【樹上の銀】
スーザン・クーパー
年も死にゆく死者の日に
風砕《くだ》く鳥の戸をくぐり
いと若き者 古山《こざん》を開くべし
風見る銀目を供《とも》とせる
鴉《からす》の童子《どうじ》より火は走り
<光>は金の琴《こと》を得ん
チョウゲンボウ鳴くカドヴァンの道の
佳《よ》き湖に眠る者
灰色王の影凄《すご》くとも
金の琴の歌にぞ目ざめん
駒《こま》に打ち乗り馳《は》せ参《さん》じん
失《う》せし国より光射《さ》す時
六騎士《きし》天翔《あまが》け、六つのしるし燃《も》え
夏至の樹高くそびゆる下にて
ペンドラゴンの刃《やいば》に<闇>斃《たお》れん
ア・マエント・アル・マナゾエズ・アン・カヌー、
アク・ア・マエル・アルグルワゼス・アン・ドード
第一部 <闇>の寄せ手が攻め来る時
夏至前夜《げしぜんや》
ウィルはページをめくりながら言った。「この人は大青《たいせい》がお気に入りだったんだ。こう書いてるよ――いいかい――『大青ヲ煎《セン》ジテ飲マバ、壮健ナル者即《スナワチ》チ田園ノ民等、重労働ト粗《ソ》食ニ馴染《ナジ》ミタル者ノ創傷《ソウシヨウ》ニ効験《コウケン》アリ』だって」
「つまり、ぼくや女王陛下《へいか》の海軍の仲間一同みたいな連中に効《き》くんだな」スティーヴンが言った。そして極《きわ》めて注意深く、丈長《たけなが》で頭でっかちな草の茎をさやから抜き出すと、野原に寝そべってそれをかじり出した。
「大青か」ジェイムスが桜色になった丸ぽちゃの顔から汗《あせ》の膜《まく》を拭《ぬぐ》った。「古代ブリトン人が体に塗《ぬ》りたくった青いもののことだろ?」
ウィルが言った。「ジェラードはこの本の中で、大青の花は黄色いって言ってるよ」
ジェイムスは少しいばって言った。「おい、ぼくのほうがおまえより一年よけいに歴史を勉強してるんだぜ。青い色を出すのに使ったことはわかってるんだ」間があった。ジェイムスは付け加えた。「青いくるみをいじると指が黒くなるだろ」
「まあ、いいや」ウィルは言った。ばかに大きな、ビロードのようにけばだった蜂《はち》が花粉をびっしりつけたまま、本の上に舞《ま》いおりて元気なくページの上をよたよた横ぎった。ウィルは目の上にかぶさる茶色くまっすぐな前髪をかきあげ、そっと吹いて蜂を木の葉に移らせた。寝転《ねころ》がっている野原の向こうの川の上に動くものがあって、それが目をとらえた。
「見て! 白鳥だ!」
暑い夏の日そのままのものうげな動きで、二羽の白鳥が音もなく漂《ただよ》って行った。小さな航跡《こうせき》が川岸をなめた。
「どこだい?」ジェイムスが聞いたが、見るつもりがないのは明らかだった。
「川のこのあたりが好きなんだよね。いつも静かだもの。大きなボートは土曜でも主流からそれては来ないしね」
「誰《だれ》か、釣《つ》りに行かないか?」と言ったものの、スティーヴンは仰《あお》向けに寝そべったまま動かず、長い片脚をもう片脚に交差させて、細長い草の茎を歯の間からゆらゆらさせていた。
「ちょっと待てよ」ジェイムスはあくびをしながら体を伸ばした。「ケーキを食べすぎた」
「母さんのピクニック弁当は相変わらず豪勢《ごうせい》だからな」スティーヴンは寝返りを打ち、灰色がかかったみどりの川を眺《なが》めた。「ぼくがおまえたちの年頃には、テムズ川のこのあたりでは釣りなんてまるで出来なかった。汚染《おせん》でね。いいほうに向かうものもあるんだな」
「微々たるもんだよ」ウィルが草の中から陰気に言った。
スティーヴンはニヤッとした。手を伸ばして、小さな赤い花をつけた細いみどりの茎を折り取ると、重々しく差し上げた。「紅はこべだ。『晴れなら咲いて、雨ならしぼむ、貧《まず》しき者の風見花』さ。お祖父《じい》ちゃんに教えてもらったんだよ。おまえたちがお祖父ちゃんを知らないのは残念だな。ウィル、おまえのジェラード氏はこいつについて何て言ってる?」
「うん?」ウィルは体の片側を下にて、疲《つか》れた熊蜂《くまばち》が翅《はね》を屈伸するのを見ていた。
「本だよ」ジェイムスが言った。「紅はこべ」
「ああ」ウィルはパリパリと音のするページをめくった。「あった。へえ、すごいや。『汁《シル》ハウガイ及《オヨ》ビ喉ノ洗浄《センジヨウ》ニ用イラルレバ頭毒ヲ清メ、鼻孔《ビコウ》ヨリ吸入サルレバ歯痛ヲ根治ス。後者ニ臨《ノゾ》ミテハ逆方《ギヤクホウ》ノ鼻孔ヲ通ジテ行ナワバ効験更《コウケンサラ》ナリ』
「逆方の鼻孔ね。当然だ」スティーヴンがまじめくさって言った。
「毒蛇に咬《か》まれたのや、その他の毒を持つ生物に対して解毒剤《げどくざい》の役目をする、とも言ってるよ」
「そいつは頭がおかしいんだ」
「違うよ」ウィルは穏《おだ》やかに言った。「三百年ほど年を食ってるだけさ。おわりのほうに傑作《けつさく》があるよ。バーナクル種の雁《がん》はバーナクル(フジツボ)から孵化《ふか》するって、大まじめで書いてるんだ」
「カリブ海に行ったら驚いただろうね」スティーヴンが言った。「フジツボは何百万とあるが、バーナクル種の雁《がん》は一羽もいないんだから」
ジェイムスが「休暇《きゆうか》が終わったら兄さんもカリブに行くの?」
「お偉《えら》い方々の命ずるままさ、相棒《あいぼう》」とスティーヴンは紅はこべをシャツの一番上のボタン穴《あな》に通し、ひょろ長い体をほぐした。「さあ、行こう。釣《つ》りだ」
「すぐ行くから、兄さんたち先に行ってて」ウィルはのんびりと寝転んだまま、ふたりが竿《さお》を組み立てて、針や浮きを結わえつけるのを見守った。草に隠《かく》れて見えないバッタが細く鳴いていた。夏の低い虫の声にかぶさる高い独唱で、眠《ねむ》たげな、気持ちの休まる声だった。ウィルは幸せそうにためいきをついた。日の光、夏の盛り、そしてそのどちらよりもいいのは、一番上の兄が海から帰ってきていることだ。世界はウィルにほほえみかけ、何をとっても、これより良くはなりえない、と思われた。まぶたが下がるのを感じ、慌《あわ》てて目をあけた。再び充ち足りた眠気に垂《た》れ下がり、再びむりやりあけた。一瞬《いつしゆん》、なぜ気楽に眠り込むままにできないのだろう、と不審《ふしん》に思った。
そして悟《さと》った。
二羽の白鳥が再び川に出ていた。白い体をゆったりと動かし、上流へと漂《ただよ》っていく。ウィルの頭上では木々が、遠い海の波さながらに、そよ風にためいきをついていた。サイカモカエデのきみどりの小花が、周囲の長い草の上にひとむらずつ散らばっている。指の間から花を落としながら、ウィルは数ヤード先に立って釣糸を竿《さお》につけている背の高いスティーヴンを見た。その向こうの川で、白鳥の一羽がつれあいをゆっくりと引き離すのが見えた。鳥はスティーヴンの前を通過した。
ところが、通過する際にスティーヴンの体の陰に隠れなかったのだ。兄の体の輪郭《りんかく》を通して、白い鳥の姿がはっきりと見えた。
そしてさらに、今度は鳥の輪郭を通して、それまではなかった急な斜面が見えた。草深く、木は生えていない。
ウィルは生唾《なまつば》を飲み込んだ。
「スティーヴ?」と言ってみた。
長兄はすぐ前にいて糸に先糸をつけていたし、ウィルの声は大きかった。にもかかわらず、兄には聞こえなかった。ジェイムスが釣針を安全なようにコルク柄に取り付けながら、釣竿をまっすぐにだが低く持って通り過ぎようとした。その体を通して白鳥たちが、相変わらずかすかなもやを通してのように見えていた。ウィルは起き上がり、ジェイムスが通る時に釣竿に手を伸ばしてみた。指は何も存在しないかのように木部を通り抜けた。
そしてウィルは、恐《おそ》れと喜びのうちに悟《さと》った。自分の生の眠っていた部分が再びはっきり目ざめたのだと。
兄たちは野原を斜めに横ぎって川へ向かった。その幻《まぼろし》めいた体を通して、ウィルにとってこの捕《とら》えどころのない時間のひとこまの中で唯一《ゆいいつ》実在し、実体を持つ土地が見えた。あの草深い斜面だ。両端はぼやけてしまっている。斜面にいくつもの人影が見えた。せわしなげに走りまわり、何か緊急《きんきゆう》の事態に迫られているかのようだった。じっと見つめると、見えなくなってしまう。焦点《しようてん》のはっきりしない眠い目で眺めると、陽にまだらになって慌《あわ》てている彼らがすっかり見えた。
小柄な黒髪の人々だった。遠くはるかな時代に属しているのだ。青、みどり、または黒の長上着をまとっている。白衣の女がひとりいて、首に鮮《あざ》やかな青の玉飾りを巻いているのが見えた。皆で槍《やり》や矢や道具類を棒や束にしている。獣《けもの》の皮で壷《つぼ》を包んでいる。肉らしい干からびて波打った切れ端を集めていくつもの包みにしている。何匹かの犬が一緒《いつしよ》だった。毛がふさふさして、鼻面が丸く尖《とが》った犬。子供達が走り回っては呼び交《かわ》し、犬の一匹が頭を上げて吠《ほ》えたが、音は聞こえなかった。ウィルの耳には、ブーンという低い虫の声にかぶさるバッタのさえずりしか届かなかった。
犬のほかには獣は見えなかった。これらの人々は旅人なのだろう。ここに住んでいるのではなく、通過する途中なのだ。といっても、彼らが彼らの時代に立っていたその土地が、テムズ谷でも今ウィルのいるあたりだったのか、それともまるで違う場所なのか、それさえわからなかった。だがひとつだけ、いきなりはっきりしたことがあった。彼らはひとり残らず、ひどく怯《おび》えていたのだ。
彼らはしばしば不安げに頭を上げ、東のほうを見やった。ほとんど互《たが》いに口をきかず、慌《あわただ》しく作業を続けた。何かが、誰かが迫《せま》っていて、彼らをおびやかし、先を急がせているのだ。人々は逃げようとしているのだ。気がつくとウィルも焦《あせ》りを感じ出し、急げ、どんな災《わざわ》いが近づいているにせよ早くのがれろ、と念じていた。どんな災いが……ウィルもまた東のほうを見た。だが何を見たか言い切るのは難しかった。異様な二重の風景が拡がっていた。くっきりとした斜面の曲線が、ウィル自身の時代の平たい畑や生垣の霧のような淡《あわ》い線や、かすかなテムズのきらめきを通して見えている。白鳥たちはまだいると同時にいないのだった。一羽が優美な首を水面に垂れた。窓ガラスに映《うつ》る像《ぞう》のように亡霊《ぼうれい》めいて……
……突如《とつじよ》、白鳥は本物になった。実体を持ち、不透明になった。ウィルはもはやかの時代を覗《のぞ》いてはいなかった。旅人たちは消え、何千年も昔のもうひとつの夏の日の中に見えなくなってしまった。ウィルは目を閉じ、記憶が薄《うす》れてしまう前に彼らの何かをとらえようと必死になった。壷《つぼ》のひとつが青銅の鈍《にぶ》い光沢を帯びて光ったのが思い出された。黒く鋭い火打石のかけらを先端につけた矢の束《たば》。白衣の女の浅黒い肌《はだ》と目と、その首のまわりの玉飾りの鮮やかに光る青さが思い出された。何にもまして、漂《ただよ》っていた不安感が思い出された。
長い草の中で本を手にして立ち上がると、足が震《ふる》えているのがわかった。頭上の木の中で、見えないウタツグミが高らかな歌を繰《く》り返した。ウィルはおぼつかない足取りで川に向かった。ジェイムスの声に迎えられた。
「ウィル! こっちだ! 見に来いよ!」
ウィルは声のしたほうにめくらめっぽう向きを変えた。つりの純粋派《じゆんすいは》のスティーヴンは、立ったまま蚊《か》針を巧妙に投げていた。釣り糸がささやくように空を切った。ジェイムスは針にミミズをつけているところだったが、それを下に置いて、勝ち誇《ほこ》ったように、エラを通して束《たば》ねられたスズキ三尾を掲《かか》げた。
「すごい」ウィルは言った。「速いね、釣るのが!」
言ったことを悔《くや》む間もなく、ジェイムスが肩眉を吊《つ》り上げた。「別に速かないよ。おまえ、眠ってたのか? 竿を取って来いよ。」
「ううん」ウィルは問いと命令の両方に答えた。振り向いて一瞥《いちべつ》したスティーヴンがふいに自分の糸をたるませた。そして眉《まゆ》をひそめてウィルを見つめた。「ウィル? おまえ、大丈夫か? 顔色が――」
「少し気分が悪いんだ」ウィルは言った。
「陽射《ひざ》しだな。坐《すわ》ってその本を読んでる間、首の後ろにあたりっぱなしだったんだろう」
「たぶん」
「イギリスでも陽射しは相当強くなるんだぜ、相棒。燃《も》えるような六月。おまけに夏至の日とあっちゃ……しばら日陰に横になっておいで。それから、レモネードの残りを飲むんだ」
「全部かい?」ジェイムスが憤然《ふんぜん》となった。「ぼくらはどうなるのさ?」
スティーヴンは蹴《け》とばすまねをした。「もう十匹スズキを釣り上げたら、帰りに何か飲ませてやるよ。ウィル、行きなさい。木陰にはいっておいで」
「わかった」とウィル。
「あの本はおかしいって言っただろ」ジェイムスが言った。
ウィルは再び野原をよこぎり、サイカモカエデの下のひんやりした草の上、弁当の残りのそばに腰をおろした。レモネードをプラスチックのコップからゆっくりとすすりながら、落ち着かなげに川を眺めた――が、全て平常通りだった。白鳥たちは行ってしまっていた。蚊が空中に舞っている。世界は熱気にかすんでいた。頭が痛んだので、ウィルはコップを置き、草の中にあおむけに寝そべって上を見た。頭上では木の葉が踊《おど》り、枝が息づき、前に後ろに、前に後ろに揺《ゆ》れ、青空を背にみどりの紋様《もんよう》をさまざまに変えて見せていた。ウィルは掌《てのひら》を目に押しあて、過去から閃《ひらめ》き出た走り回るかすかな人々を思い出し、彼らの不安を思い出した……
あとになっても、その時眠ってしまったのかどうかははっきりしなかった。そよ風のためいきが次第に大きく、荒々しくなったように思われた。ふいに頭上に見える木々が変わった。ブナの木になった。ハート型の葉がサイカモカエデやカシよりも激しく渦《うず》巻いて踊り狂《くる》っている。それに、川まで続く並木ではなく、木立と化していた。川はなくなっていた。匂《にお》いも音も。左右どちらを見ても広々とした空があるばかりだった。ウィルは起き上がった。
木々に埋《う》められたテムズの谷をはるかに見おろす、なだらかな草深い斜面にいた。周囲のブナ木立が小山の頂《いただき》に帽子のようにかぶさっている。傍《かたわ》らの短く弾力のある草の中には金色のカラスノエンドウが生えている。巻き上がった花のひとつから小さな青い蝶《ちよう》がひらひらとウィルの手に舞い移り、また去っていった。もはや谷間の野原には暑苦しい虫の声はなく、代わりに、はるか上の方から風をついて、ヒバリの歌が湧《わ》き上がり、こぼれてきた。
その時、どこからか、声が聞こえた。ウィルは首をめぐらせた。人の列が急ぎ足で小山を登ってきたのだった。次々に木や繁《しげ》み伝いに小走りに駆《か》け、ひらけた斜面に出るのを避《さ》けている。最初の二、三人がちょうど、小山の途中の奇妙な深い穴《あな》にたどりついた。やぶが上までびっしりと生《お》い繁《しげ》っているので、人々がそこに立ち止まって枝を引きのけなかったなら、ウィルは気がつかなかったことだろ。人人はごわごわした黒っぽい布包みを山のように背負い込んでいた――慌《あわただ》しく包みすぎたため、中身が突き出ているのが見えた。ウィルはびっくりした。黄金の椀《わん》あり、皿あり、盃《さかずき》あり、宝石でびっしり埋められた金の十字架《か》あり、金銀の丈高い燭台《しよくだい》あり、金や宝石の織り込まれたつややかな絹の衣や布あり。とりどりの宝物は果てしなくあるように思われた。人々は包みをひとつずつ縄《なわ》で結《ゆ》わえ、順に穴の中におろした。修道僧《そう》の衣をまとった男が監督《かんとく》らしく見えた。指示したり、説明したりしながら、耐《た》えず周囲の土地を落ち着かなげに見張っている。
小さな男の子が三人、僧の突き出した腕に指示されて小山の頂上までせかせかと登ってきた。ウィルはのろのろと立ち上がった。だが少年たちはちらりとも見ずに通り過ぎ、その無視のし方があまりにも徹底していたので、この過去においては自分は傍観《ぼうかん》者で、人々には見ることはおろか、感じることもできないのだとわかった。
少年たちは木立のはずれで立ち止まり、谷の向こうに目をこらしていた。明らかにそこで物見《ものみ》をするようよこされたのだ。不安げに固まって立っている彼らを見ながら、ウィルが聞くことに精神を傾けると、ただちに声が頭の中にこだまし出した。
「こっちからは誰《だれ》もこないよ」
「今のところはね」
「一刻《いつとき》ぐらいかかるだろうって伝令は言ってたよ。父上に言うのを聞いたんだ。何百人もいるんだって。恐《おそ》ろしいやつらで、<いにしえの道>に沿ってしたいほうだいなんだって。ロンドンも焼かれたってさ。黒い煙が大きな雲になって立ち昇ってるのが見えた――」
「つかまえた者の耳を切り落とすんたぜ。相手が男の子ならね。おとなの男はまっぷたつに切り裂《さ》かれるんだ。女たちにはもっとひどいことをするんだぞ――」
「父上にはやつらの来るのがわかってたんだ。そう言ってたもの。先月、東で雨の代わりに血が降ったんだって。それに龍《りゆう》が空を飛ぶのを見た連中がいるって」
「異教徒の悪魔《ま》どもが来る前には、いつもそういう前触《まえぶ》れがあるんだ」
「宝物を埋めてどうするのさ? 取りに戻って来る者なんかいないのに。悪魔どもに追い出された者は二度と戻ってきたりしないんだ」
「今度は違うかもしれないぜ」
「これからどこへ行くんだろう?」
「知るか。西のほう――」
切迫《せつぱく》した声に呼び戻されて少年たちは走った。穴に包みを隠《かく》す作業は終わり、何人かは既《すで》に急ぎ足に小山を下っていた。最後の数人が大きな平たい火打石の塊《かたまり》を穴の上に押し上げる光景からウィルは目を離せなかった。それほど大きい火打石を見たこともなかった。石を穴の口に一種の蓋《ふた》のようにきっちりはめこむと、その上に草が生えたままの土を広げた。そばのやぶの柱が引き寄せられ、上をおおった。あっという間に、隠し場所は痕跡をとどめず、斜面には慌《あわただ》しく作業が進められたことを物語る跡さえ残らなかった。と、男たちのひとりが大声を上げて急を告げ、谷の向こうをゆびさした。次の小山の彼方《かなた》から太い煙が立ち昇っていた。途端に慌てふためいて、人々は草におおわれた白亜質《はくあしつ》の斜面をはねたりとんだりしながら逃げ出した。僧めいた人物も他に負けずに狼狽《ろうばい》してあたふたと走っていた。
そしてウィルはといえば、胃がひっくり返るほど強烈《れつ》な不安感に襲《おそ》われていた。一瞬《いつしゆん》、それらの逃亡者に劣らずまざまざと、残酷《ざんこく》な暴力《ぼうりよく》による死への動物的な恐怖《きようふ》を覚えた。苦痛と、傷つけ合うことと、憎《にく》しみへの恐怖を。否、憎しみよりもさらにひどいもの、破壊と虐待《ぎやくたい》と他人を怯《おび》えさすことから喜びを得る、ぞっとするような空虚《くうきよ》な精神への恐怖だった。これらの人々に何か恐ろしい脅威《きようい》が迫《せま》っているのだ。少し前にウィルが見た、別の遠い昔の影めいた人々に迫っていたように。東の方角から、その脅威は再び立ち上がり、吠《ほ》えたけりながら攻め寄せて来ているのだ。
「来るぞ」ウィルは煙の柱を見つめながら声に出して言った。煙を立てている者たちが小山の頂を越えて来た時に起こるであろうことを、思い描くまいとした。「来るぞ――」
ジェイムスの声には奇妙な興奮が溢《あふ》れていた。「来ないよ。ピクリとも動かないぜ。おまえ、目がさめたのか? 見ろよ!」
スティーヴンが言った。「何て変わった生き物だろう!」
声は頭の上のほうから聞こえた。ウィルは涼しい草の上に仰臥《ぎようが》していたのだった。吾《われ》に返って震えが止まるまでに少しかかった。片肘をついて起き上がると、数歩離れたところに竿や魚や餌バケツを抱《かか》えたスティーヴンとジェイムスが立っていた。ふたりは警戒しながらも魅《み》せられたように何かを見つめていた。ウィルは虫の音すだく暑い野原の方に首を伸ばし、ふたりの見ているものを見ようとした。そして息を呑《の》んだ。目のくらむような恐怖《きようふ》の大波に精神が引きちぎられかけたのだ。ほんの少し前、十世紀もはるかな昔でありながら、息が届くくらい身近でもあったあの場所でウィルを浸《ひた》したのと同じ恐怖だった。
十ヤードの草の中に、小さな黒い動物がじっと動かずに立ってウィルを見ていた。しなやかな、贅肉《ぜいにく》のない動物で体長一フィート半ぐらい、長い尾とくねくねカーヴを描く背を持っている。テンかイタチに似ていたが、どちらでもなかった。なめらかな毛皮は鼻から尾までまっくろで、まばたきもしない黒い目は間違えようもなくウィルに据《す》えられていた。そして、その動物から感じられる脈搏《う》つ強烈な敵意と悪が余りにもすさまじかったので、そんなものが存在すると信じるのさえ難《むずか》しかった。
ジェイムスがふいに歯の間でスーッと音をたてた。
黒い獣は動かなかった。ウィルを見つめ続けた。ウィルも坐ったまま見つめ返し続け、脳裏《のうり》に鳴り渡り続ける理屈も何もない恐怖の叫び声にすっかりとらわれていた。視野の隅《すみ》に、傍《かたわ》らにじっと立っているスティーヴンの背の高い姿が意識された。
ジェイムスが小声で言った。「何だかわかった。ミンクだよ。最近このあたりに姿を見せ出したんだ――新聞で見た。イタチに似てるけど、もっとたちが悪いんだって。あの目を見ろよ――」
衝動《しようどう》的に緊張《きんちよう》を破り、ジェイムスは言葉のないわめき声を獣《けもの》に浴《あ》びせて、釣竿《つりざお》で草を薙《な》いだ。すばやく、だが少しも慌《あわ》てずに、黒ミンクは向きを変え、野原を抜けて川へ向かった。長い背中が大蛇《だいじや》のように、異様で不快なすべるような身のこなしでうねっていった。ジェイムスは竿を握《にぎ》りしめたままあとを追っていった。
「気をつけろ」スティーヴンが鋭《するど》い声を上げた。
ジェイムスはどなった。「さわらないよ。竿があるから……」ずんぐりした柳《やなぎ》の木立を過ぎ、川岸に沿って姿を消した。
「気に入らないな」スティーヴンが言った。
「ぼくも」ウィルは、獣がしつこい黒い目で自分を見つめながら立っていた野原の一画を見、身震いした。「気味悪いや」
「ミンクのことだけじゃない。あれがミンクだったとしてだが」スティーヴンの声には聞き慣《な》れぬ響きがあり、それがウィルをはっと振り返らせた。立ち上がろうとしたが、長身の兄は隣《とな》りにしゃがみ込み、両腕を《うで》を膝《ひざ》に乗せて、手で釣り糸の切れ端についたテグスをいじり出した。
テグスを指に巻きつけてはほどき、巻きつけてはほどいた。
「ウィル」スティーヴンは奇妙に緊張した声で言った。「話がしたいんだ。今、ジェイムスがあの動物を追っかけているうちに。帰省して以来ずっとふたりきりになろうとしてたんだが――きょうなら、と思ったのにジェイミーが釣りをしたがったもんで――」
兄が言葉の海の中に溺《おぼ》れ、つっかえるさまはウィルを面くらわせ、不安にさせた。ウィルにとって常に、充足し、完成し、成熟《せいじゆく》したもの全ての象徴《しようちよう》であった冷静なおとなの兄だけに。やがてスティーヴンは頭を上げ、けんか腰といってもいい態度でウィルを見すえた。ウィルもおどおどしながら見返した。
スティーヴンは言った。「おととし、艦がジャマイカにあった時に、クリスマスと誕生日兼用の贈《おく》り物として、ぼくはおまえに西インド諸島の謝肉祭用の大きな仮面を送った」
「うん、もちろん」ウィルは言った。「すてきだよ、あれ。きのうもみんなで見てたじゃない」
スティーヴンは無視して続けた。「あれをくれたのは年寄りのジャマイカ人で、そいつは謝肉祭用のまっ最中にいきなり現れて、往来《おうらい》でぼくをつかまえたんだ。ぼくの名を言い、仮面をおまえに渡すように言った。どうしてぼくを知っているのか訪《たず》ねると、『われわれ<古老>には独特の顔つきがある。家族にも多少はそれが出る』と言った」
「そのことなら知ってるよ」ウィルは明るく言い、のどを虚《うつ》ろにしている不吉な予感を呑《の》み込んだ。
「仮面と一緒《いつしよ》に手紙をくれたじゃない。おぼえてないの?」
「ぼくがおぼえているのは、見ず知らずの他人の言葉にしちゃえらく妙だったってことだ。<古老>、われわれ<古老>。特別な名前みたいだった――そういう言い方だった」
「まさか。きっと――お爺《じい》さんだったんでしょう、その人?」
「ウィル」スティーヴンは冷《ひ》ややかな青い目で弟を見た。「キングストンを船出する時、その老人が艦にやってきた。どうやって説得されたのか知らないけど、使いがぼくを呼びに来た。老人は桟橋《さんばし》に立って黒い黒い顔と白い白い髪をしていた。使いに立った乗組員を黙《だま》ってじっと見つめ続けて追っ払うと、『弟に、海の島々の<古老>の用意は出来ている、と伝えてくれ』とそれだけ言って、行ってしまった」
ウィルは無言だった。続きがあるのはわかっていた。見るとスティーヴンの手は握りしめられ、一方の親指がこぶしの上を無意識に往復していた。
「それから」スティーヴンの声が少し震《ふる》えた。「ここへ戻る途中でジブラルタルに寄港して、半日上陸した時のことだ。見たこともない男に道で声をかけられた。隣りに立っていたんだ。信号待ちの最中で――背がとても高く痩《や》せていて、アラブ人らしかった。なんて言ったかわかるか?『ウィル・スタントンに、南の<古老>の用意は出来ている、と言ってくれ』だと。そしてそのまま、人混《ご》みの中に消えてしまった」
「そう」ウィルは言った。
いきなりスティーヴンの手の上の親指が動きを止めた。兄は自由になったばねのようにさっとすばやく立ち上がった。ウィルも慌《あわ》てて立ち上がったが、明るい空を背に陽灼《ひやけ》した顔の表情が読みとれず、目をしばたたいた。
「ぼくの頭が狂《くる》い出してるのか、おまえが何か妙《みよう》ちきりんなことに巻き込まれてるのか、どっちかだ」と兄は言った。「どっちにせよ、『そう』のひとことだけってことはないだろう。気に入らないと言ったはずだぞ。全く気に入らない」
「問題はね」ウィルはゆっくりと言った。「説明しようとしても、信じちゃくれないだろうってことなんだ」
「試《ため》してみろよ」
ウィルはためいきをついた。スタントン家の九人の子どものうち、ウィルは末っ子。スティーヴンは長子で、十五の歳の開きがあり、兄が家を出て海軍にはいるまでは、幼いウィルは黙ってどこへでも大好きな長兄についてまわったものなのだ。いま、永久に終わらなければいいと願っていたものが終わろうとしているのが、ウィルにはわかった。
ウィルは言った。「本当にいいの? 笑わない? 決め……つけたりしない?」
「しないとも」
ウィルは深呼吸した。「じゃ、話すよ。こうなんだ……ぼくらが住んでるこの世界は人間の、普通の人間の世界なんだ。大地にはいにしえの魔術《まじゆつ》があるし、自然の生物には荒魔術があるけど、世界がどうあるべきか決めるのは人間なんだ」ウィルは兄を見ようとはしなかった。必ず見るであろう表情の変化を見たくなかったのだ。「だけど、この世界の彼方《かなた》には宇宙があって、上なる魔法の掟《おきて》で縛《しば》られてる。どの宇宙もそうあるべきなんだよ。そして、上なる魔法の下には、ふたつの……極……があって、それを<光>と<闇>と呼んでる。そのふたつは他の力に支配されているんじゃなくて、単に存在してるんだ。<闇>は、暗い本質に従って人間に影響を及ぼし、ついには人間を通して地球を支配することをめざしている。<光>の役目はそうならないようにすることだ。<闇>は何度も何度も攻めて来ては追い返された。だけど、もうじき最後の攻撃をしかけて来る。今度は今までになく危険が大きい。そのために着々と力を蓄《たくわ》えてきていて、もうほとんど用意が出来ているらしい。だから、今度こそぼくらは永久に追い払い、人間の世界を自由にしなくちゃならないんだよ」
「ぼくら?」スティーヴンは無表情に言った。
「ぼくらは<古老>なんだ」今やウィルは力強く自信をもって言った。「ぼくらは大きな輪をつくってる。世界中に、世界の彼方にまでいるんだ。あらゆる所、あらゆる時間の片隅《すみ》から出て来る。最後に生まれたのがぼくで、十一歳の誕生日に<古老>としての力に目ざめた時に、輪は完全になったんだ。それまでは、ぼくも何も知らなかった。けど、もう時が近づいて来てる。だから兄さんに確認の――ある意味では警告の――伝言がことづけられたのさ。たぶん、兄さんが会ったのは、輪の中で一番年とっている三人のうちのふたりだと思うな」
スティーヴンが相変わらず抑揚《よくよう》のない声で言った。「ふたりはたいして年寄りには見えなかった」
ウィルは兄を見上げ「ぼくだってそうは見えない」とだけ言った。
「あたりまえだろ」スティーヴンは腹立たしげに言った。「おまえはぼくの弟で、年は十二歳。生まれた時のことだっておぼえてるんだぜ」
「ある意味でだけだよ」ウィルは言った。
スティーヴンはへきえきしたように目の前の人物を見た。青いジーパンをはき、古びたシャツを着て、まっすぐな茶色い髪を片目の上にボサッと垂《た》らした、がっちりした小さな男の子を。「ウィル、馬鹿みたいな遊びはもう卒業してもいい歳だ。自分で言ったことを信じてるみたいな口ぶりだったぞ」
ウィルは平然と言った。「じゃ、そのふたりの使いはなんだったと思うのさ、兄さん。ぼくがダイヤの密輸《みつゆ》や、麻薬《まやく》組織のひとりだとでも?」
スティーヴンは呻《うめ》いた。「わからないんだ。夢だったのかもしれない……本当に頭がどうかしちまったのかもしれない」軽く言い流そうとしてはいたが、声には間違えようもないはりつめたものがあった。
「ううん、違うよ」ウィルは言った。「夢を見たんじゃないよ。ほかにも……警告が……来始めている」一瞬口をつぐみ、三千年も昔の時代からおぼろげに浮かび上がった不安げな気ぜわしい人々と、そのあとの、デーン人の略奪《りやくだつ》者の襲来《しゆうらい》を怯《おび》えながら見張っていたサクソン人の少年たちのことを考えた。それから悲しげにスティーヴンを見た。
「兄さんには荷が重すぎた。それくらいわかっているべきたったのに。わかってはいたんだろうな。けど、<闇>に知られずに伝言をよこすには、口伝てにするしかないんだ。あとのことはぼくに任せたってわけか……」スティーヴンの顔の理解しかねるという表情が耐え難《がた》い警戒の色を帯び出すと同時に、ウィルはすばやく兄の腕《うで》をつかみ、ゆびさした。「見て――ジェイムスだ」
スティーヴンは反射的に半ば振り返った。動いたはずみに足が、背後の木々や生垣の中から野原まで伸びていたイバラの低い繁みをかすった。すると地面に拡がったみどりの繁みの中からふいに、華奢な白い蛾《が》がひらひらと雲のように舞い上がった。羽毛のようなものにおおわれ、この上なく美しい、驚嘆すべき蛾たちだった。何百も何百も、つきることなく舞い上がり、やさしい吹雪のようにスティーヴンの頭と肩を取り巻いた。びっくりしたスティーヴンは追い払おうと腕をばたつかせた。
「じっとして」ウィルがそっと言った。「そんなことしちゃだめだよ。じっとして」
スティーヴンは片腕を不安そうに顔の前にかざしたまま、動きを止めた。その体の上を、周囲を、小さな蛾は飛び交《か》い、旋回《せんかい》し、浮遊し、かたときも翅《はね》を休めず、下のほうへ漂《ただよ》っていった。
雪片から造られた微細な鳥さながらで、声もなく、亡霊《ぼうれい》めき、小さな翅の一枚一枚が繊細な純白の羽根五枚の透《す》かし細工だった。
スティーヴンは片手で顔をかばったまま、呆《ぼ》けたように突《つ》っ立っていた。「何てきれいなんだ! しかし、こんなに沢山《たくさん》……何なんだい?」
「トリバガだよ」ウィルは別れの言葉にも似た、愛情のこもった奇妙に残念そうな目で兄を見た。「シロトリバガだよ。古い言い伝えによると、記憶を運び去ってくれるんだよ」
スティーヴンの不審《ふしん》そうな頭のまわりを最後にもう一度溢れるようにめぐると、白い蛾の雲は分散し、煙のようにちりぢりになり、最初と同じように不思議に一致した動きで生垣の中に姿を消した。葉に包み込まれ、見えなくなった。
ジェイムスが背後からドタドタとやってきた。「ふう! えらい追っかけっこだったよ! やっぱりミンクだった――そうとしか思えない」
「ミンク?」スティーヴンはいきなり、水から出て来たばかりの犬のように頭を振った。
ジェイムスはまじまじと見つめた。「あのミンクだよ。あの小さな黒い動物さ」
「ああ、そうだった」スティーヴンはまだぼうっとした様子で慌《あわ》てて言った。「うん、じゃ、やっぱりミンクか」
ジェイムスは勝ち誇《ほこ》ってはちきれんばかりだった。「まず間違いないと思う。ついてたなあ! オブザーバー紙の記事を読んで以来ずっと目を光らせてたんだ。害獣だから注意するようにって、書いてあったんだよ。鶏《にわとり》や、いろんな鳥を食うんだ。誰かが何年も前にアメリカから連れて来て、毛皮を取るつもりで殖《ふ》やしたんだけど、何匹かが逃げ出して野生化したんだ」
「どこに行ったの?」ウィルが訊《たず》ねた。
「川にとびこんだ。泳げるとは知らなかったな」
スティーヴンがピクニック用のかごを取り上げた。「魚を持って帰る時間だ。レモネードの壜《びん》をこっちへくれ、ウィル」
ジェイムスが即座に言った。「帰りに何か飲ませてくれるって言ったよね」
「もう十匹つかまえたらって言ったんだ」
「七匹だってそう変わらないよ」
「大違いだね」
「けちなんだな、船乗りって」
「ほら」ウィルが壜でつついた。「結局、全部飲みゃしなかったよ」
「飲めよ、海綿小僧」スティーヴンは言った。「終わらせちゃえよ」かごの隅の籐《とう》がほどけかけていたので、ジェイムスがレモネードをごくごく飲んでいる間にスティーヴンは編《あ》み直そうとした。
ウィルが言った。「分解しそうだね、そのかご。まるで<古老>の持ち物だったみたいだ」
「誰《だれ》のだって?」とスティーヴン。
「<古老>だよ。おととし、ジャマイカからあの大きな謝肉祭用のお面と一緒《いつしよ》にくれた手紙に書いてあったじゃない。あれをくれたお爺《じい》さんが言ったことさ。おぼえてないの?」
「まるっきり」スティーヴンは機嫌よく言い、「昔のことすぎるよ」とクスッと笑った。「あれは気違いじみた贈《おく》り物だったよな。マックスが学校でこしらえてくる物みたいだ」
「うん」ウィルは答えた。
三人はのんびり家へ向かった。長い羽根のような草を通り抜け、次第に長くなる木々の影を通り抜け、サイカモカエデのきみどりの花の中を通り抜けて。
黒ミンク
家への道は曲がりくねっていた。まず野原を抜け、曳船《ひきふな》道に沿《そ》って自転車の置いてある所まで、それからカーヴの多い緑陰《りよくいん》の小路《こうじ》に沿って。カシやサイカモカエデやハコヤナギが両側に高々とそびえ、侵略《しんりやく》してきたヒルガオを星のようにちりばめた、スイカズラもかぐわしい生垣の後ろには家々が眠っていた。遠くの方から、もっと忙《いそが》しい、せわしない世界のざわめきが聞こえ、テムズ谷にまたがる自動車道を一瞬《いつしゆん》のうちに走り去る車が見えた。午後も遅くなり、地平線はかすんで見えず、ブヨの群れが暖かい空気中に舞っていた。
わが家から半マイルほど離れたハンタークーム小路に沿って自転車をこぎ、ウィルの好きな、レンガで縁《ふち》取られた火打石壁の家々の前を通り過ぎかけた時、ジェイムスが急ブレーキをかけた。
「どうしたの?」
「後輪だよ。もってくれると思ったんだけど、どんどん空気が抜けてるんだ。家に着けるくらいまで膨《ふく》らませなきゃ」
ジェイムスがポンプをはずす間、ウィルとスティーヴンは待った。人の声が道の先のほうからかすかに聞こえてきた。道は、その先で、小さな橋を渡る。橋は農地をうねうね流れてテムズにはいる小川の上にかかっている。水の流れはほとんどいつものろのろしていて、川と呼ぶのもはばかられるほどだったが、ウィルは一生のうちで一度だけ、あるとんでもない一日、それが奔流《ほんりゆう》となるのを見たことがあった。のんびりと自転車を川のほうにこいで行ってみたが、きょうは走る水音はせず、小川は浅く、たゆたったままきらめき、池のようにみどりの浮草がいっぱいだった。
話し声が近づいてきた。ウィルは小さな橋から身を乗り出した。下の土手を小さな男の子が息を切らせて駆《か》けてきた。身長の半分もあるピカピカの革《かわ》の楽譜《がくふ》入れが足にぶつかっている。三人の少年がどなったり笑ったりしながら追って来る。ふざけているのだととったウィルが背をむけかけるや、最初の少年は橋の側面に行手を阻《はば》まれ、体をひねり、足をすべらせかけ、追手に向き直った。遊びではない必死の気迫《はく》があった。浅黒い肌《はだ》を持ち、身なりはきちんとしている。追手の少年達は白人で、だらしのない服装だ。追手の言葉が聞き取れるようになった。一人は猟犬《りようけん》のようにわめいていた。
「パー公(パキスタン人の蔑称)――パー公――パー公! 来いよ、来いよ! パー公――」
体を硬《こわ》ばらせている小さな人影の前で三人は急停止した。追手のうち二人はウィルと同じ学校の生徒と判《わか》った。ふてぶてしい二人組みでもめごとをよく起こし、運動場でしじゅうけんかを売っている連中だ。追われていた少年に片割れがいやらしい薄《うす》笑いを浴《あ》びせた。
「あいさつもなしかい、パー公よ! 何を怖《こわ》がってるんだよ? どこへ行って来たんだ?」
少年は片側に身をひねり、脇《わき》をすり抜けて逃げようと駆け出したが、追手の一人がすばやく横にとび出して遮《さえぎ》った。楽譜入れが地面に落ち、小柄《こがら》な少年が拾おうとかがむと同時に汚《きた》ない大足が取手を踏《ふ》んづけた。
「ピアノ稽古《けいこ》かよ? パー公がピアノを弾くとは知らなかったぜ、なあ、フランキー? 例の妙《みよう》ちきりんなポロンポロンいう楽器だけかと思ったぜ、キ〜コ、キ〜コ――」とへたなバイオリン弾きのような音をたてながらぐるぐる回ると、残りの二人は感じの悪い笑い声を上げ、ひとりが楽譜入れを拾い上げて拍手《はくしゆ》代わりに叩《たた》き鳴らした。
「カバンを返して下さい」小柄な少年は、歯切れはいいが小さな声で悲しげに言った。
大きいほうの少年が楽譜入れを小川の水の上高く掲《かか》げた。「取りに来いよ、パー公、取りに来い!」
ウィルは憤然として叫んだ。「返してやれ!」
少年達はぱっと振り向いたが、ウィルを見わけるといじめっ子は安心した顔になった。「よけいな口出すな、スタントン!」
他の少年も馬鹿《ばか》にして笑った。
「低能児!」ウィルはどなった。「小さい子ばかりいじめて――返してやれ、さもないと――」
「さもなきゃ何だよ?」少年は自分より小さいもう一人の少年を見てニヤリとした。そして手を開き、楽譜入れが川に落ちるに任《まか》せた。
少年の仲間は笑い転《ころ》げ歓声《かんせい》を上げた。小柄な少年は泣き出した。ウィルは口もきけないほど腹が立って自転車を脇《わき》に押《お》しのけたが、それ以上動くより早く、長い手足がつむじ風のように脇を駆け抜け、スティーヴンのひょろりとした長身が土手を駆けおりていった。
少年達は散らばったが遅すぎた。わずか四、五歩でスティーヴンは大将格《たいしようかく》をつかまえ、両肩をとらえて小声で「カバンを取り戻《もど》して来い」と言っていた。
ウィルはその静かな声にこめられた抑制《よくせい》された怒《いか》りに気づき、動かずに見守ったが、いじめっ子のほうはすっかり自分の力を過信していた。スティーヴンの腕《うで》の中で体をよじると歯をむいた。「気違いか? 黒んぼなんかのためにずぶ濡《ぬ》れになれってのかよ! あいつら猫飯《ねこめし》を食うんだぜ? 俺《おれ》がそんな――」
残りの文句は言う暇《ひま》を与えられなかった。すばやく手を持ち変えると、スティーヴンはふいに少年を宙《ちゆう》に浮《う》かせ、小川の汚《きた》ないみどりの水に放り込んだ。
水音がし、沈黙《ちんもく》があった。小鳥が楽しげに頭上でさえずった。土手のふたりの少年は身じろぎもせず、対象が水草と泥《どろ》水を滴《したた》らせながらのろのろと立ち上がるのを見つめた。流れていないに等しい小川は膝《ひざ》まできた。いじめっ子は無表情にスティーヴンを見てから、身をかがめて平たい革《かわ》の楽譜入れを拾い上げ、腕をいっぱいに伸《の》ばしてしずくのたれるそれを差し出した。スティーヴンが小柄な少年に返してやると、少年は黒い目を皿のようにして受け取り、ひとことも言わずに身を翻《ひるがえ》して逃げていった。
スティーヴンは向きを変え、土手を登って道に戻《もど》った。長い足で針金の柵《さく》をまたぎこすと同時に、まじないでも解けたかのように、水中に突っ立ったままの少年が吾に返った。少年はぶつぶつ呟《つぶや》きながらしぶきを上げて土手に戻った。いくつかの悪態に続いて怒《いか》り狂《くる》った叫《さけ》びが聞こえた。「俺《おれ》よりでかいからって大きな顔しやがって!」
「目くそ鼻くそを笑うとはこれだな」スティーヴンは悠然《ゆうぜん》と言うと自転車にまたがった。
少年はわめいた。「今に見てろ、俺の親父につかまったが最後――」
スティーヴンは足を止め、橋のふもとまで進むと身を乗り出した。「もとの牧師館に住んでるスティーヴン・スタントンだ。親父さんに伝えてくれ。いつでも好きな時に話しをつけに来いってな」
返事はなかった。その場を離れるとジェイムスがウィルの傍《かたわ》らに近づいて来て、にこにこしながら「みごとだったな」と言った。「最高だった」
「うん」ウィルはペダルを踏《ふ》みながら言った。「けど――」
「何だい?」
「ううん、何でもない」
「その子、マニー・シン坊やらしいわね」スタントン夫人は糖蜜菓子《とうみつがし》に大きなナイフを差《さ》し入れながら言った。「村はずれに新しく建った公営住宅の一軒《けん》に住んでるはずよ」
「知ってるわ」メアリが言った。「シンさんってターバンを巻いてるでしょ?」
「そうよ。パキスタン人じゃないのよ。インド人――シーク教徒ね。だからって変わりはないわ。その三人、なんてひどい子達かしら」
「あいつら、誰《だれ》に対してもひどいんだぜ」と、今まさに切り分けられようとしている自分の菓子の大きさを期待をこめて見ながら、ジェイムスが言った。「人種も肌の色も宗教も関係なし――誰彼かまわずぶんなぐるんだ。自分達より背の低い相手ならね」
「今日は相手を……選んでいたようだが」スティーヴンが静かに言った。
「でも水の中に放り込むことはなかったんじゃないかしら」母親が穏《おだ》やかに言った。「カスタードをみんなに回して、ウィル」
「リッチー・ムアったら、その子のことを猫飯食《ぐ》いって呼んだんだよ」とウィル。
スティーヴンが言った。「あの川の深さが十フィートあったらな」
ジェイムスが言った。「母さん、まだひと切れ残ってるよ」
「父さんのぶんよ」スタントン夫人が言った。「目を離しなさい。父さんが遅くまでお仕事してるのは、あなたに夕食をさらわれるためじゃないのよ。ジェイムス、がつがつしないで。メアリーだってもっとゆっくり食べてますよ」スタントン夫人ははっと頭を上げ、耳をすました。「あれ、なに?」
全員が外から聞こえたそのかすかな物音を耳にしていた。再び、前よりも大きく聞こえた。家の裏庭の鶏が鳴きわめいている遠い声。いつもの不平や要求の鳴き声ではなく、怯《おび》えたかん高い鳴き方だった。
即座《そくざ》に子供達は走り出した。ジェイムスも糖蜜《とうみつ》菓子のことは忘れてしまった。裏口から最初にとび出したのはウィルだった――が、途端《とたん》に、だしぬけに立ち止まったので、スティーヴンとジェイムスは踏《ふ》みまどい、転《ころ》びかけた。兄達は先を急いだが、ウィルには敵意の存在、濃密な悪意の存在が周囲にひしひしと感じられ、動くこともままならなかった。立ちつくしたまま震えていた。強風に逆《さか》らうようにその感覚に抗《あらが》いつつ、ウィルはよろめきながら兄達に続いた。頭が鈍《にぶ》り、働かなくなったように感じられた。前にもこんなことがあった、と思った……。が、思い出している暇《ひま》はなかった。
庭で叫《さけ》び声が上がり、走り回る足音が怯《おび》えた鳥の鳴き声を通して聞こえた。おぼろな黄昏《たそがれ》の薄闇《うすやみ》の中でスティーヴンとジェイムスが何かを追いまわしているかのように行きつ戻りつしているのが見えた。近づくと、小さな黒っぽい体がしなかやにすばやくくねり、ふたりの間をすり抜けるのを見たように思った。スティーヴンが棒《ぼう》をつかみ、その影をひっぱたいたが、当たらなかった。棒は地面を打ち、割れた。鶏囲いに熊手がたてかけてあった。ウィルは熊手をつかみ、さらに近づいた。獣《けもの》はウィルの足もとをかすめた。音もたてずに。
「つかまえろ、ウィル」
「ぶんなぐれ!」
足が走り、鶏がわめき、庭は薄闇の中でぶつかりあう灰色の人影だらけだった。一瞬、満月が、梢《こずえ》にかかった巨大な黄色い孤《こ》として目に映った。それもつかのま、ジェイムスが再びぶつかってきた。
「こっちだ! つかまえろ!」
ちらりとだがはっきり見えた。「またミンクだ!」
「決まってる! こっちだってば!」
逃げ道を必死に捜《さが》して身をくねらせるうち、ミンクはふいにウィルと囲いにはさまれた形になった。白い牙《きば》がきらめいた。ミンクは身を硬《こわ》ばらせて立ちすくみ、にらんだと思うと、突然絶叫《ぜつきよう》した。怒《いか》り狂《くる》った金切り声はウィルの頭をつんざき、裏口からとび出した時に感じた圧倒されんばかりの悪の存在をどっと呼び戻した。ウィルはたじろいだ。
「今だ、ウィル、今だ! 思いっきり!」
兄達がふたりともどなっていた。ウィルは熊手を高く振りかざした。ミンクはウィルを見すえ、再び金切り声を上げた。ウィルはミンクを見つめた。<闇>は立ち上がりつつある。眷《けん》族を一匹殺したくらいで<闇>の蹶起《けつき》は封《ふう》じられはしない。熊手が手から落ちた。
ジェイムスが大きく呻《うめ》いた。スティーヴンがウィルの傍《かたわ》らに駆《か》け寄った。ミンクは牙《きば》をむき、襲《おそ》うかのようにスティーヴンめがけて突っ込んだ。ウィルは恐怖《きょうふ》に息を呑《の》んだが、ぎりぎりのところで獣は方向を変え、スティーヴンの足の間を駆け抜けた。それでもなお、すぐに自由めざして逃げようとはしなかった。怯《おび》えて固まっていた鶏《にわとり》の一団に突っ込むと一羽の首根っこをとらえ、頭の後ろにがぶりと咬《か》みついたので、鶏はたちまちぐったりとなった。ミンクは鶏を放り出すと夜の闇に逃げ去った。
ジェイムスはやる方ない怒りに足を踏《ふ》み鳴らした。「犬だ! 犬どもはどこだ?」
勝手口でひとすじの光がゆらめいた。「毛を刈《か》ってもらいにバーバラがイートンへ連れてったのよ」
「くそォ!」
「同感ね」母親は穏《おだ》やかに言った。「でもしかたがないわ」と明かりを持ったまま進み出た。「被害《ひがい》の程度を見てみましょ」
損害《そんがい》はかなりのものだった。ヒステリックになっている騒々《そうぞう》しい若い牝鶏《めんどり》と死んだ仲間とをえりわけてみると、丸々ふとった死骸《しがい》が六つ、ずらりと並んだ。どの鶏も後頭部の狂暴《きようぼう》なひと咬《か》みでやられていた。
メアリーが、わけがわからないというように、「でもこんなに何羽も? なぜこんなに沢山? そのくせ、ただの一羽も持って帰ろうとしなかったなんて」
スタントン夫人も当惑《とうわく》して首を振った。「狐《きつね》なら一羽を殺して、すぐにくわえて逃げるわ。そのほうが理屈には合ってるわね。ミンクだったって?」
「確《たし》かだよ」ジェイムスが言った。「新聞に載ってたんだ。それに、きょうの午後、川のそばで一匹見たもの」
スティーヴンが皮肉っぽく言った。「うちの鶏を殺すだけで楽しかったみたいだな」
ウィルは一同から少し離れて、納屋《なや》の壁《かべ》にもたれていた。「殺すのが好きなんだ」
ジェイムスが指を鳴らした。「新聞にもそう書いてあったぜ。ミンクが害獣《がいじゆう》とされる理由さ。ある種のイタチを除けば、殺すために殺す獣はミンクだけなんだって。腹《はら》が減《へ》ってるとは限《かぎ》らないんだ」
スタントン夫人は死んでぐったりとなった鶏を二羽つまみあげた。「さて」と思い切りよくきっぱり言った。「中へ運んで、なんとか対処するしかないわ。あのけだものが一番いい卵の産み手を選んで殺したのでありませんように。今度戻って来たら……スティーヴン、ほかの鶏をねぐらに入れてくれる?」
「いいよ」
「手伝うよ」ジェイムスが言った。「ひどい――運が良かったね、スティーヴン。兄さんのことも咬《か》むつもりかと思った。なんで咬まなかったんだろ?」
「ぼくの肉はまずいのさ」スティーヴンは空を見上げた。「あの月を見ろよ――懐中《かいちゆう》電灯もいらないくらいだ……来いよ。板に釘に金槌《かなづち》だ。鶏囲いをミンクのミの字もはいれないようにしてやる」
「戻って来やしないよ」と言ったウィルは忘れられたままスティーヴンのボタンの穴《あな》でしおれている紅はこべの花を見ていた。「害獣に対して効あり。戻って来やしないよ」
ジェイムスがのぞき込んだ。「おまえ、様子が変だぜ。大丈夫か?」
「あたりまえだろ」ウィルは頭の中の混乱《こんらん》と闘《たたか》った。「あたりまえだ。あたり……」
頭がぐるぐる回っていた。めまいに似ていたが、時間の感覚、今と前後の感覚まで破壊《はかい》されつつあるようだった。ミンクは行ってしまったのだろうか? それともまだ追い回してる最中か? それともウィルのほうが……まるで別の……場所にいるのだろうか……?
ウィルはいきなりかぶりを振ったまだだ。まだだ。「父さんの道具箱なら納屋の中だよ。移したんだ」
「なら、来いよ」スティーヴンは先に立って、そぐわないムードが出るというので納屋と呼ばれている木の物置小屋にはいっていった。彼らの家はもともと牧師館で農場だったことは一度もなかったのだが、農場育ちの母親が飼育《しいく》している鶏や兎《うさぎ》だけで雰囲気《ふんいき》はがらりと変わったものになっていた。
ジェイムスが電灯のスイッチを入れると、三人は立ち止まって目をしばたたいた。それから金槌《づち》やヤットコ、太い釘や針金、それに厚さが半インチもある半端《はんぱ》な板切れを何枚かかき集めた。
「これならぴったりだ」スティーヴンが言った。
「父さんが先週、新しい兎小屋をこしらえたんだ。その残りだよ」
「明かりはつけっ放しにしとけ。外まで届くから」
ほこりっぽい窓からひとすじの光が夜に射し出でた。兄弟はミンクがもぐり込んだ鶏囲いの向こう端に回り、針金を切り、板を継《つ》ぎ合わせた。
「ウィル――板がもう一枚ないか見てきてくれ。これより一フィートぐらい長いやつがいい」
「わかった」
ウィルは月に照らされた庭をよこぎって、納屋から伸びている黄色い光をめざした。背後で、まだざわついている鶏の声にかぶさるように、スティーヴンの金槌《かなづち》の規則正しい槌音が響《ひび》いた。
と、再び頭の中が逆巻《さかま》き、五感が混乱に陥《おちい》り、風が顔に吹きつけるように感じられた。トントントン……トントントン……槌音が変化し、鉄に鉄がぶつかっているような、虚《うつ》ろな金属音と化したかに思われた。ウィルはよろめいて納屋の壁によりかかった。光のすじは消えていた。月も。変化はそのほかには何の予告もなしに訪《おとず》れた。時間の移動はあまりにも完璧《かんぺき》に行われたので、あっという間にスティーヴンもジェイムスも、見馴《な》れた物の動物も木も、片鱗《へんりん》すら見えなくなっていた。
夜は一段と暗さを増していた。軋《きし》るような音がしていたが何かはわからなかった。相変わらず壁にもたれているのに気づいたが、肌触《はだざ》わりが違っていた。板に触れていた指は、いまや四角い大石を積んでしっくいで固めたものに触れていた。空気はウィル自身の時代同様暖かい。壁の反対側から話し声が聞こえた。男が二人。どちらの声もウィルにとっては、家族の者が見たことも触れたこともない彼の人生の裏側からやって来た。なつかしくてたまらない声だったので、うなじの産毛《うぶげ》が逆立ち、歓《よろこ》びが痛いまでに胸にせり上げてきた。
「ではバードンにて」低い抑揚《よくよう》を欠いた声。
「致し方ない」
「押し戻せるとお思いか?」
「わからぬ。そちはどうじゃ?」第二の声も同じくらい低かったが、温かい感情が軽みを与えていた。心から面白《おもしろ》がっているような響きがあった。
「思います。わが君、あなたさまなら押《お》し戻《もど》せましょう。と言うても一時のこと。きゃつらを押し戻すことはできても、きゃつらの後ろ楯《だて》なる自然の勢力が敗北に長く甘《あま》んじていたことは、未だかつてありませぬ」
温かい声はためいきをついた。「いかにも。この島は滅《ほろ》びるであろう、もし万一……そのほうの申す通りじゃ、わが獅子《しし》よ。まだ幼い頃より余《よ》にはわかっておった。あの日――」
言葉が途切れた。長い間《ま》があった。
第一の男がそっと言った。「お考えにならぬことです」
「では知っておるのか? 誰《だれ》にも語ったことはなかったが、ふむ、だがそちなら知っていて当然じゃな」男は静かに言った。面白がっているというより愛情のこもった笑い方だった。「そちもあの場所にいたのか、<古老>よ? そちもか? いたに決まっておるな」
「おりました」
「プリテン島の誇《ほこ》る男達がことごとく殺されたのだ。ひとり残らず。ただ一度の集会にて三百人の英傑《えいけつ》が斃《たお》れた。三百人じゃ! 刺《さ》され、縊《くび》られ、殴《なぐ》り殺された。合図一つで――余はかの男が合図するのを見さえしたのじゃ。知っておるか? 余は七歳の小わっぱじゃった……。皆、死んだ。わが父も。血が流れ、草は紅《あか》く染まり、<闇《やみ》>はブリテン島の上に勢力を伸ばし始めた――」あとは言葉にならなかった。
低い声が重々しく、冷《つめ》たく言った。「それも永久には続きませぬ」
「おう、天にかけて、続かせはせぬ!」第二の声の主は再び自制心を取り戻していた。「数日のうちに、バードンにて証明して見せようぞ。バードンの山は幸いの山《モンス・パドニクス・モンス・フエリクス》と言う。希望を持たねば」
「召集は既《すで》に始まりました。陛下《へいか》の忠実なるブリテン島の隅々《すみずみ》から人が集まっております」第一の声が言った。「今宵《こよい》は<輪>を召集する運びになっております。この大いなる危機に立ち向かう<古老>の輪です」
ウィルは名前を呼ばれたかのように姿勢を正した。今やこの時代に浸りきっていたので呼ばれる必要さえなかった。思考すら存在せず、ただ意識だけがあった。振り向くと、石壁に切られた入口の周《まわ》りから光が洩《も》れきらめいているのを見た。入口に歩み寄ってみると、槍《やり》と剣《つるぎ》で武装《ぶそう》した人物がふたり、戸の両側に控《ひか》えているのを見てぎょっとしたが、ふたりのどちらも動かず、直立不動の姿勢を取ったままじっと前方を見つめていた。
ウィルは手を伸ばして入口に垂《た》れ下がっていた重い厚織の幕《まく》を引きあけた。まばゆい光が燃《も》えて目を射《い》た。ウィルは目をしばたたいて腕《うで》を前にかざした。
「おお、ウィル」より低いほうの声が言った。「おはいり、おはいり」
ウィルは前に進み出、目をあけた。そして立ったまま、尊大《そんだい》なワシ鼻とふさふさと豊かな白髪を持ちマントに包《つつ》まれた背の高い人物にほほえみかけた。久しく会ったことのないふたりだった。
「メリマン!」ウィルと男は歩み寄り、抱《いだ》き合った。
「その後どうかな、<古老>よ?」長身の男は言った。
「元気にしてます。ありがとう」
「<古老>から<古老>へのあいさつか」ともうひとりの男がそっと言った。「最初かつ最年長の者と、最後かつ最も若年の者。余《よ》も歓迎《かんげい》するぞ、ウィル・スタントンよ」
ウィルは澄《す》んだ青い目と陽に灼《や》けた顔、短いごましおのひげ、まだ茶色だが白いものがすじのように混じっている髪を見た。そして片膝《ひざ》をつき、頭《こうべ》を垂《た》れた。「わが君」
相手は軋《きし》る革製《かわせい》の椅子《いす》から身を乗り出し、あいさつ代わりにウィルの肩にわずかに触れた。「会えて嬉《うれ》しいぞ。立て、師のもとへ行くがよい。このひとときはそちら二人だけのものじゃ。せねばならぬことはたんとある」
男は立ち上がると、短いマントを一方の肩越しに押しやり、戸口に歩み寄った。軟《やわ》らかい履《は》き物はモザイク模様の床の上で音もたてなかった。メリマンの長身よりも頭一つ低かったが、いかなる人よりも高く感じさせる威厳《いげん》があった。「余《よ》はこれまでのところ何人集まったかを聞きに参る」と戸口で振り向くと、衛兵が敬礼する槍音にかぶせるように言った。「一日一夜《ひとひひとよ》じゃ。わが獅子《しし》よ、急げ」
「あの衛兵達、ぼくが誰かも聞かなかったよ」ウィルが言った。
「来ると知らされていたのだよ」ウィルを見おろしたメリマンの骨張ったいかつい顔には苦笑が浮かんでいた。それからいきなり頭を反《そ》らし、すばやく息を吸い込み、また吐《は》き出した。「ああ、ウィル――どんな具合だな、第二の蹶起《けつき》は? 今ここで起きているのが第一の蹶起なのだが、雲行きは思わしくない」
「わけがわからないんだけど」
「わからぬと? <古老>よ。私があれだけ教えたのに、<仙術の書>をしばらく前に学んだというのに、未だに時間がいかに人間の意識ではとらえ難《がた》いか理解出来ぬか? まだ人間に近すぎるのかも知れぬな……ふむ」メリマンは湾曲《わんきょく》した肘掛《ひじか》けを持つ長椅子《いす》に唐突に腰をおろした。天井の高い四角い部屋には家具はほとんどなく、しっくい壁には夏の田園風景が、陽光と畑と金色の収穫《しゅうかく》が鮮《あざ》やかに描《えが》かれていた。「ウィル、人間の時間の中において<闇>は二度蹶起《けつき》する。一度は君が人間として生まれた時代に、いま一度はそれより十五世紀さかのぼる今ここでだ。わが君アーサーはここで大勝利をかちとらねばならぬ。その勝利は侵略してくる殺戮者《さつりくしや》どもを、彼らを駆《か》り立てている<闇>から切り離せるまで続かなくてはならぬのだ。この二度の蹶起のそれぞれから島を守るにあたって、君と私には果たさねばならぬ役割がある。君の役割と私のは全く同じなのだ」
「けど――」
メリマンは逆立った白い片眉《まゆ》を上げ、ウィルを横目で見た。「君とあろうものが、未来から来た者がどうやって(人間の馬鹿げた言い方を借りれば)既《すで》に起きてしまったことに参加ができるのか、私に聞くつもりなら……」
「とんでもない。聞かないよ。ずっと前にあなたが言ったことをおぼえてる――」ウィルは顔をしかめて記憶をさぐり、正しい文句を捜《さが》し求めた。「全ての時間は共存しているって言ったんだ。過去は未来へと続く道だが、にもかかわらず未来が過去に影響を与えることも時としてありうる」
メリマンのいかめしい顔にかすかな賞讃《しようさん》の笑《え》みがひらめいた。「従って、今こそ<光の輪>が召集されねばならぬ。呼びかけるのはウィル・スタントン、<しるしを捜《さが》す者>、時間のある一点において<光>の六つのしるしを輪につなぎ合わせ得た者だ。<輪>を召集するわけは、ただ一度の呼びかけによってアーサーの時代のこの世の民と、君がやって来た時代の民との両方を助けるためなのだよ」
「つまり、しるしをつないだあとで輪にかけたものすごくややこしい魔法を解いて、しるしを隠し場所から取って来なきゃならないんだね。方法がぼくにわかるといいけど」
「私もそれが気がかりだ」メリマンもいささか重い口調で言った。「君に出来ねば、しるしは、あれらを護《まも》っている上なる魔法《まほう》の力で<時>の外に持ち去られ、この大事において<光>の握《にぎ》っている唯一の切り札《ふだ》が永久に失われてしまうことになる」
ウィルは生唾《なまつば》をのみ下した。「けど、ぼく自身の時代でやらなきゃならないね。しるしをつないで匿《かく》したのはあの時代なんだから」
「決まっておる。わが君アーサーが急げとおおせられたのもそこなのだ。行け、ウィル、なすべきことをするのだ。一日一夜、地球の時間で我らに与えられたのはそれだけだ」
メリマンは立ち上がり、ひとまたぎで部屋を横切ると、ウィルの腕を古代ローマ人があいさつ代わりにしたようにがっしとつかんだ。黒い目がしわの刻《きざ》まれた風変わりないかつい顔から火と燃《も》えて見おろしていた。「私はそばにいるが、手伝ってやる力はない。気をつけるのだよ」
ウィルは背を向けて戸口に向かい、幕を引きあけた。外の夜空には相変わらず金属的な槌音《つちおと》、鉄が鉄を打つ音がかすかに鳴り響いていた。
「ウェイランド・スミスはきょうは遅くまで仕事をしている」背後でメリマンがそっと言った。「馬の蹄鉄《ていてつ》を打っているのではない。この時代には馬はまだ蹄鉄など打たない。剣や斧《おの》や短剣を打っているのだ」
ウィルは身震《ぶる》いし、ひとことも言わずに黒い夜の中に出て行った。頭がぐるぐる回り、風が頬に吹きつけた――と、再び、月が前方の空に大きな淡《あわ》いオレンジのように浮かび、ウィルの腕には板切れがあり、前方から聞こえる槌音は板に釘を打ち込む槌音《つちおと》だった。
「ああ」スティーヴンが顔を上げた。「これならぴったりだ。ありがとう」
ウィルは進み出て板切れを手渡した。
召集
屋根裏にあるウィルの寝室の空気は温かく淀《よど》み、夏の熱気がこもっていた。あおむけに寝そべったまま、ウィルは階下の深夜のささやき声や食器の触れ合う音に耳を傾《かたむ》けていた。最後まで起きていた者たちが――低い声から察するに、父親とスティーヴンらしかったが――寝支度をしているのだった。この部屋はもとはスティーヴンの寝室だったので、ウィルは持物を注意深く片付け、正当な主人が休暇中住めるようにしたのだが、スティーヴンはかぶりを振った。「マックスが留守だから、あいつの部屋に泊まるよ。今じゃぼくはさすらいの民《たみ》なんだ、ウィル。この部屋は全部おまえのものだよ」
最後のドアが閉じられ、最後までガラスに映《うつ》っていた明かりも消えた。ウィルは腕《うで》時計を見た。真夜中を過ぎている。夏至の日が訪《おとず》れてから数分たっている。半時間も待てば足りるはずだ。傾斜《けいしゃ》した天井の天窓からは星は見えなかった。月の光に洗われた空が見えるだけで、その地味な明るさが部屋の中まで射し込んでいた。
家中が眠りにくるまれた頃、ウィルはようやくパジャマのまま階段を忍《しの》びおりた。軋《きし》むとわかっている段は足を伸ばして隅《すみ》の所をそろそろと踏《ふ》んだ。両親の寝室の前まで来るとはっと凍《こお》りついた。父親のいびきが次第に高くなったと思うと半ば目ざめた唸《うな》り声がし、寝返りを打つ衣ずれの音に続いて再びすやすやと寝入るのが聞こえた。
ウィルは闇の中で微笑した。<古老>にとって、家中の者を停止した<時>の中に送り込み、現《うつ》し世を離れた決して破られぬ眠りを与えることは何でもなかった。だがそうしたくはなかった。それでなくても今夜はさまざまな形で<時>をいじくらねばならないだろう。
次の階段を静かにおりて玄関ホールへと進んだ。捜《さが》している絵は大きな玄関ドアのすぐ内側の壁、帽子《ぼうし》掛けと傘《かさ》立てのそばにかかっている。小さな懐中電灯を持ってきたのだが必要ないのがわかった。ホールの窓から銀色に射し込む月光が絵の中の見馴《な》れた人々の全てを見せてくれた。
小さい頃から、傘立てによじのぼらなければ黒っぽい木彫《ぼ》りの額《がく》の中が見えないほど小さかった頃から、ウィルはこの絵に夢中だった。ヴィクトリア時代の版画で、汚《きた》ない茶色の濃淡《のうたん》で描《えが》かれていたが、最大の魅力《みりょく》はこみいった細部がすさまじいまでに精密に描き出されていることだった。流れる花文字で「カーレオンのローマ人」と題され、何か複雑《ふくざつ》な建物の建設風景を現わしていた。到る所で人間の集団が綱を引いたり、頑丈《がんじよう》な木のくびきをはめられた牛を導いたり、切石をしかるべき位置にはめこんだりしている。石を敷きつめた中央の床が完成している。なめらかな楕《だ》円形で、柱に支えられたアーチに囲まれている。その向こうには壁か階段らしいものが立ち上がりかけている。すばらしい揃いの服装をしたローマ人兵士が、正確に切り出された石の積みおろしとはめこみを監督《かんとく》している。
ウィルはある特定の兵士を捜していた。前景の右端で柱に寄りかかっている百卒長だ。この忙しい建設風景の中で動いていないのはこの男だけだった。細部まではっきり描き込まれた顔は生々しく少しばかり悲しげで、絵の外の遠い所を見つめていた。その悲しげな近寄り難《がた》さが、幼いウィルをして、駈《か》けずり回る人夫を全部集めたよりも、この仲間はずれの一人の人物に関心を抱《いだ》かせてやまなかったものだ。しるしを匿《かく》すのにメリマンがこの男を選んだのもそこだった。
メリマン。ウィルは階段に腰をおろし、あごを手で支えた。よく考えを練《ね》らなければならない。メリマンと自分とがどうやって六つのしるしをつないだ輪を――<光>の最も強力な(そして最も狙《ねら》われやすい)武器を匿しおおせたかを思い出すのは簡単だった。このローマ人の時代に戻り、いま目の前に掛かっている絵の石の間に、ウィルは自らしるしをすべり込ませたのだ。人目を避けて安全に隠《かく》れていられる。<時>に埋《うず》もれた場所に。だがそれを思い出すのと、逆転させるのとは別問題だ……
ウィルは考えた。唯一の方法はもう一度繰り返してみることだ。もう一度行って、しるしを匿すためにしたことを全部もう一度してみなくちゃ――それから、そこでおしまいにする代わりに、もう一度取り出す方法を見つけなくちゃ。
ウィルは興奮《こうふん》し始めていた。たとえメリマンが来たとしても、やるのはぼくなんだ。居合わせることはできるが、手伝う力はない。そう言ったもの。だから、何かを言ったりしたりすべき瞬間《しゅんかん》が来ても、教えてくれることはできないわけだ。メリマン自身その瞬間だってことに気づかないかもしれない。ぼくだけが<光>のためにその瞬間を選べるんだ。もし失敗したら、これ以上はどうにもならない……
ぞっとするほど無慈悲《じひ》な責任の重さに押しひしがれ、興奮はしぼんでしまった。しるしを解き放つ魔法には鍵《かぎ》が一つしかない。それを見つけられるのはウィルだけなのだ。だがどこで、いつ、どうやって?
どこで、いつ、どうやって?
