J・M・ケイン作/田中小実昌訳
郵便配達はいつも二度ベルを鳴らす
目 次
郵便配達はいつも二度ベルを鳴らす
あとがき
登場人物
フランク・チェンバーズ……風来坊、ニックの雇い人
ニック・パパダキス……ギリシア人、食堂経営者
コーラ・パパダキス……ニックの妻
カッツ……弁護士
ケネディ……カッツの部下
サケット……地方検事
マッジ……猛獣を飼う女
郵便配達はいつも二度ベルを鳴らす
正午《ひる》ごろ、おれは干草をつんだトラックからほうりだされた。前の夜、国境で、おれはトラックにとびのり、キャンバス地の幌《ほろ》のなかにもぐりこむと、すぐ眠った。メキシコのティファナに三週間いたあとで、たっぷり眠る必要があったのだ。エンジンを冷やすため、トラックが道の片側によせてとまったときも、まだ、おれは眠っていた。片足がつきでているのを、トラックのやつらは見つけて、おれをほうりだしたのだ。おれはやつらをわらわせて、もっと先までのっけてもらおうとしたが、やつらはしらん顔でとりあわず、せっかくのギャグもだめだった。それでもやつらはタバコを一本くれた。おれは、なにか食べ物にありつけないか、道をテクっていった。
そんなことをやってるときに、このツィン・オークス・タヴァーン(二本樫亭)が目についた。ただの道ばたのサンドイッチ屋だ。こんなのは、カリフォルニアじゅう、どこにでもある。食堂と、その奥が店の者がすんでる住居。よこにガソリンスタンドがあり、うしろのほうに、店の者はモーテルとよんでいる小屋みたいなのが六棟。おれはいそいで店にはいり、道路のほうを見だした。ギリシア人の店の主人がでてきたので、キャデラックにのった男がここによらなかったか、おれはたずねた。その男はここでおれをひろい、いっしょに昼食をすることになっている、と。きょうは、そんなひとはこない、とギリシア人の主人はこたえ、テーブルのひとつに、おれの席をつくってくれ、なにを食べるか、ときいた。オレンジ・ジュースにコーンフレイク、目玉焼きにベーコン、エンチラダス、フラップジャックとコーヒー、とおれは言い、間もなく、ギリシア人はオレンジ・ジュースとコーンフレイクをもってきた。
「ちょっと、待った。ひとつ、はなしとくことがある。キャデラックの男がやってこなかったら、これは、ツケにしてくれる? 昼食は、その男がおごることになってたんだ。おれは、ちょいと金がたりないんでね」
「ホーケー、腹いっぱい食べて」〔ギリシア人は、母音ではじまる言葉は、発音しにくいとかで、ギリシア訛《なまり》のオーケーはホーケーになる〕
ギリシア人の主人はわかってるらしい。で、おれはキャデラックの男のはなしはやめた。やがて、ギリシア人のほうにもなにか魂胆があるのがわかった。
「なにをやってる? どんな仕事をしてる、え?」
「ああ、あれをやったり、これをやったり、あれをやったり、これをやったり」
「いくつ?」
「二十四」
「若いんだなあ。若い者なら、今すぐほしい。ここの仕事にね」
「いいところじゃないか」
「空気、いい。ロサンゼルスみたいな霧、ない。ぜんぜん、ない。空気、いい。きれいだ。いつも、空気、きれいでいい」
「夜なんかすてきだろうな。今からでも、夜のすてきな空気がにおうようだぜ」
「よく眠れる。あんた、車のことわかる? 故障をなおすとか」
「ああ、おれは自動車修理工に生まれついたようなもんだ」
ギリシア人は、空気のことをくりかえし、ここを買ってからどんなにからだの調子がいいか、それなのに、やとった者がどうして長つづきしないのか、さっぱりわからない、なんてことをしゃべった。おれには、長つづきしないわけはわかったが、食べるほうを専門にした。
「どう? ここが好きになるとおもう?」
そのときには、おれは、のこったコーヒーを腹におさめ、ギリシア人がくれた葉巻に火をつけていた。「じつはね、ほかにも二つばかり仕事の口があって、それがこまるんだな。でも、考えとくよ。ちゃんと考えとく」
女をみたのは、そのときだ。それまでは、女は奥の調理場にいて、おれが食べた皿をとりにきたのだった。からだつきはわるくないが、すごい美人ってほどではない。ただ、ちょっぴりすねたような顔をし、くちびるをつぼめるみたいにつきだしているのが、おれのくちびるで、そいつをモミモミして、ひっこめてやりたい気にさせた。
「ワイフだよ」
女は、おれのほうは見なかった。おれはギリシア人の亭主にむかってうなずき、葉巻をふって見せた。それだけだ。女は皿をもって奥にいき、ことギリシア人とおれとに関しては、女はその場にもいなかったってことになる。そして、おれは店をでたが、五分ほどでかえってきた。キャデラックの男に|ことづて《ヽヽヽヽ》をたのむためだ。仕事の話がまとまるのには三十分かかったが、三十分後には、おれはガソリンスタンドでタイヤをなおしていた。
「名前は?」
「フランク・チェンバーズ」
「おれはニック・パパダキス」
おれたちは握手し、ギリシア人はむこうにいった。すぐに、ギリシア人が歌をうたう声がきこえた。なかなかいい声だった。ガソリンスタンドからは、調理場がよく見えた。
三時ごろ、だれかに車の三角窓にステッカーをはられた、とカンカンになってる男がきた。ステッカーを湯気ではがすのには、三角窓をはずして、調理場にもっていかなきゃいけない。
「エンチラダスかい? おたくたちは、こいつをつくるのはうまいからなあ」(エンチラダスは辛いメキシコ料理)
「おたくたちって、どういう意味?」
「おたくとミスター・パパダキス。おたくとニック。昼食に食べたやつだよね。おいしかった」
「そう」
「布《きれ》ない? 熱いんで、これをもっとく布《きれ》」
「そういう意味じゃないんでしょ」
「そうさ」
「あんたは、わたしをメックス(メキシコ人)だとおもってるのね」
「いや、べつに」
「ううん、そうだわ。あんたがはじめてじゃないんだもの。これは、はっきりしといてね。あんたが白人のように、私も白人よ。わたしはくろっぽい髪をし、いくらか、メックスみたいに見えるかもしれない。でも、あんたが白人のように、わたしも白人だわ。ここで、おたがいなかよくやっていくつもりなら、それは忘れないでね」
「おたくはメックスみたいじゃないよ」
「言ったでしょ。わたしはあんたとおなじように白い、白人だわ」
「いやいや、おたくは、まるっきりメックスみたいなところはない。メキシコの女は、みんなでっかい尻で、ひでえカッコの足をして、オッパイなんか顎のしたまでくるぐらいバカ大きくて、肌はきいろっぽいし、髪はベーコンの脂《あぶら》でもくっつけたみたいにべっちゃりしてる。おたくはそんなんじゃない。小柄だし、きれいな白い肌をしてる。髪もくろっぽくてもやわらかく、カールしてるし……。ただひとつ歯だけは、メックスみたいだな。メックスは、みんな白い歯をしている。歯だけは、メックスはきれいだ」
「わたし、結婚する前の姓はスミスなの。あんまりメックスみたいじゃないでしょ、ね?」
「うん、あんまりね」
「それに、わたし、このあたりの育ちでもないの。アイオワからきたのよ」
「スミスか、ねえ、ファースト・ネームは?」
「コーラ。わたしのこと、もし、そうよびたいなら、よんでもいいわ」
そのときになってわかったんだが、調理場にはいっていったのは、まったく、いいタイミングだった。この女が、自分が白人の女でないみたいに感ずるのは、メキシコ料理のエンチラダスをつくらなきゃいけないためでも、くろっぽい髪をしてるからでもなく、ギリシア人の亭主をもってるからだ。ミセズ・パパダキス、なんておれがよびやしないかと、そんなことまで心配してるのだろう。
「ああ、コーラ。おれのことも、フランクってよんだら?」
コーラはこちらにきて、三角窓にはりつけられたステッカーをはがすのを手伝ってくれた。すぐそばにいるので、コーラのからだのにおいがした。おれは、ほとんど耳もとでささやくように、コーラの耳のすぐそばで、ズバッと言った。「どうしてあんなギリシア人なんかと結婚したんだい?」
おれがムチでうったみたいに、コーラはとびあがった。「それが、なにか、あんたに関係あるの?」
「うん、いろいろね」
「ほら、三角窓」
「ありがとう」
おれは調理場をでた。ねらったとおり、うまくいった。あの女のガードの下に、一発くらわしてやった。ずっしりふかく、くらわしてやったから、痛かっただろう。これからは、おれとあの女、コーラとの問題になる。コーラは、なかなかイエスとは言わないかもしれないが、おれをかわしとおすわけにもいくまい。コーラには、おれがおもってることがわかっている。おれがコーラのホンネをにぎってることも。
その晩、夕食のとき、コーラが、どうしてもっと、おれにフライド・ポテトをやらないのか、とギリシア人はムクれた。ギリシア人は、おれにここを好きになってもらいたく、今まで、やとった者のように長つづきせず、出ていってしまってはこまるとおもったのだ。
「なにか食べるものをやれ」
「フライド・ポテトはすぐそこのストーブの上にのってるわ。自分ではとれないの?」
「いいんだよ。まだほしくない」
ギリシア人はくどくどつづけた。もし、やつにいくらかでも脳ミソがあるなら、これは、裏にわけがあるとわかったはずだ。だって、コーラは、男になにかとらせるような女じゃない。そいつは、言える。しかし、ギリシア人はバカで、ぶつぶつうなっている。おれたちは調理場のテーブルで食事をしており、ギリシア人はテーブルのむこう側、コーラはこちら側、おれはそのあいだにいた。おれはコーラのほうは見なかった。だが、着てるものは見えた。看護婦の白い制服みたいなやつだ。歯医者の診察室でもベーカリイでも、みんな、こんなのを着ている。朝はぱりっときれいだが、今はすこしくたびれ、皺になっている。コーラのからだのにおいがした。
「ああ、わかったわよ」
コーラは、フライド・ポテトをとってくるために、立ちあがった。瞬間、着てるものの前のほうがすべってひらき、足が見えた。コーラはフライド・ポテトをくれたが、おれは食えなかった。「ほうらね。結局は、ほしくないんじゃないの」
「ホーケー。しかし、食べたいときは、食べられる」
「腹がすいてないんだ。昼食をうんと食ったからね」
ギリシア人は大勝利でもおさめたみたいな態度になった。大人物らしく、女房もゆるしてやるのだろう。「いい女だよ。おれのちいさな白い小鳥だ。おれのちいさな白いポッポちゃんだよ」
ギリシア人はおれにウインクし、二階にいった。コーラとおれはテーブルにすわり、だまっていた。ギリシア人は大きな壜とギターをもっておりてきた。そして、壜からついでくれたが、甘いギリシアのワインで、おれは胃がむかついた。ギリシア人は歌いだした。テノールの声だ。ラジオできくような、ほそぼそとしたテノールではない。でっかい声のテノールで、高音になると、カルーソのレコードみたいに、|泣き《ヽヽ》がはいった。しかし、おれはその歌はきいていられなかった。急ピッチで、気分がわるくなってきたのだ。
ギリシア人がおれの顔色を見て、表につれだした。「外の空気、気持がよくなる」
「だいじょうぶ。だいじょうぶだよ」
「腰かけて、じっとしてろ」
「もう家のなかにもどんなよ。昼食を食べすぎただけだ。だいじょうぶ」
ギリシア人は家にはいった。おれはみんな吐いちまった。昼食をたべすぎたのがいけなかったのか、そのフライド・ポテトのせいか、それとも、あまったるいギリシア・ワインのためか。ともかく、あの女がほしくてしようがなく、胃のなかになにもいれておけなかったのだ。
翌朝、店の看板がふきとばされていた。夜中に風がふきだして、朝になると暴風で、看板がとばされたのだ。
「こりゃひどい。見ろよ」
「すごく強い風。ぜんぜん眠れない。ひと晩じゅうずっと」
「まったく、強い風だった。しかし、あの看板を見ろ」
「こわれた」
おれは、金づちで看板をたたいて、なおしていた。ギリシア人が、ちょいちょい出てきては、見ている。
「だいたい、どこから、こんな看板をもってきたんだい?」
「ここを買ったときに、あった。どうして?」
「こんなの、しようがない。これで、よく商売になったよ」
車がきたので、おれはガソリンをいれにいき、ギリシア人に考えさせた。もどってくると、ギリシア人は、食堂の前にたてかけた看板を、まだ目をぱちぱちさせながら見ていた。
電球が三つこわれている。電線をつないだが、あとの電球のはんぶんも灯はつかなかった。
「新しい電球にかえ、かけなおせば、だいじょうぶ」
「あんたがボスだからね」
「これ、どこがわるい?」
「だいいち、時代おくれだよ。今じゃ、電球をならべた看板なんてない。ネオンサインだ。そのほうが見たところもいいし、あんまり電気もくわないしさ。それに、これはなんだい? ツィン・オーク、それだけじゃないか。タヴァーンのところは、ライトはない。ツィン・オークだけでは、腹はへらないよ。これじゃ、ちょいと上って、なにか食べていこうかって気にならない。高くついてるぜ、この看板は。あんたが気がつかないだけで」
「なおせば、ホーケー」
「新しい看板とかえたら?」
「おれ、いそがしい」
しかし、間もなく、ギリシア人は紙を一枚もって、もどってきた。新しい看板のデザインを、自分でかいてきたのだ。赤、白、ブルーのクレヨンで色をつけてある。ツィン・オークス・タヴァーン、食事、|BAR・B・Q《バーベキュー》、衛生的トイレ、N・パパダキス経営、だそうだ。
「すごい。みんなびっくりして、ひっくりかえるぜ」
おれは、ちゃんとしたスペルに、言葉をなおし、ギリシア人は、その字に、また巻毛の飾りなんかをくっつけた。
「ニック、古い看板をなおして、またかけたってしようがないよ。きょう、町にいって、新しい看板をこしらえさせたら? きれいだぜ、いや、ほんと。それに、看板ってだいじなものだ。看板がよきゃ、店もよく見える」
「そうしよう。うん、そうしよう」
ロサンゼルスまでは、せいぜい二十マイルぐらいだ。それなのに、ギリシア人はパリにでもいくみたいに、大おめかしをして、昼食後、すぐに出かけた。いってしまうと、おれは表のドアに錠をかけた。そして、客が食べた皿をとり、それをもって、奥の調理場にいった。コーラはそこにいた。
「この皿、食堂にのこってたよ」
「あら、ありがとう」
おれは皿をおいた。フォークがタンバリンみたいな音をたてた。
「わたしもいくつもりだったけど、お料理をはじめたので、いたほうがいいとおもって」
「おれも、やることがたくさんあるんだ」
「もう気分いい?」
「だいじょうぶ」
「ほんのちょっとしたことで、気分がわるくなることがあるのよね。水がかわったとか、そんなこと」
「たぶん、昼食の食べすぎだよ」
「なにかしら?」
だれかが表にいて、ドアをがたがたやっていた。
「店にはいろうとしてるみたいだね」
「表のドアに錠をかけたの、フランク?」
「そうらしいな」
コーラはおれを見た。顔があおじろくなっている。コーラは食堂とのあいだのスイング・ドアのところにいき、のぞいて見た。そして、食堂のほうにはいっていったが、すぐもどってきた。
「いっちゃったわ」
「どうして、おれ、ドアに錠をかけたのかな」
「わたしも、錠をはずすのわすれたわ」
コーラは、また、食堂のほうにいきかけたが、おれはとめた。「錠は……かけたままにしておこうよ」
「錠がかかってれば、だれもはいってこられないわ。わたし、お料理をしなくちゃいけないし、皿もあらわなきゃ」
おれはコーラを腕に抱き、おれの口をコーラの口にすりつけた……「噛んで! 噛んで!」
おれは噛んだ。コーラのくちびるにふかく歯をいれ、血がおれの口のなかにふきだすのを感じた。コーラを抱いて、二階にはこぶとき、血は彼女の首すじをながれていた。
それから二日《ふつか》、おれは生きた心地がしなかった。しかし、ギリシア人はぶすっとムクれていて、なんとかたすかった。食堂と調理場のあいだのスイング・ドアを、おれがなおしておかなかった、とやつはおこってきたのだ。コーラが、ドアがはねかえってきて、口にあたった、と言ったのだった。なにか言わなきゃしようがない。コーラの口は、おれが噛んだところが、すっかり腫れあがっていた。だから、ドアをなおしておかなかったおれの責任だ、とギリシア人はムクれてる。で、おれは、スイング・ドアのひらきかたがゆっくりになるように、ドアのスプリングをのばし、ドアをなおした。
しかし、ギリシア人がおれにぶすっとしてたほんとの理由は、看板のことだった。やつは新しい看板にすっかりお熱をあげ、それが、やつ自身のアイデアではなく、おれのアイデアだと言われるのを心配してたのだ。たいへんな看板で、その日の午後にはできなかった。つくるのには三日かかり、できあがると、おれは町にいき、とってきて、看板をかけた。やつが紙にかいたデザインは、みんな看板にくっついており、新しいものも二つばかりあった。ギリシアの国旗にアメリカの国旗、にぎりあって握手してる手、ご満足保証。みんな、赤、白、ブルーのネオン文字になっている。だが、電気をつけるのには、くらくなるまで待たなきゃいけない。スイッチをいれると、そいつは、クリスマス・ツリーのようにでこでこかがやいた。
「今まで、たくさん看板も見てきたが、こんなのは、はじめてだな。まったく、あんたはすごいよ、ニック」
「ほう、ほう」
おれたちは握手し、また友だちになった。
翌日、ほんのわずかだが、コーラとふたりきりになれた。おれは拳骨で、コーラの脚をぶんなぐった。かなり強くなぐり、コーラはぶったおれそうになった。
「どうして、そんなことをするの?」コーラはアメリカライオンみたいに歯をむいた。おれはそんなコーラが好きだ。
「ごきげんいかが、コーラ」
「つまんない」
それから、また、コーラのからだがにおいだした。
ある日、ギリシア人は、このさきでガソリンスタンドをやってる男が、ガソリンの値下げサービスで競争してきてると知った。で、やつは車にとびのり、ようすを見に行った。やつが車にのってでかけたとき、おれは自分の部屋にいた。窓からそれを見て、ふりかえり、おれは調理場におりていこうとした。しかし、コーラがもう階上《うえ》にあがってきていて、部屋の入口に立っていた。
おれはコーラのそばにより、その口をみつめた。コーラの口がどうなってるか見るのは、これがはじめてだった。腫れはすっかりひいている。だが、歯の跡はのこっていた。上下のくちびるとも、ちいさな青いすじみたいなのがある。おれは、指さきで、コーラのくちびるをなでた。やわらかく、しっとり濡れている。おれは、コーラのくちびるにキスした。あんまり強くなく……。そっとやさしいキスだ。前には、こんなキスのことは考えたことはなかった。ギリシア人がかえってくるまで、一時間ほど、コーラはおれの部屋にいた。おれたちはなにもしなかった。ただ、ベッドによこになってただけだ。コーラはおれの髪に指をいれてずっといじっていた。そして、天井を見ている。考えごとをしてるみたいに。
「ブルーベリーのパイ、好き?」
「わからない。うん、好きじゃないかな」
「いつか、つくってあげるわ」
「あっ、用心して、フランク。スプリングをおってしまうわ」
「スプリングなんか、くそくらえだ」
道ばたのユーカリのちいさな木立ちのなかに、おれたちは車をつっこもうとしていた。町のマーケットで買ってきたTボーン・ステーキの肉がわるいから、かえしてこい、とギリシア人が俺とコーラを使いにやったのだ。そのかえりに、くらくなってきた。おれはそこに車をぶちこみ、車ははねあがったり、ふりおとされそうになったりしたが、木立ちのなかにはいると、おれは車をとめた。ライトを消す前から、コーラは両腕で抱きついてきていた。おれたちはたくさんした。しばらくして、おれたちは、ただならんで、車のなかに腰をおろしていた。
「こんなこと、やっていられないわ、フランク」
「おれだって、おんなじさ」
「がまんできないの。コソコソあったりしないで、酔っぱらったみたいに、なにもかも忘れて、あんたといたいのよ。わかる? 酔っぱらったみたいに」
「うん」
「わたし、あのギリシア人きらい」
「なぜ結婚したんだ? そのはなしは、ぜんぜんきいてないぜ」
「なにもはなしてないわね」
「おれたち、しゃべってるヒマもなかったもんな」
「わたし、安レストランではたらいていたの。ロサンゼルスの安レストランに二年もいてごらんなさい。金時計をもった男が結婚してくれと言ったら、相手がだれでもとびつくわ」
「アイオワを出たのは、いつ?」
「三年前。わたし、美人コンテストで優勝したの。デモインの高校の美人コンテストよ。その商品はハリウッド旅行だったの。スーパー・チーフ鉄道の列車からおりたときは、十五人ばかりの男がわたしの写真をとったけど、それから二週間後には、安レストランではたらいてたわ」
「故郷《くに》にはかえらなかった?」
「ほうら見ろ、って言われるのがいやで……」
「映画は?」
「テストはうけたわ。ルックスはよかったの。でも、今ではトーキイでしょ。映画がね。スクリーン・テストでわたしがしゃべりだしたらすぐ、映画のひとたちはわたしのことがわかったのね。わたしもわかった。アイオワの田舎のただ、安っぽいねえちゃんよ。そんなねえちゃんが映画女優になれるチャンスなんて、モンキーていどね。モンキーほどもないわ。モンキーはひとをわらわせるけど、わたしは、ひとの気分をわるくするだけだもの」
「それから?」
「二年ほど、安レストランで、男たちに足をつねられたり、五セント玉のチップをもらって、今夜、ちょいとしたパーティがあるんだが、とさそわれたり……。そんなパーティにも、わたしいったことがあるわ、フランク」
「それから?」
「どんなパーティかわかる?」
「うん」
「そんなとき、あの男にあったの。あの男はわたしと結婚し、たすけてくれた。わたしは、ずっと、あの男といっしょにいるつもりだったわ。でも、もう、がまんできない。ねえ、わたし、白いかわいい小鳥みたい?」
「おれには、なんでもやらかしそうな、手がつけられないほどひどい、ヒド猫みたいに見えるな」
「あんた、わかってるのね。それも、あんたの取りえよ。あんたをだまそうとしても、まるっきりしようがないんだもの。それに、あんたは清潔よ。あんたは脂《あぶら》っぽくない。フランク、それ、どういうことかわかる? あんたは脂《あぶら》っぽくないわ」
「見当はつく」
「ううん、ちがう。それが女にとってどういうものか、男にはわからないわ。脂っぽい男といっしょにいて、からだにさわられるたびに、胸がわるくなる経験がなきゃ、わかりっこない。わたしは、ほんとは、そんなヒド猫じゃないわ、フランク。ただ、わたし、もうがまんができないだけよ」
「どういう気なんだ? おれをおだてるのかい?」
「ええ、いいわ。ヒド猫でもかまわない。でもわたし、そんなにひどい女にはならないとおもうの。脂っぽくないひとといっしょならね」
「コーラ、きみとぼくで逃げちまわないか?」
「それも考えたわ。いろいろ考えたの」
「あのギリシア人をおっぽりだして、バイバイしよう。ただ、バイバイ」
「どこへ?」
「どこだっていい。かまうもんか」
「どこだっていい。どこだっていい。それば、どんなところだかわかってるの?」
「ああ、どこだって知ってるよ。どこにいくことにきめてもね」
「ううん、そうじゃない。安レストランよ」
「おれは安レストランのはなしなんかしてない。旅のはなしさ。おもしろいぜ、コーラ。そして、旅のこととなると、おれぐらいくわしい者はない。道がどこでよじれて、どこでまがってるか、なんでも知ってる。それに、旅のやりかたもわかってる。いっしょに旅がしたいんだろ? 流れ者二人。事実、おれたちはそうだからな」
「あんたは、りっぱな流れ者よ。ここにきたとき、靴下もはいてなかったもの」
「だけど、おれが好きだろ?」
「愛してる。シャツがなくても、愛してる。シャツがないほうが、よけい愛してるわ。あんたの肩が、どんなにかたくて、すてきか、じかにさわることができるし……」
「鉄道の保安官をぶっとばして、筋肉がついたんだよ」
「あんたは、からだじゅうかたいわ。大きくて、背が高くて、かたい。それに、髪もあかるい色。毎晩、ベーラムのヘアーオイルを、べたべた、黒い、へんにちぢれた髪にくっつける、ぶよぶよのからだの脂っぽいチビとはちがうわ」
「そりゃ、すごいにおいがするだろうなあ」
「でも、だめよ、フランク。旅はね。そんなことをしたら、いきつくさきは、安レストランにきまってるわ。わたしは安レストラン。あんたも似たようなところで、こき使われてる。駐車場あたりで、作業服をきてね。作業服をきてるあんたなんか見たら、わたし、泣いちゃうわ、フランク」
「それで?」
コーラは、両手でおれの手をにぎって、ひねくりながら、長いあいだ、車のなかでじっとしていた。「フランク、わたしを愛してる?」
「ああ」
「どんなことでも平気なくらい、わたしを愛してる?」
「うん」
「ひとつ方法があるの」
「きみは、ほんとは、そんなにひどいことをするヒド猫じゃないと言ったね?」
「ええ、そう言ったわ。ウソじゃない。わたしは、あんたが考えてるような女とはちがうわ、フランク。ただ、ちゃんとした仕事をして、ちゃんとしたひとになりたいだけよ。でも、愛がなくちゃ、それはできないわ。わかる、フランク? とくに、女はね。わたしはまちがいをやった。そのまちがいをもとどおりにするために、たった一度だけ、ヒド猫にならなきゃいけないとおもうの。だけど、ほんとは、わたし、ヒド猫じゃないのよ、フランク」
「おかしなことをしてみろ、首にロープをまいてぶらさげられるぜ」
「うまくやれば、だいじょうぶよ。あんたは頭がいいんでしょ、フランク。だって、ほんのちょっとでも、わたし、あんたはだませなかったもの。なにか考えて。いろんな方法があるはずよ。心配することはないわ。やっかいなことからぬけだすために、ヒド猫になった女は、わたしがはじめてじゃないもの」
「だけど、ニックは、おれになにもわるいことはしていない。いい男だ」
「なにが、いい男よ。だいいち、臭《くさ》いわ。脂っぽくて、くさい。それに、自動車サービス部、またどうぞ、なんて背中にプリントしてある作業服を、わたしがあんたにきさせるとおもうの。あの男はスーツが四着に、シルクのシャツだって一ダースはもってるのにさ。あそこのビジネスは、はんぶんは、わたしのものじゃないの?わたしは料理もやるでしょ? わたしの料理、じょうずだとおもわない? あんただってはたらいてるんじゃないの」
「きみがしゃべってるのをきいてると、あたりまえのことみたいだな」
「あたりまえのことかどうか、だれが、それをきめるのよ? あんたとわたしじゃない?」
「うん、きみとおれさ」
「そうなのよ、フランク。それで、すべてがきまるのよ。あんたとわたしと旅やそのほかいろんなことじゃなく、ただ、あんたとわたし」
「やっぱり、きみはヒド猫だ。でなかったら、おれはこんな気持ちにはならないよ」
「そう、それをやるの。キスして、フランク。口にキスして」
おれはキスした。コーラの目は、二つの青い星のようにかがやいていた。教会にでもいるみたいな気分だ。
「お湯あるかい?」
「バスルームのお湯はだめなの?」
「ニックがはいってるんだ」
