グリム童話(上)
グリム兄弟編/塚越敏訳
目 次
蛙《かえる》の王さま
いっしょに暮らした猫とねずみ
マリアの子ども
狼と七匹の子やぎ
忠臣ヨハネス
うまい商売
十二人の兄弟王子
兄と妹
野ぢしゃ
森のなかの三人の小人
糸紡ぎの三人女
ヘンゼルとグレーテル
三枚の蛇の葉
白い蛇
漁夫《ぎょふ》とその妻の話
灰かぶり《シンデレラ》
ホレのおばさん
赤ずきん
解説
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蛙《かえる》の王さま
むかし、まだなんでも願いごとがかなえられたころ、ひとりの王さまが住んでいました。王さまには三人のお姫さまがいて、どのお姫さまもみなきれいでしたが、いちばん末《すえ》のお姫さまはとくべつきれいでした。ずいぶんといろいろなものを見てきたお陽《ひ》さまでさえ、そのお姫さまの顔を照らしてみるたびに、とてもきれいなのでびっくりするのでした。
王さまのお城の近くには、大きな暗い森があって、その古い菩提樹《ぼだいじゅ》の木の下には、泉がありました。昼日中《ひるひなか》、とても暑いときなど、お姫さまは森に出かけていって、涼しい泉のふちに腰をおろすのでした。でも、こうして、いつかたいくつすると、お姫さまは金の玉を取り出して、それを高く投げあげては、落ちてくるのをつかまえて、遊ぶのでした。それはお姫さまのいちばん好きなおもちゃであったのです。
ところがあるとき、金の玉はお姫さまの高くさしあげた手のなかには止《と》まらないで、手からするりと抜けて、土の上にぽとんと落ちて、そのまま水のなかに転《ころ》がりこんでしまったのでした。お姫さまはそのあとを追って見ていたのですが、玉は見えなくなってしまいました。泉はとても深くて、底も見えないくらいです。お姫さまは泣き出してしまいました。その泣き声は、ますます大きくなるばかり、お姫さまは、どうしてもあきらめきれなかったのです。こうして、お姫さまが悲しんでいたとき、誰やら声をかけるものがおりました。
「お姫さま、どうしようというのです。ほんとうに大きな声をお出しになって。石ころだって悲しくなって、泣き出してしまいますよ」
どこから聞こえてくるのかしら、お姫さまは、あたりを見まわしました。すると、目にとまったのは、ぼてっとしたいやらしい頭を突き出した蛙《かえる》でした。
「まあ、おまえだったの、水パチャさん。金の玉がね、泉の水のなかに落《お》っこっちゃって、わたし、泣いていたのよ」
と、お姫さまが言うと、蛙はこう答えるのでした。
「静かに、静かに。泣くんじゃありません。なんとかなりますよ。でも、あなたのおもちゃを拾ってきてあげたら、ぼくになにかくれますか?」
「なんでもあげるわ。蛙さん、おまえのほしいものなら、なんでもね。わたしの服でも、真珠《しんじゅ》でも、宝石でもいいわ。それに、いまかぶっている黄金《きん》の冠《かんむり》でもね」
「あなたの服、あなたの真珠、宝石、それにあなたの黄金の冠、そんなもの、なんにもほしくはありませんよ。でも、ぼくをかわいがってくださる気なら、ぼくを、あなたの仲間に、あなたのお友だちにしてくださいよ。テーブルにすわるときには、おとなりにね。食べ物はあなたの金のお皿で、飲み物はあなたの盃《さかずき》で、いただくとしましょう。それにあなたのベッドにも寝かせてくださいね。そうすると約束してくださるなら、さっそくもぐっていって、金の玉を拾ってきてあげますよ」
「ああ、いいわよ、わたしの金の玉を取ってきてくれさえすれば、おまえの望みは、みんな約束してあげるわ」と、お姫さまは言いましたが、心のなかでは「なにをぺちゃくちゃ言ってるのだろう。あほうな蛙。蛙は蛙で、仲間といっしょに水のなかでゲロゲロ鳴いていればいいんだ。人間の仲間になんかなれやしないのにさ」と、そう思っていたのです。
そう約束してもらうと、蛙は頭を水のなかに突っこんで、泉の底に沈んでいきました。しばらくすると、また蛙は水をかきわけかきわけ、あがってきました。そして、口にくわえてきた金の玉を、草の上にぽんと投げ出したのでした。
お姫さまは、きれいなおもちゃをひと目見ると、それはとても喜んで、拾いあげると、さっさと飛んでいってしまいました。
「待ってよ、待っててよ、いっしょに連れてって。お姫さまみたいには、とても走れないの」と、蛙は大声で言いました。でも、お姫さまのあとを追って、声をかぎりにゲロゲロと鳴いてみたところで、むだなことでした!
お姫さまは、そんなことには知らん顔、大急ぎでお城に帰り、そのうち、かわいそうな蛙のことなど、もうすっかり忘れてしまったのでした。それで蛙のほうは、また泉の水のなかに戻っていくほかしかたなかったのでした。
あくる日のことです。お姫さまが、王さまや家来《けらい》たちといっしょに、テーブルについて、金の皿でご馳走《ちそう》を食べていますと、ぴちゃ、ぱちゃ、ぴちゃ、ぱちゃ、と大理石《だいりせき》の階段をはいあがってくるものがいました。上までくると、戸をたたいて、
「いちばん末のお姫さま、あけてくださいな」と、大声で言いました。
誰がきたのかしら、そう思って、お姫さまは走っていきました。戸をあけてみると、そこには、あの蛙がすわっていたのです。お姫さまは、ばたんと戸をしめると、またテーブルに戻っていきました。でも、心配で心配でたまりません。
そのとき、王さまは、お姫さまの胸がどきどきしているのに気がついて、
「姫や、なにをこわがっているのだね? 大男でもきて、そなたを連れていこうとでもいうのかね?」と、言いました。
「いいえ、違います」と、お姫さまは答えました。「大男なんかじゃありません。いやらしい蛙なの」
「蛙が、そなたに、なんの用があるというのだね?」
「ああ、お父さま、わたしね、きのう、森の泉のそばで、金の玉で遊んでいたの。ところが、その金の玉を水のなかに落としてしまったの。それで、わたし、わんわん泣いちゃったのね。すると、あの蛙が拾ってきてくれたの。それから、あの蛙、どうしてもって頼むもんだから、お友だちにしてあげるわ、と約束してしまったのね。でも、水のなかから出てこられるなんて、わたし、考えてもみなかったわ。それがいま、そとにきて、なかに入れてって言ってるの」
ちょうどそのときです。また戸をたたいて、蛙は大声でこう言うのでした。
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「お姫さま、いちばん末のお姫さま、
ここをあけてくださいな。
きのう すずしい泉のほとりで
あなたの言われたあのことは、
もうお忘れなのですか?
お姫さま、いちばん末のお姫さま、
ここをあけてくださいな」
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そこで王さまは、こう言いました。
「約束したことは、守ってやらねばいけないね。さあ、いって、あけておやり」
お姫さまは立っていって、戸をあけてやりました。すると、蛙は飛びこんできて、お姫さまのすぐあとについてきました。椅子のところまでぴょんぴょん跳《と》んでくると、蛙はそこにすわって、
「あなたのおそばにあげてくださいな」と、大声で言いました。
お姫さまは、しりごみしましたが、王さまは、そうしなさい、と言いつけました。蛙は椅子《いす》にあげてもらうと、こんどはテーブルの上にあがりたがりました。こうして、テーブルの上にあげてもらうと、蛙は言いました。
「いっしょに食べられるように、あなたの金のお皿を、もっとこっちにくださいな」
お姫さまは、蛙のいうとおりにしてやりましたが、いやいやそうにしているのは、誰の目にもよくわかりました。蛙はおいしそうに食べていました。
でも、お姫さまのほうは、ひと口《くち》ものどを通らないというありさまでした。
食べ終わると、蛙は言いました。
「もうお腹もいっぱい。眠たくなってきた。さあ、あなたのお部屋に連れてってくださいよ。絹のベッドを用意してくださいね。いっしょに寝ることにしましょう」
お姫さまは、泣き出してしまいました。つめたい蛙にぞっとして、どうしてもさわる気にはなれなかったのです。それなのにいま、その蛙が、お姫さまのきれいなベッドに入って寝るというのです。
「そなたが困っていたときに、そなたを助けてくれたというのに、いまになってばかにしたりして、そんなまねは許さんぞ」と、王さまは、怒って言いました。
そこでお姫さまは、二本の指で蛙をつまむと、二階に連れていって、部屋のすみっこに置きました。自分は、ベッドに寝ましたが、そのとき、蛙ははいよってきて、
「ぼくは眠りたいんだ。あなたのように、楽にね。ベッドにあげてください。でないと、王さまに言いつけますよ」と、言いました。
するとお姫さまは、かんかんに怒ってしまい、蛙をつまみあげると、力いっぱい壁に投げつけたのでした。
「さあ、これで、あんたも楽になるわよ、いやらしい蛙」
ところが、その蛙が下に落ちたとき、それはもう蛙ではありませんでした。美しい、やさしい目をした王子さまだったのです。
その王子さまは、お姫さまの父王のお望みで、お姫さまの仲よしに、それからお婿《むこ》さんになりました。そこで、王子さまは、
「ぼくは、悪い魔女から魔法をかけられていたのです。そしてあの泉からぼくを救ってくれるひと、それはあなたのほか、誰もいなかったのです」と、話してきかせ、
「あしたになったら、ぼくの国にいっしょにいきましょう」と言いました。
それから、ふたりは眠りました。
あくる日の朝、お陽《ひ》さまの光で目をさますと、八頭の白馬に引かれた馬車がやってきました。どの馬も、白いだちょうの羽根を頭につけていて、金の鎖でつながれていました。馬車のうしろには、若い王子さまの召使いが立っていましたが、それこそあの忠実なハインリヒだったのです。
自分の主人の王子さまが、蛙に姿を変えられたとき、あの忠実なハインリヒはなんとも暗い気持ちになって、自分の心臓《むね》のまわりに鉄の輪《わ》を三つもはめてもらったのです。それは、悲しみのあまり心臓《むね》がはれつしないようにするためだったのです。
馬車は、若い王子さまを、王子さまの国へ連れて帰るためにやってきたのです。そこで、忠実なハインリヒは、ふたりを馬車に乗せ、自分はまたふたりのうしろに乗って、王子さまの救われたことを心から喜んだのでした。
しばらくいくと、うしろのほうでなにやらポキッと弾《はじ》ける音がしました。それを聞いた王子さまは、うしろを振り向いて、大声で言いました。
「ハインリヒ、馬車がこわれるぞ」
「いいえ、馬車ではございません。
わたしの心臓《むね》の輪《わ》が弾《はじ》けたのです。
王子さまが、蛙になられて、
泉の水のなかにおられたあいだ
苦しんでいた心臓の輪が弾けたのです」
それからも、その途中でもう一度、そしてまたもう一度、ポキッ、ポキッと弾ける音が聞こえました。
王子さまは、そのたびに、馬車がこわれるのではないかと心配しました。でも、忠実なハインリヒの心臓から、鉄の輪が弾け飛んだだけのことでした。というのも、ご主人の王子さまが救われて、幸《しあわ》せになったからなのです。
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いっしょに暮らした猫とねずみ
猫がねずみと知りあいになりました。きみが大好きだ、仲よくしてあげるよ、と言って、猫はねずみをたいへん喜ばせました。それで、しまいにはねずみも、猫とおなじ家に住んで、いっしょに暮らすことにしたのです。
「ところで、冬の支度《したく》をしておかなくちゃね。でないと、ひもじい目にあうからね」と、猫が言いました。「ねずみくん、あっちにいったり、こっちにいったり、危ないまねをしちゃいけないぜ。しまいには、罠《わな》にひっかかるからね」
ねずみは、この親切な忠告にしたがいました。やがてねずみは脂《あぶら》をいれた小鉢《こばち》を買いこんできたのですが、それをどこに置いていいものやら、わかりませんでした。いろいろと考えあぐねたすえ、猫が言いました。
「教会にしまっておくのが、いちばんいいと思うんだ。あそこに置いとけば、誰も掻《か》っぱらおうなんて思いやしないからね。祭壇の下に置いといて、ほしくなるまで、手をつけないことにしよう」
こんなわけで、その小鉢は、安全なところに置かれることになりました。ところが、しばらくすると、猫は脂《あぶら》がなめたくてなめたくて、たまらなくなってきたので、ねずみに向かって言いました。
「話しがあるんだがね、ねずみくん、ぼくね、いとこから名付け親になってくれと頼まれたんだ。白に茶いろのぶちのある男の子を産《う》んでね、その子の名付け親になってくれというのだよ。それで、きょうは、そとに出かけさせてくれないか。きみは、ひとりで留守ばんしててくれないかな」
すると、ねずみは「いいわよ、いいわよ」と答えました。「いいからいってらっしゃい。おいしいものを食べたら、わたしのことも考えてちょうだいね。誕生祝いのおいしい赤ぶどう酒なんか、わたしだってひと口ぐらいいただきたいものね」
でも、これはなにもかも真っ赤《か》な嘘《うそ》でした。猫にはいとこなんかいなかったのでした。ですから、名付け親になってほしいと頼まれたこともなかったのです。
猫はまっすぐ教会にいくと、脂の入った小鉢にそっと忍びより、ぴちゃぴちゃとなめはじめ、脂の表皮《かわ》をきれいになめてしまったのです。それから、猫は町の屋根の上をぶらぶらと散歩して、いい場所をえらぶと、日だまりに長ながと寝そべったのでした。そして脂の小鉢を思い出すにびに、猫はひげをぬぐいました。
夕方になってからやっと、猫は家に帰ってきました。
「まあ、お帰んなさい。きょうは、楽しかったでしょう」と、ねずみはいいました。
「うまくいったよ」と、猫は答えました。
「いったい、どんな名前をつけたの?」と、ねずみがきくと、猫はぶっきらぼうに答えるのでした。
「『表皮《かわ》なめ』だよ」
「『表皮なめ』ですって。変《へん》てこな名前だこと、おかしな名前ね。あなたの一族にはよくある名前なの?」と、ねずみが大きな声でたずねると、猫が言いました。
「なんでもないだろう。きみのほうの名付け親たちがよくつける『パンくず泥棒』なんていう名前よりゃ悪くはないぜ」
それから、しばらくするうちに、猫はまた、脂がなめたくてなめたくてたまらなくなりました。そこで、ねずみに言いました。
「すまないんだけれど、もう一度、家の仕事をやっといてもらいたいのだがね。また名付け親になってくれと頼まれちゃってね。なにしろ、首のまわりに白い輪のある子だもんだから、ことわりきれなくってさ」
気のいいねずみは、同意しました。猫は、市《まち》の防壁《へい》のうしろをまわって、そっと教会に忍びこむと、脂の小鉢を半分たいらげてしまいました。そして、「ひとりで食べるくらいうまいものはないな」と、ひとりごとを言って、きょうはうまいことをやったものだと、猫はご機嫌でした。
家に帰ると、ねずみがたずねました。
「こんどの子には、どんな名がついたの?」
「『半分ぺろり』という名だよ」と、猫が答えました。
「『半分ぺろり』ですって? なに言ってるの。そんな名前、生まれて初めて聞いたわ。そんな名前、暦《こよみ》に載《の》ってやしないわよ!」
しばらくすると、また猫は、脂がなめたくてなめたくて、たまらずよだれをたらすのでした。
「いいことは三度あるものだね」と、猫はねずみに向かって言いました。「またまた、名付け親になってくれと、言われちゃってね。今度の子ときたら真っ黒なんだ。足のさきだけ白くてね、からだには白い毛なんか一本もないんだよ。あんなのは二、三年に一匹生まれるか生まれないかだ。きみ、いってきてもいいだろう」
「だけどさ、『表皮《かわ》なめ』! だとか、『半分ぺろり』! だとか、変な名前なのね。おかしいんじゃない?」と、ねずみは言いました。
「きみはね、ねずみ色のラシャの上着を着こんでさ、髪もお下げにして、家に引っこんでいるから、ふさぎこんでしまって、妙なことを考えるんだよ。昼間そとに出なかったりすると、そんなふうになるんだぜ」
猫のいないあいだに、ねずみのほうは家のなかの掃除をして、仕事もきちんと片づけておきました。
ところで、食いしんぼうの猫のほうは、小鉢の脂をきれいになめて、すっかりたいらげてしまったのでした。「たいらげちゃうと、落ち着くもんだな」と、猫はひとりごとを言いました。お腹《なか》いっぱい食べた猫は、夜も遅くなってから、家に帰ってきました。
すると、さっそくねずみは、三番目の子についた名前をたずねました。
「こんどの名も、きみにはきっと気に入らないだろうがね。『きれいにぺろり』というのだよ」と、猫は言いました。
「『きれいにぺろり』ですって! そんな変な名って、あるかしら。そんな名前、活字になったの見たこともないわ。『きれいにぺろり』! それ、なんのこと?」と、ねずみは大声でそう言いました。そして、頭を横にふると、からだをまるめて、寝てしまいました。
それからというもの、もう誰も、猫を名付け親に頼むものはいなくなりました。しかし、それから冬がやってきて、外にはもうなにひとつ食べるものもなくなると、ねずみはとっておいた脂のことを思い出して、
「さあ、猫さん、しまっておいた脂の小鉢のところに行きましょうよ。おいしいでしょうねえ」と、猫に言いました。
すると、猫は「いいともさ、美食家のきみには、うまくもなんともないだろうさ」と言うのです。
二匹は、出かけていきました。教会に着いてみると、脂の小鉢はもとのところにまだありました。でも、なかはからっぽです。
そこで、ねずみは言いました。
「ああ、やっとわかった、こういうことになっていたのか。これで、はっきりしたというわけね。あんたは、ほんとうにいい友だちね! すっかりたいらげちゃったのね。名付け親になると言っては、食べてたのよね。最初は、表皮《かわ》なめだったけど、次は、半分ぺろり、とね。それからさ……」
「黙《だま》らねえか」と、猫は怒鳴《どな》りました。「もうひとこと言ってみろ! てめえだってたいらげちゃうぞ」
「きれいにぺろり」と、口に出たか出ないうちに、猫はぴょんとねずみにとびかかり、ぐいっとつかまえると、かわいそうにそのままぺろりと呑《の》みこんでしまったのです。
どうです、世の中なんて、こんなものなんですね。
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マリアの子ども
大きな森の手まえに、ひとりの木こりが、おかみさんといっしょに住んでいました。子どもがたったひとりいましたが、それは三つになる女の子でした。
木こりの夫婦はたいへん貧乏で、その日その日に食べるパンももうなくなってしまい、子どもになにを食べさせたらよいものか途方《とほう》に暮れてしまうほどでした。
ある朝のこと、心配しながら、木こりは森のなかに入って、仕事を始めました。ちょうど薪《まき》を割っていたときです。ふと見ると、背の高い、美しい女の人が、木こりのまえに立っていたのです。その女の人は、きらきらと輝く星の冠をかぶっていました。
「わたしは聖母《せいぼ》マリアよ、幼児《おさなご》キリストの母です。あなたは貧乏で、みじめな思いをしているのね。あなたの子どもをわたしのところに連れていらっしゃい。わたしが家に連れていって、その子の母親になって、面倒をみてあげましょう」と、その女の人は、木こりに向かって言いました。
木こりは、言われたとおりに、自分の子どもを連れてきて、聖母マリアに手渡しました。するとマリアは、その子を連れて、天国へ昇っていきました。
こうして、天国にいった木こりの子は、幸《しあわ》せな毎日を送ることになったのです。お砂糖のついたパンを食べ、甘いミルクも飲みました。着ている服は、黄金《きん》でできていました。そのうえ、小さな天使たちが、その子の遊び友だちだったのです。
やがて、木こりの子も、十四歳になりました。すると、あるとき、聖母マリアが、木こりの子を呼びよせて、こう言いました。
「ねええ、わたし、これから遠い旅に出かけようと思うの。それで、天国の、この十三の鍵《かぎ》をあずかっておいてちょうだい。そのうちの十二の扉《とびら》だけは鍵であけて、なかの宝物を見てもいいわよ。でもね、十三番目の扉だけはね、この小さな鍵であくけれど、あけてはいけません。いいですね、あけたりしてはなりませんよ。あけようものなら、ひどい目にあいますからね」
女の子は、お言いつけどおりにします、と約束しました。
やがて、聖母マリアが旅に出られると、女の子は天国の部屋をひとつひとつ、じっくりと見てまわることにしました。女の子は、一日にひと部屋ずつ扉をあけて、十二番目の部屋まで見てしまいました。ところで、その十二の部屋には、キリストの十二|使徒《しと》が、貴《とうと》い光につつまれて一人ずつすわっていました。
女の子は、どれもこれも、みごとで、すばらしい十二使徒のようすを見て、すっかり嬉しくなりました。いつも女の子のお供をしている小さな天使たちもいっしょになって喜ぶのでした。
さて、いま残っているのは、あけてはいけないと言われていたあの扉だけとなりました。あの部屋には、いったいなにが隠《かく》されているのかしら、女の子は知りたくて知りたくてたまりません。
そこで、小さな天使たちに向かって、こう言ったのです。
「ぐっとあけて、なかに入っていこうなんて、そんなことしないわ。でも、錠《じょう》をはずして、すき間からちょっとのぞいてみましょうよ」
「まあ、およしなさい」と、小さな天使たちは言いました。
「そんなことしたら、たいへんよ。マリアさまが、いけないとおっしゃったでしょう。すぐにも、ひどい目にあうかもしれないわよ」
それを聞くと女の子は黙ってしまいましたが、心のなかでは見たくて見たくてしかたなく、ただもういらいらするばかり、じっとしてはいられなくなりました。
あるとき、天使たちがそとに出かけていったときのことでした。女の子は、考えました。
「いまなら、わたし、ひとりっきり。のぞけるわ。のぞいたって、誰にもわかりゃしないわ」
女の子は、十三番目の鍵をさがし出して、それを錠まえに差しこむと、ぐるりと鍵をまわしたのです。すると、扉はパッとあきました。なんと、三位一体《さんみいったい》のご本尊が、輝く火につつまれて、その場にすわっておられるではありませんか。しばらくは、じっとそのまま、女の子はびっくりして目を見張っていました。それから、ほんのちょっと指を出して、火の光にさわってみたのです。すると、女の子の指は、そっくりそのまま金いろになってしまいました。
そのとたん、女の子はぞっとして、扉をばたんとしめると、一目散《いちもくさん》に逃げ出しました。その恐ろしさといったら、どんなことをしてみたところで、おさまりそうもありません。心臓《しんぞう》は、もうどきどきするばかり、おさまってくれそうにもありません。指についた金いろも、いくら洗っても、こすっても、なんとしてもとれませんでした。
それからまもなく、聖母マリアが旅から帰ってきました。マリアは、女の子を呼びよせて、天国の鍵を返すようにと言いました。女の子が鍵の束《たば》をさし出すと、聖母はその子の目をじっと見つめて、言いました。
「十三番目の扉は、あけなかったでしょうね?」
「ええ、あけませんでした」
そう女の子が答えると、マリアは女の子の胸に手をあてました。心臓は、烈《はげ》しくどきどきしていました。それで、マリアは、女の子が言いつけを破って、扉をあけたことに気づいたのでした。そこで、もう一度、マリアは言いました。
「ほんとうに、あけなかったのね?」
「ええ、あけませんでしたよ」
女の子は、二度目にもそう答えました。
そのとき、聖母マリアは、天国の火にさわって金いろになった指を見て、やっぱり女の子が言いつけにそむいたのだとわかったのでした。そこでもう一度、マリアはたずねました。
「あけなかったのね?」
「あけませんでした」
三度目も、女の子は、そう答えました。
すると、聖母マリアは、言いました。
「わたしの言いつけをきかなかったのね。そのうえ、嘘までついたりして。もう天国にいる資格《しかく》なんか、ありませんね」
そのとき、女の子は、すうっと深い眠りに落ちたのでした。やがて、目をさますと、下界の、荒野《あらの》の真ん中の地べたの上に寝ているのでした。誰かを呼ぼうとしましたが、いっこうに声が出ません。女の子は、ぴょんと跳《は》ね起きて、逃げ出そうとしたのです。ところが、どっちに向かっていっても、茂った茨《いばら》の生垣《いけがき》にさえぎられ、突き抜けるわけにはいきませんでした。
女の子がとじこめられてしまった荒野には、洞《ほら》のある老木が一本立っていました。女の子は、その洞のなかに寝泊《ねとま》りするほかありませんでした。夜になると、女の子は洞のなかにもぐりこみ、ぐっすりと眠るのでした。嵐の日や雨の日には、洞のなかにかくまってもらいました。けれども、これはみじめな暮らしでした。
天国では、すばらしかった、天使たちが遊んでくれたのに、そんなことを考えて、女の子はしくしく泣くのでした。食べるものといったら、木や草の根だとか、『こけもも』だとか、そんなものしかありません。女の子は、歩けるだけ歩いて、そうした食べものをさがしまわるのでした。
秋になると、落ちた胡桃《くるみ》や枯葉を集めて、自分の洞のなかに運びこみました。胡桃は、冬の食べものでした。雪が降って、氷が張ったりすると、女の子は、小さな動物のように、木の葉のなかにもぐりこみました。凍《こご》えて死んでしまうようなことはありませんでした。やがて、着ていた服もぼろぼろになってしまい、ひとつ千切《ちぎ》れては、また千切れてしまうのでした。でも、またお陽《ひ》さまがぽかぽかと照り出すと、女の子はそとに出てきて、木のまえにすわりました。長くなった髪の毛は、まるでマントのように、女の子のからだをすっぽりおおい隠していたのです。
こんなふうにして、一年たち、また一年とたっていくうちに、女の子は、世の中の悲しいことやみじめなことを、しみじみと味わったのでした。
木が、また生き生きと、緑につつまれたころのことでした。あるとき、その国の王さまが、狩りをして、一頭の鹿を追いかけたことがありました。ところが、鹿は、森の空《あ》き地をかこんでいる薮《やぶ》のなかに逃げこんだのでした。そこで、王さまは、馬からおりると、剣で薮の茂みを切りひらいて、進んでいきました。
薮の茂みをやっと突き抜けると、ひとりの美しい女の子が、木の下にすわっていたのでした。その女の子は、足のつまさきまですっぽり、長い金髪でおおい隠されていたのです。王さまは、じっと立ちどまり、びっくりしてじろじろと見つめていましたが、やがて女の子に話しかけました。
「なにものだね? どうしてまた、こんなさびしい荒《あ》れ地に?」
女の子はなにも言いませんでした。口をあけることができなかったからです。
「わしといっしょに、わしの城にくるかね?」
王さまが、そう言うと、女の子は、ちょっとうなずいただけでした。王さまは、女の子を抱きあげると、馬に乗せて連れていってしまいました。
お城に戻ると、王さまは、女の子にきれいな服を着せ、なにもかもたっぷり与えたのでした。女の子は、口をきくことはできませんでしたが、とても美しく、やさしかったので、王さまは、ほんとうにこの女の子が好きになってしまったのです。こうして、王さまは、やがてこの女の子と結婚したのでした。
一年ほどたったとき、このお妃《きさき》に男の子が生まれました。ちょうどその夜のことでした。お妃がひとりでベッドに寝ていると、聖母マリアのお姿があらわれて、そして、
「あけてはならぬ扉をあけました、とほんとうのことを言うのなら、口をあけて、しゃべることができるようにしてあげよう。でも、嘘をついたままで、どうしてもあけませんでしたと、言うのなら、生まれたばかりの、あなたの子どもは連れていってしまいましょう」と、聖母マリアは言うのでした。
そのときだけは、お妃も返事ができるようにしてもらえたのですが、やっぱり強情《ごうじょう》を張って、お妃は、
「いいえ、あけてはならぬ扉は、あけませんでした」と、言ったのです。
すると、聖母マリアは、生まれたばかりの男の子を、お妃の腕から取りあげると、その子を連れていってしまいました。
あくる日の朝、子どもの姿がどこにも見つからなかったので、あのお妃は人食《ひとく》いなんだ、それで自分の子どもも殺しちゃったんだよ、とそんな噂《うわさ》がひろがったのでした。
なにもかもお妃の耳には聞こえていたのですが、そんなことはありません、と言うこともできませんでした。ところが、王さまは、そんな噂を本気にしようともしなかったのです。それもそのはず、王さまはお妃が大好きだったからです。
それから一年たちました。
お妃は、また男の子を産みました。するとまたその夜のことです。聖母マリアがお妃のところに入ってきて、言うのでした。
「あけてはならぬ扉をあけました、と白状するつもりなら、あなたの子どもを返してあげよう。それに口もきけるようにしてあげよう。でも、嘘をついたままで、どうしてもあけませんでした、と言うのなら、生まれたばかりの、今度の子どもも連れていってしまいますよ」
お妃は、「いいえ、あけてはならぬ扉は、あけませんでした」と、今度もそう言うのでした。それで、聖母マリアは、お妃の腕から子どもを取りあげて、天国に連れていったのです。
そのあくる日の朝、子どもの姿が消えて無《な》くなっていたので、みんなは大声で言いました。「お妃は自分の子どもを呑《の》みこんでしまったのだ」
王さまの相談役は、お妃を裁判にかけなくてはいけない、と申し立てました。ところが、王さまはお妃が大好きだったので、そんなことをほんとうだとは思いませんでした。そこで王さまは、そんなことを二度と口にしたら、死刑にするぞ、と言い渡しました。
そのあくる年、お妃は美しい女の子を産みました。その夜です。三度目のことですが、また聖母マリアがあらわれて、「わたしについておいで」と、お妃に言いました。聖母マリアは、お妃の手をとって、天国へ連れていきました。そこで聖母マリアは、まえに連れてきたふたりの子どもをお妃に見せてやりました。ふたりの子どもは、お妃ににこにこ笑いかけ、地球儀《ちきゅうぎ》をおもちゃに遊んでいました。
お妃は、それを見ると、とても喜びました。すると、聖母マリアが言いました。
「あなたの心は、まだ挫《くじ》けないの? あけてはならぬ扉をあけました、と白状するのなら、ふたりの男の子を返してあげましょう」
けれども、お妃は、三度目の今度もまた、「いいえ、あけてはならぬ扉は、あけませんでした」と、答えたのです。
そこで、聖母マリアはお妃を下の下界に戻されて、三番目の女の子も取りあげてしまいました。
あくる朝のこと、このことが評判になると、誰もが大声でこう言ったのです。
「お妃は、人食い女だ。死刑にせにゃならん」
こうなると、王さまも相談役の言うことを撥《は》ねつけてしまうわけにもいかなくなったのです。お妃は裁判にかけられました。
お妃は、うけ答えもできず、申しひらきもできなかったので、火あぶりの刑をうけることになりました。
薪《まき》が集められました。お妃は柱にしばりつけられています。そのまわりで、火がぼうぼうと燃えはじめたのです。すると、高慢ちきな堅い氷もとけて、お妃の心は、悪かったと後悔しはじめました。
「せめて死ぬまえに、あの扉はわたしがあけたのです、と白状することができたらな」と、お妃が思ったそのときです。ふと声がついて出て、
「はい、マリアさま、わたしがあけたのです!」と、お妃は大声で言いました。
ざあっとばかり、天から雨が降りはじめ、燃えあがる炎は、消えました。お妃の頭の上に、ぱっと光がさすと、聖母マリアが降りてきました。
聖母マリアは、ふたりの男の子をわきにして、腕には生まれたばかりの女の子を抱いていました。そして、聖母マリアは、やさしくお妃にこう言うのでした。
「自分の悪かったことを悔《く》いて、白状すれば、その人の罪は赦《ゆる》されるのですよ」
こうして聖母マリアは、お妃に三人の子どもを返しました。それからお妃の口も、自由にきけるようにし、そのうえ幸福な一生が送れるようにしてくれたのです。
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狼と七匹の子やぎ
むかし、年をとったやぎが一匹おりました。そのやぎには、七匹の子やぎがいまして、人間のお母さんが子どもたちをかわいがるように、子やぎたちをかわいがっていました。
ある日のこと、お母さんやぎは、餌《えさ》をとりに森にいってこようと思い、七匹の子やぎを呼びよせて、言いきかせました。
「いいかね、お母さんは森に出かけてくるからね、おまえたちは、狼には用心するんだよ。もし、入りこんでこようものなら、おまえたちなんか一匹残らずまる呑みさ。あの悪い奴《やつ》は、よく化《ば》けて出てくるんだ。でも、声はしゃがれているし、足は真っ黒だから、おまえたちにだって、すぐ狼だってわかるよ」
「お母さん、ぼくたちちゃんと気をつけているから、心配しないでいってきてください」と、子やぎたちが言いました。お母さんやぎは、めえめえと鳴きながら、安心して出かけていきました。
しばらくすると、誰やらとんとんと入口の戸をたたいて、「あけなさい、ねえ、お母さんですよ。みんなにおみやげ持ってきたわよ」と、大声で言うものがありました。
でも、子やぎたちは、聞こえてきた声がしゃがれていたので、すぐに狼だとわかったのです。
「あけてなんかやらないよ。おまえは、ぼくたちのお母さんじゃない。お母さんの声は、きれいでやさしい声だ。おまえの声は、しゃがれてるじゃないか、おまえは狼だ」
そこで狼は、引きあげると、雑貨屋《ざっかや》にいって、大きなチョークを一本買いました。そのチョークを食べて、自分の声をきれいな声にしたのです。
それから、狼は、引きかえしてくると、また入口の戸を、とんとんとたたいて、大声で言いました。
「あけてちょうだい、ねえ、お母さんですよ。みんなにおみやげ持ってきたわよ」
ところが、真っ黒なまえ足を、窓板《まど》にかけていたので、子やぎたちは、狼のその足を見ると、大声で言いました。
「あけてなんかやるもんか。ぼくたちのお母さんはね、おまえのような真っ黒な足はしてないよ。おまえは狼じゃないか」
すると狼は、パン屋のところに走っていって、言いました。
「足をくじいちまってね。こね粉《こ》を足にぬってくれないか」
パン屋が、狼の足にこね粉をぬってやると、こんどは粉屋《こなや》のところに走っていって、言いました。
「まえ足に、白い粉をふりかけてくれないか」
「この狼、だれかを騙《だま》すつもりなんだな」と、そう考えた粉屋は、ことわりましたが、狼は、「ふりかけないと、喰《く》っちまうぞ」と、言ったのです。
粉屋は、こわくなって、狼のまえ足に粉をかけて、白くしてやりました。
そうなんですよ、人間の世の中だってこんなものなんです。
さて、悪《わる》ものの狼は、またまたやぎの家の入口のところに引きかえしてきました。とんとんと戸をたたくと、こう言いました。
「あけてちょうだい。ねえ、お母さんが帰ってきたのよ。みんなに森のおみやげ持ってきてあげたわ」
「あんたがね、ぼくたちの母さんなのか、それが知りたいから、あんたのまえ足見せてちょうだい」と、子やぎたちは、大声で言いました。
狼は、まえ足を窓板《まど》にかけて見せました。子やぎたちは、まえ足が白いのを見ると、狼の言っていたことは、ほんとうだったのだと思いこんで、入口の戸をあけてしまったのです。
ところが、なかに入ってきたのは、狼だったのです。
子やぎたちは、びっくりして、どこかに隠れようとしたのでした。一匹は、机の下にとびこみました。二匹目は、ベッドのなかへ。三匹目は、ストーブのなかへ。四匹目は、台所に。五匹目は戸棚《とだな》のなかへ。六匹目は、洗濯《せんたく》だらいの下へ。そして、七匹目は、壁時計《かべどけい》のなかへとびこんだのでした。
ところが狼は、子やぎを残らずさがし出し、さっさとたいらげてしまいました。大きな口をあけて、一匹一匹と呑《の》みこんでしまったのです。ただ時計の箱のなかに隠れた、いちばん小さな子やぎだけは、見つかりませんでした。
狼は、食べるだけ食べると、さっさと逃げていきました。青あおとした草原に立っている一本の木のところにくると、狼はごろりと横になり、うとうとしはじめたのでした。
それからしばらくすると、お母さんやぎが森から帰ってきました。おやおや、いったいお母さんやぎは、どんな光景を目にしたことでしょう! 家の入口はあけっぱなしです。机や椅子《いす》、それに長椅子は、引っくりかえったまま、洗濯だらいは、めっちゃくちゃ、ふとんや枕は、ベッドからほうり出されていました。
お母さんやぎは、子やぎたちをさがしました。けれども、どこにも見つかりません。そこで、お母さんやぎは、子やぎの名前をつぎつぎと呼んでみました。誰も返事をしません。おしまいに、末っ子の名前を呼んでみました。
すると、末っ子の子やぎは、細い声を張りあげて言いました。「お母さん、ぼく、時計の箱のなかに隠れているんだ」
お母さんやぎが、末っ子やぎを、箱のそとに連れ出すと、末っ子やぎは、狼がやってきて、みんなを食べちゃったんだ、とお母さんやぎに話しをしました。自分のかわいそうな子やぎたちのことで、そのお母さんやぎは、どんなにか泣いたことでしょう、みなさんだってわかりますね。
やっとのことで、お母さんやぎは、泣き泣き外に出ていきました。末っ子の子やぎも、ちょこちょこといっしょに走っていきました。
こうして草原にやってきたときです、一本の木の下に、狼が寝ているではありませんか。その木の枝がぶるぶるふるえるほどの高いびきです。
お母さんやぎは、狼をあちらからもこちらからも、しきりにながめているうちに、狼のふくれあがったお腹《なか》のなかで、なにやらぴくぴく動いているのが目についたのです。
「これはこれは、狼の奴が晩のごはんにと呑みこんだ、かわいそうなうちの子どもたち、まだ生きているかもしれない」と、お母さんやぎは考えて、末っ子やぎを家に走らせました。鋏《はさみ》と針とより糸とを持ってこさせたのです。
お母さんやぎは、この怪物のたいこ腹を切ってあけたのです。ずぶりと切っただけで、もう子やぎの頭がひょいと出てきました。それから、もっと切っていくうちに、六匹の子やぎが、つぎからつぎと飛び出してきました。どの子やぎも、まだみんな生きていたのです。子やぎはどれも怪我《けが》ひとつしていません。狼は、がつがつしていたので、まるごとごくりごくりと呑みこんでしまったからなのです。ほんとうに嬉しいことでした!
