【灰色の王】
スーザン・クーパー
年も死にゆく死者の日に
風砕《くだ》く鳥の戸をくぐり
いと若き者 古山《こざん》を開くべし
風見る銀目を供《とも》とせる
鴉《からす》の童子《どうじ》より火は走り
<光>は金の琴《こと》を得ん
チョウゲンボウ鳴くカドヴァンの道の
佳《よ》き湖に眠る者
灰色王の影凄《すご》くとも
金の琴の歌にぞ目ざめん
駒《こま》に打ち乗り馳《は》せ参《さん》じん
失《う》せし国より光射《さ》す時
六騎士《きし》天翔《あまが》け、六つのしるし燃《も》え
夏至の樹高くそびゆる下にて
ペンドラゴンの刃《やいば》に<闇>斃《たお》れん
ア・マエント・アル・マナゾエズアン・カヌー、
アク・ア・マエル・アルグルアゼス・アン・ドード
灰色の王
序章
「ウィル、目がさめた? ウィル? おきなさい。お薬の時間よ……」
顔は振子のように揺れ動いた。ピンク色のぼやけた塊となってせり上がってきたと思うと、また沈みこみ、狂ったようにくるくる廻る六つのピンク色のぼやけた塊に分裂《ぶんれつ》した。目をとじたが、額《ひたい》には冷汗《ひやあせ》が、頭の中には冷たい不安が感じられた。(失《な》くしちゃった。忘れちゃった!)闇《やみ》の中でさえ世界は回転していた。頭の中に流水のようなざわめきが聞こえていたが、一瞬、それをついて、さいぜんの声がきこえた。
「ウィル! ちょっとだけ、目をさまして……」
母親の声だった。わかってはいたが、焦点《しようてん》を合わせられなかった。闇がうずまき、吠《ほ》えた。(何かを失くしちゃったんだ。消えちゃった。何だったっけ? ひどく大事なものだった。思い出さなくちゃ、思い出さなくちゃ!)もがき始め、意識を取り戻《もど》そうとするうちに、自分が呻《うめ》くのを遠いもののように耳にした。
「そら、お飲み」別の声が。医師だ。力強い腕《うで》がウィルの肩《かた》を支え、冷たい金属が唇《くちびる》に触《ふ》れ、液体が手際《てぎわ》よくのどに流し込まれた。反射的に呑《の》み込むと、世界がぐるぐると回った。不安がどっと押し寄せてきた。かすかな文句がニ、三こと、音楽の断片《だんぺん》のように頭にひらめき、遠ざかって行った。ウィルはおぼえこもうとしがみつき、つかまえた――「死者の日に――」
スタントン夫人は心配そうに、息子の白い顔と、くろずみ、閉じられた目と、湿《しめ》った髪を見おろした。「なんて言ったんでしょう?」
だしぬけにウィルは起き上がり、目を大きく見開いた。「死者の日に――」。すがるように母親を見つめたが、それが母親だということもわかってはいなかった。「それしか思い出せない! 消えちゃった。おぼえなきゃなんないことがあったのに、やることがあったのに、何よりも大切なことだったのに、忘れちゃった! 忘れちゃっ――た――」顔がクシャクシャになり、なすすべなくベッドにまた横になった。涙が頬《ほお》をつたい流れた。母親はウィルの上にかがみ込んで両腕にかき抱《いだ》き、赤ん坊をあやすように小声でやさしくなぐさめた。すぐにウィルの体から緊張《きんちよう》が解け、呼吸が楽になった。母親は当惑《とうわく》した顔を上げた。
「うわごとだったんでしょうか?」
医師はかぶりを振った。丸顔にはいたわりの色があった。「いや、それはもうないよ。体のほうは、もう峠《とうげ》をこしているんだ。どちらかといえば悪い夢を見ているんだな。幻想《げんそう》だ――もっとも、何か実際に記憶《きおく》から失われたものがあるのかもしれん。精神は体の健康状態にかなり左右されるから。子供でも……。心配はいらない。もう眠るだろう。これからは一日ごとに快方へ向かうよ」
スタントン夫人はためいきをつき、末息子の汗ばんだ額を撫《な》でた。「とても感謝してますのよ。何度も何度も来て頂いて――お医者さまでもそこまでして下さる方は――」
「なんだね、なんだね」小柄なアームストロング先生はきびきびと言って、ウィルの手首を指でつまんだ。「古なじみじゃないかね。しばらくは本当に重体だったし。これからも当分の間、力が出んだろうよ――いくら若くても、こんな状態からそう速くはもとに戻《もど》れん。また診《み》に来るつもりだがね、アリス。とにかく、もう一週間はベッドから出さないこと。そのあとも一ヵ月は、学校へやるのは無理だ。どこかへ転地させられるかね? ウェールズにいるあんたの従妹《いとこ》さんはどうだろう? 復活祭の頃、メアリーを預《あず》かってくれた人だよ」
「ええ、あそこへやりますわ。きっと預かってくれます。十月はいい時ですし、潮風はきっと体に……。手紙を書きますわ。」
ウィルは何かつぶやきながら枕《まくら》の上で頭を動かしたが、目はさまさなかった。
第一部 黄金の琴
古仙
「みんなウェールズ語をしゃべるのよ。たいがいね。ジェン叔母《おば》さんも」メアリーが言ったのをウィルは思い出した。
「どうしよう」とウィルが言うと、
「心配いらないわよ」と姉は言ったものだ。「あんたがいるのに気づけば、じきに英語に切り替えてくれるわ。あせらないことね。それに、あんたは病気をしたあとだから、みんな特別やさしくしてくれるわよ。少なくとも、あたしがおたふくかぜのあとで行った時は、よくしてくれたわ。」
というわけで、今のウィルは辛抱《しんぼう》強く小さなタウィン駅の、吹きっさらしの灰色のプラットフォームにひとり佇《たたず》み、十月の雨がしとしと降る中で、鉄道の紺《こん》の制服を着たふたりの男がウェールズ語で激《はげ》しく言い争う間、じっと待っていた。ひとりは小柄でしなびた小人めいていて、もうひとりは、ねり粉《こ》でできた人間のように、ふにゃふにゃして軟《やわ》らかそうに見えた。
小人めいたほうがウィルに目をとめた。「ベス サン ボード?」
「あの――すみませんが」とウィルは言った。「ここでおりれば、駅前広場に叔父《おじ》が迎《むか》えに来ていることになってたんですが、外には誰《だれ》もいないんです。広場って、ほかにあるんでしょうか?」
小人は首を振った。
「叔父さんって誰だね?」軟《やわ》らかい顔のほうがたずねた。
「クリグ丘のエヴァンズです。クルーイド農場の」
小人はクスッと笑った。「デイヴィッド・エヴァンズなら、少し遅れるよ。小さい《パハ》坊や。夢見る人を叔父さんに持っちまったもんだね。デイヴィッド・エヴァンズなら、最後のラッパが鳴る時にだって遅刻するだろうよ。休暇で来たのかね?」キラキラする黒い目が、物問いたげにウィルの顔をのぞき込んだ。
「ええ、まあ。肝炎《かんえん》をやったもんで、お医者さんが回復するまで転地するようにって」
「なるほど」男はわけ知り顔でうなずいた。「ちょっぴりやつれてるとは思ったんだ。けど、ここへ来たのは正解だったよ。この海岸沿いの空気はそりゃ体が休まるって言うからな。この季節でも」
出札所の向こうから爆音《ばくおん》が騒々《そうぞう》しく近づいて来て、改札《かいさつ》ごしに、泥《どろ》だらけのランドローバーが広場にはいって来るのが見えた。だが車からとび出した人影は、ウィルがおぼろに記憶《きおく》している小柄でちんまりした農場主ではなく、痩《や》せていてひょろい長い青年だった。青年はぎごちなく手をさし出した。
「ウィルかい? こんにちは。おやじに言われて迎えに来たんだ。おれ、リースだよ」
「はじめまして」ウェールズに長兄と同じ年頃の大きい従兄《いとこ》がいることは知っていたが、会うのは全く初めてだった。
リースはウィルのスーツケースを、マッチ箱でも拾い上げるように軽々と取り上げた。「これで全部かい? じゃ、行こう」そして鉄道員に会釈《えしやく》した。「シトダハ ヒ?」
「イアウン、ディオルフ」小人は答えた。「カラードグ・プリッチャードがあんたやおじさんを捜《さが》してたよ、けさがた。犬がどうとかって」
「残念なことにきょうは一日見かけなかったって言っといてくれよ」リースは言った。
小人はニヤッとしてウィルの切符を受け取った。「元気になるんだよ、お若いの」
「ありがとう」
ランドローバーの前部座席にちょこんと坐ると、ウィルは小さな灰色の町をすかし見た。窓のワイパーが、キッ、パタッ、キッ、パタッと、細かい霧雨《きりさめ》を風防ガラスから追い払おうと空しい努力を続けている。小さなとおりの両側には人気のない商店が立ち並び、レインコートを着て前かがみになった人影がいくつか、急ぎ足で通りすぎて行った。教会と小さなホテルがあり、小ぎれいな家々がさらに目にはいった。やがて道幅が広くなり、車は手入れのいい生垣《いけがき》の間を走っていて、彼方《かなた》に開けた畑地と、空を背にせり上がるみどりの丘陵《きゆうりよう》が見え出した。霧のためにのっぺらぼうになった灰色の空だった。リースは内気なのか、口をきこうともせずに運転を続けた――どのみち、エンジン音がうるさすぎて、会話は困難だったろう。沈黙した家々の群れをいくつも過ぎ、「空室あり」とか「一泊朝食つき」とか書かれた看板《かんばん》をいくつもあとにした。看板は、夏休みの中の客がいなくなった今では、しょんぼりして見えた。
リースが車を内陸へ山々のほうへと向けると、ほとんどすぐにウィルは閉じこめられたような、威嚇《いかく》されるような、初めての異様な感覚を味わった。小さな道はそのあたりでせばまり、みどりの壁のようにぼうっと浮かぶ生垣と高い草土手が両側にあるせいで、トンネルのようになっていた。生垣の途中のところどころに木戸があって畑地へ通じているのだが、それらを通過した時にかいまみえるのは、灰色の空にそそり立つみどりと茶色の広い山肌だった。カーブにさしかかるたびに木々の間から前方の空がちらりと見えたが、そのずっと遠くには一団と高い灰色の山々がおぼろげに見えていた。山々の頂《いただき》は乱れた雲の裾《すそ》に消えている。ウィルはイギリスの中でも、今まで訪れたどこにも似ていない地方にいるのだと感じた。封《ふう》じ込められた、秘密の場所だ。その隠《かく》された過去の年月には、ウィルには見当もつかない魔力《まりよく》が秘《ひ》められていたに違いない。ウィルは身震《みぶる》いした。
その時、リースが細い橋へ向かう急な門を曲がった途端《とたん》、ランドローバーはガクンと妙なはね方をし、道の片側にそれて生垣に突っ込みかけた。ブレーキを踏《ふ》んづけると、リースは思いきりハンドルを切ってなんとか車を止めたが、角度から言って車輪のひとつが溝《みぞ》にはまり込んだらしかった。
「畜生《ちくしよう》!」リースは叩《たた》きつけるように言い、ドアをあけた。
ウィルも急いでおりた。「どうなったの?」「ああなったのさ」リースは長い指で彼らに近い側の前輪を示した。タイヤが生垣から突き出ている岩にぶつかって、手のつけようがないほどぺちゃんこになっている。「見てくれよ。きれいに裂《さ》けちまってる>
このタイヤの厚さからいって、まさかと思ったのに――」高い、かすれがちな声が驚きのあまりうわずっていた。
「あの岩、道に転がってたの?」
リースは巻毛頭を振った。「生垣の下まで続いてるんだ。ものすごい大岩で、見えてるのは端っこだけさ……君の半分くらいの背しかなかった頃には、よくあの上に腰かけたもんだ……」驚きがはにかみを追いやってしまっていた。「けど、何が車をとびあがらせたんだろう? それが不思議なんだ。岩の上にとび乗ったみたいだった。横っとびに。パンクのせいじゃない。それならまるで違う感じがしたはずだ……」そう言うと背中を伸ばし、眉毛《まゆげ》にきらめく雨粒をぬぐった「やれやれ。タイヤの交換《こうかん》だ」 ウィルは期待をこめて言った。「ぼくに手伝えること、ない?」
リースはウィルの、ふさふさしたまっすぐな茶色の髪の下の窪《くぼ》んだ目と蒼白《あおじろ》い顔を見おろした。ふいにニコッと笑った。まともにウィルに笑いかけたのはこれが最初で、すっかり顔が変わり、屈託《くつたく》なく、若く見えた。「ひどい病気のあとで、元気になるために来たところだってのに、タイヤなんぞを替えるために雨の中に立たせておけるかい。おっかさんが聞いたら五十回も卒倒《そつとう》しちまう。あったかいところに戻ってな、さあ」と言って、四角い小型車の後部ドアに歩み寄り、道具をひっぱり出し始めた。
ウィルはおとなしく、ランドローバーの前部座席に再び乗り込んだ。道で雨を顔に吹き込んでいた寒風のあとなので、暖かい、心地よい小さな箱に感じられた。そそり立つ山々の下の開けた畑地からは、電話線の間を抜ける風邪の低いビューンという音と、遠くにいる羊がたまに洩《も》らす低い鳴き声のほかには、なんの音も聞こえなかった。それと、スパナのぶつかる音と。リースが予備のタイヤを後部ドアに留めつけているボルトをはずしているのだ。
ウィルは座席の背に頭をもたせかけ、目をとじた。病気のせいで長いこと寝たきりだったのだ。痛みや不安や現れては消える人々の案じ顔も、夢うつつにしか感じられない時が続き、歩き回れるようになってから一週間以上たっていたが、まだひどく疲れやすかった。階段を登るなどというなんでもないことをしただけで息を切らし、力を使い果たしている自分に気づいて怖《こわ》くなることさえあった。
坐ったままくつろぐと、ウィルは静かな風音と羊の鳴き声が頭の中を通り抜けるにまかせた。と、別な音がした。目をあけると、別の車が背後からゆっくり近づいて来て止まるのがサイド・ミラーに映《うつ》って見えた。
ひとりの男がおりた。肉付きがよく、ずんぐりしていて、平たい帽子をかぶり、レインコートをはためかせてゴム長靴をはいている。にやにやしていた。これという理由もないのに、即座にその笑い方が嫌《きら》いになった。リースが再びランドローバーの後部をあけてジャッキを取ろうとすると、いま来た男がウェールズ語で声をかけるのが聞こえた。言葉は理解できなかったが、嘲《あざけ》るような口調は間違えようもなかった。事実、短いやりとりの意味合いは全《すべ》て、知っている言葉で交《か》わされたと同じくらい明白だった。
男は明らかに、雨の中でタイヤを替えねばならないリースを嘲っていた。リースはぶっきらぼうに、だが腹立ちは見せずに返事した。男はおもむろに車の中をのぞき込んだ。前まで来て窓からのぞいたのだ。にこりともせずに、色の薄《うす》いまつげに囲まれたおかしな小さい目でウィルを見つめ、リースに何かたずねた。リースの返事の中に「ウィル」の名前が混《ま》じっていた。レインコートの男はまた何か言ったが、今度はリースとウィルの両方を馬鹿にしたような響きがあった。それからにわかに、驚くほどの激《はげ》しさで口ばやにののしり始め、喉音や呼気の多い言葉を洪水《こうずい》に逆巻く河のようにほとばしらせた。リースはまるで意に介さないように見えた。ついに男は腹を立てたまま口をつぐんだ。まわれ右をすると自分の車に戻り、相変わらずウィルを見つめながら、ゆっくりと脇を通り抜けて行った。白黒ぶちの犬が男の肩越しに外を見ていた。ウィルは、車が実はバンで、後部に窓がなく灰色なことを見てとった。
運転席に体をずらして窓をあけると、リースがジャッキを使ったので車体が静かに持ち上がった。
「いまの、誰?」ウィルはたずねた。
「カラードグ・プリッチャードって、谷の奥に住んでるやつさ」リースはなぜか手に唾《つば》を吐き、もう一押しした。「農業をやってる」
「残って手伝ってくれてもよかったのにね」
「へん!」リースは言った。「カラードグ・プリッチャードは人助けをするようなやつじゃない」
「なんて言ったの?」
「おれがエンコしてるのは実に愉快だってさ。それと、うちとやつとの間のもめごとのことを少しな。たいしたことじゃないが。それに君が誰か聞いた」リースはスパナをくるっと回して車輪のボルトをゆるめ、はにかみがちに、仲間同士で交わすような微笑を浮かべた。「おっかさんに聞かれなくてよかったよ。おれ、礼儀知らずなこと言っちまったもんな。『おれの従弟《いとこ》だが、あんたの知ったこっちゃない』ってな」
「怒った?」
リースはしばし考えた。「あいつ――『それはどうかな』って言ってたな」
ウィルは谷間への道を見たが、バンは見えなくなっていた。「変なことを言うんだね」
「なあに、そこがカラードグさ。人に気まずい思いをさせるのが趣味なんだ。誰にも好かれてない。自分とこの飼犬どもをべつとすればな。カラードグのほうじゃその犬どもさえ好いてないってのに」リースは傷ついたタイヤをひっぱった。「じっと坐っといで。もうすぐ済むよ」
リースが油じみたぼろきれで手を拭きながら運転席に戻った頃には、細かい霧雨《きりさめ》は本降りになり、青年の茶色い髪は濡《ぬ》れて突っ立ち始めていた。「やれやれ、せっかく来たのに、えらい天気に歓迎《かんげい》されちまったな。けど、長くは続かないよ。冬が咬《か》みついてくるまでにゃ、まだまだお天道《てんと》さんが見られるさ」
ウィルは、谷を横断する道を進むにつれて見えてきた遠くの黒っぽい山々を眺めた。白と灰色の雲が一番高い峰《みね》々の周囲にギザギザになって垂《た》れこめている。峰の頂は霧の陰に見えなくなっていた。「山のてっぺんのほうの雲が破れたみたいになってるよ。晴れるのかな」
リースもひょいと外を見た。「灰色の王の息かい? いや、残念なことにね、あいつは悪い兆候《ちようこう》なんだよ、ウィル」
ウィルはじっと動かなかった。耳の中でゴーッと音がしていた。座席の縁をきつくつかんだので、金属部分が指にくいこんだ。「いま、あれのことをなんて呼んだ?」
「雲のことかい? うん、あんなふうに縁がギザギザになっている時には、<ブレーニン・フルイドの息>って呼んでるんだ。ブレーニン・フルイド、つまり<灰色の王>さ。あの高いところに住んでいるとされている。ただの昔話だよ」リースは横目でウィルを見、いきなりブレーキを踏んだ。ランドローバーは速度を落として止まった。「ウィル! 大丈夫かい? 幽霊《ゆうれい》みたいにまっさおだ。気分が悪いのかい?」
「ううん。平気。ただ――」ウィルは山々の灰色の群《むら》がりを凝視《ぎようし》した。「ただ……灰色の王……灰色王……それ、ぼくが前に知ってたことの一部なんだ。永久におぼえてなきゃいけなかったことの……忘れちゃったと思ってたんだ。もしかしたら――もしかしたら思い出せるかも……」
リースは音をたててギヤを入れた。「なあに」と騒音《そうおん》をついて明るく言った。「すぐに良くなるさ。見ててごらん。ここいらの古い山の中じゃ、何が起きたって不思議はないんだから」
カドヴァンの道
「そらね?」ジェン叔母《おば》は言った。「晴れるって言ったでしょ?」
ウィルはベーコンの最後のひとかけを呑《の》み込んだ。「同じ地方だなんて思えないや。すてきだなあ」
朝の光が旗のように、農家の細長い台所の窓から射《さ》し込んでいた。床の青いスレートの敷石に、大きな黒い食器戸棚《だな》に飾《かざ》られた柳の葉模様の陶器《とうき》に、ストーヴの上の、トビージョッキ(老人の顔がついている)の並んだ棚に、キラキラ反射している。低い天井には虹《にじ》が躍《おど》っていた。牛乳を入れたガラスの水差しが引き起こした太陽の魔法だった。
「あったかくなったしね。あなたのために春を呼び返したのよ、ウィル。それに、もう少しふとってもらうわ。パンをもっとおあがり」
「最高だ。こんなに食べたの、何ヵ月ぶりだろ」ウィルは台所をきびきびと動きまわる小柄なジェン叔母を、愛情のこもった目で見守った。厳密に言うと、「伯《お》母」でも「叔母」でもなく、母親の従妹《いとこ》にあたった。母親とは親友として育ち、今でも手紙を沢山《たくさん》やりとりしていた。だがジェン叔母はとっくの昔に、バッキンガムシャーにはさよならしていた。一族に伝わる最もロマンチックな話のひとつで、叔母は休暇でウェールズを訪れ、若いウェールズ人の農夫とめちゃくちゃに恋に落ち、それっきり帰らなかったのだ。今では、しゃべり方までウェールズ人のようになっていた――小さな、ぽっちゃりした感じのいい姿格好と、輝《かがや》く焦茶の目は言うに及ばず。
「デイヴィッド叔父さんは?」ウィルはたずねた。
「庭のどこかにいるわ。この時期は羊のことで忙《いそが》しくってね。山の家々じゃ、当歳の仔羊には谷で冬を越させるんでね……もうじきタウィンへ出かけなくちゃならないんだけど、一緒《いつしよ》に来ないかって言ってたわよ。このお天気なら、浜へ出られるわ」
「最高」
「泳ぐのはなしよ」ジェン叔母は慌《あわ》てて言った。
ウィルは笑った。「わかってる。壊《こわ》れものだもんね。気をつけるよ。……ぜひ行きたいな。母さんに絵葉書を送って、五体満足で着いたって言ってやれるもの」
ガタンと音がして、戸口に影がさした。頭をくしゃくしゃにしたリースがセーターを脱《ぬ》いでいるところだった。「おはよう、ウィル。おれたちにも食い物を残しといてくれたかい?」
「遅いよ」ウィルは生意気に言った。
「遅い、だと?」リースは怒ったふりをしてにらんだ。「聞いたか――おれたちは六時から、紅茶一杯しか腹に入れずに外で働いてたのに。ジョンよ、明日の朝は、このチビ猿《ざる》もベッドから引きずり出して連れてこう」
リースの背後で低い笑い声が聞こえた。ウィルは初対面の顔に注意をひかれた。
「ウィル、こちらはジョン・ローランズ。羊を扱わせたらウェールズ一だ」
「竪琴《たてごと》の腕《うで》もね」ジェン叔母も言った。
その顔は痩《や》せていて、頬骨《ほおぼね》が高く秀《ひい》で、至る所にしわが刻まれていたが、そのしわは、今は笑っているので目の周囲で上向きになっていた。濃い、コーヒーのように茶色い目、びんに白いものの混《ま》じった、薄くなりかけた黒髪、ケルト民族特有の形の良い、整った口もと。一瞬、ウィルは魅了《みりよう》されて見つめた。このジョン・ローランズには名状しがたい不思議な力強さが満ちていた。大柄な男ではなかったにもかかわらず。
「クロエーソ、ウィル」ジョン・ローランズは言った。「クルーイドにようこそ。君のことは、春に来た君のお姉さんから聞いてたよ」
「大変だ」ウィルがびっくりして口走ると、みんな笑い出した。
「悪口じゃなかったよ」ローランズは微笑した。「メアリーは元気かね?」
「とっても。ここでの復活祭休暇はすばらしかったって言ってました。ぼくもその頃、よそへ行ってたんです。コーンウォールへ」
ふいに上の空の虚《うつ》ろな顔になって、ウィルは口をつぐんだ。ジョン・ローランズはすばやく一瞥《いちべつ》すると、食卓に席を占めた。リースは既《すで》にベーコンエッグの上にかがみこんでいた。ウィルの叔父が紙の束を持ってはいって来た。
「お茶はいかが《クバナーイド・オ・デ》、あなた《カリアード》?」と夫を見たジェン叔母が言った。
「どうもありがとう《デイルオルフ・アン・ヴァウル》」と言うと、デイヴィッド・エヴァンズは差し出された紅茶のカップを受け取った。「飲んだらタウィンへ出かけなきゃな。来るかね、ウィル?」
「はい、ぜひ」
「二時間ぐらい留守にするよ」叔父の物言いはいつも極めてはっきりしていた。小柄で均整《きんせい》のとれた体の持ち主で、目鼻立ちはくっきりしていたが、時折り、意外にもぼうっとした考え深げな表情が焦茶の目に浮かぶことがあった。「銀行に寄って、フリュウ・トーマスに会って、それからランドローバーに新しいタイヤを買わなきゃならん。空中にとび上がってパンクをねらった車のな」
口を一杯にしたリースは、しめ殺されかけているような抗議《こうぎ》の声をあげた。「いいかい、おやじ」と食物を呑み込んで言った。「そう思うのはわかるよ。けど、おれの気が狂ったわけじゃない。あんなふうに脇へそれて岩にぶつかる理由は、全くなかったんだ。ハンドルがいかれ出したんならべつだが」
「ハンドルはなんともないがな」デイヴィッド・エヴァンズは言った。
「それ見ろ!」リースは憤然《ふんぜん》として肩肘《かたひじ》を張った。「なんの理由もなく勝手にそれてったんだってば。ウィルに聞いてみろよ」
「本当だよ」ウィルも言った。「車がひょいと横っちょにとんで、あの岩にぶつかったんだ。なんでとびあがったのかわかんない。道に転がってた石に乗り上げたんならべつだけど――でも、それだって、相当大きい石でなきゃならないし。そんなの、どこにも見当たらなかった」
「ふたりとも、早くもすっかり意気投合したらしいな」叔父は紅茶を飲み干して、カップの縁ごしにふたりを眺《なが》めた。笑われているのかいないのか、ウィルには確信が持てなかった。「まあ、ともかく、ハンドルは点検してもらうよ。ジョン、リース、あの余分の柵《さく》のことだがな。ほら、ヴリズの――」
彼らは知らず知らずウェールズ語を使い出した。ウィルには気にならなかった。頭の奥のほうで聞こえる小さな声を愚《ぐ》にもつかぬものとして追い払うのに夢中だったのだ。馬鹿げた小さな声は馬鹿げたことをほのめかしていた。「車をとびあがらせたのが何か知りたいのなら」と頭のその部分はささやきかけていた。「なぜカラードグ・プリッチャードに聞かないんだろう?」
デイヴィッド・エヴァンズはウィルを、絵葉書が買える小さな新聞雑誌店でおろし、ランドローバーを修理工場に預《あず》けに走り去った。ウィルは、いかにもウェールズ的な山々に囲まれた陰気な暗い湖の絵葉書を買い、「着いたよ! みんな、よろしくと言ってます」と書き、郵便局で母親宛《あて》に出した。郵便局は絶対見間違えようのない重々しい赤レンガの建物で、タウィン中央通りのとある門にあった。それが済《す》むと、次はどこへ行こう、と周囲を見回した。
海が見えたらいいな、と思いつついいかげんに選んで、細い曲がりくねった中央とおりを右に歩み出した。ほどなく、その方角に進んでも海はないであろうことが判明した。あるのは商店、家々、「集会場」と大文字で書かれた立派なヴィクトリア朝風の外観を持つ映画館、それに教会のスレートぶきの墓地門だけだった。
ウィルは教会を探検するのが好きだった。病気になる前は、学校友達ふたりと自転車でテムズ谷じゅうをめぐり、真鍮《しんちゆう》細工の拓《たく》本を取って回ったものなのだ。ウィルは小さな教会墓地にはいり、真鍮細工がないかを見てみた。
教会の玄関ポーチはひさしが低くて洞穴《ほらあな》のように奥行があり、中は薄暗く涼しかった。壁はがっちりした白塗りで、巨大な白い円柱が配されていた。人っ子ひとりいなかった。拓本を取れるような真鍮細工はなく、あるのは「アナサマエンウィン館のグリフィズ・アブ・アザ」のような舌を噛《か》みそうな名前の寄附者に捧げられた記念碑《ひ》だけだった。出て行こうとした時、教会の入り口寄りのところに妙な長い灰色の石が一端を下にして立ててあるのを見た。解読するには古すぎる印が刻まれていた。ウィルは長いこと見つめていた。何かの予兆のように感じたのだが、どんな意味があるのか、まるで見当がつかなかった。それから、玄関ポートを出がけに、教区情報を貼《は》り出した告知板を何げなく見上げると、名前が見えた。
<聖カドヴァン教会>
再び耳の中に逆《さか》巻く風の音がし、よろめいたウィルはポーチの低いベンチに崩《くず》折《お》れた。頭の中がぐるぐる回り、ふいに、病気だった時の吠《ほ》えたけるような混乱《こんらん》状態《じようたい》、何かが、こよなく大切なものが記憶から抜け落ちたか盗《ぬす》まれたかしたと悟《さと》った時の状態に戻っていた。言葉が何の脈絡もなく意識の中にひらめいては消えた。と、魚がはねるように一連の文句が浮かび上がった。「チョウゲンボウ鳴くカドヴァンの道……」ウィルの精神はむさぼるようにそれを捕《とら》え、もっともっと、と手を伸ばした。が、それ以上はなかった。耳鳴りはやみ、ウィルは目をあけた。息遣いが静まり、めまいが徐々《じよじよ》におさまっていった。ウィルはそっと声に出してみた。「チョウゲンボウ鳴くカドヴァンの道……カドヴァンの道」
外では、陽射しを浴《あ》びて灰色スレートの墓石や青々とした草がきらめていた。ところどころに、ひときわ長い草の茎に前日からまだ残っている雨粒が宝石のような輝きを放っている。ウィルは考えた。「死者の日に……灰色王……何か、灰色王のことで警告があったに違いない……それに、<カドヴァンの道>ってなんだろう?」
「ああ」ふいにカッと腹が立って声に出した「思い出せさえすればなあ!」
ウィルはとび起きると、新聞雑誌《ざつし》店へ戻った。「すみませんが、教会の案内書はありますか? 町のでもいいんですが」
「タウィンに関するものはないわねえ」店の赤い頬《ほお》の女店員は、サ行の音が目立つ、高低の激しいウェールズなまりでしゃべった。「もう時期はずれなのよね……けど、オーウェンさんが教会でパンフレットを売ってらしたと思うわ。それに、よかったら、これもあるわよ。きれいな散歩道が一杯」と、三十五ペンスの<北ウェールズ案内>を見せた。
「う……ん」ウィルはあまり気が進まなかったが、小銭を数え出した。「まあ、うちへのみやげにすればいいか」
「とってもすてきなおみやげになるわよ」娘は熱心に言った。「そりゃきれいな写真が一杯《いつぱい》。それにこの表紙を見て!」
「ありがとう」とウィルは言った。
外に出てその小さな本を見ると、サクソン人がタウィンに住みついたのは紀元五一六年のことで、ブリタニーの聖カドヴァンが建てた教会と聖なる井戸を中心に町を築いた、とあった。また、教会にあった文字の刻まれた石は、ウェールズ語を文字にしたものとしては現存する最古の例で、訳すと次のような意味になった。「キンゲンの体は文字の刻まれし側《がわ》にあり。塚の下の奥処《おくか》にカドヴァンは横たえられぬ。地のほまれここに封ずる悲しさよ。願わくはその眠りのそこなわれざらんことを」。だが、<カドヴァンの道>の道についてはひとこともなく、教会パンフレットを確かめても同様だった。 ウィルは思った。ぼくが知りたいのはカドヴァンじゃない。カドヴァンの<道>なんだ。道は、歩く道のことだろう。チョウゲンボウの鳴く道なら、荒野か山を越える道に違いない。
風吹きすさぶ砂浜の防波堤《てい》の間をぼんやりうろついている間も、そのことを考え続けてろくに浜を見もしなかった。農場へ帰るために叔父と落ち合ったが、そこでも助けは得られなかった。
「<カドヴァンの道>?」デイヴィッド・エヴァンズは言った。「あれはね、fを使って書くけど、カドファンじゃなくてカドヴァンなんだ。fがひとつだけの時は、ウェールズ語では必ずvの音になるんだ……<カドヴァンの道>……わからない。確かに、なんとなく聞き覚えはあるんだがね。わしには教えてやれんなあ。そういうことを聞くなら、ジョン・ローランズがいい。百科事典みたいな頭を持ってるんだよ。ジョンは。古いことで一杯なんだ」
ジョン・ローランズは農場のどこかで忙しかったので、当座は幾重《いくえ》にも折りたたまれた地図でがまんしなければならなかった。午後になると、その地図片手に農場の教会をぐるっと回ることにして、陽がさんさんと降りそそぐ谷をひとりで歩き出した。叔父が鉛筆でざっと印をつけておいてくれたのだ。クルーイドは低地農場で、ダサンニ川流域の谷間の大部分を占めていた。地所のうち、川に近いところは湿地だったし、場所によってはそびえたつ石ころだらけの山の斜面も含《ふく》まれ、みどりと灰色に彩《いろど》られていた。だが大部分は豊かなみどりの谷間の土地で、肥沃《ひよく》で親しみやすく、一部は今年の作物を穫《と》り入れたあと新たに鋤《すき》がはいっていたが、残りは全て、ずんぐりして頑丈《がんじよう》なウェールズ黒牛の放牧にあてられていた。山腹には羊しか放されていなかった。ふもと寄りの斜面がいくらか耕《たがや》されていたが、それらでさえウィルにはひどく急に見え、よく耕運機《こううんき》がひっくり返らなかったものだと思わせられた。そこより上にはワラビと、風にたわめられた潅木《かんぼく》と、草しか生えていない。山は空までそびえ、羊の意味のない低い鳴き声が時折り、静かな暖かい午後の谷に漂《ただよ》いおりて来た。
羊がたてたのではない別な音のおかげで、ジョン・ローランズと偶然《ぐうぜん》に会うことができた。クルーイドの畑地のひとつの中を川に向かって歩いている時で、片側には丈の高い、伸び放題の生垣、反対側には耕されたばかりの黒っぽい土が見えていた。と、どこか前の方から鈍《にぶ》いこもったザッザッという音が聞こえた。そして、とある角まで来るといきなり、人影が、ゆったりした踊《おど》りでも踊るように、規則正しくたゆみなく体を動かしているのが見えた。ウィルは立ち止まり、目が離せなくなって見つめ続けた。シャツを半ばはだけて首に赤いネッカチーフを巻いたローランズは、そのあたりをすっかり変えているのだった。生垣に沿って少しずつ前進しながら、まず、まさかりと湾曲した海賊《かいぞく》刀のあいのこのような凶悪《きようあく》な刃物を使って、慎重《しんちよう》にあっちこっちを斬《き》り、次にその道具を置いて、長くはびこっていた生垣の残骸《ざんがい》を引っ張り寄せて編《あ》み合わせた。彼の前には伸び放題の高い生垣があって、一人前の木に育とうと懸命なハシバミやサンザシが、大きな腕をめったやたら四方八方に突き出している。彼の後ろには、容赦《ようしや》なく体が揺《ゆ》れ動いて行くにつれ、整然とした垣根が出来ていく。頭をちょんぎられた何十という枝が、腰の高さまでの槍《やり》の列になっている。枝は五本ごとに、競馬で障害物《しようがいぶつ》として使われる生垣のように、無慈悲《じひ》に直角に曲げられて他の部分に編み込まれていた。
