ゲーテ/井上正蔵訳
ゲーテ詩集
目 次
小曲《リート》
川のほとり
野ばら
めくら鬼
狐は死んでも皮は残る
詩神《ミューズ》の寵児
見つけたもの
似合いのひと組
生きた形見《かたみ》
だまされて
意地わるな喜び
失われた初恋
恋する人のかたわら
遠く去った恋びとに
海の凪《なぎ》
めぐまれた航路
逢うよろこびと別れ
あたらしい恋 あたらしい生
五月のうた
描いたリボンに添えて
湖上
秋のおもい
やすみなき恋
羊飼いの嘆きの歌
悲哀のよろこび
猟人《かりうど》のゆうべの歌
月に寄す
旅びとの夜の歌
団欒《まどい》の歌
さあ わが輩の合図にしたがって
空《くう》なるかな 空の空なるかな
シチリア民謡調
スイス民謡調
物語詩《バラード》
魔王
すみれ
裁きの庭
漁師
小姓《こしょう》と水車場の娘
追いかける鐘
哀歌《エレギー》
石よ 語れ
わたしは 今たのしく
十四行詩《ソネット》
大きな驚き
少女は語る
雑詩
水の上の霊の歌
航海
プロメーテウス
ガニュメート
人間の限界
神性
おとずれ
湖畔《こはん》の秋の夜
蛙
『ウィルヘルム・マイスター』から
ごぞんじですか あの国を
語れといわずに
あこがれを知る人だけが
涙とともにパンを
さびしさに身をゆだねるものは
創《つく》り出すため まとめあげるため
いつまでも地面にへばりつくな
『西東詩集』から
移住《ヘジラ》
歌とかたち
読本
わたしがどこからきたか
気まえのいいものは
とどまれば
鏡は言います
銀杏《いちょう》の葉
こんもり茂る枝のあたりに
水の白糸をちらす
ああ 西風よ
満月の夜
歌よ おまえのこころを
世のひとは
まばたき
『ファウスト』から
トゥーレの王
見るために生まれ
解説
代表作品解題
小曲《リート》
川のほとり
ながれゆけ わがいとしい歌よ
「忘却《ぼうきゃく》」の海へ ながれゆけ
もはや うたうな 恋に酔《よ》う若者も
胸ときめく乙女《おとめ》も わがいとしい歌を
それは かつて いとしいひとをうたった歌
だが そのひとは わがまごころをあざ笑った
おもえば 水に書いた歌だった
さらば ながれゆけ 水とともに
[#ここから2字下げ]
〔第一行の「わがいとしい歌」というのは、若いゲーテの『ライプツィヒ小曲集』を指すものと推定される〕
[#ここで字下げ終わり]
野ばら
子どもが ばらを
野ばらを見た
みずみずしさに
すぐ駈《か》けよって
うっとりながめた
ばら ばら 紅《べに》ばら
野に咲くばら
子どもが「ばらよ
折るぞ」といった
ばらがいうには
「記念に刺すわ
だまってませんよ」
ばら ばら 紅ばら
野に咲くばら
子どもはかまわず
野ばらを折った
ばらは さからい
刺したけれども
ただ泣くばかり
ばら ばら 紅ばら
野に咲くばら
[#ここから2字下げ]
〔ドイツの民謡「あれ野のばら」をもとにしてゲーテが民謡ふうに歌った一七七一年の作品。恋人フリデリーケとの恋を題材とし、恋人を棄てねばならなくなった若い詩人の心情がうつされている〕
[#ここで字下げ終わり]
めくら鬼
ねえ 愛らしいテレーゼさん
目かくし取れば なぜすぐに
こわい目つきをするんだろ
目かくしされた鬼のとき
たちまちぼくを追いかけて
ぼくをしっかりつかまえたのに
ぼくを上手《じょうず》につかまえて
しっかり抱いて離さない
あなたにぼくはすがりつく
こんどはぼくの鬼の番
よろこびなんぞどこへやら
あなたはぼくを突きはなす
あっちこっちと手さぐりし
ぼくのからだはくったくた
そしてみんなに笑われる
あなたがぼくを嫌《きら》うなら
目かくしされたこのぼくは
ただただ闇をゆく鬼だ
[#ここから2字下げ]
〔「テレーゼさん」と呼びかけていても、特定の女性を歌ったものではない。若いゲーテの、童謡ふうに歌いながら、恋愛の裏面を突いた作〕
[#ここで字下げ終わり]
狐は死んでも皮は残る
昼すぎにぼくら子供たちは
涼しい木《こ》かげにいた
すると愛神《アーモル》が来て いっしょに
≪狐が死んでも≫をして遊ぼうという
ぼくらははしゃいでめいめい
仲好しの少女とならんだ
愛神《アーモル》は松明《たいまつ》の火を吹き消して
言った「さあ これが蝋燭《ろうそく》さ」
いぶっているその松明を蝋燭|代《が》わりに
急いで手から手へわたす
消えたらたいへん
大急ぎで次の人におしつける
ドリリスがふざけながら
ぼくに手わたす
ぼくの指がさわったら
松明がぱっと燃え立った
ぼくの眉毛《まゆげ》を 顔をこがし
それから胸に燃えうつり
頭の上のほうまで
めらめらと燃えあがった
ぼくが消そうと叩《たた》いても
ますますつよく燃えあがる
死ぬどころか 狐のやつは ぼくのところで
ほんとに生きかえってしまったのだ
[#ここから2字下げ]
〔「狐は死んでも皮は残る」という遊戯《ゆうぎ》は、木片か蝋燭に火をつけ、しばらく燃やしてから吹き消し、それを大急ぎで、上述の詩句で始まる歌を歌って隣のものに渡す。燃えさしを消したものが負けとなる。恋の火に、それをかけて歌った若いゲーテの作〕
[#ここで字下げ終わり]
詩神《ミューズ》の寵児《ちょうじ》
野を森を ここかしこ
わが歌をくちずさみ
さまよえば みちみちの
ものはみな いつしか
節《ふし》をあわせ歌い出し
拍子をとり 踊り舞う
待ちかねた うららの春
咲きそめた園の花
ひらき出た枝の花
わが歌に聞き惚《ほ》れる
花のゆめを歌おう
やがてくる冬の日も
凍《い》てついた野の果てに
ゆめの歌 うたうとき
うつくしく花はひらき
その花が消えても
あたらしい春のいろ
たがやす丘《おか》にきざす
菩提樹《ぼだいじゅ》にやすらう
若人《わこうど》は わが歌に
さそわれて たちまちに
浮かれ出し舞い踊る
かたくなのおとこらも
かたいじのおんならも
なつかしい詩の神よ
わたしこそ あなたの寵児《ちょうじ》
家をはなれ 身もかるく
谷をわたり山をこえる
いつの日に憩《いこ》えよう
あのひとの胸に抱かれて
[#ここから2字下げ]
〔若いゲーテが詩人としての天分を自覚し、その天分の対象として外的自然を観察するようになった、一七七五年の作と推定されている。山野を歩きまわり、自己を大自然のなかへ開放することによって、人生の喜びを新たに感ずる詩情の表現。ここでは歌のリズムが踊りと和していること、詩神《ミューズ》の寵児たるゲーテが、やがてそのリズムを自然と一体化することを、軽妙に歌っている〕
[#ここで字下げ終わり]
見つけたもの
森をひとりで
さまよった
なにかもとめる
あてもなく
見れば木《こ》かげに
小《ち》さな花
つぶらな瞳
星のよう
折ろうとすれば
花はなげき
「折られてしぼむ
運命《さだめ》とは」
根こそぎ掘って
その花を
わが家《や》の庭へ
持ちはこび
しずかな場所に
植えつけた
さてその花は年ごとに
ますますきれいに咲いている
[#ここから2字下げ]
〔初期の「野ばら」とどこか通ずるような、一八一三年作の民謡調の作品。ゲーテが妻クリスティアーネにおくったもの。「小《ち》さな花」というのは、二十五年前に知り合った当時の女工クリスティアーネを象徴する〕
[#ここで字下げ終わり]
似合いのひと組
かわいい釣鐘草《つりがねそう》が
地面からあらわれて
たちまち芽をふき
うつくしい花をつけます
そこへ蜜蜂がきて
上手《じょうず》に蜜をすすります
こうしてふたりが生きるのも
ほんとに相手のためでしょう
[#ここから2字下げ]
〔一八一三年の作と推定され、目的にかなった自然界の創造の営みを、科学者の目でとらえながら、やさしくわかりやすく歌った詩〕
[#ここで字下げ終わり]
生きた形見《かたみ》
恋びとのリボンや胸飾りをむりやりに貰《もら》おうとして
恋びとに叱《しか》られながら きみたちはやっと手に入れる
どうしてもそうするより仕方《しかた》がなかったのだろう
きみたちの気やすめは認めよう
ヴェール マフラー 靴下留め そして指環
どれひとつとしてつまらぬものではない
だが このぼくは それだけでは足りないのだ
ぼくが恋びとに貰《もら》ったのは
生きたからだの一部分だ
もっとも 彼女も少しは嫌《いや》がったけれど
すると以前に貴《とうと》く見えた品々も
あんながらくたと笑いたくなる
恋びとはぼくに髪の毛をくれたのだ
美しい顔をひきたてる髪の毛を
恋びとよ たといぼくがあなたを失っても
ぼくがあなたを何から何まで手放すわけではない
あなたの聖《きよ》らかな形見《かたみ》が残っている
ぼくが眺《なが》め 手にとり そしてそれにキスをする――
この髪の毛とぼくの運命は同じものだ
かつてこの髪の毛もぼくも同じく喜んで
あなたを求めた あなたは去ったが
髪よ かつてぼくといっしょに彼女に寄りそい
ゆたかなあの頬《ほお》を撫《な》で
甘《あま》い欲望にさそわれて
豊満な胸にすべった
おお 嫉妬《しっと》を知らないぼくの恋敵《こいがたき》よ
おまえはなんとすばらしい贈り物か なんという美しい獲物《えもの》か
ぼくの幸福とよろこびを思い出させてくれ
[#ここから2字下げ]
〔ゲーテのライプツィヒ時代の詩作を記念する、『ライプツィヒ小曲集』のなかの一篇。アナクレオン詩ふうの作で、ゲーテ自身の後年のことばによれば、心情より悟性《ごせい》のほうが働いている。しかし、聖なる形見として、恋人の生命の一部であった髪を礼賛するこの詩は、純情にあふれている〕
[#ここで字下げ終わり]
だまされて
となりの あのひとの
窓のカーテンが動いている
きっと こっちを覗《のぞ》いてるんだな
ぼくがどんな様子かと
昼間ぼくが妬《や》いた
恨《うら》みの思いが いまでも
ぼくの心にふかく
うずいているかどうかと
ああ だが あの美しいひとは
そんなことはてんで気にしていなかった
よく見ると 窓のカーテンに
夜風がたわむれていただけだ
[#ここから2字下げ]
〔一八〇三年に発表された。一八〇二年作と推定されている。ゲーテは、この詩に出てくる隣家の美しいひとを女流肖像画家ルイーゼ・ザイトラーだとほのめかしたことがあるが、一般の青年と隣家の娘と読んで一向にさしつかえない〕
[#ここで字下げ終わり]
意地わるな喜び
最後の息が絶えたなら
わたしは胡蝶《こちょう》のすがたに変わり
牧場を越え 泉のほとりに飛んでゆこう
丘をめぐり森をよぎって
なつかしい思い出の場所へひらひらと
歓喜《かんき》のきわみを味わったところへ
そこで睦《むつ》み合っている二人《ふたり》に忍び寄り
美しい娘があたまに飾った
花環にとまって見|下《お》ろすと
死んでわたしから消え去った一切《いっさい》を
いま ありありと目の前に見て
わたしは昔の日のように幸福を感じる
娘が無言でにっこりして若者を抱くと
若者は慈悲ぶかい神が与える「時間」を
うっとりと味わいつづける
若者のくちびるは娘の胸からくちびるへ
くちびるから手へとびうつる
すると胡蝶のわたしは若者のそばをひらひら飛ぶ
娘は胡蝶のわたしに気づき
恋人の欲望にわななきながら立ちあがる
そのとき わたしも逃《の》がれて飛び去る
「ねえ あの蝶を取ってちょうだい
ねえ あの蝶が欲《ほ》しいの
あの 小さなきれいな蝶が」
[#ここから2字下げ]
〔『ライプツィヒ小曲集』のなかの一篇。この詩に出てくる胡蝶は、不死の霊のシンボルである。胡蝶になったゲーテは、若者の要求のまえにおののく少女のそばへ飛んでゆき、二人のあいだで「意地わる」をするといった、いたずらのなかに人生の何ものかを暗示する詩〕
[#ここで字下げ終わり]
失われた初恋
ああ 誰《だれ》がとりかえしてくれよう あの美しい日々を
初恋のあの日々を
ああ 誰がとりかえしてくれよう いとしいあのころの
わずかな一時《ひととき》を
わたしは痛手をわびしくやしないながら
悲しみをいつまでも新《あら》たにして
失った幸福をなげいている
ああ 誰がとりかえしてくれよう あの美しい日々を
いとしいあのころを
[#ここから2字下げ]
〔ゲーテがある歌劇のために一七八五年に執筆したといわれる詩。もとはもっと長かったもの。しかし、これは独立した小曲としてじゅうぶんに存在の価値をもつ〕
[#ここで字下げ終わり]
恋する人のかたわら
わたくし あなたのことを思い出しますの 太陽のかすかなひかりが 海からかがやいてまいりますと
わたくし あなたのことを思い出しますの 月のほのかなひかりが いずみの水に そのかげをうつしますと
わたくし あなたのおすがたが目に見えますの とおい道に ほこりがあがりますと
夜がふけて せまい道のうえで 旅びとが おののいていますと
わたくし あなたのお声が聞こえますの むこうでにぶい音をたてて 波がたかくなりますと
わたくし しずかな公園をあるきながら よく耳をかたむけますの すべてがしずまりかえりますと
わたくし あなたのおそばにおりますの どんなにとおく離れていても あなたは わたくしのそばにいらっしゃいます
太陽がしずみ まもなく星がかがやきます ああ あなたがここにおいででしたら
[#ここから2字下げ]
〔一女性に仮託《かたく》して、自分の恋の思いを語るために詩の構想が慎重に考慮され、全体が客観的に美しい均衡を保っている。ある女性が遠く離れている恋人を思い、たえず恋人の近くにいる自分を意識する形式をとっているが、その裏にゲーテ自身の心の奥底を歌っている〕
[#ここで字下げ終わり]
遠く去った恋びとに
では ほんとうに ぼくはあなたを失ってしまったのだろうか
おお 美しいひとよ あなたは ぼくから逃げ去ってしまったのか
聞きなれたぼくの耳に あなたのことばが あなたの声が
ひとつひとつ いまなお聞こえてくる
あおい空間に影をとどめず
雲雀《ひばり》がたかくさえずるとき
朝の虚空《こくう》に見入ってむなしく
雲雀のありかをもとめる旅人のまなざし
そのように ぼくのまなざしは気づかわしげに ここかしこ
野やしげみや森のなかを追いもとめる
ぼくの歌は すべてあなたを呼ぶ
おお 恋人よ 帰っておくれ ぼくのもとに
[#ここから2字下げ]
〔成立年代は不明だが、一七八九年に発表。第二節の「雲雀」の比喩的用法は、『ファウスト』の第一〇九四〜九五行にも見られる。「遠く去った恋びと」が具体的には誰《だれ》を指すかわからないが、おそらくリリーと推定される。しかし、なにも特定の人物を考えずにこの作品はじゅうぶんに味わうことができる〕
[#ここで字下げ終わり]