子やぎたちは、大好きなお母さんやぎに抱きつきました。それから、子やぎたちは、お嫁《よめ》さんをもらう仕立《した》て屋さんのように嬉しくてぴょんぴょんはねまわったのでした。
けれども、年をとったお母さんやぎは、
「さあ、おまえたち、石ころをさがしにいっておいで。この残酷《ざんこく》な狼のお腹のなかに、眠っているうちに、石ころを詰《つ》めこんでやりましょう」と、言いました。
そこで七匹の子やぎたちは、大急ぎで石ころを引きずってきては、狼のお腹に詰めこめるだけいっぱい詰めこんだのでした。それから、年をとったお母さんやぎが、狼のお腹《なか》をもとどおりに縫《ぬ》いあわせたのでした。たいへんな早業《はやわざ》で縫いあわせたものですから、狼はなにひとつ気づかず、身うごきひとつしなかったのです。
たっぷり眠った狼は、やっと目をさまし、立ちあがってはみたのですが、お腹のなかの石ころのせいで、のどがからからにかわいていたのです。そこで狼は、水を飲みに泉のところにいこうとしました。
ところが、歩き出してみると、からだがふらふらして、お腹のなかの石ころまでが、がらがらごつごつ音を立ててぶつかりあったのです。すると、狼は大声で言いました。
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「腹《はら》のなかでは がらがらごろごろ
こりゃ、なんちゅうこったいな?
子やぎが六ぴき、そう思っていたのにさ、
こりゃ、でっかい石ころばかりかな」
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こうして、狼は泉のところにやってきました。水を飲もうとして、水の上に乗り出すと、お腹のなかの重い石ころのせいで、狼は泉の水のなかにずるずると落ちていきました。こうして、見るもあわれ、狼は水におぼれて、死んだのです。
これを見ていた七匹の子やぎは、駆《か》けよってきて、大声で叫びました。
「狼が死んだぞ! 狼が死んだぞ!」
子やぎたちは、嬉しさのあまり、お母さんやぎといっしょに、泉のまわりをぐるぐる、ぐるぐると踊りまわったのでした。
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忠臣ヨハネス
むかし、年寄りの王さまがおりました。王さまは病気になられて、「いま、わしはベッドに寝ているが、どうやらこれが臨終《りんじゅう》の床《とこ》となるかもしれん」と、考えました。そこで、王さまは、
「あの忠実なヨハネスを、わしのところに呼んでくれ」と、言いつけました。
忠臣ヨハネスは、王さまのいちばんお気に入りの家来《けらい》です。ヨハネスは、生涯ずうっと王さまに忠実につかえたので、忠臣ヨハネスと呼ばれるようになったのです。
さて、ヨハネスが王さまのベッドのそばにいきますと、王さまは、ヨハネスに言いました。
「ヨハネス、ほんとうにおまえは忠実だったな。わしも、もうまもなく死ぬだろう。そう思うのだが、心配の種《たね》がひとつあるのだ。わしの息子のことだよ。あれはまだ年も若い。なにごとにつけ途方に暮れるにちがいない。あれが知ってなくてはならんことを、いろいろとおしえてやってほしいのだ。いや、あれの父がわりになってやってほしいのだよ。そうとでも約束してもらえなければ、わしは安心して死ぬこともできんじゃろう」
「王子さまを見捨てるようなまねはいたしません。生命《いのち》をなげうってでも、王子さまには忠実におつかえいたしましょう」
「それを聞いて、わしも安心して死んでいける」と、年寄りの王さまは言われましたが、さらに言葉をつづけて、こう言うのでした。
「わしが死んでから、この城をあれに見せてやってくれ。どの部屋も、どの広間も、それから地下の倉庫もな。それにその倉庫のなかの宝物も、なにもかも見せてやってくれ。けれども、長い廊下のつきあたりにある部屋だけは、見せんでおいてくれ。あの部屋にはな、黄金の屋根の国の姫の立像が隠してあるのだ。もしや、息子があの立像をちらりとでも見ようものなら、姫が恋しくなり、やもたてもたまらず、気も遠くなって倒れてしまうだろう。その姫のために危ない目にあうことになるだろうから、これだけはやらせないように、気をつけてもらいたい」
忠臣ヨハネスが、もう一度、王さまに誓いを立てると、王さまは、なにも言わずに、頭を枕にのせて、そのまま息をひきとったのでした。
亡《な》くなられた王さまが、お墓に運ばれたとき、忠臣ヨハネスは、臨終の床で王さまに約束したことを、年若い王さまに話して聞かせたのです。
「このことは、かならず守ります。亡くなられた父王におつかえしたように、王さまにも忠実におつかえいたします。わたしの生命《いのち》にかかわることがありましても」
やがて、喪《も》があけました。
「いよいよ、王さまが受け継《つ》がれた財産を、ごらんになる時がまいりました。父王のお城をお見せいたしましょう」と、忠臣ヨハネスは、若い王さまに言いました。
そこで忠臣ヨハネスは、階上《うえ》や階下《した》、あちらこちらと、若い王さまを案内してまわったのです。財産はどれもこれも、それからすばらしい部屋という部屋を、案内して見せたのですが、ただひとつ、あの危険な像の置いてある部屋だけは、あけませんでした。
ところが、例の立像は、戸をあけると、真正面に見えるように置かれてあったのです。その立像は、ほんもののお姫さまに生き写しとしか思えないほどすばらしい出来栄《できば》えでした。この世の中に、これほどかわいらしく、これほど美しいものはあるまいと思われるほど、みごとな出来でした。
けれども、若い王さまは、忠臣ヨハネスがいつもひとつの戸口のまえだけは、さっさと通り過ぎてしまうことに気づいたのです。
「どうして、この戸は、一度もあけてはくれないのだね?」と王さまがたずねますと、
「ここには、王さまがびっくりなさるようなものが入っておるのです」と、忠臣ヨハネスは言いました。
「わたしは城じゅうすっかり見てまわった。それで、そこに入っておるものも見ておきたいのじゃ」と、言うなり王さまは、とっととその部屋の入口のところにいって、むりやり戸をあけようとしたのです。
忠臣ヨハネスは、王さまを引きとめて、言いました。
「この部屋のなかにあるものは、王さまにお見せしてはならぬと、父王のお亡くなりになるまえに、父王とお約束いたしたのです。もし王さまがごらんになったら、王さまも、わたしめも、とんでもない不幸な目にあうことでございましょう」
「そんなことはあるまい。なかに入れないとなると、わたしはもうだめになってしまうだけさ。この目でちゃんと見とどけるまでは、夜も昼もいらいらするばかり、いまは、あけてくれるまで、わたしはここから動かないぞ」と、王さまは答えるのでした。
そこで、忠臣ヨハネスは、もうどうにもならないとわかると、心も重く、しきりとため息をつきながら、たくさんの鍵《かぎ》の束から、その部屋の鍵をさがし出しました。
忠臣ヨハネスは、戸をあけると、真っ先にとびこんで、自分よりさきには王さまに見せまいと、お姫さまの立像をおおい隠してしまおうと考えたのです。そんなことをしたところで、なんの役にも立ちません! 王さまはつまさき立って、忠臣ヨハネスの肩ごしに見てしまったのでした。
黄金や宝石で輝いている、素敵なその処女《おとめ》の立像をちらっと見た王さまは、そのまま気を失って、ばったり倒れてしまいました。そこで、忠臣ヨハネスは、王さまを抱きあげて、ベッドに寝かせました。
「とんでもないことになったもんだ。ほんとうに、このさき、どうなることやら」と、忠臣ヨハネスは、心配しいしい考えたのです。それから、ぶどう酒を飲ませて元気をつけさせているうちに、王さまはまた正気に戻ったのです。
そのとき、王さまの口から出た最初の言葉は、「ああ、あのきれいな立像は、誰なのだね?」というのでした。
「黄金の屋根の国のお姫さまです」と、忠臣ヨハネスは答えました。すると王さまは、つづけてこう言うのです。
「あの姫が、恋しくてかなわんのだ。木という木のどの葉も一枚のこらず舌となったからといっても、わたしの恋心は言いつくせまい。命を賭《か》けても、あの姫は手に入れてみせるぞ。おまえは、わたしの忠義《ちゅうぎ》な家来、忠臣ヨハネスだ。わたしに力を貸してくれるだろうな」
忠臣ヨハネスは、これからどうしたらよいものか、ゆっくりと考えてみたのです。お姫さまの面前《めんぜん》に出ることだけでも、たいへんむずかしいことであったからです。とうとう、忠臣ヨハネスは一策を案じたのでした。そして王さまに伝えたのです。
「あのお姫さまの、身のまわりのものは、なにもかも金でできているのです。机も、椅子も、皿も、盃《さかずき》も、椀《わん》も、そのほかお道具いっさいがそうなんです。ところで、王さまの宝物のなかには、金が五トンございます。そのうちの一トンで、ありとあらゆる器具という器具を、道具という道具をつくるよう、国の金細工師《きんざいくし》に言いつけてください。それに、また、ありとあらゆる鳥だとか獣《けもの》だとか、珍しい動物だとかもつくるようにと命じてください。こうしたものは、お姫さまのお気にめすことでしょう。これをたずさえて船出をすることにしましょう。運だめしをしようではありませんか」
王さまは、金細工師をひとり残らず連れてくるように命じました。金細工師たちは、夜となく昼となく働かねばなりませんでした。
こうして、ついに世にも素敵な品々ができあがりました。その品物が、ひとつ残らず船に積みこまれますと、誰からも気づかれないようにするために、忠臣ヨハネスは商人の身なりをしました。王さまも、おなじ商人の身なりをしなければならなかったのです。
それから、王さまと忠臣ヨハネスは、海を渡って、長い船旅をしました。こうして、ついに黄金の屋根の国のお姫さまの住んでいる都《みやこ》に着いたのです。忠臣ヨハネスは、船に残っていて、自分の帰りを待っていてください、と王さまにお願いしました。
「たぶん、お姫さまをお連れすることになりましょう。ですから、万事がうまくいきますようお願いし、金細工の道具を並べ立て、船中くまなく飾り立てるよう指図《さしず》なさっておいてください」
こう言ってから、忠臣ヨハネスは、たくさんの金細工の品々を前掛《まえか》けにつつむと、陸にあがって、まっすぐ王さまの城へ向かいました。
忠臣ヨハネスが城の中庭に入ると、泉のそばに美しい少女が立っていました。少女は黄金の水おけをふたつ手にして、それで水を汲《く》んでいたのです。きらきら輝く水を運んでいこうとして、くるりと振り向いたとき、少女はこの見なれない男に気づいて、「誰なの」と、たずねました。
「わたしは、商人でございます」と、忠臣ヨハネスは答えるなり、前掛けをひろげて、なかを見せたのです。
「まあ、きれいな金細工だこと」
少女はそう言うと、水おけを下に置いて、ひとつひとつながめました。
「これはお姫さまにお見せしなくてはならないわ。お姫さまは、金細工が大好きなの。残らずお買いあげになるわよ」
少女は忠臣ヨハネスの手を引いて、城のなかへ案内しました。少女は、腰元であったのです。
お姫さまは、金細工の品を見ると、すっかり気に入って、「みごとな細工だこと。ぜんぶ買い取りましょう」と、言うのでした。
ところが、忠臣ヨハネスは、こう言いました。
「わたしは、大金持ちの商人の召使いにすぎません。ここに持っておりますものは、わたしの主人が船に積んで持っておりますものとくらべますれば、まことにつまらぬものでございます。船に積んでございますものは、およそ金の細工のうちでも、いちばん出来《でき》のよい貴重な品々でございます」
お姫さまは、残らず持って来るようにと所望《しょもう》しましたが、忠臣ヨハネスは、「それにはいく日もかかってしまいます。その品数《しなかず》はたいへんなものなのです。それに品々を並べますにも、たくさんの広間がいります。お姫さまのお城では、間に合いかねるほどです」と、言いました。
すると、お姫さまの好奇心はつのるばかり、もうほしくてたまらなくなりました。とうとうお姫さまは、言いました。
「わたしを船に連れていってください。わたしのほうから出かけていって、あなたのご主人の宝物を見せていただきましょう」
そこで、忠臣ヨハネスは、お姫さまを船に案内して、すっかり朗《ほがら》かになっていました。王さまのほうは、お姫さまをひと目見るなり、その美しさといったら立像どころではなかったので、いまにも心臓が破れるのではないかと心配しどおしでした。
さて、お姫さまが船に乗りますと、王さまは船のなかへと案内しました。ところが、忠臣ヨハネスは、舵《かじ》取りのそばに残って、船を陸から離すように申しつけました。
「帆《ほ》は、残らずあげろ、空の鳥のように飛んでいくがいい!」
王さまのほうは、船のなかで、お姫さまに金の道具をひとつひとつ見せていたのです。皿だの、盃だの、椀だの、鳥や獣や珍しい動物だのを。
お姫さまがいろいろなものを見ているあいだに、時間はどんどんたってゆきました。お姫さまは、嬉しさのあまり、船が走り出しているのに気づかなかったのです。いちばん最後の道具を見たあとで、商人にお礼を言ってから、お姫さまは帰ろうとしたのです。
けれども、お姫さまが船べりに出てみますと、なんと陸からはなれ、帆という帆をあげて、沖あい遠く走っているではありませんか。
「ああっ!」と、お姫さまはびっくりして、大声で叫びました。「騙《だま》された! さらわれたんだわ! 商人につかまったんだわ! それなら、死んだほうがましだわ!」
すると、王さまはお姫さまの手をとって、言いました。
「わたしは、商人ではありません。わたしは、王です。わたしの生まれは、あなたにくらべていやしいものではありません。悪だくみをしてあなたを連れてきてしまったのも、ほんとうにあなたが好きになってしまったからなのです。初めてあなたの立像を見たときでした、わたしは気を失って倒れてしまったのです」
黄金の屋根の国のお姫さまは、これを聞くと、すっかり安心してしまい、王さまが好きになってしまったのです。それで、お姫さまは、王さまの王妃になることを喜んで承知したのでした。
ところが、こんなことが起きたのです。
王さまと王妃とが沖を走っていたときです。忠臣ヨハネスは、船のへさきにすわって、音楽を奏《かな》でていましたが、空にからすが飛んでいて、船のほうに向かってくるのを見たのです。そこで、忠臣ヨハネスは音楽をやめて、からすたちの話しに耳を傾けたのでした。ヨハネスには、からすの言葉がよくわかったからです。
一羽のからすが、大声で言いました。
「やあ、黄金の屋根の国のお姫さまを郷国《くに》に連れていくんだな」
「そうだな。だけど、まだ手には入れてないぞ」と、二番目のからすが言いました。すると、三番目のからすが、
「手に入れてるじゃないか。船のなかで、王さまのそばにすわっているぜ」と、言いました。
すると初めの一羽が、また大声で言いはじめました。
「そんなことしたって、なんにもなりゃしないよ。つまりだな、……やがて、ふたりが上陸する。すると、栗毛《くりげ》の馬が、王さまを迎えにとんでくる。王さまは、その馬にひらりととび乗ろうとする。もう、王さまが乗りさえすれば、馬は、王さまを乗っけたまんま、ふっ飛んで、こっぱみじんというわけさ。そうなりゃ、王さまだって、もう二度とお姫さまには会えないということよ」
「助けてあげるわけにはいかんのかね?」と、二番目のからすが言いました。
「そうなんだ。誰かが、ぱっととび乗って、鞍《くら》についてるピストル入れからピストルを取り出して、ずどんと馬を殺してしまえば、王さまの生命《いのち》は助かるというわけだ。だけど、そんなこと、誰か、知ってる奴《やつ》がいたって、そんなことを王さまにでも言おうものなら、足のつまさきから膝《ひざ》っこまで、こちこちの石になっちまうんだぜ」
すると、二番目のからすが言いました。
「ぼくはもっと知ってるぜ。馬が殺されたって、若い王さまは、花嫁さんをいつまでもつかまえておくわけにはいかないんだ。つまりだな、ふたりがおそろいで城に入っていく。すると、そこには大きな皿が出ていて、花婿《はなむこ》さんの着る仕立てあがりの下着がのっている。見たところ、金の糸や銀の糸で縫ってあるようだが、ほんとうは、硫黄《いおう》と瀝青《タール》でできていて、王さまが着ようものなら、骨の髄《ずい》まで焼いちまうというしろものなんだ」
こんどは三番目のからすが、「助けてあげるわけにはいかんのかね?」と、言いました。すると、二番目のからすが、それに答えて言いました。
「そうなんだ。手袋をはめて、その下着をつかんでさ、火のなかに投げこんで燃してしまえば、王さまの生命《いのち》は助かるというわけさ。だけど、そんなこと、なんにもならないぜ。誰か、知ってる奴がいたって、王さまにでも告げようものなら、膝っこから胸のところまで、からだ半分こちこちの石になっちまうんだぜ」
するとまた、三番目のからすが言いました。
「ぼくはもっと知ってるぜ。下着が燃えて、若い王さまが助かったといっても、まだまだ花嫁さんを手に入れたとは言えないね。つまりだね、結婚式がすんでから、踊りが始まる。若い王妃も踊り出す。ところが急に真っ青になって、死んだようにばたんと倒れる。もしや、誰かが王妃を抱きあげて、右の乳房《ちぶさ》から血を三|滴《てき》すいとって、その血をぺっと吐き出さないとなると、王妃は死んでしまうだろう。だがな、このことを知っていて、告げ口でもしようものなら、そいつは頭のてっぺんから足のつまさきまで、からだじゅうすっかりこちこちの石になっちゃうのさ」
からすたちは、こんなことを話しあうと、遠くへ飛んでいきました。忠臣ヨハネスには、なにもかもすっかりよくわかったのでした。そのときからというもの、忠臣ヨハネスはじっとして、悲しそうな様子をしていました。自分の聞いたことを、主人の王さまに黙っていれば、王さまは不幸な目にあうことになるし、王さまに打ち明けてしまえば、自分の生命《いのち》を捨ててしまうことになるからです。それでも、最後には、
「ご主人さまをお助けしよう。それで自分の生命がだめになってもかまわない」と、忠臣ヨハネスはひとりごとを言いました。
さて、一同が陸にあがると、からすが言っていたとおりのことが起きました。すばらしい栗毛の馬がとんできました。
「よしきた。わたしの城まで連れていってもらおう」と、言って、王さまは馬にとび乗ろうとしました。
ところが、忠臣ヨハネスが、先まわりをして、ひらりと馬にとび乗ると、鞍についていたピストル入れからピストルを取り出して、ずどんと撃《う》ち殺してしまったのです。
すると、忠臣ヨハネスを快《こころよ》く思っていなかった家来どもは、大声で言いました。
「とんでもないことだ。あんな立派な馬を殺すなんて。王さまをお城に連れていってもらえたのに」
けれども、王さまは言いました。
「黙ってなさい。あれにまかせておきなさい。あれは、わたしの忠臣、ヨハネスだ。なんでああいうことをしたのか、あれにはわかっておるのだ!」
さて、一同、いよいよ城に到着です。
大広間には大きな皿がひとつ置いてありました。その上には、仕立てあがりの花婿の下着がのっていました。それは、まるで金の糸や銀の糸で織ってある下着としか見えませんでした。
若い王さまが、下着のところに近づいて、それをつかもうとしたときです。忠臣ヨハネスは、王さまを押しのけて、手袋をはめた手でしっかとつかむと、その下着を火のなかに投げこんで、燃やしてしまったのです。またもや、家来一同ぶつぶつ言いはじめました。
「なんてことだ、こんどは王さまの下着を燃しちゃったぜ」
ところが、若い王さまは、言いました。
「なんでああいうことをしたのか、あれにはわかっておるのだ。あれにまかせておきなさい。あれは、わたしの忠臣、ヨハネスなんだからね」
さて、いよいよ結婚式があげられて、それから舞踏会となりました。そこへ王妃も入ってきました。それで、忠臣ヨハネスは、じっと注意をはらって王妃の顔ばかり見ていました。すると、突然、王妃は真っ青になり、死んだように床《ゆか》に倒れました。
それを見た忠臣ヨハネスは、とんでいって王妃を抱きあげると、別の部屋へと運んで、そこの床に寝かせました。それから、忠臣ヨハネスはひざまずいて、王妃の右の乳房から、血を三滴すいこむと、その血をぺっと吐き出しました。
すると、王妃はたちまち息を吹きかえし、もとどおり元気になりました。
ところで、若い王さまは、この様子を見ていましたが、忠臣ヨハネスがどうしてそんなことをしたのか、わからなかったのです。それで、王さまは、腹立ちまぎれに怒鳴《どな》ったのでした。
「奴を牢屋《ろうや》にぶちこんでしまえ」
そのあくる日の朝のことです。忠臣ヨハネスは、死刑の宣告をうけて、首つり台に連れていかれました。台の上に立って、いよいよ首が切られることになったそのときに、忠臣ヨハネスは、
「死ぬと決まりましたものには、誰にも臨終《りんじゅう》の言葉を言うことは許されております。わたしにも、そうさせていただけましょうか?」と、申し出たのです。
すると、王さまは、「よろしい、そうしてよいぞ」と、答えました。
そこで、忠臣ヨハネスは、「わたしの死刑は、まちがっております。王さまには、いつも忠実なわたしでした」と、そう言ってから、海の上でからすたちの話しを聞いたこと、主人の生命を救うには、ああしたことをせねばならなかったのだと、話したのでした。
「ああ、わたしの忠臣、ヨハネス、赦《ゆる》すぞ! 赦すぞ! あれを下へ、おろしてやれ!」と、王さまは大声で言いましたが、忠臣ヨハネスは、最後の言葉を口にすると、息《いき》たえて転《ころ》げ落ちました。忠臣ヨハネスは、石になっていました。
王さまと王妃は、このことでひどく悲しみました。
「ああ、こうした忠誠心に、とんでもない悪でむくいてしまったわい」と、言いながら、王さまは、その石像《せきぞう》を起こして、自分の寝室のベッドのそばに置かせました。
王さまは、石像を見るたびに、涙を流して、こう言うのでした。「ああ、もとどおりおまえを生きかえらせることができたらなあ、ヨハネスよ」
月日がたって、やがて王妃は、男の子のふたごを産《う》みました。ふたごの男の子は、どんどん大きくなって、王さまや王妃にとっての喜びの種《たね》となりました。
あるとき、王妃が教会に出かけていった留守に、ふたりの男の子が父王のそばで遊んでいると、王さまは、悲しみに胸をいっぱいにして、石像をながめながら、ため息をつきました。
「ああ、もとどおりおまえを生きかえらせることができたらなあ、ヨハネスよ」
すると、その石像が口をききはじめました。
「わたしをもとどおり生きかえらせてくださることが、おできになるんですよ。いちばん大切になさっているものをご用立てくださるならば、です」
「この世でわたしの持っているものなら、なんなりと用立てますぞ」
王さまが、そう言うと、石像もまたつづけて言うのでした。
「ご自分の手で、ふたりのお子さまの首を切り落としてください、その血をわたしにぬってください。そうなされば、わたしは生命《いのち》を取り戻すことができるのです」
王さまは、自分のかわいい子を、自分の手で殺せ、と聞いたので、びっくりしたのです。でも、忠臣ヨハネスの忠誠心のことを考えたり、自分のために死んでくれたのだとも考えたりして、王さまはさっと刀《かたな》を抜くと、自分の手で子どもたちの首を切り落としたのでした。それから、王さまは、子どもたちの流した血を石像にぬりました。すると、忠臣ヨハネスは生きかえって、またもとどおり、元気に王さまのまえに立ちました。
「王さまの真心《まごころ》に、報《むく》いがないというほうはありません」
忠臣ヨハネスは、そう言うと、王子たちの首を拾いあげ、それを首のつけ根に置くと、その傷口に血をぬりました。その瞬間です、王子たちは、またもとどおりになって、飛んだり跳《は》ねたり、なにごともなかったように遊びまわりました。
いまは、王さまもたいへんな喜びようで、そこへ王妃がやってくるのをみると、王さまは忠臣ヨハネスとふたりの王子を戸棚のなかに隠してしまいました。王妃が部屋に入ってくると、王さまは、王妃に言いました。
「教会にいってお祈りをしてきたのかね?」
「はい。でも、わたし、わたしたちのことで、ひどい目にあわされたあの忠臣ヨハネスのことばかり考えておりましたの」
そこで、王さまは、王妃に向かって言いました。
「いいかね、わたしたちには、ヨハネスを生きかえらせることができるのだよ。でもね、わたしたちの、ふたりの息子の生命《いのち》がいるのだよ。あの子たちをいけにえにせねばならんのだ」
王妃は、真っ青になって、心臓もちぢみあがるほどびっくりしました。それでも、王妃は言いました。
「わたしたちがこうしておられるのも、あのヨハネスの立派な忠誠心のおかげですものね」
王さまは、王妃が自分とおなじ考えを持っていることを知って、喜びました。それから、つかつかと戸棚のところにいくと、扉《とびら》を開けて、子どもたちと忠臣ヨハネスとをそとに出しました。
「ほんとうに、ありがたいことだ。ヨハネスは救われたし、息子どもも、また戻ってきたよ」と、王さまは言って、王妃に事《こと》の顛末《てんまつ》をすべて話して聞かせました。
こうして、この世を終えるまで、王さま一同、幸福な生活を送ったのでした。
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うまい商売
あるとき、ひとりの百姓が、自分の牝牛《めうし》を追って市場にいきました。そしてその牝牛を七ターラーで売りとばしたのです。その帰り、池のそばを通らねばなりませんでした。するともう遠くのほうから、蛙どもの「アク、アク、アク、アク」という鳴き声が聞こえてきました。
「おやおや、わめいたってしようがねえよ。売り上げは、七ターラーだよ、七だよ、八《アク》じゃないよ」と、ひとりごとを言いながら、百姓は池のところまできました。そして、水のなかに怒鳴《どな》りちらしたのでした。
「おまえたちは、ばかものだぞ! わかっちゃいないんだ。七ターラーだよ、八《アク》じゃないよ」
ところが蛙どもは、あいかわらず、「アク、アク、アク、アク」と、鳴いていました。
「よしきた、わかってくれないというんなら、目のまえでかぞえようじゃないか」と、そう言って、百姓はポケットから金《かね》を出すと、二十四グロッシェンずつを一ターラーにまとめて、それを七つかぞえました。けれども、蛙どもは、百姓の金の勘定《かんじょう》には見向きもしないで、またまた、「アク、アク、アク、アク」と鳴くばかりです。
「やい、やい、知ったかぶりしやがって、そんなら自分でかぞえてみろよ」と、すっかり腹を立て、百姓はそう怒鳴《どな》ると、金をどぶんとばかり水のなかに投げこんでやったのでした。
百姓は立ちどまって、蛙どもがかぞえきって、自分の金を返してくれるまで待っていようと思ったのです。
ところが、蛙どもは意地《いじ》を張って、あいかわらず、「アク、アク、アク、アク」と、鳴くばかり。金も返してはくれません。
もうしばらく、待ってはみましたものの、日も暮れはじめたので、家へ帰らねばなりませんでした。そこで、百姓は毒づいて、蛙どもに言ってやりました。
「頭でっかちの、ぎょろ目野郎。水のなかでばちゃばちゃしてやがってさ。でっかい口をしやがって、こっちの耳が痛くなるほど、ぎゃあぎゃあ鳴きやがる。そのくせ、七ターラーの金の勘定もできやしねえじゃないか。おまえたちの勘定が終わるまで、おれがここにいるとでも思っているのか、ええ?」
言い終わると、百姓はさっさといってしまいました。蛙どものほうは、あいかわらず、「アク、アク、アク、アク」と、うしろから浴《あび》せかけました。それで、百姓はかんかんに怒って、家へ帰っていきました。
それから、しばらくして、百姓はまた牝牛を一頭買いました。百姓はその牝牛を殺して、肉をうまく売れば、牝牛の二頭は買えるぐらいのもうけがあるだろう、そのうえ皮が残るわい、とこんな計算をしたのでした。
さて、その肉を持って町へいきますと、もう町の入口のところで、犬が群れをなして駆けよってきました。その先頭には大きなグレーハウンドがいました。この猟犬が肉のまわりをはねまわり、くんくん臭いをかぎながら、「クレ、クレ、クレ、クレ」と、吠《ほ》え立てたのです。
犬が吠え立てて、やめようとしなかったので、百姓は犬に言いました。
「そうか、わかったよ。肉がすこしほしいんだな、それで『クレ、クレ』と言ってるんだな。おまえにやってもいいが、おれのほうで困っちゃうからな」
「クレ、クレ」と、犬は答えるだけでした。
「ぺろりとみんな食べちゃうんじゃないかな? おまえの仲間どものことも、責任持ってくれるね?」
「クレ、クレ」
「よおし、そんなに言い張るんなら、おまえにまかせよう。おまえのことは、ちゃんと知ってるし、おまえの奉公さきだってわかってる。だけど、ちゃんと言っとくがな、三日《みっか》たったら金はもらうぜ。くれなきゃ、ひどい目にあうからな。おまえさんは、金を持ち出してきさえすりゃいいんだよ」
百姓は肉を下におろすと、もときた道を帰っていきました。すると、犬どもは集まってきて「クレ、クレ」と、大声で吠え立てました。遠くでこの吠え声を聞いた百姓は、こんなひとりごとをいいました。
「ほらな、犬どもがみんな、すこし『クレ、クレ』と言って、ほしがってるわい。でもな、あの大きい奴が、責任を持つにちがいあるまい」
三日たちました。「晩になれば、金がたっぷり入るというわけか」と、百姓は考えて、うきうきした気持ちでいました。けれども、誰ひとり金を払いにくるものはいません。
「もう、誰ひとり当《あ》てにはならん」と、言ったものの、とうとう我慢《がまん》できなくなって、町の肉屋のところに出かけていって、代金を払ってくれと言いました。肉屋のほうは、冗談だろうと思っていますと、百姓は、
「冗談じゃないぞ、代金をもらいたいもんだね。三日まえにだ、でっけえ犬が、つぶした牝牛を、まるごとおまえんところに持ってったろうが?」と、言ったので、肉屋のほうも、かんかんに怒って、箒《ほうき》の柄《え》をつかむや、百姓をたたき出してしまいました。
「よし、待ってろよ。世のなかにはな、まだ正義だって死んじゃいねえんだ!」と、百姓は言うと、王さまの城に出かけていって、訴えを聞き届けてほしいと頼《たの》みました。百姓は、王さまのまえに呼び出されました。王さまは、お姫さまといっしょになって、どんな目にあったのかな、とたずねました。
「なんとも、蛙の奴《やつ》と犬どもが、わっしの財産をまきあげちまったんでごぜえます。それに、肉屋のおやじときたら、代金だと申して、棒でどやしつけたんですわ」と言って、事件《こと》のなりゆきをくわしく話しました。それを聞くと、お姫さまは大きな声で笑い出しました。すると、王さまは百姓に向かって言いました。
「おまえがいいとは言いかねるが、まあ、そのかわりに、わしの娘を、おまえにやるとしよう。娘はな、生まれてから、まだ一度も笑ったことがないのじゃ。それが、いま、おまえのことで、笑ったではないか。わしはな、娘を笑わせてくれたものには、娘を嫁にやると約束しておったのだ。おまえは果報《かほう》ものじゃ。神さまに、そのお礼を言うがいいぞ」
「いいえ、お姫さまなぞ、ほしくはございません。うちには、家内がひとりおりましてな、その家内ひとりでも、わっしには多すぎますだに。なにしろ、わっしが家に帰りますとな、まるで隅《すみ》という隅に、どの隅にも家内がつっ立っている、といったようなもんでございましてな」
百姓がそう言いますと、王さまは怒りました。「おまえは、礼儀を知らん奴だ」
「王さま、牛からは、牛肉しかとれないんでございますよ」
百姓がそう返事をしますと、王さまは言いました。
「おまえには、別のほうびをやろう。いまは退《さ》がるがいい。だがな、三日たったら、またやってこい。五百はたっぷりくれてやろう」
百姓が戸外《そと》に出ると、そこに立っていた番兵が言いました。
「おまえ、お姫さまを笑わせたな。なにかいいものもらったろ」
「うん、そのとおりだ。五百くれるとよ」と、百姓が返事をすると、
「いいか、おれにも少しよこせよな! そんなに、金を持って、おまえ、どうするつもりだ!」と、番兵は言いました。すると、百姓は、
「そういうおまえなら、二百くれてやるよ。三日たったら、王さまのところにまかり出て、払ってもらっといで」と、言いました。
ところが、ひとりのユダヤ人が、そばにいて、この話しを聞いていました。そのユダヤ人は、百姓のあとを追いかけてきて、上着をつかむと、こう言いました。
「おどろいたもんだね。おまえさん、幸運児というもんだよ! 両替《りょうが》えしてあげよう。小銭《こぜに》ととりかえてあげるよ。ターラー銀貨じゃ、どうしようもないだろうからね?」
「ユダ野郎、おめえには、三百やるよ。おらには、いますぐ、小銭でよこしなよ。三日たって、王さまんとこへいけば、払ってくれるぜ」
ユダヤ人は、このもうけ話しにすっかり喜んで、質《しつ》の悪いグロッシェン小銭を持ってきました。それは三枚で、質の良いグロッシェン小銭二枚の値打ちしかないのです。
三日たちました。王さまの言いつけどおり、百姓は王さまのまえにまかり出ました。
「あれの上着をぬがしてしまえ。あれには五百つかわせ」と、王さまが言いました。
「その五百は、もうわっしのものではございませんだ。二百は、番兵にやってしまいましたし、三百は、ユダヤ人が小銭にとりかえてくれましただ。法律からすりゃ、わっしのものは、びた一文《いちもん》ありゃしないというわけですわ」と、百姓が言いました。
