昼顔
ケッセル/堀口大學訳
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原序
僕は、書物の内容を説明する種類の序文というものを一向に好まない者だが、この書物を書いた言い訳を序文でしていると思われるのはなお一層いやだ。僕はこの書物ほど自分の心に親しいものはまだ一度も書いたことがなかったのだし、またこの書物の中にはきわめて人間的なアクセントを投入したと信じているのだから。それなのにこの意図が理解されないということがありうるだろうか?
ところが、誤解は現に存在しているのだ、僕はそれを知っているのだ、そしてそれを晴らしたいと切望している。
『昼顔』が最初『グランゴアール』紙に連載されたとき、この新聞の読者は、活溌《かつぱつ》な反応を示した。ある者は、この小説の不必要な放縦《ほうじゆう》ぶりは、春本に類するとまで言って攻撃した。この人たちに対しては答弁のしようはないように思われる。この書物が彼らを納得させえなかったものなら、それも止《や》むをえない、被害者は彼らか、僕か、僕は知らない、いずれにしても、僕にはなんとも致し方のないことだ。霊肉の惨劇を説明しようというからには、霊と肉のいずれをも同じ程度の自由をもって語らずしては、とうてい不可能のように思われる。僕は、自分が、ただの一度も、読者を誘《おび》き寄せる好餌《こうじ》として、淫猥《いんわい》を作家に許容された程度を越脱して利用したとは信じていない。
自分が選んだ主題に着手するにあたって、僕は自分がどんな危険を冒そうとしているか承知していた。そして、この小説を書きあげたときは、この小説の作者の意図について、何人も誤解しえようとは思わなかった。そうでなかったら、『昼顔』は世に出なかったはずである。
悪趣味を軽蔑《けいべつ》すると同様、見当ちがいの羞恥心《しゆうちしん》も軽蔑されてしかるべきものだ。社会的観点からなされる非難は僕の苦痛にはならないが、精神的の誤解には無関心ではいられない。僕がこれまで考えたこともなかった序文を書く決心をしたというのも、実はこの誤解を解かんがためだ。
何度も僕は聞かされた、とんだ特異な場合をとりあげたものだと。他方、数人の医者は、自分たちが幾たりかのセヴリーヌを知っていると告げた。彼らが、内心、『昼顔』を病理学上の優《すぐ》れた観察記録と考えていることは明白だった。ところが、僕が、人々に信じさせておきたくないと思うのが、実にこの点なのだ。モンスター(怪物)の描写は、たといそれがどれほど完全だろうと、僕にはまるで興味がない。『昼顔』によって僕が試みたのは、霊と肉との間の、つまり偽りのない深い愛情と執拗《しつよう》な肉情の欲求との間の、恐るべき隔離を指摘するにあった。この争闘は、ほとんど例外なしに、長きにわたり愛しつづける男女の誰もが必ず包蔵しているものなのだ。気づいている場合も、気づかずにいる場合もあり、痛む場合も痛まない場合もあるが、それが存在する事実に変りはない。いわばこれは、平凡な抗争であって、すでに幾度となく小説に扱われているものだ! ただ、この抗争を、人間の本能が、その本来の、偉大にして永遠な面目を発揮しうる強度の境地へ導くためには、特別なシチュエーション(事態)が必要だと僕は考えた。僕はあえてそのシチュエーションを工夫した。むろん、それは興味本位ではなしに、この悲劇の胚芽《はいが》を隠し持つ各人の魂の奥秘《おうひ》に、確実にかつ鋭利に触れうる唯一の手段としてだ。健康な心臓に何が隠されているかを究《きわ》める目的で、病気にかかった心臓を研究すると同じように、また、知能の活動を理解する目的で、精神病を研究すると同じように、僕はこの主題を選んだ。
『昼顔』の主題は、女主人公セヴリーヌの淫蕩《いんとう》な迷いではなく、実にこの迷いに影響されずに残る彼女のピエールに対する愛情であり、この愛情の悲劇なのだ。
セヴリーヌを哀れと思い、彼女をいつくしむ者ははたして、作者の僕だけだろうか?
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昼顔
サンディに
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プロローグ
そのころ八歳《やつつ》になったセヴリーヌは、自分の部屋から母の部屋へ行くのに、長い廊下を通らなければならなかった。彼女はこの途中を退屈がって、いつも駆けて通ることにしていた。ある朝彼女は、廊下の中ほどまで来て、立ち止った。廊下のそこのところに、浴室へ通じるドアがあって、それがちょうど開《あ》いたところだった。ひとりの鉛管工が中から出てきた。身丈《せい》の低い、厚ぼったい男だった。彼のまなざしが、まばらな睫《まつげ》の間を洩《も》れて、小娘に注がれた。ふだんものおじしないセヴリーヌが、このときだけはこわくなって、あとすざりした。
この身ぶりが男を決心させた。彼はすばやくあたりを見まわすと、今度は、両手でセヴリーヌを抱き寄せた。彼女は身近に、ガスと男くさい匂《にお》いを感じた。ひげの生《は》えた二つの唇《くちびる》が彼女の首すじを焼いた。彼女は抵抗した。
職工は黙りこくって肉感的に笑っていた。彼の両手は着物の下で、やわらかい彼女の肉体を撫《な》でまわした。急にセヴリーヌが抵抗しなくなった。彼女は硬直し、真っ青になった。男は彼女を床に寝かせ、そのまま音もたてずにいってしまった。
家庭教師《ガヴアネス》が、倒れているセヴリーヌを見つけた。家の人たちは、彼女がすべって転《ころ》んだものと思った。彼女もそう信じた。
ピエール・セリジーは馬具を点検していた。スキーを履《は》き終えたセヴリーヌがたずねて言った、
――支度《したく》はいいの?」
彼女は紺の厚羅紗《あつらしや》地の男の服を着ていた、だがいかにも健康な、すっきりした線を持つ女《ひと》なので、この服装も張りのある体《からだ》を重苦しくは見せなかった。
――なんだかあなたのことが心配でたまらないんだ」
とピエールが言った。
――だって、あぶないことなんか、何もないんですもの。雪が綺麗《きれい》なので、転ぶとかえって楽しいくらいよ。さあ、思いきって出かけましょうよ」
ひょいと身軽に飛びあがったかと思うと、ピエールは、すでに、鞍《くら》に跨《またが》っていた。馬は暴《あば》れないばかりか、身じろぎさえしなかった。駆けるよりは、荷運びに慣れた、腹の大きな力の強そうな、従順な馬だった。セヴリーヌは馬具に結《ゆわ》えてある長い手綱を両手にしっかり握ると、心持ち両足を開いた。彼女はこのスポーツを、はじめて試みるのだった。注意力の集中が、いくぶん彼女の顔をひきつらせた。
こうしていると、ふだん彼女が動いているときには目立たない顔の欠点が、はっきりあらわれた。角《かく》ばりすぎた顎《あご》と、ひいでた頬《ほお》。だがピエールは、セヴリーヌの顔に現われるこの力強い健やかさが好きだった。彼女のこの表情を一秒でも長く見ていたくなり、鐙《あぶみ》を直すと見せかけた。
――さあ行くよ」最後に、彼が叫んだ。
セヴリーヌが握っている手綱が張った、彼女は自分が静かにすべっていると感じだした。
最初、彼女は、平衡《へいこう》を保つこと、みっともない格好はしたくないと思うこと以外、なんの考えもなかった。広い野外へ出る前に、まずこのスイスの小さな市《まち》の、唯一の並木通りの、端から端へと通り抜けなければならなかった。ちょうどいまが、皆がそこへ散歩に出ている時刻だった。ピエールは明るい微笑で、スポーツや酒場で知り合いの友達や、男装した若い女たちや、または派手な色に塗りたてた橇《そり》のなかに寝たように横たわっている女たちに挨拶《あいさつ》した。ところが、セヴリーヌのほうは、市《まち》はずれの標識が現われるのをまだかまだかと待つことにだけ熱心で、誰の顔も目には入らなかった。さしあたり、市はずれの標識は、広場を前にした風情《ふぜい》のない小さなお寺……スケート場……真っ白な堤《つつみ》の間に黒々と凍《こお》った川……窓を郊外に向って開いた場末のホテルだった。
このホテルを過ぎると、セヴリーヌははじめて楽に息がつけた。ここまで来てしまえば、たとえ彼女が転倒したところで、誰も見てはいないはずだ。ピエール以外には誰もいないはずだ。ピエールならかまわなかった……。こう思うと、自分の胸中に生きたやさしい獣《けもの》のように住む恋慕の情で、彼女はひときわ美しくなった。夫の日焼けした首すじと、その堂々とした肩つきを見て、彼女はほほ笑《え》んだ。彼は調和と精力の星の下に生れていた。すべて、することが器用で、正確で、楽しそうだった。
――ピエール」セヴリーヌが呼んだ。
彼がふり返った。顔一面にまともに当る太陽が、その大きな灰色の眼をなかば閉じさせた。
――いい気持だわ」若々しい彼女が言った。
特に設計して造られたかと思われるような緩《ゆる》やかなカーヴを描いて、雪の谷間は延びひろがっていた。見あげる高い峰のまわりに、わずかながら雲がただよっていた、ふわふわした牛乳色の羊毛のように。傾斜面には、スキーの人たちが、鳥のように軽快に、翼を動かすような身ぶりで、すべっているのが見えた。セヴリーヌが繰返して言った、
――いい気持だわ」
――まだまだこんなもんじゃないよ」ピエールが言った。
彼は、一層きつく馬の脇腹《わきばら》を、両|膝《ひざ》でしめると、さて速歩《トロ》に移った。
――いよいよ始まるんだわ」若い彼女が思った。
一種幸福な懊悩《おうのう》が、彼女のうちにひろがった。やがて、それに安心と気軽さが加わっていった。彼女はひるむ様子もなかった。先のとがったスキーが、ひとりでに彼女を乗せて走った。スキーの動きに身をまかせているだけでよかった。彼女の筋肉の緊張がほぐれてきた。今では彼女は自分の筋肉をしなやかに駆使することができた。徐行《じよこう》する橇《そり》が薪《たきぎ》を乗せてくるのに行きあった。橇の上には、両足をぶらさげ横坐りになって、頑丈《がんじよう》な日焼けした男たちが乗っていた。セヴリーヌがその男たちに微笑した。
――うまい、うまい」彼女にむかって、ときどきピエールが叫んだ。
それを聞くと、若い彼女には、この元気な愛すべき声が、自分自身から出るように思われた。それかあらぬか、彼女が「注意《アタンシヨン》」という叫びを耳にしたときには、一種の反射作用で、早くも、自分が現に感じつつあるよろこびが、より一層強くなるように感じたものだ。駆歩《ガロ》の大げさな歩調が路面を蹄鉄《ていてつ》の鎚《つち》で打つ音が聞えた。このリズムがセヴリーヌの全身にしみこんだ。スピードが、いかにもよく彼女の体《からだ》の平衡を支《ささ》えてくれるおかげで、彼女はもう、自分が快走しているとは少しも考えなかった。そして彼女の上に溶けかかってくる原始的なこの快楽を味わいつくすことにのみ忙しかった。ドライブの緩急に支配される彼女の脈搏《みやくはく》以外、この世の中に、はや何ものも存在しなかった。今や彼女は、すでに引きずられてはいなかった。彼女がこの慓悍《ひようかん》な抑揚《よくよう》に満ちた運動を指揮していた。彼女は、同時に君主として、奴隷として、この運動の上に君臨した。
それさえあるに、あたり一面のこの輝かしい白さ……。それにまた、この冷たい風、飲料《のみもの》のように流暢《りゆうちよう》で、泉のように、若さのように、さわやかなこの風……。
――もっと早く、もっと早く!」セヴリーヌが叫んだ。
だがピエールには、この種の激励は不要だった。馬もまたピエールに鞭《むち》打たれる必要がなかった。この三者は、幸福な生きた一体になっていた。
一行が路から横へそれようとして、急なカーヴを切った。セヴリーヌが支えかねて手綱を放し、雪の斜面に半身を埋《うず》めて倒れた。ただ雪がいかにも柔らかく、すがすがしいので、背中を走る冷たい雫《しずく》を苦にするかわりに、彼女はかえってそれを新しい喜びとさえ感じたほどだ。ピエールが来て、助けるより先に、彼女は元気に起きあがっていた。彼らはまた走りつづけた。小さな宿屋の前へ来て、ピエールは止った。
――この先にはもう道のあとがない、ここでひと休みなさい」
まだ早朝なので、ホールには誰もいなかった。ピエールがしばらく中を覗《のぞ》いていたが、やがて言いだした、
――戸外《そと》へ出ようじゃないか? 日向《ひなた》は暖かいから」
宿の主婦《かみさん》が、家の前に、彼らの席を支度《したく》している間《ま》に、セヴリーヌがたずねた、
――宿がお気に召さないのね、すぐあたしには気がついたのよ。なぜお気に召さないんでしょう? こんなに清潔《きれい》にしてあるのに」
――清潔《きれい》すぎるんだ。むやみやたらに洗いだしたんで何ひとつ残っていはしない、これがフランスだと、どんなつまらない居酒屋にも、必ず、愛すべきさび[#「さび」に傍点]があって、いかにも田舎《いなか》らしい気分になれるんだが、この国では、ちがうんだ。あんたにも気がついたろう、家屋も人間もすべてが見通しだ。陰もなければ、隠れた意匠もない、つまり生命がないんだ」
――あら、あなたって、ずいぶんひどいわ、毎日幾度となく、あたしの明るさがお好きなんだとおっしゃっているくせに」セヴリーヌが笑いながら言った。
――その抗議はもっともだが、あんたは僕の病気なんだから仕方がないよ」ピエールが答えながら、セヴリーヌの頭髪《かみのけ》に唇をおし当てた。
主婦が彼らのために、黒パンと、舌ざわりの粗《あら》いチーズとビールを運んだ。またたく間に、それらのものは消えてなくなった。ピエールとセヴリーヌは幸福な食欲で食べた。ときどきふたりの視線は彼らの足もとにひろがる狭い谷の方へ向けられた。そこには杉の木立が、おのおのの枝の上に美しい姿に雪の紡錘《つむ》をのせていた、周囲には青空と太陽が、青灰色の暈《かさ》を浮べて。
一羽の小鳥が、ふたりから遠くないところへ、来てとまった。小鳥は眩《まぶ》しいほどの黄色い腹をして、黒い縞《しま》のある灰色の翼をしていた。
――すてきなチョッキね」セヴリーヌが言った。
――メザンジの雄だよ。雌はもっと地味だ」
――ちょうどあたしたちみたいね」
――まさか……」
――だって、あたしたちふたりのうちで、あなたのほうがずっとお立派だとごぞんじのくせに。そんな困ったらしい顔していらっしゃるあなたが、あたし大好きだわ」
ピエールは顔をそむけた、セヴリーヌには、そこに描かれた困惑のために、子供らしい表情になった夫の横顔が見えた。果敢な顔の、この表情が彼女の心にいつもいちばん深く触れるのだ。
――あたし、接吻《せつぷん》してあげたいのよ」彼女が言った。
手持ちぶさたなので、雪玉をこさえていたピエールが、言った、
――僕のほうは、こいつをあんたにぶっつけてやりたい」
言い終るか終らぬ間《ま》に、彼は自分の額に冷たい粉をしたたか浴びた。彼もそれに応じた。数秒の間、ふたりは猛烈に雪を投げ合って闘った。椅子《いす》の倒れる音に驚いて、主婦《かみさん》が戸口へ出てきたので、ふたりは、あわてて、雪合戦をやめた。老主婦は母のようにやさしく微笑した。馬に乗ろうとするピエールの頭髪《かみのけ》を梳《と》かしてやりながらセヴリーヌが浮べた微笑も、同じく母性的だった。
小さな市《まち》へ入ってからも、ふたりは駆歩《ガロ》を続けた。そして往来の人を退《の》かせるために、必要以上に大きな叫びをたてたが、これはふたりの喜びのはけ口だった。
セヴリーヌとピエールは、ホテルで、ふたま続きの部屋を取っていた。若い彼女は自室へ入ると、いきなり夫に言った、
――お着換えなさいましね。ピエール。体《からだ》をよく摩擦《まさつ》してから。今朝は、ずいぶん寒いんですから」
いくぶんわなないているようなので、ピエールが、脱衣を手伝おうと言いだした。するとセヴリーヌが叫ぶようにして言った、
――いいのよ、あたしなら。あなたこそ早くなさいましよ」
ピエールの目つきと、自分の窮屈な気持とで、彼女には、自分があまりにも気負いこんで、夫の申し出を拒んだことに、しかもそれが単に夫の身を案じるばかりの動作でなかったと気がついた。ピエールの目が告げているように感じた、≪結婚して二年にもなるのに、まだこんなに恥ずかしがる≫と。セヴリーヌは、自分の頬が火のようになるのを感じた。
――早くなさいましよ。ぐずぐずしているとふたりとも風邪《かぜ》をひきますわ」彼女が神経質に言った。
出てゆこうとして彼が扉《とびら》をあけたので、セヴリーヌが追いついて、ぴったりと身を寄せるようにして言った、
――いい散歩だったわね。あなたのおかげで、あたし一分《いつぷん》一分がずいぶん充実した感じだわ」
ピエールは見た、妻が黒いローブに着換えたのを。この衣裳《いしよう》の下で、堅肉《かたじし》の美しい肉体がゆったりと身じろぐのを感じた。彼は数秒の間、動かずにいた、彼女も動かなかった。ふたりは互いに、目と目を見合せるだけで楽しかった。ついで、彼が彼女の首の、なごやかに肩に続くあたりに、接吻した。セヴリーヌは夫の額を撫《な》でた。ピエールは彼女のこのしぐさに、もっぱら友情的な気持を感じて、またいつものように、臆《おく》しがちになった。彼は自分から先に離れようと急いで頭を上げながら、言った、
――出かけよう。おそくなっちゃった」
ルネ・フェヴレが、ウィンナ喫茶店で、ふたりを待っていた。小柄で、粋《いき》で、快活で、うごきと明るい声の塊《かたまり》のようなこの女は、ピエールの友人で同業の外科医と結婚していた。彼女はセヴリーヌに対して、深い、めちゃめちゃな親愛感を持ち、内輪な気質のセヴリーヌにまで、お互いにあんたと呼び合うような親しい交際を強《し》いてしまった。
店の入口に、セリジー夫妻の姿を見つけるといきなり、ルネは、店の奥からハンカチを振って叫んだ、
――ここよ、あたし、ここにいてよ。こんなイギリス人だの、ドイツ人だの、ユーゴー・スラヴィア人だのの中に、ひとりぽつねんとしているなんておもしろいこっちゃないわよ。外国にいる気分を味わわせようってんで、こんなに待たせてくだすったの?」
――すみませんでした。あのサラブレッドに曳《ひ》きずられて、遠くへ行きすぎてしまったので」ピエールが言った。
――あたし見ちゃったわよ、あなた方が帰ってくるのを。ずいぶんすてきだったわ、おふたりとも。セヴリーヌ、あなたの紺《こん》の男装が可愛かったわ……。さあ、何を召しあがる? マーテニ? シャンパン・コックテル?……あ、ちょうどそこへユッソンが来たわ。あの人がきっと何かおいしいものを教えてくれるわ」
セヴリーヌが、こい眉《まゆ》を心もちひそめて、
――ここへ呼んじゃだめよ、あの人」とつぶやいた。
ルネはあんまり早く返事をしすぎた、――すくなくもセヴリーヌにはそう思われた。
――だってもう駄目よ、あたし合図しちゃったんですもの」
アンリ・ユッソンは、テーブルの間を縫って、身軽に磊落《らいらく》に動いていた。彼は、ルネの手に、ついでセヴリーヌの手に、長々と接吻した。この唇の接触が、セヴリーヌには何か疑惑のようで不快だった。ユッソンが顔を上げるのを待って、彼女はまともに見つめてやった。彼は、そのやつれた顔の筋ひとつ動かさず、この糾問《きゆうもん》を受けた。
――僕いま、スケート場から来たところです」彼が言った。
――喝采《かつさい》されていらしったの?」ルネがたずねた。
――いいえ。フィギュアを二、三やっただけです。なにしろ大変な人でしてね。僕は見ていることにしました。相当にうまい連中がいるときは見ているのも悪くはないですな。僕、あれを見ていると天使の幾何学を考えさせられますよ」
顔に動きというものがなく憔悴《しようすい》しているくせに、声には、熱があり、抑揚があり、不思議に魅力のある音楽的な性質があった。彼は自分ではこの声の魅力に気づいていない者のように、内輪にそれを用いた。ピエールはこの声が好きだった、彼がたずねた、
――美人が居たかい?」
――半ダースほどね。まず大漁の部だろう。だがあの連中ときたらいったいどこで衣裳を作るのかな。たとえばです、マダム、(彼はセヴリーヌにむかって言った)あの大柄なデンマーク女をごぞんじでしょう、あなたのホテルにいるあれです……。どうでしょう、オリーヴ色の縞《しま》のセーターに、鶯色《うぐいすいろ》の襟巻《えりまき》ときているんですからね」
――まあ、いやですこと」ルネが叫んで言った。
セヴリーヌから眼を放さずに、ユッソンが続けて言った、
――いったいあの娘さんは、あんなみごとな腰や乳房を持っているんだから、裸以外のなり[#「なり」に傍点]はしなけりゃいいんですよ」
――それはまたおやすいご注文だな。それを言うのが君だから一層おもしろい……」ピエールが笑いながら言った。
言いながら、彼は、この室内が相当な暑さなのに、ユッソンが脱ごうとしない毛皮の外套《がいとう》にさわってみた。彼の、寒がりな美しいほっそりした手先だけが、袖口《そでぐち》から出ていた。
――女の衣裳というものは、もともと肉感的な作用をするためのものなんだ。だから、貞淑なくせにおしゃれをするということは、僕には猥褻《わいせつ》にとれる」ユッソンが言いつづけた。
セヴリーヌは顔をそむけたが、依然自分の上にそそがれる執拗《しつよう》なまなざしを感じた。ユッソンの言葉の意味より、自分に向けられるこの執念深さが余計に気になった。
――じゃ、スケート場の天使たちは、結局気に入らないとおっしゃるのね?」ルネがたずねた。
――そんなこと、言ってはしませんよ。ただあの趣味のわるさがうるさいだけで、どっちみち、見ているには楽しいですよ」
――つまり、あなたのお気に召すには、みっともない風《なり》をしなければいけないってことね」ルネが陽気な調子で返答返しをした。セヴリーヌには、ルネの語調にいつもとちがい闊達《かつたつ》さが欠けていると思われた。
――そうじゃないですよ。僕にはユッソンの言うことがよくわかるんだ、つまり、ある種の色彩の取合せには、挑発的なものがあるんだ。それが悪所を思い出させるんだ。そうだろう、ユッソン?」とピエールが言った。
――男性って複雑なものね、あなたそう思わないこと?」ルネがセヴリーヌにたずねた。
――ピエール、あなた聞いてるの、評判がわるいわよ?」
彼は例の精力的なやさしい笑いを見せた。
――僕はただ、あらゆるものを理解しようと努めるだけですよ。酒の力を借りてやるなら、たいしてむずかしくもないですよ」彼が言った。
――君たち知っているのか、皆が君たちを新婚旅行のふたりだと思っているよ。二年も前の新郎新婦にしては、これはたいしたものだ」ユッソンが藪《やぶ》から棒に言いだした。
――そのあとに続けて、ちとばからしいと、こうおっしゃりたいんでしょう?」セヴリーヌが、はっきりそうと感じられる険《けん》のある口調で言った。
――なぜでしょう? 自分にうるさいくらいのものが僕にはおもしろいのですと今も言ったじゃありませんか」
妻の顔をひきつらせる怒気に気づいて、ピエールはこれはいけないと思った。
――どうだいユッソン、君、競技のフォームは大丈夫か? オックスフォードの連中を、ぜひ負かしてやりたいんだが」彼がたずねた。
ふたりは、ボッブスレーのことや、相手チームのことを語り合った。その話が終ると、ユッソンは、セリジー夫妻に、今夜彼といっしょに食事をするようにと申入れた。
――せっかくですが、不可能ですわ、もう招待されていますの」セヴリーヌが答えた。
往来へ出ると、ピエールがたずねた、
――嘘《うそ》までついて逃げなけりゃならないほど、あんたにはユッソンがいやなんだね。どういうわけだい? あの男、スポーツマンとしては勇気もあるし、教養は申し分ないし、決して口も悪くないしするのに」
――なぜだかあたしにもわからないの。ただもうあの人がいやなの。あの声……他人《ひと》の隠そうとするものを絶えず見つけ出そうとしているようなあの声……。あの眼……まるで動かないのね、あの眼、あなた気がついて。あの寒がりらしい様子……。それにあたしたち、まだあの人を知ってから半月にしかならないんですもの……(彼女は急に言葉をとぎらせた)パリへ帰ったら、あの人と交際しないようにしましょうね。いいでしょう? あなた黙っていらっしゃるのね……。もうあらかじめ招待しておしまいになったんだわ、きっと。困った方ね、あなたって、いつでも同じしくじりばっかりなさるんですもの。あなたって、造作なく近づきになったり、人を信じたりなさるんですもの……。否定なすってもだめよ。だってそれがあなたの長所の一つなんですから。あたし、あんまり怒らずに赦《ゆる》してあげるわ。こことは違って、パリは広いから、あの人をさけることもできるわけね」
――ルネは、あんたほど逃げ回りそうもないね」
――そう思えて……」
――べつだんそう思うってほどでもないが、とにかく、ユッソンがいるとルネは黙ってしまうだろう。あれが一つの徴候だよ。それはそうと、僕ら今夜どこで食事をするんだい? 見つからないようにしなけりゃいけないぜ」
――ホテルですませましょう」
――そのあとで、何をする? バカラでもやろうか?」
――いけませんわ、お願いですからおよしになってね。お負けになるお金が惜しいから言うわけじゃないですが、あとのあなたがとても不愉快らしいんですもの。それに明日は競技があるんですし。あたしぜひあなたに勝っていただきたいわ」
――どうでも、あんたの好きにしよう」
彼は、思わず洩《も》らすらしい調子で、つけたして言った、
――あんたの言いなりになるのが、こんなに気持がいいとは、つい知らなかった」
セヴリーヌが、少女のように不安そうなまなざしで、やさしく彼を見つめるので、ついこんな言葉も彼の口から洩れるのだった。
その晩、ふたりは芝居へ行った。ロンドンからの一座が『ハムレット』をやっていた。有名なユダヤ種《だね》の若い俳優が、主役を勤めた。
英国で教育されたくせに、セヴリーヌはシェクスピアがあんまり好きでなかった。でも月光と雪の降るなかを、橇《そり》で劇場から帰る道すがら、ピエールの沈黙を尊敬して、彼女は無言でいた。彼女は、夫が劇場からノーブルな哀愁をいだいて出てきたと察した。それを分ち味わうことはできなかったが、その反映を美しい夫の額に見るのは、彼女にもうれしかった。
つぶやくようにピエールが言った、
――モヴレスキーは実に天才的だね。あの役者は、狂気や死にまで、肉の味をつける術《すべ》を知っている。それに肉感的な芸ほど伝染性のあるものはないんだ。あんた、そう思わないかい?」
彼女が返事をしないでまごついていると、彼がもの思わしげに、つけたした、
――そうだ、あんたにはわからないんだ、無理もないことだ……」
セリジー夫妻が、スイスで過した最後の数日、セヴリーヌは、体《からだ》が熱っぽく、呼吸《いき》ぎれを覚えた。パリへ帰りつくと、いきなり急性肺炎が彼女を襲った。
ひどく悪性な肺炎だった。一週間つづいて、若い彼女は、吸玉《すいだま》をかけられたり、蛭《ひる》に吸われたりして、死の岸辺をさまよった。ときどき正気にかえると、枕《まくら》もとの母の憔悴《しようすい》した姿と、部屋の中に誰とも聞き分けかねるが、それでいて、なんとなくうれしくなる足音を、かすかながら耳にした。ついで彼女は、またしても、枯れかけた植物のように熱っぽい無感覚の中に落ちこむのだった。
ある朝、夜明けの光が、気味わるい獣のようにベッドの上に流れこむ時刻、彼女はこの植物的な状態から抜け出した。気がつくと、背中が無慙《むざん》に痛かった。でも呼吸はさまで苦しくなかった。一つの影が彼女のそばに腰かけていた。セヴリーヌは、きっとピエールに違いないと思った。この名、自動的に彼女の中に現われるこの名が、今や単に漠然《ばくぜん》とした安堵《あんど》の気持を与えるにすぎなかった。夫の手が彼女の額にふれ、愛撫《あいぶ》してくれた。セヴリーヌは頭《かしら》を横へずらした。ピエールは、これも無心の動作だろうと思った。だがセヴリーヌとしては、この手の接触をさけようと、わざとした動作だった。彼女は今、いかにも気持がよいので、いかにも自分だけで満ち足りているので、自分以外のすべてを忘れたい欲求にかられていた。
この孤立に対するあこがれ、この極端に利己的な気持は、徐々にしか去らなかった。彼女は何時間となく、血管の青い痩《や》せた手首や、まだ病的に紫色の爪《つめ》を眺《なが》めて過した。ピエールが何か話しかけても、彼女は答えなかった。夫の愛情なぞは、彼女が自分の肉体に対して感じる愛情にくらべたら、ものの数にも入らなかった。彼女の肉体は尊くて、広大で、豊満な存在だった! セヴリーヌは、自分の肉体をはぐくむ和《なご》やかな血の流れが聞きとれるような気がした。彼女は、自分の力が成長しつつあるのを、深く肉感的な気持で毎日感じとった。
ときどき、秘密の上に閉ざされたような顔つきで、何か不思議な夢想でも追っているらしいときがあった。そんなとき、ピエールが話しかけでもすると、セヴリーヌは、じれったさと、悩ましさと、恥ずかしさでいっぱいなまなざしを、夫に向けるのだった。
そのくせ、夫の動作に、ふと情欲のきざしのようなものを認めでもすると、反抗と疲労が身内にあふれた。
このような折々、ピエールは、よくセヴリーヌの顔に眺《なが》め入った。病気が彼女を露骨に、やさしい少女の感じを与えていた。彼女の周囲に彼が呼吸するのは、若さと純潔だけだった。
セヴリーヌの体力は迅速《じんそく》に回復した。だが喜びは帰ってこなかった。病気の熱が、肉体からとれるに従って、彼女の、名状しがたい情欲も消えてなくなった。セヴリーヌは気抜けして、ベッドを出た。彼女は部屋から部屋へ、ぶらぶら出たり入ったりしていた、自分の生き方を、もう一度学び直すとでもいった様子で。
彼らのアパルトマンの内部《なか》はすべて、ピエールの書斎までが、すべてセヴリーヌの好みでセットされていた。病気以前の彼女には、自分が組立てた家じゅうの秩序が整然と保ちつづけられるのを監督するのが楽しかった。理由は、このすまいが居心地よく、手広くはあり、自分の統制のあとが、ありありと感じられるからだった。今でも、この点、彼女の矜《ほこ》りに変りはなかったが、ただ、今やそれが、抽象的な色のあせたものに変っていた。彼女には、自分の一生がいつになっても同じ光線に照らされているように思われた。いつも家庭教師《ガヴアネス》を通じて見てきた両親、英国の女学校で過した規律とスポーツの数年間……。もちろん、彼女には、ピエールがあった、あるだけではなく、世界じゅうで、彼女のものと呼べる彼がその唯一つのものだとさえ思えた……。なつかしい夫の顔を思い出して、セヴリーヌはやさしく微笑した。そして彼女のもの思いをそこにとどめてしまった。それなのに、ある一つの期待が、彼女の中に持続した。漠然《ばくぜん》と、しかも執拗《しつよう》に、命令的に、それはいつかしらピエールの姿を出しぬいて、彼女が未知の地平線に向っていだく触れることのできない領域を越えて、遠くへすべりひろがった。それはセヴリーヌにも意味のわからぬ期待だった。それは彼女の心を乱す期待だった。それはまた、彼女が自分で認めようとしない期待でもあった。
――こんなの、一、二度テニスでもしたら、なおってしまう気持だわ」と彼女は自分に言いきかせた、形となって現われなかった非難にでも答えるように。
彼女が、もの思わしげに、ぼんやりしている様子を見て、ピエールが思うのも、同じくこれだった。
この不思議な病後の期間中、特にこの期待の気持が激しいとセヴリーヌ自身気のついた日が一度あった。それは、はじめてユッソンから花を送られた日だった。花に添えられた名刺を読むなり、彼女はしばらくの間、化石したようになった。彼女はこの男の存在を忘れていた。それなのに、彼女は今、自分の生活の中にこの名がもう一度戻ってくるのを待っていたような気がした。彼女は日暮れになるまで、不安と反感の気持で、この男のことを思いつづけた。ところが、この神経的ないやな気持が、今の彼女の精神状態にいかにもよくマッチするので、これがかえって彼女に一種刺激的な快感を与えた。
花は、あとからあとから贈られてきた。
あたしが嫌《きら》いなことは、あの人も気がついているはずだから、あたしお礼なんか言いはしないわ。ピエールにもお礼なんか言う必要はないと禁じておいたほどだし。それなのにあの人ったら、性こりもなく贈ってよこす……」こう彼女は考えた。
彼女は、ユッソンの動きのない眼《まなこ》と、寒そうな唇《くちびる》を思い出し、全身に重くひびき渡るような嫌気《いやけ》におそわれて、わなないた。
その間、ルネ・フェヴレは毎日|訪《たず》ねてきた。彼女は忙しげに入ってきて、帽子も脱がずに、四、五分間しかいられないと宣言しておいて、実は幾時間も話して帰るのだった。彼女の饒舌《じようぜつ》が、セヴリーヌにはうれしかった。彼女の軽薄さに、セヴリーヌはぼんやりさせられるが、それもまた楽しかった。彼女はセヴリーヌを安易な世界へ連れ出してくれた。衣裳《ローブ》と、離婚と、恋愛と、化粧品よりほかには、なんの屈託もない世界へ。だが、ときどきは、痛々しい疲労の影が、友の顔を老《ふ》けさせていると、また、その快活さに、何か動物的なところがあると、セヴリーヌが感じることもあった。
ある日の午後、二人がいっしょにいると、召使が来てセヴリーヌに名刺を渡した。彼女はそれを、しばらく指先でいじくっていたが、やがてルネに言った、
――アンリ・ユッソンよ」
しばらく沈黙があった。
――あなた会わないでしょうね」不意にルネが叫んだ。
彼女の言葉の端的な、張りつめた調子が、ふだんの彼女の調子とあまりに似つかぬものだったので、セヴリーヌは、考えもなしに、あやうく友の意見に従おうとした。でも、いったん驚きが去ると、彼女はたずねることができた、
――なぜ?」
――なぜってわけもないけれど……。あなたがあの人を嫌いなのを思い出したからよ……それに、あたしまだ言いたいことがどっさり残っているんだもの」
友のこの妙な態度がなかったら、セヴリーヌは、たぶんユッソンに会うことはさけたと思われる。ところが、ルネが見せた、この会見をさまたげようとする意志が、同時にセヴリーヌの好奇心と矜《ほこ》りを喚《よ》びさました。
――でも、あたしの考えが変ったかもしれないでしょう、それに……あんなに花を贈ってくれたんですし」セヴリーヌが言った。
――ああ、そう……あの方が、花を贈ったの……」
逃げ出すようにして、ルネが立ちあがった、手袋に指がどうしてもはいらなかった。セヴリーヌが、このあわてように動かされて言った、
――どうしたの、あなた? ありのままに言ってよう。嫉妬《やけ》るの?」
――いいえ、いいえ……。そうならそうと、あたし始めっからあなたに言ったはずよ。あなたって正しい人だから、理解してくれたと思うわ。あたし、恐《こわ》いのよ。あの人、あたしをおもしろがってもてあそんでいるのよ。あたしにはあの人がよくわかったの、このごろになって。邪悪以外には、なんにも持っていない人なの。理知的な小細工よりほかに興味のない人なの。たとえば、あの人があたしにしたことは、何もかも、あたしに自分を卑しむようにさせることだったの……。しかもあの人はそれに十分成功したんだわ……。あなたの場合は反対よ、あなたが嫌いなところをあの人は強化しようとしているんだわ。それがあの人には楽しいのよ。でも、用心してね、ほんとに危険な人物なんだから」
どんな言葉も、この「危険」という言葉以上にセヴリーヌを決心させる力はもたなかった。
――見ていてごらんなさい」彼女が言った。
――いやよ……いやだわよ」
ひとりになると、セヴリーヌは寝椅子から起きあがり、ユッソンを案内させた。彼女が小さなテーブルのうしろに坐って、燕子花《あやめ》のたくさん活《い》けてある花瓶《かびん》に身を守られるように隠れて、顔さえろくに相手から見えない位置にあるのを見て、彼はにっこりした。この長い微笑、しかもわざとらしい沈黙を伴ったこの微笑が、セヴリーヌの心の平静をかき乱した。ついでユッソンが、彼女の前に腰をおろし、花瓶を移すにおよんで、彼女はいよいよいやでたまらなくなった。
――セリジー君は、留守ですか?」不意に彼がたずねた。
――たぶんそうなんでしょうね。留守でなかったらもうお会いしているはずですもの」
――家にいさえしたら、あなたのおそばから離れないんでしょうな……。留守だとおさびしいでしょうな?」
――そうですわ」
――僕にもその気持はわかりますね。なにしろ僕でさえあの人に会うとうれしいんだから。男っぷりはいいし、陽気だし、落着きはあるし、公明正大だし、実際比類のない伴侶《つれあい》でしょうからね」
セヴリーヌが急に話題をかえた。この男の口から出る賞讃《しようさん》の言葉の一つ一つが、ピエールの姿を小さくし、いやなものにするような気がするので。
――さいわい、毎日来てくれる女の友達のおかげで、あたしあんまり退屈しませんの」
――マダム・フェヴレでしょう?」
――さっき、帰るのをごらんになりました?」
――そうじゃないんですが、あの人の匂《にお》いがするんです。あの人のように、やはりなんとなく哀願するような匂いが」
言いながら彼は、セヴリーヌにとっていやでたまらないあの笑いを見せた。
――ほんのわずかの間ですが、あなたは今、ご自分の以前の姿をお見せになりました」ユッソンが気づいて言った。
――あたし、そんなに変ったでしょうか?」若い彼女が軽くわななきながらたずねた。
言ってしまうとすぐ、彼女はこの質問が示す自分にも無意味に感じられる懸命さに気づいて、はしたないと後悔した。ユッソンが答えて言った。
――あなたは、以前のあのうぶな顔つきをなくなさいました」
――おほめにあずかっておそれいります」
――いつもあなたって方は、ご自分に対して、もっと率直だと思うんですが……」
セヴリーヌは、この言葉の説明を待った。ところが、その説明はついに与えられなかった。自分の興奮を隠すため、セヴリーヌは立ちあがって、身近にある花を活《い》け直すようなかっこうをした。
――腰かけていらしったんではお疲れでしょう。僕になら遠慮はいりません。横におなりなさいまし」ユッソンが言った。
――もうよろしいんですの。だいぶ慣れましたから……」
――まあ、そうおっしゃらずに。僕がセリジーに恨まれますからね。横におなりなさいまし」
彼はかけていた肘掛《ひじかけ》椅子をおしやって立ちあがり、こうして彼女のために通路を作った、セヴリーヌは、病気以前には、たやすく口に出たあのきっぱりした返答がしてやりたかった。それなのに、そんな返答は一つも心に浮んでこなかった。こうした口争いをいつまで続けているのも、まずいと思い、彼女は不本意ながら、いらだつ気持をこらえて、身を横たえようと寝椅子に近づいた。
――そのほうが、よっぽどお似合いですよ。あなたは、ご自分を動きのために造られた女だと思っておいででしょうし、――人たちもたびたびそうあなたに申上げたでしょうが――世間の人たちって出鱈目《でたらめ》ですからね。僕は最初にお目にかかったときから、寝ていらっしゃるあなたを思っていました。ところが僕の思ったとおりでした! なんというなごやかさが急に現われることでしょう! なんというこれは筋肉の告白でしょう……」ユッソンが言いつづけた。
しゃべりながら、彼はあとすざりして、セヴリーヌから見えない位置に身を置いた。ために今、彼の声だけが作用した。ふだんは、自分でもそれの持つ強い力に気のつかないようにしているあの声、そして今では、危険な道具として利用しているあの声。それは、単に聴覚だけに呼びかけるものではなく、溶けこむように、ささやくように、あらゆる神経細胞に呼びかけた。セヴリーヌは、これはたまらないと思いながらも、相手を黙らせる力はなかった。こうしてこらえようとする努力に疲れきって、身内に滲《し》み入るこの音波のとらわれとなっていると、彼女には自分の中に、またしてもあの病後の迷いの気持が、先ごろ自分の身をひたしていたあの得体の知れない肉情が、戻ってくるような気がした。
不意に、彼女の肩に、二つの手が重くかかるのが感じられ、あせり気味な呼吸《いき》が彼女の唇《くちびる》を焼いた。一秒時間の何千分の一か、とにかく計算もできかねるほどの短い時間、彼女は全身を襲う激しい快感に驚いた。ところが、その快感は、ほとんど同時に、無限の嫌悪《けんお》に変っていた。どうして起きあがっていたかわからないまま、彼女は立って、肉感的な激しい迫った呼吸《いき》づかいで、ささやくように言った、
――だめよ、あなたって、強姦《ごうかん》なさる柄《がら》ではありませんわ」
ふたりは、長い間、お互いにじっと顔を見合っていた。このとき、ふたりの間にはなんの邪魔物もなかった。ふたりはお互いの眼のなかに、彼ら自身も気づかないお互いの感情と本能欲を見てとった。ユッソンのなかに、恐ろしいほどの、自分に対する賞讃《しようさん》が潜んでいると、セヴリーヌが知ったのも実にこのときだ。
――おっしゃるとおりです。あなたって、僕なぞの相手になるより、ずっと価値《ねうち》のある方です」しばらくして彼が言った。
彼がこのとき見せた温情は、神がみずから選んだ生贄《いけにえ》に対して示すあれだった。
ユッソンが帰ったあとで、セヴリーヌの心に残った感情は、どっちつかずの、平坦《へいたん》な、引っ込み思案なものだった。彼に対して、今では自分が憤ろしさも、嫌悪《けんお》の情もいだいていないと気づいても、彼女は別に驚かなかった。それにまた彼女にははっきりわかった、自分があの男に身を任したりすることはありえないことだ、また彼もこれ以上言い寄りはしないはずだと。そのくせ彼女には、彼が自分の共謀者のような気がした。
この出来事をピエールに伝えなければならないという考えが、彼女の心に浮んだ。ふだんから、何ごともすべて夫に告げることに慣れきっていたので、今度とて、隠そうとする気にはなれなかった。そのくせ、この事件の報告は、あらかじめ考えるだけでもなんとも迷惑なことだった。彼女には、さきがた自分が生きたあの世界には、夫はまるで無関係なように思われた。
――ピエール……。ピエール……」
この名に、その実体を与えようとでもするように、繰返し呼んでいる自分に、セヴリーヌは気づいた。だがそれも、彼女をその知覚喪失の状態から救い出すことはできなかった。夫の足音が聞えたとき、彼女はユッソンが手出ししたことを、なんと告ぐべきかなぞはまるで気にしていなかった。夫は必ず、彼女の顔色で、何ごとか異常なことが持ちあがったと見てとるだろう。そして彼女にたずねるだろう、そのうえで、話をすればよいという気持だった……。あんなことがはたして重要だろうか?
それなのに、ピエールは、セヴリーヌが期待したような、ものを見抜く力のあるあの恋慕のこもったまなざしで彼女を見てはくれなかった。せきこんでされる質問以上に、夫のこの態度が、セヴリーヌを正気にした。彼女には、すっかり慣れて、自分にその存在が気づかなくなっていた支柱が、急になくなり、自分がぐらつきだしたような気がした。すると、ピエールの顔つきが、彼女の心を打った。やつれて、力なげなその顔は、彼の顔ではないようにさえ見えた。大きなその眼のうちには、彼が隠そうとあらゆる努力をしているにもかかわらず、苦悩の影がありありと浮び出ていた。
――あなた、苦労がおありなの?」彼女がたずねた。
ピエールはどきっとして、片手に顎《あご》をささえた。こうして、下顎が落ちようとするのを止めようとでもするらしく。
――心配しなくてもいいんだ。職務の上の苦労だから……」
彼は微笑しようとしたが、やがて、それがみじめだと気づいて、中止した。自分の血なまぐさい職掌上のことを、できるだけ妻に忘れさせようとする心やりから、決して、仕事の上のことは妻に語らなかった。それでセヴリーヌは、今度も夫はなかなか、その悲しみの原因をもらしてはくれまいと思った。それなのに、今日のこの悲しみは、一人で背負っているにはあまりに重すぎたものか、ピエールが言葉をついだ、
――実に無慙《むざん》なんだ……。よもやあんなことはあるまいと思っていた……。ちっともそんな気配はなかったのでね……。あの元気なイタリアの少年が……」
夫がそのさきを言わないので、セヴリーヌが小さな声で言った、
――あの少年がいけなくなりましたの……。手術中に?」
ピエールは答えようとしたが、唇《くちびる》がわなないてものが言えなかった。するとこのとき、今まで彼女が感じていた、ピエールには関《かか》わりのないあの濁った思いが、一度に拭《ぬぐ》い去られた。彼女のなかに、今では、無限のやさしさ、彼女の心が溶けこんでゆくらしい何か広大な母性的な感情以外、何もなくなっていた。彼女はピエールの頭を自分の両腕に抱きすくめ、言わずにいられない言葉をもらした。
――あなたの罪ではありませんわ、だからそんなに悲しがらなくってもいいの。あなたが寂しそうにしていらっしゃると、あたしにはあなたというものが、自分の命の全部だとはっきりわかります」
その朝セヴリーヌは早くから目がさめた。睡眠時間は短かったが、気分がいかにもさわやかで晴々しかったので、いきなり身軽にベッドから出ようとした。が、ふと、自分の体《からだ》のそばに不動に横たわっている別の肉体が、自分の自由な動作の邪魔をしていると気づいて、彼女は思いとどまった。ピエールがそこにいた……、彼女が病気で倒れて以来、昨夜はじめてふたりは、一つベッドに就寝した。なんと彼女がよく眠ったことか、夢も見ず、怪しい気迷いもなくて。
夫が彼女を守護してくれたためだろうか? それとも、彼に身を任せることによって、彼女は救われたのだろうか?