「そう。じゃ、ヤカンからあげるわ。ニックは、湯沸し機のお湯は、みんな浴槽《バスタブ》にいれるのが好きなの」
あとになって、そのとき、おれとコーラはこんなやりとりをした、とひとに言うために、おれたちはしゃべってたのだ。店をしめると、ギリシア人はバスルームにいった。いつも、土曜日の夜は風呂にはいるのだ。おれはお湯をもって、自分の部屋にいき、髭をそろうとして、車が表にだしっぱなしなのに気がつき、外にでる。そして、だれかきたときは、車の警笛を鳴らして、コーラにしらせるため、待機してるのだ。コーラは、ギリシア人の亭主が浴槽《バスタブ》はいる音をきくまで待っていて、二階のバスルームにタオルをとりにいく。そして、砂糖の袋の先の方に、ベアリングのボールをいれて、おれがつくったブラックジャックで、うしろから、亭主をぶんなぐる。さいしょ、おれがこの役をやるはずだったが、コーラがバスルームにはいっていっても、亭主はべつになんともおもうまいということになった。もし、おれがバスルームにいき、カミソリをさがしてるなんて言えば、やつが浴槽からでてくるかなんかして、カミソリをさがすのを手伝うかもしれない。コーラは亭主をぶんなぐったあと、溺死するまで、浴槽のなかにつけておく。それから、すこし水をだしっぱなしにして、バスルームの窓からポーチの屋根にでて、おれがそこにおいておいたハシゴで、地面におりてくる。コーラはブラックジャックをおれにわたし、調理場にひきかえす。おれはベアリングのボールを箱にもどし、砂糖の袋はすてて、車をガレージにいれ、自分の部屋にあがって、髭をそりだす。階上《うえ》のバスルームの水が、ぽとぽと、調理場におちてくるまで、コーラは待っていて、おれをよぶ。おれたちはバスルームのドアをおしあけ、やつを見つけ、医者に電話する。結局、ギリシア人は浴槽のなかで足をすべらせて、頭をうち、意識をうしなって、溺れ死んだってことになるんじゃないか、とおれたちは考えたのだ。いちばん事故がおきやすいのは、自分の家のバスルームだ、とだれかが新聞に書いていたのから、おれはアイデアをかりたのだった。
「用心してね。熱いわよ」
「すまん」
お湯はシチュー鍋にはいっていた。おれは、それをもって自分の部屋にいき、タンスの上において、髭剃り道具をだしてならべた。それから、階下《した》におり、車のところにいき、道とバスルームの窓と、両方を見張っていられるように、車のなかにはいった。ギリシア人は歌をうたってる。歌の題名をおぼえといてもいいな、とおれはおもった。歌は「マザー・マクリー」だ。やつは、しまいまで歌い、また歌った。おれは調理場に目をやった。コーラは、まだ調理場にいる。
道のまがったところから、トラックとトレーラーがあらわれた。おれはクラクションをならした。ときどき、トラックの運ちゃんは、なにか食べによる。そして、こういう連中は、店の入口のドアを、あけるまで、ぶったたいていたりする。しかし、トラックもトレーラーもとおりすぎた。また、二台ほどやってきた。しかし、これもとまらなかった。おれは、調理場のほうに、また目をやった。コーラは、もう調理場にはいなかった。二階のベッドルームに灯りがついていた。
そのとき、不意に、なにかが、ポーチの奥のほうでうごくのが目についた。おれは、もうちょっとでクラクションをならしかけたが、猫だとわかった。ただの灰色の猫だ。でも、おれは、ほんとにぎくっとした。こんなとき、猫なんか見たくない。ちょっとのあいだ、猫の姿は見えなかったが、またあらわれた。ハシゴのまわりでにおいをかいでやがる。おれはクラクションをならしたくなかった。たかが猫だ。しかし、ハシゴのまわりにいるのはマズい。おれは車からでて、ハシゴのところにいき、シッ、と猫をおっぱらった。
車のほうに、はんぶんばかりもどったときに、猫はまたやってきて、ハシゴをのぼりだした。おれは、また、猫をおっぱらった。こんどは、猫は、モーテルのほうの棟のうしろにかけこんだ。おれは車にもどりかけ、ちょっとのあいだ、足をとめていた。猫がもどってきやしないかとおもったのだ。ハイウエイ・パトロールの州警察のお巡《まわ》りがオートバイにのって、道にまがりこんできた。お巡りは、おれがつっ立ってるのを見ると、おれがうごきだす前に、エンジンを切り、オートバイをころがして、こちらにきた。お巡りがたちどまったときには、おれと車のあいだにいた。クラクションはならせない。
「ぶらぶらしてるのかい?」
「車をしまいにでてきたんだ」
「あんたの車?」
「うちの大将の車」
「オーケー。ただのパトロールだ」
お巡りはまわりを見まわし、なにかを見つけた。「ちくしょう。あれを見ろよ」
「なにを?」
「猫さ。猫がハシゴをあがってる」
「は?」
「おれは猫が大好きなんだ。猫ってやつは、いつも、なにかやらかそうとしてる」
お巡りは手袋をひっぱり、二度ばかり、キック・ペダルをけとばすと、いってしまった。お巡りの姿が見えなくなるとすぐ、おれは、いそいで警笛をならそうとした。だが、おそすぎた。ポーチで、ぱっと炎が燃えあがり、ぜんぶの灯りがきえてしまったのだ。家のなかで、コーラが、すごい声で悲鳴をあげている。「フランク! フランク! どうかなっちゃった!」
おれは調理場にかけこんだ。しかし、まっ暗だった。マッチもポケットにない。だから、手さぐりですすんだ。コーラとは階段であった。コーラはおりてくるところで、おれはあがっていく途中だ。コーラは、また悲鳴をあげた。
「しずかにしろ。しずかにしろったら! やったのか?」
「ええ。でも、電灯が消えたので、お湯のなかに沈めてはいないわ」
「浴槽《バスタブ》からださなきゃ。州警察のお巡りがきて、ハシゴを見られてる」
「お医者さんに電話して」
「電話は、きみがやれ。おれは、ニックを浴槽からだす」
コーラは階段をおりていき、おれはあがっていった。バスルームにはいり、浴槽のところにいく。やつは浴槽の湯のなかによこになっていたが、頭は湯からでていた。おれはやつのからだをひっぱりあげようとした。これは、たいへんだった。石けんでつるつるすべり、やつのからだをだきおこすためには、結局、おれも湯のなかにはいらなきゃいけなかったのだ。そのあいだずっと、階下《した》で、コーラが電話の交換手とはなしてるのがきこえた。医者には電話をつないでくれず、警察につないだようだ。
おれはやつをだきあげ、浴槽のふちからだし、おれも浴槽の外にでて、やつをひきずって、バスルームをよこぎり、ベッドに寝かせた。そのときには、コーラも二階にあがってきて、マッチを見つけ、ローソクに灯をつけた。それから、おれたちは、やつの手当てにかかった。おれはやつの頭を濡れたタオルでまき、コーラはやつの手首や足をこすっている。
「救急車をよこすって」
「けっこう。やるところを見られた?」
「わからないわ」
「やつのうしろにいたのか?」
「だとおもう。でも、電灯がきえたでしょ。なにがおこったのかわからなくて……。電灯をどうしたの?」
「べつに、なにも。ヒューズがとんだんだ」
「フランク。このまま、このひと、息をふきかえさないといいのにね」
「いや、息をふきかえしてもらわなきゃ、こまる。もし死にでもしたら、おれたちはおしまいだ。あのお巡りはハシゴを見た。やつが死んでみろ、すぐわかっちまう。死んだら、すぐ、おれたちはつかまるよ」
「でも、ニックがわたしがやることを見てたら? 息をふきかえしたとき、なんて言うとおもう?」
「たぶん、見ちゃいまい。やつに、うまいところ、はなしをでっちあげておっつけるだけさ。きみはバスルームにはいっていった。そのとき、停電になり、やつが足をすべらせ、たおれる音を、きみはきいた。で、声をかけたが、やつは返事をしなかった。きみはおれをよんだ。それでいい。やつがなんと言おうと、きみはそれをくりかえす。やつが、きみがぶんなぐるとこを見たなんて言ったって、それはやつの想像にすぎないってね。これで、きまり」
「どうして、救急車をいそがせないのかしら」
「そのうちくるさ」
救急車がくると、やつを担架にのせ、はこびこんだ。コーラもいっしょにいった。おれは車でついていった。グレンデールまではんぶんほどきたとき、州警察のお巡りのオートバイが救急車をつかまえ、先導した。連中は七十マイルではしった。おれの車ではついていけない。おれが病院についたときには、連中はやつの担架をおろすところだった。州警察のお巡りが、あれこれ指図している。州警察のお巡りはおれを見て、びっくりし、まじまじみつめていた。あのときの州警察のお巡りだったのだ。
連中はやつを病院のなかにいれ、ストレッチャーにのせ、手術室におしていった。コーラとおれは廊下で腰をおろしていた。間もなく、看護婦がきて、おれたちといっしょに腰をおろした。そのうち、お巡りがきた。お巡りは巡査部長をつれていた。みんな、おれのほうも見ている。コーラは、どんなことだったのか、看護婦にはなした。「はいっていったの。あの、バスルームに。タオルをとりにね。そしたら、だれかが鉄砲ででも撃ったみたいに、電気がパッときえて……。ひどい音がしたわ。そして、あのひとがたおれる音がしたの。浴槽《バスタブ》のなかで立ちあがり、シャワーの栓をひねろうとしたんでしょう。わたし、あのひとに声をかけたの。でも、なんにも返事をしない。まっ暗だし、なんにも見えないの。いったい、なにがおきたのかもわからないし……。わたし、あのひとが感電かなんかしたんじゃないかとおもったのよ。そしたら、わたしが悲鳴をあげているのを、このフランクがきいて、やってきて、あのひとをはこびだしたの。それから、電話をかけて、救急車をよび……。救急車があんなにはやくきてくれなかったら、わたし、どうしていいかわからなかったわ」
「夜おそい呼びだしのときは、いつもはやいんです」
「あのひと、ひどいケガをしたのかしら?」
「そんなでもないんじゃないかしら。今、レントゲンをとっています。レントゲン写真を見れば、わかりますからね。でも、そんなにひどいケガじゃないでしょう」
「ほんとに、そうだといいけど」
警官たちはなにも言わなかった。ただ、腰をおろし、おれをみていた。
やつがストレッチャーにねせられて、出てきた。頭にホータイがまいてある。エレベーターにのせ、コーラとおれ、看護婦、お巡り二人ものり、上にあがり、病室にいれた。みんないっしょに病室にはいった。みんなが腰かけるだけの椅子がなく、やつをベッドにうつしてるあいだに、看護婦がでていって、たりない椅子をもってきた。みんな椅子に腰をおろした。だれかがなにか言い、看護婦がだまらせた。医者がはいってきて、やつを見て、でていった。おれたちは、ずいぶんながいあいだ、じっと、椅子に腰掛けていた。そのうち、看護婦がやつのところにいき、ようすを見た。
「意識が回復してまいります」
コーラはおれのほうを見た。おれは、いそいで目をそらした。二人のお巡りはからだをのりだして、やつが言うことに、耳をすましている。やつは目をひらいた。
「気分はよくなりました?」
やつはだまっていた。みんなだまってる。部屋のなかが、あんまりしずかで、おれは、自分の心臓の鼓動が、どきんどきん、耳もとできこえた。「奥さんですよ。ほら、ここに……。停電になったからって、浴槽のなかで、ちいさな男の子みたいにころぶなんて、恥ずかしいとおもいません? 奥さんは怒ってらっしゃいますよ。奥さんに、なにか言ったら?」
やつは、いっしょうけんめい、なにか口をきこうとしたが、だめだった。看護婦はやつのそばにいき、あおいだ。コーラはやつの手をとって、かるくたたいた。やつは、しばらく枕によりかかり、目をとじていたが、やがてまた、やつの口がうごきだし、看護婦を見た。
「みんな、まっくらになった」
安静にしとかなきゃいけない、と看護婦が言うので、おれはコーラをつれて階下《した》におり、車にのせた。車がはしりだすとすぐ、れいの州警察のお巡りが、オートバイであとをつけてきた。
「わたしたちを疑ってるのね、フランク」
「ハシゴを見たのと、おなじお巡りだよ。あのとき、おれがあそこに立って、見張ってたのが目についたときから、なにかおかしい、とおもってたんだな。今でも、そうおもってるんだろう」
「ねえ、どうする?」
「わからない。すべては、ハシゴにかかってるってことだな。なんのために、あそこにハシゴがあったかということに、お巡りが気がつくかどうかだ。やつをひっぱたいたブラックジャックはどうした?」
「ここにもってるわ。服のポケットのなかに」
「ひゃあ、おどろいた。前に逮捕されて、身体検査をされてみろ。きみは、もうおしまいだ」
おれはコーラにナイフをわたし、袋をゆわえた紐をきらせ、なかのベアリングのボールをだした。それから、コーラをバックシートにうつらせ、シートをあげて、その下に、袋をつっこんだ。車の修理の道具といっしょに、よくこんなぼろ布《きれ》があるもんだ。
「バックシートにいろ。そして、お巡りから目をはなすな。このベアリングのボールを、ひとつずつ、藪のなかにほうりこむ。なにかお巡りの目についたかどうか、見張ってるんだよ」
コーラは見張っていた。おれは左手で運転し、右手をハンドルによりかからせて、ベアリングのボールをなげた。ビー玉をはじくみたいに、車の窓から道のむこうに。
「お巡り、よこのほうに目をやってるかい?」
「ううん」
二分にひとつずつぐらいに、おれはベアリングのボールをすてた。お巡りは、ぜんぜん気がつかなかった。
店についたが、まだ、まっくらだった。ヒューズをさがす時間もなかったし、まして、新しいヒューズととりかえる時間もなかった。車をとめると、お巡りはよこをとおりこして、おれよかさきに、ヒューズ・ボックスのところにいった。「ヒューズ・ボックスを見てたんだよ」
「そう。おれも、ヒューズ・ボックスを見てるんだ」
三人で家のほうにいき、お巡りは懐中電灯をつけた。そのとたん、お巡りはおかしなうなり声をだし、かがみこんだ。宙に四本の足をつきだし、猫がひっくりかえっていた。
「ひどいじゃないか。きれいに死んでる」
お巡りは、懐中電灯でポーチの屋根の下から、ハシゴをてらしていった。「ああ、そうか。おぼえてるかい? あのとき、おれたちはこの猫を見てただろ。猫はハシゴから足をふみはずして、ヒューズ・ボックスの上におち、感電して、こんなにきれいにおっ死《ち》んじまったんだ」
「うん、そうなんだな。あんたがいってしまうか、しまわないうちに、ヒューズ・ボックスからボッと火がでてさ。ピストルで撃ったみたいだった。まだ、車もうごかさない前だよ」
「この道をいったところで、おれは知らせをきいた」
「おたくが見えなくなると同時ぐらいだ」
「猫がハシゴから足をふみはずして、まっすぐ、ヒューズ・ボックスの上におちた。うん、そんなところだな。かわいそうに、バカなやつらだよ。電気のことまでは、頭がはたらかなくてさ、ね? いや、電気のことまでは、猫にはむりだ」
「きびしいよ」
「そう、きびしい。それが、これ以上死にようがないぐらい、完全におっ死《ち》んじまった。きれいな猫だったのになあ。ハシゴをあがっていくときの顔つき、からだつき、おぼえてるかい? あんなかわいい猫は見たことがない」
「きれいな毛なみでね」
「それが、完全におっ死《ち》んだ。じゃ、もういくよ。ま、これで、はっきりしたな。いちおう、調べてみなきゃいけないんでね。わかるだろ?」
「もちろん」
「おやすみ。おやすみ、ミス」
「おやすみ」
猫の死骸も、ヒューズ・ボックスのことも、そのほか、おれたちはなにもしなかった。そのまま、ベッドにはいり、コーラは緊張がゆるんで、頭がおかしくなったみたいに、泣き、それから寒気がして、全身がガタガタふるえ、コーラをおとなしくさせるのには、二時間もかかった。コーラは、しばらくのあいだ、おれの腕のなかで、じっとよこになっていたが、おたがいしゃべりだした。
「もういやよ、フランク」
「ああ、もういやだ」
「わたしたち、気がへんだったのね。あんなことをするなんて、ほんとに気がへんだったのよ」
「きりぬけられたのは、ただ運がよかっただけさ」
「わたしがわるかったわ」
「おれだっておんなじだ」
「ううん、わたしの責任よ。これを考えついたのは、わたしだもの。これからは、あんたの言うことをきくわ、フランク。あんたはりこうだもの。わたしみたいにバカじゃない」
「二度と、こんなことをしなきゃいいんだ」
「そう。二度と……」
「最後までやってたとしても、警察の連中はいろいろ考える。いつも、連中はいろいろ考えるからね。いつものれいで、警察では感づいただろう。ほら、あのお巡りだって、あんなにはやく、なにかおかしい、とおもったじゃないか。あれには、おれは血がつめたくなったよ。あのとき、おれがあそこに立っていたのを見ただけで、あのお巡りはへんだと感づいてたんだからね。あれを、あんなにかんたんに、おかしいとにらんだのなら、ギリシア人が死んでてもみろ、おれたちは、まず、たすからなかっただろう」
「わたし、ほんとは、ヒド猫ではないみたいね、フランク」
「うん、そうだな」
「もし、わたしがほんとのヒド猫なら、あんなにかんたんに、こわがったりしなかったとおもうわ。わたし、とってもこわかった、フランク」
「おれだって、すごくこわかったよ」
「停電になったとき、わたし、なにがほしかったとおもう? ただ、あんたよ、フランク。あのとき、わたしは、どんなことでも平気でやっちゃうヒド猫どころか、暗闇がこわい、ちいさな女の子だったわ」
「だから、おれがいてやっただろ、ね?」
「ほんとにたすかったわ。もし、あんたがきてくれなかったら、わたし、いったいどうなるのかわからなかったわ」
「うまくいったね。やつが浴槽《バスタブ》のなかですべってころんだとかさ」
「本人も、それを信じて……」
「いくらかでもチャンスがあれば、平気さ。おれは、今までずっと、お巡りとごたごたしてきた。なにか説明できなきゃしようがない。わからないところを、ちゃんと埋めるものがいる。そして、できるだけほんとのことに近いように、うまくならべるんだ。お巡りとは、ずいぶん、やりあってきたからさ」
「あんたがちゃんとしてくれたのね。いつも、わたしのためにちゃんとしてくれる、フランク?」
「おれにとってだいじなものは、きみひとりで、きみだけだ」
「わたし、ほんとはヒド猫なんかにはなりたくないみたい」
「きみは、ぼくのベビイだ」
「そう、あんたのバカなベビイよ。そうだわ、フランク。わたし、あんたの言うとおりにする。これからはね。あんたが頭《あたま》で、わたしは手足になってはたらくわ。わたし、はたらけるわよ、フランク。それに、はたらくのじょうずなの。わたしたちうまくいくわ」
「ああ、いくとも」
「もう、眠りましょう」
「きみ、ちゃんと眠れるとおもう?」
「いっしょに朝まで寝るの、はじめてよ、フランク」
「うれしい?」
「すごいわ。ほんとにすごい」
「おやすみのキスをしてくれよ」
「いっしょに寝たままで、おやすみのキスができるなんて、すてきね」
翌朝、電話でおこされた。コーラが電話にでたが、もどってきたときには、目がかがやいていた。「フランク、なんだとおもう?」
「なに?」
「あのひとの頭蓋骨が割れてるんだって」
「ひどいのかい?」
「ううん、でも、入院させとくようよ。たぶん、一週間ぐらいは、入院させとくらしいの。わたしたち、今夜もまた、いっしょに寝られるわ」
「こっちにおいで」
「今はだめよ。もう、おきなきゃ。お店をあけなきゃいけないわ」
「ここにこいったら、ぶんなぐられる前に」
「バカねえ」
ともかく、たのしい一週間だった。午後には、コーラは車で病院にいったが、そのほかのときは、おれたちはいっしょにいられた。おれたちはギリシア人にもよろこばれることをした。ずっと、店をあけていて、商売に精をだし、また、もうかったのだ。日曜学校の子供たち百人ばかりが、三台のバスにのってやってきて、森にもっていって食べるものを、うんとこさ買ってくれたのも、もちろん、商売のたすけになった。だが、それがなくても、かなりのもうけだった。もっとも、レジは、そんなことはちっともしらないから、レジの数字にもでてこない。いや、ほんとに。
ある日、コーラひとりではなく、おれたちはふたりで病院にいき、病院からのかえりに、海水浴場にまわった。ビーチ・ハウスでコーラはイエローの水着と赤い帽子を借りた。そのカッコで、コーラが脱衣場からでてきたとき、おれは、さいしょ、だれだかわからなかった。まだほんの娘みたいだったのだ。コーラが、じつはどんなに若いか、はっきり知ったのは、そのときがはじめてだ。おれたちは砂浜であそび、それから沖にでて、うねりにのってゆられていた。おれは頭を波にいじられるのが好きで、コーラは足のほうだった。おれたちは海の上によこになり、顔と顔をあわせ、水のなかで手をにぎりあい、空を見ていた。見えるのは空だけだ。おれは神のことをおもった。
「フランク?」
「うん?」
「明日、あのひとがかえってくるわ。それ、どういうことかわかる?」
「わかる」
「あんたとでなく、あのひとと、わたし寝なくちゃいけないのよ」
「そういうことになるな。もっとも、やつがここにかえってきたときは、おれたちはいっちゃってる」
「あんたがそう言ってくれるとおもってたわ」
「ただ、きみとぼくと旅さ、コーラ」
「ただ、あんたとわたしと旅ね」
「ただ、二人の流れ者」
「ただ、二人のジプシー。でも、わたしたちいっしょね」
「そう。おれたちはいっしょだ」
翌朝、おれたちは旅の用意をした。ともかく、コーラは荷造りをした。おれはスーツを買ったので、それを着た。おれがやったのは、それぐらいだ。コーラはいろんな物を帽子の箱にいれた。そして、いれおわると、帽子の箱をおれにわたした。
「車のなかにおいといてよ、ね」
「車?」
「車でいくんじゃないの?」
「旅のさいしょの夜をブタ箱ですごすのが好きならべつだけど、車ではいかない。ひとの女房をかっぱらうのは、どうってことはない。しかし、人の車をかっぱらったら、窃盗罪だ」
「へえ」
おれたちは出発した。バスの停留所までは二マイルあり、あるかなきゃいけない。車がくるごとに、おれたちは道ばたにつっ立って、タバコ屋の看板人形のインデアンみたいに、片手をつきだしたが、とまった車は一台もなかった。男ひとりなら、のせてもらえる。女ひとりでも、そんなヤバいことをやるバカな女がいたら、のせてもらえる。だけど男と女のアベックでは、あんまり率はよくない。二十台ほど、車がとおりすぎたあと、コーラは足をとめた。四分の一マイルぐらいあるいたところだった。
「フランク、わたし、だめ」
「どうした?」
「これよ」
「これって、なに?」
「旅」
「頭がおかしくなったのか。つかれてるだけだよ。ねえ、きみはここで待ってろ。おれはいって、町まで車にのっけていってくれる者をさがしてくる。どっちみち、そうしなくちゃいけないんだからね。それで、オーケーさ」
「ううん、そんなんじゃないの。わたしつかれてはいないわ。だめなの、それだけ。それだけよ」
「おれといっしょにいたいんじゃないのか、コーラ?」
「もちろんよ」
「しかしもう、もとへはもどれないぜ。前とおなじことを、またはじめることはできない。それは、きみもわかってるはずだ。いっしょに、こなきゃ」
「わたし、根はルンペンみたいじゃない、ってはなししたでしょ。わたし、ジプシーなんかじゃない。自分が名もないルンペンのような気がしないの。ただ恥ずかしいのよ。こんなところで、ひとの車にのせてもらおうとしてることなんかが」
「今も言っただろ。車をつかまえて、町にいくんだ」
「それから、どうなるの?」
「町にいるさ。なんとかなる」
「ううん、なんともならないわ。ひと晩は、ホテルにとまって、職をさがす。そして、ひどいところで暮すんだわ」
「あそこもひどいところじゃなかった? おれたちが、今、でてきたところさ」
「それとはちがうわ」
「コーラ、おれをおこらせる気か?」
「しかたがないわ、フランク。わたし、いっしょにいけない。さよなら」
「ちょっと、はなしをきけよ」
「さよなら、フランク。わたし、かえるわ」
コーラは、さっきから、帽子の箱をひっぱっていたが、おれは帽子の箱をつかんでいた。どっちみち、もってかえってやってもいいとおもってたのだ。しかし、コーラはおれから帽子の箱をとってしまった。そして、帽子の箱をかかえ、ひきかえしだした。出発したときのコーラは、かわいいブルーのスーツにブルーの帽子をかぶり、きれいだった。それが、今では、靴は埃だらけだし、すっかりくたびれた格好になっている。おまけに、泣いてるものだから、ちゃんとあるけない。とつぜん、自分も泣いているのに、おれは気がついた。
サンバーナディノまで、おれは車にのせてもらった。サンバーナディノは鉄道の町だ。おれは、ここから、東部行の貨車にもぐりこむつもりだった。しかし、そうはしなかった。ビリヤードである男とあい、ワン・サイド・ポケット・ゲームをやりだしたのだ。この男は、神さまがつくった人間のうちでは、カモられぐあいでは、ごりっぱなものだった。やつには、ちゃんと玉が突ける仲間がいたんだが、ただひとつ、かなしいことには、この仲間も、おれに勝つほどにはうまくなかった。この二人と、おれは二週間ばかりうろついていて、二百五十ドルふんだくった。やつらの有金全部だ。こうなりゃ、はやばんに、町からズラしなきゃいけない。
おれは、メキシカリにいくトラックをつかまえた。しかし、おれは考えた。二百五十ドルの金があれば、おれとコーラで海水浴場《ビーチ》にいき、ホットドッグかなんかを売ってもいい。そのうち、金を貸すやつでもつかまったら、もっとでかいことをはじめる。で、おれはトラックからおり、ヒッチハイクで、グレンデールにもどった。そして、ギリシア人とコーラが買物をするマーケットのあたりを、ぶらぶらしだした。コーラに、ばったりあわないかとおもいながら。二度ばかり、電話もしたのだが、ギリシア人が電話にでて、おれは番号をまちがえたとゴマかした。
マーケットのまわりをあるきまってるあいだに、通りを一ブロックほどいったところのビリヤードでも、おれはぶらぶらしていた。ある日、台のひとつで、ひとりで練習をしてた男がいた。キューのもちかたで、ビリヤードをはじめたばかりだとわかる。おれも、となりの台で、練習をはじめた。二百五十ドルあれば、ホットドッグのスタンドがやれるなら、二百五十ドルが三百五十ドルにふえると、ぐっと、けっこうだ。
「ちょいと、ワン・サイド・ポケット・ゲームをやらないか?」
「そんなのは、あんまりやったことがないなあ」
「どうってことはないよ。どの玉をどのサイドにサイドにいれるか決めてやるゲームさ」
「ともかく、あんたは、おれなんかの相手にはうますぎるみたいだ」
「おれが? おれは、ただのへたっぴいさ」
「じゃ、仲間遊びでいくか」
おれたちはゲームをはじめた。さいしょの三ゲームか四ゲームは、やつをいい気分にさせるため、やつにとらせてやった。おれは、どうもわからない、というように頭をふっていた。
「おれがうますぎるって? とんだジョークだな。だけど、おれは、ほんとは、もっとやれる。どうも調子がでないみたいだ。ゲームがパッとするように、一ドル賭けないか?」
「そうねえ、一ドルじゃ、負けてもたいしたことはないな」
