影との戦い――ゲド戦記T
目次
一 霧の中の戦士
二 影
三 学 院
四 影を放つ
五 ペンダーの竜
六 囚われる
七 ハヤブサは飛ぶ
八 狩 り
九 イフィッシュ島
十 世界のはてへ
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ことばは沈黙に
光は闇に
生は死の中にこそあるものなれ
飛翔せるタカの
虚空にこそ輝ける如くに
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き](『エアの創造』)
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一 霧の中の戦士
たえまない嵐に見舞われる東北の海に、ひとつだけ頭をつき出す海抜千六百メートルほどの山がある。この島の名はゴント。そして、このゴント島こそは数多くの魔法使いを生んだ地として古来名高い島である。その深い山ふところの村々から、あるいは、また、暗い色をたたえた狭い入江の港町から、遠く旅立っていったゴント人はその数を知らず、魔法使いや学者として多島海《アーキペラゴ》諸地域の領主たちに仕えた者たちもあれぱ、旅のまじない師として人びとに魔法を施すなどしながら、アースシーの島々を冒険を求めて経めぐり歩く者たちもあった。そうした中で、最高の誉れ高く、事実、他の追随をついに許さなかった者がハイタカと呼ばれた男である。ハイタカは老いを待たずに竜王≠ニ大賢人≠フ、ふたつながらの名誉をかちえ、その一生は『ゲドの武勲《いさおし》』をはじめ、数々の歌になって、今日もうたいつがれている。しかし、これから語るのは、まだその名を知られず、歌にもうたわれなかった頃のこの男の物語である。
ハイタカはゴント山の中腹、北谷≠フ奥の十本ハンノキ≠ニいうさびしい村で生まれた。眼下には、谷間の畑や牧草地がゆるやかな段々となって海まで続き、弧をえがいて流れるアール川に沿って、町もいくつかひろがっていたが、振り返って仰げば、そこにあるのは森ばかりで、そのかなたには雪をいただく岩の尾根が見えた。
幼い日のダニーという名は母親がつけてくれたものだったが、彼女が息子に残したのは、この名まえと命だけだった。息子が一歳にもならないうちに死んでしまったからだ。父親は村の鍛冶屋だったが、無口でいっこくな男だった。それに歳《とし》の離れた六人の兄たちは、作男や、船乗り、あるいは北谷のほかの町の鍛冶屋などになって、次々と家を出ていってしまったから、親身になって彼の世話をする者は誰もいなかった。ダニーはかまいつけられずに、雑草のように育った。そして、背が高くて、身のこなしがすばやく、声高で、傲慢で、気短な少年になった。彼は小さいうちこそ村の子どもたちと、アール川の水源の上《かみ》にある険しい山腹の草地で山羊の番などもしたが、力もついて、長いふいごの取手を動かすことができるようになると、父親は彼を鍛冶屋見習いとして、自分の仕事場で働かせた。だが、いくら殴ろうと、鞭で打とうと、たいした仕事は期待できなかった。ダニーはしょっちゅう仕事場をぬけだしては、深い森の中をほっつき歩き、流れが速くて、水の冷たいアール川――ここに限らず、ゴントの川はどこもそうだった――の淵で泳いだり、森をぬけ、絶壁や急斜面をよじのぼって、尾根に立つなどした。尾根からは海が見えた。茫漠とひろがる北方の海にはペレガルを最後に、その先どんな島も浮かんではいなかった。
村には、死んだ母親の姉にあたる人が住んでいた。彼女はダニーが赤ん坊の間だけは面倒をみてくれたが、自分も仕事をかかえていたので、彼がなんとか身のまわりのことを自分ですることができるようになると、あとはほうりだしてしまった。だが、何ひとつ人から教えられず、世にある技や力についてもまったく無知のままにきたダニーが七歳になったある日のこと、彼は、小さな小屋の草ぶき屋根にのぼったきり降りてこようとしない一頭の山羊に向かって、伯母が何か大声で叫んでいるのを耳にした。伯母がさらにひとこと唱えた。と、彼女の唱えたその呪文のひとことで、あれほど強情だった山羊が急いで屋根からおりてきた。翌日、ダニーは奥山の滝≠フ牧草地で毛の長い山羊たちの番をしながら、早速、聞いたとおりのことばを山羊に向かって投げかけてみた。その効き目も、意味も、どんな性格のことばかも、もちろんまったく知らずにである。
ノース・ハイアス・モーグ・マン ホーク・ハン・マース・ハン!
彼の声は牧草地にひびきわたった。たちまち山羊が集まってきた。山羊たちは鳴き声ひとつあげず群をなして、彼のまわりに押しよせてきた。どの山羊もどの山羊も、黄色い目の奥のほうから、じっとダニーを見つめている。
ダニーは思わず声をあげて笑うと、いま一度、同じことばをくり返した。これさえあれば、思いのままに山羊を動かすことができるのだ。二度目の呪文で、山羊の輪はいっそう縮まった。押し合いへし合いしながら、ぐんぐん体を押しつけてくる。ダニーは急にこわくなった。太く突き出た角、いつもとちがう妙な目つき、不気味な静けさ。少年は群がる山羊を押しのけて逃げだそうとした。だめだった。ダニーが駆け出すと、山羊たちも彼を囲んだまま、駆け出したのだ。そしてそのまま山羊の群はとうとう村になだれこんだ。何十頭という山羊が、綱囲いに押しこめられたように、びっしりとひしめきあう真ん中で、ダニーがひとり泣き叫んでいた。村人たちはいっせいに表に飛び出して来て、口々に山羊を怒鳴りつけ、少年を笑った。飛び出して来た人びとの中に少年の伯母も入っていた。しかし、彼女だけは、笑わなかった。彼女は群なす山羊に向かって、ひとことつぶやいた。そのひとことで山羊たちは魔法をとかれて、いっせいに鳴きだし、草をはみ、やがてあちこちへ散らばっていった。
「おいで。」伯母はダニーを呼んだ。
彼女はひとりきりで住んでいる自分の小屋に甥を連れていった。その小屋には彼女はふだん決して近所の子どもを入れなかったが、子どもの方でも、こわがって、誰ひとり近寄ろうともしなかった。屋根の低い小屋は窓もなくて薄暗く、薬草のにおいがたちこめていた。天井の梁《はり》には、ハッカ、ニンニク、タチジャコウソウ、ノコギリソウ、トウシンソウ、ヨモギギグ、月桂樹の実などがつるして干してあった。伯母はいろり端にあぐらをかいてすわると、もつれた黒髪をすかして横目でちらりと少年を見やり、山羊たちに何と言ったのか、そして、そのことばの意味はわかっていたのか、ときいた。もとより、少年は何ひとつわかってはいなかった。それでいながら、まじないをかけて、山羊を集めたのだ。そうと知った彼女は、甥には人並はずれた力が具わっているにちがいないとみてとった。
これまでは、少年は彼女にとって、ただ妹の子どもというだけだった。が、今、彼女はまったく新しい目で少年をながめ始めた。彼女は甥にすっかり感心して、もっといいことを教えてやろうか、ともちかけた。たとえば、殻にとじこもったカタツムリの頭を出させることばもあれば、空からタカを呼び寄せられる名まえだってあるんだよ、と彼女は言った。
「それ、教えてよ!」
山羊の恐怖からたちなおり、ほめられたことで元気づいた少年は身を乗り出した。
「よし、じゃあ、教えてやろう。」まじない師の伯母は言った。
「だけど、いいかい、ほかの子には言うんじゃないよ。」
「言うもんか、おれ、約束する。」
まじない師は幼い甥の無那気な安請合いを聞いて笑った。
「おや、いい子だ。でも、おまえの約束は、まじないをかけて破れないようにしとくよ。わたしが大丈夫とみるまでは、その口がきけないようにしておこう。いや、口はきけるが、ほかのやつのいるところじゃ、かんじんの呪文は出てこないようにしとくのさ。秘密はもらしちゃならんから。」
「うん、いいよ、それで。」
少年は大きくうなずいた。彼には大切な秘密を遊び友だちに教える気など、さらさらなかった。他人《ひと》の知らないことを知っていたり、できないことができたりするのは気分がいい。
少年はじっとすわって、伯母がぼさぼさの髪をうしろにたばね、着物のひもを結ぶのをながめていた。彼女はやがてすわりなおして、また、あぐらをかくと、ひとつかみの枯葉をいろりにほうりこんだ。煙がたちのぼって、たちまち、薄暗い小屋いっぱいにひろがった。伯母の口から歌がもれ始めた。その声は時に高く、時に低く、まるで、別の人間が彼女に乗り移ってうたっているかのようだった。歌はなかなか終わらなかった。少年はしだいに、夢うつつな状態におちこんでいった。その間ずっと、女まじない師の飼っている真っ黒な老犬――これは、およそ吠えたことのない犬だった――は煙に目を赤くして、少年のそばにすわっていた。しばらくすると、まじない師は、ダニーの知らないことばで何やら彼に話しかけ、自分といっしょに、呪文を唱えさせた。まじないがきいて、やがてダニーのからだはじっと動かなくなった。
「しゃべってみい!」
まじない師は、まじないの効き目をためそうとして、言った。
ことばこそ出なかったが、少年の口からは笑い声がもれてきた。
まじない師の伯母は甥の力のただならぬことを感じとって、恐れを抱き始めた。彼女は手持ちの中では、一番強いまじないをかけたのだ。彼女はそのまじないで甥のことばのいっさいを我が手におさめようとしただけでなく、同時に彼を、自分の助手としてしばりつけておこうとしたのだった。だが、それほどのまじないをかけられながら、ダニーは声をたてて笑ったのだ。彼女は無言のまま、汲みおきの清水をいろりにふりかけて火を消し、それから少年にも水をやった。やがて、小屋の煙がすっかり消え去り、少年が再び口がきけるようになると、彼女はタカの真《まこと》の名を甥に教えた。この名で呼べば、タカはまちがいなく、空から舞いおりてくるはずだった。
ダニーはこうして、生涯歩むべき道へ、第一歩を踏み入れた。この道こそ、魔法使いへの道であり、ついには、ある影を追って、山を越え、海を越え、黄泉《よみ》の国の暗黒の岸辺にまでも彼を導いていくことになるのだが、歩み始めてしばらくは、それはひろびろと明るい道としか思われなかった。
真の名で呼び出せば、本当にどんな野生のタカも風を切って舞いおりてきて、まるで鷹狩りに使う王子のタカのように、大きな羽音をたてて自分の手首にとまる。このことを知ったダニーはしだいに欲が出てきて、ハイタカやミサゴやワシの名も教えてもらおうと、まじない師の伯母の家にちょくちょく出向いていくようになった。不思議な力を持ったことばを自分のものにするために、少年は伯母に言われたことは何でもし、教えられたことはすべて吸収した。必ずしも楽しいことばかりではなかったけれども……。ところで、ゴントでは昔から、
「もろきこと、女の魔法のごとし」といい、また、
「邪《よこしま》なること、女の魔法のごとし」という。十本ハンノキのこのまじない師は、決して邪な魔女ではなかったし、高度な術に手を出すこともなければ、太古の精霊たち≠ニ交わることもなかったが、なにぶんにも無知な人びとの間で育った無知な女であったので、いかがわしい、つまらぬ目的のために、つい、持てる術を使ってしまうことも少なくなかった。真《しん》の魔法使いならば、こころえ、従うべき均衡と様式を知っていて、だからこそ、いよいよの時がくるまでは、むやみと術を使うのはさしひかえるものだが、この女は、そのどちらもまるっきり知らなかった。彼女は、だから、ことあるごとに術を使い、ひっきりなしに呪文を唱えていた。彼女が身につけている知識はがらくたで間違いだらけだった。そもそも彼女には本物とにせものの区別がつかなかった。呪いのことばだけはたくさん知っていたから、ひょっとしたら病気だって、治すよりも、かからせるほうが得意だったかもしれない。村住まいのまじない師の例にもれず、彼女も媚薬が調合できたが、ほかに、嫉妬や憎しみをかきたてる、あやしげな薬を作りもした。もっとも、彼女は幼い弟子にはそのような術は教えず、できる限り、まっとうなものだけを教えようと努力はしていた。
はじめのうち、魔法を習うダニーの楽しみはいかにも子どもらしく、鳥やけものを思いのままにあやつり、その習性などを知っていくことに限られていた。事実、彼は生涯この楽しみを持ちつづけた。村の子どもたちは、ダニーがしばしば、山腹の牧草地で、獰猛な鳥といるのを見て、彼にハイタカとあだなをつけた。それで、彼は、自分の本名が知らされるまでこの名を借りとおし、その後もずっと、この名を呼び名として使いつづけることにした。
さて、まじない師の伯母は、折あるごとに、自分たちまじない師が手にすることのできる名誉や、富や、権力についても幼い甥に語っていったので、やがてハイタカも、もっと実際の役に立つ知識を身につけたいと言いだした。飲みこみは早かった。まじない師の伯母はこんな甥をほめそやし、村の子どもたちは彼を恐れ始めた。彼は自分でも、人びとの中で抜きん出るのは、そう遠い先のことではないと思っていた。こうして伯母のもとで、つぎからつぎへとまじないを覚え、術を身につけ、少年はいつか十二歳になった。もう、伯母の知っていることで彼の知らないものは、ほとんどなかった。
伯母の知識は豊かとは言えないまでも、小さな村のまじない師としては十分なもので、十二歳の少年には、十分過ぎるものだった。彼女は薬草のことや病気の治療について持てる限りの知識を彼に伝授し、なくなったものを探しだしたり、はがれたものをくっつけたり、具合の悪いところを修理したり、閉じているものを開けたり、あるいは秘密を明かしたり、といったさまざまな技についても、知っている限りのものを彼に教えこんだ。彼女は、また、吟唱詩人の語った物語やかつて自らうたってきかせたことのある武勲《いさおし》の歌についても、知っていることをいま一度ダニーに話してきかせ、自分の師匠のまじない師から習った真《まこと》のことば≠熄Kったものはすべてダニーに教えこんだ。一方、ダニーは風の司や、北谷や東森のあちこちの集落をまわって歩く手品師から、目くらましの術のいくつかもすでに教わって身につけていた。そして、そのひとつによって、彼はやがて自分の内なる偉大な力をはじめて証明してみせることになった。
当時、カルガド帝国は強大だった。帝国はカレゴ・アト、アチュアン、ハートハー、アトニニの四つの大きな島からなり、東、北両海域にはさまれている。そこで使われていることばは多島海《アーキペラゴ》や各海域のことばとはまるきりちがうし、人びとの肌は白く、その髪は黄色い。そして彼らは血を見ること、市《まち》の燃えさかるにおいをかぐことが何より好きな、獰猛で、野蛮な人間たちである。さて、彼らはすでに前の年、赤い帆をはった船で大挙してトリクル諸島、およびあの強固なトルヘブン島を襲い、大打撃を与えていた。知らせはすぐにゴントにも達したが、ここの領主たちは、自分たちもそれぞれ沿岸での海賊行為に忙しかったので、よその島の災難にはほとんど注意をはらわなかった。やがてスペヴィーがカルガド人の手に陥ちた。島はいたるところ略奪されて、焼け野原となり、島人たちは奴隷として連れ去られていった。この島が今もさびれたままにあるのは、そのためである。征服欲に燃えたカルガド人が、つぎにねらったのはゴントだった。巨大な三十隻の船からなる軍勢はまず日の出港にやってきた。彼らはあっという間に町を占領し、奪い、焼いた。それから、自分たちの船をアール川の静かな河口に残して、暴虐の限りを尽くしながら谷をのぼってきた。家という家はすべてうちこわされ、略奪され、人も家畜も殺された。谷をのぼるにつれて、三三五五小人数のグループに分かれたカルガド人たちは、さらに、行く先ざきで略奪を重ねた。あやうく難を逃れた何人かが、山あいの村々に急を告げた。間もなく、十本ハンノキの村人たちは、たちのぼる煙に東の空が黄ばむのを目にした。夜に入って奥山の滝にのぼった人びとは、谷がすっかり煙に包まれ、取り入れを待つばかりだった麦畑が火を放たれて、赤いすじとなって燃えているのを目撃した。果樹園もまた火を放たれ、果実は燃えさかる枝についたまま焼かれた。納屋も人家もつぎつぎと焼けおちて、灰になった。
村人たちのある者は深い峡谷をよじのぼって森に身を隠し、またある者は踏みとどまって、命をかけても戦う準備をしたが、どちらとも決めかねて、茫然と突っ立ったまま、ただ嘆いているだけの者も少なくなかった。例のまじない師は逃げた組だった。彼女は森の急斜面の洞穴にひとり身を隠し、まじないをかけてその入口をふさいでしまった。鍛冶屋をやっていたダニーの父親は村に踏みとどまった。彼は五十年も火を燃しつづけてきた炉を今さら捨てて逃げる気には、とてもなれなかった。その晩、彼は夜通し鉄床《かなとこ》を打ちつづけ、手持ちの青銅をすべて槍の穂先に変えた。他の者たちも彼といっしょに働いて、できあがった穂先をつぎつぎと鍬や熊手の柄《え》にとりつけた。ちゃんとした柄を作ってとりつける間などなかったからだ。村には、狩りに使う弓矢と小刀を除けば、武器と呼べるものは何もなかった。ゴントの島民は昔から戦争を好まなかった。人びとが名を馳せてきたのは戦士としてではなく、山羊泥捧か海賊、それでなければ、魔法使いとしてだったのである。
島の山あいの村々では秋になるとよくあるように、その朝も、日の出とともに、あたり一面に白い霧がたちこめた。十本ハンノキの曲がりくねった道に沿った人家や納屋のかげには、村人たちが狩りに使う弓や、できあがったばかりの槍をかまえて、待ち伏せていた。といっても、彼らには敵のカルガド人が遠くにいるのか近くにいるのかさえ、わかってはいなかった。霧はものの形も、距離も、危険も何もかも包み隠してしまう。人びとはみな押し黙って、じっと霧の中をうかがっていた。
ダニーも彼らといっしょだった。彼は夜通し、ふいごにつききりで、片時も休まずその取手を押し、ゴーゴーと風を送りつづけた。そのせいで、今、彼の腕には痛みと震えが同時にきて、自分で選んだせっかくの槍をふりかざすこともできなかった。こんなふうでは、どうして戦えよう。どうやって身を守ることができよう。まして、村の人たちに、どうやったら役立つことができるだろう。自分は死ぬ、と思うとダニーは胸がつぶれそうだった。まだ、子どもなのに、おれはむざむざとカルガド人の槍に突かれて死んでいくにちがいない。自分の名まえ、大人になったら知らされるはずの自分の本名さえ知らずに、おれは、あの真っ暗な世界へ行かなくてはならないのか。ダニーは冷たい霧にぬれた自分の細腕を見て、くやしさに歯ぎしりした。自分に力があることはわかっている。なんとかその使い方がわからないものか……。彼は知っているまじないの中に、自分と味方の者たちに役立ちそうなものはないか、せめてきっかけだけでも与えてくれるものはないかとあれこれ考えてみた。だが、ただ必要だからというだけでは、力は発揮されない。そこには知恵がなくてはならない。
霧は太陽の光に暖められて、しだいに薄れていった。太陽は、今や、天空高く、峰の頂の上にさんさんと輝いていた。霧が動き、あちこちに切れ目ができると、村人たちの目にとびこんできたのは、山をのぼってくる一団の戦士の姿だった。敵は青銅の兜《かぶと》をかぶり、厚手の革でできた丈夫なすねあてと、同じく革製の胴着をつけ、木や青銅の楯を持って、剣と、カルガド風の長い槍で武装していた。彼らはアール川沿いの急な坂道をガチャガチャと音をたてながら、ゆうゆうとした足どりで、隊列も組まずにのぼってきた。気がついた時にはすでに間近で、その白い顔のひとつひとつがはっきりと見え、互いにかわす意味のわからないことばも、手にとるように聞こえてきた。この無法な侵略者の一団は百人ほどで成り立っていた。決して多い数ではない。しかし、この時、村に残っていた男は、子どもも含めて、総勢たった十八人だった。
だが、必要が知恵をひっぱり出した。ダニーは霧がしだいに薄れて、カルガド人の姿が浮かび上がるのを見ているうちに、急にある呪文を思い出した。谷に住むひとりの年老いた風の司がダニーを弟子にほしがっていくつかの術を教えてくれたのだが、その中に霧あつめというのがあった。くくりの術のひとつで、呪文を唱えると、しばらくの間、霧を一か所に集めておくことができるのだ。しかも、目くらましの術にたけたものなら、この集めた霧を、たとえ時間はわずかでも、何か、ぼんやりしたものの形にみせかけておくこともできる。とはいえ、今のダニーに、まだそのような腕はなかった。彼が考えたのは、もう少し別のことだった。幸いにも、彼にはそのまじないを自分の目的にそわせるだけの力はすでに具わっていた。彼はすぐさま、村のすべての字《あざ》の名と、その境を大声で言うと、霧あつめの呪文を唱え始めた。そしてその呪文のあいだに、さらに物かくしの呪文をはさみ、やがて、唱えた呪文を効かせるための最後のことばを高らかに叫んだ。
が、この呪文を唱え終わるか終わらないうちに、ダニーはうしろから来た父親に思いきり耳もとを殴られて、倒れた。
「だまれ、このたわけめ! こしゃこしゃぬかしやがって。戦えんやつぁ引っこんでろ!」
ダニーはふらふらと立ちあがった。カルガド人の声がもう村の入口に聞こえている。皮なめし職人の家の近くの、あの大きなイチイの木のそばまで来ているらしい。ひとりひとりの声がはっきりして、武具のきしむ音、武器のふれあう音が手にとるように聞こえてくる。だが、その姿は見えない。霧が村をすっぽりとおおい、目をかげらせ、ものの影をぼやけさせ、ほとんど一寸先も見えなくしてしまったのだ。
「さあ、これで、みんな隠した。」ダニーは言ったが、殴られた頭が痛むのと、まじないを二重にかけるのに力を使ったのとで、その声は弱々しかった。
「おとう、この霧はおれができるだけ長くひきとめとく。おとうはみんなを奥山の滝のほうへ連れてってくれ。」
鍛冶屋は湿った不思議な霧の中に幽霊のようにたたずむ息子をあっけにとられて見つめていた。彼には一瞬息子の言うことが飲みこめなかった。が、やがて合点すると、味方を探して、息子の意向を伝えようと、勝手のわかった村の中へ音もなく走り去った。間もなく、灰色の霧の奥がぽうっと赤くなった。カルガド人が藁屋根に火をつけたのだ。それでも彼らはまだ村の中までは入ってこないで、下にいて、霧が晴れて戦利品が姿をあらわすのを待っていた。
皮なめし職人は、自分の家に火を放たれなから、ふたりの息子をカルガド人の鼻先へ送り、霧の中から自在に出たり入ったりして罵詈雑言《ばりぞうごん》を浴びせかけ、さんざん敵を翻弄《ほんろう》した。その間に、歳のいった連中は家から家へ垣根づたいに走って移動しな述ら、ついに敵陣の背後に達し、たむろしていた戦士たちに、矢と槍の一斉攻撃をあびせかけた。ひとりのカルガド人が、まだ炉熱の残る槍に腹を貫かれ、身もだえしながら倒れた。他にも幾人かが矢にあたって傷ついた。仲間の戦士たちは、みな、怒りに煮えたぎった。彼らはとるに足らぬ村人たちをたたき切ろうと、突撃を開始した。が、それとおぼしきあたりは、どこも霧に包まれて、声しか聞こえてこない。仕方なく、カルガド人たちはその声を追って、大きな羽根飾りのついた、血に汚れた槍を霧の中に突き刺し突き刺し、進んでいった。彼らは大きな声をあげながら村の道をのぼってきて、村を出はずれても、まだそれと気づかなかった。空っぽの家々は、ぼんやりその姿を見せても、たちまち、もやもやとした灰色の霧の中に消えて見えなくなった。村人たちは四方八方へ逃げていった。よく知った土地だから、たいていの者は逃げおおせたが、子どもや年寄りの中に、逃げ遅れたものが何人か出た。カルガド人たちは、そんな村人を見つけると、
「ウルワー! アトワー!」と、ときの声をあげて、襲いかかり、ある者は槍で突き刺し、またある者はその刀でめった切りにした。ウルワー、アトワーとはアチュアンの白き兄弟神の名だった。
足もとの地面のでこぼこがひどくなった。戦士の中にはそれに気づいて立ち止まる者もいたが、大半はあるはずの村への未練を断ちきれず、ちらつく影を追って、さらに奥へ進んでいった。影はあと一歩というところでいつも取り逃がしてしまったが、それというのも、そのまわりでは、きまって、霧が妙に濃くなるからだった。人影はあらわれたと思うと、たくみに追手の手をすりぬけて、右へ左へ消えてしまうのだった。
そうこうするうちに、カルガド人のある一隊が、ついに、奥山の滝に転落する事態にいたった。彼らは幽霊のような人影を追ってアール川の水源にそのきりたった影をおとす奥山の滝まで追ったのだが、当の影が宙にとんだと思うと、霧は急に薄れて影もろとも消えてなくなり、それを追っていた戦士たちのほうが、いきなり射し始めた日の光の中を、三十メートル下の、岩のつき出た滝壺へと、悲鳴をあげながら落ちていったのである。一足遅れて、あやうく難を逃れた者が、崖っぷちで、この仲間の声を耳にした。
カルガド人たちの心に恐怖がひろがった。彼らは不気味な霧の中に、村人の姿ではなく味方の姿を探し求めるようになった。彼らは山腹に全員集まって固まった。だが、ものの影はしつこくつきまとい、それに気をとられていると、今度は別の影が槍や小刀を持って背後から迫り、カルガド人たちを突き殺しては、また、靄《もや》の中に消えていった。ついに、カルガド人たちは全員退却を始めた。彼らは黙りこくって、つまずきつまずき山を駆けおりていった。ふいに霧が晴れた。眼下には、アールやその他の小さな川が、午後の日を浴びて、白く光っていた。戦士たちは立ち止まり、身を寄せ合うようにして、こわごわうしろを振り返った。もやもやした灰色の霧は道ひとつへだててひろがり、その先のいっさいを隠している。霧の中から、遅れた味方の戦士が三人、長い槍を肩にかついで、よろよろところがりでてきた。そのあと、うしろを振り返る者はもうなかった。カルガド人は、一目散に、この魔法のかかった山腹を下っていった。
北谷を下った先でも、これらの戦士はさんざんな戦いをしなければならなかった。オバークから海岸にいたる東森の町々も、ゴントへの侵入者を討とうと、すでに兵を集めて送りこんできていたからだ。山あいのいたるところから、兵たちは一団、また一団と姿をあらわし、その日と翌日にかけて、カルガド人たちはひとり残らず日の出港の上手《かみて》の海岸へと追い返された。が、見れば、あてにしていた自分たちの船はすべて焼き払われて、跡形もなかった。そこで、彼らはついに海を背に、最後のひとりまでも戦わなければならなくなり、アルマスの砂浜は彼らの血に赤く染まった。その血をやっと洗い流したのは、やがて満ちてきた潮だった。
さて、話はもどって、その朝、十本ハンノキの村とその上の奥山の滝のあたりでは、しばらくの間、湿った灰色の霧がたちこめていたが、やがて、不意に霧は動いて、あっという間に消えてなくなった。男たちは、晴れあがった午前のさわやかな風を受けて、あちこちで立ち上がり、ふしぎそうに、あたりを見回した。黄色い長い髪をべっとりと血のりに固めたカルガド人の死体のそばに、あの皮なめし職人が、その顔に王のような威厳を浮かべて倒れていた。
下の村では、火を放たれたこの男の家がまださかんに燃えていた。人びとは火を消そうと村に駆けもどった。自分たちは勝ったのだ。村にもどった人びとは、通りの大きなイチイの木のそばに、鍛冶屋の息子のダニーが、ひとり、ぽつんと立っているのを見つけた。傷はどこにもなかったが、まるでうつけ者のようにぼんやりして、何をきいても答えなかった。人びとは彼のしたことには気づいていた。彼らはすぐさまダニーを父親の家に連れていくと、女まじない師を呼びにやった。彼女にはなんとしても洞穴から出てきて、この少年を治してもらわなくてはならない。カルガド人の手で四人が殺され、家一軒が焼かれたほかは、村人たちの生命も財産もすべて彼のおかげで救われたのだ。
武器による傷はひとつもなかったが、ダニーは口がきけず、食べることも眠ることもしなかった。 何を言っても聞こえないようだったし、見舞いに来る人の顔も見えてはいないらしかった。そして、そんな彼を治せるだけの術を身につけた者は、近辺の村にもいなかった。
「この子は自分の力を使い果たしたんだよ。」まじない師の伯母は言ったが、彼を助けるすべを持ち合わせてはいなかった。
こうしてダニーが光もことばもない世界にじっと身を横たえている間に、霧をおこし、さまざまなものの影でカルガドの戦士たちをまどわし、おどして、追い払ったこの少年の噂は、北谷を下り、東森でささやかれ、また山をのぼって、ついには山向こうのゴント港でも人びとの口にのぼるようになった。やがて、アルマスでのあの勝ち戦から五日目、ひとりの見知らぬ男が十本ハンノキの村にやってきた。もはや若くはなく、かといってそれほどの年寄りでもなく、長いマントをはおって、帽子はかぶらず、その手には身の丈ほどもあるがっしりとしたカシの木の杖がさりげなく握られていた。男はおおかたの人とちがって、アール川沿いにのぼってくることはせず、背後の山からひょっこりと姿をあらわした。村の女たちは、男が魔法使いであることを、一目でみてとった。女たちは、男の口から彼が医術を心得ていると聞くと、すぐさま男を鍛冶屋の家に案内した。男は父親と伯母だけを残して、あとは部屋から出してしまうと、暗い宙を見つめて横たわっているダニーの上にかがみこんで、自分の手を少年の額におき、それから唇にもそっとふれた。
ダニーはゆっくりと上半身をおこして、あたりを見回した。ほどなく、彼は口をきいた。力と空腹感がそのからだにもどってきた。飲み物と食べ物少々が与えられた。そして少年は再び横になった。 彼は暗い、物問いたげな目を片時も男から離そうとはしなかった。
「おめえさまは、ただのお方ではないようで……。」
鍛冶屋が男に言った。
「この子も、ただの男では終わるまいそ。」男は答えた。
「いや、例の霧の話がわしのいるル・アルビにも届いてな、それで、名まえを授けたい、と思ってやってきたのだ。もっとも、まだ成人の式がすんでいなければの話だが……。」
女まじない師が鍛冶屋にそっと耳打ちした。
「この方は、ル・アルビの大魔法使い、沈黙のオジオンさまにまちがいないよ。ほれ、あの地震をしずめた……。」
「そのことならば、」鍛冶屋はおそれ多い名まえにひるむまいと構えて言った。
「息子は来月十三になりますが、わしらとしちゃ、式は今度の冬至の祭りにと……。」
「この子の命名はできるだけ早いほうがいい。」と、魔法使いは言った。
「もう名まえが必要になっておる。わしは、これからほかに少しばかり用があって行かねばならんが、そなたの決めた日には、また、必ずもどってくる。それに、もし、そなたさえよければ、わしは式のあと、この子をいっしょに連れていきたいと思っておる。様子をみて、よしとなれば、わしの弟子ともしたいし、あるいは、持って生まれた力にふさわしいだけの教育が受けられるように、はからってもやりたい。魔法使いに生まれながら、その力を闇に閉じこめておくのは、なんといっても危険だからの。」
オジオンのもの言いはたいそうおだやかだったが、いかにも確信に満ちていたので、さすが頑固者の鍛冶屋も折れて出ないわけにはいかなかった。
少年が十三になった日、それは秋も深まろうとして、木の葉がいよいよ美しく色づく時だったが、オジオンはゴント山の逍遥をおえて村にもどってきて、成人の式はとどこおりなく行われた。まじない師の伯母は、まず、赤ん坊の時母親が与えたダニーという名を少年からとりあげた。名をなくし、衣服を脱いだ少年は、高い崖をあおぐ岩間に湧くアール川の水源の泉にひとり入っていった。彼が水に足を踏み入れたとたん、太陽は雲に隠れ、日がかげって水面は暗くなった。少年は清冽な泉の中を、寒さに震えながら、それでもまっすぐ顔を上げて、ゆっくりと対岸へ進んでいった。向こう岸にはオジオンが待っていた。彼は手をさしのべて少年の腕をつかむと、その耳もとに、
「ゲド。」とささやいた。それが少年の真《まこと》の名まえだった。
少年はこうして、持てる力をあやまたず使いこなすことのできる優れて賢い男から、その名を授けられた。
さて、祝いの宴が果てるにはまだ遠く、村人たちが山のようなごちそうを食べ、ビールを飲みながら、谷間の町からやってきた吟唱詩人に『竜王の武勲《いさおし》』をうたわせて陽気にさわいでいた時、ゲドは魔法使いからそっと声をかけられた。
「さあ、おいで。みなにさよならを言うのだ。ただし、気づかれぬようにな。」
ゲドは旅の荷物をとりに家にもどった。父が作ってくれた青銅の小刀、戦死した皮なめし職人のおかみさんが裁断してくれた、からだにぴったりの革のコート、そして、伯母がまじないかけをしてくれたハンノキの杖。身につけてきたシャツとズボン以外、自分のものといえるものはそれだけだった。彼は村人に別れを告げた。ここを出れば、もう知っている人はない。彼はいま一度、崖下の小さな川のほとりに寄りそうように固まって建つ村の家々を一軒一軒ながめた。それから、新しい師のあとについて、急斜面の森をぬけ、秋の日に輝く紅葉《もみじ》の葉かげをぬうように立ち去った。
二 影
ゲドは、偉大な魔法使いの弟子ともなれば、たちまち奥義を身につけさせてもらい、力の神秘をたっぷりと味わわせてもらえるだろうと、安易に考えていた。けもののことばもわかるだろうし、森の木の葉のささやきもわかるようになるだろう。まじないひとつで風をおこしたり、望みのものに姿を変えることもできるだろう。師匠とともに雄鹿となって駆けまわることもできようし、もしかしたら、ワシの翼に乗ってル・アルビまで飛んでゆくこともできるかもしれない。彼はそう思っていた。
しかし、それはとんでもない思いちがいだった。彼らはまず谷を下り、それからゆっくりと南に向かい、さらにゴント山をめぐるように西へ向かったが、村から村へ宿を乞い、荒野で野宿する道中は、旅のまじない師か、鋳掛け屋か、あるいは乞食と少しも変わらなかった。神秘のし[#「し」に傍点]の字も見あたらなかった。なにごとも起こらなかった。初めのうちこそ近づきがたく見えた魔法使いのカシの木の杖は、今では歩くのに使う、頑丈なただの棒にすぎなかった。
三日たち四日が過ぎても、オジオンはゲドにものの名ひとつ、神聖文字ひとつ、まじないひとつ教えてはくれなかった。
口数こそたいそう少ないものの、オジオンはいつもおだやかで、やさしかったので、ゲドはたちまち遠慮を忘れ、さらに一日二日もたつと、大胆にもこう切りだした。
「師匠、修行はいつになったら始まるだね?」
「もう始まっておる。」オジオンは答えた。
沈黙が流れた。ゲドは口答えしたいのを必死でこらえていた。が、とうとう我慢できなくなった。
「だけど、おれ、まだなんにも教わってねえ。」
「それはわしが教えておるものが、まだ、そなたにわからないだけのことよ。」
魔法使いはオバークからウィスへ越える峠の道を、大股で、ゆっくりと歩きながら答えた。彼はほかのゴント人同様、茶褐色の肌をしていた。髪はすでに白く、からだはほっそりとやせていたが、猟犬のように頑強で、疲れを知らなかった。彼はめったに口をきかず、わずかしか口にせず、睡眠はさらに少なかった。目も耳もたいそう鋭く、その顔にはしばしば、何ものかにじっと聞き耳をたてているらしい表情が浮かんだ。
オジオンに言われて、ゲドは返答につまった。魔法使いのことばに答えるのは必ずしもやさしくない。
「魔法が使いたいのだな。」オジオンは大股に歩を運びながら言った。
「だが、そなたは井戸の水を汲みすぎた。待つのだ。生きるということは、じっと辛抱することだ。辛抱に辛抱を重ねて人ははじめてものに通じることができる。ところで、ほれ、道端のあの草は何という?」
「ムギワラギク。」
「では、あれは?」
「さあ。」
「俗にエボシグサと呼んでおるな。」オジオンは立ちどまって、銅をうった杖の先をその小さな雑草の近くにとめた。ゲドは間近にその草を見た。それから、乾いたさや[#「さや」に傍点]をひとつむしり取った。オジオンは口をつぐんで、あとを続けない。ゲドはたまりかねてきいた。
「この草は何に使える?」
「さあ。」
ゲドはしばらくさや[#「さや」に傍点]を手にして歩いていたが、やがて、ぽいと投げ捨てた。
「そなた、エボシグサの根や葉や花が四季の移り変わりにつれて、どう変わるか、知っておるかな? それをちゃんと心得て、一目見ただけで、においをかいだだけで、種を見ただけで、すぐにそれがエボシグサかどうか、わかるようにならなくてはいかんぞ。そうなってはじめて、その真《まこと》の名を、そのまるごとの存在を知ることができるのだから。用途などより大事なのはそっちのほうよ。そなたのように考えれば、では、つまるところ、そなたは何の役に立つ? このわしは? はてさて、ゴント山は何かの役に立っておるかな? 海はどうだ?」オジオンはその先半マイルばかりも、そんな調子で問いつづけ、ようやく最後にひとこと言った。
「聞こうというなら、黙っていなくてはな。」
少年はぴりりと眉を動かした。自分の愚かさを思い知らされるのは愉快なことではなかった。それでも彼は煮えくりかえる怒りといらだちをじっと押さえて、決して口答えはすまいと努めた。そうすれば、いくらオジオンだって、ついには折れて、何か教えてくれるだろう。ゲドは今、なんでもいいからとにかく学びたかった。力を身につけたかった。だが、一方では、こんな男と歩くくらいなら、薬草採りや村のまじない師と歩いたほうがよほど勉強になるのにとも思い始めていた。山腹を西へ折れて、ウィスを過ぎ、さびしい森の中へ入っていく頃には、この偉大な魔法使いのどこが偉大で、何が魔法なのか、彼にはますますわからなくなっていた。雨が降ったのにオジオンは雨よけの呪文ひとつ唱えようとはしなかったのだ。雨よけの呪文くらい、この辺では、風の司なら誰だって知っていた。今でもゴントとかエンレイド諸島といった魔法使いの多く集まるところでは、そうした人びとによって雨よけの呪文が唱えられ、そのたびに、雨雲はあっちへ押されたり、こっちへ押し返されたり、ついには、のんびりと雨を降らすことのできる海の上に集まっていくのがよく見られるものだ。それなのに、オジオンときたら、雨は雨雲の気の向くままに降らせて、自分は葉のしげったモミの木を見つけて、雨やどりするだけ。そんな時、ゲドは、小さな灌木のしげみの中にびしょぬれになってうずくまり、いくら力があったって、賢すぎて使えないならなんにもなりゃしないじゃないか、とぶつぶつ文句を言うしかなかった。こんな目にあうくらいなら、谷間のあの年とった風の司の弟子になっていればよかった。あそこなら、ともかくも乾いた服で眠ることができたろうに。だが、もちろん、そんな思いを口にしたわけではない。彼はひとことも言わなかった。オジオンはそんな弟子を見て、ほほえみ、雨の中で眠りにおちていった。
冬至近く、本格的な雪がゴントの高地に降り始めた頃、ふたりはオジオンの故郷のル・アルビにたどりついた。ル・アルビは高山台地≠フ岩山のはしにしがみつくように建っている町で、その名も、ハヤブサの巣という意味である。町のはずれに立つと、眼下にはゴント港の深い入江といくつもの塔が見え、さらによろい岩≠ノはさまれた湾の入口を船が出入りするのが見える。日によっては、海の向こう、はるか西の方に、内海のもっとも東寄りに位置するオラネアの青い山脈《やまなみ》ものぞまれる。
オジオンの家はがっしりとした大きな木造で、穴を掘ってしつらえただけのいろりとはちがって、煙突のある立派な暖炉ができていたが、他のつくりは十本ハンノキの村の家とよく似ていて、家全体がひとつの大部屋になっており、山羊小屋がすみに続けて建てられていた。部屋の西側の壁には、小部屋《アルコープ》がくりぬいてあって、そこがゲドの寝場所となった。簡素な寝台の上には窓がついていて、そこからは海が見えたが、冬の間は西風や北風がきついので、たいていいつもよろい戸が閉められていた。ゲドはその冬、ほの暗い、暖かなオジオンの家で、ある時は雨風の激しく打ちつける音を聞きながら、また別の時には、雪のしんしんと降る静けさに包まれて、六百からなるハード語の神聖文字の読み書きを勉強した。彼は満足だった。どんなに呪文を数多く覚えたところで、神聖文字に精通しなければ、真にものごとを支配する力は身につかない。多島海《アーキペラゴ》地域で使われているハード語は、人類のほかの言語同様、今ではすっかり魔力を失ってしまったが、さかのぼれば太古のことば≠ノ源を発している。いっさいのものの真《まこと》の名に使われていることばだ。そしてこのことばを理解するためにまずしなければならないのは、陸地が海から浮かび上がってできたこの世の始まりに初めて書き記された神聖文字の習得なのだ。
だが、胸をおどらせるようなことは、相変わらず何ひとつ起こらなかった。冬の間にあったことといえば、雨が降り、雪が降ったこと。そしてしたことといえば、神聖文字の分厚い本のページをめくりつづけたことだけだった。一方オジオンはといえば、凍《いて》てつく森の逍遥や山羊の世話からもどってくると、長靴の雪をはらい落として、そのまま黙って火のそばに腰をおろした。すると、この魔法使いの長い、問いかけるような沈黙は部屋にひろがり、ゲドの心を満たし、そうこうするうち少年は、ことばというものがどんなものだったかということさえ忘れてしまったような気になって、やがてオジオンがその沈黙を破って話しだす時には、まるで、今初めて彼によってことばが生みだされたかのような錯覚にとらわれるのだった。かといって、彼の口から出ることばが特別高尚なものであったわけではない。それどころか、それらは、パンとか、水とか、その日の天気とかいった、衣食住に関した極めて日常的な、単純なものに限られていた。
太陽が輝きを増して、足早に春がやってくると、オジオンはル・アルビの町を見下ろす草原に、たびたびゲドを薬草摘みに送り出すようになった。そして、そんな時は、好きなだけゆっくりしてくるようにと言って、雨で水かさの増した川の土手や、森や、きらきらと日の光る、湿った緑の野を、日がな一日歩く自由を彼に与えてくれた。ゲドはそのたびに喜びいさんで出かけていって、暗くなるまで帰ってこなかった。だが、薬草のことだけは忘れたかった。岩をよじのぼったり、野原をのんびりぶらついたり、川を歩いて渡ったり、森を採険したりしながらも、彼の片方の目はたえず薬草を探し求めていた。だから何も持たずに手ぶらで帰るなどということは一度もなかった。ある日のこと、ふと気がつくと、ゲドはふたすじの小川にはさまれた野に立っていた。そこには白い聖人≠ニ呼ばれる花が群れて咲いていた。めったにない、治療師から珍重されている花なので、彼は翌日もまた、同じ野に出向いていった。すでに人が来ていた。少女だった。ゲドには一目で、ル・アルビの領主の娘と見てとれた。彼は知らぬふりをするつもりだった。が、少女のほうからやってきて、親しげにあいさつして言った。
「わたし、あんたのこと、知っててよ。魔法使いのところにいるハイタカっていう人でしょ? 魔法の達人なんですってね。わたしにも、その魔法の話、聞かせてくださらない?」
ゲドはうつむいた。白い花が少女のスカートとたわむれている。彼は恥ずかしさに、しぼらくの間、ろくに返事もできなかった。が、少女はかまわずにしゃべっている。そのあけっぴろげで、屈託のない話し方に、ゲドの気持ちはしだいにほぐれていった。彼女はゲドと同じくらいの年格好で、背が高く、たいそう色が白く、ほとんど白人といっていい肌の色をしていた。村人の噂では、彼女の母親はオスキルか、どこか、そのあたりの国の出であるという。少女の髪の毛はさらりと長く、墨を流したように黒かった。ゲドは少女をなんと醜いのだろうと思った。しかし、喜ばせたい、賞賛をかちとりたいという気持ちはあり、それが話しているうちに、しだいに強くなっていった。少女にうながされるままに、彼はカルガドの戦士を打ち負かしたあの霧おこしの術のことまで、あらいざらいしゃべってしまった。少女はいかにも感心したような顔をして聞いていたが、ほめことばはなく、すぐに話題を移して言った。
「ねえ、鳥やけものも呼び寄せることできる?」
「ああ、できるとも。」ゲドは答えた。
彼は、今いる野原のすぐそばの崖に、ハヤブサが巣をかけているのを知っていた。ゲドは、真《まこと》の名を言って、その鳥を呼んだ。ハヤブサはやってきた。だが、少女がいるのにおびえたのだろうか。どうしてもゲドの手首にとまろうとはせず、しきりに鳴き騒いで、しばらくの間翼で宙をうっていが、やがて、風に乗っていってしまった。
「今の、ハヤブサを呼び寄せたまじないは何というの?」
「呼び出しの術。」
「じゃあ、それを使えば死んだ人の魂もあんたのところへ呼び出すことができる?」
(こんなことを言うとは、こいつ、おれをからかっているんじゃないだろうか。ハヤブサだって、完全に言うことをきいたわけではないものを)と、ゲドは思った。(からかわれてたまるものか。)
「そりゃ、その気になればね。」
ゲドは平気をよそおって答えた。
「でも、霊魂を呼び出すなんて、とってもむずかしいし、だいいち、こわくはない?」
「むずかしい、たしかにね。だけど、こわいだなんて。」ゲドは首をすくめた。(今度は、おれのこと、心底驚いてるな。)彼は少女の目を見て思った。
「他人《ひと》に恋心をおこさせることもできる?」
「そんなの朝飯前さ。」
「そうね。村のまじない女だって、それくらいはできるものね。じゃあ、姿を変えることは? あんた、自分の姿を変えることできる? 魔法使いはよくやるって聞いてるけど。」
(やっぱり、からかってるんだろうか。)ゲドは、また、落ち着かなくなった。
「その気になれば、できるさ。」彼は答えた。
少女は、タカでも雄牛でも、火でも、木でも、なんでもいいから、とにかく姿を変えてみてくれ、とせがみだした。ゲドは初めのうちこそ、オジオンがよく言うことばをまねて、なんとか言い逃れをしていたが、あまりしつこくせがまれると、それ以上どう断わってよいものやら、わからなくなってきた。それに、自分の言ったほら[#「ほら」に傍点]がはたして本当にほら[#「ほら」に傍点]かどうかも、よく考えてみるとわからなかった。それでもゲドは、その日は魔法使いが家で待っているからと、少女を残して、早々に野原を立ち去った。翌日、彼はそこへは足を向けなかった。だが、その翌日には、ゲドは、また、咲いているうちにもっと花を集めなくては、と自分に言いきかせて、同じ野に出かけていった。少女はすでに来ていた。ふたりは見事に咲きそろった白い聖人≠フ花を摘みながら、水気をたっぷり含んだ野をはだしで歩きまわった。春の日は明るく輝き、少女はゲドと陽気に語らった。その様子は、ゲドの故郷の村の山羊飼いの娘たちと少しも変わらなかった。彼女は再び魔法のことをあれこれたずね、彼の話のひとつひとつに、感嘆して聞き入った。彼はしだいにいい気分になっていった。ほら[#「ほら」に傍点]もだんだん多くなった。そうこうするうちに、少女はまた、姿を変えてみせてくれと、せがみ始めた。ゲドが断わると、少女は黒い髪をうしろにはらって、きっと彼を見つめ、それから、ぴしりと言った。
「あんた、こわいんでしょ。」
「こわくなんか、あるもんか。」
少女は小馬鹿にしたように、にやりと笑った。
「まだ、ちょっと小さいから、無理かもしれないわね。」
こう言われては、ゲドも黙っているわけにはいかなかった。彼はこの時、多くを語らなかったが、なんとしてでも、力のあるところを見せつけてやらなくては、とひそかに固く心に決めた。彼は少女に、気が向いたら、翌日また出て来てほしい、と言いおいて、家にもどった。魔法使いのオジオンは外出から帰ってきてはいなかった。ゲドはまっすぐ書架に足を向け、二冊の『知恵の書』を棚からおろした。彼は、まだ、自分の目の前でオジオンがこの書を開くのを見たことがなかった。
ゲドが本の中で探したのは変身の呪文だった。だが、神聖文字はまだ早くは読めなかったし、読んだところで、ほとんど理解できなかったので、求めるものはなかなか見つからなかった。この二冊は非常に古い書物だった。オジオンはその師匠の千里眼のヘレス≠ゥらこの書を受け継ぎ、ヘレスは、また、その師匠のペレガルの大魔法使いから受け継ぎ、といった具合に、はるか神話の時代までもさかのぼることのできるものだった。奇妙な小さな文字がびっしりと並び、多くの人の手でなぞられ、さらに書き込みがほどこされていたが、それをなした人びとも、今はすべて、宇宙の塵となりはてていた。それでも、そのつもりになれば、多少は理解できるところもところどころにあって、それに、少女の言ったことや、あざけりの表情がゲドの心に焼きついて離れなかったせいだろう、気がつくと彼の目は、死霊を呼び出す呪文のことを書いたページに吸いよせられるようにとまっていた。
そこに並ぶ神聖文字と記号とを四苦八苦しながら判じとっていくうちに、彼はしだいに恐怖にとりつかれていった。が、彼の目はそのページにくぎづけになって、呪文を全部読み終えるまでは、目をあげることができなかった。
ようやくのことで顔をあげると、家の中はいつか、すっかり暗くなっていた。彼は闇の中で、あかりもつけずに、本を読んでいたのだった。いま一度書物に目をおとした時、そこにはもうどんな文字も読みとれなかった。だが、恐怖はつのる一方で、身動きしようにもからだは椅子にくくりつけられたようになって、いうことをきかない。寒かった。ふと肩ごしに振り返ると、閉まっているドアの傍らに、何かがうずくまっていた。闇よりもさらに濃い、どろどろと形の定まらない暗黒の影の塊だった。塊は彼の方に手をのばし、なにごとか彼にささやきかけてきた。だが、ゲドの知らないことばだった。
突然ドアが大きく開かれた。目もくらむぼかりの白い光とともに男がひとりとびこんできて、何かひとこと鋭く叫んだ。とたんに闇は消え、ささやきも聞こえなくなって、すべてはもとに戻った。
恐怖は去った。だが、ゲドは、なおも、ひどくおののいていた。開け放たれた戸口の光の中に立ちあらわれたのは、ほかでもない大魔法使いのオジオンだった。彼の手にしたカシの木の杖は白い光を燦然《さんぜん》と放って燃えていた。
魔法使いはひとことも言わず、ゲドの横を通って、ランプに灯《ひ》をともし、二冊の書物を書架にもどした。それから、やっと、少年と向かい合った。
「今の術は、いよいよの時が来なければ決して使うでないぞ。そなた、あの書を開いたは、そのための呪文がほしくてのことだろう?」
「ちがいます。」ゲドは小声で答えた。そして、ためらいながらも、何を、どんないきさつで探すようになったかを打ちあけた。
「そなた、注意したことを忘れてしもうたな。領主の妃、つまり、あの娘の母親は魔女だと言うたのに。」
そういえば、たしかに聞いたことがあった。けれども、ゲドは、今でこそ、オジオンの言うことにはすべてそれなりのわけがあることが身にしみてわかっていたものの、その時は、何気なく聞き流してしまっていたのだ。
「娘もな、おおかた、もう、なかば魔女だろうて。ひょっとすると、娘をそなたのもとに送って話をさせたのは母親かもしれん。そなたの読んだ本のページを開いたのも、その女かもしれん。女が仕えておる力は、わしが仕えておるのとはちがうんだ。女が何を考えておるか、わしにはわからん。だが、よいことをたくらんでいるのでないことだけはたしかだ。ゲド、いいか、ようく聞け。そなた、考えてみたことはいっぺんもなかったかの? 光に影がつきもののように、力には危険がつきものだということを。魔法は楽しみや賞賛めあての遊びではない。いいか、ようく考えるんだ。わしらが言うこと為すこと、それは必ずや、正か邪か、いずれかの結果を生まずにはおかん。ものを言うたり、したりする前には、それが払う代価をまえもって知っておくのだ!」