黙《だま》って見ているウィルにローランズもやがて気づいて、息をはずませながら背中を伸ばした。赤いネッカチーフを引きほどいて額をぬぐうと、再びゆるく首に巻いた。しわの刻まれた茶色い顔の中で、焦《こげ》茶の目のまわりのすじだけがウィルを見ると少し上向きになった。
「わかってるよ」ジョン・ローランズのビロードのような声は重々しかった。「こう思っているんだろう。ここに葉っぱやサンザシの実で一杯のすばらしく健康な生垣があって、天まで届こうと頑張《がんば》っているのに、この男は羊の関節をばらす肉屋のようにそれをめった斬りにし、飼《か》い慣《な》らして、いやらしい小さな裸《はだか》の垣根に、優雅《ゆうが》さのかけらもない骨だらけのものにしている、とね」
ウィルはニヤッとした。「うん。まあね、そんなようなことだった」
「あはあ」ジョン・ローランズは地べたに腰をおろすと、まさかりの頭を下にして両膝《ひざ》の間に立て、それによりかかった。「やれやれ《デイウ》、来てくれてよかった。昔ほど速く仕事ができなくなってるからな。教えてやろう、ウィル。もしわしらがこの美しい野生の生垣を、ほったらかしにしすぎていたこれまでのまんまにしておくと、来年の今頃にはもう、畑の半分はこいつに乗っ取られてしまってるのさ。それに、確かにわしはこいつの首と、体の半分をちょんぎってるが、いま見えてる哀《あわ》れなひん曲げられた枝が全部、来年の春には新しい腕をとてつもなく沢山出して、前とどこが違うのかわからないくらいになっちまうんだよ」
「そう言われてみれば」ウィルは言った。「うん、そうだ。うちのほう、バッキンガムシャーでも、生垣はみんなこんなふうになってる。ただ、今まで、実際にやってるとこを見たことがなかったから」
「もう一年も、この生垣に目をつけてたんだよ」ジョン・ローランズは言った。「去年の冬、うっかりとばしてな。人生と同じさ。ウィル――痛い思いをさせることがためになる場合もある。ひどく痛めつけなきゃならんことは、ありがたいことに、めったにないがな」と再び立ち上がった。「きのうきょうなのに、もうずいぶん顔色が良くなっているよ。坊や《パハゲン》。ウェールズのお天道さんが効《き》いていると見えるな」
ウィルは手に持った地図を見おろした。「ローランズさん、<カドヴァンの道>について何かしらない?」
ウェールズ男は皮膚《ひふ》の固くなった茶色い指で刃物の刃先をなぞっていたが、一秒ほど手を止め、それからまたなぞり出した。「なんでまた、そんなことを思いついたんだね?」と静かに言った。
「よくわからないんだ。どこかで読んだんだと思うけど、<カドヴァンの道>なんて本当にあるの?」
「もちろんあるとも。フルーイブル・カドヴァンという。秘密でもなんでもないが、この頃じゃたいがいの人が忘れちまってる。その代わりに、タウィンの新しい住宅開発地域のひとつにカドヴァン通りってのがあったっけ。……聖カドヴァンってのはフランスから来た一種の伝導師だった。ブリタニーとコーンウォールとウェールズが密接にかかわり合ってた頃のことさ。聖カドヴァンは千四百年前にタウィンに教会を建て、聖なる井戸をしつらえた――それにエンフリに、英語でバージーというあそこに、修道院を建てたのも聖カドヴァンだと言われている。バージー島は知ってるかい? 野鳥を観察《かんさつ》する連中が行く、北ウェールズの先っぽよりちょっと沖《おき》の島さ。昔の人たちはまずタウィンをたずね、それからバージーへと進んだ――だから、伝説によると、マハンフレスからタウィンまで、アベルガノルウィンを過ぎる山越えの巡礼道があったそうなんだ。この谷の側面にも、当然、あったろう。もっと山の上のほうかもしれないな。古い道は大抵、高い所を通るんだ。そのほうが安全だったんでね。だが、今じゃ<カドヴァンの道>がどこに行けば見つかるか、知っている者はいないな」
「なるほどね」ウィルには充分すぎるくらいだった。これでもう<道>を見つけられる。時間さえあれば。だが、同時に、時間はほとんど残っていないという感じが強まった。記憶が奇妙にも手放してしまったこの探索《たんさく》は、何がなんでも近いうちになしとげねばならないのだという感じが。死者の日に……だが、この探索とは何なのだ? どこにあるのだ? なぜやるのだ? 思い出せさえすれば……。
ジョン・ローランズはまた生垣に向き直った。「じゃあ――」
「またあとで」ウィルも言った。「どうもありがとう。ぼくね、農場を端から端まで歩くつもりなの」
「無理は禁物だよ。養生中の者には長い道のりだ。全部を歩くとなると」ローランズは急に体を起こし、警告するようにウィルに指をつきつけた。「それから、もし谷の奥まで行って、クライグ・アル・アデーリンのほう――あっちだが――そこへ出るようなことがあったら、地図でよく境界線を確かめて、叔父さんの地所からそれるんじゃないよ。その先はカラードグ・プリッチャードの農場で、勝手にはいり込んだ者には手荒な男だから」
ウィルはリースと一緒《いつしよ》の時にランドローバーの中から見た嘲《あざけ》る顔の中の、薄い色のまつげに縁《ふち》どられた底意地の悪そうな目を思い浮かべた。「ふうん。カラードグ・プリッチャードの。わかった。ありがとう。ディオールフ・アンヴァーウール。今の言い方で、あってる?」
ジョン・ローランズの顔がくしゃくしゃの笑顔になった。「悪くない。だが、ディオルフだけで止めといたほうが無難だね」
まさかりのザッザッという音がウィルの背後で遠ざかり、鳥や羊の鳴き声と共に、うららかな午後の虫の羽音にかき消されてしまった。ウィルが歩んでいる道は谷をはすに横ぎり、立ち上がる山の灰色がかったみどりの裾《すそ》が絶えず目の前にあった。歩けば歩くほど、山に隠れて空が見えなくなった。ほどなく登りが始まり、やがてワラビが草の上から伸びてきて膝までのさやぐじゅうたんとなった。そこかしこに尖《とが》ったみどりのハリエニシダの繁みがあった。獰猛《どうもう》な鋭い茎の間にまだ鮮《あざ》やかな黄色い花が見えている。斜面には生垣はなかったが、てっぺんにスレートを乗せた石垣が、山の曲線に沿って曲がりくねっていた。ところどころが通り抜けられるようになっていて、人間が越すには充分低いが羊には高すぎる踏み越し段が置かれていた。
ウィルは普通よりも早く息が切れ始めたのに気がついた。腰かけられるだけの岩まで来ると、ホッとして、あえぎながらへたへたと坐り込んだ。息がまともにできるようになるのを待ちながら、もう一度地図を見た。クルーイド農場の土地は山の中腹で終わるらしい――だが、もちろん、境界に達する前に古いカドヴァンの道を見つけられるという保証はどこにもない。境界より上の部分がカラードグ・プリッチャードのものではありませんように、とこわごわ願っている自分に気づいた。
地図をポケットに押し込むと、再び上へ、ワラビの茶色い葉を音をたてて踏み分けながら登りはじめた。傾斜が急になり出したので、斜めに前進した。出逢った小鳥たちは風をくらって逃げた。どこかずっと上のほうで、ヒバリがさざめき震《ふる》え唄をほとばしらせていた。と、だしぬけに、あとを尾《つ》つけられているという感じに、わけもなく襲《おそ》われた。
ピタリと足を止めて振り向いた。動くものはない。ワラビで茶色い斜面は陽光のもとに微動だにせずに横たわり、ところどころに突き出た白い岩がきらめいている。下の道を車の通り過ぎる音がしたが、木々に隠されて見えなかった。農場よりはるかに高い所にいるので、銀色の糸のような川から、その向こうにみどりと灰色と茶にせり上がり、ついには遠くで青くかすむ山々に至るまで、全てが一望のもとだった。谷の奥のほうでは、ウィルの立っている山肌は針葉樹林の濃緑をまとい、それらの彼方に大きな灰がかった黒の切り立った絶壁がそびえていた。周囲の山脈より低いにもかかわらずその辺一帯を支配している孤峰《こほう》だった。大きな黒い鳥が数羽、その頂をめぐっており、ウィルが見ている間に、雁のように細長いVの字に並んで、悠然《ゆうぜん》と山を越え、海の方へと飛び去った。
その時、近くで犬がひと声するどく吠えた。
ウィルはとび上がった。犬が勝手に山をうろついている可能性は少ない。だが、人のいる気配はどこにもない。もし誰かいるのなら、なぜ隠れているんだろう?
登り続けようと向きを変えて初めて、犬が見えた。ウィルは石のように動かなくなった。犬はすぐ真上で身構《みがま》えていた。神経をピンと張りつめさせ、待機していた。白犬だった。体じゅうまっしろで、背中に小さな黒いぶちがひとつだけあるところは、まるで鞍《くら》を置いたようだった。毛なみが変わっていることを除けば昔ながらのウェールズ産の牧羊犬でたくましく、鼻づらが尖《とが》り、足と尾の毛が羽根のようにふさふさしていて、コリーの小型版だった。ウィルは手を差し出した。「おいで、いい子だ」と言ってみたが、犬は牙《きば》をむき、のどの奥で低い、おどすような深い唸《うな》り声をたてた。
ウィルは、行きかけていた方角に、斜《なな》めにニ、三歩、そろそろと踏み出した。腹這《ば》いになったまま犬も一緒《いつしよ》に移動した。牙がキラキラし、舌《した》がだらりと垂《た》れ下がっている。おかしなしぐさでありながらどこか見覚えがあると思ううちに、ふいに、前の晩、叔父の農場で、乳をしぼるために牛をつれ戻すリースを手伝っていた二頭の犬のしぐさだった、と思い出した。制御のしぐさだ――仕事中の牧羊犬は、腹這いになって見張り、しかるべき方向に進ませようとしている動物がほかへ行こうとすると、パッととびあがって従わせるのだ。
だが、この犬はどこへウィルを行かせようとしているのだろう?
知る方法はひとつしかない。深く息を吸い込むと、ウィルは犬と正面きって向かい合い、わざと斜面をまっすぐに登り出した。犬は動きを止めた。長い、低い唸《うな》り声が再びのどの奥で始まった。うずくまった背中が丸くなり、四本の脚が全て木のように地面を離れなかった。白い牙をむいた口は明らかにこう言っていた。こっちじゃない、と。だがウィルは、こぶしを固めて登り続けた。犬のそばを通りはするが触れはしないように、ごくわずかに方向を修正した。ところが思いがけず、ひと声短く吠えると、犬は低い姿勢のままウィルに向かって躍り出た。思わずとび上がったウィルは――平衡《へいこう》を失った。急な斜面に横向きに転《ころ》がった。頭から転げ落ちるのを防ごうと必死で腕を広げ、数ヤードほど逆さのままあちこちにぶつかりながらずり落ちた。恐怖《きようふ》が叫び声のように激しく頭を襲《おそ》った。だがやがて、何かが猛然《もうぜん》と袖《そで》を引っぱって、それ以上の落下を防いでくれた。体が、痺《しび》れるようなショックとともに、岩にぶつかって止まった。
ウィルは目をあけた。山と空の出会う境い目がぐるぐる回っていた。すぐそばに犬がいて、上着の袖をガッキとくわえて引き上げようとしていた。温かい息と黒い鼻と見開いた目しかわからなかった。が、その目を見たとたん、ウィルの世界が再びものすごい速さでぐるぐる回り出したので、まだ落下が続いているに違いないと思った。耳の中がまた轟《とどろ》き、正常なもの全てが突然、混沌《こんとん》と化した。なぜなら、この犬の目は、今までに見たこともないようなものだったのだ。茶色であるべきところが銀白で、盲《めし》いた色をしていながら、目の見えるけものの頭にはめこまれていた。そして、銀色の目が自分の目と合い、犬の息が熱く顔にかかると、一瞬のめまいとともに、病気がウィルから奪《うば》ったものがことごとく思い出された。これから従事すべき辛《つら》く孤独《こどく》な探索のしるべとして頭に叩きこまれた詩を思い出し、自分が誰であり何であるかを思い出し――偶然の仮面に隠《かく》れて自分をここウェールズへと連れて来た筋がわかった。
と同時に、別な種類の無心さが失われ、巨大な影のように世界をおおっている大いなる危険が、このなじみのない、みどりの谷と黒い霧に包まれた山だらけの地域の至る所で自分を待っているのを意識した。まるで、いきなり急を告《つ》げられた戦闘《せんとう》隊長のようなものだった。一瞬前まで何も知らなかったのに、突然、地平線のすぐ向こうに巨大な恐るべき軍隊が待ち伏せしていて、大波のように立ち上がって道を阻《はば》むものを全て溺《おぼ》れさすべく準備に余念がないことに気づかせられたのだ。
驚嘆《きようたん》の念に震《ふる》えながら、ウィルはもう一方の腕をのばして犬の耳を撫《な》でた。犬は袖を放し、立ったままウィルを見つめた。ピンクに縁取られた口から、ピンクの舌が垂《た》れている。
「いい子だ」ウィルは言った。「いい子だ」すると、黒い人影が太陽をさえぎった。ウィルはとっさに反転して体を起こし、空に浮かんだ輪郭《りんかく》の持ち主が誰なのか見ようとした。
澄《す》んだウェールズ人の声が言った。「怪我はない?」
少年だった。学校の制服らしいものをきちっと身につけている。灰色のズボン、白いシャツ、赤い靴下とネクタイ。一方の肩から通学カバンを下げ、ウィルと同じ年頃と見えた。だが、犬と同じように、この少年にもいっぷう変わった所があり、それがウィルののどを緊張《きんちよう》させ、驚きに目を見張らせたまま金縛《かなしば》りにした。この少年は、夏の陽射しに漂白《ひようはく》された貝殻《かいがら》のように、色というものをいっさい欠いていたのだ。髪は白く、眉《まゆ》もだった。肌は蒼白《そうはく》。見る者をハッとさせるような効果があり、ウィルはわざと髪を脱色しているのかと――人を驚かせ、怖《こわ》がらせるために故意にやってあるのかと思ったほどだった。だがそんな考えは浮かぶや否《いな》や、消えてしまった。ウィルに向けられた、尊大さと冷淡さの混《ま》じった雰囲気から見ても、そういう種類の少年ではないことは明らかだった。
「大丈夫だ」ウィルは立ち上がって体をゆすり、髪や服からワラビの切れ端を取り除いた。そして言った。「君の犬に、人と羊の見分け方を教えといたほうがいいんじゃないか?」
「いや」と少年はこともなげに言った。「ちゃんとわかっててやったのさ。悪気でやったんじゃないし」そしてウェールズ語で犬に何か言うと、犬は斜面を小走りに駆け上がって少年のそばに坐り、ふたりを見守った。
「そいつは――」ウィルは言いかけてやめた。少年の顔をのぞきこんで、そこに再び、動揺させられるようなひと組の目を見出したのだ。今度は、犬に見たこの世ならぬもの印象ではなく、どこかで前に見たというショックを受けたのだった。少年の目は不思議な黄色、金色で、猫《ねこ》か鳥の目だった。見えないほど色の薄《うす》いまつげに縁取られているためか、冷たい、測《はか》り知れぬ光を帯びていた。
「鴉の童子」ウィルは即座に言った。「そうだ。古い詩の中で君はそう呼ばれている。もう全部取り戻せた。思い出せる。だけど、カラスは黒いのに、なぜ君のことをそう呼ぶんだい?」
「ぼくの名はブラァン」少年はにこりともせず、まばたきもせずにウィルを見おろした。「ブラァン・ディヴァーズだ。君の叔父さんの農場に住んでいる」
ウィルは、新たに得た自信にもかかわらず、しばしあっけにとられた。「農場に?」
「父とね。小さな家《コテージ》に。父はデイヴィッド・エヴァンズに雇《やと》われてるんだ」少年は陽射しに目をしばたたき、ポケットからサングラスを出してかけた。黄色い目は影に消えた。前と全く変わらぬなにげない口調で続けた。「ブラァンというのは、本当はウェールズ語でハシボソガラスのことなんだ。けど、昔話に出て来るブラァンという名の人達は、大ガラスとも関わりを持つことになってる。この山地には大ガラスが沢山いるし、だから、<鴉《からす》の童子>と言いたきゃ言えるな。詩の中じゃいろんなことが許されるものさ」
少年はカバンを肩からおろし、ウィルのそばの岩に腰をおろし、革紐《かわひも》をいじくり始めた。
ウィルはたずねた。「どうしてぼくが誰だかわかったんだい? デイヴィッド・エヴァンズがぼくの叔父だってこともさ?」
「それを言うなら、どうしてぼくのことを知ってたか聞きたいね」ブラァンは言った。「どうして、ぼくが鴉の童子だとわかったんだ?」
所在なく革紐を指でなぞっていたと思うと、少年はだしぬけにニコッとした。パッと燃え上がる炎のように蒼白《あおじろ》い顔が輝いた。ブラァンは黒メガネをはずした。
「どっちの問いにも答えてやるよ。ウィル・スタントン。君がまともな人間じゃなくて<闇>の恐るべき力を抑えるためにここへよこされた<光>の<古老>のひとりだからさ。<古老>の輪のうち、地球に生をうけた最後のひとりが君だ。ぼくは君を待ってたんだよ」
鴉《からす》の童子
「つまりね」とウィルはいった。「ぼくにとっては、誰の助けもなしに探索をするのはこれが初めてなんだ――最後でもある。この探索が<闇>を迎え撃《う》つために<光>が築《きず》ける最後の防衛手段だからね。大変な戦いがこれからあるんだよ、ブラァン――まだだけど、じきに。<闇>が攻めて来るからなんだ。世界を征服し、この世の終わりまで自分のものにしておくために、一大決戦を挑《いど》んで来るんだ。その時が来たら、ぼくらは戦って、勝たなければならない。けど、正しい武器が揃《そろ》ってなければ絶対に勝てない。ぼくらがやって来たのはそれなんだ。今も、こういう探索の形をとって続いている――ぼくらのために遠い、遠い昔にこしらえられた武器を集めてるのさ。<光>の六つのしるし、黄金の聖杯、不思議な竪琴、水晶の剣《つるぎ》……琴と剣以外は全部手にはいった。剣の探索がどんな形をとるかは、ぼくは知らない。けど、竪琴を捜すほうは、ぼくの役目なんだ……」
ウィルはハリエニシダの小枝を折って、坐ったままじっと見つめた。「ずっと遠い昔に、ぼくのために三連の詩が創《つく》られた。どうすればいいか教えるためにね。前は書きとめられていたけど、今はもうない。ぼくの頭の中にあるだけなんだ。少なくとも前はあった――永久にあるものと思ってた。ところが、ついこの間、重い病気にかかって、よくなった時には頭から消えてしまっていた。忘れてしまったんだ。<闇>が一枚からんでいたのかも知れない。ぼくが……ぼくでなくなっていた間なら、可能なんだ。自分たちが詩の文句を知ることはできなかったろうけど、ぼくに思い出せないようにすることなら、なんとかなったはずだ。思い出そうとしているうちに、頭がどうかしてしまいそうだった。どうしたらいいかわからなくて。思い出せた部分もあったけど、わずか……ごくわずかだった。君の犬を見るまでは」
「カーヴァル」ブラァンが言うと、犬は頭を上げた。
「カーヴァルだ。あの目、あの銀色の目……まるで、あれがまじないを破ってくれたみたいだった。その上、<いにしえの道>に、<カドヴァンの道>に案内してくれた――ちょうどここだ。そしたら思い出せたんだ。詩の全文が、何もかも全てが」
「特別な犬なんだ」とブラァンは言った。「ちょっと……普通と違う。その詩って、どんなの?」
ウィルは少年を見て口をあけたが、再びとじ、困惑《こんわく》して山々を眺めた。白髪の少年は言った。「わかるよ。カーヴァルがやったことはともかく、ぼくが<闇>のひとりでないとは言い切れない。そうなんだろ?」
ウィルは首を振った。「君が<闇>のひとりなら、ぼくははっきりわかるはずだ。カンでわかるんだ……困ったことに、その同じカンが、君は<闇>じゃない、と言う以外には何も教えてくれない。何ひとつだよ。悪いことも、いいことも、なんにも。わけがわからない」
「あはあ」ブラァンはからかうように言った。「ぼくにも昔からわからなかったよ。ただ、これだけは言える。ぼくはカーヴァルとおんなじさ――ちょっと普通と違うんだ」そう言うと、淡《あわ》いまつげに囲まれた目をさっと動かし、ウィルを盗《ぬす》み見た。そして、ウェールズ人特有の唄《うた》うような物言いをことさら強調して、ゆっくりと暗唱した。
年も死にゆく死者の日に
風砕《くだ》く鳥の戸をくぐり
いと若き者 古山を開くべし
ウィルは身じろぎもせず、慄然《りつぜん》となってブラァンを見つめた。大地が砕《くだ》けて波になり、天が降ってきたかのようだった。ウィルはかすれ声で言った。「出だしの文句だ。でも知ってるはずはない。不可能だ。世界中に、それを知ってるのは三人しか――」
ウィルは口をつぐんだ。
白い髪の少年は言った。「一週間前のことだ。ぼくはカーヴァルとここに登っていた。誰にも会うことのないところだ。だのに、その時はひとりの年寄りに出会った。変わった年寄りでね、白い髪がふさふさしていて、大きなワシ鼻を持っていた」
ウィルはゆっくりと言った。「ああ」
「イングランド人じゃなかった、ウェールズ人でもなかったけど、ウェールズ語はうまかった。そう言えば、英語もうまかったな……きっとデウィンつまり、魔法《まほう》使いだったんだ。ぼくのことをいろいろ知ってたから……」しかめっ面をしてひきちぎったワラビの葉を、ブラァンは小さくむしり始めた。「ぼくのことをいろいろと……。それから<闇>と<光>の話をしてくれた。あんなふうに、何かを聞かされて、何の疑問もなくすぐに信じ込んでしまったのは初めてだったよ。君のことも話してくれた。君の探索《たんさく》を手伝うのがぼくの役目だって言った。けど」――ほんの一瞬、澄《す》んだ声にからかうような調子が戻《もど》るのが聞きとれた――「君はぼくのことを信用しないだろうから、しるし代わりに今の三行をおぼえなければいけないって。そして文句を教えてくれたのさ」
ウィルは頭を上げて谷と、陽光にかすむ青灰色の山々を見、身震いした。のしかかる影が、空に浮かんだまま動かぬ黒雲のように再び感じられた。が、肩をすくめて追い払い、もはや疑惑《ぎわく》に硬ばってはいない口調で言った。「詩は三連から成り立っているんだけど、いま大事なのは最後の二連だけだ。ぼくの師のメリマンが君に教えたのは、冒頭《ぼうとう》に来る。
年も死にゆく死者の日に
風砕く鳥の戸をくぐり
いと若き者 古山を開くべし
風見る銀目を供とせる
鴉の童子より火は走り
<光>は金の琴を得ん
チョウゲンボウ鳴くカドヴァンの道の
佳き湖に眠る者
灰色王の影凄くとも
金の琴の歌にぞ目ざめん
駒に打ち乗り馳せ参じん
ウィルは手を伸ばしてカーヴァルの耳を撫でた。「銀目よ」と言った。ふたりとも何も言わず、遠いヒバリが空高くさえずるのだけが、かすかに聞こえていた。蒼白い顔をひきしめてじっと聞き入っていたブラァンが、ようやく口をきいた。「メリマンて誰?」
「そりゃ、君が会った年寄りさ。どういう人かって意味なら、答えるのは難しいな。メリマンはぼくの師だ。第一の<古老>であり、最も強く、最も賢《かしこ》い者だ。……この探索にはもうかかわってこないと思うよ。実際に捜すって意味ではね。<古老>には、やらなきゃならないことが多すぎて、それがまたあっちこっちにちらばってるんだから」
「<カドヴァンの道>って詩に出て来たね。あの年寄りが言ったことを、もうひとつ思い出したよ。カーヴァルが君を<道>に案内するから、場所とカーヴァル自身の両方が一緒になることが大事なんだって――それから<道>はまたあとで重要になるって。あとで――つまり、今はまだ重要じゃないんだろうな」ブラァンはためいきをついた。「あの詩、どういう意味なのさ?」変わったところがいろいろあるにもかかわらず、ごく普通の子の発するような、不満そうな問いかけだった。
「考えたんだけどね」ウィルは答えた。「死者の日っていうのは、万聖節じゃないかな? どう思う? 幽霊《ゆうれい》がみんな出て来て歩き回ると信じられていたハロウィーンさ」
「まだ信じてる連中が知り合いの中にいるよ」とブラァン「ここいらじゃ、そういう話は長く尾を引くんだ。ハロウィーンが来ると幽霊のために食べ物を出しておくお婆《ばあ》さんがいる。食べてくれるって言うんだ。ぼくに言わせりゃ、猫が食べてるんだけどね。四匹飼《か》ってるから……、ハロウィーンは今度の土曜だぜ」
「うん。知ってる。すぐだ」
「人によっては、ハロウィーンの晩に教会に行ってポーチに真夜中まで腰をおろしてると、次の年に死ぬ人の名前を全部呼び上げる声が聞こえるって言うよ」ブラァンはにやっとした。「ぼくはやってみたことがないけどね」
だが聞いていたウィルは笑っていなかった。考え深げに「いま、次の年って言ったね。詩の中でも、『年も死にゆく死者の日に』ってなってる。ハロウィーンは一年の最後じゃないぜ」
「昔はそうだったのかもしれないよ。一年の最初で最後の晩だったのかもしれない。十二月の代わりにさ。ウェールズ語では、ハロウィーンのことは、カーラン・ガエーアヴというんだ。冬の最初の日って意味だ。冬というにはまだ暖かいけどね。言っとくけど、いくら暖かくても、聖カドヴァンの教会墓地でひと晩すごすのはごめんだぜ」
「けさ行って来たんだ。聖カドヴァン教会に」とウィルは言った。「それで、どういうものか、名前を思い出して、<道>を捜《さが》しに来る気になったんだ。でも、せっかく全部思い出したんだから、最初から始めなきゃ」
「一番むずかしいところだ」ブラァンは制服のネクタイをはずして丸め、ズボンのポケットに詰め込んだ。「鳥の戸をくぐり、いと若き者、古山を開くべしだろ? 君は<古老>の中で一番若いし、ここらの山がイギリスで一番古いのは確《たし》かだ。ここのと、スコットランドのがね。けど、鳥の戸ってのは、むずかしいや……鳥はどこにでもうろや巣《す》を持ってるからなあ。山は鳥だらけなんだぜ。ハシボソガラス、チョウゲンボウ、ワタリガラス、ノスリ、チドリ、ミソサザイ、ノビタキ、タヒバリ、シギ――春に湿《しつ》地でシギの声を聞くのはすてきだよ。それにほら、ハヤブサがいた」と上の方を指差すと、頭上はるかな晴れた青空の高みで、黒い点がのんびりと大きな弧《こ》をスーッと描いていた。
「どうしてわかる?」
「チョウゲンボウならもっと小さい。コチョウゲンボウもね。ハシボソガラスじゃないし、ノスリかもしれない。でも、ほくはハヤブサだと思うな――見分けられるようになっちまうんだよ。すっかり数が減っちゃったんで、注意して見るようになったもんで……それに、個人的な理由もある。ハヤブサは大ガラスの邪魔《じやま》をするのが好きなんだ。君が指摘《してき》したように、ぼくは鴉の童子だからね」
ウィルはブラァンを観察《かんさつ》した。目は再びサングラスの陰《かげ》に隠され、髪と同じくらい白い顔は無表情だった。この少年の気持ちを読み取るのは常に困難だろう。何を考え、感じているかをちゃんと知るのは。だが、彼はこうして計画の一部になったのだ。ウィルの師であるメリマンに見出され、今まだウィルによっても見出され――千年以上も前に創られた預言詩にうたわれている少年……
試《ため》しに言ってみた。「ブラァン」
「なんだい?」
「べつに。練習してみただけだよ。おかしな名前だね。初めて聞く」
「おかしいのは君の英語式の発音のせいさ。朝食のふすま《ブラン》とは違うんだ。もっと長く伸ばして、ブラァン、ブラァン」
「ブラァーン」
「ましだな」ブラァンはサングラスの上縁ごしに、目を細くしてウィルを見た。「ポケットから突き出てるの、地図かい? ちょっと貸せよ」
ウィルが渡すと、ブラァンは斜面にしゃがみ込んで地図をワラビの上にガサガサひろげた。「いいかい、ぼくがゆびさす地名を読み上げてごらん」
ウィルはおとなしく、動く指の先をのぞきこんだ。次のような地名が見えた。Tal y Llyn,Mynydd Ceiswyn,Cemmaes,Llanwrin,Machynlleth,Afon Dyfi,Llangelynin。四苦八苦して読み上げた。「タリー・リン、ミニド・シースウィン、セマイズ、ラン・リン、マシン・レス、アフォン・ディフィ、ランゲリーニン」
ブラァンは静かに呻《うめ》いた。「いやな予感がしたんだ」
「だって」ウィルは自己弁護につとめた。「見えた通りに言ったんだよ。あ、待てよ、デイヴィッド叔父さんがfはvと同じに読むと言ってたから、こいつは『アヴォン・ディヴィ』だ」
「ダヴィだよ」ブラァンが言った。「英語では Dovey と書く。アヴォン・ダヴィはダヴィ川のことさ。あそこのとこはアベルダヴィ、つまりダヴィ河口だ。英語ではアバダヴィという。ウェールズ語のyはたいていは、英語のuと同じなんだ。『走る《ラン》とか『狩り《ハント》』とかいう時のね』
「たいてい?」ウィルは怪しむように言った。
「そうでもない時もあるのさ。でも、今はそう思ってればいい。いいかい――」革カバンの中をさぐると、ブラァンは学校のノートと鉛筆を取り出して、Mynydd Ceiswyn と書いた。「さて、これは、マナズ・カイスーインと発音する。カイスのとこは米《ライス》と同じさ。ほら、言ってごらんって」
ウィルは半信半疑《はんしんはんぎ》でつづりを見ながら言ってみた。
「大事な要素が三つある」ブラァンはそれを書き出した。面白がっているように見えた。「二重のdは常に、『th』の音なんだけど、『鍛冶屋《スミス》』のじゃなくて『革《レザー》』みたいに、にごるんだ。それからcは、ウェールズ語では必ず硬《こう》音だ。『猫《キヤツト》』みたいにね。そうそう、gもだ――『行く《ゴー》』のgで、『やさしい《ジエントル》』のgじゃない。それから、ウェールズ語のwは『プール』のウーの音さ。ほとんどいつもね。だから、こう書いて、マナズ・カイスーインと読むのさ」
「あれ、最後はアンじゃないのかい? インじゃなくて。ウェールズ語のyは『走る《ラン》』のuと同じだって、言ったじゃないか」
ブラァンはくすっと笑った。「いい記憶《きおく》力だ。ごめんよ。こいつが例外のひとつさ。地名を正しく言うつもりなら、慣《な》れてもらうしかないな。考えてもみろよ。ぼくらのことを一貫してないなんて言えた義理かい? 君らの英語だって、oughと書いてオウと読ませたりウーと読ませたり、オと読ませたり、いっぱいやってるのにさ」 ウィルは鉛筆を取って、地図から「Cemmaes」と「Llangelynin」の文字を写した。「それじゃあ、cは硬音だって言うなら、こいつはケマイズだ」
「よくできた」ブラァンが言った。「けど、sは澄《す》むんだよ。にごらない。はやく言うとケメスになる。薬剤師《ケミスト》に似てるけど、最後のトがないんだ」
ウィルはためいきをつき、次の例を見た。「硬音のgと例のyの音だね。すると……ラ・ン・ゲ・ラ・ニ・ン」
「うまくなってきたぞ。さてあとは、たいていのイングランド人には絶対《ぜつたい》に出せない音をおぼえるだけだ。少し口をあけて、舌《した》の先っぽを前歯の裏につけるんだ。ランって言うつもりで」
ウィルは疑わしげな目でブラァンを見たが言われたとおりにした。それから唇《くちびる》を動かし、ウサギのような顔を見せた。
「やめろよ」ブラァンはふきだした。「教養を身につけたくないのかい、おい。さて、そこに舌をつけてる間に、舌の両側から息を吐《は》き出せ。両側から同時にだよ」
ウィルは息を吐き出した。
「そうそう。じゃあ、ランって言ってごらん。言う前に少し息を吐いて。こんなふうに。フラン、フラン」
「フラン、フラン」ウィルは蒸気機関車のような気分だったが、びっくりして言うのをやめた。「あれ、ウェールズ語に聞こえるよ!」
「まあまあだ」ブラァンは批評《ひひよう》した。「練習しなくちゃね。本当は、ウェールズ人が言う時には舌の位置も違うし、音全体が口の両側から出て来るんだけど、サイス(イングランド人)には無理だからな。それでなんとかなるよ。もし練習するのがいやになったら、イングランド人のもうひとつのやり方を使えばいい。llをスルみたいに使うんだ」
「もういい」ウィルは言った。「沢山《たくさん》だよ」
「あとひとつだけ。人によっちゃ、こいつを発音する時、信じられないような音になるんだぜ。いや、君なら信じるな。さっき同じ音を出してたもの」ブラァンは Machynlleth と書いた。
ウィルは呻《うめ》き、深く息を吸い込んだ。「ええと――yがあるし――llも――」「それからchはかすれた音なんだ。スコットランド人が湖《ロホ》って言う時みたいに。のどの奥のほうでさ」
「なんだって、そう何もかも複雑にするんだよ? マ……ハン……フレス」
「マハンフレス」
「マハンフレス」
「悪くないよ、おい」
「でも、ぼくのは君のとずいぶん違うよ。君の言い方のほうが揺《ゆ》れた感じだ。ドイツ語みたいにさ。アハトゥング(注意)! アハトゥング!」ウィルはいきなり声のかぎりにわめいた。カーヴァルがとびあがって尾を振りながら吠《ほ》えた。
「ドイツ語を話すの?」
「とーんでもない! 何かの古い映画で聞いたんだよ。アハトゥング! マハンレス!」「マハンフレス」とブラァンが言った。
「そらね。君の言い方のほうが水っぽい。ベショベショしてる。きっとウェールズの赤ん坊はよだればかり垂《た》らしてるんだろうな」
「言ったな」ブラァンがつかみかかるのをウィルはさっとよけた。ふたりは笑いながらジグザクに山を駆《か》けおり、そばをカーヴァルが嬉《うれ》しそうにとびはねた。
だが途中まで来ると、ウィルはふらっとして歩をゆるめた。何の予告もなくめまいがし、足が力無く、あてにならないように感じられた。近くの石垣までよろめいて行くと、あえぎながら体をもたせかけた。ブラァンはカバンで風を切りながら、陽気な叫び声を肩越しになげかけたが、すぐに歩をゆるめ、立ち止まり、目をこらしたと思うと引き返して来た。
「おい、大丈夫かい?」
「と思う。頭が痛むんだ。けど、この間抜けな足が悪いんだよ。すぐ参っちゃうんだから。でも、まだ完全に良くなってなかったんだな――しばらく病気だったもんで――」
