グリム童話(下)
グリム兄弟編/塚越敏訳
目 次
ブレーメンの音楽隊
三つの言葉
奥さま狐のご婚礼
ズルタンじいさん
六羽の白鳥
いばら姫
白雪姫
金の鳥
金のがちょう
ヨリンデとヨリンゲル
命の水
鉄のハンス
雪白とばら紅《べに》
泉のそばのがちょう番
池にすむ水の精
マレーン姫
解説
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ブレーメンの音楽隊
ある男が、ろばを一匹|飼《か》っていました。ろばは、もうなん年もなん年も、根気よく粉ぶくろを水車小屋に運んでいたのです。ところが、さすがにもう力もつきてしまって、仕事の役にも立たなくなりました。
そこで主人は、もう餌《えさ》をやるのはよそう、と考えました。ところが、ろばのほうも、風向きの悪くなったことに気づいて、そこから逃げ出し、ブレーメンに向かっていきました。あそこにいったら、町の音楽師になれるかもしれない、と思ったからです。
しばらくいくと、猟犬《りょうけん》が一匹、往来に寝ていました。猟犬は、走りまわってへとへとに疲れたようすで、口をあけて、はあはあいっていました。そこで、ろばはたずねました。
「パックリくん、どうしたの、そんなにはあはあいってさ?」
「ああ、わしも、年をとってしまってな、からだも日ましにきかなくなるばかり。それに、猟にいっても、もう駆《か》け出すわけにもいかず、それでわしの主人ときたら、わしをぶち殺そうとしたのさ。そんなわけで、わしは逃げ出してきたんだ。だけどね、このさき、いったいどうやって食べいったらいいものやら?」
すると、ろばが言いました。
「ねえ、どんなもんだろうね。ぼくはブレーメンにいって、あそこで音楽師になるんだ。ぼくといっしょにいって、きみも楽隊に入れてもらいなさいよ。ぼくは弦楽器《リュート》をひくから、きみは太鼓をたたくんだな」
それには犬も満足して、二匹そろって歩いていきました。
しばらくいくと、猫が道ばたにすわりこんで、長雨つづきのような陰気な顔をしていました。
「ひげそうじのお年寄り、面白くないことでもあったのかね?」
と、ろばが話しかけると、
「生命《いのち》にかかわる一大事《いちだいじ》だというのに、誰が愉快にしていられるかね。年もとってさ、歯ももうだめになっちまうしね。もうねずみを追いかけまわすより、ストーブのうしろにうずくまって、ごろごろのどを鳴らしているほうがいいのさ。だから、おかみさんときたらおれを水のなかにつけて、おぼれさせようとしたもんだ。やっとこ逃げてきたものの、さてどうしたらいいものか、途方にくれているわけさ。いったいどこにいったらいいものかね?」と、猫が言いました。
「ぼくらといっしょに、ブレーメンにいこうよ。きみはセレナーデが得意じゃないか。だから町の音楽師になれるぜ、きみは」
ろばがそう言うと、猫もそれはいいことだと思って、いっしょについていきました。
こうして、この三匹の逃亡組《とうぼうぐみ》が、一軒の農家のそばを通っていくと、今度は、おんどりが一羽、門の上にとまって、声をかぎりに叫んでいました。
「きみの鳴き声は、骨身《ほねみ》にしみるぜ。いったいどうしたのだね?」
と、ろばがたずねると、おんどりは、こう答えるのでした。
「聖母マリアが、洗濯した幼児《おさなご》キリストの肌着を干《ほ》す日というから、お天気はいいよ、と予言してやっているのにさ。明日の日曜にはお客がくるとかで、おかみときたら、情《なさ》け容赦もあるもんか、このおれをスープに入れて食べたいと、料理女《りょうりばん》に言ってるんだよ。今晩じゅうに、おれの首ははねられるというわけさ。それでだ、まだできるうちはと、声をふりしぼって叫んでいるというわけさ」
「おやおや、なんちゅうこったい。赤あたまくん。ぼくたちといっしょにずらかって、ブレーメンにいこうよ。死ぬくらいなら、もっとましなことが、どこにいったって見つかるものさ。きみは、いい声をしているし、ぼくたちといっしょに歌ったら、さぞかしすばらしいことだろう」
おんどりも、この申し出にしたがって、四匹そろって出かけていきました。
けれども、ブレーメンには、一日でいくことはできません。夕方になったので、森のなかに入って、そこで夜を明かすことにしたのです。
ろばと犬は、大きな木の根もとで寝ることにしました。猫とおんどりは、大きな枝のなかに入りこみましたが、おんどりのほうはいちばん安全な木のてっぺんに飛んでいきました。
おんどりは、寝るまえにもう一度、四方《あたり》を見まわしました。すると、遠くのほうに小さな火がちらちらと燃えているように思えたのです。そこでおんどりは、仲間のものたちに呼びかけました。
「そんなに遠くないところに、家が一軒あるらしいぞ、あかりが見えるんだ」
「そんなら、ぼくたち、起きて、いかにゃなるまい。ここは、いい宿《やど》じゃないからな」とろばが言いました。
「骨が二、三本、それに肉でもついてたら、悪くはないよね」と、犬は言うのでした。
こうして、みんなは、そのあかりの見えるほうに道をとって、歩きはじめました。そのあかりは、やがて、だんだん明るく、大きくなって、きらきらと輝いてきました。
こうして、みんなはあかあかと灯《あかり》のついた家のまえに着いたのですが、それは泥棒《どろぼう》たちの家でした。
いちばんのっぽのろばは、窓に近づいていって、なかをのぞきこんだのです。
「葦毛《あしげ》の馬さん、なにか見えるかね」と、おんどりがたずねました。
「なにか見えるかだって」と、ろばは答えるのでした。「テーブルの上には、おいしそうなご馳走《ちそう》や飲み物がいっぱい。泥棒の奴《やつ》らが、そのまえにすわってさ、ご機嫌《きげん》よろしくやっちょるぞ」
「おれたちも、ご馳走になりたいもんだ」
おんどりが、そう言うと、ろばも言いました。
「そうだとも、そうだとも。ぼくたちもテーブルで食べたいよね!」
そこで、みんなは、泥棒どもを追い出すには、どうやったらよいものか、相談をしましたが、最後に、やっといい方法を見つけたのでした。
まず、ろばが前足を窓わくにかけて立つ。ろばの背なかに、犬がとび乗る。つぎに猫が犬の上によじのぼり、おしまいに、おんどりが飛びあがって、猫の頭のてっぺんにとまる、ということになったのです。
こうして、みんながうまく乗っかると、合図にあわせて、いっせいに音楽をやりはじめたのでした。
ろばはヒヒーンといななき、犬はワンワン吠《ほ》え、猫はニャーオ、ニャーオと鳴き、おんどりはコケコッコー。そうして、みんなは、窓ガラスをガチャガチャいわせて、窓から部屋のなかになだれこんだのです。
泥棒たちは、ものすごい叫び声にびっくり仰天《ぎょうてん》。てっきりお化《ば》けが出たものと思いこみ、飛びあがると、一目散《いちもくさん》、森のなかへと逃げていきました。
さて、四匹の仲間たちは、テーブルに着くと、残り物に満足して、ぱくぱくぱくついたのでした。まるで、これからの四週間、飲まず食わずで過ごさにゃならぬ、といったふうでした。
この四匹の音楽隊が、食べ終わるとあかりを消して、めいめい自分の天性《くせ》にあったらくな寝床をさがしました。ろばは堆肥《たいひ》の上に。犬はドアのうしろ。猫はかまどのあたたかい灰のそば。おんどりは締《し》め梁《ばり》の上にとまりました。なが旅で、くたくたに疲れていたみんなは、やがてぐっすり眠りこんでしまったのでした。
ところが、真夜中も過ぎたころです。逃げ出した泥棒たちは、遠くのほうからようすをうかがっていたのです。家のあかりもすっかり消えて、しーんと静まりかえったようでした。
そこで、親分が言いました。
「おれたち、びくびくすることはなかったんだ」
そう言って、親分は、子分のひとりに家のようすを探《さぐ》りにいかせました。
家のなかがしーんと静まりかえっていたので、その子分は、あかりをつけに、台所に入っていきました。
そこで、子分は、らんらんと光っている猫の目を見て、てっきり燃えている炭だと思いこみ、それにマッチ棒を押しつけて、火をつけようとしたのでした。
ところが猫は、じょうだんじゃないぞとばかり、むきになって子分の顔にとびかかり、つばをひっかけるやら、かきむしるやらで、子分のほうはびっくり仰天。
あわてて、裏口から逃げ出そうとしたところ、今度は、そこに寝ていた犬がとび起きて、足にかみついたのでした。
こうして泥棒の子分が、中庭の堆肥《たいひ》のそばを、走り抜けようとしたそのときです、ろばはうしろ足で、思いきり一撃《いちげき》くらわせたのでした。
この騒ぎに目をさましたおんどりは、締め梁《ばり》の上から、「コケコッコー」と、ひと声あびせてやったのです。
子分は、一目散《いちもくさん》、親分のところに飛んで帰ると、こう言いました。
「いやいや、あの家には、ものすごい魔女がいましてな、ふうふう息を吹きかけるやら、長い指でおれの顔をひっかきまわすやら! そのうえ、入口のまえには短刀を持った男がいて、おれの足にぶすっとばかり、突きさしましただ。それに、中庭には、黒い化け物が寝ていましてな、おれを見るなり、こいつが棍棒《こんぼう》でなぐりかかってきたですわい。おまけに、屋根の上には裁判官がいやがって、『その悪い奴、ここに連れてこい』とばかり大声で怒鳴《どな》りましただ。それで、もうすっ飛んで帰ってきたというわけでさあ」
それからというもの、泥棒たちは、二度とこの家に入りこもうなどとはしませんでした。
ところで、ブレーメンの音楽隊の四匹は、この家がすっかり気に入ってしまって、もう出ていこうともしなかったのです。
このお話し、これはつい最近聞いたばかりのものなのです。
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三つの言葉
むかし、スイスの国に、年寄りの伯爵《はくしゃく》が住んでおりました。伯爵には、息子がたったひとりしかおりませんでしたが、その息子はまぬけで、なにひとつおぼえられなかったのです。
そこで、父の伯爵が、息子に言いました。
「いいかな、せがれ、わしにはな、なにひとつおまえの頭におぼえさせてやるわけにはいかんのだ。わしはな、わしの思いどおり、おまえをここからよそに出して、おまえをある有名な先生にあずけようと思っとるのだ。先生にどうにかしてもらおうというわけさ」
こうして、息子は、あるよその都会《まち》に送り出されました。そして、まる一年間、息子は先生のところにおりました。この一年がすむと、息子はまた故郷《くに》に帰ってきました。そこで父親が言いました。
「どうだね、せがれや、なにかおぼえたかな?」
「お父さん、犬どもが、なにをわんわん吠《ほ》えるのか、ぼくはおぼえましたよ」
息子がそんな答えをしたものですから、父親は大声で言いました。
「なんと、情《なさ》けないことだ。おまえがおぼえたのは、それだけなのか? では、今度は、ほかの都会《まち》のほかの先生のところに送ってやろう」
息子は、送り出されて、その先生のところに、一年間いることになりました。こうして、また息子が故郷に帰ってきたとき、父親は、息子にたずねました。
「せがれや、なにをおぼえてきたね?」
「お父さん、小鳥どもが、なにをぴいぴい鳴いているのか、ぼくはおぼえましたよ」
それを聞いて父親は、かあっと怒って、言いました。
「ああ、しようのない奴《やつ》だ。大事な時間をむだにしおって、なんにもおぼえなかったとは。そのうえ、おめおめとわしのまえに出てきおって。今度は、三番目の先生のところに送ってやろう。しかしな、今度も、なんにもおぼえてこなかったら、親子の縁《えん》ももうこれまでだぞ」
息子は、まえとおなじように、今度もまる一年間、三番目の先生のところにおりました。こうして、また息子が故郷に帰ってきたとき、父親はたずねました。
「せがれや、なにをおぼえてきたかな?」
「お父さん、ぼくはこの一年間、なにを蛙《かえる》がくわっくわっと鳴くのか、それをおぼえてきたのです」
もう父親は、かんかんに怒ってしまい、席から跳《と》びあがると、家来《けらい》たちを呼びよせて、こう言いました。
「このものは、もうわしの息子ではない。そとに追い出してくれる。おまえたちは、このものを森のなかに連れていって、殺してしまえ。いいか、しかと言いつけたぞ」
家来どもは、息子をそとに連れ出していきました。しかし、いざ殺そうとなると、家来どもには、気の毒で、殺せませんでした。そのまま逃してしまったのです。
それから、家来どもは、のろ鹿の目と舌とを切り取って、それを殺した証拠の品として年寄りの伯爵のもとに持ってきたのです。
若い息子は、あてもなくさまよいつづけました。しばらくすると、息子はある騎士の城のところにやってきました。そこで、息子は一夜の宿を頼《たの》みました。すると、城主は言いました。
「よかろう。あの下の古い塔のなかにとまりたいというのなら、あそこにいきなさい。だがな、命が危ないということだけは、警告しておくぞ。というのはな、あの塔には野犬《やけん》がいっぱいいてな、ひっきりなしに、吠えたりうなったりしておるのだ。ある時間になると、人間をひとりもらっていたらしいのだ。そしてな、野犬どもがたちまちぺろりというわけだ」
そのために、この辺の土地一帯は、憂《ゆう》うつな悩みに沈んでいたのですが、といって誰ひとりどうすることもできなかったのです。
しかし、若い息子は、こわいもの知らずで、こう言いました。
「わんわん吠えている下の野犬どものところにやってください。それから、なにか犬にやるものを、ぼくにください。あの犬どもには、なんにもさせやしませんから」
若い息子が、自分からそうしたいと願ったので、みんなは野犬に食べさせる食べ物を息子に持たせて、息子を下の塔に送りこんだのでした。
息子が塔のなかに入ると、野犬どもは、吠えるどころか、いかにもなつかしそうにしっぽをふって、息子のまわりをまわって、与えてもらった食べ物をぱくぱく食べるばかりで、息子には触《ふ》れようともしませんでした。
そのあくる日です。誰もが驚いてしまったのですが、息子は、傷ひとつおわず、みんなのまえに元気な姿をあらわしたのでした。そして、息子は城主に向かって言いました。
「野犬どもは、犬の言葉でぼくに打ち明けました。なぜ野犬どもは、あそこに住みこんで、お国の人たちに害を与えているのか、おしえてくれました。野犬どもは、魔法をかけられて、塔の下にあるたくさんの宝物を守らねばならないのです。そして、その宝物が掘り出されるまでは、野犬どもは落ち着かないのだというのです。掘り出すにはどうしたらいいか、そのことも野犬どもの話しからききました」
この話しを聞いて、みんなはたいへん喜んだのでした。そして、城主は、息子がうまくやりとげたら、息子を自分の養子にしたい、と言いました。
息子は、また下におりていきました。どうしたらいいか、そのことを息子は知っていたので、うまくやりとげて、黄金《こがね》のいっぱいつまった長持ちを運びあげました。そして、そのときからというもの、野犬の吠え声はもう聞こえなくなりました。こうして、野犬はいなくなり、その土地はいやなわざわいからまぬがれることになりました。
しばらくたつと、息子は、ふいに思い立って、ローマにいこうとしました。その途中、息子はある沼地のそばを通りかかりました。その沼地には、蛙が住んでいて、くわっくわっと鳴いていました。息子は耳を傾けて、じっと聞いていました。蛙の話しを聞いてみると、息子は悲しくなり、考えこんでしまったのです。
それでも、息子は、ローマに着きました。ところが、ちょうど法王が亡《な》くなったところでした。枢機卿《すうききょう》のあいだでは、誰を法王の後継《あとつぎ》にしようかと、迷っていたのです。神の奇跡《きせき》のみ印《しるし》がはっきりとあらわれる人がいたら、その人こそ法王になるべきだ、とみんなの意見が一致したのです。
みんなの意見が、ちょうど決まったときでした。そのとき、ひとりの若い伯爵が教会のなかに入っていきました。すると、不意に二羽の真っ白な鳩が、伯爵の両方の肩へ飛んできて、そこにとまったのでした。
枢機卿《すうききょう》たちは、これこそ神の奇跡のみ印だと知って、すぐさま伯爵に、法王になっていただけないかと、たずねたのでした。自分のようなものが法王にふさわしいかどうか、わからなかったので、迷ってしまったものの、二羽の鳩が、法王におなりなさいと言うので、とうとう、息子の伯爵は、「なりましょう」と答えたのでした。
息子の伯爵は、香油をぬって聖別《せいべつ》をうけ、そして法王となったのです。
これで、息子が途中で蛙たちから聞いたことや、そして息子がびっくりしたことが、そのとおり起こったのでした。蛙たちは、息子が法王になるだろう、と言っていたのです。
法王になると、息子はミサを唱《とな》えねばなりませんでした。息子はひと言《こと》も知らなかったのですが、二羽の鳩が、両肩の上にとまって、息子の法王の耳のなかに唱えてくれたのでした。
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奥さま狐のご婚礼
一
むかし、あるところに、しっぽの九本ある古狐《ふるぎつね》がいました。古狐は、自分の奥さまがどうやら自分に忠実でないように思ったので、ためしてみることにしました。古狐は長椅子《ながいす》の下に大の字になって、じっと動かず、死んだふりをしていました。奥さま狐は自分の部屋に入って、閉《と》じこもってしまいました。お手伝いの猫娘は、かまどの上に乗っかって、煮ものをしていました。
さて、古狐が死んでしまったと、噂《うわさ》がひろまると、奥さま狐を嫁にほしいという狐どもが、いく匹も会いにきました。誰かが、戸口にやってきて、こつこつ戸をたたいています。
それを聞きつけた猫娘が、立っていって、戸をあけてみると、若い狐が一匹きておりまして、こう言うのでした。
「猫のお嬢さん、なにしているの?
寝んねしてるの? 起きてるの?」
猫娘は、それに答えて、こう言いました。
「寝てなんかいないわよ、起きてるわ。
なにをしてるか、知りたいの?
ビール沸《わ》かして、バタ入れてるの。
あなた、お客になりますか?」
「猫のお嬢さん、ありがとう。ところで、奥さま狐は、どうしていらっしゃるかね?」と、その若い狐が言ったので、猫娘はこう答えたのでした。
「奥さま狐は、お部屋のなかよ。
悲し悲しと、泣きの涙で、
泣いたお目々《めめ》は、紅絹《もみ》のよう。
狐のだんなが、死んだから」
「猫のお嬢さん、どうか、奥さまに伝えてください。若い狐がやってきて、奥さまをお嫁にもらいたいと言っております、と」
「わかりましたよ、お若いの」
猫が、ちょこちょこ歩いてく、
どたんばたん、と扉の音。
「奥さま、なかにいらしって?」
「はいはい、猫ちゃん、いることよ」
「奥さま、お嫁にほしいというものが」
「あらまあ、その方《かた》、どんなご容子《ようす》なのかしら?」
「その方にも、亡くなった主人みたいに、たまらないほどみごとなしっぽが、九本あるかしら?」
「いいえ、たったの一本なんですよ」と、猫娘が言いました。
「では、そんな方、ごめんだわ」
猫娘は、下におりていって、奥さま狐をお嫁にほしいというその狐に帰ってもらいました。
それからまもなく、また戸をたたく音がして、別の狐が戸口のまえにあらわれました。その狐も、奥さま狐をお嫁にほしいというのです。
この狐には、しっぽが二本ありました。けれども、まえの狐よりもいいなどということはありません。
それからまた別の狐が、そしてまたまた別の狐がやってきました。そのたびに、しっぽが一本ずつふえていきましたが、どれも追い帰されてしまったのです。
とうとう最後に、あの古狐とおなじように、九本のしっぽを持った狐が、やってきました。やもめの奥さま狐は、これを聞いて、大喜び、猫娘に言いました。
「さあさあ、門をあけて、戸もあけて!
追い出すんだよ、ほら、あの古狐をさ」
ところが、さて、いよいよ婚礼の式がおこなわれることになったとき、椅子の下に寝ていた古狐が、ごそごそと動き出しました。そして、古狐は、召使いどもを一匹残らずたたきのめして、奥さま狐もろとも、家から追い出してしまったのでした。
二
古狐が死にました。すると、奥さま狐をお嫁にほしいと、狼《おおかみ》がやってきて、こつこつと入口の戸をたたきました。奥さま狐に奉公《ほうこう》していたお手伝いの猫が戸をあけました。狼は、猫におじぎをして、言いました。
「こんにちは、ケーレヴィッツのお猫さん、
どうして、また、ひとりぼっちでいるんです?
あなたのご馳走、そりゃなあに?」
お手伝いの猫は言いました。
「ロールパン、それをちぎって、ミルクのなかに入れてます。わたしのご馳走、あんたは食べてくれますか?」
「それは、どうもありがとう」と、狼は返事をして、「ところで、奥さま狐は、お家《うち》ですか?」
と、たずねました。すると、猫が言いました。
「奥さま狐は、二階のお部屋、
悲しいことだと、お泣きです、
困ったことだと、お悲しみ、
狐のだんなが、死んだから」
それに答えて、狼は言いました。
「『つぎのだんながほしいなら、
下までおりていらっしゃい』
猫は、階段かけあがり、
小さなしっぽをふりまわし
大広間のまえにやってきて、
五つの金の指輪で、戸をたたき、
『狐の奥さま、いらしって?
つぎのだんながほしいなら、
下までおりていらっしゃい』」
そこで、奥さま狐がたずねました。
「その方、赤いズボンをはいてるの? とがった口をしてるかしら?」
「いいえ」と、猫が返事をすると、
「それじゃ、わたしにはだめね」と、奥さま狐が言いました。
こうして、狼もことわられました。すると、犬や、鹿や、兎《うさぎ》や、熊や、ライオンや、森じゅうの動物が、あとからあとから、一匹残らずやってきました。
けれども、どれも古狐の持っていたいい性質の、どのひとつも持ちあわせていませんでした。そこで、猫は、お嫁にほしいといってきたものを、そのたびに送り帰さねばならなかったのです。
ところが最後に、若い狐が一匹やってきました。奥さま狐はたずねました。
「その方、赤いズボンをはいているの? とがった口をしてるかしら?」
「はいはい、そのとおりですよ」と、猫が言いますと、
「そんなら、二階《うえ》にお通ししてね」と、奥さま狐は言いました。それから、お手伝いの猫に、婚礼の支度《したく》をするように、と言いつけました。
「猫さん、お部屋のおそうじ、お願いね、
あの古狐、窓からそとに捨てちゃって!
脂肪《あぶら》の乗った、太った鼠《ねずみ》をとってはきたけど、
あの古狐、いつも、ひとりでたいらげて、
わたしにくれたわけじゃなし」
それから、奥さま狐は、若い狐と婚礼の式をあげ、めでたしめでたしと言いながら、いつまでも、いつまでも踊っておりました。
やめていなければ、きっといまでも踊りつづけていることでしょう。
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ズルタンじいさん
ある百姓が、主人思いの犬を持っていました。ズルタンという名の犬で、もう年をとって、歯もすっかり抜けてしまい、なにもしっかりくわえることができませんでした。
あるとき、百姓は、おかみさんといっしょに戸口のところに立って、言いました。
「あした、ズルタンじいさんを鉄砲でうち殺しちまおう。もう、なんの役にも立たんからな」
すると、おかみさんは、主人思いの犬を気の毒に思って、
「わたしたちのために、長いこと働いてくれて、正直にしていたんですもの、死ぬまで飼《か》ってやってもいいじゃありませんか」と言いました。
「なにを言ってるんだい。あんまりおまえも利口じゃないね。あいつの口のなかには、歯なんかもう一本もないんだぜ。泥棒だって、こわがりゃしないよ。くびにしていいんだ。そりゃあ、こっちの用もしてくれたがね、そのかわり、うまいものだって、たっぷり食べさせてやったじゃないか」
かわいそうに、犬は、すぐそばの日向《ひなた》に、四つ足をのばして、寝ころんでいましたが、一部始終《いちぶしじゅう》、話しはすっかり聞いてしまいました。あしたが、この世とのお別れの日だと思うと、犬は情《なさけ》なくなりました。
でも犬には、仲よしの友だちがいました。それは狼でした。晩がた、犬は、こっそり家を出て、森にいきました。狼を訪《たず》ねたのです。そして、わが身に迫《せま》ってきている不幸をなげいたのでした。すると、狼が言いました。
「ねえ、じいさんや、元気を出しなさいよ。困ってるんだから、助けてあげるよ。うまいこと考えたんだ。あしたね、早いうちに、ご主人が、おかみさんといっしょに枯草を刈りにいくだろう。家のなかには誰もいなくなるから、小さい子どももいっしょに連れていくじゃないか。仕事をしているあいだは、いつだってあの子を、薮《やぶ》のうしろの日陰に寝かしておくじゃないか。あの子の番でもしているようなふりをしてさ、そばに寝てるんだよ。そしたら、森のなかから、おれが飛び出していって、子どもをさらっていこうとするのさ。すると、あんたは、子どもを取り戻さんといわんばかりのふりをしてさ、夢中でおれのあとを追っかけてくるんだ。そこで、おれは子どもを落っことす。そしたら、あんたは、両親《おや》のところにその子を連れ戻すというわけさ。すると、あの両親は、あんたが子どもを助けてくれたものと思いこんでさ、ありがたがって、あんたを殺すだなんて、とんでもない、そりゃあ大事にされるよ。そしたら、なにひとつ不自由な思いなんか、もうさせられやしないよ」
犬は、これはうまい話しだと思いました。そして、狼の思いつきどおりに、やってみました。
狼が、子どもをくわえて野原をつっ走っていきました。それを見た父親は、わあわあと大声を出して叫びました。
けれども、ズルタンじいさんが、子どもを連れ戻して、帰ってくると、父親は大喜び。ズルタンじいさんをなでながら、言いました。
「おまえの毛、一本だって、ひねったりはしないからね。死ぬまで、ちゃんと食べさせてやるからな」
そして、おかみさんには、こう言ったのです。
「すぐ家《うち》に帰ってな、ズルタンじいさんに、小麦パンのお粥《かゆ》をつくっておやり。粥なら、かまなくてもすむからな。それから、わしのベッドから枕をもってきておやり。じいさんの寝床にくれてやろう」
それからというもの、ズルタンじいさんは幸福に暮らしていました。もうこれ以上なにも望むこともありません。やがて、狼が訪ねてきて、なにもかもうまくいったことを喜びました。
ところが、狼は、こんなことを言ったのです。
「ところで、じいさん。おれはね、たまには、あんたの主人のところから、脂肪《あぶら》の乗った羊を失敬《しっけい》するんだが、目をつぶっててくれよな。なにしろ、きょう日《び》は、食っていくのもたいへんなんだからね」
「そんなこと考えちゃだめだよ。おれは、ご主人に忠実なんだ。そんなこと、許すわけにはいかんよ」
狼は、ズルタンじいさんがそんなことを本気で言ったのではなかろう、と思って、夜なかになってから、こっそり忍びこんできたのです。羊をさらっていくつもりだったのです。ところが、忠実なズルタンじいさんは、狼のたくらみを漏《も》らしておいたので、主人は狼に気をつけて、狼がきたところを、打殻竿《からざお》で、いやっというほど毛をむしったのでした。
狼は、逃げました。けれども、犬のズルタンじいさんに向かって言いました。
「いいか、いやな野郎だな、おまえは。仕返しに、ひどい目にあわせてやるからな」
そのあくる日の朝のことでした。狼は、豚を使いによこしました。ズルタンじいさんに、森のなかへこい、と言うのです。決着《けっちゃく》をつけるつもりだったのです。
ズルタンじいさんの介添《かいぞえ》になってくれるのは、三本足の猫しかいません。それで、犬と猫はいっしょに出かけていきました。猫は、かわいそうに、びっこを引き引き歩いていきましたが、痛くて痛くて、しっぽをぴんと立てていました。
狼と狼の介添とは、もう約束の場所にきていたのです。そして、向こうから相手がやってくるのを見たとき、てっきり犬が長い剣を持ってきたものと思いこんだのです。ぴんと立った猫のしっぽを、長い剣だと勘違《かんちが》いしたのでした。
かわいそうな猫が、三本足でぴょんぴょん跳んで歩いているのを、狼たちは、そのたびに石を拾って、自分たちにぶっつけようとしているのだと思ったのです。狼と豚はこわくなって、野育ちの豚のほうは、茂みのなかにもぐりこみ、狼のほうは、木の上に飛びあがりました。
そこへ、犬と猫がやってきました。ところが、誰もいないので、不思議《ふしぎ》に思いました。
ところで、野育ちの豚は、茂みのなかにもぐったのはいいが、隠れきれずに、耳がぴょんと外に出ていたのです。
猫が、用心ぶかくあたりを見まわしたときです。豚は、その耳をぴくぴくと動かしてしまったのです。さあ、猫は、ねずみが動いたのだと思って、ぴょんと飛びかかり、ぱくりと食いついたのです。
豚は、ぎゃっと大声を立てると、立ちあがり、
「あそこの木の上にいるのが、張本人《ちょうほんにん》だ!」と言うなり、逃げていってしまいました。
犬のズルタンじいさんと猫とが、木の上を見ますと、狼がいました。
びくびくしたようすを見せてしまった狼は、それが恥ずかしくてたまりません。こうして狼は犬のズルタンじいさんと仲直りをしたのでした。
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六羽の白鳥
むかし、むかし、あるとき、ひとりの王さまが、大きな森のなかで狩りをしていました。獲物《えもの》がいると、王さまは夢中になって追いかけたので、誰ひとり王さまのあとにつづくことができませんでした。
夕方になりました。王さまはそっと立ちどまって、あたりを見まわすと、道に迷っていたことに気づきました。王さまは、出口をさがしました。しかし、出口は見つかりません。
そのとき、王さまは見たのです。王さま目がけて、ばあさんが頭をがくがくさせながらやってくるではありませんか。でも、そのばあさんは、魔法使いのばあさんだったのです。
王さまは、ばあさんに声をかけました。
「おばあさんや、この森から出られる道をおしえておくれ」
「よろしゅうございますとも、王さま。おしえてさしあげます。でも、それには取り決めていただかねばならぬことがございます。もし、王さまがその取り決めをかなえてくださらぬとなりますと、もう森からそとにはお出になれませんし、飢《う》え死になさることになりましょう」
ばあさんがそんなことを言うと、王さまはたずねました。
「なに、どんな取り決めだね」
「わたしには、娘がひとりおります。それはたいそう美しい娘でして、王さまもこの世ではごらんになれぬほどの美しい娘で、王さまのお妃《きさき》にはもってこいの娘でございます。もしいま、王さまが、妃にしてつかわそうと仰《おお》せになるなら、いいですとも、森からお出になる道をおおしえいたしましょう」
王さまは、どうしたものかと、森のなかで心配していたので、ばあさんの言いなりになることにしました。そこで、ばあさんは、王さまを自分の家に連れていきました。家では、娘が火のそばにすわっていました。
娘は、王さまを迎えました。まるで、王さまをお待ちしていたかのようでした。王さまは娘をじっと見つめました。その娘はとても美しかったのですが、どうも王さまには気に入りませんでした。恐ろしさにぞっとせずには、その娘に目を向けることができなかったのです。
王さまは、娘を自分の馬に乗せました。するとばあさんが道をおしえてくれたので、王さまは自分の王城に帰り着くことができました。それから、その王城で結婚式があげられたのでした。
王さまは、まえに一度、結婚をしていたので、まえのお妃の子どもが七人いました。男の子が六人で、女の子がひとりです。王さまはその女の子を、世界じゅうの誰よりも、かわいがっていたのです。
新しいお妃ができてみると、このお妃に女の子がいじめられ、自分もいっしょになにかされはしないだろうかと、いまになって、王さまは心配しはじめたのでした。そんなわけで、王さまは子どもたちを森の真ん中にぽつんと立っているお城のなかに入れてしまったのです。
お城は誰にもわからないところにあって、そこへいく道はほんとうにわかりにくくて、王さまでさえ、占《うらな》い女から不思議な特性《ちから》のこもったより糸の糸だまをもらわなかったら、道は見つからなかったことでしょう。
王さまが、その糸だまをまえに投げると、糸だまはひとりでにほぐれて、王さまに道をおしえてくれるのでした。
王さまは、よく王城を出て、かわいい子どもたちのところにいくのでした。お妃は、よく王さまがいなくなるので、不思議に思うようになりました。
お妃のほうは、それが知りたくてたまりません。王さまは出かけていって、森のなかでたったひとり、どんなことをしているだろうか?