あまりの恥ずかしさに、ゲドは思わず激しい口調でつっかかった。
「そんなこと、どうしておれにわかる? 何ひとつ教えてくれないじゃないか。師匠、あんたと暮らしだしてから、おれ、何をさせてもらった? 何を見せてもらった?」
「そなた、たった今、見たではないか。」魔法使いは言った。
「ドアの近くの暗がりの中に、ほれ、わしが入ってきた時に。」
ゲドは口をつぐんだ。
家の中は寒かった。オジオンはひざまずいて暖炉に火をおこし、あかあかとたきぎを燃やした。それから、ひざまずいたまま、静かな口調で続けた。
「ゲドよ、わしの大事な若ダカよ、そなた、いつまでもわしのところにおらずともいいんだよ。わしに仕えずともいいんだ。そなたがわしのところへ来たのではない。このわしが、そなたのところへ参ったのだから。そなたはまだ若うて、こう言うてもすぐには決めかねるかもしれんが、かといって、わしがかわりに決めるわけにもゆかぬ。実はな、わしは、そなたが希望するなら、ローク島にやりたいと思っておる。そこへ行けば、ありとあらゆる高度な術が授けられる。身につけようと思えば、どんな技も身につけられる。そなたの力は偉大だからの。どうか、その力が、そなたのおごりの心よりも、いっそう強くあってほしいものだ。そりゃ、本心をいえば、わしはそなたをいつまでもわしの手もとに置きたい。わしにあるものがそなたにはないからの。だが、そなたの意志にさかろうてまで、そうしようとは思わぬ。さ、決めなさい。ル・アルビか、それともロークか。」
ゲドはことばをなくして突っ立っていた。どうしたらよいか、わからなかった。彼は、かつてそっと手をふれただけで自分を治してくれたオジオン、決して怒《いか》ることのないオジオンが好きになっていた。彼はオジオンを愛していた。愛しながら、今の今までそれと気づいていなかったのだ。彼は暖炉の傍らに立てかけてあるカシの木の杖に目をやった。暗闇から邪《よこしま》なるものを追い払った、あの燦然とした炎の輝きが鮮やかに脳裏によみがえってきた。彼はこのまま、オジオンのもとにとどまりたいと思った。オジオンについて、いつまでも、どこまでも森を逍遥し、いかにしたら寡黙でいられるかを学びたいと思った。だが、同時に、彼の中には、もっと別な、押さえがたい、強い欲求があった。事を為し、栄誉を我がものとしたかったのである。このまま、オジオンといれば、のろのろと遠回りばかりしていて、いつになったら、その道に通じることがでぎるか、見当もつかない。そんな道をたどらなくても、潮風をいっぱい帆に受けて、まっすぐ内海へ、話に聞く賢人の島へ行けばよいでばないか。そこへ行けば、空は魔法の力でいつもさわやかに晴れわたり、大賢人は、数々の不思議の中をゆったりと歩いているという。
「師匠、おれ、ロークへ行く。」ゲドはついに決心して言った。
それから数日たった。ある晴れた春の日の朝、オジオンはゲドにつきそって、高山台地をあとに、険しい道を、十五マイルほど離れたゴント港へと下っていった。竜の彫刻が構えるゴントの市《まち》の門まで来ると、門番たちはオジオンを見るなり、身を固くしてひざまずき、抜き身の剣をささげて彼を迎えた。彼らは魔法使いを知っていて、上からの命令だけでなく、内なる真心から、彼に敬意を表したのだ。それというのも、十年前の大地震の際、裕福な市民の建てた高い塔がつぎつぎと倒れ、よろい岩のたつ湾の入口をふさいでしまいそうになった時、危機一髪のところで市を救い出したのがこのオジオンだったからだ。この時、彼はゴント山に話しかけて、山をなだめ、まるでおびえるけものを落ち着かせでもするように、地鳴りを続ける高山台地の岩山をしずめてしまったという。ゲドはこの話をおおぜいの人から聞いて知ってはいたが、今、武装した門番が、もの静かな師にひざまずいて頭を垂れるのを見て、あらためて思い出したのだった。彼は地震をしずめたという男の顔を、ほとんど恐れにも似た気持ちで振り仰いだ。だが、オジオンの顔はいつもと変わらずおだやかだった。
ふたりは港におりていった。港の監督官が駆けつけてきてオジオンを迎え、用向きをたずねた。オジオンが答えると、彼は即座に内海へ向かう一隻の船のあることを告げ、ゲドには客として乗ってもらってよいと言った。
「もっとも、船の者たちは風の司として乗ってほしいところかもしれません。」男は言った。
「もしも、その術を心得ていれば、のことですがね。なにしろ、天気の面倒のみられる者が船にはいないので。」
「霧や靄《もや》のことならなんとかできるが、海の風はからきしだめだな。」魔法使いのオジオンはゲドの方に軽く手をおいて言った。
「なあ、ハイタカ、そなた、船に乗っても、潮や風のことには決して手を出すでないぞ。まだ、海にはまったくの素人《しろうと》だでの。ところで、その船の名は何という?」
「黒影号といいます。毛皮と象牙を積んでアンドレード諸島から来て、これからホート・タウンに向かうところでして。いい船です、オジオンさま。」
船の名を聞くと、オジオンの顔はさっと曇った。が、彼はすぐにさりげなく言った。
「そうあってほしいもんだな。ところでと、ハイタカ、この手紙はローグの学院長にお渡ししてくれ。順風を祈るぞ。では、わしはこれで。」
別れはそれだけだった。彼はくるりと踵《きびす》を返すと、波止場をあとに、町へとのぼっていった。ゲドはひとり残されて、師の後ろ姿を見送った。
「さあ、お若いの。」監督官はゲドをうながして石段を降り、黒影号が出帆の準備をしている埠頭に彼を案内した。
周囲五十マイルほど、しかも、すぐ近くの岩山からは四六時中、海が臨めるという島に生まれながら、大人になるまで船に乗ったこともたければ、海水に指一本浸したことさえなかったといえば、嘘に聞こえるかもしれない。けれども、実際には、そういうこともあるものだ。百姓、山羊飼い、牛追い、猟師、あるいは職人といった陸の人間は、海を見ても、自分たちとは関係のない、なにやら、塩からい水のふんだんにある危なっかしいところだぐらいにしか思わない。自分の村から歩いて二日で行けるところでさえ、もう外国に等しく、まして、自分の島から船で三日かかるような島は、噂に時たま出る程度。海の向こうになにやら山のようなものがかすんで見えるが、と思うだけで、そこにも、自分たちが踏みしめているのと同じ固い土があろうなどとは思ってもみない。
ゲドの場合もことは同じだった。山でばかり暮らしてきたゲドは、初めて見るゴント港に緊張し、ただ目を見張るばかりだった。石造りの大きな家々や塔。桟橋や係船所の並ぶ海岸。埠頭で小さく揺れる船。陸に引ぎ上げられて、ひっくり返され、じっと修理を待っている船。錨をおろして帆をたたみ、オールロのふたを閉めて沖合に停泊する船。ガレー船もまじって、その数は五十隻に達しようか。さらに、耳にしたこともないことばで声高に話す水夫たち。重い荷を背負って、樽や木箱やロープの間を駆けていく仲仕たち。毛皮のマントをはおり、水から頭を出す石の上を飛び歩きながら、小声で商談を続けるひげ面の商人たち。とってきた魚を陸揚げする漁師たち。船大工の槌の音。貝売りのうたうような呼び声。船長の怒鳴る声。そして、その先に横たわる、きらきらと輝く静かな湾。ゲドはものめずらしさにきょろきょろしながら、監督官のあとについて黒影号の停泊する広い践橋まで行き、そこで、船長に引き合わされた。魔法使いの頼みとあって、船長はほんの二言三言きいただけで、すぐさま、ゲドを客としてローク島まで連れていくことを承諾した。監督官は立ち去った。黒影号の船長は太った、体格のよい男で、アンドレード諸島の商人の着る、毛皮のふちどりをした赤いマントをはおっていた。ふたりきりになると、彼はゲドの顔もろくに見ずに、馬鹿にしたように言った。
「おまえさん、天気は思うように変えられるんだろうね。」
「はあ。」
「風は? 風はおこせるかね。」
ゲドはできないと答えるしかなかった。船長はこれを聞くと、では、邪魔にならないところに引っこんでいろ、と吐き捨てるように言った。
漕ぎ手たちがつぎつぎと乗りこんできた。船は暗くならないうちに沖合の停泊地まで出て、明け方近く、引き潮に乗って出帆することになっていた。船の上には他人《ひと》の邪魔にならずにいられるところなど、どこにもなかった。ゲドは仕方なく、船の鱸《とも》の積荷の上に這い上がり、そこにしがみつくようにして、下の様子をながめていた。たくましい腕をした頑丈なからだつきの漕ぎ手の男たちがあとからあとから乗りこんでくる。片方では波止場人足たちが雷のような音をたてながら、飲料水のつまった樽を桟橋からころがして、漕ぎ手のすわるベンチの下にしまいこんでいる。がっしりとした船は、荷の重みでぐっとその船体を水に沈めたが、それでも、まだ、ひたひたと寄せる波にかすかに揺れながら、間近に迫った出航を待っている。やがて舵手が艫の右手に立って、まっすぐ前を向き、舳先《へさき》に近い横板の上に立つ船長の合図を待つ。舳先は古くから伝わるアンドラドの大蛇の首をかたどって彫られている。ついに船長が大声で出航を命じた。船はもやい綱を解かれ、二|艘《そう》の漕ぎ舟に引かれて桟橋を離れた。再び船長の声。長いオールがいっせいに飛び出した。左右両腹から十五本ずつ。漕ぎ手はみな、屈強な背中をかがめた。船長のそばに立つ若者が太鼓にひとうちをくれた。カモメが空をきるように、船は音もなく動き出した。やがて、ふと気がつくと、先ほどまでの市《まち》の喧騒は、はるかうしろに遠のき、ゲドたちはいつか港をあとに波の静かな湾に出ていた。ゴン卜山の白い峰がのしかかるように迫っている。まもなく、錨は南側のよろい岩のかげの浅い入江に投げられて、船はその晩をそこで過ごすことになった。
七十人からなる乗組員は全員成入の式はすませていたが、なかにはゲドくらいのごく若い者もまじっていた。彼らはぶっきらぼうで、口こそ悪かったが、ゲドに親しく声をかけて、食べ物や飲み物を分けてくれた。彼らはゲドのことを勝手に山羊飼い≠ニ呼んだが、これはゲドがゴント人というだけで、他意があってのことではなかった。ゲドは歳《とし》のわりには背が高く、からだつきが頑丈だったし、それにまじめな話でも冗談でもじょうずに受け答えができたから、たちまちそんな若者たちの中に溶けこんでいって、最初の晩から彼らのひとりとして生活を始め、その仕事も習い覚えていった。これには船長以下役付きの船員も大いに満足だった。船には、実のところ、ぐうたらな客など乗せておくゆとりはなかったのである。
人と索具と積荷でいっぱいの、甲板もないガレー船には、まったく、余分な人間の入りこめる場所などどこにもなく、まして、心を楽しませてくれるものなど、ありえようはずがなかった。ゲドはといえば、彼はその晩、北方の島々から運ぼれてきた毛皮の荷物の間にからだを横たえ、湾の上にのぼった春の星座や、船尾のかなたに見える市《まち》の小さな赤い灯をながめていたが、そのうち眠りにおち、目を覚ました時には、また、すっかり元気になっていた。夜明け前に潮が変わった。船は錨をあげ、ふたつのよろい岩の間をすべるように外海に出た。日が昇って、うしろのゴント山の頂を赤く染める頃、船は高くいっぱいに帆を張り、いよいよゴント海を、南西の方角に向かって航行し始めた。
バーニスクとトルヘブンの間の海を、船は軽やかな風を受けて進み、二日目には早くもハブナーが見えだした。ハブナーは多島海《アーキペラゴ》の心臓部で、大黒柱にあたる大きな島である。三日間、船はハブナーの緑の丘を右に見て、その沿岸を航行したが、島には立ち寄らなかった。ゲドはその後も長い間、この島には足を踏み入れなかったし、世界の中心にあたるというハブナーの港町の数々ある純白の塔も目にすることはなかった。
船は一夜をウェイ島北部の港ケンバマスで過ごし、翌晩はフェルクウェイ湾の入口の、とある小さな港に停泊、そしてつぎの日には、オー島の北の岬をかすめて、エバブナー海峡に入っていった。帆がたたまれて、再びオールが忙しく動きだした。どちらを向いても陸地が見え、呼べば聞こえるところに、大小の船が浮かんでいた。商人がおり、貿易業者がいた。めずらしい荷を積んで、何年もの航海を経て今はじめて辺境の島々からやってきたものもあれば、内海の島々をスズメのように飛び歩いて商いをしているものもあった。やがて船は混雑するこの海峡をぬけて、ハブナーをあとにし、アーク島、イリーン島という美しいふたつの島の間にすべりこんでいった。島はどちらも見事にひらけ、町の家並みは段々になって、山のはるか上のほうまで続いていた。船は間もなく、その海峡も過ぎて、激しさを増す風雨のなか、内海をぬけてローグ島に向かった。
夜になると風はさらにつのって、暴風雨の様相を呈し始めた。帆もマストもおろされた。翌日はずっと、オールによる航海になった。大きな船だったから、かなりの波にも平気だったが、艫で長い舵棒を握る舵手が、うちつける雨をどんなにすかして見ようとしても、見えるものは雨また雨ばかりだった。船は羅針盤をたよりに、一路南西に針路をとりつづけた。だが、たしかなのは方角だけで、位置となると、皆目わからなかった。ローク島の北にひろがる遠浅の海や、東にあるボラリスの暗礁のことをある者が心配そうに口にすれば、いや、そんなところはとうに過ぎて、船はすでにケイムリーの南のだだっ広い海に入っているわいと、別の者は言い張った。風はいっそう激しさを増し、荒れ狂う海の波頭を小さく吹きちぎって泡と飛ばせた。それでも人びとは風に追いたてられるようになおも南西へと船を漕ぎ進めた。たいへんな重労働のため、漕ぎ手の交替が早くなった。年端のいかない少年たちにも、ふたりに一本のオールがあてがわれた。ゴントを出てからずっとそうしていたように、ゲドも、もちろん、それに加わった。オールを離れれば離れたで、すぐ、水を掻い出す仕事が待っていた。つぎつぎと押しよせる波に、船はたんまりと海水を持ちこまれていたからだ。人びとは山のような波をぬって、懸命に働きつづけた。冷たい雨がそんな人びとの背を容赦なくたたき、太鼓は心臓の鼓動のように、嵐の中に鳴りつづけた。
ひとりの男がやってきて、ゲドの手からオールをとると、舳先の船長のところへすぐ行くようにと言った。船長はマントのすそからしずくを垂らしながら、それでも狭い足場に酒樽のようにでんと構えて立っていたが、ゲドを見るといきなり言った。
「この風をなんとかできないか。」
「無理です、船長。」ゲドは答えた。
「鉄はどうだ、思いのままに扱えるか。」
船長の言うのは、羅針盤の針を北と限らず、こちらの必要に応じて、ローク島にも向けられるかということだが、これは海の司だけに可能な術である。ゲドは、またしても船長の望む返事ができなかった。
「そうか、それではな、」船長は荒れ狂う風雨の中でいっそう声を大きくして言った。
「いいか、ホート・タウンに着いたらな、ローク島までもどる船は自分で探すんだ。ロークはこの真西あたりと思うがな、こんな海を魔法なしじゃあ、とてもそこまではいけん。このままじゃ、おれたちは南へ進むしか方法がないんだ。」
まずいことになった、とゲドは思った。ホート・タウンのことは船乗りたちの噂によく聞いていたからだ。なんでも、おそろしく物騒なところで、よからぬ取引きがいたるところで行われており、人びとは連れ去られて、そのまま、南海域の島々に奴隷として売られていくこともめずらしくないという。再び自分の席にもどると、ゲドはたくましいアンドレード人の若者と組んで、オールを漕ぎ始めた。太鼓は相変わらず休む間もなく鳴りつづけている。艫のカンテラは風に吹きちぎられそうになって、上下に激しく揺れ、横なぐりの雨のまにまに、チカチカとたよりない光を投げてよこす。ゲドは重いオールを機械的に動かしながら、隙を見ては西の方に目をやっていた。と、大波に船が乗った時である。ほんの一瞬ではあったが、荒れ狂う暗い海のかなたの雲の切れ間に、ふと灯《あかり》のようなものが見えた。夕日だろうか。いや、それはたしかに、灯だった。夕日のあの紅色ではなかった。
ゲドと組んでいた若者は、自分の目で見たわけではなかったが、ゲドのことばを信じて、すぐに大声でそれと報告した。舵手も大波を待っては西に目をこらすようになった。そして、再びゲドがそれを目にした時、彼の目も同時に同じものをとらえた。だが、彼は、
「なんだ、日が沈むところじゃねえか。」と、吐き捨てるように言ったきり、あとはとりあってもくれなかった。ゲドは水を掻い出していた若者のひとりに少しの間の交替を頼むと、再び狭いベンチの間をぬうように、前へ出ていった。そして、振り落とされないように彫り物をした船首にしっかとつかまると、船長の耳もとで思いきり声をはりあげた。
「船長、西に見えるあの灯は、ローグ島にまちがいありません!」
「おれには見えんかったぞ!」船長は怒鳴り返した。が、そのことばも終わらぬうちに、ゲドの手がさっとあがった。みんなの目がいっせいに、その指さすところに注がれた。西のかた、荒れ狂う海のかなたに、くっきりと浮かび上がって見えたのは、ゲドの言う通り、まぎれもない、町の灯だった。
船長はただちに舵手に命じて、灯の方角へ船を向けさせた。若い客のためを思ってではもちろんない。危険な暴風雨から自分の大切な船を救うために、である。
「小僧、おまえ、まるで海の司みてえな口をきくじゃねえか。」船長はなおも言った。
「だが、いいか、この天気だ。おれたちをとんでもないところへ連れてったら、ただじゃおかんからな。たっぷりと海ん中をローグ島まで泳いでってもらうぜ。」
船は、暴風雨に追いたてられるかわりに、今度は真横から風を受けて進まなければならなくなった。これはたいへんなことだった。波はくり返し船の横腹にぶつかって、その針路をたえまなく南へ押しやり、激しく揺さぶって、どっと海水を吐き出してよこした。水を掻い出す仕事は一分たりと休んではいられなくなった。漕ぎ手は漕ぎ手で、いざ、漕こうと力を入れたオールが、横揺れのために、水から飛び出すことのないように、たえず、気をつけていなければならなかった。もしもオールを宙に浮かしたまま漕ごうものなら、ベンチとペンチの間にいやというほど打ちすえられること間違いなしだからだ。空はびっしりと黒い雲におおわれて、あたりはだいぶ暗くなってきていたが、人びとは、前方に灯《あかり》をたしかめながら、懸命に船を進めた。ようやく風がわずかながら弱まって、行く手に灯が、まるで手をひろげて人を迎えでもするように、浮かび上がってきた。人びとはなおも船を漕ぎつづけた。そして……。まるで一枚の幕を突き抜けるように、船は嵐の中から、突然、晴れ上がった空のもとに出た。空にも海にも、まだ残照が美しかった。泡立つ波の向こうには、さほど遠くないところに、椀を伏せたようたどっかりと大きな緑の山が見え、すそには町がひろがっていた。そして、その町を映す小さな入江には、幾隻かの船がゆったりと錨をおろして、停泊していた。
舵手が長い舵捧によりかかったまま、顔だけ振り向いて大声で言った。
「船長、あれはほんとに陸地かね。わしら、魔法にでもかかってるではないだかね。」
「馬鹿野郎、このまま船を進めるんだ。さあ、きさまらも漕げ。漕ぐんだ、この意気地なしめ!。いいか、あれはスウィル湾に、ローグ山よ。どんな阿呆《あほう》だって。知ってらあな。さあ、漕げ!。」
再び太鼓が鳴りだした。人びとは綿のように疲れたからだに鞭打って、入江に船を漕ぎ入れていった。入江は静かで、町の人びとの話し声にまじって、どこからか鐘の音も聞こえてきた。吹きすさぶ風の音や、海のうねりは遠く、かすかにするだけだ。島を一マイルも離れれば、四方には一面、黒い雨雲がたれこめているというのに、ここローグ島の空だけは静かに晴れて、雲ひとつなく、そろそろ星もまたたき始めていた。
三 学院
ゲドは、その夜は黒影号で眠り、翌朝早く、生まれて初めて知り合った船乗り仲間に別れを告げ、彼らの元気な祝福の声に送られて、島に降り立った。スウィルの町は、さほど大きくなく、狭い急な坂道の両側にのしかかるように高い建物がひしめいている。しかし、ゲドにとっては、それでもやはり都会だった。彼はどちらへ足を向けたらよいかわからず、仕方なく、最初に出会った男をつかまえて、どこへ行けばロークの学院長に会えるか、とたずねた。
男はしばらくの間、うさんくさそうな目つきでゲドを見ていたが、やがて口を開くと、
「賢者は問うに及ぼす、愚者は問うても無駄だとか。」と言いおいて、そのまま立ち去った。ゲドは坂道をのぼっていった。間もなく四角い広場に出た。三方を勾配の急なスレートぶきの民家が囲み、残った一面は大きな建物の壁がふさいでいる。その壁にいくつかあいている小さな窓は民家の煙突の頂よりもさらに高いところについていて、どっしりとした灰色の石造りの建物は一見、砦か城を思わせる。広場には商人たちの露店が並び、人びとが行ったり来たりしている。ゲドは籠《かご》に貝をひろげて売っていたひとりの老婆をつかまえて、同じ質問を重ねた。すると老婆は、
「そうさな、院長さんはいるところにいるとは限らんもんだて。いないところにいることもあるだ。」
と答えたきり、また、呼び声高く、商売にもどっていった。
ふと見ると、例の大きな建物の壁のすみに粗末な木戸がついている。ゲドは近づいて、乱暴にその戸をたたいた。木戸が開いて、中からひとりの老人が顔をのぞかせた。ゲドはいきなり、まくしたてた。
「わたしはゴントの大魔法使いオジオンさまからこの島の学院の長《おさ》なる方に手紙をことづかってきてるんです。それでその人を探してるのに、誰にきいても、返ってくるのは、人を馬鹿にした謎みたいな答えばかり。もう、いい加減にしてほしいものです。」
「ここがその学院だが……。」老人はおだやかに言った。
「わしは門番でな。ま、入れるものなら、入ってみなされ。」
ゲドは足を踏み出した。とうに敷居は越えたはずだった。だが、気がつくと、彼は前と同じ、外の歩道に立っていた。ゲドはもう一度足を踏み出した。またも結果は同じだった。門番を名乗った老人は中にいて、静かに彼を見守っている。
ゲドはあわてるより腹が立った。これでは先ほどのふたりよりもまだ悪い。彼は手をあげて、扉を開ける呪文を唱えた。ずっと以前、まじない師の伯母がとっておきの中から教えてくれたものである。今、そのまじないかけに手ぬかりはないはずだった。だが、それは所詮まじない女の呪文でしかなかったのか、入口を支配している力は、そんなものではびくともしなかった。
せっかくのまじないも効き目がないとわかって、ゲドはそのまま、しばらく歩道に立っていたが、やがて、中にひかえている老人に仕方なく頭を下げた。
「わたしひとりの力ではとてもだめです。どうか力を貸してください。」
「自分の名を言いなされ。」門番は答えた。
ゲドは、押し黙った。自分の名をあかすのは、いよいよの時でなければならない。
しかし、彼はついに覚悟を決め、
「ゲドといいます。」と名乗った。それからあらためて歩を運び、開かれた戸口から中に入った。だが、この時、朝の光は背後から射していたのに、ひとつの影がすぐうしろから、続いてしのび入ったような気がした。
ゲドはくぐり抜けた戸口を振り返った。粗末な木でできているとばかり思っていた入口の枠は、よく見れば、継ぎ目ひとつない見事な象牙様のものでできており、のちになって知ったことだが、それはかつて人びとに恐れられた巨竜の牙を細工したものだった。ゲドのうしろで老人が閉めた扉も光沢のある象牙でできており、外の日の光がそれをすかしてうっすらと明るく見えた。扉の内側には宇宙の木が彫られてあった。
「ようこそ、おいでなされた。」門番はそれだけ言うと、あとは黙ったまま、いくつもの広間や回廊をぬけて、奥まった中庭にゲドを案内した。中庭は一部石畳で屋根はなく、芽をふいたばかりの木々の下では、噴水が日の光を浴びてたわむれていた。ゲドはそこでしばらく、ひとりきりで待たされた。じっと立っているだけなのに、心臓は早鐘のように打っていた。さまざまな力や精霊たちが、今自分のまわりで、ひそかに交感しあっているのが手にとるように感じられた。この建物は石造りだった。しかし、石よりももっと強い魔法の力が建物全体に働いていることは明らかだった。彼は今、賢人の館のもっとも奥まったところに立っていたが、そこは天に向かって、ひらけていた。ふと気がつくと、白い衣をまとった男がひとり、噴水の向こうから、じっとゲドを見つめていた。
ふたりの目が合った。と、木の枝にいた小鳥がさえずりを始めた。その瞬間、ゲドはすべてを理解した。小鳥の歌も、噴水の池に落ちる水のことばも、雲の形も、そして木の葉をそよがす風がどこから来てどこへ行くのかということも、彼にはすべてのことが明らかになった。自分自身が日の光の語ることばのひとつであるように彼には思われた。
やがて、不思議な一瞬が去った。彼も、まわりの世界も、すべては、いや、おおかたはもとどおりになった。彼は進み出て、大賢人の前にひざまずき、オジオンからの手紙を差し出した。
ロークの学院長をしている大賢人ネマールは非常な高齢で、彼ほどの歳月を生きてきた人間はほかにはいないと言われていた。彼は小鳥のさえずりを思わせるような震える声でやさしくゲドをねぎらった。髪もひげも真っ白だった。その長衣《ローブ》も白かった。まるで彼の中にあった色という色、重みという重みが長い歳月にゆっくりとさらされ、使い果たされてしまったようで、男は今、一世紀を漂ってきた流木のように、白く枯れきっていた。
「わしの目はすっかり老いぼれてしもうてな、そなたの師匠が書いて持たせてくれたものも、よう読めんのじゃ。」彼は小さく震える声で言った。
「そなた、すまぬが、わしに読んで聞かせてはくれぬか。」
ゲドは言われるままに手紙を取り出して読み始めた。それはハード語の神聖文字で、ごく簡単につぎのように書かれていた。
「大賢人ネマールさま。今、ひとりの若者を御もとにお送り申し上げます。この若者は順調にゆきますれば、ゴント始まって以来のすぐれた魔法使いとなってくれるものと信じております。」
そして最後にサインがしてあった。サインはオジオンの真《まこと》の名(といってもゲドはまだ知らなかったが)ではなく、神聖文字で口閉ざしたる者≠ニ記してあった。
「地震を自らの掌中におさめおくことのできるあの男がそなたをよこしたというのか。二重にうれしく思うぞ。オジオンはいい奴じゃった。若い頃ゴントから来おってな。さあ、それでは、今度はそなたの船旅のもようを聞かせてくれ。」
「順調な航海でした、院長さま。昨日の嵐を別にしましたら。」
「何という船で来られた?」
「黒影号と申しまして、アンドレードからの商船でした。」
「誰の意志で来られた?」
「わたし自身の意思で。」
大賢人はじっとゲドの顔を見つめていたが、やがて目をそらすと、ちょうど年寄りが記憶の中をさまよってはぶつぶつ言うように、ゲドにわからないことばをなにやらつぶやき始めた。が、耳をそばだてると、その中には、つい先ほど、鳥がうたい、噴水がその水の落ちぎわにささやいたいくつかのことばがまじっていた。大賢人は呪文を唱えているわけではなかったが、その声にはゲドの心を揺さぶる力がこもっていて、若者は不安に突き落とされた。ゲドは一瞬、見も知らぬ荒野にいくつもの影に囲まれて立っている自分の姿を見たように思った。だが、もちろん、それは錯覚だった。彼の立っているのは初めから、日のあたる中庭で、気がつくと噴水の音が耳に快かった。
オスキルのカラスだろうか。一羽の黒い大きな鳥が芝生を越え、石畳を過ぎて、こちらにやってきた。鳥は院長の長衣《ローブ》のすそまでくると、その真っ黒なからだを休め、鋭いくちばしを突き出して、光る小石のような目で横目にゲドをにらみつけた。それからカラスはネマールがよりかかっている白い杖をそのくちばしで三度つついた。とたんに、老魔法使いはばたと口をつぐんで、にっこりし、ややあって、小さな子どもにでも対するようにゲドに言った。
「さあ、駆けていって遊ぶがよい。」
ゲドは今一度片ひざをついて、頭を下げた。
顔をあげた時、院長の姿はすでになかった。そばにはカラスだけが残っていて、なおも杖をつつくようにくちばしを動かしていたが、その目は相変わらずゲドをにらんでいた。
やがて、カラスは、多分オスキル語であろう、
「テレノン ウスバク。」と鳴き、またくり返して、
「テレノンウスバクオレク。」と陰気な声で鳴くと、来た時と同じもったいぶった足どりで遠ざかっていった。
ゲドはどこへ行ったらよいものかととまどいながら、ともかく中庭をあとにした。回廊に入るところで、背のすらりと高い若者がひとり彼を迎えて頭を下げ、片足をうしろにひいて、丁寧にあいさつして言った。
「わたしはハブナー島、イオルグのエンウィットの息子で、ヒスイ≠ニ申します。今日はどうかこのわたしになんなりと御用命を。学院内を御案内もいたしますし、おわかりにならないところがあれば、できる限りお教えいたします。ところで、失礼ですが、おたくさまのお名まえは?」
山村に生まれ、金持ちの商人、貴族の息子などと交わることもなくきたゲドは、堅苦しいおじぎをされ、その上、
「御用命」とか
「おたくさま」などということばを並べられると、馬鹿にされたような気がして腹が立った。
「ハイタカだ。人にはそう呼ばれている。」彼はそっけなく答えた。
相手はしばらくの間つぎのことばを期待して待っていたが、それきりだとわかると、からだをおこし、気づかれないようにほんの少しそっぽを向いた。若者はゲドよりも二つ三つ年上だった。たいそう背が高く、身のこなしには妙に優雅を気取ったところがあって、踊り子のようだとゲドは思った。若者は灰色のマントをはおり、頭巾《ずきん》はうしろにずらしてあった。彼が真っ先にゲドを連れていったのは、衣裳部屋だった。ゲドは、学院の生徒として、自分に合ったマントをはじめ、入り用なものは何でも取って、身につけてよいのだという。彼は濃い灰色のマントを自分で選んではおった。
「さあ、これでおたくもわたしたちの仲間ですね。」ヒスイが言った。
ヒスイはものを言う時、かすかにほほえむくせがあった。そのためにゲドはこの男の丁寧なことばの裏には何かあるのではないかとますます勘繰ってしまうのだった。
「マントひとつで魔法使いになれるもんかね。」ゲドはにこりともしないで言った。
「そんな……、」歳《とし》の多いほうが言った。
「しかし礼儀作法は人をつくる、とはよくいいますよね。さて、つぎはどこに参りましょう。」
「どこへなりと。おれはこの館は知らんから。」ゲドはぶっきらぼうに答えた。
ヒスイはゲドを連れて、学院のあの回廊、この回廊と歩きながら、いくつもの中庭や広間を見せてまわった。魔法の書や神聖文字で書かれた分厚い本がぎっしりとおさまっている書物の部屋や、行事のある日には学院全体が集まる、つどいの間にも案内し、さらに階段をのぼって、塔に入り、生徒や教師たちの寝泊まりしている小さな部屋にも案内した。ゲドの部屋は南塔にあり、ひとつしかない窓からは、スウィルの町の急勾配の屋根の向こうに青い海が見えた。他の個室と同じように、片すみに藁のつまったマットレスがしいてあるほかには家具らしいものはまったくなかった。
「ここでは、わたしども、たいへん質素に暮らしていますので。」ヒスイが言った。
「もっとも、おたくには、あまり苦になるまいと思いますが……。」
「ああ、慣れてるから。」と、ゲドは答えたが、この慇敷無礼《いんぎんぶれい》な若者に見くびられてなるものかと、急いでことばをついだ。
「あんたのほうこそ、来たばかりは困ったろう。」
ヒスイはゲドを振り返った。口にこそ出さなかったが、その顔は明らかに、(こいつ、よくもおれがそうだとわかったな。 ハブナー島イオルグの領主の息子たるおれのことが……)と語っていた。が、彼は気にもとめないふうに言った。
「さあ、つぎはこちらへ。」
まだ上にいるうちにどら[#「どら」に傍点]が鳴った。ふたりは大食堂へ降りていった。これから百人を越す若者たちと長テーブルで昼食をともにするのだ。各自自分で調理場の窓口へ行って、料理人たちと軽口をたたきながら、湯気のたついくつもの大きなボウルから、好きなだけ料理を取りわけていた。それから彼らは山のようなごちそうののった盆をかかえて、長テーブルの気に入った場所に陣取るのだった。
「このテーブルは何人来ようと、席がなくなることはないのだそうです。」ヒスイが言った。なるほど、向こうでは賑やかな少年たちの一団が、のびのびと元気いっぱいしゃべり、かつ食べているかと思うと、こちらでは、灰色のマントをはおり、胸もとを銀のブローチで止めた、もう少し歳のいった院生たちが、何か物思いにふけりながら、ひとりふたりと静かに食べ物を口に運び、それでいて、テーブルはまだゆったりと広く、どちらも気をつかわずにいられるのだった。ヒスイはゲドをひとりのずんぐりしたからだつきの若者のところに連れていき、並んで腰をおろした。若者の名はカラスノエンドウというのだという。カラスノエンドウはもっぱら食べるのに忙しく、あまり多くをしゃべらなかった。ことばに東海域のなまりがあり、皮膚の黒さが目立った。ゲドやヒスイや、ほかの多島海《アーキペラゴ》地域の人間はたいてい赤褐色なのに、彼のは黒褐色といってよかった。見るからに無骨者で、お世辞にも洗練されているとは言えなかった。彼は食べ終わると、ひとくさり食事にけちをつけ、それからゲドのほうを向いて言った。
「これだけは、やっぱり、ごまかしはきかないよ。あばら骨は正直だもんな。」
ゲドには何を言っているのかわからなかったが、この若者とはなんとなくうま[#「うま」に傍点]が合いそうな気がした。うれしいことに、カラスノエンドウは食後も行動をともにすることになった。
ふたりの先輩は、ゲドがこれからひとりで出かけても困らないようにと町へ連れ出してくれた。スウィルの町は、道路の本数も少なく、その長さもたいしたものではなかったが、ふたりは屋根の高い家々が並ぶ通りを右へ折れたり、左へ曲がったりして、あとからついていくゲドは、うっかりすると迷子になってしまいそうだった。町のつくりも奇妙だったが、住んでいる人間もまた一風変わっていた。漁師、職人、細工師と、どこの島にもいる人びとなのに、賢人の島というものは、いつもどこかで魔法が働いているので、住民はそれにすっかり慣らされて、いつか自分たちまでが、半分まじない師のようになってしまっていた。ゲドもすでに経験して知っていたように、人びとはたえず謎めいたことばのやりとりをしていたし、それに、もしも、今、目の前で、ひとりの子どもが魚に姿を変えるか、家一軒宙に浮かび上がるかしても、彼らは眉ひとつ動かさず、なにごともなかったような顔をして、靴直しや羊の肉を切り分ける仕事を続けたにちがいない。それが院生のいたずらであることくらい、とうの昔にわかっていたろうから。
三人は町からもどると、学院の裏門をそのまま過ぎ、野菜畑をいくつか通りぬけて、やがてスウィル川の清らかな流れにかかる木の橋を渡り、野原や林をぬけて、さらに北に向かって歩いていった。道は上り坂でくねくねと曲がっていた。あちこちにカシの木立があって、明るい日ざしの降り注ぐ中に、そこだけは黒い影ができていた。やがて左手前方に、いまひとつの木立がぼうっと浮かび上がった。どの道もそこに通じていそうに見えて、そのじつ、一本も通じてはいない。目をこらしたが、何の木なのかもはっきりしなかった。ゲドが目を離せないでいるのを見て、カラスノエンドウが小声で教えてくれた。
「あれはまぼろしの森≠ニ言うんだ。おれたちはまだあそこへは行けないけどね……。」
暖かな日があふれんばかりに注ぐ野原には、黄色い花が点々と咲いていた。
「これは火花草、」ヒスイが言った。
「アイリン火山の灰をかぶった土地にだけ見られるものです。当時、エレス・アクベが火の神から内海の島々を守ってくれたのはご存じでしょう。」ヒスイは枯れた花を一本手折って、ふっと吹いた。綿毛が舞い上がり、日の光を受けて火花のようにきらめいた。
三人はまた歩き出した。道は椀を伏せたような、どっかりと大きな山の裾野をなだらかにのぼっていった。緑におおわれた山には一本も木が生えていない。きのう、ゲドたちが入江に船を漕ぎ入れた時に見たあの山である。ヒスイがふと足を止めた。
「ゴントの方々の魔法の噂は故郷のハブナーにいた頃、よく耳にして、いつも感心していました。まえまえからいつか拝見したいものと思っておりましてね。ようやく、念願のゴントの方にもお会いできたし、場所もローク山の中腹と絶好だし――なにしろローク山の根は地球の中心に向かっていて、どんな魔法もここではよく効くはずですからね――ひとつ、いかがです、ハイタカ君とやら。そのお手並を見せてはくれませんか。」
不意をつかれて、ゲドはとまどい、ことばをなくした。
「おい、あとにしろよ、ヒスイ。」カラスノニンドウが持ち前のさっぱりした口調で言った。
「彼だって、そういきなり言われたんじゃ。」
「いや。しかしね、この人には力か技か、とにかくどちらかがあるはずなんだ。でなかったら、どうして門番が中に入れたりするものか。あとでなどと言ってないで、ぼくは今すぐ見せてもらいたいね。ハイタカ君、ね、いいでしょう?」
「おれにはどちらもある、力も、技も。」ゲドは言った。
「それでと、あんたらが噂に聞いてたってのはなに?」
「もちろん目くらましの術ですよ。ないものをあるように見せかける……。ほら、こんな具合に。」
ヒスイは言うより早く、足もとの緑の山肌を指さして二言三言呪文を唱えた。と、水がひとすじキラリと光り、みるみるうちに泉のように湧き出して、山肌を駆けくだり始めた。ゲドは流れに手を差し入れた。ぬれた。すくって飲んでみた。喉に冷たく快かった。しかし、喉の渇きは癒《いや》されなかった。錯覚にしかすぎないのだ。やがてヒスイが別の呪文を唱えると、たちまち水は消え、気がつくと草は乾いて、日の光の中に揺れていた。
「さあ、カラスノエンドウ、こんどはきみの番だ。」 ヒスイは事もなげに笑って言った。
カラスノエンドウは浮かない顔をして頭をかいたが、それでも土を少しばかりすくいあげると、なにやらぶつぶつと唱えながら黒い指でその土をこねて形をつくり、軽く押さえて、最後に指でひと突きした。すると、手の中の土はハエかハチを思わせる小さな虫に変わり、ブンブンいいながら空高く舞い上がって、やがて、ローク山のゆるやかな稜線のかなたに消えた。
ゲドは目をみはった。内心の自信が大きくぐらつき始めた。山羊を呼び寄せたり、いぼを治したり、重い荷物を動かしたり、鍋釜をなおしたり、そんな村のまじない師のやる魔法以外に、自分には何ができるというのか。
「おれはそんないたずら半分なことはしない。」ゲドは言った。
カラスノエンドウはゲドの気持ちを察し、技くらべはやめて先へ行こうとした。だが、ヒスイが承知しなかった。
「それはまた、どうして?」彼はすかさずきいた。
「魔法はお遊びじゃない。おれたちゴントの人間は、だから、面白半分や見せびらかしのために魔法を使うことはしないんだ。」ゲドはきっぱりと…言った。
「それでは何のために?」ヒスイがきいた。
「金のためですかな。」
「ちがう!」ゲドは否定したものの、つぎのことばが出なかった。これ以上何か言えば、無知をさらし、恥をかきそうな気がした。ヒスイはからからと笑い、ふたりをうながして、また山道を歩き出した。ゲドはにがい思いを抱いて、むっつりとあとに従った。馬鹿なことを言ってしまったと思い、そのためにヒスイが憎らしかった。
その晩、あかりのない、冷たい石の部屋にもどったゲドは、マントにくるまって寝床に横になり、この館で行われてきた数々のまじないや魔法のことを考えていた。館じゅうがしんと静まり返っていた。初めての場所に来たせいもあって、ゲドはなかなか寝つかれなかった。あたりは真っ暗だった。
彼は急にこわくなった。どこでもいい、ここがロークでさえなかったら、とゲドは思った。その時、カラスノエンドウが戸口に姿をあらわした。小さな青白い魔法のあかりが頭の上に揺れて、カラスノエンドウの足もとを照らしている。
「ちょっと邪魔していいかい?」
彼はそう断わって入ってくると、ゲドにゴントのことをあれこれたずね、それから、東海域に浮かぶ自分の故郷の島々のことをなつかしそうに語り出した。コープ、コップ、ホルプにヴェンウェイ、ヴェミッシュ、イフィッシュ、コピッシュにスネッグと、彼はめずらしい名の島々をあげ、そんな島々を囲む静かな海上に、夕餉《ゆうげ》の煙がゆったりとたなびくさまを話してくれた。名まえを言いながら床石に指で描いてくれる島の地図は、銀の捧ででも書かれたように、瞬間暗い床にぼうっと浮かび上がり、やがてかたはしから消えていった。カラスノエンドウは学院に入って三年、まもなく正式の魔法使いの資格が得られることになっていたが、自分が魔法を使うことを、鳥が空を飛ぶほどにも特別なこととは考えていなかった。彼にはさらにすばらしい、もって生まれた力があった。それは親切心だった。その夜も、そしてそれからのちも、ずっと、カラスノエンドウはゲドに深い友情を捧げて惜しまなかった。ゲドが報いずにはいられないような、打ち解けた、心からの友情だった。
けれども、カラスノエンドウはヒスイに対しても同じように親しくふるまっていた。よりによって、最初の日に、ローク山で自分を辱《はずか》しめた男をである。ゲドはあの日のことにいつまでもこだわっていた。それはヒスイも同じらしく、その後も相変わらず、人を小馬鹿にしたような薄ら笑いを浮かべて、気取った声でゲドに話しかけた。ゲドの自尊心は、しかし、そんなことで揺るぎはしなかった。彼はいつの日かきっと、ヒスイやヒスイをとりまく連中に自分の力が本当はどんなに偉大であるかを見せつけてやろうと決心していた。どんなに連中の技が冴えていたって、おれみたいに魔法で村を救った奴なんて、ひとりもいやしないじゃないか。あのオジオンに、ゴント始まって以来の魔法使いになると太鼓判を押された者が、おれのほかにどこにいる?
彼はそんなふうに自分をはげましながら、その鋼のような意志力のすべてを学院の授業に傾けた。授業には歴史をはじめとするいくつかの学科のほかに、一人前の魔法使いになるのに必要なさまざまな術の訓練もあって、ロークの九賢人と呼ばれる灰色のマントをはおった長《おさ》たちがそれを担当していた。
毎日何時間か、彼は詩の長のもとですごし、この世の最古の歌といわれる『エアの創造』をはじめ、英雄の武勲《いさおし》や知恵の歌を習った。それが終わると、十二人の仲間といっしょに、今度は風の長の手ほどきを受け、天気や風をあやつる術を習った。春から初夏にかけては、院生たちは天気さえよければ、毎日朝から晩までローグ湾に小さな帆船を浮かべ、呪文で舵をとったり、波をしずめたりする練習をした。天然の風に声をかけて、魔法の風をひきおこしたりもした。どれもなかなかにむずかしく、思いがけない時に急に向かい風を受けて帆の向きが変わり、おかげでブーム(帆のすそを張る円材)にいやというほど頭をぶつけることも少なくなかった。狭くもない湾でわざわざ他の舟と衝突してみたり、突然の大波にさらわれて、同じ舟の仲間ふたりとひと泳ぎするはめになったりもした。また別の日には陸地の、いま少しは安全な遠足があり、そんな時は薬草の長《おさ》がつきそって、道端に生えている草花の性質や特徴を教えてくれた。さらに、手わざの長は長で、手先の早わざや、物の姿を変えるのに必要なこまごまとした魔法の手ほどきをしてくれた。
ゲドは何をしても飲みこみが早く、ひと月もたたないうちに、一年も前から勉強していた先輩たちを追い越した。なかでも目くらましの術はいともかんたんに自分のものにしてしまったので、本当は生まれながらに知っていて、それを思い出しさえすればよかったのではないかと疑いたくなるほどだった。手わざの長はいつもにこにこと物静かな老人で、自分の教えた魔法の結果が見事に形にあらわれることに限りない喜びを感じていた。ゲドはこの長にほどなく遠慮を感じなくなって、あれを教えろ、これを教えろと厚かましくせがむようになった。それでも長は嫌な顔ひとつせず、いつでもゲドの要求にこたえてくれた。しかし、ある日のこと、ゲドはヒスイの鼻をなんとかあかしてやりたいとの思いから、目くらましの庭で、その長に向かってついにこう切りだした。
「失礼ですが、お教えいただいているものはどれも似たり寄ったりで。ひとつわかればあとも全部わかってしまいます。それに魔法がきれれば、せっかくのものも、みんなもとにもどってしまう。そこで、教えていただきたいのですが、たとえば小石をダイヤモンドに変えたとして、」彼はそこまで言うと、ことばを切って呪文を唱え、手首を軽くひと打ちして、見る間に小石をダイヤモンドに変えた。
「このダイヤモンドをいつまでもダイヤモンドでおくには、どうすればいいのでしょう。どうやったら、魔法をかけたままにしておけるのでしょう。お願いです。どうかそこのところを教えてください」
手わざの長《おさ》はゲドの手のひらで、たった今、竜の宝の蔵から奪い返してきたばかりのようにキラキラと輝いている宝石に目をやった。それから、ひとこと、
「トーク。」
とつぶやいた。手のひらのものはもとの小石にもどった。もはや宝石どころか、どうということもない灰色の小さな石くれだった。長はその石を指でつまんで、自分の手のひらに移した。
「これは石ころよ。真《まこと》の名は卜ーク≠ニ言うがな。」長は顔をあげ、そのおだやかな視線をゲドに移して言った。
「ローク島をつくっている岩のひとかけじゃ。人間の住むこの陸地を形成しているほんのひとつぶよ、石ころは石ころ以外の何物でもない。この世を形づくるほんの
「部分でな。目くらましの術をもってすれぼ、そりゃ、ダイヤモンドのように見せかけることはできるさ。いや、ダイヤだけじゃない。ほれ、花のようにも、ハエのようにも、目玉のようにも、炎のようにも、一応見せかけることはできる。」
石ころは、長が言い進むにつれて、花から炎までくるくるとその姿を変え、最後にまた小石にもどった。
「このダイヤモンドをいつまでもダイヤモンドでおくには、どうすればいいのでしょう。どうやったら、魔法をかけたままにしておけるのでしょう。お願いです。どうかそこのところを教えてください」
手わざの長《おさ》はゲドの手のひらで、たった今、竜の宝の蔵から奪い返してきたばかりのようにキラキラと輝いている宝石に目をやった。それから、ひとこと、
「トーク。」
とつぶやいた。手のひらのものはもとの小石にもどった。もはや宝石どころか、どうということもない灰色の小さな石くれだった。長はその石を指でつまんで、自分の手のひらに移した。
「これは石ころよ。真《まこと》の名はトーク≠ニ言うがな。」長は顔をあげ、そのおだやかな視線をゲドに移して言った。
「ローク島をつくっている岩のひとかけじゃ。人間の住むこの陸地を形成しているほんのひとつぶよ、石ころは石ころ以外の何物でもない。この世を形づくるほんの一部分でな。目くらましの術をもってすれば、そりゃ、ダイヤモンドのように見せかけることはできるさ。いや、ダイヤだけじゃない。ほれ、花のようにも、ハエのようにも、目玉のようにも、炎のようにも、一応見せかけることはできる。」
石ころは、長が言い進むにつれて、花から炎までくるくるとその姿を変え、最後にまた小石にもどった。
「だがな、それはあくまで見せかけにすぎん。目くらましというのは、そのことばどおり、見る者の目をあざむくことじゃ。目くらましの術を使えば、たしかに人は目で見たり、耳で聞いたり、手でさわったりして、物が変化したとは思うさ。だが、術は実際には物を変えはせん。この石ころを本当の宝石にするには、これが本来持っている真《まこと》の名を変えねばならん。だが、それを変えることは、よいか、そなた、たとえこれが宇宙のひとかけにしかすぎなくとも、宇宙そのものを変えることになるんじゃ。そりゃ、それもできんわけじゃない。いや、実際可能なことだ。それは姿かえの長《おさ》の仕事の領域でな。そなたもいずれ習うじゃろう。時が来ればな。だが、その行為の結果がどう出るか、よかれあしかれ、そこのところがはっきりと見きわめられるようになるまでは、そなたは石ころひとつ、砂粒ひとつ変えてはならん。宇宙には均衡、つまり、つりあいというものがあってな、ものの姿を変えたり、何かを呼び出したりといった魔法使いのしわざは、その宇宙の均衡を揺るがすことにもなるんじゃ。危険なことじゃ。恐ろしいことじゃ。わしらはまず何事もよく知らねばならん。そして、まこと、それが必要となる時まで待たねばならん。あかりをともすことは、闇を生みだすことにもなるんでな。」
長は再び手のひらの石に目をおとした。
「石は石で、またいいものじゃ。」長の口調がやわらいだ。
「もしもアースシーの島々がみんなダイヤモンドでできておったら、こりゃ、たいへんなことじゃて。な、そうじゃろうが。錯覚は錯覚で楽しみなされ。そうして、石は石のままにおくことじゃ。」
長《おさ》は静かに、ほほえんだ。けれども庭をあとにするゲドの心には不満が渦を巻いていた。(秘術をせがむといつもこうだ)とゲドは思った。(誰も彼もオジオンといっしょで、やれ均衡だ、闇だ、危険だとぬかしやがる。ふん、こんな子どもっぽい目くらましの術なんて卒業して、本物の姿変えや呼び出しの術を身につけてみろ。そうすりゃ、思う存分好きなことができて、宇宙の均衡とやらも、こっちのいいように変えられるんだから。闇だって、こっちのともすあかりで押し返せるわ。)
回廊でゲドはヒスイと出くわした。ゲドが群を抜いているという噂は学院じゅうにひろまっていたので、ヒスイは以前よりは表向き親しげに声をかけてきた。だが、その底にはまえよりもいっそうのひやかしがこめられていた。
「おや、ハイタカ。いやにしょぼくれてるじゃないか。」彼は言った。
「手品がうまくいかなかったのかい。」
ヒスイには一歩たりと負けるものかと思っていたゲドは、相手の皮肉な言い方をわざと無視して答えた。
「手品なんて、こっちはもううんざりさ。あんな、人の目をごまかす術なんてものは。あんなものは城かどこかで、ひまな領主の慰みにでも使われるのがちょうどいいんじゃないかね。ロークへ来てから教わったもので、本当に魔法と言えるのは、魔法のあかりをつくることと、多少天気をあやつることだけ。ほかはどれもつまらんものばっかりで……。」
「しかし、そのつまらんものだって、危険だよ。」ヒスイは言った。
「愚か者の手にかかるとね。」
言われて、ゲドは頬をひっぱたかれでもしたように、きっとなって向きなおり、一歩前に踏み出した。が、ヒスイのほうは侮辱するつもりなどまったくなかったかのように、ほほえみ、優雅に大きくうなずくと、行ってしまった。
ヒスイを見送るゲドの全身は怒りに煮えたぎった。(いつか、絶対、あいつをやっつけてやる。それも目くらましの術なんかでなく。本当の力の試し合いで!)彼は心に誓った。(どれだけ力があるか見せつけて、あいつに恥をかかせてやるんだ。あんなやつに見下されてたまるか。なんだい、あの憎たらしい、お上品なまねは。ふん、お高くとまっていやがって!)