ウィルは立ち上がった。魔法から抜け出す道は後戻りすることによってのみ発見できる。従ってまず第一に魔法を行った時を再現しなければならない。<時>を逆転させ、一年前に過ごした数時間をもう一度生きるのだ。あの時、ウィルを傍《かたわ》らに立たせてメリマンは――
メリマンは何をしたのだっけ? 正確に真似なくちゃ。
懐中電灯《かいちゆうでんとう》を下に置くと、ウィルは壁の絵の前に立ち、思い返した。片手を伸《の》ばして額《がく》にかけた。それから身《み》じろぎもせずに精神を集中させ、絵の中ほどにいる数人の男達を見つめた。どこか見えない地点に一個の切石を運ぼうと綱《つな》を力一杯引っぱっている男達。ウィルは頭からあらゆる邪念《じやねん》を追い払い、他の者や音に対して五感をふさぎ、ひたすらに見つめた。
すると徐々《じよじよ》に、綱の軋《きし》る音、規則正しい号令、石と石のこすれあう音が耳の中で大きくなり、ほこりと汗と牛糞《ふん》の匂いがした――そして絵の中の人々は動き出した。ウィルの手はもはや木の額縁《がくぶち》にかかってはおらず、牛の引く石を積んだ荷車の木枠《きわく》をつかんでいた。ウィルはカーレオンのローマ人達の世界に踏み出《だ》した。その時代の少年として、暑い夏の日に備えて白麻の短い衣を涼しげにまとい、不揃《ぞろ》いな四角い敷石をサンダルをはいた足の下に感じながら。「よいと引け……よいと引け……」石はころの上でじわりじわりと前進した。調子は違っても同じような号令が他の集団からも上がり、空気中に鳴り響《ひび》いた。兵士と人夫、浅黒い肌《はだ》とほこりにまみれたピンクの肌、縮《ちぢ》れた黒髪とまっすぐな金髪、みな力を合わせて働いている。石と石がぶつかり合っては悲鳴を上げ、人間も動物も力をふりしぼるごとに呻《うめ》いた。そしてメリマンが背後からウィルの耳にささやいた。「時が来たら環《わ》をはずせるよう、用意しておきなさい」
下を見ると、金環につながれた<光>の六つのしるしがベルトのように衣の腰に巻きついていた。きらめく環にそれぞれはさまれしたしるしのうち、あるものは光り、あるものはくすんでいたが、いずれも形は同じだった。十字に仕切られた円。鈍《にぶ》い青銅、黒ずんだ鉄、焦《こ》げた木、輝《かがや》く黄金、きらめく火打石、そして片時も忘れたことのない、時には夢にまで見る最後の一つ――澄《す》んだ水晶からなり、繊細《せんさい》な記号や紋様《もんよう》の刻《きざ》まれた、雪を封《ふう》じ込んだ氷の環さながらの水のしるし。
「おいで」メリマンが言った。
ウィルの脇《わき》をさっと通り過ぎたメリマンはくるぶしまで届く暗青色のマントに長身を包んでいた。湯気をたてている牛を通り越してその向こうの柱まで行き着くと、そこには百卒長がひとり佇《たたず》んでいて、人夫の一団が荷車の一番上の花崗岩塊《かこうがんかい》に革紐《かわひも》や綱《つな》を巻きつけるのを見守っていた。ウィルも目立つまいとしながらメリマンに続いた。
「はかどっておりますな」メリマンは言った。
ローマ人が振り向いたのを見ると、ウィルが生まれてこのかた毎日のように前を通ったあの重々しい絵の中の男だった。きらきらする黒い目が、鼻の高いひきしまった顔の中からメリマンを見た。
「ああ」と男は言った。「ドルイド教の祭司どのか」
メリマンはわざと儀《ぎ》式張った会釈《えしゃく》をした。「私を何と見るかは人によって異なります」とかすかに微笑しながら言った。
兵士は考え深げにメリマンを見た。「変わった国だ。蛮族《ばんぞく》と魔法使い、泥と詩。おぬしの国は変わった国だ」と、顔がさっと緊張《きんちよう》した。話している間も関心の一部分は荷車に向けられていたのだ。「気をつけろ! おまえ、セクストゥス、そっちの端の綱が――」
人夫が群がり、片側に危なっかしく傾いたまま吊りおろされていた石の平衡《へいこう》を取り戻そうとした。石は無事に着地し、その一団の指揮《しき》官は片手を上げて礼を言った。百卒長はうなずき、目は離さないながらも緊張を解いた。別の荷車が長い木の梁桁《はりげた》を満載《まんさい》してゴトゴトと通り過ぎた。
メリマンは前にそびえつつある建物をながめやった。視野が拡がったので半ば完成した円形劇場だとわかった。壁は石、座の部分が木でできた座席が幾層も中央広場から大きな曲線を描いて立ち上がっている。「ローマは才能豊かな国ですな。私どもにも石を扱う技術が多少はあります。<光>に捧《ささ》げられた巨大な石の輪に匹敵するものはありませぬ。しかし、信仰のためばかりか日々の暮らしにまで関わることとなると、ローマの石工の腕前は――あなたがたの家や水路、石管や街路や大浴場ときた日には……友よ、私どもの生活様式を変え始めた様に、私どもの街々をも変えてしまいますな」
兵士は肩をすくめた。「帝国は絶えず拡がっている」そう言うとウィルを見た。ウィルはメリマンの傍《かたわ》らをつかず離れず、長い石を荷車からおろそうと片側に吊《つ》り出している人夫達を見ていた。
「おぬしの子か?」
「私の知識をいくらか学び取ろうとしている者です」メリマンは眉《まゆ》一つ動かさずに言った。「弟子にして一年になりますが、先行きが楽しみです。あなたの先祖様が来られる前の時代からの古い血筋《ちすじ》の者ゆえ」
「わしの先祖はここには来なかった」百卒長は言った。「わしは帝国の生まれではない。七年前にローマ本国から来たのだ。第二派遣隊に召集されてな。昔のことだ。ローマは帝国そのもの、帝国はローマそのものだと言うが、そうは言うても……」と、ふいにウィルにほほえみかけた。厳しい顔に明るさを添《そ》える親切な微笑だった。「師匠《ししよう》によく仕えているか、坊《ぼう》?」
「努力してます」ウィルは答えた。ラテン語の折り目正しい用法を真似るのは楽しかった。<古老>には世界中のあらゆる言語同様容易にしゃべれる言語だったが、母国語である英語と共通している部分があるだけにとりわけ快《こころよ》かった。
「この建物に関心があると見えるな」
「すばらしいと思います。石の一つ一つが隣りのとぴったり合うように切られていて。梁《はり》を支える石だってそうです。それに作業の丹念で正確なことったら――どうすればいいかよくわかってるんですね――」
「全てあらかじめ決めているのだ。帝国中どこでも同じことだよ。これと全く同じ円形劇場が、スパルタからブリンディジウムまで、ここと同じような二十もの要塞《ようさい》都市に建てられている。おいで、見せてやろう」
ウィルの肩をつかみ、メリマンにもついてくるように目で合図すると、中央広場の砂だらけの床を横切って半ば完成したアーチへと導いた。次第にせりあがる座席層の中に設けられた八つの入口の一つだった。「第三班があの次の石を運び挙げればわかるが、ここにはまるようになっている――動かないようにはめこまれるのだよ――」
アーチの片側に石を積み重ねた柱が立ち上がり出していた。見守るうちに、次の石が四人の汗だくの兵士に引かれてころの上を近づいて来た。何人かが唸《うな》りながら力をふりしぼって完成しつつあるアーチの定められた場所に押し上げた。他の石よりもはるかに大きく、でこぼこでてっぺんに大きな窪《くぼ》みがあったが、外に向いた四つの面のうち一つは珍《めずら》しく平らでゆったりとしていた。刻《きざ》まれた文字が見えた。CON.X.C.FLAV.JULIAN゜
「フラヴィウス・ユリアヌス麾下《きか》百人組、第十歩兵隊により建設さる」メリマンが言った。「みごとだ」そして<古老>独特の精神に語りかける声なき声でウィルに「あの中に。今だ」と言った。と同時につまずき、不器用にも百卒長の肘《ひじ》にぶつかった。ローマ人は礼儀正しく振り返ってメリマンを支えた。
「どうした?」
ウィルはすばやくしるしをつないだベルトを腰からはずし、石のてっぺんの虚《うつ》ろな窪《くぼ》みに落とし込んだ。次の石がその上に乗るはずだ。光る金属が見えなくなるように、ウィルは手早く土や小石を上にかぶせた。
「失礼しました」メリマンが言っていた。「たいしたことでは――サンダルが――」
兵士が振り向いた。人夫達が次の石を引きずって来た。ウィルがさっと脇へのくと、石は呻《うめ》き、軋《きし》りながら定位置に納まった。そしてしるしの輪は、ローマ帝国のこの事業が存続するかぎり秘匿《ひとく》されるよう、石の棺《ひつぎ》に封《ふう》じ込められたのだった。
ウィルの精神のさめている部分は、全てをメリマンと自分が以前にしてたことの魔法《まほう》による再現として見ていたが、今や突然、意識の中に割り込んできた。今だ! とその部分は言った。このあと、どうした? 最初の時にはこのほかに行動らしい行動はしなかった。しるしを匿《かく》した日には、ウィルはこのあとじきに自分の時代に戻ったのだ。貴重な輪を完全な匿し場所に残したまま<時>の流れの中を未来へと送られて。となれば、今どうしてもさぐり出さねばならぬ秘密、輪を取り戻すための大切な鍵《かぎ》は、このあとすぐに続く(ローマ時代の)数分間に隠《かく》されているに違いない。どれがそうだろう?
ウィルはすがるようにメリマンを見た。だが高い鉤《かぎ》鼻の上の黒い目は無表情だった。これはメリマンの仕事ではない。ウィルの務めなのだ。ひとりで果たさねばならない。
とは言え、メリマンがまだここに残っていることには何か理由があってもいいはずだ。メリマン自身は意識しなくても、何かの役割をはたしてくれるのかもしれない。そうだとすれば、その役割を発見し、使えるものは使うのがウィルの務めだ。
どこで、いつ、どうやって。
百卒長が大声で指示を当たえると、最も手近にいた人夫達が回れ右をして次の石を取りに歩み去った。
彼らを見送りながらローマ人は急に身震《ぶる》いし、マントを肩にしっかり巻きつけた。
「みなブリテン島生まれの者ばかりだ」と苦笑まじりにメリマンに言った。「おぬしと同じで、この気候を何とも思っておらぬ」
メリマンが同情めいた聞き取れぬ音を口の中でたてた。すると理由らしい理由も思いつかないのにウィルの首すじの産毛《うぶげ》が逆立った。ほかに語るすべを持たない感覚からの警告《けいこく》のように。ウィルは神経を張りつめさせて待った。
「この国の島々ときたら」ローマ人は言った。「みどりなのは認める。みどりが多いのも不思議はない。こう絶《た》え間なく雲と霧《きり》と湿気《しつけ》と雨に見舞われては」とためいきをついた。「やれやれ、骨が痛んでならぬ」
メリマンがそっと言った。「痛むのは骨ばかりではありますまい……日の照る国に生まれた方にはお辛《つら》いことでしょうな」
百卒長は木の座席や石の柱越しに何もない空間を見つめ、どうしようもないと言いたげに悲しげにかぶりを振った。
ウィルが、自分のものとも思えぬ澄《す》んだ高い声でたずねた。「お国はどんなところですか?」
「ローマか? 大いなる都だ。だが、わしの家は都の外、田舎にある――地味だがいい家だ――」とウィルを一瞥《いちべつ》した。「息子がひとりいる。もう、おまえと同じくらいの背丈になっていることだろう。最後に会った時は両手で放り上げ、受け止められるほどだった。それが今では人馬《セントール》のように馬を乗りこなし、魚のように泳ぎが得意だと、妻《つま》が言ってよこした。今この瞬間《しゆんかん》にも、わしの地所の近くの川で泳いでいるかも知れぬ。わしが育ったところで育たせたかったのだ。皮膚《ひふ》に熱い陽射し、蝉《せみ》の鳴き声に満ちた空気、空をせに黒く立ち並ぶ糸杉……丘《おか》はオリーヴの木で銀色におおわれ、段々畑にはぶどう棚《だな》がある。今もぶどうが熟《う》れつつあるだろう……」
望郷の念が肉体的な苦痛にも似て脈打っていた。ウィルははっと気づいた。答はこの雰囲気《ふんいき》の中にあるのだ。この一瞬の素朴《そぼく》なむきだしの憧《あこが》れに、見ず知らずの他人の目と耳に対して何のてらいもなくさらけ出された一人の男の最も深く、最も素朴な思いに。これこそウィルを運んでくれる道なのだ。
ここで、今、こうやって!
ウィルは海に飛び込むがごとく憧れの中に、男の心痛に精神を飛び込ませた。水が頭の上で一体となるがごとく、男の感情はウィルを呑《の》み込んだ。世界が渦《うず》巻いた。石も曇天《どんてん》もみどりの野原も旋回《せんかい》し、変化し、以前といささか異なる状態に落ち着いた。故郷恋しさにあふれた声が再び耳に静かに響いていた。だが前とは違う声だった。
声も違っていたが言語も変化していて、母音を長く伸ばした、歯切れの悪い癖《くせ》のある英語と化していた。夕方になっていて、頭上の空には月に洗われた暗い銀色、あたりには影が垂《た》れ込めている。物の形と影が判別し難く溶《と》けあっていた。
だが今度の声にも、全く同じ痛いほどの郷愁《きようしゆう》がこもっていた。
「……太陽と砂と海ばかりなんだ。フロリダもあの辺はね。ぼくの住んでたあたりはどこもかしこも花だらけで。夾竹桃《きようちくとう》、ハイビスカス、それにポインセチアが大きな赤い繁《しげ》みになってる。クリスマス用のちっぽけな鉢に閉じこめられてるんじゃなくて。浜辺では風がココヤシの間を吹いて、葉っぱがバラバラ音をたてるんだよ。雨みたいに。ぼくが君の歳には、綱につかまるみたいにヤシの葉にぶらさがったもんだ。故郷《くに》にいれば今頃は親父と釣《つ》りに出ているな――親父は長さ四十フィートの船を持ってるんだ。おふくろの名前を取って<ベツィ嬢《じよう》号>って呼んでる。マングローヴの林の中の水路を通って出航するとね――マングローヴは水の中の森みたいなもので濃《こ》いみどり色をしてる。水もみどりだけど、湾《わん》に出て沖《おき》のほうまで行くと深い深い青に変わる。そりゃきれいなんだ。アウトリッガーを上げて糸を垂《た》れて楽しむうちにカツオやイルカが釣れる。運がよけりゃアジもな。観光客はみんなバショウカジキかキングフィッシュを釣りたがるけど、故郷を出る前の日に、六十ポンドも目方があるキングフィッシュを釣ったんだぜ。ジニーが――ぼくの彼女だけど――写真を取ってくれたっけ」
ウィルには、今や群がる雲が月を横切るたびに明るくなったり暗くなったりしている空を背にした。声の主の輪郭《りんかく》が見えた。痩《や》せた青年で長い髪をポニーテールに束《たば》ねている。静かな声は思い出をたどり続けた。
「もう八ヵ月もジニーに会ってない。八ヵ月と言や長いぜ。帰って会える最初の日に何をするか全部計画を立ててあるんだ。そればっかり考えてる。のんびりした長い一日を過ごすんだ。日の光を浴《あ》びて、泳いだり浜辺に寝そべったり。サーフィンもいいな。ビートの店でビールとハンバーガーを食って。ビートのハンバーガーは最高にいけるんだぜ。でかくて汁気たっぷりで、ジニーの好物なんだ……ジニーはそりゃ美人なんだ。長い金髪、スタイル抜群《ばつぐん》で、毎週手紙をくれる。一緒《いつしよ》に来なかったのは、親父さんの心臓が弱いせいで、彼女にすれば――ああ、ジニーは最高だよ」青年は言葉を途切らせ、首を振った。「やあ、ごめんよ。しゃべり出したら止まらなくなっちまって。こんなに……友だちが恋しいなんて自分でも気づかなかった。ここで発掘してるのは楽しいけど、帰れるとなったらやっぱりうれしいな」
青年の背後で丸みを帯びた草深い丘が地平線の役割を果たしていた。だが、全く不思議なことに、前と同じ場所にいるという気がウィルにはしてならなかった。ふたつの場所をつなぐ感情の、アメリカ人の声にこめられた想《おも》いのせいかもしれない。だが…… メリマンの機嫌《きげん》のいい声がほの明るい夜の中で雰囲気《ふんいき》を壊《こわ》した。「この子がふるさのことをたずねたのがきっかけらしいね。ここに来て長いのかね?」
「作業が終わる頃には一年いたことになります。長いといってもたかが知れてますね」青年は照れを隠《かく》すようにてきぱきした口調になった。「ええと、そうでした。御案内しなけりゃ。ちょっとしかおられないのが残念ですよ、教授――朝のほうがよく見て頂けるものがどっさりあるんです」
「うむ、まあ」メリマンはあいまいに言った。「先約があるもので……ここだと言ったね?」
「待って下さい。カンテラを取って来ます。懐中電灯《かいちゅうでんとう》よりそのほうが――」アメリカ人は小さな木の物置と見える箱型の建物の中に姿を消した。窓に明かりがパッと灯ったと思うと、意外にもシュウシュウ音をたてている耐風灯《たいふうとう》を高く掲げて戻って来た。三人の周囲に投げかけられた光の池の中で、足もとの草と、メリマンの足がズボンの上にゴム長靴をはいているのが見てとれた。その向こうに、杭《くい》や綱《つな》や目印代わりのだらんとした小旗がいくつも突き出ている。ウィルが天然の丘だと思ったのは草深い塚で、今しも発掘作業が行われていたのだ。あたりは大きな一切れが切り取られたばかりの泥《どろ》ケーキさながらの様相を呈していた。発掘現場の内側、塚の奥深く切り込んでいるあたりにいくつかの石が見えた。四角い敷石が敷かれているらしい床。崩《くず》れたアーチの散乱した石。かつての木の座席がおかれていた。せり上がる石の層……
他人の渦《うず》巻く感情がウィルの精神から晴れ、代わりに驚《おどろ》きと安堵《あんど》と歓《よろこ》びが春の潮のように流れ込んできた。石を見れば、しるしを魔法から解き放つ秘密がしかるべき瞬間にとらえられたのがわかった。
「今度の発掘の背景はもちろん御存知ですね、リオン教授」若いアメリカ人は言った。「この塚は今までずっと<アーサー王の円卓《たく》>と呼ばれていました。根拠は当然ながら皆無《かいむ》でしたが発掘許可が誰《だれ》にもおりなかったんです。資金もなかったんですが、それは今度のフォード財団と契約《けいやく》で片づきました。で、ようやく中にはいってみて何を見つけたと思います? アーサー王のいわゆる円卓どころか、ローマ時代の円形劇場《げきじよう》ですよ」
「作業が終わるまでにミトラ神殿も見つけたとしても驚かんね」メリマンはウィルが初めて聞く妙《みよう》にきびきびした専門家らしい声で言った。「なんと言ってもカーレオンは主要な要塞《ようさい》だったのだから――野蛮《やばん》なブリトン人を霧《きり》ともやの中に閉め出しておくためのね」
アメリカ人は笑った。「霧やもやはそれほど気にならないんです。雨と――雨が降ったあとの泥《どろ》がどうもね。ローマ帝国を築《きず》いた昔の連中は確かに石の扱い方を心得てましたよ。ほら、これがお話しした石の文字板です――フラヴィウス・ユリアヌス百卒長とその部下達ですよ」
耐風灯が音をたて、影が躍《おど》った。青年はふたりを巨大な石を積んだ肩まで届く柱へと導《みちび》いた。高さ、大きさとともに抜きんでた石が見えた。刻まれた文字は今までは年月に痛めつけられている。掘り出されたばかりで、上の石が片側にずれてさらけ出された部分には、土が一センチほどの深さにまだ積もっていた。
メリマンがポケットから小さな懐中電灯を取り出し、文字の刻まれた石塊《せつかい》を(ウィルに言わせればその必要もないのに)照らした。「きれいに残っているな」と几帳面《きちようめん》らしく言った。「きれいに残っている。これ、ウィルや、見てごらん」そう言うとウィルに明かりを渡した。
「入口は八つあったとぼくらは見ています」アメリカ人が言った。「全部こういう石細工のアーチでしょう。こいつは主要な二つのうちの一つに違いありません――きょうの午後、土をどけ始めたばかりなんです」
「すばらしい」メリマンが言った。「それでは、先程聞かせてくれたもう一つの文字板を見せてくれんかね?」ふたりは洞窟《どうくつ》にも似た発掘現場の片側へと歩み寄り、同時に黄色い光の池をも運び去った。ウィルは動かなかった。足もとを確認するために一秒間だけ懐中電灯をつけたが、すぐに消した。今やウィル自身の時代、最初に旅立った時から数秒とたっていないもとの夏至の日だとわかった暗闇《くらやみ》の中で手を伸《の》ばし、十六世紀ほど前にローマ帝国が崩《くず》れ去って以来そこにあった土を掻《か》き分け、砕《くだ》けたアーチの大石の窪《くぼ》みにさぐり入った。すると指が十字に仕切られた金属の輪に出会った。懐中電灯を置いて両手で土を掘ると、ウィルは金環《きんかん》でつながれたしるしの輪を取り出した。
音がしないように輪と金環をいっぱいに伸ばしたまま丹念《たんねん》に土をふるい落とすと、ウィルは目を上げた。メリマンと若い考古学者は現場の何ヤードもむこうにいて、ゆらめく光としか見えなかった。興奮のあまり喉《のど》がつまるのを覚えながら、ウィルはベルト状のしるしの輪を腰に巻いて留め、隠《かく》すようにセーターを引きおろした。それからランプの明かりめざして歩き出した。
「ああ、では」メリマンがさらりと言った。「もう失礼しなくては」
「すごく面白いですね」ウィルは元気よく熱をこめて言った。
「よく立ち寄って下さいましたね」若いアメリカ人はとある垣根の後ろにとめてある自動車へと二人を連れて行った。「リオン博士、お会い出来たのは光栄でした。ほかの者もいればもっとよかったんですが――サー・モーティマーがさぞ残念がるでしょう――」
慌《あわただ》しく別れのあいさつを交《か》わし、メリマンの腕《うで》を敬意と勢いをこめて上下にゆさぶりながら、青年は二人を車に乗り込ませた。ウィルは「フロリダってすてきな所らしいですね。じきに戻《もど》れるようお祈りしてます」と言った。
が、考古学が最初の感情をアメリカ人青年の頭からすっかり追い払ってしまっていた。うなずき、あやふやに微笑すると、青年は姿を消した。
メリマンはゆっくりと道に沿《そ》って車を走らせた。それまでとはまるで異なる声でたずねた。「手に入れたか?」
「無事に手に入れたよ」とウィルが言うと、力強い手がウィルの肩をぎゅっとつかみ、離《はな》れた。もはや師匠《ししよう》と弟子ではなかった。二度ともとの立場に立つことはない。ふたりとも、遠い昔から運命づけられていた務《つと》めを果《は》たすために<時>の外にいる<古老>であり、ただそれだけだった。
「今夜でなきゃだめなんだ。それも早いうちに」ウィルが言った。「ここで出来ると思う? 今すぐに?」
「出来ると思う。二つの時代は我らの存在と共通の場所によって結ばれている。それと、何よりも、君のみごとな仕事ぶりによってな。出来ると思う」メリマンは口をつぐみ、車の向きを変えると発掘現場へと引き返した。ふたりは車をおり、一瞬《いつしゆん》、黙《もく》したまま佇《たたず》んでいた。
それから連れ立って暗がりに歩み入り、掘り出されたアーチや壁をよけて草深い塚のてっぺんに登った。月を隠して流れる雲のせいで今や真っ暗な空のもと、塚の頂にふたりは立った。ウィルは腰から<光の輪>のしるしである十字に仕切られた輪をつづったベルトをはずし、両手で差し上げた。時間と空間が溶《と》け合い、真夏の一瞬、二十世紀と四世紀が一呼吸の前半と後半となった。澄《す》んだ静かな声でウィルは夜に呼ばわった。「<古老>よ! <古老>よ! 今こそ永遠に、二度目にして最後となるよう輪をつなげ。<古老>よ、時が来た! <闇《やみ》>が、<闇>の寄せ手が攻めて来る!」
声は力強くほとばしった。高く掲《かか》げたしるしのうち、水晶《すいしよう》のしるしに星の光が白い火のようにきらめいた。突然、沈黙を護っている草深い塚の上にいるのは彼らふたりばかりではなくなった。世界中から、歴史のあらゆる時点から、ありとあらゆる年恰好《としかつこう》の男女が夜の中にひしめいて集まった。きらめく大いなる群集がそこにいた。地球の<古老>達が、六季節前に彼らの面前でしるしをつなぐ儀式が行なわれた時以来、初めて顔を合わせたのだ。闇《やみ》はざわめいた。形を成さぬ呟《つぶや》きがあたりにあふれた。言葉を使わずに意志の伝達が行なわれているのだった。 メリマンとウィルは人で満ちた夜の丘辺に並んで立ち、残るひとりの<古老>を待った。その人の存在こそ、この大集団を溶接《ようせつ》して究極的な魔法の道具となすもの、<闇>を打ち負かす力となすものなのだ。
人々は待った。星が出て夜空は明るくなったが、その人は来なかった。
きらめく人影が呟きゆらめくと、風景そのものがぼやけるように見え、居合わせる全ての同士と一体となったウィルの精神は懸念《けねん》に満たされた。
メリマンがしわがれた小声で言った。「こうなることを案じていた」
「老婦人は?」ウィルにはどうしようもなかった。「老婦人はどこ?」
「老婦人は?」風にも似て聞きとり難《がた》い、長いささやき声が暗がりを走った。「老婦人はどこだ?」
ウィルは小声でメリマンにたずねた。「おととしの年の変わり目には、輪つなぎの儀式にはいらしたのに。どうして今度は見えないの?」
「おそらく体力がおありにならないのだろう。<闇>への抵抗で力をすり減らしてしまわれたのだ――老婦人がどうやって力を使い果たされたか、君もよく知っているだろう。しるしをつなぐ儀式には無理を押して来られたが、そのあと立ち去られるだけの力も残っていなかったのを忘れたか?」
「おぼえてる」ウィルは、ミソサザイのようにかぼそい小柄で華奢《きやしや》な姿が、今のメリマンと同じ様《よう》にウィルの傍《かたわ》らに立って<古老>の大集団を見おろしていたのを思い出した。「だんだん……薄《うす》れて、そのまま消えてしまわれたっけ」
「まだ消えてしまわれたままらしい。手の届かぬところにおられるのだ。呪文《じゆもん》におおわれたこの島国の全ての年月が合わさって何らかの魔法を働き、その助けを借りてお連れできる時まで、老婦人は来られぬだろう。このようなことは初めてだし、二度と再び起きぬだろうが、今度ばかりは老婦人のほうでただの人間の助けを必要としておられるのだ」
メリマンは背すじを伸《の》ばした。ずきんをかぶった影のような長身が夜空を背に柱さながら黒々と立っていた。淡々《たんたん》とした話しぶりだったが、その声は夜を満たし、大群衆の目に見えぬ頭の上で繰《く》り返しこだまして聞こえた。
「誰《だれ》にわかる?」メリマンは言った。「断言《だんげん》できる者がいようか? おお<古老>の輪をなす者たちよ、断言できる者がいようか?」
すると夜の中から一つの声が発せられた。深く美しいウェールズなまりの声。豊かでビロードのようになめらかで、話しぶりも唄のように上がり下がりした。
「ア・マエント・アル・マナゾエズ・アン・カヌー」と声は言った。「アク・ア・マエル・アルグルワゼス・アン・ドード。訳《やく》せば、山々唄《うた》い、老婦人来《きた》る」
おぼろげな群集がどよめき、ウィルは聞き覚えのある文句に思わず歓《よろこ》びの声を上げた。「あの詩だ! そうだった! 海から取って来たあの古い詩の文句だ」だが急にまじめになった。「けど、どういう意味なの? あの文句はみんな知ってるけど――メリマン、何を意味してるの?」
この問いは、そよ風の立つ海のささやきやためいきにも似た多くの声によって繰り返された。強いウェールズなまりが考え深げに言った。「山々が唄う時に老婦人はおいでになる、ということだ。一つだけおぼえておいてほしい。この文句は、我ら全員が用いる<いにしえの言葉>ではなく、はるかに若い言葉で伝えられてきたのだ――若いと言っても、人間の言語としては最も古いものの一つを用いて」
メリマンがそっと言った。「ありがとう、わが友ダヴィズよ」
「ウェールズ語」ウィルが言った。「ウェールズ」再び雲が月を横切り出した黒い虚空《こくう》を見つめて、正確な言い回し、正しい考え方を捜《さが》し求めながらウィルはためらいがちに言った。「ウェールズに行かなきゃならない。ウェールズの中でも、前に行ったあそこに、それから、そこで正しい方法を、瞬間を見つけなきゃ……どこか山の中で、何とかして。そうすれば老婦人が来て下さる」
「そして我らは完全に一つとなり」メリマンが言った。「全ての探索《たんさく》の終わりが始まるのだ」
「ボブ・フイル、ウィル・スタントン」豊かなウェールズなまりが闇《やみ》の中でやさしく言った。「ボブ・フイル。幸運を祈《いの》る……」そのまま薄《うす》れて風の柔《やわ》らかい泣《な》き声の中に消えていった。ウィルを取り巻く群衆も薄れて消え、ふたりだけを残して行った。なめらかな草におおわれた塚《つか》の上に、ウィルが生まれた時代の夏至《げし》の日の、暗さを増しつつある夜半に。
ウィルが言った。「けど、ぼくが呼び寄せられたのは第一回の戦いのためでしょう? アーサーの時代の<闇>との戦いのためなのに……援軍《えんぐん》を連れて行くのに一日一夜しか時間がないのに、とても間に合わないよ。アーサー王はどうなるの? バードンであるはずの戦は? 何が――」ウィルは言葉を途切らせ、<古老>ならぬ人間ならではの文句を中断させた。
メリマンがあとを続けた。「何が起きるかとな? 何が起きる、何が起きた。何が起きつつあるのか、とな? つかの間の勝利があるのだよ。短い間だか息をつく暇が与えられる。わかるはずだよ、ウィル。全てはもとのまま、変わることはないのだ。アーサーの時代は<光>の輪の援助《えんじよ》を受ける。ひとたび召集された以上、多くのことをなしとげるだろう。だが老婦人の唱《とな》える呪文《じゆもん》なしには究極の力への到達は叶《かな》わぬ。従ってバードンにてこの島のためにかちとられるアーサーの平和はほどなく失われ、世界はしばし<闇《やみ》>の影の下に消えるかに見えるだろう。そしてそれから脱《だつ》し、再び没し、再び脱し、人間が歴史と呼ぶものを通じてそれが繰り返されるのだ」
ウィルが言った。「老婦人が来られるまで」
「老婦人が来られるまで」メリマンが言った。「ペンドラゴンの剣《つるぎ》を捜《さが》す手助けはあの方がして下さる。<光>の最後の魔法《まほう》を働かす水晶の剣だよ。それによって<闇>はついに退敗するのだ。君に手を貸《か》す者は五人いる。事の当初から、この重大事を成し遂《と》げるのは六人、六人のみだとされている。多かれ少なかれこの地球に生を受けた六人の者が、六つのしるしに助けられて成し遂げるのだ」
ウィルは引用した「<闇>の寄手が攻め来る時、六たりの者これを押し返す」
「いかにも」メリマンはふっと倦《う》み疲《つか》れた声になった。「苦しい戦いに対して、たったの六人」
ウィルは衝動的《しようどうてき》に詩の一聯《いちれん》の全部を引用した。自分の<古老>としての力が成長するにつれ――大昔のことのように思えたが――次第に明かされた古い予言詩だった。
<闇>の寄せ手が攻《せ》め来る時
六《む》たりの者 これを押し返す
輪より三《み》たり、道より三たり
木、青銅、鉄、水、火、石、
五たりは戻《もど》る 進むはひとり
最後の行に来ると、初めて聞くかのようにゆっくりとした口調になった。「メリマン? 最後のところ、どういう意味? 考えるたびに疑問しか浮かんで来ないんだ。五たりは戻る。進むはひとり……誰《だれ》のことなの?」
メリマンは夜のしじまに佇《たたず》んでいた。顔は影に隠《かく》され、声も静かで感情を欠いていた。「確《たし》かなことなど何一つないのだよ、<古老>よ。予言においてもな。あることを意味するかと思えば別のことを指《さ》す。結局のところ、人間にも意志はあるのだ。良きにしろ悪しきにしろ、表に出すにしろ内にこもるにしろ、自分の取るべき道を自分で決めることはできる……。ひとりというのが誰かは私にもわからぬ。最後まで誰にもわからぬだろう。そのひとりが……ひとりで……進み出すまで」吾《われ》に返ったメリマンはウィルをも夢から引き戻そうとするかのように、しゃんと背すじを伸《の》ばした。「その時が来るまでには長い道のりがある。最後の勝利を得るためには辛《つら》い思いをせねばならぬだろう。もうわが君アーサーのもとに戻らねば。しるしと、しるしだけに呼び寄せられる<輪>の力を携《たずさ》えてな」
メリマンが星光に洗われた夜の中でやっと見分けられる手を差し出すと、ウィルは十字に仕切られた六つの輪、黒っぽい木と青銅と鉄と、その間できらめく黄金と石と水晶とをつづったベルトを渡した。
「頑張《がんば》ってね、メリマン」ウィルは静かに言った。
「頼《たの》んだぞ、ウィル・スタントン」メリマンの声は硬《かた》く辛《つら》そうだった。「夏至のこの時刻のおのが場所に戻るがよい。行くべき所へは自然と導かれるだろう。数世紀を隔《へだ》ててそれぞれの務《つと》めに励《はげ》もう。時間の波を通し、永遠に渦《うず》巻く池の中で触れ合っては別れ、別れては触れ合いながら、じきにまた会えるだろう」
片腕を上げたと思うとメリマンの姿は消えた。星がぐるぐる回り、夜が渦巻き、ウィルは月の光に照らされてわが家の玄関ホールに立っていた。カーレオンに円形劇場《げきじよう》を建設しているローマ人を描いた。ヴィクトリア朝のセピア色の版画の額《がく》に手をかけたまま。
夏至当日《げしとうじつ》
ウィルは芝生《しばふ》の最後の一画を思いきりのスピードで刈《か》り、力つきてあえぎながら芝刈り機のハンドルの上に崩《くず》折れた。汗《あせ》が鼻の脇《わき》をつたい流れ、湿《しめ》った裸《はだか》の胸は細かな草の切れ端で斑《まだら》になっていた。
「ふう! きのうよりまだ暑いや!」
「日曜ってのはいつだって土曜より暑いんだ」ジェイムスが言った。「殊《こと》に、むしむしする小さな教会のある村に住んでる場合にはな。ジェイムス・スタントンの法則とでも呼んでくれ」
「おいおい」より糸と木ばさみに手をふさがれたスティーヴンが通りがかった。「それほどひどくなかったぜ。それにたちの悪い小僧っ子にしちゃ、おまえたち二人とも、相変わらず天使みたいに聖歌隊で唄《うた》ってたじゃないか」と言うと、ウィルが刈《か》り取った芝《しば》をひとつかみ投げつけたのを巧《たく》みによけた。
「それもぼくの場合は長いことじゃないさ」ジェイムスはいくらか得意げだった。「声変わりが始まったもの。頌詠《しようえい》の最中に声が割れちまったのに気がついた?」
「また戻って来るよ」ウィルが言った。「テノールになってね。賭《か》けてもいい」
「たぶんな。ポールもそう言ってくれてる」
「ポールが練習してるよ。ほら!」
薄《うす》れゆく夢のように遠く、音階やアルペジオをさざなみのように往復する柔《やわ》らかく澄《す》んだフルートの音色が家の中から聞こえていた。ルビナスの間で羽音をたてる蜂《はち》や刈りたての草の甘い匂《にお》い同様、風のない暑い午後の一部のように感じられた。突然、音階は長く美しい旋律に取って代わられた。繰り返される旋律に、芝生を半ばよぎったところでスティーヴンは心を奪《うば》われ、じっと立ち止まったまま耳を傾けた。
「なんてうまく吹くんだろう! 何て曲だい?」
「モーツァルトだよ。フルート協奏曲《きようそうきよく》第一番」ウィルが言った。「この秋に国青楽《こくせいがく》と一緒《いつしよ》に演奏することになってるんだ」
「国青楽?」
「国立青年楽団さ。おぼえてないの? 音楽アカデミーに進学する前から何年も団員だったじゃない」
「そういえば。ずっと留守にしてたんで忘れてた……」
「その演奏会に出られるの、すごい名誉《めいよ》なんだぜ」ジェイムスが言った。「会場はなんと王立音楽ホールなんだ。ポールから聞かなかった?」
「ポールがどんなか知ってるだろ? 自分からなんか言うもんか。新しいフルートかい? いい音色だ。ぼくの耳でも違いがわかる」
「ミス・グレイソーンがおととしのクリスマスにポールにくれたんだ」ウィルが言った。「館のミス・グレイソーンさ。お父さんがフルートを集めてたんだって。見せてもらったっけ」
「ミス・グレイソーン……なつかしいなあ。頭の切れる、口の悪い人だった――まるで変わってないんだろうな」
ウィルは微笑した。「永久に変わらないさ」
「まだ子供だった頃、館のアーモンドの木に登ってるところをつかまったっけ」スティーヴンは思い出し笑いをした。「木からおりて来たら、降って湧《わ》いたみたいにミス・グレイソーンがいるじゃないか。あの車椅子《いす》に腰かけてさ。あれにかけてるところを人に見られるのが大嫌《きら》いだって聞いてたが。『お若いの、うちの木の実を食べるのは猿だけだよ』って言われたもんだ――未だに聞こえるくらいだ――『その歳じゃ、火薬猿《かやくざる》になるのも無理だろうがね』って」
「火薬猿?」
「ネルソン提督《ていとく》の時代には海軍の少年兵はそう呼ばれてたんだ――銃《じゆう》につめる火器を取りに行くのが仕事だったんでね」
「じゃ、ミス・グレイソーンは兄さんが海軍にはいるってこと知ってたの?」
「まさか。ぼく自身まだ知らなかったのに」スティーヴンはいささか面くらっていた。「妙な偶《ぐう》然だな。考えこともなかったが――もう何年もあの人のことなんか忘れてたし」
だがいつもながら、ジェイムスの頭は既《すで》にまるで別方向に突っ走っていた。「ウィル、あの小さな角笛はどうなったんだい? ポールにフルートをくれたのと同じ年におまえにくれたやつさ。なくしたのか? 思いっきり吹いたこともなかったじゃないか」
「まだあるよ」ウィルは静かに言った。
「取って来いよ。楽しめるぜ」
「そのうちいつかね」ウィルは芝刈《か》り機をぐるりと回し、ふいを突かれたジェイムスの手にハンドルを押し込んだ。「そら――兄さんの番だ。前庭はぼくがやったんだから、裏庭はやってよ」
「そういう決まりだからな」父親が雑草を積んだ手押し車を押して通りすぎた。「公平ってもんだ。重荷は分け合わなきゃ」
「ぼくの重荷のほうが重いんだけどな」ジェイムスは悲しげに言った。
「そんなことはないさ!」スタントン氏は答えた。
「実を言うと、その通りなんだ」とウィル。「一度測《はか》ってみたんだ。裏の芝生のほうが前のより横五フィート、縦十フィートも広かった」
「そのぶん木が多いだろうが」スタントン氏は芝刈り機の全部から草受けをはずし、中身を手押し車にあけた。
「それだけ余計に手間がかかるんだぜ」ジェイムスはますます悲しげにしおれてみせた。「迂回《うかい》しなきゃならないし、あとで木の周りだけ手でやらなきゃならない」
「さっさとやりなさい」父親は言った。「こっちが泣きたくなってくる」
ウィルは草受けを取り返して芝刈り機にはめ直し、「さよなら、兄さん」と明るく言った。
「おまえもまだ済《す》んでるわけじゃないぞ」スタントン氏が言った。「スティーヴンが薔薇《ばら》を結わえるのに一人で苦労してる」
前庭の花壇に沿った壁のあたりからかすかな悪態《あくたい》が聞こえた。蔓薔薇《つるばら》の大きく拡がった枝に囲まれたスティーヴンが親指の血を吸っていた。
「そうらしいね」ウィルは言った。
父親はニヤッとすると手押し車の把手《とつて》をつかみ、ジェイムスと芝刈り機をうながして車回しを歩き出した。ウィルが芝生を横切り出したところへ姉のバーバラが玄関から出て来た。
「もうじきお茶よ」
「よかった」
「外でいただくことにしたの」
「ますますいいや。スティーヴンが薔薇とケンカしてるよ。手伝いに行こうよ」
赤い花を房《ふさ》のようにこぼれんばかりに連ねて咲かせた蔓薔薇《つるばら》は、表の道路に沿《そ》った古い石垣の上を這《は》って伸びていた。三人は注意しながら最も伸び放題に拡がった枝をほぐし、小石まじりの上に棒を打ち込み、波打つ花房が地面に触《ふ》れないように枝を結わえつけた。
「あ痛っ!」バーバラが叫《さけ》んだのはこれで五回目だった。むきだしの背中に反抗的な枝が細い赤いすじをつけたのだ。
「自分のせいだよ」ウィルはつれなかった。「もっと厚着してないからさ」
「日光浴用なのよ。せっかくのお陽《ひ》さまなんですもの」
「裸《はだか》ってのは人間さまのするかっこじゃねえです」弟はまじめくさって言った。「まともじゃねえ。ご近所衆に顔向けができねえです」
バーバラはウィルを見やった。「何よ。あんたのほうがよっぽど薄着《うすぎ》――」と憤慨《ふんがい》して言いかけたが、ふいに口をつぐんだ。
「鈍《にぶ》いなあ」スティーヴンが言った。「気がつくのが遅《おそ》いよ」
「知らないわ、もう」
車が道を通りかかった。急にスピードを落としたと思うと停止し、それからゆっくりとバックし始めて三人のところまで戻《もど》って来た。運転者はエンジンを止め、助手席越しに身を乗り出すと、あごのいかつい赤ら顔を窓から突き出した。
「スティーヴン・スタントンというのはそこの大きい君かね?」と陽気をぎごちなく装《よそお》ってたずねた。
「そうですよ」スティーヴンは石垣の上から支え棒《ぼう》に最後の一打ちをくれた。「何か御用ですか?」
「ムアという者だが、何か先日、うちのせがれのひとりと面倒《めんどう》があったとか」
「リッチーだよ」ウィルが言った。
「ああ」スティーヴンは石垣からとびおりて車のそばに立った。「ムアさん、初めまして。息子さんを川に放り込んだ件ですね」
「汚水《おすい》だった。シャツを台無しにしてくれた」
「よければ新しいのを買ってお返ししますよ」スティーヴンはさらりと言った。「サイズは何号ですか?」
「冗談《じようだん》はよしにしよう」男は無表情に言った。「白黒をはっきりさせたいだけだ。君みたいないい若い者が子供相手に悪ふざけするなんて妙《みよう》じゃないか」
「悪ふざけしたんじゃありません、ムアさん。息子さんが、川に放り込まれても仕方がないことをしてるようにぼくには見えたんです」
ムア氏は片手を汗の光っている広い額《ひたい》に走らせた。「かもな。かも知れん。あれはきかない奴だから、蹴《け》とばされりゃ蹴り返すぐらいはしかねん。で、せがれは君に何をしたんだ?」
「自分で言わなかったんですか?」ウィルがたずねた。
ムア氏は低い石垣越《ご》しに、ちっぽけで取るに足りないカブト虫でも見るようにウィルを見た。「リッチーが話してくれたことぐらいで川に放り込まれてちゃたまらん。おおかた嘘《うそ》っぱちだと思ったからこそ、はっきりさせに来たんだ」
「息子さんは小さな男の子をいじめてたんです」スティーヴンが言った。「細かいことまで繰り返す必要はないと思いますが」
「ふざけていただけだとあれは言ってるが」
「いじめられていた子には面白くもなんともなかったでしょうよ」
「指一本触れなかったと言っとる」
「楽譜《がくふ》のつまった楽譜入れを川に投げ込んだだけです」ウィルがぶっきらぼうに言った。
「う――ん」ムア氏はためらい、無意識に車の窓を指でコツコツ叩いた。「共有地に住んでるインド人の子だったそうじゃないか」
スタントン家の三人は黙《だま》りこくって男を見つめた。男はきょとんとした顔で見つめ直した。やがてバーバラが小声で穏《おだ》やかに言った。「だったらどうだとおっしゃるんですか?」
男に答える暇《ひま》も与えず、子供達の背後からスタントン氏が愛想よく言った。「こんにちは」
「こんにちは」ムア氏は頭をめぐらせた。声に安堵《あんど》の響《ひび》きがあった。「ジム・ムアと言うもんです。たったいまお宅《たく》のお子さんと――」
「聞こえましたよ」スタントン氏はおろしたばかりの手押し車の縁《ふち》にもたれ、パイプとマッチを取り出した。「あの日の事件については、スティーヴンのしたことは少々行き過ぎだったと私も思ってます。とはいえ――」
「要するに連中の言うことは信用がならんのですよ。わかるでしょう?」車中の男は微笑《びしよう》した。相手が同意するものと確信《かくしん》しているのだった。
沈黙《ちんもく》があった。スタントン氏はパイプに火をつけた。そして一、二服し、マッチを吹き消すとこう言った。「おっしゃる意味がわかりかねますが」
スティーヴンが冷《ひ》ややかに言った。「信用するしないの問題じゃありませんでした。ぼくがこの目で見たことを信じたままです」
ムア氏は気づかわしげながら、いかにも大人めいた温厚さを保ってスタントン氏を見ていた。「その子はたいしたことでもないのに大騒《さわ》ぎしたんでしょうな。ご存知でしょう? 連中はいつだって何かと文句を言い立ててるんですから」
「全くです」ロジャー・スタントンは丸い顔に静かな表情を浮かべて言った。「うちの子達なんかいつもです」
「ああ、いや、いや」ムア氏は勢い込んで言った。「お宅のお子さん達はそんなことないでしょう。あたしが言ったのは子供じゃなくて黒んぼ達のことですよ」
再び訪《おとず》れた沈黙《ちんもく》に気づきもせず、強引にムア氏はしゃべり続けた。「仕事でしじゅう見かけてるんです。人事担当なもんでね――テムズ製作所の。長年の経験《けいけん》で、インド人やパー公についてあたしの知らないことったら、数えるほどもありゃしません、もちろん、個人的には何とも思ってませんよ。中にはえらく頭のいい、教育のあるのもいる。このあたしも去年、記念病院でインド人の医者に手術してもらいましたがね――なかなか利口なやつでしたよ」
バーバラが前と変わらぬ非の打ちどころのない小さな声で言った。「それではきっと、インド人やパキスタン人の親友までおありになるでしょうね」
父親が警告するようにすばやくにらんだが、バーバラの言葉はムア氏の刈《か》り上げた頭の上を通りすぎたも同然だった。いかにも十七歳の美少女を甘《あま》やかす陽気で目の高い大人の男性、と言った態度をまるだしでバーバラに笑いかけた。「いや、とてもそこまではいかんね! 正直言って、連中はここにいるべきじゃないと思ってるんですよ。連中も西インド諸島から来たやつらも。何の権利があるってんです。ただでさえ失業者であふれてるってのに、イギリス人に回されるはずの仕事を横取りして――」
スティーヴンが静かに言った。「組合ってものがありますよ、ムアさん。手をこまねいているわけじゃありません。それに横取りされたと言われている仕事の大部分はイギリス人がやりたがらなかったものです――でなければ移民のほうがうまくやれるとか」
男は恨《うら》みと嫌悪《けんお》のこもった目でスティーヴンを見た。分厚いあごが片意地そうに張った。「君も例のお人好しどものひとりか。お説教はたくさんだね。本物をいやというほど見てるんだ。パー公の一家が寝室の二間《ふたま》っきりない家を借りたとする。あっという間に友達や親戚《しんせき》が十六人も転《ころ》がりこむ始末だ。兎《うさぎ》と変わらん。そのうち半分は国立病院でただ赤ん坊を産む。イギリス人の納税者の金でな」
「あなたがかかったインド人のお医者をおぼえてますか?」スティーヴンが相変わらず静かな声で言った。「移民の医者や看護婦《かんごふ》がいなければ、国立病院は明日にでも崩壊してますよ」
ムア氏は侮蔑的《ぶべつてき》な音をたてた。「黒んぼについてあたしにものを教えようってのかい? 先刻承知してるよ」
スティーヴンは石垣にもたれ、ラフィア糸の切れ端を指にはさんでひねった。「カルカッタを知ってますか、ムアさん? おおぜいの物乞《ものご》いに足をつかまれ、呼びかけられたことがありますか? このウィルの半分しかない子供達、片腕《うで》や片目を失《な》くした、木琴《もつきん》みたいなあばら骨と腫物《はれもの》の臭う足を持った子達ですよ。あんなに打ちひしがれた所に住んでたら、ぼくなら、自分の子供はましな国で育てようと決心すると思いますね。その国が二百年近くもぼくの国を搾取《さくしゆ》してたとあれば、なおさらです。違いますか? ジャマイカはどうです? 中学校に行ける子が何人いるか知ってますか? 失業率は? キングストンの町の貧民街《ひんみんがい》がどんなか知ってますか? ほんとに知ってると言えますか――」
「スティーヴン」父親が物柔《やわ》らかに言った。
スティーヴンは口をつぐんだ。手の中のラフィア糸がぷつんと切れた。
「それが何だっていうんだ? あれこれ並べたてて」男の顔は険悪になっていた。けんか腰になって窓から乗り出し、息をはずませていた。「自分達の問題は自分達で解決すりゃいい。何もここへ来てヒイヒイ鳴くこたない! あたしらと何の関わりがある? どいつもこいつもここにいる権利なんかありゃせん。放り出しちまえばいいんだ。そんなに連中が好きなら、やつらのしみったれな国へ一緒《いつしよ》に行って住みゃいい!」と言うなりスタントン氏と目が合い、自分を抑えようと必死になり、窓から首をひっこめ、体をずらして運転席に戻った。
スタントン氏は石垣に近づき、車のそばまで来るとパイプを口から離した。「ムアさん、息子さんがあなたと同意見だとすると」とはっきりした声で言った。「うちの子が幸いにも私と見解を同じくしている以上、川での一件は説明を待つまでもありませんな。残るは損害賠償《そんがいばいしよう》の問題だけですが、そちらの御希望は?」パイプが唐突《とうとつ》に歯と歯の間に戻《もど》った。
「賠償なんぞ糞《くそ》くらえ!」男はわざとやかましい音をたててエンジンをかけた。座席ごしに身を乗り出すと騒音《そうおん》に負けずにわめきたてた。「どこかの黒んぼの鼻たれなぞのためにうちの子に指一本触れたらどうなるか、そのうちとっくり拝ませてやる。見てるがいい!」
体をひねってハンドルに向かうと、ギヤを軋《きし》らせながら走り去った。スタントン一家はじっと見送っていた。
スティーヴンが口をあけた。
「言うな」父親が言った。「言うんじゃない! ああいう手合いがどれだけ沢山《たくさん》いるか、よく知ってるだろう? 説得はするだけ無駄だし、かと言って殺してしまうわけにもいかない。逆方向に最善をつくすしかないんだ――おまえたちは立派にそうしたよ」と頭をめぐらせ、口惜しげな笑《え》みをウィルとバーバラにそそいだ。「おいで。お茶にしよう」
ウィルは一番あとからとぼとぼとついていった。車中の男がわめき出すのを聞き、その目に浮かんだ表情を見た瞬間から、もはやスタントン家の一員ではなく骨の髄《ずい》まで<古老>と化し、危険の存在をいきなりひしひしと感じ出していた。あの男の理屈も何もない粗暴《そぼう》さ、彼と同じ考え方をする全《すべ》ての人人、不安と懸念《けねん》というあいまいな種から生まれた、これだけは本物である嫌悪《けんお》の念……それこそ道にほかならない。ウィルが垣間《かいま》見たのは、<闇>の力が自由を得たなら一瞬《いつしゆん》のうちに駆《か》け抜けて世界を制するであろう道なのだった。恐《おそ》るべき不安感、<光>の危機感に満たされ、その感覚が今後も消え去ることなく無言のうちに叫び続けるのを知った。既《すで》に薄《うす》れつつあるムア氏という一人の頑固者《がんこもの》の記憶よりはるかに鮮明に。
「来いよ、ターザン」ポールが家から出て来て、追い越しがてらウィルの裸《はだか》の肩《かた》を叩《たた》いた。ウィルは除々《じよじよ》に、頭のもう一つの部分に立ち戻った。
一家は、感じの悪いムア氏など一度も存在しなかったかのように、お茶にしようと集まった。仲の良い一家に時折り見られる一種の不文律に基き、ムア氏に会った者たちはそのことを口に出しもしなかった。お茶道具はガラス板を乗せたオレンジ色の籐《とう》テーブルに並べられていた。盛夏には揃《そろ》いの椅子《いす》と一緒に野外に出しっ放しになっているテーブルだった。ウィルは元気を取り戻した。小さな男の子の嗜好《しこう》と食欲《よく》を持った<古老>にとって、人類の永遠につきることのない愚《おろ》かしさをめぐって長く悩《なや》めというほうが無理だった。前にしているのが自家製《せい》のパン、農場直送のバター、イワシの油漬《づ》けとトマトのペースト、木イチゴのジャム、甘パン、それにスタントン夫人得意の美味で軽くて並ぶもののないスポンジ・ケーキとあっては。
ウィルは草の上に腰をおろした。五感に夏がびっしり詰《つ》め込《こ》まれた。ジャムに引き寄せられたスズメバチのしつこい羽音、ジェイムスが刈りかけた芝生の草いきれと混ざり合った傍《かたわ》らのブドレアの茂みの香り、頭上のリンゴの木を通してまだらに注ぐ木漏《こも》れ陽《び》。みどりの木の葉がおい繁《しげ》り、小さな青い実がふくらみ出している。実の多くは育つすきまが見つけられず、既《すで》に落ちてしまっていた。ウィルは茎の太い、小さな楕《だ》円形の実を一つ拾い上げ、考え深げに眺《なが》めた。
「捨ててしまいなさい」バーバラが言った。「こっちのほうがおいしいわよ」と差し出した皿にはバターとジャムを厚く塗《ぬ》った菓子パンが二つのっていた。
「あれえ」とウィルは言った。「ありがとう」小さいながらも温かい思いやりだった。スタントン家のような大家族では、自分のことは自分でするのが大前提なのだ。バーバラはにこっとした。姉の母性本能が、それとはっきりとは悟《さと》らないながらも、車中の男の乱暴《らんぼう》な態度が末の弟に怖《こわ》い思いをさせたのでは、と案じているのが感じられた。ウィルはすっかり気分が良くなった。内なる<古老>の部分で考えた。(逆のタイプ。忘れちゃいけない。逆のタイプの人間が必ずいるんだから)と。
「学校もあと三週間と半分だ」ジェイムスが半ば喜び、半ばこぼしている口調で言い、空を見上げた。
「休み中もずっとこんな天気だといいな」
「長期予報によると、終業日から豪雨《ごうう》が続くそうだよ」ポールがバタつきパンの切れ端を丸めながら真顔で言った。さらに口を一杯にして続けた。「三週間降りっ放しだって。八月の第一週末にいったんは止むらしいけど」
「そんな!」ジェイムスは絶望もあらわに叫《さけ》んだ。
ポールは角縁《ぶち》のメガネ越しにフクロウのような顔で弟を見た。「雹《ひよう》の可能性もある。七月の最後の日の予想は吹雪だ」
ジェイムスの顔がくつろいでほころんだと思うと安堵《あんど》と照れ隠しの怒《いか》りとがからみ合った。「ポール、よくも。兄さんなんか――」
「殺すのはよしにしてくれ」スティーヴンが言った。「見てるほうが疲《つか》れる。消化にも悪いし。それより、休暇中の予定を聞かせてくれよ」
「ボーイ・スカウトのキャンプに行くんだ。夏の間ずっとじゃないけど」ジェイムスは嬉《うれ》しそうだった。「デヴォンシャーに二週間行ってる」
「そいつはいいな」
「ぼくは音楽アカデミーで夏期講習さ――夜はジャズ・クラブでバイト演奏だ」ポールはニヤリとした。
「まさか!」
「あはあ、驚いただろ。と言っても兄さんの好きなジャズとは少し違うよ」
「いいほうに違うんだろうな。ウィル、おまえは?」
「あたしと同じ。ぐうたら三昧《ざんまい》よ」バーバラは肘《ひじ》掛け椅子《いす》に腰をおろして心地良げだった。
「いえ、実をいうと」スタントン夫人が言った。「ウィルには当人も知らない招待が来てるのよ。突然でね」と急須を手に前に乗り出し、茶碗《わん》を満たし始めた。「先程、ジェン叔母《おば》さんがロンドンから電話をよこしてね――デイヴィッド叔父《おじ》さんと何人かのお仲間と一緒にウェールズから一、二泊の旅行に来てるんですって。で、ウィルさえよかったら休暇のいくらかを農場で過ごさないかって――よければ学期が終わってすぐにでも」
ウィルはゆっくりと言った。「いいな」
「すごいや!」ジェイムスが言った。「メアリーには言うなよ。カンカンになるに決まってる今年こそ自分が招《よ》ばれるものと思ってたんだぜ」
「ジェンが言ってたけど、去年行った時、あそこに住んでいる、友達のいない男の子ととても仲良くなったそうね?」スタントン夫人が言った。
「うん。そうだよ。ブラァンと言うんだ」
「お客様気分で行くんじゃないぞ」父親が言った。「叔父《おじ》さんの手伝いをよくしなさい。ウェールズもあのあたりは牧羊がほとんどだが、どこの農場でも夏は一番忙《いそが》しい季節だからな」
「はい」ウィルは未熟《みじゆく》な小さいリンゴをまた一つ拾い、茎《くき》を持ってすばやくクルクルと回した。「わかってる。仕事はどっさりあるよ」
第二部 唄《うた》う山々
五人
「前に来たことある?」バーニーが言った。「そんな気がしてならない――」
「ないよ」とサイモン。
「兄さんがまだ小さくて、ぼくが赤ん坊だった頃にも? 忘れちゃっただけかも知れないよ」
「忘れる? これをか?」
サイモンはいささか芝居《しばい》がかった身振《ぶ》りで周囲に拡《ひろ》がるパノラマを片腕《うで》で指し示した。三人は山の中腹の強靭《じん》な草の上に、まばゆいまでに黄色いハリエニシダの棘《とげ》だらけの茂《しげ》みにはさまれて腰をおろしているのだった。眺望《ちようぼう》の右半分全体を占めるのはカーディガン湾《わん》の青い海。長い砂浜が霞《かすみ》がかったはるか彼方《かなた》にまで伸びている。すぐ眼下にはアベルダヴィ・ゴルフ場の不揃《ぞろ》いな砂丘とその陰《かげ》のみどりのうねりが横たわっていた。左手では砂浜はダヴィ河の広々とした砂州に流れ込んでいる。満潮とあって河は水をまんまんとたたえ、青々としていた。その向こう、河口の対岸に平らに拡がっている沼地の彼方《かなた》にはウェールズ中部の山岳が地平線を縁《ふち》取り、紫、茶、鈍《にぶ》いみどりと、雲が夏空の太陽を横切るつど色合いをまだらに変えていた。
「ないわよ」ジェーンが言った。「ウェールズに来たことは一度もないのよ、バーニー。でも父さんのお祖母《ばあ》さんがここの生まれだったの。ちょうどこのアベルダヴィでね。血の中を記憶《きおく》が流れて伝わったのかもしれないわ」
「血の中を!」サイモンが馬鹿にしたように言った。最近になって、船乗りになるのはやめて父親のように医者になる、と宣言したばかりだったのだ。この一大決心の副作用にジェーンもバーナバスも堪忍袋《かんにんぶくろ》の緒《お》が切れかけていた。
ジェーンはためいきをついた。「そういう意味で言ったんじゃないわ」とポケットをさぐり「ほら、おやつの時間よ。溶《と》けないうちにチョコレートはいかが?」
「いいね!」即座にバーニーが答えた。
「歯に悪いなんて言わないでよ、サイモン。それくらい知ってるんだから」
「悪いに決まってる」兄は安心させるようにニヤリとした。「災《わざわ》いの一語につきるね。ぼくのぶんは?」
三人はしばらくのあいだ、満ち足りた気持ちで果実と木の実入りのチョコレートを齧《かじ》りながら、砂州を眺《なが》めやっていた。
「前に来たことがあるのはわかってるんだ」バーニーが言った。
「こだわりなさんな」姉が言った。「写真でも見たのよ」
「本当だってば」
「前に来てるんなら」しようのないやつだと言うようにサイモンが言った。「あの屋根の頂上に立ったら何が見えるか、教えられるはずだな」
バーニーは振り返り、金色の前髪を目から払いのけ、ワラビとみどりの斜面越しに山を見上げた。無言だった。
「また別の尾根よ」ジェーンが明るく言った。「そのまた頂上に立てば、また別の尾根が見えるわ」
「何が見えるんだい、バーニー」サイモンはくいさがった。「カーデル・イドリスか? スノードンか? アイルランド?」
バーニーは長いこと、虚《うつ》ろな目をして無表情に兄を見つめた。そしてようやく言った「人だよ」
「人? 誰だい?」
「知らないよ」バーニーはぱっと立ち上がった。「ここに一日中坐ってちゃわかりっこないよ。競走だ!」
弟が斜面をすっ飛んで行くのを見るや、サイモンは自信たっぷりにあとを追い出した。ジェーンは微笑《びしよう》しながら見送った。ここ一年の間に、弟はちんまりと小柄《こがら》なまま変わっていなかったが、サイモンのほうはキリンのように体に合わないほど長く脚《あし》が伸《の》びていた。今では兄弟で駆《か》けっこをしてもサイモンが負けることは滅多《めつた》になかった。
ふたりの少年は山の上に姿を消した。ゆっくりとあとを追って登るジェーンの首すじに陽射《ひざ》しが暑かった。突き出た岩につまずいて立ち止まると、山のどこかでトラクターのエンジン音がかすかに聞こえた。タヒバリが頭上で鋭《するど》く鳴いた。あちこちに突き出た岩はここではワラビとハリエニシダと波打つヒースの群れを縫《ぬ》って、とびとびに尾根の頂上へと続いていた。羊の歯で短く刈られた草には、姫《ひめ》つりがね水仙《すいせん》と見たこともない丈の低い花がちりばめられている。ずっと下のほうには、砂丘に縁取られたゴルフ場の脇を糸のようにうねうねと走る車道路とアベルダヴィ村のはしりである灰色の尾根が見えた。ジェーンはふいに身震《ぶる》いした。ひどく一人ぼっちだという気がしたのだ。
「サイモン!」ジェーンは呼んだ。「バーニー!」
返事はなかった。小鳥は唄《うた》い、淡《あわ》く霞《かすみ》がかった青空から陽は照りつけ、どこにも動くものとてなかった。それから、ごくかすかに、奇妙な美しい音が長く尾を引いて聞こえた。高く澄《す》んで狩りの角笛に似ていたが、それにしては鋭《するど》さとしつこさに欠けていた。再び、少し近くで聞こえた。気がつくと、ジェーンは耳を傾けながらほほえんでいた。美しい、招《まね》くような音色だった。だしぬけに、どこから聞こえてくるのか、これほど美しい音を出せるのはどんな楽器なのか、知りたくてたまらない欲求に駆られた。足を速めて斜面を登るうちにあっという間に最後の岩を乗り越え、尾根の税所の数ヤードが眼前に拡がっていた。甘美な音色が三たび長々と聞こえ、ひときわ高く突き出て空と出会っている灰色の花崗岩塊《かこうがんかい》の上にいる少年が見えた。たった今、どこへ向けてということもなく山々の彼方《かなた》へ吹き鳴らした小さな湾曲した角笛《つのぶえ》を唇《くちびる》からおろしかけていた。顔はそむけられていて、長めのすなおな髪《かみ》ぐらいしか見分けられなかった。と、片手を無意識に動かしてすばやく額から髪を掻《か》き上げるのを見て、前に見たことのある動作だとジェーンは急に確信した。そして少年が誰であるか悟《さと》った。
最後の斜面を登って岩に向かうと、少年は気づいて、立ったままジェーンを待った。
「ウィル・スタントン!」
「やあ、ジェーン・ドルー」
「ああ!」ジェーンは嬉《うれ》しくなって言った。それからためらい、少年をためつすがめつした。「もっと驚いていないのが自分でも不思議だわ。最後に見かけたのは、パディントン駅の四番ホームで別れた時でしょ? 一年も前よ。いえ、もっとだわ。いったいウェールズの山のてっぺんで何をしてるの?」
「呼んでるのさ」
ジェーンは長い一瞬《しゆん》ウィルを見つめた。記憶と思い出に満ちた一瞬だった。悩《なや》めるコーンウォールの村での暗い冒険。その村で大叔父《おじ》のメリマンに連れられてサイモンとバーニーと共に、丸い顔とまっすぐな髪をしたバッキンガムシャー出の目立たない少年に引き会わされたのだ――最後にはメリマンその人と同じくらい怖《こわ》く且《か》つ頼《たの》もしい存在だと感じるに到《いた》ったこの少年に。
「あたし達と違うって、あの時そう言ったわよね、あたし」
ウィルはやさしく言った。「君ら三人だって、全く普通ってわけじゃない。わかってるだろう?」
「時々ね」ジェーンはポニーテールに束ねた髪のリボンを直しに腕《うで》を上げながら、にっこりした。「大抵《たいてい》の時はまるで普通よ。そう。またいつか会えるといいって、あたし、そう言わなかった?」
ウィルも笑い返した。笑うといつもきまじめな顔が一変したのをジェーンは思い出した。「きっと会えるって、ぼくは答えたっけ」岩から少しおりかけたところで立ち止まると、ウィルは再び角笛を上げて唇《くちびる》にあてた。そして空に向けて一連の音符を短いスタッカートで吹き、次いで長く一音吹き鳴らした。笛《ふえ》の音《ね》は夏空にせり上がり、矢が落ちるように落下した。
「これなら来るだろう」ウィルは言った。「アヴォーントって呼ばれてた吹き方だよ」
笛の音はまだジェーンの頭の周りにこだましていた。「なんてきれいな音かしら。狐狩《きつねが》りに使うのとまるで違うのね。テレビでしか聞いたことないけど。あなたのは――なんて――音楽だわ」言葉を途切《とぎ》らせると、ジェーンは無言で片手を振った。
ウィルは小首をかしげて小さな湾曲した角笛を差し上げて見た。古びて痛んでいるように見えるにもかかわらず、角笛は陽光を浴《あ》びて黄金のように輝《かがや》いた。「ああ」ウィルはそっと言った。「使う機会は二度やって来る。そこまではぼくにもわかっている。二度目がいつかは隠《かく》されているけど、一回目は今なんだ。六人を集めるためにね」
「六人?」ジェーンはぽかんとしていた。
「君とぼくで二人だ」ウィルの言葉にジェーンは目を丸くした。
「ジェーン? ジェーン!」サイモンの声が大きく横柄に尾根の裏側から聞こえた。ジェーンは振り返った。
「ジェーン――なんだ、そこか!」バーニーが数ヤード先の岩をよじ登ってきて、肩越しに振り返り、「こっちにいたよ!」と呼ばわった。
ウィルが相変わらず悠然《ゆうぜん》と言った。「これで四人」
兄弟同時に振り向いた。
「ウィル!」バーニーがぎょっとして叫んだ。
サイモンが鋭く息を呑《の》み、長くハーッと音をたてて吐《は》き出すのが聞こえた。「こんな……ことって……とても……」
「人に会うって言ったろ?」バーニーが言った。「人に会うって。角笛を吹いてたのウィルなの? 見せてよ。ねえ、見せてよ」と夢中でとびはねながら手を伸ばした。
ウィルは角笛を渡した。
サイモンがゆっくりと言った。「偶然《ぐうぜん》だなんて言うだけ無駄《むだ》だぜ」
「ああ」ウィルが答えた。
バーニーは今や岩の上にじっと立ち、小さな古い角笛を手にして、金色の縁に太陽が反射するのを見ていた。そして肩越しにウィルを見た。「何かが起きてるんだね?」と静かに言った。