「知ってる。忘れたぼくが悪いんだ」ブラァンは自分に腹を立ててもじもじしていた。「君の友達のメリマンさんが、君はまわりの人が気づいていたよりずっと重体だったって言ってた」
「だって、あの場にいもしなかったのに」ウィルは言った。「いや、もちろん、いたかいないかは重要じゃないな」
「坐《すわ》れよ。膝《ひざ》に頭を乗せるんだ」
「平気だよ。本当に、息を取り戻せばいいだけなんだ」
「うちはすぐ近くだよ。確か、ここからならいくらもないはずだ。あっちのほうへ二、三百ヤードも行けば――」ブラァンは見通しがきくように高い石垣によじ登った。
ところが、石垣の上に立っている時、突然、反対側から大きな怒《ど》声が上がり、犬の吠え声が聞こえた。ブラァンが石垣の上に立ったまま、背すじをピーンと延ばして、下を傲然《ごうぜん》と見おろすのが見えた。男が半ば走りながら近づいて来るのが見えた。どなりながら、片腕を腹立たしげに振り回している。もう一方の腕には、散弾銃《さんだんじゆう》らしいものを抱《かか》えていた。そばまで来ると、ブラァンにウェールズ語で声高《こわだか》に何か言い始めた。ウィルには始めは誰だかわからなかった。帽子をかぶっていなかったし、クシャクシャのまっかな頭は見おぼえのないものだった。だがすぐにカラードグ・プリッチャードだとわかった。
プリッチャードが息をつくために言葉を途切らせると、ブラァンはあてつけがましく英語を使ってはっきりと言った。「ぼくの犬は羊を追い回したりしません、プリッチャードさん。どのみち、あんたの地所にはいません。石垣のこちら側にいます」
「そいつは野犬化してるんだ。おれの羊を悩ませてるんだぞ!」プリッチャードはかんかんだった。英語の発音はサ行がきわだち、なまりが著しい上に、怒《いか》りのために聞きとりにくかった。「そいつとジョン・ローランズのくそいまいましい黒犬めだ。今度見つけたら二匹とも撃《う》ち殺してやる。いいか、きっとだぞ。それから、おまえと、友達のイングランドの小僧っ子も、おれの土地に足を踏み入れんことだ。何が身のためか知ってるならな」紅潮《こうちよう》したボッテリ顔の小さな目が悪意をこめてウィルをにらみつけた。
ウィルは無言だった。ブラァンは動かず、怒っている農場主を立ったまま見おろしていたが、声をひそめて言った。「カーヴァルを撃ったりしたら不幸が舞い込んできますよ、カラードグ・プリッチャード」そして片手を白い髪に走らせ、後ろへかきあげたが、ウィルには妙《みよう》にわざとらしい動作に見えた。
「その羊をもっとよく調べてみるんですね」ブラァンは言った。「狐《きつね》のしわざを犬のせいにする前にね」
「狐だと!」プリッチャードはばかにしたように言った。「狐の殺し方は見りゃわかる。野犬もな。おまえらふたりとも、おれの土地から離れてろよ」だがもはやブラァンとは目を合わさず、ウィルを見ようともしなかった。それ以上言わずに回れ右して、犬どもを足もとに従えて牧草地を大またに歩み去って行った。
ブラァンは石垣からおりた。
「へっ! 羊を悩ますだと! カーヴァルはこの谷間のどんな作業犬にだってひけはとらない。何があったって羊をねらったりするもんか。ましてやカラードグ・プリッチャードの土地でなんか」見えなくなりつつあるプリッチャードを一瞥《いちべつ》し、それからウィルを見て微笑した。奇妙にずるそうな微笑で、ウィルには好きになれなかった。
「そのうちわかるけど」とブラァンは言った。「あいつみたいな連中はぼくのことを少し怖《こわ》がってる。心の奥でね。ぼくが白子《しらこ》だからなんだ。白い髪、妙な目、皮膚《ひふ》にもほとんど色素がないし――ちょっとした奇形と言えるだろう?」
「ぼくなら言わないな」ウィルは穏《おだ》やかに言った。
「かもな」ブラァンはたいして信用しない、というふうに、辛辣《しんらつ》な言い方をした。「けど、学校では、けっこうしじゅう言われる……学校の外でも、プリッチャードさんのようないい旦那《だんな》がたにね。つまりね、まともなウェールズ人はみんな色黒なんだ。髪は黒っぽく、目の色も濃い。ウェールズで色白なのは、昔はタルーイス・テグだけだった。昔の精霊《せいれい》、妖精《ようせい》たちさ。ぼくみたいに色の薄い人間はタルーイス・テグとかかわりがあるに決まっているんだ……。今じゃ妖精なんか信じてる者はいない。もちろんいないとも。とはいえ、風の吹きすさぶ冬の夜中でテレビのやつがついていない時なんか、この谷の人の半分は、ぼくに凶眼(これで見られると悪いことがおきる)が使えないとは言い切らないだろうな。賭《か》けてもいい」
ウィルは頭を掻《か》いた。「確かにどこか……落ち着かなげなものが……あの男の君を見る目つきにあったな。君が――」ウィルは水からあがる犬のように肩をゆすった。ブラァンを見ようとはしなかった。この話題が少年の顔に浮かばせた悪賢《がしこ》く傲慢《ごうまん》な影が気に入らなかったのだ。惜《お》しいことだ。そんな顔にならなくてもいいはずなのに。そのうちいつか影を取り除いてやろう、とウィルは思った。「カラードグ・プリッチャードだって色黒じゃないぜ。赤毛だ。にんじんみたいに」
「あいつの一家はディナース・マウーズイのほうから来てる。少なくとも、おふくろさんはね。昔はあっちのほうには悪党の一団が住んでたそうだ。みんな赤毛で、恐怖《きようふ》のまとだったって。ともかく、今でもディナース出身者には赤毛が多いんだ」
「ほんとにカーヴァルを撃つ気かねえ?」
「うん」ブラァンはぶっきらぼうに言った。「カラードグ・プリッチャードはとても変わってるんだ。古い言い伝えに、カーデルにひと晩すごした者は、翌朝おりてきた時に詩人か狂人になってる、というのがある。父によれば、カラードグ・プリッチャードは若い頃に、カーデルで実際にひとりで夜明かししたんだって。大詩人になりたかったんで」
「ききめがあったとは思えないな」
「うん。けど、ある意味ではきいたのかもしれない。詩人としちゃたいしたことはないけど、時々、ちょっとどころでなく狂ってるんじゃないかと思わせられるような行動に出るんだ」
「カーデルってなんだい?」
ブラァンはまじまじとウィルを見た。「ウェールズのこと、ほとんど知らないらしいね? カーデル・イドリス、ほら、あれだよ」と谷の反対側の青灰色の山並《な》みをゆびさした。「ウェールズで一番高い山のひとつだ。カーデルぐらい知らなくっちゃ。君の詩の中に出て来るじゃないか」
ウィルは首をひねった。「出て来ないよ」
「出てるよ。名ざしでじゃないけど――二番で重要になるんだ。あそこに住んでるんだもの。カーデルの上にさ。ブレーニン・フルイド、灰色の王はね」
灰色狐
ほかの誰《だれ》にも感じられないのがウィルにはわかっていた。目に見えることだけから言えば、誰であろうといささかも不安を感じる必要はなかった。空はやさしい空色だったし、太陽は時期はずれの暖かさで輝《かがや》き、おかげでリースは、刈り株だらけの畑の最後の数反を耕《たがや》すのに、上半身裸《はだか》でトラクターを動かしながら、機械のエンジン音の中でも聞こえる澄《す》んだテノールで歌を唄っていた。大地は清潔な匂《にお》いがした。ノコギリ草やサワギクが生垣の列に白や黄の星となり、サンザシの赤い実がその上にすずなりだった。谷の両側の登り坂になりだすなだらかなあたりは、この奇妙な小春日和《びより》の陽射しに乾燥《かんそう》したワラビで金茶色だった。ぐるりの地平線には山々がかすんで眠れるけもののごとく横たわり、その淡い色合いは、一時間ごとに、茶色からみどり、みどりから紫《むらさき》、そして徐々《じよじよ》にもとへと移り変わっていった。
だが、この秋のやすらぎの背後に、畑やハリエニシダの点在する山を歩き回るウィルは張りつめたものを感じていた。到る所で高まり、谷間のはずれの物思わしげな高い峰々《みねみね》から、ゆっくりとはしているが容赦《ようしや》のない洪水《こうずい》のように近づいて来る緊張感《きんちようかん》だった。敵意がウィルを圧迫し始めていた。徐々にではあっても、抗しがたい悪意の圧力は増強され、ウィルを圧倒できる強さにまで高められつつあった。だが、それを知っている者はほかにはいない。<古老>の秘密のカンだけが<闇《やみ》>の活動を感じとれるのだった。
ジェン叔母はウィルの外見の変化に大喜びだった。「自分の顔を見てごらんなさい――ほんの二、三日で、ほっぺたがピンクになってきたわ。このお天気が続けば小麦色に灼《や》けるわよ。ゆうべアリスに手紙を書いたんだけど、見違えてしまうって言ってやったの。まるで別人みたいだって――」
「まったくいい天気だよ」デイヴィッド叔父が言った。「だが、この季節にはちょっとよすぎるよ。もうけっこうだね。牧草が乾燥《かんそう》し出してる。山のワラビも――ちょっとばかし、雨がほしくなってきたな」
「あら、聞いた?」ジェン叔母は言った。「ここらでどっさりあるものといったら、雨だけだっていうのにね」
にもかかわらず、青空はほほえみ続け、ウィルはジョン・ローランズとその犬たちと、クルーイド農場で冬を越すことになっている一年仔の羊をひと群《む》れ引きとりに行った。飼《か》い主である山の牧場主が、すでに谷の奥の別な農場まで届けてくれてあった。互いに押し合いへし合う八十頭かそこらの元気のいい若い雌《めす》の羊が、耳も割れんばかりにメェー、メェーと合唱しながらどうどうめぐりする、その汚《よご》れた白い巻毛の背中の波を見ながら、ウィルにはどうやってぶじにクルーイドまで運んだものやら、見当もつかなかった。一度、一頭だけが群れを離れて畑地に立っているウィルのほうへ横っちょにはねて来た時も、わめけど押せども、むくむくの白い脇腹を叩《たた》けども、仲間のもとへ戻らせることはできなかった。「メェー」と羊は、ウィルなどそこにいないかのように、間の抜けた低いバリトンで鳴き、ふらふら離れていって生垣の葉を食べ始めた。だのに、ジョン・ローランズの牧羊犬であるティップが物言いたげに歩み寄り出した途端に、羊は従順にまわれ右して、群れにトコトコ舞い戻った。
ジョン・ローランズがどうやって犬と意志を通わせているのか、ウィルにはまるでわからなかった。犬は二匹いた。まだらのティップ(先端)は鼻づらと揺《ゆ》れる尾の先にとんでいる白い色のためにそう名づけられている。大きくてこわそうなもう一匹はベンと言い、黒いふさふさとした毛並みと、ずっと昔のけんかか何かでズタズタにされた片耳を持っていた。ローランズが痩《や》せた茶色の顔をニッと笑《え》ませて見つめ、ウェールズ語でひとこと低く発するか、ピッと口笛を吹くかするだけで、二匹は複雑な行動を起こすのだが、その複雑さときたら、普通の人間なら十分間はこまごまとした説明を受けなければ到底《とうてい》できないようなものだった。
「前を歩いてくれ」ローランズは、群れの低い、カンにさわる合唱を縫《ぬ》ってウィルに声をかけ、木戸をあけて、羊たちを牛乳のように道に流れ出させた。「かなり前をな。通りかかる車があったら手を振って脇に寄ってもらうんだ」
ウィルはギョッとして目をパチパチさせた。「だって、どうやって羊を引き留めとくの? ぼくのことなんか追い越してっちゃうよ!」
ジョン・ローランズのウェールズ人らしい色黒の顔に、ほほえみが白くひらめいた。「心配ないさ。ベンが見ててくれるから」
ベンは見ててくれた。まるで羊の群れの先頭に綱を渡して、きちっとした線からはみ出られないようにしたかのようだった。トコトコ歩いたり、小走りになったり、腹這《ば》いになって滑るように進んだり、時には短いひと声でうっかりやの羊を正しい方向に戻したりして、群れを道に沿って従順に前進させ続けた。そしてウィルは、ジョン・ローランズにもらった杖を握り締め、この世の始めからずっと本物の羊飼いであったかのように、自信たっぷりに、誇《ほこ》らしさにはちきれんばかりになって大またに先を歩いた。
結局、谷間への道を歩いている間じゅう、二台の車にしか行きあわなかったが、羊が波打つ灰色の川となってひしめきながら通る間、その二台に生垣寄りに駐車するよう指示するのさえ、充分に楽しかった。ウィルはあまりにもこの仕事を楽しんでいたので、あとになって思い返してみると、より深い警戒心がゆるんでしまっていたきらいがあった。なぜなら、襲撃《しゆうげき》を受けた時にはまったく何の予感もなかったからだ。
一行がものさびしいあたりを歩いている時で、道の片側は不毛の荒地、反対側は黒い木々に包まれてせり上がる山肌だった。そのあたりは耕作されていなかった。山の中の小道ででもあるかのように、ワラビと岩が道を縁取っていた。突然、ウィルは背後の羊のたてる音に変化が起きたのを意識した。鳴き声は怯《おび》えてかん高くなり、ひづめが慌《あわ》てふためく音がした。ジョン・ローランズとティップが逃げた羊を追っているのだろうと思ったが、その時、鋭くつんざくような口笛が聞こえたと思うと、ベンがぱっと向きを変えて羊のほうを向き、唸《うな》り、吠《ほ》え、おどして立ち止まらせた。ジョン・ローランズが呼ぶのが聞こえた。「ウィル! 早く! ウィル!」
怯えて鳴く羊をよけて駆け戻ったウィルはぎょっとして足を止めた。群れの半ばあたりの道の端によろめいている仲間より小さい一頭ののどもとに、まっかなしみが拡がっていたのだ。ワラビがゆらめくのが見え、何かの動物が人目を避けて逃げたのだとわかった。けものが山のほうへのがれると、波立っていたワラビの葉は動かなくなった。ぞっとして見守るウィルの前で、傷ついた羊は横によろめき、倒れた。仲間の羊は怯えきって遠ざかろうとし、二匹の犬は群れをおさえておこうと必死に唸っておどした。ジョン・ローランズのどなり声と、杖で固い道の土を打つ音が聞こえた。ウィルも、怯えて荒野へ暴走《ぼうそう》しそうに揺《ゆ》れ動く羊のむれをまとめようと、どなったり腕を振り回したりした。神経質な羊も次第に静まり、動かなくなった。
ジョン・ローランズは傷ついた雌羊の上にかがみこんでいた。
ウィルは揺れる群れの背中越しに呼びかけた「大丈夫?」
「たいした怪我《けが》じゃない。静脈はそれてる。運が良かった」ローランズはかがんで、ぐったりした羊を肩の上にかつぎあげ、前脚と後脚をべつべつに持って、羊の体が巨大な衿巻《えりまき》のように巻きつくようにした。ウーンとふんばって立ち上がったローランズの首と頬は羊の血だらけの毛にこすられてまっかだった。
ウィルは歩み寄った。「犬だったの?」
羊をかついでいるせいで振り向くことはできなかったが、キラキラした目がぎろっとウィルを見た。
「犬を見たのか?」
「ううん」
「確かか?」
「何かがワラビの中をにげてくのが見えたけど、何かはわからなかった。ただ、犬かもしれないと思っただけ――だって、ほかに考えられる?」
ローランズは答えず、先に行くよう手を振ると、犬たちに向かって口笛を吹いた。群れは道を進み始めた。今度はローランズは群れの脇を歩き、後尾は完全にティップに任せてしまった。犬は能率よく整然と羊を進ませ続けた。
ほどなく、道から少し離れた無人の小屋にさしかかった。壁は石、屋根はスレートで、見たところガッチリしているが、小さなふたつの窓のガラスは割れていた。ジョン・ローランズは重い木の扉を足で蹴《け》ってあけ、よろよろとはいり込むと、羊を持たずに出て来た。息を荒げ、袖で顔を拭きながら。戸を閉めると、「連れに戻るまで、ここなら安全だ」とウィルに声をかけた。「もう少しだよ」
まもなく、クルーイドに到着した。ウィルが羊が入れられることになっている広い牧草地への木戸をあけると、犬たちは押したりせかしたりして群れを追い込んだ。数秒のあいだ、羊はどうどうめぐりをしながら不平を鳴らしていたが、じきに落ち着き、豊かな草をバリバリ音をたてて貪欲にむさぼり出した。
ジョン・ローランズはランドローバーを出して、ウィルと一緒《いつしよ》に傷ついた羊を連れに出かけた。出発直前に、黒犬のベンが車内にとび込み、ウィルの足の間にうずくまった。ウィルは絹《きぬ》のようなその耳をこすった。
「あの羊を襲ったのは犬なんでしょう?」とウィルはドライブ中にたずねた。
ローランズはためいきをついた。「そうでないことを願うよ。だが、本当いって、人間や犬に付き添《そ》われた群れを襲う野生の動物なんて、まるで考えつかない。狼《おおかみ》以外にそんなけものはいない。ウェールズに狼がいなくなってから二百年以上もたっているし」
小屋の外でいったん車をとめ、後ろのドアのほうが近くになるように向きを買えてから、ローランズは小さな石の家にはいって行った。
ほとんどすぐに出てきたが、手ぶらで、周囲を不安げに見回した。「いなくなってる!」
「いない!?」
「どこかに跡が残っているに違いない――ベン! タルド アマ!」ジョン・ローランズは小屋の外部を捜《さが》し回り、草やワラビやハリエニシダの中を熱心にのぞきこんだ。黒犬も、鼻を地面につけて、ローランズの周囲をさぐり回った。ウィルも、踏みつぶされた草か、羊毛か、血の痕跡《こんせき》がないかと目をこらした。何も見つからなかった。白い石英のゴツゴツした塊《かたまり》が、彼らの目の前で日光を受けてきらめいた。ヒバリが一羽歌った。と、だしぬけに、ベンが短くひと声吠え、何かの臭跡《しゆうせき》を嗅《か》ぎつけて、頭を低くしたまま自信ありげに草の中を進み始めた。
ふたりはついて行った。だがウィルはとまどっていたし、ジョン・ローランズのしわの寄った顔にも、同じ当惑《とうわく》の色が見てとれた――なぜなら、犬は踏まれた形跡のない草の中を進んでいたのだ。羊はおろか、小さな動物が通り抜けがてらに残して行きそうな折れた草一本なかった。どこか前方で水音がしていたと思うと、まもなく、川に向かって流れている小さなせせらぎに出た。水から突き出ている岩を見ても、晴天続きのためにどれだけ水位が下がっているかがわかった。
ベンはためらい、せせらぎの上流下流を捜《さが》したが徒労に終わり、ジョン・ローランズのもとに哀《あわ》れっぽく鳴きながら戻って来た。
「どっちへ行ったかわからなくなったんだ」と羊飼いは言った。「なんだったにせよ――。ウサギにすぎなかったのかもしれん。もっとも、流水で臭《にお》いをごまかすだけの頭のあるウサギなんて、話にもあまり聞いたことがないが」
「でも、羊はどうなったの? 怪我《けが》をしてたんだよ。歩けたはずないよ」
「ことに閉まってる戸を通り抜けてはね」ローランズは皮肉っぽく言った。
「そうだった! 襲《おそ》ったけものに、戻ってきてひきずってくだけの頭があったんだと思う?」
「頭はあったかもしれない」ローランズは小屋を見つめていた。「だが力が足りなかったろう。一年仔は百ポンドぐらいの重さがあるんだ。わしも、ちょっとかついで歩いただけで、背骨が折れるとこだった。あれだけの重さをひきずるには相当大きい犬でなきゃ」
ウィルは自分が、「二匹なら?」と言うのを聞いた。
ジョン・ローランズはけげんそうにウィルを見た。「農場育ちでないにしちゃ、意外なことを思いつくんだな……ああ、二匹でならひきずっていける。だが、通ったあとにペシャンコになった草をどっさり残さずに行く、なんてことができるか? それにだいいち、二匹が十匹でも、どうやってあの戸をあけられる?」
「見当もつかないや。うーん――もしかしたら、けものじゃなかったのかもしれないよ。よその人が車で通りかかって羊の声を聞きつけて、小屋から運び出して連れてったのかもしれない。ぼくたちが戻ってくるなんて、知るはずもなかったろうし」
「かもな」ジョン・ローランズは得心しかねるふうだった。「まあ、そうだったのなら、うちへ戻ったころには羊も届いてるだろう。耳にベントレフのしるしがつけてあるし、ウィリアム・ベントレフの羊がうちで冬を越すってことは、地元のものなら誰でも知ってることだ。もう行こう」と、口笛でベンを呼んだ。
帰り道はふたりとも黙《だま》りこくり、それぞれに案じ、いろいろ仮説をたてていた。ジョン・ローランズの心配事はウィルにもわかっていた。早く羊を見つけて手当てをしなければ、と案じているのだ。ウィル自身の悩《なや》みは別だった。ローランズには言わなかったし、その意味するところを考えるのさえ怖《こわ》かったのだが、傷ついた羊がよろめいて群れの傍《かたわら》に倒れた瞬間《しゆんかん》、襲撃者《しゆうげきしや》が逃げ込んだ箇所にワラビのゆらめき以上のものを見ていたのだ。走り抜ける銀色の体と、白い犬のものによく似た鼻づらを。
音楽が母屋から黄金の流れとなって溢《あふ》れ出ていた。あたかも太陽が窓の中にあって、外へ向かって輝いているかのように。ウィルは唖然《あぜん》として立ち止まり、耳を傾けた。誰かが竪琴《たてごと》を弾《ひ》いているのだった。長い波のようなアルペジオが変化して、バッハのソナタに似た、雪の結晶のように緻密《ちみつ》な音符と形の組み合わせになった。ジョン・ローランズは一瞬、微笑を浮かべてウィルを見おろしていたが、やがてドアを押しあけて中にはいった。ウィルがそれまで気づかなかった脇ドアがあいていて、小さな客間が見えた。家の人々が実際に生活している大きな台所兼《けん》居間から離れたところにしまいこまれた、堅苦しいほどきちんとした「とっておきの部屋」らしかった。楽《がく》の音《ね》はこの客間から聞こえて来る。ローランズが首を突っ込んだので、ウィルもそうした。腰をおろして自分の倍の丈がある竪琴の絃《げん》に手を走らせているのは、ブラァンだった。
ブラァンは弾《ひ》くのをやめて掌《てのひら》で絃を押さえた。「こんにちは」
「ずっと良くなったぞ」ジョン・ローランズが言った。「きょうはずっと良くなってる」「よかった」とブラァンは言った。
ウィルは「竪琴が弾けるなんてしらなかったよ」
「あはあ」ブラァンは重々しく言った。「イングランド人が知らないことは沢山《たくさん》ある。ローランズのおじさんが教えてくれてるんだ。君の叔母さんにも教えたんだぜ、おじさんは。この竪琴は君の叔母さんのさ」と唄《うた》う絃の一本に指を走らせた。「冬は、この部屋はいつも凍《こご》えそうに寒いんだけど、そのほうが、暖かいより音を狂わせないんだよ……ああ、ウィル・スタントン、君には自分がどれだけすばらしい所にいるのかわかってないな。ふたつも竪琴がある農場は、ウェールズじゅうでここだけなんだぜ。ローランズのおじさんのうちにひとつあるからね」と、窓の外の、庭の向こうに三軒並んだ小さなコテージにあごをしゃくってみせた。「たいていはあそこで練習するんだ。きょうは、ローランズのおばさんが掃除で忙《いそが》しいもんで」
「デイヴィッド・エヴァンズは?」ジョン・ローランズが言った。
「リースと庭にいるよ。牛小屋だと思う」
「ディオルフ」ローランズは案じ顔で出て行った。
「学校に行ってる時間だと思ってた」ウィルは言った。
「半ドンさ。理由は忘れた」ブラァンは目を保護する黒メガネを家の中でもかけていた。そのせいで変人めき、現実離れして見えた。向こう側の見えない黒く塗りつぶされた円が、蒼《あお》白い顔からいっさいの表情を奪ってしまっていた。ズボンも黒っぽく、セーターもそうだったので、白い髪がいっそう目につき、不自然に見えた。ウィルはふいに思った。わざとやってるに違いない。人と違ってるのが気に入ってるんだ。
「ひどいことが起きたんだ」と言うと、ウィルはブラァンに羊のことを話した。が、襲撃者をかいまみて白い犬だと思ったことは、今度も黙《だま》っていた。
「ジョンが置いていった時、まだ息があったのは確かかい?」ブラァンはたずねた。
「うん、そう思う。誰《だれ》かが寄って、持ってたって可能性は否定できないからね。ジョンは確認しに行ったんだろうな」
「変な事件だね」ブラァンは立ち上がって伸びをした。「もう練習は沢山だ。外へ行かないか?」
「ジェン叔母さんに言ってくる」
出がけに、ブラァンはドアのそばの椅子《いす》から平たい学校カバンを取り上げた。「こいつをうちに置いて来なくちゃ。父さんのためにやかんもかけとかなきゃならないし。近くで仕事をしてる時には、いつも今頃、お茶を飲みに帰って来るんだ」
ウィルは好奇心にかられた。「お母さんも働きに出てるの?」
「いや、死んだんだ。ぼくが赤ん坊の頃に死んだんで、全然おぼえてない」ブラァンは妙な横眼使いでウィルを見た。「じゃあ、誰も君にぼくのことを話してないのかい? 父とぼくとは、男所帯なんだよ。エヴァンズの奥さんがいつもとてもよくしてくれる。週末は、母屋で夕食をごちそうになるんだ。もっとも、君はまだここでの週末を経験《けいけん》してなかったね」
「もう何週間もいるみたいだ」ウィルは顔を太陽に向けた。ブラァンの話し方の中の何かが妙に気にかかったが、あまりつきつめて考えたくなかった。ウィルはその思いを頭のずっと後ろのほうへ、ワラビの間にちらついた白い鼻づらの記憶《きおく》と共に押しやって、こうたずねた。「カーヴァルはどこ?」
「父と一緒《いつしよ》だろ。ぼくがまだ学校にいると思ってるから」ブラァンは笑った。「カーヴァルが小さい頃はたいへんだったよ。学校は男の子のためにあるんで、小犬のためにじゃないんだってことを納得《なつとく》させるまでがね。村の小学校に行ってた頃は、門のそばに一日中坐ってたものさ。何もしないでただ待ってたんだ」
「今はどこに通ってるのさ?」
「タウィン中学。バスでね」
ふたりはコテージへの道を土ぼこりを蹴《け》立てて歩いた。車輪がつけた道で、轍《わだち》が二本走り、その間にこんもりと草が伸びている。コテージは三軒あったが、人が住んでいるのは二軒だけだった。そばまで来てみると、三軒目が改造されて車庫になっているのがわかった。コテージの向こう、谷の奥、山々が晴れ渡った空へと青くかすんで美しくそびえるほうを見やって、ウィルは身震いした。傷ついた羊の謎がしばらくは思考の前面を占めていたのだが、今や、より奥深い不安が膨《ふく》れ上がって戻《もど》って来つつあった。強大になった<闇>の敵意の圧力が、まわりじゅう、この地域一帯に感じられた。ウィル個人に焦点《しようてん》を合わせたり、巨大な猛々《たけだけ》しい視線になってつけねらったりすることは、<闇>にもできなかった。<古老>には、そうすぐには存在が確認できないように身を隠す力がある。だが明らかに、灰色の王はウィルがいずれどこかからやって来ると、それも近いうちだと知っていたのだ。<光>と同じように、<闇>にも<闇>の預言がある。防壁が築かれ、毎日強化されているのだ。ウィルはふっと、自分のほうが侵略者になるとは、<光>のほうが<闇>に向かって行くとは、おかしなものだと思った。それまでいつも、どの世紀でも、話は逆で、<光>のやさしさに守られている人間の土地に<闇>が繰り返し繰り返し押し寄せて、恐るべき攻撃をしかけてきたのだ。<光>は常に人間の守護者であり、<闇>がくつがえしにきたもの全ての代戦騎士《きし》だったのだ。ところが今度は、<古老>のひとりが、自分の精神が長年なじんできた習慣《しゆうかん》を故意にひっくり返さなければならなくなった。かくも長いこと<闇>を押しとどめて来た断固たる防御《ぼうぎよ》の代わりに、攻撃手段を見つけなければならない。
だがもちろん、この攻撃はそれ自体、防御の一部なのだ、とウィルは考えた。<闇>が攻めて来る最後の、最も恐ろしい時のために抵抗力を強める手段なのだ。<光>の最後に残った味方たちを目ざめさせるための探索なのである。だのに時間はあまりないのだ。
ブラァンが唐突に、奇妙にもウィル自身の思考の最後のところを反映している言葉を口にした。「今夜が万聖節だよ」
「うん」とウィルは言った。
それ以上言う間もなく、コテージの戸口に到着していた。半ば開いていた戸は丈が低くて重く、石の壁にはめこまれていた。ブラァンの足音に犬のカーヴァルがとび出して来た。小さな白いつむじ風となって嬉《うれ》しさにはねまわり、鼻を鳴らし、ブラァンの手をなめた。吠えないのにウィルは気づいた。家の中から男の声が「ブラァン?」と呼びかけ、ウェールズ語でしゃべり出した。ウィルがブラァンのあとから中にはいると、テーブルの前にシャツとズボンという姿で立っていた男が話の途中で振り向き、ウィルを見とめた。そしてすぐに言葉を切り、礼儀正しく言った。「これは失礼した」
「ウィルだよ」ブラァンは教科書のはいったカバンをテーブルの上に放り出した。「エヴァンズさんの甥《おい》だよ」
「ああ。そうじゃないかと思った。初めまして、お若いの」ブラァンの父親は前に進み出て手を差し出した。正面からウィルを見たし、握手《あくしゆ》した手も力強かったが、ウィルはすぐに、そのまなざしがこの男の真の姿を表してはいない、という異様な気分に襲われた。「オーウェン・ディヴィーズだ。君のことは聞いている」
「初めまして、ディヴィーズさん」ウィルは驚いた様子を見せまいとした。ブラァンの父親に何を期待していたにせよ、これではなかった。こんな、道ですれ違ってもその存在すら気づかないであろう、全く平凡《へいぼん》で目立ったところのない男とは意外だった。ブラァンのような変わり者の父親は、変わっているべきなのだ。だがオーウェン・ディヴィーズに関しては、全てが中くらいで平均的だった。平均的な背丈。中くらいの茶色さの髪は量も多からず少なからず。感じのいい平凡な顔は、鼻がごくわずかに尖《とが》っていて、唇《くちびる》が薄《うす》い。声も、低くも高くもなく平均的で、物言いは正確だが、それもまた北ウェールズの人間になら誰にでも言えることなのが最近になってわかってきた。服装も普通で、農場で働く人間なら誰でも着ているようなシャツとズボンと長靴だ。一同を眺めながら男の傍《かたわら》におとなしく立っている犬でさえ、標準的なウェールズの牧羊犬で、背中が黒く、胸が白く、尾が黒く、どうということはなかった。カーヴァルとはまるで似ていない。ブラァンの父親がブラァンとまるで似ていないように。
「おまえたちが紅茶を飲みたいなら、ブラァン、ポットにはいってるからな」ディヴィーズさんは言った。「おれはもう済《す》ませた。大きいほうの牧場に行くところだ。夜は留守にするからな。教会で集まりがあるんだ。夕食はエヴァンの奥さんにごちそうしてもらえ」
「よかった」ウィルは明るく言った。「宿題を手伝ってもらえる」
「宿題?」ブラァンがたずねた。
「そうさ。これはぼくにとっちゃ、休暇ってわけじゃないんだぜ。勉強が遅れないように、学校の先生たちがいろいろ出してくれたよ。きょうは代数だ。それと、歴史」
「それはたいへんけっこうだ」ディヴィーズさんはチョッキを着ながら言った。「ただ、ブラァン、自分のほうの宿題も忘れないようにな。もちろん、忘れないことはわかっているが。さて、会えて嬉《うれ》しかったよ、ウィル。あとでな、ブラァン。カーヴァルは置いて行く」
男が機嫌《きげん》よく、だが全くまじめな顔で会釈《えしやく》して出て行ったあと、ウィルは、オーウェン・ディヴィーズにはひとつだけあまり普通でない点がある、と考え直した。ブラァンの父の中には笑いというものがかけらもなかったのだ。
ブラァンは無表情な、抑揚《よくよう》のない声で言った。「父は教会熱心なんだ。非国教派の執事《しつじ》をやってるんで、週に二、三回は会合がある。それに日曜には二度行く。ぼくもね」
「へえ」ウィルは言った。
「そうさ。へえ、としか言い様がない。紅茶、飲むかい?」
「いや、いいよ。ありがとう」
「じゃ、行こう」心ここにあらずといったふうながら、ブラァンは良心的にティーポットをゆすぎ、水きり板の上に逆さに置いた。「タルド アマ、カーヴァル」
大喜びでついて来る白犬を供《とも》に、ふたりは畑地をよぎってコテージや農場から遠ざかり、谷の奥のほうへ、山々と手前の孤峰《こほう》をめざして歩いて行った。孤峰はそのすぐ後ろの山とは直角をなすように屹立《きつりつ》し、平らな谷底に突き出ていた。
「あの岩山の突き出し方は妙だね」ウィルは言った。
「クライグ・アル・アデーリンかい? あいつは特別な山なんだ。イギリスじゅうで、鵜《う》が内陸に巣を作るのはあそこしかないんだよ。もちろん、内陸たって、そう奥じゃないけどね。ここは海から四マイルしか離れてないんだから。まだあそこへは行ってないのかい? 行こうよ。時間はある」ブラァンは少しだけ方向を変えた。「道からでも鳥がよく見えるよ」
「道はあっちじゃなかったのか?」ウィルは指さした。
「そうだよ。こっちから突っ切っても出られるんだ」ブラァンは小道に通じる木戸をあけ、小道を横切り、反対側の石垣を乗り越えた。「ただし、静かに歩かなきゃならない」とニヤッとして言った。「ここはカラードグ・プリッチャードの土地なんだ」
「しいっ、カーヴァル」ウィルはわざと、よく聞こえるようにささやき、振り返った。だが犬はいなかった。ウィルはとまどって立ち止まった。「ブラァン? カーヴァルはどこだい?」
ブラァンは口笛を吹いた。ふたりとも立ったまま、切り株だらけの畑に沿って長く続く、いま越えたばかりのスレート縁の石垣の、はずれのほうを見ながら待った。何も動かない。太陽が輝いていた。遠くのほうで羊が呼び交《か》わした。ブラァンはもう一度口笛を吹いたが、何も起きなかった。ブラァンがとって返すとウィルもぴったりあとに続き、ふたりはまた垣を乗り越えて、さっき横切った小道におり立った
ブラァンはもう一度口笛を吹き、ウェールズ語で呼んだ。案じている声だった。
ウィルが言った「どこへ行っちゃったんだろう。石垣を乗り越えた時には、すぐ後ろにいたんだよ」