ゲドは、なぜヒスイが自分にこんな態度をとるのか、立ち止まって考えてみようとはしなかった。わかっているのは、なぜ自分はヒスイが憎いのか、ということだけだった。他の院生たちは、自分たちが勉強でも遊びでもめったにゲドには太刀打ちできるものでないことをはやばやとみてとって、ある者はうらやみ、ある者はくやしがって、こう言い合った。
「やつは生まれついての魔法使いなのさ。誰もやつにはかなわないよ。」
だが、ヒスイだけは彼のことをほめもしなければ、避けようともせず、薄笑いを浮かべて、見下すばかりだった。それがライバルとしてヒスイを浮きたたせ、なんとしてもその鼻をへし折ってやりたい思いにゲドを駆りたてたのである。
ゲドはヒスイに対する敵対意識をどうしても捨て去ることができなかった。それどころか、彼は、それを自分の誇りの一部にして大切にはぐくんでいた。そこに、手わざの長《おさ》がおだやかに注意してくれた危険や暗黒がひそんでいることを、彼は知りもしなければ、知ろうともしなかった。
それでも、怒りに駆られていない平静な時には、ゲドは自分の力がまだヒスイや他の先輩たちに及ぶものではないことをよく承知していた。だから、ふだんは落ち着いて自分の勉強に精を出していた。夏も終わり近くなると、学院の勉強はいくぶん楽になって、気晴らしに割く時間も前よりは多く持てるようになった。院生たちはローク湾までおりていって、まじないかけをした船を競走させたり、学院の中庭で目くらましの術を競い合ったり、いつまでも明るい夕暮れ時を森の中でかくれんぼをして過ごしたりした。鬼もそうでない者もみな透明になって、それとわかる手がかりは木立の間にちらちらと見え隠れする淡い魔法のあかりばかり。院生たちはそのあかりをたよりに、追いつ追われつ、森の中には姿こそ見えなくても、名を呼び合い、笑いさざめく声が元気いっぱい飛びかうのだった。秋になると、新しい魔法の勉強が始まって、院生たちはまた忙しくなった。こうしてローク島での最初の半年はまたたく間に過ぎていった。それはゲドにとって、新しい体験の待ち構える日々であり、首の激しく揺れ動く日々でもあった。
冬になると様子が変わった。ゲドは七人の院生とともに、ローク島最北端の岬に建つ隠者の塔に送られた。塔には、名付けの長《おき》がたったひとりで住んでいた。長はどこの国のことばにもないクレムカムレクという名で呼ばれていた。塔の付近には何マイルと畑も人家もなかった。塔は北国特有の切り立った崖の上にそびえ立ち、冬の海には灰色の雲が重くたれこめていた。そして、そんな塔の中で、名付けの長の八人の弟子たちは、幾行幾列と続く数限りないものの名まえを覚えることを要求されるのだった。塔の一番上の部屋ではグレムカムレクが高い椅子にすわって、くる日もくる日も新たな名まえを羊皮紙に書き出していた。生徒はこれを真夜中までに覚えなければならなかった。午前零時になると、名まえを記したインクの文字はあとかたもなく消えて、羊皮紙は再び真っ白になるからだ。寒く薄暗い塔の中では、長がペンを走らせる音と、ため息とが聞こえるばかりだった。ため息は、おおかた生徒のものだった。たとえば、一日。その日、生徒に課せられたのは、ペルニッシュ海に浮かぶロッソーという島の岬、湾、瀬戸、入江、海峡、浅瀬、砂洲、そして海岸の岩にいたるまで、そのすべての名を夜中までに覚えることだったのだから。もしも生徒が泣きごとでも言おうものたら、長は黙って、さらに課題を増やすか、あるいは、こう言い聞かせた。
「よいか。海水の一滴一滴にいたるまで、その真《まこと》の名を知らねば、海の司にはなれんのだぞ。」
ゲドも時々はため息をついたが、愚痴は決してこぼさなかった。たしかに、場所や事物や生きもののひとつひとつについて、こんなふうに真の名を知っていくという作業はきりのない、無味乾燥なものではあったが、古井戸の底に宝石を見つけるように、自分が欲している力はこの修行を通してのみ身につけ得ることをゲドはよく知っていたからだ。魔法は真の名に通じてはじめて、その力を発揮する。弟子たちを塔に迎えた初めての晩、クレムカムレクはそう言ったのだった。長《おさ》はそれきり二度と同じことばを口にしなかったが、ゲドは彼の言ったことをいつまでも忘れなかった。
「たったひとつの名まえをつきとめるただそれだけのために、これまでなんと多くのすぐれた魔法使いがその生涯をかけてきたことじゃろう。失われたか、まだ、あばかれぬかするたったひとつの名まえを明らかにせんとしてな。」長は言ったものだった。
「それでもまだ学ぶべき名はつぎつぎと増えて、尽きるところを知らん。いや、この世が終わるまで尽きることはないじゃろう。よいか、ようく聞いてくれ。さすれば、納得がいくじゃろう。日の注ぐこの世にも、日の注がぬあの世にも、たしかに人やそのことばと無縁のものはたんとある。わしらの力の及ぼぬ力はいっぱいある。しかし、魔法は、本当の魔法はな、アースシーのハード語か、ハード語のもとになった太古のことばを話す者だけがあやつることができるのじゃ。太古のことばとは、今も竜の話しておることばでな、この世に陸地をつくったセゴイが語ったことばよ。古くから伝わるさまざまな歌謡も、呪文も、祈禧のことばも、すべてはこの太古のことばで成っておるんじゃ。それはひっそりと、姿を変えて、今わしらが使うハード語の中にひそんでおる。ほれ。波間に浮かぶ泡のことをわしらはサキーンと言うじゃろ。これはな、太古のことばのふたつの単語から成っておるんじゃ。サクとは羽毛のこと、イニーンとは海のことじゃ。海の羽毛。これ、すなわち泡というわけじゃ。だが、泡のことをサキーンと呼んだところで魔法はかからん。魔法をかけるには、太古のことばで、その真《まこと》の名を言わねばならん。それはエッサと言うがな。ま、ちょっとしたまじない師なら、誰でも、この程度の太古のことばのいくつかは知っておる。魔法使いとなれば知っておることばも多い。しかし、本当はもっともっとあるんじゃ。長い年月を経るうちになくなったものもある。ひそかに埋もれてしまったものもある。竜にしか知られていないことばもあれば、大昔、この大地を支配していた精霊にしかわかっていないものもあり、なかには生命《いのち》あるものにはまったく知られていないものもある。誰も、そのすべてを知ることはできんのじゃ。このことばには、果てというものがないんでな。理由はこうじゃ。海の名はイニーンと、まあ、こうすることにするわな。だが、わしらが内海と呼んでおるものも、ちゃんと太古のことばでそれ独自の名まえを持っておるんじゃ。そこでじゃ、なんであれ、真の名を二つも持つわけにはいかんから。イニーンというのは、そうなると、内海をのぞくすべての海≠ニいうことになる。ところが、本当はそういうことにもならんことはわかるわな。海や湾や海峡は数え切れんほどあって、みんな、それぞれ、ちゃんとした名まえを持っておるんじゃからの。そこでじゃ、もしも、魔法使いの海の司か誰かが魔法をかけて世界じゅうの海に嵐を呼ぼうとしたり、反対に世界じゅうの海をしずめようなどと、おかしなことを考えたら、どうなると思う? その海の司はイニーンということばだけでなく、多島海《アーキペラゴ》全域の、いや、その外の、いやいや、もっとずうっと外の、これ以上名まえがないというところまでも手をひろげて、その中の海水の及ぶすべての場所の名を言わねばならんことになるんじゃ。となれば、わしらに与えられている、魔法をあやつる力というものにも、自ずと限度があることがわかるじゃろう。魔法使いの力にかなうものは、自分の身近なもの、つまり、すべてを正確に、あやまたずに、その真の名で言いうるものに限られるんじゃ。それでいいんじゃ。もしもそうでなくてみい。とうの昔に、邪《よこしま》な心を持った権力者か、頭だけは切れる愚か者が、変えてはならぬものを変えようともくろんで、宇宙の均衡を崩してしまっていたろうし、そうなれば、均衡を失った海は、わしらが今、なんとか住まいしておる島々をきれいさっぱり飲みこんで、今頃は声という声、名という名は、すべて、太古の静けさの中に消されてしまっていたろうからの。」
ゲドはこれらのことばの意味を長いこと考えて、深く心に刻んだ。だが、毎日の勉強の大切さがわかったからといって、それで、塔での退屈な勉強が楽になるわけでも、無味乾燥でなくなるわけでもなかった。長かった塔での一年がようやく過ぎようとする頃になって、クレムカムレクはひとことゲドに言った。
「なかなかよいすべり出しじゃな。」
それきりだった。そして、彼の言う通りだった。その年ゲドが覚えた名まえが、たいへんた苦労のはてに得られたものであれ、それはたしかに生涯学びつづけていくべきことのほんの手はじめにすぎたかったのだから。ゲドはいっしょに来た院生たちより一足先に隠者の塔から解放された。彼らより覚えるのが早かったからだ。しかし、そのためにゲドに与えられたほうびはこれだけだった。
ゲドは行き交う人もないさびしい初冬の道を、たったひとり南に向かって歩いていった。夜に入って雨が降り出した。が、雨よけのまじないは唱えなかった。それというのも、ローク島の天候は風の長《おさ》の手にいっさいが握られていて、他の者が手出しをしてもどうにもならなかったからだ。彼は大きなスズカケの木の下に雨をよけ、マントにくるまって横になった。なつかしいオジオン師匠のことがあれこれと思い出された。今頃はまだ秋の逍遥を続けていて、ゴント山をあちこち歩き、葉の落ちた木を屋根がわりに、降りしきる雨を壁がわりに、やっぱりこうして野宿しているのではないだろうか。ゲドの顔に静かな徴笑が浮かんだ。オジオンのことを思うと、どうしていつもこんなに心が慰められるのだろう? ゲドは闇の中に降りしぎる冷たい雨の音を聞きながら、安らかな眠りにおちていった。明け方、目を覚ますと、雨はやんでいた。からだをおこすと、マントのひだの間に、いつの間にか何か小さな動物がもぐりこんで、まるくなって眠っていた。ゲドは目を見張った。めずらしい、オタクという動物だった。
オタクは多島海《アーキペラゴ》南部のローグ、エンスマー、ポディ、ワトホートの四つの島にしか見られない動物で、からだが小さいわりには横に広い顔と鋭く光る大きな目を持ち、全身はこげ茶かぶち[#「ぶち」に傍点]の光沢のある毛でおおわれている。鋭い牙があって、獰猛だから、人間のペットになることはめったにない。オタクはまた吠えも、鳴きもしない。もともと、声というものを持たない動物なのだ。ゲドはそっとつついてみた。動物は目を覚まして、あくびをした。茶色い小さな舌と白い歯が見えた。おびえた様子はなかった。
「オタク。」ゲドは呼んでみた。それから塔で習った千種類のけものの名を思い出し、太古のことばで、その真《まこと》の名を口にした。
「ヘグ、おれについてくるか?」
オタクはゲドの手のひらにすわって、からだの毛を舐《な》め始めた。
ゲドは肩にずらした頭巾のひだにオタクを入れた。オタクはされるままになっていた。その日、数度オタクはゲドの肩からとびおりて、森の中に駆けこんだが、そのたびにちゃんともどってきた。一度はゲドのために野ネズミをくわえてきたりもした。ゲドは笑って、
「そのネズミは自分で食べろよ。」
と、オタクに言った。ゲドは断食中だった。というのは、その晩は冬至の祭りになっていたからだ。ゲドが夕闇の迫ったローグ山を越えるあたりから再び雨が降り出した。けれども、帰り着いた学院の屋根の上には、明るい魔法のあかりがちらちらとたわむれていた。ゲドは館に入っていった。長や残っていた仲間の院生たちが、火のあかあかと燃える広聞で彼を迎えてくれた。
帰る家のないゲドにとって、この帰館は我が家に帰るのと同じだった。彼はなつかしい人びとの顔を見てほっとした。ことに、カラスノエンドウがその黒光りする顔にこぼれるばかりの笑みを浮かべて飛び出してきた時のうれしさといったらなかった。ゲドは、今年は、今までになく、この友に会えないことがこたえていた。カラスノエンドウは、秋にはまじない師の資格を取得して、すでに院生の身分ではなくなっていた。けれども、だからといって、ふたりの間には、どんなへだたりも生じなかった。ふたりはたちまち夢中になって語らい出した。一時間もたつ頃には、隠者の塔の一年分をゆうに越えてしゃべっていた。
オタクはまだゲドの肩に乗ったままだった。冬至のために特別に用意された食堂の長テーブルにすわった時も、肩にずらした頭巾にくるまって、気持ちよさそうだった。カラスノエンドウはこの小さな動物がめずらしくて、いたずらしようと手を出したが、オタクに牙をむかれて、急いでその手を引っこめた。
「おい、ハイタカ、知ってるか。こういう野生の動物に好かれる奴には、石や泉にひそむ太古の精霊たちが人間のことばで話しかけるっていうぜ。」彼はからかい半分に言った。
「しかし、ゴントの魔法使いってのは、お気に入りの動物を連れ歩くのが常なんだろ?」カラスノエンドウの向こう隣りにすわっていたヒスイが口をはさんだ。
「ここの大賢人ネマールさまだって、カラスを連れているし。ほら、歌にもあるじゃないか。アーク島の赤い魔法使い≠燒生のイノシシを黄金《きん》の鎖で連れて歩いていたって。しかし、いくらなんでも、頭巾にネズミを飼ってた魔法使いってのは、聞いたことがないね。」
どっと笑い声が起こった。ゲドもつられて笑った。楽しい晩だった。陽気に、なごやかに。こうして仲間と冬至を祝うのは悪くなかった。しかし、これまでのヒスイのことばとたがわず、この夜の彼のからかいにも、ゲドは内心、歯がみさせられた。
その晩、学院で招いた客の中に、魔法使いとしても名高いオー島の領主がいた。彼はかつて、この学院の生徒だったことがあり、この冬の祭りや、夏の舞踏の祭りには、これまでも時々、母校に帰ってきていた。今年は妃もいっしょだった。妃はすらりとして背が高く、若くて、真新しい銅貨のように晴れやかで、その黒い髪にはオパールの冠が輝いていた。この館の広間に婦人がすわるなどということはめったにないことで、年老いた長《おさ》たちの中には、不興気に彼女から顔をそむける者も幾人かあったが、若い者たちは全身を目にして、この妃を見つめていた。
「おい、あんな人のためだったら、とてつもない魔法だって、やってのけられそうな気がするな。」
カラスノエンドウはため息まじりにゲドに言い、声を出して笑った。
「しかし、たかが女じゃないか。」ゲドは言った。
「そんなこと言えば、エルファーラン姫だって、女だったさ。」カラスノエンドウは言った。
「だけど、あいつのためにエンラッドは全滅し、ハブナーの魔法使いは死に、ソレア島は海底に沈んでしまったんぜ。」
「昔の話さ。」
ゲドは受け流したが、それからは彼もまた、オー島からやってきた貴婦人を改めてながめだした。昔話に語りつがれる美女とはこのような女《ひと》を言うのだろうか、と彼は思った。
詩の長《おさ》が『若き王の武勲《いさおし》』をうたい、そのあと、全員によって『冬の歌』がうたわれた。それがすんで、みながテーブルを離れるまでに、少しばかりの間があった。その時、ヒスイがふと席を立った。と思う間もなく、彼は客が大賢人や長たちとすわっている、いろりにもっとも近いテーブルに歩み寄り、なんと、妃に声をかけたのである。ヒスイはもはや子どもではなかった。りりしい顔立ちをした、背の高いひとりの立派な若者になっていた。マントの襟もとには、銀のプローチも光っていた。彼もまた、すでにこの年、まじない師の資格をとっており、銀のプローチはそのなによりのしるしだった。ヒスイのことばに妃はにっこりとうなずいた。黒髪を飾るオパールが美しくきらめいた。長たちも同意したようにうなずき、ヒスイはその場で、美しい妃に、目くらましの術をひとつ披露することになった。まず、ヒスイの作った一本の白い木が石の床からのびてきた。と、思う間もなく、枝は広間の高い天井の梁《はり》に届くほどになり、どの枝にも太陽を表す黄金《きん》のりんごが輝きだした。「年の木」である。突然、真っ白な鳥が一羽、枝の間を舞い始めた。尾が、降る雪を思わせる。黄金のりんごはしだいにその姿を薄くして、種に変わっていった。水晶の種だ。やがて、種は雨のような音を立てて落ち始め、ふと気がつくと、あたりには芳しい香りが漂っていた。見れば、木には星をちりばめたように白い花が咲き、赤い炎が葉のようにのびて、木全体がゆっくりと大きく揺れている。一瞬ののち、まぼろしは消えた。妃は感嘆の叫びをあげ、思いがけない術を見せてくれた若いまじない師に頭を下げた。オバールがまたきらめいた。
「ねえ、ぜひオー島に来てくださいな。いっしょに暮らしましょうよ。あなた、ね、よろしいでしょ?」
彼女は傍らの気むずかしい顔をした夫に、子どものようにねだった。が、ヒスイはさりげなく断わって言った。
「めっそうもない。このわたくしめ、いつの日か、ここにおられる先生方ほどに腕をみがき、おほめのおことばに真実かなうようになりましたら、その時こそは喜んで参上いたし、お仕え申し上げとう、ございます。ですが、まだ、ただいまのところは……。」
こうしてヒスイは居合わせた人びとをすっかり満足させた。誰もがいい気分だった。ただひとりゲドをのぞいては……。ゲドは口だけはみんなに合わせて、感心したようなことを言っていたが、心はそれとうらはらだった。
「ふん、おれだったら、もっとましなことができたのに。」彼は妬《ね》ましい思いにさいなまれ、その晩はもはや、鬱々として楽しまなかった。
四 影を放つ
その春、ゲドはカラスノエンドウともヒスイともほとんど会うことがなかった。まじない師の資格を得たふたりは、今、まぼろしの森の奥深くで様式の長《おさ》の指導を受けていたからだ。ここにはふつうの院生は足を踏み入れることができなかった。ゲドは学院に残って、他の長たちの監督のもとで、カラスノエンドウたちのように魔法は使えるが、まだ杖は持たない、先輩のまじない師たちの訓練を受けていた。呪文ひとつで風をおこしたり、天気を変えたり、なくしものを見つけたしたり、はがれたものをくっつけて固定させたり、さらには語りの練習から歌唱練習、病人の治療から薬草の使い方まで、訓練は広い範囲に及んでいた。夜、寝室にもどればもどったで、彼はそこでも、ひとり、ランプやろうそくのかわりに魔法のあかりをともして、高等神聖文字やエアの神聖文字の勉強に没頭した。今も大呪文に使われているあの文字である。ゲドはこれらいっさいを難なくものにした。それで、いつか院生たちの間には、あの長、この長が「ゴントから来た生徒はローグ始まって以来の秀才だ。」と言っているとの噂が立ち、噂はオタクのことにも及んだ。オタクは精霊の化身で。それがゲドの耳に知恵を吹き込んでいる、というのである。大賢人の飼うカラスが、ゲドの到着した日に、早くも彼を未来の大賢人≠ニ呼んだという噂さえ、学院内には流れていた。こんな噂を信じようが信じまいが、ゲドを快く思おうが思うまいが、ほとんどの院生が彼に一目置いていることはたしかだった。彼らはたまにゲドがむやみにはしゃぎまわりたい衝動に駆られでもすると、我も我もとついて来た。ゲドは、そんな院生たちの先頭に立っていつまでも明るい春の夕方をふざけまわるのだった。けれども、そんなことはほんとうに、ごくまれだった。彼は、たいてい仲間からひとり離れ、自尊心と激しい感情を内に秘めて、ひたすら勉学にはげんでいた。カラスノエンドウがいないとなると、彼には他に友だちはなかったし、別にほしいとも思わなかった。
ゲドは今、十五歳、杖を握る正式な魔法使いの高度な魔法を習うにはまだ幼すぎたが、彼が驚くべき早さで目くらましの術を身につけてしまったのを見て、自身もまだ若い姿かえの長《おさ》は、間もなくゲドだけ特別に呼んで、本格的な変身術について、あれこれ手ほどきし始めた。あるものを別のものに変えたら、その魔法が効いている間は、そのものの名まえもつけかえなくてはならないことを長は説明し、ひとつのものの姿形を変えることが、それをとりまくものの性質や名まえにどんなに影響を及ぼすかを、彼はこんこんと話して聞かせた。長は、また、この術が多くの危険をはらんでいることを話し、なかでも、魔法使いが自分の姿を変える時には自らの呪文にとらえられてしまう危険を覚悟しなければならないと注意した。ゲドは長の教えを確実に自分のものとしていっているかに見えた。若い長はゲドのそんな様子につい気を許して、心得を説いて聞かせるだけではすまなくなった。彼は思い切って、めったに便ってはならない姿変えの呪文のひとつをゲドに教えた。ひとつはふたつになり、ふたつは三つになり、三つは四つ、五つとなった。より深く研究するようにと、変身術の本までも、彼に与えた。大賢人の許可もなしにこんなことをするとは無分別のそしりを免れなかったが、長にしてみれば、別段悪意があってのことではなかった。
ゲドは今では、呼び出しの長の指導も受けていた。けれども、この長は年老いた、気むずかしい男で、長年、根源的な地味なことだけを教えてきたせいか、頑固で一徹なところがあった。彼は真《しん》の魔法だけを扱って、目くらましの術などはいっさい手がけなかった。真の魔法とは、彼の場合、光、熱、磁力といったエネルギーや、人間が重量、形、色、音などとして受けとめている力を呼び出すことだった。こういうものこそ、宇宙のはかりしれない巨大なエネルギーからひきだされる正真正銘の力で、これだけは人類がどんなに使っても永久に使いはたすことはなく、どんなに魔法をかけてもバランスの崩れることはないという。彼の指導を受ける院生たちは、風の司や海の司のものする、風を呼んだり雨を呼んだりする術はすでに習得ずみだった。けれども、そういう院生に、この呼び出しの長は語って聞かせたものだった。風とか雨とかいった自然の力を呼び出すことは、そうしたものを部分としているこの自然界の状態を変えることになるのだから、真の魔法使いというものは、いよいよにならなければ、そのような魔法は使わないものだ、と……。
「ロークの雨がオスキルの旱魃《かんばつ》をひきおこしかねないのだよ。」と長は言った。「同じように、東海域におだやかな天気をもたらせば、それと気づかず、西海域に嵐と破壊を呼ぶことにもなりかねないのだ。」
この世に現実に存在するもの[#「もの」に傍点]や人間を呼び出したり、死者の魂を呼び覚ましたり、あるいは、また、霊の世界をくりひろげて見せたりするための呪文については、長《おさ》はほとんど何も語らなかった。こうしたものこそ、大魔法使いの力の極致を示すものだというのに……。
ゲドはなんとかして聞き出そうと、一、二度それとなく水を向けたことがあった。しかし、長は無言のまま、厳しい顔つきでゲドを見つめるばかりだった。それで、彼もついには不安になって、口をつぐんでしまった。
不安といえば、ゲドは呼び出しの長の教えてくれる初歩的な魔法の練習をしている最中にも、不安に駆られることが時々あった。『知恵の書』の幾ページかの神聖文字の文章には以前どこかで出会ったことがあるような気がしたが、どこでだったかは思い出せなかった。呼び出しの魔法をかけるときに唱える呪文の中にも、なぜか口の重くなってしまう文句があった。それを口にするたびに、ほんの一瞬ではあるが、扉を閉め切ったどこかの暗い部屋が浮かび、その扉近くの部屋のすみから、黒い影が自分のほうに手をのばしてくるような気がしたのだ。しかし、彼は急いでそれを振り払って、懸命に練習を続けた。(まだ知らないことがいっぱいあるから、きっと、それが影になって、おれをおびやかすんだ。)ゲドは自分に言いきかせた。(いろんなことを習い覚えていくうちには、不安もだんだんなくなっていくだろうさ。十分な力をつけて、正式の魔法使いともなりゃ、この世の中、こわいものなんか、すっかりなくなってしまうにきまってる。)
夏に入ってひと月余りたったある日のこと、一同は月夜の祭りと舞踏の祭りを祝うために再び学院に集まった。例年だと別々に行われるふたつの祭りがかちあって、今年のように二晩続きのひとつの祭りになることは五十二年に一度しかない。第一夜は満月で、しかも夏至の晩にもあたっていた。あちこちの野には笛の音が流れ、スウィルの町の狭い通りにはたいまつの火と太鼓の音があふれて、人びとの歌声は月の光に照らされたローク湾の水面をわたっていった。夜が白み始めると、ロークの吟唱詩人たちはいっせいに長い『エレス・アクベの武勲《いさおし》』をうたいだした。詩人たちは、まず、ハブナーの数ある白い塔がいかに建てられたかを語り、古き島エアをあとにしたエレス・アクベが多島海《アーキペラゴ》を経めぐり、辺境の島々をもめぐりめぐった末、ついに西海域の、外海もはてて滝と落ちんとするその縁で、いかに竜のオームと対したかを語った。続けて詩人たちは、誰ひとり訪れる者もないセリダーの岸辺には、今も鎧《よろい》の破片が散らばり、点在する竜の骨にまじって、エレス・アクベの骨が横たわっている、とうたい、さらに続けて、だが、エレス・アクベの剣のみは、ハブナーのもっとも高き塔の上にあり、入日を浴びて、内海の上に赤く燃える、とうたった。歌が終わると、舞踏が始まった。百姓も町人も、学院の長たちも生徒たちも、男といわず女といわず全員が、まだ薄暗いロークの道という道を埋めつくし、笛や太鼓の音に合わせて、踊りながら海岸へおりていった。人びとはそのまま海に入った。空には前夜十五夜を迎えた月がかかり、楽の音は砕ける波の音にかき消された。東の空が明るくなると、人びとは岸にあがって、もと来た道をもどり始めた。太鼓はやみ、今は笛の音だけが細くやさしく町に流れていた。こうして一晩の行事は終わった。ことは多島海《アーキペラゴ》のほかの島々でも同じだった。海にへだてられた島々を、この晩は、ひとつの音楽、ひとつの踊りがしっかりと結びつけた。 踊りが終わると、人びとは床に入って眠り、夕方再び集まって、宴を張った。そんななかに、院生とその先輩のまじない師からなる若者だけの小さなグループがあって、彼らは学院の中庭で自分たちだけの宴を張ろうと、食堂から食べ物を持ち出してきていた。それはカラスノエンドウやヒスイやゲドのグループで、ほかに六、七人の仲間がいたが、そのなかには隠者の塔から運よく解放されたばかりの年下の院生たちもまじっていた。クレムカムレクでさえ、この祭りには出てきたからだ。グループの少年たちは、みんな、大いに食らい、かつ笑い、宮廷人の喜びそうなたわいもないいたずらをして子どものようにおもしろがっていた。ある少年は宝石のように美しく輝く魔法の星を無数に中庭の宙に浮かび上がらせ、それらと空の星とを網のように連ねて、ゆったりと舞わせていたし、また別の少年はふたりで組んで、九柱戯《きゅうちゅうぎ》をして遊んでいた。球は緑色の炎の塊で、その球が近づくと、ピンはひょいと飛んで、わきへよけるのだった。カラスノエンドウは宙に堂々とあぐらをかいてすわり、若鶏の蒸し焼きを食べていた。年下の院生のひとりが地面にひっぱりおろそうとしたが、彼はその手を逃れて、また少し上に行き、宙にすわって、にこにこしていた。彼が時折投げてよこす鳥の骨はつぎつぎとフクロウに変わって、魔法じかけの星の間をホーホー鳴きながら舞った。それをゲドがパンくずで作った矢で射落とす。すると、矢もフクロウも地面に落ちたとたん、もとの姿にもどって、目くらましはそれまで、ということになるのだった。ゲドもカラスノエンドウを見習って、宙であぐらをかこうとやってみたが、まだ、その魔法の鍵を知らなかったから、手で宙をかかなければ浮かんでいることができず、それも少しするともちこたえられなくなって、ドスンと落ちてしまう始末だった。グループの若者たちは、そんなゲドのぶざまな格好に腹をかかえて笑った。ゲドもいっしょになって笑った。彼はただただ笑いたかった。笑うために、ゲドはくり返しおどけてみせた。踊りと歌と魔法、そして月光。そんな二晩を過ごしてきて、彼はすっかり気分が沸き立っていた。なんでもこい、という気持ちだった。
ひとふざけもふたふざけもしたあとで、ゲドはやっとヒスイのそばに、すっと降り立った。すると、ヒスイは、それまでも、ひとり不機嫌な顔をしていたが、ぷいと席を立って言った。
「ふん、宙も飛べないハイタカとはな。」
「ヒスイってのは、そんなにけっこうな石ですかね?」ゲドはにやにやしながら、やり返した。「おお、まじない師のなかの宝よ、おお、ハブナーの至宝よ、われらのために一段と輝かれんことを!」
星をちりばめて遊んでいた少年がさっそくひとつを送ってよこして、ヒスイの頭のすぐ上できらめかせた。いつになく冷静さを欠いていたヒスイは、眉をひそめてその星を払いのけ、あっという間にその輝きを消した。
「きみたちにはうんざりだね。騒々しいばっかりで、馬鹿みたいだ。」
「おや、だいぶお歳《とし》を召してきましたな。」カラスノエンドウが上から茶々を入れた。
「そんなに静寂と憂鬱がお好みなら、いつだって、塔にいかがです。」下級生のひとりも口をはさんだ。
「ヒスイ、あんたいったい何が不満なの?」ゲドがきいた。
「不満? ああ、ぼくが不満なのはね、競争相手がいないってことだよ。」ヒスイは答えた。「行こうよ、カラスノエンドウ。連中は適当に遊ばせときゃいいのさ。」
ゲドはヒスイの前に、きっと立ちはだかった。
「まじない師になったからって、おれたちとどこがちがうのかな?」
ゲドの声はおだやかだったが、みなは急にしんとなった。ヒスイだけでなく、今はゲドの口調にも、敵意がはっきりとうかがわれた。鞘《さや》から抜かれて、きらりと光る剣のように。
「力さ。」ヒスイが言った。
「力だったら、あんたには負けないつもりだがね。」
「きみはぼくに挑戦する気か。」
「ああ、その気だ。」
カラスノエンドウは下におりてきて、なりゆきを見守っていたが、これを聞くと顔色を変えて、ふたりの間に割って入った。
「魔法を使っての果たし合いはおれたちには固く禁じられているぞ。わかってるだろ? さ、もう、やめるんだ。」
ゲドもヒスイも口をつぐんだ。学院の規則はたしかにふたりともよく承知していたし、それに憎しみを抱く自分たちとはちがって、カラスノエンドウがこの挙に出たのは友情あってのことなのだ。しかし、ふたりの怒りは押さえられこそすれ、消えてしまったわけではなかった。やがて、ヒスイはゲドの前を二、三歩はずすと、その顔にひややかな笑みを浮かべて、聞こえよがしにカラスノエンドウにささやいた。
「ねえ、きみ、この山羊飼いの友人には、もう一度ここの規則を教えたおしてやったらどうだろう。本人の身のためにね。だいぶ、かっかしているようだから。それにしても、こいつ、ぼくが挑戦を受けて立つだなどと、本気で思ったのかな。こんな山羊くさい田舎者の挑戦をさ。変身術の初歩さえ、ろくに知らない見習い生のくせに。」
「ヒスイ、あんた、おれの力をどれだけ知ってると言うんだね。」
ゲドの声がしたと思うと、すでに姿はなく、気がつくと、ゲドの立っていたところには一羽の大きなハゲタカが。鉤《かぎ》になったくちばしをかっと開いて、降り立っていたた。が、一瞬ののち、ゲドは再びゲドにもどり、ちらちらと揺れる庭のかがり火の中に、暗いまなざしをまっすぐヒスイに向けて立っていた。
ヒスイはぎょっとして後ずさりした。しかし、すぐに肩をすくめると、
「ふん、目くらましじゃないか。」
と、つぶやいた。
だが、他の院生たちの間にささやきが走った。
「いや、ちがう。」カラスノエンドウがはっきりと言った。「今のは本当の変身だ。まさしく、そうだよ、ヒスイ……。」
「と、するとだ。こいつは長《おさ》の目を盗んで、こっそり変身術の本を見たということだ。え、そうだろ? ようし。おい、山羊飼い、続けろよ。自分で自分のしかけた罠《わな》にはまってくってのは、なかなかおもしろいぜ。ふん、このぼくと肩を並べるだと? ますますお里が知れようってものさ。」
これを聞くと、カラスノニンドウは急いでゲドの方を振り返り、そっと言いきかせた。
「ハイタカ、今夜のところは大人になって、このへんでやめておけ。な、おれと行こう。」
ゲドはカラスノエンドウに笑って見せた。が、ひとこと、
「このヘグをちょっと預かってくれないか。」と言うと、今日も肩に乗っていた小さなオタクを返事も聞かずに友だちの手に押しこんだ。オタクはこれまでゲド以外の人間には一度も自分のからだにさわらせたことがなかったのに、今はおとなしく、カラスノエンドウの手に移り、するすると腕を這いのぼって、その肩にまるくなってすわりこんだ。が、そのキラキラ光る大きな目は片時も主人から離さなかった。
「さあ、」ゲドは相変わらず顔色ひとつ変えずに、ヒスイに向かい合った。「あんたがおれより上だってことは、どうやって証明してくれる。」
「何もする必要はないね。しかし、まあ、ちょっとばかりやってみせてやるとするか、山羊飼いどの。ただ、その前にチャンスを与えてやろう、いいチャンスをね。妬《ねた》みってのはりんごについた虫みたいに人を食いつぶすから、まずはそれを追い出さなきゃ。きみは、以前、ローク山で、ゴントの魔法使いは遊び半分なことはしないと言ったよね。それじゃあ、これからローク山へ行って見せてもらおうじゃないか、いったい、ゴントの連中が何をするのか。ぼくが見せてやるのは、そのあとだ。」
「ああ、ぜひともそう願いたいね。」ゲドは応じた。若い院生たちは、ゲドがほんのちょっとした侮辱にもすぐにかっとなるのを始終見て知っていたので、彼がいつまでも冷静でいることに目をまるくしていた。だが、カラスノエンドウはちがっていた。彼は不安をつのらせていた。彼はもう一度仲裁に入ろうとした。だが、ヒスイがさえぎって言った。
「カラスノエンドウ、いいから、ほっといてくれ。さあ、山羊飼いどの、ぼくがチャンスをやると言うてるんだ。どうする? 目くらましの術でも見せてくれるかね? それとも火の玉でも? いや、疥癬病《かいせんや》みの山羊を治すまじないときますかな?」
「ヒスイ、そういうあんたは何が見たい?」
ヒスイは肩をすくめて言った。
「死んだ人間の霊はどう? こっちは平気だけど。」
「いいとも。やってやろうじゃないか。」
「なんだと※[#感嘆符疑問符、1-8-78]」ヒスイはゲドをにらみつけた。「やってやるだと? できるものか、絶対に。大ぼら吹くのもいい加減にしろ!」ヒスイは声をはりあげた。
「いや、やるといったら、おれはやる!」
居合わせた者たちは、その場に凍りついたように立っていた。
ゲドは引き止められないうちにと、カラスノエンドウの傍らをすりぬけると、振り返りもせずに中庭を出ていった。宙を舞っていた魔法のあかりは消えた。ヒスイは一瞬ためらったが、すぐにゲドのあとを追った。ほかの者がばらばらとあとに続いた。口をきく者はなかった。恐れと好奇心とで、誰の心もいっぱいだった。
まだ月ののぼらぬ夏の夜の暗がりの中を若者たちはのぼっていった。ローク山はのぼるにつれ、いっそう閣を濃くしていった。数々の魔法が行われてきた山は、あたりを支配する空気にも似て、ずっしりと重く感じられた。中腹まで来ると、若者たちは一様に山の根の深さを思った。海よりも深く、太古の火が人知れず燃えている地球の核にまで達するという、その根の深さを若者たちははるかに思った。一行は山の東側の斜面で足をとめた。黒々とした草にふちどられた山の稜線の上に星がまたたいていた。風はなかった。
ゲドは仲間から離れて数歩先に立つと、振り返って、落ち着いたはっきりした声で言った。
「ヒスイ、誰の霊を呼ぽうかね。」
「誰でもどうぞ。どうせ、きみの呼び声に応じる者なんて、誰もいやしないから。」
ヒスイの声はいらだちのためか、少しばかり震えていた。ゲドはわざとやんわりと、からかうように言った。
「こわいのかね。」
もっとも、彼はヒスイの返事を聞くつもりなどなかった。ヒスイのことなど、もう、どうでもよかった。ローク山をのぼるうちに、彼の中にあった憎しみや怒りはいつか消えてなくなって、今はただゆるぎない確信だけが残っていた。誰をうらやむ必要もなかった。この夜、この神秘に満ちた暗い大地に立って、ゲドは自分の力が今までになく強大になっていることをひしひしと感じていた。彼は突き上げてくる力に身を震わせた。ヒスイなど、ものの数ではない。ヒスイは今晩おれをここへ連れ出す役目をはたしただけだ。彼は競争相手などではなく、おれの運命の単なるしもべにすぎないのだ。足下には、ローク山が、地の底の暗闇の中にどこまでも深くその根をおろし、頭上には星が遠く、ひややかにまたたいている。この天地の間にあるものはすべておれのものだ。おれが支配し、統率できるものなんだ。おれは今、世界の中枢に位置しているのだ、とゲドは思った。
「こわがることはない。」ゲドは笑いながら言った。「ちょっと、女の霊を呼び出すだけだ。女なら、こわがることはあるまい? エルファーランさ。ほれ、『エンラッドの武勲《いさおし》』に出てくる、あのきれいな女《ひと》だ。今からあの女《ひと》を呼び出してやる。」
「死んで千年にもなる女《ひと》だ。骨はエア海の深い海底に沈んでいるとか。だが、実在の女《ひと》かどうかもわかっちゃいない。」
「死人にとって、時間や距離が何だ? え? それに、歌にあることは嘘だとでも言うのかい?」
ゲドは相変わらず余裕たっぷりに言った。それから、居合わせた者たちに、「さあ、おれの両の手の間を見ていてくれ。」と言うと、みなのほうに背を向けて、からだをぴたりと静止させた。
一時が流れた。やがて彼は人を迎えるかのようにゆっくりと大きく両腕をさしのべた。これからいよいよまじないが始まるのだ。ゲドの口からことばがこぼれ始めた。
彼は二年余りまえ、オジオンの持っていた本の中で、神聖文字で書かれたこの呼び出しの呪文を読んだことがあったが、それきりあとは目にしてもいなかった。あれを読んだのも暗闇の中だった。今、同じような宵闇の中で、彼は、再び、目の前に開かれたあのページを読む思いがした。だが、今は、それが何であるかはよくわかっていた。ゲドは声に出してつぎつぎと呪文を唱えていった。この魔法を行う時はどのように声を出し、どのようにからだを動かすのか、そして、また、どう手を動かしたらよいのか、彼はすべてを承知していた。
他の者たちは、みな一様に押し黙り、かたずをのんで、ゲドの一挙一動を見守っていた。彼らのからだが小きざみに震えていた。これからたいへんな魔法かけが始まるのだ。ゲドの声はまだおだやかだったが、深い、うなうような響きをおびて、初めとはだいぶ変わってきていた。彼の口からもれることばは少年たちの知らないものばかりだった。呪文がやんだ。突然。草むらに風がゴオーッと立った。ゲドはひざまずいて、なにごとか大声で叫んだ。それから、大地を抱こうとでもするように。両腕をひろげて地に伏した。やがて起き上がった時、その胸には何か黒いものがしっかりと抱かれていた。たいそう重いものらしく、ゲドはよろよろとして、立ち上がるのがやっとだった。むせかえるように暑い風が草むらを鳴らして吹いた。星はまだ輝いていたが、もはや誰ひとり空を仰ぐ者はなかった。
再び、ぶつぶつと呪文が唱えられた。それから、ゲドは大きな声で、はっきりと、
「エルファーラン!」と、叫んだ。
「エルファーラン!」ゲドは再び叫んだ。
「エルファーラン!」三度、ゲドは叫んだ。
彼の抱きあげた形の定まらない黒い塊が崩れ始めた。それがちりぢりになって、すっかり消えてしまうと、そのあとに、ぼうっとほの白い影が浮かび上がった。卵形のその影は地面から湧くようにのびてきて、ゲドのさしのべた手の高さで止まった。ちょっとの間、その影の中で、何かが動いた。人間の形をしていた。背の高い女だった。女は肩ごしに振り返って、こちらを見た。その顔は美しく、だが、悲しげで、恐怖におびえていた。
この死霊が浮かび上がって見えたのは、しかし、ほんの一瞬だった。つぎの瞬間には、ほの白い卵形の影はぐんぐんその輝きを増し始めた。それは暗い大地を裂き、それを包む夜の闇を裂いて、どんどんひろがっていった。この天地を引き裂いて、大きくひろがっていった。やがて、そのひろがりの中から、目もくらむばかりの強烈な光が射し始めた。と、その光の裂け目から、今度は気味の悪い、黒い影の塊のようなものがぬっと這い出してきて、まっすぐ、ゲドの顔めがけて飛びかかった。
ゲドはその重みに押され。短い、声にならない悲鳴をあげて、うしろによろめいた。この時、それまでカラスノエンドウの肩の上でじっと様子を見ていたオタクが、ありえないばずの鋭いうなり声をあげて、攻撃をかけるように宙を飛んだ。
ゲドは倒れ、苦しそうに地面をのたうちまわった。その間にも、闇に生じた光の裂け目は大きくなっていった。見物の少年たちは逃げだした。ヒスイはその場にうずくまって、恐ろしい光から必死で顔をそむけていた。友に駆け寄ったのはカラスノエンドウひとりだった。だから、ゲドに飛びかかった影の塊が、彼のからだに爪をたて、その肉を引き裂いているのを目撃したのもカラスノエンドウだけだった。影の塊は定まった形を持たず、ふくらんだり、縮んだりしていたが、見ようによっては何か、黒いけだもののようで、大きさは人間の子どもくらいだった。頭はなかった。ただ四本の足だけははっきりと見えた。それが鋭い爪をたてて、ゲドに襲いかかり、その肉をかきやぶった。カラスノエンドウは恐ろしさに息をつまらせながら、それでも、その化け物をなんとかしてゲドから引き離そうと手をのばした。が、その手が届かないうちに、彼は枷《かせ》をはめられたように動けなくなった。
やがて、恐ろしい光はしだいにその明るさを失い、天地の裂け目はゆっくりと閉じて、合わさった。すぐ近くで、木々のささやきか、泉の水のたわむれかと思わせる、やさしい人の声がしていた。
星は再び輝きだし、山腹の草は、今しものぼった月の光に白く輝いていた。夜はもとどおりになった。光と闇はその均衡をとりもどし、しかと安定した状態を回復した。黒い、不気味なけだものは、いつか姿を消していた。ゲドはぐったりと仰向けになって倒れていたが、両腕はまだ何かを迎えようとでもするように、宙に向かって差し出されたままだった。顔はべったりと血に汚れ、シャツにも点々と黒ずんだ血のあとが見えた。ゲドの肩のすぐそばには、オタクが小さくなって震えていた。そして、傍らに、月の光にほの白くマントを浮かび上がらせて、ひとりの老人が立っていた。大賢人ネマールだった。
ネマールの杖の先は、ゲドの胸もとで静かに銀色の光を放ちながら動いていた。ネマールはなにごとかつぶやきながら、杖の先を一度はゲドの心臓のところに、また一度は唇にそっとふれさせた。ゲドがからだを動かした。彼は口を開いて、大きく息を吸いこんだ。それを待っていたように、大賢人は杖をずらして地面に立て、がっくりとその老体をもたせかけた。立っているのさえやっとだった。
気がつくと、カラスノエンドウの身は自由になっていた。彼はおそるおそるあたりを見回した。大賢人のほかに、呼び出しの長《おさ》も姿かえの長も来ていた。大きな魔法かけをして、こうした人びとに気づかれずにすむことば決してない。それに、彼らはいざという時には、ただちに現場に駆けつける術をいくらも持っていた。その早さで大賢人に並ぶ者はいなかったが……。ふたりの長はすぐさま助けを呼びにやった。やがてやって来たうちの何人かが大賢人につきそい、カラスノエンドウを含めた残りの者はゲドをかかえあげて、薬草の長のところへ運んでいった。
その夜、一晩じゅう、呼び出しの長はローク山に残って、見張りを続けた。天地の引き裂かれたところには、その後何の気配もなかった。黒い影が地面を這い、月の光をすかして、割れ目を探し、もといた場所にもどっていった形跡はこの夜ついに見られなかった。影はネマールを恐れ、ローク島を囲んでそれを守っている強力な魔法の壁にたじろいで、姿を消してしまったらしい。だが、今や、この世界のどこかにいることは間違いないこととなった。人びとの住む地上のどこかに影はその身をひそめたのだ。もしも、この夜、ゲドが死んでいたら、影はゲドが引ぎ裂いた割れ目を探し、ゲドのあとについて黄泉の国へ行ってしまったかもしれない。いや、黄泉の国ならずとも、ともかく自分がもといた場所にさっさともどってしまったろう。呼び出しの長がローク山で期待したのは実はこのことだった。だが、ゲドは死ななかった。
人びとはゲドを病室のベッドに寝かせた。薬草の長が顔や首、肩に負った傷の手当をした。傷はどれも深く、肉は無残につぶれていて、手当は困難をきわめた。どす黒い血はいっこうに止まる様子を見せず、まじないをかけても、血止めの木の葉をはっても、なお吹き出してくる始末だった。ゲドは高い熱にうかされて目も見えず、口もきけないまま、くすぶりつづける棒切れのようにベッドに横たわっていた。どんなまじないも、その熱を下げることはできなかった。
そこからさして遠くない噴水の中庭では、大賢人がこれまたじっと身を横たえていた。だが、こちらのからだは冷たかった。ただ目だけはまだ生きていて、月に光る木の葉のそよぎや噴水の水の落ちるさまを静かに映していた。つきそう人びとはもはや何の呪文も唱えず、どんな治療もほどこさなかった。彼らは時折声をひそめて何か語り合っては、またそっと大賢人の様子をうかがっていた。大賢人は身動きひとつぜず、じっと横たわっていた。その鉤《かぎ》になった鼻も、広い額も、白い頭髪も、すべて棋は月の光に洗われて、象牙色に光っていた。大賢人ネマールは、狂暴な呪文の力を押さえ、ゲドから影を追い払うために、その能力のすべてを使い果たし、それといっしょに体力も消耗し尽くしていた。今は、もう、死を待つばかりだった。だが、生きている間にすでに何度か、黄泉《よみ》の国の乾き切った険しい山の斜面を歩いている大魔法使いの最期は、真っ暗闇の中を手さぐりでいくしかない我々の場合とはちがう。自分のこれからおもむく先も、そこへの道筋もしかとその目に見えているからである。ネマールは梢の葉をすかして空を見上げたが、その目に、夜明けとともに薄れていく夏の星が映っていたのか、それとも、他の星々が刻みこまれていたのか、それはつきそう人びとにはわからなかった。だが、いずれの星々も暁を知らない黄泉の国では決してのぼることのないものだった。
三十年の間、大賢人がかわいがってきたオスキルのカラスはすでにその姿を消していた。どこへ行ったのか、誰も知らなかった。
「あれはネマールさまより一足先に行っているんじゃ。」
夜通し、そばにつきそっていた様式の長《おさ》が言った。
朝が来た。晴れて暑くなった。だが、学院もスウィルの町の通りも、ひっそりと静まり返っていた。声をあげる者はなかった。正午近く、詩人の塔の鐘がいっせいに大きく鳴りひびいて、おごそかに大賢人の死が告げられた。
翌日、ロークの九人の長たちはまぼろしの森の薄暗がりにひそかに集まった。彼らはそこでさえも沈黙の壁≠九重《ここのえ》にめぐらし、アースシーの魔法使いの中から新しい大賢人を選ぶまで、精霊も人も、いっさい口出しや盗み聞きができないようにした。大賢人には、ウェイ島のジェンシャーが選ばれた。新しい大賢人をロークに迎えるために、ただちに、一隻の船が内海をはるかウェイ島に向けて送り出された。風の長が艫《とも》に立ち、魔法の風をその帆に送った。船は、たちまち風に乗って沖合に出て、やがて見えなくなった。
ゲドはこうしたいっさいの出来事をまったく知らずにいた。夏のさかりの四週間を彼は意識不明のまま過ごし、時どき、けだもののようなうめき声をあげるばかりだった。けれども、薬草の長の気長な辛抱強い治療がついにその効果をあらわし始めた。傷口が合わさり、熱がひいていった。まだ口はきけなかったが、聴力は少しずつ回復のきざしを見せていた。秋のある晴れた一日、薬草の長はゲドの病室のよろい戸をあけた。ローク山でのあの夜以来、ゲドはずっと闇の中にいた。今、久しぶりに明るい日の光を見て、彼は傷だらけの顔を両の手でおおって泣いた。
冬が来ても、ゲドは口がきけないままで、なかなかもとにもどらず、つっかえつっかえ話すのがやっとだった。薬草の長《おさ》は、そのまま彼を病室において、根気よく治療を続けることにした。ゲドの心身は徐々に元気をとりもどしていった。長がやっとのことで彼を解放したのは、春が来て間もない頃だった。長はゲドをまず新しい大賢人のところへ行かせた。ジェンシャーがロークへ来た時に、学院で行われた儀式にゲドは出られなかったから、彼はまだ、この大賢人に忠誠を誓っていなかったのだ。
ゲドが床に伏していた間、院生は誰ひとり彼を見舞うことを許されなかった。
「あれはだれ?」
すれちがう彼を見て、連れの者に小声で聞く者も幾人かあった。かつてのゲドは身のこなしが軽く、しなやかで、いつも生気にあふれていたが、今はちがっていた。今の彼はまだ残る傷の痛みに足をひきずり、ためらいがちに歩を運んでいて、決して顔をあげようとはしなかった。うつむいた顔の左半分には大きな傷跡が白くなって残っていた。彼は自分を知っている者も知らない者も極力さけて、まっすぐ噴水の中庭に入っていった。かつてゲドがネマールを待ったその中庭では、今、ジェンシャーが彼を待っていた。
先代の大賢人と同じく、新しい大賢人もまた白いマントをはおっていた。ウェイ島および東海域の島々の人の例にもれず、その肌は黒く、濃い眉のかげには、黒々とした目が光っていた。
ゲドはさっそく大賢人の前にひざまずいて、忠誠と服従を誓った。ジェンシャーはしばらくの間無言だった。
「わしはそなたが何をしたかは知っておる。」だいぶたって彼は言った。「だが、そなたが何者かは知らぬ。それゆえ、そなたの忠誠を受け入れるわけにはゆかぬ。」
ゲドは立ち上がり、噴水の傍らの若木に手をかけて、やっとのことでからだを支えた。思いは、まだ、なかなかことばにならなかった。
「わたしにロークを出て行け、とおっしゃるのですか。」
「そなた、出て行きたいのか。」
「いいえ。」
「どうしたい。」
「ここにいて、修行を。それから、あの……もとにもどしたいと思います。あの、呼び出してしまった災いを。」
「ネマールさまでさえもそれはできなかったのだぞ。が、それはさておき、わしはどんなことがあっても、そなたをこのロークから出しはせん。ここの長《おさ》たちの力と、邪悪なものの接近を許さぬこの島の守りなくして、どうしてそなたの身が無事でいられよう。今、そなたがこの島を出れば、そなたが放ったものはたちまちのうちにそなたを見つけ出して、そなたの中に入りこみ、そなたをとりこにしてしまおうぞ。そうなれば、そなたはあやつり人形にしかすぎなくなる。この地上の光の中にそなたが放ったあの邪悪な影は、そなたを思いのままに動かすようになる。いいか。ここにいるのだ。十分な知恵と力を獲得して、己《おのれ》の身を守れるようになるまではな。だが、それもはたしてどうか。今、こうしている時でさえ、あれはそなたをねらっておる。間違いなくねらっておるのだ。そなた、あの晩以来見かけてはおらぬかな。」
「夢には見ました。」そして、それから少し間をおいて、ゲドはつらそうにことばを続けた。「ジェンシャーさま。わたしにはあれが何なのか、わからないのです。まじないをかけたら出てきて、わたしをつかんで、はなさない……。」
「わしにもわからぬ。あれには名まえというものがないのでな。そなたはすぐれた力を持って生まれた。だが、そなたはそれをあやまって使ってしまった。光と闇、生と死、善と悪、そうしたものの均衡にどういう影響を及ぼすのかも考えずに、そなたは自分の力を越える魔法をかけてしまったのだ。しかも、動機となったのは高慢と憎しみの心だった。それでは悪い結果が出てこぬのが不思議というものだ。そなたが呼び出したは死人の霊。だが、それといっしょに、そなたは死の世界の精霊のひとつまでも、この世に放ってしまったのだ。呼ばれもせぬに、それは名というもののない国から出てきおった。そうして、災いを、そう、そなたを使って、災いを働こうともくろんでおる。そなたはそのものを呼び出す力を持っていた。そのために、そのものも、また、そなたの上に力を及ぼすことが可能になったのだ。そなたとそのものとは、もはや、離れられはせぬ。それは、そなたの投げる、そなた自身の無知と傲慢の影なのだ。影に名まえがあったかな?」
ゲドは青ざめて、亡霊のように立ちつくしていたが、やがて、ぽつりと言った。
「死んだほうがよかった。」
「そなた、よくもそんなことが……。ネマールさまはそなたのために命をなげうったというのに。――ともあれ、ここなら大丈夫。ここで暮らし、もっともっと修練をつむのだ。そなた、なかなか優秀だったというではないか。このまま、ここで勉強を続けるのだ。しっかりな。今、そなたにできることはそれしかない。」
ジェンシャーはそれだけ言うと、大魔法使いの常で、かき消すようにいなくなった。噴水は明るい日ざしをいっぱいに受けて、勢いよく水をふきあげていた。ゲドはネマールのことを思いながら、しばらくの間、ふきあがる水をながめ、その音に耳を傾けていた。かつて、彼はこの庭で、自分自身を日の光の発することばのひとつだと感じたことがあった。だが、今では闇もまたことばを発してしまっていた。決して取り返しのつかないことばを……。
ゲドは、やがて、中庭をあとにして、南塔にあるもとからの自分の部屋にもどった。学院では彼のためにこの部屋をずっとあけておいてくれた。彼は午後いっぱいをひとりでそこで過ごした。夕飯を知らせるどら[#「どら」に傍点]が鳴《な》って、ゲドは食堂へおりていった。だが、同席の仲間に声をかけることも、顔をあげてみせることも彼はしなかった。あたたかく声をかけてくれる者にも、彼はうつむいたままだった。
それで、二、三日もすると、誰も寄りつかなくなった。ひとりでいることこそ、ゲドの望むところだった。それというのも、知らず知らずのうちに、また悪をしでかしはすまいか、邪《よこしま》なことばを口にしはすまいかと、彼にはそれが心配だったからである。
カラスノエンドウの姿も、ヒスイの姿も院内にはなかったが、ゲドはふたりのことをあえて人にたずねてみることはしなかった。ゲドにいつも先を越され、押さえられていた少年たちは、この何か月かの間にみな彼を追い抜いてしまっていて、彼は夏まで、自分より年下の院生といっしょに勉強することになった。それでも彼は少しもぼっとしなかった。なんでもない目くらましの呪文でさえ、つっかえてばかりいて、手も震えて思うようには動かなかった。
秋になると、彼は名付けの長の指導を受けるために、再び隠者の塔へ送られることになった。以前はあれほど嫌だった塔での勉強が、今は逆に楽しみだった。静寂こそ彼の求めるものであり、どんな魔法も働かないあの塔に長い間こもって勉強することは願ってもないことだった。あそこなら、自分の中に今もひそむあの力が呼び覚まされて、活動を始めることなど、決してないにちがいない。
明日は塔へ発つという晩、ひとりの客がゲドを部屋に訪ねてきた。客はこげ茶の旅のマントをはおり、鉄の鋲《びょう》を打ったカシの木の杖をたずさえていた。ゲドは正式の魔法使いだけが持つその杖を見て、反射的に立ちあがった。
「ハイタカ。」
その声にゲドははっとして顔をあげた。カラスノエンドウだった。からだつきは相変わらず、ごつく、がっしりとして、いかつい黒い顔は前よりふけてみえたが、笑うと以前のままだった。その肩にはからだにまだらのある小さな動物が目をキラキラさせてうずくまっていた。
「こいつ、きみが具合の悪い間、ずっとおれんとこにいたんだ。だけど、残念だが、もうお別れだ。ハイタカ、つらいが、きみともお別れだ。おれはこれから生まれ故郷に帰る。さあ、ヘグ、いい子だから、主人のところへお帰り。」
カラスノエンドウはオタクのからだをやさしくなでて、そっと床におろした。オタクはすぐにゲドのベッドにあがって、枯葉を思わせる小さな茶色い舌でからだの毛を舐《な》め始めた。カラスノエンドウはそれを見て明るく笑った。しかし、ゲドは笑えなかった。彼はうつむいてオタクのからだをなで始めた。
「もう、来てはくれないのかと思った。」ゲドは言った。責めるつもりで言ったのではなかったが、カラスノエンドウは申し訳なさそうに答えた。
「来られなかったんだ。薬草の長《おさ》がいけないっていったもんで。それに、冬からずっとまぼろしの森に長と行って、こもってたもんだから。杖をもらうまでは自由になれなくて。だけど、頼む。きみも自由になったら、その時はきっと東海域のおれの島にも来てくれ。おれ、ずっと待ってるから。向こうの人はみんな陽気で、魔法使いにはよくしてくれるんだ。」
「自由か……。」
ゲドはつぶやいて、小さく肩をすくめて、笑ってみせた。
カラスノエソドウはそんなゲドを以前とはいくぶんちがった目で見やった。彼に対する気持ちは変わらなかったが、いま少し、魔法使いらしい目で、といえようか。彼はおだやかに言った。
「永久にロークにいなくてはいけないってわけでもないんだろう?」
「うん、実は、このところ考えてたんだ。おれ、隠者の塔へ行ったら、そのまま、あそこの長のもとに置いてもらおうかと思っている。置いてもらって、ほれ、本を読んだり。星を見たりして、なくなった名まえを探してる人がいるだろう? あの人たちの仲間に入れてもらおうかと思うんだ。せめて、これ以上災いを呼ばないためにね。」