おれたちは、一ゲームに一ドル賭けた。そして、四ゲームか五ゲーム、もしかしたら、もっと、やつに勝たせた。おれは、気がいらいらしてるように、キューをつかい、そのあいだに、汗でもかいてるみたいに、ハンカチでてのひらをこすった。
「うーん、どうもよくねえなあ。一ゲーム五ドルにしないか。そうしたら、おれは負けた金をとりもどせて、それで、いっしょに飲もう」
「よかろう。仲間遊びだから、あんたから金をふんだくったりはしたくない。五ドルにして、それで、やめようよ」
また、四ゲームか五ゲーム、おれはやつにとらせた。おれのようすを見てたら、おれは心臓がおかしくなったうえに、もう二つぐらいはわるいところがありそうにおもっただろう。おれは青いなさけない顔をしていた。
「ねえ、いつもの調子がでないことはわかってるんだが、一ゲーム、二十五ドルにしないか。それでとりかえして、さっきも言ったように、いっしょに飲もう」
「おれにはすごく高すぎるよ」
「かまわんじゃないか。おれから買った金で賭けるんだろ、え?」
「そうねえ。ま、いいや。二十五ドル」
おれが、ほんとにキューをつかいだしたのは、それからだ。ビリヤードの名人のウイリー・ホッピイ顔まけのショットはきめる。スリー・クッションのバンクはやる。こんなことは、キャロム式のビリヤードでしかやらないことだ。イギリス式のスヌーカーで、玉台のなかで、いいように玉を遊ばせたり、ジャンプ・ショットのコールをして、ちゃんと、それをやらかしたりした。やつは、めくらのピアノ弾きのブラインド・トムができないようなショットは、まるでだめだったし、ミスキューはやる、すっかりまごついて、ポジションもとれないし、手玉《てだま》はポケットにいれる、玉ひとつ、ちがうポケットにいれたこともあった。バンクをやるときでも、その前にコールしなければ得点にならないのに、やつは、そんなことも、ぜんぜんしない。それでどうかっていうと、ビリヤードをでたときには、やつは、おれの二百五十ドルの金と、コーラがマーケットに車でくる時間がわかるように買った三ドルの時計をまきあげていた。いや、おれは玉を突くのはうまい。ただひとつこまったことは、やつに勝てるほどはうまくなかったのだ。
「おーい、フランク!」
ギリシア人だった。ビリヤードの入口からでるかでないうちに、ギリシア人は、通りをよこぎって、こちらにはしってきた。
「よう、フランク、こんちくしょう、どこにいってた? うちの女房をおいてきぼりにして、なんで、いっちまった? おれが頭をケガして、あんたにいちばんいてほしいときに」
おれたちは握手した。やつは、まだ頭にホータイをまき、目つきもなんだかおかしかったが、すっかりおしゃれをしていた。新しいスーツを着て、黒いハットを、ちょいとななめにかぶり、むらさきのネクタイに、茶の靴、ベストの前に、金時計の鎖をさげ、手には大きなシガーをもっている。
「やあ、ニック。気分はどう?」
「気分はいい。トイレをでたすぐあとでも、こんなに気分のいいことはない。だけど、なぜ、おれのところから逃げだした? おれ、すごく頭にきてたよ、こんちくしょう」
「いや、わかるだろ、ニック。おれは、しばらくどこかにいると、また、ぶらぶら出かけたくなるんだ」
「ぶらぶら出かけるのに、ひどいときをえらんだよ。今、なにやってる、え? うん、うん、なにもやってないんだろ、こんちくしょう。あんたのことはわかってるよ。ステーキの肉を買うから、ついてこないか。いろいろ、みんなはなしてやる」
「ひとりかい?」
「バカなこと、言っちゃいけない。あんたがおれのところを逃げだし、いったい、だれが店をあけといたとおもう。もちろん、おれひとり。おれもコーラも、今じゃ、ぜったい、いっしょには出かけない。ひとり出かけると、ひとりのこってなきゃ」
「じゃ、マーケットにいくか」
ステーキの肉を買うのに一時間かかり、やつは、あれこれしゃべるのにいそがしかった。頭蓋骨の骨折のこと、こんな頭蓋骨折は見たことがないと医者たちがいったこと、新しくやとった連中に手をやいたこと、おれがいなくなったあと、二人やとったが、ひとりは、やとった翌日にクビにし、もうひとりは、三日後に逃げだした、レジのなかの金をもって……おれがもどってくるなら、なんでもする。
「フランク、な、こうしよう。明日、おれとコーラは、サンタ・バーバラにいく。ちょっとは骨休みしたっていいじゃないか、え。あそこの祭りを見にいくんだ。あんたも、いっしょにこい。気にいるよ、フランク。あんたも、いっしょにこい。そして、また、うちではたらいてくれる相談をしよう。サンター・バーバラの祭り、気にいるよ」
「ああ、おもしろい祭りだときいていた」
「女のコ、ミュージック、通りでのダンス、すばらしい。な、フランク、いくかい?」
「さあ、どうしよう」
「おれがあんたにあって、あんたをうちにつれてこなかったら、コーラがすごくおこるよ。コーラはあんたにツンツンしてたかもしれんけど、あんたはいい男だ、とおもってる。フランク、こいよ。おれたち三人でいこう。たのしいぜ」
「オーケー。コーラがそういう気なら、ゴーだな」
おれたちが着いたときには、食堂に八人から十人ぐらいの客がいた。コーラは調理場で、客にだす皿をそろえるため、大いそがしで、皿をあらっていた。
「おい。おい、コーラ見ろ。だれをつれてきたか見ろ」
「まあ、おどろいた。彼、どこからきたの?」
「きょう、グレンデールであった。いっしょに、サンタ・バーバラにいくよ」
「やあ、コーラ。どうだい?」
「ここじゃもう、あんたは知らない人になったみたいよ」
コーラは、いそいで手をふき、握手した。だけど、コーラの手は石けんっぽかった。コーラは食堂に注文の料理をもっていき、おれとギリシア人は腰をおろした。ふだんは、やつも料理をはこぶのを手伝うんだが、おれに見せたいものがあってうずうずし、コーラひとりに、みんなやらせてたのだ。それは、でっかいスクラップブックだった。いちばんさいしょに帰化許可証、ギリシア軍時代のやつ自身の写真、結婚した日のやつとコーラの写真、それに、こんどの事故での新聞の切りヌキがはってある。普通の新聞の切りヌキは、やつのことよりも、あの猫のことがよけい書いてあったが、ともかく、やつの名前はでていた。どんなふうに、やつがグレンデール病院にはこばれ、しかし、もとのからだになりそうだとかいったことだ。だが、ロサンゼルスで発行されているギリシア語新聞のひとつには、猫のことより、やつのことが大きくのっていて、やつがレストランのウエイターだったころのあの礼服みたいなのを着た写真もあった。それから、レントゲン写真だ。レントゲン写真は六枚ばかりあった。経過を見るために、毎日、新しいレントゲン写真をとってたからだ。そいつを、やつが、どうやって、スクラップブックのなかにいれたかというと、まず、二枚のページのはしを糊ではりつけて、まんなかを長方形にきりぬき、そこにレントゲン写真をすべりこませていた。だから、スクラップブックをもちあげて、光のほうにむけると、レントゲン写真を透かして見られる。レントゲン写真のつぎは入院費の受取り、医者の診察代、治療費の受取り、看護代の受取り。ほんとにできようができまいが、やつがど頭《たま》をぶったたかれたための出費の合計は三百二十ドルだった。
「いいだろ、え?」
「すごい。なんでもはいってる。ちゃんと順序だってね」
「もちろん。だけど、まだできあがってない。赤や白、ブルーで色をつけるんだ。うまく仕上げるよ、ほら」
イラストのついた二つのページを、やつは見せた。インクで巻毛みたいなのをかき、それに赤と白、ブルーで色をつけている。帰化証明書の上には、アメリカの国旗をふたつと鷲。ギリシア軍時代の写真の上には、組みあわせたギリシア国旗と、べつな鷲。そして、結婚証明書の上には小枝にとまったキジ鳩が二羽。ほかのページには、まだ、どんなイラストをかくか、やつは考えていなかった。で、おれは、新聞の切りヌキのところには、尻尾から、赤、白、ブルーの炎を噴いている猫をかいたら、と言い、やつは、それはなかなかいい、とおもったらしい。だけど、ロサンゼルス郡の営業許可証の上に、本日特売の旗を二本もったハゲタカをどうだい、とすすめたが、どんなことかわからなかったらしい。しかし、おれはそれを説明しようとして、説明したところで、どうってことはないとおもった。ただ、やつが、なぜ、こんなに大げさにおしゃれをし、いつもみたいに、客の注文の料理をはこんだりせず、えらそうぶってるのかが、やっとわかった。このギリシア人野郎は頭蓋骨折をした。そういうことは、こういうウスばかには、毎日おこることじゃない。ちょうど、ドラッグストアを開店したイタ公みたいなもんだ。赤い封蝋のついた薬剤師の免状を手にしたとたん、そのイタ公はグレイのスーツに、黒い縁取りのベストを着て、えらそうぶり、錠剤を調合するヒマもないって面《つら》をし、チョコレートアイスクリーム・フロートなんかには、手もふれない。このギリシア人も、おなじことで、大げさなおしゃれをしてるのだ。だって、生涯の大事件がおこったんだから。
コーラとふたりきりになれたのは、もう夕食のすぐ前だった。ギリシア人はからだをあらいに二階にあがっていき、おれたちだけが調理場にのこった。
「おれのことを考えてた、コーラ?」
「もちろんよ。そんなにはやく、忘れられないわ」
「おれは、きみのことを、ずいぶんおもってた。どう、調子は?」
「わたしのこと? だいじょうぶよ」
「二度ほど、きみに電話したんだけど、やつが電話にでてさ。やつにおれだと言うのは、ヤバいとおもって……。おれ、ゼニがはいってね」
「あら、まあ。うまくいってて、うれしいわ」
「ゼニができたけど、また、すっちまった。その金で、きみとふたりでなにかはじめられるとおもったんだが、すっちまった」
「お金って、どこに消えるかわからないものね」
「ほんとに、おれのことを考えてた、コーラ?」
「そうよ」
「でも、そんなふうじゃないみたいだね」
「わたしは、自分ではちゃんとやってるつもりよ」
「キスしてくれる?」
「もうすぐ、夕食よ。もし、どこかあらったりするのなら、その用意したら?」
そんなふうなのだ。ひと晩じゅう、そんなふうだった。ギリシア人は、れいのあまったるいワインを飲み、つづけさまに歌をうたい、おれたちはテーブルのまわりに腰をおろしていた。コーラにとっては、おれは、もとここではたらいてた男にすぎず、ただ、名前ははっきりおもいだせない、といったぐあいだ。生れて一度もないような、大ガックリの里がえりだった。
寝る時間がくると、二人は二階にあがっていき、おれは表にでて、ここにのこっていて、また、なんとかコーラとやっていけるかどうか、それともサヨナラして、コーラを忘れようとするか、と考えた。おれは、ずいぶん遠くまであるいた。しかし、どれくらいの時間あるいていたか、それに、どのあたりまであるいていったのかは、おぼえていない。ともかく、しばらくたって、家のなかで言いあってる声が耳にはいった。もどっていき、家にちかづくと、しゃべってる言葉も、いくらかわかった。コーラはすごくわめきたてていて、おれをおいとけない、と言っている。やつは、ぶつぶつならべてたが、おれにいてもらって、もとの仕事にもどってほしいらしい。やつはコーラをだまらせようとしたが、コーラはおれにきかせるつもりで、わめいていたにちがいない。おれが自分の部屋にいたら……コーラは、そうおもってたのだが……コーラの言葉ははっきりきこえたにちがいない。ここからでも、たっぷりきこえるんだから。
ところが、急に、言いあう声がとぎれた。おれはそっと調理場にはいり、つっ立って、耳をすましていた。だが、なにもきこえなかった。というのは、おれはたいへんなショックで、きこえるのは、心臓のドキン、ドキンする音だけだったからだ。しかし、自分の心臓の音にしてはへんだなあ、とおもった。そして、とつぜん、調理場にもうひとつ心臓があるのに気がついた。だから、へんなふうにひびいたのだ。
おれは電灯をつけた。
コーラが立っていた。赤いキモノを着て、ミルクみたいに青白い顔で、おれのほうをじっとみつめている。その手には、ほそい、長い刃のナイフをにぎっていた。おれは手をのばし、ナイフをとった。コーラは口をひらいたが、ささやくような声で、蛇が舌をだしたり、ひっこめたりするときの音みたいだった。
「どうして、もどってきたりするのよ」
「しかたがないさ。それだけだ」
「なにが、しかたがないよ。わたし、やれたかもしれなかったのに。あんたを忘れられそうになりかかってたところに、あんたはかえってきた。ひどい男だわ、もどってくるなんて!」
「やれたかもって、なにを?」
「あのひと、なんのために、あんなスクラップをつくってるとおもうの? 自分の子供たちに見せるためなのよ。あのひと、子供をほしがってるの。今すぐ、子供を」
「じゃ、どうして、きみはおれといっしょにこなかったんだ?」
「いっしょにいって、どうなるの? 貨物列車のなかで寝るの? なぜ、わたしがあんたといっしょにいかなきゃいけないのよ。おしえてちょうだい」
おれはなにも言えなかった。おれは、ビリヤードでかせいだ二百五十ドルのことをおもった。だが、昨日《きのう》はいくらか金をもってたが、きょうは、ワン・サイド・ポケット・ゲームですっちまってない、とはなしたところでしようがない。
「あんたはいけない男だわ。わたしにはわかってる。ほんとに、いけない男よ。でなかったら、もどってきたりしないで、どうして、遠くにいっちまって、わたしをほっといてくれないの。どうして、どうしてわたしをほっといてくれないのよ」
「ねえ、子供のことは、ちょっとのあいだ、うまくかわしとけよ。そのあいだに、なんとかできないか考えよう。おれは、あんまりいい男じゃない。でも、きみを愛してる、コーラ。誓ってもいい」
「誓うのはけっこうだけど、いったい、なにをするのよ。あのひとは、わたしをサンタ・バーバラにつれていく。あのひとの赤ちゃんをうむ、とわたしに言わせるためによ。それに、あんたはいっしょについてくる。そして、おなじホテルに、わたしたちといっしょに泊まるのよ。車のなかでもいっしょだし、あんた……」
コーラは言葉をきり、おれたちは、つっ立ったまま、おたがいにみつめていた。車のなかで三人いっしょ……コーラにもおれにも、その意味はわかっていた。おれたちは、すこしずつ近づき、からだがふれあうところまできた。
「ああ、フランク。わたしたち、ほかに方法はないの?」
「たった今、きみはやつをナイフでぶっ刺そうとしたんじゃないか」
「ううん、自分を刺して死ぬつもりだったのよ、フランク。あのひとじゃないわ」
「コーラ、だいじょうぶ。ほかのことは、いろいろやってみたじゃないか」
「わたし、脂っぽいギリシア人の子供をうむのはいや。がまんできない、それだけよ。わたしがうみたい赤ちゃんは、ただ、あんたの赤ちゃん。あんたが、いくらかでもましな男だったらとおもうわ。あんたは頭はいいけど、いけない男だもの」
「おれはわるい男さ。でも、きみを愛してる」
「ええ。そして、わたしもあんたを愛してるわ」
「やつを、うまくかわしとけ。今夜、ひと晩だけ」
「いいわ、フランク。今夜、ひと晩だけね」
長いながい道をさまよいあるき
やっときたおれの夢の国
そこは夜鶯《ナイチンゲール》がうたい
月がしろくかがやく
おれの夢がみんなかなうまで
長いながい夜を待ちつづけ
おれの夢の国にいきつくまでの
おまえといっしょの
あの長いながい道
「ごきげんだな、二人とも」
「わたしには、ごきげんすぎるわ」
「だから、あの二人には、ハンドルをにぎらせないんだね、ミス。でも、二人ともだいじょうぶだよ」
「だといいんだけど。わたし、あんな酔っぱらいたちのことなんか、かまっちゃいられない、それはわかってるの。でも、しようがないでしょ。わたし、いっしょにはいかない、と言ったの。そしたら、二人だけで出かけようとするじゃないの」
「そんなことしたら、二人とも、事故をおこし、首の骨をおっちまうよ」
「そうよ。だから、わたしが運転して、出かけたの。それよりほか、しかたがないもん」
「ほんと、どうしたらいいか、と考えちゃうことがあるもんだよな。ガソリン代は一ドル六十セント。オイルはオーケー?」
「だとおもうわ」
「ありがとう、ミス。おやすみ」
コーラは車のなかにはいり、また、ハンドルをにぎった。おれとギリシア人は、歌いつづけており、車はガソリンスタンドをでて、はしっていった。これも、みんな芝居なのだ。おれは酔っぱらってなくちゃいけない。というのは、このあいだのことで、完全犯罪をやってのけようなんて考えはなくなった。こんどのやつは、殺人ともいえないくらい、いいかげんな人殺しになるはずだ。酔っぱらって車にのっていて、車のなかには酒もあるし、そのほかいろいろ、ただの交通事故ってわけだ。おれが派手に飲みはじめるときには、もちろん、ギリシア人もかなりアルコールがはいってないとこまる。酔《デキアガ》っててもらったほうが、つごうがいいからだ。ガソリンスタンドによったのも、コーラは|しらふ《ヽヽヽ》で、ほんとは、おれたちといっしょにいきたくはなく、車を運転しなきゃいけないので、酔っぱらうわけにもいかない、という証人がほしかったためだった。その前にも、ちょいと運のいいことがあった。夜の九時ごろ、店をしめるほんのちょっと前に、なにか食べるものはないか、と客がより、その男が道路に立って、おれたちが出かけるのを見ていたのだ。男はすっかり芝居を見物してくれた。おれが車のエンジンをかけようとして、二度ほど失敗したのも見ていたし、おれとコーラとの言いあい、おれは酔っぱらいすぎ、それじゃ運転できない、なんてやりとりもきいている。コーラが車からおり、わたしはいかない、と言い、おれとギリシア人だけで出かけようとし、おれが運転しようとしたこと、コーラが、おれたち二人を車からだし、シートをかえて、おれをバックシートに、ギリシア人をフロントシートにうつし、コーラがハンドルをにぎり、自分で運転していったのも、男は見ていた。男の名前はジェフ・パーカー。エンシーで兎を飼っている。コーラは、食堂で兎料理をやってもいい、そのために、飼ってる兎のようすを見にいくかもしれない、とパーカーの名刺をもらった。だから、パーカーに証人になってもらいたいときは、すぐ、彼の居所がわかるってわけだ。
おれとギリシア人は「マザー・マクリー」や「スマイル・スマイル・スマイル」や「古い水車小屋の小川」なんかを歌い、やがて、マリブ・ビーチにいく道路標識が立ってるところにきた。コーラは、マリブ・ビーチのほうにまがった。ほんとなら、今まできた道をまっすぐいくところだ。このあたりの西海岸をとおってる幹線道路は二つある。ひとつは、十マイルほど内陸にはいった、おれたちがきた道路だ。もうひとつは、おれたちがきた道路の左のほうを、すぐ海ぞいにはしっている。ヴェンテュラで、この二つの道路はいっしょになり、海っぱたを、まっすぐ北に、サンタ・バーバラ、サンフランシスコ、ま、それからさき、どこにでもつうじている。でも、コーラはマリブ・ビーチにはいったことがなく、そこは、映画スターが住んでるというし、この道で海岸にでて、二マイルばかりまわり道になるけど、マリブ・ビーチを見て、幹線道路にもどり、そのまま、まっすぐサンタ・バーバラにいこうってことにした。しかし、ほんとは、この支道はロサンゼルス郡でも、いちばんひどい道で、事故がおきたって、だれも、お巡りでさえおどろかないからだった。道はくらく、はしってる車もほとんどなく、家もなにもたってなくて、おれたちがやろうとしてることには、ぴったりの道だ。
しばらくのあいだ、ギリシア人は、そんなことにも、ぜんぜん気がつかないでいた。そのうち、おれたちは、山のなかのマリブ湖《レーク》とよんでいるちいさな夏場の行楽地をとおりすぎた。クラブハウスではダンスをやっており、湖ではアベックがカヌーをこいでいる。おれは、アベックを大きな声でひやかし、ギリシア人もやった。「おれのためにも、ひとつ、どなってくれ」それも、べつにたいしたことじゃない。しかし、おれたちの足どりに、またひとつマークがついたことになる。もし、だれかが、わざわざ、さがしたりするときには。
おれたちは、さいしょの長い上り坂を山のほうにあがりだした。三マイルの上り坂だ。こんなとき、どう運転するか、おれはコーラにおしえてやった。コーラはギヤをほとんどセコンドにいれていた。というのは、ひとつは、五十フィートおきぐらいに、ひどいカーブがあり、こういったカーブをまがるときには、車のスピードががくんとおち、ギヤをセコンドにしとかないと、車がすすまないからだ。だが、もうひとつは、エンジンをオーバーヒートさせるためだった。いろんなことを、考えなきゃいけない。あとで、いろいろ説明しなきゃいけないんだから。
やがて、ギリシア人は車の窓から外を見て、なんて暗くて、どこにも灯りはないし、家もガソリンスタンドもなにも見えない、とんでもない山のなかだとおもったんだろう。ひょいと気がついて、文句を言いだした。
「とまれ、とまれ。ひきかえすんだ。おい、道をまちがえたぞ」
「ううん、まちがってないわ。ここがどこだかもわかってる。マリブ・ビーチにいく道よ。おぼえてないの? わたしがマリブ・ビーチを見たいって言ったのを」
「ゆっくりやれよ」
「ゆっくりやってるわ」
「うんとゆっくりやれ。へたすりゃ、みんな死んでしまう」
道をのぼりきり、下り坂になった。コーラはエンジンをきった。ファンがとまると、数分で、とたんにヒートする。坂の下まできて、コーラは、またエンジンをかけた。おれは温度計を見た。二百度(華氏)だ。つぎの上り坂にかかる。温度計の針はあがりつづけている。
「イエス・サー、イエス・サー」
これは、おれとコーラの合図だった。だれでも、いつでも、ひょいと口にするバカみたいな言葉で、だれも注意をはらわない。コーラは車を道の片側によせてとめた。下は深い崖になっていて、その底は見えない。五〇〇フィートはあるだろう。
「すこし、エンジンを冷やしたほうがいいみたい」
「ほんと、ほんと。フランク、あれを見ろ。あそこにでてるのを」
「なにがでてる?」
「二百五度。今に、沸騰するよ」
「沸騰させとけ」
おれはスパナをとりあげ、足のあいだでもっていた。だが、そのとき、坂の上のほうに、車のヘッドライトが見えたので、やるのをのばした。車がとおりすぎるまで、一分ほど、やるのをのばす。
「さあ、ニック。歌をうたえよ」
やつは、このとんでもない外の景色を見ていたが、歌をうたうような気分じゃなかったようだ。やつは車のドアをあけ、外にでた。車のうしろのほうでゲロをしている音がする。そのとき、車がとおりすぎた。おれは車のナンバーを見て、その数字を脳味噌に焼きつけた。そして、おれはふきだした。コーラがふりかえる。
「だいじょうぶ。あの車のやつらに、おぼえさせとこうとおもってさ。おれたちのよこをとおりすぎたときは、男は二人とも生きてたってね」
「あの車のナンバー、わかってる?」
「2R―58―01」
「2R―58―01。2R―58―01。わたしもおぼえたわ」
「オーケー」
やつが車のうしろをまわってきた。気分がよくなったらしい。「あれ、きいた?」
「なにを?」
「あんたがわらったら、声がかえってきた。ちゃんとした山彦だ」
やつは高い声をだした。歌じゃない。ただの高い声だ。カルーソのレコードにあるような。そして、いそいで声をきり、耳をすました。ほんと、声がきこえた。きれいな山彦だ。そして、やつが声をきったときみたいに、山彦はふっととぎれた。
「おれの声みたいかい?」
「そっくり、おんなじだよ。そっくり、おなじ声」
「こりゃ、すごい」
五分ばかり、やつはそこに立って、高い声をだし、はねかえってくる山彦をきいていた。自分の声がどんなふうなのか、はじめて、やつはきいたのだ。やつは、鏡で自分の顔を見たゴリラみたいに、ごきげんだった。コーラは、じっとおれを見ている。はやいところやらなきゃいけない。おれは頭にきたふりをした。「おいおい、ひと晩じゅう、こんなところにいて、あんたの声の山彦をきいてるのか。さ、のれよ。もう、いこう」
「おそくなるわよ、ニック」
「ホーケー、ホーケー」
やつは車にのった。しかし、車の窓から顔をつきだして、また、高い声をはりあげた。おれは両足をふんばり、まだ車の窓枠に顎をのっけてるやつに、スパナをふりおろした。やつの頭の骨が割れ、ぐしゃっとつぶれる手ごたえがあった。やつはぐんにゃりとなり、ソファの上の猫みたいに、シートにからだをおりまげてよこになった。やつがうごかなくなるまで、おれは、一年もかかったような気がした。コーラが息をのみこむみたいな、おかしな音をたて、それが、うめくような声になった。やつの声が山彦でもどってきたからだ。やつがだしたように、高い声で、その声はふくれあがり、とぎれて、つぎの声をじっと待ってるようだった。
おれもコーラも、なにも言わなかった。コーラもやることはわかっている。コーラはバックシートにうつり、おれはフロントシートにかわった。ダッシュ・ライトの下のスパナに、おれは目をやった。血が数滴ついている。おれはワインの壜のコルク栓をぬき、血が消えるまで、ワインをながした。そして、やつの服のかわいたところでスパナをふき、バックシートのコーラにわたした。コーラはスパナをシートの下につっこむ。スパナをふいたやつの服のそのあたりに、おれはワインをかけ、車のドアでワインの壜をわると、そいつを、やつの死体の上におき、車をスタートした。ワインの壜がどくどく音をたて、壜のわれ目から、ちょっぴりのこっていたワインがながれている。
おれはすこし車をすすめ、ギヤをセコンドにいれた。おれたちがいた、崖の高さが五〇〇フィートぐらいあるところからは、車はおとせない。あとで、おれたちは車がおちたところにいかなきゃいけないし、それに、そんな深い谷底につっこんだのなら、おれとコーラも生きてるはずがない。ギヤをセコンドに入れ、崖がつきでてるところまで、おれはゆっくり運転していった。ここだと、五十フィートぐらいの高さしかない。そこにくると、おれは車を崖っぷちにもっていき、ブレーキをふんどいて、ハンド・スロットルをひらいた。そして、右の前輪が崖のはしからでたとたん、ブレーキを強くふむと、車はとまった。こうしときたかったのだ。車はギヤがいれてあり、スイッチもはいっている。エンジンをきった状態だと、おれたちが、これからいろいろ説明することと、はなしがあわない。
おれたちは車をでて、道路のまんなかよりにおりた。路肩ではない。路肩だと足跡がつく。車のトランクにいれといた石と2×4インチの材木を、コーラがおれにわたした。石を後輪の軸の下におく。ぴったりだった。ぴったりする石をさがしといたのだ。おれは2×4インチの材木を石の上、後輪の軸の下にとおした。おれは材木をおし、車のうしろのほうをもちあげようとした。車は前にかたむいた。しかし、そのままだ。おれは、また、材木をおした。車はもうすこしかたむいた。おれは冷汗がでだした。こんなところまでまごまごしていて、車のなかには死体があるし、もし、車を崖からおとせなかったら、どうなるだろう?
