メフィストフェレス
(一人。)
己は折々あのお爺《じ》いさんに逢うのが好《すき》だ。
そこで附《つき》合《あい》がまずくならないように気を附けている。
悪魔にさえあんな風に人間らしく話をしてくれるのは、
大檀那の身の上では感心な事さね。
悲壮劇の第一部
狭き、ゴチック式の室の、高き円天井の下に、ファウストは不安なる態度にて、卓を前にし、椅子に坐してゐる。
ファウスト
はてさて、己は哲学も
法学も医学も
あらずもがなの神学も
熱心に勉強して、底の底まで研究した。
そうしてここにこうしている。気の毒な、馬鹿な己だな。
そのくせなんにもしなかった昔より、ちっともえらくはなっていない。
マギステルでござるの、ドクトルでござるのと学位倒れで、
もう彼此十年が間、
弔り上げたり、引き卸したり、竪横十文字に、
学生どもの鼻柱を撮《つ》まんで引き廻している。
そして己達に何も知れるものでないと、己は見ているのだ。
それを思えば、ほとんどこの胸が焦げそうだ。
勿論世間でドクトルだ、マギステルだ、学者だ、牧師だと云う、
一切の馬鹿者どもに較べれば、己の方が気は利いている。
己は疑惑に悩まされるようなことはない。
地獄も悪魔もこわくはない。
その代り己には一切の歓喜がなくなった。
一《ひと》廉《かど》の事を知っていると云う自《うぬ》惚《ぼれ》もなく、
人間を改良するように、済度するように、
教えることが出来ようと云う自惚もない。
それに己は金も品物も持っていず、
世間の栄華や名聞も持っていない。
この上こうしていろと云ったら、狗《いぬ》もかぶりを振るだろう。
それで霊《れい》の威力や啓示で、
いくらか秘密が己に分かろうかと思って、
己は魔法に這入った。
その秘密が分かったら、辛酸の汗を流して、
うぬが知らぬ事を人に言わいでも済もうと思ったのだ。
一体この世界を奥の奥で統《す》べているのは何か。
それが知りたい。そこで働いている一切の力、一切の種《しゆ》子《し》は何か。
それが見たい。それを知って、それを見たら、
無用の舌を弄せないでも済もうと思ったのだ。
ああ。空《そら》に照っている、満ちた月。
この机の傍で、己が眠らずに
真夜中を過したのは幾度だろう。
この己の苦《くるしみ》をお前の照すのが、今宵を終《おわり》であれば好いに。
悲しげな友よ。そう云う晩にお前は
色々の書物や紙の上に照っていた。
ああ。お前のその可哀らしい光の下に、
高い山の背《せ》を歩くことは出来まいか。
霊《れい》どもと山の洞穴のあたりを飛《ひ》行《ぎよう》することは出来まいか。
野の上のお前の微かな影のうちに住むことは出来まいか。
あらゆる知識の塵の中から蝉《せん》脱《だつ》して、
お前の露を浴びて体を直すことは出来まいか。
ああ、せつない。己はまだこの牢屋に蟄《ちつ》しているのか。
ここは咀《のろ》われた、鬱陶しい石壁の穴だ。
可哀らしい空《そら》の光も、ここへは濁って、
窓の硝子画を透って通うのだ。
この穴はこの積み上げた書物で狭められている。
蠹《し》魚《み》に食われ、塵埃に掩《おお》われて、
円天井近くまで積み上げてある。
それに煤けた見出しの紙札が挿《はさ》んである。
この穴には瓶や缶が隅々に並べてある。
色々の器械が所《ところ》狭《せ》きまで詰め込んである。
お負けに先祖伝来の家具までが入れてある。
やれやれ。これが貴様の世界だ。これが世界と云われようか。
貴様はこんな処にいて、貴様の胸の中で心の臓が
窮屈げに艱《なや》んでいるのを、まだ不審がる気か。
あらゆる生《せい》の発動を、なぜか分からぬ苦《くるしみ》が
障《しよう》礙《がい》するのを、まだ不審がる気か。
神は人間を生きた自然の中へ
造り込んで置いてくれたのに、
お前は烟と腐敗した物との中で、
人や鳥《とり》獣《けだもの》の骸骨に取り巻かれているのだ。
さあ、逃げんか。広い世界へ出て行かぬか。
ここにノストラダムスが自筆で書いて、
深《しん》秘《ぴ》を伝えた本がある。
貴様の旅立つ案内には、これがあれば足りるではないか。
そして自然の教を受けたなら、
星の歩《あゆみ》がお前に知れて、
霊《れい》が霊に語るが如くに、
貴様の霊妙な力が醒めよう。
いや。こうして思慮を費して、
この神聖な符を味っていたって駄目だ。
こりゃ。お前達、霊《れい》ども。お前達は己の傍にさまよっていよう。
己の詞《ことば》が聞えるなら、返事をせい。
(書を開き、大天地の符を観る。)
や。これを見ると、己のあらゆる官能に
忽《たちま》ちなんとも言えぬ歓喜が漲《みなぎ》る。
青春の、神聖なる生の幸福が新に燃えるように
己の脈絡や神経の中を流れるのが分かる。
この符を書いたのは神ではあるまいか。
己の内生活の騒《そう》擾《じよう》を鎮めて、
歓喜を己の不《ふ》便《びん》な胸のうちに充たし、
己の身を取り巻いている自然の、一切の力を、
微妙に促して暴露させて見せるのはこの符だ。
己が神ではあるまいか。不思議に心が澄んで来る。
この符の清浄な画《かく》を見ているうちに、
活動している自然が、己の霊《れい》のために現前する。
今やっと思い当るのは、古《いにしえ》の賢人の詞だ。
「霊《れい》の世界は鎖されたるにあらず。
汝が耳目壅《ふさが》れり。汝が心胸死せり。
起て、学徒。誓ひて退転せず、
塵界の胸を暁天の光に浴せしめよ。」
(符を観る。)
一々の物が全体に気息を通じて、
物と物とが相互にそれぞれ交感し合っている。
黄《こ》金《がね》の釣《つる》瓶《べ》を卸してはまた汲む如く、天上の
諸《もろもろ》の力が降《くだ》ってはまた昇る。
その総てが、祝福の香を送る翼を振って、
天から下界へ通《とお》って来て、
諧調をなして万有のうちに鳴り渡る。
なんと云う壮観だろう。だが、惜むらくは見《み》物《もの》たるに過ぎぬ。
ああ、無辺際なる自然よ。己はどこを攫《つか》まえよう。
一切の物の乳房等よ。己はどれを手に取ろう。
天地の命根の通っている、一切の生《せい》の泉等よ。
枯れ衰えた己の胸のあこがれ迫る泉等よ。汝達は湧いている。
汝達は人に飲ませている。それに己は徒《いたずら》に渇せねばならぬか。
(憤慨せる様にて書を飜し、地の精《せい》の符を観る。)
はて、この符の己に感じる工合はよほど違う。
こりゃ、地の精。お前は大ぶ己に近い。
もう己の力が加わって来るらしい。
もう新しい酒に酔《よ》ったような気がする。
危険を冒して世の中に出て、
下界の苦痛をも、下界の幸福をも受け、
暴風に逆《さから》って奮闘し、沈まんとする舟のきしめきにも
逡巡《しゆんじゆん》しない勇気を身に覚える。
はあ。己の頭の上に雲が涌いて来た。
月の光が隠れてしまった。
燈火も見えなくなった。
湯気のようなものが立つ。己の頭の周囲《まわり》に
稲妻のように赤い《ほのお》が閃く。円天井から
陰森の気が吹き卸して来て、
己の身を襲う。
己は感じる。お前、身《み》の辺《ほとり》に漂っているな。招き寄せた霊《れい》奴《め》。
形を顕せ。
はあ。己の胸の底へ引き弔《つ》るようにひびく。
新しい感じに
あらゆる己の官能が掻き乱される。
己の心を全くお前に委ねたように感じる。
形を顕せ。形を顕せ。己の命を取られても好い。
(本を手に取り、地の精の呪文を深秘なる調子にて唱ふ。赤き燃え立ちて、精霊の中に現る。)
己を呼ぶのは誰だ。
ファウスト
(顔を背《そ》向《む》く。)
気味の悪い姿だな。
お前は長い間己の境界に、吸引の力を逞《たくまし》ゅうして、
強く己を引き寄せたな。
そしてどうする。
ファウスト
ああ、せつない。己はもう堪えられぬ。
お前はと息を衝きながら己に目《ま》のあたり逢って、
己の声を聞き、己の顔を見ようと願う。
お前の霊《れい》の願《ねがい》が己を引き寄せている。
さあ、ここに来ている。なんと云うけちな恐怖が
超人を以て居《お》るお前を襲っているのだ。霊の叫《さけび》はどこにある。
自分だけの世界を造って、それを負うて、
培《つちこ》うた胸、己達霊どもと同じ高さの位置に立とうと、
歓喜の震《ふるい》を以て張った胸はどこにある。
己に声を聞せたファウスト
力一ぱい己に薄《せま》って来たファウストはどこにいる。
その男がお前か。己の息に触れたばかりで、
性命の底から震い上がって、
臆病にも縮んでいる虫がその男か。
ファウスト
ああ。の姿のそちを見て、なんの己がたじろくものか。
己だ。ファウストだ。お前達の仲間だ。
生《せい》の流《ながれ》に、事業の暴風《あらし》に
身を委ねて降りては昇る。
かなたこなたへ往いては返る。
産《さん》の褥《しとね》、死の冢《つか》穴《あな》。
常《とこ》世《よ》の海原。
経《たて》緯《ぬき》の糸の交《まじり》。
燃ゆる命。
かくて「時」のさわ立つ機を己は織る。
神の生ける衣《きぬ》を織る。
ファウスト
広い世界を飛びめぐる忙しい霊《れい》よ。
己はお前をどれ程か親しく思っているぞ。
いや。お前に分かる霊にこそお前は似ている。
己には似ておらん。
(消ゆ。)
ファウスト
(挫け倒る。)
お前には似ておらんと云うか。
そんなら誰に似ている。
神の姿をそのままに写された己だ。
それがお前にさえ似ないと云うのか。
(戸を敲《たた》く音す。)
ああ、死だ。分かっている。あれは内の学僕だ。
己の最上の幸福が駄目になる。
これ程の顕現《あらわれ》の満ち満ちている刹那を、
あの抜足をして歩くような乾燥無味な男が妨げるのか。
(ワグネル寝衣を著、寝る時被る帽を被り、手に燈を取て登場。ファウスト不機嫌らしく顔を背《そ》向《む》く。)
ワグネル
御免下さいまし。あなたの御朗読をなさるのが聞えましたので、
おお方グレシアの悲壮劇をお読みになるのだろうと存じました。
わたくしも少し覚えて得《とく》をいたしたいと存じます。
なんでも当節はそう云うことは受《うけ》が好いのでございます。
誰やらが申すのを承りましたが、
俳優は牧師の師匠になっても宜しいと申すことで。
ファウスト
それは牧師が俳優であったらそうであろう。
追々そんな風になるまいものでもない。
ワグネル
わたくしのように研究室の中に縛られていて、
世間を見るのは、やっと休日に
遠い処から遠目金で見るような事では、
どうして言論で世間を説き動すことが出来ましょう。
ファウスト
それは君が自分で感じていて、それが肺腑から流れ出て、
聞いているみんなの心を
根強い興味で引き附けなくては、
世間を擒《とりこ》にすることは出来ない。
そんなにして据わっていて、膠《にかわ》で接《つ》ぎ合せて、
人の馳走の余物で骨董羹《ごつちやに》を拵えて、
君の火消壺の中から
けちな火を吹き起しても、
それでは子供や猿どもでなくては感心はしない。
それが望ならそれまでの事だ。
どうせ君の肺腑から出た事でなくては、
人の肺腑に徹するものではない。
ワグネル
先生のお詞ですが、演説家は雄弁法で成功します。
どうもその研究が足りないのが、わたくしには分かっています。
ファウスト
いや。成功しようと云うには、正直に遣らなくてはいかん。
鐘大鼓で叩き立てる馬鹿者になってはいかん。
智慧があって、切実な議論をするのなら、
技巧を弄せないでも演説は独りでに出来る。
何か真面目に言おうと思う事があるのなら、
なんの詞なんぞを飾るに及ぶものか。
どうかすると君方の演説は人世の紙屑で
上手な細工がしてあって、光彩陸離としていても、
それは秋になって枯葉を吹きまくる
湿った風のように気持の悪いものだ。
ワグネル
はいはい。「学芸はとこしえにして、
我等の生《せい》は短し」でございます。
御承知の通り、批評的研究を努めていますと、
折々頭や胸がどうかなりはすまいかと気遣われます。
なんでも淵源まで溯って行く
舟筏を得るのは、容易な事ではございません。
半途まで漕ぎ著けたところで、
まあ、我々不《ふ》便《びん》な奴は死ぬるのでございますね。
ファウスト
古文書がなんで一口飲んだだけで
永く渇を止める、神聖な泉のものか。
なんでも泉が自分の霊《れい》から涌いて出《で》んでは
心身を爽かにすることは出来ない。
ワグネル
はい。先生はそう仰ゃるが、その時代々々の心になって、
我々より前に聖賢がこう考えられたと云うことを
見わたして、今日までの大きい進歩を思う程、
愉快な事はございません。
ファウスト
そうさ。天の星までも届く進歩だろうよ。
君に言うがな、過去の時代々々は我等のためには
七つの鎖《さ》鑰《やく》を施した巻物だ。
君方が時代々々の精神だと云うのも、
それは原来その時代々々が先生等の霊の上に
投写した影を認めるに過ぎない。
そんなわけだから、随分みじめな事がある。
君方を一目見て人は逃げ出してしまう。
五味溜か、がらくたを打ち込んで置く蔵か。
高が大《おお》為《じ》掛《かけ》の歴史劇に、
傀《で》儡《く》の台詞《せりふ》に相応した
結構な処世訓が添えてある位なものだ。
ワグネル
しかし、先生はそう仰ゃいますが、世界ですね、人の性情ですね、
それを誰でも文献の中から少しなりと知り得たいと存じますので。
ファウスト
いや。その知るだの、認識するだのと云う詞の意味だて。
本当に知ってもその本当の事があからさまに言われようか。
それは稀には幾らかの事を知って、
おろかにもそれを胸にしまって置かずに、
自分の観た所、感じた所を世俗に明かした人達もあるが、
そう云う人達は磔《はりつけ》にせられたり、焼き殺されたりした。
いや。彼此云ううちに、もう夜が更けた。
今宵は話はこれまでにしよう。
ワグネル
はい。わたくしはいつまでも起きていて
こんな風にあなたと高尚なお話がいたしたいのでございますが、
さようなら已《や》めましょう。明《みよう》日《にち》は復活祭の初の日でございます。
それを機としてまた二つ三つお話を伺うことにいたしましょう。
わたくしはこれまで随分研究には努力いたしました。
学問は大分ある積でございますが、一切の事が知りたいと存じまして。
(退場。)
ファウスト
(一人。)
いやはや。いつまでも一縷の望を繋いでいて
心は無用の事物に牽《ひ》かれ、
宝を掘ろうと貪る手で、
蚯蚓《みみず》に掘り当てて喜んでいるとは、気の毒な事だ。
精霊の気が己を囲《いに》繞《よう》していたこの室で、
あんな人間の声が響いて好いものか。
しかし下界にありとある人の中の人屑にも、
こん度は己が感謝せずばなるまい。
なぜと云うに、己の見《けん》聞《もん》覚《かく》知《ち》を破壊しようとした
絶望の境から、あいつが己を救い出したのだ。
いや。あの顕《あら》現《われ》が余り偉大なので、
全く自分が侏儒であるように、己は感じた。
神の姿をそのままに写された己は、
永遠なる真理の鏡に逼《せま》り近づいた積《つもり》で、
下界の子から蝉脱して
享楽の自己を天の光明のうちに置いていたのに、
己は光の天使にも増して、無《む》礙《げ》自在の力が
既に宇宙の脈のうちを流れ、
創造しつつ神の生《せい》を享けようと、
窃《ひそ》かに企てていたのに、なんと云う罰せられようだ。
雷《かみ》鳴《なり》のような一言が己をはね飛ばした。
お前に似ようと思うのが、そんなに僭越だろうか。
己はお前を引き寄せるだけの力は持っていたが、
お前を留めて置く力がなかったのだ。
想えばあの嬉しかった刹那に、
己は自己をどんなにか偉大に、またどんなにか小さく思っただろう。
お前は残酷にも己を不《ふ》慥《たし》かな
人間の運命の圏内に衝き戻したな。
誰に己は教を受けよう。何を去り何に就こう。
あの内の促《うながし》のまにまに動いて好かろうか。
我等の生《せい》の道のゆくてを遮り塞ぐものは、
ああ、我等の受ける苦だけではない。我等のする事業も邪魔だ。
我等の霊《れい》の受けた、最も美しきものの周囲にも、
約束したように無用の夾雑物が来て引っ著く。
この世界の善なるものに到達してから前途を見れば、
一層善なるものが、憾《うら》むらくは虚無の幻影になって見える。
生《せい》の我等に与えた美しき感じが
下界のとよみの中で凝り固まってしまう。
不断は空想が大胆な《こう》 翔《しよう》 を 擅《ほしいまま》 にして、
希望に富んだ勢を以て、永遠の境まで拡がっても、
「時」の渦巻に巻き込まれて、狙った幸福が一つ一つ毀れると、
さすがの空想も萎《い》靡《び》して、狭い空間にせぐくまる。
その時直ぐに心の底に、「憂」と云うものが巣を食って、
ひそやかな痛《いたみ》の種子を蒔《ま》き、
自分も不安らしく身をもがいて、人の安穏と歓喜とを破る。
この憂は種々の仮《め》面《ん》を取り換えて被る。
家になり、地所になり、女房になり、子供になる。
火になり、水になり、匕《あい》首《くち》になり、毒になる。
貴様は常にその中《あた》らぬもののために戦慄して、
その離れ去らぬもののために泣かなくてはならぬ。
いや。己は切に感ずる。己は神々には似ておらぬ。
塵芥の中に蠢《うごめ》く蛆《うじ》に己は似ているのだ。
その塵芥に身を肥やして、生を偸《ぬす》んでいるうちに、
道行く人の足に踏まれて、殺されて埋められるのだ。
高い壁に沿うて、分類して百にも為《し》切《き》ってある棚の物が
己の周囲を隘《せば》めているのも、これも塵ではないか。
この紙《し》魚《み》の世界で、己を窮屈がらせている
器具、千差万別の無用の骨董も塵ではないか。
己の求めているものが、この中で見附けられようか。
いつの世、どこの国でも人間が自ら苦んで、
その間に罕《まれ》に一人位幸福な奴があったと云うことを、
己に万巻の書の中で読めと云うのか。
空洞《うつろ》な髑髏奴。なぜ己を睨《にら》んでいる。
お前の脳髄も己のと同じように、昔迷いつつ軽らかな
快い日を求め、重くろしい薄《うす》明《あかり》の中で、興味を以て
真理を追うて、みじめに失敗したと云う外はあるまい。
それからお前達器械だがな、車の輪やの歯のような物、
熨《の》斗《し》の取手のような物やロラアから出来ている器械だがな、
お前達も己を馬鹿にしているに違ない。己が扉の前に
立っていた時、お前達は鍵になってくれるはずであった。
しかし鎖鬚《はじき》よりもちぢくれた鬚が生えていても、
鎖鑰《じよう》を開《あ》けてはくれなかった。自然はなかなか秘密がっていて、
青天白日にウェエルを脱いで見せてはくれない。
あいつが己の霊《れい》に見せてくれない物を、
槓《て》杆《こ》や螺《ね》牡《じ》で開《あ》けて見ることは出来ない。
己に用のない古道具奴。お前達は父の手《しゆ》沢《たく》のお蔭でここにいる。
火皿を弔る滑車奴。お前はこの机に濁った燈火がいぶっている限《かぎり》、
夜な夜な煤けて行くばかりだ。
この少しばかりの物を、疾《と》っくに売り飛ばせば好かったに、
己は重荷のようにそれを背負って汗を掻いている。
貴様の先祖から譲り渡された物を、
貴様が占有するには、更にそれを贏《か》ち得んではならん。
利用せずに置く物は重荷だ。
刹那が造ったものでなくては、刹那が使うことは出来ない。
はてな。なぜ己の目はあそこに食っ附いて離れないだろう。
あの瓶が己の目を引く磁石なのか。
なぜ己の心持が、夜の森を歩く時月が差して来たように、
忽《たちま》ちめでたく明るくなって来たのだ。
この取り残された一つの瓶奴。お前を恭しく取り卸しながら、
己はお前に会釈をするぞよ。
人智と技術とをお前に対して敬するぞよ。
恵《めぐみ》ある眠《ねむり》薬《ぐすり》の精《せい》奴。
あらゆる隠微な人を殺す諸力を選り抜いた霊液奴。
今この主人《あるじ》をお前の恵《めぐみ》に逢わせてくれい。
お前を見たばかりで、苦痛が軽くなるようだ。
お前の瓶を手に取れば、意欲が薄らいで来るようだ。
己の霊《れい》の潮流が次第々々に引いて行く。
高く湛えた海の上へ、己はさそい出されて、
我足の下には万象の影をうつす水鏡が耀《かがや》く。
新なる日が新なる岸へ己を呼ぶ。
軽らかに廻る火《か》《えん》の車が己を迎える。
《こう》気《き》を穿《うが》って新しい道を進んで、
浄い事業の新しい境界へとこころざす
心の支度が出来たように己は感ずる。
こんな高遠な生活、こんな神々の歓喜のような歓喜。
まだ蛆でいる貴様になんの功があってこれを受けるのだ。
好い。優しい下界の日の光に、
貴様は決然として背を向けるが好い。
誰も畏れて避けて通る門の戸を、
押し開けて入る勇気があるなら行け。
空想が自己を苦痛の地獄に堕す
あの暗い洞窟の前におののかず、
狭い入口に地獄の総ての火が燃え立つ
あの狭隘の道を目ざして、
よしや誤って虚無の中に滅し去る虞《おそれ》があろうとも、
晴やかな気分でこの一歩を敢てして、
神々の位を怖れぬ男児の威厳を、
事実の上に証して見せるなら、今がその時だ。
さあ、水晶の浄らな盃、ここへ降りて来い。
長い年月の間お前の事は忘れていたが、
今その箱の中から出てもらおう。
己の先祖が祝賀の宴を張った時には、
お前は光り耀いていて、一人《ひとり》が一人《ひとり》へ差す毎に、
蹙《しか》んだ客の顔色も晴やかになったものだ。
己も若かった昔の夜のうたげを覚えている。
お前の上に美しく鏤《ちりば》めてある、種々の絵摸様を、
飲む人の務《つとめ》として、詩の句で説き明かして
さて一口に中の酒を飲み干したものだ。
己はお前を今日に限って隣の客にも廻さず、
お前の絵模様に拙い才を試みようともせぬ。
ここにあるのは早く人を酔わせる酒だ。
己がかつて選んでかつて醸した
この褐色の液《えき》がお前の中《なか》に注《つ》がれるのだ。
さあ、この最後の杯を挙げて、己は心から
はればれしく寿をこの「暁」に上《たてまつ》るのだ。
(ファウスト杯を口に当つ。)
鐘の響、合唱の歌。
歌う天使の群
クリストはよみがへりたまひぬ。
身をも心をも損《そこな》ふべき、
緩やかに利く、親《おや》譲《ゆずり》の
害《がい》毒《どく》のまつはれたる、
死ぬべきもの等《ら》に喜《よろこび》あれ。
ファウスト
や。己の口から杯を強いて放させたあの声は
なんと云う深いそよめき、高い音色であろう。
それにあの鈍い鐘の音は、
もう復活祭の始まる時刻を知らせるのか。
さてはあの諸声は、昔冢穴の闇の夜に
天使の唇から響いて、新しき教の群に
固き基を与えた、慰《なぐ》藉《さめ》多き詞であったか。
歌う女の群
われ等、主《しゆ》にまつろへる女《おみな》子《ご》は
香料を
み体《からだ》に塗りまつり、
臥させまつりぬ。
巾《きれ》をもて、紐をもて
清らに裹《つつ》みまつりぬ。
さるを、あなや、主《しゆ》の
こゝにいまさぬ。
歌う天使の群
クリストはよみがへりたまひぬ。
いたましき、
浄からしめ、鍛ひ錬る
業を修《しゆ》し卒へたまへる、
物を愛します主よ。聖にいませ。
ファウスト
お前達、天の声等はなぜ力強く、しかも優しく
己をこの塵の中に覓《もと》めるのだ。
情の脆い人等の住むあたりに響き渡れば好いに。
なるほど使命の詞は聞える。しかし己には信仰がない。
奇蹟は信仰の愛《まな》子《ご》だ。
あの恵ある便《たより》を伝える声のする、
あの境界へは己は敢て這入ろうとは努めぬ。
しかし小さい時からあの声を聞き慣れていたので、
あの声が今己を生《せい》に呼び戻したのだ。
昔は沈んだ安息日の静けさの中に、
ゆくりなく天の愛の接吻が己にせられた。
その時意味ありげに、ゆたかな鐘の音が聞えて、
己の祷《いのり》は熱した受《じゆ》用《よう》であった。
その時恵《めぐみ》ある不可思議な係恋《あこがれ》が
己を駆って、森の中、野のほとりへ行かせた。
そして千行の熱涙の下《くだ》ると共に、
己のために新しい世界が涌出すように思った。
面白い遊、春の祭の自由な幸福を、
あの歌が青春に寄与したものだ。
そう云う追憶が子供のような感情で、
今己の最後の仮《かり》初《そめ》ならぬ一歩を引き留めたのだ。
お前達、優しい天《てん》の歌よ、好いから響き渡ってくれい。
ああ。涙が涌く。下界は己を取り戻した。
歌う徒弟の群
埋められたまひぬる、
生きて気高くまします主《しゆ》は、
早く厳《おごそ》かに
み空《そら》高く升《のぼ》らせ給ひしか。
なり出づるを楽む心もて
物造る喜《よろこび》を今し享けんとやし給ふ。
あはれ、悲しくも我等は
地《つち》の胸に縋《すが》りて、かくぞ世にある。
我等教子の友を、主《しゆ》は
歎きつゝこゝに残りをらしめ給ひぬ。
あはれ、師の君よ。
おん身の幸に我等は泣く。
歌う天使の群
物を朽ち壊《くず》れしむる地《つち》の膝を
立ち離れつゝ、主《しゆ》はよみがへりましぬ。
汝《なん》達《たち》は喜びて
絆《きずな》を断て。
行《おこない》もて主《しゆ》を称へまつり、
主《しゆ》に愛を捧げまつる、
同《はら》胞《から》めき斎《とき》に就き、
み教を弘めつゝ旅寐し、
来《こ》ん世の喜《よろこび》を知らする汝達よ。
師の君は汝達に近くおはす。
師の君は汝達のためにいます。
閭《りよ》門《もん》の前
さまざまの散歩する人出で行く。
職工の徒弟数人
なぜそっちへ出て行くのだい。
同じ徒弟の他の群
おいら達は猟師茶屋へ行くのだ。
初の数人
おいら達は擣《つき》屋《や》の方へ行くのだ。
徒弟の一人
それより河《か》岸《し》の茶屋の方が好いじゃないか。
第二の徒弟
あっちは途中がまるで詰まらないぜ。
第二の群
お前はどうする。
第三の徒弟
おいらはみんなと行く。
第四の徒弟
みんなお城の茶屋まで登って行けば好《い》いになあ。
あそこが女も一番好いのがいるし、ビイルも旨い。
それに喧嘩だって面白い奴が出来るのだ。
第五の徒弟
人を馬鹿にしていやがらあ。
また背中をなぐられるのかい。三度目になるぜ。
己はあんなところへは行《い》かねえ。思ってもぞっとする。
下女
わたし厭《いや》になっちまうわ。町へ帰ろうかしら。
第二の女
まあ、あそこの柳の木のとこまで行って御覧よ、来ているから。
初の下女
来ていたってなんにもなりゃしないわ。
きっとわたしには構わないで、お前と並んで歩いて、
踊場へ行《い》けば、お前とばかし踊るのだから。
お前が面白くったって、わたしにはなんにもならないわ。
第二の女
なに、きょうはひとりじゃなくってよ。
そら、あの髪の綺麗に縮《ちぢ》れた人ね。あれと来ると云ったわ。
書生
やあ。気持の好い、活溌な歩きようをしているなあ。
君、来給え。あいつ等の行く方へ附いて行《い》こう。
濃いビイルに強い烟草。
それに化粧をした娘と云うのが、己の註文だ。
良家の処女
ちょいと、あの書生さん達を御覧なさいよ。
誰とでも御交際の出来る立派な方なのに
女中の跡なんぞに附いて行《い》って、
まあ、なんと云う恥《はじ》曝《さら》しな事でしょう。
第二の書生
(第一のに。)
おい、君、そんなに駆け出すなよ。あの跡から行く
二人を見給え。気の利いた風をしているだろう。
ひとりは僕の内の隣の娘だ。
あれが僕は好《すき》なんだ。
見給え。あんなにゆっくり歩いている。
一しょに行くと云うかも知れない。
第一の書生
廃《よ》し給えよ。僕は窮屈な事は真っ平だ。
早く来給え。切角の旨い山鯨を取り逃がしてしまう。
日曜日に僕達をさすらせるには、
土曜日に箒《ほうき》を持った手に限る。
市民
いや。こん度の市長にはわたくしは感心しませんなあ。
市長だと云うので、日にまし勝手な事をする。
そして市のためにあの人が何をしています。
一日々々と物事がまずくなるばかりじゃありませんか。
なんでも市民はこれまでになく言いなりになって、
これまでになく金を沢山出すことになっています。
乞食
(歌ふ。)
お情深いお檀那様や、お美しい奥様方。
お召はお立派で、お血色はお宜しい。
どうぞ皆様わたくしを御覧なさりまして、
わたくしの難儀にお目を留められ、お救《すくい》なされて下さりませ。
こうしてお歎き申すのを、むだになさらないで下さりませ。
お恵《めぐみ》をなさらいでは、お楽《たのしみ》はございません。
皆様のお遊《あそび》なさる日が、
わたくしの取《とり》入《いれ》日《び》でございます。
他の市民
日曜日や大祭日には
軍《いくさ》や鬨の声の話をするのが、わたしは一番好《すき》です。
遠いトルコの国で余所の兵隊同士が
ぶち合っているのが面白いじゃありませんか。
余所にそんな事があるのに、こっちはお茶屋の窓の側で
ビイルを一杯飲み干して、美しい舟の川下へさがるのを眺めて、
日が暮れれば楽しく内へ帰って、
難《あり》有《がた》い太平の世のためにお祷《いのり》をするのですな。
第三の市民
お隣の方の仰ゃる通《とおり》です。わたくしもその通さ。
余所の奴等はお互に頭の割りくらをするが好《い》い。
何もかも上を下へとごった返すが好い。
よろず長屋に事なかれですよ。
一老女
(良家の娘達に。)
やれやれ。えらいおめかしが出来ましたな。別品揃だ。
誰だって迷わずにはいられますまい。
おや。そんなにつんけんなさらぬが好い。その位で沢山だ。
お前さん達のお望《のぞみ》を《かな》えることなら、わたしにも出来る積《つもり》だ。
良家の娘の一人
アガアテ婆あさん。厭《いや》だよ。あっちへおいで。あんな魔法使《つかい》と
往来を一しょに歩いて溜まるもんかね。
聖《せい》アンドレアスの晩に、わたしの御亭主になる人を
見せてくれたには違《ちがい》ないのだけれど。
他の娘
わたしにも水晶の中に現して見せてくれてよ。
なんでも軍人のようで大勢のきつい人の中にいましたの。
それからわたしどこかで逢うかと思って気を附けていても、
まだその人らしいのに逢わなくってよ。
兵卒等
牆 《しよう》壁《へき》聳ゆる
堅固なる城塁よ。
傲《おご》り蔑《なみ》する
気性ある少女子よ。
占領したきはこの二つ。
艱難困苦は大《だい》なれど、
その成功こそめでたけれ。
召募の喇《らつ》叭《ぱ》よ。
汝が響くに任す。
歓《よろこび》の場《にわ》へも導け。
戦死の野へも導け。
これぞ競《きそい》なる。
これぞ命なる。
城塁も落ちざらめや。
少女子も靡《なび》かざらめや。
艱難困苦は大なれど、
その成功こそめでたけれ。
かくぞ軍《いくさ》人《びと》は
門出する。
ファウストとワグネルと
ファウスト
春の恵ある、物呼び醒ます目に見られて、
大河にも細流にも、もう氷がなくなった。
谷間には希望の幸福が緑いろに萌えている。
冬は老いて衰えて
荒々しい山奥へ引っ込む。
そして逃げながらそこから
粒立った氷の一しぶきを、青み掛かる野へ、
段だらに痕の附くように蒔《ま》いている。
しかし日は白い物の残っているのを許さないで、
何物にも色彩を施そうとする。
そこにもここにも製作と努力とが見える。
それでもこの界隈にはまだ花が咲いていない。
その代りに、日は晴衣を着た人を照している。
まあ、跡へ戻っておいで。この高みから
町の方を振り返って見ようじゃないか。
空洞《うつろ》で暗い里の門から、
色々の著物を著た人の群が出て来る。
きょうは誰も誰も日向ぼこりがしたいのだ。
あれは皆主《しゆ》の復活の日を祝っている。
自分達も復活して、
低い家の鬱陶しい間から出たり、
手職や商売の平生の群を離れたり、
頭の上を押さえている屋根や搏《は》風《ふ》の下を遁れたり、
肩の摩れ合うような狭い巷《こうじ》や
礼拝堂の尊い闇から出たりして、
外《そと》の明《あかり》を浴びているのだから、無理は無い。
あれを見給え。大勢が活溌に