そうしているうちに、番兵とユダヤ人が入ってきて、百姓からうまくせしめたつもりの分《わ》け前を要求したのでした。ところが、番兵も、ユダヤ人も、ちょうどその分け前ぶんだけ、ぽかぽかなぐられたのでした。
番兵のほうは、じっとがまんしていて、この分け前を味わっていたのでしたが、ユダヤ人のほうは、
「痛いってばよ! これがターラー銀貨っていうのか?」と、ひいひいわめきました。
王さまは、百姓のしたことがおかしくてしかたありませんでした。腹の立っていたのもおさまると、王さまは言いました。
「おまえは、ほうびを、もらいもしないうちに、なくしてしまったのだから、その埋め合わせをしてやろう。わしの宝物の入っている倉にいって、ほしいだけ金《かね》を持ってくるがいい」
百姓は、ふたつ返事で倉にいき、だぶだぶのポケットにつめこめるだけつめこんだのでした。
それから、百姓は料理屋にいって、持ってきた金をかぞえなおしたのです。ところが、ユダヤ人は、こっそり百姓のあとをつけてきていたのです。
「あの悪党の王さまめ、おれを騙《だま》しやがったんだ。こんなふうに、勝手に金をくれやがるから、いくらもらったんだか、わかりゃしねえや。めっちゃくちゃにつめこんでやった金が、ほんものかどうかって、おれにゃわからねえよ!」と、百姓はぶつぶつひとりごとを言っていました。それを聞いたユダヤ人は、
「そんなことってあるもんか! おれたちの王さまのこと、ずいぶん失礼なことを言いやがって。ようし、飛んでいって、告げ口してやろう。そうすりゃ、おれはほうびをもらえるし、奴は、おまけに罰をうけるというわけだ」と、ひとりごとを言いました。
王さまは、百姓のひどい話しを聞くと、かんかんに怒ってしまい、ユダヤ人に、あの罰《ばち》あたりを連れてこい、と命じました。ユダヤ人は、百姓のところに走っていって、言いました。
「おまえさん、いますぐ、そのまま王さまのところにいくんだぞ」
「どんな格好《かっこう》でいったもんか、おれのほうがよく知っとるだ。まず、新しい上着でもつくらせるとしよう。しこたま金を持ってる男がさ、古ぼけたぼろっ服なんぞ、着ていかれるわけはないだろうが?」と、百姓は言いました。
新しい上着を着せなくては、百姓は連れ出せないし、またその一方、王さまの腹立ちがおさまってしまえば、ほうびはもらえない、それに百姓は罰もくわないですんでしまう、そんなふうに考えると、ユダヤ人は、
「おまえさんには、ちょっとのあいだなら、ただ友だちだからということで、きれいな上着を貸してやるぜ。人間はな、なにをするにも、愛しあう気持ちからしなくちゃね!」と、言うのでした。
百姓は、借りることに甘んじて、ユダヤ人の上着を着ると、ユダヤ人といっしょに出かけていきました。王さまは、ユダヤ人から聞いていた告げ口を並べて、百姓を叱りつけました。
「やれやれ! ユダヤ人の言うことは、いつだって嘘っぱちですよ。ほんとうのことなんて、口から出たためしはございません。ここにいるこいつだって、わっしが、奴の上着を着とるだなんて、ぬかしておりますだ」と、百姓が言うと、ユダヤ人は怒鳴《どな》りました。
「なんだって、それがおれのではないってか? その上着がおれのでないってね? 友だちだからって、おまえさんに貸してやったんじゃないのかね、ええ、おまえさんが、王さまのまえに出られるようにといってさ?」
これを聞くと、王さまは言いました。
「このユダヤ人、わしを騙《だま》しおったか、それとも、百姓を騙しおったか、どっちかひとり、たしかに騙したにちがいない」
王さまは、ユダヤ人に、例の痛いターラー銀貨で、もう少し支払ってやるようにさせました。ところで、百姓のほうは、立派な上着を着こんで、ポケットには立派な金を入れたまま、家へ帰っていきました。そして、百姓は、
「こんどこそ、うまく当《あ》てたというもんだ」と、言いました。
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十二人の兄弟王子
むかし、王さまとお妃《きさき》とが、仲よく暮らしておりました。子どもが十二人いましたが、十二人とも男の子でした。
あるとき、王さまはこんなことをお妃に言いました。
「そなたの産む十三人目の子が、女の子であったら、十二人の男の子は殺してしまおう。そうすれば、娘の財産は多くなるし、この王国《くに》も、娘ひとりのものになるではないか」
王さまは、ほんとうに柩《ひつぎ》を十二もつくらせました。もう柩のなかには、かんなくずが詰《つ》めこんであって、ひとつひとつの柩に死人の枕まで置いてありました。それから、錠《じょう》をおろした部屋に運ばせて、鍵《かぎ》はお妃《きさき》に手渡して、このことは誰にも言ってはならんぞ、と固く言いつけました。
そういうわけで、お妃は、一日じゅうすわりこんだまま、悲しみに沈んでいました。すると、聖書からとってベンヤミンという名をつけられたいちばん末《すえ》の王子が、いつもそばにいるお妃にたずねたのでした。
「お母さま、どうしてそんなに悲しそうなの?」
「ええ、でも、お話ししてあげるわけにはいかないのよ」
けれども、王子がやいやいと責《せ》め立てるので、とうとうお妃は、その部屋のところにいって、錠をはずし、かんなくずのいっぱい詰まっている十二の柩を、王子に見せて、それから、こう言いました。
「ねえ、ベンヤミンや。この柩はね、あなたの父王が、あなたとあなたの十一人の兄弟のためにと、つくらせたものなの。そのわけはね、もしも、今度、女の子が生まれたら、あなたたちみんなに死んでもらって、この柩で埋められることになっているからなのよ」
そう言いながら、お妃《きさき》が泣いていると、末の王子は、お妃をなぐさめて言いました。
「お母さま、泣かないで。ぼくたちは、なんとかして、どっかへいってしまいますよ」
「では、あなたの十一人の兄王子といっしょに、森のなかにいきなさい。いちばん高い木を見つけて、かならず誰かひとり、その木にのぼって見張りをするのですよ。この城の塔のほうを見ているのよ。男の子が生まれたら、白い旗を立てましょう。そしたら、戻ってきていいのよ。もし女の子だったら、赤い旗を出すわ。そしたら、逃げていくのよ、一目散《いちもくさん》にね! 神さまが、守ってくださるといいわね。毎晩、ベッドから起きて、みんなのために祈ってあげるわ、冬になったら、みんなが火にあたれるようにとね。それから、夏になったら、暑さに苦しまないですむようにとね」
こうして、お妃が、王子たちに神のお恵《めぐ》みがありますようにと、祈ると、王子たちは、城をあとに森のなかへと入っていきました。ひとりずつ順番に、見張りをしました。いちばん高い樫《かし》の木にのぼって、城の塔のほうを見ていたのです。
十一日たちました。ベンヤミンに順番がまわってきました。ちょうどそのとき、ベンヤミンは旗のあがるのを見たのです。ところが、白い旗ではありません。みな殺しだという前ぶれの、血のように真っ赤な旗でした。兄王子たちが、このことを聞くと、かんかんに怒って言いました。
「女の子ひとりのために、ぼくたちが死ななきゃならないなんて! ようし、ぼくたちだって仕返ししてやるぞ! 女の子を見つけたら、真っ赤な血を流してやろう」
それから、王子たちは、森のもっと奥へ入っていきました。森の真ん中のいちばん暗いところに、王子たちは魔法にかけられた小さな家を見つけたのです。その家には、誰も住んでいませんでした。
「ここに住むことにしよう。ベンヤミン、おまえはいちばんちびで、力もないんだから、家《うち》にいて、家のなかの仕事をしてなさいよ。ぼくたちは出かけていって、食べ物をとってこよう」
そう言って、兄王子たちは、森の奥に入って、兎《うさぎ》や、のろ鹿や、いろいろな鳥や、雄鳩《おばと》の雛《ひな》や、食べられる生き物はなんでも射《う》ち殺して、ベンヤミンのところに持ってきたのです。ベンヤミンは、お腹《なか》のすいた兄王子たちのために、それを料理しなければなりませんでした。
こうして、王子たちは、その小さな家のなかで、十年もいっしょに暮らしたのですが、たいくつすることもありませんでした。
王子たちの母君《ははぎみ》の産んだ王女も、いまはもう大きくなって、心のやさしい、顔だちの美しい女の子になりました。王女の額《ひたい》には金の星がひとつついていました。
あるとき、洗濯《せんたく》ものがたくさん出たことがありました。その洗濯もののなかに、男の子の肌着《はだぎ》が十二枚あったのです。王女は、肌着を見つけると、母君にたずねました。
「この肌着十二枚は、どなたの? お父上《ちちうえ》さまのにしては、小さすぎるわ」
そこで、お妃は、悲しみに沈んで、
「それはね、あなたの十二人の兄王子のものなのよ」と、答えたのです。
「わたしの十二人の兄王子ですって、どこにおられるのです。まだ一度も、兄王子のこと、お聞きしたことなかったわ」
「どこにいるのやら、誰にもわからないのですよ。この世の中を、あちこちと歩きまわっているのよ」
そう言って、お妃は王女を連れ、例の部屋のところにいき、錠をあけてなかに入りました。そこでお妃は王女に、かんなくずの詰めこまれ、死人の枕の入っている十二の柩《ひつぎ》を見せたのです。
「この柩はね、あなたの兄王子たちのものなのよ。でもね、あなたが生まれるまえに、あなたの兄王子たちは、こっそりどこかにいってしまったの」
お妃は、あったことをなにもかもすっかり、王女に話して聞かせたのでした。すると、王女は言いました。
「泣かないでください。わたし、兄王子たちをさがしてきますわ」
王女は、十二枚の肌着を持って、出かけていきました。まっすぐ例の大きな森のなかに入っていったのです。一日じゅう歩いて、日が暮れてから、魔法にかけられた小さな家のところに着きました。なかに入ると、男の子がひとりいました。
「どこからきたの? で、どこへいくの?」と、ベンヤミンはたずねました。
女の子がとてもきれいで、王女の着るような服を着ていて、それに額には金の星がついているので、ベンヤミンはびっくりしてしまったのです。
「わたし、王女なのよ。十二人の兄王子をさがしてるの。青空のつづくかぎり、兄王子を見つけるまで、さがしまわるつもりよ」
王女は、そう言うと、王子たちのものであった十二枚の肌着をベンヤミンに見せたのです。これでベンヤミンは、自分の妹王女だとわかったので、
「ぼくは、ベンヤミンだ、いちばん下の兄王子だよ」と、言いました。
それを聞くと、王女は、嬉しくて嬉しくて泣き出してしまいました。ベンヤミンも泣きました。ふたりは、いとしさのあまりキスして、しっかと抱きあいました。
それから、ベンヤミンは言いました。
「でもね、早まってはいけないよ。女の子に出会ったら、どんな女の子だって殺してしまおうと、そんな約束が、ぼくたちにはしてあるんだ。女の子のために、ぼくたち、ぼくたちの王国《くに》を捨てることになったんだからね」
すると、王女は、こう言うのでした。
「わたし、喜んで死ぬわ。十二人の兄王子たちが、それで助かるというのでしたらね」
「いけないよ、死んだりしちゃあ。十一人の兄王子が帰ってくるまで、このおけの下にすわっておいで。兄王子たちと、ぼくがうまく話しをつけるからね」
王女は、そのとおりにしました。夜になると、兄王子たちは、狩りから帰ってきました。食事の仕度《したく》はできていました。
食卓について、兄王子たちは食べながら、たずねました。
「なんか変わったことでもあったかい?」
「知らないんですか?」
「知らないね」
そこで、ベンヤミンが言いました。「兄上たちは、森にいかれた。ぼくは家で留守《るす》ばん。それでも、ぼくのほうが知っているんだな」
「そんなら、話しておくれよ」
「じゃあ、ぼくに約束してくれる、最初に出会った女の子は、殺したりしないことにしようって?」
「ああ、いいよ。その女の子は助けてやろうよ。さあ、話してごらん」と、兄王子たちは、声を大きくして言いました。
そこで、ベンヤミンは言いました。
「ぼくたちの妹王女が、ここにきているんだ」
ベンヤミンが、おけをあげると、王女の服を着て、額には金の星をつけて、王女があらわれたのです。美しくて、上品な、ほっそりした王女です。王子たちは、みな大喜び、王女の首に抱きついたり、キスしたりして、心からかわいがったのでした。
王女は、ベンヤミンといっしょに留守ばんをして、ベンヤミンの仕事の手伝いをしていました。十一人の兄王子たちは、森のなかに入っていって、野獣《けもの》や、鹿や、鳥や、雄鳩の雛《ひな》をつかまえては、食べものにしたのです。王女とベンヤミンは、いろいろとお料理の心配をしました。王女は、煮《に》ものの薪《たきぎ》や、野菜にする薬草などをさがしてきたり、鍋《なべ》をいくつも火にかけたりして、人が帰ってきたときには、食事の用意はいつも万端《ばんたん》ととのっていたのです。
王女は、そのほかにも、家のなかをきちんと片づけ、ベッドにはいつも真っ白な、きれいな布をかけておきました。それで、兄王子たちも、いつも満足して、王女と心をあわせて暮らしていたのです。
そうしたある日のことでした。王女とベンヤミンは、家に残って、おいしいご馳走《ちそう》をつくったのでした。兄王子たちは、みんないっしょに集まると、食卓について、食べたり、飲んだり、大喜びでした。
ところで、この魔法にかけられた家には、小さな庭がありました。その庭には、うめばち草《そう》とも言われている百合《ゆり》のような草花が十二本|生《は》えていました。
さて、王女は、兄王子たちを喜ばせようとして、その草花を十二本とももぎ取ってしまったのです。食事のときに、みんなに一本ずつ分けてあげようと思ったのです。
ところが、その草花をもぎ取るか取らないうちに、十二人の兄王子たちは十二羽のからすになってしまったのです。そして、森の上を飛んで、どこかにいってしまいました。それに、その家も、庭ごと消えてなくなってしまったのです。
いまは、かわいそうな女の子がひとり、荒れた森のなかにぽつんと立っていました。あたりを見まわしたときです。自分のすぐそばに、ひとりの老婆が立っていました。
老婆は、王女に言いました。
「まあ、なにをしたんだね? 白いあの草花、十二本とも、なぜあのままにしとかなかったのだね? あれはね、あんたの兄王子たちだったんだ。もう、からすになったまんまだよ」
王女は、涙を流しながら言いました。
「兄王子たちを、助けてあげることはできないの?」
「だめだね。だけど、たったひとつだけあるがね、それはとてもむずかしいんだよ。あんたにはできないから、兄王子たちを助けるわけにはいくまいよ。なにしろ、七年ものあいだ黙ってなくちゃならないんだからね。口をきいてはいけない、笑ってもいけない。ひと言《こと》でも口をきいてごらんな、七年のうちたったのいっ時間《とき》足りなくてもだ、それで水の泡《あわ》というわけさね。あんたの兄王子はね、あんたのひと言で、消されちゃうんだよ」
これを聞くと、王女は、「わたしにだって、兄王子たちは、救ってあげられるわ」と、心のなかでそう言いながら歩いていきました。王女は、一本の高い木をさがし出すと、その上にすわりこんで、糸を紡《つむ》ぎはじめたのです。王女は、ひと言も口をききませんでしたし、笑いもしませんでした。
ところが、こんなことが起きたのです。
ある国の王さまが、森のなかで狩りをしたことがあったのです。王さまは、一匹の大きなグレーハウンドを連れていたのです。そのグレーハウンドが、王女ののぼっていた木のところに走ってきて、木のまわりを跳《は》ねまわり、上を向いて吠え立てたのです。
それで、王さまが近づいてきて見ますと、額に金の星をつけた美しい王女が目にとまったのでした。王女の美しさは、うっとりとしてしまうほどで、つい王さまは、自分の妃《きさき》になるつもりはないか、と王女に呼びかけたのでした。
王女は返事をしませんでした。けれども、軽くうなずいてみせました。そこで、王さまは木にのぼり、王女を下におろすと、自分の馬に乗せ、連れて帰ったのでした。
婚礼の式は、華《はな》やかにあげられ、誰もが心から喜んだのでした。けれども、花嫁はひと言も口をきかず、笑いもしなかったのです。王さまとこのお妃のふたりが、こうしていく年か楽しくらしたのですが、王さまの腹黒いまま母が、若いお妃の悪口を言いはじめたのでした。まま母は、王さまにこんなことを言いました。
「あなたの連れてきた娘は、身分のいやしい乞食《こじき》娘じゃないの。かげでどんな悪さをやってるか、わかりゃしないよ。唖《おし》で、なんにもしゃべれなくたって、笑うことぐらいできそうなものにさ。ところが、笑いもしない、やましいところがあるんだよ」
王さまも、初めのうちは、そんなことを信じようともしませんでしたが、年寄りのまま母が、おなじことを長ながとしゃべっては、いろいろと悪いことをお妃のせいにして責め立てたので、とうとう王さまも、その気になってしまって、お妃に死刑を言い渡したのでした。
さて、中庭では、火がぼうぼうと燃えさかっていました。その火で、お妃が焼き殺されることになっていたのです。王さまは、建物の上の窓のところに立って、涙を流しながら、じっと見つめていました。こうなったいまでも、王さまはお妃がかわいかったからでした。
お妃は、さらし台にしっかとしばりつけられました。火が赤い舌を出して、お妃の服をぺろぺろとなめはじめたとき、ちょうど七年の最後の瞬間がすぎ去ったのでした。
すると、空中にひゅうひゅうという鳥の飛ぶ音が聞こえました。十二羽のからすが飛んできて、下に舞いおりてきたのです。からすの足が地面に着くと、十二羽のからすは、十二人の兄王子になったのでした。王女が、兄王子たちを救ったのです。
兄王子たちは、燃える火をかき散らし、炎を消して、かわいい妹王女を救い出してやりました。兄王子たちは、妹王女を胸に抱きしめたり、キスしたりしてやりました。お妃も、口をあけて、話しをすることもできるようになったので、なぜ自分が黙りこんで、笑うこともしなかったのか、そのわけを王さまに聞かせたのでした。
お妃になんの罪もないことを聞いて、王さまは喜んだのでした。それからは、王さまもお妃も、みんな心をひとつにして、死ぬまで仲よく暮らしたということです。あの腹黒いまま母は、裁判にかけられて、煮え立った油や毒蛇《どくへび》の詰めこんである樽《たる》のなかに押しこめられ、むごたらしい死にかたで死んでいきました。
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兄と妹
兄が妹の手をとって、言いました。
「お母さんが死んじまってから、楽しいことなんて一度もなかったよね。こんどの母さんときたら、毎日、たたいてばっかりいるし。そばにいけば、けっとばすし。それに、ぼくたちの食べものといったら、食べ残しの、こちこちのパンの皮だしね。テーブルの下にいる犬ころのほうが、ずっとましさ。だって、母さんときたら、おいしい物をさ、ほうってやったりするんだものね。死んだお母さんが、こんなこと知ったら、たいへんだよね。さあ、ぼくたち、ふたりでどこか遠いとこへいっちゃおうよ」
ふたりは、牧場や、畑や、石ころのごろごろしている道を、一日じゅう歩きつづけました。
歩いている途中で、雨が降ってきたりすると、妹は言いました。
「神さまと、わたしたちの心が、いっしょに泣いちゃうのね!」
日が暮れると、ふたりは大きな森のなかに入っていきました。ふたりとも、お腹《なか》をすかせ、悲しい思いで、遠い道を歩いてきたので、くたくたに疲れてしまい、木の洞《うろ》のなかに入りこむと、ぐっすりと寝こんでしまうのでした。
あくる日の朝、ふたりが目をさましたときには、もう陽《ひ》も空高く昇っていました。木の洞《うろ》のなかまでかんかん照らしていました。
「ねえ、のどがからからだよ。泉のあるとこ、わかってたら、いって飲んでくるんだけどな。ううん、どこかで、さらさら水の音が、聞こえるぞ」
兄は、そう言うと、ふと立ちあがって、妹の手をとりました。ふたりは、泉をさがしにいくつもりだったのです。
ところで、意地の悪いあのまま母は、魔法使いの女だったのです。ですから、ふたりの子どもが逃げ出したのも、ちゃんとわかっていたのです。こっそりと歩く魔法使いの女どもとおなじように、まま母も、そっとふたりのあとをつけていたのです。そして、森じゅうの泉という泉に、もう魔法をかけてしまっていたのでした。
さて、ふたりは、石の上にきらきらと湧《わ》き出している小さな泉を、見つけました。さっそく兄は泉の水を飲もうとしたのです。ところが、妹は、さらさら流れる水の音にまじって、
「わたしの水を飲むと、虎《とら》になるわよ。わたしの水を飲むと、虎になるわよ」という声を、聞きつけたのでした。そこで、妹は大きな声で、言いました。
「だめよ、お兄《にい》ちゃん。飲まないで! 飲んだら、お兄ちゃん、こわい虎になって、あたし、食いちぎられちゃうわ」
兄は、からからにのどがかわいていたのですが、飲むのをやめて、言いました。
「じゃあ、つぎの泉まで、飲まないことにしよう」
こうして、ふたりがふたつ目の泉のところにきたとき、また妹は、泉の言う声を聞いたのです。
「わたしの水を飲むと、狼《おおかみ》になるよ。わたしの水を飲むと、狼になるよ」
そこで、妹は大きな声で、言いました。
「だめよ、お兄ちゃん、飲まないで。飲んだらお兄ちゃん、狼になっちゃって、あたしを食べちゃうのよ」
兄は、飲むのをやめて、言いました。
「つぎの泉のところにいくまで、飲まないことにしよう。でもね、こんどは、おまえがなんと言ったって、飲んじゃうからね。もう、のどはからからなんだ」
こうして、ふたりが三つ目の泉のところにきたときです。また妹は、さらさらと流れる水の音にまじって、「わたしの水を飲むと、鹿になるよ。わたしの水を飲むと、鹿になるよ」と言う声を、聞いたのです。そこで、妹は言いました。
「お兄ちゃん、だめよ、飲まないで。飲んだら、お兄ちゃん、鹿になっちゃって、あたしをおいてきぼりにするのよ」
ところが、兄は、泉のそばにひざをつくと、からだを屈《かが》めて、水を飲んだのです。その水が、一滴二滴、唇《くちびる》についたかと思うと、もう兄は子鹿になってしまいました。
魔法にかけられた兄がかわいそうで、妹は涙を流して泣きました。兄の子鹿も、妹のそばで、いつまでもしくしくと泣いていました。
そこで、妹が言いました。
「泣かないのよ、子鹿さん。あたし、ぜったいに、捨てたりなんかしないわよ」
それから、妹は、自分の金の靴下どめをはずして、子鹿の首のまわりにつけてやりました。妹は、燈心草《とうしんぐさ》を引き抜いては、それでやわらかな縄《なわ》を編みました。その縄を子鹿につなぐと、妹は、森のずうっとずっと奥へと入っていきました。
妹と子鹿は、もうずいぶん長いこと歩いていきました。とうとう、ふたりは小さな家のところにやってきました。妹が、なかをのぞいてみますと、がらんとした空家《あきや》だったのです。「あたしたち、このままここに住めるわ」と、妹は考えたのでした。
そこで、妹は、子鹿のために、やわらかなベッドをつくってやろうと、木の葉やこけをさがしてきました。それから、毎朝、出かけていっては、自分のために木の根や草の根を、水けのある実や堅い実を集めてきたのです。子鹿には、やわらかな草をおみやげに持ってきました。子鹿は、その草を妹の手からもらって、むしゃむしゃ食べると、嬉しそうに、妹のまえで、ぴょんぴょん跳んで、遊びまわっていました。
日が暮れて、眠くなると、妹は、お祈りをすませてから、子鹿の背なかを枕がわりに、頭を乗せると、ぐっすり寝こんでしまうのでした。ただ、子鹿になった兄が、人間の姿をしていさえしたら、なんと楽しい生活であったことでしょう。
こうして、妹と子鹿は、ふたりきりで荒れほうだいになった土地に、長いこと住んでいたのです。
ところが、その国の王さまが、森のなかで大がかりな狩りをすることになりました。
角笛《つのぶえ》のひびき、犬の鳴きごえ、狩人《かりうど》の楽しそうな叫び声、そうした声が森の木のあいだを抜けて聞こえてきました。それを聞きつけた子鹿は、いってみたくてたまらなくなったのです。そこで、子鹿は、妹に言いました。
「ぼくを狩りにいかせて。もう、ぼくはじっとしていられないんだ」
子鹿がいつまでも、いつまでもせがんだので、とうとう妹は、承知してしまったのです。
「でもね、晩になったら、またあたしのところに帰ってくるのよ。らんぼうな狩人がくるといやだから、戸はしめとくわ。帰ってきたら、あたしにわかるように戸をたたいてね。妹や、うちに入れておくれ、ってそう言うのよ。言わないと、あたし、戸をあけなくってよ」と、妹の女の子は、兄の子鹿に言いました。
さて、子鹿は外へ飛び出していきました。広びろとしたところに出た子鹿は、ほんとうに気持ちがよくて、嬉しくて、嬉しくてたまりません。ところが、王さまと、王さまの狩人たちは、この美しい子鹿を見つけて、あとを追いかけてきました。どうして、どうして、つかまえることなどできません。こんどはつかまえたぞ、と思ったとたん、子鹿は薮《やぶ》を飛びこえて、ひょいと姿を消してしまうのでした。
こうして、日が暮れかかったとき、子鹿は家に走って帰ってきました。とんとんと戸をたたいて、言いました。「妹や、うちに入れておくれ」
すると、小さな戸が開きました。子鹿は、ぴょんと跳《と》び込むと、やわらかなベッドの上にのって、その夜は、ゆっくりと休みました。
そのあくる日の朝、またもや狩りが始まりました。子鹿は、また狩りのラッパのひびきや、狩人たちの「ほう! ほう!」という掛け声を聞くと、もうじっとしてはいられなくなって、こう言うのでした。
「ねえ、あけてよ。ぼく、いかずにはいられないんだ」
すると、妹は、戸をあけてやって、言いました。「でもね、晩になったら、またここに帰ってくるのよ。いいこと、例の合い言葉を使うのよ」
王さまと、王さまの狩人たちは、またもや金の首輪をかけた子鹿を見つけました。狩人たちみんなしてその子鹿のあとを追ったのです。狩人たちには、手におえぬほどのすばしこさ。一日じゅう追いかけまわし、夕方になって、やっと狩人たちは、子鹿を遠まきにとりまいたのです。狩人のひとりが、子鹿の脚《あし》に軽い怪我をさせたので、小鹿は足を引きずりながら、のろのろと逃げていきました。
ひとりの狩人が、そっと子鹿のあとについて、家のところまでやってきました。「妹や、入れておくれ」と言う子鹿の声が聞こえたので、その狩人がじっと見ていると、戸がぱっと開いたかと思うと、すぐまたばたんとしまってしまいました。
狩人は、この一部始終《いちぶしじゅう》をよくおぼえていて、王さまのところに帰ると、自分の見たこと、聞いたこと、すべてを王さまに話したのです。
すると、王さまは言いました。
「あすは、もう一度、狩りをするとしよう」
ところで、妹は、兄の子鹿が怪我《けが》をしているのを見て、びっくりしてしまいました。妹は、子鹿の血を洗い落として、その上に薬草《やくそう》をはってやりました。
「ベッドにいっておやすみなさい。早く治《なお》るようにね」
怪我はとても軽かったので、あくる日の朝になると、子鹿はもう怪我のことなどなんとも思っていませんでした。
それからまた、なんとも楽しそうな狩りの掛け声が、そとから聞こえてくると、子鹿は言いました。
「ぼくは、もうたまらない。いってこなくちゃ。どうして、どうして、つかまるもんか」
すると、妹は、泣いて言いました。
「こんどは、殺されちゃうわよ。そうなったら、あたしは森のなかでひとりぼっち、誰もあたしなんかにかまってくれやしないわ。あたし、お兄ちゃんを出さないわよ」
「そうしたら、ぼく、悲しくって、ここで死んじゃうよ」と、子鹿は、言いました。「狩りのラッパが聞こえたら、ぼく、じっとなんかしてられないんだ!」
そこで、妹はしかたなく、暗い気持ちで、戸をあけてやりました。子鹿は嬉《うれ》しそうに、森のなかへと、ぴょんぴょん跳んでいきました。
王さまは、子鹿の姿を見つけると、狩人たちに言いました。
「さあ、あの子鹿を追いかけろ、一日じゅう、夜なかもだ。だがな、誰も怪我をさせちゃいかんぞ」
陽《ひ》が沈むと、王さまは、きのうの狩人に言いました。
「さあ、いっしょにきて、森の小さな家とやらを、わしにおしえてくれんか」
こうして、やがてその小さな家の戸口のまえにきたとき、王さまは、とんとんと戸をたたいて、大きな声で言いました。
「妹や、うちに入れておくれ」
戸があきました。王さまがなかに入ると、女の子がひとり立っていました。それは、いままでに見たこともないような美しい女の子でした。妹の女の子のほうは、兄の子鹿ではなくて、金の王冠をかぶったひとりの男が入ってきたので、びっくりしたのです。でも、王さまは、やさしく妹を見つめ、握手《あくしゅ》をしようと手を出しながら、言いました。
「わしといっしょに、わしの城にきて、わしの妃《きさき》になるつもりはないか?」
「はい、よろしいです。ですが、子鹿もいっしょでなければいやです。子鹿を捨てていくわけにはいきません」
「一生ずうっと、そばに置いてやればよいではないか。あれには、なにひとつ不自由はさせんぞ」
そうしているうちに、子鹿が跳《と》びこんできたのです。そこで、妹は、子鹿を燈心草《とうしんぐさ》の縄につないで、その縄を手に、王さまといっしょに、森のなかの小さな家を出ていきました。
王さまは、美しい女の子を、自分の馬に乗せ、お城に連れて帰りました。
王さまと女の子との結婚式が、お城で盛大にあげられました。いまは、女の子も王さまのお妃《きさき》となったのです。それから、王さまとお妃は、長いこと楽しく、いっしょに暮らしたのでした。小鹿は、たいせつに育てられ、お城の庭のなかを跳びまわっていました。
ところで、子どもたちを追い出すようにした例の意地の悪いまま母は、妹のほうは森のなかで猛獣《もうじゅう》にずたずたに引き裂《さ》かれ、子鹿となった兄のほうは狩人に撃《う》ち殺されたものとばかり思っていたのです。
さて、いま、そのまま母が、ふたりともなに不自由なく、幸福に暮らしているということを聞いたのです。すると、まま母の胸のうちに、ねたみ心と悪心《あくしん》とがむらむらと湧《わ》き起こったのでした。もう、落ち着いてはいられません。どうしたらあのふたりを、不幸な目にあわせてやれるだろうか、まま母は、そんなことばかり考えつづけました。
まま母のほんとうの娘は、暗い夜のようにみにくく、おまけに目はひとつでした。その娘が、まま母を責《せ》め立てて、言いました。
「お妃になれる幸運《しあわせ》は、わたしのほうにあったはずじゃない」
「まあ、落ち着きなさいよ。時機《とき》がきたら、わたしがうまくやってやるからさ」
いま、その時機《とき》がやってきたのです。お妃が美しい王子を産みました。王さまは、ちょうど狩りに出かけていたのです。そのとき、年とったまま母の魔法使いの女が、腰元《こしもと》の姿をしてお妃の寝ている部屋に入ってきました。そしてお妃に向かって言いました。
「さあ、おいでくださいまし。お風呂《ふろ》のお支度《したく》ができました。お入りになると、気持ちがようございますし、お元気にもなられますよ。お早く、さめませんうちに、さあ」
まま母のほんとうの娘も、そばにいました。ふたりは、からだの弱っているお妃を、湯殿《ゆどの》に運んでいくと、お妃を湯ぶねのなかに入れました。それから、ふたりは、戸をしめて、逃げていってしまったのです。
ところで、ふたりは湯殿のなかに、ほんとうの地獄《じごく》の火を起こしておいたのです。ですから、若くて美しいお妃は、やがて息が詰《つ》まって死んでしまったのでした。
こうした悪事をすませると、魔法使いの女は自分の娘を連れ出して、娘の頭に頭巾《ずきん》をかぶせ、お妃のかわりにベッドに寝かせたのです。魔法使いの女は娘に、お妃そっくりの格好《かっこう》をさせたのですが、なくしてしまった片方の目だけは、つけてやるわけにもいきませんでした。でも、王さまが、その目に気づいてしまわないようにと、娘は、目のないほうをしたにして寝なければなりませんでした。
晩がた、王さまが帰ってきて、王子の生まれたことを聞くと、それは大喜び、さっそくかわいいお妃のところにいって、どんな様子か見てこようとしたのです。すると、魔法使いの女が、いち早く呼びとめました。
「いけませんぞ。ベッドの|垂れ幕《カーテン》は、しめておいてくだされ。お妃は、まだあかりを見るわけにはまいりません。なによりもご安静《あんせい》」
王さまは、あとずさり。にせのお妃がベッドにいるとは、気づきもしなかったのです。
ところが、真夜中のことでした。みんなが寝静まったころ、王子の部屋の揺り篭《かご》のそばで、ひとりまだ寝ないでいた姥《うば》は、戸があいて、ほんとうのお妃が入ってくるのを見たのでした。お妃は、揺り篭から、王子を抱きあげて、お乳を飲ませました。それから、王子の小さな枕をふるい、また王子を寝かせて、ふとんをかけたのです。お妃は、子鹿のことも忘れてはいませんでした。子鹿の寝ている隅にいって、子鹿の背中をなでてやりました。それがすむと、お妃は、なにも言わずに、戸口からそとに出ていきました。
そのあくる日の朝、姥《うば》は、夜中に誰かお城に入ってきたものはいなかったか、と番兵たちにたずねたのです。ところが、
「いいや、わしらは、誰も見かけなかったな」と、番兵たちは答えました。
こうして、お妃は、毎夜のように、やってきましたが、ひと言も口をききませんでした。姥は、いつもお妃の姿を見ていたのですが、このことを誰かに言ってみようという気にもならなかったのです。
こうして、しばらくたってからのこと、夜中に、お妃はこんなことを言いはじめたのです。
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「坊や、どうしてるの? 鹿ちゃん、どうしてるの?