お妃は、王さまの召使いたちにお金をたくさんやりました。すると、召使いたちは、お妃に秘密を打ち明けて、道をおしえてくれる糸だまのことまでしゃべってしまったのです。そうなるともうお妃は、どこに王さまが糸だまを隠《かく》しているのか、糸だまをさがしだすまでは、片時《かたとき》も落ち着かなくなったのです。
けれども、やがて糸だまをさがしだすと、お妃は白絹《しらぎぬ》の小さな肌着をつくりました。お妃は、母親から魔術をならっていましたので、魔法の力をその肌着のなかに縫《ぬ》いこんだのです。
あるとき、王さまが狩りに出かけていきました。すると、お妃は、肌着を持って、森のなかへ入っていきました。糸だまが道をおしえてくれたのです。子どもたちのほうは、遠くから誰かがきたとわかると、てっきり父王がきてくれたものと思ったのです。子どもたちは、大喜びで飛び出してきました。
そのとき、お妃は、ひとりひとりの子どもに、一枚ずつ肌着を投げかけてやりました。肌着が子どもたちのからだに触れると、子どもたちは白鳥に変わって、森を越えて飛んでいってしまいました。
お妃は、すっかり安心して、王城に帰ってきました。お妃は、もうまま子たちもいなくなったと、そう思っていたのです。ところが、ちょうどあのとき、女の子だけは、兄弟といっしょになってお妃を出迎えにこなかったのでした。それで、お妃は、その女の子のことはなにも知らなかったのです。
あくる日のことです。王さまは、子どもたちのところにいこうと、出かけていきました。けれども、いたのは女の子だけ、男の子たちはいませんでした。そこで、父王はたずねました。
「兄さんたちは、どこにいるんだね?」
「ああ、お父さま、みんないってしまったんです。わたしひとりおいてきぼりにして」と、女の子は答えて、兄さんたちが白鳥になって、森を越えて飛んでいったのを、自分は窓から見ていたのだと、そう父王に話したのでした。
女の子は父王に、兄弟たちが中庭に落としていった羽を見せたのでした。女の子は、その羽を拾っておいたのです。王さまは、悲しみました。けれども、お妃がそんな悪いことをしたとは考えませんでした。
ただ女の子も連れていかれたらたいへんと、そんな心配から、王さまは女の子をいっしょに連れていこうとしたのです。しかし、女の子は、まま母が恐ろしかったので、今晩だけは森のお城にいさせてもらいたい、と父王にお願いしたのでした。
かわいそうな女の子は、「もう、わたしはここを出よう。兄たちをさがしにいこう」と、考えました。
それで、夜になると、女の子はお城から逃げ出して、さっさと森のなかへ入っていきました。その夜は、夜どおし歩いて、またそのあくる日も、ずうっと歩きました。でも、とうとう疲れてしまって、もう歩くこともできなくなりました。
すると、狩り小屋が一軒《いっけん》見えました。女の子が狩り小屋にのぼっていってみると、小さなベッドが六つ置いてある部屋がありました。女の子は、ベッドのなかにもぐりこもうとはしませんでした。ベッドの下にもぐって、固い床《ゆか》に寝ることにしました。その夜は、そこで過ごすことにしたのです。
ところが、やがてお陽《ひ》さまが沈もうとしたときでした。ばさばさという音が聞こえてきたのです。見ると、六羽の白鳥が窓から飛びこんできました。白鳥は床におりると、お互いに息を吹きかけあって、羽を吹き消しました。すると、白鳥の肌が、肌着のようにするりとぬげました。女の子は、それをじっと見ていて、自分の兄たちだとわかると、大喜び、ベッドの下からはい出てきました。
兄たちも、自分たちの妹を見ると、おなじようにたいへんな喜びようでした。でも、兄たちの喜びは、ほんのわずかなあいだのことでした。兄たちは、妹の女の子に言いました。
「おまえは、ここにいるわけにはいかないのだよ。ここはね、泥棒どもの隠《かく》れ家《が》でな。泥棒どもが帰ってきて、おまえを見つけたら、おまえを殺しちまうよ」
それを聞いて、妹の女の子は言いました。
「みんなで、わたしを守ってくれないの?」
「だめなんだよ。ぼくたちがね、毎晩、白鳥の肌をぬいでいられるのは、十五分だけなんだ。そのときだけ、ぼくたちは人間の姿をしているんだ。それが過ぎると、ぼくたちはまた白鳥の姿になっちゃうのさ」
女の子は、泣き泣き言いました。
「みんなの魔法は、どうしても解《と》けないの?」
「だめなんだよ。めんどうな取り決めがあるんだな。おまえは、六年間、口をきいちゃいけない、笑っちゃいけないとか。そのあいだに、ぼくたちのために、えぞ菊の花を縫いあわせて、六枚の肌着をつくらねばならぬとかね。それをひと言《こと》でも口からもらしたら、やった仕事は、みんなだめ、ということなんだ」
兄たちがこんな話しをし終えると、十五分たって、兄たちは、また白鳥になって、窓から飛んでいってしまいました。女の子は、兄たちを救ってあげようと、固い決心をしました。たとえ自分の命がなくなってもいい。女の子は、狩り小屋をあとにして、森の真ん中に入っていきました。女の子は、一本の木の上にのぼって、そこでその夜を過ごすことにしたのです。
あくる日の朝、女の子は、えぞ菊の花を集めにいきました。そして、集めたえぞ菊の花を縫いあわせはじめました。女の子は、誰とも話すことはできませんでした。笑う気にもならなかったのです。女の子は、そこに腰をおろして、ただただ自分の仕事を見つめていました。
もうずいぶんと長いこと、ときがたちました。すると、その国の王さまが、狩りをしに森のなかに入ってきました。王さまの狩人《かりうど》たちが、女の子のあがっている木のところにやってきたのです。
狩人たちは、女の子に呼びかけて言いました。
「おまえは、誰だね?」
けれども、なんの返事もありません。
「おりておいで。おまえになんか、なんにも悪いことしやしないから」
女の子は、ただ頭を横にふるだけです。
狩人たちは、つぎからつぎと、うるさく聞き出そうとするのでした。そこで、女の子は、狩人たちに、自分の金の首飾りを投げました。女の子は、それでみんなは満足してくれるものと、思ったのです。
ところが、そんなことではやめません。そこで、女の子は自分の帯を投げてやりました。それも、なんの役にも立ちませんでした。それで、女の子は靴下どめを、それから、からだにつけているもので、無《な》くてもいいようなものを、つぎからつぎと投げてやりました。それで、とうとう、残っているものは、肌着だけになったのでした。
けれども、狩人たちは、それで引き退《さ》がるというものではありませんでした。木の上へのぼってきて、女の子を下におろすと、王さまのまえに連れていきました。王さまは、女の子にたずねました。
「おまえは、誰だね? 木の上で、なにをしているのだね?」
女の子は、答えません。王さまは、知っているかぎりの、いろいろな国の言葉を使って、たずねてみました。それでも、女の子は、魚のように黙っていました。
けれども、その女の子が、とても美しかったので、王さまの心は動いたのです。王さまは、女の子を心からかわいく思いました。王さまは、女の子に自分のマントを着せてやり、自分の馬のまえに乗せて、王城に連れて帰りました。
そこで、王さまは女の子に立派な服を着せてやったのです。すると、女の子は、ほんとうに美しく、明るい真昼のように輝いたのでした。けれども、その口からは、言葉はひと言ももれませんでした。食事のときには、王さまは女の子を自分のそばに置きました。王さまには、女の子のつつましい顔つきやしとやかさが、気に入ったのです。それで、王さまは、
「わしが妻にしたいのは、この女の子だ。この女の子のほかには、この世には誰もおらんぞ」と、言うのでした。
そして、それからいく日かたつと、王さまは、その女の子を自分のお妃にしたのでした。
ところが、この王さまには、悪い母親がいて、この結婚のことを不満に思って、若いお妃の悪口を言うのです。
「口もきけないこの娘っこ、どこからきたんだい。王さまの連《つ》れ合《あ》いといったもんじゃないよ」
一年たちました。お妃が初めての子を産むと、年寄りの母親がその子を連れていってしまい、眠っているお妃の口もとに血をぬったのです。それから、母親は、王さまのところにいって、あのお妃は人間を食べるぞ、と訴えたのです。
王さまは、そんなことをほんとうにはしませんでしたし、お妃がいじめられるのが、いやでなりませんでした。ところで、お妃のほうは、いつもじっとすわって、肌着を縫っていました。ほかのことは、なにひとつ気にしません。
そのつぎに、お妃がまた立派な男の子を産むと、この悪い母親は、またおなじ悪事をたくらんだのでした。でも、王さまは、母親の話しを信じる決心がつかなかったのです。そこで、王さまは言いました。
「妃《きさき》は、信心ぶかくて、善良です。そのようなことはできないでしょう。もし、口がきけて、申し開きができますものなら、妃の無実の罪は、明らかとなりましょう」
けれども、年寄りの母親は、三度《みたび》、生まれたばかりの子どもを盗んで、お妃を訴えたのでした。お妃が、ひと言《こと》も申し開きをしなかったので、王さまも、ほかにしようもなく、とうとうお妃を裁判にかけたのです。こうして、火あぶりの刑にする、という判決が下《くだ》ったのでした。
刑がおこなわれることになっていたその日がやってきました。その日は、お妃が口をきいてはいけない、笑ってはいけないと言われていた六年間の最後の日にあたっていたのです。それで、お妃は、兄たちを魔法の力から救い出すことができたのでした。六枚の肌着ができあがっていましたが、ただ最後の肌着だけは、左の袖がまだできていなかったのです。
お妃は、いよいよ、火あぶりの刑のまきの山のところに連れていかれました。お妃は、六枚の肌着を腕にかけて、まきの山の上に立ちました。そして、いままさに火がつけられようとしたときです。お妃がまわりを見渡すと、六羽の白鳥が、空高く飛んで、こちらにやってくるではありませんか。お妃は、もうすぐ自分は救われるということがわかったのです。心は喜びにはずみました。
白鳥は、ばさばさとお妃のところに飛んできて、下におりました。お妃は、白鳥に肌着を投げかけてやりました。そして白鳥が、肌着に触れると、白鳥の肌は脱《ぬ》け落ちました。
お妃のまえには、もう人間のからだをそなえた兄たちが立っています。兄たちは、生き生きとして、とても立派でした。ただいちばん年下《としした》の兄だけには、左の腕がありません。そのかわり、背なかに白鳥の片翼《かたよく》がついていました。みんなは抱きあって、キスをかわしました。
そこで、お妃は、びっくりしている王さまのところにいって、話しを始めたのです。
「王さま、いよいよ、わたしも口がきけるようになりました。それで、王さまに申しあげますが、わたしにはなんの罪もございません。まちがえて訴えられているのです」
お妃は、さらに母親が、自分の三人の子どもを連れていって、どこかに隠してしまい、王さまをだましたのだと、話しました。
そのとき、お妃の三人の子どもが連れてこられました。王さまは大喜び、今度は悪い母親のほうが、罰として、火あぶりのまきの山の上にしばられて、焼き殺されて灰となりました。
けれども、王さまとお妃のほうは、六人の兄弟といっしょに、なん年となく長いこと、仲よく、幸せに過ごしたということです。
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いばら姫
それは、むかしのことでした。王さまとお妃《きさき》がおりました。ふたりは、くる日もくる日も、「ああ、どうにか子どもがひとりほしいものだが……」と、話しあっていましたが、いっこうに子どもに恵《めぐ》まれませんでした。
あるとき、こんなことがありました。お妃が水浴びをしていると、蛙が、水のなかからはい出してきて、こう言ったのです。
「お望《のぞ》みは、一年もたたないうちに、かなえられますよ。お姫さまが、お生まれです」
蛙の言ったとおりになりました。お妃に姫が生まれたのでした。姫は、たいそう美しかったので、王さまはたいへんな喜びよう、すっかり有頂天《うちょうてん》になって、盛大なお祝いの宴を開かせました。
そのお祝いの宴には、いうまでもないことですが、親せきの人たちや友人たち、それに知人たちも呼ばれたのでした。そのうえ王さまは、生まれた姫をかわいがってもらおうと、巫女《みこ》たちをも招待したのでした。王さまのこの国には、十三人の巫女がいましたが、ご馳走を盛《も》る金の皿は十二枚しかなかったので、ひとりだけは家に残ることになりました。
お祝いの宴は、まことに華《はな》やかなものでした。そして、宴も終わりに近づいたとき、巫女たちは、ひとりずつその姫に、すばらしい贈り物をしたのでした。ひとりは徳を、もうひとりは美を、そして三番目の巫女は富を、というふうに、世界じゅうのみんながほしがっているものを、すべて贈ったのでした。
十一人の巫女が、お祝いの呪文《じゅもん》を唱え終わったちょうどそのときです。だしぬけに十三番目の巫女が飛びこんできたのです。お祝いの宴に呼ばれなかった怨《うら》みを、はらすためでした。
あいさつはおろか、まわりのものには目もくれず、大声で悪い呪文を唱えました。
「姫はな、十五歳になったら、糸まき棒が突き刺さって、死んじまうだよ」
そう言ったなり、くるりと背を向けると、さっさと広間を出ていきました。
みんなは、びっくり仰天《ぎょうてん》。すると、まだお祝いのあいさつをすませていなかった十二番目の巫女が、まえに進み出て、言いました。
「お姫さまは、お亡《な》くなりになるのではありません。百年という深い眠りにつかれるだけのことでございます」
こう言ったのも、この巫女には、さっきの悪い呪文を取り消すことはできないにしても、それで少しは呪文を弱めることもできたからでした。
王さまは王さまで、かわいい姫を不幸から守ろうとして、国じゅうの糸まき棒を、ひとつ残らず焼きはらうよう、命令を出したのです。
巫女たちのすばらしい贈り物は、すべて実《みの》って、姫は、まことに美しい、しとやかで、しかも賢《かしこ》い、心のやさしい姫になりました。それで、この姫をひと目見た人は、誰もこの姫が好きになってしまうのでした。
姫が、十五歳になったときのことでした。
王さまも、お妃も留守で、たったひとり姫だけが、お城に残っていました。姫は、気の向くままに、お城の部屋という部屋を、のぞいてまわりました。そして、しまいに古い塔のところにやってきました。そこの狭い回り階段をのぼると、小さな扉《とびら》のまえに出ました。扉の鍵穴《かぎあな》には、さびついた鍵がさしこんだままになっています。姫が、その鍵をまわすと、扉は、ぱっとあきました。
そこの小さな部屋のなかでは、おばあさんが、糸まき棒で、せっせと麻糸を紡《つむ》いでいるところでした。
「こんにちは、おばあさん」と姫は声をかけました。
「そこで、なにしているの?」
「糸を紡いでいるのさ」と、おばあさんは、うなずきながら言いました。
「それは、なあに? ほら、くるくるまわっているそれよ」と、言って姫は、糸まき棒をつかんで、自分でも紡いでみようとしたのでした。
ところが、どうでしょう。姫が手を触れたとたん、あの魔法の呪文がきいて、糸まき棒が姫の指に突き刺さってしまったのです。すると姫は、その場にあったベッドの上にばったり倒れ、そのまま深い眠りに落ちこんでいきました。
そして、姫の眠りは、お城全体に広がっていきました。
ちょうどそとから帰ってきた王さまとお妃は、広間に入ったとたん、眠りはじめ、家来《けらい》たちもみんな、眠ってしまいました。
馬小屋の馬も、中庭の犬も、屋根の上の鳩も、壁にとまっていたはえも、それどころか、かまどでゆらゆら揺れていた火までも、ぴたっと動かなくなって、眠りはじめたのでした。
じゅうじゅう音を立てていた焼き肉も、黙ってしまいました。へまをしたというので、皿洗いの小僧《こぞう》の髪を引っ張るところだった料理番も、この小僧をはなすと、ぐっすり眠りこんでしまったのです。
風もやんでしまい、お城のまえの木の葉一枚うごかなくなりました。
ところが、お城のまわりでは、いばらの生垣《いけがき》がのびはじめ、年ごとに高くなり、とうとうお城をすっぽりつつんでしまったのでした。それでも、いばらの生垣は、まだのびつづけたので、もうお城は、かげもかたちも見えなくなりました。屋根の上の旗《はた》まで隠れてしまったのです。
ところで、この姫は、「美しい眠りのいばら姫」と言われて、その噂《うわさ》は、国じゅうに広がっていきました。
すると、王子たちが、つぎからつぎとやってきては、いばらの生垣をかきわけて、お城のなかに入っていこうとしたのでした。
けれども、誰ひとり、うまくいきません。なにしろ、いばらは、まるで手があるみたいに、しっかりとからみあっていたからです。王子たちは、いばらにひっかかってしまい、二度と抜け出すことができなくなるのでした。そして、誰もが見るもあわれな最期《さいご》をとげるのでした。
さて、それから、いく年もたったあるときのこと、ひとりの王子がこの国にやってきました。王子は、ある年寄りから、いばらの生垣の話しを聞いていたのです。
生垣のうしろには、城が立っていて、その城のなかには、いばら姫という、世にも美しい姫が、もう百年もまえから眠りつづけているのだ、という話しでした。それに、王さまも、お妃も、それから家来たちも、みんなぐっすり眠っているのだ、ということです。
この年寄りも、むかし、自分のおじいさんから、いままでに、たくさんの王子がやってきては、いばらの生垣を押し分けようとしたけれど、いばらにひっかかって、かわいそうなことに、みんな死んでしまったと、聞かされていたのです。
若い王子は、言いました。
「ぼく、こわくなんかありません。なかへ入って、美しいいばら姫に会ってきましょう」
人の好い年寄りは、なんとか思いとどまるようにと言いましたが、王子は年寄りの言うことを聞き入れませんでした。
ところが、そのとき、ちょうど百年たって、いばら姫の目をさます日がきていたのです。王子が、いばらの生垣に近づいてみると、美しい大きな花が、咲きみだれていました。その生垣は、ひとりでにふたつに割れて、王子を無事になかへ通すと、またもとの生垣になりました。
お城の中庭へ入ると、馬と黒い斑《ぶち》の猟犬《りょうけん》が、横になって眠っているのでした。屋根の上では、鳩が小さな頭を翼《はね》の下にうずめています。お城のなかでは、はえが壁にとまったまま眠っていましたし、台所の料理番は、皿洗いの小僧をつかまえようとでもするような手つきをしていました。女中は、真っ黒な鶏のまえにすわって、羽《はね》をむしりとろうとしているところでした。
どんどん歩いて、広間に入ると、家来たちが、みんな横になって眠っているのでした。玉座《ぎょくざ》のところでは、王さまとお妃とが眠っています。もっと奥へ入っていくと、あたりはひっそり静まりかえって、まるで自分の呼吸《いき》まで聞こえるほどでした。
とうとう王子は、古い塔のところにやってきて、いばら姫が眠っている、小さな部屋の扉をあけました。
姫の美しさといったら! 王子は、見とれて、思わず身をかがめ、いばら姫に接吻《せっぷん》をしました。
すると、いばら姫は、目をぱっちりあけました。長い眠りからさめたのです。そして、にっこりと王子を見つめました。
そこで、ふたりが、いっしょに古い塔をおりていくと、王さまも、お妃も、それに家来たちも、みんな目をさまし、互いに目をまるくして見つめあいました。
それから、中庭の馬も立ちあがると、からだをぶるぶるふるわせ、また猟犬もとび起きて、しっぽをふりました。屋根の上の鳩は、翼《はね》の下から頭を出すと、ながめまわして、野原のほうへ飛んでいきました。
かまどの火は、また燃えはじめ、ゆらゆらと揺れて、ご馳走《ちそう》を煮たてました。焼き肉も、またじゅうじゅう音を立てはじめ、皿洗いの小僧は、料理番に横っつらをたたかれて、悲鳴をあげました。そして、女中は、鶏の羽をきれいにむしりとりました。
それから、王子といばら姫との結婚式が、それはそれは盛大にあげられました。こうして、ふたりは、それから一生のあいだ、楽しく暮らしたのでした。
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白雪姫
むかし、ある年の真冬のことでした。羽根のような雪が、空からひらひらと舞い落ちていました。
お妃《きさき》がひとり、黒檀《こくたん》の窓わくのついた窓のそばに腰をおろして、縫《ぬ》いものをしていました。お妃が、縫いものをしながら、ふと見あげて雪を見たとき、ちくりと指に針を突き刺してしまったのです。血のしずくがぽたぽたと三|滴《てき》、雪の上にたれました。白い雪の上にたれた赤い血が、それはとても美しく見えたので、お妃はひとりこんなことを考えたのでした。
「この雪のように白くて、この血のように赤くて、それからこの窓わくの黒檀のように黒い髪の毛の子どもが生まれたらな」
それからまもなくのことでした。お妃に姫が生まれたのです。それは、雪のように白く、血のように赤い、そして黒檀《こくたん》のように黒い髪の毛の姫でした。
そんなわけで、白雪姫という名がつけられました。
その姫が生まれるとまもなく、お妃は亡《な》くなってしまいました。それから一年たつと、王さまは、ふたり目のお妃を迎えたのです。それは美しいお妃でしたが、高慢ちきの、思いあがった女の人で、きりょうで人に負けることがあるなんて、とても我慢できなかったのです。
お妃は、不思議な鏡をひとつ持っていました。お妃は、その鏡のまえにいっては、鏡に映《うつ》った自分を見ると、こう言うのでした。
「壁にかかった鏡よ、鏡よ、国じゅうで一番のきりょうよし、それはいったい誰かしら」
すると、鏡は答えるのでした。
「お妃さま、あなたが国じゅうで一番です」
これを聞いて、お妃は満足するのでした。なにしろ、鏡はほんとうのことをいうものと、お妃は思っていたからです。
ところで、白雪姫はだんだん大きくなり、ますます美しくなっていきました。七歳《ななつ》になったときには、澄《す》み渡った日のように美しく、お妃よりもずっと美しい姫になりました。あるとき、お妃は、鏡に聞いてみたのでした。
「壁にかかった鏡よ、鏡よ、国じゅうで一番のきりょうよし、それはいったい誰かしら」
すると、鏡は答えたのでした。
「お妃さま、ここではあなたが一番のきりょうよし。
でも、白雪姫は、あなたの千倍もきりょうよし」
それを聞いて、お妃はびっくり仰天《ぎょうてん》。妬《ねた》ましくて、目もくらんでしまうほど、お妃は驚いて真っ青《さお》になりました。そのときからというもの、白雪姫を見るたびに、腹のなかは煮《に》えくりかえる思いでした。それほどもお妃は、白雪姫を憎むようになったのです。
お妃の胸のうちに、妬み心と、高慢ちきな気持ちとが、雑草のように生い茂り、お妃はもう、夜も昼も、心の安まるひまもなかったのです。
そこで、お妃は猟師《りょうし》を呼んで、こう言ったのです。
「あの娘を、森のなかへ連れ出しておくれ。目のまえで、あの娘を見るのは、もういやなの。あの娘を殺しておしまい。だけど、肺と肝臓《かんぞう》は、その証拠に持ってくるんだよ」
猟師は、言いつけられたとおり、白雪姫を連れ出しました。猟師が、猟刀《かたな》を抜いて、罪のない白雪姫の心臓をえぐりとろうとしたとき、白雪姫は泣き出して、こう言うのでした。
「ああ、猟師さん、命《いのち》だけは助けてね。わたし、あの荒れている森のなかに飛びこんでいきたいの。もう二度と帰ってこないから」
白雪姫が、とてもやさしかったので、猟師はかわいそうに思って、こう言ったのです。
「さあ、飛んでいきなさい、かわいそうにね」
それでもすぐ、野獣《けもの》の餌食《えじき》となってしまうことだろう、と猟師は考えましたが、なにしろ白雪姫を殺さずにすんだのですから、心の重荷がとれたように、猟師はほっとしたのでした。
ちょうどそのとき、猪《いのしし》の子が飛び出してきました。猟師は、猪の子を刺し殺すと、肺と肝臓をえぐり出して、それを、白雪姫を殺した証拠として、お妃のところに持っていったのです。
料理番は、それを塩ゆでにしなければなりませんでした。そしてそれを、意地の悪いお妃がたいらげてしまうと、お妃は白雪姫の肺と肝臓を食べたものと思ったのでした。
さて、かわいそうな白雪姫は、大きな森のなかで、たったひとりぼっちでした。だんだん心細くなってきたので、森の木の木《こ》の葉《は》という木の葉をじっと見すえていましたが、どうしたらいいのだろうか、白雪姫はわからなかったのです。
そこで、白雪姫は、駆《か》け出してみました。とがった石の上や、≪いばら≫のあいだを抜けて走ってみました。
森の野獣《けもの》たちが、白雪姫のそばを跳《と》びはねていきました。でも、白雪姫にはなんにもしませんでした。
白雪姫は走りました。およそ足のつづくかぎり走りました。やがて、日が暮れそうになったころでした。白雪姫は、小さな家を一軒見つけたのです。ひと休みしようと、白雪姫は家のなかに入っていきました。
家のなかにあるものは、なにもかも小さなものばかり、でも、口では言えないほど小ぢんまりとしたきれいなものばかりです。
白いテーブル掛けのかかった食卓の上には、小さな皿が七つのっていました。皿のひとつひとつには小さいスプーンがついていました。それに、七本の小さなナイフとフォーク、それからコップが七個、添えてありました。
壁のそばには、小さなベッドが七つ並んでいて、ベッドの上には真っ白なシーツが敷《し》いてありました。
白雪姫は、もうお腹《なか》はぺこぺこ、のどはからからだったので、皿という皿から少しずつ野菜とパンを食べたのです。そしてコップというコップから、ほんの少しずつぶどう酒を飲みました。なにしろ、ひとつところから、残らず食べてしまうなんて、そんなことはしたくなかったからです。
食べ終わると、疲れていたので白雪姫は小さなベッドに寝たのですが、ベッドはうまくあいません。長すぎたり短かすぎたり、でも、やっと七番目のベッドがからだにぴったりあいました。
白雪姫はそのなかに寝ころぶと、わが身は神さまにおまかせして、ぐっすりと眠りこんでしまったのです。
すっかり暗くなりました。すると、その家の主人《あるじ》たちが帰ってきました。それは山のなかで鉱石をさがして、切り出したり、掘り出したりしている七人の小人《こびと》たちであったのです。
小人たちは、めいめいの小さなあかりに火をともしました。家のなかが明るくなると、誰か家のなかに入ったことがわかりました。なにもかもすべてが、出かけたときのようにきちんとしていたわけではなかったからです。
一番目の小人が言いました。
「わしの椅子に腰をかけたのは、誰なんだ」
二番目の小人が言いました。
「わしの皿から食べたのは、誰なんだ」
三番目の小人が言いました。
「わしのパンを食べたのは、誰なんだ」
四番目の小人が言いました。
「わしの野菜を食べたのは、誰なんだ」
五番目の小人が言いました。
「わしのフォークでつついたりしたのは、誰なんだ」
六番目の小人が言いました。
「わしのナイフで切ったのは、誰なんだ」
七番目の小人が言いました。
「わしのコップで飲んだのは、誰なんだ」
それから、一番目の小人が、あたりを見まわすと、自分のベッドに小さなへこみのあるのに気づいたのでした。そこで、こう言ったのです。
「わしのベッドに入りこんだのは、誰なんだ」
すると、ほかの小人たちが駆けよってきて、大きな声で言いました。
「わしのベッドにも、誰かが寝たぞ」
ところが、七番目の小人が、自分のベッドをのぞいてみると、白雪姫がいたのです。白雪姫は、横になって、眠っていました。
そこで、七番目の小人はみんなを呼びました。小人たちは飛んできました。あまりの不思議に小人たちは叫び声をあげ、あかりをかかげて、白雪姫を照らしてみたのです。
「おや、おや、これはたまげたぞ! こりゃあ、なんてきれいな娘なんだろう!」と言って、七人の小人は大騒ぎをしました。
けれども、小人たちはとても嬉しかったので、白雪姫を起こさないで、そのままベッドに寝かしておいたのです。
七番目の小人は、自分の仲間たちと寝ることになって、めいめいのところに一時間ずつ寝かしてもらいました。そうしているうちに、夜が明けました。
朝になると、白雪姫は目をさましました。そして七人の小人を見たときに、白雪姫はびっくりしたのです。けれども、七人の小人は、親切で、こうたずねるのでした。
「名前は、なんというの?」
「白雪姫というのよ」と、白雪姫は答えました。
「わしたちの家へ、どうやって入りこんだのだね?」と、小人たちは、またたずねたのです。
すると、白雪姫は、自分のまま母が自分を殺させるつもりでいたのだ、と話したのでした。でも、猟師が命を助けてくれたので、自分は一日じゅう駆けまわって、とうとうみなさんの家を見つけたのです、と言うと、小人たちは、こう言うのでした。
「もし、あんたが、わしらの家の世話をしてくれて、お料理をつくったり、ベッドをつくったり、それに洗濯をしたり、針仕事や編《あ》みものをしてくれるならね、いいや、そのうえ、なにからなにまで、きれいに、きちんと片づけてくれるならね、そんなら、あんた、わしらのところにいたっていいんだよ。あんたには、なにひとつ不自由させないからね」
「ええ、いいですよ。喜んでしますとも」と、白雪姫は言って、小人たちのところにいることになったのです。
白雪姫は、小人たちの家をきちんと片づけました。毎朝、小人たちは山に入って、鉱石《こうせき》や金をさがして、夕方になると、家に帰ってくるのでした。白雪姫は、小人たちの食事の用意をしておかねばなりません。
白雪姫は、一日じゅう、たったひとりでした。それで、思いやりのある小人たちは、白雪姫に用心するようにと言いました。
「あんたのまま母には、気をつけるんだよ。あんたがここにいることなんて、すぐ嗅《か》ぎつけるだろうしね。誰もなかに入れちゃだめだよ」
ところで、お妃は、白雪姫の肺と肝臓を食べたものと思っていましたので、いまでは、また自分が一番のきりょうよしとばかり思いこんでいたのです。
お妃は、鏡のまえにいって、言いました。
「壁にかかった鏡よ、鏡よ、国じゅうで一番のきりょうよし、それはいったい誰かしら」
すると、鏡は答えたのでした。
「お妃さま、ここではあなたが一番のきりょうよし。
でも、あの山のむこうの、
七人の、小人のところの白雪姫、
あの姫は、あなたの千倍もきりょうよし」
それを聞いて、お妃はびっくりたまげました。
というのも、その鏡が嘘をつかないということを知っていたからです。猟師がわたしを騙《だま》したのだ、白雪姫はまだ生きている、そうだと気づいたお妃は、どうやって白雪姫を殺してやろうかと、考えに考えたのでした。自分が国じゅうで一番のきりょうよしでないうちは、妬《ねた》ましくて、妬ましくて、心の落ち着くひまもなかったのです。
とうとう、お妃はふとなにか思いついたのです。お妃は、自分の顔に色をぬり、物売り女のような服装《なり》をしたのです。お妃だとは誰にもわからなくなりました。
そんな服装をして、お妃は、七つの山を越え、七人の小人のところにいきました。そして、とんとんと扉をたたくと、大きな声で言いました。
「いい品物《もの》ありますよ! 買いませんか!」
白雪姫は、窓からのぞいて言いました。
「こんにちは! おばあさん、なに売ってるの?」
「上等な品物《もの》だよ、いい品物だよ。色とりどりの締《し》めひもだよ」
お妃は、そういって締めひもを一本取り出しました。それは五色の絹糸で編んだものでした。
「こんなきちんとしたおばあさんなら、家に入れたっていいんじゃないかな」と、白雪姫は考えると、入り口のかんぬきをはずして、きれいな締めひもを買ったのです。
「まあ、あんた、なんてひどいかっこう! さあ、ひとつ、ちゃんと締めてあげよう」と、おばあさんが言いました。
白雪姫には、なんの下ごころもなかったので、おばあさんのまえに立って、胸のところを新しい締めひもで結んでもらったのでした。
ところが、おばあさんは、す早く、ぎゅうっと締めつけたのです。白雪姫は、もう息ができなくなって、死んだようにばったり倒れたのでした。
「もうあんたが、一番のきりょうよしではないんだよ」と、お妃はそう言って、急いで出ていきました。