田畑の上へ散らばって行く。
川には後先になったり並んだりして、
面白げに騒ぐ人を載せた舟が通っている。
あの一番跡の舟なんぞは、
沈みそうな程人を沢山に載せて出て行くところだ。
あの山の半腹の遠い岨《そば》道《みち》にさえ
色々な衣裳の彩色が光って見える。
もう村の方からとよめきが聞えて来る。
大勢のためにはここが真の天国なのだね。
「ここでは己も人間だ、人間らしく振舞っても好い」と、
老若ともに満足して叫んでいるのだね。
ワグネル
先生。あなたと散歩しますのは、
わたくしの名誉でもあるし、為めにもなります。
一体わたくしは荒々しい事は嫌《きらい》でございますから、
御一しょでなくてはこんな所へは来ないでしまいましょう。
ヴァイオリンを弾く音、人のどなる声、王様こかしの丸《たま》の響、
どれもどれもわたくしは聞くのが随分つろうございます。
悪魔にでも焚き附けられているように騒ぎ廻って、
それを歌だ、慰《なぐさみ》だと云うのでございますからね。
百姓等
(菩提樹の下にて。)
舞踏と唱歌と。
羊《ひつじ》飼《かい》奴《め》が踊に来ようとめかした。
著て出たジャケツは色変り。紐や飾が附いている。
さすが見た目が美しい。
菩提樹のまわりは疾《と》うから人《ひと》籠《ごみ》で、
どいつもこいつも狂ったような踊りよう。
ユホヘ。ユホヘ。
ユホハイザ。ハイザ。ヘエ。
胡弓がこんな音をする。
羊飼奴は気が急《せ》いて、駆け附けた。
その時はずみに片肘が
一人《ひとり》の娘に打《ぶ》っ衝《つ》かる。
元気な尼っちょが顔を見て云った。
「お前さんよっぽどとんまだね。」
ユホヘ。ユホヘ。
ユホハイザ。ハイザ。ヘエ。
そう不行儀では困ります。
それでも始めるくるくる廻り。
右の方へ踊って行く。左の方へ踊って行く。
あれあれ上著がみんな飛ぶ。
赤くなったり、熱くなったり。
肘を繋いで、息を衝いて休む。
ユホヘ。ユホヘ。
ユホハイザ。ハイザ。ヘエ。
腰にお前の手が障る。
心《こころ》安《やす》立《だて》、馴染振、余り早いと遣り込める。
女《め》夫《おと》約束固めても
騙《だま》した人はたんとある。
構わず騙して連れて退く。
菩提樹の方からは。
ユホヘ。ユホヘ。
ユホハイザ。ハイザ。ヘエ。
胡弓の音やら人の声。
百姓爺
やあ。先生様でござりますな。好くおいでなさりました。
わたくしどもをお嫌《きらい》なさらずに
この人込の中へ
大先生様がいらっしゃる。
このお杯が一番好《い》い。
丁度注いだばかりだ。
どうぞ召し上って下さりませい。
お吭《のど》のお乾《かわき》を止めてお上《あげ》申すと云うだけではござりません。
これに這入っている酒の一滴ずつを丁寧に
勘定して見ます程、どうぞお命をお延べなさりませい。
ファウスト
切角の御親切だから頂戴しましょう。
これでお礼を申して、あなた方の御健康を祝します。
(衆人そのあたりに集ふ。)
百姓爺
ほんとにこう云うめでたい日に、
好うおいでなさりました。
先年わたくしどもが難儀をいたしました時は、
あなた様のお恵《めぐみ》にあずかりました。
ここにこうしてながらえているものの中には、
えらい熱を煩っていたのを、
お亡くなりになった老先生様が、
あぶない際《きわ》になってから、直して助けて下さりました。
その時分先生様はまだお若かったが、
どの隔離所をもお見まい下された。
どこからも死骸をかつぎ出したのに、
先生様は御無事でおいでなされた。
なんでもあぶない迫《せ》門《と》をお凌《しのぎ》なされた。
人をお助《たすけ》なされたので、神様が先生様をお助なされた。
一同
先生様も御長寿をなさりまして、
これからも大勢の人をお救《すくい》下さりませい。
ファウスト
いや。人を救うことをお教《おしえ》下され、また救《すくい》をお授《さずけ》下さるのは、
あの天《てん》にいます神様だ。あれをお拝《おがみ》なさるが好《い》い。
(ファウスト、ワグネルと共に歩み出す。)
ワグネル
先生、大《たい》したものでございますね。どうでございます、
みんなにあんな風に尊敬せられておいでになるお心持は。
先生のように、自己の材能で人をあれまでに
帰服させることが出来れば、幸福でございますね。
年寄は子供に指さしをして見せて遣る。
誰だ誰だと問い合って、押しつ押されつ、駆け寄って来る。
胡弓の音が息《や》む。踊《おど》手《りて》が足を止《と》める。
お通《とおり》になる所に人《ひと》墻《がき》を造って、
皆がばらばらと帽子を脱ぐ。
も少しで、晩餐のパンを入れた尊いお箱が通るように、
膝を衝いて拝みそうでございますね。
ファウスト
もう少しだから、あの石の所まで行って、
大ぶ歩いたから休もうじゃないか。
己は好くひとりで物案じをして、この石に腰を掛けていた。
断食や祈祷で身を責めていた時の事だ。
あの時は希望も饒《ゆた》かで、信仰も堅かった。
無理にも天《てん》にいます主《しゆ》にお願《ねがい》申して、
あの恐ろしいペストの流行を止めてお貰《もらい》申そうと、
涙を流し、溜息を衝き、手の指を組み合せて悶えた。
今皆があんなに褒めるのが、己には嘲るように聞える。
君には己のこの胸のうちが分かるまいが、
親爺にしろ己にしろ、あの褒詞を受ける程に
働《はたらき》をしてはいないのだ。
親爺は行跡に暗い痕のある学者だった。
自然や、神聖なる自然の種々の境界の事を、
誠実が無いではないが、自分流義に
物数奇らしい骨の折方をして、窮めようとしていた。
例の錬金術の免許取《とり》のお仲間で、
道場と云う暗い廚《くりや》に閉じ籠って、
際限のない、むずかしい方《ほう》書《がき》どおりに、
気味の悪い物を煮交ぜたものだ。
大胆に言い寄る男性の「赤獅子」を、
鼎《かなえ》の微《ぬ》温《る》湯《ゆ》で女性の「百合」に逢わせる。
それから二人を武《ぶ》火《か》に掛けて、
閨《ねや》から閨へ追い廻す。
ようよう玻《は》璃《り》の器の中に
色の度々変る「若い女王」が見えて来る。
これが薬だ。病人は大勢死ぬる。
誰が直ったかと、問う人は一人もない。
そんな風で、この谷間から山奥へ掛けて
病人に恐ろしい煉《ねり》薬《やく》を飲ませ廻ったから、
己達親子はペストより余計に毒を流したらしい。
己の飲ませて遣ったのでも何千人か知れぬ。
大抵衰えて死んだ。毒を遣った横著な人《ひと》殺《ごろし》が
褒められると云う経験を、己はしたのだ。
ワグネル
そんな事を御心配なさらなくっても好《い》いではありませんか。
人に授かった技術を、
誠実に、間違なくおこなって行けば、
正しい人が責を尽したと云うものではありませんか。
先生はお若い時、老先生を御尊信なさって、
喜んでそのお伝《つたえ》をお受《うけ》になる。
それからお年をお取《とり》になって、学問の知識をお殖やしになれば、
御子息が一層高い境界にお達しなさろうと云うもので。
ファウスト
いや。この迷の海から浮き上がることがあろうと、
まだ望んでいることの出来るものは、為《し》合《あわせ》だ。
なんでも用に立つ事は知ることが出来ず、
知っている事は用に立たぬ。
しかしこんな面白くない事を思って、
お互にこの刹那の美しい幸福を縮《ちぢ》めるには及ばぬ。
あの青い畑に取り巻かれている百姓家が、
夕日の光を受けてかがやいているのを御覧。
日は段々いざって逃げる。きょう一日ももう過去に葬られ掛かる。
日はあそこを駆けて行って、また新しい生活を促すのだ。
己のこの体に羽が生えて、あの跡を
どこまでも追って行かれたら好かろう。
そうしたら永遠なる夕《ゆう》映《ばえ》の中に、
静かな世界が脚下に横わり、
高い所は皆紅に燃え、谷は皆静まり返って、
白《しろ》銀《かね》の小川が黄《こ》金《がね》の江に流れ入るのが見えよう。
そうしたら深い谷々を蔵《ぞう》している荒《あら》山《やま》も、
神々に似た己の歩《あゆみ》を礙《さまた》げることは出来まい。
己の驚いて《みは》った目の前に、潮の温まった
幾つかの入江をなした海原が、早くも広げられよう。
それでもとうとう女神は沈んでしまうだろう。
ただ新しい願望が目醒める。
女神の永遠なる光が飲みたさに、
夜《よる》を背《せ》にし昼を面《おもて》にし、
空を負い波に俯して、己は駆ける。
ああ。美しい夢だ。しかし夢は消え失せる。
幻に見る己の翼に、真実の翼が出来て
出合うと云うことは容易ではない。
兎に角この頭の上で、蒼々とした空間に隠れて、
告《こう》天《てん》子《し》が人を煽動するような歌を歌うとき、
樅の木の茂っている、険しい巓《いただき》の上の空に、
鷲が翼をひろげて漂っているとき、
広野の上、海原の上を渡って
鷲が故郷へ還るとき、
感情が上の方へ、前の方へと
推し進められるのは、人間の生《うまれ》附《つき》だ。
ワグネル
わたくしも随分気まぐれな事を思う時がありますが、
ついぞそんな欲望が起ったことはございません。
森や野原の景色をたんのうするまで見れば済む。
これからも鳥の羽が羨ましゅうなろうとは思いません。
それとどの位違うか知れないのは精神上の快楽で、
一枚一枚、一冊一冊と読んで行く心持と云ってはありません。
本を読めば、冬の夜も恵《めぐみ》ある、美しい夜になって、
神聖なる性命が手足を温めます。それが並《なみ》の本でなくて、
珍奇な古文書ででもあると、あなただって
天上の生活が御自分の処へ降《くだ》ったようでございましょう。
ファウスト
いや。君は人生のただ一つの欲望をしか知らない。
どうぞ生涯今一つの分を知らずにおらせたいものだ。
ああ。己の胸には二つの霊が住んでいる。
その一つが外の一つから離れようとしている。
一つは荒々しい愛惜の情を以て、章《た》魚《こ》の足めいた
搦み附く道具で、下界に搦み附いている。
今一つは無理に塵を離れて、
高い霊どもの世界に登ろうとしている。
ああ。この大気の中に、天と地との間に、
そこを支配しつつ漂っている霊どもがあるなら、
どうぞ黄金色の霞の中から降りて来て、
己を新しい、色彩に富んだ生活へ連れ出してくれい。
せめて魔の外套でも手に入って、
それが己を裹《つつ》んで、余所の国々へ飛んで行けば好《い》い。
己のためにはどんな錦繍にも、
帝王の衣にも換え難い宝だがなあ。
ワグネル
どうぞあの知れ渡った鬼どもをお呼《よび》なさいますな。
あの鬼どもは雲のうちにさまよいつつ広がっていて、
八方から人間に
千変万化の危害を加えようとしております。
北からは歯の鋭い、矢のように尖った舌の鬼共が、
先生の処へ襲って来ましょう。
東から来る鬼どもは物を干からびさせて、
あなたの肺の臓で身を肥やそうとします。
中央があなたの頂《いただき》の上へ、火に火を重ねる鬼共を
沙漠の方から送って来れば、
西からはまた最初気分を爽かにするようで、しまいには
あなたをも田畑をも水に埋める鬼共をよこします。
ああ云う鬼共は愉快げにすばしこくお詞《ことば》を聞いて、
仰ゃる通になります。それは先生を騙そうとするのです。
天《てん》からよこされた使のような風をして、
《うそ》ばかりを天使の詞で囁きます。
だがもう参りましょう。もうそこらが鼠色になりました。
風が涼しくなって、霧が降りて来ました。
夕方になって家の難有みは知れますなあ。おや。先生。
お立《たち》留《とまり》なすって、驚いたようなお顔で何を御覧なさいます。
あの薄《うす》明《あかり》の中に何があるので、そんなに御感動なさるのでしょう。
ファウスト
君あの刈株や苗の間を走っている黒犬が見えるかい。
ワグネル
はい。さっきから見えていますが、何も大した物ではないようで。
ファウスト
好く見給え。君はあの獣をなんだと思う。
ワグネル
尨《むく》犬《いぬ》です。あいつ等の流義で、御苦労にも
見失った主人の跡を捜しているのでございます。
ファウスト
君あれが蝸《でで》牛《むし》の背の渦巻のような、広い圏《わ》をかいて、
次第々々に我々の方へ寄って来るのが分かるか。
それに己の目のせいかも知れないが、あいつの歩く跡の道には
火花が帯のように飛んでいるじゃないか。
ワグネル
わたくしには黒い尨犬しか見えません。
それは先生のお目の工合でございましょう。
ファウスト
どうも己の考では、未来の縁を結ぶために、
微かな蠱《まじ》の圏《わ》を己達の足の周囲《まわり》に引くらしい。
ワグネル
いや。わたくしの見た所では、主人でない、知らぬ人を
二人見て、不安に恐ろしく思って、周囲を飛び廻るので。
ファウスト
圏が段々狭くなった。もう傍へ来た。
ワグネル
御覧なさい。犬です。化物ではございません。
うなって、疑ったり、腹這ったり、
尾を掉《ふ》ったりします。みんな狗《いぬ》の癖です。
ファウスト
こら。己達の所へ来い。ここへ来い。
ワグネル
尨犬らしい気まぐれな奴でございます。
先生がお立《たち》留《とまり》になれば、前へ来て据わります。
お物を仰ゃれば、飛び附いて参ります。
何かおほうりになったら、取って参りましょう。
水の中からステッキをも《くわ》えて参るでしょう。
ファウスト
なるほど。君の云う通《とおり》かも知れん。どうも霊の痕がなくて、
総てが躾に過ぎないようだ。
ワグネル
いや。好く躾けてある狗なら、
賢い人にも気に入りましょう。
不断学生共の好い連になっているのだから、
先生の御愛顧を受ける値打は慥《たし》かにあります。
(二人閭門に入る。)
書斎
ファウスト狗《いぬ》を伴ひて入る。
ファウスト
何か物を暗示するような、神聖な恐怖を起させて、
我等の善い方の霊を呼び醒そうとする、
深い夜《よる》に掩《おお》われた
田畑から己は帰った。
総て荒々しい振舞をさせようとする、
粗暴な欲望は寐入った。
今は博愛の心、
神の愛の心が動いている。
尨《むく》犬《いぬ》。じっとしていろ。そんなに往ったり来たりするな。
そこの出口の所へ行って、何を嗅ぎ廻っている。
その煖炉の背後へ行って寝ていろ。
己の一番好《い》い布団を貸して遣る。
外《そと》で、あの坂道のような所で
飛んだり跳ねたりして己達を喜ばせた代りに、
歓迎せられた、おとなしい客になって、
己の接待を受けるが好《い》い。
この狭い書斎に
ランプがいつものように優しく附くと、
己達のこの胸の中、
自ら知り抜いている胸の中が明るくなる。
理性がまた物を言いはじめる。
希望の花がまた咲き出す。
ああ。生《せい》の小《お》川《がわ》へ、生《せい》の元《もと》つ泉《いずみ》へと
この心があこがれるなあ。
尨犬。そんなにうなるな。今己の心の全幅を領している
神聖なる物の音には、
獣の声では調子が合わない。
人間が自分の解せぬ事を嘲り、
往々うるさい物に思う善や美を見て
ぐずぐず云うのには、
己達は慣れている。
狗もやっぱりそれをぐずぐず云うのかい。
ああ。しかしもうなんと思っても、
この胸から満足が涌いて来《こ》ぬ。
なぜまた流《ながれ》がこう早う涸れて
己達は渇に悩んでいなくてならんのか。
これは年来経験して知っている。
この欠陥を埋め合せようとして、
形而上のものを尊重するようになり、
啓示がほしいとあこがれる。
あのどの伝よりも尊く、美しく
新約全書の中に燃えている啓示がそれだ。
原本を開けて見て、
素直な感じのままに、一遍
神聖なる本文を
好《すき》な独逸語に訳して見たい。
(一書巻を開き、翻訳の支度す。)
こう書いてある。「初にロゴスありき。語《ことば》ありき。」
もう此《こ》所《こ》で己はつかえる。誰の助《たすけ》を借りて先へ進もう。
己には語をそれ程高く値踏することが出来ぬ。
なんとか別に訳せんではなるまい。
霊の正しい示《しめし》を受けているなら、それが出来よう。
こう書いてある。「初に意《こころ》ありき。」
軽卒に筆を下さぬように、
初句に心を用いんではなるまい。
あらゆる物を造り成すものが意《こころ》であろうか。
一体こう書いてあるはずではないか。「初に力《ちから》ありき。」
しかしこう紙に書いているうちに、
どうもこれでは安心出来ないと云う感じが起る。
はあ。霊の助《たすけ》だ。不意に思い附いて、
安んじてこう書く。「初に業《わざ》ありき。」
尨犬。己と一しょにこの部屋にいる積《つもり》なら、
うなることを廃《よ》せ。
吠えることを廃《よ》せ。
そんな邪魔をする奴を
傍に置いて我慢して遣ることは出来ぬ。
お前か己か、どちらかが
書斎を出て行《い》かなくてはならん。
己は客を逐うことは好まぬが
あの通り戸は開いている、出て行《い》くなら行《い》け。
はてな。妙に見えるな。
自然にありそうもない事だ。
あれは幻か。現《うつつ》か。
あの尨犬は幅も広がり丈も伸びる。
勢好く起き上がって来る。
あれは狗の姿ではない。
己はなんと云う化物を内へ連れて来たのだろう。
もう火のような目、恐ろしい歯《は》並《なみ》をした
河《か》馬《ば》のように見える。
はあ。もうお主は己の手の裏《うち》の物だ。
お主のような、半ば地獄に産み出されたものには、
クラウィクラ・サロモニスの呪が好よい。
霊等
(廊下にて。)
この中に一人《ひとり》捕われている。
皆外《そと》におれ。附いて這入るな。
係《わ》蹄《な》に掛かった狐のように、
地獄の古《ふる》リンクス奴が怯れている。
しかし気を附けて見ておれ。
あちらへ漂い、こちらへ漂い、
升《のぼ》っては降りて見ておれ。
あいつはとうとう逃げて出よう。
あいつに手が貸されるなら、
あいつを棄て置かぬが好《よ》い。
己達はあいつには
いろいろ世話になっている。
ファウスト
こんな獣に立ち向うには、
先ず四《し》大《だい》の呪《まじない》がいる。
「火の精《せい》 サラマンデル 燃えよ。
水の精 ウンデネ うねれ。
風の精 シルフェ 消えよ。
土の精 コボルド いそしめ。」
四大を、
その力、
その性《さが》を
知らぬものが、
なんで霊どもを御する
師になれよう。
「サラマンデルは
《ほのお》のうちに消えよ。
ウンデネは
さざめきて流れ寄れ。
シルフェは
隕《いん》石《せき》の美しさに耀《かがや》け。
インクブスは
木樵り水汲め。
進み出でて終を告げよ。」
四大のどれも
あの獣のうちにはいぬ。
平気で蹲《うずくま》って、己の顔を睨《にら》んでいる。
この呪ではまだ痛い目を見ぬと見える。
も少し強い祷《いのり》を
聞せて遣ろう。
「奴《やつこ》。お前は地獄を
逃れ出たものか。
そんならこの印を見い。
これは暗黒の群が
項《うなじ》を屈する印だ。」
はあ。もうとげとげしい毛を竪ててふくれるな。
「廃物奴《すたれものめ》。
これが読めるか。
かつて芽ざさず、
言《こと》挙《あげ》せられず、
あらゆる天《てん》に灌《そそ》がれ、
無《む》慙《ざん》にも刺し貫かれた、これが読めるか。」
煖炉の背後に封《ふう》ぜられて、
象の大さにふくれ上がるな。
部屋一ぱいになる。
霧になって散ろうとする。
天井へ升ってはならぬ。
師の脚下に身を倒せ。
見い。己はいたずらに嚇《おど》しはせぬ。
神聖なる火でお前を焼こうか。
三たび燃え立つ火を
待つなよ。
己の術の一番の奥の手を
待つなよ。
(霧落つると共に、メフィストフェレス旅の書生の装して煖炉の背後より現る。)
メフィストフェレス
そうお騒《さわぎ》になるには及びません。なんの御用ですか。
ファウスト
そんならこれが尨犬の正体であったのか。
旅の書生だな。笑わせる事件だ。
メフィストフェレス
改めて御挨拶をいたします。博識でいらっしゃる。
わたくしに汗をたっぷりお掻かせになりました。
ファウスト
名はなんと云うか。
メフィストフェレス
それは小さいお尋《たずね》かと存じます。
語《ことば》と云うものをおさげすみになり、
あらゆる外観をお遠ざけになって、
ただ本体の深みをお探《さぐり》になるあなたとしては。
ファウスト
しかし君達のは名を聞くと、
大抵本体が読める。
蠅の神、残《そこな》う者、偽る者などと云えば、
はっきり知れ過ぎるではないか。
そんなら好《よ》い。一体君はなんだ。
メフィストフェレス
常に悪を欲し、
却て常に善を為す、彼力の一部です。
ファウスト
ふん。その謎めいた詞《ことば》の意《こころ》は。
メフィストフェレス
わたしは常に物を否定する霊《れい》です。
そしてそれが至当です。なぜと云うに、
一切の生ずるものは滅しても好《よ》いものです。
して見れば、なんにも生ぜぬに如《し》くはない。
こうしたわけで、あなた方が罪悪だの、
破壊だの、約《つづ》めて言えば悪と仰ゃるものは、
皆わたしの分内の事です。
ファウスト
君は一部だと名《な》告《の》る。そして全体で己の前にいるのか。
メフィストフェレス
それは少しばかりの真理を申したのです。
人間は、気まぐれの小天地をなしていて、
大抵自分を全体だと思っていますが、
わたしなんぞは部分のまた部分です。
最初一切であって、後に部分になった暗黒の一部分です。
暗黒の生んだ驕《おご》れる光明は、母の闇夜と古い位を争い、
空間を略取しようとする。
しかしいくら骨折ってもそれの出来ぬのは、
光明が捕われて物体にねばり附いているからです。
物体から流れて、物体を美しくする。
そしてその行く道は物体に礙《さまた》げられる。
あれでは、わたしの見当で見れば、光明が物体と
一しょに滅びてしまうのも遠い事ではありますまい。
ファウスト
そこで君の結構な任務は分かった。
君は大体からは物を破壊することが出来んので、
小さい所からなし崩しにこわし始めるのだな。
メフィストフェレス
そうです。勿論それが格別役にも立ちません。
無《む》に対して立っているある物
即ち不細工な世界ですな。こいつには、
これまでいろいろな企をして見ましたが、
どうにも手が著けようがありません。
海嘯《つなみ》、暴風《あらし》、地震、火事、どれを持って行っても
跡には陸と海とが依然としているですな。
それからあの禽獣とか人間とか云う咀《のろ》われた物は、
一層手が著けられませんね。
今までどれ程葬ったでしょう。
それでもやはり新しい爽かな血が循《めぐ》っています。
そんな風で万物は続いて行く。考えると、気が狂いそうです。
空気からも、水からも、土地からも、
乾いた所にも、濡れた所にも、熱い所にも、寒い所にも、
千万の物の芽が伸びる。
もしわたしが火と云う奴を保留して置かなかったら、
これと云う特別な物がわたしの手に一つも無い所でした。
ファウスト
そんな風で君は、永遠に息《やす》む時なく、
恵深く製作する威力に対して、
君の陰険に、空しく握り固めた、
冷やかな悪魔の拳《こぶし》を揮うのだ。
実に混沌の生んだ奇怪な倅ではある。
何かちと外の事を始めてはどうだね。
メフィストフェレス
実際そうですね。少し工夫して見ましょうよ。
いずれこの次にもっと精しくお話《はなし》します。
きょうはこれで御免を蒙りたいのですが。
ファウスト
なぜそれを己に問うのだか分からんな。
まあ、これで君にお近《ちか》附《づき》になったと云うものだ。
いつでも君の気の向いた時にまた来給え。
そこには窓がある。そこには戸口もある。
君にはあの煙突なんぞも非常門になるのだろう。
メフィストフェレス
間が悪いが打明けて言いましょう。わたしが出て行くには、
ちょいとした邪魔があるのですよ。
あの敷居にあるペンタグランマの印《しるし》ですな。
ファウスト
ふん。あの印を君は気にするのか。
妙だね。あれに君は縛られるなら、這入る時は
どうして這入ったか。地獄の先生、それを言って見給え。
そんな霊のある印を、どうごまかして這入ったのだ。
メフィストフェレス
好くあれを御覧なさい。本当に引いてないのです。
外《そと》へ向いている一角が、
御覧の通《とおり》、少し開《あ》いています。
ファウスト
それは偶然の為《しあ》合《わせ》だった。
そこで君は己の俘《とりこ》になっているわけだね。
これは意外な、旨い成功だった。
メフィストフェレス
実は尨犬は気が附かずに飛び込んだが、
今になって見ると少し工合が違っていて、
どうも悪魔はこの部屋を出にくいのです。
ファウスト
ところで君なぜ窓から出ない。
メフィストフェレス
悪魔や化物には掟があって、
這入って来た口から、出て行かなくてはならんのです。
初にすることは自由ですが、二度目は奴隷になるのです。
ファウスト
そんなら地獄にも法律はあるわけなんだね。
兎に角好都合だ。こうなると君達と
契約を結ぶことも、随分出来るわけだね。
メフィストフェレス
それは約束をする上は、あなたに十分の権利がある。
なんのかのと云って、それを狭めるような事はしません。
しかしそれはそう手短には行きませんから、
こん度の御相談にいたしましょう。
今度だけはお暇を下さるように、
切にお願申すのですがな。
ファウスト
それにしてもちょいと位好さそうなものだ。
面白い話が聞きたいのだが。
メフィストフェレス
いや。今度だけはお暇を下さい。直《すぐ》に帰って来ます。
その時なんでもお尋下さい。
ファウスト
一体己が君を追い掛けたのではない。
君が自業自得で網に掛かったのだ。
悪魔なんと云うものが、手に這入っては手放せないね。
また早速掴まえようと云うわけには行かんから。
メフィストフェレス
いや。是非お伽をするのがお望だと云うことなら、
それはいてお上《あげ》申しても好いですよ。
しかしお慰《なぐさみ》に何か術をして
御覧に入れても好いと云う条件附に願いましょう。
ファウスト
それは結構だ。君の勝手にし給え。
なるたけ気持の好い術にしてくれ給え。
メフィストフェレス
それは承知です。単調極まる一年間に、
あなたの官能の享けたよりは、
この一時間に享けた方がたっぷりだと思わせて上げます。
これから優しい霊どもが歌ってお聞せ申したり、
美しい形を現《あらわ》してお見せ申すのは、
いたずらな幻の戯ではない。
鼻にも好い《におい》がしよう。
舌にも好い味がしよう。
それから心にも好い感じがしよう。
別に用意なんぞはいらない。
仲間はもう揃っている。始めろ始めろ。
霊等
消えよ、目の上なる
暗き穹《きゆう》窿《りゆう》。
蒼き《こう》気《き》よ。
やさしく美しく
室《むろ》を窺へ。
暗き雲《くも》霧《きり》は
はや散り失せしよ。
星あまたきらめけり。
やさしき日等は
照りわたれり。
天《てん》の子等の
霊《れい》めく美しさよ。
揺りつゝ身を曲げて
漂ひ過ぎよ。
あこがるゝ心もて
こなたへ続け。
その衣《きぬ》の
ひらめく帯は
下界を覆ひ、
四《あず》阿《まや》を覆へ。
恋する二人が深き心もて
生涯を相委ぬる
四阿を覆へ。
四阿は四阿に並べり。
芽ぐむ蔓《つる》草《くさ》あり。
枝たわわなる葡萄は
籠み合ふ酒《さか》蔵《ぐら》の
桶に灌《そそ》げり。
泡立つ酒は
小《お》川《がわ》と流れ、
浄き宝玉の
川床にせゝらぎて、
山の上の高き処を
背《せ》になしつゝ、
事足れる
緑なる岡の辺《べ》の
湖《みずうみ》に入る。
群《むら》鳥《とり》は
喜《よろこび》を啜り、
日の方《かた》へ飛び、
波間に
漂ひ浮ける、
晴やかなる
島々の方へ飛ぶ。
その島には合唱の群の
歓び歌ふが聞え、
踊手の野の上に
踊るが見ゆ。
舞ひ歌ふ人皆
四《よ》方《も》にあらけぬ。
岡のつかさに
攀《よ》づるあり。
湖の上に
泅《およ》ぐあり。
空に冲《ひひ》るあり。
皆生《せい》に向へり。
聖《せい》なる恵《めぐみ》の
愛する星の
遠《おち》方《かた》に向へり。
メフィストフェレス
寐たな。身の軽い、やさしい小僧ども、好く遣った。
好く真面目に骨を折って寐入らせてくれた。
あの合奏のお礼は忘れはしないよ。
へん。悪魔を抑留しようとは、お前にはまだ過ぎた話だ。
小僧ども。こいつの夢に艶《えん》な姿を見せて遣れ。
迷の海に《しず》めて遣れ。
ところでこの敷居の禁《まじ》厭《ない》を破るには
鼠の牙がいり用だ。
呼ぶには手間は掛からない。
そこらをがさがさ云わせる奴に、もう己の詞が聞えよう。
こら。大鼠、小鼠、蠅に蛙に
南京虫、蝨《しらみ》の王の
仰《おおせ》だぞ。遠慮なく這って出て、
そこの敷居をかじれかじれ。
ちょいと油を塗り附けると、
早速そこへ飛んで来る。
さあ、為《し》事《ごと》に掛かれ掛かれ。邪魔なのは
その一番手前の角《すみ》の所だ。
もう一かじりだ。それで好《い》い。さようなら、ファウストさん、
またお目に掛かるまで、たんと夢を御覧なさい。
ファウスト
(醒めて。)
己はまた騙されたか。
夢に悪魔を見せられて、
尨犬に逃げられるのが、
意味の深い願《ねがい》の果《はて》か。
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ファウスト。メフィストフェレス登場。
ファウスト
戸を敲《たた》いたな。おはいりなさい。誰がまた悩ましに来たのか。
メフィストフェレス
わたくしです。
ファウスト
おはいりなさい。
メフィストフェレス
三度言って下さいまし。
ファウスト
はてさて。おはいりなさい。
メフィストフェレス
それで宜しゅうございます。
そこで大抵中好く交際が出来る積《つもり》です。
あなたの気晴らしをしてお上《あげ》申そうと思って、
ちょっと貴公子と云うなりをして来ました。
赤い上衣に金の刺繍がしてある。
上に羽織ったのは、こわばる絹の外套です。
帽子には鳥の羽を挿しました。
そしてこんな長い、尖った剣《けん》を吊りました。
そこで早い話が、あなたの方《ほう》でも
こう云う支度をしてお貰《もらい》申したいのです。
そこであらゆる絆《きずな》を絶って、自由に
人生がどんなものだと云うことを御経験なさるのですね。
ファウスト
いや。この狭い下界の生活の苦は
どの著物を著ても逃れられまい。
一体己は当のない遊をするには、もう年を取り過ぎた。
あらゆる欲を断とうには、まだ年が若過ぎる。
世間が己に何を提供しよう。
闕《けつ》乏《ぼう》に堪えよ、忍べよと云うのが、
人の一生涯時々刻々
厭《いや》な声で歌われて、
誰の耳にも聞えて来る
永遠なる歌なのだ。
己は毎朝恐怖の念をして目を醒ます。
ただ一つの、ただ一つの願も《かな》えずに、
歓楽の暗示をさえ
かたくなな批評で打ちこわし、
活動している己の胸の創作を
凡百の世相で妨《ぼう》碍《がい》する
日の目をまた見ることかと思えば、
己は苦《にが》い涙を飜《こぼ》して泣きたくなる。
また夜闇が下界を包みに降りて来ても、
己は恐る恐る身を臥《ふし》所《ど》に倒す。
そこでも甘寐《うまい》の安さを貪ることは出来ずに、
恐ろしい夢に驚かされる。
己のこの胸のうちに住んでいる神は
心の深い底の底まで掻き乱すことは出来るが、
己のあらゆる力の上に超然と座を占めている神は、
外界の物を何一つ動かすことが出来ぬ。
それで己には世にあるのが重荷で、
死が願わしく生《せい》が憎いのだ。
メフィストフェレス
そのくせ死が真に客として歓迎せられることは決して無いのです。
ファウスト
いや。勝《かち》軍《いくさ》のかがやきのうちに
死が血に染まった月桂樹の枝を顳《こめ》《かみ》に纏《まと》う人、
急調の楽につれて広間を踊り廻った揚句に、
少女の腕に支えられながら死を迎えた人は幸《さいわい》だ。
ああ。己もあの高い精霊を覿《てき》面《めん》に見たとき、
歓喜の余にその場に死んで倒れてしまえば好かったに。
メフィストフェレス
でも誰やらあの晩に