わたしのくるのも、あと二度だけ。そのあとは、もうこないわ」
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姥《うば》は、なにも言いませんでした。ですが、お妃《きさき》が姿を消してしまったとき、姥は、王さまのところに出かけていって、一部始終を王さまに聞かせたのです。すると、王さまは、言いました。「なになに、なんということだ! 今夜は、王子のそばで寝ずの番をしてみよう」
晩がたになってから、王さまは、王子の部屋にいきました。真夜中になると、またまたお妃があらわれて、こう言いました。
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「坊や、どうしてるの? 鹿ちゃん、どうしてるの?
わたしのくるのも、あと一度だけ。そのあとは、もうこないわ」
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お妃は、それから、いつもするように、王子の世話をすると、姿を消しました。王さまは、すすんでお妃に話しかけることもできませんでした。ですが、つぎの夜も、寝ずに起きていたのです。
その夜もまた、お妃は姿をあらわして、言いました。
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「坊や、どうしてるの? 鹿ちゃん、どうしてるの?
わたしのくるのも、今度だけ。これっきり、もうこないわよ」
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王さまは、もうひっこんではおれません。お妃に向かって言いました。
「そなたは、まぎれもないわしの妃ではないか」
「はい、わたしは、あなたの妃でございます」
そう答えるや、神さまのお恵みで、たちまち、お妃はまた生命《いのち》を取り戻し、ぴちぴちした元気のよい、もとのお妃となったのです。
それから、お妃は、意地の悪い魔法使いの女とその娘とが自分にしかけた悪事を、王さまに話して聞かせたのでした。そこで、王さまは、ふたりを裁判所に呼びよせました。
こうして、ふたりに判決が下ったのです。娘のほうは、森に連れていかれ、そこで野獣に八つ裂《ざ》きにされたのです。一方、魔法使いの女のほうは、火あぶりにされて、見るも無惨《むざん》、焼けただれて死にました。
魔法使いの女が死んで、灰になると、子鹿は、またもとどおり、人間の姿に変わりました。それから、この兄と妹のふたりは、死ぬまでいっしょに、楽しく、暮らしたのでした。
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野ぢしゃ
むかし、あるところに夫婦《ふうふ》ものが住んでいました。ふたりは子どもがほしいと思っていましたが、長いことその望みはかなえられませんでした。でも、とうとう神さまが、ふたりの望みをかなえてくださるようでした。
この夫婦の住んでいる家の裏側には、小さな窓がひとつあいていました。その窓からは、きれいな草花や野菜でいっぱいの、すばらしい庭が見えるのでした。庭は、高い塀《へい》でとり囲まれていました。この庭には、誰ひとり入ろうとするものはありません。それは、たいへんな力持ちで、世間の誰からもこわがられていた魔女の庭であったからです。
ある日のこと、おかみさんが窓のそばに立って、その庭を見おろしていますと、すばらしい野ぢしゃの生えている畝《うね》が目につきました。その野ぢしゃが、なんとも新鮮で、青あおとしていたので、おかみさんは、それがほしくなりました。どうしても食べてみたいものだと思いはじめたのです。
食べたい、食べたいと思う気持ちは、日一日とつのるばかり、でも、もらうわけにもいきません。おかみさんはげっそりと痩《や》せほそり、顔いろも青ざめ、みるかげもなくなりました。これを知っただんなさんは、びっくりして、
「おまえ、どうしたんだね」と、たずねました。
「ああ、うちの裏の、あの庭に生えている野ぢしゃを、少しでもいい、食べさせてもらいたいの。だめなら、わたし、死んじまうわ」
おかみさんがかわいかったので、だんなさんは、「女房《にょうぼう》をこのまま死なせてしまうということになるのなら、なにがなんでも、あの野ぢしゃを取ってきてやろう」と、考えたのでした。
夕暮れどき、うす暗くなると、だんなさんは塀を乗りこえて、魔女の庭におりました。大急ぎてひとつかみ、野ぢしゃを引きちぎると、さっそくおかみさんのところに持ってきてやったのです。
おかみさんは、野ぢしゃのサラダをつくると、むしゃむしゃとたいらげてしまいました。その野ぢしゃのおいしいことといったら、たいへんなもので、そのあくる日には、倍《ばい》の倍も野ぢしゃが食べたいと思ったものでした。おかみさんの気持ちを落ち着かせるためには、もう一度、だんなさんが魔女の庭におりなければなりませんでした。
それでまた、夕暮れどき、うす暗くなると、だんなさんは、魔女の庭におりたのです。ところが、やっと塀からおりたそのときです。だんなさんはたまげてしまったのでした。目のまえに、魔女がつっ立っているではありませんか。
魔女は、こわい目をして言いました。
「なんと思い切ったことをやりなさるね。あたしの庭に入りこんできて、盗人《ぬすっと》みたいに、あたしの野ぢしゃを、かっぱらうなんて、あんたのためにゃならんよ」
「ああ、なにとぞお赦《ゆる》しのほど、お願いいたします。こんなことをしようと思い立ちましたのも、やむをえぬことでございましてな。うちの女房が、裏の窓から、お宅の野ぢしゃを見ましてな、あれが食べられなんだら、死んじまいますと、それはもう、ほんとうに、ほしがったのでございます」
これを聞くと、かんかんに怒っていた魔女も、やさしくなって、だんなさんに向かって言いました。
「ほんとうに、あんたの言うとおりだったら、野ぢしゃはほしいだけ、たくさん持っていってもいいよ。だがね、それには条件がひとつあるんだ。おかみさんが子どもを産んだら、よこすんだよ。子どもは幸せに育ててやるよ。母親同然、子どもの世話はちゃんとみてやるからね」
だんなさんは、心配で心配で、なにもかもみんな承知してしまったのです。
やがておかみさんがお産《さん》をしました。すると、さっそく魔女があらわれてその女の子にラプンツェルという名前をつけ、さっさと連れていってしまったのです。
ラプンツェルは、お陽《ひ》さまの輝くこの世で、いちばん美しい子になりました。こうして、十二歳になったとき、魔女はラプンツェルを塔《とう》のなかに閉じこめてしまったのです。その塔は、森のなかにありました。塔には、階段もなければ、入口の戸もありません。上のほうに、たったひとつ小さな窓があるだけです。
魔女が塔のなかに入りたいときには、塔の下に立って、こう呼びかけるのでした。
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「ラプンツェルや、ラプンツェル、
おまえの髪をたらしておくれ」
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ラプンツェルは、紡《つむ》いだ金糸のような、きれいな長いすばらしい髪の毛を持っていて、魔女の声を聞きつけると、編んだその髪の毛をといて、窓の鉤《かぎ》にまきつけるのでした。すると、その髪の毛は、十三メートルも下にたれさがったので、魔女は、それにすがって塔の上までのぼってくるのでした。
それから二、三年たちました。あるとき、この国の王子が、馬に乗って、森を抜けて、塔のそばを通りかかったことがありました。そのとき、王子は歌声を耳にしたのです。その歌声は、とてもかわいらしかったので、王子は思わず立ちどまり、じっと聞きほれていたのです。
それは、かわいらしい歌声で歌をうたっては、淋しいひとりぼっちのときを過ごしていたラプンツェルだったのです。王子はラプンツェルのところにのぼっていこうとして、入口の戸をさがしてみましたが、どこにも見あたりませんでした。
それで、王子は城に戻りましたが、その歌声にすっかり心を動かされていた王子は、それからというもの、毎日のように森に出かけていっては、その歌声に聞きほれるのでした。
そんなある日のこと、王子が木のかげに隠れて見ていると、魔女がやってきて、塔の上に向かって呼びかけたのでした。
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「ラプンツェルや、ラプンツェル、
おまえの髪をたらしておくれ」
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そこで、ラプンツェルが髪の毛をたらすと、魔女はそれにすがって塔の上にのぼっていきました。
「あれが梯子《はしご》で、上にのぼっていけるなら、ぼくだってひとつ運だめしをやってみよう」
あくる日、暗くなりはじめるころ、王子は塔のところにいって、上に向かって呼びかけました。
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「ラプンツェルや、ラプンツェル、
おまえの髪をたらしておくれ」
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すると、たちまち、髪の毛がするするとおりてきました。それにつかまって、王子は塔の上にのぼっていきました。
初めのうちは、まだ見たこともなかった男が入りこんできたので、ラプンツェルは、それこそびっくりしたのでした。ところが、王子はやさしい言葉をかけて、あなたの歌にすっかり心をうばわれて、心のやすまるひまもなく、どうにかあなたをこの目で見ずにはおれなかったのです、とラプンツェルに言うのでした。
すると、ラプンツェルは、もうすっかり落ち着いて、あなたはぼくを夫《おっと》にする気はないか、と言われたときには、若くて美しい王子だとわかっていたので、
「この方《かた》は、年寄りのゴーテルおばさんよりも、わたしをかわいがってくれるだろう」と、考えたのでした。そこでラプンツェルは、自分の手を王子の手の上にかさねて、いいですよ、と誓ったのでした。
「わたくし、よろこんでお供をいたしますよ。けれども、どうやって下におりたらいいのでしょうね。ねえ、こんどから、いらっしゃるときには、絹《きぬ》の紐《ひも》を一本ずつ持ってきてくださいね。それで、わたくし、絹の梯子を編んでみることにしましょう。梯子ができたら、下におりていきますわ。そしたら、お馬に乗せてくださいね」と、ラプンツェルは言いました。
絹の梯子《はしご》ができるまで、毎日、暗くなってから、会いにくるよ、と王子は約束したのです。昼にはいつも、あの魔女がやってきたからです。
魔女もこのことには、少しも気づかなかったのですが、あるとき、ラプンツェルのほうから、魔女に言い出してしまったのです。
「ねえ、ゴーテルおばさん、どういうわけなの、おしえてちょうだい。おばさんより、若い王子さまを引っぱりあげるほうが、ずうっと楽なのね。どうしてなの。王子さまときたら、あっというまに、もう上にきちゃうのよ」
「なんだって、この罰《ばち》あたりめが、そんなことを、おまえの口から聞こうなんて。おまえさんを世間《せけん》さまから断ち切ってやったと思っていたのに。よくも、まあ、あたしをだまくらかしたもんだ!」と、魔女は大声で怒鳴《どな》りました。
魔女は、腹立ちまぎれに、ラプンツェルのみごとな髪の毛をわしづかみにすると、ぐるぐるっと左手にまきつけて、右手に持っていた鋏《はさみ》で、じょきり、じょきりと切り落としたのでした。みごとな編み毛は、地面に投げ捨てられてしまったのです。
魔女はとても残酷《ざんこく》な女であったので、かわいそうに、ラプンツェルを荒野に連れていってしまったのです。
こうしてラプンツェルは、その荒野で、みじめな苦しい暮らしをしなければなりませんでした。
魔女は、ラプンツェルを追い出したその日の暮れがたに、切りとった編み毛を、上の窓の鉤《かぎ》にしっかりと結びつけておいたのです。
さて、王子がまたやってきました。そして、塔の上に呼びかけるのでした。
[#ここから1字下げ]
「ラプンツェルや、ラプンツェル、
おまえの髪をたらしておくれ」
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すると、こんどは魔女が自分の髪の毛を、下にたらしたのです。
王子はのぼっていきました。ところが、王子が上にきて、そこで見たものは、かわいいラプンツェルではありません。憎たらしい、いやらしい目つきで、王子をじっと見すえている魔女であったのです。
「おや、まあ、かわいい女《ひと》をお迎えにきなさったんだね。だがね、あのきれいな鳥は、もう巣のなかにはいないんだよ。もう歌もうたわないんだよ。猫が、連れてっちゃったのさ。あんたの目玉だって、えぐり取るかもしれんよ、あの猫はね。もう、ラプンツェルは、あんたのもんじゃないんだよ。もう二度と会えないよ」
王子は、悲しくて悲しくて、なにがなんだか、わけもわからず、やけを起こして、塔から飛びおりたのでした。やっとのことで命《いのち》だけはとりとめましたが、なにしろ茨《いばら》のなかに落ちたので、茨の刺《とげ》にいやというほど目を突きさしたのでした。
そこで王子は、目もみえないまま、森のなかをうろつきまわり、草木の根や木の実を食べながら、いとしい女《ひと》をなくしたことを、ただただ悲しんで涙を流すばかりでした。
こうして、みじめないく年か、王子はさまよいつづけたすえ、とうとう、あの荒野に迷いこんだのでした。荒野では、ラプンツェルが、産み落としたふたごの男の子と女の子といっしょに、みじめな暮らしをしていたのです。
王子は人の声を聞きつけたのです。聞きおぼえのある声だとわかったので、王子は、声のするほうに向かって歩いていきました。王子が近よっていくと、ラプンツェルも、それが王子だとわかって、王子の首に抱きついて、うれし泣きに泣いたのでした。ところが、その涙のふた滴《しずく》が、王子の目を濡《ぬ》らすと、王子の目はぱっと明るくなって、もとどおりまた見えるようになったのです。
王子は、ラプンツェルと子どもたちとを、自分の国に連れていきました。王子は大歓迎をうけました。そしてそれから長いこと、王子とラプンツェル、そしてみんなは、楽しい幸福な生活を送ったということです。
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森のなかの三人の小人
おかみさんを亡《な》くした男と、亭主《ていしゅ》を亡くした女がいました。その男には、娘がひとりおりました。その女にも、また娘がひとりおりました。
ふたりの娘たちは、顔なじみで、いっしょに散歩に出かけたりしていましたが、やがて連れ立って、その女の家にくるようになりました。そんなとき、女は、男の娘に向かって言いました。
「いいかね、このあたしがあんたのお父さんのお嫁になりたがっていると、そうお父さんに言っとくれね。そうしたら、毎朝、牛乳で顔を洗わせてあげるし、ぶどう酒も飲ませてあげるよ。うちの娘にゃ、顔は水で洗わせ、水を飲ませてやるわ」
娘は、家に帰ると、女の言ったことを父親に伝えました。
「どうしたものやらな。嫁をもらうのは、嬉しいこったが、つらくもあるからな」と、父親のその男は言いました。
どう考えても、なかなか決心がつかなかったので、男ははいていた長靴をぬいで、こう娘に言いました。
「いいかい、この靴、底に穴がひとつあいているんだ。屋根裏べやに持っていって、あそこの太い釘《くぎ》にかけてな、それに水を入れてみておくれ。水がそのままだったら、また嫁さんをもらうことにしよう。水がもれたら、もらうのはやめるよ」
娘は、言われたとおりやってみました。ところが、水のために穴がすぼまって、長靴は上まで水がいっぱいになりました。
娘は、水でいっぱいになりましたよ、と父親に知らせると、父親は、さっそく屋根裏べやにひとりでのぼっていきました。娘の言うとおりでした。それで、父親は、寡婦《やもめ》のところに出かけていって、お嫁にきてもらいたい、と頼《たの》んだのでした。こうして、ふたりの結婚式があげられました。
そのあくる日の朝、ふたりの娘が起きてみますと、男のほうの娘のまえには、顔を洗うための牛乳と、飲むためのぶどう酒とが置いてありましたが、女のほうの娘のまえには、顔を洗うための水と、飲み水とが置いてありました。
二日目の朝になると、顔を洗うための水と、飲み水とが、女のほうの娘のまえに置いてあるのとおなじように、男のほうの娘のまえにも置いてありました。
三日目の朝には、顔を洗うための水と、飲み水とが、男のほうの娘のまえに、顔を洗うための牛乳と、飲むためのぶどう酒とは、女のほうの娘のまえに置いてありました。そしてそれからはいつまでもそのとおりに置いてありました。
女は、まま娘をひどくきらって、毎日毎日、もっとひどい目にあわせてやろうと、そんなことばかり考えていたのです。それに、まま娘のほうはきりょうよしで、かわいらしかったので、女はやきもちをやいたのです。自分のほんとうの娘は、いやらしい、みにくい顔をしていたのでした。
冬になってからのことでした。ある日のこと、なにもかも石のように凍《こお》って、山も谷もいちめん雪にうずもれたことがありました。女は、紙の服をこしらえると、まま娘を呼んで、言いました。
「さあ、この服を着て、森へいってきなさい。苺《いちご》を篭《かご》いっぱい取ってくるんだよ。苺が食べたいんだからね」
「ええっ? 冬に、苺なんてありませんよ。地面が凍っているし、おまけにすっぽり雪をかぶっているわ。それに、どうして紙の服を着ていかなくちゃならないの? 息も凍っちまうほど、そとはとても寒いのよ。こんな服じゃあ、風も通すし、茨《いばら》の刺《とげ》にでもひっかけたら、裂《さ》けてぬげちゃうわ」
「おまえ、わたしに口答えするのかい? とっとと出ておいき。篭いっぱい苺を取るまで、わたしのまえに顔を出すんじゃないよ」
女は、そう言うと、まま娘にこちこちのパンをひとつ与えました。
「これだけあれば、一日じゅう食べていられるよ」と、口ではそうは言ったものの、女は、「そとに出れば、こごえてしまうし、お腹《なか》もへって、死んじまうさ。もう二度と、目のまえにあらわれることもあるまい」と、こんなことを考えていたのでした。
そこで娘は、言うことをきいて、紙の服を着て、小さな篭を手にして、出かけていきました。そとは、どちらを見てもいちめんの雪、青い茎なぞ一本も見つかりません。
森のなかに入ると、小さな家が一軒見つかりました。その家のなかからは、三人の小人《こびと》がのぞいていました。娘は、小人たちに、こんにちは、とあいさつをして、そっと表戸《おもてど》をたたきました。小人たちは、お入り、と言いました。それで、娘はなかに入って、ストーブのそばの腰掛けに腰をおろしたのでした。
娘は、からだをあたためて、それからお弁当のパンを食べようとしたのです。すると、小人たちは、
「ぼくたちにも、少しくださいよ」と、言ったので、娘は、「いいわよ」と言って、小さなパンをふたつに分けて、その半分を小人たちに与えてやりました。
「冬だというのに、そんな薄っぺらな服を着て、この森のなかで、なにをするつもりなの?」と、小人たちがたずねたので、娘は、
「そうなのよ。わたしはね、篭いっぱい苺《いちご》をさがさなくちゃならないの。持っていかなければ、家《うち》には帰れないの」と、答えたのです。
娘がパンを食べてしまうと、小人たちは、娘に箒《ほうき》を渡して、「これで裏口のまえの雪を掃《は》いとくれ」と、言いました。
娘がそとに出ると、三人の小人たちは、「あの娘《こ》は、おとなしくて、親切だ。自分のパンも分けてくれたんだから、なんかお礼をしなくちゃな?」と、相談をしたのでした。
「ぼくの贈り物は、あの娘が日ごとにきれいになることだ」と、ひとりの小人が言うと、二番目の小人が、
「ぼくの贈り物は、ひと言《こと》しゃべるたびに、口から金貨が落ちることだ」と、言いました。すると、三番目の小人は、
「ぼくの贈り物は、どこかの王さまがやってきて、あの娘と結婚式をあげることだ」と、言いました。
ところで、娘のほうは、小人たちに言われたとおり、渡された箒《ほうき》で、家の裏手の雪を掃《は》いたのでした。さあ、みなさん、そこで娘がなにを見つけたと思いますか。熟した苺が見つかったのです。真っ赤に熟した苺が、雪の下から出てきたのです。
喜んだ娘は、熟した苺を篭いっぱいかき集めると、小人たちにお礼を言って、ひとりひとりと握手をして、それから走って家に帰っていきました。まま母に、望みの苺を持っていってあげようとしたのです。
娘が家のなかに入って、「こんばんは」と、言うと、とたんに金貨がひとつ、口から落ちました。それから、森の出来事《できごと》を話したのですが、ひと言《こと》言うたびに、娘の口からは、金貨がぽろりぽろりと落ちてくるのです。そんなわけで、やがて部屋じゅうが金貨だらけになりました。
「高慢《こうまん》ちきね、あんなにお金を捨てたりして」と、まま母の娘は、大声でそうは言ったものの、ほんとうはうらやましくなって、自分も苺をさがしに森へ出かけていこうと思ったのです。ところが、母親が言いました。
「だめだよ、ねえ、おまえ、とても寒いんだから。おまえなんかこごえ死んじゃうよ」
それでも、もうその娘は、そわそわして、言うことを聞きそうにもなかったので、とうとう母親も折れて、上等な毛皮の外套をつくって、それをむりやり娘に着せてやり、バターのついたパンとお菓子《かし》を持たせてやりました。
娘は、森のなかに入ると、まっすぐ小さな家を目ざしていきました。三人の小人が、またのぞいていました。けれども、娘はあいさつひとつしません。
小人たちには目もくれず、知らん顔をして、娘は部屋のなかにころがりこむと、ストーブのそばに腰をかけ、バターのついたパンとお菓子を食べはじめたのでした。
小人たちは、大声で言いました。
「ぼくたちに、少しくださいな」
「わたしにだって足りないのよ。どうして、ひとになんかあげられるもんですか」
娘がすっかりたいらげてしまうと、小人たちが、言いました。
「そこに箒《ほうき》があるよ、裏口のまえを、きれいに掃《は》いとくれ」
「ええっ、自分で掃いたらいいでしょう。わたしは、あんたたちのお手伝いじゃないのよ」
小人たちがなにもくれそうにないので、娘は、そとに出ました。
そこで、小人たちは、三人で相談したのです。
「あの娘《こ》は、行儀の悪い娘だ。ひとにはなにもやらないくせに、ひとのものをうらやましがる。くせの悪い娘だ。なにをやったらいいもんかな」
すると、ひとりの小人が言いました。
「ぼくの贈り物は、日ましにあの娘が、みにくくなることだ」
二番目の小人は、
「ぼくの贈り物は、あの娘が口をきくたびに、口からひきがえるが飛び出すことだ」と、言いました。
三番目の小人は、
「ぼくの贈り物は、あの娘が不幸《ふしあわ》せな死に方で死ぬことだ」と、言いました。
ところで、そとに出ていった娘は、苺をさがしてみたのですが、ひとつも見つからなかったので、ぷんぷん怒って、家へ帰っていってしまったのです。それから娘が、家に帰って、森のなかの出来事を母親に聞かせようと、ひとこと言うたびに、娘の口から、ひきがえるがぴょんと飛び出すのでした。それで娘は、誰からもいやがられるようになりました。
さて、こうなると、母親はいよいよむかっ腹《ぱら》を立て、男のほうのまま娘をさんざんに苦しめてやろうと、そんなことばかり考えるようになったのです。ところが、まま娘のほうは、日ましにきれいになっていくばかりでした。
それで、しまいにはまま母も、大きな鍋を火にかけて、麻糸《あさいと》をぐらぐら煮たのです。その麻糸が煮えあがると、それをまま母は、かわいそうに、娘の肩にかけ、そのうえ斧を一ちょう手渡して、氷の張った川にいって、それで氷に穴をあけ、麻糸をすすいでくるようにと言いつけたのです。
娘は、言われたとおり、出かけていって、氷を割って穴をあけはじめましたが、あけているさいちゅうに、みごとな馬車が通りかかったのです。馬車には、王さまが乗っていました。
その馬車が、ぴたりと停《と》まると、なかから王さまが、娘にたずねました。
「娘や、そなたは、どこの娘かね。そこで、なにをしとるのかね?」
「わたしは、いやしい娘でして、麻糸をすすいでいるのでございます」
王さまには、その娘がかわいそうに思われたのでした。それに、娘がとてもきれいであったので、王さまは、こう言ったのです。
「わたしについてこないかね?」
「はい、よろしいですとも、喜んで」と、娘は答えたのでした。
これでもう、まま母やあの娘に会わないですむとなると、それがとても嬉しかったからでした。
こうして娘は、馬車に乗って、王さまといっしょにいきました。王さまのお城に着くと、あの小人たちが娘への贈り物としていたとおり、たいへんりっぱな結婚式があげられたのでした。
こうして、一年たつと、お妃《きさき》に王子が生まれました。
まま母は、お妃の幸福なことを聞くと、自分の娘を連れて、お見舞いにきたのだ、というようなふりをして、お城にやってきました。
あるとき、王さまがそとに出かけて、ほかに誰もいなくなったことがありました。すると、この悪いまま母は、お妃の頭をつかみ、娘は娘でお妃の足をつかんで、お妃を寝床から引きずり出すと、窓からぽいと、そとに流れている川のなかへ投げこんでしまったのです。
それからすぐに、みにくい娘は、寝床のなかにもぐりこみました。年老いたまま母は、娘の頭の上まで、すっぽり蒲団《ふとん》をかぶせました。
やがて、王さまが帰ってきました。それから、王さまがお妃と話しをしようとしたときでした。まま母は、大きな声で言いました。
「お静かに。いまは、いけません。ひどい汗《あせ》をかいて、おやすみです。きょうのところは、静かにやすませておあげなさいませ」
悪だくみがあろうとは知らないで、そのよく朝になってから、やっと王さまがやってきて、お妃と話しをしたのです。
ところが、お妃が返事をするたびに、まえには金貨が飛び出したのに、今度はひと言《こと》ごとにひきがえるが、ぴょんぴょん飛び出してくるではありませんか。
そこで、王さまは、どうしたことかと、たずねたのです。ところが、まま母が、「それは、ひどく汗をかいたせいでございまして、こんなことも、もう二度とはございませんでしょう」と、答えたのでした。
けれども、その晩のことです。鴨《かも》が一羽、下水のみぞを通って、泳いでやってきたのでした。そして鴨は、見習いのお料理番に言いました。
「王さま、王さまはなにをしていらっしゃるの?