おれは、また材木をおした。しかし、こんどは、コーラもよこにいた。おれたちは、いっしょにおした。二人で、またおす。そして、とつぜん、おれたちは道路に大の字に寝ており、車は、なんどもなんどもひっくりかえりながら、崖をころがっていった。がたんがたん一マイルむこうでもきこえるような大きな音をたてて。
車はとまった。ヘッドライトはまだついたままだ。火はでなかった。これは、ほんとにヤバかった。車のスイッチはいれたままだ。火がでて、車が燃えてしまったら、車のなかにいたはずのおれとコーラが、どうして火傷《やけど》をしないのだ。材木をおしあげるテコにつかった石を、おれはひろって、谷底にほうった。2×4インチの材木もとり、ちょっとはしって、なげだした。道の上へだ。こうしておいても、ちっとも心配はない。どこにいっても、道路の上には、トラックからふりおとされた木のきれっぱしがある。車にひかれて、あちこち|そげ《ヽヽ》ている木のきれっぱしだ。これもそうだった。このために、一日じゅう、道路にだしっぱなしにしていたのだ。タイヤの跡もついてるし、はしのほうもいたんでいる。
おれははしってかえり、コーラを抱きあげると、谷底にすべりおりていった。なぜそんなことをしたかというと、足跡のせいだ。おれの足跡は、どうってことはない。もうすぐ、たくさんの男たちがこの崖をおりるだろう。だが、コーラの靴のとがったヒールのさきがノコノコおりていってちゃ、いっぺんにバレちまう。もし、だれかが足跡をしらべたら。
おれは抱いていたコーラをおろした。車は、崖のはんぶんぐらいのところに、車輪二つでひっかかっていた。ギリシア人の死体は、まだ車のなかにある。しかし、車の床におちていた。ワインの壜がやつのからだとシートのあいだにはさまれていた。壜を見ると、ワインがどんどんでている音がきこえるようだった。車のトップはこわれてしまって、両方のフェンダーもまがっている。ドアがあくか、おれはためしてみた。これはだいじなことだ。おれは車のなかにはいり、ガラスの破片でケガしなくちゃいけない。そのあいだに、コーラが崖をよじのぼって、助けをもとめるというわけだ。ドアはちゃんとあいた。
おれはコーラのブラウスに細工しだした。ボタンをひっちぎる。彼女もひどい目にあったようにだ。コーラはじっとおれを見ていた。その目は、ふだんのブルーのではなかった。くろくひかっている。コーラの息づかいがはやくなってきてるのが、おれにはわかった。その息づかいがとまった。コーラはおれにくっつくぐらい、ぐっとからだをたおした。
「ひっちゃぶいて! ひっちゃぶいて!」
おれはひっちゃぶいてやった。ブラウスの胸に手をつっこんで、あらっぽくひっぱる。コーラは、喉から腹まで、すっかり前がひらいてしまった。
「きみは車からはいだしたんだからね。そのとき、ドアのハンドルに、ブラウスがひっかかったんだ」
おれは、自分の声が昔の手まわしの蓄音器からでてきたみたいに、おかしなふうにきこえた。
「どうして、こんなになったのか、きみにもわからない」
おれは胸をひき、モーションをつけて、力いっぱい、コーラのかたっぽうの目をなぐりつけた。コーラはたおれた。おれのすぐ足もとにころがったが、目はかがやき、乳房がふるえ、きゅんと、さきっちょをかたくして反り、そいつが、まともにおれのほうをむいていた。コーラはたおれ、おれは、なにかの動物にでもなったみたいに、喉の奥のほうで、息がひどい音をたて、舌が口のなかでふくれあがり、血がドキンドキン脈うった。
「やって! やって! フランク、やって!」
気がついたときには、おれもコーラとならんで地面によこになり、おたがい目をみつめ、相手の腕に目をやり、いっしょうけんめいくっつきあっていた。地獄の入口が、おれにひらいたのかもしれない。だが、おれはしっちゃあいなかった。どうしても、コーラが欲しい。たとえ、そのため、しばり首になっても。
おれは欲しいことをやった。
麻薬《やく》にでもイカれたように、おれたちは、なん分かのあいだ、地面によこになっていた。きこえるのは、車のなかからの、ごぼごぼと水がながれでるような、かすかな音だけだ。
「どうする、フランク」
「タフな旅だぜ、コーラ。これからは、うまくやんなきゃな。ちゃんと、やりとおせる自信があるかい?」
「もうこうなったら、なんでもやっちゃうわ」
「うるさくきいてくるぜ、お巡りどもが。なんとか、きみに白状させようとするだろう。用意はできてる?」
「できてるとおもうわ」
「なにかを、きみにおっつけようとするにちがいない。これだけ証人があるんだから、お巡りたちに、それができるとはおもわないがね。しかし、もしかしたら、やられるかな。たとえば、過失致死の罪をおっつけられるとかさ。それで、きみは、一年ぐらい、刑務所にいかなきゃいけないかもしれない。ま、わるくて、それぐらいだろう。そんなことを、パンチをまともに顎でうけとめるように、ばっちりはねかえしていける?」
「刑務所からでてきたときは、あんた、まちがいなく待っててくれるんでしょ?」
「ああ、待ってる」
「だったら、やれるわ」
「おれのことは、まるっきり気にしちゃいけない。おれは酔っぱらいだ。警察で検査をすれば、それはわかる。おれはトンチンカンなことを言う。警察をまごつかせるためにね。そして、しらふになったとき、また、べつのはなしをすれば、お巡りたちも信じる」
「おぼえとくわ」
「きみはすごく頭にきてるんだ。ぼくが酔っぱらってたことにね。だから、こんな事故がおきたんだ、と」
「ええ、わかったわ」
「じゃ、これできまった」
「フランク」
「え?」
「もうひとつだけ。わたしたち、愛してなくちゃ。おたがい愛してれば、どんなことでも平気だわ」
「だって、おれたち愛してるだろ?」
「わたしがさいしょに言うわ。愛してる、フランク」
「愛してるよ、コーラ」
「キスして」
おれはキスし、コーラを抱きしめていた。そのとき、谷のむこうの坂の上のほうで、車のライトがちらっと見えた。
「さ、道路にあがって。ちゃんと、やりとおすんだよ」
「ちゃんと、やりとおすわ」
「ただ、助けて、と言えばいい。やつが死んでることは、まだ、きみは知らないんだ」
「わかってる」
「車からはいだしたあと、きみはころんだ。だから、着てるものにも砂がついた」
「ええ。さよなら」
「さよなら」
コーラは道路のほうにのぼりだした。おれは車のなかにはいろうとして、とつぜん、帽子がないのに気がついた。おれは車のなかにいなきゃいけない。そして、帽子も車のなかにないとこまる。おれは、そこいらじゅう、必死になって帽子をさがした。道路をやってくる車は、ますます近づく。もう、ほんの二つか三つむこうのまがり角だ。それなのに、まだ、帽子は見つからないし、ガラスの破片でケガした細工もしていない。おれはあきらめ、車のほうにいきかけた。ところが、ころんだ。車に足をひっかけたのだ。おれは車をつかみ、とびこんだ。おれのからだが車の床にあたり、体重がかかると同時に、車体がぐらっとさがり、車が宙がえりするのを、おれは感じた。しばらくのあいだ、おれが最後におぼえてたのは、そのことだった。
気がついたときは、おれは地面によこになり、まわりで、たくさんのひとたちがどなったり、しゃべったりしていた。左腕に、ずきんずきん、ひどい痛みがはしり、そのたびに、おれは悲鳴をあげた。背中もそうだ。頭のなかでも、なにかがうなってる。うなり声はだんだん大きくなり、そして、また消えていく。そして、それがおこると、おれがよこになってる地面がずりおちていき、今まで飲んだやつが頭にきた。おれはここにいるようで、ここにいないみたいだ。だが、おれも心得てるから、からだをごろごろころがし、足をばたつかせた。おれの服にも砂がついている。ころがりまわるから、砂がついたということにしなきゃ。
つぎに気がついたときは、耳のそばできいきい音がし、おれは救急車のなかにいた。州警察のお巡りが足もとにいて、医者が腕の手当てをしている。そいつを見て、おれはまた気をうしなった。血がどくどくながれている。手首と肘のあいだが、小枝でもおったみたいに、ひんまがっていた。骨がおれたのだ。また気がついたときも、医者は腕の手当をしていた。おれは痛む背中のことをおもった。足のさきをうごかしてみて、からだが麻痺してるかどうかたしかめる。足のさきはうごいた。
キイキイいう音に、うとうとするのを、ずっとじゃまされた。おれはまわりを見まわし、ギリシア人が目にはいった。もうひとつのかんたんなベッドに寝ている。
「よう、ニック」
だれもなにも言わなかった。もっと、まわりを見まわしたが、コーラはいないようだった。
しばらくして、救急車はとまった。ギリシア人をはこびだす。つぎはおれだ、と待っていたが、おれははこびだされなかった。これで、やつがちゃんと死んでることがはっきりした。だから、やつに、猫が感電して停電になり、そのとき、あんたが浴槽《バスタブ》のなかで足をすべらせ……なんていいかげんなはなしをしてきかせることもない。やつもおれもはこびだせば、病院だ。しかし、やつひとりはこびだしたというのは、死体置場だろう。
救急車は、またはしりだした。そして、こんどとまったときは、おれをはこびだした。建物のなかにはこびこみ、担架をストレッチャーの上におき、それをおして、白い部屋にいく。おれの腕の手術の用意ができた。麻酔ガスの器具をこちらにころがしてくる。そのとき、言いあいがおこった。警察の医者だという医者がきて、病院の医者たちがすごくムクれたのだ。おれには、どういう事情かわかった。おれが酔っぱらってるかどうかの検査《テスト》のことだ。麻酔ガスをのみこませたら、飲酒検査のうちでもいちばんだいじな、吐く息の検査がオジャンになる。警察の医者は部屋をでて、おれに、ガラスの管をとおして、水みたいなもののなかに息をふきこませた。そいつは水みたいだったが、おれが息をふきこむと、きいろくなった。それから、医者は血液やほかの検体《サンプル》をとり、|じょうご《ヽヽヽヽ》で壜にいれた。それから、おれは麻酔ガスをかがされた。
麻酔がさめかかったときは、おれは病院のベッドのなかにいた。頭じゅうホータイがまいてあり、腕もそうで、よこで腕をつっている。背中にはバンソーコーがべたべたはってあって、ほとんど身うごきできないほどだった。州警察のお巡りが病室にいて、朝刊を読んでいる。頭がすごく痛い。背中もそうだ。腕がずきんずきん痛む。やがて、看護婦がきて錠剤をくれ、おれは眠った。
目がさめたのは、正午《ひる》ごろで、食べるものをくれた。お巡りが二人はいってきて、また、おれを担架にうつし、階下《した》におろし、救急車にのせた。
「どこにいく?」
「検死陪審」
「検死陪審って言えば、だれかが死んだときにやるんじゃないのかい?」
「そう」
「まさか、二人とも……」
「ひとりだけだ」
「どっち?」
「男」
「へえ、女はひどいケガをしてる?」
「そうひどくはない」
「おれはひどいケガのようだな、ね?」
「注意しろよ。おまえがしゃべりたけりゃ、おれたちはかまわん。しかし、おまえがしゃべったことが、法廷でおまえに不利な証拠になることがある」
「そうだな、すまん」
救急車がとまったのは、ハリウッドの葬儀屋の前で、おれはなかにはこびこまれた。コーラもいた。ひどくバテている。警察の婦人看守がかしてくれたブラウスを着ていたが、腹のあたりがふくらんで、干草でもつめたみたいだった。スーツも靴も埃だらけで、おれがぶんなぐった目が腫れあがっている。コーラには婦人看守がつきそっていた。検死官は、秘書みたいな男をよこに、テーブルのうしろにいた。部屋の片側には六人ばかりの男がいて、なんだかぶすっとした顔つきをしていた。警官たちが、そのまわりをガードしている。陪審員だ。ほかにもぞろぞろいて、きめられた席にいくように、お巡りにおしまわされている。葬儀屋の主人は足音をたてないようにうごき、ときどき、ひとに椅子をすすめている。コーラと婦人看守のためにも、椅子を二つもってきた。部屋の片側には、シーツをかぶされたものがのっているテーブルもあった。
おれを、予定どおりに、テーブルの上におくと、検死官は鉛筆をコツコツやり、検死陪審をはじめた。はじめに、法的な身許確認だ。シーツをめくると、コーラは泣きだした。おれも、こういうことは、あまり好きじゃない。コーラが遺体を見て、おれが見て、陪審員たちが見ると、またシーツをかけた。
「このひとを知っていますか?」
「わたしの夫です」
「名前は?」
つぎは、証人たちだった。巡査部長が、電話連絡をうけ、電話で救急車をたのんだあと、部下二名と現場にいったこと、コーラを警察車ではこび、おれとギリシア人は救急車にのせたが、途中で、ギリシア人が死んだので、死体置場でおろしたことを証言した。つぎは、ライトという男で、坂の角をまがると、女の悲鳴がきこえ、なにかがぶつかる音がして、車がなんどもひっくりかえりながら、ヘッドライトはつけたまま、崖をころがっていくのを見た、と言った。コーラが道路に立って、手をふって助けをもとめており、おれとギリシア人を車からだすため、コーラと崖をおりていったが、だめだった。車がひっくりかえって、車体がさかさまになってたからだ。それで、援助をたのみに、いっしょに車にのっていた弟をやった。やがて、ほかの人や、警察もやってきた。警官が救助にあたり、おれとギリシア人を車からだし、救急車にのせた。ライトの弟もおなじことを言った。ただ、弟は警官をよびにひきかえしている。
それから、警察の医者が、おれが酔っぱらってたこと、ギリシア人も、胃の検査で酔っぱらってたことがわかり、しかし、コーラは酔っぱらっていなかったことを証言し、ギリシア人が頭蓋骨を骨折しており、それが死因だ、と言った。検死官はおれのほうをむき、証言するか、とたずねた。
「ええ、やりましょう」
「あなたのおこなった証言は、あなたの不利な証拠としてもちいられることがあるのを注意しておきます。あなたの意志による証言で、けっして強制ではないことも」
「べつに、かくすこともないから」
「よろしい。これについて、知ってることは?」
「わたしが知ってるのは、まず、車をすすめてたことです。そしたら、車が下にしずんでいく感じがし、なにかにぶつかりました。病院にくるまでおぼえてるのは、それだけです」
「車をすすめてた?」
「ええ」
「ということは、あなたが車の運転をしていたんですか?」
「ええ、わたしが運転してました」
これは、あとで、ちゃんとした証拠になるときには、言いなおすつもりの、れいのトンチンカンなはなしだ。この検死陪審では、そんなところまではいかない。さいしょに、いいかげんな証言をしておいて、まわりまわって、べつな証言をすれば、あとのはなしのほうが、ほんとにほんとらしくきこえる。さいしょから、ちゃんとした証言をすれば、ちゃんとしすぎてるようにおもわれるだろう。こんどは、前のときとは、ちがったやりかたでやってるのだ。こんどは、さいしょから、おかしいな、という感じをあたえるようにする。しかし、そのとき、実際におれが車を運転してなければ、どんなにおかしくても、どうってことはない。おれを罪にすることはできまい。おれが心配してるのは、このまえヘマをやった、完全犯罪みたいにならないことだ。完全犯罪ってやつは、ほんのちょっとしたちいさなことで、もうどうにもならなくなる。しかし、今、おかしければ、まだいくらか細工できるし、また、これ以上わるくはなるまい。おれが酔っぱらってたので、おかしかったってことになると、それだけ、殺人の嫌疑はうすらぐ。
警官たちは、おたがい顔を見あわせ、検死官は、気がへんなんじゃないか、という目つきで、おれを見た。お巡りも検死官も、車のバックシートからおれがひきだされたことをきいている。
「まちがいないですか? あなたが運転していたということは」
「ぜったい、まちがいありません」
「酒を飲んでました?」
「いえ」
「あなたがやった飲酒検査の結果はききましたか?」
「検査のことなんか知りません。でも、飲んでなかったことはたしかです」
検死官はコーラのほうをむいた。コーラは、わかってることはこたえる、と言った。
「だれが車を運転してました?」
「わたしです」
「このひとは、どこにいましたか?」
「バックシート」
「酒を飲んでました?」
コーラは目をそらすようにし、息をのみこみ、ちょっぴり声を高くした。「こたえなきゃいけません?」
「いやならば、どんなことにも、こたえる必要はない」
「こたえたくありません」
「よろしい。あなたがはなしたいように、言ってください」
「わたしは車の運転をしていました。長い上り坂で、車のエンジンが焼けてきました。それで、うちの主人が、車をとめて、エンジンを冷やしたらどうか、と言ったんです」
「どれくらい熱くなっていました」
「二百度以上でした」
「つづけて」
「だから、下り坂にかかったとき、エンジンをきったんです。しかし、坂をくだりきっても、まだエンジンは焼けていて、つぎの上り坂になると、車をとめたんです。十分ぐらい、車をとめていたでしょうか、また、車をスタートしました。それから、いったいどういうことになったのか、よくわかりません。わたしは、ギヤをハイにしたけど、力がたりないので、いそいで、セコンドにきりかえました。男たちはおしゃべりをしており、それとも、あんまり急にギヤをいれかえたためかどうか、とにかく、車の片側ががくんとさがるのを感じたんです。わたし、男たちに、とびおりて、とさけんだけど、もうおそすぎました。車はなんどもひっくりかえり、気がついたときには、わたしは車からぬけだそうとしていました。そして、車をでて、道路にあがっていったんです」
検死官は、またおれのほうをふりかえった。「どういうつもりなのかね? この女性をかばう気か?」
「彼女は、ぜんぜん、ぼくをかばってないようですね」
陪審員たちは部屋をでていき、もどってくると、ニック・パパダキスの死亡事件は、マリブ・レーク道路での、おれとコーラの犯罪意図をもった行為が全面的な原因であるか、または、その死因の一部だと認めると表決をくだし、起訴陪審にまわすため、おれとコーラの身柄を勾留することを勧告した。
その夜は、べつなお巡りが病室にいた。翌朝、そのお巡りが、ミスター・サケットがあいにくるから、用意しといたほうがいいぞ、と言った。おれはほとんど身うごきできなかったが、病院の理髪師が髭をそり、できるだけ身ぎれいにしてくれた。サケットがだれだか、おれは知っている。地方検事だ。十時半にサケットはやってきた。お巡りはでていき、病室にはおれとサケットだけになった。
「これは、これは。気分はどうだい?」
「オーケーです、判事さん。ちょっと、がくっとしましたが、だいじょうぶです」
「よく言うことだが、飛行機からおちたときは、すばらしい空の旅だが、地面にぶつかると、かなり痛いからな」
「まったく」
「さて、チェンバーズ、きみがいやならば、はなす必要はない。しかし、わたしがたずねてきたのは、ひとつは、きみがどういう人間か見るため、もうひとつは、わたしの経験で、素直にはなしあうことが、あとになって、あれこれ言いわけをしないですみ、ときには、被告のてきとうな申立てによって、事件がすべて解決する道ならしにもなるからだ。ともかく、はなしあえば、おたがい理解もできる」
「ええ、もちろん、判事さん。どんなことが知りたいんです?」
おれはわざと小ずるそうに言った。地方検事は腰をおろして、おれを見ている。
「さいしょから、はじめたらどうだ?」
「あのドライブのことを?」
「そう。すっかりききたい」
サケットは立ちあがり、部屋のなかをあるきだした。病室のドアは、ベッドのすぐそばにある。おれはドアをおして、ひらいた。お巡りは廊下をはんぶんいったところで、看護婦としゃべっていた。サケットはふきだした。「盗聴器なんかはない。だいたい、あんなものはつかわんよ。映画のほかはね」
おれはおずおずした微笑をうかべた。おれがねらったとおりに、サケットはおもったらしい。おれがバカなことを考えたが、やつのほうがうわてだったというわけだ。「オーケー、判事さん。盗聴器なんてバカみたいだよね。いいです、さいしょからはじめて、ぜんぶはなします。おれはいい立場じゃないようだけど、ウソをついたって、しようがないもんね」
「そういう態度がいいんだ、チェンバーズ」
おれは、ギリシア人の店をだまってやめ、ところが、ある日、ばったり通りでやつにあったことをはなした。やつは、おれに店にもどってもらいたく、サンタ・バーバラへのドライブに、いっしょにきてくれとたのみ、そのとき、おれが店にもどることを相談しよう、と言った。おれとギリシア人は店でワインを飲んでおり、それから出かけたんだが、おれがハンドルをにぎり……と、ここまでしゃべったとき、サケットが口をはさんだ。
「じゃ、きみが車を運転していたのか?」
「判事さん、そちらのほうではなしてくれませんか」
「それは、どういう意味だチェンバーズ」
「検死陪審のとき、コーラが言ったこともききましたよ。それに、お巡りさんの言ったこともね。おれが車のバックシートにいたのを見つけたってことも知ってます。だから、だれが車を運転してたかってこともわかってる。コーラです。でも、おれがおぼえてるとおりにはなすのなら、おれが運転してたと言わなきゃいけない。おれは、検死官になにもウソはついてないですよ、判事さん。今でも、おれが運転してたような気がするぐらいだ」
「しかし、酔ってたことはウソをついた」
「ええ。なにしろ、酒はうんと飲んでたし、手術のため、エーテルをかがされたり、麻酔の注射をうたれたりしてたでしょ。たしかに、いいかげんなことを言いました。でも、今はまともですからね。おれの立場をすくえるものがあるとしたら、事実だけがすくえるというぐらいはわかってます。あのときは、飲んでました。大酔っぱらいでした。あのときは、酔っぱらってたことを知られちゃマズい、おれが車を運転してたんだから、ということしか頭になかったんです。だって、酔っぱらってることがわかれば、おれの責任だもの」
「じゃ、きみは、陪審員にそう言うつもりね?」
「しかたがないでしょう、判事さん。だけど、わからないのは、どうして、コーラが車の運転をしてたかってことでね。おれがハンドルをにぎって、出発した。それを見てわらってた男がいたのさえ、おぼえてます。なのに、なぜ、車が谷におちたとき、コーラが運転してたのか」
「二フィートほど、きみは車を運転しただけだ」
「二マイルってこと?」
「いや、二フィート。そして、彼女がきみと運転をかわった」
「へえ、すごく酔っぱらってたんだなあ」
「陪審員なら、そういうはなしも信じるかもしれん。ほんとのことというのは、概してトンチンカンなところがあるもんだからな。うん、陪審員なら、信じるかもしれん」
サケットは腰をおろして、爪をみつめている。おれは、にやにやわらいが頭にひろがるのをくいとめるのに、いっしょうけんめいだった。サケットがほかのことをたずねだしたので、おれはほっとした。気がまぎらせられるからだ。しかし、こうもかんたんに、サケットをだますことができたとは。
「パパダキスのところではたらきだしたのはいつだ、チェンバーズ」
「去年の冬です」
「どのくらい、パパダキスの店にいた?」
「一《ひと》月前まで。六週間前かな」
「ということは、六ヵ月、パパダキスのところではたらいてたことになるな」
「ま、そんなもんでしょうね」
「その前は、なにをやってた?」
「あちこちぶらぶら」
「ヒッチハイクをして? 貨車にのったり? どこでも、ありつけるところで、メシをたかったり?」
「イエス・サー」
地方検事はブリーフケースの革ベルトをはずし、書類の束をとりだして、テーブルにおき、目をとおしだした。
「フリスコ(サンフランシスコ)にいたことがあるかね?」
「生まれたところです」
「カンザス・シティは? ニューヨークは? ニューオリンズは?」
「みんな見てます」
「刑務所や留置所にはいったことがあるかね」
「ありますよ、判事さん。あちこち渡りあるいてりゃ、ときどき、お巡りとのトラブルにまきこまれますからね。イエス・サー、刑務所や留置所にはいったことはあります」
「タスコンではいったことは?」
「イエス・サー。あそこでは、十日だったとおもいます。鉄道の所有物に不法侵入したってことでね」
「ソールトレーク・シティは? サンディエゴ? ウィチタ?」
「イエス・サー。ええ、みんな」
「オークランドは?」
「あそこは、三ヵ月でした。鉄道保安係とケンカしたんです」
「ひどくひっぱたいたんだって?」
「うーん、見方によりますね。たしかに、やつは、ひどくひっぱたかれた。だけど、相手のことも考えなきゃいけませんよ。おれも、ひどくひっぱたかれた」
「ロサンゼルスでは?」
「一度だけ。それに、たった三日、ほうりこまれただけでした」
「チェンバーズ、いったい、どういうことで、パパダキスのところではたらくようになったんだ?」
「ただの偶然ですね。おれはゼニがなかったし、ニックは、はたらく者をさがしてた。そこに、おれがなにかたべに、店にはいっていき、ニックは仕事があると言い、おれはオーケーした」
「チェンバーズ、それはおかしいとおもわないか?」
「わかりませんね。どういう意味です、判事さん?」
「きみは、今までずっと、あちこちぶらぶらあるきまわって、なんの仕事もしてないし、また、わたしの知るかぎりでは、仕事をしようという気さえなかった。それが、とつぜん、腰をおちつけ、はたらきだし、しかも、ずっとはたらいていた」
「白状しますとね、仕事はあんまり好きじゃなかったんです」
「だが、きみはやめなかった」
「あのニックってやつが、おれが、今まであったうちでも、いちばんいいような男でしてね。ゼニをもらったあと、もうやめた、と言おうとしたんだけど、わるくって言えなかったんです。今まで、ニックが使用人にはすごく苦労してきたのをきかされてたからね。だから、ニックが浴室でケガをして、入院していないとき、おれは逃げだしたんです。ただ逃げだした。もう逃げだすことばかり考えてね。そんなことをしちゃ、ニックにいけなかったかもしれないが、おれは、ふらふらあるきたがる足をもってるんですよ、判事さん。その足が、ゴー、と言ったら、いっしょにいかなきゃいけない。だから、なんにも言わず、だまって逃げだしたんです」
「そして、きみがかえってきた翌日に、パパダキスは死んだ」
「判事さん、そんなふうに言われると、おれ、つらいなあ。陪審員には、ちがうことを言うかもしれませんよ。しかし、今、判事さんにはなすけど、ニックが死んだことについては、おれはうんと責任があるような気でいるんです。もし、あのとき、おれがいなかったら、あの日の午後、おれがニックにすすめて、酒を飲ませたりしなかったら、もしかしたら、ニックは、今、生きてたんじゃないか。そんなことは、ぜんぜん関係ないかもしれませんよ。わからない。おれはすごく酔ってた。なにがおきたのかもおもいだせない。そんなことを言やあ、コーラが車のなかで二杯ばかりやらなきゃ、もっと運転できたのかも、ね? ともかく、そんな気持ちなんです」
おれのはなしを、どんなふうにうけとってるか、おれは地方検事の顔を見た。検事はおれのほうも見てなかった。とつぜん、やつはとびあがると、ベッドのところにきて、おれの方をつかんだ。
「正直に言え、チェンバーズ。どうして、パパダキスのところに六ヵ月もいた」
「判事さん。なんのことだか、わからないな」
「いや、わかってる。わたしは、パパダキスの女房にあった。それで、どうして、きみがパパダキスのところに半年もいたか、察しがついた。彼女はめのところはくろく色がかわってるし、あちこちひどいもんだった。それなのに、なかなかチャーミングでね。あんな女のためなら、ふらふらうごきたがる足をもっていようと、いまいと、旅にサヨナラする男はたくさんいるんじゃないのかな」
「どっちみち、足はむずむずしてきますよ。いや、判事さん、それはちがう」
「いくらむずむずしたって、長つづきはせん。あんまり、いい女だからな、チェンバーズ。あの自動車事故だが、昨日は、だれが見ても、はっきりわかる殺人だった。ところが、きょうになると、それが、きれいに蒸発してしまって、殺人のにおいさえしない。どこかに、わたしが手をつけると、とたんに、だれか証人があらわれて、なにか言う。それを、みんなあつめると、まるっきり事件は成立しない。なあ、チェンバーズ。きみとあの女でギリシア人の亭主を殺した。はやく白状したほうが、きみの身のためだぞ」
いや、ほんと、こうなると、もう、おれの顔にはにやにやわらいなんかうかんでなかった。くちびるが感覚をうしなったみたいになってくる。しゃべろうとしたが、おれの口からは言葉がでてこない。
「きみ、なにか言ったらどうかね」
「そんなにやっつけられちゃね。しかも、ひどいことでやっつけてきている。こたえようがありませんよ、判事さん」
「真実をかたることだけが、このめんどうなことからぬけだせる、たったひとつの道だとか、ほんのちょっと前までは、きみは、あれだけよくしゃべってたじゃないか。どうして、今は、しゃべれんのだ?」
「頭のなかが、すっかりごっちゃになりましてね」
「よろしい。一度に、ひとことずつ、片づけていこう。だったら、ごっちゃにはなるまい。まず、だいいちに、きみはあの女と寝てたんだろ、え?」
「そんなことはありません」
「パパダキスが入院していた一週間は? あのときは、どこに寝ていた?」
「自分の部屋です」
「そして、あの女も自分の部屋で寝てたのか? おいおい、わたしはあの女にあった。部屋の入口のドアをけとばして、ぶちこわしても、暴行したことで、しばり首になっても、わたしなら、あの女の部屋にいっただろう。きみもいくにちがいない。いや、いった」
「そんなことは、考えたこともありません」
「きみは、グレンデールのハッスルマンズ市場《マーケット》に、なんどかいってるが、そのときはどうだった? 市場《マーケット》のかえりには、あの女とどうした?」
「マーケットには、ニックにたのまれて、いったんです」
「だれにたのまれて、マーケットにいったかということは、きいてやせん。あの女となにをやったか、とたずねてるんだ」
これでは、まるっきりグロッキーだ。はやいところ、なんとかしなきゃいけない。しかし、頭にうかんだのは、とりあえず、ムクれることだった。
「オーケー、コーラとおれとデキてたとします。デキてやしませんよ。だけど、判事さんがデキてたと言うから、そういうことにしときましょう。でも、そんなにかんたんに、うまくいってたのなら、どうして、ニックを殺すんです? 冗談じゃないスよ、判事さん。なにかが手にはいらなく、それがほしくて、そのために、ひとを殺すってはなしはきいたことがあります。だけど、もう手に入ってるのに、そのために、だれかを殺すってはなしはきいたことがない」