「うん」
「教えてくれる?」ジェーンが言った。
「今はまだだめ。じきにね。最後の部分なんだけど、一番難《むずか》しい部分でもあるんだ。それには……君たちが必要とされている」
「気がつかなかったのが不思議だよ」サイモンはジェーンを見てかすかな苦笑を浮かべた。「けさのことさ。おまえは居合わせなかったけど。父さんがたまたま、ゴルフ客用のホテルの中でもあのホテルを勧《すす》めたのが誰か口にしたんだ」
「で?」
「メリー大叔父さんさ」
ウィルが言った。「そのうちあとから来るよ」
「じゃあ、おおごとなんだね」バーニーが言った。
「もちろんだよ。言っただろ? 最後の、最大の難関だって」
「これで本当に最後にしてほしいものだな」サイモンがいささか偉《えら》そうに言った。「この休暇《きゆうか》が終わったら寄宿学校に行くことになってるんだから」
サイモンを見たウィルの唇《くちびる》の端がピクリと動いた。
サイモンの頭の中ではいま口にしたばかりの言葉がこだましたようだった。目を伏《ふ》せると、サイモンは片脚で草を蹴《け》り始めた。「ぼくが言いたいのは、つまり、休みの日にちが今よりもっとジェーン達のとずれるようになるから、一緒《いつしよ》に……同じ場所へ旅行する機会が少なくなるだろうって意味なんだ。そうだろ、ジェーン?」と同意を求めて妹を振り返ったが、そのまま言葉を途切《とぎ》らせた。「ジェーン?」
ジェーンはサイモンを通り越してその後ろを見ていた。目をまんまるにしてじっと見つめている。山の上のとある人影以外は目にはいっていないのだった。人影は盛夏の太陽の燃《も》えるような光にくっきり浮かび上がり、ジェーン達を見おろしていた。すんなり伸《の》びた細い体。銀の炎《ほのお》さながらの髪《かみ》。ふいにジェーンは自然に備わった高貴《こうき》さ、大いなる権威《けんい》を人影から感じ取り、どこかの王の前にいるような気分に襲《おそ》われた。一瞬、おじぎをしたいという理屈に合わない衝動《しようどう》を抑《おさ》えなければならないほどだった。
「ウィル?」ジェーンは振り返りもせずにそっと言った。「これで五人ね、ウィル?」
ウィルの力強くさりげなく、極めてあたりまえの声が緊張《きんちよう》の糸を断《た》ち切った。「やあ、ブラァン! ここだよ! ブラァン!」農場《フアーム》とか納屋《バーン》とか言う時のように、まんなかの音を長く伸ばして発音しているのにジェーンは気づいた。そんな名前は聞いたこともなかった。こんな人物を見たこともなかった。
地平線に佇《たたず》んでいた少年はゆっくりと山を下って近づいてきた。ジェーンは生きをするのも忘れて少年を見つめた。今やはっきり姿が見えた。少年は白いセーターと黒いジーパンを身につけ、黒眼鏡をかけ、色というものをいっさい欠いていた。膚《はだ》には妙に青白い半透明感《はんとうめいかん》があった。髪は純白、眉《まゆ》も同様。弟のバーニーの陽灼《ひや》けした顔に垂《た》れかかる黄みを帯びた髪のように金髪というものでもない。この少年において色の欠如《けつじよ》は肉体的な障害《しようがい》とさえ感じられた。片腕か片脚を失くしているのと同じくらい強烈《きようれつ》に目を射《い》る事実だった。と、ジェーン達のもとにたどり着いた少年が黒眼鏡をはずしたので、色の不在が完全ではないことがわかった。少年の目が見えたのだ。これまた、今までに見たことのない種類の目だった。黄色かったのだ。黄褐色《おうかつしよく》というのか、フクロウの目のように、金色の斑点《はんてん》が飛んでいる。真新しい金貨のようにジェーンをぎろりとにらんだ。挑戦《ちようせん》されているという気がした――それから、自分がじろじろ見つめていたのに気づき、詫《わ》びる代わりに手を差し出した。同じ年頃の子とは握手《あくしゆ》しないのが普通だったが。
「こんにちは」ジェーンは言った。
ウィルがすぐさま傍《かたわ》らに来て、あたりまえの調子で紹介《しようかい》した。「ブラァン・デイヴィーズだよ。ブラァン、こちらはジェーン・ドルー、背の高いのがサイモンで、それからバーニーだ」
白髪の少年はジェーンの手を一瞬ぎごちなく握り、バーニーとサイモンにうなずいてみせた。「初めまして」ひどくウェールズ人っぽい口ぶりだった。
「ブラァンは、ぼくの叔父の農場にある家の一つに住んでるんだ」ウィルが言った。
「ここに叔父さんがいるの?」バーニーの声は驚きに高くなった。
「ううん、実の叔父とは違うんだよ」ウィルは明るく言った。「叔父待遇《おじたいぐう》とでも言うかな。母の親友と結婚《けつこん》したんだから同じようなものさ。君らとメリマンだってそうだろ? それともメリマンは本当の大叔父さんなの?」
「実を言うと知らないんだ」サイモンが言った。
「たぶん違うんでしょうね。あれこれ考え合わせてみると」
バーニーが生意気に言った。「あれこれって何さ?」
「よくわかってるくせに」ブラァンが無言で耳を傾《かたむ》けているのがジェーンには気になってならなかった。
「まあね」バーニーはきらめく小さな角笛をウィルに返した。ブラァンの冷たい金色の目が即座に笛に注がれ、バーニーをにらみつけて責《せ》め立てた。
「そいつを吹いてたの、君か?」
ウィルがすばやく言った。「いや、まさか。ぼくだよ。呼んでたんだ。言ったろ? 君やこの子達を呼んでたんだよ」
その声音はジェーンの頭にひらめいたものがあった。わずかだが奇妙な違いが生じていたのだ。ごくかすかだったので思いすごしかもしれなかった。メリマンに対してすら示さぬ敬意がこもっている様に感じられたのだ。敬意でないとしても……何かを……意識している口ぶり……。ジェーンは白髪の少年をおっかなびっくり一瞥《いちべつ》し、すぐに目をそらした。
「ウィルと知り合って長いのかい?」サイモンの口調は好悪いずれの感情も表してはいなかった。
ブラァンは穏《おだ》やかに答えた。「去年の万聖節《カラン・ガエアヴ》に知り合ったんだ。この前のサマインにね。サマインの意味がわかれば、知り合ってどれくらいになるかがわかるよ。じゃ、君ら三人はトレヴェジアン・ホテルに泊《と》まっているんだね?」少年はごく自然なウェールズ語でホテルの名前を発音した。ジェーン達は最初に到着した時に、誤ってトレフェディアンとなまり、恥をかいたのだ。
「ええ。父がゴルフをするんでね。母は絵を描いてるわ」
「上手なの?」ブラァンはたずねた。
「うん」バーニーが言った。「すごく」弟の声にもサイモン同様に慎重《しんちよう》さがこもっていたが、よそよそしさはなかった。「だって本物の画家なんだ。趣味《しゆみ》でやってるだけとは違うんだよ。アトリエを持ってて、画廊《がろう》で展示会を開いたりしてる」
「君らはついてるな」ブラァンは静かに言った。
ウィルはサイモンを見ていた。「逃げ出すのは難しいかい?」
「オオヤからか? とんでもない。おふくろは画架《がか》を車に積んで出かけちまうし、親父は一日中ゴルフ場さ」ブラァンを見てサイモンはつけ足した。「ごめん――オオヤって、老いたる親って意味だよ」
「信じないかもしれないけど、ウェールズの学校でもディケンズの作品は読まされるんだ」ブラァンは答えた。
「失礼した」サイモンはむっとして言った。「そういうつもりじゃ――」
「気にするなよ」ブラァンはふいににっこりした。初めて見せる笑顔だった。「ぼくらは行動を共にするんだぜ、サイモン・ドルー。仲良くなっておいたほうがいいと思っただけだよ。心配はいらない。同じウェールズ人でも、ぼくは頑固《がんこ》でないほうだ。イギリス人はいばってるとか、ウェールズ人は虐《しいた》げられてるとか、そんなコンプレックスは持ってない。だって、意味ないだろ? ウェールズのほうが優秀なのは明白なんだから」
「でたらめもいいとこ」ウィルが機嫌《きげん》よく言った。
バーニーがブラァンを見て口ごもった。「行動を共にするって言ったね……君も仲間なの――メリー大叔父さんやウィルみたいなの?」
「ある意味ではそうなんだろうね」ブラァンは重い口調で言った。「説明できない。そのうちわかるよ。けどウィル達みたいな<古老>のひとりじゃない。<光の輪>の一部じゃないんだ……」とウィルを見てニヤリとし、「こいつみたいな手品が得意のデヴィン、つまり魔法使《まほうつか》いとは違う」
ウィルは丸い顔を振ったが、その顔は半分しか笑っていなかった。「今度ばかりは手品以上のものが要《い》る。捜《さが》さなけりゃならないものがあるんだ。ぼくたちみんな。だのにそれが何かさえわかってない。手もとにあるのは古い詩の最後の行だけ。君ら三人も聞いたはずだよ。ずっと前に、ぼくらが初めて解読した時にね。ウェールズ語だったからもとの通りにはおぼえてないけど、英語に直すと、『山々唄《うた》い、老婦人来る』って意味だった」
「アル・マナゾエズ・アン・カヌー」ブラァンが言った。「アク・ア・マエル・アルグルワゼス・アン・ドード」
「かっこいい」バーニーが言った。
「老婦人?」ジェーンがたずねた。「誰のこと?」
「老婦人は……老婦人だ。<光>の貴人のことだ」ウィルの声が無意識に低くなり、不気味な響きを帯び出した。ジェーンは背すじがぞくりとした。「老婦人は<光>の中で最も偉大な方、唯一不可欠《ゆいいつふかけつ》な方だ。だのに、少し前に<輪>を召集《しようしゆう》して、この長い戦いの終わりの始まりのために地球の<古老>たちを時間のあらゆる時点から呼び集めた時、老婦人は来られなかった。何かがあったんだ。何かに引き止められているんだ。あの方なしでは先に進みようがないのに。だから何よりもまずぼくが――ぼく達みんなが――しなけりゃならないのは、あの方を見つけることだ。たいして意味があるようにも思えない二つの言葉を唯一の手がかりにね。『山々唄い』か」
いきなり言葉を切ると、ウィルは一同を見回した。
「メリー大叔父さんがいなくちゃ」バーニーがゆううつそうに言った。
「いないんだからしかたないわ。少なくとも今のところは」ジェーンは手近な岩に腰をおろし、紫とみどりの元気のいい塊《かたまり》となって岩を囲んでいるヒースを一枝取り、もてあそんだ。傍《かたわ》らの枯《か》れた茶色いハリエニシダの茂《しげ》みからウェールズ山特有の小さな姫《ひめ》つりがね水仙《すいせん》が群《むら》がり咲《さ》いてうなずいていた。ごくかすかなそよ風にも震《ふる》える華奢《きやしや》な水色の鈴だった。ジェーンは小指で一輪に触れた。「ウェールズの地名で手かがりになりそうなのはないの?『唄う山』とか、そんな意味の名前は?」
色の薄《うす》い目に黒眼鏡をかけ直し、手をポケットに入れたまま行きつ戻りつしていたブラァンが「ない。ないよ」とじれったげに言った。「考えられるだけ考えたんだけど、そんな地名は一つもない」
「じゃあ」サイモンが言った。「うんと古い場所はどうだい――ストーンヘンジみたいに、古代から残っている遺跡《いせき》か何かないのかい?」
「それも考えてみたけど、やっぱりない」ブラァンは言った。「たとえばだね、タウィンの聖カドヴァン教会には、文字にされたウェールズ語としては最も古いものが記された石がある――けど、内容は、聖カドヴァンがどこに埋《う》められてるかってだけのものだ。それからカステル・ア・ベレがある。崩《くず》れたお城でね、カーデルのすぐそばにあるそりゃムードたっぷりの場所だ。けど建てられたのは十三世紀になってからなんだよ。リューエリン王子のウェールズ全土を治める本拠地《ほんきよち》として建てられたんだ。といってもイングランドに取られなかった地方だけだったけど」
「こだわらないんじゃなかったっけ?」バーニーがいたずらっぽく言った。
黒眼鏡が光ったと思うと、ブラァンはにやりとした。「こいつは歴史だよ、坊《ぼう》や。個人的意見じゃない。こだわったのはリューエリンの大将さ……それも、みごとなこだわりかただったね。後にはオウェイン・グリンドゥルが出て……」笑《え》みが顔から消えた。「こんなことを話しても、ぼくらの助けにはならないな」
「アーサー王に関係のあるものはないの?」バーニーがたずねた。
途端《とたん》に、バーニーもジェーンも、サイモンさえもが、毛布のように周囲を包み込んだ沈黙《ちんもく》の重さを感じることができた。ウィルとブラァンはどちらも動かず、ただ突っ立ったままバーニーを見つめていた。世間のはるか頭上にある山の淋《さび》しさが一気にのしかかってきて、ごくわずかな物音さえ重大な意味を持つもののように思えた。バーニーが足の位置を変えた時のヒースのささやぎ、遠い羊の一声、見えない小鳥のしつこい、調子はずれのさえずり。ジェーンとサイモンとバーニーは面くらい、不安を覚えたまま、身じろぎもせずに立ちつくしていた。
ウィルがようやく、軽い調子でたずねた。「なぜだい?」
「バーニーはアーサー王が大のお気に入りなんだよ。それだけのことさ」サイモンが言った。
一瞬ウィルはたゆたい、それから微笑《びしよう》した。奇妙な威圧感《いあつかん》は初めから存在しなかったかのように消え去った。「そうだな」とウィルは言った。「スノードンの次に大きい山があるよ――カーデル・イドリスって言うんだ。あっちのほうにある。英語に直すと『アーサーの座』って意味だ」
「何かありそう?」バーニーが期待をこめて言った。
「いいや」ウィルはちらりとブラァンを見た。有無を言わさぬ口調を説明しようとすらしなかった。ジェーンは仲間はずれにされたという気がし始め、それがカンにさわってならなかった。
ブラァンがゆっくりと言った。「もう一つあるよ。うっかりしてた、カルン・マルク・アーサーだ」
「何て意味?」
「アーサーの馬の蹄《ひづめ》って意味だ。見たところは、たいしたものじゃない――石の上に妙《みよう》な跡《あと》がついてるだけなんだ。アベルダヴィの裏側、クウム・ロアエスロンを見おろす山にある。言い伝えによると、アーサーはそこの湖からアヴァンク、つまり怪物をひきずり出したんだ。その時、とびのくはずみに馬がつけた足跡がそれだって言うんだ」ブラァンは鼻にしわを寄せた。「もちろん、全部でたらめさ。だから考えても見なかったんだけど――確《たし》かにアーサーに関係した地名ではあるね」
一同がウィルを見ると、ウィルは両手を上げた。「どうせ、どこかから手をつけなきゃならないんだ。行ってみよう」
「きょう?」バーニーが期待をこめて言った。
ウィルはかぶりを振った。「明日だ。ここからうちまでは遠いんだよ」
「カルン・マルク・アーサーまでは相当あるよ」ブラァンが言った。「こっち側からだと、一番早いのは、牧師館の脇《わき》を通る山越えの道に出ることなんだけど、夏は旅行者の車が多いんであまりいい道じゃない。でも仕方ないな。明日の朝、君らが広場まで来られるようなら、ぼくらも行ってるようにするよ。誰《だれ》かさんの車に便乗できるかどうかによるんだけどね。どう思う、ウィル?」
ウィルは腕《うで》時計を見た。「二十分後に会う約束になってる。行って頼《たの》んでみよう」
後になっても、正確にはどんな風に頼んだのか、ジェーンはどうしても思い出せなかった。山の尾根の草とヒースの上をすべったり転んだりしている時には話している暇《ひま》はなかったし、おぼろげながら、たとえウィルが息を切らせていなかったとしても、ジョン・ローランズについて多くを語ってはくれなかったろう、という気がした。
「叔父《おじ》の農場で羊の世話をしてるんだ。ほかにもいろいろ。ちょっと……特別な人でね。今週はダヴィ谷の奥のマハンフレスで開かれる恒例《こうれい》の大市場に行くのが仕事なんだ。出がけに村を通らなかったかい?」
「スレートの屋根と灰色の石造りの家ばかり」ジェーンが言った。「どこもかしこも灰色だらけだったわ」
「そいつだよ。市が開かれてる三日の間、ジョンは毎日タウィンとアベルダヴィを通って出かけるんで、ぼくらがきょう来られたのもそのおかげさ。けさ、駅前でおろしてもらったんだ。これから、ぼくらを拾って帰ることになってる。明日もそうしてくれるよう説得できるかもしれない」
ウィルはそれまでよりなだらかな草深い斜面で速度を落とし、踏越《ふみこ》え段のところで遠慮《えんりよ》がちに立ち止まって脇《わき》に寄り、ジェーンに先に乗り越えさせた。
「きいてくれるかしら? どんな人」ジェーンはたずねた。
「会えばわかるよ」
だが、息を切らせながら最後の脇道《わきみち》を駆《か》け抜け、村の駅のそばを通る大通りに出たジェーンに見えたのは、待ちくたびれているランドローバーと、その窓からのぞいているしかめっ面だけだった。痩《や》せて陽灼《ひや》けしたその顔にはたくさんのしわが刻《きざ》まれていた。目は焦茶《こげちや》で、ひそめた眉《まゆ》とキッと一文字に結ばれた口が厳《きび》しい表情を与えていた。
ブラァンがウェールズ語で何かしらしおらしげに言った。
「だめじゃないかね」ジョン・ローランズが言った。「十分も待ったんだよ。五時と言ったはずだ。ウィルが時計を持ってただろうに」
「ごめんなさい」ウィルが言った。「ぼくのせいなんだ。山で昔なじみにばったり出会ったもんで。ロンドンから遊びに来てるんだよ。こっちからジェーン・ドルー、サイモン、それにバーナバスっていうの」
「初めまして」ジョン・ローランズはぶっきらぼうに言った。焦茶の目が三人の上を走った。
兄と弟にさきがけてジェーンが言った。「初めまして、ローランズさん。ウィル達が遅くなったのはあたし達のせいなんです。山を駆けおりるのに慣《な》れてないもんで、足手まといになっちゃったんです」と期待をこめた微笑《びしよう》をジョンに向けた。
ジョン・ローランズはジェーンをあらためて見た「ふむ」
ブラァンが咳払《せきばら》いした。「こんな時になんだけど、明日も乗せて来てくれない? エヴァンズさんがいいって言えばの話だけど」
「さあ、どうかな」ジョン・ローランズは言った。
「まあ、ジョン、いいじゃないの」意外にも、柔らかい音楽的な声が車の中から聞こえた。「デイヴィッド・エヴァンズはいいと言うに決まってるわ。ここニ、三日、あんなによく手伝ってくれたんですもの――それに農場にいたって、市から来るものを待つ以外にすることがある?」
「ふむ」ジョン・ローランズは繰《く》り返した。「どこへ行くつもりなんだね?」
「クウム・マエスロンの上のほうだよ」ブラァンが言った。「この三人にパノラマ遊歩道やなんかを見せてやるんだ」
「いいでしょう、ジョン」柔《やわ》らかい声が促《うなが》した。
「待ち合わせ場所に時間通り戻《もど》って来るかね?」力強い色黒の顔のしわが次第にくつろいでいった。しかめっ面をこしらえるのは一苦労だった、とでもいうように。
「絶対だよ」ウィルが言った。「必ず」
「来なけりゃ置いていくからな。そしたら歩いて帰るしかないんだぞ」
「わかった」
「なら、いいだろう。九時にここでおろして、四時に拾うってことでいいな。君の叔父《おじ》さんがいいと言えばの話だが」
ウィルはつまさきだってジョンの頭越しに車の中をのぞき込んだ。「ありがとう、ローランズのおばさん!」
ジョン・ローランズの目がおかしさに細められ、ジョンの妻が夫の脇《わき》から身を乗り出して笑いかけた。ジェーンはいっぺんで彼女が好きになった。声によく合った顔で、しとやかさと温かさと美しさを兼《か》ね備え、やさしさが輝《かがや》かんばかりだった。
「ここでの休暇《きゆうか》を楽しんでいて?」ローランズ夫人は言った。
「はい、とっても」
「明日は幸せ谷と髭《ひげ》が淵《ふち》に行くわけね?」
ジェーンはウィルを見た。それとわからぬほどためらった後、ウィルは快活に答えた。「うん、そうだよ。観光の名所さ。ぼくもまだ見たことないんだ」
「きれいなところよ」ローランズ夫人が気分をこめて言った。「広場でおろしてあげたほうがいいわね。そうすれば礼拝堂《れいはいどう》のそばで集合できるわ」とジェーンに笑いかけた。「長い道のりになるわよ。お弁当を持っていったほうがいいわ。あと、頑丈《がんじよう》な靴《くつ》と、雨に備えて上着もね」
「雨なんか降りっこありませんよ」サイモンが自信たっぷりに霞《かすみ》がかった青空を見上げた。
「君はスノードニアにいるんだよ」ブラァンが言った。「山の上の年間平均雨量が百五十インチって所だぜ。一九七六年の旱魃《かんばつ》でも死ななかった唯一の場所だ。レインコートを持って来るんだね。じゃ、明日」
ブラァンとウィルが後部座席に乗り込むと、ランドローバーは走り去った。
「百五十インチだって?」サイモンが言った。「ありえないよ」
バーニーが嬉《うれ》しそうに片足ではねまわり、石ころを蹴《け》とばした。「面白くなってきたね!」と言ってから立ち止まった。「ウィルは本当の行先を言わなかったけど、いいのかな?」
「大丈夫よ。ジョン・ローランズは特別だって言ってたもの」
「どっちみち、観光客が団体で行く場所らしいじゃないか」サイモンが言った。「手がかりなんか見つかりそうもないな」
髭《ひげ》が淵《ふち》
最初のうちは、雲こそ煙《けむり》のように青空にたなびいていたが、雨は降っていなかった。息を無駄《むだ》遣いしないよう黙《だま》りこくったまま、五人はアベルダヴィ村から山の中へと続く長い曲がりくねった道を苦労して登り続けた。急勾配《きゆうこうばい》の道はダヴィ河口のゆったりとした谷間をどんどんあとにし、立ち止まって振り返るたびに、眼下に海岸と山々と広々とした海が一段と雄大に拡がっているのが見えた。引潮がのこしていった何エーカーものきらめく金茶色の砂州《さす》の間を、銀色のリボンのようなダヴィ河がうねうねと流れている。道のとある角を曲がると、それまで見えていた南側の景観はかき消され、五人はまだ見えて来ない北の山々をめざして登り続けていた。
道は高い草土手にはさまれていた。彼らと同じくらいの高さを持つ土手には、黄色いサワギクやヤナギタンポポ、ノコギリソウの白く平たい花冠《かかん》、それに季節はずれのジギタリス数輪が点在している。土手の上にはハシバミとイバラとサンザシの生垣《いけがき》が熟《う》れかけた実を重たげに支《ささ》え、割り込んできたスイカズラの香りをさせながら空まで伸び上がっている。
「端に寄って」ウィルが後ろから声をかけた。
「車だよ!」
子供達がイバラの枝の茨《いばら》だらけの抱擁《ほうよう》を避《さ》けながら道の草壁に体を押しつけると、派手な赤い小型車がギヤを落として高い唸《うな》り声を上げながら風のように追い越していった。
「また観光客だ!」ブラァンが言った。
「これで六台目だぜ」
「あたしたちだって観光客よ」
「けど、質が違うよ」バーニーが重々しく言った。
「少なくとも君らは自分の足で歩いてるものな」ブラァンは白髪の上にかぶっているチロル帽を直し、諦《あきら》めたというようにひさしをひっぱった。「毎年いまごろは、天気のいい日の蝿《はえ》みたいに車がひきもきらないんだ。おかげで山にはいると、羊や風や淋《さび》しさだけじゃなく、バーミンガムあたりから来る人達のための小さなキャンプ小屋に出くわすようになっちまった」
「でもほかにどうしようもないんじゃないか?」サイモンが言った。「このあたりじゃ、観光業以外には、生活を立てる道はほとんど残ってなさそうだし」
「農業があるよ」ウィルが言った。
「それだってわずかだ」
「あたってるよ」ブラァンが言った。「大学に進学した連中はそれっきり戻って来ない。来たって何もないからなんだ」
ジェーンは好奇心《こうきしん》に駆《か》られた。「あなたも出て行くつもり?」
「おい《デイウ》、よしてくれ。ぼくにはまだ何年も先のことなんだ。何が起きるかわからないじゃないか。河口に発電所が建つかも知れないし、スノードンにキャンプ場が出来るかも知れない」
「気をつけろ!」サイモンがふいに言った。「また来た!」
今度の車は水色で、小さな戦車のようにエンジンを震《ふる》わせながら通り過ぎていった。後部座席で幼児がふたりけんかをしているのが見えた。車は次のカーヴを曲がって姿を消した。
「車ばっかりだ」ウィルが言った。「知ってるかい? マハンフレスの道にまでシャルテルとか言うものが建ったんだよ。シャルテルだってさ! きっと山小屋《ジヤレー》とモーテルのあいの――」と、言葉を途切《とぎ》らせ、道の行手を凝視《ぎようし》した。
「あれ見て! すごい!」バーニーがジェーンの腕《うで》をつかんで指さした。「いったい何なの?」
数ヤード先の道を半ば横切りかけたまま立ち止まっているのは二匹の見かけぬしなやかな獣《けもの》だった。猫ぐらいの大きさだがずっと細い。赤狐《あかぎつね》の毛皮のような赤茶けた毛。猫に似た尾は地面すれすれに保たれている。頭をこちらに向け、目を光らせて子供たちを見すえた。それかまず一匹、続いてもう一匹がゆっくりと、慌《あわ》てず騒《さわ》がず、回れ右をして体をくねらせながら道の反対側にとって返し、土手のどこかに姿を消したように見えた。
「テンだ!」サイモンが言った。
バーニーが疑わしげに、「それにしちゃ大きすぎない?」
「大きすぎるとも」ブラァンが言った。「それにこいつらの体で白いのは鼻面だけだったろ? テンなら腹と胸も白いはずだ」
「じゃ何だい?」
「アル・フウルバルタウさ。ポールキャットっていうイタチの一種だ。けどあんな派手な赤毛のは初めてだ」ブラァンは進み出て土手を用心深くのぞき込み、サイモンが近づくと警告するように片手を上げた。「気をつけて。たちのいい連中じゃない……ウサギ穴《あな》がある。こいつを乗っ取ったんだな」
「車を怖がらないなんて不思議だね」バーニーが言った。「人間のことも怖がらないみたいだ」
「たちの悪いやつらだ」ブラァンが穴を見ながら考え深げに言った。「凶暴《きようぼう》で、ものおじしない。遊び半分で他の動物を殺しさえするんだ」
「ミンクと同じだ」ウィルの声はかすれていた。苛立《いらだ》ったようにウィルは咳払《せきばら》いした。ジェーンが驚いたことに、ウィルの顔はひどく蒼《あお》ざめ、額《ひたい》には汗が光り、片方の手が固く握《にぎ》りしめられていた。
「ミンク?」ブラァンが言った。「ウェールズにはいないよ」
「今のやつらに似てるんだ。毛は黒いけど。茶色のもいると思う。やっぱり……殺しを楽しむんだ」ウィルの声は相変わらず硬《こわ》張っていた。ジェーンはそれと悟《さと》られまいとしながら横目で見守りつづけた。
「角を曲がってすぐのところに農家があるんだ。昼間っから出歩いているのはそのせいだろ」ブラァンはポールキャットに興味を失ったのか、先に立って道を歩き出した。「来いよ――まだ先は長いんだ」
ジェーンは靴《くつ》下を引っ張りあげようと立ち止まり、少年達をやり過ごしてから、ひとりで考え深げにあとを追った。農家を過ぎたあたりで道幅が少し拡がり、草土手は一フィートかそこらの高さになってところどころに針金の柵《さく》を戴《いただ》いていた。勾配《こうばい》はいくらかゆるやかになり、岩の散在する草地を通り抜けた。草地のあちこちでウェールズ黒牛が草をはんだり、道のまんなかで思索《しさく》にふけったりしていた。ジェーンは大きな去勢牛を用心深く迂回《うかい》し、頭の中を水銀のような速さで出たりはいったりするとらえどころのない感想をまとめようとした。何が起きつつあるのかしら? なぜウィルは心配そうなの? なぜブラァンは何も感じてないみたいなの? そもそもブラァンって何者よ? ブラァンの存在がウィルと自分達との仲をなぜかややこしくしているように感じて、ジェーンはおぼろげであいまいながら恨《うら》みがましい気持ちになった。もう、この前とは違ってあたし達だけじゃなくなったんだわ……。何よりも、前途に待ち受けているものに対する深い不安を覚え出していた。頭の奥にしまわれている第六感が、ジェーン自身も知らないことを伝えようとしているかのようだった。
やみくもに歩いているうちにバーニーにぶつかり、彼らがふいに沈黙《ちんもく》して立ち止まったのに気づいた。目を上げると、その理由がわかった。
五人はすばらしい谷間の上縁に立っていた。足もとの斜面はみどりのワラビの波となってなだれ落ち、点々と散らばった草地ではわずかな羊が危《あぶ》なっかしく食事をしていた。はるか下の方、谷底のみどりと金色の畑の中を、おもちゃの教会とちっぽけな農家の前を、震《ふる》える糸のような道が走っている。そして谷の反対側、雲の影とびっしり植えられたモミの木とで青と黒のまだらになった向こう斜面のまた背後にはウェールズのたなびく古い山々が果てしなく列をなして続いていた。
「まあ!」ジェーンがそっと言った。
「クウム・マエスロン」ブラァンが言った。
「幸せ谷だ」とウィル。
「なぜこの道がパノラマの道と呼ばれているかわかったろう」ブラァンが言った。「車が多いのはこのせいさ。歩いて来る人も多いけど」
「目をさませよ、ジェーン」ウィルが軽く言った。
ジェーンは身じろぎもせず、目をいっぱいに見開いたまま谷間を見おろしていた。ゆっくりと振り向いてウィルに向けた顔は笑ってはいなかった。「何だか……何だか……うまく言えないわ。きれいで、すてきで、けど――なんだか怖《こわ》いみたい」
「目が回ったんだろ」サイモンは自信たっぷりだった。「すぐよくなるよ。下を見るんじゃない」
「行こう」ウィルが無表情に言うと、ジェーンはふっとメリマンを思い出させられた。ウィルは背を向け、幸せ谷の縁に沿《そ》った道を歩き続けた。サイモンがあとに続いた。「めまいが聞いて呆《あき》れるわ」ジェーンは言った。
ブラァンはぶっきらぼうだった。「怖いが聞いて呆れる。ここでセンチな感情に耳を傾け出したが最後、やめたくてもやめられなくなるぞ。そうでなくてもウィルには心配事がどっさりあるのに」
面くらったジェーンの凝視《ぎようし》にはかまわずに、ブラァンは回れ右をしてサイモンとウィルのあとを追って道を急いだ。
ジェーンは腹立たしげに見送った。「何さまだと思ってるのかしら? これはあたしの感じたことなのよ。あの人のじゃないわ」
バーニーはナップザックの肩ひもに指をひっかけた。「ぼくが昨日言った意味がわかるようになった?」
ジェーンは眉《まゆ》を吊《つ》り上げた。
「海を見おろす山の上でさ」バーニーは続けた。「あの時も怖いみたいな気がしたんだ。前に来たことがあるって気がしてならないのに、姉さん達ったら本気にしてくれないんだもの。けど、あれから考えたんだ――どっちかって言うと、前に起きたことをもう一度経験してるっていう感じに近い。本当は初めから起きてやしないんだけどね」
ふたりは黙《だま》ってサイモン達を追った。
まもなく雨が降り出した。低く漂《ただよ》いながら次第にふくらみ、ついに溶け合って広い空全体をおおい始めた黒雲から降って来る。やさしくしつこい雨だった。子供達はアノラックやレインコートをリュックからひっぱり出すと、どこにも雨除《よ》けのない開けた草深い斜面の間の高原の道をしぶとく歩き続けた。
車が一台ずつ引き返して来て五人とすれ違った。最後の角を曲がると、舗装道路《ほそうどうろ》はとある鉄門のところで終わっており、代わりに多くの足に踏みしだかれた泥道《どろみち》が白い一軒家を通り越して山の彼方へと続いていた。門の前の草地には車が五台、傾いたかっこうで停《と》めてあり、山の上から、しおれたスカーフをかぶって不平たらたらの子供を連れた遊山《ゆさん》客が数人、濡《ぬ》れそぼちておりてきてた。
「雨にもいいことがひとつあるね」バーニーが言った。「人を追い払ってくれる」
サイモンがちらりと振り返った。「しょぼくれた連中じゃないか」
「あの青い車の子供達ったら、まだ殴《なぐ》りっこしてるよ。あんなチビがいたら、誰《だれ》だってしょぼくれちゃうよ」
「自分だって、やっとチビでなくなったばかりのくせに」
バーニーは口をあけたがまた閉じ、適切な悪口を捜《さが》し求めた。それから口をきく代わりにジェーンを一瞥《いちべつ》した。ジェーンはにこりともせずに、視線を宙に浮かせて黙《だま》っていた。
「まだ気分が悪いのかい、ジェーン?」サイモンがのぞき込んだ。
「あのふたりを見てよ」ジェーンは妙に張りつめた小声で言った。ゆびさした先には草の中の小道を前後して登っていくウィルとブラァンがいた。大きすぎる揃《そろ》いの雨合羽《あまがっぱ》を着てそっくり同じに見え、ブラァンの帽子とまぶかに引きおろされたウィルのジャンパーのフードがなければ見わけがつかないところだ。「あのふたりを見てよ!」ジェーンは辛《つら》そうに繰《く》り返した。「気違い沙汰《ざた》だわ! あの人達、誰だっていうの? どこへ行くの? なぜあたし達、言うなりになってるの? 何が起きるかわからないっていうのに」
「うん、たけど、いつだって、わかってたためしなんかないよ」バーニーが言った。
「ここにいちゃいけないわ」ジェーンはじれったげにアノラックのフードを頭の上にきつく引きおろした。「何もかも……あいまいすぎるわ。どこか変よ。それにあたし」――最後の言葉は挑《いど》むようにとび出した――「怖《こわ》いのよ」
バーニーは、くるまれているビニールのレインコートのひだの間から姉を見て、目をぱちくりさせた。「だって、ジェーン、大丈夫に決まってるじゃないか。メリー大叔父さんが関わってるんだもの――」
「ガメリーはいないわ」
「うん、いない」サイモンが言った。「けど、ウィルがいる。同じことさ」
驚きがジェーンの脳裏《のうり》に鳴り響《ひび》いた。兄をじっと見ると、「兄さんたら、ウィルのこと本当は好きじゃないくせに、そりゃ、口に出しては言わなかったけど、いつだってどこか……」と言って口をつぐんだ。確《たし》かな足場が急に揺《ゆ》らぎ出したようだった。サイモンはまる一年近く年上なだけでなく、体もすっかり大きくなっていたので、どういうものかジェーンは、それとわからないほどながら、兄の言うことを以前より真剣《しんけん》に受け止め、兄の意見や偏見《へんけん》に耳を傾けるようになっていた。それらがたとえ自分の意見と食い違っていても。その偏見の一つが自分からひっくり返るのを見るのは落ち着かぬ経験《けいけん》だった。
「いいかい」サイモンは言った。「メリー大叔父さんやウィルと一緒《いつしよ》の時にぼくらに起きたことについちゃ、理解してるようなふりをするつもりはない。けどそんなこと、どのみちたいしたことじゃないんだよ。違うか? 根本的にはものすごく簡単なことなんだ。要するに――とにかく、いい方と悪い方とがあって、あのふたりは全く文句なしにいい方についてるんだ」
「決まってるわ」ジェーンがすねたように言った。
「結構《けつこう》。どこが問題なんだい?」
「問題なんかないわ。あのブラァンがいけないのよ。ただ――ああ、もう、兄さんにはわかりっこないわ」ジェーンは悲《かな》しげに草のひとむらをつついた。
「ぼくらのことを待ってるよ」バーニーが言った。
農家の広報の山腹高く、別の門のそばで、ふたつの小さな人影は立ち止まり、振り返っていた。
「行こう、ジェーン」サイモンはおっかなびっくり妹の背を撫《な》でた。
バーニーが思いついたようにまくしたてた。「ねえ、本当に怖いんなら――まるで姉さんらしくないもの――考えてみるべきだよ。もしかすると」――とあいまいに片手を振り――「つつかれてるのかも知れないよ」
「つつかれてる?」
「<闇>にだよ」バーニーは言った。「おぼえてない?――あいつら、頭の中に何かをもぐりこませて、おまえなんか嫌いだ。あっち行けって言わせるのが得意だろ……何かひどいことが起きるような気にさせてさ」
「ええ。ええ。おぼえてますとも」
バーニーは小さな猛獣《もうじゆう》のように姉の前でとびはねた。「だったら抵抗《ていこう》すればつかまらずに済むよ。つっぱねて、逃げるんだ――」とジェーンの袖《そで》をとらえた。「おいでよ。上まで競走だ!」
ジェーンはほほえもうとした。「いいわ!」
ふたりは雨のしずくをコートから散らしながら、山腹で待っている人影目指して道を駆け登った。サイモンはあとからゆっくりと続いた。妹と弟の会話に半分しか注意を向けていなかったのだ。残り半分は、バーニーが話している間じゅう、ハリエニシダの茂《しげ》みからワラビの中にもぐり込んだ二匹のしなやかな赤い獣にひきつけられていたのだ。その後も光る目が二組、ハリエニシダの間から彼らを見つめていた。気のせいかもしれなかったが。とにかく今ジェーンに教えるのはまずい、という気がした。
バーニーとジェーンが小道を駆け上がって来るのを見ながらブラァンが言った。「何の相談《そうだん》だったんだろう?」
「弁当にするかどうかでもめてただけかも知れないよ」
ブラァンは黒眼鏡を鼻先まで引きおろした。黄色い目が黒いレンズと帽子の間から一瞬《いつしゆん》じっとウィルを見た。「<古老>くん」ブラァンはそっと言った。「わかってるくせに」そして眼鏡を押し上げてニヤリとした。「どのみち弁当には早すぎる」
だがウィルはまじめな顔で近づいて来る人影を見おろしていた。「<光>にはあの三人が必要なんだ。この長い探索《たんさく》を通じて、いつだって必要としてきた。だから今頃は<闇>のほうでもあの三人をじっと見張ってるはずだ。ブラァン、三人から離れちゃいけない――一番危ないのはバーニーかな?」
バーニーがあえぎながら駆け上がってきた。フードは肩の上ではためき、黄色い髪は雨にうたれて湿《しめ》り、くろずんでみえた。「いつお弁当にするの?」
ブラァンは笑った。「カルン・マルク・アーサーは次の坂を越えたらすぐだよ」
「どんな形?」答えを待たずに、バーニーはレインコートをはためかせながら道を駆《か》け登っていた。
あとを追おうとブラァンは体をひねったが、ジェーンが行手を遮《さえぎ》っていた。ジェーンは息をはずませながらじっと立って、ウィルが初めて見るさめた態度《たいど》でふたりを眺《なが》めていた。「うまくいきっこないわ」とジェーンは言った。「あたしたちみんな、何も変わったことはないみたいな顔をして歩いているけど、こんなばかしあい、いつまでも続けるわけにはいかないわ」
見つめ返したウィルの頭の中ではあせりと忍耐《にんたい》が闘《たたか》っていた。一瞬《いつしゆん》うなだれると、ウィルは短い吐息《といき》をついた。「わかった。何を言わせたいんだい?」
「この上で何が見つかるか、それだけよ」ジェーンは怒《いか》りのあまり震《ふる》えていた。「ここであたしたちのしていることについて何か、言ってくれない?」
ウィルに口を開くすきも与えず、骨にとびつくテリヤのようにブラァンが言葉尻《ことばじり》にかみついた。「何をしているのかって? 何もしてないさ、お嬢《じよう》ちゃん――谷と湖を見て、まあ、きれいって言う以外、何もすることなんかあるもんか。何を騒《さわ》いでるんだ? 雨が気に入らないなら、コートにくるまって帰れりゃいい。帰れよ!」
「ブラァン!」ウィルがとがめた。
ジェーンは目を見開いたまま、微動だにしなかった。
ブラァンは怒《おこ》っていた。「何だってんだ! 恐怖《きようふ》がかきたてられるのを、愛が殺されるのを、<闇《やみ》>があらゆる物の上に拡《ひろ》がっていくのを見たことがあれば、馬鹿な質問なんかしないはずだ。四《し》の五《ご》の言わずにするべきことをするだけさ。そして今すべきことは、次の動きを教えてくれるかもしれない場所へ行くことなんだ」
「四の五の言わずにね!」ジェーンが張りつめた声で言った。
サイモンが背後に追いつき、黙《だま》って耳を傾《かたむ》けていたが、ジェーンは目もくれなかった。
「そうさ!」ブラァンがぴしりと言った。
ジェーンを見ているウィルはふっと会ったこともない人物を見ている、という気がした。顔全体が他人のもののような激しい感情にひきつっていた。
「あなたねえ!」ジェーンはポケットに乱暴《らんぼう》に手を突《つ》っ込《こ》み、ブラァンに言った。「自分は特別だと思ってるのね? 白い髪と変わった肌《はだ》と、その馬鹿みたいな眼鏡《めがね》の後ろの目のせいで。特別に違ってるってわけ? あたし達に指図できると思ってるなんて、ウィルよりもっと特別だとでも
言うの? そもそも、あなた誰よ? 昨日まで会ったこともなかったのよ。何もない山の中でばったり会っただけなのに、なんだってあなたのために危険な目に会わなきゃ――」声が震え、途絶《とだ》えた。ジェーンはぱっと彼らから離れ、小さくなりつつあるバーニーの元気のいい姿めざして斜面を登っていった。
サイモンも追っていきかけたが、決心しかねて立ち止まった。
「特別だって?」ブラァンがひとりごとのようにそっと言った。「特別か。こいつはいい。何年も何年も、薄気味《うすきみ》の悪い、色のない皮膚《ひふ》の男の子として笑われたり後ろ指さされたりしてきたってのに。すてきだ。特別とはね。目のこともなんとか言ってたね?」
「うん」ウィルはぶっきらぼうに言った。「特別だってね。それはわかってるだろうに」
ブラァンはためらい、眼鏡をはずしてポケットに突っ込んだ。「それとは別だ。ジェーンの知らないことだもの。それにジェーンの言ったのは別の意味でだ」
「うん」ウィルは答えた。「だけど、君とぼくとは一瞬たりとも忘れちゃいけないんだ。あんなふうに……爆発《ばくはつ》しちゃいけない」
「わかってる。ごめん」ブラァンはわざとサイモンを見て、詫《わ》びの言葉がサイモンにも向けられるようにした。
サイモンはばつが悪そうだった。「何のことかよくわからないけど、ジェーンの癇癪《かんしやく》なら気にしないでくれ。どうってことないんだから」
「ジェーンらしくない」ウィルが言った。
「うん……近頃、時々ああなんだ。ヒステリーを起こすんだよね……」サイモンは内緒《ないしよ》ごとのように言った。「そういう時期なんだと思う」
「かもね」ウィルはブラァンを見ていた。「眼を離しちゃならないのはジェーンからかな?」
「行こう」ブラァンは帽子のひさしから雨粒《あまつぶ》を払い落とした。「カルン・マルク・アーサーへ」
登りつづけて、草深いみどりの山腹と灰色の空とが出会う線に立った。反対側《がわ》の下り坂になった道の小さな岩の突起の傍《かたわ》らにジェーンとバーニーがしゃがんでいた。斜面の他の突起と何ら変わるところなかったが、名札のような小ぎれいなスレートの目印がつけられていた。ウィルは五感を猟犬《りようけん》の耳のように研《と》ぎすまして解放し、ゆっくりと道を下ったが何も感じられなかった。視線を動かすと、ブラァンの顔も同じように無表情なのが見えた。
「アーサーの馬の蹄《ひづめ》が踏《ふ》んだあとが、丸くえぐれてるんだって――ほら、印がついてる」バーニーは岩の窪《くぼ》みを手で測《はか》った。「あそこにもある」と鼻であしらった。「馬にしちゃずいぶん小さいや」
「でも蹄の形はしてるわ」ジェーンはうつむいたままで、声がわずかにかすれていた。「本当はどうやって出来たのかしら」
「浸食作用《しんしよくさよう》さ」サイモンが言った。「水が渦巻《うずま》いたんだろ」
「土にこすられもしたろうし」ブラァンも言った。
ジェーンはためらいがちに「霜《しも》もね。岩にひびを入らせたんだわ」
「魔法《まほう》の馬が思いっきり蹄で蹴《け》ったのかもしれない」バーニーがウィルを見上げた。「でも違ったんだよね。本当は」
「うん」ウィルは微笑《びしよう》した。「まずありえないな。アーサー王が、<アーサーの馬の足型>という名の窪《くぼ》み全部を踏み、<アーサーの座>という名の岩全部に腰かけ、<アーサーの泉>という名の泉全部で水を呑《の》んだのだとしたら、一生の間、イギリス全土を休みなしに回ってたことになる」
「騎士《きし》たちもね」バーニーが明るく言った。「<アーサー王の円卓《えんたく》>って名前の丘という丘を全部回るには、移動しっ放しだったはずだ」
「ああ」ウィルは小さな白い石英のかけらを拾い、掌の上でころころ転がした。「そうだよ。そういう地名の中には……別の意味があるものなんだ」
バーニーがとび上がった。「湖はどこ? 怪物をひっぱりだしたってやつさ」
「フリン・バルヴォグ」ブラァンが言った。「髭《ひげ》が淵《ふち》っていうんだ。こっちだよ」
ブラァンは先に立って山間《やまあい》の谷に向かって道を下り、斜面に沿って回り込んだ。穏《おだ》やかだった雨が断続的に吹きつけ出した。風が谷間で渦巻《うずま》いているのだった。雲は頭上低く垂《た》れこめていた。
「髭が淵なんて変な名前ね」ジェーンが言った。視線こそ向けずに歩いていたが、ブラァンに話しかけているのだった。それとない謝《あやま》り方をさぐり求めているジェーンの態度にウィルは同情を覚えた。「髭だなんて。ロマンチックとは言い難《がた》いわ」
「すぐわけがわかるよ」ブラァンはこだわりなく答えた。「ここからは足もとに気をつけて。湿地《しっち》がとびとびにあるんだ」そう言うと、湿地のしるしである細い草の群《む》らがりをよけながら先に立って大またに歩いていった。少ししてウィルが目を上げると、いきなり前方に、降りしきる雨をついて再び、幸せ谷の向かう斜面が灰色にかすんで見えた。だが今回は、谷のこちら側、ウィル達のいる急斜面に湖が横たわっていた。
池と呼んでもおかしなくらいの奇妙な、小さい、葦《あし》に縁《ふち》取られた湖だった。暗い水面は不思議なまだら模様になっていた。やがて淵の自由な水面は風に波立っているが、自由なのはほんの一部、こちら端の三角形の部分だけなのがわかった。残りの水面は、谷間に臨《のぞ》む端から中央の細いV型に到るまで、睡蓮《すいれん》の葉や茎《くき》や乳のように白い花でおおわれているのだった。そしてウィルには、耳の中で聞こえる高まりの海鳴りのような音のおかげで、やはりこのあたりに目的地が横たわっているのがわかった。何かがここで待っているのだ。幸せ谷とダヴィ河口にはさまれた、この岩だらけの山上で。
雨ではなく、脳裏《のうり》にかかったもやを通して、ブラァンは同じ印象《いんしよう》を抱《いだ》いていないらしいのに気づき、何がなし驚きを覚えた。白髪の少年はサイモンとジェーンと共に道に立ち、雨風よけに片手を目の上にかざし、もう一方の手でゆびさしていた。
「髭《ひげ》が淵《ふち》だ――わかるだろ? 水面の水草のせいでそういう名がついたんだよ。雨の少ない年はずっと小さく小さくなるもんで、水草が周りじゅうに髭みたいに残るんだ。ジョン・ローランズに言わせると、名前の由来はそうじゃなくて、昔、もっとずっと水の量が多かった頃、山の上からあふれて谷間に滝となって流れ落ちたからだろうって。かもしれないけど、今の状態から言うと、そうだったのはよほど大昔のことだろうな」
様変わりする曇天《どんてん》のもと、小さな淵《ふち》は黒く黙りこくっていた。風が山々を哭《な》きながら越え、子供達の服の中を吹き抜けた。下の谷間で、遠く、シギが亡霊《ぼうれい》めいた悲しげな声を上げた。と、近くのどこかでくぐもった叫《さけ》び声がした。
バーニーが振り返った。「あれ、何?」
ブラァンは、山の頂上と見える淵《ふち》の向こう斜面を見やり、ためいきをついた。「観光客さ。山彦を呼んでるんだ。来てごらん」
淵に沿った岩だらけの泥《どろ》道を一行が一列縦帯になって平衡《こう》を保ちながら進み出しても、ウィルはそのままあとに残った。
もう一度、白い花を散らしたみどりの水草のじゅうたん越しに、対岸の、地面が谷間へと急に突っ込むあたりを見やった。雨が目に吹きつけ、霞《かすみ》が山の上で渦巻《うずま》いた。だが意識の中にもぐり込み、話しかけてくるものは何一つなかった。ただ、何か理解できない形をとっている上なる魔法の近くにいるのだという感覚だけが頭の中で脈搏《う》っていた。
そのままウィルは仲間を追って、道に沿って次の高い斜面の裏側へ回りこんだ。ブラァン達は五十平方ヤードほどの窪地《くぼち》を見下ろす崖《がけ》の上に立っていた。髭《ひげ》が淵《ふち》のあったところとよく似た風景だったが、水の代わりに湿地を示す葦《あし》に似た太い草の鮮《あざ》やかな群《む》れだけがあった。ぎょっとするようなオレンジ色のアノラックを着た男女が斜面を少しくだったところに立っており、身長のまちまちな子供が三人、その周囲を歩き回りながら平らなみどりの窪地《くぼち》越しにわめいていた。反対側にある断崖《だんがい》めいた岩山がこだまを返していた。
「おい!……おい……」
「わーい!……わーい……」
「おい、でぶっちょ!……でぶっちょ……でぶっちょ……」
ジェーンが言った。「よく聞くと二重の山彦《やまびこ》なのがわかるわ。二度目のはうんとかすかだけど」
「でぶっちょ!」一番耳ざわりな声の子供が得意げに再びどなった。
バーニーが澄《す》んだ声ではっきり言った。「山彦を聞く時って不思議と気のきいた文句は思い浮かばないものなんだね」
「マイクが故障《こしよう》してないか試《ため》す時に何も思い浮かばないのと同じさ」ウィルが言った。「ただいまマイクの試験中、アー、アー」
「ぼくの学校の先生は、ものすごく下品な詩《し》を使うぜ」サイモンが言った。
「山彦に向かって下品な詩なんてどなれないよ」バーニーが冷たく言った。「山彦は特別なんだ。みんな……唄《うた》いかけるべきなんだよ」
「唄いかける!?」ジェーンは、まだ山に向かって金切り声を上げている子供達を嫌悪《けんお》をこめて見た。
「どこがいけないのさ? シェイクスピアの劇《げき》の台詞なんかもいいな。サイモンは先学期、プロスペロの役をやったんだよ――試してみたら?」
「本当かい?」ブラァンは新たな関心をもってサイモンを見た。
「一番背が高かったってだけのことさ」サイモンは弁解がましく言った。「それと、声が適《てき》してるっていうんで」
「でぶっちょ!」感じの悪い子供達が一斉《いつせい》に叫《さけ》んだ。
「ああ、もう!」ジェーンには我慢《がまん》がならなかった。「親は何してるのよ?」と言うや、腹立たしげに背を向け、斜面をもと来たほうへ少し戻《もど》った。風がいくらか弱まったように感じられ、雨はおさまって細かい霧《きり》となっていた。下草が足首をひっかいた。斜面はヒースと丈《たけ》の低いコケモモの茂《しげ》みにびっしりおおわれていた。そこかしこの葉の間に小さな群青《ぐんじよう》色の実がちりばめられている。
あてどなく歩くにつれ、他の者の声が遠ざかり出した。ジェーンはポケットに手を突っ込み、何かを背から振り落とそうとするかのように肩《かた》を怒《いか》らせた。(黒犬が肩に乗ってるんだわ)と苦々しく考えた。家族の間でだけ通用する、機嫌《きげん》の悪い時を意味する言葉だったが、近頃はもっぱらジェーンに適用されるようになっていた。だが、なぜか今回は一時の気分以上のものが頭にはいり込んでいるように思われた。初めて経験する、名状《めいじよう》し難《がた》い感覚だった。一種の落ち着きのなさ、一部では理解しているが別の部分では理解していない何かへの、半ば不安の混《ま》じった期待……ジェーンはためいきをついた。同時に二人の人間であるようなものだった。共同生活の相手が次に何をするか、何を感じるか、見当もつかないのだ。
連なる斜面のはざまにオレンジ色がひらめき、ジェーンの目をとらえた。騒々《そうぞう》しい一家が帰るところで、腹を立てた母親が反抗的な子供の腕《うで》をひっぱっていた。一家は斜面の裏側に姿を消した。道に向かっているのだ。だが、ジェーンは兄達のもとへは戻らず、相変わらずひとりでぶらぶら歩きつづけた。ヒースと濡《ぬ》れた草野中を歩くうちに、だしぬけに風が冷たく顔に吹きつけ、再び髭《ひげ》が淵《ふち》にいるのに気がついた。背後で遠い笑い声と、バーニーの呼び声が聞こえた。呼び声は繰《く》り返された。山彦を呼んでいるのだった。ジェーンは水草に包まれた暗い湖水の向こうの遠い谷間を寒々しい思いで眺《なが》めた。風が耳の中で唄《うた》った。重苦しい曇天《どんてん》の雲は今やあまりにも低く垂《た》れこめているので、白っぽい霧の切れ端となって山頂を横ぎり、渦《うず》を巻いて湖面に下り、巻き上がって谷間へと吹き流されていくのが見えるほどだった。世界中が、あたかも夏草から全ての色が抜き取られたかのように灰色だった。
風が逆巻《さかま》いたかと思うとふいにあたりが静まり返り、サイモンの声が背後で一瞬《いつしゆん》、かすかにひらめいた。「……汝《なんじ》大地よ……、汝よ! 語れ!……」そしてごくかすかに、気のせいかと思えるほどひそかに、こだまが聞こえた。「……語れ……語れ……」
次いで別の声がいくつかの耳慣《な》れぬ言葉をはっきりと言うのが聞こえた。ブラァンがウェールズ語で呼びかけているのだった。再びこだまが返ってきて同じ言葉をジェーンの耳に運び、意味はわからないながらも親しみを覚えさせた。
風が強まり、霧《きり》が破れた屍衣《しえ》のように向こう岸に吹き寄せられ、幸せ谷を隠《かく》した。ブラァンの声がこだますると同時に、きっかけを与えられたかのように、第三の声が唄《うた》い出した。高い甘《あま》やかなこの世ならぬ唄声に、ジェーンははたと動きを止め、息をひそめて立ちつくした。静止した筋肉の一つ一つを感じていながら、肉体を持たぬ者のように心が完全に奪われるのを覚えた。ウィルの声なのはわかっていたが、以前に唄うのを聞いたことがあるのかどうかは思い出せなかった。考えることも、何をすることもならず、ただ耳を傾けるばかりだった。声は斜面の裏側から風に乗って、遠く、だがはっきりと、聞き覚えのない美しい旋律《せんりつ》を唄い上げた。それに伴《ともな》い、あとを追って、歌のこだまが随唱《ずいしよう》し、幻《まぼろし》の第二の声となってウィルの声とからみあった。
あたかも山々が唄っているかのようだった。
そして、ジェーンが湖上低く吹かれていく雲をぼんやり見ているうちに、やって来た人物がいた。
移動する灰色の中に一カ所、色を帯びて光り出した部分があった。赤とばら色と青が、目が追いつかないほどの速さで混《ま》ざり合い出した。寒い山上でやさしく温かく輝《かがや》きながら、炎のようにジェーンの視線を吸い寄せて離さず、やがて次第に焦点《しようてん》を定まらせ始めた。光の周囲に形が現れるのを見てジェーンは目を瞠《みは》った。明瞭《めいりよう》な形ではなく、ほのめかしと言ったほうが良いような、適切な目を持っていればこういうものが見える、という見当のようなものだった……
光は次第に凝縮《ぎようしゆく》していったと思うと、突然、指輪にはめこまれた輝くばら色の石の中にすっかり吸収されてしまった。指輪はジェーンの前に佇《たたず》んでいるほっそりした人物の指にはめられていた。その人は休息しているかのように軽く杖《つえ》にもたれ、初めのうちはあまりの明るさに取り巻かれていたので、まともに見ることも出来ないほどだった。仕方なくその人の足もとの地面に目をやったが、地面などないのに気づいて愕然《がくぜん》とした。その人は、灰色の霧《きり》に隠《かく》されている世界が何であれ、そこから切り離《はな》された断片《だんぺん》として浮かんでいるのだった。今や、長い淡色の衣をまとった華奢《きやしや》な老婦人なのが見てとれた。頭の骨格は繊細《せんさい》で、親切であると同時に誇《ほこ》り高く、澄《す》んだ青い目は、クモの糸のようなしわにおおわれた老いた顔の中で、不思議に若々しく光輝《かがや》いていた。
ジェーンは仲間を忘れ、山と雨を忘れ、自分を見守っている顔以外の全てを忘れた。顔はやさしく微笑《びしよう》したが、ひとことも発しなかった。
ジェーンはかすれ声で言った。「あなたが老婦人ですね? ウィルの言ってた――」
老婦人はうなずいた。ゆっくりとした優美な会釈《えしやく》だった。「よくわかりましたね、ジェーン・ドルー。これであなたと話せます。初めから、最後の伝言を運ぶのはあなたと定められていたのですよ」
「伝言?」ジェーンの声はささやきに近かった。
「ものによっては、似たもの同士でなければ伝えられないのです」霧の中から甘《あま》くやさしい声は言った。
「子供の遊ぶドミノのようなものでね。ジェーン、ジャナ、ジュノー、ジェーン、あなたとわたくしとはよく似ています。この探索《たんさく》に関わり合っている他のあらゆる人々は、その意味ではわたくしたちとは違うのです。と同時に、あなたとウィルはその若さと活力においてよく似ていますが、わたくしにはそのどちらもありませぬ」
声は疲《つ》れ果《は》てたように薄《うす》れたが、すぐに立ち直り、老婦人の手のばら色の指輪が輝きを増した。老婦人は姿勢を正した。衣が、灰色の湖上《こじよう》にかかる月さながらの明るさで、白く清らかに輝いた。
「ジェーン」
「奥様?」ジェーンはすぐに答え、ごく自然に頭《こうべ》を垂《た》れて片膝《かたひざ》を深くかがめた。ジーパンとアノラックをまとっていることも忘れ、別の時代の習慣《しゆうかん》であった恭々《うやうや》しいおじぎの型をとったのだった。
老婦人ははっきりと言った。「ウィルにお伝えなさい。ブラァンと失《う》せし国へ行くように。それも、国が陸と海の間に姿を見せた瞬間に。白い骨が行手を阻《はば》み、飛ぶサンザシが救いを与え、角笛《つのぶえ》だけが車輪を止める、とそうお伝えなさい。七本の木の間の玻璃《はり》の塔《とう》で、<光>の水晶の剣は見つかるのです」
声が揺《ゆ》らぎ、最後の力をのがすまいとするかのようにあえいで途切《とぎ》れた。
ジェーンは伝言の文句をいい忘れまい、老婦人の姿を見忘れまいとしながら繰《く》り返した。「七本の木の間の玻璃の塔。それから――白い骨が行手を阻《はば》み、飛ぶサンザシが救いを与え、それから、角笛だけが――車輪を止める」
「おぼえ込むのですよ」老婦人の白い姿は薄れ出し、指輪のばら色は消えかけていた。声は次第に小さくなった。「おぼえ込むのですよ。娘や、そして勇気を持つのです。ジェーン。勇気を持つのです――勇気を……」
声が消え、風が逆巻《さかま》いた。ジェーンは必死に灰色の霧《きり》を見つめ、老いてしわの寄った顔の中の澄《す》んだ青い目を捜《さが》し求めた。言葉を記憶《おく》に刻《きざ》むにはそれしかないと言うように。だが暗い山上の、雲の低く吹き渡る湖畔《こはん》にいるのはジェーンひとり、耳に聞こえるのは風と、消えつつある声の、最後の名残だけだった。そして、一度も意識から消えたことがなかったかのように、ウィルの高く澄《す》んだ唄声《うたごえ》が山彦《やまびこ》とからみあって聞こえていた。山々が唄《うた》っているような印象《いんしよう》を与えた歌だった。
いきなり歌が途切《とぎ》れた。ウィルの声がしわがれた必死の叫《さけ》びとなって宙《ちゆう》を飛んだ。「ジェーン! ジェーン!」こだまが警告《けいこく》のささやきのように続いた。「……ジェーン!……ジェーン!…………」とっさに本能的に声の方を振り向いたが、みどりの山腹が見えるばかりだった。
湖水に目を戻《もど》したが、背を向けていた一瞬《いつしゆん》のすきに恐《おそ》るべきものが姿を現していたのを知り、恐怖《きようふ》が氷水のようにジェーンを呑《の》み込んだ。悲鳴《ひめい》を上げようとしたが、しわがれた苦しげな声が洩《も》れただけだった。
暗い水中からは巨大な首が突き出て、しずくを垂《た》らしながら左右に揺《ゆ》れていた。その先端の尖《とが》った小さな頭は口をくわっとあけ、黒い牙をむいている。角に似た触角が二本、かたつむりの角さながらのろのろと頭の上で揺《ゆ》れ、その間から始まるたてがみは首の全長を走り、水気の重みで片側にへばりついたまま、ずるずると水の中にまで続いている。首は巨大で、どこまでもどこまでも、果《は》てしなく伸《の》び続けた。恐怖のあまり身動きもならぬまま、ジェーンは、その首が、ところどころ鈍《にぶ》く異様な光沢を帯《お》びた暗緑色なのを見てとった。正面を向いている側だけは魚の腹めいた、死んだような銀白色だった。ジェーンの頭上高く、化物は脅《おど》すようにそそり立ち、揺れ動いた。水草と沼気と朽《く》ちたものの臭《にお》いがたちこめた。
ジェーンの四肢《しし》は金縛《かなしば》りになっていた。棒立ちになって目をあけていた。大水蛇は首をゆすりながら、見えぬ目でさぐりながら、次第に近づいて来た。口はあんぐりと開き、黒いあごから粘液《ねんえき》が滴《したた》った。悪臭《あくしゆう》ふんぷんたるおぞましい顔が近づいたかと思うと、居場所を感じあてたのか、首を引いて襲《おそ》いかかった。
ジェーンは絶叫《ぜつきよう》し、目を閉じた。
アヴァンク
こだま岩のそばの窪地《くぼち》では、ウィルが唄《うた》い出すと同時に全ての物音が絶《た》えたかのようだった。うるさい風は止み、サイモン、ブラァン、それにバーニーの三人は仰天《ぎようてん》してじっと耳を傾けた。旋律《せんりつ》は日の光のように空気を縫《ぬ》っていった。生まれてこのかた耳にしたこともないような、不思議につきまとうふしだった。ウィルは照れることなくくつろいだ姿勢で、手をポケットにいれたまま、ボーイソプラノで三人には理解できぬ歌詞を唄い上げた。旋律以上の魔法《まほう》に貫《つらぬ》かれた<古老>の歌なのは明白だった。清らかな声は山々に走り、山彦とからまりあった。三人は時の立つのも忘れて聞きほれていた。
だが突然、歌は途中で断《た》ち切られ、ウィルは顔を殴《なぐ》られでもしたようにあとずさりした。顔が嫌悪《けんお》に歪《ゆが》んだと思うと、ウィルは頭をそらし、子供らしくない恐《おそ》ろしい警告《けいこく》の叫《さけ》び声をあげた。「ジェーン! ジェーン!」
こだまが言葉を投げ返した。「ジェーン……ジェーン!」
だが最初のこだまが返って来る前にブラァンが行動を起こしていた。ウィルをとらえたのと同じ切迫《せつぱく》した衝動《しようどう》にかられたようにサイモンとバーニーのそばを駆《か》け抜け、帽子を飛ばし、白髪を旗《はた》さながらになびかせながら、草や岩をまたぎ越え、ほかの者には見えぬ何かを追って髭《ひげ》が淵《ふち》をめざして走り去った。
化物の頭はジェーンの顔を一度、二度、三度かすめた。触《ふ》れるほど近くはなかったが、そのつどおぞましい腐敗《ふはい》の臭気《しゆうき》を吹きつけていった。ジェーンは薄目《うすめ》をあけ、顔をおおっている震《ふる》える手の指の間からのぞいた。強烈な吐気《はきけ》だけがまだ生きているのだと納得《なつとく》させてくれた。これほど身の毛のよだつ生き物がいるとは信じ難《がた》かったが、化け物は現実にそこにいた。悪の存在をひしひしと感じ、怯《おび》えたジェーンの精神は何かすがるものを求めた。この湖の怪物は狂っていた。悪意をはらみ、凶暴《きようぼう》で、恐ろしい悪夢にうなされ続けた幾世紀もの間に培《つちか》った、腐《くさ》った恨《うら》みに満ちていた。盲目の頭がジェーンの前の空間をさぐったように、化物の精神が自分のそれを手さぐりしているのが感じられた。と、耳には聞こえぬながら、咆哮《ほうこう》にも似た声が頭をつんざいた。
(言え!)
ジェーンはきつく目を閉じた。
(言え!)命令はジェーンの精神を殴打《おうだ》した(われはアヴァンク! きさまを通じてのみ伝えられる指示を言え! 言うのだ!)
「いや!」ジェーンは死物狂《しにものぐる》いで精神と記憶を閉ざそうとした。
「言え! 言わぬか!」
金槌《かなづち》で打たれるのにも似た要求から身を護ろうと、ジェーンはすがるべきものを求めた。ウィルの感じのいい丸顔、斜めに垂《た》れかかるまっすぐな茶色の髪《かみ》を思った。メリマンの逆立《さかだ》つ白い眉《まゆ》の下の猛々《たけだけ》しい目。黄金の聖杯《せいはい》とその発見を思った。より身近なここ数日のウェールズ旅行を思い、ジョン・ローランズの痩《や》せた茶色い顔と、その妻《つま》のしとやかでやさしい顔を思った。
だが、やっと見つけたよりどころはあっという間に砕《くだ》け散り、かん高い金切り声が再び頭の中に押《お》し入り、気が狂うかと思うほど乱打《らんだ》し続けた。ジェーンは両手を頭に押しあて、泣《な》き声を上げてよろめいた。
するといきなり、金切り声をかき消してくれる別の声がやさしく、心強く聞こえてきた。(大丈夫だよ、ジェーン、大丈夫だよ)。安堵《あんど》が温かく拡がり、暗黒だけが続いた……
少年達はこだま岩から駆《か》けつけたところでジェーンが濡《ぬ》れた草の上に崩折《くずお》れるのを見た。サイモンとバーニーはとび出しかけたが、ウィルが驚くべき力でふたりをつかまえ、背の高いサイモンですら、鉄の輪のように腕をつかんでいる手の前には無力だった。兄弟はアヴァンクを見て息を呑《の》んだ。化物《ばけもの》は今や長い首を前後にたわめて湖中でのたうち回っていた。それから、胸を張ったブラァンが無帽《むぼう》の頭の白髪を風になびかせながら高い岩の上に立ち、怒《いか》りのこもった態度《たいど》で怪物《かいぶつ》に挑《いど》んでいるのが見えた。
化物は狂乱の叫《さけ》びを上げ、湖水を泡立《あわだ》たせては、流れる破れ雲を吹きつけてくる雨と混《ま》ざれとばかりにしぶきをはね上げた。あたり一面、渦巻《うずま》く灰色の霧《きり》としか見えなかった。
「戻《もど》れ!」ブラァンはこちら岸から呼びかけた。「もとの場所に戻《もど》るんだ!」
霧《きり》の中の角を頂《いただ》いた頭は死のように冷たい、高く細い声を出した。少年達は身震《みぶる》いした。
「われはフリン・バルヴォグのアヴァンク!