茶色な汁を飲み干さなかったようですね。
ファウスト
ふん。君は探偵が道楽だと見える。
メフィストフェレス
わたしは全知ではないが、大ぶいろんな事を知って居ますよ。
ファウスト
あの恐ろしい心の乱《みだれ》の中で、
馴れた優しい音色に牽《ひ》かれ、
穉《おさな》かった世の記念《かたみ》の感情が、
旧い歓楽の余韻に欺かれたとは云え、
餌や囮《おとり》やまやかしで人の霊を擒《とりこ》にし、
目をくらましたり賺《すか》したりして、
この悲哀の洞《どう》窟《くつ》に繋いで置こうとするような、
あらゆる手段を己は咀《のろ》う。
人の霊が自ら高しとして我と我身の累《るい》をなす、
その慢心を先ず咀う。
わが官能の小窓に迫る
現象の幻華を咀う。
わが夢の世に来て欺く
名聞や身後の誉の迷を咀う。
妻となり子となり奴《ぬ》婢《ひ》となり鋤鍬となり、
占《せん》有《ゆう》と称して人に媚ぶる一切の物を咀う。
宝を見せて促して冒険の業をもさせ、
また怠《おこたり》の快《け》楽《らく》に誘《さそ》うて
軟い茵《しとね》を体の下にも置き直す、
あの金銭を己は咀う。
葡萄から醸す霊液を咀う。
恋の成就の快楽を咀う。
希望を咀う。信仰を咀う。
何より切に忍耐を咀う。
合唱する霊等
(目に見えず。)
痛《いた》まし。痛まし。
強き拳《こぶし》もて
美しき世界を
汝《なむじ》毀ちぬ。
世界は倒れ崩れぬ。
半ば神なる人毀ちぬ。
その屑《くず》を「無」のうちへ
我等負ひ行きつゝ、
失はれし美しさを
歎く。
下界の子のうちの
力強き汝《なむじ》
先《さき》より美しく
そを再び建立せよ。
汝《な》が胸のうちにそを建立せよ。
爽かなる目もて耳もて
新なる生《せい》の歩《あゆみ》を
始めよ。
さらば新しき歌
聞えむ。
メフィストフェレス
あれはわたしの仲間の
小僧どもです。
ませた言《いい》草《ぐさ》で歓楽や事業を
あなたに勧めるのをお聞なさい。
官能の働《はたらき》、体の汁の循《めぐり》の止《と》まる
寂しい所から、
遠い世間へ
あいつ等はあなたを誘い出すのです。
角《くま》鷹《たか》のようにあなたの命の根を啄《つつ》く
「憂《うれえ》」をおもちゃにするのはお廃《よし》なさい。
最下等の人間とでも一しょにいたら、
人の中の人だと云うことがあなたにも感ぜられよう。
こう申したからとて、何もあなたを
下《げ》司《す》の中へ連れ出そうと云うのではありません。
わたしはえらい人のお仲間ではない。
それでもあなたがわたしと一しょに
世間を渡って見ようと云う思召がありゃあ、
即座にわたしは甘んじて
あなたのものになってしまう。
まあ、兎に角お連になって見て、
わたしのする事がお気に入ったら、
御《ご》家《け》隷《らい》にもなるですね。
ファウスト
そしてその代《かわり》に己の方《ほう》からどうすれば好いのだ。
メフィストフェレス
そりゃあまだ急ぐことはありません。
ファウスト
いやいや。悪魔は利己主義だから、
人の為《ため》になることを
容易に只でしてはくれまい、
条件をはっきり言って貰おう。
そう云う家隷は己の内へ危険を及ぼしそうだから。
メフィストフェレス
そんならこの世でわたしはあなたに身を委ねて、
休まずに頤で使われましょう。
そこであの世でお目に掛かった時は
あなたがあべこべに使われて下さるですね。
ファウスト
あの世なんぞは己は余り気にしない。
まあ、君がこの世界をこなごなに砕いたところで、
別の世界がその跡へ出来ようというものだ。
この大地から己の歓喜は涌く。
この日が己の苦痛を照す。
己がこの天地に別れてしまうことが出来たら、
それから先はどうにでもなるが好い。
未来に愛や憎《にくみ》があるか、
あの世にもまたこの世のように
上と下とがあるかなどと、
己は問うて見る気がないのだ。
メフィストフェレス
そう云うお考《かんがえ》なら思い切ってお遣なさい。
お約束なさい。その上は早速
わたしの術を面白く御覧になることが出来ます。
まだ人間の見たことのない物を御覧に入れます。
ファウスト
ふん。悪魔風情が何を見せる積《つもり》やら。
向上の道にいそしむ人間の霊が
君なんぞに分かった例《ためし》があるかい。
腹の太らない馳走か、
水銀のようにころころと
間断なく手のうちで散る赤い金《きん》か、
勝つことのない博奕《ばくち》か、
己の懐に抱かれていながら
隣の男を流《なが》眄《しめ》に見る女か、
隕《いん》石《せき》のように消えてしまう
名望の、神のような快さをでも授けるのか。
摘まぬ間《ま》に腐る果《このみ》でも、日毎に若葉の
茂る木でも、見せるなら己に見せて貰おう。
メフィストフェレス
そんな御註文には驚きません。
そう云う珍物が御用とあれば差し上げる。
しかしそれよりは落ち著いて、何か旨い物を
食っていたいと云う時がおいおい近くなりますよ。
ファウスト
ふん。己が気楽になって安楽椅子に寝ようとしたら、
その時は己はどうなっても好い。
己を甘い詞《ことば》で騙して
己に自《うぬ》惚《ぼれ》の心を起させ、
己を快《け》楽《らく》で賺《すか》すことが君に出来たら、
それが己の最終の日だ。
賭をしよう。
メフィストフェレス
宜しい。
ファウスト
容赦はならぬ。
己がある「刹那」に「まあ、待て、
お前は実に美しいから」と云ったら、
君は己を縛り上げてくれても好い。
己はそれきり滅びても好い。
葬の鐘が鳴るだろう。
君の奉公がおしまいになるだろう。
時計が止《と》まって針が落ちるだろう。
己の一代はそれまでだ。
メフィストフェレス
だが好く考えて御覧なさい。聞いた事は忘れませんよ。
ファウスト
己は軽はずみに大胆に振舞いはせぬから、
どうぞしっかり覚えていて貰おう。
己が一所に停滞したら、己は奴隷だ。
君のにしろ、誰のにしろ。
メフィストフェレス
そんならきょうの卒業宴会に
早速御家隷の役をしましょう。
ただ一つ願いたいのは、後に間違のないように
一寸二三行書いて置いてお貰《もらい》申しましょうか。
ファウスト
書《かき》物《もの》まで取るのかい。悪く堅い奴だな。
男同士の附合も男の詞の信用も知らないのか。
口で言った己の詞が永遠に己の生涯を
自由にすると云うだけでは不満足なのかい。
一体世界のあらゆる潮流は頃《けい》刻《こく》も息《やす》まないのに、
己だけが契約一つで繋がれていると云うのも変だ。
しかしそう云う迷は誰の心にも深く刻まれていて、
誰も好んでそれを霽《はら》そうとするものがない。
胸の中に清浄に信義を懐いているものは幸福だ。
そう云う人はどんな犠牲をも辞するものではない。
ところが、字を書いて印を押した巻紙を、
世間のものは皆化物のようにこわがっている。
いざ筆に上《のぼ》するとなると、一字一句にも気怯《きおくれ》がする。
そりゃ用紙、そりゃ封蝋と、どなたもお持《もち》廻《まわり》になる。
おい、悪《あく》霊《りよう》。君は何がいるのだ。
紙に書くのか、革《かわ》に書くのか、石や金に彫《ほ》るのかい。
鉛筆か、鵝ペンか、それとも鑿《のみ》で書けと云うのか。
己は君の註文どおりにするのだがね。
メフィストフェレス
何もそんなにむきになって誇張した
言草をしなくったって好いでしょう。
どんな紙切でも好いのです。
ただちょいと血を一滴出して署名して下さい。
ファウスト
それで君の気が済むことなら、
下らない為《し》草《ぐさ》だが異存はないよ。
メフィストフェレス
血という奴は兎に角特別な汁ですからね。
ファウスト
己が違約するだろうと云う御心配だけはいらぬ事だ。
平生力一ぱい遣って見ようと思っている事と、
君に約束する事とが一つなのだからね。
己は大きく丈高くなろうとして、ふくらみ過ぎた。
所詮君くらいの地位にいるはずの己だろう。
大なる霊は己を排斥して、
「自然」の戸は己の前に鎖された。
思量の糸は切れて、
あらゆる知識が嘔吐を催しそうになった。
どうぞ官能世界の深みに沈めて、
燃える情欲の渇を医《いや》してくれ給え。
未だかつて搴《かか》げられたことのない秘密の垂《たれ》衣《ぎぬ》の背後に
一つ一つの奇蹟が己達の窺うのを待っている。
さあ、「時」の早瀬に、事件の推移の中に
この身を投げよう。
受用と痛苦と、
成就と失敗とが
あらん限の交錯をなして来るだろう。
活動して暫くも休まずにいてこそ男児だ。
メフィストフェレス
あなたにこれ程と云う尺度や、これまでと云う限界は示さない。
どうぞ到る処に撮食《つまみぐい》をして、
逃げしなに好《い》い物を引《ひ》っ手《た》繰《くり》なさるが好い。
たんとお楽《たのしみ》なさって、跡腹の病めないようになさい。
兎に角すばしこく手をお出《だし》なさい。ぼんやりしていないで。
ファウスト
いや。先っきも云うとおり己は快楽は貪らない。
最も悲しい受用に、受用のよろめきに身を委ねよう。
恋に迷う心の憎、爽快に伴う胸悪さに委ねよう。
物の識りたい欲を擲《なげう》ったこの胸は、
これから甘んじてどんな苦痛をも迎えて、
人間全体の受くるべきはずのものを
この内の我で受けて味わって見よう。
この己の霊で人間の最上のもの深甚のものを捉えて、
歓喜をも苦痛をもこの胸の中に積んで、
この自我を即人生になるまで拡大して、
遂にはその人生と云うものと同じく、滅びて見よう。
メフィストフェレス
まあ、お聞《きき》なさい。わたしは何千年と云う間
この靭《しわ》いお料理を噬《か》んでいるから、知っています。
揺《ゆり》籃《かご》から棺桶までの道中に、
この先祖伝来の饅頭種をこなす奴はありませんよ。
わたしどもは知っています。この一切の御馳走は
神と云う奴でなくてはこなせない。
なんでもそいつが自分はいつも明るい所にいて、
わたしどもをいつも暗い所に置いて、
あなた方《がた》に夜《よる》昼《ひる》を寝たり起きたりして過させるのだ。
ファウスト
しかし己は遣って見る。
メフィストフェレス
さあ、出来ないこともないでしょう。
だが、気になることが一つありますよ。
時は短くして道は長しですな。
お望《のぞみ》の《かな》うような工夫をお授《さずけ》しましょうか。
一つ詩人と云う奴と結托なさるです。
そこでその先生が思想を馳《ち》騁《てい》して、
宇宙の物のあらゆる栄誉を
あなたの頭《とう》銜《かん》に持って来るのです。
胆《たん》大《だい》なること獅子の如く、
足早きこと鹿の如く、
血の熱することイタリア人の如く、
堅忍不抜は北辺の民の如しと云う工合です。
その先生にお頼《たのみ》なさって、宏量と狡智とを兼ねて、
温い青春の血を失わずに、
予定の計画どおりに恋をすると云う
秘法を授けてお貰なさるが好い。
わたしもそう云う先生にお近附になりたいのです。
そして小天地先生の尊号を上《たてまつ》るですな。
ファウスト
しかしね、君。己が見聞覚知の限を尽して、
窮めようとしている人生の頂上が
窮められないものとしたら、己は一体何物だ。
メフィストフェレス
あなたですか。あなたは、さよう、やっぱりあなたですな。
何百万本の毛《ちぢれけ》を植えた仮髪をお被《かぶり》なさっても、
何尺と云う高さの足駄をお穿《はき》なさっても、
所詮あなたはあなたですな。
ファウスト
己もどうもそんな気がする。人智の集めた宝の限を、
己はいたずらに身のまわりに掻き寄せて見た。
さてじっと据わって考えて見ても、
内から新しい力は涌いて出ぬ。
毛一本の幅程も己の身の丈は加っていぬ。
己は一歩も無極に近づいてはいぬ。
メフィストフェレス
いや、先生。それは通《つう》途《ず》の物の見ようで
物を御覧になると云うものだ。
生の喜が逃げ去らぬ間に、取る物を取ろうとするには、
も少し気の利いた手段をしなくてはいけません。
なに、べらぼうな。それは慥《たし》かにあなたの物と云うのは、
手足や頭やし□だけでしょう。
しかしなんでも自分が新しく受用すりゃあ、
それが自分の物でないとは云われません。
六匹の馬の代《だい》が払えたら、
その馬の力が自分のではないでしょうか。
そいつに駆けさせりゃあ、こっちは立派に
二十四本足のある男だ。
さあ、思い切って出掛けましょう。思案なんぞは廃《やめ》にして
御一しょにまっしくらに世間へ飛び出して見ましょう。
わたしがあなたに言いますがね。理窟を考えている奴は、
牛や馬が悪魔に取り附かれて、草の無い野原を
圏なりに引き廻されているようなものです。
その外《そと》囲《まわり》にはどこにも牧草が茂っているのに。
ファウスト
そこで手始にどうしろと云うのだ。
メフィストフェレス
出掛けるですね。
一体ここはなんと云う拷《ごう》問《もん》所《じよ》です。
こんな所で自分も退屈し、学生どもをも退屈させるのが、
生きていると云うものですか。
こんな事は御同僚の太っ腹に任せてお置《おき》なさい。
なんだって実《み》の無い藁《わら》をいつまでも扱《こ》くのですか。
それにあなたに分かる学問の中で、一番大切な事は
学生どもには言うことが出来ないのでしょう。
そう云えば、さっきから廊下に一人《ひとり》来ているようですね。
ファウスト
今面会することは己には出来ないが。
メフィストフェレス
小僧大ぶ長く待っているのだから、
慰めて遣らずに帰すわけには行きますまい。
一寸その上衣と帽子とをわたしにお貸《かし》なさい。
こう云う服装はわたしには好く似合いそうです。
(メフィストフェレス著換ふ。)
これで好い。跡はわたしの頓智に任せてお置《おき》なさい。
十五分間もあれば沢山だ。
どうぞその隙に面白い旅の支度をして下さい。
(ファウスト退場。)
メフィストフェレス
(ファウストの服装にて。)
へん。これからは人間最高の力だと云う
理性や学問を馬鹿にして、
幻術魔法によって、
偽《いつわり》の心を長ぜさせるが好い。
そうなりゃあ先生こっちのものだ。
なんの箝《けん》制《せい》も受けずに、前へ前へと進んで行く
精神を運命に授けられたので、
先生慌ただしい努力のために、
下界の快《け》楽《らく》を飛び越して来たものだ。
これから己が先生を乱暴な生活、
平凡な俗事の中へ連れ込んで引き擦り廻し、
もがかせて、放さずに、こびり附かせて、
《あ》くことを知らない嗜欲の脣の前に、
旨い料理や旨い酒をみせびらかしてくれる。
先生医し難い渇に悶えるだろう。
そうなると、よしや悪魔に身を委ねていないでも、
破滅せずにはいられまいて。
一学生登場。
学生
わたくしはこの土地へたった今参ったばかりですが、
どこで承っても御高名な
先生にお目に掛かって、お話が伺いたいと存じまして、
わざわざ罷《まか》り出ましたのですが。
メフィストフェレス
これは御丁寧な挨拶で痛み入る。
わしも外《ほか》に沢山いるとおりの並《なみ》の男だ。
どうだね。少しはここらの様子を見たかね。
学生
どうぞ何分宜しくお願《ねがい》申します。
わたくしは体は丈夫で、学資もかなりありますし、
奮発して出て参ったものでございます。
母はなかなか手放しませんでしたが、
是非余所でしっかりした修行がいたしたいので。
メフィストフェレス
それは君丁度好い土地へ来られた。
学生
実の所はなんだかもう帰りたくなりました。
この高い石垣や広い建物を見ますと、
余り好《よ》い心持はいたしません。
なんだかこう窮屈らしい所で、
草や木のような青いものも見えませんし、
講堂に出て、ベンチに腰を掛けますと、
なんにも見えも聞えもしないで、頭さえぼんやりして来ます。
メフィストフェレス
それは習慣ですよ。
生れたばかりの赤子に乳を含ませると、
すぐには吸い附かないものだ。
少し立てば旨がって飲む。
それと同じ事で今に君も知識の乳房に
かじり附いて離れないようになるさ。
学生
それはわたくしも学問の懐に抱かれたいのは山々です。
どうしたらそこへ到達することが出来ましょう。
メフィストフェレス
まあ、外の話は跡の事にして
何科に這入るつもりだか、それを言って見給え。
学生
ええ。わたくしはなんでもえらい学者になりたいのです。
下界の事から天上の事まで窮めまして、
自然と学問とに
通じたいと存じます。
メフィストフェレス
それは至極のお考だ。
しかし余所見をしては行けませんよ。
学生
それは体をも魂をも委ねて遣ります。
しかし愉快な暑中休暇なんぞには
少しは自由を得て暇《ひま》潰《つぶし》な事も
遣られるようだと好いのですが。
メフィストフェレス
光陰は過ぎ易いものだから、時間を善用せんと行かん。
なんでも規律を立てて遣ると、時間が儲かるよ。
まあ、わしに御相談とあれば、
最初に論理学を聴くだね。
そこで君の精神が訓錬を受けて、
スパニアの長靴で腓腸《ふくらはぎ》を締め附けられたように、
思慮の道を
改めてゆっくり歩くようになるのだ。
燐火が空を飛ぶように、
縦《たて》横《よこ》十文字に跳ね廻っては行かん。
それから暫くはこう云う教育を受ける。
譬《たと》えば勝手に飲《のみ》食《くい》をするように、
これまで何事も一息に、無《む》造《ぞう》做《さ》にしたのを、
一、二、三と秩序を経て遣るようにする。
一体思想の工《こう》場《ば》も
機屋の工場のようなもので、
一足踏めば千万本の糸が動いて、
梭《ひ》は往ったり来たりする、
目に止まらずに糸を流れる、
一打打てば千万の交錯が出来ると云うわけだ。
哲学者と云う奴が出掛けて来て、
これはこうなくてはならんと、君に言って聞せる。
第一段がこうだ、第二段がこうだ。
それだから第三段、第四段がこうなくてはならん。
もし第一段、第二段がなかったら、
第三段、第四段は永久に有りようがないと云うのだ。
そんな理窟をどこの学生も難《あり》有《がた》がっている。
しかし誰も織屋になったものは無い。
誰でも何か活動している物質を認識しよう、
記述しようとするには、兎角精神を度外に置こうとする。
そこで一部分一部分は掌中に握っているが、
お気の毒ながら、精神的脈絡が通じていない。化学でそれを
エンヘイレエジス・ナツレエ、「自然処置」と称している。
自ら欺く詞で、どうして好いか知らぬのだ。
学生
どうも仰ゃる事が皆は分かりません。
メフィストフェレス
それは君が複雑な事を単一に戻して、
それぞれ部門に入れて考えるようになると、
おいおい今よりは好く分かるようになる。
学生
どうも頭の中で擣《つき》屋《や》の車が廻っているようで、
ぼうっとしてまいりました。
メフィストフェレス
それから君、先ず何は措いても、
形而上学に取り掛からなくてはいかん。
なんでも人間の頭に嵌《は》まりにくい事を、
あの学問で深《しん》邃《すい》に領略するのだね。
頭に這入る事を斥《さ》すにも、這入らない事を斥すにも
立派な術語が出来ていて重宝なわけだ。
それはまあ、後の事として、最初半年は
講義を聴く順序を旨く立てなくてはいかん。
毎日五時間の課程がある。
鐘の鳴る時ちゃんと講堂に出ていなくてはいかん。
聴く前に善く調べて置いて、
一章一章としっかり頭に入れて置くのだ。
そうすると、先生が本に書いてある事より外には
なんにも言わないのが、跡で好く分かって好《い》い。
しかし筆記は勉強してしなくてはいかん。
聖《せい》霊《れい》が口ずから授けて下さると云う考《かんがえ》でね。
学生
それは二度と仰ゃらなくっても好うございます。
筆記がどの位用に立つかと云うことは、好く分かっています。
なんでも白紙の上に黒い字で書いて置いたものは、
安心して内へ持って帰ることが出来ますから。
メフィストフェレス
ところで君、兎に角何科にするのだね。
学生
どうも法律学は遣りたくありません。
メフィストフェレス
わしもあの学科の現状は知っているから、
君が気の進まないのも無理とは思わない。
兎角法律制度なんと云うものは
永遠な病気のように遺伝して行く。
先祖から子孫へぐずぐずに譲り渡されて、
国から国へゆるゆると広められる。
そのうち道理が非理になって、仁政が秕《ひ》政《せい》になる。
人は澆季《ぎようき》には生れたくないものだ。
さて人間生れながらの権利となると、
惜いかなどこでも問題になっていない。
学生
そのお話で厭なのが益々厭になりました。
先生のお指図を受けるものは、実に為《しあ》合《わせ》です。
そこでわたくしは神学でも遣ろうかと存じますが。
メフィストフェレス
そうさな。君を方向に迷わせたくはない。
あの学問をして、
邪路に奔《はし》らないようにするのは、頗《すこぶ》るむずかしいて。
あの中には毒と見えない毒が沢山隠れている。
それを薬と見分けることがほとんど不可能だ。
まあ、一番都合の好いのは、ただ一人の講義を聴いて、
その先生の詞どおりを堅く守っているのだね。
概して詞に、言句にたよるに限る。
そうすれば不惑の門戸から
堅固の堂宇に入ることが出来る。
学生
しかし先生、詞には概念がなくてはなりますまい。
メフィストフェレス
それはそうだ。だが、余り小心に考えて徒労をせぬが好《い》い。
なぜと云うに、丁度概念の無い所へ、
詞が猶予なく差し出《で》ているものだ。
詞で立派に議論が出来る。
詞で学問の系統が組み立てられる。
詞に都合好く信仰を托することが出来る。
詞の上ではグレシアのヨタの字一字も奪われない。
学生
どうも色々伺って先生のお暇を潰して済みませんが、
も少し御面倒を願いたいのでございます。
どうぞ医学はどんなものだと云うことについても
しっかりした御一言を承らせて下さいまし。
三年の学期は短いのに、
学問の範囲は実に広いのです。
先生がちょいと一言方針を御示《しめし》下さいますと、
それにたよって探りながらでも進んで行かれましょう。
メフィストフェレス
(独語。)
もうそろそろ乾燥無味な調子に厭《あ》きて来た。
ちと本色の悪魔で行って遣るかな。
(声高く。)
医学の要旨は造做もないものだよ。
君は大天地と小天地とを窮めるのだ。
そして詰まる所はやはり神の思召どおりに、
なるがままにさせて置くのさ。
君がいくらあちこち学問をしようとしてさまよっても、
それは駄目だ。てんでに学ばれる事しか学ばれない。
ところで、なんでも旨く機会を掴まえるのが、
それが本当の男と云うものだ。
見た所が、君は大ぶ体格が好《い》い。
度胸もなくはないだろう。
そこで君に自信が出来て来ると、
世間の人も自然に君を信じて来るのだ。
殊に女を旨く扱うことを修行しなくては行けない。
女と云う奴はここが痛いの、かしこが苦しいのと、
いろいろな言葉の絶える時はない。
それがただ一箇所から直すことが出来るのだ。
そこで君がかなり真面目に遣って行くと、
女どもはみんな君の手の裏にまるめられてしまう。
なんでも学位か何かがあって、世間のいろいろな技術より
君の技術が優れていると信ぜさせるのが第一だ。
さてお客になって遣って来たら、人の何年も掛かって
障られない所《ところ》々《どころ》を、初対面の印《しるし》にいじって遣る。
脈なんぞを旨く取るのだね。
そして細い腰が、どの位堅く締めてあるかと云うことを、
熱心らしい、狡猾そうな目《め》附《つき》をして、
探って見て遣るのだね。
学生
そう云うお話なら、何をどうすると云うことが分かって結構です。
メフィストフェレス
兎に角君に教えるがね。一切の理論は灰いろで、
緑なのは黄《こ》金《がね》なす生活の木だ。
学生
正直に申しますが、わたくしはどうも夢を見ているようです。
また改めて先生のお説の極深い処を伺いに
参りましても宜しゅうございましょうか。
メフィストフェレス
なんでもわしに出来る事なら喜んでして上げる。
学生
恐れ入りますが、お暇乞をいたすには
この記念帖にお書《かき》入《いれ》を願わなくてはなりません。
どうぞ先生の御《ご》眷《けん》顧《こ》を蒙りましたお印《しるし》を。
メフィストフェレス
お易い事で。
(書きて渡す。)
学生
(読む。)
エリチス・シイクト・デウス・スチエンテス・ボヌム・エット・マルム
(爾等知二善与一レ悪。則応レ如レ神。)
(恭しく帖を閉ぢて退場。)
メフィストフェレス
その古語の通《とおり》にしろ。己の姪の蛇の云う通《とおり》にしろ。
一度は貴様も自分が神のようなのがこわくなるだろう。
ファウスト登場。
ファウスト
さあ、どこへ行くのだ。
メフィストフェレス
お好《すき》な所へ行きましょう。
先ず御一しょに小天地を見て、それから大天地を見ます。
まあ、一通《とおり》の修行を遣って御覧なさい。
なかなか面白くて有益ですよ。
ファウスト
しかしこの長い髯の看板どおりに、
気軽な世間の渡様《わたりよう》は己には出来ない。
所詮遣って見ても旨くは行くまいて。
己には世間に調子を合せると云うことが出来たことがない。
人の前に出ると、自分が小さく思われてならない。
己は間を悪がってばかりいるだろうて。
メフィストフェレス
そんな事はどうにかなりますよ。
万事わたしにお任せなさると、直《すぐ》に調子が分ります。
ファウスト
そこでどうしてこの家を出て行くのだ。
馬や車や供《とも》なんぞはどこにある。
メフィストフェレス
それはついこの外套を拡げれば好《い》い。
これに乗って空を飛んで行くのです。
この大胆な門出には
大きな荷物だけは御免蒙ります。
わたしが少しばかりの瓦《ガ》斯《ス》を製造しますと、
そいつが造做なく二人を地から捲き上げてくれます。
そこで荷が軽いだけ早く升《のぼ》れる。
新生涯の序開だ。ちょっとおよろこびを申します。
ライプチヒなるアウエルバハの窖《あなぐら》
面白げなる連中の酒宴
フロッシュ
おい。誰も飲んだり、笑ったりせんか。
陰気な面《つら》をしていると、僕が承知しないぞ。
いつでも好く燃えるくせに、
きょうはなぜ湿った藁《わら》のようになっているのだ。
ブランデル
それは君のせいだ、君がなんにも提供しないからだ。
いつもの馬鹿げた事か、下卑た事を遣れば好い。
フロッシュ
(ブランデルの頭の上に一杯の酒を澆《そそ》ぐ。)
そんならこれでどっちも済まそう。
ブランデル
豕《ぶた》に倍した所行だ。
フロッシュ
君が下卑た事を遣れと云ったじゃないか。
ジイベル
誰でも喧嘩をする奴は、戸の外へ出て行け。
胸襟を開いてルンダ・ルンダでも歌わんか。飲め、騒げ。
さあ、遣れ遣れ。ホルラア。ホオ。
アルトマイエル
溜らない。参った参った。
誰か綿があるならくれえ。あいつのお蔭で聾になる。
ジイベル
馬鹿言え。天井が反響をする位でなくては、
バッソオの根本的威力は発揮せられないのだ。
フロッシュ
賛成々々。苦情を言う奴は逐い出してしまえ。
アア。タラ。ララ。ダア。
アルトマイエル
アア。タラ。ララ。ダア。
フロッシュ
さあ、吭《のど》の調子は合った。
(歌ふ。)
愛すべき、神聖なるロオマ帝国よ。
いかにして猶《なお》纔《わずか》に維持せらるゝぞ。
ブランデル
厭《いや》な歌だなあ。いやはや。政治的の歌と来ている。
下《くだ》らない歌だ。ロオマ帝国がどうなろうと構わない。
難《あり》有《がた》い身の上だと、君方は毎朝神に謝するが好《い》い。
僕なんぞは国王でもなけりゃあ、宰相でもないのを、
兎に角よほどの利益だと思っている。
しかし我々だって首領なしではいられない。
さあいつもの法皇を選挙しようじゃないか。
どんな資格が大事だとか、その人を高めるとか云うことは、
君方は知っているなあ。
フロッシュ
(歌ふ。)
飛び立てや、鶯。
恋人に言伝てよ、百千度。
ジイベル
恋人に言《こと》伝《づて》なんかいらん。そんな事は聞きたくない。
フロッシュ
恋人に言伝をする。キスをする。君のお世話にはならない。
(歌ふ。)
門の戸開《あ》けよ。静けき夜はに。
門の戸開《あ》けよ。風流《みやび》男《お》寝《いね》ず。
門の戸させ。朝まだきに。
ジイベル
ふん。沢山歌うが好《い》い。あんな女を褒めるが好《い》い。
今に僕の笑って遣る時が来る。
僕を騙した通《とおり》に、今に君を騙すのだ。
あいつの色には地《じ》の精か何かがなって、
夜の四辻でふざけるが好《い》い。
そこへブロッケンの山から駆けて帰る、年の寄った山《や》羊《ぎ》の牡《おす》が
通り掛かって、あいつに今晩はと挨拶すると丁度好《い》い。
正真正銘の血や肉を持っている立派な男は、
あいつの相手には惜しいのだ。
あいつに言伝なんぞをすることがあるものか。
窓に石でも打《ぶ》っ附けて遣るが好《い》い。
ブランデル
(卓の上を打つ。)
東西東西。僕の言うことを聞き給え。
僕が附《つき》合《あい》を心得ていることには、諸君同意だろう。
ここに女に迷った人達がいます。
その人達に今晩の告別に、身分相応の忠告を
僕がして遣ろうと思います。
東西。最新の調子の歌だぞ。
合唱の所をしっかり頼むぞ。
(歌ふ。)
牡鼠が穴倉に巣食って、
餌《えさ》は脂《あぶら》にバタばかり。
ルテル先生見たように
でっぷり太ってしまった。
そいつにおさんが毒を飼った。
鼠は世間が狭《せも》うなった。
胸に恋でもあるように。
合唱者
(讙《かん》呼《こ》する如く。)
胸に恋でもあるように。
ブランデル
そこらを廻って飛び出して、
どのどぶからも水を飲んだ。
かじる、引っ掻く、家《いえ》中《じゆう》を。
どんなに荒れても駄目だった。
苦しまぎれに飛び上る。
とうとう程なく荒れ止んだ。
胸に恋でもあるように。
合唱者
胸に恋でもあるように。
ブランデル
昼の日なかによろよろと
台所まで駆けて出て、
竈《へつつい》の隅に打《ぶ》っ附かり、
びくつき、倒れて虫の息。
おさんは見附けて噴き出した。
お聞《きき》よ、笛の吹きじまい。
胸に恋でもあるように。
合唱者
胸に恋でもあるように。
ジイベル
凡俗どものあの面白がりようはどうだ。
可哀そうに。鼠に毒を食わせる位が
丁度好《い》い働《はたらき》だろう。
ブランデル
君はひどく鼠が贔《ひい》屓《き》だね。
アルトマイエル
太っ腹の禿頭奴。
運が悪くて気が折れて、お情深くおなり遊ばした。
病み腫れた鼠の姿が
丁度先生そっくりだ。
ファウスト、メフィストフェレス登場。
メフィストフェレス
極面白がっている連中を
何より先《さき》にお目に掛けよう。これを御覧になると、
世間がどの位気楽に渡れると云うことがお分かりになる。
この連中にはどの日も同じ祭日です。
小才を利かせて、大満足をして、
尻尾《しつぽ》を《くわ》えてくるくる廻る小猫のように、
てんでに狭い間《あいだ》を踊っています。
《かけ》が借りていられる間は、
頭痛でもする日の外は、
心配なしに楽んでいます。
ブランデル
そこに来た奴等の様子を見給え。
旅から来た奴等だと云うことがすぐ分かる。
まだ著いてから一時間も立つまい。
フロッシュ
なるほど、君の云う通だ。僕はライプチヒに謳歌する。
小パリイと云うだけあって、ここにいると品が好くなる。
ジイベル
君はあの旅人どもを何者だと思う。
フロッシュ
僕が行って来るから見てい給え。一杯飲ませて、
あいつ等の鼻の穴から蛆《うじ》を引き出すのは、
子供の歯を抜くより優しいのだ。
なんでも好《い》い家柄の奴には違《ちがい》ない。
高慢げで、そして物事に満足しない様子だから。
ブランデル
なに。僕は賭をしよう。あいつ等は山師だよ。
アルトマイエル
そうかも知れないなあ。
フロッシュ
気を附けて見ていろ。探《さぐり》を入れて遣るから。
メフィストフェレス
(ファウストに。)
悪魔はあいつ等には分かりません。