それからしばらくして、日が暮れると、七人の小人たちが家に帰ってきました。かわいらしい白雪姫が床《ゆか》の上に寝ているのを見て、小人たちはびっくりしました。白雪姫は、まるで死んでしまったように、ぴくとも動きません。小人たちは、白雪姫を高く持ちあげました。白雪姫は、締めひもできつく締められていたのです。それを見た小人たちは、その締めひもを真っぷたつにぷつりと切りました。
白雪姫は、かすかに息をしはじめて、それからまただんだんに生きかえったのでした。
どんなことがあったのか、それを聞いてみて、小人たちは、言うのでした。
「物売りのばあさんは、ほかでもない、あの罰《ばち》あたりのお妃だったんだ。気をつけるんだよ。わしらがあんたのそばにいないときには、どんな人間も、入れてはならんのだ」
ところが、あの悪いお妃は家に帰ってから、鏡のまえにいって、たずねてみたのです。
「壁にかかった鏡よ、鏡よ、国じゅうで一番のきりょうよし、それはいったい誰かしら」
すると鏡は、まえとおなじように、答えるのでした。
「お妃さま、ここではあなたが一番のきりょうよし。
でも、あの山のむこうの、
七人の、小人のところの白雪姫、
あの姫は、あなたの千倍もきりょうよし」
それを聞いたとき、お妃のからだじゅうの血という血が、心臓めがけて流れたのでした。というのも、白雪姫がまた生きかえったことが、お妃にはっきりわかったからでした。
「いいとも、おまえの命をとらずにはすまない手口を考え出してやるわい」と、お妃は言うのでした。お妃は、自分も心得《こころえ》ている魔術を使って、毒のある櫛《くし》をつくったのです。それから身なりを変えて、まえとは違ったおばあさんの姿になりました。
こうしてお妃は、七つの山を越えて、七人の小人たちのところに出かけていきました。入口の扉をとんとんとたたいて、言いました。
「いい品物《もの》ありますよ! 買いませんか!」
白雪姫は、そとをのぞきました。
「どうぞ、さきへいらっしゃって。家には誰も入れませんよ」
「せめて見るぐらいなら、いいだろうに」
おばあさんは、そう言って、毒のある櫛を取り出してから、その櫛を高くかかげたのです。ところが、白雪姫は、その櫛がすっかり気に入ってしまったのです。こうしてまた白雪姫は騙《だま》されてしまい、入口の扉をあけてしまったのです。
買い物の話しがまとまると、おばあさんは言いました。
「さあ、あたしが、ひとつ、あんたの髪をきれいにすいてあげようね」
かわいそうに、白雪姫はなにも考えずに、おばあさんのするままにまかせたのでしたが、おばあさんが櫛を白雪姫の髪の毛のなかにさしこむや、櫛の毒がまわって、白雪姫は気を失って、ばったり倒れてしまったのです。
「あんたは、きりょうよしの見本だが、これで、もうおしまいさ」と、悪いおばあさんは、そう言って、さっさといってしまいました。
けれども、幸《さいわ》いなことに、やがて晩がたになって、七人の小人たちが家へ帰ってきました。白雪姫が死んだように床の上に寝ていたのです。それを見た七人の小人たちは、すぐさま、まま母があやしいと思い、いろいろとさがしまわっているうちに、毒の櫛を見つけたのでした。小人たちが、その櫛を抜きとると、白雪姫は正気にかえって、こんなことがあったのだと話しをしたのです。
そこで、小人たちはもう一度、用心して、誰がきても入口の扉をあけないようにと、白雪姫に注意したのでした。
ところで、城に戻ったお妃は、鏡のまえに立って、言いました。
「壁にかかった鏡よ、鏡よ、国じゅうで一番のきりょうよし、それはいったい誰かしら」
すると鏡は、まえとおなじように、答えるのでした。
「お妃さま、ここではあなたが一番のきりょうよし。
でも、あの山のむこうの、
七人の、小人のところの白雪姫、
あの姫は、あなたの千倍もきりょうよし」
鏡がそう言うのを聞いたとき、お妃は怒りにぶるぶるふるえたのでした。
「白雪姫の奴《やつ》、殺してくれるわ。こっちの命がどうなろうと」と、お妃は大声で言いました。
それからお妃は、誰も入ってこない淋《さび》しい秘密の部屋に入っていき、毒のいっぱい詰《つ》まった林檎《りんご》をこしらえたのでした。そと見はとても立派な林檎で、赤い頬と白地《しろじ》の頬をしたものでした。それで、その林檎を見れば、誰もがほしくなるものでした。
ところが、ひと口食べたが最後、その人は死なねばならなかったのです。
林檎の用意ができると、お妃は自分の顔に色をぬって、百姓のおばあさんの服装をしたのです。こうして、お妃は、七つの山を越え、七人の小人のところにいきました。
お妃は入口の扉をとんとんとたたきました。白雪姫は、窓から頭をそとに出して、こう言いました。
「誰も家には入れなくてよ。七人の小人から入れてはいけないと言われているの」
「ああ、いいともさ。こんな林檎なんか、どこかでさばいちまうからね。でも、ひとつあんたにあげようね」と、百姓のおばあさんは、そう言うのでした。
「いらないわ。あたし、なんにももらえないの」と、白雪姫が言うと百姓のおばあさんはこう答えたのです。
「あんた、毒をこわがってるんだね。いいかい、林檎をふたつに切ってみるよ。赤い頬のほうを食べるんだよ。白いほうはわたしが食べるからね」
ところで、その林檎はうまくできていて、赤い頬のほうにだけ毒が入っていたのです。
白雪姫は、その美しい林檎を見ると、ほしくてほしくてたまらなくなったのでした。百姓のおばあさんが食べるのを見たとき、白雪姫はもう我慢できなくなりました。窓から手を出して、毒の入った半分を取ったのです。
白雪姫が、それを口に入れて、ひとかみすると、そのまま床に倒れて死んでしまったのです。お妃は、ものすごい目つきをして、白雪姫を見つめていましたが、とてつもない大きな笑い声を立てて、こう言ったものです。
「雪のように白く、血のように赤く、黒檀《こくたん》のように黒い髪! 小人たちも、今度こそは、おまえを生きかえらせるわけにはいくまいぞ」
こうして、お妃は、城に戻るなり、鏡に向かってたずねました。
「壁にかかった鏡よ、鏡よ、国じゅうで一番のきりょうよし、それはいったい誰かしら」
すると、とうとう鏡は、こう答えたのです。
「お妃さま、あなたが国じゅうで一番のきりょうよし」
そこで、お妃の妬み心もすっかり落ち着くことができたのでした。
ところで小人たちが、日が暮れて、家へ帰ってくると、白雪姫が床に倒れているのを知ったのです。もう口から息もしていません。白雪姫は死んでいたのです。
小人たちは、白雪姫を起こして、なにか毒でもありはしないかとさがしました。締めひもをときました。髪の毛をすいてやりました。からだを水とぶどう酒で洗いました。でも、なんの役にも立ちません。かわいい白雪姫は、死んでしまったのです。そして、死んだままでした。
小人たちは、白雪姫を柩《ひつぎ》の台に乗せました。七人の小人たちはみんなそのそばにすわって、白雪姫を悲しんで泣いたのです。三日間も泣きどおしだったのです。
そこで、小人たちは、白雪姫を葬《ほうむ》ろうとしたのです。
ところが、白雪姫はまるで生きている人間のように、生き生きとしていて、きれいな赤い頬をしていたのです。それで、小人たちは言いました。
「こんな白雪姫を真っ黒な土のなかになんか埋めるなんて、できやしないよ」
小人たちは、どこからでも中が見られるような透《す》きとおったガラスの柩《ひつぎ》を、つくらせたのでした。白雪姫をその柩のなかに納《おさ》めると、その上に金文字で白雪姫の名前を書いて、「これ王女なり」と記《しる》したのです。
それから小人たちは、柩を山の上に運びあげ、誰かひとりがいつもその柩のそばについていて、見張っていたのでした。
すると、動物たちもやってきて、白雪姫を悲しんで泣きました。初めにきたのは、ふくろうでした。それから、からすがきて、おしまいに小鳩がきました。
さて、白雪姫は、こうしていつまでも長いこと、柩のなかに寝ていました。白雪姫はもとのままでした。白雪姫は、まだ雪のように白く、血のように赤く、黒檀のように黒い髪をしていたので、まるですやすや眠っているようでした。
ところが、こんなことが起きたのです。
あるとき、ひとりの王子が、森のなかに迷いこみ、そこで一夜を明かそうと、小人たちの家のところにやってきたのです。
王子は、山の上で柩《ひつぎ》を見つけ、そのなかに寝ている美しい白雪姫を見たのでした。それから王子は、柩に書いてあった金文字も読んでいたのでした。
そこで王子は、小人たちに言いました。
「あの柩を、ぼくにゆずってください。そのかわりみなさんのほしいものをあげましょう」
「わしらは、世界じゅうの黄金《きん》という黄金にかえても、この柩だけは、あげられません」と、小人たちは答えたのです。それで、王子は言いました。
「柩をぼくに贈ってください。白雪姫がそばにいなくては、ぼくは生きていかれないのです。ぼくは白雪姫を、ぼくの宝物として、たいせつに、たいせつにしようと思っています」
王子がそう言ったとき、善良な小人たちは王子に同情して、柩を王子に渡したのでした。王子は、柩を家来《けらい》たちにかつがせて、立ち去っていきました。
ところが、こんなことが起きました。
家来たちが、途中で潅木《かんぼく》につまずいたのです。すると柩がぐらっと揺れた拍子《ひょうし》に、白雪姫がかみ砕《くだ》いて呑《の》みこんでいた古林檎の芯《しん》が、のどから飛び出したのでした。
しばらくすると、白雪姫は目をぱっちりあけました。そして柩のふたを高く持ちあげると、白雪姫は、すっくと立ちあがりました。生きかえったのです。
「あら、わたし、どこにいるの?」と、白雪姫は大きな声で言いました。
「ぼくのそばにいるのだよ」と、王子は喜びのあまりそう言って、どんなことがあったのか、それを言い聞かせてから、こう言ったのです。
「ぼくは、この世のなによりも、きみが好きなんだ。ぼくの父上のお城にいっしょにいこう。きみをぼくの妃にしよう」
それを聞くと、白雪姫は、王子が好きになり、いっしょに出かけていきました。
こうして、豪華で、立派な婚礼の式が用意されました。
お祝いの宴会には、白雪姫の、あの悪い罰《ばち》あたりのまま母も招待されたのです。そしてまま母は、立派な衣服《ふく》を身に着けたとき、また鏡のまえに出て、こう言ったのです。
「壁にかかった鏡よ、鏡よ、国じゅうで一番のきりょうよし、それはいったい誰かしら」
すると、鏡は答えました。
「お妃さま、ここではあなたが一番のきりょうよし。
でも、あの若いお妃は、あなたの千倍もきりょうよし」
これを聞いて、悪いお妃は、呪《のろ》いの言葉を吐き出しました。でも、ひどく心配になり、いてもたってもいられなくなったのです。初めのうちは、結婚式にいこうとはしませんでした。でも、それでは心が落ち着かないので、出かけていって、若いお妃を見ないわけにはいきませんでした。
なかに入ってみると、それが白雪姫だとわかりました。お妃は、心配のあまり、驚きのあまり、その場に立ちすくんで、身動きひとつできなくなりました。
けれども、もう鉄の上靴《スリッパ》は、炭火の上に置いてありました。その鉄の上靴《スリッパ》は、やっとこにはさまれて、お妃のまえに並べられたのです。
お妃は、真っ赤に焼けた鉄の上靴《スリッパ》をはいて、いつまでも、いつまでも床に倒れて死んでしまうまで踊りつづけねばならなかったのです。
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金の鳥
大むかしのこと、ひとりの王さまがおりました。王さまは、お城のうしろに、美しい遊園地を持っていました。そこには、金の林檎《りんご》のなる木が一本立っていました。林檎が実《みの》ると、いくつ実ったかかぞえてありました。ところが、あくる日の朝になると、もうひとつ足りなくなっているのでした。そのことを、王さまに伝えますと、王さまは、毎晩その木の下で見張りをするようにと、命じたのです。
王さまには、三人の息子がおりました。夜になるころ、王さまはいちばん上の息子を、遊園地にいかせたのです。けれども、真夜中になると、息子は眠たくて眠たくてどうにもしようがありません。そのあくる朝、またもや林檎がひとつ足りなくなっていました。
あくる日の夜には、二番目の息子が、見張りをせねばなりませんでした。この息子にしてもうまくいくというわけではありません。十二時の鐘が鳴ると、息子はぐっすり寝こんでしまったのです。それで、そのあくる朝も、林檎はまたひとつ足りなくなっていました。
さて、今度は、三番目の息子に見張りの順番がまわってきました。息子は見張りをするつもりでいたのですが、王さまはそうたいしてあてにはしていなかったのです。あの息子には、兄たちよりもうまくはできまい、と王さまは考えていたのですが、それでも、とうとう見張りにいかせることにしたのです。
こうして、この三番目の若者は、木の下で横になって、見張っていました。そして眠気《ねむけ》には負けないようにしていたのです。
十二時の鐘が鳴りました。空中を横切ってなにやらざわざわという音が聞こえてきました。月あかりを浴びて、一羽の鳥が飛んできたのです。その鳥の羽は、どこからどこまですっかり金いろに輝いていました。
鳥は木の上にとまりました。その鳥が林檎をひとつついばんだときです。若者は、鳥を目がけて矢を射《い》たのです。鳥は逃げました。でも、矢は鳥の羽に命中して、金の羽が一枚落ちてきたのです。
若者は、その羽を拾いあげると、そのあくる日、王さまのところに持っていって、その夜に起きたことを話したのでした。
王さまは、相談役を集めました。すると、相談役の誰もが、このような羽は、王国ぜんたいよりももっと値打ちのあるものです、とはっきり言うのでした。
「その羽が、それほど値打ちのあるものなら、それ一枚だけでは、わしにはなんの役にも立たん。その鳥を、そっくりそのままほしいもんだ。どうしても手に入れなくちゃならん」と、王さまは言いました。
いちばん上の息子が出かけました。自分は利口《りこう》なんだから金の鳥はきっと見つけてみせる、と考えたのでした。
しばらくいくと、森のはずれに狐が一匹すわっていました。そこで息子は、猟銃をかまえて、狐をねらいました。
「撃《う》たないでください。そのかわり、いいことをおしえてあげます。あなたは金の鳥をさがしにいく途中なのでしょう。今晩、あなたはある村に着きます。その村には、宿屋が二軒向かいあっています。ひとつはあかりがあかあかとついていて、なかは賑《にぎや》かです。だけど、そこにとまってはいけません。もうひとつの宿屋へいらっしゃい。見かけは悪そうに見えてもですよ」と、狐は言いました。
「こんなとんまな動物に、ちゃんとした忠告なんぞ、おしえられるもんじゃない!」と、考えて、王子は猟銃をうちました。
しかし、弾《たま》ははずれました。狐はしっぽをぴんとのばして、す早く森のなかに逃げこんでいきました。
それから、王子はまた歩いていきました。
夕方になって、村に着きました。そこには二軒の宿屋がありました。その一軒の宿屋では、みんなが、唄《うた》えや踊れの、大騒ぎをしていました。もう一軒のほうは、貧乏くさい、陰気《いんき》な宿屋でした。
「あんなみすぼらしい宿屋に入って、こっちの立派な宿屋をほりっぱなしにしておくなんて、ばかというもんだ」と、王子は言って、愉快な宿屋のほうに入っていきました。そうしてどんちゃん騒ぎをしているうちに、王子は、鳥のことも、父王のことも、それに立派なおしえも、みんな忘れてしまったのでした。
こうしてしばらくときがたちましたが、いちばん上の王子は、いつまでたっても帰ってきませんでした。それで二番目の王子が出かけていきました。金の鳥をさがしにいこうとしたのです。いちばん上の王子のときとおなじように、二番目の王子も狐に出会ったのです。すると狐は二番目の王子に忠告をしたのですが、王子は聞こうとしません。
それから王子は、二軒の宿屋のところにきました。するとどんちゃん騒ぎしている宿屋の窓のところに、いちばん上の王子が立っていて、二番目の王子に呼びかけたのでした。二番目の王子はいやだとも言えなくなって、なかに入っていきました。こうして二番目の王子も、そこでだらしのない生活を送ることになったのです。
またもや、それからときがたっていきました。こんどは、末《すえ》の王子が、出かけていって、運だめしをしようとしたのです。ところが、父王はもう許そうとはしません。
「むだなことだよ。あの子は、兄たちよりへたくそで、金の鳥など見つかるまい。不幸な目にでもあおうものなら、あの子は途方にくれるばかりだ。肝心《かんじん》なところが抜けとるからな」と、王さまは言いました。
ところが、王子がうるさく頼《たの》むので、とうとう王さまは、王子を旅に出してやったのです。
森のまえにいくと、また狐がすわっていました。狐は、命だけは助けてくださいと願って、いいことをおしえてくれました。
若い王子は、やさしい青年であったので、こう言ったのです。
「狐さん、安心しなさい。ぼくは、なにも悪いことなんぞしないからね」
すると、狐はそれにこう答えたのです。
「後悔することなんかありませんよ。もっと早く、先へいけるように、わたしのしっぽにお乗りなさい」
若い王子がしっぽに乗るか乗らないうちに、狐は駆《か》けだしたのでした。切り株だろうが、石ころだろうが、その上を飛ぶように走っていったので、髪の毛は風にびゅうびゅう鳴りました。そして、村に着いたとき、王子はしっぽからおりて、狐のおしえにしたがいました。見まわしもしないで、王子は貧弱な宿屋のほうに入っていって、ゆっくりと夜を明かしたのでした。
あくる日の朝、王子が野原にやってきたとき、もう狐がそこにすわっていました。
「これからあなたがやらねばならないこと、わたしはもっとおしえてあげたいのです。いいですか、どこまでもまっすぐにいらっしゃい。すると、しまいに、お城のところにいき着きます。お城のまえには、大ぜいの兵隊がいます。そんなもの気にしないでいいんですよ。兵隊たちは、みんなぐうぐういびきをかいて寝ているんですからね。真ん中を抜けていくんですよ。まっすぐお城のなかに入るんです。部屋という部屋を通っていくと、あなたは最後に、金の鳥が木のかごに入っている部屋に入っていくでしょう。そのそばに空《から》っぽの金の篭《かご》が、飾りものとして置いてあります。でもあなたは、悪い木の篭から金の鳥を出して、素敵な金の篭に入れたりしないようにしてください。そんなことをしようものなら、ひどい目にあいますよ」
そう言い終わると、狐はまたしっぽをぴんと立てました。王子はそのしっぽに乗りました。切り株だろうが、石ころだろうが、その上を飛ぶように走っていったので、王子の髪の毛は風にびゅうびゅう鳴りました。
お城に着いてみると、そっくりそのまま狐が話してくれたとおりでした。王子は部屋のなかに入っていきました。金の鳥が木の篭のなかにいました。そしてそのそばには金の篭が置いてありました。
ところで、例の三つの、金の林檎が、部屋のなかに転《ころ》がっていました。そこで王子は、きれいな鳥を、こんなつまらない、いやらしい篭《かご》に入れておくなんて、ばかな話しだ、と考えて、篭の口をあけるや、鳥をつかんで、それを金の篭に移してしまったのです。
すると、そのとたん、鳥はつんざくような声を立てて叫びました。兵隊たちは、目をさまして、飛びこんできました。そして、王子を牢屋に連れていきました。
あくる日の朝、王子は法廷に呼び出されました。王子は、なにもかも白状したので、死刑を言い渡されました。
けれども、そこのお城の王さまは言いました。
「もしもおまえが、風よりも速く走る金の馬を連れてくるのなら、その条件のもとで、おまえの命を助けてやろう。いや、そればかりか、報酬《ほうしゅう》として、金の鳥を持っていってもよいぞ」
王子は出かけていきました。でも、ため息をついて、悲しそうにしていました。それもそのはず、いったいどこにいったら金の馬が見つかるというのでしょう? このとき、ふと目についたのは、おなじみの友人、狐が道ばたにすわっていたのでした。狐は言いました。
「ねえ、こんなことになったのも、あなたがわたしの言うことをきかなかったからですよ。でも、勇気をお出しなさい。面倒をみてあげますから。どうしたら金の馬のところにいけるかおしえてあげましょう。
まっすぐ、ずんずんいくのです。すると、お城のところにいきます。そこの馬小屋に、馬がいます。馬小屋のまえには、馬丁《ばてい》たちがいるでしょう。でも、いびきをかいて寝ていることでしょう。だから、金の馬をうまくそとに連れ出すことができます。ですがね、ひとつだけ注意しなければならないことがありますよ。その馬には、木と皮からできた粗末《そまつ》な鞍《くら》を置くんです。いいですね、そばにかけてある金の鞍を置いてはいけませんよ。さもないと、あなたはひどい目にあうでしょう」
そう言って、狐は、しっぽをぴんと立てました。王子は、そのしっぽに乗りました。切り株だろうが、石ころだろうが、その上を飛ぶように走っていったので、王子の髪の毛は風にびゅうびゅう鳴りました。
なにもかも、狐が言ったとおりになりました。王子は馬小屋のなかに入っていきました。そこには、金の馬がいました。王子が金の馬に粗末な鞍を置こうとしたとき、王子は考えたのでした。「もしぼくが、この馬にふさわしい立派な鞍を置いてやらなかったら、きれいな馬もだいなしというわけだ」
ところが、金の鞍がこの馬に触れるやいなや、馬は大きな声でいななきはじめたのでした。それで、馬丁は目をさまし、若い王子をつかまえると、牢屋に投げこんでしまったのでした。
あくる日の朝、王子は法廷のまえで、死刑の宣告をうけたのです。けれども、もし王子が、美しい姫を金の城から連れ出してきたら、命は助けてやろう。いいや、そのうえ、金の馬もくれてやろう、とお城の王さまは、王子に約束したのです。
気も心もふさぎこんで、王子は出かけていきました。でも幸《さいわ》いなことに、王子はまもなく忠実な狐に出会ったのでした。
「あなたを不幸《ふしあわせ》のままにしておいたほうがいいと思うのですがね」と、狐は言いました。「でも、お気の毒でしかたがない。それでは、もう一度だけ、助けてあげましょう。あなたが、この道をまっすぐいけば、金のお城に出るでしょう。晩がたに着きますよ。夜になって、なにもかも、しーんと静まりかえると、王さまの美しい姫が、お湯《ゆ》を使いにお湯殿《ゆどの》に入っていきます。姫がお湯殿に入ったら、姫に飛びかかって、キスをしなさい。そうすると、姫はあなたの言うとおりになって、姫を連れ出すことができるでしょう。ただね、連れだすまえに、両親に『さようなら』を言わせたりしてはいけませんよ。言わせたりしたら、あなたは不幸《ふしあわせ》な目にあうでしょう」
そう言い終わると、狐はまたしっぽをぴんと立てました。王子はそのしっぽに乗りました。切り株だろうが、石ころだろうが、その上を飛ぶように走っていったので、王子の髪の毛は風にびゅうびゅう鳴りました。
金のお城に着いてみると、そこはそのまま狐の言ったとおりでした。王子は、真夜中《まよなか》になるまで待っていました。なにもかも、しーんと静まりかえって、美しい姫がお湯殿に入っていきました。このときとばかり、王子はぱっと飛び出して、姫にキスをしたのです。
美しい姫は、言いました。
「喜んで、あなたのお供をしたいと思います」
でも姫は、はらはらと涙を流して、王子に頼んだのでした。
「そのまえに、両親に『さようなら』を言わせてください」
初めのうちは、王子も姫の頼みを聞き入れなかったのですが、姫がおいおいと泣いて、王子の足もとに泣きくずれてしまったので、王子も、とうとう姫の頼みを聞き入れてしまったのです。
ところが、姫が父王のベッドのそばにいくやいなや、父王も、それからお城にいたすべての人びとも、みんな目をさましたのでした。そして、王子は、つかまると、また牢屋に入れられてしまったのでした。
あくる日の朝、お城の王さまは、王子に言いました。
「おまえは死刑だ。だがな、わしの窓のまえにある山を、取りこわしてくれたなら、赦《ゆる》してやってもよいぞ。なにせ、その山のせいで、見晴らしが悪くてな。八日間《ようか》のうちに取りこわしてくれなくちゃならんぞ。もしうまくできたら、わしの娘を、ほうびとして、つかわそう」
王子は仕事を始めました。一刻《いっこく》も手を休めず、土を掘り、シャベルですくいました。しかし、七日たっても、仕事はほんの少ししか進みません。やった仕事も、なんにもしないのとおなじでした。王子はがっかりしてしまい、希望という希望をすっかりなくしてしまいました。
けれども、その七日目の晩がたのことです。いつもの狐が出てきました。そして言いました。
「あなたは、めんどうみきれない人ですね。それでも、まあ、むこうにいって、ひと眠りなさい。あなたのかわりに、わたしがひと仕事やってあげましょう」
あくる日の朝、王子が目をさまして、窓からそとを見てみると、山は跡《あと》かたもなく消えているではありませんか。王子は、大喜び、さっそく王さまのところにいって、お約束の取り決めがととのいました、と告げたのです。
王さまは、いやでもおうでも、約束を守って、自分の姫を王子に授《さず》けねばなりませんでした。
さて、こうして王子と姫のふたりは、いっしょになってお城を出ていきました。それから、しばらくすると、あの忠実な狐がふたりのところにやってきました。
「なるほど、あなたは立派なものを手に入れましたね。でも、金の城のお姫さまには、金の馬がつきものですよ」と、狐が言うので、王子は狐にたずねました。
「どうしたら、金の馬が手に入るかね」
すると、狐がおしえてくれました。
「おしえてあげましょう。あなたを金のお城にいかせたあの王さまのところに、あなたの美しいお姫さまを連れていらっしゃい。みんなは、大喜びするでしょう。みんなは、あなたに金の馬を喜んであげるといって、金の馬をあなたのまえに連れてくるでしょう。そしたら、すぐに飛び乗るのです。そして、馬の上から、みんなに別れの握手をするのです。最後には、お姫さまとも握手をするんですが、あなたがお姫さまの手を握ったら、ひらりとお姫さまを馬の上に引っ張りあげるのですよ。そうしたら、一目散《いちもくさん》につっ走るのです。なにしろ、その馬は風よりも速く走るのですから、誰だってあなたには追いつけやしませんよ」
なにもかも、うまくやりおおせました。王子は美しい姫を馬に乗せて、立ち去っていきました。狐もあとには残らないで、ついてきて、王子に言うのでした。
「今度は、金の鳥も手に入るよう、てつだってあげましょう。金の鳥のいるお城に近づいたら、お姫さまを馬からおろすんです。お姫さまは、わたしがたいせつにお世話してあげましょう。それから金の馬に乗って、お城の中庭に入っていらっしゃい。それを見て、みんなは、大喜びをしますよ。そして、みんなはあなたに金の鳥を持ってきてくれるでしょう。その鳥かごを手にしたら、一目散にわたしたちのところに戻ってきて、お姫さまを連れていくんです」
狐の企《たくら》みがうまくいって、王子が宝物を持って、馬で城に帰ろうとしたときです。狐が言いました。
「わたしはあなたを助けてあげました。さあ、あなたはそのお返しをしなければなりません」
「そうか、お返しには、なにがほしいかね」と、王子がたずねますと、狐は言いました。
「わたしたちが、あの森のなかに着いたら、わたしを射《う》ち殺してください。そして、わたしの頭と手足を切り落としてください」
「これはまた、とんでもない恩返《おんがえ》しというものだ。そんなことをかなえてあげるわけにはいかないね」と、王子が言うと、狐はこう答えて言うのでした。
「してくださらないというのなら、お別れせねばなりません。でも、お別れのまえに、もうひとつだけ、いいことをおしえてあげましょう。ふたつのことに注意してくださいよ。首つり台の肉は買わないこと、それから、井戸のふちには腰かけないこと、このふたつです」
そう言って、狐は森のなかに姿を消しました。
「あれは、妙なことを考える不思議な奴《やつ》だ。誰が首つり台の肉なんか買うもんか! 井戸のふちに腰かけるなんて、そんなこと考えてみたこともない」と、王子は思いました。
王子は、美しい姫を連れて、馬に乗っていきました。進んでいく道は、ふたりの兄王子が住みついてしまった村を通っていたのです。
その村では、大騒動が起きていました。なにごとがあったのか、とたずねてみますと、ふたりの男が首つり台につるされるのだ、ということでした。王子が近よってみますと、そのふたりの男は、なんと兄王子たちだったのです。さんざん悪いことをしたあげく、財産をすっかり使いはたしてしまったのです。
兄王子たちを助けてもらえないものだろうかと、王子はたずねてみたのです。
「あのふたりのために、あんたが金でも出す気ならね。だけど、なんだってあんな悪い奴らに金を出して救ってやろうなんて気になったんだね」と、みんなは言うのでした。
けれども、王子は、もうなにも考えないで、身代金《みのしろきん》を払ったのです。兄王子たちが許されると、兄弟王子たちは、みな連れ立って旅をつづけました。
こうして、王子たちは、狐と初めて出会った森のなかにやってきました。太陽がぎらぎらと照りつけているのに、ここは涼しくて、とてもいい気持ちでした。そこで、ふたりの兄王子は言いました。
「ここの、井戸のそばで休もうじゃないか。食べたり飲んだりしていこうよ」
末の王子も賛成しました。それからいろんな話しをしているうちに、王子は、ついうっかりと、井戸のふちに腰をおろしてしまったのです。悪いことが起きるなどとは、思いもよらなかったのです。
ところが、ふたりの兄王子は、なんと末の王子を仰向《あおむ》けに、井戸のなかに突き落としてしまったのでした。
そして、美しい姫と、金の馬と、金の鳥とを連れて、故郷《くに》の父王のところに帰っていったのです。
「さあ、ぼくたちは、金の鳥を持ってきました。そればかりではありません、金の馬も、それから金のお城のお姫さまも、ぶんどってきました」
兄王子たちが、そう言ったとき、誰もがみんな大喜びしました。ですが、馬はなにも食べようとしませんし、鳥も鳴こうとはしません。姫は、すわったまま、泣いてばかりいました。
ところで、末の王子は、死んでいなかったのです。幸い井戸は、水がかわいていて、王子はやわらかい苔《こけ》の上に落ちたのです。怪我《けが》ひとつしなかったのです。けれども、そとに出ることはできませんでした。
こうして、困りはてていたときです。あの忠実な狐は、今度も王子を見捨てておかなかったのです。狐は、王子のところにぴょいと飛びおりてきました。
「わたしのおしえておいたいい教えを忘れたのですね」と、狐は王子を叱りつけました。
「だけど、このまま、ほうっておくわけにもいくまい。もう一度、日の目を見せてあげよう」
自分のしっぽをしっかりつかんで、かじりついているように、と狐は言って、王子を引っ張りあげたのです。
「また危ない目にあうかも知れませんよ。あなたの兄さん王子たちは、あなたがほんとうに死んだとは、思っていないのですからね。森のまわりに番兵を立たしています。番兵どもは、あなたが見えたら、殺してしまえ、と言いつけられているのですよ」
ちょうどそのそばの道ばたに、みすぼらしい男がすわっていました。そこで、末の王子は、そのみすぼらしい男と着物の取りかえっこをして、父王の城の中庭に入っていったのです。王子は、誰にもわかりませんでした。でも、金の鳥が鳴きはじめ、金の馬は食べはじめました。そして、美しい姫も泣くのをやめてしまったのです。
「これは、どういうことなんだ」と、王さまが驚いてたずねますと、姫は、それに答えて言いました。
「どうもわからないのですが。でも、とても悲しかったのに、いまは、ほんとうに嬉しくて。わたしの、ほんとうの花婿《はなむこ》さんが、おいでになったみたいだわ」
それから、兄王子たちからは、秘密をもらしたら、殺してやるぞと、おどされていたのですが、いま姫は王さまに、いままでのことをすっかり話してしまったのです。
王さまは、城のなかにいるものをひとり残らず呼びよせました。末の王子も、みすぼらしい男のぼろを着たまま、やってきました。姫は、すぐさま末の王子を見破って、その首にかじりつきました。ところで、あの悪い兄王子たちはつかまって、処刑《ころ》されてしまったのでした。
末の王子は、美しい姫と結ばれて、王さまの後継ぎということになったのです。さて、あのかわいそうな狐は、どうなったのでしょう?