」高い声は叫んだ。「こここそわが棲処《すみか》!」
ブラァンはびくともしなかった。「父上がここからフリン・カウに追い払ったはずだ。なぜ戻って来た?」
山腹のウィルは、バーニーの手がひきっつったように袖《そで》をつかむのを感じた。年下の少年は蒼《あお》い顔をして見上げていた。「お父さんだって?」
ウィルは視線《しせん》を合わせこそしたものの、無言だった。
水は逆巻《さかま》き、声は怒《いか》り狂《くる》い、頑《かたく》なだった。「<闇>がかの君の死を待って、連れ戻してくれたのだ。<闇>こそわが主《あるじ》。娘の秘密が要《い》るのだ!」
「馬鹿《ばか》だな、おまえは」ブラァンは侮蔑《ぶべつ》をこめて明瞭《めいりよう》に言った。
アヴァンクは咆哮《ほうこう》し、わめき、のたうち回った。恐《おそ》ろしい音だった。が、次第にサイモン達も、化物が騒《さわ》ぐばかりなのに気づいた。恐るべき体の大きさにもかかわらず、脅《おど》し文句を並べる力しかないようだった。悪夢でこそあれ――それ以上の何物でもなかった。
ブラァンの白髪が狼火の如《ごと》く灰色の霧《きり》の中で輝《かがや》いた。唄《うた》うようなウェールズなまりの声が湖上に響《ひび》いた。「おまえの主人も馬鹿《ばか》た。力まかせの脅しが六人のひとりに効《き》くと思うなんて。この子はおまえよりよほど恐ろしいものを見ても負けなかったんだぞ」ブラァンの声は冷たい命令口調になり、急に低《ひく》く、おとなっぽく聞こえた。しゃんと立ってゆびさすと、「帰れ、アヴァンク、おまえのいるべき暗い水の底へ!<闇>のもとへ帰って二度と来るな! エウフ・ノール! エウフ・ア・フリン!」
湖面はしんと静まり返り、風の口笛と服にあたる雨音しか聞こえなくなった。巨大なみどりの首が粘液《ねんえき》と水草を垂《た》らしながら、従順にうなだれ、かたつむりに似た角のある頭が水に潜《くぐ》った。化物はゆっくりと姿を消した。暗い湖面に大きなあぶくが幾つか浮かび出て砕《くだ》け、さざなみが拡がって睡蓮《すいれん》の葉の間に消えた。それきりだった。
ウィルは安堵《あんど》の歓声《かんせい》を上げ、サイモンとバーニーと共に草深い斜面をすべりおりた。ジェーンは斜面のふもとの、淵《ふち》を飾《かざ》っている葦《あし》を縁取《ふちど》る草の上に坐《すわ》っていた。蒼《あお》い顔をしていた。
サイモンがそばにしゃがみ込んだ。「おまえ、大丈夫か?」
ジェーンは辻褄《つじつま》の合わないことを言った。「あの人を見てたの」
「怪我《けが》はないか? 倒《たお》れたはずみで――」
「倒れた?」ジェーンは言った。
ウィルがそっと言った。「もう心配ないよ」
「ウィル?」ジェーンは湖岸の岩の上にまだじっと立っているブラァンを見ていた。声が震えていた。
「ウィル……ブラァンって――誰《だれ》――何なの?」
サイモンが妹を助け起こし、四人はブラァンを見守った。白髪の少年はゆっくりと湖に背を向け、コートの衿《えり》をかきあわせ、雨を払《はら》おうと犬のように頭を振《ふ》った。
「ペンドラゴンなんだ」ウィルはあっさりと言った。「アーサー王の息子だ。時代は違っても同じ義務を受け継いでいる……生まれたばかりの時に、母親のグゥイネヴィア王妃《おうひ》は、メリマンの助けを借りてブラァンを未来に連れて来た。前に一度アーサーのことを裏切ってたんで、実の息子だって言っても信じてもらえないと思ったんだ。ブラァンはここに置いていかれ、ぼくらの時代のウェールズで、養子《ようし》にしてくれた新しいお父さんのもとで育った。だから、この時代に属《ぞく》している度合いはぼくらと変わりない。けど、同時に別の時代の人間でもある……。両方を正確に把握《はあく》してるように思える時もあるけど、その一方で、片側は夢のようにしか感じていないんじゃないか、と思う時もある……」口調がてきぱきとした現実的なものになった。「今はこれしか言えない。行こう」
子供達は、再び激しくなった雨の中を、それぞれにためらいを覚えながらブラァンを迎えに行った。ブラァンは何のてらいもなく陽気に笑いかけ、鼻にしわを寄せた。「ダーロ! 何ていやらしい化物《ばけもの》だろ!」
「ありがとう、ブラァン」ジェーンが言った。
「オル・ゴーレ。どういたしまして」
「本当にもう二度と戻《もど》って来ないかな?」バーニーは魅《み》せられたように湖を見つめた。
「二度とね」ブラァンが答えた。
サイモンは深呼吸した。「これからはネス湖の怪獣《かいじゆう》の話を聞いても笑わないよ」
「けど、ここのは<闇>の手下だったんだ」ウィルが言った。「悪夢の材料からこしらえられた、ジェーンを屈服《くつぷく》させるための怪物さ。ジェーンから何か取り上げようとしてたんだ」と少女を見た。「何があったの?」
「あなたが唄《うた》った時」ジェーンは答えた。「こだまが一緒《いつしよ》に唄って、まるで……まるで……」
「山々唄い」ブラァンがゆっくりと言った。「老婦人来る」
「その通り、いらしたの」
沈黙《ちんもく》があった。
ウィルは無言だった。ジェーンを凝視《ぎようし》している顔を奇妙な取り合わせの感情が次々によぎった。驚愕《きようがく》、続いて羨望《せんぼう》、それを追って納得《なつとく》の光が射《さ》し、そのままくつろいでいつもの人の好《よ》さそうな顔になった。ウィルは小声で言った。「知らなかった」
「その……老婦人て――」サイモンは言い淀《よど》んだ。
「ええ?」ジェーンが言うと、
「うん……どこから来たんだい? 今はどこに?」
「知らないわ。どっちも。ただ……姿を見せられたのよ。そしてね――」ジェーンは言葉を切った。全身が温められる思いで、老婦人がジェーンだけに聞かせるために言ったことを思い出した。だがそれらは脇《わき》にのけられた。「こうおっしゃったわ。ウィルに伝えるようにって。ブラァンと失《う》せし国に行くこと。それも、国が海岸と海の間に姿を見せた時に。それから、白い骨が行手を阻《はば》み、飛ぶ――飛ぶサンザシが救いを与え――」ジェーンは目をつぶって必死に思い出そうとした。「角笛《つのぶえ》だけが車輪を止めるって。それから、<光>の水晶《しよう》の剣は七本の木の間の玻璃《はり》の塔《とう》で見つかる」
ジェーンは息をつき、目をあけた。「一言一句同じじゃないけど、間違いなくそう言われたわ。それから……行ってしまわれたの。ひどく疲《つか》れておられたみたいで、そのままスーッと消えてしまわれたのよ」
「確《たし》かにひどく疲れておられるんだ」ウィルはまじめな顔になって言い、軽くジェーンの肩に触れた。
「よくやったね。君が伝言を受け取るや否や、<闇>は察して駆《か》けつけたに違いない。アヴァンクをよこして、脅《おど》しずくで言わせるつもりだったんだ。<闇>にはそれしか方法がないんだ――盗《ぬす》み聞きしようとしても出来ないんだよ。六人の周囲には時々防御膜《ぼうぎよまく》みたいなものが張られて、それを通して見聞きすることは<闇>には出来ないんだ」
「だって、五人しかいないよ」バーニーが言った。
ブラァンが笑った。「鋭いな。今に怪我《けが》するぞ」
バーニーは慌《あわ》てた。「ごめん――わかってる。六人のうち五人しかいなくたって、理屈は同じなんだね。けど、メリー大叔父《おおおじ》さんはどうしちゃったの?」一瞬、声が無意識に、小さな子供の気取らぬ嘆声《たんせい》になっていた。
「知らない」ウィルが言った。「そのうち来るよ、バーニー。来られるようになり次第ね」
サイモンがいきなり頭を沈《しず》め、猛烈《もうれつ》なくしゃみをした。雨水がフードの縁から細いすじになって流れ落ちていた。もやは湖上に霧《きり》はなく、雲はちぎれ、高い空を地上の彼らには感じ取れぬ風に吹かれて横切っていた。が、雨は小止《こや》みなく降り続いていた。
「失せし国ってどこ?」バーニーが言った。
「時間が来たら見つかるさ」ウィルが言った。「問答無用。山を下らないと、みんな肺炎《はいえん》になっちまう」
子供達は一列に並んで縁沿《ふちぞ》いの道を引き返した。水溜《みずたま》りをとびこえ、ぬかるみを迂回《うかい》し、濡《ぬ》れた丈《たけ》の高い草の中をカルン・マルク・アーサーと呼ばれる小さな灰色の岩に向かい、尾根越えの道を下った。ジェーンはもう一度湖を見ようと振り返ったが、斜面の陰に隠れてしまっていた。
「ウィル」ジェーンは言った。「聞きたいことがあるの。あの――あの化物《ばけもの》を見る一瞬《いつしゆん》前のことよ。あなたがジェーン! って叫ぶのが聞こえたんだけど。警告みたいだった」
バーニーが即座に言った。「うん、叫んだよ。すごい顔だったな――見えてるみたいだった」そして自分の言ったことに気づき、考え深げにウィルを見た。
「見えてたの?」
ウィルは、先頭のブラァンが目もくれずに通り過ぎたカルン・マルク・アーサーの目印札を手で撫《な》でた。しばらく黙《だま》って歩き続けてから、「<闇>が近づくと、どこにいても、ぼくらには感じられるんだ。うーん、何て言うか、獣《けもの》が人間の匂《にお》いを嗅《か》ぎつけるみたいにね。それでわかったんだ――君が危ないってわかって、どならずにはいられなかったんだ」と肩越しに、半ば照れたような笑みを浮かべてジェーンを振り返った。「『余韻《よいん》なす山々に汝が名を呼ばわれ』」
「何だ?」ジェーンの傍《かたわ》らでサイモンが言った。
「シェイクスピアを知ってるのは君ばかりじゃないんだぜ」ウィルは答えた。
「今のはどこから取ったんだい?」
「ああ――先学期、暗記させられた独白の一部さ」
「余韻なす山々」とジェーンは、背後にそびえてこだま岩を隠《かく》している山を振り返った。そして首をひねった。「ウィル――<闇>を感じ取ることはできたのに、どうして<光>は感じなかったの?」
「老婦人のことかい?」ウィルは首を振った。「わからない。あの方がそうなさったんだ。何かそれなりの理由があってね。これはぼくの考えだけど――たぶん、全《すべ》てが済《す》むまでには、ぼくら全員、それぞれに違う形で、思いもよらぬ時に試《ため》されることになるんじゃないかな。髭が淵《ふち》こそ君の試練《しれん》だったのかもしれないよ、ジェーン。ひとりで立ち向かう試練だったのかも」
「ぼくはあんなのごめんだな」バーニーが明るく言った。「見て――雲が晴れるよ」
西の空の流れる破れ雲の間に青い空が見え出していた。雨は細かい霧雨《きりさめ》になり、止みかかっていた。子供達は斜面を下り、冬の突風に備えて砦《とりで》なみに頑丈《がんじよう》に建てられた小さな白い農家を過ぎ、門を通り、放浪癖《ほうろうへき》のあるウェールズ黒牛の足を止めるために道に設けられた溝《みぞ》を渡った。再び足もとに幸せ谷が拡がり、谷の向こうの山々を霧の最後の断片が吹かれていくのが見えた。雲の間からは時折り陽《ひ》が射《さ》し、気温が上がり出した。子供達は上着の前をはだけ、レインコートの水気を払った。雨が止んだことを決定的に証拠づけるかのように、小型車が一台山道を登って来て彼らとすれ違った。第二陣の観光客のはしりが羊や兎《うさぎ》の糞《ふん》だらけの斜面を散策しに来たのだ。落ちている鳥の羽根や、有刺鉄線《ゆうしてつせん》が羊の背からむしり取る灰色の羊毛の房《ふさ》や、白い石英の小さな角張ったかけらを拾い集めるつもりなのだ。ウィルは、これらの人々がワラビやヒースやハリエニシダやつりがね水仙《ずいせん》の中を歩き回り、弾力のある短い草の上に煙草《たばこ》の吸い殻《がら》を落として行ったとしても、それを恨《うら》みに思う権利は自分にはないのだという事実をともすれば忘れがちになった。
かもめが遠くでかん高く鳴いた。道がとある山腹に沿《そ》って湾曲したと思うと、突如《とつじよ》目の前に海が開けダヴィ河の広い河口と、干潮時の金色の砂がきらめき拡がる中を流れる銀の糸さながらの川筋が見えた。
五人とも立ち止まって景色を楽しんだ。雲間から光の矢が射《さ》し出でて河にきらめき、海に注ぐあたりに横たわる砂州《さす》を輝《かがや》かせた。
「腹ペコだよ」バーニーが言った。
「いい考えだ」とサイモン。「弁当にしないか?」
ブラァンが言った。「けど、腰かけられるような岩が――ここはどうだ?」
子供達は道の脇《わき》の斜面をよじ登り、牛が草を食んでいる開放地にはいり込んだ。大きな黒い去勢牛が数頭、よたよたと恨《うら》めしげに道をあけた。五人はあっという間に小さな尾根の頂《いただき》を越えた。道は背後に姿を消し、海と砂州《さす》が眼下に拡《ひろ》がっていた。スレート岩の突起に腰をおろすと、子供達は一斉《いつせい》にサンドイッチにかぶりついた。濡《ぬ》れた草は清潔な匂《にお》いがし、どこかでヒバリが湧《わ》き上がる歓《よろこ》びを長々と唄《うた》い上げていた。はるか頭上の空に小さな鷹《たか》がたゆたっていた。
口を動かしながら砂州を見おろしていたジェーンが言った。「河の向こう側はずっと平地なのね。傾斜が始まるまで何マイルも、まっ平らだわ」
「コルス・ヴォフノムだよ」ブラァンの異様な白髪は陽射《ひざ》しを浴《あ》びてさらさらに乾《かわ》いていた。「沼地さ。ほとんどがね――排《はい》水路が見えるだろ。まっすぐなやつさ。植物学を専攻してるなら、変わった植物がたくさん見つかるよ。ぼくにとっちゃ専門外だけど……。あそこじゃいろいろ古い物が発見されてるんだ。一度なんか、とげとげのついた金の飾《かざ》り帯が見つかったっけ。それと金の首飾りと金貨が三十二枚。今は国立博物館に飾られてる。それから、砂丘の近くの砂の中には溺《おぼ》れた木の根っこがあるんだ。河のこっち側にもいくつかある。アベルダヴィとタウィンの間の砂地にね」
「溺《おぼ》れた木だって?」サイモンが言った。
「そうさ」ブラァンはクスッと笑った。「たぶん<溺れた百ヶ村>の名残《なご》りだろ」
バーニーきょとんとしていた。「それ、何のこと?」
「まだこの話を聞いてないのかい? 夏の晩《ばん》になると海の中で鳴るっていう、アベルダヴィの幽霊鐘《ゆうれいがね》の話さ」色の薄い眼をおおっている黒眼鏡に表情を隠《かく》したまま、ブラァンは立ち上がり、砂州の河口をゆびさした。今や青空が拡がり、砂州全体が照らし出されていた。「あそこは昔、カントレル・グワエロード、つまり低地百ヶ村だったとされている。グウィズノー・ガランヒルという王に治められていた美しい豊かな国さ。何世紀も昔のことだけどね。この国には一つだけ困ったことがあった。土地があんまり平らなんで、海水を閉め出しておくのに防波堤《ぼうはてい》がいりようだったんだ。ある晩、ひどい嵐《あらし》に襲《おそ》われて堤《つつみ》が切れ、水がどっと流れ込んできた。国は溺れてしまったんだよ」
ウィルが立ち上がり、静かに進み出てブラァンと並ぶと、砂州を見おろした。興奮《こうふん》を声に出すまいとしていた。「溺れた。失われた……」
山は静まり返っていた。ヒバリは唄《うた》い止んでいた。はるか彼方《かなた》の海の上でかすかなかもめの鳴き声が再び聞こえた。
ブラァンは振り向きもせずにじっと立ちつくしていた。「そんな」
他の者も慌《あわ》てて立ち上がった。サイモンがたずねた。「<失せし国>かい?」
「自分の名前と同じくらいよく知っている昔話なんだ」ブラァンがのろのろと言った。「考えてもみなかった……」
「本当にそいつかなあ?」サイモンが言った。「だって――」
バーニーが叫《さけ》んだ。「決まってるよ! ほかにないよ! そうだよね、ウィル?」
「だと思う」ウィルは間の抜けた笑みが顔いっぱいに拡がるのを止めようとしていた。自信が陽のぬくもりさながら全身を走っていた。上なる魔法《まほう》が周囲にあふれている、という感じが、以前同様ぐんぐん強まりつつあった。一種の陶酔《とうすい》、さまざまなすばらしい物事のすてきな予感だった。クリスマス・イヴや、早春の木々の霧《きり》のように淡《あわ》い新緑や、夏休みにはいって初めて目にする海と同じ感じがした。ウィルは思わず両腕を差し上げた。雲をつかもうとするかのように。
「何かが――」と、考えもせずに、感じたままが口をついて出た。「何かがある――」と、パッと振り返ると山の上を見回した。歓喜《かんき》が全身をめぐり唄《うた》い、他の者など目にはいらなかった。ひとりを除《のぞ》いては。
「ブラァン?」ウィルは言った。「ブラァン? 感じるかい――君も――」言葉が見つからずに苛《いら》立って片手を振り回したが、ブラァンの蒼《あお》白い顔に浮かんだ驚嘆《きようたん》の表情をひと目見て、言葉など要《い》らないのがわかった。ウェールズの少年もまた振り返り、山々の峰《みね》を見はるかし、空を見やった。何かを捜《さが》しているかのように。呼び声を聞きつけようとしているかのように。自分の頭に流れ込んでいるのと同じ名状し難《がた》い歓《よろこ》びが反映されているのを見て、ウィルは声を上げて笑った。
二人の後ろにいたジェーンは、見ているうちに彼らの覚えているものの烈《はげ》しさを感じ取り、怖《こわ》くなった。無意識にサイモンに近づき、バーニーを傍《かたわ》らに引き寄せようと手を伸ばした。同じ直感に寒気を覚えていたバーニーは抗《あらが》わず、ゆっくりとあとずさりしてウィルとブラァンから離れた。ドルー家の三人は固まって見守った。
すると山の向こう、一マイルほど先の砂州《さす》の青と金とが織りなす模様の中で、真夏の舗道《ほどう》に立つ陽炎にも似た空気のゆらめきが起きた。同時にささやくような音楽が耳もとに流れついた。極めて遠くかすかだったが、そのあまりの甘美さに子供達は懸命に耳をすました。が、とらえ難い繊細な旋律《せんりつ》はそこはかとなく聞き取ることしかできなかった。震《ふる》える大気は明るさを徐々《じよじよ》に増し、内側から太陽に照らされているかのように輝いた。目が眩《くら》んだが、まばゆさを通して砂州に変化がおきているのが見えた。水が動いていたのだ。
潮は既《すで》に引いていたが、最干潮時の海岸線よりもさらに先まで金色の砂が輝いているように見えた。波は静まり、水は退き出していた。青い海の白い線はどんどん遠ざかり、陸が姿を現した。まず砂、それから海草《かいそう》のきらめくみどり。ところが藻ではなかった。ジェーンは目をみはった。草だったのだ。その証拠《しようこ》に、草に続いて、海がどんどん退いていくにつれ、木々や花々、灰色の石と青いスレートと輝《かがや》く黄金でできた壁や建物が出現した。引いていく海の中から次第に、大きな都がその全貌《ぼう》を表した。生きた都だった。そこかしこで見えない火から細い煙のすじが上がっており、そよりともせぬ夏の空気の中を昇《のぼ》っていた。塔《とう》やきらきら光る尖塔《せんとう》が保護者のように屹立《きつりつ》し、山々に沿ってみどりと金色とまだらに伸びている肥沃《ひよく》な平地に臨《のぞ》んでいた。そして、この新しい陸のはるか向こう端、青い色が退却《たいきやく》した波打際をやっと示すあたりに、鉛筆のように細い光のすじが直立していた。遠くで白熱した炎のように光輝いている塔だった。
斜面の頂の尾根に並んで立ち、失せし国とその中心らしい都を見おろしているウィルとブラァンの姿は、青空にくっきり浮かび上がっていた。ジェーンには、指揮棒《しきぼう》が振りおろされるのを今や遅しと待っている演奏家のように見えた。ウィルが急に頭を上げ、海のほうを向くのが見えた。空気を満たしていた光が明るさを再び増し始め、目がつぶれるほどのまぶしさになり、不思議な国の輪郭《りんかく》をおぼろげにみとめるのがやっとになった。たじろいで手を目の前にかざしたジェーンには、輝く空気が絞《しぼ》られて光る幅広のリボンとなり、足もとから遠く、空中に、谷の上に、さらに下ってダヴィ河口のかなたにまで伸びる道になったように感じた。
美しくとらえ難い楽の音《ね》が聞こえ、ウィルとブラァンが連れ立って輝く光の道に足を踏《ふ》み出し、宙を渡って河を越え、陽炎《かげろう》の中を失せし国へと去って行くのが見えた。
バーニーの肩に回した腕《うで》に力をこめると同時に、反対側にいるサイモンの手が触れるのを感じた。三人は黙《だま》って立っていた。
やがて音楽は遠くで鳴くかもめの声に過ぎなくなり、輝く光の道は薄《うす》れ、それと共に、道を歩いていたふたりの姿も消えた。空気中の明るさが失われるにつれ、砂州《さす》を見おろす三人の目にはそびえる都も、新緑の畑も、立ち上る細い煙も、いっさいが映《うつ》らなくなり、もとと変わらぬ海と河と干潟《ひがた》だけが見えた。
サイモンとジェーンとバーニーは沈黙《ちんもく》のうちにその風景に背を向け、上着や弁当の残りをリュックに詰《つ》め込んで山道にとって返した。
道より三たり
三人は縦《たて》に並んで山越えの道を歩いた。濡《ぬ》れた草は今や陽光にきらめき光り、ワラビやヒースや黄色い花を星のように散らしたハラエニシダの茂みの上で雨のしずくがきらめいていた。
バーニーが言った。「何て言おう?」
「わからないわ」
「広場の待ち合わせ場所へ行ってジョン・ローランズに会わなけりゃ」サイモンが言った。「どう――どう言おう――」
「会わないほうがいいわ」ジェーンがふいに言った。「そしたら遅れたんだと思って先に帰るでしょ――」
「長くはごまかせないよ」
「そう長いことじゃないかもしれないわ」
三人は無言で歩き続けた。道が折れ曲がってアベルダヴィ向へかう角で、ジェーンは立ち止まり、前方の野原の向こう、最初にウィルとブラァンに出会った荒れた高地の次の尾根を眺《なが》めた。
そしてゆびさした。「斜面の上に出て、あの尾根からホテルへ抜けるわけにはいかないかしら?」
サイモンは疑わしげだった。「道がついてないぜ」
「村まで行くよりずっと早いよ」バーニーが言った。「ローランズさんにも会わないですむし」
「この野原を越えさえすれば、羊道ぐらいあるに決まってるわ」
サイモンは肩をすくめた。「ぼくなら構《かま》わないぜ。なら、行こう」まだ頭が半ば麻痺《まひ》しているかのような、どうでもいいといった無頓着《むとんちやく》さだった。ジェーンが小道をはずれて最初の野原への木戸をあけると、サイモンも気のない態度で続いた。
バーニーが小走りに続き、そのあとから木戸を押《お》さえた。が、閉じることができる前に、突然、先頭にいたジェーンが悲鳴を上げた。ぞっとするような、かん高い、わけのわからない叫《さけ》びだった。とび上がって横ざまにサイモンに体あたりしたように見えた。サイモンもまた声を上げたと思うと、ふたりしてバーニーにとびつき、木戸口から押し戻《もど》した。一瞬のうちに、兄と姉の背後にバーニーが見てとったのは、野原のあらゆる隅《すみ》から向かって来る、何ダースもの赤く波打つ体だった。山を登って来る時に道で見かけた二匹と同じ、ポールキャットだった。
サイモンは夢中で木戸を閉めた。自衛本能に命ぜられるままの空しいあがきだった。獣達はたちまち迫ってきた。間隔の広い柵《さく》には羊より小さい獣《けもの》を抑《おさ》えれるはずもなく、すきまから川のように流れ出てきた。子供達は蹴散《けち》らそうとしたが、小さな赤い獣はさっとよけ、すぐに追いすがってきた。白い歯をぎらつかせ、黒い目を光らせ、そのくせ決して咬《か》みつかず、絶《た》えず駆り立て、つきまとい、追い立てていた。追っていた……追ってるんだ、とバーニーは心づいた。羊を追う牧羊犬みたいに、ぼくらのことを追ってるんだ。目を上げると、足首にぶつかってくる硬《かた》くしまった小獣の体が、往《い》きに通り過ぎた農場の開け放しの門へと、バーニーを押しやろうとしているのがわかった。わざと向きを変えると、途端にポールキャットの群れは追って来て騒《さわ》ぎ、歯がみし、不気味なキイキイ声を上げて戻らせようとした。ついにはバーニーも兄と姉のほうへ戻らざるを得なくなり、三人とも農家の庭に一目散に逃げ込んだ。
「そう慌《あわ》てないで!」温かい、くつろいだ、面白がっているような声だった。足をすべらせながら庭に必死で駆け込んだジェーンは、抱《だ》き止めようと腕を差しのべている女の姿をみとめた。どこかで見たような笑顔だった……それ以上は考えずに、、ジェーンは疲労と安堵《あんど》のあまり、差し出された頼もしい腕の中に崩《くず》れ込んだ。背後ではバーニーが不安気に振り返っていた――が、ポールキャットは一匹残らず姿を消していた。
「まあまあ!」女の声はやさしかった。「悪魔に追われてるみたいな勢いで駆け込んできて、首の骨を折ってしまうわよ。いったいどうしたの? 何があったの?」と、ジェーンをよく見直した。「あら、見たことのあるお顔ね――きのう、ブラァンやウィル・スタントンと一緒にいた子じゃない?」
バーニーがはっと言った。「ローランズさんの奥さんだ!」
「そうよ」ブロドウェン・ローランズの声が鋭《するど》くなった。「どうしたの? あの子達に何かあったの?」
三人はすぐに答を思いつかず、まじまじとローランズ夫人を見つめた。
「いえ、いえ」ジェーンがやっとしどろもどろに言った。「いえ……無事です。ふたりとも……下っていきました。広場で待ち合わせてるって言って」
「その通りよ」ローランズ夫人の顔が晴れた。「ここへはジョンがフリュウ・オーウェンに会いたいって言うんで寄っただけなの。これから下って行こうとしていたところ。途中で行き会うかもしれないとは思ったのよ」そう言うと案じ顔になってジェーンを見た。「嬢ちゃん《カリアード》、髪《かみ》がびしょ濡《ぬ》れよ。雨に遭《あ》ったのね……ところで、三人ともどうしてあんなに怯《おび》えてたの?」
「べつに怯えてなんか」サイモンがぶっきらぼうに言った。ポールキャットの影も見えない今となっては、あれほど慌《あわ》てたことが恥ずかしかった。「ただ――」
「獣《けもの》が出て来たんです」ジェーンはもったいぶるようには疲《つか》れすぎていた。「ポールキャットだってブラァンは言ってました。けさ、この近くで二匹見かけたんですけど、たった今、道を歩いていたら何匹も何匹もいきなり出て来て、向かって来て――そして――そして――ああ、いやだ。牙《きば》を向いて――」ジェーンはしゃくり上げた。
「まあ、かわいそうに」ローランズ夫人は小さな子供を甘やかすように慰《なぐさ》めた。「もう気にしないの。何もいないわよ。みんな行ってしまったわ……」とジェーンの肩に腕を回し、農家へと導いた。サイモンはバーニーに向かって、(信じてないんだ)という顔をしてみせた。バーニーは肩をすくめ、兄と共にジェーンに続いた。
農家に行き着くより早く、ジョン・ローランズが戸口から出て来た。近くにランドローバーが駐車してあるのが見えた。ローランズはひと目でサイモンらを見分け、痩《や》せた茶色い顔に驚きのしわが刻まれた。
「おやおや。五人のうちの三人かね――うちのふたりはどこだね?」
「先に下ってったよ」すっかり明るさと自信を取り戻したバーニーが言った。ジェーン同様、本能的に文字通りの真実になるべく近いことだけを言うべきだと悟《さと》っていた。「ぼくらは、頂上を突っ切ってこっちからトレヴェジアンまで下ってみようとしたんだけど、道がなくって」
「近頃じゃ見つかりにくくなっちまったんだよ」ローランズは言った。「山腹の下のほうに新しく建った家が道を隠しちまってな。わしが子供の頃に通った道は、今じゃもうありゃせん」と言いながらもジェーンの蒼《あお》ざめた顔に鋭い一瞥《いちべつ》をくれたが、それ以上問いつめる気はないようだった。目の奥に何かほかのことに心を奪《うば》われている色が浮かんでいた。
「一緒にいらっしゃいな」ローランズ夫人が言った。「ホテルまで送るわ」と、物問いたげに出て来た農家のおかみさんに手を振ると、ランドローバーの後部ドアをあけた。
「そうとも」ローランズが言った。
「どうもありがとう」子供達は乗り込んだ。車が道に出ると、ジェーンは生垣と野原に目を凝《こ》らした。バーニーも同じことをしているのに気づいたが、パセリに似た植物の白い花と、草の中から丈高く突き出ている夾竹桃《きようちくとう》とヤナギソウ、それに頭上にせり上がる高いみどりの生垣のほかには何も見えなかった。
隣にいるサイモンは妹の辛《つら》そうな表情を見てとり、こぶしでそっとジェーンの腕をさすった。そしてごく低い声で言った。「けど、確かにいたんだ」
ランドローバーは急な坂道の最後の危ない角を曲がり、礼拝堂広場に出て、国道に通じる唯一《ゆいいつ》の道である小さな一方通行の通りの落書きのない自動車の列に入り、ささやかな渋滞《じゆうたい》から抜けられる時を待った。
「まあ、すごいこと」ブロドウェン・ローランズが言った。「あの車の数を見て。ロイヤル商店に寄りたいんだけど、駐車する場所が見つかるかしら?」
「観光客なみに駐車場に止めるしかないな」ジョン・ローランズは右に曲がり、持ち主が散歩や海に見物に出かけている間、道の端に置き去りにされているセーターやヨットパーカーや、ベビーカーや、バケツやスコップをすれすれによけて通った。
ランドローバーは、四角い屋根を他の自動車より一段高く目印のように突き出させて、駐車場に置き去りにされた。混雑した街路を縫って引き返す途中で、ローランズ夫人はセーターや水着や半ズボンの飾《かざ》られたショーウインドウの前で立ち止まった。
「あなたもついて来ないこと?《ウイト・テイン・ドワド・メウン・ヘヴイド・カリアード》」
「いや、わしはやめとく」ローランズはポケットからパイプをひっぱり出し、火皿をのぞき込んだ。
「波止場のほうに行ってるよ。あそこなら、ブラァンとウィルが来ればすぐ見える。急ぐことはないよ。ブロド、好きなだけ時間をかけるといい」
ローランズは子供達を連れて道を渡り、<外海学校>と文字の記された大きな黒い木の建物と、砂浜に並んだアベルダヴィ・ヨット・クラブの船のマストがそよ風に帆綱をやさしく鳴らしている間を通った。舗装《ほそう》された歩道には砂がはみ出ていた。
波止場を横切ってくの字形の短い突堤に出ると、ローランズは足を止め、古い黒革のタバコ入れからパイプに葉を詰めた。「わしの子供の頃には突堤も違ってた」と誰にともなく言った。「すっかり木で出来てた。クレオソートを塗った黒い大きな橋桁《はしげた》を使って……引き潮になるとみんなしてよじ登って、みどりの海草《かいそう》に足をすべらせて落ちたり、カニを採ったりしたもんだ」
「ここに住んでたの?」バーニーがたずねた。
「あそこをごらん」と突き出された指をたどって振り返ると、いかめしく細長い三階建てのヴィクトリア朝の家々がずらりと並んで、道と砂浜をはさんでダヴィ河口と海のほうを向いていた。
「まんなかのみどり色の家、あそこで生まれたんだ。わしの親父もな。親父は船乗りだった。そのまた親父もさ。わしのお祖父《じい》はエレン・デイヴィーズ号ってスクーナー船の船長で、イヴァン・ローランズといった――あの家はお祖父が建てたんだ。あの道沿いの家はどれもこれも、昔の船長が建てたのさ。アベルダヴィがまだ港らしい港だった頃の話だ」
ジェーンは好奇心に駆《か》られた。「ローランズさんも船乗りになろうとは思わなかったんですか?」
ローランズはパイプに火をつけ、青い煙越しにジェーンにほほえみかけた。焦茶《こげちや》の目が灼《や》けた顔のしわにはさまれて細くなった。「一度はそう思いもしたろうが、六つの時に親父が溺《おぼ》れ死んでな、兄貴達とわしはおふくろに連れられて、アベルダヴィから、おふくろの里方の農場があるアベルガノルウィンに戻ったんだ。カーデル・イドリスの近くの山の中――きょう、君らが行った谷の裏手にあたる。そんなこんなで、わしの仕事は海じゃなく羊だってことになったのさ」
「惜《お》しいことをしましたね」サイモンが言った。
「そうでもないさ。ここに貨物船が寄らなくなってもう長いし、漁もほとんどなくなった。親父が生きてた頃でさえ、もう終わりかけてた」
バーニーが言った。「溺れたなんて。船乗りだったのに」
「船乗りに金槌《かなづち》は多いんだぜ」サイモンが言った。「ネルソン提督《ていとく》だって泳げなかった。おまけに船酔《ふなよ》いまでするたちだったんだ」
ローランズは考え深げにパイプをふかした。「たぶん、おおかたは習うひまがなかったんだろうな。昔の帆船《はんせん》に乗り組んでた連中――やつらには海は遊び場じゃなかった。海こそ女房であり、おふくろであり、暮らしであり、人生でもあったんだ。それも全部が真剣勝負。遊びじゃなかった」ゆっくりと道に目を戻すと、ローランズは何かを捜《さが》し始めた――それまでも波止場と浜を目で捜していたのにジェーンははっと気づいた。「ブラァンとウィルはどこにも見えんが、どれくらい前に別れたのかね?」
ジェーンはためらい、サイモンが混乱して口をぱくぱくさせるのを見た。バーニーは肩をすくめただけだった。
ジェーンは言った。「三十分――三十分くらい前だったと思います」
「バスをつかまえたんじゃない?」バーニーが助け舟を出した。
ローランズはパイプをくわえたまま、一瞬、無表情に佇《たたず》んでいた。「ウィル・スタントンとは知り合って長いのかね?」
「一度、休暇を一緒に過ごしたんです」ジェーンが言った。「一年ほど前に。コーンウォールで」
「その休暇中《きゆうかちゆう》に……何か変わったことが起きなかったかね?」ウェールズ男の声は相変わらずさりげなかったが、目は突然サイモンに向けられ、じっと見つめていた。焦茶《こげちや》の目はきらきら光り、真剣だった。
サイモンは虚《きよ》を突かれて目をぱちくりさせた。「はあ――まあ」
「どんなことだね?」
「その……いろいろと」サイモンは赤くなった。正直な性格ととまどいとの板ばさみになって口ごもった。
バーニーの顔が恨《うら》めしげなしかめ面になるのを見たジェーンは、自分でも驚いたほど落ち着き払った声で、「ローランズさん、何がおっしゃりたいんですか?」
「君ら三人はウィルについてどれだけ知ってるんだ?」ローランズの顔からは考えていることの見当もつかず、声はぶっきらぼうだった。
「いっぱい知ってます」ジェーンはそれきりドアを閉めるようにぴたりと口を閉じた。ローランズをにらんでいる自分の両側に、サイモンとバーニーが同じように体を硬《かた》くし、けんか腰で控《ひか》えているのが感じられた。ローランズの問いがメリマンやウィルと自分達との仲に関わりのない者にしては立ち入りすぎた質問なのに本能的に気づき、共に戦うつもりなのだった。
ローランズは今やジェーンを見ていた。さぐっているような、自信なげな変わった目つきだった。
「君はあの子とは違う。君ら三人はわしと変わらん。あの……連中の仲間じゃない」
「ええ」
何かがローランズの目の中で崩《くず》れたかのようだった。顔が絶望に歪《ゆが》み、何のてらいもなくすがって来るそのまなざしに、ジェーンはすっかり取り乱した。「やれやれ《デイアーウル》」ローランズは辛そうにひきつった声で言った。「頼むから疑ってかかるのをやめてくれ。この一年にわしが見て来たよりもたくさんのことを、あのふたりについて見て来たとは思えん。あのふたり――殊《こと》にブラァンについてはなおさらだ。だがな、今わしの中で不安がわめき回ってる。あの子達に何が起きてるか、誰につかまってるかわかったもんじゃない、と。これまでよりもずっと大きな危険にさらされてるかも知れんのだぞ」
ジェーンの肩のすぐ後ろでバーニーがふいに言った。「本気だよ、ジェーン。それに、ウィルはこの人を信用してたじゃない」
「それもそうだ」サイモンが言った。
「ローランズさん、この一年に見て来たことって、何を指しておっしゃったんですか?」ジェーンはゆっくりと言った。
「一年まるまるってわけじゃない。去年の秋、ウィルが叔父《おじ》さんのところに遊びに来た時のことさ。あの子が谷に来るや否や、いろんなことが……いろんなことが起き出した。眠ってた力は目をさますわ、知り合いはひとが変わっちまうわ、カーデル・イドリスの灰色の王に到っちゃ、力を得て立ち上がったばかりか、負けて屈しさえした……何もかも<光>と<闇《やみ》>との対決の一部だったんだ。わしには一部始終が呑《の》み込めなかったし、わかりたいとも思わなかった」ローランズは手にしたパイプのことも忘れ、まじめな顔でじっと子供達を見つめた。「ウィルには初めからそう言っといた。あの子が<光>と呼ばれとる力の一部だってことはわかってる。ブラァン・デイヴィーズはもしかしたら、ウィルよりももっと深い関わりを持ってるのかも知れん。それだけわかってれば、わしには充分なんだ。ウィル・スタントンがわしを必要とするなら、手を貸してもやろう。ブラァンのこともな。あの子はわが子みたいなものだ――しかし、あのふたりが何をしようとしているのか、知りたいとは思わん」
バーニーが訝《いぶか》しんだ。「なぜ?」
「わしはあの子達とは違うからだ」ローランズはキッとして言った。「君らもだ。関わり合うのは間違ってる」一瞬、厳格な、批判めいた――そして自信たっぷりの口調になった。
サイモンが意外なことを言った。「よくわかります。ぼくも、いつもそういう気がしてました。それにぼくらだって、本当のところ、何もわかっちゃいないんです」とジェーンを見て、「そうだろ?」
ジェーンは抗議しようと口をあけたところだったが、そう言われてためらった。「ええ……そうね、メリー大叔父《おおおじ》さんはほとんど何も説明してくれたことないし。<闇>が攻めて来る、立ち上がろうとしている、止めなきゃならないって、それだけ。あたしたちのしたことは全部ほかのどこかへの足がかりだったみたい。何かほかの物へのね。けど、それが何か、まるで知らないんだわ」
「そのほうが君らにとっては安全なんだ」ローランズが言った。
「ウィル達にとってもね。違いますか?」サイモンがたずねた。
ローランズはさあね、と言うように皮肉っぽく頭をゆすり、微笑《びしよう》してパイプに火をつけ直した。
ジェーンが言った。「ローランズさん、ここでウィルとブラァンを待ってても来ないと思います。ふたりともある所へ行っちゃったんです。ぶじはぶじですけど……ずっと遠い所へ」そう言って、青い水面を白い帆《ほ》が二、三、間切り進んでいる河口を押し眺めた。「いつごろ戻るかわかりません。一時間か、一日か……ふたりとも……黙《だま》って行っちゃったんです」
「ふむ」ローランズは答えた。「待って様子を見るよりないな。ブロドウェンに聞かせるのに、何かうまい話をでっちあげなきゃ。未だに、彼女《あれ》がブラァン達の本性に気づいているのかどうか、わしにはとんとわからんのだよ。たぶん気づいちゃおらんのだろう。心の温かい、頭のいいやつだから、目に見えたままの二人を好くことで満足しとるんだよ」
モーターボートが一隻《いつせき》、背後の河を走り抜け、ローランズの声をかき消しかけた。どこかでロックのリズムがしつこく刻まれて暖かい空気を貫いた。ポータブル・ラジオを抱えた一団が波止場を通り過ぎるのにつれて、音楽は高まったと思うと弱まった。道を見やったジェーンは、ブロドウェン・ローランズが生地屋から出て来て混雑した歩道上で立ち止まるのをみとめた。と、村の通りを苦労して這《は》い進んで来る大きな貸切バスの陰に隠れて見えなくなった。
ローランズはためいきをついた。「見るがいい。何て変わり様だ、なつかしいアベルダヴィが。変わって当然なんだが、わしの記憶《きおく》では……わしの記憶では……昔はな、漁師の中でも年より連中が、あそこに並んでたもんだ。ダヴィ・ホテルの前のあの柵《さく》にもたれて、水面を見おろしてな。わしがバーニーの歳だった頃には、時々許しをもらって、そばにつきまとって連中の話を聞くのが何より楽しみだった。面白かったのなんのって。えらく古いことまで連中はおぼえてたっけ――今から言うと百年以上も前のことまで。アベルダヴィの男衆のほとんどが船乗りだった頃、わしのお祖父《タイド》の頃のことまでな。その頃は、石切り場からのスレートを積んでく船のマストが、この波止場に沿って森みたいにびっしりおっ立ってたもんだ。河には造船所が七つあった。七つだぞ。何ダースって船をこさえてた――スクーナーに二檣帆船《にしようはんせん》に、小さい船もな……」
ローランズの低いウェールズなまりは、当人でさえ他人の目を通してしか見たことのない失われた日日を、思い返し悼《いた》む挽歌《ばんか》となった。黙《だま》ってうっとり耳を傾けるうちに、現在の混雑した避暑地の風景やざわめきが遠のき、その代わりに、砂州を回って河にはいって来る背の高い船や、コンクリートではなく黒い木造の波止場に立っている彼らの周りに積まれたスレート板の山が見えるような気さえした。
かもめが一羽、突堤の端からゆっくりと空中に舞い上がり、長く鋭く悲しげな鳴き声を上げた。ジェーンは、先端の黒い翼の羽搏《はばた》きと旋回を見ようと頭をめぐらせた。頬《ほお》にあたるそよ風が勢いを増したようだった。かもめは横ざまに子供達のすぐそばをかすめた。鳴き続けながら……
……視線を元に戻したジェーンは、足の下に突堤の黒い木の橋桁《はしげた》を見た。桟橋《さんばし》には灰青色のスレートが幾段にも積まれ、その向こうの河では、背の高い船が陸に接近して来るところだった。乗組員が帆をおろすにつれ、布のはためく音と木の軋《きし》む音が聞こえた。
ジェーンは身じろぎもせず目を見開いていた。笑い声とかん高く呼び交《か》わす声が聞こえ、突堤《とつてい》の上にジェーンの周りに小さな男の子の集団がやって来た。押し合い、はねまわり、互いに突堤の端で危《あぶ》なっかしく突きとばし合って。「一番はおいらだ……おいらだ……フレディ・エヴァンズ、足を踏むなよ!……気をつけろい!……押すなってば!……」ごた混ぜの集団で、清潔なものもいれば汚れているものも、裸足《はだし》なのもいれば長靴をはいているのもいた。中のひとり、黄色い髪をして、他の者と一緒に押し合い笑い合っているのは、弟のバーニーにほかならなかった。
ジェーンは(だって、あの時代にはみんなウェールズ語をしゃべってたはずだわ)と、間の抜けたことを考えるばかりだった。
桟橋《さんばし》のはずれにはサイモンがいて、同じ年頃の少年二、三人と真剣に話しこんでいた。少年達は船が近づくのを見ようと振り返った。カンヴァスが一斉《いつせい》にたるみ、主帆《メンスル》がどっと落ちて来たと思うと、たちまち水夫の手でつかまれ巻き上げられた。ブリガンティン船で、前マストの帆は横帆、主柱のそれは縦帆だったが、今や二枚の前帆だけが、岸へ船を引き込もうと風をはらんでいた。突き出た第一斜檣《しやしよう》の下で光を反射している船首像は、金髪をなびかせた等身大の少女像だった。船首に記された船名が<フランシス・アメリア号>と読みとれるようになった。
「材木を運んで来たのさ」ジョン・ローランズの太い声がそばで聞こえた。「甲板《かんぱん》に一部が積んであるだろ? ほとんどは船大工のジョン・ジョーンズ宛《あて》のはずだ――そろそろ届く予定だから。ラブラドルからの黄色い松材さ」
目を上げると、ローランズの顔はまだパイプをくわえたままで穏《おだ》やかだった。だが、そのパイプに添えた手の関節の間には前には見かけなかった小さな青い星が刺青《いれずみ》されており、のどには、十九世紀独特の先端が折れ返ったシャツの衿《えり》と上着の詰襟《つめえり》が見えていた。ローランズはこの時代に属する誰かほかの人間になってしまっていたのだが、同時に本人でもあるのだった。ジェーンは身震《みぶる》いして一瞬《いつしゆん》目を閉じ、自分がどんな服装に変わっているのか見ようともしなかった。
と、人が集まり出した桟橋の端で動揺が起こり、いきなり悲鳴が上がった。人々の頭越しに目を凝《こ》らしたが、<フランシス・アメリア>が桟橋に横づけになり、船首と船尾から投げおろされる綱が岸を走り回っている人々によって受け止められ、つながれていく様しか見えなかった。先程の男の子達が駆《か》けて行った桟橋の先端には女が数人固まっていたが、その中からやかましい叱責《しつせき》の声が上がったと思うと、ひどく蒼《あお》い顔をしたバーニーともうひとりの少年が、取り乱した様子の女の手でジェーンのいるほうに強引にひきずられて来た。女はボンネット帽とショールを身につけ、ブロドウェン・ローランズだとすぐにわかったが、ブロドウェンのほうではジェーンが誰だか知らないようだった。女は誰にともなく、心から案じている口調で小言《こごと》を言った。「いつだってこうなんだから。波止場に着く船に誰が最初に触るかなんて馬鹿《ばか》な遊び、男衆の邪魔《じやま》になるばっかりで……今に生命までなくしてしまうわよ。きょうだって、このふたりはすんでのことで死にかけたんだから。見なかった? 端っこぎりぎりで体勢を崩《くず》して、誰かがつかまえて引き戻さなければ、桟橋《さんばし》との間で船に押しつぶされてたところよ……ほんとうに!」とひとりひとりを腹立たしげにゆさぶった。「先週、エリス・ウィリアムスが落ちたのを忘れたの?」
「その前の週はフレディ・エヴァンズだったっけ」バーニーの連れの少年が、生意気《なまいき》な、唄《うた》うような調子の声で言った。「フレディのほうが大変だったんだぜ。だって、引っぱり上げられた時には床屋のエヴァンズがとぎ革《がわ》を持って待ち構えてて、家に着くまでずっとひっぱたき通しだったんだから」
「エヴァンズさんとおっしゃい、お猿《さる》さん」ローランズ夫人は笑いを抑《おさ》えようとした。そしてジェーンに向かって愛嬌《あいきよう》たっぷりに肩をすくめてみせると、警告するように指を振り立てながら少年達を放してやり、船の乗組員を迎えている女達のもとへ戻った。
「あのおばさん、好きさ」バーニーが機嫌《きげん》よく言った。「たぶん生命の恩人だな。知ってた?」とジェーンに笑いかけると、もう一人の少年と共に道を走り去り、スレートの大きな山の陰になって見えなくなった。
ジェーンは振り返って呼びかけようとしたが、声が出なかった。傍《かたわ》らでジョン・ローランズが<フランシス・アメリア>号上の人間に声をかけていた。「イエスティン! イエスティン・デイヴィーズ!」
「イヴァンよう!」男は白い歯をきらめかせて呼び返した。その名に記憶をたぐられる一方でジェーンは再び、ウェールズ語がまるで聞かれないとは妙《みよう》なことだと考えた。それから、いま耳にしている言語こそウェールズ語なのであって、自分もまた同じ言葉を話しているのだと悟った。まるで使われていないのは英語のほうだった。
「結局のところ」とサイモンが隣りに来たのを理由もなく察して振り向くと、震《ふる》える声で言った。「知らないはずの言葉が理解できるのも、生まれる前の時代に運ばれるのも、不思議だって点には変わりがないもの」
「ああ」サイモンの声が全くいつもの通りだったので、ジェーンは力づけられ、安堵《あんど》のあまり溶けてしまいそうだった。「その通りさ」
ジョン・ローランズがそばから呼ばわった。「<セーラ・エレン>号の知らせはないかね?」
男は目をみはった。「聞いてないのか?」
フランシス・アメリア号の男はためらい、巻きかけていた綱を下に置き、船上の誰かに声をかけると、船べりをとび越えて桟橋におり立った。ローランズに歩み寄ったその顔には気づかわしげなしわが寄っていた。「悪い知らせだ、イヴァン・ローランズ。ひどく悪い。なんと言ったらいいか、セーラ・エレン号は二日前、スカイ島沖で沈んだんだ。乗組員もろとも、きのう報《しら》せがはいった」
「なんてこった」ローランズはさぐるように片手を伸ばし、男の腕を一瞬つかんだ。それから背を向けて、急に老け込んだようによろめきながら歩み去った。顔は灰色で傷ついていた。ジェーンは追って行きたかったが動けなかった。生きた顔の上にむきだしになっていながら、その実、百年も前に起きて済《す》んでしまった悲劇に対して、いたわりを与えることがどうしてできよう? ジェーン自身の当惑《とうわく》と、孫の目からのぞいているイヴァン・ローランズの傷心と、どちらがより現実に近いのだろう?
イエスティンと呼ばれた男はローランズを見送っていた。「あいつの弟が乗ってたんだ」と言うと、そばに立っていた二、三人の男を見回して、深刻な顔になった。「どこか変だ。この三カ月間に四隻《せき》沈んでる。どれもジョン・ジョーンズ・アベルダヴィのこさえた船で、その上どれも新品だった。セーラ・エレン号に到っちゃ、大時化《おおしけ》にあったわけでもない。潮の流れが速すぎただけなんだと」
「みんな同じだ」男たちの一人が言った。「船尾が下がるんだ。近頃じゃ、ジョンの船は全部そうだ。そうなると無理がかかって浸水《しんすい》し出す。あとは沈むだけさ」
「全部じゃないぞ」別の一人が言った。
「ああ、どの船もってわけじゃない。そいつは本当だ。ジョン・ジョーンズはとびきりの船を何隻《なんせき》も造ってる。だが悪いのときた日には――」
「聞いた話だがな」イエスティンという男が言った。「設計じゃなくて木組みに問題があるんだと。ジョン・ジョーンズの責任じゃなくて、木挽《こびき》のひとりがいかんのだ、とそいつは言うんだ。その木挽にやらせた部分は全部――」
突然、イエスティンはジェーンの心配気な眼差しを意識して言葉を途切らせ、わざとらしい大きな笑みをパッと浮かべてみせた。「いつものあれをお待ちかねだね? ほかの子と違って、ねだらないとは心がけのいい子だ」と、上着の大きなポケットに手を突っ込み、四角い包みを取り出した。「そら――笑顔《えがお》でねだりにきた最初の子にやろうと持って来たんだよ。何も言わなかったおまえさんのものだ、嬢《じよう》ちゃん」
「ありがとう」ジェーンは思わず昔風のおじぎをして、その日二度目の驚き味わった。男がジェーンの手に押し込んだのは、紙に包まれた、板切れのように固い乾《かん》パン四枚だった。
「持っていくがいい」男は愛想《あいそ》よく言った。「皿に入れてかまどで焼くんだろ? 牛乳をたっぷりかけて、てっぺんにバターの塊《かたまり》を乗せて、いいな。おまえさん達みたいに乾パンが好きでたまらない連中がいるってのは、いいもんだ。これが大西洋を半分渡ったところなら、そううまいとは思わないだろうよ。その頃には、温かいぶどうパン《パラ・ブリス》ひと切れとなら、残りをそっくり取り換《か》えてもいいって気になってるさ」
他の男達がどっと笑った。と、イエスティンの使ったウェールズ語が再び鍵《かぎ》を回して扉を閉ざしたかのようだった。今や男達はみなウェールズ語をしゃべりまくり、ひとことも理解できなくなっていたのだ。言葉が変化したのではなく、自分の聴力が変化したのだとジェーンは悟った。魔法のおかげで短時間だが理解できたものが、もはやできなくなっているのだ。ジェーンは見慣れぬ固い布製のサイモンの袖をつかむと、脇《わき》へひっぱっていった。
「どうなってるの?」
「それがわかったらな。理屈も何もありゃしない。みんなごちゃごちゃだ」
「ここどこ? いつ? なんでここにいるの?」
「最後のが一番の難物だな」
「バーニーを捜《さが》しに行きましょうよ」
「わかった。行こう」間の広くあいた板敷の上を通りへ向かいながら、ジェーンは横目で背の高い兄を見た。粗末《そまつ》な昔風の服を着たサイモンはなぜか前にも増して長身に見え、落ち着きさえ加わったようだった。サイモンも変わってしまったのだろうか?(違うわ)とジェーンは思った。(普段だと、兄さんがどんな様子をしてるかなんて、考えても見ないからなんだわ……)
ふたりは通りをさかのぼり、薔薇《ばら》や金魚草や香り高いストックで賑《にぎ》やかに彩《いろど》られたコテージを通り過ぎ、来るべきジェーン達の時代においてよりもはるかに立派で新しげな背の高い家々を通り過ぎ、<ペンヘリグ・アームズ亭《てい》>と塗《ぬ》りたての看板の下がった華《はな》やかな旅籠《はたご》を通り過ぎた。前を歩いていた二人の男が、旅籠の戸口に立っている陽《ひ》に灼《や》けた小男に声をかけた。「こんにちは、エドワーズ船長」
ジェーンは思った。(またウェールズ語に逆戻りだわ……)
「こんにちは」
「セーラ・エレン号のことを聞いたかね?」
「聞いた」エドワーズ船長は言った。「前に話したことを思い出して、ジョン・ジョーンズに会いに行こうと思ってたところだ」と言うと、少し間を置いて、「ついでに、やつの使ってる連中のひとりにも会ってくるかな」
「一緒に行ってもいいかね?」男達のひとりが言いながら振り向くのを見て、ジェーンはぎょっとした。ジョン・ローランズだったのだ。見分けられなかったのも道理、服装ばかりか、歩き方まで変わっていたのだった。
通りの先、海に近いあたりから槌音《つちおと》と、何だかわからない規則的なかん高い唸《うな》りが上がっていた。用心深く距離をあけて兄弟は男達のあとをつけ、道のはずれに出た。満潮時の海岸線のすぐ上に、平らにならされた作業場があった。
造船所は驚くほど簡素だった。道具小屋が二軒、その隣りには妙な箱型の建物があり、蒸気を糸のように洩《も》らしていた。高さと横幅は二フィートあまりだったが、奥行きときたら蜿々《えんえん》と、何十フィートもあり、大きな金属のボイラーがパイプでつながれていた。傍《かたわ》らの木の揺籠《ゆりかご》様のものに船の骨組みが横たえられていた。長い竜骨から枝分かれしているむきだしの樫材《かしざい》のあばら骨にはまだわずかな板しか張られていない。松らしい黄ばんだ白の巨大な角材が地べたに積まれ、そのそばには深く長い穴が口をあけていた。おとなの身長よりも深いその穴の中では、木挽《こびき》が角材を切って板にしていた。ジェーンは夢中になって見物した。どの穴の上にも角材が縦《たて》に置かれていた。支えは横に渡された小さめの丸太だ。角材の上と下にひとりずつ木挽が立ち、二人して枠《わく》にはめられた長い鋸《のこぎり》を上下に動かす。遠くで耳にした規則正しい唸《うな》りはその音だった。近くにある同様の穴《あな》の中で別の二人が作業していた。他の者は材木を移動させたり、板を積み重ねたり、湯気をたてているボイラーの火を加減したりしていた。ボイラーの火はあまりに熱いので、暖かい夏の空気の中ではほとんど目に見えないほどだった。
少年がひとり頭を上げ、三人の船乗りをみとめて敬礼めいたあいさつをした。それから穴の一つの上で作業している木挽に駆《か》け寄り、鋸の音に負けまいと声を張り上げた。
「ハンフリー・エドワーズ船長と、ユーアン・モーガン船長ですよ。イヴァン・ローランズ船長も。上に来てます」
木挽《こびき》は相棒に合図して、次の切り込みにかかる前に長い刃を静止させ、船長達を見上げた。ごつごつした岩に縁取られた道の端からのぞいたジェーンが見たのは、ドキッとするほど鮮《あざ》やかな赤毛を頂いたボッテリした顔だった。男は好意や歓迎《かんげい》の意を示すどころか、険悪な表情を浮かべていた。
「ジョン・ジョーンズなら波止場だ」赤毛男は言った。「届いたばかりの松材を見に行ったんだ」それきり、帰れと言わんばかりに再びかがみこんだ。
「カラードグ・ルイス」旅籠《はたご》から来た小柄《こがら》な船長が言った。特に大声ではなかったが、普通にしていても海上の強風に負けず劣らず通る声だった。
赤毛の男はふてくされた顔を上げ、腰に手を上げた。「仕事があるんだがね、ハンフリー・エドワーズ」
「おう」ジョン・ローランズが言った。「その仕事のことで話があるんだ」と、低い石垣をまたぎ越え、粗末《そまつ》な階段をおりて木挽穴《こびきあな》に向かった。他の二人も続いた。少しして、誰も見ていないすきをついてジェーンとサイモンもあとを追った。
「今こさえてるのは何て船だね、カラードグ・ルイス?」エドワーズ船長は考え深げに、竜骨と肋骨の骨組みだけのまま枠《わく》に乗っている優美な曲線を眺めた。
ルイスは歯をむかんばかりのしかめ面で船長を見たが、気が変わったのか、「エリアス・ルイスのためにこさえてるスクーナー船さ。<勇気>号だ。知ってると思ったがな。全長七十五フィート、一ヶ月も予定より遅れてる。あっちにあるのは――」と、既《すで》に進水されて船渠《きよ》に浮かんでいる半ば完成した船体にあごをしゃくってみせた。「あれはファー船長のジェーン・ケイト号だ。明日やっと、アニスラスから帆柱に使う円材が届くはずだ」
「どっちもおまえが手がけたもんだな?」ジョン・ローランズが言った。
「決まってる」ルイスは腹立たしげに言った。「おれはジョン・ジョーンズの木挽頭《こびきがしら》なんだぜ」
「さぞかし責任も重いだろうな」エドワーズ船長は頬髯《ほおひげ》を撫《な》でた。「ジョン・ジョーンズは忙しい男だ。ここ数年、何本の竜骨があとからあとからここに据《す》えられたか知れん」
「だったらどうなんだ?」
「<廉潔《れんけつ》>号もおまえの仕事だったろう?」ローランズが言った。「メアリー・リース号も? イライザ・デイヴィーズ号も?」そのつどルイスは赤い頭を苛立《いらだ》たしげに縦《たて》に振った。ローランズはビスケットを齧る子供のように言葉を断続的に叩《たた》きつけた。「<慈愛《じあい》>号も? セーラ・エレン号も?」
ルイスは眉《まゆ》をひそめた「運のなかった連中の船ばかり選んでるな」
「そうとも」
この頃には、木挽《こびき》や他の連中も道具を置いて耳を傾けに集まって来ていた。落ち着きなく固まったまま、三人の船長をむっとした顔でにらんでいた。
「セーラ・エレンのことはついさっき聞いたばかりだ」ルイスは申し訳程度に肩をすくめてみせた。「あんたの弟のことは気の毒に思ってる。だが、この村じゃよくあることだ」「おまえの手がけた船にもよくあることだな」エドワーズが言った。
カラードグの蒼《あお》い顔に怒《いか》り色が射《さ》し、こぶしが固められるのが見えた。「おい、聞け――」と言いかけた。
「こっちの言い分を聞いてもらおう」作業場にはいって以来口を閉じていた第三の船長が言った。灰色の髭《ひげ》に顎《あご》を縁取られた、小柄な色の黒い男だった。「いま揚《あ》げた船のうち二隻《にせき》が走るのを、わしは見てきた。ラブラドルまで一緒《いつしよ》だったが、両方とも同じ欠点を持っていた。ジョン・ジョーンズの設計のせいじゃない。あいつのことはよく知ってる。うっかり者の上に仕事にかけちゃ欲張りなもんで、一度に一本の竜骨しか手がけん連中と違って、監督《かんとく》のほうがおろそかになってるのは確かだ。しかし、船尾《とも》が突っ込んで追い潮で沈む、これはあいつのせいじゃない。そのつど船尾に余分な長さを加え、蒸《む》し方が早すぎてひびの入り出した板でも構わずにしじゅう使った男のしわざだ」
立ち聞いていた作業員の中から怒りの呟《つぶや》きが上がった。
赤毛男は怒りのあまり泡《あわ》を吹き、ろくに口もきけないほどだった。「証拠《しようこ》はどこだ? ユーアン・モーガン!」とささやいた。「これっぽっちでも証拠立ててみろ! おれがわざと連中を死なせたと、証拠立てられるつもりなのか?」
「何か方法が見つかるとも」ローランズの声は低く暗かった。「真実だってことには疑いがないんだから。おまえは底の深いやつだ。わしら三人は長いこと怪しいと思っていた。今度のセーラ・エレンの沈没はいくらなんでも許せん。確信も得られたことだし」
「確信? 何の?」
「おまえが……普通でないってことのだ。カラードグ・ルイス。普通の人間と違うものに忠誠を誓ってる。人間のものですらない力に、何か恐ろしい形で仕えてるんだ」
冷たい確信に満ちたその言葉にルイスのそばの男達は思わず少し身を引いた。それを感じ取ったルイスが突然怒《いか》り狂《くる》ってどなりたてたので、作業員達は手近な仕事にとびつくようにして戻った。だが、そのあとでローランズを見たカラードグ・ルイスの目つきには怒りの色はなかった。ただ傲慢《ごうまん》な氷のような憎悪《ぞうお》だけがあり、<闇《やみ》>の意に従って動いている男の顔に同じものを見たことのあるジェーンはぞっとした。ボッテリした顔にまっ赤な髪のルイスは<闇《やみ》>の完全下僕とは見えなかったが、それだけにいっそう恐ろしかった。これほどの悪意がしかるべき理由もなしに普通の人間の中に棲《す》みついているとは、考えたくもなかった。怒りがルイスの中で、沸《わ》きかけたやかんの中の蒸気のように昂《たか》まるのが感じられた。
ルイスは木挽穴《こびきあな》を離れ、三人の男にゆっくりと近づき、ひきつった声で「おれはあんた同様、人間だ、イヴァン・ローランズ。証拠を見せてやる」と言うや、突如《とつじよ》爆発して、憤怒《ふんぬ》に歯をむき顔をすさまじく歪《ゆが》めると、ローランズにとびかかった。体勢の整っていなかったローランズは後ろ向きにひっくり返り、灰色のストレートの山をガラガラッと突き崩《くず》した。ルイスは犬のようにのしかかり、腕を振り回して殴《なぐ》りつけた。残る二人の船長が慌《あわ》てて仲に割ってはいろうとしたが、今度は作業員達が道具を取り落として邪魔《じやま》をしにはいり、あっという間に地べたで大乱闘《らんとう》が始まった。小柄《こがら》なエドワーズ船長がひとりを殴《なぐ》り倒した。手の節が男の頭にぶつかり、ガチッと歯の鳴る不気味な音をたてた。と思うと、船長は三人の男の体の下に姿を消し、駆《か》け寄ったユーアン・モーガンがわめき散らしながら男達をむりやり引き離した。ローランズともみ合っていたカラードグ・ルイスがあたふたと立ち上がり、悪意をむきだしにしてあえぎながら身構え、重い革靴《かわぐつ》をはいた足で蹴《け》りつけようとした。ジェーンは悲鳴を上げた。と、サイモンが脇《わき》を走り抜け、ルイスにしがみつき、重い靴の爪先《つまさき》にすねを蹴られて声を上げた。
それからあとのことはサイモンにも正確にはわからなかった。ローランズのぐったりした体からルイスを引き離そうともがくうち、気がつくとルイスの手につかまれて、抵抗もならずに海のほうに押しやられていたのだ。水にはいった時にはまだ二人とも立っていて争っていたが、ふいにサイモンの体が前に突き出、そのままどんどん落ちて、冷たい水が頭をおおった。海面下の足は何にも触れていなかった。片足が一瞬、砂に着いたと思うと、水がサイモンを振り回し、潮の流れにつかまってどんどん深く、サイモンだけをひきずり込んだ。息をしようと必死に足を動かした。一呼吸したかと思うと、再び渦《うず》に振り回され、古風な服の重さに苦しむ手足を伸ばしてなんとか泳ごうとした。耳鳴りがし、目の前がぼやけた。水がぐるぐるサイモンを旋回《せんかい》させた。
サイモンは慌《あわ》てまいと懸命だった。泳ぎが得意なのにもかかわらず、深みにはまるのを密《ひそ》かに心から恐れていたのだ。三年前にテムズ河で競走していた時、転覆《てんぷく》したヨットから落ちたことがあった。水面に漂《ただよ》っている主帆《メンスル》の真下に浮かび上がり、封をされた壜《びん》のコルク栓《せん》のように、空気から遮断《しやだん》されてしまったのだ。慌《あわ》てきってもがくサイモンが帆の端に出られたのは全くの偶然《ぐうぜん》、岸にたどりつけたのは死物狂いのあがきのおかげだった。今やそれと同じ恐怖がのどと頭の中にこみ上げて来るのが感じられた。たまにひとつ息つかせてくれるだけですぐまた渦巻く周囲の波にも似て、脳を鈍《にぶ》らせよう、あらゆる思考を溺《おぼ》れさそうとこみ上げて来る恐怖――
サイモンはつっぱねた。闘《たたか》い続けた。二本の腕、二本の脚のそれぞれの感覚をとらえておこうと闘った。意のままに動こうと、恐怖と絶望から来る盲《めくら》めっぽうなあがきではなく泳ぎのリズムをつかもうと闘った。すさまじい努力によって恐れを閉め出した。
だが水はまだそこらじゅうにあった。いくらか静かになり、サイモンを抱え込んでいた。サイモンは再び沈み出した。水が圧しかかり、耳に目に鼻にはいった。今度は怖《こわ》いというより眠気を覚えた。水は母親めいていて、異質のものどころかサイモン自身のいるべき場所のように思えた。魚同様、いつも水を呼吸してきたかのように、サイモンはやさしく迎え入れられた。やさしくやさくし包み込まれ、くつろいだ、眠りに落ち入る直前の感じにも似て……
何かが、誰かが、背後からサイモンをがっきとつかんだ。力強い二本の手が肩をつかみ、上へ上へと明るい空気の中へ押し上げた。光が目に切り込んだ。水がのどの奥に咬《か》みついた。サイモンはあえぎ、げえっと息をつまらせた。息を吸い込むたびに肺の中で水が動いた。必死にぶくぶくいう不気味な息遣《いきづか》いを耳にしたサイモンは、自分がたてているのだと気づいてぞっとした。
と思うや、足の下にしっかりした砂地が感じられた。泳ぎ手がサイモンを離した。よろめいて四つん這《ば》いになると、力強い手が砂浜に体を横たえてくれ、頭を横に向かせ、背中を押した。水が鼻と口から流れ出、サイモンは咳込《せきこ》み、吐気《はきけ》を催《もよお》した。さいぜんの手がやさしく助け起こして坐《すわ》らせてくれた。サイモンは膝《ひざ》に頭を乗せ、やっと、いやらしい音をたてたりあえいだりすることなしに、ゆっくりと息をすることができるようになった。濡《ぬ》れた髪《かみ》を目からかき上げ、鼻をすすると、顔を上げた。
最初に見えたのは目を見開き、血の気のない顔でしゃがみ込《こ》んでいるジェーンだった。その傍《かたわ》らに方膝《かたひざ》をついているのは、かがんでいても極めて長身なのが明らかな男だった。男の黒っぽい衣類からは水が滴《したた》り落ちていた。懸念《けねん》に眉《まゆ》をひそめてサイモンをのぞき込んでいる顔はごつごつと角張り、深い眼窩《がんか》の影の中の目は暗く、逆立った白い眉はワシ鼻の両側に水を垂らしていた。豊かな白髪は濡《ぬ》れて灰色じみ、輪や角になってこんがらがったまま頭全体をおおっていた。
サイモンは、自分のものとも思えぬ高く弱々しいかすれた声で言った。「ああ、ガメリー」
目がちくちくしたのでそれ以上は言わなかった。大叔父《おおおじ》を愛称で呼ぶのは久し振りだった。
「勇敢《ゆうかん》だったぞ」メリマンが言った。
サイモンの肩に両手を置くと、メリマンはジェーンを見、招き寄せてから立ち上がった。ジェーンはサイモンの肩におずおずと腕《うで》を回し、体の向きを変えるのを手伝った。
ジョン・ローランズがすぐそばの浜に立っていた。頭も服もずぶ濡れだった。ジェーンがサイモンの耳もとでささやいた。「兄さんのあとを追ってとびこんだのよ。そばまで行こうと頑張《がんば》ってる時」――声が乾《かわ》いて消えたかに思えた。ジェーンは生唾《なまつば》をのみこんだ――「メリー大叔父さんがふいに……ふいに浮かび上がったの。どこからともなく」
メリマンは三人の前にそびえ立っていた。濡れた体は直線ばかりに見え、ひときわ背が高く見えた。前の砂浜には造船所の作業員がじっと固まって動かず、灰色の頬髯《ほおひげ》を生やした二人の船長も怒りを露《あら》わにしたまま黙《だま》ってそばにいた。カラードグ・ルイスは赤い髪をきらめかせて船大工達のまんなかにいた。足を上げたところを腹を立てた穴熊か狐《きつね》につかまった小動物のように、メリマンを見つめたまま金縛《かなしば》りになっていた。
そして赤毛の男を見るメリマンの目の怒りの激しさに、サイモンとジェーンは二人してすくみ上がった。カラードグ・ルイスは縮《ちぢ》こまりながらのろのろとあとずさりし、逃げ道を捜《さが》した。と、メリマンが片腕《かたうで》を差しのべ、人差し指をピンと伸ばして突きつけると、男は再び射《い》すくめられたようにその場に凍《こお》りついた。
「行け」メリマンは黒ビロードのような深い声で静かに言った。「行け、<闇《やみ》>に身を売った者よ、この明るい河のアベルダヴィからふるさとのディナース・マウーズイへ戻れ。<灰色の王>の領地カーデル・イドリスをめぐる、<闇>の巣《す》食う山々へ戻って行け。おまえ同様、黒い野望を抱《いだ》いて待つ者のもとへ。だがおぼえておくがよい。ここでの試みを仕損《しそん》じた以上、おまえの主《あるじ》達はもはや目をかけてはくれぬぞ。以後は心するがよい。さきざき、息子や娘や、娘の子が<闇《やみ》>と関わりを持たぬようにな。ひとたび報復をむねとする<闇>のとりことなったなら、必ず滅ぼされずには済《す》まぬゆえ」
ルイスは無言で背を向け、ざらつく灰色のストレートの上を歩き出し、粗末《そまつ》な階段を登って道を遠ざかり、ついに見えなくなった。メリマンはサイモンとジェーンを見、それから、黙りこくっている男達や造船所の建物や半築状態の船を通り越して海を見、奇妙《きみよう》にやさしい身振りで、目をさまして体を伸ばす人のように両腕を大きく拡げ、空を仰《あお》いだ。
すると、どこからか一羽のかもめが水の上を低くかすめて来て、鋭く鳴いた。子供達は目でかもめを追った……追った……
……そしてかもめが高く舞い上がり再び見えなくなると、もとの時代のジーパンやシャツを着ていることにハッと気づいた。鉄柵《てつさく》のある歩道よりも数フィート低いところにある幅《はば》のせまい、スレートだらけの砂浜に、ジョン・ローランズとメリマンと四人きりで立っているのだった。サイモンの右手には平たいスレートのかけらがあった。投げるつもりだったかのように人差し指が巻きついていた。サイモンは石に目をやり、肩をすくめ、身をかがめると、海面をかすめるように投げた。石は遠くまで何度もみごとにはねながら飛んで行った。「八回だ!」サイモンは言った。
「いつも勝つんだから」ジェーンが言った。
衣類は乾《かわ》いていて、ジェーンの髪《かみ》だけが朝雨のせいでまだ湿《しめ》っていた。サイモンとメリマンとローランズの三人が海にはいったことを示すものは何もなかった。ジェーンはとまどったように目をしばたたいているローランズを盗《ぬす》み見、彼が何もおぼえていないのを知った。ローランズはぼうっとした様子であたりを見回していたが、メリマンに目をとめると、じっと動かなくなった。そのまま長いこと凝視《ぎようし》していた。
「なんてこった《ダーロ》」とついにしわがれた声で言った。「どういうことだ? あんただ。あんただよ! 子供の時から一度だって忘れたことはない。あんたはおぼえてるかね? あんたなんだろう?」
ジェーンとサイモンは煙に巻かれたまま耳を傾けていた。
「ウィルと同じ年頃だったな」メリマンはかすかな笑みを浮かべてローランズを見た。「山の上だった。私が……乗っているのを見たのだったな」
ローランズはのろのろと言った。「風に乗ってるところだった」
「さよう。風に乗っているところだった。おぼえてるかどうか頭をひねったものだ。忘れなかったところで害はなかった――信じる者などいるはずもなかった。だが、いたずらに心を騒《さわ》がせぬよう、私は、全ては夢だったのだと思わせるようにしたのだよ」
「そうとも。夢だとばかり思ってた。たった今、これだけ年月が経っているのにまるで変わっていないその顔を見るまでな。なぜここにあるのだろうと考えるまで」ローランズは振り向いてサイモンとジェーンを見た。「この人はウィルの師匠《ししよう》だろう? 君らとも知り合いのはずだ」
サイモンが反射的に言った。「メリー大叔父《おおおじ》さんです」
ローランズの声が不信に上ずった。「君らの大叔父さんだって?」