海の凪《なぎ》
しずまりかえった海は
凪《な》いで油を流したよう
水夫《かこ》が気づかわしげに
なめらかな水面を見る
風はまったく絶えて
無気味な死のしずけさ
途方《とほう》もない大きな海に
ゆらぐ波のかけらもない
[#ここから2字下げ]
〔一七八七年、ゲーテがイタリアのナポリからシチリア島へ渡ったときの体験にもとづいて、成ったといわれている詩。一七九五年以前に作られたものらしい〕
[#ここで字下げ終わり]
めぐまれた航路
霧は散り
空はうららか
|風の神《エーオルス》がそっと
風袋《かざぶくろ》の紐《ひも》をとく
さらさらと流れる風
水夫《かこ》が勇み立つ
いそげ いそげ
船首《ふなさき》に波は割れ
近づく遠景
はや陸地が見える
[#ここから2字下げ]
〔一七九五年以前の作品。「風の凪」と一対をなす詩で、成立の動機も同じである〕
[#ここで字下げ終わり]
逢《あ》うよろこびと別れ
心は逸《はや》った いざ 馬へ
と 思うまもなく まっしぐら
すでに夕闇は大地をねむらせ
山々には夜の帳《とばり》がかかっていた
樫《かし》の大木は霧の衣をまとい
行く手に立ちはだかる巨人のよう
木立《こだち》のしげみから幾百の黒い瞳で
闇がのぞいていた
雲の峯から月がかなしげに
靄《もや》をとおしてこちらを見た
風がかすかに翼をならして
ぼくの耳に不安な音をひびかせ
夜が数千の怪物をつくり出した
だが ぼくの心は爽快《そうかい》でたのしかった
ぼくの血管には なんと熱い血が
ぼくの胸には なんとはげしく燃える炎《ほのお》が
ああ あなたに逢えた あなたのやさしい瞳から
なごやかなよろこびがながれてきた
ぼくの心臓が あなたの心臓に寄り添う
ぼくの呼吸が ひと息ひと息あなたをもとめる
春の陽《ひ》ざしのような うつくしい
ばら色が あなたの愛らしい頬《ほお》をそめる
ぼくにそそがれる こまやかな情愛を
神々よ ぼくは願ったのだ それに値《あたい》しないのに
けれども 朝の陽《ひ》がのぼると
別離のおもいが もうぼくの胸をしめつけた
あなたの接吻《くちづけ》に なんというよろこび
あなたの眼差《まなざし》に なんという悲しみ
ぼくは出かけた あなたはだまって目を伏せ
泣きぬれた瞳で ぼくを見送っていた
ああ 愛されることは なんと幸せだろう
そして 神々よ 愛することは なんと幸せだろう
[#ここから2字下げ]
〔一七七一年、ゼーゼンハイムで清純な少女フリデリーケと恋愛した体験から生まれた詩。一夜のできごとに圧縮し、短いことばでテンポの早い動作が活写され、自然が有情化されている〕
[#ここで字下げ終わり]
あたらしい恋 あたらしい生
心よ わが心よ どうしたというのだ
こんなにはげしく おまえが たぎるとは
まったくちがった あたらしい生
これが おれの心だとは思えない
おまえが愛していたすべては消え失せ
おまえが憂《うれ》えていたものも消え去り
おまえの努力も おまえの落ち着きもなくなった
どうして おまえはそうなったのだ
春の花のすがた
あの愛らしいおもかげ
まごころと情愛にあふれたまなざしが
かぎりない力でおまえを縛《しば》りつけたのか
おれはあのひとから身をすみやかに引きはなし
思いきって逃《のが》れ去ろうとするが
またたくまに ああ おれのゆく道は
あのひとのところへ戻《もど》ってしまう
そして 断《た》とうとして断ちきれない
この 魔の細糸で おれを
あの愛らしい いたずらな娘が
たあいもなく しっかりつないでしまった
もう あのひとの魔力の圏《わ》のなかで
あのひとの意のままに生きるほかはない
ああ なんという大きなこの変わりよう
恋よ 恋よ おれを縛《いまし》めから解いてくれ
[#ここから2字下げ]
〔一七七五年、リリーと恋におちた初期の作〕
[#ここで字下げ終わり]
五月のうた
おお すばらしい
自然のひかり
陽《ひ》はかがやく
野は 笑う
枝々に
花はひらき
しげみには
鳥のさえずり
あふれ出る
胸のよろこび
大地よ 太陽よ
幸福よ 歓喜《かんき》よ
愛よ 愛よ
あの山々の
朝の雲のような
金色《こんじき》のうつくしさ
そのすばらしい恵みは
さわやかな野に
花にけぶる
まどかな地に
少女よ 少女よ
ぼくはきみを愛している
おお きみの目はかがやく
きみはぼくを愛している
ひばりが
歌と微風を
朝の花が
空の香《かおり》を愛するように
ぼくはきみを愛する
あつい血をたぎらせて
きみはぼくに青春と
よろこびと勇気をあたえ
あたらしい歌に
舞踏《ぶとう》にぼくをかりたてる
きみよ 永遠に幸福であれ
ぼくへの愛とともに
[#ここから2字下げ]
〔若いゲーテが、一七七一年に、これまでのアナクレオン的な技巧を打ち破って新生命をひらいた詩。恋人フリデリーケを対象にしながら、自然と愛との美しい融合を、きわめて簡潔に歌った、明るいリズミカルな詩〕
[#ここで字下げ終わり]
描いたリボンに添えて
かわいい花 かわいい葉を
やさしい わかい 春の神が
かろやかな指でたわむれ
ぼくの薄紗《はくさ》のリボンに撒《ま》きちらす
南西の風よ 翼にのせて このリボンを
恋びとの着物に巻きつけておくれ
すると あのひとは鏡のまえにゆく
心はうきうき いそいそと
薔薇《ばら》にからだをつつまれた
薔薇さながらに はなやぐ姿
ああ ひと目でも いとしいひとを
それで ぼくは満足する
ぼくの心が感じるものをあなたも感じて
ぼくに あなたの手をください
ぼくらふたりをむすぶリボンは
よわい薔薇のリボンではないように
[#ここから2字下げ]
〔リボンに絵を描いて愛人に贈ることが流行していたが、一七七一年、ゲーテもこの流行にならい、薄物のリボンに薔薇の花を描いて、ゼーゼンハイムの恋人フリデリーケに贈った〕
[#ここで字下げ終わり]
湖上
いま あたらしい糧《かて》 あらたな精気を
ぼくは胸に吸う ひろびろとした世界から
ぼくをふところに抱きよせる自然の
なんというやさしさ うつくしさ
櫂《かい》の拍子にあわせて
波がぼくらの小舟をゆする
雲間《くもま》に高くそびえる山々が
ぼくらの舟路をむかえる
ああ どうしてぼくの眼はうつむいてしまうのだろう
黄金の夢よ また去来《きょらい》するのか
消え去れ 夢よ たとい金色《こんじき》にかがやいても
この湖上に 愛もいのちも生まれるのだ
波のうえには
光が数千の星のようにくだけ
狭霧《さぎり》がたちこめ
周囲の高い山々はかすむ
潮風がそよぎ
かげふかい入江をわたり
水面に黄いろい麦が
あざやかにうつる
[#ここから2字下げ]
〔一七七五年、ゲーテがスイスのチューリヒ湖に船をうかべたときの感動から作られた。清新な内容と躍動《やくどう》する韻律で、抒情詩の発展に新機軸を打ち出している。第二節の「黄金の夢よ また去来するのか」というのは、リリーとの恋の思い出がその背後にひそんでいる〕
[#ここで字下げ終わり]
秋のおもい
窓のうえの
ぶどう棚にむらがる葉よ
濃緑《のうりょく》の色をふかめよ
みずみずしく垂《た》れさがれ
つぶらな ぶどうの実《み》よ
日ごとに熟《う》れて いよいよ輝け
母なる太陽の秋の日射《ひざ》しが
おまえらをはぐくむ
ゆたかな大空のあたたかい
実《みの》りの風が おまえらにそよぎ
なごやかな月の
ふしぎな微光が おまえらを冷やす
そして ああ わが目にあふれる
かぎりない いのちの
愛の涙が
おまえらをうるおす
[#ここから2字下げ]
〔リリーとの別れを予感して作られたと推定される一七七五年の作。しかし、詩そのものは、結実するぶどうのはちきれるような生命力に、秋の日射しが流れ入り、さらに冷えびえとする月光の魔のような吐息が吹きこんで、秋の感情を象徴的にあらわしている。「湖上」とともに、自由詩の名作として知られている〕
[#ここで字下げ終わり]
やすみなき恋
雪に 雨に
風にさからい
谷間の煙
濃霧をおかして
どこまでも どこまでも
やすまず 憩《いこ》わず
生きる身の
喜びよりも
苦しみに耐えて
わたしは 自分を鍛えたい
心から心へと
愛をかたむけることが
ああ どうしてこんな類《たぐい》ない
苦しみをつくるのか
どうやって逃《のが》れよう
森へ行ったらいいのか
そんなことが なんになろう
愛よ おまえは
生の王冠
やすみなき幸せ
[#ここから2字下げ]
〔一七七六年、シュタイン夫人にたいして燃えはじめた恋の感情を、率直に歌った作品だといわれている。「どこまでも どこまでも/やすまず 憩《いこ》わず」というのは、ゲーテらしい、生命そのものの活動と恋愛の真実を告げる詩句〕
[#ここで字下げ終わり]
羊飼いの嘆きの歌
むこうの山のいただきに
おいらは千度もたたずんだ
手にした杖によりかかり
はるかに谷を見おろして
犬に見張りをしてもらい
羊の群れを追いながら
おいらは山から降りていた
ぼんやりとして知らぬまに
ふもとの牧場《まきば》いちめんに
きれいな花が咲いていた
おいらはその花つんでいた
誰《だれ》にやろとのあてもなく
それからはげしい夕立を
木《こ》かげにおいらは避けていた
あそこの戸口は閉じていた
むかしのことは夢のよう
ああ うつくしい虹《にじ》が出た
あのなつかしい家のうえ
でも あのひとはもういない
はるかな国へ行ったんだ
見知らぬ国へ行ったんだ
おそらく海も越したんだ
羊の群れよ 幸せは
消えちまったよ せつないなあ
[#ここから2字下げ]
〔素朴で純真な民謡調の詩。二度と帰らない恋の悲しみに沈む羊飼いを歌っているのだが、心の秘密はヴェールにつつまれ暗示的に示されている〕
[#ここで字下げ終わり]
悲哀のよろこび
かわくな かわくな
つきぬ愛の なみだよ
ああ なみだが なまじ かわけば
世界は すさんで うつろに 見えるのだ
かわくな かわくな
かなしい 愛の なみだよ
[#ここから2字下げ]
〔成立年代は不明だが、この作品は若き日のゲーテの作であることはまちがいなく、この詩のムードは、「秋のおもい」の「かぎりない いのちの/愛の涙が/おまえらをうるおす」に通ずるものがある〕
[#ここで字下げ終わり]
猟人《かりうど》のゆうべの歌
猟銃《つつ》に弾《たま》こめ 野をゆくおれは
足をしのばせ 心は はやる
すると おまえの やさしい顔が
おれのゆくてに ほのかに浮かぶ
いまごろ おまえは そぞろ 谷間や
なつかしい野を 歩いていよう
だが ああ おれの こんな姿が
おまえの瞳に うつるだろうか
おまえのもとを 去らねばならず
いきどおったり ふさぎこんだり
世をはかなんで 東へ西へ
さすらい歩く男のすがたが
おまえのことを 想《おも》っていると
いつしか 月に 見入る心地だ
しずかな平和が ただよってきて
わが身の上を 忘れてしまう
[#ここから2字下げ]
〔物語の形式による告白詩。猟人はゲーテ自身にほかならない。恋人リリーとの訣別《けつべつ》の苦しみを歌った作。シュタイン夫人との関係を歌っているとの説もある〕
[#ここで字下げ終わり]
月に寄す
ふたたび 木立《こだち》や谷を
おぼろな しずかな光で満たし
月よ おまえはいつしかまた わたしの心を
すっかり解きほごす
おまえは なごやかなまなざしを
わたしのいる場所にそそいでくれる
あたかも 友だちの目が
おだやかに わたしの運命を見まもるように
うれしかった日 悲しかった日の
余韻《よいん》がことごとく胸によみがえり
よろこびや苦しみの波間を
わたしは ただひとりさすらった
ながれゆけ なつかしの川よ
もう わたしは たのしくはなれない
戯言《ざれごと》も接吻《くちづけ》もながれ去り
愛のまごころも 水泡《うたかた》のように消えた
だが かつて わたしは持っていたのだ
かけがえのないものを
けれども それが忘れられぬ
心の苦しみになろうなどとは
流れよ さらさらと 谷をながれよ
やすみなく 憩《いこ》いなく
流れよ さらさらと わが歌の
調べとなって ささやけ
冬の夜のあらしに
水たぎり あふれるときも
春の日のつぼみひらき
そのあたり 涌《わ》き水のながれるときも
ああ なんと幸せなことだろう
世を避けて うらみもなく
胸のおくに ひとり
友をいだき そうして その友と
世の人に知られず
気づかれもせず ひそかに
夜もすがら こころの迷路《まよいじ》を
ゆきつもどりつするものは
[#ここから2字下げ]
〔失恋のためイルム川に投身自殺したワイマル宮廷の若い女官のできごとがこの詩の成因であるという解釈もあり、また、シュタイン夫人への恋慕《れんぼ》の情から作られたという見方もあるが、おそらく内面的に両者がつながっていて創作されたものであろう。柔らかな筆触でえがかれているこの詩は、詩人がおぼろ月に照らされ、イルム川のほとりを逍遥《しょうよう》するさまが述べられているが、月光とイルム川の川音とが作者の心琴にふれて、神秘な音楽をかなでながら、人生の省察に読者をいざなう。第八節の「友をいだき」の友は、恋びとであると同時に月にも通ずる詩語と解せられる〕
[#ここで字下げ終わり]
旅びとの夜の歌
山やまのそら
しずまり
こずえに
かぜの
そよぎもみえぬ
鳥のこえ森にしずむ
ああ やがてもう
おまえも やすらう
[#ここから2字下げ]
〔イルメナウの町の近くにあるキッケルハーンの丘の上で歌った、一七八〇年〔八三年ともいわれる〕の作品。この詩に出てくる旅びとは、ゲーテ自身と取ってさしつかえない〕
[#ここで字下げ終わり]
団欒《まどい》の歌
さあ わが輩の合図にしたがって
さあ わが輩の合図にしたがって
きみらの青春の日を活用したまえ
若いうちにもっと利口《りこう》になりたまえ
運命の大きな天秤《てんびん》のうえでは
針がまんなかに止まることはめったにない
きみはのぼるか下《お》りるか どちらかだ
きみは支配し獲得するか
服従し敗北するかだ
忍従するか それとも勝利するか
鉄砧《かなじき》か鎚《つち》か どちらかだ
[#ここから2字下げ]
〔一七八七年の作。もともと散文喜劇『大コフタ』に入れられ、主人公が歌うはずだった「コフタの歌」の第二詩。コフタとは、フリーメーソンの秘密結社の首領の別名で、詐欺師《さぎし》であった。コフタの口を借りて、人間の生存競争における勝利と敗北のわかれを教訓的に歌ったもの〕
[#ここで字下げ終わり]
空《くう》なるかな 空の空なるかな
万事|空《くう》だともう決めた
愉快《ユフヘー》!