それから、だいぶたってのことです。あるとき、王子はまたあの森のなかに入っていきました。すると、狐が出てきて、王子に言いました。
「あなたは、お望みどおり、なにもかもお持ちになれましたね。でも、わたしの不幸《ふしあわせ》ときたら、いっこうに終わりそうもないのです。けれど、あなたには、わたしを救い出してくれる力があるのです」
狐は王子に、自分を殺して、首と手足を切り落とすようにと、なん度も、なん度も頼んだのでした。そこで、王子は、狐の頼みどおりにしてやりました。ところが、そうしてやるかやらないうちに、狐は、ぱっと人間の姿に変わったのです。
狐は、誰知ろう、美しい姫のお兄さんであったのです。とうとう、かけられていた魔法から解《と》きはなされたのです。
こうして、みんなは、生きているかぎり、なにひとつ不幸《ふしあわせ》なことにあうこともありませんでした。
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金のがちょう
むかし、ひとりの男がおりました。その男には、三人の息子がいて、そのうちのいちばん末《すえ》の息子は、まぬけと言われていました。
まぬけは、いつも軽蔑《けいべつ》され、ばかにされ、ことあるごとに冷たくあつかわれていたのです。
あるとき、いちばん上の息子が森にいって、木を切ってこようとしたことがありました。出がけに、息子の母親は、お腹《なか》がすいて、のどがかわいたりしてはいけないと、おいしい上等な卵のお菓子とぶどう酒を一本持たせてやりました。
息子が森のなかに入っていきますと、しらが頭の年寄りの小人と出会いました。小人は「こんにちは」とあいさつをしてから、息子にこう言ったのです。
「あなたの袋のなかのお菓子をひと切れ、どうかわたしにくれませんか。それから、ぶどう酒をひと口、飲ませてくださいな。お腹《なか》はぺこぺこ、のどはからからなんですよ」
けれども、抜け目のない息子は、
「ぼくの持っているお菓子やぶどう酒をおまえにやったら、ぼくのがなくなっちゃうよ。さあ、どいた、どいた」と、言うなり、小人を置き去りに、さっさといってしまいました。
息子は、一本立っている木のところにきて、その木を切りはじめました。こうして、しばらく切っているうちに、切りそこなって、斧《おの》がぐさりと腕に食いこみ、家に戻って、包帯《ほうたい》をしてもらわねばならぬという始末《しまつ》になりました。
ところが、これは、あのしらが頭の小人のやったことなのです。
それから、今度は、二番目の息子が森にいくことになりました。母親は、上の息子にしてやったように、この息子にも、卵のお菓子とぶどう酒を一本持たせてやりました。今度もおなじように、この息子も、しらが頭の年寄りの小人と出会いました。
小人は息子をとめて、お菓子をひと切れ、ぶどう酒をひと口飲ませてください、とせがんだのでした。しかし、二番目の息子も、抜け目なく、
「おまえにやれば、ぼくの分がなくなるじゃないか。さあ、どいた、どいた」と、そう言うなり、小人をそこに置き去りに、さっさといってしまいました。
罰《ばち》があたらないわけはありません。二、三度木を切りつけているうちに、脚に一撃《いちげき》くらわしてしまったのです。こうして二番目の息子も、家に運ばれるという始末になりました。
そこで、まぬけが言いました。
「お父さん、ひとつ、木を切らせに、ぼくを森にいかせてください」
「おまえの兄さんたちは、それで怪我《けが》をしたんだよ。やめときなさいよ、おまえは。それに切り方なんか知らないくせに」と、父親は答えたのですが、まぬけがいつまでもそう言い張るので、とうとう父親も言いました。
「じゃあ、いっといで。怪我でもすりゃあ、おまえも利口《りこう》になるだろうよ」
母親は、水でこねて灰のなかで焼いた菓子と、それにすっぱいビールを持たせてやりました。
まぬけが森のなかへ入っていきますと、今度もおなじように、しらが頭の年寄りの小人と出会いました。小人は、まぬけにあいさつをして、それから言いました。
「あなたのお菓子をひと切れくださいな。それから、あなたの瓶《びん》からひと口飲ませてくださいな。お腹はぺこぺこ、のどはからからなんです」
「でもね、ぼくの持ってるのは灰焼きのお菓子とすっぱいビールだけなんだ。でも、それでいいというなら、ぼくたち、いっしょにすわって食べようよ」と、まぬけは言いました。
そこでふたりはいっしょにすわって、まぬけが灰焼き菓子を袋から取り出してみると、なんと、それは上等な卵のお菓子、すっぱいビールは上等なぶどう酒になっていたのです。ふたりがお菓子を食べ、ぶどう酒を飲みますと、さて、小人が言うのでした。
「あなたは立派な心の持ち主で、自分の持っているものを喜んで分けてくださった。だから、わたしはあなたに幸福を授《さず》けてあげたい。あそこに、古い木が一本立っているでしょう。あの木を切り倒しなさい。あの根っこのなかに、なにかありますよ」
そう言うと、小人は別れて、どこかにいってしまいました。
まぬけのほうは、出かけていって、その木を切り倒しました。木が倒れると、根っこのなかには一羽のがちょうがいました。そのがちょうの羽毛《うもう》は、純金でした。まぬけは、がちょうを木の根っこから取り出すと、がちょうをかかえて、一軒の宿屋に入っていきました。その晩はひと晩、宿屋にとまろうとしたのです。
ところが、その宿屋の主人のところには、三人の娘がおりまして、娘たちは、そのがちょうを見ると、なんとすばらしい鳥なのだろう、と珍しがりました。そして娘たちは、そのがちょうの純金の羽毛が、一本だけでいい、ほしくてたまらなくなったのです。
いちばん上の娘は思いました。
「一本ぐらい抜き取れる機会も、きっとあるわ」
あるとき、まぬけが外に出かけていったことがありました。さっそくいちばん上の娘ががちょうの羽根をつかんだのです。ところが、娘の手も指も、がちょうにぴったりくっついて、はなれなくなってしまったのでした。
するとまもなく、二番目の娘がやってきて、純金の羽毛を一本いただこうと、そう思いこんで自分の姉さんにさわるや、この娘もぴったりとひっついてしまったのでした。
しまいには、三番目の娘も、おなじことを考えて、やってきました。そこでふたりの姉さんたちは、「くるんじゃないよ、頼《たの》むから、はなれておいで」と、大声で叫んだのでした。
けれども、三番目の娘には、どうしてはなれていなければならないのか、それがわからず、「姉さんたちだって、あそこにいるんだから、わたしだっていったっていいじゃない」と考えて、三番目の娘も飛んでいきました。娘が、姉さんたちに触れると、またもやぴったりひっついてしまったのでした。こうして、三人の娘たちは、がちょうといっしょにその夜を明かさねばならなくなったのです。
そのあくる日の朝です。まぬけは、がちょうを腕に抱いて、出かけていきました。まぬけは、がちょうにひっついた三人の娘のことなど少しも気にしません。三人の娘は、ひっついたまま、いつもまぬけのあとを、足の向くまま、左へ右へとついていくほかありませんでした。
畑の真ん中にきたときに、みんなは牧師さんに出会いました。牧師さんはこの行列を見ると、言いました。
「おまえたちは、いやらしい娘だ。なんだって若い男の後を追って、畑のなかをつっ走っていくんだ。娘のするこっちゃないだろう。恥を知りなさい、恥を」
そう言って、牧師は末娘の手をつかんで、引き戻そうと、娘に触れるや、牧師もおなじようにぴったりひっついて、みんなの後から、すたすたついていくことになったのです。
こうしてまもなくすると、今度は、教会堂の番人がやってきました。番人は、三人の娘の後をついていく牧師を見て、びっくりしてしまったのでした。番人は、大声で言いました。
「へへえ、牧師さま、そんなに急いで、どちらにいかれるんです? お忘れじゃないでしょうね、きょうは赤ん坊の洗礼があるんですよ」
教会堂の番人が、牧師のところに駆《か》けよって、牧師の袖をつかむと、これまたぴったりひっついてしまったのでした。
こうして五人が、つながってとっとと歩いていくと、鍬《くわ》をかついで野良《のら》から帰ってきたふたりの百姓がやってきました。すると牧師は、百姓たちに声をかけて、自分と教会堂の番人を引きはなしてくれないかと頼んだのでした。
けれども、百姓たちがその番人にさわるや、百姓たちもぴったりひっついてしまったのです。これで、いまは、みんなで七人になりました。そして、七人は、がちょうをかかえたまぬけの後を追って走っていくことになったのです。
こうして、まぬけは、ある王さまの支配している都会《まち》にやってきました。その王さまには、ひとりの姫がいたのです。姫は、まことにきまじめで、誰ひとり姫を笑わすことはできませんでした。それで、王さまは、もし姫を笑わすものがいたら、姫を嫁にやろう、というお布令《ふれ》を出していたのです。
まぬけは、それを聞くと、がちょうを抱いて、一党を引き連れ、姫のまえに出ていきました。この七人の人間が、いつもつながって、ぞろぞろと走っていくのを目にした姫は、げらげらと笑いはじめ、それがおかしくてどうにも笑いが止まらなくなったほどでした。
そこで、まぬけは、姫を自分の嫁にほしいと願い出たのです。ところが王さまには、まぬけの婿《むこ》では気に入りません。王さまは、ああだ、こうだと、いろいろ文句をつけてから、穴蔵いっぱいに詰《つ》まったぶどう酒をごくごく飲みほせるような男を連れてこなくちゃいかん、と言うのでした。
まぬけは、あのしらが頭の小人のことを思い出しました。あの小人なら、助けてくれるだろう、そう思って、まぬけは森のなかに入っていきました。すると、まえにまぬけが木を切り倒したところに、ひとりの男がすわっていました。男はとても悲しそうな顔をしていました。何でそんなに悲しんでいるのかと、まぬけはたずねました。すると男は答えるのでした。
「わたしは、のどがからからなのです。それをどうにもいやすことができないのです。わたしは、水はだめ。なるほど、ぶどう酒なら、ひと樽《たる》飲みほしたことはありました。でも、ひと樽ぐらいでは、焼け石にひと滴《しずく》というところです」
すると、まぬけが言いました。
「それじゃ、ぼくが助けてあげよう。ぼくといっしょにくるがいい。あきるほど飲ませてあげるよ」
そこで、まぬけは、男を王さまの穴蔵に連れていきました。すると男は大きなぶどう酒の樽に飛びかかって、つぎからつぎへと、ごくごく飲みました。腰がきゅうっと痛くなるほども飲んだのです。こうして一日もかからないうちに、男は穴蔵のぶどう酒をすっかり飲みほしてしまったのでした。
さて、そこでもう一度、まぬけは、花嫁がほしいと願い出たのです。すると、王さまは、誰もがまぬけだと言っているそんなばかものに、わしの姫がさらわれては、とひどく腹を立てて、またまた条件を出しました。今度は、山ほどあるパンをぺろりと食べてしまうような男を、連れてこにゃならんぞ、というのです。
まぬけは、あまり考えもしないで、さっそく例の森のなかに入っていきました。すると、またあのおなじ場所に、ひとりの男がすわっていたのです。その男は、皮ひもでからだをぎゅっと締めつけて、気むずかしそうな顔をしていました。
「パン焼きがまいっぱいのパン粉用のパンをたいらげたことがあったんだが、わたしのように、いつもこうお腹《なか》がすいてしまうのでは、それもなんにも役に立たないしね。それに、お腹がすいて死んでしまうなんてほうもないし、それで、こうして皮ひもでからだをぎゅっと締めつけているよりほかないんですよ」と、その男が言うので、まぬけは喜んで言いました。
「さあ、立って、ぼくといっしょにいこう。たくさん食べさせてあげるよ」
まぬけは、その男を王さまの御殿《ごてん》に連れていきました。王さまのほうは、国じゅうから集めさせた小麦粉で、パンを焼かせておそろしく大きなパンの山をつくらせました。
ところが、森からやってきたその男は、パンのまえに立つと、むしゃむしゃと食べはじめ、一日のうちにすっかりたいらげて、パンの山はあとかたもなく消えてしまったのでした。
そこで、三度《みたび》、まぬけは、姫を花嫁にくださいと申し出たのです。ところが、王さまは、またまた口実をつくって、水の上でも、陸の上でも走れる舟を持ってくるように、と言いました。
「ところで、おまえが、その舟に帆《ほ》をあげて、乗ってきたら、すぐにもわしの娘を、花嫁にくれてやろう」
まぬけは、森を目ざしてまっすぐに、さっさと歩いていきました。森にいきますと、しらが頭の年寄りの小人がすわっていました。まぬけが自分の菓子を与えてやった例の小人です。
「わたしは、あなたのために、ぶどう酒を飲んであげましたし、パンも食べてあげました。今度もひとつ、あなたのために、舟もさしあげることにしましょう。わたしが、なにもかも、あなたのためにしてあげるのも、あなたが、わたしに親切だったからなのですよ」
そこで、小人は、水の上でも、陸の上でも走れる舟をまぬけに与えたのでした。
王さまも、この舟を見ると、自分の娘をもうまぬけの花嫁にしないわけにはいかなくなりました。こうして、ふたりの結婚式があげられたのでした。
それから、王さまが亡《な》くなられたあとも、このまぬけが、その国を受け継《つ》いで、自分のお妃《きさき》といっしょに、なに不自由なく、末長く暮らしたということです。
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ヨリンデとヨリンゲル
むかし、こんもりとした大きな森の真ん中に、古いお城が立っていました。お城のなかには、おばあさんがたったひとり住んでいました。
そのおばあさんは、たいへんな魔法使いだったのです。昼間のうちは、自分の姿を、猫や梟《ふくろう》に変えていました。夜になると、またもとどおり、ちゃんと人間の姿になっているのです。
魔法使いのおばあさんは、けものや鳥をうまくおびきよせ、それから、そのけものや鳥を殺して、煮たり焼いたりしてしまうのでした。
そのお城の百歩手前まで近づくと、誰もがじっと立ったままになってしまって、おばあさんがいいよと言うまでは、その場から一歩も動けなくなってしまうのでした。
ところが、清らかな少女《おとめ》が、この魔法の圏《わ》のなかへ入ると、おばあさんは、その少女を鳥の姿に変えてしまい、篭《かご》のなかに閉《と》じこめてしまうのでした。それから、その篭をお城のなかの、どこかの部屋のなかに運んでいくのです。
おばあさんは、珍らしい鳥の入ったこうした篭を、少なくとも七千は、お城のなかに持っていたのです。
さて、ヨリンデという名の少女がいました。ほかのどんな娘たちよりも、ずっと美しい少女でした。この少女と、それからヨリンゲルという名の、とても美しい若者とは、もうお互いに婚約をしていたのです。
婚約ちゅうのこのふたりは、お互いにどうにも好きで好きでたまらなかったのです。そこで、こうしたら、ふたりきり水入らずで話しができるかもしれないと、ふたりは、この森のなかに散歩に出かけたのでした。
「お城には近よらないようにね、気をつけるんだよ」と、ヨリンゲルが言いました。
きれいな夕暮れどきです。木の枝をとおして、お陽《ひ》さまが、森の濃い緑のなかに明るく射《さ》しこんでいました。きじ鳩が、ぶなの老木で、悲しそうに啼《な》いていました。
ときどきヨリンデが泣きました。お陽さまの光りを浴びては、悲しそうになげくのでした。ヨリンゲルもまた、悲しそうになげくのでした。こうして自分たちは死んでしまうのかしら、そう思って、ふたりはびっくりしたのです。ふたりは、見まわしました。迷いこんでしまっていたのです。家へ帰るには、どちらにいったらよいものか、見当もつきません。
お陽《ひ》さまは、まだ半分は、山の上にありましたが、あとの半分は、山のかげでした。ヨリンゲルが、木の茂みをとおして見ると、お城の古い壁が、すぐ近くに見えたのです。ヨリンゲルは、ぎょっとして、生きた心地もしませんでした。すると、ヨリンデが、こんな歌をうたっていました。
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「わたしの小鳥が、赤い指輪を指にはめ、
悲しい、悲しい歌をばうたい、
かわいい鳩には、死の歌を、そして
悲しい歌をばうたって、……ツィキュート、ツィキュート」
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ヨリンゲルは、ヨリンデのほうを見ました。もうヨリンデは、夜鴬《ナイチンゲール》に姿を変えていたのです。そして、「ツィキュート、ツィキュート」と、歌っていました。
燃える火のような目をした梟《ふくろう》が一羽、その夜鴬のまわりを、三度《みたび》飛びまわって、三べん叫びました。
「シュー、フ、フ、フ」
ヨリンゲルは、身動きできなくなりました。その場に、石のように立ったまま、泣くことも、しゃべることも、手足を動かすこともできませんでした。
さて、お陽さまは、沈んでいきました。梟が潅木《かんぼく》のなかに飛びこむと、腰のまがったおばあさんが、そこから出てきました。黄いろい肌の、やせこけたおばあさん。大きくて、真っ赤な目玉、まがった鼻のさきは、頤《あご》のところにとどいていました。
おばあさんは、なにやらぶつぶつ言って、夜鴬《ナイチンゲール》をつかまえると、手にとまらせて、どこかへ持っていってしまいました。
ヨリンゲルは、なにも言うことができません。その場をはなれることもできません。夜鴬は、もういないのです。
やっと、おばあさんが帰ってきました。そして、さえない声で、こう言うのでした。
「どうだね、臆病《おくびょう》さん。お月さんが、小さな篭を照らしたら、いい時期《とき》みて、魔法を解《と》いてあげるよ」
やがて、ヨリンゲルのからだの魔法が、解けました。そこで、ヨリンゲルは、おばあさんのまえに、ひざまずいて、わたしのヨリンデを返してください、と頼《たの》みました。ところが、おばあさんは、ヨリンデはおまえに返すわけにはいかん、と言って、さっさとどこへやらいってしまったのです。ヨリンゲルは泣き叫びました。もう泣いても、わめいても、なにをしてもむだでした。
「やれやれ、どうなることやら」
ヨリンゲルは、その場を立ち去ってゆきました。そして、しまいには、どこか知らない村にやってきて、そこで長いこと羊の番をすることになりました。
ところで、ときおりヨリンゲルは、お城のまわりをまわってみるのでした。しかし、あまり近づくことはしませんでした。
そのうち、とうとうある晩のこと、ヨリンゲルは夢を見たのでした。血のように真っ赤な花を見つけた夢です。その花の真ん中には、きれいな大きな真珠が、はめこんでありました。
ヨリンゲルは、その花をつんで、お城に持っていきました。ヨリンゲルがこの花で触れたものは、なにもかも魔法から解かれたのでした。こうして、ヨリンゲルは、あのヨリンデを取りかえす夢も見たのでした。
朝になって、目をさますと、こんな花が見つかるかもしれないと、ヨリンゲルは、山や谷間をさがしはじめたのです。さがしまわって、九日目のことでした。その日の朝早く、血のように真っ赤な花を見つけました。その花の真ん中には、ほんとうに美しい真珠のような大きさの露《つゆ》のひと雫《しずく》が宿《やど》っていました。
この花を手にすると、ヨリンゲルは、夜を日についでお城へと向かいました。お城の近く、あと百歩というところまできました。でも、べつだんからだも固くならずに、門のところまで歩いていけました。ヨリンゲルは嬉しくてたまりません。花で門の扉にさわると、扉はぱっとあきました。
ヨリンゲルは、なかに入っていきました。中庭を通ってから、聞き耳を立てました。たくさんの鳥の声、どこから聞こえるのだろう。とうとう、ヨリンゲルはその声を、聞きつけたのです。
ヨリンゲルは歩いていって、広間をさがしあてました。広間には魔法使いのおばあさんがいて、七千の篭に飼《か》っていた小鳥たちに餌《えさ》をやっているところでした。
おばあさんは、ヨリンゲルを見ると、怒りました。かんかんになって怒りました。がみがみと怒鳴《どな》りました。毒液《どくえき》や胆汁《たんじゅう》を吐きかけました。けれども、おばあさんは、ヨリンゲルの二歩手前までしか近よれなかったのです。
ヨリンゲルは、おばあさんのほうには振り向きもしないで、さっさと歩いていって、鳥の入っている篭をしらべてみたのでした。けれども、夜鴬は、なん百羽となくいるではありませんか。これでは、いったい、どうしたらヨリンデに会えるのだろうか?
ぼんやりながめているうちに、ヨリンゲルは、ふと気がついたのでした。あのおばあさん、小鳥の一羽入っている篭を、こっそり持ち出して、戸口のほうに歩いていったな。
さっとばかり駆《か》けよると、ヨリンゲルは、例の花でその篭に触れ、おばあさんにもさわったのです。これで、おばあさんは、もう魔法を使うことができませんでした。
ヨリンデが、いたのです。ヨリンデは、ヨリンゲルの首に抱きついていました。ヨリンデは、まえとおなじように美しい、とても美しい少女でした。ヨリンゲルは、ほかの鳥も一羽残らずもとの少女にもどしてやりました。それから、ヨリンゲルは、ヨリンデを連れて家へ帰っていきました。
こうして、ヨリンゲルとヨリンデのふたりは、いつまでもいっしょに、楽しく暮らしたのでした。
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命の水
むかし、ひとりの王さまがおりました。この王さまはもう病気になっていて、王さまの命が助かろうとは、誰ひとり思ってもいませんでした。
ところで、王さまには三人の息子がおりまして、息子の王子たちは、王さまの病気が心配で悲しみに沈んでおりました。王子たちは、下のお城の庭にいっては、涙を流して泣いていました。
あるとき、三人の王子は、その庭で、ひとりの老人に出会ったのでした。すると、老人は、三人の王子に、なにを悲しんでいるのかと、たずねたのです。そこで、三人の王子は老人に言いました。
「父王が病気なのです。たぶん亡《な》くなられることでしょう。なにしろ、父王をお助けする手立てがなにひとつないのですからね」
すると、老人は言うのでした。
「わたしは薬をひとつ知っとるぞ。それは、命の水といってな、もし、その水をお飲みになるなら、王さまはまたじょうぶになられるだろう。だがな、この命の水を見つけるのがむずかしいのじゃ」
「ぼくが、きっとさがしてみせましょう」と、いちばん上の王子が言って、病気の父王のところにいきました。そして、命の水をさがしに、自分をそとにやらせてください、その水だけが父王の病気をなおすことができるのですからと、父王に願ったのでした。
「いや、いかん。そんなことをするには、たいへんな目にあわねばならぬのじゃ。そんなら、わしが死んだほうがましだ」と、父王は言うのでした。
ところが、いちばん上の王子は、いつまでも、いつまでも父王に願いつづけたので、父王も許すことにしたのです。ところが、その王子は、こんなことをそっと考えていたのです。
「もし、ぼくが命の水をさがして、持ってきたら、ぼくは、父王にいちばんかわいがられて、この国を継《つ》ぐことになるだろう」
さて、こうして、いちばん上の王子は出かけていきました。馬に乗って、しばらくいくと、小人《こびと》が道をふさいで立っていました。
「そんなに急いで、どちらへ?」
「ばかちびめ、おまえなんか知ることはないんだよ」
王子は、大きな顔をして、そう言うと、さっさと馬に乗ったままいってしまいました。
ところが、その小人はひどく腹を立て、王子に呪《のろ》いをかけたのでした。やがて王子は、狭い谷間に乗りこんでいきました。いけばいくほど、両側から山がせまってきました。そして、とうとう進んでいく道は、すっかり狭くなって、王子はもう一歩も先に進めなくなってしまったのでした。もう、馬の向きを変えることもできなくなりました。いいえ、鞍《くら》からおりることもできなくなったのです。こうして、いちばん上の王子は、馬に乗ったまま、そこに閉じこめられたようになってしまいました。
ところで、病気の王さまのほうはいちばん上の王子の帰りを、いまかいまかと待っていたのですが、とうとう帰ってきませんでした。
そこで、二番目の王子が言いました。
「お父上、水をさがしにぼくをやらせてください」
そう言いながら、二番目の王子は、兄が死ねば、国はぼくのものになるのだ、と考えていたのです。初めのうちは、王さまも王子をいかせようとはしなかったのですが、しまいには、王子の言うとおりにしてやりました。
こうして王子も、いちばん上の王子が進んでいった道を、とっとと馬に乗っていってしまったのです。すると、この王子もまた小人に出会いました。小人は、王子を呼びとめて、そんなに急いでどこにいくのかとたずねたのです。
「ちっぽけな小人《やつ》め、おまえなんか、なんにも知らなくていいんだよ」と、王子は言って、振り向きもしないで、さっさと馬に乗っていってしまいました。
ところが、小人は王子に呪いをかけたのです。王子は、いちばん上の王子とおなじように、狭い谷間に入りこんで、前にも後にも、一歩も進めなくなってしまいました。そうなのです、高慢ちきな人間というものは、こういう目にあうものです。
こうして、二番目の王子も、帰ってきませんでした。それで今度は、いちばん末《すえ》の王子が、自分も水をさがしに出かけていきたいと願い出たのです。王さまも、しまいにはいちばん末の王子も出してやることにしたのです。
この王子も、小人に出会いました。そんなに急いで、どこにいくのか、と小人がたずねましたので、この王子は馬をとめて、言いました。
「ぼくは、命の水をさがしにいくのです。父王が病気にかかって、死にそうなんです」
「どこに命の水があるのか、知ってるのですか?」
そう小人が聞いたので、王子は答えました。
「わからないのですよ」
「あなたは、意地の悪い兄王子たちとはちがって、高慢ちきではないし、礼儀作法もこころえているから、どうしたら命の水のところにいけるか、おしえてあげましょう。魔法にかけられた城の中庭に、泉があります。その泉から、命の水が湧《わ》き出ているのです。でも、わたしがあなたに、鉄のむちと、パンのかたまりをふたつあげておかないと、あなたはなかに入れないのですよ。あなたは、鉄のむちで、城の鉄の門を三度たたくのです。すると、門はぱっとあくでしょう。なかには、二頭のライオンが寝ています。その二頭が、大きな口をぱっくりあけています。でも、あなたが、その口のなかにパンをひとつずつ投げ入れてやると、ライオンはおとなしくしています。そうしたら、あなたは、十二時を打つまえに、大急ぎでいって、命の水を取ってくるのですよ。そうしないと、鉄の門はまたぱたんとしまって、あなたは、閉じこめられてしまいますからね」
王子は、小人にお礼を言い、むちとパンとを受け取って、先へ進んでいきました。王子が到着すると、なにもかも、小人の言ったとおりでした。鉄のむちで、三度たたくと、門はぱっとあきました。ライオンにパンをやって、ライオンの気持ちをなだめてから、城のなかに入っていきました。
やがて、大きな、立派な広い門のところに着きました。そこには、魔法にかけられた王子たちがすわっていました。王子は、王子たちの指から指輪を抜き取りました。またそこには、剣がひとふりと、パンが一個
置いてあったので、王子はそれを取って、先へと進んでいきました。
もっとさきにいくと、ひとつの部屋のなかに入りました。そこにはひとりの美しい少女がおりました。王子を見ると、少女はたいへん喜んで、王子にキスをして、こう言ったのです。
「もし、あなたがわたしの魔法を解《と》いてくださったら、わたしの国を全部あなたにあげましょう。もし、一年たってから、あなたが、またここにきてくださったら、婚礼のお祝いをあげましょう」
それから、少女は、どこに命の水の泉があるとか、けれども十二時が鳴るまえに、急いでいって、その水を汲《く》んでこねばならないとか、そう王子に言うのでした。
そこで王子が、もっと奥に入っていくと、ついにベッドの置いてある部屋につきました。そのベッドにはきれいなシーツが敷《し》いてありました。王子は疲れていたので、ひとまず少し休んでから、と思ったのです。こうして、からだを横に休めると、王子は、ぐっすり眠りこんでしまったのでした。
やがて王子は目をさましましたが、もう十二時に十五分まえでした。王子は、びっくりして飛び起きるなり、泉のそばにかけよって、そのそばにおいてあったグラスで命の水を一杯汲むと、大急ぎでまた出ていきました。そして鉄の門を通ってそとに出ると、十二時が鳴り、門はぱたんといきおいよくしまったのでした。それがあまりにもいきおいよかったので、王子のかかとがちょっぴりもぎとられてしまったほどでした。
けれども、命の水が手に入ったので、王子は大喜び、城に向かって帰っていきましたが、その途中でまた小人のそばを通りかかりました。王子が剣とパンとを手にしているのを見て、小人は言いました。
「あなたは、それでたいへんな宝物を手に入れたことになったのですよ。この剣を使えば、あなたは軍勢をぜんぶ打ち倒すことができますし、パンはいくら食べてもなくならないでしょう」
ところで王子は、兄王子たちといっしょでなければ、父王の城に帰りたくなかったので、小人に言いました。
「ねえ、小人さん、ぼくのふたりの兄がどこにいるのか、ぼくにおしえてくれませんかね? 兄たちは、ぼくよりもさきに、命の水のところへ出かけていきながら、まだ帰ってきてないのですがね」
「山と山にはさまれたままになっているのですよ。わたしがふたりに魔法をかけて、そうしたのです。なにしろ高慢ちきだったですからね」
それでも王子が、いつまでも頼みつづけるので、小人はふたりを魔法から解いてやりました。けれども小人は、王子に、用心するようにと、こう言ったのです。
「あのふたりには注意なさいよ。なにしろ、ふたりとも腹黒い人たちですからね」
ふたりの兄がやってきたとき、王子は喜んで、自分がどんなふうにしてきたかを話して聞かせたのでした。自分は、命の水を見つけて、グラス一杯持ってきたこと、それから美しいお姫さまの魔法を解いてあげたこと、そしてそのお姫さまは、一年のあいだ自分を待っていてくれて、それから婚礼の式をあげることになり、大きな国が自分のものになるのだということを話したのでした。
それから、三人は、いっしょに馬に乗っていきますと、戦争と飢《う》えに苦しんでいる国に着きました。そこの王さまは、もうどうにもならないと思っておりました。その国の飢えと苦しみは、たいへんなものでした。
そこで王子は、王さまのところにいって、パンを渡しました。王さまは、そのパンを国じゅうの人たちに食べさせて、みんなを飢えから救ってやったのです。
それからまた王子は、剣も王さまに渡したのでした。王さまは、その剣で敵の軍勢をなぎ倒して、静かな平和な暮らしを取り戻したのでした。
さて、三人の王子は、それからも戦争と飢えのひどいふたつの国へいきましたが、そのたびに、王子はパンと剣を王さまに渡したのでした。こうして、王子は、三つの国を救うことになったのです。
さて、そうしたあとで、いよいよ三人は一|艘《そう》の船に乗って、海を渡っていくことになりました。ところが、海を渡っていくあいだに、上のふたりの王子たちは、こんな内緒話《ないしょばなし》をしていたのでした。
「弟王子は、命の水をさがしあてたが、わたしどもはだめだった。わたしどもの父王は、そのかわりだといって、弟王子に、ほんとうはわたしどものものになるはずの王国を与えてしまわれることだろう。つまりだ、弟王子がわたしどもの幸運をさらってしまうというわけさ」
そこで兄王子たちは、弟王子をやっつけてやろうと、互いに相談しあったのでした。兄王子たちは、弟王子がいつかぐっすり眠りこんでしまうまで待っていました。弟王子が眠りこむと、兄王子たちはグラスに入っていた命の水を注《そそ》ぎ出して、自分たちのものにしてしまい、グラスにはからい海の水をつぎこんでおいたのです。
さて、こうして三人の王子たちは帰っていきました。弟の王子は、命の水を飲んでもらって、じょうぶになってもらおうと、病気の父王のところに、さっそく命の水のグラスを持っていったのでした。
しかし、父王は、からい海の水を、ほんの少し口に入れただけでしたが、父王の病気はまえよりももっと悪くなったのです。
父王がこのことでひどく悲しい思いをしていたときに、ふたりの兄王子たちがやってきて、弟王子は、父王を毒殺しようとしたのだと、訴えたのでした。そして、わたしどもが命の水を持ってきたのです、と言って、父王に命の水を差し出したのでした。父王がその命の水を飲むと、父王は、たちまち病気が消えてなくなるような気がして、若いころとおなじような、じょうぶな強い王になったのでした。
それから兄王子たちは、弟王子のところにいって、さんざんばかにして、こんなことを言いました。
「なるほどな、おまえは、命の水を見つけはしたが、苦労しただけのことさ。お礼はたんまり、こちらがもらったというわけだ。もっと知恵《ちえ》を出して、目をはっきりあけとかなきゃならなかったのさ。おまえが眠りこんでしまったすきに、命の水は、こちらのいただきというわけさ。一年たったら、おれたちのどっちかが、べっぴんさんのお姫さまをもらいにいくぜ。でもな、このことは黙っていなくちゃいけないよ。父王はな、まさかおまえの言うことなんぞ、もう信じるわけもあるまいがな。ひと言《こと》でももらしてみろ、おまえの命もおまけにもらっちまうからな。いいか、黙っていれば、命は助けてやるよ」