「そんなはなしはきいたことがない? よし、どうして、きみがパパダキスを殺したか、はなしてやろう。たとえば、あそこの土地、建物だ。パパダキスは、あれに、即金で一万四千ドル払ってる。それに、きみとあの女が、それでちょいとしたボート遊びができるとおもった、かわいいクリスマス・プレゼントさ。ところが、逆に、ひどい波で、とんだボート遊びになりそうだな。パパダキスが加入していた事故生命保険《ヽヽヽヽヽヽ》さ」
まだ、地方検事の顔は見えた。しかし、そのまわりが、まっくらになり、おれは、ベッドのなかで気絶すまいと、がんばった。しかし、気がついたときには、検事が、水をいれたグラスをおれの口もとにもってきていった。
「飲めよ。気分がよくなる」
すこし、おれは水を飲んだ。飲まないではいられなかった。
「チェンバーズ、ここ当分、これが、きみの最後の人殺しになるとおもうが、こんど、また、人を殺すときは、保険会社にだけは、かかり合いをもたないほうがいいぞ。ひとつの事件について、ロサンゼルス郡が、わたしにやらせてくれる調査の五倍は、保険会社はやる。そして、わたしがつかえる捜査員の五倍は優秀な調査員を、保険会社ではもっている。あの連中は、AからZまで、調査のことなら、なんでも心得てるよ。その連中が、今、きみのすぐうしろから追ってきてるってわけだ。なにしろ、あの連中には金の問題だからね。そこのところを、きみもあの女も、大きなまちがいをやらかした」
「判事さん、ウソをついたら、キリストに殺されたっていい。保険のことは、今の今まで知りませんでした」
「シーツみたいに、顔色がなくなったぞ」
「だれだって、そうなりますよ」
「うん、はじめから、わたしをきみの味方にしないか? なにもかも自白して、ただちに罪状をみとめろ。そしたら、公判で、わたしはできるだけのことを、きみにしてやろう。きみたち二人の情状酌量をねがうとかね」
「けっこうです」
「たった今、きみがしゃべってたことはどうだ。真実を言うのがいちばんだってこととか、陪審員には、なにもかもはなすとか、そういったことさ。こうなっても、ウソをついて、ゴマかせると考えてるのか? そういう主張に、わたしがじっとしてるとおもうかね?」
「判事さんがどんな主張なのかは、おれにはわからない。そんなことは、どうだっていい。判事さんには、判事さんの主張があり、おれにはおれの主張がある。おれはニックは殺してない。それだけが、おれの主張だ。わかりますか?」
「くだらんことを言うな。わたしにタフぶろうというのか、え? よし、もうわかっただろう。陪審員たちが、実際には、どういうことをきかせられるか、これから、きみにおしえてやる。まず、だいいちに、きみはあの女と寝ている。そうだろ? そしたら、亭主のパパダキスが、ちょいとしたケガをして入院し、きみとあの女は、すばらしい時間をすごせた。夜は、ベッドにいっしょに寝て、昼間は、海べにいき、手をとりあい、そして、おたがい、顔と顔をみつめる。そのうち、きみたちふたりは、いいことを考えついた。パパダキスはケガをし、入院した。この機会に、彼に災害保険に加入させ、殺してしまおうってわけだ。きみは、パパダキスが退院してくる前に姿をけし、あの女にうまくやらせることにした。あの女は亭主を口説き、やがて、パパダキスもその気になり、保険にはいった。とてもいい保険だ。事故の場合も、病気のときも、そのほかいろんなときにつかえる保険で、加入料金は四十六ドル七十二セント。これで、用意はできた。それから、二日後、フランク・チェンバーズは、通りで偶然、といってもそういう計画だが、ニック・パパダキスにあい、ニックは、また自分のところで、きみをはたらかせようとする。きみがパパダキスのところにいくと、これまた、ごつごうのいいことに、パパダキスと女房はサンタ・バーバラにいくことに、もうきめており、ホテルの予約やなんかもとってある。だから、前に、フランク・チェンバーズはパパダキスのところではたらいてたんだし、そのよしみで、いっしょにいったって、べつに、どうってことはないわけだ。そういうわけで、きみもいった。きみはギリシア人の亭主をすこし酔っぱらわせ、自分でも酔った。そして、ワインの壜を二本ほど、車のなかにつっこんどいた。警察に、こいつら酔っぱらい運転をしやがってと頭にこさせるためだ。それから、あの女がマリブ・ビーチを見たいと言いだし、マリブ・レークの道にはいった。すごい考えじゃないか。夜の十一時にだよ、お家の前のほうで波がざんぶりこやってるなん軒かの家を見るために、わざわざ、車を運転して、マリブ・ビーチまでいくというんだからね。しかし、きみたちはマリブ・ビーチにはいかなかった。途中で、車をとめたんだ。そして、車をとめてるときに、きみは車につっこんでおいたワインの壜で、ギリシア人の頭をぶんなぐった。人の頭をぶんなぐるのには、ワインの壜はもってこいだ。だれよりも、チェンバーズ、きみはそのことをよく知っている。オークランドで、きみが鉄道の保安係の頭をぶんなぐったのも、ワインの壜だからな。きみはパパダキスの頭をぶんなぐり、あの女は車のエンジンをかけた。あの女が車の外の、ステップにでるあいだ、きみはバックシートから、からだをのりだして、ハンドルをにぎり、ハンド・スロットルをひらいた。ガソリンはあんまりいらない。ギヤはセコンドになってたからね。あの女はステップにたつと、きみとかわって、ハンドルをもち、ハンド・スロットルをひらいた。こんどは、きみが車からぬけだす番だ。しかし、きみは少し酔っぱらいすぎてたんじゃないかな。きみの動作はのろすぎ、あの女が車を崖のはしからおとすのが、ちょっぴりはやすぎた。だから、あの女はステップからとびおりることができたが、きみは車のなかにはいったままだった。このはなしを、陪審員にしても、信じないと思うかね。陪審員は信じるよ。きみとあの女とで海べに遊びにいったことから、車を崖からおとしたときのハンド・スロットルのことまで、ひとつひとつ、証拠をそろえてみせるからだ。もう、そうなったら、情状酌量はない。ロープだけだ。そのロープのはしを、きみは首にまきつけられ、ぶらさげられる。そして、ロープをきり、きみの死体をおろすと、きみは、首の骨をおって死んだりしないですませるチャンスがまだあるときに、このわたしとはなしをつけなかったバカどもとおなじところに埋められるってわけさ」
「そんなことにはなりませんよ。ぼくは、そうはおもわない」
「なにが言いたいんだ? やったのは、あの女だってこと?」
「だれがやったなんてことも、言うつもりはありません。ほっといてください。そんなことにはならない」
「どうして、わかる。きみは酔っぱらってて、なにもわかってないんだろ?」
「そんなことじゃなかった。それはわかってます」
「じゃ、あの女がやったと言うんだな」
「そういうことは、ひとことも言ってませんよ。おれの言ったとおりだ。それだけです」
「よくきけよ、チェンバーズ。車のなかには三人いた。きみとあの女とギリシア人の亭主だ。うん、ギリシア人がやったんでないことは、まちがいない。そして、きみがやったんでなければ、あとは、あの女しかない。そうだろ?」
「だれかがやった、と、いったい、だれが言うんです」
「わたしが言ってる。おもしろいことになってきたぞ、チェンバーズ。もし、きみがやってないならばだ。きみは、ほんとのことをはなしてると言う。もしかして、そのとおりだったら……。きみがほんとのことをはなしており、ただ友人の女房というだけで、あの女にはぜんぜん興味がなかったとしたら、きみは、やらなきゃいけないことがあるはずだ。あの女への告訴状にサインしなくちゃ」
「告訴状って?」
「あの女がギリシア人の亭主を殺したのなら、きみもいっしょに殺そうとしたんだ。そうだろ? そんなことを、ほっとくわけにはいかんよ。もし、ほっといたら、だれかが、これはたいへんにおかしい、とおもうだろう。うん、ほっとくなんて、バカなことだ。あの女は、保険金ほしさに、亭主を殺そうとした。そのことについて、きみは、なんとかするのがあたりまえだ。ね?」
「そういうことになるかもしれません。コーラがやったのならね。でも、コーラがやったかどうか、おれにはわからない」
「わたしが立証したら、告訴状にサインするかね」
「ええ、判事さんが、ちゃんと証拠をそろえてくれるならね」
「よろしい、立証しよう。車をとめたとき、きみは車の外にでたんだね?」
「いいえ」
「え? きみは酔っぱらいすぎて、なにもおぼえてないのかとおもった。これで二度目だな。きみが、あのときのことでなにかおぼえてたのは……。おどろいたよ」
「ともかく、車の外にでたことは、おぼえてません」
「ところが、きみはでてるんだ。ここに、ある男の証言がある。≪私は車のことは、あまりよく見てませんでした。ただ、女性が運転台におり、バックシートに男がひとりいて、わらっているのが、そばをとおりすぎるときに、目につきました。それから、もうひとり、べつの男が車のうしろのほうで、吐いていました≫な、きみはなん分か車の外にいて、もどしてたんだ。そのとき、あの女が、ワインの壜で、パパダキスの頭をぶんなぐった。そして、きみは車にもどったが、酔っぱらってるので、なにも気がつかなかった。どっちみち、パパダキスは酔いつぶれてたしさ、そんなわけで、きみの目につくようなことも、なにもなかったんだろう。きみはシートにすわり、眠っちまった。そこで、あの女はギヤをセコンドにして、ハンド・スロットルをひらき、ステップにでると、車を道のはしからおとしたってわけさ」
「証拠がありませんよ」
「いや、ちゃんと証拠がある。あのライトという男は、彼の車が道の曲がり角をまがってきたとき、きみたちの車は、なんどもひっくりかえりながら、崖をおちていってたが、女は道路の上にたって、助けをもとめて手をふってた、と言ってる」
「コーラは、車からとびおりたのかもしれません」
「もし、車からとびおりたのなら、ハンドバッグをもってたのはおかしいよ。なあ、チェンバーズ、女がハンドバッグをもったまま、車の運転ができるかい? 車からとびおりるとき、ハンドバッグをもっていく余裕があるかね。チェンバーズ、そりゃむりだ。崖をころがりおちてるセダンからとびおりるというのも不可能だ。車が崖をおちていったとき、あの女は車のなかにいなかったんだよ。ほら、ちゃんと立証できたじゃないか、え?」
「さあ、わかりません」
「わからないというのは、どういうこと? 告訴状にはサインするか、しないか?」
「しません」
「ねえ、チェンバーズ。車が崖からおちたのが、一秒ほどはやすぎたというのは、偶然じゃないぞ。あれは、きみかあの女がやったことだ。そして、あの女がやったんでなければ、きみってことになる」
「ほっといてください。なにを言ってるんだか、さっぱりわからない」
「この事件は、どう考えても、きみかあの女がやったことだ。そして、きみがなんの関係もないのなら、この告訴状にサインしたほうがいい。でないと、それで、わたしにも、きみとあの女が共謀してやったことが、はっきりわかる。陪審もわかるだろう。裁判官もね。そして、絞首台の足の下の板をはねおとす係も」
サケット地方検事は、ちょっとのあいだ、おれの顔を見ていたが、部屋をでていき、男をひとりつれてきた。その男は椅子に腰をおろし、万年筆で書類を書いた。サケットは、それをもって、おれのところにきた。「ここに、サインしたまえ、チェンバーズ」
おれはサインした。その手があんまり汗をかいているので、れいの男は、書類から汗をふきとらなきゃいけないほどだった。
地方検事がかえったあと、監視のお巡りがきて、トランプのブラックジャックをやらないか、なんてことをぶつぶつ言った。それで、なん回かやったが、おれはブラックジャックなんかやってるどころじゃなかった。で、片手でカードをきるのは、神経にさわる、と口実をつけて、やめた。
「サケット地方検事に、だいぶやられたな、え?」
「ちょっぴりね」
「サケットはタフだからね。だれでも、やられちまう。牧師さんみたいに、人類にたいする愛にみちあふれてるような顔をしていながら、心はつめたい石だ」
「まったく、石だな」
「この町で、サケットをやりこめられる者は、ひとりしかいない」
「へえ」
「カッツって男だよ。名前は、きいたことがあるだろ」
「うん、きいた」
「おれの友だちなんだ」
「そういう友だちをもつべきだよ」
「なあ、おい。まだ弁護士はたのんでないみたいだな。あんたは、罪状認否もすんでないから、だれも、ここによぶことはできない。四十八時間は、あんたに外部連絡をさせないで、勾留できるんだ。げんに、その要求をしている。しかし、カッツがここにきたら、おれは、あんたにあわせてやるよ。わかるかい? おれが、たまたま、カッツにあんたのことをしゃべったら、カッツはここにやってくるかもしれん」
「それで、分け前がもらえるんだな」
「カッツは、おれの友だちだと言っただろ。分け前をくれないようだったら、友だちじゃないよ、ね? カッツは偉いやつだぜ。サケットにヘッドロックができるのは、この町では、カッツだけだ」
「のった。はやいほうがいいな」
「じゃ、いってくる」
監視のお巡りは、ちょっとのあいだいなくなったが、もどってくると、ウインクした。お巡りの言うとおりで、やがてすぐ、ドアにノックがして、カッツがはいってきた。カッツは歳は四十ぐらいの小柄な男だ。なめし皮みたいな顔の皮膚で、黒い口髭をはやしている。カッツがおれの病室にはいってきて、さいしょにしたのは、バル・ダーラムのパイプタバコの袋と褐色の紙をとりだし、タバコをまきだすことだった。手巻きのタバコに火をつけると、タバコの片側がはんぶんぐらい燃えてしまったが、ただ、それだけだった。口のはしからタバコはぶらさがり、火がついているのか、ついてないのか、それにカッツが眠ってるのか、目をさましてるのかも、わからない。目をはんぶんとじて、かたっぽうの足を椅子の肘にかけ、帽子を頭のうしろのほうにおしやり、腰をおろしているだけだ。おれのような立場の者にとっては、見てるだけでなさけなくなるとおもうだろうが、ちがう。カッツは眠ってるのかもしれない。だが、たとえ眠っていたとしても、目をさましてるたいていのやつらより、ちゃんとものがわかってるようだった。おれは、喉もとにこみあげてくるものを感じた。すてきな花馬車がしずかに近づいて、さあどうぞ、とのっけてくれてるみたいで……。
お巡りは、カッツがタバコを巻くのを、キャドナ〔有名なサーカスの芸人、綱渡りが得意だった〕が三段とんぼがえりをするのでも見物してるみたいに見ていた。お巡りは部屋をでていきたくなかったのだろう。しかし、いるわけにはいかない。お巡りが病室をでると、カッツは、身ぶりで、おれに事情をはなすように言った。おれは、自動車事故にあったこと、サケット地方検事が、おれとコーラで、保険金ほしさにギリシア人を殺したとデッチあげようとしたこと、コーラがおれも殺そうとしたことの告訴状にサインさせたことなどを、はなした。カッツはきいていて、おれがはなしおわっても、しばらく、なにも言わずに椅子に腰をおろしていたが、たちあがった。
「うまくはめこまれたな」
「告訴状にサインなんかするんじゃなかった。コーラがそんなひどいことをしたとはおもえません。でも、サケット検事がむりにやらせたんです。こうなると、どうしていいかわかりません」
「うん、ともかく、告訴状にサインしたのはよくない」
「ミスター・カッツ、ひとつだけ、おねがいがあります。コーラにあって、はなしてほしいんです。おれは……」
「あいにいく。そして、彼女が知っといたほうがいいことは、はなしておく。あとのことは、わたしがこの件をひきうけた。ということは、わたしにまかせてほしい。わかったな?」
「ええ、わかりました」
「罪状認否のときは、わたしがきみに附き添う。わたしがだめなら、だれか、わたしがてきとうだとおもう者を、きみに附き添わせる。サケットが、きみに告訴状にサインさせたから、きみとパパダキスのワイフと、両方の弁護は、わたしにはできないかもしれない。だが、この件は、わたしがひきうけた。もう一度言うが、ということは、たとえ、わたしがなにをしようが、わたしにまかせてほしい」
「ええ、たとえなにをなさっても、ミスター・カッツ」
「じゃ、また」
その夜、また、おれは担架にのせられ、罪状認否の法廷にはこばれた。治安判事の法廷で、正式の裁判ではない。だから、陪審員席や証人台、そんなものはなかった。治安判事が壇の上におり、そばに警官がなん人か、そして、治安判事の前に、部屋のはしからはしまでの長いデスクがあった。なにか言うことがある者は、このデスクに顎をのっけて言わなきゃいけない。傍聴人はうんときいていた。おれがはこびこまれると、カメラマンたちがフラッシュをたいた。でっかいことがおこなわれているというのは、部屋のなかのざわめきでわかる。担架にのっけられてては、あんまりよく見えないが、コーラはちらっと目にはいった。カッツと、いちばん前のベンチに腰をおろしている。地方検事のサケットは部屋の片側にいて、ブリーフケースをもった連中とはなしていた。それに、検死陪審のときにいたお巡りや証人たち、デスクの前に、テーブルをふたつよせあわせて、その上におれの担架をのせ、毛布をちゃんとかけなおすかなおさないうちに、前の中国人の件がおわり、お巡りが、静粛に、と木槌をたたいた。そうやってるときに、若い男がおれの上にかがみこみ、自分はホワイトという者で、カッツにたのまれて、おれの弁護をすると言った。おれはうなずいたが、若い男はミスター・カッツにたのまれて、と小声でつづけ、お巡りが頭にきて、また、木槌をぶったたいた。
「コーラ・パパダキス」
コーラは立ちあがり、カッツ弁護士がデスクのところにつれていった。おれのそばをとおりすぎるとき、もうちょっとで、からだがふれそうになり、コーラのからだのにおいがしたのは、おかしな気持だった。こんなことの真っ最中に、いつもカッと血がさわぐコーラのからだのにおいがするなんて。昨日よりは、コーラはいくらかマシだった。べつなブラウスを着て、これは、からだにぴったりあっていた。スーツもよごれをとり、アイロンがかけてあり、靴もみがいていた。目のまわりはくろいが、腫れはひいている。ほかの連中も、コーラといっしょにデスクにいき、よこに一列にならぶと、警官がみんなに右手をあげさせ、真実を、すべて真実を、真実のみを、とぶつぶつはじめた。その途中で、警官はやめ、担架のなかのおれも右手をあげてるかどうか見おろした。おれはあげてなかった。右手をおしあげる。警官は、はじめから、ぶつぶつをくりかえし、みんなも、そのあとについてぶつぶつやった。
治安判事はメガネをとり、コーラに、彼女がニック・パパダキス殺人およびフランク・チェンバーズの殺人未遂による傷害罪にとわれていること、それについて供述したいことがあれば供述してもいいが、それが、公判において、被告人である彼女自身の不利な証拠になる場合もあること、また、弁護士に代理を依頼する権利のあること、訴えにたいして、八日間の申立ての期間があたえられること、その期間中は、裁判所としては、いつでも彼女の申立てをきくこと、などを言った。ながいはなしで、それがおわるまでに、あちこちで咳をする音がきこえた。
それから、サケット地方検事が論告をはじめ、立証しようとすることをはなした。その朝、おれに言ったことと、ほぼおなじことだ。ただ、それを、いやに荘重にやった。論告がおわると、サケットは検察側の証人をよびだした。さいしょは、救急車附きの医者で、ギリシア人が、いつどこで死んだかを証言した。つぎは、ギリシア人の死体の解剖をやった警察医の証言に、検死官の秘書が検死審問の書類を確認して、治安判事のところにおいていき、もう二人ばかり証人が立った。だが、なにを言ったかは、おれは忘れてしまった。ぜんぶの証言がおわり、証人たちみんなが言ったことをまとめると、ギリシア人は死んだってことだった。どっちみち、それは、おれも知っている。おれは、たいした注意ははらってなかった。カッツ弁護士も、ぜんぜん反対訊問などはしなかった。治安判事がカッツのほうを見るたびに、カッツは手をふり、証人はひきさがった。
ギリシア人がちゃんと死んでることが、みんなにわかったあと、サケット地方検事は、ほんとに論告をやりだし、ききずてにはできないことをはじめた。アメリカ太平洋諸州損害保険協会の代表という男を証人によんだのだ。この男は、ギリシア人が死亡のたった五日前に保険に加入したこと、その保険は、彼が病気になるか、事故でケガをして働けない場合、五十二週間にわたり、一週二十五ドルもらえること、片足を失った場合は五千ドル、両足だと一万ドル、事故で死んだときは、未亡人が一万ドル、その事故が鉄道事故のときは二万ドルの保険金がもらえることを証言した。はなしがそのあたりになると、セールスマンの売込み口調になり、治安判事は片手をあげて、とめた。
「わたしは、必要な保険には、みんなはいっている」
みんな、治安判事のギャグにわらった。おれまでわらった。それが、どんなにおかしくきこえたか、びっくりするほどだ。
サケットは、あといくつか質問し、それがおわると、治安判事はカッツのほうをふりむいた。カッツはちょっとのあいだ考えこみ、それから、保険協会の男にしゃべりだしたが、ゆっくりしたはなしかたで、ひとこと、ひとこと、はっきり、たしかめたいというふうだった。
「あなたは、この件について、利害関係のある当事者ですね」
「ある意味ではそういうことになります、ミスター・カッツ」
「この件に、犯罪がおこなわれてるとすれば、あなたは保険金の支払いをまぬがれる、そうですね」
「そのとおりです」
「あなたは、ほんとに犯罪がおこなわれたと信じてますか? 保険金ほしさに、この女性が夫を殺し、こちらの男性を死にいたらしめるかもしれない危険に、故意においやったとおもってるんですか?」
損害保険協会の代表という男は、カッツ弁護士の質問に、彼もまた、ひとこと、ひとこと、正確にこたえようとするように、にっこりほほえんだみたいな顔になり、すこし考えた。
「そのことにおこたえいたしますが、わたしは、こういった件、保険金詐欺事件は、毎日のように、わたしのデスクにまいっており、これまでに、なん千件という事件をあつかっておりまして、こういう調査については、とくべつな経験をしているとおもっています。そのわたしがもうしあげることですが、長年、あちこちの保険会社でわたしが手がけた調査のうちでも、これほどはっきりした事件はございません。この件について、わたしは、犯罪がおこなわれたことを信じるだけでなく、げんに、犯罪がおこなわれたことを知っております」
「それだけです。裁判長、両件についての、被告の有罪を認めます」
カッツが法廷に爆弾をおっことしたとしても、こんなに、とたんに大さわぎにはならなかっただろう。記者たちはとびだしていき、カメラマンは写真をとるため、デスクに殺到した。みんな、おたがいぶつかりあい、治安検事は頭にきて、静粛に、と木槌をたたいた。サケット地方検事は鉄砲玉でもくらったみたいで、とつぜん、貝殻を耳におっつけられたみたいに、そこいらじゅう、わーん、という声でいっぱいだった。おれは、ずっと、コーラの顔を見ようとしていた。だが、目にはいったのは、コーラの口のはしだけだった。だれかが、一秒おきに、針のさきでつっついてるみたいに、コーラの口のはしが、ぴくぴくしている。
気がついたときには、おれがのった担架はもちあげられ、れいのホワイトという若い男のあとから、法廷の外にはこびだされた。そして、かけ足で、二つばかり廊下をよこぎり、お巡りが三人か四人いる部屋にはいった。ホワイトは、カッツがなんとかと言い、お巡りたちは部屋をでていった。おれをデスクの上におき、担架をもっていた連中もでていく。ホワイトは、ちょっと部屋のなかをあるきまわってたが、婦人警官とコーラがやってきた。婦人警官とホワイトも部屋をでていき、ドアがしまり、おれとコーラだけになった。おれは、なにか言うことを考えようとしたが、だめだった。コーラは部屋のなかをあるいていて、おれのほうは見ようとしない。コーラの口もとは、まだぴくぴくうごいていた。おれは、ただ息をのみこんでおり、しばらくして、言うことをおもいついた。
「おれたち、ハメられたんだよ、コーラ」
コーラは、なにも言わなかった。ずっと、部屋のなかをあるきまわっている。
「あのカッツって野郎、警察のイヌだった。もともと、お巡りがよんでくれたんだ。裏表のないまともなやつだとおもったのに……。ハメられちまった」
「ハメられたわけじゃないわ」
「ハメられたんだってば。はじめから、わかってりゃよかったんだ。あのお巡りが、やつをおれに売りこんだときにさ。でも、おれは気がつかなかった。まともな弁護士だとおもったんだ」
「わたしはハメられたわ。でも、あんたはちがう」
「いや、おれもやられた。おれもハメやがった」
「こうなってみると、よくわかるわ。なぜ、わたしが車の運転をしなきゃいけなかったのかもね。この前のときだって、どうして、あんたでなく、わたしがやらなきゃいけなかったか。ええ、そう、あんたが頭がいいから、わたしはあんたにイカれた。今になって、ほんとに、あんたはおりこうだとわかったわ。おかしかない? 頭がいいから、その男にイカれちまい、あとになって、ほんとにその男がおりこうだったとわかるっていうのは……」
「なにが言いたいんだ、コーラ?」
「ハメられた! わたしはハメられたわ。あんたとあの弁護士にね。あんたがうまくやったのよ。わたしがあんたも殺そうとしたみたいに、あんたはうまくやった。このことには、あんたはなんにも関係ないように見せかけるためにね。そして、わたしに法廷で有罪を認めさせた。あんたは、ぜんぜん関係ないってわけよ。ああ、けっこう。わたしまったくバカだったとおもうわ。でも、それほど、おバカじゃありませんからね。よくきいといてよ、ミスター・フランク・チェンバーズ。このことがおわったときには、あんたも自分がどれほどおりこうだったかわかるわ。おりこうすぎると、どうなるかね」
おれはコーラにはなしてきかそうとしたが、だめだった。ここまでくると、コーラは、ルージュはつけていても、くちびるがしろく血の気がなくなっていた。そのとき、ドアがあいて、カッツがはいってきた。おれは担架からでて、カッツにとびかかろうとした。だが、うごけなかった。担架にからだをゆわえつけられていたからだ。
「出ていけ、警察のイヌ。自分にまかせとけ、うまくやるだって? まったく、うまくやったよ。だれのためにうまくやったか、今になってわかったけどな。きいたか? 出ていけ!」
「おいおい、どうした、チェンバーズ?」
カッツは、とりあげられたチューインガムをかえしてくれ、と泣きわめいている子供をさとしてる日曜学校の先生みたいだった。「なにをおこってるんだ? わたしがうまくやる。そう言っただろ」
「うん、そうだな。ただ、きさまをふんづかまえることができたら、この手でひねり殺してやる」
カッツは、わけのわからないことがおこり、コーラならたすけてくれることができるかもしれないといったふうに、コーラをふりかえった。コーラはカッツのほうにきた。
「ここにいるこの男、この男とあんたがグルになって、わたしが罪をきせられ、この男はなんの罪もないようにする気なのね。この男だって、わたしとおなじように、関係はあるのよ。この男だけを無罪にはさせないわ。わたし、みんなはなしちまうわ。たった今、なにもかも言ってやる」
カッツはコーラの顔を見て、首をふった。男がこんなおかしな表情をしたのは、おれもはじめてみた。「きみ、きみ、わたしなら、そんなことはせんな。このことは、わたしにまかせてさえおけば……」
「いいえ、まかせないわ。これからは、わたしが自分でやります」
カッツは立ちあがると、肩をすぼめ、部屋をでていった。カッツが部屋をでるかでないうちに、でかい足をした、赤ら首の男が、ちいさなポータブル・タイプライターをもってはいってくると、椅子に本を二冊ばかりおいて、その上にタイプライターをのせ、そちらに椅子をひきよせ、コーラのほうを見た。
「ミスター・カッツのはなしだと、あんたはなにか供述したいって?」
この男は、ちょっぴりきいきい声で、しゃべるとき、なんだかニヤついていた。
「ええ、おはなしします」
コーラは、ぎくしゃくしゃべりだした。二、三語、つづけさまにはなし、すると、そのとたん、男がタイプをカタカタやる。コーラはなにもかもしゃべった。そもそものはじめにさかのぼり、どんなふうにして、おれとあったか、さいしょに、ふたりで共謀してやりだした事情、前にも、ギリシア人の亭主を殺そうとして、失敗したことなど。二度ばかり、お巡りがドアから首をつっこんだが、タイプをうってる男は片手をあげた。
「あとなん分かでおわります、部長さん」
「オーケー」
供述もおわりになり、コーラは、保険についてはなにも知らなかったこと、保険金ほしさにやったのではなかったこと、ただ、ギリシア人の亭主をカタづけたかったことをはなした。
「それだけです」
男はタイプした紙をあつめ、コーラはそれにサインした。「こっちのページには、ただイニシャルだけをいれて」コーラはイニシャルを書きこんだ。男は公正証書のスタンプをとりだすと、コーラに右手をあげて宣誓させ、スタンプをおし、サインさせた。そして、タイプした書類をポケットにいれ、タイプライターに蓋をして、部屋をでていった。
コーラはドアのところにいき、婦人警官をよんだ。「もう、いいです」婦人警官がきて、コーラをつれだした。担架の係員もきて、おれをはこんでいく。担架はいそいだが、途中で、コーラを見るためにあつまった人たちにぶつかって、うごけなくなった。コーラは、留置場にあがっていくため、婦人警官とエレベーターの前に立っていた。留置場は裁判所の建物のいちばん上の階にあった。担架は人ごみのなかをつきすすんでいったので、毛布がひっぱられて、床にひきずっていた。コーラは毛布をとりあげて、おれのからだのまわりにたくしこみ、いそいで、顔をそらした。
十一
病院につれもどされたが、州警察のお巡りが監視するかわりに、コーラの供述をタイプした男がついていた。男は病室のべつのベッドに寝た。おれは眠ろうとし、しばらくすると、眠った。コーラが、こちらをじっとみつめている夢をみた。おれはなにか言おうとしたが、口がきけない。コーラの姿は下のほうにさがっていき、おれは目がさめたようだ。あの音が耳もとでする。ギリシア人の頭をぶったたいたときの、あのいやな音が。そして、おれは眠ったらしい。おれは、自分のからだがおちていく夢をみた。また、目をさますと、おれは自分の首をつかんでおり、おなじ、ぐしゃっという音が耳もとでした。大声でわめいて、目がさめたこともあった。男は片肘をついて、からだをよこにしていた。
「おい」
「おい」
「どうした?