だからこの世はおもしろい
愉快《ユフヘー》!
おれの仲間になりたけりゃ
さかずき合わせて歌うんだ
残った酒はからにしろ
むかしは金《かね》を追っかけた
愉快《ユフヘー》!
しょせん 青菜《あおな》に塩さ
残念《オー・ウエー》!
金はころころ転《ころ》がるよ
こっちで掴《つか》むと思ったら
あっちでさっさと逃《に》げてゆく
こんどは女を追っかけた
愉快《ユフヘー》!
おかげでさんざ苦労した
残念《オー・ウエー》!
浮気《うわき》な女《やつ》にゃ逃げ出され
堅気《かたぎ》な女《やつ》はうんざりさ
一番いいのは手も出ない
こんどは旅と決めこんだ
愉快《ユフヘー》!
故郷《くに》のしきたり忘れ去り
残念《オー・ウエー》!
行くさきざきで落ちつけず
食事はまずく眠られず
誰《だれ》ともぴったりいきはせぬ
こんどは出世をかんがえた
愉快《ユフヘー》!
たちまち人に追い越され
残念《オー・ウエー》!
こっちが頭角《とうかく》あらわすと
みんな横目でじろじろ見
いろんな悪口言いやがる
それから戦《いくさ》に身を入れた
愉快《ユフヘー》!
どんどん勝ってそのあげく
愉快《ユフヘー》!
敵の領地へのりこんだ
こっちにいいことばかりはない
おれは片足うしなった
そこで一切《いっさい》あきらめた
愉快《ユフヘー》!
すると世界はおれのもの
愉快《ユフヘー》!
歌も宴《うたげ》ももう終わるぞ
残った酒はからにしろ
さあ さかずきを傾けろ
[#ここから2字下げ]
〔一種のパロディー〔戯詩〕である。一八〇六年の作品。投げやりな詩法で歌いながら、ゲーテの「諦念《ていねん》」の思想による自由への賛美がうかがえる〕
[#ここで字下げ終わり]
シチリア民謡調
黒い かわいい瞳よ
おまえがウインクするだけで
どんな家も どんな都も
くずれおちる
おいらの心の
がんじょうな壁よ
じゅうぶん用心するんだぞ
くずれおちたらペチャンコさ
[#ここから2字下げ]
〔制作年代は不明だが、一八一一年の少し前と推定されている。イタリアの、ある有名な民謡の作りかえであるという説がある〕
[#ここで字下げ終わり]
スイス民謡調
丘に
すわって
見てると
鳥が
歌って
はねて
巣を
かける
庭に
立って
見てると
蜂《はち》が
ぶんぶん
うなって
巣を
つくる
畑に
出て
見てると
蝶《ちょう》が
蜜を吸い
ひらひら
きれいに
舞う
そこへ
ハンスが
やってくる
ほら見ろ
わははは
ふたりは
笑って
たわむれる
[#ここから2字下げ]
〔制作年代は不明だが、一八一一年より少し前であると推定されている。ドイツ民謡集『少年の魔法の角笛』にこの詩と部分的に似たものがある〕
[#ここで字下げ終わり]
物語詩《バラード》
魔王
こんな夜|更《ふ》けに風吹くなかを
馬をとばして行くのは誰《だれ》だ
馬には父が子供をしっかり
大事《だいじ》にかかえて乗っているのだ
「どうして怯《おび》えて顔をかくすのだ」
「父《とう》さん 魔王が見えないの
あの冠《かんむり》とあの長い裾《すそ》」
「なんでもないよ 霧のながれだ」
「いい子じゃ おいで わしといっしょに
たのしい遊戯《ゆうぎ》をして進ぜよう
きれいな花は岸辺にあふれ
家《うち》には金の着物がどっさり」
「父《とう》さん 父さん 聞こえないかい
魔王が小声でぼくに言うのが」
「落ち着くんだよ なんでもないよ
枯れ葉にざわつく風の音だよ」
「いい子じゃ 行こう わしといっしょに
うちの娘によく世話《せわ》させる
娘ら夜ごと音頭《おんど》をとって
歌や踊りで寝かせてくれる」
「父さん 父さん 見えないのかい
あそこのかげに魔王の娘が」
「見えるよ おまえ よく見えるとも
古い柳がひかってるんだよ」
「かわいい子供じゃ きれいな子供じゃ
いやというなら 無理に連れて行く」
「父さん 父さん 魔王がぼくに
つかみかかって乱暴するんだ」
父はふるえて馬を駆《か》りたて
うめく子供をしっかり抱《かか》え
やっとのことで家にもどった
腕のわが子はもう死んでいた
[#ここから2字下げ]
〔シューベルトの作曲で有名な物語詩。一七八二年の作品。デンマークの民間の物語詩からヒントを得てつくられた。「漁師《りょうし》」と同じく、自然の神秘的な、悪魔的な力が歌われている〕
[#ここで字下げ終わり]
すみれ
すみれが野原に咲いていた
人に知られず ひっそりと
ほんに かわゆくしおらしく
そこへ牧場の娘さん
心もかるく 身もかるく
歌をうたってすたすたと
野原のほうへやってきた
「ああ」と すみれは考えた
「わたしはきれいな花になり
ほんのしばしの間《あいだ》でも
かわいいあの娘《こ》の手につまれ
胸にしっかり抱かれたら
しおれたところでかまわない
わずかの間《ま》でも本望《ほんもう》だ」
ああ だが娘は来たけれど
すみれの花には気もとめず
あわれなすみれを踏みつけた
倒れて息も絶《た》えだえに
「わたしは死んでも怨《うら》まない
あの娘《こ》に踏まれて死ぬからは」
すみれは言った うれしげに
[#ここから2字下げ]
〔一七七三年に書いた歌劇「エルヴィンとエルミーレ」でエルミーレの歌う詩〕
[#ここで字下げ終わり]
裁きの庭
わたくしのおなかの子が誰《だれ》の子か
わたくしは申しあげられませぬ
売女《ばいた》め と唾《つば》をかけられますが
わたくしは けっしてふしだらな女ではございませぬ
誰とちぎりを重ねたか わたくしは申しあげられませぬ
それはやさしい立派《りっぱ》なお方《かた》
その方《かた》が胸に黄金を飾ろうと
身に藁《わら》をまとおうと少しも変わりはありませぬ
嘲《あざけ》りや侮《あなど》りを受けるべきなら
わたくしひとりで受けましょう
わたくしもあのひとも たがいによく知り合っております
このことは 神さまもごぞんじでいらっしゃいます
牧師さま お役人さま
後生《ごしょう》ですから もう何もお訊《たず》ねくださいますな
これはわたくしの子 どこまでもわたくしの子です
皆さまがたとて それをどうにもできますまい
[#ここから2字下げ]
〔一八一五年発表。封建時代のいわゆるお白洲《しらす》の場面における犠牲者としての哀れな女の、女らしい忍従《にんじゅう》のたたかいが再現されている〕
[#ここで字下げ終わり]
漁師《りょうし》
水がざわめき潮《うしお》は満ちる
水際《みぎわ》にひとり漁師がすわり
身じろぎもせず浮標《うき》を見ていた
つめたい風が胸にしみ入り
しずかに様子をうかがっていた
波はたかまり四方に割《さ》けて
海のなかから人魚がひとり
水したたらし姿をあらわす
人魚は歌い人魚は語った
「おぞましき人間《ひと》のたくみに
わが族《やから》をおびきよせて
業火《ほのお》もて焼かんとするや
水底《みなそこ》の魚《うお》のくらしの
めでたさをもしも知りなば
汝《なれ》もまた海へくだりて
汝《な》がなやみ必ずいやさん
陽《ひ》も月も海にしずみて
あたらしくよみがえるにや
その面輪《おもわ》 波のいぶきに
うつくしく かがやき昇る
そらいろの濡《ぬ》れて明るき
青き水 汝《なれ》さそわずや
とこしえの露にうつれる
汝《な》が面《おもて》 汝《なれ》さそわずや」
水がざわめき潮《うしお》が満ちて
漁師《りょうし》の素足は水につかった
恋しいひとに呼ばれたように
漁師の胸はあこがれに燃えた
人魚は語り 人魚は歌った
あわれ 漁師は心うしない
招きよせられ みずから沈み
ついに姿は見えなくなった
[#ここから2字下げ]
〔成立年代は不明だが、一七七八年ごろの作品といわれている。「魔王」と双璧《そうへき》をなすドイツ国民詩。水の精、水の妖魔を歌った有名な詩で、自然の神秘、不可抗力を物語詩にまとめた作品〕
[#ここで字下げ終わり]
小姓《こしょう》と水車場の娘
[小姓]
どこへ行きなさる
粉屋の娘|御《ご》
せめて名なりと
[娘]
リーゼでございます
[小姓]
どこへ行きなさる
熊手《くまで》かかえて
[娘]
うちの畑へ
うちの野へ
[小姓]
ひとりでお行きなさるのか
[娘]
乾《ほ》し草寄せに
熊手をもってまいります
すぐわきの梨畑の
梨が熟《う》れましたので
それをもぎにまいります
[小姓]
そこらに静かな小屋なりと
[娘]
あります二つ
畑の隅《くろ》に
[小姓]
身共《みども》はあとから行くほどに
暑い日盛りその小屋に
そなたといっしょにかくれよう
そこでたのしくゆっくりと
[娘]
世間がうるそうございます
[小姓]
やさしく抱いてしんぜよう
[娘]
あれ めっそうな
粉屋の娘に言い寄る男《ひと》は
すぐに人目《ひとめ》につきまする
黒い立派《りっぱ》な召し物が
白く汚《よご》れて勿体《もったい》ない
われ鍋《なべ》にとじ蓋《ぶた》とやら
これがわたしのさだめです
わたしの相手は水車場の若い衆《しゅ》
粉をつけても汚れませぬ
[#ここから2字下げ]
〔一七九七年の作。はじめは、物語にするはずの題材を詩化したもの。封建時代の階級のへだたる男女、とくに身分のいやしい娘の貞潔さが、やや誇張的にうつされている〕
[#ここで字下げ終わり]
追いかける鐘
教会なんかごめんだと
日曜ごとにだだをこね
いつも野原へ逃げてった
そんな子供がむかしいた
母は困ってこう言った
「ほら 鐘が鳴る 来い来いと
お前がいやでも行かないと
鐘がお前を連れにくる」
子供は平気で「釣鐘《つりがね》は
吊《つ》ってあるから来るもんか」
とばかり野原へ飛んでった
学校が退《ひ》ける時のよに
「もう鐘なんか鳴り止んだ
母《かあ》さんでたらめ言ったんだ」
だがふり向くとおどろいた
頭をふりふり鐘がくる
鐘が走るぞ 嘘《うそ》のよう
子供は仰天《ぎょうてん》 目をまわす
逃げても逃げても夢のよう
鐘がいまにもかぶさりそう
やっとのことで身をかわし
どんどん駈《か》けてどこまでも
野山や藪《やぶ》を走りぬけ
逃げこんだのが教会さ
それから日曜祭日に
子供はこのこと忘れずに
いつも教会へ行ったとさ
鐘がしずかに鳴り出すと
[#ここから2字下げ]
〔一八一三年作。実際に教会の鐘を恐れたことのある少年の話を聞いて、これをもとにしてゲーテが作ったといわれる一種の童詩〕
[#ここで字下げ終わり]
哀歌《エレギー》
石よ 語れ
石よ 語れ おお 高い宮居《みやい》よ 話しかけよ
大路《おおじ》よ 一言《ひとこと》語れ ああ ゲーニウスよ 身じろぎもしないのか
たしかに 永遠のローマよ 聖なる城壁の中ですべては 精気にあふれているのに
ただ わたしにだけ おまえは しずかに沈黙をまもっている
ああ 誰か わたしに囁《ささや》きかけるものがあるだろうか わたしはどの窓に見るだろうか
いつの日か わが胸を焼き よみがえらす やさしい女《ひと》の顔を
わたしがたえずその女《ひと》のもとに行き その女《ひと》のもとから帰る道 貴《とうと》い時間を惜しみなく捧げる
その道を 予感できないのだろうか
思慮ある人が うまく旅を利用するように
わたしは 教会や 宮殿や 廃墟《はいきょ》や 円柱にいまなお見入っている
だがしかし そうした時もやがて過ぎよう そのときローマの霊にきよめられた わたしを迎え入れてくれる
ただ一つの神殿は アーモルの神殿だけだろう
ローマよ ローマはもとより一つの世界でありながら もし恋がなければ
世界も世界ではないだろう しょせんローマもローマではないだろう
[#ここから2字下げ]
〔『ローマ悲歌』から。悲歌とはいっても、解放された生の喜びが大胆に歌われている。ゲーニウスはローマの守護神。アーモルはギリシア神話ではエロスのこと〕
[#ここで字下げ終わり]
わたしは 今たのしく
わたしは 今たのしく この古典的な土地で霊感にひたっている
むかしの世界や 今の世界が いよいよ声高《こわだか》にますます魅力的にわたしに話しかける
ここで わたしは指示されるまま つとめて
古人の著書をひもとき 日々あたらしい喜びを感じている
でも 夜になると アーモルがわたしに明《あ》け方《がた》までずっと別の仕事を与えるのだ
教えられるのは半分にすぎないけれども わたしは二倍の幸福を味わう
わたしが愛らしい胸のかたちを探《さぐ》りながら 手を腰の下へ滑らせてゆくとき
いろんなことがよくわかるのだ
こうやってこそ わたしは大理石像というものをはじめてほんとうに理解する わたしは考えそして比較する
触れる目で見 見る手で触れる
最愛の女《ひと》は昼間の何時間かをわたしから奪う
けれども そのつぐないに夜の時間をわたしにくれる
しかし 接吻《くちづけ》ばかりされるのではなく まじめな言葉も話される
彼女が眠りにおそわれると わたしも寝ながらいろいろ考える
いくたびか わたしは彼女の腕に抱かれながら詩をつくった
彼女の背中で指を動かし 六脚韻《ヘクサーメター》の律《りつ》をそっと数えたりもした
彼女は愛らしいまどろみのなかで呼吸《いき》をし
その息が わたしの胸の奥底まで情火をもやした
そのあいだに アーモルはランプの炎《ほのお》をかきたて 思い出していたはずだ
むかし同じことを三人の恋愛詩人にしてやったのを
[#ここから2字下げ]
〔『ローマ悲歌』の第五エレギー。きわめて官能的な面と、きわめて教養的な面をもつゲーテの二面が重なり、渾然《こんぜん》としてうつされている。最後の行の三人の恋愛詩人とは、古代ローマの三詩人、カトゥルスとティブルスとプロペルティウスのこと〕
[#ここで字下げ終わり]
十四行詩《ソネット》
大きな驚き
川は雲につつまれた岩山から躍《おど》り出て
大海に一刻もはやく注《そそ》ぎ入ろうとする
その底から底へどんな影が落ちようと
やすみなく谷間をひたすらに下る
だが 悪魔のように川の中へなだれ入るもの
それにあおられ 岩も木も激動する
河《かわ》の女神オレアスが水浴《ゆあみ》するために
流れをはばんで広い水盤をつくる
波はしぶき おどろき 退《ひ》いて
山に打ちあたり 押しもどされ
父なる海へ向かう力がさえぎられる