年をとった王さまは、末の王子にひどく腹を立てました。自分の命をねらっていたのは、末の王子であったのだ、と王さまは思いこんでいたからです。それで王さまは、集会を聞かせて、こっそり末の王子を撃《う》ち殺すようにという判決を下《くだ》させたのでした。
あるとき、末の王子が狩りに出かけていきました。王子は、なんの悪い予感もしていなかったのですが、王さまの狩人《かりうど》がいっしょにいくことになっていたのでした。こうしてそとに出かけていったふたりが、森のなかに入っていきますと、狩人のようすがひどく悲しそうに見えたので、王子は狩人にたずねたのでした。
「狩人さん、どこか悪いの?」
「申しあげるわけにはまいりませんが、どうしてもいたさねばならないのです」
狩人が、そう答えたので、王子は言いました。
「それは、どんなことなの、言ってごらん。怒《おこ》りはしないからさ」
「ああ、あなたを殺してこいというのです。それも、王さまのお言いつけなのです」
それを聞くと、王子はびっくりして、こう言うのでした。
「狩人さん、ぼくを殺さないでね。あんたには、ぼくの王子の服をあげるから、そのかわり、あんたの粗末《そまつ》な服をぼくにくれない?」
「よろしいですとも。どっちみち、あなたを狙《ねら》い撃ちすることなんて、このわたしにはできなかったのですからね」
そう言うと、狩人は王子と服を取りかえて、お城に帰っていきました。そして、王子のほうは、森のずっと奥へと入っていきました。
それからしばらくたつと、末の王子への贈り物として黄金や宝石を積んだ三台の車が、年をとった王さまのところに到着したのでした。それは、まえに王子の剣で敵を退治し、王子のパンで国の人びとを救った三人の王さまから送られたものでした。それは三人の王さまからの、末の王子へのお礼のしるしであったのです。
そこで、年をとった王さまは、
「わしの末の息子は悪くなかったのかもしれん」と考えて、家来《けらい》どもに言うのでした。
「あれがまだ生きておればなあ。あれを死なせてしまったとは、なんとも残念なことだった」
すると、狩人が言うのでした。
「王子さまは、まだ生きておられます。どうしても、このわたしめには、王さまのご命令どおりにいたすわけにはいかなかったのです」
それから狩人が、どんなことがあったかを王さまに申しあげると、王さまはほっとして、王子は帰ってくるがよい、恩赦《おんしゃ》に浴《よく》させよう、というお布令《ふれ》を国じゅうに出したのでした。
さて、例のお姫さまは、お城のまえに、広い道をつくらせました。道はいちめん黄金でできていて、きらきらと輝いていました。そしてお姫さまは、家来たちに言いました。
「この道を、まっすぐに、馬に乗って、わたしのところにくるものがあったら、その人こそわたしを救ってくださったほんとうの人でしょう。けれども、道のはしを通ってきたものは、にせの人だから、門のなかに入れてはいけません」
しばらくすると、いちばん上の王子が、こんなことを考えはじめたのでした。
「そうだ、大急ぎで、お姫さまのところにいってやろう。そして、自分こそ救い主だというふりをしたら、お姫さまは自分の嫁にもらえるし、そのうえ国まで自分のものになるというわけだ」
こうして、いちばん上の王子は、馬に乗って出かけていきました。そして、城のまえにやってきて、美しい黄金の道を見たときに、この道を馬に乗っていくとは、まことにもったいない、と考えて、王子は馬をわきによせて、道の右はしを通っていきました。王子が門のまえまでくると、家来たちは、「あなたは、ほんとうの救い主じゃない。さっさと帰るがいい」と、言いました。
それからまもなく、二番目の王子が出かけていきました。やがて、黄金の道のところにきて、馬がひと足その道の上を踏んだとき、この道を少しでも踏みへらしたら、もったいない、と考えて、王子は馬をわきによせ、道の左はしを通っていきました。王子が門のまえまでくると、家来たちは、
「あなたは、ほんとうの救い主じゃない。さっさと帰るがいい」と、言いました。
さて、それから、まる一年がたちました。末の王子が森から出てきて、恋しいお姫さまのそばにいって、自分の悲しい思いを忘れたいと思ったのでした。そこで、王子は出かけていきました。王子は、いつもお姫さまのことを考えて、お姫さまのそばにおれたならなあとばかり思っでいたので、黄金の道など目にも入らなかったのです。
それで、王子の乗った馬は、黄金の道の真ん中を走っていったのです。そして、門のまえまでくると、ぱっと門が開いて、お姫さまが大喜びで王子を迎えたのでした。そして、お姫さまは言いました。
「あなたは、わたしの救い主、この王国の王さまです」
こうして、お姫さまと王子とのめでたい結婚式がおこなわれたのでした。
その結婚式がすむとお姫さまは、「あなたの父王は、あなたを赦《ゆる》して、あなたを呼びよせたいと言っておられますよ」と、王子に伝えたのでした。
そこで王子は、馬に乗って出かけていきました。そして、兄王子たちが自分を騙《だま》したこと、けれども自分はそれを黙っていたことなど、なにもかも父王に話したのでした。
年をとった父王は、兄王子たちをこらしめようとしたのでしたが、兄王子たちは、舟に乗って海に出ていってしまったあとでした、そして、二度と帰ってきませんでした。
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鉄のハンス
むかし、ひとりの王さまがおりました。王さまは、自分のお城のそばに大きな森を持っていました。その森のなかには、いろいろな野獣《けもの》が駆けまわっていました。
あるとき、王さまは、小鹿を一頭うちとってくるようにと、狩人をひとりその森につかわしたことがありました。ところが、その狩人はそれっきり帰ってきませんでした。
「きっと、不幸な目にあったのだろう」と、王さまはそう言って、またそのあくる日に、ふたりの狩人を森につかわしたのでした。ふたりの狩人は、まえの狩人をさがしてこなければならなかったのです。ところが、このふたりもいったきりでした。
そこで、王さまは、三日目になると、自分の狩人という狩人をみんな集めて、言いました。
「森じゅうを歩きまわってこい。いいか、あの三人を見つけ出すまでは、やめてはいかんぞ」
ところが、この狩人たちも誰ひとり帰ってきませんでした。連れていった猟犬も、これまた一匹も帰ってきませんでした。
そのときからというもの、誰ひとりすすんで森のなかに入っていこうとするものはいなくなりました。そんなわけで、森はひっそり、しーんと静まりかえっていました。ただ、ときおり、鷲《わし》か鷹《たか》かが、その森の上を飛んでいくのが見られただけでした。
こうして、なん年となく過ぎていきましたが、あるとき、よそからきた狩人が王さまのところに名乗り出て、自分を雇《やと》って、あの危険な森にいかせてください、と頼《たの》んだのでした。ところが、王さまは狩人の頼みを聞き入れようとはしないで、言いました。
「あの森のなかは、恐ろしいのだぞ。おまえも、ほかのものたちとおなじ目にあうだろう。恐ろしいことだ。二度と出てはこれん」
すると、狩人は、こう答えるのでした。
「王さま、わたしは、すすんで危険をおかしたいのです。わたしは、こわいもの知らずの男なのです」
こうして、その狩人は、一匹の犬を連れて森のなかへ入っていきました。しばらくすると、犬は野獣の跡を見つけて、その跡を追いはじめました。しかし、その犬が、二、三歩駆けたかと思うと、深い沼のまえに出たのでした。もう、まえには進めません。すると、沼のなかから、はだかの腕がにょっきり出てきました。その腕が、犬をグイとつかむと、水のなかに引っぱりこんでしまったのです。
それを見た狩人は、あとに引きかえし、今度は三人の男を連れてやってきました。三人の男は、水おけを持ってきて、それで沼の水をかい出さねばならなかったのです。沼の底が見えてきたときです。そこには、山男がひとり寝ころんでいました。からだは錆《さび》ついた鉄のように赤茶けておりましたし、髪の毛は、顔をおおって、膝《ひざ》のところまでたれさがっていたのです。
みんなは、この山男を縄《なわ》でしばって、王さまのお城のなかに連れてきました。
お城では、この山男を見て、誰もが不思議がり、大騒ぎになりました。しかし、王さまは、山男を鉄のおりに入れ、それを中庭に置かせました。そして、そのおりの扉《とびら》をあけたりしたら、死刑に処するぞと、あけることを禁じました。そしてお妃《きさき》が、その鍵を自分で保管《ほかん》することになりました。それからというものは、誰もが安心して、また森のなかに入っていくことができるようになったのです。
さて、王さまには、八歳《やっつ》になる王子がひとりおりました。あるとき、王子が中庭で遊んでおりました。そのとき、遊んでいた金のまりが、山男のおりのなかにぽとんと落ちてしまったのでした。王子は、おりのところに走っていきました。
「ぼくのまり、そとに出して」
「この扉をあけてくれるまでは、出してあげられませんね」と、山男は答えるのでした。
「だめだよ、そんなことぼくにできないよ。王さまにとめられているもの」
王子は、そう言うと、そのまま走っていってしまいました。
そのあくる日です。王子は、またやってきて、まりをちょうだいとせがみました。でも、山男は、「あけてね」と言うのです。王子は、あけようとはしませんでした。
それから三日目の日です。王さまは、狩りに出かけていきました。すると、王子がまたやってきました。そして、「ぼくがあけてあげようと思ったって、ぼくにはあけられないんだ。だって戸をあける鍵、ぼく持ってないんだもの」と、王子が言いますと、山男はおしえてくれました。
「鍵なら、あなたの母上《ははうえ》の枕の下にありますよ。だから、持ってこられるでしょう」
王子は、自分のまりを返してもらいたいばっかりに、なにもかもすっかり忘れて、鍵を取って戻ってきたのです。
扉はぎーっと重そうに開きました。そのとき、王子は指をはさんでしまったのでした。扉が開いたとき、山男はおりからそとに出ると、金のまりを王子に渡して、さっさと走っていってしまったのです。
王子は、心配になりました。「おい、山男、いっちゃだめだよ。いったら、ぼくが打《ぶ》たれるよ」と、王子は大声で山男を呼びとめたのです。
すると、山男は戻ってきて、王子を抱きあげると、肩ぐるまに乗せて、すたこらすたこら森のなかへ入っていってしまいました。
王さまが帰ってきました。王さまは、からっぽになっているおりに気づかれて、これはいったいどうしたわけか、とお妃にたずねたのでした。お妃はなにも知らなかったので、鍵をさがしてみました。しかし、鍵はありません。そこで、お妃は、王子を呼びました。しかし、返事はありません。王さまは、野原にいって王子をさがしてくるようにと、家来《けらい》どもを送り出しました。しかし、王子は見つかりません。
そうなると、王さまには、なにが起こったかすぐわかったのでした。こうして、王さまのお城は、深い悲しみに閉ざされたのでした。
山男のほうは、またあの暗い森のなかに着くと、王子を肩からおろして、言いました。
「あなたは、王さまやお妃さまにはもう会えませんよ。でも、わたしのそばには置いといてあげよう。わたしをおりから出してくれたのだからね。あなたの気持ちはよくわかるわたしだ。もし、わたしの言うことを、なんでもかんでもやってくれるなら、あなたを幸《しあわせ》にしてあげよう。宝物だって、黄金《おうごん》だって、わたしはたくさん持っている。世界じゅうの誰よりもいっぱい持っているのだ」
山男は、王子に苔《こけ》のベッドをつくってやりました。王子は、そのベッドに入ってぐっすり眠りました。
そのあくる日の朝、山男は王子を、泉のところに連れていって、言いました。
「ほらね、黄金の泉は、水晶のように明るく透《す》きとおっているね。あなたは、このそばで、なにひとつこの泉のなかに落ちないようにと見張っているんですよ。なにか落ちたら、泉は汚れてしまうからね。わたしは、毎晩やってきて、わたしの言いつけをちゃんと守っていたかどうか見るからね」
王子は、泉のふちに腰をおろして、泉のなかを見ていると、ときには黄金の魚が、またときには黄金の蛇が、水のなかにあらわれるのでした。王子は、その泉の水のなかになにひとつ落ちないようにと、見張っていました。
そんなふうにして、泉のふちに腰をおろしていたある日のこと、指が痛くなって、たまらなくなったことがありました。王子は、思わず指を泉の水のなかに突っこんだのでした。そして、す早く、その指を引き出したのですが、指はすっかり黄金《きん》いろになっていたのです。黄金いろをぬぐいとろうと、いろいろと骨をおってみたのですが、どうにもなりませんでした。
日が暮れて、山男の鉄のハンスが帰ってきました。王子をつくづくと見て、王子に言いました。
「泉になにかあったかな?」
「いいえ、なんにも」
王子は、そう答えて、指を背なかにまわしました。指を見せないようにするためです。けれども、山男の鉄のハンスは、言いました。
「指を泉の水のなかに入れたんだね。今度は見逃すがね、二度ともう、なにも落とさないよう気をつけなさいよ」
あくる日の朝は、早いうちから、王子はもう泉のそばにすわって、見張り番をしていました。するとまた、指が痛くなりました。たまらず指を頭の上にもっていったとき、運悪く髪の毛が一本、泉の水のなかに落ちてしまったのでした。王子は、す早く、取りあげました。ですが、髪の毛はもうすっかり黄金いろになっていました。
そこへ、山男の鉄のハンスがやってきました。なにが起こったか、もう知っていました。
「髪の毛を一本、泉の水のなかに落としたね。もう一度だけ、見逃してあげることにしよう。でもね、三度目に、なんかあったら、泉の水は汚れてしまって、そしてあなたは、もうわたしのそばにはいられなくなるのですよ」
三日目のことです。王子は泉のそばにすわっていました。指が痛くなってきました。王子は指を動かしませんでした。しかし、時間のたつのが長く感じられました。王子は、鏡のように水の上に映《うつ》った自分の顔をじっと見つめていましたが、そうしているうちに、だんだんまえにからだが屈《かが》んでいきました。そして王子が、自分の目をよく見ようとしたそのときです。王子の長い髪の毛が、肩からするりと泉の水のなかに落ちてしまったのです。す早く、すうっと立ちあがったのですが、髪の毛はもうすっかり黄金《きん》いろになって、陽《ひ》の光のように輝くのでした。かわいそうに、王子はどんなにかびっくりしたことでしょう。
王子は、手ぬぐいを取り出して、山男の鉄のハンスに見られないように、それを頭に巻きつけたのでした。
山男の鉄のハンスがやってきました。もうなにもかもみな知っていました。
「手ぬぐいを取ってごらん」
手ぬぐいを取ると、黄金の髪の毛があふれるようにあらわれました。王子が、どれほど言いわけをしても、なんの役にも立ちません。
「あなたは試練《ためし》に及第しなかったのです。もうここにいるわけにはいきません。世の中に出ていくのです。貧乏がどんなものか、よくわかるでしょう。でも、あなたには、悪い心がないので、わたしはあなたが好きです。ですから、ひとつだけあなたに叶《かなえ》ごとをしてあげましょう。もしも、あなたが困ったりしたら、森のところにきて、≪鉄のハンス≫と呼ぶんですよ。そしたら、わたしが出ていって、あなたを助けてあげましょう。わたしには、すごい力があるんです。あなたが考えているよりは、もっとすごい力がね。それに、わたしには、金や銀がありあまるほどあるんですよ」
そこで、王子は森をあとにして、道があろうとなかろうと、どんどん歩いていきました。そして、しまいにある大きな都会《まち》にやってきました。王子は、そこで仕事をさがしました。しかし、仕事を見つけることはできません。そうなのです。わが身を助けるようなことはなにひとつ習ったことがなかったからです。
しまいに、王子はお城に入っていって、自分を置いてもらえないか、とたずねたのでした。お城の人たちには、王子になにをさせたらよいものか、わからなかったのです。けれども、みんなは、王子が気に入ったので、お城にいるように、と王子に言いました。
とうとう、料理番が王子を雇うことになって、薪《まき》や水を運んだり、灰をかき集めたりしたらいい、と言いました。
あるとき、ちょうど誰もそばにいなかったので、料理番は王子に、王さまの食卓にお料理を運ぶように言いつけたのでした。
ところが王子は、自分の黄金いろの髪の毛を誰にも見られたくなかったので、帽子をかぶったままでいたのです。王さまにしてみれば、そのようなことはいままでに思いもよらぬことであったのです。そこで、王さまは言いました。
「王さまの食卓にくるときには、帽子をかぶったままではいかんではないか」
「ああ、王さま、わたしにはぬげないのです。性《たち》の悪いおできが頭にできているのです」と、王子が言いますと、王さまは、料理番をそばに呼んで、叱りつけました。
「どうして、あんな若僧を雇うことになったのだ。すぐに追い出してしまえ」
けれども料理番は、王子に同情して、王子を、庭師の小僧と取りかえることにしました。さて、庭師の小僧になった王子は、庭で木を植えたり、水をやったり、土を掘り砕《くだ》いたり、穴を掘ったりしなければなりませんでした。風に吹かれたり、ひどい嵐になってもじっと我慢しなければなりません。
夏のある日のこと、小僧になった王子は、ひとりで庭で仕事をしていました。その日はひどく暑かったので、王子は帽子をとって、涼しい風にあたっていました。陽《ひ》の光が、髪の毛に輝くと、きらきらと光って、その光がお姫さまの寝室のなかにさしこんだのでした。なんだろうと思って、お姫さまはとび起きました。
そこに小僧の姿を見つけたお姫さまは、小僧に声をかけました。
「小僧や、わたしに花束《はなたば》を持ってきてちょうだい」
王子は、大急ぎで帽子をかぶると、野生の花をつんで、それを束にしました。その花束を持って、王子が階段をのぼっていくと、庭師に出会いました。すると、庭師は言いました。
「野草のきたない花束なんか、お姫さまにあげられるもんじゃない。早くほかの花をつんでくるんだ。いちばんきれいな、珍しい花をさがすんだよ」
すると、王子は答えるのでした。
「とんでもない。野生の花のほうが香《かお》りも強いし、ずっとお姫さまに気に入られますよ」
王子が、お姫さまの部屋のなかに入ると、お姫さまは、言いました。
「帽子をおとりなさい。わたしのまえで帽子をかぶっているものじゃないのよ」
「ぼく、とれないんです。頭におできがあるもんですから」
王子が、そう答えましたが、お姫さまは、帽子をつかもうと手を出して、ぱっと帽子をとってしまったのです。すると、黄金いろの髪の毛が肩の上にさらさらとあふれかかりました。見るもすばらしい髪の毛でした。
王子は飛んで逃げようとしましたが、お姫さまは、しっかと王子の腕をつかまえると、王子に金貨をひと握《にぎ》り与えたのでした。王子は、金貨をもらって、さっさと出ていきました。王子は、金貨などなんとも思わなかったのです。その金貨を、庭師のところに持っていって、王子は言いました。
「あなたの子どもさんたちにあげてください。おもちゃになりますよ」
そのあくる日も、お姫さまは、野生の草花の花束を持ってくるように、と王子に言いました。王子が、花束を持って入っていくと、お姫さまは王子の帽子に飛びかかって、とってしまおうとしたのです。けれども、王子は両手で帽子をしっかりおさえました。そこで、お姫さまはひと握りの金貨を王子に与えましたが、王子はそんな金貨などほしいとも思わないで、子どもたちのおもちゃだと、金貨を庭師にやってしまいました。
三日目にも、おなじことが起きました。今度も、お姫さまは帽子をとることができませんでした。王子は、お姫さまの金貨などほしくなかったのです。
それからまもなくすると、戦争が始まって、国じゅうが戦場になってしまったのです。王さまは家来《けらい》どもを集めましたが、敵はたいへん強く、大軍《たいぐん》を持っていたので、この敵に立ち向かっていけるかどうか、王さまにはわからなかったのです。そこで、庭師の小僧になっていた王子は、言いました。
「ぼくは、もう大きくなりました。みなさんといっしょに戦場にいきたいのです。ぼくに馬を一頭ください」
ほかの家来どもは、それを聞いて大笑い、そして言いました。
「おれたちが出ていったあとで、さがしてみろ。一頭だけうまやに残していってやるよ」
みんなが戦場に出ていってしまったので、王子は、うまやにいって、馬をそとに引き出しました。ところが、その馬は足が一本|萎《な》えていて、その足を引きずって歩くのでした。それでも、王子はその馬に乗って、暗い森のほうへと進んでいきました。
森のはしにきたときに、王子は、大きな声を出して、≪鉄のハンス≫と三度呼びました。すると、木のあいだからなにやら響く音が聞こえてきました。それからすぐ、あの山男があらわれました。
「なんの用です」
「強い馬がほしいんだ。戦場にいこうと思っているのでね」
すると、山男は森のなかに戻っていきました。しばらくすると、ひとりの馬丁《ばてい》が馬を一頭連れて森のなかから出てきました。
その馬は、鼻息がとても荒くて、なかなか御《ぎょ》しにくい馬でした。ところが、戦《いくさ》の大軍が、鉄のよろいに身を固めて、後からぞろぞろついてくるのでした。剣が陽の光にきらきらと輝いています。王子は馬丁に、自分の三本足の馬を渡して、新しい馬に乗りかえて、軍勢の先頭に立って進んでいきました。
戦場に近づいたときには、王さまの家来たちは、もうほとんどが戦死していました。生き残ったものたちも、あやうく退却せねばならなかったのです。
そこで王子は、鉄で身を固めた軍勢を引き連れて、敵に向かって突進していきました。まるで嵐のように敵に襲いかかり、刃向《はむ》かうものをことごとくなぎ倒してしまったのです。敵は逃げようとしました。けれども王子は、追いかけて、ひとり残らず打ち倒すまで追いつづけました。
王子は、王さまのもとには帰らずに、回《まわ》り道をして自分の軍勢を、またもとの森のところに連れていって、鉄のハンスを呼び出しました。
「なんの用です」と、山男はたずねました。
「あなたの馬と軍勢とを受け取って、ぼくには三本足の馬を返してね」
すべて、王子の望みどおりになりました。こうして、王子は三本足の馬に乗って帰っていきました。
王さまがお城に帰ってきました。お姫さまは、王さまを出迎えて、戦いに勝ったお喜びを述べました。
「勝ち戦《いくさ》になったのは、わしのせいではないのだ。軍勢を引き連れて、わしを助けにきてくれた、どこやらの騎士のおかげだ」と、王さまが言うと、お姫さまは、そのどこやらの騎士とは、いったい誰なのかしら、それが知りたくなったのです。けれども、王さまは知りませんでした。
「あの騎士は敵を追いかけていったが、もうそれっきり、二度とあの騎士を見かけなかったぞ」
お姫さまは、庭師に、庭師の小僧はどうしたかとたずねてみますと、庭師は、笑いながら言いました。
「たったいましがた、三本足の馬に乗って帰ってきたところですわ。みんながからかいましてな、『われらの三本足のお帰りだ』なんて言ってましただ。『いったい、いままで、どこの薮《やぶ》のかげに転《ころ》がって寝てたんだ?』と、みんなが言いますとな、あれはこう答えたもんですわ、『そりゃあ、ぼくだって一生懸命やったんだ。ぼくがいなかったら、だめだったろうよ』、そんなことを言うものだから、みんなにさんざん笑われましたよ」
王さまは、娘のお姫さまのところにいって言いました。
「わしはな、三日間もつづく大宴会を催《もよお》して、おまえが金の林檎を投げるというお布令《ふれ》を出させようと思うのじゃ。そうすれば、たぶん、あのどこやらの騎士があらわれることだろう」
大宴会のお布令《ふれ》が出ました。すると王子は森のところに出かけていって、山男の鉄のハンスを呼びました。
「なんの用です」と、鉄のハンスは言いました。
「ぼくは、お姫さまの投げる金の林檎を取りたいんだ」
「その林檎なら、もうあなたが取ったも同然ですよ」と、鉄のハンスは言いました。「あなたにあげるから、紅の甲《かっ》ちゅうを着て、堂々としたくり毛の馬にお乗りなさい」
とうとう、その日となりました。王子はとんで出てきて、騎士たちのあいだに入りこみました。王子は誰にも気づかれません。
お姫さまがまえに出てきて、騎士たちのあいだに金の林檎を投げました。その金の林檎は、王子のほか誰にも取れませんでした。ところが、王子は、金の林檎を取るやいなや、飛ぶようにその場から消えました。
その次の日です。鉄のハンスは、王子に甲ちゅうを着せて、白い騎士に仕立《した》て、そのうえ白馬を一頭与えてやりました。
今度も、金の林檎を取ったのは、王子だったのです。金の林檎を取るや、間髪《かんはつ》を入れず、飛んでいってしまいました。王さまは、かんかんになって言いました。
「けしからんことだ。わしのまえに出させて、名乗りをあげさせずにおくものか」
そこで、王さまは命令を出しました。林檎を取ったあの騎士が、もしまた消え失《う》せようとでもしたら、あとを追いかけるのだ。それでも引きかえそうとしないのなら、切りかかり、突き刺してやるがいい。
三日目です。王子は、鉄のハンスから、黒い甲ちゅうと黒馬をもらいました。そして、今度もまた、金の林檎を取ってしまったのです。王子は、金の林檎を持って、一目散《いちもくさん》に逃げていきました。王さまの家来どもが追跡してきます。家来のひとりが、間近《まぢか》に迫ってきて、王子の脚に、剣の先で傷をつけました。でも、王子は、家来どもから逃げおおせました。ところが、その黒馬がぴょんと跳びはねたので、王子の頭から冑《かぶと》が落ちてしまって、王子が黄金の髪をしていることが、王さまの家来どもにわかってしまったのです。家来どもは帰っていって、なにもかもすべてのことを、王さまに伝えたのでした。
そのあくる日のことです。お姫さまは、庭師に小僧のことをたずねました。
「あれは庭で働いておりますよ。あの変わりものは、お城のお祝いにも出ていきましてな、きのうの晩がた帰ってまいりましただ。あれは、わたしの子どもたちにも、取ってきた金の林檎を三つ、見せておりましたっけ」
王さまは、王子を呼び出しました。王子がやってきました。また、例の帽子をかぶっております。そこで、お姫さまは、王子のところに、つかつかと進んでいって、帽子をとりました。すると、黄金いろの髪の毛がさらさらと肩の上にたれさがりました。それは、まことに美しく、なみいるものたちはみな驚くばかりでした。
すると、王さまがたずねました。
「毎日、宴会の席にやってきて、いつもちがった装《よそお》いをして、三つの金の林檎を取っていった騎士は、そなたであったのかな?」
「はい、さようでございます。林檎は、ここにございます」
王子は、りんごを隠《かく》しから取り出すと、それを王さまに渡しました。
「もっと証拠を、とお望みでしたら、王さまのご家来が、ぼくを追ってきて、ぼくに負わせた傷をお見せしましょうか。けれども、ぼくは、王さまをお助けして、敵に勝たせてあげたあの騎士でもあるのです」
「あのような業《わざ》をなし遂《と》げられるとは、そなたは、庭師の小僧ごときものではあるまい。申すがいい、そなたの父上とは、なに者じゃな?」
「ぼくの父上は、たいへん力のある王です。ぼくには、黄金なら、ありあまるほどあります。ほしいだけ持っています」
「それは、よくわかる。しかし、わしはそなたに礼をせねばならない。なにか望むものはないかな?」
「はい、王さまにはわけのないことです。お姫さまを、ぼくの妃にください」と、王子が言いました。すると、お姫さまは笑って言いました。
「この方《かた》だったら、かまわないわ。でも、わたしには、この方の黄金いろの髪の毛でもうわかっていたの。庭師の小僧なんかじゃないってことがね」
お姫さまは、王子のそばにいって、王子にキスをしました。
結婚式には、王子の父王とそのお妃もやってきて、大喜びをしました。というのも、自分たちの息子の王子には、もう二度と会えるとは、思ってもいなかったからでした。
こうして、みんなが結婚の祝宴の座についたときです。はたと音楽が鳴りやんだのです。すると、扉という扉が開いて、ひとりの堂々とした王が、家来どもを大勢引き連れて入ってきました。
その王は、王子のいるほうに向かって、つかつかと歩みよると、王子を抱きしめて、言いました。
「わしが、あの鉄のハンスじゃ。魔法にかけられて、山男にされていたのだ。だが、その魔法を解《と》いてくれたのは、そなたなのじゃ。わしの持っている財宝は、残らずそなたのものにするがよいぞ」
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雪白とばら紅《べに》
ひとりの貧しいやもめが、小さな小屋のなかで、淋《さび》しく暮らしていました。小屋のまえには庭があって、そこには小さなばらの木が二本植えてありました。そのうちの一本は赤いばらの花をつけ、もう一本は白いばらの花をつけました。
やもめには、ふたりの子どもがおりまして、ふたりともその二本の小さなばらの木にそっくりでした。ひとりは雪白といい、もうひとりはばら紅《べに》といいました。
ところで、このふたりは、これまでに見たこともないほどやさしくて、すなおで、根気のよい働きものであったのです。雪白のほうは、ばら紅よりもおとなしくてやさしい子でした。ばら紅が、野原を飛びまわるのが好きで、花をさがしたり、蝶《ちょう》をつかまえたりしていますと、雪白のほうは、家にいて、お母さんのそばで家事《うち》の手伝いをしたり、もう用事がなくなれば、お母さんに本を読んで聞かせたりしていました。
このふたりの子どもたちは、とても仲がよかったので、いっしょにそとに出るときは、いつも手をつないで出ていくのでした。
「わたしたち、いつもいっしょにいましょうね」と、雪白が言うと、ばら紅も、「いつまでも、いつまでも、死ぬまでいっしょね」と、言うのでした。
すると、お母さんがそれにつけたして、
「どっちかひとりが、なんでも持っていたら、ふたりで分けなくちゃだめよ」と、言いました。
子どもたちは、ふたりきりで、よく森のなかをかけまわり、真っ赤な苺《いちご》をつんだりしていました。そして動物たちは、どの動物たちもなつかしそうに、ふたりのそばによってきて、悪いことなどするものはいませんでした。子兎《こうさぎ》は、キャベツの葉をふたりの手からもらって食べました。のろ鹿は、ふたりのそばで、草の葉を食べていました。牡鹿《おじか》は、楽しそうにふたりのわきを跳《と》びはねていきました。鳥たちは、太い枝にとまったまま、知っているかぎりの歌をうたいました。
こうしてふたりは、なにひとつ不幸な目にあったことはありませんでした。森のなかで、すっかり遅くなって、日もとっぷり暮れてしまうと、ふたりは並んで苔《こけ》の上に寝ころんで、夜が明けるまでぐっすり眠りこむこともありました。お母さんもそのことを知っていて、少しも心配しませんでした。
あるとき、ふたりが森のなかで、夜を明かしたことがありました。朝焼けに目をさますと、真っ白な、輝くばかりの服を着た、美しい子どもがひとり、ふたりの寝ているすぐそばにすわっていました。
その子どもは、ふと立ちあがると、やさしそうにふたりをながめただけで、なにも言わずに、森のなかへと入っていきました。それで、ふたりが見まわしてみると、ふたりは崖《がけ》のすぐそばに寝ていたのでした。そうなんです、もしふたりが暗闇《くらやみ》のなかをもう二、三歩さきに歩いていたら、ふたりとも崖から転《ころ》げ落ちていたにちがいありません。
お母さんは、ふたりに言いました。
「きっと、いい子たちを守ってくれる天使さまだったんだろうね」
雪白とばら紅とは、お母さんの小屋をいつもきれいにしておきました。あまりきれいなので、のぞいて見るのが楽しいほどでした。
夏になると、ばら紅は家事《うち》の面倒をみて、毎朝、お母さんが起きるまえに、お母さんの枕もとに花束を置いておくのでした。その花束には、どちらのばらの木から取ったものでしょうか、いつもばらの花が入っていました。
冬になると、雪白が火を起こして、鍋《なべ》を自在鉤《じざいかぎ》にかけました。その鍋は真鍮《しんちゅう》でできていましたが、まるで金のようにぴかぴか光っていました。つるつるにみがかれていたのです。
夕方になって、雪がちらちら降ってくると、お母さんが言いました。
「雪白や、さあ、かんぬきを差してきておくれ」
それから、みんなは炉《ろ》のそばにすわるのでした。すると、お母さんが眼鏡《めがね》をかけて大きな本を手にして読んでくれました。ふたりの娘は、じっと聞きながら、そこにすわって、糸を紡《つむ》いでいたのです。みんなのそばの床《ゆか》の上には、子羊が一匹寝ころんでいました。うしろのとまり木には、白い小鳩が一羽とまって、羽の下に頭を隠していました。
ある晩のこと、お母さんと娘たちとが、仲よくいっしょにすわっていると、誰やら入口の戸を、なかに入れてもらいたいといわんばかりに、とんとんとたたくのでした。
「ばら紅や、早くあけておあげ。宿をさがしている旅の方《かた》だろうよ」と、お母さんが言いました。ばら紅は、かんぬきをはずしにいきました。ばら紅は、きっと気の毒な男の人だろうと思いました。ところが、そうではなかったのです。それは一頭の熊《くま》で、大きな黒い頭を入口からにゅうとつっこんできました。ばら紅は、きゃあっと叫んで、跳《と》びさがりました。
子羊はめーめーとなき、小鳩は羽をばたばたやって飛びあがり、雪白は、お母さんのベッドのうしろに隠れました。
ところが、熊は、なにやら言いはじめました。