ところが、夫の寂しさに打勝ちたいというだけの気持で、彼女はピエールに接したわけだった。彼女としては、例によって、自分のおかげで夫が幸福を味わっているというだけの無邪気な喜びしか持たなかった。夫の腕に抱きしめられて、セヴリーヌは、自分の病後の気持をあんなに女々《めめ》しくした、あのひそやかな快感を伴った作用《はたらき》が、これまで知らなかった有頂天な感激を与えてくれるやもしれないと、ひそかに期待した。ところが、腕を解いたピエールは、相も変らぬ処女のような妻のまなざしを見いだすのだった。それとない失望の情《おもい》が、この若い妻の心をかすめたらしかったが、彼女はやがてそれも忘れてしまうのだった、あの苦悩のためにゆがんでいた夫の顔に、いつもの元気とやさしさが甦《よみがえ》ってくるのを見ては。
今、その顔の線も輪郭も、夜明けのうす暗い影に埋っていて、彼女には見えなかったが、頭部全体のマスを見ただけでも、彼女には夫の顔の美しい線を、そこに描き出すことができた。ピエールは少年のように、安らかに呼吸しながら眠っていた。眠るピエールを見るだけでセヴリーヌは深い感動を受けた。ふたりがいっしょに暮した二年間のことが、豊かな変らぬ炎のように、彼女の記憶の中を過ぎた。ピエールのおかげで、なんとこの二年の歳月が、安易快適であったことか! 彼の心尽しには、今日までまだ何一つ欠けたことがなかった。他人に対しては気位の高い彼なのだが、――その彼が、なんと彼女の幸福のためには、やさしさの限りをつくして仕えてくれたことか!
身にしむ沈黙があたりにみちていた、それは感謝と反省に好適な沈黙だった。
セヴリーヌはみずから問うてみた、
――この人の愛情がこれほどまでに大きなものだと、あたしははたしていつも認めつづけてきたかしら? この人の喜びに、たえず心を用いてきたかしら? あたしにしてくださることは、当然のことのように平気で受取ってきたのではなかったかしら」
こうした後悔が、彼女にはかえってうれしかった。反作用の強い魂にとって、みずから償《つぐな》いたいと願う過誤を認めるほど熱中させる力のあるものはない。意志と、実行力。セヴリーヌは、今、自分がピエールに負うところを意識すると同時に、自分が彼に対して持つ能力をも意識した。昨日まで、彼女は、自分の声と腕に、絶望の底に沈んだ人の心を、束《つか》の間《ま》にして平和の世界に連れ戻す力があろうとは、知らなかった。
――この人って、まるであたしの子供みたいだと、はじめて気がついたわ」セヴリーヌは思った。
彼女は思い出した、ピエールがときどき、彼女のことを自分の麻薬と呼んでいるのを。彼女はこの言葉の持つ、暗い強力な影には気づかぬまま、この言葉が嫌《きら》いだった。それほど、彼女には、健康から、常規から、人を遠ざけるものが厭《いや》なのだ。彼女を知る以前に、夫が持ったであろうさまざまな経験について、彼女は一度も考えてみなかった。現にふたりの間に存在する、このやさしい気持、この単純な愛情、それ以外の何が必要だろうか?
セヴリーヌは、ピエールのほがらかな微笑と、さわやかでさっぱりした手のことを思い出した。そして一瞬の間、あの手のさわやかさも、あの微笑のほがらかさも、すべて彼女の意のままに明滅するのだと思うと、そらおそろしい気さえがした。
「この人をどんなにでも苦しめる力があたしにはある!」彼女は心の中で言った。
この矜《ほこ》りには、なんの不安も含まれていなかった。セヴリーヌはこの事実によって、かえって自分の愛情の深さと広さを知った。彼女はこの世に、ピエール以外の何ものも所有しなかった。彼ただひとりを彼女は愛していた。
この確信がいかにも強く、また深いところからきていると知って、彼女は自分が持ったあられもない不安についておかしさをさえ感じた。どんなことがあろうと、ピエールが彼女のゆえに苦しむなぞ絶対にありえないことだ。いま子供みたいに呼吸しているこの人に、なんと彼女がすばらしい熱情を感じることか。彼の悲しみも喜びも、すべてことごとく彼女の掌中に置かれているのであってみれば、彼女には、彼のひと日ひと日を、幸福な日にすることができるはずだ。双生児のように一対をなすふたりの生涯のいや果ての日まで、幸福の日は続くはずだ。最後まで、ふたりは誠実を尽しあうはずだ。セヴリーヌは深くうなずいた、自分をあるひとつの美しい炎の番人だと、同時にまた彼女は、自分のうちに大きな力と、清らかさと、愛がひそんでいると感じ、この役目は楽しくもありまた容易でもあると信じた。
彼女以外の女だったら、あるいはこのとき、病気の回復期に、自分がよく見たあの夢のこと、現に昨日《きのう》の夕方、自分をユッソンに引きつけた、あの不思議な引力のことを、思い出したかもしれない。ところが、セヴリーヌが受けた教育、特にその生理的教育が、また彼女の肉体の習慣的な健康が、彼女の完全な精神上の均斉が、安泰を愛するその生れつきの性質が、すべていっしょになって、自己検討の邪魔をした。彼女は自分の感動の、外面的な部分にしか注意しなかった、彼女は自分の最も目につきやすい部分しか制御しなかった。それで、セヴリーヌは、自分では完全に自己を支配しているものと信じた。そして、自分の内に眠っている重要なさまざまの力については、なんの疑念もいだかなかった。その結果、それらの力に対しなんらの制御力も持たなかった。今日まで、彼女に内存する美質が、さいわいにも、彼女の理性が常規と信ずる彼女の特殊な性質を大過なく支《ささ》えてきたのであったが、いまにして思えば彼女の情欲には、いつも、異常な激しさがあり、待ちきれないらしく、打勝ちえないもののように、それに侵入したものだった。
彼女は、自分がいま身をひたしているこの新しい愛情をピエールに示すのに、このうえ待ちたくなかった。彼女は、長々と夫の額に接吻した。ギアのない肉体が本能の磁力によってのみ動く、あの夢と現《うつつ》のぼんやりした境界にあって、ピエールは自分の肉体をセヴリーヌに押しつけた。それが愛する女の肉体だと気づくまでの、女の肉体というこの暗くて温《あたた》かい渚辺《なぎさべ》に溶けこんで、ピエールは数秒の間身じろがなかった。ついでまだ夢でいっぱいな声で、
――可愛いひと、可愛い、可愛いひと」とつぶやいた。
セヴリーヌはベッドわきの低いテーブルの上のあかりを静かにつけた。この言葉のなかに現われているなんの邪念も含まない純粋な幸福が見届けたかったのだ。半透明の絹にこされた光が、やわらかく部屋にひろがった。ピエールはこの光に驚きも動じもしなかった、だが、セヴリーヌが捕えようと願った生命と陰影からなる、夫の顔に現われるあの植物的な神秘な感じは、もう消えてしまっていた。彼は自分自身に立ちかえっていた。
――こうしてまた元のあんたが見いだせたので、僕はうれしくってたまらないんだ……。不自由だったからなあ」
不意に、彼は目を見ひらいた。そしてゆっくり言いだした、
――そうなんだ……。あのマルコ少年……あいつはイタリア人だったが、僕と遊ぶのが大好きだった」
今度は、セヴリーヌが、その手をピエールの髪に差しこむだけで、彼の悲しみは落ちついた。彼が小声に言った。
――僕はもう悩んでなんかいない。僕のなかはあんたでいっぱいなので、他人のための感情なんか、ほんのちょっぴりしか残っていない」
――嘘《うそ》ですわ。世間の人がみんなあなたのようでしたら、世界はもっとよくなっているはずですもの。あたしね、今朝《けさ》、あなたのことをうんとこさと考えてみたのよ」セヴリーヌが言った。
――じゃ、もうずっと前から目をさましていたんだね? やっとまだ夜が明けかけたばっかりなのに。気持でもわるかったの? 僕はなんにも知らずに眠っていた」
セヴリーヌがやさしく笑いだした。
――それはこちらが言うことだわ。あたし、どんなにあなたを愛しているか、おきかせしたかったの。そいから、どうしたらあなたを幸福にしてあげることができるか、おたずねしたかったの……」
見当ちがいなことでも言ったかのように、彼女は言葉をとぎらせた。ピエールの顔の上に、多分の驚きと、間《ま》のわるげな様子が現われた。
――すまないね……そんなにまで思ってもらって。だがそうまでしなくってもいいんだ。あんたは僕の子供なんだから」彼がつぶやいた。
――とにかく、これまで以上に、あなたの生活に関《かか》わりあいを持たなければいけないんだわ。あなたのなさることは、何もかもみんな知るようにするの、あなたの患者のことも、あなたの手術のことも。だっていままでみたいなら、まるで、お手伝いしていないってことですもの」セヴリーヌが言いつづけた。
これに対してピエールが感じたものは感謝ではなく、逆に自分の罪の自覚だった。真から人を愛する場合、強くってデリケートな男は皆そうなのだが、ピエールも、自分に対するセヴリーヌの小さな親切の一つさえが、彼には彼女に対する罪悪のように感じられるのである。
――昨夜《ゆうべ》、僕はちと気をゆるしすぎた。それで、あんたは僕のことを心配している。僕は恥じいるよ。だが安心しておくれ、もう二度とあのことであんたに心配はさせないから」彼が応じた。
軽い歯がゆさをセヴリーヌは感じた。深い愛情を働かせるということは、こうまでむずかしいことなのだろうか。すべてが彼女の計画を裏切るではないか。彼女はピエールに奉仕したいのだ。それなのに、逆に、彼のほうがたえず、彼女に奉仕する結果になってしまうのである。
むろん、外科医としての職業以外にも、夫には精神生活も、読書も、思考もあるわけなので、彼女にも分けあえる領域はあったが、この領域にあってさえ、セヴリーヌは、あせるばかりで、自分がまったく無力だと感じるのだ。考えたことさえないほど高度の夫の精神活動についてゆくには、教養と素質と野心が、彼女には欠けていた。
いささかあわて気味に、ひたすら与えたいという欲望に駆られ、彼女はつぶやいて言った、
――ねえ、あなたのために、あたし何がしてあげられるでしょう?」
彼女の言葉の一念な調子が、注意深く彼を彼女の上にうつむかせた。お互いにお互いを発見でもしたかのように、ふたりはじっと見あっていた。そして若い彼女は、夫の灰色の大きな眼の奥にわなないている次の願いを読み取った。≪ああ、セヴリーヌ、セヴリーヌ、あんたの肉体を、ただ僕の喜びのためにだけ与えることをせずに、あんた自身もその喜びを知り、自分もそれに溺《おぼ》れることができるのだったらなあ≫
彼のこのまなざしには、強力な、そして圧縮された叫びが含まれていた、セヴリーヌはおかげでまだ一度もなかったほど、肉感的に感動した。昨日《きのう》、ユッソンの接吻が一瞬、彼女に与えたあの感覚を、彼女はいままた味わった、だが今度は、愛情のやさしい伴奏があった。いまもしピエールが、力強いその手と、矜《ほこ》りかな筋肉の起伏するその四肢《しし》で、抱きしめてくれるなら、必ず、彼が望んでいるように、彼女はその喜びの下に組み伏せられるだろうと思われた。それなのに自分を抱き寄せようとする夫の顔の上に、セヴリーヌはふと、感謝の表情のひらめきを見てしまった。またしても彼女は、母のような気持で身を任せたのである。
ついで、ピエールとセヴリーヌは、身じろぎせずにいた。
何を、誰を、ピエールは思っているのだろうか? ともすればそれは、かつて知った女たちのことかもしれない。彼は、彼女たちを愛してなんかいなかった。そのくせ彼女たちは、彼によって死ぬほどの肉の喜びを与えられたのだ……。ともすればそれは、彼のそばにいま横たわっている女、この女のためになら、命までも投げ出すだろうと思われる女、彼を愛しているこの女を、彼が狂おしいほど、宗教的と言いたいほどの気持で願う、あの完全な肉の融合を味わいえない肉体に造りなした、この不合理についてかもしれない。
セヴリーヌの内部に、あるさびしい驚きが生れた。それは自分はピエールに対してあらゆる力を持つと知る自分なのに、その力をもってしても、夫の魂を、これ以上開きえないという事実に対する驚きだった。この魂は、心ならずも、彼女にすべてを与えることを拒んでいる、ちょうど彼女の肉体が彼に対してしているように。
この不如意《ふによい》のゆえに、ふたりの間の沈黙は重苦しかった。
さいわいふたりには、お互いの間のすべてをやわらげる力のある強い友情があった。それかあらぬか、ふたりの感情の本質には、このとき何のゆるぎもなかった。そればかりか、かえって、お互いにより接近したいという欲望に、この破壊しがたいものに、重ねて裏書がしたいという欲望にかられた。自分でも気づかずに、セヴリーヌは手を夫の手にからみ合せた。彼はその手を、力をこめて、性の濁りのまったくない、人生行路の伴侶《はんりよ》にふさわしい気持で、握りかえした。彼女も同じやり方で、それに答えた。ふたりはこのとき、自分たちの力では何ともしがたいところにある「不和」を超越した高所に、ふたりの愛は存在するのだと感じあった。
≪愛欲は消えやすい炎にしかすぎないが、ふたりの間には、より尊く稀《まれ》な宝物が存在する≫と、ふたりは期せずして考えていた。
日陰に育つかずらのような本能の神秘な戦いを消し去って、昼の光が差しこんだ。ピエールとセヴリーヌのふたりは、顔を見合せて、笑いあった。衰えるものは何ひとつ見のがすことのない若々しい朝の光も、若いふたりの顔には寛大だった。さわやかな気持にあふれてふたりは夜の中から浮び出た。
――まだ早いわね、病院へいらっしゃるまでに時間は十分《じゆうぶん》あるわ。あたしをブーローニュ公園へ連れていってくださらない」セヴリーヌが言った。
――疲れる心配はないか?」
――もう疲れることなんかありはしないわ。あたしすっかり治ったんですもの。急いでお支度《したく》なさいましね」
ピエールが部屋から出てゆくと、セヴリーヌは、自分がまだ、夫に、ユッソンのことを、打明けなかったと思い出した。
「言わずにおきましょうよ。むだに心配させても仕方のないことですもの」こう彼女は思い決めた。
彼女は、こうして何物かをピエールに隠すのを、自分の親切だという感じを持った。すると一層夫に対する愛《いと》しさが増大した。
セヴリーヌは憑《つ》きものが落ちたような気持だった。あの未知の女、死の間近にあってわれとわが身の弱点を痛感し、ついで病気の回復期に、自分の人柄をなしている要素が、数週間にわたって、自分の真の存在――セヴリーヌが自分の姿として受入れる唯一の存在――に混ってくる奇怪なみだりがましい幻影によって破壊されるという気がしたあの未知の女が、やっと、わが身から、完全に、永久に、離れ去るように、彼女は感じるのだった。病気から生れ出たこの影は、今や、セヴリーヌが、その健康をとりかえし、彼女の精神が、理性的な人生の事物を順当に見わけるようになるにおよんで、塵《ちり》になって崩《くず》れ落ちていった。
彼女はゆったりした気持で、もとの自分の生活をとりかえした。食べ物だの、睡眠だの、愛情だの、うしろめたさのない快楽だの、こうした一切のものが、病気以前のように、平衡《へいこう》を保ち秩序よくセヴリーヌに奉仕した。生活の細部に対するあらたな興味と、深さを増した関心が、彼女の生活力を鼓舞した。発見に向うような意気ごみで、彼女は部屋から部屋へと歩き回った。家具も、備品も、彼女に、それぞれの有用な協力を提供した。彼女はやがて以前のように、召使たちも、自分の感情も、自分の生活も、一切を支配するまでになっていた。
まじめな彼女の顔に、強いこの力と内面的な活気は、わずかに慎み深い輝きとして現われるにすぎなかった。これほどの魅力を、ピエールが彼女に感じたのははじめてだった。彼女がこれほど実《み》のある愛情を夫に示すのもまた、はじめてだった。理由は、あの病後に現われた不思議な発作の痕跡《こんせき》として、セヴリーヌの意識に残る唯一のものは、夫の幸福のために身を捧《ささ》げようというあの決心だけだったから。あのあまりに直接的な一度《ひとたび》の試みは失敗に終ったとはいえ、それを彼女に強《し》いた欲望は、失敗のためにへこたれてはいなかった。それは彼女の声の響きに、ふだんのやさしさに現われて、ピエールを喜ばせると同時にまた彼を不安にした。彼女のこの心づくしが、今日まで彼がそれによって生きてきた生活の枢軸を置き換えるのだった。
確実だと感じられる二つの事実が、彼女のこの新しい態度から生れる彼の懸念を消し去った。一つは、セヴリーヌが相変らず深い羞恥心《しゆうちしん》を持ちつづけていること、もう一つは、彼女が少しも衣服の好みを変えようとしなかったこと。
何をするにも、うれしそうなこのごろの常で、セヴリーヌは楽しげにいそいそと衣裳《いしよう》を新調したが、そのくせ彼女は相変らず以前と同じように、生地も型も、娘のようなものばっかりを作らせた。ときどきピエールも、衣裳店や帽子屋へ同行した。彼はこうすることによって、セヴリーヌの喜びを分ち、また、どんな高いものでも求めるようにとすすめ、値段のために欲しいものを買わなかったりすることのないように努めた。時間のかかるこうした外出に、なくてならないセヴリーヌの伴侶《はんりよ》は、ルネ・フェヴレだった。この若い女は、実用|小布《こぎれ》や、マネキンや、裁縫師や、女店員の間にいるとき、真の存在理由を示した。彼女は、一種のリリズムと、心からなる感動と、すぐれた好みで、この種のことに当った。こんなことにあまり興味を感じない性質のセヴリーヌは、とにかくいい加減に片づけてしまいたがる質《たち》なので、こうして熱心に手伝ってもらうのはありがたくもあり貴重でもあった。
ところが、ある日の午後、最後の仮縫いに行こうと、ルネの来るのを待ったが、待ちぼけだった。仕立て屋で、セヴリーヌが、新しいローブを身につけおえたところへ、ようやくルネが追いついた。
――ごめんなさいね。でも、わけを言ったらあなたも怒りはしないはずよ……」ルネが言った。
彼女は、セヴリーヌのローブには、ちょっと目をやっただけだった。何の助言もしてくれなかった。ついで、係の女が遠のいた折を見て、口ばやに囁《ささや》いた、
――あたしね、今日お茶によばれて行ったジュミエージのところで、あの夫婦から大変なことを聞いたのよ。アンリエット、あたしたちの仲間のあのアンリエットが、日をきめて源氏屋へ出入りしてるんですって」
――セヴリーヌが、何のことやらわかりかね、反応を示さないので、ルネが言いつづけた、
――あなた信じないんでしょう。あたしもはじめに聞いたときはそうだったわ。それで、いちいち細《こま》かいことまで聞いている間に、こんなにおそくなっちまったの。でも、疑う余地なんかないのよ。ジュミエージ自身が、電話の混線で、アンリエットとその源氏屋の女将《かみさん》との話を、全部聞いちゃったんだから。あなたジュミエージを知っているでしょう。あの人、おしゃべりだけど、嘘《うそ》つきじゃないわ。それに、もしこんな嘘ついたらそれこそ罪悪だわね……。もちろん、これは秘密だわよ、ジュミエージがあたしにくれぐれも人に言ってはいけないって言ったのよ」
――だからすぐ皆に知れてしまうわ。でもあなたったら、このあたしのローブはどうなの? これ、あたし明日《あす》の晩に着なけりゃならないのよ」セヴリーヌは落着いて言った。
――まあ! ごめんなさいね。だって、あたしのおつむったら、あなたのみたいにがっちりしていないんだもの。ちょいと待ってね……。マドモワゼル、あのう……」
そして彼女は、細かいさまざまの直しの指図《さしず》をした。でも見ているセヴリーヌには、平生《へいぜい》あんなに夢中になれるこの仕事が、今日は友にどれほど大きい努力を必要とするかがわかった。仮縫いがすむかすまないに、ルネがたずねた、
――あなたこれからどうするの?」
――家へ帰るわよ。そろそろピエールが帰ってくる時間ですもの」
――では、あたし、あなたと一緒に行くわ。アンリエットの話がまだ残っているんですもの。あなたって変ね、聞きたくないの?」
ふたりは車に乗った。乗るとすぐルネが言いだした、
――本当にあなたって変よ……。あたしがこんな大事件を知らせてあげるのに、一向平気らしいのね」
――だって、あたしたった二度しかアンリエットには会っていないんですもの。あなたも知っているはずよ、そのこと……」
――百度も一度も同じじゃないの。重要なのはその事実よ、その事実が重要なのよ。あたしたちの知らない女が、それをしているんじゃないんだわ……。ねえ、あなたまだわかっていないらしいのね、まだあのローブのことを考えているんでしょう……。あたしたちよりは貧しいには貧しいけど、あたしたちと同じ階級の女なのよ、あなたと同じような女なのよ、あたしと同じような女なのよ、その女が源氏屋へ出入りしているのよ」
――源氏屋?」――セヴリーヌが機械的にこの言葉を繰返した。
友のこの言葉の調子に驚いて、ルネはしばらく狼狽《ろうばい》した。やがて声を低くして彼女が言った、
――やっぱりそうだったのね。あなたって、そんなことなんか、まるでごぞんじないのね……。ご自分が清潔なので、あなたには、こんな話なんかわからないんだわ。そのほうが本当はよいのだけれど……」
そのくせ、自分の心の動揺を伝えようという欲求があまりにも強いので、ついにたまりかねて、彼女がまた言い継ぐのだ、
――でも、やっぱり知っておいたほうがいいわよ。別に害になることではないし、それに盲目《めくら》のようにして生きてゆかれるものでもないんだから。そうでしょう、たとい好きだと思っている男にされる場合でも、(≪この人、自分の夫のことを言っているんだわ≫とセヴリーヌは思った、そして自分の夫をこの言葉で思い出したりして彼女はすまなく思った。)厭《いや》だと思うときもあるでしょう。それなのに、ねえ、考えてごらんなさいな、ああした家《うち》の内部《なか》のこと。きたない男だろうが、みにくい男だろうが、誰の言うことでも聞かなけりゃならないんですよ。そして男の思うままに、どんなことでもいやだと言わずにされるんですよ。相手は毎日別な、見ず知らずの男たちなの。家具だってみんな、誰が使ったかわからないものばかりなの。それからベッド……。たった、一秒時間でもいいから想像してごらんなさいよ、あなた自分がこんな稼業《かせぎ》をするんだと、そうしたら、そのいやらしさがきっとわかるわ……」
セヴリーヌがなんとも答えないので、彼女はいつまでも、この話題について語りつづけた。友のこの頑固《がんこ》な沈黙から、最後にひとつ叫び声を立てさせてやろうと思い、彼女は次第にその描写と説明を濃厚にし、恐ろしいものにしていった。
それなのに彼女は成功しなかった。ただ、夕暮れの光がこのときこうまで暗くなかったら、セヴリーヌの姿が、友を驚かしたはずだった。冷たい顔は無形の型の中におしこめられたかのように、呼吸さえ困難らしく、今後は絶対に動かすことができまいと思われるほど四肢《しし》は重たく、セヴリーヌは死んでしまいそうな気持だった。彼女には、自分の身内に何が起ったものかわからなかった。だが彼女はこのときの、屍《しかばね》のような自分の状態も、心臓の止りそうな言語に絶したこの懊悩《おうのう》も、今後一生忘れなかった。彼女の眼の前を、かわるがわるに、炎と雲が通った。そしてその間から、もつれあう裸の肉体が見えた。彼女の全身の他の部分と同じく、瞼《まぶた》もまた動かなくなっていたので、両手で彼女は自分の眼がふさぎたかった。それなのに、手は彼女の両脇《りようわき》に力なく垂れたまま動かなかった。
――もうよしてよ、もうたくさん!」できるなら彼女はルネにむかって叫びたかった。
それなのに、友の口から出る言葉の一つ一つが、それが描き出すいまわしい情景の一つ一つが、セヴリーヌの身内に滲《し》みこんで、彼女の昏迷《こんめい》状態を利用して、おそろしく生々しく、いかにも深く、あまりにも深く、彼女の身内に食い入るように思われた……。
セヴリーヌは、どうして自分が車から降りたか、どうして自分のアパートへ戻ったか、まるで覚えがなかった。ようやく、ぼんやりした正気が戻ったのは、自分の部屋へ入ったときだった。それは激しい打撃のように戻ってきた。自分の部屋へ入ると、セヴリーヌは、いきなり、着換えのときに使う大きな姿見の前に押しやられた。彼女は自分の姿の前に立ったまま動かなかった。近々とその姿によりそって立っているので、姿の中へ溶けこもうとしているようにさえ見えた。彼女が正気をとり戻したのは、この鏡の冷たい神秘に対してだった。彼女の昏迷の結果と、単に機械的な自衛作用から、最初彼女はそれは自分とは別の女だと思った。だが、やがて、その女が、自分に近づいてきて、自分を包み、自分と合体すると気づいた。自分の望まない力に憑《つ》かれたくないと思って、セヴリーヌは鏡の前から立ち去ろうとした。それなのに、何物よりも強力なある欲望が彼女をそこへ釘《くぎ》づけにした。彼女に向って差出されるその顔を覚えないわけにはゆかなかった。なぜその顔を知る必要があるかはわからないながら、この顔をよく見ておくこと以上に重要な行為はほかにないことだけは、彼女にも感じられた。
それはおそろしいほど鋭い訊問《じんもん》だった。白墨《はくぼく》で塗《ぬ》りつぶしたお面《めん》のように見えるその頬《ほお》にも、落ちくぼんだ二つの眼の上の円《まる》みのあるあらわな額にも、真っ赤なくせにまるで生気をとどめない異常に大きなその口にも、動物的な表情と恐怖の感じが強く現われていて、セヴリーヌは、もはや一秒時間も、このあさましい自分の姿を見てはいられなくなった。彼女は、自分と、鏡の面に平べったく、しかも、ものすごいさまに凍《こお》りついているその姿との間に、できるだけ多く距離をおくため、他の部屋へ移ろうと駆け出した。かけがねを回しても、ドアがあかなかった。セヴリーヌは、自分が二重に錠をおろしておいたと気づいた。急に彼女の顔が熱くなった。
――あたし、隠れようとしたんだわ」彼女は大きな声で言った。
持ち前の心の矜《ほこ》りと誠実さが、反射的に作用して、彼女は激しくドアをあけると、つぶやいた、
――隠れようって? 誰に隠れるつもりかしら?」
そのくせ彼女は、敷居は跨《また》がなかった。近いところで、あの鏡の面《おもて》にまだ生きているあの姿が、別の部屋へ行ってみても同じく、そこで彼女の前に現われるに相違ないと思われるからだ。
セヴリーヌは、ドアをとざして、自分の姿を反映することのできるものは何物も見まいとさけて、そこにあった安楽|椅子《いす》に崩《くず》れるように身を置いた。彼女は、火のように熱し、がんがん鳴っている|顳※[#「需+頁」、unicode986c]《こめかみ》を両の拳《こぶし》で圧《お》しつけた。拳は氷のように冷たかった。その冷たさが、やがてすこしずつ、セヴリーヌの不思議な熱をさました。そして最後に、彼女は、ものが考えられるまでに、治ってきた。そのときまで、彼女の中におこったことは、すべて本能の作用であり、衝動であり、混乱であって、記憶にはまるで残っていなかった。あの自分の、狂うた動物のようなお面の思い出さえ、すでに忘れられ、消え去っていた。
この混迷から、セヴリーヌは、ただ一つ耐えがたいほどの羞恥《しゆうち》の感情をいだいて浮び出てきた。彼女には、とりかえしのつかぬほど自分が、けがれてしまったように思われると同時に、また、そのけがれを洗い落すこともできなければ、洗い落したいとも感じなかった。
――あたし、どうしたんでしょう? どうしたんでしょう?」彼女は頭を左右に振り動かしながら、幾度かすすり泣いた。
彼女は、自分がいま経てきた時間の、とびとびな、そして、ぼんやりした足跡を、つなぎ合わせようと努めてみた。だが、それはむだだった。なんとしてみても、彼女のあらゆる努力より、より以上に強力な、そして彼女の意志の力の及ばない深いところから来る裂け目があって、どうしてもルネと語った言葉を思い出すさまたげとなった。
急に、セヴリーヌが、電話の置いてあるピエールの書斎へ行って、ルネの番号を呼び出した。
――ねえ、あなた、あたしさっき車の中で、気が遠くなっていたらしいのよ。だって、あたし、あなたとどんなにして別れたか、まるで思い出せないんですもの」上《うわ》ずる声をおししずめて、彼女が言った。
――ふだんと変りなかったわ。わたし何も気づかなかったわ」
セヴリーヌは深々と呼吸した。彼女は、自分が不本意に、友に心を見すかされはしなかったかとあやぶんだが、どうやらそうでもないらしかった。友に何を見破られずにすましえたのかは、彼女は追求しなかった。彼女はそれを自分でも知らなかったのだ。
――もう治《なお》ったの、あなた?」ルネがたずねた。
――もうすっかり治っちまったのよ。あたしピエールにも言わずにおくつもりだわ」
セヴリーヌは早口に言った。
――あなた、もっと、用心しなけりゃいけないわね。このごろの春の夕《ゆうべ》って、そりゃ油断ならないんだから。いったい薄着すぎるのよ、あなたって……」
セヴリーヌは気ぜわしい気持で、友の言葉を聞いていた。そのくせ、話をやめてしまおうともしなかった。彼女は待った。困ると思いながらも、ルネが今日のあの話をつづけてくれるものと希望した。もう一度ルネが、あのアヴァンチュールの話をしだすかもしれないと心待ちに待った……。
「そうさえしたら、きっとわかると思うわ、さきがたどんなことが自分の中におきたのか」セヴリーヌは一人ごちた。
彼女は、そのことが、こうして彼女にいつまでも電話をかけさせる唯一の理由だとまじめに信じた。
それなのに、ルネがまだいろいろ注意の言葉を言いつづけている間に、セヴリーヌはピエールの足音を聞きつけた。するとたちまち、さきがた、彼女を自分の部屋へ隠れさせたあの同じ何ともしれない恐怖が襲いかかった。もしルネがアンリエットのことを言いだしたら、ピエールにさとられることになると彼女は思った。このときも、ピエールがさとるそのことが、何だかは、究《きわ》めようとしなかった、彼女自身でもそれが何のことかは知らないのだった。とにかく、彼女は熱っぽい身ぶりで受話器をひっかけた。
――いま帰ったの?」ピエールがたずねた。
――いいえ、十分ほど前なんですけど……」
セヴリーヌは、こう言って、あわてて言葉をとぎらせた。彼女はまだ帽子も外套《がいとう》も脱いでいなかった。彼女はあわてて言葉をつづけて言った、
――十分。でも……。あたしよく知らないの……もっと少ないかもしれないわ、あたし、ルネに、聞きそびれたことがあったのに気がついたの……。電話をかけていて、あたし着換えしなかったんだけど、変に思っちゃいやよ」
自分に重圧を加えているこの何のゆえともわかりかねる、罪を犯したような気持に、自分の言葉の一つ一つが、いよいよ裏書きするのを感じて、セヴリーヌはあわててつぶやいた、
――ちょっとお待ちになって。着換えてきますから」
戻ってきたときには、むしろ雄々しいほどに理性がはっきりして、いまだにその正体の知れないままに彼女の隠密なところにひそんでしまったあの敵に打勝つことができた。彼女は気づいた、自分がした狂気に近いほど奇態な態度に。彼女は罪なんかまるで犯していなかった、自分でもそれは知っていた。それなのに、なぜあんなに言い訳をせずにはいられなかったのか? なぜあんなに理由もないのに、あわてなければならなかったのか?