波はゆれながら やすらって湖となって限られ
星の群れは 光をうつしながら岩にあたる
波の輝きを 新しい生命を見まもる
[#ここから2字下げ]
〔ソネット〔十四行詩〕形式の詩篇で、一八〇七、八年ころの作。第二節の「女神オレアス」というのは、水の精の一種だが、とくに山に住むものをオレアスという〕
[#ここで字下げ終わり]
少女は語る
なんてあなた こわい顔していらっしゃるの あなたのこの
大理石の像にそっくりだわ
これと同じように わたしに何も言ってくださらない
この石の顔のほうが まだやさしく見えるわ
敵なら楯《たて》のうしろに体《からだ》をかくしもしましょう
友だちならよろこんで額《ひたい》をさし出してくださるはずよ
あたしがあなたを求めると 逃げようとなさる
でも じっとしていてください この大理石の像のように
あなたとこの像と そのどちらに身を向けたらいいの
あたしは両方から冷たくあつかわれねばならないのかしら
血のかよわぬ石からも 生きているあなたからも
もういいわ もうこれ以上言うのはやめるわ
それよりも あたしはこの石の像にいつまでもキスしていましょう
あなたが嫉妬《しっと》して あたしを引き離すまで ずっと
[#ここから2字下げ]
〔ソネット〔十四行詩〕形式の独白詩で、一八〇七、八年ころの作〕
[#ここで字下げ終わり]
雑詩
水の上の霊《たましい》の歌
人の霊は
水さながらに
天からきて
天にのぼり
そしてふたたび
地にくだる
はてしなく循《めぐ》って
切り立つ高い断崖《だんがい》から
噴《ふ》き落ちる
しろじろと光る水
なめらかな岩に
雲と散って
霧のながれとなり
あたりを軽く
ヴェールにつつみ
さらさらと
せせらぎくだる
岩がそばだち
流れをさえぎると
水は怒《いか》って泡《あわ》立ち
段をなして
淵《ふち》におちる
牧場の谷ではしずかに
平らな川床をながれ
なめらかな湖では
星という星の
おもざしを映《うつ》す
風こそは波の
いとしい恋人
風は底から
泡立つ波をかき立てる
人の霊《たましい》よ
ああ 水さながら
人の運命よ
ああ 風さながら
[#ここから2字下げ]
〔一七七九年のスイス旅行のときに見た滝の印象にもとづいて作られた作品。霊とは、自然力を擬人化《ぎじんか》して用いたもの。水の本質、水の歴史を、人間のそれとくらべて、相似性を歌っている〕
[#ここで字下げ終わり]
航海
積荷《つみに》を終えたぼくの船は 何昼夜も泊まったまま
順風を待っていた ぼくは港で
親しい仲間と酒をくみかわし
忍耐と英気をやしなっていた
友人たちはもうやりきれなくなって
「一日も早くきみを船出させ
外洋《そとうみ》へ乗り出させてやりたい 山と積まれた品々が
海のむこうで きみの到着を待っているのだ
きみが帰国すれば われわれは
きみを抱きしめ 愛と称賛をおくろう」
すると 朝早くどよめきがおこり
マドロスが歓声をあげ みんなを眠りから起こした
ひとびとの動き 活気と生動
いよいよ 順風に いま帆《ほ》はあがる
そして 帆は微風をはらんでひろがり
太陽は燃える愛の光をそそぐ
船がすすみ 空に雲はながれる
陸地の仲間たちはいつまでも見送り 希望の歌をうたい
喜びにひたりながら 想像する
船路《ふなじ》は 出港の朝のように
最初の星月夜のように 楽しくつづくものと
しかし 神が送った風の変化は
船を予定の進路からわきへ押しながす
船は風にしたがうようにみえたが
ひそかに風をあざむきコースを斜めにとって
あやまりなく目的地をめざしてすすむ
ところが 暗くとざした灰色のかなたから
嵐がしだいに近づく気配《けはい》
海鳥を海面にひくくおしつけ
ひとびとの晴れやかな胸を重く圧し
嵐がおそってきたのだ そのおそろしい怒りを避け
乗組員は たくみに帆をおろす
不安にとざされた船体は
嵐と浪《なみ》とに飜弄《ほんろう》される
あの陸の岸辺に 仲間たちや
親しい者たちはたたずんで案じている
「どうしてかれはここにとどまらなかったのか
ひどい嵐だ なんと運が悪いことか
あのいい男が こんなことで破滅するなんて
まさか こんなことになろうとは 神さま」
だが そのかれは 男らしく舵《かじ》を取っていたのだ
嵐と浪とがどんなに船をもてあそんでも
かれの心は 嵐にも浪にも飜弄《ほんろう》されぬ
平然として おそろしい深淵《しんえん》をながめ
難破しようと 陸地に着こうと
すべてを 信ずる神の力にゆだねている
[#ここから2字下げ]
〔ゲーテが、ワイマル宮廷でいよいよ政治的重職につくさいに、その決意から作った詩。「航海」は、もちろん実社会の大洋へ乗り出す意味がふくまれている〕
[#ここで字下げ終わり]
プロメーテウス
ゼウスよ おまえの空を
灰色の雲のもやで 覆《おお》え
あざみの頭をむしる
子供のように
樫《かし》の木に 山のいただきに襲いかかれ
だが このおれの大地に
指一本ふれてはならぬぞ
おまえの力を借りずに建てたおれの小屋に
そしておれのかまどにも
その火を
おまえはねたんでいるのだ
神々よ 太陽のもとで おまえたちより
哀れなものはあるまい
おまえたちは ほそぼそと
いけにえの ささげものや
祈祷《きとう》の吐息《といき》で
おまえたちの威厳《いげん》をやしなっているだけだ
おまえたちは 飢《う》えてくたばるだろう
餓鬼《がき》や乞食のような人間どもが
おろかしい願いごとをしなければ
おれは子供のころ
何がなんだかわけもわからず
迷いの目を太陽のほうへむけた
そこにこそ おれの悲しみを
きいてくれる耳があるだろう
おれと同じような
苦しむものをいたわってくれる心があるだろうと
巨大な蛮族《ばんぞく》の暴力から
だれが おれを救ってくれたのか
死から そして奴隷《どれい》から
だれが おれを助けてくれたのか
それをやりとげてくれたのは
おれの 聖《きよ》らかな火の燃える心ではなかったか
それなのに 若い ひとのよいおれは
すっかりだまされて
天上で惰眠《だみん》をむさぼる神々に感謝の念を燃やしていた
おまえを崇《あが》めよというのか なぜなのだ
おまえは一度でも 重荷を背負う人間の
苦しみを軽くしてやったことがあったか
おまえは一度でも 苦悩に打ちのめされている人間の
涙をぬぐってやったことがあったか
おれを 一人前の人間にきたえてくれたのは
全能の「時」と
永遠の「運命」ではなかったのか
これこそ おれの主だ おまえの支配者だ
うつくしい夢の理想が
すっかり実らなかったからといって
おれが 人生を憎み
砂漠《さばく》に逃げなければならぬと
おまえは 妄想《もうそう》でもしているのか
おれは ここに坐《すわ》って
おれの姿そのままに人間をつくるのだ
おれにひとしい種族をつくるのだ
苦しんだり 泣いたり
楽しんだり 喜んだり
そして おまえなどを崇《あが》めない
おれのような人間を
[#ここから2字下げ]
〔若いゲーテが自由律で歌ったシュトゥルム・ウント・ドラング〔疾風怒濤《しっぷうどとう》〕の精神を代表する、一七七四年の作品。迷信や旧習を打ち破って自由な人間創造を賛美している。プロメーテウスは、ギリシア神話で、天上の火をぬすんで人間に火を与えた反逆神。ゼウスはコーカサスの岩にプロメーテウスを縛りつけて、鷲《わし》にその心臓を突つかせて苦しめた〕
[#ここで字下げ終わり]
ガニュメート
朝の光を受けて
ぼくのまわりに燃えはじめる
春よ 愛する春よ
おまえの永遠にあたたかい
きよらかな情感が
千倍の愛のよろこびで
ぼくの胸にせまる
無限の美しさ
おまえを この腕で
抱きしめられたなら
ああ おまえの胸に
抱かれていながら ぼくはこがれる
すると おまえの花 おまえの草が
ぼくの心に ぐいぐいせまる
やさしい朝風
おまえは ぼくの胸の 燃える
渇《かわ》きをいやしてくれる
霧の谷間から
うぐいすがやさしく呼びかける
行こう 行こう
どこへ ああ どこへ
上へ 上へ のぼろう
雲がただよい降り
雲が
ぼくの ぼくの
あこがれの愛を迎える
雲のふところに入り
天へ
抱いて 抱かれて
天へ あなたの胸へ
いっさいを愛する父よ
[#ここから2字下げ]
〔作品に歌われているのは、ゲーテの汎神論《はんしんろん》的な自然感情である。それは天上へ限りなくあがる発展の精神となっている。『若きウェルテルの悩み』が作られた一七七四年の作で、このゲーテの小説の五月十日、八月十八日の手紙の内容と通じ合うものがある。ガニュメートという表題は、ギリシア神話のトロイの王トロスの愛児から取ったもの。ゼウスは、ガニュメートの美しさに魅せられ、鷲《わし》にさらわせて侍童《じどう》にして寵愛《ちょうあい》した〕
[#ここで字下げ終わり]
人間の限界
太古《たいこ》の
聖なる父が
おちついた手で
とどろく雲間《くもま》から
祝福の電光を
地上へ撒《ま》くときには
わたしは神の衣の
裾《すそ》のはしに接吻《くちづけ》する
幼児のような怖《おそ》れを
胸にひめながら
どんな人間も
神々と
力を競《きそ》ってはならぬ
もしも人間が上昇して
頭が星に
ふれたにしても
その足は不安で
どこにもつけるところはなく
雲と風とに ただ
飜弄《ほんろう》されるばかりだ
人間がしっかりした
堅固《けんご》な骨組みで
基礎をかためた
ゆるぎない大地の上に立っても
樫《かし》の木にも
ぶどうの木にさえ
肩をくらべることは
できない
何が神々と人間を
分つのか
神々のまえでは
打ち寄せる巨浪《きょろう》も
永遠の流れとなる
だが われら人間は波にさらわれ
巨浪にのまれ
しずんでしまう
われらの生命は
ちいさな輪に限られている
そして あまたの世代が
連続して 存在の
無限の鎖に
すがっている
[#ここから2字下げ]
〔一七八一年ごろの作品。神にたいする人間の畏敬《いけい》を歌ったもの。スピノザ的な汎神《はんしん》論が根底にある。最後の二節が、人間の限界を歌いつつ、存在の価値をつよく出し、ゲーテ的諦念がにじみ出ている〕
[#ここで字下げ終わり]
神性
人間よ けだかくあれ
慈悲ぶかく 善良であれ
このことだけが
人間を
ほかのいっさいの
生物から区別する
われらが予感する
未知の高い存在に
栄光《さかえ》あれ
人間よ その存在にならえ
自分の実際のふるまいで
神の教えを証《あか》せ
自然はまさしく
感情をもたない
太陽は
善人をも悪人をも照らし
月と星は
罪人にも聖人にも
ひとしく輝く
風も奔流《ほんりゅう》も
雷も雹《ひょう》も
その道をひた走り
いそぎ行き過ぎ
誰《だれ》かれのけじめなく
襲ってゆく
おなじく運命も
ひとびとのあいだに分け入り
あるいはあどけない
幼児の髪の毛をとらえ
あるいは罪にけがれた
老人の禿頭《はげあたま》をつかむ
永遠の峻厳《しゅんげん》な
大いなる法則にしたがい
われらはすべて
われらの存在の
環《わ》を完成しなければならぬ
ただ人間のみが
不可能を可能にする
人間は 識別し
選択し 判定する
人間は 瞬間に
永遠を付与することができる
人間のみが
善人にむくい
悪人を罰し
さすらうものたちすべてを
たすけ いやし
有益に結合することができる
そして われらは あの不滅の
存在をうやまおう
神はまるで人間のようだ
もっともすばらしい人間が小規模で
営み 営もうとすることを
大規模で神は営んでいるではないか
けだかい人間よ
慈悲ぶかく 善良であれ
有益なもの 正しいものを
倦《う》むことなく つくれ
あの 予感される存在の
生きうつしとなれ
[#ここから2字下げ]
〔この詩は、いわゆる頌詩《オーデ》に属し、一七八〇年以前につくられたもので、はじめは無題、それから「人間」と題され、一七八二年に「神性」と改題された。シュトゥルム・ウント・ドラング〔疾風怒濤《しっぷうどとう》〕からクラシック〔古典〕ヘと向かう、激情から詩想の浄化《じょうか》と鎮静《ちんせい》への傾斜を示す時代の代表作。自由律。地上における万物から人間を区別する要素は、心の高貴と慈悲と善良の三点であることが語られ、思想詩として注目される〕
[#ここで字下げ終わり]
おとずれ
恋人を今夜そっと襲ってやろうとしたら
ドアに鍵《かぎ》がかかっていた
でも ぼくはポケットに鍵を持っているじゃないか
それで そっと彼女の家のドアをあけた
玄関の広間に恋人はいなかった
居間にも姿は見えなかった
そこで とうとう 寝室をそうっとあけると
彼女はソファに眠っていた
服を着たままの愛らしい寝姿
仕事をしながら寝入ってしまったのだ
編み物と編み棒を
やさしい手と手のあいだにはさんだまま
彼女を起こしたものかどうか
そばに腰をおろして ぼくは思案した
そのまま ぼくは見つめていた
瞼《まぶた》のうえにうかぶ美しいなごやかさを
唇《くち》には無言のまごころが
頬《ほお》には愛らしさがただよっている
やさしい心のあどけなさが
胸にしずかに波打っている
神々のかぐわしい香油《バルサム》に溶《と》かされたように
ここちよげに 手足はだらりとしている
すわったまま たのしくながめていると
彼女を起こそうというぼくの気持ちは
ふしぎな|きずな《ヽヽヽ》で しだいに固《かた》く縛《しば》られた
おお 恋人よ まどろみというものは
心にいつわりがあれば 必ずそれを洩《も》らすものだが
おまえの顔には そんな暗さはあらわれていない
ぼくの敏感な心を乱すようなものも 見られない
おまえの愛らしい目は閉じている
あいていれば それだけでぼくを魅了《みりょう》する
おまえのうつくしい唇が動いて
話をしようとも キスをしようともしない
いつもぼくを抱いてくれるおまえの腕は
魔法の|きずな《ヽヽヽ》がほどけている
こころよく撫でてくれる
ほんとうにうっとりするその手も動かない
おまえを思うのは ぼくの迷いか
おまえをいとおしむのは 心のいつわりか
いま ぼくは はっきりさせよう
|愛の童神《アーモル》が目かくしをせずに ぼくのそばに立っているから
このようにして ずっとぼくはすわったまま