「こんなこと、したことないんだ。一度だって。許しがないのにぼくから離れたり、呼ばれているのに来なかったことなんか」ブラァンは心配顔で小道の両方向にキョロキョロしていた。「気に入らない。プリッチャードさんの土地にこんなに近づかせるべきじゃなかった。君やぼくはともかく、カーヴァルは――」ともう一度、強く必死に口笛を吹いた。
「まさかと思うけど――」ウィルは言いかけてやめた。
「プリッチャードが、おどし文句の通り、撃《う》ち殺したと?」
「いや、ぼくが言おうとしたのは、まさかとは思うけど、プリッチャードさんの土地にはいっちゃいけないのを知ってるんで、それで来ないんじゃないかってことだったんだ。でも、くだらない思いつきだったね。犬にはそんな考え方はできない」
「そんなことはない」ブラァンは悲しげに言った。「犬にはもっと複雑な考え方だってできるさ。ぼくにはなんとも言えない。こっちの方へ行ってみよう。川に通じてるんだ」
ふたりはクライグ・アル・アデーリンというそびえる岩山とは反対の方向へ小道を歩み出した。どこか先の方、ずっと遠くで、犬が吠えた。
「あれ、そうかな?」ウィルは期待をこめて言った。
ブラァンは白い頭を一方にかしげた。犬はまた吠えたが、前よりも近かった。「違う。あれはジョン・ローランズの大きいほうの犬、ベンだ。でも、声を聞きつけてあっちへ行ったってこともありうる――」
ふたりは一緒《いつしよ》に、ところどころに草の生えた石だらけの小道を走り出した。ウィルはじきに息が切れ、引き離された。ブラァンはウィルより先に、小道のとある角を曲がった。続いて曲がった時、ふたつのことが同時にウィルの意識に叩《たた》きつけられた。ブラァンが――カーヴァル抜きで――父親とジョン・ローランズと話している光景と、いまクルーイド農場に起きていることは全て、何か邪悪《じやあく》なものの支配下にある、という胸の悪くなるような確信だった。強烈な音や臭いにふいに気づくように、突然に認識《にんしき》したのだった。
あえぎながら近寄ると、ブラァンがこう言っていた。「……が聞こえたんで、こっちへ来たかもしれないと思ったんだよ。で、走ってきたんだ」
「だのに何も見なかったのか?」オーウェン・ディヴィーズの顔は、何か深い心配事にひきつっていた。見ているウィルは、胃の底が不吉な予感につかまれたように感じた。
ジョン・ローランズの低い声は感情を懸命に抑《おさ》えているかのようだった。「君はどうだ、ウィル? 誰かを、何かを、たったいまこの道で見なかったかい?」
ウィルはまじまじと彼を見た。「うん。前にはカーヴァルがいたけど、今はいないし」
「何かとすれ違わなかったかい?」
「べつに。どうして? 何があったの?」
オーウェン・ディヴィーズが疲《つか》れた声で言った。「この道のはずれの大きい牧場に、のどを食いちぎられて死んで居る羊が四頭いる。木戸はどれもあいてないし、何に襲《おそ》われたのか、手がかりがまるでない」
ウィルは慄然《りつぜん》としてジョン・ローランズを見た。「同じやつかな――」
「誰にわかる?」羊飼いは苦々《にがにが》しげに言った。ディヴィーズ同様、困惑《こんわく》と怒りの板ばさみになっているらしかった。「だが犬じゃない。犬であろうはずがない。どっちかと言えば、狐のしわざに見えるんだが、どうしてそんなことがありうるか、わしにはわからん」
「ミルグウンだ。山の」ブラァンが言った。
「くだらん」と父親が言った。
「何だって?」ウィルがたずねた。
「ミルグウンだよ」ブラァンの目はまだカーヴァルを求めて動き回り、返事は機械的だった。「灰色の狐もどきさ。お百姓の中には、山に大きな灰色狐が沢山住んでるって言う者がいるんだ。下に住んでる赤い狐より大きくて足が速いんだって」
オーウェン・ディヴィーズが言った。「ばかばかしい。そんなものはいない。前にも言っただろう。そんなクズみたいな昔話に耳を傾けるんじゃない」
鋭《するど》い語調に、ブラァンは肩をすくめた。
だが、ウィルの脳裏には突如《とつじよ》、スクリーンに映写されたかのように鮮明な映像《えいぞう》が浮かび上がった。三匹の大きな狐が一列になって歩いている。巨大な灰白色のけものたちで、ふさふさとした毛は首のまわりでは襟《えり》のように拡がり、また刷毛《はけ》のように豊かな尾となっている。三匹はとある山腹の岩の間をよこぎっていたが、一瞬、一匹が振り向いて、光る目でまばたきもせずにまともにウィルを見た。その瞬間には、ブラァンを見るのと同じくらいはっきりと見えた。と思うと映像はなくなり、消えてしまい、ウィルは再び陽射《ひざ》しの中に、黙《もだ》し、茫然《ぼうぜん》として立ちつくしていた。<古老>から<古老>へたまに――ごく、ごくまれに――何の予告もなく送られる通信を受けたのだと知った。師たちが、灰色の王の家来であり<闇>の手先である者どもの映像を見せて警告してくれたのだ。
ウィルは唐突《とうとつ》に言った。「昔話じゃない。ブラァンの言う通りだ」
その声のきりっとした自信に驚いて、ブラァンはまじまじとウィルを見た。だがオーウェン・ディヴィーズは薄《うす》い唇《くちびる》をへの字にして、冷たくとがめるようにウィルを見やった。「ばかなことを言うものじゃない」と冷ややかに言った。「ここらの狐《きつね》について何を知ってると言うんだね?」
どう答えるべきかウィルは結局知らずに終わった。明るい午後のはりつめた静けさを破って、ジョン・ローランズが緊迫《きんぱく》した大声でわめいたのだ。
「ターン! あそこを見ろ! 山火事だ! 火だ!」
山火事
火勢のわりには煙の量は少なかった。ウィルたちが立っている所から生垣ごしにやっと見える山裾《すそ》に沿って、炎がすじになってワラビを焼いていた。平和な茶色い斜面に生じた長い切り傷のように、危険な生命を持って脈搏《う》っていた。だが色はあまりなく、遠すぎるせいか、音もまるで聞こえなかった。一瞬《しゆん》、よくジョン・ローランズの目についたものだということしか、ウィルの頭には浮かばなかった。
すぐにさまざまな指示《しじ》が浴びせられ、ローランズの静かな声の中の緊迫《きんぱく》感が伝わって来た。「ふたりとも、すぐ農場へ戻れ。タウィンから消防車と警察を呼んだらまた戻って来るんだ。居合わせた者は誰でもいいから連れて来い。できるだけおおぜい。それから消防用のほうきをもっとほしい。ブラァン、どこにあるかは知ってるな? オーウェン、行こう」
男たちは谷を横切る小道を駆《か》け出し、少年たちは畑地の向こうのクルーイド農場へと通じる木戸にとびついた。ブラァンが白い髪を逆《さか》巻かせて振り向いた。「ゆっくり来るんだ」と真剣に言った。「でないと、前よりひどい病気になるぞ――」と言い捨ててだっと走り出したので、残されたウィルは木戸を閉め、ブラァンのあとからあきらめ顔でゆっくり走った。
農場で追いついた頃には、ブラァンは電話をかけ終えていた。デイヴィッド・エヴァンズがランドローバーに、ふたりと、リースと、たまたま居合わせたトム・エリスというひょろっとした農夫を乗り込ませた。小さな車の後部には火消しぼうきやズック粗布が慌《あわただ》しく積み込まれた。バケツもいくつかあったが、ウィルの叔父は使う余地はないと考えているようだった。今度ばかりは、犬たちは置いて行かれた。
「火が相手じゃ役に立たないんだ」とリースが、不満そうな鳴き声に耳を傾けているウィルに言った。
「羊はほっといても、邪魔《じやま》にならないところに逃げるさ――今頃はもう、かなり離れたところまで避難《ひなん》しているだろうよ」
「カーヴァルはどこだろうなあ」と言ってしまってから、ウィルはブラァンの顔を見て後悔《こうかい》した。
近づいてみると、山火事は遠くで見たよりもはるかに恐ろしかった。臭《にお》いを嗅《か》ぐことも、音を聞くこともできた。農場の焚火《たきび》よりも苦い煙の臭いを嗅ぎ、ワラビを燃やしつくす火の、手の中で紙を丸めるような低く恐ろしい音と、潅木《かんぼく》やハリエニシダの茂みがパッと燃え上がる一瞬の轟音《ごうおん》を聞くことができた。そして躍《おど》り上がる炎が見えた。先端は真紅と黄色だが、中心部は猛々《たけだけ》しく無色に近い。
一斉《いつせい》に車から転がり出ると、デイヴィッド・エヴァンズが火消しぼうきをよこせとどなった。ウィルとブラァンがひっぱり出した。昔風の庭ぼうきに似ているが、束《たば》ねられた小枝が長くて拡がっている。ジョン・ローランズとブラァンの父は、既《すで》にほうきを手にして火の最前線を叩《たた》き、拡がらないように努めていた。だが風が次第に強まっていたため、炎は躍《おど》り上がるかと思うとチロチロと這《は》ってまもなくふたりを通り越し、山のふもとのほうへ伸び始めた。火が上のほうへたなびき、たきつけ並に乾いたワラビにおおわれた斜面をなめると、オーウェン・ディヴィーズが間一髪《かんいつぱつ》でとびのいた。
火のはぜる音が高まり、空気は煙と、ひらひら舞う黒いすすや灰で一杯だった。猛烈《もうれつ》な熱気がウィルたちを襲った。人々は一列になって炎を叩き、力の限りにほうきを振りおろしていたが、火の粉《こ》がたまにひとつ消えるだけだった。ジョン・ローランズがウェールズ語で必死にわめき、ウィルのきょとんとした顔を見ると息をはずませて言った。「プリッチャードの土地に燃え移る前に、山の上のほうに追い上げるんだ! 岩山まで行き着かせるな!」
目の前のクライグ・アル・アデーリンの岩だらけの大斜面をすかし見たウィルは、その裏側から灰色の石造りの家の一端が突き出ているのを初めて目にした。家のそばから噴き上がる水しぶきが光を反射して光った。誰かがそのふたりの斜面を濡《ぬ》らして、火がそこまで行ったら消えるようにしているのだ。だが、柄の長い、平べったいほうきで空しく叩き続けているウィルには、目の前の火炎地獄《かえんじごく》を押しとどめることのできるものは皆無《かいむ》に思われた。もつれた黒イチゴの茂みと出会った火は今や彼らの頭上で唸《うな》りを上げていた。山じゅうを暴れまわる巨大なけもののように、抵抗を許さぬ貪欲《どんよく》さで行く手にあるもの全てを呑《の》み込んでいる。火の強さに較《くら》べて彼らはあまりにも小さく、進路を変えさせる努力すら滑稽《こつけい》に思えた。<闇>みたいだ――とウィルは思い、出火の原因を初めて考え出した。
下のほう、大クライグのふもとを通る道から、消防車の鐘《かね》の音が聞こえ、木々をかすめる鮮《あざ》やかな赤い色と、蛇のように空気を縫《ぬ》うホースが見えた。呼び交わす人々の声とエンジンの音が聞こえた。だがウィルたちのいる斜面では、突風にたびたびあおられて火勢がどんどん増し、彼らは次第に後退を余儀《よぎ》なくされ、道を縁取る木々の間に逃げ込んだ。勝ち誇《ほこ》った雷鳴のように、火が音をたてて追って来た。
「道に出て逃げろ!」トム・エリスというあの痩せた男がどなった。「木に燃え移るぞ!」
ウィルはあえぎながらジョン・ローランズのそばを走った。「どうなるの?」
「いずれ、自然に消えるさ」と答えはしたが、ウェールズ男の顔は暗かった。
ブラァンがローランズの反対側に駆け寄った。白い肌《はだ》がすすで汚《よご》れている。「風のせいさ。谷の奥まで火を運んでる――おじさん、プリッチャードのとこも本当に危《あぶ》ないの?」
ジョン・ローランズは少し歩をゆるめて空一帯を眺め渡した。青空に雲が浮かび出していた。妙な、ボロ布のような汚れた色の雲で、てんでな方角から寄り集まってくるように見えた。「わからん……風があるのは天気が変わる知らせだ。風向きが変わり出してるが、どっちへ動くのか、よくわからん……遅かれ早かれ、雨になるだろう」
「それなら」ウィルは期待を持った。「雨が火を消してくれるよね?」だがそう言う間にも背後から、火がはぜ、吠えたかける音が笑い声のように聞こえていたので、ジョン・ローランズが首を振っても意外とは思わなかった。
「相当すごい雨でないと……地面がカラカラに乾いている。この季節にこんなに乾いていたことはないんだ――集中豪雨《ごうう》でもなければ、効果はないだろう」ローランズはもう一度周囲を見回し、山々と空に向かって顔をしかめた。
「どこかに妙なところがある。この火も、何もかも……どこかが狂ってる……」そう言うと、肩をゆすって追求を諦《あきら》めた。角を曲がると消防車が見え、そのエンジンが激しく活動しているのが聞こえたので、ローランズはひとりで大股《また》にそちらへ向かった。
ウィルは考えた。(ああ、ジョン・ローランズ、あなたは自分で思ってる以上のことを理解している。けど、まだ足りない。<闇>の君がこの山々で行動を開始したのだ。灰色の王が、黄金の琴と起こされるべき<眠れる者>を封じ込めるために、壁を築《きず》き出したのだ。ぼくが近づけないように、探索が果たされないように。琴と<眠れる者>を<光>の手から奪《うば》っておけば、<古老>たちの力は完全にはならず、<闇>が攻《せ》めて来るのを防げる者はいなくなる……)
ウィルは「だが、そうはいくもんか!」と知らずに口に出していた。
耳もとでひそやかな声がした。「何がそうはいかないんだい?」ブラァンの目を隠しているいぶしたような黒メガネが、ウィルの顔をのぞきこんでいた。
ウィルはブラァンを見つめ、全く正直な感想を洩《も》らした。「君がどういう人間なのかわからない」
「そうだろうと思った」ブラァンの奇妙な蒼白い顔が、かすかな笑みにひきつった。「けど、ぼくを必要としている点は変わらないだろ?」斜面の火から煙がさっと吹きおりて来てふたりを取り巻くと、ブラァンは体を一回転させた。「心配するなよ」とニヤッとした。「ぼくがどういう人間なのか、わかってるやつなんていやしないんだから」そういうと、円を描いたり走ったり、踊《おど》るような足どりで、消防車めざして行ってしまった。
ウィルもあとを追って走った。だが次の瞬間、ブラァンともども、今までの何よりも仰天《ぎようてん》するような光景を目にして立ち止まった。クライグ・アル・アデーリンののしかかるような巨塊《きよかい》の下で、消防士たちはホースを二本使い、山と道の縁《ふち》の両方を水びたしにしていた。火がクライブをとび越えてプリッチャード農場に襲《おそ》いかかるのを防ごうとしているのだ。ほかの人々は、バケツやほうきや手あたり次第のものをつかんで、ふりそそぐ火の粉が燃《も》え拡がる前に水をかけたりもみ消したりに駆《か》けずり回っていた。道の上は必死に動きまわる人々でひしめいていた。ところが、そのまっただなかに、怒《いか》りに硬《こう》直し何も目にはいらないカラードグ・プリッチャードが突っ立っていた。赤い髪は逆立ち、シャツには血がつき、散弾銃《さんだんじゆう》を片手で構えている――もう片手はまっすぐに突き出され、責めるようにゆびさしていた。怒声《どせい》はジョン・ローランズに向けられていた。
「犬をつれて来い! つれて来るんだ! 証明してやる! おまえの犬と、ディヴィーズの化け物小僧の化け物じみた白い犬のしわざだ! 見せてやる! おれの牧場にゃ羊が六頭、六頭だぞ、のどを裂《さか》かれて転《ころ》がっている。畜生《ちくしよう》め、頭が半分もげちまってる――遊びで殺しやがって、あの犬めら、遊びでやりやがって、おれが撃ち殺してくれる! ここへつれて来い! 二匹とも! 証明してやるから見てやがれ!」
少年たちは凍《こお》りついたように立ちつくし、ぞうっとして男を見つめていた。その瞬間、男は人間ではなく、怒りに狂った生き物、けだものと化していた。何かを傷つけたいという欲求だけが見えていて、それこそ、いつの時代にも変わらぬ、この世で最も恐ろしい眺めだった。
人間の目と<古老>の眼力をもってプリッチャードを見ていたウィルは、同情の念に圧倒されそうになった。手遅れになる前にカラードグ・プリッチャードに今の感情を捨てさせなければ、永久に捨てさせなければ、この男がいずれどういうことになるかがはっきりわかったのだ。やめろ、と呼びかけてやりたかった。やめるんだ。灰色の王があんたに目をつけて友情の手を差しのべ、あんたが何も知らずにその手を取って破滅へと突っ走る前に……。
考えもせずにウィルは一歩前に出た。その動きを見とがめて赤毛男はぱっと振り向いた。指が意地悪く風切り、ウィルに向かって突き出された。
「おまえもだ、イングランドのちび《サイス・パハ》、おまえも仲間だろ。おまえとおまえの叔父貴《おじき》のとこの連中と。あいつらはクルーイドの犬めらだ。けだものの殺し屋めら。全部おまえらの責任だ。きっと思い知らせてやるぞ。おまえらみんなに――」 口角に泡《あわ》がたまっていた。言葉の通用する相手ではなかった。ウィルはあとずさりし、プリッチャードの見幕《けんまく》に、火と戦っていた人々までが驚いて手を止めた。一瞬、消防車の作動音と近づいて来る火のはぜる音以外には静まり返り、誰ひとり動く者もなかった。と、デイヴィッド・エヴァンズの小柄な体が人垣をわけて進み出た。片手にほうきを持ち、顔とシャツにすすをつけた姿で、恐れる色もなくプリッチャードの両肩をつかまえ、はげしくゆさぶった。
「カラードグ・プリッチャード、何分もしないうちに火がここまで来るんだぞ――自分の農場を焼かれたいのか? ここにいるみんなが、おまえの屋根に炎を近づけまいと手の皮がむけるほど苦労してるのに、家の中じゃおまえのかみさんが同じようにがんばってるっていうのに、おまえはなんだ? 突っ立ったまんま、まぬけな頭を死んだ羊で一杯にしてわめいてるだけじゃないか! しっかりしないと、もっと羊が死んで、それどころか、農場までおしまいだぞ。しゃんとしろ!」
プリッチャードはぽかんとしてウィルの叔父を見つめた。光る小さな目がむくんだ顔の中でけげんそうに細められたと思うと、次第に目がさめて、自分がどこにいるのか、何が起きているのか、認識し始めたように見えた。呆《ほう》けたように、生垣の向こうから近づいて来る炎を見つめた。消防車のポンプ音が一段と高まり、消防車たちが前進して来る火を迎え撃とうとホースの向きを変えた。ほうきを持った人人が死に物狂いでワラビを叩くと、火の粉が四方八方に飛んだ。カラードグ・プリッチャードはきゃっとひと声恐怖の叫びを上げ、まわれ右をして自分の家へ駆け戻った。
ウィルとブラァンは無言で再び、炎がクライグをなめつくして越えるのを阻もうと斜面に斜めに配置されたほうき係りの列に加わった。雲が厚くなり、黄昏《たそがれ》が近づくにつれて空は暗くなりつつあったが、雨の気配はなかった。風がひと吹きし、止み、ふいに再度吹きつけた。次にどうするか見当もつかなかった。ウィルは、谷の突き当たりの高い峰々から灰色の王の敵意がぶつけられて来るのを、前にもまして強く感じていた。反対側から迫《せま》り来る炎の壁と同じくらい荒々しい壁となっていた。が、その両方の力を感じているのは、ふたつの間にはさまれているのはただひとり、<古老>であるウィル・スタントン、生まれた時からこの探索を究《きわ》めるよう運命づけられているウィル・スタントンだけだった……。ふいに、気違いじみた昂揚《こうよう》感に駆《か》られ、ウィルのくたびれた腕や足にどこからか力が流れ込んだ。歓喜《かんき》の叫びを上げると、ブラァンにニヤニヤ笑いかけ、足もとのワラビをチロチロとなめていた炎を、土にめりこまんばかりの強さで叩き出した。
その時、山の上のほうで何かが動くのを見とがめた。炎のすじから目をそらすと、頭上のむきだしの岩肌《はだ》から、ものすごい速さでとび出して来る灰白色の狐の姿が見えた。筆の穂《ほ》のような尾をなびかせ、耳を寝かせて、クライグ・アル・アデーリンのそそり立つ側面をはね上がって行った。煙が風に乗ってたなびき、狐は見えなくなった。ウィルの目には短い一瞬のできごとだった。
ブラァンが高く叫ぶのが聞こえた。「カーヴァル!」
あっという間にウェールズの少年は斜面を登り出した。下のほうの人々の心配の声を無視し、火も煙も、自分の犬だと思い込んだ白いけものの姿以外は全《すべ》て無視して。「ブラァン、戻《もど》れ! カーヴァルじゃない!」
ウィルは必死であとからよじ登ったが心臓が胸からとび出しそうに鳴った。「ブラァン! 戻って来い!」
斜面はどんどん急になり、ついにふたりはクライグそのものにわけ入り、ワラビを踏《ふ》み分け、すべりやすい草を越え、灰色の岩の張り出しの間を通っていた。ようやく、張り出しのひとつの上でブラァンは立ち止まり、あえぎながら周囲をぐるぐる見回した。ウィルはそばまで這《は》うようにしてたどりついたが、口もきけないほどだった。
「カーヴァル!」ブラァンは空にむけてどなった。
「カーヴァルじゃなかったよ、ブラァン」
「そうだったよ。見たんだ」
「狐だったんだ。ブラァン。ミルグウンの一匹さ。ブラァン、目くらましなんだ、わからないかい?」
ウィルは咳《せき》込んだ。息詰《づ》まるような煙の波が背後と眼下の斜面を押し包んでいる黒雲から突然吹きつけて来たのだ。見えるのは煙と急斜面の岩肌と、頭上にきれぎれにのぞく灰色の空だけだった。下の方には、農場も人々も谷もいっさい見えず、聞こえるのも風のためいきと、どこかで耳ざわりに鳴いている鳥のかすかな声だけだった。
ブラァンは半信半疑《はんしんはんぎ》でウィルを見た。
「ブラァン、確かだ」
「わかった。絶対《ぜつたい》だと思ったのに……ごめん」
「謝《あやま》ることはないよ。君の目のせいじゃない。灰色の王がそう見せかけていたんだ。けど、困ったことに、もうあっちへは戻れない。火が迫って来ている……」
「反対側におりる道がある」ブラァンは目から汗をぬぐった。「燃えるワラビのない、岩だらけの斜面だ。けど、きつい道だよ」とウィルの汚れて蒼ざめた顔を不安げに見た。
「ぼくなら平気だ。さあ、行こうよ」
ふたりは、四つん這いになって草と岩のごつごつした階段を登った。
「鳥の巣があるぜ!」ウィルは、自分の頭から一フィートほど離れたところに小枝とワラビのもつれた塊を見つけたのだった。
「火さえなけりゃ鳥も見られたのに。春にはここに巣《す》を作るって言っただろ? 鵜《う》だけじゃない――大ガラスもだ。鳥が沢山来る……だからこそ鳥岩って言うのさ。そら――」ブラァンはワラビに縁取られた幅の広い岩棚《だな》の上に立ち上がって息をついた。「ここが尾根だよ。山の反対側を下って、プリッチャード農場まで続いてる」
だがウィルはじっと立ち止まったまま、ブラァンを見ていた「鳥岩だって?」
「そうだよ」ブラァンはびっくりしたようだった。「鳥岩。クライグ・アル・アデーリンすなわち鳥の岩さ。知ってると思ってた」
ウィルは思い返すように、そっと口遊《くちずさ》んだ。
年も死にゆく死者の日に
風砕《くだ》く鳥の戸をくぐり
いと若き者 古山を開くべし……
ブラァンは目をみはった。「じゃ……鳥の戸……これが?」
「鳥岩。そうにちがいない。ぼくにはわかる。それにきょうは死者の日だ――」ウィルはキッと顔を上げ、雲が灰色の煙の塊《かたまり》のように流れている空を見上げた。「おまけに風が変わり出してる。感じないかい……いや……そうだ、また変わった……悪い風だ。<闇>から吹いて来る風だ。気に入らないな、ブラァン。灰色の王が一枚噛《か》んでいる」もはやブラァンのことは永遠の味方としてしか考えられなかった。
白い髪の少年は沈んだ声で言った。「北の方から吹き始めてる。一番たちの悪いやつだ、北風は。グウィント・トラエド・アル・メイルウってここらじゃ呼んでる。<死者の足のまわりを吹く風>って。嵐を運ぶ風だよ。それから、時にはもっと悪いものも」
遠い火の音が大きくなったように思えた。肩越しに斜面の下を振り返ると、煙が濃くなっていて、空気が前よりもさらに熱くなっていた。風が断続的に吹きつけ、下のほうから灰やすすを拾い上げては、ふたりの頭のまわりで奇妙な黒い渦《うず》にした。突然、ウィルは灰色の王に意識されているという恐《おそ》ろしい確信を持った。はっきりと意識していて、攻撃するための力をかき集めているのだ――山火事が始まったのは意識し出したその瞬間だったのだ。ふいに、不安な孤独感にとらわれてウィルはひるんだ。<光>の仲間と離ればなれになっている<古老>は、力の頂点に達した<闇>から見れば弱い存在だ。永久にほろぼされることはないが、力を奪《うば》い取られることはありうる。<闇>の君が全力をもってあたれば、無防備な状態《じようたい》の時に襲われれば、<時>の外に長いことふきとばされ、戻って来た時には全てが終わっていることもありうるのだ。だからこそ、灰色の王は今のウィルを攻撃したのだ。火と、使える限りの家来を使って。
そのうえ、ウィルにもまして無防備なのがブラァンだった。ウィルは急いで振り返った。「ブラァン、来い、尾根に沿って頂上まで行くんだ。火が来る前に――」
のどから出かかった声がとぎれた。尾根の上のふたりの周囲に音もなく穴や亀裂《きれつ》から姿を現したのは、角や岩陰からこっそり出て来たのは、灰白色の亡霊《ぼうれい》じみたミルグウンの姿だった。二十頭以上いた。いずれも頭を低く下げ、牙《きば》をニッとむき出し、ピンと延ばした灰色の尾の先端に白い点をきらめかせている。狐の体臭《たいしゆう》が煙よりも濃く立ちこめていた。先頭に立っているのは狐の王、彼らの親玉で、耳まで裂《さ》けたぞっとするような口から赤い舌をだらりとさせ、人の指ほども長く爪のように鋭い、骨でできた白い牙《きば》をむいていた。目玉は光り、たてがみが巨大な肩や首のまわりに白く逆立っていた。
ウィルはこぶしを固め、怒りのこもった力の呪文を<いにしえの言葉>で浴びせたが、灰色の大狐はたじろがなかった。それどころか、やにわにパッと真上へはね上がった。ウィルは以前に一度、この谷間を遠く離れたバッキンガムシャーの畑で、頭の上まで伸びた小麦畑の中にいた狐が危険がないか見定めようとして同じことをするのを見ていた。はねると同時に、王狐は鋭く、短く、深くはっきりとひと声吠えた。ミルグウンどもは低い唸《うな》り声を上げた。ウィルの片側に突如、布が裂《さ》けるような音とともにめらめらっと火の手が上がった。山火事はついにクライグ・アル・アデーリンの尾根に燃え移り、ワラビを焼きながら、ふたりの周囲で燃えさかった。
ウィルは火から身を引いた。王狐の脇を通るしか逃げ道はない。だが大狐はじっと腹這いになり、とびかかれるように身構えていた。
いきなり、ウィルの肩のそばで、つんざくようなわめき声が上がった。ブラァンが、ほくちのように燃えている曲がったヤブカシの枝を振り回しながら、前にとび出した。そしてその炎の束《たば》を灰色狐の顔に突きつけた。王が悲鳴と共に仲間のもとにあとずさると、狐どもは取り乱して行きつ戻りつし出した。炎が腕に移る前に、ブラァンは枝を投げ捨てた。ところが、意外な突風をくらって、枝は尾根の反対側、焼けていない斜面のほうへとんでいった。尾根からとび出し、下へ、炎が届かずにすんだかもしれないクライグの裏側に落ち行った。火が新たなえじきを得てボッと炎が上がるのが見えた。ブラァンは震《ふる》え上がって叫んだ。
「ウィル! プリッチャード農場に火を送っちゃった――はさみうちだ!」
「頂上だ!」ウィルはあせりつつ叫んだ。「頂上に行き着くんだ!」どこを捜《さが》さねばならないかについては確信があった。古い本能がもたらした確信だった。捜す場所のほうでウィルの探索に目ざめ、見えないながらも強引に呼び寄せ出していたのだ。どんな外見かもわかり、たどり着いたあとどうすればいいかも知っていた。だが、どうやってたどり着くかは別問題だった。炎が両側でバリバリ燃え、皮膚《ひふ》を乾燥させ焦《こ》がさんばかりにした。前には、すきまなく半円形に集まったミルグウンが待ち構えていた。
じっと――
ワラをもつかむ思いで、ウィルはブラァンと自分のまわりに防壁を築いた。真北を向いてまっすぐ立ち、<いにしえの言葉>で呼ばわったのだ。ヘレドの呪文、旅先の土地の主《ぬし》の圧力から旅人を解放してくれる呪文《じゆもん》だった。が、たいして期待はしていなかった。長くはもちっこない。傍《かたわら》のブラァンが大声ですがるように叫ぶのが聞こえた。無我夢中で助けを求めている小さな子供のように。
「カーヴァル! カーヴァル!」
すると、どこからともなく、尾根に沿って白いものがふたりをめざして突進して来た。一番近いところにいた狐にとびかかり、横ざまに体当たりしたので、狐は絶叫《ぜつきよう》して一回転し、転がりまわった。きつく編《あ》まれた半円が動揺《どうよう》して乱《みだ》れた。カーヴァルは唸りを上げて次の狐にとびかかり、すばやくガッキと肩にくらいついた。狐はすさまじい声とともに身をよじってのがれた。ミルグウンの列にみずから切り拓《ひら》いたすきまに白い犬は立ちはだかった。雄《お》牛のように戦意に燃え、四本の脚を岩肌にしっかりと据《す》えていた。不思議な銀色の目の輝きを見れば、何が言いたいのかは明らかだった。ウィルはブラァンの腕をひっつかみ、カーヴァルの脇を一緒にすりぬけて自由になった。狐どもはあえぎながらためらっていた。
「上だ、ブラァン、早く! ほかにない!」
ブラァンの目は、黒い地面と白い毛皮から、黒っぽい山々と灰色の空へと移動した。ミルグウンの大王狐が、再び自制心を取り戻して、追跡の体勢を取りつつ見つめているのを見た。と、カーヴァルが、王狐と向かい合うために向きを変えながら、尾を引く唸り声を次第に大きくたて始めた。血も凍るような、生まれてこのかたブラァンが聞いたこともないような声だった。何か昔から定められた運命に従って、犬はふたりの逃亡を可能にしてくれているのだ。さからう口実はない。ふいに信頼《しんらい》に満たされ、謙虚《けんきよ》になって、ブラァンは身を翻《ひるがえ》し、ウィルを追って頂上へと向かった。 四つん這いになって岩だらけの尾根をよじ登りながら、ウィルは目的の場所を一心にめざした。場所はウィルに唄《うた》いかけ、さし招《まね》いていた。しがみついている岩の下のほうでは、煙が暗い海のように渦巻いている。ずっと上のほうで、鳥の声だけが泣き叫び、怒りと恐怖《きようふ》にわめいた。これ以上登れない、というところまで来ると、ウィルは目の前の岩に、細い亀裂《きれつ》がおおいかぶさるように走っているのを見た。霧と風雨に侵《しん》食されて拡がった長い裂け目だ。灰色の花崗岩《かこうがん》の側面は、地衣類でみどりまだらになっている。ウィルは抗しがたく引き寄せられた。
ブラァンに「この中に!」と呼びかけると、声を高めて、命ずるように叫んだ。「カーヴァル!」
亀裂の花崗岩の側面は、ウィルの身長の三倍の高さを誇《ほこ》っていた。中にはいって肩越しに振り返ると、ブラァンがとまどいながら続くのが見え、さらにそのあとから白い影がサッととびこんで来るのが見えた。カーヴァルはすれちがいざまにブラァンの手に鼻をちょっとこすりつけて、前にとび出して来た。外の岩場では中にはいれないミルグウンがたけり狂って、とまどいと怒りにてんでにわめきたてていた。今になって、ミルグウンの主人の力はグイネス地方の岩場と山々とあらゆる高き所に及びこそすれ、それ以外には届《とど》かないのだとウィルは知った。岩や山の内部は別な者の支配化にあるのだ。 ウィルは前進した。奥のほうで、岩の亀裂は少し拡がっていた。中はほの暗く、物が夢の中のようにぼんやりとしか見えなかった。外では狐が鳴き、わめいた。ついにウィルの前はむきだしの灰色の岩ばかりとなった。厚そうなのっぺらぼうの壁が亀裂のどん詰《づ》まりを示していた。ウィルはその岩を見つめ、頭の中が発見のほてりと、喜びと同じくらい強烈な安堵《あんど》に満たされた。犬のカーヴァルは傍《かたわら》に、若駒《こま》のように誇り高くまっすぐに立っていた。ウィルは片手をおろして、その白い頭に置いた。もう一方の腕を前に掲《かか》げ、命令のしぐさに五本の指をピンと伸ばし、<いにしえの言葉>で三こと呼ばわった。
するとウィルの前で岩は巨大な門のように開いた。と同時に、聞きなれぬものながら胸が痛むほどなつかしい繊細《せんさい》な旋律《せんりつ》が、かすかに、きわめてかすかに鳴り響《ひび》いたが、耳にされるがはやいか止んでしまった。岩の扉《とびら》をくぐるウィルの隣《となり》を、頭を上げて尾を振り立てたカーヴァルが自信たっぷりに歩んだ。
そして、少しためらいがちに、ブラァンが続いた。
鳥岩
クライグ・アル・アデーリンの奥底にいるのか、それとも灰色の岩の扉《とびら》をくぐって別の時と場所に出てしまったのか、わかるすべはなかった。だが、ウィルにどうでもいいことだった。<古老>として初めての一人前の探索がやっと始まったことに、体じゅうに脈搏《みやくう》つような昂揚《こうよう》感を覚えていた。振り返ってみると、通り抜けて来た門はもはやそこになかったが、驚きもしなかった。いま彼らがいる部屋の端の岩壁はなめらかで切れ目ひとつなく、上のほうに丸い金の楯《たて》がかかっていて、部屋の奥のどこかから射している光に鈍《にぶ》くきらめいていた。
ウィルはそっとブラァンを盗み見たが、ウェールズの少年は泰然自若《たいぜんじじやく》としているように見えた。保護していた黒メガネを欠いた蒼白い顔は妙に傷つきやすく見えたが、猫に似た眼には何の表情も読み取れなかった。再び、この色素を全く欠いた少年、<闇>の巣食《すく》う谷に生まれた少年――人間でありながら、何世紀も昔の<古老>たちにあらかじめ知られていた少年に対して激《はげ》しい好奇心《こうきしん》を覚えた。なぜ、やはり<古老>であるウィルに、ブラァンの本質がつかめないのだろう?