セヴリーヌは、夫に接吻した。どんな証憑《しようひよう》にもまして、彼に接することによって与えられる安堵《あんど》の気持が、今度も、彼女の気持を落着けてくれた。万事が、彼女と無関係な調子っぱずれな高圧的なある意志で支配されるように思われる今日のこの夕《ゆうべ》にあって、セヴリーヌは、今はじめて、自分の身が自由なのを感じた。彼女は、気持よげな安堵の吐息《といき》を、ひとつもらしたが、それがいかにも雄弁だったので、ピエールがたずねた、
――いやなことでもあったの? ルネとの間に誤解でもあったの?」
――どうしてそんな途方もないことお考えになるんでしょう、あなたったら? あべこべよ、あたしうれしいのよ。あのローブ、そりゃあよくできあがったの、あたし何かおもしろいことがしたいわ。今夜出かけません?」
ピエールが、どことなくさびしげなのに、セヴリーヌは気づいた。彼女は思い出した。今週のうちで、今晩だけが、空《あ》いていて、二人が水入らずで過せる晩なので、うちとけて暮す約束だったと。彼女はまた、思い出した、夫を喜ばせるためには、どんなことでもしようというあの自分の決心を。また、今日までその決心を忠実に実行してきた事実を。それなのに、今、彼女は、この決心の前に、一歩後退して、さきがた自分が生きてきたあの恐ろしいことを、何か急激な変化によって、忘れたく思うやみがたい欲求を感じた。
はじめ、彼女の計画は成功した。二人が足を向けたミュージック・ホールと、ダンス・ホールは、光線と音響で、彼女に希望どおり、もの思いのない時間を与えてくれた。ところが、一歩外へ出ると、またしても最前の懊悩《おうのう》が全身に滲《し》み入るのをセヴリーヌは感じた。モーターの音、車の中に現われたり消えたりする影と光のたわむれ、ガラスごしにぼんやり見える運転手のうしろ姿なぞが、ルネと一緒に帰ったあの途中のこと、ルネがあれを言ったときのことを思い出させた……。
エレヴェーターの中で、ピエールが彼女の顔に気づくと、セヴリーヌは真っ青だった。
――やはりまだ、こうして出歩いたりすると、あなたは疲れる」彼がやさしく注意した。
――そんなことじゃないのよ……。安心してちょうだい。あたしお話しするわ……」
一瞬、セヴリーヌは、自分は決定的に救われたと信じた。こうして、ピエールに打明ける決心をした以上、すべてがもとの清朗にたちかえるはずだ。彼は彼女と相知る以前、いろいろな道楽をしてきた男だ。だから、彼が、自分の経験による実例で、彼女のこの悪魔的な動揺を、説明もし、落着けもしてくれると思った。
単に、心の平静が取戻せるかもしれないというだけの希望で、セヴリーヌが、自分の|顳※[#「需+頁」、unicode986c]《こめかみ》のあたりがぽっと熱くなると感じたのだろうか? それとも、そこには、その希望ほどさだかではないが、同時にまたより混濁《にご》った、より強力な魅力がひそんでいたのだろうか? そのけじめを危ぶむ必要をなくするため、セヴリーヌは、自分たちのアパートの入口のドアがうしろにしまると、いきなり言いだした、
――あたし、ルネから内証で聞いたことで、すっかり感動してしまったんですの。ルネのお友達のアンリエットって人、――あなたはごぞんじない人だわ――よっく……源氏屋へ出入りするんですって」
最後の二、三語は、ひどくぎごちない口調で言われたので、ピエールはびっくりした。彼がたずねた、
――それで、どうしたというの?」
――ただ……それだけよ」
――ただそれだけのことで、あなたがそんなに青くなっているの? さあ、早く中へ入っておかけなさい」
この会話は廊下で交わされた。ピエールは、彼女を書斎へ導き入れた。彼女は長椅子の上に崩《くず》れるように身を置いた。彼女は軽くわなわなと震えていた、軽いわななきだが、急調に、しかもあとからあとから続いてくるので、すっかり力を奪われたかたちだった。
そのくせ、彼女の注意力は、一心に、絶対的に、目ざめて、ピエールが言いだす言葉を待ちかまえた。このとき、彼女を占めているのは、もはや心を落着かせたいという願いではなく、実は打勝ちがたい好奇心であり、自分では想像もしたくないそれら醜悪なことが語られるのを聞きたがる、たとえば飢えのような、肉体的な欲求だった。
――返事してよう。ねえ、返事してくださいよう」彼女は、嘆願と、不安と、あらあらしさが同じ分量にまじりあった声で、訴えた。
――でも、あなた、それくらいなこと、何でもないことだよ。よくあるアヴァンチュールだよ。贅沢欲《ぜいたくよく》、ただこの一語につきる事件だ。そのアンリエットとやら、夫があまり働きのない人なんだろう? そうだろう? 仕方がないじゃないか、ルネやお前のような衣裳はやっぱりほしいんだし、それで、結局そんなことまですることになるのだ……。僕も、世間の男なみに、そうした種類の女たちに、お前がいま言ったような場所で、会ったことがあるよ」
――あなた、たびたびそんなところへいらしったの?」
今度はピエールが、セヴリーヌの言葉の調子に驚かされた。彼は妻の手を握りながら言った、
――そんなことないさ、落着いておくれよ。若い者は誰でもする、あたりまえのことでしかないんだ。僕の過去に、あなたがそんなに嫉妬《しつと》しようとはつい知らなかったな」
セヴリーヌは、勇気を出して、やっと微笑してみせた。だが、彼女は、自分の心の中をかきみだすこの渇望をやわらげるためになら、どんな犠牲を払っても惜しくないような気がした。
――あたし、嫉妬なんかしているんじゃないわ。ただ、いままで知らずにいたあなたのことを知るのがおもしろいの。もっと言って……。その先をもっと聞かせて……」
彼が答えて言った、
――もっと言えったって、ほかに、もうそんなに言うことなんかありゃしないじゃないか? その種の女たちは――アンリエットのような女たちのことだが――あんな場所で会ってみると――それはやさしくて、おとなしく、怖《お》じたようにしているものだよ。ただそれっきりさ。さあ、今度は別の話をしよう、なぜって、あんな楽しみは、世界じゅうでいちばんさびしい楽しみのひとつだからね」
セヴリーヌがもし、何かに中毒した経験を持っていたら、自分の上に押しよせてくるこの感情の反抗しがたい性質を、理解したろうと思われる。それは、注射の時間が来てもそれを禁じられたモヒ中患者の狂おしさと似ていた。ピエールが与えた答えはどれも皆、彼女が期待したものからはきわめて遠かった。それらの答えには、まるで味も反響もないではないか。自分でも信じがたいほどのある忿懣《ふんまん》が、彼女を夫に対峙《たいじ》させた。それは、彼女の指の中に生れて、順々にひろまって、神経の一筋、細胞の一つも見のがさずに、やがて、乳房も、咽喉《のど》も、脳髄《のうずい》も占領していった。自失したように、彼女がつぶやいた、
――おっしゃいよ、おっしゃいったら」
そして、ピエールが注意深く彼女に見入っているのを見て、叫ぶのだった、
――おだまりなさい。もうたくさん……。あたしたまらない……そんなこと、禁じなければいけませんわ……。ピエール、ピエール、あなたにはわからないのね……」
こみあげる啜《すす》り泣きと身もだえが、彼女の言葉をとぎらせた。
――セヴリーヌ、可愛いセヴリーヌ」
セヴリーヌが、その恐ろしい追跡から、救われようとでもするように、彼にしがみつくのと、また、身もがきしながらときに顔をあげるとき、困《こう》じはてたような、追いつめられたような、子供らしく痛々しい表情を見せるので、ピエールは若い妻の頬と、頭髪《かみのけ》と、肩を不安よりは、同情の心を余計にこめて愛撫《あいぶ》した。
彼女のうめき声の中から、彼はわずかに連絡のある言葉を聞きとることができた。
――あたしをさげすまないでね。あたしをさげすまないでね」
セヴリーヌが、自分の涙を恥じているのだと彼は思った――彼女は決して泣いたことのない女だった――それで、彼は、一種|敬虔《けいけん》な気持で言った、
――これまで以上に好きになるさ。可愛い奴《やつ》だ。そんな話をきいただけで、こんなにまで感動するなんて、どこまで純潔な心か見当もつかない」
セヴリーヌは、ふいと彼から離れて、夫をじっと見つめ、あっけにとられた様子でうなずいて言った、
――そうね、おっしゃるとおりだわ。あたし、寝《やす》みますわ」
彼女はようやく身を起した。ピエールは、彼女を助けようと、やりかけた身ぶりを、そのまま中止した。不意に、彼は、自分がセヴリーヌにとって、他人になったような気がした。そのくせ、彼女ががっかりしたさまで、立ちあがるのを見ると、遠慮がちに言いだした、
――今夜、いっしょに寝みましょうか?」
――とんでもない、いやです」
ピエールが青ざめるのを見て、彼女がつけたして言った、
――でも、寝つくまで、ベッドのそばにいてくだすったら、うれしいわ」
ピエールが、セヴリーヌを寝つかせるのは、何も今夜がはじめてというわけではなかった。だが今夜のように重い気持でそれをするのは、はじめてだ。うす暗い中で、妻の瞳《ひとみ》がたびたび自分の上に向けられるのをピエールは見た。最後に、たまらなくなって、彼は妻の眼の上にうつむいた。二人の視線は、おそろしく硬《かた》かった。
――どうしたんだ?」彼がたずねた。
――あたし恐《こわ》いの」(彼女はわなないていた)
――僕がここにいるじゃないか? 誰が恐いんだ? 何が恐いんだ?」
――それがわかるくらいならいいんだけど」
――あなた、僕が信じられるか?」
――ええ、もちろん、信じられますわ。ピエール」
――信じられるなら、あなた自分に言って聞かせてごらん、明日はいいお天気だろうと。ねえ、空は星でいっぱいだ。あなた自分に言って聞かせてごらん、明日はテニスをやりに行こうと、白い服を着ようと、三セット続けて勝つだろうと。眼を閉じて、全力をこめて、そのことだけ考えるようにするんだ。どうだ、気持が楽になるだろう?」
――ええ、本当に楽になるわ」セヴリーヌが答えて言った。その間にも、彼女のうちに宿ったその敵は――はたしてそれは敵であったか?――彼女の想念の一つ一つに、ひとしれぬ陰影をつけ、太陽の光の中を飛びかうボールの幻に、ユッソンのさむざむとした微笑を交えた。
彼女の家で、彼がやりかけたあの誘惑のあと、セヴリーヌとユッソンは、二、三度、大勢人の集まる場所で出会ったが、いつも彼女は、気のつかないふりをした。彼はおとなしく、彼女のこの態度を受入れた。それなのに、彼女はその朝、コートの上で、自分に近づいてくる彼を見て、別に驚きもしなかった。
――まだお始めになりませんでしたの?」セヴリーヌがたずねた。
――まだです。あなたが僕の話にお飽きになるまで始めないつもりです」彼が答えた。
セヴリーヌの予想どおり、二人はお互いに平静な気持だった。ただ一つ、あの誘惑に失敗したとき見せたと同じユッソンのつつましい態度が、若い彼女をいくぶん狼狽《ろうばい》させた。そのくせ彼女は言った、
――ルネと、昨夕《ゆうべ》、あなたのお噂《うわさ》しましたのよ。(≪あたしが嘘《うそ》をついていると、この人は知っているんだわ≫とセヴリーヌは、気になるような、ならないような気持で思った。)ルネが、あなたにならきっと興味のありそうなニュースを聞かせてくれましたの。ルネの友達のひとりで、変な家へ出入りする女《ひと》のことなんですけど……」
――アンリエットのことでしょう? 僕、それなら知っています」
彼は、その視線をセヴリーヌの上には移さなかったが、でも、どうやら、話の先を続けるに先だって、相手の呼吸をうかがう様子だった。
――あんなのなんかおもしろくもなんともない例です。単に金の問題でしかありませんからね」一度こう言ってしまってから、彼は、言いなおした。――問題それ自身として見れば、つまらないことですが、心得のある男たちが上手《じようず》に利用したら相当興味がありますね」こう、何か、セヴリーヌを馴《な》らそうとでもするらしく、素気《そつけ》ない声で言った。「なにしろ、あたりまえなら、慇懃《いんぎん》にされたり、尊敬されたりする権利のある女《ひと》なのに、それに対して、どのような情欲の身ぶりでもすることができるのですから。どんな勝手|気儘《きまま》な情欲、どんな恥ずべき情欲でも。もっとも、こう言ったところで、たいていの男のファンタジーというものは、もともと限度のあるものなんですが、とにかく、社交界の貴婦人を、そんなふうに扱うことができるのですから、いわば、強姦《ごうかん》以上に恐ろしいことでもあり、楽しいことでもあるわけです」
セヴリーヌは、首をかしげ、上体をしゃんとさせて、聞いていた。ユッソンが、個性のないその声で言いつづけた、
――僕はこのごろさっぱり、あのような家へは出入りしません。いわば、あんまり見すぎてしまったというわけです。でも、以前はかなり、あんなところの女が好きでした。彼女たちには、貧しい悪の匂《にお》いがあります。あそこへ行って見ていると、人間の肉体というものが、何のために作られたか、はっきりわかります。あのような淫楽《いんらく》の中には、それによって生きる女たちにも、金を払うほうの男たちにも遠慮があります。牛追いも、僕同等の待遇が要求できるのですからな。もちろん、僕は、かたい家のことを言っているわけですがね。なぜって、あのような方面でもやはり、やたらにけばけばしいのはたまりません。具合のいい家といったら、リュイスパー街の四十二番地、ヴィレーヌ街九番地乙、さもなければ……こう数えていたら果てしのないほどですが。僕はもう、入りません、が、前を通るのは今でも好きです。みんな競売館か、ルーヴル美術館の裏あたりの、ブルジョア風の構えの家ですが、そこで、見も知らぬ男たちが、思いのままに、何のコントロールもなく、奴隷のような女たちを勝手にしていると思うと、いろいろ想像力を刺激されますからね」
セヴリーヌは、ユッソンには、ひと言も言わず、握手もせずに、別れた。二人の視線は一度も交わらなかった。
それまで、セヴリーヌを悩ました、あの理由の知れないさまざまな動揺が、このとき以後、執拗《しつよう》な魔攻めの姿に結晶した。彼女はすぐにはそれと気づかなかった。だが、そのとき早くも、彼女の見かけの存在《ひととなり》と、その奥底の、盲目なそして万能な幼虫が蠢動《しゆんどう》している場所との境界をなす仕切りは破られていた。そのとき早くも、彼女がそれまで生活してきた秩序の世界と、いま本能の力によって彼女の前に開かれた計量する勇気のまだない力の世界との間には、交通があった。このとき早くも、彼女の平常の人格と、あらたに彼女の中に生れた新しい人格が、長い眠りのあとの溌剌《はつらつ》たる生気で、お互いに溶けあい、結びついた。
この新しい「彼女」が、自分に何を求めているかを了解するまでに、セヴリーヌは二日かかった。その二日の間、彼女は、それまで自分がしてきたとおりのことをし、使ってきたままの言葉を使っていた。彼女がわななきながら、自分自身を聴診するような気持で過したことは、誰にも、ピエールにさえも、気づかれなかった。だが、彼女だけは、自分の脇腹《わきばら》に、熱い、情けも容赦《ようしや》もない一本の毒の棘《とげ》が、深くささり入ったと感じていた。
あるひとつの幻影が、彼女の混乱した脳に、たえずきてつき当った。それは、彼女が病後の最初のころ、漠然《ばくぜん》とした幸福感にひたりながら、快く眺《なが》めた、あの同じ幻影だった。執拗《しつよう》な、欲情そのものみたいな顔の一人の男が、汚《きた》ならしい街を縫うて、彼女を追いかけた。彼女は、その男から逃げた。だが、男をはぐらかさないようにして逃げた。彼女がふと袋町へ踏みこんだ。男が追いついてきた、彼女には男の靴音がきこえた。彼女は胸を波立たせ、せわしく呼吸した。息づまりそうな懊悩《おうのう》だった、言いしれぬ欲情の待ち遠しさだった。それなのに男は、彼女が隠れた場所を見つけずに通りすぎてしまった。男は遠のいていった。するとセヴリーヌは、身を裂かれるような絶望の気持で、その、彼女の心の最重要な秘密をいだいて去った荒くれた男をむなしく捜し求めた。
病後の彼女を訪れたことのある、これ以上にもっと下等な、もっと恥ずかしいような幻影までが、同じく彼女の心に戻ってきた。だが、この幻影が意味深い主題となって、他のものはその周囲に集るにすぎなかった。セヴリーヌは、二日二晩、あの袋町の男を呼びつづけて過した。そしてある朝、いつものように、ピエールが病院へ出勤してしまうと、できるだけ地味な身なりで、彼女は家を出て、通りがかりの運転手に呼びかけた、
――ヴィレーヌ街までやってください。行ったら、あの街を、端から端まで、ゆっくり通ってみてください。番地は忘れたけれど、家に見覚えがあるはずですから」彼女が言った。
自動車は、河岸《かし》沿いに駆《はし》った。やがてセヴリーヌの眼に、ルーヴル美術館の大きな建物が入ってきた。彼女は、自分の咽喉《のど》がきつい結ぼれで、締めつけられるように感じ、それを解こうとするもののように、思わず手をやった。彼女は目的の街に近づいていた。
――ヴィレーヌ街です」運転手がブレーキをかけながら叫んだ。
セヴリーヌの頭は、奇数番地の側に向けられた。一軒……また一軒……さてこれはまたなんとしたことか、車がその前にまだ行かない先に、セヴリーヌは、自分が探《たず》ねている家を見つけてしまったものだ。その家というのは、他の家々と、少しも変ったところのない一軒だった。ただ、一人の男がちょうどそのとき、その家の入口に入った。すると、セヴリーヌは、その男のうしろ姿をちらりと見ただけで、いきなりそれと見知ったのだ。骨太い体格、着ずれのした背広、それからあの肩つき、首つきの品の悪さ……。彼は、おとなしい女たちのところへ行くのに相違なかった。ほかに、この男の行くところはありえなかった。この確信のためにならセヴリーヌは自分の生命《いのち》でも賭《か》けたはずだ。泥まみれの直感が、男が見せたあわただしさと、本人には気づかないその両腕に見えるきまりわるげな様子と、彼を支配しているその情欲とを、彼女も分つ思いがした。
短いこの街のはずれへ、早くも自動車は来ていた。運転手に言われてはじめて、セヴリーヌは、それと気づいた。彼女はそのまま自分の家へ送らせて帰った。
今や彼女には、自分の執念に与える餌食《えじき》があった。ヴィレーヌ街でかいま見たあの男と、先にあの袋町で見失った男とが紛《まぎ》れあった。彼女は、あの羞恥《しゆうち》の家の中へ消えたあの男の姿を思うたびに、一種快い苦痛が、心臓の鼓動を遅くするのを禁じえなかった。彼女は空想した、その男の狭い額を、節くれだった毛もくじゃらの両手を、粗末な衣服を。彼は階段を登る……。呼鈴《よびりん》を押す。女たちが出てくる。ここまで来て、セヴリーヌの空想は尽きる、なぜかというに、それから先は、ただもう闇《やみ》と肉と苦しい呼吸とからなる譫言《うわごと》にすぎないからだ。
しばらくの間、こうした幻像だけで、彼女の心は満足したが、やがて、それも、あまりに力強く、あまりにたびたび繰返される結果、うすれてきた。セヴリーヌには、もう一度あの家を見る必要があった。最初のとき、彼女は車で行ったが、二度目には歩いて行った。戸口に出ているネーム・プレートに、何と書いてあるか読むに、ちょっと止ることさえできないほど、彼女は恐ろしかった。それでも、おそるおそる、その家の古い壁に手を触れてきた、その壁がかくまっている、あさましくも激しい淫欲《いんよく》が、そこに浸《し》み出てでもいるかのように。
三度目のとき、セヴリーヌは、人目をはばかるような字体で記されたネーム・プレートの文字をすばやく読んだ、
マダム・アナイス――二階左側
そして、四度目のとき、彼女は、その家へ入った。
セヴリーヌは、自分がどうして階段を上ったか、また、自分がどうして、開かれたドアの前に、ひとりの、まだ若い大柄の、ブロンドの、見かけのよいひとりの女の前に立っているか、まるで知らなかった。彼女は息をきらしていた。彼女は逃げ出したかった、そのくせ逃げ出しかねた。彼女の耳が聞いた。
――何かご用でしょうか、マドモワゼル?」
すると彼女がささやくようにして言った、
――あなたでしょうか……お世話くださるのは?」
――あたしがマダム・アナイスです」
――そうでしたらあたし、お願いしたいんですが……」
セヴリーヌは、迷った獣《けだもの》のような眼つきで、自分のいるこの寄付きの部屋を見まわした。
――こちらへいらして、落着いてゆっくりお話しなさい」マダム・アナイスが言った。
彼女は、この若い女の来訪者を、地味な壁紙の部屋へ導いた。そこには、紅い羽根|布団《ぶとん》をのせた大きなベッドが一つあった。
――いくらか楽な目がなさりたいんで、ここへおいでになったんでしょう。あたしができるだけのお世話はいたします。あなたは可愛らしくって、若々しい、この家にはもってこいです。半分はあなたにあげ、半分はあたしがいただきますよ。あたしにも、いろいろ掛りがありますからね」マダム・アナイスがさっそく機嫌《きげん》よくこう言いだした。
セヴリーヌは答えることもできずに、うなずくだけだった。マダム・アナイスが彼女に接吻した。
――ちと、ぽおうっとしていらっしゃるんでしょう。なにしろ、はじめてらしいから、そうでしょう? なあに、みていてごらんなさい、つらいことなんか、ちっともありませんから。まだ時間が早すぎて、あなたのお仲間になる女《ひと》たちは誰も来ていませんが、誰かいたら、楽な仕事だと教えてあげるでしょうに。いつから、お始めになります?」
――わかりませんの……考えてみますわ」
不意に、セヴリーヌが叫びだした、二度ともうこの家からは、逃げられないとでも思うかのように、
――とにかく、五時には、あたし、どんなにしても、帰らなければなりませんのよ……どんなにしても」
――それはどうでも、あなたの都合で結構ですわ。二時から五時までなら、時間は十分ありますもの。つまり、あなたは「昼顔」というわけですわね。でも、時間を守ってくれなければいけませんよ。さもないと、お互いに仲たがいになりますからね。五時にはきっと帰してあげますよ。可愛い人があなたの帰りを待っているんでしょう。それとも、大事なご亭主かしら……」
「それとも大事なご亭主かしら……。それとも大事なご亭主かしら……。それとも大事なご亭主かしら……」
それを聞くなり、いきなりマダム・アナイスと別れてきた、これらの言葉を、セヴリーヌは執拗《しつよう》に繰返してつぶやいた。何の意味か彼女にはわからないのだが、わからないままに、この言葉に憑《つ》かれたような彼女だった。
彼女はルーヴル美術館の柱廊《ちゆうろう》の前を過ぎながら、この建造物の気品ある正面《フアツサアド》を眺《なが》めやった。その単純な美しさが、しばらくの間、彼女を楽しませた。それなのに、急に彼女は顔をそむけた、自分にはこんな眺めを楽しむ権利がないような気がして。
往《ゆ》き来《き》の電車の混雑が、彼女の行手をふさいだ。電車の一つはサン・クルーからヴェルサイユへ行くそれだった。王朝時代の美しい二つの宮殿の間を連絡しているこの線の電車が好きだと、いつか美術館から出て、この広場に立ったとき、ピエールが言っていたのを、セヴリーヌは今思い出した。ピエール・レスコの手になったこのルーヴル宮……、彼女の大事なご亭主のピエール……。宮殿の周囲に作られた麗わしい風景と完備した庭園が、いちばんよく似合うそのピエールの、妻が売女《ばいた》だなんて……。
電車の鈴《ベル》の音も、堂々とした宮殿の威風《いふう》も、マダム・アナイスも、自分自身も、あらゆるものが、セヴリーヌの頭の中で交錯した。彼女は、盲人のように、街路を横切り、河岸へ出て、セーヌ河に向った欄干《らんかん》にもたれた。ここまで来て、彼女ははじめて呼吸《いき》がつけた。河は春の泥水を流していた。セヴリーヌは、濁った水の力強い色に心をひかれて、堤の上へ出てみた。
そこに立って、セヴリーヌが発見した風景も人事も、すべてがいかにも目新しかったので、彼女はこのうれしさが一生続くような気がした。そこにうず高く積まれた砂、石炭の山、鉄の山、重そうな人間が、無言でその上で働く煤《すす》だらけの扁平《ひらぺつた》い舟、彼女が想像していたものとは似もつかない高い硬い壁、とりわけ心をひくこの水の流れ、泥を含んで、なみなみと、底の知れないこの水の流れ。セヴリーヌは水のそばへ、身をかがめ身をかがめして、手先をひたした。
あやうく口から出そうになった叫びを、ようやくおさえて、彼女はあわててその手を、水からひき上げた。人の心を惑わす水は、死のように冷たかった。するとこのときはじめて、セヴリーヌは、自分が何を願ったかに気づいて、その恐ろしさに、思わず立ちすくんだ。彼女は危うく、川中の泥にまみれた流木と自分までもなそうとしたのだった。この水に自分の運命を任せて、溺《おぼ》れて死にたいと思うほどの、どんな悪いことを彼女がしたのだろうか? マダム・アナイス……。なるほど彼女は、あの女のところへ行って、あの女の言うことに耳を傾けてきたことは事実だ。だがそれにしても、もしセヴリーヌが、このごろの自分の耐えがたい苦悩《なやみ》と、のっぴきならぬ憑《つ》きもののような力に押されて、ただ苦しいだけの気持で、何の喜びもなく、ヴィレーヌ街へ引きずられて行ったと告げたとしたら、ピエールも、むしろ彼女に対して、憫《あわれ》みの心をいだくはずだった。彼女は彼が必ずそうしてくれるだろうと知っていた。だからまた彼女は彼を愛しているのだった。怒りや、蔑《さげす》みでなく、憐憫《れんびん》こそ、この場合、彼女に向けらるべき公平な感情ではあるまいか? セヴリーヌは、自分自身に対する同情で、身を引裂かれる思いがした。
狂気の発作は罰せらるべきものだろうか? また、彼女が今日してきたことは、狂気の発作という以外に何と言い表わしうるだろうか? 彼女は急に自分にとりついたこの病気を、治《なお》す必要があった。それが治りさえしたら、この恐ろしい一週間のあとかたは、何も残らないはずだった。さいわい、あの病気は治ったと、彼女は思った。なぜかというに、自分がした、その愚かな行為のゆえに、彼女は死のうとさえしたのだから、マダム・アナイスの家へ行くことを考えただけで、恐怖によって、自分の体《からだ》が硬直するのを感じるほどだから、それにまた……。
絶望的な速度で、セヴリーヌの頭の中に、ひしめき合っているさまざまの思念が、急に完全な空虚、絶対に思索の不可能な状態によって置きかえられた。飽くことを知らない欲深い口に吸われて、自分の肉体を形成している物質が、ことごとく自分から抜け出してしまったような気がした。ふと彼女は眼をあげた……。すると、近くに、ほとんど彼女とすれずれに、一人の男が立っていた。心の中で激しい争闘をしていたセヴリーヌには、この男が来たのに気づかなかった。男のあらわな首は強靱《きようじん》そうに見えた。厚みの見事な肩は泰然《たいぜん》たる様子だった。彼はたぶん、新橋《ポン・ヌフ》の近くにつながれている船の一隻に、火夫として働いているのであろう。紺の上着にも顔にも、油と煤《すす》の汚点《しみ》がいっぱいついていた。この男には安|煙草《たばこ》と、機械油と精力の匂《にお》いがあった。
男はまともに、じっとセヴリーヌを見つめた。彼女が自分に与える情欲が、はたしてどんな種類のものか、正確には知らぬげだった。彼は、セーヌ河を下って、ルーアンへ、ハーヴルへ向う途中だった。彼は美しい女と見て、その前に船を止めた。彼の相手になるには、彼女はあまりに美々しい装いをしていた。それも承知だった。だが彼にはやはり彼女がほしかった。それで、彼はこうして彼女を眺めているのだ。
大勢人の集る場所やなぞで、セヴリーヌはすでに幾度も、知らぬ男が、自分に渇望《かつぼう》の眼《まなこ》を向けると感じたことがあった。でもそのたびに、彼女が感じたのは、単にいやな、迷惑な気持だけだった。それが今、この男の見せる重厚で、厚かましく、そして生《き》一本なこの情欲、これはいまだかつて彼女の見なかったものだった、夢の中で、彼女を追いかけたあの男と、マダム・アナイスの家の入口へ消える姿を彼女が見たあの男以外には。その同じ男が――それと同じ男だった――今、彼女のそばにいた。絶望的な気持で、彼女が呼び求めた、あの接触を味わうために、彼がちょっとその手をのばすだけで足りた。だが、彼はそれを敢《あ》えてなしえないだろう、彼にはどうしてもそれはできないはずだ……。
≪でも、あたしが、三十フランで、ヴィレーヌ街のあの家に出ていたら……≫痛いほどの鋭さで彼女は考えた。
彼女は眼をみはって、厳《いか》めしい石壁と、泥っぽい河の間に閉じこめられた場所、この原始的な天地の中にある、あらゆる顔と肉体を、さぐるように見きわめた。すべりかける荷車の手綱を馬の鼻先で短く取って止めてる馬方は、その見事な拳《こぶし》の先に、馬と馬の曳《ひ》く切石を載《の》せているように思われた。額のせまい、腰のがっちりした荷揚げ人夫、酒としつっこい食物で体のたるんだ白人の人足たち、――これまで、セヴリーヌが、その存在をさえ知らなかったこれらの男たち、彼女とは別な肉で作られたこれらの男たち、――これらの男たちが、マダム・アナイスの家で、三十フラン払って彼女を所有するわけだった。
セヴリーヌには、自分の胸を痛める痙攣《けいれん》が、どんな性質のものか、見きわめる暇がなかった。例の小船の火夫が、このとき、一歩身を退《ひ》いた。同時に、彼女に襲いかかった恐怖は、実在の感動でないだけに、かえって耐えがたかった。それは夢の世界へ続いていた。この男もまた、やがてあの袋町の男と同じように、消え失せようとしていた。セヴリーヌは、彼を見失うつらさを、二度と繰返して我慢する力は、自分にはないと感じた。なぜか彼女にはそれができないはずに思われた。
――待ってよ、待ってよ」うめくように、彼女がつぶやいた。
ついで、火夫の無表情の眼を、火のように燃える眼でじっと見つめながら、
――三時に、ヴィレーヌ街九番地乙、マダム・アナイスの家《うち》へいらっしゃい」
男は、石炭の埃《ほこり》のたくさんついた頭髪《かみのけ》を、ばかみたいにふり動かした。
≪この人、あたしの言うことがわからないんだわ、さもなければ、もうほしくなくなったんだわ。それともお金がないのかしら≫とセヴリーヌはひとり言を言った、あの悪夢が与える人間ばなれのした恐怖におののきながら。
男から眼をはなさずに、彼女は手提《てさげ》の中をさぐって、百フランの紙幣を一枚さし出した。きょとんとした表情で、男はそれを受取って、注意深く調べた。彼が頭をあげたとき、セヴリーヌは、河岸へあがる堤の傾斜面をはや足に登っていた。男は肩をぴくっと揺《ゆす》って、掌《てのひら》の中に紙幣を畳みこむと、とある小船の方へ駆け去った。このうえ、ぐずぐずしてはいられなかった。正午に出発する予定だった。
ちょうどその正午のときが、この古いパリの一画の、古い鐘楼《しようろう》に、一斉に鳴りだすのを聞いて、セヴリーヌはこの場から去る決心をした。ピエールが市立病院の仕事を終る時刻だった。彼が病院を出てしまわないうちに、行かなければならないような気がした。数日来、セヴリーヌがなしたさまざまの決心と同じく、今のこの決心も、彼女にとって思い設けぬものであり、同時にまた絶対必要な性質を持っていた。
一度凶暴な動揺に従った振子は、すぐその直後、補整的動作を開始するのが常だ。セヴリーヌの心の動きもこれと同じだった。彼女の心は今、ピエールの方へ、抑《おさ》えがたい勢いで動いた。悪いことだが完全に、ピエールの存在を忘れていただけに、今彼女がピエールを思う心は、一層激しかった。
自分がやりかけていることで、彼の庇護《ひご》を受けようとは、セヴリーヌも思っていなかった。約束の時間に、彼女がヴィレーヌ街のあの家に行くのをさまたげうる何人も、何事も、存在しえないことは、彼女には痛いほど確かに感じられた。自分を、あの堤の上の男の前に置いた偶然に、自分の行為の言い訳をかずけようとは彼女はしなかった。今、こうして、決心してみると、すべてが、この決心を彼女にさせる機会となったはずだと思われた、それにあの男にしても、これまで自分が知り尽していると信じていたこのパリの市《まち》の、今、急に、節くれだって、動物的で、貪婪《どんらん》な、やがて彼女が彼らによって所有されるはずの市民が支持していると気づいたこの市《まち》の、どの街角にでも見つかったはずだ。ただ、彼女は今、自分自身も、それが畏怖《いふ》から成っているか、歓喜から成っているかしれない、ある犠牲がなされるに先だって、ピエールが、彼が愛する姿の自分を、最後にもう一度見てくれるのを、願うのだった。理由は、やがていまあるがままの彼女を滅ぼし尽すそのときが、近づきつつあったからだ。
――セリジー先生は、まだいらっしゃるでしょうか?」セヴリーヌは、絶え入りそうな気持で、病院の玄関番にたずねた。
――すぐもうお退出《ひけ》になりましょう。ああ、ちょうどいま、お召しかえにいらっしゃるところです」
ピエールは、学生たちに、とりまかれて、中庭を横ぎるところだった。彼らはみんな、白衣を着ていた。セヴリーヌは、若々しい学生の顔によって見守られているピエールの若々しい顔に眺《なが》め入った。セヴリーヌは、精神的感動には、いたって感じが鈍かった。それにもかかわらず、この一団からは、激しい知識欲と、健康な道義観とが湧《わ》き出して、それが全部ピエールに向けてあからさまに集中されるのを見ては、さすがに夫に呼びかけかねた。
――あたし、ここで待っていますわ」彼女が小声になって言った。
それなのに、ピエールは、愛の直感にうながされたらしく、妻のいる方へ頭をめぐらして、ポーチのうす暗い影に立つ彼女の姿を見つけた。彼が、自分を取巻いてついてきた青年たちに何か言い残して、自分の方へ来るのをセヴリーヌは見た。彼が近づいてくる間に、セヴリーヌは、むさぼるようにして、わけてもなつかしい夫の顔かたちを、見つめた。これを最後に、二度と見ることのできないものを見るようにして。ピエールは、見慣れぬ表情だった。彼の顔には、自分の先生たちと学生らとにだけ属する世界で過した時間の痕跡《こんせき》が、ありあり刻まれていた。それは好きな仕事が残す痕跡だった。それは温情ある指導が残す痕跡だった。それは弟子たちと仕事台との間で働いている主《あるじ》に、まま見られる善良な職人らしくも見え、また親方らしくも見えるあの表情だった。彼の純白な、あまりに純白なのでかえって血の神聖な赤味を思わせる白衣といっしょに、セヴリーヌが見いだしたものは、実にこの表情だった。
――あたしが邪魔しに来ても怒りっこなしよ。でもあたしたち今日はお昼の食事がいっしょにできないはずでしょう。それで、この近所に用があって来たので……ついお目にかかりたくなっちゃったのよ……」
セヴリーヌが、詫《わ》びるような、しみじみ恋しそうな微笑を浮べながら言った。
――怒るなんて、(ふだんは見受けない彼女のあせりようと、遠慮深さに感動したピエールが叫んで言った、)あんたにうれしいことをしてもらって、怒る手はないさ……。僕は仲間の連中にあんたを見せるのが自慢だ。あんた、気がつかなかったかい、皆がしげしげあんたを見ていたぜ?」
セヴリーヌは、両の頬が凍《こお》るように青ざめてゆくのを隠そうとして、軽く地面《じべた》の方へうつ向いた。ピエールが言葉を続けて言った、
――ちょっと待ってね。まだ昼の食事までには三十分ある。先生の招待でなかったら、あんたといっしょに残るんだが」
静かな、いいお天気だった。セヴリーヌは、どこよりも清浄な場所へ行きたい思いに誘われて、ピエールを導いて、ノートル・ダム寺院の横に緑の色を見せている小公園へとやってきた。春がここでは、市《まち》のどこよりもつつましやかな姿だった。市役所の周囲を取巻く不健康な市区が、ここで遊ぶ子供たちの顔色を悪くしていた。ときどき、四月の雲の切れ目から、もれてくる陽の光が、竜の口から落ちるに反射したり、寺院の絵ガラスの秘跡めく物質のうちに溺《おぼ》れ死んだりした。老いた職工たちが、ベンチで話をしていた。聖《サン》ルイ島と左岸のとある静かな河岸が見えた。
セヴリーヌは、夫に寄りかかるようにして、何度もこの公園を歩いてまわった。ピエールは、この大寺院の近所に、今なお続けられている細民たちの生活を語りきかせた。彼が思わず声を重重しくして語る言葉の、その響きだけしかセヴリーヌは聞いていなかった。何ものか、彼女の中で、徐々に、哀れに崩《くず》れゆきつつあった。ピエールが行かなければならない時間が来ても、彼女は、病院の入口まで見送っては行かなかった。
――あたし、もうしばらくここにいますわ。あなたはかまわずにお行きになって」彼女が言った。
彼女は痙攣《ひきつけ》るような烈《はげ》しさで、夫に接吻し、微《かす》かに繰返して、
――あなた、お行きになって。早くお行きになって」と言いつづけた。
やがて、セヴリーヌは、たどたどしい足どりで、とあるベンチに編物をしている二人の女の間に腰かけると、声を忍んで泣いた。
彼女は、食事をすることも、この場から立ち去ることも考えなかった。彼女は、静かに思いにふけった。彼女は、誰も知らない自分自身の声に聞き入った。こうしている間に二時間が過ぎた。時計は見ずに、セヴリーヌはノートル・ダムの公園から、ヴィレーヌ街へ出かけていった。
彼女を見たマダム・アナイスは、うれしそうだった。
――あんたはもう来てくれないだろうと思っていましたよ。今朝《けさ》、あんなにあわてて帰っちゃったんで、恐《こわ》くなったんだろうと思ってたところですよ。恐いことなんか、何もありはしないんだけど」彼女が言った。
健康な厚意ある笑いを見せて、彼女はセヴリーヌを導いて、暗い中庭に面した小さな部屋へ入った。
――そこへ、持ち物をみんな入れときなさい」戸棚の扉《とびら》をあけながら、彼女が陽気に命令した。セヴリーヌは、中に二組の女の帽子と外套《がいとう》が入れてあるのに気づいた。
彼女はひと言も言わずに、命ぜられるままにした。理由は、彼女の上顎《うわあご》と下顎が盤陀《はんだ》づけにされたような気がしたのだ。そのくせ、彼女は熱心に思いつづけていた、≪マダムに断わっておかなければいけないわ……。あたしを訪ねてくる男……あの男だけに会うの≫だと。だが彼女は相変らず、声ひとつ出せなかった。そして、彼女は、マダム・アナイスの、きまじめなせっこんだ言葉を、恐《こわ》いような、慰められるような気持できいていた。
――ここがあたしのいる部屋です、用のないとき。あんまり明るくはないが、窓ぎわの仕事机のところなら、どうやら糸目も見えます。お客のないときには、あんたの仲間の二人が来て手伝ってくれます。マチルドもシャルロットもそれはいい女《こ》ですよ。だいいち、あたしが、育ちのいい陽気な娘《こ》どもたちでないと我慢ができない質《たち》なのでね。楽しく、ごたごたなしに、皆が働くようにしなけりゃつまらないもの。もう一人のユゲットを四、五日前に断わったのもそのためですの。立派な体《からだ》の娘だったけど、言葉づかいがわるくって。あんたは、本当に立派だわ、ねえ、あんた……そうだった、まだ名を知らなかった、何という名なの?」
――あたし……あたし言いたくないんですけど」
――おばかさん、だれもあんたの戸籍しらべをしようというんじゃありませんよ。何とでも自分の名前をつけたらいいのさ。なにかしら可愛らしい、しゃれた名前を……。つまり、人の気に入るような名前をね。ひとりでに見つかるものですよ。あんたの仲間とあたしで見つけてあげますよ、ぴったりあなたに似あういい名前を」
マダム・アナイスが、聞き耳を立てた。廊下の彼方《かなた》で誰かの笑う声がした。
――マチルドとシャルロットが、じきにムッシュー・アドルフのお相手をすませるらしい。うちのいいお客の一人でね、あの方。金回りのいい旅商人で、……そりゃおもしろい方なのさ。うちへ来るお客は、たいていみんな立派な人たちばっかりですよ。だから、あんたもきっと気持よく働けますよ。それはそうと、まず、あんたが来てくれた祝いに、何か一杯飲みましょうよ。あんた何がいいかね? どんなリキュールでもこうして置いてあるんだから、ちょいとまあ、ここをみてごらんなさい」
セヴリーヌが帽子をしまった戸棚に向い合った別の一つの戸棚から、マダム・アナイスは、いろいろな酒瓶《さかびん》を取出した。セヴリーヌは、よくも見ずに、その中の一本を指さした、彼女は味もわからずにその酒を飲み干した。その間に、マダム・アナイスは、ゆっくりとアニゼットを嗅《か》ぐようにして飲んだ。飲み終ると、彼女が言いつづけた、
――さしあたり、あんたは昼顔という名にしときますよ。いいですか? ええ? おとなしいいい娘《こ》だこと。まだいくぶん、内気だけど、これもあたり前でしょう。五時に帰れさえしたら、あとはどうだってよろしいんでしょう……。あんたその人愛しているんですか?(セヴリーヌは思わず、あとすざりの身ぶりをした。)いいえ、何もそんなことまで、無理に聞こうとはしませんよ。だまっていても、近いうちに、自分であんたが話をするようになりますよ。あたしはあんたたちの主人じゃないんで、お仲間なんだからね、本当のお仲間なんだからね、世間ってものがあたしにはわかっているので……。そりゃあ、あたしだって、あんた方の仕事よりあたしの仕事のほうが楽だとは思ってはいますが、こんな世間を作ったのは、あんたたちでも、あたしでもないんで、しかたのないことですよ。さあ、あたしに接吻してちょうだい、昼顔さん」
マダム・アナイスの声には、本当の友情以外、何ものも含まれていなかった。それなのに、セヴリーヌはあわただしく身をひいた。眉《まゆ》を寄せ、顔じゅうをひきつらせ、青ざめて、彼女は顔を、さきがた、笑い声が聞えてきた部屋の方へ、そむけた。そこはいま静まりかえって、わずかにときどき噎《む》せるような物音が聞えてきた。セヴリーヌには、その物音が、彼女の心臓の鼓動を支配しているように思われた。彼女が、マダム・アナイスの方に、動物的な絶望に満ちたきょとんとしたまなざしを向けたので、ともすれば、毎日身近に暗黒な肉欲のドラマを見なれている彼女のことだから、セヴリーヌの心の中のその気持を、見てとったかもしれなかった。厚意に満ちた彼女の口もとに、きまり悪げな表情が浮んだ。彼女のまなざしも、悪いとは考えたこともなく自分が売りものにしているその部屋の方へ向いたかと思うと、そこからまたセヴリーヌの眼へと戻ってきた。二人はこのとき、あまりにも深い真実を表わすため必ず人が後悔するほどの友情的なまなざしを交換した。それは、ひそやかな性の嘆声だった。ウェーヴしたブロンドの頭髪《かみのけ》をゆすぶりながら、マダム・アナイスが言った、
――だめですよ、だめですよ、あんたったら、あたしにまで変な気をさせたりするじゃないの。さっきも言ったように、あんたやあたしがこしらえた世間じゃないんだから」
このとき、多少まだかすれてはいるが、そのくせ陽気な叫びが、聞えてきた。
――おかみさん、おかみさん、あんたにご用ですよ」
――シャロットが何か飲みたいんだわ、きっと」彼女が言った。
彼女は微笑《につこり》しながら、気楽そうな様子で部屋から出ていった。ひとりになると、セヴリーヌは棒のように立ちあがった。逃げ出そう……彼女は逃げ出そうとした。こんなところには、このうえ一秒時間もいられなかった……。自分がこんなところにいるという事を、彼女は、なんとしても、現実的な、可能なものとして考えることができなかった。彼女は今、あの荷物船の火夫のことも忘れていた、彼女は今ピエールのことも、マダム・アナイスのことも忘れていた。彼女は、どのような事実の連絡によって、自分がここへ来ているのか、思い出せなかった。しかもこの神秘な事実が、自由に対する狂おしい欲求で彼女を満たした。そのくせ、彼女は動かずにそこにいた。
なじるような口調で、男が言っている声が聞えた。
――新しい女が来たのに、まだわしに見せないなんて、そんなべらぼうな話があるか」
マダム・アナイスが部屋に入ってきて、セヴリーヌの腕をとって、ひきずるように連れ出した。
――さあ、これが昼顔ですよ」濃い栗色髪《くりいろがみ》の若い女が叫んで言った。
セヴリーヌがいま入った部屋は、その朝マダム・アナイスが、彼女に見せてくれたあの部屋だった。彼女にはこれがその朝見たあの部屋だとは気づかなかった。でもまたこの部屋は、一分間前まで彼女が想像していた、荒《すさ》み果てた淫猥《いんわい》な気分に満ちた巣窟《そうくつ》とは似もつかないものだった。つつましく乱れたベッド、椅子の背にかけられた男のチョッキ、きちんと並んだ靴、それらのすべてが、いかにもブルジョア風の慎み深い放縦《ほうじゆう》の証拠を見せていた。また、そこに、安楽椅子に気楽そうにもたれて、義務のようにして、栗色髪の大柄な女の乳房を愛撫《あいぶ》しているその男にしても、セヴリーヌは、ここへ入ってくるときまで、自分にとって、一種神秘な頽廃《たいはい》に包まれたこの部屋の中に見いだそうとは、予期しなかった種類の人物だった。男はワイシャツだけの肌脱《はだぬ》ぎになっていた。太いズボンつりが、卑しげなそのお腹《なか》の曲線に沿うて流れていた。脂肪ぶとりのした力なげな首が、禿《は》げかけた頭を支えていた。見るからに、人のよさそうな、うぬぼれの強そうな、男だった。派手な靴下に包まれた小さすぎる足を動かしながら、彼が言った、
――ようこそ、別嬪《べつぴん》さん、昔|馴染《なじみ》のアナイス婆さんにも来てもらって、皆といっしょにシャンパンをひと口召しあがってください。昼めしに食ったあのご馳走《ちそう》の口なおしなら、コニャックが動かぬところだが、マチルドがシャンパンが飲みたいと言うでな。(彼はベッドに腰かけて服を着なおし終った弱々しい女を指さした)あの娘《こ》はよくしてくれたし、わしは吝嗇《しみつたれ》じゃないんでのう」
酒を取りに出てゆくマダム・アナイスの姿を、ムッシュー・アドルフは見送っていた。力強げな、がっちりした彼女の体つきを見て、彼は吐息《といき》をついた。
さきほどから、ずっと、旅商人を愛撫《あいぶ》していたシャルロットがたずねて言った、
――あんたまだあの女《ひと》があきらめきれないのね?」
――お前たちが、どんなにわしを疲らしたあとでも、あの娘《こ》のためになら、いつだって元気を取りかえしてみせるぞ」
マチルドがやさしくたしなめた、
――およしなさいましよ。いけないことですわ、そんなこと。マダム・アナイスは、そんな方じゃないんだから。それより、あんた、この新しい女《ひと》にお愛想をしたらどう。遠慮して立ったままでいるじゃあないの」
――昼顔、お給仕の手伝いをしてくださいよ」酒とグラスを運んできたマダム・アナイスが言った。
――本当に娘むすめした女《ひと》だね、この女《ひと》って。こうしてタイユールなんか着ていると、イギリス人みたいじゃない?」シャルロットが言った。
彼女は、セヴリーヌに近づいて、耳もとに口を寄せ、やさしさのこもった声で言った、
――もっと、シュミーズみたいに、すぐ脱げる服にしなけりゃだめよ、あんた。これじゃ、時間がかかってしようがありはしないわ」
旅商人が、この最後の言葉を小耳にはさんだ。そして叫んで言った、
――いいや、いいや、この娘《こ》はこれでいいよ。タイユールがとってもよく似あう。どれ、もっとそばへ来てお見せ」
彼はセヴリーヌを引寄せて、首筋に口を寄せてささやいた、
――お前さんに脱がせたら、さぞ楽しいだろうね」
急にこのとき、セヴリーヌの顔に現われた表情に不安を感じて、マダム・アナイスが、言葉をはさんで言った、
――シャンパンがぬるくなってしまいますよ、皆さん。ムッシュー・アドルフのご健康を祝しましょうよ」
――わしもその説にはしごく賛成じゃ」アドルフが言った。
なまぬるくって甘すぎる酒が、唇《くちびる》にふれると、セヴリーヌは躊躇《ちゆうちよ》した。他人のことのように、あらわな肩をした若い女が(それは彼女だった)一人の美男で親切な男(それはピエールだった)と並んで腰かけている姿を、彼女は見た。その女は、もっと辛口《からくち》の酒が好きだった。そしていくら冷えていても、冷えすぎたと言ったことがなかった。それなのに、今セヴリーヌは、命ぜられるままに自分がするものと皆が期待していると思って、グラスの酒を飲み干した。瓶《びん》は空《から》になった、ついでまた別の一本が空になった。シャルロットが、長いこと自分の唇をマチルドの唇におしつけた。マダム・アナイスはその持ち前のあけすけな笑いをいささかうるさいほど何度も爆発させた。ムッシュー・アドルフの冗談が、今や、比喩《ひゆ》的な猥談《わいだん》になっていた。ひとりセヴリーヌだけが、言葉すくなに正気をとりみださなかった。不意に、彼女の腰のあたりを一つの手が掴《つか》んで、肥満した膝《ひざ》の上に無理に坐らせた。彼女は、自分の身近に、潤いのある相手の眼を認めた、同時に、ムッシュー・アドルフの声がしどろもどろに囁《ささや》いた、
――昼顔や、今度はあんたの番だぞ。二人でいっしょに幸福になろう」
またしてもセヴリーヌの顔が、ヴィレーヌ街のこの家には不似あいな表情に変った。すると今度も、マダム・アナイスが、昼顔と呼ばれる女に不似あいな怒りを未然に防いでくれた。彼女はムッシュー・アドルフをわきへ招いて、言った、
――昼顔をちょっと向うへ連れていって、すぐまた連れてきます。でも、手あらなことをなさっちゃいけませんよ。なにしろこの娘《こ》はまだ初手《しよて》ですから」
――この家《うち》でかい?」
――この家でも、余所《よそ》でも、初手ですわ。まだ一度も稼《かせ》いだことなんかない娘ですもの」
――じゃ、口あけだね? アナイス、恩に着るよ」
セヴリーヌは、戸棚《とだな》と仕事机のある先の部屋へ戻ってきていた。
――あんた、うれしいでしょう。はじめて出るともういきなり呼ばれるなんて。それにお行儀のいい、さっぱりした方だし。心配することなんかありませんよ。ムッシュー・アドルフは気むずかしい方じゃないからね。言うことさえきいてれば、それでいいんだから。トイレットはそこの左側です。でも、その服のままでいらっしゃいよ。あんたの着ているタイユールが気に入ったんだから。それから、もうちっと微笑《につこり》してさ。相手と同じほどこっちもうれしいんだと思わせるようにね」マダム・アナイスが言った。
セヴリーヌには、これらの言葉がまるで聞えぬらしかった。肩の間に首を埋めて、彼女は苦しげに呼吸した。不規則なこの呼吸音だけが、彼女の生きている証拠だった。マダム・アナイスが、やさしさに満ちた力で、彼女をドアの方へ押しやった。
――いや、いやです、どうしてもいやです。あたし行きません」急にセヴリーヌが叫んで言った。
――ええっ、何だって、いったいここをどこだと思っておいでなの、あんたは?」
セヴリーヌの感覚は、このときひどく鈍っていたが、そのくせ、彼女の全身は震《ふる》えだした。彼女は一度も、マダム・アナイスのあのやさしい声に、こんなきつい表情になることも、またあの明るい顔が急に残忍な命令に変ることも、思わなかった。だが、このとき、セヴリーヌの全身をわななかせたのは、恐怖でもなく、反抗でもなく、彼女がこのとき新《あら》たに発見したある気持だった。それが、彼女の頭の先から爪の先へと、甘美に、痛ましく通り抜けた。彼女が、これまで、正常な平和な生活をしてきたこととて、誰あって彼女のこの部分にふれた者がなかったのだ。それなのに、いま、女衒《ぜげん》風情《ふぜい》の卑しい女が、まるで悪事を働いた女中でも叱《しか》るよう口調で、命令していた。セヴリーヌの気高《けだか》い眼中に、濁った感謝の輝きが浮び出た。彼女はこの屈従の媚薬《びやく》の強力な最後の一滴までも味わうため、その命令に服従した。
この短い時間は、ムッシュー・アドルフによって、空費されてはいなかった。彼はその間《ま》に、自分のズボンを畳《たた》み、ズボンつりをしゃれた格好に卓の上に乗せておいた。彼がこの仕事をまさに終ろうとしているところへ、昼顔が入ってきた。派手な色の長いズボン下をはいた、この旅|商人《あきんど》を見ると、彼女は思わず、誰の目にも気づくほど明らさまな躊躇《ちゆうちよ》を見せた。それでムッシュー・アドルフが彼女とドアの間に立ちふさがった。
――お前さんときたら、あくまできかん棒だな。でもまあいいや、わしが心得ているで、こうして女どもを引きさがらせておいた。さし[#「さし」に傍点]のほうが余計気が落着くで……」彼が満足げに言った。
彼はセヴリーヌと、すれずれに近づいていた、それで彼女には、自分が男より背丈《せたけ》が高いと気づいた。彼女の顎《あご》に手をあてて、彼がたずねた、
――じゃ、本当にはじめてなんだね、恋人でない男とするのは。お金のためかい? ちがう? なりは立派だが、それは何の証拠にもなりはしない。そうだとすると……何のためかな……おもしろ半分かもしれないね……」
セヴリーヌがこのとき感じた厭気《いやけ》はひどいものだった。彼女はこの色の生白《なまじろ》すぎる男の顔を、張りとばしたくなるのをこらえるため、うしろ向きになった。アドルフさんが囁《ささや》いた、
――お前さん恥ずかしいんだな、ねえ、恥ずかしいんだろう。恥ずかしくってもうれしさに変りはないから、見ていてごらん」
彼は自分の手で、セヴリーヌの上着を脱がせようとした。ところが彼女は荒々しい身ぶりで逃げ出した。するとアドルフさんが叫んで言った、
――冗談じゃないぞ。可愛い奴、気をもませるにもほどがある」
両腕で、女を抱きすくめようとせまったとき、いきなりひとうち胸を打たれて、彼はたじたじとした。しばらく彼はあっけにとられて茫然《ぼうぜん》としていたが、急に金で女を買う男の堰《せ》かれた欲望が、今まで眠っていたその両眼と、人のよさそうなその顔に作用し、マダム・アナイスの場合と同様な変化を与えたが、それがセヴリーヌの気力をくじいた。彼は若い女の両手をおさえ、怒りに青ざめた顔を相手の顔におしつけるようにして怒鳴《どな》った、
――貴様、気でも狂《ちが》っているのか、ええっ。わしは、からかわれるのもまんざら嫌《きら》いじゃないが、貴様みたいな蓮《はす》っ葉《ぱ》にいつまでもからかわれて、黙っている人間じゃないぞ」
こう言われると、数分間前に、彼女が知ったあの同じ悲惨な情念が、より激しく身にしみて、彼女からあらゆる力を奪い去ってしまった。
身じまいをしなおす暇も惜しそうに、マダム・アナイスが咎《とが》める言葉になんか耳も貸さずに、彼女は逃げ出してきた。自分を堕落させることによって与えられたその喜びは、それを与えた男が、彼女に触れると同時に消えてしまった。男は死人のような彼女を所有したわけだ。
今、セヴリーヌは、暮れ方の空気のしっとりした河岸を過ぎ、何街《なにまち》とも気づかない明るい並木通《アヴニユー》を経て、彼女の心の中のせつなさのように広大な、また、彼女の脳に蠢動《しゆんどう》していると同じほどおびただしい数の毛虫がうようよしている広場をよぎって、ヴィレーヌ街から、ムッシュー・アドルフから、自分がしたことから、ことに自分がこれからしなければならないことから、逃げ出していた。自分がこれから、しなければならないことについて、彼女は考えたくなかった。理由は、自家《うち》へ帰って、ふだんと変らない一切をそこに見いだすとは許されがたいことだと深く思われるので。彼女は方角なぞには一切|無頓着《むとんじやく》に、いよいよ足ばやに歩いた、どうやら、自分の歩数が、わが家と自分との間に乗り越えがたい間隔を、一分一分生み出しでもするかのように。彼女はこうして歩いていた、あるときは、人ごみの中をおし分けて、あるときは、人通りのない街をすぎて。歩き回ることによって、身に負うた痛手からのがれようとしている追いつめられた獣のような姿で。最後に、疲労が彼女を止《とど》めた。暗いのを利用して、彼女はとある壁にもたれた。するとたちまち、重苦しい映像が彼女の心一面に襲いかかってきた。彼女はなおも、それらの映像からのがれようと、またしても歩き出した。まもなく、彼女は疲労に打負かされた。彼女は、自分が生きてきた今日一日の思い出にふけった。それらの思い出から、単に死ぬほどの恐怖をのみ感ずるのだが、そのくせセヴリーヌはできるだけ長く、そこに自分をひたしていた。理由は、この思い出が、少なくも彼女がしようとしている決心から、彼女を保護してくれたから。だがやがて、その思い出も、彼女の全身の注意を集める力を失った。幻のような斑点《はんてん》になって、自分の家の入口だの、家番の目つきだの、小間使の微笑だの、鏡だのが、彼女の目に浮んできた。ことに鏡の一つ一つは、つぎつぎに、ムッシュー・アドルフの焦《こ》げつくような唇《くちびる》で押しつぶされた彼女の顔を写して見せた。今となってはむしろ、すくにもマダム・アナイスの家へ駆けこんで行って、一生の間、夜も昼も、そこにこもって暮すより、しかたがないとさえ思われた。
――昼顔……昼顔……」セヴリーヌは声をたてた。
こんな名になってしまって、わが家へ帰れるものだろうか?