「うん。しかし……、」カラスノエンドウは言った。「おれは予言者でもなんでもないから、よくわからないが、少なくともきみの行く手に見えるのは家ん中の部屋とか書物じゃないね。ほてしなく続く海原とか。竜の吐く火とか。そびえたつ町の塔だとか、そういった、空高く舞い上がったタカの目に映りそうなものばかりだよ。」
「じゃあ、おれのうしろには? おれのうしろには何が見える?」
ゲドは言いながら立ち上がった。ふたりの真ん中へんで燃えていた魔法のあかりに照らされて、ゲドの影が床から壁に長くのびた。ゲドは顔をそむけ、つっかえながら、ことばを続けた。「まあ、それはいい。だけど、教えてくれよ。どこへ行くんだって? 何をするんだって?」
「家に帰るんだ。弟や妹の待ってる家にな。たしか、妹のことはきみに話したこと、あったよな。こっちへ来る時には、あいつ、まだ、ほんの子どもだったが、もうじぎ命名式だ。考えてみると、不思議な気がするよ。まあ、それでな、おれ、どこかちっぽけな島でいいから、魔法使いの口を見つけようと思うんだ。もう少しここにいてきみと話もしたいけど、それもできない。おれの船は今晩ここを発つ。潮ももう変わった。ハイタカ、もしも東海域に来るようなことがあったら、おれんとこに必ず寄ってくれ。もし用があったら、いつでも呼びによこしてくれ。おれの名を言ってな。おれの名は、エスタリオルだ。」
そのことばに、ゲドは傷あとも生々しい顔をはっとあげて、じっとカラスノエンドウの目を見返した。
「エスタリオル。おれはゲドだ。」
それからふたりは静かに別れのあいさつをかわし、やがてカラスノエンドウは踵《きびす》を返すと、石畳の廊下を遠ざかって、そのままロークをあとにした。
ゲドはあまりのことにしばらくは茫然と、その場に立ち尽くしていた。カラスノエンドウがその本名をあかしてくれるとは!なんという贈り物だろう。
人の本名というものは、本人と名付け親しか知らないものだ。やがては兄弟とか妻とか親友に知らせることはあっても、そうした人びとも、他人《ひと》の耳に入りそうなところでは決してその名は口にしない。たとえ、どんなに親しい者でも、第三者のいるところでは字《あざな》で呼ぶのが常である。ハイタカとか、カラスノエンドウとか、モミの実[#「モミの実」に傍点]を意味するオジオンとか……。ただの人間でさえ、よほど信頼している人でなければ本名をあかさないのだから、よりあぶない目にあうことの多い魔法使いともなれば、なおさらのことである。人の本名を知る者は、その人間の生命《いのち》を掌中にすることになるのだから。それなのに、カラスノエソドウは自分さえ信じられなくなっているゲドに、真の友人だけが与えうるゆるぎない信頼のしるしを贈り物として差し出してくれたのだ。
ゲドはベッドのはしに腰をおろした。魔法のあかりは、メタンのような青白い炎をぼっと立てて、消えていった。ゲドはオタクのからだをなで始めた。オタクはもう、ずっと前からここにいたような様子で、気持ちよさそうにゲドのひざにからだをのばし、そのうち眠ってしまった。館は静かだった。ゲドはふと、あしたが自分の成人の式で、オジオンから名まえを授けられた日であったことを思い出した。あれから四年の月日がたっていた。裸で名まえもないまま渡った、山あいのあの泉の冷たさが思い出された。子どもの頃よく泳いだアール川のきらきらとさざ波のたつ瀬が思い出された。そして、また、あの、のしかかるような山を背にした十本ハンノキの村が、ほこりっぽい月の通りにおちる朝の影が、冬の午後の父の仕事場の、あのふいごの風にあおられる火が、煙とまじないの神秘に満ちたあのまじない師の伯母の、薬草のにおいのこもる薄暗い小屋が、今、ゲドのまぶたにつぎつぎと浮かんできた。久しく忘れていたものだった。それが十七歳になろうというこの晩、あざやかによみがえってきたのだ。長くもないこれまでの人生の、あの時、この時、あの場面、この場面が、きれぎれにつぎつぎと浮かんできて、それが今一度、全体像を結んだ。つらい日々だった。ずいぶん回り道をしたようにも思う。だが、ゲドは今ようやく、自分が何者で、どこにいるのかをあらためて感じとっていた。
けれども、これからどこへいくのか、それはわからなかったし、それを知るのはこわくもあった。
翌朝、ゲドは以前のようにオククを.肩に乗せ、島の北側へ向けて発った。隠者の塔までは今度は二日でなく、歩いて三日かかった。荒れ狂う海の向こうの岬に塔が見えた時には、彼はへなへなとすわりこんでしまいそうだった。塔の中は相変わらず暗く、相変わらず寒かった。クレムカムレクは高い椅子に腰かけて、つぎつぎと名まえを書き出していたが、ゲドを見ると、まるで今までずっといっしょだった人間にでも言うように親しげに声をかけた。
「床に入っておやすみ。疲れていたんじゃ何もできんからな。あしたになったら、『神々の業《わざ》』でも開いて、そこにある名まえを覚えてもらうよ。」
冬も終わり近く、ゲドは学院にもどってきた。そして、まじない師の資格を与えられ、ジェンシャーからようやく忠誠の誓いを受け入れられた。彼はそこからさらに高度な魔法へ、目くらましの術から真の魔法の習得へと、杖を手にするに必要な知識と力とを着実に身につけていった。呪文を唱えるのに苦労した舌もここ数か月の間に自在に動くようになり、その手にも、かつてのしなやかさがもどってきた。しかし、不安に駆られて、ひととおり長いむずかしい教義も覚えはしたものの、昔のように短時間でというわけにはいかなかった。が、それはとにかく、ものを作ったり、姿形を生み出したり、といった強い、危険な魔法をかけようという時でさえも、悪い兆しはあらわれなかったし、例の影を見かけることはさらになかった。ゲドは自分が放った影がすっかり力を弱めたか、あるいは、ひょっとして、この地上から姿を消してしまったのではないかと、時に思うようになった。近頃は夢にも見なくなっていた。だが、そう思う一方では、それがそらだのみであることも内心ではよくわかっていた。
学院の長《おさ》たちや古い『知恵の書』などから、ゲドは、自分が放った影について、できる限り知識を得ようと努めたが、手がかりはほとんどつかめなかった。本にはそのようなもののことは書かれていなかったし、長たちもはかばかしい返事はしてくれなかった。せいぜい、古い書物のところどころに、それらしいものを指すかと思われる記述がわずかに見つかる程度だった。それでも、そうしたものを総合してみると、どうやら、それは人間の幽霊でもなければ、大昔の大地の精霊でもなく、しかし、それでいながら、そのどちらともなんらかの関係を持つものであるらしかった。『竜のはなし』という本の中には ゲドはそれを実にたんねんに読んだものだが、大昔のひとりの竜王の話がでていた。この竜王ははるかな北国に当時いすわっていた太古の精霊のひとつ。ものいう石≠フ手下になってしまったという。本にはつぎのように書かれていた。
「その石の命を受け、かの男、黄泉《よみ》の国より死霊を呼び出すべくことばを発せしが、その魔術、石の思うところにより、邪《よこしま》なるものに堕しおりしゆえ、死霊とともに、求めざりしもの、いできたれり。かのもの、内にありて男をむさぼり食らい、やがて男の姿にて世を歩き、あまたの人を破減に導きたり。」
だが、どこにも、それが何なのかは書いてなかったし、結末がどうなったのかも書いてはなかった。そして、また、長《おさ》たちは長たちで、そのような影があったとして、いったいそれがどこから出てくるのか、誰も知らなかった。「死の世界から。」と大賢人は言い、「世のあやまてる側から。」と姿かえの長は言い、呼び出しの長は「わからぬ。」と言った。この呼び出しの長はゲドが床に伏せっていた間、しばしばやってきては、ベッドの傍らにすわっていた。彼は相変わらず気むずかしく、めったに笑顔を見せなかったが、ゲドは、今では長の気持ちがよくわかっていて、彼を深く敬愛していた。
「わしにはわからぬ。ただ、ひとつだけはっきりしておることは、偉大な力でなくてはそのようなものは呼び出せぬ、ということだ。偉大な力、それを持っておるのは、おそらくたったひとりにちがいない。たったひとつの声にちがいない。その声の主《ぬし》とは、そなたをおいては考えられぬ。だが、それでは、それが何を意味するかとなると、わしにはわからぬ。それはそなたが見つけ出すことだ。見つけ出さねばならぬ。さもないと、死、いや、死よりもさらに悪いことが起こらんとも限らんでの……。」彼はおだやかに語ったが、ゲドを見つめる目は暗かった。「そなた、子どもの頃は、魔法使いに不可能なことなどないと思っておったろうな。わしも昔はそうだった。わしらはみんなそう思っておった。だが、事実はちがう。力を持ち、知識が豊かにひろがっていけばいくほど、その人間のたどるべき道は狭くなり、やがては何ひとつ選べるものはなくなって、ただ、しなければならないことだけをするようになるものなのだ。」
十八歳の誕生日がすぎると、大賢人はゲドを様式の長《おさ》のところへやった。まぼろしの森ではどんなことが教えられているのか、それは他所《よそ》ではあまり話されない。なんでも、そこでは魔法はいっさい働かないが、森自体がひとつの魔法の産物なのだという。森は、その時どきで人の目に見えたり、見えなかったりし、その場所も必ずしも一定していない。そして、森の木々は一本一本が知恵を持っていると言われている。様式の長はそんな森の中で究極の魔法を学んでいるのだが、もしも木々が死ぬようなことがあれば、長の知恵もまた死んで、その時には、海の水はいっせいにもりあがり、神話も
なかったその昔、深い海底からセゴイが持ち上げ、今、人間と竜が住まいするこのアースシーの島々を一挙に飲みこんでしまうという。
だが、これはみな世間の噂である。魔法使いたちは、決してことの真相を語らない。
数か月がたった。ついに、春たけなわのある日、ゲドは学院に帰ってきた。これからどうなるのか、どうすればいいのか、彼は知らなかった。野原を通ってローク山に行く道に面した館の入口で、ひとりの老人が彼を待っていた。最初ゲドにはこの老人が誰なのかわからなかった。しかし、すぐに、それが五年前初めてこの学院にやって来た日に、自分を迎え入れてくれた入だと気がついた。老人はにっこり笑って、ゲドを本名で呼んであいさつし、
「わしが何者か、わかるかな。」
と言った。
ゲドは以前から、なぜロークの九賢人と言われるのか、不思議に思っていた。風の長に手わざの長、薬草の長に詩の長、姿かえの長に呼び出しの長、そして名付けの長に様式の長、どう考えてもひとり足りないのである。大賢人を入れて九賢人というのだろうか。だが、新しい大賢人が選ばれるにあたっては、まちがいなく、九人の長が会って話し合ったのではなかったか。
「もしや、守りの長では?」ゲドは言った。
「そのとおりじゃ、ゲド。そなたは自分の名を言って、ロークに入ることを許された。今度はわしの名を言って、ここから自由に飛びたっていくがいい。」
老人は顔に微笑を浮かべながら、そう言って返事を待った。ゲドは黙るよりほかなかった。
彼はふつうの人間や物なら、いくらでも、その名をさぐり出すて[#「て」に傍点]をもっていた。ロークで学んだもので、それと関係のないものはなかった。なにしろ、名まえがわからなくては有効な魔法など使えはしないのだから。しかし、大魔法使いや長《おさ》たちの名まえとなると、ことは別だった。そういう名まえは竜のすみかよりもはるかに厳重に守られていて、それをさぐり出すのは、海の中から一匹のニシンを見つけ出すよりもむずかしいことなのだ。ちっとやそっとのまじないでは、たちまちより強いまじないにやられてしまうだろうし、裏をかこうとしたところでうまくはゆかないだろう。遠回しに聞いても、遠回しに拒絶されるだけだろうし、力ずくでさぐり出そうとでもすれば、とてつもない報いを受けるに決まっている。
「門が狭くて。」ゲドはとうとう言った。「やせて、通りぬけられるようになるまで、食べ物を断って、このまま外で、待たせていただきます。」
「ああ、いつまでも、気のすむまでな。」守りの長は笑いながら言った。
ゲドは館を離れて、スウィル川の土手の一本のハンノキの下に腰をおろした。オタクはゲドの肩から走りおりると、川にとびこみ、水の中でふざけたり、サワガニを追って岸辺を走りまわったりした。日は西に沈んだが、晩春の宵はいつまでも明るかった。が、それでも、とうとう、学院の窓にあかりがともり、眼下に続くスウィルの町も夜の闇にとざされた。フクロウが鳴き、川面の上の暗がりをコウモリが飛んだ。この時になっても、ゲドほまだ、腰をおろしたまま、どうやって老人の名をあかそうかと考えていた。考えれば考えるほどわからなくなった。過去五年、ロークへ来てから学んだ魔法をあれこれ思い出してみたが、目の前の大魔法使いから、名まえという最大の秘密をさぐり出すすべはどうしても見つからなかった。
ゲドはとうとう草の上に横になり、オタクをボケットに、星空の下で眠った。日がのぼると、彼はすきっ腹をかかえて学院の入口へ行き、戸をたたいた。守りの長《おさ》が中から戸を開けた。
「お願いです。わたしにはお名まえをあかすことができません。まだ、力がないのです。計略でさぐり出すこともできません。まだ、知恵も足りませんので。だから、どうか、このまま、ここにいさせてください。あなたがどうおっしゃろうと、あなたにお仕えし、あなたから教えていただくよりほかにて[#「て」に傍点]はありません。ふとした拍子にもらしてでもくださらない限り。」
「ききなされ。」
「お名まえは何とおっしゃるのです?」
長はやさしくほほえんで、その名を告げた。ゲドは教えられた名を言って、二度と入ることのないであろう館に入っていった。
つぎに館から出てきた時、彼は濃紺の厚地のマントをはおっていた。ロー・トーニングの島人たちからの贈り物だった。彼は求められて、これからそこへおもむこうというのだった。その手にはイチイの木の杖が握られていた。杖は持ち主とちょうど同じ丈で、先端には青銅の鋲《びょう》が打ちこまれていた。守りの長《おさ》は館の裏口のあの象牙の扉を開けて。ゲドを送り出した。ゲドはスウィルの町を下っていった。明るい朝の入江には、 一艘《そう》の舟がこの若者を待って静かに浮かんでいた。
五 ペンダーの竜
ローク島の西には、ホスク、エンスマーのふたつの大きな島にはさまれて九十群島が浮かんでいる。
ロークに一番近い島がサード、 一番遠い島がセピッシュ島だが、こちらは、もう、ベルニッシュ海に片足つっこんでいるといってもいい。島の数がはたして本当に九十になるのかどうか、となると、答えはいっこうに定まらない。というのは、真水の湧き出る島だけを数えていけば七十ほどにしかならないだろうし、大小すべて、水面に頭を出す岩までも数えれば、百でもおさまりがつかないだろうからだ。第一、潮というものはたえず変化するもの。内海の潮は元来おだやかでも、島と島とが間近に接しているところでは、当然潮と潮はぶつかりあい、互いに行く手をはばんで、水面は時によって高くも低くもなり、だから満潮時には三つの島と見えたものが、いざ潮がひいてみると、実はひとつだった、ということが往々にしてあるからだ。けれども、こうした危険な潮の変化があっても、このあたりでは歩ける子どもはひとり残らず櫂《かい》をあやつることができて、めいめいが自分の漕ぎ舟を持っているし、女衆は平気で瀬戸を漕いで渡って、隣り近所におしゃべりに出かけていき、物売りはまた物売りで、櫂の動きに合わせていかにも調子よく客を呼んでいる。ここでは海がそのまま家と家を結ぶ通路の役目を果たしているのだ。もっとも、この通路には網が張られている。タービーというカレイに似た小さな魚をとるためのもので、この魚からとれる油は九十群島の主要な産物なのである。橋はわずかしかなく、大きな町もない。狭い島はどこもぎりぎりいっぱいに土地が耕されて、漁師の家が軒を並べ、そんな島が十五、二十と集まって、むらをつくる。そんなひとつがロー・トーニングである。ロー・トーニングは九十群島の西のはずれにあり、内海に向かわず、茫漠とした外海に向かってひらけている。この外海の一角は多島海《アーキペラゴ》の中でもことにさびしいところで、この先、浮かぶのは竜に減ぼされた、あのペンダーの島のみ。それを遇ぎれば荒々しい西のはての海がひろがるばかりである。 村では、やってくる魔法使いのために、すでに一軒の家を用意していた。家は緑の麦畑に囲まれた丘の上にあって、ぺンディクの木立が西風をさえぎってくれていた。木は今ちょうど赤い花の盛りだった。戸口からは、家々の草ぶき屋根や木立や野菜畑が見えた。他の島々にもやはり屋根が見え、畑が見え、丘が見えた。島と島との間には、日の光を浴びて、潮が渦を巻いて流れていた。家は小さくて、窓もなく、床さえも張ってなかったが、それでもゲドの生まれた家よりはましだった。ロー・トーニングの島の長《おさ》たちは、ロークからやってきた魔法使いをかしこまって迎え、粗末な家しか用意できたかったことを詫びた。
「わしらんとこには家を建てようにも石がないんでございます。」ひとりが言った。
「金持ちはひとりもおりませんもので。もっとも、飢えとる者もおりませんですが……。」別のひとりが言った。
「そんでも、雨もりだけは大丈夫と思います。」三人目の男が言った。「屋根ふきは、わしがよう監督してやらせましたで。」
こうして用意された家は、ゲドには、どんな宮殿にもまさるものに思われた。彼は長《おさ》たちに心から礼を言った。十八人の長はめいめい小舟を漕いで自分の島にもどり、漁師や女衆に、今度来た魔法使いはとっつきにくいが、しっかりした若者で、口数こそ少ないが気持ちのよいもの言いをして、少しも偉ぶったところがない男だと話した。
もっとも、ゲドにしてみれば、この初めての赴任地には偉ぶろうにも偉ぶるたねなどなかった。ローク島で修行した魔法使いの大半は大きな都市や領主の館に招かれて、下にもおかぬ待遇を受ける。ふつうだったら、こんなさいはてのロー・トーニングの漁師たちは、まじない女か祈疇師を置いて、網にまじないをかけてもらうとか、新しい舟をおろす時にお祓いをしてもらうとか、病気をその祈疇で治してもらうとか、せいぜい、それくらいのところでよしとしなけれぱならないところだった。ところが最近ペンダーの年とった竜が卵をかえして――噂によれば九匹とか――、それが今は廃墟となったペンダーの神殿の塔に住みつき、そのうろこ腹をひきずって、大理石の石段をのぼったり下ったり、あの塔、この塔のこわれた入口にも姿を見せているというのである。死の島と化したペンダーのこと、竜が大きくなって空腹を感じだしたら、いつ食べ物を求めてこちらに飛び出してこないとも限らない。いや、人びとはすでに四匹の竜がホスク島の西南海岸の上を飛んで、下の民家や納屋や羊囲いを下見しているのを目撃していた。竜は飢えを感じだすのは遅いが、いったん感じだしたら、ちっとやそっとではおさまりがつかない。それで、ロー・トーニングの島の長たちは合議の末、ロークの学院に魔法使いの派遣を頼み、西の水平線のかなたに見え隠れする恐ろしい怪物から自分たちを守ってほしいと懇願、院長の大賢人も、また、島人たちの心配をもっともなことと受けとめたのである。 「あそこは何の楽しみもないところだ。」大賢人はゲドに言った。ゲドを正式の魔法使いと認めた日のことだった。「富も名声も、いや冒険さえも期待できぬところだ。それでも行ってくれるか?」
「参ります。」
ゲドは答えた。言われたからだけではなかった。以前には考えられなかったことだが、ローク山でのあの夜のできごと以来、ゲドは名声とか見てくれのよさには嫌悪さえ覚えるようになっていた。彼はこの頃ではいつも自分の力に不安を抱き、その力が試されるのを恐れていた。だが、それでいながら、竜の噂に彼の好奇心は強くかきたてられた。ゴントでは、もう何年も竜はあらわれていなかったし、ロークはロークで竜は決して近づこうとはしなかったから、この動物は、今では物語や歌にでてくるだげで、じかには見られないものになってしまっていた。たしかに学院では竜に関してできうるかぎりのことを学んではいたが、それについて本で読むことと、実際に面と向かうこととはまったく別のことである。絶好の機会が今、目の前に到来したのだ。「参ります」は、ゲドの心底からの答えだった。
大賢人ジェンシャーはゲドの返事を聞いて深くうなずいたが、表情は暗かった。
「な、ほんとうのことを言うてくれ。」彼は重い口をやっとのことで開いて言った。「そなた、ロークを去るのは気が進まないのではないかな?それとも乗り気か?」
「両方です。」
ジェンシャーはもう一度うなずいた。
「わしにはな、ゲド、この安全な島からそなたをよそへ送り出すのが正しいのかどうか、実を言うと、ようわからんのだ。」彼は声をおとして言った。「わしにはそなたの行く手が見えん。闇にすっぽり包まれておってな。北には何かそなたを破滅させるものがひそんでおる。だが、それが何で、どこにあるのか、そなたの歩いてきた道すじにあるのか、それともこれから行くところにあるのか。それさえもわからんのだ。すべては暗い影におおわれておってな。ロー・トーニングから使いの者が来た時、わしはすぐにそなたのことを思った。安全なところだし、危険な道すじからはずれているように思われたからだ。あそこでなら、ゆっくりと力を蓄えることもできるだろうと思ったしな。だが、今のわしには、そなたにとって安全なところというのがあるかどうかもわからんし、そなたの道がこれからどう続いておるのかもわからん。わしはしたくない、そなたを闇の中に送り出すなんぞ……。」
花咲く木々に囲まれた家は、最初のうちはたいそう明るい場所に感じられた。ゲドはそこに寝起きして、折あるごとに西の空に目をこらし、魔法使いの鋭い耳をそばだてては、うろこにおおわれた翼の音を聞き逃すまいとした。だが、竜は来なかった。彼は島の船着き場までおりていって釣りをしたり、小さな野菜畑をいじったりした。かと思うと、夏の日の一日を木陰にすわり、ロークから持ってきた魔法の書を開いて、あのぺージ、このページ、あの文章、この文章と気ままに読んで暮らしたりした。そんな時、オタクはゲドの傍らで眠るか、さもなければ、ヒナギクの乱れ咲く草むらに入っていって、ネズミをつかまえて遊んでいた。ゲドは、また、人びとの求めに応じて、いつでも医者になったり、風の司になったりした。彼はそうすることが正式の魔法使いとして恥ずべきことだとは少しも思わなかった。子どもの頃過ごした村では、人びとはここよりずっと貧しかったからだ。もっとも、ロー・トーニングの島人たちはゲドに遠慮して、よほどでなければものを頼まなかった。ひとつには彼が賢人の島からやってきた魔法使いであること、またひとつには彼が極端に口数が少なく、その上、顔に恐ろしい傷跡があることが原因していた。ゲドには、歳《とし》が若いにもかかわらず、まわりの人間をなんとなく緊張させるところがあった。
けれども、そんなゲドにも、やがて友人ができた。すぐ東隣りの島に住む船大工で、名をペチバリといった。初めて会ったのはこの男の舟着き場だった。ゲドはその時、足をとめて、男が小舟に帆を立てるのを見ていた。男は魔法使いに気がつくと、顔をあげて、にやっとして言った。
「もう、かれこれひと月でさあ。おめえさまだったら、ひとことで、あっという間に片づけちまいましょうがなあ。」
「そうかもしれないが、」ゲドは言った。「わたしのは沈むのもあっという間だよ。魔法をきらしたら、おしまいだ。だが、もし、その気なら……。」
「その気なら?」
「いや、かわいらしい、いい舟だ。それ以上何もいらないさ。だが、もしも望むんなら、いつまでもこわれないようにくくりのまじない≠かけてやってもいいし、どんな時も無事に帰ってこられるようにもの見出しのまじない≠かけてやってもいいって、ふっとそう思ったものだから。」
ゲドはペチバリの気分をそこねないように、遠慮がちに言った。が、ゲドのことばに船大工の顔は輝いた。
「いや、この舟はせがれに作ってやったもんでさあ。おめえさまがそういう魔法をかけてくださるんなら、こんなうれしいこたあない。そりゃ、もう、願ってもないことで。」彼は言うなり、舟着き場にあがってきて、ゲドの手をとって、礼を言った。
そんなことがあってから、ふたりはよくいっしょに仕事をするようになった。ゲドがペチバリの船大工の技に魔怯をかければ、ペチバリはその礼に、船の作り方や、魔法なしで船をあやつる方法をゲドに教えた。素手で船をあやつる技術は、ロークでの訓練だけでは不十分だった。ゲドとペチバリとまだ小さいペチバリの息子のアイオスは、しばしば、あの舟この舟で瀬戸に乗り出し、漕いだり帆走させたりした。そうこうするうち、ゲドは船乗りとしても一人前になり、ペチバリとの友情はたしかな、ゆるぎないものになっていった。
その年の秋も深くなって、船大工の息子が病気に倒れた。母親はテスク島に腕のいい祈祷女を呼びにやった。子どもは一日二日はすっかり持ち直したかに見えた。が、ある嵐の夜ふけ、ペチバリがやってきて、ゲドの家の戸を激しくたたいた。すぐ来て、子どもを救ってくれという。ゲドはすぐさま舟着き場に駆けおり、暗闇の雨の中をふたりは舟を漕いで病人のもとへ急いだ。着いてみると、子どもは粗末なベッドに横たわり、傍らには母親がもの言う元気もなくうずくまっていた。祈祷女はコーリーの根をいぶらせ、懸命に祈祷を唱えていたが、それがこの女にできる精一杯の治療だった。彼女はゲドを見ると、声をひそめて言った。
「魔法使いのお方、どうも、これは猩紅熱《しょうこうねつ》のようでございます。あすまでは、とても持ちますまい。」
ゲドはひざまずいて、両手を子どものからだに置いた。彼の診断も同じだった。が、彼は急にその手を引っこめた。かつてゲドが長い病からようやく快方に向かい始めた頃、薬草の長は医者としての心得をいろいろ話して聞かせてくれたが、そのなかで最初で最後の大事な心得は、「傷を癒し、病気を治すこと。ただし、黄泉《よみ》の国に向かわんとするものには手を下さぬこと」であった。
母親はゲドのしぐさを見て、その意味を察し、声をあげて泣きだした。ペチバリは妻を抱きかかえるようにかがみこんだ。
「ハイタカさまがきっと助けてくださる。な、泣くな。こうしておいでくださったんだ。この方にできんわけがない。」
母親の嘆き悲しむさまを目のあたりにし、ペチバリが自分に寄せてくれる期待を考えると、ゲドの中には、なんとしてもこの夫婦の気持ちに応えたいという思いがふつふつと沸きあがってきた。彼は自分の診断が誤りであったと自らに言いきかせ、熱さえ下がれば助かるかもしれないと思いこもうとした。
「ベチパリ、ともかく全力を尽くしてみよう。」彼はついに言った。
そして、すぐさま冷たい雨水を使っての冷罨法《れいあんほう》にとりかかり、熱さましの呪文を唱え始めた。が、患者には何の変化もあらわれたかった。この子どもはおれの腕の中で死んでいこうとしている、とゲドは思って、愕然とした。
彼は己《おのれ》の身の危険もかえりみず、ただちにすべての力を集中すると、自分の霊を呼び出し、去っていく子どもの霊を追いかけさせた。彼は子どもを連れもどそうと必死だった。
「アイオス!」
ゲドは子どもの名を呼んだ。耳の奥でかすかな返事が聞こえたような気がした。彼はもう一度名を呼んだ。小さな男の子がはるか先の暗い坂道を猛烈な速さで駆けおりていくのが見えた。どこか大きな山の中腹のようだ。あたりはしんと静まり返っている。山の上にまたたいている星は一度も見たことのないものだ。だがその星座の名まえだけは知っていた。麦束、扉、振り向く人、それに木だ。沈むことを知らず、どんな日が輝こうと薄れることのない星だという。ゲドは死出の旅に出た子どもを追って、あまりにも遠くまで来てしまったのだ。
はっと我にかえると、彼は闇に包まれた山の中腹にひとり、ぽつんと立っていた。向きを変えるのはひどくむずかしかった。
それでも彼はそろそろとからだの向きを変えた。それから坂道を引き返そうと、慎重に一歩を踏み出した。一歩、そしてまた一歩。必死だった。一歩ごとに歩の運びは困難になっていった。
星は動かなかった。急勾配の乾いた山の斜面にはそよとの風も吹かなかった。はてしなくひろがる闇の国で動いているのは彼ひとりだった。彼はのろのろと坂道を引き返した。やっと山の頂に着いた。と、そこに低い石垣が見え、その向こうに、まっすぐこちらを向いて、ひとつの影が立っていた。
影は人間の形ともけだものの形ともとりかねた。いや、およそ形と言えるものではなく、うっかりすれば見過ごしてしまいそうなものだった。だが、それはたしかになにごとかをゲドにささやきかけ――もっともことばと言えるほど明瞭なものではなかったが――彼のほうにすうっと手をのばしてきた。影は今、生者の国に、そしてゲドは、死者の国にその身をおいていた。
このまま再び山をおりて、荒涼として闇にとざされた黄泉《よみ》の国に身を落ち着けるか、たとえ形のないあの魔物が待っていようと、石垣を越えて生ける者たちの国にもどるか、今はふたつにひとつしかなかった。
ゲドは手にした杖を高くかかげた。力が湧いてきた。彼はまっすぐ影にいどみかかるように、一気に低い石垣を飛び越えた。その瞬間、手にした杖が目もくらむような白い炎を出して燃えた。彼は倒れた。それきりあとはわからなかった。
その間、船大工の夫婦と祈祷女が目のあたりにしたのは、こんな光景だった。若い魔法使いは呪文を途中で止《よ》して、子どもをしかと抱きしめた。それから彼は小さなアイオスをそっとベッドに寝かせると、杖を手にしてすっくと立ちあがり、その杖を高くかかげた。杖はその瞬間稲妻のような白い光を放ち、部屋のすみずみまでも明るく照らしだした。気がつくと、魔法使いの若者は土間にうつぶせに倒れ、子どもは傍らのベッドで、事切れていた。
魔法使いも死んだのだとペチバリは思った。妻はすすり泣きを始め、ペチバリはそのそばにふぬけのように突っ立っていた。それでも、さすがに祈祷女は本格的な魔法使いの魔法のことは人づてに聞いて知っていたので、ゲドが意識をなくして、冷たくなって倒れていても、死人として扱うことはしなかった。彼女は彼を病人か、一時的に気を失った人間として介抱するよう、すぐに手はずを整えた。ゲドは自分の家に運ばれ、ひとりの老婆が残って、様子をみることになった。
オタクは見慣れぬ人間がやってきた時の常で、垂木《たるき》の上に隠れていた。雨はひさしをたたき、いろりの火はいつか崩れて、夜はしだいに更けていった。老婆はいろりのそばで、居眠りを始めた。とたんにオタクはするすると天井からおりてきて、死んだようにベッドに横たわる主人に近づくと、そのざらざらした枯葉色の舌で根気よく主人の手を舐《な》め始めた。それから、今度はゲドの枕もとにかがみこんで、そのこめかみと傷跡の残る頬を舐め、つぎには閉じた目をそっと舐めた。すると、その感触に気づいたのか、ゲドはゆっくりと薄目をあけた。それから、はっきりと目を覚ました。どこにいたのか。今、どこにいるのか。あたりを包む、この灰色のかすかな光は? それは、大地を照らし始めたあかつきの光だったのだが、ゲドにはまだそれとはわからなかった。ともあれ、オタクはゲドが目を覚ましたのを見届けると、またいつものように、肩のところにうずくまって、寝入ってしまった。
後になって、この晩のことを思い返すたびに、ゲドは、もしもあの時、誰もさわってくれなかったら、そして、また、誰も自分を呼びもどしてくれなかったら、自分はあのまま逝《い》ってしまっていたろうと思った。傷ついた仲間のからだを舐めて癒《いや》そうとするのは、もの言えぬ動物たちの本能的な知恵である。けれども、ゲドはこの時、その知恵の中に、何か自分の力と似通ったものが、何か魔法と似て深く神秘的なものがひそんでいるのを感じとった。それからというもの、ゲドは、賢くあろうとしたら、人はかならず他の生きもの それがもの言うものであろうとなかろうとを手許におくべきだ、と固く信じるようになった。そして、また、この時のことがきっかけになって、彼はその後、動物の目の色からでも鳥の飛び方からでも、あるいは木々のゆっくりとしたそよぎからでも、学ぶべきものは、ひとり静かに学ぼうと努めるようになった。
ゲドは、今、生まれて初めて、生きたまま黄泉《よみ》の国へ行き。そのまま再びかすり傷ひとつ負わずにもどってきたことになる。それは真の魔法使いにしかできないことだったが、とはいえ、もっともすぐれた魔法使いでも、かなりの危険を覚悟しなければならないものだった。だが、やっとのことでもどってきたゲドを待っていたのは、悲しみと不安だった。悲しみは友人のペチバリのためであり、不安は自分自身に関するものだった。大賢人がなぜ自分をロークの外へ送り出すのを恐れたか、自分の未来に対する彼の予見がなぜ曇っていて暗かったか、それが今、ゲドにははっきりわかったような気がした。自分を待っていたのはほかでもない暗黒だったのだ。名まえを持たない、もともとはこの世のものでないもの。彼が放ったか、さもなければ作り出したあの影だったのだ。影は霊界の生死をへだてる石垣のところで、ここ何年とゲドを待っていたのである。そして、ついにそれはゲドを見つけ出した。これから先それはたえずゲドのあとをつけてまわるようになるだろう。ゲドに近づいて、その力を吸いとり、その命を奪って、やがてはこの肉体をのっとろうと機会をうかがい続けることだろう。
このことがあって間もなく、ゲドは夢を見た。頭のない、だが全体としてはクマのような格好をしたものがあらわれて、家のまわりをうろつき、しきりに入口を探しているようだった。そんな夢を見るのは、以前、影にうちのめされて床について以来、絶えてないことだった。目が覚めると、からだはぐったりと疲れていた。寒かった。顔や肩の傷跡がひきつって痛んだ。
事態は悪い方に向かい始めた。夢に見るだけでなく、影のことを思うだけで、ゲドは背すじに冷たいものを感じるようになった。そうなると、考える力もなくなってふぬけのようになってしまう。彼はそんな臆病な自分に腹を立てたが、かといって、どうなるわけでもなかった。何か、我が身をかくまってくれるものはないか。いや、そんなものがあろうはずはなかった。自分をつけねらうものは、肉を持たず、命を持たず、心を持たず、名を持たず、つまりはものとしてこの世になく、ただ、ゲドが与えたこの世の外の恐ろしい力としてあるだけなのだから。彼にわかっていることといえば、それが自分にしつこくつきまとっていること、こちらを利用し、こちらの姿をとって、その思うところを具現していこうとしていること、それだけだった。まだ、向こうがちゃんとした形を持たない以上、どんな格好で、いつ、どんなふうにしてあらわれるか、それは皆目見当もつかなかった。
ゲドは家のまわりに魔法の防塁をめぐらし、さらに、住んでいる島のぐるりにも同じような砦をめぐらした。けれども、この魔法の防塁はたえず新しいものととりかえなくてはならない。間もなく、彼は、こんなことにばかり精力を使っていたら、島人のために何もしてやれなくなることに気がついた。こんな状態で、もしも今、ペンダーから竜が襲ってきたら、ふたつの敵を前にいったいどうすればよいのか。
そうこうするうち、ゲドはまた夢を見た。今度の夢では、影はすでに家の中に入りこんで、戸口近くの闇の中から手をのばし、なにごとか、彼にわからないことばをささやいていた。ゲドは恐ろしさに目を覚まし、すぐさま、魔法のあかりをかかげて、小さな家のすみずみまでも照らしてみた。しかし、影はどこにも見えなかった。ゲドはいろりの燠《おき》にそだ[#「そだ」に傍点]をつぎたし、あかあかと燃えだした火の前にすわりこんだ。外では秋の風が草ぶき屋根をなぞり、葉の落ちた梢を鳴らして吹いていた。彼は長い間、じっと物思いにふけった。忘れかけていた昔の怒りがいつかよみがえってきていた。なぜ、こんなふうにぽつねんとなすこともなく待っていなければならないのか。なぜ、こんなちっぽけな島に囚われて、役にも立たない守りのまじないを唱えていなければならないのか。しかし、かといって、おいそれと島から逃げ出すわけにもいかない。そんなことをすれば、信用はだいなしだし、なによりも、彼らを無防備のまま、いつ襲うかしれない竜の前にほうり出すことになってしまう。とるべき道はひとつしかない。
翌朝、ゲドは漁師たちの間をぬってロー・トーニング最大の船着き場に行き、島の長《おさ》を探しだして、 「おいとましなくてはなりません。わたしは今、危険にさらされていて、このままでは皆さんまで危険にまきこんでしまいそうです。どうしても、ここを出ていかなくてはなりません。お願いです。どうかここを発って、ペンダーの竜退治に行くことを許してください。そうすれば、皆さんに対するわたしの義務は果たされ、わたしは自由の身になって皆さんのもとを去ることができます。竜退治は失敗するかもしれません。ですが、今やって失敗するようなら、竜がここにやってきた時にも、うまくいくはずはありますまい。同じことなら、結果は早く出たほうがいいのです。」
長《おさ》はあっけにとられて、ゲドの口もとに見入っていた。
「ハイタカさま、」彼はやっとのことで言った。「竜は九匹でございますそ。」
「ですが、うち八匹はまだ子どもだとか。」
「それはそうですが、あの年をくった奴めは……。」
「お願いです。どうしてもここにはいられないのです。ですから、できることなら、まずは竜の危険から皆さんをお救いしたいと、こうしてお願いしているのです。」
「それではお気のすむように。」長は不機嫌に言った。居合わせた人びとも、ゲドのこの申し出を、若い魔法使いの血気にはやった無分別な冒険と受けとめて、一様にしぶい顔をして彼を見送った。彼のことを再び耳にすることはないだろう、と人びとは誰も思っていた。なかには、この魔法使いは自分たちを捨てて、ホスク島経由で内海にもどっていってしまうつもりなのだ、とささやく者もあり、またなかには ――ペチバリもそのひとりだったが―― 若者は気が狂って、死神にとりつかれてしまったのだと考える者もあった。
船がペンダーに近づかなくなってから、すでに百二十年余りがたっていた。わざわざやってきて竜と戦おうなどという魔法使いはいなかった。それというのも、島がどの航路からもはずれていたことと、ペンダーの領主が代々海賊であったり、人買いであったり、ことのほか好戦的であったりして、アースシーの南西部一帯に住む人びとから嫌われていたからである。そんなわけで、ある日、突然西のかなたから竜がやってきて、たまたま塔で宴を張っていた領主とその臣下たちに襲いかかり、口から火を吐いて全員を焼き殺し、さらに泣き叫ぶ町の人びとを海へと追いこんで溺死させてしまっても、ペンダーの領主のかたきを討ってやろうとする者はひとりとしてあらわれなかった。ペンダーはこうして復讐《ふくしゅう》も果たされないまま、数々のしかばねも塔も宝もそっくりそのまま竜の手にゆだねられたのだった。もっとも、その宝の大部分は遠い昔、パルンやホスクの海岸に住んでいた王侯責族から奪ったものではあったのだが……。
ゲドはこれらのことを十分承知していた。いや、さらに多くを知っていた。ロー・トーニングに来てからというもの、彼は竜について学んだことをたえず復習していたのだから……。ゲドは小舟に乗り込んで、海原を西へ向かった。櫓《ろ》を漕ぐでもなく、ペチバリから教わった特別な技を使うでもなく、今、彼は、帆には魔法の風をはらませ、船首と竜骨には向きがそれないようにまじないをかけて、目指す死の島が水平線のかなたに浮かび上がるのを今か今かと待ち受けていた。急がなくてはならない。魔法の風を使ったのはそのためだった。彼は行く手にあるものよりも背後にあるものを恐れていた。けれども、時がたつにつれて、あせりは恐怖から一種の期待へと変わっていった。おれはこの危険を少なくとも自分から求めたのだ、と彼は思った。島に近づくにつれ、その思いはますます強くなっていった。少なくとも今度だけは、死ぬまでのわずかな間は、自分はあの影におびやかされることはないだろう。いくら影でも、まさか、竜の爪の下まで自分を追ってくることはあるまい……。舟は薄墨色の海を白く波をけって進んでいった。空には灰色の雲が、北風に乗って飛ぶように流れていた。ゲドは魔法の風を帆にはらませて、針路を西にとりつづけた。ようやくペンダーの岩が見えだした。市《まち》はひっそりと静まり返り、あちこちの塔は焼き払われて、今にも崩れ落ちようとしている。
港――といっても、浅い三日月形の入江だったが――に入ると、ゲドはまじないをといて舟を止め、そのまま舟を波にまかせて、竜を呼んだ。
「ベンダーの略奪者め、宝がほしければ、出てこい!」
ゲドの声は灰色の岸壁に寄せて砕ける波の音にあっという間にかき消されたが、さすがに竜は耳が鋭い。やがて、ぎざぎざの背をした、また翼のいかにも弱そうな一匹の竜が、屋根のない廃屋から大きなコウモリのようにふわりと飛び立つと、北風に乗って、ゲドのほうに飛んできた。伝説でしか知らない生きものの姿を目のあたりにして、ゲドの胸は高鳴った。彼は豪快に笑い、それから、大声で怒鳴った。
「とっとと行って、年寄りを呼んで来るんだ、この羽虫め!」
それというのも、この竜はまだ年端のゆかない竜だったからで、何年か前、 一匹の雌の竜が西の果てからやってきて、ある塔の、こわれて日あたりのよい部屋に、人間の噂どおり、大きな、頑丈な卵をひと抱き産むと、それきりどこへともなく姿を消し、トカゲのようにつぎつぎと卵から這い出した竜の子どもたちの世話は、ベンダーの年とった竜が一手にひきうけていたからである。
若い竜から返事はなかった。竜はまだ体長が四十オールの船ぐらいで、一人前の大きさにはほど遠く、黒い水かきのある翼をいっぱいにひろげても、見るからに幼かった。からだもそうならば、声もまた幼く、竜特有のずるがしこさも、まだ本物ではなかった。竜は口をかっと開け、小舟が揺れるゲドめがけて、まっすぐ空から舞いおりてきた。ゲドは強力な呪文ひとつでたちまち竜の翼をしぼませて身動きできなくさせ、石でもほうるように、海の中に投げこんだ。灰色の海はたちまち獲物を飲みこんで、口を閉じた。
つぎには二匹の竜が前の竜と同じように高い塔の底から舞い上がり、ゲドに襲いかかってきた。ゲドはそれも捕まえて、再び海にほうりこんだ。まだ杖は上げずにすんだ。
しばらくすると、今度は三匹が一度に襲いかかってきた。一匹はとびぬけて大きく、口からはめらめらと火を吐いている。他の二匹は翼をうって、正面からゲドに飛びかかってきたが、この大きな竜はすぼやくゲドの背後にまわりこんだ。吐き出す炎で、ゲドを舟もろとも焼き殺そうというのだ。くくりの術では三匹を同時にやっつけることは無理だ。二匹は北から、一匹は南から向かってきているのだから。ゲドはそう見てとると、すぐさま我が身を竜に変え、舟から舞い上がった。
竜となったゲドは、大きな翼をひろげ、鋭い爪を突き立てて、まず目の前の二匹に襲いかかると、口から火を吐いて、その二匹を焼き殺し、つぎにくるりと向きを変えて、いま一匹の竜と向かい合った。こちらのからだはゲドよりも大きく、それに前の竜とはちがって火もある。灰色の海をわたる風に乗って、二匹の竜は組んでは噛みつき、舞い上がっては突っこんで、ついにはきなくさい臭いさえ漂うほどになった。突然ゲドが空高く舞い上がった。竜がすぐあとを追った。ゲドは不意に翼をひろげたまま宙に止まった。と思う間もなく、彼はタカのように爪を突き立て、追ってきた竜にとびかかると、それを下に押さえこんで、首といわず、腹といわず、猛烈に突つきだした。竜の翼はたちまち傷ついて、どす黒い血がぼたぼたと海に落ち始めた。しばらくして、ベンダーの竜はやっとのことでゲドの爪を逃れたが、その飛びかたは、もはやよたよたとおぼつかなかった。地上におりた竜は、ずたずたに引き裂かれたからだを廃墟の中の古井戸とおぼしき穴にひきずっていき、それきり姿を見せなかった。
ゲドは、すぐにその身を人間の姿にもどして、再び舟に乗った。必要以上にいつまでも竜に姿を変えているのは危険なことだ。その手には、けだものの血が黒くこびりつき、頭にもやけどを負っていたが、今は、そんなことを気にしている時ではなかった。彼は息切れがおさまるのを待って、また声をはりあげた。
「六匹を見て、五匹は殺した。だが、九匹だと聞いておるぞ。出てこい、臆病者め!」
だが、島はそれからしばらく、ひっそりと静まり返って声はなく、動くものの影もなかった。ただ、波がせわしく岸壁を洗うばかりだった。しかし、やがて、ゲドは、島の一番高い塔がゆっくりと形を変え始め、まるで腕をのぼすように、片側がむくむくともりあがりだしたのに気がついた。竜が魔法を使い始めたのではないか。年のいった竜は、人間の魔法に劣らぬ、いや、それ以上に強力で、邪《よこしま》な 魔法をかけてくるというではないか。が、つぎの瞬間、ゲドは、それが竜の目くらましの術でもなんでもなく、狂っていたのは自分の目だと気がついた。塔の一部だとばかり思っていたものは、実は目指すペンダーの竜の肩で、その竜が今、まるめていた巨体をゆっくりとのばして、起き上がったのである。
竜が身を起こすと、角のあるその頭はこわれた塔の頂よりもはるかに高くなった。口には三すじの舌がのぞき、鋭い爪の見えかくれする前足は、市の瓦礫の山にかかっている。全身をおおう灰色のうろこは日の光を浴びて、くだいた石でも並べたようだ。からだは猟犬のようにひきしまり、山のように大きい。ゲドはおののいた。これほどの竜の姿を前もって語ってくれた歌や物語がどこにあったろう。彼はあやうく竜の目に見入って、それにとらえられそうになった。してはならないと、かたく戒められていることだ。彼はじっと自分を見つめるエメラルドのような瞳から急いで目をそらし、手にした杖をかかげた。しかし、巨大な竜の目には、それはただの棒切れか、小枝のようにしか見えなかった。
「魔法使いよ、おれには八匹の息子があった。」竜は、太いしわがれた声をあたりにとどろかせた。
「五匹は死んだ。一匹もだめだ。だが、息子らを殺したところで、おれの宝は奪えまいぞ。」
「きさまの宝なんぞ、ほしくはないわ。」
竜はそれを聞くと、黄色い煙を鼻から吐き出して笑った。
「どうだ、陸に上がって、ちと宝を見んか。見て、損はないぞ。」
「いや、やめとこう。」
竜の肌に合うのは風と火だから、竜は海上での戦いは苦手である。そのことがこれまでゲドには有利に作用していたし、ゲド自身、それを勘定に入れてもいた。けれども、大きな爪の光る灰色の足を目のあたりにすると、自分と竜をへだてるわずかばかりの海の水など、なんにもならないような気がしてきた。それに、こちらを見すえる緑色の目を見ないようにしているのもむずかしいことだった。
「ずいぶん若い魔法使いだな。」竜は言った。「そんな歳《とし》でなれるとは知らなかったぞ。」
竜の口から出てくるのはゲドのと同じ太古のことばだった。竜のことばは今も昔と変わらない。太古のことばは人間が使う場合は真実しか語れないものだが、竜の場合はちがう。このことばはもともと竜のことばで、虚をつくのも自由自在。本来の意味を曲げて使うのも可能で、うっかり耳でも傾けようものなら、向こうはたちまちことばの魔術を使い、真実を語っているように見せかけて、そのじつ、中味は空だった、というように、いくらでも悪用できる。ゲドは、このことを何度も聞かされていたから、竜が何を言っても、まともにとらないように用心していた。けれども、今、竜のことばには、飾り気もなければ、あいまいさもなかった。
「おまえがここに来たのは、わしの助けを求めるためか、お若いの。」
「ちがう。」
「だが、助けてやることもできるのだぞ。まあ、そのうち、助けがほしくなるだろうて。ほれ、暗闇でおまえをねらうあれに立ち向かわねばならんからな。」
ゲドは押し黙った。
「おまえをねらうあれはいったい何者だ? 名をあかしてみい。」
「それができたら……。」ゲドは言いかけて口をつぐんだ。
かまどのようなまるい鼻の穴から黄色い煙が吐き出されて、竜の長い頭のてっぺんよりもさらに高く、たちのぼっていった。
「もしも名をあかすことができれば、おまえはそいつの主人となれるものを。な、お若いの。そいつ、近くまで来おったら、わしが見て、名まえを教えてやるんだが。いや、ほんとうに来るかもしれんな、おまえがこのあたりで待っておれば。なんせ、そいつは、おまえの行くところには、どこにでもついていくんだからな。もしも近寄ってきてほしくないのなら、おまえは逃げるしかない。だが、そうしたって、やっぱりそいつは追いかけていくだろうて。おまえ、そいつの名を知りたくはないかな?」
ゲドは答えなかった。自分が放ってしまった影のことを、この竜はどうして知っているのか。その名をあかすなどと、そんなことがどうしてでぎるのか。影には名がない、と大賢人も言ったではないか。ゲドにはどうしてもわからなかった。けれども、竜には竜独自の知恵があり、それに、竜はなんといっても、人間より早くからこの地上に住んでいる。竜が何を知り、また、それをどうやって知ったか、それがわかる人間はわずかしかいない。そのわずかな人間が竜王≠ニ呼ぼれる人びとである。だが、今のゲドにわかっていることはたったひとつ、すなわち、竜がいかに真実を語るつもりでいようと、そして、また、実際に、あの影の正体や名を語り、それを支配する力をゲドに授けることができようと、それでも、やはり、それは何もかも、竜が自分の利益をはかって、そのもくろみの実現のためにするのだということだった。
「ふん、初耳だな、」ゲドはややあって言った。「竜が人間に情をかけてくれるとは。」
「いや、よくあることさ。」竜がいった。「ほれ、ネコはネズミをやっちまう前に、そいつと遊ぶじゃないか。」
「言っとくが、おれがここへやってきたのは、遊ぶためでも、遊んでもらうためでもない。きさまと交渉しようと思ってのことだ。」
それを聞くと、竜はいきなり、とぎすました剣のような――いや、長さは、その五倍にも及ぼうか――尾の先を塔の頂よりも高くサソリのように突き立てた。
「交渉だと※[#感嘆符疑問符、1-8-78]ふん、何が交渉だ。話し合いなんぞ、わしはせんぞ。わしは奪うだけだ。わしがそのつもりになって、おまえから奪えんものに何がある?」
「身の安全さ。おれの手にあるきさまの身の安全よ。二度と再び、ここより東へは行かぬと約束しろ。そうすれば、おれも手荒なことはせん。」
山をいくつもの岩がころがり落ちるような、あるいば遠いなだれのような、不気味な音が竜の喉の奥から聞こえてきた。三すじの舌を火が這うように躍った。廃虚に立つ竜のからだは、前よりもいっそう高くもりあがった。
「身の安全だと※[#感嘆符疑問符、1-8-78]このわしをおどそうというんだな。何にかけてだ。」
「きさまの名にかけてだ、イエボー!」
ゲドの声はその名を語る時、震えた。しかし、大きく、はっきりとした声だった。年とった竜は、ゲドの返答に、はっと身を固くし、凍りついたように動かなくなった。一分が過ぎた。そして、また、一分が……。やがてゲドは小きざみに揺れる小舟の上で、にっこりとほほえんだ。彼はこの冒険と自分の命を、ローク島で習った竜の歴史から引き出したひとつの推測にかけたのだった。かつて、エルファーランとモレドの時代に、オスキルの西部を破壊し、エルトという、ものの名に通じた魔法使いによってオスキルから迫われた竜があったが、目の前にいるペンダーの竜こそは、その竜ではないか。彼の推測はあたっていた。
「おれたちの力は五分五分だ。まさにいい相手だぞ、イエボー。きさまには腕力があるが、おれとて、きさまの名を握っている。どうだ、話し合いでおさめぬか。」
それでも、なお、竜は返事をしなかった。
もう長い年月、竜は黄金《きん》の胸当てやエメラルドの指環などが、れんがと骨と塵の間に散らばっているこの島に、のんびりと寝そべって暮らしてきた。彼は自分の子どもたちが崩れかけた家々を遊び場にして駆けまわり、崖から宙に飛んでは、その翼をきたえるのを、ゆったりとながめてきた。人間にも船にも邪魔をされずに、日向《ひなた》で何時間も居眠りすることもできた。そんなふうにして年をとり、今ではからだを動かすのさえ、実を言えば、おっくうになっていた。まして、このやせっぽちの魔法使いの若者とわたりあうなんて……。それに、若者の手にする杖を見ては、老いた竜はひるまないわけにはいかなかった。
「よし、蔵から、宝石九つを持ち出してよいわ。」竜はとうとう、深い喉奥からくぐもった声を出して言った。「どれでも気に入ったのを取れ。取ったら、さっさと消え失せろ。」
「宝石なぞ、いらぬわ、イエボー!」
「ほっ、人間どもの欲はどこへいった? 北国では、やつら。その昔、ずいぶんと光り輝く宝石をほしがったものぞ……。だが、そうよな。わしにはわかっておるぞ、おまえのほしいものが。わしもおまえの身の安全を保障してやれるわ。なぜというに、わしには、おまえを救えるのが何だか、わかっておるからな。それさえあれば、おまえは死なずにすむ。ほれ、おまえのあとをつけておるぞ。その名を教えてやろうか。」
ゲドの胸は高鳴った。彼は思わず杖を握りしめた。今度は彼の身がこわばる番だった。彼は突然湧きだした甘い期待としばし闘わなければならなかった。
取引きの目あては自分の命ではないばずだった。ここを乗り切れば、今、この誘惑に勝てば、自分は竜の優位に立てる。ゲドは甘い期待をふり捨てて、なすべきことに踏み切った。
「そんなことを求めてはおらぬぞ、イエボー!」
こうして、一回一回竜の名を語ることは、この巨大な生きものを細い丈夫な革ひもにつなぎ、その首を少しずつ締めていくのと同じだった。ゲドをにらみつける竜の目には、はるかな昔から人間に抱きつづけてきた敵意がありありとうかがわれた。人間の腕ほどもある鋼のような爪。からだをおおう石のように固いうろこ。だが、喉もとに燃える火はちろちろと勢いがない。しかし、ゲドはそれでも革ひもをゆるめようとはしなかった。彼は再び叫んだ。
「イエボー! きさまの名にかけて誓え。きさまも、きさまの息子どもも、二度と多島海《アーキペラゴ》には行かぬとな。」
突然、ごうと音がして、竜の口から真っ赤な炎がふき出した。
「誓おうぞ。わしの名にかけて誓おうぞ!」
静寂が島をおおった。イエボーはその巨大な頭を垂れた。竜が再び顔をあげたとき、魔法使いの姿はすでにそこにはなく、彼の乗った小さな帆舟は白い点となって、内海の豊かな島々を目指し、もと来た道をもどっていくところだった。年老いたペンダーの竜はそれを見ると、くやしさと怒りに上体をがばと起こし、のたうちまわって塔をこわし、荒れはてた死の町いっぱいに翼をひろげて、激しい勢いでそれをたたきだした。だが、それでも、竜は誓いを破らず、以後再び多島海《アーキペラゴ》の島々に飛んでいくことはしなかった。
六 囚われる
ペンダーが西の水平線のかなたに沈んで見えなくなると、ゲドの心には再びあの影に対する不安がしのびこんできた。竜の場合は明らかにそれとわかるはっきりした危険だからよかった。だが、形を持たない影はどうだ。いったいこの恐怖とどう戦えばいいというのだ。彼は魔法の風をしずめ、今は天然の風だけで航海していた。急ごうなどという気持ちはなかった。これから何をすべきかさえ、彼にはわかっていなかった。竜の言うとおり、たしかに逃げなくてはならない。だが、どこへ? ローク島へもどろうか、と彼は考えた。あそこならば、少なくとも身は安全で、賢人たちから、何かいい知恵を授けてもらえるかもしれない。けれども、まずはロー・トーニングにもどって、島の長《おさ》たちに今度のことを報告しておかなければなるまい。
魔法使いが五日ぶりに帰ってきた、という知らせが伝わると、長全員と、それに島民の半数ほどが、ある者は舟で、ある者は徒歩で、急いで駆けつけてきてゲドをとりまき、その元気な姿に目をまるくして、彼の話に聞き入った。そのうちに、ひとりの男が言った。
「しかし、いったい誰が見たのかな、この人が竜を殺したり、降参させたりしたところを。どうなる、もしも、この人が……。」
「黙れ!」
島の長《おさ》は声を荒らげて言った。それというのも、彼は居合わせたほとんどの長と同じく、魔法使いというものははっきりとは真実を語らず、ひとり胸におさめておくものであること。しかし、口にすることに決していつわりはないことをよく承知していたからだ。それこそが魔法使いの魔法使いたるところなのだ。そうとわかると、人びとはいよいよもってゲドの話に目をまるくした。不安が去って、喜びが彼らの間に渦を巻き始めた。人びとは若い魔法使いのまわりに集まって、何度も話をせがんだ。ゲドをとりまく島民はしだいにその数を増していった。けれども、夜のとばりがおりる頃には、ゲドもやっとその仕事から解放された。島人たちが本人にかわって、本人よりもはるかに上手に、竜退治の話ができるようになったからだ。いつか村々の吟唱詩人たちは古い調べにのせて『ハイタカの歌』をうたいだしていた。祝いのかがり火はロー・トーニングの島々ばかりか、南や東の島々にも焚かれた。漁師たちは舟から舟へ、魔法使いのもたらしたうれしい知らせをふれてまわり、それはひとつの島からつぎの島へと、またたく間にひろまっていった。災いは未然に防がれた。竜はもはやペンダーからやっては来ぬという!