おやすみなの? それとも、お目ざめなの?」
お料理番が、返事をしないでいると、また鴨が言いました。
「お客さま方はなにをしていらっしゃるの?」
そこで、お料理番が返事をしました。
「ぐっすり、おやすみですよ!」
すると鴨は、またたずねました。
「あたしの赤ちゃん、なにしてるの?」
「赤ちゃんは、ゆりかごに、ねんねですよ」
見習いのお料理番は、そう答えたのです。
すると鴨は、お妃の姿になって、上にあがっていきました。赤ちゃんにお乳を飲ませ、寝床をゆすってから、赤ちゃんを寝かせて、蒲団をかけてやったのです。
それから鴨は、下水のみぞを通って、泳いでいってしまったのでした。こうして、鴨はふた晩つづけてやってきましたが、そのつぎの晩には、見習いのお料理番に言いました。
「王さまのところにいって、申しあげてきてちょうだい。刀《かたな》を持ってこられて、敷居《しきい》の上で、わたしの頭の上で、三度振ってください、とね」
見習いのお料理番は、走っていって、王さまにそう告げたのでした。
すると王さまは、刀を持って出てきて、その亡霊となっていた鴨の頭の上で、その刀を三度振ったのです。三度目に振ったとき、王さまのまえには、まえとおなじように、お妃が生き生きとした元気な姿で立っていたのでした。
王さまは大喜びでした。けれども、王さまは、王子が洗礼を受けることになっていた日曜日まで、お妃を部屋のなかに隠しておきました。こうして、王子の洗礼がすむと、王さまは言いました。
「よその人間を寝床からかつぎ出して、川のなかへほうりこむような、そんな奴《やつ》には、どんな目にあわせてやったもんかな?」
すると、年老いたまま母が、こう言ったものでした。
「こうしてやるのが、なによりですよ。その悪者を樽《たる》に詰《つ》めましてな、釘づけにしてしまうことです。それから、その樽を山の上から川のなかへ、ごろごろ転《ころ》がしてやることですわ」
そこで、王さまは、
「おまえは、自分で自分に判決を言い渡したというわけだ」と、言って、樽を持ってこさせ、母親といっしょに娘もその樽のなかに詰めこませ、それから、ふたを釘づけにして、その樽を山の上からごろごろと転がしたのでした。それでしまいには、ごろごろどぶんと、樽は水のなかに落ちていきました。
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糸紡ぎの三人女
あるところに女の子がひとりいました。女の子は怠《なま》けもので、糸を紡ぐことさえしようとしません。そこで母親が、いろいろと言いきかせたのですが、どうしても言うことをきかなかったのです。
とうとう母親も、我慢《がまん》しきれなくなって、かんかんに怒ってしまったのです。
そんなわけで、母親は娘をなぐりつけてしまいました。すると娘は大きな声を出して、おいおいと泣きはじめたのです。
さて、ちょうどそのときでした。お妃《きさき》が馬車で通りかかったのです。女の子の大きな泣き声が聞こえたので、お妃は馬車をとめさせて、家のなかに入っていきました。お妃は、母親にたずねました。
「往来まで泣き声が聞こえたが、またどうして、そんなに娘をぶつのかね?」
すると、母親は、自分の娘の『のらくら』が人に知れてしまっては恥ずかしいと思い、こう言ったのです。
「娘に、糸紡《いとつむ》ぎをやめさせることができなかったからでございます。娘は、いつまでも糸紡ぎをしていたい、と申しますが、なにしろうちは貧乏でございまして、亜麻《あま》を手に入れることもできないのでございます」
「わたし、糸紡ぎの音を聞くのが大好きなの。糸車がぶんぶん言ってるなんて、とても楽しいわ。娘さんを、わたしのお城によこしてちょうだい。それに亜麻なら、たくさんあってよ。だから娘さんには、好きなだけ紡がせてあげられるわ」
母親は、大喜び。そんなわけで、お妃は、女の子を連れて帰っていきました。
お城に着くと、お妃は、女の子を階上《うえ》の三つの部屋に連れていきました。
その三つの部屋には、どの部屋にも、上から下まで、美しい亜麻がぎっしりつまっていたのです。
「さあ、この亜麻で、糸を紡いでちょうだい」と、お妃は言いました。「紡ぎ終わったら、わたしの上の息子を、あなたの夫にさせましょう。あなたは貧乏だけれど、そんなことはかまわない。根気よく精を出すこと、それだけで、もう立派な嫁入り支度《じたく》というものです」
女の子は、内心びっくりしたのです。たとえ三百才のおばあさんになったとしても、また毎日毎日、朝から晩まですわりつづけて、糸紡ぎをしていたとしても、とてもこれだけの亜麻を紡ぐことは、できないことだったからでしょう。
そんなわけで、女の子は、ひとりぼっちになると、泣き出してしまったのでした。三日のあいだ、女の子は手ひとつ動かさず、じっとすわったきりでした。そして三日目になったとき、お妃がやってきました。そしてお妃は、まだ糸が少しも紡がれていないのを見て、不思議に思ったのでした。
女の子のほうは、お母さんの家から遠くはなれていて、それがとても悲しくて、悲しくて、まだ手もつかなかったのです、とそう言ってわびるのでした。
お妃は、承知したものの、「あしたになったら、仕事を始めるのよ」と、言って出ていきました。
またひとりぼっちになると、女の子は、どうしていいやらわからなくなるのでした。もうすっかり悲しくなって、女の子が窓のところにいってみますと、向こうのほうから三人の女がやってくるのでした。
その三人の女のうちのひとりは、片方の足がぺっちゃんこで、ひらべったくなっていました。もうひとりは、下くちびるがとても大きく、だらりとあごにたれさがっていました。三番目の女は、幅の広い親ゆびをしていました。
三人の女たちは、窓のまえに立ちどまると、上を見あげ、ぐあいでも悪いのかね、と女の子にたずねたのでした。女の子は、自分はいま困っているのだ、と訴《うった》えたのです。すると、女たちは、助けてあげようと、申し出て、こう言うのでした。
「あんたがね、わたしたちを結婚式に呼んでくれてね、わたしたちのことを、恥ずかしいとも思わずにさ、わたしの親戚のおばたちですと言って、あんたの食卓にすわらせてくれたらね、そうしたら、そんな亜麻なんか、さっさと、あっというまに紡いであげるがね」
すると、女の子は言いました。
「いいですとも、そうしますよ。だから、すぐ入って、お仕事始めてちょうだい」
そこで、女の子は、三人の奇妙な女たちを、なかに入れると、最初の部屋に、みんながやっと入れるすき間をつくったのでした。女たちは、そのすき間にすわって、糸を紡ぎはじめました。
ひとりが、糸を引き出して、踏《ふ》み車を踏みます。ふたり目は、糸を嘗《な》めます。そして三人目が、糸を撚《よ》って、指で受け盤《ざら》をたたきます。こうして、たたくたびに亜麻糸が、つぎつぎと床《ゆか》に落ちるのでした。そのうえ、それはみごとに紡がれていました。
お妃には、この三人の紡ぎ女のことは隠しておいて、お妃のあらわれるたびに、女の子は、できあがった亜麻糸だけをたくさん見せました。それを見て、お妃はほめちぎるのでした。
こうして、最初の部屋がからになると、二番目の部屋に移り、そしてとうとう三番目の部屋に移ることになりましたが、この部屋も、たちまち片づいて、からになりました。
そこで、三人の女は、別れのあいさつをして、女の子にこう言いました。
「わたしたちに約束したこと、忘れないでね。幸運が向いてくるからね」
女の子は、お妃に、からっぽになった三つの部屋と亜麻糸の山を見せました。すると、お妃は結婚式の準備にとりかかったのでした。
花婿《はなむこ》のほうは、こんなにも器用な働き女《もの》がお嫁にもらえるなんて、と大喜び、たいへんなほめようでした。すると、女の子は言いました。
「わたしには、親戚のおばが三人おります。おばたちは、わたしにたいへん親切にしてくれました。いま、わたしは幸福な身ですが、けっしておばたちを忘れたくはありません。あのおばたちを結婚式に招待して、いっしょの食卓にすわってもらいたいのです。どうぞ、お赦《ゆる》しをお願いいたします」
お妃と花婿が言いました。
「どうして、許さぬことがありましょう」
こうして、結婚のお祝いが始まりますと、あの三人の女たちが、変《へん》てこな服装をして、ぞろぞろと入ってきました。
花嫁になった女の子が、
「まあ、よくいらっしゃいました。おばさまがた」と、言いますと、花婿は、
「どうして、あんないやらしい女たちとつきあうようになったのかね」と、言って、ぺちゃんこで、ひらべったくなった足をしている女のところにいきました。
「どうして、そんなぺちゃんこな足をしているのかね?」と、花婿がたずねますと、
「踏むからですよ。踏むからなんですよ」と、その女は答えるのでした。
そこで、花婿は、ふたり目の女のところにいって、
「どうして、そんなに下くちびるがたれさがっているのかね?」と、たずねますと、
「嘗《な》めるからですよ。嘗めるからなんですよ」と、ふたり目の女は答えるのでした。
そこで今度は、三人目の女に、花婿はたずねました。
「どうして、親ゆびがそんなに広いのかね?」
すると、三人目の女は、
「糸を撚《よ》るからですよ。撚るからなんです」と答えるのでした。
こうした答えを聞くと、花婿の王子は、びっくりして、
「わたしのすばらしい花嫁には、もうけっして、糸紡ぎの車には触れさすまい」と、言いました。こうして、花嫁になった女の子は、いやでたまらなかった糸紡ぎをしないですむことになったのです。
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ヘンゼルとグレーテル
大きな森の入口に、貧しい木こりが、おかみさんとふたりの子どもといっしょに住んでいました。男の子はヘンゼル、女の子はグレーテルといいました。木こりには、その日の食べものさえ、ろくにありませんでした。
ですから、あるとき、この地方にひどい飢饉《ききん》がやってきたときには、毎日のパンさえ、もう手に入らなくなってしまったのでした。
さて、夜になって寝床に入っても、あれやこれやと考えにふけるばかり、心配のあまり、木こりはしきりと寝がえりをうつのでした。そして、ため息をつくと、木こりはおかみさんに言ったのです。
「おれたちは、どうなるんだ? かわいそうに、あの子たち。どうすりゃあ、食わせてやれるんだ? おれたちの分だって、もう、なんにもないというのにさ」
すると、おかみさんは、
「ねえ、おまえさん。あすの朝早くね、子どもたちを森のなかへ、うす暗い森の奥へね、連れていきましょうよ。そこで、たき火をしてやって、ひと切れずつパンをやるの。それからね、わたしたちは、そのまま仕事に出かけていっちゃってさ、あの子たち、置き去りにしちゃうのよ。道だってわかりゃしないから、もう家になんか帰ってこられないわ。そうすりゃ、厄介《やっかい》ばらいができるというもの。どう?」と、言いました。
「いいや、おまえ、そんなこと、できないさ。子どもたちを、森のなかに置き去りにしてくるなんて。いやいや、そんなことする気にもなれないよ。たちまち恐ろしいけものがやってきて、子どもたちを食いちぎっちゃうよ」
「まあ、ばかね。それじゃ、あたしたち、四人とも飢《う》え死にというわけね。おまえさんにできることといったら、まあ、せいぜい棺おけの板でも削《けず》ることぐらいなのね」と、おかみさんは、うるさく言い張るので、とうとう木こりは、おかみさんの言うとおり承知したのでした。けれども、木こりは、
「それにしても、やっぱり、子どもたちが、かわいそうだなあ」と、言うのでした。
ふたりの子どもたちは、お腹《なか》がすいていて、眠れなかったので、まま母がお父さんに言っていることを聞いてしまったのです。グレーテルは、しくしく泣きながら、ヘンゼルに言いました。
「ねえ、わたしたち、もうだめだわ」
「静かに、グレーテル、くよくよしないで。ぼくが、なんとかしてみるよ」と、ヘンゼルは言いました。お父さんたちが寝入ってしまうと、ヘンゼルは起きあがって、上着《うわぎ》を着ました。それから、くぐり戸から、こっそりそとへ抜け出したのです。そとは、月の光に照らされて、家のまえの白い小石が、本物の銀貨のように、きらきらと光っていました。ヘンゼルは、かがみこんで、上着のポケットに入るだけいっぱい小石を詰《つ》めこみました。それから、また戻ってきて、
「さあ、元気をお出し、グレーテル。安心しておやすみね。神さまは、ぼくたちを見捨てやしないよ」と、グレーテルにそう言うと、ヘンゼルは寝床に入りました。
あくる日の朝、まだ陽《ひ》が昇らないうちに、もうまま母がやってきて、ふたりの子どもを起こしました。
「起きなさい。怠けものだね。森へいって、たきぎを取ってくるんだよ」
それから、パンをひと切れずつ渡すと、まま母は言いました。
「ほら、お昼の分だよ。それまで食べるんじゃないよ。これっきり、なんにももうやれないんだからね」
グレーテルが、パンをエプロンの下に入れました。ヘンゼルは、ポケットに石をいっぱい入れていたからです。それから、みんなはそろって森へ出かけました。
少しいくと、ヘンゼルは立ちどまって、家のほうを振りかえりました。そんなことを、なん度もなん度もしていると、お父さんが言いました。
「ヘンゼル、なにを見てるんだね。遅れるよ。しっかり歩きなさい」
「ああ、お父さん。ぼくの白い猫を見てるんだよ。屋根の上から、ぼくに、さようなら、と言ってるんだもの」と、ヘンゼルが言うと、まま母が、
「ばかだね。あれは、おまえの猫じゃないよ。朝日で煙出《けむだ》しが光ってるんだよ」と、言いました。
ところが、ヘンゼルは猫のほうなど見ていなかったのです。ぴかぴか光る小石を、ポケットから取り出すと、それをひとつずつ道の上に落としていたのでした。
森のなかほどにやってきたとき、お父さんが言いました。
「さあ、たきぎを集めるんだ。おまえたちがな、凍《こご》えないように、たき火をしてやろう」
ヘンゼルとグレーテルは、小枝《しば》のたきぎを集めてきては、山のように高く積みあげたのでした。そのたきぎの山に火がつけられると、炎がめらめらと燃えあがったのです。すると、まま母が言いました。
「さあ、おまえたちは、火のそばに寝ころんで、休んでおいで。わたしたちは、森のなかに入って、木を伐《き》ってくるからね。すんだら、迎えにくるよ」
ヘンゼルとグレーテルは、たき火のそばにすわりました。そして、お昼になると、ふたりとも、めいめい自分のパンを食べました。そのあいだ、木を伐る斧《おの》の音が聞こえていたので、ふたりとも、お父さんは近くにいるとばかり思っていたのです。
でも、それは斧の音ではありませんでした。お父さんが枯れ木に結びつけておいた枝が、風に吹かれて、あちこちにぶつかる音だったのです。
ふたりは、長いことすわっていたので、すっかり疲れてしまい、目もふさがって、ぐっすりと寝こんでしまったのです。それから、やっと目をさますと、とっぷりと日も暮れて、あたりは真っ暗でした。
グレーテルは、しくしく泣き出してしまいました。
「どうしたら、森から出られるの?」
ヘンゼルは、グレーテルをなぐさめました。
「お月さまが昇るまで、もうすこしお待ちね。そしたら、きっと道が見つかるよ」
まもなく、まんまるな月が昇りました。ヘンゼルは、妹の手をとって、小石のあとをたどっていきました。小石は、新しい銀貨のように、ぴかぴか光って、ふたりに帰り道をおしえてくれました。
ふたりは、ひと晩じゅう歩いて、明け方近く、やっとお父さんの家にたどり着いたのです。ふたりは、戸をたたきました。
戸をあけたまま母は、ヘンゼルとグレーテルが立っているのを見て、言いました。
「悪い子だね。なんだってこんな時刻《とき》まで、森のなかで寝てたんだい。てっきり、もう帰らないつもりなんだと、思っていたよ」
けれども、お父さんのほうは喜びました。なにしろ、子どもたちを置き去りにしてきたことを、とても気にしていたからです。
それからまもなく、またもや、暮らしはにっちもさっちもいかなくなりました。そして夜になってから、子どもたちは、まま母が寝床でお父さんに話していることを、聞いてしまったのでした。
「もう、なんにもなくなっちまったよ。残っているのは、パンが半分だけよ。それも、食べちゃったら、もうおしまい。どうしても、子どもを追い出すしかないよ。今度は、森のずっと奥まで連れていくのさ。もう帰ってこられないようにね。そうでもしなくっちゃ、わたしたち、助からないよ」
でも、お父さんにはつらいことでした。
「それより、最後のひとかけらまで、かわいい子どもたちと分けあったほうがいい」と、そう思いましたが、まま母のほうは、お父さんの言うことなど、聞き入れようともしないで、がみがみとののしるばかりでした。
乗りかかった舟です。もう、取りかえしがつきません。最初に、おかみさんの言いなりになってしまったのですから、今度もそうしないわけにはいきません。
ところが、子どもたちは、まだ起きていて、この話を聞いてしまったのです。お父さんたちが眠ってしまうと、ヘンゼルはまた起き出して、このまえのときとおなじように、そとに出て小石を拾い集めようと思ったのです。けれども、まま母が錠をかけてしまっていたので、ヘンゼルはそとに出られません。でも、ヘンゼルは妹をなぐさめて、言いました。
「泣かないで、グレーテル。ゆっくりおやすみね。神さまが、きっと助けてくださるよ」
そのあくる日の朝早く、まま母がやってきて、子どもたちを寝床から追い立てました。ふたりは、パンをひと切れもらいました。けれども、それは、まえのよりもっと小さいものでした。
森にいく途中、ヘンゼルは、ポケットのなかでそのパンをちぎって、なん度も立ちどまっては、パン屑《くず》を地面に落としていきました。
「ヘンゼル、なんだっておまえ、立ちどまってきょろきょろしているんだ。ちゃんとお歩き」と、お父さんが言いました。
「ぼくの鳩《はと》を見ているんだよ。屋根の上から、ぼくに、さようなら、と言ってるんだもの」と、ヘンゼルが答えました。するとまま母が言いました。
「ばかだね。あれは、おまえの鳩じゃないよ。朝日で煙出《けむだ》しが光っているのさ」
けれどもヘンゼルは、ひとかけらずつ、つぎつぎとパン屑を、道の上に落としていきました。
まま母は、子どもたちを、森のずうっと奥のほうへと連れていきました。子どもたちが、まだ一度もいったことのないところです。そこで、今度もまた、たき火をしました。
「おまえたちは、ここにおいで。疲れたら、ちょっとぐらい眠ってもいいよ。わたしたちはね、奥へいって、木を伐《き》ってくるからね。日が暮れて、仕事がすんだら、迎えにきてあげるからさ」と、まま母は、言いました。
昼になると、グレーテルは、自分のパンをヘンゼルと分けあいました。ヘンゼルが、自分のパンを道にまいてきたからです。ふたりは、それから眠りこんでしまいました。
夜になっても、このかわいそうな子どもたちのところには、誰もやってきませんでした。夜もすっかりふけてから、ふたりはやっと目をさましました。そこでヘンゼルは、妹をなぐさめて、こう言いました。
「お月さまが昇るまで、お待ちね、グレーテル。そしたら、ぼくのまいておいたパン屑《くず》で、帰り道がわかるからね」
月が昇ると、ふたりは出かけました。ところが、パン屑はひとつも見つかりません。森や野原を飛びまわっているたくさんの鳥が、食べてしまったのです。
ヘンゼルは、グレーテルに言いました。
「道は、きっと見つかるよ」
けれども、道は、見つかりませんでした。ふたりは、ひと晩じゅう歩いて、そのつぎの日も、朝から晩まで歩きつづけましたが、森からそとに出ることはできませんでした。おまけに、お腹《なか》はぺこぺこです。なにしろ、ふたりとも、地面に生《は》えていた野いちごを、ほんの少し食べたきりだったからです。ふたりは、すっかり疲れてしまいました。もうこれ以上、足もいうことをきかなくなってしまったほどでした。それでふたりは木の下に転《ころ》がると、そのままぐっすり眠りこんでしまったのです。
お父さんの家を出てから、もう三日目の朝になりました。ふたりはまた歩きはじめましたが、森の奥のほうへ入りこんでいくばかりでした。すぐにでも、助け出してもらわねば、ふたりとももう弱りきって死んでしまうよりほかありません。
お昼ごろのことでした。雪のように白い、きれいな鳥が、木の枝にとまっていました。その鳥が、とてもきれいな声で歌うので、ふたりは立ちどまって、うっとり聞きほれていました。
小鳥は、歌い終わると、はばたいて、ふたりの先に立って飛んでいきました。そのあとについていくと、一軒の小さな家のところに着いたのです。小鳥は、その家の屋根にとまりました。ふたりが、すぐそばまでやってきて、よく見ると、なんとその小さな家は、パンでできていて、屋根はお菓子、窓は氷砂糖《こおりざとう》でした。
「さあ、ひとつ食べるとしよう。ぼくは、屋根をひと切れもらうよ。グレーテル、おまえは、窓をおあがり、甘いからね」
ヘンゼルは、どんな味がするのか、ためしてみようと、手を高くのばして、屋根を少しばかりもぎとりました。グレーテルは、窓ガラスのところに立って、かじりました。
そのときです。部屋のなかから、やさしい声が聞こえてきました。
「ぽりぽり、かりかり、かじるのは、
わたしの家《うち》をかじるのは、どなたかな?」
子どもたちは、
「風だよ、風だよ、
天の子よ」
と、答えると、気にもしないで、どんどん食べつづけました。
ヘンゼルは、屋根がとてもおいしかったので、今度は、ごっそりもぎとりました。グレーテルも、まるい窓ガラスを一枚、そっくりそのまま取りはずすと、しゃがみこんでおいしそうに食べました。
そのときです。いきなり入口の戸が開いたかと思うと、よぼよぼのおばあさんが、杖《つえ》をつきながら、ぬっと出てきたのです。
ヘンゼルもグレーテルも、びっくり仰天《ぎょうてん》、手にしていたお菓子を、ぽとんと下に落としてしまいました。おばあさんは、頭をぐらぐらさせながら、
「おや、まあ、かわいいこと。誰なんだね、おまえたちをここに連れてきたのは。さあ、入っておいで。ここにいるがいい。心配ないからね」
おばあさんは、ふたりの手をとって、家のなかへ連れこみました。そこには、ミルクだとか、お砂糖のかかったパンケーキだとか、林檎《りんご》だとか、胡桃《くるみ》だとか、おいしそうなご馳走がたくさん並んでいました。
それから、ふたつのすてきな寝床に、真っ白な布をかけてもらって、ヘンゼルとグレーテルはそのなかにもぐりこみました。ふたりは、まるで天国にいるような気持ちになりました。
ところが、おばあさんは、見たところとても親切そうなふりをしていましたが、ほんとうは子どもたちを待ち伏せしていた悪い魔女だったのです。このパンの家にしても、ただ子どもたちをおびきよせたいばっかりに建てたものだったのです。
子どもがつかまると、魔女は、その子どもを殺しては、料理して食べてしまうのでした。そうした日は、魔女にとっては楽しいお祝いの日であったのです。
魔女というものは、赤い目をしていて、あまり遠くは見えません。そのかわり、獣《けもの》のように臭《にお》いを嗅《か》ぎわけるので、人間が近づくと、すぐにわかるのです。ヘンゼルとグレーテルが、そばにやってきたときにも、魔女は意地悪そうに嘲笑《あざわら》って、「ほら、つかまえたぞ、もう逃がすものか」と、言ったものでした。
そのよく日の朝早く、まだ子どもたちが目をさまさないうちに、もう魔女は起きていました。そして、ふっくらした赤いほっぺをして、なんともかわいらしい寝顔でやすんでいるふたりを見ると、魔女は、「こいつは、いいご馳走になるぞ」と、つぶやきました。
それから、魔女は、痩《や》せこけた手で、ヘンゼルをつかまえて、小さな物置きに連れていきました。格子戸をしめて、ヘンゼルをそのなかに閉じこめてしまったのです。どんなに叫んでも、もうどうにもなりません。それから、魔女は、グレーテルのところにいって、ゆすぶり起こして、怒鳴《どな》りました。
「お起き、のらくら者《もの》め! 水を汲《く》んできて、兄さんに、なにかご馳走、つくっておやり。兄さんは、そとの物置きにいるよ。兄さんには、太ってもらわなくちゃね。太ったら、わたしが、ご馳走になるんだよ」
グレーテルは、わっとばかり泣き出しましたが、泣いたところで、なんにもなりません。悪い魔女の言うとおりにするしかないのです。
それからというもの、かわいそうなヘンゼルのほうは、とびきり上等のご馳走をつくってもらったのですが、グレーテルのほうは、ざりがにの殻《から》しかもらえなかったのです。
毎朝、魔女は、こっそりと物置き小屋へいっては、大きな声を出して言いました。
「ヘンゼル、指をお出し。そろそろ油が乗ってきたかな、さわってみたいんだよ」
ところが、ヘンゼルは、小さな骨を一本つき出して見せました。魔女は、もう目もかすんでいて、それが骨だとは知らず、てっきりヘンゼルの指だと思ったのです。ヘンゼルがいっこうに太らないので、魔女は不思議に思いました。ひと月もたったのに、あいかわらずヘンゼルは、やせっぽちのままでした。
魔女は、いらいらしてきて、もうこれ以上、待てなくなりました。
「おい、こら、グレーテル、さっさと水を汲んでおいで! ヘンゼルの奴《やつ》、やせてたってかまうものか、あしたになったら、ぶち殺して、煮ちまうんだよ」
水を汲みにやらされたとき、かわいそうに、グレーテルは、どんなにかつらかったことでしょう! 涙が、どんなにか頬《ほお》を流れたことでしょう! グレーテルは、叫びました。
「神さま、どうかお助けください。こんなことなら、いっそ森のなかで、恐ろしい獣に食べられてしまったほうが、よかったわ。そしたら、わたしたち、いっしょに死ねたんだわ」
「ぎゃあ、ぎゃあ言うんじゃないよ。泣いたって、わめいたって、なんにもなりゃしないよ」と、魔女は言いました。
あくる日の朝、早くからグレーテルはそとに出て、水の入った鍋《なべ》をつるして、火をたきつけなければなりませんでした。
「まず、パンを焼くとしようか」と、魔女が言いました。「パン焼きがまは、もう熱《あつ》くなったし、こね粉《こ》もこねたしね」
そう言って、魔女は、かわいそうなグレーテルを、パン焼きがまのほうへ突きとばしました。パン焼きがまからは、もう炎がごうごうと吹き出ているのでした。
「もぐりこんで、火かげんをみておいで。よかったら、パンを入れるからね」と、魔女は言いました。
グレーテルがなかに入ったら、魔女は、パン焼きがまの鉄の扉をしめてしまうつもりだったのです。そのうえ、グレーテルを焼いて食べてしまおうと思っていたのです。
でも、グレーテルは魔女の考えていることに気づいて、こう言ったのです。
「どうやったら、いいかしら。どうやって、なかに入るの?」
「ばかだね、おまえは。入口はでっかいじゃないか。いいかね、わたしにだって、入れるがね」
魔女は、そう言うと、ごそごそとはうようなかっこうをして、パン焼きがまのなかに頭を突っこみました。
そのときです。グレーテルがぽんとひと突き、魔女は、どどどっとかまどのなかに、のめりこみました。すると、すかさず、グレーテルは鉄の扉をしめて、かんぬきをさしました。
「ううっー」と、魔女はうめき出しました。それは、ほんとうに気味の悪い声でした。グレーテルは、そのまま逃げ出してしまったので、罰《ばち》あたりの魔女は、むごたらしく焼け死ぬよりほかありませんでした。
グレーテルは、一目散《いちもくさん》、ヘンゼルのところへ飛んでいって物置き小屋の戸をあけると、大声で叫びました。
「ヘンゼル、わたしたち助かったわよ。おいぼれ魔女、死んだわよ」
ヘンゼルは、なかから飛び出してきました。戸をあけてもらって、篭《かご》から飛び出てきた鳥のようでした。ふたりは、どんなに喜んだことでしょう! 首に抱きついたり、跳《は》ねまわったり、ふたりは、なん度もキスをしました。
もう、こわがることもないので、ふたりは、魔女の家のなかへ入っていきました。家のなかには、あちらにもこちらにも、真珠や宝石の詰まった箱が置いてありました。
「小石なんかより、ずっといいや」
そう言って、ヘンゼルは、入るだけいっぱいポケットに詰めこみました。グレーテルは、「わたしも、少し持って帰るわ」と、言って、前掛けをいっぱいにしました。
「さあ、もう、いかなくちゃ。魔女の森から逃げ出そうよ」と、ヘンゼルは、言いました。それから、二、三時間、ふたりが歩いていくと、大きな川に出ました。
「渡れないね。大きな橋どころか、丸木の小橋もないものね」と、ヘンゼルが言うと、グレーテルは、「あそこに、白いあひるが泳いでいるわ。頼《たの》んだら、向こう岸に渡してくれるかもしれないわ」と、言って、大声で白いあひるに呼びかけました。
「あひるさん、あひるさん、
ここにいるのはグレーテルとヘンゼルよ。
橋がなくては、渡れません。
あなたのね、白い背なかに乗せてって」
あひるがそばまでくると、ヘンゼルがさきに乗りました。グレーテルにも、乗るようにと言いましたが、グレーテルは、
「いいえ、それじゃ、あひるさんには重すぎるわ。ひとりずつ渡してもらいましょうよ」と、言いました。
親切なあひるは、そのとおりにしてくれたので、運よく渡ることができました。
少しいくと、森のようすが、だんだん見おぼえのあるような気がしてきました。
とうとう、遠くのほうに、お父さんの家が見えてきました。ふたりは、駆け出して、部屋に飛びこむと、お父さんの首に抱きつきました。
お父さんには、子どもたちを森のなかに置き去りにしてからというもの、ひとときも楽しいときはありませんでした。まま母は、もうとうに死んでいたのです。
グレーテルが前掛けをふるうと、真珠や宝石が、部屋じゅうに飛び散りました。ヘンゼルも、ひとにぎりずつ、ポケットから取り出して、ばらまきました。これで、心配ごとも、すっかりなくなって、みんなそろって、ただただ楽しく暮らしたということです。
これで、わたしのお話しは、おしまい。ほら、あそこにねずみが一匹、走っていきますよ。つかまえた人は、あれで大きな、大きな毛皮の帽子をつくってもいいですよ。
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三枚の蛇の葉
むかし、あるところにとても貧乏な男がおりました。その男には、息子がたったひとりしかいなかったのですが、その息子さえもう食べさせてやるわけにもいかなくなったのでした。そこで、息子が言いました。
「お父さん、とても困っているんでしょう。ぼくは、お父さんの重荷《おもに》なんですね。いっそ、ぼくは家《うち》を出ていって、自分ひとりで食べられるものか、やってみたいんです」
お父さんも、それに同意して、ほんとうに悲しい思いで、息子と別れたのでした。
そのころ、ある強い国の王さまが戦争《いくさ》をしていたのです。その若い息子は、王さまにご奉公《ほうこう》することになり、戦場に出かけていきました。ちょうど若者《わかもの》が敵のまえに出たときに、戦いが始まったのでした。それは、たいへん危険な戦いで、敵の弾丸《たま》が雨あられと降ってくるのでした。それで、味方の兵隊が、あちらでもこちらでも、ばたばた倒れていきました。
指揮官までも倒れたので、残った兵隊たちは逃げ出そうとしたのです。でも、そのときです、若者は進み出て、一同《いちどう》を励まして、こう叫んだものでした。
「ぼくたちの祖国を、滅《ほろぼ》しちゃいけないぞ」
すると、一同は若者にしたがったのでした。若者は敵を目がけて突進し、敵をなぎ倒したのでした。そして王さまは、自分が勝ったのはあの若者ひとりのおかげであったのだということを聞くと、その若者を誰よりもいちばんに昇進させて、宝物をたくさん与えたうえ、その国いちばんの家来《けらい》にしたのです。
王さまには、お姫さまがひとりおりました。お姫さまは、とても美しい方《かた》でしたが、またとても変わった方でした。お姫さまは、もし自分がさきに死ぬようなことにでもなったら、自分といっしょに生き埋めにしてもらいたいと、そういう約束をしてくれない男なら、自分のつかえる主人とはしたくない、そんな誓いを立てていたのです。
「ほんとうにわたしが好きなのなら、わたしが死んでしまったら、生きていたってつまらないでしょう」と、お姫さまは言うのでした。
お姫さまのほうも、これとおなじことをするつもりで、主人がさきに死ぬようなことにでもなれば、自分も主人といっしょにお墓に入るつもりでいたのです。
お姫さまが、こんな奇妙な誓いを立てていたものですから、これまであらわれたお婿《むこ》さんは、誰もがおじけづいてしまったのでした。ところが、あの若者だけは、お姫さまの美しさに身も心もうばわれて、なにひとつ気にもかけずに、お姫さまの父王に、お姫さまをくださいと願い出たのでした。すると、王さまは、言いました。
「約束せねばならんことがあるんじゃが、わかっとるかな?」
「もし、わたしのほうが長生きするようなことになりましたら、お姫さまといっしょにお墓に入らねばならぬ、ということでございますね。そんな目にあいましても、なんとも思いません。それほどわたしの愛情は大きいのです」
それならばよろしいと、王さまは同意して、やがて婚礼の式が、それは華《はな》やかにとりおこなわれたのでした。
さて、こうしてふたりは、しばらくのあいだ、お互いになに不自由なく、幸福に暮らしたのでした。ところが、この若いお妃《きさき》が、重い病気にかかってしまったのです。どの医者も、もうお妃を助けるわけにはいかなくなりました。
お妃が死にました。そのとき、この若い王子は、約束を果たさねばならぬことを、思い出したのです。生きたままお墓に入るなんて、王子はぞっとしました。でも、逃げるわけにはいきません。
王さまは、門という門をすべて番兵で固めさせました。ですから、王子には、もうこの運命からのがれることは、できません。とうとう、お妃の亡《な》きがらが、王家の地下墓地におさめられる日となりました。若い王子も、いっしょに連れていかれました。それから墓地の門には、かんぬきがかけられて、門はぴったりしめられてしまったのです。
お妃の柩《ひつぎ》のそばには、食卓が置いてありました。その上には、あかりが四つ、パンが四個、ぶどう酒の瓶《びん》が四本置いてありました。これだけの持ち合わせの食糧がつきてしまえば、痩《や》せ衰えて、死んでしまうよりほかありません。
さて、王子はほんとうに苦しい思いをし、悲しみに沈んで、毎日、パンをほんのひとかけら、ぶどう酒をほんのひと口とるだけでしたが、死がだんだんと近づいてくるのが、はっきりわかるのでした。
こうして、自分のまえをじっと見すえていると、地下墓地の片隅から、蛇《へび》が一匹はい出してきて、お妃の亡きがらに近づいていくのを目にしたのです。亡きがらをかじりにきたのだな、と王子は思ったので、
「わたしの生きているあいだは、妃には触《ふ》れさせんぞ」と、言いながら、剣を抜いて、蛇を三つに切ってしまったのです。