「大丈夫かい?」ウィルはたずねた。
「ぼくなら平気だ」ブラァンはウィルの後ろの壁を見上げていた。「うわあ《デイウ》」と小声で言った。「きれいだ。あれを見ろよ」
部屋は細長く、空っぽだった。壁には四枚の壁掛けがかかっていた。ひとつの壁に二枚ずつ豊かな色彩は深くつややかで、金の楯《たて》同様、それらもまた薄《うす》明かりにきらめくように見えた。ウィルはそれらに縫い取られたステンドグラスのように鮮《あざ》やかな図柄《がら》に記憶《おく》を呼びさまされ、目をしばたたいた。銀色の一角獣《じゆう》、まっかなバラの野原、輝く黄金の太陽……
この部屋の光は全て、たったひとつの炎から発せられているらしいのがわかった。部屋のはずれ寄りの石壁から突き出た鉄の燭《しよく》台に、すさまじく大きい蝋燭《ろうそく》が一本立てられていた。丈が数フィートあり、まばゆいばかりの炎はまっ白でピクリとも動かなかった。蝋燭の長い影が壁と床に落ちていたが、ゆらめきも躍りもしていなかった。その静止状態が上なる魔法の持つ静けさなのにウィルは気づいた。上なる魔法は、<光>や<闇>や、その他のいかなる力にもくみしない魔法――宇宙で最も強く、最も遠い勢力なのだ。まもなくここでウィルとブラァンが対面しなければならないのは、まさにそれなのだった。
かすかな、ほとんど聞き取れないほどのクーンという鳴き声が傍らでした。見おろすと、カーヴァルがブラァンのほうを振り返っていた。
ウィルはそっと言った。「いいよ、お行き」
犬の冷たい鼻がウィルの手に押しつけられたと思うと、カーヴァルはくるりと背を向け、尾を振りながら主人のもとにすばやく戻った。ブラァンが一瞬、激しい愛情をこめて犬の頭の毛を指でまさぐったので、見た目の落ち着きぶりにもかかわらず少年の心に恐怖に近い不安があって、それをカーヴァルは感知して安心させようとしたのだとわかった。ウィルはブラァンに対して同情の念《ねん》が湧《わ》き起こるのを覚えたが、いろいろ説明している暇はなかった。いよいよとなったら、ブラァンがいつも漂《ただよ》わせている近寄りがたい違和感が大いなる強さを持っているところから来る違和感だとわかるだろうという直感があり、それを信じなければならないこともわかっていた。
ウィルは振り返らずに声に出して、「こっちだ」と言った。そして天井の高い長い部屋の中を断固たる足取りで歩き出した。ブラァンがカーヴァルとともに続いた。自分のと彼らの足音が一緒に石畳にこだまするのが聞こえた。壁の丈の高い蝋燭までたどりついた。鉄の燭台はウィルの肩の高さの石壁にはめこまれている。蝋燭のなめらかな白い側面はずっと上、ウィルの頭のはるか上まで届いていたので、白い炎の輝くさまが、明るい満月のように見えた。
ウィルは立ち止まった。「まず、月だ。それから星々、そして、全て順調なら、彗星《すいせい》。それから星くず。最後が太陽だ」
「なんだって?」ブラァンがたずねた。
ウィルは少年を見たが、本当には見えてはいなかった。目の奥ではブラァンではなく、自分の精神と記憶をのぞき込んでいた。この場所ではウィルは、<光>の用向きで頭が一杯《いつぱい》になった<古老>であり、ほかのことはどれもさほど取るに足らぬことなのだった。「上なる魔法に到《いた》るしるべの順序さ。生まれながらの権利を持つ者しかたどりつけないようになっているんだ」
ブラァンは「何の話か、ちっとも見当がつかない」と言ったが、慌《あわ》てて首を振って弁解した。「ごめん。そんなつもりで言ったんじゃ――」
「気にするな。ついて来ればいい。いまにわかる」
再び足音がこだまし、ふたりは部屋のつきあたりにたどりついたが、そこの床にはぽっかりと穴があいているばかりだった。ブラァンはあやぶむように穴を眺めた。
ウィルは「ぼくのする通りにしろ」と言うと、床に切られたいびつな長方形の穴の縁に腰をおろした。じきに、急勾配《こうばい》になって下へ伸びている階段が見えた。慎重《しんちよう》に体をおろしてみると、階段は幅がせまくて暗く、井戸の中へおりていくような気分だった。両側に手を出すと、どちらの手もすぐに岩に触れ、天井の岩も頭のすぐ上にあった。ウィルはゆっくりとおりていった。続いてブラァンの用心深い脚どりと、カーヴァルのカリッとひっかくような静かな足音が聞こえた。しばらくは上の部屋からの光が追って来て、せまっている壁に震《ふる》える模様を投げかけていたが、やがてそれも薄《うす》れ、階段トンネルには全く明かりがなくなった。側面になめらかな溝《みぞ》が一本ずつくりぬかれているのをさぐりあてた。おりる者の手を支えてくれる手すりとなっているのだ。ウィルは静かに「ブラァン、手を出してごらん――」と言ったが、声が不気味にこだました。
「見つけたよ」ブラァンは言った。「まるで手すりだね。頭のいいやつがいたんだな」言葉は落ち着いていたが、陰に緊張《きんちよう》が感じられた。ふたりの声は、霧《きり》に包まれたかのようにくぐもって、穏《おだ》やかに反響した。
「慎重に来いよ。ぼくが急に立ち止まるかもしれないから」ウィルはそう言うと、本能の声を聞き取ろうと懸命になった。雑多な映像や印象が脳裏《のうり》にひらめいては消えた。何かが呼んでいた。近くで、きわめて近くで――
前に手を出して、危うくただの石壁に衝突《しようとつ》するのを免れた。もうほかに階段はなく、石の行き止まりがあるだけだった。
「どうしたの?」ブラァンが後ろから言った。
「待ってくれ」ウィルの記憶の中に、別世界からのこだまのように、ある指示が拡がりつつあった。最後の一段に両足をしっかり踏みしめると、行く手をはばむざらざらした岩肌に両の掌《てのひら》をぴったりあてて、押した。同時に、頭に浮かんだいくつかの単語を<いにしえの言葉>で口にした。
すると岩は音もなく、鳥岩の上で開いた巨大な門のように、両側に別れた。今回は音楽はなかった。ブラァンとカーヴァルを従えて、ウィルはぼうっと輝く淡い光の中に歩み入った。そして驚嘆《きようたん》の念に打たれたあまり、ただ立ちつくして眺めることしかできなかった。
彼らはもはやもとの場所にはいなかった。どこか別の時代の、世界の屋根に立っているのだった。見わたす限り、伏せられた巨大な黒椀《わん》のような広大な夜空。その中に星々が、何千何万というまばゆい炎の点が燃《も》えていた。ブラァンがハッと息を呑むのが聞こえた。ふたりは立ちつくしたまま、天を仰《あお》いでいた。星はまわりじゅうで輝き、この雄大な宇宙のどこからも音ひとつしなかった。ウィルはめまいに襲われた。あたかも宇宙のぎりぎりの縁にたたずみ、足を踏みはずしたら<時間>の外に落ちてしまうかのようだった……。周囲を眺めるうちに、彼らの置かれている状況においては現実が奇妙に逆転しているのがわかってきた。ウィルとブラァンが時間のない夜空に立って天の星々を観察しているのではないのだ。全く逆で、ふたりのほうが観察されているのだった。惑《わく》星と恒《こう》星からなるその巨大な底無しの半球内にある全ての燃える点が、ふたりに焦点《しようてん》を合わせ、見つめ、考え、判断している。なぜなら、黄金の竪琴の探索に乗り出したことによって、ウィルとブラァンは宇宙を司《つかさど》る上なる魔法の無限の力に挑戦《ちようせん》したからだった。探索の過程において、一度はその力の前に無防備に立たなければならない。生まれながらにその権利を持っている場合にのみ、通ることを許してもらえるのだ。その非情な無窮《むきゆう》の星明りの下では、権利を持たぬ挑戦者は誰であろうと無へと払い落とされてしまう。人間が袖《そで》から蟻《あり》を払い落とすように、苦もなく。
ウィルは待ち続けた。ほかにどうしようもなかった。空に友を捜《さが》すと、鷲《わし》座と牡牛《おうし》座が見つかり、アルデバランが赤く輝きプレアデスがきらめくのが見えた。オリオンが励ましのしるしに棍棒《こんぼう》を振りかざし、肩と爪先のベテルギウスとリゲルが目くばせするのが見えた。白鳥と鷲が輝く天の川に沿《そ》って互いに向かって飛ぶのを見、遠いアンドロメダ大星雲のぼうっとした影と、地球の近い隣人であるタウ・ケティとプロキオンと天狼星《てんろうせい》シリウスを見た。あこがれと希望をこめてウィルは彼らを眺めた。希望と、それからあいさつの意をこめて。かつて<古老>の道を学んでいた時、ウィルはそれらの星々の間を飛翔《ひしよう》したのである。
と、空が回転し、星が傾いて変化した。今や射手《いて》座が頭上を駆け、南十字星を支える青い二重星アクルックスが見えた。海蛇はのんびりと天に寝そべり、その脇を獅子《しし》が勇んで進み、巨大な船アルゴー号が永遠の航海をゆったりと続けた。そしてついに、長く湾曲した尾を持った燦然《さんぜん》たる光点が燃えながら姿を見せて、伏《ふ》せられた天の椀の半分をおおい、堂々と悠然《ゆうぜん》と移動して行った。ウィルは、ブラァンと自分が第一の試練《しれん》を生きのびたのだと思った。
ブラァンの腕をちょっと押すと、白い頭が振り向き、光がキラッと反射するのが見えた。
「ほうき星だ!」ブラァンはささやいた。
ウィルもそっと言い返した。「待ってろ。全て順調なら、続きがある」
彗星の長く広い尾は次第に移動して、この名もない世界と時の地平線の下に沈んで見えなくなった。
だが黒い半球の中で、星々はまだ燃え続け、ゆっくりと動き続けた。その下にいるウィルは自分が全く微々《びび》たるものに感じられ、存在しているのが信じられないほどだった。茫漠《ぼうばく》たる空間に圧迫《あつぱく》され、おどされ、おびやかされていた――と、その時、踊《おど》りにも似た、はねる魚のきらめきにも似た一瞬の動きとともに、空に流星の光が走った。またひとつ、またひとつ、ここでも、あそこでも、そこらじゅうで。ブラァンが喜びにかすかにさえずるのが聞こえた。ウィル自身を満たしたのと同じ、突然の輝かしい歓喜《かんき》のほとばしりだった。星に願いを、とまだほんの幼児だった遠い日々のなごりの声が頭の中でささやいた。星に願いを――人間の目と同じくらい古い、喜びと信仰《しんこう》の叫び。
「流れ星だよ。願いごとをしようよ」ブラァンが耳もとでそっと言った。いたるところで隕《いん》石がさっと流れては消えていた。小さな光る星くずがガスをたなびかせて地球の大気の光輪に触れるたびに、明るく炎を上げて燃《も》えつきてしまうのだった。
どうか、とウィルは頭の中で必死に願った。どうか……ああ、どうか……。
するとあっという間に輝く星空はすっかり消え去り、暗闇が周囲に一気に押し寄せて来たので、ふたりは信じられぬ思いで目をパチクリさせて厚い無を見つめた。彼らは鳥岩の下の階段に戻っていて、足の下には石の段々が、さぐる手には湾曲した石の手すりがなめらかに感じられた。ウィルが片手を前に出してさぐってみると、行く手を阻《はば》む石壁はなくなっていて、解放された空間だけがあった。
ゆっくり、そろそろと暗い階段をおりていき続けるウィルのあとに、ブラァンとカーヴァルが続いた。
やがて、きわめてのろのろとだが、かすかな光が下のほうから射《さ》して来た。三方を取り囲む壁が反射し、足もとの階段の形が見え、ついに、長いトンネル階段がカーブすると、そのカーブのむこうに終点を示す明るい円が見えた。光は明るさを増し、円は大きくなった。ウィルは、自分の足の運びが早く行き着きたくて速まるのを感じて自分を笑ったが、止められなかった。
と、本能に用心するよううながされ、終点まであと、二、三段というところで、光の前で、ウィルは立ち止まった。背後でブラァンと犬が即座に立ち止まるのが聞こえた。ウィルは自分の五感に耳をすまし、どこから警告が発せられたのかつきとめようとした。見るともなしに、いま立っている石段が、岩から細心の注意を払って左右均等になるよう切り出されたものなのが見てとれた。角かどは完璧《かんぺき》な直角をなし、表面はガラスのようになめらかで、あらゆる細部が、つい前日切り出されたばかりのように鮮明だった。にもかかわらず、格段の中央にはそれとわかるほどのくぼみがあった。何世紀にも渡ってここを通った人々の足によってつけられた以外の何ものでもない。だが、すぐにそういったことは目にはいらなくなった。頭の一番奥の隅《すみ》から注意が喚起《かんき》され、何をせねばならないかを教えてくれたのだ。
ウィルは注意深くセーターの左の袖を肘までたくし上げ、前腕をむきだした。腕の下側に、以前あやまって焼きつけられた、焼き印のようなあざになった傷痕《きずあと》が光っていた。<光>のしるし、丸に十字だった。わざとゆっくりと、半ば防御の、半ば挑戦《ちようせん》の動作で、ウィルは腕を曲げて闇の前に掲《かか》げた。まぶしい光から目をかばう時のように、殴《なぐ》られるのを予備して防ぐ時のように、そのまま最後の数段をおり、光の中に歩み入った。床に足がついたとたん、生まれて初めてのしびれるような感覚に襲われた。目もくらむ白光が一閃《いつせん》して去り、すさまじい雷鳴が耳を殴打《おうだ》して去り、猛烈《もうれつ》な爆《ばく》風めいた力が一瞬、体をひきちぎらんばかりに吹きつけて去った。ウィルは息を荒げて、じっと立っていた。自分だけが持っているあの守りのしるしのもとに、上なる魔法の最後の扉《とびら》、いかなる招かれざる闖入《ちんにゆう》者をも太陽の燃焼《ねんしよう》なみのエネルギーの噴出《ふんしゆつ》によって焼きつくしてしまう生きた防壁を、突破したのだとわかった。それから、目の前に拡《ひろ》がる部屋を見て、しばし眩惑《げんわく》されて、太陽そのものを見たと思った。
だだっぴろい洞窟《ほらあな》のような部屋で、天井が高く、石壁に取り付けられた金具の支える松明《たいまつ》の炎によって照らされ、けぶっていた。煙は松明から立ち昇っていた。が、床の中央には大きな明るい火が燃えていた。煙突も煙もないところに、ぽつんと、火はいっさい煙を出さず、白い光を発して燃えていたが、そのあまりのまばゆさは正視にたえないほどだった。突き刺《さ》すような熱気もこの火からは感じられなかった。にもかかわらず、空気は木の燃えるかぐわしい匂いに満ち、薪《まき》特有のパチパチとはぜる音がしていた。
ウィルはブラァンについて来るよう合図して、火のそばを通過した。そして前に待ち構えているものを見てハタと足を止めた。
けぶる部屋の奥に三つの人影があって、ウェールズのなめらかな青ねず色のスレートでできているらしい三つの大きな玉座《ぎよくざ》に腰をおろしていた。三人とも動かなかった。男とみえたが、それぞれ色合いの異なる青の、ずきんつきの長い衣をまとっていた。衣のひとつは群青《ぐんじよう》、ひとつは淡《あわ》い空色、そしてまんなかのひとつは変化にとんだ夏の海の緑青《みどりあお》だった。三つの王座の間には、手のこんだ彫刻の施《ほどこ》された木の櫃《ひつ》がふたつあった。初めは、この大きな部屋の中身はそれで全部に思えた。だがウィルはじきに、火の向こう側の深い影や、照らし出された三人の貴人の周囲の暗がりに、うごめくものがいるのを見てとった。三貴人は暗いキャンバスの上の鮮やかな人物で、人目を引くように照明があてられている。だがそれ以外の暗がりには得体《えたい》の知れぬものがひそんでいるのだった。
三つの人影については、大いなる力こそ感じられたが、それ以外はウィルにはまるで読み取れなかった。また、<古老>としての五感にも、周囲の闇の内部を見通すことはできなかった。あたかも、いかなるまじないをも通さぬ目に見えぬ壁がはりめぐらされているかのようだった。
ウィルは王座の少し手前に立ち、振り仰《あお》いだ。三人の貴人の顔は衣のずきんの陰に隠されている。一瞬《しゆん》、沈黙《ちんもく》があった。火の燃え盛る静かな音だけが静寂《せいじやく》を破った。やがて影の中から低い声が聞こえた。「よくここまで来た、ウィル・スタントン。そのいさおしにふさわしい名で呼ぼう。ウィル・スタントン、『しるしを捜《さが》す者』よ」
「ごあいさつ申し上げます」ウィルは精一杯の力強く澄んだ声で言い、あざのある腕に袖をひきおろした。「きょうは死者の日です」
「さよう」一番淡《あわ》い青衣の男が言った。ずきんの落とす影の中の顔は細く、目はぎらつき、声はか細くてサ行がひどく強調されていた「さ・よう……」暗がりから蛇のようにこだまが走り、背後の名状しがたいいくつもの影から何百というほかの小さな声がスーッと音をたてているように聞こえて、ウィルは首すじが総毛だった。後ろにいるブラァンがかすかな呻きを洩らすのを聞き、恐怖が白いもやのように頭の中に忍《しの》び入ったのだと察せらせた。ウィルの<古老>としての力が反発した。「何か?」とウィルは冷《ひや》やかに切り返した。
恐怖が風にさらされた雲のように薄れ、淡青の衣の貴人が低い声で笑った。ウィルは心を許さず、眉をひそめてその男を見つめ続けた。ジーパンとセーターを身に着けた小柄ながっちり型の少年にすぎなかったが、これら三人の貴人との対面に値するだけの力を持っていることは自分でよく心得ていた。今やウィルは自信を持って言った。「きょうは死者の日、そして、鳥の戸をくぐって、いと若き者が古山を開いたんです。上なる魔法の目にも、通ることを許されました。殿《との》がたよ、黄金の琴を頂《いただ》きに参りました」
海青の衣を着た第二の人物が言った「鴉の童子もそれにおるな」
「はい」
ウィルはためらいがちに火のそばに立ち止まっているブラァンを振り返り、さし招いた。ブラァンは糖蜜《とうみつ》の中を歩いているかのような気の進まない足取りでのろのろと前へ出、ウィルの隣りに立った。壁の松明《たいまつ》の光が白い壁に輝いた。
海青の人物は王座から少し乗り出した。鋭《するど》い、力強い顔と、尖《とが》った灰色のあごひげがかいまみえた。驚いたことに貴人は、「カーヴァル?」と言った。
ブラァンの傍《かたわら》に白犬はまっすぐに立っていたが、小刻《きざ》みに震えていた。ここがおまえの居場所だと命令するものが自分の中にあるのか、一インチも先へは進まなかったが、尾だけは左右に激しく振り立てられていた。ブラァン以外の誰のためにもそれほど振られたことはなかった。静かなクーンという鳴き声が洩れた。
白い歯がずきんの中で光った。「よい名をつけた。よい名だ」
ブラァンが、ふいに懸念に駆られて、ねたましげに叫んだ。「ぼくの犬です!」そしてくぐもった声で「殿《との》」とつけ加えた。自分の無鉄砲さに怖《こわ》くなったのだとウィルにはわかった。
だが、ずきんの陰からの笑い声はやさしかった。「恐れることはない、子供よ。上なる魔法はそなたの犬をそなたから取り上げたりはせぬ。<古老>も然《しか》り。<闇>は、取ろうとはするかもしれぬが、成功はせぬであろうよ」ふいにぐっと身を乗り出したので、一瞬、ひげをたくわえた顔がはっきり見えた。声がやわらぎ、その中に痛いほどの悲しみが感じられた。「子供よ。互いに奪《うば》い合うのは地に生きる者だけなのだ。あらゆる生き物の中でも、人間はその最たる者だ。生命も、自由も、他の者が持つものは何であろうと奪ってしまう――時には欲から、時には愚《おろ》かしさから。だが常に、おのが意志で、おのれの種族に心するのだぞ、ブラァン・ディヴァーズよ――つまるところ、そなたを傷つけるのは彼らだけなのだ」
その声の中に深い悲しみを感じ取ったウィルの中に恐れが湧き起こった。声には、ブラァンひとりに向けられたいたわりの響きがあったのだ。まるで、このウェールズの少年が何か長い悲劇の縁に立っている。とでもいうように、このふたりの間に謎《なぞ》めいた結びつきがあるのをウィルはすばやく察した。海青の衣の貴人は、わけは説明できないながら、ブラァンに力と助けを与えようとしているのだ。だが、ふいにずきんの人物が体を起こしたので、雰囲気が一変した。
ウィルはかすれた声で言った。「とはいえ、この種族の権利を守ることこそ、常に<光>の目的でした。その権利の名において、黄金の琴を下さるよう要求します」
最初に口をきいた一番淡い衣の、低い声の貴人が、パッと立ち上がった。衣が青い霧のようにまわりにひるがえり、光る目がずきんの奥に蒼《あお》白く浮かび出た細い顔のなかでぎらついた。
「<古老>よ、掟《おきて》に従い、三つの謎《なぞ》に答えてもらおう。そのほうと、そこなる白いカラス、そのほうの協力者とな。みごと答えれば、琴はそのほうらのものだ。だが、誤りをおかさば、岩の扉は閉ざされ、そのほうらは寒い山頂に身を守るすべとてなく取り残され、琴は<光>の手よりとこしえに失われることとなるのだぞ」
「答えましょう」ウィルは言った。
「子供よ、まず、そのほうからだ」青い霧が再びひるがえった。骨張った指がブラァンをさし、影の中でずきんに包まれた頭がそちらに向けられた。ウィルも案じながら振り向いた。半ば予期していたことだった。
ブラァンはぎょっとなった。「ぼく? だって――だって、ぼくは――」
ウィルは手を出してブラァンの腕に触れた。「やってみるんだ。とにかく、やってみるんだ。そのためだけに来てるんだよ。もし答が君の中で眠っていれば、自然にめざめてくれる。なければ、ないでいい。とにかく、やってごらん」とやさしく言った。
ニコリともせずにウィルを見つめるブラァンののどが、ゴクリと生つばを呑み込んで動くのが見えた。白い頭は正面に向き直った。「わかった」
低い、スウスウ言う声がたずねた。「この世の三長老の名は?」
言葉に秘《ひ》められた意味を知ろうと、ブラァンの頭が慌てふためいてぐるぐる回るのが感じられた。助けてやりようがなかった。この場所においては、<古老>が他人の脳裏に考えや映像を送り込むことは、それがどんなに小さいものであれ禁《きん》じられている。上なる魔法が阻《はば》んでいるのだ。ウィルにできるのは、ブラァンの頭の中で起きていることを聞き取ることだけだった。それで、友人の思考が秩序《ちつじよ》を求めて必死に七転八倒《とう》する、その混乱ぶりにじっと耳をすますことしかできなかった。
ブラァンはもがいた。この世の三長老……どこかに答えはある……風変わりでありながら、おぼえのある言葉だ。どこかで見るか、読むかしたみたいな……最も年を取っている三つの生き物、最古の三つのもの……学校で読んだのだ。それも、ウェールズ語で……最古のもの……
いじっていれば頭がはっきりするかのように、ブラァンはシャツのポケットから黒メガネを出した。そしてそこに映った自分の目に見つめられているのに気づいた。不思議な目……気味の悪い目、と学校では言われる。学校で。学校で……奇妙《きみよう》な丸い、黄色い目、ふくろうのような目。ゆっくりとメガネをポケットに戻しながら、頭はこだまのような声をさぐり求めていた。傍《かたわら》で、カーヴァルがごくわずかに体をずらし、頭がブラァンの手に触れるようにした。毛が指をこすった。軽く、きわめて軽く、羽根がなでたように。羽根。羽根、羽根……
わかった。
そばにいたウィルは、安堵の潮が自分の精神にまで届くのを感じ、嬉《うれ》しさを爆発《ばくはつ》させまいとした。