その夜一晩はゲドにとって、この上もなく楽しい、いい晩だった。彼に対する感謝のかがり火が高台といわず、浜といわず、いたるところに明るく燃え、人びとは彼を囲んで笑いざざめぎ、歌い、舞い、風が鳴る秋の夜の暗闇に、たいまつを大きくふりまわした。そのたびに、火の粉はどっと宙に舞い、あたりはいっそうあかあかと照らし出された。こんなところに、どうして影がしのび寄ることができたろう。
翌日、ゲドはペチバリに会った。
「あなたさまがこんなに立派なお方とは少しも知らなかったもので。」
ペチバリの声には、身の程も考えず、友だち付合いをしてしまったことを詫びる気持ちとともに、いくばくかの非難もこめられていた。ゲドは、竜を殺しながら、幼い子どもの命ひとつ救えなかったのだ。ペチバリに会ってから、ゲドは、また、不安といらだちにさいなまれるようになった。彼をペンダーに向かわせたあの同じ不安といらだちが、またしても彼をロー・トーニングから追い立てようとしていた。ゲドさえ、その気になれば、人びとは大喜びで彼を島にとどめ、生涯手厚くもてなして、島の誇りとしただろう。しかし、今、ゲドにその気はなかった。彼は早くもその翌日、丘の上の家をあとにした。杖と書物が数冊、それに肩に乗昔たオタクを除けば、これといった荷物はなかった。
彼の漕ぎ舟にはロー・トーニングの若い漁師がふたり乗りこんだ。ふたりとも、尊敬するゲドのために、自分から漕ぎ手をかってでたのだった。三人を乗せた舟は、九十群島東部の水道の、混雑する船の間をぬうように進み、海上に突き出ている民家のバルコニーや窓の下を通り、ネッシュの波止場を過ぎ、雨にぬれるドロンガンの草原を横目に見て、さらに、悪臭鼻をつくギースの油溜めの近くを通過した。ゲドの竜退治の噂は、当の本人より早く、行く先ざきに伝わっていて、人びとはゲドたちの舟が通りかかると、『ハイタカの歌』を口笛で吹き、せめて一夜をともにして竜の話を聞かせてもらおうと、競うように宿を申し出た。ようやくサードまで来ると、ゲドは、とある船にロークまで連れていってほしいと頼んだ。依頼を受けた船長は深々と頭を下げて言った。
「もったいないおことば、慎んでお受けいたします。このわたくしめにとりましても、また船にとりましても、なんという光栄でございましょう。」
こうしてゲドはいよいよ九十群島をあとにした。が、船がサード港で向きを変え、帆をあげるかあげないうちに、突然、強い東風が吹き始めた。朝のうち、空は、冬の気配を見せて、青く晴れ上がり、安定したおだやかな天気が続きそうに見えていたから、これは、なんとも不思議なことだった。だが、サードからロークまでは、三十マイルしかない。船はそのまま航行を続けることにたった。風はいっそうつのったが、それでも船は航行をやめなかった。この船は小さかったが、内海のたいていの貿易船がやっているように、向かい風が来ればいつでも向きの変えられる縦帆をつけていたし、船長は腕のいい船乗りで、自信満々だった。船は北へ南へと間切《まぎ》りながら、少しずつ東へ進んでいった。雲が重く垂れ、やがて雨も降り出した。雨まじりの風はその向きを定めず、気まぐれに荒れ狂い、船の向きを変えることさえ危険になった。
「ハイタカさま。」船長はついに若い魔法使いに言った。魔法使いは特別のはからいで、艫《とも》の、船長のすぐとなりの席にすわっていたが、席は特等席でも、今は風雨にたたかれて、その姿は見るかげもなかった。「ハイタカさま、お願いです。この風に何かひとことおっしゃっていただくわけにはまいりますまいか。」
「ロークまで、あと、どれくらいある?」
「半分は来たと思います。ですが、この一時間というもの、船はまったく前進できずにいるのです。」
ゲドは風に向かってなにごとか言った。風はいくぶん弱まって、しばらくの間、船旅はおおいにはかどった。が、やがて、急に、南風が吹き出して、船はみるみるうちに押しもどされた。雲はひきちぎられ、空いっぱいに激しくおどり狂った。船長はいらだって、大声をあげた。
「この、たわけな風め。いっぺんにあっちこっちから吹きやがって。頼みます。こうなりゃ。魔法の風にたよるしかないのです。」
言われて、ゲドはうかぬ顔をしたが、考えてみれば、船や乗組員が危険な目にあっているのは自分のためだ。ゲドは仕方なく、求めに応じて、魔法の風を帆にあげた。船はたちまち波をきって、ぐんぐん東へ進み始め、船長もそれを見て機嫌をなおした。だが、やはり、尋常ではなかった。ゲドが魔法かけを止めもしないのに、風はだんだん弱まって、やがて、あるかなきかになり、船は帆を垂れ、前進をはばまれて、気がつくと、再び暴風雨の真っ只中にほうりこまれていたのだ。間もなく、雷鳴がとどろいた。ほとんど同時に帆桁《ほ げた》がぐるんと回り、船はそのまま、おびえた猫よろしく、北に向かって、飛ぶように走り出した。
ゲドは、今にも横転しそうな船の上で、甲板の柱に必死でしがみついて、叫んだ。
「船長、船をサードへもどしてくれ。」
船長は悪態をつき、もどるものかと怒鳴り返した。
「魔法使いが乗って、その上、わしだって仲間じゃ一番の船乗りですぜ。おまけに、こんないい船は、そうやたらとあるもんじゃない。それをもどれですと※[#感嘆符疑問符、1-8-78]」
船は間もなく大きな渦に巻きこまれたのか、また向きを変えた。今度は船長も船尾材につかまらないわけにはいかなかった。
「わたしをサードにもどしてくれ。そのあとは、あんたの好きなところへ、自由に行ける。この風がねらってるのは、あんたの船じゃない。このわたしなんだ。」
「おまえさまですと? ロークの魔法使いのおまえさまをねらってるんですと?」
「そうだ。ロークの風の話を聞いたことはないかね。」
「あります、あります。あの賢人の島に邪《よこしま》な力を近づけないようにしているという……。ですが、それが竜王ともあろうおまえさまと、どういう関係があるというんです?」
「いや、わたしとわたしの影との間の問題なのだ……。」
ゲドは短く答え、魔法使いの常で、それ以上くわしくは語らなかった。船は順風に乗り、雲が切れて明るくなり始めた空のもとを、サードへ逆戻りを始めた。船足は速かった。
サードの波止場をのぼってゆくゲドの胸は重く、不安におののいていた。冬が近づいていた。日はめっきり短くなり、あっという間にあたりは夜のとばりに包まれた。暗くなると、ゲドの不安はいつもながらつのっていく。道の曲がり角のひとつひとつが彼にはたまらなく恐ろしかった。誰か、あとをつけてきていやしないか。彼は振り返りたい思いを必死でこらえて、道を急いだ。行った先はサードの海の家だった。旅人や商人はどんなに困っても、ここへ来さえすれば、町が出してくれる食事にありつけ、垂木《たるき》の見える大部屋で一夜の睡眠をむさぼることができる。内海の富んだ島々では、これは今もふつうに行われていることである。
ゲドは夕飯のおかずの中から肉を少し取りのけておいて、食後火のそばにすわると、頭巾《ずきん》のひだの間からオタクを呼び出し ――オタクは朝からずっと、そこに、からだをまるめてひそんでいた――、その肉を食べさせてやろうとした。
「ヘグ、いい子だ。ほら、お食べ。」
ゲドは小さなからだをそっとなでながら、やさしくうながした。しかし、ヘグは口をつけようともせず、たちまちゲドのマントのボケットにもぐりこんでしまった。彼の不安はいっそうつのった。それに、この大きな部屋のすみによどむ闇の深さはどうしたことだ。彼は、あの影がさほど遠くないところに来ていることを感じとった。
ここにはゲドを知る者はいなかった。人びとはみなよその島からやってきた旅人で、『ハイタカの歌』など聞いたこともない者ばかりだった。誰ひとりとして、彼に声をかける者はなかった。ゲドはやっとのことで、空いている寝台を見つけて、横になった。しかし、眠れなかった。彼はまわりの客がぐっすりと眠り込む中を、一晩じゅう、天井の垂木《たるき》を見つめて起きていた。これからどこへ行くべきか、何をすべきか、彼は自分の行く道を決めようとした。だが、どれをとっても、不吉な予感のしないものはない。行こうとするところには、どこにもあの黒い影が横たわっていた。それがないのはローク島だけだった。しかし、そのローク島は、島を悪の手から守ろうとする古代からの魔怯の力が働いていて。彼には近づくことさえできないでいる。ロークの風がゲドにさからって吹くということは、彼をねらっているものが、今や、彼のすぐ近くまで来ているということだった。
光も、時間も、空間もない世界に生きる、姿形を持たないもの。夢と暗闇でしか見えない生きもの。それがすでに幾日と、光ある海をゲドのあとをつけてきているのだ。「あかつきは闇の国に夢を追いやり、影からものの姿を浮かび上がらせ、あらゆる海、あらゆる陸をつくり出す。」『ホードの武勲《いさおし》』にはこううたわれているが、今、ゲドを追ってきているものは、日の光が射し始めても、姿をあらわにするようなものではない。それでいながら、万が一その影がゲドに追いつけば、それはゲドから力を奪い、肉の重みと体温を奪い、心臓の鼓動を奪い、そして、己《おのれ》を動かす意志の力をも奪ってしまうにちがいない。
今、ゲドが行く手に感じるのは、そんな暗い運命の予感だった。ゲドは、自分がいつなんどき罠《わな》にかかって、その運命に落ちこまないとも限らないことを知っていた。というのは、影は近づくにつれて、いつも、その力を強めていたが、その力がさらに強くなれば、邪《よこしま》な精霊や人間を利用して、危険なまぼろしを見せつけたり、その邪な人間の声を借りて話しかけてくることが十分に考えられたからである。ひょっとしたら、今、この海の家の部屋で眠っている誰かの中にそれが隠れていて、その人間が邪な心を持っているのをいいことに、そこを足場にゲドの様子をうかがっているかもしれない。今、こうしている間にも、ゲドの弱さや、自信のなさや、不安を食いものに、敵はぐんぐんその力を強めていっているかもしれない。
ゲドはいてもたってもいられない気持ちだった。こうなったら、運にまかせ、運の導くままに逃げ出さなくては……。ゲドは夜の明けるのを待ちかねて床を脱け出すと、薄れゆく星空の下を、サードの波止場へと急いだ。ここから連れ出してくれるなら、どんな船でもいい。ともかく今日一番にこの島を出る船に乗せてもらおう、と彼は心を決めていた。港では一隻のガレー船が油を積みこんでいた。日の出を待って船出し、ハブナーの港に向かうという。ゲドは船長に便乗を願い出た。魔法使いの杖はほとんどの船で、一種の通行証の役目を果たす。これを持っていれば、船賃を請求されることもない。船員たちは快く彼を迎え入れ、船は間もなく錨をあげた。四十本のオールがいっせいに動き出すのを見て、ゲドは元気を取りもどし、鳴りつづける太鼓の音に勇気をふるいおこされた。
もっとも、ゲドは自分がハブナーへ行ってどうするのかわからたかったし、そこから先、どこへ行くのかもわかってはいなかった。ただ、ハブナーが北にあるということが彼にはうれしかった。彼自身、北国の人間だった。ひょっとしたらどこかの船がハブナーからゴントへ連れていってくれるかもしれないし、そうすれぼオジオン師匠に再会できるかもしれない。いや、もしかしたら、はての海に行く船が見つかるかもしれない。遠い、はての海まで行けば、影だって、こちらの姿を見失って、追跡をあきらめてしまうのではないか。だが、漠然とでも考えられるのはせいぜいそこまでで、ゲドの頭には、その先これといった見通しはまったく立っていなかった。これからたどろうとする道も、ひとつとして見えてはいなかった。ただ、逃げること、彼の頭には今それしかなかった。
四十人という漕ぎ手のおかげで、船は冬の海をぐんぐん進み、翌日、まだ日のあるうちにサードの北、百五十マイルの地点に達した。船はやがてホスク島東岸のオリミーの港に入った。内海を行き来するこうした商船は、いつでも好きな港に入って錨をおろすことが許されている。外はまだだいぶ明るかったので、ゲドは別段用もないまま船をおりて、この港町の急な坂道をぶらぶらと歩き出した。
オリミーは石造りのどっしりした家々が建ち並ぶ古い町である。島の奥地からの盗賊に備えて、町の三方には塁壁がめぐらされ、埠頭の倉庫は砦にも似て、商人たちの家は高く空に向かってのび、それぞれに防備がほどこされている。けれども、道を行くゲドにとっては、どうしてか左右に並ぶ家々はベールのようで、その向こうには、うつろな闇がひろがっているように思われてならなかった。通りを忙しく行き交う人びとも生身の人間のようには見えず、声のない影のように感じられた。日が沈む頃、ゲドは埠頭にもどった。空はあかあかと映え、夕風が吹いていた。だが、そんな中でさえ、ゲドには、海も陸も一様にぼんやりとかすんで、押し黙っているように思われた。
「ほい、そこの魔法使いのお方、どこへ行きなさる。」突然うしろから声がかかった。振り返ると、灰色の衣を身にまとい、重そうた木の杖を持った男が立っていた。杖は、けれど、魔法使いの持つ杖ではなかった。男の顔は夕映えの中にあっても頭巾に隠れて見えなかったが、ゲドは見えない目がじっと自分に注がれているのを感じ取った。ゲドは男に近づぎ、その視線をさえぎるように、イチイの杖をあげた。
「何を恐れていなさる?」
男がおだやかな声で言った。
「あとをつけてくるものを。」
「ほう。しかし、わたしはおまえさまの影などではないが……。」
ゲドは口をつぐんだ。この男は何者であれ、なるほど、自分の恐れている者ではない。この男は幽霊でもなければ、影でもなく、魔性の動物でもないではないか。あたりは今、ひっそりとして、何もかもうすぼんやりとかすんで見えるのに、この男は声も出るし、ちゃんとした肉体を持って立っているではないか。男は頭巾をうしろにずらした。頭に毛はなく、顔には深いしわが刻まれていた。声だけではわからなかったが、頭巾を取ってみると、かなりの歳《とし》のように見うけられた。
「わたしはおまえさまを存じ上げぬが、」灰色の衣をまとった男は言った。「しかし、こうして出会うたのも、ただの偶然とは思われませんな。一度、わたしは耳にしたことがありました。顔に傷のある、若い男の話をな。なんでもその男、闇を戦いぬいて強大な支配力をものにし、やがては王権までも手に入れたとか。それが、おまえさまの話かどうかは知りませんが、しかし、これだけは申し上げておきましょう。影と戦う剣がお入り用なら、テレノン宮殿に行きなされ。そのイチイの杖ではいざという時お困りでしょうからな。」
ゲドの心中では、信じようとする気持ちと信じまいとする気持ちが激しく交錯した。魔法にたずさわるほどの男なら、まったくの偶然から人と人とが出会うなどということはめったにないことを知っている。良いにせよ、悪いにせよ。そこには何かがあるはずだ。
「そのテレノン宮殿というのは、どこにあります?」
「オスキルに。」
瞬間ゲドの目に、緑の芝生に遊ぶ一羽のカラスの姿が浮かんだ。光る小石のような目で、じろりと自分をにらんで何か言ったあのカラスだ。けれども、その時のことばまでは浮かんでこなかった。
「あの島には何か不吉なものがある。」
ゲドは男から片時も目を離さずに言うた。この男、いったい何者なのか。まじない師か、時に魔法使いをさえ思わせるものがあるかと思えば、一方では、大胆にゲドに話しかけながらも、その表情にはどことなく疲れが見えて、病人か囚人、さもなければ奴隷ではないかと見えもする。
「おまえさまはロークから来なさった。」男は言った。「ローク出身の魔法使いは、みんな、自分ら以外の魔法にはケチをつけなさる。」
「そういうあんたは?」
「いえ、ただの旅人で。仲買いをやっておりましてな。オスキルの者ですが、仕事でこちらに参っておるんです。」
ゲドはそれ以上きかなかった。男は静かに夕べのあいさつをして、波止場をあとに、狭い石段の道をのぼっていった。
ゲドは振り返って、男のことばに従うべきか否かと迷いながら、北をのぞんだ。ついさっきまで残照にあかあかと燃えていた山も海も、今は、急速にその色を失いかけていた。間もなく、あたりは薄墨色一色になって、やがて、それを追いかけるように夜が来た。
ゲドはついに心を決めた。彼は急いで埠頭に駆けおりると、 一|艘《そう》の平底舟《ドーリー》で網をたたんでいた漁師に近づぎ、大声でたずねた。
「セメルでも、エンレイドでもいい。とにかく北へ行く船を知らないかね。」
「あそこにいる船はオスキルから来たんだけんど、もしかしたら、エンレイドに立ち寄るかもしれん。」
漁師は答えた。
ゲドは足早に、漁師の教えてくれた船に向かった。船は六十本オールで、蛇のように細長く、舳先《へさき》は大きくそり返って、美しい貝がちりばめてあった。オール口のふたは赤く塗ってあって、それぞれに黒でまじないの絵が描かれている。いかにも船足の速そうな勇ましい感じの船である。今は、乗組員もすでに全員乗船して、船出するばかりになっていた。ゲドは船長をたずねあて、オスキルまで連れていってはくれまいか、と頼んだ。
「船賃は?」
「風をあやつる腕は持っているのですが。」
「風なら、このわたしが風の司だが。じゃあ、何も持たんというのかね。金は?」
ゲドば多島海《アーキペラゴ》の商人の間で通用している象牙をロー・トーニングの島人たちから贈られて持っていた。それが彼らの精一杯の感謝のしるしだったのだ。もらったのは十枚だった。島人たちはもう少し受け取ってほしいと差し出したが、それ以上受け取ることは、彼にはできなかった。ゲドは、この象牙をオスキル人の船長に差し出した。が、船長は首を横に振って言った。
「わしらは、そんなものは使ってはおらんのでね。ほかに何もないなら、この船に乗ってもらうわけにはいかんね。」
「人手は? ガレー船でオールを握ったことはあります。」
「ああ、そうだ。人手ならふたり足りん。じゃあ、どこにでも入ってくれ。」
船長はそう言ったきり、あとは見向きもしなかった。
こうして、ゲドは、杖と書物の入った袋とをベンチの下に押しこんで、冬の海の十日間をこの船の漕ぎ手として働くことになった。
船は夜明けにオリミーを出航した。最初の日、ゲドはこれでからだが持つだろうかと不安になった。肩に受けたあの古い傷のために左腕が思うようにきかなかったし、ロー・トーニングの海での経験があるとはいえ、長いガレー・オールを太鼓に合わせて休みなく動かすことは骨が折れる。漕ぎ手は二、三時間でベンチを交替したが、休憩を取るとからだが固くなって、オールにもどるのがますますつらくなった。二日目はさらにひどかった。しかし三日目になると、からだも慣れて、楽になった。
船では、初めてロークに向かった時に黒影号で見出せたような仲間同士の親しさは見られなかった。アンドレードの船も、ゴントの船も、乗組員はみな商売の仲間で、共通の利益のために力を合わせて働いているのだが、オスキルの商人たちは今も、奴隷を使うか、漕ぎ手を別に雇うかして、雇った漕ぎ手には金貨で賃金を払っている。たしかに黄金《きん》はオスキルでは大事なものだ。しかし、だからといって、それがあれば人間関係がよくなるわけではない。それは同じように、黄金に目のない竜の場合を考えてみれば、あきらかだ。この船の乗組員は半数がいやいやながら働かされている奴隷だったので、正船員はみな、奴隷の監督を兼ねていた。ところがその監督たるや、実にひどいものだった。彼らは、なるほど雇いで働いている者や、船賃がわりに働いている者には鞭はくれなかったが、同じ乗組員の中に、鞭をくらう者とくらわない者があっては、仲間意識など芽生えるわけがない。ゲドのまわりの者たちは互いにほとんど口をきかず、彼に話しかけてくる者はさらに少なかった。彼らの多くはオスキルの人間で、多島海《アーキペラゴ》地域のハード語とはちがった独自のことばを話し、みな一様に気むずかしく、白い顔に黒いあごひげを生やし、髪もちぢれてはいなかった。ゲドは、この船ではケラブ=Aつまり赤い男と呼ばれていた。彼が魔法使いであることを知らぬ者はなかったが、それでいながら彼に敬意を払う者はひとりとしてなかった。むしろ人びとは敵意に満ちたまなざしで、遠くから彼をながめていた。ゲド自身も友だちをつくろうという気持ちはなかった。ベンチにすわり、六十人の漕ぎ手のひとりになって、力強いリズムにのってオールを動かしている時でも、ゲドは自分が孤立し、ひとり危険にさらされているのを感じていた。夜が来て、その日その日の港に入り、マントにくるまって横になっても、疲れているはずなのに熟睡できず、夢ばかり見ていた。悪い夢だった。どの夢も、この船やいっしょに乗っている人間と何か関係がありそうだった。だが、目が覚めると、はっきり思い出せなくなるので、できるだけ気にしないようにしていた。
船にいる奴隷以外の自由な身分のオスキル人は、みな、腰に長い刀をさげていた。ある日のこと、オールを交替して、仲間と昼食をとっていると、ひとりの男がゲドに話しかけてきた。
「ケラブ、あんたは奴隷かね、それとも国を追い出されでもしたのかね。」
「いや、どちらでもないが……。」
「じゃあ、なぜ、刀をささん? けんかを心配してるのかね。」
スカイアーと名乗るその男はからかうように言った。
「いや、べつに。」
「じゃあ、あんたのその犬ころが助けてくれるのかね?」
「オ、タ、ク。」ふたりのやりとりを聞いていた別の男が言った。「そいつぁ、犬なんかじゃない。オタクってんだ。」
その男はそれからさらにオスキル語で二言三言、言い足した。スカイアーは顔をしかめて、ぷいと横を向いた。その瞬間、ゲドは彼の顔つきが変わったのに気がついた。横目でちらとこちらを見たその目には、軽蔑の色が浮かんでいた。一瞬のうちに何かがこの男を変え、男を利用し、その目を通して、こちらを見ているような感じがした。が、スカイアーはすぐに、また、ゲドの方にまっすぐ顔を向けた。その顔は、もう、さっきの顔にもどっていた。ゲドは他人《ひと》の目にまで妙なものを見てしまうのは自分がおびえているからだ、そのおびえを相手の顔が映して今のように見えたんだ、と自分に言いきかせようとした。しかし、その晩、イースンの港で、ゲドはまた夢を見た。夢の中でスカイアーが歩いていた。翌日から、ゲドはできるだけスカイアーを避けた。スカイアーのほうでも彼を避げているふうだった。ふたりはそれ以上口をきかなかった。
ハブナーの雪をいただいた山々も南に遠ざかり、やがて、初冬の霧にかき消されて見えなくなった。船はその昔、エルファーランが溺れ死んだというエア海の入口を過ぎ、エンレイド諸島をぬけた。ベリラの港には二日間停泊した。象牙の町ベリラはその白い岩肌を湾に映していた。ここは神話の島エンラッドの西のはずれにあたるところである。乗組員は航海の間じゅうどの港に入っても、船にとめおかれて、陸にあがることは許されなかった。二日間をベリラ港で過ごした船は、三日目の朝、日の出を待って、オスキル海に漕ぎ出していった。北海域からまともに吹きつけてくる風は強かった。冬の荒海を、けれど人びとは無事に船を進め、ベリラを出て早くも二目目には、オスキル東部の商業都市ニーシャムの港に入った。
低い海岸には雨まじりの風が吹きつけていた。港をなす長い石の防波堤のかげに這いつくばるようにして、灰色の町がひろがっている。そして、町の背後には、雪もよいの空の下に、いくつもの丘がつらなっていたが、どの丘にも木らしい木は一本も生えてはいなかった。さんさんと日の光が降りそそぐあの内海は、今や、はるか遠くにへだたってしまっていた。
ニーシャムの商船組合の荷揚げ人夫が乗りこんできて、金、銀、宝石に絹織物、つづれ織りなど、オスキルの領主たちの蔵におさめられる高価な品々をおろし始めた。雇いの船員はその場で解雇された。ゲドは仲間のひとりを呼びとめて、道をきいた。つい先ほどまでは誰ひとり信用できずに、黙っていた彼だったが、初めての土地にたったひとりでおろされて、案内を乞わないわけにはいかなかったのだ。だが、男は何をきいても「知らない。」の一点張りだった。すると、そばでふたりのやりとりを聞いていたスカイアーが口をはさんだ。
「テレノン宮殿かね。それならケクセント荒野《ムア》だ。おれもそっちへ行くところだよ。」
スカイアーは気の進む連れではなかった。だが、ことばも通じない、道もわからないとあっては、選んでなどいられない。それに、べつにこだわることもないではないか、とゲドは考えた。自分は好きこのんでここへ来たのではない。これまでずっと追われどおしだったのだし、今だって追われているのだから。ゲドは頭巾をしっかりかぶり、杖と袋をとりあげると、このオスキル人のあとについて、町の通りを、雪もよいの丘陵地をさして歩き出した。小さなオタクは肩に乗るのを嫌がり、寒い時の習慣で、ゲドがマントの下に着ている羊皮のチョッキのポケットにもぐりこんだ。丘陵地は大きくひろがって、なだらかに起伏する吹きさらしの荒野へと続いていた。ふたりは黙って歩いていった。冬の静寂があたりを支配していた。
「まだかね。」
数マイルも行った頃、ゲドがきいた。どちらを見ても、畑ひとつ、集落ひとつ見えなかった。ふたりが食糧を持っていないことも気になった。スカイアーはゲドのことばに、一瞬ふり返ると、顔から頭巾を押しあげて、「あと、少しだ。」と言った。
あらわれた顔はみにくく、青白く、いかにも粗野で残忍そうだった。しかし、ゲドは行く先こそ気になれ、もう、人間を恐れてはいなかった。彼はうなずき、ふたりはまた歩き出した。薄く雪化粧をした野には、ところどころに、葉を落とした灌木が見えるばかりだった。道はそんな野に、細く、ひっかいたようについており、時折、他の道と交差したり、新しい道が枝分かれしてのびていた。今では、ニーシャムの家々の煙突から立ちのぼる煙も暮れなずむ丘陵のかげに隠れて見えなくなり、これまで来た道も、これから進む道も、そのしるべとなるものはまったくなかった。手がかりとよべるものは、ただひとつ、東からたえまなく吹きつけてくる風だけだった。二、三時間も歩いたであろうか。ゲドは、目指す北西の方角のずっと先の空に、人間の歯を思わせる白いものが浮かび上がっているのをふと見たように思った。けれども、短い冬の日はまたたく間に薄れていく。つぎの坂をのぼりつめた時には、ゲドにはもう先ほど見たものが木なのか、塔なのか、皆目わからなくなっていた。
「あそこまで行くのかね。」
ゲドは前方を指さしてきいた。スカイアーは答えなかった。彼はてっぺんのとがったオスキル風の毛皮の頭巾をすっぽりとかぶり、ごわごわのマントに身をくるんで、ただ黙々と先を急いだ。ゲドも並んで歩きつづけた。ふたりは、すでに、かなりの距離を歩いていた。ゲドは船で日夜はげしい労働をしてきたのと、今また、男の歩調に合わせてついていくのとで、くたくたになっていた。あたりはひっそりと静まり返り、夕闇はしだいに濃くなっていった。おれは、この男と、いつまでも、こうやって歩いていくのだろうか、とゲドは思った。いつか警戒心もゆるみ、なげやりな気分がゲドを支配していた。夢の中をあてもなく歩いているような感じだった。
ふと、ポケットの中で、オタクがからだを動かした。ゲドの心にかすかな不安が目覚めて、動き出した。彼は重い口を開いてきいた。
「暗くなってきたし、雪も降りそうだ。もう、あと、どのくらいだね、スカイアー。」
相手はややあって、振り向きもせずに言った。
「もうすぐだ。」
が、その声は人間の声ではなかった。もの言えぬけだものが、無理してしゃべっているようだった。
ゲドは足を止めた。夕闇の中にはどこまでもさびしい丘が続いているだけで、他には何も見えない。雪がちらちらと舞い始めた。
「スカイアー!」
ゲドは声を荒らげた。やっと相手も立ち止まった。そして、ゆっくりと振り向いた。顕巾の中に顔はなかった。
ゲドは呪文を唱え、内部の力を集中させた。が、それより早く、魔物はしゃがれ声で、一声叫んだ。
「ゲド!」
もはや、変身は不可能だった。ゲドはあるがままの姿で、素手で眼前の魔物に向かい合わなければならなくなった。それに、この異国の地では、人間も物も何ひとつ見知ったものはなかったから、助けを求めたところで応じてくれるものなどあろうはずもなかった。彼はまったくひとりだった。右手に持つイチイの木の杖以外、敵と自分とをへだてるものは何もなかった。
スカイアーの心を食いつくし、その肉を掌中にした魔物は、そのからだを一歩ゲドに近づけ、二本の腕を彼のほうにのばしてきた。ゲドは恐ろしさに思わず手にした杖をふりあげると、敵の頭をすっぽり包む頭巾めがけて、力いっぱいそれを打ちおろした。激しい一撃をくらって、頭巾はマントもろともくずおれていった。まるで空気しか入っていなかったような崩れかただった。が、いま少しで地面に崩れ落ちようとしたその瞬間、それは再び、身もだえしながらよろよろと立ちあがった。魔物はすでにその実体をなくして、外形だけは人間でも、中味はからになっていた。ありもしない肉体が影だけは本物をまとって歩いているのだ。影は風に吹かれるように大きく揺れ動きながら、腕をひろげて、再びゲドに近づいてきた。と思う間もなく、いつかローク山でしたように、ゲドに抱きつこうとした。もしも抱きつけば、影はたちまちスカイアーの殻をかなぐり捨ててゲドの中に入りこみ、彼を内側からむさぼり食らい、ついには若者をすっかり自分のものにしてしまう。それが敵のねらいなのだ。ゲドは、いぶりはじめた重い杖で、今一度、影を打った。だが、影はまた起き上がって、向かって来た。ゲドは、また、打った。打って、杖をとり落とした。真っ赤に焼けた杖は、すでにじりじりと彼の手を焦がしていた。ゲドはうしろにしりぞいた。そして、つぎの瞬間、くるりと敵に背を向けると、一目散に逃げ出した。
ゲドは駆けた。魔物はすぐさま彼の後を追い始めた。追いつかない。が、かといって、速度をゆるめる気配はなかった。ゲドは一度も振り返らず、ただひたすら走りに走った。夕闇の垂れこめる荒涼とした丘陵地には、身を隠すところはどこにもなかった。一度、魔物はしゃがれ声で、再度ゲドの名を呼んだ。本名で呼べば、ゲドから魔法をあやつる力は奪えるが、ただ、本来具わった体力までは奪えない。それで彼が走るのを止めさせることはできなかった。ゲドは走った。
追う者と追われる者を、夜の闇はすっぽりと包み、見えなくなった道に雪が細かく舞った。動悸が激しくなった。頭が、がんがんして、ゲドは目をあけていられなくなった。息が切れて、喉が焼けつくようだった。今は、もう、走っているとはいえなかった。あちこちつまずきながら、よろよろと足をひきずっていた。だのに、疲れを知らないはずの追手は、すぐうしろまで迫ってきていながら、どうしても追いつけないらしい。追手の声はいつかささやくように小さくなっていた。ゲドを呼んではいるのだが、もはや、それとわかる声ではなかった。しかし、ゲドは、この声なら、これまでもずっと耳の奥でしていたことに気がついた。聞こえるとも開こえないともいえないくらいの声だったが、今ははっきりと聞きわけられる。しかし、それにしても、もう、だめだ。進めない。おしまいだ。ゲドはそれでも、なお、あえぎあえぎ丘をのぼっていった。前方にあかりが見え、どこか高いところで、「おいで! おいで!」と呼ぶ声がしたように思った。
ゲドは答えようとした。が、声が出なかった。かすかなあかりはしだいにはっきりとしてきた。あかりはまっすぐ前方の門の中からもれていた。塀は見えないが、門だけは見える。ゲドはほっとして足を止めた。と、やにわに魔物はゲドのマントに手をのばし、両わきをさぐって、うしろから彼を抱きかかえようとした。ゲドは最後の力をふりしぼって、あかりのもれる門の中にとびこんだ。魔物が入ってくる。扉を閉めなくては! けれども、足には、もう、ゲドを支える力はなかった。彼はよろめき、つかまるものを求めて手をのばした。目の前にあかりがまぶしく揺れた。ああ、倒れる、とゲドは思った。倒れざま、何者かにつかまれるのを感じた。だが、ゲドは、もはや、ぼろぼろに疲れ切っていた。彼は、そのまま、真っ暗な闇の中に落ちていった。
七 ハヤブサは飛ぶ
ゲドは目を覚ました。そして、横になったまま、長い間、目覚めの快さを噛みしめていた。再び目を覚ますことがあろうとは思ってもいなかった。明るい光を見るのもうれしかった。まわりには日の光があふれていた。彼はその光の中を漂っているような気がした。静かな水面にボートを浮かべているような感じでもあった。だいぶたって、彼は初めて自分が寝台に寝かされているのに気がついた。寝たこともないような寝台だった。彫刻をほどこした高い脚に支えられ、絹の羽根布団が何枚も重ねてしいてあった。漂っているように感じられたのは、そのせいであろう。さらに、寝台の天井には隙間風をふせぐために深紅の天蓋も下がっていた。カーテンは両側にひかれて、それぞれひもでとめてあった。ゲドは部屋を見回した。床も壁も石造りだった。三つの高窓からは荒野が見えた。木はどこにもなく、茶褐色の地肌のところどころに雪が残り、おだやかな冬の陽光に輝いていた。かなり遠くまで見渡せるところを見ると、この部屋は相当高いところにあるにちがいなかった。
ゲドがからだを起こしたとたん、かけてあったサテンの羽根布団がずれて、見れば、彼はいつの間にか王侯貴族の着るような、銀糸織りの絹のチュニックを着せられていた。寝台の傍らの椅子には、やわらかななめし革の靴と毛皮のふちどりをした上着がきちんと用意されていた。ゲドはうっとりとして、なおしばらくは、そのまますわっていたが、やがて寝台から降り立つと、杖を探した。が、杖はどこにもなかった。
ゲドの右手は、すでに薬をぬって、包帯がしてあったが、手のひらも指もひどいやけどになっていた。ゲドは思い出したようにその手に痛みを感じた。いや、そういえば、からだじゅうがひどく痛かった。
彼はまたしばらく、そのままたたずんでいた。それから、ふと心配になって小声で、「ヘグ……ヘグ……。」と呼んでみた。彼を死の世界から引きもどしてくれた、あの、獰猛だが主人に忠実な、小さな、ものの言えない動物もまたいなくなっていた。ゆうべ走った時、いっしょだったろうか。いや、あれはほんとにゆうべのことだったのだろうか。幾晩も前のことではなかったのか。彼にはわからなくなっていた。魔物のことも、燃えあがった杖のことも、逃げたことも、何者かが呼んだことも、そして門のことも、すべては曖昧で、はっきり思い出せるものは何ひとつなかった。ゲドは無駄と知りつつ、それでもいま一度、かわいがっていた動物の名まえを呼んだ。ゲドの目に涙がにじんだ。
どこか遠くで、小さく鈴が鳴った。部屋の外に人の気配がして、また鈴が鳴った。背後でドアが開いて、女がひとり入ってきた。
「ようこそ、ハイタカさん。」女はにこやかに言った。
女は若くて、すらりと背が高く、衣裳は白と銀に統一されていた。墨を流したような美しい黒髪には、銀のネットがかかっていた。
ゲドは固くなって、おじぎをした。
「憶えていてはくださらないでしょうねえ。」
「憶えてる? あなたを?」
ゲドはこれほどまでに自分の美しさをひきたてる見事な着こなしをする女性には、これまでひとりしか会ったことがなかった。いつかロークでの冬至の祭りにやってきたオー島の領主の夫人である。彼女はほっそりと明るいろうそくの炎のようだった。だが、いま目の前にいる女は白く光る新月を思わせる。
「お忘れだろうって、思ってましたわ。」女はほほえんだ。「でも、あなたのほうはお忘れでらしても、わたくしどものほうでは、古いお友だちとして、大歓迎でございましてよ。」
「ここはどこです?」ゲドは相変わらず、身を固くしてきいた。彼女と向かい合っていると、思うようにものが言えなかった。それでいながら、目をそらすのもどうしてか、はばかられた。身を包むぜいたくな着物は落ち着かなかったし、立っている石の床も親しめず、吸っている空気もなじめなかった。ゲドは今、ゲドでなかった。これまでのゲドではなくなっていた。
「ここはテレノン宮殿。主人はベンデレスクと申しましてね、ケクセント荒野《ムア》から、北はオー山脈までの土地を治めてますの。テレノンと呼ばれる宝石をその手に押さえておりますのよ。わたくしはここでは皆さんにセレットと呼ばれております。銀という意味です。そしてあなたは、ハイタカさんとおっしゃる。そうでしょう? 賢人の島で正式な魔法使いにおなりになったんですわね。」
ゲドはやけどした手に目をおとし、ややあって言った。
「しかし、今は自分が何者なのか、わかりません。まえは力もありましたが、今はそれもなくしてしまったようですし。」
「あら、そんなことありませんわ。それに力なんて十倍にして取り戻せましてよ。ここにいらっしゃれば、追手も手出しはできません。この塔のまわりには強固な城壁がめぐらされておりましてね、全部が全部石ではないのですけれど……。ここでゆっくりお休みになって、また力をおつけになればよろしいのですわ。ここでは。今までとはちがった力をおつけになることができるかもしれませんことよ。杖も同じ。こんど見つけた杖は手の中で燃えて灰になるなんてこと、ないかもしれませんわ。それに、災い転じて福となす、ってこともございますしね。さ、いっしょにいらっしゃいましな。屋敷を御案内いたしますから。」
その話しぶりがなんともいえずやさしかったので、ゲドは声の調子にばかり気をとられて、中味はほとんど聞いていなかった。彼は夫人のあとからついていった。
ゲドの部屋は、丘の頂上に鋭い歯のようにそびえる塔の、それも、かなり高いところにあった。ゲドは夫人のあとから、曲がりくねった大理石の石段を降りていった。途中、ぜいたくな部屋や廊下をいくつも通りぬけた。大きな窓のそばも通りすぎた。窓は四方に開かれていたが、どちらを見ても茶褐色のはだかの丘が冬の日を浴びてどこまでも同じように続いているだけで、立ち木一本、家一軒見えなかった。ただ、はるか北の方に、青空を背景に、白く雪をいただいた峰が小さなのこぎりの歯のように浮かび上がり、はるか南の方には海らしいものがキラキラと輝いていた。
召使いたちが行く先ざきでドアを開け、両側によけて、ゲドと夫人を通した。どの召使いも肌の色が白く、つんとして打ち解けなかった。夫人も肌は白かったが、召使いたちとちがって、ハード語を上手に話した。彼女のハード語にはゴントのなまりさえ、うかがわれた。その日も遅くなって、夫人はゲドを、夫でテレノン領主のベンデレスクの前に連れていった。夫人の三倍は歳《とし》がいっていると思われるベンデレスク公は、蝋《ろう》のような白い顔をし、骨と皮ぼかりにやせていた。彼は濁った目をゲドに向けると、型通りのあいさつをして、好きなだけ、客としてとどまってほしいと言った。が、そのあとはもう言うことをなくし、船旅のことも、ゲドをここへ追いこんだ魔物のことも、ゲドにたずねはしなかった。そういえば、夫人のセレットからも、そうしたことは何ひとつたずねられてはいなかった。
不思議といえば不思議だった。だが、その不思議さは、この場所や、ゲドがここにいることの不思議さに比べればとるに足らないものだった。ゲドの頭はいつまでたってももやもやとして、いっこう晴れそうになかった。彼は事態をはっきりと見きわめることができなかった。自分は偶然この塔にやってきたつもりだったが、その偶然はもともと意図されたものだったのか。つまり、最初から、ここへ来るように謀られていて、それがたまたま実現したということか。自分は北へ向けて発った。オリミーでどこの誰だか知らない男が、助けを求めるにはここへ来ればいいと言った。オスキル人の船が自分を待っていた。スカイアーが案内をかってでた。このうちのどこまでが自分を追っている影の仕業なのだろう?それとも影は少しも手を出していなくて、自分も追手の影も、何か別の力によってここまで引っぱられてきたのだろうか。自分がそれにおびき寄せられ、そのあとを影が追っていて、時期が来て、スカイアーにとりついたのだろうか。そうにちがいない。セレットも言ったように、影はたしかにテレノン宮殿から閉め出されているではないか。その証拠に自分はこの塔で気がついてからというもの、影がひそんでいるらしい気配をちらとも感じなかったし、いつものあの不安におびやかされることもなかった。しかし、そうなると、自分をここへ連れてきたのは、いったい何ものなのか?ここは偶然によって人間がやって来られるようなところではない。ぼんやりした頭で、ゲドはそこまで考え始めた。この宮殿の門には、ほかには誰ひとり訪ねてくる者はなかった。塔はここから一番近いニーシャムの町に通じる道にさえも背を向けるようにして、だだっ広い荒野にぽつんと建っていた。やって来る者もなければ、出て行く者もなかった。窓はただ荒涼とした風景を映しているばかりだった。
ゲドは高い塔の部屋に身をおいて、そんな窓から、くる日もくる日も外をながめていた。何をする気も起こらなかった。妙に気がめいった。寒かった。ほんとうに塔の中はいつも寒かった。じゅうたんが敷きつめられ、つづれ織りのタペストリーがさがり、からだを包む毛皮があり、大きな大理石の暖炉があっても、そうだった。それは骨の髄まで滲み入る寒さで、いくら追い出そうとしても追い出せなかった。そのうえ、ゲドは、自分が敵にどう向かい合い、どう敗れ、どう逃げたかを思い出すたびに、苦い悔恨の念が頭をもたげてきて、やりきれなくなるのだった。彼の脳裡には、いつもロークの長《おさ》たちの集う姿があった。中央で大賢人ジェンシャーが眉を寄せ、その傍らにはネマールもいた。
オジオンも、それから、自分にはじめて魔法を教えてくれたあのまじない師の伯母の姿もあった。誰も彼もじっと自分を見つめていた。自分がこの人たちの信頼を裏切ってしまったことをゲドは知っていた。
「もしも逃げなかったら、影はわたしにとりついてしまっていたろう。むこうはスカイアーの力全部を奪い、わたしの力にまで手をのばしていた。まともに取り組むのは無理だったんだ。むこうはわたしの本名を知っていたしね。わたしは逃げなくてはならなかった。魔法使いに悪魔がとりついたら、どんなに危険で恐ろしいか。だから、逃げるしかなかったんだ。」
ゲドはそう言い訳したかった。けれども、そんなことをしたところで、心の内で聞いている人の誰が応えてくれるだろう。こうして彼はなすこともなく、ただじっと窓から外をながめていた。雪ははらはらと、間断なく、眼下の大地に降りつづいた。ゲドはからだが内側からゆっくりと冷えていくのを感じた。そして、ついには一種のけだるさしか覚えなくなった。
こんなふうにして、ゲドは何日もの間、誰とも交わらず、たったひとりでみじめな思いをかこっていた。部屋からおりてきても、彼は打ち解けず、ものもあまり言わなかった。宮殿の女主人の美しさは彼の心をまどわしたけれど、豪華で、上品で、何もかもきちんと整ったこのなじみのない宮殿にいると、自分が山羊飼いに生まれ育った人間だということを嫌でも思い知らされた。
宮殿では、ひとりでいたい時はひとりにさせておいてくれたが、降る雪を見ながらあれこれ考えることにいよいよ耐えられなくなると、彼はセレットに会いに下におりていった。ふたりはつづれ織りのタペストリーのさがる、曲線を描く同じ塔内の広間のひとつで、暖炉の火にあたりながら、いろいろと語り合った。ここの女主人は決して陽気な人ではなかった。彼女はほほえみこそすれ、声をあげて笑うなどということは一度もなかった。けれども、そのほほえみをちらと見るだけで、ゲドはほっと心が慰められるのだった。彼女といると、ゲドはかたくなな自分をどこかに忘れ、自分のしたことを恥じる気持ちも薄れがちだった。間もなくふたりは毎日会うようになった。ある時は暖炉のそばで、ある時は窓辺で、四六時中つきそう侍女たちを少しばかり遠ざけて、ふたりは長い時間、静かに、とぎれとぎれにことばを交わした。
年老いた宮殿の主《あるじ》は自分の部屋にこもっていることが多かった。朝、雪の舞う中庭を散歩する彼の姿は、一晩じゅうなにやら仕事をしてきた老まじない師を思わせた。ゲドやセレットと夕食をともにしても、老人はいつも無口で、時折、自分の若い妻をきつい、貪欲な目つきでながめるばかりだった。ゲドは夫人を気の毒に思った。彼女は檻にとじこめられた白いシカのようでもあり、翼をもぎとられた白い鳥のようでもあり、そして、また、老人の指に輝く銀の指環のようでもあった。セレットはベンデレスクの財宝のひとつにすぎないのだ。宮殿の主が一足先に席をたつと、ゲドは夫人とあとに残って、自分がしてもらったことへのせめてもの恩返しに彼女のさびしさを慰めようと努めた。
「この宮殿の名まえになっている宝石とはどんなものなんですか。」ある時、ゲドはたずねた。ふたりはろうそくのともる大きな食堂で、空になった黄金《きん》の皿や杯を前にして、すわっていた。
「あら、お聞きになったこと、ありませんの?名高いものなんですのに。」
「ええ。ただ、オスキルの領主たちが有名な宝石をたくさん持っていることだけは知っていましたが……。」
「そう、そしてその中でも、ここの宝石は特別なものなんですのよ。いらっしゃいな。ごらんになりたいんでしょう?」
夫人はいたずらっぽく笑った。が、その笑いには、言い出したことを後悔しているようなそぶりもちらとうかがわれた。やがて、ゲドは夫人に案内されて食堂を出て、塔の一階の狭い廊下をぬけ、地下におりていった。ほどなくふたりは鍵のかかった扉の前に立った。初めて見る扉だった。夫人はこれを銀の鍵で開けると、ゲドを振り返って、うながすようにほほえんだ。扉の向こうには短い通路があって、その先に二つ目の扉があった。夫人は金の鍵をさしこんだ。するとその先にさらにもうひとつの扉があらわれた。夫人は呪文を唱えた。扉が開いた。ろうそくの火に浮かび上がったのは土牢のような小さな部屋だった。床も壁も天井もごつごつした自然石で、人の手はまったく加えられてはいない。
「おわかりかしら?」セレットはきいた。
部屋を見回すうち、ゲドの鋭い魔法使いの目は、床をつくっている石のひとつにとまった。それはほかの石と同じような天然の敷石で、湿って、やはりごつごつしていた。しかし、ゲドには、石が声を出して語りかけでもしたように、その石が特別の力を持っていることがわかった。ゲドは息をのんだ。目まいが一瞬彼を襲った。これがこの塔の礎石で、ここが宮殿の中心地点なのだ。部屋はおそろしく寒かった。この小部屋を暖めることのできるものがあるだろうか。石はとてつもなく古いものだった。恐ろしい太古の精霊がこの中に閉じこめられているのはあきらかだった。セレットの問いに、ゲドは「はい」とも「いいえ」とも答えず、ただじっと立っていた。と、やがてセレットは、ちらと妙な視線をゲドに投げかけ、石を指さして言った。
「あれがテレノンです。あなた、なぜそんなにも貴重な石がこんな地下室にしまわれてあるのか、不思議にお思いでしょう?」
ゲドは用心深くなおも答えず、黙って立っていた。この女は自分を試そうとしているのかもしれない。だが、こう軽々しく口にするところをみると、女はこの石の性質については何も知らないらしい、とゲドは思った。知らないから、恐ろしくないのだ。
「この石に具わる力のこと、話してくださいませんか。」ゲドは思い切って言ってみた。
「これは、まだ、セゴイがあちこちの陸地を海から持ち上げるまえにできたものですの。これはこの世の誕生と同時にできて、この世の終わりまで見届けるんですわ。時間などはこの石には無にひとしいもの。この石に手をあてて、何かおききになってごらんなさい。石はあなたが内に持っておられる力に応じて、答えてくれましてよ。あなたに聞く耳さえあれば、この石の声だって、ちゃんと聞こえてきますわ。この石は過去のこと、現在のこと、未来のこと、みんなわかるんですのよ。あなたがいらっしゃることだって、もうずっと前にこの石が知らせてくれましたの。これから、何か、きいてごらんになります?」
「いや、けっこうです。」
「でも、答えてくれましてよ。」
「ききたいことがないんです。」
「教えてくれるかもしれませんのに。」セレットはやさしく包みこむような声で言った。「どうやったら敵を打ち負かすことができるかも。」
ゲドは押し黙った。
「こわがってらっしゃいますの?」セレットは信じられないといった口ぶりできいた。
「ええ。」とゲドは答えた。
魔法の壁と石の壁と、幾重もの壁にとりまかれて、部屋の中は恐ろしいほど静かで寒かった。手にしたろうそくのあかりの中で、セレットはあやしく光る目を再びゲドに向けた。
「ハイタカさん。今のは嘘でしょう?」
「でも、そんな精霊とは、ことばを交わしたくないんです。」ゲドは答えた。それからセレットの顔をまともに見すえて、思い切って言った。「言っておきますが、あなたの言う精霊は石に閉じこめられ、その石は魔法によって縛られ、闇の中に閉ざされて、呪文によってしか扉も開かないようなところに押しこめられている。その上、それを押しこめ、番をしている砦は荒野の中にぽつんと建っているありさま。いいですか、それは、この石が価値ある、尊いものだからではなくて、大きな悪を働きかねないからなんです。あなたがここに来たとき、人びとが何と言ったかは知りません。しかし、少なくとも、若くて、やさしい心を持ったあなたのような方はその石に触れるべきではないし、見ることだって、すべきではありません。そんなことをして、あなたにいいわけがありません。」
「わたくしはもうさわりましたのよ。話しかけもしましたし、それがしゃべるのを聞きもしましたわ。でも、なんともありませんことよ。」
セレットは踵《きびす》を返した。ふたりは二つの扉をぬけ、いくつもの通路を通って、たいまつのあかあかと燃える塔の石段までもどった。セレットはろうそくの火を吹き消した。ふたりはことば少なに別れた。
その夜、ゲドはほとんど一睡もしなかった。自分を追う影のことを思ってではなかった。そのことなら、地下室からもどってきてからというもの、ほとんど頭から消えてなくなっていた。かわりに入りこんできたのは、この塔の礎石となっているあの石の姿であり、ろうそくのあかりの中でこちらに向けられたセレットの白い、幽霊のような顔だった。ゲドはあの目が自分に注がれているのを幾度も感じた。彼が石に触れるのを拒んだ時、どんな表情がその目にあらわれたか、ゲドは思い返して、はっきりさせようとした。あれは軽蔑だったのか。それとも苦痛の色だったのか。やっと眠ろうと横にたっても、絹のシーツは氷のように冷たかった。ゲドは石のことと、セレットのまなざしを思いながら、暗闇の中にじっと息をひそめていた。
翌日ゲドは西日の射す、灰色の大理石の大広間でセレットを見つけた。そこは、セレットが侍女たちを相手にゲームをしたり、機を織ったりしながら、午後を過ごすところだった。
「セレットさま。あなたの心を傷つけてしまって、申し訳ありませんでした。」ゲドはあやまった。
「いいえ、よろしいのよ。」セレットは気にもとめていない様子で言った。「ほんとに、よろしいのよ。」彼女はくり返してそう言うと、はべっていた侍女たちに席をはずさせ、それから、ゲドと向かい合った。
「ねえ、わたくしのお客さま、そして近しいお方。」彼女は言った。「あなたはとってもよく澄んだ、見通しのきくいい目をしていらっしゃいますのね。でも、見えてないものもあるかもしれませんことよ。ゴントでもロークでも、すぐれた魔法を教えているようですけれど、でも、ありとあらゆる魔法を教えているわけではありませんわ。ここは陸のからす座と言われるオスキルで、ハード語圏の国ではありません。ですから、魔法使いの皆さんの支配を受けているわけではありません。それに、第一、魔法使いの皆さんは、ここのことは、あまりご存じないんですよ。ここでは、南のさまざまな分野の長《おさ》たちの手にも負えないことがたびたび起こりますし、ものの名まえだって、名付けの長のリストにもないものがありますしね。それにしても人は知らないものに対しては恐怖を抱くものですのに、あなたはちがう。あなたは、このテレノン宮殿にも、ひとつとしてこわいものがありませんのね。もっと弱い人だったら、そうはいかないでしょうに、少なくとも、あなたはちがう。あなたは、あの部屋にあるものまで支配する力を生まれながらに持っていらっしゃる。わたくしには、ちゃんとわかりましてよ。ここに、今、こうしておられるのも、だからなんですわ。」
「おっしゃることがよくわかりませんが。」
「主人のベンレスクがあなたに心を開かないのも同じ理由からですわ。でも、わたくしはそんなことありませんからね。さあ、こちらへ来て、おすわりなさいな。」
ゲドは彼女と並んで、クッションの置いてある出窓に腰をおろした。夕日が窓からほとんど真横に射しこんで、ふたりをあかあかと包んだが、その光に暖かさはなかった。窓の下にひろがる荒野はすでに日がかげって、とけきれずに残った昨夜の雪が、まるで白い墓おおいのように土をおおっていた。