不意に、彼女は、ヘッドライトを静かにしばたたかせながら来るタクシーに近づいて、運転手に自分の所番地を叫ぶように告げ、そのうえつけたして言った、
――急いで、急いで。あたしの一大事なんだから」
彼女はこのときはじめて、自分の真の苦悩の姿に面と向いあった。このときまで、あらゆる手段を尽して、彼女がそれを押しのけようとしつづけたにもかかわらず、いまやピエールの姿が、彼女の良心の世界についに浮び出てきた、するとセヴリーヌは気づくのだった、ピエールより先に家へ帰りついて、彼に苦しみを与えないようにすることに比べたら、自分の堕落も恐怖もまるで重要性のないことだと。
自分の部屋へ駆けこんで、彼女はわななきながらつぶやいた、
――もう六時を過ぎている。あともう三十分しかない」
腹だたしげに彼女は脱衣した、数回繰返して、彼女は全身を洗い清めた、皮がむけて痛くなるまで、彼女は顔をこすった。彼女は皮膚までもとり変えたい気持だった。
服も下着もすべて、犯罪のあと始末のように、焼き捨てるため、炉《ろ》に火を焚《た》きたいと思う気持に、彼女はやっと抵抗した。
ピエールは、部屋着姿の彼女を見いだした。彼に接吻されながら、セヴリーヌは、恐怖に凍《こお》りそうな気持で、思い出した、
――頭髪《かみのけ》の始末を忘れていた」と。
彼女は、頭髪《かみのけ》から、はっきりそれとわかるヴィレーヌ街の匂《にお》いが発散するに相違ないと思ったので、ピエールが、ふだんと変りのない声で、
――あなたの支度《したく》はもうじきにできそうだね、僕も急ごう」と言うのを聞いて、彼女はびっくりした。
言われて、彼女は思い出した、晩餐《ばんさん》と芝居見物のために、知り合いの夫婦が早々と迎えに来る約束になっていたことを。しばらく、彼女はこの招待を喜んだ、だが気がつくと、ピエールとふたり肩を並べての帰途が、彼女には耐えられないことに思われた。それに、ふたりで帰ったあとは、ふだんにまさる優しい気持が通う習わしになっているが、それにも今夜は耐えがたかった。ためらいながら、彼女が言った、
――あたし、なんだか気分がすぐれませんの。今朝《けさ》あの辻《つじ》公園で風邪《かぜ》をひいたらしいんですの。今夜は、出たくないわ、でも、あなたはいらっしゃらなければいけませんよ。……お願いしますわ。ヴェルノア夫婦はあんなにあたしたちに親切ですし、それにあなたも今夜の芝居はおもしろそうだとおっしゃっていたし、ごらんになれなかったら、あたしかえってさびしいわよ」
その一夜は、セヴリーヌにとって、長くて無情だった。霊肉二つながら、疲労しきっているくせに、彼女はどうしても寝つけなかった。彼女にはピエールの帰宅が恐ろしかった。まだ彼は、何も心づかずにいるが、帰ってきて、彼女の寝室へ入ってきたら、(彼はいつもそうする)ピエールに知られずにいるこの奇蹟《きせき》が、このさき続くはずがなかった。この悪魔的な一日の名残《なごり》の何ものかが、彼女の上に、彼女のうちに、彼女の周囲に残っていないはずがなかった。一度ならず、セヴリーヌは、あわただしくベッドからはね起き、鏡の前へ行って、自分の顔に、何か特別の皺《しわ》か小斑《あざ》でもできてはいないかとのぞいてみた。この病的な強迫観念に悩みつづけている間に、時間が過ぎた。
最後に、セヴリーヌは、自分の寝室のドアの開く音を聞いた。彼女は眠っているふりをした。だが、彼女の顔がひどくひきつったので、もしピエールがそばへ来てのぞいたら、彼女のこの掛引《カモフラージユ》は見破られるはずだった。さいわい彼は、眠りをさますかとおそれて、音をさせずに出ていった。セヴリーヌが最初に感じたのは一種ものさびしい驚きだった。自分を誰よりもよく知っていてくれる人間に、このような乱れ心を隠すことが、こうも容易なことであったか? 安堵《あんど》とも、つらさとも、両様のこの思いが、いつまでも心から去らなかった。彼女は思った、今のこれは、夜の暗い影のゆえにゆるされた猶予期間にさえすぎないのだと。夜が明けさえしたら、彼女は罰せられるはずだと。ピエールには、彼女をひと目見るだけで、それと気づくはずだと。
――そうなったら、どうしよう……」呼吸困難な病人がするように、彼女は枕にもたれてうめいた。
夫に知れたらどういう結果になるものか、想像さえもできずに、またそのとき、自分が苦しむのは、自分の身の上であるか、それとも夫に与えた苦痛であるか、その識別さえもつかない状態で、セヴリーヌは眼を閉ざした、自分の部屋のこの暗さが、自分の絶望の寸法に合わないかのように。
つぎつぎに心を襲う恐怖とあきらめのこの感情のため、彼女は恥も後悔も感ぜずにいられた。彼女はひたすらに、朝と自分の裁判《さばき》のときの来るのを待った。やがて朝は来たが、何者ももたらしはしなかった。こんな単純な手が、二度と自分を救ってくれるはずはないと思いながらも、セヴリーヌはもう一度眠っている真似《まね》をした。するとまたしてもピエールがそれに欺かれた。
時が経つにつれ、明るい光に助けられて、かすかな希望がセヴリーヌの中に生れだした。彼女はこのときまだ、言いぬけができようとは思ってはいなかったが、言いぬけるように闘おうとする欲望はすでにいだいていた。午前中、ひっきりなしに、彼女は方々へ電話をかけ、昼食や晩餐《ばんさん》に人を招待したり、自分を招待させたり、昼のすべての時間と、夜の時間の一部分に人と会う約束をした。こうして作りあげた時間表を読みかえして、彼女ははじめて安堵《あんど》ができた。こうさえしておけば、今後一週間以上も、彼女が、ピエールと差向いで過す時間はまるでないはずだった。
もちろん、彼は、セヴリーヌが見せるこの歓楽に対する激しい欲求に、一度はびっくりしたが、言い訳をする彼女が、女乞食《おんなこじき》のようなまなざしを見せるので、何に対するせつない哀願ともわからぬまま、彼は彼女に対して武装を解いて、ただあきれるよりほかはなかった。ふたりは毎晩、力の尽き果てたセヴリーヌが、|夜の料亭《レストラン・ド・ニユイ》の椅子の上で居眠りを始めそうになってから、自家《うち》へ帰った。帰るとすぐ、彼女は鈍重な眠気に身をまかせてしまった。そして、翌朝になっても、ぐっすり眠りこけているので、ピエールの顔は見ずにすんだ。昼の時間は、彼女が自ら求めて自分に課したさまざまな用事で消されていった。夜になると、また前夜の疲労が繰返された。
こうして、次第に、セヴリーヌは、自分の不安を、思い出を、すりへらしていった。あの旋風《つむじかぜ》が限りなく遠のいてゆき、彼女がヴィレーヌ街へ行った日のことが、わずかに現実だったという感じを与えるだけの粉末になっていった。この調子で進んだら、やがてまもなく、彼女とピエールとの間に、盾《たて》の必要はなくなると思えた。
ちょうどこのときだ、あまりにも激しい本能で動いている人間が、めったにのがれえない現象が、セヴリーヌの上にも、起ったのは。しばらく不運が続いてひどく損をした賭博《とばく》好きな男が、ようやくその痛手を忘れ、またしても賭博台のことや、カードの模様や、賭けの用語だのを思い出すのと同じく、また、一時探検に疲れた探検家が、急にまた、孤独や奮闘や、広々とした天地の姿を、身にしみて思い出すのと同じく、また、見かけの上では治《なお》ったらしい阿片《あへん》中毒患者が、自分の身近に、あまったるい恐怖といっしょに、阿片の煙がただようと感じだすと同じく、セヴリーヌも、いつか知らぬ間に、ヴィレーヌ街の思い出に、その身を取巻かれていたものだ。禁断の欲望を求める彼女の兄弟たち、彼女の姉妹たち同様、彼女を誘うものは、その欲望の満足ではなかった。彼女が求めるものは、むしろ、その満足を取巻く前味にあった。
マダム・アナイスの顔、シャルロットの見事な乳房、そことはなしに卑下の気持に満ちたあの家《や》の空気、一夜自分の頭髪《かみのけ》にしみこんでいたと信じたあの家《や》の匂《にお》い、そのようなものが執拗《しつよう》に、彼女の肉情の思い出に襲いかかった。最初彼女は嫌悪《けんお》の情にわなないた。ついで彼女は受入れた。ついで彼女はそれを快しとするようになった。ピエールの存在と彼に対する自分の深い愛が、数日間、彼女を守ってくれた。だが、セヴリーヌの中《うち》に記されているその天命、真の運命の烙印《らくいん》は、成就《じようじゆ》されずにはおかない力を持っていた。
馴染客《なじみきやく》の一人を送り出したマダム・アナイスは、客が残した小言《こごと》を、もっともに思った。シャルロットやマチルドと、いっしょに働く女を、もうひとり見つける必要があった。ふたりとも、楽しい女には違いないが、なにしろふたりきりでは、変化に欠けた。それに部屋をひとつ遊ばせておくなんて、もったいないことだ。こうしたことはいちいちみんな承知しているくせに、マダム・アナイスは、いまだに昼顔のかわりを捜す気になれずにいた。あの育ちのよさと、つつましさが、妙に彼女の気に入った。また、ともすると、マダム・アナイスは、あの日、一瞬、ふたりの心を通わせたあのまなざしを、忘れかねるのかもしれなかった。
マチルドとシャルロットのふたりは、裸で一つベッドに休息《やす》んでいた。マチルドの頭髪《かみのけ》は、その肩の皮膚よりも明るかった、シャルロットがやさしい手つきで、友の頭髪《かみのけ》を愛撫《あいぶ》した。そこへ、入ってきて、マダム・アナイスが言った、
――お邪魔しますよ、皆さん、ちょっと、仕事のことで話があるの。あんたたち知らないかしら、誰かもうひとり、ここへ来て働いてもらえる人を」
マチルドがまず、持前のもの怖《お》じしたような様子で、自分は気づかないが、他人が知っている罪を詫《わ》びでもするように、答えた、
――マダムも知ってのとおり、あたし、誰も知りませんのよ。お宅と自家《うち》と、それがあたしの生活の全部ですもの」
――シャルロット、あんたのほうはどう? もとの仲間にでも、誰かないだろうか?」
――それがマダムやりにくいんでしてね。なにしろ、あたしあすこから、お妾《めかけ》になるんだと言って出てきたんですから。もとの仲間に会ったりしても、あたしやっぱりそのつもりの口をきいているもんですから」
マダム・アナイスは、自分に意気地のないのが恥ずかしいという意味の吐息《といき》をついて、そのうえでたずねて言った、
――昼顔は……もう帰ってこないだろうか……あんたたちはそう思うの?」
――だめですとも、もう」肉感的なのび[#「のび」に傍点]をしながら、シャルロットが答えた。
マダム・アナイスが、思案顔に、戸口の方へ、一歩踏みだすと見て、マチルドが呼びとめた。彼女は、受身の曖昧《あいまい》な性質で、空想を働かすことが大好きだった。彼女が言った、
――あの女《ひと》、二度とここへは来ませんね、あたしはそう思いますわ。こんなあたしたちみたいな身分の女《ひと》じゃないもの。あの女《ひと》には何か秘密があるのよ」
――なにが秘密なもんか! 秘密がきいてあきれるよ! あんたときたら、何にでも映画を見るんだもの、ばからしい。あの女には、誰か男があったのさ、それが、あのころ、その男に捨てられたのさ、ところがあとでまた別な男が見つかったのさ、ただそれだけさ」シャルロットが叫ぶようにして言った。
――それにしてはおかしいじゃないの。あの女《ひと》、五時には帰らせてくれと言うんだもの、あの時分あの女に、男のあった証拠でしょう。やっぱり、何か秘密があるんだわ、あの女《ひと》」
マダム・アナイスは、注意深く、これらの言葉を聞いていた。なかば囚《とら》われた女のような生活をしている者に特有の根気のよさで、毎日ほとんど同じ言葉で、この問題が議論されるが、マダム・アナイスは、ふとした言葉の中にでも重要な手引きが見いだせはしないかと、ねらっていた。彼女が静かに言った、
――はっきりしたことは、あたしにもわからないけど、あたしに言わせると、あんたたちはどっちも間違っておいでだよ……。なぜかって……昼顔はまた帰ってくるはずだから。こう言うとシャルロットは笑うが、人を待つ場合、その人が来てくれるまで、ばかみたいに見えるのはしかたがないものね」
彼女のこの予感が、数秒後に、勝鬨《かちどき》をあげた。その日来た最初のひとりが、実にセヴリーヌだった。
――あら、あんたなの、何しに来たの?」マダム・アナイスが、あっさりした冷淡な口調で言った。
セヴリーヌの|顳※[#「需+頁」、unicode986c]《こめかみ》を伝って流れる汗の玉を見ただけで、彼女が、自分の忌わしい悪の誘惑に駆りたてられて、ここへ来るまでに、払った努力が察しられた。努力があまりに激しかったので、ここへ来て呼鈴《ベル》を押してしまうと、それを最後に彼女には、もう何の欲望もなくなってしまった。ところが、マダム・アナイスの冷淡な態度が、かえって彼女のどうでもいいという気持を追い払う役に立った。彼女が、悲惨な天国のような気持で夢想しているこの家への出入りを、彼女に人は禁じようとするのだろうか? もしもそうなら、この飢え、一度は消えたと思ったが、いったん味わった腐肉の美味に刺激され、以前にもまして激しく目ざめてきたこの飢えを、どこでどう満足させたらよいのだろうか?
――あたし……あたし……どうかと思って来てみましたの……」セヴリーヌが口ごもった。
――場所がまだ空いてたら、また来ようと言うんだね? そのあとでまた、手紙一本よこさずに勝手な間だけ、どっかへ行っちゃおうてんだね? ごめんこうむりますよ、ねえさん、あたしには、お前さんみたいにお道楽の勤めをする人間がほしいんじゃありませんよ。それだったら、街《まち》の歩道《トロトワアル》を歩いてたらいいでしょう」
マダム・アナイスのやさしい顔を取戻すためになら、ふだん気位の高いセヴリーヌだが、どんなことでもしたはずだ。彼女の全身が、哀願し、愁訴した、不潔な隠家《かくれが》をよそに求めずにすむように、どうかここから追い出さずにおいてほしいと。この隠家なら彼女はすでに知っていた、すでに彼女はそこの、泥沼のような中に足跡を残してきているのだ。
――あたしお願いしますわ……。どうぞ……。どうぞ」彼女はつぶやいた。
マダム・アナイスが、休息と内証話《ないしよばなし》のあの部屋へ、セヴリーヌを押しこめるようにして連れこんだ、そして言った、
――相手があたしなのが、あんたの幸運だと思いなさいよ。ほかの人だったら、鼻っ先へぴしゃりとドアをたたきつけたでしょうから。あたしにはあんたが気に入ってるの、何だか親みたいな気持がするの、そこがあなたの儲《もう》けなんだが」
彼女は、親身《しんみ》な、なつかしそうな目つきで、セヴリーヌに見入った。
――ねえ、昼顔、ありのままに言ってごらん、ここで何か悪い待遇でも受けたの? 何か気持の悪いことでもあったの?」
いまだに返事をする力のないセヴリーヌは、怖《お》じたように微笑しながら頭を横に振った。事実いま彼女は、そばにあるこの仕事机を、見なれた家具に対するような気持で眺《なが》めていた。帽子を脱ぐ手真似《てまね》をしながら彼女が言った、
――いいですか?」
マダム・アナイスの返事より先に、彼女はそれを戸棚の中へしまった。それではじめて、彼女の額に平和な表情が浮んだ。
――今度帰ってきたからには、まじめに勤めなけりゃいけませんよ」マダム・アナイスがきっぱり言い渡した。
身を護ろうとする激しい感情が、セヴリーヌを動かした。
――ええ、そうします、でも一日おきにしてくださらない……。本当に、それ以上出られないんですから……」彼女は心まずしげに哀願した。しばらく注意深い沈黙を続けたあとでマダム・アナイスが言った、
――よござんす。どうせ近いうちに、あんたのほうから、毎日来たいと言いだすにきまっているから」
ついで、セヴリーヌが、びっくりするほど陽気な声をはりあげて、呼んだ、
――シャルロット、マチルド、昼顔が来ましたよ」
ふたりの女たちは、半信半疑な気持で、裸のまま駆けてきた。女たちが驚いているひまに、セヴリーヌは、自分の膝《ひざ》がわなないているのに気づいた。この女たちのあらわな肉体、ぴったりとくっつき合った彼女たちの皮膚、淫《みだ》らなほどちがうその肌《はだ》の色合、それらのものがある快い甘さとなって、彼女の身にしみた。彼女がしぶしぶたずねて言った、
――風邪《かぜ》をひかないこと」
――なれているわよ。それに家《うち》の中にはまだ火が入れてあるんだし。そこへいくとマダム・アナイスは気前がいいもの」シャルロットが答えた。
どっちつかずの微笑が白い歯を見せた。彼女がなおつけたして言った、
――あんたもためしてみない。そりゃいい気持よ。ねえ、マチルド?」
言い終らぬうちに、彼女はセヴリーヌの着衣をはがしはじめていた。セヴリーヌは、抵抗もしなかった。器用な熱い手が、彼女の着衣を全部ひきはがしたとき、彼女は目のくらむような不安な気持になった。
ついで起った沈黙が、彼女を正気に呼び返した。セヴリーヌをとりまいて彼女に見入っている三人の女たちの、職業上女の裸体は見なれていたが、それがいま、いずれも不思議に感動して、何かきまりの悪そうな様子さえあった。すっきりして、健康で、堅肉《かたじし》のこの肉体には、彼女たちが見てさえあまりに処女的な、あまりに高貴なものがあった。
マダム・アナイスが最初に口を開いた。彼女の心の中には、自分の店に対する矜《ほこ》りと、利害の打算が半々ぐらいにあったが、今やこのふたつは完全に満足した。
――これ以上立派な肉体《からだ》ってありはしない」彼女が敬意にみちて言った。
シャルロットが、力のこもった唇《くちびる》で、セヴリーヌの肩に接吻した。ちょうどそのとき、入口の呼鈴《よびりん》が鳴った。セヴリーヌが青ざめた。幸い客は、シャルロットの馴染《なじみ》だった。
――あんたも、くつろいでいたいらしいわね。あたしは用があるから、マチルドにお部屋へ案内させますよ。呼鈴が鳴ったら、着物を着にここへいらっしゃいね。ちゃんとお行儀よくしなくてはいけないから」マダム・アナイスが言った。
昼顔に与えられた部屋は、彼女がこの前ムッシュー・アドルフを知ったあの部屋より、もっと小さな部屋だった。ただ小さいだけで、その他は全部同じだった。地味な色の壁紙、窓掛にも安楽椅子にも羽根|布団《ぶとん》にも黒に近いほどの同じ調子の赤、そして屏風《びようぶ》のかげに、同じトイレットの道具。
――もう燈火《あかり》がいるわね」セヴリーヌがつぶやいた。
彼女は燈火はつけずに窓の前へ行った。ヴィレーヌ街は、古めかしい街だった。でもそこには、気楽そうな男女が歩いていた。うしろからついてきたマチルドが遠慮がちにたずねた、
――昼顔さん、あんた、この家《うち》が、おつらいの?」
セヴリーヌはおどろいて、ふり返った。彼女は、この同僚が、そばにいることさえ忘れていた。そして、どういう理由ともわからずに、この力なげな声、今では着物を着ているので、かえって動きのない感じを与える、この部屋の中の影よりわずかに明るい影が、無限のさびしさを与えた。
セヴリーヌの驚きの意味を誤解したマチルドが、あわてて言った、
――いいえ! あたし、訳なんかおたずねしたんじゃないんですのよ。各自《てんで》に秘密があるはずですもの。でも、あたしには秘密がないんですの。なぜって、リュシアンは自分でもちゃんと知っているんですから――あたしの夫ですの、リュシアンって。あたしが悪いんでもなく、あの人が悪いんでもありませんわ。あの人病気なんですの、田舎《いなか》の空気があの人には必要なんですの。だから、ねえ、そうでしょう?」
彼女は、自分に話が続けられるような返事を待ったが、それはむだだった。それで、彼女はつぶやいた、
――身の上話なんかして、うるさかったでしょう、ごめんなさいね。マダム・アナイスもシャルロットも、あたしのことを、ちとどうかしているって言うんですが、どうやら本当らしいですわ。でも、あたし、言わずにいられませんの……。それが、あなたに言うくらいならまだしもですが、ここの客にまでいちいち言ってしまうんですの……」
≪たった一人の男を愛している自分が、なぜ、誰にでも身を任せなければならないのか、この事実を説明してくれる人が、このお友達はほしいのだ≫とセヴリーヌは、よそごとのように思った。そんな問題は、彼女にはまるで興味がなかった。この哀れな女の存在をできのわるい社会組織の罪として説明するのは造作ないことだ。ところが、彼女自身はどうだ、誰が、こんな場所にいる彼女を説明する鍵《かぎ》を与ええよう。金もあり、夫ピエールを愛してもいる彼女が、こんなところへ来ている理由を?
――シャルロットはどうなの?」突然、セヴリーヌがたずねた。
――あの人! あの人は運がいいんだわ。あの人、マネキンをしてたんですの、お金が余計にとれるので、ここへ来たんですの。それにあの人、どの男とでも楽しみなんですし、あたしとも、楽しむんですものね。あたし、なんだかあんなこといやなんですけれど、いやと言えない性分でしょう。だから言うなりにしてやりますわ」
彼女はしばらく言葉をとぎらせた。ついで、ためらいながら、
――あなたはお気の毒ね、昼顔さん。こないだの様子をあたし見てましたの……」
部屋の中には、暮れる日の暗さばかりでない暗さがただよった。そして赤い斑点《しみ》がすべて夜の斑点のように見えた。この暗さのために、マチルドには、セヴリーヌの顔を包む激しい怒りの表情が見えなかった。だが、憎しみに満ちた声が、彼女を震えあがらせた、
――黙ってあっちへ行ってらっしゃい。あなたにそんなこと言う権利なんかありません」
セヴリーヌは全身の意志の力を集めて、ようやく泣きだしそうな自分をこらえた。急に彼女はマチルドを抱《だ》き寄せると、命令するような調子で言った、
――そんな心配しなくってもいいわよ……。あたし少々気が変なんだから。それより、時間のある間に、あなた、シャルロットにどうしてやるのかあたしに見せてよ」
≪なぜなの? なぜなの?≫セヴリーヌは堅《かた》く食いしばった歯の間で繰返した。彼女の歯は、わが家へ帰るために拾ったタクシーの動揺にも解けなかった。なんで自分は、喜びもない売淫《ばいいん》なんかしているのだろうか? 彼女は、いやな気持で、マチルドから与えられたあの受身の接触と、あの哀れな女の涙と、受入れがたいものに思われて狂おしい気持にさえ自分をしたマチルドの自分に対する敬意を、思い出した。そのあとで、ひとりの老人に接したが、そのときには彼女は、ムッシュー・アドルフの愛撫《あいぶ》を受入れさせた、自分を堕落させることによって与えられる戦慄《せんりつ》さえも味わえなかった。ただ一瞬、彼女は何と呼ぶべきか考えようとさえしないある快感に身を撫《な》でられたときがあったが、それはマダム・アナイスが、わずかばかりの彼女の肉体の代償金を、折半して渡してくれたその瞬間だった。だがこの快感とて、これから彼女が刃向《はむか》おうとしているピエールの視線に対する危険に比べて、なんと高価な代償だろうか。
今度のセヴリーヌは、先のときのような無意味な逃避は試みなかった。先の経験が、彼女の行為を指導した。だが彼女の恐怖に変りはなかった。わが家が近づくにつれて、彼女はいよいよ恐怖のとらわれとなった。だがまたセヴリーヌには、今のこの自分の懊悩《おうのう》のほうが、自分の愚かな、恐ろしい、解釈のしようもない頽廃《たいはい》の理由を捕えようとする懊悩よりはいくぶん気楽だった、あの解決の見込みのない探索を続けていたら、やがて気が狂うはずだから。さいわい、今の彼女の悩みは、自分の唯一の宝を護りつづけることだった。そして彼女には、いかにしてそれを護り通すべきか、その方法がわかっているような気がした。
体《からだ》を洗い清めたうえで、彼女は着衣した。彼女には、偽る習慣がほとんどなかった、彼女の性格も、偽るにはきわめて不適当だった。それなのに、いま、自己保存の本能が、すでに一度用いた手段は、この際さくべきだと教えた。そのため、彼女はピエールに、外出しようとは誘わなかった。そして、どうやら晩餐《ばんさん》の時刻まで、何ごともない様子を装うことができた。ところが、なんとしても、食物が咽喉《のど》へ通らなかった。心配してたずねるピエールの、やさしさに満ちた声が、セヴリーヌには、あまりに強い逆作用だった。彼女は答えかねた。彼女はまだ悪の世界にあって、あまりにも初心《うぶ》なので、心にない言葉も身ぶりもできなかった、といってまた、二週間前にしたように、自分の動物的な直覚に任せて、でたらめな返事をするには、あまりに良心がありすぎた。そのため、彼女の身ぶりのひとつひとつには、当惑が、彼女の言葉のひとつひとつには、罪あるものの狼狽《ろうばい》が、現われた。
おぼろげな悩みのかげが、ピエールの顔に浮んだ。彼はまだ真の不安は感じていなかったが、知覚はすでに、疑いから遠くないあの一種の監視のごときものに集中されていた。セヴリーヌはそれと見てとって、あわててしまった。さいわい、食事は終っていた。
――あなた、お仕事をなさいます?」彼女がたずねた。
――うん。あなたも来ますか?」ピエールが神経質に答えた。
セヴリーヌは、うっかり忘れていた、ピエールが報告を書くときは、いつも彼女が、何か本を読んで、夫の書斎にいる習慣になっているのを。夫の幸福に注意しようと決心したあの朝以来、彼女が望んで定めたこれは習慣だった。
美しい、純情な、未来の幸福に満ちたあの暁の思い出が、いま、セヴリーヌの心にはせつなかった。だが彼女は、それを避けることもあえてなしえなかった。いつもの安楽椅子に腰をおろすと同時に、彼女は気づいた、ひとりでいられるのだったらどんなへまなかこつけ[#「かこつけ」に傍点]も、この偽りの親愛感よりはましだと。緊張したこの部屋の空気、書物の高貴な生命、地味な灯《ほ》かげ、ふだんよりいかついピエールの顔つき――これらのものと、いままたしても彼女の心にありありと浮び出る、あのヴィレーヌ街から持ち帰った思い出が、ここで対決するのに、どうして耐えることができよう? セヴリーヌが受けるその拷問《ごうもん》の苦しみが、あまりに激しかったので、彼女は、夫の眼がときどき自分に注がれるのに、まるで気づかなかった。不意に、夫が立ちあがる音を、彼女は聞きつけた。彼女はあわてて、手にした本に眼をやって、真っ青になった。本のページが逆《さか》さだった。彼女にはそれを置きなおす間《ま》がなかった。ピエールはそれに気がついたとも何とも言わなかった。彼は、セヴリーヌが口ごもる言い訳のさきを越して言った、
――あんたは、ひとりで夢想がしたいんだ。やすんだほうがよかろう」
セヴリーヌは、このときほど夫の権能を感じたことはなかった。彼女は怖《お》じるような服従の気持で立ちあがった。
ピエールはしばらく待って、――彼には自分の声を確かめる必要があったのだ――やがてたずねて言った、
――ここで、≪おやすみ≫の接吻をしてもかまわないだろうか?」
この言葉が、セヴリーヌを、自失させた。何らかの理由が、いつもピエールがするように、彼女が眠っているかどうかを確かめに来るのを、今夜さまたげたら、彼女は大いに喜んだはずだが、思いがけなく、今こうして、彼のほうからこのしきたりをよそうと言いだされてみると、驚かずにはいられなかった。どうやら、彼が事実を予感しているらしかった。ともすれば彼はすでに知っているのかもしれなかった、妻が……。
彼女はベッドの上に打倒れ、唇《くちびる》に上ってくる悲鳴を耐えるために、枕《まくら》を噛《か》んだ。ついで、彼女の絶望と同じほど大きく、同じほど激しい祈願が、彼女の身内《みうち》にひろがった。それは、今度だけ、これを最後にもう一度だけ助かりたいという祈願だった。そうさえしたら、あれらの醜悪な経験、あれらの気違いじみた経験も、すべてもうやめますと誓いたい気持だった。
この気持が、いかにも激しく、全身的だったので、かえって彼女は落着くことができた。
彼女は脱衣にかかった。自分の裸体が現われはじめると、彼女の記憶の中に、おぼろげな二つの肉体の線が浮び出した。それが与える彼女の快感は、最初、純潔だった。それなのに、それがマチルドとシャルロットの肉体の淫《みだ》らな線だと、セヴリーヌに気がついたその瞬間から、その快感は不純なものになった。彼女はこの快感には、ほんの一瞬間しか身を任せなかった。そのくせ、とにかく身を任せたという事実が、彼女が先に、運命の方向を変えようと約束したことがらが、むだだと思う気持を与えた。彼女は、その気持が認めたくないのと、また他方、自分の精神を狂わせて、ピエールの助力を求めるために、すべてを告白してしまいそうな、心の中の争いをさけるために、病気のあいだ用いなれた催眠剤を飲んだ。
薬によって与えられた睡眠は凶暴だったが、長くは続かなかった。夜があけると同時に目がさめた。頭が痛かった。彼女の頭の働きは、風にもてあそばれる木の葉のように力なかった。重苦しい無気力の状態からようやく治りかけたとき、ピエールが部屋へ入ってきた。自分の置かれている位置の記憶を取戻したちょうどその瞬間に起ったこの出現が、受刑人のそれのような驚きの気持で、セヴリーヌの瞳《ひとみ》をぽかんとさせた。このまなざしが、それまで無言のピエールに、口を切る決心をさせた。
――僕らふたりの間に、こんな状態を続けることはよろしくない。あんたが僕を恐れるのが、僕には見るに忍びない」彼が言った。
彼女はまばたきもしないで、じっと彼を見つめていた。彼が早口に言いつづけた、
――こんなことをするには、あんたって正直すぎる人なんだ。どうしたというんです。いったい? みんな僕に言ったらいいじゃないですか。どんなことだって、現在のあなたの態度よりは、僕に耐えやすいはずです。だから、言ってくれるほうがかえって僕を助けることになるんだ……。手伝ってあげるから言ってしまいなさい。ねえ……もしかしたら、――僕がふだんと同じように優しく話していることはあんたにもわかるでしょう、ところが、僕は、幾晩もそのことを考えて明かした。――もしかしたら、あんたは誰か他の男を愛しているのかもしれない。万一誰かを愛しているとしても、あんたはまだ僕を裏切りはしなかったはずだ、そうだと僕は信じる。裏切るなんて、僕らふたりの間で、なんというばからしい言葉だろう。とにかく、あんたは、誰か他の男に心を引かれているんだ。そして苦しんでいるんだ……」
裂《さ》くような不思議な響きの笑いが、ピエールに先を言わせなかった。それは、やがて、狂い立つ抗議の言葉に変った。
――ほかの男ですって!……あなたにお考えになれましたの、そんなことが?……。あたしあなたを愛していますわ、あたしいつになっても、あなた以外の男なんか愛せはしませんわ……可愛い人、あたしの力のあなた……。あたし、あなたのものですわ……。あたしにだって神経質でいらいらしていることだってあるはずですわ……。あたしはあなたを幸福にするため、命がけですわ……」
セヴリーヌの目から、混乱した表情が消えた。うるみがちに輝いて、彼女のまなざしが、自分に対する真心からの愛慕に満ちあふれているのを見て、ピエールは、自分の想像があやまっていたとはっきり思い知った。すると、すべてが明瞭《めいりよう》に感じられた。セヴリーヌの言うことが正しかった。彼女のように、病気で一度死の近くまで行った人間が、まるで別人のようになって、生きかえってきたとしても、なにも驚くことはないはずだ。彼は自分が愚かだったと思った、そう思って彼は幸福だった。
――病院の玄関で、僕を待っていてくれたときの、あんたの顔を、僕は思い出しさえしたらいいんだ」彼が言った。
――あたし、毎日行ってあげますわ、本当よ……、それだけじゃないの……ちょっと待ってね……すぐに支度《したく》して、病院まで送って行ってあげますから」
彼女のこの決心も、また、病院へ迎えに来るその決心も、どれも、ひるがえさせる力が彼にはなかった。彼女はまた、毎日午後から、彼が手術をしに行く医院へも送っていった。手術がすんで出てくると、彼女は待合室で待っていた。
セヴリーヌは、ピエールの召使になりたいほどの気持だった、そのくせ彼女は、妻のかくまで深い熱情に感動して、情欲の動きを見せる場合、どうしてもベッドへ招じ入れる気にはなれないのだ。
こうして、しばらくの間、美しくピエールの顔をひきつらせたその肉情を、セヴリーヌは、眠られない夜の夢想の中で、夜の斑点《しみ》のように見えるあの赤い斑点と暗色の壁紙とでできた淫《みだ》らな背景の上に動く、醜悪な男たちの顔に置きかえて、眺《なが》め入るのだった。彼女は、それらの顔を、同じ日に見たいとは思わなかった、だが彼女は知っていた、やがて、それがやみがたい欲求になるだろうと。彼女がもう一度約束を破ったら、マダム・アナイスの家の扉《とびら》は、永久に彼女に閉ざされてしまうはずだった。自分の悲惨きわまる淫乱《いんらん》の餌食《えじき》を断たれはしないかと恐れる心が、今日も、ピエールを療養所の入口まで送り届けた彼女を駆りたてて、マダム・アナイスの家へと走らせた。
このころから、セヴリーヌの、本当の中毒が始まった。快楽よりは、多く習慣性によるものだった。このごろでは、性急な、制御しがたい気持に追われて、彼女はヴィレーヌ街へ放りこまれるのではなかった。彼女はむしろ、呑気《のんき》な気持で、そこへ送られていった。それは、彼女にほとんど反省の余地を与えない気持だった。このごろの彼女は、最初願ったような喜びは持たなかったが、でも彼女には、暖かすぎるあの家へ、あやしげな自分の部屋へ入ってゆくのが楽しかった。彼女は、かすかな子守唄《こもりうた》でも聞くような気持で、いやだとも思わずに、マダム・アナイスと二人の同僚の長たらしいむだ話に耳を貸した。彼女も世間話に仲間入りした。自分を取巻く三人の女たちの好奇心を満足させるために、彼女は、マチルド説とシャルロット説の双方にあてはまるような、自分の過去を発見した。それによれば、彼女はまだ娘のころ、一人の男に迷ったのだった。彼女はその男を深く愛していた。男はやがて彼女を捨てた。別の男が現在彼女を世話しているが、先の男ほど立派な男ではないが、それでも彼女は大切に仕えていた。マダム・アナイスのために捧《ささ》げる時間の少ないのも、彼女が用心深くしているのも、実はみんなこのためだった。
このころ、昼顔はなかなか忙しかった。マダム・アナイスの家は、おもに馴染《なじみ》の客を相手に商売していた。どの客もみんな、新玉を競って買った。セヴリーヌには、この人気が、いやでもなければ、うれしくもなかった。何度か彼女は、不屈な獣のような自分の最初のころの、あの恐怖心を、もう一度味わいたいと思った。だがそれは、ときどき来て遊んでゆくムッシュー・アドルフでさえ、二度と与えることはできなかった。むしろ滑稽《こつけい》なようなこの男が、彼女にとって、あんなにまで重要だったことを思い浮べて、彼女はむしろ驚きを感じた。
かかる間にも、彼女はいつとはなしに、今の彼女の職業上の技巧を、その最も秘められた技法までも、学んでしまった。この修業が、彼女に与える腹立ちと、自分が不潔な肉の道具と化《な》りはてたという気持とで、わずかに蹂躪《じゆうりん》されることの快感を与えうるにすぎなかった。ところが、性交上の乱行は、当事者間の相互的な情熱がそれを無窮の高さに昇華しない場合、じきに行きづまってしまう。セヴリーヌもこの事実に出会って、またもとの不感症の女になっていた。彼女の羞恥心《しゆうちしん》は擦《す》りへってしまっていた。彼女の恐怖心も同様だった。今や彼女は、数人の男の目の前で、一人の男に身を任せることもできた。シャルロットか、マチルドか、ときには二人といっしょに、どこがおもしろいやらわかりかねるような曲芸に、参加することも平気だった。セヴリーヌにとっては、何ごともすべて平気だった。ただひとつ、マダム・アナイスの声に、口がかかったと呼ばれて、おとなしく進み出るあのときのなまぬるい怯《おび》えた気持だけがまだ残っていた。このとき、彼女が快く感じるのは、実は自分の柔順さを楽しむことにほかならなかった。
自分が、長い間、あんなに強くいだいていた矜《ほこ》りを思い出すと、セヴリーヌは、自分の内部に一つ空虚な場所ができたような気がした。ところが、この空虚が、ピエールの心を悩ました。彼には、以前セヴリーヌといっしょに生活することによって与えられたあの気やすさ、あの快適さが、どうしても見いだしえなかった。自分の一生をも破壊しかねまじき重大な疑いが、理由《いわれ》ないことだったと知ったその喜びのゆえに、しばらくは自分の洞察力を眠らせるに成功はしたものの、やがて、彼はセヴリーヌのその後の、ただならぬ卑下の態度が、いつまでもとれないのに驚かぬわけにはゆかなかった。彼女の機嫌《きげん》の激しい変りようだけなら、神経衰弱の結果だと説明もできようが、あのものに怖《お》じたような憚《はばか》るようなやさしさ、あのつとめて仕えようとしているあわただしさ、あの自分の生活をすべてなくした生活態度、彼女のような若い女に、それも、ひと月ほど前まで、その意志の強さと、持ち前のその矜持《きようじ》のゆえに、彼自身の心臓と同じほど、彼にとって、親密だった女《ひと》に、それはありうべきことではなかった。
ピエールの心労も、なんらもっともらしい仮想を捕えることはできなかった。今では彼は、セヴリーヌの自分に対する愛を疑うこともできなかった。彼がこの愛を、今ほど信じたことはかつてないことだった。だが今におよんで、彼の不安を増長させるものは、これほど自分が信じている妻の愛情が、何の喜びも自分に与えない事実だった。ときどき、それも、自分にも気のつかないほど漠然《ばくぜん》と、彼は思い出した、彼が最初に妻の狼狽《ろうばい》を見たあの日のこと、自分にアンリエットが源氏屋へ出入りするときかせたあの日のことを。思いがそこに向うと気づくと、彼はその方向の探索を思いとどまった。セヴリーヌという人間は、どう考えても、猥褻《わいせつ》な空想、それもあの種のいやしい類《たぐ》いの空想に、心を動かされるような女ではないと彼には信じられたので。
こうして、ピエールは悩みつづけた。そして、毎朝、彼は、セヴリーヌの顔に、自分の幸福に必要なあの権威を見いだしたいと願った。それなのに、彼が毎朝見いだすものは、ひたすら彼の希望に従おうと汲々《きゆうきゆう》としたおとなしい女だった。セヴリーヌにもまた、自分の愛が、彼女が求めるものとは反対な、屈従的なものになっていることに気づいた。だが彼女には、どうすることもできなかった。彼女は自分の落ちこんだどん底から、ピエールを眺《なが》めた。すると彼女の目に、彼がおよびもつかぬほど高貴なものに思われた。それと同時に彼が彼女にとって、いよいよ愛《いと》しいものになりまさった。以前の自分の清潔さ、若さ、(彼女は今ではひどく自分が年老いたように感じていた)それらを、セヴリーヌは、敬虔《けいけん》に、夫のうちに愛した。彼を深く愛すれば愛するほど、彼女には、自分のゆえに夫が悩んだり、さいなまれたりしているのを見るのがつらかった。
自分のこの出口のない立場に対する忘却を、セヴリーヌは、わずかにヴィレーヌ街の家にあるときにだけ見いだした。マダム・アナイスの家の戸口を一歩またぐと、ピエールの姿が心から消え失せるのだった。これが彼に対する彼女の愛情の徴《しるし》だった。この同じ愛情が、耐えがたい苦悩となって彼女を駆りたて、今では、一週三回ではなしに、毎日マダム・アナイスの家へと導いた。
連日の売淫《ばいいん》は、疲労と哀愁以外の何ものも彼女に与えなかった。さて、そこからわが家へ帰ると、彼女は夫の苦悩に直面した。間断のないショックに疲れて、セヴリーヌは、いまでは行きなれた河岸《かし》ぞいの街を通りながら、セーヌ河の水の冷たさが、はたしていつまで、自分がいつか半途でやめたあの身投げの身ぶりを、さまたげうるかと、一度ならず思ったものだ。今日まで何の喜びももたらさない、彼女のこの殉難《じゆんなん》に、いつまでもその報酬が与えられないようなら、あるいは、舟子《かこ》たちは、彼女の溺死体《できしたい》を川から引上げるようなことになるかもしれなかった。