うぬが領《えり》髪《がみ》を攫《つか》まれていても分からないのです。
ファウスト
皆さん、今晩は。
ジイベル
今晩は。
(メフィストフェレスを横より覗き、小声にて。)
おや、あいつは片々の脚が短いようだぜ。
メフィストフェレス
どうでしょう。そちらへ割り込んでもお邪魔ではないでしょうか。
どうせ旨い酒なんぞはなさそうですから、
面白いお話でも代《かわり》に伺いたいのですが。
アルトマイエル
君達は大ぶ口が奢っていると見えますね。
フロッシュ
君達はおお方リッパハの駅《しゆく》を遅く立ったのだろう。
あの駅のハンス君と一しょに夕飯を食ってから立ったのじゃないか。
メフィストフェレス
生憎きょうは逢わずに通って来ましたよ。
この前の度にわたし共が逢って話した時、
あなた方の事をいろいろ噂をしましてね、
どなたにも宜しく申してくれと云いましたよ。
(メフィストフェレスはこの詞《ことば》と共にフロッシュに会釈す。)
アルトマイエル
(小声にて。)
一本参ったな。向うが旨く遣りおった。
ジイベル
食えない奴だ。
フロッシュ
まあ、黙って見ていろ。今に遣っ附けるから。
メフィストフェレス
先刻大ぶお稽古の詰んだ声で
合唱をしていられたようでしたね。
ここでお歌いになったら、
あの円天井から旨く反響することでしょう。
フロッシュ
君達は音楽家ででもあるのかね。
メフィストフェレス
どういたしまして。下手の横《よこ》好《ずき》です。
アルトマイエル
何か一つ歌い給え。
メフィストフェレス
お望《のぞみ》なら幾らでも歌います。
ジイベル
極新しいのでなくちゃあいけない。
メフィストフェレス
わたしどもは丁度スパニアから帰ったところです。
あそこは酒と歌を本場にしている美しい国ですからね。
(歌ふ。)
昔昔王がいた。
大きな蚤《のみ》を持っていた。
フロッシュ
聞いたか。蚤だとよ。諸君分かったかい。
蚤と来ちゃあ、僕なんぞは随分清潔なお客だと思う。
メフィストフェレス
(歌ふ。)
昔昔王がいた。
大きな蚤を持っていた。
自分の生ませた子のように
可哀がって飼っていた。
ある時服屋を呼んで来た。
服屋が早速遣って来た。
「この若殿の召すような
上衣《うわぎ》とずぼんの寸を取れ。」
ブランデル
服屋に好くそう云わなくちゃいけないぜ。
寸尺を間違えないようにして、
笠の台が惜しけりゃあ、
ずぼんに襞《ひだ》の出来ないようにするのだ。
メフィストフェレス
天鵞絨為《じ》立《たて》、絹仕立、
仕立卸《おろし》を著こなした。
上衣にゃ紐が附いている。
十字章さえ下げてある。
すぐ大臣を言い附かる。
大きな勲章をぶら下げる。
兄弟までも宮中で
立派なお役にあり附いた。
文官武官貴夫人が
参内すれば責められる。
お后《きさき》さまでも宮女でも
ちくちく螫《さ》される、かじられる。
押さえてぶつりと潰したり、
掻いたりしては相成らぬ。
己達ならば蚤なぞが
ちょぴりと螫せばすぐ潰す。
合唱者
(歓呼する如く。)
己達ならば蚤なぞが
ちょぴりと螫せばすぐ潰す。
フロッシュ
旨い旨い。こいつは好かった。
ジイベル
蚤なんぞはそんな風に遣っ附けべしだ。
ブランデル
指を伸ばして旨くつままなくちゃいかん。
アルトマイエル
自由万歳だ。酒万歳だ。
メフィストフェレス
わたくしも自由の光栄のために一杯飲みたいのですが、
それにつけてもも少し酒が好ければ好《い》いと思いますよ。
ジイベル
そんな事は二度とは聞きたくないものだ。
メフィストフェレス
ここの主人が小言を言わない事なら、
わたくし共の酒蔵にあるのを、何か一つ
あなた方に献上したいのですが。
ジイベル
さあ、さあ、遠慮なしに出し給え。小言は僕が引き受ける。
フロッシュ
旨い奴を一杯飲ませてくれれば、僕は感謝するね。
ことわって置くが、あんまりぽっちりではいけない。
僕に利酒をさせようと云うには、
口へたっぷり一ぱい入れてくれなくちゃあ出来ない。
アルトマイエル
(小声にて。)
なんでもあいつ等はライン地方の奴だぜ。僕の目《め》利《きき》では。
メフィストフェレス
ちょいと錐を持って来させて下さい。
ブランデル
錐をなんにするのだね。
まさかその戸の外まで樽が来ているわけでもあるまい。
アルトマイエル
それ、あそこの背後《うしろ》に亭主が道具箱を置いている。
メフィストフェレス
(錐を手に取り、フロッシュに。)
あなたの飲みたい酒を伺いましょう。
フロッシュ
聞いてどうしようと云うのだね。そんなに色々あるのかね。
メフィストフェレス
どなたにもお望《のぞみ》の酒を献じます。
アルトマイエル
(フロッシュに。)
ははあ。君はもう口なめずりをし始めたな。
フロッシュ
宜しい。僕が所望して好いなら、ラインの葡萄酒にしよう。
なんでも本国産が一番の御馳走だ。
メフィストフェレス
(フロッシュの坐せる辺の卓の縁に、錐にて穴を揉みつゝ。)
少し蝋を取り寄せて下さい。すぐに栓をしなくちゃあ。
アルトマイエル
ははあ。手品だね。
メフィストフェレス
(ブランデルに。)
そこであなたは。
ブランデル
僕はシャンパンにしよう。
好く泡の立つ奴でなくてはいけない。
(メフィストフェレス錐を揉む。一人蝋の栓を作りて塞ぐ。)
どうも外国産の物を絶待に避けるわけにはいかんて。
好い物が遠国に出来ることがあるからなあ。
本当のドイツ人はフランス人は好かないが、
フランスの酒なら喜んで飲むね。
ジイベル
(メフィストフェレスの坐せる辺に近づきつゝ。)
正直を言えば僕は酸っぱい酒は嫌《きらい》だ。
僕には本物の甘い奴を一杯くれ給え。
メフィストフェレス
(錐を揉む。)
そんならあなたの杯にはすぐトカイ酒を注がせます。
アルトマイエル
ねえ、君達、僕の方を真っ直に見て返事をし給え。
君達は僕なんぞを騙すのに違《ちがい》ない。
メフィストフェレス
飛んだ事です。あなた方のような立派なお客に
そんな事をするのは、少し冒険過ぎますからね。
お早く願います。どうぞ御遠慮なく仰ゃい。
どんな酒を献じましょう。
アルトマイエル
なんでも宜しい。うるさく問わないで下さい。
メフィストフェレス
(穴を悉《ことごと》く揉み畢《おわ》り、栓をなしたる後、怪しげなる身振にて。)
「葡萄は葡萄の蔓になる。
角は山《や》羊《ぎ》の額に生える。
酒は水で、葡萄は木だ。
木卓《きづくえ》からも酒は涌く。
自然の奥を窺う一目。
これが奇蹟だ。信仰なされい。」
さあ、皆さん、栓を抜いて召し上がれ。
一同
(栓を抜けば各自の杯に所望の酒涌きて入るゆゑ。)
やあ。これは結構な噴水だ。
メフィストフェレス
兎に角飜《こぼ》さないように願います。
一同
(皆反覆して飲み、さて歌ふやうに。)
愉快だ、愉快だ。人の肉《にく》食《く》う夷《えびす》のように。
五百の豚《ぶた》の群の様《よ》に。
メフィストフェレス
御覧なさい。自由の民だ。あれが鼓腹の楽だ。
ファウスト
己はそろそろ行きたいがなあ。
メフィストフェレス
いや。これから気を附けて見ておいでなさい。
盛んに獣性が発揮せられるのですからね。
ジイベル
(手づつなる飲み様をし、酒を床に飜す。《ほのお》燃え立つ。)
助けてくれ。火事だ。助けてくれ。地獄が燃える。
メフィストフェレス
(火《か》《えん》に向ひて唱ふ。)
「鎮まれ。親しき一《いち》大《だい》。」
(人々に。)
まあ、こん度は一滴の業《ごう》火《か》で済みました。
ジイベル
これはなんだ。待て。只では済まんぞ。
全体我々をなんだと思っている。
フロッシュ
もう一遍あんな真似をして見ろ。
アルトマイエル
僕はこっそりあいつ等を追っ払ってしまおうと思うのだが。
ジイベル
おい。そこの先生。利いた風な。
我々の目を昏《くら》ます積《つもり》か。
メフィストフェレス
黙れ。酒樽の古手奴。
ジイベル
なに。箒《ほうき》の柄《え》が。
我々に失敬な事を言う積《つもり》か。
ブランデル
待っていろ。拳骨が雨のように降るぞ。
アルトマイエル
(残りたる一つの栓を抜けば、火面を撲つ。)
やあ。僕は火傷《やけど》をする。
ジイベル
魔法だ。
遣っ附けろ。そいつは無籍者だ。
(皆々小刀の鞘を払ひて、メフィストフェレスに掛かる。)
メフィストフェレス
(真面目らしき態度にて。)
「仮《け》現《げん》の形。虚《こ》妄《もう》の詞。
心を転じ、境《きよう》を転ず。
ここにあれ。またかしこにあれ。」
(一同驚きて立ちをり、互に顔を見合す。)
アルトマイエル
ここはどこだ。好い景色だなあ。
フロッシュ
葡萄畑だ。本当か知らん。
ジイベル
それに葡萄に手が届く。
ブランデル
この青い屋根の下に
こんな好《い》い蔓がある。こんな好《い》い葡萄がある。
(ジイベルの鼻を撮《つま》む。外の人々も互に鼻を撮み合ひて、手に手にく小刀を閃す。)
メフィストフェレス
(同上の態度にて。)
「迷惑の輩《ともがら》。目を覆う巾《きん》を去れ。
記念せよ。魔の遊戯の奈何《いかん》を。」
(ファウストと共に退場。人々互に手を放す。)
ジイベル
どうしたのだ。
アルトマイエル
これはどうだ。
フロッシュ
今のは君の鼻だったか。
ブランデル
(ジイベルに。)
僕は君のを撮まんでいたのか。
アルトマイエル
なんだかこうぴりっと来て、節々に響いたようだ。
その椅子を借してくれ。僕は倒れそうだから。
フロッシュ
一体どうしたと云うのだろう。
ジイベル
あいつはどこへ行った。こん度見附けたら、
生かしては置かない積《つもり》だ。
アルトマイエル
あいつが酒樽に騎って、この店の戸を出て行くのを
僕はこの目で見たよ。
僕は足が鉛にでもなったように重くてならない。
(卓の方へ向く。)
ああ。酒はまだ出るか知らん。
ジイベル
皆《うそ》さ。目を昏ましたのだ。
フロッシュ
僕は実際酒を飲んでいるような気がしたが。
ブランデル
それはそうとあの葡萄はどうしたのだろう。
アルトマイエル
どうだい。これでは不思議と云うものがないとは云われまい。
魔女の厨《くりや》
(低き竈の火の上に、大いなる鍋掛けあり。その鍋より立ち升《のぼ》る蒸気の中に種々の形象を現ず。尾長猿の牝鍋の傍に蹲《うずくま》り、鍋の中を掻き廻し、煮え越さぬやうにす。尾長猿の牡と小猿等とはその傍に蹲り、火に当りゐる。天井と四壁とは魔女の用ゐる極めて異様なる器械にて装飾しあり。)
ファウスト、メフィストフェレス登場。
ファウスト
己は気違染みた魔法騒《さわぎ》は気に食わぬ。
この物狂おしい混雑の中で
己の体がなおると、君は受け合うのか。
己に婆あさんの指図を受けさせて、
この腐《くされ》料《りよう》理《り》で取った年を三十も
跡へ戻してくれようと云うのか。
これ以上の智慧が君にないなら、己はもう駄目だ。
己の希望の影はもう消えてしまった。
一体自然か哲人かがこれまでに
何か霊薬のようなものを一つ位見出さなかったのか。
メフィストフェレス
いや。あなたはまた理窟を言い出しましたね。
それはあなたを若返らせるには、自然的な方法もあります。
しかし全く別な本に書いてある
奇妙な一章ですよ。
ファウスト
己はそれが知りたい。
メフィストフェレス
宜しい。それは金も医者も
魔法もなしに獲られる方です。
すぐに野らへお出《で》掛《かけ》なさい。
そして鋤鍬を使い始めるですね。
それから極狭い範囲の内に、
自己と自己の精神とを閉じ籠めて置くですね。
食物は交《まじり》のない物を食う。家畜と一しょに
家畜になって生きる。自分の取《とり》入《いれ》をする畑は、
自分で肥やしをするのを不都合とは思わない。
これなら八十になっても若くていられる
絶好の手段だと云うことを、御信用なさって宜しい。
ファウスト
それは己の慣れぬ事で、手に鋤を取るとまでは、
どうも己は身を落すことが出来ない。
その上狭い範囲の生活も己の柄にない。
メフィストフェレス
するとやはり魔女の厄介になるですな。
ファウスト
しかしなぜ婆あでなくてはならんのか。
君が自分でその薬を調合したって好いだろう。
メフィストフェレス
そいつは難《あり》有《がた》過ぎた暇《ひま》潰《つぶし》ですて。そんな暇があると、
魔の橋と云うのがあるが、わたしは橋を千位掛けます。
ああ云う薬は学術ばかりでは出来ない。
忍耐がなくては駄目です。
静かに落ち著いた奴が長の年月骨を折って、
その間にただ「時」が薬の発酵を強くするのです。
それに調合が複雑で、
中には不思議な物が這入るのです。
無論それも悪魔が授けた方ですが、
悪魔が自身で拵えるわけには行きません。
(獣等を見て。)
御覧なさい。なんと云う可哀らしい奴等でしょう。
あいつが女中で、あいつが家隷《けらい》です。
(獣等に。)
お上さんは留守らしいね。
獣等
烟《けむ》出《だし》から
内を抜け出て
馳走になりに行きました。
メフィストフェレス
いつもどの位の間ぶら附いて帰るのだい。
獣等
わたしどもが手をあぶっている間の留守です。
メフィストフェレス
(ファウストに。)
どうです。あのきゃしゃな畜生どもは。
ファウスト
己の見た物の中で、この位ぶさまな物はないな。
メフィストフェレス
いやいや。今こいつ等と遣るような会話が
わたしは一番好《すき》なのです。
(獣等に。)
おい。咀《のろ》われた人形ども。お前達に聞くのだが、
そのどろどろした物を掻き交ぜているのはなんだい。
獣等
これですか。乞食に施す稀《うす》い粥です。
メフィストフェレス
そんならお客はおお勢だな。
牡猿
(歩み寄り、メフィストフェレスに追《つい》従《しよう》す。)
どうぞすぐに旨い采《さい》の目を出して、
わたしに儲けさせて、
わたしを金持にして下さい。
随分みじめな身の上です。
これで金さえ持っていると、
も少し智慧も出るのです。
メフィストフェレス
分かっているよ。富籤にでも中《あた》ったら、
猿も為《しあ》合《わせ》だろうがな。
(この間小猿等大いなる丸《たま》を弄びゐたるが、その丸を転がし出す。)
牡猿
これが世界だ。
上がったり降りたり、
止《とめ》所《ど》なく廻っている。
丸《たま》は硝子の音がする。
こわれるのに造《ぞう》做《さ》はない。
中《なか》は空洞《うつろ》だ。
あそこは光る。
あそこは猶《なお》光る。
丸《たま》奴《め》は生きている。
己の好い子だ。
おもちゃにするな。
そちゃ死ぬるのだ。
丸は土《つち》焼《やき》、
かけらが出来る。
メフィストフェレス
あの篩《ふるい》はなんにするのだい。
牡猿
(篩を取り卸す。)
もしあなたが盗《どろ》坊《ぼう》なら、
これですぐに見あらわします。
(牝猿の所に持ち行き、透かし見さす。)
さあ、篩で透かして見ろ。
もし盗坊が分かっても、
うっかり口で言いっこなしだ。
メフィストフェレス
(火に近づきつゝ。)
そんならこの鍋は。
牝牡の猿
馬鹿なお方だ。
鍋一つ御存じない。
釜一つ御存じない。
メフィストフェレス
失敬な畜生だな。
牡猿
この払《ほつ》子《す》をこう持って、
その腰掛にお掛けなさい。
(メフィストフェレスを椅子に掛けさす。)
ファウスト
(この間大鏡の前に立ちて、半ばそれに歩み近づき、また半ばそれに歩み遠ざかりゐたるが。)
この己の目に見える、あれはなんだ。この魔の鏡に映るのは、
まあ、なんと云う美しい姿だろう。
愛の神に頼むが、お前の翼の一番早いのを貸して、
己をあの女のいる境へ遣ってくれい。
己がここに立《た》ち止《と》まっていずに、
鏡の傍へ寄って行くと、
姿は霧を隔てて見るようにぼやけて見える。
女と云うものの一番美しい姿はこれだ。
こうも美しい女の姿が世にあろうか。
この横わった体に
天と云う天の精《せい》を見ずばなるまい。
所詮地《ち》にはこんな物はないのだから。
メフィストフェレス
なんの不思議なものですか。神が六日の間働いて、
最後に自分で喝采したのだから、何か少しは
気の利いたものが出来ていなくてはなりません。
差当りあれをたんのうするまで御覧なさい。
今にあなたにあんな好い子を見附けて上げます。
運が好くてあんなのの壻になる奴は
為合者《しあわせもの》ですね。
(ファウストは依然鏡の中の像を見ゐる。メフィストフェレスは椅子の上にて伸《のび》をし、払子を揮ひつゝ語り続く。)
ここの所一寸王が玉座に著いたと云う形だ。
君主の杖も持っている。頭冠《かんむり》がないばかりだ。
獣等
(これまで種々の怪しげなる動作をなしゐたるが、この時大声にて叫び交しつゝ冠一つ持ち来て、メフィストフェレスに捧ぐ。)
お願ですから
この冠を
汗と血とで著けて下さい。
(手づつなる持《もて》扱《あつかい》ざまをして、冠を二つに割り、そのかけらを持ちて跳り廻る。)
とうとうおしまいだ。
口でしゃべって目では見る。
耳では聞いて歌にする。
ファウスト
(鏡に向ひて。)
ああ、どうしよう。己はどうやら気が狂いそうだ。
メフィストフェレス
(獣等を指さす。)
もうこうなると己でさえ頭がぐらぐらして来る。
獣等
こっちとらに出来るなら、
こっちとらがして好《い》いなら、
そんならそれが考《かんがえ》だ。
ファウスト
(前の如き態度にて。)
ああ。己の胸は燃えて来た。
どうぞ一しょに早く逃げてくれ。
メフィストフェレス
(前の如き態度にて。)
兎に角正直に告白する
詩人だとは認めて遣らなくてはなるまい。
(この間牝猿の等閑になしゐたる鍋煮え越す。大いなる火《か》《えん》燃え立ちて、烟突に向ふ。魔女恐ろしき叫声をなし、烟突より火の中を穿《うが》ちて降る。)
魔女
アウ。アウ。アウ。アウ。
咀われた畜生奴。豕《ぶた》奴。
鍋はほうって置く。上さんには火傷《やけど》をさせる。
咀われた畜生奴。
(ファウスト、メフィストフェレスの二人を見て。)
ここには何事がある。
お前達は何者だ。
ここへは何しに来た。
なぜ留守に這い込んだ。
お前達は骨々に
火で焼く痛《いたみ》が見たいのか。
(魔女杓子にて鍋を掻き廻し、ファウスト、メフィストフェレス、獣等に《ほのお》を弾き掛く。獣等懼《おそ》れうめく。)
メフィストフェレス
(手に持ちたる払子を逆にして、柄にてあたりの土器、玻《は》璃《り》器《き》を敲《たた》き立つ。)
打《ぶ》ち破《わ》れ。打ち破れ。
粥は引っ繰り返れ。
硝子はかけらになれ。
これでも洒落だよ。
腐《くされ》女奴《おんなめ》。
手前の歌に合せる拍子だ。
(魔女の憤り且つ驚きて退くを見つゝ。)
やい。骸骨奴。案《か》山《か》子《し》奴。己を見忘れやがったか。
檀那様、お師匠様を見忘れやがったか。
実は遠慮はいらんのだ。手前も猫の怪物も、
腕を出せば、敲き潰して遣るのだぞ。
いつ赤い胴著がこわくなくなったのだ。
帽子に挿した鳥の羽が見えんか。
己が面《つら》でも隠しているかい。
己に名《な》告《のり》をしろと云うのかい。
魔女
やあ。檀那。飛んだ御無礼をいたしました。
蹄を隠していらっしゃるもんだから。
それに二羽の鴉《からす》はどうなさいました。
メフィストフェレス
こん度だけは特別で恕《ゆる》して遣る。
それは顔を合せないことが
大ぶ久しくなっているからな。
それに文化と云う奴が世の中を甜《な》め廻して、
悪魔をも只では置かねえのだ。
北国生れのお化《ばけ》はな、もう見ることが出来ないよ。
それ、角や、尻尾《しつぽ》や、爪なんぞは見えまいが。
ただ足は無いと不自由だが、
見せては世間の通《とおり》が悪い。
そこでもうよほど前から、若い奴等がするように、
腓腸《ふくらはぎ》の贋《にせ》物《もの》を食っ附けて歩いているのよ。
魔女
(踊りつゝ。)
サタンの檀那がおいでては、
わしゃ嬉しゅうて気が狂う。
メフィストフェレス
こら。そんな名を口に出すと云うことがあるか。
魔女
そりゃなぜでございます。あの名がなんといたしました。
メフィストフェレス
あれはな、もうお伽話に書かれてから久しゅうなる。
そのくせ人間のためには好くはならない。
一人の悪魔はいなくとも、悪人はおお勢いるからな。
兎に角これからは己を男爵閣下と云うが好い。
華族のうようよいる中の己も華族の一人なのだ。
まさか己の血筋が怪しいとは云うまい。
それ、己の紋所はこれだ。
(猥《わい》褻《せつ》なる身振をなす。)
魔女
(止《とめ》所《ど》なく笑ふ。)
へ。へ。お前様のお極《きまり》だ。
やっぱり今でも昔のままの横著者でいらっしゃる。
メフィストフェレス
(ファウストに。)
どうです。覚えてお置《おき》なさい。
これが魔女の扱振《あつかいぶり》です。
魔女
そこであなた方の御用向は。
メフィストフェレス
実は例の薬をたっぷり一杯貰いたいのだ。
だが一番年を食った好い奴でなくてはいけない。
一年増《まし》に強く利くのだからな。
魔女
お易い御用でございます。ここに一《ひと》瓶《びん》
わたくしのちょいちょい舐《な》めるのがございます。
もうちっとも臭くはございません。
これを一杯献じましょう。
(小声にて。)
ですが、御承知の通《とおり》、禁《まじ》厭《ない》なしにあの方が上がると、
一時間とは生きていられませんよ。
メフィストフェレス
いいや。大事な友達だ。好く利かなくてはならない。
手前の台所の一番好いものが飲せたいのだ。
手前例の圏《わ》をかいて、文句を言って、
たっぷり一杯上げてくれ。
(魔女怪しげなる動作にて圏をかき、その中に種々の物を排置す。そのうち玻璃器、金属器自ら鳴りて楽を奏し始む。最後に猿等を圏の中に入れ、大いなる書籍を取り出し、一匹の猿を卓にしてそれを載せ、他の猿には炬を秉《と》らしむ。さてファウストを招きて圏の中に入らしむ。)
ファウスト
(メフィストフェレスに。)
君これはどうすると云うのだい。
こんな馬鹿げた真似、気違染みた為《し》草《ぐさ》、
無趣味極まる欺《まや》瞞《かし》は
僕は疾《と》うから知っている。大《だい》嫌《きらい》だ。
メフィストフェレス
何を気にするのです。ただ笑わせるまでですよ。
そんなに窮屈に考えなくても好いじゃありませんか。
あいつも医者だから、薬が好く利くように、
禁《まじ》厭《ない》をして飲ませなくては気が済まないのです。
(ファウストを強ひて圏の中に入らしむ。)
魔女
(大袈裟なるこれ見よかしの表情にて、書の中より朗読し始む。)
「汝須《すべか》らく会《え》すべし。
一より十を作《な》せ。
二は去るに任せよ。
而して径《ただ》ちに三に之《ゆ》け。
然らば則ち汝は富まむ。
四は喪失せよ。
五と六とより
七と八とを生ぜしめよ。
是の如く魔女は説く。
是においてや成就すべし。
九は則ち一なり。
十は則ち無なり。
之を魔女の九九と謂ふ。」
ファウスト
婆あさん熱に浮かされているのじゃあるまいか。
メフィストフェレス
まだなかなかあんな物じゃありません。
わたしは好く知っていますが、あの本は皆あんな調子です。
随分あれで暇を潰したこともあります。
なぜと云うと、まるで矛盾した事は
智者にも愚者にも深秘らしく聞えますからね。
あなたに言いますが、学術は新しいようで古い。
原来三と一だの、一と三だのと云って、
真理の代《かわり》に妄想を教えるのは
いつの世にもある遣《やり》方《かた》です。そんな工合に
誰にも邪魔をせられずに饒舌《しやべ》って教えています。
誰が馬鹿に構うものですか。
大抵人間はただ詞《ことば》ばかりを聞せられると、
何かそれに由って考えられるはずだと思うのです。
魔女
(誦し続く。)
「夫れ学術の
崇高なる威力は
全世界に秘せらる。
然れども思量せざる者
贈遺の如くに得べし。
労苦することを須《もち》ゐず。」
ファウスト
なんの無意味な事を己達に言って聞せるのだ。
もう直《すぐ》にこの頭が割れそうになって来る。
己にはなんだか馬鹿が十万人も
群《むれ》をなしてしゃべっているように思われる。
メフィストフェレス
もう好《い》い、好い。えらい巫《み》子《こ》さん。
早く薬を持って来て、杯の縁まで
一ぱいに注いでくれ。
己の友達にはあの薬が障る気遣はない。
この人はこれまでにもいろんな薬を飲んで見て、
大ぶ位の附いている人だから。
(魔女複雑なる作法をなして薬を杯に注ぐ。それをファウスト受けて唇に当つるとき、軽き燃え立つ。)
構わずにぐいとお飲《のみ》なさい。休まずにぐいと。
すぐに好《い》い心持になります。
悪魔と君だの僕だのと云うあなたが、
火なんぞをこわがるのですか。
(魔女圏を解く。ファウスト脱出す。)
メフィストフェレス
さあ、すぐに出掛けましょう。じっとしていてはいけません。
魔女
もし、あなた、お薬が好く利くようにお祈《おのり》申します。
メフィストフェレス
(魔女に。)
何か返礼に己に頼みたい事があるなら、
ワルプルギスの晩に遠慮なく言うが好《い》い。
魔女
それからこの歌の本を上げますから、時々お歌《うたい》なさい。
不思議な利目がございますからね。
メフィストフェレス
(ファウストに。)
さあ、わたしが案内しますから、早くおいでなさい。
薬が内《うち》外《そと》一面に染みるように、
汗を出さなくてはいけません。
これから高尚な懶《らん》惰《だ》の価値を分からせて上げる。
今にあなたの体の中で、愛の神が動き出して
折々跳ね廻るのを、面白くお感じになるのだ。
ファウスト
まあ、待ってくれ。一寸今一度あの鏡を見なくては。
あの女の姿があんまり好かったから。
メフィストフェレス
お廃《よし》なさい。お廃なさい。今にあらゆる女の
手本になるのを、正味で御覧に入れますから。
(聞えぬやうに。)
あの薬が這入っているから、
今にどの女でもヘレナに見える。
ファウスト登場。マルガレエテ通り過ぐ。
ファウスト
もし、美しいお嬢さん。不躾ですが、この肘を
あなたにお貸申して、送ってお上《あげ》申しましょう。
マルガレエテ
わたくしはお嬢さんではございません。美しくもございません。
送って下さらなくっても、ひとりで内へ帰ります。
(振り放して退場。)
ファウスト
途方もない好《い》い女だ。
これまであんなのは見たことがない。
あんなに行儀が好くておとなしくて、
そのくせ少しはつんけんもしている。
あの赤い唇や頬のかがやきを、
己は生涯忘れることが出来まい。
あの伏目になった様子が
己の胸に刻み込まれてしまった。
それからあの手短に撥ね附けた処が、
溜まらなく嬉しいのだ。
(メフィストフェレス登場。)
おい。あの女を己の手に入れてくれ。
メフィストフェレス
どの女ですか。
ファウスト
今通って行った奴だ。
メフィストフェレス
あれですか。あれは今坊主の所から帰るのです。
懺《ざん》悔《げ》して罪の免除を受けて来たのです。
わたしは坊主の椅子の傍を忍んで通ったが、
なんにも持たずに懺悔に行った、
ひどく罪のない娘ですよ。
あんなのはわたしの手に合いませんね。
ファウスト
でも満十四歳にはなっているだろうが。
メフィストフェレス
丸で道楽息子のような口の利きようをしますね。
どの美しい花をも自分の手に入れようとして、
自分の手で摘み取ることの出来ない
恋や情はないはずだと思う性《たち》ですね。
ところがなかなかいつもそうは行きませんよ。
ファウスト
おい。道学先生。
どうぞ道徳の掟を己に当て嵌《は》めることだけは免《ゆる》してくれ。
それから君に手短に言って置くがね。
あの旨そうな若々しい肌に
今宵己の手が触れることが出来なかったら、
夜なかまで待たずに君とお分《わかれ》にするよ。
メフィストフェレス
しかし出来る事と出来ない事とは考えて下さい。
探偵して機会を捕えるまでに、
少くも十四日は掛かるのです。
ファウスト
己なんぞは七時間遊んでいられると、
あんな物を騙して遣るには、
悪魔の手を借るまでもないがなあ。
メフィストフェレス
もうフランス人のような物の言いようをしますね。
だがお願ですから、気を悪くしないで下さい。
何もすぐに手に入れるのが面白いのではありません。
南の方《ほう》の国の話に随分あるように、
先ずいろいろな前狂言をして、
あの人形をあっちこっち
捏《こ》ね廻したり躾けたりするのが、
却って手に入れた時より面白いものです。
ファウスト
そんな面倒をしなくっても、己は直《すぐ》にその気になれる。
メフィストフェレス
まあ、洒落や笑《じよう》談《だん》は廃《よし》にして、わたしは度々
言う代に、一度はっきり言って置きますが、
あの好《い》い子を手に入れるのは、そう早くは行きませんよ。
一挙して抜くと云う砦ではない。
詭《いつわり》の謀と云う面倒なので我慢しなくては。
ファウスト
そんならあいつの持物でも己の手に入れてくれ。
あいつのいつも腰を掛ける場所へでも連れて行ってくれ。
あいつの胸に触れたことのある巾《きれ》でも、
沓《くつ》韈《たび》の紐でも好いから、恋の形見に手に入れてくれ。
メフィストフェレス
わたしがあなたの苦《くるしみ》をどうにかして上げる
お手伝をする気だと云うことが、あなたにも分かるように、
手間を取らせずに、きょうのうちに
あなたをあの娘の部屋へ連れて行きます。
ファウスト
そして逢われるのか。手に入れられるのか。
メフィストフェレス
いいえ。
当人は隣の上さんの所へ行っているでしょう。
その隙にあなたがひとりで
未来の楽《たのしみ》を思い浮べながら、あの娘の肌の香の
籠っている所にいるのを心遣になさるが好《い》い。
ファウスト
そんなら今から行かれるのか。
メフィストフェレス
まだ早過ぎます。
ファウスト
そんなら何かお土産に遣る物を心配して置いてくれ。
メフィストフェレス
直《すぐ》に遣りますか。それはごうぎだ。それなら成功します。
方々の好い所に昔埋めて置いた
宝のあるのを、わたしは知っています。
まあ、少し調べて見なくては。
(退場。)
小さき清げなる室。
マルガレエテ辮《べん》髪《ぱつ》を編み結びなどしつゝ。
マルガレエテ
きょうのお方《かた》がどなただか知れるなら、
何か代《かわり》に出しても好《い》いと思うわ。
大そうはきはきしたお方のようだったこと。
きっと好《い》い内の方《かた》だわ。
わたしお顔を見たら、すぐ分かってしまった。
でなくては、あんな不遠慮な事はなさらないわ。
(退場。)
メフィストフェレス、ファウスト登場。
メフィストフェレス
さあ、這入るのです。そっと、構わずに。
ファウスト
(暫く黙りゐて。)
どうぞ己をひとりで置いて行ってくれ。
メフィストフェレス
(四辺を探るやうに見つゝ。)
なかなかどの娘でもこう綺麗にしているものではないて。
(退場。)
ファウスト
(あたりを見廻す。)
この神聖な場所を籠めてくれる、
優しい、薄暗い黄《たそ》昏《がれ》時《どき》よ。好く来てくれた。
渇して纔《わず》かに吸う希望の露に命を繋いでいる、
優しい恋の艱《なやみ》よ。己の胸を占めてくれい。
静けさ、秩序ある片附方、物に満足している心持が、
なんとなくこの周囲に浮動しているではないか。
この物足らぬ中になんと云う豊富なことだろう。
この人屋めいた中になんと云う祝福のあることだろう。
(寝台の傍の鞣《なめ》革《しがわ》の椅子に身を倚《よ》す。)
この椅子はあれがまだ生れぬ世を、喜《よろこ》につけ悲《かなしみ》につけ、
腕《かいな》を拡げて迎え容れた椅子であろう。
己に掛けされてくれ。家の長老の座のこの椅子に、
幾度か取り巻く子等の群がぶら下がったことであろう。
事に依ったら、あの子がまだふくらんだ頬をしていた時、