「みなさん、こわがらないでくださいね。みなさんに悪いことなどいたしません。寒くて、からだが半分こちこちなんです。みなさんのところで、ちょっとばかしあたたまらせてくださいな」
「気の毒にね、熊さん。さあ、火のそばにいらっしゃい。毛皮を焼かないように、気をつけてくださいね」と、お母さんは、熊に言ってから、娘たちを呼びました。
「雪白にばら紅や、さあ、出ておいで。熊さんは、おまえたちになんにもしないわよ。熊さん、正直にそう言ってるわ」
そう言われて、娘たちは、ふたりともそばに出てきました。子羊も、小鳩も、だんだんそばによってきて、もう熊をこわいとも思わなくなりました。
「ねえ、子どもさんたち、わたしの毛皮についている雪を、ちょっとばかし払い落としてくださらんかね」と、熊が言ったので、ふたりの娘は、箒《ほうき》を持ってきて、毛皮をきれいに掃《は》いたのです。熊は、火のそばで、長ながとからだをのばし、すっかりご機嫌になって、気持ちよさそうにのどをごろごろ鳴らしていました。
こうしているうちに、ふたりとも、すっかり熊と仲よしになって、このどたどたしたお客にいたずらを始めました。ふたりは、両手で熊の毛を引っ張ったり、熊の背なかに足をかけて、あっちに動かし、こっちに動かし、そうかと思うと、ふたりは、はしばみの枝を取って、ぴしぴしたたいたりしました。それで熊が、うなり声をあげると、ふたりはおかしがって笑うのでした。
それでも熊は、黙ってそうさせていました。
ただ、ふたりのいたずらがひどすぎると、熊はこう叫びました。
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「子どもたちや、わたしを殺さないで、
雪白ちゃんに、ばら紅ちゃん、
あんたの婿《むこ》さん殺しちゃうの」
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寝る時間になって、娘たちがベッドに入ると、お母さんは熊に向かって言いました。
「そこの炉のそばにね、かってに横になってていいのよ。そうしていたら、お天気が悪くったって、寒くたって、なんでもないでしょう」
そのあくる日の朝、空が白みかけると、ふたりの娘は、熊をそとに出してやりました。すると熊は、雪の上を大急ぎで、森のなかへ駈けていきました。そして、それからというもの、毎晩、決まった時間に、熊はやってきて、炉のそばに寝そべったまま、ふたりの娘たちに、したいほうだいのいたずらをさせるのでした。ふたりは、もうすっかり熊になれてしまい、この黒い仲間がやってこないうちは、入口のかんぬきを差すこともしなかったのでした。
それから春がやってきて、戸外《そと》はどこも緑となりました。そんなある朝のことでした。熊は雪白に言いました。
「さあ、ぼくは、出かけなくちゃならないんだ。夏のあいだは、ここにくるわけにはいかないんだ」
「いったい、どこへいっちゃうの、ねえ、熊さん」
「ぼくはね、森のなかにいくんだよ。ぼくの宝物を、悪い小人《こびと》たちに持っていかれないように守らなくちゃならないんだ。冬のあいだ、地面がこちこちに凍《こお》っているときには、小人たちも地面の下にいなくちゃならないし、地面を抜けて上に出てくるわけにはいかないんだ。ところが、いま、お陽さまで地面があたたかくなって溶《と》け出すと、小人たちは、地面を破って、上に出てきてね、さがしまわって、盗んでいくんだ。一度でも小人たちの手に渡って、洞穴《ほらあな》にしまいこまれたら、宝物はもう二度と陽《ひ》の目を見ないことになるのだよ」
雪白には、熊との別れがとても悲しかったのでした。雪白が、入口のかんぬきをあけてやり、熊がそとに出ていったとき、熊は入口の鉤《かぎ》にひっかかって、からだの皮を少し擦《す》りむいてしまったのでした。そのとき、雪白には、なんだか黄金《きん》がちかちかっと光ったように見えたのです。でも、はっきりわかったことではなかったのです。
熊は、大急ぎでかけ去っていきました。それから、すぐに、木立《こだち》のうしろに姿を消してしまいました。
それからしばらくすると、お母さんは、小枝を集めてくるようにと、ふたりの娘たちを森にやったのです。そとに出ると、ふたりは、一本の大きな木を見つけました。その木は、地面に伐《き》り倒されていました。その木のそばの草のあいだに、なにやらぴょんぴょん跳《と》びはねているものがありました。でも、ふたりには、それがなんであったか、わからなかったのでした。
近くによってみると、皺《しわ》だらけの年寄りじみた顔をした小人がひとりおりました。長い真っ白なひげを生《は》やしていましたが、そのひげの先端《さき》が木の割れ目にはさまっていました。その小人は、綱《つな》につながれた小犬のように、ぴょんぴょん跳《は》ねて、どうしたらいいものか、困っていたのでした。
小人は、ふたりの娘を、真っ赤に燃えるような目でにらみつけ、大きな声で言いました。
「なんだって、そんなとこにつっ立ってんだ。こっちにきて、わしに手を貸さんのか?」
「どうしたっていうの、小人さん?」と、ばら紅が聞いてみました。
「聞きたいんかよ、このまぬけ。わしはな、この木を割ってやろうと思ったんだ。台所で使う小さい薪《まき》がほしかったからさ。わしらが食うようなちっぽけな食べ物はな、太い薪を使ったら、たちまち焦《こ》げついちまうんだ。おまえたちのような欲《よく》つっぱりのあつかましい奴《やつ》らとはちがってな、わしらときたら、そんなにがつがつ食わんのだよ。わしはな、うまいぐあいに≪くさび≫を打ちこんだのさ。なにもかも思いどおりにうまくいくとこだった。ところが、いまいましい≪くさび≫の奴、つるつるしてやがったから、ぴょいっと飛び出しやがったんだ。すると、木がぱちんと合わさりやがって、わしの立派な白いひげも、抜き出すひまもなかったというわけさ。ほら、ひげがはさまってるだろう、それで動きがとれないんだよ。そこにもってきて、おまえたち、つるんとしたとんまな顔をしやがって、笑いやがる。ちえっ、なんていやらしい奴らなんだ!」
ふたりの娘は、一生懸命骨をおってみましたが、小人のひげを引っ張り出すわけにはいきませんでした。ひげは、ぴたっとはまりこんでいたからです。
「あたし飛んでいって、みんなを連れてくるわ」と、ばら紅は言いました。すると、小人は怒鳴《どな》りつけたのです。
「とんまの気ちがいめ。そうかんたんに人を呼んでくる奴があるか。おまえたちがいるだけで、ふたり多すぎるというものだ。もうちっとましな知恵《ちえ》でもないもんかい?」
「そんなにいらいらしないで」と、雪白が言いました。「うまいことしてあげるわ」
雪白は、ポケットから小さな鋏《はさみ》を取り出すと、小人のひげの先《さき》っぽを、ちょきんと切ってしまったのでした。
小人は、動けるようになったと思うと、木の根っこのあいだに隠しておいた金のいっぱい詰まった袋をつかんで、引っ張り出すと、
「無作法《ぶさほう》な奴め、わしの自慢のひげをちょきんと、切り落としやがって! くたばりやがれ!」
と、ぶつぶつ言って、その袋を背なかにかつぐと、娘たちには見向きもしないで、とっとと行ってしまったのです。
それからしばらくして、雪白とばら紅は、お料理にする魚を釣りにいったことがありました。ふたりが小川のそばまでくると、大きなばったのようなものが、水のなかに飛びこもうとでもすように、ぴょんぴょんと小川のほうに跳《と》んでいくのでした。ふたりが駆けよってみると、それは小人でした。
「どこへいくつもりなの?」と、ばら紅が言いました。「まさか水のなかに飛びこむつもりじゃないんでしょうね?」
「わしは、そんなばかじゃないよ。おまえたち、見えんのかい、ほら、あのいまいましい魚の奴、このわしを水のなかに引っ張りこもうとしてるじゃないか」
この小人は、じっとすわって、魚釣りをしていたのでした。そこに運悪く風が吹いてきて、釣り糸が小人のひげにからみついたのです。すると、ちょうどそのすぐあと、大きな魚がぱくりと食いついてきたのです。でも、弱い小人には、大きな魚を引っ張りあげるだけの力はなし、魚のほうがずっと強くて、自分のほうに小人をぐいぐい引っ張りよせるのです。
なるほど、小人のほうは、草の茎《くき》や藺草《いぐさ》につかまっていたのですが、たいした役にも立たなかったのです。小人は、魚の動くままになっていなければなりませんでした。いつなんどき川のなかに引きずりこまれるか、そんな危険にさらされていたのです。
ですから、娘たちは、ちょうどよいときにやってきたのです。娘たちは、しっかり小人をつかまえて、釣り糸からひげを引きはなしてやろうとしたのです。ところが、うまくいきません。釣り糸とひげとは、どうにもこんがらがってしまっていたのです。こうなったら、鋏《はさみ》を取り出して、ひげを切ってしまうほかなかったのです。
こうして、切り落とされたひげも、ほんの少しだけだったのですが、小人は、それを知ると、大きな声で、ふたりの娘を怒鳴りつけたのです。
「このひきがえるめ、このわしの面《つら》をだいなしにしやがって、それでいいとでも思ってるのか? まえには、わしのひげの先っぽを、おまえらちょきんと切っておきながら、それでも足《た》りないっていうわけで、こんどは、いちばんいいとこを、ちょきんと切り取ったもんだ。わしはな、もう家《うち》の奴らに顔もあわせられないよ。さっさと失《う》せやがれ。いつまでも駆けずりまわっているがいいさ!」
そう言って小人は、葦《あし》のかげに置いてあった真珠の袋を取ってくると、もうなにも言わないで、その袋をずるずる引きずりながら、石ころのうしろに消えていきました。
お母さんが、より糸やら針やら、それに紐《ひも》だとかリボンだとかを買いに、娘たちを町に出してやったのも、それからまもなくのことでした。
娘たちの歩いていく道は、荒野を通り抜けていました。あちらこちらに、大きな岩がごろごろころがっていました。空には、一羽の大きな鳥が浮かんでいました。娘たちの頭上《うえ》で、ゆっくりと輪を描いて飛んでいましたが、だんだん下のほうにおりてきて、とうとう、それほども遠くないところの、岩かげにさっと舞いおりたのでした。
その途端《とたん》、ふたりの娘は、きゃあーっという耳をつんざくような悲鳴を聞いたのです。娘たちは走っていきました。驚いたことに、一羽の鷲《わし》が、顔なじみになった小人をつかまえて、さらっていこうとしていたのです。
情《なさ》けぶかい娘たちは、それを見ると、すぐにその小人を押さえつけ、ぐるぐる、ぐるぐる鷲と引っ張りっこをしているうちに、とうとう鷲は獲物《えもの》を手放してしまったのでした。
初めのうちはびっくりしていた小人も、気をとりなおすと、金切り声をあげて、
「わしをな、もっと大事に、あつかえなかったのかい? わしの薄手《うすで》の上衣《うわぎ》、さんざん引っ張りやがったから、ぼろぼろの穴だらけじゃねえか。おまえたちときたら、どうにもならねえ、ろくでなしだ!」と、怒鳴りちらすのでした。
それから小人は、宝石の入った袋をつかむと、岩かげの自分の洞穴《ほらあな》のなかに入っていきました。娘たちも、この小人の恩知らずにはなれていたので、そのまま町に用たしに出かけていったのです。
その帰り道、娘たちは、また荒野にさしかかりました。小人は、宝石の入った袋をきれいな地面に、ざあーっとぶちまけていたところでした。こんな遅く、もう誰もきやしないだろうと思っていたので、小人は、娘たちを見て、びっくりしてしまったのでした。
きらきら輝く宝石に夕陽《ゆうひ》が照って、宝石は、それは美しく、色とりどりに輝くのでした。娘ふたりは立ち止まったまま、じっと宝石を見守っていました。
「なんだっておまえたち、口あんぐり、ぽかっと立ちどまっているんだい!」と、小人がそう怒鳴ると、怒ったあまり、小人の灰いろの顔が朱のように真っ赤になったのです。
小人が悪態《あくたい》をつこうとしたそのときでした。大きなうなり声が聞こえて、森のなかから一頭の黒熊が飛び出してきました。びっくりした小人は跳びあがりました。もう自分の隠れ家《が》まで帰ることはできません。その黒熊は、もうすぐそばまできていたのです。
おびえてしまった小人は、大きな声で言いました。
「ねえ、熊さん、命だけは助けて下さいね。わっしの宝物、残らず熊さんにあげますよ。ほら、すばらしい宝石、見てくださいな。命だけは、お助けください。こんなちっぽけな、ひょろひょろの小人、あなたには、なんの役に立つというのです。このわしが、あなたの歯のあいだにはさまっても、あなたにはわからんでしょう。あのふたりの、罰《ばち》あたりの娘をぱくりとおやりなさい、それこそ、ふわっとやわらかいご馳走というもんです。若うずらのように脂肪《あぶら》がのっていますぜ。どうぞ召しあがれ」
黒熊は、小人のいう言葉など、気にもかけずに、この悪い小人を、前足でぽかりとひと殴《なぐ》り。もうそれっきり、小人はぴくりとも動きませんでした。
娘たちは、飛んで逃げていきました。けれども黒熊は、うしろから呼びかけたのでした。
「雪白ちゃんに、ばら紅ちゃん、こわがらないでよ。待ってて、みんなといっしょにいきたいんだ」
その声に聞きおぼえがあったので、娘たちは立ちどまりました。黒熊が娘たちのそばまでくると、不意に熊の皮がはがれました。すると、そこには立派な若者が立っていました。金ずくめの服を着ていたのです。
「ぼくは、王さまの子です。ぼくは、ぼくの宝物を盗んだあの罰《ばち》あたりの小人に魔法をかけられて、野生の熊になって森のなかを駆けまわらねばならなかったのです。やっと、小人が死んでくれたので、ぼくは助かったのです。いまこそ小人は、当然の罰を受けることになったのです」
それから雪白は、王子と結婚しました。そしてばら紅も、王子の弟と結婚したのです。こうしてふたりは、小人が洞穴に隠しておいた立派な宝物を分けあったのでした。
年寄りのお母さんも、その後いく年となく長いこと、娘たちのそばで、楽しい静かな生活を送ったのでした。お母さんは、二本のばらの木を持っていきました。そのばらの木は、お母さんの部屋の窓のまえに植えられて、それから毎年、赤と白の、それは美しいばらの花を咲かせたということです。
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泉のそばのがちょう番
むかし、あるところに、もう年をとってしまったよぼよぼのおばあさんがおりました。おばあさんは、山あいの寂しい土地に小さな家を一軒持っていて、たくさんのがちょうといっしょに暮らしていました。その寂しい土地は、大きな森に取り囲まれていました。おばあさんは、毎朝、松葉づえをついて、よろよろと森のなかへ入っていくのでした。
森にいくと、おばあさんの働きぶりはたいしたもので、もうよぼよぼになっているのに、まだあんなに働けるなんて、とても考えられないことでした。おばあさんは、がちょうにやる草を集めたり、手のとどくかぎりの野生の果実《くだもの》を取ってきたりして、それを背なかにかついで、家に持って帰るのでした。あんなに重い荷物をかついだら、地べたにぺちゃんこに押しつぶされるにちがいない、誰もがそう考えたものでした。
でも、おばあさんときたら、いつも無事、その荷物を家に運んで帰ってくるのです。
途中で誰かがおばあさんに出会ったりすると、おばあさんはほんとうに愛想《あいそ》よくあいさつをするのでした。
「こんにちは! まあ、あんた、きょうはいいお天気ですね。あたしが草を取ってくのを見て、おや、あんた驚いていなさるんだね。でもね、誰だって自分の荷物は自分でしょっていかにゃならんだがね」
でも、みんなはおばあさんに出会うのがいやで、回り道をしていくのでした。子ども連れの父親が、おばあさんとすれちがったりすると、父親はそっと子どもに言うのでした。
「あのばあさんには気をつけるんだよ。どうにもしようのねえばあさんだからな。あれはな、魔女《まじょ》なんだよ」
ある朝のことでした。感じのいい若者がひとり、森を通り抜けていきました。お陽さまが明るく輝いていました。鳥たちが歌をうたい、ひんやりとしたそよ風が木の葉をぬって吹いていきました。若者は、ほんとうに嬉しそうでした。
森のなかで、若者はまだ誰にも会っていませんでした。ところが、ふと、あの年をとった魔女の姿を目にしたのです。魔女は、地べたに膝をついて、鎌《かま》で草を刈っていました。おばあさんの魔女は、もう買いもの袋に荷物をすっかり詰《つ》めこんでしまったところでした。そばには篭《かご》がふたつ置いてありました。その篭には、野生の梨と林檎《りんご》がいっぱい入っていました。
「でも、おばあさん、そんなに、いったいぜんぶ持っていけるの」と、若者が言うと、
「持ってかなくちゃならないのよ。ねえ、お金持ちの子どもさんたちは、こんなことしなくたっていいのだけどね。百姓たちのあいだじゃね、みんなが、
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振りかえっちゃいけないよ、
おまえの背中はまがってる、
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と、言うんだよ」とおばあさんは言うのでした。
若者がおばあさんのそばに立ちどまって、おばあさんを見ていますと、おばあさんは言いました。
「あんた、わたしの手伝いをしてくれる気なの? そうね、あんたの背なかなら、まだまっすぐだし、それにたっしゃな足もしているし、こんなこと、なんでもありゃしないわね。わたしの家《うち》はね、ここからそんなに遠くはないんだよ。山のむこう、野っ原《ぱら》に建っているんだよ。あんたなら、ひょいとひとっ飛びでいけるさね」
若者は、おばあさんを気の毒に思いました。
「なるほど、ぼくの父親は、百姓ではない。金持ちの伯爵《はくしゃく》だ。ところで、荷物を運べるのは百姓だけと決まったわけでないし、おばあさんにもわかってもらいたいから、ひとつ荷物をかついでみるとしよう」
「やってみようというのかい、そりゃ嬉しいね。どうしたって、一時間は歩かなくちゃならないがね、でも、そんなことあんたにはなんでもないよね。あそこに林檎《りんご》と梨《なし》があるがね、あれも持ってかなくちゃならないんだよ」
伯爵の若さまは、一時間も歩いていかなくてはならぬと聞いて、これはちょっと考えものだと思いました。ところが、このおばあさんは、一度つかまえたものはもうはなしません。おばあさんは、伯爵の若さまの背なかに買いもの袋をしょわせたうえ、腕には篭をふたつぶらさげてやったのです。
「ほらね、らくなもんだろ」と、おばあさんが言いますと、若さまは、「どうして、らくなもんですか」と、顔をしかめてみせました。
「この荷物ときたら、重たくてずしっとくるね。石ころをごろごろ詰めこんだみたいだな。林檎と梨ときたら、まるで鉛《なまり》みたいだ。もう、息もつけやしない」
若さまは、荷物をほうり出したくなりました。けれども、おばあさんが許しません。
「ほれみたことか」と、おばあさんはばかにしたように笑いました。
「こんなばあさんが、ちょいちょい運んでいるのにさ、若さまは、もう運びたくないというのかね。若さま方《がた》ときたら、口じゃうまいことを言ってるが、なんにもしないし、いざ、ことが面倒となると、一目散《いちもくさん》に逃げ出すというわけか」
それからおばあさんは、またつづけて言いました。
「そんなとこに、ぼやっとつっ立っていないでさ、足をあげて歩くんだよ。あんたの荷物なんか、もう誰もおろしちゃくれないからね」
こうして若さまが平らな道を歩いているあいだは、まだどうにか我慢《がまん》もできたのですが、若さまとおばあさんのふたりが、山道にさしかかって、いざ、のぼっていかねばならなくなったときでした。足もとの石ころが、まるで生き物のように、ごろごろとうしろに転《ころ》げ落ちていきますと、もう若さまの力ではどうにもならなくなったのです。
額《ひたい》には汗がびっしょり、背なかには、熱い汗、冷たい汗がぽたぽたと流れ落ちました。
「おばあさん、ぼくはもう歩けないや。ちょっと休んでいきますよ」と、若さまが言うと、おばあさんは、それにこたえて言いました。
「だめだめ。うちに着いたら、休んでもいいから。だけど、いまはさっさっと歩くんだよ。あんたにとって、そうしたほうが、なぜいいか、いまのとこは誰にもわかりゃしないがね」
「おばあさん、ひどいよ」と言って、若さまが背なかの荷物をほうり出そうとしたのです。でも、いくらそうしても、むだでした。荷物は、まるで背なかから生《は》えてきたように、背なかにぴったりくっついていたのです。若さまは、からだをくねくねとくねらせてみましたが、どうしても荷物をもぎとることはできませんでした。
おばあさんのほうは、そのうえげらげらと笑いこけ、松葉づえをつきつき、なんとも嬉しそうに跳《は》ねまわっていました。
「若さま、怒ったりしちゃ、だめですよ。怒って、顔が火のように真っ赤になっとるがね。我慢して、荷物をかついでいくんですよ。うちに着いたら、おこづかいをたっぷりあげますがな」
この若さま、いったいどうしたらよいのでしょう。運を天にまかすよりほかなかったのです。じっと我慢して、おばあさんのうしろからのろのろ歩いていくよりしかたなかったのでした。ところが、おばあさんのほうは、だんだん足が早くなっていくようでしたし、若さまの荷物のほうは、だんだん重くなっていくようでした。
するとおばあさんは、ふいにぴょんと跳びはねて、若さまの荷物の上に飛びあがり、その上にすわったものでした。おばあさんはもうかさかさに痩《や》せてしまっているのに、太りきった百姓女よりももっと目方があったのです。若さまは、もう膝《ひざ》ががくがくです。でも、さきへ歩いていかないとなると、おばあさんは、細い若枝といらくさで、ぴしゃりぴしゃりと若さまの脚《あし》をたたくのでした。
苦しそうに呻《うめ》き声を立てながら、若さまは山をのぼっていきました。そして、やっとおばあさんの家《うち》にたどり着いたのですが、若さまはもう倒れんばかりになっていました。
がちょうたちは、おばあさんの姿を見ると、翼《はね》を高くあげ、頚《くび》を前のほうに突き出して、「があ、があ」と鳴きながら、おばあさんを迎えに走ってきました。
かまどのうしろでは、年をとった女がひとりむちを手にしてぶらぶらしていました。がんじょうそうな大女、ひどくみにくい女でした。その女がおばあさんに言いました。
「母さんたら、なにかあったの? ずいぶん遅かったわね」
「いいや、どうもしないよ。いやな目にあうどころか、この方《かた》がな、わたしの荷物を持ってきてくださったんだよ。ねえ、おまえ、それにわたしがくたびれちゃったらね、わたしまでもさ、荷物の上に乗っけてきてくださったんだよ。わたしたちはね、おもしろおかしく冗談《じょうだん》ばっかし言いあって、帰ってきたんだ。帰り道なんて、すぐだったよ」
そんなことを言ってから、やっとおばあさんは若さまの背なかからはいずるようにおりてきました。それからおばあさんは、荷物を下におろし、篭を若さまの腕からとると、しげしげと若さまを見やって、こう言うのでした。
「さあ、入口のまえの長椅子に腰かけて、ゆっくりと休むがいいよ。あんたはね、立派にお礼がもらえるんだからね。お礼はすぐあげなくっちゃね」
それからおばあさんは、がちょう番の女に向かって言いました。
「家のなかにお入り。ねえ、おまえ、若さまとふたりきりでいるのは、いいこっちゃないからね。火に油をそそぐようなまねはしないほうがいいしね。あの若さまが、おまえにぞっこん夢中にならないともかぎらないからね」
伯爵の若さまは、泣いていいものか、笑っていいものか、さっぱりわからなかったのです。それもそのはず、若さまはこんなふうに考えていたからです。
「あんな≪かわいい≫女《ひと》にね。そう、あの女《ひと》が、たとい三十歳も若いとしたって、ぼくの気持ちに変わりあるまいにさ」
ところで、おばあさんのほうは、がちょうたちを、まるで子どものように、かわいがって撫《な》でまわし、それから娘を連れて、家のなかへ入っていきました。
若さまは、野生の林檎の木の下に置いてあった長椅子の上に、のんびりと寝ころがっていました。空気はやんわりとなまあたたかく、まわりには緑の野原がずうっと拡《ひろ》がっていました。
そこには、プリムラや、野生のたちじゃこう、そのほか千の草花が、まき散らされたように咲いていました。そしてその真ん中を、水のきれいな小川がさらさらと流れ、それに陽《ひ》の光が映《うつ》ってきらきらと輝いていました。そして白いがちょうたちが、あちらこちらと歩きまわり、小川に入っては、ばちゃばちゃと泳いでいました。
「ここは、ほんとうに気持ちのいいところだ。だけど、ぼくはもうくたびれちゃって、目もあいていられやしない。ちょっくら、眠りたいもんだな。だけど、突風が吹いてきて、ぼくの脚を胴体《どうたい》から吹き飛ばしてくれなきゃいいが。なにしろ、ぼくの脚ときたら、へとへとにくたびれちゃって、燃えかすみたいになっちゃってるからな」
しばらく眠ると、おばあさんがやってきて、若さまをゆすぶり起こしました。
「起きるんですよ。あんたはね、ここにいるわけにはいかないんですからね。そりゃあ、あんたにはずいぶんつらい思いをさせたがな、でも生命《いのち》にかかわるこっちゃなかったがね。ほら、お礼をあげるとしようね。お金《かね》なんかいらないんだから、なにかほかのものをあげるとしようね」
おばあさんは、そう言って、小箱《こばこ》を若さまの手に握らせました。それは、緑のエメラルドを彫《きざ》んでつくった小箱でした。
「たいせつにしておくんですよ。運が向いてきますからね」と、おばあさんは、そう、つけたして言いました。
伯爵の若さまは、ぴょんと跳《と》び起きて、自分がもとどおりすっかり元気になっているのを知ると、おばあさんに贈り物のお礼を言って、すたこら出かけていきました。あのべっぴんさんの娘には目もくれませんでした。それから、だいぶさきまでいったのですが、まだ遠くうしろのほうから、がちょうたちの、があがあという楽しそうな鳴き声が聞こえていました。
伯爵の若さまは、それから三日間も、荒れはてた野原をあちらこちらと歩きまわり、やっとのことで野原から抜け出すことができたのでした。
若さまは、ある大きな都会《まち》にやってきました。そこには誰も顔見知りの人がいなかったので、若さまは王さまの住んでいるお城に連れていかれたのです。王さまとお妃が、玉座《ぎょくざ》に着いていました。若さまは、そのまえにひざまずくと、緑のエメラルドの小箱を隠しから取り出して、それをお妃の足もとに置いたのです。お妃は、若さまに立ちあがるようにと命じました。それで、若さまは、立ちあがって、その小箱をお妃に手渡すことになったのです。
ところがお妃が、渡されたその小箱をあけて、なかをのぞいてみた途端《とたん》、お妃は死んだようになって、ばたんと床《ゆか》に倒れてしまったのでした。若さまは、王さまの召使いたちにつかまえられて、牢屋《ろうや》に入れられることになりました。そのときです、お妃は、目をぱっと見開くと、若さまをはなしてあげて、みんな出ていってちょうだい、若さまと内証《ないしょ》の話しがしたいのだから、と大きな声で言ったのです。
若さまとふたりきりになると、お妃は、見る目もいたましく、ほろほろと涙をこぼして泣きはじめ、こんなことを物語るのでした。
「わたしを取りまいております名誉も栄光も、わたしにはなんの役にも立ちません。わたしは、目をさましますと、悲しみと苦しみでいっぱいなんです。そうです、わたしには三人の娘がいました。そのうち末の娘がいちばんきれいで、世間の人たちが、この世にはほかにいないというくらいきれいな娘でした。娘の肌は白くて雪のようでした。唇は林檎《りんご》の花のように赤かったし、髪の毛は陽《ひ》の光のようにきらきら輝いていました。泣いたりしますと、娘の目からは、涙じゃなくて、真珠や宝石がぽろぽろと落ちてきたものです。
あの娘《こ》が十五歳になったときでしたが、王さまが玉座のまえに三人の娘を呼びよせたのです。末の娘が入ってきましたとき、家来どもがどれほど目を見張って見入ったことでしょうか、お見せしたいくらいでした。それは、もうまるで日の出かと思うばかりでした。
そこで、王さまが言われたのです。
『姫たちや、わしがいつこの世を去るかわからんがな、わしは今日《こんにち》、わしの亡《な》きあと、誰がなにを受け取ったらいいか、決めておきたいのじゃ。おまえたちはみんな、わしのことを思ってくれるな。だがな、それでもいちばんわしのことを思ってくれる姫に、いちばんいいものを授《さず》けてやりたいと思っておるのだ』
すると三人の娘は、めいめい自分こそがいちばん王さまのことを思っている、と申したのですね。ところが、王さまはこう言われたのです。
『どれほどわしのことを思っているのか、口では言えんものかな? 言ってくれたら、おまえたちが、どれほどわしのことを思っているか、よくわかるのだがのう』
するとね、いちばん上の姉娘が、こんなふうに言ったのですよ、……
『わたし、父上が、なによりも甘いお砂糖とおなじくらい大好き』とね。
それから、二番目の娘は、こう申したのです、……
『わたし、父上が、わたしのなによりもきれいな服とおなじぐらい大好き』とね。
ところが、末の娘はなんにも言わずに、黙っていたのです。そこで、王さまがたずねたのですね、……
『で、おまえは、いちばんかわいい姫だが、わしのことを、どれほど思っていてくれるのかのう?』とね。
すると、末娘はこう申したのです、……
『わたしには、わかりませんの。わたしの気持ち、ほかにくらべようもありませんから』とね。
でも、王さまは、なにかとくらべて言わなくちゃいかんと、言い張ったのですね。そこで、末娘は、とうとうこう言ったのです、……
『どんな上等《じょうとう》なお料理も、お塩が入っていなければ、おいしくはありません。ですから、そのお塩とおなじように、わたしは父上が大好きなの』とね。
末娘のその言葉を聞かれた王さまは、かんかんになってしまわれ、
『塩とおなじくらい、このわしが好きなんだと。そんなら、おまえの愛情にも塩をくらわしてくれよう』と、言われたのですね。
そこで、王さまは、上のふたりの娘には、お国をわけて与えておやりになったのですが、末の娘には、その背なかに塩の入った袋をくくりつけさせたのです。こうして、末の娘は、ふたりの家来《けらい》に連れられて、荒れた森のなかに入っていくことになってしまったのです。そこで、わたしどもは、末の娘のためにと、王さまにご慈悲をお願いもし、お祈りもしたのですがね、でも王さまのお怒《いか》りは、いっこうにやわらぎそうもなかったのです。
末の娘が、いよいよわたしどものところから立ち去ることになったそのときです。なんとさめざめと泣いたことでしょうか! 娘の目からは涙がぽろぽろ落ちました。それが涙の真珠となりまして、道という道にまき散らされたのです。
それからしばらくしますと、王さまはあまりにも情《なさ》け知らずのことをしてしまったと、後悔されたのですね。家来たちを森じゅうにつかわしましてね、かわいそうな姫をさがさせたのです。でも誰ひとり姫をさがし出すことはできませんでした。あの末の娘は、もう森の野獣《けもの》に食べられてしまったのではないかしら、そんなことを考えると、悲しくて気も狂わんばかりになったのでした。あの娘《こ》はまだ生きている、どこかの洞穴に隠れていたのだ、いいや、情《なさ》けぶかい人たちに助けてもらっていたのだ、ときおりわたしは、そんなふうに希望をつないでは、自分をなぐさめていたのです。
でも、考えてもみてください。あなたのエメラルドの小箱をあけて見ましたとき、なんと真珠がひとつ入っていたではありませんか。わたしの末娘の目からほろほろと落ちた涙の真珠とそっくりおなじものだったのです。ひと目見たとき、わたしははっとしてしまったのです。わかっていただけましょうね。それで、おしえていただきたいのですが、この真珠を、どうやって手に入れられたのですか」
伯爵の若さまは、その真珠は森のおばあさんからもらったものであったこと、そしてそのおばあさんは気味の悪い人で、ひょっとして魔女かもしれない、でも、姫のことはなにひとつ聞きもしなかったし、その姿も見なかった、とお妃に話したのでした。
こうして王さまとお妃は、おばあさんをさがし出すことにしたのです。真珠のあったところにいけば、姫のこともわかるにちがいない、そう思ったからでした。
さて、荒れ地のなかのおばあさんの家では、糸|繰《く》り車をまえに、おばあさんはすわって、糸を紡《つむ》いでいました。その日はもう暗くなっていました。下のかまどのところで燃えていた木《こ》っぱが、かすかな光を投げていました。
そのとき、不意にそとが騒がしくなりました。がちょうたちが野原から帰ってきて、ぎゃあぎゃあ、ぎゃあぎゃあ、しゃがれ声を立てたのです。それからしばらくして、娘も入ってきました。でもおばあさんは、ろくにお礼も言わず、ただちょっと首をふっただけでした。娘はそこにすわると、糸繰り車を手にして、若い娘がするようにすばしこく糸を撚《よ》るのでした。
こうしてふたりは、二時間もすわっていましたが、ひと言《こと》も言葉はかわしませんでした。そのうち、窓のところで、なにやらがさごそ音がすると、火の玉のようなふたつの目が、ぎょろっとなかをのぞきこんだのです。それは年をとったふくろうでした。ふくろうは、ほほー、ほほー、ほほーと、三度|啼《な》きました。
おばあさんは、ちょっと上のほうを見ただけで、娘に言いました。
「ねえ、おまえ、出かける時間だよ。仕事をしておいで」
娘は立ちあがって、そとに出ていきました。いったい、どこへいったのでしょう?