心から 彼女の貴《とうと》さと 自分の愛をうれしく思った
眠っている彼女が あまりにも気に入ったので
ぼくは もう起こそうなどとは思わなかった
しずかに オレンジを二個と薔薇《ばら》を二輪
枕もとの小さなテーブルにのせ
そっと足をしのばせて外へ出る
ぼくのたいせつな恋人 彼女が目をひらくと
すぐに この美しい贈り物を見つけて
いつもドアが閉まっているのに どうして
こんな心づくしのプレゼントがここにあるのかしらと びっくりするだろう
明晩《あした》 また ぼくがこの天使に会ったら
どんなにかよろこんで ぼくのやさしい愛の
この贈り物に 二倍もお返しをしてくれるだろう
[#ここから2字下げ]
〔造花づくりの女工だったクリスティアーネ〔のちにゲーテと結婚〕との恋愛の初期に作られた一七八八年の作品。清らかな愛にみなぎった彫塑《ちょうそ》的描写がとくにすばらしい。この詩の最後の、恋人にたいする詩人の思いやりは、ロマンティックな美しさをたたえている。第五節最後の行の|愛の童神《アーモル》は、男女の愛のいとなみのあいだは目かくしをしていると考えられていた〕
[#ここで字下げ終わり]
湖畔《こはん》の秋の夜
夕闇が降りてひろがり
近くのものが遠のいて見え
宵《よい》の明星がもう空にのぼって
きよらかな光をはなつ
朦朧《もうろう》とすべてを溶《と》かし
霧が上方へながれる
漆黒《しっこく》の影をうつして
湖水がひっそりとやすらう
いま 東のかなたに
月のひかりの明るいきざし
ほそいしだれ柳のしなやかな枝が
ちかくの水面をなでている
ゆらゆらゆれる枝のかげから
魅惑《みわく》の月光がふるえ
夜のすずしさが 目から
心へやわらかく沁《し》み入《い》る
[#ここから2字下げ]
〔一八二七年の作で、きわめて古典的な作品でありながら、中国の古詩と内面的に親近性のある自然詩〕
[#ここで字下げ終わり]
蛙《かえる》
大きな池に氷が張って
ちいさな蛙は底にもぐった
鳴くに鳴かれず 跳《と》ぶに跳ばれず
だが いまに見ろ 氷が融《と》けたら
外にあらわれ 思いっきり
鳴いてみせるぞ うぐいすみたいに
春風が吹き 氷が割れて
蛙は 底から 泳ぎあがった
岸にすわって あっちこっちで
去年のように ゲロ ゲロ ゲロ
[#ここから2字下げ]
〔一八二七年に発表された寓意詩集《ぐういししゅう》のなかの一篇。「蛙」はじつは、複数であって、自分の未来に架空《かくう》な理想をえがく人間たちが、諷意《ふうい》的に歌われている。同時代のロマン派の若い詩人たちを諷刺した作品であるともいわれている。「去年のように ゲロ ゲロ ゲロ」というのは、旧態依然、蛙は蛙にほかならないという詩句。しかし、童詩として、あかるく読むことができる〕
[#ここで字下げ終わり]
『ウィルヘルム・マイスター』から
ごぞんじですか あの国を
ごぞんじですか あの国を レモンの花咲き
みどり濃い葉かげに 黄金《こがね》いろのオレンジが輝き
青空から微風がそよぎ
ミルテがしずかに ローレルが高く立つ
あの国を ごぞんじでしょうか
あそこへ あそこへ
いっしょに行きましょう いとしい方《かた》よ
ごぞんじですか あの建物を 太い円柱 なだらかな屋根
広間はかがやき 居間に灯《ひ》が燃え
立ちならぶ大理石像が あたしを見つめて
「あわれな娘《こ》よ どんな目にあわされたの」と訊《き》いてくれる
あの屋敷を ごぞんじでしょうか
あそこへ あそこへ
いっしょに行きましょう あたしをお守りくださる方よ
ごぞんじですか あの山と雲の小径《こみち》を
騾馬《らば》が霧のなかに道をさがし
洞窟《どうくつ》に古い龍の族《やから》が棲《す》み
岩がくずれ 急流がそのうえを奔《はし》る
あの峠《とうげ》を ごぞんじでしょうか
あそこへ あそこへ
ふたりで行きましょう 父とも慕われる方よ
[#ここから2字下げ]
〔「ミニョンの歌」として、もっともよく知られている詩。一七八三、四年の作。シュトゥルム・ウント・ドラング時代の作品にみられるような主観をあからさまに直叙するのではなく、理性と感性との調和が、抑制のすがたで映されている。ミニョンは『ウィルヘルム・マイスターの修業時代』で、老琴|弾《ひ》きが若いとき誤って自分の妹に生ませた少女。綱渡りの一座にいたが、ウィルヘルムに引きとられる。ウィルヘルムを慕う心と頼る心とが重なって美しい魂の声となっている。『ウィルヘルム・マイスターの修業時代』の第三巻の巻頭に載っている〕
[#ここで字下げ終わり]
語れといわずに
語れといわずに あたしに 黙れといってください
秘密があたしのつとめですから
胸の奥をすっかりお見せしたいのですが
あたしの運命がゆるしません
時がくれば 暗い夜も追いはらわれ
のぼる陽《ひ》ざしに かならず明るくなります
堅《かた》い岩も その肌《はだ》をひろげ
かくれて見えなかった泉を惜しみなく地にそそぎます
だれでも 友の腕にやすらかに抱かれようとします
そうすれば 胸のなげきは流されます
けれども 誓いは あたしの唇《くち》をふさぎます
ただ 神さまだけが おあけくださるのです
[#ここから2字下げ]
〔『ウィルヘルム・マイスターの修業時代』の第五巻の最後に載っているミニョンの歌。ミニョンが聖母マリアに、自分の素姓《すじょう》はだれにも話すまい、と誓ったその敬虔《けいけん》な心にしばられて、ウィルヘルムにさえ自分の身の上が語れないわけを、この歌に託している〕
[#ここで字下げ終わり]
あこがれを知る人だけが
あこがれを知る人だけが
あたしの悲しみを知ってくれます
ただひとり すべての喜びから
ひきはなされて
あたしは
むこうの空をながめます
ああ あたしをよく知り 愛してくれるひとは
遠くに去りました
目まいがし
胸は燃えるようです
あこがれを知る人だけが
あたしの悲しみを知ってくれます
[#ここから2字下げ]
〔「ごぞんじですか あの国を」と同じく『ウィルヘルム・マイスターの修業時代』第四巻第十一章に載っているミニョンの歌。ミニョンの悲しい孤独の歌であるが、同時に孤独者ゲーテの心境がこの詩に託されていると解せられる〕
[#ここで字下げ終わり]
涙とともにパンを
涙とともにパンを食べたことのないもの
悲しみにみちた幾夜を
ベッドで泣きあかしたことのないもの
そうしたものには 天上の霊《たましい》の力がわからない
天上の霊が この世にわたしたちをみちびき
あわれな身に罪を犯させて
それから苛責《かしゃく》のなかに 打ち棄《す》てる
どんな罪も この世で報いを受けるのだから
[#ここから2字下げ]
〔『ウィルヘルム・マイスターの修業時代』の第二巻に出てくる琴|弾《ひ》きの歌。琴弾きはミニョンの父〔「ごぞんじですか あの国を」参照〕で、人生の重大秘密を持つ悲劇的人物。これは、特殊な罪によごれた人間というよりも人間全般の宿命的な悲しみが、ゲーテによって歌われている〕
[#ここで字下げ終わり]
さびしさに身をゆだねるものは
さびしさに身をゆだねるものは
ああ やがて孤独のひとになるだろう
世の人はそれぞれに生き 愛しあっても
その孤独のひとの痛みをかえりみることはない
それでいい わたしのなやみは わたしにまかせてくれ
もし わたしがほんとうに
さびしさに生きることができるなら
そのとき わたしはけっして孤独ではないのだ
恋をする男が そっとしのびよって
女が閨《ねや》にいるかどうか うかがうように
昼も夜も さびしいわたしに
かなしさがおとずれる
くるしさがおとずれる
ああ わたしがいつの日か 墓に
さびしく眠るとき
苦悩からほんとうに孤独になれるのだ
[#ここから2字下げ]
〔『ウィルヘルム・マイスターの修業時代』の第二巻に出ている琴弾きの歌。知らずに犯した罪の意識が老いた琴弾きの心につきまとう。薄命の人生が素朴に静かに歌われている〕
[#ここで字下げ終わり]
創《つく》り出すため まとめあげるため
創《つく》り出すため まとめあげるため
芸術家よ しばしば孤独であれ
きみの成果を味わうには 喜んで
集《つど》いの場へ 急げ
そこで みんなの中で きみがどんな生《せい》の歩《あゆ》みをしたか
観察し 吟味するがよい
そうすれば 多年いそしんだ業《わざ》が
かたわらの人に照らして 明らかになるだろう
思想も 計画も
人物も その関係も
それぞれ磨き合い
やがて これでよいとなるだろう
創案をねり 慎重に考慮し
美しく形づくり 繊細《せんさい》に仕上げて
むかしから 芸術家は
たくみに ゆたかに そのちからを得てきた
さまざまの形の自然が
ただひとつの神をあらわすように
ひろい芸術の野では
永遠に通ずる ひとつの心が動いている
それは真理のこころだ
ひたすら美をもって身を飾りつつ
その心は晴れわたる日の清澄《せいちょう》のきわみを
おそれることなく仰ぎむかえる
詩人や論客が思うがままに
韻《いん》をあるいは文《ぶん》を駆使するように
人生の明るい薔薇《ばら》は
その姉妹《はらから》に ゆたかに囲まれ
秋の果実にとりかこまれて
あざやかに画布に描かれるだろう
そうして 薔薇は神秘な生のもつ
明らかなこころをよび起こす
無限に美しく さまざまな形から形を
きみら芸術家の手は生み出さねばならぬ
そして人間の姿に
神のうつりかわりを見なければならぬ
どんな道具を用いるにせよ
きみらが同胞であることを示さねばならぬ
すると 歌うかのように 祭壇《さいだん》の
犠牲《いけにえ》の柱は 燃えて煙《けむ》るだろう
[#ここから2字下げ]
〔いわゆる「芸術家の歌」として知られ、芸術家のありかたが、晩年のゲーテによって、みずからの体験を基礎として示されている。『ウィルヘルム・マイスターの遍歴時代』に出てくる「教育州」で歌われる詩〕
[#ここで字下げ終わり]
いつまでも地面にへばりつくな
いつまでも地面にへばりつくな
さあ 思いきって あらたに踏み出せ
あかるい力が 頭に 腕に みなぎれば
どこだって きみの家になる
よろこんで太陽を仰ぐところ
そこに けっして憂《うれ》いなどない
ぼくらは 世界に散って行こう
世界は こんなに広いのだ
[#ここから2字下げ]
〔『ウィルヘルム・マイスターの遍歴時代』の第三巻第一章および第九章で歌われる合唱詩〕
[#ここで字下げ終わり]
『西東詩集』から
移住《ヘジラ》
北も 西も 南も くだけ
王座は裂《さ》け 国々はふるえる
移り住もう きよらかな東方で
族長の国の空気を味わおう
愛と酒と歌にひたって
キーゼルの泉で 若がえろう
その純朴《じゅんぼく》 その正義の地で
わたしは 人類の
原始のふかみに わけ入ろう
そこは ひとびとがまだ 神から
天のおしえを 地のことばで受け
臆測《おくそく》して悩むことはなかったところ
そこは ひとびとが 父祖をあがめ
異国の支配を すべて拒《こば》んだところ
信仰は大きく 認識はせまく
一語一語が 口伝えだったから
ことばが じつに大事《だいじ》だった
その未開の境に わたしは生きよう
牧人の群れにまじって
オアシスで すがすがしくなろう
隊商《たいしょう》とともに 旅をし
|肩掛け《ショール》や珈琲《コーヒー》や麝香《じゃこう》を商《あきな》い
砂漠《さばく》から 町々へ
道という道を歩こう
けわしい岩道ののぼりくだり
ハーフィズよ あなたの歌はよい慰《なぐさ》めとなる
先導のものが 騾馬《らば》の高い背から
星をよびさまし
盗賊《とうぞく》をおどろかす歌を
恍惚《こうこつ》として歌うとき
いろんな浴場で いろんな酒場で
聖なるハーフィズよ あなたを偲《しの》ぼう
うつくしい娘が ヴェールをかきあげ
竜涎香《アンバー》のまき髪が ゆれて匂《にお》うとき
ああ 詩人の愛のささやきを歌って
天女《フーリー》たちにさえ 情をおこさせよう
詩人のこのいとなみを ねたんだり
しりぞけようなどと思うものは
まず 知っておかなければならぬ
詩人のことばは 天国の門にただよい
不滅のいのちを もとめながら
いつも かるく扉をたたいていることを
[#ここから2字下げ]
〔一八一四年の作品。表題の移住《ヘジラ》というのは、マホメットが回教をおこし迫害《はくがい》を受けて西暦六二二年にメッカからメディナに移ったことをいう。この年が回教の紀元となった。もちろん、これは象徴的表題。ゲーテはフランス革命につづくヨーロッパの動乱期に、いわば精神的移住を、未開の東方ペルシアに求めた。人間の素朴な生命・文明の若がえりを願ったのである。第一節の「キーゼルの泉」のキーゼルというのは、モーセと同じ時代の生命の泉を発見しその守護神となった神。第五節のハーフィズは、ペルシア十四世紀の大詩人で、「コーラン」の体現者であり、恋や酒を歌い神秘に徹した抒情詩を書いている。『西東詩集』の冒頭《ぼうとう》の詩〕
[#ここで字下げ終わり]
歌とかたち
ギリシア人は粘土《ねんど》をこねて
もののかたちをつくりあげ
手でこしらえた自分の子を見て
すっかり恍惚《うっとり》してしまう
それにしても ぼくたちの歓《よろこ》びは
ユーフラテス河《がわ》にとびこんで
ながれの元素のなかで
あちこちただようことだ
こうして心の火を消せば
歌がひびき出すだろう
詩人のきよらかな手が掬《すく》えば
みずは水晶の玉となる
[#ここから2字下げ]
〔一八一五年作と推定されるが、創作年代は不明。ギリシア古典にたいする偏重《へんちょう》を克服しようという決意を示した作品。最後の二行は有名で、制約によって芸術がみごとな形象をなすという表現だが、これはインドの神話から発想を得ている。『西東詩集』の「詩人の書」のなかの詩〕
[#ここで字下げ終わり]
昇天《しょうてん》のあこがれ
だれにも告げるな 賢者《けんじゃ》のほかは
愚衆《ぐしゅう》はすぐにあざわらうから
わたしは讃《たた》えるのだ その生きものを
炎《ほのお》に焼かれて死をねがうものを
おまえがつくられ またおまえがつくる
すずしい夜の愛のいとなみのあいだ