神聖なクリストの恩を謝して、この椅子に靠《よ》っている
家の長老の萎びた手に、敬虔なキスをしたかも知れぬ。
ああ。好《い》い子よ。毎日お前に母のような指図をして、
この卓の上に巾《きれ》を綺麗にひろげさせ、
足に踏む砂をさえ美しく波立つようにさせる、
その饒《ゆた》けさと整《ととのい》との精神が、
身の辺に戦《そよ》いでいるのを己は感ずる。
まあ、なんと云う可哀い手だろう。神々の手のような。
お前のお蔭でこの小屋が天堂になるのだ。
そしてここは。
(手にて寝台の帷の一ひらを搴《かか》ぐ。)
まあ、なんと云うぞっとする嬉しさが襲うだろう。
己はたっぷり何時間もここに立ちもとおっていたい。
自然よ。お前はここで軽らかな夢の中に、
ただ一度しか生れぬ天使を育てたのだ。
優しい胸に温い性命の満ちている
穉《おさな》子《ご》がここにいたのだ。
物を織り成す、神聖な、清浄な力で、
あの神《こう》々《ごう》しい姿《すがた》貌《かたち》がここで発展したのだ。
そこで貴様はどうだ。何がここへ連れて来たか。
己は心の底から感動させられてしまう。
貴様はここで何をしようと思う。なぜそう胸が苦しゅうなる。
吝《けち》なファウスト奴。貴様は見違えた奴になったなあ。
禁《まじ》厭《ない》の靄《もや》が己をここで包んでいるだろうか。
驀《まく》直《じき》に受用しようと云う促《うながし》が己を駆って来たのに、
恋の夢に己は解けて流れるように感ずるではないか。
空気の圧《あつ》の変るまにまに己は弄ばれて変るのか。
もしこの刹那にあれがここへ這入って来たら、
己の無作法はどんなにか罪なわれるだろう。
大きなのろま男奴。なんと云う小さくなりようだ。
大《おお》方《かた》あれが足の前に蕩《とろ》けた様になって俯さるだろう。
メフィストフェレス登場。
メフィストフェレス
早くおしなさい。娘が下を遣って来ます。
ファウスト
行こう、行こう。己はもうここへは来ない。
メフィストフェレス
ここにある所から持って来た、
一寸目方のある箱がありますがな。
兎も角もこれをそこの箪《たん》笥《す》に入れてお置きなさい。
あの娘が見て気が遠くなる程欲しがることは受《うけ》合《あい》です。
あいつの体のいろんな物があなたのおもちゃになるように、
わたしがこの箱にいろんなおもちゃを入れて置きました。
相手の子供は子供でもこっちの細工は細工ですから。
ファウスト
さればさ。そんな事をしたものだろうか。
メフィストフェレス
それに文句がありますか。
それともこの品物をあなたが持っていなさる積《つもり》ですか。
そんならあなたも色気なんぞを出して
結構な暇を潰すことをお廃《よし》になり、
わたしにもこれから先《さき》の骨折を免じてお貰申したい。
まさかあなたは吝《けち》なのではありますまいね。
あの可哀らしい小娘を
あなたの胸のお望《のぞみ》どおりに靡《なび》かせようとしている
わたしに、頭を掻かせたり、手を摩らせたりするのですか。
(小箱を箪笥に入れ、鑰《じよう》を卸す。)
さあ、早く逃げましょう。
なんです、その顔は。
今から講堂へでも出て行こうと云うのですか。
形而下学と形而上学とがさながら現われて来て、
灰色の顔をしてあなたの前にでも立っていると云うのですか。
さあ、逃げましょう。
(退場。)
マルガレエテ燈を秉《と》りて登場。
マルガレエテ
なんだかここは鬱陶しくて、むっとするようだこと。
(窓を開く。)
そのくせ外《そと》はそんなに暑くもないのに。
わたしなんだか分からないが、変な心持がするわ。
早く母《か》あさんがお内へお帰《かえり》だと好い。
なんだかこう体《からだ》中《じゆう》がぞくぞくしてならない。
まあ、わたしはなんと云う馬鹿げた、臆病な女だろう。
(著物を脱ぎつゝ歌ひ始む。)
「昔ツウレに王ありき。
盟 《ちかい》渝《かえ》せぬ君にとて、
妹《いも》は黄《こ》金《がね》の杯を
遺してひとりみまかりぬ。
こよなき宝の杯を
乾《ほ》しけり宴《うたげ》の度毎に。
この杯ゆ飲む酒は
涙をさそふ酒なりき。
死なん日近くなりし時
国の県《あがた》の数々を
世《よ》嗣《つぎ》の君に譲りしに、
杯のみは留《と》め置きぬ。
海に臨める城《き》の上に
王は宴を催しつ。
壮士《ますらお》あまた宮《みや》内《ぬち》に、
御《お》座《まし》の下に集ひけり。
これを限《かぎり》の命の火
盛れる杯飲み干して、
その杯を立ちながら
海にぞ王は投げてける。
落ちて傾き、沈み行く
杯を見てうつむきぬ。
王は宴の果てゝより
飲まずなりにき雫だに。」
(著物を納めんと、箪笥を開き、小箱を見る。)
おや。どうしてこんな美しい箱が這入っているのだろう。
わたし錠は慥《たし》かに卸して置いたのに。
本当に不思議だこと。何が入れてあるのだろう。
誰か母《か》あ様にお金を借りに来て
質に入れて置いたのかしら。
おや。ここに鍵が紐で縛り附けてあるわ。
わたし開《あ》けて見ようや。
まあ、これはなんだろう。大《たい》した物だわ。こんな物は
わたし生れてからついぞ見たことがないわ。
装飾品だわ。どんな貴婦人がどんな宴会へでも
附けて行かれるだろうと思うわ。
わたしにでも似合うかしら。
一体誰のだろう。
(装飾品を身に附けて鏡に向ふ。)
この耳輪だけでもわたしのだと好《い》い。
別の顔のように美しく見えるわ。
ほんとに若くても綺麗でもなんにもなりゃしない。
それだけでも好いには好いのだけれど、
人もそれだけにしきゃ思ってはくれない。
褒めるにでも気の毒がりながら褒めるのだもの。
みんなに附いて来られるのも、
ちやほやして貰われるのも、お金次第だわ。
わたしなんぞのように貧乏では為《し》方《かた》がないわ。
散歩
ファウスト物を思ひつゝあちこち歩みゐる。そこへメフィストフェレス来掛る。
メフィストフェレス
ええ。食っただけの肘鉄砲とでも云おうか。地獄の
あらゆる景物とでも云おうか。これより胸の悪い事はない。
ファウスト
どうしたのだ。腹でもひどく痛いのかい。
己は生れてからそんな顔をしている奴を見たことがない。
メフィストフェレス
わたしはもし自分が悪魔でなかったら、
すぐに悪魔にさらって行って貰いたい位です。
ファウスト
頭の中で何かが居《い》所《どころ》変《がわり》でもしたのかい。
気違のように跳ね廻るのは君の柄にはあるが。
メフィストフェレス
まあ、思っても見て下さい。娘に遣ろうと思って捜した、
あの装飾品は坊主がふんだくって行きました。
お袋があれを見附けるや否や、
なんだか気味が悪くなったのですね。
一体あの女はいやに鼻の利く奴で、
いつも讃美歌集を嗅いでいたり、
道具は一々鼻を当てて、これは神聖な物だ、
これは世間の物だと嗅ぎ分けたりするのです。
そこであの飾《かざり》にあまり祝福なんぞが
附いていないのを、慥《たし》かに嗅ぎ出したのです。
お袋はこう云いました。「お前、筋の悪い品物は
持っていても気が詰まる。苦労になって血まで耗《へ》る。
これは聖母様にお上げ申そうね。
そうすると天の蜜を下さるから」と云いました。
すると娘は口を歪《ゆが》めてこう思ったです。
「まあ、貰った馬は何とやらと云うことがある。
それに誰が神様に背くかと云うと、
あれを親切にここへ持って来た人ではあるまい。」
そこでお袋が坊主を呼んで来る。
坊主は話を聞くか聞かぬに、
もう貨《しろ》物《もの》に見とれている。
その言《いい》草《ぐさ》が好い。「それは御殊勝な事でござります。
欲しい物をお捐《すて》になるだけ、それだけ御利益があります。
お寺の胃の腑は大丈夫でござります。
これまで国を幾つも召し上がっても、
ついぞ食傷はなさりませぬ。
筋の悪い品物を召し上がって消化なさるのは、
お前様方にわしが言うが、お寺ばかりだ。」
ファウスト
それは天下通用の遣方だ。
猶太《ユダヤ》人も王様にも出来る。
メフィストフェレス
坊主は腕輪や指輪や鎖なんぞを、
三文もしない物のように引っ手繰って、
胡桃《くるみ》を籠に一つ貰った程の
礼も言わずに、
いずれ報《むくい》は天からあると約束しました。
女どもはそれを難《あり》有《がた》がったのですね。
ファウスト
そこでマルガレエテは。
メフィストフェレス
気が落ち著かぬと云う風で、
何がしたいか、どうしたいか、自分で自分が分からずに、
夜《よる》昼《ひる》貰った宝の事を、それよりもくれた人の事を、
思い続けているのです。
ファウスト
あの娘がそう胸を痛めては可哀そうだ。
君すぐに外の宝を捜し出して遣り給え。
初のはそう大した物でもなかったから。
メフィストフェレス
そうでしょう。檀那様が見れば万事子供の戯だ。
ファウスト
そしてさっさと己の考通にして貰いたい。
先ず君があの隣の女を手に入れなくちゃいかん。
悪魔が粥のようにべたべたしていては困る。
外の装飾品を急いで持って来給え。
メフィストフェレス
へえへえ。お易い御用でございます。
(ファウスト退場。)
女にのろい男と云う奴は、その女のためになら、
月でも日でも星を皆でも、
暇潰しに花火のように打ち上げでもします。
(退場。)
隣の女の家
マルテ一人登場しゐる。
マルテ
まあ、内の檀那さんに罰が中《あた》らねば好《い》いが。
わたしを随分ひどい目にお逢わせなされた。
藁《わら》の上へひとり残して置いて、
自分は世間へ飛び出しておしまいなされた。
不断腹をお立《たて》になるようなことをせずに、
どんなにも大切にしてお上《あげ》申す積《つもり》でいるのに。
(泣く。)
事によったらもうお亡くなりなされたかも知れぬ。
鶴亀々々。せめて死亡証でも手に入ったら。
マルガレエテ登場。
マルガレエテ
おばさん。
マルテ
グレエテさんかえ。なんだい。
マルガレエテ
わたしびっくりして膝を衝いてしまいそうだったの。
またこんな箱がわたしの箪《たん》笥《す》に
あったのですもの。箱は黒檀でしょう。
中に這入っているものと云ったら、
こないだのより、もっと、もっと立派なの。
マルテ
そうかい。それはおっ母さんに言わないが好《い》いよ。
また懺《ざん》悔《げ》の時に持って行くといけないから。
マルガレエテ
まあ、見て御覧なさいよ。それ。
マルテ
(マルガレエテを装飾す。)
まあ、お前さんはなんと云う為合《しあわせ》な子だろう。
マルガレエテ
だって、こうして往来へ出たり、お寺へ行ったりすることが
出来ないのだから、詰まらないわねえ。
マルテ
いつだってわたしの所へ来て、
そっと体に附けて見るが好《い》いよ。
そして暫くの間、鏡の前を往ったり来たりして御覧。
わたしが一しょに楽んであげるからね。
その中にはお祭かなんかで、好い折が出来ようから、
目立たないようにぼつぼつ体に附けて出るさ。
最初は鎖を掛けて出る。それから耳に真珠を嵌《は》める。
おっ母《か》さんも気は附くまいが、また何とか云い様もあろうよ。
マルガレエテ
ねえ、おばさん。この箱を持って来たのは誰でしょう。
なんだか気味が悪いじゃありませんか。
(戸を敲《たた》く音。)
おや。大変だわ。おっ母さんじゃないでしょうか。
マルテ
(窓掛を透し視る。)
知らない男の方《かた》だよ。お這入《はいり》下さいまし。
メフィストフェレス登場。
メフィストフェレス
失礼ですが、ずんずん這入ってまいりました。
どうぞ御免なさって下さいまし。
(マルガレエテに敬意を表して卻《しりぞ》く。)
マルテ・シュウェルトラインさんにお目に掛かりたいのですが。
マルテ
マルテはわたくしでございます。なんの御用で。
メフィストフェレス
(小声にてマルテに。)
お前さんですか。こうしてお目に掛って置けば好《い》い。
お客様はどちらの令嬢ですか。
どうも飛んだ失礼をしましたね。
いずれ午過ぎにでもまた来ましょう。
マルテ
(声高く。)
あら、まあ。グレエテさん。お聞《きき》よ。
この方がお前の事をどこかの令嬢だろうとさ。
マルガレエテ
まあ。わたし貧乏人の娘なのに、
このお方がそんな事にお思《おもい》なさっては困るわ。
飾は皆わたしの物でもないのに。
メフィストフェレス
いえ。御装飾品だけを見て云ったのではありません。
御様子と、それにお目が鋭いので。
このままいて宜しければ、こんな難《あり》有《がた》い事はありません。
マルテ
御用はなんですか。早く伺いたいもので。
メフィストフェレス
さよう。もっとめでたいお知らせだと好いが。
持って来たわたしが怨まれなければ好いと思うのですよ。
御亭主が亡くなりましたよ。お前さんに宜しくと云うことで。
マルテ
おや、まあ。とうとう亡くなりましたの。
可哀そうに。本当に亡くなったでしょうか。ああ。
マルガレエテ
まあ。おばさんしっかりなさいよ。
メフィストフェレス
まあ、気の毒な最期を聞いて下さい。
マルガレエテ
だからわたし生涯男は持たなくってよ。
亡くなった時どんなにか哀しいでしょう。
メフィストフェレス
悲《かなしみ》の隣に喜《よろこび》があり、喜の隣に悲があるのです。
マルテ
どうぞ亡くなった宿がどうなったかお話《はなし》なすって。
メフィストフェレス
あのパズアの聖アントニウスのお傍で、
極難有い場所に
葬って貰われて、
そこを永遠に冷たい臥《ふし》所《ど》にしておられますよ。
マルテ
その外には何もおことづかりなすったことはございませんか。
メフィストフェレス
まだ大したむずかしい事があるですよ。
お前さんに三百度のミサを読ませて貰いたいそうで。
それから遺《ゆい》物《もつ》と云うものは何もありませんでした。
マルテ
まあ。諸国を廻る職人の徒弟でも、笈《おい》の底に
飾の一つや、変《かわり》銭《せん》の一つ位は取って置いて、
縦《たと》え餓えても、乞食をしても、
それは記念《かたみ》に残すのに。
メフィストフェレス
どうもお前さんには実にお気の毒ですよ。
しかし実際無駄遣をしたわけでもありません。
自分でも悪かったと云って後悔していました。
そう。それよりも不為合《ふしあわせ》を怨んでいましたっけ。
マルガレエテ
まあ。人間は不為合のあるものでございますね。
わたくしもその方《かた》のために少しレクウィエムでもお唱《となえ》申しましょう。
メフィストフェレス
お見《み》受《うけ》申す所、あなたはもう直《すぐ》にお嫁入をなさっても
宜しそうでございます。愛敬のおありになる方《かた》ですね。
マルガレエテ
あら。まだなかなかそんな事は出来ませんわ。
メフィストフェレス
それは御亭主でなくても、差《さし》当《あたり》好《よ》い方《かた》と
御交際なさるが好《い》い。ただいとしい、可哀いと
抱き合うばかりでも、世の中の主《おも》な楽《たのしみ》の一つです。
マルガレエテ
そんな事はこの土地ではいたさぬ事になっています。
メフィストフェレス
そうなっていても、いなくても、すれば直《すぐ》出来ます。
マルテ
もし。まだお話がございましょうか。
メフィストフェレス
ええ。息を引き取りなさる所に、
わたしは附いていましたが、五味溜よりは少し好い、
腐り掛かった藁の上でした。でも信者として
死なれましたよ。まだ大ぶ罪《つみ》滅《ほろぼし》がせずにあると云って。
そう云われましたっけ。「己は自分が心《しん》からいやだ。
こんな渡世のお蔭で、女房をああして置いて死ぬるのだから。
ああ。思い出すと溜まらなくなる。
どうぞこの世で己の罪を免《ゆる》してくれれば好いが。」
マルテ
(泣きつゝ。)
可哀そうに。わたしはもう疾《と》っくに免して上げたのに。
メフィストフェレス
「だが神様が御存じだ。己より女房が悪かったのだ。」
マルテ
ばっかし。そんな事を。死際にを衝くなんて。
メフィストフェレス
へえ。わたしには余りよくは分からないが、
断末魔の譫《うわ》語《こと》だったかも知れません。
そう云いましたっけ。「己はうっかりぽんとしていたことはなかった。
子供は出来る、パンを稼ぎ出さなくてはならぬ。
パンも極広い意味のパンだからなあ。
そして落ち著いて己の分を食うことも出来なんだ。」
マルテ
まあ。あんなにわたしは夜《よる》昼《ひる》となく働いて、
万事親切に世話をして上げたのを忘れてさ。
メフィストフェレス
いいえ。その事は心《しん》から喜んでいたのですよ。
そう云いましたっけ。「マルタ島を立つ時は、
己は女房子供のために、心《しん》からの祈祷をした。
丁度首尾好くスルタンの
宝を積んだトルコの船を
こっちの船が攫《つか》まえた。
骨折甲斐のある為《し》事《ごと》で、
貰うだけの割前は
己も貰った。」
マルテ
まあ。どうしたでしょう。どこかへ埋めでもしたでしょうか。
メフィストフェレス
ところがそれを東西南北、どこへ風が飛ばしたやら。
ナポリへ著いて知らぬ町をぶらついているうちに、
綺麗首が銜《くわ》え込んで、
死ぬる日までもあの男の骨に応える、
結構なおもてなしをしたのですね。
マルテ
まあ、ひどい人だこと。孫子の物を盗んだのだよ。
どんなに落ちぶれても、困っても、
浮気は止まなかったのかねえ。
メフィストフェレス
そうですよ。だがその報《むくい》には死にました。
まあわたしがお前さんなら、
ここの所一年程おとなしく喪に籠っていて、
そのうちそろそろ替の人でも捜すですね。
マルテ
そんな事を仰ゃっても、先の亭主のような人は、
世間は広いが、めったに見附かりません。
ほんに可哀い気前の男でござんした。
疵《きず》はあんまり旅が好《すき》で、
よその女やよその酒に現《うつつ》を抜かし、
お負《まけ》に博奕《ばくち》を打ちました。
メフィストフェレス
なるほど、なるほど。そこで男の方《ほう》からも、
ざっとその位大目に見ていたとすると、
随分旨い話でしたな。
そんな条件の附く事なら、わたしなんぞも
難有くあなたの御亭主になりますなあ。
マルテ
おや。御笑談ばかし仰ゃいます。
メフィストフェレス
(独語。)
おっとどっこい。そろそろこの場を逃げなくては。
本物の悪魔の詞質《ことばじち》をもこの女は取り兼ねんぞ。
(マルガレエテに。)
ところで、あなたのお胸の御都合は。
マルガレエテ
へえ。なんと仰ゃいます。
メフィストフェレス
(独語。)
ふん。憎い程おぼこだなあ。
(声高く。)
いや。どなたも御機嫌好う。
マルガレエテ
さようなら。
マルテ
あの、ちょっと伺いますが、
宿がいつ、どちらで、どんな風に亡くなったと云う
書附がありましたらと存じます。
わたくしは何事も極《き》まりの附かないことが嫌《きらい》で、
出来ます事なら新聞にも書いてお貰《もらい》申したいので。
メフィストフェレス
なに、お前さん。証人が二人あれば、
どこでも言分は通ります。
わたしには好《い》い友達が一人いますが、
そいつが一しょになん時でも裁判所へ出て上げます。
そのうち連れて来ましょうよ。
マルテ
そんならどうぞそんな事に。
メフィストフェレス
ええと、このお嬢さんもここにおいでになるのですね。
わたしの友達は好《い》い奴です。世間を広く渡って来て、
御婦人方に失礼な事はいたしません。
マルガレエテ
あんな事を仰ゃるのですもの。お恥かしくて。
メフィストフェレス
いえ。王様の前へお出になってもお恥かしがりなさいますな。
マルテ
そんならあちらの奥庭で、お二人のおいでを
お待申しておりましょう。
ファウストとメフィストフェレスと登場。
ファウスト
どうだい。運ぶかい。近いうちにどうかなるかい。
メフィストフェレス
えらい。大ぶ気乗がして来ましたね。
もう程なくグレエテはお手に入ります。
隣のマルテと云う女の所で今晩お引《ひき》合《あわせ》をします。
取《とり》持《もち》や橋《はし》渡《わたし》には
持って来いと云う女ですよ。
ファウスト
旨いな。
メフィストフェレス
所でこちとらも物を頼まれましたよ。
ファウスト
それは魚心あれば水心だ。
メフィストフェレス
なに。その女の亡くなった亭主の髑《され》髏《こうべ》が、
パズアの難《あり》有《がた》い墓地に埋めてあると云う、
法律上に有効な証書を書いて遣るだけです。
ファウスト
好《い》いとも。そんならパズアへ行って来なくては。
メフィストフェレス
サンクタ・シンプリチタスだ。神聖なるおめでたさ加減だ。
それに及ぶものですか。知らずに書いて遣るのです。
ファウスト
外に智慧が出ないのなら、その計画は廃案だ。
メフィストフェレス
いやはや。おえらいぞ。そこで君《くん》子《し》をお出《だ》しになる。
一体偽証と云うものをなさるのが、
こん度が始《はじめ》のお積《つもり》ですかい。
これまであなたは仰山らしく、神はどうだ、世界や
その中に動いている物はどうだ、人間やその心の中で
考えている事はどうだと、定義をお下《くだ》しになる。
しかもしゃあしゃあとして大胆にお下しになる。
好く胸に手を置いて考えて御覧なさいよ。
正直のところ、そんな事をシュウェルトラインと云う男の
死んだ事より確かに知っておいでになったのですか。
ファウスト
ソフィスト奴《め》。どこまでも君は《うそ》衝《つき》だなあ。
メフィストフェレス
そのあなたの腹をもっと深く知らなんだら、
恐れ入るでしょうよ。あしたになると済まし込んで、
心《しん》からお前を愛するなんぞと、
あのグレエテを騙すのでしょうが。
ファウスト
それは心から愛しているのだ。
メフィストフェレス
宜しい。
それから何物にも打ち勝つ、ただ一つの熱情だの、
永遠に渝《かわ》ることのない恋愛だの真実だのと、
いろいろ並べるのも心からでしょうか。
ファウスト
廃《よ》せ。それは心からだ。己が感じて、
その感じ、その胸の悶《もだえ》を
なんとか名づけようとして、詞《ことば》が見附からないで、
そこで心の及ぶ限、宇宙の間を捜し廻った挙句に、
最上級の詞を攫《つか》まえて、
己の体を焚くような情の火を、
無窮極だ、無辺際だ、永遠だと云ったと云って、
それが悪魔もどきの事かい。
メフィストフェレス
それでもわたしのが本当です。
ファウスト
おい。これだけは覚えていろ。
頼むから、己の吭《のど》を少しいたわって貰いたい。
誰と議論をする時でも、ただ一言しか言わずにいれば、
それは勝つに極《き》まっている。
そろそろ行こう。もう己も饒舌《しやべ》り厭《あ》きた。
君のが本当だとも。己は外に為《し》方《かた》がないのだから。
マルガレエテはファウストの肘に手を掛け、マルテはメフィストフェレスに伴はれて、園内を往反す。
マルガレエテ
あなたわたくしをおいたわりになって、ばつを合せて
いらっしゃるかと存じますと、お恥かしゅうございますの。
旅をなさるお方のお癖で、詰まらない事をも
お情《なさけ》に我慢してお聞《きき》遊ばすのですわ。
いろいろな目にお逢になったお方に、詰まらないお話が
お慰《なぐさみ》にならないのは、好く分かっていますわ。
ファウスト
いや。あなたが一目ちょいと見て、一言ちょいと言って下さると、
それが世界のあらゆる知識より面白いのです。
(女の手に接吻す。)
マルガレエテ
あら、我慢してそんな事をなさらないが宜しゅうございますわ。
こんな手にキスを遊ばして。こんな見苦しいがさがさした手に。
それはいたさなくてはならない為《し》事《ごと》が沢山ございますの。
母《か》あ様が随分やかましゅうございますから。
(行き過ぐ。)
マルテ
そしてあなたはこれからも旅ばかりなさいますの。
メフィストフェレス
ええ。どうも職業と義務とに追い廻されるので。
土地によっては立って行くのがつらいのですが、
居据わることが出来ないから為《し》方《かた》がありません。
マルテ
それはお若いうちに、そんなに世界中をあちこちと
所嫌わずにお歩きになるのも好いでしょう。
でもいつかお年がお寄《より》になって、
鰥夫《おとこやもめ》のままで墓へ行く道を足を引き摩って
おいでになるのは、どなただっておいやでしょうに。
メフィストフェレス
そうです。それが向うに見えるから不気味です。
マルテ
ですから早くそのお積《つもり》で御思案をなさらなくては。
(行き過ぐ。)
マルガレエテ
だってお目の前にいなくなれば、お忘《わすれ》なさいますわ。
お世辞を仰ゃり附けていらっしゃるのですもの。
わたくしなんぞより物事のお分かりになるお友達に、
これまで度々お逢《あい》になりましたでしょう。
ファウスト
大《おお》違《ちがい》です。物事が分かっていると云うのが、どうかすると
自《うぬ》惚《ぼれ》と鼻の先思案ですよ。
マルガレエテ
ええ。
ファウスト
実に無邪気と罪のなさとが、自分を知らずに、
自分の神聖な値打を知らずにいるのが不思議です。
一体謙遜だの卑下だのと云うものこそ、博愛な
自然の配《くば》る賜《たまもの》の一番上等なものですのに。
マルガレエテ
本当にあなたがちょいとの間《ま》構まっていて
下さいますと、わたくしは生涯お忘《わすれ》申さないのですが。
ファウスト
あなたは一人でおいでの事が多いのでしょうね。
マルガレエテ
ええ。わたくし共の所は小さい世帯でございますが、
それでもどうにかいたして行かなくてはなりませんの。
女中はいませんでしょう。煮炊やら、お掃除やら、編物やら、
為《し》立《たて》物やらいたします。朝から晩まで駆けて歩きます。
それは母あ様は何につけても
几帳面でございますから。
本当はそんな倹約をいたさなくても済みますの。
余所よりはよっぽど暮らして行き好うございますの。
父がちょいといたした財産と、町はずれに
庭の附いた小さな家を残してくれましたものですから。
でも此頃は大ぶ落著いて暮らす日がございますの。
兄は兵隊に出ますし、
妹は亡くなりますし。
随分わたくしあの赤さんには困りましたわ。
そのくせあの世話ならもう一度いたしたいと思いますの。
本当に可哀い赤さんでしたもの。
ファウスト
あなたに似たら、天使でしたでしょう。
マルガレエテ
わたくしが育てたものですから、好く馴染んでいましたの。
お父《とう》様が亡くなってから生れましたでしょう。
母《か》あ様はとても助からないと云われる程
お弱《よわり》になって休んでいらっしゃいましたの。
ですからおひだちになるのもじりじりでございましてね。
ですから赤さんにお乳をお上げなさることなんぞは
思いも寄らなかったので、
わたくしが一人で牛乳に水を割って
育てましたの。ですからわたくしの子になりましたの。
抱っこして遣ったり、膝に載っけて遣ったりいたすと、
嬉しがって、跳ねて、段々大きくなりましたの。
ファウスト
あなたはきっと人生の最清い幸福を味ったのです。
マルガレエテ
それでも随分つらい時もございましたわ。
夜になりますと、赤さんの寝台を
わたくしの寝台の傍に置いて、ちょいと動くと
目が醒めるようにいたして置きましたの。
お乳を飲ませたり、抱っこして寝たりしましても、
泣き罷《や》まないときは、抱いて起きて、
ゆさぶりながら部屋の中を歩きました。
それでも朝は早く起きて、お洗濯物をいたします。
それから市場へまいったり、煮炊をしたりいたします。
毎日毎日そんな按《あん》排《ばい》でございましたの。
ですからいつも気が勇んではいませんでしたわ。
その代《わり》御飯がおいしくて、夜は好く休まれますのね。
(行き過ぐ。)
マルテ
女は本当にどうして好《い》いか分かりません。
一人が好いと仰ゃる方は手の附けようがないのですもの。
メフィストフェレス
わたしなんぞを改心させるのは、
お前さんのような方《かた》の腕次第です。
マルテ
打ち明けて仰ゃいよ。まだ好い人をお見附なさらないの。
もうどこかの人にお極《きめ》になっているのではありませんか。
メフィストフェレス
諺がありますね。「じまえの竈《かまど》に実のある女房は
金《きん》と真珠の値打がある。」
マルテ
どこかでその気におなりになったでしょうと云うのですよ。
メフィストフェレス
ええ。随分方々で丁寧にしてくれましたよ。
マルテ
でも真面目にお気に入ったのはありませんかと云うのですよ。
メフィストフェレス
婦人方に笑談なんか云っては済みませんとも。
マルテ
あら。お分かりにならないのですね。
メフィストフェレス
どうも申しわけがありません。
兎に角あなたが御親切だと云うことは分かっています。
(行き過ぐ。)
ファウスト
わたしだと云うことが、庭へ這入った時
すぐに分かりましたか。
マルガレエテ
わたくしの俯目になったのがお分かりにならなくって。
ファウスト
そんならこないだお寺からお帰《かえり》なさる時、
御遠慮もしないで、厚かましい事をしたのを、
堪忍して下さるでしょうね。
マルガレエテ
今までついぞない事ですから、びっくりしましたわ。
わたくし悪い評判をせられた事はありませんでしょう。
ですからどこかわたくしの様子に下卑た、不行儀な
処のあるのをお見《み》附《つけ》なされたかと存じて。
どうにでもなる女だと、
すぐお思《おもい》になったようでしたもの。
申してしまいますが、その時はあなたが好いお方《かた》だと
思う心持がし始めたのには、気が附きませんでしたの。
でももっとおこってお上《あげ》申すことの出来なかったのは、
慥《たし》かに悔やしいと存じましたわ。
ファウスト
可哀い事を言うね。
マルガレエテ
ちょっと御免なさいまし。
(アステルの花を摘み、弁を一枚一枚むしる。)
ファウスト
どうするの。花束。
マルガレエテ
いいえ。遊事ですの。
ファウスト
え。
マルガレエテ
厭《いや》。お笑《わらい》あそばすから。
(マルガレエテ弁をむしりつゝつぶやく。)
ファウスト
何を言っているの。
マルガレエテ
(中音にて。)
お好《すき》。お嫌《きらい》。
ファウスト
可哀い顔をしていることね。
マルガレエテ
(依然つぶやく。)
お好。お嫌。お好。お嫌。
(最後の弁をむしりて、さも喜ばしげに。)
お好だわ。
ファウスト
好だとも。その花の占《うらない》を
神々の詞《ことば》だとお思《おもい》。わたしはきっとお前を好《す》いている。
お前分るかい。男に好かれていると云う意味が。
(ファウスト娘の両手を把る。)
マルガレエテ
わたくしなんだか体がぞっとしますわ。
ファウスト
そんなにこわがるのじゃない。このお前を視る目、
お前の手を握る手に、口に言われない事を
言わせておくれ。
わたしは命をお前に遣る。そして
永遠でなくてはならない喜《よろこび》を感じる。永遠だ。
もしこの心持が消える時が来たら、絶望だ。
いや。消える時は無い。終は無い。
(マルガレエテ手を強く締めて、さて振り放し、走り去る。ファウスト立ち止まりて思案すること暫くにして、跡に附き行く。)
マルテ
(登場しつゝ。)
もう日が暮れます。
メフィストフェレス
そうです。わたくし共は行かなくては。
マルテ
も少しお止《とめ》申したいのですが、
何分人気の悪い土地で、
近所のもののする事なす事を見張っているより外、
誰一人自分の用事は
ないかとさえ思われるのでございます。ですからどんなに
気を附けても、兎角彼此申します。
あのお二人は。
メフィストフェレス
あの道を駆けて行きましたよ。
夏の小鳥のように元気な人達だ。
マルテ
あの方のお気に入ったようですね。
メフィストフェレス
娘さんも気があるらしい。世間はそうしたものですよ。
四阿《あずまや》
マルガレエテ飛び込み、扉の背後に躱《かく》れ、右の示指の尖を脣に当て、隙間より外を窺ふ。
マルガレエテ