しばらくすると、また別の蛇が片隅からはい出してきました。ところが、まえの蛇が三つに切られて、死んでいるのを見ると、その蛇は戻っていきました。けれども、まもなくまたはい出してくると、今度は、口に緑いろの三枚の葉をくわえています。
それから、その蛇は、三つに切られたまえの蛇のからだをひとつに集めて、その傷口に三枚の葉をひとつずつ置いたのでした。すると、たちまち、三つに切られたからだは、ひとつにつながって、動き出しました。蛇は、生きかえったのです。こうして蛇は、二匹そろってさっさといってしまいました。三枚の葉は、下に落ちたままでした。
このようすを残らず見ていた不幸な王子は、蛇を生きかえらせた三枚の葉の不思議《ふしぎ》な力は、人間にも役立つのではないかしらと、ふと思いついたのです。そこで王子は、三枚の葉を拾いあげて、そのうちの一枚を亡きがらの口の上に、そしてあとの二枚を両方の目の上に置いたのでした。
そうすると、たちまち血が血管のなかを流れ出し、蒼《あお》ざめた顔にのぼってきて、顔を赤く染めたのでした。お妃は呼吸《いき》を始めました。お妃は目をぱっちりあけると、言いました。
「おや、まあ、わたし、どこにいるの?」
「わたしのそばにいるじゃないか。ねえ、おまえ」と、王子は、そう言って、事柄《こと》のしだいをつぶさに物語り、お妃を生きかえらせたのは自分であったのだと、言いきかせたのでした。
それから、王子はお妃にぶどう酒とパンとを少し与えたのです。やがて、元気を取り戻すと、お妃は起きあがりました。ふたりは、入口のところにいって、戸をたたき、大声で呼びました。番兵は、それを聞きつけると、王さまに知らせたのでした。
王さまは、自分から進んで降《お》りていきました。戸をあけてみると、そこにはふたりが、生き生きと元気そうに立っていたのです。王さまは、ふたりともども喜びあいました。こうしていまは、なにひとつ悩みの種《たね》はなくなったのでした。
ところで王子は、三枚の蛇の葉を持ってきたのでした。王子は、その三枚の蛇の葉を、召使いに手渡して、
「たいせつに、これをしまっておいておくれ。いつなんどきも、肌身はなさず持っていておくれ。なにかと困ったときには、またその葉で、ぼくたちが助かるかもしれないからね」と、言いました。
けれども、お妃のほうは、一度死んでから、こうして生きかえってみると、気持ちがすっかり変わっていたのでした。お妃の心のうちには、主人への愛情などあとかたもなく消えていたのです。
しばらくしてから、王子は、海を渡って、自分の年老いた父のところにいってみようと思ったのでした。そして、王子とお妃は船に乗りました。ところがお妃は、自分を生きかえらせてくれた主人の、正真正銘《しょうしんしょうめい》の立派な愛情と真心《まごころ》をすっかり忘れてしまって、船乗りによこしまな愛情をいだいてしまったのでした。
あるとき、王子が横になって、眠っていると、お妃は、例の船乗りをそばに呼びよせました。そして自分は眠っている王子の頭のほうをつかみ、船乗りには、足のほうをつかませて、ふたりで王子を海のなかに投げこんだのでした。
こうして、恥《はじ》知らずなまねをしたあげく、お妃は船乗りに向かって言いました。
「さあ、郷里《くに》に帰りましょう。そして、王子は、途中で亡くなった、ということにしましょう。わたしは、父王のところにいって、あなたのことをうんとほめてあげるわ。そうすればきっと、わたしとあなたをいっしょにさせて、あなたに父王のあとを継《つ》がせよう、ということになるわ」
けれども、あの誠実な召使いは、なにもかもすっかり見てとって、誰にも気づかれないように親船から小舟をおろすと、それに乗りこんで、自分の主人のあとを追って漕《こ》いでいきました。そして、裏切りものたちには、そのまま航海をつづけさせました。
召使いは、海に投げこまれて亡《な》くなった王子を、魚のようにすくいあげました。それから、召使いは、肌身はなさず持っていた三枚の蛇の葉を、王子の両方の目の上と口の上とに置いたので、三枚の蛇の葉のおかげで、幸いなことに、召使いは、王子を生きかえらせることができたのでした。
王子と召使いは、夜《よ》を日《ひ》についで、全力をあげて舟を漕ぎました。それで、小舟は、矢のように速く飛んでいったので、ふたりは、親船に乗ったお妃たちよりもさきに、王さまのところに着いたのでした。
王さまは、ふたりだけしか帰ってこないのを知って、不思議に思い、なにごとがあったのか、とたずねました。こうして、自分の娘に悪意のあったことを聞きますと、王さまは言いました。
「娘が、そんな大《だい》それた振舞いをするとは、とても信じられん。だがな、やがては、ほんとうのことがわかるにちがいない」
王さまは、ふたりに、秘密の部屋にいくようにと命じて、自分たちのことは誰にも内証《ないしょ》にしておけ、と言いつけました。
まもなく、親船が帰ってきました。罰《ばち》あたりのお妃が、悲しそうな顔をして、自分の父王のまえに姿をあらわしました。すると、王さまが、
「ひとりで帰ってきたとは、どういうわけかな? おまえの主人《あるじ》は、どこにおるのかな?」と言いました。
「ああ、お父さま、わたしは、悲しくて、胸のつぶれる思いで帰ってまいりました。夫の王子は、航海の途中で、とつぜん病いに倒れ、そのまま亡くなってしまったのです。もしも、ここにおりますこの立派な船乗りが、なにかと手助けをしてくれませんでしたなら、このわたしも、とんだ目にあうところだったのです。この船乗りは、王子が亡くなられたとき、そのそばにおりましたから、その場の一部始終《いちぶしじゅう》を、お話し申しあげられましょう」
「わしが、亡くなった王子を生きかえらせてみせよう」
そう言うと、王さまは、秘密の部屋をあけて、ふたりに、出てくるようにと命じました。お妃は、王子の姿をひと目見ると、雷《かみなり》に打たれたように、へたへたとひざまずいて、赦《ゆる》してください、とお願いをするのでした。すると、王さまは、こう言いました。
「赦すわけにはいかん。おまえの夫の王子は、おまえといっしょに死ぬ覚悟《かくご》を決めておったのだぞ。おまえの生命《いのち》だって、取り戻してくれたのだ。それなのに、おまえときたら、おまえの夫を、寝こみをうかがって殺してしまうとは。そうしたおまえには、それ相応の報《むく》いを、うけさせてやるとしよう」
こうしてお妃は、悪い相棒《あいぼう》といっしょに、穴のあいた舟に乗せられて、沖《おき》のほうにつき出され、やがてふたりは、波間に消えていきました。
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白い蛇
もうずいぶん昔のこと、あるところに、王さまがおりました。その王さまの賢いことは、国じゅうに知れ渡っておりました。王さまの知らないことは、なにひとつなく、どんな秘密のことでも、空中を伝わって、その知らせが王さまのところにやってくるように思われるほどでした。
ところが、そうした王さまに、奇妙な習慣《くせ》がひとつありました。毎日のことですが、お昼の食事がすんで、食卓の上のものが片づけられ、もう誰もそこにいなくなると、王さまの信任あつい召使いが、もうひと皿深い皿を運んでくることになっているのです。その深い皿には蓋《ふた》がしてあって、その皿になにが盛ってあるのか、召使いさえも知らなかったのです。というのも、王さまは、自分がほんとうにひとりきりになるまで、そのなかのものを食べることもしなければ、蓋もとらなかったからでした。
こんな習慣が、もうずいぶん長いことつづきました。ある日のこと、いつものようにこの深い皿をさげてきた召使いは、なかが見たくなって、どうしようもなく、深い皿を自分の部屋に持ちこんでしまったのでした。用心ぶかく、部屋の戸に鍵《かぎ》をかけて、そっと蓋をとって見たのです。なかに入っていたのは、一匹の白い蛇でした。その蛇を見ると、今度は、どうしても食べてみたくなったのです。
召使いは、ひときれ切ると、それを口にほおばりました。ところが、それが舌にさわるかさわらないうちに、窓のそとから、きれいな声でささやく不思議な声が聞こえてきたのです。
召使いは、窓べによって、耳をすましてみました。雀《すずめ》のおしゃべりだということがわかりましたが、雀たちが、集まって、森や野原で見てきたことを、あらいざらいぺちゃくちゃしゃべっているのでした。蛇を食べたので、動物の言葉がわかる能力《ちから》が、召使いに授《さず》かったのでした。
ところが、ちょうどその日のこと、お妃《きさき》のいちばん美しい指輪が、どこかに消えてなくなってしまったのでした。そして、どこへなりとも出入りをしていた信任あついこの召使いに、指輪を盗んだのだろうという疑いがかかったのでした。
王さまは、召使いを御前《ごぜん》に呼びよせて、はげしいお叱りの言葉を浴びせて、もし明日《あす》までに盗んだ犯人の名をあげることができなかったら、おまえを犯人と見立てて罰をくわえるぞ、と脅《おど》かしたのです。召使いは、身の潔白を誓いましたが、なんの役にも立ちません。こうして、罰も軽くしてもらえぬまま、召使いは御前を引き退《さ》がったのでした。
心配で心配で、いたたまれないまま、召使いは中庭におりて、どうやったらこの苦境から抜け出せるものかと、いろいろ考えてみたのでした。
中庭の、流れのそばには、鴨《かも》がのんびりと並んで、くちばしで羽のおめかしをしながら、お互いに打ち明け話しをしていました。
召使いは、立ちどまって、鴨の話しに耳をかたむけました。鴨たちは、けさはどこをほっつき歩いたかとか、どんなうまい餌《えさ》にありついたとか、お互いに話しあっていたのでした。ところが、そのうちの一羽の鴨が、ふきげんそうな顔をして、言いました。
「どうも胃が重たくっていけない。お妃の部屋の窓の下に落ちていた指輪をな、あわてていっしょに呑《の》みこんじゃったりしたもんでね」
そこで召使いは、鴨の首ったまをぱっとつかまえ、料理場に持っていって、料理人に言いました。
「こいつを、つぶしてくれ。まるまる肥《こ》えてるぜ」
「ようがす」と、言って、料理人は手で鴨の重さをはかり、
「まあ、あきずに、よくも食べて、太ったもんだ。まる焼きにされるのを、とうから待っていたんだな」と言って、鴨の首を切り落としました。
料理人がはらわたを取り出してみますと、鴨の胃袋のなかに、お妃の指輪がありました。こんなわけで、召使いは、王さまの御前で、わが身の潔白をたやすく証明することができたのでした。
王さまのほうは、自分のあやまちを償《つぐな》おうとして、どうか許してほしい、と召使いに願い、御殿《ごてん》で望むことのできる名誉ある一番の地位を授けよう、と約束したのでした。
召使いは、どれもことわりました。ただ一頭の馬と旅費だけ、いただきたいと申し出ました。というのも、召使いは、世のなかを歩きまわって、見物してみたいと思ったからなのです。その願いは、聞き入れられて、召使いは、さっそく旅に出ました。
ある日のこと、池のそばを通りかかると、その池のなかに、三匹の魚がいて、それが葦《あし》のなかにはまりこんで、水ほしさにぱくぱくやっていました。
魚はしゃべらない、と言われていますが、召使いには、わたしたちは、こうしてみじめに死んでいくほかないのです、という魚のなげいている声が聞こえたのでした。召使いは、情《なさけ》ぶかい人であったので、馬からおりて、葦につかまった三匹の魚を、水のなかに逃がしてやりました。
魚は大喜び、ぴちぴちとはねまわって、頭を水のなかから突き出すと、召使いに向かって、大声で言いました。
「あなたが助けてくださったことは忘れません。いつかその恩がえしをいたしましょう」
それから、召使いはまた馬に乗っていきました。しばらくいくと、足もとの砂のなかから、なにか声が聞こえてくるような気がしました。耳をすますと、蟻《あり》の王さまが、なにやら、なげいているのでした。
「人間どもが、あのぶきっちょな馬に乗って、おれたちのからだの上に乗っかるのだけは、やめてもらいたいもんだ。あのばかな馬野郎《うまやろう》ときたら、重たい蹄《ひづめ》で、情《なさ》け容赦《ようしゃ》もなく、おれの家来どもを、踏みつけやがってさ!」
召使いは、わき道にそれました。すると蟻の王さまは、召使いに向かって大声で言いました。
「あなたのことは、忘れませんよ。いつか恩がえしをいたしましょう」
召使いが歩いていくと、その道は森に通じていました。すると、からすのお父さんとからすのお母さんが、巣のそばに立って、子がらすを巣のそとにほうり出しているところに出くわしました。からすのお父さんも、からすのお母さんも叫んでいました。
「出ていくがいい、このろくでなしめ。もう、おまえたちに腹いっぱい食わせてやるわけにはいかないんだよ。おまえたちも、それだけでっかくなりゃ、自分たちで食えるだろうが」
かわいそうに、子がらすたちは、地べたにへたばって、小さな羽をばたばたやりながら、叫んでいました。
「ぼくたちは、ひとり立ちもできない子どもなんだ。じぶんで餌《えさ》をさがして食べろっていったって、まだ飛ぶことだってできやしないんだ! ぼくたち、ここで飢《う》え死にしてしまうだけだよ!」
そこで、お人好しの召使いは、馬からおりると、自分の剣で馬を殺して、その馬を小さな子がらすたちの餌にしてやったのです。子がらすたちは、ぴょんぴょん跳んできて、お腹いっぱい食べると、大声で言いました。
「このことは、けっして忘れませんよ。いつか恩がえしをしますからね」
召使いは、こんどは自分の足で歩かねばなりませんでした。さんざん歩いたあげく、召使いは、ある大きな町に着きました。その町の往来は、押しあいへしあい人ごみで大騒ぎでした。そこへ、ひとりの男が馬に乗ってきて、お触《ふ》れを出しました。
「お姫さまが、お婿《むこ》さんをさがしておられるのじゃ。だが、お姫さまを射当《いあ》てようと思わんものは、難題をひとつ解かねばならんぞ。それに失敗しようものなら、死刑というわけじゃ」
これまでに、もう大ぜいのものが試《ため》しにやってみたのですが、むだに命を捨てるだけでした。
例の召使いは、お姫さまの姿を見ると、その美しさに目もくらんで、命の危ないこともすっかり忘れて、王さまのまえにまかり出て、お姫さまの婿になりたい、と申し出たのです。
さっそく、その若い召使いは、海辺《うみべ》へ召されました。そして、金の指輪が、召使いの見ているまえで、海のなかへ投げこまれたのでした。それから王さまは、金の指輪を海の底から拾ってくるようにと、若い召使いに命じたのでしたが、そのうえ、
「もしもだ、指輪も持たずにあがってきたら、波に呑《の》まれて命を失うまで、なんべんでも水のなかに突き落とされるのだぞ」と、つけくわえたのでした。
誰もが、この美しい、若い召使いを気の毒に思いましたが、やがて、みんなは、この召使いを海辺に残して帰っていきました。
召使いは、海辺に立って、どうしたらよいものか、と考えこんでいたのです。
すると、そのとき、三匹の魚がこちらのほうに泳いでくるのでした。それは、ほかでもない、むかし命を助けてやった例の魚たちでした。
真ん中の魚は、口に貝をくわえていましたが、その貝を、砂浜に立っている召使いの足もとに置いていきました。召使いが、貝を拾いあげて、開いてみると、貝のなかには、金の指輪が入っていたのです。
召使いは、大喜び、さっそく指輪を王さまのところに持っていって、王さまが約束したお礼がもらえるものと、待ちかまえていたのです。
ところが、気位の高いお姫さまは、自分とは身分のちがう召使いの分際《ぶんざい》で、と思い、召使いをばかにして、そのまえにもうひとつ難題を解いてほしい、と言うのでした。
お姫さまは、庭におりていって、袋いっぱいの黍《きび》を十袋も、自分で草のなかにまいたのでした。そして、こう言いました。
「あしたの朝、陽《ひ》の出るまえに、ぜんぶ集めてくることよ、ひと粒《つぶ》でも足りなくては、だめ」
若い召使いは、庭にすわりこんで、どうしたらこの難問が解けるやら、と考えこんでいたのです。ところが、なにひとつうまい考えが浮かんでこなかったので、すっかりしょげかえって、夜明けには殺されてしまうと、ただただ死刑を待ちうけていたのでした。
けれども、陽の光が、ぱあっと庭にさしこんできたとき、ひと粒もあまさず、黍《きび》のいっぱい詰《つ》まった袋が、十袋も並んで置いてあるのに気づいたのでした。
いつかの蟻《あり》の王さまが、なん千なん万という蟻を引き連れて、夜のうちにやってきていたのです。そして、この恩を忘れていない蟻たちは、夢中になって黍を拾って、袋のなかに集めたのでした。
お姫さまは、ひとりで庭におりてきて、召使いが、言いつけられたこの難問を解《と》いてしまったのを見て、びっくりしてしまったのでした。ところが、お姫さまは、気位の高い自分の気持ちを、まだ押さえることもできずに、こう言うのでした。
「なるほど、難問ふたつは解けました。だけど、生命の樹から林檎《りんご》をひとつ取ってきてくれないうちは、わたしの夫になるわけにはまいりませんぞ」
若い召使いは、どこに生命の樹があるのか、知りませんでした。召使いは、旅に出かけました。足のつづくかぎり歩いていくことにしたのですが、生命の樹が見つかるという当《あ》てもなかったのです。
よその王さまの国を、もう三つも歩きまわってから、ある晩がたのことでした。森にたどり着いたとき、召使いは、そこの一本の樹の下に腰をおろして、寝ようとしたのでした。すると、その樹の枝のなかで、がさがさ音がするのが聞こえ、金の林檎《りんご》が、召使いの手のなかに落ちてきました。
それと同時に、からすが三羽飛びおりてきて、召使いの膝《ひざ》にとまって、こう言ったのです。
「わたしたちは、ひもじくて飢《う》え死にするところを、助けていただいたあの三羽の、子がらすなんです。わたしたちは大きくなって、あなたが金の林檎をさがしておられると聞きましたので、海を越えて、はるばる世界の果《は》ての、生命の樹の立っているところまで飛んでいったのです。そしていま、林檎を持ってきてあげたのです」
若い召使いは、大喜びで、帰りの旅について、金の林檎を、美しいお姫さまのところに持っていったのです。いまはもう、お姫さまにはなんの言いのがれもできません。お姫さまと召使いは、その生命の林檎を分けあって、食べました。すると、お姫さまの心は、召使いを思う愛情でいっぱいになりました。
こうしてふたりは、誰にも邪魔されないで、いつまでもいつまでも幸福に暮らしたということです。
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漁夫《ぎょふ》とその妻の話
むかし、海辺《うみべ》の近くの小屋に、ひとりの漁夫が、おかみさんとふたりで住んでいました。漁夫は、毎日、出かけていっては、釣りをしていました。そうです。釣りばかりしていたのです。
あるとき、漁夫は、釣り竿《ざお》をおろしてすわっていました。漁夫は、澄んだ水のなかをじっと見つめて、すわっていました。そうです、いつまでもすわっていたのです。
すると、水の底ふかいところで、釣り針がぐいっと沈みました。漁夫が引きあげてみますと、大きなひらめが一匹、針にかかって出てきました。そして、ひらめは、漁夫に向かって言いました。
「まあ、聞いてください、漁師《りょうし》さん。お願いです、命だけは助けてください。わたしは、生まれながらのひらめではないのです。わたしは、魔法にかけられた王子です。わたしを殺したところで、なんの役にも立ちません。食べたところで、おいしくはないでしょう。わたしを、また水のなかに戻してください。泳がしておいてください」
「まあ、そんなにくどくど言うことはないさ。話しのできるひらめなんて、泳がしておいてやりたいからね」
そう言うと、漁夫は、ひらめを澄んだ水のなかにはなしてやりました。ひらめは水底ふかく泳いでいきました。ひらめは、ひとすじの血の糸をうしろに残していきました。
漁夫は立ちあがって、小屋のなかで待っているおかみさんのところに帰っていきました。
「おまえさん、きょうは、なんにもとれなかったんかね?」と、おかみさんが言うと、
「うん。一匹ひらめが釣れたんだが、そいつがね、わたしは魔法にかけられた王子なんです、なんて言うもんだから、それで逃がしてやってしまったんだ」と、漁夫は言うのでした。
「いったい、おまえさん、なんにも頼《たの》まなかったのかい?」
「うん。頼むって、いったい、なにを頼むっていうんだい?」
「ああ、いつまでもこんな掘っ建て小屋に住んでてさ、いやんなるじゃないか。くさくてさ、吐き気がするよ。おまえさん、小さい家が一軒ほしいって、言えばよかったのにさ。もう一度、いってね、ひらめを呼んでさ、小さな家が一軒ほしいって、言ってごらん。だいじょうぶ、ちゃんとそうしてくれるよ」
「ええっ、なんだって、もう一度いってこいだって」と、漁夫は言いました。
「だってさ、おまえさん、ひらめをつかまえてさ、それを逃がしてやったんだろう。だから、だいじょうぶじゃないか、ちゃんとそうしてくれるさ。すぐいっといでよ」
漁夫は、なかなか行こうとはしませんでした。といって、おかみさんにさからう気にもなりません。それで、漁夫は、また海に出かけていくことにしました。
海へきてみると、海は、すっかり黄ばんだ緑いろに変わっていました。もうまえのようには澄んでいません。漁夫は、海のそばに立って、言いました。
[#ここから1字下げ]
「ちびさん、ちびさん、ティムペ テ
海のなかのひらめさん、ひらめさん、
わしのにょうぼのイルゼビル、
わしの言うこと聞かなんだ」
[#ここで字下げ終わり]
すると、あのひらめが泳いできて、言いました。
「へえ、おかみさん、いったい、なにがほしいんですか?」
「やれやれ、おまえさんをつかまえたからには、なにかほしいと言えばよかったのに、とかみさんが言うのさ。かみさんときたら、もうあんな掘っ建て小屋なんかに住みたくはない、小さな家でも一軒ほしいと言うんだ」と、漁夫が言うと、ひらめが言いました。
「帰ってみてごらんなさい。おかみさんには、もう家《うち》がありますよ」
そこで、漁夫が帰ってみると、おかみさんは、もう掘っ建て小屋のなかにはいません。掘っ建て小屋のかわりに、小さな家が一軒建っていました。そして、おかみさんは、戸口のまえのベンチに腰をおろしていました。おかみさんは、帰ってきた漁夫の手をとると、こう言うのでした。
「ちょっとなかへ入ってごらんよ。ほら、やっぱりこっちのほうが、ずっといいよ」
ふたりは、家のなかに入ってみました。小さな玄関、小ぎれいな小部屋、ベッドを置いた部屋、台所に、食堂までありました。どこにも、道具という道具が立派に、きちんと備えつけられてありました。そうした道具につきものの錫《すず》や真鍮《しんちゅう》の器具《うつわ》もありました。
それにまた家のうしろには、鶏《にわとり》やあひるのいる裏庭と、野菜や果物《くだもの》のとれる小さな菜園までがありました。
「ごらんよ、いいじゃないの?」と、おかみさんが言うと、漁夫は、
「いいともさ。ずうっとこのままにしてさ、不平は言わずに暮らしていくとしよう」と、言いました。
ところが、おかみさんは、
「そのことは、もっと考えることにしてさ」と、言って、それから、ふたりはなにやら食べて、ベッドに入りました。
こうして、一週間か二週間は、無事に過ぎていきました。
そうしたある日のこと、おかみさんは、またこんなことを言い出したのです。
「ねえ、おまえさん、この家《うち》も、ちょっと狭すぎるんじゃない。裏庭にしても、菜園にしても、小さすぎるわ。あのひらめ、もっと大きな家だって、あたしたちにくれることだってできたのよ。あたしはね、石でできた大きなお城に住んでみたいの。だから、ひらめのところにいってきてよ。そしてわたしたちに、城をくれろってさ」
「なあ、おまえ、この家で、もうけっこうじゃないか。なんだっておまえ、城なんかに住みたいんだよ?」
「ええ、なんだって? まあ、いっておいでよ。あのひらめ、きっとそうしてくれるから」
「いいや、ねえ、おまえ」と、漁夫は言いました、「ひらめはね、おれたちに、この家をくれたばかしじゃないか。もう一度いくなんて、いやだね。ひらめだって怒《おこ》っちまうよ」
「いっといでよ。ひらめには、そんなことわけないんだよ、喜んでしてくれるさ。いってきな」と、おかみさんは言いました。けれども、漁夫は出かける気にもならず、出かけようとはしなかったのです。
「これは、うまくないな」と、漁夫は、自分に言いきかせはしたものの、それでも出かけていきました。
海へきてみると、海の水は、すっかりすみれいろに、紺《こん》いろに変わっていました。それに灰いろがかって、どろっとしていました。もう、黄ばんだ緑いろはしていません。けれども、海の水は、まだおだやかでした。漁夫は、海のそばに立って、言いました。
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「ちびさん、ちびさん、ティムペ テ
海のなかのひらめさん、ひらめさん、
わしのにょうぼのイルゼビル、
わしの言うこと聞かなんだ」
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「へえ、おかみさん、いったい、なにがほしいんです?」と、ひらめが言うと、
漁夫は、
「かみさんはね、石づくりの大きなお城に住みたいんだってさ」と、半《なか》ば暗い気持ちで、言いました。
「帰ってみてごらんなさい。おかみさん、入口のまえに立っていますよ」と、ひらめは言うのでした。
そこで、漁夫が帰ってきて、自分の家へいこうと思って、歩いていくと、そこには、石づくりの大きなお屋敷が建っていました。
おかみさんは、お屋敷の階段の上に立っていて、なかに入ろうとしていたところでした。そこで、おかみさんは、漁夫の手をとると、「さあ、お入んなさいな」と、言うのでした。
こう言われて、おかみさんといっしょに、お屋敷のなかに入ってみると、大理石を床《ゆか》に敷きつめた大きな玄関がありました。大ぜいの召使いがいて、大きな扉を、さっさっとあけてくれました。壁という壁は、ぴかぴかに光って、きれいな壁掛けがかかっていました。部屋のなかの椅子や卓子《つくえ》は、どれも純金でできていて、天井に吊りさがっていたシャンデリアは、水晶でできていました。大きい部屋、小さい部屋、どの部屋にもじゅうたんが敷きつめてありました。食卓という食卓には、どの食卓もつぶれんばかりに、とびきり上等のぶどう酒やお料理がぎっしり載っていました。
お屋敷の建物のうしろにも、馬小屋や牛小屋の建っている大きな裏庭がありました。それから馬車もありました。そのどれもが極上《ごくじょう》のものでした。
そこには、きれいな草花や、みごとな果物の木の植えてある立派な菜園もありましたし、半マイルは十分あるすばらしい庭園もありました。そこには、鹿やのろ鹿、それから兎《うさぎ》と、誰もが飼いたいと思う動物はどれも、みんないました。
「ねえ、こんどは素敵じゃない?」と、おかみさんが言いました。
「うん、そうだな。おれたち、ずうっとこのままにしてさ、不平は言わずに、この素敵《すてき》なお屋敷で、暮らしていくとしような」と、漁夫は言いましたが、今度は、おかみさんのほうが、「そのことは、もっと考えるとしてさ。さあ、寝ながら考えてみない?」と、言うのでした。
こうして、ふたりはベッドに入りました。
そのあくる日の朝です。さきに目をさましたのは、おかみさんでした。ちょうど夜が明けたところでした。おかみさんのベッドからは、目のまえにひろがったすばらしい土地が見えました。漁夫のほうは、手足をのばして、大の字になってまだ寝ていました。
おかみさんは、漁夫のわき腹をひじでつついて、こう言うのです。
「ちょいと、おまえさん、起きて、窓から見てごらんよ。ねえ、わたしたち、この土地《くに》ぜんたいの王さまになれるんじゃない? ひらめのところにいっておいでよ、王さまになりたいってさ」
「おや、おや、どうして王さまなんかになりたいんだい。おれは、王さまなんか、いやだね」
「へえ、あんた、王さまになりたくないの。そんなら、わたしがなるわよ。ひらめのところにいってきてよ、わたしが王さまになりたがってるって」
「なんだね、おまえ。なんで王さまなんかになりたいんだい? そんなこと、おれは、ひらめには言いたくないね」
「なんで言いたくないのよ。すぐ行ってきて。わたしゃ、王さまにならずにはいられないのよ」
そこで、漁夫は出かけていきました。おかみさんが王さまになりたいなどと言い出したので、漁夫はすっかりふさぎこんでしまって、「こいつは、どうも、よくないな」と、そう考えて、いく気にはなれなかったのですが、それでも、出かけていってみたのでした。
海へきてみると、海の水は、すっかり黒ずんだねずみいろになっていました。そして、底のほうからわきかえって、腐《くさ》ったような悪臭《あくしゅう》がたっていました。漁夫は、海のそばに立って、言いました。
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「ちびさん、ちびさん、ティムペ テ
海のなかのひらめさん、ひらめさん、
わしのにょうぼのイルゼビル、
わしの言うこと聞かなんだ」
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「へえ、おかみさん、いったい、なにがほしいんです?」と、ひらめが言いました。
「ああ、かみさんときたら、王さまになりたいというんだよ」
「帰ってみてごらんなさい。おかみさんは、もう、そのとおりになってますよ」と、ひらめが言うのでした。そこで、漁夫は、帰っていきました。
お屋敷のところまできますと、それはまえよりずっと大きく、御殿《ごてん》になっていました。御殿には塔がひとつあって、その塔には素敵な飾りがついていました。大きな門のまえには、番兵が立っていました。そこには、兵隊が大ぜいいて、太鼓やラッパが置いてありました。建物のなかに入ってみますと、なにもかもが、本物の大理石と金とでできていました。どの掛けものも、ビロードで、大きな金いろの房《ふさ》がついていました。
そのとき、広間の扉という扉が、ぱっと開きました。
そこには廷臣《ていしん》がいならんでいました。おかみさんは、金とダイヤモンドをちりばめた玉座《ぎょくざ》について、頭には黄金の冠を、手には純金と宝石の笏《しゃく》を持っていました。その両わきには、六人の侍女《じじょ》が、背の順に並んで立っています。
そこで漁夫は、おかみさんのところにいって、言いました。
「おやおや、おまえさん、王さまになったのかね?」
「そうよ、わたしは、もう王さまよ」と、おかみさんは言うのでした。
漁夫は、立ったまま、おかみさんを見つめていました。しばらくのあいだ、そうしてじっと見つめたあとで、漁夫は言いました。
「ああ、おまえ、王さまになれて、さぞ気持ちがいいこったろうな! もうこれ以上、高望みはよそうよな!」
すると、おかみさんは、そわそわして言いました。
「だめよ、あんた。もう、わたしは、退屈で退屈でしかたないの。もう、とても我慢《がまん》できないわ! ひらめのところにいってきてよ。王さまなんだよ、わたしは。今度は、皇帝にもならなくっちゃね!」
「なんだい、おまえ、なんで皇帝になんかなりたいんだい?」
「いいから、ひらめのところにいってきて。わたしが皇帝になりたいってさ!」
「あのねえ、いくらひらめだって、皇帝はつくれないさ。そんなこと、おれはひらめに言いたくはないよ。皇帝はね、国家のなかにたったひとりしかいないんだよ。だから、皇帝はつくれないんだよ」
すると、おかみさんは言いました。
「なんだね、わたしは王さまだよ。あんたは、わたしの亭主《ていしゅ》じゃないの。すぐいかないのかい? すぐいってきてよ! 王さまがいくらでもつくれるなら、皇帝だっていくらでもつくれるわ。わたしはね、皇帝になりたくって、なりたくってしかたないの! すぐ行ってきてよ!」
そう言われて、漁夫はいかないわけにはいかなくなりました。ところが、出かけてはみたものの、漁夫は、心配で心配でたまりません。歩きながら、ひとりで考えました。「これはよくない、まずいことになるぞ。皇帝になるだなんて、あつかましすぎる。しまいには、ひらめだって気を悪くしちまうさ」
そんなことを考えているうちに、漁夫は海に着きました。あいかわらず海は、真っ黒く、どろどろしていて、底のほうから泡立って、しぶきをあげていました。そうした荒れた海の上を、つむじ風が吹き渡って、海はのたうちまわるばかりでした。
漁夫は、ぞっとしましたが、海のそばに立って、言いました。
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「ちびさん、ちびさん、ティムペ テ
海のなかのひらめさん、ひらめさん、
わしのにょうぼのイルゼビル、
わしの言うこと聞かなんだ」
[#ここで字下げ終わり]
「へえ、おかみさん、いったい、なにがほしいんです?」と、ひらめが言いますと、漁夫は、言いました。
「ああ、ひらめさん、かみさんはね、皇帝になりたいんだってさ」
すると、ひらめが言いました。
「帰ってみてごらんなさい。おかみさん、もう皇帝になっていますよ」
そこで、漁夫は帰っていきました。帰ってみると、みがきのかかった大理石ずくめの城が建っていました。雪花石膏《アラバスター》の彫像や金の装飾品《かざり》がついていました。扉のまえでは、兵隊たちが行進したり、ラッパを吹いたり、大太鼓や小太鼓をたたいたりしていました。
城のなかに入ってみますと、男爵たちや伯爵たち、それに公爵たちが、まるで召使いのように、あっちにいったり、こっちにきたりしていました。
こうしてみんなは、漁夫にかわって、どれも純金でできた扉という扉をあけてくれました。
部屋のなかに入ってみますと、おかみさんが玉座におさまっていました。玉座は、金の細工でできていまして、その高さといったらたいへんなものでした。おかみさんは、大きな黄金の冠を頭に載《の》せておりました。その冠の高さは三|尺《エレ》もありまして、それにはぴかぴかのダイヤやルビーがちりばめられていました。そして、おかみさんは、片方の手には笏《しゃく》を持ち、もう片方の手には十字架のついた宝珠《たま》を持っていました。
おかみさんの両側には、近衛兵《このえへい》が二列に並んでいました。背の高さがそれは高い世界一の大男から、わたしの小指ほどの大きさぐらいしかない世界一の小男まで、背の順に並んでいたのです。それから、おかみさんのまえには、やはりたくさんの侯爵や公爵たちが並んでいました。
そこで漁夫は、みんなのなかに入っていって、言いました。
「こんどは、おまえ、皇帝になったのかね?」
「そうよ、わたしは、もう皇帝さまよ」と、おかみさんは言うのでした。
漁夫は、立ったまま、おかみさんを見つめていました。しばらくのあいだ、そうしてじっと見つめたあとで、漁夫は言いました。