「ただの名前にすぎぬ」メリマンの目が曇《くも》り、砂州越《さすご》しに海を見やった。「行かねばならぬ。ウィルが私を必要としている。サイモン、<闇《やみ》>はよく心得た上でお前を危機におとしいれたのだよ。あの時代にいるおまえを救えるのは私だけで、それにはある場所を離れねばならなかった」
「あの二人、大丈夫?」サイモンがたずねた。
「万事うまくいけば、大丈夫だ」
ジェーンは気づかわしげだった。「あたし達にできることは?」
「日の出と共に出なさい。おまえ達のいる村の浜だ」メリマンは妙《みよう》に硬張《こわば》った笑《え》み浮かべてジェーンを見、道の先を指し示した。「お茶の時間だ。弟をつれて帰りなさい」
振り返った兄妹は、バーニーの黄色い頭がふんぞり返って近づいて来るのを見た。ブロドウェン・ローランズがあとに続いた。磯《いそ》と海をもう一度見たが、メリマンはもはやいなかった。
第三部 失せし国
輝くもやの中を不思議な道は、虹《にじ》のように弧《こ》を描いて二人を運んだ。ウィルとブラァンはまるで動かなくていいのに気づいた。足を表面に乗せただけで、道は二人を抱え上げ、時間と空間の中を形容しがたい動き方で運んでいった。やがて耀《かがよ》いの中を抜けると二人は失せし国に着き、道はなくなり、あたりを見回すにつれ、ほかのことも全て念頭から消え去った。
二人は黄金の屋根の上、黄金細工の低い格子《こうし》の陰にいた。背後に、そして左右に、大いなる都のあまたの屋根が連なっていた。きらめく尖塔《せんとう》、小塔が地平線にひしめき、あるものは二人の立っている屋根同様に金色で、あるものは火打石のように黒光りしていた。都は静まり返っていた。早朝なのか、涼《すず》しく静かだった。前方には、目の届く限り、光りを放つ白い霧《きり》が公苑らしい場所の木々の豊かな梢《こずえ》をなめていた。露《つゆ》が梢で光った。公苑の向こうのどこかで、太陽が雲の海の中に昇《のぼ》ろうとしていた。
ウィルは木々を眺めた。野生の木立のようにくっつきあってはおらず、充分間をとって、一本一本がゆったりと存分に枝を伸ばしきっている。霧の中から突き出ているさまは灰白の海に浮かんだ輝くみどりの島々さながらだった。樫《かし》とブナと栗《くり》と楡《にれ》の木が見えた。周囲の建物が異様なのに反して、ごく見慣《みな》れた形だった。
ブラァンが傍《かたわ》らでそっと言った。「ごらんよ!」
ブラァンはウィルの背後をゆびさしていた。振り返ると、屋根の峰《みね》や屋根のさなかに巨大な黄金の円蓋《えんがい》が見えた。頂《いただ》きの黄金の矢は西のかた、青い水平線を指している。円蓋の側面は早朝の陽射《ひざ》しを受けてキラキラしていた。黄金と水晶が縦《たて》に縞《しま》になるように交互に張られているのだとわかった。
ブラァンは黒眼鏡の周りに手をかざした。「教会かな?」
「かもね。聖《セント》ポール寺院に少し似てる」
「アラビアのなんとかにも似てるよ。モスク(回教の寺院)だっけ」
二人は本能的に声をひそめていた。この場所はあまりにも静かだったのだ。都の沈黙《ちんもく》を破《やぶ》るものはどこにも何一つなかった。たった一度、遠い梢《こずえ》の中のどこかで、悲しげなかもめの声がしたほかは。
ウィルは足もとを見た。二人の立っている屋根は、閉じこめるかのように、黄金細工の格子《こうし》でぐるりを垣根《かきね》のように囲まれていた。ウィルは手をのばした。一番上の横棒はビクともしなかった。体の半分までしか来ないので乗り越えようかとも思ったが、反対側にある次の屋根との間に二十フィートもの垂直な落差があるのを見て気を変えた。
ブラァンもまた手をのばして自分の前の格子をつかんだ。そしてハッと息を呑《の》んだ。ブラァンの手が触れるやいなや、格子全体が動いたのだ。上部が自由になったかと思うと、下部の横棒一本を支えに手を離れ、屋根の端から下へ向けて突き出、折り畳《たた》み梯子《はしご》のように、蝶番《ちようつがい》でつながれた部分が開いてどんどん延びていったのだ。
「ガラン!……ガラン!……ガラン!……ガラン!」金属的な音は並ぶ屋根の上に鳴り響き、沈黙にひびを入らせ、梯子様《はしごよう》の黄金細工の最先端が下の屋根にぶつかると同時に大きく響いて止んだ。黙せる都の至る所でこだまが鳥のように上がった。
ウィルとブラァンはあたりを見回し、あれほどの騒音が引き起こしたはずの活動を、誰かがどこかで目ざめた形跡《けいせき》を捜《さが》した。が、何もなかった。
「眠たい街だね?」ブラァンは気楽そうに言ったが、声がわずかに震《ふる》えていた。それから、ウィルをあとに従えて、屋根の縁を乗り越え、黄金の梯子《はしご》をつたいおりていった。
二人は今や、広く低く屋根の上にいた。前の屋根よりゆるやかに傾斜していて、何か色の濃い金属が横に段違いにはめこまれていたので、それを足がかりに歩くことができた。屋根の下の端までたどり着くと、垂直な壁のてっぺんに出ると思いのほか、花崗岩《かこうがん》めいたきらめきを帯びた巨大な灰色の石段が屋根の端から直接、遠く霧《きり》と木々《きぎ》のある方へ伸びているのを発見した。
連れ立って、離れないように気をつけながら駆《か》けおりるうちに、下の霧が薄《うす》れて消え去り、みどりの草地にそびえ立つ木々がはっきり見えるようになった。石段のふもとには、鞍《くら》と馬具をつけた馬が二頭、二人を待っていた。つながれてはおらず、手綱《たづな》はゆるやかに首にかけられていた。つややかな美しい馬で色はライオンと同じ、金色の体に対し、長いたてがみと尾は黄白色だった。歯の間のはみとあぶみは銀だったが、手綱は赤い絹《きぬ》を編《あ》んだものだった。ウィルは一頭に近づいて、目を丸くしながら首に手を置いた。馬はそっと鼻から息を吐き、乗れというように頭を下げた。
ブラァンはぼうっとして馬を眺《なが》めていた。「乗り方、知ってるの? ウィル」
「ううん。けど、そんなこと構わないんだと思うな」とウィルは片足をあぶみに入れた。と、音もたてず、何の努力もせずに馬の背に乗っていて、笑顔で見おろしながら手綱《たづな》を取り上げていた。第二の馬は地面を足で掻《か》き、鼻面《はなづら》でやさしくブラァンの肩をこづいた。
「来いよ、ブラァン。ぼくらを待っててくれたんだ」ウィルの青いジーパンとセーターに包まれた小柄な体は、大きな金色の馬の背に狐狩りの名手さながら落ち着き払って坐っていた。ブラァンは不思議そうにかぶりを振りながら鞍の前輪に手を伸ばした。考える暇もなく、きちんとまたがっていた。馬が頭を振り上げると、ブラァンは垂れてきた手綱をつかまえた。
「いいよ」ウィルはやさしく馬に話しかけ、白いたてがみを撫《な》でた。「行くべき所に連れてっておくれ。お願いだ」二頭の馬は一緒に動き出した。急がず、自信たっぷりに、立ち上がる長い石段のふもとの石畳《いしだたみ》の通りを歩いて行った。
片側には広い緑苑《りよくえん》の木々がそびえ、露《つゆ》もちりばめたまま涼《すず》しげに繁《しげ》り、道に影を落としていた。日光が木と木の間の草に明るい陽だまりとなっていたが、音は何一つ聞こえなかった。小鳥の歌もない。馬の蹄《ひづめ》の音だけが、ポックリ、ポックリ、静かな都に響いていった。二頭の金色の馬が緑苑《りよくえん》からふいに細い横丁にはいると、足音は低く虚《うつ》ろなものに変わった。大きな灰色の壁が両側に伸び上がっていた。どこにも窓一つない、のっぺらぼう灰色の石壁だった。
通りはせばまり、暗くなった。安定した足どりを変えることなく、馬はそそり立つ壁のはざまを歩み続けた。ウィルとブラァンは手綱《たづな》をゆるく持ったまま、落ち着きなく周囲を見回してばかりいた。
とある角を曲がった。高いのっぺらぼうの壁に相変わらずはさまれた狭《せま》い路地で、空は頭上にかかった細長い青い断片にすぎなかった。だが、ここに到って右手の壁に小さな木の扉が見えた。扉《とびら》に行きつくと馬は揃《そろ》って立ち止まり、頭を振り立てたり地面を掻《か》いたりし始めた。ウィルの馬は頭を左右に振って銀の馬具が音楽的に鳴り、長いたてがみが白金の絹のように波打ち流れるようにした。
「わかったよ」ウィルは馬からおりた。ブラァンも同様にした。乗り手が地面におり立つや否や、二頭は慌《あわ》てずに、蹄と馬具の音を一瞬入り混じらせて向きを変え、連れ立ってもと来た方角へ路地を引き返していった。輝《かがや》くゆったりした尾が、薄暗い通りに松明《たいまつ》のように揺《ゆ》れていた。
「きれいだなあ!」金色の姿が消えていくのを見送りながら、ブラァンがそっと言った。 ウィルは扉の前に立ち、飾《かざ》り気のない木の表面を調べていた。くろずんだ木で、年月を経てきたかのようにあばただらけだった。無意識にベルトに両手の親指をひっかけると、片方の親指が小さな真鍮《しんちゆう》の角笛《つのぶえ》の曲線に出会った。別の世界の別の時代において山上で吹き鳴らした笛だった。ベルトからはずと、ブラァンに差し出した。
「何が起きようと、ぼくらは離れちゃいけない。一方の端をつかんでてくれ。ぼくはもう一方を持つ。そうすればいくらか助かる」
ブラァンは白い頭をうなずかせ、左手の指を角笛の輪にくぐらせた。ウィルは再び扉《とびら》を見た。把手《とつて》も呼鈴《よびりん》も、錠前《じようまえ》も鍵穴《かぎあな》もない。開ける方法は、見た限りどこにもなかった。
片手を上げると、ウィルは断固たる調子で扉を叩《たた》いた。
扉は外に向かって開いた。内側には誰もいない。のぞき込んでも、暗闇《くらやみ》以外の何も見えない。救命具ででもあるかのように小さな狩笛のそれぞれの端を握《にぎ》りながら、二人は中にはいった。背後で扉がスーッと閉まった。
どこからともなく射《さ》しているわずかな光が、狭《せま》い廊下《ろうか》にいることを教えてくれた。天井《てんじよう》は低く、廊下は数ヤード先で行き止まりになり、そこから梯子段《はしごだん》が上に伸《の》びていたが、行き着く先は見えなかった。
ウィルはゆっくりと言った。「あれを登れっていうんだろうな」
「安全かなあ?」ブラァンの声は不安にかすれていた。
「だって、ほかにどう仕様もないだろ? 第一、どういうわけか、登っちゃいけないって気がまるでしないんだ。わかるかい?」
「それもそうだ。悪い……って感じはない。けど、いい感じもあまりしないよ」
ウィルは静かに笑った。「ここではどこに行ってもそうなんだろうな。この国では<闇《やみ》>はまるっきり力がないんだと思う――だけど光にも同じことが言える」
「じゃ、誰が力を持ってるのさ?」
「いずれわかると思うよ」ウィルは角笛《つのぶえ》をしっかり握《にぎ》りしめた。「離すなよ。登りにくいとは思うけど」
二人は護符《ごふ》につながれたまま順に幅の広い梯子段《はしごだん》を登って行った。そして出た場所のあまりの意外さに、数秒というもの、身じろぎもせず周囲を見ていた。
梯子は長い回廊《かいろう》の一端の床《ゆか》にある開けっ放しの落とし戸に通じていた。出て来た二人の前に伸びている床は奇妙《きみよう》なつぎはぎになっていて、部分ごとに段差があり、前のよりも高い部分があるかと思うと、その次は前の二つよりもぐんと低くなっている、というぐあいだった。一種の図書室らしく、重たげな四角い机《つくえ》や椅子《いす》が低い本棚《ほんだな》に仕切られて並び、左側の壁は本で埋まっていた。天井《てんじよう》には鏡板が張られていた。右手の壁は存在しなかった。
ウィルは目を凝《こ》らしたが理解できなかった。この長い部屋の右側には、端から端まで木彫《きぼ》りの手すり様のものが走っていた。だがその向こうには壁がなかった。何も見えなかった。ただ暗がりだけがあった。ただの闇《やみ》、空間か危険な虚空《こくう》がある、という感じすらしなかった。あるのは単なる無だった。
と、室内で動くものがあった。この国に来て初めて目にする人々が、長い回廊《かいろう》の向こう端にある戸口から姿を現したのだ。ひとりずつぶらぶらと、あらゆる年齢《ねんれい》の男女が、いつの時代のものともつかぬ簡素な衣類をさまざまにまとってはいってきた。多くはなかった。ある者は棚《たな》から山のように本を取って来て、机《つくえ》に向かい、ある者は立ったまま一冊《いつさつ》の本をめくり、皆それぞれに黙《だま》って身を落ち着かせた。ウィルとブラァンに注意を払う者はひとりとしていなかった。男が一人、すぐそばに来て、二人の背後の壁に並ぶ棚《たな》をむずかしい顔で眺《なが》めた。
ウィルは思いきって声をかけた。「見つからないんですか?」だが男は気づいた様子もなかった。ふっと顔が明るくなり、手を伸《の》ばして一冊の本を取り出すと、近くの机《つくえ》に戻《もど》って行った。ウィルはすれちがいざまに本の題をのぞき見たが、表紙の文字は理解できないものだった。そのうえ、男が本を開くと、どのページも真っ白だった。
ブラァンがゆっくりと言った。「ぼくらが見えないんだ」
「ああ。声も聞こえない。行こう」
二人は用心深く長い回廊《かいろう》を歩き出した。つまずいたりぶつかったりしないよう、腰《こし》をおろしている熱心な人々を大きくよけて通りながら。誰一人、何ら気づいた様子を見せなかった。誰かが読んでいる最中の本を見やっても、どのページにも何の記載《きさい》もないのだった。
回廊《かいろう》の端には戸らしい戸はなかったが、羽目板壁に開口部があり、異様な廊下へと通じていた。ここも全て板張りだったが、廊下というより四角いトンネルといった感じで、急な下り坂になっていて、ジグザグに折れ曲がっていた。ブラァンは何も聞かずにウィルについて来たが、たった一度、たまりかねたように言った。「こんな場所、無意味だ」
「ぼくらがたどりついたら意味を持つようになるさ」
「たどりつくって何に?」
「そりゃ――意味にさ! 水晶《すいしよう》の剣《けん》を……」
「見ろよ! あれ、何だ?」
ブラァンは立ち止まり、用心深く頭を上げていた。角を曲がった二人の前に、ジグザク坂の最後の部分が白くぎらついていた。何かその先にあるものから射《さ》す強烈《きようれつ》な光に満たされているのだった。一瞬ウィルは火を噴《ふ》いている大穴《おおあな》におりていくのでは、という恐ろしい予感に打たれた。だが、この光は冷たく、強烈《きようれつ》でこそあれ、まぶしくはなかった。最後の角を曲がって光の中に踏《ふ》み込むと、力強いよく通る声が前方の明るさの中から呼ばわった。「ようこそ!」
何もない床《ゆか》がだだっ広く拡《ひろ》がっていた。壁は影にまぎれ、天井《てんじよう》は高すぎて見えなかった。床のまんなかに黒衣をまとった人影が一つ、ぽつんと立っていた。ウィル達といくらも違わない背丈《せたけ》の男で、目鼻立ちの大きい顔には目もとと口もとに笑いじわが寄っていた。だが今は笑ってはいなかった。髪《かみ》は灰色で、きつく縮《ちぢ》れている様は織物のよう。小ざっぱりした灰色の縮れた顎鬚《あごひげ》の中央には、縞《しま》のような妙《みよう》な黒っぽいすじが縦に走っていた。男は両腕《りよううで》を拡げ、周囲の空間を二人に与えるかのように少し体をひねった。「ようこそ」男は繰《く》り返した。「都へようこそ」
少年達は並んで男の前に立った。ブラァンは角笛を放し、一歩前に出た。「失せし国には都しかないんですか?」
「いや」男は言った。「都と鄙《ひな》と城とがある。いずれその全てを見るだろうが、その前に、何ゆえに参ったのか聞かせてもらおう」男の声は温かく朗々《ろうろう》としていたが、まだ警戒《けいかい》の色があり、顔にも笑《え》みは浮かばなかった。男はウィルを見ていた。「何ゆえに参った?」男は繰《く》り返した。「我《われ》にら告《つ》げよ」
そう言いながら片手を開いて、前の空間に向かって小さな身振りをした。ウィルはひと目見て息を呑んだ衝撃《しようげき》のあまり頭がわあんと鳴り、いきなり体が冷え出した。
前方の、一瞬前まで暗闇《くらやみ》だったところには、何千という人々が、何列も何列も並んでひしめき、虚《うつ》ろな顔を上向けていた。幾層《いくそう》もの果てしのない回廊《かいろう》に坐《すわ》ってウィルを見つめていた。群集の注目は耐《た》え難《がた》い重量となって圧しかかり、精神を麻痺《まひ》させた。世界中と対決してるも同然だった。
ウィルはこぶしを固め、角笛《つのぶえ》のひんやりした金属を指に感じた。ゆっくりと深呼吸すると、澄《す》んだ声を張り上げた。「水晶《すいしよう》の剣《けん》を捜《さが》しに来ました」
群集は爆笑《ばくしよう》した。
寛大《かんだい》な、親しみのある笑いではなかった。ひどいものだった。膨大《ぼうだい》な観衆の中から深い咆哮《ほうこう》が湧《わ》き起こり、尾を引く雷鳴《らいめい》さながら膨《ふく》れ上がり、嘲《あざけ》り、やじり、侮蔑《ぶべつ》の波となってウィルの上に砕《くだ》けた。ゆびさしながら大口をあけて馬鹿笑《ばかわら》いをしている人々が見えた。哄笑《こうしよう》の海に呑《の》まれてウィルは震《ふる》え、自分の矮小《わいしよう》さ、取るに足りなさを知り、どんどん小さくなっていった……
ブラァンの声が傍《かたわ》らで怒りに燃《も》えてわめいた。「エイリアスを取りに来たんだ!」
全ての音が消えた。あたかもスイッチが切られたかのように、完全に。たちまち、嘲《あざけ》る顔は一つ残らず消え去った。
ウィルはがっくり肩を落とし、詰《つ》めていた息を弱々しく細く吐《は》き出した。
ブラァンが自分でも不思議そうに繰《く》り返した。「取りに来たんだ……エイリアスを」その名を味わっているようだった。
灰色髭《はいいろひげ》の男が静かに言った。「いかにも、その通り」そして両手を差しのべて進み出、それぞれの肩を抱いて、終わりのない顔の列があった黒い虚空《こくう》とを向かせた。
「誰もいはせぬ。誰も、何も。空間があるのみだ。あれらは全て……見せかけであった。見上げるがよい。後ろを見上げるのだ。さすれば見えるであろう……」
反射的に振り返ったふたりは目をむいて立ちつくした。頭上に、空中に吊《つ》り下がったバルコニーのように、二人が通り抜けて来た。無関心に本を読み続ける人々の明るい回廊《かいろう》があった。全てがあった。本も棚《たな》も重い机も。読書家達は相変わらずのんびり歩き回ったり、立ったまま本棚を眺《なが》めたりしていた。見ているウィル達のいる場所こそ、存在しないかに見えた第四の壁だった。
ウィルが言った。「ここは生きた劇場なんだ」
男は髭《ひげ》の先端をいじり、一本指で撫《な》でさすった。「人生は全て劇場よ。わしらはみな役者なのだ。おぬしらも、わしも。誰が書いたのでもない、誰が見るわけでもない芝居《しばい》の登場人物で、観衆はわずか自分自身に過《す》ぎぬ……」とやさしげに笑った。「役者によっては、これ以上の劇場《こや》はないと言うであろうよ」  ブラァンが応《こた》えるように、口惜《お》しげな笑《え》みを浮かべた。だがウィルはまだ頭の中にこだましている一つの言葉に耳を傾けていた。「エイリアスだって?」とブラァンに言った。
「ぼくだって知らなかったよ」ブラァンは答えた。「勝手に……とび出したんだ。ウェールズ語で、大きな火とか燃え盛《さか》る火って意味なんだ」
「いかにも、水晶《すいしよう》の剣《けん》は燃え盛る剣なのだ」髭《ひげ》の男が言った。「少なくとも、そういう話だ。記憶の及ぶ限り、生きて目にした者はほとんどおらぬゆえ」
「けど、見つけなくちゃならないんだ」とウィル。
「さよう。おぬしがここに参った理由はわかっておる。この地にては、物を問うのは答を知りたいがためではない。おぬしらが何者かも知っておる。ウィル・スタントン、ブラァン・デイヴィーズよ。あるいはおぬしら自身よりも良くわきまえておるかも知れぬぞ」とブラァンを一瞬じっと見た。「わし自身に関しては、いずれ知ることになろう。グイオンと呼んでくれればよい。都を見せて進ぜよう」
「失せし国」ブラァンが半ばひとりごちた。
「さよう」グイオンと呼ばれる男は、引き締《し》まった無駄《むだ》のない体を黒い衣類に包んでいた。髭《ひげ》が頭上から明るい光を受けてキラリとした。「失せし国だ。前にも言うたが、この国には都と鄙と城とがある。城こそ窮極《きゆうきよく》の目的地だが、他の全てを通らずには到ることは叶わぬ。それゆえ、ここから始めることだ。都、わが都、わが愛して止まぬ都から。よく見るがよい。世の驚異の一つなのだぞ。二度とこれほどのものは築かれぬであろう」男は微笑《びしよう》した。突然のまぶしい微笑で、温かさと愛情をもって顔を輝《かがや》かし、見ているだけで少年達は心が軽くなった。
「見よ!」男はパッと振り返り、両腕を舞台めいた空間に向かって拡《ひろ》げた。すると頭上の明るい回廊《かいろう》が消え、光が拡がってまわりじゅうで輝いたと思うと、街中の大きな開けた広場に立っていた。広場の周辺には円柱の並ぶ灰白色の建物が陽光を浴《あ》びてキラキラし、人と音楽と鮮《あざ》やかに彩られた露天《ろてん》の物売りの声と、噴水が高々と吹き上げる水の音と照り返しに溢《あふ》れていた。
日差しが顔に暖かかった。ウィルは歓《よろこ》びが体を駆《か》け抜けるのを覚えた。血が体内で踊《おど》っているかのようだった。ブラァンの顔にも同じ歓喜《かんき》が輝いていた。
二人に笑いかけると、グイオンは群集の中、失せし国の人々の間を通って、ウィル達を広場の反対側へと導いた。
薔薇《ばら》の国
幾《いく》つもの顔が万華鏡《まんげきよう》のゆらめく映像のように二人の周りに展開しては消えた。子供が笑いながら、派手な吹流しの束《たば》を目の前で振ってみせ、歩み去った。みどり色の首をしたハトの一群が餌《えさ》を求めて脇《わき》をかすめた。踊《おど》っている一団をも通り過ぎた。そこでは赤いリボンで飾《かざ》り立てた背の高い男が、おぼえやすい陽気なふしを笛で吹いていた。なめらかな灰色の石畳《いしだたみ》の一画では、地面に絵を描いているしわだらけのかぼそい老人につまずきかけた。ウィルはぎょっとした。垣間見《かいまみ》えたのは、こんもりとした丘の上の巨大なみどりの木の絵だったのだ。枝の間からは明るい光が射《さ》していた。だがすぐに、笛吹《ふえふ》きが踊《おど》り手達を率《ひき》いて踊りかかったため、先へ進まされてしまった。
髭《ひげ》に飾られたグイオンの顔は人ごみの中でもまだ隣りにあった。「離れるでない!」とグイオンは呼びかけた。が、今やウィルは、この群集の中で二人と視線を合わせるのはグイオンの目だけなのに気づいた。周囲の人々も姿は見えているらしく、何も知らずに虚《うつ》ろな目を向ける代わりに普通の通行人を見るようにちらりと視線を投げてよこした。だがまともに見つめる者はひとりもいない。ブラァンについても同様だった。見分けがついた様子もなければ、互いの間で示し合っている関心のかけらも見えなかった。ウィルは思った。(少し前進したらしいな――とにかくここにいるんだから。けど、かろうじてってところか。そのうち、本当に見てくれるようになるかもしれない。するべきことをちゃんとすれば……)
混雑した広場の中で、曲芸師を見物している笑顔の輪から笑い声が湧《わ》き起こった。食物を商《あきな》う露天《ろてん》からはたまらなくいい匂いがしている。細かいしぶきがウィルの顔を愛撫《あいぶ》した。ダイアモンドの流れのように太陽に向かって投げ上げられ、また落ちて来る噴水《ふんすい》のきらめく水玉が見えた。前にいるブラァンが黒眼鏡の陰の蒼白《あおじろ》い顔を輝《かがや》かせ、グイオンに何か言って笑うのが見えた。と、群集が動揺し、振り返り、ウィルに体を押しつけていた。馬の蹄《ひづめ》の音と馬具の鳴る音、軋《きし》る車輪の転がる音が聞こえ、人々の頭の間から、青い服を着て頭をむきだしにした騎手達が上下に揺《ゆ》れながら通るのがちらりと見えた。車輪の音が近づいた。馬車が見えるようになった。屋根は濃い青で黄金の唐草模様《からくさもよう》に華々《はなばな》しく飾《かざ》られ、大きな漆黒《しつこく》の馬の額につけられた青い羽根が前で踊《おど》っている。
蹄《ひづめ》の音が速度を落とし、石畳《いしだたみ》の上で車輪が軋《きし》った。馬車は止まり、ゆっくり前後に揺《ゆ》れた。グイオンが再び近づいて来てウィルとブラァンを前に引き出した。群集はあっさりと恭々《うやうや》しげに道をあけた。グイオンのキッともたげられた灰色の頭を見るや、どの人もすぐに脇《わき》へのいた。傍《かたわ》らに行き着いてみると馬車は急に巨大に見え、大きな車輪のついた湾曲した枠《わく》から何本もの丈夫《じようぶ》な革帯で吊《つ》られているピカピカの青い船さながらだった。磨《みが》かれた扉《とびら》の、ウィルの頭よりも高い位置に紋章《もんしよう》が彫《ほ》り込まれていた。黒馬どもは足踏《あしぶ》みし、鼻を鳴らした。御者《ぎよしや》は見あたらなかった。
グイオンは馬車の扉をあけ、手を差し入れて、乗り込むのを助ける踏《ふ》み段をおろした。
「さあ、ウィル」
ウィルは自信なげに見上げた。馬車の内側には影が潜《ひそ》んでいた。
「害はない」グイオンは言った。「直感を信じることだ、<古老>よ」
ウィルは不審《ふしん》に思い、力強い顔の中の笑いじわに包まれた目を見すえた。「あなたも来るの?」
「いや、まだだ。まずはおぬしとブラァンだ」
二人を助け上げるとグイオンは扉を閉めた。ウィルは腰《こし》をおろして外を眺めた。グイオンの周囲で群集は再び渦巻《うずま》き、しゃべり、それぞれの用事に再び取りかかった。陽光の中でつぎはぎ細工のように色とりどりに輝《かがや》いていた。馬車の中は涼しく、ほの暗く、詰物をした柔らかいベンチが両側にあり、革《かわ》の匂《にお》いがしていた。馬の一頭がいななき、蹄《ひづめ》がにぎやかに音をたて、馬車は動き出した。
ウィルは体をくつろげ、ブラァンを見た。白髪の少年は眼鏡をはずしてニヤッとした。「最初は馬で、次は四頭立ての馬車だよ。次は何を出してくれるつもりだろ? ロールスロイスはあるかな?」だがブラァン自身、自分の言葉に耳を傾けてはおらず、窓の外を過ぎる建物を見て目をしばたたくと、黒眼鏡を鼻の上に戻した。
「大きな鳥だろうな」ウィルはそっと言った。「でなきゃグリフォン(半分がライオンで半分が鷲の怪物)かバジリスク(見ただけで生物を殺せる牝鶏の化物)だ」そう言うと、ウィルもまた、革で吊《つ》られた馬車の振動に合わせて揺《ゆ》れながら、外の明るい光景を見やった。このあたりでは人影はまばらだった。迫持《せまりもち》のある家々が立ち並ぶ広い通りを走っているところで、どの家もウィルの目には驚くほど美しく映った。すっきりした線、アーチ形の扉、ゆったりと間をとってはめこまれた揃《そろ》いの窓、暖かい金色の石壁。建物を美しいと思ったのは初めてのことだった。
ブラァンがためらいがちに同じ考えを口に出した。「なんて……よく出来た所だろ」
「何もかもいい形をしてる」
「うん、そうなんだ。ほら、あれを見ろよ!」ブラァンは見を乗り出し、ゆびさした。家々の間に高いアーチ形の入口があり、すばらしい円柱の並ぶ中庭へと続いていた。だが中を見られる前に馬車は通り過ぎてしまっていた。
世界が少し暗くなったようだった。日がかげったのにウィルは気づいた。馬車の中で揺れ動きながら騒々《そうぞう》しい蹄《ひづめ》の音に耳を傾けていたが、光は薄れていくばかりだった。
ウィルは眉《まゆ》をひそめた。「日が暮れるのかな?」
「雲だろ、きっと」ブラァンが立ち上がり、座席の間で足をつっぱり、扉に手をつかまりながら外を見た。「やっぱりそうだ。大きな黒雲がいっぱい。本格的な夕立になりそうだよ」そう言ったと思うと、声が少し上ずった。「ウィル――馬車の前には確《たし》か青い服を着た騎手《きしゆ》が何人かいたよね?」
「いたよ。行列みたいだった」
「今はいないよ。前には誰もいない。けど、何かが……ついてくる」
緊張《きんちよう》した声音にウィルは慌《あわ》てて立ち上がり、友人の白い頭越しに外をのぞいた。揺《ゆ》れる小さな世界の外の大通りはすっかり暗くなり、はっきり見ることもできなかった。馬車の後ろには黒い人影が数人いて、歩調を合わせながら少しずつ近づいて来るように見えた。馬車を引く馬の蹄《ひづめ》の音が聞こえるような気がした。と、直感に打たれ、窓枠《まどわく》をぐっと握《にぎ》りしめた。何かが後ろからやって来る。恐れなければならない何かが。
「どうした?」ブラァンは言った途端《とたん》にあえいだ。いきなり床《ゆか》がグラッとなって、座席《ざせき》に放り出されたのだ。ウィルはふらつきながら戻り、ブラァンの隣りに腰を降ろした。馬車のたてる音がやかましさを増し、金属の触れ合う音は轟音《ごうおん》にまでなった。荒海の船のように馬車は激しく揺れ、二人は前後左右に振り回された。
ブラァンがわめいた。「速すぎる!」
「馬が怯《おび》えてるんだ!」
「何に?」
「あの……あの……ついてくるものに」言葉はなかなか出てこなかった。ウィルののどはからからだった。ブラァンの白い顔が目の前で踊《おど》った。ウェールズの少年は暗くなったので陽除《ひよ》けの眼鏡をはずしていた。異様な黄色い目には不安の色があった。と、目が大きく見開かれ、ブラァンはウィルの腕をつかんだ。
左右の窓《まど》の外を黒い影がいくつも駆け抜けて行った。たてがみと尾を風になびかせて疾駆《しつく》する馬、その背で黒い衣をたなびかせている頭巾《ずきん》をかぶった男達。黒い集団のところどころに白い衣をまとった影が孤立していた。どの頭巾の中にも顔は見えず、影があるばかりだった。見るべき顔があるのかも不明だった。
そこへ、他よりも背の高い人影か一つ、疾走《しつそう》する馬車の窓のすぐ外を駆《か》け抜け、灰色のほの暗い中にたゆたった。頭部が振り向いた。ブラァンの抑《おさ》えたあえぎが聞こえた。
頭はさっと上がり、ゆるい頭巾の片側をはねのけた。顔があった。憎悪《ぞうお》と悪意に満ち、鮮《あざ》やかな青い目で燃えんばかりににらみつけているその顔には見おぼえがあった。ウィルは震《ふる》え上がった。
自分の声がしわがれた呻きとなって聞こえた。
「騎手!」
顔の中で白い歯が凄《すご》い笑《え》みとなって光ったと思うと、頭巾《ずきん》が再びかぶさった。マントに包まれた人物は前のめりになって馬をうながし、前を走る乗り手達の黒い群れの中に姿を消した。蹄《ひづめ》の音が周囲を満たし、聴覚《ちようかく》を殴打《おうだ》したが、やがてそれも薄れ出した。
いくらか暗さが減ったようで、狂ったように揺れていた馬車も徐々《じよじよ》に静まり出した。
ブラァンは体を硬直《こうちよく》させてウィルを見つめた。「あれ、何者?」
ウィルは呆《あき》れたように言った。「騎手《きしゆ》だ。黒騎手だよ。<闇《やみ》>の君のひとり――」そしてだしぬけに体をまっすぐにし、激《はげ》しい目になった。「逃がしちゃいけない。見られた以上、追いかけるしかない!」声がかん高くなり、馬車全体が生き物ででもあるかのように命じた。「追え! あいつを追え! 追うんだ!」 馬車は再び速度を増した。音が大きくなり、馬は必死に前に突き進んだ。ブラァンは支えにとびついた。「気でも狂ったの!? 何をするのさ? 追うなんて……あれを?」恐ろしさのあまり最後の言葉は悲鳴に近かった。
ウィルは揺れる片隅《かたすみ》にしゃがんでいたが、顔は断固としていた。「しかたがない……知る必要があるんだ……待ってろ。落ち着け。恐怖はあいつが作り出すんだ。馬を走らせることによって。こっちが追えば、それだけ減る。しっかりつかまって見ていろ……」
かなりの速度で走っていたが、もはや暴走ではなくなっていた。馬は安定した力強い走り方で、馬車を子供の糸玩具《がんぐ》のように振動させた。雲などどこにもないかのように明るさがぐんぐん増し、まもなく日光が再び、開け放しの窓《まど》から射《さ》し込んで来た。大通りの片側はまだ迫持《せりもち》のある家々に縁取られていたが、反対側には高い木々となめらかな草地が遠くまでみどり濃く続いていた。小道や砂利を敷いた散歩道がそこかしこで草地を切って横切って交差していた。
「きっと……あの公苑《こうえん》だよ」ブラァンの声は揺《ゆ》れと揺れの間で勢いよく上下した。「最初に……屋根から……見たやつ」
「かもね。ごらんよ!」
ウィルはゆびさした。前方に道からそれてだく足で進む二人の騎手がいた。見たところもはや急いではおらず、公苑《こうえん》を横ぎる小道の一本をたどっている。奇妙《きみよう》な取り合わせだった。石炭のように黒い馬に乗った黒頭巾《くろずきん》に黒マントの騎手と、雪白《ゆきじろ》の馬に白頭巾に白マントの騎手。西洋将棋《チエス》の駒《こま》めいた儀式張った姿だった。
「追え!」ウィルは叫《さけ》んだ。
馬車が曲がると、ブラァンはそれまで走って来た長い無人の道を見やった。「あんなにたくさん――大きな黒雲みたいにいたのに。どこへ行ったんだろ?」
「秋になると木の葉が行く所へさ」
ブラァンはウィルを見、ふっと力を抜き、ニヤッとした「詩的だな」
ウィルは笑った。「本当だよ。困ったことに、木の葉ってのはまた出て来る……」
そう言いながらも注意は、公苑《こうえん》の穏《おだ》やかなみどりを背に寒々しく浮き上がっている二人の背の高い騎手《きしゆ》に向けられていた。まもなく白騎手(と呼ぶべきなのだろうとウィルは思った)は脇《わき》にそれ、静かに走り去った。馬車はいま一人の黒くまっすぐな後ろ姿を追い続けた。
ブラァンが言った。「なぜ<闇《やみ》>の騎手のうちある者は白一色で、残りは黒一色なんだい?」
「彩《いろど》りがないな……」ウィルは考えてみた。「ぼくにもわからない。<闇>が人間に手を出せるのが、どちらかの極端に限られているからなのかも知れない。光り輝《かがや》く理想に目がくらんでる人間と、自分の頭の中の暗闇《くらやみ》に閉《と》じこもっている人間と、その二つの場合なんだ」
車輪がガリッと道を噛《か》んだ。両側に整然《せいぜん》と形作られた花壇《かだん》が見え出した。間に白い石の腰掛《こしか》けが据《す》えられ、休んでいる人々や、散歩者や、遊んでいる子供達があちこちにいた。大きな黒馬にまたがって進む黒騎手《くろきしゆ》や、羽根飾りをつけて、黄金の紋章《もんしよう》を扉《とびら》につけた揺《ゆ》れる青い馬車を引く立派な四頭の馬に、淡《あわ》い関心以上の目を向ける者はいなかった。
ブラァンは、一人の老人が目を上げ、馬車を見、すぐに読みかけの本に戻るのを見た。「今度はぼくらが見えるんだ。けど、何だか……どうでもいいみたい」
「そのうち、変わるんじゃないかな」ウィルは答えた。馬車が止まった。ウィルは扉《とびら》を開けると、足で踏み段をおろした。白い道のざらざらした砂利《じやり》の上にとびおりると、周囲を取り囲んでいるものを見て、一瞬、喜びに目を奪《うば》われて立ちつくした。
空気中に芳香《ほうこう》が重くたちこめ、どこもかしこも薔薇《ばら》だらけだった。四角や三角や円形の花壇《かだん》が草地をまだらに彩《いろど》っていた。赤、黄、白、そしてありとあらゆる中間色。二人の前には囲い込まれた円形の花園への入口――こぼれんばかりにばらを咲《さ》かせた高い生垣《いけがき》の中のアーチ――があった。少年達は香りの強さに酔《よ》いながらアーチをくぐった。花園の大きな輪の中にはいると、格式張った白大理石の手すりと腰描《こしか》けが丸くしつらえてあり、その中央のきらめく噴水《ふんすい》では、三頭のイルカが決して終わらぬ跳躍《ちようやく》のさなかにあって、三つの口から三すじの水を高く、しぶきを上げてほとばしらせていた。その全体に太陽がかすかな虹《にじ》を投げかけていた。大理石の冷えびえした線を際立《きわだ》たせるかのように、到る所に薔薇《ばら》の山があり、波打っていた。いずれも木ぐらいの丈《たけ》がある咲《さ》き誇《ほこ》る繁《しげ》みだった。
中でも最大の一つの前に、小さなピンクの花をつけた野イバラが枝を拡げつつあり、リンゴのように甘い香りを漂《ただよ》わせていた。そこに、黒い燃えさしのように、大きな黒馬にまたがった黒騎手《くろきしゆ》がいた。
ウィルとブラァンは噴水《ふんすい》と並ぶところまで来ると立ち止まり、少し距離をおいて騎手と馬と向かい合った。黒馬は足踏みを繰り返し、落ち着きがなかった。騎手は手綱《たづな》をツッと引き、頭巾《ずきん》を少し後ろへ下げた。ウィルは以前に見たことのある猛々《たけだけ》しい整った顔と、赤茶けた髪《かみ》を見た。
「さて、ウィル・スタントンよ」騎手は低い声で言った。「テムズ谷から失せし国まではさぞや遠かったであろう」
ウィルは答えた。「狩りの群れが<闇《やみ》>を追い払った地の果てからここまでも、さぞかし遠かったろうね」
一瞬、騎手は苦痛を覚えたかのように顔をしかめた。頭巾《ずきん》の陰《かげ》になるように少し頭の向きを変えたが、遠い側の頬《ほお》全体を横ぎる醜《みにく》い傷痕《きずあと》を隠すのには間に合わなかった。だが顔をそむけたのはつかの間、次の瞬間には背すじを誇《ほこ》らかにまっすぐ伸ばし直していた。
「あれは<光>の勝利であった。したが、あれ一つのみ」騎手は冷たく言った。「二度と勝つことはない。我らの最後の蹶起《けつき》の時が来たのだ、<古老>よ。<闇《やみ》>の力は最大になった。今となっては止めるすべはない」
「ひとつある」ウィルは言った。「ひとつだけ」
騎手は光る青い目をウィルからブラァンに向けた。唱えるような、儀式張った口調で、「剣はペンドラゴンの手に入るまではその力を得ることは出来ぬ。剣に手をかけるまではペンドラゴンの位は名のみ」と言うと、目をウィルに戻した。微笑《びしよう》が浮かんだが目は氷のように冷《ひ》ややかなままだった。「ウィル・スタントンよ、われらはきさまの先回りをした。この国が失われた当初より、我らはここにいる。エイリアスをただいま持っている者の手から奪《うば》いたければ、試みるがいい。成功しはせぬ。その手はわが眷属《けんぞく》のものゆえ」
ブラァンがとまどって心配気に振り向くのがわかったが、ウィルはあえて見ようとはしなかった。騎手の様子をつぶさに見ていたのだ。男の顔と姿勢に表われた自信は膨大《ぼうだい》で、傲岸不遜《ごうがんふそん》なものに見えた。が、ウィルの直感が、見かけほど完璧《かんぺき》ではないと告げた。どこかに弱味が潜《ひそ》んでいる。<闇《やみ》>の勝利への確信のどこかに瑕《きず》が、小さな瑕がある。そこにこそ、<闇《やみ》>の蹶起《けつき》を妨《さま》げる唯一《ゆいいつ》の望みがあるのだ。
ウィルは無言で長いこと騎手を見つめた。じっと、視線を微動《びどう》だにせず。ついに青い目が獣《けもの》のそれのようにつとそらされた。ウィルの考えは正しかった。 騎手はとりつくろうようにさりげなく言った。「ここにいる間は、叶わぬ目的を追う愚《おろ》かさを忘れ、失せし国の驚異を楽しむことだ。<闇>を助ける者はここにはおらぬ。同様に、きさまらを助ける者もいない。だが楽しむよすがは多い」
黒馬が落着きなく体を動かした。騎手は手綱《たづな》を引き、大きなつぼみやたっぷりした黄色い花を下向きにつけた鮮《あざ》やかな蔓薔薇《つるばら》に近づかせた。
ゆとりのある、気取っているとさえ言える身振りで騎手は身をかがめ、黄薔薇を一輪折り取って嗅《か》いだ。「たとえば、この花だ。あらゆる時代の薔薇がある。このマレシャル・ニール種。これほどの香りはまたとない……きさまのそばの、小さな赤い花をつけた変わった背の高い繁《しげ》みはモイェシイだ。独立独歩で、他のどれよりも多くの花を咲《さ》かせるかと思えば、幾年にも渡り、ただの一輪だにつけぬ」
「薔薇は予想のつかぬ花でしてな、殿」くだけぬ声がさらりと言った。次の言葉にはわずかにかどがあった。「失せし国の民も同じこと」
いきなり現われたのはグイオンだった。噴水《ふんすい》の傍《かたわ》らに黒くちんまりと佇《たたず》んでいる。どこからやって来たものか、きらめく水しぶきの上にかかった虹《にじ》の中から歩み出たかのようだった。
黒馬がまた不安気に足踏《あしぶ》みした。騎手《きしゆ》には制御《せいぎよ》するのがやっとだった。騎手は冷たく言った。「楽師よ、<光>に手を貸《か》せばきさまの運命は辛《つら》いものになろうぞ」
「わしの運命はわしの決めること」グイオンは答えた。
黒馬が頭を振り上げた。ウィルには高い生垣《いけがき》に囲まれた花園から出て行きたがっているように思えた。入口の薔薇に飾られたアーチを肩越しに見ると、日の光を反射してぎらつく白馬にまたがった白マントの騎手の静かな姿が見えた。
グイオンもそちらに目をやり、小声で言った。「ほほう」
「この国にいるのは我輩《わがはい》ひとりではない」騎手が言った。
「いかにもその通りですな。<闇《やみ》>の君の最たるものがこの王国に集《つど》うて来ているとの噂《うわさ》は、真実《まこと》と見受けました。確《たし》かに総力がここに集うている――いずれ必要とされるでしょう」こだわりのない、あっさりした口調だったが、最後のひとことはわざと間のびした言い方で、騎手の顔が険《けわ》しくなった。唐突《とうとつ》な身振りで頭巾《ずきん》を深く引きおろしたので、声だけが陰《かげ》から毒《どく》づいた。
「おのが身を救え、タリエシンよ。さもなくば<光>の空しい希望もろとも果てよ! 果てるがよい!」
馬にぐるっと向きを変えさせると、黒いマントがひるがえり、言葉が石のように投げ出された。「果ててしまえ!」落ち着かなかった馬はうながされてダッとアーチに向かい、近づくのを見た白騎手はあいさつ代わりに馬を円に歩かせた。遠くの方からふいに雷が起こって急速に接近して来たと思うと、前にウィルとブラァンを追い抜いて行った<闇《やみ》>の騎手達が、明るい一日を台無しにする大きな雲さながら公苑《こうえん》を駆《か》け抜けて来た。そして<闇>の君である二人の騎手を囲み、押し包んで運び去るかに見えた。黒雲が道に沿《そ》って走り去ると雷鳴も止んだ。ウィルとブラァンとグイオンの三人は、都の薔薇《ばら》の中に、失せし国のかぐわしい花園の中に取り残された。
無人宮
「タリエシンって?」ウィルがたずねた。
「名前よ」グイオンは答えた。「人の名前の一つにすぎぬ」と手を出して、傍《かたわ》らの白薔薇の枝を撫《な》でた。
「見た限りでは、わが都が気に入ったかな」
ウィルには笑い返すことができなかった。気がかりなことがあったのだ。「馬車でぼくらを送り出した時、騎手《きしゆ》に逢《あ》うだろうってわかってたの?」
グイオンは真顔になり、髭《ひげ》をいじった。「いや<古老>よ、知らなんだ。馬車はただここへおぬしらを運ぶためのもの。だがあやつのほうでは知っていたのかも知れぬ。失せし国において<闇《やみ》>が知らぬことはごくわずかなのだ。出来ることもわずかしかないがな」と言うと、だしぬけに噴水《ふんすい》を振り返った。「来るがよい」
二人はグイオンのあとから噴水の中心の前に立った。からみ合った白いイルカの吐《は》く水は、そこではきらきらする螺旋形《らせんけい》を描いていた。近くには繁茂《はんも》している薔薇《ばら》の繁《しげ》みの中でも最大のものがあった。こんもり高く、家一軒ほどの幅があり、可憐《かれん》な白い花を咲かせていた。噴水の細かな霧《きり》が髪《かみ》を星のように飾り、顔を濡《ぬ》らした。光る滴《しずく》がグイオンの灰色の髭《ひげ》にさえ宿っているのが見えた。
「<光>のアーチを見るのだ」グイオンが言った。
ウィルは踊《おど》る水と、つややかなイルカと、花びらの四枚あるバラを見た。全てが渾然一体《こんぜんいつたい》となっていた。「虹《にじ》のこと?」
虹は突然そこに再び現われた。太陽が産《う》んだおぼろげな色彩の曲線が噴水《ふんすい》の中にあり、その上にもう一つかかっている気配があった。
グイオンが背後でそっと言った。「よく見るのだ。じっと」
二人はおとなしく目を凝《こ》らして虹を見、大理石と跳躍《ちようやく》する水に反射する光に目がくらむまで眺《なが》め続けた。だしぬけにブラァンが叫んだ「ごらん!」――同時にウィルは手を握《にぎ》りしめて一歩前に踏《ふ》み出しかけた。虹《にじ》の陰《かげ》にかすかに、宙に浮いているかに見える人物の輪郭《りんかく》が映った。白い衣にみどりの長上着まとい、うつむいている男だ。体のあらゆる線が憂《うれ》いにうなだれていた――その手には輝《かがや》く剣があった。
ウィルは息をするのもはばかられ、もっとよく見ようと前に乗り出した。人物は、視線を感じて見つめ返したくなった、と言わんばかりに半ば頭を上げかけたが、だるさに負けたかのようにうなだれ、手が……
……と思うと、そこには噴水《ふんすい》のきらめく水しぶきの間を縫《ぬ》ってかかった虹《にじ》の弧《こ》があるばかりだった。
ブラァンが緊張した声で言った。「エイリアス。あれがそうだ。あの人、誰だい?」
「気の毒に」ウィルが言った。「何て可哀想《かわいそう》な人だろう」
グイオンは長々と息を吐《は》いて緊張を解いた。「見たか? はっきり見えたか?」すがるような熱意がこもっていた。
ウィルは不思議に思ってグイオンを見た。「あなたは見なかったの?」
「これは<光>の噴水なのだ。失せし国において許されている唯一《ゆいいつ》のささやかな<光>の手仕事だ。これが見せてくれるものを見ることが叶《かな》うのは、<光>に与《くみ》する者のみ。わしは……まだなりきっておらぬのでな」グイオンは熱心にウィルとブラァンを見つめた。「見た顔をおぼえていられるか? あの悲しげな顔と、あの剣を?」
「どこでだって」ウィルが言った。
「いつだってね」ブラァンは「だって――」と言いかけ、とまどって言葉を切り、ウィルを見た。
「わかるよ」とウィルは言った。「説明のしようがない顔なんだ。けど会えばすぐにわかる。誰なの?」
グイオンはためいきをついた。「王だ。グイズノー、失せし国の失われた王だ」
「剣はあの人が持ってるんだ。どこにいるの?」水晶《すいしよう》の剣が話題になるたびに、ブラァンが妙《みよう》な熱意のとりこになるらしいことにウィルは気づいた。
「剣は王が持っておられる。おぬしらにお与えになるかもしれぬ。おぬしらの言葉が耳にはいればな。何者の声をも耳にされなくなって久しい――お耳が聞こえぬのではなく、御自分のお心の中に閉じ込もってしまわれたのだ」
ブラァンは繰り返した。「どこにいるの?」
「塔《とう》におられる。カー・ワディルにある塔に」グイオンがウェールズ語を口にすると、それまで彼の英語につきまとっていた唄《うた》うようななまりがウェールズ人のものだったのにウィルは気づいた。ブラァンのそれよりはるかに弱いなまりだったが。
「カー・ワディル」ブラァンは額《ひたい》にしわを寄せてウィルを見た。「ガラスの城って意味だよ」
「玻璃《はり》の塔《とう》」ウィルは言った。「虹《にじ》を通して見える玻璃の塔だ。」噴水《ふんすい》を振り返ると、ウィルは螺旋状《らせんじよう》の流水が舞い上がり、砕《くだ》け、ダイアモンドの雨となってイルカの濡《ぬ》れてる光る背に注ぐのを見た。それからはたと動きを止めてよく見直した。「あそこを見ろよ、ブラァン。気がつかなかったけど、何か書いてある。ずっと下のほうだよ」
二人は揃《そろ》ってかがみ込み、しぶきをよけようと手を顔の前にかざした。大理石に、半ば草に隠れて、文字が一列に刻《きざ》まれていた。文字は苔《こけ》むしてみどりまだらになっていた。
「我ハ……」ウィルは手で草を分けた。「我ハ全テノ杜屋《モリヤ》ノ胎《タイ》」
ブラァンはむずかしい顔になった。「我ハ全テノ杜屋ノ胎。胎ってのは、お母さんから生まれる時に出て来る場所だから、この意味は――物事の始まりかな? けど、杜屋って何だろ?」
「難をのがれるための場所だ」グイオンが静かに言った。
ブラァンは黒眼鏡を押し下げて刻まれた文字を透《す》かし見た。「全ての避難所《ひなんじよ》の始まり? 何のことだろ、いったい?」
「わしには言えぬ。だが、おぼえておいたほうがよいと思う」グイオンはアーチの外で待っている青い馬車をゆびさした。「来ぬか?」
踏み段に上がって馬車に乗り込みながらウィルはたずねた。「扉《とびら》についている金の紋章《もんしよう》は何? 跳《は》ねてる魚と薔薇《ばら》があるやつ」
「魚はダヴィ河にいる鮭《さけ》だ。後世の紋章学者は、『青地。梨地《ナンジ》銀ニテ有棘《キヨク》ノ薔薇《バラ》三輪。間ニ黄金ニテ泳ゲル体《テイ》の鮭』と解説するようになるだろうよ」グイオンは少年達の頭を越え、御者席《ぎよしやせき》に腰をおろし、手綱《たづな》をたぐり寄せた。最後の数語はやっと聞き取れた。「グイズノー王の紋章よ」
そう言うと手綱で四頭の黒馬をうながした。馬は羽根に飾られた頭を振り立て、走り出した。揺れ動き、ガラガラ音をたてながら広い緑苑《りよくえん》の花壇《かだん》の間を抜け、都の石畳《いしだたみ》の上に出た。そこかしこを人々が三々五々散策していた。馬車が音高く通りすぎると、人々は顔を上げ、驚きと、時には好奇心をも抱《いだ》いて見送った。あいさつをする者こそいなかったが、以前のように無視する者もなく、今回はあらゆる頭が振り向いた。
馬車は速度を落とし、とある角を曲がった。外をのぞくと、中庭へと続いていたあのアーチ形の入口をくぐるところだった。四方を囲む壁は高い円柱に飾られ、九つに仕切られた細長い窓がたくさんはめこまれていた。お伽噺《とぎばなし》めいた尖塔《せんとう》が手すりに縁取られた屋根の上に幾つも建っていた。どの窓も無人で、顔一つのぞいてはいなかった。
馬車が止まったのでおりると、幅の狭《せま》い石段が、角柱にはさまれた戸口へと続いていた。戸口は石細工の巻物や人物像で飾られていた――全体を圧しているのは、馬車の扉《とびら》についているのと同じ、跳《は》ねる魚の紋章《もんしよう》だった。ウィルとブラァンは互いに見交《みか》わしてから正面に目をやった。扉は開け放たれていた。中に見えるのは闇ばかりだった。
グイオンが背後で言った。「グイズノー・ガランヒルの宮殿だ。王が海辺の城に引き篭《こ》もられ、外に出られなくなって以来、無人宮と呼ばれている。二人一緒にはいるがよい。道を見つければあとで会えるであろう」
ウィルは後ろを振り返った。華麗《かれい》な馬車と漆黒《しつこく》の馬はすっかり姿を消していた。広い中庭はからっぽだった。グイオンは小ぢんまりした黒い姿で石段のふもとに立っていた。髭《ひげ》に飾られた顔は上向けられ、ふいに現われた心配そうなしわが妙《みよう》にはっきり刻《きざ》まれていた。神経を張りつめさせて待っているのだった。
ウィルはうなずいた。宮殿の大きな開け放しの戸口に向き直ると、ブラァンがじっと暗がりをのぞき込んでいた。グイオンが口を開く前から身動き一つしていないのだった。白い頭を振り向けもせずにブラァンは言った。「さあ、行こうよ」
二人は並んで中にはいった。大扉《おおとびら》は長々と軋《きし》り、ドーンと深く反響する音をたてて閉じた。途端《とたん》に暗闇《くらやみ》に白く燃える光がほとばしった。ブラァンがひるんで目をおおうのを見たあとで初めて、ウィルは前にしているものの重みに打たれ、ハッと声を立てた。
ぐるりを囲み、つきることなく燦然《さんぜん》と輝《かがや》いているのは数えきれないほどのウィルとブラァンだった。反転して目をみはると、映像のウィルも、レビューの踊《おど》り子の列さながら、次第に遠ざかりつつ反転した。どなってもみた。映像が視野の中を反復してるのと同様、声も限りなく繰り返されるこだまとなって飛び交《か》うものと思ったのだ。だが、生の声が一回鈍《にぶ》く響いただけだった。
それがこの場所の精神をウィルに教えてくれた。細長い場所なのだ。
「廊下《ろうか》かな?」とまどったように言うと、
「鏡だ!」ブラァンがやたらに頭をめぐらせながら言った。黒眼鏡の陰《かげ》ですら目がぐっと細められていた。「鏡だらけだ。鏡で出来てるんだよ」
ウィルの頭は混乱《こんらん》の渦《うず》を脱して、目に見えるものを整理し出した。「うん、鏡だ。床《ゆか》を除いては」とつややかな黒い床を見おろした。「こいつは黒ガラスときた。ほら、さかさまだろ。ここは全体が鏡で出来ている、長くて曲がりくねった廊下《ろうか》なんだ」
「ぼくが多すぎる」ブラァンは不安げな笑い声をたてた。果てしなく続く幻《まぼろし》のブラァンが同時に笑い、どの顔にも白い歯がひらめいた――途端にどれも目を丸くして真顔になった。
ウィルは自信なげにニ、三歩進み、幾列もの映像が一緒《いつしよ》に動くのを見てたじろいだ。前方に廊下のカーヴが少し見えた。大きな本の中の美しい白紙のページさながら、おのれの光輝《こうき》だけを反射している。ウィルは手を伸ばしてブラァンの袖《そで》を引いた。
「おい、隣りを歩いてくれ。ちらりとでも違う人間の顔が見えれば、そう目を惑《まど》わされずにすむ」
ブラァンはついて来て、「本当だ」と頼《たよ》りなげに言った。だが少し進んだかと思うと急に立ち止まった。顔がひきつり、気分が悪そうだった。「たまんない」と苦しげに言った。「鏡が、光がおおいかぶさってくる。両側から迫《せま》ってくる。特別いやな箱の中にいるみたいだ」
「頑張れ」ウィルは努めて自信ありげに言った。「あの角を曲がれば開けるかもしれないよ。永久に続くわけはない」
だが、つきることなく繰り返される自分達の映像で壁面を満たしながら角を曲がってみると、二つの急な角に行き逢《あ》っただけだった。映像は一段とめちゃくちゃに分裂《ぶんれつ》した。別な鏡の廊下が最初のと交差して、進むべき道を三つに分けているのだった。
ブラァンが辛《つら》そうに言った。「どれにする?」
「見当もつかない」ポケットに手を突っ込み、一ペニー玉を取り出した。「表なら右かまんなか、裏なら左だ」そう言うと硬貨を放り上げて回転させ、差し出した腕の上で受け止めた。
「表だ」ブラァンが言った。「左だ」
「おっと!」ウィルは硬貨を落としてしまった。回転しながら転がっていくのが聞こえた。「どこだろ? ここでなら簡単に見つかるはずだけど……。鏡のどこにも継ぎ目がないなんて妙だな――四角い管の中にいるのと同じだ――」そこまで言うとブラァンのひきつった顔が目にはいり、ぎょっとなった。「来いよ――ここから出なきゃ」
二人は左手の角を曲がって進み続けた。が、鏡の廊下《ろうか》は最初のとそっくりで、どこまで行っても終わらないかに見えた。蜿々《えんえん》と続き、鋭く左に折れたと思うと再びまっすぐになった。高く響く足音も立ち止まるや否《いな》や止んでしまう中で、ようやく再び廊下の交差点に出た。
ブラァンは元気なく見回した。「前のとまるで同じに見えるね」
鏡とは異質の反射光にウィルの目は床《ゆか》に引き寄せられた。かがんでみると、落とした一ペニー玉だった。体を起こし、ふいにのどを襲《おそ》った虚《うつ》ろな感覚を殺そうと激しく唾《つば》を嚥《の》み下すと、ブラァンに手を差し出した。
「同じなんだ。ほら」
「神様《ダヴ》。一周して来たんだ」ブラァンは眉《まゆ》をひそめた。「ねえ、迷路なんじゃないかな?」
「迷路……」
「鏡の迷路だよ。一生をここで過ごすことになるかもしれない」
「グイオンはきっと知ってたんだ」ウィルは気づかわしげに緊張して自分を見上げた灰色髭《ひげ》の顔を思い浮かべた。「言ってたじゃないか。『道を見つければ、あとで会えるであろう』って……」
「迷路について何か知ってるかい?」
「ハンプトン・コート城にあるやつにはいったことがある。生垣《いけがき》の迷路だった。はいっていく時には右に曲がり続けて、出て行く時には左ばかりなんだ。けど、あれには中心点があった。こいつは――」
「あのカーヴだよ」考える種が出来たのでブラァンはいくらかましな様子に見えた。「考えろ。考えるんだ。出発点で右に進んで、カーヴを描いて……」
「左に曲がるカーヴだった」
「それから十字路に出て、一番左の廊下《ろうか》を選んだんだ。今度はそいつが左にカーヴして、円を描いて十字路に連れ戻したってわけさ」
ウィルは目を閉《と》じ、迷路の形を思い描こうとした。「じゃ、左に曲がったのがいけないんだ。右ならいいのかな?」
「そうさ。いいかい」ブラァンの蒼《あお》い顔はひらめいた考えのために輝いていた。口を大きくあけると廊下の鏡張りの壁にハーッと息を吐きかけ、曇《くも》った部分に指で一連の輪をつづった上向きの螺旋形《らせんけい》を描いた。輪のそれぞれは互いに触れることなく上に伸びていた。湾曲した輪の頂点は左側を向いていた。伸びきったバネを立てた図のように見えた。
「こういう形でなきゃおかしい。最初の輪があるだろ? ぼくらが歩いて来たのはあれだよ。迷路ってのは繰り返しの連続なのがあたりまえだし」
「輪から輪へとつながっていくなら、螺旋形しかない」ウィルは曇《くも》った部分に描かれた図が次第に薄れていくのを見守った。「輪を毎回一周する必要はないわけだ。それぞれが交差する箇所で右を選べばいい」
「右に曲がり続けてね。行こうよ」ブラァンは勝ち誇《ほこ》って右の廊下に向かった。「待てよ」ウィルは壁に息を吐《は》きかけ、再び螺旋形を描いた。「向きが逆だよ。いいかい? 最初の輪を一周したんだから、今のぼくらは逆向きになってるんだ。もと来た方を向いているんだよ。このまま右に曲がったら、実は左に曲がってることになる」
「そしてまた同じ輪を通るってわけか。ごめん。その通りだ。急ぎたかったもんで」ブラァンは腕を横に振ってピョンと跳び上がり、逆を向いた。そして跳躍《ちようやく》をまねた果てしのない映像群を嫌悪《けんお》をこめて眺《なが》めやった。「行こうよ。こんな鏡、大っ嫌いだ」
カーヴを描く右の廊下《ろうか》をたどりながらウィルは考え深げに友人を見つめた。「本気でそう言ってるんだね? そりゃ、ぼくだってここは気に入らないさ。君が悪いよ。けど、君の場合は――」
「明るさのせいなんだ」ブラァンは不安気に周囲を見回し、歩を速めた。「それだけじゃない。こんなに反射像が多いと、妙《みよう》な気分がしてくる。頭の中身が吸い出されるみたいなんだ。ええい!」と言葉にならぬもどかしさに頭を振った。
「次の十字路だ。早かったなあ」
「当然だよ。これが正解ならね。また右折だ」
二人は四回右折し、どこまでも歩調を合わせて来る幾列もの映像を率いて進んだ。
突然、四つめの角に続くカーヴを曲がると、二人自身の姿に出くわした。何もない鏡の窓から度肝《どぎも》を抜かれた二つの映像が見つめ返していた。
「そんな!」ウィルは激しく言ったが、声が震《ふる》えるのを聞き、ブラァンの頭と肩が絶望してしおれるのを見た。
ブラァンは静かに言った。「行き止まりだ」
「だって、間違ったはずはないよ」
「間違ったんだから仕方がない。また戻って……やり直すのか」ブラァンは膝《ひざ》をがくっと折り、黒ガラスの床にぐったりと坐り込んでしまった。
ウィルは鏡の中のブラァンを見た。「信じられないよ」
「だって、現に行き止まりじゃないか」
「最初からやり直すってのが信じられないんだ」
「ほかにないもの」ブラァンは二人の映像をうらぶれた顔で見上げた。立っている少年の青いセーターとジーパン、床《ゆか》にうずくまっている少年の白い髪と黒眼鏡を見た。「前にあったよね、ずっと前に――行き止まりの壁にぶつかったことが。あれは、君の<古老>としての力が使えるところだった。ここじゃきかないだろ?」
「うん。失せし国では使えない」
「いやだ」ウィルは言い張った。親指の爪《つめ》を噛《か》みながら、与えられたものしか映し出せないくせに、なぜか独自の広々とした世界を秘めているように見えるのっぺらぼうの鏡の壁を見回した。「違う。何かあるはずだ……思い出さなきゃいけいなことがあるはずなんだ」ブラァンを見おろした目は、本当には見えていなかった。「考えるんだ。初めて出逢《であ》ってからこっち、グイオンは何か意味のありそうなことを言わなかったかい? こうしろって言ったことがなかったっけ?」
「グイオンがか? 馬車に乗れって言ったよ……」ブラァンは立ち上がり、蒼《あお》い額にしわを寄せて記憶をさかのぼらせた。「道を見つければ会えるって言ってた――けど、そいつは最後だったな。その前に……そうだ何かをおぼえておけって言ったんだ。何だっけ? おぼえておけって言ったんだ。おぼえておけって……」
ウィルは体を硬《こわ》ばらせた。「おぼえておけって。虹《にじ》の中の男の人の顔と、それからもう一つ、噴水《ふんすい》の文字だ。『おぼえておいたほうがよいと思う』……って」
思い出したウィルは背すじをピンと伸ばして立ち、両腕をまっすぐ前に突き出し、十本の指を全部、行手を阻《はば》む鏡の壁に向けた。
「我は全ての杜屋の胎」ウィルはゆっくりと、はっきりと、公苑《こうえん》の噴水の苔むした石の上に草を通して読み取った文句を口にした。
すると鏡に映った二人の頭上に、かすかに、徐々《じよじよ》に、別の文字が一行に並んで光り始め、次第に明るさを増して、ついには余りのまばゆさで他の全ての光を鈍《にぶ》らせてしまった。文句を読み取り、理解する暇《ひま》はわずかしかなかった。<我ハ全テノ丘ノ火>。続く一瞬、光は耐え難《がた》いほど強烈になり、二人はひるんで顔をそむけた。と、何マイルもの距離に隔《へだ》てられて爆《ばく》発音を聞くような、妙なやさしい音が聞こえ、二人を閉じこめていた鏡の壁は一斉《いつせい》に砕《くだ》けて、美しく鳴りながら崩《くず》れ落ちた。
少年達は自由の身だった。光る文字は目の前の闇の中にまだ浮かんでいたが、鏡の迷路は始めから存在しなかったかのように跡形もなかった。
燃える文字はウィルの頭上から消えたが、数秒というもの、まだその場に亡霊《ぼうれい》めいた残像が漂《ただよ》っていた。傍《かたわ》らのブラァンが長々と安堵《あんど》の吐息《といき》を洩《も》らすのが聞こえた。
グイオンの声が闇《やみ》の中から温かく呼びかけた。「道を見つけたな」
目をしばたたいたウィルは、グイオンが前に立っているのをみとめた。三人は高い円天井の大広間にいた。白い壁には贅沢《ぜいたく》なつづれ織りや鮮《あざ》やかな絵画がかかっている。後ろを振り返ると、広間の反対側に、迷路《めいろ》に足を踏《ふ》み入れた時に背後で閉《し》まった大きな石細工の扉《とびら》があった。迷路そのものは影も形もなかった。
ブラァンがまだ震《ふる》えの止まらぬ声で言った。「あれ、現実にあったの?」それからおずおずと笑った。「馬鹿《ばか》なこと訊《き》いちゃったね」
グイオンは微笑《びしよう》しながら近づいて来た。「現実とは難しい言葉だ。真実や現在というのと同じくらい難しい……来るがよい。都の防壁を崩《くず》して身の証《あか》しを立てた今なら、城への道を教えて進ぜることが出来る」
つづれ織りの幕《まく》を引き開けると、狭《せま》い螺旋《らせん》階段への入口が明かされた。グイオンの合図で二人はあとに続いて登り出した。ウィルは柔《やわ》らかいなめし革《かわ》の靴《くつ》をはいた静かなグイオンの足を追った。階段は湾曲して果てしなく上昇し続けるように思えた。あまりに長いこと登り続けたので、息がゼイゼイと言い出し、何百フィートもの高さまで来たに違いないと思わせた。
と、グイオンが「しばし待て」と言って立ち止まり、何かをかくしから取り出した。重い鉄の鍵《かぎ》だった。階段脇《わき》の壁にはめ込まれた不透明な細い窓からのわずかな光で、鍵の頭が装飾的《そうしよくてき》な形に作られているのが見えた。十字で仕切られた輪の形だった。ウィルは身じろぎもせずに見つめた。顔を上げると、グイオンの黒い目が謎めいた光を帯びて見おろしていた。
「ああ、<古老>よ」グイオンはそっと言った。「失せし国はいにしえよりの象徴《しようちよう》に富んでいるが、その意味を記憶しておる民はおらぬも同然なのだよ」
グイオンは行手を阻《はば》んでいた小さな戸をあけた。さっと日の光が降り注ぎ、鏡の迷路の苦しい記憶《きおく》の最後の一切れを洗い去ってくれた。
ウィルとブラァンは監獄《かんごく》から出て来る囚人《しゆうじん》さながら、青空を仰《あお》いで外に出た。三人は黄金細工の手すりの内側にいて、都のきらめく黄金の屋根の波と、公苑《えん》のこんもりしたみどりの拡《ひろ》がりを見おろしていた。この旅の始まりとよく似ていたが、前よりも高い所にいるのだった。じきに、今度のバルコニーは巨大な白と金の円蓋《えんがい》の下の縁と判明した――そして、最初に暁《あかつき》の中で輝《かがや》くのを見たのは、このすばらしい黄金と水晶《すいしよう》の縞《しま》の円蓋を頂《いただ》いた失せし国の無人宮、グイズノー王の宮殿に他ならなかったのだと知った。伸び上がったウィルは、西を指し示す黄金の矢のあるてっぺんをかろうじて見たように思った。
グイオンが来て二人の背後に立ち、同じ方向を指した。小指に跳《は》ねる魚を形取った濃い色の石の指輪がはまっているのにウィルは気づいた。
差し出された腕《うで》の線に沿《そ》って、都の屋根がなくなり、熱気の中へと伸び拡がる、みどりと金色のつぎはぎ細工の畑地に取って代わられるのが見えた。はるか彼方《かなた》のもやの中に黒っぽい木々と、その背後にせり上がる紫《むらさき》の山々と光る長い海面が見えたように思ったが、確信は持てなかった。はっきり見えるのはただ一つ、失せし国と海が出合う淡《あわ》いみどりの境界線上に立ち上がる、細い光のすじだった。
「ごらんよ」ブラァンの手が一瞬、グイオンのそれのそばにたゆたった。黒っぽい指輪をはめた痩《や》せた茶色の手と並ぶと、ブラァンの指は乳のように蒼白《あおじろ》く、ひどく幼《おさな》く見えた。「あれだよ――山から見ただろ、ウィル? おぼえてないかい? クウム・マエスロンの上でさ」そして残念そうにウィルを見た。「別世界のことだね。やあ、あの子達のことをすっかり忘れてた。無事かなあ?」
「たぶんね」ウィルはゆっくりと言った。ぼやけた地平線に目を向けたままだが、見てはいなかった。失せし国に来た時からずっと頭の中をかすめ続けている心配事に心を奪《うば》われていたのだ。「ぼくもそれが知りたいんだ。あと、メリマンがどこにいるのかも。呼んでも……届かないんだよ、ブラァン。届かないんだ。向こうの声も聞こえない。ぼくらと一緒に来るつもりだったんだとは思うけど」
「いかにも、<古老>よ」グイオンが意外にも答えた。「だが失せし国の魔法に阻《はば》まれて来られぬのだ。魔法を破《やぶ》る唯一《ゆいいつ》の機会をのがしてしまったゆえな」
ウィルは深い直感に揺《ゆ》さぶられてパッと向き直った。「メリマンを知ってるんだね? ずっと昔には、親しかったんでしょう?」
「極めて親しくしていた」グイオンの言葉には痛いほどの愛情がこもっていた。「おぬしがその名を口にしてくれたので、ようよう言えるのだが、この宮殿でおぬしらと落ち合う予定だったのだよ。だが、おぬしらのもといた世界で<闇《やみ》>に引き留《と》められたという気がしてならぬ。失せし国にはいる瞬間をのがしたのだとすれば、もはや来ることは叶《かな》わぬ」
ウィルが言った。「絶対に?」
「さよう」
ウィルはふいに、メリマンの力強い存在がじきに助けに来てくれるのを、自分がどれほど望んでいたか悟《さと》った。こみ上げる不安を呑《の》み込むと、ブラァンを見やった。
「じゃ、老婦人の言われたこと以外に頼《たよ》れるものはないわけだ。水晶《すいしよう》の剣は、七本の樹の間の玻璃《はり》の塔《とう》で見つかる。そこで――角笛《つのぶえ》が車輪を止める」
ブラァンも言った。「それから、白い骨が行手を阻《はば》み、飛ぶサンザシが救いを与える。何のことかわからないけど」
「玻璃の塔」ウィルは繰《く》り返し、地平線上にきらめくすじに目を戻した。
グイオンが言った「おぬしの見ているのはカー・ワディル。玻璃の塔を持つ失せし国の城だ。わが君が、誰《だれ》にも晴らすことのない叶《かな》わぬ死にも似た憂《うれ》いに包まれて坐《ざ》しておられる所だ」うらぶれた悲しい声だった。
ウィルはためらいがちに言った。「もっと知りたいんだけど、いい?」
「よいとも」グイオンは重々しく言った。「マーリオン(メリマンの別名)のためにも、この国とかの剣についておぬしらに語らねばならぬことがある。能《あた》う限り教えて進ぜよう」と、黄金の手すりの端に歩み寄ると縁を両手でつかみ、都の彼方を押し眺《なが》めた。髭《ひげ》が突き出、力強い鼻梁《びりよう》が空を背景にくっきり浮き上がり、硬貨に刻《きざ》まれた横顔を思わせた。
「この国は<闇《やみ》>のものでも<光>のものでもない。過去にいずれかであったためしもない。ここの魔法は異質の魔法、頭脳と手と目の魔法で、良くも悪しくもないため、いずれにも与《くみ》しなかったのだ。人間の業《わざ》とも、<光>と<闇《やみ》>の二つの絶対的な価値とも、薔薇《ばら》の花一輪、魚一尾の跳躍《ちようやく》の弧《こ》ほどにも関わりを持たぬ。だが、<時>の内外を通じて最高の腕《うで》を誇《ほこ》ったわが国の工匠《たくみ》らは、<闇>のために働くことを……潔《いさぎよ》しとはせなんだ。彼らの最も優《すぐ》れた作品は<光>の君のために造られた。壁掛けを織り、玉座《ぎよくざ》や柩《ひつぎ》を作り、金銀の燭台《しよくだい》を造り上げた。<光>の六つの偉大《いだい》なしるしのうち、四つまでを細工した」
グイオンは微笑《びしよう》し、「ああ、<しるしを捜《さが》す者>よ」とやさしく言った。「ここの民でさえもはやおぼえておらぬ遠い昔に、この失せし国から、金環でつながれたおぬしの鎖《くさり》は始まったのだよ。鉄と青銅と水と火と……。して最後に、この国の工匠の一人が<光>のために偉大な剣エイリアスを鍛《きた》えた。
ブラァンが緊張してたずねた。「誰《だれ》がこしらえたの?」
「<光>と近しかった人だが、<光>の君でも<古老>でもなかった――この国からはおぬしらの民は出ぬのだ……。あれほどの不思議を造り出す腕のあるのはその一人だった。秀れた技術を持つ物の多いこの国においてさえ並ぶ者のない、偉大な工匠《たくみ》だった』グイオンは思い出しながら、ゆっくりと恭々《うやうや》しげに語り、感心して止まぬというように頭を振った。「だが、<闇《やみ》>の騎手《きしゆ》達が自由に国じゅうを往《い》き来していた。いかなる生き物であれ、閉め出す理由も望みも我らは抱《いだ》いておらなんだゆえ――そして、<光>が剣を依頼《いらい》したと聞きつけるや、騎手達は造ってはならぬと言ってよこした。当然ながら、ひとたび鍛《きた》えられたならエイリアスは、<闇>を滅ぼすのに用いられるであろう、との古い予言を知った上でのことだ」
「工匠はどうしたの?」ウィルがたずねた。
「国じゅうからもののつくり手を呼び集めた」グイオンは心持ち頭をそらした。「物書き、他人の言葉や音楽に生命を与える者、美しい品を造り出す者、全てをだ。そしてこう言った。私の中にはある作品が存在している。私にはわかる。今後何をしようと、造《つく》ろうと、これを上回るものは私には出来ぬ。だが<闇>が造《つく》らせまいとしている。拒《こば》めば国中が苦しむやも知れぬ。私ひとりには決められぬ。教えてくれ。どうすればよい?」