いらしった。
ファウスト登場。
ファウスト
横着ものだね。わたしを揶揄《からか》うなんて。
そら攫《つか》まえたぞ。
(接吻す。)
マルガレエテ
(抱き着き、接吻し返す。)
あなた。心《しん》から可哀くてよ。
メフィストフェレス戸を敲《たた》く。
ファウスト
(足踏す。)
誰だ。
メフィストフェレス
お連《つれ》です。
ファウスト
畜生。
メフィストフェレス
そろそろお切《きり》上《あげ》なさらなくては。
マルテ登場。
マルテ
本当に遅くなりますよ。
ファウスト
送って行ってはいけないかい。
マルガレエテ
それこそ母《か》あ様が。さようなら。
ファウスト
行かなくてはならんかなあ。
そんならこれで。
マルテ
御機嫌好う。
マルガレエテ
こん度はお早くね。
(ファウスト、メフィストフェレス退場。)
まあ。ああ云う男の方と云うものは
いろいろな事にお気が附くこと。
わたしぼんやりして立っていて伺って、
何を仰ゃっても、はいはいと云うきりだわ。
わたし、まあ、なんと云う馬鹿な子だろ。
わたしのどこがお気に入るのかしら。
(退場。)
森と洞
ファウスト一人。
ファウスト
崇高なる地の精。お前は己に授けた。己の求めたものを
皆授けた。《ほのお》の中でお前の顔を
己に向けてくれたのも、徒《いたずら》事《ごと》ではなかった。
美しい自然を領地として己にくれた。
それを感じ、受用する力をくれた。ただ冷かに
境に対して驚歎の目を《みは》ることを
許してくれたばかりでなく、友達の胸のように
自然の深い胸を覗いて見させてくれた。
お前は活動しているものの列《れつ》を、己の前を
連れて通って、森や虚空や水に棲む
兄弟どもを己に引き合せてくれた。
それから暴風《あらし》が森をざわつかせ、きしめかして、
折れた樅の大木が隣の梢、
隣の枝に傍杖を食《く》わせて落ち、
その音が鈍く、うつろに丘陵に谺響《こだま》する時、
お前は己を静かな洞穴に連れ込んで、己に己を
自ら省みさせた。その時己の胸の底の
秘密な、深い奇蹟が暴露する。
そして己の目の前に清い月影が己を 宥《なだ》めるように
差し升《のぼ》って来る時、岩の壁から、
湿った草《くさ》叢《むら》から、前世界の
白《しろ》金《かね》の形等が浮び出て、
己の観念の辛辣な興味を柔らげる。
ああ。人間には一つも全き物の与えられぬことを
己は今感ずる。お前は己を神々に
近く、近くするこの喜《よろこび》を授けると同時に、
己に道《みち》連《づれ》をくれた。それがもう手放されぬ
道連で、そいつが冷刻に、不遠慮に
己を自ら陋《いや》しく思わせ、切角お前のくれた物を、
嘘《ふ》き掛けたただの一息で、無《む》にするのを忍ばねばならぬ。
そいつが己の胸に、いつかあの鏡の姿を見た時から、
烈しい火を忙しげに吹き起した。
そこで己は欲望から受用へよろめいて行って、
受用の央《なかば》にまた欲望にあこがれるのだ。
メフィストフェレス登場。
メフィストフェレス
もう今までの生活は此位で沢山でしょう。
そう長引いてはあなたに面白いはずがありませんから。
それは一度はためして見るのも好いのです。
これからはまた何か新しい事を始めなくては。
ファウスト
ふん。己の気分の好いのに、来て己を責めるよりは、
君にだってもっと沢山用事があるだろうが。
メフィストフェレス
いいえ。御休息のお邪魔はしません。
そんな事をわたしに真面目で言っては困ります。
あなたのような荒々しい、不愛想な、気違染みた
友達は無くても惜しくはありません。
昼間中手一ぱいの用がある。
何をして好《い》いか廃《よ》して好いか、
いつも顔を見ていても知れないのですから。
ファウスト
それが己に物を言う、丁度好い調子だろう。己を
退屈させて、お負にそれを難《あり》有《がた》がらせようと云うのか。
メフィストフェレス
わたしがいなかったら、あなたのような
この世界の人間はどんな生活をしたのですか。
人間の想像のしどろもどろを
わたしが当分起らぬようにして上げた。
それにわたしがいなかったら、あなたはもう
疾《と》っくにこの地球にお暇乞をしていなさる。
なんのためにあなたは木《みみ》兎《ずく》のように
洞穴や岩の隙間にもぐっているのです。
なぜ陰気な苔や雫の垂る石に附いた餌《えさ》を
蟾《ひき》蜍《かえる》のように啜《すす》っているのです。
結構な、甘ったるい暇の潰しようだ。
あなたの体からはまだ学者先生が抜けませんね。
ファウスト
うん。こうして人里離れた所に来ていると、
生活の力が養われるが、君には分かるまい。
もしそれが分かっていたら、そんな幸福を己に享けさせまいと、
悪魔根性を出して邪魔をするだろう。
メフィストフェレス
現世以上の快楽ですね。
闇と露との間に、山深く寝て、
天地を好《い》い気持に懐に抱いて、
自分を神のようにふくらませて、
推思の努力で大地の髄を掻き撈《と》り、
六日の神《かみ》業《わざ》を自分の胸に体験し、
傲《おご》る力を感じつつ、何やら知らぬ物を味い、
時としてはまた溢れる愛を万物に及ぼし、
下界の人の子たる処が消えて無くなって、
そこでその高尚な、理窟を離れた観察の尻を、
一寸口では申し兼ねるが、
(猥《わい》褻《せつ》なる身振。)
これで結ぼうと云うのですね。
ファウスト
ふん。怪しからん。
メフィストフェレス
お気に召しませんかな。
御上品に「怪しからん」呼《よば》わりをなさるが宜しい。
潔白な胸の棄て難いものも、
潔白な耳に聞せてはならないのですから。
手短に申せば、折々は自ら欺く快さを
お味いなさるのも妨なしです。
だが長くは我慢が出来ますまいよ。
もう大ぶお疲《つかれ》が見えている。
これがもっと続くと、陽気にお気が狂うか、
陰気に臆病になってお果《はて》になる。
もう沢山だ。あの子は内にすくんでいて、
なんでもかでも狭苦しく物哀しく見ていますよ。
あなたの事がどうしても忘れられない。
あなたが無法に可哀いのですね。
あなたの烈しい恋愛が、最初雪《ゆき》解《どけ》のした跡で、
小《こ》川《がわ》が溢れるように溢れて、そいつをあなたは
あの子の胸に流し込んだ。
そこであなたの川は浅くなったのですね。
わたくし共の考では、檀那様が森の中の
玉座に据わっておいでになるより、
あの赤ん坊のような好い子に、惚れてくれた
御褒美をお遣《やり》になるのが宜しいようだ。
あの子は溜まらない程日が長いと見えて、
窓に立って、煤けた町の廓の上を、
雲の飛ぶのを見ています。
「わしが小鳥であったなら。」こんな小歌を
昼はひねもす夜《よ》はよもすがら歌っています。
どうかするとはしゃいでいる。大抵は萎《しお》れている。
ひどく泣き腫れているかと思えば、
また諦めているらしい時もあります。
だが思っていることはのべつですよ。
ファウスト
蛇奴が。蛇奴が。
メフィストフェレス
どうです。生捕られましたか
ファウスト
悪党。もうここにいてくれるな。
そしてあの美しい娘の名を言ってくれるな。
半分気の狂いそうになっている己の心の中に、
あの娘の体を慕う欲望を起させては困るからな。
メフィストフェレス
どうしようと云うのです。娘はあなたが逃げたと
思っている。実際半分逃げ掛かっているのですね。
ファウスト
いや。実は己はやはりあいつの傍にいる。よしや、もっと
遠く離れていたと云って、己は忘れはせん、棄てはせん。
己はあいつの脣が触れるかと思うと、
主《しゆ》の体さえ妬ましくなるのだ。
メフィストフェレス
そうでしょうとも。薔薇の下で草を食っている
鹿の《ふたご》と云う奴には、わたしでさえ気が揉めた。
ファウスト
もうどこかへ行け。口入屋奴。
メフィストフェレス
沢山悪口をなさい。わたしは可《お》笑《か》しい。
男と女とを拵えた神様も、
自分がすぐに取《とり》持《もち》をして見て、
こんな好い為《し》事《ごと》はないと思ったのです。
まあ、行ってお遣《やり》なさい。悲惨極《きわ》まっています。
何も死ぬる所へおいでなさいとは云わない。
好《い》い人の閨《ねや》へおいでなさいと云うのですよ。
ファウスト
それはあれを抱いているのは、天国にいるように嬉しいがな、
あいつの胸で温まっている間でも、
あいつの苦労を察して遣らずにはいられぬ。
己は亡命者ではないか。無宿ものでは。
己は当《あて》もなく休まずに生きている人非人だ。
譬《たと》えば好《す》き好《この》んで烈しく谷底へ落ちようと、
岩から岩を伝って下《くだ》る瀑《た》布《き》の水のようなものだ。
それにあの子はどうだ。子供らしい、ぼうっとした
心持で、脇へ避けて、アルピの野の小家に住むように、
家の中でする程の事は、
皆小さい天地の間に限られている。
それだのに、神に憎まれた己は、
岩々に打ち当って、
それを粉な粉なに砕いても
まだ厭《あ》き足らずに、
あの娘を、あの娘の平和を埋めねばならんのか。
地獄奴。これ程の犠牲が是非いるのか。
悪魔奴。どうぞ己のこの煩悶の期間を縮めてくれ。
どうせこうなると云う事を、すぐさせてくれ。
あの娘の運命が己の頭に落ち掛かって、
己を引《ひ》っ浚《さら》って底の深みに落ちても好い。
メフィストフェレス
また煮え立って、燃え上がって来ましたな。
早く行って賺《すか》してお遣《やり》なさい。馬鹿な先生だ。
兎角小さい頭だと云うと、一寸出口が知れないと、
すぐに死ぬることを考えたがる。
なんでも我慢し通す奴が万歳です。
あなたなんぞはもう大ぶ悪魔じみて来ていなさる。
絶望のために狼狽している悪魔程
不似合なものは、先ず世界にありますまいぜ。
マルガレエテの部屋
マルガレエテ一人《いと》車《ぐるま》の傍に坐しゐる。
マルガレエテ
心の落《おち》著《つき》無くなりて、
胸苦しくぞなりにける。
尋ぬとも、その落著は
つひに帰らじ、とこしへに。
彼人まさねば、いづかたも
冢《つか》穴《あな》にしも異ならず。
苦《にが》きを嘗《な》むる所とぞ
世の中は皆なりにける。
物狂ほしくもなれるかな、
あはれわがこの頭《こうべ》。
ちぎれちぎれになりしかな、
あはれわがこの心。
心の落著なくなりて、
胸苦しくぞなりにける。
尋ぬとも、その落著は
つひに帰らじ、とこしへに。
小窓よりわが見出だすは、
彼人来《く》やと待つばかり。
門の外《と》へわが出で行くは、
彼人迎へに行くばかり。
ををしき彼人の歩みざま。
けだかき彼人の姿。
その脣の微笑。
そのまなざしの力。
その物語の
妙《たえ》なる流《ながれ》。
我手取りますそのみ手よ。
さて、あはれ、その口《くち》附《づけ》よ。
心の落著なくなりて、
胸苦しくぞなりにける。
尋ぬとも、その落著は
つひに帰らじ、とこしへに。
胸の願は彼人に
そはんとおもふ外ぞなき。
わが腕《かいな》もて彼人を
捉へまつり、止めまつらばや。
さて心ゆくまで彼人に
口《くち》附《づけ》しまつらばや。
よしやわが身は彼人に
口附せられて消えぬとも。
マルテの家の園
マルガレエテとファウスト登場。
マルガレエテ
あなた、お誓《ちかい》なすって下さいましな。
ファウスト
うん。なんでも誓う。
マルガレエテ
あのお宗旨の事はどう思っていらっしゃるの。
あなたは大層お優しい方のようですが、
お宗旨の事は格別に思っていらっしゃらないようね。
ファウスト
そんな事は措いてくれ。己がお前を好いていることは
分かるだろう。己は好いている人達のためには血も肉も
惜まない。またその人達の感情や宗教を奪おうとはしない。
マルガレエテ
あなたそれは悪いわ。お信じなさらなくては。
ファウスト
信ぜなくてはならんかなあ。
マルガレエテ
ほんにどうにかしてお上《あげ》申したいわ。
あなた秘蹟だってお敬《うやまい》なさらないでしょう。
ファウスト
敬っている。
マルガレエテ
でも心《しん》から願いたいと思召さないでしょう。
ミサや懺《ざん》悔《げ》にも長らくお出なさらないでしょう。
神様をお信じなすって。
ファウスト
ふん。一体誰でも「己は神を信ずる」と
云うことが出来ると思うかい。
司祭にでも聖人にでもそんな風に問うて見るが好い。
その返事はただ問うた人を
嘲るようにしか聞えはしないのだ。
マルガレエテ
ではお信じなさらないの。
ファウスト
おい。はき違《ちがえ》をするのじゃないぞ。
一体神の御《み》名《な》を口に唱えて、
「己は神を信ずる」と
告白することの出来るものがあろうか。
また自分がそう感じて、
「己は信ぜない」と云うことを
敢てすることの出来るものがあろうか。
万物を包んでいるもの、
万物を保《たも》たせて行くものであって見れば、
お前をも、己をも、自身をも
包んでいて、保たせて行くだろうじゃないか。
天はあんなに上の方で中高になっているじゃないか。
地はこんなに下の方で堅固になっているじゃないか。
そして永遠な星は優しい目をして
升《のぼ》って来るではないか。
こうして己とお前と目を見合せていると、
あらゆる物がお前の頭へ、
お前の胸へと迫って来て、
永遠な秘密になって、見えないように
見えるようにお前の傍に漂っているではないか。
それをお前の胸へ、胸はどれ程広くても一ぱいに
なる程入れて、その感じで全き祝福を得た時、
それを幸福だとも、情だとも、愛だとも、神だとも、
お前の勝手に名づけるが好い。
己はそれに附ける名を知らない。
感じが総てだ。
名は天の火を罩《こ》む
霞と声とに過ぎない。
マルガレエテ
あなたの仰ゃる事は皆美しい、結構な事で、
牧師様の仰ゃるのも大抵同じようですが、
お詞《ことば》だけが少し違いますのね。
ファウスト
それはあらゆる場所で
あらゆる心の人が天の日の光を享けて、
それぞれの持前の詞で言うのだ。
己だって己の詞で言って悪いというはずがない。
マルガレエテ
それはただ伺っていますと、かなり御《ご》尤《もつとも》なようですが、
やっぱりどこか間違っていますのね。
あなたクリスト教ではいらっしゃらないのですもの。
ファウスト
そんな事を。
マルガレエテ
あんなお友達のあるのが、
わたくし疾《と》うから気になっていましたわ。
ファウスト
どうして。
マルガレエテ
あのいつも御一しょにいらっしゃる方《かた》ね、
あの方がわたくし心《しん》から厭《いや》でございますの。
あの方の厭らしい顔を見た時ほど、
胸を刺されるように思いましたことは、
わたくし生れてからありませんでしたの。
ファウスト
好い子だから、そんなにあいつをこわがるなよ。
マルガレエテ
なんだかあの方がいらっしゃると血が落ち着きませんの。
一体わたくしどなたをだって悪くは思わないのですが、
あなたの事をおなつかしく思いますと一しょに、
あの方がなんだか不気味でなりませんの。
それに横著な方かとも存じますの。
もし間違ったら、済まないのですけれど。
ファウスト
やはり世間にはあんな変物もいなくてはならないて。
マルガレエテ
わたくしあんな方《かた》と一しょにはいたくないのよ。
いつも戸口から這入っていらっしゃって、
なんだか人を馬鹿にしたような顔をなすって、
それに少しおこっていらっしゃるようね。
まあ、人なんぞはどうなっても好《い》いと云う風ね。
誰をも可哀がりたくなんざないと云うことが
お顔に書いてありますようね。
わたくしあなたにお縋《すがり》申していると、気楽な、
体をお任《まか》せ申しているような温い心持なのに、
あの方がいらっしゃると吭《のど》を締められるようですの。
ファウスト
ふん。不思議に察しの好《い》い子だなあ。
マルガレエテ
そしてそう云う感じに負けてしまいますと、
あなたと二人でいる所へ、あの方が来たばっかりで、
もうあなたとの中が元のようでないように思われますの。
それにあの方のいらっしゃる所では、お祈《いのり》が丸で出来ないので、
わたくし気になってなりませんの。
あなただってそんなお心持がなさるでしょう。
ファウスト
詰まり性《しよう》が合わないのだなあ。
マルガレエテ
もうわたくし行かなくちゃ。
ファウスト
ああ。ただの一時間も
落ち著いてお前と一しょになっていて、
胸と胸、心と心の通うようには出来ないのかなあ。
マルガレエテ
ええ。それはわたくし一人で休むのですと、
今晩錠を掛けないで置くのですが、
母《か》あ様がすぐ目を醒ますのですもの。
ひょっと母《か》あ様に見附かろうもんなら、
わたくしその場で死んでしまってよ。
ファウスト
それか。それは造《ぞう》做《さ》もない事だ。
ここに瓶《びん》があるがな、この薬を三滴
不断飲みなさる物の中に入れれば、
好い心持に寐て、何も分からなくなるのだ。
マルガレエテ
それはあなたのためですもの、なんでもしてよ。
毒になりゃしませんでしょうね。
ファウスト
毒になるようなものなら、己がしろと云うものか。
マルガレエテ
わたくしなぜだかあなたのお顔を見ていると、
なんでも仰ゃる通《とおり》にしなくてはならなくなってよ。
わたくしもうあなたのためにいろんな事をしてしまって、
此上してお上げ申すことはないかと思うわ。
(退場。)
メフィストフェレス登場。
メフィストフェレス
餓鬼奴。行ってしまいましたね。
ファウスト
また立聞をしていたのか。
メフィストフェレス
ええ。すっかり聞いていましたよ。
先生箇条立《だて》をした試験をお受《うけ》になりましたね。
どうです、跡のお心持は。
一体女と云う奴は、相手が昔流に信心深くて
素直だかどうだかと、気にして穿《せん》鑿《さく》しますよ。
宗教にへこむ奴なら、自分の言いなりにもなると思って。
ファウスト
ふん。君には分からないのだ。
これでなくては祝福を受けられないと云う、
自分だけの信仰をたっぷり持っている、
あの可哀らしい、誠実な女心に、
自分の一番大切だと思う男が失われた子になって
いはせぬかと、ひどく苦労をしているのじゃないか。
メフィストフェレス
いやはや。出世間で、しかも世間で、色気のある
壻様には困る。娘っ子が手の平で円めますよ。
ファウスト
糞と火とから生れた畸形《かたわ》物《もの》のくせに。
メフィストフェレス
それに、あいつ奴、いやに人相に精しいと来ている。
己がいると、なんだか変な気持がする。
己のこの面《つら》があいつにはある秘密の意味を語る。
あいつ奴、己が少くとも天才で、
事によったら悪魔だと、感附いていやがる。
いよいよ今晩ですね。
ファウスト
大きにお世話だ。
メフィストフェレス
いいえ。こっちにもそれが嬉しいのですからね。
井の端
水瓶を持ちたるグレエトヘン(マルガレエテ)とリイスヘンと。
リイスヘン
あなたバルバラさんの事を聞いて。
グレエトヘン
知らなくってよ。人の出る所へ行かないのですもの。
リイスヘン
本当なの。ジビルレさんがきょうそう云ってよ。
とうとう騙されちまったのだってねえ。
上品振った挙句だわ。
グレエトヘン
どうしたと云うの。
リイスヘン
評判だわ。
飲《のみ》食《くい》をするにも二人養うようになったのだとさ。
グレエトヘン
まあ。
リイスヘン
好《い》い気味だわ。
随分長くあの男に食《く》っ附いていたわねえ。
やれ散歩に連れて行く、
そりゃ村の踊場へ連れて行くと云う風で、
どこでも一番の女だと見せ附けて、
葡萄酒やパテを御馳走してねえ。
だもんだから自《うぬ》惚《ぼ》れて好《い》い女の気になっていたわ。
男に物なんか貰うのを
恥かしいとは思わない程、根性が腐っていたのだわ。
舐《な》め附いたり吸い附いたりしてさ。
いつの間にか生娘ではなくなっていたのね。
グレエトヘン
可哀そうねえ。
リイスヘン
あなたなんかそう思って。
わたしなんか糸《いと》取《とり》が忙しくって、
おっ母《か》さんが夜外へ出さないのに、
好《い》い人の所へ降りて行って、立話をしていたのね。
暗い廊下に立ったり、戸口のベンチに
掛けたりしていて、時が立っても平気だったわ。
その代《かわり》今へこたれて、罪の襦《じゆ》袢《ばん》を著て、
お寺へ行ってあやまるが好いわ。
グレエトヘン
でもきっとあの人がお上さんに持つでしょう。
リイスヘン
そんな事をすれば馬鹿よ。気の利いた
男だもの。余所でも楽《らく》に遊べるわ。
もう行ってしまったって。
グレエトヘン
まあ、ひどい事ね。
リイスヘン
もしお上さんになったら、ひどい目に逢うわ。
若い衆達は髪の青葉を引っ手繰るし、
わたし達は門口へ切《きり》藁《わら》を蒔《ま》いて遣るわ。
(退場。)
グレエトヘン
(家に帰りつゝ。)
今までは余所の娘が間違でもすると、
わたしもどんなにか元気好くけなしただろう。
余所の人のしたと云う罪咎《とが》を責めるには、
わたしもどんなにか詞《ことば》数《かず》が多かっただろう。
人のした事が黒く見える。その黒さが
足りないので、一層黒く塗ろうとする。
そして自分を祝福して、えらい人のように思う。
今は自分も犯しているのに。
だけれど、だけれど、それまでになる道筋は、
まあ、あんなに好かったのに、あんなに美しかったのに。
外廓の内側に沿える巷
石垣の中に作り込めたる龕《がん》に、受苦聖母の祈願像あり。その前に花瓶。グレエトヘンそれに新なる花を挿す。
グレエトヘン
痛《いたみ》おおきマリア様
どうぞお恵深く、お顔をこちらへお向《むけ》遊ばして、
わたくしの悩《なやみ》を御覧なされて下さいまし。
お胸を刃に貫かれておいでなされ、
ちぢの悲《かなしみ》をお覚《おぼえ》あそばしながら、
御《おん》愛《まな》子《ご》の死を見そなわしていらっしゃいます。
天にいます父をお見《み》上《あげ》なされて、
御《おん》子《こ》と御身との悩のために、
歎《なげき》のみ声を空へお送《おくり》なさいます。
わたくしの骨々に痛《いたみ》の
いかに徹《とお》るかを、
誰が覚えてくれましょう。
哀《あわれ》な胸が何を案じ、何のためにわななき、
何をほしがっておりますか、
それを御承知なさるのはあなたばかりでございます。
どこへまいりましても、
胸のここがどんなにか
せつなく、せつなく、せつのうございましょう。
人目がないと思う度に、
胸が裂けるかと思う程、
泣いて、泣いて、泣き通します。
さし上げまするこの花を
けさわたくしが折った時、
窓の前の植木鉢が
わたくしの涙で濡れました。
わたくしの部屋の内へ
朝日が明るくさし込みます時、
わたくしはもう床の上で
悩に沈んでおりまする。
どうぞわたくしが恥と死とを逃れますように。
痛おおきマリア様、
どうぞお恵深く、お顔をこちらへお向遊ばして、
わたくしの悩を御覧なされて下さいまし。
グレエトヘンが家の門前の街。
グレエトヘンの同胞兵卒ワレンチン登場。
ワレンチン
誰でも兎角自慢をしたがる
酒の座《ざ》鋪《しき》に己がいるとき、
友達どもが声高に
町の娘の噂をして、
その褒詞を肴にして飲んでいると、
己は気楽に据わっていて、
頬杖を衝いて、
笑って鬚を撫でながら、
みんなの詞《ことば》を聞いていて、
先ず杯になみなみと注がせて、
それからこう云ったものだ。「それはそんな娘もあろう。
だがな、国中捜して歩いたって、
内の可哀いグレエテルのような奴が、
あの妹のお給仕でも出来る奴がいるかい。」
声が掛かる。コップが鳴る。一座がざわつく。
「そうだ。あれは女性の飾だ」と、
声を揃えて身方がどなる。
褒めた奴等が皆黙ったものだ。
それがどうだ。頭の髪を掻きむしっても、
壁に這い登っても追っ附かない。
どの恥知らずでも、鼻に皺を寄せたり、
当《あて》擦《こすり》を言ったりして、己を馬鹿にしやがるのだ。
己は筋の悪い借金でもある奴のように、小さくなって
据わっていて、人の詞の端々に冷たい汗を掻かせられる。
片っ端からそいつらをなぐってでも遣りたいが、
どうも《うそ》衝《つき》だとだけは云われない。
や。遣って来るのは、這い寄って来やがるのはなんだ。
この目がどうかしていなけりゃあ、あいつ等は二人連だな。
あいつがそなら、引っ攫《つか》んで、
この場を生かしては逃さないぞ。
ファウストとメフィストフェレスと登場。
ファウスト
丁度あの寺の坊主の休息所の窓から、
常燈明の火がさしていて、
それが窓を離れるに連れて段々微かになって、
闇が四方から迫って来るように、
丁度あんな工合に、己の胸は闇に鎖されている。
メフィストフェレス
所がわたしの心持は、あの火《ひの》見《み》の梯《はしご》の下から、
そっと家の壁に附いて忍んで行く、
あの痩猫のような心持ですね。
盗《どろ》坊《ぼう》根性がちょっぴりと、助平根性がちょっぴりと
あるにはあるが、先ず大体頗《すこぶ》る道徳的ですね。
なんだかこう節々に、結構な
ワルプルギスの夜の楽《たのしみ》が染み渡るようだ。
もうあさっての晩がそれなのだ。
兎に角寐ずにいる甲斐のある晩ですからね。
ファウスト
あの遠い所に火が燃えているなあ。あの下で
例の宝がそろそろ地の底から迫り上げて来るのかい。
メフィストフェレス
ええ。もう遠からず壺をお取《とり》上《あげ》なさる
お喜《よろこび》の日がまいります。
こないだちょっと覗いて見たら、ボヘミアの紋の
獅子の附いた、立派な金貨が這入っていました。
ファウスト
可哀い奴の支度にいる
指環とか髪飾とか云う物はないのかい。
メフィストフェレス
そうですね。なんだかこう真珠を繋いだ
紐のような物が見えましたっけ。
ファウスト
何かそんな物がなくては困るよ。
手ぶらで行くのは苦になるからなあ。
メフィストフェレス
そうでしょう。只《ただ》文《もん》目《め》で面白い目を見て、
あなたが厭《いや》な心持になっては気の毒だ。
空に星の一ぱい照っている、今夜のような晩だから、
わたしが一つ真の芸術らしい処を聞せて上げましょう。
わたしは女に道徳的な文句を歌って聞せて、
あべこべに迷わせて遣るのですよ。
(キタラの伴奏にて歌ふ。)
夜の明け掛かる今時分
可哀お方《かた》の門口で、
カタリナ、お前は
何していやる。
そりゃ廃《よ》すが好《よ》い。
門《かど》を入る時ゃ
娘で這入る。
娘では出て来ないぞえ。
気をお附《つけ》。
済んでしまえば
おさらばよ。
気の毒な、気の毒な娘達。
自分の体が大事なら、
花盗人に
油断すな、
指環を嵌《は》めて貰うまで。
ワレンチン
(進み出づ。)
こら。誰をおびき出すのだ。怪しからん。
咀《のろ》われた、ハメルンもどきの鼠《ねずみ》捕《とり》奴。
その鳴物を先へこわして、
跡から弾《ひき》手《て》にお見まい申すぞ。
メフィストフェレス
しまった。キタラは二つになった。
ワレンチン
こん度は頭を割って遣る。
メフィストフェレス
(ファウストに。)
先生。尻《しり》籠《ごみ》は御無用だ。しっかりなさい。
わたしが遣って見せるから、ぴったり附いておいでなさい。
その塵《ちり》払《はらい》を引っこ抜いた。
それお突《つき》だ。受けることはわたしが受ける。
ワレンチン
これでも受けるか。
メフィストフェレス
受けないでどうする。
ワレンチン
これもか。
メフィストフェレス
こうだ。
ワレンチン
や。相手は悪魔かしら。
こりゃどうだ。もう手が痺《しび》れた。
メフィストフェレス
(ファウストに。)
お突だ。
ワレンチン
参った。
(倒る。)
メフィストフェレス
これで野郎おとなしくなりました。
ところでもう行かなくては。早速消えてしまわないと、
今におそろしく騒ぎ立てますからね。
わたしは警察をごまかすことは上手だが、
命を取られる裁判に引き出されるのは嫌《きらい》です。
マルテ
(窓より。)
大変です。皆さん。
グレエトヘン
どなたか明《あかり》を。
マルテ
(同上。)
大声で喧嘩をして打《ぶ》ったり切ったりしています。
そこに一人は死んでいらあ。
マルテ
(門より出でつゝ。)
殺した人は逃げましたの。
グレエトヘン
(出でつゝ。)
殺されたのはどんな人。
お前のおっ母《か》あの息子よ。
グレエトヘン
まあ。わたしどうしよう。
ワレンチン
おい。己は死ぬるのだ。口に言うのは一口で、
実際遣るのは猶《なお》早い。
おい。女子達。そこに立っていて泣いたりわめいたりするな。
こっちへ来て、己の言うことを聞いてくれ。
(一同ワレンチンを取り巻く。)
おい。グレエトヘン。お前はまだねんねいで、
好く物事が分からない。
それでまずい事をするのだ。
己はほんの内《ない》証《しよ》でお前に言うのだがな、
兎に角お前はばいただよ。
それでまた丁度好いのだ。
グレエトヘン
まあ、兄《に》いさんが。なんでわたくしにそんな事を。
ワレンチン
よまい言を言うのは廃《よ》せよ。
出来た事は為《し》方《かた》がない。
これから先《さき》もなるようになるだろうよ。
最初は一人《ひとり》とこっそりする。
間もなく相手の数が殖える。
もう一ダアスとなって見ると、
お前は町《まち》中《じゆう》の慰物だ。
それから恥の種《た》子《ね》を宿す。
人に隠してこっそり産んで、
頭の上からすっぽりと
闇の衣《ころも》を被《かぶ》せてしまう。
悪くすると殺して遣りたいとさえ思うのだ。
それが育って大きくなると、
昼日中にも外へ出るが、
格別立派にはなっていない。
そのうち顔も醜くなるが、なればなる程
厚かましく、人中に出るようになる。
それ、ばいたが来たから避《よ》けろよと、
時《じ》疫《えき》で死んだ死骸のように、
真面目な人が皆避けるのが、
もう己の目には見えるようだ。
人が顔をじっと見ると
お前の胸がびくびくする。
金《きん》の鎖は掛けられない。お寺へ行っても、
贄《にえ》卓《づくえ》の前に立つことは出来ない。
美しいレエスの領飾をして、
踊場で楽むことも出来ない。
乞食や片羽と一しょになって、
暗い歎《なげき》の蔭に隠れて、
よしや神様はお免《ゆるし》なさるとしても、
この世界では咀《のろ》われているのだ。
マルテ
お前さん。自分の霊をお救《すくい》下さるように願いなさい。
そんな悪口などを跡に遺さずに。
ワレンチン
へん。恥知らずの口入婆々あ奴。
己はその萎びた体に攫み附いて遣りたいのだぞ。
そうすりゃあ、己の罪滅しが
たっぷり出来るわけだがなあ。
グレエトヘン
まあ、兄《に》いさん。お前はさぞせつない事で。
ワレンチン
好《い》いよ。泣いてなんかくれなくても好《い》い。
お前が名誉を棄てた時、己のこの胸は
一番痛手を負ったのだ。
己はこれでも軍人で、立派に死んで
天へ行くのだ。
(死す。)
寺院
勤行、オルガン、唱歌。
多勢の中にグレエトヘン。その背後に悪霊。
悪霊
どうだ。グレエトヘン。
お前がまだ極無邪気で、
あの贄《にえ》卓《づくえ》の前に出て、
半分は子供の戯、
半分は心の信仰から、
古びた本を繰り開《あ》けて、縺《もつ》れる舌で
讃美歌を歌った時はどうだった。
グレエトヘン。
お前の頭はどうなっている。
お前の胸に隠しているのは
なんと云う悪《あく》業《ごう》だ。
お前の咎《とが》で、長い、長い苦艱を受けに、
死んで行かれた母親の霊のために祈るのか。
お前の家の門の閾は誰の血に《けがさ》れたか。
それからお前の胸の下で
蠢《うごめ》き出して、ここにいるぞと
未来を思い遣り顔に自ら悩み、
お前をも悩ませる物があるではないか。
グレエトヘン
ああ、せつない。ああ、せつない。
心の中を往ったり来たりして
わたしを責める、
この物思は忘れられぬか。
合唱者
ジエス・イレエ・ジエス・イルラ・
(怒之日。彼)
ソルウェット・セエクルム・イン・ファウィルラ。