その報酬は、ある夕《ゆうべ》、またしても、セヴリーヌが、その身をけがし、またしても求めるものを得られずに落胆しきって、マダム・アナイスにさようならをしようと支度《したく》をしている最中に、彼女に届けられた。呼鈴《よびりん》の音が、帽子入れの戸棚《とだな》をあけようとする彼女の身ぶりを中止させた。マダム・アナイスが、呼んだその声の調子で、三人の女たちは、自分たちの課せられようとしているつとめ[#「つとめ」に傍点]が楽しくないものだと知った。女たちの予想に誤りはなかった。彼女たちを待っていた男は、酩酊《めいてい》していた。市場《いちば》に働く男たちが着るブラウスを着て、男は自分の泥まみれの靴の先と、いたく気に入ったらしい部屋の中を見比べていた。大きな両手は、膝《ひざ》の上に乗っていた。
――その娘《こ》と、そいから、ラム一杯」昼顔の方へ向けて、顎《あご》でしゃくるような身ぶりをしながら、その男が言った。
男が酒を飲んでいる間に、セヴリーヌは脱衣した。彼女の動作を、無言のままで男は眺めていた。ひと言も発せずに、男は彼女を所有した。この男にあっては、すべてが、普通の男より分厚にできていた。すべてが、眼の球までが。それなのにセヴリーヌは、はからずもこの男の中に、あの粗野な熱情と、あの獣的な淫蕩《いんとう》を見いだして、呻《うめ》き声さえたてた。それは何のうめきとも、自分も知らないうめきだった。今、飽きずに彼女のうちにその満足を求めつづけているこの男の情欲は、上品な、細心なそれではなく、いつぞや彼女を追いかけて、このベッドに投げこんだ、あの三人の男たちのそれだった。袋町でみたあの男、淫《みだ》りがましい首つきのあの男、セーヌ河岸で見たあの男、あの三人の男たちが、この男に乗りうつって、その体重で、彼女を圧《お》しつぶし、その節くれだった手足で、彼女を引裂くばかりに攻めさいなんでいた。セヴリーヌは、かつて知らないわななきが、身内を走ると感じた。驚異と恐怖の情が、彼女の顔に現われた。彼女はかすかに歯ぎしりした。ついで、急に、彼女は平和な、若々しい、幸福な表情になった。この事実を前にしては、現に彼女を餌食《えじき》にしているこの男以外の者なら、誰だってびっくりしたはずだ。
それなのに、男は、ベッド脇《わき》のテーブルに、ぼろぼろになった紙幣を置いて出ていった。
セヴリーヌはいつまでも、横になっていた。彼女は、緊急な義務が戸外で自分を呼んでいると知っていた。でもいま、彼女は気にしなかった。彼女には、今後自分に恐ろしいものは何ひとつないような気がした。彼女はいま、誰も知ることのできない宝物を手に入れたのだ。彼女はついに恐ろしい自分の駆け足の到着点に達していた。しかもこの到着たるや、同時にまた出発だった。何ものにも比べがたい高い調子で彼女を揺すぶったあの肉体の喜び以上に、彼女の精神的喜びは大きかった。先の病後の時期以来、今日までの彼女の行動がすべてむだなあがきに終っていたので、これまでセヴリーヌには、気違い沙汰《ざた》としか思えなかった行動のすべてが、いまや正当化されていた。はじめて彼女は、めくらめっぽうに捜し求めていたそのものを獲得できた。こんな地獄に身をおとすという高価な代償を払って、ようやく自分のものになったこの勝利が、いま彼女を霊妙な大きな矜《ほこ》りで酔わせ、ぽっとさせていた。
シャルロットが、同情して、
――あの畜生みたいな男の相手をして、さぞ困ったでしょう?」とたずねても、セヴリーヌは答えずに、かえって、熱っぽい笑いを見せた。アナイスの家の女たちは驚いてお互いに顔を見合せた。彼女たちは今、昼顔が、そのときまで、一度も笑ったことのないのに気づいた。
ピエールもまた、その同じ日の夕方、セヴリーヌに驚かされた。
――田舎《いなか》へ行くのよ、これから。さあ早く自動車を呼んでください」声がいかにもうれしげなので、とうてい反対なぞは許されなかった。
セヴリーヌは自分の感覚に与えられたあの啓示の、構成分子を究《きわ》めようとはしなかった。彼女は、そんな検査をして、自分の発見の完璧《かんぺき》性を傷つけるに忍びなかった。彼女は、自分を撃ったあの絶妙な電光が、どうしたらもう一度繰返されるかとさえ考えなかった。自分の下腹部が、あの絶妙なものを秘めていると知ったいまでは、どうしても、今後それがほとばしりつづけるものとしか信じられなかった。それなのに、その後数日の間に、昼顔を選んだ客のどの一人も、彼女を喜ばすことはできなかった。セヴリーヌは、せっかく一度|獲《とら》えたのに、またしても逃げてしまったあの喜びを、熱心に、せっかちに追いかけるのだが、ついにだめだった。彼女は気づいた、自分が喜びを感じるためには、一種不思議な気候が必要なのだと、そうとわかってみても、彼女にはどうしてもその気候を作りだすことができなかった。こうした悩みの間に、やがて彼女が自分の感覚にひそむ秘密を究《きわ》めるその日が来た。
ある日の昼さがり、マダム・アナイスの家に、包みを小脇《こわき》にかかえた大柄な若者が現われた。
――こいつあ可愛くって、手離せないんだ」入ってくると若者はいきなりそう言った。
それらの音綴《シラブル》が百の異なる意味も表わしうるわけなのに、たったひとつの意味に用いられているのが不思議でたまらないとでも言うように、また、それらの音綴が作りだす言葉を、はじめて知ったのでおもしろくってたまらないとでも言うように、彼は美しい声で、一つ一つの音綴をはっきり発音した。
とかく女にはありがちだが、マダム・アナイスも、皮肉が嫌《きら》いだ。ところが、この若者の皮肉は少しもいやでなかった。理由は、そこに無限の可愛らしさが含まれているからだ。おまけに、その若者は、華奢《きやしや》で、肩幅がゆたかで、好みのいい服装《なり》をして、利口そうな、やさしげな、子供っぽい顔をしていた。
――女たちをよこしましょうね?」マダム・アナイスがたずねた。
――さしあたり、そうお願いするのが順序でしょうな。僕の名はアンドレってんだと、皆に言っといてくださいよ。これはぜひお願いします。なぜって、女たちは僕とうちとけてものを言うことになるはずですから。ところで、名前を知り合ってうちとけるということは、仲よしになるということですからな。そいから、これも女たちに言っといてくださいよ。つまり、ご連中には、醜かったり、十人並の器量だったりする資格はまるでないんだと。なぜってマダム、僕はこの家が気に入ってきたんじゃないんですぞ。目を閉じて、怪しげな広告欄を指で突いて、突き当てたんで来たというわけ、つまり偶然が僕をここへよこしたんです。ところが、この偶然たるや、決して人をだまさない……」
マダム・アナイスが、笑いながら若者の言葉をさえぎって、
――そんな優しい顔でなかったら、あたし、あなたを恐《こわ》がるかもしれないわ」と言った。
マチルドとシャルロットのふたりは、この日この若者といっしょに過した時間を、長くその思い出にとどめたはずだ。アンドレの口をついて出る言葉には、そのひとつひとつに軽妙なおもしろさがあった。彼女たちには、それはわかりかねたが、そのくせ、それが、彼女たちより高級な知能のためのものだとだけは感じられた。そのうえこの若者が、彼女たちを、歓楽の道具のようにして用いることをせずに、自分の最上のものを惜しまず与えるという事実が、申し訳ないと思わせるほど深く女たちを喜ばせた。
セヴリーヌだけが、この長広舌に全然無感覚だった。そのくせ、彼女にだけ、若者の言葉のおもしろさも、洒脱《しやだつ》さも本当に理解できるのだ。マチルドまでが、セヴリーヌの冷淡なのに驚いて、耳もとに口をよせて言った、
――もう少し親切にしておあげなさいよ。こんな人ってめったに来ないからさ」
アンドレは、マチルドが何かほしいのに、言いだしかねているのだと誤解した。それで、言いだした、
――皆さんは、何にも僕におねだりしませんな。この事実は僕にも大いにうれしいです。吝嗇《しみつたれ》で言うんじゃなく、その思いやりがうれしい。僕はどんな金満家になっても、吝嗇《しみつたれ》にはなりたくはないです。ところが、今日は、僕の懐中にいささかながらお金がある、そこで、僕はひとつ、皆さんといっしょに一等高価な葡萄酒《ぶどうしゆ》を飲もうと思うんですが、いかがです」
マダム・アナイスが、女たちを見回した、すると同じような遠慮が皆の目の中にうかがわれた。
――ありがとう」とアンドレが言った、うわべ以上に心の中で深く感動して。「では、金はよそで使えとこう言うんですな? それとも僕の最初の著書のために乾杯してくれますか?」
――あんたが本を書くの!」信じがたいという口調で、シャルロットが叫んで言った、書店に並ぶ著者の名を見るたび、彼女は、本を書いたりする男って、どんな人間だろうかと思うからだった。
アンドレは、マントルピースの上に置いた包みの紐《ひも》を解いた。中には同じ標題の本が五冊はいっていた。
――あら本当だわよ、アンドレ・ミロってあんたなのね?」シャルロットが言った。
アンドレは、いかにもうれしそうに微笑《につこり》した。それで、かえって彼はうれしそうな真似《まね》をしているように見えた。
――あたし、ちっとも知らなかったわ。一冊くださらない」シャルロットが初々《ういうい》しく言った。
――やってもいいが――五冊ともみんな初版本なんでね」
――初版本だとどうなの、あんた?」
さすがにアンドレも、売りたいのだと言ってしまう勇気はなかった。売りものの女の唇《くちびる》から出る、ふだんの死んだ言葉とは似ない、やさしい真実の調子が彼の心を動かした。彼は一冊をシャルロットに差出した。彼は、マチルドの、内気なまなざしを見てとった。彼はそれにも耐えられなかった、マチルドに本を渡してしまうと、今度は、マダム・アナイスとセヴリーヌをないがしろにするようで、また気になった。
彼はうなずきながら、たった一冊自分に残った本を眺《なが》めていたが、やがてそれをポケットに収め、四人の女たちのために、それぞれ親切な献詞を書いて渡した。
シャンパンが運ばれた。マダム・アナイスの家で、こんなに陽気に、こんなに無邪気に、人が酒を楽しむのははじめてだった。
せっかくのおりに、呼鈴が鳴った。困ったらしいさびしそうな様子で、シャルロットとマチルドは首をたれた。
――あけないわけにもゆかないわね」マダム・アナイスが言い訳のように言った。
急にしんみりしたのに驚いたアンドレは、――彼には、自分がここの人たちのつつましやかな魂に、自分がもたらした無慙《むざん》な慰安の意味を了解できなかった――マチルドとシャルロットとセヴリーヌを、順に眺めた。最後のセヴリーヌの眼だけが、ほっとしたように輝いて、喜びの表情を見せていた。
――とにかく、あなたは僕といっしょに残ってくださいね」アンドレが言った。
これを聞いた昼顔は、どれほど尊いものをくれると言われても、自分にはこの瀟洒《しようしや》な若者の腕にかかえられるのはいやだと感じた。彼女の、ささやきが低かったので、彼以外だれもその言葉を聞いたものはなかった、
――すみませんが、あたしはかんべんなすってね」
動きの多いアンドレの顔を、顫動《わななき》が走った。あとになって、彼は何度も考えてみた、源氏名で呼ばれる女には不似あいなつつましさで言われた、この嘆願の言葉を。だが、それを耳にした瞬間には、彼はほんのわずかにうなずいて、やがて、シャルロットの方へ向き直った。彼女は情熱をこめて、彼に接吻した。
マダム・アナイスがセヴリーヌに言った、
――運がなかったわね、かわいそうに。あたしはまたてっきり、あんたを名ざしするだろうと思っていたのさ。でもしかたがないわ……。ところで、あんた大急ぎよ、ムッシュー・レオンがお待ちだわ、十五分しかないんだって」
ヴィレーヌ街からほど近いところに、小さな皮革工場を持っている小《こ》商人《あきんど》のムッシュー・レオンなら昼顔はすでに知っていた。彼女はすでに、この人の情けを受けたことがあった。しかも、その思い出は、陰気に、彼女の心に印《しる》されていた。それなのに今日は、この背丈《せい》の低い、吐《は》く息にまで生皮《なまかわ》の臭気のしみこんだ男の、短時間にできるだけ多く彼女を利用しようとするその熱心が、二度と見いだせないかと絶望しかけていたあのせつなさ[#「せつなさ」に傍点]、あの淫逸《いんいつ》な情熱で、セヴリーヌをわななかせた。
しばらくぼんやりしていたあとで、彼女は、マダム・アナイスの居間へ入った。マダムはそこにいなかった。アンドレの上品な声が喋《しやべ》りつづけている隣室で、彼女の笑い声も聞えていた。セヴリーヌは仕事机のそばに腰かけて、歓楽になお汗ばんだ両手に顎《あご》を挟《はさ》んで、湧《わ》き起る自分の肉体の告白に耳を傾けた。
自分の周囲に気づくと、彼女はきっとした顔つきになっていた。それもそのはず彼女は、今にしてはじめて知ったわけだった。
彼女は知った、自分がアンドレを拒んだ理由は、あの若者が肉体的にも精神的にも、日常の生活で、彼女が接近する男たちと同じ階級、ピエールと同じ階級に、属しているからだと。アンドレとなら、彼女は、自分が無上に愛しているピエールを裏切ることになるのだった。彼女は、やさしさや、信頼や、甘さや、そんなものを求めてヴィレーヌ街へ来たのではなかった。彼女が求めているものは、夫が与ええないもの、つまりあのすさまじい獣的な喜びだった。
気品や、教養や、彼女の意を迎えようとする下心や、こうした種類のものが、彼女の体内の、容赦なしに踏みあらしてもらいたく、屈服させてもらいたく、馴致《じゆんち》してもらいたく願う何ものかに抵抗して、彼女の肉体の邪魔のない開花をさまたげるのだった。
セヴリーヌは、自分を命ほどに大事にしている夫と自分との間に、運命的なへだたりがあると知っても、失望はしなかった。むしろ反対に、大きな安堵《あんど》が、彼女を落着けてくれた。数週間の呵責《かしやく》と狂気のあとで、彼女ははじめて、自分がどんなものか知ることができた、これで暗黒と恐怖のうちに、彼女を追いまわした忌《いま》わしいあの自分の二重人格が、彼女の中に吸収されたわけだった。明朗に健康に、彼女は自分の本性を取返していた。見知らぬ粗野な男たちから与えられる喜びが、ピエールからは得られない運命であってみれば、こうするよりほかにしかたがないではないか? ほかの女たちにあって、その愛と一体をなすその喜びを、彼女だけは諦《あきら》めなければならないのだろうか? 彼女がもしほかの女たちが持つこの幸運に恵まれていたら、はたしてあのような恐ろしい道をたどったであろうか? 彼女の力ではどうにもならない細胞の要求するその行為のゆえに、誰が彼女を詰《なじ》りえよう? 毎年春が来ると、大地をしっとりしたわななきで顫動《せんどう》させる、あらゆる生き物が与えられている、あの神聖な痙攣《けいれん》を味わう権利が、彼女にもあるはずではなかったか。
この啓示が、セヴリーヌを別人にした。否、そう言ってはいけない。彼女の悲惨な暗中模索の結果与えられた不安な焦躁《しようそう》が消えて、もとの安穏な顔つきに立ち返ったと言うべきだ。彼女にその持ち前の落着きと、平静な身のこなしが戻ってきた。彼女の生活が、あんなに長い間、あんなに危なく置かれていた、あの悪鬼と怪《あや》しげな光でいっぱいな陥穽《おとしあな》を見つけて、いまやそれを満たしたので、彼女には、むしろ、以前にもまし自分が朗らかだと感じられた。
自分が今後進もうという道程に、セヴリーヌの気がかりになることがあるとしたら、それはピエールの眼のはずだった。昨日まで、あれほど恐ろしかったあの眼のはずだった。それなのに、いまやその眼が、彼女の行為の正しさを説く最初のものになっていた。ピエールの眼は、芯《しん》から喜んで、セヴリーヌの復活を眺《なが》めた。彼女が用心して徐々にその復活の度を進めたので、夫の眼にはその喜びが満喫できた。彼女は卑下の態度をも、人を憚《はばか》る警戒心をも、誰にも気のつかないほど徐々に捨てていった。毎日、彼女は一歩あと戻りした。だがそれは一歩に限られていた。毎日、彼女は自分の新しい意志を一つピエールに受入れさせた。だがそれは必ず一つ以上ではなかった。彼が汲々《きゆうきゆう》として彼女に服従したがっているのが、彼女には明らかにわかった。それと同時に、彼女は感じた、自分が万一、急激に態度を変えるようなことをしたら、夫に疑惑を与え、夫に懊悩《おうのう》を与える危険が十分あると。彼女には、それだけはなんとしてもしたくなかった。ちょうど、彼女がマダム・アナイスの家で身をさらすのを思いとどまりたくないと同じように。彼女は、この重要な両極の間に、均衡を求めた、彼女の生命の完全な均衡を。
彼女は強い落着いた忍耐力でその均衡に成功した。それは、佯《いつわ》りと呼ぶべきものだろうか? たといそれは佯りに相違ないにしても、いかにも自然にセヴリーヌにそれが強《し》いられているので、彼女はそれを佯りだと感じなかった。ヴィレーヌ街の家から、禊《みそぎ》を受けて帰ったあとほど、彼女が、自分を完全に、純粋に、ピエールのものだと感じることはなかった。あの家で毎日彼女が過す二時間は、他の時間とはまったく切り離された時間、別個な時間、独立した時間を形づくっていた。その時間が流れている間、セヴリーヌは、芯《しん》から自分が何者であるかさえ忘れていた。その間、彼女の肉体の秘密だけが、束《つか》の間《ま》開いたかと思うと早くもまた処女のような安息に帰っている、あの不思議な花のように、ひとりでに生きていた。
やがて、セヴリーヌは、自分の生活が二重だとさえ感じなくなった。彼女には、自分の一生は、かくあるべきものとして、生れない以前から定められていたもののように思われた。
この習慣性の決定的な烙印《らくいん》は、彼女が肉体的にふたたびピエールの妻となることで与えられた。今や彼女には、穢《けが》れた肉体を夫に捧げるという意識はまったくなかった。なぜかというに、ヴィレーヌ街からわが家《や》へ帰る間に、彼女は自分が、肉体の成分の末にいたるまで、ことごとく更新されるように思われたので。夫を抱擁する場合、彼女は以前にもまして、一層母性的になろうと努めた。なぜなら、あまりに熱情的な動作や、あまりに巧みな技巧を見せたりしたら、問わず語りの間に昼顔があられもなく習得した技能が露見するおそれがあると思われるので。
マルセル。はじめてこの若者を見たとき、セヴリーヌは、ほとんど気にもとめなかった。彼はイポリトに連れられてきた。当然、まず彼女の注意を引いたのは、イポリトのほうだった。彼の前に出る前に、すでに一種不安な空気が、この男に対する強い好奇心を、彼女の心に植えつけた。
――皆さん、イポリトには、特別によくしてあげてくださいね」マダム・アナイスが、誰の顔もまともには見ずに、注意した。
――ええ、安心なすって大丈夫ですわ。でも、もうあの人、追っ払ったものとばかり思っていましたわ」シャルロットが神経質に答えた。
マダム・アナイスが肩をぴくりとさせて、吐息《といき》をもらした。
――気まぐれな人なんだ。これきりもう顔を見せないかもしれないが、そうかと思うと、一週間も流連《いつづけ》するかもしれないんだもの。とにかく、よくしてあげてくださいよ。損はさせないから」
廊下へ出るとセヴリーヌがたずねた、
――どういう人なの?」
――だれも知らないのよ」マチルドがつぶやいた。
――お金持?」
――とんでもない! 一度だって払ったことなんかないわ」シャルロットが叫んだ。
――で、どうするの?」
――マダム・アナイスが、かわって勘定するのよ。マダムのいい人かと思ったけれど、そうでもないの。どうやら、昔関係があったんで、それでいまでもあんなにしているんじゃないかと思うわ。まあ、めったに来ないだけでも幸《しあわ》せね。あたしが来てから十八カ月に二度よ。たびたび来られたら、あたしいたたまれないわ」
――あたしだってそうよ」マチルドが言った。
三人は大きな部屋の戸口の前へ来て、中へ入りかねてためらった。セヴリーヌが重ねてたずねた、
――その人、激しいの、乱暴なの?」
――そうとも言えないわね、マチルド、あなたどう思って? どちらかといえば、静かでおとなしいくらいなのよ。ただね、怯《お》じけるんだわ。説明できないわね」
仲間の女たちの、この感情を分つまでに、セヴリーヌは数秒で足りた。イポリトというのは、他の男たちより一層肩幅の広い、一層身丈の高い、蛮的《ばんてき》な一塊だった。壮《さか》んな脂肪分で野放図《のほうず》におっぴろがった顔に、別に残忍なところがあるわけでもなかった。その不気味さは、死んだような厳《いか》めしい動きのない態度と、黒ずんだ血色で唇《くちびる》を染め、猛獣をとらえる罠《わな》みたいないかつい顎《あご》を食いしばって、両手の拳《こぶし》を、肉と骨でできた槌《つち》のようなものに見せる、力強い動物的な生命力との、対照からくるのだろうか? それとも、煙草を巻いたり、なめて貼《は》ったりするそのやり方からくるのだろうか? または、彼が右の耳にはめているきわめて小さい金の環《わ》からくるのだろうか。セヴリーヌにも、シャルロット以上に、それを言うことはできなかったが、気味わるさはいつしか、彼女の血管の中を流れていた。魅せられたようになって、彼女は、この偶像のような寸法に造られた銅色《あかがねいろ》の男から、眼をそらしえなかった。
彼よりほかには知るよしもない、この部屋以外の、あらぬところをじっと見つめながら、イポリトは、三人の女が居心地わるい怯《お》じけた気持でいると見てとった。彼はそれを口に出すだけの労もとらずに、いかにも人をばかにしきった気持まるだしの口調で言うのだった、
――どうだい、みんな?」
それきり、彼は口をつぐんだ。彼が話好きでないこと、またたいていの人間には耐えがたいあの澱《よど》んだ水のような沈黙にも平気で、ちっとも気にならないらしいのが、はっきり感じられた。ところが、シャルロットがたまりかねて、その沈黙を破った、
――ムッシュー・イポリト、あなたもお変りありません? しばらくお見えになりませんでしたわね」口先だけは陽気につくろって、彼女がたずねた。
彼はそれには答えずに、煙草を深々と吸いこんだ。
――お楽になさいましな、お暑いでしょう」とマチルドが言った。彼女もまたこの場の沈黙に耐えられないのだ。
イポリトは、無言のままで、彼女にちょっと合図をした。彼女が立ってそばへ行き、上着を脱ぐ手伝いをした。上等の絹のワイシャツの下に、腕と肩と胸の筋肉がうかがわれた。それは、何か神秘な労役のために構造された銑鉄《せんてつ》の塊《かたまり》のように見えた。
――ひとり連れてきたよ。わしの友達だ」イポリトが言った。
友達だと言ったその口調だけが、彼の持ち前のすご味のある無頓着《むとんじやく》な言い方と、妙に違っていた。荘重で明快で、聞いていると、この言葉だけが、人間の言葉の中で、ただひとつイポリトに用のあるものらしく響いた。
イポリトの背後《うしろ》に、彼の影の中に隠れでもするかのように、ひっこんでいる若い男の方へセヴリーヌは目をやった。そして彼女は、深々とくぼんで光る眼《まなこ》が、じっと自分を見つめているのに気づいた、ところが、彼女の注意はまたしても、
――今日は時間がないんだ。ご馳走《ちそう》はこの次だ。新米、ここへ来な」こう言いだした大男に、引きつけられた。
セヴリーヌは、すでに彼の方へ向って一歩踏み出していた。そのとき、熱のある訴えるような声が、彼女をその場に立ちすくませた。
――その女、おれにくれろ」若者が言った。
シャルロットとマチルドのふたりは、心配げな様子をした。ふたりには、イポリトにさからったりは、絶対にしてはいけないことのように思われていたので。鈍重ながら、やさしみのある微笑をしながら、彼はおそろしいほど頑丈《がんじよう》な手で連れの若者の肩をつかんだ。弱々しい若者の肩だが、楽にその重さに耐えた。大男が言った、
――うんと楽しむがいいぜ。おもしろい盛りの年だものな」
セヴリーヌには、イポリトが、肉体的に気に入った。だから、この皮肉な交換が、彼女から気づまりな思いを取去ってさえくれないと知ると、彼女は二重の落胆を感じた。理由はこの若者は、イポリト以上に、窮屈な思いを人にさせるような気持がしたので。
連れられて、彼女の部屋へ入ると、若者が言った、
――あんなふうに、頼んでまでほしかったところを見ると、よっぽどあんたが気に入ったんだなあ」
沈黙と、あわただしさと粗暴さ以外のものはほしがらないセヴリーヌの感覚は、ふだんから、こうしたおとなしい言葉を聞かされるだけで、萎《な》えてしまうのだ。彼女は今、この若者のおとなしい欲求が自分の心を動かすのを見て、驚いた。彼女はあらためて、イポリトが自分を譲り渡した若者を、しげしげ見なおした。ねっとりしたポマードで光るその頭髪《かみのけ》も、高価なものらしいがはでにすぎるそのネクタイも、極端にぴったり身についた、その服も、薬指にはめている大粒のダイヤも、――すべてが、その硬《かた》そうで張りのある顔の皮膚、不安げなくせに不屈なそのまなざし同様、うさんくさかった。セヴリーヌはこの若者のせまい肩が、イポリトの手の下でびくともしなかったのを思い出した。すると霊妙な感動が彼女を捕えた。
――あんたが気に入ったんだよ、わかったかい」歯を食いしばったままで、若者が繰返して言った。
セヴリーヌは気づいた、彼がお世辞を言っているのではないと。彼は彼女に一つの贈物をしたのだが、彼女がさっぱりそれをありがたがってくれないので、いらだったのだ。そうと知ると、彼女は、半開の口を彼に近づけた。彼はほどのよい意気ごみで、自分の口を交えた。ついで彼はセヴリーヌを、ベッドの上へ抱いて運んだ。筋ばらない腕に抱かれて、なんと彼女が身軽に感じたことか! 実際、このイポリトの友にあっては、すべてが、見かけだけのかよわさだった。美しいしなやかな指には、手裏剣《しゆりけん》の硬さがあった。ほっそりした両脚が、セヴリーヌをはさんで締めつけると、痛さに彼女はうめいたほどだ、このとき、早くも、彼女はこれまで知ったどんなうれしさよりも、激しい喜びにせめふせられていた。
高価なケースから取出して、若者は煙草に点火した。そしてたずねて言った、
――名はなんというの?」
――昼顔」
――そいから?」
――それっきりよ」
皮肉と無関心のまじった表情で、彼は唇を食いしばった。
――おれを刑事だと思うなら、それもよかろう」彼が言った。
――あんたは、なんという名?」「あんた」と男を呼ぶことに、はじめて感覚的な喜びを味わいながらセヴリーヌがたずねた。
――おれは隠したりしないぜ。マルセルてんだ、天使ともいうがね」
このいかがわしい綽名《あだな》が、自分の顔とすれずれに枕をしているこの男の皮肉な表情にいかにもよく似あうので、セヴリーヌはかすかな悪寒《おかん》を感じた。
マルセルが、ためらいながらも続けて言った、
――そいから……そいからもうひとつ名がある……なにもあんたに隠すことはあるまい……なあ……お獅子《しし》てんだ……」
――なあぜ?」
――見ろ」
セヴリーヌはこのときはじめて、若者がたえず下唇を歯茎《はぐき》にひきつけていたことに気づいた。彼が下唇を動かした。セヴリーヌは、今まで隠れていた歯が全部金なのに気づいた。
――一発でやられたよ、だがそのかわり……」マルセルが嘲《あざけ》るように言った。
彼は、その先は言わなかった、彼女にはそれがありがたかった。突如目の前に開かれたその口が、彼女には恐《こわ》かった。
マルセルは、すばやく服を着た。
――あんた、もう帰るの?」セヴリーヌがわれにもあらずたずねて言った。
――うん、帰らなけりゃならないんだ、仲間がひとり待ってるんで……」
腹立たしさのまじったびっくりしたらしい様子で、彼は言葉をとぎらした、そして言った、
――大笑いさ。すんでのことであんたに言い訳するところだった」
そのまま、彼女には見向きもせずに、彼は行ってしまった。だが、翌日、一人でやってきた。ちょうど、セヴリーヌがふさがっていたので、シャルロットとマチルドが出た。
――ほっといてくれ、おれは昼顔がほしいんだ」マルセルが言った。
彼は気ながに待った。イポリト同様、彼にとって時間は普通の目盛りを持たなかった。自分の肉体を呼吸させて、邪魔をせずにいられる動物的な能力が、彼にはあった。こんなとき、彼の頭の中に浮ぶものは、思念という名称にも、形式にも、不似あいなものだった。
セヴリーヌの足音が、一瞬にして、この注意深い自失状態を払いのけた。彼女はうれしげに近づいた、それなのにきつい身ぶりで、彼が制止した。
――やっと来てくれたか」彼が言った。
――お待たせしましたが、あたしがわるいんじゃなくってよ」
彼は、どうやら我慢して肩をすぼめずにすませた。待ったことなんか問題ではなかった! ただこの場合、彼には、自分でさえそれと認識したくないその腹立ちの理由を、まして女になんか説明してやれないだけのことだった。
――いいよ。なんにもあんたを咎《とが》めはしないから」荒々しく彼が言った。
彼は彼女の唇に接吻した。黄金《きん》造りの下顎《したあご》を、このときはもう隠そうとしないので、セヴリーヌは、彼の口の熱と同時に、金属の冷たさを感じた。このとき以後、この寒熱の交錯した味が、彼女には忘れることのできないものとなった。
マルセルはその日、いつまでも昼顔のそばから離れなかった。彼はうるさい自分の渇《かわ》きを一挙に癒《いや》そうとするかのようだった。一方セヴリーヌは、心の奥深いところに、そことない不安がわななくのを感じた。彼女には、彼の抱擁《だきしめ》があまりにうれしすぎた、彼に身をすり寄せて休息することが、あまりに楽しすぎた。夕闇に埋《うずも》れて見えないマルセルの肉体を愛撫《あいぶ》したい気持を彼女は一度ならず制御した、だがとうとうみずから制しかねて、彼女は男の肩に軽くふれてみた。触れると同時に、彼女は手をひっこめた。彼女は何か肉の裂目《さけめ》のようなところにふれたのだ。マルセルが、嘲るような甲《かん》高い声で言った、
――あんた、ボタン穴を知らないんだな。ちとなれたがいいぜ」
彼はセヴリーヌの手を掴《つか》んで、自分の肉体のそこやここにおっつけた。腕も、股《また》も、背中も、腹も、一面|傷痕《きずあと》だらけだった。
――どうしたの、これ?」……セヴリーヌが叫んで言った。
――おれの前科を調べるつもりじゃあるまい? 男には、ものを聞いたりするものじゃない」
自分の声のしかつめらしい厳《いか》つさが、マルセルには合図になったらしかった。
――このへんで、あばよだ」と彼が言った。
セヴリーヌは、わざと、マルセルが服を着るのを見ずにいた。彼女には男の傷痕を目で見て数えることはしたくなかった。万一その男々《おお》しい、そして神秘な傷痕を見たりしたら、たださえすでに、強く結ばれすぎている絆《きずな》が、一層固くなるかもしれないと恐《こわ》かった。
その後、マルセルが姿を見せなかった数日間に、彼女はその絆が、いかに力強いものになっているかを、自分で計ることができた。体内に感じられる、執拗《しつよう》な不安と、妙に飢えたようなものなやましさで、セヴリーヌは、どれほど自分がマルセルに焦がれているかを知った。彼女には、自分がもう彼に飽きられたのではないかと心配だった。彼女には、とりわけ、彼にマダム・アナイスに払う金がないので、この障害が彼を決定的にこの家から遠ざけはしないかと心配だった。
だから、一週間して、悪党らしくひんまげた彼の美しい顔を見るなり、彼女は言いだした、
――あんたに、お金がないときは、あたしが……」
――黙りな」彼が叫んで言った。
彼は深々と呼吸した、ついで、さげすむような高慢な口調で、
――おれさえうんと言えば、きっとそうくると思ってた――。おれにみついでる女がほかに三人ある、わかるか……。だが、あんたにだけはしてもらいたくない。わかるか……。金なら、金なら、ここにあるぜ!」
彼は皺《しわ》くちゃになった、紙幣《さつ》を卓上に投げ出した。百フランの紙幣が、数枚|小紙幣《こさつ》にまじっていた。
――いくらあるかさえ、おれは知らないんだ。なくなったらまた出てくるよ」吐き出すように彼が言った。
――では、なぜなの?」
――なぜって、何が?」
――あんた、なぜ来てくれなかったの?」
セヴリーヌが、ものを聞こうとすると必ず現われる激しいあの反射作用が、今度もまた現われた。彼が答えて言った、
――話はもうたくさん。おれはここへお喋《しやべ》りをしに来るんじゃないぜ」
つれなく言ってはいるが、彼の声には、ひそかに自分をせめる響きがあった。
この日以後、彼は毎日欠かさずやってきた。最初は、固くなって無口だったが、やがて少しずつ気持をくつろげていった。どうやら彼のほうでも、あまりに強烈にすぎるこの誘惑に負けまいとして続けてきた努力をやめたものらしかった。会うたび、彼はセヴリーヌの感覚に深く食い入った。そしてそのたびに、彼女は彼の思い出からのがれがたくなった。やがて、その結果、これまで、セヴリーヌの二重生活を厳格に区別していたあの城壁が、崩《くず》れてしまった。この隙間《すきま》は、たぶん彼女がそれと気づいたとき以前に、すでにできていたものかもしれなかった。ただセヴリーヌは、次の事情で、それに気のついたときからできたものと信じた。
ちょうど、マルセルが、彼女に別れて帰ったところだった。彼によって与えられた喜びが、彼女に時間の観念を失わせていた。彼女はふと、その晩、自分がピエールとその友人たちと、晩餐《ばんさん》をともにする約束になっていること、ピエールはたぶんもう家に帰って、彼女がいないので心配しているに相違ないことを、思い出した。それなのに、マルセルの愛撫《あいぶ》で、いつまでも身内《みうち》が熱く、疲れが去らないので、どうしても彼女は、起きて自家《うち》へ帰る気になれなかった。彼女は、わざとゆっくり支度《したく》をした、遅くなりすぎたという事実が、決定的な障害になるようにした、そのうえで、ピエールに電話をかけて、仮縫いに案外時間がかかったので、直接料理店へ行って、そこで落合うと言ってやった。このほうが、疲労がはぶけるはずだった。さいわいその日の晩餐は、儀式ばらない集りなので、アフタヌーンの衣裳《なり》でまに合った。
こうして、はじめて、セヴリーヌは、何らのトランジッションなしに、マダム・アナイスと、そこの女たちや、お客の世界から、彼女本来の世界へと移ったのだった。それだけに、彼女の来着を待ち受けていた男たちが、彼女の姿を認めて立ちあがったときには、一瞬ではあったが、はっきりした幻影として、マチルドに手伝わせて上着を脱いでいるイポリトの姿を見て、軽い衝動を感じたものだ。
その晩、ピエールとセヴリーヌを招待したのは、ふたりの若い外科医だった。ふたりのうち、濃い褐《ちや》いろの頭髪《かみ》をしたほうは、女にもてるので有名だった。彼の動作には感覚的な聡明さが、顔には、きつそうにも、やさしそうにも見える果断さがあって、この二つに、女たちがまいるのだった。セヴリーヌはこのことを知っていたので、彼からタンゴを踊ろうと求められたときにも、一種皮肉な落着いた気持で、そのことを思い出した。このピエールの友人は、これまでいつも、尊敬を失わずにセヴリーヌに対してきた。それなのに、その晩にかぎって、彼女から妙な空気が発散すると見てとったものか、ダンスの間始終、大胆なやり方で、彼女を抱き締めた。この図太《ずぶと》さが、彼女の心を乱すかと思いのほか、かえってセヴリーヌの顔に、さげすみの表情を誘いだした。この粗野な手段で女を手に入れるので有名な男の欲情に、なんと彼が受けた立派な教育の影響が感じられたことか! 昼顔が毎日の午後味わっているあの男たちの欲情に比べて、何とこの男のそれが貧弱で、血の気の薄いことか! マルセルのたくまない身ぶりのひとつ、鋼《はがね》の釘抜《くぎぬ》きのようなその手の握りしめのひとつに、この社交界の女たらしの、どんな手管《てくだ》よりましな我儘《わがまま》と、見所《みどころ》が含まれていた。こんな男が、何を試《ため》そうと、それはむだな骨折りにすぎなかった、傷痕《きずあと》だらけの体《からだ》で、誇らしげに、恋の代償をポケットにねじこんだ紙幣束《さつたば》から指先で抜き出して払ってくれる、あの男の、あの身勝手な野性は、所詮《しよせん》この男には持つすべもないものだった。
このときの、セヴリーヌは、自分を取囲んでいる人々からは遠い気持で、お獅子《しし》のような金の口をしたあの不純な天使の身近にいた。そして、彼女は唇《くちびる》に、自分とダンスをしている男に向って、かつてある暗黙な予感に促されて、ある晩ユッソンに言ったあの、≪あなたって、強姦《ごうかん》なさる柄ではありませんわ≫という言葉が上ってくるのを禁じえなかった。
ひと晩じゅう、マルセルの姿が彼女の心から去らなかった。さきがた彼がその手で脱がせてくれた、そして彼女がいま着ているこのローブによって、さきがた彼がその手で愛撫《あいぶ》した、そして彼女がまだ洗い清めずにいるこの皮膚によって、彼女は現在まだ彼につながっていた。その晩、セヴリーヌは、自分を美しいと感じた、彼女はまた、自分が形づくっているふたりの女を混ぜ合すことに、よこしまな快感を味わった。レストランからの帰途、彼女は、彼にばかりは捧《ささ》げられていない熱情のこもった接吻を、ピエールに与えた。
それなのに、夫が一瞬ためらったことと、帰途も何か無形の重苦しさが、ふたりの間を隔てると気づいて、セヴリーヌはびっくりした。彼女は、錯誤の一瞬間に、それまでの苦心を台なしにしていた。またしても、ピエールが、彼女のゆえに悩んでいた。
感激したときか、危険に迫られたとき以外、セヴリーヌは自分の恋の激しさは感知しなかったが、そのかわり、いったんそれを感じるとなると、狂おしいほど激しく身にしみて感じた。彼女はふと今、このごろの自分は、相手を選ばない逸楽《いつらく》に曳《ひ》かれて、マダム・アナイスの家へ通うのではなく、マルセル目当てだと気づいた。また、ヴィレーヌ街の家の壁の間に固く封じこまれているはずの彼女の秘密の生活が、ピエールに捧げられる生活の中にまで噴《ふ》き出して、しかもこの腐敗した津浪《つなみ》が、ともすれば、すべてを押し流してゆく危険さえあると気づいた。どんな代償を払っても、堤防を築きなおす必要があった。彼女がマルセルとの間に持つようになったあの習慣性が、この危険な割れ目を掘りひろげたわけだ。彼女が彼を忘れなければいけないのだ。それは辛《つら》い犠牲には相違ないが、車の中のもの影で、ひときわいかめしく見えるピエールの横顔を眺《なが》めながら、彼女はその犠牲をよろこんで払おうと思った。
かくて、彼女は、自分の運命の方向を転換しようと決心した。
マダム・アナイスは、セヴリーヌのこの決心を、不安のまじった喜びの気持で受入れた。
――ではもうあの人には会いたくないと言うんだね、それはあたしもいいことだと思いますよ。あの若者が、何をしている者か、何も知らないが、自家《うち》に来ていられるよりは、よそへ行ってもらうほうがあたしも安心です。でも、本人がどう思うか? イポリトの知り合いなんだし……、とにかく、見えたら、あんたは病気だと言っときましょう。たび重なるうちには、くたびれてあきらめるかもしれない」とマダムが言った。
四日目に、セヴリーヌが、売淫《ばいいん》の家から出ようとすると、まだ見るより先に、その影でそれと知れる姿が、彼女の前に立ちはだかった。いかにも魁偉《かいい》な姿なので、彼女にはこの姿が夕暮れの光をすべて奪ってしまうかと思われた。
――そのへんまで、いっしょに歩こう」イポリトが落着きはらって言った。
ぞっとする恐ろしさが身にしみるだけで、しばらくの間、彼女には何の感覚もなかった。ところが、ふたりが、ヴィレーヌ街――セヴリーヌにとっては、マダム・アナイスの家の寄りつきのような気のするヴィレーヌ街――を越えて、聖《サン》ジェルマン・ロクゼロア広場へ来かかると、ある内なる叫びとでもいうようなものが、セヴリーヌを覚醒《めざ》めさせた。何ごとだろう、彼女がこうして戸外《そと》にいようとは。戸外、そこにいる間、彼女が徳行と健康以外の何ものでもないはずの戸外、そこにいる間、彼女がピエールの妻に立ちかえる戸外に、人もあろうに、マダム・アナイスの馴染《なじみ》のこの恐ろしい男といっしょにいようとは! 何ごとだろう、密閉したつもりでいたあの生活――それが反映するのを恐れて、自分にいちばん身にしみる喜びをあきらめようとまで決心したその同じ生活が、彼女に向ってその触手をのばしてこようとは。しかもその触手が、心の中の誘惑でもあることか、恐ろしいイポリトの仲介で現われてこようとは!