「べつに、なんでもない。ただ夢をみただけだ」
「オーケー」
男は、ほんのわずかなあいだでも、おれのそばをはなれなかった。朝になると、男は洗面器に水をいれてもってこさせ、ポケットからカミソリをだすと、髭をそった。それから、顔をあらい、朝食がくると、男は自分のテーブルでそれをたべた。おれたちは、おたがい、なにも言わなかった。
それから、朝刊をもってきてくれた。朝刊には、第一面にコーラの大きな写真、その下に、担架にのった、もっとちいさなおれの写真がでてた。新聞は、コーラのことを、酒壜殺人犯人、とよんでいた。罪状認否の法廷で、コーラが有罪を認めたこと、きょうは判決が言いわたされる、と新聞には書いてあった。一面以外の紙面で、この件は判決までのスピード公判の新記録をつくるだろうという記事と、すべての公判がこんなふうに鉄道のレールの上でもいくようにスピーディにはこばれるならば、百の法案を成立させるよりも、もっと犯罪防止に効果的だというある牧師の談話をのせていた。コーラの供述について、なにかでてないか、おれは新聞のぜんぶのページに目をとおした。だが、なにもなかった。
十二時ごろ、若い医者が病室にきて、おれの背中にはってあるバンソーコーを、アルコールで湿して、とった。いや、バンソーコーをアルコールで湿らしてとるはずなのに、たいていは、ただおっぱがし、痛いったらなかった。バンソーコーをいくらかとると、おれはうごけるようになった。若い医者は、あとのバンソーコーはそのままにして、看護婦がおれの服をもってきた。おれは服をきた。担架をはこんだ連中がきて、おれをエレベーターにつれていき、病室からだした。車がまっていて、運転手もいた。病室で、おれといっしょに夜をすごした男が、おれを車にのせ、いっしょに、二ブロックほどいった。そして、おれを車からおろすと、オフィス・ビルにはいり、あるオフィスにいった。そこにカッツ弁護士がいて、顔じゅうニコニコさせながら、手をさしだした。
「すべて、おわったよ」
「けっこう。コーラは、いつ、首をくくられる?」
「首はくくらんな。釈放されたよ。自由だ。鳥のように自由な身になっている。法廷でのちょっとした手続きがおわったら、もうすぐ、ここにくるだろう。こっちにきたまえ。事情をはなそう」
カッツは奥の自分の部屋におれをつれていき、ドアをしめた。れいによって、タバコをまき、それに火をつけると、たばこの巻紙の片側が、はんぶんぐらいまで燃え、そのタバコを口のはしにはりつけて、カッツはしゃべりだした。おれは、まるで、はじめて彼にあったみたいだった。昨日は、あんなに眠そうにしていた男が、きょうは、こんなにいきいきしている。
「チェンバーズ、これはわたしの生涯でも最良の事件だ。わたしはこの事件に手をかけ、そして解決するまでに、二十四時間もかかっていない。しかし、これまでにも、こんな事件はなかった。な、あのデンプシーとファーボのボクシングの大試合も、二ラウンドもかからなかっただろ。問題は、どんなに長くかかるかということではない。その件にあたって、なにをやったかということだ。
だが、ほんとは、わたしと検察側とのたたかいというようなものではなかった。つまりは、四人でやるカード・ゲームみたいなものだ。それぞれに、完璧な手がきている。できるものなら、負かしてみろってわけだ。こういうときは、だれかがミスをして、負けるとおもうだろう。そんなのは、しようがない。へたなミスをするようなのは、毎日、つきあっている。みんなにいい手がきて、みんな、ちゃんとやりさえすれば勝てるカードをそろえてる。そういうゲームでなくちゃね。そして、よーく見てろってわけだ。なあ、チェンバーズ、この件について、きみが弁護をたのんでくれて、ほんとにうれしくおもってるよ、もう、こんな事件はあるまい」
「だけど、まだ、なんにも、はなしはきいてませんが」
「はなすよ。心配するな。しかし、きみにはわかるまい。どういう手で勝ったかということがね。きみの目の前で、カードをそろえて見せるまではね。さて、まずだいいちに、きみとあの女だ。きみたちふたりとも、完璧な手をもっていた。というのは、あの殺人は完全犯罪だったからだ、チェンバーズ。どんなにうまくできた完全犯罪か、きみ自身でも、まだわからないんじゃないかな。サケットがきみをおどかそうとしたこと、車が崖からおちるときに、女が車のなかにいなかったこと、それに、女がハンドバッグをもっていたことなんか、ぜんぜん問題にならん。車はおちる前に、シーソーのようにゆれることもあるじゃないか、そうだろ? そして、女性は車からとびだすとき、ハンドバッグをつかむこともあり得るのではないか。女がハンドバッグをもって、崖からおちる直前の車からとびおりたとしても、犯罪の証拠にはならない。彼女が女性だという証拠になるだけだ」
「そんなことが、どうしてわかったんです?」
「サケットからきいた。昨夜《ゆうべ》、サケットと食事をしたんだ。サケットは大威張りだったよ。あのバカ、わたしのことをあわれんでね、サケットとわたしは敵どうしだ。こんなに仲のいい敵どうしはいないんじゃないかな。サケットは、なにかでわたしをやりこめることができたら、魂を悪魔にでも売りわたすだろう。わたしだって、おなじことだ。このことでは、賭けもしたよ。百ドル賭けた。サケットはせせら笑ってた。完璧な手をもっていて、ただゲームをやりさえすれば、あとは首吊り人にまかせとけばいいとおもってたんだ」
まったくけっこうなことだ。首吊り人がおれとコーラにすることで、二人の男が百ドルずつ賭けている。だが、ともかく、はっきり、はなしはききたかった。
「おれたちの手が完璧だったんなら、サケットの手はどうなるんです?」
「今、それをはなす。きみは完璧な手をもっていた。しかし、検事がうまくやれば、かつてこの地球上にいたどんな男、どんな女でも、その手がつかえないことを、サケットは知っていた。きみたちのうちのどちらかを相手にけしかけさえすればいい。そして、これは確実にできる。それがだいいちだ。第二は、サケットは自分で事件をしらべる必要もない。そのことは、保険会社でやってくれるからね。指一本うごかさなくてもいいわけだ。だから、サケットはこの事件がすごく気にいっていた。彼はただカードをそろえてゲームをやればいい。そうすれば、壺は彼の膝の真上におっこってくる。だから、サケットはどうしたか? いろんな調査は保険会社にやらせ、きみをうんとおどしつけて、あの女への告訴状にサインさせた。サケットは、きみがもってたいちばんいいカードを利用したんだ。あの事故で、きみ自身が大けがをしたというカードをね。きみ自身のエースのカードで、きみをひっかけたってわけさ。そんなにひどく、きみがケガをしてるのなら、きみが故意にやったことではなく、事故にちがいない、と。それを利用して、あの女への告訴状にサインさせようとした。きみもサインした。サインしなければ、きみがギリシア人を殺したことが、サケットにわかるからだ」
「イエローに(怖く)なっただけですよ」
「殺人事件では、イエローはごくあたりまえの色だ。そのことは、だれよりも、サケットがよく知っている。けっこう。サケットは、自分のおもいどおりのところに、きみをおいこんだ。あの女に不利な証言を、きみにさせる。いったん、きみがそれをやれば、この地上のどんな力でも、あの女がきみを裏切るのをとめることはできない。昨夜、サケットと食事をしたときには、彼はそういう状態だったんだよ。だから、わたしをあざ笑い、あわれみ、百ドル賭けた。ところが、わたしのほうは、うまくやりさえすれば、サケットに勝てる手が、はじめからあった。さ、いいぞ、チェンバーズ。わたしの手のうちを見てみろ。なにがある?」
「あんまりありませんね」
「たとえば、どんな?」
「ほんとのことを言うと、なんにもない」
「サケットもそうおもった。だが、注意して、よく見てごらん。昨日、きみの病室をでたあと、わたしはあの女のところにいき、パパダキスの金庫をあける許可をもらった。そして、期待していたものを見つけた。金庫のなかには、ほかの保険の契約書もあり、わたしは、その保険契約をした代理店にいき、こういうことがわかったんだよ。
こんどパパダキスが加入した傷害保険は、数週間前の事故で、傷害保険をかけとく気になったというようなことはぜんぜん関係ない。保険代理店の男がカレンダーをくってみて、パパダキスの自動車《くるま》の保険がもうすぐきれるのに気がつき、あいにいったんだ。そのとき、ワイフはいなかった。自動車《くるま》の保険や火災、盗難、交通事故、責任保険などのふつうの保険の契約更新はすぐにすみ、保険代理店の男は、これで、どの保険にもみんな加入したことになるが、自分の傷害保険だけがない、自分が事故にあったときの傷害保険にはいったらどうか、とすすめた。パパダキスは、とたんに関心をもった。その前の事故のためかもしれない。だが、もしそうだとしても、保険代理店の男は、そんなことはなにも知らなかった。パパダキスはぜんぶの書類にサインし、小切手をわたし、翌日、新しい保険証書が彼のところに郵送されてきた。わかるかね。保険代理店は、あちこちの保険会社の代理をしている。この保険証書も、みんな、おなじ保険会社のものというわけではないんだ。それが、まずだいいちに、サケットが見のがしていたこと。しかし、だいじなのは、パパダキスは新しい保険に加入しただけではない。古い保険もあり、その期限が、まだ一週間あった。
いいかね、こんなことだ。≪太平洋諸州損害保険≫の個人傷害保険が一万ドル。≪カリフォルニア保証≫の古い責任保険が一万ドル、≪ロッキー・マウンテン信用≫の古い責任保険が一万ドル。これが、わたしのさいしょの切り札だ。サケットには、一万ドルの保険金ぶんの仕事をしてくれる保険会社がついている。ところが、わたしには、必要ならば、二万ドルぶんの力をかしてくれる保険会社があるんだ。わかるかね?」
「わかりません」
「ほら、サケットはきみのいちばんいいカードを盗んだ。わたしも、おなじカードをサケットから盗ってやったのさ。きみは事故でケガをしたんだろ? ひどいケガをした。サケットがあの女を殺人罪にするならば、きみは、その殺人によってうけた傷害にたいして、彼女をうったえる。陪審員もきみの要求をきくだろう。すると、二つの保険会社は、陪審員の決定にしたがって、責任保険の全額を支払う義務がある」
「それで、わかりました」
「けっこう、チェンバーズ、けっこう。わたしはそのカードが自分の手にあるのを知った。だが、きみにはわからなかった。サケットにもね。太平洋諸州損害保険もそうだ。サケットのゲームをたすけるのにいそがしく、また、ぜったい勝つと信じてたので、そんなことは考えもしなかったんだよ」
カッツは、なん度か、部屋のなかをあるきまわり、部屋の隅のちいさな鏡の前にくるたびに、ほれぼれと自分の姿をみつめ、そしてあるきだした。
「ま、そういうことだ。つぎは、それをどういうふうにやるかということでね。ともかく、すばやくやらなきゃいかん。サケットがもう手をうってるからだ。あの女が、いつ、ほんとのことを自白するかわからない。罪状認否のときでも、きみが彼女に不利な証言をしたとたん、それはとびだしてくるかもしれん。ともかく、ことはいそがなきゃいけない。で、わたしはどうしたか? 太平洋諸州損害保険の男が証言し、犯罪がおこなわれたことを確信するという証言が記録にのせられるまで待って、というのは、あとで、偽証罪で見せかけの逮捕を請求するときのためだが……バン、わたしはあの女の有罪を認めた。これで、罪状認否の法廷はおしまい。ともかく、ひと晩は、サケットの攻撃をかわすことができる。それから、いそいで、あの女を弁護人控室にやり、昨夜、留置される前に、三十分ほどの面会時間が欲しいと要求し、きみも、あの部屋にやり、彼女といっしょにさせた。五分間もいっしょにいれば、もうじゅうぶんだったな。わたしがあの部屋にいったときは、もう、彼女はしゃべる気持だった。それで、ケネディをやったんだ」
「昨夜《ゆうべ》、おれの部屋にいた刑事?」
「ケネディは前は刑事だったが、警察をやめた。今は、わたしの調査をやってくれている。あの女は刑事に自供してるとおもったんだろうが、実際は、替え玉にしゃべってたんだ。しかし、効き目はあった。胸のなかのものを、すっかり吐きだしてしまうと、きょうまで、だまっててくれたからね。つぎはきみだ。きみは逃げだす、とわたしはおもった。きみはなにも起訴されてない。だから、たとえ、きみ自身は逮捕されてるとおもっても、事実はちがう。きみがそれに気がついたら、バンソーコーをべたべたはられていようが、背中が痛かろうが、病院の入院規則があろうが、なにも、きみをひきとめておくことはできまい。だから、ケネディに、女がしゃべったことをタイプさせたあと、きみから目をはなさないようにしといたんだ。つぎにやったことは、太平洋諸州損害保険とカリフォルニア保証とロッキー・マウンテン信用との、深夜のちょっとした会議さ。わたしが、みんなに説明すると、三社ともいやにてっとりばやく、手をうったよ」
「手をうったって、どういうこと?」
「まず、わたしは法文を読んでやった。カリフォルニア交通法一四一条の第三の四の項、同乗者傷害についての法文さ。それによると、車の同乗者が傷をおった場合には、保険金の支払いをうける権利はない。ただし、運転者の飲酒の結果とか、または故意の運転ミスによる傷害の場合は、保険金の支払いをうける。ほらね、きみは同乗者だ。そして、わたしはあの女の殺人ならびにきみへの傷害にたいする有罪をみとめた。つまり、故意の運転ミスは、うんとあったはずだろ、え? 保険会社としては、はっきりわからんわけだよ。もしかしたら、あの女がひとりでやったことかもしれんけどね。それで、同乗者のきみのために保険金をとられることになって、クサってた責任保険の両社が、それぞれ五千ドルずつ、太平洋諸州損害保険にわたし、みんな、だまってることにした。ぜんぶがおわるのに、三十分もかからなかったよ」
カッツは言葉をきり、ニヤニヤわらいがもっとひろがっていった。
「それから?」
「今でも、おもってるんだ。太平洋諸州損害保険の男が、きょう、証人台にいき、彼の調査によると、犯罪がおこなわれたことはないと確信し、会社はパパダキスの傷害保険を全額支払う、と証言したときのサケットの顔が、今でも目に見えるようだ。チェンバーズ、どんな気持かわかるかね。ボクシングで言うならば、フェイントをかけておいて、きれいにパンチをきめる。相手の顎のどまんなかに。世の中で、こんなに気分のいいことはないよ」
「まだ、わからない。保険会社の男が、どうして、また証言したんです?」
「あの女は、きょう、判決をうけることになっていた。被告が有罪を認めたあと、法廷では、実際にどういう事件だったかを知るために、ふつう、関係者の証言をもとめるものなんだ。判決をきめるためにさ。ともかく、サケットは血をもとめて、吠えたてだした。死刑にしたいんだ。サケットって男は、ほんとに血に飢えたやつだからね。しばり首にするのが世の中をよくすることだ、と、本気でおもってるんだよ。だから、サケットを相手にするときは、ほんとに、あぶなっかしいバクチをやるようなもんだ。そんなわけで、サケットは保険会社の男を、また証人台に立たせた。ただ、その男は、もう、やつのクソ味方ではなく、真夜中のちいさな会合のあとは、こちらのクソ味方になっていたっていうだけさ。しかし、サケットはそれを知らなかった。そいつがわかったときには、やつはうるさくわめきたてた。だけど、もうおそすぎる。保険会社が、あの女の罪ではないと認めてるのに、陪審員が、いやちがうと言うかね? もう、こうなれば、まちがっても、あの女を有罪にはできない。そこで、わたしは、サケットをカッカ熱くしてやった。立ちあがって、裁判長に一席ぶったんだ。ゆっくり、時間をとってね。依頼人は、さいしょから無実をうったえていた。しかし、それが信じられなかったこと。わたしが見たところでは、どんな法廷でも有罪になるだけの不利な証拠があり、だから、有罪をみとめ、情状酌量をもとめるのが、被告にとって、わたしのとるべき、最上の方法ではないかとおもった。ねえ、チェンバーズ、この|しかた《ヽヽヽ》を、わたしが、どんな気持で、舌をころがし、発音したか、わかるかね。しかし、ただ今の証言によりまして、有罪をみとめたことを取り消し、公判をつづけられんことを……。サケットはどうにもならない。まだ、罪状認否の八日間の期限内だからね。サケットも、もうダメだ、とわかったんだね。過失致死の申立てに同意した。裁判長はほかの証人の証言もきき、彼女に執行猶予六ヵ月の判決を言い渡した。それも、なんだかすまなそうにね。これで、きみにたいする傷害容疑もとりさげになった。これが、すべての鍵だったんだが、もうちょっとで忘れてしまいそうだったよ」
そのとき、ドアのノックの音がして、ケネディがコーラをつれてくると、カッツの前に書類をおき、部屋をでていった。「ほら、これ、チェンバーズ。これにサインしたまえ。きみがうけたいかなる傷害にたいしても賠償請求権を放棄するという書類だ。これのために、連中はおとなしく手をうってくれたんだからね」
おれはサインした。
「うちにつれてかえってほしい、コーラ?」
「ちょっと。ちょっと待った、ふたりとも。そう、いそがないでくれ。もうひとつ、ちいさなことがある。きみたちふたりでギリシア人をぶっ殺してとった一万ドルの保険金だ」
コーラはおれを見た。おれもコーラを見た。カッツはデスクにすわって、小切手に目をやっている。「このカッツに、いくらか金がはいらなきゃ、完璧な手とは言えないよ。そのことをはなすのを忘れていた。いや、いや、よかろう。欲はかくまい。ふつうなら、こういう金はみんな、わたしがいただくことになっている。しかし、この件にかぎり、半額にしておこう。ミセズ・パパダキス、五千ドルの小切手をきってください。こちらのほうは、あなたの名義にし、銀行にいき、あなたの預金にいれておく。ほら、これ、ここに無記名の小切手がある」
コーラは椅子に腰をおろし、ペンをとりあげて、小切手に書きこもうとしたが、やめた。どういうことなのか、さっぱりわからないみたいなのだ。とつぜん、カッツはコーラのところにいくと、小切手をとって、やぶいた。
「まあ、いい。一生に一度のことじゃないか。さ、みんな、あなたのものだ。一万ドルなんて、どうでもいい。一万ドルの値打のものをもってるからね。これがほしかったんだ」
カッツは紙入れをひらき、紙きれをとりだして、おれたちに見せた。サケットの百ドルの小切手だった。「これを現金にするとおもうかい? とんでもない。額にいれて、わたしのデスクの真上にかざっておくよ」
十二
そのビルをでると、おれたちはタクシーをひろった。おれは、まだあちこち痛かったからだ。さいしょに、おれたちは銀行により、小切手を口座にいれ、花屋によって、大きな花輪を二つ買い、ギリシア人の葬式にいった。たった二日前までは、ギリシア人は生きていて、それが今、土のなかに埋められようとしているというのは、おかしな気分だった。葬式をやってるのは、ギリシア正教のちいさな教会で、たくさんの人がきていた。そのうちのギリシア人のいくらかは、前に、ときどき、店であった連中だ。おれたちが教会にはいっていっても、みんなぶすっとした顔で、コーラは未亡人なのに、前から三列目にすわらされた。みんな、じろじろ、こっちを見ている。あとで、あらっぽいことを、この連中がやりだしたら、どうしたらいいだろう? この連中はギリシア人の友人で、おれたちの友人じゃない。しかし、間もなく、午後版の新聞が、みんなのあいだにまわってきた。これには、コーラが無実だという大きな見出しがでており、信者の幹事がそれを見ると、かけよってきて、おれたちを、いちばん前の列のベンチにうつした。葬式の説教をするやつは、ギリシア人の死にかたについて、はじめは、汚いことをしゃべってたが、ひとりの男が説教壇にいってささやき、ちょうどそのとき、ベンチの前のほうにまわってきていた新聞をゆびさし、説教をするやつは、はなしをかえて、すっかりやりなおし、きたないことなんかは言わずに、悲しみにくれる未亡人や友人たちといった説教になり、みんなも、それでホーケー、とうなずいていた。墓がある教会の裏庭にいくときは、二人の男がコーラの腕をとって、たすけてやり、おれにも、二人の男がたすけてくれた。ギリシア人の遺体を土のなかにおろすときには、おれも、つい泣きだした。葬式のときの讃美歌をうたうと、いつも涙がでるものだ。とくに、好きなやつの葬式のときには……。おれがギリシア人が好きだった。最後に、ギリシア人が百ぺんぐらいうたうのをきいた讃美歌をうたい、これで、おれはとどめをさされたようなものだった。おれにできたのは、|しきたり《ヽヽヽヽ》どおりに、なんとか花輪をおくことだけだった。
タクシーの運転手が、週十五ドルでフォードを貸す男を見つけてくれ、おれたちはそのフォードにのって、出かけた。コーラがハンドルをにぎり、街をでると、建てかけてる家の前をとおりすぎた。ずっと、おれたちは、近頃は、そんなにたくさん、こちらのほうにうつってくる人はいないが、いろんな事情がよくなりしだい、このあたりは、すっかり家がたてこんでくるだろう、というようなはなしをしていた。店につくと、おれは車からおり、コーラは車をガレージにいれ、おれたちはなかにはいった。あの日、出かけたときのままだ。ワインを飲んだグラスも流しにはいったまま、ギリシア人のギターもそのままだった。あのとき、ギリシア人は酔っぱらっていて、ギターをしまわなかったのだ。コーラはギターをケースにいれ、グラスを洗い、二階にいった。ちょっとたって、おれも二階にいった。
コーラは夫婦の寝室にいた。窓ぎわに腰をおろし、前の道を見ている。
「どう?」
コーラはなにも言わず、おれは部屋をでかかった。
「部屋をでていって、とは言ってないわ」
おれはまた腰をおろした。だいぶたってから、コーラは噛みついてきた。
「わたしを裏切ったわね、フランク?」
「いや、裏切ってない。地方検事のサケットにやられたんだ、コーラ。やつがつくった告訴状にサインしなきゃならなくなった。もし、サインしなかったら、なにもかも、やつにわかってしまう。おれは、おまえを裏切ったんじゃない。検事に調子をあわせただけだ。自分の立場がはっきりわかるまでね」
「いいえ、あんたはわたしを裏切った。目の色にでてたわ」
「わかったよ、コーラ。おれは怖くなったんだ。それだけさ。あんなものにサインなんかしたくなかった。がんばったんだ。でも、やられちまった。検事に負けたのさ」
「わかってるわ」
「ひどいもんだったよ」
「そして、わたしもあんたを裏切った、フランク」
「やつらに、そうさせられたんだ。おまえだって、そんなことはしたくなかった。やつらのワナさ」
「ううん、わたしはその気だったわ。あのときは、あんたを憎んでたもの」
「かまわない。もののはずみみたいなもんだ。おれは、ほんとに、おまえを裏切ったわけじゃない。今になれば、どんなことだったか、わかるだろ?」
「ううん、わたし、あんたがげんにやったことが、憎かったわ」
「おれは、おまえを憎んだりしたことはないよ、コーラ。ただ、自分がいやになっただけだ」
「でも、今は、あんたを憎んでなんかいない。あのサケットが憎いわ。それにカッツも。どうして、わたしたちをほっといてくれなかったのかしら? なぜ、わたしたちいっしょに、たたかわせてくれなかったのよ。もし、それで、ね、わかるでしょ、なにかになっても、わたしはかまわなかった。だって、わたしたちの愛が得られるんだもの。わたしたちのあいだには、愛だけしかなかったんだし……。それが、あの連中がきたないことをはじめたとたん、あんたはわたしを裏切った」
「おまえもおれを裏切ったんだよ。忘れないように」
「それがいちばんいやなことなの。わたしもあんたを裏切った。おたがい裏切ったのよ」
「じゃ、|おあいこ《ヽヽヽヽ》だ。そうだろ?」
「そう、おあいこね。でも、今のわたしたちを見てごらんなさい。あのとき、わたしたちは山の上にいた。あんなに高いところにいたのよ、フランク。あの夜、わたしたちは、あそこで、すべてのものをもっていた。あんなふうに感じられるなんて、おもいもしなかったわ。わたしたちはキスし、どんなことがおきようが、その愛が永遠に続くように封印した。世界じゅうの、どんな男女だって、わたしたち以上のものをもってるカップルはいなかった。それが、どう、おっこってしまった。さいしょに、あんた。そして、このわたし。たしかに、おあいこだわ。いっしょに、おっこってしまったんだもの。わたしたちは、もう、あんな高いところにはいない。わたしたちの美しい山は、どこかにいってしまった」
「それがどうした? こうして、いっしょにいるんじゃないか」
「まあね。でも、わたし昨夜《ゆうべ》、いろんなことを考えたの、フランク。あんたとわたしのこと、わたしがスターになるのを夢みていた映画界。それに失敗したこと。安レストラン、あてのない旅、どうして、あんたがそんな旅が好きなのか。わたしたちは、ただのチンピラなのよ。フランク。ただ、あの夜は、神さまがわたしたちの眉にキスしてくださったんだわ。そして、男と女がもち得るものすべてをあたえてくれた。でも、わたしたちは、そんなものをあたえられて、もっていられるような男と女じゃなかった。あんなにすばらしい愛を得て、わたしたちは、それに負けてしまった。空をよこぎり、山頂にまっすぐはこんでいく大きな飛行機のエンジンみたいなものだわ。でも、それをフォードにとりつけたら、車体がばらばらになってしまう。わたしたちがそうなのよ、フランク。二台のフォード。神さまが、天で、わたしたちをわらってるわ」
「神さまなんか、どうだっていい。おれたちだって、神をわらってるぜ。そうだろ? 神は、おれたちに、止レの赤信号をおったてた。しかし、おれたちはかまわず、いっちまった。それから、どうした? おれたちは、ずいぶんあぶないこともやってのけたじゃないか。そりゃひどいもんだった。しかし、ふたりとも自由の身になり、あぶないことをしたおかげで、一万ドルの金も手にはいった。たしかに神はおれたちの眉にキスしてくれたよ。もっとも、それから悪魔がきて、おれたちといっしょにベッドにいった。でもね。コーラ、悪魔はすやすやよくお寝んねしているよ」
「そんなふうに言わないで、フランク」
「一万ドルの金がはいっただろ。そうじゃないのかい?」
「あの一万ドルのことは考えたくないわ。一万ドルと言えば大金だけど、わたしたちの山は買えない」
「山がなんだ。山のほかに、その山頂につみあげる一万ドルがある。高いところにいきたいのなら、山頂のその札束の上から、まわりを見まわしてみろ」
「バカねえ。自分自身の姿が見えないの。頭にホータイをまいて、わめきたてて……」
「忘れてることがあるぜ。なにかでお祝いをしなくちゃ。前に、おまえは、人の目なんか気にせずに、おもいっきり酔っぱらったような気持になりたいと言ったけど、まだ、それをやってないもんな」
「酔っ払いは、酔っぱらいさ。この前のこしといた酒はどこにある?」
おれは自分の部屋にいき、酒をとってきた。バーボン・ウイスキーの大壜で、まだ四分の三ははいっている。おれは階下《した》におりて、コカコーラのグラスと氷、ミネラル・ウォーターをもち、階上《うえ》にあがった。コーラは帽子をとり、髪を長くふりほどいていた。おれはふたりの飲物をつくった。ミネラル・ウォーターをすこしに、氷を二つばかり、でも、あとはストレイトのバーボンだ。
「飲めよ。気分がよくなる。サケットがおれを追いつめたときに、そう言いやがった、あんちくしょう」
「まあ、強いわ」
「強いさ。おまえ、あんまり着すぎてるよ」
おれはコーラをベッドのほうにおしやった。コーラはグラスをもってたが、いくらかこぼれた。「かまうもんか。壜のなかには、まだうんとある」
おれはコーラのブラウスを脱がしにかかった。「みんな、ひっちゃぶいて、フランク。あの夜のように、みんな、ひっちゃぶいて」
おれは、コーラが着てるものをみんなとった。コーラはからだをよじらせ、くねらせ、それもゆっくりやった。着てるものを剥ぎとりやすいように。そして、コーラは目をとじ、枕に頭をのせた。髪が蛇状のカールをえがいて肩までながれる。瞳は欲情にすっかりくろずみ、乳房はたれさがったりせず、ぴんとおれのほうに立っている。だが、やわらかく、乳暈が二つの大きなピンクの斑点に見えた。世界じゅうの淫売の大おばあちゃんみたいだ。その夜は、悪魔が、かせいだ金だけのぶんはたのしんだ。
十三
そんなふうにして、半年たった。ずっと、そんなふうで、いつもおなじことだった。ケンカをし、おれは酒壜に手をだした。なんでケンカをしたかは、おぼえていない。コーラの六ヵ月の執行猶予のあいだは、ここを出ていくことはできない。しかし、半年たったら、おれは、どうしても逃げだすつもりでいた。コーラには言わなかったが、おれは彼女をサケットの手がとどかないところにつれていきたかった。コーラがなにかのことでおれに頭にきて、罪状認否のあとのあのときみたいに、なにもかもしゃべってしまうのが心配だったのだ。おれは、ほんのちょっとも、コーラを信用していなかった。はじめのうちは、コーラは、すごく、遠くにいきたがった。とくに、おれがハワイや南太平洋の島々のことをはなすと、そうだった。ところが、金がはいってきだした。葬式から約一週間後に、おれたちは店をあけ、コーラがどんな女かを見に、たくさん客がやってきた。そして、その連中は、また店にくるようになった。店が気にいったからだ。そんなわけで、コーラは、金をもうけるいいチャンスだ、と、すっかりのぼせあがってしまった。
「フランク、このあたりのハイウエイの店は、みんなしようがないわ。だって、このあたりの店は、カンザスかどこかで百姓をやってた人たちの店で、ブタを飼うぐらいのことしか、お客のもてなしはできないんだもの。たとえば、わたしみたいに、ちゃんとこのビジネスを心得てる者が、お客によくしてあげようと努力してごらんなさい。お客はどんどんきて、友だちもつれてくるわ」
「客がなんだい。どっちみち、ここは売らなきゃ」
「お店がもうかってれば、売りやすいわ」
「もう、もうけてるじゃないか」
「もっと、ちゃんともうけるのよ。ねえ、フランク。わたしいいアイデアがあるの。木の下でお食事ができたら、お客さんはよろこぶんじゃないかしら。考えてもごらんなさいよ。カリフォルニアのこのいい気候なのに、いったい、なにをやってるの? お客を店のなかにいれ、その店のなかときたら、アクメ・ランチルーム用品社のレディメードの椅子やテーブルしかない。まったくひどくて、吐き気がするわ。おまけに、フレスノからメキシコ国境まで、まるっきりおなじ、まずいものを食べさせてる。ほんとに、お客にいい気分でお食事をさせようなんて気は、ぜんぜんないんだから」