ブラァンはじっとグイオンを見ていた。「で、何て言ったの?」
「こう言った。造らなければいけません、と」グイオンは誇《ほこ》らかにほほえんだ。「ひとりの例外もなく、剣を造りなさい、と言った。そこで工匠はひとりで閉《と》じ篭《こも》り、エイリアスをこしらえた。驚くべき物の多いこの国でも、これほどすばらしい、力のある品はかつてなかった。<闇>の怒りは大変なものだったが、無力だった。<光>のために造《つく》られた品とあっては壊《こわ》すことも奪《うば》うことも、造り主を……傷《きず》つけることも出来ぬのを、<闇>の君はみな心得ていたのだ」
グイオンは口をつぐみ、もやがかかった地平線を見やった。
「続けてよ」ブラァンがせがんだ。「ねえ!」
グイオンはためいきをついた。「そこで<闇>は簡単なことをした。剣の造り主に、彼自身の不安と自信の無さを見せつけたのだ。間違いを犯《おか》したのではという不安――この大作を仕上げた以上、もはや価値のあるものは成し遂《と》げられぬのではという不安――老齢《ろうれい》への、未熟さの、期待を裏切ることへの不安。ものをつくる人々の災《わざわ》いであり、頭のどこかに絶えず潜《ひそ》んでいるそういった尽《つ》きざる不安を全て見せた。徐々《じよじよ》に、その人は絶望に陥《おとしい》れられた。不安が育つにつれ、何もせぬことによってのがれようとした――絶望が死に、代わりに恐るべき憂愁《ゆうしゆう》が体の自由を奪った。今もそのとりこなのだ。自分の精神のな。エイリアスの剣も造り主と共に囚《とら》われている。絶望に囚われているのだ。絶望。この世で最も恐るべきものよ。偉大な人々の精神は、すさまじい力を持つ巨大な亡霊《ぼうれい》を造《つく》り出すものなのだ。そして、グイズノー王は偉大なかただ」
「王だって!」ウィルがゆっくりと言った。「失せし国の王が造ったの?」
「さよう。遠い昔に、王は城に、カー・ワディルの玻璃《はり》の塔《とう》にひとりで篭《こも》られた。そこでエイリアスをこしらえ、それきり、剣のほかにはただ一人であそこにおられる。王自身の造られた罠《わな》に囚われておられるのだ。罠をはずせるのはおぬしらのみやも知れぬ」二人に向かって言っていたが、目はブラァンを見ていた。
ブラァンの蒼《あお》顔はぞっとして歪《ゆが》んでいた。「ひとりで? ずっと? 誰《だれ》か会いに行った人はいないの?」
「わしがお会いした」グイオンの声にいきなり深い苦痛の色がさし、二人ともそれ以上たずねるのははばかられた。
太陽が顔に暖かく注いでいた。円蓋《えんがい》の黄金と水晶《すいしよう》の縞《しま》の中に熱気がこもり、都の屋根並が陽炎《かげろう》に揺れた。遠い、失せし国のみどりの畑地のどこかで、かもめの鳴くのをウィルは耳にした。
突如《とつじよ》、メリマンがそこにいるかのような錯覚《さつかく》に陥《おちい》り、激《はげ》しい切迫感が同時に感じられた。もちろんメリマンはおらず、精神に呼びかける声すらしなかった。わかってはいたが、切迫感は、どこか遠い遠いところで起きている出来事のこだまのようにまとわりついた。グイオンの顔を見ると、同じものを感じているのがわかった。二人の目があった。
「さよう。時が来た。間の鄙《ひな》を横ぎって城へ旅するのだ。能《あた》う限り、楽な旅となるよう手は打った。だが途中で何に出逢《であ》うか語ることも、それから護《まも》って進ぜることも、わしには許されておらぬ。忘《わす》れてはならぬぞ。おぬしらのいるのは失せし国、ここで働くのはこの地特有の魔法なのだ」グイオンは案じ顔で地平線上に遠くきらめく塔《とう》を見た。「さあ、よく見るがよい。目的地を見て、必ず到《いた》る決意を固めるのだ。見たら、ついて来るがよい」
二人は彼方のもやの中の光の指をもう一度見、それからグイオンに続いて階段をおり、今では住む王のいない無人宮にはいった。だが、王こそいないが、まだグイオンのほかにも人がいるのがわかった――前に来たことがあるのもわかった。
螺旋《らせん》階段を半ばおりたところで、前には気がつかなかった戸をグイオンがあけた。まっすぐで傾斜のゆるい別の階段を下り、宮殿の中心部へと二人は導《みちび》かれた。すると突然、前方でかすかに話し声が聞こえ、本と本棚《ほんだな》と重い机《つくえ》で一杯の、長い板張りの部屋に出た。
あの図書室めいた長い回廊《かいろう》だった。ウィルの視線は横の壁に走ったが、そこは相変わらず暗闇《くらやみ》、光も影も見えないからっぽの空間、あらゆる人生が演《えん》じられる大劇場《だいげきじよう》だった。だが、他の点においては変化が生じていた。今や室内は人でひしめき、親しみのこもった話し声に満ちていた。目を上げて戸口にはいる三人をみとめた者は、みな微笑《びしよう》したり、片手を上げてあいさつしたりした。
三人は段差のある床《ゆか》を上り下りしながら通り抜けた。すれ違った人々の多くがグイオンに言葉をかけ、ウィルとブラァンを見る顔はいずれも明らかな好意を示していた。一人の女はすれ違いざまにウィルにそっと触れ、「ご無事で旅を」と言った。驚いて顔を上げると同時に、そばにいた男がブラァンにそっと「ボブ・フイル!」と言うのが聞こえた。
ブラァンが耳もとで言った。「幸運を祈《いの》るって言ったんだよ。どうしてみんな知ってるんだろ?」
ウィルも訝《いぶか》しみつつ、かぶりを振った。黒衣をまとったグイオンの小柄《こがら》な姿を追って足ばやに部屋を横切ると、つきあたりの机《つくえ》の上に大きな本を拡《ひろ》げて立ったまま読んでいた男が、三人が近づくと同時に体を起こし、振り向いて片手を上げ、止まれと合図した。前にこの部屋にいた時に声をかけて見た男だ、とウィルは思った。その時はウィルを見ることも聞くことも出来ない様子で、白紙ページばかりの本を読んでいた男だ。
「行く前にごらんに入れたい」グイオンとブラァンのどちらよりも強い北ウェールズなまりだった。
「この本の中に見ておぼえこまれる必要のある箇所《かしよ》がある」
「おぼえるのだよ……」グイオンが二人を見てそっと言うと、少年達の頭にこだまのようによみがえったものがあった。本は重い樫の机の上にひろげられていた。そり返っている上質の皮質で出来たページのうち、一方には絵があり、もう一方には一行の分が記されていた。
ウィルは絵をまじまじと見ていた。木々と芝生《しばふ》の様式化されたみどりの中、黒騎手《くろきしゆ》と出会った場所の花に劣《おとら》らず華《はな》やかな薔薇《ばら》の花壇《かだん》の並ぶ中に、若い女が立っていた。金髪《きんぱつ》に青い衣をまとい、ウィル達を見つめ返している。ハート型の顔は繊細な骨格を持ち、華奢《きやしや》な美しさがあった。笑っているのでも悲しんでいるのでもない、まじめな表情だった
「老婦人だ!」ウィルは言った。
ブラァンは驚き、「だって、とてもお年寄りだって言ってたくせに」と言ってから一瞬、考えをめぐらせた。「尤《もつと》も、そんなことは見方によるんだろうけど」
「老婦人だよ」ウィルはゆっくり繰《く》り返した。「あの大きなバラ色の指輪をはめてる。はずしてるのを見たことがない。それに、ほら――後ろに描いてあるのは、あれは――」
「噴水《ふんすい》だ!」ブラァンは眼鏡越しに目を凝らした。「同じ噴水だよ。公苑《こうえん》にあったやつだ――じゃ、薔薇園も同じなんだ。けど、どうやって――」
ウィルは反対側のページの太く黒い手書きの文に指をあてていた。声を出して読んだ。「我ハ全テノ巣《す》ノ女王」
「おぼえておかれよ」男は本を閉じた。
「おぼえておくのだぞ」グイオンが言った。「おぼえたら行くがよい」二人と向かい合うと、グイオンは一瞬それぞれの肩《かた》に手を置き、丹念に目をのぞき込んだ。「この我《われ》らのいる回廊《かいろう》を知っておるな? 知っておるとも。では、いかにしてはいって来たかもおぼえておるはずだ。同じ道を通って行くがよい。わしはしばし、ここに残らねばならぬ。ある程度の魔力を持つ男女がかなり集まっておるゆえ、メリマンについて何か聞けるやも知れぬ。いずれ会うが、今は立ち去ることだ。すぐに」
ウィルは下を見、床《ゆか》に四角くあいた落とし戸と、下へ続く梯子段《はしごだん》を見つけた。「あそこから?」
「あそこからだ。出たならば、見出したがままのものを受け入れることだ。それによって旅が始められるであろう」灰色の髭《ひげ》に縁取られた顔が、例の温かい、輝《かがや》くばかりの笑《え》みにおおわれた。「無事に行けよ、友よ」
ブラァンとウィルは、今では忘れ去られてウィルのベルトに下がっている小さな角笛《つのぶえ》に結《むす》ばれて梯子《はしご》を登った朝とは大違いで、はるかに自信を持って影の中におりていった。平らな地面におり立つと、暗がりの中を手さぐりで進み、小さな木の扉《とびら》にたどりついた。ウィルはあばただらけの戸板に掌《てのひら》で触れた。
「こっち側にも把手《とつて》なんか一つもない」
「外側に開いたんじゃなかったっけ? 押《お》せばいいのかも知れないよ」
まさに一回やさしく押しただけで扉は外に向かって開き、二人は一瞬、外の通りの明るさに目をしばたたいた。出て行った二人の背後で扉はすさまじい勢いで閉まり、簡単に開くのはこれっきりなのを明らかにした。狭《せま》い、ほの明るい路地には、半日のことにすぎないがずっと前に感じられるその日の朝、二人が乗った白いたてがみの黄金の馬が待ちうけていた。
馬は歓迎《かんげい》するように頭を振り立てた。銀の馬具がそりの鈴のように鳴った。ウィルとブラァンは無言で鞍《くら》にまたがった。以前同様、不思議にも楽々と乗れた。馬は、はるか上の方に細長い青空の鮮《あざ》やかな切れ端を頂いた、高い灰色の壁のはざまの狭《せま》い路地を進んだ。
広い場所に出ると、そこは、二人を見知っているらしく手を振ったり呼びかけたりする人々で一杯だった。馬は群集の中を慎重《しんちよう》に進んだ。呼びかけは次第に断続的な歓呼《かんこ》に変わり、子供達が馬と並んで走りながら、笑い、はやしたてた。ブラァンとウィルは照れて顔を見交《か》わし、にやついた。どんどん広い石畳《いしだたみ》の通りを進むうちに、やがてそびえ立つ壁にしつらえられた大きな門にさしかかった。アーチを通してみどりの畑や遠い木々が見えた。
群集がアーチの前にひしめいていたが、黄金の馬は一度も足を止めず、穏《おだ》やかに人垣《ひとがき》を掻《か》き分けて進み続けた。
「幸運を祈《いの》ってますよ!」
「どうぞご無事で!」
「いい旅を!」
都の人々は到る所で声をかけ、手を振っていた。子供が走り、踊《おど》り、歓声を上げた。少女の一団が門のそばに立ち、笑いながら花を投げていた。半ばよけようと手を上げたウィルは開ききった紅薔薇《べにばら》を受け止めた。見おろすと、花を投げた黒髪《くろかみ》の少女が頬《ほお》を染《そ》めて微笑《びしよう》するのが見えた。ウィルは少女に笑顔を向け、花を胸ポケットに挿《さ》した。
気がつくと二人は門の外にいて、群集はすっかり姿を消していた。前にはゆったりしたみどりの畑地と、彼方《かなた》の林の方角に伸びている金茶色の粗《あら》い砂の道があった。都の声は途絶《とだ》えた。夏の空のどこかでヒバリが唄っていた。ところどころにふっくらと機嫌《きげん》のいい雲を浮かべた青空には、陽が高く昇《のぼ》っていた。馬は砂道に踏《ふ》み込み、歩調を乱すことなく安定した足取りで前進した。
ブラァンはウィルのポケットの花に目をやった。「ひゃあ!」と裏声でひやかした。「赤い薔薇じゃないか?」
ウィルは愛想よく答えた。「あっちへ行け」
「ジェーンほど美人じゃなかったな、その花を投げた子」
「誰ほどだって?」
「ジェーン・ドルーだよ。美人だと思わないか?」
「そう言えば、うん」とウィルは驚いていた。「考えたこともなかった」
「君のいいところは、その単純さにつきるよ」
だがウィルの思考は逆方向に飛躍《ひやく》していた。大きな馬の背で前後に揺《ゆ》れながら、たるんだ手綱《たづな》を考え深げに指の一本に巻きつけて言った。「あっちの世界でぶじだといいけど」
ブラァンがふいにぶっきらぼうに言った。「今のところは、あの三人のことは忘れろよ」
ウィルはハッと顔を上げた。「どういう意味だ?」
ブラァンは無言で、ウィルのいる側をゆびさした。平らなみどりの畑地の彼方《かなた》に、二人の進行方向に平行してどんどん移動している白と黒のしみが見えた。ウィル達同様、失せし国の城をめざす<闇《やみ》>の騎手《きしゆ》達に違いなかった。
灰色の牝馬《マリ・フルイド》
二人はおもちゃのように小さく見える騎手達《きしゆたち》が畑を突《つ》っ切っていくのを見守った。ウィルの馬がふいに頭を振り上げ、空気を嗅《か》ぎ、足を速め出した。
ブラァンが追いついて来た。「あいつら、ずいぶん急いでいるね。先に城に着こうってのかな?」
「たぶんね」
「競走する?」
「どうしよう?」ウィルは落ち着きを失っている馬を見おろした。「馬はしたがってるけど」
ブラァンは蒼白《あおじろ》い顔を引き締《し》めて鞍《くら》の上で姿勢を整え、それから破顔《はがん》した。「乗ってられると思うのかい?」
ウィルは笑《わら》った。突然、やたらと気分が高揚した。「見てろ!」手綱《たづな》を軽く振っただけで馬はとびだし、堅《かた》い砂道に沿《そ》って疾走《しつそう》し出した。傍《かたわ》らのブラァンは前のめりになり、白い髪《かみ》をなびかせ、嬉《うれ》しそうに声を上げていた。馬は走り続けた。実りかけたカラス麦や小麦の畑を過ぎ、牛が平和に草をはんでいる牧場を通過した。見慣《みな》れた黒牛もいたが、多くは純白だった。馬は自信たっぷりにゆるぎなく走り続けた。はるか彼方《かなた》では<闇《やみ》>の騎手達が平行して走っていたが、やがて彼らの姿は、失せし国の都と城の間に横たわる鄙の、そのまた中央を占めている森の陰になって見えなくなった。
こちらの道も森の手前の端を迂回《うかい》するものとばかり思っていたが、夢中になっていたウィルは、向きが変わっているどころか、木々が視野一杯に拡がって、光る玻璃《はり》の塔《とう》を見えなくしているのを知った。二人はまっすぐ森に向かっているのであり、森はぐんぐん大きくなり、迫《せま》って来た。一見した時よりもはるかに密生《みつせい》した、暗い森だった。
馬が速度を落とし始めた。
「そら行け!」ブラァンは苛《いら》立って手綱をふるった。
「いやがってるんだよ。ぼくもあの森は気に入らない」
ブラァンは目を上げ、前にそびえる暗い巨魁《きよかい》の大きさにたじろいだ。「けど止まろうとはしてないよ。なぜ迂回《うかい》しなかったんだろう?」
「道に従《したが》わなければならなかったんだろうな。ぼくもどっちに向かってるかなんて、気にもとめなかった。気をつけるべきだった」
「ぼくだって同じさ。仕方ないよ」馬は今や並足に戻っていた。ブラァンは額を腕でこすった。「暑いなあ。陽がまだあんなに高い」
森も初めのうちはまばらでひらけていて、ワラビや下生えが茂《しげ》り、木漏《こも》れ陽《び》で明るかった。道幅こそせばまってほんの小道に過ぎなくなったが、堅《かた》い砂路がくっきりと木々の間を縫《ぬ》っていた。だが次第に道の輪郭《りんかく》がぼやけ、砂の中から草が生えていたり、蔓草《つるくさ》が横に伸びていたりし出し、森の奥深くはいるにつれ、空気がひんやりし始めた。馬は縦《たて》に並んで慎重《しんちよう》に足を運んだ。小鳥の声もここではわずかだった。ウィルとブラァンは静けさを意識するようになった。木々は大きさと数を増し、森は蜿々と続いていた。
明るさが薄れ、木々がふえるにつれて、すきをみては脳裏《のうり》に忍び入ってくる気分をウィルは努めて無視しようとした。が、怖《こわ》がっているのは事実だった。
馬の足が上下する静かな音のほかは何一つ聞こえなかった。道は、草がびっしり生い繁《しげ》っているにもかかわらず、まだ見えていた。周囲から際立《きわだ》たせようというのか、濃緑の葉を持つ小さな雑草がびっしりと敷物のようにおおっていた。行手を縁どる木々の間で、唐突《とうとつ》に鳥が羽搏《はばた》いて飛び去った。馬がビクッと反応した。
「怖《こわ》がってるのはぼくだけじゃなかった」ウィルは明るい声を出そうとした。近くで木の枝がざわっと揺《ゆ》れ、ウィルはとび上がった。
ブラァンは薄暗がりを見回した。「戻《もど》ったほうがいいんじゃない?」と不安げに言ったが、答えるかのように馬は再びゆるぎなく前進し出した。ウィルは目の前の淡色のたてがみを撫《な》でた。馬は耳をまっ平らに寝かせているにもかかわらず、しぶとく歩き続けた。
「もしかしたら……防壁《ぼうへき》かもしれない」ウィルはだしぬけに言った。「あの迷路と同じで、本当に怖いものなんかいないって、こいつらにはわかっているのかもしれない」
道の脇《わき》のやぶの中で何かが立ち上がり、周囲の静かな木々とみどりのシダの海の中を騒々《そうぞう》しく走り去った。ウィルとブラァンはぎょっとしたが、今回は馬は意に介《かい》せず歩を進めた。木々は頭上でからみ合った。ウィルは歯を食いしばって恐怖《きようふ》と闘《たたか》い、大きな馬の規則正しい揺れ方だけを慰《なくざ》めとしていた。空気は湿《しめ》って涼しかった。シダに半ば埋《う》もれた小川の緩慢《かんまん》な流れを渡ると、ほとんどわからないくらいだったが馬の歩調が速まった。光が再び頭上の枝の間から洩れ、砂が道をびっしりおおうみどりの葉の間にのぞきだした。
「森を出るよ!」ブラァンが安堵《あんど》のあまり上ずったささやき声を発した。「君の言う通りだった。気味が悪いだけってこと、馬はちゃんと知ってたんだ。出られるんだ!」
馬はくつろいでゆるやかに走り始め、解放感に頭を振り立てた。ウィルは心臓の鼓動《こどう》が正常に戻るのを感じ、きちんと坐《すわ》り直し、怖《こわ》がったことを恥《は》じつつまばらになりつつある木々を見上げた。
「ごらんよ、また青空が見える。ふう。いいもんだなあ!」
二人がそうやって鞍《くら》の上で緊張を解き、手綱《たづな》をゆるく持って何の用心もせずに空を仰《あお》いでいる時だった。突如《とつじよ》、馬の一頭がかん高い恐怖のいななきを発し、二頭とも怯《おび》えて後脚立った。何か大きなものが音をたてて木の間から突進して来たのだ。あっという間にウィルとブラァンは後ろ向きにもんどりうち、必死に手綱か鞍《くら》の前輪をつかもうとしたのも空しく地べたに転がり落ちた。二頭の金色の馬は怯《おび》え狂って暴走《ぼうそう》し、森の外のスゲ野原を突《つ》っ走って行ってしまった。
追ってきたものをひと目見たウィルは、まさかという思いと恐怖のあまり、「そんな!」と叫《さけ》んだ。
ブラァンが言葉にならぬしゃがれた声を上げ、二人はとび起きてやみくもに畑を突《つ》っ切り出した。夏の太陽の熱を浴《あ》びていながらウィルは悪寒がした。頭がガンガン鳴った。吐気《はきけ》さえ覚えた。怖《こわ》いなどというものではなかった。
それは巨大な馬の骸骨《がいこつ》だった。頭蓋《ずがい》の盲目の眼窩《がんか》でにらみつけ、とうに腐《くさ》れ落ちてしまった筋肉《きんにく》の亡霊《ぼうれい》が動かす骨ばかりの脚で走り、跳《と》び、はねまわっていた。一度はすんでにつかまりかけた。いかなる生きた馬よりも速く、音一つたてずに駆《か》けてきて、静かに二人を追い越し、振り向いてニッと笑ったのだ。信じ難《がた》い化物だった。大きな白いあばら骨が陽《ひ》を受けてきらめいた。物言わぬおぞましい頭を振り立てると、笑《わら》った下顎《したあご》にぶらさがった赤いリボンが旗のようにひるがえった。
怪物《かいぶつ》は二人を右往左往させて翻弄《ほんろう》した。仔猫《こねこ》がカブト虫を弄《もてあそ》ぶように。二人の前で左右に跳躍《ちようやく》したかと思うと砂ぼこりをたてて立ち止まり、口をくわっと開いて嘲《あざけ》り笑《わら》う頭蓋《ずがい》を突き出し、恐ろしい沈黙のうちに突進して来て――さっと通り過ぎ、背後に回って待ち伏せた。慌《あわ》てて身を翻《ひるがえ》したブラァンはつまずいて転んだ。
脊椎《せきつい》の首の部分に乗った頭蓋《ずがい》がそらされた。歯がぎらつき、骨張った額のまんなかの妙《みよう》な瘤《こぶ》のまわりで赤いリボンが躍《おど》った。変わらぬ沈黙で脅《おど》しつつ立ち止まった怪物《かいぶつ》の盲目の頭蓋が少年達を見すえた。骨と蹄《ひづめ》ばかりの足で地面を掻《か》いていた。ウィルは生唾《なまつば》を呑《の》んだ。
「大丈夫か? 立つんだ!」
ブラァンは上半身を起こしたまま、黄色い目を大きく見開いてしばたたいていた。眼鏡はなくなっていた。「マリ・フルイド!」ブラァンはささやいた。「マリ・フルイド!」魅《み》入られたかのように化物《ばけもの》を見つめていた。「早く立つんだ!」ウィルは逃げ場所を見つけたのだった。夢中でブラァンをひきずり起こすと、化物《ばけもの》はゆっくりと、音もなく、二人の周りを回り始めた。
「こっちだ! 来いってば!」
それは建物だった。実に変わっていて、灰色の切石から成る小さな一階建ての家なのだが、かつてワラで葺《ふ》かれていたであろう屋根は今は土と伸び放題の草と、白い花をつけた何本という枝でおおわれていた。古い屋根にはサンザシの木が生えていたのだ。茂《しげ》みと言ったほうがいいような、低い木だった。
ブラァンは骸骨《がいこつ》に目をすえたまま、その場に金縛《かなしば》りになっていた。「マリ・フルイド」と再びささやいた。
「目をつぶれ!」ウィルは叱《しか》りつけ、馬の怪物《かいぶつ》の姿をかくそうとブラァンの顔の前に手を突き出した。と同時に何と言えばいいかがひらめいた。「急いで考えるんだ。老婦人は何て言った?」
「老婦人?」ブラァンは呆《ほう》けたように繰り返したが頭を向けることは向けた。
「老婦人はジェーンに何て言った? 考えるんだ!」
「ジェーンに」ブラァンの顔が晴れ出した。「ぼくらに伝えろって……白い骨が行手を阻《はば》み……飛ぶサンザシが――」
「救いを与えるんだ。見ろ。見ろよ!」ウィルはブラァンに、屋根に白く花咲く木を生やした石の家を見せた。二人を狙《ねら》う化物《ばけもの》は次第に輪をせばめて来ていた。ヒッと声を上げてブラァンが前によろめき出た。ウィルはブラァンを戸口から押し込むと、戸を後ろ手で勢いよく叩《たた》きつけた。そして戸にもたれたまま、息を取り戻そうとあえいだ。外は不気味に静まり返っていた。
ブラァンは自分の手を見おろした。逃げた馬の鞍袋《くらぶくろ》がまだ、救命具のようにきつく握《にぎ》られていた。袋を床《ゆか》に落として硬《こわ》ばった指をこすり合わせると、ウィルを見た。「ごめん」
だがウィルは聞いていなかった。厚い石壁の中に淡《あわ》い光を通す唯一《ゆいいつ》小さな窓に歩み寄っていった。窓枠《まどわく》には壊《こわ》れたよろい戸が一枚ぶらさがっているだけで、ガラスはなかった。ウィルは蒼《あお》ざめていた。不安の色が浮かんでいた。
ウィルはかすれ声で言った。「見ても平気かい?」
「もう大丈夫」ブラァンは隣りに立った。だが窓からのぞいた時には無意識にウィルの腕をつかみ、指先をぐっと食い込ませたのであとあとまで跡《あと》が残った。
角のある馬の、死んでいながら生きている巨大な白い骸骨《がいこつ》は、家の前を輪を描いて歩いていた。ぐるぐる、ぐるぐる。からっぽの胸郭《きようかく》の湾曲した白いあばらと、反り返った平べったい腰骨の下で、骨張った四本の脚《あし》が躍《おど》っていた。リボンに飾《かざ》られた長い頭骨は死んで居るくせにおぞましい熱狂を表し、次第に速く上下し出した。家のほうを向くたびに突撃《とつげき》する雄牛さながら額を下げ、一瞬立ち止まってから落ち着きなく体をめぐらし、また輪を描き出すのだった。 ウィルはささやいた。「突《つ》っ込んで来る気だ。戸口めがけて。どうしよう?」
「戸に何かつっかい棒《ぼう》をしたら? 止められないかな?」
「無理だ」
「何かできないの? 魔法《まほう》で――」
「失せし国にいるんだぞ……」
と、陽光射《さ》す野外の怪物《かいぶつ》は、戸口を突《つ》き破《やぶ》って二人を滅ぼす前の、最後の方向転換《てんかん》にはいった。わざと窓近く歩み寄ると、一瞬、目のない頭蓋《ずがい》は不気味な声なき笑いを発した。その最後の一瞬に、化物が家のすぐそばを通りかかると同時に、上から雪のようなものがザーッと窓をかすめた。ひらめき揺《ゆ》れる雲となって怪物にそそぐ白いものは、やさしい雨のように一斉《いつせい》に散りかかるサンザシの花びらだった。馬の骸骨《がいこつ》は糸の切れた操《あやつ》り人形さながら崩折《くずお》れ、分解した。骨という骨がバラバラになってなだれ落ちた。がらがらいう音が沈黙に取って替わった。残ったものは死んで久しい、漂白されて陽にきらめく白い骨の山と、笑ったままそのてっぺんに傾《かし》いで乗っている長い頭骨から垂《た》れ下がる、色褪《あ》せた赤いリボンだけだった。
ブラァンは長くそっと息を吐《は》き、手を上げて目をおおった。そのまま脇《わき》にのけ、静かに床《ゆか》にうずくまった。そのため、目を丸くしたまま窓辺にいたウィルだけが、白い花びらが再び、生きているかのように、前にどこかで見た豪華なトリバガの大群にも似てひらひらと舞《ま》い上がり――そのまま空高く飛び去っていくのを見た。
膝《ひざ》が支えてくれるかどうか心もとなく思いつつ、何とか振り向くと、ウィルはほの明るい部屋を立ったまま眺《なが》めた。まともに物が見えるようになるまで少しかかった。乱れた五感が鎮《しず》まり出すと、入口の戸を見ているのに気づいた。いたんで朽《く》ちかけた古い木の戸で体当たりされたらひとたまりもなかったろう。戸の上にはかすかに金色を帯びた文字が記されていた。読み取るには明るさが足りなかったので、ウィルはふらつきながら部屋を横切り、戸を押しあけた。光が射《さ》し込んできた。
ブラァンが後ろにやって来てゆっくりと読み上げた。「我ハ全テノ頭《コウベ》ノ楯《タテ》」
「外からは見えない、戸の内側に書いてある」ウィルは一歩下がって文句を見上げた。「老婦人の言葉がなければ、中にはいって見もしなかったかもしれない」
ブラァンは床に腰をおろし、膝に腕を乗せて白い頭をうつむけていた。「やれやれ《ダウ》。あの……あの……」
「あいつのことは話さないほうがいい」ウィルは冷たい風に吹かれたように身震《みぶる》いした。だが、ふと思い出してたずねた。「けど、ブラァン、君はあれを何て呼んだっけ? あいつに……見すくめられていた時……何かウェールズ語で呼んだろ?」
「ああ、あいつはね、夜の牝馬《ナイト・メア》(悪夢をこう呼ぶ)そのものなんだ。南ウェールズに行くと、古いクリスマスのしきたりでマリ・フルイドってのがある。灰色の牝馬《めうま》って意味だよ――行列が街中を練《ね》り歩くんだ。ひとりが白い布をかぶって、棒の先に馬の頭蓋骨《ずがいこつ》をつけたものを持つ。口があけたり閉めたり出来る仕組みで、見物人を咬《か》むまねをするんだ。うんと小さい頃、ある年のクリスマスに、ローランズ夫妻が父とぼくとを誘《さそ》ってくれた。そこでマリ・フルイドを見て、ものすごく怖《こわ》い思いをしたんだ。ひどかったよ。夜中にうなされて悲鳴を上げる状態が何週間も続いたっけ」ブラァンはウィルを見上げて弱々しく笑った。「本気でぼくの気を狂わせるつもりなら、あれ以上の手段はないな」
ウィルは陽がはいるように戸を開け放したまま部屋の中に戻った。「あれ、<闇《やみ》>だったんだろうか? わからないな。ある意味ではそうに違いないけど。失せし国に大昔からいた怪物《かいぶつ》が目をさまされたんだ――」
「騎手達《きしゆたち》が目をさまさせたのかも知れない」ブラァンは考え深げだった。「通りすぎがてらに」と言うと、粗《あら》いスレートの床《ゆか》に落とした鞍袋《くらぶくろ》に手を伸ばし、中をのぞき込んだ。「やあ――食い物だ! 腹は減ってるかい?」
「少しね」ウィルは家の中を歩き回り、裏手にある残る一間をのぞいたが、古い干草のある名残りと臭《にお》いとから推《お》して、家畜《かちく》を入れるためだけに使用されていたのだろうと判断《はんだん》した。大きいほうの部屋の石壁は、しっくいを用いずに重い岩とスレートの塊《かたまり》を咬《か》み合わせて造《つく》られていた。粗末な棚《たな》が壁に取り付けられているほかは、家具と名のつくものはいっさい無い。都の洗練された優美さとはほど遠かった。が、棚の一つに何気なく指を走らせていたウィルは意外な品を発見した。小さな鏡で、跳《は》ねる魚の彫刻をぐるりに施《ほどこ》した重い樫《かし》の枠《わく》にはまっている。袖《そで》で汚《よご》れを払《はら》うと、棚の上にたてかけた。
ブラァンが後ろから近づいて来た。「そら、手を出せよ。グイオン印の健康食だ――リンゴが二個とハシバミの実が一袋《ひとふくろ》。ちゃんと殻《から》がむいてあるんだぜ。試してみろよ。うまいから」機嫌《きげん》よく口を動かしていたブラァンは、顔を上げてウィルが鏡に見入っているのを見ると、渋面をつくった。「なんてこった《アハ・ア・ヴイ》! 鏡には当分こりたんじゃなかったのかい?」
ウィルにはろくに聞こえていなかった。鏡の中のブラァンの顔の後ろに、見慣《みな》れた顔がもう一つ見えたのだ。
「メリマン!」と喜ばしげに叫《さけ》ぶと、ウィルはパッと振り返った。
だが後ろには、口を半ばあけ、楽しげな表情から急速に不安の色を浮かべつつあるブラァンがいるばかり。二人を除《のぞ》けば部屋は無人だった。
鏡に目を戻すと、メリマンはまだそこにいた。いかつい顔の窪《くぼ》んだ目が、鏡に映ったブラァンの当惑《とうわく》顔の後ろから見つめていた。
「私はここだ」メリマンは鏡の中から、心配そうに張りつめた顔で話しかけてきた。「一緒《いつしよ》であって一緒ではない。言っておくが、ブラァンには私を見ることも聞くこともできぬ。まだ力が足りぬのだ……。ウィルよ、私には君のもとへ行くことも、<古老>のやり方で話すことも許されてはおらぬ。グイオンが言った通り、失せし国の掟《おきて》をくぐり抜けられる瞬間は一つしかなかったのに、ちょうどその時を狙《ねら》って<闇《やみ》>が小細工《こざいく》を弄《ろう》し、別の時代へと行くことを余儀《よぎ》なくされたのだ。だが、ここにわずかだが時間を与えられた。君はよくやっている。自信を持つことだ。やってみさえすれば、もはや君にできぬことはない」
「どうしよう」自分の声が小さく途方にくれて聞こえ、ウィルはそれこそちっぽけな迷子になったように感じた。
「何かあったの?」ブラァンはとまどっていた。
ウィルには聞こえなかった。「メリマン、あの三人はぶじ?」
「うむ」メリマンは重々しく言った。「危険にさらされてはいる――だが今のところはぶじだ」
孤独感《こどくかん》がふいに奥の方で湧《わ》き起こったが、悪夢の馬が敗《やぶ》れた時の記憶が、どういうものか、恐慌《きようこう》をきたすのを防いでくれた。「どうすればいいの?」
ブラァンはじっと動かず、無言で鏡の中のウィルを凝視《ぎようし》していた。
「これまで通り、老婦人の言葉を思い出せばよい」メリマンの顔には信頼の色があった。「行きたまえ。失せし国で言われたほかのことも忘れぬように。最善をつくす以上のことはできぬものゆえ。ウィル、一つだけ、言っておくことがある――グイオンには生命を預《あず》けても大丈夫だ。遠い昔、私もそうした」愛情のこもった温《ぬく》もりが声を深めた。最後にもう一度ウィルを見すえると、「剣を持って戻りさえすれば、<光>が運んでくれる。ぶじを祈るぞ、<古老>よ」
メリマンの姿は消えた。
ウィルは鏡から顔をそむけ、長い息を吐いた。
ブラァンがささやいた。「ここにいたの? もう行っちゃった?」
「うん」
「どうして見えなかったんだろう? どこにいたの?」
「鏡の中さ」
「鏡の中!?」ブラァンはおっかなびっくり鏡を見た。下に目をやって、手にした木の実の袋を忘れていたのに気づき、ウィルに押しつけた。「ほら、食えよ。メリマンは何だって?」
急に空腹を覚えてウィルは口にハシバミを詰《つ》め込んだ。「失せし国に来られないのは確実なんだって」とふさがった口で言った。「ぼくら二人だけで通さなきゃならないんだ。言われたことはおぼえておくようにって――ああいうののことだと思う」と戸口のウェールズの文字をゆびさした。「それから――グイオンは信用できるってさ」
「もうわかってることじゃないか」
「うん」ウィルは灰色の髭《ひげ》をたくわえた力強い顔を輝《かがや》くような微笑《びしよう》を持つ痩《や》せた男を思い浮かべた。
「グイオンって誰なんだろう? 何が仕事なんだろ――」
「つくることさ」ブラァンが意外にも言った。
ウィルは口の動きを止めた。「何だって?」
「吟遊詩人《ぎんゆうしじん》なんだと思うな。賭《か》けてもいい。竪琴《たてごと》だこが指先にあったもの。けど、一番の決め手は、王の話をしている時に、いろんな形でものを創《つく》り出す人達のことを話した、あの話し方だな。愛情がこもっていた……」
「そして、一度はメリマンと一緒にものすごい危険をくぐりぬけたはずだ……。まあ、いつかわかるだろう。そら――」ウィルは木の実の袋《ふくろ》を手渡した。「残りは君のだ。リンゴがあると言わなかったかい?」
「一個ずつだよ」ブラァンは一個渡してよこし、鞍袋《くらぶくろ》を丸め出した。
ウィルはリンゴを齧《かじ》りながら戸口に歩み寄った。小さな固い黄色の実だったが、驚くほど甘く、汁気《しるけ》が多かった。白い骨の山は日なたに死んでさらされていた。ウィルは見ないようにして、代わりに目を上げ、鄙を眺《なが》めやった。
「ブラァン! どれだけ近づいたか見ろよ!」
ふっくらした白雲が浮かぶ青空の太陽は高かった。剛《かた》い草の生えた牧場の向こう、一マイルほど隔《へだ》たったところに、高い木立の中に立つきらきら輝《かがや》く塔《とう》が見えた。日の光がまともにあたっており、まぶしさに目もくらむほどだった。
ブラァンが出て来た。二人は長いこと城を見つめていた。その先には失せし国の終わるところを示す青海の光る水平線があった。ウィルは家の屋根に生《は》えている、横に拡《ひろ》がった低いサンザシの木をもう一度見ようと振り返った。そして瞠目《どうもく》した。初め、マリ・フルイドを滅ぼす魔法の吹雪《ふぶき》となった乳白の花におおわれていた木には、今や炎《ほのお》のように鮮《あざ》やかに枝を埋《う》める真っ赤な実がぎっしりついていたのだ。
ブラァンか驚きに打たれて頭を振った。ふたりとも、感謝と別れの意を示そうと本能的にがっしりした石壁に触れた。それから牧場の剛《かた》い草の上を光る尖塔《せんとう》めざして徒歩《とほ》で横切り出した。
もう一度振り返って、楯《たて》となってくれた屋根に木の生えている家を見ようとしたが、家などどこにもなく、開けた野原に赤い実をつけたサンザシの茂《しげ》みが、幾つも固まって生えているだけだった。
カー・ワディル
捜《さが》してはみたが道は二度と見つからなかった。金色の馬はどこにも見えなかった。恐怖が遠くへ運んでいってしまったのだ。しかたなくウィルとブラァンは輝《かがや》く塔《とう》に顔を向け、牧場の葦《あし》に似た剛《かた》い草を踏《ふ》み越《こ》え、堅《かた》い土に生《お》い繁《しげ》るハリエニシダを掻《か》きわけ、まだ水が溜《た》まっている低い湿地帯《しつちたい》を通り抜けた。失せし国の全てが低地だった。海岸沿いの平野で、左手にはカーディガン湾が、右手には内陸の山々が淡い紫《むらさき》がかった茶色に立ち上がっている。行手のどこかにダヴィ河が流れているはずなのにウィルは気づいた。前に見た河口よりもかなり先で海にそそいでいるに違いない。ウィル自身の時代の海岸の海寄りの側に余分な半マイルが付け足されたかのようだった。
「というより、失くした土地を返してもらったんだ」と声に出して言った。
ブラァンはわかっているよと言いたげに半ば笑《え》みを浮かべた。「まだ失われてないってだけでね。過去に戻ったんだから」
ウィルが物思わし気に言った。「そうかな?」
「決まってるさ!」ブラァンはまじまじとウィルを見た。
「だろうな。過去、未来、過去、未来」ウィルはほかのことを考え出した。よけて通っていた沼地の葦《あし》の間の黄色いアイリスの群れを見やった。「きれいじゃないか。農場の、川の近くに生えてるのと同じだ」
「この辺にも川があるに違いないよ」ブラァンは訝《いぶか》しげにウィルを盗《ぬす》み見た。「ひどく湿《しめ》ってるもの。ぼくのほうはのどがカラカラだ」
「しっ! 水音がしないか!」
「どうせたいして役にはたたないさ。塩気があるに決まってる」と言いはしたものの、ブラァンも小首をかしげて耳をすまし、やがてうなずいた。「ほんとだ。この先だよ。あの木立の向こうだ」
二人は歩きつづけた。光る塔《とう》は、ほとんど木々に隠されていたものの、ますます高く見えた。都の王宮のとそっくりな、黄金と水晶《すいしよう》の縞《しま》の円蓋《えんがい》を頂《いただ》いているのが見えた。てっぺんにはそっくりな黄金の矢まであって、海の方を指していた。
まもなく低い柳《やなぎ》の木立にはいり、水音が大きくなり出したと思うと、いきなり葦《あし》に縁取られた小川に出た。これほど平たい土地の川にしては不思議に流れは急だった。二人のほうへ湾曲している川は都のほうから来て、海へ向かうダヴィ河に流れ込むらしかった。水は清らかで涼しげに見えた。
「のどが乾《かわ》いた!」ブラァンは「祈《いの》っててくれよ」と言うと片手を水に入れ、味を見た。そしてひどい渋面をつくった。
ウィルはがっかりし呻《うめ》いた。「塩水かい?」
「いいや」ブラァンは無表情に言った。「うまいよ」と言うと、ウィルが笑いながら殴《なぐ》りかかるのをかわし、二人して草深い川岸に腹這《はらば》いになって乾《かわ》きを癒《いや》し、ほてった顔を濡《ぬ》らした。しまいには髪《かみ》までずぶ濡《ぬ》れになってしずくを垂《た》らしていた。とある岩の風下に小さな淀《よど》みがあり、そこに映《うつ》ったブラァンの顔を見たウィルは目が離せなくなった。本当にブラァンらしいのは黄色い目の輝《かがや》きだけで、顔はかげって暗く、濡《ぬ》れた髪《かみ》は濃い部分と明るい部分が縞《しま》めいて見えた。にもかかわらず、その変わり様そのものに不思議に見おぼえがあった。鋭《するど》く「前にどこかでそういう君を見てる」と言ったが、「ぼくなら何度も見てるじゃないか」とブラァンはのんびり言っただけで、頭を下げると水中にあぶくを吹き込み、映像を砕《くだ》いた。水は波打って何百という異なると面と化し、陽を照り返し、渦巻《うずま》いた。ふいに、白い部分がやたらにふえたように見えた。ウィルの脳裏《のうり》に小さな警報《けいほう》が鳴った。反転すると、空を背に、頭巾《ずきん》をかぶった白騎手《しろきしゆ》が馬上ゆたかに控《ひか》えていた。
ブラァンが咳込《せきこ》みながら頭を水から出し、口からみどりの水草を一本引っ張り出した。目から水気を拭って顔を上げ――はたと動きを止めた。
白騎手は頭巾の陰《かげ》になってよく見えない白い顔に備《そな》わった、キラキラする目でウィルを見おろした。
「師匠《ししよう》はどこだね、<古老>よ」和らかい猫撫《ねこな》で声で、聞いたことがあるはずもないのに妙《みよう》に聞きおぼえがあった。
ウィルはつっけんどんに言った。「ここにはいない。知ってるはずだ」
白騎手の歯が光った。「邪魔《じやま》がはいって来られなくなった、とでも言ったんだろうね。信用するとはおまえも単純だ。メリマン殿はおまえより抜け目がない。危険があると知っている場所にのこのこやって来はしないよ」
ウィルはゆっくりと両肘《りようひじ》を後ろについてふんぞり返った。「そんなでたらめにひっかかると思ってるんなら、おまえは単純以下だ。低能の手口しか使えないなんて、<闇《やみ》>もよくよく苦しいんだな」
白騎手の背中がしゃんと伸びた。よくわからない形でだが、はるかに危険な存在になったように感じられた。「引き返せ」と猫撫で声が冷たく言った。「引き返せ。今のうちだよ」
「無理強《むりじ》いはできないはずだ」
「できない。けれど、来なければよかったという目にあわすことはできる。ことに……」と光る目がブラァンを一瞥《いちべつ》した。「……ことにその白い髪《かみ》の小僧《こぞう》にね」
ウィルは静かに言った。「誰《だれ》だかは知ってるはずだぞ、白騎手《しろきしゆ》。名前で呼ばれる権利がある」
「まだ力を得てはいない」白騎手は言った。「得るまでは何者でもない。従《したが》って、永久に何者でもない。おまえの時代の子供のままさ。師匠抜きでは、おまえが剣を得る望みはないからね。引き返せ、<古老>よ、引き返せ!」和《やわ》らかい声は荒げられ、命令となって鳴り渡った。白馬が不安気に足を動かした。
「引き返せば、失せし国からぶじにもとの時代に返してやるよ」
馬がまた動いた。苛立《いらだ》ちの叫《さけ》びを上げて、白騎手は手綱《たづな》をふるい、落着かせるために大きな輪を描いて歩かせた。
「見ろよ!」ブラァンがささやいた。地面を見つめていた。
ウィルも下を見た。中天にさしかかって燃える太陽の下で、二人の影は不揃《ふぞろ》いな草の上に小さくくっついて落ちていた。だが弧《こ》を描いて戻って来る白騎手の馬の四つの蹄《ひづめ》の下の草は少しもかげらず鮮《あざ》やかだった。
「ああ、そうとも」ウィルはそっと言った。「<闇《やみ》>は影を落とさないんだ」
白騎手は自信たっぷりにはっきり言った。「引き返すだろうね」
ウィルは立ち上がった。「引き返さないよ、白騎手。剣を取りに来たんだから」
「剣は我《われ》らのものでもおまえたちのものでもない。ぶじに帰らせてはやるが、剣はここに造《つく》り主と共に残る」
「造り主は<光>のために造ったんだ。取りに行けば渡してくれる。そのあとは<闇>が許《ゆる》そうが許すまいが、勝手にぶじに帰るさ」
白いマントの君はウィルを見おろし、女のような口をくつろげて、変に気に障《さわ》る安堵《あんど》の嘲笑《ちようしよう》を浮かべた。「この国でそれができると思っているのなら、恐《おそ》れる必要もないほどの大馬鹿者《おおばかもの》だよ」
それきりひとことも言わずに馬の頭をめぐらせて湾曲した川に沿《そ》って走り去り、木々の陰《かげ》に消えた。
沈黙があった。川の水が呟《つぶや》いた。
ブラァンは立ち上がり、騎手《きしゆ》の去った方角を不安気に眺《なが》めた。「どういう意味だろ?」
「わからないけど気に入らない」ウィルは身震《みぶる》いした。「<闇《やみ》>がそこらじゅうにいる。感じるかい?」
「少し。はっきりとじゃない。君とは違う。ただここが……悲しい場所だって気がして」
「悲しい王の住むところだ」ウィルは周囲を見まわした。「川に沿《そ》って行けばいいのかな?」
「そうらしい」川が見えなくなる地点を通り越したあたりの木々の梢《こずえ》から城の円蓋《えんがい》と黄金の矢が突き出ているのが見えていた。
川岸は草深く、道もない代わりに邪魔《じやま》になる木や茂みもなかった。二十フィートほどの狭《せま》い川幅《かわはば》こそ変化しなかったが、岸の剛《かた》い草の間の川床《かわどこ》は次第に広くなり、光る砂地となっていった。泥《どろ》に汚《よご》されぬきれいな金色の砂だった。
「干潮だ」ウィルが見ているのに気づいてブラァンが言った。「ダヴィ河と同じさ。満ちて来たらあの砂は水の下になって、川幅は二倍になる。もう満ち出しているよ。ほらね」
ゆびさした先を見ると、流れの方向が変わり出した川の中で水が渦巻《うずま》いているのが見えた。中央の本流はまだ海にそそぎ続けていたが、両端には潮が流れ込み始めていた。
「もう飲めないよ」ブラァンが言った。「塩気が多くなりすぎた」
歩くにつれて、満ちて来る潮が勢いを増すにつれて、川は次第に広くなった。対岸の木々の背が低くなり、まばらになり出した。時折り、やぶや野原の向こうの広い砂州《さす》や、はるか彼方《かなた》にも立ち上がる山々が垣間《かいま》見えた。と、だしぬけに四角い茶色の帆《ほ》が現れ、潮に乗って泡《あわ》をかきたてながら舟が近づいて来た。二本の頑丈《がんじよう》な木の帆桁《ほげた》の間で、帆は帆柱と直角に膨《ふく》らんでいたが、帆桁はすぐにガラガラと甲板《かんぱん》におろされ、帆がおりて来た。
舟は二人のそばの岸にへさきを向けた。ウィルは仰天《ぎようてん》して帆を巻いている人物に目を凝《こ》らした。
「グイオンだ!」
黒服をまとったグイオンはロープを持ったまま器用にへさきに駆《か》け寄り、舟が着くと同時に岸に跳《と》び移った。ウィルとブラァンに目をくれると、きちんとした灰色の髭《ひげ》の上に見慣れた笑みをたたえ、肩越しに舟に向かってウェールズ語で何か言った。太い一本マストの後ろの長い陀柄《だえ》のそばに黒髪《くろかみ》に赤黒い顔のがっちりした男が立っていた。幅の広い舟で、大型船の救命ボートに似ていなくもなかった。男はグイオンに声をかけた。ウィルは物問いたげにブラァンを見た。
「舟をもやうとか、潮をのがさないようにとか言ってる。けど――その綱をぼくに投げて《ダヴラール・ラフ・アナ・イ・ミ》」とブラァンはふいに言い、舟から投げられた二本目の綱を受け止め、ふたりして船首と船尾をそれぞれ木にもやった。舟は潮が腹を洗っていくにつれゆるやかに揺《ゆ》れた。
「ぶじにここまで来れたとはたいしたものよ」グイオンは二人の肩に手を置いた。「さあ、来るがよい」と言うと、きびきびした足取りで川岸を歩き出した。
ウィルはあとに従いながら、肩甲骨《けんこうこつ》の間で緊張の太い結び目が解かれたように感じていた。
「説明してくれなくちゃ」ブラァンは遅れまいと大股《おおまた》になった。「どうやって来たの? なぜ舟なんかで? ぼくらがいつ、どこにいるか、どうしてわかったんだい?」
グイオンはほほえんだ。「クルーイドのブラァン・デイヴィーズよ、力を全て身につけた暁《あかつき》には、ここにおるウィル同様自信を抱《いだ》き、さようなことはあえて問わぬであろうよ。わしがここにいるのは、おぬしらが必要としているからよ。それだけだ。従って、わしは、<光>と<闇《やみ》>が戦っている折にはいずれと関わり合うこともならぬ、という失せし国の掟《おきて》を破っていることになる。<時>の終わりまで破り続けることだろう。慌《あわ》てるな……」声をひそめ、歩をゆるめたグイオンは両腕《りよううで》を横に伸ばして二人を制した。
川のこちら側をまばらに縁取っていた、風にたわめられた樫《かし》や松が尽《つ》きたところだった。目の前に、丈の高い木に取り囲まれて、輝《かが》く塔《とう》が、失せし国の城がそびえていた。
グイオンはふいに真顔になり、腕《うで》をおろして一瞬、ウィルのこともブラァンのことも、自分をも含めて、目の前のきらきら輝《かがや》く孤独《こどく》な塔《とう》以外のあらゆるものを忘れてしまったかのように立ちつくした。
「カー・ワディル」とささやくように言った。「いつに変わらず美しい。だのにわが偉大な悩《なや》める王はその美を見られることもなく、中に閉じこもっておられる。それどころか、失せし国の全土を通じて、これを見られるのは<闇>の君のみなのだ」
ウィルは落ち着きなくあたりを見回した。「やつらはどこにでもいるくせに目には見えないんだ」
「到る所におる」グイオンが言った。「護《まも》りの木々の間にさえ。だが王や城に手を出せぬと同様に、木にも手は出せぬのだ」
塔《とう》の周囲には大木がいびつな円を描いて並んでいた。葉や枝に愛撫《あいぶ》されて、塔みどりの海の孤島のように中央からせり上がっていた。
「七本の木って老婦人は言ってたね」ブラァンがウィルのほうを向いた。「七本の木。前にもぼくらの目の前で目ざめて、フリン・ムアンギルの上を明日へと走り去った<眠れる者>達も七人だった」蒼白《あおじろ》い顔の中の黄色い目を光らせて、怯《おび》えることなく挑《いど》むように周囲を睥睨《へいげい》しているブラァンは、一瞬、ウィルが初めて目にする熱っぽい自信のとりこになっていた。
ウィルはゆっくり言った。「<眠れる者>は六人だったよ」
「七人になるさ。最後には七人になる。その時にはもう<眠れる者>じゃなくて、<闇>の君と同じに<騎手>と呼ばれるんだ」
「これが第一の木だ」グイオンの声はさりげなかったが、ウィルにはわざと話題を変えたのだという気がした。三人の前には、川に寄りそうようにしている木があった。何本もの細い幹に窮屈《きゆうくつ》そうに分岐《ぶんき》し、樹皮《じゆひ》はみどり、躍《おど》る葉は幅が広くて丸かった。
「ア・グエルネン」ブラァンが言った。「赤楊《はんのき》だ。足もとを濡《ぬ》らして生えている。ぼくらの谷でもそうなんだ。ジョン・ローランズなんかいつも水草よばわりしてる」
グイオンは赤楊の枝から小枝を三本折り取った。曲がったりぐさぐさになったりしないよう、節目のところをきちんと狙《ねら》って。「水草めいているかも知れぬが、割れることも朽《く》ちることもない木だ。火の木よ、赤楊は。土を水から解き放つ火の力を秘《ひ》めているのだ。その力が必要になるやも知れぬ。それ」とそれぞれに一本ずつ小枝を渡すと、先へ進んで、柳《やなぎ》の木の細い枝と長い葉から成る大きななめらかな天蓋《てんがい》に向かった。ここでも小枝を三本折り取り、二本を差し出した。
「柳。魔術師の木だ」ウィルはずっと以前、<古老>としての才能の使い方を学んでいる時にメリマンが見せてくれた古い書物を思い出していた。「若獅子《ワカジシ》ノ如《ゴト》ク強ク、愛情溢《アフ》ルル婦女子ノ如《ゴト》ク従順、且《カ》ツ、アラユル魔法ノ行末ニ違《タガ》ワズ、味ワウニ苦キモノナリ」とグイオンに苦笑いしてみせた。「しばらく前に、木の名前と性質を教えられたんだ」
グイオンは静かに言った。「いかにも。次は何かわかるか?」
「樺《かば》だ」前にそびえているのは節くれだった白い大木だった。細く長い茶色の小枝から猫《ねこ》の尾に似た固い花が揺《ゆ》れている。躍《おど》るみどりの葉の陰《かげ》の木は老いた古木で、根の間には赤地に白い斑点《はんてん》の浮いた毒タケが生えていた。とうの昔に自然に治癒《ちゆ》した白い切り傷《きず》が幹《みき》が朽《く》ち出していることを物語っていた。
ブラァンは驚きのあまり思わず口走った。「ここで樺《かば》の木を見るのは初めてだ」それからウィルを見てニヤッとし、自分を笑った。「そんなこと言えば、大きなガラスの塔《とう》や、屋根に生えてるサンザシを見るのも初めてだったな」
「おぬしの言うたことはもっともだ」グイオンは穏《おだ》やかに言って樺《かば》の小枝をよこした。「この、わしの時代のウェールズはおぬしらの時代におけるより暖かく乾《かわ》いておる。赤楊《はんのき》や樺や松の森もあるが、おぬしらには樫《かし》と、新しい民がもたらす異国の木々があるのみだ。それも」――と一瞬ためらい――「この時代の木々と同じ場所にあるわけではない」
一種の恐怖《きようふ》がウィルの精神をとらえた。グイオンの言わんとしていることがわかったのだ。だがウェールズ男はすばやく二人を先へ導き、樺の大木をあとにした。と思うと玻璃《はり》の塔《とう》カー・ワディルが正面にあった。初めて上から下まで全体が見え、地面の上、砂州《さす》の金の砂《すな》とみどりの岸の上ではなく、巨大な岩塊の上に建っているのがわかった。見慣《な》れぬ石だった。光るものの混じった灰色の花崗岩《かこうがん》でもなければ、灰青色のスレートでもなく、濃い群青色《ぐんじょういろ》で、ところどころに白石英の光る塊《かたまり》が突《つ》き出ていた。また、塔《とう》そのものの壁がやはりガラスめいた石英で出来ているのも見てとれた。白く半透明で不思議な乳色の輝《かがや》きを放っていた。円筒型《えんとうけい》の壁にはそこかしこに細い窓が仕切られていて、表面は全くすべすべしていた。
「ドアはないの?」ブラァンがたずねた。
グイオンは答える代わりに、長く剛《かた》い草の上を、二本の巨木へと導いた。最初のは丈は高くなかったが、ゆったりと枝を拡げていて、イングランドとウェールズの生垣《いけがき》の半分に見受けられる丸っこい葉とつき出したばかりの柔《やわ》らかい実を持っていた。
「薬になるハシバミだ」グイオンは小枝を三本取った。
「飢《う》えた旅人の餌《えさ》にもなる」ブラァンが言った。
グイオンは笑った。「美味であったか?」
「最高だった。リンゴもね」
ウィルは思い出した。「リンゴも木の一つだ」
「その前に、柊《ひいらぎ》だ」グイオンは近寄り難い黒っぽくこんもりした木に向き直った。つややかな濃緑の葉は、下の枝についているのは鋭《するど》い棘《とげ》だらけで、上の方のはおとなしい楕円《だえん》だった。グイオンは尖《とが》った葉を持つ枝だけを折って再びそれぞれに渡した。
「リンゴからは実も取るがよい」と微笑《びしよう》した。「だが枝を折るのは、いずれの木についてもわしの役目だ」
「なぜさ?」と草の中を進みながらブラァンはたずねた。
「さもなくば、木が悲鳴を上げ、法が効力を発揮《はつき》するゆえ」とグイオンはあっさり言った。「そうなれば、<光>も<闇《やみ》>もこの失せし国の中においては、目的を達成するためのいかなる行動も取れぬことになる」とい、いったん言葉を切り、じっと二人を見つめて小ぎれいなごましお髭《ひげ》をいじった。続く声は真剣だった。「失せし国はやさしい場所ではない。そこを間違えぬことだ。ここには厳《きび》しさがある。この国の者でないあらゆる感情への無関心がある。それが薔薇《ばら》の園の美と、工匠《たくみ》らの、創《つく》り手らのいま一つの顔なのだ。それを侮《あなど》らぬように」
ブラァンが言った。「だって、本当の邪魔者《じやまもの》は、<闇《やみ》>だけだよ」
グイオンは妙《みよう》に尊大に顎《あご》を上げたが、口もとには苦悩のしわが明らかに刻《きざ》まれていた。静かな声でこう言った。「ブラァン・デイヴィーズよ、おぬしを気も狂《くる》わんばかりにしたマリ・フルイドは、いずこから呼び出されたのだと思っているのかね? 鏡の迷路を編《あ》み出したのは誰《だれ》だと思うのか? 失われた王とその水晶《すいしよう》の剣のもとにたどりつくという不可能に等しい務めにおいて、おぬしに未だかつて知ることのなかった絶望を味わわせようとしているものは何だ?<闇>がそこまで関わり合っていると思うのか? そうではない。ここでは、この場所に備《そな》わっている力に較《くら》べれば<闇>など無力に等しい。おぬしらが全てを賭《と》して立ち向かっているのは失せし国そのものなのだ」
「荒魔術だ」ウィルがゆっくりと言った。「でなきゃよく似たものだ」
「荒魔術の一種だが他の要素も加わっている」
ブラァンはとまどった様子で目をしばたたきながらグイオンを見ていた。「あなたもその一部なの?」
「ああ」グイオンは考え深げに言った。「わしは破戒者《はかいしや》でな、わしの好きなように行動するのさ。ふるさとを深く愛してはいるが、ここで良い思いをすることは決してないだろう」ブラァンにふいに向けられた笑顔は温かさを放射するかのようだった。グイオンは前に顎《あご》をしゃくってみせた。「あれを見よ――欲しいだけ取るがよい」
大きなリンゴの古木が腰《こし》の曲がった老人のように低く身をかがめていた。少年達の頭上にそびえるどころか低く枝を這《は》わせている木はこれ一本だった。小さな黄色い実と、さらに小さいが明るいみどり色の実が、黒っぽい枝のまばらな葉の間になっていた。ブラァンは目をみはった。「今年の実と一緒に去年のがまだなってる」と言うと黄色い実をもぎ取り、汁気の多い締《し》まった果肉に噛《か》みついた。
グイオンはふっと笑った。「時には二年間ぶら下がり通しのこともある。おぬしの時代よりはるかに前の時代のピピン種なのを忘れたかね? おぬしの時代にいけば、失せし国が失われたこの時代の民が、<古老>を除けば想像だにしなかった物があまたある。同様に、過去にも多くの驚くべきものが存在していたのだが、全てこの国と共に永久に姿を消したのだよ」
ウィルは「永久に?」とそっと言うと、黄色い実をもいで差し上げ、目でグイオンに笑《わら》いかけた。
グイオンは力強い顔には奇妙な遠い表情を浮かべて見つめ返した。「いつまでもいつまでも、とわしらは幼い時に祈る。二度言う。<古老>よ、違うか? いつまでも、いつまでも……あるものが、人生や愛や探索《たんさく》がいつまでも続いて、それでいてまた新たに始まり、前と同様いつまでも続くようにだ。終わりが来たとしてもそれは真の終わりではない。そう見えるに過ぎぬ。<時>は死なぬからだ。<時>には始まりも終わりもない。ひとたび<時>の中に存在したものは終わることも死ぬこともありはせぬ」
ブラァンは蒼白《あおじろ》い顔を二人に交互に向けながら、無言でリンゴを齧《かじ》っていた。
ウィルが言った。「そしてぼくらはとっくに過ぎ去ったことなのに、まだ起きてもいないことのまんなかに突っ立ってるわけだ。ここでね」
ブラァンがふと思いがけないことを言った。「ぼく、前にここにいたことがある」
「さよう。おぬしはここで生まれたのだ。これとよく似た多くの木々の間でな」
ウィルはすばやく目を上げたが、白髪《はくはつ》の少年はそれ以上は言わなかった。グイオンも黙《だま》ったまま前に出、リンゴの老木から黒っぽく節くれだった小枝を三本折り取った。
声が聞こえたのは背後からだった。どこのものかわからないなまりのある、静かな声だった。「ここで生まれた子供なら、ここに残ることになるかも知れぬぞ――いつまでもいつまでもな」鞭《むち》のように鋭い悪意に満ちた揶揄《やゆ》が声にかどを与えた。「いかに形而上学的《けいじじようがくてき》に解釈しようと、いつまでもというのは長い」
ウィルはわざとゆっくりと振り返り、大きな黒馬にまたがった背の高い黒衣の人物と向かいあった。黒騎手《くろきしゆ》は頭巾《ずきん》を脱《ぬ》いでいた。狐《きつね》の毛皮にも似た赤いつやを帯びた豊かな栗色《くりいろ》の髪《かみ》は陽差しにきらめき、光る目は青い石炭のように燃《も》えていた。背後の少し離れたところに馬に乗った人影《ひとかげ》が何人も黙って控《ひか》えていた。黒一色か白一色に身を包んだ騎手がどの木のそばにも一人ずつ、さらに多くがはっきりとは見えないほど遠くまで散らばっていた。
「もはや警告はせぬ、<古老>よ」黒騎手が言った。「これよりは単純な挑戦《ちようせん》と脅《おど》しがあるのみだ。それと、約束がな」
グイオンの声は力強く深かった。「殿よ、<闇《やみ》>の約束はこの国では何ら効力を持ちませぬぞ」
黒騎手は犬か幼児でも見るようにちらりと見おろし、侮蔑《ぶべつ》をこめて言った。「<闇>の君の言葉を恐れるほうが、失われた王に仕える楽士を意に介《かい》するよりも賢明《けんめい》だ」
ウィルの体じゅうを予感が足の速い虫のように横切った。頭の中で(ああ、そんなことを言って今に後悔《こうかい》するぞ……)と唄《うた》っていたが、グイオンその人は何ら反応せず、黒騎手などそこにいもしないかのように通り過ぎてその上に影をおとしている巨大な太い樫の木に近づいた。
「ここでは葉は採《と》れぬぞ、弾《ひ》き手よ」騎手は嘲《あざけ》った。「木々の王はきさまには手が届かぬであろう」
予感がますます強くウィルを震《ふる》わせた。グイオンは無表情だった。注意深く、威厳を損《そこ》なうことなく、痩《や》せた茶色い腕を一杯に伸ばし、葉がたくさんついた枝を折り取って三つに分けた。
騎手は鋭《するど》く言った。「楽士よ、きさまに約束しよう。その塔に足を踏《ふ》み入れたが最後、二度と出ては来られぬぞ」振り返ったはずみに顔の脇《わき》の醜《みにく》い傷痕《きずあと》が見えた。
「止めることはできないよ」ウィルはブラァンを引き寄せるとグイオンと樫《かし》の木に近づいた。
黒騎手はふいにくつろいだ様子になって微笑《びしよう》した。「その必要もない」とゆっくりと、すばらしい漆黒《しつこく》の馬を横に移動させ、そびえる玻璃《はり》の塔《とう》がウィルとブラァンによく見えるようにした。
ウィルは足を止め、困惑《こんわく》の呻《うめ》きを抑《おさ》えきれなかった。黒騎手はかん高く嘲《あざけ》り笑った。言わんとしたことはいまや誰の目にも明らかだった。
カー・ワディルの入口がついに、基《もとい》である岩の上高く、粗《あら》っぽく切り出された急な石段のてっぺんに見えた。だがそこは、ウィルが想像だにしなかった魔法でふさがれていた。入口の前には巨大な車輪が下がり、光る円盤《えんばん》のように見えるほど速く回転していたのだ。軸《じく》も支えも何一つなかった。恐るべき車輪は宙に浮いていた。近づく者を拒み、クルクル、クルクル、回転のあまりの速さに脅《おびや》かすようなキーンという音を発していた。
ブラァンがささやいた。「そんな!」
黒や城の馬にまたがって木々の間にいる<闇>の君達はせせら笑った。してやったりと思っているのだった。黒騎手が再び笑った。不快な、脅すような笑い方だった。
なすすべなく取り乱して振り向くと、グイオンのきらきらする目がじっとウィルを見つめ、ウィルをとらえた。力強い顔と灰色の髭《ひげ》に走っている変わった黒いすじの上からきらめき、こう言っていた。教えてやりたいが教えてはやれぬ――考えるのだ――
ウィルは考え、はっと気づいた。
「来いよ!」
ブラァンの腕《うで》をつかむとだっと走り出し、<闇《やみ》>の嘲弄《ちようろう》をのがれて塔《とう》の立つ大岩の石段を駆《か》け上がり、最上段に達すると立ち止まった。急転する車輪は体をまっぷたつに切断してしまいそうに近かった。かん高い回転音が頭を満たした。グイオンは嬉《うれ》しさのあまり白い歯を光らせてあとを追ってきた。ウィルはブラァンの当惑《わく》している案じ顔に自分の顔を寄せ、耳もとで言った。「老婦人は最後に何て言った?」
安堵《あんど》が波のように拡がるのが見え、言葉が吐《は》き出されるのが聞こえた。「角笛だけが車輪を止める――」
ウィルはベルトに手をやり、きらめく小さな狩りの角笛《つのぶえ》をはずした。動きを止め、深く息を吸《す》い込むと澄《す》んだ音を長々と吹き鳴らした。回転する鋭い車輪の恐ろしいキーンという叫《さけ》びを和らげるように響いた。車輪はたちまち、すさまじい力に抑制《よくせい》されたかのように停止した。下にいる<闇《やみ》>の騎手達が怒りの雄叫《おたけ》びを上げた。車輪に輪を十字に仕切る輪が四本ついているのを見たのもつかの間、グイオンが二人をうながして順に手近な四分の一の空間をくぐらせ、自分も続いてもぐり込んだ。
グイオンは持っていた七本の小枝の束をウィルの手に押し込んだ。見なくとも今やどうすればいいかはわかっていた。ブラァンの手の束をもつかみ、三つの束を一緒に持つと、急いで車輪の幅の間から、塔《とう》への階段を駆《か》け上がってくる闇《やみ》と怒《いか》りと凶意《きようい》の波めがけて突き出し、力を振りしぼって<闇>の中へ小枝を投げ込んだ。音のない爆発にも似た猛威《もうい》が塔《とう》から外へ向けて流れ出、巨大な車輪は回転を再開した。
次第に速さをまし、キーンという音が高まるにつれ、入口を回転する魔法によって阻《はば》まれた<闇>は、口惜しさと衝撃《しようげき》と怒りにわめきたてた。そしてウィルとブラァンとグイオンは、失われた王の玻璃《はり》の塔《とう》の内側の、やさしい半透明な明るさの中に立っていた。
失せし国の王
三人は互いに目を見交《か》わした。外では<闇《やみ》>の怒りがいやまし、世界中が吠《ほ》えたけっているかに聞こえた。ウィルはその激しさを殴打《おうだ》の如く感じ、思わず肩を怒らせた。
だしぬけに何も聞こえなくなった。騒《さわ》ぎは止み、いっぺんに消えてしまった。聞こえるのは外で回転してる車輪ばかりだった。この唐突《とうとつ》な変化は前の騒ぎよりもはるかに不気味だった。
「何をしてるんだろう?」ブラァンはきつく巻かれたバネさながら神経を張りつめさせていた。顎《あご》の片側で筋肉がけいれんしているのが見えた。
「何もしちゃいないさ」ウィルは確信を装《よそお》って言った。「ここじゃ何も出来ないんだ。忘れてしまえよ」と、今いる塔《とう》のたてよこを一杯に占めている四角い部屋を見まわした。「ごらんよ!」
どこもかしこも光に満ちていた。淡《あわ》いみどりがかった光がえらく複雑な仕事の最中に慌《あわ》てて出て行くはめになった、とでもいうように散らかっていた。卓子《テーブル》や棚《たな》には手描きの巻き物が山と積まれ、床《ゆか》をおおっている藺草《いぐさ》を編《あ》んだ厚い敷物の上にもあった。一方の壁際《かべぎわ》の大きな重い作業机に光る金属の切れ端や、ガラスの塊《かたまり》や、赤や白やみどりがかかった青の石が、ウィルに父親の宝石店を思い出させる繊細な道具一式とごちゃまぜになっている。と、壁の高い所にかかっているものが目をとらえた。輝《かがや》く黄金でできた、飾り気のない丸い楯《たて》だった。
グイオンが身軽に卓子《テーブル》にとびのり、壁から楯《たて》をはずして差し出した。
「持って行くがよい、ウィルよ。かつて盛んであられた頃に、グイズノー王は<光>のために三つの楯を造《つく》られた。二つは<光>の手で、危険が襲《おそ》うやもしれぬ場所へと運ばれたが、第三の楯《たて》はここに置き去りにされた。わしにはその理由がわからなんだ――だが、今この瞬間が、まさにその理由だったのやも知れぬ。それ」
ウィルは輝《かがや》く丸い楯を取り、内側の革紐《かわひも》に腕《うで》を通した。「なんてきれいなんだろ。あとの二つもきれいだよ。見たことがあるって気がする。別の……所で。使われたことはないけど」
「これも使われずに済《す》むことを願うよ」とグイオンが言った。
ブラァンが苛立《いらだ》たしげに「王はどこ?」とたずねた。錬鉄の螺旋《らせん》階段を見上げているのだった。みごとな唐草模様《からくさもよう》に飾られた階段は、高い玻璃《はり》の天井《てんじよう》に切られた穴の中へと消えていた。
「さよう、上におられる。これから上がるが、わしが先頭に立つ。誰《だれ》もおらぬ部屋を幾つか過ぎた後、最後の部屋で王にお会いできるはずだ」
階段の湾曲した手すりに片手をかけると、グイオンはじっとウィルを見た「しるしのベルトはいずこかね?」
「バードン山の戦場にある」ウィルは残念そうに答えた。「最大限の勝利をかちとるために、メリマンが偉大な王のもとに持っていったんだ。最後の対決の時にも持って来るはずだ。老婦人が来られて<光>の総力が結集する時だから。けど、それまではない。その時が来たって――」ウィルは言葉を途切らせた。
「エイリアスだね」ブラァンの声はひきつっていた。「エイリアス」
グイオンがすばやく言った。「まだその名を口にすな! それはあとだ。この塔《とう》の中では、剣の前に出るまでは、名前で呼ぶことは許されぬ。来るがよい」
三人は螺旋階段《らせんかいだん》を上がり、幾つもの部屋を通り抜けた。いずれにも、生活に伴《ともな》う寝食《しんしよく》の必需品《ひつじゆひん》が取り散らかされていたが、同時に、長いこと使われていない場所独特の見捨てられた雰囲気があった。やがてしんがりをつとめていたウィルは、ブラァンとグイオンが他のどれとも異なる大きな部屋に黙《だま》って佇《たたず》んでいるのを発見した。ここの壁を通って来る光は涼しい氷のみどりではなく、もっと暗くくすんでいた。三人は今や、黄金と半透明の玻璃《はり》が縞状《しまじよう》をなしている大きな半球の中にいるのだった。海を指す黄金の矢を頂《いただ》いた塔の円蓋《えんがい》の中にいるのだとわかった。
中は暖かく、床《ゆか》には縞模様《しまもよう》の屋根から斜《なな》めに射《さ》し込んで来る日光がすじになっていた。それでいて不思議に陰気な場所で五感を圧迫するものがあった。四角い卓子《テーブル》が一つ片側に寄せられ、木彫《きぼ》りの衝立《ついたて》と幾脚《いくきやく》かの背もたれの高い大きな椅子《いす》があるほかは何もなかった。椅子は一本の木材から彫《ほ》り上げられたかのように頑丈《がんじよう》そうだった。
「グイオンか?」と声がした。
静かなこだまが円蓋《えんがい》の中でささやき交《か》わした。低く力のない抜け殻《がら》だった。部屋の反対側で向こうを向いている背の高い椅子《いす》から発せられたのだが、三人には背もたれしか見えなかった。
「ここにおります、わが君」グイオンの目は温かく、声には困っている子供に話しかけているような愛情と忍耐《にんたい》がこもっていた。「二人の……<光>が一緒《いつしよ》でございます」
長い間があった。聞こえるのは外のどこか遠い所で鳴くかもめのかすかな声ばかり。
ようやく、声が冷たく手短に言った。「余を裏切ったか。下がらせろ」
グイオンはすばやく部屋を横切り、高い木彫りの椅子《いす》の前で片膝《かたひざ》をついた。円蓋《えんがい》を通して来る淡い光のすじの中で、まだら髭《ひげ》に縁取られた細い顔が姿の見えぬ王を仰《あお》ぐのが見えた。愛と忠義が炎《ほのお》のように輝《かがや》く顔で言った。「私がわが君を裏切りましょうや?」
「いや、裏切るまい」声は疲《つか》れたように言った。「それくらいは余もわきまえておる。したが、わが楽人よ、その者らは立ち去らねばならぬ。それこそ、そちのほうでわきまえておくべきことじゃ」
ウィルは思わず前に進み出た。「ですが陛下、危険が大きすぎるのです」大きな椅子のすぐ後ろで立ち止まると、肘掛《ひじか》けにグイオンの指輪によく似た大きな黒っぽい石の指輪をはめた細い手が力なく置かれているのが見えた。できるだけ落ちついた声でウィルは待った。「殿よ、<闇《やみ》>が立ち上がったのです。地球の支配権を人間の手から奪《うば》うべく。ぼくら<光>には、そのために造られた力の品々で武装していない限り、それを封《ふう》じることができません。品は全て揃《そろ》いましたが、ただ一つ、水晶《すいしよう》の剣が、王陛下が遠い昔に造られ――今そうして守っておられる剣が足りないのです」
「余は何も守ってはおらぬ」声は気がなさそうに言った。「存在するのみじゃ」
「ですが剣は、造られた時からずっとここにあります」と言いながらもウィルの目は室内を捜《さが》しまわった。「与えて下さらない限り、持ち出すことは許されていません。どうぞ渡して下さい、陛下、お願いです」
「余《よ》をひとりにしてくれ」声は言った。「ひとりにしてくれ」痛いほどの悲しみに満ちていて、ウィルをなんとか慰《なぐさ》めてやりたい気にさせた。が、頭の中では探索《たんさく》の重大さのほうがそれを上回っていた。
「剣は狩りのためのものです」ウィルは頑張《がんば》った。「<光>のもとに行かねばなりません」王の座《ざ》しているそばの傾斜した壁際に立てられているすばらしい木彫りの衝立《ついたて》を見た。ただ見て美しい品として置いてあるのだろうか? 何かを人目から隠《かく》しているのではないのか?