ひそかな蝋燭《ろうそく》の火が燃えると
ふしぎなおもいがおまえを襲う
おまえは 暗闇のふところに抱かれて
もう じっとしてはいられなくなる
せつなさが あたらしく激しく駆《か》りたてる
おまえを より高い|まじわり《ヽヽヽヽ》へ
おまえは どんな距《へだたり》にもさまたげられず
呪《のろ》われたように飛んでゆく
ついに光をもとめて 蛾《が》よ おまえは
火にとびこんで身を焼いてしまう
死ね そして生まれよ このこころを
わがものとしないかぎり
おまえは このくらい地上で
はかない客人《まろうど》にすぎないだろう
[#ここから2字下げ]
〔一八一四年に書かれた。そもそもは「自己犠牲」あるいは「完成」という表題であった。ペルシアの詩人ハーフィズとサーディの同じような内容からヒントを得た作品。愛の極致から死を通じて新しい生産にいたる、この詩のなかの「死ね そして生まれよ」というゲーテの理念は、まさしくゲーテ的なもので、ふかい意味が蔵されている。一種の思想的象徴詩である〕
[#ここで字下げ終わり]
読本
本のうちでいちばんふしぎな本
それは愛の本
わたしはそれを読みふけった
よろこびを語る頁《ページ》は少なく
全巻は悩みだった
別離は一章を占め
再会はみじかい断章
苦悶は各篇にわたり
説明が長くしるされ
めんめんとして尽きなかった
おお ニザミよ だがついに
おまえは正解を見つけた
解きがたいもの それを解くのは誰《だれ》か
ふたたび会う相愛のふたり
[#ここから2字下げ]
〔一八一五年の作。『西東詩集』の「愛の書」のなかの詩。第十一行めのニザミは、十二世紀のペルシアの恋愛詩人〕
[#ここで字下げ終わり]
秘《ひ》めごと
わたしの恋びとのまなざしを見て
みんなは あれっと たたずむ
けれどもわけを知るわたしは
まなざしのいわくがよくわかる
「わたしの恋するのはこのひとで
ほかのだれでもない」といっているのだ
おめでたいひとたちよ やめたまえ
あわてたり あこがれたりするのは
たしかにわたしの恋びとは
とてつもない魅力であたりを見る
だが恋びとは ただわたしに
こんどの|あいびき《ヽヽヽヽ》のときを告げているのだ
[#ここから2字下げ]
〔一八一七年に発表された。はじめは「幸福な秘めごと」という題であった。『西東詩集』の「愛の書」に組み入れられている〕
[#ここで字下げ終わり]
わたしがどこからきたか
わたしがどこからきたか どうも はっきりしない
ここへきた道 それも わたしにはよくわからない
いま ここで このうえないあかるい日に
悲しみと喜びとが ゆくりなくも 相会《あいかい》した
ああ 甘美《かんび》なめぐりあいよ このふたつがひとつになるとは
そうでなければだれが笑うだろう 泣くだろう
[#ここから2字下げ]
〔一八一八年に作られて、発表されたのはその九年後。無題詩。『西東詩集』の「観察の書」に編みこまれている〕
[#ここで字下げ終わり]
気まえのいいものは
気まえのいいものは おだてあげられ
しまりやは しぼりとられ
りくつをいうものは へりくつをかまされ
ものわかりのいいものは ろくでなしにされ
てきびしいものは かげにまわられ
おひとよしは ひっかけられる
こうした だまかしに 負かされるな
だましたら だましかえせ
[#ここから2字下げ]
〔制作年代は不明。内容は、偽《いつわ》りが支配しているから用心せよ、という消極的な道徳を語っているのではなく、いわば否定の否定の論理によって、世の悪に挑戦している〕
[#ここで字下げ終わり]
とどまれば
とどまれば 世は夢のように逃げる
旅をすれば 運命がところを決める
暑さも 寒さも とらえてはおけない
花ひらくものは たちまちしおれよう
[#ここから2字下げ]
〔原題は「ジェラール=エディン・ルミは言う」である。ジェラール=エディン・ルミは、十三世紀のペルシア最大の神秘詩人。この詩人のことばとしてゲーテが作詩したもの。漂泊の芭蕉の詩的境地と通ずるものがあろう。『西東詩集』の「観察の書」に組み入れられている詩篇〕
[#ここで字下げ終わり]
鏡は言います
鏡は言います わたしが美しいと
あなたがたは言います 凋落《ちょうらく》は また わたしの運命だと
神のまえでは すべては永遠なものでなければなりません
愛してください いまこそ わたしのなかの神のあかしを
[#ここから2字下げ]
〔原題は「ズライカは言う」である。ズライカというペルシア名によって呼ばれる女性は、『西東詩集』にあらわれるゲーテの恋びと、具体的にはマリアンネである。だが、ここでは特殊より一般にいえる美女の運命と愛がうつされている。「観察の書」の末尾の詩篇〕
[#ここで字下げ終わり]
銀杏《いちょう》の葉
これは はるばると東洋から
わたしの庭に移された木の葉です
この葉には 賢者の心をよろこばせる
ふかい意味がふくまれています
これはもともと一枚の葉が
裂《さ》かれて二枚になったのでしょうか
それとも 二枚の葉が相手を見つけて
一枚になったのでしょうか
こうした問いに答えられる
ほんとうの意味がどうやらわかってきました
わたしの歌を読んであなたはお気づきになりませんか
わたしも一枚でありながら あなたとむすばれた二枚の葉であることが
[#ここから2字下げ]
〔一八一五年の作。『西東詩集』の「ズライカの書」のなかの詩。ズライカ〔マリアンネ〕とハーテム〔ゲーテ〕の相聞歌《そうもんか》の形式をとってふたりの恋愛を歌ったもの。ゲーテは二枚の葉が割れて一枚につながっている銀杏《いちょう》の葉を男女の愛の象徴とみて、ハイデルベルクの古城の庭にあった一枚の銀杏の葉をマリアンネに贈った〕
[#ここで字下げ終わり]
こんもり茂る枝のあたりに
こんもり茂る枝のあたりに
恋びとよ 目をやりたまえ
針のある青い皮をつけた
木の実があなたに見えるでしょう
実はとっくに丸くなり 垂《た》れています
おのれのことを知るよしもなく しずかに
ゆらゆらとゆれる一枝が
その実をこらえながら ゆれています
けれども内部から熟してきて
褐色の核《かく》は ふくらみ
空気にあたろうとし
太陽を見たがっているのです
殻《から》は はじけ 実は とび出して
よろこばしげに こぼれ落ちます
このように わたしの歌もおちてゆきます
あなたの膝《ひざ》に積《つ》み重なって
[#ここから2字下げ]
〔一八一五年に作られた。ハーテム〔ゲーテ〕からズライカ〔マリアンネ〕に贈った歌。第一節四行めの「木の実」は、栗の木〔ハイデルベルクの古城の庭にあった〕を指す。『西東詩集』の「ズライカの書」に組み入れられてある〕
[#ここで字下げ終わり]
水の白糸をちらす
[ズライカ]
水の白糸をちらす
あかるい泉のふちに
なぜか わたしは はたと足をとめました
そのふちに あなたのお手で
わたしの頭文字《イニシアル》が かすかに刻《きざ》まれてありました
わたしは目をふせました あなたをしのんで
ながい並木の大通りを
疎水《そすい》に沿って この果てまできて
わたしはふたたび目をあげて見ました
そこの木の幹にもまた美しく
わたしの名がしるされてありました
いつまでも わたしを偲《しの》んで と
[ハーテム]
湧きあがり波立つ水も
立ちならぶ糸杉も あなたに告げてくれましょう
行くも帰るも
ズライカよりズライカへと
[#ここから2字下げ]
〔『西東詩集』の「ズライカの書」のなかでもっとも美しい相聞歌《そうもんか》のひとつ。ズライカの歌う第一節と第二節が、ハーテムの反歌の第一行と第二行に照応している。ズライカの経験が第一節では過去のものとして、第二節では現在のものとして描かれているが、こうした時間の経過は「泉」「疎水のながれ」という情景と関連し、象徴的な意味深いものを暗示している〕
[#ここで字下げ終わり]
ああ 西風よ
ああ 西風よ おまえの濡《ぬ》れた翼《つばさ》が
なんとうらやましいことだろう
わかれて悩んでいる このわたしの思いを
おまえはあの方《かた》に運べるのだから
おまえの翼のはばたきは
胸にしずかなあこがれを呼びさます
花も 目も 森も 丘も
おまえの息にふれて 涙ぐむ
それに おまえのやさしいおだやかなそよぎで
痛むまぶたは ひやされる
ああ あの方《かた》との再会の望みがなければ
悩みのために わたしは亡《ほろ》びてしまうだろう
では いそいで わたしの恋びとのもとへ
あの方の胸にやさしく語っておくれ
でも あの方を悲しますことを避け
わたしの苦しみは言わないでおくれ
あの方に言っておくれ ひかえめにこう言って
あの方の愛こそ わたしのいのちだと
愛といのちの喜ばしいおもいは
あの方のおそばでこそ わたしのものとなる
[#ここから2字下げ]
〔ズライカ〔マリアンネ〕からハーテム〔ゲーテ〕へ贈った詩。一八一五年作。ペルシアの詩人ハーフィズの詩がこの作品のもとになっている。第三節の「痛むまぶた」というのは、「泣き濡《ぬ》れた目」を意味する〕
[#ここで字下げ終わり]
満月の夜
奥さま まあ 何をつぶやいていらっしゃいますの
どうしてお口が かすかに動くのでしょう
いつも ひとりごとをおっしゃいます
ぶどう酒をすするときにもまして 愛らしく
奥さまは あなたの上|唇《くちびる》や下唇に
もうひと組の唇をひきよせようと思っていらっしゃいますの
「わたくし接吻《くちづけ》したいのよ キス と口で言ったの」
ごらんあそばせ あやしい暗闇のなかで
枝という枝は花をつけて きらきらひかり
星が空からつぎつぎにまたたき
いま 月の 無数の紅玉の光が 木の繁《しげ》みをとおして
エメラルドのようにきらめいています
それなのに奥さまのお心は すべてから離れていらっしゃいます
「わたくし接吻したいのよ キス と口で言ったの」
奥さまのいとしい方《かた》も 遠く離れて
甘酸《あまず》っぱいお気持ちを 同じように経験され
不幸なご幸福を感じておいでですわ
満月にはおたがいにことばを交わそうと
おふたりは固《かた》くきよらかにお誓いになりました
さあ いまがその時でございますよ
「わたくし接吻したいのよ キス と口で言ったの」
[#ここから2字下げ]
〔『西東詩集』の「ズライカの書」のなかの有名な詩。一八一五年の作。侍女と奥方の対話体の詩で、リフレーンのことばのみごとさが効果をあげている。このリフレーンは、ハーフィズのガゼール調の詩から引用したもの〕
[#ここで字下げ終わり]
歌よ おまえのこころを
歌よ おまえのこころを わたしは
どんなに喜んで読むことでしょう
おまえは愛にあふれて 語っているのでしょう
わたしがあの方《かた》のおそばにいる と
あの方は いつまでも わたしを思って
あの方の愛のきよらかな喜びを
遠方の女に 命をあの方にささげた
このわたしに いつも送っている と
そうです わたしの心 それは鏡です
いとしい方よ あなたが あなたご自身をながめる鏡です
あなたが愛のちかいを 接吻《くちづけ》をかさねて
しっかり灼《や》きつけてくださった このわたしの胸です
まごころをこめて こころよく詩を作ること
わたしは それに同感を禁じえません
詩の衣をまとってこそ
澄みきった愛が きよらかにあらわれます
[#ここから2字下げ]
〔一八一五年の作。ズライカ〔マリアンネ〕からハーテム〔ゲーテ〕へおくった詩。詩の衣をまとうと愛情は清らかに澄む、といった、この作品の最後の二行は、ふかく味わうべきであろう。原題は「ズライカ」〕
[#ここで字下げ終わり]
世のひとは
世のひとは 酒を飲むからと言って
あれこれとわたしたちをとがめ
わたしたちが飲むことを
とやかく言いつづけてあきない
だいたい ひとは酔《よ》っぱらうと
夜の明けるまで寝てしまう
だが 酔ってしまうとわたしは
夜なかでもいつしか歩きまわる
ああ わたしを悩ますのは
恋の陶酔《とうすい》にほかならない
昼から夜へ 夜から昼へ
心はそわそわしているが
この心が 歌の陶酔にふくれ
気持ちがたかまるのだ
あじけなく酒を飲んでは
一途《いちず》にいい気分にはならない
恋と歌と酒の酔い
夜になろうと朝になろうと
このもっとも神聖な陶酔
それこそわたしを喜ばし悩ますのだ
[#ここから2字下げ]
〔一八一五年の作。冷たくしらじらしく生きるのではなしに、恋に酔い、酒に酔い、歌に酔う神聖な陶酔を賛える詩人のうた。無題詩であるが冒頭《ぼうとう》の数語を表題として記した。『西東詩集』の「酌人の書」のなかの一篇〕
[#ここで字下げ終わり]
まばたき
だが わたしが咎《とが》めたものたちにも理はある
ことばが簡単に通用しないことは
あまりにもあきらかなことだから
ことばは扇子《せんす》のようなものだ その骨のあいだから
ふたつのうつくしい目がのぞきみる
扇子は ただ愛らしい紗《しゃ》にすぎない
扇子は わたしの顔をおおっても
娘をかくすことはできない
なぜなら 娘のもっとも美しいもの
目が わたしの目にまばたきをおくるから
[#ここから2字下げ]
〔『西東詩集』の「ハーフィズの書」に組み入れられた詩〕
[#ここで字下げ終わり]
『ファウスト』から
トゥーレの王
むかしトゥーレに王がいた
墳墓《おくつき》までもと契《ちぎ》り合った
后《きさき》が死んでそのあとに
金のさかずき遺《のこ》された
遺品《いひん》のさかずき王は愛《め》で
馳走《ちそう》のたびに酒|汲《く》ませ
さかずき口にあてるとき
目から涙があふれ出た
やがては王も死にのぞみ
都や町をことごとく
世継ぎの御子《みこ》にゆずったが
さかずきだけは与えずに
海のほとりの城のうえ
由緒《ゆいしょ》もふかい御座《ござ》の間《ま》で
あまたの騎士《きし》にかこまれて
王は饗宴《うたげ》の席にいた
老いた酒豪《しゅごう》の王は立ち
最後の火酒を飲みほして
その聖杯《さかずき》を底しれぬ
海のなかへと投げ入れた
潮《うしお》にゆられ水くぐり
しずむ聖杯いつまでも
追いつつ王は目をとじた
もう一滴も飲むこともなく