セヴリーヌの戦慄《せんりつ》は、自分が陥ったこののっぴきならぬ窮状にも由来していたが、それ以上に、自分が自由に開拓したと信じていた運命の、撓《たわ》みのない進展に由来していた。この卑怯《ひきよう》な気持は、たちまち、自己保存の本能にかわった。全身を硬直させ、救いを叫ぶような気持で、セヴリーヌは、通りかかりのタクシーに向って駆けだした。と、その瞬間、彼女の足もとが狂った。イポリトの手が彼女を押えていた。するとセヴリーヌは、はじめて鎖《くさり》に繋《つな》がれた囚人のような失神状態に陥った。その手の力が、ちょっとふれただけで、彼女のエネルギーのすべてを失わせてしまった。
――騒ぐな。話がある、聞いてもらおう。静かなところがいいだろう? ついといで」声も高めずにイポリトが言った。
彼は広場に面した小さな居酒屋の方へと歩いていった。セヴリーヌを押えた手は放し、彼女の方は見もせずに歩いてゆくのだが、セヴリーヌはついていった。
せまい店の中は、がらあきだった。錆《さ》びたスタンドの前で、職工が一人、白|葡萄酒《ぶどうしゆ》を飲んでいた。いかにも美味《うま》そうに飲んでいる様子が、イポリトまでも飲みたい気持にした。注文したものが運ばれてくるまで、彼はセヴリーヌの方をかえりみるのを控《ひか》えていたが、やがて言いだした、
――よく聞いていな、聞きかえしたりしないで。わしが言うことの保証がほしかったら、モンマルトルか、市場《レ・ザアル》へ行って、シリヤ生れのイポリトってどんな男か聞くがいい。さて、わしは、あんたに言っとく、自分の身に厄介なこと(この何でもない言葉がセヴリーヌを凍《こお》らせた)が起したくなかったら、マルセルにからかってはいけないよ」
彼は、ゆっくり葡萄酒を飲みながら考えた。彼には、何によらずある一事を、順序よく説明するのは難儀だった。彼が言った、
――あんたは正直でおとなしそうな女《ひと》だ。だから言うんだが、あのマルセルというのは、イポリトの命を救った小僧なんだ。あんたにもわかるだろうが、わしにとっちゃ息子よりも大事な奴だ。ただ困るのは、あいつにひとつ、悪い癖がある。女に夢中になる癖だ。実は、去年も一度、わしがそこにいなかったら……。先は言うまい。いつぞやあいつが、あんたがほしいと言いだしたとき、また惚《ほ》れるなと思わぬではなかったが、――といって、よさせるわけにもゆかなかった。はじめの間は、自制もしていたらしいんだが……。なにしろあいつときたら、ばかな真似《まね》をするときにもやっぱり男一匹だ。それにあいつ素直な気性なもんだから、ついまた深入りしてしまいやがった。でも、あんたの病気だという嘘《うそ》にだまされたと思ったら大間違いだ。わしが止めなかったら、今日あんたのところへ来ているのはあいつのはずだ。わしがやめさした。なにしろ血の気の多い奴なので」
イポリトは、苦しそうな夢想に落ちこんでいった。セヴリーヌには、彼が自分のことなぞ忘れていると思われた。
――つまり、そういうわけだ、わかったな」と、しばらくして彼が言った。
彼女の肩にもう一度手をのせると、じっと動かないあの目つきで彼女を見つめておいて、こう結んだ、
――あんた、帰っていいぜ。わしにはまだ仕事がある」
セヴリーヌは、空のコップを前に肘《ひじ》ついている彼の巨大なぼやけた影を、居酒屋の窓ガラスごしに眺めた。
自由な戸外の空気に身を置いても、セヴリーヌは、あわてて顔をそむけた。あの男の影が彼女を悩殺した。それなのに、いまの場合、時を移さずに決行しなければならない大事があった、セヴリーヌはこれを、狼狽《ろうばい》しながらも全神経で感じた。一日おくれたら、彼女は、どちらが余計に恐ろしいやら自分にもわからないようなあのふたりの男の、いずれかの手中に陥っているはずだ。彼女にはまた、あのふたりの男の背後に、同じほど恐ろしい男たちが、あのふたりの命令を待ちかまえているのが感じられた。
セヴリーヌは、大急ぎで、ヴィレーヌ街へひきかえした。
――あたし、行っちまいますわ」彼女がマダム・アナイスに申出た。
――あんた、あの人に会ったの? あの人が休暇に連れていってくれるの?」セヴリーヌが、決定的にこの家から去るものとは、どうしても思いおよばないマダム・アナイスが言った。
――そうよ。そうなのよ」説明の手数をはぶくため、彼女が言った。
たといマダム・アナイスのこの推量が、セヴリーヌに決心させたのではないまでも、それが彼女をこのうえの躊躇《ちゆうちよ》から救ったことは確かだった。すでに、イポリトと話している間にも、セヴリーヌは、自分が盲目的に逃げ出したがっていると気づいていた。だが、ヴィレーヌ街の家から逃げ出すだけでは足りなかった。セヴリーヌには、自分を追い回している男たちと同じ空気を呼吸するのさえがいやだった、耐えがたかった。マルセルや、イポリトから、多くの空間が彼女を隔てる必要があった。おりから、季節は夏の始めだった。ピエールは毎年、もっと遅くなってからでなければ休暇はとらない習慣だった。彼が、病院や、療養所の都合のこと、規定の輪番があると言いだすことはわかっていた。だがセヴリーヌは、これまでの経験で、夫の決心を促す力が十分自分にあるとも知っていた。またしても、彼女はその愛情のゆえに、自分の最も純真なやさしさと、自分の最も悲しい躍動とを混同せずにはいられないはめだった。
予想どおり、セヴリーヌは案外やすやすと、自分の健康上の懸念と、彼と水入らずで暮したい願望《ねがい》を理由に、ピエール説得に成功した。イポリトの警告から一週間目、セリジー夫妻は、聖《サン》ラフエルの近くの静かな海岸の避暑地へ向う汽車に乗った。
プラットフォームへ来てまでも、ピエールもセヴリーヌも、神経をたかぶらせていた。彼には、この急な出発によって、いろいろ齟齬《そご》をきたした自分の仕事が苦になった。他方彼女には、黄金《きん》の針金のように細いマルセルの苦味《にがみ》ばしった微笑が、さもなければイポリトの巨大な影が、ぬっと現われはしないかと、恐ろしくってならなかった。走りだした汽車の最初の動揺が、ふたりの心労のすべてを消し去った。夜の中をひた走るコンパートのさし向いの気分が、セヴリーヌとピエールを、被《おお》い包んだ。ふたりの眼の中には、同じ若々しい喜びが輝いた。はじめてふたりでいっしょにした旅行のときと同じほどさわやかな気持で、より深く愛しあっている今の自分たちだと彼らは感じた。ことにセヴリーヌは、今後はてしなく続くだろうと思われる来《きた》るべき静かなしとやかな日々の、この入口で、深く感動するらしかった。
まことにまた、これらの日々は、彼女の一生の、最上の日として数えられた。彼女が過した最近数週間のあのあわただしい生活、彼女の上に押しかぶさっていたあの強迫感、それらのものが、これまで以上に、幸福を味わう能力を彼女に与えた。いまのセヴリーヌの幸福は、強力で無数だった。しばらく彼女の満足はそれで足りた。海や、砂浜や、太陽や、食欲や、安眠や、こうした要素のすべてから、彼女は、最大の効果を吸収した。天気はよかった。すべては碧《あお》かった。空気は珍奇な快い油のようだった。この空気がセヴリーヌの肉体をひたしていた。いまや彼女は、自分の肉体が、多くの手によって捏《こね》くり返されたことも忘れていた。それはふたたび彼女のものとなって、今や慎《つつま》しく咲き香《かお》っていた。
ピエールも、幸福だった。休養が、風景が、彼にはうれしかった、自分の福祉の泉なるこの若妻が、元気で無邪気なのを見るのが何よりうれしかった。ふたりはいっしょに泳いだ。いっしょにボートを漕《こ》ぐと、ふたりの櫂《かい》は同じテンポで動いた。砂浜にあがると、ふたりは子供のようにたわむれた。セヴリーヌには、子供みたいに生活するときにだけ、自分のすべてが真にピエールに所属するように感じられた。パリの生活では、夫の病人や、書物や、原稿が、ふたりの間をへだてた。いまこうして、彼女にも彼と同じほどやれる激しいこうした運動に身を任せていると、友情の熱がふたりを溶かし合せてくれるように感じられた。
比類ない至福のこの日ごろ、なんとピエールが彼女にとって、いとしくなつかしかったことか。かくまで美妙な調和《ハーモニイ》を、あやうく害《そこな》いかけた自分を、なんと彼女があわれみ、さげすんだことか。
過度の使用、あるいは激烈な精神上の衝撃後に、ある種の麻薬が、それに中毒している患者に、恐怖を与えて、かつて味わったそれによる快感を思い出すだけでさえ身ぶるいが出るほどのいやな思いをさせ、ために、彼らをして、永久にその麻薬から救われたと信じさせることがままあるが、セヴリーヌのいまの場合がまたこれだった。溌剌《はつらつ》とした喜びと、更生した愛情に、全存在をゆだねているいまの彼女には、ヴィレーヌ街のあの家のことなど、思い出すさえ狂気の沙汰《さた》に感じられたはずだ。怪《あや》しげなあの家へ、自分を追いやったあの刺激を感じないいま、彼女はいやな気持で、自分が好んで身に受けたあの屈従を、驚いて眺《なが》めていた。あやういところを、彼女はのがれてきていた。マダム・アナイスの家には、彼女がそこを通過したあとかたは、さいわい何一つ残っていなかった。誰あって、――あのイポリトさえが――昼顔を捜し出すことはできないはずだった。彼女は身の安全を自分の手に握っていた。七月の明るさの中に、静かな海辺に、ピエールに守られて生活している彼女が、自分の身の安全が犯される憂いのないものだと信じたのに不思議はなかった。
この同じ武器が、やがて彼女に向けられる日が来た。彼女の安心は、あまりにも早手回しに、あまりにも総括的になされていた。パリにいるときだったら、悪夢のように彼女につきまつわったであろうものを、距離が、あたりまえのことのように見せる力になった。セヴリーヌが実感として、マダム・アナイスの家を、ただの家、マチルドをただの哀れな女、マルセルをただの女たらしとして考え、また、あのイポリトまでを、口のまわりの悪いただの力士《レスラー》でしかないと思うようになるにおよんで、彼女はいよいよ、自分は決定的に救われたものと思いこんだ。同時に、その身を護《まも》る盾《たて》として何より信頼できるあの神秘的な恐怖を失ってしまった。つまり呪《のろ》いに対して、身を護るに、今や彼女には、理性以外なくなっていた。
肉の闇黒《あんこく》の中にひそんでいた敵が、また甦《よみが》えって熱をとりかえしていた。
ある朝、雨が降った。後日セヴリーヌは、この日もし、お天気さえよかったなら、自分にはまだ、すべてを救うこともできたはずだと思った、彼女を押し流す力が無限に強く、彼女というこの愛すべくしてまた憐《あわれ》むべき獲物にこうして襲いかかるまでには幾年も待ったことなぞ知らないもののように。
その日の雨が、ピエールとセヴリーヌを、余儀なく家にこもらせた。彼は、この一日を利用して、外科のレポートを書きあげることにした。彼女は機械的に、小形の絵入り雑誌を手にとった。それは、パリを発《た》つとき買ったまま、車中読まずにしまい、ここへ着いてからも、そのまま卓上に置いてあったものだ。彼女はすでに二冊に目を通して、三冊目を開いた。記事も、挿絵《さしえ》も、先の二冊と同じくつまらなかった。セヴリーヌには出ている広告のほうがかえっておもしろかった。ふと、彼女の眼が、一見意味のわからない数行の文字にとまった。ついでそれらの文字が、彼女に了解のできる言葉を形づくった。
ヴィレーヌ街九番地乙、
気楽なホームで
マダム・アナイスは連日
三美人にかしずかれ
あなたのご来遊をお待ちしております。
気品と、魅惑と、スペシャル・サービス。
セヴリーヌは、何度も、この広告文を読みかえした。彼女は自分の本名を知られてしまったような気がした。ただやがて彼女は、ヴィレーヌ街の自分は、源氏名だけで呼ばれてきたことを思い出した。ついで彼女は怯《お》じたような瞳《ひとみ》をピエールの方へ向けた――それなのに、彼は一心に仕事を続けていた、――ついで彼女は、明るくなってきた空と海を眺めた。
――出かけましょうよ、太陽《ひ》がさしてきましたわ」不意に彼女が言いだした。
でも海水浴も、砂浜の駆けっこも、太い字体で印刷されたあの広告を忘れさせはしなかった。ベッドへ入るとき、彼女はその絵入り雑誌を持ってはいった。そして、そのページが、ピエールからは見えないように折って、ぼんやりした眼でそれを眺めた。その広告から彼女が感じるものは、あの女|楼主《ろうしゆ》の招きの声であり、昼顔のベッドへの招集信号だった……。マダム・アナイスの名が、こうして印刷されていると、ふだん呼びなれたあの名と、なんと変った気持を与えることか。それにまた、あの家も、あの女たちも、セヴリーヌ自身までが、淫猥《いんわい》な言葉を用いる以上に、その素気《そつけ》なさのゆえに、かえって淫《みだ》らな形容詞でけがされ、別ものとして表現されていたことか。
「気楽なホーム……三美人……スペシャル・サービス」
妙に、忌《いま》わしい味わいが、セヴリーヌの口の中に残った。それは知った味なのに、はじめてのように感じられる薬品の味だった。恥ずかしくもあり同時にまた、気持のよい熱情が、彼女の肉体にしみこんだ。彼女はピエールの休暇が終りに近づいていると胸算用《むなざんよう》した。彼女はこのとき、夫を哀れと思ったが、自分を哀れとは思わなかった。
どうしてマルセルが、昼顔の帰ってきたことを、時を移さずに知ったものか? 何とたずねても、彼女には明かさなかったが、とにかく、セヴリーヌがヴィレーヌ街の家へ戻って、まだ一時間と経たないうちに、さっそく彼の声が聞えてきた。彼女は軽い眩暈《めまい》を感じた。もとより彼女とて、マルセルに会うだろうとは覚悟していたが、こんなに早く会ったという事実が、この男の執心と、情報探知の手際《てぎわ》を、はっきり教えた。彼女にはこれについて、これ以上考える暇がなかった。部屋のドアが、荒々しく開いた。敷居のところに、マルセルが真っ青な顔をして、怒りに過した数日によって醸《かも》されたわななきで、身をふるわせて立っていた。
聞きとりにくいほどの声で、彼が言った、
――ひとりか貴様、惜しいこった! 男も一匹ほしかったに」
セヴリーヌは、思わず、壁ぎわまで後退《すざ》った。
――あたし、どうしても、よそへ行かなければならなかったんですの。お話しいたしますわ」
つぶやくように彼女が言った。
マルセルが、黄金《きん》の顎《あご》を大きく開いて嘲《あざけ》って言った、
――お話だって! 待ちな、お話ならこっちでしてやるから」
彼はほっそりした腰に締めた革帯《バンド》を解くと、部屋のドアに鍵《かぎ》をかけた。セヴリーヌは男のするのを、あっけにとられて、意味もわからない様子で、ぼんやり見ていた。すると、怒りに猛《たけ》る手にふり回されて、革帯がうなりをたてた。
よけながら、革帯を手で掴《つか》む器用さと力を、セヴリーヌが、どこから見つけてきたものか、また、
――そこを、ちょっとでも動いたが最後、どんなことがあっても、あなたには二度とお目にかかりませんよ」と叫び、マルセルを屈服させたあの精力《エネルギー》は彼女のどこから出たものか。
部屋いっぱいの距離にへだてられて、ふたりは長い間立ちつくした。沈黙の中に、ふたりの荒い呼吸《いき》づかいだけが聞えた。その呼吸づかいもやがて次第におさまった。すると少しずつ、さきがたあの勇気をセヴリーヌに与える力となった、あの恐ろしい幻影も薄らいだ。それは、哀れなさまに顔に傷ついた自分が、ピエールに眺められている幻影だった。この幻影が薄らぐと同時に、彼女の勇気も失われた。だがもはや、彼女に勇気はいらなかった。マルセルが、うつむきがちに言った、
――あんたって女は、作りが別だ。何とイポリトが言おうと……」
彼は、鈍いもの音を耳にして、顔をあげた。セヴリーヌが倒れていた。彼は身を投げるように彼女に近づくと、ベッドへ彼女を運んだ。なかば夢中で、彼女は手をあげて身を防ごうとした。
――こわがらなくていいんだ、こわがらなくていいんだ、可愛い奴《やつ》」マルセルがあわてて繰返した。
この日彼は、彼女に触れなかった。墜《お》ちた天使のようなその顔に、情欲よりはもっと気高《けだか》い気持が浮んでいた。
翌日、彼の機嫌《きげん》は直っていた。いつもの冷笑といっしょに、彼はセヴリーヌの部屋へ入ってきた。彼の腕に抱かれてから、その筋肉の微妙な用心深さで、彼が彼女に苦痛を与えまいと、また彼女の喜びにまで心を使っていると彼女は感じた。その日、彼女はいつもほどうれしくなかった。彼女の喜びが、いまでは単に性欲的な要求とのみは呼びがたいある力によって動かされていると、セヴリーヌに気づくにしたがって、いよいよ減少していった。
昼顔が身を隠す前にも一度、マルセルが、夜いっしょに遊びに出ようと誘ったことがあった。むろん、そのとき、彼女はきっぱり断わった。そのころにはまだ、体面を気にしていたので、彼はこの拒絶に会うと肩をぴくりとさせて見せたきりで、二度とは言いださなかった。この要請が、このごろまた、執念《しゆうね》くぶりかえしていた。彼がかつて知らない特異性をおぼろげながら見知ったこの恋人と、連日、こんな卑しい稼業《かぎよう》の家で会う以外に、何かもっとデリケートな絆《きずな》でつながりたいと思う気持のこれは現われだった。
一方、セヴリーヌも、鈍るにしたがって、ますます不自然な方法でそれを探求させずにはおかない精神性のない肉の歓楽の鉄則からのがれることはできなかった。一度マルセルによって占めた味を、もう一度活気づけるために、彼女は、この若者の生活を包む神秘を心に描く方法をとった。だが彼女のこの空想は、やがて、この手段をも費《つか》いはたしてしまった。このような事情で、彼女といっしょに外出したがるマルセルの懇請に、彼女が耳を貸すようになった。彼女は思った、彼の曖昧《あいまい》な生活を見破ることができるかもしれないと、そうしたら、たといしばらくの間でも、自分の情欲の核心だった以前のあの恐怖を取りかえすことができるかもしれなかった。彼女には、そんな一夜が、とうていありえないと信じられるだけ、それだけ、それを空想に描くことが楽しかった。彼女が、ピエールなしで、夜、おそく外出するなぞということが、どうしてありえよう?
そのくせ、彼女は、無意識に、その機会の到来を待っていた。しかもその機会はやがて来た。機会は、心ひそかに待つ者には必ず来る。手術のための出張が、ピエールに二十四時間の不在を余儀なくさせた。
聖《サン》ジェルマン・ロクゼロア寺院のそばの居酒屋で、マルセルとイポリトは、セヴリーヌの来るのを待っていた。ふたりいっしょだと、たいてい黙っているのだが、このときもふたりは、黙りこくっていた。ただ、今夜にかぎって、いつもふたりの間の沈黙を満たす、あの安堵《あんど》の気持が欠けていた。マルセルが女といっしょに出歩くという事実が、イポリトの不安の種ではもちろんなかった。彼らの仲間の女たちは、いずれも身のほどを知っていて、男たちの話には口も出さなければ、考えごとの邪魔もしなかった。だがその女が、昼顔なのがいけなかった。許可《ゆるし》もなしに、どこかへ行ってしまったりするほどの図太い女を、自分たちの仲間に入れて、ひと晩連れ歩くなぞいう親切を、どうしてマルセルがしてやる気になったのか? 彼は彼女に刑罰を加えることさえできなかったのだ、イポリトは、きっとそうにちがいないと思っていた。彼は、このきざしの中に、ある種の弱気を見てとって、それに悩んだ。それは今日まで、彼自身は知らない気持だった、それは彼が、彼らの勇気と正義とゆえに、愛した数人の男たちをだめにしたのを見た、その気持だった。
――困ったこった。それも、もとはといえば、わしがアナイスの家《ところ》へ連れていったりしたからだ」イポリトがつぶやいた。
ついで、計り知れない過去に鍛えられた経験から、彼は、煙草を巻きながら、考えた、腹がすいたから待たずに飯にしようと。
約束の時間よりセヴリーヌは早く来た。この敬意のあらわれが、大男の気持をいくぶんやわらげた。彼にはまた、マルセルが、昼顔に、
――帽子《シヤツポ》が似あうぜ」と言った、なげやりな調子も気に入った。
それなのに、うれしまぎれにどきどきしているマルセルのほうではかえって、感じるのだった、自分がイポリトの保護のもとにいるのでなかったら、とうていこの調子は出なかったはずだと。
――飯はどこにしよう?」イポリトがたずねた。
|表通り《ブウルヴアル》の有名なレストランの名を、マルセルが、二、三あげた。セヴリーヌは、いちいちみんな、いやだと言った。
――黙っていな。マルセルはわしに相談してるんだ」イポリトがセヴリーヌをたしなめた。
ついで彼はマルセルに、
――こけおどしはたくさん。マリーのところで、うんとご馳走《ちそう》を食おうや。さあ決った」
イポリトは、自分で何か決めた場合、他人の同意なぞは待たなかった。彼は勘定を払って、席を立った。あとのふたりも彼に従った。ただ、席を立つ前に、マルセルが、眼でセヴリーヌの同意を求めた。イポリトの動物的な注意深さが、この動作を見てとった。
――昼顔、さきに出な」彼が命令した。
マルセルとふたりになると、妙に嘆願と強迫のまじった声で言った、
――わしに怒られたくなかったら、もっと男らしくしな……。せめておれといっしょのときだけでも」
イポリトが選定したレストランは、モンマルトル街の入口にあった。三人は歩いていった。セヴリーヌは、悪い夢でもみているような気持で、ふたりのもの静かな男たちの間にはさまって、人気《ひとけ》のない市場《いちば》をすぎて、どこへ行くとも知らずに導かれていった。マルセルがひとりきりだったら、彼女はついてゆかなかったはずだ。それが今、イポリトのひそやかな足音をきくだけで、彼女は逃げ出す勇気をなくするのだった。彼らが入った家の様子が、セヴリーヌを安心させた。パリの秘密生活を知らない者の例で、セヴリーヌも、自分の今宵《こよい》の仲間が、法外の生活をしているという理由で、始終危険な場所でばかり生活しているものと信じていた。それなのに、このこぢんまりしたレストランは、清潔で、愛想のいい家だった。よく磨《みが》きこんだスタンドが、入口近くにあった。手入れのとどいた食器をのせた一ダースほどの食卓が部屋を満たしていた。
――マリーが、喜びますぜ」スタンドの背後《うしろ》に、毛糸の胴着をきて、親切そうな眼つきで、立っている男が言った。
男がていねいに、セヴリーヌにおじぎをしている間に、台所へ通う奥の小さな戸口から、韮《にら》と薬味の湯気に包まれて、肌着《はだぎ》とスカートだけの姿の、円い物がとび出した。
――よく恥ずかしくないわね、あんた方、四日もマリーに会いに来ないなんて。悪党ども」イポリトとマルセルに接吻しながら、彼女が叫んで言った。
南国的な彼女の声は、熱情と若々しさに満ちていた。セヴリーヌは、この女が、自分を見ると、思わずにっこりした。それほどこの女の黒い眼には、好意がみなぎっていた。年不相応に、脂肪が顔をぶざまにしてはいるが、その眼はいかにもぱっちりしていた。
――いらっしゃいまし、お可愛い方。どなたのおつれさんですの?」マリーが言った。
――紹介するから、待ちな。こちらがムッシュー・モーリス、友達だ。(スタンドの男がそれだった。)こちらはマダム・モーリス。(マリーのことだった)」イポリトがいかめしい調子で言った。
次に、セヴリーヌをさして、
――マダム・マルセル」
――あたしも、きっとそうだと思いましたよ。それはそうと、このマルセルって、たいしたもんだね」マリーが母親のような口調で言った。
彼女は冗談をやめて、内緒《ないしよ》話の口調でたずねるのだった、
――何を召しあがります、皆さん? あたしのキャベツ巻はきまってるとして、おあとは何にいたしましょう?」
イポリトが献立を決めた。モーリスが催食酒《アペリチフ》を運んだ。
マルセルはセヴリーヌを抱き寄せた。彼女はいとしげに、彼のなすにまかせた。さほどにこの家のすべてに、強くて壮《さか》んな、何やら禁じられたものの姿があるのが、彼女にはうれしいのだ。
見知らぬ男たちが入ってきて、モーリスとイポリトとマルセルに握手し、セヴリーヌに挨拶《あいさつ》した。なかには、まれに、女を連れているものもあった。女たちはスタンド前には止らずに、連れの男たちが、眼つきか、あるいは短い言葉で指定する卓へ行っておとなしく腰をおろした。これらの男たちには、皆、その肩幅や、服装や、言葉つきはそれぞれちがっても、定義のしようのない一種共通な様子があった。有閑《ひま》らしい様子がそれだった。その様子は、彼らの身ぶりにも、言葉にも、頭の動かし方、機敏で懶惰《らんだ》なその目つきにも、うかがわれた。彼らの話題は、競馬と商売のことがおもだった。商売の話は、すべて隠語で交わされた。
空気の流通の悪い室内は暑かった。マリーの手で調理された、こってりしたご馳走《ちそう》とアルコール分の多い葡萄酒《ぶどうしゆ》が、温度以外にも、激しい炎で内側から人たちを煽《あお》った。イポリトが自慢げに言っていたように、どのテーブルでも、皆お行儀がよかったには相違ないが、そのくせ、彼らの鈍重なものの食べ方、張った肩の曲線、首のかしげ具合などが、セヴリーヌに、自分が怪しい危険な食事をしているという自覚を与えた。彼女は誰をも見ようともしなかった。また他のテーブルで交わされる緩慢な会話に耳を貸そうともしなかった。それどころか、イポリトとマルセルの間の話さえ聞かずにいた。彼女を感覚的な気持のよさでうっとりさせているのは、実に、怪しげなこれら気随な人々の人生の総量だった。(マルセルがよく用いる気随という言葉の意味が、はじめて彼女にわかったような気がした)その総量が、彼女の上に強力な媚薬《びやく》のように作用した。
集まった人々は、女のほか、誰も急いで立とうとする者はなかった。女たちは、ひとりびとり、出ていった。
どんな仕事に行くものか? こう思いながらセヴリーヌは、自分がヴィレーヌ街で経験したものに比べて、その痛ましさの点で決して劣らないものを幻に描いた。
――時間だ」不意にイポリトが言った。「あとの一杯は、他所《よそ》でやろう」
マルセルが、しばらくためらっていたが、イポリトの耳に口を寄せて、ささやいて言った、
――昼顔を……帰すわけにはゆかない」
イポリトが、声を荒くしてたずねた、
――モーリス、お前さんなら、どこか、危ないとこへ行こうというに、女を連れてゆくかい?」
――女が、ついてゆくって言いましょうよ」
イポリトが立ちあがった。マルセルも立ちあがった、それでセヴリーヌも立ちあがった。往来へ出ると、イポリトが、慇懃《いんぎん》に昼顔に腕を与えた。
――あんたは、なかなかしっかりしとる」と言った。
彼は肩をぴくりともたげ、やがて、マルセルに向い、
――それに、たいして危なくもないもんなあ」
死ぬほどの恐ろしさが、セヴリーヌを占領した。恐ろしさの理由は、どんな性質のものやらわかりかねるその危険のためよりは、自分がいよいよ深間《ふかま》へひきずられてゆきつつあるその混乱した世界のためだった。そのくせ、イポリトの腕の接触や、今のあのレストランの空気の不思議な影響で、この恐れは、ついに表面には現われずにしまった。
イポリトが行ったところは、青物市場の前にある、終夜営業の酒場だった。ここまで来るとはじめて悪所《あくしよ》の匂《にお》いがした。よごれたテーブル、引窓のガラスに塗った胡粉《ごふん》、家具の置いてない部屋、眩《まぶ》しいくせに薄暗い照明、こうしたものが、人の心臓を締めつけた。戸外では汗だらけの馬に曳《ひ》かせて、ごつい長靴をはき、太い鞭《むち》を握って居眠りしている男に導かれて、怪しげな荷物を積んだ馬車がゆっくり通りすぎた。一種野性的な空気が、このあたりに満ちていた。
イポリトとマルセルは、火酒《マルグ》を飲んだ。ふたりは外界のことになぞまるで無関心らしい様子だった。ところが、酒場の入口に立ち現われた一群の男を見て、セヴリーヌは自分の恋人の手を固く握った。この瞬間、彼だけが、恐ろしい災害に対して彼女を護ってくれる唯一のもののように思われたのだ。
マルセルは食いしばった歯の奥で言った、
――静かに……。おれが来てよかった、相手は三人だ」
入ってきた男たちは、イポリトのテーブルへ来ておとなしく腰かけた。中でいちばん小がらの、痘瘡《あばた》男が、すばやい視線をセヴリーヌの上に投げた。
――安心して喋《しやべ》りなよ。こいつはマルセルの女だ」イポリトが言った。
セヴリーヌの頭は、空《から》っぽで重かった。もっとも、そうでなくとも、彼女は、男たちの間に交わされる会話の意味はわからずにしまったはずだ。なにしろ手っ取り早い、神秘なやりとりなので。喋っているふたりの男の、それぞれの仲間の者は、自分らがそこにいるという事実と、自分らの沈黙の力で、それぞれの味方に加勢した。不意に、セヴリーヌは痘瘡男がつぶやくのをきいた、
――ぬすっと」
ついで、彼女は見た。マルセルが、上着のポケットに手をやるのを。相手の三人も同じ身ぶりをした。さいわい、イポリトの拳《こぶし》がマルセルの手をおさえた。
――よせ。こんなやくざと喧嘩《けんか》してもしかたがねえ」と静かに言った。
彼はテーブルを脇《わき》へ押しやり、ポケットに隠れた痘瘡男の手首を引出した。男の指はピストルをしっかり握っていた。イポリトが、自分の腹に男のピストルの銃口《つつさき》をあてがって、言った、
――撃てるなら撃ってみな」
一瞬、男が発射《う》つだろうと皆が思った。ついで彼の眼光が、イポリトのそれにおされて、まばたいた。それを見ると、イポリトが命令した。
――出しな。貴様が持ってることはわかっとる」
催眠術にでもかかった人のように、痘瘡男が、もう一方のポケットから、包みを一つ取出し、イポリトに渡した。
――目方はどうやらあるようだ、帰ってよし」イポリトが言い放った。
三人の男は、戸口の方へと行った。マルセルが彼らのうしろから叫んだ、
――≪ぬすっと≫とぬかしたことは忘れるな。いずれまた会ってお礼はするから」
――あんたの男って、たいしたたちだ」イポリトが、自慢げに、セヴリーヌに言った。
一種、眩暈《めまい》のような気持が、セヴリーヌをふらふらさせた。だが、それはもはや恐怖ではなかった。ふだんより大きく、ふだんより美しくなった彼女の眼が、マルセルの眼を見つめていた。自分の勇気に、いきなり死に向って飛びかかろうとした行為に、女が感心しているのだと彼は解した。
――あの痘瘡面《あばたづら》、きっといつかやっつけてやる。この前の奴みたいに、ヴァルパライソまで追っかけても、きっとやっつけてやる……」彼が叫んで言った。
イポリトが、きびしく口をはさんだ、
――自慢ばなしなんかよせ。それより行って寝てしまいな。わしはこれからひと稼《かせ》ぎだ」
彼はセヴリーヌをかえりみた。
――あんたはなかなかしっかりしてた。ちっと分けてやろうか?」
彼女には、何をやろうと言われたものかわからなかった。わからぬままに拒絶した。
――ないほうがいい。こんなものなんか、疲れた奴らが使うんだ。仲よくしなよ」イポリトが言った。
マルセルと二人きりになると、セヴリーヌがたずねた、
――何をくれるって言ったの?」
すると、彼女の情夫が、気持のわるげな様子をはっきり見せて、答えた、
――コカインだよ。あんたの目の前で、痘瘡面から半ポンド巻きあげたのさ。これから、あれを売りに行くんだ、これでひと月、金には困らない」
セヴリーヌは、マルセルの家へも、他の地域へも行きたくなかった。彼女にはヴィレーヌ街も、あの居酒屋も、マリーの店も、いまそこから出てきたあの酒場も、すべて皆ふくまれているこの地域だけが、自分の放埒《ほうらつ》にふさわしい土地のように思われた。ただ彼女は、自分のさきがたからの、さまざまな経験に刺激され、マルセルに齧《かじ》りつきたいほどの情欲を感じた、それで近くにある怪しげなホテルへ、連れこまれるままにした。そのホテルのみじめな部屋で、彼女は霊妙至上の歓喜を味わった。
夜が明けかかると、セヴリーヌは早くも、ベッドから降り立った。
――あたし、帰らなければなりませんの」彼女が言った。
この一夜によって、その生来の本能に立ちかえったマルセルがしばらく逆《さから》った。
――冗談だろう?」脅《おど》かすように彼がたずねた。
――帰らなければならないんです」彼女が繰返した。
彼の手から、彼女が革帯《バンド》を奪いとったあの日同様、名状しがたいある力が彼女を支持しているので、何者もそれに勝ちえないと彼は感じた。
――じゃよし。そのかわり、送ってくぜ」彼がつぶやいた。
――それもいけないの」
またしても、自分の生命を死守する者の抵抗しがたい眼光が、マルセルに譲歩させた。彼は、タクシーのところまでセヴリーヌを見送って、帰してやった。車のテイル・ライトが見えなくなるまで、彼はものに魅せられた人のように、そこに立ちつくした。ついで、口ぎたない謗《ののしり》を発して、さて、そのうえでイポリトに相談に行った。
自家《うち》へかえって、自分のベッドに入ると彼女ははじめて、考えることができた。あのとき、もしイポリトの眼と手が、あの速度で動かなかったら、もし痘瘡面《あばたづら》の小男が発砲したら、事件はどうなっていたことやら。こう思うと、彼女は熱病患者のように、わななきだした。
数時間後に、疲労を顔に刻んで、ピエールが帰ってきた。
――ひとりで置いていっちゃいやあよ。あたし、あなたなしには生きられないんだから」嘆願するように、彼女が言った。
マルセルは、四、五日の間、ヴィレーヌ街に顔を見せなかった。セヴリーヌは別に気にもとめずにいた。彼女はすでに、何物をも彼から期待してはいなかった。その日、顔を見せるといきなり、彼が言いだした。
――今夜、いっしょに出よう」
彼女は落着きはらって拒絶した。彼女には、害のない見ず知らずの男の前にいるような気持だった。マルセルのほうでも、何も粗暴なことはしなかった。やさしいといってもいいくらいの声で、彼がたずねた、
――なぜ、出たくないのか、言ってくれない?」
――あたしが自由にならないことは、この家《うち》の誰でも知っていますわ」
――そんなら自由になったらいいじゃないか。いるものは何だっておれが出してやる」
――それができないんですの」セヴリーヌが答えた。
――じゃ、その男を愛してるんだね?」
セヴリーヌは沈黙を守った。
――よし、わかった」つぶやくと、マルセルは出ていった。
彼女は、決定的に、彼を馴致《じゆんち》しえたと信じた。ところが、マダム・アナイスの家から出ると、マルセルかイポリトがついてきはしないかと、幾度もふり返って見た。別に怪しげなものも見当らないまま、彼女はわが家へ向った。
その日の晩、ブランシュ広場の酒場で、イポリトとマルセルは、黙りこくって飲んでいた。まだ子供々々した若者が来て彼らに加わった。
――ムッシュー・イポリト、みんなわかりました。電気屋に化けて見てきました」敬意の感じられる口調で彼が言った。
彼は昼顔の本名、住所、階数まで告げた。
イポリトは、スパイを帰してから、マルセルに言った、
――これで、いつでも勝手のときに会えるわけだ」
この世の中で彼が愛していたたったひとりの人間にとって、この計略が、どんな運命を持ちきたすかということがわかっていたら、血を見ることはもとより好まぬイポリトながら、あの青ざめた顔をしたスパイが、口を開くより先に、殺してしまっていたはずだ。
律儀《りちぎ》な気持のせいであったか、それとも、打勝とうとして打勝ちえないより複雑な感情のためであったか、いずれにせよ、マルセルは最初の数日間、セヴリーヌと戦うためにせっかく手に入れたあの武器を使用しかねた。こうして彼が躊躇《ためら》っていた間に、別の影が一つ現われた。
ある木曜日の四時ごろ、(細かいことまでがいちいちセヴリーヌの記憶に、深く焼きついて残った)マダム・アナイスが、三人の女を呼びに来て、特別の注意を与えた、
――きれいになっていらっしゃいよ。立派なお客さまだから。皆に来てもらいたいんですとさ」
仲間についてゆきながら、セヴリーヌは、何の予感も持たなかった。落着いた足どりで、美しい肩をほこりながら、彼女は広い部屋へ入っていった。男は窓に向って立っていた。男の背中だけが見えた。それなのに、この痩《や》せた、骨っぽい肩を見ただけで、セヴリーヌはたじろいだ。あやうく彼女はドアを排し逃げ出して、地の中へでももぐりこみたかった。そうさえしたら、マダム・アナイスとも二度と会わずにすむはずだった。だがこの動作を、セヴリーヌは果さなかった。ヴィレーヌ街の家へ今日はじめて来たその客が、ちょうどこのとき、くるりと向き返った。と、一瞬、セヴリーヌは全身の力が抜け、一歩身じろぐことも、身内に満ちあふれる苦しいすすり泣きの声をたてることも、できなくなっていた。
アンリ・ユッソンの力のない細い眼《まなこ》が、彼女の上にとまった。それはほんの一瞬にすぎなかった。それなのに、セヴリーヌは、何ものもふたたび彼女を自由にすることのできない綱で身を縛られたような気がした。この視線の針先に比べたら、イポリトのあの重圧的な巨大さが、なんと軽快なことか。
――こんにちは、皆さん。おかけなさい、どうぞ」ユッソンが言った。
――親切な方ね、マチルド?」シャルロットが声を高くして言った。
交わされたこの二つの声の響きと、自分の生活の二つの面の暴露が、セヴリーヌを完全にうちのめした。彼女は倒れるようにして、椅子《いす》に身をもたせた。両手を固く握り合せることによって、死ぬほど痙攣《けいれん》している指の間に、わずかに残る理性と生命とを引留めようとするらしかった。
――旦那《だんな》、何か召しあがりません?」マダム・アナイスがたずねた。
――ええ、いただきますとも……。何なりと、皆さんのお好きなものをもらいましょう……。何とおっしゃるんです、皆さん? あ、そうですか、マドモワゼル・シャルロットに、マドモワゼル・マチルド、それから……昼顔ですか? 昼顔とは……これはまた珍しい、いい名ですな」
彼は、自分の声の音楽的な魅力のありったけを、人をじらす力のありったけを利用した。セヴリーヌの両手は解けほぐれた。彼女の両腕は、意気地なくふわふわして、藁《わら》かなぞでできているように、体《からだ》の両側にだらりとぶらさがった。
酒が運ばれた。シャルロットが、ユッソンの膝《ひざ》に乗ろうとした。彼は、愛想よく、それを避けた。
――あとにしましょう、マドモワゼル。今はこうして、あなた方とお話をしているのが楽しいから」彼が言った。
彼は意味もない四方山《よもやま》の話をした。もっとも、その言い回しに深く注意しながら、次第に早口になっていった。それらの言葉のひとつひとつが、セヴリーヌの魂を塊一塊《かいいつかい》と引裂いていった。彼女は、恥ずかしさも、恐ろしさも感じなかった。ただ、どんな気持よりも不快な、一種の居心地悪さを感じた。同じ手際《てぎわ》のよさを用いて、彼はシャルロットに、二重の意味のある返事をさせたり、肉感的な笑い方をさせたりした。彼は、このコントラストの遊びを一時間あまり続けた。その間、彼は、まれにしかセヴリーヌの方は見なかった。ただ見るとなると、瞼《まぶた》に軽いわななきの皺《しわ》がよった。そのたびにセヴリーヌは身の毛もよだつ思いをしながら、このかすかな動作が、どんなにか深い情欲をさらけ出しているのかを知らされた。
「この自分の情欲を満足させ、またそれを増幅させるためだったら、この人は何をしでかすかしれたものではない」と、こう、情欲を追う者が、どんな絶望的な危うい道へも踏みこむものかを知るだけに、彼女は、考えた。
ところが、ユッソンは、酒の代金を支払い、数枚の紙幣をマントルピースに置くと、言うのだった、
――どうぞ皆さんで、このスーヴニールをお分けください。では、さようなら」
自失の状態にあったセヴリーヌは、彼が部屋を出るに任せた。彼がいなくなってはじめて、狂おしい反射作用が、彼女に、男のあとを追わせた。彼女には知っておく必要があった……、保証を得ておく必要があった……。ユッソンは、寄りつきの部屋でマダム・アナイスと別れの挨拶《あいさつ》をしていた。本当に帰ろうと思っていたものか、それとも、セヴリーヌが追いすがってくるのを待ち受けていたものか? たぶん、彼自身もそれは知らなかったはず。なにしろある種の表情、ある種の変態だけが自分に与えることのできるまれな歓楽の方へ、身を導かせる世話の一切を、自分の病的な本能に任せている彼なので。
――お待ちください。どうぞお待ちください……」片手をユッソンの方へさし延べながら、セヴリーヌが口ごもった。
――何ですね、昼顔。あんなにお行儀いいあなたが! 旦那《だんな》が何とお思いになるでしょう」マダム・アナイスが言った。
この注意喚起の効果を少しでも無にしまいと、ユッソンは数秒の間、沈黙したが、やがて言った、
――この奥さんと……二人きりで置いてもらいましょう。絶対の水入らずで」
――昼顔、あなた何ぼんやりしているの? 旦那《だんな》をお部屋へご案内なさいな」マダム・アナイスが叫んだ。
――あすこはいやです。あすこはいやです……」
――いつもなさるようになさってください。私のために習慣をお変えになったりしてはかえっていけません」いくぶんわななく声でユッソンが言った。
部屋へ入って、ドアをしめてしまうと、ヒステリックな饒舌《じようぜつ》がセヴリーヌの身内からこみあげてきた、
――どうして、こんなことをなすったんです? よくも、こんなことがおできでしたわね? 偶然だなんておっしゃってもだめです。あたしがここにいるとご承知だったのですから……。あたし、あなたからこの家の番地は教わったんですもの。なぜこんなことをなさるんです?……なぜなんです?」彼女が叫んで言った。
ふと、ある仮想が心をかすめたので、彼女は相手に返事をする間も与えずに、
――まさか、こんな手段で、あたしを手に入れようとなさるんではないでしょうね。もしそうでしたら、往来の人を呼びますよ。窓から飛びおりてなりと逃げ出しますよ……。そばへいらしってはいけません。そこに立っていらっしゃい。あなたみたいに、いやな男ってあたしまだ見たこともありません」一層もっと早口に彼女が言った。
――これがあなたのベッドですか?」ユッソンが落着きはらって言った。
――あなたが探《たず》ねていらっしったのは、これなんですね。そうです、これがあたしの部屋です。これがあたしのベッドです。このうえもっと、何がお知りになりたいんですの? あたしがすることですか、あたしのしかたですか? 写真にとりたいんですか? あなたって方は、あたしがここで見たどの男より下等です」
彼が、あまりに楽しそうに聞き入っているのに気づいて、彼女は黙った。
ユッソンはしばらく待ってみた。やがて、セヴリーヌが、わざと黙っていると気づくと、彼女の手をとって、自分の寒がりの細い指先を動かして愛撫《あいぶ》した。感謝と、悲哀と、同情との交りあった深い疲労が、彼の顔を曇らした。
――おっしゃることは、みんなごもっともです。でも、誰に、あなたよりよく、これを赦《ゆる》してくれることができましょう?」小声で彼がしみじみとつぶやいた。
セヴリーヌは、この答えになぎ倒されたような気がした。彼女はベッドの上に打倒れた。粗野な売女《ばいた》のような彼女の姿と……紅い羽根|布団《ぶとん》が、すでに消耗しつくしたと思われたユッソンの快楽を、もう一度呼びさました。彼は無言で、心ゆくまでその快楽に味わい耽《ふけ》った。ついで、一層深い疲労と、悲哀と、同情で、へとへとになって、彼はくずおれた。
しばらくの間、セヴリーヌと彼は、理由のわからない不治の病にとらわれた哀れな動物のように、おとなしく、互いに顔を見合っていた。
ユッソンが身を起した。ふたりをこの部屋にいっしょにいさせる仲介となった悪の力をもう一度呼びさますのを恐れでもするかのように、彼は小さなもの音ひとつ立てまいとした。それなのに、セヴリーヌはまだ、自分の生命《いのち》をとり返してくれるはずの唯一のものの、あの保証を与えられていなかった。
――しばらく、ほんのしばらく、お待ちください」彼女が嘆願した。
熱のこもった彼女の哀訴の声が、またしてもユッソンの弾力ある瞼《まぶた》に皺《しわ》を寄せた。自分の懊悩《おうのう》にもっぱらな彼女は、それには気づかなかった。さきほどから、ベッドの上に倒れたままの姿で、もがいたので裾《すそ》も露《あら》わにまくれあがったまま、紅い羽根布団の上に両手を組み合せて、彼女がつぶやいた、
――ねえ……ピエールには何にも知らさないと……誓ってくださいます?」
どんな変態好み堕落の瞬間にも、ユッソンはさすがにまだこんな恐ろしい告げ口をしようと考えたことは一度も、ないのだった。まして、運命的な重要さを持ったこの今のとき、こんな告げ口をしようなどとは、つゆ思ってもいなかった。ただ彼には、セヴリーヌが自ら求めて提供してくれるこのゆっくり楽しめる快楽を、むげに捨て去ることは、どうしてもできかねた。彼女がいつまでも、その裂けたような顔の表情を続けるようにしたいと思って、彼はわざと曖昧《あいまい》などっちつかずの身ぶりを見せた。
そのまま、彼は出ていった。ひとつには、自分のとった態度をこのうえ続けることが不可能なのと、ひとつには、今日自分が摘《つ》みとったこのきわめて思いがけない、そして有毒な果実を失いたくなかったので。
階段へ出る重いドアのしまる音を、セヴリーヌは聞いた。彼女は立ちあがりさま、マダム・アナイスのところへ駆けていって、いきなりその両手の手首を掴《つか》むように握って、狂女のようにささやいて言った、
――あたし行きます。あたし行ってしまいます。あたしのことは忘れてください……。人が調べに来たら、あたしがどんな女か、身もとはごぞんじないとおっしゃってください。あたしを無理にここへ連れてきて調べるようなことがあったら、一度も見たことのない女だとおっしゃってください。毎月、千フランずつ差しあげます。それとももっとあげましょうか? それでよございますの? ありがとう、マダム・アナイス……。大変なことになったんですの……」
この夕《ゆうべ》、ピエールの帰りを待ちながら、セヴリーヌが過した時間は、言いようもない時間だった。彼女は、夫に会うときが待ちきれないほどだった。それと同時にまた、彼女には、それが恐ろしくもあった。夫はもう知ってしまったろうか? ユッソンは、病院の所在《ところ》を知っていた。だからマダム・アナイスの家から、すぐに行ったとしたら……。不意に、セヴリーヌは思い出した、彼とピエールはふたりながら、同じ運動《スポーツ》クラブの会員だったと。ピエールは、クラブへはめったに行かなかったが、おりあしく、今日行かないとは限らぬではないか?