セレットは小声で話し出した。
「ベンデレスクはここでは最高の地位にある人で、あのテレノンを受け継ぐ人なんです。でも、あの人はあの石を思いのままに使うことができませんの。このわたくしもだめ。あの人といっしょにやってもだめですの。あの人もわたくしも技、力ともにないんですわ。ところが、あなたはその両方をお持ちでいらっしゃる。」
「どうして、そんなことがわかるんです?」
「石が教えてくれますわ。きのう、お話ししましたでしょ?あなたがいらっしゃるのは石が教えてくれたって。石は自分の主人となる人間がわかるんですわ。石はあなたがいらっしゃるのをずっと待っていたんです。あなたが生まれる前から、主人となるべきあなたを待ってましたのよ。テレノンをして、質問に答えさせ、欲することをさせることができる方は、自分自身の運命をも支配することができるのです。そういう方は、この世、あの世を問わず、あらゆる敵をうち砕くだけの力を持ち、予見する力を持ち、知識も富も統治力も持ち、大賢人の鼻さえもあかしかねない魔法を自由自在にあやつることができるのです。きいてごらんなさいな。好きなだけ、あなたのものになるのですよ。」
彼女は再び顔を上げて、妙に光る目でゲドを見た。その視線とぶつかって、ゲドは寒さにあったように身を震わせた。が、セレットの顔には同時に不安も漂っていた。助けを求めたいと願いながら、自尊心のためにそれができないでいるようだった。ゲドはどうしてよいかわからなくなった。セレットは自分の手をゲドの手に重ねて話していたが、その手は軽く、ゲドの黒い、たくましい手の上ではいっそう白くほっそりとして見えた。ゲドは懇願するように言った。
「セレットさま、わたしにはあなたが考えておられるような力はありません。前にはありましたが、捨ててしまったのです。わたしには、あなたをお助けすることはできません。お役に立つことはできません。ただ、これだけは申せましょう。地にひそむ太古の精霊たちは人間の味方ではありません。その力は一度も人間の手に入ったことはありませんでしたが、万が一そうなっても、そこには破滅があるだけです。邪悪な手段を使って、いい結果が得られるわけがありません。わたしはここへ引き寄せられて来たのではなく、追われて来たのです。わたしを追うものは、わたしを破滅させることをもくろんでいる。そんなわたしにはあなたを助けることなど、とうていできません。」
「御自分の力を捨てた方は、時にはもっと大きな力でその身を満たすことがあるものですわ。」セレットが笑いながら言った。まるで、ゲドの不安やためらいは子どもっぽいものだとでも言いたそうな口ぶりだった。「あなたをここへお連れしたものについては、わたくしのほうがよく知っているかもしれませんわね。オリミーの街で男が話しかけませんでした?その男がテレノンに仕える使者だったのです。あの人も以前は魔法使いだったのですが、もっと大きな力に仕えたいと思いましてね、持っていた杖を投げ捨ててしまったのです。そして、今度は、あなたがオスキルにやって来られた。あなたは荒野で、木の杖だけを武器に影と戦おうとなさった。わたくしども、もう、だめかと思いましたわ。あなたを追っているものって思ったよりずっとずるがしこくて、それに、あなたから、もうずいぶん力を奪ってしまっていましたからね……。影と戦うことができるのは影だけ。闇を打ち負かすことができるのは闇だけですわ。ねえ、ハイタカさん、うかがいますが、あなたはその影を倒すのに何がお入り用なんです?影はこの城壁の外で、あなたを待ち受けていますのよ。」
「相手の名まえです。それがどうしてもわからないのです。」
「それだったら、テレノンが教えてくれますわ。テレノンにはありとあらゆるものの誕生や死がわかっていますし、生前のことも死後のことも、誕生前のことも、それから光の世界のことも闇の世のことも、何もかもわかっているのですもの。」
「しかし、その代償は?」
「そんなもの。いりません。誓って申しますけど、テレノンはあなたがおっしゃれば、奴隷のようにあなたに仕えましてよ。」
ゲドはなんと答えたらいいか、わからなかった。セレットは今や両の手でゲドの手を包み、ゲドの顔をじっとのぞきこんでいた。日は地平線の霞のかなたに沈み、あたりにも夕闇がたちこめ始めたが、セレットの顔だけは、誇らかに輝いていた。彼女はゲドが動揺しているのを、その顔から見てとったのである。彼女はそっとささやいた。
「あなたは誰よりも強くなれましてよ。人の国の王となり、君臨するのです。そうしたらわたくしもともに王座につきますわ。」
突然ゲドが立ち上がって、一歩前に踏み出した。ふたりのいる大広間の入口の壁のかげに、館の主が聞き耳をたて、薄笑いを浮かべて立っていた。
ゲドの目をおおっていた幕がとれて落ちた。心の幕もとれた。彼はセレットを見下ろして言った。
「闇を倒すのは光だ。ひ、ひ、ひかりだ。」彼はつっかえつっかえ言った。
話しているうちに。まるで自分のことばが自分を照らし出す光となってくれたかのように、彼にはさまざまなことがはっきりと見えてきた。どういうふうに引きつけられ、おびき寄せられてここへ来たか、相手方が自分の不安をどう利用して、己《おのれ》の陣営に引き込もうとしたか、手に入れた獲物をどうやって手もとにおいておこうとしたか。たしかに自分は影に追われていたのをセレットらに救われた。だが、それは、自分がテレノンの石の奴隷となるまでは、影にとりつかれてほしくないと彼女らが思ったからである。いったん石の力のとりことなれば、相手は影を城内に入れるだろう。人間よりも魔性のもののほうが奴隷としてはいいのだから。あの石に触れ、話しかけていたら、完全にこちらの負けだった。だが、影がこちらに追いつくことができなかったように、あの石もついにこちらを誘惑できなかった。ゲドはほとんど敵方の掌中にあったが、しかし、完全とまではいっていなかった。彼は自分をすっかりゆだねてしまってはいなかったからである。他者に己をゆだねない人間を支配するのは悪にとってひどくやっかいなことだ。
ゲドは己《おのれ》を譲り渡し、一切を他にゆだねてしまったふたりの人間の間に立って、双方を見比べていた。やがて、ベンデレスクが前に進み出て、かわいた声で妻に言った。
「セレット、わしは言っただろ?この男はそなたの手から脱け出すだろうと。ゴントの魔法使いはみな、頭の切れる愚か者よ。ゴント出身のそなたも例外ではない。この男とわしと両方をぺてんにかけ、自分が美しいのを武器にして、わしらふたりを支配下におさめ、テレノンを自分の目的のために勝手に使おうと考えておったんだからな。だが、石の王はあくまでこのわしよ。よいか。不義をはたらくような女には……えい、こうしてくれるわ。エカブロー・アイ・オエルウォンター……。」それは姿変えの呪文だった。呪文を唱えながら、ベンデレスクはその長い手をふりあげた。恐怖に震えるセレットを豚か、犬か、たれながしのばばか、そんなみにくいものに変えてしまおうというのだ。だが、その時、ゲドが飛び出して、何かひとこと叫ぶと、両の手でベンデレスクの手をはたきおとした。杖もなく、異質な闇の力の支配する、災いの地に立ちながら、彼の意志の力は相手を完全に圧倒した。ベンデレスクは濁った目を憎々しげにセレットに向けたまま、凍りついたように動かなくなった。もはやその目にセレットの姿は映ってはいなかった。
「さあ、早く。」セレットが震える声でうながした。「ハイタカ、さあ、早く。急がないと、この男、石に仕える召使いたちを呼び集めてしまいます。」
すると、そのことばがこだましたように、ささやきが城内を駆けぬけた。あたかも大地がささやくようなかわいた震え声が石の床や壁を伝った。
セレットはゲドの手をつかむと、廊下をぬけ、部屋をいくつも通りぬけて、曲がりくねった階段を駆けおりた。ふたりが中庭に降り立った時には、あたりはもう夜のとばりに包まれて、踏みつけられた雪がかすかに銀色の光を放っていた。三人の召使いが無言でふたりの行く手をふさいだ。自分たちの主人に対して、謀反《むほん》でもくわだてたのではないかと疑っているらしい。
「もはや暗うございます。」ひとりが言った。
「外出は御遠慮願います。」別のひとりが言った。
「けがらわしい、おどきなさい。」セレットが叫び、オスキル語で何か言った。召使いたちはわきによけて、苦しそうに地面につっぷした。ひとりの口からうめき声がもれた。
「門から出なくては。ほかには出口はないの。見えて?ハイタカ、門が見えて?」
セレットはゲドの手をひっぱった。が、ゲドはためらった。
「いったい、この者たちに何をしたのです?」
「骨髄に熟い鉛をちょっと流しこんだだけ。そのうち死にます。そんなことより、さあ、早く。向こうは今にも石の召使いたちを解き放つでしょう。ああ、あたしには門が見えない。門にはたいへんなしかけがあるというのに。さあ、急いで!」
ゲドにはセレットの言うことが解せなかった。彼の目にはセレットの言う門が手前の中庭の石のアーチと同じように、はっきりと見えていたからだ。ゲドはセレットの手をひいて、足跡ひとつついていない雪の前庭をぬけ、扉あけの呪文を唱えて、魔法のかかった城壁の門をくぐりぬけた。
銀をまぶしたようにうっすらと明るいテレノン宮殿の庭をあとにして門を出ると、セレットの様子が変わった。荒野のわびしい光の中で、その容貌は急激におとろえ、魔女の様相を呈し始めた。ゲドには、今、ようやく、彼女がわかった。彼女こそ、オスキルの魔女を母に持ち、その昔、オジオンの家を見下ろす緑の野原で自分をからかって、例の呪文を読ませ、あの影を放つ原因を作ったル・アルビの領主の娘だったのだ。けれども、そんなことをゆっくり考えているゆとりはゲドにはなかった。彼は今からだじゅうの神経を緊張させて、あちこちに目を配りながら、どこで待ちかまえているともしれない影を探していた。それは、スカイアーの死の衣をまとって、うろついているやもしれず、あるいはしだいに濃くなっていく闇の中で、ゲドを捕らえて、その肉を自分のからだにとりこもうと、じっと機会をうかがっているやもしれなかった。ともかく、ゲドは、それがすぐそばまで来ていることを感じていた。しかし、まだ見えてはいなかった。と、やがて彼は、門を五、六歩出たところに、何か小さな黒いものが半分雪にうずもれて落ちているのに気がついた。彼はかがんで、そっと両手にひろいあげた。オタクだった。美しかった毛皮には血がこびりつぎ、小さなからだは冷たく硬直していて、軽かった。
「ほら、来た! 姿を変えて!早く!」
突然、セレットがゲドの腕にしがみついて叫んだ。その右の手は背後の夕闇の中に白い牙のようにそびえる塔を指さしていた。見れば塔の下のほうの細めの窓から、今しも黒い奇妙な生きものがつぎつぎと這い出してくるところだった。出てきたものは長い翼を動かし、やがて宙を打って大きく旋回しながら、こちらに向かって飛んで来る。ふたりがいるのは丘の中腹で、身を隠す場所はない。城内で聞いた、あのかすれた、ささやくような声はしだいに大きくなっていく。足もとの土の中で。何かがうめいているようだ。
ゲドの胸に怒りがこみあげてぎた。自分をぺてんにかけ、罠《わな》にはめ、追いつめてきたいっさいのものに対する憎しみが彼の中に熱く煮えたぎってきた。
「姿を変えなさいったら。」セレットは叫んで、一息に呪文を唱えると、自分は灰色のカモメに姿を変えて、空に飛びたった。だが、ゲドは姿を変えなかった。彼はかがんで、オタクが倒れて死んでいた雪の中からほっそりとのびていた細長い乾いた草の葉を一本ひきぬくと、それを高くかかげ、真《まこと》のことば≠ナ伸びろ、そして太くなれ、と呪文を唱えた。唱え終わった時、ゲドの手には早くもがっしりとした魔法使いの杖が握られていた。テレノン宮殿から飛んで来た黒い生きものが羽をばたつかせて、ゲドの頭上をかすめるように通りすぎる。ゲドは杖でその翼を打った。しかし、杖はついに赤く燃えあがることはなかった。杖は、ただ、白い魔法の炎を出して輝いていた。この炎は闇を追い払いこそすれ、決して、ものを焦がすものではなかった。
黒い生きものが、また攻撃にもどってきた。ひどくぶかっこうなみにくい生きものだ。鳥も竜も人間もまだこの世に生まれていない頃からの生きもので、日の光がこの世を照らすようになってからは、とんと姿を見せなくなっていたものだった。だが、大昔の、邪《よこしま》で執念深い石の精霊はこの生きものを忘れかねていたのだろう。生きものはゲドめがけて飛びかかってきた。鎌を思わせる爪がつぎつぎと襲いかかってきて、彼はその死臭に吐き気を覚えた。ゲドは右に左に攻撃をかわしながら草の葉に怒りがこもって生まれた燦然《さんぜん》と輝く杖を激しくふりまわして、敵を打っては追い散らした。と、突然、生きものたちは死体におびえたカラスのように高く舞い上がると、静かに羽ばたきながら、カモメに姿を変えたセレットの飛び去った方角に向かった。大きな翼はゆっくり動いているかに見えたが、速度は速く、翼をひと打ちするたびに、その速度はさらに増していくようだった。これではどんなカモメだって、たちまち追いつかれてしまうだろう。
以前ロークでしたように、ゲドはすばやくタカに姿を変えた。タカといっても、あだ名のハイタカではなく、矢のように、人の思いのようにも速く飛ぶハヤブサである。先のとがった、しまのある丈夫な翼を打ちながら、彼は、つい今しがたまで自分を追っていたものを逆に追っていった。あたりはすっかり暗くなって、雲の切れ間には星がまたたいていた。前方に黒いぼろきれを集めたような生きものたちの群が見えた。と思う間もなく、群は、空の中ほどの一点を目指して、急降下していった。黒い群の向こうには、昼間のなごりをかすかにとどめて、灰色の海が横たわっていた。ハヤブサに姿を変えたゲドは石に仕えるこの生きものたち目がけて、まっしぐらに飛んで行き、やがて、その群の真っ只中に突っこんでいった。群はしぶきを散らすように四方八方にとび散った。が、その時には、カモメはすでに彼らの餌食《えじき 》になりはてていた。追い散らした生きもののくちばしは血で汚れ、爪には白い羽がついていた。海面すれすれに飛ぶカモメの姿など今はどこにも見えなかった。
気がつくと、敵は再びゲドのほうに向きなおり、鋼のようなくちばしをかっと開けて、猛烈な速さで迫ってきていた。ゲドはすばやく旋回して彼らの上に出ると、あたりの空気を震わすほどの怒りの声をあげ、やがてオスキルの海岸線をつっきって、沖の空へと飛び立っていった。
石に仕えるものたちはしばらくの間、鳴きながら空を旋回していたが、そのうちに一羽また一羽と荒野へもどっていった。太古の精霊たちはそれぞれ、洞穴とか、岩とか、泉とか、小さな島などに囚われていて、海を渡るなどということは決してできない。この黒い生きものたちも、あの砦にもどり、そこで城主ベンデレスクに迎えられるのだろう。ベンデレスクは部下たちがもどってきたのを見て泣くだろう。いや、ひょっとしたら声をあげて笑うかもしれない。だが、ゲドは今やハヤブサの翼を持ち、ハヤブサのようにたけだけしい心を抱いて、オスキル海の上を、矢のように東へ向かっていた。冬の夜風がごうごうと吹いていた。
沈黙のオジオンが秋の逍遥からル・アルビに帰ってきたのは、もうだいぶ遅くなってからだった。年をとるにつれて、彼はいっそうことば少なく、いっそう孤独を愛するようになっていった。谷間の町に住むゴントの新しい領主は、海賊行為をはたらくべくアンドレード諸島へ船をさしむけようとして、この魔法使いの助言を求めにハヤブサの巣へものぼっていったが、ついにひとことの助言も引き出せなかった。巣をはっているクモに話しかけ、木々に丁寧にあいさつするオジオンなのに、島の領主にはただのひとこともものを言わなかったのである。領主はすっかり機嫌を悪くして、山をおりていった。しかし、オジオンにも、ひょっとすると、何か満たされない思いか心配事でもあったのかもしれない。というのは、彼は夏から秋いっぱいをたったひとりで山上ですごし、自分の家の炉端にもどってきたのは、やっと冬至も間近になってからだったのだから。
帰ってきた翌朝、オジオンは遅く起きたが、茶が飲みたくなって、家から少しばかり山道を下ったところにある泉に水を汲みに出かけた。小さな泉の縁には氷が張り、岩と岩の間に生えた苔には霜柱が立っていた。夜はすっかり明けていたが、それでも、山がその肩をあらわにするには、あと一時間はかかるだろうと思われた。ゴントの西半分は、海岸から山の端までまだ日が当たらず、静かに澄んだ冬の朝を迎えていた。魔法使いは泉のほとりに立って、はるか谷間に目をおとし、やがて入江から遠く海へとその目を移していった。その時、ふいに頭上に羽ばたきが聞こえた。オジオンは片手をつとあげて空を仰いだ。一羽のハヤブサが大きな羽音を立てながらおりてきて、オジオンの手首にとまった。鷹狩りのタカのように、それはそこにとまったが、ひもの切れはしをつけているわけでもなく、足環も鈴もどこにも見当たらなかった。爪がオジオンの手首にくいこんだ。縞の入った翼は震え、まるい金色の目はにぶく荒々しく光っていた。
「使いの者かな?」オジオンはハヤブサにやさしくことばをかけた。「わしについてくるがいい……。」そう言いかけた時、ハヤブサがオジオンの方に顔を向けた。オジオンは一瞬口をつぐんだ。「そうか。おまえの名まえは、どうやらこのわしがつけたようだ。」彼はややあってつぶやいた。そしてそのまま手首にハヤブサをとまらせて家にもどると、暖かな炉端にハヤブサをおろし、その口もとに水を運んでやった。だが、ハヤブサは飲もうとはしなかった。オジオンは、今度は静かに呪文を唱え、手を大きく動かし始めた。まじないかけが終わると、彼は炉端のハヤブサのほうは見ないで、そっと、「ゲド」と呼んだ。それから、しばらく待って、うしろを振り返った。火のそばには、どんよりと疲れた目をした若者が震えながら立っていた。オジオンは立ち上がって、若者に歩み寄った。ゲドは毛皮と銀ラメ入りの絹というぜいたくな衣服に身を包んでいたが、せっかくの衣服も潮風にさらされて、あちこち破れ、ごわごわになっていた。傷跡のある顔に髪をたらして、背をまるめて立っている姿はいかにもやつれて見えた。
オジオンは汚れて見るかげもなくなったぜいたくなマントをゲドの肩からばずすと、彼を以前にも寝かせたことのある小部屋《アルコープ》に連れて行き、そこの簡素なベッドにその身を横たえさせた。そして、まじないをかけて彼を眠らせ、自分はそっと部屋を出た。オジオンはその間、ゲドにひとこともことばをかけなかった。今は人間のことばはまったく通じないことを、よく承知していたからである。
オジオンも、若かった頃は、他の若者と同じように、人間でも動物でも、木でも雲でも、好きなものに姿を変えて遊べたら、どんなにおもしろかろうと思っていた。けれども、魔法使いになってからは、この遊びがどんなに高くつくかを彼は知るようになった。それはたとえたわむれであっても自分自身を失う危険を、真の姿をなくしていく危険を常にはらんでいた。姿を変えている時間が長ければ長いほど、その危険は大きかった。魔法使いになろうとする者が、必ず聞かされる話に、ウェイ島の魔法使い、ポージャーの話がある。この魔法使いはクマに姿を変えるのが好きで、たびたびやっているうちに、クマの血が濃くなって人間性が薄れ、やがて本当のクマになって、自分の幼い息子を殺し、とうとう自分も狩人の手にかかって殺されたという。また、波立ち騒ぐ海で、おもしろおかしく遊びまわっているうちに、いつか考えることどころか、自分の名まえさえも忘れて、イルカになりはててしまった人びともいる。内海ではねているイルカのどれほど多くが、もとは人間だったことか。
ゲドは追いつめられて、腹立ちまぎれにハヤブサに姿を変えたが、オスキルを飛び立った彼の頭にあったのは、ただひとつ、石も影もあとにして、寒い危険な土地を逃げ出し、故郷に帰ることだった。ハヤブサの怒りも、荒々しさも、彼自身のそれに似ていて、いや、すでに彼自身のものになっていて、飛ぼうという気持ちはハヤブサのそれと通いあっていた。こうしてゲドはエンラッドの上を飛んだ。途中、さびしい森の湖に喉をうるおしに降りたが、再び空に舞い上がり、うしろに迫る影におびえて、やみくもに空を飛んだのだった。気がつくといつか、エンラッドの口≠ニ呼ばれる水道にさしかかっていた。それでも彼はなお飛びつづけた。オラネアの山々が右手はるか遠くに見え、左手にはアンドラドの山々がそれよりさらに遠くに、うっすらとかすんで見えた。前方には、ただ海があるばかりだった。けれど、とうとうそのうちに、はるか前方の波の間から、じっと動かない波頭がひとつあらわれて、それが刻々と大きくなった。白い雪をいただくゴント山だった。空に飛び立ってからというもの、昼も夜も、ずっと、ハヤブサの翼をまとい、ハヤブサの目を通してものを見ていたので、ゲドはいつしか人間の見方、考え方を忘れて、ハヤブサ的なものの見方しかできなくなっていた。どうやって飢えを満たすか、風はどう吹いているか、どうやって飛んだらいいか、頭にあるのは、それだけだった。
ゲドが安息所に選んだ場所は正しかった。今や彼を人間にもどすことのできる者はロークに二、三人と、あとはゴントにたったひとりいるだけになっていた。
目が覚めても、ゲドはまだもとのゲドにもどれず、口もきけなかった。オジオンは黙って、彼に肉と水を与え、火のそばにすわらせた。背をまるめてうずくまったゲドの後ろ姿は、疲れて、不機嫌になっている大きなハヤブサを思わせた。夜が来ると、彼は眠った。三日目の朝、オジオンが炉端にすわって、火を見つめていると、ゲドがやって来て言った。
「オジオンさま……。」
「やあ、来たか。」オジオンは言った。
「はい、出ていった時と同じ、愚か者のままで。」若者は言った。その声は重く、かすれていた。オジオンはちらと笑って、炉端の自分の向かいにすわるよう指図し、茶の用意を始めた。
外は雪が降っていた。ゴント山の山腹が迎えたこの冬初めての雪だった。オジオンの小屋の窓にはきっちりとよろい戸がおろされていたが、しんしんと屋根に降り積む雪の音や、小屋を包む深い静寂はよろい戸を通して手に取るように伝わってきた。ふたりは長いこと、炉端にすわっていた。ゲドは黒影号でゴントを出て以来の積もり積もった話をオジオンにした。オジオンはその間何ひとつ問いをはさまず、終わってからも、なおしばらくは、黙って、何か考えている様子だった。それから、やっと立ち上がって、バンとチーズとぶどう酒をテーブルに並べ、ふたりはいっしょに食事をした。食事が終わり、部屋を片づけると、オジオンが言った。
「ひどい傷だな。」
「例のものに立ち向かう力は、わたしにはありません。」ゲドは答えた。
オジオンは首を横に振ったが、それきり、しばらくは口をきかなかった。
「不思議よなあ。」やっと口を開いて彼は言った。「そなた、オスキルでは相手の土俵に立ちながら、向こうを打ち負かすだけの力を持っておった。誘惑をはねのけ、太古の精霊に仕える者たちの攻撃をそらすことができた。それに、ベンダーでも、見事、竜に立ち向かったというに。」
「オスキルは実力ではありません。運がよかったのです。」ゲドは答えた。テレノン宮殿の死の世界を思わせる寒さが悪夢のようによみがえってきて、彼はまたぶるっと身を震わせた。「それから竜のほうは名まえがわかっていました。ところが、わたしをつけてきている影には名まえがないのです。」
「名を持たぬものはなかろうに。」オジオンは言った。その言い方はたいそう確信に満ちていたので、ゲドは大賢人ジェンシャーが言ったことばをくり返して言う勇気をなくした。ジェンシャーはたしかゲドに、彼が解き放ったあの種の悪霊には名まえはない、と言ったのだ。しかし、なるほど、今思えば、ペンダーの竜は影の名まえを教えてやろうと申し出たし、セレットもテレノンの石がゲドの知りたいものを教えてくれるだろうと言った。ただ、これまでのゲドにしてみれば、そのどちらも信ずるわけにはいかなかったのだ。
「もしも影に名まえがあっても、足を止めて教えてくれることはありますまい。」
ゲドはしばらくして言った。
「そう。そりゃそうじゃろうの。」オジオンは言った。「だが、そんなことを言えばそなただって足を止めて名を教えることはしなかった。だのに、むこうは、そなたの名を知っておる。わしが授けた名をな。不思議なことよ。まったく不思議なことよ……。」
オジオンは、また考えこんだ。ややあってゲドが口を開いた。
「オジオンさま。わたしはかくまっていただきに参ったのではありません。相談にのっていただきたくて参ったのです。オジオンさまのところには、影を近づけさせたくありません。このまま、わたしがここにいたら、影は遠からず、ここへやって来ます。そうでした。この部屋でしたね、オジオン さまが追い払ってくださったのは……。」
「いや、わしが追い払ったのはその兆しのようなもの。まあ、影の影みたいなものじゃ。今、ほんもののそいつがやって来ても。おそらくわしには追い払えまい。追い払うのは、そなたにしかできまいよ。」
「しかし、その前に立つと、わたしはまったく無力なのです。どこか……。」ゲドは言いかけて、口をつぐんだ。
「いや、安全な場所などというものはどこにもない。」オジオンは静かに言った。「ゲド、よいか、そなた、もう二度と姿を変えてはならんぞ。影は本来のそなたを破壊しようとかかっておるのじゃ。あぶないところだった。そなたをハヤブサにとしむけたのは影だったんじゃ。そなたがこれからどこへ行くべきか、わしにはわからん。ただ、どうしたらいいかについては、わしにも考えはある。言うのはつらいがの。」
ゲドはかたずをのんで、オジオンの口もとに見入った。ついに、その口が開いた。
「向きなおるのじゃ。」
「向きなおる?」
「そうじゃ。もしも、このまま、先へ先へと逃げて行けば、どこへいっても危険と災いがそなたを待ち受けておるじゃろう。そなたを駆り立てているのはむこうじゃからの。今までは、むこうがそなたの行く道を決めてきた。だが、これからはそなたが決めなくてはならぬ。そなたを追ってきたものを、今度はそなたが追うのじゃ。そなたを追ってきた狩人はそなたが狩らねばならん。」
ゲドは答えなかった。
「そなたに名まえを授けたのはアール川の水源だったな。」魔法使いは言った。「あの川は山から落ちて、海へと注いでおる。人は自分の行きつくところをできるものなら知りたいと思う。だが、一度は振り返り、向きなおって、源までさかのぼり、そこを自分の中にとりこまなくては、人は自分の行きつくところを知ることはできんのじゃ。川にもてあそばれ、その流れにたゆとう捧切れになりたくなかったら、人は自ら川にならねばならぬ。その源から流れ下って海に到達するまで、そのすべてを自分のものとせねばならぬ。ゲドよ、そなたはゴントへもどってきた。わしのところにもどってきた。さあ、きっぱりと向きなおって、その源と、そこから流れ出ているものを探すのじゃ。そこにこそ、力となるものが発見できようぞ。」
「そこ、とおっしゃると、オジオンさま?」ゲドはこわごわきいた。
オジオンは答えなかった。
「もし、わたしが向きたおったら……。」しばらくして、ゲドは言った。「そして、おっしゃるように、その狩人を狩ることになったとしたら、かた[#「かた」に傍点]が付くのは早かろうと思います。むこうが望んでいるのは、わたしと面と向かい合うことですから。これまで二度向かい合って、二度ともわたしは負けました。」
「三度目の正直とも言うぞ。」オジオンは言った。
ゲドは炉端から戸口へ、戸口から炉端へ、部屋の中を行ったり来たりし始めた。
「もしも、こちらが完全に負けたら。」ゲドはなかばオジオンに、なかば自分に問いかけるようにつぶやいた。「むこうはわたしから知恵も力も奪って、勝手に使うようになるだろう。今は、わたしひとりがおびやかされているだけだが、万が一わたしの中に入ってきて、わたしを征服してしまったら、わたしを使って、とんでもない悪事を働くにちがいない。」
「そのとおりだ。そなたが負けた場合にはな。」
「だが、もし、また、逃げ出したとしても、むこうは、きっとまたわたしを探し出すだろう……。それに、こっちは逃げることに体力を使いはたしてしまうにきまっている。」
ゲドはこうしてしばらくの間、部屋の中を行ったり来たりしていたが、やがて急に振り返ると、魔法使いの前にひざまずいて言った。
「わたしは賢人の島で、多くのすぐれた魔法使いとともに歩き、ともに暮らしてきました。けれど、オジオンさま、あなたこそ真にわたしの師と仰ぐ方です。」ゲドの声には深い敬愛と静かな喜びとがこもっていた。
「そうか、そう言ってくれるか。」オジオンは言った。「そなた、これまでになく、いろんなものが見えてきておるな。だが、そなたこそ、いつか、わしの師となるだろうよ。」魔法使いは立ち上がって、いろりに薪《まき》を足し、上からやかんをつるすと、羊の皮のコートをはおった。「ちょっと山羊を見てくる。すまんが、やかんを見ていてくれ。」彼はそう言いおいて出ていった。
からだじゅうに雪をかぶり、山羊皮の長靴で積もった雪を踏みつけ踏みつけもどってきたオジオンの手には、長い、荒けずりのイチイの棒が握られていた。短い午後いっぱいをかけて、いや、夕飯がすんでからも、彼はランプのあかりのもとで、小刀とやすり石を手に、魔法使いの持てる技を心ゆくまで使って、そのイチイの棒と取り組んだ。合間には何度も木肌に指をすべらせて、点検することも怠らなかった。休みなく手を動かすオジオンの口からは折々やさしい歌声ももれてきた。ゲドはからだのだるさをかこちながら、それを聞いているうちに、しだいに眠くなっていった。子どもの頃、十本ハンノキのまじない師の伯母の小屋で、火にあたりながら過ごした雪の晩のことが思い出された。小屋の中は暗くて、炉の煙と薬草のにおいが充満していたっけ、と彼は思った。歌はまだ続いていた。呪文がうたいこまれ、その昔、遠い各地の島々で闇の力と向かい合い、戦って、あるいは勝ち、あるいは敗れた英雄たちの武勲《いさおし》が静かに語られていた。ゲドはいつか夢の世界に引きこまれていった。
「さあ、どうじゃ。」とオジオンは言って、できあがった杖をゲドに差し出した。「大賢人さまがそなたにイチイの木をくださったんじゃ。よい品でな、わしが大切に預かっとった。大弓の矢柄にとも思ったが、これにしてよかったわ。では、おやすみ。」
ゲドは礼のことばが見つからないまま、小部屋《アルコープ》にひきさがった。オジオンはそんなゲドを見送り、聞こえるか聞こえないかに、つぶやいた。
「いとしいハヤブサめ。うまく飛んでいくんだぞ。」
夜明けの冷えこみにオジオンが目を覚ました時、ゲドの姿はすでにどこにもなかった。ただ、いかにも魔法使いにふさわしく、炉石に銀の神聖文字の走り書きが残してあった。
「オジオンさま、わたしは狩りに出かけます。」
オジオンが読むはしから、神聖文字は薄れて消えていった。
八 守り
ゲドはル・アルビをあとに、まだ夜の明けきらない冬の道を歩いて下り、昼前にゴントの港町に着いた。オジオンは彼がオスキルから着てきた豪華な服を脱がせ、かわりに革と亜麻布《あまぬの》でできたゴント風の質素な脚絆《きゃはん》とシャンとチョッキとをゲドに手渡してあったが、彼は冬の旅に備えて、ペラウィの毛皮をあしらった仰々しいマントをさらにその上にはおっていた。手にしていたものといえば、背丈ほどもある黒っぽい杖一本だけだった。町の入口で竜の彫刻によりかかってひまをつぶしていた兵士たちは、すぐさま彼をみとめ、槍をひいて無言で彼を通し、その後ろ姿を見送った。
ゲドは埠頭をまわり、船問屋の組合の建物を訪れて、北のアンドラドか、西方のオラネアまたはエンラッドへ行く船はないかときいた。返ってくる答えは決まっていた。こんな冬至近くになって、ゴントを離れる船がどこにある、というのである。船問屋の組合では、こう変わりやすい天気では、漁船でさえ、よろい岩をぬけて出ていく気にはなれないだろうとも言われた。
人びとは組合の食堂で、ゲドに昼食をふるまってくれた。魔法使いともなれば、黙っていても食事のもてなしくらいは受けられる。彼は波止場人足や、船大工や風の司などにまじって腰をおろし、しばらくの間、彼らの、とりとめのないのんきな会話を楽しんだ。歯切れの悪いゴントなまりがなつかしかった。魔法や冒険は後まわしにし、一切を忘れてゴントにこのまま暮らしたい。このよく知った故郷の島で、みんなと同じように、安気に暮らしていきたい。ゲドはしきりにそう思った。それは彼の夢だった。だが、彼の決意はそれとはちがっていた。港を出る船がないとわかると、彼は組合の食堂にも、いや、ゴントの町にも長くは留まっていなかった。ゲドは海岸づたいに歩いて北に向かい、やがて、小さな村に入った。その村でも、彼は必死に漁師の間をきいてまわった。やっとのことで、舟を売ってもよいというひとりの漁師が見つかった。
漁師は年とって、気むずかしい男だった。舟は四メートル近い、よろい張りのものだったが、外板がそり返って、つぎ目のあちこちにゆるみができ、そのままでは、とても乗れないしろものだった。だが、男が代金がわりに要求してきたものは大きかった。魔法の力で、自分の持ち船と、自分と息子の海での安全を保障しろというのである。それというのもゴントの漁師にとって恐ろしいのは海だけで、魔法使いさえも恐るるに足るものではなかったからである。
多島海《アーキペラゴ》北部で人びとが是非にとほしがった海の安全に関するまじないかけは、暴風や高波からまで、人を救い出せるものではなかった。けれども、その地域の海や、舟の通りみちや、乗り手の技量をよく知った人間にかけてもらうと、そのまじないは少なくとも、日常のちょっとした危険からは漁師たちを守った。ゲドはその晩と翌日いっぱいを、ひたすらまじないかけに打ちこんだ。心をこめて、じっと忍耐強く……。だが、そうしながらも、彼の心は恐怖に震え、その思いはともすれば暗い道にさまよい出ていった。あの影は、つぎにはどう姿をあらわすのか。いつごろ、どこにあらわれるのか。彼は気がかりでならなかった。まじないかけが終わった時、ゲドはぐったりと消耗していた。彼はその晩は、漁師の小屋につりさがっている、クジラの腸で作ったハンモックで眠り、明け方早く起き出すと、干しニシンのにおいをぷんぷんさせながら、ゆずり受けた舟のおいてある崖下の入江におりていった。
彼はさっそく舟を押して、静かな入江に浮かべてみた。たちまち浸水が始まった。ゲドはネコのような身軽さで舟に飛び乗ると、かつてロー・トーニングでペチバリとしたように、呪文を唱えながら器用に道具を使って、そり返った板をなおし、くさった木釘をとりかえた。村人たちがやってきて、少し離れたところから、ものも言わずに、ゲドのすばやい手の動きを見つめ、その声に聞き入っていた。最後まで辛抱強く、上手に仕事を進めたおかげで、浸水は止み、舟はすっかりよくなった。ゲドは、つぎには、オジオンが作ってくれた杖をマストがわりに立て、まじないをかけてそれを固定させると、それに直角に帆桁《ほげた》を組んだ。そしてその帆桁からは風に魔法をかけて織りなした帆をたらした。舟を見下ろすゴント山の頂の雪のように白い、正方形の帆だった。女たちはこれを見て、うらやましそうなため息をついた。帆を張り終わると、ゲドはマストの傍らに立って、魔法の風をおこした。帆はかろやかにふくらんで、舟は岸辺を離れ、入江を、よろい岩の方に向かって、すべりだした。黙ってゲドの作業を見物していた漁師たちは、水もれのひどかった漕ぎ舟が帆をはって、イソシギが舞うかのようにすべり出したのを見て、冷たい風の吹く海岸で白い歯を見せ、足ふみならして、喝采を送った。ゲドは振り返った。漁師たちはまだ喝采を送りつづけていた。彼らにのしかかるように鋭くつきでた黒っぽい崖の上には、すっぽりと雪におおわれたゴント山の裾野がしだいに勾配を急にして、雲の中に消えていた。
ゲドは入江をつっきり、よろい岩の間をぬけてゴント海に出、そこで航路を北西にとった。オラネアの北を通り、来た道を逆にたどろうというのである。彼は、今、それ以外、どんな計画も戦略も持ち合わせてはいなかった。オスキルを飛び立ったハヤブサのあとを、例の影が今もなお追いつづけているのか、それとも道をそれてどこかへ行ってしまったか、それはゲドにはわからなかった。しかし、むこうがあの瞳に完全に引きこもってしまわない限り、身を隠すものとてない海原にこうしてあらわれたゲドを見逃すはずはなかった。
どうせ対面しなければならないものなら海上で対面したい、とゲドは思った。どうしてかはわからなかったが、陸地で出会うのだけは思っただけで身の毛がよだった。海には嵐も起こるし、時に怪物も姿をあらわすことがあるが、悪霊だけは絶対にない。悪は陸地のものである。かつてゲドが踏みこんだ暗黒の支配する世界には海もなければ川もなく、泉さえも見あたらなかった。死の世界とはそんな干からびた世界なのだ。もちろん、この季節、悪天候の海が危険なことはいうまでもなかった。だが、そんな危険も天気の変わりやすさも、今のゲドには、むしろ幸いして、身の安全を守ってくれるものと思われた。それに、もしも、この思い切った航海のはてに影に出会えたら、少なくともおれは、以前こちらがしてやられたように、敵をこの手でつかんで、こちらの体重をかけて引きずりこみ、敵ともども深い海の底の暗闇に沈んでいくことができるじゃないか。そうすれば、それは二度と上がってくることはあるまい。と、なれば、おれは、生きてる時に放った悪に、少なくとも自分の死でもって、とどめが刺せるというものだ。
ゲドは三角波の立つ荒海を進んでいった。空には、灰色の雲が重くたれこめていた。彼は魔法の風は使わず、北西から吹きつける天然の風を利用していた。魔法の帆は、折々まじないを唱えてやりさえすれば、くたびれもせず、うまく働いて、風をよくはらんでくれた。この魔法を使わなかったら、この航路を、しかもこんな悪天侯に、傾きやすい小舟を進めていくのは、並大抵のことではなかったろう。彼は四方に鋭く目を光らせながら、航海を続けた。舟をゆずってくれた漁師の女房がパンを二包みと飲料水の入った壷を持たせてくれていた。数時間たって、ゴントとオラネアとの間にたったひとつ浮かぶケイムバー・ロックが見えてきた時、彼はそのパンを食べ、水を飲み、感謝の心をもってこの食べ物をくれた無口なゴントの女を思った。
島をはるかに見て、ゲドは西へ西へと間切《まぎ》りながら舟を進めた。いつか霧雨が降りだしていた。陸は雪かもしれないとゲドは思った。今、耳に聞こえるのは舟のきしる音と舳先《へさき》に波のあたる音ばかりだった。舟一|艘《そう》、海鳥一羽行き合わなかった。休みなくうねる水と雲のほかには動くものはまったく見えなかった。ハヤブサになって、今進んでいる道を東へ飛んだ時、雲がやっぱり流れていたことを彼はふと思い出した。そして、今、灰色の空を見上げるように、あの時、眼下に灰色の海を見たことも……。
前方に目をこらしても、そこに何があるわけでもなかった。彼は陰鬱な虚空を見つめるのに飽きて、立ちあがった。からだはすっかり冷えていた。
「来たいのか。」彼はつぶやいた。「さあ、来い、影よ、何を待っておる?」
答えはなかった。波間にもどこにも闇が特別濃くなる気配はなかった。だが、彼は今、しだいにはっきりと、例の影が自分を追って、近くまで来ていることを感じとっていた。突然、ゲドは声をはりあげた。
「おれはここだ。ハイタカのゲドはここだ。おれはおれの影を呼んでおるのだぞう!」
舟がきしって、波がざわめきだち、白い帆に風がヒューと鳴った。数秒かたった。ゲドはイチイの木のマストに手をかけ、冷たい霧雨の奥をじっと食い入るようにうかがった。霧雨は北の方から海を渡って、ゆっくりと帯を描きながら押し寄せていた。また数秒がたった。ふと、ゲドは海上はるか前方の雨の中を、あの影が自分のほうに向かってやってくるのを発見した。
オスキル人の船乗り、スカイアーの肉体を食いつぶしてそこを離れた影は、これまで海上を風のまにまにゲドのあとをつけてきていたのだった。そして、その間それは魔物の姿も、ゲドが夢の中やローク山で見たけだものの姿もとってはいなかった。だが、今や影は、昼の明るさの中でもそれとわかる姿形をはっきりととっていた。影はゲドを追って荒野で戦ううちに、かなりの力をゲドから引き出して、自分の中に貯えていたのだろうか。だから、昼間、しかも堂々と声に出して呼ばれると、それだけで、たちまち姿を整えることができたのかもしれない。ともかく、今見る影はたしかに人間の形をしていた。影だからそれ自身の影は、もちろん持っていなかったけれど……。影はエンラッドの口を出て、ゴントの方角へ進んできた。追い風に乗って、波の上を、だが、いかにもあぶなげな進み方だった。冷たい雨が、ぼうっとかすむそのなりそこないのからだの中を吹きぬけていった。
影は昼間の明るさで目が半分見えなくなっていた。それに今はゲドの方で先に呼んだこともあって、相手に気づくのは、ゲドのほうが半歩早かった。ゲドは、影がすぐさま彼をゲドだと気づいたように、ありとあらゆる影の中で、それこそが自分の求めているものだと知った。
ゲドは、さびしい冬の海にひとり立って、恐れていたものと対面した。風が吹いて、影は一瞬遠ざかったかと見えたが、つぎの瞬間には波が立ち騒いで、影との距離はまた縮まったかに見えた。彼には実際のところ、影が動いているのか、止まっているのか、わからなかった。今では、影のほうでもゲドをじっと見すえていた。ゲドはただただ恐ろしかった。また、あの手がのびてくるのではないか。彼は生血を吸われるような、あの苦痛を思い出して、身の凍る思いだった。しかし、それでも彼は身じろぎもせずじっと相手の様子をうかがった。それから急に大声をあげて魔法の風を呼び、帆をいっぱいにふくらませた。舟は灰色の海を飛ぶようにして、影めがけて、まっしぐらに突き進んでいった。
と、影はよろよろと向きを変え、黙したまま逃げだした。
影は北の、風上に向かった。ゲドの舟もすぐあとを追った。魔法使いの駆使する術に、影がその足でどれだけ対抗できるか。これはその両者の戦いだった。雨はどちらにも、激しく降り注いでいた。魔法使いの若者は、姿をあらわしたオオカミに狩人がやっきとなって猟犬をけしかけるように、舟に、帆に、風に、波に、必死に声をかけた。魔法の帆があらたな風をはらんだ。舟はまるで、風に飛ばされる泡のように海を飛び、目指すものにぐんぐん近づいていった。
突然、影が半円を描いて、向きを変え、ゴントに向かおうとでもするように、風下に向かって、すべりだした。影は今、なぜか、すっかり薄れて、形を崩し、人の影というより、風に舞う煙のようになっていた。
ゲドもまた、自分の技とまじないで、すぐさま舟の向きを変えた。舟は急な方向転換のせいで、大きく横に揺れながら、イルカのように水をけって進んだ。これまでよりずっと速度をあげたはずなのに、影は薄れて、いっそう見えにくくなった。みぞれと雪をまじえた雨はゲドの背を打ち、左頬を打って、視界は百メートルを割った。嵐はしだいに激しくなり、やがて、影はまったくその姿を消した。だが、ゲドはまだ追跡をあきらめなかった。海上を逃げた生霊を追うというより、雪の原をけものの足あとを追う感じだった。風は追い風になっていたが、彼はなお魔法の風を帆に送りつづけた。舳先から泡がちぎれて飛んだ。舟は水面をはたくようにまっしぐらに進んでいった。
狩るものと狩られるものの、この世ならぬ不思議な追撃戦は長時間続いた。気がつくと、日は今しもとっぷりと暮れかかっていた。このぶんでは、ゴントはとうに北になっているにちがいない。ゴントを過ぎて、スペヴィーかトルヘブンに向かっているのかもしれない。いやもしかしたら、そこも過ぎて、外海へ出てしまっているかもしれない。ゲドには皆目、見当がつかなかった。が、そんなことはどうでもよかった。自分はとにかく狩り出し、追跡した。恐れていたものは、今、自分の前を駆けているのだ。
こう思った時、それほど遠くないところに、影がまた、一瞬、その姿をあらわした。自然の風はしだいに凪《な》ぎ、横なぐりに降っていたみぞれもいつかやんで、冷たい霧があたりに立ちこめていた。その霧をすかして、ちらと影が見えたのだ。影はゲドよりもいくぶん右よりのコースを急いでいた。ゲドはあらたに呪文を唱えて帆に風をはらませると、舵を回してあとを追った。だが、ほどなく、またも姿を見失って、迫跡は失敗に終わった。魔法の風を受けると、霧は激しく湧き返り、揺れ動いて、やがて舟のまわりに厚くたちこめ、光をさえぎって、何もかも見えなくしてしまうのである。けれども、ゲドが霧はらしの呪文を唱えだしたとたん、影は再びその姿をあらわした。相変わらず、ゲドの右手を進んでいたが、距離はぐんと縮まり、動きもにぶくなっていた。霧がかすかに頭と見えるあたりを吹きぬけていたが、それでもなお、影は人間の形をしていた。ただ、これも人間の影と同じで、たえず揺れ動き、さまざまにその形を変えた。ゲドはついに敵を追いつめたものと考えて、再び舵を回した。とたんに敵の姿はかき消すように見えなくなった。ひどい目にあったのはゲドのほうだった。
舟が霧のために、あやまって暗礁に乗り上げ、大破してしまったのである。ゲドはあやうく身ひとつで放り出されるところだった。が、それでもかろうじて、マストがわりをつとめていた杖をしっかりとその手につかんだ。その直後、二つ目の波が襲ってきて、砕けた。たいへんな大波だった。波は小さな船体を水からすっかりひきはがし、岩の上に置いて、去った。人間がカタツムリの殻をひょいと手にとって。つぶしてしまうのに似ていた。
だが、それにしても、オジオンが作ってくれた杖は丈夫で、しかも魔法がかかっていた。それは折れることもたく、乾燥した丸太のように水によく浮いた。ゲドは杖をつかんだまま、それでも波にさらわれて水中深く引きずりこまれた。だがそのおかげでつぎの波がくるまでは、岩にたたきつけられる心配からはまぬがれた。水を飲み、塩に目をしょぼつかせながら、ゲドはなんとかして水から頭を出しておこうと必死だった。その時、岩から少し離れたところにふと砂浜が見えた。ゲドは波に飲まれそうになりながらも、この砂浜から目を離さず、やがて、杖の力を頼りに、一気に砂浜めがけて泳ぎだした。だが、砂浜はいっこうに近くならない。寄せては返す大波はゲドを藻屑《もくず》のようにもてあそび、体温をぐんぐん奪っていった。ついに彼は手を動かすことさえ、できなくなった。岩も砂浜も見えなくなり、どちらに向かっているのかもわからなくなった。右も左も、上も下も、あるのは彼を盲《めしい》にし、窒息させ、溺死させようとして激しくさかまく怒濤ばかりだった。
そうこうするうち、ついに、ゲドのからだは波のうねりに乗って砂浜に運ばれ、一片の流木のように打ち上げられた。
ゲドは、そこにそのまま倒れていた。イチイの木の杖は、両の手にしっかりと握られていた。波が寄せてきては、そのからだを何度か海に引きずりこもうとした。霧が薄れたと思ったら、それはやがて上空に集まってみぞれとなり、ゲドのからだに冷たく降り注いだ。
長い時間がたった。ようやくゲドはからだを動かし始めた。彼は四つん這いになって水際を離れ、そろそろと砂浜を這いあがっていった。あたりは闇に包まれて、一寸先も見えない。ゲドは杖になにごとかささやいた。たちまち、杖の先に魔法のあかりがともった。このあかりを頼りに、彼は砂丘を目指して、少しずつ自分のからだを引きずっていった。長時間みぞれに打たれて冷えきっていたうえに、あちこちけがをしていたから、風が鳴り、波のとどろく闇の中を、こうしてぬれた砂浜を這っていくのは、並大抵のことではなかった。一、二度、波の音も風の音もすべて止んで、手に触れるものがぬれた砂から乾いた土に変わってしまったように感じたことがあった。見たことのない星が、その動かぬ目をじっと自分の背に注いでいるような気がした。だが、彼は顔を上げずに、黙々と這いつづけた。少したつと、苦しそうな自分の息づかいが聞こえだした。横なぐりの雨が顔にあたるのもわかるようになった。
動いたおかげで、からだが温まり、砂浜をのぼりつめて、雨風のあまりあたらない砂丘のくぼみに入る頃には、彼はどうにか立って歩けるようになっていた。
あたりは真っ暗だった。ゲドは呪文を唱えて魔法のあかりを強くすると、杖にすがって、つまずいては少し行って休み、休んではまたつまずきながら、内陸へ半マイルほども入っていった。と、ある砂丘をのぼったところで、潮騒がまた大きくなった。それも、うしろからではなく、前から聞こえてくる。砂丘はまたしだいに下って、別の砂浜へと続いていたのだった。彼がいたのは島と呼べるほどのものではなく、大洋の真ん中にぽつんと浮かぶ小さな洲《す》だったのだ。
ゲドは精根尽き果て、今となっては絶望する気力もないほどだった。途方にくれた彼は杖によりかかり、長い時間、すすり泣きながら立っていた。それから、とにもかくにも風を避けようと、疲れ切ったからだを左に向けると、どこかに雨風の凌《しの》げるくぼみでもないかと、氷雨《ひさめ》にしなう草をかきわけかきわけ、よろよろと砂丘を下っていった。やがて、かかげた杖のあかりの端に、雨にぬれた板囲いが浮かび上がった。
それは子どもの手になるかと見える小さな、今にも倒れそうな掘っ立て小屋だった。ゲドは小さな入口の戸を杖でたたいた。反応はなかった。彼は戸を押し開け、からだをふたつ折りにして、中に入った。小屋の中でも、背すじをのばすことはできなかった。見れば、いろりには燠《おき》がまだあかあかと残り、その火に映し出されて、ひとりの白髪の老人が恐怖におののいて、奥の壁にへばりつくようにうずくまっていた。そして、いまひとり、男か女かもさだかでない人間が、床のぼろきれの山にうずまって、目だけをのぞかせていた。
「手出しはせん。」ゲドは小声で言った。
ふたりは答えなかった。ゲドは交互にふたりを見た。ふたりはおびえて、目もうつろになっていた。ゲドが杖を床に置くと、ぼろきれの山にうずもれたほうが、顔を隠してすすり泣きを始めた。ゲドはぬれて重くまつわりつく着物を脱ぎ、裸になって、いろりの火に身をかがめた。
「何か、はおるものをくれないか。」ゲドは言ったが、声はかれ、からだが震えて、歯がガチガチと鳴り、ほとんど、ことばにはならなかった。いや、もしかしたら、彼の言うことはわかったのかもしれないが、年老いたふたりはそれでもなお黙りこくっていた。ゲドは手をのばして、寝床とおぼしきぼろくずの山から、ぼろきれを一枚とった。手にしたものは何年か前まではちゃんとした山羊の毛皮であったのだろうが、今は真っ黒に汚れて、ぼろぼろになり、見るかげもなかった。中に隠れていた者は恐ろしさに低くうめいたが、ゲドは知らぬふりをきめこんだ。彼はからだをふき、それから、また小声で老人にきいた。
「すまんが燃すものはないかね。もう少し火がほしいんだ。わたしは困って、ここにお邪魔した。手出しなんぞ、絶対しないから。」
老人はなおもじっとうずくまったままだった。恐ろしさに口もきけないらしい。
「わたしのことばがわかるかね? え? ハード語は話さないのかね?」ゲドはたずね、それから思いついたようにことばを足した。「カルガド語を話されるのか?」
このゲドの最後の問いかけに、老人はこっくりうなずいた。それは悲しげな表情の、古ぼけたあやつり人形を思い出させた。しかし、ゲドの知っているカルガド語は「カルガド」一語だったから、会話はそれきりとぎれてしまった。彼は小屋の別の一角にたきぎが積んであるのを見つけて、自分で火をおこし、それから手まねで水を求めた。塩水をたらふく飲んでからだがおかしくなり、喉がからからになっていた。老人はおどおどと、水の入った大きな貝殻を指さし、さらに、魚の燥製が幾切れかのっているこれまた大きな貝殻を、そっと炉端に押してよこした。ゲドは火のそばにすわってあぐらをかき、こうして出された水と魚をご馳走になった。いくぶん元気になって、気持ちにもゆとりができると、彼は、ここはいったいどこなのだろうと考え始めた。いくら魔法の風をもってしても、カルガドまで行き着くはずはない。この小島はゴントの東方の外海にあるのだろうが、カレゴ・アトはここよりもまだ東にちがいない。しかし、それにしても、洲にしかすぎない、こんなちっぼけな孤島に人が住んでいようとは。そうか、ふたりは漂流してここに流れ着いたのかもしれない。おそらくそうだ。ゲドはそこまで考えたものの、疲れていて、あとは続かなかった。
彼はマントを火にあてて乾かした。銀色のペラウィの毛皮は乾くのが早かったが、ほかはなかなかだった。が、乾ききらなくても、ともかく温まるのを待って、ゲドはそのマントにくるまって、炉端に横になった。