[#ここから2字下げ]
〔ゲーテの若い時代の「ウル・ファウスト」執筆中、一七七四年に作られた。晩年の『ファウスト』第一部の「夕べ」の場でも、グレートヒェンによって歌われている。素朴《そぼく》な詩語で愛の無限をものがたる民謡となっている。トゥーレというのは、ウェルギリウスの詩に出てくる、地球の果てにあるところの地名である〕
[#ここで字下げ終わり]
見るために生まれ
見るために生まれ
ながめるのが天職だ
わたしは望楼《ぼうろう》に立っている
世界はすばらしい
遠くを見わたし
近くをながめる
月を星を
森を小鹿を
そうして わたしは万象《ばんしょう》に
神のよそおいを見る
すべてのものが面白《おもしろ》く
われとわが身も気に入った
幸せだ わたしの目が
見たものは
なんであろうと
すべては まったく美しかった
[#ここから2字下げ]
〔『ファウスト』第二部第五幕で、塔守のリンコイスが宮殿の望楼の上で歌う詩。リンコイスとは、「山猫のような鋭い目をもつ者」の意で、塔守のリンコイスの目は、見る人ゲーテの目であるということができる。詩人ゲーテの独白とさえ読める詩である〕
[#ここで字下げ終わり]
解説
鳥が歌うように
「自然は、自分のすがたを見たいと思ってゲーテを創造した。すると、ゲーテは、自然のすがたばかりではなく、自然の思想や意志までも映してみせることができた」――ゲーテについて、こんな意味のことばを、ハイネは述べている。さらにつづけて、ハイネは、「神様よりもゲーテのほうが、ときには万物を上手《じょうず》に創れただろう」とまで言っている。ゲーテの超人的な創造力にあきれながら、以上のような機知のことばをハイネは、吐露《とろ》したのである。
ゲーテが書きのこした著作は、その量からいっても、とうてい人間わざとは思えないほどのものである。書きも書いたり、ワイマル版の全集で一四三巻に及んでいる。ゲーテの仕事は、あらゆる種類の文学にまたがっているばかりではなく、形而上学をはみ出し、自然科学の広汎《こうはん》な領域にまでひろがっているのである。しかし、ハイネのことばがもっともぴったりあてはまるのは、なかでもゲーテの抒情詩ではないだろうか。ゲーテ自身「鳥がうたうように、わたしは歌う」と、自分の抒情詩について述べている。詩人としてのゲーテは、はやくも少年時代にその天性をあらわし、年々五百ページもの四つ折の詩稿ができたといわれている。その詩才は、生活の波動とともに、自然の創造力さながらに、かれの全生涯に休止することなく活動しつづけた。
ゲーテはすぐれた小説や戯曲をいろいろ書いているけれども、その小説や戯曲のなかでも、詩人のきよらかな魂の結晶ともいうべき詩がいたるところにちりばめられており、かれの代表的傑作『ファウスト』など、文字どおり劇詩そのものにほかならない。
愛こそすべて
ゲーテは、大学へ入学するまで大部分の教育を自分の家で受けた。とくに宗教にかんする知識は、四歳ごろから与えられた。それは、主として敬虔な母から愛児にそそがれたものである。少年ゲーテが手にしたあらゆる書物のなかで、聖書ほどかれをひきつけたものはなかった。とりわけ愛読したのは、創世記だった。けれども、一七五五年リスボンに大地震がおこり、その被害をいろいろ聞いたとき、おさないゲーテは神の恩恵に対して大きな疑いをさしはさまずにはいられなかった。ゲーテの異端、既成《きせい》宗教に対する懐疑やプロテスト、さらに、かれのスピノザ的汎神論は、はやくもこのような幼少の時代にその萌芽《ほうが》があらわれているといえよう。
ところで、ゲーテの創作は、どんなに深く愛とかかわっているだろうか。かれは、長い生涯のあいだ、つぎつぎに女性を愛し、愛された。その愛が、しばしばもっとも美しい文学作品を生み出す契機になっている。ゲーテほど、その愛のおびただしい獲得と犠牲のなかから、身をこがす灼熱《しゃくねつ》のなかから、消えてゆくその余燼《よじん》のなかからさえ、芸術の創造をみごとになしとげた作家はないだろう。青春の燃えあがる情熱から晩年のおだやかな情愛にいたるまで、ゲーテの愛は、人間のもっとも自由な自然の本源から出たものだった。だから、かれの愛の対象は、世俗の身分や階級のわくをはるかに越えて、女性そのもの、女性のもっとも女性的なもの、永遠の母なるもの、いわば創造の美の母胎であったといえる。
一七六五年の秋、十六歳のゲーテは、父の意志にしたがって法律を学ぶために、ライプツィヒの大学に入学した。けれども、大学そのものよりはむしろこの都会から多くのものを学んだ。かれは、自由|奔放《ほんぽう》な生活をし、文学や芸術の世界に遊んだ。この都でゲーテは、三つ年上のケートヒェン・シェーンコップという素朴な娘と恋におちいった。が、ケートヒェンはゲーテの激烈な感情にたえられず、遠ざかっていった。ゲーテの言葉によれば、恋をもって始まり友情をもって終わった恋愛であった。このころから、詩や戯曲が書きはじめられた。
シュトゥルム・ウント・ドラング
その後、病気のためフランクフルトへ帰っていたゲーテは、一七七〇年にシュトラスブルクの大学へ入学した。ここでは、奔放だったライプツィヒ時代とは反対に、きびしい心身|錬磨《れんま》のまじめな学生生活を送った。そして秋には、偉大な文学の師友ヘルダーを知った。独創的個性の尊重、情感の徹底的高揚、あらゆる法則の束縛をつきぬける理想主義、シュトゥルム・ウント・ドラング〔疾風怒濤〕の天才精神は、ヘルダーによっていわば触発されたのである。
おなじころ、ゲーテはゼーゼンハイムの牧師の娘フリデリーケに会い、牧歌的な愛情をかわす仲となった。ところが、シュトゥルム・ウント・ドラングの精神にうながされ、素朴な愛に安住しえなかったゲーテは、彼女から去ってしまった。しかし、フリデリーケを記念する抒情詩の名作が何篇かのこされている。ゲーテの小曲は、ほぼこの時代に作り始められた。ゲーテが歌う小曲はすべて平明であり素朴そのものである。しかも、その素朴さ平明さが、ふかく真実をたたえ、無類の美しさを結成している。小曲のひとつひとつに、ゲーテの純粋な感動が躍動し、生命の多様性が凝集しているといっても過言ではない。
父のすすめで、一七七二年五月、ゲーテは、ウェッツラルの高等法院で法律事務を見習うこととなった。そして、五旬節の舞踏会でシャルロッテ〔ロッテ〕を知った。ロッテは、ドイツ騎士団本部の管理者だった人の長女で、母亡きあと十二人の幼い弟妹を世話していた十六歳の娘だった。ゲーテは、たちまちロッテにひきつけられ、かの女の家をしばしば訪れた。ロッテも、ゲーテに愛情をおぼえたけれども、すでに許婚者があったので、情熱におぼれることはなかった。ゲーテは煩悶《はんもん》のあまり、自殺さえ考えたほどだった。ロッテに失恋したゲーテは、ほぼ一年半のあいだ、耐えがたい虚無の淵を彷徨《ほうこう》したが、創作活動によって克服した。その実りこそ『若きウェルテルの悩み』であるということができる。
ポエジーと政治と
一七七五年のはじめ、ゲーテはフランクフルトの銀行家の娘リリー・シェーネマンを知り、愛し合い、やがて正式に婚約までしたが、沈滞した市民生活の束縛に嫌悪をおぼえて婚約を破棄した。リリーとの交渉からは、「湖上」など、いくつかの抒情詩の傑作が生まれている。ちょうどそのころ、ゲーテはワイマル公の招聘《しょうへい》を受けた。ワイマル公国は小型のプロシアというべき典型的なドイツの封建国家であった。はじめ、ゲーテは宮廷の賓客として滞在したが、まもなく七六年には参事官に任ぜられ、閣議に列席し、八三年には総理大臣になった。ほぼ十年のあいだ、ゲーテは文字どおり行政官、しかも現実の社会改革家として働いたのである。
ワイマル時代のゲーテの個人生活のうえで見のがしてならないのは、七つ年上の、すでに七人も子どもを生んだシュタイン夫人と親しくなり、芸術上の相互理解からそれが愛にまで発展したことである。
しかし、一七八六年、ゲーテは突然イタリアの旅に出る。これはシュタイン夫人との関係を清算するためである、というふうに一般的には解釈されている。だが、もっと決定的な要因は別のところにあったというべきである。つまり、ゲーテの政治実践の挫折《ざせつ》というよりは、むしろ、その理想の敗北のためだったのである。
ともあれ、この時代は、抒情詩において「月に寄す」のような名作が相当つくられたにしても、ゲーテにとって、文学が政治の犠牲になったと言ってもさしつかえあるまい。だが、シュトゥルム・ウント・ドラングの激情はおさまり、この時期にゲーテの展望と内観が渾然《こんぜん》一体となって、独特の思想詩がつくられ、また感傷的な主観に流されることなく、目に直接ふれ、耳にすぐに聞こえるような物語をくりひろげる芸術的な物語詩がうたわれたのである。
イタリアの旅から
一七八六年九月から一年九カ月にわたるイタリアの旅は、まさしく芸術家ゲーテの再出発であった。この旅がなかったら、ドイツの古典文学は、おそらくみごとに開花することはなかったであろう。ゲーテは、古代的調和、しずかな偉大さとけだかい単純さを体験した。この旅行のあいだルネサンスの建築、絵画、彫刻の観照にふけったが、ゲーテ自身は自分の天分はあくまでも文学にあることを認識したのである。
ゲーテは、イタリアの旅からワイマルへ戻ると、ワイマル公に願いを出して、現実の行政からは免除してもらった。名誉職の国務大臣になったのである。もはや北国の自然も人間も南国イタリアを味わったゲーテには、なんとなく冷たいように思われた。そのとき、かれの前に明るい野の花のようにあらわれたのが、クリスティアーネ・ヴルピウスだった。彼女は、造花工場に働く貧しい女工であった。たちまち、ゲーテはクリスティアーネを愛し、彼女と内縁関係をむすんだ。封建的な身分の相違が有形無形にじゃまをしたため、正式に結婚したのは十八年ののちであった。クリスティアーネとの関係とローマの体験がうつくしく識りなして、古都を背景としてうたわれた異色のエロチシズムをただよわせる古典主義的エレギーが『ローマ哀歌』にほかならぬ。
何よりも機会詩
ゲーテがシラーとはじめて会ったのは、ゲーテがイタリアから帰ってまもなくのことだった。両詩人の友情は、一八〇五年シラーが死ぬまで、つよく固く結ばれた。たがいに創作のために刺激し合い、共同に思考し研究し、多くの名作が世におくられた。けれども、ふたりの創作の本質には差異があった。ゲーテのばあいは、現実を直視し個から全へとたかまるのだが、シラーのばあいは、理念を基礎として全から個へとくだるのである。詩にかんしていえば、ゲーテの詩は何よりも「機会詩」〔即興詩〕と名づけられる。現実の内的体験が機会によって発露したものだが、シラーの詩は「思想詩」「瞑想詩」と呼ばれる、観念や思想がまず存在してそれに導かれて詩が作制された。
たしかにシラーは、自由の殿堂を建てるために働いた詩人であり劇作家であるが、かれは、自由の観念を前提とし基盤として書いた。ゲーテも、もちろん人間開放のために創造の活動をつづけたのだが、かれが自分の作品をすべて「大きな告白の断片」とよんでいるように、その基盤はけっして観念ではなく、生活体験そのものであった。それにしても、シラーからの直接的感化とは明言できないまでも、そのころ、溌剌《はつらつ》たる情感から生まれる純粋の抒情から叙事的な詩へと傾斜した諷刺詩《クセーニエ》、傾向詩、団欒《まどい》の歌などがつくられた。
動乱の時代に
一七八九年、フランスに大革命がおこった。それは、大きくドイツをもゆすぶった。革命の炎がフランスに燃えあがる以前、すでに、ゲーテは、シュトゥルム・ウント・ドラング的な革命的傾向から抜け出していた。そして、いまは、積極的闘争よりは調和的向上をめざす古典主義者になっていた。
もとよりゲーテは、フランス革命の理想や精神には十分に同感できた。しかし、革命にともなう混乱や破壊にはつよく反撥した。かれは、多年にわたる自然科学の研究のうえから、進化の信奉者となっていた。進化は秩序正しく組織的におこなわれるべきであるという原則を、ゲーテは信じていた。
愛の相聞《そうもん》歌
フランス革命につづくヨーロッパの長い動乱を経て、ゲーテの目はしずかな東方にむけられた。北も西もくだけとび、王座ははじけ、国々はふるえるような時代に、混沌と錯雑からのがれて、ゲーテの心はきよらかな東方のむかしの族長の国土をしたって、人間の種族の原始のふかみにわけ入った。ゲーテが十四世紀のペルシアの抒情詩人ハーフィズに心から感動し、いわば、みずから現代のハーフィズとなって一八一四、五年に歌いあげた大詩集。それこそ、『西東詩集』にほかならぬ。この詩集の内容は、きわめて複雑で、老ゲーテの内的体験から出た人間観、汎神論にもとづく宗教観、自然探求による宇宙観が、東方詩人の衣をまとって意味ふかく表現されている。
けれども、この詩集の成立の裏面にも、ゲーテの女性への愛がまつわりついている。一八一四年、ゲーテはライン旅行の途中フランクフルトで銀行家ウィレマーの家を訪れ、教養のある養女マリアンネを知って心をひかれた。帰途、また同家に立寄ったとき、彼女はすでにウィレマー夫人になっていた。ゲーテとマリアンネのあいだに咲いた恋は、ハーテム〔ゲーテ〕とズライカ〔マリアンネ〕との詩の交換という形でむすばれた、精神的にきわめて高度な純粋の愛だった。この愛が、『西東詩集』のなかの相聞歌ともいうべき「ズライカの書」に、ほとんどそのままうつされたのである。
澄みきった境地
一八一五年にウィーン会議がひらかれ、ヨーロッパに平和がよみがえった。とはいえ、ドイツでは旧制度の復活による反動的専制政治が始まったのである。そのころから、ゲーテは静かな哲人的な生涯の晩秋を迎える。一六年には妻クリスティアーネをうしない、公的な職からも身を退いて、ゲーテの生活は静寂と自由のうちに明け暮れた。俗事を離れた清澄の境地から、古代中国の詩の世界にも通ずるような幽幻の気をただよわす自然観照の諦念《ていねん》の詩篇が生まれている。