「ああ、おまえ、皇帝になれて、さぞ気持ちがいいこったろうな!」
すると、おかみさんが言いました。
「なんで、そんなところに立ってるの。わたしは皇帝だよ。でもね、今度は、法王にもなりたくってね。ひらめのところにいってきてよ!」
「ああ、おまえときたら。ほんとうに、なんにでもなりたがるんだね。法王になりたいって、そりゃだめだよ。法王はね、キリスト教徒のなかに、たったひとりしかいないものなんだよ。ひらめにだって、法王をつくるわけにはいくまいよ」
と、漁夫が言うと、おかみさんはこう言うのでした。
「ねえ、わたしゃ、法王になりたいのよ。すぐいってきて。きょうのうちにも、どうしたって法王になりたいの」
「いやいや、おまえね、そんなことひらめに言うのはやだよ。そんなうまいわけにはいかないよ。あつかましいというものだ。おまえを法王にするなんて、ひらめにだってできやしないさ」
「ばかも休み休み言いなさいよ! 皇帝がつくれるんなら、法王だってつくれるわよ。すぐいってきて。わたしは皇帝だよ。それに、あんたは、わたしの亭主じゃないの。いくつもりなんだろうね?」
それを聞くと、漁夫はすっかりおじけづいてしまいましたが、出かけていくことにしました。でも、からだはすっかり気の抜けたようになって、がたがた、ぶるぶるふるえ出し、膝とふくらはぎは、がくがく、ゆらゆらするばかりでした。
風が、ぴゅうと陸地を吹き渡っていきました。雲が飛んでいきます。木の葉が、ばらばらと木から散っていきます。海の水は、ざわざわと沸《わ》きかえり、ざぶんざぶんと岸辺にぶつかっていました。
遠くのほうに、いく艘《そう》もの船がいました。船は、救いをもとめて合図《あいず》の鉄砲をうっていました。船は、大波の上を踊ったり、はねたりしていました。でも、空の真ん中あたりには、まだ少しばかり青いところがありました。そのまわりは、ひどい暴風雨《あらし》のときのように、真っ赤になっていました。
漁夫は、すっかり気おくれしてしまって、びくびくしながら、そこに立ちすくんでしまったのでした。
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「ちびさん、ちびさん、ティムペ テ
海のなかのひらめさん、ひらめさん、
わしのにょうぼのイルゼビル、
わしの言うこと聞かなんだ」
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また漁夫がそう言いますと、
「へえ、おかみさん、いったい、なにがほしいんです?」と、ひらめが言いました。
「ああ、かみさんときたら、法王になりたいというんだよ」
「帰ってみてごらんなさい。おかみさんは、もう、そのとおりになってますよ」と、ひらめは言うのでした。そこで、漁夫は、帰っていきました。戻ってみますと、大きな教会堂のような建物が建っていまして、それをとりまいているのは、どれも宮殿ばかりでした。大勢の人びとのあいだを押しわけて、なかに入ってみますと、なん千というろうそくで、なにもかもが赤あかと照らし出されていました。
おかみさんは、金ずくめの衣《ころも》を着て、まえよりずっと高い玉座にすわっていました。頭には、三重の黄金の冠をのせていました。おかみさんのまわりには、盛装をしたたくさんの僧侶たちがいました。おかみさんの両側には、ろうそくが二列に並んでいて、いちばん大きいのは、世界じゅうでいちばん大きい塔ほども大きく、どっしりとしていました。そのろうそくが順に並んで、いちばん小さいのは、台所のろうそくほどの小さいものでした。
皇帝という皇帝が、王さまという王さまが、おかみさんのまえにくると、膝をついて、おかみさんの上履《うわば》きにキスするのでした。
漁夫は、おかみさんをまじまじと見つめてから、言いました。
「おまえ。おまえ、法王になったのかね?」
「そうよ。わたしは、法王よ」
そこで漁夫は、そばにいって、じろじろと見まわしたのでした。まるで、明るい太陽をのぞきこむような思いでした。それからしばらく、そんなふうに見まわしてから、漁夫は言いました。
「ねえ、おまえ、法王になったりして、さぞかしいい気持ちだろうね!」
ところが、おかみさんは、木のようにこちんこちんになっていて、身動きひとつしなかったのです。
それで、漁夫はこう言ってやったのです。
「ねえ、おまえ、おまえは法王になったのだ、今度はそれで満足しなさいよ。なにしろ、もうこれ以上、おまえのなれるものはなんにもないのだからね」
「そのことは、よく考えてみることにしましょう」と、おかみさんは言いました。こうして、ふたりは寝ることにしたのですが、おかみさんは満足できません。
強欲《ごうよく》なおかみさんは、眠ることもできずに、今度はなんになってやろうかと、考えつづけたのでした。
漁夫のほうは、ぐっすりと眠りこんでしまいました。昼間さんざん走りまわらされたからです。
ところで、おかみさんのほうは、眠ることもできずに、夜どおし、右を向いたり左を向いたり、寝がえりをうっては、今度はなんになれるかしらと、そのことばかり考えつづけていたのです。けれども、なにひとつ思いつきません。
そのうち、太陽が昇りはじめました。東の空が赤くなるのを見ると、おかみさんは寝台の上にきちんとすわって、じっと見つめていました。そして、太陽が昇ってくるのを、窓ごしに見たそのときです。おかみさんはふと考えたのでした。
「そうだ、わたしにだって、太陽や月を空に昇らせてやることぐらいできるんじゃないかな?」
「ねえ、あんた」と、おかみさんは言って、漁夫のあばら骨を、肘《ひじ》でどんと小突《こづ》いたのです。「起きなさいよ。ひらめのところにいってきてよ。わたしはね、神さまみたいなものになりたいんだよ」
漁夫は、まだ寝ぼけまなこでぼんやりしていました。それでも、びっくりたまげてしまって、ベッドから転《ころ》げ落ちてしまったのです。たぶん聞きちがえたのだろうと思って、漁夫は目をこすりこすり言いました。
「ええっ、おまえ、いまなんて言ったんだ?」
すると、おかみさんが言いました。
「わたしはね、太陽や月を昇らせることもできないでいるなんて、とても我慢できないんだよ。自分の力で昇らせることができないなんて、もう一時《いっとき》も落ち着いてはいられないのさ」
そう言いながら、おかみさんは、漁夫のほうをいやな目でじろりと見たのです。漁夫はぞっと身ぶるいしました。
「すぐいってきて、わたしはね、神さまみたいなものになりたいんだよ」
「ねえ、おまえ」と、漁夫はそう言うなり、おかみさんのまえにひざまずきました。「そんなこと、ひらめにはできやしないよ。皇帝や法王はできたけれどね。お願いだ、いまのままで我慢して、法王でいてくれよ」
すると、おかみさんは腹を立てました。髪の毛が頭のまわりに逆立《さかだ》ち、おかみさんは怒鳴りました。
「我慢できないんだよ! もう、わたしには、我慢できないんだよ! あんた、いってきてくれるの?」
そこで、漁夫は、急いでズボンをはくと、気が狂ったように駆け出していきました。
ところが、そとは暴風雨《おおあらし》で、荒れ狂っていました。それはひどい荒れようで、立っていることもできないくらいでした。家や木は、風で倒れてしまい、山は揺れ、岩は海のなかにごろごろと転げ落ちました。空はべっとりと真っ黒になっていました。雷が鳴りひびき、稲妻《いなずま》が光ります。海には、教会の塔のような、山のような真っ黒な高波が立って、その高波のどの波頭《あたま》にも白い泡沫《あわ》が立っていました。
漁夫は大声で叫びました。でも、漁夫には、自分の言った言葉が聞こえませんでした。
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「ちびさん、ちびさん、ティムペ テ
海のなかのひらめさん、ひらめさん、
わしのにょうぼのイルゼビル、
わしの言うこと聞かなんだ」
[#ここで字下げ終わり]
「へえ、おかみさん、いったい、なにがほしいんです?」と、ひらめが言いました。
「ああ、かみさんときたら、神さまみたいになりたいというんだよ」
「帰ってみてごらんなさい。おかみさんは、もう、もとどおりの掘っ建て小屋にすわっていますよ」
こうして、漁夫とおかみさんとは、それからずっと、今日《こんにち》なってもその掘っ建て小屋にすわっているのです。
[#改ページ]
灰かぶり《シンデレラ》
ある金持ちの奥さんが、病気にかかりました。最後の日が近づいたなと悟《さと》ったとき、奥さんはひとり娘を枕もとに呼びました。
「ねえ、神さまを信じて、いい子でいるんですよ。そうすれば、神さまはいつでもそばにいてくださるからね。お母さんだって、天国から、見まもっていてあげますからね」
こう言うと、母親は、目を閉《と》じて、息をひきとってしまいました。娘は、毎日母親のお墓にいっては、泣いていました。そしていつまでも、神さまを信じていた、善良な娘でありました。
冬がきて、母親のお墓が白い雪の布でおおわれましたが、やがて春ともなって、太陽が雪の布を取りはずしたころ、お金持ちは二度目の奥さんを迎えました。
二度目の奥さんは、娘をふたり連れてきました。
この娘たちは、色白で、きれいな顔をしていましたが、心のほうはみにくくて、腹黒でした。こうして、気の毒なまま娘《こ》には、つらい毎日が始まったのでした。
「この、まぬけのばか娘を、わたしたちといっしょの部屋にいさせといて、いいもんかしらね! パンが食べたかったら、自分でかせがなくちゃね。おさんどんなんか、出ておいき!」
そう言って、娘たちは、まま娘のきれいな服をぬがせると、ねずみいろの古くさいうわっぱりを着せて、足には木靴をはかせました。
「まあ、見てごらんよ。高慢《こうまん》ちきなお姫さま、たいしたおめかしだこと!」
娘たちは、そんなふうにあざけりながら、まま娘を台所へ連れていきました。
こうして、朝から晩まで、まま娘はつらい仕事をしなければならなくなったのです。朝は早く、陽《ひ》が昇るまえに起きて、水を汲《く》んだり、火を起こしたり、お料理や洗濯もしなければなりませんでした。
そのうえ、娘たちは、ああだこうだといろいろ考えては、まま娘をいじめて、からかうのでした。娘たちが、えんどう豆やレンズ豆を、灰のなかにばらまくと、まま娘はうずくまって、もう一度その豆をえりわけなくてはならないのでした。
夜になって、もうへとへとに疲れきっていても、ベッドには寝られずに、かまどのそばの灰のなかにごろ寝をしなくてはなりませんでした。
こんなわけで、まま娘はいつも灰だらけ、きたならしいようすをしていたので、娘たちはまま娘のことを「灰かぶり」と呼ぶのでした。
ある日のこと、父親が市場に出かけようとして、ふたりの娘たちに、おみやげにはなにがいいか、とたずねました。
「きれいな服がいいわ」
そう娘のひとりが言いますと、もうひとりの娘は言うのでした。
「わたしは、真珠と宝石ね」
「ところで、灰かぶり、おまえはなにがほしいのだね」と、父親がたずねると、灰かぶりは言いました。
「お父さん、帰り道で最初にお父さんの帽子にぶつかった小枝を、わたしのために折ってきてくださいね」
こうして父親は、ふたりの娘に、きれいな服と、それから真珠と宝石とを買って、帰ってきましたが、その帰り道、緑の木立《こだ》ちのなかを馬に乗っていくと、はしばみの小枝に当たって、帽子が落ちてしまいました。そこで、父親はその小枝を折り取って、持ち帰ってきました。
家に着くと、父親は、娘たちにほしがっていたものを渡してやり、灰かぶりには、はしばみの小枝をやりました。灰かぶりは、父親に礼を言ってから、母親のお墓にいきました。お墓のところに小枝を植えると、灰かぶりはおいおいと泣きました。涙がはしばみの小枝にかかると、小枝はみるみる大きくなって、一本の、立派な木になったのです。
灰かぶりは、毎日三回その木の下に出かけていっては、涙を流して、お祈りをしたのでした。すると、そのたびに一羽の白い小鳥が飛んできて、その木にとまりました。そして、灰かぶりが願いごとをすると、灰かぶりのほしがっているものを、小鳥は投げ落としてくれるのでした。
さて、その国の王さまが、舞踏会を開くことになりました。その舞踏会は、三日間つづくことになっていました。国じゅうの美しい娘たちが、誰もかれも招かれたのですが、それは、王子さまが花嫁をさがすためであったのです。
ふたりの娘は、自分たちもこの舞踏会に出られると聞いて、大喜び、灰かぶりを呼びつけて、言いました。
「さあ、わたしたちの髪をすいてちょうだい。靴もみがくのよ。それから靴の留《と》め金を、しっかりかけといておくれ。わたしたち、王さまのお城で開かれる舞踏会にいくんだからね」
灰かぶりは言われるとおりにしていましたが、泣いていたのです。灰かぶりも、いっしょに踊りにいきたかったからです。それで、灰かぶりは、まま母に、連れていってほしいと頼《たの》んだのでした。
「おまえはね、灰かぶり、ほこりだらけで、きたないんだよ。それなのに、お祝いの宴《えん》にいきたいだなんて。服だって、靴だって、ないくせにさ、踊ろうだなんて!」
それでも灰かぶりが、頼みつづけてやめなかったので、とうとうまま母もこう言うのでした。
「さあ、レンズ豆を鉢《はち》いっぱい灰のなかにまいといたよ。二時間のうちに、豆を拾い出したら、いっしょに連れていくよ」
灰かぶりは、裏口から庭へ抜け出すと、大声で言いました。
「おとなしい小鳩さんに、きじ鳩さん。世界じゅうの小鳥さん、飛んできて、お豆拾いをてつだって!
おいしいお豆は 鉢のなか、
まずいお豆は 胃袋に」
すると、二羽の、白い小鳩が台所の窓から飛びこんできました。それから、きじ鳩もきました。そして最後には、大空の小鳥たちがみんな、ひゅうひゅう、ばたばた飛びこんできて、灰のまわりにおりてきました。
小鳩たちが、頭をふりふり、こつこつ、こつこつ、つつきはじめると、ほかの鳥たちも、こつこつ、こつこつ、つつきはじめて、おいしい豆をぜんぶ鉢のなかに、拾い集めました。一時間もたたないうちに、すっかり拾いあげると、鳥たちはまたそとに飛んでいきました。
そこで、灰かぶりは、まま母のところに鉢を持っていきました。これで、舞踏会に連れていってもらえると思うと、灰かぶりは嬉しくてたまりません。
ところが、まま母は言うのです。
「だめだよ、灰かぶり、おまえには服だってないし、それにおまえは踊れないんだろう。笑われるだけだよ」
灰かぶりは、泣き出しました。すると、まま母はこう言うのです。
「こんどは、一時間のうちに、鉢二杯ぶんのレンズ豆を、灰のなかから、ぜんぶ拾い出すんだよ、そしたら、いっしょに連れていくよ」
でも、まま母は、心のなかでは「ぜったい、できるもんか」と、思っていたのです。まま母は、レンズ豆の鉢を二杯、灰のなかにばらまきました。すると、灰かぶりは裏口から庭に抜けて、大声で言いました。
「おとなしい小鳩さんに、きじ鳩さん。世界じゅうの小鳥さん、飛んできて、お豆拾いをてつだって!
おいしいお豆は 鉢のなか、
まずいお豆は 胃袋に」
すると、二羽の、白い小鳩が台所の窓から飛びこんできました。それから、きじ鳩もきました。そして最後には、大空の小鳥たちがみんな、ひゅうひゅう、ばたばた飛びこんできて、灰のまわりにおりてきました。
小鳩たちが、頭をふりふり、こつこつ、こつこつ、つつきはじめると、ほかの鳥たちも、こつこつ、こつこつ、つつきはじめて、おいしい豆をぜんぶ鉢のなかに、拾い集めました。半時間《はんとき》もたたないうちに、すっかり拾いあげると、鳥たちはまたそとに飛んでいきました。
そこで、灰かぶりは、まま母のところに鉢を持っていきました。これで、舞踏会に連れていってもらえると思って、灰かぶりは嬉しくてたまりません。
ところが、まま母は言うのです。
「なにをしたって、なんにもなりゃしないんだよ。おまえはね、服だってないし、それに踊れないんだろ。おまえのことで、わたしたちまでいい恥かかされるんじゃね」
灰かぶりに背を向けると、まま母は、高慢ちきなふたりの娘を連れて、さっさと出かけてしまいました。
家のなかに誰もいなくなると、灰かぶりは母親のお墓にいって、はしばみの木の下で、大きな声で言いました。
「若木さん、からだをゆすって、ゆすって、
わたしの上に 金や銀をまいておくれ」
すると、あの鳥が、金と銀の糸で織った服と、絹糸と銀糸でししゅうした上靴《うわぐつ》を投げてよこしました。灰かぶりは、大急ぎでその服を着て、舞踏会に出かけていきました。
まま母と娘たちは、それが灰かぶりだとは気づかずに、よその国のお姫さまにちがいないと思ったのです。金糸銀糸で織った服を着た灰かぶりは、そんなにも美しく見えたのです。それが灰かぶりなどとは思いもよらず、いまごろは家で、ほこりまみれになって、灰のなかからレンズ豆でもさがしているものと、娘たちは思っていたのです。
王子さまは、灰かぶりを迎えにきました。灰かぶりの手をとると、いっしょに踊りはじめました。王子さまは、ほかの誰とも踊ろうとはしません。灰かぶりの手をにぎって、はなしません。ほかの人がきて、灰かぶりに申しこんでも、「このひとは、ぼくの相手だ」と言うのでした。
踊っているうちに、夕方になりました。そこで、灰かぶりは家に帰ろうとしたのです。ところが、王子さまは、
「ぼくもいっしょに、送っていってあげよう」と、言いました。
王子さまは、この美しい娘が、どこの誰なのか、見とどけたかったのです。ところが、灰かぶりは、王子さまからするりとのがれると、鳩小屋のなかにとびこみました。
王子さまが待っていると、父親がやってきました。そこで、王子さまが、
「よその娘が、鳩小屋にとびこんだのですよ」と、言うと、年をとったその父親は、「灰かぶりかもしれんぞ」と、思ったのです。父親は、鳩小屋をたたきこわすために、斧《おの》とつるはしとを持ってこさせました。
けれども、小屋のなかには誰もいません。みんなが、家のなかに入ってみると、灰かぶりは、いつものきたない服を着て、灰のなかにうずくまっていました。煙出《けむだ》しの下には、石油ランプが、うすぼんやりと燃えていました。
そうなのです、灰かぶりは、鳩小屋の裏から素早くとび出すと、はしばみの木のところまで走っていったのです。それから、きれいな服をぬいで、お墓の上に置くと、いつもの鳥が、どこかへ持っていったのです。そこで灰かぶりは、ねずみいろのうわっぱりを着て、台所の灰のなかに、すわっていたのでした。
そのつぎの日です。また舞踏会が始まりました。両親と娘たちが出かけてしまうと、灰かぶりは、はしばみの木のところにいって、大声で言いました。
「若木さん、からだをゆすって、ゆすって、
わたしの上に 金や銀をまいておくれ」
すると、あの鳥が、きのうの服よりも、ずっと素敵な服を投げてくれました。そして、灰かぶりが、この服を着て、舞踏会にあらわれると、あまりの美しさに、誰もが目を見張るのでした。
灰かぶりがあらわれるまで、王子さまはずっと待っていましたが、さっそく手をとって、灰かぶりとばかり踊りました。ほかの人たちがきて、灰かぶりに申しこんでも、「このひとは、ぼくの相手だ」と、言うのでした。
夕方になって、灰かぶりは帰ろうとしました。すると、王子さまは、あとをつけてきて、灰かぶりがどの家に入っていくのか、見とどけようとしました。灰かぶりのほうは、王子さまからのがれると、家の裏庭にとびこみました。
そこには、立派な大木《たいぼく》が一本あって、みごとな梨《なし》の実がなっていました。灰かぶりが、りすのようにすばしこく、枝のあいだをよじのぼっていったので、王子さまは、どこへ灰かぶりがいってしまったのか、わからなくなってしまったのです。
けれども王子さまは待っていました。そこへ父親がやってきたので、王子さまは言いました。
「あの娘に逃げられてしまったのです。この梨の木に、とびあがっていったらしいのです」
「灰かぶりかもしれんぞ」と、父親は思って、斧を持ってこさせ、梨の木を切り倒しました。しかし、影もかたちもありません。
みんなが、台所にいってみますと、灰かぶりは、いつものように灰のなかにうずくまっていました。
そうなのです、灰かぶりは、木の反対側にとびおりると、はしばみの木にとまっていた鳥に、きれいな服を返して、ねずみいろのうわっぱりをもらって、着ていたというわけなのです。
三日目のことです。両親と娘たちが出かけてしまうと、灰かぶりは、母親の墓のところにいって、はしばみの木に言いました。
「若木さん、からだをゆすって、ゆすって、
わたしの上に 金や銀をまいておくれ」
すると、あの鳥が、服を投げてよこしました。それは、いままでに誰も着たことのないようなもので、輝くばかりの素敵な服でした。それに、上靴《うわぐつ》はそっくりそのまま金でした。
灰かぶりが、この服を着て、舞踏会にやってくると、みんなは、驚きのあまり、どう言っていいものかわからなかったのです。王子さまは、灰かぶりとだけしか踊りませんでした。誰かが申しこんでも、「このひとは、ぼくの相手だ」と、言うのでした。
夕方になりました。灰かぶりが帰ろうとすると、王子さまは送っていこうとしたのです。ところが、灰かぶりはするりと逃げてしまって、王子さまはついていくことができません。
ところが、王子さまは、ずるい手を使っていたのです。というのは、階段のひとつひとつに、ねばねばする『やに』をぬらせておいたのでした。それで、灰かぶりが階段をかけおりていったとき、左の上靴《うわぐつ》がくっついてしまったのです。王子さまが、その上靴を取りあげてみると、小さくて、かわいらしい、金むくの靴でした。
そのあくる朝です。王子さまは、その靴を持って、あの金持ちの男のところにいって、言いました。
「この金の靴が、ぴったりあう人でなければ、ぼくはお嫁にもらわない」
これを聞くと、ふたりの姉娘たちは喜びました。ふたりとも、きれいな足をしていたからです。
上の娘が、その靴を持って部屋に入り、はいてみようとしたのです。まま母もそばについていました。けれども、親指が大きくて、足がうまく入りません。靴が小さすぎたのです。
そこで、まま母は、娘に小刀《こがたな》を差し出して、言いました。
「親指なんか、ちょん切っておしまい。お妃《きさき》になったら、歩くことなんかいらないんだから」
姉娘は、親指を切り落とすと、むりやり足を靴のなかに押しこみました。それから、痛くても我慢《がまん》して、王子さまのところに出ていきました。王子さまは、この姉娘が花嫁だと思って、馬に乗せ、いっしょに出かけていきました。
ところが、ふたりは、どうしてもあのお墓のそばを通っていかねばなりません。ちょうどそこにさしかかったとき、はしばみの木にとまっていた二羽の小鳩が、呼びかけたのです。
「クックックー、見てごらん、
くつのなかは 血だらけだ。
くつが小さすぎるのだ。
ほんとうの花嫁は まだ家のなか」
王子さまが、娘の足もとを見ると、なんと血がふき出しているではありませんか。王子さまは、馬の向きをくるりと変えると、にせの花嫁を家に連れて帰りました。そして、王子さまは言いました。
「この娘は、ほんとうの花嫁ではない。もうひとりの娘に靴をはかせてみせてもらいたい」
妹娘が部屋に入っていきました。指のほうはうまく靴に入ったのですが、かかとが大きすぎました。そこで、まま母が小刀を渡して、言いました。
「かかとを少しけずっておしまい。お妃になったら、歩くことなんかいらないんだから」
妹娘は、かかとを少しけずり取ると、むりやり、足を靴のなかに押しこみました。それから、痛いのも我慢して、王子さまのところに出ていきました。王子さまは、この妹娘が花嫁だと思って、馬に乗せ、いっしょに出かけていきました。
ふたりが、はしばみの木のそばを通りかかったとき、はしばみの木にとまっていた二羽の小鳩が、呼びかけたのです。
「クックックー、見てごらん、
くつのなかは 血だらけだ。
くつが小さすぎるのだ。
ほんとうの花嫁は まだ家のなか」
王子さまが、娘の足もとを見ると、なんと血がふき出しているではありませんか。白い靴下は、上のほうまですっかり真っ赤に染まっていました。そこで、王子さまは、馬の向きをくるりと変えると、にせの花嫁を家に連れて帰りました。
「この娘も、ほんとうの花嫁ではない。ほかに娘さんはいないのですか」
と、王子さまがたずねると、それに父親が答えるのでした。
「いいえ、おりません。ただ、死んだ女房《にょうぼ》の娘で、ちびで役立たずの、灰かぶりというのがおりますが、花嫁なんぞになれるわけがございません」
王子さまが、その娘を連れてくるようにと言いますと、今度は、まま母が言いました。
「まあ、とんでもない。とてもきたなくて、お目どおりさせるわけにはまいりません」
けれども、王子さまが是非《ぜひ》ともと望まれたので、灰かぶりは、呼び出されることになったのです。それで、灰かぶりは、まず手と顔とをきれいに洗ってから、王子さまのまえに出て、おじぎをしました。王子さまは、灰かぶりに金の靴を渡しました。灰かぶりは、足台《あしだい》をおろしてから、重たい木靴をぬいで、金の靴をはいてみました。なんとぴったりでした!
灰かぶりは、すっくと立ちあがりました。王子さまは、その灰かぶりの顔を見たとき、これこそ、自分といっしょに踊ったあの美しい娘だとわかったのです。
「このひとこそ、ほんとうの花嫁だ!」
と、王子さまは、大きな声で言いました。
まま母と、ふたりの娘たちとは、びっくり仰天《ぎょうてん》、真っ青になって怒りましたが、王子さまは、灰かぶりを馬に乗せると、さっさとその場を立ち去っていきました。そして、ふたりが、はしばみの木のそばを通りかかると、二羽の白い小鳩が、大きな声で言いました。
「クックックー、見てごらん、
血なぞ くつにはありゃしない。
くつは 小さすぎゃしないもの。
ほんとうの花嫁 連れてお帰りだ」
言い終わると、二羽の小鳩は、飛びおりてきて、灰かぶりの右と左の両肩に、一羽ずつとまりました。こうして、ずっと肩にとまったままでした。
王子さまとの結婚式があげられることになったとき、意地悪の姉娘と妹娘とがやってきました。その幸運にあやかろうと、おべっかを使うのです。花婿《はなむこ》と花嫁とが、教会に向かうとき、姉娘は右側に、妹娘は左側に付き添っていきました。そこに、鳩が飛んできて、娘たちの片目をひとつずつくり抜いてしまったのです。
それから式が終わって、ふたりがそとに出てきたとき、姉娘は左側に、妹娘は右側に付き添っていました。すると、またあの鳩が飛んできて、娘たちのもう一方の片目をひとつずつくり抜いてしまったのです。
こうして、ふたりの姉娘たちは、自分たちが意地悪をして、嘘《うそ》をついた罰《ばつ》として、死ぬまで目のみえないまま暮らすことになりました。
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ホレのおばさん
主人を亡《な》くした女の人がおりました。その女の人に、ふたりの娘がおりまして、そのうちのひとりは、きれいな娘で、働きものでした。もうひとりは、みにくいうえに、怠《なま》けものの娘でした。女の人は、みにくいうえに、怠けものの娘のほうをかわいがっていました。自分のほんとうの娘だったからです。
もうひとりの娘は、どんな仕事もひとりでやって、家じゅうの灰かぶりになって働かねばならなかったのです。かわいそうなこの娘は、毎日のように、通りばたの井戸のそばにすわって、指から血の出るほど、たくさんの糸を紡《つむ》がねばなりませんでした。
あるとき、糸巻きが血だらけになったので、娘は井戸のなかにかがみこんで、糸巻きについた血を洗い落とそうとしました。ところが、糸巻きが手から飛び出して、井戸のなかに落ちてしまったのです。
娘は泣きながら、まま母のところに走っていって、困ったことをしてしまいました、と言いました。ところが、まま母はひどく娘を叱りつけ、情《なさ》け容赦《ようしゃ》もなく、こう言うのでした。
「糸巻きを落としたのはおまえだもの、おまえが取ってくるんだね」
娘は、井戸のところに引きかえしましたが、さて、どうしたらいいものか、わかりません。心配のあまり、娘はどうしても糸巻きを取ってこようと、井戸のなかに飛びこんだのでした。
娘は気を失ってしまいました。けれども、目をさまして、われに返ると、娘は美しい野原に出ていました。そこは、太陽が輝き、なん千という花が咲いている野原でした。娘は野原を歩いていきました。すると、パン焼きがまのところに出ました。かまには、パンがいっぱい詰《つ》まっていて、パンが大声で叫んだのです。
「ああ、わたしを出して、わたしを出して。出してくれないと、焼け死んじゃうわ。もうとっくに、焼けてるのよ」
娘は、そばにいって、パン焼き『へら』で、パンをつぎつぎにそとへ出してやりました。それから、もっと歩いていくと、一本の木のところに出ました。その木には、林檎《りんご》が鈴なりです。そして、娘に呼びかけました。
「ああ、わたしをゆすって、わたしをゆすって。わたしたち、林檎はみんな熟しているの」
娘は、木をゆすぶりました。林檎は、雨が降るように、ばらばらと落ちてきました。木の上に、林檎の実ひとつなくなるまで、娘はゆすぶりました。落ちた林檎を山に積みあげてから、娘はまた先へと歩いていきました。
とうとう、小さな一軒家のところにきました。家のなかから、おばあさんが顔を出して見ていました。おばあさんは、とても大きな歯をしていたので、娘はこわくなって、逃げ出そうとしました。すると、おばあさんは、うしろから大きな声で呼びとめました。
「娘や、なんでこわがるんかね? わたしのところにおいでよ。家の仕事を、なにもかもきちんとやってくれたら、このおばあさんが、おまえを幸《しあわ》せにしてあげるがね。いいね、わたしのベッドをきちんとこしらえてね、羽布団《はねぶとん》をていねいにふるってさ、羽根《はね》が飛んでいくように気をつけてやってくれさえすりゃいいのだよ。そうすりゃ、人間の世界に雪が降るというものさ。わたしは、ホレのおばさんというんだよ」
おばあさんがとてもやさしく話しかけてきたので、娘は決心して、おばあさんの言うとおり、働くことにしました。
娘は、なにもかもおばあさんの気に入るようにしました。いつでも、力いっぱい羽布団をふるったので、羽毛は雪のように飛びちりました。そのかわり、娘のほうもおばあさんのところで、楽しく暮らしたのでした。叱られることもありません。毎日、煮《に》たものや焼いたものも、食べさせてもらいました。
こうして、しばらくのあいだ、娘はホレのおばさんのところにいましたが、だんだん悲しくなってきたのです。初めのうちは、自分がどうかしたのか、自分でもわからなかったのですが、故郷《うち》が恋しくなったせいだとわかったのです。故郷にいるより、ここにいたほうが、ほんとうはなん千倍も幸せなのに、やっぱり故郷が恋しくなったのです。とうとう、娘はそのことを、ホレのおばさんに打ち明けたのでした。
「わたしは、家に帰りたくて、帰りたくてたまらなくなったのです。地下《した》のここにいれば、幸せなことはわかっていますが、もうこれ以上は長くいられません。あの地上《うえ》のみんなのところに帰らねばなりません」
すると、ホレのおばさんは、言いました。
「家へ帰りたくなったのは、いいことだと思うよ。ほんとうによくつかえてくれたから、わたしが地上に連れていってあげよう」
そう言うと、おばあさんは娘の手を引いて、大きな門のまえに連れていきました。
門があきました。娘がちょうど門の真下に立ったときです。金の雨がはげしく降ってきました。そして、金という金が娘のからだにぶらさがったので、娘はすっかり金につつまれたのでした。
「おまえは、よく働いてくれたからね、それはおまえにあげるよ」
ホレのおばさんは、そう言って、それから、井戸に落ちたあの糸巻きも、娘に返してくれました。
門がしまりました。すると、もう娘は地上の人間の世界に戻っていたのです。しかも、まま母の家から、ほど遠くないところでした。娘がうちに入ろうとすると、
「こけこっこー、
金のお嬢さんのお帰りだ」
と、井戸の上にいたおんどりが、大声で鳴きました。
娘は、なかに入って、まま母のところにいきました。なにしろ、からだじゅう金をつけていたので、娘は、まま母からも、妹からも大歓迎をうけたものです。
娘は、自分のしてきたことをすっかり話しました。この娘がたいへんな大金持ちになったことを聞くと、まま母は、みにくいうえに怠けものの娘も、おなじように幸せにしてやりたいと思いました。
そこで、妹娘は井戸のそばにすわって、糸を紡ぐことになったのです。糸巻きを血だらけにするために、娘は指をついてみたり、手を茨《いばら》の生け垣に突っこんでみたりしました。それから、糸巻きを井戸のなかに投げいれて、自分も飛びこんだのでした。
妹娘は、姉娘とおなじように、美しい野原に出ました。それから、おなじ道を歩いていきました。パン焼きがまのところにくると、
「ああ、わたしを出して、わたしを出して。出してくれないと、焼け死んじゃうわ。もうとっくに、わたしは焼けてるの」と、パンが大声で呼びかけたのです。
ところが、怠けものの妹娘は、
「わたし、よごれるなんていやなの」と、言って、さっさっといってしまいました。
やがて、林檎の木のところにきました。林檎の木は、大声で言いました。
「ああ、わたしをゆすって、わたしをゆすって。わたしたち、林檎はみんな熟しているの」
ところが、妹娘は言いました。
「じょうだんじゃないわよ。頭にぶつかるかもしれないじゃないの」
そう言い捨てて、さっさといってしまいました。そして、ホレのおばさんの家のまえにきても、妹娘はすこしもこわがりませんでした。ホレのおばさんの大きな歯のことは、もう聞いて知っていたからです。
妹娘も奉公することになりました。初めの日は、おとなしくして、ホレのおばさんになにか言われると、ちゃんとそのとおり、精を出して働きました。どっさり金がもらえるものと思っていたからです。
けれども、つぎの日には、もう怠けはじめたのです。三日目は、もっと怠けて、朝になっても起きようとしません。ホレのおばさんのベッドをきちんとなおすのがあたりまえなのに、それもしないし、羽毛が舞いあがるようにと羽布団をふることもしませんでした。
ホレのおばさんも、それにはもういやになって、やめてほしい、とことわりました。怠けものの妹娘は、大喜び、いよいよ金の雨が降ってくるものと思ったのです。
ホレのおばさんは、この妹娘を門のところへ連れていきました。ところが、妹娘が、門の下に立つと、金のかわりに、大きな鍋《なべ》いっぱいの瀝青《タール》を浴びせられたのでした。
「これが、奉公してくれたおまえが貰《もら》うごほうびだよ」
ホレのおばさんは、そう言って、門をしめてしまいました。
怠けものの妹娘は、家に帰りましたが、からだじゅうに瀝青《タール》がべっとりついていました。井戸の上にとまっていたおんどりが、大声で鳴きました。
「こけこっこー、
きたないお嬢さんのお帰りだ」
それから瀝青は、妹娘のからだにべっとりとついたまま、生きているあいだは、それがとれそうにもありませんでした。