恐怖も極度に達すると、それを悩む人にとって、ちょっとした可能性までが必然性のように感じられる点で、嫉妬《しつと》と同じだ。セヴリーヌがふれた仮想のひとつひとつは、さっそく彼女の心の中で事実と変ってしまった。不幸なことが持ちあがるはずだと彼女はもはや疑わなかった。完全な、そのくせ理由のないこの恐怖の結果、彼女の苦しみの当初から、セヴリーヌは、ユッソンが夫に告げるだろうとの考えを不変の真実としていだいていた。彼を喋《しやべ》らせずにおく、道徳も法則もありえないと、彼女には思われた。すでに彼女は彼に備わるブレーキに、何の力もないことを、自分で試《ため》して知っていた。頽廃《たいはい》している点で、彼女を自分の複製のようなものとして取扱ったとき、彼はすでに、彼女に対しては何の手心もしないと宣言したわけではなかったか? だから、彼が夫に告げることは、疑う余地のない事実だった。いつ? このことは、彼の中に住む悪魔だけが知っていた。彼女の中に悪魔が住んでいたと同じように……。
力ない眼を泣きはらした、哀れな人間、彼女以外には誰あって、いかに彼女が激しく、またいかに力なく、無情冷酷なわが身の淫乱《いんらん》と戦ってきたか、知る者とてはひとりもなかった。彼女にはいま、良心の呵責《かしやく》も悔恨の念もなかった。すでに彼女は、これまで、蹉《つまず》きがちな一歩一歩を運ぶにあたって、深く自分の肉の中に食い入る無情な手があって一度は一度より深い轍《わだち》の跡へ自分を引きずりこむと余りにも感じすぎてきた。あの燃えるような、そして泥まみれの、わが身の来《こ》し方、その道程《みちのり》の一つ一つを、彼女はまたも繰返したはずだった、もしも運命が、その断片《きれはし》の一つでも、やりなおすことを許してくれるとしたら。彼女はそれを知っていた、彼女にはそれがわかっていた。ために彼女は、自分のこの断末魔の懊悩《おうのう》にあって、前非を悔いるあの刺すがごとき慰めも、ユッソンを憎む腹いせも、持ちえないのだった。彼もまた、凶《まが》の神々によってしるされた自分の道を、たどりゆく哀れな一つの姿として、彼女の眼に映るのだった。今や、恐るべき罰が、犯した罪のゆえに、彼女を捉《とら》えようとしている。いかにもそれは、彼女が犯した罪には相違なかった。しかしそれにしても、その罪は、弱い頭を眩惑《めまい》が襲うとき、人が滑《すべ》って転《ころ》ぶと同じような事情のもとに犯された罪だった。このわが身の不運に思いいたると、セヴリーヌの恐怖は、自分とピエールとの仲がどうなるかとの懸念ばかりでなく、彼女に向って、あらゆる毒虫と侏儒《こびと》と巨人と媚薬《びやく》とを用いて誘いかかる暗黒な世界の存在が感知されることにあった。ときどき、彼女はかすかなすすり泣きの声をたてた、路に迷うた女の子のように。
どんな無理をしても、自分の愛を護ろうとする(これが彼女の信念だった)彼女の本能の激しさから、ピエールが近づいてくると知ると、彼女は泣きくずれた顔に平気を装うことができた。だがさすがに、立ちあがって出迎えるまではできなかった。耳に入る、彼の動作の音は、いちいち打撃となって、彼女の胸に反響した。ピエールの足音は落着いていた……。彼は帽子を脱ぐと、廊下の鏡の前に立ち止った……いつもするように。それとも、今日は特に、あまりに野性的、あまりに身を裂く感情をこらえるために、それをしたのではなかったか。呼吸《いき》を殺しながら、セヴリーヌは、夫が入ってくるはずの戸口を見つめた。ひと目で、彼女にはわかるはずだ。一秒は一秒ごとに、悲痛な確信を彼女にもたらした。ユッソンが、告げ口を待ったりするはずは、ありえないことではないか? 何ものも制御することのできないあの悪の力強さを、彼女自らも知っていた……。彼女は、大きな虫が耳の中で動いているような気がした。虫が音をたてるのを急にやめた。ドアの把手《とつて》が動いた。
もしセヴリーヌが自分を訪れたこの霊妙な安堵《あんど》の気持が一時的なものだと知らなかったら、彼女はそれを与えた苦悩をむしろ、祝福したはずだ。急に解放された堰《せ》かれた水のように、セヴリーヌの身内《みうち》に、見る間に、生命が流れだした。ピエールが彼女に向って微笑していた。ピエールが彼女に接吻した。明日《あす》が来るまで彼女には、何の恐れることもなかった。幸福の湯気《ゆげ》が彼女の眼をうるおして、涙に清らかさとやさしさを与えた。
ふたりは一つベッドに夜を過した。ピエールが寝つくのを待って、彼女はわずかに身を起した。彼女は眠りたくなかった。死刑囚でも、死ぬ前の最後の時間は、かつて自分の愛したものの思い出を揺《ゆす》ぶって過すと言うではないか? 今、セヴリーヌは、ピエールの寝息に聞き入った。
――この人、あたしのものです、まだあたしのものです……。でも、やがて行ってしまうはずです……」彼女は独語した。
この美しい顔、この見事な肉体、彼女のことでいっぱいに満ちあふれているこのやさしい心、それらのものもやがて、荒れ果ててしまうはずだった。ピエールの髪の上にうなだれて、セヴリーヌは、なかば無意識に、つぶやいた、
――可愛いあなた、大事なあなた。どうぞお耳に入るときが来ても、あんまり悩まずにおいでください。なんで、お悩みになる必要がありましょう。あたし、一層深い愛で、あなたを愛しております。それは、あんなさまざまなことをせずにいたら、あたしも知らなかったはずの愛です。ですから、あまり悩まずにおいでください。あなたがお悩みになると、あたしたまりません……」
彼女は、枕《まくら》の上にくずおれた。彼女は、彼のために、自分のために、泣いた。彼女はまた霊と肉と、互いに相容れない二つの部分に分れている人間の身の上を、各自が自分のうちにいだいていながら、他人にそれを赦《ゆる》さないこの悲惨事を、泣いた。
次に、彼女は、ふたりの共同生活の一部始終を思い出した。永久に忘れたと信じていた細かいことまでが、記憶に上ってきた。彼女は、それらの思い出のひとつごとに、ピエールの頭や肩にさわってみた。そして禁呪《まじない》のように繰返して言った、
――悩まずにいらしってください……悩みすぎないようになさってください。あたしのことは、どうなさろうとかまいませんが、お悩みになることだけはなさらずにください」
思い出と、苦悩と、祈願のうちに、彼女は、夜の白みゆくのを見た。はじめてマダム・アナイスの家へ行ったときにも、すでに一度セヴリーヌは、この夜明けのほのかな光が、彼女の絶望をもたらすだろうと信じたことがあった。あのときの子供らしい恐怖を思い出して、セヴリーヌは自分が、いじらしくなった。何のきざしもないのに、必ず見あらわされるものと思いこむなんて、なんと彼女が世間知らずだったことか。あのときは、隠すも現わすも、すべて彼女一人にかかっていた。それなのに、今度はどうだ?……。一人の男が、そのたったひと言の力で、世にもうれしい自分の家庭生活を、恐るべき泥沼に変えることができるのだ。しかもそのひと言は、必ずその男の口を出るはずだった。ユッソンは、彼の瞼《まぶた》を凹《へこ》ませるあの喜びには抵抗できないはずだった。
ピエールが目をさましたので、彼女はもの思いをとどめた。なんとこの一夜が、短かったこと。
病院への夫の出発を遅らせるため、セヴリーヌはできるだけのことをした。往来には、危険が一面に撒《ま》かれているように、彼女には思われた。辻々《つじつじ》に、彼女はユッソンを、またはその回し者を見た。それなのに、ピエールは出してやらなければならない人だった。
――きっと昼食《おひる》には自家《うち》へおかえりになるわね? 大丈夫でしょう? ……約束してくださる?」別れぎわに彼女がたずねて言った。
そのときから、午前の時間が、一秒一秒、セヴリーヌの心臓の血を一滴ずつしぼりながら流れはじめた。これらの短い時の単位の一つ一つのいずれもが、ピエールに事実を知らせることができるのだった。しかも、彼が彼女から離れていなければならない時間は、なおおびただしく残っていた。ユッソンのこと……。ピエールのこと……。ピエールのこと……。ユッソンのこと……。彼女はたえず、二つの顔を幻に描いて見つめていた。すると彼女が愛する顔が、他の顔の前で、青ざめて、ぼんやりして、ガラスのように透明になった。彼女の精神の働きが、この尖《とが》った一端に集中され、脳の組織を錐《きり》のように貫き、発狂に導きそうだった。セヴリーヌは、これ以上このような不安の突貫に耐える力は自分にないと気づいた。ピエールが、彼女のそばから離れないようにしなければならなかった。ピエールといっしょにどこかへ行ってしまったらどうだろう? だが、彼は承知してくれないはずだ。このいちばん有効な武器を、彼女はすでに使い果してしまっていた。それに、はたしていちばん有効だろうか? どのみち一度は帰ってこなければならないのだ。それなのにユッソンはいつまでもパリに待っているはずだった……。
正午が鳴ると、前夜のそれより一層無慈悲な苦悩が、セヴリーヌの想念《おもい》を鎖でつないだ。過ぎゆく分秒が、休みなしに、彼女に与えられた猶予期間を縮めつつあった。危険は嵐《あらし》のように、積み重なって、一秒は一秒ずつ、ユッソンが選んだその時間を近づけた。そのことを思うと、セヴリーヌの眼は霞《かす》んだ。たとえピエールがそばにいてくれても、自分の咽喉《のど》を締めるこの結び目は解けないはずだと思われた。
この期《ご》におよんでもなお、セヴリーヌは、不可視の、しかもあからさまなその敵に対して、闘いつづけた。
しばらく戦々兢々《せんせんきようきよう》として、夫に対したあとで、彼がまだ知らずにいるとの確信をえたうえで、彼女が言った、
――あたし、さびしいんですの。あなたあたしのそばから離れられないと、電話で病院へ断わってくださらない?」
彼女は、重い病にかかった小娘のように可愛らしかった。彼は拒みかねた。
その日の午後の間、彼はセヴリーヌが、自分に向って投げかける激しいむさぼるようなまなざしに驚きつづけた。今の自分のこの安心の、哀れにもかりそめな短さを知るので、彼女のまなざしが、こうまで燃えさかるのだった。この安心も、名ばかりのそれではなかったか。電話のベルが鳴るたびに、彼女の心臓はとまった。おしまいには、彼女はもう我慢ができなくなって、自分で電話へ出た。
――退屈しのぎになりますわ」おどおどしながら、彼女が言い訳をした。
やがて郵便の来る時刻になった。ピエールが、封を切る前に、まず封筒を調べている間、セヴリーヌは気絶しそうだった。
顔と声を、乱すまいと努力して過した数分間のあとで、彼女は勇気を出してたずねた、
――変ったことありません?」
――ないよ」この返事が、どんな耐えがたい重荷を、妻の肩からおろすかは知らずに、彼が答えて言った。
その夜も、二人は一つベッドで寝についた。自家《うち》の中にさえ危険が機会を狙《ねら》っているような気がして、彼女がやがて失おうとしている男の肌《はだ》に触れていないと、安心ができなかった。これを最後に、二度と聞くことはできまいと思われる、夫の幸福な寝呼吸《ねいき》をうかがいながら、彼女は眠れなかった。
新しい日が来て夜が明けるとき、それは一日だけ露見の日に近づく意味なのだが、ピエールをこれ以上自分のそばに引きつけて置いとくことはできない相談だった。いっそのこと、自分で白状してしまおうか……。しばらくの間、彼女はそうする決心だった。自分の口から夫が知るほうが、まだましではないだろうか? だが、しばらくすると、やがてまた、自分にはそれができがたいように感じられた。夫は、またしても、あの男がまち伏せしている市中へ出てゆくはずだ。ふたりは出会うはずだ……。そうなったら……。と思う刹那《せつな》にセヴリーヌは意識を失って打倒れた。
彼女が気絶していた時間は短かった。彼女を倒した恐怖の力それ自身が、彼女を正気にかえしてくれたのだ。まだ彼女には、数時間残されていた、せめてその時間だけでも利用して、考えたり、計画したりすべきだった。ユッソンに会いに行こうかしら、会って嘆願したらどうだろう……いや、いや……。それはかえってためになるまい……。それはむしろ最大な過誤だ……。売春婦としての自分のベッドに横になった姿で、黙っていてくれるようにと嘆願したときと同様、彼はまたしても、彼女の恐怖の様子から快楽を味わうにすぎないはずだ。それではかえってためにならない……。あの男には、あべこべに、彼女が何も恐れていないと思わせなければいけないのだ。そうしたら黙っていてくれるかもしれない……。完全な絶望というものが、あまりにも耐えがたいものなのでセヴリーヌは、このはかない希望にすがりついた。
この朝、ユッソンがセリジーの家へ電話をかけた。彼はピエールが病院へ行って留守だと知っていた。セヴリーヌが出るだろうと、彼はあてにしていた。彼の気持には好奇心以外なにもなかった。先の日、狼狽《ろうばい》のうちに、彼女が信じたように、彼に告げ口なぞいうひどいことができうるものだと、いまだに彼女が信じているだろうか?
≪彼女がもし、僕が告げ口なんかするはずはないと思っているなら、そうだと言って裏書きしてやろう。もしまた、まだ心配しているようだったら、安心するように言ってやろう≫彼はこう思っていた。
ところが、電話へ出てきたセヴリーヌの態度は、そのいずれでもなかった。ユッソンが、ピエールに言ってしまうために電話をかけてきたものと思いこんでいるので、自分で計画しておいた策戦にだけ忠実に、彼女はつっけんどんに答えて言った、
――主人は留守です」
そしていきなり受話器をかけた。
この絶望的な動作を、ユッソンは、一度や二度のはずかしめでは、へこまない彼女の矜《ほこ》りの現われと受取った。
≪いずれ嘆願に来るまで、ほっといてやれ≫と彼は思った。
この電話の後、一時間ほどして、小間使が、一人の男がお目にかかりたいと言っている、とセヴリーヌに告げた。
――名はおっしゃいませんが、口じゅう黄金《きん》の変な方です」小間使がつけたした。
――お通ししなさい」
もしこれが、ふだんの場合だったら、マルセルが訪《たず》ねてきたという事実は、彼女を仰天させたはずだ。ところが、今のせっぱつまった場合とて、彼女は少々驚いた程度にさえすぎなかった。ユッソン一人が彼女の気がかりだった。この固定観念が、他の出来事に対して、彼女をまるで無関心にしていた。マルセルも……イポリトも……。彼らはすべて、自然な反応を見せる男たちだった。見とおすことも、先を越すことも、必要な場合には満足を与えることも、容易な男たちだった。ところが、あの痩《や》せた、寒げにしている男は、彼女の肉体を奴隷にして快しとせずに、その魂を撓《たわ》めることを喜びとする男だった……。
――こんにちは、マルセル」不思議なやさしさのこもった口調で、セヴリーヌが迎えるのだった。
この応対が、彼が用意してきた激烈な言葉を塞《ふさ》いでしまった。セヴリーヌのあけすけでさびしげな様子が、この応接室によって与えられる窮屈な気持を、いよいよ深くした。薄らいでゆく怒りと、深まさる賞讃《しようさん》の念《おも》いの混じりあった気持で、彼は彼女を眺《なが》めた。彼はいまはじめて、会うたびに、その手足のしなやかさと、動作と言葉づかいに、おぼろげながら優《すぐ》れたものの感じられる彼女を、そのあるべき場所で眺めたわけだ。
――どうしたの、マルセル?」同じうつろなやさしさをこめて、セヴリーヌがたずねた。
――おれがここへやってきても、驚かないのかい。どうしておれがここを見つけ出したかも訊《き》きもしないのかい?」
彼女が、あまりにもせつなげな身ぶりをするので、かえって彼のほうがせつなくなった。彼は自分で思っているより以上に、彼女を愛していた。なぜかというに、彼はこのときすでに自分のことは忘れていたほどだから。
――いったいどうしたんだ、昼顔?」ほっそりしていても、凄《すご》みのあるその体《からだ》を静かに動かして彼女に寄りそうと、彼がたずねた。
セヴリーヌが、おそるおそるドアの方をかえりみて言った、
――その名をおっしゃってはいけません。だめです」
――あんたのいいようにするよ。あんたを困らせに来たんじゃないから。(彼は本当に、実は自分が強請《ゆすり》に来たのだと忘れていた)なぜあんたがいなくなったのか、どうしたらあんたに会えるか、それが知りたくてやってきた。これだけは言っとくが、(彼の顔に、やむにやまれない気持の表情が浮んだ)あんたに会わずにはいられないんだ」
セヴリーヌは、情愛のこもった驚きの表情で、うなずいて見せた。彼女には、未来のことなぞを人が考えたりできるという事実までが、すでに不思議に思われた。
――だって、だって、みんなもうだめになったのよ」彼女が答えて言った。
――みんなって……何が?」
――あの人が、みんな言いつけてしまうわ」
いかにも錯乱した格好で、彼女が肩をすぼめるので、マルセルは気味が悪くなった。この会見の最初から、彼には彼女の頭が少し変なのに気づいていた。
彼女が落ちこんでいる不吉な夢見心地から引出してやろうと、彼はセヴリーヌの指をきつく握った。
――はっきり言ってくれ」彼が言った。
――困ったことになっちゃったのよ、マルセル、夫が何もかも知ってしまいそうなの」
――じゃ、やっぱり、あんたは結婚していたのか?」若者が静かに言った、嫉妬《しつと》と、尊敬と、そのどちらが多く含まれているとも言いかねる声だった。
――あれがそれか?」
彼はそこにある写真をさした。このピエールの肖像が、セヴリーヌのいちばん好きなそれだった。偶然がこの写真の上で、彼の眼を、あるがままの率直さと若々しさに見せていた。
すでに久しく、セヴリーヌは、この写真をふだんの習慣として見るともなく見る以外、こんなに注意して眺《なが》めたことはなかった。マルセルが発した質問がこの絵姿を身にしみる生々《なまなま》しいものにしてくれた。わななきが彼女をゆすぶった、彼女がむせび泣きながら言った、
――だれだって、あたしたち夫婦の仲をさくことなんかできないわ」
ついで、熱意をこめて、
――あなた、帰ってください、帰ってください、あの人が戻ってくると大変ですから」
――なんなら、おれが手伝ってやろう」
――だめ、だめなの、誰にも手伝いなんかできないことなの」
あまりな勢いで、ドアの方へ押しやられるので、彼には抵抗さえできなかった。ようやく彼が言った、
――あんたからの報知《しらせ》を待っているよ。フロマンタン街のフロマンタン・ホテル。マルセルと言えばわかる。報知がなかったら、明後日《あさつて》また来てみる」
出てゆく前に、彼は、彼女に、街の名を繰返させた。
さらに一日が過ぎ、さらに一夜が過ぎた。
セヴリーヌは、自分にも心づかない機械的作用によって、食べたり、聞いたり、答えたりしていた。彼女が落ちこんだその渦巻《うずまき》は、最初その表面の、いちばん直径の長いところで、彼女を回していた。それが今では、彼女は漏斗《じようご》の穴の中へ自分が巻きこまれると感じていた。そこでは渦はできると同時にとざされてしまうのだ。そして、たえず、彼女のそばに、厚紙のお面《めん》のように、ユッソンとピエールの顔が漂っている。
不眠に過す第三夜になると、セヴリーヌは、あまりの神経の憔悴《しようすい》の結果、ときどき電光のように、すべてが終ってしまったらよいがと願うようになった。そのくせ、ピエールが、まだベッドの中で、朝の郵便物を調べながら、
――これはおかしいな。六カ月も音信《たより》なしでいたあとで!」
と、つぶやくのを聞くと、セヴリーヌは全身の力をこめて、その手紙が、ユッソンからのでなければよいがと祈るのだった。
ところが、その手紙は、彼からだった。しかもピエールが小声でそれを読みはじめるではないか。
「親しい友よ、
君に話したいことがある。僕は君が多忙なことは知っている。それで、なるたけ君の日常の習慣の邪魔にならないようにと思って、さいわい僕も、あの近所へ用事があって行くので、明日十二時半、ノートル・ダーム辻《つじ》公園でお待ちする。もし僕の記憶に誤りがないなら、君はいつもこの時刻に病院を出るはずだ。僕の最大の敬意をセリジー夫人に……」
――昨日書いた手紙だから、つまり今日だね」彼が言った。
――いらっしってはいけません、いらっしってはいけません」セヴリーヌが自分の身に縛りつけるように、近々とピエールを抱き寄せながら叫ぶようにして言った。
――行かないわけにはいかないよ。あなたがあの男を嫌《きら》いなことは知っているが、それは行かないことの理由にはならない」
彼女は消え入る思いで、自分の願いを聞き入れようとしない決定的なピエールのこの意志に従った。彼は自由に正当に、自分の信ずる人たちとの交際を続けようとしているわけだ。
このあきらめは、ピエールが家にいる間は続いた。やがて、セヴリーヌが、自分の身辺に、死がつくるあの沈黙を感じ、また、ユッソンがその話を始めるのを見たり聞いたりするにおよんで――彼女は、実際それを見たり聞いたりした――狂女の身ぶりと感動詞を口にしながら、部屋の中をかけずりまわった。
――させるもんですか……。あたしが自分で行ってやります……。ひざまずいて……。あの人はきっと言うつもりだ……。ああ、ピエール……。助けてちょうだい……。あの人は言うつもりだ、アナイスのことも……、シャルロットのことも……、マルセルのことも」
彼女は繰返して言った。やがて正気に戻ると、眼のかがやきが薄らいだ。
――そうだ、マルセル……。マルセルに頼もう……。フロマンタン街だわ」
モンマルトルの怪しげな彼の部屋へ、彼女がたどりついたとき、マルセルはまだベッドにいた。彼の最初の動作は、セヴリーヌを自分の方へひき寄せることだった。彼女はまるでそれに気づかなかった。そして、運命の命令のように厳《おごそ》かに言った、
――支度《したく》をなさい」
彼が説明を求めようとすると、彼女がさえぎって、
――みんな言います、だから早く支度をなさい」
彼の支度ができると、彼女がたずねて言った、
――いま何時?」
――十一時だ」
――十二時半までに、まだ時間があるでしょうか?」
――何をする時間が?」
――ノートル・ダーム辻公園へ行く時間よ」
マルセルが、タオルを濡《ぬ》らして、セヴリーヌの額と|顳※[#「需+頁」、unicode986c]《こめかみ》をふいてやり、コップに水を注《つ》いだ。
――これをお飲みよ。どうしたのか知らないが、そんなこっちゃ、長くはもたないぜ。どうだ、ちっとは気分がよくなるか?」
――時間大丈夫あって?」せかせかしながら彼女が繰返した。彼女はいま、自分が追いかけている目的にばかり汲々《きゆうきゆう》として、その他のことには一切理解もなければ、耳にも入らず、二つの概念を結びつけて考えることさえできない状態にあった。
この一種の、睡眠とも呼ぶべき状態には、伝染性があった。マルセルは、彼女とかれこれ言い争う気にはまるでなれなかった。正当な手段を用いたのでは、どうしても彼女と会うことができないと思って絶望していたやさき、今こうして、彼女が自分のところへ救いを求めて来たのを見て、彼は盲目になり、どこへでも彼女についてゆきたい気持になっていた。彼女が求めているのは、彼の救いだった――彼はこれを情夫《おとこ》の直覚で見てとった。そのうえまた、万事が、彼をセヴリーヌに従わせるように強《し》いた。彼のセヴリーヌに対する愛情も、その天性の荒い気性も、女を食いものに生きる男たちに、彼らに勇気と血の助太刀《すけだち》を惜しむなと命令するこの社会の凶暴な法則も。
――一時間も前に行けるよ。おれは何をしたらいいんだ?」マルセルが言った。
――むこうへ行ったらわかるわ……。おそくなると大変よ」
彼は、彼女がそこへ向って全身をさしのべているその場所へ行きつくまでは、絶対に落着くことはあるまいと見てとった。
――先に出な」彼が言った。
彼は手早く枕の下を捜して、片手をポケットに隠し、廊下でセヴリーヌに追いついた。彼女は、マルセルが、ピガル広場に駐車している自動車に目もくれずに、近所の街にある小さなガレージの方へ行くのに気もとめずにいた。そこまで来て、彼が汚点《しみ》だらけのシャツの男と小声で掛け合っているのを見て、彼女が反対した。するとマルセルが、暴々《あらあら》しく答えるのだった、
――おれに任しとけ。あんたに教わる手はないんだ」
ついで、シャツの男に向って、
――待ってる、アルベール、友達がいにやってくれ」
数分後、彼らはぼろぼろになったフォードに乗っていた。アルベールはカラもかけずに背広の上着を着て、運転台にあった。彼は二人を辻公園でおろした。そこは聖《サン》ルイ島の側だった。ピエールがノートル・ダーム寺院の前庭の方から来ると知っているセヴリーヌの指図《さしず》だった。
――いつまでも待ってろよ」車からおりしなに、マルセルが言った。
アルベールがつぶやいた、
――君とイポリトのためでなかったら、こんなあぶない仕事はご免こうむるところだぜ」
セヴリーヌとマルセルは、辻公園へ入った。
――さあ、話しな」マルセルが命令した。
セヴリーヌは自分の時計を見た。まだ正午にもなっていなかった。彼女はやっと安心して喋《しやべ》ることができた。
――アナイスの家の、あたしの最後の日に来た男があるの、それがあたしの夫の友人なの。十二時半に、その男が、夫にみんな言ってしまうはずなの」
――あんたがそいつの言うことを聞かなかったからか?」
――それだけなら、いいんだけれど」
――悪い奴だ!」マルセルがうなった。
ついで、わざとらしく冷静な声で、
――そいつに言っちまわれちゃ、困るんだろう。もっともだ。もうちっと早く言ってもらうと、仕事が楽だったが」
――あたしも、今朝《けさ》はじめて知ったの」
いきなり、彼女が自分の懐《ふとこ》ろへとびこんできたと思うと、彼は感動した。
――安心しな。うまくなんとかしてやるから」
彼が言った。彼は彼女をうながして、ノートル・ダーム寺院の前庭の方からは、人目につかない木陰のベンチへ連れていった。マルセルが煙草を吸いつけた、ふたりは無言だった。
――で、その後はどうするんだ? え? 思うようにうまく行ったら、あんたおれのものになってくれるか? もちろん、亭主のことはかまわないが」マルセルがたずねた。
彼女はきっぱりうなずいて見せた、この若者ほど自分を助けてくれた者はないのだと思って。
マルセルは、それ以上何も言わずに煙草をのんでいた。ときどき彼は、眼をあげて、寺院の前庭に続く入口と、自分たちの腰かけているベンチの間の距離を計ったり、ついで自分と自動車の間の距離を計ったりした。自動車のモーターがゆっくり回転する音がここまで聞えてきた。セヴリーヌは、力もなく、考えもなく、ただ待っていた。彼女には、これほど自分が上《うわ》の空なことは未《いま》だなかったと、はっきり感じられた。
――十二時二十五分だ。しっかり見て、早く教えてくれよ」マルセルが立ちあがりながら言った。
セヴリーヌはうしろを向いて、わななきだした。ピエールが入ってくるはずの入口へ行く径《みち》の、百歩ほどへだたったところに、ユッソンがいた。マルセルはこのわななきを見のがさなかった。
――そいつがいるんだろう? 教えな」彼が言った。
セヴリーヌには教えることができなかった。彼女がマルセルの額に、あの晩、市場の酒場で認めたその同じ徴《しるし》が現われるのを認めたので。
――言わないか。大事なときだぞ」怒りに満ちたささやきで彼が命令した。
――いいえ、いいえ、帰りましょう」セヴリーヌが口ごもった。
そう言いながらも、彼女は動かなかった。ピエールが大寺院の影から現われて、公園へ入ってきた。ユッソンがその方へ近づいていった。
――あの人よ、あの痩《や》せた人よ、あたしの夫の方へ行くあの人よ」セヴリーヌがつぶやいた。
ついで、相手を噛《か》み殺させるための犬に、けしかけて放つような口調で、
――そら、マルセル!」
彼は、心もち身をかがめた。この動作で延びた彼の首筋に、なんとも言えない表情が現われると見るや、セヴリーヌは、気が遠くなって逃げだした。本能的に、彼女の足はマルセルが向ったとあべこべの方へ向った。こうして、彼女は自分でも知らずに、マルセルといっしょにさきがた入ってきたその入口を越えていた。アルベールと彼の自動車がそこにあった。
――乗りな」憎たらしげに彼が言った。
ふたりは耳を傾けた。さだかには聞きとれない物音が、彼らのところまで聞えてきた。彼らは人々が同じ方向に駆けだすのを眺めた。アルベールはなおしばらく待った。
騒ぎの音が一層はげしくなった。巡査がひとり駆けて行った。アルベールは車のアクセルをいやというほど踏んだ。
ユッソンはピエールに宛《あ》てたあの手紙を書きながら、ピエールがその手紙に驚いて、セヴリーヌに話すだろうと予想した。そうしたら彼女が、電話をかけてよこすか、さもなくば自分でやってくるに相違ないと思っていた。そのときこそ、あの強情な彼女がへたばるのを見て、大いに楽しんでやろうと当てにした。そのうえで、このいたずらはもうやめるつもりでいた。彼はいささかこのいたずらに、疲れと恥ずかしさを感じだしていた、それなのに、セヴリーヌから何の音沙汰《おとさた》もないうちに午前が過ぎてしまった。彼のほうから電話をかけてみた。すると彼女は留守だった。彼は躊躇《ちゆうちよ》した。ノートル・ダーム辻公園へ行ったものか、どうしたものか。もとより、彼はピエールに話すためのもっともらしい用件は用意していた。だが、セヴリーヌの沈黙が、彼に、なんとも言えない不安な気持を与えた。この理由が彼に決心させた。
生れつき相当|気高《けだか》い性質を持っているくせに、その性質が人知れぬ害毒によってゆがめられている人々にとかくありがちなことだが、ユッソンも、自分のうちにある美質を強く働かせて、この害毒を償おうとした。このランデ・ヴーが彼に不安に感じられるいまとなっては、その不安のゆえに、彼には行く必要があった。
こうして遅疑していたので、約束の時間の数分前に、彼はようやく辻公園へやってきた。セーヌ左岸の眺められる小道へ二、三歩踏みこむと、すぐにピエールを見つけて、彼はその方へ向って歩みだした。
マルセルが飛び出したのはちょうど、このときだった。
たとえ彼が、このときまだかたい決心をしていなかったとしても、あの肉感的、殺人的なセヴリーヌの叫びの猛々《たけだけ》しさだけで、刺す気になったはずだと思われる。彼女のこの叫び声が、日ごろイポリトでさえ恐れているあのファイトを、マルセルに与えた。そのうえ、すでに二、三度も、あぶない瀬戸際《せとぎわ》を運よく無事にぬけてきていることとて、彼に思い止まらせる何物もなかったわけだ。
安全装置をはずした短刀を、ポケットの中で握ると、彼は駆けだした。落着いた気持で、彼は計算した、≪あいつが倒れる、おれはすぐ芝生《しばふ》を駆けぬける、誰もおれに気づかないうちに、アルベールはもう車を走らしている≫彼は、自分の力に、自分のはしこさに、連れてきた運転手の腕前に、自信があった。ただ彼は、ピエールの助太刀と、犠牲にしようとめざしている男の心中の不安だけは計算に入れていなかった。
怪しげな男が、ユッソン目がけて躍《おど》りかかると見て、その方へと歩いていたピエールは、急な身ぶりで警告した。その本能を極度に緊張させていた場合でなかったら、こうまですばやくは行かなかったろうと思われるすばやい動作で、ユッソンは、ふり返るや、いきなり身をかわした。火花のようなひらめきが、彼の眼前を過ぎた。マルセルは、獣のような身軽さで、立ち直ると、またしても短刀をふりかざして躍りかかった。ちょうどそのとき、ピエールが、身を挺《てい》して飛びついてきた。彼は自分の顔とすれずれのところに、しかめっ面《つら》と、金づくりの口を見た。ピエールが刺されたのだった。|顳※[#「需+頁」、unicode986c]《こめかみ》をやられていた。
マルセルは、このときまだ逃げることもできた。だが彼は、自分がセヴリーヌの夫を刺したと気づいていた。しまったと思う気持は、ほんの一瞬間しか続かなかったが、しかも、彼を狼狽《ろうばい》させるに十分だった。血糊《ちのり》のついた短刀を握った手首を、ユッソンが掴《つか》んだ。マルセルはその手を放させようと試みたが、この痩《や》せた男には、並ならぬ力があった。それに、このときすでに、通行人が駆けつけてきた。警官の呼子の笛も鳴り響いた。マルセルは、はやこれまでだと諦《あきら》めた。足もとに、身じろがぬ男が一人倒れていた。
一〇
何度か、急カーヴを切ったり、迂回《うかい》したり、ストップしたりした後、バスチーユ広場へ来て、アルベールが車を停めた。
――これから先は、ひとりで何とかしなよ」彼がセヴリーヌに言った。
彼女には何の意味かわからなかった。
――降りな。今日は人目についちゃおもしろくねえ」アルベールがおどかすように言った。
セヴリーヌは、言われるままに車から降りた。歩きだしてから彼女がたずねた、
――マルセルはどうしたの?」
運転手は激しい怒りの表情で、彼女をしげしげ眺《なが》めやった。そして彼女に悪気のないことがわかると次のようにつぶやいて言った、
――晩に夕刊を見ろ。みんなあんたのためだぞ!」
フォードはまたたくうちに去ってしまった。
――あたし、自家《うち》へ帰らなけりゃいけないわ」彼女は声に出して言った。
ひとり言を言っているこの女に、ふり返って微笑《ほほえ》みかけたふたりの通行人が、セヴリーヌを失神状態からよび戻した。マルセルが飛び出そうと身がまえるのを見たあのとき以来、彼女の感受性は空白になっていた。自動車の動揺と目的のない迅走《じんそう》が、彼女をいよいよぼんやりさせた。彼女は、あの黙りこくった痙攣《けいれん》したような男を運転台にのせて、あの朦朧《もうろう》車に運ばれて、無限に走りつづけているような気持だった。それなのに、いままた彼女は、自分でもどこへ導くか知らないこの歩みを続けなければならないはめになっていた。ああやってマルセルを先方へ追いやることで、彼女は自分と未来との間に、壁を、懸崖《けんがい》を作り、乗り越えがたいものを置いたものと信じていた。それなのに、彼女はいま、どんな人間も、事件の運命的な連鎖からはのがれえないという事実をつくづく感じた。ようやく、手さぐりで、心の中の渾沌《こんとん》として闇《やみ》のような嵐《あらし》の中で、彼女は自分の経てきた生活と、自分のこれから先の生活を結びつけようとあがいた。
マルセルが殺したことには、彼女に確信があった。この事実は、彼女に何の感激も与えなかった。人間も、彼らの行動も、彼女自身の行動も、すべて抽象的な符号でしかなく、彼女は単にそれらの符号によってその意味を判読しているような気がした。マルセルが、ユッソンを殺した。ピエールに知らしてはならないことを、ユッソンが、知らそうとしたのだ。おかげで、彼女があんなに恐ろしい思いまでしたのだ。ユッソンが、喋《しやべ》る心配は今ではもうなかった。だから、何も恐れることは彼女にないはずだった。彼女はピエールに会えるのだ。いや、会わなければならないのだ。間もなく昼食の時間だった。
セヴリーヌは、自家へ帰ってみて、ピエールが帰っていないのに驚くだけの力さえなかった。ベッドの上に横になると、彼女はすぐ眠りに落ちた。二時ごろになって、静まりかえった家の中に、けたたましく鳴り響いた呼鈴《ベル》の音も、彼女の眠りをさまさなかった。小間使がノックしたのも、入ってきたのも、彼女はまるで知らずにいた。
――奥さま、奥さま、旦那《だんな》さまのことで、重大な報知《しらせ》を持って先生の方《かた》がお見えになっております」小間使は、セヴリーヌが眼を開くまで、いよいよ声を高くして、呼びつづけた。
短いながら、この休息で、また心の苦悩をとりかえしたセヴリーヌが、呼び起されて最初に思ったことは、ユッソンが死ぬ前に喋るだけの時間があったので、それを聞いたピエールが、自家へ帰るのがいやだと言いだしたのではあるまいかとの疑いだった。
――どなたにもお会いしません」彼女が言った。
――お会いにならなければいけません」小間使が、いかにも思いつめた声で、迫るので、セヴリーヌは急に立ちあがると客間の方へ行った。
夫の病院の医員は青くなっていた。
――マダム、誰にもわからない事故が起りました」
次に言うべき言葉を捜しながら、彼は言葉をとぎらせた、その間に彼女が何か言いだすだろうと思って。だが彼女は何も言わなかった。セヴリーヌの硬直した姿が、彼に恐ろしくなってきた。
――でもご安心ください、絶望だというわけではありませんから。実は……、セリジーさんが短刀でこめかみをやられになったのです」医員が早口に言いつづけた。
――どなたですって?」
セヴリーヌが、医員の方へ、非常な意気ごみで踏み出してきたので、彼はようやく繰返した。
――セリジーさんがです」
――うちの主人が? ピエールが? あなた間違っていらっしゃいますわ」
――マダム、私はもう一年もご主人とごいっしょに働いています。病院では皆がご主人を愛していますが、私もその一人です……。そうなんです、ある男にやられたんですが、そいつはじきに捕《つか》まりました。ご主人は直後にうちの病院へ担《かつ》ぎこまれになりましたが、もちろんまだ人事不省です。ただ心臓がしっかりしているので助かる望みは十分にあります。部長のアンリ教授にもお知らせしました。たぶんいまごろは病院へ着いていられましょう。私がこれからあちらへご案内いたします。マダム」悲しげに彼が言った。
病院の前まで来てもまだ、セヴリーヌには、ピエールがこれまで多くの患者を治療したこの病院の中で、彼自身が白衣の人々の手に委《ゆだ》ねられた患者となっていようとは、どうしても考えられなかった。彼女は、いつぞやはじめてヴィレーヌ街へ行ったあの日、ピエールをそこで待った病院の玄関を見知るにおよんで、はじめて信じがたいこの事実を信じた。思えば悪夢に始まって、悪夢に終ったあの日から今日までの幻のような月日だった。
彼女はアンリ教授に会った、すると彼女を保護してくれていた雲が、消えうせた。彼女はピエールといっしょに、何度も教授の家で晩餐《ばんさん》のご馳走《ちそう》になったことがあった。彼女はまた思い出した、この教授のことを語るとき、夫がいかに快げに「師匠」という言葉を繰返して口にする習わしだったかを。この言葉だけが、彼が恩師に対していだくその敬愛の念を言い表わしうるらしかった。ピエールの言いっぷり、そのままの調子ではっきり聞えてくる、この言葉を耳にして、彼女は危うく倒れそうになった。教授はいまそこに、彼女に向って近づいてこられた、それなのに彼女の夫はいま……。セヴリーヌには、その先を考える時間がなかった。この外科の大家は彼女の手を握った。
異例な若々しさの残った、小柄な神経質な人物だった。仮借《かしやく》のないものの言い方も、この若さのおかげだった。
――あなた、あわてちゃいけませんよ。命は大丈夫ですから。わたしが保証します。その他のことは、いずれ明日また申上げます」彼が言った。
――あたし会うことができましょうか?」
――よろしいですとも。まだ人事不省ですが、いずれ明日になったら、くわしい容態がわかりましょう」
迎えに来てくれた医員が、セヴリーヌを導いて、ピエールのところへ連れていった。彼女はしっかりした足どりで入っていった。数分間前、彼女は想像では、あれほど覚悟をしていたが、いま病室の中央《なか》ほどまで来ると、それ以上動けなくなった。夫の包帯した額や、蝋《ろう》のような顔色が、彼女が近づく邪魔をするわけではなかった。それは、四肢《しし》と顔面の不動の状態、睡眠でも死でもないその不動の状態、無気力でぐにゃぐにゃしているくせに、セヴリーヌの皮膚の上に、憐憫《れんびん》と恐怖の無数の戦慄《せんりつ》を与えるその不動の状態を理由としているのだが、それ以外にも、裂くような悔悟の感情も交っていた。そうと気づきながらも、セヴリーヌは一種|嫌忌《けんき》の気持から、それを認めようとはしなかった。生気なく、ぐったりしたこの塊、唇《くちびる》のたるんだ、瞼《まぶた》のとざされたと言うよりは落ちたと言ったほうが適当なこの顔、これがはたして、あの敏活な、あのひきしまった彼女の夫の顔だろうか? 気持の悪いゆるみが、この肉体全体にひろがっていた、今朝《けさ》まで、若さの鷹揚《おうよう》な光輝に満ちていたこの肉体の上に。
セヴリーヌには、いまピエールを脅《おびやか》しつつあるものが何ものであるかは、知る由《よし》もなかった。だが彼女は自分の動物的な健康の本能を恐怖させる夫の顔つきによって教えられるのだった、彼女がある一人を罰する目的で、恋に盲《めし》いた狂暴の手に握らせた刃《やいば》が、いまや彼女にとって、これまでに彼女が恐れたことがらの、そのどれよりも痛ましい姿となって現われてきたと。
――あたし、たまりませんの。ちょっと外へ出していただきますわ」つぶやくように、彼女が言った。
ドアの前まで来ると、ひとりの男が、彼女を待ち受けて言った、
――こんなご不幸の最中に、おたずねしたりする非礼をお赦《ゆる》しください。わたしは調査を命じられている者です。ご主人はまだお話しになれませんので、もしかしたらあなたさまからお教えいただけるかとぞんじまして」
セヴリーヌは壁にもたれた。そのときまで、まだ一度も気がつかなかった考えが、彼女に眩惑《めまい》を与えたからだ。いまさら思い出すまでもなく、彼女はマルセルの共犯者だった。彼女もやがて逮捕されるはずだ。
医員が叫んで言った、
――ねえ、君、マダムが何も知っていられるはずはないじゃないですか! ユッソンさんも言っておられるとおり、あの人がねらわれていたんで、ドクトル・セリジーは、ただ偶然にやられただけなんだよ」
彼は刑事を脇《わき》の方へ呼んで、小声で言うのだった、
――もちろん、これが君の職務でしょうが、それにしても、もうしばらくこのお気の毒な若い奥さんを、いたわってあげてくださいよ。なにしろ仲のいいご夫婦なんで、奥さんはこうして立っていられるさえやっとなんだから」
セヴリーヌは訊問《じんもん》者が遠ざかる姿を眺めた、自分が逮捕されないのを不思議に思いながら。ついで彼女が遠慮深い調子でたずねた、
――ユッソンのことをおっしゃったようですが、お会いになりましたの?」
――あの、わたし、マダムに申上げたと思うんですが……」
言われて、セヴリーヌは、漠然《ばくぜん》と思い出した、病院へ来る道すがら、医員がひととおりの物語をしてくれたのだが、それが自分の頭によく入らなかったと。彼女はもう一度繰返してもらった。するとはじめて、彼女の前に、おそろしいほど明白に、さきがた自分がマルセルの総身の筋肉と首すじに認めたあの跳躍の準備の結果が案じられた。
――あたしが、あたしがやらせたんだわ」と言いたいのをこらえて、彼女は唇を噛《か》んだ。
自分の責任感が、ピエールの傷の危険を増しでもするように、彼女がつぶやいた、
――あの人、きっと死にますわ」
――そんなことはありません。興奮なさってはいけません。先生もそうおっしゃっておいででした。セリジーは助かります。その点はもう大丈夫です」
――なぜあの人、動かないんでしょう?」
――あんなことのあとでは、動かないのがあたりまえですよ。でも助かることは確かです。私が保証します」
セヴリーヌは感じた。よしこの保証の言葉が偽りでないまでも、しかもそれはこのピエールの友人自身の不安を全部消し去るほど有力なものではありえないと。ただ、彼女には、これ以上この人に問いただす気持になれなかった。ピエールが死なないというこの事実の前には、難儀な永い間の看護のことなどは、まるで問題ではなかった。
彼女は、その日の午後を病人のそばで過した。彼は依然として身じろがなかった。ときどき、恐怖におそわれて、セヴリーヌは、病人の上にうつむき、心臓の音を聞いた。心臓は静かに鼓動していた。それを聞くと彼女は安心して、夫の全身の筋肉にうかがわれるあの不気味な投げやりな様子のことは考えまいとした。
暮れ方になって、アンリ教授が包帯を取換えたり、傷口を診《み》たりしに現われた、セヴリーヌは、思わず知らず、その黒ずんだ傷跡へ目をやった。そこから、彼女にとっていちばん尊い血と、それよりもなお一層尊い何ものかが流れ去ったのだ。彼女は、この穴を造った凶器を知っていた。脱衣するたびマルセルは、いつも、枕の下に、まずピストルをしまい、ついであの褐色《かつしよく》の柄《え》の短刀をしまうのだった。セヴリーヌは、その凶器を手にとったことも、その安全装置をもてあそんだこともあった。
セヴリーヌは歯の根が合わなかった。
――あなたは自家《うち》へ帰っておやすみなさいまし。セリジーの手当は私が責任を持って十分いたしますから。明日こそあなたの力がいる日です。明日が大事な日です……。命はもう安心なんですが……、とにかく、おおよその様子がわかるでしょう。今夜は帰っておやすみなさい」教授が言った。
彼女は人知れぬ満足の気持で、その言葉に従った。ただ、彼女は自分の家へは帰らなかった。隠密な、抵抗しがたい一つの欲望が、彼女のうちに生れていた。彼女がそれに気がついたのは、すでにタクシーの運転手に、ユッソンの家の番地を言ってしまったあとだった。彼女は、内なる重力の法則に導かれて、この男の方へ導かれてきた。彼ゆえに、すべてが始まり、彼によってすべてが終るべきだと思われる、そのうえ彼女のすべてを知り尽していると思われる、この男の方へ。ユッソンの前に出てみると、セヴリーヌは、彼が自分の来るのを待っていたと気づいた。
――わかってました」うつろな声で彼が言った。
彼は、贅沢《ぜいたく》と落着いた気持でいっぱいな応接室《サロン》へ、彼女を案内した。夏の真っ最中だというのに、炉《ろ》には、薪《たきぎ》が燃えていた。ユッソンは火に向って座について、長い両手をたれていた。
――変りはないでしょう? いま病院へ電話をかけたところです。なにしろあすこに寝ているのは僕の生命の代償ですからね」先ほどからの、例のぼんやりした調子で彼が言った。
セヴリーヌは黙っていた。一種不思議な気持のよさが、彼女の身内に忍びやかに入ってきた。ユッソンといっしょにいることだけが、いまの彼女に耐えられる唯一の人間|交際《づきあい》だった。彼はまた、今の彼女の耳裡《じり》に入《い》る唯一の言葉を語る人でもあった。ユッソンはたえず火に近づけてかざすその手と、燃えさかる炎をかわるがわる眺《なが》めた。彼は火にあぶってその手を溶かそうとしているようにも見られた。彼が言葉をついで言った、
――セリジーが倒れるのを見たとき、僕はあれが死にはしないと思いました。あのとき、そこには死よりもっといけないものが漂っていました」
彼は、せつなげな眼をセヴリーヌの方へあげて、たずねた、
――あなたは、僕が必ず喋《しやべ》ると思ったんですか?」
軽いまばたきが、彼女の唯一の返答だった。
――あなたはセリジーを、深く愛していたんですねえ。僕のような男には、知ることのできない愛ですよ、それは……。そのため僕は、こんな誤算をやりました。それほど深い愛情というものが、何をしでかすものか、僕には予想ができませんでした……」しばらく沈黙したあとで、ユッソンが続けて言った。
セヴリーヌは注意深いまなざしで、これらの言葉を受入れた。彼女は思った、
≪ユッソンには、あたしのこの善良な部分が理解できなかったのだ。またピエールにはあたしの悪い部分が理解できなかったのだ……。夫にそれを察することができたら、あたしを守ってくれもし、治《なお》してくれもしたことだろうに。もっとも彼がもしそれを察したら、それはすでにピエールではないはずだけれど≫
――それから、あの男、短刀をふりかぶったあの男、あの熱気も大変なものでしたよ」不意にユッソンが言った。
彼は寒そうにわなないて、一層また火に近づいた。今度の事件に関係した人々の、そのいずれをも超越した、深い悲哀に彼の心がわななくのだった。
――美しい感情で動かされていないのは僕ただひとりでした。それなのに、あなた方三人は、いずれも致命的な痛手を受けています。僕だけ一人が無事です。なぜだ? 何のためにだ? またしても僕のいたずらを繰返させるためでしょうか?」彼がつぶやくように言った。
彼はかすかな笑いをもらすと、思い深げに続けて言った、
――今度はふたりの気持がよく合いますね。この地球の上に、誰あって――どんな熱心な恋人同士も――あなたに僕が必要なほど、また僕にあなたが必要なほど、お互いを必要とする、今の僕らのようなふたりはないはずです」
セヴリーヌがたずねた、
――マルセルをごらんになったとき、あなたはすぐ、あたしがあれを差向けたとおわかりでして?」
ユッソンが静かな声で訂正して言った、
――僕らふたりが差向けたと思いました」
ついで彼は、あてもない夢想に落ちていった。規則正しい呼吸音が、彼をその夢想から呼び戻した。この部屋へ入ったときから引続き掛けている長椅子の上で、セヴリーヌは眠りに落ちていた。
――どんな不眠と、どんな苦悩の結果で、この眠りがあることか! しかも明日にはまた明日が……」ユッソンがひとりごちた。
彼は、アンリ教授の懸念と、その筋の探査に思いおよんだ。傷ついた子供のような顔をしたこの不幸な女が、どうして、わが身にわずかに残された光明を守りおおせるだろうか? むろん、自分は、できるだけのことをして、彼女を助ける決心だが、それとてはたして何を救うことができるだろうか?