ゲーテは、しばしば静養のために温泉地へ出かけた。一八二一年マリーエンバードへ行ったとき、十七歳の少女ウルリーケに会い、はげしく心をひかれた。そして、翌年も翌々年も、彼女とともに夏をすごした。老ゲーテのわかわかしい情熱はおさえがたく、本気でウルリーケを妻に迎えようとまでした。晩年の愛となやみのなかから、哀歌《エレギー》がうたわれた。この作品は、いわばゲーテの白鳥の歌である。もはや、ゲーテはほとんど外出せず、会合にも顔を見せなくなった。
やがて、美と真による統一した人類のありかたをふかく洞察しつつ、老ゲーテの英知は、いよいよ深まった。こうした過程で、純粋な人間性をもっとも個性的につらぬくことにより、国境を越え、人類に大きく奉仕する世界文学の理念が確立した。このように晩年を平穏《へいおん》にこともなくすごしたようにみえたゲーテも、内面ではやすみなき努力をつづけて、超人的な創造活動にはげんでいたのだった。『ウィルヘルム・マイスターの遍歴時代』や『ファウスト』や、詩作、自伝のみならず、科学論文まで書きつづけていたのである。
若い詩人たちに
一八三二年三月二十二日、「もっと光を」という言葉をのこしてゲーテが死んだことは、あまりにも有名である。光を、光を、と求めながら歩みつづけたゲーテは、文字どおり長い非凡な生涯を閉じたのである。比喩的にいえば、かれは、はじめは反逆者プロメーテウスであり、のちには全知全能の王者オリンポスのゼウスとなった。奔放《ほんぽう》無比の情熱の詩人は、人生達観の哲人となった。かれは、形象をみごとにつくり出す天才であり、いわば粘土《ねんど》から人間を創造し、それにあたたかい生気を吹きこむことができたのである。ゲーテは、こうした芸術家であったばかりではなく、偉大な研究者でもあった。地球の起源を、遊星の形状を、生物の構造を探求した。ゲーテは生命の泉であると同時に、汲《く》み出すことのできない認識の泉である、とブランデスも語っている。
一八三一年、八十歳を過ぎた巨匠ゲーテは、「若い詩人たちに寄せる言葉」を書いた。これは、ゲーテの詩的創造の体験と現実を知る上で、きわめて重要な発言であるといえよう。「わたしが、ドイツ人全体にとって、とくに若い詩人たちにとって何ものになったか、もし、それを語れと言われたら、こう言わせてもらいたい。わたしは、かれらの解放者となったのだ、と」――ゲーテのいう開放者は、この場合、何よりも個性を開発する解放者の意味であった。ゲーテは、人間が内発的に生きるように芸術家は内発的に制作しなければならないということを告示した。そして、若い詩人は、生きて働いているもの、そういうものだけを表現しなければならぬ、と強調する。そのために、若い詩人にゲーテがすすめるのは、自己観察であった。というのは、ポエジーの実質は自分自身の生命にほかならぬからである。若い詩人たちにむかって、最後にゲーテは、ゲーテならではの次のような一文を与えている。
「きみたちには、いま、なんらおしつけられる規範《ノルム》というものがない。きみたちは、きみたち自身で規範をつくらなければならない。きみたちは、ひとつひとつの詩において、自ら、ただ次の二点を問うがよい。きみたちの詩が、きみたちの体験をふくんでいるか。その体験がきみたちにとって進歩となっているか」――この言葉は、ゲーテ時代の若い詩人たちへの最大の忠言であるにとどまらず、現代の若い詩人たちにとっても、そのまま通ずる至言ではあるまいか。とくに日本では、何ら規範の束縛はない。若い詩人は、たしかに自分で自分の規範をつくらねばなるまい。そして、それにつづくゲーテの言葉、すなわち、詩が体験をもとにし、その体験が結果として向上進歩になっていなければならぬということ、これこそ、長い生涯を通じて、ゲーテが実践のなかから、詩的制作の内部から実証した、もっともゲーテらしい表現であるというべきであろう。
代表作品解題
「若きウェルテルの悩み」
一七七四年、二十五歳の青年ゲーテが書きあげた恋愛小説の世界的名作。一種の自己告白ともいえる書簡体の長編小説であるが、一年半ほど題材をかかえて、ペンを執《と》ると一気|呵成《かせい》に四週間で書きあげられた。
全篇は二部に分かれていて、その大部分が主人公のウェルテルから友人に宛てた、一七七一年五月から翌年の十二月にわたる手紙からなり、最後に「編者から読者へ」という編者の書いた事実の記録にもとづく物語で結ばれている。ウェルテルは、芸術家肌の青年だが、ある地方の荘園に移り住んで、舞踏会の夜ロッテと知り合う。ロッテは、法官の娘だが、母亡きあと大勢の妹や弟たちに母がわりの慈愛をそそぐ優しい世にも美しい女性であった。ウェルテルは、たちまち恋のとりこになってしまう。ところが、ロッテにはアルベルトという婚約者があり、そのひとはまことに立派な人物である。ウェルテルは、愛の灼熱《しゃくねつ》と絶望の予感の交錯する暗い谷間を彷徨《ほうこう》する。第二部では、知友のすすめでウェルテルは公務につく。しかし、上流社会の官僚主義と俗物根性に激突し、故郷へもどり、ふたたびロッテのもとへゆく。だが、すでに結婚しているロッテとは恋の実現の可能性などまったくない。それなのに、クリスマスの前夜、接吻をしてしまった。ロッテはウェルテルを突きかえす。ついに、ウェルテルはピストル自殺をしてしまう。
シュトゥルム・ウント・ドラング〔疾風怒濤《しっぷうどとう》〕を代表する、ゲーテの独創と天才とがみごとに開花し、近代小説の新機軸を打ちひらいた作品である。
「ゲッツ・フォン・ベルリヒンゲン」
一七七三年に書かれたゲーテの処女戯曲である。『若きウェルテルの悩み』とともにゲーテの青春期を代表し、シュトゥルム・ウント・ドラングの文学革命をひらいた五幕五十六場の悲劇。ドイツ中世の騎士ゲッツの史実から取材している。
主人公ゲッツは、封建反動の僧正を敵としているが、旧友であり妹の婚約者でもあるワイスリンゲンに裏切られる。ワイスリンゲンは、妖女アーデルハイトのとりことなり、さらにゲッツに好意をもつ皇帝にも偽りの訴えをする。そのため、ゲッツ逮捕の命令が出て軍隊出動となる。ゲッツは、親友ジッキンゲンとともに帝国軍と戦うが、敗れてとらわれる。やがて釈放されたゲッツは、むりやりに農民一揆の頭領にまつりあげられ、ふたたび捕えられて、自由よ、自由よ! と叫んで死ぬ。
この戯曲は、シェイクスピアの戯曲のように現実そのものの再現を重視し、アリストテレス以来の伝統的な演劇の三統一の法則を打ち破っている。そして、最後の重層的な多くのスピーディーな場面で、おそるべき迫真力をもつ近代革命劇を形成している。
「エグモント」
ゲーテの青春期、シュトゥルム・ウント・ドラング時代からイタリア旅行後にわたって書きつづけられ、一七八八年に出た、五幕の悲劇である。十六世紀のオランダの独立運動から題材をとってある。
フランドル領主のエグモント伯は、友人オラーニエンなどとともに独立運動を指導する。ところがスペイン王はアルバ公を派遣して、この運動をおさえようとする。オラーニエンは身の危険を感じてかくれるが、エグモントは友の忠告をもかえりみずアルバ公の|わな《ヽヽ》にかかって捕えられ、その夜のうちに死刑が宣告される。エグモントの恋人クレールヒェンは、懸命の努力をするが、一般の市民を動かすにいたらず、ついにみずから毒をあおる。彼女の幻影が牢獄の夢にあらわれて、愛国の志士の正義は祝福される。
歴史的事実のエグモントに取材しているけれども、ゲーテはエグモントを革命運動の闘士として、史実よりはるかに強固な積極的人物に描いたのである。ゲーテの悲劇の秀作であり、ベートーヴェンによって作曲されている。
「ウィルヘルム・マイスターの修業時代」
ドイツの教養小説の代表的傑作。シラーとの親交を通じてその影響のもとに一七九六年書きあげられた。演劇を中心にして主人公ウィルヘルムの人間形成のあとをたどっていくのが主要な内容。
裕福《ゆうふく》な商人の子ウィルヘルムは、演劇好きで劇場に出入りし、女優マリアーネと恋におちいる。しかし、マリアーネには夫があり恋は破れる。そのためウィルヘルムは商業にもどり、旅に出て、またもや旅回りの一座の芝居に熱中し、劇団の出資者となり舞台監督にもなる。一座の女優に恋をし、さらに綱渡りの一団から救ったイタリア娘ミニョンに心を動かされる。一座が伯爵家に招かれたので貴族の生活も知る。ウィルヘルムは伯爵の書記ヤルノーからシェイクスピアを教えられ、この巨匠による人間社会のリアルな芸術的再現に驚嘆。そして、自分もひろく人生を知りたいと切望する。それから、さまざまの世俗的および演劇的体験をする。けれどもウィルヘルムは芸術上、また実生活上、明確な努力の方向を見失う。そうした厭世的な観照者の危機を救うのが、「美しい魂の告白」という手記である。それは、女主人公フェリスの恋愛とその破綻《はたん》をへて神によみがえる宗教的体験の記録である。あらたに活動への勇気をとりもどしたウィルヘルムは、いよいよ人生の旅に出て、やはりさまざまの体験をし、修業時代を終えてイタリアへ向かう。
全体としてこの小説は、作品の内面的傾向がきわめて自由であり、ドイツのロマン派に大きな影響をあたえた。不定の理想の追究から確実な行動の生活への推移を告げる作品の後半は、作者の現実主義をよく示している。
「ヘルマンとドロテーア」
一七九七年に書きあげたゲーテの古典主義の代表的叙事詩である。フランス革命を背景とするドイツの庶民の家庭生活がえがかれている。ゲーテは、永遠に通ずる純人間的な生活内容をくりひろげるため、ヘルマンとドロテーアのほかはすべて人物を父、母、牧師といった抽象名詞にしている。
革命の動乱からのがれた避難民の娘ドロテーアにたいして主人公ヘルマンは、父の反対にもかかわらず熱烈に恋をする。紆余《うよ》曲折ののち二人は結ばれる。ドロテーアには、自由と解放の戦いのためにパリへ行って死んだ許婚者の男があったのだが、ヘルマンはドロテーアとの恋愛によって美しい社会生活をきずき、高い意味での平和な家庭を作ろうと努める。
この叙事詩は、革命が社会の安寧《あんねい》や幸福を破るものとして一面的にとらえられている弱点はあるが、ゲーテの卓越した詩才は、ヘクサーメター〔六脚韻〕を駆使して美しい物語詩を形成している。
「親和力」
そもそもは、『ウィルヘルム・マイスターの遍歴時代』のなかに挿入しようとして、ゲーテが書いた小説である。だが、書き終えたときに量が多くなってしまったので、独立した作品として一八〇九年に発表された。この小説の一貫した理念は、化学上の親和力から由来し、それが人間相愛の神秘に適用されている。この作品は一種の自然科学的な人間実験の小説である。事件より心理を描写して近代心理小説の先駆をなし、ゲーテの傑作として有名な作品である。
「ウィルヘルム・マイスターの遍歴時代」
『修業時代』の続篇として、一八〇七年から一八二九年にわたって書かれた長篇小説。構成は自由で統一がなく、筋に関係のない短篇小説「裏切者はだれか?」「五十歳の男」「新メルジーネ」その他が挿入されていて、この長篇全体が一見雑然としているようであるが、混沌たる人生を象徴しているものにほかならない。
まず、主人公ウィルヘルムは、その子フェリックスと世界遍歴の旅にのぼる。大工のヨーゼフ一家に会ったり、鉱夫のモンターンに会ったりする。そして、多種多様な教養が人間終局の目的ではなく、一つの職業に徹することが何よりも必要であるとさとり、ウィルヘルムは外科医になろうとする。伯父とよばれるひとの荘園で公共労働生活の実体にふれる。伯父の娘たちにすすめられて、ウィルヘルムは、叔母マカーリエをたずね、彼女の紹介で教育州という大きな学園を訪れる。フェリックスの人間教育のためである。この教育州は、畏敬《いけい》の念を中心とする高度な宗教的人間教育の理想的学園で、ゲーテの教育思想のめざすものが、そこによくうかがえる。いっぽう、マカーリエの甥《おい》レナルドーは、民主的共同体を計画し、結社のひとびとは、各人平等の理想社会をつくるためにアメリカへ渡る。やや遅れて、ウィルヘルムもフェリックスをつれて、新世界の移住者たちに加わる。
この作品の根本思想は、労働と諦観《ていかん》である。諦観は、利己から博愛へ、本能から理性へ人間を変えるという晩年のゲーテの思想の本質をあらわしている。
「ファウスト」
ゲーテが二十歳代から晩年まで書きつづけた最高の傑作で、二部作の劇詩。第一部は一八〇八年に発表され、第二部は一八三二年に公刊された。第一部はかなり写実的、第二部はきわめて象徴的だが、地上の生活で迷いに迷っても努力してやまぬ人間は、ついに主の導きによって真実の人間の天国を獲得するというのが主題。
第一部は、学問のほとんどすべてを究めた老ファウストが宇宙の原則のふかい力を洞察して人間社会に生き、人生の真実に徹しようとして悪魔メフィストフェレスと契約し、ふたたび青年に若返る。そして、純真な娘グレートヒェンと恋愛し妊娠させ、その結果、グレートヒェンを狂乱させ、ついに子殺しの罪で彼女を牢獄に呻吟《しんぎん》させる。第二部では、ファウストは皇帝に仕え、政治に参画し戦争にも関与する。美の典型ヘレナと結婚し子どもまで出来たが、これを失い、戦争に勝ったため皇帝からもらった海上一帯を埋め立てて新国土を建てる。ファウストは、そこで働きつつ繁栄する自由の民の将来を望んで死ぬ。が、ファウストの魂はメフィストフェレスに奪取されず、昇天してグレートヒェンの霊に導かれて終わる。
この劇詩は、ゲーテが十五、六世紀ごろのファウスト伝説から取材したものだった。しかし、伝説とは異なった、理想的人間の典型としてファウストを創造し、知識、享楽、事業を通じて人生を描いている。この作品は思想、感情の深遠な点で比類ないものとなっている。生涯のうちに一度は熟読すべき世界文学の古典である。(訳者)
◆ゲーテ詩集◆
ゲーテ/井上正蔵訳
二〇〇六年三月二十日