「気の毒に……。だが、あんたがたも、もう、休んでください。」ゲドは黙りこくっている小屋の主たちに言って、土間の砂に頭を横たえ、そのまま、眠りにおちていった。
彼はこの名もない島で三晩を過ごした。たどり着いた翌朝目を覚ますと、からだのふしぶしが痛く、その上に熱もあって気分が悪かった。彼はその日一日じゅう、そして夜も、いろりのそばに流木のように横たわっていた。三日目の朝、目が覚めた時には、まだ、からだのあちこちが痛みはしたが、それでも元気になっていた。彼は塩のしみこんだ衣類をまた身につけて――というのは、洗うだけの真水がなかったので―― 、外に出た。空はどんよりと曇って、風が強かった。影におびき寄せられてたどり着いたここはどんなところなのか。ゲドはあたりをながめやった。
それは最大幅一マイルかそこらの岩の多い洲で、周辺にも、小さな洲や岩があちこちに頭をのぞかせていた。丈の高い木はもちろん、灌木も一本も見当たらず、あるのは、ただ風にしなう草ばかりだった。小屋は砂丘のくぼみに建ち、主の年老いた男女ふたりは、文字通り、絶海の孤島に、たったふたりで暮らしているのだった。小屋は流れてきた板切れや木の枝で建ててあった、というよりむしろそれを寄せ集めてなんとか雨風を凌げるようにしたものだった。飲み水は小屋の傍らの井戸から汲み上げていたが、少し塩気があった。そして、食べ物はといえば、生や干物の魚や貝と、あとは磯でとれる海草だった。小屋の中にはぼろぼろの毛皮のほか、骨で作った縫い針と釣り針。それに釣り糸や火起こし錐《きり》に使う腱《けん》があったが、それらは当初ゲドが想像した山羊のものではなくて、から取ったものだった。このあたりは、夏になると、アザラシが子どもを産みにやってくるところだったのだ。しかし、こんなところにやってくるものが、ほかにあろうはずはなかった。年とったふたりがゲドを見て震えあがったのは、彼らがゲドを幽霊と思ったからでもなければ、彼が魔法使いだったからでもなく、彼が人間だったからだった。
男のほうは、いつまでたっても、警戒をゆるめなかった。彼は、ゲドが自分のそばにやって来そうだと見るや、白いぼさぼさの髪の下から、恐ろしい形相でゲドをにらみつけ、足をひきずりひきずり逃げだした。女も、はじめのうちは、ゲドがからだを動かすたびに小さな悲鳴をあげては、ぼろきれの山にもぐりこんだが、彼が熱のあるからだを横たえてまどろんでいると、そばにきて、身をかがめ、いとおしむような、妙な表情をして、その顔をのぞきこみ、しばらくすると、水を持ってきてくれた。ゲドが起き上がって受けとろうとすると、老婆はおびえて貝の器をとりおとし、おかげで水は一滴残らずこぼれてしまった。老婆は泣き、その涙をひとつかみの長い白髪でぬぐった。
今、彼女はゲドが浜で仕事をするのをじっと見ていた。ゲドは浜に打ちあげられた自分の舟から板をはがし、その板と流木を使って、新しい舟を作っていた。道具は老人の粗末な石の斧だけで、あとはくくりのまじないに頼るほかなかった。これは修繕とも、建造とも言いかねた。必要な木は初めから足りなくて、魔法で補うしかなかったのだから。だが、老婆の視線は、ゲドの見事な技が生みだす物よりも、むしろ、彼自身に向けられていた。そこには、何か懇願するような表情があった。しばらくすると老婆は姿を消し、やがて、ゲドへの贈り物を持ってもどってきた。磯でとったひと握りのムラサキイガイだった。ゲドは海水にぬれたその貝をその場ですぐ生のまま食べ、老婆に礼を言った。それに気をよくしたのか、老婆は今度は小屋に行って、何かぼろきれに包んだものを両手にかかえてもどってきて、おずおずとゲドの顔色をうかがいながら、その包みをほどいた。
あらわれたのは、塩がしみ、年を経て黄色く変色してはいたが、小粒の真珠をちりばめた絹の紋織りの小さな子どものドレスだった。胸もとには、二本の矢を組み合わせ、その上に王冠を戴いた図柄が真珠で縫い取ってあった。カルガド帝国の兄弟神をあらわす絵模様だとゲドはすぐに見てとった。
身にまとっているものといえばアザラシの皮を不器用に縫い合わせたものだけという、うす汚いこのしわだらけの老婆は、その絹のドレスを指さし、つぎには自分を指さして、おもむろににこっと笑った。赤ん坊のような愛くるしい、無邪気な笑いだった。やがて、彼女はドレスのスカートに縫いこんであるかくし[#「かくし」に傍点]から何か小さな物をとり出し、それをゲドに差し出した。それは黒っぽい金属のかけらで、腕環か何かそういった輪になった装身具の片割れだった。老婆は身ぶりでしきりにそれを取れという。そして、ゲドが受け取ると、やっと満足そうにうなずいて、また、にこっと笑った。こうして老婆はゲドにひとつの贈り物をした。だが、ドレスのほうは、脂《あぶら》に汚れたぼろきれにまた丁寧に包みなおし、胸に押し抱くようにして、よろよろと小屋に持って帰った。大切にしまっておこうというのだろう。
ゲドは老婆のくれた半かけの環を大事にボケットにしまいこんだ。彼の心は同情でいっぱいだった。ここにいるふたりはカルガド帝国のどこか高貴の家の子どもだったにちがいない、とゲドは考えた。暴君か、あるいは王権強奪者が、そのままおけば殺すほかないふたりを、生死も問わずに、カレゴ・アトから遠く離れた、地図にものっていないこの小島に島流しにしたのにちがいない。老人は当時八、九歳の少年、老婆はまるまるとよく太った、まだ赤ん坊の姫で、真珠をあしらったさきほどの絹の服を着ていたのだろう。そして、亡き者としてほうむり去られたこの王子と王女は以来、四、五十年に及ぶ長い月日を大洋に小石のように浮かぶこの島に、たったふたりきりで生きてきたのにちがいない。
だが、ことの真相はそれから何年か後、エレス・アクベの腕環を求めて、ゲドがカルガド帝国はアチュアンの墓まではるばる旅していったあかつきに初めて知ることになる。
淡い日がのぼって、島の三日目の夜が、おだやかに明けた。その日はちょうど一陽来復《いちようらいふく》、つまり一年で一番日の短い冬至の日だった。寄せ集めの木に魔法をかけて作ったゲドの小舟はすっかり船出の準備が整っていた。ゲドはそれよりまえ、年とったふたりに、ゴントでもスペヴィーでもトリクル諸島でも、どこへでも好きなところに連れていってやるつもりでいることをなんとかして伝えようと、幾度か努力を重ねていた。彼はたとえカルガド方面の海が多島海《アーキペラゴ》の人間には危険であっても、もしふたりが望むなら、カレゴ・アトのどこか人気《ひとけ》のない浜にふたりを置いてきてもいいとさえ思っていた。けれども、ふたりはこの不毛の島を離れようとはしなかった。女のほうはゲドの身ぶりやことばがわからなかったようだったし、男のほうはわかった上で断わったのだった。男がここ以外の土地や人間のことで覚えていることといえば、子ども時代に目のあたりにした恐ろしい悪夢のような光景しかなかったのだ。血と大男たちと悲鳴の渦巻きと……。しきりに頭《かぶり》を横に振る男の顔に、ゲドははっきりとそれを見てとった。
そんなわけで、その朝ゲドはアザラシの皮袋に汲みたての井戸水を入れると、ふたりにはどんなに感謝してもしきれないと思いつつ、かといってお礼の品の持ち合わせもないままに、せめてもの感謝のしるしにと、塩分が多く、いつ水が枯《か》れるかもわからない井戸に魔法をかけた。それがゲドにできる精一杯の恩返しだった。魔法かけが終わったとたん、砂の間からはゴントの高地のどんな山あいの湧き水にも劣らない、よく澄んだおいしい真水があとからあとから湧き出てきて、尽きるところを知らなかった。そのために、砂と岩ばかりのこの島も今では地図に記されて、船乗りたちはここを湧き水の島≠ニ名づけて呼んでいる。しかし、小屋はもうあとかたもなく、幾冬の嵐に見舞われたこの島に、ふたりの人間が生きて死んでいった証となるものは何ひとつ残ってはいない。
ゲドが島の南端から舟に乗って出ていってしまうまで、年老いたふたりは見送るのを恐れでもするように、じっと小屋にこもったままだった。ゲドは北から吹いてくる天然の風を魔法の帆にいっぱいに受けて、海原をすべるように進んでいった。
それにしても、ゲドの今度の船旅はなんとも妙なものだった。彼自身よく承知していたように、自分が狩る者でありながら、何を狩るのか、それがアースシーのどこに行けば見つかるのか、皆目わかってはいなかったのだから。これまで相手がそうだったように、彼もまたいっさいを当て推量と直感と運に頼らなければならなかった。影が日の光や姿形のある個体にとまどったのと同じように、ゲドは実体のない影にはどう対処してよいかわからず、互いに互いのことがつかめていなかった。ただ、ゲドには、ひとつだけたしかなことがあった。それは、自分は今、相手を追跡しているのであり、相手に追跡されているのではない、ということだった。影はゲドの舟を暗礁におびき寄せたあと、彼が仮死状態で砂浜に倒れていた時にも、そのあと、嵐の中を、真っ暗な砂丘を這ってさまよっていた時にも、襲いかかろうと思えば、いくらでも襲いかかることができたはずである。それなのに、相手はせっかくのチャンスも待たずに、こちらをおびき寄せただけで、対面することさえせずに、そそくさと逃げていってしまったのだ。なるほど、オジオンの言った通り、ゲドが背を向けない限り、影はその力を存分に発揮することができないにちがいない。それならば、たとえ影が寒風吹きすさぶ大海原を越えていこうとも、ゲドは影に背を向けずに、そのあとを追いつづけるしかない。頼りになるものが、たまたま北から吹いてくる風と、南か東へ向かうのがよさそうだという、漠然とした己《おのれ》の直感だけであっても……。
日暮れ近く、左手はるかかなたに、長い海岸線がぼうっと浮かび上がった。大きな島だ。カレゴ・アトにちがいない。すると、自分はあの野蛮な白人たちの行き来する航路にいるというわけか。ゲドはもしやそのあたりにカルガド人の船が見えはしないかと厳しい警戒の目を配りつづけた。夕日があたりをあかあかと染めていた。その中を舟を進めながら、彼はふと、十本ハンノキの村のあの朝のことを思い出した。自信満々な戦士たち。燃えさかる火。そして霧。そこまでいった時、彼は急に、影がどんなふうに自分をあざむき、破減させようとしたかを思い出して、また不安に駆られだした。海上で自分のまわりにたちこめ、あたりを見えなくさせて危険に陥れ、もてあそんで死に至らしめようとした霧はひょっとして、あの時の霧と同じではないか。
ゲドはそのまま、南東の方角に舟を進めた。世界のこの東の端に夕闇が迫る頃、いったん浮かび上がった陸地はまた海のかなたに沈んで見えなくなった。波頭は残照を受けてまだ赤く輝いていたが、波間はすっかり暗くなった。ゲドは『冬の歌』や『若き王の武勲《いさおし》』などを思い出すまま、声に出してうたった。冬至の祭りの歌だったからだ。彼の声は澄んでいてよく通った。だが、海はしんとして、ただその声を吸いこんでいくばかりだった。あたりはあっという間に暗くなって、空には星がまたたきだした。
一年で一番長いその夜をゲドはほとんど一睡もせずに過ごした。左手から星がのぼり、頭上にまたたき、そして右手の黒々とした海のかなたに沈んでいった。冷たい北風は夜どおし吹いて、ゲドを南へ南へ押しやった。時折うつらうつらしたが、そのたびに彼はすぐはっとして目を覚ました。乗っている舟は、実のところ、とても舟などと呼べるしろものではなく、半分以上が魔法の産物で、残りも古ぼけた流木の板だったから、もし魔法の力が弱まりでもしたら、舟はたちまちばらばらになって、木端《こっぱ》のように波に漂うことはあきらかだった。帆もまた風に魔法をかけて織りなしたものだったから、万が一ゲドが眠りこけでもしたら、そうそう風を持ちこたえられず、帆自体が一吹きの風になって消えてしまうことはまちがいなかった。ゲドのまじないは強力な効き目をもっていたが、かけられるものが小さい時には、たえずかけなおしてやらなければ、長くは持たない。それでその晩ゲドはまんじりともできなかったのである。もちろん、ハヤブサやイルカに姿を変えれば、ずっと楽に、しかもずっと速く行けただろう。だが、オジオンから変身はしないように言われていたし、その忠告の重みはゲドにもよくわかっていた。彼は西に傾く星空のもとを南へ南へ航海を続けた。長かった夜がゆっくりと白んで、ついに初日があかあかと海を染めた。
日がのぼると前方に陸地が見えたが、船足はにぶっていた。日の出とともに天然の風はぱったりとやんでいた。ゲドは陸に近づこうと魔法の風をおこして、帆に軽くはらませた。陸地が見えたとたん、不安がまたよみがえってきて、彼は背を向けて逃げだしたい思いに駆られていた。だが、ちょうど猟師が大きなクマの足あとを見つけ、いつ何時、ふいに茂みから出て来ないとも限らないと不安におびえながらも、やはりその足あとをつけていくように、彼はあえて前進することにした。つけてきた当のものがすぐ近くにいることをゲドは感じとっていたからである。
近づくにつれてその姿をあらわにした島は、おもしろい形をしていた。遠くからは切りたったひとつの岩山と見えたのに、実際はいくつもの小島に分かれていて、その間に海が細く入りくんでいた。ゲドはロークにいた頃、名付けの長《おさ》の塔で数多くの地図に目を通したが、大部分が多島毎《アーキペラゴ》地域の図だったから、東海域の、この島の名は見当がつかなかった。もっとも、それほど知りたいとも思わなかった。それよりも気になるのは目の前に横たわる不安だった。自分を待ち伏せして、この島のどこかにひそんでいる不安だった。森の中か、傾斜地のどこかか。ゲドは、しかし、まっしぐらに進んでいった。
やがて舟は塔のようにそびえたつ崖の真下にやってきた。はるか崖の上には緑の木々がびっしりと生えていた。岩に当たって飛び散るしぶきを帆に受けながら、ゲドは魔法の風に乗って、ふたつの大きな岬の間に舟を進めていった。入江は島の奥深く入りこみ、幅はガレー船二|艘《そう》をつなげたぐらいしかない。水は狭いところに押しこめられ、あちこちの岩にぶつかって、たえず立ち騒いでいた。ゆるやかな渚と呼べるものはなかった。崖はほとんど垂直に海に落ちていた。水面は高い崖に光をさえぎられてひえびえと暗かった。風はなく、あたりはひっそりと静まり返って、耳を打つのはただ波の音ばかりだった。
影はオスキルの荒野にゲドをおびき出し、つぎには霧にまいて暗礁に乗り上げさせたが、今度もまた何か謀っているのだろうか。自分が相手をここに追いこんだのか。それとも、相手がこちらを誘いこんだのか。これもまた、ひとつの罠《わな》なのか? ゲドにはわからなかった。たしかなことはただふたつ、今、自分が不安に駆られていることと、しかしこのまま進んで、やりだしたことはやりとげなければならないということだった。悪霊を倒し、つきまとって離れない不安をその源までつきつめていかなければならない。ゲドは前後左右、絶壁の上から下まで、くまなく目を光らせながら舟を進めていった。元旦の日の光は外海にあって、入江までは入って来ず、あたりは薄暗かった。振り向くと岬の入口は小さく遠ざかって、明るい戸口を遠くに見るようだった。奥へ奥へと進むにつれて、崖はいっそう高く頭上に突き出し、入江はますます狭くなっていった。ゲドは暗い入江の奥に目をこらし、左右の崖を注意深く見上げた。崖には大きな穴があいているかと思うと、巨大な漂石《ひょうせき》が突き出ていて、木々は根をなかば宙に浮かせて、崖っぷちにしがみつくように生えていた。何ひとつ微動だにしなかった。そろそろ入江の一番奥にさしかかっていた。幾筋もしわのよった大きな岩が目の前に立ちふさがり、入江はいつか小川ほどにせばまって、行く手をはばまれた波がひたひたとその岩壁を洗っていた。岩の落ちたのや、木の幹のくさったのやら、曲がりくねった木の根などのために、舟の通る道はいっそう狭くなっていった。罠だ。静まり返った山の根方にあったのは黒い罠で、ゲドは、その罠にはまりこんでしまったのだ。前方にも頭上にもおよそ動くものの影はなく、すべては死んだように静まり返っている。そこから先へ進むのは、もはや不可能だった。
ゲドは水中に隠れた岩に乗り上げたり、張り出している木の根や枝にひっかからないようによく注意して、まじないとにわかづくりのオールで舟の向きを変えた。舳先は、また、外海に向けられた。
彼は入ってきた入江をもどってゆくために、まじないを唱えて、風をおこそうとした。と、急にまじないのことばが唇に凍りつき、からだの芯が冷たくなった。ゲドはひょいとうしろを振り返った。同じ舟の中にあの影が立っていた。
もしも、その一瞬を逃していたら、ゲドはやられていただろう。が、彼には心構えができていた。彼は、目の前でたじろぎ、震えている影にとびかかっていった。魔法などあってもどうにもならなかった。命を持たないものに向かって、彼は今、その肉を、命そのものをかけてぶつかっていった。ものを言う必要はなかった。彼はただやみくもに攻撃に出た。激しいからだの動きに、舟は大揺れに揺れた。鋭い痛みが腕を這いのぼって胸をしめつけ、息をつまらせた。からだは氷のように冷えていって、やがて目が見えなくなった。だが、影をつかんだその手には、何も残ってはいなかった。闇と空気以外には……。
ゲドは前につんのめりそうにたって、あわててマストにつかまった。目に光がもどってきた。折しも、影はじりじりと後退していくところだった。影はいったん縮まり、それから帆におおいかぶさるようにひろがったが、つぎには、風に舞う黒い煙のようにすっかり形を崩して、明るい入江の入口のほうに流れていった。
ゲドは両ひざをついた。魔法のかかった小舟はまた大きく揺れたが、波間に漂ううちに揺れは少しずつおさまっていった。彼は冷えきった自分のからだを抱いて、苦しそうに息をしながら、舟の中にうずくまっていた。ふと冷たい水が手にふれて、彼ははっと我にかえった。そうだ、舟に気をつけなくては。魔法の力が弱まってきたんだ。彼はマストがわりの杖につかまって立ちあがると、精一杯呪文を唱えた。おそろしく寒く、疲れていた。手も腕もひどく痛んだ。力はすっかり使い果たされていた。このまま、海と山の接するこの暗い場所に横になって、波に揺られながら眠ってしまえたら、とゲドは思った。
彼はこのけだるさが、影が逃げていく時に自分にかけた魔法からくるのか、影との接触で伝わった冷たさが原因なのか、それとも、単に空腹と睡眠不足と体力の消耗が原因なのか、その判断がつかなかった。しかし、ともかくもゲドは必死にそれとたたかった。彼は疲れたからだに鞭打って、魔法の風をおこして帆にはらませ、影のあとを追うように、暗い入江を下っていった。
恐怖は消え去っていた。喜びもなかった。もはや、追跡ではなかった。彼は追う者でも追われる者でもなかった。三度、両者は出会って、触れた。彼は自分の意志で影と向かい合い、生きた手でそれをつかまえようとした。つかまえることはできなかったが、両者はいつか切っても切れないきずなで結ばれていた。今となっては相手をやっつける必要もなければ、あとをつける必要もなく、空を飛んだところで益することもなかった。どちらも相手から逃れることはできなかった。いよいよの時と場所にいたれば、その時こそ、両者はひとつになるだろう。
だが、その時その場所に行き着くまでは、海にいようが陸にいようが、昼であろうが夜であろうが、ゲドにはどんな安らぎも望めないだろう。つらいことだが、彼にはよくわかっていた。自分がしなければならないことは、しでかしたことを取り消すことではなく、手をつけたことをやりとげることだった。
彼は暗い崖の間をぬって外海に出た。日のこぼれそうに明るい朝だった。静かな北風が吹いていた。彼はアザラシの皮の袋に残っていた水を飲みほすと、西はずれの岬に舟をめぐらした。岬をまわると、海をはさんでその西にもうひとつ島が見えた。ゲドははたと思いあたった。東海域の地図が頭に浮かんだ。そうだ。ここは手の形島≠ネんだ。カルガド帝国に向かって、手の形に山脈《やまなみ》をのばしている対にたった手の形島とはここのことだったんだ。彼はふたつの島の間を舟を進めていった。午後になって、嵐を思わせる雲が北からわきあがってくる頃、彼は西島の南の浜に降り立った。奥から小さな川が流れてきて、海に注いでいた。そこに村があることは舟から見てわかっていた。どんな迎え方をされようとかまわなかった。彼はただ、水と火と眠るところがほしかった。
村人たちはゲドの杖に恐れをなし、その顔に警戒を強めて、なかなか打ち解けたかったが、それでも、嵐が近づいている時に、たったひとり海を渡ってやってきた人間には、精一杯の手厚いもてなしをしてくれた。人びとはゲドに食べ物も飲み物も借しみなく与え、火を焚いてそのからだを温めてくれた。久しぶりに見る火はうれしかったし、人の話す声はなつかしかった。それに、そのことばは同じハード語だった。だが、何にもましてありがたかったのは、塩に汚れたからだを洗うだけのたっぷりした湯と暖かな寝床を提供してくれたことだった。
九 イフィッシュ島
ゲドは西島のその村で三日間を過ごして、体力の回復をはかり、つぎの航海に備えて舟を準備した。今度の舟は流木とまじないでつくり上げたまがいものではなく、ちゃんとした板を使い、しっかりと木釘でしめ、まいはだ[#「まいはだ」に傍点]を詰めて水もれを防いだ正真正銘の舟で、マストも帆も専用の丈夫なものがついていた。これだったら、航海も楽で、必要な時に眠ることもできるだろう。北国や辺境海域のほとんどの船がそうであるように、この舟もよろい張りで、荒波にも持ちこたえられるように張り板の端を重ねていって、しっかりと張り合わせてあった。舟のどこをとっても、頑丈で、実によくできていた。ゲドはその上に、さらに魔法をかけて舟を補強した。今度の船旅は長くなりそうな気がしていた。舟は大人が二、三人乗れるようにできていた。持ち主だった老人の話では、兄弟たちとこの舟に乗って何度荒海を越え、悪天候をついて航海したかわからないが、いつも無事に帰ってこられたとのことだった。
ゴントの抜け目のない漁師とちがって、この老人は、ゲドの魔法がよほど不思議で恐ろしいものに思えたのか、舟はただでくれてやると言いだした。だが、ゲドは魔法使いらしいやり方で、老人の好意に報いた。そのままでは盲《めしい》になるしかなかった老人のそこひ[#「そこひ」に傍点]を治してやったのである。老人は心底喜んで、彼に言った。
「わしらはこの舟をイソシギと名づけて呼んどりましたが、これからははてみ丸≠ニ名まえを変えて、舳先《へさき》の両側に目でも描いといてくだせえまし。わしの感謝の思いが、なんも見えん張り板から目をのぞかぜて、座礁などせんようにお守りしますに。世の中、こんなに明るいたぁ、光をとりもどしてくださるまで、わしゃ、すっかり忘れてしもうておりました。」
ゲドは、手の形島の険しい山をすぐうしろに背負ったこの村にいる間に、力がもどるのを待って、まだ他にもいくつかの仕事をした。ここの人びとはゲドが子ども時代を送ったゴントの北谷の人びとを思い出させたが、暮らしはさらに貧しかった。彼は人びとといると金持ちの屋敷などでは決して味わえない気安さを覚えた。彼には、わざわざきいてみなくても、人びとの気持ちがよくわかった。そこで、彼は足萎えの子どもや病気がちな子どもにはそれが治る魔法をかけ、人びとの飼っているやせこけた羊や山羊にはよく太るよう魔法をかけた。そして、機や船のオールをはじめ、人びとが持ってくる青銅や石の道具にはよく仕事をするように神聖文字でシムン≠ニ刻み、各家の屋根の棟木には、同じく神聖文字でピル≠ニ書きつけた。こうしておけば、家が火事になったり、風に吹きとばされたりすることがないばかりか、中に住む人間も、どんなことがあっても発狂せずにすむのである。 はてみ丸の準備が整い、水や干し魚なども舟に積みこまれたが、ゲドは出発を一日のばして、村の吟唱詩人に『モレドの武勲《いさおし》』と『ハブナーの歌』を教えてやることにした。多島海《アーキペラゴ》の船がこの手の形島までやってくることはめったになかったから、百年も昔につくられた歌も人びとの耳には届いておらず、彼らは英雄たちの話をぜひとも聞きたいと言いだしたからである。もしも自分に課せられた仕事が待っていなかったら、ゲドは一週間でも、いや、一か月でも喜んで村にとどまって、すぐれた歌の数々が新しい島にもひろまるように、知っている限りの歌を人びとにうたって聞かせたことだろう。だが、それはむろん今のゲドにはできない相談だった。彼は翌朝帆をあげると、広々としたさいはての海をまっすぐ南へ下っていった。影のあとを追ったのである。影の去った方角を知るには何のまじないもいらなかった。見えない、けれど丈夫な糸にひかれるように、彼はためらいなく南を選んだ。どれほど離れていようと、途中にどんな海があり、島があろうと、問題ではなかった。彼はただ行くべきだと信じる道を、急がず、淡々とした気持ちで進んでいった。冬の風がそんなゲドを南へ南へと押しやってくれた。
舟は一昼夜、物影ひとつ見えない海を進み、二日目にある小さな島にやってきた。ヴェミッシュ島というのだと、あとで教えられた。小さな港に居合わせた人びとはうさんくさそうにゲドを見た。間もなくまじない師も駆けつけてきた。まじない師はしばらくゲドの顔を見つめていたが、やがて深々と頭を下げ、へつらいと尊大さのまじった声で言った。
「これはこれは、魔法使いさま、御無礼をいたしました。何かお役に立てましたらうれしゅうございます。どうか、航海にお入り用なものはなんなりと御用命くださいませ。食べ物でも、飲み物でも、帆布でもロープでもなんでもございますし、ただいま、娘には、お舟にお届けするように。できたてのつがいの鶏の丸焼きを取りにやらせております。ただ、こう申しますとなんでございますが、御用が整いしだい、ここをお発ちになって旅をお続けになるのがよろしいかと存じます。島民はただいまいささか動揺しております。それと申しますのも、ついおとといのこと、ひとりのおひとがやはり北から来て、南へ行く途中この島を通られたのでございますが、それが徒《かち》でして、舟が入った形跡も出ていった形跡も、まったくない。誰ひとり舟影を見た者はなかったのでございます。しかも、人間なら誰にでもある影というものを持ってはおらなかったようで。その男を見た者たちは、それがあなたさまにどこか似ていたと申すのでございます。」
それを聞いて、今度はゲドが、深々と頭を下げた。そして、くるりと踵《きびす》を返すと、桟橋にもどり、振り返りもせずに港を出ていった。今、島民を不安に陥れたり、まじない師を敵にまわしたりすることは無益なことだった。それくらいなら、今夜も海で眠り、まじない師が言ったことを考えてみるほうがよかった。彼は今しがた聞いたことがひどく気になっていた。
日が暮れた。夜になって冷たい雨が降りだし、一晩じゅうしとしとと降りつづいた。そして、灰色の夜明けがきた。相変わらずのおだやかな北風に乗って、ゲドの乗った、はてみ丸は南へ南へと航海を続けた。昼すぎには雨があがり、霧も晴れて、時々日が射すようになった。そして夕方、右斜め前方に低くはあるが大きな島影が浮かび上がった。冬の落日を浴びて、山々はくっきりとそのひだを浮かび上がらせていた。山あいの小さな町ではどこも、夕餉《ゆうげ》の煙が瓦屋根の上に青くたなびいて、海に飽いたゲドの目を喜ばせた。
彼は一団の漁船のあとについて港に入り、金色に輝く夕暮れの町をしばらく歩くうち、ハーレキ亭という旅籠《はたご》を見つけて、立ち寄った。暖炉の前にすわって、ビールを飲み、羊の焼き肉をほおばるうち、彼は身も心も温められていった。店にはあとふたり、東海域の商人とおぼしき船旅の男がいたが、ほかの客の大部分は、ビールを一杯やりながら、おしゃべりを楽しみ、あわよくば、おもしろい話でも聞けたらとやってきた地元の男たちだった。彼らは手の形島の素朴で内気な漁師とちがって、いわば根っからの都会人で、敏活で、それでいながら、ちっとやそっとのことでは騒ぎ立てることをしない人びとだった。おそらく、彼らは、ゲドが魔法使いであることをすでにみてとっていたのであろうが、誰もそのことについてはふれなかった。ただ、店の主人が話のついでに――この男はたいへん話し好きな男だったのだが―― こう言っただけだった。「ありがたいことに、このイズメイの町にはロークの学院で訓練を受け、大賢人さまからじきじきに杖をいただいた世にもすぐれた魔法使いがいてくださる。この島のもうひとつの町とかけもちで、今はこちらの町にはおられんが、お住まいはこの町の先祖伝来のお屋敷だし、ここでは、他にはもう、高尚な術を持った人などいりませんわなあ。」それから、彼は屈託ない笑顔で、こう付け足した。
「それ、なんでも、ひとつの町にふたつの杖ではけんかになるっていうじゃありませんか、ねえ、だんな。」
ゲドはそのことばを聞いて、自分がまじないをして暮らしをたてる旅の魔法使いと見られ、あまり快くは迎えられていないことを知った。こうして彼は、ヴェミッシュではけんもほろろな追い立てをくらい、イズメイではそれとない、ものやわらかな拒否にあって、東海域の人間は親切だと聞いていたが、と首をかしげ始めた。この島はイフィッシュ島といい、友人のカラスノエンドウの生まれた島だった。しかし、カラスノエンドウが言ったほど人情の厚いところだとは彼にはどうも思えなかった。
だが、そうは言いながら、よく見れば、人びとはやはり親切そうな顔をしている。ただ彼らには、ゲドがどこか自分たちとなじめない、縁の遠い存在であること、彼がひとつの宿命を背負って、暗黒の世界の何かを追っている人間であることがわかっていたのだろう。ゲドの存在は暖かな部屋に流れこむ冷たい隙間風のようであり、また、遠いよその国から嵐に乗って運ばれてきたクロドリのようでもあった。ここの人びとのためを考えれば、ゲドはできるだけ早く、不吉な運命をひっさげて町を出ていくべきなのだ。
「わたしは旅の者。一晩か二晩ごやっかいになります。」彼は旅籠の主人に沈んだ声で言った。主人はすみに立てかけてある大ぎなイチイの木の杖をちらと見たが、無言のまま、ゲドのコップになみなみとビールをついだ。
ゲドには、このイズメイに自分は一晩しかいるべきでないことがよくわかっていた。ここの人びとは彼が来たのを喜んではいなかった。いや、ここだけでなく、どこでもそうだった。彼は自分が行くように運命づけられたところに行くしかないのだ。だが、吹きさらしの海と、語しかけてくれるもののまったくないあの静寂は思っただけでもつらかった。彼は、(イズメイには一日だけ。あしたは出ていくのだぞ)と自分に言いきかせた。その晩はなかなか寝つかれなかった。
翌朝目を覚ますと、雪がちらついていた。ゲドはあの小路この横丁をぶらついた。誰も自分たちのことにかまけていて、彼に注意をはらう者はなかった。子どもたちは毛皮のケープを着て、雪合戦や雪だるま作りに夢中だった。通りをへだてて向かいの家と大声でしゃべっている声が聞こえた。鍛冶屋が仕事にいそしむ傍らでは、まだ顔に幼さの残る徒弟が真っ赤な顔をし、汗だくになりながら、ふいごで風を送っていた。冬の日は短い。ほんのりと灯《ひ》のともった窓からは機を織る女たちの姿が見えた。女たちは時折にっこりと振り返っては夫や子どもに語りかける。家の中には暖かな火が燃えていた。ゲドは連れもなく、たったひとりで、窓の外からこうした情景をながめていた。さびしいとは思いたくなかったが、心は重く沈んでいた。暗くなっても、ゲドはまだ町をうろついていた。宿にもどる気にはなれなかった。男女のふたり連れが楽しそうに語らいながらやってきて、彼とすれちがい、そのまま広場のほうへ行こうとした。ゲドははっとして振り返った。男の声に聞き覚えがあった。
ゲドはすぐさまふたりのあとを追い、追いついて横に並んだ。遠くの街灯のあかりがわずかに届いて、そのうすあかりの中にゲドの姿が浮かび上がった。少女は後ずさりした。が、若者のほうはゲドを見すえ、悪魔を追い払おうとでもするように、持っていた杖を高々とかかげた。なんということだ!
「億えていてくれるものと思っていたのに。おれだよ、カラスノエンドウ。」ゲドの声は小さく震えていた。
カラスノエンドウはそう言われても、なおしばらくためらっていたが、やがて、「きみか、きみだったのか!」と叫ぶと、杖をおろし、ゲドの手を取って、その肩をかたく抱きしめた。
「ほんとだ、きみだ。まぎれもなくきみだ! よく来てくれた。ほんとによく来てくれたなあ!それなのにおれはなんというあいさつをしてしまったんだ。幽霊にでも追いつかれたようなふるまいをして。――だけど、信じてくれ。おれはきみが来るのを待ってた。ずっと待ってたんだよ。」
「じゃあ、イズメイでみんなが自慢している魔法使いってのはきみのことか? おれは……。」
「そう、おれがここの魔法使いだ。だけど、聞いてくれ。どうしてこのおれに、すぐきみがわからなかったのか。おれのこと、ずいぶんひどいやつだと思ったろうな。だけどな、三日前――そうだ、きみは三日前、このイフィッシュにいたかい?」
「いや、きのう来たところだ。」
「三日前、おれは向こうの山あいのクウォアという村の通りできみを見かけたんだよ。いや、そうじゃない。きみのうつし絵、あるいはきみの模造人間と言うべきかな。それとも、もしかしたら、ただきみにそっくりの男だったのかもしれない。その男はおれの前を歩いていて、村を出て、おれの見ている前で、たしかに道を折れたんだ。おれは声をかけたが、返事はなかった。それで、急いで、あとを追ってみた。だけど、男は消えてしまっていなかった。足跡ひとつないんだ。ただ、歩いたあとの地面が凍っていた。へんだった。そんなことがあったあとで、きみが暗がりからぬっとあらわれたもんだから、てっきり、また例のやつだと思ったのさ。すまん、ゲド。」彼はゲドの本名だけは、うしろで待っている少女に聞こえないように小声で言った。
ゲドもまた低い声で友だちの本名を言った。「いや、エスタリオル、気にしないでくれ。だけど、おれは本物だよ。会えて、ほんとにうれしいよ……。」 多分カラスノエンドウは相手の声にただの喜び以上のものを感じとったのであろう。彼はゲドの肩を抱いたまま、今度は真《まこと》のことばで言った。
「ゲド、きみは闇の中からあらわれた。しかも、何か困っているようだ。だけど、そんなことはどうでもいい。とにかくうれしいよ、おれは、きみが来てくれて。」それから、東海域なまりのハード 語にことばをもどして続けた。「いっしょに来いよ。ちょうど家に帰るところだったんだ。もう暗がりにいるのはやめて、家の中に入らなくちゃ。こっちは妹。おれたちきょうだいの末っ子なんだ。見ての通り、顔はおれよりましだけど、頭の中味はどうかな?ノコギリソウって呼ばれてるんだ。おい、ノコギリソウ、こちらはハイタカ。おれの友だちだ。仲間じゃ一番できがよかったんだぞ。」
「これは、魔法使いさま。」少女は言って、つつましやかに頭を下げ、東海域の女たちの作法に従って、両手でその目を隠して敬意を表した。やがて、あらわれた目は美しく澄み、はにかみながらも、好奇心にきらきらと輝いていた。歳《とし》は十四歳くらいかと見え、その肌は兄に似て黒く、やせて、ほっそりとしていた。腕には片手におさまりそうな小さな、それでいながら翼も爪も持った竜がちょこんと乗っていた。
三人は夕闇の垂れこめた道を連れ立って歩き出した。途中ゲドが言った。
「ゴントではゴントの女は勇敢だというが、腕環がわりに竜を巻いてる娘さんには一度も会ったことがなかったな。」
ノコギリソウはこれを聞くと声をあげて笑いだした。
「これはただのハレキ。ゴントにはハレキはいませんの?」言ってしまってから彼女はふと恥ずかしそうに、目を伏せた。
「いや、いない。竜もいないよ。じゃあ、それは竜ではないのか。」
「ちっちゃい竜なんです。カシの木に住んでて、スズメバチや毛虫やスズメの卵などを食べて、これ以上大きくはなりません。そういえば、兄がよくあなたさまが飼ってらしたペットのこと話してくれました。こわい動物で、オタクとかいう――まだいますか?」
「いや、もう……。」
カラスノエンドウは物問いたげに振り返ったが、あえて口を開かず、ずっとあとになって、彼の家の石の炉端にふたりきりになるまで、そのことについてはひとこともたずねなかった。
カラスノエンドウはイフィッシュ全島を担当する魔法使いだったが、住まいは自分の生まれたこの小さな町に置いて、ふたりの弟妹と暮らしていた。亡くなった父親は相当の財をなした貿易商で、その家は広くがっちりとしており、彫り物をした棚や櫃《ひつ》には高価な陶器や織物、青銅や真鍮の壺などが品よくおさまっていた。家族の集まる広間の片すみにはタオン風の大きな竪琴があり、別のすみにはノコギリソウがつづれにしきを織る機が置いてあったが、それには象牙がはめこんであった。そこでは、カラスノニンドウはどんなに静かに、さりげなくしていても、やはりすぐれたひとりの大魔法使いであり、同時に一家の主人だった。家には元気いっぱいの弟と、小さな魚のようにおとなしいが、すばしっこそうなノコギリソウのほかに家事全般をとりしきる年とったふたりの召使いがいた。ノコギリソウは兄とその友だちのためにテーブルを整えて夕食を出し、いっしょに食事しながらふたりの話を黙って聞いていたが、食事が終わると間もなく自分の部屋にひき下がってしまった。ここでは何もかもゆったりと落ち着いていて平和だった。ゲドは暖炉の火の暖かに燃える部屋を見回して、深いため息をついた。
「人間ならやっぱりこんなふうに暮らさなきゃな。」
「そりゃ、そうかもしれないけど、こればっかりじゃないさ。なあ、よかったら二年前別れてからあと、いったいきみにどんなことがあったのか、話してくれないか。それから、今どんな旅をしているのかも。見たところ、ここにもそう長くはいてくれそうもないじゃないか。」
ゲドはいっさいのことをカラスノエンドウに話した。カラスノエンドウは聞き終わると、しばらくの間、なにやらじっと考えこんでいたが、やがて口を開いた。
「ゲド、おれもいっしょに行くよ。」
「だめだよ。」
「いや、行く。」
「だめだよ、エスタリオル。これはきみの仕事じゃないし、きみに責任があるわけでもない。このとんでもないことをおれは自分で始めてしまったんだ。だから結着は自分でつける。他の人には誰にも迷惑をかけたくないんだ。ことにきみにはな。きみはいっとう最初から、いつもおれに手を引かせようとしてきたじゃないか、なあ、エスタリオル……。」
「そうか、誇りこそいつだってきみの主人だったもんな。」カラスノエンドウは笑いながら言った。まるで、どちらにもたいして関係のないことを話しているような口ぶりだった。「だけどな、考えてみろよ。これはたしかにきみ自身の旅だ。しかし、万が一失敗に終わってみろ。多島海《アーキペラゴ》に警告をもたらす人間がいるか?その時は、影の力も今よりずっと強大になっているんだぜ。いや、逆にきみが相手をやっつけた場合を考えてみたっていい。多島海《アーキペラゴ》に帰って、きみの武勲《いさおし》が知れ渡り、歌にうたわれるように、みんなに知らせる奴が誰か必要じゃないか。きみの役に立たんことはよくわかっている。だけど、おれはいっしょに行くべきだと思うんだ。」
そう言われると、ゲドも断わるわけにはいかなかった。
「今日はもうここを発つべきだったんだ。そうとわかっていながら、おれはぐずぐずしていた。」ゲドは言った。
「魔法使い同士が偶然に出会うなんてことはないさ。」カラスノエンドウは言った。「それに、きみも今、自分で言ったように、おれはきみの旅のはじめに居合わせた。だったら、最後まで付き合うのが当然じゃないか。」
カラスノエンドウは暖炉の火に新しいたきぎを足した。ふたりは燃えさかる炎を見つめながら、しばらくの間、無言だった。
「ローク山でのあの晩以来、気になりながら、学院でも、誰にもきけずにきてしまった男がいるんだが……。ヒスイのことだ。」
「ああ、彼なら、ついに杖はもらえなかったよ。あの年の夏、ロークを去ってオー島に行ってね。オー・トクネの領主おかかえのまじない師になった。それ以上のことはおれも知らん。」
ふたりはまた押し黙って、じっと火に見入った。外は寒かったが、暖炉の縁に腰をおろし、足を火の中につっこむようにしていると、からだの上の方まで温まって、なんともいえず気持ちがよかった。少しして、ゲドが思いきったように口を開いた。その声は重く沈んでいた。
「エスタリオル、気になることがあるんだ。きみがいっしょに行ってくれるとなると、余計気になる。おれは手の形島の入江の一番奥で影と対決した。そいつはおれの手の届くところにいた。おれはそいつをつかんだ。いや、つかもうとした。だけど、なんにもつかめなかった。おれはそいつを打ち負かすことができなかった。そいつは逃げた。おれはあとを追った。また同じことになるかもしれん。今度もな。おれにはあの影をやっつけるだけの力がないんだ。それに、この旅の終わりは死でも勝利でもないのかもしれん。歌にすることなどないのかもしれんし、第一、終わりというものがないのかもしれん。もしかしたらおれは死ぬまで、影を追って、海から海へ、陸地から陸地へ、はてしない、むなしい旅を続けなきゃならんのかもしれないんだ。」
「その話ストップ!」カラスノエンドウが左手をあげて、話を止めた。暗い気持ちでいたのに、これにはゲドも思わず笑ってしまった。魔法使いどころか、まるきり子どものやることだった。カラスノエンドウにはいつも、こんな素朴な無邪気さがあった。だが、本人は真剣で、決して茶化しているわけでもなんでもなかった。
「それはまた深刻だな。だけど、おれはそうは思わんよ。おれは最初を見たからには最後も見られると思っている。それに、どっちにしたって、きみはそいつの本性やらなにやらを知るだろう? そうすりゃ、こっちのもの。きっと負かすことができるよ。そいつが何者か、それこそがたしかにむずかしい問いなんだが……。ところでおれもずっと気になってて、わからないことがひとつあるんだ。影は今、きみの姿をして、あるいは少なくともきみとそっくりな人間の姿をして動きまわっているらしい。ヴェミッシュでそうだったというし、このイフィッシュでもおれ自身が見たとおりだ。どうしてそうなんだろう?なぜ多島海《アーキペラゴ》ではそうはならなかったんだろう?」
「辺境海域ではものさしもちがうって言うじゃないか。」
「うん、そりゃ、本当だよ。ロークで勉強したことで、ここでは全然効かないか、悪くすると事をまずくするまじないがあるし、逆にロークではまったく勉強したことがないのでも、ここではちゃんと効くのがあるんだ。どこにも、その土地にしかない力が働いていて、内海から遠く離れれば離れるほど、そういう力やその支配の仕方などがわかりにくくなるんだよ。だけど、影が姿を変えるのは、それとは関係ないと思うけどな。」
「おれもそう思う。影から逃げるのをやめて、逆に影を追い始めた時、相手に対するおれのそういう気構えの変化が当の相手に姿形を与えたんだと思う。もっとも、それからというもの、こちらの力も奪われなくなったがな。おれの行動はどれもこれも、必ずむこうに反応をおこさせるんだ。おれの分身みたいだよ。」
「そいつは、オスキルではきみの名まえを呼んで、どんな魔法も使えなくしちまったんだろう? それなのに、手の形島ではどうして同じことをしなかったんだろう。」
「わからん。もしかしたら、おれの力が弱まるとそのぶんだけむこうが強くなって、ものを言う力が出てくるのかもしれん。口のきき方だっておれとそっくりなんだ。おれの名まえだって、どうして知ったんだろう?ゴントを出てからというもの、おれは海の上で、そのことばっかり考えてきた。だが、わからん。ひょっとしたら、むこうは姿形を持とうが持つまいが、とにかく自分では全然しゃべれなくて、魔性のもののように他人の口を借りてしゃべるのかもしれん。おれにはわからないよ。」
「じゃあ、今度会う時は、きみが魔性のものに姿を変えなきゃ。」
「うん。」とゲドはいったん答え、悪寒でもするかのように両手を火にかざした。「だけど、おれはそんなことしないよ。おれとそいつとは互いに離れられないようになっているんだ。スカイアーにしたように自由自在におれから離れてそこらの人間にとりつき、その人間を空っぽにしてしまうなんてことは、できなくなっている。もっとも、そいつはおれにとりついて、おれを意のままに動かすことはできる。もしも、おれがまた弱気になって、そいつから逃れようとしたり、きずなを断ち切ろうなどとすれば、そいつはおれにとりつくだろう。それなのに、おれが力いっぱいつかんだら、そいつは霞《かすみ》みたいになって、逃げ出してしまったんだ……。今度もそうなるかもしれん。だけど、こんなにしょっちゅう出くわすようになったところを見ると、むこうも逃げられないのかもしれんな。となると、おれは血も涙もないそいつと永久に付き合わされるというわけだ。名まえさえわかればむこうを屈服させることができるんだが、それがつかめない限りは……。」
カラスノエンドウはじっと考えこんでいたが、やがて、たずねた。
「暗黒の世界に住む者にも名まえはあるのかい?」
「大賢人のジェンシャーさまはないと言うが、おれのオジオン師匠はあると言う。」
「「師匠同士の議論には果てがない」と言うもんな。」とカラスノエンドウは笑いながら言ったが、その笑いにはどこか厳しさがまじっていた。
「オスキルで会った太古の精霊に仕えていた女は、そこの石が影の名を教えてくれる、と自信ありげだったが、おれは、今でもそれはあんまりあてにならないと思っている。だが、おれが身を引けば、その名を教えてやるとぬかした竜がいてな、そのことば、ずっと考えてきたんだ。師匠たちより竜のほうが物知りかもしれないし……。」
「物知りには物知りだが、親切ではないな。だけど、今言った竜って、何だい? きみ、竜と口をきいたなんてことは、まだ、おれに話してくれてなかったじゃないか。」
こんなふうにして、ふたりはその晩遅くまで語り合った。話はいつもゲドの目前に横たわる深刻な問題に立ち返ってきたが、ふたりいっしょにいれば、それも苦にはならなかった。ふたりの友情はそれほどに確固として、時間がたとうが、事が起ころうが、揺らぐものではなかったのである。翌朝ゲドは友人と同じ屋根の下で目を覚ました。寝覚めの床はうつらうつらと気持ちがよくて、悪や危険は遠い世界のことに思われた。ゲドはその日一日、この夢のような安らかさを思いおこしていた。彼はこれをよき前ぶれというよりはむしろ天の恵みと受けとっていた。ここが最後の安息所になりそうな気がした。それならば、たとえ短い夢であっても、思いきり仕合わせにひたろうではないか。
イフィッシュを発つ前にしておかなければならないことがあったので、カラスノエンドウは見習いの若老を連れて、よその村に出かけていった。ゲドはノコギリソウとその兄のウミガラスといっしょに家に残った。ウミガラスは三人兄妹の真ん中だったが、まだほんの子どもにしか見えなかった。彼には魔法を使う力も、それゆえに起こるさまざまな苦悩もなく、このイフィッシュの島を除けばトク島とホルプ島しか行ったこともなかった。その日々は安穏として、心をわずらわすものは何もなかった。ゲドは驚きと一種の羨望をこめて彼を見やり、彼もまた同じ思いでゲドをながめた。同じ十九歳だというのに、こんなにもちがっているとは、どうにも不思議なことに思われた。十九にもなりながら、この男はどうしてこんなにのんきでいられるのだろう、とゲドは思った。ウミガラスの端整な、活気あふれる顔を見ていると、ゲドには自分がいかにも貧相で、とげとげしい人間のように感じられてならなかった。相手が自分の顔の傷跡を見て、竜の爪跡と勘違いし、それこそはまさしく英雄のしるしとうらやんでいようとは、ゲドは知るよしもなかった。
ふたりの若者はこんなふうにして、お互いになかなか打ち解けなかった。けれども、ノコギリソウのほうは、自分の家で、しかも主婦がわりをつとめなければならないこともあって、早々にゲドに対する遠慮の気持ちを払い捨てた。ゲドはノコギリソウにたいそう親切で、彼女のきくことにはなんでも答えてやった。ノコギリソウが言うには、カラスノエンドウは少しも答えてはくれないとのことだった。彼女はゲドたちが持っていく乾バンを焼いたり、舟に積みこむ干し魚や肉、その他さまざまな食べ物を小分けして包むのに、二日間てんてこまいをした。とうとうゲドが見かねて、そのへんで止めてくれと頼んだ。セリダーまで直行することは考えていなかったからだ。
「セリダーって、どこなの?」ノコギリソウはきいた。
「ずっと遠い西海域にあって、ネズミの数ほども竜がいるところ。」
「それなら、このままここにいらっしゃればいいのに。ここの竜はネズミくらいしかないし。はい、これがお肉。それだけで、ほんとに足りるかしら? だけど、それにしても、わたしにはどうしてもわからないわ。あなたも、うちの兄も、どちらもすごい力を持った魔法使いなんでしょう。それならちょっと手を動かして、呪文を唱えれば、なんだってできるはずなのに、どうしておなかをすかせたりするの? 舟に乗ってて、食事の時間がきたら、「ミートパイよ、出ろ!」って言えばいいんでしょ? そしたら、パイが出てくるんだから、それを食べればいいじゃないの。」
「そりゃ、そうしようと思えばできないことはないさ。だけど、わたしたちは、自分たちのことばを食べることはしたくないんだ。「ミートパイよ、出ろ!」って」言たって、それはつまるところ、ことばでしかないだろ?そりゃ、香りだって、味だってつけられるし、それを食べれば腹いっぱいにもなる。だけど、それはやっぱり、所詮ことばなんだ。満腹感だけは味わえても、腹のすいた人間が、それで本当に元気になるということはないんだよ。」
「じゃあ、魔法使いってのは、コックじゃないのか。」台所のいろりをへだててゲドと向かい合わせにすわり、木箱のふたに彫り物をしていたウミガラスが口をはさんだ。彼はそれほど熱心とはいえなかったが、一応、木彫細工の職人だった。
「コックだって、魔法使いじゃなくってよ。」ノコギリソウがひざまずいて、かまどに入れた最後のパンの焼け具合を見ながら言った。「だけどね、ハイタカさん、わたしにはもひとつわからないの。わたしは、兄が、いえ、兄だけじゃなくて、お弟子さんだって、暗闇でひとこと言うだけで灯《ひ》をともすのを何回も見てきたの。ちゃんと、明るくね。道を照らすのはことばじゃなくて、あかりでしょ?あかりだからこそ、見えるんじゃないの。」
「その通りだよ。」ゲドは答えた。「光は力だ。偉大な力だ。われわれはそのおかげでこうしてあるんだもの。だけど、光はわれわれが必要とするからあるんじゃない。光はそれ自体で存在するんだ。太陽の光も星の光も時間だ。時間は光なんだ。そして太陽の光の中に、その日々の運行の中に、四季の運行の中に、人間の営みはあるんだよ。たしかに人は暗闇で光を求めて、それを呼ぶかもしれない。だけど、ふだん魔法使いが何かを呼んでそれがあらわれるのと、光の場合とはちがうんだ。人は自分の力以上のものは呼び出せない。だから、いろいろ出てきたとしても、それはみんな目くらましにすぎないんだ。実際にはありもしないものを呼び出すこと、真《まこと》の名を語ってそれを呼び出すことは、ちっとやそっとではできないことで、だからその術は決して軽々しく使ってはいけないんだよ。腹が減ったくらいで使うようなものではないんだ。ノコギリソウ、ほら、竜のおチビさんがパンをとったよ。」
ノコギリソウはゲドの口もとを食い入るように見つめて、必死に話に聞き入っていたので、ハレキがいろりに下がる自在鉤《じざいかぎ》の上にとりつけたとまり木からするするとおりてきて、自分のからだよりも大きたパンをつかんだのに気づかなかった。彼女は言われて、急いで、そのうろこのある小さな生き物をひざに抱き、パンをちぎっては一口ずつ食べさせ始めたが、そうしながらも、ゲドの言ったことをしきりに考えているふうだった。
「じゃあ、あなたはほんとのミートパイを呼び出したりはなさらないとおっしゃるのね。それは、そのう、兄がいつも言ってること――なんて言ったかしら―― 、そのなんとかいうものを崩したくはないからなのね。なんて言ったかしら、ほら……。」
「均衡と言ったんでしょう。」ノコギリソウがあんまり真剣だったので、ゲドもつい固い口調で答えた。
「そうそう、それよ。でも、あなたは難破なさったあと、ほとんど全部を魔法でこしらえあげた舟に乗って、そこをお発ちになって、それでも、水もれはなかったんでしょう?それもやっぱり目くらまし?」
「そう、部分的にはね。なにしろ、あちこち大きな穴があいてて、そこから海がのぞけるんじゃ心配だろ?それで、それらしく見えるようにつぎをあてたんだよ。だけど、そんなことをしたって、実際の舟の力は目くらましというわけにはいかないし、ないものを呼び出すわけにもいかない。そちらはくくりの魔法をかけたんだ。そうしたら、板がしまって、ちゃんとした舟になってね。水がもらなきゃ、これはもう、れっきとした舟さ。」