野原をいくつも越え、遠く遠く、谷間のなかへです。歩きつづけて、やっと娘は泉のところにいきつきました。そこには古い樫《かし》の木が三本立っていました。
そうしているうちに、大きなまるい月が山の上に昇りました。月の光でたいへん明るく、落ちている留《と》めピンさえ見つけることができるほどでした。娘は、自分の顔にかぶさっている皮をはぐと、泉に身をかがめて、顔を洗いはじめました。それが終わると、その皮を泉の水に浸《ひた》して、それからそれを草の上に置いたのです。もう一度、月の光にさらして、かわかそうとしたのです。
それにしても、なんというその娘の変わりよう! 誰も見たことのない変わりよう! 灰いろの編んだ髪がすべり落ちると、お陽さまの光のように、金いろの髪の毛があふれ出て、ちょうどマントのように、娘のからだいっぱいにひろがったのでした。ただ目だけが、夜空の星のようにきらきらと輝き、頬《ほお》はほんのりと赤らんで、林檎の花のように微《かす》かに光っていました。
けれども、その美しい娘は、悲しげにしていました。すわりこんで、さめざめと泣いていたのです。娘の目からは、涙がひと粒《つぶ》ひと粒、つぎつぎとあふれ出て、長い髪のあいだをころげては地面に落ちていきました。そんなふうにして娘はすわっていましたが、もし近くの木の枝のところから、ぎしぎしざわざわいう音が聞こえてこなかったら、もっとそこにすわりつづけていたことでしょう。ところが、狩人《かりうど》の銃声を聞きつけた鹿のように、娘はぴょんと跳びあがりました。
ちょうどそのとき、月は、黒い雲におおわれたのでした。その一瞬、娘は、あの古い皮をするりとかぶると、風に吹き消されたあかりのように、どこかに消えてしまいました。
娘は、ポプラの葉のようにぶるぶるふるえながら、家にもどってきました。おばあさんが戸口のまえに立っています。娘が、いま自分の身に起きたことを話そうとすると、おばあさんはにこにこ笑って、
「もう、なにもかもわかっているがね」と、言うのでした。
おばあさんは、娘を連れて、部屋に入り、新しい木《こ》っぱに火をつけました。けれども今度は、糸繰り車のまえにはすわりません。おばあさんは箒《ほうき》を持ってきて、掃きそうじ、みがきそうじを始めました。そして、おばあさんは、娘に言いました。
「なにもかも、きれいにそうじをしておかなくちゃいかんのだよ」
「けれど、お母さん、なんでこんな遅くなってからそうじなんかするのです? なにかあるんですか?」
「いったい、いまなん時だか知ってるのかい?」
「真夜中にはなってないけど、もう十一時は過ぎてるわ」
「三年まえのきょうだよ、おまえがわたしのところに来たのはね。おぼえてないのかい? おまえがここにいるのも、もうおしまい。わたしたちは、もうこれからさきいっしょにはいられないのだよ」
おばあさんがこう言いつづけると、娘はびっくりして言うのでした。
「まあ、お母さんたら、わたしを追い出すつもりなの? わたしに、どこへいけというの? わたしには、友だちはいないし、帰ってゆく故里《ふるさと》もありはしないわ。お母さんのお望みどおり、わたしはなにもかもやってきたわ。それに、いつだってお母さんは、わたしのすることに満足していたわ。ねえ、わたしを追い出したりしないで!」
おばあさんは娘に、娘の身に迫《せま》っていることはしゃべろうとしませんでした。
「わたしがここにいるのも、もう長くはないのだよ。でも、わたしが出ていくからには、家のなかや部屋をきれいにそうじしておかなくちゃね。だから、そうじのじゃまはしないでおくれ。おまえのことは、屋根があることだし、そこに住んでいればいいのだから、なにも心配することはないよ。それに、わたしがあげようと思っているお礼のことだって、おまえにも不平はないだろうさ」
「でも、おしえて、どんなことがあったのかだけでも」
娘がそうたずねても、おばあさんは、こう言うだけでした。
「もう一度、言うとくがね。わたしのそうじのじゃまはしないでおくれ。もうひと言も口をきくんじゃないよ。部屋に引っこんで、顔の皮を取っておしまい。それから絹の服を着るんだよ。おまえがわたしのところにきたときの、あの服をね。それから、わたしが呼ぶまで、おまえの部屋で待っていなさいよ」
さて、ここで、あの王さまとお妃の話に、もう一度戻っておくことにしましょう。
王さまとお妃は、伯爵の若さまと連れ立って出かけました。荒野に住んでいるおばあさんをさがし出そうと思ったのです。ところが、夜になって、森のなかで若さまは王さまとお妃とからはなればなれになってしまったのです。若さまは、ひとりで歩いていかねばならなくなりました。
あくる日は、自分の歩いていく道が、まちがった道ではないような気がして、ずんずん歩いていきました。そしてその日もとうとう暗くなりました。道に迷ってしまいはせぬかと心配して、若さまは、そこに立っていた木の上にのぼって、夜を明かすことにしたのです。
月がそのあたりを明るく照らしはじめたとき、若さまは、山をぶらぶらおりてくる人の姿を見つけました。手にはむちを持っていません。でも、まえにおばあさんの家で会ったがちょう番の娘だということは、すぐわかったのでした。
「いやはや、あの娘、やってきたな。この魔女をつかまえたからには、もうひとりの魔女も逃がしはせぬぞ」
ところが、娘が泉のところにきて、皮をぬいで、顔を洗うと、金いろの髪の毛が娘のからだにたれさがりました。なんと若さまは驚いたことでしょう。この世で誰も見たことのないほど美しい娘になっていたのです。
あまりの驚きに息を吸うのもやっとの思いだったのですが、若さまは木の葉のあいだから、できるだけ首をのばして、じっと目をすえて娘を見つめたのでした。あまり乗り出したせいか、それともなにかのせいであったのか、木の枝が、とつぜん、ぽきぽきという音を立てたのでした。その瞬間、娘はぬいだ皮をするりとかぶると、鹿のように跳んで逃げていきました。ちょうどそれと同時に、月が雲間《くもま》に隠れたので、娘の姿は、もう若さまの目から跡かたもなく消えていました。
こうして、娘が姿を消すと、若さまは木からおりて、大急ぎで娘のあとを追いかけていきました。けれども、まだそれほどもいかないうちに、夜明けの野原をぶらぶらしているふたりの姿を見つけたのです。王さまとお妃の姿でした。ふたりは、遠くのほうから、おばあさんの家のあかりを見つけて、それを目あてにやってきたのです。
若さまは、泉のそばでなんとも不思議《ふしぎ》なことを見たものだと、ふたりに話したのでした。するとふたりは、それはいなくなった娘だろうと、そう固く信じたのです。三人は、大喜び、さきへさきへと歩いていって、とうとうおばあさんの家に着きました。
がちょうたちは、家のまわりにすわっていました。首を翼の下に突っこんで眠っていたのです。身動きひとつしません。
三人は、窓からなかをのぞきこみました。おばあさんが、じっと静かにすわって、糸を紡いでいました。よしよしと頭でうなずいて、あたりを見まわすこともしません。部屋のなかはきれいにそうじができていて、埃《ほこり》ひとつついていない足をした霧《きり》の国の小人《こびと》が住んでいるようでした。
ところで、娘の姿は見あたりません。しばらくのあいだ、三人はじろじろと見まわしていたのですが、ついに決心して、そっと窓をたたいてみたのです。
おばあさんは、三人がやってくるのを待っていたようでした。やおら立ちあがると、やさしげに言いました。
「お入りなさい。あなた方《がた》のことは、とうに知っておりますよ」
三人が部屋のなかに入っていきますと、おばあさんはこう言うのでした。
「あなた方も、こんな遠い道を歩かずにすんだのにね。あんな立派な、かわいらしい娘を三年まえに追い出したりして、そんなまちがいをやったからですよ。娘さんはむかしのまま。三年のあいだ、娘さんはがちょうの番をしなければならなかったのね。そのあいだ、なにひとつ悪いことはおぼえなかったばかりか、きれいな気持ちはむかしのままよ。だけど、みなさんのほうは、ずっとおどおどしながら暮らしてきたというわけね。まあ、たっぷり罰《ばつ》をうけたというわけですよね」
それから、おばあさんは、娘のいる部屋のところにいって、
「ねえ、出ておいで!」と、娘を呼びました。
すると、戸が開いて、絹の服を着た金髪の姫が、目を輝かして出てきました。天使が天国から舞いおりてきたようでした。
姫は、父王とお妃のところにかけよって、ふたりにしがみついてキスをしました。そうするよりほかなかったのです。みんなは、嬉し泣きに泣きました。
伯爵の若さまは、みんなのそばに立っていましたが、姫が若さまのほうに目をやると、姫は苔《こけ》ばらのように顔を赤く染めるのでした。姫自身、それがどうしたわけなのかわからなかったのです。さて、王さまが言いました。
「姫や、わしの王国は、もうくれてやってしまった。姫には、なにをくれようかな?」
すると、おばあさんが言うのでした。
「姫には、なにもいりません。わたしが姫に、みなさんのことで姫の流した涙をあげましょう。ただただ涙の真珠ばかりです。海でとれる真珠よりはもっときれいな真珠です。みなさんの王国のすべてよりももっと値打ちのあるものです。姫はよくつとめてくれたので、わたしの小さな家をお礼にあげることにしましょう」
おばあさんは、言い終わると、みんなのまえからぱっと姿を消してしまいました。やがて家のなかの壁という壁が少しばかり騒がしい音を立てたので、みんながあたりを見まわすと、おばあさんの小さな家は、すばらしい宮殿に早変わり、王さまの食卓にはご馳走がいっぱい、そして召使いたちが、あちこちと駆けまわっていました。
さて、この話しはまだまだつづくのですが、この話しをおしえてくれたわたしのお祖母《ばあ》さんは、もうものおぼえが悪くなってしまって、この話しのつづきは忘れてしまったのです。
それでわたしは、いつもこう思っているのです、……あのきれいな姫は、伯爵の若さまと結婚されて、ふたりして宮殿にとどまり、神さまの思《おぼ》し召《め》しどおり、いつまでも幸《しあわ》せな毎日を送ったことでしょう、と。それから、おばあさんの家のそばで飼われていたあの雪のように真っ白ながちょうたちは、おばあさんが自分のもとに引き取っていた娘たちばかりであったのかどうか(悪くとることはないのですよ)、そしてその娘たちが、いまは人間の姿を取り戻して、若い女王さまに、召しかかえられていたものかどうか、確かなことはわかりませんが、とにかくそんなことだろうと思っているのです。
確かなことと言いますと、あのおばあさんは、人びとが信じているような魔女ではなくて、とても親切な、分別のそなわった女の人であったのです。ふつうの涙を流して泣くかわりに、真珠の涙を流すというそんな贈り物を、姫の誕生日に授《さず》けたのも、たぶんあのおばあさんであったのでしょう。今日《こんにち》では、もうそんなことはありません。でも、もしあるとすれば、貧乏な人たちだって、やがてお金持ちになれることでしょうに。
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池にすむ水の精
むかし、ひとりの粉ひきがおりました。粉ひきは、おかみさんとふたりで、なに不足ない暮らしをしていました。ふたりにはお金も地所《とち》もありました。ふたりの暮らしは、一年ごとによくなる一方《いっぽう》でした。
ところが、思いがけなく、不幸がやってきました。ふたりの財産がふえていったときとおなじように、今度は、一年ごとにへる一方で、おしまいには、自分の持ち物といえば、いま住んでいる粉ひき小屋ぐらいになってしまったのでした。粉ひきは、心配でたまりません。一日の仕事がすんで、横になっても、粉ひきは落ち着かず、気がもめてベッドのなかで、寝がえりをうつばかりでした。
ある朝のこと、粉ひきは、日の出まえにもう起きあがって、戸外《そと》に出ていきました。少しは気持ちも軽くなるだろう、と思ったからでした。
粉ひき小屋の土手を歩いていったとき、ぱあっと朝日が射《さ》してきました。すると、池のなかで、なにやらざわざわする音が聞こえました。振りかえってみると、美しい女《ひと》がひとり、水のなかからゆっくり出てくるところでした。
その美しい女《ひと》は、長い髪の毛を、自分の肩のところでそっと両手でつかんでいたのでしたが、その髪がさっと両わきにすべり落ちると、真っ白いからだを、おおい隠してしまうのでした。
粉ひきは、これが、池にすむ水の精だとわかったのです。粉ひきは、こわくなって、逃げたらいいものか、このままここにいていいものか、わからなくなりました。
すると、水の精のやさしい声が聞こえてきました。水の精は、粉ひきの名を呼んで、なぜそんなに悲しそうにしているのか、とたずねました。初めのうちは、粉ひきもだまっていましたが、水の精《せい》がやさしく声をかけてきたので、勇気を出して、自分もむかしは幸福で、お金持ちの暮らしをしていたが、いまはどうしたらいいものかと思うほど、すっかり貧乏になってしまった、と水の精に言ったのです。
「そんなこと気にしないでね」と、水の精は言いました。「いままでよりもっとお金持ちに、もっといい暮らしにしてあげましょう。ただね、あなたの家で生まれたばかりの赤ん坊を、わたしにくれると約束してちょうだいね」
「どうせ、犬っころか、猫の子ぐらいのものだろう」と、そう思った粉ひきは、水の精の望んでいたものを約束したのでした。水の精は、もときた水のなかへと沈んでいきました。粉ひきは、安心して、元気を出して粉ひき小屋へと急いで帰りました。
ところが、まだ粉ひきが小屋にまでいかないうちに、お手伝いが、なかから出てきて、喜んでくださいよ、おかみさんが男の子さんをお産《う》みですよ、と大声で言いました。粉ひきは、稲妻《いなずま》にうたれたように立ちすくみました。あのずるい水の精の奴《やつ》、ちゃんと知っておって、おれを騙《だま》したな、粉ひきは、そう思ったのです。
粉ひきは、がっくりとうなだれて、おかみさんのベッドのところにいきました。すると、おかみさんが言いました。
「かわいい男の子が生まれたのに、どうして喜んでくれないの」
おかみさんにそう言われると、粉ひきは、どんなことがあったのか、そして水の精ととんでもない約束をしてしまった、と話しをして、こうつけくわえたのでした。
「子どもがいなくなっちゃうなら、お金ができて、暮らしがよくなったって、なんにもなりゃしないよ」
お祝いにやってきた親類のものたちも、どうしたものかと、途方に暮れました。
そうしているうちに、粉ひきの家に、またもや幸運が舞いこんだのでした。やることなすこと、なにもかもうまくいって、大きな箱も、小さな箱も、ひとりでにいっぱいになったようでしたし、夜のあいだに、戸だなにはお金がごっそり殖《ふ》えたようでした。いくらもたたないうちに、粉ひきの財産は、むかしよりもずっと多くなりました。
でも、のんびりと喜んでいるわけにもいかなかったのです。水の精との約束で、心の痛む思いをしていたからでした。粉ひきは、池のそばを通るたびごとに、水の精が水のなかから浮かびあがって、あの約束どうしたの、と言われはしないかと、びくびくしていました。生まれた男の子は、ぜったいに池のそばにはやりませんでした。
「気をつけるんだよ。おまえが、池の水にでも触《ふ》れようものなら、なかから手が出てきて、おまえをぱっとつかんで、池のなかに引きずりこんでしまうからね」と、粉ひきは自分の子どもに言いきかせるのでした。
ところが、一年また一年と、なん年たっても、水の精は、それっきりあらわれませんでした。それで粉ひきも、だんだん安心するようになったのです。
男の子は大きくなって、立派な青年になり、猟師《りょうし》のところに修業にいきました。青年は修業をつんで、腕のいい猟師になりました。そして、村の名主《なぬし》のお抱《かか》えになったのです。
ところで、村には思いやりのある美しい娘がおりまして、その娘は猟師にすっかり気に入られてしまったのでした。
村の名主はそれに気づくと、猟師に小さな家を一軒与えてやりました。ふたりは、結婚式をあげ、互いに心から愛しあいながら、静かな、幸福な日を送ることになったのでした。
さて、あるときのこと、猟師が、一頭ののろ鹿を追いかけていきました。のろ鹿が森のなかから、広びろとした野原にとび出してきたとき、猟師はそのあとを追いかけていって、とうとう、ずどんと一発、鉄砲で射《う》ち倒したのでした。猟師は、自分があの危ない池のそばにきていたことに気づかなかったのです。のろ鹿の臓腑《はらわた》を取り出すと、それから猟師は、血だらけの手を洗いに、池のところにいきました。
猟師が、池の水のなかに手を入れるや、あの水の精が、すうっとあらわれ、笑いながら、ぬれた両腕で、猟師を抱きかかえると、さあっと水のなかに引き連れていってしまいました。それが、あっという間であったので、わかれた水が、猟師の頭の上でぶつかりあうほどでした。
日が暮れても、猟師は帰ってきません。お嫁さんは心配になって、さがしに出かけました。自分は水の精にねらわれているから、注意して、あの池のそばにはゆかないようにしているのだ、と猟師がよくそう言っていたので、お嫁さんは、きっとなにかあったにちがいない、と思ったのです。
お嫁さんは、大急ぎで池のところにいきました。池の岸に、猟師の獲物《えもの》ぶくろが転《ころ》がっていました。もう疑いをはさむまでもありません、悪い目にあったのだと、お嫁さんは思いました。
お嫁さんは、苦しい思いに手をもんだり、悲しい声をあげたり、命よりたいせつな夫の名を呼んでみましたが、むだなことでした。お嫁さんは、池の向こう岸に出かけていって、もう一度、呼んでみたのです。お嫁さんは、水の精を口ぎたなく罵《ののし》りました。なんの受けこたえもありません。池は鏡のように静まりかえっていました。そこには、半月《はんげつ》が宿って、じいっとお嫁さんを見あげていました。
かわいそうなお嫁さんは、池のそばからはなれませんでした。休むこともなく、お嫁さんは足ばやに、なん度もなん度もくりかえし池のまわりを回りました。あるときは黙りこくって、またあるときはわめき散らし、そしてまたしくしくと泣きじゃくりながら、池のまわりを回ったのでした。でも、しまいには力もつきてしまいました。お嫁さんは、ばったり地面に倒れると、そのままぐっすり眠りこんでしまいました。こうして、やがて、こんな夢を見たのでした。
ごろごろした大きな岩のあいだを、おっかなびっくり、上へ上へとのぼっていきました。茨《いばら》や蔓《つる》が足にまきついてきました。顔には、雨がざあざあ降りかかってきました。長い髪は、風にむしり取られるようでした。やっと高台にのぼり着いたとき、景色ががらっと変わりました。青い空、おだやかな風、なだらかな地面。緑の野原には、色とりどりの花が咲いていて、そこには小ぎれいな小屋が一軒建っていました。その小屋に向かっていきますと、入口の戸が開いていました。小屋のなかには、白髪《しらが》のおばあさんがすわっていて、やさしそうに、こちらにくるようにと合図をしています。ここで、はっと目がさめました。
もう、夜は明けていました。お嫁さんは、さっそく、夢で見たとおりのことをやってみようと思い立ったのです。そこで、えっちらおっちら山をのぼっていきました。なにからなにまで、夜中に見たとおりでありました。
おばあさんは、やさしく迎えてくれました。さあ、おすわり、と言って、おばあさんは、お嫁さんに椅子をすすめてくれました。
「なにか不幸な目にあったにちがいあるまいな」と、おばあさんは言いました。「なにせ、こんな寂しい一軒家に訪ねてきなさったんだからな」
お嫁さんは、身に起きたことを、涙を流しながら、おばあさんに話したのでした。
「元気を出しなさいよ。助けてあげるからね。さあ、黄金《きん》の櫛《くし》をあげよう。満月の晩まで待っておいで。満月になったら、池にいって、池のふちにすわりなさい。それから、この黄金の櫛であんたの長い黒髪をとかしてごらん。それが終わったら、その櫛を池のふちに置くのだよ。さあ、どんなことになるか、見ててごらん」
お嫁さんは帰っていきました。ところでお嫁さんには、満月の晩までの一日一日が、とてもゆっくりたっていくように思われたのでした。
とうとう満月の明るい顔が空にあらわれました。そこでお嫁さんは、戸外《そと》に出て、池のそばにいきました。そして、そこにすわると、自分の長い黒髪を、黄金の櫛でとかしたのでした。とかし終わったので、お嫁さんはその櫛を池のふちに置いたのです。
やがて、水底からざわざわと騒ぐ音が聞こえると、波がひとつ盛りあがり、池のふちのほうに転《ころ》がってくると、櫛をさらっていってしまいました。
それから、それほどもたたないうちに、櫛は池の底に着いたのでした。すると、鏡のような池の水面が、ぽっかりふたつに割れて、猟師の頭がにゅうっと出てきました。猟師は、口をききませんでした。でも、悲しそうな目つきで、自分のお嫁さんをじっと見つめたのです。それと同時に、ふたつ目の波が、ざわざわと音を立てて押しよせてきて、ざぶんと猟師の頭にかぶさったのでした。すべては消えて、池はまえのとおり静まりかえっています。ただ満月の顔だけが、池の水面に輝いているだけでした。
お嫁さんは、がっかりして帰っていきました。でも、夢がおばあさんのいる小屋をおしえてくれたので、そのあくる日の朝、お嫁さんは、また出かけていきました。そして占《うらな》いのおばあさんに、自分の悲しい気持ちをうったえたのです。
おばあさんは、お嫁さんに黄金《きん》の笛を与えると、こう言いました。
「また満月の晩になるまで、待っておいで。満月の晩になったら、この笛を持っていきなさい。それから池のふちにすわって、この笛ですてきな歌をひとつ吹いてごらん。吹き終わったら、笛を砂の上に置いておくのだよ。さあ、どんなことになるか、見ててごらん」
お嫁さんは、おばあさんの言ったとおりにやってみました。お嫁さんが、笛を砂の上に置きますと、水底からざわざわと騒ぐ音が聞こえてきました。やがて、波がひとつ盛りあがり、こちらに近よってくると、笛をさらっていってしまいました。
それからまもなく、池の水面がぽっかり割れると、今度は頭ばかりでなく、猟師のからだの半分まで、ぬうっと出てきました。猟師は、恋しがって、お嫁さんのほうに両腕をひろげたのでした。でも、ふたつ目の波が、ざわざわと音を立てて押しよせてきて、ざぶんと猟師の頭にかぶさるなり、また猟師を引きずりこんでしまったのでした。
かわいそうなお嫁さんは、「ああ、なんにもなりはしなかったんだわ。たいせつな人を、ただひと目見たっきり、またいなくなってしまうなんて」と、言いました。
お嫁さんの心は、また新たな悲しみでいっぱいになりました。けれども、お嫁さんは、夢にさそわれて、三度目にまた、おばあさんの小屋にいきました。
こうして出かけていきますと、占いのおばあさんは、黄金でできた紡《つむ》ぎ車をお嫁さんに与えて、なぐさめながら言いました。
「まだ全部終わったというわけではないのだよ。満月の晩になるまで待っておいで。その晩になったら、紡ぎ車を持ってさ。池のふちにすわってね。糸巻きがいっぱいになるほど紡ぐんだよ。紡ぎ終わったら、紡ぎ車を池のすぐ近くに置くがいい。さあ、どんなことになるか、見ててごらん」
お嫁さんは、言われたことを、なにもかも、きちんとやりました。満月があらわれました。さっそくお嫁さんは、紡ぎ車を池のふちに運んでいって、せっせと紡ぎはじめたのです。亜麻糸《あまいと》がおしまいになって、糸巻きがいっぱいになりました。
ところが、その紡ぎ車を池のふちに置いたときでした。池の水底で、まえよりもっと激しく、ざわざわと騒ぐ音がしたのでした。それから大きな波が、どうっと押しよせてくると、紡ぎ車をさらっていきました。
すると急に水柱が立って、猟師の頭が、からだ全体が、ぬうっとあらわれました。すると猟師はひょいと池のふちにとびあがると、自分のお嫁さんの手をつかんで、とっとと逃げていきました。
ところが、ふたりがまだほんのちょっと逃げただけでしたが、池ぜんたいが、ごうごうと恐ろしい音を立てて、広い野原にすさまじい勢いで流れこんできたのです。ふたりは、ぐんぐん逃げたのですが、死はもう目のまえに迫《せま》っていました。お嫁さんは、もうこわくなって、大声でおばあさんの助けをもとめたのでした。すると、たちまち、お嫁さんはひきがえるに、猟師はただの蛙になったのでした。そして、このふたりに追いついた大水は、ふたりを殺すことはできませんでしたが、ふたりを別れ別れに、遠くへ連れていってしまったのです。
大水が引いて、ふたりの足がまたかわいた地面に着くと、人間の姿に戻ったのでした。でも、自分の相手がどこにいるのか、ふたりにはわからなかったのです。ふたりは、誰もふたりの生れ故郷を知らない見知らぬ他人のなかにいたのでした。ふたりのあいだには、高い山が、深い谷がありました。命をつないでいくためには、ふたりは羊飼いにならねばならなかったのです。
ふたりは、いく年ものあいだ、羊の群れを追って、野原や森を歩いていきました。ふたりの心は、悲しさと恋しさでいっぱいになっていました。
ふたたび春が、土のなかからあらわれてきました。そんなある日のこと、ふたりはめいめい羊の群れを追って出かけていきました。ふたりは互いに向かいあって進んでいきましたが、それも思いがけないことでした。猟師は、遠くの山の中腹に羊の群れを見つけて、自分の羊をそちらのほうへと追っていきました。ふたりは、谷間で出会ったのでしたが、お互いに誰だかわからなかったのです。でもふたりは、もうこれからは寂しくないと、喜びあったのでした。
それからというもの、毎日、ふたりは、めいめいの羊の群れを並べて追っていきました。ふたりは、あまり話しあうことをしなかったのですが、お互いになぐさめられているように思ったのでした。
ある晩のこと、満月が空に出て、もう羊も寝たときです。羊飼いは、ポケットから横笛を出して、悲しいけれども、きれいな歌を吹きました。吹き終わって、ふと見ると、羊飼いの女がわあわあ泣いていたのです。
「どうして泣いているの?」と、羊飼いが聞くと、羊飼いの女は、こう言いました。
「あたしが、おしまいに、この歌を横笛で吹いたときでした。あのお方の頭が池の水のなかから出てきたのです。あのときも、こんなふうに満月が照っていましたわ」
羊飼いは、羊飼いの女を、じいっと見つめました。羊飼いは、目がさめたような思いでした。自分のいとしいお嫁さんだとわかったからです。
お嫁さんが羊飼いをじっと見て、満月が羊飼いの顔を照らしたとき、お嫁さんも、それが自分の夫だとわかったのでした。こうしてふたりは、抱きあってキスしました。このふたりが、どんなに幸福であったろうか、そんなことは聞くまでもないことです。
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マレーン姫
むかし、あるところに、王さまがおりました。王さまには、ひとりの王子がいて、勢力《ちから》のあるよその王さまの姫に、結婚を申しこんだのでした。
その姫は、マレーン姫といって、それはたいそう美しい姫でした。姫の父王は、姫をよその男に嫁《かたづ》けようとしていたので、王子はことわられてしまったのでした。
けれども、王子と姫のふたりは、お互いに好きになってしまったので、はなればなれにはなりたくなかったのです。そこで、マレーン姫は、父王に言いました。
「わたしは、ほかの方《かた》を、わたしの夫に迎えるわけにはまいりませんし、迎えたくもありません」
すると、父王はたいへん怒って、陽《ひ》の光も月の光もさしこまない、真っ暗な塔を建てさせたのでした。その塔が、できあがったとき、父王は言うのでした。
「七年間、おまえは、そのなかにすわっているんだ。七年たったら、おまえの強情《ごうじょう》な心がほぐれたかどうか、見にこよう」
七年分の食べ物と飲み物が、塔のなかに運びこまれました。それから、姫とお付きの侍女が連れこまれ、壁でぬりこめられてしまったのでした。こうして、天からも地からも、お別れということになったのです。
姫と侍女は、暗闇のなかにすわっていました。いつ昼が始まり、いつ夜が始まるのか、ふたりにはさっぱりわからなかったのです。
王子は、ときおり塔のまわりをまわって、姫の名前を呼ぶのでした。そとからのどんな物音も、厚い壁ごしには、なかに聞こえなかったのです。姫と侍女とは、ただただなげき悲しむだけでした。
そうこうしているうちに、時は過ぎていきました。姫と侍女は、食べ物や飲み物がなくなってきたので、七年という年月《としつき》ももう終わりに近づいたことに気づいたのでした。
姫と侍女は、自分たちが救い出される時がやってきたのだと思いました。けれども、槌《つち》の音ひとつ聞こえません。壁の石ひとつ落ちそうにもありません。まるで父王が、姫のことも侍女のこともすっかり忘れてしまったようでした。
食べ物も、もうほんのわずかしかありませんでしたし、見るもみじめな死が近づいてくるのを知ったとき、マレーン姫は言いました。
「もう最後よ、やってみましょうよ。この壁に穴があくかどうか、やってみましょう」
姫はパン切りナイフで、石のつなぎの漆喰《モルタル》に穴をあけて、ほじくりました。姫が疲れてしまうと侍女と交替です。
長いことそうしているうちに、とうとう石をひとつ取り出すことに成功したのでした。それから二つ目の石、三つ目の石と、取り出していって、三日目が過ぎると、初めて陽の光が暗闇にさしこんできたのです。こうして、おしまいには穴も大きくあいて、姫と侍女はそとを見ることができました。
大空は青く、すがすがしいそよ風が吹いてきました。しかし、あたりのようすは、なんと悲しいことでしょう。父王の城は、がれきの山となっていました。見渡すかぎり、町や村は焼きつくされ、畑はすっかり荒らされていました。人っ子ひとり見あたりません。
壁の穴は、やっとふたりがすべって出られるほどの大きさだったので、初めに侍女がぴょんと飛びおり、マレーン姫がそれにつづきました。そとには出たものの、さて、どこにいったらよいのでしょう。
敵がきて、国じゅうを荒しまわっていったのです。王さまを追い出して、住んでいた人たちを皆殺《みなごろ》しにしてしまっていたのです。
姫と侍女は、とぼとぼと歩いていって、よその国をさがすことにしました。けれども、どこにも泊まるところはなく、パンのひと切れを恵《めぐ》んでくれる人もなく、姫と侍女は、困りはててしまったのです。ふたりの苦しみはたいへんなもので、いら草を食べては、飢えを満たすだけでした。
とぼとぼと歩きまわった末に、姫と侍女はよその国にやってきました。いくさきざきで勤《つと》め口をさがしたのですが、入口の戸をたたくと、すげなく追い払われるばかりでした。誰もふたりをかわいそうだとは思ってくれなかったのです。
とうとう、ふたりは大きな町に着きました。それから、王さまの御殿に出かけていったのです。ところが、ここでも相手にしてくれません。でも、おしまいに、料理番が、おさんどんになって台所で働くなら、いいよと言ってくれました。
ところが、ふたりがいることになった国の王子は、ほかでもないマレーン姫の婚約の相手であったのです。けれども父王は、その王子に別の花嫁を迎えることに決めておいたのです。その花嫁は、心根《こころね》も悪ければ、顔もみにくかったのでした。
結婚式の日取りも決まっていて、花嫁はもうとうに到着していたのです。けれども、ひどくみにくかったので、花嫁は、誰のまえにも姿を見せませんでした。じっと自分の部屋に閉じこもっていたのです。それで、マレーン姫は、その花嫁に、台所から食事を運ばねばならなかったのでした。
花嫁が花婿の王子といっしょに、教会にいくことになっていましたが、その日が近づいてきたとき、花嫁は自分のみにくいのを恥ずかしく思いました。自分が通りを歩いたら、みんなにからかわれ、笑いものにされるだろうと、それが恐ろしかったのです。そこで、花嫁は、マレーン姫に向かって言いました。
「おまえ、運が向いてきたよ。わたしはね、足の筋をちがえて、通りを歩くことができないんだ。わたしの身がわりになっておくれ。これより名誉なことなんて、おまえなんぞにあるもんじゃないよ」
けれども、マレーン姫は、「身にあまる名誉など、ほしくはありません」と言って、ことわってしまいました。花嫁が、マレーン姫に金貨を与えようとしましたが、むだなことでした。しまいには花嫁も怒ってしまい、こう言ったのです。
「わたしの言うことをきかないと、命《いのち》にかかわるよ。ひとこと言いさえすれば、おまえの首なんか、足もとへころりだ」
そこで、マレーン姫は、言うことをきいて、すばらしい花嫁衣裳と、飾りという飾りを身に着けることにしました。
マレーン姫が御殿の広間に入っていくと、誰もが姫のすばらしい美しさにびっくりしたのでした。そこで、父王は王子に向かって言いました。
「あれが、わしの選んでやった花嫁じゃ。教会に連れていってやるんだぞ」
花婿の王子はびっくりして、こう考えたのです。「ぼくのマレーン姫にそっくり。マレーン姫その人だと信じたいくらいだ。でも、あの姫は、もう長いこと塔のなかに閉じこめられているのだ。それとも、もう死んでしまったかな」
王子は、姫の手をとって、教会に連れていきました。道ばたに、いら草がひとかたまり生《は》えていました。そこにくると、姫は言いました。
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「いら草や、
小さな株《かぶ》のいら草や、
どうして、ひとりぼっちなの?