(渙二散世界一作二灰燼一之日。)
(オルガンの響。)
悪霊
畏《おそれ》がお前を襲う。
金《きん》笛《てき》が鳴る。
奥《おく》津《つ》城《き》が皆震う。
そしてお前の心の臓は
灰の眠から
《ほのお》の悩《なやみ》へ
再び造り成されて、
慄《ふるい》に起つことであろう。
グレエトヘン
わたしはここにいたくない。
あのオルガンの音がわたしの息を
詰まらせるようで、
あの歌の声がわたしの心を
底まで解かしてしまうような。
合唱者
ユウデックス・エルゴ・クム・セデビット、
(判官既坐。則)
クウィットクウィット・ラテット・アドパアレビット、
(一切隠匿。悉《しつ》皆《かい》審明。)
ニル・イヌルツム・レマネビット。
(無下一事不二報復 一。 而遺存者 上。)
グレエトヘン
ああ。身が締め附けられるような。
石《いし》壁《かべ》の柱が
四方から寄って来て、
天井が
上から圧さえ附けるような。ああ。息が。
悪霊
身を隠せ。罪や辱は
隠し果《おお》せられるものではない。
息が詰まるか。目が昏《くら》むか。
気の毒なやつめ。
合唱者
クウィット・ズム・ミゼエル・ツンク・ジクツルス。
(爾時陋者我。欲二何言一。)
クウェム・パトロオヌム・ロガツルス。
(爾時我尋二求何庇保者一。)
クム・ウィックス・ユスツス・シット・セクルス。
(何則正者猶且不二自安二也。)
悪霊
聖者達はお前に
お顔をお背《そむけ》なさるぞ。
浄い人はお前の手を握ろうとして
身《み》慄《ぶるい》をするぞ。
気の毒な。
合唱者
クム・ウィックス・ユスツス・シット・セクルス。
グレエトヘン
お隣の方《かた》。あなたの香水の瓶をどうぞ。
(昏倒す。)
ワルプルギスの夜
ハルツ山中。シイルケ、エエレンド附近。
ファウスト、メフィストフェレス登場。
メフィストフェレス
どうです。箒の柄どもが欲しくなりはしませんか。
わたしも極丈夫な山《や》羊《ぎ》の牡《おす》が一匹欲しくなりました。
この道をまだよほど歩かなくてはなりませんからな。
ファウスト
己は足の草臥《くたび》れぬ間は、
この節《ふし》榑《くれ》立《だ》った杖一本で沢山だ。
道を縮めたって、なんになるものか。
谷合の曲りくねった道を辿って来て、
不断の泉の迸《ほとばし》り出る
この岩に攀《よ》じ登るなんぞが、
こう云う道を歩く人には、薬味のように利くのだ。
もう春が白樺の梢に色糸を縒《よ》り掛けている。
樅でさえ春の来たのに気が附いたらしい。
己達のこの手足にも利目が見えて来そうなものだが。
メフィストフェレス
わたしなんぞはちっとも感じませんなあ。
この体はまだ冬らしい心持がしています。
わたしの歩く所には雪や氷があれば好いと思うのです。
どうです。あの光の薄い、欠けた、
赤い月が升《のぼ》って来て、怪しげな道の
照しようをするので、一足毎に
木や石に躓きそうでなりません。
お待《まち》なさいよ。ちょっと鬼火を一つ傭いますから。
旨く燃えている奴が、あそこに一ついます。
こら。友達。己の方へ来て貰おうか。
何も無駄に燃えていなくったって好いじゃないか。
どうだい。頼むから、あっちへ登る案内をしないか。
鬼火
檀那が仰ゃるのですから、ひょこひょこする性分を
なるたけ直して遣って見ましょう。
でも稲妻形《がた》に歩く癖は直されますまい。
メフィストフェレス
いやはや。それは人間の真似の積《つもり》でしているのだな。
一つ奮発して真っ直に行って貰おう。
そうしないと、その命の火を吹き消して遣るぞ。
鬼火
大ぶ檀那風《かぜ》をお吹かせなさいますな。
それは仰ゃるとおりにいたして見ますが、
一寸お断申して置かなくては。何分きょうは山《やま》中《じゆう》が
気の違ったようになっているのに、鬼火の御案内では、
少しの事は大目に見て戴かなくてはなりますまい。
ファウスト、メフィストフェレス、鬼火
(交互に歌ふ歌。)
夢の中、禁《ま》厭《じ》の境に
われ等入りぬと覚ゆ。
善く導きて、名をな墜《おと》しそ。
さらばこの広き荒《あら》野《の》を、
われ等疾《と》く行き過ぎなん。
森の木々の列《つら》なせるが
うしろざまに走り過ぐ。
頷《うなず》く巌《いわお》の尖《さき》も
鼾《いびき》し、息嘘《ふ》く、長き石《いわ》鼻《はな》も
おなじさまに走り過ぐ。
石を繞《めぐ》り、草を穿《うが》ちて、
広き川、狭き川流れ落つ。
聞ゆるは戦《そよぎ》か。歌か。
天《あめ》にある心地せし日の
優しき恋の歎《なげき》の声か。
あはれわれ等、何をか願ひ、何をか恋ふる。
さて過ぎぬる世の物語と
谺響《こだま》の声と響き来《き》ぬ。
わしみみづくの声近づきぬ。
ふくろふ、たげり、かけす等も、
皆いまだ眠らでありや。
おどろが下《した》を這ふは山椒魚にもや。
脚《あし》長く腹は肥えたり。
石《いわ》間《ま》より、沙の中より
出づる木の根は、蛇の如《ごと》、
怪しげなる帯を引きて、
われ等を怖れしめ、捉へんとす。
こは生きて動ける大いなる木《き》瘤《こぶ》の、
道行く人を遮らんと、さし伸ぶる
章《た》魚《こ》の足めく小枝なり。鼠あり。
毛の色ちゞに変れるが、群なして
苔の上、小草の上を馳す。
群毎にひたと寄りこぞりて
飛び行く蛍は、
人迷はせの導きせんとす。
汝《なれ》に問ふ。われ等留《とど》まれりや、
はた猶《なお》歩みてありや。
物皆旋《めぐ》る如く見ゆ。
怪《け》しき顔する木も石も、
みるみる殖え、みるみるふくらむ
あまたの鬼火も。
メフィストフェレス
わたしの上著の裾を攫《つか》まえて、しっかりしておいでなさい。
ここが中の峠と云うような所で、
山の中で地の底の金《かね》が光るのが、
驚くほど好く見えますよ。
ファウスト
あの谷底が、朝日の升る前のような、
濁った光に照っているのが不思議だなあ。
しかもその光が底の、底の
深い穴までさし込んでいる。
蒸気のすぐに立つ所も、棚引いている所もある。
靄《もや》や霧の中から火の燃えている所もある。
その火が糸のように細く這って行くかと思うと、
忽《たちま》ちまた泉の涌くように迸《ほとばし》り出る。
幾百条の脈の網のように、あの谷の
広い間を掩《おお》っているかと思うと、
この蹙《せば》まった隅の所では、
忽ち離れて一つになっている。
そこにはまた近い所に、金《きん》の砂を
振り蒔《ま》いたように、火花が散っている。
だがあれを見給え。あの岩壁は一面に、
下から上まで燃えているじゃないか。
メフィストフェレス
埋もれている金《かね》の主《ぬし》が、きょうの祭に
御殿の中へ立派に明を附けたのでしょう。
お目にとまったのは、あなたのお為《しあ》合《わせ》だ。
這入りたがる客の多いのが、わたしには分かるようだ。
ファウスト
どうだ、この気の狂ったように空を吹いて通る風は。
己の項《うなじ》に吹き当てる力といったらないなあ。
メフィストフェレス
そこの爺《じ》いさん岩の肋骨を攫まえていないと、
あなた谷底へ吹き落されてしまいますぜ。
霧が立って夜闇の色を濃くして来た。
あの森の木のめきめき云うのをお聞《きき》なさい。
梟《ふくろう》奴がびっくりして飛び出しゃあがる。
お聞《きき》なさい。とわの緑の宮殿の
柱が砕けているのです。
枝がきいきい云って折れる。
幹はどうどうと大きい音をさせる。
根はぎゅうぎゅうごうごう云う。
上を下へとこんがらかって、畳《かさ》なり合って、
みんな折れて倒れるのです。
そしてその屍で掩われている谷の上を
風はひゅうひゅうと吹いて通っています。
あなた、あの高い所と、
遠い所と、近い所とにする声が聞えますか。
この山を揺り撼《うご》かして、
おそろしい魔法の歌が響いていますね。
合唱する魔女等
ブロッケンの山へ魔女が行く。
苗は緑に、刈株黄いろ。
おお勢そこに寄って来る。
ウリアン様が辻にいる。
木の根、岩角越えて行く。
魔女は□をこく。山《や》羊《ぎ》は汗掻く。
バウボ婆あさんがひとりで来ましたね。
牝《め》豕《ぶた》に乗って来ましたね。
合唱者
人柄次第で崇めにゃなるまい。
バウボのおば御に先《せん》達《だち》を頼もう。
大きな豕だよ。お負に身持だ。
ぞろぞろ跡から附いて行《い》け。
お前、どの道を来たのだえ。
イルゼンスタインを越して来た。
通り掛かりに梟の巣の中を覗いて見たら、
大きな目玉をしていたよ。
人を馬鹿におしでない。
なんだってそんなに急ぐの。
わたし爪で引っ掻かれてよ。
それこの創《きず》を御覧なさい。
合唱する魔女等
道は遠いが広さも広い。
おし合いへし合いせいでも好《よ》かろう。
熊手が衝《つ》っ衝《つ》く。帚《ほうき》が引っ掻く。
赤子は噎《む》せるし、お袋《ふく》らはじける。
男の魔。半数合唱
こっちは蝸《でで》牛《むし》。殻を背《し》負《よ》って歩く。
女はお先へ御免と出掛ける。
悪魔の所へ見まいに行《い》く時《とき》ゃ、
いつでも女が極《き》まって追い越す。
他の半数
それにはこっちは格別構わぬ。
女が小股に千《せん》足《あし》踏むのを、
勝手に急げと、はたから見ていて、
一跳《はね》跳《は》ねれば勝つのが男だ。
(上にて。)
おいでよう。岩淵からもおいでよう。
声々
(下より。)
わたし達も上がって行《い》きたいのだがねえ。
水を浴び通しで、体はこんなに綺麗なの。
だが赤ん坊《ぼ》は生涯出来ないわ。
双方の合唱者
風は吹き息む。星奴は逃げ出す。
兎角曇った月奴は隠れる。
魔法の歌《うた》手《いて》声張り上げれば、
虚空に数千の火花が飛び散る。
(下より。)
おうい。待ってくれ。
(上より。)
岩の割目から呼ぶのは誰だい。
(下より。)
己を連れて行ってくれ。連れて行ってくれ。
己はもう三百年掛かって登っているのだが、
どうしても峠に行《い》かれないのだ。
仲間と一しょになりたいがなあ。
双方の合唱者
杖も載せるし、帚も載せる。
山羊も載せるし、熊手も載せる。
今夜上がられないのなら、
浮む瀬のない男だぞ。
半成魔女
(下より。)
わたしちょこちょこ追っ掛けるのが、もう久しい事なの。
皆さんもうあんな遠い所を行《い》くのにねえ。
内にいては気が済まないし、
来ても仲間には這入られないのだもの。
合唱する魔女等
膏薬《あぶらぐすり》で元気を附ければ、
どんな襤《ぼ》褸《ろ》でも帆に掛けられる。
あり合う盥《たらい》が立派な舟だよ。
きょう飛ばないなら、飛ぶ日はないぞよ。
双方の合唱者
こっちが峠を廻って飛ぶ時、
勝手に地びたをいざってまごつけ。
見渡す限の草原に
今来てひろがる魔女の群。
(皆々降りて息《いこ》ふ。)
メフィストフェレス
押し合ったりへし合ったり、すべったり、がたついたり、
しゅっしゅと云ったり、廻ったり、引っ張ったり、しゃべったり、
光ったり、火を吹いたり、燃えたり、臭い物を出したり、
これがほんとの魔女の世界だ。
ぴったり附いておいでなさい。すぐはぐれますよ。
どこです。
ファウスト
ここだ。
メフィストフェレス
(遠方にて。)
もうそこまで押されたのですか。
ちっと檀那面《づら》をせずばなるまい。
おい。通せ。ウォオランド様だぞ。通せ。好い子だ。通せ。
さあ先生、お攫まりなさい。そこで一飛に
この人《ひと》籠《ごみ》から飛び出してしまいましょう。
わたしなぞでさえ辟易しますよ。
あそこになんだか妙な色に光っていますね。
あの小さい木の茂った所へ行って見たいのです。
さあ、おいでなさい。ここを抜けて行きましょう。
ファウスト
天探女《あまのじやく》だなあ。好《い》いわ。どこへでも連れて行《い》け。
だが随分気の利いた遣方だと思うよ。
ワルプルギスの晩にブロッケン山へ来て、
勝手にこんな方角へ避けてしまうと云うのは。
メフィストフェレス
まあ、御覧なさい。いろんな色の火が燃えています。
面白そうな集会を遣っています。
人数は少くても、一人ぼっちになるのではありません。
ファウスト
しかし己はあの上の方へ行《い》きたいのだ。
もう火や渦巻く烟が見えている。
今おお勢が悪魔の所へ寄る時なのだ。
あそこへ行ったら、いろんな疑問が解けそうだ。
メフィストフェレス
ところがまた新しい疑問も結ぼれて来るのです。
まあ、おお勢はあっちでがやがや云わせて置いて、
御一しょにこっちの静かな所にいるとしましょう。
大世界の中に、幾つも小世界を拵えるのが、
昔からの習わしですからね。
そこに若い魔女が真っ裸になっていて、
年を取ったのが巧者に体を包んでいるでしょう。
まあ、附《つき》合《あい》だと思って優しくして遣って御覧なさい。
労少くして功多しと云う奴です。
おや。何か弾《ひ》いているようだな。
咀《のろ》われた音楽だ。慣れるまでは我慢が出来ない。
さあ、おいでなさい、おいでなさい。外に為《し》方《かた》はないのです。
わたしが連れて行って、仲間入をさせて、
新しい縁を結ばせて上げます。
どうです。なかなか狭い間《あいだ》ではございませんね。
あっちを御覧なさい。どこまで続いているか知れません。
百箇所も火が並んで燃えています。
踊を踊る、しゃべくる、物を煮る、酒を飲む、色をする、
考えて御覧なさい、どこにもこれより好《い》い事はありませんぜ。
ファウスト
そこで己を引き合せるには、
君は魔法使とか悪魔とかになって見せるのかい。
メフィストフェレス
それはわたしは不断微行が好ですが、
晴《はれ》の日になると、勲章を光らせるのが世間並です。
勲章のと違って、沓《くつ》足《た》袋《び》の紐は飾にはなりませんが、
蹄のある馬の足はここではもてます。
あの蛞《なめ》蝓《くじ》を御覧なさい。こっちへ這って来やがる。
わたしが只の奴でないのを、あの触角の尖の目で
もう嗅ぎ附けやがったのですね。
どうもここでは隠れていようと思っても駄目ですね。
さあ、おいでなさい。篝《かがり》から篝へ伝《つた》って行きましょう。
わたしが媒で、あなたが壻さんだ。
(消え掛かる炭火を囲める数人に。)
どうです、御老人方《がた》。こんな所に何をしていますか。
ちっときばって真ん中の方へ出て、若い奴等の
飲んで騒ぐ仲間にお這入なされば好いに。ぼんやり
寂しくしていることは内ででも出来ますからね。
将軍
まあ、どこの国でどれだけの功があっても、
国民に依頼していることは出来ないな。
民心と云うものも女の心と同じ事で、
兎角年の若い奴を贔《ひい》屓《き》するて。
宰相
此頃は輿論が大ぶ保守から遠ざかっているが、
己なんぞはやっぱり老成者の身方だ。
己達が無条件に信任せられていた時代が、
兎に角真の黄金時代だったて。
暴富家
わたしどももぼんやりしてはいないから、
随分して悪い事をしたこともありまさあ。
ところが丁度我々が逆に取って順に守ろうと
思う頃になって、世間が丸でわやになりました。
著作家
もう昨今かなり気の利いた事の書いてある
本が出ても、誰も読むものはありません。
青年どもが此頃のように生《なま》利《ぎき》になったことは、
先ず古来無かっただろうと思いますね。
メフィストフェレス
(忽《たちま》ち老いさらぼひたる姿に見ゆ。)
さようさ。わたくしもブロッケンへお暇乞に登りましたが、
もう世は季《すえ》になって、最後の審判が近づいていますね。
なんでも内の酒が樽底になって来ると、
世の中も澆季《ぎようき》になったように思われますて。
古道具を売る魔女
どなたもそうさっさとお通《とおり》過《すぎ》なさいますな。
買物は好《よ》い折になさらなくてはいけません。
品物を好く御覧なさいまし。
ここにいろんな物がございます。
そのくせ世間に類のある品や、
人間のため、天下のために、
一度も大した禍をしたことのない品は、
一つだってありませんよ。
血を流したことのないような匕《あい》首《くち》もなければ、
大丈夫でいた体へ、命を取る、熱い毒を
注ぎ込んだことのないような杯もございません。
好《い》い女をたらしたことのない飾や、裏切をして
身方を殺すとか、敵を暗打にするとか云う時、
用に立たなかった刀《かたな》は、ここにはございません。
メフィストフェレス
おい。おばさん。お前さんは時代が分からないのだ。
出来たことは出来たのだ。した事はしたのだ。
なんでも新《しん》物《もの》をあきなうことにしなさい。
新ものでなくては、こっちとらは買わない。
ファウスト
どうも自分で自分が分からなくならねば好いが。
己達は市にでも来ているのかなあ。
メフィストフェレス
この渦巻いている群集が皆升りたがって押すのだから、
あなた人を押す積《つもり》でも、人に押されてしまいますぜ。
ファウスト
そいつは誰だい。
メフィストフェレス
好く御覧なさい。
リリットです。
ファウスト
誰だと。
メフィストフェレス
アダムの先妻です。
あの綺麗な髪と、自慢そうに附けている、
あの、たった一つの飾とに、気をお著けなさいよ。
あれを餌にして若い男を攫まえようものなら、
めったに放しっこはありませんからね。
ファウスト
あれ、あそこに婆あさんと娘とが据わっているが、
あいつらはもう大ぶ踊り草臥《くたび》れたものらしいな。
メフィストフェレス
なに。きょうは草臥れなんかしませんよ。
また踊る気でいまさあ。おいでなさい。踊らせましょう。
ファウスト
(娘と踊りつゝ。)
いつか己《おり》ゃ見た、好《よ》い夢を。
一本林檎の木があった。
むっちり光った実《み》が二つ。
ほしさに登って行って見た。
美人
そりゃ天国の昔から
こなさん方《がた》の好《すき》な物。
女《おな》子《ご》に生れて来た甲斐に
わたしの庭にもなっている。
メフィストフェレス
(老婆と。)
いつだかこわい夢を見た。
そこには割れた木があった。
その木に□□□□□□ があった。
□□□□けれども気に入った。
老 婆
足に蹄のある方《かた》と
踊るは冥加になりまする。
□□がおいやでないならば
□□の用意をなさりませ。
臀見鬼人《いさらいのおにみびと》
咀われたやつ等《ら》め。好くもそんな事が出来るな。
幽霊には決して立派な脚があってはならんと、
学者が疾《と》っくに考証しているじゃないか。
我々当《あたり》前《まえ》の人間のように踊るなんて怪《け》しからん
美人
(踊りつゝ。)
あの方《かた》はわたし達の踊場へ何しに来たのでしょう。
ファウスト
(踊りつゝ。)
あれかい。あれはどこへでも来る奴だ。
人が踊れば、それに端《はた》から位《くら》附《いづけ》をする。
あれが積《つもり》では、自分が文句を言わない足《あし》取《どり》は、
踏んでも踏まなかったと同じ事なのだ、
前の方《ほう》へ踊って出るのは大嫌さ。
あいつの内の水車で粉をひくように、
一つ所を踊って廻っていると、
まあ、かなり気に入るのだ。
なんとか言われた礼を云って遣れば猶更だが。
臀見鬼人
おや。まだ平気で遣っているな、怪《け》しからん。
消えてしまえ。人智開《かい》発《ほつ》を疾《と》くに遣ったのに。
悪魔の同類奴。物に法則があるのを知らんか。
こんなに世が開けたのに、テエゲルにはお化《ばけ》が出る。
己の帚で迷信の塵をいつまで払き出せば好いのだ。
綺麗になる時はないのか。怪しからん。
美人
そんな事を言ってわたし達をうるさがらせちゃいや。
臀見鬼人
なに。己は貴様達化物共に面と向かって言うぞ。
化物の圧制を受けて溜まるものか。
はてな。己の力で取締まることは出来んかしらん。
(踊る人に押し除けらる。)
この様子ではきょう己は成功しないな。
兎に角一《ひと》旅《りよ》行《こう》だけは持ち廻って見て、
己が最後の一歩をするまでには、悪魔も
詩人も退治して遣るようにしたいものだ。
メフィストフェレス
今に、あいつ、水たまりに尻餅を擣《つ》きます。
そうして気持を直すのが、あいつの流義です。
蛭が尻っぺたに吮《す》い附いて楽んでいるうちに、
あいつは悪魔の祟も智恵の病も直るのです。
(踊の群と離れたるファウストに。)
踊りながらあんな可哀い声で歌っていた、
あの娘をなぜ放してしまったのですか。
ファウスト
でも踊っている最中に、あいつの口から
赤い鼠が飛び出したものだから。
メフィストフェレス
そう云う奴でしたか。そんな事を気にしてはいけません。
鼠色の鼠でなけりゃあ結構じゃありませんか。
二人で楽んでいながら、そんな咎《とがめ》立《だて》をするなんて。
ファウスト
それにちょいと目に附いたものが。
メフィストフェレス
なんです。
ファウスト
あれ、あそこに
美しい、色の蒼い娘が一人離れているだろう。
歩くにひどく手間の取れるのを見ると、
両《りよう》足《あし》を繋がれているのじゃないかと思うのだ。
本当の事を言えば、どうもあれが
可哀いグレエトヘンに似ているようだがな。
メフィストフェレス
打ち遣ってお置《おき》なさい。あれに手を出すと災難です。
あれはまやかしです。影です。生きていやしません。
あいつに出くわしては溜まりません。
それ。メズザの話をお聞《きき》でしょう。それと同じで、
あのじっと見ている目で見られると、人の血が
凝り固まってしまって、人が石になるのです。
ファウスト
そうさな。なるほどあの目は、死んだ時親類が
瞑《つぶ》らせてくれなかった屍《しかばね》の目だなあ。だが
あの胸は己に押し附けたグレエトヘンの胸で、
あの体は己を楽ませてくれたあれが体だ。
メフィストフェレス
それがまやかしです。そんなにすぐ騙されては困ります。
誰の目にもその人の色のように見えるのです。
ファウスト
でも己は嬉しいようなせつないような気がして、
あの目を見ずにいることは出来ないのだ。
それに妙なのはあの美しい頸の頸飾だな。
小刀のみねより広くないような、
赤い紐が一本巻いてあるなあ。
メフィストフェレス
そうです。わたしにも見えています。
ペルセウスに切られた首ですから、
肩から卸して手に持つことも出来ます。
そういつも物に迷わされたくては困ります。まあ、
この岡の方《ほう》へおいでなさい。まるでプラアテル同様な賑《にぎわい》です。
ちゃんと芝居まで出来ている。
おい。何を遣っている。
口上いい
へえ。すぐ跡の蓋《ふた》が開きます。
新作です。七つ出す内の七つ目です。
その位の数を出すのが、この土地の風でしてね。
これは作者もしろうとで、
役々もしろうとがせられます。
失礼ですが、ちょいと御免を蒙ります。
幕を開けなくちゃなりませんから。
メフィストフェレス
お前がたにこのブロッケンで出くわしたのは
至極好い。ここがお前方《がた》に似《に》合《あい》の土地だ。
ワルプルギスの夜の夢
一 名
オベロンとチタニアとの金婚式
(間《あい》の曲)
座長
道具方《かた》のミイジングさんの手の人達。
きょうはあなた方はお休《やすみ》です。
古い山に湿った谷が
そのまま舞台になりますから。
先触
金婚式をいたすには
五十年立たなくてはなりません。
それよりはお二人の夫婦喧嘩の息《や》んだのが、
わたしには金《きん》のように貴いのですよ。
オベロン
こら。眷属ども。己のいる所にいるのなら、
今が見せる時だ。
お前達の王が改めて
妃《きさき》と元の夫婦になるのだ。
パック
そこへパックが飛んで出て、くるりと廻って、
持前の踊の足を踏みまする。
そのわたくしの跡からは、一しょにここで楽もうと、
百人ばかり附いて来ます。
アリエル
さて天楽のような声で
このアリエルが歌い出します。
歌の声《こわ》音《ね》にさそわれて、いろんな面《めん》も出て来るが、
中には綺麗な首もあります。
オベロン
夫婦中好く暮らしたければ、
己達の真似をするが好い。
互に恋しがらせるには、
二人を別けて置くに限る。
チタニア
夫がすねたり、女房がおこったりすると見たら、
手ばしこく攫《つか》まえて、
男は南、女は北の
空の果《はて》へ連れて行《ゆ》くが好《よ》い。
ツツチイの演奏団
(最も強く。)
蠅の嘴《くちばし》、蚊の鼻《はな》梁《ばしら》、
それからそいつの眷属等《ら》、
木の葉におるは雨蛙、草の蔭のは《こおろぎ》よ。
これがわし等の楽人だ。
独 吟
見ろ。あそこから木笛が来る。
石《シヤ》鹸《ボン》のあぶくのようなざまだ。
低い鼻から出る声は
シュネッケ・シュニッケ・シュナックだ。
修養中の霊
蜘《く》蛛《も》の脚《あし》に蝦《ひ》蟇《き》の腹、
小さい奴だが羽はある。
子は生まないが、
詩なら生む。
めおとづれ
蜜の露踏み、香《か》を嗅いで、
小股大股、並んで歩く。
ちょこちょこあるきは精出すが、
飛んで空《そら》へは上がられぬ。
物好の旅人
こりゃあ仮装舞踏じゃないか。
オベロン様と云うのは美しい神様のはずだが、
きょうこんな処へおいでになったかなあ。
己の目がどうかしているのじゃあるまいか。
正信徒
爪もなけりゃあ、尻尾もないが、
やっぱりグレシアの神どもと同じ事で、
疑もなく
あいつも悪魔だ。
北国の芸術家
己が今手を著けるのは
無論習作に過ぎんのだが、
いずれそのうちイタリア旅行の
支度に掛かるよ。
浄むる人
己は飛んだ所へ来たものだ。
ここでは皆餌《えさ》で人を釣ることばかし考えている。
このおお勢の魔女の中で二人しか
ちゃんと化粧をしてはいない。
若き魔女
おつくりをして著物を著るのは、
白髪頭の婆あさんの事よ。
わたし裸で山《や》羊《ぎ》の背に乗って、
この好《い》い体を見せて遣るわ。
子持女
へん。ここでお前達と喧嘩をする程、
不行儀なわたしどもじゃないがね、
その若い、すらりとした、自慢の姿のままで、
お前達は腐ってしまいなさるが好《い》い。
楽長
蠅の嘴、蚊の鼻梁。
裸の女を取り巻くな。
木の葉に止まる雨蛙も、草むらにいるも、
間拍子をまちがえるな。
風信旗
(一方に向きて。)
願ってもない寄《より》合《あい》ですね。
よめ入盛の方《かた》ばかりだ。
男の方《かた》も一人々々
末頼もしい婿さんばかりだ。
(他方に向きて。)
もしこれでこの土地が口を開《あ》いて、
こいつらをみんな呑み込んでしまわなけりゃあ、
己は自分が駆足で
すぐ地獄へ飛び込んでも好い位だ。
クセニエン
わたし共は小さい剪刀《はさみ》を持った
虫になって来ています。
身分相応に悪魔のお父《と》っさんの
お気に入るような事をいたす積《つもり》で。
記者ヘンニングス
どうだ、あの一つかたまりに引っ附き合って、
無邪気そうにふざけている様子は。
あれで随分情知だとも
云い兼ねないのだからな。
年報ムサゲット
実は己もこの魔女どもの中へ
一しょに交ってしまいたいのだて。
こいつ等を詩の女神にして持ち出すことなら、
己にも随分出来そうだからな。
前《さきの》「時代精神」
驥《き》尾《び》に附すと云うことが出来れば、
なんにでもなれる。己の裾に攫まれ。
ブロッケンでもドイツのパルナッソスでも
山の上はなかなか広いからな。
物好の旅人
おい。あのぎごちない風をしている男は誰だい。
高慢ちきな歩附をして、なんでも
嗅ぎ出されるだけの事を嗅ぎ出そうとしている。
イエズイイトの捜索でもするのだろうか。
くろづる
わたくしは澄んだ川で釣るのが好《すき》ですが、
濁った川でも釣らないことはありません。
ですから堅固な男が悪魔に交っていても、
何も不思議がりなさるには及びませんよ。
世慣れたる人
じゃありません。正しい信者には
凡ての物が方便です。
ですからこのブロッケンの山ででも
方々にこっそり寄り合っていまさあ。
踊の群
おや。あっちから新しい連中が来ますね。
遠くに太鼓が聞えています。
まあ、じっとしておいでなさい。あれは葦の中で
声を揃えて鳴いている「さんかのごい」です。
踊の師匠
みんな負けず劣らず足を挙げて、
出来るだけの様子をして見せているから面白い。
佝僂《せむし》や太っちょも、どんなに見えても構わずに
飛んだり跳ねたりしているなあ。
胡弓ひき
やくざ仲間奴。お互に憎みっ競《くら》をして、
出来るなら、息の根を留めたいと思っていながら、
ここではオルフォイスの琴に寄って来る獣のように、
あの木笛の取持で一しょになっているのだな。
信仰箇条ある哲学者
批評家や懐疑家がどなったって、
己は騙されはしないのだ。
悪魔も何かでなくてはならぬ。そうでないなら、
悪魔と云うものがあるはずがないではないか。
理想主義者
どうもこん度は己の心の中で
空想が余り専横になっている。
これがみんな「我」であるとすると、
己はきょうはどうかしているぞ。
実相主義者
どうもこいつらの「本体」と云う奴が始末におえなくって、
己にひどい苦労を掛けやがる。
ここに来て始て己の立脚地が
ぐらついて来たぞ。
極端自然論者
己は嬉しがってここに来ていて、
こいつらと一しょに楽むのだ。
なぜと云うに悪魔から善《ぜん》霊《だま》に
推論して行くことが出来るからな。
懐疑家
こいつらは火の燃える跡を追っ掛けて行って、
もう宝のありかが近いと思っているのだ。
「悪《あく》」と「惑《わく》」とは声も近いようで、
己がここにいるのは所を得ているのだて。
楽長
草《くさ》叢《むら》にいるに、木葉《このは》に止まった雨蛙。
お前達は咀《のろ》われたしろうとだぞ。
蠅の嘴、蚊の鼻梁。
お前達は兎に角楽人だ。
敏捷なる人等
快活な我輩どもの組は
「莫愁会」と云ってね、
もう腰が立たなくなったから、
頭で歩いて行くのです。
てづつなる人等
今まではお世辞を言って大ぶお余《あまり》を貰っていたが、
こうなればもう上がったりです。
踊っているうちに沓の底が抜けたから、
素足で歩いているのです。
鬼火等
わたし共は沼で生れて、
沼から遣って来たのだが、
すぐに踊の仲間に這入って、
どうです、立派な色男でしょうが。
隕《いん》星《せい》
星の光、火の光を
放って天から墜ちて来たが、
今は草の中に転んでいます。
誰か手を借して起してくれませんか。
肥えたる人等
避《よ》けろ。避けろ。ぐるりと避けろ。
踏みしだかれて草は偃《ふ》す。
そら鬼が往くぞ。手足の太った
鬼が往くぞ。
パック
そんな、象の子のような
太った体をして来るなよ。
どしりどしりときょうなんぞ足踏をして好《い》いのは、
まあ、この体のがっしりしたパックさん位のものだ。
アリエル
恵深い自然に羽を貰ったお前達、
性霊に羽を貰ったお前達は、
軽く挙がって翔《かけ》る己の跡に附いて、
薔薇の岡のすみかへ帰れ。
奏楽団
(極めて微かに。)
雲の段《きだ》、霧の帷《とばり》よ。
上《かみ》の方《かた》より今し晴れ行く。
高き梢、低き葦間に、風吹き立ちて、
忽《たちま》ち物皆散《あら》け失せぬ。
曇れる日
野原。
ファウスト。メフィストフェレス。
ファウスト
みじめな目に逢っているのだな。途方に暮れているのだな。苦み悩みながら、長い間この世にうろついていて、とうとう牢屋に繋がれたのだ。悪事を働いた女だと云って、あの可哀い、不《ふ》為《し》合《あわせ》な女を、牢屋にひどい目に逢わせて、押し籠めてあるのだ。こうなるまで。○人を騙してばかりいる、なんの役にも立たぬ悪《あく》霊《りよう》奴《め》。○こう云う事を君は己に包み隠していたのだな。そうしてあきれたようにして、立つなら立っているが好《い》いとも。その悪魔染みた目の玉を、腹立たしげに、頭のうろの中で、勝手にぐるぐる廻しているが好《い》い。己にはもう君のそこにいるのが、我慢の出来ない苦痛だが、勝手にそうして立っていて、反抗的に己にその苦痛を味わせてくれるが好《い》い。牢屋に入れられている。取《とり》返《かえし》の附かない、みじめな目に逢わせられている。悪霊どもと、裁判と云うことを敢てする、無情な人間とに身を委ねている。その間君は面白くもない慰《なぐさみ》を己にさせて、己をぼかしていた。あの娘の苦艱が次第に加わって来るのを隠していた。なんの助をも与えずに、あの娘を堕落の淵に沈ませて、黙っていた。