「でも、おれが乗った舟は何度か水もれしたよ。」ウミガラスが言った。
「ああ、わたしの舟も、魔法がきれないようにしょっちゅう気をつけてないと、すぐ水もれが始まったもんだよ。」ゲドはすわったまま、前かがみになって、かまどからバンを一個取り、両手で包みこんだ。「わたしもパンをもらったよ。」彼は言った。
「そんなことして、やけどなさったでしょう。それに、今、そんなことなさったら、島影ひとつ見えない海の上で食べ物がなくなった時、きっと、そのパンのこと思い出して、ため息をつくことになるわよ。「あーあ、あの時あのパンを盗んでなきゃ、今頃、食べられたのになあ」って。――さてと、じゃあ、わたしも兄のぶんをひとつ減らしておきましょうね。兄もひもじさにお付合いできるように。」
「均衡とは、こうして保たれるんだな。」ゲドが言った。ノコギリソウは、まだ半焼けのパンを取って、ふうふういいながら食べていたが、ゲドのことばに思わず吹き出した。が、すぐまじめな顔にもどって、つぶやいた。
「あなたのおっしゃることが本当に理解できたら、どんなにいいでしょうに。わたしったら、おばかさんで……。」
「いや、ノコギリソウさん。」ゲドは言った。「わたしの説明がまずいんだよ。もうちょっと時間があったら……。」
「時間はあるよ。」ウミガラスが言った。「あんただって、兄貴といっしょに帰ってきて、ここに少しくらいは立ち寄ってくれるんだろ?」
「ああ、もし、できたらね。」ゲドは張りのない声で答えた。
会話がとぎれた。少しして、ハレキがとまり木にもどるのを見届けてから、ノコギリソウがきいた。
「これだけは教えて。もしも、秘密でないことだったら。光以外に大きな力というと、ほかに、どんなものがあるの?」
「それだったら、秘密でもなんでもないよ。どんな力も、すべてその発するところ、行きつくところはひとつなんだと思う。めぐってくる年も、距離も、星も、ろうそくのあかりも、水も、風も、魔法も、人の手の技も、木の根の知恵も、みんな、もとは同じなんだ。わたしの名も、あんたの名も、太陽や、泉や、まだ生まれてない子どもの真《まこと》の名も、みんな星の輝きがわずかずつゆっくりと語る偉大なことばの音節なんだ。ほかには力はない。名まえもない。」
「死は?」彫りかけの木箱のふたにナイフを休めて、ウミガラスがきいた。
少女は黒髪のつややかに輝く頭を低くたれて、ゲドの返事を待った。
「ことばが発せられるためにはね。」ゲドはゆっくりと言った。「静寂が必要だ、前にも、そして後にも。」それから彼は急に立ちあがった。「わたしにはこういうことについて語る資格はない。わたしは言うべきことを誤って言ってしまった。口をつぐまなければ。もう二度としゃべりはせん。それに、闇以外に真の力はないのかもしれん。」それだけ言うと彼は炉端を離れ、暖かな台所をあとにして、マントを手に表の通りへ出ていった。外は冷たい霧雨が降っていた。
「あの人は呪われてるよ。」ウミガラスがゲドを見送って、恐ろしそうにつぶやいた。
「あの方は今度の旅で命をおとされるんじゃないかしら。」ノコギリソウは言った。「それがわかっていながら、行こうとなさっておられるんだわ。」
彼女は顔を上げた。いろりの赤い炎をすかして、一|艘《そう》の舟が見えた。舟は冬の海を連れもなくやってきて、また茫漠たる海へひっそりと去っていく。一瞬少女の目に涙があふれそうになった。が、彼女は口に出してはひとことも言わなかった。
カラスノエンドウは翌日帰ってくると、今度はイズメイの重立った人びとのところにいとまごいに出かけていった。誰も彼も、こんな真冬に、しかも自分の仕事でもないのに、死を賭《と》した旅に出ていくのには大反対だった。しかし、どんなに反対したところで、誰も彼を止めることはできなかった。しつこく引き止める老人たちに弱りはてて、カラスノエンドウはついに言った。
「わたしは生まれからいっても、しきたりからいっても、この町の者だし、皆さんに対する義務だって負っています。わたしは誰のものでもない皆さんの魔法使いです。ですが、おわかりいただきたい。わたしは召使いだが、皆さんの召使いではない。自由になって帰れる時が来たら、必ず帰ってきます。それまでのお別れです。」
明け方、東の空が灰色に白む頃、ふたりの若者は、はてみ丸に乗り、茶褐色の丈夫な帆を北風にあげて、イズメイの港をあとにした。桟橋にはノコギリソウが立って、ふたりを見送った。それはアースシーのどこの波止場でも見られる光景と変わりなかった。船乗りの女房、姉妹たちはみんな埠頭に立って、夫を、兄を、弟を見送る。彼女たちは手を振ることも、声をはりあげることもしない。茶色か灰色のフード付きのマントを着て、じっとたたずんでいるだけだ。女たちのたたずむ岸壁は船からだんだん遠ざかって小さくなり、両者をへだてる海は刻一刻とひろがっていく。
十 世界のはてへ
港ははるか後方に沈んで見えなくなり、漁師の書いてくれた、はてみ丸の目は波をかぶりながら、どこまでも広い、荒涼とした海をにらんでいた。二昼夜たって、ふたりはソーダーズ島に着いた。たいへんな悪天候の続いた百マイルだった。ただ、停泊時間はわずかだった。彼らは、ただ、飲み水を補給し、タールを塗った帆布を買えばそれでよかった。帆布は索具をぬらさないためのものだった。今まで、こういうものは用意したことがなかった。魔法使いなら、ふつう、こんなものはほんのちょっとした呪文でそろえられるからだ。実際、海水を淡水化することだって、ごく簡単な魔法でできるから、わざわざ飲み水を持ち歩く必要も実は魔法使いにはない。だが、ゲドは自分の術を使うことをどうしても嫌がり、カラスノエンドウにも使わせようとはしなかった。彼はただ、「使うべきではない。」と言っただけだったが、友人のほうも、あえてわけをたずねて、議論するようなことはしなかった。それというのも、帆が初めて風をはらんだ時、ふたりはすでにただならぬ予感に鳥肌立つのを覚えていたからである。静かで平和な湾も、安全な港も、いっさいが背後に遠のいていた。ふたりはそれらをあとに、今や、すべてが危険をはらみ、どんな行為も意味なしではすまされないところにやってきていた。ここでは、ちょっとした呪文ひとつが、いつ何時、運命を変え、力の均衡を崩すかしれなかった。というのは、ふたりは今、まさにその天秤《てんびん》の中心点、つまり、光と闇とがぶつかう合う地点に近づいていたからである。このような旅をする者は、一言一句のもの言いにも気をつけなくてはならない。
再び港を出て、白い雪原がゆるやかに霧深い山中に消えるソーダーズの海岸線にそって航行したあと、ゲドは舟の舳先《へさき》を再び南へ向け、いよいよふたりは、多島海《アーキペラゴ》のどんな貿易商人といえども誰ひとり船を乗り入れたことのない、さいはての海へ入っていった。
カラスノエンドウは、ゲドが自分の意志で勝手にその航路を選んだのではなく、しなければならないことをしているのだとわかっていたから、それについて、あえてただすことはしなかった。ソーダーズ島がしだいに小さくなり、その島影が薄れていくにつれて、舳先の波音は大きくなり、灰色の海はふたりをとりまいて、空のはてへぐんぐん運んでいった。
「この先には、どんな島があるんだい?」と、ゲドがきいた。
「ソーダーズの真南には島はもうないんだ。東南にはだいぶ行ったところに少しだけある。ペリマーとコルネイとゴスク、それとアスタウェルで、アスタウェルは端島ともいう。その先はどこまで行ってもずっと海原が続いているだけだ。」
「西南は?」
「ロラメニ島がある。これはおれたちの東海域に属する島のひとつだ。それと、そのロラメニ島のまわりに小さな島が少し。あとは、もう、南海域に入るまでない。南海域はルードとトゥーム、それに耳島ってのがあるけど、そこは人間は行かないんだ。」
「おれたちは行くかもしれたいぞ。」ゲドが意地悪く言った。
「ごめんこうむりたいな。」カラスノエンドウが言った。「骨だとか、そんな気味の悪いものがごろごろしてて、実に嫌なところだそうだ。船乗りたちの話では、耳島と、もうひとつファー・ソールの近くの海からは、他の場所からは絶対に見えない、名まえのない星がいくつか見えるそうだ。」
「そういえば、初めておれをロークまで乗せてってくれた船にも、そんなことを言ってた者がいたな。その男、南海域のはずれのいかだ族の話をしてくれた。なんでもその部族の者たちは年に一度いかだの丸太を切りに陸に上がるほかは、年じゅう海原を漂っていて、陸からはまったく見えないんだそうだ。いっぺん、そのいかだの群を見たいものだな。」
「おれは、遠慮するね。」カラスノエンドウが苦笑しながら言った。「おれには陸地と陸地の仲間がいい。海は海、おれはおれだよ。」
「おれは、多島海《アーキペラゴ》の町という町を全部見ておきたかったって気がする。」ゲドが帆綱を握り、目の前にひろがる灰色の海原を見つめて言った。「世界の中心地ハブナーも、神話の発祥地エアも、ウェイにある泉の町シリエスも、町という町、島という島、大きいものから小さいものまで、外海にある人跡未踏の島々も含めて、おれは行ってみたかった。竜の道をまっすぐたどって西へ下ってもみたかったし、北の氷原をつっきって、ホーゲン大陸にも行ってみたかった。あの大陸は、多島海《アーキペラゴ》の島全部を集めたよりもまだ大きいれっきとした大陸だという人もいれば、氷の原銀続くばかりで、ところどころに洲《す》と岩とがのぞいているだけだという人もいる。誰にもわかっていないんだ。それに、北方の海にいるというクジラも見たい。だが、もうそれも無理だな。おれは明るい岸辺に背を向けて、運命の定めるところに行くしかないんだ。おれは一度もゆっくりしたことがなかった。今も、もう時間がない。おれはたったひと握りの力のために、明るい日の光の中で暮らす喜びも、大きな町や、遠くの島々へ出かけて行く楽しみも、犠牲にしてしまった。みんな、ひとつの影のために、あの得体の知れないもののために。」
それから、ゲドは、魔法使いに生まれついた者の常で、その不安と悲しみを短い悲歌によみ――それは自分のためばかりではなかったが――連れの者はそれを受けて、『エレス・アクベの武勲《いさおし》』から、その主人公のことばを引用した。
「ああ、再び大地を踏みしめ、あかき炉端とハブナーの白き家々をこの目にせんことを……。」
ふたりは、こんなふうにして、広い、がらんとした海をひっそりと舟を進めていった。その日、ふたりが目にしたのは、南に向かって泳いでいた銀色の魚のひと群だけで、水面にはイルカ一頭はねず、灰色の空にもカモメやウミガラスやアジサシの飛ぶ姿は見えなかった。東の空が暗くなり、西の空が赤く燃えだすと、カラスノエンドウは食べ物を取り出し、ゲドにも同じように分けて、言った。
「これで酒は終わりだ。寒さの中、旅する男たちはせめて喉をうるおせ、と酒を用意してくれたわが妹ノコギリソウに祝福あれ、だな。」
暗い海のかなたに目をやって、鬱々とした思いにひしがれていたゲドは、このことばにはっと我にかえり、カラスノエンドウよりも、おそらく、もっと心をこめて、杯をあげた。彼女のかしこそうな目の輝きや、子どもっぽい愛くるしさが思い出された。彼女のような少女は初めてだった。(本当は初めてもなにも、彼は若い娘というものをまったく知らなかったのだが、そんなことにはとんと気づいていなかった。)
「あのひとは、水のきれいな小川を泳ぐメダカかなんかみたいだな。」ゲドは言った。「大胆で、だけど、どうしてもつかまらない。」
これを聞くとカラスノエンドウはまっすぐ彼の顔をみて、笑いながら言った。
「さすが、生まれついての魔法使いだけあるぞ。あいつの本名はケストというんだ。」
ケストとは、太古のことばでメダカのことをいう。カラスノエンドウのこのことばは、ゲドを心の底から喜ばせた。が、少したって、彼は低い声で言った。
「あのひとの名まえをおれにしゃべるなんて、いけなかったんじゃないか。」
だが、カラスノエンドウは、決して軽はずみでしゃべったわけではなかった。
「おれと同じだ。あいつもきみになら大丈夫だよ。それに、おれが教える前からきみは知ってたじゃないか。」
夕日に赤く染まっていた西の空は灰色に変わり、灰色はやがて黒に変わった。海も空も、すべては闇に包まれた。ゲドは眠ろうとして、毛皮をあしらった毛織りのマントにくるまり、舟底に横になった。カラスノエンドウは帆綱を握って、『エンラッドの武勲《いさおし》』にある歌を静かに口ずさんでいた。白き魔法使いモレドがオールのない船でハブナーを発ってソレア島にやってきて、春の果樹園でエルファーランに会ったいきさつを語る歌である。歌はやがてふたりの恋のいたましい結末を物語る。モレドは死に、エンラッドは減び、押し寄せた海の水はソレアの果樹園を飲みこんでしまう。だが、カラスノニンドウがそこまでうたわぬうちに、ゲドは眠りにおちていった。真夜中近く、ゲドは目を覚まし、カラスノエンドウと見張りを交替した。ふたりの乗った小舟は帆をねらう強い風を逃れるように、真っ暗な海をやみくもに疾走した。が、いつの間にか雲が切れ、明け方近くには、雲のふちをかすかに染めて細い月が海面を弱く照らしていた。
「もうじき闇夜が来るんだな。」カラスノエンドウが夜明けに目を覚ましてつぶやいた。いっとき、冷たい風がやんだ。ゲドは顔をあげて、白みかけた東の海上に光る月を見た。が、何も言わなかった。冬至のあと、初めてやってくる闇夜の期間は「物忌み」といって、夏のあの月夜の祭りと舞踏の祭りの正反対に位置するものだ。この期間は旅人にとっても、病人にとってもありがたくない時である。物忌みの間は、子どもたちは真《まこと》の名をつけてもらえないし、武勲《いさおし》の歌はうたってはならないことになっている。剣も、鍬や鎌の道具類も研いではならないし、どんな誓いもたてられない。この時期は一
年でもっとも闇の濃い時期で、何をしても、うまくいくことはないのだ。
ソーダーズを発って三日、ふたりは、灰色の海から頭を高く突き出したペリマーという小さな島にやってきた。島民の話すことばはハード語だったが、しゃべり方はカラスノエンドウでさえ、初めて耳にするものだった。ふたりは真水がほしいのと。ひと休みしたいのとで舟をおり、まずは驚きと興奮の渦の中に迎えられた。島の中心となっている町にはまじない師がいたが、このまじない師は気がふれていた。彼は口を開けば大きな海蛇のことを言うのだった。なんでも、その大きな海蛇はペリマーの土台を食い荒らしていて、そのために、島はまもなく、もやい綱の切れた舟のように漂いだし、やがて世界の縁を越えて、外へ流れ出ていってしまうだろうというのだ。彼は最初若い魔法使いたちに丁寧にあいさつしたが、海蛇のことを話すうちにしだいにゲドを見る目つきが変わり、そうこうするうち、海蛇のスパイだ、召使いだと、道の真ん中でふたりをののしり始めた。そのあとでは、ペリマー島民は、ふたりをうさんくさそうに見るようになった。気がふれていても、彼はやはり彼らのまじない師だったからである。ゲドとカラスノエンドウは長居をあきらめ、暗くならないうちに再び舟に乗って、南東の方角に向けて船出した。
この航海の間じゅう、ゲドは影のことにはひとこともふれず、旅の目的についてもあからさまに口に出すことはしなかった。アースシーのよく知った島々をあとに、ふたりで遠く、同じ旅を分かち合いながら、カラスノエンドウがたずねたことと言えば、せいぜい「大丈夫かい?」のひとことだった。すると、ゲドは、「鉄は磁石にひっぱられるだろう?」とだけ答え、それでカラスノエンドウもうなずき、ふたりはもうそれ以上はお互い口をつぐんだまま、また航海を続けた。だが、ふたりは昔の魔法使いたちが、邪《よこしま》な力や生きものの隠れた名をあかすために用いた術や策略については、折にふれて話し合った。パルンのネレガーは竜たちの話を盗み聞いて、黒い魔法使いの名まえを知り、モレドはニンラッド平原の戦場で、降ってきた雨が敵の名を地面に書いてくれているのを見たという。ふたりはもの探しの術や、まじないや、ロークで最後に様式の長《おさ》が行った杖≠フ問答について、さまざまに語り合った。だが、ゲドは、そんな時にも、ふっと、「聞こうというなら、黙っていなくてはな……。」とつぶやいて急に口をつぐんでしまうことがよくあった。それは何年か前のある秋の日、オジオンがゴント山で言ってくれたことばだった。彼はいったんそうやって黙りこむと、あとは何時間でも舟の行く手に目をこらして、何かじっと考えこんでいた。ゲドは何日か先、この陰鬱な遠い海のかなたで出会うものをすでにその目に見ているのではないか。追い求めてきたものを見、ふたりの旅の暗い最後をも、すでにこの男は見通しているのではないか。カラスノエンドウには、そう思われてならなかった。
ふたりは悪天候の中をコルネイとゴスクの間を通りぬけた。霧と雨のために、どちらの島も見えなかったが、翌日前方にいくつもの塔のように絶壁がそそり立つ島を見つけて、その通過を知った。島の崖の上では無数のカモメが輸をかいて飛び、ネコに似た鳴き声はまだはるか遠くにいるゲドたちの耳にも聞こえてきた。
「見たところ、どうもアスタウェルのようだな。」カラスノエンドウが言った。「とすれば、さいはての島だ。その先、東と南は、地図にも何もかいてない。」
「しかし、あそこに住んでる者は、もっとその先を知ってるかもしれんぞ。」ゲドが言った。
「なぜ、そんなことを言う?」カラスノエンドウがきいた。ゲドの口調には何かつらそうな響きがある。そして案の定、でてきた彼の返事はまたも滞りがちな、おかしなものだった。
「いや、あそこじゃない。」ゲドはそう言って、はるかに島を見やった。が、その視線は島を過ぎ、いや、むしろ島をすかして、さらにその先に注がれていた。「あそこじゃない。海でもない。海なんかじゃなく、乾き切ったところだ。どこと聞くか?外海の水源の手前、源の向こう、あかつきの門の裏……。」
ゲドはふいに押し黙った。そして、つぎに口を開いた時、その声はもういつもの声にもどり、数秒前のことはほとんど憶えていないようだった。まるで呪文にかかったか、白昼夢でも見ていたかして、たった今解放されたばかりといった感じだった。
アスタウェルの港は岩山の間を流れてきた川の河口にあって、島の北岸に位置しており、人家も全部北か西を向いて建てられていたので、遠くから見れば、島はいつもアースシーの人間世界に顔を向けているように見えた。
こんな季節に、はるばる海を渡ってアスタウェルまでやってくる船などなかったから、ふたりの到着に島の人びとはすっかり興奮し、あわてふためいてしまった。女たちは枝を編んでつくった粗末な小屋から一歩も出ず、まつわりつく子どもたちをスカートでかばって戸口から外をのぞいていたが、ふたりが舟をおりてあがってくると、不安そうに奥の暗がりに姿を消した。やせこけて、寒空にぼろをまとっただけの男たちは、険しい顔つきをしてカラスノエンドウとゲドをとりまいた。彼らの手にはめいめい石の斧《おの》か、貝殻で作った小刀がひそかに握られていた。だが、いったんふたりが自分たちに危害を加える者たちでないとわかると、彼らの態度はにわかに変わり、口々にさまざまなことをたずね始めた。ここにはソーダーズやロラメニの船さえもやってきてはいなかった。青銅や、何かちゃんとした物がほしくても、彼らには、かわりに差し出すものが何もなかったからだ。この島には材木と呼べるものさえなかった。舟といえば、アシを編んだ一人乗りの小舟であり、だから、それに乗ってゴスクやコルネイまでも行こうなどとは、よほど勇敢な者でなければ思わなかった。人びとは地図の端っこのこの島に、ひっそりと自分たちだけで暮らしていた。ここには、まじない女も、魔法使いもいなかったから、人びとには若い魔法使いたちが手にする杖の本来の意味などわかってはいないらしかった。彼らがそれをほれぼれと見たのは、それがほかでもない木[#「木」に傍点]でできた、めったに見られない貴重な品だったからである。島の長《おさ》はたいへんな高齢で、多島海《アーキペラゴ》生まれの人間を見たことがあるのは島じゅうで彼ひとりだった。ゲドは、だから、人びとにとっては驚異の的だった。男たちは噂に聞く多島海《アーキペラゴ》の人間を見せようと幼い息子たちを連れてやってきた。一生の思い出に、というわけである。彼らはゴントのことなど聞いたこともなく、せめて噂にでも聞いたことのあるのはハブナーとエアだけで、ゲドのことをハブナーの領主と思いこんでいた。ゲドは、自分もまだ見たことのないハブナーの白い町についてつぎつぎととびだす質問にも、できる限り答えてやった。だが、夕暮れが近くなると、ゲドはだんだん落ち着かない気持ちになっていった。とうとう彼は村の男たちにきいた。
「この島の東には何があるんだね?」
それはみんなで寄合小屋に集まっている時で、中央のいろりでは山羊のふんとエニシダが焚かれ、その煙が暖かく小屋にこもっていた。この島で燃料になるものといえば、このふたつしかなかった。
ゲドにそうきかれると、ある者は薄笑いを浮かべ、またある者は顔をこわばらせたが、しかし、誰ひとり自分から答えようとする者はなかった。ついに、長《おさ》がぽつりと言った。
「海よ。」
「この先、本当に島はまったくないのかね?」
「そう、ここでおしまい。この先にはもう島はない。ここから世界のはてまで、あるのは水ばかりだ。」
「だけど、この人たちは知恵ある人のようだし、船に乗って、あちこち旅していなさるから、」ひとりの若者が口をはさんだ。「おらたちの知らんことだって、知っていなさるかもしれん。」
「いや、ここより東に島はない。」老人はくり返した。それから、長いこと、ゲドの顔を見つめていたが、それ以上何も言わなかった。
その晩、ふたりはその小屋に寝た。煙くさかったが、暖かだった。夜明け前に、ゲドは小声で友だちを起こして言った。
「エスタリオル、起きてくれ。もう、こうしてはいられない。今すぐ出発しなくちゃいけないんだ。」
「こんなに早く、なぜ?」カラスノエンドウがねぼけ声できいた。
「早いどころか、遅すぎるくらいだ。つけてくるのがのろすぎたんだ。やつはおれから逃れる道を見つけてしまった。ということは、おれの運命をその手に握ったということなんだ。逃がしてはならん。どんなに遠くへ行っても、おれはやつのあとをつけなくちゃいけないんだからな。もしも、やつを見失ったら、おれは負けだ。」
「して、おれたちはどこへ行く?」
「東だ。来てくれ。もう革袋に水は詰めた。」
ふたりは、まだ、村じゅうが寝静まっているうちに小屋を出た。どこかの小屋で赤ん坊の泣き声がしたが、それもすぐにおさまって、あたりはまた静かになった。かすかな星あかりをたよりに、ふたりは河口への道をたどり、石塚にゆわえてあった舟のもやい綱を解いて、まだ真っ暗な海に舟を押し出した。こうして、ふたりはアスタウェルをあとに外海に乗りだした。冬の物忌み第一日目の日の出前のことだった。
その日、空は美しく晴れ上がった。北西の方角から吹いてくる天然の風は冷たく、荒れていたが、ゲドは魔法の風をあげていた。魔法を使うのは手の形島を出て以来初めてのことだった。舟は東へ東へ、飛ぶように進んだ。大きな波が襲ってきては水しぶきをあげ、日の光にキラキラと輝いた。そのたびに舟は揺れたが、かつての持ち主が言ったとおり、どこも傷むようなことはなかった。舟は、ロークのまじないかけをしたどんな舟にも劣らず、魔法の風に忠実に応えてくれた。
ゲドは午前中、風のまじないと、帆を補強するまじないを唱えたほかは、ひとことも、ものを言わなかった。それでカラスノエンドウは、快くとまではいかなかったが、舟の艫《とも》で、眠り足りたかったぶんを眠りなおすことができた。正午にふたりは食べた。ゲドが食べ物を分けたが、その分け方はいかにもけちけちしていた。なぜそうするかは明らかだった。しかし、ふたりとも、分け前の塩魚と小麦粉のパンをじっくりとよく噛んで、いらぬことは言わなかった。
午後もずっと、舟は東へ飛ぶように進み、その速度は片時もゆるまなかった。一度だけ、ゲドが沈黙を破って、きいた。
「きみは辺境の島々をはずれたら、あとはずっと海だと思うかい?それとも、地球には裏側があって、そこには別の群島や、未発見の大陸があるのだというほうに賛成かい?」
「いや、今のところはな、おれは地球は平たくて、だから、あんまり遠くまでいくと、縁から落っこっちまうと思ってる、そっちの連中と同じ意見だ。」カラスノエンドウは言った。
ゲドは笑わなかった。今や、彼は、おそろしく不機嫌になっていた。
「この世界の外に何があるか、おれたちの誰にわかるものか。一度だって沿岸を離れて外へ出ていったこともないくせに。」
「いや、そりゃ、何人かやった人間はいるさ。だけど、誰も帰ってこなかったんだ。言っておくが、おれたちの知らないところへ出ていってもどってきた船など一|艘《そう》もないんだぞ。」
ゲドは答えなかった。
夜に入っても、ふたりは強力な魔法の風を背に受けて、広い海原を東へ向かいつづけた。夕方から夜明けまで、ゲドは片時も休まず見張りを続けた。闇の中で、迫いつ追われつしてきたあの力がまたしだいに強くなっていたからである。月のない真っ暗な闇夜に目に映るものといえば、舶先に書かれているふたつの目しかなかったが、それでも彼はたえず前方に目をこらしていた。夜が明ける時分には、彼の浅黒い顔は疲労のために灰色になり、からだは寒さにすっかりこごえて、横になろうにも言うことをきかないほどだった。彼はわずかに「エスタリオル、魔法の風を今まで通り西から頼む。」とだけ言うと、一気に眠りにおちていった。
その日、日の出はついになかった。夜が明けると間もなく、北東の方角からしのつく雨がやってきたからだ。それは短い時間荒れ狂う嵐ではなくて、長時間続く冷たい冬の風雨だった。帆布を買ってかぶせてあったところで、屋根なしの舟とあっては中の索具はひとたまりもなかった。カラスノエンドウは自分も骨の髄までぬれてしまったような気がした。ゲドも、眠りながら震えていた。カラスノエンドウは友だちが気の毒になり、それに半分は自分のためもあって、休みたく雨を運んでくる風を、しばらくの間、魔法の力でよけようとした。しかし、魔法の風だけはゲドに言われたとおりに強く、安定したものに保つことができても、陸地から遠く離れてしまったここでは、天気を支配する彼の魔法の力はすっかり弱まっていて、外海の風は思うように言うことをきいてくれなかった。
カラスノエンドウは、そのことで今や恐怖を感じだした。人間の住む陸地からこんなに離れてしまって、ゲドにも自分にも、いったい魔法使いとしてどれほどの力が残っているのだろう。彼はそれが気になりだしたのだった。
ゲドはその晩再び見張りに立った。そして、夜通し、舟を東へ進めた。夜明けとともにいくぶん風が凪《な》いで、太陽も時折顔を見せるようになった。だが、波は相変わらず高かった。舟は大きく前後に傾き、山のような波に乗るかと思うと、つぎの瞬間にはあっという間もなく波間に突き落とされた。そして、また波に乗り、また落とされ、また波に乗り、また落とされ、それがはてしなく続くのだった。
その日の夕方、カラスノエンドウは長い沈黙を破って、口を開いた。
「なあ、ハイタカ。きみは前に、いつかはきっと陸に行き着くと言ったよな。おれはごちゃごちゃ言うつもりはないが、ただ、ちょっとだけ気になるんだ。これはきみが追っているものの仕掛けた罠《わな》なんじゃないかって。そいつはきみをだまして、人間の行けないところまで引きずり出そうっていうんじゃないだろうか。だって、おれたちの力はよその海では変わりもするし弱くもなるが、影ってやつは、疲れもしなければ飢えもせず、溺れるなんてこともないんだから。」
ふたりは今、ベンチに並んで腰をおろしていたが、ゲドの目は、深い、大きな淵をへだてて、どこか遠くからカラスノエンドウを見ているようだった。その目はつらそうで、返事はなかなかかえってはこなかった。
「エスタリオル、近くまで来てるんだ。」ようやく彼は言った。
その声を聞いて、カラスノエンドウは事実がことばどおりなのを感じ取った。彼はこわくなった。が、ゲドの肩に手を置いて、ひとこと言うだけに押さえた。
「そうか、よかった。よかったじゃないか。」
その晩もまたゲドが見張りに立った。暗闇では眠れなかったからだ。それに、三日目ともなると、眠る気にもなれなかった。舟は相変わらず、猛烈な速さで、東へ向かっていた。自分の力はすっかり弱まって、あてにならなくなっているのに、ゲドのほうはこんな外海でもいっこうに衰えず。強力な魔法の風をたえまなく起こしうることに、カラスノエンドウは驚いていた。舟はなおも東へ進みつづけた。ついにカラスノエンドウにも、ゲドの言ったことが現実になりそうな気がしてぎた。自分たちは今、海の水の湧きでるところを過ぎて、あかつきの門の裏側にまでも行こうとしているのだ。ゲドは舟の舳先に立ち、これまでと同じように前方を見つめていた。だが、今彼が見つめていたのは海ではなかったし、カラスノエンドウに見えていたのもまた、遠く空とひとつになってかすむ海ではなかった。ゲドの目に映っていたのは灰色の海も空もあわせて包みこむひとつの黒っぽい影だった。しかもその影はしだいに濃くなり、厚みを増していた。もっとも、カラスノエンドウにはこれはまったく見えていなかった。ただ、友人の顔を見た時に、彼も一瞬その影を見たようには思ったが、それきりで、あとは何もなかった。舟はなおも東へ東へと進みつづけた。けれど、同じ風、同じ舟がふたりを運びながら、海上を東へ向かっているのはカラスノエンドウだけで、ゲドのほうは、西も東もなく、日の出や日の入り、星の運行さえもない世界にひとり入りこんでしまっているようだった。
突然ゲドが舳先に立って、一声叫んだ。魔法の風は止んだ。はてみ丸もはたと止まって、小さな板きれのように波間を上下しはじめた。北方から吹きつける天然の風は相変わらずきつかったのに、茶色い帆はだらりとたれたままだった。舟は今や、大波の意のままにゆっくりと漂い始めた。だが、どちらの方角に向かうというのでもなかった。
「帆をおろしてくれ。」ゲドが叫んだ。カラスノエンドウが急いで帆をおろすうちに、ゲドはしぼってあったオールをほどいて、オール受けにすえつけ、背を曲げて、舟を漕ぐ体勢に入った。海は見渡す限り大きく波立っているのに、なぜオールを使うことにしたのか、カラスノエンドウは理解に苦しんだ。だが、彼はいま少し様子をみることにした。ほどなく、彼は天然の風が弱まって、波がしずまってきたのに気がついた。それにつれて舟の揺れもしだいに小さくなり、ついにはそれさえもなくなって、いつか舟は陸地に囲まれた湾のような静かな水面を、ゲドの力強いオールさばきで航行していた。カラスノエンドウには見えなかったが、ゲドはオールを動かしながら、何か行く手にあるものを気にしているふうで、何度も何度も肩ごしに振り返っては見ていた。そこの動かぬ星のもとには、今、黒々と傾斜をなしてひとつの島影が浮かび上がっていた。しかし、カラスノエンドウもさすが魔法使いである。その目にもやがて、波間に浮かび上がる黒い影がはっきりと見え始めた。ふと気がつくと、砂浜はもうすぐそこまで来ていた。
外海を陸地に見せかけるとは、これがもし目くらましの術だとしたら、信じられないほどの力技である。カラスノエンドウは懸命に心を落ち着けて、目あかしの呪文を唱えだした。この大海原に突然陸地が出現するとは!彼は呪文のとぎれ目にも、何か変化が起きてきはしないかとあたりに目をこらした。だが、何も起こらなかった。ひょっとしたら呪文は自分の目だけははっきりさせても、まわりにかかっている魔法には効かず、結局ここでは何の役にも立たないのかもしれない。いや、もしかしたら、これは目くらましなどではなく、話に聞く世界のはてまで自分たちはついに来てしまったのかもしれない。
カラスノエンドウのそんな心配をよそに、ゲドはたびたび振り返りながら、彼にだけ見えている洲《す》や浅瀬をよけてゆっくりと舟を漕ぎ寄せていった。間もなく、舟が揺れた。舟のすぐ下には深い海藻ひろがっていたはずなのに、それでも舟は何かに乗り上げたのである。ゲドがガチャガチャと音をたててオールをひきあげた。その音はふたりの耳にすさまじいばかりにこだました。それほどにまわりは静かだった。水の音も風の音も、木のふれ合う音も帆の音も、音という音はいっさい消えていた。あたりは永遠に破られるはずのなかった深い静寂に包まれていた。舟は徴動だにせず、そよとの風も吹かなかった。海は黒々とした砂浜に変わり、じっと、静止して動かなかった。暗い空にも、舟を包む闇と溶けあってどこまでも続くこの不思議な乾いた陸地にも、動くものの影はなかった。
ゲドは立ち上がると杖を手に、ひょいと舟べりをまたいだ。カラスノエンドウははっと息をのんだ。ゲドはそれきり海に落ちて沈んでいってしまうのではないか。空も光もいっさい見えなくなってはいても、この得体の知れないベールの下にはちゃんと海があるにちがいないのだ。だが、カラスノエンドウの心配ははずれた。海はなかった。ゲドは舟を離れて歩き出した。砂浜は彼の足跡を記し、その足もとで小さな音をたてた。
ゲドの杖が光を放ち始めた。だが、その光はぼうっとした弱い見せかけの光ではなく、まぶしい、目もくらむばかりの強い光だった。たちまちのうちに杖全体が燃えだした。握っているゲドの指が、真っ赤になった。
彼はずんずん舟から遠のいていった。が、どの方角へとはいえなかった。ここには西も東も南も北も、およそ方角などというものはなかった。あるのはただ、近づくか、遠ざかるかということだけだった。
カラスノエンドウには、ゲドのかかげる杖のあかりは、まるで、闇夜をゆっくりと動く大きな星の光に似て見えた。あかりをとりまく闇はしだいにその濃さを増していく。あかりをすかして前方を見ていたゲドもこのことに気づいていた。間もなく、彼は杖の投げかける光が闇にとってかわろうとする、その光と闇の境界に、またあの影を見た。影は砂の上をこちらに向かってやってくるところだった。
はじめのうちこそ、形をなしていなかったが、近づくにつれ、その影はしだいに人間の形をとりだした。灰色で、不気味な姿をしていた。それは一見老人を思わせ、ゲドもふと、鍛冶屋の父の面影を見たように思ったが、よく見れば、年寄りではなく、若者だった。それはほかでもないあのヒスイだった。銀のブローチのついた灰色のマントをはおり、若々しく美しい、だが、いかにも傲慢な顔をしたヒスイが、今、きびきびと大股な足取りで、こちらにやってくるところだった。闇をすかしてゲドを見すえるその目には、憎しみがこもっていた。だが、ゲドは立ち止まらなかった。彼は足の運びをゆるめ、少しずつ、杖を持つ手を上げていった。杖は輝き、その光を浴びるうちに、ヒスイの顔は消え、かわりにペチバリの顔があらわれた。しかし、ペチバリの顔は溺死した人間の顔のように青く、ぶくぶくにふくれあがっていた。彼は、おいでおいでをするように片手をさしのべた。それでもゲドは足を止めず、なおも前進した。両者の距離はほんの数メートルになった。と、急に、目の前の影がその形を変え始めた。それは大きな、薄い翼でもひろげるように左右にわかれてひろがり、激しくのたうち、ふくらんだかと思うと、やがて再びしぼんだ。 一瞬その中に、スカイアーの白い顔が見えた。それから、濁ったふたつの目があらわれてじっとこちらを見すえた。と、思う間もなく、突然見たこともない恐ろしい顔が浮かび上がった。人間とも化け物ともつかぬ顔だ。ひくひくと動くその唇と目は、暗黒の闇に消えていく小さな穴を思わせた。
ゲドは杖を高々とかかげた。杖は目もくらむばかりの白熱の光に燃えて、あたりを包む太古の闇さえもつき破った。その光の中を相手はなおもゲドに近寄ってきたが、もはやそこには人間の姿を思わせるものは何ひとつ残ってはいなかった。それは小さく縮んで黒ずみ、砂の上に四つん這いになって、こちらに向かっていた。短い足には爪が光っていた。顔はゲドの方に向けられていたが、そこには目も口も耳もなかった。あわや、両者がぶつかろうとした時、それはあたりを照らす白い魔法の光の中でその色を漆黒に変え、いきなり、立ち上がった。人間と影とは声ひとつたてずに向かい合い、立ちつくした。
一瞬ののち、太古の静寂を破って、ゲドが大声で、はっきりと影の名を語った。時を同じくして、影もまた、唇も舌もないというのに、まったく同じ名を語った。
「ゲド!」
ふたつの声はひとつだった。
ゲドは杖をとりおとして、両手をさしのべ、自分に向かってのびてきた己《おのれ》の影を、その黒い分身をしかと抱きしめた。光と闇とは出会い、溶けあって、ひとつになった。
だが、恐怖におののきながら、薄暗がりを通して、遠くからゲドを見ていたカラスノエンドウには、友人がやられたのだとしか見えなかった。あれほどに強かった光が弱まって、ぼうっとかすんでしまったからだ。
怒りと絶望に駆られて、彼は友人を救おうと、いや、それが無理ならせめて友人と死をともにしようと、砂浜に飛び出し、闇の中に薄れてゆくあかりに向かって、一目散に駆け出した。が、足を運ぶ先から足もとの砂は沈んでゆき、彼はまるで流砂か洪水に飲まれたように、もがきだした。ふと気がつくと、先ほどまでの静寂は破れて、耳もとで何かがうなり、頭上には昼の太陽が輝いていた。冬の寒さが身にこたえ、塩からい水が喉をさした。あたりはもとの通りになり、彼は波立つ海で、必死になってもがいていた。
舟はすぐそばで、空っぽのまま、灰色の波に浮かんでいた。カラスノエンドウにはほかには何も見えなかった。ぴしぴしと海水が目を打って、見ようにも見えなかったのだ。
屈強な泳ぎ手とはいえなかったが、彼は力の限りを出して、舟に泳ぎ着き、その身を中に引きあげた。そして、咳《せ》きこみ咳きこみ、髪から伝い落ちるしずくをぬぐいながら、茫然と、見るともなしにあたりを見回した。と、やがて、かなり遠くの波間に何か黒いものが目に止まった。つい先刻まで砂浜だったところは、今はもう、すっかりもとの波の荒い海にもどっていた。カラスノエンドウはオールにとびつくと、力いっぱい舟を漕いで友人のもとに駆けつけ、その腕をつかんで、舟べりから引っぱりあげた。
ゲドはぼんやりとして、その目は空《くう》を見つめていたが、どこにも、これといったけがはなかった。今ではすっかり輝きをなくした黒いイチイの木の杖は彼の右手にしっかりと握られ、彼はそれをはなそうとはしなかった。彼はずっと無言だった。ずぶぬれになり、疲れはてて、彼は震えながらマストの根もとにからだをまるめて横になり、カラスノエンドウを見ようともしなかった。カラスノエンドウは帆をあげ、北東からの風を受けるべく、舟の向きを変えた。ゲドの目にようやくこの世のものが映り始めたのは、日が沈んで暗くなった空の、長くたなびく雲の間から新月が顔を出した時だった。月は暗い海の向こうに今も輝く太陽の光を受けて、象牙の輪のように、あるいは角のへりのように、白く、細く輝いていた。
ゲドは顔を上げて、はるか西の空に光るこの新月に目をやった。
そうやって、彼は長い間月に見入っていたが、やがて、戦士が長剣を持つように、両の手で杖を握りしめて、すっくと立ちあがった。彼は空を仰ぎ、海をながめ、風にふくらむ茶色の帆を見上げ、それから友人の顔にその目を止めた。
「エスタリオル。」彼は言った。「な、終わったんだ。終わったんだよ。」彼は声をあげて笑った。「傷は癒《い》えたんだ。おれはひとつになった。もう、自由だ。」それから彼はうつむいて両腕に顔をうずめると、子どものように泣きだした。
その時まで、ゲドを見つめるカラスノエンドウの内部では、恐れと不安が渦をまいていた。あの暗黒の地で何が起こったのか、彼にはつかめていなかった。いっしょに舟に乗っているのがはたしてゲドかどうかも定かではなかった。彼の手は、だから、もう何時間も、いざとなったら錨がつかめるところに置かれていた。何か邪《よこしま》なものがゲドに姿を変えているのだとしたら、このままいけば、自分はアースシーの港に災いをもたらすことになる。それくらいなら、舟底に穴をあけて、今、この場で舟を沈めてしまったほうがいいと彼は思ったのである。だが、ゲドを見、その話すことを聞いて、カラスノエンドウが抱いていた不安は一度に吹きとんだ。彼には、今、ようやく、ことの真相がのみこめ始めた。ゲドは勝ちも負けもしなかった。自分の死の影に自分の名を付し、己《おのれ》を全きものとしたのである。すべてをひっくるめて、自分自身の本当の姿を知る者は自分以外のどんな力にも利用されたり支配されたりすることはない。ゲドはそのような人間になったのだった。今後ゲドは、生を全うするためにのみ己の生を生き、破滅や苦しみ、憎しみや暗黒なるものにもはやその生を差し出すことはないだろう。この世の最古の歌といわれる『エアの創造』にもうたわれているではないか。「ことばは沈黙に、光は闇に、生は死の中にこそあるものなれ。飛翔せるタカの、虚空にこそ輝ける如くに」と。カラスノエンドウは舟を西へ向かわせながら、声高らかにこの歌をうたった。広大な外海の冷たい冬の夜風がふたりの若者の背に吹きつけた。
八日間航海し、さらに八日間の船旅を重ねて、ふたりはようやく陸地の見えるところまでやってきた。その間、ふたりは何度も海水を革袋に汲んでは、魔法を使って、それを真水に変える作業をしなければならなかった。釣りもしたが、どんなに釣り人の呪文を唱えても、かかってくる魚はわずかだった。外海の魚は自分たちの名まえを知らなかったから、いかに魚の名を言って魔法をかけようとしても、効き目はなかったのである。食べ物がなくなって、残るは肉の燻製がわずかばかりとなった時、ゲドはノコギリソウの言ったことを思い出した。(かまどからパンを失敬したら、言ったっけな)と彼は思った。(海の上で、いよいよ食べ物がなくなった時に後悔することになるわよって。)彼はひもじかったが、しかし、ノコギリソウのことを思うと心がなごんだ。あのひとは、兄さんといっしょに帰ってきて、とも言ってくれたっけ。
東へ向かうには魔法の風で三日しかかからなかったが、同じ距離を西へもどるには結局、十六日もかかってしまった。冬の物忌みのさなかに、しかも、食糧もない釣り舟で、外海のそんな遠くにまで出ていって無事帰ってきた者は、このエスタリオルとゲドという若いふたりの魔法使いが初めてだった。ふたりは帰りの十六日間、これといった嵐にもあわず、羅針盤とトルベグレンという星をたよりに、行きよりはいくぶん北寄りのコースをとってもどってきた。そんなわけでアスタウェルには帰港せず、ファー・トーリーやスネッグの島影さえも見ずに通過して、ふたりがまず目にしたのはコピッシュ島最南端の岬だった。波の向こうに、巨大な要塞を思わせる崖が浮かび上がったと見るや、間もなく磯の上を鳴きながらとびかう海鳥の姿が見え始め、小さな村々のかまどの煙が風に青くたなびいているのが見えてきた。
そこからイフィッシュまでの舟旅は長くはなかった。ふたりはある静かな夕方、イズメイの港に帰ってきた。雪の季節にはまだ少し間があった。彼らは黄泉《よみ》の国の岸辺まで自分たちを乗せていき、無事つれ帰ってきてくれたはてみ丸を岸壁につなぐと、狭い道を魔法使いの家へとのぼっていった。戸口の敷居をまたぐふたりの心は、この上なく軽やかだった。家の中は、火があかあかと燃えて、暖かだった。ノコギリソウが飛び出してきてふたりを迎え、うれしさに声をあげて泣いた。
イフィッシュのエスタリオルは、ゲドのはじめての武勲《いさおし》を約束どおり歌によんだかもしれないが、今は残ってはいない。東海域には、陸地を遠く何日も離れた大海原の真っ只中で座礁したという一|艘《そう》の舟の話が今に伝わっている。イフィッシュでは、その舟に乗っていたのがエスタリオルだったということになっているが、トクへ行けば、それは嵐にあって漂流し、外海へ出てしまったふたりの漁師だということになっており、また、ホルプへ行けば、話の主人公はボルプ人の漁師に変わる。なんでも、その漁師は暗礁に舟を乗り上げ、どうしてもそこからぬけだせないで、今もなお、同じところで右往左往しているという。死の影の歌にしても同じで、長い年月の間に島から島へ流木のように流れ着き、伝えられた話があちこちに断片的に残ってはいる。だが、かんじんの『ゲドの武勲《いさおし》』には、外海への航海のことも、ゲドが影と出会ったことも、ひとこともふれられてはいない。あるのはそれ以外のこと、とりわけ、彼が傷ひとつ負わずに竜退治の航海から帰還したこと、アチュアンの墓からエレス・アクベの腕環をハブナーに持ち帰ったこと、あるいは、世界の島々を治める大賢人として、ついに再びロークにもどってきたことなどである。
訳者あとがき
本書は「ゲド戦記」全四巻(Earthsea Quartet)の第一巻 A Wizard of Earthsea,(1968)の翻訳である。この物語コレクション%りを機に全面的検討をこそ加えたが、訳文はハードカバーの児童書のそれと同じである。大人版だから、と変えてはいない。シリーズはこのあと、第二巻『こわれた腕環』(A Tombs of Atuan, 1971 )、第三巻『さいはての島へ』(The Farthest Shore , 1972)を経て、『帰還』(TEHANU――The Last Book of Earthsea, 1990 )へとたどりつく。
物語の舞台はアースシーとよばれる多島海世界。もちろん実在の世界ではなく、作者ル=グウィンの創造になる世界である。時代もいつとは限られていない。ただ、この第一巻『影との戦い』をお読みくださった方はすでにお気づきのように、ここには機械はない。アースシーは道具の世界である。もうひとつ読者は気づかれたにちがいない。主人公《ヒーロー》が黒い肌をしていること。そして作中、白い肌の人々はむしろ悪しき者たちとして描かれていることに。二十一世紀を目前にして、もはやそんなことにひっかかる必要はないのではないか。そういう声がすぐにもあがることは予想される。だが、この『影との戦い』が発表された一九六八年はアメリカの黒人公民権運動の指導者キング牧師が暗殺された年だった。ル=グウィンはのちに、自分はこのように人物を設定することで「頑なな人種差別に撃を加えたいと思ったのです」と語り、勇者といえば白人ときまっていたヨーロッパの伝統の外に主人公を置くことにより、この主人公を女たちと同じアウトサイダーにしたのだとも語っている(「『ゲド戦記』を生きなおす」『へるめす』四十五号)。
さて、己の内なる光と闇を一にして全き人間となったゲドは、第二巻『こわれた腕環』には竜王の誉れ高い勇者として、また知恵深い魔法使いとして登場する。読んでいくうちに私たち読者は、第一巻と第二巻との間にはこちらにむけては語られなかったいくばくかの年月が流れており、しかもその間にゲドは一冊の本がゆうに書けるほどの冒険をしていたのだということがわかってくる。だが、それを読者が知るのは物語のずっとあとのほうになる。そもそもゲドに会うのさえ、私たちは長時間待たなくてはならない。退屈か?いや、第二巻の幕があがるのを待ちかねたように、ひとりの幼い女の子がりんご園の小道をかけおりてくる。やがてこの物語のもうひとりの主人公になるテナーである。
ゲドがゲドになるのに一冊の本が必要だったように、テナーがテナーになるのにも一冊の本が必要だった。それに異性をうけいれることを私たちは焦ってはならない。いばら姫は王子をうけいれるのに十五年と百年の月日が必要だった。さすがにそれだけ待ったいばら姫はそのあとすぐに結婚できたが、多くの昔話は真の出会いのために、出会った男女を一度は別れさせている。ル=グウィンがそれを意識したかどうかはわからない。が、少なくとも、この作家はゲドとテナーの出会いをちゃちなロマンスには仕立てなかった。ゲドには為すべき仕事があり、テナーにもまた経なければならない過程があった。このときゲドの仕事とは二つに割れて行方知れずになっていた古くから伝わる腕環をひとつにして、世界に平和をよみがえらせることだった。ゲドはこの大仕事をやってのける。ただし、それはテナーがいてこその成功だった。
第三巻『さいはての島へ』に登場するゲドは大賢人になっている。彼は生きてきた知の世界(それは男にしか入れない世界でもあった)をその知恵と力と業績によって、最高位まで昇りつめたわけである。第二巻からは四半世紀の時間がたっている。ゲドには、しかし、今、自分が持てるすべてをかけてしなければならない仕事が見えてきている。継承の問題も考えなければならない。ついに彼は同行者としても、また後を託す者としてもふさわしいひとりの青年を見つけ、彼を連れて最後の冒険の旅に出る。人間の究極の欲望がひきおこした事態とは何だったか、何がゲドたちを待ちうけていたかが、この巻では語られる。
第四巻『帰還』が発表されたのは一九九〇年、第三巻の出版から十八年がたっていた。しかし、物語の中を流れる時間は第三巻からはほんの竜のひとっ飛び、いや、少し重なってさえいる。第二巻が終わって四半世紀。読者の前から姿を消していたテナーが中年の女性となって登場する。どんな二十五年だったのか。今どこにいて、これからどうするのか。ひとつの啓示のようにあらわれた幼い女の子。思いがけない姿で再びテナーの前に立つゲド。『影との戦い』を読みおえた読者のうちのいったい何人が第四巻の展開を予想できたろう。だが、これはまさに「ゲド戦記最後の書」と呼ぶにふさわしい一巻となっている。
ところで、作者アーシュラ・A・ル=グウィンは一九二九年、カリフォルニア州、バークレーに生まれた。父親は著名な文化人類学者のアルフレッド・L・クローバー教授(Alfred L.Kroeber,1867-1960)、母親は作家で、『イシ――北米最後の野生インディアン』(Ishi in Two Worlds, A Biography of the Last Wild Indian in North America, 1960)の著者として名高いシオドーラ・クローバー女史(Theodora Kroeber, 1897-1980)である。アーシュラはこの両親のもとで九歳の時からものを書き始めたというが、書くという行為あるいは習慣以上にクローバー夫妻がその生き方を通して娘に伝えたのは、イシに対するふたりの態度に象徴される、アメリカ社会ひいては世界のマイノリティーに対する姿勢、もっと言えば、自分たちが属する文明の優位を疑い、それを相対化して見ようとする態度であったように思われる。
長じてアーシュラはラドグリフ大学とコロンビア大学でフランス及びイタリアのルネサンス文学を専攻。一九五三年、フルブライト奨学生としてパリ留学中に知り合ったシャルル・A・ル=グウィン氏と結婚し、一男二女をもうけた。その後六〇年代後半から本格的な創作活動を開始、次々と作品を発表する一方、全米各地の大学で創作の講義をもち、また講演活動も続けながら今日に至っている。現在は州立ロートランド大学のフランス史の教授である夫君とオレゴン州ポートランドに在住。幼い孫たちと過ごすひとときを何より楽しんでいる。
ル=グウィンの肩書には「作家」の前にほぼきまって「SF」がつく。「ゲド戦記」を考慮してか、「ファンタジー」があわせつくこともある。ただし、最近はどちらもとれてきた、と皮肉っぽくル=グウィンは笑う。どちらの分野にも昔から思想も哲学もあったのにと。
日本でも、いち早くル=グウィンに注目したのはSF愛好者たちだった。今やSFの古典になった『闇の左手』が本国で発表されたのは『影との戦い』の一年後だったが、日本への紹介は四年もかかったからかもしれない。ル=グウィンのSFはその後も人々の根強い支持を得て、『天のろくろ』や『所有せざる人々』、最近では『オールウェイズ・カミングホーム』なども紹介されている。こうしてル=グウィンは長らくアメリカでSF界の女王≠ニ呼ばれてきたが、一方ではまたフェニミズムの旗手≠ニも呼ばれている。なぜそう呼ばれるかは、この「ゲド戦記」を含む彼女の作品のほか、エッセイ集『夜のことば』(The Language of the Night: Essays on Fantasy and Science Fiction, 1979)や『世界の果てでダンス』(Dancing at the Edge of the World, 1989)等を読めば、誰しも納得はいくであろう。
もっとも、作家がどう呼ばれるかなど、本当はどうでもいいこと。今はただ、この壮大なファンタジーの世界をひととき存分に楽しんでいただけたらと願っている。
一九九九年初秋
[#地付き]清水真砂子