あたしといっしょだったのに、
あたしはおまえを食べたのね、
炒《いた》めもしないで、食べたのね」
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「なにを言ってるの」と、王子がたずねますと、姫は答えました。
「いいえ、なんにも。わたし、マレーン姫のこと、考えていただけなの」
王子は、この姫がマレーン姫のことを知っているのに驚きましたが、黙っていました。
ふたりが、墓地のまえの狭い橋のたもとにきたとき、姫はまた言いました。
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「教会の小さな橋よ、こわれちゃだめ、
わたしは、ほんとの花嫁《よめ》じゃない」
[#ここで字下げ終わり]
「なにを言ってるの」と、王子がたずねますと、姫は答えました。
「いいえ、なんにも。わたし、マレーン姫のこと、考えていただけなの」
「マレーン姫のこと、知ってるの?」
「いいえ。どうしてわたしが知っているでしょう?ただ、噂《うわさ》を聞いてるだけですわ」
ふたりが教会の戸口のところにきたとき、姫は、またまた言いました。
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「教会の戸口よ、こわれちゃだめ、
わたしは、ほんとの花嫁《よめ》じゃない」
[#ここで字下げ終わり]
「なにを言ってるの」と、王子がたずねますと、姫は答えました。
「ああ、わたしは、ただマレーン姫のことを考えていただけです」
すると王子は、金細工の高価な首飾りを取り出すと、それを姫の首にかけ、鎖の輪でとめました。それから、ふたりは教会のなかへ入っていきました。牧師が、祭壇のまえで、ふたりの手を重《かさ》ねて、結婚させたのです。
王子は姫を連れて帰りました。けれども、姫はその途中、ひと言も口をききませんでした。ふたりが父王の御殿に着くと、姫は花嫁の部屋に飛んでいきました。すばらしい衣裳をぬぎ、飾りものをはずしました。それから自分の灰いろのうわっぱりを着たのですが、首飾りだけはつけたままにしておいたのです。その首飾りは、花婿の王子からもらったものであったのです。
夜がきて、花嫁が王子の部屋に案内されることになりました。花嫁は、自分の顔にヴェールをかけました。騙《だま》したことを王子に気づかれないようにするためだったのです。人びとがみんなさがってしまうのを待ちかねて、王子は花嫁に言いました。
「道ばたに生えていたいら草に、なんと言ってたのかね?」
「どんないら草にでしょうか? いら草なんかと、しゃべってませんでしたよ」と、花嫁は言いました。
「しゃべってないって、そんなら、あなたは、ほんとうの花嫁じゃないんだ」と、王子が言うと、花嫁は、これはとばかり、こう言うのでした。
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「下女のところに行かねばならぬ、
下女だけが、わたしの心を知っておる」
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花嫁は、部屋から出ていって、マレーン姫に喰《く》ってかかったのです。
「この下女め、おまえは、いら草になんと言ったのかね?」
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「いら草や、
小さな株のいら草や
どうして、ひとりぼっちなの?
あたしといっしょだったのに、
あたしはおまえを食べたのね、
炒《いた》めもしないで、食べたのね」
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「わたしは、そう言っただけです」と、姫は言いました。
すると、花嫁は部屋に戻っていって、言いました。
「わたしがいら草に申したこと、いまわかったのです」と、花嫁は言って、いま姫から聞いたばかりの文句をくりかえしたのでした。
そこで王子は、花嫁にたずねました。
「ところでね、教会の小橋を渡っていったとき、教会の小橋になんと言ってたのかね?」
「教会の小橋にですって? 教会の小橋になんか、なにも言ってませんでしたよ」と、花嫁は言いました。
「なにも言ってないって、そんなら、あなたは、ほんとうの花嫁じゃないんだよ」と、王子が言うと、花嫁はまた口にするのでした。
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「下女のところに行かねばならぬ、
下女だけが、わたしの心を知っておる」
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花嫁は部屋から出ていって、マレーン姫に喰ってかかったのです。
「この下女め、おまえは、教会の小橋になんと言ったのかね?」
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「教会の小さな橋よ、こわれちゃだめ、
わたしは、ほんとの花嫁《よめ》じゃない」
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「わたしは、そう言っただけですよ」と、姫は言いました。
「そんなこと言うと、おまえの命にかかわるよ」と、花嫁は言うと、急いで部屋のなかへ入っていきました。
「わたしが教会の小橋に申したこと、いまわかりました」と、花嫁は言って、その文句をくりかえしました。
「ところで、教会の戸口にはなんと言ったのかな?」
「教会の戸口にですって? 教会の戸口になんか、なんにもしゃべっていませんよ」と、花嫁は言ったのです。
「しゃべってないって、そんなら、あなたは、ほんとうの花嫁じゃないんだ」と、王子が言うと、花嫁は部屋から出ていって、マレーン姫に喰ってかかったのです。
「この下女め、おまえは、教会の戸口になんと言ったのかね?」
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「教会の戸口よ、こわれちゃだめ、
わたしは、ほんとの花嫁《よめ》じゃない」
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「わたしは、そう言っただけですよ」と、姫は言いました。
「そんなこと言うと、おまえの命にかかわるよ」と、花嫁は言って、かんかんに怒りました。でも、花嫁は、急いで部屋に戻ると、言いました。
「わたしが教会の戸口に申したこと、いまわかりました」
花嫁は、姫からおしえてもらった文句をくりかえしました。すると、王子が言いました。
「ところでね、教会の戸口のところで、あなたにあげた首飾りは、どこにあるのかね?」
「どんな首飾りですか? 首飾りなんか、いただきませんでしたよ」
「ぼくが、あなたの首にかけてあげて、とめてあげたでしょ。知らないと言うのなら、あなたは、ほんとうの花嫁じゃないんだ」
王子は、花嫁の顔からヴェールを、ぱっとはぎ取りました。ほんとうにみにくい花嫁を見ると、王子はびっくりして飛びのきました。
「どうやって、ここへきたのだ? おまえは、なにものだ?」
「わたしは、あなたの許嫁《いいなずけ》です。でも、みんながわたしをそとで見たら、わたしをばかにして笑うだろうと、わたしはそれが恐ろしくて、下女に言いつけて、わたしの花嫁衣裳《はなよめいしょう》を着て、わたしの身がわりで教会へいかせたのです」
すると、王子は言いました。
「その下女《むすめ》は、どこにおるな? 会ってみたいから、いって、ここに連れてきてくれ」
花嫁は出ていって、召使いたちに、あの下女は嘘つきだから、中庭に連れ出して、首をちょん切ってしまうように、と言ったのです。
召使いたちは、下女をひっつかまえて、引きずっていこうとしました。ところが、下女が大声で助けを呼んだので、王子はその声を聞きつけて、部屋から飛び出してきました。そして、すぐにも許してやれ、と命令したのです。
あかりが持ってこられました。すると王子は、下女の首に金の首飾りがついているのを見たのです。それは、教会の戸口のまえで、王子がつけてやった首飾りです。
「おまえが、わたしといっしょに教会へいったほんとうの花嫁だ。さあ、いっしょに部屋へいこう」
こうして、王子と下女のふたりが、ふたりきりになったとき、王子は言いました。
「おまえは、教会へいく途中で、マレーン姫と言ってたね。マレーン姫は、わたしの許嫁《いいなずけ》だったのだ。そんなことがあるとは思えないが、あの姫が、いま目のまえにいるような気がしてならないのだ。おまえは、マレーン姫にそっくりだ」
すると、下女は答えて、言いました。
「そうなんです、わたしが、そのマレーン姫なのです。あなたのために、七年間も、暗闇《くらやみ》のなかに閉じこめられていたのです。お腹《なか》はすき、のどはからから、苦しい思いをして、長いことたいへんな難儀《なんぎ》をして生きてきたのです。でも、きょうは、また陽の光に照らされています。わたしは、教会であなたの妻になったのです。わたしこそ、あなたのほんとうの妻なのです」
そこで、王子と姫とは、キスをかわして、一生のあいだ幸福に暮らしたのでした。
ところで、悪い花嫁のほうは、悪いことをした罰で、首を切られてしまいました。
さて、マレーン姫が閉じこめられていた塔は、それからも長いこと立っていました。そして子どもたちがその塔のそばを通るとき、子どもたちは歌ったものでした。
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「からん、ころん、天の栄光《ひかり》、
この塔のなかには、誰がいる?
塔にいるのは、お姫さま、
お姫さまには、会えないの。
壁は、どうしても壊《こわ》れない。
石は、どうしても掘り取れない。
きれいな服のハンスちゃん、
さあ、さあ、あとからついといで」(完)
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解説
グリム兄弟の生涯と業績
グリム兄弟は、いわゆる『グリム童話』で有名になっているが、グリム兄弟の生涯と業績は、ほとんど知られていない。
グリム兄弟の父は、ヘッセン大侯国の、マイン河畔にあるハーナウ市に勤めていた一書記官であった。彼は、おなじヘッセン大侯国出身の一女性ドロテーアと結婚し、九人の子をもうけた。そのうちの長男ヤーコプ(一七八五年)と次男ヴィルヘルム(一七八六年)とが、いわゆるグリム兄弟である。
この兄弟の活躍した頃のヨーロッパは、激動の時代であった。一七八○年には、オーストリアのマリア・テレージアが、一七八六年にはプロイセン(プロシア)のフリードリヒ大王が没し、一七八九年にはフランス革命、以後ほぼ二十年間にわたるナポレオンの野望と挫折のドラマが展開した。ドイツの精神界においては、ゲーテ、シラーをはじめ、ヘルダーやフンボルト、その他ロマン派の人々の活躍していた時代であった。政治的には激動の時代ではあったが、精神界は、かくも豊かな黄金時代を迎えていた。
兄弟がまだ十歳に達しない頃に、父親が他界した。グリム家は貧しかったが、幸い叔母からの経済的援助をえて、その後に兄弟はマールブルク大学で法律を学ぶことになった。しかし兄ヤーコプは、文献学、言語学に興味をもちはじめ、厳密な科学的方法をとってローマ法を歴史的観察のもとで講義していたザヴィニの影響をうけ、ゲルマンの言語、ドイツ中世の歌謡の研究に専念するようになり、弟もザヴィニの感化をうけて、歴史的観察のもとでドイツ中世の研究を志すようになった。
大学での研究を終えて、パリ図書館所蔵のドイツ古文書の書写の仕事をしていたヤーコプは、一八〇六年に帰国して、ヘッセンの首都カッセルで、弟と共同の研究生活を始めた。それは中世ドイツ文献の研究であったが、それと同時に伝説と童話の蒐集をも始めたのであった。
その頃、カッセル地方は、ナポレオンによるフランス軍の占領下にあって、政情不安が続いていた。けっして裕福でなかったグリム兄弟は、家庭教師で糊口《ここう》をしのぎながら研究に没頭していた。グリム兄弟は、その当時おなじように民謡や民話を蒐集していたロマン派の作家クレメンス・ブレンターノとアヒム・フォン・アルニムの刺激を受けて、自分たちの童話蒐集にいっそうの拍車をかけることになった。兄弟によって蒐集されたグリムの『童話集』は一八一二年に、次いでその続きとしての二巻目が一八一五年に出版された。
その当時のドイツでは解放戦争が燃えあがり、一八一二年におけるナポレオンのモスクワ敗退を機に、連合軍はフランス軍を次々に撃退した。兄ヤーコプはヘッセン侯国の書記官として、退却するフランス軍を追って、パリにまで進撃した。その後は、ウィーン会議に出席、持ち去られた文献の取り戻しにパリ再訪問、ようやっと一八一五年に首都カッセルに戻り、同市の図書館の首席司書となった。この司書時代は、かなり長く続いた。
グリム兄弟は『童話集』の第二巻を刊行した後、同時に蒐集していた『ドイツ伝説集』を、一八一六年から一八一八年にかけて発表した。約五百五十篇の伝説が収められているが、そのなかには、『ローエングリーン』、『タンホイザー』、『ハメルンの笛吹き』などが含まれている。
この司書官時代に、ヤーコプは、今日のドイツ語学の基礎となった大規模な『ドイツ文法』を、一八一九年に発表した。これは四部まで続いて、遂に未完に終わったが、この文法は、ゲルマン語を四つの系列に分類して、言語の構造、音韻、造語、不変化詞などを論じ、今日の文法の基礎を築くことになった。とくに印欧語にみられる音韻移動の法則は、「グリムの法則」として評価されており、全体として不完全ともいわれるが、ドイツ文法上にみられるこの業績は高く評価されるべきであろう。
本来学者肌のヤーコプにとって、司書という煩雑な職務は、次第に耐えられないものとなってきた。そのうえ不愉快な人事問題もあって、ヤーコプはゲッチンゲン大学に赴任することになった。折りよく、ゲッチンゲン大学からの招きがあったのだ。一八三〇年のことである。
兄ヤーコプは、ゲッチンゲン大学の教授と図書館の司書を兼ね、弟ヴィルヘルムは、後に教授となるが、副司書官として勤めることになった。この時期の成果として、一八三五年、ヤーコプは『ドイツ神話学』(二巻)を発表した。こうした業績を発表することができたとはいえ、このゲッチンゲン時代に、ひとつの事件が起きた。「ゲッチンゲンの七人」事件である。
ゲッチンゲンは、ハノーファー国王の領地であった。当時、国王ヴィルヘルム四世が、平和憲法を守って国を治めていたが、一八三七年六月に王が没すると、エルンスト・アウグスト二世が、後継者として新しい国王の地位についた。しかし、この国王は、同年の十一月に民権尊重の憲法を、独断で破棄してしまった。この憲法破棄に抗議して、グリム兄弟を含む大学教授七人が抗議文を発表した。むろんグリム兄弟は追われる身となって、一八三八年には、国外退去ということになった。
兄ヤーコプは一八三八年一月に、「私の罷免《ひめん》」に関しての声明文を発表した。いうまでもなく、ドイツ諸国内での検閲は厳しく、印刷公表が不可能であったため、それはスイスのバーゼルで印刷され、四月になってドイツに広まった。不思議なことに、印刷された声明文は、禁止されることもなくゲッチンゲンでも広まった。いや、ドイツ各地では七教授支援運動さえ開始された。この声明文で、ヤーコプ・グリムは、国王のかかる独断的な民主憲法破棄は、ゲルマンの歴史上かつてみたことのない暴力であり、大学教授たるものがこの暴力に屈してよいものかと訴え、かかる暴力的な圧政のもとで、どうして青年の指導にあたりうるだろうか、いかにして理を説きうるだろうか、と公言した。
結局、グリム兄弟は、一八三八年、ふたたびカッセルに戻ってきた。その年の三月、ライプチヒのヴァイデマン書店からの依頼があって、グリム兄弟はドイツ語辞典の編纂を引き受けることになった。余生をこの仕事に捧げるために、兄弟はカッセル市に定住しようと決心したが、あまりにも反動色が強いため、やがてカッセルからの移住を秘かに考えざるをえなかった。
ところが一八四〇年になると、ロマン派の女流作家ベッティーナ・フォン・アルニムの勧めがあり、またアレクサンダー・フォン・フンボルトなどの招聘《しょうへい》も実って、プロイセン国王ヴィルヘルム四世の理解のもとで、グリム兄弟は、ベルリン大学に迎えられることになった。兄弟がベルリンに移転したのは、一八四一年であった。兄ヤーコプの講義(神話学、文法、法律基礎文献)は一八四八年まで、弟ヴィルヘルムの講義(文献学的立場からの中世文学研究)は一八五二年まで続いた。
このベルリン時代、兄弟の生活は落ち着いていたが、講義や学会の仕事、そのうえ親切な社交で多忙をきわめた。それでも学究肌の兄ヤーコプは、一八四八年に『ドイツ語の歴史』(二巻)を刊行した。例のドイツ語の辞典は、その整理ができたのが一八五〇年になってからであり、一八五四年に第一巻が出版されたが、出版社は依頼してきた出版社の弟分にあたるヒルツル書店であった。この辞典は、語義、語源、意味変遷などを詳細に記録した大規模な辞典である。一八五九年に病弱な弟ヴィルヘルムが他界した後も、兄が継続し、一八六二年に第三巻(Fまで完成)を出版した。一八六三年にはヤーコプも他界したため、第四巻はグリムの弟子達により一八七八年に出版されたが、それ以後は、その折々の第一級の語学者によって出版継続され、第二次大戦後、ライプチヒで、この『グリム辞典』は、一九六一年に完結した。全三十二巻の大辞典である。
わが国では、『グリム童話』でしか知られていないグリム兄弟が、かくも学問的業績を残した人であったことは、専門以外の一般には知られていない。こうした業績には敬意を表せずにおれないが、それよりも、学問に没頭しながらも、政治参加を積極的に実践したことに、いっそうの敬意を表せずにはおれない。とかく学問は積極的な実践からは離れてしまうからである。
本書のグリム童話は、こうした生涯と業績とを残した人格高潔なグリム兄弟によって蒐集されたものである。ここには三十四篇の童話が翻訳されているが、配列の順は、グリム兄弟による最初の順とおなじである(翻訳の定本は、ヘルタ・クレプルの編纂した版である)。ここに選ばれた数篇は、グリム童話として周知のものだが、その他の数篇は、周知のものに匹敵するほど素晴らしいものが、ほかにもまだあるのだということを証明するために選び出されたものである。
グリム童話の成立
詳しくは(グリム兄弟による)『子どもと家庭の童話』であって、グリム兄弟の創作ではなく、兄弟によって蒐集され、書きとめられた童話である。そしてドイツ・ロマン派の女流作家ベッティーナ・フォン・アルニムとその息子ヨハネス・フライムントに、友情と感謝のしるしとして捧げられたものである。
グリム兄弟は、一八〇六年ごろから童話の蒐集を始めた。その頃、ドイツ・ロマン派の詩人たち、クレメンス・ブレンターノやアヒム・フォン・アルニムなどが、口碑伝説を蒐集していた。ドイツ民謡集『子供の魔法の角笛』(一八〇六年〜〇八年)は、その成果のひとつである。グリム兄弟は、こうしたロマン派の詩人たちのおこなっていた伝承的なものの蒐集に刺激されはしたが、マールブルク大学で法律の勉強をしているうちに、中世文学に興味を惹かれ、すでに民族固有のあらわれとしての、また文化の根源としての伝承的な民話(昔話)を蒐集せんとの意図をいだき始めていたのだった。
グリム兄弟にとって、神話、伝説、民話(昔話)など民間に口碑伝承されたものは、自然からの呼び声であったから、グリム兄弟は、素朴な人たちの口伝えで語られた民話を、自然のままに、いかなる文飾も施さずに、採集しようとした。つまり、グリム童話は、童話作家という特定の人によって書かれた創作童話ではなく、自然に発生し、口伝えで伝承された民話を書きとめたものである。ちょうど二十世紀の作曲家バルトークとコダーイとが、ハンガリー民族の旋律を原型のまま採譜したのとおなじであり、日本ではこの方面で非常な功績を残した柳田国男の『日本昔話』の採集とおなじなのである。
さて、グリム兄弟は、いったいどのようにして童話を蒐集したのだろうか? グリム兄弟は、広くドイツ各地を歩き回って蒐集したのではなかった。そのほとんどの童話は、ヘッセンとヴェストファーレン在住の、多くは、女性たちの口から採集したものであった。
カッセル市のヴィルト家の娘たち(とくにそのうちのひとり、後に弟ヴィルヘルムの妻となったドロテーア)が、『ヘンゼルとグレーテル』、『マリアの子ども』、『ホレのおばさん』、『六羽の白鳥』など多くの童話を提供してくれたが、また同家の同居人であったマリー・ミュラー夫人が、『赤ずきん』をはじめ多くの童話を提供してくれた。また、おなじカッセル市の(グリム兄弟の妹ロッテの嫁《とつ》ぎさきである)ハッセンプフルーク家のふたりの娘たちも、『白雪姫』をはじめ多くの童話を提供してくれた。
その他にも教養ある女性たちからの提供をうけて、一八一二年にベルリンの一出版社から、『子どもと家庭の童話』を出版することができた。それには八十六篇の童話が収められていた。グリム兄弟は、さらに二巻目として、一八一五年に七十篇をふくむ『童話集』を出版したが、この第二巻の童話を提供してくれた人々も、多くは女性であった。カッセル市近郊のツヴェーレンに住んでいたフィーメンニンという農家の一女性や、隣のヴェストファーレンのハックストハウゼン家や、その親類筋にあたるヒュルスホッフ家の女性たちから提供された童話の多くが、この二巻目の『童話集』に収められた。こうして一八一九年の再版のときには、改訂増補されて、全部合わせて百六十一篇となり、その後も増補されて、一八五〇年に六版を出版するときには、第一巻は八十六篇、第二巻は百十四篇となった。
グリム兄弟は、ひとりの話し手から聞いたものをひとつの童話にまとめることのほかに、多くの話し手から聞いた類似の話を整理してひとつにまとめるということもした。だがつねに口伝えに聞いたものをそのまま書き写すよう心掛けていた。グリム兄弟は、再版序文(一八一九年七月三日)で、こう言っている……
「さて、蒐集した際の方法に関して申しますと、まず忠実であり、真実であることが私たちにとって問題でありました。すなわち、私たちは手持ちの資材のなにひとつをも付け加えませんでしたし、伝説の状況や特色そのものを美化することもありませんでした。私たちが受け取ったままにその内容を再現したのです。個々の内容の表現と詳述は、大部分が私たちによるものでして、それは当然のことでありますが、私たちは私たちの認めたすべての特質を保存するよう努めたのであります。この点からしても、童話集に多様なる自然を残すためであったのです。……」
グリム童話には、人為的に美化するような表現も用いられてないし、教訓的な意図もはさまれていない。人間の知性の教化を目的とすることはなかったので、知的な教養を誇る人々のあいだでは歓迎されず、空想的なものとして顧みられなかった。グリム兄弟は、一八一二年の初版の序文において、はやくもこれとおなじ主旨のことを述べ、創作的な文飾をつけず、ありのままに純粋に書きとめたと言っている。ここからして、グリム兄弟の意図が、実用的な教養主義を目的にした教訓的なものを追わず、読者を自然のなかに遊ばせようとしたところにあることがわかる。
それでは、グリム童話とは、自然発生的に生まれた民話を集大成したに過ぎなかったのか? 兄ヤーコプは学者肌で、童話を民族学的な文献として、それを厳正に記録しようと考えただけのことであったのか? それがかくも長く読者に求め続けられているとは、なぜなのか? かくも厳正な学問的な業績の、いったいいずれの点に、読者を魅了するほどの魅力があるのだろうか? 教養主義的なものでもないし、また娯楽本位のものでもない、なんの作意もほどこされていないこうした童話のどこに魅力があるのだろうか?
それは、童話本来の本質的なものが生《なま》のまま現われているからだ。つまり、現実と空想の織りなす世界で、私たちが想像力の翼に乗って自由に飛翔《ひしょう》できるからで、そして子どもたちは、そのまま幼年時代に遊ぶことができ、大人たちには幼年時代の取り戻しが可能となるからだ。
グリム童話とは?
兄のヤーコプ・グリムは、童話の蒐集を始めたころ、一八〇八年に、「伝説は文学《ポエジー》や歴史に対していかなる関係にあるか」という小論を発表した。その中でヤーコプは、民族のなかから自然に生まれた「|自然の文学《ナトゥール・ポエジー》」と個人の心から生まれた「|人為の文学《クンスト・ポエジー》」とを分けて、前者を後者よりも重要視しているが、それは言うまでもなく、自然発生的に生まれた童話を、個人の創作童話よりも重要視していることなのである。このことは、ヤーコプ・グリムの童話の蒐集の意図が、純粋に学問的で、文献学的であったからである。つまり、主観的な創造的作意を加えようとしなかったからだ。童話の起源は、宗教の起源とおなじで、童話はどの民族の間からも発生し、そのまま伝承されるようになったのだ。
このようにみてくると、読者を念頭において創作される創作童話とはちがって、グリム童話は、読者にたいするなんの意図もなく成立したものである。そうであるならば、読者としての私たちは、グリム童話を、いかに読むべきなのであろうか? いや、読むべきであろうなどという規定はなにもない。読者は、自由に読めばよい。童話自体にはなんの意図もないが、読者が読後になにかを感じるならば、それが自然発生的に生まれた童話の意図かも知れない。だから、もしいま読者が子供であるならば、その子供と童話のあいだには、大人は介在しないほうがいい。およそ仲介者ほど、事実の本質を歪めるものはないし、結局は子供と童話の結びつきを断ち切ることになってしまうからだ。
童話にはなんの意図もない。世界を倫理的に浄化しようともしないし、理想世界を描いてみせることもない。素朴な正義感の満足よりも、主人公が冒険や運命や奇蹟とかかわるそのかかわり方、(現実的でない)本質的なかかわり方が問題なのである。童話では、すべてが、本質的にそうあるべき真実の姿で叙述されている。つまり、童話のなかの真実は、想像界の真実とはいえ、それこそ本質的な絶対の真実であって、現実の因果律によってみられる相対の真実ではないからである。この点が、創作童話とはちがうのだ。
童話のなかには、いろいろな登場人物が現われる。脇役を演じたり、主人公になったりして、登場人物が物語をすすめていく。すると、現実では出会わないような魔女や巨人や小人が、それから人間の空想から生みだされた妖精だとかが現われる。それらが現実の主人公たちと、なんのわだかまりもなく交渉する。しかも超自然の能力を発揮して、主人公を冒険にさらしたり、危険から救ったりする。ドラマが始まる。すると突然、脇役をつとめていた小鳥や動物たちが、日常の道具までもが、ものを言い始める。星や風が、雲や雨が、陽《ひ》の光が月の光が、主人公を導いていく。思いもよらぬ贈り物をもらったり、不意に取りあげられたりする、……なんの理由も説明もない。論理を超えているのだ。そこに矛盾を感じるならば、読者のほうがまだ現実に縛られているからなのだ。童話では、その結果がどうなるかに興味はあるが、それまでの不思議が、現実では不可能でしかない不思議が、可能となる。それでいて主人公はけっしてびっくりしない。ただただ自分の思いを実現しようとする。主人公は出かけていく、出かけていったさきで(そこは三日もかかる遠い沼のそば、森のなかかも知れない)、不思議と出会うことがある。主人公に必要な人物が、思いもかけずに現われる。ことがすむとさっと姿を消す、人間的な繋りなどきれいに消して。童話では、現実と空想とがなんの抵抗もなく重なりあう。現実にありながら魔法が効力《ちから》をもち、変身が可能となる。
童話は、最初から読者を、誰も知らない未知の時と所に、一挙に引きさらっていく。童話は、最初の出だしから問題の本質をつかむようになっていて、副次的なものは切り捨てられる。「むかし、むかし、あるところに……」という出だしで、早くも読者は、時間を超えた空想の世界に連れこまれる。冒頭からして、童話は現実を離れる暗示を与える。過去が現在にあり、また未来をも現在に先取りする。現実の時間を超えている。『いばら姫』の百年の眠りも、また眠りから覚めた瞬間、すべてが過去に眠ったときのままであるのも、時間を超えているからだ。『ホレのおばさん』の娘が目を覚ますと、娘は草原にいたし、自殺のために井戸に飛びこんだ娘は、いったん死んで、ホレのおばさんの国であるあの世で甦る。童話では、死は眠りであり、目覚めは死からの帰還である。『マリアの子』は、深い眠りから覚めると、下界の荒野を歩かねばならなかった。このように、童話では現実と空想(非現実)とが、並んだり、重なったりしている。
童話の結びも、「もしふたりが死んでいなかったら、いまでも生きているでしょう」とか、「ふたりは、いつまでも幸せに暮らしました」とかで終わっているが、これはたんなる願望充足でなく、真実の結びつきは、時間を超えて、永遠だといっているのだ。つまり、現実の人間には入りえない時間を超えた空想の部分……いうならば、大人には失われた幼年時代……である。そして読書によって、いまその部分に入りえたがゆえに、童話は読者にとって魅力的となる。
童話には、相対の現実の世界が、絶対の空想の世界に一挙に変わるから(あるいは、魔法による変身の部分で変わるから)、現実界の論理や倫理は成立しない。善や悪が、現実の倫理で処理されない。善が美しく、悪が醜いこともない。「いばら姫」を救おうとした男が、いばらにかかって死ぬのも、その男が悪いからではない。「いばら姫」を救ったのも、救った男が善人であったからではない。童話の世界では勧善懲悪《かんぜんちょうあく》は意味をもたない。魔法にかけられることがある。いかなる呪いがあって魔法にかけられたか、それは問われない。かけられた魔法がとけると、なぜとけたかの倫理的な、あるいは論理的な反省はない。『兄と妹』の兄は、魔法で鹿になり、また後で人間に戻る。『金の鳥』の狐は、頭と四つ足を切り落とされると、魔法がとけて人間となる。『蛙の王さま』の蛙も壁に投げつけられると、魔法がとけて王子に戻る。そこには、なんの論理、倫理もない。魔法による変身、魔法からの解放としての変身、魔法で空間も時間も変えられる(いばら姫の百年の眠り)。これを意味の無いこととして捨ててしまってはいけない、また逆に意味をもとめてもいけない。こうしたことは、私たちの幼年時代にあったことだ。だが「あったことだ」として、そのまま看過《みす》ごしてはいけない。それはまだ私たちのなかに生きているのだから。
さて、グリム童話ではときおり主人公が残酷なまねをされ、またまねをする。肉体的な手痛い傷害を受けたり、与えたりする。しかし、そうしたことがあっても、痛いとも苦しいとも言わない、血も流れない。たとえ流れたとしても、それが復讐に結びつかない。肉体的な傷害が、感情的な苦痛ともならない。つまり、人間的な事件として展開しない。肉体的な傷害は、目的を達成するための、自然のままの、手段としての傷害であって、童話の場合には、本質的な問題ではない。童話は、本質的なものとのかかわりで進行するから、それは、スイスの文芸学者マックス・リュティの言うように、童話という図形のなかに「偶然できた渦巻き模様」にすぎない。このように、残酷さが、「渦巻き模様」だというのも、童話では、登場人物のあいだに生ずる関係が感情的でないからだ。すべては事件とならずに、用済みの人物は、どんどん姿を消していく。残酷な傷害も事件とならずに消えていく。童話にみる残酷さを、日常の現実でみる残酷さと混同してはならない。つまり「目的のためには手段を選ばず」という日常の専制的意志の表われと混同してはならない。
こうして私たちが、童話のなかの空想と現実の織りなす世界からふとたち戻って、改めて童話のなかを覗きこむと、いつも抑圧されていたものが、解放されて、無意識の行為によって決定されているのを知るのである。抑圧されて無意識の奥にかくされているものが、解放されて、自由になる。人間のあらゆる深層心理の動きの原型が、神話のなかでみられるように、また自然発生的な童話のなかでもみられるのだ。このように、深層心理(精神分析)の立場から童話を、意識と無意識との交錯した世界としてみることもできる。このように科学的にみるならば、童話の効用というものを、深層心理の立場で得ることもできるだろうし、この立場からすれば、それが童話のもつ魅力でもあろう。すなわち、童話は、深層心理の研究によりよい生の材料を提供するからだ。
しかし、科学的な読者でない私たちには、自然発生的な童話は、この現実においては不可能なものが、私たちの想像力のもと、想像界で可能となるという点で、魅力があるのだろう。
最後に、付言しておきたいこと、……以上のような私の解説にもかかわらず、読者は、グリム童話のところどころで、多少教訓じみたものを読むだろう。言い伝わるうちに、そうした教訓めいたものが加わったとも考えられるし、兄ヤーコプ・グリムの意に反し、弟ヴィルヘルム・グリムが教訓的なものを書き足したとも言われている。
日本では、童話といえば、創作童話のことである。しかし、自然発生的に生まれたグリム童話も、創作童話と区別されずに、童話といわれて読まれている。読者のほうが、人間味をたっぷり付け足して、そのうえ道徳的な教訓さえ付け加えて読んでいる。こうした人間的なものは一切かなぐり捨てたほうがよい。グリムの童話は、伝承された民話、昔話なのだ。素朴な子供の読者は、現実と空想の織りなす世界に遊べばよいし、大人の読者は、失われた幼年時代を取り戻せばよい。童話になにかをもとめてはならない、ちょうど無言歌を聞くように、じっと聞き耳をたてるがいい。そして、歌の翼に乗ったなら、広い無限の想像界に飛翔するがいいのだ。(訳者)
〔訳者紹介〕
塚越敏(つかこしさとし)一九一七年東京生まれ。東京大学文学部卒。ドイツ文学専攻。慶応義塾大学名誉教授。著書に『リルケの文学世界』(理想社)『リルケとヴァレリー』(青土社)など。