ブラァンは背すじをのばし、咳払いをした。「この世の三長老は、クウム・カウルーアドのふくろう、グウェルナブイの鷲《わし》、それにケフリ・ガダルンのつぐみです」
ウィルは小声で言った。「ああ、よくやった! よくやった!」
「正解だ」と、背の高い貴人の細い声が無感動に言った。早朝の空のような淡青の衣が目の前でひるがえり、男は玉座に再び沈みこんだ。
中央の玉座から海青の衣の貴人が立ち上がり、前に進み出てウィルを見おろした。灰色のひげの後ろの顔は、海に出て長い水夫のように茶色でしわだらけだったにもかかわらず、妙に若々しく見えた。
「ウィル・スタントン」と貴人は言った。「ブリテン島(英国本土)の寛大なる三人は誰だったか?」
ウィルは男を凝視《ぎようし》した。謎は解答不能ではない。答えは記憶のどこかに横たわっている。偉大な仙術の書から吸収しておいたのだ。最後の<古老>であるウィルが内容を知るやいなや破壊されてしまった、あの<光>の魔術の宝典から。ウィルは精神に調査を開始させた。が、同時に、もっと深い謎に悩まされた。ブラァンに関心を寄せている、この海青衣の貴人は誰なのだろう? カーヴァルのことも知っていた……明らかに上なる魔法の君のひとりだが、見たところどこか……どこか……
ウィルは不思議がるのをひとまずやめた。謎の答えが記憶の表面に浮かび上がったのだ。
ウィルははっきりと言った。「ブリテン島の寛大なる三人。寛大なるニズ、センフリトの子。寛大なるモールダヴ、セルワンの子。寛大なるリーゼルフ、ティードワル・ティドグリドの子。この三人にもまして寛大なりしはアーサーその人なりけり」
最後の一行に達すると、声をわざと広間じゅうに鐘のごとく鳴り響かせた。
「正しい」ひげの貴人は考え深げにウィルを見て、もっと何か言いたげだったが、ただゆっくりとうなずいただけだった。そして衣を海青の波のようにサッとひきよせると玉座に戻った。
広間は、火の揺れる明かりが投げる躍る影に満たされて、前よりも暗くなったように思われた。少年たちの背後で急に光がきらめき、音がした。薪が一本落ちて炎をあげたのだが、ウィルは本能的に振り返った。再び前を向いた時には、それまではしゃべりも身動きもしていなかった第三の人物が、玉座の前に無言ですっくと立っていた。衣は深い、深い青で、三人の中で一番濃《こ》く、ずきんが前にひきさげられているので顔は全く見えず、影があるだけだった。
その声はチェロの音色《ねいろ》のように深く、よく響き、広間で唯一《ゆいいつ》の音楽となった。
「ウィル・スタントン」と声は言った。「海を恐れる渚《なぎさ》とはなんだ?」
ウィルは手を握《にぎ》りしめて思わず前に出かけた。その声はウィルの一番奥深いところに触れたのだった。間違いない、この声は……だがずきんの中の顔は隠《かく》され、見わけるすべは与えられていなかった。大きな三つの玉座に五感を届かせようとしても、ことごとく上なる魔法の無表情な拒絶《きよぜつ》の壁に出会うばかりだった。ウィルは今度も諦《あきら》め、最後の謎《なぞ》に頭を向けた。
ウィルはゆっくりと言った。「海を恐《おそ》れる渚……」
さまざまな映像が脳裏にひらめいては消えた。岩だらけの海岸に激突する大波……大海の、奇妙な生物が棲息《せいそく》しているティーシスの王国のみどりの光……それから穏《おだ》やかな海、ゆったりとしたうねりの波に現れるはてしない金色の浜辺。渚《なぎさ》……浜……浜《ビーチ》……
映像はゆらめいて変化した。溶《と》けたと思うと、みどりまだらの森と化した。ねじくれた古木の太い幹は、奇妙な明るい灰色の皮におおわれてなめらかだ。木の葉が頭上で踊った。やわらかい、春の全てを秘《ひ》めているようなやさしいみどりの鮮《あざ》やかな若葉。勝利感がウィルの脳裏にきざしはじめた。
「渚《なぎさ》とは」とウィルは言った。「浜辺《ビーチ》の波打ち際。だが、同時に、美しい細かい木目の木材でもあります。たがねの握りや椅子の脚、ほうきの柄や荷馬の鞍《くら》の芯《しん》に用いられる木です。あなたがたの玉座の間の、そのふたつの櫃《ひつ》もそれを細工したものだと、ぼくには言い切れます。用いることができない場所は露天《ろてん》と海上の二箇所だけ。なぜなら、この材木は水にさらされるとその性質が損《そこな》われるからです。殿よ、あなたの謎《なぞ》に対する答えは、ビーチ(ぶな)の木からとれる木材です」
炎が背後で躍《おど》り上がり、にわかに広間は煌《こう》々と照らされた。喜びと安堵《あんど》が宙《ちゆう》を飛んで押しよせるように思われた。最初のふたりの青衣の貴人も、玉座から立ち上がって三人目と並んだ。三つの塔のように、ずきんに包まれたまま少年たちの前にそびえ立った。第三の男が群青《ぐんじよう》の衣のずきんを後ろへ払い落とし、鋭いワシ鼻と窪《くぼ》んだ目と白い蓬髪《ほうはつ》を持った頭部をあらわにした。そして識別を阻んでいた上なる魔法の障壁《しようへき》がなくなった。
ウィルは喜びの声を上げた。「メリマン!」
父親に駆け寄る小さな子どものように背の高い人物に駆け寄ると、差し出された手を握りしめた。メリマンが見おろしてほほえんだ。
ウィルは嬉しさに声を上げて笑った。「わかってたんだ。ぼく、わかってた。けど……」
「ようこそ、<古老>よ」メリマンが言った。「これによって、君は輪の完全な一員となった。探索の部分にしくじっていたなら、全てが失われていたところだ」顔の厳《きび》しい、いかつい線は愛情になごんみ、色の濃い目は黒い松明のように燃えていた。それからブラァンのほうを向き、少年の両肩をつかんだ。ブラァンは白い、無表情な顔でメリマンを見上げた。
「それから、鴉の童子よ」低い声がやさしく語りかけた。「また会えたな。よくつとめを果たした。果たせることはわかっていたが。頭を誇らかにもたげるがよい。ブラァン・ディヴィーズよ。君の中には偉大なる遺産が秘《ひ》められているのだ。多くのことが君に求められた。まだまだ沢山《たくさん》求められるだろう。まだまだ沢山」
ブラァンは猫《ねこ》のような目でまたたきもせずにメリマンを見ていたが、無言だった。ウェールズ少年の気持ちに耳を傾けていたウィルは、不安と当惑のまじった喜びを感じ取った。
メリマンは一歩さがった。「上なる魔法の君のうち三人が、何世紀にも亘《わた》って黄金の琴を保管して来た。この場所においては敵味方は存在せぬ。まだ君たちが知らぬ他の場所同様、ここでも全ては掟《おきて》に従っているのだ。私が<光>の君であり、あちらにいる同役が<闇>の君である事実も、ここでは何ら意味を持たぬ」
メリマンは淡青の衣をまとった背の高い人物に、皮肉っぽいかすかなおじぎをした。ウィルはハッと理解して息を呑み、ずきんに隠された細い顔をのぞこうとした。が、顔はウィルからそむけられ、広間の暗がりをじっと見つめていた。
海青の衣の中央の人物が一歩前へ出た。大いなる威厳《いげん》を静かに漂わせ、自分がその広間で最も位の高い者であることを知っているせいか、ことさらにいばっていないのに自信に満ちて見えた。ずきんが後ろへやられ、短いあごひげに縁取られた顔の力強さとやさしさがすっかり見えた。ひげは灰色だったが髪は茶色で、わずかに白髪がまじっているだけ。齢《よわい》半ばにさしかかった男、力はまだ失っておらず、叡智《えいち》は既《すで》に手にしている。そういう年齢の人間に見えた。いや、とウィルは思った。人間のはずはない……
メリマンが脇へ一歩ひき、恭々《うやうや》しく頭を下げた。「わが君」
ウィルはついに理解し始めて、目を丸くした。
ブラァンの傍《かたわら》で、犬のカーヴァルが前と同じ愛情のこもった声をたてた。澄《す》んだ青い目がブラァンを見おろし、ひげの貴人はそっと言った。「わが国においてそなたが幸運に守られんことを、わが子よ」そして、とまどったブラァンに見つめられると、体をまっすぐに伸ばして声を高め、「ウィル・スタントン」と呼びかけた。「われらが玉座の間にふたつの櫃《ひつ》がある。余の右にあるほうをあけて、中にある品を取り出すがよい。いまひとつの箱はこのまま封印《ふういん》しておく。万一の時に備えて、そのような時が来ぬことを願うが。さあ、あけてみよ」
男は向きを変え、ゆびさした。ウィルは大きな木彫《ぼ》りの櫃に歩み寄り、装飾《そうしよく》的な鍛鉄《たんてつ》の止め金をひねり、蓋《ふた》を押した。蓋はきわめて幅が広く、彫刻を施された木はきわめて重かったので、ひざまずいて両腕の力をふりしぼらなければならなかった。だが、ブラァンが手伝おうと一歩踏み出したのを見てとると、ウィルは来てはいけないというように首を振った。
大きな蓋はゆっくりと持ち上がり、あいた。一瞬、歌にも似た繊細《せんさい》な音が空中に漂った。ウィルが櫃の中に腕を差し入れ、再び体を起こした時には、両腕で小さな、輝く黄金の琴を抱《かか》えていた。
広間に漂っていたかすかな音楽は消え失せ、代わりに遠い雷鳴のような低い響きが次第に高まった。音はどんどん大きくなり、近づいてきた。一番淡い、空色の衣の貴人が、まだずきんで顔を隠したまま、一同から離れた。衣の端をつかむと腕をさっと動かして体に巻きつけた。
火がジューッと音をたてて消えた。黒く苦い煙が広間を満たした。雷鳴が周囲に炸裂《さくれつ》した。そして空色の衣の貴人はすさまじい怒りの叫びを上げ、姿を消した。
風見る銀目
ほの暗い中に、彼らは黙って立っていた。どこか、岩山の外で、雷はまだゴロゴロと唸った。壁の松明《たいまつ》がゆらめき、いぶって燃えていた。
ブラァンがかすれ声で言った。「あの人――あの人が――」
「いや」メリマンが言った。「あれは灰色の王ではない。だが王のそば近くで仕《つか》える者で、いまも王のもとに帰って行ったところだ。彼らの怒りはますます高められるところだろう。不安にとぎすまされた怒りだ。新たな力の品を得たいま、<光>が何をするか不安でならないのだ」と骨張った顔を懸念に硬《こわ》ばらせてウィルを見た。「探索の最初の危険は突破された、<古老>よ、だが本当に危険なのはこれからだ」
「<眠れる者>たちを起こさなきゃならないんだね」ウィルが言った。
「さよう。われらにはまだ、彼らがどこに眠っているかはわかっておらぬ。君が見つけ出すまではわからぬだろう。だが、灰色の王にきわめて近いところ、危険なまでに近いところなのはほぼ確実だ。灰色の王がこの地域を厳しく冷たい手でしっかりと掌握《しようあく》しているのには理由があると、われらには以前からわかっていた。だが、それがなんであるかは理解できなかった。昔より常に、幸せな美しい谷間だったと言うのに、灰色の王はここに王国を築くことを選んだ。同類のほとんどが選ぶ荒涼《こうりよう》たる辺境ではなく。その理由はひとつしかない。やっといま、明らかになった。<眠れる者>の横たわる場所の近くにいるため、彼らの休息の場所を掌中《しようちゆう》におさめておくためだったのだ。この大岩、クライグ・アル・アデーリンがいまだに王の掌中にあるように……」
ウィルの丸顔が沈んだ。「ここまで無傷でつれてきてくれた護《まも》りの呪文はもう解けちゃった。一度しか唱えられないし」と言ってくやしそうにブラァンを見た。「ここを出たら、面白《おもしろ》いお迎《むか》えが来てるかもしれないよ」
「案ずるな、<古老>よ。そなたはもはや新たな護符《ごふ》を手にしておる」
その言葉は深く、やさしく、広間の奥から聞こえた。振り向いたウィルは、ひげの貴人が、夏の海のように青い衣に包まれて、再び影の中の玉座《ぎよくざ》についているのを見た。貴人がしゃべるにつれ、広間が次第に明るくなるように思えた。松明《たいまつ》の炎が大きくなり、松明と松明の間の石壁に、長い剣《つるぎ》が何本も下げられ光っているのが見えるようになった。
「黄金の竪琴の音《ね》には」と青衣の貴人は言った。「<闇>にも<光>にも破れぬ力がこもっている。上なる魔《ま》法が秘《ひ》められている。琴が奏《かな》でられている間は、その庇護《ひご》下にある者はいかなる呪文や危害からも安全なのだ。金の琴を奏でよ、<古老>よ。その調べがそなたらを安全の衣で包んでくれるであろう」
ウィルはゆっくりと言った。「魔法を使えばぼくにも弾けます。けど、上手な指先で巧《たく》みに弾かれるのが本当でしょう。ぼくは弾き方を知りません、わが君」と、ちょっと間をおき「ですが、ブラァンは知ってます」
ブラァンはウィルがさし出した楽器を見おろした。
「でも、こんな琴は初めてだ」と言った。
そう言いはしたが、ウィルから琴を受け取った。枠《わく》はほっそりとしていたが飾《かざ》りが施され、黄金の葉と花をつけた黄金のツタがからみつき、絃の合い間を縫って見えるようにこしらえられていた。絃そのものまで黄金でできているかに見えた。
「弾いてみよ、ブラァン」ひげの貴人がそっと言った。
試みに左腕を曲げて琴を支えると、ブラァンはやさしく絃に指を走らせた。そこからほとばしった音のあまりの甘美《かんび》さに、傍らのウィルは驚きに打たれて息を呑《の》んだ。これほどまでに繊細でありながら、同時にこれほどまでによく響く音は聞いたことがなかった。音は、夏鳥ののどからこぼれる唄のように広間に満ちた。魅了《みりよう》され、夢中になったブラァンは、古いウェールズの子守唄のもの悲しいふしを拾い始め、右手の下の絃の感触に自信が増すに従って、次第に装飾音を付け加え、調べをふくらませていった。演奏に打ちこんでいる音楽家特有のひたむなき表情がその顔に見てとれた。玉座の貴人とメリマンを一瞥《いちべつ》したウィルは、彼らもまたこの一瞬は陶然《とうぜん》として、唄われる呪文からこぼれ出る上なる魔法のように溢《あふ》れ続けるこの世ならぬ楽の音によって、時間の外へと誘《いざな》われているのがわかった。
カーヴァルは音ひとつたてず、ただブラァンの膝《ひざ》に頭をもたせかけていた。
メリマンが、音楽のさなかに低い声でささやいた。「さあ、行け、<古老>よ」影の中の窪《くぼ》んだ目が一瞬ウィルと合い、信頼と希望を強く伝えた。ウィルはもう一度だけ、暗い衣に包まれた木のように背の高い人物と、玉座にじっと腰をおろしている名も知らぬひげの貴人のいる、松明に照らされた天井の高い広間を見回した。それから回れ右をして、まだ静かに曲を奏で続けているブラァンを、最初の部屋に通じている細い石段へと導《みちび》いた。ブラァンを先に登らせると、ウィルは振り返って片腕を上げてあいさつをしてから、あとに続いた。
ブラァンは階段の上の石の部屋に立って、カーヴァルとウィルが上がって来る間、弾き続けた。弾くにつれ、部屋の端ののっぺらぼうの壁にぽつんと飾られている金の楯の下に、最初に鳥岩の心臓部にはいり込むためにくぐりぬけた両開きの大扉《とびら》が形を現した。
琴の音がさざめき、唄うように次第に高くなると、扉はゆっくりと内側に開いた。その向こうに、岩の亀裂の切り立った壁にはさまれた。灰色の曇《くも》り空が見えた。山にはもはや火は燃えさかっていなかったが、焦げたものの強烈な、死んだような臭いが漂っていた。ふたりが戸をくぐると、カーヴァルが脇をすり抜けてとび出し、亀裂を抜けて姿を現した。
また失うのでは、とふいに怖くなって、ブラァンは弾くのをやめて「カーヴァル! カーヴァル!」と呼んだ。
「ごらん!」ウィルが小声で言った。
ウィルは振り返って後ろを見ていた。ふたりの背後で、丈の高い岩の戸板は音もなく閉じ、溶けて存在しなくなったように見えた。過去何千年と変わらぬすり減った岩肌だけが残った。そして空気中に、やさしい旋律《せんりつ》の最後のひとふしがかすかに聞こえて去った。だがブラァンはカーヴァルのことしか頭になかった。岩をちらりと見ると、琴を腕の下にかいこんで、犬が出て行った亀裂の入り口をめざした。
そこまで行き着ける前に、細かい灰の雲をけたてて、白い渦巻がとびこんで来て唸りを上げて足を蹴り上げたので、乱暴《らんぼう》に横につきとばされたブラァンは危《あや》うく琴を落とすところだった。とびこんできたのはカーヴァルだった。だが、狂乱し、たけり狂う、変わり果てたカーヴァルで、ふたりに牙を向き、にらみつけ、敵ででもあるかのように亀裂の奥へと追い込んだ。あっという間に仰天《ぎようてん》しているふたりを岩壁にへばりつかせ、彼らの前にうずくまって口の横から長い牙を冷たくむきだしにしていた。
「どういうこと?」息を詰めすぎて口を開かずにはいられなくなったブラァンが、呆けたようにたずねた。「カーヴァル? どういうつもり――」
わけはすぐにわかった――否《いな》、考えている暇があったならわかっただろう。突如《とつじよ》、取り巻く世界全体が騒音《そうおん》と破壊のるつぼと化したのだ。焦げた折れ枝が亀裂の入り口をビュンビュンかすめ、石ころがどこからともなくどっと降ってきて、ふたりは本能的に身を縮《ちぢ》め、頭をおおった。地面に伏せて床と岩壁が出会う隅に体をぴったりつけた。カーヴァルもすぐそばにいた。まわりじゅうで、風が咆哮《ほうこう》し、信じがたいほど増幅されたかん高い狂気の悲鳴と共に岩をかきむしった。あたかもウェールズじゅうの空気が全部、ほろびの大竜巻《たつまき》となってこの一角に吸い込まれ、手が届かぬためなおさら怒り狂って、ふたりが必死にうずくまっている避難《ひなん》所の狭い入り口をめちゃくちゃに殴打《おうだ》しているかのようだった。
ウィルは肘と膝をついて何とか体を起こし、片手でさぐりまわってブラァンの腕をつかまえた。「琴を!」としゃがれ声で言った。「弾くんだ!」
ブラァンは頭上の轟音に放心したようにウィルを見たが、ハッと心づいた。岩壁の間から吹きつけてくる恐るべき風圧のもとでやっと起き上がると、黄金の琴をきつく体に押しつけ、右手でおそるおそる絃《げん》をかき鳴らした。
たちどころに風勢が弱まった。ブラァンが奏で始め、甘やかな音があげひばりの歌のようにこぼれるにつれ、さしもの大風もすっかり止んでしまった。外には、ゆるんだ小石がそこかしこでひとつずつ岩の上を転《ころ》がり落ちる音しかしなかった。一瞬、ひとすじの日光が斜《なな》めに射《さ》し込んできて黄金の琴をキラリとさせた。と思うとかげり、そのため、空が以前よりも暗く、世界が以前よりも灰色に見えた。カーヴァルがパッと立ち上がってブラァンの手をなめ、暴風の怒りから彼らを守ってくれた狭い亀裂の外の斜面へと彼らを穏やかに連れ出した。やわらかな雨が降り出すのが感じられた。
ブラァンはのんびりと、だが止むことなく指を絃に走らせ続けた。もう手を止めるつもりはなかった。ウィルを見て、黙ったまま、驚嘆と後悔と質問を一緒くたにして首を振った。
ウィルはしゃがんでカーヴァルの鼻づらを両手ではさんだ。そして犬の頭をそっと左右にゆさぶった。「カーヴァル、カーヴァル」と感にたえぬように言い、肩ごしにブラァンにたずねた。「グイント・トラエド・ア・メイルウ。この発音でいいのかい? 灰色の王は古代から言いならわされた北風の全勢力をぶつけて来たんだよ。死者の脚のまわりを吹く風のさ。カーヴァルがいなかったら、ぼくらも死者の列に加わるところだった――あすよりも遠い時の中へ吹き飛ばされてね。しなった木一本目にする暇《ひま》もなく襲われていただろう。うんと高い所から吹きおろして来たし、人間の目には見えないから。けど、君のこの犬は銀の目を持つ犬だ。風を見ることのできる犬だ……そして、現に見て、何が起きるか悟って、ぼくらを安全なところに押し戻してくれたわけだ」
ブラァンが気がとがめたように言った。「そもそもぼくが弾くのをやめなければ、ブレーニン・フルイドは風を送ることすらできなかったかもしれないね。琴の魔法がやめさせただろうから」
「かもな。けど、それでも送ってきたかもしれないよ」とウィルはもう一度カーヴァルの頭をなでさすると、立ち上がった。白い牧羊犬は、笑いかけているように舌《した》を垂らしてブラァンを見上げた。ブラァンは愛情をこめて「ルアト ティン ギ ダ。いい子だ」と言ったが、それでも指を動かすのはやめなかった。
彼らはゆっくりと岩山をおり始めた。昼ひなかだというのに、空は少しも明るくなっておらず、灰色で雲がびっしりだった。雨はまだ本降りになっていなかったが、このまま一日中あがらないであろうことは明らかだった。谷はもはやこれ以上の火災の危険に脅《おびや》かされてはいなかった。山と鳥岩と谷の縁のこちら側一帯は黒く焦《こ》げていて、ところどころでまだわずかに煙が立ち昇《のぼ》っていた。が、火の粉は全て溺《おぼれ》れ死にしていて、灰も冷たく濡《ぬ》れていた。みどりの農地がたきつけの状態に戻《もど》ることは、今年じゅうにはまずあるまいと思われた。
ブラァンが言った。「雨を招《よ》んだのもこの琴?」
「だと思う」ウィルは答えた。「ほかに何も招ばないでくれることを願うよ。上なる魔法の欠点はそれなんだ。<いにしえの言葉>と同じでね――守ってくれる代わりに、目じるしにもなってしまう。敵《てき》に見つけられやすくなるんだ」
「もうじき谷に出られるよ」ブラァンは言ったが、同時に濡れた岩肌に足をとられ、横によろめいて、転ぶのを防ごうと手近なやぶをつかみ――琴を落とした。調べがとぎれた瞬間、カーヴァルが頭をさっと上げ、怒りと挑戦《ちようせん》のまじった声で猛然《もうぜん》と吠え出した。犬は突き出た岩にとび乗ると、身構えたまま周囲をキョロキョロ見回した。と、吠えるのがふいに、猟犬のような怒りの雄《お》たけびに変わり、カーヴァルは跳躍した。
巨大な灰色狐、ミルグウンの王は空中で向きを変え、雌《め》狐のような悲鳴を上げた。鳥岩をまっしぐらに駆けおりて上から少年たちめがけてとび出し、ブラァンの頭と首をねらったのだった。が、カーヴァルの猛然《もうぜん》たるひとっとびにバランスを崩《くず》され、あおりをくらって横にとばされ、岩の上を転がり落ちた。再び絶叫《ぜつきょう》し、その不自然な声に少年たちは震《ふる》え上がったが、狐は立ち止まって敵を迎え撃《う》とうとせず、狂ったように山を一目散《いちもくさん》に駆けおりていった。勝ち誇って喜ばしげに吠えながら、カーヴァルもあとを追って突っ走った。
そして、灰色の雨空のしたのからっぽの岩の上のウィルは、たちまち目もくらむような災いの予感に襲われ、思わず手を伸ばして金の琴をつかむと、ブラァンに叫んだ。「カーヴァルを止めるんだ! 止めろ! 止めるんだ!」
ブラァンは怯《おび》えた目でウィルを一瞥し、すぐにカーヴァルのあとを追ってとび出し、走ったりつまずいたりしながら、必死に犬に戻るよう呼びかけ続けた。竪琴を片腕にかかえて岩山を駆けおりながら、ウィルはブラァンの白い頭が手前の畑を突っ切って行くのを見、その先にどんどん遠ざかるぼやけた点を見た。灰色狐を追っているカーヴァルだ。不吉な予感にめまいを覚えながら、ウィルも走った。まだ斜面の上なので、畑をふたつ越えたところにカラードグ・プリッチャードの農場の建物の屋根と、やはりそのあたりに灰がかった白の羊の群れと人々の姿があるのを見ることができた。ウィルは慌《あわ》てて立ち止まった。竪琴《たてごと》! 誰かに見られたら、説明のつけようがない。じきに人に行き合うに決まっている。琴を隠さねば。だが、どこに?