声は元気なくすねたように言った。「余に『こうせねばならぬ』と言う者はおらぬ、<古老>よ。それがそちの名か? 余《よ》はさようなことは忘れは果ててしもうた」
ウィルの背後でブラァンが鋭《するど》く言った。「けど、エイリアスが要《い》るんです!」
椅子《いす》の上の細い手が一瞬だけ生命を得、握りしめられたが、すぐにまたぐったりとなった。「グイオン」虚《うつ》ろな声は言った。「してやれることはない。下がらせろ」
グイオンはぬかずいたまま、懸念が刻み込まれた顔を上げた。「倦《う》み疲《つか》れておられる」と儀礼を振り捨てて辛《つら》そうに言った。「いつもひとりでおられぬほうがよいのに」
「人生に疲《つか》れたのじゃ、楽人よ。この世にな」声は風に吹かれる枯葉さながら、ひからびて乾《かわ》ききっていた。「目的も味わいもない。時は思いのままに余《よ》の心を振り回す。余の生命は役にもたたぬ。鴉《からす》の空しい鳴き声も同然じゃ。一度は備《そな》わっていたやも知れぬ才能は死に絶えた。その才能が造った玩具《がんぐ》も共に死なせてやれ」
言葉は緩慢《かんまん》に、石を落とし込んでも音一つたたない黒い穴《あな》のように深い絶望の中から吐《は》き出された。ウィルの首すじの毛が逆立った。死人が口をきいているかのようだった。
ブラァンがきっぱりと冷ややかに言った。「王どころか、マリ・フルイドのようなことを言われますね」
再び手が一瞬握られ、また力なく垂《た》れた。声の中に、無知で盲目な活力に溢《あふ》れた希望と対面した、長い長い経験だけが持つ疲れた蔑《さげす》みがこもった。「子供よ、青臭《あおくさ》い子供よ、まだ生きたこともない人生について語るな。民《たみ》の期待にそえなんだ王、才能の期待にそえなんだ工匠《たくみ》にのしかかる重荷がそちにわかるか。人生は長い欺瞞《ぎまん》なのじゃ。守られることのない約束と、正されることのない過《あやま》ちと、埋《う》められることのない欠陥《けつかん》に満ちている。忘れられる限りを余《よ》は忘れてしもうた。立ち去れ。残りを忘れさせてくれ」
かすれた声の中の恐るべき自己嫌悪《じこけんお》にとらわれ、言葉もなく立ちつくすウィルのそばにブラァンが進み出た。すると、だしぬけにウィルの感覚という感覚が変化の到来《とうらい》を叫《さけ》びたてた。ただいまこの瞬間より、ブラァンはもはや、黄色い目をした異様な白子《しらこ》、北ウェールズの谷間で、村人に横目で見られ、子供達に色のない顔と髪《かみ》をからかわれる名も無い少年にすぎなくはなくなった。
「グイズノー・ガランヒルよ」ブラァンはウェールズなまりの一段と強まった、氷のように冷たく厳《きび》しい静かな口調で断じた。「ぼくはペンドラゴンだ。<光>の運命はぼく次第で決まる。絶望などぼくは認めない。あなたが父に言われて造ったエイリアスは、生まれながらにしてぼくのものだ。水晶《すいしよう》の剣はどこにある?」
ウィルは爪《つめ》を掌《てのひら》に食い込ませ、震《ふる》えていた。
極めてゆっくりと椅子《いす》の人物は体を前に乗り出し、振り向いた。ずっと前だがついさっきのように感じられるひとときに、薔薇《ばら》園の噴水《ふんすい》にかかった虹《にじ》の中に見たとおりの王の顔だった。間違えようもなかった。翼《つばさ》のように頬骨《ほおぼね》の張った痩《や》せた顔。憂《うれ》いによって深く刻《きざ》み込まれたしわ。絶望の運河が鼻から顎《あご》にかけて流れ、目は暗い山の池のような影に囲まれていた。王はウィルを一瞥《いちべつ》し、それからブラァンを見た。顔が変わった。
王は身じろぎもせず、黒い目で見つめ続けた。長い沈黙《ちんもく》の後、ささやいた。「夢じゃったのに」
グイオンがそっと言った。「何が夢だったのですか? 陛下」
王はグイオンのほうを向いた。と、胸の痛むような素直さが宿《やど》った。友人に秘密をうちあける子供のような。
「わが楽人よ、余《よ》は絶えず夢を見ている。夢の中で生きているのじゃ――この空しさが感じられぬのは夢においてのみなのじゃ。時には黒く恐ろしい、奈落《ならく》からの悪夢もある……だが多くはすばらしく、幸いと失われた歓喜《かんき》と、ものを造《つく》ること、生きることへの喜びに溢《あふ》れている。夢がなかったなら、とうに狂《くる》っていたことじゃろう」
「はい」グイオンは口惜《くちお》しげに言った。「多くの人間について同じことが言えます」
「余が夢みたのはな」王は再び不思議そうにブラァンを見た。「始まりと終わりを共にもたらしに来る白い髪《かみ》の男児であった。偉大な父の子であり、父の力の全てと、さらにそれ以上のものを備えていた。余は、その父を知っていたような気が致した。遠い昔に……じゃが、空しさがこの頭にかけた霧《きり》のため、いつどこで知っていたのかは思い出せぬ。白い髪《かみ》のその子は……夢の中では、色というものを帯びておらなんだ。白い髪、白い眉《まゆ》、まつげも白く、目を太陽から護《まも》らんがための、黒いガラスの円を二つ着けていた。だがその円が取り除かれると、魔法の目なのがわかった。フクロウの黄金の目じゃった」
王は細い体を片手で支えながらふらふらと立ち上がった。グイオンが助けようと乗り出したが、王はもう一方の手を上げた。
「その子は走ってきた。部屋をよぎって駆《か》け寄り、白い髪《かみ》に日光が宿らせて笑った。久しくこの城が耳にしたことのない音楽じゃった」暗い顔に、曇《くも》り空にかすかに射《さ》す陽光のように、和《やわ》らかなものが浮かんだ。「始まりでもある終わりを持って来たのじゃった。ここから影を取り去り、夢の中で余《よ》の前に膝《ひざ》をついて、こう言った――」
ブラァンが静かに笑った。怒《いか》りからくる緊張がすっかりブラァンの体から去っていくのをウィルは感じた。白髪《はくはつ》の少年はニ、三歩すばやく前に出、王の前に膝《ひざ》をついて笑顔で見上げた。「水晶の剣に至るには壁が五つある。それらは剣の上に黄金の火文字で刻まれた五つの文に記されている。聞きたいか?」
王は立ったまま見おろしていた。前にはなかった活気が目によみがえっていた。「余は答えた。聞かせてくれ、と」
「聞かせてあげましょう」ブラァンは抱擁《ほうよう》にも似た近しさで王の目を見上げた。もはや引用しているのではなかった。「それで第五の壁を突破《とつぱ》したことになるはずです。陛下、違いますか? 既《すで》に四つを通り抜けて来ました――証拠《しようこ》はその文句です。もしぼくに、あなたの全ての希望の墓である絶望を宿ることができたら、剣をくれますか?」
王はブラァンに目をすえていた。「それができれば、そちのものじゃ」
ブラァンはゆっくりと立ち上がり、息を吸い込んだ。音楽的なウェールズなまりのため文句は唄《うた》のように聞こえた。
「我《われ》は全ての杜屋《もりや》の胎《たい》、
我は全ての丘の火、
我は全ての巣《す》の女王、
我は全ての頭《こうべ》の楯《たて》、
我は全ての希望の墓――
我はエイリアスなり!」
グイズノー王は砂を洗う波のように長い長いためいきをついた。突然、大きな音と共に壁際《かべぎわ》の木彫《きぼ》りの衝立《ついたて》が二つに割れ、床《ゆか》に倒れた。縞模様《しまもよう》の壁の上にくっきりと、ブラァンが唱《とな》えた文句が黄金の文字で記され、輝《かがや》いているのが見え、その下に、スレートの大石の上に、光る氷柱《つらら》のように水晶《すいしよう》の剣が横たわっていた。
王はゆっくりと、硬張《こわば》った体を動かしてなめらかな藺草《いぐさ》の敷物を横切った。白い衣の上にまとった濃緑の長上着の背に、薔薇《ばら》と跳《は》ねる魚からなる王家の紋章《もんしよう》が金で縫《ぬ》い取られているのが見えた。グイズノー王は剣を手に取り、ものうげな力ない体を三人のほうに向けた。模様の刻《きざ》まれた剣の平に、これほど美しいものを造れたのが不思議だというように指を走らせた。それから、切っ先が下を向くように十字形の鍔《つば》を持ってブラァンに差し出した。
「光は<光>に」と王は言った。「エイリアスはそれを受け継いだ者に」
ブラァンは剣の柄《つか》を握り、まっすぐ上を向くように気をつけてひっくり返した。途端にウィルには友人の背すじが一段と伸び、威厳《いげん》が増したように見えた。陽光が白髪にまばゆく輝《かがや》いた。
塔《とう》の外のどこか遠くで、雷鳴《らいめい》に似た低い轟《とどろ》きが聞こえた。
王はあっさりと言った。「もはや何が来ようと構いはせぬ」
それからふと手を頭へやって額をさすった。「確《たし》か……確か鞘《さや》があった。グイオンよ? 鞘を造《つく》ったはずじゃが?」
グイオンは明るい笑《え》みを浮かべた。「お造《つく》りになりました、陛下《へいか》、革と黄金にて。また、それを思い出されたは、陛下の言われる空しさがお心の中で砕《くだ》け出した証拠でございます」
「確か……」王の額にしわが寄り、目が苦痛を覚えているかのように閉じられた。それからいきなり目をあけると、王は部屋の向こう端にある、淡色の木で造られた素朴《そぼく》な櫃《ひつぎ》をゆびさした。側面には魚にまたがった男が描かれていた。
グイオンは櫃に歩み寄り、蓋《ふた》をあけた。間があった後、「三つの品がございます」と言った。声には変わった響きが加わっていた。ウィルには理解できない何かの感情だった。
王はあやふやに言った。「三つ?」
グイオンは櫃から黄金で飾られた白い革《かわ》の鞘《さや》と剣吊《けんつ》り帯を取り出した。「輝《かがや》きを少し隠《かく》すために」と微笑してブラァンに差し出した。
「ブラァン」ウィルは頭の中でかすかに聞こえる声に耳を傾けながら、ゆっくりと言った。「まだ鞘に納めないほうがいい……と思う。ちょっとでも入れちゃだめだ」
ブラァンは剣《けん》と鞘を手にしたまま、眉《まゆ》を吊《つ》り上げてウィルを見た。初めて目にする傲然《ごうぜん》とした角度に頭をそびやかしていた。さっと身震《みぶる》いしたと思うともとのブラァンになり、「わかった」とだけ言った。
グイオンはまだ櫃《ひつぎ》のそばにいた。「それから――これが」声が震《ふる》えていた。小さな光る竪琴《たてごと》を取り出した手も震えていた。部屋の反対側から、王を見て言った。「ついさきほども、都に置いてきた琴《こと》があれば、いにしえの如《ごと》くお聞かせできるのに、と思っておりました」
王はいとおしむように微笑《びしよう》した。「それもそちの琴じゃ、楽人よ。遠い昔、塔《とう》に籠《こも》って間もない頃、絶望と闘《たたか》おう、仕事を続けようとしていた頃に、そちのためにこしらえたのじゃ……」と不思議そうにかぶりを振《ふ》った。「忘れておった。あまりにも昔のことで……ひとりになることを選んで、かの車輪を用いてほかのあらゆるものを締《し》め出しておきながら、そちとそちの音楽が恋しくてならず、その琴を造ったのじゃよ。わがグイオン、わがタリエシン、わが弾《ひ》き手のために」
「ほどなく弾いて差し上げましょう」
「音は狂っておらぬぞ」王の微笑には作品に対する造り主の誇《ほこ》りが見えた。
グイオンは琴をおろし、もう一度櫃《ひつぎ》に手を入れた。取り出したのは紐《ひも》で口を締《し》められた小さな革袋《かわぶくろ》だった。「これが三つ目の品ですが、私には何かわかりませぬ」
口を引きあけると、もう一方の手に小さな青緑の石が幾つもこぼれ出た。なめらかな光沢《こうたく》を帯び、海から採《と》れたかのように丸味を帯びていた。一つが床《ゆか》に落ちたのをウィルは拾い、たなごころに転がして、美しく不均衡《ふきんこう》な形の中の色彩の模様を見た。
王はちらりと石を見ると、「きれいじゃが価値はない。入れたおぼえもない」
「細工にお使いになるつもりであられたのでしょう」グイオンは石を袋に戻し始めた。ウィルは拾った石を差し出した。
グイオンがふいににっこりし、「取っておくがよい」と軽く言った。もう一つ選び出してブラァンに渡した。「これはおぬしにだ、ブラァン。二人とも護符《ごふ》を持っているべきだ。失せし国から持ち帰るべき、夢のかけらよ」
王がぼんやりと小声で繰《く》り返した。「失せし……失せし……」
はるかな低い轟《とどろ》きが再び、前よりも大きく外で聞こえた。にわかに縞模様《しまもよう》の円蓋《えんがい》から射し込む日光が薄《うす》れ、ずっと暗くなった。
ブラァンが周囲を見回した。「何でしょう?」
「始まりじゃ」王のか細い声は顔同様、力と活気を増し加えており、潔《いさぎよ》い覚悟こそ明らかに見えているものの、絶望から来るあの恐るべき黒い虚《うつ》ろさほどにもなかった。
ウィルが本能的に言った。「この屋根の下にいちゃいけない」
グイオンがためいきをついた。自分に向けられた苦笑まじりの愛情ある眼差しをウィルは後々まで忘れることはなかった。笑いを秘め鼻から顎《あご》へ流れる線のため悲しげにさえ見える大きな口、細かく縮《ちぢ》れた灰色の髪、灰色の髭《ひげ》の中の変わった黒いすじ。ウィルは心の中で言った。あなたが好きだ、と。
「参りましょう」グイオンは片腕《かたうで》に竪琴《たてごと》を抱《かか》え、他の部分と同じに見える湾曲した壁の一部分に歩み寄り、手を伸ばして、力強いひと引きで、楔《くさび》形の一つをそっくり横に移動させた。三角形の戸口のようなすきまがあいた。外には暗い暗い灰色の空が見えた。
グイオンは外に出、バルコニーへとおりた。続いて出たウィルは黄金の手すりを見、これもまた都の無人宮の円蓋《えんがい》にめぐらされていたバルコニーそっくりなのに気づいた。だが塔《とう》から外を臨《のぞ》むと共にそんな考えはかき消えてしまった。
西の海の彼方《かなた》にすさまじい大きさの暗雲が膨《ふく》れ上がっていた。重く、もくもくと積み重なり、黄がかかったねずみ色だった。生き物のようにのたうち、どんどん大きくなっていく。ウィルの指はまだ片腕にはめたままの黄金の楯《たて》の革紐《かわひも》をきつく握《にぎ》りしめた。ブラァンが背後からバルコニーに出てきて、最後に王が現れた。王は弱々しく、円蓋《えんがい》の開口部の縁によりかかって体を支えていた。長いこと肺に感じたことのなかった爽《さわ》やかな外気のせいか、息遣《いきづか》いが荒くなっている。
低く遠い轟音《ごうおん》はまだ空気中を満たし、黒雲がたゆたっている西の水平線から霧《きり》のように押し寄せてきた。とはいえ雷ではなく、それよりも深い、しつこい、ウィルが聞いたこともないような音だった。
「用意はいいか?」グイオンが背後でそっと言った。
振り向くと、笑いじわに囲まれた目がすぐ前にあった。穏《おだ》やかな決意と落着きが浮かんでいたが、それら全ての陰《かげ》にぞっとするほどの恐怖《きようふ》がちらついていた。
「何なの?」ウィルはささやいた。
グイオンは竪琴《たてごと》を手に取り、一連のやわらかく美しいアルベジオをつまびいた。冗談《じようだん》のように軽い口調だったが、目は、中に隠れている恐怖を見てくれるなと哀願していた。「失せし国が死ぬのだよ、<古老>よ。時が来れば、死が来る」指が音を操《あやつ》ってやさしい調べを奏《かな》で出すと、円蓋の輝《かがや》く側面にもたれた王は快《こころよ》げに何か呟《つぶや》いた。
西の水平線の轟《とどろ》きが高まった。風が頬《ほお》に吹きつけ、髪《かみ》を震《ふる》わせた。異様に暖かい風だった。ウィルは頭を上げ、鼻をくんくんと言わせた。やにわに夏の外気は海の匂《にお》いに満たされた。塩と濡《ぬ》れた砂とみどりの海草の匂《にお》い。雲が空一杯に灰色に拡がり、光は死に絶えかけていた。頭上でかすかな軋《きし》りが聞こえ、ハッと見上げると、円蓋《えんがい》の頂《いただ》きの黄金の矢が、わずかな光の中でもまだきらめきながら静かに回り出していた。くるりと反転して、海ではなく内陸を指して止まった。その向こうの空の輝きがウィルの目をとらえ、仰天させた。ブラァンも同じものを見つめているのが見えた。
はるか彼方、失せし国の反対端、薄れゆく光の中にまだうっすらと見える都の屋根の上に、光のしぶきが噴水《ふんすい》のように舞い上がり、一瞬燃え上がっては消えていたのだ。炸裂《さくれつ》する星さながら花火は飛翔《ひしよう》し、暗い空を鮮烈《せんれつ》な赤やみどりや黄や青で彩《いろど》り、喜ばしい光のアーチとなって都の上に花開いた。この空前の華やかさには、のしかかる嵐《あらし》の夜に焚火《たきび》から火のついた枝を取って外に投げる子供のような、恐れを知らぬ素敵《すてき》な陽気さがあった。ウィルは笑っていながら涙《なみだ》が出そうなのに気づき、同時に、西から世界を満たしつつある轟音越しにかすかに、どこかで、都のどこかで幾つもの鐘《かね》の鳴る歓喜に溢《あふ》れた高い音を耳にした。グイオンが静かに調べのふしと拍子《ひようし》を変え、鐘の音と調和するようにした。ウィルは息をはずませて、バルコニー上から鉛色の凄絶《せいぜつ》な色と暗い海と、その両方に挑《いど》んでいる華麗《かれい》な花火を見渡した。人々が宿命だとわかっているものに対して投げつけたこの尊大な挑戦を目にして、恐怖《きようふ》と喜びの両方から来る高揚感《こうようかん》に満たされていた。
海は空と同じくらい暗くなった。今や新たな唸《うな》りが聞こえ出し、波がそびえ、その波頭《なみがしら》が遠くの方にしぶきを上げてきらめくのが見えた。風は勢いを増し、王の薄い髪《かみ》を鞭《むち》のように顔に叩《たた》きつけた。ウィルは楯《たて》をかざして風をよけ、グイオンは弾《ひ》き続けながら、ゆっくりと塔《とう》の円蓋《えんがい》の開口部に向かってあとずさりし始め、王が壁に支えられながらも同じ方法に移動せざるを得ないようにした切り裂《さ》くような閃光《せんこう》と共に空が吠《ほ》えたけり、海が絶叫《ぜつきよう》したかに思え、膨大《ぼうだい》な水の壁が海から突進して来て砂と葦《あし》の沼地を越え、木々と陸と川すじを呑《の》み込み、拡がり、渦巻《うずま》き、荒れ狂った。ブラァンが片手でウィルの腕をつかみ、振り向いたウィルは、エイリアスが中から炎《ほのお》に熱せられているかのように蒼白《あおじろ》く輝《かがや》いているのを見た。
都の上の暗い空では花火がふっと止み、鐘《かね》はめちゃくちゃに切れ目なく鳴らされ、グイオンの琴《こと》の旋律《せんりつ》からはずれた。と思う間に、それも唐突《とうとつ》に止んだ。だがグイオンの調べだけは続けられた。海が塔《とう》の下部に叩《たた》きつけ、足の下に震動《しんどう》が感じられた。波が次から次へと轟音《ごうおん》と共に押《お》し寄せ、海面がますます高くなり、暖かい暴風に乗って王の高い声が、「終わりじゃ! 終わりじゃ!」と叫《さけ》んだ。そこへ、ありえざることながら、怒り狂《くる》う海の中から大波を斜《はす》に下って、黒髪《くろかみ》の船頭《せんどう》の操《あやつ》るがっちりした舟が、たった一枚の茶色の帆《ほ》に風をいっぱいにはらんで近づいて来た。船頭は舵柄《だえ》のそばからウィルとブラァンに腕を差し出して招《まね》いた。甲板《かんぱん》が一瞬、塔のバルコニーと同じ高さに達した。
「行け!」グイオンが叫《さけ》んだ。横に体を傾《かたむ》けて、力つきた王を肩《かた》で支《ささ》えていた。
「あなたなしに行けないよ!」
「わしはここの者だ!」影のような顔に最後の笑みが閃《ひらめ》くのが見えた。「行け! ブラァン! エイリアスを救え!」
ブラァンは拍車《はくしや》をあてられたようにハッとし、ウィルをひっつかむとすぐそばで上下している舟にとびのった。舟は波の側面をすべり落ち、一瞬、グイオンの竪琴《たてごと》が荒れ狂《くる》う海を通して甘《あま》くかすかに聞こえた。が、ついに空から目もくらむばかりのまばゆい一条《いちじよう》の光がほとばしり、塔に落ちて円蓋《えんがい》をまっぷたつに裂《さ》いた。もげた黄金の矢が悪意ある生き物のように、波を越えて、ウィル達めがけて飛来した。ウィルはとっさに両腕で黄金の楯《たて》をかざした。出会った瞬間、黄色い閃光《せんこう》が炸裂《さくれつ》し、矢と楯は二つながら消滅して、揺《ゆ》れる舟の上にウィルはあおむけに叩《たた》きつけられた。
頭が鳴り、目がぼやけた。ブラァンが蒼《あお》く燃える剣を手にすぐそばに立ちはだかっているのが見え、波の唸《うな》りが聞こえ、安全な方向に舟を向かわせようと必死な船頭《せんどう》の痩《や》せた浅黒い顔が、苦しげに歪《ゆが》んでいるのが見えた。世界は果てしのない暗い混乱と化して吠《ほ》え、揺《ゆ》れ、時間の感覚さえ失われてしまった。
いきなり、強烈な揺れに襲《おそ》いかかられてウィルは意識を失った。目をあけた時には灰色の光と、やさしい、浜に寄せるさざなみの静かな呟《つぶや》きに満たされた世界にいた。ウィルとブラァンとは長い砂浜に横たわっているのだった。晴れた朝で、淡い水色の空が頭上にあった。水晶《すいしよう》の剣はブラァンの手に白く輝《かがや》き、鞘《さや》は傍《かたわ》らにあった。広い砂浜はずっと伸《の》びてダヴィ河の砂州《さす》にまぎれ込んでいた。向こう端には砂地の丘がみどり色にきらめき、彼方の山々とアベルダヴィ村の灰色の屋根の上に、昇《のぼ》る陽の最初の黄金の緑が姿を見せた。
第四部 夏至《げし》の樹《き》
日の出
ジェーンは眠りこけているホテルを五時前に出た。サイモン達を起こそうとはしなかった。理屈に合わないことながら、メリマンが「日の出と共に浜に出なさい」と言ったのは、ことに自分に対してなのだという気が強くしていた。兄さん達は好きな時に来ればいいわ、とジェーンは思った。
そこで一人で灰色の朝の中に抜け出し、静かな道と線路を横切った。聞こえるのはその先の海に打ち寄せる波音ばかり。線路を渡った時には一ダースほどの兎《うさぎ》がびっくりしたように白い尾を上下させて逃げて行った。時折り、低い羊の声が山の上から漂《ただよ》って来た。朝は色彩を欠いて寒々しく、ジェーンはセーターを着ているにもかかわらず身震《みぶる》いして、起伏の多いゴルフ場を走って横切り、高い砂丘へと向かった。と思うと長く強靭《きようじん》な砂防ぎの草の間をよじ登っていた。露《つゆ》でくろずんだ砂が冷たくサンダルの中をこぼれ抜け、息を切らせてようやく一番高い砂丘の上に出ると、世界が茶色い砂と灰色の海とに塗《ぬ》りつぶされて目の前に拡《ひろ》がった。平らな水平線は、カーディガン湾の両腕が空と海を抱《だ》き締《し》めるあたりでは霧《きり》に溶《と》け込んでいた。
何かが足もとの砂丘の頂《いただき》に転がっていた。見おろすと、小さな茶色兎《うさぎ》だった。目は開いたまま、まばたきもしない。死んでいた。またぎ越えると、腹が裂《さ》かれて内臓がえぐり出されているのを見てギョッとした。毛皮に包まれた残りの部分は手つかずのまま投げ捨てられたのだった。
ジェーンは、今度はゆっくりと、一歩ごとに少しずつ砂丘をすべりおり、日の出に何を期待すべきなのか、初めて疑問に思った。
満潮時の水位より上の乾《かわ》いた砂を横切った。砂は前日の遊山客《ゆさんきやく》や犬の足跡で乱れていた。ふいに無防備になったような気がし、ダヴィの砂州《さす》を干潮時《かんちようじ》に占めて十マイル先まで海岸線に沿《そ》って伸《の》びている広くさらけ出された砂地へと急いだ。行手には灰色の海と空とが静かにどよめく波の線があるばかり。サンダルを通して、波が砂の上に残していった固い紋様《もんよう》が感じられた。
波打際《なみうちぎわ》の濡《ぬ》れたなめらかな砂にたどりつくと、巣《す》ごもりしていたかもめの群れがのんびりと舞い上がった。ハマシギが細い鳴き声と共におりて来た。潮が残していった海草の山には何千ものイソノミが群がって跳《は》ねていた。静かな風景の中でそこだけが動きまわる霧《きり》のようだった。他の活動の記録が既《すで》に固い砂の上に留《とど》められていた。えぐれた痕《あと》や爪痕《つめあと》や、割れて中身の失せた貝殻《かいがら》は、明け方に空腹なかもめが砂の中に逃げ送れた軟体動物《なんたいどうぶつ》を捕《とら》えた名残り。そこかしこに大きなクラゲが取り残されていた。かもめの貪欲《どんよく》なくちばしに半透明《はんとうめい》の肉をむしり取られたまま。そのかもめも海の上では平和に、静かに滑空《かつくう》していた。ジェーンは再び身震《みぶる》いした。
左にそれてダヴィ河が海と出会う大きく張り出した砂の一画に向かった。薄い水の膜《まく》が急速に足もとに拡《ひろ》がってきた。潮が満ちてきたのだった。平らな砂の上を一分間に一フィート以上も前進して来る。砂州《さす》の隅《すみ》でジェーンは立ち止まった。だだっぴろい浜に孤立《こりつ》し、空《から》っぽの空の下で自分が貝のように小さく感じられた。内陸の川に沿《そ》ったアベルダヴィ村と両側にそそり立つ山々に目を向けると、ちんまり固まっている灰色のスレート屋根の上空がピンクと青で、赤い山のような雲が湧《わ》き起こっているのが見えた。やがてアベルダヴィの背後に陽《ひ》が昇《のぼ》った。
黄白色の光輝《こうき》に包まれて燃えさかる球体は大地の向こうから上昇し、ジェーンは再び海のほうへ向き直った。灰色はすっかり消えてしまった。今や海は青と化し、そりかえる波頭《なみがしら》はまぶしい白、かもめは、空の上でも、それまではいるのさえ見えなかった河口の金色の砂州の長い巣《す》の列でも、白くきらめいた。ジェーンの影は前方に細長く伸び、海に向かっていた。どの貝殻《かいがら》も、海草も、砂紋さえもくっきりとした黒い影を得ていた。砂州《さす》の反対側の山々だけが暗く、雲の中に消えていた。そのふもとでは白く長い霧《きり》の腕《うで》が河を包み込《こ》んでいた。頭上の青空では高い雲の山が幾列にも連なってどんどん内陸に接近して来ていたが、下界のジェーンが顔に冷たく感じている風は陸から海に向けて吹いていた。
日の光の中で、周囲の砂の到る所に鳥の足が記した小さな象形文字がはっきり見てとれた。矢尻《やじり》めいたかもめの足跡《あしあと》、イソシギやキョウジョシギの小さな足跡。背中の黒いかもめが一羽、頭上をかすめ、その震《ふる》えるかん高い声が風にとばされた。しわがれた叫《さけ》びで終わる長い笑《わら》い声だった。波打際《なみうちぎわ》から細い鳴き声が聞こえた。水は次第に速く平らな砂の上を運んで来た。ジェーンもまたやにわに走り出した。海から離れ、朝日に向かって。雲は頭上をさらに速く流れ、東へと急いだ。にもかかわらず、吹き起こった風は激しさを増して顔に吹きつけ、砂をとらえて長く吹き流した。目に細かい霧が吹《ふ》き込まれ、しみたので歩をゆるめ、きらめき飛ぶ砂の吹き流しだけを見ながら、前のめりになってよろめき進んだ。
名を呼ぶ声が聞こえた。サイモンとバーニーが砂丘のほうから駆《か》けてくるのが見えた。(思ったより早く来ちゃったわ……)と思ったが、何かが無視して走り続けさせた。二人が追いついても、ジェーンは兄達と並んだまま、風とは逆の東の方角に前進し続けた。
すると、ふらつきながら進むにつれ、飛ぶ砂の中に、まばゆい太陽を背に、黄金の霧《きり》の中の亡霊《ぼうれい》さながら、二つの人影が見え出した。雲の柱が太陽を追い越して眩《まぶ》しい光が消え、あらゆる色彩が褪《あ》せると、三人の前にブラァンとウィルが立っていた。そして白いセーターとジーパンと対照的に、ブラァンは輝《かがや》く剣を手にしていた。
バーニーはまじりけなしの勝利と喜びの叫《さけ》びを上げた。「取って来たね!」
「うわあ!」サイモンが破顔《はがん》した。
ジェーンは弱々しく「まあ、よかった。二人とも大丈夫?」と言ってから剣を認めた。「ああ、ブラァン!」
風がやさしく浜の上の五人を吹いて過ぎた。冷たくはあったが穏《おだ》やかになり、ざらつく砂柱を足に吹きつけてきた。ブラァンは剣を斜《なな》めに差しだした。両刃の剣はひねられて曇《くも》った空の下でも筋彫《すじぼ》りの施《ほどこ》された表面をきらきら輝《かがや》かせた。装飾的な鍔《つぼ》の後ろの、真珠母を象嵌《ぞうがん》した黄金の柄《え》から水晶《すいしよう》の刃の中心に細い黄金の芯が走っているのが見えた。
「エイリアスだ」ブラァンは言った。「きれいだろう」と目を細めて見つめた。黒眼鏡がなくなったその顔は妙《みよう》にむきだしで、ひどく蒼白《あおじろ》く見えた。手に下剣に導かれるようにゆっくりと内陸のほうを向くと「エイリアス、燃える火。朝日の剣だ」
「朝日に届こうとしている」ウィルが言った。
「そうなんだ!」ブラァンは助かったと言いたげにウィルに目を走らせた。「本当にそうなんだ。東に向くんだよ、ウィル。おまけに――ひっぱるんだ」と隠れて輝いている太陽の存在を示す雲の明るい部分を剣で指した。
「何のために造《つく》られたか知ってるんだ」と言うウィルを見たジェーンは、ずいぶん疲《つか》れてるわ、と思った。力が体が流れ出てしまったかのようだった――それに対し、ブラァンのほうは新しい生命に溢《あふ》れ、ピンと張った針金のようにはちきれんばかりだった。
世界が明るくなり、パッと色彩が現われた。雲の晴間から日が射《さ》したのだ。剣はきらめいた。
「鞘《さや》に納めろ、ブラァン!」ウィルがふいに言った。
ブラァンは同じ警戒心を呼びさまされたかのようにうなずき、ジェーンらが仰天《ぎようてん》して見守るなかで、腰に巻いた架空《かくう》の剣吊り帯の架空の鞘に剣を納める動作をした。だが、剣は下へ押しやられるにつれて見えなくなった。
ぽかんと口をあけて見ていたジェーンは、ブラァンに見られているのに気づいた。「ああ、ジェーン」とブラァンはそっと言った。「もう見えないだろう?」
ジェーンはうなずいた。
「ほかの……普通の人にも見えないわけだね」サイモンが言った。
バーニーが「<闇《やみ》>はどうなの?」
ブラァンとウィルが揃って思わず目を上げ、用心深く海を見るのを見てジェーンも振り向いたが、金色の砂州《さす》と白い波と、長い砂地の上をじわじわ接近する青い海しか見えなかった。(いったい何があったっていうのかしら?)とジェーンは思った。
答えるかのようにウィルが「全部話すにはいろんなことがありすぎた。とにかく、これからは競走みたいなもんだ」
「東へ?」ブラァンが言った。
「東へ、剣の導くところへさ。やつらの蹶起《けつき》との競走だ」
サイモンが簡潔に言った。「ぼくらにどうして欲しい?」
ウィルのまっすぐな茶色い髪《かみ》は目の上にこぼれかかっていた。丸顔は引き締《し》まり、何か内なる声に耳を傾《かたむ》けながら、言われたことを同時に繰《く》り返しているかのようだった。「帰るんだ。ほかの人が……邪魔《じやま》をしないよう手は打ってある。その通りにすればいい」
「メリー大叔父《おおおじ》さんが手を打ったの?」バーニーが期待をこめてたずねた。
「そうだよ」
再び陽がかげり、風がささやいた。沖のほうでは雲が厚くなり、黒く群がっていた。
「嵐になるみたいだ」サイモンが言った。
「なるんじゃない」とブラァン。「もうなってる。こっちへ来るところだ」
「一つだけ言っとく」ウィルが言った。「これからが一番難しいんだ。何が起きるかまるでわからない。君らは三人共、<闇《やみ》>の手口を見たことがある。君らを滅ぼすことはできなくても、自滅するように事を運ぶことはできるんだ。だから――道を踏《ふ》みはずさないためには自分の判断力しか頼《たよ》るものはないんだよ」と気づかわしげに三人を見つめた。
サイモンが言った。「わかってる」
風が次第に強くなり、再び子供達をあっちへこっちへ引き回し、砂で顔や足を叩《たた 》いた。陽が隠れたあたりには雲がひしめき合い、光はジェーンが最初に浜におりてきた時のように冷たく灰色だった。
砂が砂浜から吹き上げられ、異様な雲となって渦巻《うずま》き、走り、その金茶色の霧《きり》の中から突然、物音が聞こえた。心臓の鼓動《こどう》に似たくぐもった音だったが周りじゅうに拡散して、どこから来るのかはわからない。ジェーンは、ウィルの顔がハッと上げられ、ブラァンもが獲物を求める犬のようにあたりを捜《さが》し回るのを見た。と思うと二人は背中合わせになり、三人を守ろうと前後を見張っていた。ドッドッという音は大きくなり、接近してきた。ブラァンがパッとそれ自体光を放っているエイリアスの剣を振りかざした。だがそれと同時に、くぐもった音は周囲一帯に轟《とどろ》く雷鳴《らいめい》となり、どんどん近づいて来て、渦巻《うずま》く砂の中から大きな白馬にまたがった白衣の人影が走り出た。白騎手《しろきしゆ》は白い頭巾《すぎん》に顔を隠し、白い衣をひるがえして子供達の脇《わき》をどっとかすめて走り抜け、五人がひるんで身を交わした瞬間にすばやく鞍《くら》から横に乗り出し、一撃でサイモンを砂の上に殴《なぐ》り倒し、バーニーを抱え上げて姿を消した。
風が吹き、砂が走っては躍《おど》り、もはや誰《だれ》もいなかった。
「バーニー!」ジェーンの声がかすれた。「バーニー! ウィル――バーニーはどこ?」
ウィルの顔は心配と、何かに耳を傾《かたむ》けているためにひきつっていた。一度、ジェーンが誰だかよくわからないかのようにぼんやりと見、それから砂丘の向こうへ手を振ってしわがれた声で言った。「帰れ――バーニーはぼくらが見つける」それからブラァンのそばに立った。水晶《すいしよう》の剣の柄《え》にそれぞれの片手を置いて、ブラァンが指示を求めるように横目で見ると、ウィルは「回れ」と言い、剣を離すことなく二人ともあっという間に姿を消した。初めからいなかったかのようだった。ジェーンとサイモンに残されたのは明るい光が消えたあと目の中に残る暗い残像だけだった。最後の一瞬に、剣全体に蒼白《あおじろ》い炎《ほのお》が走るのを見たのだ。
「二人が取り返してくれるさ」サイモンが低い声で言った。
「ああ、兄さん! あたし達にできることないのかしら?」
「ない。望みを持つだけだ。ウィルに言われたようにして。えい、もう!」サイモンは目をしばたたきながら頭をうつむけた。「いまいましい砂め!」すると仕返しのようにふいに風が止み、渦巻《うずま》く砂は浜に落ちてじっと横たわり、それまで狂《くる》ったように吹き荒れていたのが嘘《うそ》のようだった。浜の上の全ての貝殻《かいがら》や小石の陰《かげ》にたまった砂の山だけが証拠だった。
二人は黙《だま》りこくり、並んで砂丘のほうへ戻って行った。
バーニーの頭の中にはものすごいスピード感しか存在しなかったが、次第に、束縛《そくばく》されていて、両手が前で縛《しば》られ、目隠しをされているのに気がついた。それから石ころだらけの道を小突《こづ》いて歩かせようとしている荒っぽい手を感じた。一度転び、膝《ひざ》を岩にぶつけて声を上げると、幾つかの声が喉音《こうおん》の多い未知の言語でじれったげに何か言ったが、そのあとは腕の下に誰かの手が添《そ》えられて導いてくれた。
軍隊のもののような号令が聞こえ、道が平らになった。扉《とびら》が幾つも開いたり閉じたりし、それからようやく停止させられ、目隠しをはずされた。バーニーは目をしばたたきながら、黒い髭《ひげ》とキラキラする焦茶《こげちや》の目を備えた陽に灼《や》けた顔の持ち主によって観察されているのに気づいた。メリマンを思わせる深く窪《くぽ》んだ、賢明なまなざしだった。男は重い木のテーブルにもたれ、厚い毛のシャツの上に革のズボンと上着を身につけている。バーニーを見つめ続け、顔から衣類へ、また顔へと目を移動させながら、喉音の多い言語で何か手短に言った。
「ぼく、わかりません」バーニーは言った。
男の顔が少しきつくなった。「確《たし》かにイングランド人だ。髪の色に合った声だ。子供を間者に使うとは、きゃつらはさほどに苦しんでおるのか?」
バーニーは何も言わなかった。自分の居場所をさぐろうとあちこち盗み見ていたので、本当にスパイのような気がしていたのだった。天井《てんじよう》の低い暗い部屋で、床と壁は木ででき、天井の梁《はり》がむきだしになっていた。窓を通して石でできた外壁が垣間《かいま》見えた。兵士らしい男達が周りに詰めかけていた。粗末《そまつ》の服の上には一種の革の防着しか着けていないが、それぞれ腰に短剣を帯び、中には背中ほどもある弓を手にしている者もいる。皆、敵意をこめてバーニーを見ていた。憎悪をむきだしにしている者もいる。ひとりが落着きなく短剣を弄《もてあそ》んでいるのを見て、バーニーはふいに怖《こわ》くなって身震《みぶる》いした。必死の思いで焦茶《こげちや》の目の男を見上げた。
「ぼく、間者なんかじゃありません。本当です。ここがどこなのかも知らないんです。誘拐《ゆうかい》されたんです」
「ゆうかい?」男は意味がわからず眉《まゆ》をひそめた。
「盗《ぬす》まれたんです。さらわれたんです」
焦茶《こげちや》の目が冷ややかになった。「かどわかされて、よりによってウェールズ中でも決してイングランド人が足を踏《ふ》み入れぬ、わが盟友達《めいゆうたち》ですらやって来ぬわしの砦《とりで》に連れて来られたというのか? 辺境の領主どもは愚《おろ》かで、張り合うためには多くの愚行《ぐこう》を働くが、そこまでの愚か者はおらぬぞ。小わっぱ、生命が惜《お》しくばましな嘘《うそ》を吐《は》け。今のところはまだ、部下の言葉に従わぬ理由が見つからぬ。この者達はおまえをこれより五分間のうちに、あの扉《とびら》の外で吊《つ》るし首にしたがっておる」
バーニーののどは乾《かわ》き、唾《つば》を呑《の》み込むこともろくにできなかった。「間者じゃありません!」もう一度ささやいた。
首領の背後の影の中から、短剣を持っていた男が何か馬鹿《ばか》にしたようなことをぞんざいに言ったが、別のひとりがその腕に手をかけ、穏やかにニ、三こと言って進み出た。しわの寄った茶色い顔と白く薄い髪《かみ》と髭《ひげ》を持った老人だった。老人はバーニーをよくよく見た。
いきなり別の兵士が部屋に駆《か》け込み、口ばやにしゃべりたてた。黒髭《くろひげ》の首領は腹立たしげな声を上げた。老人に何か簡単に言ってバーニーのほうに顎《あご》をしゃくってみせると、他の者を率いて心ここにあらずといったふうに大またに出て行った。戸口を警護している兵が二名残ったきりだった。
「で、どこからかどわかされて来たんじゃい?」老人の声は静かで舌足らずで、きついなまりがあった。
バーニーはみじめだった。「あの――うんと遠くから」
しわの間からよく光る目が不信も露《あらわ》に見つめた。「わしはイオロ・ゴホ、公子のお抱《かか》え詩人じゃ。あのかたのことはよう知っておる。悪い知らせを受けて御機嫌斜《ごきげんなな》めであられるゆえ、お戻りになった時には真実を申し上げたがよいぞ」
「公子?」バーニーはたずねた。
老人はその名称にけちがつけられたかのように冷たくバーニーを見、「オウェイン・グリンドゥルよ」と冷ややかな口調で誇《ほこ》らしげに言い放った。「公子だとも。グリフィズの子オウェイン、グリンディヴルドゥイとシハルス、アスコエド、そしてグイニオネスの領主、して、今やこの大蜂起《ほうき》においてウェールズ公と認められたのじゃ。全ウェールズが公子と共にイングランドに対して立ち上がった。ブランタジネット王家のヘンリー王めは、公子を捕えることはおろか、ここにあるイングランド人の城や、きゃつらのいわゆる自治村を守りぬくことすら出来ずにいる。全ウェールズが立ち上がったのじゃ」唄うような調子になった。「百姓は牛を売って武器をもとめ、母親は息子を山へよこした。オウェインさまに味方するために。イングランドにて働くウェールズ人は、イングランドの武器を携《たずさ》えて戻り、オクスフォードとケンブリッジに学ぶウェールズの学究は書物をあとにして戻って来た。オウェインさまに味方するために。わしらは勝っている。ウェールズは再び指導者を得た。もはやイングランド人がウェールズの土地を所有し、ウェストミンスター(英国政府の所在地)からわしらを軽蔑《けいべつ》しつつ支配することはない。グリフィズの子オウェインがわしらを率《ひき》いて自由を勝ち取るのだ!」
バーニーは老人のか細い声にこもった熱情に仕方なく耳を傾けながら、次第に不安が強まるのを覚えた。自分がひどく孤独でちっぽけに思えた。
扉《とびら》が勢いよく開き、グリンドゥルが兵に囲まれて、険悪な顔つきではいって来た。バーニーからイオロ・ゴホへと目を移したが、老人は肩をすくめた。
「よく聞け、小わっぱ」グリンドゥルの髭面《ひげづら》は厳しかった。「ここ数夜、ほうき星が空にあってわしの勝利を示している。わしはその瑞兆《ずいちよう》を信じて馬を進める。何一つわしの邪魔はできぬ。何一つだ――正体を明かさぬヘンリー王の間者を引き裂《さ》くことを始めとしてな」声が少し高くなり、抑《おさ》えようとしているために却《かえ》って震《ふる》えた。「ただいまウェールズ池の対岸に新たにイングランド軍が野営しているとの知らせを受けた。誰《だれ》によってウェールズにつかわされたか、その軍勢はわしがここにおることを知っているのか、一分以内に申せ」
バーニーの頭を占める恐怖《きようふ》のただ中に一つの思いが鳴り響いた。<闇>の手先かもしれない。言っちゃいけない。正体を話しちゃいけない……
息をつまらせながら言った。「いやだ」
男は肩をすくめた。「よかろう。おまえを連れて来た者ともう一度話そう。今、呼びにやったところだ。白馬に乗ってタウィンから来た細い声のものだ。そのあとは――」
グリンドゥルは戸口を見つめたまま言葉を途切らせた。振り返ると、バーニーはまた前のスピード感と回転が戻って来たような気がし、目がぐるぐる回り出した……
……ぐるぐる回りながら光る水晶《すいしよう》の剣につかまったウィルは、ふいに動きが止まったのに気づいた。目の前で重い木の扉《とびら》が勝手に開き、天井《てんじよう》の低い部屋の中にいる武装した男の一団が見えた。少し離れて立っているのは威厳のある黒髭《くろひげ》の男で、その前にひどく小さく見えているのは、ひきつった顔をしたバーニーだった。数人が混乱した叫びを発してとびだしかけたが、黒髭の男がひとこと叱咤《しつた》すると驚いた犬のように一斉《いつせい》にすばやく、だがしぶしぶもとの位置に戻った。そして呆《あき》れたように、疑惑《ぎわく》に近い眼差しで指導者を見つめた。
ウィルの<古老>としての勘《かん》が琴《こと》の弦《げん》のようにピリピリ震《ふる》えた。黒髭の男を見ると、男も一瞬見つめ返し、次第に顔のいかつい線がくつろぎ、変化し、ほほえみとなった。声なきあいさつが<いにしえの言葉>でウィルの頭の中にはいって来た。男は口に出しては、おぼつかない言葉でこう言った。「大変な時に来たものだ、<しるしを捜《さが》す者>よ。だが、よく来た。わしの部下が、おぬしのことを、ここにいる小わっぱ同様イングランドの間者と見なさねばよいが」
「ウィル」バーニーはかすれた声で言った。「ぼくのことスパイだって言いっ放しで、ほかの人達は死刑にしたがってるんだ。この人を知ってるの?」
ウィルはゆっくり言った。「やあ、オウェイン・グリンドゥル」
「ウェールズ一の英雄だ」ブラァンは畏敬《いけい》の念に打たれて黒髭の男を見上げた。「イングランド人に立ち向かうために、いさかいや小ぜりあいをやめさせてウェールズを統一することのできた史上唯一《しじようゆいいつ》の人だ」
グリンドゥルは目を細くしてブラァンを見ていた。「だがおぬしは……おぬしは……」と訝《いぶか》しげにウィルの無表情な顔に目を走らせ、不機嫌そうにかぶりを振った。「ああ、いや、馬鹿げている。最後の、最大の戦が待っているというのに夢など見てる余裕はない。呪《のろ》われたイングランド人が春のアリのように群がって来ているというのに」とウィルのほうを向き、バーニーを手で示した。「<古老>よ、小わっぱも仲間か?」
「そうだ」
「それでいろいろ説明がつく。だが、なぜそう言わなんだのかがわからん。愚《おろ》か者が」
バーニーは開き直った。「あなたが<闇《やみ》>じゃないって保証はなかったんだからね」
ウェールズ人は信じられないというように頭をそらして笑い出したが、すぐに姿勢を正して、敬意めいたものをこめてバーニーを見た。「ふむ。それもそうだ。なかなかよくやったな、イングランドの坊主《サイス・パハ》。連れて行くがよい、<しるしを捜《さが》す者>よ」と力強い片手を出して、玩具《がんぐ》を扱《あつか》うようにバーニーを後ろに押しやった。「この地での務《つと》めを心静かに果たすがよい。援助が必要ならいつでも力になる」
「極めて必要だ」ウィルが暗い顔で言った。「もう手遅れかもしれないが」とブラァンが既に驚き不安をもって前にかざしている剣をゆびさした。失せし国が滅んだ時と同じように、バーニーをさらった<闇《やみ》>の急襲《きゆうしゆう》の時と同じように、刃《やいば》が青い光をゆらめかせていた。
グリンドゥルがふいに言った。「<闇>だ。だがここはわしの砦《とりで》――<闇>の手先などいるはずもない」
「おおぜいいるよ」と戸口で猫撫《ねこな》で声がした。「それも堂々とね。最初に私を入れてくれたおかげでね」
「悪魔《デイアウル!」グリンドゥルはとびあがり、本能的に腰の短剣を抜いた。戸口に、なすすべなく金縛《かなしば》りになっている二人の兵士にはさまれて白騎手が立っていたのだ。衣に包まれ、白い頭巾《ずきん》の陰《かげ》から目と歯を光らせて、
「おまえが呼んだのだよ、グイネズのオウェイン」騎手《きしゆ》は言った。
「わしが呼んだと?」
「白馬に乗ってタウィンから来た細い声の者」と白騎手は嘲笑《あざわら》った。「イングランドの間者を手みやげ代わりにして、おまえの部下に大歓迎された者だよ」声がきつくなった。「その見返しに別な小僧《こぞう》をもらっていく。もっと重要な小僧だ。その手の剣もろともに」
「おまえはぼくに対して何の権利も持っちゃいない」ブラァンは軽蔑《けいべつ》をこめて言った。「剣がぼくに正当な力を与えて、今も、いつもおまえの手が届かないよう守ってくれている」
オウェイン・グリンドゥルはブラァンを見、ウィルを見、再びブラァンを見た。白髪を黄色い目をした蒼白《あおじろ》い顔と、青い炎《ほのお》を発する剣を見た。
「剣は両刃《りようば》だ」白騎手が言った。
ブラァンは「剣は<光>のものだ」
「剣は誰《だれ》のものでもない。<光>の手にあるというだけのことさ。その力は、剣をこしらえたいにしえの魔法の力だ」
「だが<光>の命に従ってこしらえられたんだぞ」ウィルが言った。
「それでいて、全ての希望の墓でもあるわけか」騎手は相変わらず白い頭巾《ずきん》に顔を隠したまま言った。「おぼえていないのかね、<古老>よ? 記されていただろうが。墓に埋められるのが誰の希望かは書いてなかったが」
「おまえの希望だとも!」オウェイン・グリンドゥルが言い放ち、ウェールズ語で部下に号令すると、部屋の奥の壁に駆《か》けより、何かを取ろうとした。兵士達は白騎手の白い姿めがけて突進した。だが手を触れることのできたものはひとりもおらず、見えない固い壁にぶつかって横ざまや後ろ向きに倒れた。騎手はブラァンに向かって来たが、ブラァンが宙《ちゆう》に文字を書くようにエイリアスの剣を左右に振ると、青い炎の膜が少年の前に残り、騎手は悲鳴を上げてあとずさりした。そうするうちにも騎手は変化し、分裂して数がふえていくように見えた。だがオウェインの必死の呼びかけに、ウィルは結果を見届ける余裕もなく、他の者に続いてそれまで見かけなかった戸口から走り出た。
革をまとったウェールズ兵が山越えに用いられる何頭かの頑丈な灰色の小馬の背に彼らを押し上げ、子供たちはオウェインに導かれて、静かにすばやく、スレートの崖《がけ》や石の壁を過ぎ、みどりの小道を通りぬけた。背後で<闇《やみ》>のどよめきがどっと上がり、同時に剣が触れ合い、長弓から矢が放たれる音がし、ウェールズ語だけでなく英語で叫び交《か》わす声が聞こえ出した。ウィルは無言だったが、自分のとは別な戦が始まっているのを知った。それこそが、<闇>が新たな取引の場にこの時代を選んだ理由であり、オウェインが残りたくてたまらなかった場所を捨てて来てくれたのもわかっていた。
土地が急傾斜している山道にさしかかり、オウェインが小馬からおりて徒歩でついてくるようにと合図して初めてウィルはおおっぴらに振り返った――そして、あとにして来た灰色の屋根から煙が立ち上がり、炎《ほのお》が躍《おど》り上がるのを見た。
オウェインが苦々しく言った。「ノルマン人めは常に<闇>におぶさって攻《せ》めて来る。サクソン人も、デーン人もそうだった」
バーニーが悲しげに言った。「ぼくはそいつら全部のまぜこぜだ。ノルマンとアングロ・サクソンと、デーンがまじっている」
「いつの世紀から来たのだね?」グリンドゥルは行手を確《たし》かめるために立ち止まってたずねた。
「二十世紀」バーニーは答えた。
ウェールズ人は一瞬じっと動かず、それからウィルを見た。ウィルはうなずいた。
「驚いた《イエス・マウル》。輪がそれほど先まで拡がっているのなら、ここでしばし敗退したとしてもそう辛《つら》くはない。<時>の外に<光の輪>が最後に集まるまでのことだ」とバーニーを見おろして、「先祖について頭を悩ますことはない。時が全ての性質を窮極《きゆうきよく》的には変化させてくれる」
先を歩いていたブラァンが切迫した声で言った。「<闇《やみ》>が来る!」手にしたエイリアスはいちだんと鮮《あざ》やかな青だった。
オウェインは登って来た道を見おろして口をキッと結んだ。ウィルも振り返り、息を呑んだ。白い炎の膜《まく》がワラビの中をじわじわ登って来ていた。音も熱も発せず、滅ぼさんと狙《ねら》う相手を無慈悲《むじひ》に追って来た。グリンドゥルの兵の一団がちょうど行手にいた。
「見かけほどひどいことにはならぬ」ウェールズ人の指導者はウィルの顔を見て言った。「グリンドゥルには<古老>としての腕があるゆえな。案ずるな」白い歯が色の黒い顔にひらめき、オウェインはウィルの肩を叩《たた》いて押しやった。「行け。あの道を登って行けば、ほどなくいるべきところに出られる。この山の中で<闇>を振り回すのはわしに任せるがよい。わしとわしの兵が二度と山をおりられぬかに見えても、それはそれで悪いことではない。兵は<闇>の君が誤っていたことを知るだろう。希望は、死んで墓に横たわるのではなく、人々の心に生き続けるのだと」
ブラァンを見ると、短剣を上げて正式に敬礼した。「わが弟よ、幸運を祈る《ボブ・フイル》」と重々しく言った。そのまま兵を連れて山を走り下り、代わりにウィルが先に立って言われた道を登り出した。道は寒々しい灰色の岩山の間をうねり、次第にせばまり、とある急な角を曲がったところでは岩が道の上にせり出していて、低い天然のアーチの下をひとりずつ頭をかがめてくぐらなければならなかった。三人が岩の下のその道に縦に並んだちょうどその瞬間、周囲の空気が渦巻《うずま》いて回転し出し、尾を引く異様なかすれた悲鳴が聞こえ、目がようやく回らなくなった時には、別の時代の別の場所にいた。
汽車
サイモンとジェーンが砂丘をあとにし、ゴルフ場を横切って線路を縁取る針金の柵《さく》にたどりついた時、妙《みよう》な音が聞こえた。カーン、と風に乗って頭上に響き渡る、ドキッとするほど澄んだ金属音で、鉄床《かなとこ》に振りおろされた金槌《かなづち》のひと打ちに似ていた。
「あれ、何?」ジェーンはまだ気がたっていた。
「鉄道信号さ。ほら」サイモンは行手の線路にぽつんと立っている信号柱をゆびさした。「前には気づかなかったな」
「電車が来るのね」
サイモンがゆっくりと言った。「<止マレ>になってるよ」
「じゃ、もう通過したあとなんだわ」ジェーンは関心がなかった。「ああ、サイモン、バーニーに何が起きてるのかわかりさえしたら!」と言ったが、ふと口をつぐみ、耳をすました。遠くタウィンの方角から、風に乗って長く、かすれた悲鳴にも似た汽笛《きてき》が聞こえたのだ。二人は線路の柵《さく》のすぐそばに立っていた。汽笛が再び、前より大きく聞こえた。線路が震動《しんどう》した。
「そら、電車が来る」
「それにしちゃ変な音――」
すると遠くに、大きくなりつつある灰色の雲を背景に、白い煙が羽根のようにたなびき、速い列車の轟音《ごうおん》が近づいて来た。かなり先のカーヴを回って姿を表わし、二人のほうに突き進むにつれはっきり見えだしたのは、それまでその線を走っているのを見たこともない列車だった。
サイモンが驚喜して歓声を上げた。「蒸気だ!」
途端に、蒸気音と軋《きし》りとキーッという金属音をほとばしらせて、近づいて信号を見た機関手がブレーキをかけた。長い列車に接続された巨大なみどりの蒸気機関車の煙突《えんとつ》から黒煙がドッと吹き上がった。汽車はその線のどの普通便よりも長く、一ダース以上ある客車はどれも新品のように二色に塗《ぬ》り分けられて光っていた。下部はチョコレート色、丈夫はクリーム色だった。汽車は車輪に悲鳴を上げさせつつ次第に速度を落とした。大きな機関車が柵《さく》の向こうで目を丸くしているサイモンとジェーンの前を通過すると、青い作業着を着た汚《よご》れた顔の機関手と火夫がニヤッとし、手を上げてあいさつした。最後にシューッと蒸気を吐《は》き出して汽車は停止し、まだ静かに蒸気を洩《も》らしながら待った。
最初の客車の戸があき、戸口に背の高い人影が現われて片手をさしのべ、二人を招《まね》いた。
「来なさい! 柵《さく》を乗り越えて、速く!」
「メリー大叔父《おおおじ》さん!」
二人が柵を急いで乗り越えると、メリマンがひとりずつ中にひっぱり上げた。地面からは戸口は頭より高い位置にあったのだ。メリマンがバタンと勢いよく戸を閉めると、信号機の腕木が落ちるカーンという音がまた聞こえ、機関車が動き出した。ゆっくりした重たげな動きが次第に速度とやかましさを増し、砂丘が窓の外をどんどん速く過ぎていき、左右に、上下に揺《ゆ》れながらガタンゴトン、ガタンゴトンと走るにつれ、車輪が唄《うた》い出した。
ジェーンがふいに息を詰《つ》まらせ、メリマンにしがみついた。
「バーニーが――バーニーがさらわれたの、ガメリー」
メリマンは一瞬、ジェーンを抱き締《し》めた。「静かに、落ち着きなさい。バーニーはこれから行く所にいる」
「本当?」
「本当だ」
メリマンは揺れる客車の最初の車室に連れていった。プラシ天張りの長い座席は二つとも無人だった。ガラスの引戸をメリマンが後ろ手に閉めると、兄妹は詰物《つめもの》をした座席にへたり込んだ。
「あの機関車!」玄人《くろうと》はだしの鉄道ファンであるサイモンは感心しきって夢中だった。「ずっと昔のグレート・ウェスタン鉄道の、第一級機関車だよ――それにこの昔風の客車――今じゃ博物館の中にしかないものと思ってた」
「そうとも」メリマンはあいまいに言った。そこに腰をおろしているところは、おぼえている限りの昔から折りに触れて兄妹の人生に舞い込んで来た、身装りに無頓着《むんとちゃく》ないつもの大叔父だった。骨張った長身は特徴のない黒っぽいセーターとズボンに包まれ、豊かな白髪はくしゃくしゃだった。メリマンは窓の外を見ていた。列車が一連の短いトンネルにはいると小さな車室はふいに暗くなり、天井の弱々しい黄色い電球で照らされているだけとなった。やがて汽車はアベルダヴィの先に出、再び河に沿《そ》走っていた。小さな駅が風のように通り過ぎていった。
「特別列車か何かなの?」サイモンがたずねた。「途中の駅には止まらないんだね?」
「どこへ行くの?」ジェーンも言った。
「遠くではない」メリマンは答えた。「たいして遠くではない」
サイモンが唐突《とうとつ》に言った。「ウィルとブラァンが剣を手に入れたよ」
「わかっている」メリマンは誇《ほこ》らしげに微笑《びしよう》した。「わかっている。少し休んだほうがいい。そして待つのだ。それから――この汽車の中で誰に会おうと、驚いた様子を見せてはいけない。それが誰であろうと」
どういう意味なのか考える暇もなく、車室の外の通路に人影が立ち止まった。窓《まど》のある戸が引きあけられ、ジョン・ローランズが汽車に合わせて揺《ゆ》れながら立っていた。黒っぽい、少しだぶついたスーツを着ているため、違う人のようにめかしこんで見えた。ローランズは仰天《ぎようてん》して三人を見つめた。
「ごきげんよう、ジョン・ローランズ」メリマンが言った。
「こいつは何とまあ」ローランズはぽかんとして言い、ジェーンとサイモンにやっと笑いかけて会釈《えしやく》し、それから、警戒心と当惑《とうわく》の混じった奇妙《きみよう》な目つきでメリマンを見た。「おかしなところでばかり会うもんだね」
メリマンは愛想よく肩をすくめた。
「ローランズはどちらへ?」ジェーンがたずねた。
ローランズは顔をしかめた。「シュルーズベリの歯医者さね。ブロドはついでに買物をしたがってる」
汽笛《きてき》が叫び、小さな駅がまた一つ過ぎて行った。今や山あい深くはいり込み、切通しを走っていて、窓から見えるのはぼやけてかすめ去る高く草深い土手ばかりだった。通路を誰《だれ》かがローランズのほうにやってきた。ローランズは姿勢を改め、道をあけた。
サイモンが礼儀正しく言った。「こんにちは、ローランズのおばさん」
ジェーンは温かいウェールズなまりの声を聞いた。
「まあ、驚いた! ジョンは誰と話してるんだろうと思ってたのよ。タウィン駅では知り合いが乗った様子はなかったし」
かすかな問いかけがこもっていたが、サイモンは強引に無視した。
「すごいでしょう。蒸気機関車ですよ!」
「昔と変わらん」ローランズが言った。「何かの記念日でなきゃ、復活されたんだろうな。駅にはいって来た時にゃ、三十年前に戻《もど》ったかと思った」
「こっちに移って来られませんか、おばさま?」ジェーンが言った。
「ありがとう、そうしようかしら」ブロドウェン・ローランズは微笑《びしよう》して、ジェーンが見えるように戸口に立った。目がメリマンをかすめた。
「ああ」ジェーンが言った。「おばさま――こちらは大叔父《おおおじ》のリオン教授です」
「シトダハ・ヒ?」とメリマンの深い声が素《そ》っ気なく言った。
「お初に」ブロドウェンはほほえみを絶やさず会釈《えしやく》し、ジェーンに向かって付け加えた。「手提《てさ》げを取って来るわね」そして通路の先に消えた。
「ウェールズ語をしゃべれるなんて知らなかった」とサイモンが言った。
「必要とあればな」メリマンが言うと、
「ウェールズ人並みの発音だった」とローランズが言い、車室にはいって来たサイモンの隣りに腰をおろした。人影が二つ通路を通り抜け、さらに一人が、中も見ずに通り過ぎた。
「満員なのかしら?」ジェーンは最後の一人の背中が遠ざかるのを見送りながらたずねた。
「そうなりつつある」メリマンが答えた。
ローランズ夫人が手提《てさ》げを持って戻り、戸口でためらった。
「隅《すみ》がいいですか?」ジェーンは反射的に言ってメリマンのほうに詰《つ》めた。
「ありがとう、嬢《じよう》ちゃん」ブロドウェンは顔に温かい輝《かがや》きを与えるあの驚くべき笑みを浮かべ、隣りにかけた。「で、あんた達はどこへ行くの?」
ジェーンはすぐそばに来た親しげ気な目をのぞき込み、ためらった。激しい違和感に襲《おそ》われた。ブロドウェン・ローランズの目は光を欠いているかに、丸い代わりに平べったいように見えたのだ。(何を馬鹿《ばか》なことを)とジェーンはまばたきし、目をそらして言った。「メリー大叔父《おおおじ》さんが遊びに連れ出してくれたんです」
「辺境へね」メリマンは外部の人間に対して用いる感情を欠《か》いた深い声で言った。「国境いの土地ですよ。ほとんどの戦があの辺で始まったものです」
ブロドウェンは手提げから編物を出した。派手な赤い毛糸だった。「それはいいですこと」
汽車が揺《ゆ》れ、唄《うた》った。大柄《おおがら》な男がゆっくりと通路を通りかかり、立ち止まって中をのぞき、メリマンに向かってしかつめらしく半ば頭を下げた。一同は男をまじまじと見た。実に印象的な外見で、膚《はだ》は真っ黒、豊かな髪《かみ》は真っ白だった。メリマンが重々しく頭を下げて返礼すると、男は歩み去った。ジェーンはカチカチというすばやい連続音を意識し出した。ローランズ夫人がものすごい速さで編み出したのだった。
サイモンが魅了《みりよう》されたようにささやいた。「今の誰《だれ》?」
「私の知人だ」メリマンが言った。
男と同じ方向に向かって杖《つえ》にもたれてびっこを引き引き、ひとりの老女が通った。優雅《ゆうが》ではあるが昔風のコートをまとい、トーク帽を小粋《こいき》な角度で頭に乗せ、まとめ上げられた灰色の髪《かみ》は後《おく》れ毛だらけだった。老女はメリマンに会釈《えしやく》し、「ごきげんよう、メリマン」とよく通る尊大な声で言った。
メリマンが重々しく「ごきげんよう、奥様」というと、老女は一同を鋭い目で一瞥《いちべつ》し、行ってしまった。
四人の小さな男の子が笑いながら陽気にはしゃいで駆《か》け抜けた。
「何て変わった服装かしら!」ジェーンは興味を覚え、乗り出して見送った。「長い上着だけみたいだったわ」
汽車がカーヴを切ろうと大きく揺れ動いたので、乱暴《らんぼう》に席に戻された。
サイモンが考え深げに言った。「一種の制服かもしれないよ」
ローランズ夫人が手提げから今度は黄色い毛玉を取り出し、赤と合わせて編《あ》み始めた。
「利用者が多いな」ローランズが言った。「こんなのばかりなら、廃線にしようなんて考えるやつはいなくなるだろうに」
サイモンが立ち上がり、戸枠《わく》によりかかって体を支《ささ》えた。「ちょっと外に出ていい?」
「いいとも」メリマンは鉄道の必要性についてローランズと穏和《おんわ》に話し出し、ローランズ夫人はせわしなく編《あ》みながら耳を傾けた。ジェーンは紫《むらさき》がかった茶色の山肌《やまはだ》と、すぐ近くの草土手が交互に走り去るのを眺《なが》めた。サイモンは長いこと姿を消していたが、やがて戸口から頭を突《つ》っ込んだ。
「いいものを見せてやるよ」とさりげなくジェーンに言った。
一緒に通路へ出ると、サイモンは戸を閉め、突き当たりの、客車の終わりを示す錠《じよう》のおりた扉《とびら》へと連れていった。
「ここがこの汽車の最前部だ」サイモンは妙な声で言った。「ぼくらの車室のこっち側には何もない」
「それがどうしのた?」
「ここを通り過ぎた連中のことを考えてみろよ――」
ジェーンはしゃっくりのような音をたてた。「こっちの端から来たわ! みんなよ! ありえないわ!」
「でも本当だ。ぼくらが車室に戻ったら、きっともっとおおぜい通るぜ。賭《か》けてもいい。かなり後ろのほうまで行ってみたけど、満員に近いんだ。すごく変わった取り合わせだよ。みんな違う服装なんだ。年齢も膚《はだ》の色も体つきも全部違う。国連に行ったみたいだった」
二人は顔を見合わせた。
ジェーンがのろのろと言った。「戻ったほうがいいんじゃない?」
「普通の顔をしろよ。努力するんだ」
努力するのに夢中になったジェーンは自分の車室を通り越し、次の車室に行ってしまった。通路のほうを向いて隅に腰かけていた男が、ジェーンが近づくと目を上げ、窓越しにふいに知合いに会ったように温かくにっこりとほほえみかけた。年配の男で陽灼《ひや》けした丸顔に針金のようなごましおまじりの眉《まゆ》を持ち、頭のてっぺんははげていたが、下のほうにはごましおの髪《かみ》がふさふさしている。
「トムズ船長!」ジェーンは嬉《うれ》しくなって叫び、それからまばたきした。というより、空気がまばたきしたかに思えた。そこには誰《だれ》もいなかったのだ。
「何だって?」サイモンが言った。
「あたし――あたし、前に知ってた人を見かけたような気がしたの」ジェーンは誰もいない座席を凝視《ぎようし》した。車室は全く無人だった。「でも――気のせいだったみたい」
「いいか、普通にしろよ」サイモンはもとの車室の戸をあけて中に戻った。
周囲で話し声がざわめき、ローランズ夫人の編み棒が猛然《もうぜん》とカチカチいう中に、二人は黙《だま》って坐っていた。ジェーンは頭を座席の背にもたせかけ、車輪のリズムに思考をゆだねた。車輪はガタンゴトンと編み棒の音と混《ま》ざり合い、聞きようによっては「闇《やみ》の中へ、闇の中へ、闇の中へ」とさえずっているような気さえした。
いきなり口の中が乾《かわ》くのを覚え、ジェーンは座席をぎゅっとつかんだ。外の野原に、霧《きり》のように走る騎馬《きば》の一団が見えたのだ。生垣《いけがき》を跳《と》び越え、駆《か》け抜け、汽車が全力疾走《しつそう》しているにもかかわらず、同じくらいの速さで突《つ》っ走っている……
隊を組み、流れるように走るその一団のある者は黒一色、ある者は白一色だった。そして西の空から集まった灰色の雲が押し寄せて来るや、騎馬集団は雲の中、空の中を走っていた。雲が巨大な灰色の山ででもあるかのように。
目を大きく見開いたまま、ジェーンは動くこともできなかった。座席の上の手を少しずつメリマンのほうにずらした。届く前に、メリマンの力強い手が一瞬握りしめてくれた。
「恐れるな、ジェーン」とメリマンは耳もとで囁《ささや》いた。「これがやつらの蹶起《けつき》だ。さよう、最後の追跡《ついせき》なのだよ。ここから先は危険が増す。だがこの時間列車には手を出しはしない。やつらの手先が乗っているからな」
汽車は線路の上を激しく揺《ゆ》れながら猛進《もうしん》した。空が雲と騎馬集団によって暗くなるにつれ、車室の中も薄暗くなった。ローランズ夫人の忙しい編み棒も能率が落ち、指の動きが遅くなると同時に鮮《あざ》やかな毛糸の色がくすむのが見えた。汽車の音に変化が生じ、車輪のリズムがのろくなり、唄《うた》のようだった回転音が低くなった。少し前の車輪の下でピシッという音がし、さらに繰《く》り返された。汽車は次第に速度を落とし出した。
「マルーン花火だ!」ジョン・ローランズが面くらって言った。「昔のマルーン花火だよ。霧が出ると、汽車に教えるために線路に置いたものなんだ」と窓の外をのぞいた。「空がすごい灰色だ。霧だとしても驚かんね」
車輪にブレーキがかかり、飛び去る風景がゆっくりになったと思うと、騎馬集団は雲の中に見えなくなった。到るところ、灰色の雲と渦巻《うずま》く霧《きり》ばかりだった。騒々《そうぞう》しく音をたてながら汽車は這《は》うように進み、だしぬけに窓の外に小さな駅が接近して来た。サイモンがとびあがってジェーンを通路に引っ張り出し、外をのぞいた。駅は、何もないところにホームがぽつんとあるきりで、どこにも名前が見えず、霧のためさだかに見えないアーチめいた建物が一つあるだけだった。その向こうに、霧の切れ目を通してぼんやりと、地平線の向こうに立ち上がるなだらかな山が見えていた。やがてのろのろと、三つのぼやけた人影がアーチから出て来た。
サイモンが目をみはった。「早く! ジェーン、戸を開けるんだ!」と妹を押しのけて手を伸ばすと、細長い把手《とつて》をひねって戸を外に押しあけ、手を伸ばした。ブラァンとウィルとバーニーが乗り込んできた。
「ああ!」ジェーンはそれ以上は言えず、バーニーをきつく抱《だ》き締めた。驚いたことにバーニーのほうで抱きついて来た。汽車が動き出した。霧は塊《かたまり》のようになって渦巻きながらホームとアーチの周囲に流れ、全てが無に溶《と》け去っていくかに思えた。と、背後の車室からブロドウェン・ローランズの音楽的な声が嬉《うれ》しそうに言った。「まあ、ブラァンちゃん、驚いた! じゃ、コンクールはシュルーズベリであるのね? ジョンったら言わないもんだから――」
「昨日ブロドウェンに話してたんだよ」ブラァンが口をきく前にローランズの慎重《しんちよう》な低い声が割り込んだ。「君らがイドリス・ジョーンズ・タ・ポントを手伝って牧羊犬コンクールに羊を運ぶってことをね。今年はあいつの犬は出走せんから、羊を提供する役に回ったんだ。役員長も確かやつだったな、ブラァン?」
「うん」ブラァンは、車室に他の者と共にどやどやはいり込みながら、さらりと言ってのけた。「こっちの方で羊を何頭か見つけたもんで、トラックにぼくらの乗る場所がなくなっちゃったんだ。それでジョーンズが汽車に乗せてくれたんだよ。今頃おじさん達に会うなんてびっくりした」
「そのおちびさんも行くのね。うんと面白い思い出が出来るわよ」ローランズ夫人はバーニーにほほえみかけた。羊を追う手伝いをする以上に自然なことはないといわんばかりだった。
バーニーは礼儀正しくほほえみ返すと、無言でサイモンの脇《わき》のすきまにすべり込んだ。汽車は再び全力疾走《しつそう》にはいり、揺《ゆ》れ、唄った。低くなだらかな山の姿が前方に壁のように迫《せま》って来た。灰色雲は頭上を流れた。のどが虚《うつ》ろになったように感じながら、ジェーンは騎馬《きば》集団がひしめきあって空を飛んで行くのを再び目にした。恐怖がジェーンをつかんだ。どこへ走って行くのだろう。汽車はどこに向かっているのだろう? どこへ――?