ユッソンはセヴリーヌに近づいた。彼女はいとも心地よげに無邪気な様子で眠っていた。これがある明るい日の午前、テニス・クラブで彼が教えてやったあの家の、赤い羽根|布団《ぶとん》の上にひれふして泣いていた、あの同じ女だろうか? それにもまして、今のこの彼自身は、はたしてあのときの、昼顔の嘆願に答えるに、故意に、曖昧《あいまい》な身ぶりをし、その身ぶりのゆえにピエールの|顳※[#「需+頁」、unicode986c]《こめかみ》に傷をつける結果になった、その同じ彼だろうか? 幾度か熱心に、しかもむなしく、掘りさげてみた自分の心の中の神秘が、いまこのセヴリーヌの顔の上で眠っていた。
彼はやさしさをこめて、彼女の頭髪《かみのけ》に手を触れ、いちばん柔らかい毛布を持ってきて、疲れた妹にするようにして、彼女にかけてやった。
セヴリーヌは翌朝の九時まで、ひと寝いりに眠った。彼女はすっかり肉体の疲労が消えさった気持で眠りからさめた。だが彼女はさっそくまた、この休息を後悔する気持になった。なぜかというに、この休息のゆえに、彼女は正気のままで自分の唯一の苦悩、唯一の心がかりなるピエールの健康を案じなければならなかったから。彼女を狩りたて、ユッソンの家に追いやった力のすべてが、今では憐《あわ》れむべく、また無益なことのように思われた。それは全部弱気と狂気の仕業《しわざ》であった。前夜、あのように意義深く感じられた二人の間の会話さえ、今の彼女には、恥ずかしいとしか思われなかった。
ユッソンが入ってきた。彼もまた同じ窮屈な気持だった。同じく彼も、よく眠ることができた。暗い影が心から消えていた。生活が一歩前進したのだ。あらゆるものの姿が、おかげで変ってきていた。今や彼の感性が変ったので、自分のしたり言ったりすることが、すべて自分にそぐわないものに感じられた。
――容態をたずねてみました。命に別状はないそうです。正気を取戻したそうです、ただ……」
セヴリーヌは、それから先は聞かなかった。ピエールが正気をとりかえしたのに、その最初の光明を受けとるために、自分が枕頭《ちんとう》にいなかったこと、それだけが心残りだった。どんなにあの人が待っていてくれるだろう!
途中、彼女は、ピエールが自分を見て洩《も》らす微笑のことだけしか、彼女に向ってする身ぶりのことだけしか、考えなかった。それは、もちろん力弱い微笑であり、みとめがたい身ぶりであろうが、彼女にはそれを拡大し、再建する自信があった。彼女の苦悩の道はやがてその終りに近づこうとしていた。彼女は自分の力で夫を治癒《ちゆ》し、夫を連れ戻ることもできるのだ。そうしたらまた、大樹の影で過す日々も、砂浜の嬉戯《きぎ》も、雪の山に響き渡る歌声も可能なはずだ。はやくも彼は、その第一歩として彼女に笑いかけ、その手を彼女に向ってさしのべようとしているのだ。
ピエールは眼をあいていたが、セヴリーヌを見ても気づかなかった。すくなくも彼女にはそう思えた。何の身ぶりもせず、何の表情も示さないばかりか、死にかけている肉体さえが愛するものが近づく場合にはわななくというその最期《さいご》のわななきさえ示さない夫の様子を、彼女は無表情とよりほか解釈しようがなかった。ピエールが彼女に気づいてくれなかったこのショックは、セヴリーヌにとってみじめだった。
そのみじめさも、数秒後、彼女に襲いかかったものに比べたら、まだましだった。彼女はピエールの上にうつ向いた。するとそのとき、彼の眼の奥の奥のところに、あるわななきが、動いているある炎が、ある呼び声が、ある果てしない嘆きがひそんでいるのに彼女は気づいた。それが彼女に向けられていることは明らかだった。そんなら、なぜ、彼女に気づいていながら、この不気味な沈黙、この身じろぎのない態度を続けているのだろうか? セヴリーヌは、思わずあとすざりして、看護婦を、医員を見つめた。彼らはそれぞれ眼をそらした。
――ピエール、ピエール。あなた、ひと言、せめてためいきでもして見せてください……」うめくような声で、彼女が叫んだ。
――落着いてください、病人のためです。耳は聞えるらしいんです」医員が言いにくげにつぶやいた。
――でも、どうしたんでしょう、この人?」すすり泣きながら、セヴリーヌが言った、「いいえ、おっしゃらずにおおきください」
これらの人々の中のいちばん利口なひとりでも誰が何を知りうるものか? 彼女にだけ、この顔の襞《ひだ》のひとつひとつまで知りつくしている彼女にだけ、彼のこの秘密に食い入ることができるはずだ。恐怖をおし静めて、セヴリーヌはベッドに近づき、熱情をこめて夫の首を抱き自分の方へひきよせた。やがて、力のぬけた彼女の腕が、その首をまた枕の上に戻した。昨日《きのう》見たときと同じ、だらけた表情の夫の顔には、何ひとつ動いたものがなかった。
やがて、またしても、ピエールの眼が、彼女に勇気を与えた。明るい彼の眼、それが笑うのを、それがもの思うのを、まじめなのを、恋々としているのを、彼女がかつて見て知っているその眼は、今もなお生き生きしていた。何を彼女が恐れることか? 衰弱がはなはだしいので、身動きひとつたてえないのではあるまいか。それに驚いたりする彼女こそどうかしているのだ。叫び声や、嘆きの声で彼を苦しめるなんて、彼女こそ意気地なしだ。
――あなた、あなた、治《なお》りますわよ。皆さんがそうおっしゃったでしょう、先生も。じき治るから見ていてごらんなさい」彼女が言った。
彼女はここまで言って、絶句して、せつない気持でたずねずにはいられなかった、
――ピエール、あたしの言うことが聞える? ちょっとでもいいから合図してくださいな。聞いていてくださることがあたしにわかるように」
超人的な努力が、病人の眼を暗くしただけで、その顔には、何ひとつ動いたものがなかった。ようやくセヴリーヌに、あの外科の大家とその弟子たちがはっきり言わない言葉の意味がわかってきた。その強弱の度がたえず変化するピエールの眼の輝きがなかったら、セヴリーヌはまだ瞞《だま》されていたかもしれない。でも、事実はあまりに明白だった。ピエールは、ものが言いたいのだ。身動きがしたいのだ。それなのに彼の全身に封印がしてあるのだ。
セヴリーヌは、いつまでも、夫の眼の上にうなだれていた。眼だけが、いまでは、あの深くやさしい夫の知能に残された唯一の言葉だった。彼女はものを言ったりたずねたりした。そして、変化する夫の眼の輝きのうちに、答えを読もうと試みた。そして最後には、涙を見せまいため病室から出た。
廊下まで来ると、ついてきた医員が言った、
――絶望なさるにはおよびません。奥さん。どこがやられているか、時間が教えてくれるはずです」
――まさか、このままで生きるのじゃないでしょうね。もしそうなら死ぬより悪いことですわ……」
セヴリーヌは、このとき不意に、「死よりも悪いものが空気の中にあった」と言っていた、ユッソンのあの言葉を思い出して、沈黙した。
――戦時中、不随症が完全に治った例も多数ありました」若い医員が、自信なさそうな口調で言った。
――不随症、不随症」セヴリーヌは小声で繰返してみた。
ピエールが身じろがない理由のその病名を知るまでは、彼が動かないことも、現在ほど苦にはならなかった。動かないことも彼の一部であり、彼の所有物だった。それが、この病名の正札を貼《は》られてしまうと、一般的な病人の部類、万人に均等な灰色の法則に従わなければならないひとりになってしまう。
――病名がおわかりになったいま、失礼ですが、忠告させていただきます。あまり病人にお話しにならないようになさいまし。なるべく本人に気のつかないようになさいまし……」医員が言った。
――あの人に!」
――そうです、相手がセリジーだけに、むずかしいことも事実ですが、それにしても、できるだけ瞞《だま》しておくようにしなければいけません。私たちの経験ですが、どんな鋭い知能でも、病気のときには……」
セヴリーヌが、野蛮に近い暴《あら》っぽさで、相手の言葉をさえぎって言った、
――そんなこと、いやです、あたし。嘘《うそ》ですわ、あの人の知能に変りはありません。完全ですわ。あなたに自信がなかったら、あたしに任しといてください。あたしが引受けます」
医員は、彼女に、かたい決心と、強い愛情のあるのを見て、自分より勇気のある同僚に対する場合のように、彼女に握手がしてやりたかった。
それから後、セヴリーヌは、ピエールの病室から外へ出なくなった。昼も夜も、彼女は、狂った燈台の灯のように明滅する夫の眼《まなこ》につききりだった。彼女には、自分の一生は終ったような気がした。内に包蔵する精神の活動を表わす力のまったくない肉体の、その動かしがたい極限された舞台の上で、とざされて、死にもの狂いに演じられているこの悲劇と比べうる悲劇がほかにあるだろうか? だからまた、ある朝ピエールの唇《くちびる》が、ふと動いたと見てとったときの、セヴリーヌの勝利の気持も比較するにもののない喜びだった。それは、やっと目に見える程度のわななきだった。しかもセヴリーヌはそれを見てとった。そして自分に間違いはないと確信した。その日のうちに、そのわななきが繰返され、一度は一度よりはっきりしてきた。アンリ教授も、前日に比べて、勢いのいい身ぶりで病人の額を撫《な》でた。
翌日、ピエールは、音《おん》を出すことができた。手の指が毛布に小さな襞《ひだ》をきざんだ。節のない歌のようなあるものが、セヴリーヌの身内に満ちた。彼女はもう完全に治癒《ちゆ》しうると疑わなかった。医者たちがぐずぐずしているのが歯痒《はが》ゆかった。一週間目に彼女は、ピエールを自宅へ連れて戻る許可を無理に取った。傷は治りかけていた。その余のことについては、彼女は自分の能力に自信があった。それに、下半身は、負傷の当時そのままのだらしない有様だったが、胴体と両腕は、無秩序ながら、かなりな動作を示した。そのうえ、ピエールはようやくこのころから、かなり自由にものを言った。また、二度の実験で、彼がものを読みうることも明らかになった。
半分だめになりかけているひとりの男を、自分の家へ連れてきて、そこに寝かすという単純な事実が、こんなにまで明るい喜悦を与ええようとは、セヴリーヌにさえ思いがけないことだった。ものを言おうとするに先だって、あらかじめさまざまな努力をする口も、手を動かすに先だって、まず自分のしようとする反対《あべこべ》の動作を彼がすることも、彼女の眼はよけて、わざと見ないようにした。何もかもやがて治るはずだった。その証拠にこうしていまでは自分の部屋へ戻ってきているではないか。そして自分の書物の並んでいるのを見て、その不完全さのゆえに、かえってひとしお身にしみる微笑をさえ洩《も》らしたのではないか。いまではただ、我慢強く待つだけで足りるのだ。セヴリーヌは自分の忍耐力が、無限で、熱くって、何ものにも打勝つ用意があると感じた。
彼女は、現在こうしてピエールを看護している女が、その身の中に、売女《ばいた》であり、殺人者である別の一人の女を宿したことは完全に忘れていた。ピエールを連れて自宅へ帰ってきたその翌日、彼女はそれを思い出さなければならない羽目になった。
ピエールと結婚した最初のときから、セヴリーヌがずうっと使っている若いやさしい小間使が、見るから困ったらしい様子で、彼女に近づいてきた。
――奥さまが病院にいらっしゃる間じゅう、自家《うち》へおかえりになった最初の日も、お気の毒に思って遠慮していましたが……。奥さまは新聞をごらんになりましたでしょうか?」彼女が言った。
――いいえ、見ないわよ」セヴリーヌが言った、――これは嘘《うそ》ではなかった。
――やっぱりまだ見ていらっしゃらないんでしたか。奥さまが犯人の写真をごらんになりさえしたら……」小間使がいくぶん安堵《あんど》の様子を見せて言った。
セヴリーヌは、小間使の言葉をさえぎろうとはしなかった。ただ彼女はもう聞いてはいなかった。彼女にはもはや聞く必要がなかった。小間使が、新聞に出た写真で、マルセルを見知ったのだと、言われるまでもなく理解できた。
セヴリーヌには、この部屋が、そこに置いてある家具が、何やら語りつづけているこの小間使が、(彼女は、「金の口」という言葉をぼんやり聞いた)ある大きな規則的な波に揺られているように思えた。その動揺がやがて彼女にも伝わってきた。彼女はあやうく転《ころ》びそうになったので腰かけた。
――奥さまも、私同様びっくりなさったでしょう。一度、奥さまに申上げるまでは、誰にも言うまいと思っておりましたが、今度こそあたし判事さんに申上げますわ」小間使が続けて言った。
セヴリーヌが、どれほどこのとき、退院してきたことを後悔したことか。あそこにいる間、彼女は世間からも自分の過去からも遠く離れて、ある庇護《ひご》の下にいるようなものではなかったか。なんという狂おしい向う見ずな気持で、自分をとりまく無形の触手を完全に断ち切りえたと思ったりしたのだろうか? 触手はまたしても彼女の身を取巻いていた。ただ、彼女は思うのだった、これほど苦しんでも、まだ足りないのだろうか? このうえまたどんな貢《みつぎ》を払わせようというのだろうか?
――奥さま? 申出たほうがよろしいでございましょうか?」小間使がたずねた。
――もちろんですわ」何を言っているか自らも知らずに、セヴリーヌがつぶやいてしまった。
言ってしまうとすぐ、彼女は、自分のこの答えから生れる結果に気づいた。それは、嫌疑《けんぎ》を彼女の方へ向けることであり、共犯として告発されることであり、投獄されることであり、また、ようやく自分の肉体の死布《かけぎぬ》からなかばのがれ出ることのできたピエールに、彼女が隠していたその不行跡の代償としていかに高価なものを彼に払わせたかという事実を知らせることだった。それはあまりにもばからしかった。
――ちょっと待って! 申出たりしてはだめよ!」セヴリーヌが叫んだ。
小間使の驚きと、怪しむようなその様子が、セヴリーヌに多少の冷静をかえしてくれた。
――なぜって、あんたの……いや、あたしたちふたりの証言を」わざと言いなおして彼女は続けた、「二、三日待ったところで別にそれがむだになるわけではないのだし、いまのところあたし、どうしても手が放せないんだから」
――奥さまのおよろしいようにいたしますけど、なにしろ私、こんなに待ちすぎたことが悪いような気がいたしますの」
またしても、二度と味わうことはないだろうと信じていた感情が、追いつめられた獣《けだもの》の途方に暮れたあの感情が、セヴリーヌに襲いかかった。またしても、彼女は自分が追いつめられて、行きづまりに立って、憐《あわれ》みを乞う位置に置かれていると気づいた。しかも今度、彼女を追いつめてくるのは一人の男ではなく、社会がこの目的に用いるために訓練した猟犬の群れだった。自分がいなくなったら、誰がピエールを助け、彼のために微笑し、彼を慰め、彼に食事をさせ、彼を眠らせてやるだろう? 彼女は今では、このさびしい運命だけを希望していた、それなのに、それさえ今は彼女から奪い去られようとしているのだ。
このとき、彼女に死んでしまおうという考えが浮んだ。身も心も疲れ果てた彼女とて、死というこの冷たい解放の手にすがる気持も十分にあった。ただ彼女は、となりのピエールが寝ている部屋で、何か音がしたと思うと、急に、全身の戦闘準備が成った。おびやかされつつある自分の愛、暗いいきどおり、狂おしい挑戦的な気持。
――あたしはどうなってもかまわないが、ピエールには指一本ささせまい」セヴリーヌがつぶやいた。
彼女はユッソンに電話をかけて、来てくれるように頼んだ。
――あの人はあたしの共犯者だ。あの人もそれを知っている。だからあの人は、あたしを助けてくれるはずだ」
セヴリーヌが二言三言言いだすと、ユッソンは真顔になった。
――あなたが考えていらっしゃるより、事件はもっと急迫しています。あなたは新聞をお読みにならないからごぞんじないですが、警察はすでに手がかりをつかんでいます」彼が言った。
――あたしの手がかり?」
――ええ……、まずだいたいそうですね。あの若者の口は目だつんです……。それで、アナイスの家《うち》の者が喋《しやべ》ってしまったんです。マルセルが、あの家へ、毎日同じ女に会いに来ていたことは造作なくわかってしまいました。アナイスはじめ他の女たちも、新聞に出てしまった写真で僕を見知りました。僕があなたに会いに行ったのと、あなたがその後あの家へ来なくなったことの間に、何か関係があるはずだと、すぐ感づきます。そんなわけですから、マルセルは、ある源氏屋にいたひとりの女のために、僕を刺そうとしたのだと見られています。一方またひとりの警官と多くの通行人が事件のあった時刻に、ひとりの女が自動車で逃げたのを見たと証言しています。また他の通行人の中には、あの辻《つじ》公園の前に、モーターをかけっぱなしにした自動車が停っていたのを見たと言っています……。新聞はそんな記事でいっぱいです。読者の好奇心を誘うにはもってこいの事件です。白昼の犯行……、マルセルの素姓と数多いその綽名《あだな》……、怪自動車、ことにその女……。大見出しに昼顔という名を書いていない新聞は、一つだってありはしません」
――もっと先を、ずんずんおっしゃって」セヴリーヌがうながした。
――だいたいこれがあなたにとって不利な事実です。さて、あなたに有利なことですが、それはまず、大捜査をしても、その自動車と運転手がどうしても見つからないこと、それからマルセルが沈黙していることです。この沈黙は、英雄的だと呼んでもいい沈黙です、なぜって、自白さえしたら彼の罪はほとんど半減されるわけですからね。だが、彼は黙りつづけるでしょう、どうもその覚悟らしいんです。ところで、手がかりの証拠は、事実としてはすべて、当っているんですが、その解釈はことごとく誤謬《ごびゆう》なんです。今日までのところ、警察も検事局も新聞社も、一様に、その昼顔という女は……」
――おっしゃってください……。そんな言葉なんか、あたしには何でもありはしませんわ」
ピエールに対する愛のために、自分の身の上の懸念をことごとく捨てさった今の彼女の姿に、ユッソンはつくづく感心した。(それにもまして、あの若者、あの情夫《おとこ》は、彼女に対する愛のために、刑務所行きも平気でしたのではないか?)そう思いながら、ユッソンは言葉を続けた、
――世間はだいたい、昼顔を淫売婦《いんばいふ》だと信じています。それに、あなたは、ヴィレーヌ街に、あなたの素姓の手がかりになるようなものは何ひとつ残しておきませんでした。いまのところ、昼顔とあなたが、同一人だというつながりを見つけ出される心配はまずありません。ただ、あなたの小間使が、たとえひと言でも口をすべらすか、または何らかの手がかりが、この家の中まで、その筋の疑いを導いてきたが最後、万事休すです」
――そうしたら、あたし否認しますわ……、あの娘《こ》が嘘《うそ》ついているんだと申しますわ……、復讐《ふくしゆう》のためにそんなことを言っているんだと言いますわ……あたし……」
ユッソンが、彼女の手をとって言うのだった、
――しっかりなさってください。今はあなたの理性がいちばん大事なときですから。小間使の言うことなら、誰も信じないでしょうが、アナイスが昼顔はあなたに違いないと言うはずです、またほかにも昼顔としてのあなたを知った人々が大勢あるはずです」
――シャルロット……。マチルド……、それからあの大勢の男たち……」セヴリーヌがつぶやいた。
彼女はそれらの男たちの名前を、唇《くちびる》の先で爪繰《つまぐ》るように言った、あたかも、ある不快なもの音のその木魂《こだま》を自分が返しているかのように。
――アドルフ……、レオン……、アンドレ……、ルイ……、そのほかにも、大勢、もっともっと」
――するとそのことが新聞に出るわね、そうすればピエールがそれを読むわ、なぜかって、あの人読むことはできるんですから。あたし、あの人にものが読めることをあんなに喜んでいたのに!」セヴリーヌが静かに言った。
不意に彼女は冷笑した、それは妙に黄金《きん》でいっぱいなあの若者の口を思い出させる冷笑だった。彼女がつぶやいた、
――あの娘《こ》に言えないようにしますわ」
ユッソンに先ほどから握られていた手を、セヴリーヌはひっこめようとした。彼は逆に一層強く握りしめながら、小声で言うのだった、
――マルセルは収監されているし、あなたがご自分で手をお下しになることもできないし……」
彼女は身ぶるいした。本当だった、彼女もまた殺そうかと思ったのだ……。
――どうでしょう、お金をうんとやったら?」ユッソンが続けて言った。
――だめですわ。長く使っていて、どんな娘か、よくわかっていますの。あたし、身のまわりには、正直な人たちだけしか置かなかったんですの」
――そうだとしたら、どうしたらいいでしょう……」
ユッソンは、握っていたセヴリーヌの手を放した。理由は自分の手がわななきだしたからだった。彼はピエールに会わしてくれと言わずに帰っていった。
その日、アンリ教授が病人を診察に見えて帰られた後、セヴリーヌが小間使を呼んだ。彼女は医者が、当分彼女に外出してはいけないと注意して帰ったと告げ、できるなら供述をしないように、もしどうしてもせずにはすまされないなら、せめて、しばらく何日《いつ》と日を定めずに延期するようにと頼んだ。
自分を怪しんでいるらしい様子の小間使から、彼女が与えられたものは、一週間かぎりの猶予《ゆうよ》だった。
犯行の行われる前二、三日の間、セヴリーヌは、どんな苦しみも、自分の今の苦しみにまさるものはないと思った。ところが、今になって、彼女は、人間の苦悩の世界には、切りも果《はて》しもないと思い知った。それで、一度ならず彼女の記憶に、いつかピエールが≪神よ、人間に、その耐えうるかぎりの苦悩を与えたもうことなかれ≫と訳してきかせたことのある、ある外国の諺《ことわざ》が思い出された。まこと、セヴリーヌには、自分の苦行の野原が見渡すかぎり続いているような気がした。来る時間も来る時間も、思いがけない新しい傷を彼女に与えた、理由は、来る時間も来る時間も、ピエールにとって自分が絶対になくてはならないものだと彼女に教えるので。
彼女を見るたびに、彼の眼の中に輝いた貧しき者の喜悦のような、あの弱々しい微笑、病院にいる間、無上の贈物のように思われたあの同じ微笑、あれがいまや、彼女にとって、むごたらしい傷の一つ一つになった。彼女が拘引《こういん》されたとしたら、彼はいったいどうなるだろう? いつ彼は知るだろう、彼の愛情を穢《けが》すのみではなお飽き足らず、売淫《ばいいん》の世界で見つけた恋人の手の短刀で、彼の精気と若さを奪うにいたったという事実を? ああ! ユッソンが、彼の発見を、すぐに夫に告げてくれたほうがまだどれだけましだったかしれはしない?
そうだったら、ピエールには、いまなお、自分の身を護るために、完全な肉体と、好きな仕事が残されているはずだ。彼女は、死んでいるはずだ、万一、死ぬ勇気がなかったら、マルセルといっしょになることもできたはずだ。落伍者《らくごしや》の生活の泥が、深く彼女を埋《うず》めてしまったはずだ。ヴィレーヌ街に通っていたころ、彼女は噂《うわさ》に聞いたことがたびたびあった、こうして泥土の中へ落ちこんだ女たちの、その美しい過去が、アルコールや麻薬の力をかりて、現在の彼女たちの落ちぶれ果てた生活の面に浮びあがってくる話を。
アルコール……、麻薬……、彼女もまたそこへたどりついたはずだ。彼女は今日このごろの鉛のように重苦しい日々に、ふとそんなものでも用いてみようかと思ったことから、自分でそれと感じるのだった。それなのに、今、彼女には、麻薬を考える権利さえなかった。ピエールのそばにいる間は、陽気に朗らかにしていなければならない彼女であり、またたえず彼のそばにいなければならない彼女なのだ。もちろん、彼が強《し》いて彼女を枕頭《ちんとう》から去らせないのではなく、そばにいてくれと口に出して頼みさえしないのだ。ただ、彼女の姿が病室から消えると、ピエールのさびしげな顔の不安な固定した表情に、やむにやまれぬ嘆願の気持が浮び出る。
彼女は、新聞を読むときだけ、隣室へさがることにしていた。彼女はこのごろ新聞に非常な魅力を感じていた。真実と仮想と半々に調合された、彼女に関する細密な記事で、新聞はいっぱいだった、事件のその余の部分はすべて知られていることとて、いまでは昼顔の謎《なぞ》が好奇心の中心になっていた。探訪記者たちはマダム・アナイスとその家の女たちを訪問した。昼顔がヴィレーヌ街の家で着ていた衣裳《ローブ》のことまでがいちいち細かく記述してあった。彼女が通《かよ》ってきた、時間のことまで、問題にされていた。最後に、新聞記者がひとりセリジーの家へやってきた。
セヴリーヌは、いよいよ発覚したと思った。ところが、その若い記者は、単に病人の容態を聞きに来たにすぎなかった。この訪問のおかげで、ピエールの容態が、その後少しも快《よ》くなっていないことに、セヴリーヌは気づいた。その晩アンリ教授が、いつもとはちがったやさしい口調で彼女に言った、
――セリジーは、まずこれ以上快くはなりますまい。知能は完全です。口はまだいくらかよくきけるようになり、首と腕ももう少し、動くようになるでしょうが、腰から下の筋肉は全部死んでいます」
――ありがとうございます、先生」セヴリーヌが言った。
彼女は笑いたかった、とめどなく、痙攣《けいれん》するほど笑いたかった。彼女が変え果てた、これがピエールの姿だった、つまり、彼は今後、人なみには生きてゆけない彼だった、そのくせ、人なみに悩みわずらうことのできる彼なのだった。
翌日、ピエールは新聞が見たいと言った。教授は読んでもいいと許可を与えた。
――あんなにほしがるんですから、やったほうがかえってよろしいでしょう」教授がセヴリーヌに言った。
ピエールまでが、セヴリーヌが必死の躊躇《ちゆうちよ》をしているのを見て、口ごもった、
――僕はこわくない……」
彼は、≪可愛い者よ≫とつけ加えたかったのだが、この言葉は、彼にはまだ言えない言葉だった。
彼の手はまだ、容易に掴《つか》もうとするものを掴みえないので、彼女がページをめくってやらなければならなかった。新聞には、ただただ昼顔のことだけが問題になっているので、ピエールまでが、病人らしい好奇心で、自分がおかげで故《ゆえ》なく刺されたその女に興味を持った。彼は多くを語ることはできなかった。だが、彼の表情の多いその視線は、昼顔の名を読むたびに、セヴリーヌの上にそそがれ、その都度この哀れな女に、死刑囚のつらい思いをさせた。いままでにもまして、ひときわ彼女で満ちあふれているこの同じ眼が、この有名な源氏名、昼顔の下に掲げられる彼女の写真をやがて見ることになるはずだ。その日限も、はや目の前に迫っていた。彼女には自分の身の行きづまる日がわかっていた。次の火曜日の朝が来たら、判事がすべてを知るはずだった。それなのに、今日はすでに金曜日だった。
日曜日に、小間使が来て、電話がかかってきたと言った。
――イポリトとおっしゃる方です。やっぱり[#「やっぱり」に傍点]妙な声の方ですの」いやらしげに、小間使が言った。
セヴリーヌは、受話器をとりあげるのに躊躇した。またどんないやなことを聞かされるのだろうか? その結果、彼女に与えられたこの哀れな猶予期間が、またどれだけ縮められようというのだろうか? そう思いながらも彼女はまた新しい手違いを生じてもいけないと思った。イポリトは、何の説明もせず、藪《やぶ》から棒に、会いたいからブーローニュ公園の湖の貸ボートの波止場まで来てくれと言った。
イポリトは、気《け》だるげに、水の上を走る小波《さざなみ》をながめていた。彼の肩はいつもに比べいくらか弱々しく見えた。二週間前には、こんなことがありえようとさえ思われなかった。彼の頬の色は砒素《ひそ》の色をしていた。セヴリーヌが近づくと、彼の巨大な体《からだ》が軽くわなないて、意地わるげな皺《しわ》が唇《くちびる》の両側に現われた。だが、それらの徴候《きざし》もやがてまもなく消えた。
――お乗り」借り入れておいたボートに乗りながら力のない声で彼が言った。セヴリーヌは、彼に殺されるものだと思った。すると大きな平和な気持が彼女の上におりてきた。イポリトは二|櫂《かい》三櫂こいだ。彼は少しも力は入れなかった。それなのに彼の腕力は出そうとしない場合にも強く働くと見え、まもなくふたりは湖心に浮んでいた。彼は櫂を手ばなして、ものうげに言った、――彼は別れるときまで、この調子を失わなかった。
――ここなら話ができる。酒場じゃ、聞かれる心配があるが、ここなら大丈夫だ……」
ふたりを乗せたボートは、騒々しいもの音をいっぱい乗せた他の多くのボートの間にまぎれこんでいた。夏の日曜日のことだった。
イポリトが言葉を続けて言った、
――マルセルがあんたに会ってくれと言ってよこした。会って、あんたを安心させてくれと言ってよこした。マルセルはあんたをその筋へ売り渡しはしないというんだ。これはあれの考えだ。わしならすぐにも売ったはずだ。あれにはいい弁護士がついている。わしがつけた。昼顔を公判廷へ引出しさえしたら、マルセルの身の上はもう安心なものだ。予謀のない情痴《じようち》事件だ。立派なものだ。実はあれがいけないといっても、わしがあんたを渡すつもりだった。ところが、わしがあんたを渡すようなら、この前あれが殺したふたりの男のことまで言ってしまうと息まくのだ。それくらいなことはやりかねないあいつだ」
彼はいくぶんばね[#「ばね」に傍点]のゆるんだあぎと[#「あぎと」に傍点]を食いしばって、ためいきをついた。
――あんたって、運のいい女だ。現場からは、アルベールが救い出してくれるし、わしは黙ってるし。そこでだ、マルセルが、わしの口からあんたに言わせることが、ひとつあるんだ。あんたに待っていてくれと言うんだ。刑務所から逃げ出して、帰ってくる――手伝ってやるさ、みんなで。だから、あんたは、あれの女になって、待っていてくれろというんだ。わかったかい」
イポリトは、じっとセヴリーヌを見つめた、すると彼女は泣きだした。
――そんなことが、何になりましょう。明後日《あさつて》、ジュリエットが、判事さんのところへ行きますわ。そうしたら、あたし拘引されてしまいますわ」
――誰だい、ジュリエットって?」
――小間使ですの。マルセルが家へ来たのを見て知っていますの」
――待った!」イポリトが言った。
つづいて彼は深い考えごとに落ちていった。彼が手を出すまでもなく、思いがけない告訴で、昼顔の素姓が洗われるというのだ。マルセルの利益と名誉はおかげで救われるはずだ。ただイポリトが、中立的な態度で、それを傍観していたと知ったらマルセルは承知するだろうか? それにあんな思いつめた気性の若者だから、さきに言ってよこしたような復讐《ふくしゆう》をしまいものでもない。こうしたマルセルにとって不利なチャンスと、友人としての自分の義務が、数分の間、イポリトの心の天秤《てんびん》の上にのせられていた。セヴリーヌはそれと知らずにいたが、彼女の運命の賽《さい》ころは実にこの間に投げられていたのであった。
しばらくして、イポリトが言った、
――ジュリエットは判事のところへ行ってもかまわん。わしが変えたくないと思いさえしたら、行かしたところで何ごとも変りはない。アナイスとあの家の女どもは、わしがおさえている。あんたは否定さえしたらいい、小間使のいうことより、あんたの言うことを人は信じるはずだ。だが、行かせないようにしよう。そのほうが、一層よかろう」
――では、あなたが?……」セヴリーヌがつぶやいた。
――安心していな。わしは容易に手は下《くだ》さん、のっぴきならないときにだけやる。まずその娘《こ》に話してみよう。たいていそれでよかろうと思う。マルセルがやりそこねた、あのユッソンという男にも、わしならまず話をしたはずだ」
彼はボートを波止場の方へ戻した。岸へ舟をつける前に彼がたずねて言った、
――マルセルに何か言ってやることはないかな、あんた?」
セヴリーヌは、じっとまともにイポリトを見つめた。そして言った、
――知らせてあげてください、夫以外に、あの方よりあたしが愛している男はありませんと」
彼女の言葉の調子が、イポリトを感動させたらしかった。彼はうなずいて言った、
――あんたのご亭主は、死んだも同然だと新聞に出ているが、それを承知で、わしはあんたに運がよかったなんて言ったりしてわるかった。なにしろやりかたがみんなまずかった。それはそうと、ジュリエットのことは心配しなさんな。安心して、病人のそばへ帰ってゆきなさるがよい」
家へ帰ってみると、アンリ教授がピエールのベッドのそばに腰かけていた。この外科医が言うのだった、
――今日はさいわい日曜なので、セリジーのそばに少しゆっくりしていました。病気の様子をすっかり話しておきました。あと半月もしたら、あなたがついて南方《ミデイ》へおいでなさい。太陽は筋肉のよき友ですから」
ふたりきりになったとき、セヴリーヌがたずねて言った、
――あなたうれしいでしょう?」
彼女は、言葉に、陽気な調子を出そうと努めた、それなのに、いまのさき自分が生きてきた事件のために、声がまるでたたなかった。ことに不思議なのは、彼女が安堵《あんど》の気持さえ感じないことだった。そのくせ、彼女はイポリトの約束が大丈夫なことはよくわかっていた。(なるほど、その翌日、ジュリエットは暇を取って帰っていった)。それなのに、この身が安全だという事実が、彼女を喜びに満たしてくれるかと思いのほか、かえって、彼女のなかに、名づけようも、形もない、ある空虚を形づくった、そして、あらゆるものが、その空虚の中へ落ちこんでいった。これと似て、あまりに力走した選手は、いよいよゴールの前へ来たところで倒れてしまう。
セヴリーヌは、せつない思いで、繰返した。
――あなた、うれしいでしょう? あなた、うれしいでしょう?」
ピエールは答えなかった、彼女は気づいた、夕ぐれが迫ってきて、たださえ表情のさだかでない顔に現われる反応の見わけを困難にしていると。彼女は燈火《あかり》をつけた。不随の両脚の間に坐って、いつもするように、夫の眼に問いかけた。
すると、そのとき、セヴリーヌは、これまで彼女の哀れな心の上に、つぎつぎに襲いかかった数々の苦悩の、そのすべてよりもっと痛ましい苦悩を感じた。すまないというような、否、それよりもっと激しい申し訳なげな気持、それが実に、セヴリーヌが、夫の子供らしい、忠実な、わななく眼つきの中に見いだしたものだった。廃人となってしまった自分の肉体について、ピエールがいだく恥ずかしさ、あんなにまで愛《いと》しんで守りたててきた彼女から永久に看護してもらわなければならないことに対するそれは恥ずかしさだった。
――ピエール、ピエール……、あたし、あなたといっしょにいるだけで幸福ですの」セヴリーヌが口よどみした。
彼は頭を横に振ろうとした、するとわずかにそれができた、ゆがんだ唇の間でやっとつぶやいた、
――申し訳ない、気の毒だ……、南へ行って……躄車《いざりぐるま》を押してもらう……。ごめんなさい」
――おっしゃるな、お慈悲です、おっしゃるな」
彼がかえって、詫《わ》びごとを言っていた、人もあろうに彼が。今後一生の間、自分を妻の重荷だと考え、妻の肩を軽くするため死にたいとさえ考えている彼が、(彼女にはそれがわかった)こうして詫びごとを言っているのだ。
――いけません、いけません、そんな眼であたしをごらんになってはいけません。あたし我慢ができません……」不意にセヴリーヌが叫んだ。
以前あれほど暖かかった、以前あれほど力強かった夫の胸に、彼女はその額を押し当てた。何ごとだろう、彼女の苦闘のすべても、またようやく到達した事件の奇蹟《きせき》的な解決も、すべてことごとくピエールのために不利な結果だけしか持ちきたさなかったのだ! 彼が、彼女を純潔な女だと信じれば信じるほど、それだけ多く、その彼女に自分の身をいたわられる苦痛を感じる羽目になるのだった。彼女……、彼女……、あんなにまでけがれた彼女なのに……。
セヴリーヌはどうしてよいか知らなかった。セヴリーヌは、真《まこと》の善が、真の幸福が、どこにあるか、もうわからなくなっていた。彼女は、光明を、衝撃を、雷撃をこいねがった。
そして、この絶望的な熱中の気持で、彼女はいよいよ身近くピエールの体《からだ》を抱きよせた。彼女は、夫の不自由な手先が、自分の髪を愛撫《あいぶ》しようとしていると感じた。忍びがたいほど自分を信じているこの病人の手が、彼女の心の中のためらいを決定した。セヴリーヌはこれまですべてに耐えてきた。ただこの病人の手の愛撫には耐ええなかった。それは絶対に不可能だった。彼女は身の罪を残らず告白した。
こうした種類の心の動き方を、何と説明すべきだろうか? それは、限りなく愛する夫に対して、自分のカモフラージュされた貞節だけしか示しえない歯がゆさのゆえだろうか? それとも、やや品下《しなくだ》る感情だが、告白せずにはいられない気持のゆえか? あるいは、とにかく、一応|赦《ゆる》してもらって、そのあとは、恐ろしい秘密の重荷なしに生きようとする、ひそかな希望のゆえか? これほどの難航後の、人の心の中に波立ち、もつれ、わななく唇の上にのぼってくる、要素のひとつひとつが誰に分析しつくせよう?
その後、今日までに、三年過ぎた。セヴリーヌとピエールは、静かな穏やかな海辺の地で暮している。ただ、セヴリーヌが、身の罪を告白したあのとき以来、彼女はいまだに、ピエールの声を一度も聞かない。
[#地付き]一九二八年二月二十日  ダヴォスにて
[#改ページ]
あとがき
ジョゼフ・ケッセル(Joseph Kessel)は、南米アルゼンチンのクララ市に、スラブ種の血を受けて、一八九八年に生れている。
一九二二年、『赤い草原』(La Steppe Rouge)と題する短編集をN・R・F社から出して、いきなりその作家としての才腕を認められたが、これは、帝政没落直後のロシアに取題した、血なまぐさい数編の物語であった。この作家の描写力と構成力は、早くもこの処女作によって認められ、一躍新進作家の最前列のひとりとしてフランス文壇の第一線へ押し出された。ケッセル二十四歳の年である。
翌一九二三年には、自分の大戦中の戦闘機操縦士としての体験に取材して、長編『乗組』(L'Equipage)を発表。ありあまる詞藻《しそう》と作家としての力量を評壇に確認させた。この作は戦前邦訳が出版されている。パテティックに富んだ、砲煙にけむる中空高いところで行われる、息づまるようなスリルとフィクションの回味《かいみ》を、まだ記憶している読者もあろう。
一九二五年には、長編小説『囚《とら》われの人々』(Les Captifs)を発表しているが、これはスイスの高原療養所(ダヴォス)における療養生活者の一群を主題にした小説で、作者得意のフィクションの働く余地の少ない記録的な作として終っている。病める夫人に従っての、作者の彼地《かのち》における年余の生活の副産物だという。ケッセルのスイスにおける高原生活の片鱗《へんりん》は、本書『昼顔』の第一章、馬に引かせるスキーの場面に、実に新鮮な筆致で如実に描出されている。二十二歳の冬から春へかけて、同じくダヴォスのテュルバン博士の療養所で、半歳の療養生活をして、≪このスイスの小さな市《まち》≫とその付近の風物に、夢多い青春の日の思い出を持つ訳者は、昔なつかしい思いで、この一章を訳したことを付記しておく。
これより先、ケッセルは、一九二四年、ポール・モーラン、ヴァルリー・ラルボー、ジャン・コクトー、ジャック・ド・ラクルテル、ベルナール・ファエ、ジャン・ジロドゥーとともに『新世界文学賞』(Le Prix du Monde Nouveau)の審査員に選ばれた。余事にわたるが、ついでだから言うが、この賞の受賞者は賞金七千フランを与えられるほかに、米国でその受賞作十五万部を出版してもらえる。この年の『新世界文学賞』はピエール・ルヴェルディ(Pierre Reverdy)の『空の漂流物』(Les Epaves du Ciel)に与えられた。
一九二七年には、中編三つを集めた『清らな心』(Les C..urs Purs)が出版され、それと前後して、数あるフランスにおける文学賞中でも最重要なひとつ、アカデミー・フランセエーズの小説大賞がケッセルに授与された。
ここに訳出した『昼顔』(Belle de Jour)は一九二九年に出版された。すでに断章が新聞に掲載された当時から、轟々《ごうごう》たる世論を巻き起した一作だ。その次第とこれに対する作者の応答は、原序に譲ってここには贅《ぜい》しない。一女性の霊と肉との間の異常な乖離《かいり》を扱ったこの小説で、作者が何を意図したかも、また、原序に詳《くわ》しく説かれている。原序参照。
その後も、ケッセルの著作は、年々新作を加え、おもなものだけ拾っても、一九二九年の『砂の風』(Vent de Sable)、一九三一年の『とどめの一撃』(Le Coup de Gr..e)、一九三二年の『大分限』(Fortune Carr..)、一九三二年の『寝台車』(Wagon-lit)、一九三四年の『運命の子たち』(Les Enfants de la Chance)、一九三五年の『乗組の休養』(Le Repos de l'Equipage)、一九三六年の『サン・スーシで見た女』(La Passante du Sans-Souci)、一九三七年の『ジャワのばら』(La Rose de Java)などの小説作品のほかにも、一九二八年の『カリフォルニアのご婦人たち』(Dames de Californie)、一九三七年の『夢の市ハリウッド』(Hollywood, Ville Mirage)など数巻の記録文学があり、また、一九三四年の『僕が知った人間スタヴィスキー』(Stavisky, l'homme que j'ai connu)、一九三八年の『メルモース』(Mermoz)のような有名な現代人の伝記もある。
さしも多作なケッセルではあるが、一九三八年以後は著作らしい著作がとだえて、数ある彼の愛読者に奇異の感をいだかせていたが、俄然《がぜん》、一九五〇年、『幸福の後にくるもの』(Le Tour du Malheur)なる総題下に、第一巻『メディシスの泉のほとり』(La Fontaine Medecis)以下全四巻からなる大河小説を発表して、愛読者多年の期待に答えた。彼は、ここ十数年間、このライフ・ワークの完成に没頭しきり、ために他の著作をかえりみるいとまがなかったのである。
この、邦訳にしたら三千枚を越えるであろう大河小説の巻頭で、彼は次のように述懐している。
≪この小説を書こうという考えが浮んだとき、僕はまだ三十歳《さんじゆう》にはなっていなかった。書き終ったいま、僕は五十歳《ごじゆう》を過ぎている。ひとりの人間の一生にとって、きわめて重要なこの期間を通じて、――それも山と押し寄せる人生の事件と偶発事に耐えて――ひとつの計画を押し進めるには、僕の性情とおよそ反対な、忍耐と集中が必要だ。このふたつを、僕がなしえた理由の説明は、ひとつしかないように思われる、それはこの書が、僕の内面的必要のひとつであり、僕にとっての真実の形態だということだ≫と書いている。
第一次大戦の一九一五年から、戦後の一九二五年に至る十年間の、今日から見て人間が幸福だったと言われているあの時代の、パリの一社会の放蕩《ほうとう》を克明に描きだしたこの大風俗絵巻は、『昼顔』の訳者による邦訳が新潮社からすでに第三巻まで発行され、第四巻『石膏《せつこう》の人』をもって完結する。
ある批評家は、『昼顔』を評して、≪身の毛のよだつ傑作だが、いずれにしても傑作には相違ない≫と言ったが、そうかもしれない。ケッセルが、獰猛《どうもう》な才能を備えた一流の作家であることは否《いな》みがたい。好んでその作中に、忌《いま》わしい人間性を、剥《む》き出しにして曝《さら》けだすが、決して善悪の批判を下そうとはしない。むしろ作中人物中に、自分を見いだして快となすかの感さえある。彼は言う、≪自分の作中人物に、自分の神経を、自分の血液を分与しない作家もなければ、また自分の作中人物を、自分の感情の、思想の、世界および人間観の後継者としない作家も、ひとりもないはずだ。つまり小説こそ作家の真の自叙伝と言うべきものだ≫と。
ケッセルのどの作品にも、人間の動物性が恐ろしいほどの力強い筆致でくりひろげられる。世の道学者先生たちはそれを見て驚愕《きようがく》の眼をみはるが、批評家と文芸作品の愛好者は、快哉《かいさい》を叫んでやまない。
『昼顔』が今度新潮文庫の一分冊として発行されるのを機会に、訳者は稿をあらたにして、この新訳をなした。
一九五二年四月五日
[#地付き]葉山一色の仮寓にて 堀口大學
第二十六刷改版のあとがき
今度改版の機会に恵まれたので新字体、新かなづかいに改め、全巻毎ページにおよぶ加朱訂正を試みた。
一九六八年十一月
[#地付き]葉山堀内森戸川畔にて 堀口大學
この作品は昭和二十六年六月新潮社より刊行され、
昭和二十七年八月訳者新訳による新潮文庫版が、
昭和四十四年二月改訂版文庫が刊行された。