「ねえ、おれたちは、ここを売るんだろ? だったら、売るものがすくないほど、はやく売れる。そりゃ、客は木の下で食事するほうが好きだろう。カリフォルニアのバーベキュー・レストランのウエイターかウエイトレス以外なら、みんな、それはわかってる。だけど、客に木の下で食事をさせるとなると、テーブルもおかなきゃいけないし、ライトもたくさんつけなきゃいけない。そのほか、いろいろあるだろう。しかし、ここを買おうって者は、そんな物は、ぜんぜんほしがらないかもしれない」
「六ヵ月は、ここにいなきゃいけないのよ。好きでもきらいでも」
「だったら、その六ヵ月で、買手をさがそう」
「わたしは、やってみたいわ」
「いいよ。じゃ、やってごらん。しかし、注意しとくけどね」
「お店のなかのテーブルも、いくらか使えるわ」
「やってみろ、と言っただろ。さ、飲もう」
大ゲンカをしたのは、店でビールをだす許可をとることだった。そして、コーラがほんとはどんなつもりでいるのか、おれは気がついた。コーラは、ちいさな壇をつくって、木の下にテーブルをならべ、その上にストライプのはいった天幕をはり、夜は灯をともして、なかなかすてきだった。コーラの言ったとおりだ。客たちは、車にのって、また出かけるまで、三十分ほど、木の下のテーブルにいて、ラジオのミュージックをきくのをたのしんでいた。そこに、ビールをだす許可をとることが、むしかえされてきた。コーラは、それはそのままにして、ビールをだし、ビアガーデンとよぶことにしようと言うのだ。
「ビアガーデンなんかいらない。言っとくけどね。おれがほしいのは、ここをみんな買ってくれ、現金をはらってくれる男だ」
「でも、そんなの恥よ」
「おれは、そうおもわないけどな」
「ねえ、フランク。お店でビールをだす許可料は、半年でたったの十二ドルなのよ。十二ドルぐらい、わたしたちだって払えるんじゃない?」
「そんな許可をとったら、ビール屋もやることになる。おれたちは、もう、ガソリンスタンドもホットドッグ屋もやっている。おまけに、こんどはビール屋だ。じょうだんじゃない。おれは、ここからぬけだしたいんだ。逆に深みにはまっちゃ、たまらないよ」
「どこでも、ビールをだす許可はとってるわ」
「かってにとりゃいいさ」
「お客さんはうちにきたがってるのよ。木の下の席もちゃんとできたっていうのに、許可をとってないので、ビールはありません、とお客さんに言うの?」
「なんだって、客になにか言わなきゃいけないんだい?」
「ただ、コイルをつけさえすればいいのよ。そしたら生ビールがだせるわ。壜詰めよりいいし、お金にもなるでしょ。このあいだ、ロサンゼルスで、きれいなグラスを見たの。背の高い、いいグラス。みんな、あんなグラスでビールを飲むのが好きなんだわ」
「ふうん、コイルとグラスがいるのか。言っとくけど、おれはビアガーデンなんかいらない」
「フランク、あんた、ひとかどの人になりたいとおもったことはないの?」
「これだけは、よくきいとけよ。おれは、ここから出ていきたいんだ。どこかよそにいきたい。まわりを見まわすたびに、ギリシア人のユーレイがとびかかってくるのが目につかないところにね。そして、夢のなかで、あの山彦がきこえ、ラジオからギターの音がながれるたびに、とびあがったりしないですむところに。おれはよそにいきたいんだ。きいてるのか? ここから出ていかなきゃ、おれは気がへんになっちまう」
「あんたはウソをついてるわ」
「いいや、ウソなんか言ってない。これほどしんけんなことは、はじめてだ」
「あんたは、ギリシア人のユーレイなんか見てやしないわ。そんなんじゃないのよ。ほかの者ならユーレイも見るかもしれない。でも、ミスター・フランク・チェンバーズがユーレイなんか見るもんですか。あんたが、もともと流れ者のルンペンだから、どこかにいきたいのよ。ただ、それだけだわ。ここにやってきたときも、あんたは流れ者だった。そして、今でも流れ者のルンペンよ。わたしたちどこかにいって、お金がみんななくなったら、それから、どうするの?」
「知るもんか。どっちみち、おれたち、ここをでるんだろ、ね?」
「ほら、あんたはどうでもいいのよ。わたしたち、ずっと、ここにいることができるんだし……」
「わかってた。それがおまえの本心なんだ。前から、そう考えてたんだな。ここにずっといる、と」
「なぜ、いけないの? わたしたち、ちゃんとやっていってるじゃないの。ここにいても、わるくないでしょ。ねえ、フランク。あんたはわたしを知ったときから、自分とおなじ流れ者のルンペンにわたしをしようとしてるけど、それはだめよ。言っとくけど、わたしは流れ者のルンペンじゃないわ。わたし、ひとかどの人物になりたいの。わたしたちはここにいます。どこにもいきません。ビールをだす許可もとるわ。わたしたち、ちゃんとしたことがやれるのよ」
もう夜おそく、おれたちは、はんぶん着てるものも脱いで、二階にいた。コーラは罪状認否のあとのあのときのように、部屋のなかをあるきまわり、やはりあのときとおなじように、へんにひっかかるしゃべりかたをした。
「わかった、ここにいよう。なんでも、おまえの言うとおりにするさ、コーラ。さ、飲みな」
「飲みたくないわ」
「いやいや、飲まなきゃ。金がはいってくるんだから、もっと陽気にわらわないとね」
「もう、そのことではわらったでしょ」
「だけど、もっと金がはいってくるんだろ。ビアガーデンでさ。ビアガーデンのために、それがうまくいくように、もう二杯ぐらいは乾杯しなきゃ」
「バカねえ。いいわ、ビアガーデンがうまくいくように……」
週のうち二、三回は、そんなことだった。その結果は、いつも、おれは二日酔で、崖をおちていく夢を見、耳もとで、ギリシア人の頭蓋骨がくだける音がした。
執行猶予がおわった直後に、コーラの母が病気だという電報がきた。コーラは、いそいで衣類をバッグにつめ、おれはコーラを列車にのせ、駅前の駐車場にもどってきたが、へんな気分だった。自分が気体にでもなって、ふわふわ、どこかに漂っていってるみたいなのだ。おれは解放感を味わった。ともかく一週間は、あの悪夢とあらそったり、たたかったりすることも、酒の力をかりて、ひとりの女をなだめすかして、ごきげんをとることもない。
駐車場では、若い女が車のエンジンをかけようとしていた。ところが、ぜんぜんダメなのだ。若い女は、あちこちふんづけていたが、まるっきりエンジンは死んだままだった。
「どうした? エンジンがかからないのかい?」
「駐車したときに、イグニションをいれっぱなしにしといたものだから、バッテリーがあがってしまったの」
「そりゃ、きみの手にはおえないな、バッテリーを充電してもらわなきゃ」
「でも、うちにかえらないといけないの」
「送ってあげるよ」
「あなた、すごく親切なのね」
「世界じゅうで、いちばん親切な男さ」
「だって、わたしの家がどこかも知らないんじゃないの」
「かまわない」
「かなり遠いわよ。田舎なの」
「遠いほうがいい。たとえどこでも、ぼくの家にかえる途中だ」
「そんなふうに言われると、気だてのいい女性はことわれなくなるわ」
「そんなにことわりにくいのなら、ことわらなければ?」
あかるい色の髪で、歳は、おれよりもちょっとおおいくらいか、顔つきもわるくない。だが、おれが気にいったのは、親しみぶかい態度と、まるで、おれがちいさな男の子かなんかみたいに、おれがひどいことでもしないかと心配してるようなところが、ぜんぜんないことだった。世間のことを、ちゃんと心得てる女だ。それは、はっきりしていた。しかし、決定的になったのは、この若い女が、おれのことを知らないのがわかったときだった。車ではしりながら、おたがいの名前を言ったが、女は、おれの名前をきいても、どうってことはなかったのだ。ほんと、こんなに、ほっとしたことはない。テーブルにすわったとたん、ギリシア人が殺されたってことになってたあの事件の真相をはなしてくれ、とだれもかれも言いやがる。おれは、この若い女の顔を見て、列車を見送り、駐車場のほうにあるいてきたときとおなじ気持になった。まるで、なにかの気体になって、ふわふわ、ハンドルのうしろから漂いでるような……。
「ふうん、きみの名前はマッジ・アレンか……」
「ほんとはクラマーだけど、夫が死んだあと、自分で旧姓にもどしたの」
「ねえ、マッジ・アレンだかクラマーだか、なんでもいいけど、ちょっと相談があるんだけどな」
「どんなこと?」
「この車のむかってるさきをかえて、南のほうにむけ、ふたりで、一週間ばかり、小旅行をしないか?」
「あら、だめよ」
「どうして?」
「だめなの、それだけ」
「きみ、おれが好き?」
「ええ、好きよ」
「おれも、きみが好きだ。いいじゃないか、いっしょに旅行したって……」
マッジはなにか言いかけたが、やめて、わらった。「白状するとね、あなたといっしょにいきたいの。世のなかには、あれこれ、やっちゃいけないことがあるみたいだけど、そんなことは、わたしはどうでもいいわ。でも、いけないのよ。猫がいるから……」
「猫?」
「うちには、たくさん猫がいるの。そして、猫の世話をしてるのは、わたしなのよ。だから、今も、いそいで、うちにかえらなきゃいけないし」
「だって、ペット・ホテルがあるだろ。ペット・ホテルに電話して、ひきとりにきてくれってたのんだら?」
それは、マッジには、おかしかったらしい。「うちの猫にあったときのペット・ホテルの人の顔が見たいわ。そんな猫じゃないの」
「猫は猫だろ?」
ううん、ちがうわ。猫にも、大きいのもいれば、ちいさいのもいる。ペット・ホテルでも、うちで飼ってるライオンは、こまるんじゃないかしら。虎もね。それから、ピューマ、三匹のジャガーがいちばんあつかいにくいわ。ジャガーってすごい猫よ」
「こりゃ、おどろいた。そんな猛獣を飼ってて、どうするんだい?」
「映画の撮影に貸したり、仔が生まれたら、売るし、私設の動物園をもってる人も、あんがいいるのよ。うちで飼ってるだけでもいいの。それで、お客がよべるから」
「うちの店じゃ、そんなもので、客はよべないな」
「うちはレストランをやってるのよ。お客さんが見て、よろこんでるわ」
「レストラン! うちもそうなんだ。アメリカじゅうどこでも、みんな、おたがい、ホットドッグの売りっこをして、食っていってるみたいだな」
「そんなわけで、猫をおいていけないのよ。食べさせなきゃならないし」
「平気だよ。ゴーベルってやつに電話して、猫ちゃんたちをあずかってもらおう。あいつなら、おれたちがいないあいだ、百ドルで、ぜんぶを飼ってくれるだろう」
「わたしと旅にでるのが、百ドルの値打ちがあるとおもってるの?」
「ああ、百ドルたっぷりね」
「まあ。そんなに言われたら、ことわれないわ。そのゴーベルに電話してよ」
おれは、マッジを彼女の家の前でおろし、公衆電話があったので、ゴーベルに電話して、うちにかえり、戸じまりをした。そして、マッジをつれにもどった。そろそろ、くらくなるころだ。ゴーベルはマッジのところにトラックをやっていた。だから、途中で、縞やら斑点やらのでっかい猫たちをいっぱいのっけたゴーベルのトラックとすれちがった。マッジの家から百ヤードむこうの道ばたに車をとめていると、ちょっとして、マッジがちいさなバッグをもってやってきた。で、マッジを車にのせ、おれたちはスタートした。
「うれしい?」
「すごく、うれしい」
おれたちはカリエンテにいき、翌日、そのまま、南にむかって、エンセナダにいった。太平洋岸を七十マイルほどさがった、ちいさなメキシコ人の町だ。おれたちは、そこのちいさなホテルに泊り、三、四日すごした。ここはいいところだ。エンセナダはまるっきりメキシコ風で、合衆国を百万マイルもはなれたような気分になる。おれたちの部屋は、表のほうにバルコニーがあり、午後は、マッジとおれはバルコニーでよこになり、海をながめながら、時がすぎるままにしていた。
「猫ねえ。猫をどうするんだ? 芸でも仕込むのかい?」
「うちにいるような猫たちはしようがないわ。だめなのよ。とくに、虎は無法者《アウトロー》でね。ま、調教はするけどさ」
「調教するのは、好き?」
「ううん、大きい猫は、そんなでもないわ。でも、ピューマは好きよ。いつか、ピューマをあつめて、ショーをするつもりなの。だけど、そうなると、たくさんピューマがいるわね。野生ジャングル・ピューマが……。動物園にいるみたいなアウトローでないピューマ」
「アウトローって?」
「人を殺すようなやつよ」
「みんなそうだろ?」
「まあね。でもアウトローは、とくにそうだわ。人間で言えば、きちがいみたいなものよ。檻《おり》のなかにとじこめられてるから、そうなるんだわ。あんたが見たあの猫たちは、見たところは猫だけど、じつは、きちがい猫なのよ」
「野生のジャングルの猫だと、どうしてわかる?」
「だって、ジャングルでつかまえるんだもの」
「生きてるのをつかまえるのかい?」
「あたりまえよ。死んでちゃ、しようがないわ」
「へえ! どうやってつかまえるんだ?」
「そうね、まず、船にのって、ニカラグアにいく。ほんとにいいピューマは、みんなニカラグアからくるのよ。カリフォルニアやメキシコのピューマは、ニカラグアのピューマにくらべたら、雑種みたいなものだわ。ニカラグアについたら、インデアンの男たちをやとって、山にいくのよ。そして、ピューマをつかまえ、うちにもってかえる。でも、こんどは、ニカラグアにしばらくいて、ピューマを調教するつもりよ。ニカラグアの山羊の肉のほうが、カリフォルニアの馬肉より安いもの」
「なんだか、今すぐにでも、ニカラグアにいくようじゃないか」
「そのつもりよ」
マッジは口のなかに、ワインをちょっぴりながしこみ、じっと、おれをみつめた。ここのワインは壜にほそい吸口がついていて、その吸口から、口のなかにワインをながしこむのだ。こうすると、ワインがひやっこく感ずる。マッジは、二、三度、そうやって、ワインを飲み、そのたびに、おれをみつめた。
「あんたもいくなら、わたしいくわ」
「おいおい、そんなのをつかまえに、おれもきみといっしょに、ニカラグアなんかにいくとおもってるのかい?」
「フランク、わたし、かなりのお金をもってきてるの。ゴーベルに、あの気ちがい猫たちのめんどうをみてもらい、あんたの車をいくらでもいいから売って、猫狩りにいきましょうよ」
「のった」
「いくの?」
「いつ出発する?」
「明日、ここをでて、パナマのバルボアにいく貨物船があるの。そこから、ゴーベルに電報をうてばいいわ。車は、このホテルにのこしとくの。そして、売ってもらって、そのお金をおくってもらうのよ。メキシコ人のひとついいところね。やることはのろいけど、正直だわ」
「オーケー」
「まあ、うれしい」
「おれもうれしいよ。ホットドッグやビール、両側にチーズをのっけたアップルパイなんかには、ほんとにうんざりしてたんだ。あんなものは、みんな川のなかにおっぽりこんじまえ」
「すごく気にいるわよ、フランク。山のなかで家をかりるの。涼しいし……。そして、ピューマに芸を仕込んでショーの用意ができたら、それをもって、世界じゅうをまわるのよ。どこでも、好きなところにいって、好きなことをして、それに、つかうお金はたんとある。あんた、すこしはジプシーの血があるの?」
「ジプシー? おれは生まれたときに、耳にイアリングをぶらさげてたよ」
その夜は、おれはよく眠れなかった。あかるくなりかかったころ、おれは目をひらき、そして、すっかり目がさめてしまった。そのとき気がついたんだが、ニカラグアはそんなに遠いところじゃない。
十四
列車からおりてきたコーラは黒いドレスを着ており、そのため背が高く見えた。帽子も黒く、靴もストッキングも黒で、車にトランクをはこびこんでもらってるあいだ、コーラは、ふだんのコーラみたいではなかった。おれたちは車をスタートさせたが、三、四マイルのあいだは、どちらも、あまり口はきかなかった。
「おかあさんがなくなったことを、なぜ知らせてくれなかったんだ?」
「あんたに心配かけたくなかったの。それに、わたし、やることがうんとあって……」
「おれ、今、すごくわるい気がしてるんだ」
「どうして?」
「きみがいないあいだに、旅行したんだよ。フリスコ(サンフランシスコ)にいった」
「それが、なぜ、わるい気がするの?」
「わからない。きみはアイオワにかえり、おかあさんが死にかけたり、いろんなことがあったというのに、おれは、フリスコでいいごきげんで遊んでたんだからね」
「わるい気がすることなんかないわ。あんたが旅行にいってよかったとおもってるの。気がついてたら、出かける前に、旅行にいくように言ったわ」
「商売のほうも、いくらかひびいてるよ。店をしめたからね」
「いいの。とりかえすわ」
「きみがいなくなってから、なんだか落ち着かなくてさ」
「かまわないったら」
「つらかったろ、え?」
「とてもたのしかったとは言えないわ。でも、ともかく、おわったんだし……」
「うちについたら、一杯飲ませてやるよ。うまいやつを、きみのおみやげにもってきたんだ」
「わたし、ほしくないわ」
「元気がでるぜ」
「わたし、もう飲まないの」
「飲まない?」
「あとで説明するわ。長いはなしなの」
「アイオワでいろいろあったようだね」
「べつに、なにもなかったわ。ただ、お葬式だけ。でも、あんたにはなすことがうんとあるの。これからは、わたしたち、もっとちゃんとやっていきましょうよ」
「おいおい、それ、どういうことなんだい?」
「今はだめ。フリスコであんたの家族のひとたちにあった?」
「なんのために?」
「フリスコではたのしかった?」
「まあまあだね。ひとりでたのしむのはタカがしれてるが、ま、たのしかった」
「すごくたのしんだんじゃない? でも、あんたの口から言ってくれて、うれしいわ」
うちにつくと、表に車があり、そのなかに男がいた。男は、へんにものやわらかにニヤつき、車からおりてきた。カッツ弁護士の事務所にいたケネディだ。
「おれをおぼえてる?」
「ああ、おぼえてる。はいれよ」
おれたちはケネディをうちのなかにいれ、コーラがおれを調理場にひっぱりこんだ。
「よくないわ、フランク」
「よくないって?」
「わからない。でも、わるい予感がするの」
「ま、おれがはなしてみるよ」
おれはケネディのところにもどり、コーラがビールをもってきて、テーブルをはなれると、さっそくきりだした。
「まだ、カッツの事務所にいるのかい?」
「いや、やめた。ちょいとケンカして、やめちまった」
「今は、なにもやってるんだ?」
「なにもやってない。じつは、そのことであいにきたんだ。前にも、二度ばかりここにきたんだが、だれもいなくてね。しかし、こんどは、おたくがかえってきてるときいたんで、待ってたんだ」
「なにか、おれにできることがあったら、言ってくれよ」
「すこし金をもらえないかとおもってさ」
「なんでも、おのぞみどおり。もちろん、そんなに持ちあわせはないけどね。五十ドルか六十ドルでよかったら、さしあげるぜ」
「もっと、もらえないかな」
ケネディは、まだあの、へんにものやわらかな笑顔のままだった。けん制のフェイントや、ジャブをくりだすのはやめて、もうそろそろ、やつの本音をさぐるときのようだ。
「はっきり言えよ、ケネディ。なんだ?」
「うん、はなそう。おれはカッツの事務所をやめた。あの書類、おれがミセズ・パパダキスの供述をタイプした書類は、あの事務所の綴込《ファイル》のなかにある。それで、おたくたちの友だちのよしみというか、だって、あんなものがあっちゃ、おたくたちはこまるだろ、で、おれはあの書類をもちだしてきた。おたくたちがあの書類をとりもどしたがるかもしれないとおもってさ」
「彼女が自白したつもりだった、麻薬中毒《ヤクチュウ》の夢みたいなことの書類」
「そう。もちろん、あんなこと事実には関係ないとおもうけど、おたくたちが、手もとにひきとりたいんじゃないかと考えてね」
「で、それに、いくらほしい?」
「じゃ、いくら払う?」
「さあ、わからない。あんたが言うように、事実には関係ないことだからさ。でも、百ドルぐらいなら、出してもいいな。うん、百ドルなら出そう」
「もっと値打があるとおもうけどなあ」
「へえ」
「おれは二万五千ドルとふんでいた」
「気はたしかか?」
「うん、気はたしかだ。おたくたちはカッツから保険の金を一万ドルうけとった。この店も商売になってるようだ。五千ドルぐらいはもうけたんじゃないかな。そして、この土地と建物。これで、一万ドルは、銀行からひきだせるだろう。パパダキスはここを買うのに、一万四千ドル払っている。だから、それで一万ドル。足すと二万五千ドルだ」
「あんな書類をタネに、おれを丸裸にしようっていうのか?」
「それだけのことはあるぜ」
おれはうごかなかった。しかし、おれの目のなかでキラッとひかるものがあったんだろう。ケネディはポケットから自動拳銃《オートマチック》をとりだすと、おれにねらいをつけた。「おかしな真似をするなよ、チェンバーズ。だいいち、おれは、今、あの書類はもってない。だい二に、おかしなことをしたら、こいつを、ぶっくらわせてやる」
「なにもするつもりはないよ」
「ああ、やるな」
ケネディは拳銃の銃口をおれにつきつけ、おれはケネディをみつめていた。
「やられたようだな」
「ようだな、じゃないね。やられちまってるよ」
「だけど、計算がおおすぎるぜ」
「どんどんしゃべれ、チェンバーズ」
「カッツ弁護士からは、たしかに一万ドルうけとった。店のもうけも五千ドルはあった。だけど、この二週間ばかりのあいだに、千ドルはつかった。彼女はおふくろさんを埋めにいき、おれも旅をした。だから、店をしめてたんだよ」
「うん、つづけろ」
「それから、この土地と建物を抵当に一万ドルというのはむりだよ。こんな不景気じゃ、五千ドルにもいくまい。せいぜい、四千ドルってとこかな」
「それで?」
「といったところで、一万ドルに四千ドルと四千ドル。一万八千ドルだな」
ケネディは拳銃の銃身をニヤつきながら見おろしていたが、立ちあがった。「よし、一万八千ドル。金の用意ができてるかどうか、明日、電話する。金がそろってたら、どうするか、言うよ。もし、金ができてなかったら、あの書類はサケット地方検事のところにいく」
「きびしいな。でも、やられたんじゃ、しようがない」
「明日の十二時に電話する。それまでには、銀行にいって、かえってこれるはずだ」
「オーケー」
ケネディは入口のドアのほうにさがっていった。まだ、拳銃をおれにつきつけている。午後ももうおそく、暗くなりはじめたころだった。おれはすごくペションとなったみたいに、壁によりかかって立っていた。そして、ケネディのからだがはんぶんドアからでたとき、おれは表のネオンサインのスイッチをいれ、やつは目がくらんだ。ケネディはくるっとふりかえり、おれはぶんなぐった。やつはたおれ、おれはその上にのしかかった。やつの手から拳銃をねじりとり、食堂のほうになげて、また、パンチをくらわせる。それから、食堂のなかにひきずりこみ、けとばして、ドアをしめた。コーラが立っていた。食堂と調理場とのドアのところにいて、ずっと、おれたちのはなしをきいていたのだ。
「拳銃をとれ」
コーラは床から拳銃をひろいあげ、そこに立っていた。おれはケネディをひきずりたたせ、テーブルにほうりなげ、からだを反らさせた。そうしておいて、おれはぶんなぐった。やつが気をうしなうと、おれはグラスに水をいれてきて、ぶっかけた。やつが気がつくと、また、ぶんなぐる。やつの顔は生肉みたいになり、フットボールの試合の最後のクォーター選手みたいに、わけのわからないことをうめき、おれはぶったたくのをやめた。
「白状しろ、ケネディ。電話で仲間にはなせ」
「仲間はいないよ。チェンバーズ。ほんと、あれのことを知ってるのは、おれだけで……」
おれはケネディをぶんなぐった。おたがい、また、はじめからやりなおしだ。やつは仲間なんかいない、と言い張り、おれはやつにアームロックをかけて、体重をのせ、ぐっと力をいれた。
「ああ、いいぜ、ケネディ。仲間がいないなら、腕をへし折ってやる」
おれがおもったより、ケネディはよくがんばった。ありったけの力でやつの腕をねじまげ、ほんとに折れちまうんじゃないかとおもうまで、やつはがまんしたのだ。タフな七面鳥の第二関節を折ろうとしたことがある者なら、野郎の腕をハンマーロックで折るのがどんなにたいへんかわかるかもしれない。しかし、急に、ケネディは電話する、と言いだした。おれはやつの腕をはなし、電話で仲間にしゃべることをおしえた。そして、調理場の電話のところにつれていき、食堂のほうの切り替え電話を、調理場とのあいだのスイング・ドアごしにひっぱってきた。やつを見張りながら、やつと仲間が電話で言うことをきくためだ。コーラも拳銃をもち、いっしょに調理場にきた。
「おれが合図したら、あいつにぶっくらわせろ」
コーラはからだをうしろにそらし、口もとに、すごいうす笑いがちらついていた。おれがぶんなぐったりしたよりなによりも、ケネディはコーラのこのうす笑いがこわかったのではないか。
「ぶっくらわせてやるわ」
ケネディは電話し、相手の男が電話にでた。
「ウイリーかい?」
「パット?」
「おれだ。よくきいてろよ。すべて、段取りはついた。あれをもって、いつ、ここにこれる?」
「明日。そういうはなしだったろ?」
「今夜はだめかい?」
「銀行の貸金庫にはいってる物を、銀行がしまってるとき、どうやってだしてくるんだよ?」
「よし。じゃ、こうしてくれ、明日の朝、銀行があいたらすぐ、あれをとって、ここにもってくるんだ。おれはやつのところにいる」
「|やつ《ヽヽ》のところ?」
「な、ちゃんと頭にいれとけよ、ウイリー。やつは、もうどうにもならんことがわかってる。だけど、もってるゼニを、みんなおれたちにくれちまうのを、女に知られたら、とあいつは心配してるんだ。女は、そんな金をださせやしない。な、わかるだろ? やつがここをでていくと、なにかある、と女はおもう。そして、いいしょにいく、なんて言いだすかもしれん。だから、みんな、ここでやろうってわけなんだよ。おれは、ここのモーテルにひと晩泊ってるただの客だってことで、女はなんにも知らない。明日、おたくは、おれの友だちとして、ここにくるんだ。そして、すべて、うまくやろう」
「やつがそこを出ないんなら、どうやって金をとってくるんだ?」
「それはうまくやってある」
「でも、なんだって、今夜、そんなところに泊るんだよ」
「それには、わけがある。女に知られたらまずい、とやつが言うのが、ゴマカシかもしれん、そうでないかもしれん。だけど、おれがここにいれば、やつも女も逃げだせんだろ、な」
「あんたがしゃべってること、やつはきいてるのかい?」
ケネディはおれのほうに目をやり、おれは、イエス、とうなずいた。「ああ、ここにいるよ。おなじ電話ボックスのなかにね。やつにもきかせときたいんだ。わかるか、ウイリー。これは遊びごとじゃないってことを、やつにおもいしらせるためにな」
「しかし、へんなやりかただなあ、パット」
「な、ウイリー、やつがウソをついてるか、ついてないか、おたくにもわからんし、おれにもわからん、だれにもわからん。でも、やつはホントのことを言ってるのかもしれん。おれは、やつを信用することにしたんだ。相手が金をだすって言うんだから、ガタガタさわがずに、そのとおりにしたらいいじゃないか、え? ま、そういうことだ。おれの言うとおりにしてくれ。そして、明日の朝さっそく、ここに、れいのやつをもってくるんだ。なるべくはやくだよ、わかった? 一日じゅう、おれがこんなところにいて、いったいなにをしてるんだろう、と女があやしみだすと、マズいからさ」
「オーケー」
ケネディは電話をきった。おれはやつのそばにいき、一発、パンチをくらわせた。「これは、あいつが、電話をかけもどしてきたら、今みたいに、ちゃんと、おまえがしゃべるようにだ、ケネディ」
「わかった」
なん分か待ってると、やがて、ウイリーのほうから電話をかけてきた。おれが電話にでて、ケネディが受話器をとり、前とおなじことを、またしゃべった。そして、今はひとりだ、と言った。ウイリーは気にいらないようだったが、言うとおりにするよりしかたがないみたいだ。それから、おれはケネディをモーテルの一号室につれていった。コーラもいっしょにきた。ケネディを部屋のなかにいれると、おれはコーラと外にでて、キスした。
「ピンチになったときでも、うまくやっていけるためのキスだ。これは、頭にいれといてくれ。おれは、ほんのちょっとも、あの男のそばをはなれないでいる。朝まで、あいつとここにいるつもりだ。また、電話がかかってくるだろう。そしたら、あいつを電話にだして、しゃべらせる。店はあけといたほうがいいな。ビアガーデンをね。しかし、食堂のなかに客をいれちゃいけない。あいつの仲間が様子をさぐりにきたときは、すぐ用意ができるようにしとくためだ。ビアガーデンを、いつもみたいにあけておいてさ」
「わかったわ。ねえ、フランク」
「なに?」
「こんど、わたしが小りこうなことをしようとしたら、顎に一発、パンチをくらわせてね」
「どういう意味?」
「わたしたち、こんなところにいちゃいけなかったのよ。今になって、わかったわ」
「あたりまえさ。こういうことになる前にね」
コーラはおれにキスした。「わたし、あんたが、かなり好きみたい」
「うまくいくさ。心配するな」
「へいきよ」
ひと晩じゅう、おれはケネディのそばにいた。食う物はやらず、眠らせもしなかった。三、四回、やつは電話でウイリーとしゃべらなきゃいけなかった。一度は、ウイリーはおれとはなしたがった。だいたい言えることだが、なんとか、うまくいったようだ。そのあいだに、おれはケネディをひっぱたいた。しんどいことだが、れいの書類を、どうしても、ここにもってこさせなければ、とやつにおもいしらせるためだ。やつがタオルで顔の血をふいてるあいだ、ビアガーデンでラジオが鳴り、客たちがわらったり、しゃべったりしてるのがきこえた。
翌朝十時ごろ、コーラがやってきた。「おいでになったらしいわ。三人のようよ」
「こっちにつれてこい」
コーラは拳銃をとりあげて、前から見えないように、ベルトにつっこみ、出ていった。ちょっとすると、なにかがたおれる音がした。ゴリラどものひとりだ。コーラは、ゴリラどもにむきあい、両手をあげさせて、うしろむきにあるかせていた。そうやってるうちに、ゴリラのひとりが歩道のコンクリートに踵《かかと》をぶっつけ、ひっくりかえったのだ。おれはモーテルの部屋のドアをあけた。「旦那がた、こちらへ」
ゴリラたちは両手をあげたまま、部屋にはいり、コーラもそのあとから、なかにきて、おれに拳銃をわたした。「みんな拳銃をもってたけど、食堂でとりあげたの」
「もってきたほうがいい。まだ、仲間がいるかもしれないからね」