「ここにお坐り、坊や」ローランズ夫人がブラァンに言って愛情をこめて腕《うで》を引っぱり、自分とジェーンの間に唐突に坐らせた。ジェーンは慌《あわ》てて詰《つ》めながら、剣はまだ目に見えない鞘《さや》に納まってブラァンの脇《わき》にあるのだろうかと思った。
ウィルは戸口の左右に手をかけたまま入口に佇《たたず》んで揺《ゆ》れていた。他人を見るようにメリマンを見るとたずねた。「混んでますか?」
「満員に近いようだよ」メリマンも同様にもったいぶって答えた。
突如、機関車が大きな悲鳴を上げ、汽車は山の下に突っ込んだ。トンネルにひと呑みされると、周囲は暗黒に閉ざされ、低い轟音《ごうおん》が耳に入り、汽車独特の硫黄《いおう》めいた臭気《しゆうき》が鼻につき出した。ジェーンはローランズ夫人の感じのいい顔に不安そうな色が浮かぶのをちらっと見たが、すぐに忘れてしまった。線路に運ばれるままにどこまでも土中にもぐり、何トンという厚い岩の下へ、山を通り抜けて進んでいるという生々しい感覚に圧倒されたのだ。
徐々《じよじよ》にもはや汽車に乗っているのではないという気がし出した。一同の坐っている小さな箱型の車室の仕切りが薄れ出したかのようだった。まだ全員その場に坐っていた。ウィルだけはかつて戸口だった所に立ってみんなを眺《なが》めまわしていた。だが今や奇妙《きみよう》な輝きが周囲に生じた。動いている速さそのものが目に見えるようになったというか、輝《かがや》きそれ自体に推し進められているような感じだった。自分達自身の力によって地中を疾走《しつそう》しているという気がした。ほかのおおぜいの人々と共に東に向かってまっしぐらに進んでいるのだ。周囲の輝《かがや》きは次第に強まり、まぶしいまでになった。一同は光の川に運ばれているかのように明るさに包まれていた。
ジョン・ローランズのしわだらけの力強い顔に驚嘆《きようたん》と当惑《とうわく》を見た。ブロドウェン・ローランズがふいに怯《おび》えた声を上げ、編物を床に落として立ち上がると、反対側にいる夫のそばに坐った。ローランズは、長年の愛情で支えるかのように、頼《たの》もしい腕《うで》を妻の肩に回した。「よしよし、おまえ《カリアード》、よしよし。怖《こわ》がることはないさ。気を鎮《しず》めて信じてればい。ウィルの知合いのメリマンさんがわしらを護ってくれるさ」
だがジェーンがあっけにとられたことに、ウィルとメリマンは今や揃《そろ》って立ち上がり、ブロドウェン・ローランズの前に立ちはだかっていた。どちらも動かず、それでいて強烈《きようれつ》な沈黙《ちんもく》の凄《すご》みが感じられた。告発しているのだった。二人の背後でブラァンがゆっくりと立ち上がり、浜で見せたのと同じ奇妙《きみよう》な身振りで、腰《こし》に吊《つ》った見えない鞘《さや》から剣を抜いた。剣は突然そこに出現した。恐るべき抜き身となってぎらつき、水晶《すいしよう》の刃全体に青い火がちらついていた。
ブロドウェンはすくみ上がり、夫の脇腹《わきばら》に体を押しつけた。
「何だね!?」ローランズは憤慨《ふんがい》して、黙《だま》ってぬっと立っているメリマンをにらんだ。
「そばへ寄せないで!」ローランズ夫人は叫んだ。「ジョン!」
ローランズは妻《つま》の体の重さのために立ち上がることこそできなかったが、責《せ》めるように見上げながら背筋《せすじ》をしゃんと伸《の》ばした。
「これに構わんでくれ! あんたがた、何のつもりか知らんが、あんたらの関心事とこれと何の関わりがある? ひとの女房《にようぼう》を怖《こわ》がらすなんて許せん。これに構《かま》うな!」
ブラァンは青い炎になめられているエイリアスの剣を突き出し、切っ先がウィルとメリマンの間からブロドウェンの歪《ゆが》んだ顔に向くようにした。
「臆病《おくびよう》なことじゃないか」と冷たいおとなの声で言った。「愛してくれてる者の陰《かげ》に隠れるなんて。殊《こと》に自分のほうでは愛してもいないのに。けど利口な手口ではあるな。ちょうどうまい場所に住みついて過去からやって来た色の薄い奇妙な子供を育てるのに手を貸すのと同じくらい利口な手だ――その子のすることも言うことも、考えることも、全部確実に耳にはいるよう計算の上でね」
「どうしたってんだ、ブラァン」ローランズはすがるように言った。
光は汽車と同じように、だが山の中なので虚《うつ》ろに響く唄《うた》を唄いながら、一同を運び続けた。
メリマンが感情のない深い声で言った。「<闇>の手先だ」
「気でも狂ったのか!」ローランズは妻の腕を握《にぎ》りしめた。
「人質《ひとじち》にする」ウィルが言った。「ブラァンと剣と引き替えにするために<闇《やみ》>の白騎手《しろきしゆ》がバーニーをさらったように。無事に旅を続けるための人質にする」
「無事に旅を!」ブロドウェン・ローランズがそれまでと違う猫撫《ねこな》で声で言い、笑《わら》った。
ローランズは微動《びどう》だにしなかった。その目の中に浮かびつつある慄然《りつぜん》たる疑惑《ぎわく》を見てジェーンはたじろいだ。
ローランズ夫人の笑いは冷たく、声がふいに異様に変化した。猫撫《ねこな》で声でありながら、新たな力が背後に潜《ひそ》んでいた。それが、目の前の見慣《な》れた温かい、親しみやすい顔から発せられているとは信じ難かった。
「無事な旅だと!」声は笑った。「破滅への旅さ、おまえたち全員。剣も救ってはくれないよ。<闇《やみ》>は集まり、待ち構えてる。この人質《ひとじち》に案内されてね。立ち上がって待ってるところさ、リオン、スタントン、ペンドラゴン。立ち上がって待ってるんだよ。力の品の全てを用いても、樹のそばに行きつけはしないよ。今にも、おまえ達は地中からとび出す。そうしたら<闇>の軍勢が待っているよ」
そう言うと立ち上がった。ローランズの手は力なく落ち、捨てられた手袋さながら座席に横たわった。手の主は茫然《ぼうぜん》として見つめるばかりだった。ブロドウェンは背が高くなったように見え、霧《きり》のような明るさの中で独特の光を放っていた。エイリアスの切っ先に向かってわざと進み出ると、ブラァンはゆっくりと女に触れないように切っ先を上向かせ、ウィルとメリマンは脇《わき》へのいた。
「エイリアスには<闇>の君を滅ぼすことはできない」ブロドウェンは勝ち誇《ほこ》って言った。
「<闇>を滅ぼせるのは<闇>だけだ」ウィルが言った。「ぼくらもその掟《おきて》は忘れていない」
メリマンが一歩前に出た。そしてにわかに周囲の全てのものの中心となった。六人の仲間の、謎《なぞ》の目的地に向かって石と土の中をひた走る<光>の力と意図の焦点《しようてん》と化した。光の中にすっくと立ち、いつのまにかまとっていた長い青いマントの上に白髪をきらめかせながら、片腕《かたうで》を上げてブロドウェンに突きつけた。
「光はおまえをこの<時>の流れから追放する」と、汽車の唄《うた》が虚《うつ》ろな山の下で鳴り響いたように響き渡る声で言った。「我らの前に追いたてる。出て行け! 行くのだ! この大いなる行列より先に進んで、光を待ち伏《ぶ》せているつもりの<闇>の仲間の恐るべき力からのがれるすべを考えるがよい」
ブロドウェン・ローランズは細い怒《いか》りの叫《さけ》びを上げた。ジェーンはのどを締《し》めつけられる思いだった。女は回転し始め、変わり出し、周囲の暗い空間に、走る白馬にまたがった白衣の人物となって姿を消した。怒りと恐怖《きようふ》のとりことなった白騎手は高く跳躍《ちようやく》すると一同のいる輝きの中からとび出し、前方に消えた。何も見えない霧がかかった暗闇《くらやみ》の中へ。
<光>の形のない大きな乗物は、地底の川に運ばれる船のように山の中を進んだ。ローランズは石のような顔で黙《だま》ってじっと坐《すわ》っていた。誰も一瞬以上見つめ続ける者はいなかった。耐《た》え難《がた》かったのだ。
ついにジェーンが言った。「樹って? ガメリー。なんのこと? 力の品の全てを用いても樹のそばに行きつけはしないって言ってたけど」
メリマンは暗青色のマントを着、頭巾《ずきん》が首まで垂《た》れかかって堂々として見えた。はみ出た白髪は周囲の光を受けてきらめき、傍《かたわ》らのブラァンの髪も同様だった。二人とも未知の人種さながらだった。
「イングランドのチルターン丘陵《きゆうりよう》にある夏至《げし》の樹だ」メリマンは言った。「生命の木、世界の柱だ……。この国に七百年に一度出現し、その上に、その日一日だけ銀の花をつけるヤドリギが寄生している。つぼみが開ききった瞬間に花を切り取る物は形勢を逆転し、いにしえの魔術と荒魔術とを操《あやつ》ってあらゆる競走相手をこの世から、そして<時>の中から追放することができるのだ」
バーニーがささやくように言った。「ぼくら、その樹のところへ行くの?」
「そこが行先だ。<闇《やみ》>もまた、以前から計画していた道をたどって行きつき、樹上《じゆじよう》に銀が宿った瞬間に、最後の総攻撃《そうこうげき》をかけて来るはずだ」
「でも、花を切り取るのが<闇《やみ》>じゃなくてあたし達だって、どうしてわかるの?」ジェーンには周囲の輝《かがや》く流れしか見えなかった。脳裏《のうり》に一瞬、灰色の空いっぱいに駒《こま》を進める<闇>の君と、その先頭に立って長く冷たい笑いを響かせている白騎手ブロドウェン・ローランズの幻《まぼろし》が鮮烈《せんれつ》に浮かんだのだった。
「我らにはエイリアスの剣がある」メリマンが言った。「やつらにはない。両刃ではあり、<光>と<闇>のどちらにも所有されうるが、<光>の命によって造られたのは事実なのだ。ブラァンがエイリアスを護《まも》り、六人と輪がブラァンを護れれば、全てはうまくいく。夏至の樹高くそびゆる下にて」と声を深めて唄うように唱《とな》えた。「ペンドラゴンの刃に<闇>斃れん」
ウィルは反射的にブラァンの手にきらめく剣に目をやった。青い火は消え、刃は清らかだった。だが見ているうちにも、最先端から躍《おど》る青い火が再び拡がり出したようだった――初めはほの暗くかすかにそれからじりじりと寸刻みに這《は》い上がり黄金の柄《え》へと拡がった。周囲の光の急流の動きにも変化が見え、本物の川のようにゆさぶられているかのように揺《ゆ》れが激《はげ》しくなった。六人とジョン・ローランズは船の上にいるようだった。何一つ見えるものはなかったがウィルにはわかった。
視線がバーニーにさしかかって止まり、ウィルは思わず微笑《びしよう》した。幼い少年は周囲の人間の存在を忘れ、自分の頭の中に渦巻《うずま》く感覚を楽しんでひとり笑いしていた。グリンドゥルの兵から受けた恐怖感は蒸発し、神経質なところもすっかりなくなって、ただ驚嘆《きようたん》と喜びだけがあった。
そしてふと、ウィルに見られているのを知っていたかのように顔を上げ、「一番いい種類の夢を見てるみたいだ」と言った。
「そうだね」ウィルは答えた。「けど……それに浸《ひた》りきっちゃいけない。何か起きるかあてにならないんだから」
「わかってる」バーニーは機嫌《きげん》よく言った。「本当にわかってるよ。けど、そう思っても……わーい!」と頭をそらした。満面に笑みをたたえての、わくわくする興奮《こうふん》の叫《さけ》びだった。あまりに唐突《とうとつ》だったので誰《だれ》もが振り返った。一瞬《いつしゆん》みんなの顔から不安が消え、メリマンでさえ、最初こそ厳しい顔をしたが笑い出し「その調子!」と言った。「それも剣と同じくらい必要なものだよ、バーニー」と。
突然、一同は昼日中にとび出した。灰色の空と、ますます厚くなる雲の間から空しく照ろうとしている水っぽい太陽の世界に。乗っている船が船首が高く伸び上がった甲板《かんぱん》のない長い船で、腰掛《こしか》けが取り付けられているのが見えた。また、前後に同じ形の船が幾艘《いくそう》もあり、はっきりとは見えない人影で一杯なのがわかった。霧《きり》が再び周囲にまとわりつき、続いて暑くもないのに陽炎《かげろう》のように空気が震《ふる》えた。ウィルは繊細でとらえ難い、かすかな聞き覚えのある旋律《せんりつ》を耳にした。水の先を見やると、きらめくさざなみとぼやけた岸、その彼方《かなた》のみどりの野原と人馬の影が見えた。一瞬、霧が引き裂《さ》かれたように晴れ、背後にそびえる山々と焚火《たきび》の煙、そして待機している軍勢が見えた。幾列も幾列もの兵。多くは小形で頑丈《がんじよう》な筋肉質の馬に乗っていた。乗り手と同じくらい色が黒く強者《つわもの》めいてしぶとい馬と見えた。光る剣を携《たずさ》え、緊張して待機している騎馬《きば》軍団だった。だがすぐに霧《きり》が裂《さ》け目をふさぎ、灰白色の空間しか見えなくなった。
「あの連中、誰《だれ》?」サイモンがしわがれた声で言った。
「見えたの?」ウィルは振り返った。三人兄妹がウィルの側にいた。ブラァンとメリマンは切り離されたように船首に立っており、ジョン・ローランズのうつむいた陰気な姿は船尾にあった。
「誰《だれ》だったの?」ジェーンがたずねた。ドルー兄妹は三人とも、熱心に霧に目を凝《こ》らしていた。バーニーの手が、何かしたいと言うように発作的に開いたり閉じたりしているのが見えた。
灰色の霧の中からふいに音が聞こえ出した。かすかに、あらゆる方向から同時に聞こえる混乱した騒《さわ》ぎだった。武器のぶつかり合い、馬のいななき、戦う男達のどなり声、悲鳴、勝ちどき。サイモンがじれて顔をひきつらせ、振り向いた。「どこにいるんだい? 何なんだい? ウィルってば!」すがるような叫《さけ》びだった。
メリマンの深い声が船首から、同じすがるような響きを秘《ひ》めて言った。「心魅《こころひ》かれるのも無理はない。鉄床《かなとこ》に何世紀も乗せられたまま鍛《きた》えられて来たおまえの国の、最初の大試練の場なのだ。バードン山、バードンの戦いなのだよ。<闇《やみ》>が攻《せ》め寄せ……。戦局はいかに?」声はさぐりを求めるような叫《さけ》びになった。見えない誰かに向かって灰色の霧《きり》の中にあてもなく投げられた問いだった。
すると霧の中から、答えるかのように、長い影が現われた。一同の乗っているのより長くて大きい船で、流れに乗ってウィル達の船が近づくにつれ、岸よりに形を露わにし始めた。武器をつらね、武装した兵が満載《まんさい》されている。みどりの無地の旗が船首と船尾になびき、王の船というより軍隊の総指揮官《そうしきかん》の船に見えた。だがへさきに立つ人物には王の物腰が備わっていた。肩の角張った、陽灼《ひや》けした顔と澄《す》んだ青い目の持主で、茶色い髪には白いものがまじり、短い顎鬚《あごひげ》はごましおだった。海の色の短い青緑のマントをまとい、その下にローマ人めいたよろいを着けている。そして、首のまわりに、半ば隠されてはいるが火のような光を放ってきらめいているのは、ウィルのしるしをつないだ輪だった。
男はメリマンを見ると勝ち誇《ほこ》って片手を上げた。「上々じゃ、わが獅子よ。ついに追いつめた。きゃつらは自らの巣に戻って身を落ち着け、我らに平和を与えてくれるであろう。しばしの平和ではあるが……」
男はためいきをついた。きらきらする目がブラァンを見て和《なご》んだ。「剣を見せよ、わが子」
ブラァンは船が最初に現れた時から男を見つめっ放しだった。今や、熱のこもったまなざしをいささかもゆるがせぬまま、ピンと胸を張り、色のない顔と白い髪を持った蒼白《あおじろ》くほっそりした姿で、エイリアスの青く燃える刃を掲げ、正式にあいさつした。
「まだ<闇>に対して燃えておる。まだ警告は続くのか」男の言葉はそのまま二度目の嘆息《たんそく》だった。
ブラァンが猛然《もうぜん》と言った。「ですが、わが君、今回も必ず<闇>は追い払います。やつらより先に樹に行き着き、<時>の外へ追い落としてやります」
「むろんじゃ。世は援《たす》けるために届けられたものを返さねばならぬ。立派につとめを果たしてくれた。今度はそのほうのために働くべきじゃ」とマントを後ろへ払い、つづり合わされたしるしを首からはずした。「取るがよい、<しるしを捜《さが》す者>よ。余の祝福と共に」
ウィルは船の端に近づき、力強い陽灼《ひや》けした手からきらめく鎖《くさり》を受け取った。自分の首に巻くと、重みが肩をひっぱるのを感じた。「ありがとうございます、わが君」
霧《きり》が灰色の河の上の二艘の船の周囲に渦巻《うずま》いた。一瞬晴れて前後にひしめく影の船隊を見せたと思うと、再びたれこめ、全てをぼやけさせあいまいにした。「輪は完全になりました。ただ一人を除いて」メリマンが言った。「そして六人は固く団結しております」
「いかにも。よくやった」鋭い青い目で畏怖《いふ》の念に打たれて黙《だま》っているジェーンとサイモンとバーニーをかすめ、アーサー王は会釈《えしやく》したが、すぐに再び、引き寄せられるようにブラァンに顔を向けた。エイリアスの剣と、霧のため撫《な》でつけられた白髪と、まぶしさに細められた黄色い目を持つ無防備な蒼白《あおじろ》い少年に。
「して、全てが終わった暁《あかつき》には、わが子よ」と声を和《やわ》らげ、「全てが終わった暁には、余の船プリドウェンに乗って余と共に船出するか? 余と共に、星の下に平和があり、リンゴの木々が実を結ぶ、北風の後ろの銀に縁取られた城に来るか?」
「はい」ブラァンは言った。「はい、行きます!」蒼白《あおじろ》い顔は、歓《よろこ》びと一種の崇拝《すうはい》に輝《かがや》いていた。これほど生き生きとしているのを見たのは初めてだ、とウィルは思った。
「この前の休息よりも安らかで、終わることのないものとなるはずじゃ。これとはそこが異なる」アーサーは霧《きり》の中に目をそむけ、悲しげに自分のいる過去の時代を振り返った。「なぜなら、バードンにおける我《われ》らの大勝利は長く続かぬゆえ。我らブリトン人はこの島国のうちの我らの土地にて悩まされることなく、イングランド人は平和に自領に暮らし、アーサーの平和《パクス・アルトウルス》は二十年続く。だがその後は再びケントからオクスフォード、オクスフォードからセヴァーン川まで、西へ西へとわが国を破壊《はかい》しつつ進むであろう。そして古い世界の最後の名残が滅ぼされるのじゃ。我らが街々、我らが橋、そして我らが言葉まで。全てが消える。全てが果てる」
今や声には懊悩《おうのう》がこもっていた。長い、胸の痛むような挽歌《ばんか》だった。「失われる、全て失われるのじゃ……。蛮族《ばんぞく》が<闇《やみ》>をもたらし、<闇>の僕《しもべ》らは盛える。この国の工匠《たくみ》ら、棟梁《とうりよう》らはこの地を去るか死ぬかして、代わりに蛮族の王を飾《かざ》り立てる者どもが現われる。そして、道には、いにしえの道には、草がみどりに生い繁《しげ》るであろう」
「そして人々は西に逃げます」メリマンがこちらの船のへさきからやさしく言った。「この地のさいはての片隅《かたすみ》へ、古い言語がまだしばらくは用いられる地へ。侵略者《しんりやくしや》の子孫をおとなしく飼《か》い慣《な》らすのにその先祖が略奪《りやくだつ》した土地を用いることができるよう、<光>が常に<闇《やみ》>の勢力が衰《おとろ》えるのを待つところへ。そして、のがれた人々のひとりが聖杯《せいはい》と呼ばれる黄金の杯《さかずき》を運んでいきます。その側面に記された言葉によって、後世の民には、<闇>の最後のそして最大の攻撃《こうげき》に――流血によるものではなく、人間の心に潜《ひそ》む冷酷《れいこく》さによる攻撃に対して、よりよくもちこたえることが可能となるのです」
アーサーは詫《わ》びるように頭を垂《た》れた。霧《きり》がまわりに吹きつけ、王の姿は前より薄れ、海青のマントもくすんで見えた。「そちの申す通りじゃ。聖杯《せいはい》は見出されたのであったな。他の力の品々も全てそちら六人の手で。こうして<光>が強められたからには我ら輪の者全員が最後の戦に駆《か》けつけられる。わかっておる、わが獅子《しし》よ。この過去においてわが国がなめた苦しみのために泣きはらしても、未来が約束する希望を忘れたわけではないぞ」
河が二艘《にそう》の船を引き離し始めた。戦のどよめきと勝どきが再び周囲の霧の中から上がった。アーサーの声が遠ざかり、最後にひと声高く呼びかけた。
「河を下れ。そのまま行け。ほどなく余《よ》も参る」
それきり、船は旗や武装した兵もろとも明るい霧の中に消え、代わりに、光る流れの両側に暗闇が渦巻《うずま》き出した。海の如《ごと》く深く茫漠《ぼうばく》とし、ウィル達の精神を殴打《おうだ》し、包み込む暗闇《くらやみ》だった。
船尾に黙《だま》って坐《すわ》っていたジョン・ローランズがゆっくりと立ち上がった。ウィルにはぼんやりした形にしか見えず、それまでに起きたことのどれだけを見聞きしていたかを推《お》し測《はか》ることはできなかった。
ローランズは舷側《げんそく》に体を押しつけ、片腕を暗闇に差しのべ、恐れと恋しさをこめて何かウェールズ語で呼ばわった。そして呼んだ。「ブロドウェン! ブロドウェン」
その声の痛《いた》ましさにウィルは目を閉じ、聞くまい、考えまいとした。だがローランズはよろめきながら、ブラァンの手にした剣の青く燃《も》える刃《やいば》を目印に近づいて来て、そばまで来ると手を出してメリマンの肩をつかんだ。
月を運んで雲の中を航海しているかのように光が周囲に輝《かがや》いていたが、光の源はといえば、冷たい松明《たいまつ》の如《ごと》く燃える剣だけだった。ローランズは苦悩にひきつった声でたずねた。「もとからそうだったのか? もとから……あんたみたいにこの世の外の人間だったのか?」と命乞いをする者のように見つめ、哀願した。「現実だったことは一度もなかったのか?」
メリマンは辛《つら》そうだった。「現実?」ウィルが知り合って以来初めて、声から断固たる調子がなくなり、迷子のように答を求めていた。「現実かと? ジョン、君らの世界に、君らと同じようにして住む時には、<光>も<闇《やみ》>も、君らと同じように見聞きする。針で刺《さ》せば血を流すし、くすぐれば笑う――だが毒を持っても死にはせぬ。それに、君らにはない感情や感覚を備えている。いよいよの時には、それらの感情や感覚が他の全てを制するのだ。ブロドウェンと君との暮らしは現実のものだった。存在していた。君と同じようにブロドウェンにも感じられたはずだ。ただ……同時に、君が目にしたことのないはるかに強力な面がブロドウェンの中にはあったのだよ」
ローランズは片腕を突き出して激しく舷側《ふなべり》を叩《たた》いたが、痛みを感じさえしなかったようだった。「嘘《うそ》っぱちだ!」とどなった。「ただのごまかしだったんだ。ふりをしてるに過ぎなかったんだ! 違うと言えるか? わしは嘘っぱちの上に生きてたんだ!」
「もういい」メリマンの広い肩が一瞬うなだれ、それからゆっくりと起こされた。「声はひどく疲れているようにウィルには聞こえた。「気の毒に思ってはいる、ジョン。<光>を責《せ》めるか?<闇《やみ》>を知らなければ、嘘《うそ》でなかったことになるのか?」
「どちらも糞《くそ》くらえ」ローランズは苦々しく言い、冷たくメリマンとブラァンとウィルを見た。怒りと苦悩に声が上ずった。「みんな糞くらえよ。これが持ち上がるまでは、わしらは幸せだったんだ。なぜほっといてくれなかった?」
その言葉がまだ空気中に響いている間に船中の全員が、怒声のこだまに乗って来たかのように渦巻《うずま》く暗い霧《きり》の中から忽然《こつぜん》と現われた人間を見た。馬にまたがった黒い人影だった。マントに包まれ、傲慢《ごうまん》な頭から頭巾《ずきん》を脱いだ背の高いその人物を、それぞれ違った者として見た。
ブラァンは自分とウィルを失せし国でつけ狙《ねら》い、鄙の中を追いかけ回し、城のそばで待ち伏《ぶ》せ、剣を手に入れたと知って怒《いか》りに吠《ほ》え狂った<闇《やみ》>の君を見た。
ジェーンとサイモンとバーニーは忘れたいと思っていた人物、<光>の聖杯《せいはい》を捜《さが》すのに夢中になっていた頃に会った、黒髪《くろかみ》に黒い目のヘイスティングスという男を見た。強引で力強く、最後に見た時には復讐《ふくしゆう》に燃えていた人物だった。
ウィルは顔の片側をそむけて<闇>の渦巻《うずま》く雲の塔《とう》の中で黒馬にまたがっている黒騎手《くろきしゆ》を見た。きらめく栗色《くりいろ》の髪《かみ》の下の青い目がにらみつけ、騎手が鞍《くら》の上で向きを変え、衣に包まれた片腕をさっと突き出してブラァンをゆびさすのを見た。大きな馬が蹄《ひづめ》を光らせ、白目をむいて後脚立った。ウィルはそばにいるジェーンが反射的に体を縮めるのを見た。
「異議がある、マーリオン!」黒騎手は叫《さけ》んだ。声は明瞭《めいりよう》であったが、周囲の暗闇に殺《ころ》されたかのようにかすれていた。「ペンドラゴンには、その少年には、この戦と探索《たんさく》に関わり合う権利はない。異議を申し立てる! その子をはずせ!」
メリマンは軽蔑《けいべつ》したように背をくるりと向けて無視した。だが黒騎手は動くどころか、そのままつきまとった。回転する暗い雲の塔《とう》は船と共に霧《きり》深い河を下った――そして次第に速度を落とすのを見て、ウィルは自分達の乗った船も速度を落としつつあるのに気づいた。まもなく、船は動きを止め、静かな水の上にやすらっていた。一瞬、前方の暗い霧に切れ目が生じた。水っぽい日光が射し込むのに成功したかのようだった。みどりの野原、せり上がるみどりの山肌《やまはだ》、木々の濃緑がちらりと見えたが、まだ霧の断片におおわれていて、まともに見えるものは何ひとつなかった。
その時、霧の中から二羽の白鳥が飛んで来た。大きな白い翼が空を切るたびに羽根の間で風が唄った。ゆっくりと頭上で羽搏《はばた》き、霧の晴れ間を縫《ぬ》って見えたかと思うと消え、再び鮮《あざ》やかな姿を現わすということを繰り返していたが、やがて揃《そろ》って降下し、ぎごちなく舞いおりると船の両側で着水し、体を落ち着かせて首に優美で安らかな曲線を取り戻させた。そしてみごとな二羽の鳥から目を上げるや、ウィルは、船首の上に佇んでいるかのような老婦人の姿を目にした。
今や若くも老いてもいず、その美しさは年齢知らずだった。まっすぐに立ったその体のまわりで風が早朝の空のように青い衣の襞《ひだ》をはためかせた。ウィルは小躍《おど》りして喜び、歓迎《かんげい》しようと手を差し出した。だが老婦人の繊細な骨格の顔は引き締《し》められていて、まともに見えていないかのようにウィルを見、それからメリマンを、そしてブラァンを見た。他の者の上にも視線を走らせ、ジェーンの上でわずかにたゆったと思うと、メリマンに戻した。
「異議を聞くのです」老婦人は言った。
ウィルは自分の耳が信じられなかった。音楽的な声には何の感情もこもっておらず、単なる宣言だった。淡々《たんたん》と、だが有無を言わせぬ口調での。メリマンが思わず前にすばやく一歩踏《ふ》み出し、すぐに動かなくなった。ウィルにはとても顔が見られなかったが、節くれだち骨張った片手の長い指がこぶしを固め、爪《つめ》が掌《てのひら》に食い込むのが見えた。
「異議を聞くのです」老婦人はかすかに声を震《ふる》わせて繰《く》り返した。「<闇《やみ》>は上なる掟《おきて》に訴えて<光>を告発し、アーサーの子ブラァンはこの時代において正当な居場所を持たぬゆえ、樹への旅に加わることはならぬと申し立てました。彼らには異議を申し立てる権利があります。黙殺《もくさつ》は許されませぬ。その言い分を聞くまでは、上なる魔法が事態の進行を許してくれませぬ」
美しい顔に深い憂《うれ》いをたたえ、老婦人は青い衣の流れる襞《ひだ》の間で鳥のように優美な片腕を上げ、五本の指先をブラァンに向けた。一瞬、そよ風が静かな河を吹き渡り、繊細な音楽が空気中にかすかに聞かれた。と、エイリアスの剣から青い光が消え、剣は妙にのろい動作で音もなく船上に落ちた。ブラァンは体を硬張《こわば》らせ、そのまま動かなくなった。直立し、両腕を体の脇《わき》につけ、黒っぽい服にほっそりした体を包み、今や髪《かみ》と同じくらい白く見える顔で、動く力ばかりか生命さえ失ったかのように立ちつくしていた。もやのような明るさが出現してブラァンのまわりに光の檻《おり》のように漂《ただよ》い、一同と共にありながら隔《へだ》てられているようでした。
老婦人は雲のような闇の中にたゆたっている黒騎手を見すえた。
「異議のすじを聞かせなさい」と言った。
蹶起《けつき》
黒騎手は言った。「我らはグイネズ王国のダサンニ谷のクルーイド農場のブラァン、育った世界での父親の名をとりブラァン・デイヴィーズと、出生した世界での父の名をとりペンドラゴンと呼ばれる少年に異議を唱《とな》える。この戦いにおけるその参加に異議を唱える。参加する権利はない」
「権利は生まれながらにある」ウィルがキッとなって言った。
「それに異議を唱えているのだ、<古老>よ。聞けばわかる」黒騎手の姿はもはや見えず、声が霧の後ろの暗い渦《うず》から虚《うつ》ろに聞こえた。その背後の闇の中に見えないが膨大《ぼうだい》な軍勢が控《ひか》えているという感じに襲《おそ》われ、ウィルは急いで目をそむけた。
老婦人の澄んだ声が頭上で聞こえた。「<闇《やみ》>の君よ、異議の是非《ぜひ》は誰《だれ》に裁《さば》かせますか? 選ぶ権利はそちらに、その選択の諾否《だくひ》は<光>に任されています」
わざとのように間があった。だしぬけに騎手《きしゆ》が姿を現わした。はっきりと浮かび上がって、頭巾《ずきん》に包まれた頭がメリマンに向けられた。
「ジョン・ローランズという男を選ぶ」
メリマンはウィルをちらっと見おろした。声に出しても、<古老>独特の沈黙《ちんもく》の話術を用いても何一つ言わなかったが、ウィルには不決断が感じられた。ウィル自身、同じあやふやな疑問に満たされていた――何をたくらんでいるのだろう?――だが、ジョン・ローランズと、彼の判断力を信ずべきあまたの理由とを思い浮かべると、その疑問も岩にあたって砕《くだ》ける波のように遠のいた。
メリマンはうなずき、蓬髪《ほうはつ》の白い頭を上げた。「承諾《しようだく》する」
ジョン・ローランズは彼らには何ら注意を払っていなかった。船の中央に立っており、そばの腰掛に、ジェーン、バーニー、それにサイモンの三人が固まっていた。慰《なぐさ》めを得るために近づいたという格好だったが、どっちがどっちを慰めていたのかはウィルにもわからなかった。ローランズは痩《や》せたしわだらけの茶色い顔を懸念に硬《こわ》ばらせてブラァンを見ていた。焦茶《こげちや》の目が老婦人の輝《かがや》く静かな姿を一瞥《いちべつ》し、ブラァンを封じ込んでいる光る霧《きり》に戻った。「ブラァン坊《パハ》」と悲しげに言った。「大丈夫かね?」
だが返事はなく、代わりに老婦人が重々しい表情をローランズに向けた。ローランズははたと動かなくなり、婦人を見上げた。間が悪そうに見え、しなやかな体にまとった黒っぽいスーツが借り着のようにそぐわなかった。
「ジョン・ローランズよ」涼しい、音楽的な声が言った。「これより<闇《やみ》>と<光>の君がそれぞれにさまざまのことがらをあなたに申します。あなたはその一つ一つを傾聴し、自分の頭の中でそれぞれの言い分をはかりにかけねばなりませぬ。そして、恐怖や好みに左右されることなく、いずれの言い分が正しいか言わねばなりませぬ。この宇宙のあらゆるところに存在するのと同じ様にここにも存在する上なる魔法の力は、あなたの判定を承認します」
ローランズは老婦人を見つめたまま立っていた。畏敬《いけい》の念に打たれているようだったが、高い頬骨《ほおぼね》には血の色が射し、形のよい口は一文字に結ばれていた。やがて極めて静かにたずねた。
「しなきゃならないって?」
ウィルはたじろぎ、老婦人から用心深く目をそむけた。メリマンが歯の間から息をスーッと吸い込むのが聞こえた。
だが老婦人の声は以前にもまして静かになり、やさしさを帯びた。
「いいえ、友よ。強制はできませぬ。判断してくれと頼んでいるのです。この人間の世界では、危機に瀕《ひん》しているのは窮極的《きゆうきよくてき》には人間の運命、判定権は人間にあってしかるべきです。あなた自身、ここで、またよそで<古老>にそう言ったではありませぬか」
ローランズは振り向き、ウィルを無表情に見た。それからゆっくりと言った。「よかろう」
ふいにウィルは<古老>達がどっと集まって来たのを意識した。動かぬ霧《きり》深い河の上にいるウィルの周囲に、背後に、影のような存在は大群衆となっていた。ウィル達が汽車の形をした乗物でブリテン島の距離と歳月の中を旅したように、前に垣間《かいま》見えた透明な船に乗って待機していた。以前に二度、<古老>の輪が集合した時に耳にしたように、大群衆のつぶやくざわめきが聞こえた。だが声は発せられていないのがわかっていた。あるのは河岸の木の間を吹き抜ける風のささやきだけだった。群集の存在と傍《かたわ》らのメリマンの青衣に包まれた長身を頭から離さず、ウィルはそれまでまともには見ていなかった<闇《やみ》>の回転する黒い霧《きり》をおおっぴらに凝視《ぎようし》した。騎手の声が力強く自信たっぷりに霧の中から聞こえた。
「では判定せよ。少年ブラァンが遠い過去の時代に生まれ、未来へと運ばれて育ったことはきさまも知っておる。母親が運んで来たのだ。かつて己《おのれ》の時代において、主であり夫であるアーサーを手ひどく欺《あざむ》いたことがあったため、実の子を見せてもわが子とは信じてもらえぬことを恐れたのだ」
ローランズは虚《うつ》ろに言った。「確かに人はよく欺《だま》される」
「それでも人は許す」騎手はすばやく、如才《じよさい》なく言った。「少年の父も、機会さえ与えられたなら、グゥイネヴィアを許し、信じたことだろう。だが<光>の君のひとりが、グゥイネヴィアに頼まれて、<時>の中を旅させた。機会は与えられず、少年は連れ去られた」
メリマンが静かな深い声で言った。「グゥイネヴィアに頼まれて」
「だが」と騎手は言った。「よく聞け、ジョン・ローランズ――時代は、グゥイネヴィアが選んだのではないのだ」
ウィルは精神に冷たいものが忍《しの》び入るのを感じた。海を閉め出している大きく頑丈《がんじよう》な堤《つつみ》に走る、初めは小さいが次第に拡がるひびのように、恐ろしく不吉な予感が生じたのだ。メリマン頃が傍でさらさらいった。
騎手の声は静かで確信に満ちていた。「母親は子供を抱《だ》いてグイネズの山中にやって来た。どの時代かなどということは考えもせずに。オーウェン・デイヴィーズなる二十世紀の男が女を愛するようになり、わが家に受け入れ、母親が再び姿を消すとその子をわが子として育てた。だが、その時代はグゥイネヴィア自身が選んだのではなかった。<光>の君に連れられるままに旅したのであって、女自身はどこでも構《かま》わなんだ。だが<光>のほうには構うだけの理由があったのだ」
急に声が高められ、きつく非難した。「<光>は、アーサーの子ブラァン、竜の子ブラァンが、確実に<光>の選んだ時代において育つようにしたかったのだ。<光>の探索《たんさく》に従事するのに適した場所に、適した時にいるように。従って、いにしえの予言で全て実現されたのは、<光>が<時>をいじくり回したからに過ぎぬ。これは上なる魔法に定められたところを歪《わい》曲するものだ。それゆえ、我らは<光>の小細工によってのみここにいる少年ブラァンが、属する時代に戻されることを要求する」
ローランズは考え深げに言った。「千年以上もの昔に送り返すのかね? その頃、ここの人間は何語をしゃべってたんだね?」
「ラテン語だ」ウィルが言った。
「あの子の知ってるラテン語はわずかだ」ローランズは河の向こうの暗い霧《きり》を見つめながら言った。
「下らぬ」闇《やみ》の中の声は素《そ》っ気なく言った。「今と同じ様に時間の外に送ることもできるのだ。この一件にかかわりあいさえせねばよい」
「くだらなくはないさ」ローランズはますます静かな声で言った。「わしはただ、そこで使われてる言葉もしゃべれない子を、その時代に属してるなんて言えるだろうか、と思っただけさね。判断《はんだん》するために考えてただけだよ、大将」
メリマンが船尾から動かずに言った。「属しているか否か。それがこの異議に対する答だ。育った時代を選んだのが少年の母親であろうと<光>であろうと、あるいは行きあたりばったりに選ばれたのであろうと、少年がその時代に属していることには変わりがない。そこで共に暮らした人々に、愛によって縛りつけられているのだ。殊《こと》に養父オーウェン・デイヴィーズと、デイヴィーズの友人――ジョン・ローランズに」
「そうとも」ローランズは前と同じように懸念《けねん》の色をさっと浮かべて顔を上げ、異様な光る霧《きり》の檻《おり》を見た。中でじっと動かないブラァンの姿がおぼろげに見えた。
「そういった愛の絆《きずな》は」メリマンは続けた。「上なる魔法の制御《せいぎよ》をも乗り越える。この世で尤も強いものなのだ」
その時、そばの闇から、静かな水の上から、どの方角ともつかぬところから、怯《おび》えた声が必死に叫《さけ》びたてた。「ジョン! ジョン!」
ローランズの頭がパッと起こされた。用心しながらも恋《こい》しさのとりこになって。
「ローランズのおばさんだわ!」ジェーンがささやいた。
「どこだろ?」バーニーがぐるりと体をめぐらせた。声は空中から聞こえてきたようだったのだ。
「あそこだ!」サイモンがゆびさした。そして口ごもった「あそこだ……」
船のそばの逆巻《さかま》く闇の中にぼうっと明るく、顔とさしのべられた手だけが見えた。哀願《あいがん》するようにローランズを見つめ、初めて会った時のやさしく温かい声に恐怖がこもっていた。
「ジョン、助けてちょうだい、助けて――わたしは関係ないのよ。乗り移られたの。<闇>のひとりの精神が頭の中にはいって来ると……自分が言ったりしたりしてることがわからなくなってしまうの……ジョン、愛の絆《きずな》ならわたしたちにもあるわ。いとしいジョン《シヨーニ・パハ》、助けてちょうだい。あなたが手を貸せばわたしを自由にしてくれるって!」
「手を……貸す?」ローランズはしゃべるのもやっとのようだった。声はさびつき、鈍《にぶ》く聞こえた。
「ことの釣合《つりあい》を正すのだ」黒騎手が冷たく言った。「正しい判断を下せばよい。<光>には少年ブラァンの助けを得る権利はないと。さすればきさまの妻ブロドウェンの精神を自由にし、返してやる」
「ああ、お願いよ、ジョン」ローランズ夫人は腕《うで》を夫にさしのべた。そのすがるような声音の痛々《いたいた》しさに、聞いていたジェーンはじっとしていられないほどだった。ブロドウェン・ローランズについて知ったことは全て脳裏《のうり》から消え失せ、愛する者と引き裂《さ》かれた人間の悲しみと恋情だけが聞こえた。
「乗り移られたって?」ローランズの声にはまだ、無理に言葉を吐《は》き出しているような妙《みよう》な軋《きし》みが存在した。「昔の人間が信じてた、悪魔に乗り移られるってのと同じ意味かね?」
黒騎手が低くふっふっと笑った。冷たい音だった。
ブロドウェン・ローランズはとびつくように言った。「ええ、そうよ、同じよ。<闇《やみ》>がわたしの頭を横取りして、別の人間にしてしまうの。ああジョン、あなた《カリアード》、言う通りにしてやって。一緒《いつしよ》にうちに戻って今まで通り幸せに暮らせるように。これは悪夢だわ――うちに帰りたい」
音楽的な声が哀願《あいがん》するにつれローランズの手が固く握《にぎ》りしめられた。妻《つま》の顔をよくよく長く見つめていたが、振り向くと自信なげにメリマンとウィルを見、最後に高い所に切り離されたように立っている老婦人を見上げたが、どの顔も無表情に、脅《おびや》かしも頼《たの》みも助言もせず、見つめ返しただけだった。ローランズは再びブロドウェンを見た――ジェーンはみぞおちが虚《うつ》ろになったようなショックを受けた。男の顔には今や、永久に失われたものへの悲しい別れの表情が浮かんでいたのだ。
声は低くやさしく、河岸を吹く風のひそやかな哭《な》き声越しに聞き取るのがやっとだった。
「ブロド――本当は何という名か知らんが――男であれ女であれ、人の精神が乗っ取られるなんてことは、わしは信じん。わしはな、神様が与えて下すった自由意志ってものを信じとるんだ。同じ人間同士がすること以外には無理強いは存在しないと思う。わしらのすることはわしらが決めるんだ。従っておまえは何にも乗り移られていない。<闇《やみ》>の味方をしているのは自分でそれを選んだからに違いない――これだけ長く一緒だったおまえについて、そう思わなきゃならんのは辛《つら》いが。自分で選んだのでないとすれば、おまえは人間じゃない。完全に<闇>の仲間で、わしの本当には知らない生き物だということになる」
やさしい低い声は霧深い河にたゆたい、一瞬、どこでも物音一つ、動き一つ起きなかった。<光>のおぼろげな船団と黒くひしめく虚《うつ》ろな暗闇《くらやみ》を除いては。ブロドウェン・ローランズの輝《かがや》く顔と黒騎手の背の高い姿はまだそこにあった。
ローランズの深いささやき声はひとりごとのように続いた。「それから、ブラァンについちゃ、最初の選択こそ自分のものじゃなかったが、そのあとは自分の人生を生きて来た子だ。結局のところ、人間の大部分について同じことが言えるんじゃないかね? 父親との間には――養父と言いたきゃそれでもいいが――確かに愛情のこもった絆《きずな》が存在する。わしとの間にも、クルーイド農場でこの子が育つのを見守って来た他の人達との間にも。家内ともそうだと思ってたのはわしの勘違《かんちが》いだったが」声がかすれて消え、ローランズは生唾《なまつば》を飲み込んでしばし沈黙した。
ジェーンはブロドウェンの顔を見つめていた。表情が次第にきつくなり、夫恋しさが仮面のように落ちて、よそよそしさと冷たい怒りが残った。
「わしが判断せにゃならんのなら」ローランズは続けた。「わしはブラァン・デイヴィーズがわしら両方が生きている時代に属しているものと判断《はんだん》する。そして、わしと違って<光>と運命を共にすることを選び、たくさんの危険をそのために冒《おか》して来た以上――<光>を助けちゃいかんという法はない。ほかの……者……に<闇《やみ》>を助けることが許されてるように」
ローランズは老婦人を見上げ、「これがわしの判定だ」と言った。孤立したがっているような、わざとらしいがさつで田舎《いなか》じみた言い方だった。
老婦人ははっきりと言った。「上なる魔法はそれを承認し、あなたに礼を言います。ジョン・ローランズ。また<光>もそれを掟《おきて》として受け入れます」
そう言うと河岸のほう、霧《きり》の後ろの逆巻《さかま》く暗がりのほうを少し向いた。明るさがそのまわりで増したように思われ、声が高められた。「騎手よ、<闇>の答は?」
風が強まり、長く青い衣をあおった。どこか遠くでかすかに雷鳴《らいめい》が聞こえた。
黒騎手は静かに怒りに満ちた声で「掟《おきて》だ」と言うと、暗い隠れ場所から少し出て来て頭巾をずらした。傷痕《きずあと》の走る顔の中で青い目がぎらついた。「ジョン・ローランズ、愚《おろ》か者め! 大義名分《たいぎめいぶん》のために己《おの》れの家庭を壊《こわ》すことを選ぶとは――」
「ひとりの子供の人生のためだ」ローランズは言った。
「常に馬鹿者《ばかもの》だったよ、あいつは!」ブロドウェンの声が闇の中から前よりも強く、かん高く聞こえた。再び白騎手の声に戻っていた。それを聞いたウィルは、いつも二つが似ていることを感じてはいたのに、結びつけては考えなかったのに気づいた。ジェーンの顔にも、同じ恐ろしい相似のことを考えている様子が浮かんでいた。
「腰抜けの大ばかもの《アン・フウル・マウル》!」ブロドウェンは叫《さけ》んだ。「羊を飼《か》って琴《こと》を弾《ひ》くだけの大ばかもの! 大ばかもの!」声は高まる風音に乗って暗い空の上へと運び去られた。周囲の霧が暗さを増し、頭上の空は黒雲でびっしり埋めつくされていた。
だが老婦人が腕を上げ、光る霧《きり》の檻《おり》に閉じこめられたまま動かないブラァンに五本の指を向けた。かすかな旋律《せんりつ》がウィルの耳もとで聞こえたが、ほかの者の耳に届いたかどうかはわからなかった。と、ブラァンが解放されてそこにいた。エイリアスの剣が手に握られていて、刃から冷たい青い光を燃えたたせていた。
ブラァンはエイリアスを松明《たいまつ》のように宙にかかげた。ウィルは前後左右の<光>の船団がどっと動き出し、前進を再開するのを感じ、自分達の船もまた再び動いているのを見てとった。船首をなめて過ぎる水は、強まる風に波立ってしぶきを上げていた。影の船団のほかの船も前進しているのがわかった。が、その間にも空は巨大な波打つ雲に満たされ、いやが上にも暗くなっていった。
風がふいに激しくなった。老婦人の衣がほっそりした体のまわりであおられるのを見、メリマンのマントが船首で三角帆《さんかくほ》のように拡がるのを見た。突然、いっさいの光が塗《ぬ》りつぶされた。<闇>の回転する竜巻が轟音《ごうおん》と共に空に舞い上がり、<光>の頭越しに追い抜いて行ったのだ。全ての力をかき集めに地平を回るのが見えた。
ただ、一本の光のすじだけがまだ輝《かがや》いていた。船首に立ったブラァンが水晶《すいしよう》の剣で青い線を描いて空を切ると、暗い霧《きり》は裂《さ》け目から切れ端を漂《ただよ》わせつつすきまをあけた。みどりの野原がせり上がるのを見たと思うや、一同はなめらかなみどりの斜面の草の上に立っていた。河は遠いざわめきに過ぎなかった。
「六人で固まるんだ」とメリマンが草深い斜面を先頭に立って歩き出した。しるしの鎖《くさり》がウィルの首の周りでチリンチリンと鳴った。輪の人々の千差万別の影が周囲を固め、前に押しやるのを感じることができた。ジョン・ローランズは忘我《ぼうが》の状態に陥《おちい》ったかのように、虚脱《きよだつ》した顔で老婦人の隣りを歩んでいた。頭上で雷《かみなり》が唸《うな》った。
やがて霧の名残りも吹き払われ、前方の、暗雲たれこめる空の下の薄闇《うすやみ》の中に、一連の木々が見えた。丸い白亜《はくあ》の丘の頂《いただき》のブナの林だった――そして、林の前の斜面に、徐々《じよじよ》に、巨大な一本の樹が見え出した。一同の目の前で次第に形を取り始め、影のような輪郭《りんかく》を少しずつじわじわと実体化させていった。立ち上がり、ふくらみ、大きな葉をさやがせ、風に躍《おど》らせた。幹は男十人ほども太く、枝は家並みにゆったりと拡げられていた。今まで目にしたいかなる木よりも偉大且《か》つ年経りた、樫《かし》の大樹だった。
頭上が稲妻が雲の一つを裂き、雷鳴が大きなこぶしのように殴《なぐ》りつけて来た。
バーニーがささやいた。「樹上の銀……?」
ブラァンは勝ち誇《ほこ》た身振りでエイリアスを振り上げ、樹の上のほうを指した。「ごらん、最初の枝が分かれる――あそこだ!」
揺《ゆ》れる枝の間を通してヤドリギが、樫《かし》のみどりとは異なるみどりの侵略者《しんりやくしや》が固まって生えているのが見えた。樹に寄生しているからみあった茎と小さな葉は独自の光を放ってかすかに輝《かがや》いていた。ウィルはじっと見つめ、それがちらついて変化するのを見たように思った。その一株《ひとかぶ》の中心にあるものを見きわめようと空しくまばたきした。
メリマンの濃青の衣が風に吹かれてウィルの回りにはためいた。「花は一本の枝にしかつかぬ」と深い声を緊張のあまり尖《とが》らせて言った。「つぼみの一つ一つが開くのを見、その枝の小さな花が全て咲くのを見届けて初めて切り取ることができるのだ。その瞬間、それより前でもあとでもなく、そのたった一つの瞬間にのみこの大いなる魔法は効力を持つ。そしてその瞬間にこそ、ヤドリギを切り取る者は、それぞれしるしを手にした六人によって敵の攻撃《こうげき》から護《まも》られねばならぬのだ」
深い影の中の目がウィルに向けられ、ウィルは金環《きんかん》でつながれたしるしの輪をはずそうと首に手をやった。
だが、鎖《くさり》に手を触れられる前に、頭上の黒雲の砦《とりで》のずっと近い部分から稲妻《いなずま》がほとばしった。メリマンの長身が樹のほうを向いたまま硬張《わば》るのが見えた。振り向いてヤドリギを捜《さが》したウィルは、奇妙《きみよう》なみどりの株の中心に、火のようにまぶしい光が生じるのを見た。問題の瞬間が訪れつつあった。ヤドリギの枝の最初のつぼみが花開いたのだ。
それと同時に、<闇《やみ》>が攻《せ》め寄せた。
どんな魔法も、それがどんな形をとるかは教えてくれなかった。後にウィルは、人間の精神が一瞬のうちに完全に発狂することがあれば、ああなるのかも知れないと考えたものだ。この場合はそれよりひどく、発狂したのは世界だった。音のない爆発のように<闇>の力の膨大《ぼうだい》な威力《いりよく》は周囲のものを全て揺《ゆ》さぶり、ウィルの五感を揺さぶった。ウィルはよろめき、ありもしない支えを求めて手を伸ばし、さぐり回った。物の外見がめちゃくちゃに変化した。黒は白に、みどりは赤に見え、太陽が地球を呑《の》み込んだかのように全てがちらつき脈搏《みやくう》っていた。鈍《にぷ》く白い空を背に緋色《ひいろ》の巨木がそびえ、目の前に浮かんでは消える仲間五人の姿は、写真の陰画の如《ごと》く黒い歯と虚《うつ》ろな白い目を持ったぼやけた影に見えた。鳴り止まぬ雷《かみなり》の低い轟《とどろ》きかせ耳と頭を満たし、吐気《はきけ》を覚え、悪寒《おかん》がし、寒さと暑さを同時に味わった。目がほとんど閉じてしまい、のどが硬直し始めた。
四肢《しし》を動かすこともならぬまま、鉛のように重いまぶたのすきまから、サイモンとジェーンとバーニーが地面に崩折《くずお》れているのを見た。錘《おもり》に押さえつけられているかのようにすさまじい努力をして起き上がろうとしていたが、無駄《むだ》だった。暗闇《くらやみ》がヌッと上にそびえていた。重い頭をのろのろと振り返らせたウィルはぞっとした。背後を占《し》める空の半分、世界の半分が、ウィルの感覚では理解できないほど大きい、空と下界の間で回転する<闇>の黒い竜巻《たつまき》に占められていた。ブラァンがふらつきながら、支《ささ》えと恃《たの》むかのように一条の青い炎をかざしているのが見えた。鮮《あざ》やかな青だ、とウィルは思った。あんなに鮮やかな青は、老婦人の目にしか見たことがない。老婦人、老婦人はどこだ? だが捜すために動くこともできず、地面に膝《ひざ》をついた。世界が回る目の前で左右に揺《ゆ》れた。弱り果てた手が偶然《ぐうぜん》に、首から垂《た》れ下がっているしるしの輪に触《ふ》れた。
にわかにものがはっきり見えるようになり、見たものに驚異の念に打たれた。荒れ狂う空を降下し、怪物《かいぶつ》のような黒雲を切り裂《さ》いて来るのは馬に乗った六つの影だった。三人ずつ左右にわかれ、銀灰色にきらめきつつ、同じ不思議な中間の馬にまたがってやって来る。マントをなびかせ、抜き身の剣を手にして疾駆《しつく》して来る。中のひとりは光る輪を頭に頂《いただ》いていたが、顔はさだかに見えなかった。
「<眠れる者>達だ!」ブラァンが叫《さけ》んだ。体を大きくのけぞらせ、じっと見上げている姿が、白い髪と振りかざされた青く燃える剣と共にみどりの草にくっきり浮かび上がって見えた。「七人の<眠れる者>が<騎手《きしゆ》>になって来たぞ。言った通りだ!」
「ぼくの記憶じゃ六人なのに」ウィルはブラァンに聞こえないよう小声でメリマンに言った。「ぼく達が黄金の竪琴《たてごと》を使って湖のそばの長い眠りからさました最古の民《たみ》は六人だった」
メリマンは動きもしゃべりもせず、おぞましい空を見つめていた。旋回《せんかい》して来る<光>の騎手をウィルが見上げると同時に、東の空に長い光輝《こうき》が生じ始めた。そして、白熱した太陽の昇《のぼ》るが如《ごと》く、別の姿が空を横ぎって来た。地上に生を受けた何ものにも似つかぬ、どれとも異なる姿の騎手だった。
まばゆい白金の馬にまたがった背の高い男だったが、頭部には牡鹿《おじか》の頭のように角が生えていた。七つ叉《また》に分かれて湾曲している輝く枝角だった。ウィルの見守る前で男は大きな頭をもたげた。ふくろうのそれに似た丸く黄色い目から黄色い光を閃《ひらめ》かせ、狩人《かりうど》が猟犬《りようけん》を呼ぶのに角笛《つのぶえ》で吹き鳴らすのと同じ音を発した。すると男に従って空の上を咆哮《ほうこう》しおらび鳴く亡霊《ぼうれい》めいた大きな猟犬があとからあとから、群れをなして駆《か》けて来た。白い体に赤い耳と赤い目を持ち、いかなる生き物にも蒔《ま》けぬ恐るべき追跡者《ついせきしや》となって容赦《ようしや》なく走り続けている。犬が空の上で狩人の馬の周囲をめぐると、狩人は獲物《えもの》を狩る喜びに凄《すご》いまでの笑い声を上げた。そして<眠れる者>達の銀灰色の馬のまわりに群がり、狩りの開始を今や遅《おそ》しと待ち構《かま》えていた。
ついに狩人が荒々しい叫《さけ》びを放って群れを解き放ち、灰色の幻《まぼろし》の剣士ともども、七人目の騎手となって雲の間を駆《か》け抜けた。滅《ほろ》びの犬どもは赤い目を燃やし、渡る雁《かり》のような声を千ものどから発してあとに洪水の如《ごと》く続いた。<闇《やみ》>に対する最後の追撃《ついげき》に魔の狩りが乗り出したのだった。
<闇>の巨大な円錐形《えんすいけい》の嵐は苦悶《くもん》しているかのごとくしない、たわみ、先端が裂《さ》けたように見えた。恐ろしいのたうちが空を満たし、ついに天の雲の半分を下界にひきずりおろすかに思われた大けいれんの後、大竜巻《おおたつまき》に似た黒い柱はどっと上のほうへ去り、いずこかへかき消えた。<眠れる者>の狩りが吠《ほ》えたけりつつ容赦なく追って行った。
が、偉大な狩人ハーンは白金の牝馬《めうま》の手綱《たづな》をしぼり、勢い余って天高く跳躍《ちようやく》させた後に振り返り、引き裂《さ》かれて流れ去る雲の間を狂ったような黄色い目で捜《さが》した。その捜すものを見てとったウィルは新《あら》たな恐怖《きようふ》に襲《おそ》われた。今や力の全てを得て不滅となった<闇>の黒騎手と白騎手の姿がすさまじい大きさとなって、空から草深いチルターン丘陵《きゆうりよう》と魔法の樹めがけ、斜めに急降下して来たのだ。
樹のそばでサイモンが叫《さけ》ぶのが聞こえた。一部始終を息を詰《つ》めて見守っていた六人の中から上がった最初の声だった。振り返ったウィルは、みどりのヤドリギの株《かぶつのつぼみがあとからあとから魔法の花を開かせ、樹の上に小さなまぶしい光の点が新たにいくつも輝《かがや》いているのを見た。メリマンの無言の命令が脳裏《のうり》に響くと同時にウィルの手は首に行き、しるしの輪をむしりとった。空では、今や巨大化した騎手達が地上にぐんぐん迫《せま》っていた。ウィルはサイモンとバーニーとジェーンに叫《さけ》んだ。「六のしるしを燃やすんだ! 一つずつ取って樹を囲め!」
駆《か》け寄った三人がてんでに手を出すと、金環は蝋《ろう》のように溶けて消え、しるしは順に簡単に鎖《くさり》からはずれた。サイモンはなめらかな黒い鉄のしるしを持ち、樹の下に急ぐと、節くれだった太い幹《みき》を背にして立ち、挑戦《ちようせん》するように円をかかげた。ジェーンがきらめく青銅のしるしを、バーニーがななかまどの木から生まれた木のしるしを持って続いた。三人はそうして、自分達を食いつくすべく高い雲の上から逆落としに突《つ》っ込《こ》んで来る巨大な騎手《きしゆ》を見つめておののきながら、雄々しく踏《ふ》みこたえていた。すぐに、メリマンが輝《かがや》く黄金の火のしるしを、ブラァンが剣と、水晶《すいしよう》でできた水のしるしを持って加わり、残されたウィルが最後に樹に背中を押しつけ、挑《いど》むように、きらきらする黒い火打石でできた石のしるしをかかげた。ふたりの騎手《きしゆ》が襲《おそ》いかかった。雲ではなく暗い空気の中から閃光《せんこう》が、低い雷鳴《らいめい》が走った馬がかん高くいななきながら後脚立ち、恐るべき蹄《ひづめ》でめちゃくちゃに蹴《け》りつけた。ハーンの角を生やした偉大な姿が上から<闇《やみ》>の君に突進し、目に見えぬ<古老>の輪が老婦人を光り輝《かがや》く焦点《しようてん》として騎手達を抑《おさ》え、阻《はば》み、ねじ伏《ふ》せようとしたが、それもやっとだった。その時、光がほとばしり、ヤドリギの最後の花がパッと開いた。
ブラァンは白髪を乱して腕を伸ばし、頭上にエイリアスを振り回して枝を切ろうとした。が、左手に水のしるしを持っているため、長い水晶《すいしよう》の刃を片手で操《あやつ》らねばならず、体の釣合《つりあい》が保てずに、絶望の声を上げた。勝《か》ち誇った黒騎手の目がサファイアのように青く燃え、輪を突破《とつぱ》して自分の剣を輝く花に届かせようとした。が、やにわに蒼《あお》く沈《しず》んだ顔をしたジョン・ローランズがブラァンの脇《わき》に立ち、水のしるしをつかむと突っ込んで来る敵につきつけた。きらきらする華奢《きやしや》な水晶《すいしよう》の輪を大きな茶色の手に握って。
そして両腕が使えるようになったブラァンは、エイリアスのぎらつく刃を樫《かし》の中のみどりのヤドリギに振りおろし、光る星の花を樹から切り落とした。枝が幹を離れるや、メリマンが丈高《たけたか》く勝ち誇《ほこ》って振り向き、花を受け止めた。パッと半転し、青いマントをひるがえすと、息を呑《の》む素早さで空へ投げ上げた。その瞬間、ヤドリギの花は白い鳥に姿を変え、鳥は天に舞い上がり、遠くへ、今や青空を急ぎ流れる白いちぎれ雲の間を縫《ぬ》って、世界へと飛び去った。
六つの手に握られたしるしの一つ一つがいきなり、見ていられないほどまぶしい火に似た冷たい光を放った。二つの絶望と恐怖《きようふ》の叫《さけ》びが混《ま》ざり合い、そびえ立っていた<闇《やみ》>の黒騎手と白騎手の姿は後ろ向きに<時>の外へ消えていった。と、六つの手はどれもからになった。しるしはみな、冷たい火に焼きつくされて消滅していた。
進むはひとり
一同は樹の周囲に、口もきけずに立ちつくしていた。
嵐雲《らんうん》のボロボロになった名残が黒っぽく太陽を横切る空の上では、角を頂《いただ》いた狩人《かりうど》ハーンが猛々《たけだけ》しい頭をそらし、長い勝ちどきを上げた。獲物が仕止められた後に犬を呼び集める角笛《つのぶえ》の声だった。白馬は、丘を渡る風の唄《うた》のように高く澄んだいななきを発して跳躍《ちようやく》し、カーヴして、吹き飛ばされて来た一連の雲が天を流れる川のように横たわっているところにおりた。
狩人は馬からとびおりた。天の川に没《ぼつ》するのが見えた瞬間、その同じ場所から大いなる船プリドウェンが出現した。船首が高く優美で前後にアーサー王のみどりの旗印をたなびかせている。風に乗って近づいて来る船を待つ樹下の六人のうちウィルは、ブラァンがゆっくりとエイリアスの剣《つるぎ》を上げて、今や目に見えるようになった腰《こし》の鞘《さや》に納めるのを見とめた。妙《みよう》に進まなげな、ウィルには理解できないしぐさだった。友人の蒼白《あおじろ》い顔と、白髪の下の黄色い目を見つめたが、空を下って近づく長い船を見守っているブラァンの顔には何の表情も見受けられなかった。その代わりに、ブラァンの金色の目は魔の狩人ハーンの目に不思議と似ている、とあらめたて考えている自分に気づいた。
そこへプリドウェンが到着し、ウィルは今度は、王にして指導者たるアーサーの灰青色の目とごましお髭《ひげ》に縁取られた顔を見つめていた。
アーサーはウィルを通り越して、誰《だれ》からも少し離れたところに佇《たたず》んでいる老婦人の、青衣をまとった華奢《きやしや》なかぼそい姿を見ていた。船首から地面におりたつと老婦人の前に片膝《かたひざ》をつき、頭を下げた。「奥方さま」と初めて聞いた時と同じ生きることの温かみと喜びに溢《あふ》れた声で言った。「船頭《せんどう》がお迎えに上がりました」
ウィルは頭が混乱し、傍《かたわら》のドルー兄妹の当惑と畏敬《いけい》の念を感じ取った。
老婦人は船に歩み寄り、同じ一家に属する者同士のようなさりげない親しみをこめてアーサーの腕《うで》に触れ、招《まね》いた。「済《す》みました」と言った音楽的な声にふいに深い疲労《ひろう》が露《あらわ》になり、繊細な顔の年齢知らずの美しさとは裏腹《うらはら》に、たいへんな高齢であることを物語った。「わたくし達の役目は終わりました。これで、最後の、そして最も長く続く役目は、この世界をそのあらゆる危険な美しさもろとも受け継ぐ者にゆだねることができます」
老婦人は一同を振り返り、別れを告げるようにバーニーに、サイモンに、そして誰《だれ》よりも長く、ジェーンに笑顔を向けた。それから豊かな樫の樹のそばに虚《うつ》ろな目をして棒立ちになっているジョン・ローランズを見ると、すばやくそばに寄り、その両手を取った。
老婦人を見たローランズの色の黒いウェールズ人らしい顔は、今までになく深く刻《きざ》まれたしわのため、鼻と口のあたりがすっかり老け込んでいた。
「ジョンよ」老婦人はやさしく言った。「この大事において、あなたはわたくしたちの誰よりもあなたの世界につくしました。最後の瞬間の勇気のことではありませぬ――何も知らない幸せな生活に戻れたのに、それを諦《あきら》めてくれたからです。あなたは善良な、正直な人ですが、これからしばしは不幸せな人となるでしょう。ですが――しばしのことに過ぎませぬ」老婦人は手を放したが、威厳《いげん》をもってローランズの目を見つめ続けた。ローランズは畏《おそ》れもへりくだりもせずに見つめ返し、肩をすくめた。無言だった。
「あなたは辛《つら》い選択をし、それによってもとの生活を失いました。あなたのブロドウェンを、あの野心に負けた者を返してあげることはできませぬが、前のよりは親切な選択を与えることはできます。すぐにもあなたはもとの時代のもとの世界に帰りますが、そこでは……あなたの妻は何か悲しい事故にあって亡くなったことになっているのを知るでしょう。その時に、今までに起きたこと全てを記憶している、していないは、あなた次第で決まります。望むならば、<光>と<闇《やみ》>に関する辛《つら》い真相、あなたの妻の真の姿を記憶しておくこともできますが」
ローランズは無表情に半ばひとりごちた。「妙なことに、あれが決して教えてくれないことが一つだけあった。言わないのを冗談《じようだん》の種にしてた――どこでいつ生まれたのか、それだけは決して教えてくれなかった」
老婦人は憐《あわれ》むように手をさしのべたが、すぐにおろした。そしてやさしく、「忘れることもできるのですよ。望むならば、<光>と<闇>の君に会ったことなど全て忘れられます。そうすれば、妻を失ったことへの悲しみこそ一段と深まりますが、あなたが知っていて愛した通りの人として悼《いた》み、思い出すことができます」
「そいつは嘘《うそ》を生きてるのと同じだ」ローランズは言った。
「いや、違う」メリマンが背後から実に深く力強い声で言った。「それは違うぞ、ジョン。君が彼女を愛していたのは事実だ。愛情とは大いなる価値を持つものだ。人を愛する者は全て、不完全なものを愛するのだ。地上には完璧《かんぺき》な存在などありはせぬ――それほど単純なものは存在しない」
「選ぶのはあなたです。」老婦人は船のそばに戻って立ち止まり、振り返った。
ローランズは相変わらず感情を見せずに一同と向かい合っていた。やがて、老婦人に向けた目に温かみが宿り、「今回はわしにゃ選べん」と皮肉っぽい笑《え》みを浮かべた。「そんな選択は無理だ。よかったら奥さんが選んでくれんかね?」
「いいでしょう」老婦人は片腕《かたうで》を上げてゆびさした。「わたくしと逆方向に歩いて行きなさい。後ろを向けば足もとに道が見つかりますからたどっていけばよろしい。その樹を通過した瞬間に、あなたはここを去り、代わりに、はるかによく知っているふるさとの谷間の道に立っていることでしょう。その時に頭にあるのが、わたくしの選んであげたものです。それから――よかれと祈《いの》っていますよ」
ローランズはちょっと頭を下げると、幸せそうでこそなかったが深い好意のこもった目でひとりひとりを眺《なが》めた。最後にブラァンを見て「ミ・ウェライ・ティーン・フイラハ・パハゲン」と言うと、くるりと背を向けて、ゆったりと枝を拡げている樫《かし》の大樹に向かって他の誰《だれ》にも見えない道を歩き出した。樹と並ぶと同時に、ローランズは姿を消した。
老婦人はためいきをついた。「忘れます。そのほうがよいのです」
アーサーが手を貸すと、老婦人は船に乗り込んだ。風が吹き起こり、空の川の上のプリドウェンをゆすった。いきなりウィルは再び、大群衆の存在を感じ、輪の<古老>全員が老婦人と王と共に船出せんと乗り込んでいるのを知った。船の帆柱《ほばしら》に大きな帆が上げられた。波打つ四角い帆で、十字に仕切られた円すなわち<光>のしるしが描かれていた。水夫らの声が聞こえた。木部が軋《きし》み、繋索《けいさく》で帆桁《ほげた》にあたって鳴った。
ウィルは傍《かたわら》のドルー兄妹を見、その顔に喪失《そうしつ》の悲しみと虚脱《きよだつ》を見た。が、大いなる船から一秒以上目を離しておくことはできなかった。目を戻すと、甲板《かんぱん》の亡霊《ぼうれい》めいた群集の中に、この旅や他の旅、この時代や他の時において見知った顔が次々にひらめいた。鍛冶屋《かじや》の前掛けをつけたたくましい大男が長い金槌《かなづち》を上げてあいさつした。みどりの上着を着たきらきらする目の小男が手を振り、灰色の髪《かみ》の尊大な老女が杖《つえ》にもたれたまま正式のおじぎをするのを見た。ごましお頭のてっぺんがはげている、がっちりした陽灼《ひや》け顔の男が笑いかけた。グリンドゥルを見、失せし国の王のか細い体を見た。そして心をかきむしられる思いで、自分を見て例のまぶしい笑みを浮かべているグイオンを見た。風が雲の間から強く吹き出し、帆《ほ》がじれったげに波打ちはためき、全ての顔はぼやけた群衆の中に溶《と》け込《こ》んだ。
アーサーは髭《ひげ》をたくわえた横顔を空に浮かび上がらせて船首に立ち、ブラァンに手を差し出した。温かい、勝ち誇《ほこ》った、歓迎《かんげい》の声が鳴り響いた。「来い、わが子よ!」
ブラァンはすばやく進み出たが、ふと立ち止まった。メリマンのすぐそばにいたので、暗青色の衣を背景に、白い髪《かみ》と蒼白《あおじろ》い顔とは、ぼうっと光っているように見えた。ウィルはこれが最後なのを知って悲しげに見つめ、ブラァンの顔に憧《あこが》れと敬意と無念さを見た。
「来い、わが子よ」温かく深い声が繰り返した。「<光>の長い任務は終わり、世界は<闇《やみ》>の支配の危険より解き放たれた。あとは人間に任せればよい。六人はその大いなる使命を果たし、余とそなたは生まれながらの役割をつとめ終えた。これからはリンゴの木の間の、北風の後ろの静かな銀の円城で休めるのじゃ。残された者は夜を迎えるごとに、我《われ》らのことを偲《しの》んでくれるであろう。北風の冠《かんむり》であるコロナ・ポレアリス(星座の名)が星を頂《いただ》いた輪を地平線上に輝《かがや》かすのを目にして」
そう言うと、再び腕をさしのべた。「来るのじゃ。船出の潮時《しおどき》が今や満ちた。余《よ》は引き潮には船は出さぬ」
ブラァンは恋しくてたまらぬと言うように王を見たが、きっぱりと言った。「ぼくは行けません。わが君」
沈黙《ちんもく》が訪れ、風のやさしい歌ばかりが聞こえた。アーサーはのろのろと腕をおろした。
ブラァンは口ごもりがちに言った。「グイオンが、失せし国が沈む時に逃げる代わりに言ったんです。ここの者だって。父上がおっしゃるように、あとは人間に任されるなら、相当苦しいことになります。もしかしたら、ずっとあとで、何かで手を貸してやれるかもしれません。それができなくても、やっぱり……ここの者なんです。愛情の絆ってメリマンは言いました。ここにはそれがあるんです。それからこうも言いました」――と傍《かたわら》のメリマンを見上げた――「その種の絆《きずな》は上なる魔法をも乗り越える。この世で最も強いものだからって」
メリマンがピクリと動いた。ウィルは、畏敬《いけい》の念めいたものをその精神に感じ取った。
「その通りだ。だがよく考えたまえ、ブラァン。上なる魔法における身分を、<時>の外において存在する本質を捨てれば、君は人間に過ぎなくなるのだぞ。このジェーンやサイモンやバーニーのように。もはや二度とペンドラゴンにはなれぬ。起きたことの全てを忘れ、あらゆる人間同様に生きて死ぬのだ。<光>の者と共に<時>の外に出る機会を全て諦《あきら》めることになるのだぞ――ほどなく私も、そしてずっと先のことではあるが、いつの日かウィルも外に出ていく行くというのに。それに……二度とお父上にお会いすることもできぬのだ」
ブラァンはハッと王を振り返り、見つめ合うふたりを見ているうちに、ウィルは再び狩人ハーンの黄色い目をブラァンの顔に見出した。が、同時にアーサーの面影《おもかげ》もあり、三つは同じ顔のようでもあった。ウィルはまばたきし、訝《いぶか》しんだ。
ふいにアーサーがにっこりした。誇《ほこ》らしげに、愛情をこめて。そして小声で、「行くべきだと感じたところへ行くがよい、わが子、クルーイドのブラァン・デイヴィーズよ。余《よ》の祝福《しゆくふく》と共に」と言うと、もう一度船べりから草深い土手におり立ち、両腕を拡《ひろ》げた。ブラァンが駆《か》け寄り、一瞬、ふたりはひしと抱《だ》き合った。
やがてアーサーが微笑《びしよう》しつつ身を引くと、ブラァンは目を離さぬまま、白くきらめくエイリアスを腰の鞘《さや》から抜き、剣吊《つ》り帯を頭越しにはずして剣と鞘の両方を父親に差し出した。ウィルはメリマンが解放されたようにためいきをつくのを聞き、自分の手が知らないうちに固く握りしめられているのに気づいた。アーサーは片手でエイリアスを、片手で鞘《さや》を取り、剣を納めた。ブラァンを通り越して一瞬メリマンを見つめた目は、口もとの重々しさにもかかわらず笑っていた。「ほどなく会おうぞ、わが獅子《しし》よ」と王が言うと、メリマンは会釈《えしやく》した。
そうして王はプリドウェンに乗り込み、広い帆《ほ》が風をいっぱいにはらみ、<光>の全軍が別れや終わりを示す様子を何ひとつ見せぬまま振り返り続ける中で、船は空を渡っていった。日に照らされた小さな雲が散らばっている青空は小島の浮かぶ海さながらで、船が、消えたその時に海にいたのか空だったのか、言い切れる者はいなかった。
ブラァンは船が見えなくなるまで見送っていたが残念そうな様子はなかった。
「ジョン・ローランズが言ったのはこのことだったんだ」とブラァンは静かに言った。
「ジョン・ローランズが?」ウィルが問うと、
「ウェールズ語でさ。帰る時に。ぼくに、またあとでな、坊やって言ったんだ」
ジェーンがゆっくりと言った。「でも――あなたが戻るってこと、知ってたはずないのに」
「うん」
メリマンが言った。「だが、ブラァンの性格をよく知っているからな」
ブラァンはメリマンを見上げた。色の薄い瞳《ひとみ》がさらけ出され、エイリアスという驚くべき重荷を腰から取りのけられた今は、ふいにひどく幼く、無防備に見えた。「ぼくのしたこと、正しかったんだろうか?」
メリマンは白髪におおわれたいかめしい顔を小学生のようにのけぞらし、子供達が初めて聞く手放しの笑い声を上げた。「そうとも」と唐突《とうとつ》にまじめになって言った。「そうとも、ブラァン。正しかったよ。君にとっても、世界にとっても」
バーニーが、草の斜面の上の、長いこと兄と姉と共に佇《たたず》んで沈黙《ちんもく》のうちに驚嘆《きようたん》していた地点をようやく離れて心配そうにたずねた。「ガメリー? 本当に行っちゃうの? それともやっぱり残る?」
「ああ、バーナバス」メリマンは言った。その疲《つか》れきった声に、ジェーンは母親めいた懸念《けねん》をさっとかきたてられ、大叔父《おおおじ》のほうを向いた。「バーナバス、バーナバスや、時は、君らにとっても同じように<古老>にとっても過ぎてゆく。たとえ年ごとに前の年と似たような季節が訪れるとしても、世界のありようは一年ごとに移り変わっているのだ。私の時は終わった。ここで。私の時も<光>の時も。よそでせねばならぬことがあるのだよ」
口をつぐみ、子供達にほほえみかけると、メリマンの骨張ったいかつい顔、猛々《たけだけ》しい鷲《わし》鼻と影に潜《ひそ》む目とを持った顔から少しものうさが薄れた。「ここに六人が揃《そろ》っている」と言った。「さだめられた場所にこうして集うのはこれが最初で最後だ。バッキンガムシャーのチルターン郷の白亜《はくあ》の丘に、何世紀もの昔、<闇《やみ》>から逃げようとする者たちが宝物を隠そうと空しく働き、天に安全を祈った地に。この地を見なさい。よく見るのだよ。一部でよいから生かし続けておくことだ」
そこで、どういう意味かと訝《いぶか》しみながらも、子供達はじっと、長いこと、ところどころに橙色《だいだいいろ》のウンランが生え、小さな青い蝶《ちよう》がひらひら飛ぶなめらかな緑草の浜辺を眺《なが》めた。丘の頂《いただき》のブナ木立《こだち》を、そのすぐ下に立っている神秘の樫《かし》の大樹《たいじゆ》を、ふっくらした白い雲の散らばった澄《す》んだ青空を見た。
突然、メリマンが何かしたわけでもないのに、目の前がぼやけ、五人とも目をしばたたいた。耳鳴りとめまいに体の平衡《へいこう》を失ってよろめいた。周囲の全てが、陽炎《かげろう》の中にいるように妙《みよう》に震《ふる》えて見えた。樫の巨木の輪郭《りんかく》がゆらめき、薄れて消えた。丘のみどりが濃くなり、斜面ももはやなめらかな弧《こ》を描《えが》いてはいなかった。陽こそまだ照っていたが、丘には今や違う色の部分が生じていた。黄色の斑点《はんてん》がとんだみどりと茶色と紫《むらさき》ハリエニシダとワラビとヒースの生えているところだった。彼方《かなた》には他の物が実体化し出した。霞《かす》む地平線上の霧《きり》に包まれた青と灰色のはるかな山々だった。そして肩越《かたご》しに振り返ると、眼下に拡《ひろ》がるゆったりした金色の砂の谷間と、広大な青海《あおうみ》へと向かう河筋《かわすじ》のうねる銀の糸が見えた。静けさの中に時折り、低音《パソ・ブロフンド》で呼んでは高音《テノール》で答えるあてもない羊の声が聞こえ、どこかずっと下の方で犬が吠《ほ》えた。そして頭上を、ウェールズの山腹《さんぷく》から河と海に向かって一羽のかもめが舞いおり、ひとつおぼえの淋しげな鳴き声をかん高く繰り返した。
メリマンは長々と静かに息を吸い込み、また吐《は》き出した。そしてもう一度、小声で言った。「よく見るのだ」
ジェーンが、海から身を守ろうと河が築《きず》いた金の砂堤を眺《なが》めながらひどく小さい声でたずねた。「もう二度と会えないの?」
「うむ」メリマンは言った。「おまえ達の誰《だれ》とも。見張りをつとめるわがウィルだけは別だが。そうあってしかるべきなのだよ」
その声にあるきっぱりした力強さにそれぞれとらえられ、じっと動かぬまま、光る焦茶《こげちや》の目といかつい顔のとりことなって見つめた。
「なぜなら、これからは全ておまえたちの世界だからだ。おぼえておくのだぞ。おまえたちと残りの人間のものだ。我《われ》らは悪から救いはした。だが人の心にある悪は今度こそ人の手で抑《おさ》えねばならぬ。責任も希望も約束も、全ておまえたちの手にあるのだ――おまえたちと、この地球上のあらゆる人の子供達の手に。未来は現在に責任を負《お》わせることはできない。現在が過去を責《せ》められぬのと同様に。希望は常にある。常に生きている。だがそれをあおりたてて世界を暖める火とすることができるのは、おまえたちのたゆまぬ努力だけなのだ」
声は山の上に鳴り響いた。今まで誰《だれ》の声にも聞いたことのない熱情がこもっていて、全員石と化したかのように立ちつくして耳を傾けた。
「子供達よ、ドレイク(英国の海賊)はもはやそのハンモックにおらず、アーサーもどこかで眠っていてくれはせぬ。誰かがよみがえってくるものとのんびり寝て待つわけにはもはやいかぬのだ。世界はおまえたちのもの、おまえたちに任されたのだから。ことに、この世の破壊を《はかい》する力を人間が得た今、世界を生かし続け、その美とすばらしい歓喜《かんき》の全てを保つことこそ人間の務めなのだ」
声が和《なご》み、<時>をのぞき込《こ》んでいるような遠い焦茶《こげちや》の目で子供達を見つめた。「それでも世界は完璧《かんぺき》にはなるまい。人間そのものが不完全なのだから。善人は相変わらず悪人に殺されるだろう。他の善人に殺されるかもしれぬ。苦痛も疫病《えきびよう》も飢饉《ききん》も、怒りも憎《にく》しみもまだまだある。だがおまえたちが、我らが務めて来たように働き、心にかけ、目をあけ続けているなら、窮極的《きゆうきよくてき》に悪が善に打ち勝つことは決して、決してない。そして何人かの人間につぎこまれたエイリアスの剣のごとく輝《かがや》く才能が、この雄々しい世界において、他の全ての人々の人生の暗い隅《すみ》を照らしてくれるだろう」
沈黙があり、山のいつものざわめきが戻って来た。かすかな牛の呼び声、遠い車の爆音《ばくおん》、そしてはるか上方での陽気なヒバリのさえずり。
「やってみる」サイモンが言った。「最善をつくすよ」
メリマンはニヤッと笑って驚かせた。「それ以上の約束はない」
子供達は別れの悲しさに押しひしがれて、笑い返すことができずに淋《さび》しく見つめた。メリマンはためいきをつき群青《ぐんじよう》の衣を体に巻きつけ、一方の肩の後ろに流した。
「これこれ」とメリマンは言った。「昔の言い方が最もよくあてはまるな――心安かれ。私はひどく疲《つか》れたので友のもとへ行くのだ。おまえたちの誰《だれ》ひとりとして、いま私が言った以上のことを思い出すことはない。おまえたちは人間であり、現在に生きねばならぬ。この時代においていにしえの考え方を踏襲《とうしゆう》することは不可能だ。それゆえ、最後の魔法はこうなる――この場所で私を最後に目にした時、<古老>について知ることの全て、なしとげられた大事に関わる全てはおまえたちの精神の隠れた部分に退き、夢を除いては、名残すら二度と意識されぬようになる。ウィルだけは、わが同類であるがゆえに、おぼえつづけなければならぬが――他の者は、ウィルが<古老>であることすら忘れる。では、さらばだ。わが五人の仲間よ。自分に誇《ほこ》りをもて。私がおまえたちを誇りに思っているように」
メリマンはひとりずつ順にすばやく抱《だ》き締《し》めて別れを告げた。みな沈んだ顔をして目を濡《ぬ》らしていた。それが済《す》むとメリマンは山を登って行った。弾力のある草と突《つ》き出したスレート岩を踏《ふ》み越え、茶色く色づいたワラビと黄色い星を散らしたようなハリエニシダを通り抜け、頂《いただき》にたどりつき青空に輪郭が浮かび上がった時、初めて立ち止まった。見慣《みな》れた長身が胸を張るのが見え、鋭《するど》い鷲鼻《わしばな》を持つ横顔と、どこからともなく吹き起こった風に少しなびいている白い豊かな蓬髪《ほうはつ》が見えた。全てを忘れたが後も、その姿は一生、夢の中に絶えず現われることになった。メリマンは片手を上げてあいさつしたが、応じる勇気は誰《だれ》にもなかった。と、さりげない形でその腕《うで》が硬直し、五本の指がパッと開かれて五人を指した――
そして山上には風が渦巻《うずま》き、空に接する斜面は無人だった。五人の子供達はウェールズの屋根といわれる山の上に立ち、黄金の谷と青い海を眺《なが》めていた。「すごい眺めね」ジェーンが言った。「苦労して登っただけのことはあるわ。でも風が目にしみて涙が出て来ちゃった」
「このくらい高いところになると、相当風が強いんだろうな」サイモンが言った。「あの木を見ろよ。みんな内陸に向かってそり返ってる」
ブラァンは掌《てのひら》に小さな青緑の石をのせて見つめていた。「こんなのがポケットにはいってた」とジェーンに言った。「ほしいかい、ジェニー?」
バーニーが、山の上のほうを見上げて言った。「音楽が聞こえたよ! ほら――あれ、消えちゃった。風が木の間を吹いてたんだね、きっと」
「そろそろ出発すべきだと思うな」ウィルが言った。「先は長いんだ」
<闇《やみ》>の寄せ手が攻《せ》め来る時、
六《む》たりの者、これを押し返す
輪より三《み》たり、道より三たり、
木、青銅、鉄、水、火、石、
五たりは戻《もど》る 進むはひとり
生まれ日の鉄、運命《さだめ》の青銅、
燃えた後の木、歌に出ずる石、
蝋燭《ろうそく》の火、雪どけの水、
六《む》つのしるしが印すもの
輪と輪に先立つ杯《さかずき》と
山火の見出す金の琴《こと》、
そが音《ね》に目醒《さ》むる最古の民、
みどりの妖婆《ようば》の海底の力、
全て揃《そろ》いて樹上《じゆじよう》なる
銀の光を見るを得ん