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赤ずきん
むかし、ひとりのかわいらしい小さな娘がいました。それは、とてもかわいらしくて、ひと目見ただけで、誰もこの娘が好きになってしまうのでした。ことさら、おばあさんのかわいがりようといったら、たいへんなもので、この子にはいったいなにを贈ってやったらいいものか、いつも困りはててしまうのでした。
あるとき、おばあさんは赤いビロードのずきんを、この娘に贈ってやったのです。このずきんがまたとてもよく似合ったので、娘はこのずきんばかりかぶっていました。それで、みんなは、この娘を、赤ずきん、赤ずきんと呼ぶようになったのです。
ある日のこと、母親が赤ずきんに言いました。
「さあ、赤ずきんや、ここにあるお菓子と、ぶどう酒を一本、おばあさんのところへ持っていくのよ。おばあさんは病気で、元気がないでしょう。これを食べれば、元気になるわ。暑くならないうちに、出かけなさいね。そとへ出たら、おりこうにして、歩いていくんですよ。道草なんかしちゃいけませんよ。そんなことすると、ころんで瓶《びん》を割ったりして、おばあさんになんにもあげられなくなるからね。それから、おばあさんの家のお部屋に入ったら、おはようございます、と言うのよ、忘れないでね。それに、入ってすぐ、きょろきょろお部屋のなかを見まわしたりしちゃだめよ」
「ちゃんとお使いしてくるわよ」
と、赤ずきんは、母親に言って、そうすることを約束しました。
ところで、おばあさんは、村から半時間《はんとき》ほどはなれた、森のなかに住んでいました。そして赤ずきんが、森にさしかかったときでした。狼にばったり出会ったのです。けれども、赤ずきんは狼がどんなに恐ろしい動物《けもの》なのか、なにも知らないので、狼なんかこわいとも思いませんでした。
狼が赤ずきんに、話しかけました。
「こんにちは、赤ずきんちゃん」
「あら、こんにちは、おおかみさん」
「赤ずきんちゃん、こんなに早く、どこへ出かけるの?」
「おばあさんのところよ」
「エプロンの下に、なに持ってるの?」
「お菓子とぶどう酒よ。きのう、うちでね、このお菓子焼いたの。病気で、弱っているおばあさんに食べてもらって、元気をつけてもらうのよ」
「赤ずきんちゃん。ところで、おばあさんのお家《うち》ってどこにあるの?」
「森のなかよ。あと、十五分ばかりいったところね。大きな樫《かし》の木が三本あって、その下におばあさんの家があるの。はしばみの生垣《いけがき》があるわ。ほら、知ってるでしょう」
赤ずきんがそんなことを言っていると、狼は黙って、こんなことを考えていたのです。
「やわらかそうな小娘だわい。こりゃ、脂肪《あぶら》の乗ったご馳走だ。こっちのほうが、ばあさんよりも、うまそうだぞ。そうだ、ばあさんもこいつも、ふたりともぱくついてやるとしよう。それにゃ、ひとつ、だまくらかしてやらにゃなるまい」
そこで、狼は、赤ずきんと並んで歩いていきましたが、しばらくすると、こう言いました。
「赤ずきんちゃん、まあ、ちょっと、ごらんよ、そこらじゅう、きれいな花が咲いているじゃないか。どうして見ないのさ? 赤ずきんちゃんには聞こえないんだね、小鳥たちのあのかわいらしい歌ごえ。わき目もふらずにさ、さっさと歩いていったりして、学校にでもいくみたいだね。森のなかは、こんなにうきうきしているのにさ」
赤ずきんは、目をあげて、上を見ました。木のあいだからは陽《ひ》の光がもれて、ちらちらとダンスをしています。それに、きれいな花が、そこらじゅういっぱい咲いていました。
「そうだわ、つみたてのお花で、花束をつくって、おばあさんに持っていってあげよう。きっと、おばあさん、喜ぶわ。まだ、こんなに早いんですもの、花をつんでも、だいじょうぶ、遅くなんかならないわ」
赤ずきんは、そんなふうに考えると、花をさがしに、横道にそれて、ずんずん森の奥に入っていってしまいました。花を一本つむと、もっとさきには、もっときれいな花が咲いているような気がしてきました。花をさがしていくうちに、赤ずきんは、ますます深く森の奥に入りこんでしまったのです。
ところが、狼のほうは、そのまま、まっすぐおばあさんの家へいって、とんとん、とんとん、と戸口をたたきました。
「どなたですか?」
「あたしよ、赤ずきんよ。お菓子とぶどう酒持ってきたわ。あけてちょうだい」
おばあさんは、大きな声でいいました。
「取《と》っ手《て》を押せばいいでしょう。もう、からだがきかなくてね、起きあがれないんだよ」
狼は、取っ手をぐいっと押しました。すると戸口がぱっとあいたのです。狼は、なにも言わずに、いきなりおばあさんのベッドのところにいくと、おばあさんをごくりと呑《の》みこんでしまいました。
それから、おばあさんの服を着て、ずきんをかぶると、狼は、おばあさんのベッドにもぐりこんで、ベッドのカーテンを引いておきました。
赤ずきんのほうは、まだ花をさがしまわっていたのです。そして、もう一本も持てなくなるほど花をいっぱい集めたとき、赤ずきんはふとおばあさんのことを思い出して、大急ぎでおばあさんの家に向かいました。
いってみると、おばあさんの家の戸口があけはなしになっています。赤ずきんは、不思議《ふしぎ》に思いました。部屋のなかに入ってみると、あたりのようすが、なんだかいつもとちがうのです。
「おや、どうしたのかしら。きょうは、なんか気になるわ。いつもだったら、おばあさんのところにくると、嬉しくなるのに」
赤ずきんは、そう考えて、それから大きな声で言いました。
「おはよう」
けれども、なんの返事もありません。そこで、赤ずきんは、ベッドのところにいって、ベッドのカーテンをあけました。
おばあさんは、ずきんをすっぽり顔までかぶって、ベッドに寝ていました。なんだかおかしなようすです。
「まあ、おばあさんったら、なんで大きなお耳なの」
「おまえのいうことを、よく聞こうと思ってね」
「まあ、おばあさんったら、なんで大きなお目々《めめ》なの」
「おまえがよく見えるようにと思ってね」
「まあ、おばあさんったら、なんて大きなお手々《てて》なの」
「おまえをな、うまくつかまえてやるためにだよ」
「それにしても、おばあさん、なんとも、まあ、大きなお口だこと」
「おまえを食《く》ってやるためなんだよ」
そう言うと、狼は、ベッドからぱっととび起きて、かわいそうに、赤ずきんを呑みこんでしまいました。
狼は、お腹《なか》がいっぱいになると、もう一度ベッドにもぐりこみました。それからぐっすり寝こんでしまい、やがて大きないびきをかきはじめました。
ちょうどそのとき、ひとりの猟師《りょうし》が、家のそばを通りかかったのです。
「あのばあさん、いびきをかいとるじゃないか。いったい、どうしたんだ。ようすを見なくちゃなるまい」
猟師は、そう考えると、部屋のなかに入っていきました。ベッドのまえまでくると、なんと狼が寝ているではありませんか。
「この悪い奴《やつ》め、こんなところにいたのか。さんざんさがしまわったぞ」
そう言って、猟師は、鉄砲《てっぽう》でねらいをつけようとしましたが、そのとき、ふと思いついたのです。
「狼の奴、ばあさんを食べてしまったかもしれん。まだ助けることができるかもしれんぞ」
猟師は、射《う》つのをやめて、はさみを取り出すと、眠りこんでいる狼のお腹《なか》を切りはじめました。じょきじょきと切ってみると、輝くばかりの真っ赤なずきんが見えてきました。そこでもう一度、じょきじょきと切ると、赤ずきんが飛び出してきました。
「ほんと、びっくりしたわ。狼のお腹のなかって、真っ暗なのね!」
そのあとから、年をとったおばあさんも、生きて出てきましたが、はあはあ言っていました。
ところで、赤ずきんは、大急ぎで大きな石を運んできました。そしてその石を、みんなで狼のお腹のなかに詰《つ》めこんだのです。
やがて、目をさますと、狼は、あわてて逃げていこうとしましたが、お腹のなかの石があまり重いので、その場によろけると、ばったり倒れて、死んでしまいました。
これで三人は、大喜び。猟師は、狼の毛皮をはぎ取って、家へ持って帰りました。おばあさんは、赤ずきんが持ってきたお菓子を食べ、ぶどう酒を飲むと、また元気になりました。
ところで、赤ずきんは、こう思いました。
「もう、これからは、森のなかで、けっして道草なんかしないわ。お母さんが、いけないと言ってたもん」
それから、こんな話しもあるのです。またあるとき、赤ずきんがおばあさんのところへ、お菓子を持っていったことがありました。そのとき、別の狼が話しかけてきて、赤ずきんに道草をさせようとしたのです。
ところが、赤ずきんは用心ぶかく、まっすぐさっさと歩いていきました。
そうして、おばあさんのところにくると、赤ずきんは、こう言いました。
「くる途中で、狼に会ったわ。『こんにちは』なんて言ってたけど、いやな目で、じろっと見るの。通りじゃなかったら、とっくに食べられてたわ」
「それじゃ、さあ」と、おばあさんは言いました。「狼が入ってこないように、戸をしめておこうね」
すると、まもなくのこと、狼がやってきて、とんとん、とんとん、と戸口をたたいてから、こう言ったのです。
「おばあさん、あけてちょうだいな。赤ずきんなのよ。お菓子を持ってきたわ」
しかし、おばあさんと赤ずきんとは、じっと黙っていて、戸をあけませんでした。白毛《しらが》まじりの頭をした狼は、家のまわりを、二、三度こっそりまわっていましたが、おしまいには、とうとう屋根の上に、ぴょんととび乗ったのです。
夕方、赤ずきんが家に帰っていくまで待つことにしよう。それから、そっと赤ずきんのあとをつけていって、暗《くら》やみにきたら食べてしまおう、と思ったのでした。けれども、おばあさんのほうは、狼の思っていることを、ちゃんと見抜いていたのです。
家のまえには、大きな石の槽《ふね》が置いてありました。そこで、おばあさんは赤ずきんに言いました。
「赤ずきんちゃん、水おけを取っておいで。きのうゆでたソーセージのお湯がまだあるから、そのお湯を石の槽《ふね》に入れておくれ」
赤ずきんは、大きな石の槽《ふね》がいっぱいになるまで、お湯を運んできました。さあ、ソーセージの匂《にお》いが、ぷんと狼の鼻ににおってきました。狼は、鼻をくんくんいわせながら、下のほうをのぞきこんだのです。
あんまり首をのばしすぎたので、もうからだがささえきれません。とうとう、すべり出しました。狼は、ずるずるとすべって、屋根からすとんと落ちたのです。落ちたところは、ちょうど大きな石の槽《ふね》のなか。狼は、そのままおぼれ死んでしまいました。
ところで、赤ずきんのほうは、楽しそうに、家へ帰っていきました。そしてもう誰からも意地悪をされたことはなかったということです。(完)
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解説
グリム兄弟の生涯と業績
グリム兄弟は、いわゆる『グリム童話』で有名になっているが、グリム兄弟の生涯と業績は、ほとんど知られていない。
グリム兄弟の父は、ヘッセン大侯国の、マイン河畔にあるハーナウ市に勤めていた一書記官であった。彼は、おなじヘッセン大侯国出身の一女性ドロテーアと結婚し、九人の子をもうけた。そのうちの長男ヤーコプ(一七八五年)と次男ヴィルヘルム(一七八六年)とが、いわゆるグリム兄弟である。
この兄弟の活躍した頃のヨーロッパは、激動の時代であった。一七八○年には、オーストリアのマリア・テレージアが、一七八六年にはプロイセン(プロシア)のフリードリヒ大王が没し、一七八九年にはフランス革命、以後ほぼ二十年間にわたるナポレオンの野望と挫折のドラマが展開した。ドイツの精神界においては、ゲーテ、シラーをはじめ、ヘルダーやフンボルト、その他ロマン派の人々の活躍していた時代であった。政治的には激動の時代ではあったが、精神界は、かくも豊かな黄金時代を迎えていた。
兄弟がまだ十歳に達しない頃に、父親が他界した。グリム家は貧しかったが、幸い叔母からの経済的援助をえて、その後に兄弟はマールブルク大学で法律を学ぶことになった。しかし兄ヤーコプは、文献学、言語学に興味をもちはじめ、厳密な科学的方法をとってローマ法を歴史的観察のもとで講義していたザヴィニの影響をうけ、ゲルマンの言語、ドイツ中世の歌謡の研究に専念するようになり、弟もザヴィニの感化をうけて、歴史的観察のもとでドイツ中世の研究を志すようになった。
大学での研究を終えて、パリ図書館所蔵のドイツ古文書の書写の仕事をしていたヤーコプは、一八〇六年に帰国して、ヘッセンの首都カッセルで、弟と共同の研究生活を始めた。それは中世ドイツ文献の研究であったが、それと同時に伝説と童話の蒐集をも始めたのであった。
その頃、カッセル地方は、ナポレオンによるフランス軍の占領下にあって、政情不安が続いていた。けっして裕福でなかったグリム兄弟は、家庭教師で糊口《ここう》をしのぎながら研究に没頭していた。グリム兄弟は、その当時おなじように民謡や民話を蒐集していたロマン派の作家クレメンス・ブレンターノとアヒム・フォン・アルニムの刺激を受けて、自分たちの童話蒐集にいっそうの拍車をかけることになった。兄弟によって蒐集されたグリムの『童話集』は一八一二年に、次いでその続きとしての二巻目が一八一五年に出版された。
その当時のドイツでは解放戦争が燃えあがり、一八一二年におけるナポレオンのモスクワ敗退を機に、連合軍はフランス軍を次々に撃退した。兄ヤーコプはヘッセン侯国の書記官として、退却するフランス軍を追って、パリにまで進撃した。その後は、ウィーン会議に出席、持ち去られた文献の取り戻しにパリ再訪問、ようやっと一八一五年に首都カッセルに戻り、同市の図書館の首席司書となった。この司書時代は、かなり長く続いた。
グリム兄弟は『童話集』の第二巻を刊行した後、同時に蒐集していた『ドイツ伝説集』を、一八一六年から一八一八年にかけて発表した。約五百五十篇の伝説が収められているが、そのなかには、『ローエングリーン』、『タンホイザー』、『ハメルンの笛吹き』などが含まれている。
この司書官時代に、ヤーコプは、今日のドイツ語学の基礎となった大規模な『ドイツ文法』を、一八一九年に発表した。これは四部まで続いて、遂に未完に終わったが、この文法は、ゲルマン語を四つの系列に分類して、言語の構造、音韻、造語、不変化詞などを論じ、今日の文法の基礎を築くことになった。とくに印欧語にみられる音韻移動の法則は、「グリムの法則」として評価されており、全体として不完全ともいわれるが、ドイツ文法上にみられるこの業績は高く評価されるべきであろう。
本来学者肌のヤーコプにとって、司書という煩雑な職務は、次第に耐えられないものとなってきた。そのうえ不愉快な人事問題もあって、ヤーコプはゲッチンゲン大学に赴任することになった。折りよく、ゲッチンゲン大学からの招きがあったのだ。一八三〇年のことである。
兄ヤーコプは、ゲッチンゲン大学の教授と図書館の司書を兼ね、弟ヴィルヘルムは、後に教授となるが、副司書官として勤めることになった。この時期の成果として、一八三五年、ヤーコプは『ドイツ神話学』(二巻)を発表した。こうした業績を発表することができたとはいえ、このゲッチンゲン時代に、ひとつの事件が起きた。「ゲッチンゲンの七人」事件である。
ゲッチンゲンは、ハノーファー国王の領地であった。当時、国王ヴィルヘルム四世が、平和憲法を守って国を治めていたが、一八三七年六月に王が没すると、エルンスト・アウグスト二世が、後継者として新しい国王の地位についた。しかし、この国王は、同年の十一月に民権尊重の憲法を、独断で破棄してしまった。この憲法破棄に抗議して、グリム兄弟を含む大学教授七人が抗議文を発表した。むろんグリム兄弟は追われる身となって、一八三八年には、国外退去ということになった。
兄ヤーコプは一八三八年一月に、「私の罷免《ひめん》」に関しての声明文を発表した。いうまでもなく、ドイツ諸国内での検閲は厳しく、印刷公表が不可能であったため、それはスイスのバーゼルで印刷され、四月になってドイツに広まった。不思議なことに、印刷された声明文は、禁止されることもなくゲッチンゲンでも広まった。いや、ドイツ各地では七教授支援運動さえ開始された。この声明文で、ヤーコプ・グリムは、国王のかかる独断的な民主憲法破棄は、ゲルマンの歴史上かつてみたことのない暴力であり、大学教授たるものがこの暴力に屈してよいものかと訴え、かかる暴力的な圧政のもとで、どうして青年の指導にあたりうるだろうか、いかにして理を説きうるだろうか、と公言した。
結局、グリム兄弟は、一八三八年、ふたたびカッセルに戻ってきた。その年の三月、ライプチヒのヴァイデマン書店からの依頼があって、グリム兄弟はドイツ語辞典の編纂を引き受けることになった。余生をこの仕事に捧げるために、兄弟はカッセル市に定住しようと決心したが、あまりにも反動色が強いため、やがてカッセルからの移住を秘かに考えざるをえなかった。
ところが一八四〇年になると、ロマン派の女流作家ベッティーナ・フォン・アルニムの勧めがあり、またアレクサンダー・フォン・フンボルトなどの招聘《しょうへい》も実って、プロイセン国王ヴィルヘルム四世の理解のもとで、グリム兄弟は、ベルリン大学に迎えられることになった。兄弟がベルリンに移転したのは、一八四一年であった。兄ヤーコプの講義(神話学、文法、法律基礎文献)は一八四八年まで、弟ヴィルヘルムの講義(文献学的立場からの中世文学研究)は一八五二年まで続いた。
このベルリン時代、兄弟の生活は落ち着いていたが、講義や学会の仕事、そのうえ親切な社交で多忙をきわめた。それでも学究肌の兄ヤーコプは、一八四八年に『ドイツ語の歴史』(二巻)を刊行した。例のドイツ語の辞典は、その整理ができたのが一八五〇年になってからであり、一八五四年に第一巻が出版されたが、出版社は依頼してきた出版社の弟分にあたるヒルツル書店であった。この辞典は、語義、語源、意味変遷などを詳細に記録した大規模な辞典である。一八五九年に病弱な弟ヴィルヘルムが他界した後も、兄が継続し、一八六二年に第三巻(Fまで完成)を出版した。一八六三年にはヤーコプも他界したため、第四巻はグリムの弟子達により一八七八年に出版されたが、それ以後は、その折々の第一級の語学者によって出版継続され、第二次大戦後、ライプチヒで、この『グリム辞典』は、一九六一年に完結した。全三十二巻の大辞典である。
わが国では、『グリム童話』でしか知られていないグリム兄弟が、かくも学問的業績を残した人であったことは、専門以外の一般には知られていない。こうした業績には敬意を表せずにおれないが、それよりも、学問に没頭しながらも、政治参加を積極的に実践したことに、いっそうの敬意を表せずにはおれない。とかく学問は積極的な実践からは離れてしまうからである。
本書のグリム童話は、こうした生涯と業績とを残した人格高潔なグリム兄弟によって蒐集されたものである。ここには三十四篇の童話が翻訳されているが、配列の順は、グリム兄弟による最初の順とおなじである(翻訳の定本は、ヘルタ・クレプルの編纂した版である)。ここに選ばれた数篇は、グリム童話として周知のものだが、その他の数篇は、周知のものに匹敵するほど素晴らしいものが、ほかにもまだあるのだということを証明するために選び出されたものである。
グリム童話の成立
詳しくは(グリム兄弟による)『子どもと家庭の童話』であって、グリム兄弟の創作ではなく、兄弟によって蒐集され、書きとめられた童話である。そしてドイツ・ロマン派の女流作家ベッティーナ・フォン・アルニムとその息子ヨハネス・フライムントに、友情と感謝のしるしとして捧げられたものである。
グリム兄弟は、一八〇六年ごろから童話の蒐集を始めた。その頃、ドイツ・ロマン派の詩人たち、クレメンス・ブレンターノやアヒム・フォン・アルニムなどが、口碑伝説を蒐集していた。ドイツ民謡集『子供の魔法の角笛』(一八〇六年〜〇八年)は、その成果のひとつである。グリム兄弟は、こうしたロマン派の詩人たちのおこなっていた伝承的なものの蒐集に刺激されはしたが、マールブルク大学で法律の勉強をしているうちに、中世文学に興味を惹かれ、すでに民族固有のあらわれとしての、また文化の根源としての伝承的な民話(昔話)を蒐集せんとの意図をいだき始めていたのだった。
グリム兄弟にとって、神話、伝説、民話(昔話)など民間に口碑伝承されたものは、自然からの呼び声であったから、グリム兄弟は、素朴な人たちの口伝えで語られた民話を、自然のままに、いかなる文飾も施さずに、採集しようとした。つまり、グリム童話は、童話作家という特定の人によって書かれた創作童話ではなく、自然に発生し、口伝えで伝承された民話を書きとめたものである。ちょうど二十世紀の作曲家バルトークとコダーイとが、ハンガリー民族の旋律を原型のまま採譜したのとおなじであり、日本ではこの方面で非常な功績を残した柳田国男の『日本昔話』の採集とおなじなのである。
さて、グリム兄弟は、いったいどのようにして童話を蒐集したのだろうか? グリム兄弟は、広くドイツ各地を歩き回って蒐集したのではなかった。そのほとんどの童話は、ヘッセンとヴェストファーレン在住の、多くは、女性たちの口から採集したものであった。
カッセル市のヴィルト家の娘たち(とくにそのうちのひとり、後に弟ヴィルヘルムの妻となったドロテーア)が、『ヘンゼルとグレーテル』、『マリアの子ども』、『ホレのおばさん』、『六羽の白鳥』など多くの童話を提供してくれたが、また同家の同居人であったマリー・ミュラー夫人が、『赤ずきん』をはじめ多くの童話を提供してくれた。また、おなじカッセル市の(グリム兄弟の妹ロッテの嫁《とつ》ぎさきである)ハッセンプフルーク家のふたりの娘たちも、『白雪姫』をはじめ多くの童話を提供してくれた。
その他にも教養ある女性たちからの提供をうけて、一八一二年にベルリンの一出版社から、『子どもと家庭の童話』を出版することができた。それには八十六篇の童話が収められていた。グリム兄弟は、さらに二巻目として、一八一五年に七十篇をふくむ『童話集』を出版したが、この第二巻の童話を提供してくれた人々も、多くは女性であった。カッセル市近郊のツヴェーレンに住んでいたフィーメンニンという農家の一女性や、隣のヴェストファーレンのハックストハウゼン家や、その親類筋にあたるヒュルスホッフ家の女性たちから提供された童話の多くが、この二巻目の『童話集』に収められた。こうして一八一九年の再版のときには、改訂増補されて、全部合わせて百六十一篇となり、その後も増補されて、一八五〇年に六版を出版するときには、第一巻は八十六篇、第二巻は百十四篇となった。
グリム兄弟は、ひとりの話し手から聞いたものをひとつの童話にまとめることのほかに、多くの話し手から聞いた類似の話を整理してひとつにまとめるということもした。だがつねに口伝えに聞いたものをそのまま書き写すよう心掛けていた。グリム兄弟は、再版序文(一八一九年七月三日)で、こう言っている……
「さて、蒐集した際の方法に関して申しますと、まず忠実であり、真実であることが私たちにとって問題でありました。すなわち、私たちは手持ちの資材のなにひとつをも付け加えませんでしたし、伝説の状況や特色そのものを美化することもありませんでした。私たちが受け取ったままにその内容を再現したのです。個々の内容の表現と詳述は、大部分が私たちによるものでして、それは当然のことでありますが、私たちは私たちの認めたすべての特質を保存するよう努めたのであります。この点からしても、童話集に多様なる自然を残すためであったのです。……」
グリム童話には、人為的に美化するような表現も用いられてないし、教訓的な意図もはさまれていない。人間の知性の教化を目的とすることはなかったので、知的な教養を誇る人々のあいだでは歓迎されず、空想的なものとして顧みられなかった。グリム兄弟は、一八一二年の初版の序文において、はやくもこれとおなじ主旨のことを述べ、創作的な文飾をつけず、ありのままに純粋に書きとめたと言っている。ここからして、グリム兄弟の意図が、実用的な教養主義を目的にした教訓的なものを追わず、読者を自然のなかに遊ばせようとしたところにあることがわかる。
それでは、グリム童話とは、自然発生的に生まれた民話を集大成したに過ぎなかったのか? 兄ヤーコプは学者肌で、童話を民族学的な文献として、それを厳正に記録しようと考えただけのことであったのか? それがかくも長く読者に求め続けられているとは、なぜなのか? かくも厳正な学問的な業績の、いったいいずれの点に、読者を魅了するほどの魅力があるのだろうか? 教養主義的なものでもないし、また娯楽本位のものでもない、なんの作意もほどこされていないこうした童話のどこに魅力があるのだろうか?
それは、童話本来の本質的なものが生《なま》のまま現われているからだ。つまり、現実と空想の織りなす世界で、私たちが想像力の翼に乗って自由に飛翔《ひしょう》できるからで、そして子どもたちは、そのまま幼年時代に遊ぶことができ、大人たちには幼年時代の取り戻しが可能となるからだ。
グリム童話とは?
兄のヤーコプ・グリムは、童話の蒐集を始めたころ、一八〇八年に、「伝説は文学《ポエジー》や歴史に対していかなる関係にあるか」という小論を発表した。その中でヤーコプは、民族のなかから自然に生まれた「|自然の文学《ナトゥール・ポエジー》」と個人の心から生まれた「|人為の文学《クンスト・ポエジー》」とを分けて、前者を後者よりも重要視しているが、それは言うまでもなく、自然発生的に生まれた童話を、個人の創作童話よりも重要視していることなのである。このことは、ヤーコプ・グリムの童話の蒐集の意図が、純粋に学問的で、文献学的であったからである。つまり、主観的な創造的作意を加えようとしなかったからだ。童話の起源は、宗教の起源とおなじで、童話はどの民族の間からも発生し、そのまま伝承されるようになったのだ。
このようにみてくると、読者を念頭において創作される創作童話とはちがって、グリム童話は、読者にたいするなんの意図もなく成立したものである。そうであるならば、読者としての私たちは、グリム童話を、いかに読むべきなのであろうか? いや、読むべきであろうなどという規定はなにもない。読者は、自由に読めばよい。童話自体にはなんの意図もないが、読者が読後になにかを感じるならば、それが自然発生的に生まれた童話の意図かも知れない。だから、もしいま読者が子供であるならば、その子供と童話のあいだには、大人は介在しないほうがいい。およそ仲介者ほど、事実の本質を歪めるものはないし、結局は子供と童話の結びつきを断ち切ることになってしまうからだ。
童話にはなんの意図もない。世界を倫理的に浄化しようともしないし、理想世界を描いてみせることもない。素朴な正義感の満足よりも、主人公が冒険や運命や奇蹟とかかわるそのかかわり方、(現実的でない)本質的なかかわり方が問題なのである。童話では、すべてが、本質的にそうあるべき真実の姿で叙述されている。つまり、童話のなかの真実は、想像界の真実とはいえ、それこそ本質的な絶対の真実であって、現実の因果律によってみられる相対の真実ではないからである。この点が、創作童話とはちがうのだ。
童話のなかには、いろいろな登場人物が現われる。脇役を演じたり、主人公になったりして、登場人物が物語をすすめていく。すると、現実では出会わないような魔女や巨人や小人が、それから人間の空想から生みだされた妖精だとかが現われる。それらが現実の主人公たちと、なんのわだかまりもなく交渉する。しかも超自然の能力を発揮して、主人公を冒険にさらしたり、危険から救ったりする。ドラマが始まる。すると突然、脇役をつとめていた小鳥や動物たちが、日常の道具までもが、ものを言い始める。星や風が、雲や雨が、陽《ひ》の光が月の光が、主人公を導いていく。思いもよらぬ贈り物をもらったり、不意に取りあげられたりする、……なんの理由も説明もない。論理を超えているのだ。そこに矛盾を感じるならば、読者のほうがまだ現実に縛られているからなのだ。童話では、その結果がどうなるかに興味はあるが、それまでの不思議が、現実では不可能でしかない不思議が、可能となる。それでいて主人公はけっしてびっくりしない。ただただ自分の思いを実現しようとする。主人公は出かけていく、出かけていったさきで(そこは三日もかかる遠い沼のそば、森のなかかも知れない)、不思議と出会うことがある。主人公に必要な人物が、思いもかけずに現われる。ことがすむとさっと姿を消す、人間的な繋りなどきれいに消して。童話では、現実と空想とがなんの抵抗もなく重なりあう。現実にありながら魔法が効力《ちから》をもち、変身が可能となる。
童話は、最初から読者を、誰も知らない未知の時と所に、一挙に引きさらっていく。童話は、最初の出だしから問題の本質をつかむようになっていて、副次的なものは切り捨てられる。「むかし、むかし、あるところに……」という出だしで、早くも読者は、時間を超えた空想の世界に連れこまれる。冒頭からして、童話は現実を離れる暗示を与える。過去が現在にあり、また未来をも現在に先取りする。現実の時間を超えている。『いばら姫』の百年の眠りも、また眠りから覚めた瞬間、すべてが過去に眠ったときのままであるのも、時間を超えているからだ。『ホレのおばさん』の娘が目を覚ますと、娘は草原にいたし、自殺のために井戸に飛びこんだ娘は、いったん死んで、ホレのおばさんの国であるあの世で甦る。童話では、死は眠りであり、目覚めは死からの帰還である。『マリアの子』は、深い眠りから覚めると、下界の荒野を歩かねばならなかった。このように、童話では現実と空想(非現実)とが、並んだり、重なったりしている。
童話の結びも、「もしふたりが死んでいなかったら、いまでも生きているでしょう」とか、「ふたりは、いつまでも幸せに暮らしました」とかで終わっているが、これはたんなる願望充足でなく、真実の結びつきは、時間を超えて、永遠だといっているのだ。つまり、現実の人間には入りえない時間を超えた空想の部分……いうならば、大人には失われた幼年時代……である。そして読書によって、いまその部分に入りえたがゆえに、童話は読者にとって魅力的となる。
童話には、相対の現実の世界が、絶対の空想の世界に一挙に変わるから(あるいは、魔法による変身の部分で変わるから)、現実界の論理や倫理は成立しない。善や悪が、現実の倫理で処理されない。善が美しく、悪が醜いこともない。「いばら姫」を救おうとした男が、いばらにかかって死ぬのも、その男が悪いからではない。「いばら姫」を救ったのも、救った男が善人であったからではない。童話の世界では勧善懲悪《かんぜんちょうあく》は意味をもたない。魔法にかけられることがある。いかなる呪いがあって魔法にかけられたか、それは問われない。かけられた魔法がとけると、なぜとけたかの倫理的な、あるいは論理的な反省はない。『兄と妹』の兄は、魔法で鹿になり、また後で人間に戻る。『金の鳥』の狐は、頭と四つ足を切り落とされると、魔法がとけて人間となる。『蛙の王さま』の蛙も壁に投げつけられると、魔法がとけて王子に戻る。そこには、なんの論理、倫理もない。魔法による変身、魔法からの解放としての変身、魔法で空間も時間も変えられる(いばら姫の百年の眠り)。これを意味の無いこととして捨ててしまってはいけない、また逆に意味をもとめてもいけない。こうしたことは、私たちの幼年時代にあったことだ。だが「あったことだ」として、そのまま看過《みす》ごしてはいけない。それはまだ私たちのなかに生きているのだから。
さて、グリム童話ではときおり主人公が残酷なまねをされ、またまねをする。肉体的な手痛い傷害を受けたり、与えたりする。しかし、そうしたことがあっても、痛いとも苦しいとも言わない、血も流れない。たとえ流れたとしても、それが復讐に結びつかない。肉体的な傷害が、感情的な苦痛ともならない。つまり、人間的な事件として展開しない。肉体的な傷害は、目的を達成するための、自然のままの、手段としての傷害であって、童話の場合には、本質的な問題ではない。童話は、本質的なものとのかかわりで進行するから、それは、スイスの文芸学者マックス・リュティの言うように、童話という図形のなかに「偶然できた渦巻き模様」にすぎない。このように、残酷さが、「渦巻き模様」だというのも、童話では、登場人物のあいだに生ずる関係が感情的でないからだ。すべては事件とならずに、用済みの人物は、どんどん姿を消していく。残酷な傷害も事件とならずに消えていく。童話にみる残酷さを、日常の現実でみる残酷さと混同してはならない。つまり「目的のためには手段を選ばず」という日常の専制的意志の表われと混同してはならない。
こうして私たちが、童話のなかの空想と現実の織りなす世界からふとたち戻って、改めて童話のなかを覗きこむと、いつも抑圧されていたものが、解放されて、無意識の行為によって決定されているのを知るのである。抑圧されて無意識の奥にかくされているものが、解放されて、自由になる。人間のあらゆる深層心理の動きの原型が、神話のなかでみられるように、また自然発生的な童話のなかでもみられるのだ。このように、深層心理(精神分析)の立場から童話を、意識と無意識との交錯した世界としてみることもできる。このように科学的にみるならば、童話の効用というものを、深層心理の立場で得ることもできるだろうし、この立場からすれば、それが童話のもつ魅力でもあろう。すなわち、童話は、深層心理の研究によりよい生の材料を提供するからだ。
しかし、科学的な読者でない私たちには、自然発生的な童話は、この現実においては不可能なものが、私たちの想像力のもと、想像界で可能となるという点で、魅力があるのだろう。
最後に、付言しておきたいこと、……以上のような私の解説にもかかわらず、読者は、グリム童話のところどころで、多少教訓じみたものを読むだろう。言い伝わるうちに、そうした教訓めいたものが加わったとも考えられるし、兄ヤーコプ・グリムの意に反し、弟ヴィルヘルム・グリムが教訓的なものを書き足したとも言われている。
日本では、童話といえば、創作童話のことである。しかし、自然発生的に生まれたグリム童話も、創作童話と区別されずに、童話といわれて読まれている。読者のほうが、人間味をたっぷり付け足して、そのうえ道徳的な教訓さえ付け加えて読んでいる。こうした人間的なものは一切かなぐり捨てたほうがよい。グリムの童話は、伝承された民話、昔話なのだ。素朴な子供の読者は、現実と空想の織りなす世界に遊べばよいし、大人の読者は、失われた幼年時代を取り戻せばよい。童話になにかをもとめてはならない、ちょうど無言歌を聞くように、じっと聞き耳をたてるがいい。そして、歌の翼に乗ったなら、広い無限の想像界に飛翔するがいいのだ。(訳者)
〔訳者紹介〕
塚越敏(つかこしさとし)一九一七年東京生まれ。東京大学文学部卒。ドイツ文学専攻。慶応義塾大学名誉教授。著書に『リルケの文学世界』(理想社)『リルケとヴァレリー』(青土社)など。