コーラは食堂にいき、ちょっとすると、やつらの拳銃をもって、かえってきた。弾倉《クリップ》をぬきとり、おれのよこのベッドの上におく。そして、やつらのポケットをさぐった。すぐ、さがしてる物は見つかった。おかしいのは、れいの書類のほかに、もうひとつ封筒があり、書類を複写した写真がはいってたのだ。ネガが一枚に焼付けた写真が六枚。やつらは、コーラがサインした書類を、金とひきかえに、おれたちにわたしたあとも、この写真で恐喝をつづけるつもりだったのだろう。それならば、やってくるときに、写真までもってこなくてもよさそうなのに、バカなやつらだ。おれは、それらをぜんぶとり、書類もいっしょに、まるめて地面におき、マッチで火をつけた。みんな燃えてしまうと、おれは、その灰を地面の土のなかにふみつぶし、部屋にもどった。
「さてと、お送りするかな。おたくたちの鉄砲はここにおいておくよ」
やつらを車まで行進させ、やつらの車がいってしまったあと、おれはうちのなかにもどったが、コーラはいなかった。裏をのぞいても、いない。それで、二階にあがると、コーラはおれたちの寝室にいた。「おい、やったぜ。ね、やったじゃないか。まったく、うまくいったよ。写真からなにからとりあげたんだからな。やつらが書類の写真をとってないか、心配してたんだよ」
コーラはなにも言わず、その目つきはおかしかった。「どうしたんだ、コーラ?」
「まったく、うまくいったよ、だって? 写真からなにから……、わたしに言わせりゃ、うまくいってませんね。こっちは、百万枚も写真をにぎってるんだからさ。ばっちり、いい写真をね、色男のジミー・デュラントさん。≪そんなものは百万だってあらあ。それで、おれが心を痛めるとでもおもってるのか?≫」〔大きな鼻が有名で、鼻のジミー・デュラントとよばれた喜劇役者。最後のところは、彼がよく言った言葉〕
コーラはふきだし、ベッドにひっくりかえった。
「わかったよ。ただ、おれをやっつけたいために、てめえの首をロープでしめるほど、おまえがバカな女なら、おまえには、証拠の写真みたいなものは百万枚だってあるだろう。ああ、たっぷりとな。百万枚でも」
「ううん、ちがう。じつは、わたしは、とってもビューティフルな立場なのよ。わたし、自分の首をロープでしめたりしなくていいの。弁護士のカッツ先生が言ったでしょ。一度、傷害致死の罪がきまったら、それ以上の罪にはできないの。憲法かなんかでそうなってるらしいわ。だめ、だめ、ミスター・フランク・チェンバーズ。あんたを、空中でダンスさせ、きりきり舞いさせるのには、わたしはなんの苦労もいらないわ。そう、あんたは空中でダンスをするのよ。さあ、ダンス、ダンス、ダンス」
「おまえ、どこかわるいのかい?」
「知らないの。昨夜《ゆうべ》、あんたのお友だちがきたのよ。あんたの友だちは、わたしのことはきいてなくて、昨夜は、ずっとここにいたの」
「なんの友だち?」
「あんたが、いっしょにメキシコにいったガールフレンド。彼女は、そのことを、すっかりはなしてくれたわ。今では、わたしたち、いいお友だちよ。わたしがだれだかわかったあとでは、わたしが彼女を殺すかもしれない、とおもったみたい」
「この一年、おれはメキシコになんかいってないぜ」
「いってるわよ」
コーラは寝室をでていき、おれの部屋にはいっていく音がした。もどってきたコーラは子猫をだいていた。しかし、この子猫は、ふつうの親猫よりも大きかった。グレイの毛なみで斑点がある。コーラは、それを、おれの前のテーブルにおき、そいつは、ミャー、ミャーなきだした。
「あんたがいないあいだに、ピューマが赤ちゃんを生んだんだってさ。あんたのお友だち、これで、わたしをおもいだしてちょうだいって、これをもってきたの」
コーラは壁によりかかり、また、わらいだした。狂ったような、ひどいわらい声だ。
「猫がもどってきたのね! あのとき、ヒューズ・ボックスをふんづけて、死んじまった猫が、こうして、もどってきた。ハ、ハ、ハ、ハ……。まったく、おかしいわ。あんたって、ほんとに猫運がわるいのね」
十五
そして、コーラはすっかり頭がイカれちまったようになり、泣きわめき、それがおさまると、階下《した》におりていった。おれも、すぐ、おりていったが、コーラは大きなボール箱の上の蓋をひきちぎっていた。
「わたしたちのちいさなペットちゃんのお家をつくってやってるの」
「いい子だね」
「わたしが、なにしてるとおもった?」
「べつに……」
「心配しないで、サケット地方検事にしらせるときは、おしえてあげるわ。だから、それまではのんびりしてるのね。そのときになったら、ありったけの気力がいるわよ」
コーラはボール箱のなかに木綿をつめ、その上にウールの布《きれ》をおいた。そして、二階にもってくると、それにピューマの仔をいれた。ピューマの仔は、しばらくないていたが、眠った。おれは階下《した》にいき、コカコーラをだして、飲んだ。だが、コカコーラのなかのアンモニアのにおいがしたかしないうちに、コーラがドアのところにきていた。
「力をつけるために、なにか飲もうとおもってさ」
「いい子ね」
「おれが、なにをしてるとおもった?」
「べつに……」
「心配するな。逃げだす用意ができたときには、おしえるよ。だから、それまでは、のんびりしてるんだな。そのときになったら、ありったけの気力がいるかもしれないぜ」
コーラはへんな目でおれを見ると、二階にあがっていった。その日は、一日じゅう、そんなふうだった。おれは、コーラがサケット地方検事に電話しないか心配で、彼女のあとにくっついてまわり、コーラのほうも、おれが逃げださないか心配で、おれのあとをついてまわってたのだ。そんなことなので、店はぜんぜんあけなかった。コーラもおれも、足音をしのばせて、相手のうしろにくっついてまわってるときのほかは、二階の部屋で腰をおろしていた。だが、おたがい顔は見ず、おれたちはピューマの仔を見ていた。ピューマの仔がなくと、コーラはミルクをとりにいき、おれもくっついていく。ピューマの仔はミルクをなめると、眠る。まだ、ほんとに赤ちゃんで、あまり遊んだりもできないのだ。だから、たいていのときは、ミャー、ミャーなくか、さもないと眠っていた。
その夜は、おれたちは、ひとことも口をきかず、ならんで寝た。おれは眠ったらしい。夢を見たからだ。そして、とつぜん、おれは目がさめた。いや、はっきり目がさめない前に、おれはもう階段をかけおりていた。目がさめたのは、電話のダイヤルをまわす音がしたからだ。コーラは食堂のほうの切り替え電話のところにいた。ちゃんと服を着て、帽子もかぶり、あれこれつめた帽子の箱を、そばの床においている。おれは受話器をもぎとり、たたきつけるように、もとにもどした。そして、コーラの肩をつかむと、食堂とのあいだのスイング・ドアのなかにつっこみ、階段におしあげた。「あがれ! あがれったら! でないと……」
「でないと、なによ?」
電話のベルが鳴り、おれは電話にでた。
「モシモシ、なんだい?」
「イエロー・キャブのタクシー会社です」
「ああ、ああ、イエロー・キャブね。おたくに電話したんだな。でも、気がかわってね。タクシーはいらない」
「オーケー」
二階にあがると、コーラは着てるものを脱いでいた。ベッドにもどり、おれたちは、また、ながいあいだ、ひとことも口をきかず、よこになってたが、コーラがきりだした。
「でないと、なによ?」
「それが、どうしたってんだよ。たとえば、おまえの顎に一発くらわせるとか、なんとかさ」
「そのなんとかのほうじゃないの?」
「なにを言ってるんだ」
「フランク、あんたがやってたことは、わかってるわ。あんたはベッドによこになって、わたしを殺す方法を考えてたのよ」
「おれは眠ってた」
「ウソをつかないで、フランク。わたしはウソつかないから……。わたし、あんたに言うことがあるの」
おれは、じっくり考えた。というのは、コーラが言うとおりのことをしたからだ。おれは、コーラのそばによこになり、彼女を殺す方法はないものか、といっしょうけんめい考えていた。
「ああ、そうだよ。おまえを殺すことを考えてた」
「わかってるわ」
「これで、気分がよくなったかい? おまえはおれをサケット検事につきだすんだろ? それは、おれを殺すのとおんなじじゃないか」
「ええ」
「だったら、|あいこ《ヽヽヽ》だ。また、あいこになった。おれたちのスタートにもどったわけだ」
「そうでもないわ」
「いや、そうさ」おれはすこしヒスぎみになった。しかし、自分をとりもどし、コーラの肩に頭をのっけた。「おれたちは、そういう人間なんだよ。かってに、自分をゴマかすこともできる。金のことで大わらいし、悪魔は、いっしょのベッドに寝るのには、とってもいい相手だなんてさわいだりしてるが、おれたちはどうしようもない人間だ。おれは、あの女とは別れたよ、コーラ。あの女といっしょに、ニカラグアに猫をつかまえにいくはずだったんだがね。いかなかったのは、どっちみち、おれはここにかえってくるとわかったからだ。おれたちは、おたがい、鎖でつながれてるんだよ、コーラ。おれたちは山のテッペンにいるとおもった。だけど、それはちがう。山のほうが、おれたちの上にのしかかってきている。あの夜以来、ずっとそうなのさ」
「ただそのために、ここにかえってきたの?」
「いや、おれたちには、この世は、おまえとおれだけだ。ほかの者はいない。愛してるよ、コーラ。でも、その愛に怖れがまじると、それは、もう愛ではない。憎しみだ」
「じゃ、わたしを憎んでるのね」
「わからない。しかし、生まれてはじめて、おれたち、ほんとのことをしゃべってるみたいだね。憎しみもあるだろうな。そういうことは、自分で知っとかなきゃいけない。おまえとならんでベッドによこになり、おまえを殺すことを考えてたのも、そのためだろうしさ。ね、これではっきりしただろ」
「わたし、あんたにはなすことがある、と言ったでしょ、フランク」
「うん」
「わたし、赤ちゃんができるの」
「え?」
「ここを発《た》つ前から、そうじゃないかとおもってたんだけど、母が死んだすぐあとで、まちがいない、とわかったの」
「しゃべらんでもいい。な、しゃべらんでもいい。こっちにおいで。キスしてくれ」
「だめ、おねがい。そのことで、はなしがあるんだから」
「もう、はなしたじゃないか」
「ちがうのよ。ねえ、よくきいて、フランク。アイオワにいて、お葬式がおわるのを待ってるあいだじゅう、わたし考えてたの。赤ちゃんができるってことが、わたしたちにとって、どういうことなのか、ってね。だって、わたしたち、ひとの命をうばった。そうでしょ? そして、こんどは、命をあたえようとしている」
「そのとおり」
「あれこれ考えて、頭がすっかりこんがらかってしまって……。でも、あの女とのことがあってからは、もう、こんがらかってはいないわ。わたしにはサケット検事になんか電話できない。できないわ。だって、赤ちゃんが生めなくなってしまうもの。赤ちゃんが生れて、わたしがその父親を殺人罪でしばり首にしたとわかってごらんなさい」
「しかし、おまえは、さっき、サケットのところにいくつもりだったんだろ?」
「ううん。ただ、ここから出たかったの」
「サケットにブチまける気がなかったのは、今はなしたことだけのため?」
コーラは、長いあいだ考えてから、こたえた。「ちがう。わたし、あんたを愛してるわ、フランク。それは、あんたも知ってるとおもう。でも、赤ちゃんのことがなければ、もしかしたら、わたしサケットのところにいってたかもしれない。あんたを愛してる、そのために」
「あの女は、おれにとってどうってことはない。なぜ、あんなことをやったか、はなしただろ。おれは、ただじっとしていられなかったんだ」
「わかってるわ。ずっと以前から、わかってる。ギリシア人が入院してるとき、あんたがわたしをつれて逃げようとした気持もわかってた。そして、あんたはお尻のおちつかない流れ者のルンペンだ、とわたし悪口を言ったわね。でも、口ではそういいながら、わたしは、あんたがほんとにそんな男だとはおもってはいなかった。いや、おもってたかもしれないけど、あんたが流れ者で、ふらふらしていたいからだけで、わたしをつれて逃げようとしたんじゃない。ええ、あんたは流れ者のルンペンよ。だから、わたし、あんたを愛してるんだわ。あの女が憎いのはね、あんたがギリシア人の事件のことなんかをはなさなかったというんで、あんたをふっちまったからよ。そんなこと、あの女にはカンケイないじゃない。でも、わたし、あの女のことで、あんたをしばり首にしたかった」
「で?」
「私が考えてることを、はなしたいのよ、フランク。だから、こうして、説明しようとしてるんだけど……。わたし、あんたをしばり首にしたかったけど、サケットのところにはいけなかった。あんたが見張ってたからじゃないわ。家からとびだして、サケットのところにいくこともできた。そのわけは、今も言ったでしょ。それから、ふっと、悪魔から解き放されたのよ、フランク。もう、ぜったいに、サケットなんかに電話はしないわ。だって、わたしには電話するチャンスも理由もあったけど、わたしは電話しなかったんだもの。わたしから、悪魔ははなれたわ。だけど、あんたからもはなれたかしら?」
「おまえからはなれたんなら、おれだって、これ以上、悪魔とつき合ってることはあるまい」
「わからないわよ。チャンスがくるまでは、わからない。わたしがにぎったようないいチャンスがくるまでは……」
「いっちゃったよ、悪魔は」
「あんたがわたしを殺す方法を考えてるあいだ、わたしもおなじことを考えてたわ。どうやって、わたしを殺すかよ。泳ぎにいって、殺せばいいわ。ねえ、このあいだみたいに、泳ぎにいきましょう。そして、わたしが生きてかえってほしくなかったら、そうするのよ。だれにもわからないわ。ビーチでは、よくあることですもの。明日の朝、海にいきましょう」
「明日の朝、おれたちがやることは、結婚だ」
「あんたが結婚したければ、結婚してもいいわ。でも、うちにかえってくる前に、泳ぎにいくの」
「泳ぐのなんか、どうでもいい。さ、キスしてくれ」
「明日の夜、わたしが生きてかえってきてれば、キスしてあげるわ。すてきなキスをね、フランク。酔っぱらってするキスみたいなんじゃなく、夢のあるキス。死ではなく、生命《いのち》のキス」
「約束だよ」
おれたちは、市役所で結婚の手続きをすませ、ビーチにいった。コーラはとってもきれいで、おれは砂浜でふざけていたかったが、コーラは顔にちいさなほほえみをうかべ、ちょっとすると、立ちあがって、波打際にいった。
「沖にいくわ」
コーラは沖にすすみ、おれはあとから泳いだ。コーラは、どんどん泳ぎ、この前のときよりも、うんと沖にでた。そして、泳ぐのをやめたので、おれは追いついた。おれのよこで、コーラは、くるっとからだをまわし、おれの手をとった。おれたちは、おたがい、みつめあった。悪魔がさり、おれが愛してることを、コーラもはっきり知ったにちがいない。
「波に足を浮かせてるのが好きなわけを、前に言ったかしら?」
「いや」
「波にゆりあげられると、乳房《おちち》ももちあげられたようになるの」
大きな波がおれたちのからだをせりあげ、コーラは片手を乳房にあて、波が乳房をもちあげたようになってるのを見せた。「すてきだわ。大きいでしょ、フランク」
「それは、今夜言うよ」
「大きく感じるの。そのことは、あんたにははなさなかったけど、これから、新しい生命をつくるのがわかってたからだけじゃないの。赤ちゃんがお腹《なか》のなかにいるこの感じなのよ。乳房《おちち》がこんなに大きく感じる。この乳房《おちち》にキスしてほしいの。もうすぐ、このお腹も大きくなるわ。すてきでしょうね。大きくなったお腹を、みんなに見てもらいたい。生命よ。生命を、わたしのなかに感じることができる。わたしたちのための新しい生命よ、フランク」
おれたちは岸のほうにもどりだし、その途中、おれはもぐった。九フィート、波の下だ。水の圧力で、九フィートぐらいだとわかる。それに、たいていのプールは九フィートで、そのていどの深さだ。おれは足をそろえて水をうち、もっと深くもぐった。耳にぐりぐり水の圧力を感じ、鼓膜がぱちんとはじけるかとおもった。だが、まだ浮びあがらなくていい。肺をおしつける水圧で、酸素が血液のなかにはいり、なん秒かは息をすることを考えなくてすむからだ。おれは青い海の水をみた。耳ががんがんし、背中にも胸にも水圧がかかって、おれのなかのあらゆる悪魔じみたもの、卑劣さ、だらしなさ、そして、おれのこれまでの人生のやくざなことが、からだからおしだされ、あらいながされるようだった。コーラといっしょに、きれいな人生をスタートするのだ。コーラの言うとおりにして、新しい人生をおくろう。
浮びあがると、コーラが咳をしていた。
「よくある、ちょっとしたからだの変調よ」
「だいじょうぶ?」
「だとおもうわ。急にからだがおかしくなって、そのうち、ひょいとなおっちまうやつ」
「水を飲んだ?」
「ううん」
おれたちはすこしすすみ、コーラは泳ぐのをやめた。「フランク、お腹《なか》がおかしいわ」
「さ、おれにつかまって」
「ああ、フランク。わたし、からだに力をいれすぎたのかもしれない。顔を水から上にあげておこうとして……。塩水を飲みこまないようにね」
「むりするな」
「ひどいことでしょうね。流産した女《ひと》のはなしをきいたの。からだに力をいれすぎてたために……」
「むりするなったら。ただ、水に浮いてろ。泳ごうとしちゃいけない。おれがひっぱっていってやる」
「ビーチの監視員をよんだほうがよかない?」
「とんでもない。監視員はおまえの足をひっぱって、あげたりさげたりするにきまってる。さ、じっと、水のなかで寝てろ。監視員なんかより、おれのほうが、もっとはやく岸にいける」
コーラは波によこになり、おれは彼女の水着のストラップをつかんで、ひっぱった。おれはヘバってきだした。ふつうなら、一マイルでも、コーラをひっぱっていける。だが、おれは、はやくコーラを病院につれていかなきゃ、と、ずっと、そのことで頭がいっぱいで、あせったのだ。水のなかであせると、からだがしずむ。だけど、やがて、足が底につき、おれはコーラを腕にだくと、うちよせる波のあいだを岸にいそいだ。
「うごいちゃいけない。おれにまかしとけ」
コーラを抱き、おれたちがセーターを脱いでたところにいそぎ、コーラを下におろす。そして、おれのセーターから車のキイをとり、両方のセーターでコーラのからだをつつみ、おれはコーラを車にはこんだ。車は道のよこにとめてあった。浜からその道へ、コーラを抱いてあがらなくちゃいけない。おれの足はつかれきっており、かたっぽうずつ、やっともちあげるようなありさまだったが、コーラのからだはおとさなかった。おれは、コーラを車にのせ、スタートして、道路をぶっとばしだした。
おれたちはサンタモニカのさき二マイルばかりのところに泳ぎにいったことがあり、そこに病院があった。おれは、でかいトラックに追いついた。そのトラックの尻には、「クラクションを鳴らしてください」「道をおゆずりします」と書いてあった。おれは、やたらにクラクションをおした。だけど、トラックはとおりのまんなかにがんばっている。トラックの左をとおりぬけるわけにはいかなかった。むこうからくる車が列になってつづいているからだ。おれは右により、アクセルをふんづけた。コーラが悲鳴をあげた。そのとき、はじめて、おれは暗渠の壁に気がついた。衝突、そして、すべてはまっくらになった。
気がついたときには、おれは、ハンドルのよこに、背中を車の前のほうにむけてはさまれていた。おれは、おそろしい物音にうめきだした。それはトタン屋根にあたる雨のおとみたいだったが、そうではなかった。ボンネットにながれおちるコーラの血の音だったのだ。コーラのからだは、車のフロントグラスをつきやぶり、ボンネットの上にころがりでていた。あちこちでクラクションがなり、人びとが車からとびおりて、コーラのほうにかけよってくる。おれはコーラのからだをおこし、血をとめようとし、そうしながら、泣きわめき、コーラにキスした。だけど、いくらキスしても、コーラはなにも感じなかった。死んでたのだ。
十六
このことで、おれはどうにもならないハメになった。こんどは、カッツ弁護士は、おれがもってる金をみんな弁護料にとった。カッツのおかげの保険金一万ドルに、店のもうけ、それから不動産を担保にして借りた金だ。カッツは、おれのため、できるだけのことをしてくれたが、さいしょから、負けが見えてるようなものだった。サケット地方検事は、おれのことを、ひとに危害をくわえる前に処分しなきゃいけなかった狂犬だ、と言った。サケットは、すっかりわかってるつもりだった。おれとコーラで、金のため、ギリシア人を殺し、そして、その金をひとりじめにしようと、おれはコーラを殺した。おれとあの女とのメキシコ旅行をコーラが知ったために、それが、ちょいと早めになっただけだ。サケットは、解剖結果の報告書をもちだした。それによると、コーラは妊娠しており、それも殺人の動機の一部だという。サケットはマッジも証人席にたたせ、マッジは、おれとのメキシコ旅行について証言した。いきたくなかったが、ひっぱっていかれたのだそうだ。サケットはピューマまで法廷につれてきた。ピューマの仔は大きくなっていたが、ちゃんと飼ってもらってないので、毛なみもきたなく、病気みたいで、いやな声で吠え、サケットにかみつこうとした。まったく、見ていてもひどいもので、これだって、ほんと、おれにたいする印象としては、まるっきりよくない。だが、決定的だったのは、コーラが電話をかけてタクシーをよぶ前に、朝になって、おれが読むように、レジのなかにいれ、そして忘れてしまっていた書置きだった。おれは、この書置きはみていない。泳ぎにいくまで、店はあけてはいないし、おれは、レジのなかなんかのぞいてもみなかった。この世に、これほどすばらしい書置きはないだろう。おれたちがギリシア人を殺したことが書いてあり、こいつが効いた。このことで、法廷では、三日間にわたり論戦がつづけられ、カッツは、このロサンゼルス郡のあらゆる法令判例をひきだしてたたかったが、陪審はこれをみとめ、ということは、おれとコーラのギリシア人殺しを、すべてみとめることになった。これで、おれがコーラを殺した動機がはっきりした、とサケットは言う。そのことと、もともと、おれが狂犬みたいな男だからだそうだ。カッツはおれを証人席にも立たせなかった。おれが証人席に立っても、いったい、なにを言うのだ? おれはコーラを殺してなんかいない。コーラといっしょにギリシア人を殺し、さんざん苦労して、やっと、ことがおさまったのに、なんで、おれがコーラを殺さなきゃいけないのか。そんな証言をしたら、まったくすてきなことだっただろう。陪審員たちは、五分間別室で評議しただけだった。裁判長は、ほかの狂犬にあたえるのとおなじ考慮をおれにもすると言った。
というわけで、今、おれは死刑囚の監房におり、これの最後の部分を書いている。マコネル神父にこれに目をとおしてもらい、句読点とかなんとか、あちこち、手をいれたほうがいいところをおしえてもらうためだ。もし、死刑の執行が猶予されれば、神父はこれを保管しておき、あとのなりゆきを見まもる。減刑のときは、神父はこれを焼いてしまうから、おれが言ったことからでは、ほんとに、なにかの殺人がおこなわれたのかどうかは、だれにもわからない。しかし、おれが死刑になったら、神父はこれをもって、出版してくれるところをさがす。でも、刑の執行の猶予はあるまい。また、減刑もないだろう。おれにはわかってる。おれは、けっして、自分をだましたりはしない。しかし、こんなところにいると、どうしても、たすかるように祈る。祈らないではいられないからだ。おれは、なにも自白していない。これも、望みをかけるタネのひとつだ。自白しないで、しばり首になった者はない、と言ったやつがいた。わからない。マコネル神父が裏切らないかぎり、おれの口からは、なにもききだすことはできない。だから、刑の執行が猶予になることもあるかもしれない。
だんだん、頭がぼんやりしてくる。おれは、コーラのことを考えていた。おれがコーラを殺したんじゃないことを、コーラは知っていただろうか。海のなかで、おれたちがはなしたことから、おれがコーラを殺したりするはずがないことは、わかるはずだ。しかし、殺人をオモチャにしてると、おそろしいワナがある。車がぶつかったとき、結局は、おれはコーラを殺したのだという考えが、彼女の頭のなかをはしりぬけたのではないか。だから、おれは、この世のあとに、新しいあの世がほしいんだ。マコネル神父は、あの世はあると言う。あの世で、コーラにあいたい。おれたちがはなしあったことにはウソはなく、そのとおりで、おれが殺したんではないのを、コーラに知ってもらいたい。コーラについて、おれをそんなおもいにさせたのは、いったい彼女のなにだったのだろう? わからない。コーラはなにかを望み、それを得ようと努力した。その努力のしかたは、みんなまちがってたが、ともかく、コーラは努力した。どうして、コーラはおれにたいしても、あんなふうにおもっていたのだろう。おれという男がわかってたはずなのに……。なんども、コーラは、おれのことを、どこもいいところはない男、と言った。おれは、この世で、ほんとにほしかったものなんて、なにもない。ただ、コーラだけだ。しかし、これは、ずいぶんたくさんのことかもしれない。女だって、この世で、たったひとつ、相手の男だけをほしがるということは、あまりあるまい。
兄弟を殺したやつが第七房にいる。そいつは、ほんとは、自分は兄弟は殺してない、潜在意識がやったんだと言う。それは、どういうことか、とおれはたずね、やつは、人間にはふたつ自分があって、ひとつは自分でも知ってる自分だが、自分が知らない自分もある。意識下にかくれているからだ、とこたえた。実際には、おれはコーラを殺していて、自分では知らないでいるのではないか? おいおい、冗談じゃない。そんなことは信じられない。おれはコーラを殺してはいない。おれはコーラをすごく愛してた。そう、コーラのためなら、死んだってかまわなかった。潜在意識なんか、くそくらえ! おれは信じない。そんなことは、この野郎が裁判官をだますために考えだした大デタラメだ。だれだって、自分のやってることはわかっていて、やっている。おれはコーラは殺してない。それは、知ってる。もし、またコーラにあえるなら、このことも、コーラにははなすつもりだ。
頭がすごくぼんやりしている。食い物のなかに麻酔薬かなんかをいれたんだろう。死刑のことを考えないようにだ。おれも考えまいとした。そして、考えないでいられたときには、いつも、おれはコーラといっしょだった。コーラとおれの上には空がひろがり、まわりには水があって、おれたちは、これからどんなにたのしい日々をおくり、そして、それが永遠につづくことかをはなしあっている。どこか大きな河で、おれはコーラといっしょにいるようだ。こんなとき、それは、ほんとに現実のようにおもえる。マコネル神父がいろいろはなしてくれたようなものではない、新しい人生だ。コーラといっしょだと、おれは、その人生を信じる。だけど、それがどんな人生かなんて考えはじめると、すべてがくずれてしまう。
刑の執行猶予なし。
おれを死刑にする連中がやってきた。マコネル神父は、祈れば心のたすけになると言った。みんなもここまで読んできたのなら、ひとつ、おれのために祈ってくれ。そして、コーラのためにも。おれとコーラをいっしょにしてくれるように、たとえ、それがどこでも……。(完)
あとがき
EQMM(エラリー・クイーンズ・ミステリ・マガジン)日本版のごく初期のころ、ジェームズ・M・ケインの「冷蔵庫の中の赤ん坊」という短編を訳したのが、ぼくのさいしょの翻訳だった。
ぼくが尊敬する推理作家の都筑道夫さんがEQMMの編集長になって間もないころで、大先輩の翻訳家の中村能三さんにつれられて、神田多町の早川書房にいったぼくに、都筑道夫さんは、海外のミステリ作家では、どんな作家が好きですか、とたずね、ぼくは、だいぶぐずぐずしたあと、「……ジェームズ・M・ケイン」とこたえた。そんなに、ぼくは海外のミステリ作家のことは知らないし、また、好きな作家、と名前をだしてこたえるのも、恥ずかしかったのだ。
ところが、都筑道夫さんは、ほう、というように、しずかにうなずいて、ケインの「冷蔵庫の中の赤ん坊」を選んでくれた。都筑さんの、この|ほう《ヽヽ》という、うなずきかたは、今でもかわらないが、考えてみると、都筑さんも、もちろん結婚もしていないし、あのころは若かった。
EQMMでのつぎの翻訳も、都筑さんは、ジェームズ・M・ケインの短編を選んでくれ、これは、アメリカのどこかの田舎の凍った川の橋の下に、生首がごろんところがってるみたいなストーリーだった。
こうして、都筑さんのおかげで、ジェームズ・M・ケインの短編を訳していくうちに、ぼくは、ジェームズ・M・ケインが好き、といったけど、ほんとに、ぼくはケインが好きなんだなあ、とおもいだした。
ある作者の作品を翻訳するのは、丹念に読むことでもあり、それだけでなく、翻訳してるあいだ、おセンチな言いかただが、その作品といっしょにくらしてるようなぐあいでもある。
翻訳しながら、J・M・ケインの作品を、ますます、ぼくが好きになったのは、まず、みじかく跳ねるような、その書きっぷりとリズムが気にいったためのようだ。文章にパッションもある。
ふつう、パッションがあると、熱っぽく、ねばりつくような書きかたになるようだが、J・M・ケインの場合は、パッションが、みじかく、ピンピン跳ねて、つぎからつぎにうごいていく。
しかし、やはり、パッションの熱っぽさがあふれ、いっぺんにとび跳ねたり、また跳ねかえったり、この小説でも、翻訳しにくいところもおおかった。このパッションに追いつくためには、やはり、こちらもパッションをもって読み、翻訳をしなければなるまい。また、そうでなくちゃ、おもしろくない。
講談社文庫にはいってるぼくの翻訳、ジョン・オハラ原作の「親友《パル》・ジョーイ」もダシル・ハメットの「血の収穫」も、ずっと前から訳したいとおもっていた小説で、翻訳してるあいだは、その作品といっしょにくらしてるようなぐあいだなどと、ぼくはおセンチな言いかたをしたが、惚れていっしょになったが、やはり、いっしょになって(翻訳をして)よかった、という気持だった。あきっぽいぼくとしては、めずらしいことだ。
ついでだが、イタリアの有名な映画監督ルキーノ・ヴィスコンテイは、「家族の肖像」そして「イノセント」と、評判の高い作品をのこしてなくなったが、ヴィスコンテイの第一回監督作品は、このJ・M・ケインの「郵便配達はいつも二度ベルを鳴らす」を原作にした映画(一九四二年)だった。この映画が、I・P(インターナショナル・プロモーション)社によって輸入、封切されるそうで、映画好きのぼくは、評判だけはきいていた、ヴィスコンテイ監督の第一回監督作品が見られるのを、たのしみにしている。
これを翻訳するのにも、落語家の柳家小さん太さんの女房になってしまったポーラや、この本のカバーを描いてくれたダン・ビリングスなどに、いろいろ教えていただいた。なんとか翻訳できて、ほんとに、ありがとう。
◆郵便配達はいつも二度ベルを鳴らす◆
J・M・ケイン作/田中小実昌訳
二〇〇三年十二月十日 Ver1