ウィルはあせってあたりを見回した。この畑は火にやられていない。畑のはずれに、小さな掘立《ほったて》小屋があるのが見えた。石の壁を三方にめぐらせ、スレートの屋根を乗せただけの代《しろ》物で、羊のための冬の避難《ひなん》所か、冬餌《え》の倉庫に使われているのだろう。既にま新しい干草の梱《こり》が一杯に積み上げられていた。駆け寄ると、ウィルはきらめく竪琴をふたつの梱の間に押し込み、外からはまるで見えないようにした。それから二、三歩さがると、片手を前に突き出し、<いにしえの言葉>でカエル・ガラダウグの呪文を唱え、琴に魔法をかけた。これで、琴を取り出すことはおろか、目に見えるようにすることすら、<古老>の歌によってのみ可能になったのだった。 それが済《す》むと、ウィルはプリッチャード農場めざして大急ぎで畑を横切った。遠くどなり合う声が、そこで追跡《ついせき》が終わったことを示していた。農場の建物の後ろの野原で、カーヴァルを振り切ろうと灰色の大狐が小回りや跳躍を繰《く》り返していて、それにカーヴァルがぴったりつきまとっているのが見えた。狐は狂気にとりつかれたのか、あごから白い泡をしたたらせていた。息を切らせて農場の庭によろめき入ると、ブラァンが木戸のそばの人と羊の集団を通り抜けようとしていた。ジョン・ローランズもいたし、オーウェン・ディヴィーズもウィルの叔父と一緒にいた。彼らの衣服や疲《つか》れた顔は、火と戦ったあとのススでまっくろだった。カラードグ・プリッチャードもいて、銃を腕に抱えて険悪《けんあく》な顔をしていた。
「あの犬め、気がふれとるんだ!」プリッチャードが唸った。
「カーヴァル! カーヴァル!」ブラァンは必死に人ごみをかきわけ、羊をけ散らし、だれにも目もくれずに野原とび出した。プリッチャードがにらみつけ、オーウェン・ディヴィーズがとがめた。「ブラァン! どこにいた? どうしようというんだ?」
鳥岩でやったように、灰色狐は空中高くとび上がった。カーヴァルも跳躍し、空中で咬《か》みつこうとした。
「ほんとだ。狂ってる」デイヴィッド・エヴァンズが残念そうに言った。「羊がやられる――」
「あの狐をやっつけようとしてるだけだよ!」ブラァンの声はあせりのあまりかん高くなった。「カーヴァル! タルド アマ! もうほっとけ!」
ウィルの叔父は聞こえたことが信じられない、というようにブラァンを見た。それからウィルを見おろし、きょとんとして言った。「狐って?」
ウィルの頭の中が爆発《ばくはつ》した。全てがわかって声を上げた。が、遅すぎた。野原の灰色狐が振り向いて、人々めがけて突進して来た。カーヴァルもついて来た。ぎりぎりのところで狐は横へ折れ、怯えて木戸のそばをどうどうめぐりしている羊の一頭にとびかかり、そのむくむくののどに牙を沈めた。羊は悲鳴を上げた。カーヴァルは狐にとびかかった。二十ヤード離れたところにいたカラードグ・プリッチャードが怒りのわめき声を発し、銃を上げ、カーヴァルの胸板を打ち抜いた。
「カーヴァル!」ブラァンの愛と恐怖に満ちた叫びがウィルを打ちのめし、苦痛に目を閉じさせた。その声の痛ましさが永久に耳について離れないだろうとわかった。
灰色狐はウィルが自分を見るまで立ち止まって待っていた。目が合うとニヤリとし、まっかな舌を、もっと赤い血をしたたらせている口からダラリと出してみせた。見間違えようもない嘲笑《ちようしよう》に顔を歪《ゆが》めてじっとウィルを見つめていた。それから、矢のように一直線に畑を駆け抜け、遠くの生垣をとび越えて見えなくなった。
ブラァンは犬の傍《かたわら》にひざまずき、しゃくり上げながら、白い犬の頭を膝に抱いていた。必死にカーヴァルに呼びかけ、耳をまさぐり、一度だけ、諦めきれずに頬を犬のなめらかな首すじにすりよせた。だが手の施し様はなかった。胸はめちゃめちゃにつぶれ、銀色の目はみひらかれ、にごっていた。カーヴァルは死んでいた。
「殺し屋のくそ犬め!」プリッチャードはまだ怒りの言葉を口走っていたが、一種の野蛮《ばん》な満足感にひたっているようだった。「もうおれの羊は殺させないぞ! いい厄介《やつかい》払いだ!」
「狐を追ってただけだったのに。あんたのおいぼれ羊を助けようとしてたのに!」ブラァンは言葉をのどにつまらせて泣き出した。
「なんの話だ? 狐だと? ダモー、小僧、おまえも頭がおかしいらしいな」プリッチャードは銃身を割って薬莢《やつきよう》をはじき出した。ボッテリした顔には侮蔑《ぶべつ》の色が浮かんでいた。
オーウェン・ディヴィーズがブラァンのそばにぬかずいていた。「さあ、坊や《パハゲン》」と言った声はやさしかった。「狐など、どこにもいなかったよ。カーヴァルは羊をねらったんだ。疑問の余地はない。みんな見ていたんだ。すばらしい犬だった。実に美しくて」――声が震え、ブラァンの父親は咳払いをした――「だが、頭がどうかしてしまったんだろう。父さんがカラードグだったとしても、撃たなかったとは言い切れない。こうしたのは正しかったのだよ。犬が殺しをやるようになったら、打つ手はひとつしかない」 父親の腕はブラァンの肩をしっかりと抱いていた。ブラァンは一同を見上げ、黒メガネをしゃにむにはずすと、目を手でぬぐった。そして、信じられずに高い声でたずねた。「だって、誰も狐を見なかったの? 羊を殺《ころ》しに行ったところをカーヴァルがとびかかった。あの大きな灰色の狐を?」
ジョン・ローランズが低い、いたわりのこもった声で答えた。「見なかったよ、ブラァン」
「狐などいなかったよ、ブラァン」デイヴィッド・エヴァンズも言った。「気の毒《どく》だが、坊や、さあ、おいで。お父さんにクルーイドへ連れてってもらいなさい。カーヴァルもすぐに運んであげるから」
「ふん」プリッチャードはせせら笑った「そうとも、好きなだけ早く、その死んだ肉の塊《かたまり》をおれの庭から運び出していいぞ。羊を獣医《じゆうい》に見せたら、その治療費《ちりようひ》も払ってもらうからな」
「口をつつしめ《カエ・ダ・ゲグ》、カラードグ・プリッチャード」ウィルの叔父がキッとなって言った。「この羊襲撃の件についてはいずれ話をつける。少しはこの子の気持ちを考えてやったらどうだ」
カラードグ・プリッチャードは光る目で無表情に叔父を見た。自分の雇《やと》い人のひとりに怪我《けが》をした羊を運び去るよう合図すると、さりげなく地べたに唾《つば》を吐《は》き、母屋に向かって歩き出した。女がひとり戸口に佇《たたず》んでいた。騒ぎの間じゅうそこにじっと立っていたのだった。
ブラァンの父親が息子を助け起こし、連れ出した。ブラァンは放心しているように見え、ウィルを見ても、そこにいないかのように虚ろな目だった。デイヴィッド・エヴァンズが陰気な声で言った。「待ってくれ。車の中にズックの布がある。一緒に行って取って来よう」
ジョン・ローランズは霧雨《きりさめ》の中でウィルのそばに立ち、空のパイプをくわえながら、胸に恐ろしい赤い裂け目のある、動かぬ白い死体を考え深げに見おろした。「君もその狐とやらを見たのかね、ウィル・スタントン?」
「うん」ウィルは答えた。「もちろんさ。目の前にいたんだ。いまのあなたと同じくらいはっきり見えてた。鳥岩の上でぼくらを襲おうとしたんで、カーヴァルがここまで追って来たんだ。けど、あなたたちには全然見えてなかった。だから、永久に誰にも信じてもらえっこない。そうでしょう?」
ジョン・ローランズはしばし沈黙《ちんもく》していた。しわの刻まれた茶色い顔からは表情が読み取れなかった。やがてこう言った。「このあたりの山の中では、時々、信じがたいことが起きる。自分の目で見ているのに信じられないようなことがね。たとえば、わしはカーヴァルだけが羊にとびかかるのを見た。事実、何かが羊ののどに牙を立てたんだ。口が血だらけになったに違いない。羊の毛皮は生きているのが不思議なくらいの血でおおわれていたからな。にもかかわらず、妙に気がかりな点がある――あそこに倒れてるかわいそうなカーヴァルは、つぶされた胸を自分の血で染《そ》めている。だのに、口にはまるで血がついてないんだ」
第二部 眠れる民
山から来た娘
ウィルは言った。「すみません、ディヴィーズさん、ブラァンはまだ学校から戻りませんか?」
オーウェン・ディヴィーズは慌てて身を起こした。農場の車庫のひとつの中でトラクターのエンジンの上にかがみ込んでいたところだった。薄い髪はくしゃくしゃで、顔は油で汚れていた。
「ごめんなさい。驚かせちゃいましたね」
「いや、いや、坊や、いいんだよ。このエンジンより遠い所にちょっと頭が留守になっていたらしい……」そう言うと申し訳《わけ》なさそうに顔をしかめたが、それでこの男にしてみれば精一杯ほおえんだことになるらしかった。痩せた顔にはしわが寄っているが、どれにもこれといった方向がないな、とウィルは思った。まるで表情ってものがない、と。「ああ、ブラァンは戻ってるよ。家にいるだろう。でなければ、山の……」細い、心配そうな声がとぎれた。
「カーヴァルのそばですね」ウィルがそっと言った。前の晩に、みんなで犬を山裾《やますそ》の斜面に埋《う》め、けものに荒らされるのを防ぐために墓《はか》の上に重い石を立てたのだった。
「ああ、だと思う。山の上のな」オーウェン・ディヴィーズは言った。
ウィルはふと何か言ってやりたくなったが、言葉はとらえどころがなかった。「ディヴィーズさん、残念に思っているんです。きのうのことは何もかも。本当にひどいことでした」
「ああ、うん。気をつかってくれてありがとう」オーウェン・ディヴィーズは間が悪そうだった。感情を触れ合わせるのを避けたがっているのだ。トラクターのエンジンをのぞきこみながら、「どうしようもなかったのさ。犬が羊を狙《ねら》う気を起こすかどうかなんて、誰にも予測のつかないことだからな。百万にひとつの可能性だが、起き得ないことじゃないんだ。世界一の犬だって……」急に顔を上げると、初めてウィルと目を合わせた。が、その目はウィルではなく、その向こうにあるもの、未来か過去を見つめているように見えた。声は、若い男のそれのように、前よりもしっかりしていた。「言っとくがおれは、カラードグ・プリッチャードがばかに打ち急いだものだと思ってる。ひどく思いきった行動だし、普通なら他人の飼《か》っている動物に対してできることじゃない。少なくとも飼い主の面前ではな。おおぜいたんだ。カーヴァルをつかまえるのは造作《ぞうさ》なかったはずだ。それに、羊を狙《ねら》うからといって、時には殺さずにすむこともあるんだよ。どこか、羊のいないところに移せば……だが、こんなことはブラァンには言えんし、君にも言ってほしくない。言ったところでなぐさめにはならん」
再び目がそらされた。彼の態度に魅《ひ》かれると同時に気がかりなものを感じているウィルが見守るもとで、別な時代の鮮《あざ》やかな面影《おもかげ》がコートのように脱ぎ捨てられ、見なれたパッとしないオーウェン・ディヴィーズが、ユーモアのかけらもなく、かすかな罪悪感の漂ういつもの雰囲気《ふんいき》をまとって立っていた。
「はい」とウィルは言った。「おっしゃる通りだとぼくも思いますけど、ブラァンには黙ってます。これから捜しに行って来ます」
「ああ」オーウェン・ディヴィーズは熱のこもった口調で言い、なすすべなく案じているだけの顔を山山に向けた。「そうしてやってくれ。君ならきっと、力になってやれるだろう」
だが泥《どろ》だらけの小道をとぼとぼ歩むウィルにはわかっていた。自分にはもちろん、<光>の誰にも、ブラァンをなぐさめることはできないだろう。
傾斜《けいしや》が始まる谷間の縁に来ると、山の中腹に遠く小さく、ジョン・ローランズの姿がおもちゃのように見えた。二匹の犬はまだらの点となって動き回っている。ウィルは決断《けつだん》しかねて、もう少し奥のほうの、ブラァンが悲しみとふたりきりで逃げ込んでいるであろうあたりを見やった。そして直感に従って、ワラビやハリエニシダの中をまっすぐに登り始めた。先にジョン・ローランズと話したほうが良さそうだった。
にもかかわらず、最初に会ったのはブラァンだった。
予期せぬところで、全くふいに行きあたったのだ。坂道はまだ辛いのであえぎながら斜面を半ばまで登り、息をつこうと立ち止まって頭を上げた時、目の前に見なれた人物が坐っていたのだ。黒っぽいジーパンとセーター、合図の火のように目立つ白い髪、色の薄い目を隠す黒いメガネ。だが今は黒いめがねも目も見えなかった。ブラァンは頭をうつむけて坐っていたのだ。近づくウィルの騒々《そうぞう》しい息遣いが聞こえたはずなのに、ブラァンは身じろぎもしなかった。
ウィルは声をかけた。「やあ、ブラァン」
ブラァンはのろのろと頭を上げたが無言だった。
ウィルは言った。「あんな犬は二匹といないよ。どこにも、いつの時代にも」
「ああ。いやしない」ブラァンの声は小さくかすれていた。疲れたような声だった。
ウィルはなぐさめの言葉を捜《さが》したが、<古老>としての知恵を用いる以外には力になれそうもなかった。だが、ブラァンに近づくにはそれではだめなのだ。「ブラァン、カーヴァルを殺したのは人間だった。けどそれは、地球において人類が自由であるために支払った代償《だいしよう》なんだよ。いいことと同じように悪いこともできるってことがね。日光もあれば影もあるんだ。君が前に言った通り、カーヴァルは普通の犬じゃなかった。星や海と同じ、長い筋書の一部だったんだ。カーヴァルの果たした役割をあれほどみごとに果《は》たすことは、ほかの誰にもできなかったろう。世界中の誰にも」
物思わしげな灰色の空の下で、谷間は静かだった。木の中でさえずるウタツグミと、斜面に散らばった羊の声、それに遠くの道を通る車のかすかなエンジン音しかウィルには聞こえなかった。
ブラァンは頭を上げ、メガネをはずした。白い顔の中の黄色い目は縁が赤くなってはれ上がっていた。膝《ひざ》を立て、腕《うで》をだらんとその上に投げかけたまま、ブラァンはそこにうずくまっていた。
「あっちへ行け」とブラァンは言った。「行っちまえ。初めっから君なんか来なきゃよかった。<光>だの<闇>だの、メリマンじじいだの詩だの、そんなことなんにも聞かなきゃよかった。君の金の琴がいまあったら、海の中に投げ込んでやるのに。もう君らのくだらない探索とは関係ない。どうなろうと知るもんか。カーヴァルだってそうだ。最初っから関係なかったんだ。探索とも、君のいうすてきな筋書とも。カーヴァルはぼくの犬だった。この世の何よりもかわいがってたのに、死んじまった。行っちまえってば」
縁の赤くなった目が冷たく、まばたきもせずにじっとウィルを見すえていたが、やがてブラァンは黒メガネをかけ直し、谷の向こう側へと顔をそむけた。立ち去れと命ぜられたも同じだった。ウィルはひとことも言わずに背中を伸ばし、斜面をまたゆっくりと登り始めた。
ジョン・ローランズのそばに行き着くまでずいぶんかかったように思えた。なめし革のような皮膚の痩せた男は破れた柵の上に半ば膝をついてかがみこみ、束からほぐした有刺鉄線《ゆうしてつせん》で修繕《しゆうぜん》していた。ウィルが息を切らせて上がって来ると、かかとの上に尻《しり》をおろし、空の明るさに対してまぶしそうに目を細め、顔のしわを深めて少年を見つめた。なんの前置きもなく、「ここらはクルーイドの牧草地でも一番高い所だ。ここより上の放牧権は、山の牧場のものだ――柵はうちの羊に上がりこませないためさ。だが、みんな悪賢《がしこ》く破ってくれるよ。ことに雄羊が放牧されているこの時期はな」
ウィルはみじめな気持ちでうなずいた。
ジョン・ローランズは一瞬ウィルを見ていたが、やおら立ち上がると、山を少し登ったところに高く突き出た岩まで招《まね》き寄せた。ふたりは岩の風下になる側に腰をおろしたが、そこさえもが谷全体を統治する見張り場のようだった。ウィルは神経を張りつめさせてさっと周囲を見回したが、灰色の王は相変わらずおとなしかった。谷は、カーヴァルの詩の瞬間以来ずっとそうだったように、沈黙を守っていた。
ジョン・ローランズが言った。「柵の残りの部分も点検しなゃきならんのだが、一息入れたいと思ってたところだ。魔法壜《びん》を持って来てあるんだよ。紅茶を一杯どうだね、ウィル?」
ローランズは苦い褐色《かつしよく》の茶を魔法壜の蓋になみなみとついで手渡した。ウィルはゴクゴクと飲み干しながら、その飲みっぷりに自分で驚いた。飲み終えると、ジョン・ローランズが静かな声で言った。「ここはカドヴァンの道の近くなんだよ。知ってたかい、ウィル?」
ウィルは鋭い目をローランズに向けた。十一歳の少年の目つきではなかったが、あえてとりつくろおうともしなかった。「うん。もちろん知っている。おじさんもぼくが知ってるとわかってて、だからこそいま話題にしたんでしょう?」
ジョン・ローランズはためいきをついて自分用に茶をついだ。「たぶん」と羨望《せんぼう》のこもった妙な声音《こわね》で言った。「もういまじゃ、君は目隠しされてても、タウィンからマハンフレスまで、ずっとカドヴァンの道を歩いて山越えできるんだろうな。この地方に来たのは初めてだというのに」
ウィルは、山を登ったあとなので額に湿ってへばりついていたまっすぐな茶色い髪を後ろへかき上げた。「<いにしえの道>はイギリスじゅうにある。一度見つけてしまえば、ぼくたちにはどこまででも歩いて行ける。おじさんの言う通りさ」と、谷の向こう側を見やり、「そもそもこの道がこにあるのを見つけてくれたのは、ブラァンの犬だった」と悲しげに言った。
ジョン・ローランズは布製《ぬのせい》の帽子《ぼうし》を後ろへ押しやり、頭を掻き、また帽子をかぶり直した。「君らのことは聞いたことがある。生まれてからずっと、折に触れてな。最近はそれほどでもないが。子どもだった頃はもっとしじゅう聞いたものだ。一度は会ったことがあるとさえ思っていた。ずっと若い頃にだよ。たぶん夢にすぎなかったんだろうが……。だが、あの犬の死に方についていろいろ考えて、ブラァン坊と少しばかり話をしたんだ」
ローランズが言葉を切ったので、ウィルは次に何といわれるかと不安になって目を向けたが、魔法の力を使ってさぐり出そうとはしなかった。
「そしてな、ウィル・スタントン」と羊飼いは言った。「わしは、どんな形であれ、君が必要とするなら手伝ってやらにゃならんと思ってる。だが、君がやってることの内容は知りたくない。何ひとつ説明しないでおいてほしいんだ」
ウィルには、太陽がふいに顔を出したように感じられた。「ありがとう」と言うと、ジョン・ローランズの二匹の犬のうち小柄なほうのティップが静かにやって来て足もとに坐ったので、その絹《きぬ》のような耳をこすってやった。
ジョン・ローランズはワラビで茶色い斜面ごしに下を見た。ウィルはその視線を追った。火が食い荒らした黒焦げの土地のすぐ下に、ブラァンのちっぽけな姿が見えた。彼らに向けた背を丸め、白い頭を膝に乗せている。
「ブラァン・ディヴィーズにはどんなにか辛い時だろうな」と羊飼いは言った。
「あなたと話をしたっていうんで、ホッとした」ウィルも沈んだ声で言った。「ぼくとは話そうとしないんだ。無理もないけど。カーヴァルがいなくなって、ひどく淋《さび》しい思いをするだろう。だって、ディヴィーズさんはいい人だけど、なんというか……それにお母さんもいないから、ますます悪い」
「ブラァンはおっかさんを知らんのだよ」ジョン・ローランズが言った。「小さすぎてな」
ウィルは好奇心を覚えた。「どんな人だった?」
ローランズは紅茶を飲み、蓋カップのしずくを切ると、壜に戻した。「グウェンという名だった」と壜を手にしたまま、目は記憶の奥を見つめていた。「あんなきれいな娘はもう見ることはないだろう。小柄で、きれいな白い肌《はだ》と黒髪を持っていて、ルリトラノオみたいに青い目で、音楽を思わせるようなにこやかな光が顔に宿っていたっけ。だが奇妙な、野育ちの娘でもあった。山からおりてきて、どこからどうやって来たのかは、決して話さなかった」
唐突《とうとつ》に振り向くと、悪天候に対して常に細められているような焦茶の目でウィルを見すえた。「君は特別な人種だろ?」と急にけんか腰になった。「ブラァンのことぐらい、なんだって知ってるはずじゃないのか?」
ウィルは静かに言った。「ブラァンについては、当人から聞いたことしか知らないんだ。ローランズさん、ぼくらはあなたたちとそんなに違ってるわけじゃない。ぼくらの大部分はね。違ってるのはぼくらの師たちだけなんだ。確かに沢山《たくさん》のことを知ってはいるけど、それだって個々の人の人生に関わりのあることじゃない。その点に関しては、ほかの人と同じなんだ――自分が経験して来たことか、誰かが教えてくれたことしか知らないんだ」
ジョン・ローランズは後悔《こうかい》したらしく、うなずいた。何か言おうと口をあけたが、気を変え、ポケットからパイプをひっぱり出して指で中身をつついた。「そうだな」とゆっくりと言った。「初めから話したほうがいいかもしれんな。ブラァンを理解してもらう上で助けになるだろう。部分的には当人もよく知っている話だ――それどころか、そのことを、ひとりでくよくよ考えてばかりいる。教えないほうがよかったのに、とわしは思ってる」
ウィルは無言でティップのそばに寄り、片腕を犬の首に回した。
ジョン・ローランズはパイプに火をつけた。最初の一服を吐き出すと、「オーウェン・ディヴィーズがまだ若くて、プリッチャード農場で働いていた頃のことだ。その頃はまだ、プリッチャードじいさんが生きていた。カラードグもおやじさんのために働いてて、自分の代になって好きに切り回せるようになるのを待っていたが、仕事にかけちゃオーウェンの足もとにも及ばなかった……オーウェンはプリッチャードの羊番をつとめてたのさ。当時からひとりでいるのが好きな男だった。コテージにひとりで住んでてな。農場よりも羊に近い、荒野にあるコテージに」とまた煙を吐き出し、ウィルをちらりと見た。「君も行ったことのあるとこさ。今は無人だが。もう何年も誰も住んでない」
「あそこ? あの時、羊を置いてきた――」びっくりしたウィルの脳裏に、傷ついた羊を肩に巻きつけ、毛皮からの血を首につけたまま、ワラビの中の小さな石の空家によろよろはいって行くジョン・ローランズの姿が浮かんだ。半時間後にひき返した時には負傷《ふしよう》した羊があとかたもなく消え失せていた。あの小さな家。
「そうだ。あそこだよ。さて、とある天気の悪い冬の晩、雨と北風が吹きつける中で、オーウェンの家の戸を叩く者があった。どこから降って湧いたのか、若い女で、嵐の中を歩いて来たせいで半分凍《こご》えていた。それに、赤ん坊をおぶっていたせいで疲れ果てていた」
「赤ん坊?」
ジョン・ローランズは岩の上にぽつんと坐っているブラァンの丸めた背中を見おろした。
「元気なちび助だったよ。生後二、三ヶ月でな。女は背中にしょいこみたいなものをつけておぶっていた。オーウェンが見ると、赤ん坊にはひとつだけ変わったところがあった。色ってものが全然なかったんだ。白い顔、白い髪、白い眉毛、それにふくろうみたいな、えらく奇妙な黄色い目……」
ウィルはゆっくりと言った。「そうだったのか」
オーウェンは娘を中へ入れてやった。その晩と翌日と、一生懸命に看病《かんびよう》して、少しずつ元気を取り戻《もど》させた――赤ん坊のほうもな。もっとも、赤ん坊ってのはけっこう強いもんだし、その子はたいして参ってもいなかったんだが。そして二十四時間たつかたたないかのうちに、オーウェン・ディヴィーズはその不思議な美しい娘に夢中になってしまっていた。ひとりの女にあそこまでほれた男は見たことがない。それまでは誰のこともたいして好きになったことがなくてな。オーウェンはそりゃ内気だったから。まるで堰《せき》が切れたみたいだった……ああいう種類の男にとっちゃ、危険なことなんだ――やっと愛せるものを見つけたとなると、あとさきのことも何も考えずに心のありったけをやってしまう。それきり一生、心を取り戻せないこともあるのに」一瞬、口をつぐみ、しわの刻まれた顔を同情にやわらげ、黙ったまま坐っていた。それから続けた。「さてと。とにかく、まあ、そうなった。翌《あく》る日、オーウェンは羊を見に行き、娘のことは体を休めるようコテージに置いて行った。そしてかえる途中で、ここ、クルーイドにあるわしのうちに寄った。赤ん坊のために牛乳をもらいに来たのさ。わしのほうが年上だが、子供の頃からの友達だったからな。わしは留守にしてたが、女房がいたんで、オーウェンはグウェンと赤ん坊の話をしてった。わしのブロドウェンはあったかい女で、おまけに聞き上手だ。その時のオーウェンのことを、火がついたように顔を輝《かがや》かせて、誰かに話さずにはいられなかったんだろう、と言ってたっけ……」
ずっと下の方の斜面では、ブラァンが坐っていた岩から立ち上がり、ワラビの中をあてどもなく歩き回り出した。何かを捜しているかのようにキョロキョロしながら。
「オーウェンがコテージに戻ってみると」ジョン・ローランズは言った。「悲鳴が聞こえた。女の悲鳴なんて、オーウェンはそれまで聞いたこともなかった。よその犬が戸の外にいた。カラードグ・プリッチャードの犬だった。オーウェンは針金がはじけとぶみたいに家にとびこんで、娘がカラードグともみあっているのを見つけた。なんで前の日にオーウェンが仕事を休んだのかさぐりに来たのさ、カラードグは。そしてオーウェンの代わりにグゥエンを見つけると、あいつらしい下種《げす》のかんぐりで、グウェンのことをいかがわしい女だと考えたんだ。簡単に思いのままにできる女だと……」ジョン・ローランズはゆっくりと片側に体をかしげ、草の中に唾を吐いた。「ごめんよ、ウィル。カラードグ・プリッチャードのことを口にしたあとは、こうせずにはいられなくてね」
「で、どうなったの? あの人、どうした?」ウィルは目立たない平凡なオーウェン・ディヴィーズを取り巻いているこの物語めいた霧にすっかり驚き、我を忘れていた。
「オーウェンか? 狂っちまった。もともとケンカなんて得手《えて》じゃなかったのに、カラードグを戸口からほうり出し、追っかけてって鼻の骨と歯を二本へし折ったのさ。そこへわしが到着したのは幸運としか言い様がなかった。さもなきゃ、きっとやつを殺してただろう。わしはブロドウェンに言われて赤ん坊のための物を持って来たところだった。カラードグをつれて帰ったのもわしさ。医者はやつのほうで呼びたがらなかった。外聞をはばかったんだ。ま、わたしもたいして同情はしなかったね。それきり、やつの鼻は形が変わっちまった」
ローランズはまた斜面を見おろした。ブラァンの白い頭は、所在なくのろのろと行ったり来たりする間じゅう、地面にうつむけられたままだった。
「ブラァンもじきに、君にいてほしいと思うようになるよ、ウィル。もうあとは、たいして話すことはないんだ。そのあともうひと晩ともう一日、グウェンはオーウェンの家にとどまり、オーウェンは結婚を申し込んだ。幸福のあまり、オーウェンの体からは光が射してるかに見えた。その日しばらくふたりと一緒にいたんだが、グウェンのほうも同じくらい嬉しそうに見えたね。ところが、次の日、四日目のちょうど明け方頃、赤ん坊の泣き声でオーウェンが目をさますと、グウェンはいなくなっていた。消えちまってた。どこに行ったのか誰にもわからなかったし、ついに戻らずじまいだった」
「ブラァンはお母さんは死んだって言ったよ」
「姿を消したことはブラァンも知ってるんだ」ジョン・ローランズは言った。「だが、母親に死なれたと思うほうが、置き去りにされてあとも見ずに出て行かれた、と思うよりは楽なのかもしれん」
「本当にそうだったの? あっさり出てっちゃったの? 赤ん坊を置いて」
ジョン・ローランズはうなずいた。「書き置きをしてった。『ブラァンという名です。ありがとう、オーウェン・ディヴィーズ』って書いてあった。それだけだった。どこに行ったにせよ、それきり見た者もいなければ、噂《うわさ》を聞いた者もいないだろうよ。その朝、オーウェンは赤ん坊を抱いてうちへ来た。どうかしちまってた。グウェンを失って気が変になってたんだ。山の中にはいってって、三日もおりて来なかった。捜してたんだな。呼んでるのが聞こえたから。『グウェニー、グウェニー』って……ブロドウェンとエヴァンズの奥さん、つまり君の叔母さんが、ふたりしてブラァンの面倒《めんどう》を見た。聞き分けのいい赤ん坊だったっけ……プリッチャードのおやじさんは、もちろん、オーウェンをクビにした。ちょうどその頃、君のデイヴィッド叔父さんが人手を失くして、オーウェンを雇ったんだ。それでオーウェンはクルーイドのコテージに移り、今もそこに住んでるってわけさ」
「そしてブラァンを我が子として育てたんだね?」
「そうだよ。みんなに助けられてな。ちょっとした騒ぎになったが、結局は養子にする許可がおりた。たいがいの人はブラァンのことを、本当にオーウェンの息子なんだと思い込んじまった。それが事実じゃないってことだけは、ブラァンもまだ知らされてない――オーウェンを父親だと信じてる。君も決して、そうでないようなそぶりをするんじゃないぞ」
「しないよ」ウィルは言った。
「ああ。君に関しちゃ心配はいらんな……時々、オーウェン自身、ブラァンを本当の息子だと信じてるんじゃないかと思うよ。もとから信心深かったが、ますすま宗教熱心になっちまった。君には呑み込みにくいかもしれんがな、ウィル坊《パハ》、オーウェンの宗派の掟《おきて》に従えば、グウェンと同じ家にふたりきりで数日間いたりしてはいけなかったのさ。オーウェンはそれを承知してたもんで、だんだん、それが結婚もしてない相手との間に子供をこしらえるのと同じくらい悪いことだった、と思うようになった。そのうち、本当にブラァンが自分とグウェニーの子のように思えてきたんじゃないかな。だから、ブラァンのことを考える時はいつも――未だに――愛情がほとんどだが、少しばかり罪の意識もまじってるのさ。言っとくが、罪の意識なぞ感じる根拠《こんきよ》はまるでないんだ。オーウェンの良心の中に存在するだけさ。良心がありすぎる、オーウェンは。ほかの誰も気にしとらんのに、同じ宗派の連中すら気にしとらんのに――みんな、ブラァンのことをオーウェンの庶子《しよし》だと考えとるが、とっくの昔にとがめなくなってる。遠い昔に犯《おか》したかもしれない過《あやま》ちよりも、今まで見て来た人柄で判断《はんだん》するだけの頭のある連中だからな」
ジョン・ローランズはためいきをつき、伸びをし、パイプの中身を叩き出して灰を土にすりこんだ。立ち上がると、犬たちがパッと駆け寄った。ローランズはウィルを見おろした。
「これだけのことがあったのさ。カラードグ・プリッチャードがブラァン・ディヴィーズの犬を撃ったことの裏にはな」
ウィルはそばのハリエニシダの茂みから花を一輪摘《つ》み取った。汚れた手の上で花は鮮やかな黄色に輝いた。「人間って複雑だね」と悲しげに言った。
「そうとも」ジョン・ローランズの声がそれまでよりも少し太く、大きく、明瞭《めいりよう》になった。「だがな、君らと君らの敵とが戦いを終えたあと、ウィル・スタントン、最後に世界の運命を決めるのはまさにこういった人間なんだよ。善人と悪人の場合、愚かな者と賢い者の割合にかかるのさ。全く、あんまり複雑怪奇《かいき》なんで、連中が連中の世界――つまり、わしたちの世界をどうするかなんて、わしは予想もしたくないね」そう言うとローランズは口笛を吹いた。「タルド アマ、ペン、ティップ」
巻いた有刺鉄線《ゆうしてつせん》の束を用心深く取り上げると、犬たちを従えて、ローランズは柵に沿って山を越えて行った。
灰色の王
ウィルはのろのろと斜面を横ぎり、ブラァンのいるほうへ進んだ。曇った日だった。ひと晩じゅう雨が降り、またそのうちに振り出しそうだった。空は不吉に垂れ込め、山々は全て縁がズタズタの雲の中に消えていた。ブレーニン・フルイドの息だ、とウィルは思った。
ブラァンが斜めに山を突っ切り出すのが見えた。明らかにウィルを避けようとしているのだ。ウィルは立ち止まり、諦めることにした。山で追いかけっこなど、ばかばかしいだけで誰の役にも立たない。それに、琴も安全な場所に移す必要があった。
濡れたワラビを踏みわけて、プリッチャードの農場の向こう端までの長い泥んこの道のりを歩き出した。ジェン叔母から借りた膝まで来る長靴にもかかわらず、ズボンは既にびしょ濡れだ。途中で火事にやられた土地を横切ったので、長靴に黒い灰が薄い層《そう》になってべっとりついた。
歩きながらウィルはゆううつだった。カラードグ・プリッチャードがいるといけないので時折り周囲を見回したが、畑地は無人で妙に静まり返っていた。きょうは鳥も鳴いておらず、羊までが静かで、谷間の道を通る車の音もたまにしか聞こえなかった。灰色の谷は、あたかも何かを待っているかのようだった。ウィルはあたりの雰囲気《ふんいき》をもう少し的確《てきかく》につかもうとしたが、最近では頭の中が常に灰色の王の敵意で満たされつつあった。その敵意は次第に強まり、初めはささやきだったのが今では呼び声になり、じきに猛烈な怒号《どごう》となるに違いなかった。それ以外のことに注意を向ける余裕《よゆう》を見つけるのはむずかしかった。
竪琴を隠しておいた干草梱が積んであるスレート屋根の小屋にたどり着いた。自分がかけた魔法があまりに強烈だったので、十フィートも手前で、ガラスの壁にぶつかったように前に進めなくなった。
ウィルは微笑した。決められた形で魔法を解くために、小声で唄い始めた。<いにしえの言葉>からなるまじない歌で、文句も人間の言葉とは異なり、意味があいまいで、むしろ音の微妙な調子が大切なのだった。ウィルはよく訓練《くんれん》されたいい唄い手だったので、高い澄んだ調べは陰気な空気の中を光のすじのようにやさしく流れた。近寄れなくしていた呪文の力がとけ去っていくのが感じられた。ウィルは唄い終えた。
カラードグ・プリッチャードの声が背後で冷たく言った。「ナイチンゲールも顔負けじゃないか。ええ?」
ウィルは硬直《こうちよく》した。ゆっくりと振り向くと、黙《だま》って突っ立ったまま、プリッチャードの生気のない下ぶくれの顔と、曲がった鼻と、黒スグリのように光る目を見つめた。
「ええ?」プリッチャードはじれて言った。「何してるつもりだ? おれの畑のまんなかで生垣に歌をきかせたりして、おまえ気でも狂ったのか?」
ウィルはぽかんと口をあけ、さりげなく顔つきを変えて、全くのまぬけづらに見えるようにした。「歌のせいです。たったいま思いついたんで、試してみたくなって。おじさんは詩人なんでしょう? だったらわかってくれなくちゃ」と言うと、秘密をうちあけるように声を落とした。「ぼくね、時々、歌を作るんです。でも誰にも言わないで。みんないつも笑うんです。ばかみたいだって」
「おまえの叔父貴《おじき》がか?」
「バッキンガムシャーのみんながです」
プリッチャードはあやしむように目を険《けわ》しくした。「詩人」という尊い言葉は効果を上げたが、プリッチャードは無用心に気を許すたちでもなければ、許したままでいられる男でもなかった。軽蔑したように「なんだ、イングランド人か――あいつらは音楽のことなんか、何もわかっちゃいない。笑うのも不思議はない。ばか揃いだ、連中は。おまえはえらくいい声をしている。イングランド人にしちゃあ」と言うと、ふいに目が鋭《するど》くなった。「しかし、おまえが唄ってたのは、ありゃ英語じゃなかった。だろう?」
「はあ」
「じゃ、なんだったんだ?」
ウィルは、信じているというようににっこりしてみせた。「なんでもなかったんです、本当は。でたらめだったんだけど、ふしとうまく合うみたいだったんで。わかるでしょう?」