メフィストフェレス
何も、ああ云う運命に、あの女だけが始て逢ったのではありませんよ。
ファウスト
狗《いぬ》奴。胸の悪い、獣にも劣った獣奴。○ああ。無辺際なる精霊。この蛆《うじ》虫《むし》を再び本《もと》の狗の形に戻してくれぬか。こないだまで夜になると、自分の好《す》きで狗になって、己のように、なんにも思わずに歩いている人間の傍へ駆けて来て、足の前をころがり廻って、人間が倒れたら、肩に前足を掛けようとしていたものだ。あの好《す》き好《この》んでなった狗の形に、再び戻して遣ってくれぬか。そうしたら己は、沙の上を腹這って、己の前に来た時、この廃れものを、この脚で踏み附けて遣ることが出来よう。○あの女だけが始て逢ったのではない。○まあ、なんと云うみじめな事だろう。人間の心に会得することの出来ない程の、みじめな事ではないか。ああ云う艱難困苦の底に陥いるものが一人で足りなくて、外にもあると云うのは。何事をも永遠に免《ゆる》すものの目の前で、のた打ち廻るような必死の苦痛を、最初たった一人が受けたなら、その外の一切の人間の罪は、もうそれで贖《あがな》って余《あまり》あろうではないか。○己にはこの一人の難儀が骨身に応え、命を掻きむしるのだ。それに君は何千人かのそう云う人間の運命を、その嘲るような顔附をして見ていて、恬《てん》として顧みないのだ。
メフィストフェレス
そこでお互様に、早速またお互の智慧の届く限界線に到著したと云うものです。そこまで来ると、あなた方、人間と云う奴は、気が変になってしまうのです。わたし共と一しょの共同生活が末まで遂げられんのなら、あなた、なぜその共同生活に這入ったのです。あなたなんぞは空が飛びたくはあるが、なんだか眩暈《めまい》がしそうだと云う性《たち》でしょう。一体わたしがあなたに御交際を願ったのですか。それともあなたがわたしに附き合うようにしたのですか。
ファウスト
まあ、その物を食い厭《あ》きると云うことのなさそうな歯を剥き出して、己に向いてしゃべるなよ。そうせられると、己は胸が悪くなる。○ああ。大いなる、美しき精霊。お前は己に姿を顕して見せることを厭《いと》わなかったではないか。己の霊智をも情緒をも知っているのではないか。それがどうして己の同《どう》行《ぎよう》に、こんな、人の危害に遭うのを見て目を楽ませ、人の堕落するのを見て口なめずりをするような、こんな恥知らずをよこして、そいつを己に離れられないように繋ぎ合せてくれたのだ。
メフィストフェレス
もうそれでおしまいですか。
ファウスト
あいつを助けて遣ってくれ。それが出来んと云うなら、容赦はない。何世紀立っても消えない、一番ひどい呪《じゆ》咀《そ》で、君を咀《のろ》うまでだ。
メフィストフェレス
どうもわたしには、人間の裁判官の掛けた縄を解くことも出来ず、卸した錠前をはずすことも出来ませんね。○あなた助けてお遣《やり》なさい。○一体あいつをこんな難儀におとしいれたのは誰です。わたしですか。あなたですか。
(ファウスト眼球を旋転せしめ、四辺を見廻はす。)
あなたは雷火を天から借りて来て、わたしを焼こうとでも思うのですか。死ぬることのある人間に、そんな力が授けてなくて為《し》合《あわせ》だ。無邪気に受《うけ》答《こたえ》をしている相手を、粉微塵にでもしようと云うのは、チランノスの流義だ。自分がどうして好《い》いか分からなくなった時に、そんな事を気《き》霽《ば》らしにするのだ。
ファウスト
そんなら己をそこへ連れて行け。どうしてもあの娘は助けて遣らんではならんのだ。
メフィストフェレス
そこであなたの自ら好んでお冒《おかし》になる危険は宜しいのですか。あなたはあの土地で、その手で人殺しの罪を犯して、その罪がまだ贖われずにいるのですよ。殺された奴の墓の上には、復讎の悪霊どもがさまよっていて、下手人の帰って来るのを覗っていますよ。
ファウスト
そんな事まで君の口から聞せるのかい。世界一つにあるだけの、常の死をも、非業の死をも、君に被《かぶ》せて遣っても好い。言おうようの無い奴だ。好《い》いから己の云う通《とおり》に連れて行き給え。そしてあの娘を助けて遣ってくれ給え。
メフィストフェレス
宜しい。それはあなたを連れても行くし、またわたしに出来るだけの事をしますから、まあ、お聞《きき》なさい。一体わたしに天地万物を自由にする、一切の威力が備わっているとでも、あなたは思っているのですか。それは門番の頭がぼうっとなる位の事は、わたしが遣って上げますから、あなた鍵を手に入れて、人間の手で女を引き出してお遣《やり》なさい。わたしは外に張番をしています。魔法の馬の支度をして置きます。それに乗って、連れてお逃《にげ》なさい。それならわたしに出来ます。
ファウスト
さあ、行こう。
豁《かつ》開《かい》せる野。
ファウストとメフィストフェレスと黒き馬に乗り、疾駆しつゝ登場。
ファウスト
あいつらはあの処刑《しおき》場《ば》の円《まる》壟《づか》で何をするのだ。
メフィストフェレス
何を烹《に》るやら、りょうるやら、わたしも知らない。
ファウスト
空を飛んだり、降りて来たり、屈《かが》んだり、しゃがんだり。
メフィストフェレス
魔女のわざくれですね。
ファウスト
灰を蒔《ま》いて祈っているな。
メフィストフェレス
もう通り過ぎました。
牢屋
ファウスト手に一束の鍵とランプとを持ちて鉄の扉の前に立ちゐる。
ファウスト
もう久しく忘れていた震《ふるい》が己を襲って来る。
人間の一切の苦痛を己は身に覚える。
この湿った壁の奥にあれが住まっているのだ。
なんの悪気もない迷で犯した罪だのに。
貴様、這入って行くのをたゆたっているな。
あの娘にまた逢うのをこわがっているな。
遣れ。貴様の躊躇は女の死を促す躊躇だ。
(ファウスト鎖《さ》鑰《やく》に手を下す。)
(内にて歌ふ。)
あはれ、我身を殺しゝは
うかれ女《め》、我母。
あはれ、我身を食《く》ひつるは
をそ人《びと》、我父。
冷やかなる奥《おく》津《つ》城《き》に、
小さき妹《いもうと》
我骨を埋めつ。
羽美しき森の小鳥とわれなりぬ。
われは飛ぶ、われは飛ぶ。
ファウスト
(鎖鑰を開きつゝ。)
歌うのを、鎖の鳴るのを、敷《しき》藁《わら》のさわつくのを、
恋人が聞いているとは、夢にも知らんのだ。
(進み入る。)
マルガレエテ
(床の中に隠れむとしつゝ。)
どうしよう。どうしよう。来るわ。いじめ殺しに。
ファウスト
(小声にて。)
黙っておいで。黙っておいで。来たのは己だ。お前を助けに。
マルガレエテ
(ファウストの前にまろがり寄る。)
お前さんも人間なら、どうぞ難儀を察して下さい。
ファウスト
そんなに大声をしては、番人が目を醒ますじゃないか。
(女の鎖鑰を開かんとす。)
マルガレエテ
(跪《ひざまず》く。)
まあ、首斬役のあなたが、わたくしを
自由になさるようには、誰がいたしましたか。
まだ夜なかなのに、もう連れにおいでなさる。
どうぞ堪忍して、生かして置いて下さいまし。
あすの朝だって遅くはないではございませんか。
(立ち上がる。)
わたくしはまだこんなに、こんなに若いじゃありませんか。
それにもう死ななくてはならないのですか。
これで美しゅうもございました。それが悪うございました。
頼《たの》んだお方が傍においでになったのが、遠くへいらっしゃいました。
青葉の飾は破られて、花はむしられてしまいました。
そんなに荒々しくお攫《つか》まえなさいますな。
御免なさい。あなたに何もいたした覚《おぼえ》はありません。
これまで一度もお目に掛かったことがないじゃありませんか。
どうぞこのお願をお聞《きき》流《なが》しなさらないで下さいまし。
ファウスト
ああ。この悲惨な有様を見てこらえられようか。
マルガレエテ
もうわたくしはあなたの思召次第になっています。
どうぞ赤さんにお乳を飲ませる間お待《まち》下さいまし。
わたくしは夜どおし可哀がって遣っていましたの。
それを人が取ってわたくしをせつながらせようと思って、
わたくしが殺したのなんのと申します。
わたくしはもう面白い心持になることは出来ません。
わたくしの事を歌に歌うのですもの。意地の悪いこと。
あるお伽話のしまいがこうなったのでございます。
誰がそれをあの人達に解《と》けと申しましょう。
ファウスト
(身を倒す。)
おい。お前をこのみじめな囚《とら》われの境から
救おうと思って、恋人がここに伏しているのだぞ。
マルガレエテ
(共に身を倒す。)
どうぞ一しょに聖者様方を拝んで下さいまし。
御覧なさい。この踏段の下には、
この敷居の下には
地獄の火が燃えています。
悪魔が
おそろしくおこって、
ひどい音をさせています。
ファウスト
(声高く。)
グレエトヘン。グレエトヘン。
マルガレエテ
(注意して聞く。)
おや。あれはあの方《かた》のお声だわ。
(跳り上がる。鎖落つ。)
どこにいらっしゃるだろう。お呼《よび》になったわ。
わたしは免《ゆる》された。もう誰にも邪魔はさせない。
あの方のお頸に飛び附いて、
あの方のお胸に抱かれたい。
お呼《よび》になったわ。あの敷居の上にお立《たち》になって。
どうどうがたがたと地獄の音がしている中から、
腹立たしげな悪魔の嘲《あざ》笑《わらい》の中から、
あのいとしい、お優しいお声が聞えたわ。
ファウスト
己だよ。
マルガレエテ
あなたなの。どうぞもう一遍仰ゃって。
あなただわ。あなただわ。苦労はみんなどこへ行っただろ。
牢屋の苦艱は。あの鎖は。
あなただわ。助けに来て下すったのだわ。
わたしはもう助かった。
あれ。あなたに始てお目に掛かった、
あの町がもうそこに見えます。
マルテさんとわたしとでお待《まち》申した
晴やかな庭もそこに見えます。
ファウスト
(伴ひ去らんとして。)
さあ、一しょに来い、来い。
マルガレエテ
まあ、お待《まち》なさいましよ。
わたくしあなたのいらっしゃる所にいたいのですもの。
(あまえゐる。)
ファウスト
早くしなくては。
手間取ると、どんなに悔やんでも
及ばないことになるのだ。
マルガレエテ
まあ。もうキスをすることもお忘《わすれ》なすったの。
あなたほんのちょっとの間別れていらっしゃって、
もうキスをすることもお忘《わすれ》なすったの。
こうしてあなたに縋《すが》っているのに、なぜせつないのでしょう。
何か仰ゃって、わたくしを御覧なすって、
息の詰まる程キスをして下さると、
天《てん》がそっくり落ちて体に被《かぶ》さって来ましたのに。
キスをして下さいよう。
なさらなけりゃ、わたくしがいたしますわ。
(抱き附く。)
あら。あなたのお口のつめたいこと。
それに黙っていらっしゃるのね。
お情《なさけ》はどこへ行って
しまいましたの。
わたし誰に取られてしまったのだろ。
(背を向く。)
ファウスト
おいで。おれに附いておいで。しっかりしてくれなくちゃ。
跡でどんなにでも可哀がって遣る。
どうぞ附いて来てくれ。これだけがお願だ。
マルガレエテ
(面《おもて》を向く。)
本当にあなたなの。きっとでしょうか。
ファウスト
己だよ。おいで。
マルガレエテ
あなた鎖を解いて下すって、
またわたくしをお抱《かかえ》なすって下さるのね。
なぜ気味が悪くは思召さないのでしょう。
一体どんな女を助けて下さるのだか、あなた、御存じ。
ファウスト
おいで。おいで。もう夜が明け掛かって来る。
マルガレエテ
わたくし母《か》あ様を殺してしまって、
赤さんを水の中へ投げ込みましたの。
あれはわたくしとあなたとの赤さんじゃありませんか。
あなたも親だわ。本当にあなたなの。本当かしら。
お手に攫まらせて頂戴な。夢じゃないわ。
可哀らしいお手。でもつめたいこと。
お拭《ふき》なさいよ。なんだか
血が附いているようだわ。
まあ、飛んだ事をなすったのね。
どうぞその抜身を
おしまいなすって。
ファウスト
もう昔の事は置いてくれ。
己は死んででもしまいそうだ。
マルガレエテ
いいえ。あなたは生きていて下さらなくちゃ困るわ。
わたくしお墓を立てる所をそう申して置きましょうね。
あしたすぐ
行って見て下さいましな。
母《か》あ様のを一番好《い》い所《とこ》へ立てて、
兄いさんのを傍へ引っ附けて立てて、
それからわたくしのを少し離して。
あんまり遠くになすってはいやよ。
それからわたくしの右の胸の方《ほう》へ赤さんを埋めて、
その外の人は傍へ寄せないで下さいまし。
わたくしあなたのお傍に寄るのが、
本当に嬉しい、楽しい事でございましたの。
それが、なぜだか、もう出来ませんわ。
なんだか無理にお傍へ寄ろうとするようで、
なんだかあなたがお衝《つき》戻《もど》しなさるようで。
でもやっぱりあなたなのね。好い、優しい目をなすって。
ファウスト
己だと云うことが分かったなら、さあ、おいで。
マルガレエテ
あちらへ。
ファウスト
外へ出るのだ。
マルガレエテ
外にお墓がございまして、
死が待っていますのなら、参りましょう。
わたくしここからすぐお墓へまいりますの。
それから先《さき》へは一足も参りません。おや。もうお帰《かえり》
なさいますの。わたくし御一しょに参りたくて。
ファウスト
来られるのだ。来れば好い。戸はあいている。
マルガレエテ
わたくし参られませんの。どうせ駄目でございますから。
逃げてどうなりましょう。待《まち》伏《ぶせ》をしていますわ。
乞食になります程みじめな事はございません。
それに良心の呵責を受けていますのですもの。
知らない国をさまよい歩くのはいやでございますし。
それにすぐ攫まってしまいますわ。
ファウスト
己が附いていて遣るのだ。
マルガレエテ
あ。お早くなすって。お早くなすって。
あなたの赤さんですから、お助《たすけ》なすって。
あちらです。この道を
どこまでも川に附いて上手へ、
あの狭い道をおぬけになって、
森の中へお這入《はいり》なさると、
あの左側の柵《さく》の結《い》ってある所の
池の中でございます。
どうぞすぐお攫まえなすって。
浮き上がろうといたして
まだ手や足を動かしています。
お助《たすけ》なすって。お助なすって。
ファウスト
おい。気分をはっきりさせてくれないか。
つい一足出れば助かるのだ。
マルガレエテ
ほんにこの山を早く越してしまいましょうね。
母あ様があそこに石に腰を掛けていらっしゃるわ。
わたくし髪の根元を締め附けられるようですの。
母あ様があそこに石に腰を掛けていらっしゃって、
頭をぶらぶら振っていらっしゃるわ。
手真似も、合点合点もなさらないわ。お頭《つむり》が
お重いのだわ。長くお休《やすみ》になって、もうお起なさらないの。
わたくし共が楽むようにお休になったのだったわ。
あの頃の面白かったこと。
ファウスト
いくら言って聞せて、頼んでも駄目なら、
己はお前を抱えて出よう。
マルガレエテ
お廃《よし》なさいまし。力ずくはいやですわ。
そんなにひどくお攫《つかみ》なすっちゃあ、いや。
外の事はなんだって仰ゃる通にしたじゃありませんか。
ファウスト
夜が明けて来た。おい。おい。
マルガレエテ
夜が明けましたって。そうですね。わたくしの
最期の日ですわ。婚礼をいたす日ですわ。
泊ったことがあるなんぞと、誰にも言わないで下さいまし。
青葉の飾が破れましたわ。
もう出来たことはいたしかたがございません。
またどこかでお目に掛かりましょうね。
踊場でないところでね。
今人が寄って来ますが、聞えないのですわ。
四《よつ》角《かど》にも往来にも
這入り切りませんのね。
鐘を撞いてしまった。杖を折ってしまった。
わたくしを攫まえて縛りましたわ。
もう処刑《しおき》場《ば》へ連れて来られましたわ。
今の刀の刃がどの人の項《うなじ》にも、
わたくしの項にも打ち卸されて来ますわ。
そこいら中が墓の中のように静かになりましたこと。
ファウスト
ああ。己は生れて来なければ好かった。
メフィストフェレス戸の外に現る。
メフィストフェレス
おいでなさい。おいでなさらないと駄目です。
ぐずぐずしていたってなんにもなりません。余計な
話なんかしていて、馬が身慄をしています。
もう夜が明けそうだから。
マルガレエテ
あのそこへ地《じ》の底から出て来たのはなんでございましょう。
あれだ。あれだ。どうぞあれをいなせて下さいまし。
この難《あり》有《がた》い所へあんな人が何しに来ますでしょう。
わたくしを連れに。
ファウスト
お前の命を助けに。
マルガレエテ
いいえ。いいえ。わたくしは神様の御裁判に任せます。
メフィストフェレス
(ファウストに。)
おいでなさい。おいでなさい。女と一しょに置いて行きますぜ。
マルガレエテ
天《てん》にいます父《ちち》よ。わたくしはあなたにお任せ申します。
お助《たすけ》下さい。天使の、神聖な群が、
どうぞわたくしを取り巻いて、護っていますように。
ハインリヒさん。わたくしあなたがこわくてよ。
メフィストフェレス
あれが処刑《しおき》だ。
(上《うえ》の方より。)
救《すくい》だ。
メフィストフェレス
(ファウストに。)
早くこっちへ。
(ファウストと共に退場。)
(内より、遠く消え去らんとする如く聞ゆ。)
ハインリヒさん。ハインリヒさん。
姿ども
若きゲーテが『ファウスト』を書き始めた頃の登場人物たち。
曲や物語の一区切り。
アイオルスの箏
風に吹かれて物悲しい音を奏でる古楽器。アイオルス Aiolus はギリシア神話
誉の輪飾
月桂冠のこと。
オリンポスの山
Olympos ギリシア神話で神々が住む所とされる、ギリシアの最高峰。
ラファエル
Raphael 天をつかさどる大天使。
霹靂
激しい雷。
ガブリエル
Gabriel 地をつかさどる大天使。
ミハエル
Michael 大気をつかさどる大天使。
ドクトル
Doktor 中世の最高学位。
評判の蛇
旧約聖書「創世記」で、エバに禁断の木の実を食べさせたとされる蛇。
マギステル
Magister 中世の学位で、ドクトルの下に位する。
種子
元素を意味する錬金術の用語。
ノストラダムス
Nostradamus(1503〜1566)。一六世紀に活躍したフランスの占星術者。アンリ二世の死を予言して有名になり、 著書『諸世紀』は、 ローマ法王によって禁書とされた。
大天地
宇宙を意味する占星術の用語。普通は大宇宙と訳され,人間界を小天地(小宇宙)と呼び、両者が相関すると考えられた。
地の精
地球上の一切を取りしきる地霊。
グレシア
Graecia ギリシア。
鎖鑰
錠と鍵。
空高く飛び回ること。
熨斗
皺を伸ばすために用いられた柄《ひし》杓《やく》形の裁縫道具。
手沢
手の脂でつやが出るほど愛用すること。
広々として清々しい大気。
僧侶や信徒がとる食事。
閭門
村里の出入口にある門。
擣屋
穀物をついて精白する所。
山鯨
猪などの獣肉。
聖アンドレアス
聖アンドレアス(Andreas)殉教の日にあたる一二月二九日の夜、未婚の女性が祈ると、未来の恋人や夫の姿が見られるという。
王様こかし
ボーリングに似た遊びで、九柱戯ともいう。
赤獅子
錬金術師が用いた材料の名前。「百合」も同じ。
食べ物を煮たり、酒を温めるため用いた三本脚の金属製の器。
武火
強火。
若い女王
万能薬の名前。「賢者の石」とも呼ばれた。
告天子
ヒバリの別名。
クラウィクラ・サロモニス
Clavicula Salomonis『ソロモンの鍵』。中世では大魔術師と考えられていたイスラエル王ソロモンによる呪術の書。
リンクス
Lynx 山猫。
四大
万物を構成すると考えられた四元素、地・水・火・風。
インクブス
Incubus コボルド(Kobold)と同じ土の精。家事の精でもある。
Jesus Nazarenus Rex Judaeorum(ユダヤの王、ナザレのイエス)の頭文字JNRJが記された十字架像。
三たび燃え立つ火
三位一体を象徴する三角形の印。
蠅の神
新約聖書に登場する悪魔の名。
ペンタグランマ
Pentagramma JESUSの五文字を象徴する星形五角形。魔除けの護符とされた。
四方にあらけぬ
散らばった。
冲る
高く舞い上がる。
覿面に
面と向かって。
頃刻
わずかの間。
馳騁
広く駆け走らせること。
頭銜
官吏の位階。
通途
ありふれた。
し□
原文伏字。「しり」とされている。
スパニアの長靴
スペインの長靴。中世に用いられた拷問道具。
秕政
悪い政治。
澆季
道義のすたれた末世。
ヨタの字一字
ヨタは、ギリシア語ι(イオタ)。一点一画もゆるがせにしない意。
御眷顧
目をかけ、引き立てること。
エリチス・シイクト・デウス・スチエンテス・ボヌム・エット・マルム
Eritis sicut Deus, scientes bonum et malum.「汝ら神の如くなりて、善悪を知るに至らん」。旧約聖書「創世記」で、蛇がエバをそそのかすときに言う言葉。
大天地
小天地は平民の世界、大天地は王侯貴族の世界。それぞれ『ファウスト』の第一部、第二部に相当する。
ルンダ・ルンダ
古い輪唱歌の一 バッソオ
basso バス(低音)。
四辻
十字路。古来、悪魔たちが落ち合う場所とされている。
ブロッケンの山
Brocken ドイツ中部、ハルツ Harz 山地の最高峰。魔術や疫病に対する守護女神ワルプルギス Walpurgis の記念日五月一日の前夜に魔女たちが集まる所。
片々の脚が短い
悪魔は地獄へ落ちたときに片方が馬の脚になり、足をひきずっている。
リッパハ
Rippach ライプチヒ郊外にある村。
ハンス
Hans「リッパハのハンス」は馬鹿の代名詞。
笠の台
笠をのせる台、すなわち首(頭)のこと。
天鵞絨
ビロード。
トカイ酒
ハンガリー北東部の町トカイ名産のワイン。
鼓腹
天下太平で食うに困らないこと。
手づつ
不器用。下手。
一大
四大(前出「書斎」の項参照)の一つ。ここでは火。
払子
毛を束ねて柄をつけたもの。僧侶の威儀を正すための装身具,ここでは王《おう》笏《しやく》の代わり。
三と一だの、一と三だの
キリスト教での三位一体説をさす。
ヘレナ
Helena ギリシア神話に登場する絶世の美女。ゼウスとレダの娘で、スパルタ王メネラオスの妻となったが、トロイアの王子パリスに見初められて出奔し、トロイア戦争の原因をつくった。ヘレネ(Helene)とも。ここでは美女の代名詞。
満十四歳
当時、一四歳未満の少女との性交・結婚は、法律で禁じられていた。
沓韈
靴下。
昔埋めて置いた
地下に埋められた宝が、時とともに地表へ上ってきて光り輝くという言い伝えがあった。
辮髪
おさげ髪のこと。
驀直
まっしぐらに。即座に。
ツウレ
Thule 北の果てにあると言われる伝説の島国。
鶴亀々々
不吉を祓《はら》うためのまじない言葉。
グレエテ
マルガレエテ(Margarete)の愛称。
宿
主人(夫)。
パズア
Padua パドワ。ローマ時代に栄えた北イタリアの都市。聖アントニウス寺院がある。
綺麗首
美人。
アステル
Aster キク科シオン属の草花。
主の体
キリストの十字架像。
鹿の
二つの乳房のこと。旧約聖書「雅歌」に出てくる言葉。
アルピ
Alpi アルプス。
罪の襦袢を
当時、結婚せずに性的交渉をもった娘は、教会で下着のままで懺《ざん》悔《げ》させられた。
若い衆達は……
「髪の青葉……」「門口へ切藁を……」いずれも、婚前に身ごもった花嫁に対して行われた迫害のしきたり。
神仏の像を安置するために壁に設けたくぼみ。
只文目
無料。文目は、昔の銭を数えた単位。
キタラ
Kithara 竪琴に似た古代ギリシアの撥絃楽器。
ハメルンもどき
中世に栄えたドイツ北部の都市ハーメルン Hameln には、笛を吹いてネズミを捕る男が大勢の子供をさらって行った話が伝わっている。
贄卓の前に……
当時の法律で、娼婦に禁じられていたこと。
ソルウェット・セエクルム・イン・ファウィルラ
Dies irae, dies illa Solvet saeclum in favilla.「怒りの日、その日には、世界は溶けて灰になるだろう」。レクイエムの中で歌われる詩句。
奥津城
墓。
ニル・イヌルツム・レマネビット
Judex ergo cum sedebit, Quidquid latet adparebit, Nil inultum remanebit.「審判官が席につくや、隠されていたことがすべて明らかになり、一つ残らず報いを受けることになるだろう」。
クム・ウィックス・ユスツス・シット・セクルス
Quid sum miser tunc dicturus ? Quem patronum rogaturus ? Cum vix justus sit securus.「そのとき、哀れな私は一体何を言おう。一体誰に守ってもらおう。正しい人でさえ安らかではないのに」。
香水の瓶
携帯用の気つけ薬のこと。
ワルプルギスの夜
ワルプルギス(Walpurgis)は魔術や疫病に対する守護女神。その記念日である五月一日の前夜、ほうきや牡山羊に乗った魔女たちが、ハルツのブロッケン山に集まって乱痴気騒ぎをするという伝説がある。
禁厭の境
魔界。
ウリアン
Urian 悪魔や嫌いな人を遠回しにさす言い方。
□をこく
原文伏字。「屁《へ》をこく」とされている。
バウボ婆あさん
Baubo ギリシア神話の中で、娘を奪われて悲しむデメテルを卑猥な冗談で慰める乳母。本来は原始的な、野卑な女の性器の神。
イルゼンスタイン
Ilsenstein ハルツ山地北部、イルゼ川の谷にそびえ立つ岩塔。
ウォオランド
Voland 悪魔の古い呼び名。
不断微行
高い身分を隠して行動すること。おしのび。
生利
知ったかぶり。
リリット
Lilith アダムの最初の妻。悪魔の妾になり、美しい髪で男を誘惑したという。
こなさん
おまえさん。
□□□□□□
原文伏字。「巨大な穴」を意味する語が入る。
□□□□
原文伏字。「大きい」を意味する語が入る。
□□
原文伏字。「大きい穴」を意味する語が入る。
□□
原文伏字。「合う栓」を意味する語が入る。
臀見鬼人
ゲーテと敵対していた啓蒙主義作家兼出版業者フリードリヒ・ニコライへの諷刺。
テエゲルには……
当時、ベルリン郊外テーゲル(Tegel)に幽霊が出るという噂が立ったが、ニコライは「幽霊は脳の鬱血によって起こる幻覚で、臀部にヒルをつけて血をすわせれば治る」と述べて、ロマン派の人々に嘲笑された。
メズザ
Medusa メドゥーサ。ギリシア神話の、海に住む三人娘の妖怪ゴルゴンの一人。髪は蛇で、その目を見た者を石に変えると言われる。
ペルセウス
Perseus ギリシア神話の英雄。母を救うためにメドゥーサの首を取りに行き、鏡を使って目的を果たす。
プラアテル
Prater ウィーン郊外にある遊園地。
オベロンとチタニア
Oberon, Titania シェイクスピアの『真夏の夜の夢』に登場する,妖精の王と妃。
ミイジング
Mieding ワイマールの劇場の裏方主任。
パック
Puck シェイクスピアの『真夏の夜の夢』に登場する、いたずら好きの妖精。
アリエル
Ariel シェイクスピアの『あらし』に登場する,大気の妖精。
物好の旅人
厖大な旅行記を書いたニコライへの諷刺。
正信徒
シラーの詩「ギリシアの神々」をキリスト教的立場から攻撃したシュトルベルク伯への諷刺。
風信旗
音楽家兼評論家だったライヒャルトの二枚舌を諷刺。
クセニエン
Xenien ゲーテとシラーが共作した諷刺短詩集。彼らに敵対する文人たちを辛辣に攻撃している。
記者ヘンニングス
Hennings 雑誌『時代精神』に拠ってゲーテやシラーを批判したデンマークの作家アウグスト・フォン・ヘニングス。
年報ムサゲット
Musaget ヘニングスの詩集のタイトル。学芸の女神(ムーサ)たちを従えたアポロンの別名。
時代精神
一八〇〇年に「一九世紀の精神」と改題されたヘニングスの雑誌。
パルナッソス
Parnassos ギリシア神話でアポロンやムーサたちが住むとされるギリシア南部の山。
くろづる
清濁あわせのむ人柄や歩き方から鶴にたとえられる宗教的作家ラヴァーターのこと。
世慣れたる人
ゲーテ自身のこと。
さんかのごい
サギの一種。単調で騒々しい論争をくり返す哲学者たちへの諷刺。
オルフォイス
Orpheus オルペウス。オルフェウス。ギリシア神話最高の詩人。音楽にすぐれ、彼が竪琴を弾き歌うと、人や動物ばかりか木も石も動いたという。
信仰箇条ある哲学者
カントやヒュームによって批判された独断論者。
理想主義者
フィヒテら観念論者。
実相主義者
知覚や経験を重んじる経験論者。
極端自然論者
神霊の存在を信じる神秘主義者。
懐疑家
ヒュームら懐疑論者。
敏捷なる人
世渡りのうまい人。
鬼火
成り上がり者。
隕星
没落した人。
肥えたる人
革命的暴徒。
チランノス
Tyrannos 暴君。専制君主。
りょうる
料理する。
わざくれ
暇つぶし。
をそ人
愚かな人。
お伽話
グリム童話に「杜《ね》松《ず》の木の話」として採られている古民謡。
死刑の執行を告げる鐘。
杖を折ってしまった
裁判官は死刑を宣告した後、杖を折るしきたりになっていた。
ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ
(Johann Wolfgang von Goethe)
一七四九―一八三二年。ドイツの詩人、作家、自然科学者、政治家。フランクフルトに生まれ、ヴァイマールに没。〈疾風怒濤〉の潮流の代表者。『若きヴェルテルの悩み』『イタリア紀行』『西東詩集』他。
森鴎外(もり・おうがい)
一八六二(文久二)年一月一九日、石見国(島根県)津和野に、藩医静男と峰子の長男として生まれる。本名、林太郎。藩校養老館で漢籍・蘭学を学んだのち、一八七二(明治五)年上京。一八八一年東京医学学校(東大医学部)予科卒業。陸軍軍医となり、一八八四年ドイツへ留学。一八八八年帰国し、以後軍医学校校長、軍医総監等を歴任。この間、自ら創刊した『しがらみ草紙』等を舞台に「即興詩人」「雁」「阿部一族」「渋江抽斎」「歴史其儘と歴史離れ」「審美論」等、翻訳、創作、評論、研究に目覚しい業績を残した。一九二二(大正一一)年七月九日萎縮腎のため没する。
本作品は一九九六年二月、ちくま文庫として刊行された『ファウスト 森鴎外全集11』を底本とした。
なお、電子化にあたり解説を割愛し、二分冊とした。
ファウスト (上)
森鴎外全集 11
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2002年1月25日 初版発行
著者 ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ
訳者 森鴎外(もり・おうがい)
発行者 菊池明郎
発行所 株式会社 筑摩書房
〒111-8755 東京都台東区蔵前2-5-3
(C) CHIKUMA SHOBO 2002