だが魚はエサにくらいつかなかった。プリッチャードの目が険悪になり、ビクッと谷の奥の山々を一瞥するとウィルに戻された。唐突に言った。「イングランドのちびすけ、どうもおまえは気に入らん。どこか、おかしなところのあるやつだ。おまえの話は、歌を唄ってたことはともかく、おれの土地に立ってることの言い訳《わけ》にはなってない」
「近道してただけです」とウィルは言った。「何も悪いことしてません。本当ですってば」
「近道だと? どこからどこへ? おまえの叔父貴の土地は全部、いま来たほうにある。こっち側は荒野の山だけだ。おまえにゃ用のないところだ。クルーイドに帰れ、ナイチンゲールくんよ、犬を失くしたべそっかきの友達のところへな。行け。とっとと行っちまえ!」とあっという間にむくんだ顔を赤黒くしてわめき出した。「出てけ! 出てけ!」
ウィルはためいきをついた。取るべき手段はひとつしかない。灰色の王の注意をこれ以上喚起《かんき》する危険は冒《おか》したくなかったのだが、琴をカラードグ・プリッチャードの目につく状態のままほうっておくわけにはいかなかった。男は今も、前にも見た理由のない狂暴《きようぼう》な怒りにとりつかれてこぶしを固め、ウィルをにらんでいる。「出てけと言うのに!」
ウィルはその場で、風のない曇天《どんてん》の下の開けた畑地のまんなかで、片腕を突き出し、五本の指をピーンと伸ばして、静かな声でたったひとこと言った。するとカラードグ・プリッチャードにとっては時間が止まり、金縛《かなしば》りになった。口を半ばあけ、手を上げてゆびさしたままの格好《かつこう》で、顔は犬のカーヴァルを撃ち殺した時と全く同じ醜悪《しゆうあく》な怒りにねじくれていた。永久にそのままにしておけないのが残念だ、とウィルは苦々《にがにが》しく思った。
だがいかなる呪文も永久にはきかない。大部分はごく短時間で解ける。ウィルはすばやく石造りの小屋に歩み寄ると、干草の梱と梱の間に手を突っ込み、きらめく小さな黄金の竪琴《たてごと》をひっぱった。枠の角が梱の間にはさまっていた古いボロ布にひっかかっていた。ウィルは苛《いら》立って袋ごとひっぱり出すと、一緒に腕の下にかいこんだ。それからカラードグ・プリッチャードの背後に回った。もう一度、指を伸ばした手をつきつけて、ひとこと口にした。カラードグ・プリッチャードは、初めからそれが目的だったかのように、ただの一度も振り返らずに畑を横切って家に向かった。着いてしまえば、仕事のあとまっすぐ家に戻ったのだと信じ込み、畑のまんなかで空に歌を聞かせていたウィル・スタントンのことは毫《ごう》もおぼえていないだろうと、ウィルにはわかっていた。
腹の出たプリッチャードの姿は畑はずれの踏み越し段をヨタヨタと越えた。ウィルは竪琴の手のこんだ黄金細工の枠から古い袋をはずし、脇へ投げ捨てようとして、おおいとしてどんなに役に立つか気がついた。誰かに出会っても、何だかわからない包みのほうが、値段もつけられないのが明らかな光る金の竪琴よりもごまかしやすい。袋から舞い上がった干草のくずに顔をしかめながら、琴を注意深くすべり込ませている時、畑の向こうで何かの動きが目についた。視線を上げると、一瞬、竪琴のことさえ忘れてしまった。
あの大きな灰色狐、ミルグウンの王、灰色の王の家来が生垣に沿って急いでいたのだ。にわかに猛烈《もうれつ》な憎悪《ぞうお》を覚えて、ウィルは片腕を突き出し、ひとこと制止《せいし》の声を発した。主人の領地を離れていた大きな灰色のけものは、突然の強風にすくい上げられたかのように、脚を上げかけて後ろにひっくり返った。立ち上がると、赤い舌をだらしなく垂らして、立ったままウィルを見つめた。そして長い鼻づらを上げ、危機に陥った犬のような低い咆哮をほとばしらせた。
「呼んでもむだだ」とウィルは声をひそめて言った。「ぼくがどうするか決めるまで、そこに立ってればいい」
ところがそう言ったとたんに、思わず身震いした。空気が急に冷たくなったように思え、むこうから、それまでは気づかなかったもやが地べたを這って来るのが見えた。もやは垣根を越え、何か巨大な這いずり回るもののように、じわじわと流れ込んできた。あらゆる方向から、山から、谷から、裾野から流れて来た。畑に棒立ちになっている灰色狐を振り返ったウィルは、もやに対して新たな冷たい恐怖を覚えさられるような光景を見た。狐の色が変わりだしていたのだ。一秒ごとに、見ている前で、狐のなめらかな体とふさふさした尾の色がどんどん濃くなり、ついには黒に近くなった。
ウィルは眉をひそめて見守った。ベンそっくりに見えるな、とどうでもいい考えが浮かんだ。そしてとたんにギョッとなった。どうでもよくはない事実に気づいた――実は灰色の王の狐たちがやった羊殺しの汚名《おめい》を、カラードグ・プリッチャードによってカーヴァルと共に着せられていたのが、ジョン・ローランズの犬ベンだったという事実に。
何か測り知れぬ強さを持つものがウィルを圧倒し、ウィル自身の魔法を破った。混乱し、なすすべなく一瞬立ちつくしている間に、今や石炭なみに黒くなった大狐は例の勝ち誇ったようなその場とびをし、わざとウィルに笑いかけたと思うと、走り出してすばやく畑を横切っていた。遠くの生垣をくぐり抜け、カラードグ・プリッチャードが行った方角、プリッチャード農場のほうへ姿を消した。農場に狐が着いたら何が起きるかは正確にわかっていたが、どうしようもなかった。ウィルは灰色の王の力にひきとめられているのだから。それまでは頭に浮かびもしなかった考えと、いやいや直面するはめになった。その力が、ウィルのより大きいのはもちろん、割りあてられた探索《たんさく》を不成功に終わらせられるほど、けたはずれに大きいかもしれない、という可能性だ。
歯をくいしばると、袋に入れた竪琴を腋《わき》の下にしっかり抱え、ウィルはクルーイド農場に向かって歩き出した。畑を囲い込んでいる有刺鉄線を用心深くくぐり、次の畑の隅を突っ切り、小道に通じる踏み越し段を乗り越えた。だがその間にも足どりはどんどん遅くなり、呼吸は苦しくなっていた。なぜか、腕の下の竪琴が次第に重くなって、あまりの重さに動くのもやっとになった。体が弱っているせいではないのがわかっていた。抵抗しているにもかかわらず、何か大きな魔法が働いて、抱えている力の品に人間の腕力では支えきれないほどの重さを与えているのだ。琴にしがみつきながら、そのありえない重量に苦痛のあえぎを洩らし、ウィルはそのまま地面にへたりこんだ。
うずくまったまま頭を上げると、もやがあたり一帯に渦巻いているのが見えた。世界は灰がかかった白一色となり、いっさいの特徴を失った。凝視《ぎようし》するうちに、徐々にもやは形をとり出した。
あまりにも大きな形だったので、最初はそこにあることさえ気づかなかった。畑よりも横幅があり、天高くそびえていた。形を持っているとはいえ、それとわかるような地上のものの形ではなかった。視野の隅に輪郭《りんかく》がちらついても、まともにどこか一箇所を見ようとすると、何もなかった。にもかかわらず、その姿はウィルの前にそびえ、巨大で恐ろしかった。今まで会った中で最も大いなる力を持つ物だとわかった。<闇>の大君たちの中でも、単独で最も力があり危険なのが灰色の王なのだ。だが、この世の初めよりずっとカーデル・イドリスの峰々の間の砦《とりで》に住み、谷や裾野には一度もおりてきたことがなかったため、<古老>たちのひとりとして会ったことはなく、従ってどんな力を駆使《くし》することができるのか誰も知らなかった。だのに今、最後の<古老>であり最も未熟なウィルが、ひとりで、持って生まれた<光>の魔法と自分自身の機転だけを頼りに、灰色の王と対面することになったのだった。
もやがかかった影の中から、甘美《かんび》であると同時に恐ろしい声が発せられた。声はもやそのもののように空気中に満ち、ウィルには、何語が用いられたのかも、耳に聞こえる音楽として発せられたのかどうかもわからなかった。わかったのは、その内容が即座に頭の中にはいりこんだということだけだった。
「<古老>よ、<眠れる者>を目ざめさすことはならぬ」と声は言った。「余が妨《さまた》げる。これはわが領地《りようち》、あの者どもは永遠にここに眠るのだ。きょうまでの幾世紀、眠ってきたように。そのほうの竪琴にもあの者どもは起こせぬ。余が妨げる」
ウィルはもはや支えられなくなった琴に両腕を投げかけ、小さなぐったりした塊となって坐り込んでいた。「ぼくの探索なんだ。つきとめなければならないのは知ってるはずだ」
「帰れ」声は風のようにウィルの頭を吹き抜けた。「帰るのだ。琴は大切に持って帰るがよい。<光>とそのほうの師たちのための力の品としてな。今すぐわが領地から立ち去り、そのほうの国へ帰るなら、行かせてやろう。それだけは、そのほうのかちとった権利だ」声はきつくなり、もやよりも冷たくなった。「だが、<眠れる者>どもを求めつづければ、余はそのほうを滅ぼし、金の琴をも滅ぼすであろう」
「むだだ」ウィルは言った。「ぼくは<光>のひとりだ。滅ぼすことはできないはずだ」
「たいして変わりはない」と声は言った。「どうした。そのくらいは心得ておろう、<古老>よ」声はひそめられ、サ行が強調され、邪悪な考えを愛撫《あいぶ》しているかのようにいやらしくなった。ウィルはふっと空色の衣をまとっていた貴人を思い出した。
「<闇>の力と<光>のそれとは同等の威力《いりよく》を持つが、意志に従わせねばならぬ相手の……扱い……においてはいささか異なるのでな」声は蛆《うじ》のようにウィルの皮膚《ひふ》の上を這い回った。「帰れ、<古老>よ。二度と<光>に警告はせぬ」 ありったけの自信をかきあつめて、ウィルは琴を足もとに置いたまま立ち上がった。まともに見てはいけないのだと悟った灰色のもやに対して、馬鹿にしたようにおじぎをしてみせた。
「王陛下《へいか》、警告は確かに発せられ、ぼくはそれを承った」とウィルは言った。「だけど、何も変わりはしない。<闇>には決して、<光>の心を寝返らせることはできない。それに、ひとたび正当にかちえられた以上、力の品の持ち出しを阻止《そし》することもできない。黄金の琴にかけた呪文を解いてくれ。魔法で操《あやつ》る権利はなかったはずだ」
もやが暗い塊となって渦巻き、声はよそよそしく、ますます冷ややかになった。「琴は呪文に縛《しば》られてはおらぬ、<古老>よ。袋から出すがよい」
ウィルはかがみこんだ。もう一度、袋に包まれたままの琴を持ち上げようとしたが、ビクともしなかった。土中深く根をおろした岩も同然だった。そこで袋をずらして琴を出し、手をかけると、輝く金の品は前と変わらず軽々と持ち上がった。
ウィルは袋を見おろした。「何かほかの物がはいっているんだ」
「決まっておる」
ウィルは半ば腐《くさ》った袋を引き裂いてあけた。最初の見かけ通り、からっぽに見えた。と、しわのひとつの陰に磨《みが》き上げられた小さな白い石が見えた。豆粒《つぶ》ほどの小石だった。ウィルはかがんで拾おうとした。石は動かなかった。
ウィルはゆっくりと言った。「眼石《まなこいし》だ」
「さよう」声が言った。
「おまえの眼石か。<闇>ののぞき穴だ。これをどこかに置いておけば、その場所で起きていることは全部わかるし、この中に意志をそそぎ込んで、思い通りの事件を起こすこともできる。ずっとあのふるい袋の中にあったのか」ふっと記憶がひらめいた。「ミルグウンを押さえておけなかったわけだ」
もやの中から笑いが聞こえた。雪崩《なだれ》の第一声にも似たすくみ上がるようなものだった。それから、笑いに代わって、もっと恐ろしい声がささやいた。「<闇>の眼石は<光>には無価値だ。余に返せ」
「カラードグ・プリッチャードの農場に置いてあったな」ウィルは言った。「なぜだ? もともとおまえの家来じゃないか。眼石の必要はないだろうに」
「あの愚か者は余の家来などではない」灰色の王はさげすむように言った。「<闇>が姿を見せたなら、あの男は陽にあたったバターのように恐怖に溶けてしまうであろう。そうとも。<闇>のものではない。だが実に役に立つ男ではある。あれほどまでにおのれの悪意に埋没《まいぼつ》しておる人間は、この世から<闇>への贈り物となるのだ。しかるべき考えを吹き込むことのたやすさと言ったら……さよう、実に役に立つ男だ」
ウィルは静かに言った。「逆の種類の人間もいる。知らずに<光>のために働いている人々がね」
「うむ」声が狡猾《こうかつ》そうになった。「だが、そう多くはないぞ、<古老>よ。そう多くはなかろうが」再び声が鋭くなり、もやが冷たさを増して渦巻いた。「眼石をよこせ。そのほうにとっては害にもならぬ代わり、役に立ちもせぬ。<光>が手を触れるや否や、大地に付着してしまうゆえな――そのほうが自分の眼石を持っていたなら、余が触れたとたんに、同じことが起きるであろうよ」
「ぼくにはそんなもの、いらない。おまえのはもちろんのこと、取ればいいだろう」
「離れておれ。余は取ったら立ち去る。一日と一夜のうちに、そのほうもこれなるわが領地を立ち去れ。さもなくば、人間の見地からはそのほうは存在せぬことになろう。六つのしるしと黄金の竪琴を用いるとも、われらを妨げることは叶《かな》わぬぞ」声は高くなり、突風のように急に膨《ふく》れ上がった。「そのほうらの抵抗にもかかわらず、われらが時はもはやそこまで来ておるのだ。<闇>が立ち上がったのだ。<闇>が立ち上がったのだ!」
言葉がウィルの脳裏に吠えたけり、もやが暗く冷たく顔のまわりに逆巻いて、何もかも、足の下の大地さえも見えなくしてしまった。もはや琴を見ることもできず、両腕をきつく抱《だ》き締《し》めているのがわかるだけだった。ウィルは目が回ってよろめいた。ぞっとするような冷気が頭から爪先まで貫《つらぬ》いた。
と思うと消えてしまった。ウィルは竪琴を胸に抱いて生垣の間の小道に立っており、灰色の空の下の谷はどこもかしこもはっきり見えた。足もとに、破れた古い空のボロ袋が落ちていた。
震《ふる》えながらウィルは身をかがめ、もう一度琴をくるんでクルーイド農場に向かった。
琴を隠《かく》すためにそっと二階へ上がりながらジェン叔母にただいまを言った。叔母はガス台の上の鍋《なべ》を注意深くかき回していて、振り向きもせずに返事した。だが再び階下へおりた時には、大きな台所は人で一杯に見えた。叔父とリースは顔を懸命に強張《こわば》らせて落ち着きなく歩き回っていた。ジョン・ローランズがちょうど戸をあけてはいってきたところだった。
「会ったかい?」リースが気遣《きづか》わしげに声をかけた。
ジョン・ローランズが眉をつり上げたので、顔にしわがふえた。「誰にだね?」
デイヴィッド・エヴァンズは椅子《いす》を引き出して、やれやれと謂うに坐り込んだ。そしてためいきをついた。「カラードグ・プリッチャードがたったいま外に来てたんだよ。この気違い沙汰《ざた》にはきりがない。自分のところの羊がまた、きょうの午後、犬にやられたって言うんだ――今度のは殺されたって。今度もまた、あいつの庭で起きて、自分とかみさんが一部始終を見たんだと。そのうえ、その犬はベンだったと誓《ちか》ってきかんのだ」
「銃を振り回してさ。あいつは異常だよ」リースが腹立たしげに言った。「あんたとベンが居合わせてたら、絶対にベンを撃ってたね。いなくて本当によかった」
ジョン・ローランズは穏やかに言った。「木戸のところでわしらを待ってなかったのが不思議だな」
「おまえが雌の羊を何匹か捜しに山に行ったから、遅くなるだろうって、わしが言ったんだ」ウィルの叔父は元気なく、形のいい頭をうつむけた。「たぶん、おまえを捜しに山へ行ったんだろう。あのばかものが」
「羊を撃っちまったとしても驚かんね」ジョン・ローランズは言った。「うちのあの黒い雌を見つければの話だが」
だがデイヴィッド・エヴァンズはほおえむには動揺《どうよう》しすぎていた。「撃ってみろ。犬を連れてたって構うもんか。わしがタウィン警察《けいさつ》につき出してやる。気に入らんな、ジョン・ローランズ。あの男のやることときたら、まるで……わからん、本当に頭がどうかしちまったのかもしれん。支離滅裂《しりめつれつ》なんだ。そりゃ、犬が羊を殺すのは悪い。だが、あいつときたら、子供を殺されたみたいに逆上しちまって。子供がいたとしての話だが、子ができなかったのも、こうなってみれば幸いだったかもしれん」
「ベンは一日中わしと一緒で、一度だって離れなかったよ」ジョン・ローランズの太い声は落ち着いていた。
「決まってるさ」リースが言った。「けど、カラードグ・プリッチャードときた日にゃ、たとえ自分で一日中、一分たりともあんたらから目を離さなかったとしても、信じやしないだろうよ。それくらいひどいんだ。きっとあしたも来るぞ。まず確実だ」
「それまでに、ベティ・プリッチャードが言ってきかせてくれるかもしれないわよ」ジェン叔母が言った。「もっとも、今までの例ではあまり成功してないけど。あんな人と結婚してるのは苦労でしょうねえ」
ジョン・ローランズはウィルの叔父を見た。
「どうしようかね?」
「わしにはわからん」デイヴィッド・エヴァンズはゆううつそうに首を振った。「おまえの考えは?」
「そうさな」とジョン・ローランズは言った。「思ったんだが、もしあすの朝ランドローバーがあいてるなら、うんと早いうちに谷の奥まで行って、ベンを二、三日、イドリス・ジョーンズ=タ=ボントのうちに預けて来るのはどうだろう?」
ウィルの叔父は頭を上げた。顔が初めて明るくなった。「そりゃいい。とてもいいな」
「ジョーンズ=タ=ボントは、この夏トラクターを借《か》りたんで、あんたに借りがある。もともといいやつだしね。それに、あいつの犬の一匹は、ベンと兄妹だ」
「いい考えだ」リースが簡潔《かんけつ》に言った。「それにチェーンのこぎりのプラグが切れちまってるから、帰りにアベルガノルウィンでひとつ買ってきてもらえる」
ローランズは笑った。「じゃ、決まりだ」
「ローランズさん」ウィルが言った。「ぼくも行っていい?」
いることに気づいていなかったらしく、みんな驚いて階段に立っているウィルを振り返った。
「いいとも。大歓迎《かんげい》だ」ジョン・ローランズが言った。
「それはいいわ」とジェン叔母《おば》。「きのうもね、ウィルをタル・ア・フリンに連れてってあげてなかったわ、と思ってたのよ。あっちにある湖なの。イドリス・ジョーンズの農場は湖のすぐ隣なのよ」
「カラードグ・プリッチャードも、犬があそこにいるとは夢にも思うまい」デイヴィッド・エヴァンズが言った。「頭を冷やさせる時間が稼《かせ》げる」
「それに、それでもまだ羊が殺されるようなら――」リースはわざと最後まで言わなかった。
「それで思いついたわ。いいこと、カラードグには、ベンがまだうちにいると思わせておくの。そしたら、もしまた明日、ベンが羊を襲《おそ》うのを自分の目で見た、と言ってきても、グウの音《ね》も出ないようにしてやれるわ」
「よし」とジョン・ローランズが言った。「ベンは今、うちで夕めしを食ってる。わしも食いに帰る。ウィル、あすは五時半に出発しよう。カラードグ・プリッチャードは世界一の早起き者には程遠いからな」
「ブラァン坊も行きたがるかもしれんよ。土曜だし」デイヴィッド・エヴァンズがやっとくつろいで椅子の背にもたれながら言った。
「ううん、きっと来ないよ」ウィルは言った。
佳《よ》き湖
五時に起き出しているのは自分だけだろうと思っていたにもかかわらず、ジェン叔母に先を越されてしまった。叔母はウィルに紅茶を一杯と、自家製のパンを大きく切って自家製のバターを縫《ぬ》ってくれた。
「朝のうちは寒いからね。おなかに何かはいってるほうが我慢《がまん》がきくわ」
「バターつきパンって、ここで食べるとよそより五倍もうまいんだ」ウィルはそう言うと、もぐもぐやりながら目を上げ、叔母がおかしな、少し皮肉《ひにく》っぽい笑みを浮かべて自分を見ているのに気づいた。
「健康を絵に描いたみたいよ、あんたは」と叔母は言った。「あんたの一番上のスティーヴンがあんたぐらいだった頃にそっくり。ついこの間までひどい重病だったなんて、誰にも思えないでしょうね。けど、残念ながら、ここでの何日かは休養になったとは言いかねるわね。火事といい、羊殺しの騒動といい――」
「波乱万丈《はらんばんじよう》だよ」ウィルは口を一杯にしてモゴモゴ言った。
「まあ、そうね。年の暮れから次の年の暮れまで、いつもなら何も変わったことの起きない土地だからねえ。わたしとしては、これでもう当分は波乱は間に合ってる、と言いたいわ」
ウィルはわざとさりげなく言った。「本格的な騒ぎとしては、ブラァンのお母さんが来た時以来じゃないの?」
「あら」叔母の感じのいい、暖かい顔からは何も読み取れなかった。「その話を聞いたの? ジョン・ローランズに教わったんでしょう。あの人はスホニ・マウル、心やさしい人だから、きっとあの人なりの理由があって話したのね。ねえ、ウィル、あなた、ブラァンとけんかでもしたんじゃない?」
ウィルは思った。一杯の紅茶と一緒にぼくに聞きたかったのはそれなんだね。叔母さんも心やさしい人で、ブラァンの悲しみを感じることのできる人だから……そんな叔母さんにふさわしい、正直な答えが口にできたらいいのに。
「してないよ」とウィルは答えた。「けど、カーヴァルをなくしたのがものすごくこたえてて、とにかくひとりでいたいんだと思うな。当分は」
「かわいそうな子」叔母はかぶりを振った。「辛抱《しんぼう》強くしてやってね。友達のいない子で、ある意味では奇妙な人生をおくってきた子なのよ。あんたが来たのはあの子のためにもすばらしいことだったのに、この事件が何もかもぶちこわしてしまって」
小さな痛みがウィルの前腕に走った。手で押さえたウィルは、その痛みが<光>の傷痕《きずあと》、あの焼印に発しているのを知った。
ふと聞いてみた。「ジェン叔母さん、それっきり帰って来なかったの? 二度と? ブラァンのお母さんのことだよ。どうしてブラァンを置いて出て行くなんてことが、そうあっさりできたんだろう?」
「わからないわ。でも、二度と姿を見せなかったの」
「あっという間に、永遠にいなくなってしまうなんて……ブラァンはひどく気にしているだろうな」
叔母はキッとウィルを見た。「あの子が何か言ったの?」
「ううん。とんでもない。話題にしたこともないよ。ただ、そんな気がしたんだ――うわべはともかく、奥では気にしてるに違いないよ」
「あんた自身、おかしな子だからねえ」叔母は好奇心にかられたように言った。「時々、老成した人みたいなことを言う。たぶん、兄さんや姉さんがおおぜいいるせいなんでしょうね……ほかの男の子よりも、ブラァンのことがよくわかるかもしれないわ」
一瞬ためらった後、叔母は椅子を近づけた。「話しておきたいことがあるの。ブラァンの役に立つことがあるかもしれないから。本人にべらべらしゃべらないだけの良識のある子だからね、あんたは。わたしはね、グウェンが、あの子のお母さんが、過去に何か大変辛いことを経験してて、自分にはどうすることもできなかったけど、それだけにブラァンにはその辛いことから解放された人生を与えてやらなくちゃ、と思ってたんじゃないかと思うの。オーウェン・ディヴィーズがいい人で、子供の面倒を見てくれるだろうってことはわかってたけど、同時に、オーウェンが愛してくれているほどには自分のほうは愛していない、結婚《けつこん》するほどには愛していないんだってことも、わかってたのよ。そういう時には、女にはどうすることもできない。姿を消すのが一番親切なことだったわけ」といったん言葉を切り、「ブラァンを置いていったのは、親切とは言えなかったかもしれないわね」
「ちょうどそう言おうとしたとこ」とウィルも言った。
「でも、グウェンがわたしに言ったことがあるの。ここにいた二、三日の間にたまたまふたりきりになった時があって。誰にも話したことはないけど、一度だって忘れたことはないわ。グウェンは、大いなる信頼をひとたび裏切った者は、人に信頼されるのを恐れるようになる。再び裏切ることがあったら、何もかも終わりになってしまうのだからって。そう言ったの。あんたに理解できるかしらね」
「自分がしかねないことを考えて怖がってたってこと?」
「それと、既にしてしまったことを考えてね。そっちのほうがもっと恐ろしいらしかった。何だったのかは知らないけど」
「それで逃げたのか。ブラァンもかわいそうに」
「それにオーウェン・ディヴィーズもね」と叔母は言った。
戸口をそっと叩く音がして、ジョン・ローランズが首をつっこんだ。「おはよう《ポレ・ダ》。用意はできてるかね、ウィル?」
「おはよう《ポレ・ダ》、ジョン」ジェン叔母はほほえみかけた。
上着を着終えたウィルは、いきなり振り返ってぎごちなく叔母を抱き締めた。「ありがとう、ジェン叔母さん」
笑顔が驚きと喜びに輝いた。「ゆっくりしてらっしゃい」
農場の門の外で車のエンジンをかけながら、ジョン・ローランズが言った。「叔母さんは坊やがかわいいんだな」
ベンが乗り込めるようウィルがドアをあけてやると、犬は前の座席をとびこえて後部におり、おとなしく床に伏せた。
「ぼくも大好きさ。ぼくの母もね」
「なら、気をつけてくれよ」ローランズのしわだらけの茶色い顔は何の表情も浮かべてはいなかったが、言葉には力がこもっていた。ウィルは多少冷ややかに彼を見た。
「どういう意味?」
「そうさな」ローランズはランドローバーを道に出しながら、慎重に言った。「わしには、今わしたちのまわりで起きてるのが何なのか、断言はできない、ウィル坊《パハ》。どこへ行き着くのかもな。だが<光>のことを多少なりとも知っている連中は、その力には酷薄なところがあるってことも知ってる。法律の抜き身の剣や、お天道さんの白熱した光みたいなものがな」にわかに、ローランズの声がいやにきつく、いやにウェールズ的になったようにウィルには聞こえた。「一番芯《しん》になるところにな。ほかのもの、人情《にんじよう》とか慈悲《じひ》とか思いやりとか、たいていの善人《ぜんにん》が何より尊ぶものが、<光>にとっちゃ二番目にしかこない。そりゃ、時には一番になることもあるさ。けっこうしじゅうな。だが、最終的には、君らの関心は絶対的な善にあるんだ。ほかの何よりもまず、狂信者みたいなもんさ。少なくとも上のほうの連中はな。昔の十字軍と同じ――どの宗教にも存在する一部の連中と同じだ。もちろん、こいつは宗教の問題じゃない。<光>の中心に冷たい白い炎があるのさ。<闇>の中心に宇宙なみに底のない、でかい黒穴があるようにな」
熱のこもったふとい声がとぎれ、車のエンジン音だけが聞こえていた。ウィルは沈黙して、外の灰色のもやにおおわれた畑を眺めていた。
「えらく長い演説になっちまったな」ジョン・ローランズはばつが悪そうだった。「おれが言いたかったのは、いい目的のためであっても、傷つくかも知れない人たちがこの谷にいるってことを忘れるなってことだったんだ」
ウィルの脳裏に再び、犬のカーヴァルが撃ち殺された時のブラァンの悲痛な叫びと、自分を追い払った冷たい言葉が響いた。行っちまえ、行っちまえ……。そしてほんの一瞬、予想外の映像が、過去から現れて脳裏にひらめいた。それは師であるメリマン、一の<古老>であるメリマンの骨張った力強い顔で、心から愛していた者を――人間に過ぎなかったがゆえの弱さから<光>を裏切ってしまった者を――冷たく裁《さば》いているところだった。
ウィルはためいきをつき、「あなたの言うことはわかる」と悲しげに言った。「けど、ぼくらをそう決めつけるのは、あなたが人間であることから来る誤りなんだ。ぼくらには運命《さだめ》しかない。やらなきゃならない仕事みたいなものさ。この世界を<闇>から救うためにだけ、ぼくらはいるんだ。勘違《かんちが》いしちゃいけないよ、ジョン。<闇>は本当に攻めて来ようとしてるんだよ。邪魔がはいらなければ、じきに世界を自分のものにしてしまうだろう。そうなったら、暖かい思いやりか冷たい絶対的な善かなんて疑問さえ、全く、誰にとっても存在しなくなる。だって、もうその時には、人間の心の中に存在するのは、その底無しの黒い穴だけなんだ。思いやりや慈悲や人道主義はあなたたちのためのものだ。人間が平和的に共存するためには、それらに頼《たよ》るしかないんだから。けど、<闇>と対決するぼくら<光>の場合は厳しい。そういったものはまるで役に立たない。そら、ぼくらは死なないからね。あなたたちの生のためなんだ」
座席の背もたれ越しに手を伸ばすと、ベンが軟《やわ》らかい濡れた舌でなめた。
「時には」ウィルはゆっくりと言った。「この種の戦争においては、立ち止まること、ひとりの人間に楽なようにしてやることが不可能なこともありうるんだ。そのちっぽけなひとつの行動が、他の者全てにとっての最後を意味するかもしれないんでね」
霧雨《きりさめ》が風防ガラスをぼやけさせ始めた。ジョン・ローランズはワイパーのスイッチを入れ、運転しながら外の灰色の世界に目をこらした。「君が住んでるのは冷たい世界だな、坊や《パハゲン》。わしはそんな先のことまでは見ない。いつだって、どんな大義名分《たいぎめいぶん》よりもひとりの人間のほうをとる」
ウィルは座席に腰を低く落とし、膝を抱えてボールのように丸くなった。「そりゃ、ぼくだって」と悲しげに言った。「ぼくだって、できるものならそうするよ。そのほうがずっとぼく自身にとっても楽なんだ。けど、それじゃだめなんだもの」
後ろで、ベンがいきなりとび起き、吠え出した。ウィルは驚いた蛇《へび》のように姿勢を正し、ジョン・ローランズはブレーキを踏んで半ば振り向き、ウェールズ語で犬に低く口ばやに言葉をかけた。にもかかわらず、ベンはランドローバーの後部座席に剥製《はくせい》の犬のように棒《ぼう》立ちになったまま、激しく吠え続け、次の瞬間、まるで自分の外側の何かを観察しているかのように、ウィルは自分もまた同じ力を感じて体が硬直《こうちよく》するのを覚えた。爪が掌《てのひら》に喰《く》い込んだ。
ジョン・ローランズは這いずるような徐行にまでスピードを落としたが、それでも車はとめなかった。そばの霧を通して荒地を一瞥すると、再びアクセルを踏んだ。あっという間にウィルは四肢《し》から緊張が抜けるのを感じ、あえぎながら座席の背にもたれ込んだ。犬も吠えるのをやめ、ふいに耳についた静けさの中で、おとなしく床に伏せ、動いたことなどなかったかのようになった。
ローランズが、ふと声を緊張させて言った。「たったいまコテージを通り過ぎたところだ。羊が消えた、あの空家をな」
ウィルは無言だった。病気が峠《とうげ》を越したばかりだった時のように、呼吸が浅く早くなり、灰色の王の力の重圧の下に肩を丸めて頭をうつむけていた。
ジョン・ローランズはスピードを上げ、スレートの壁《かべ》に隠《かく》れて先の見えないカーブの続く道を、頑丈《がんじよう》な小型車に強引に突っ走らせた。道はうねって谷を横切っていた。東側には新たに大斜面がせり上がり、小石だらけの危険な様相を呈《てい》しながら、むきだしの山肌を空まで届かせている。到るところで、やさしいみどりの畑地の上に支配的に、おびやかすようにそびえていた。やがてようやく、いくつかの横道やまばらなスレート屋根の家々が見え出し、ローランズが十字路にさしかかってスピードをゆるめると、前方にタル・ア・フリンと呼ばれる湖をウィルはみとめた。
ウェールズきっての美しい湖だと叔母は言ったが、灰色の朝まだきに黒っぽく横たわっているさまは、美しいというより怖いものを感じさせた。黒く静まり返った水面にはさざ波ひとつない。谷の底部一杯に拡がっている。淵の上にそびえているのはカーデル・イドリスつまり灰色の王の山の裾《すそ》斜面で、向こう岸、谷の一番奥になるところに、山々の間を通り抜け――世の果てに通じているようにも思える――道がついていた。ウィルは今はもう自制力を取り戻していたが、頭の中はピリピリしていた。灰色の王はウィルが近づくのを感じており、その怒りと敵意は声に出して叫ばれたかのように歴然としていた。見張りのひとりが、斜面の上のほうを回っているハヤブサが、ウィルの姿をはっきり見届けるまでもういくらもないだろう。そのあと何が起きるかはわからなかった。
ジョン・ローランズは湖から離れていくでこぼこ道にランドローバーを乗り入れた。ほどなく、カーデル・イドリスの山裾にちんまりと納《おさ》まった農場に到着した。とびおりて門のあけしめをしたウィルが庭にはいって行くと、平たい帽子をかぶった小柄な男が車を迎えに母屋《おもや》から出て来るのが見えた。何匹かの犬の声が聞こえる。その中の一匹が、農場主に置いていかれたその場で待っているのが見えた。牧羊犬でベンより少し小さいが、黒い毛皮もあごの下の白い毛もそっくりだった。
ウィルが近づくと、ローランズはウェールズ語の盛んなやりとりを途切らせた。「イドリス、これがわしの新しい助《すけ》っ人《と》だよ――デイヴィッド・エヴァンズの甥《おい》のウィルだ。イングランドから来た」
「初めまして、ジョーンズさん」ウィルは言った。
イドリス・ジョーンズ=タ=ボントは握手《あくしゆ》しながらいたずらっぽく目を輝《かがや》かせた。ものすごく大きくて少しとび出た黒い目の持ち主で、そのため、ぎょっとするほどキツネザルに似ていた。「元気かね、ウィル? われらがカラードグ・プリッチャードにいろいろ愉快な思いをさせられたそうじゃないか」
「ウィルだけじゃないさ」ジョン・ローランズが憮然《ぶぜん》として言った。肩越しに口笛を吹くと、ベンが車からとびおり、その場を離れてもいいかと云うようにちらりと見上げ、それからもう一匹の黒犬にあいさつをしにトコトコ歩き出した。二匹は吠えもせず、愛想よく互いの周囲をめぐった。
「信じようと信じまいと、あのララはベンの妹なんだよ」イドリス・ジョーンズがウィルに言った。「ディナスのほうで一つ腹に生まれた中からもらってきたんだ。二匹とも。かなり前のことだったな、ジョンよ? さあ、はいってくれ。ミーガンが茶を淹《い》れたとこだ」
小ぢんまりした夫の二倍はある、ふとったにこやかなジョーンズ夫人のいる暖かい台所にはいると、ベーコンをいためる匂いがウィルを再び空腹にした。そこで目玉焼きを二人前と、自家製ベーコンの厚切りを数枚、干しブドウをまぶした小型のホットケーキに似た平たい熱々《あつあつ》のウェールズ風ケーキを嬉々《きき》としてつめこんだ。ジョーンズ夫人はすぐさまジョン・ローランズにウェールズ語で楽しげに話しかけ始め、息つぎもしていなければ、夫の高めの声やローランズのふとい声に二、三ことはさむ余地さえも与えていないかのようにしゃべりたてた。明らかに地元の噂《うわさ》を全て伝え、クルーイドから放出される話を全て集めるのを楽しんでいるのだった。ベーコンと満足感で一杯になったウィルの注意力が散漫《さんまん》になり出した頃、耳を傾《かたむ》けていたジョン・ローランズがふいにぎょっとなって体を乗り出し、パイプを口から離すのが見えた。
ローランズは英語で言った。「湖の上って言ったね、イドリス?」
「そうだよ」ジョーンズは、ウィルにさっと笑顔を向けて義理堅く英語に切り替えた。「岩棚の上さ。そばまで近寄る機会はなかったんだ。うちの羊を追うんで急いでたもんで。だが、ペントレフの雌だったことは間違いないと思う。死んでから間がなかった。あまり鳥につつかれてなかったから――一日二日ってとこかな。おかしいなと思ったのは首についてた血なんだ。古くなってくろずんでた。羊が死ぬよりかなり前についたに違いない。だが手負いの羊にしちゃ、斜面とはまた妙なところに行ったもんだ。まあ、あとで見せてやるよ」
ウィルとジョン・ローランズは顔を見合わせた。
「あの羊だと思う? 消えちゃったやつかな?」
「じゃないかと思う」ジョン・ローランズは言った。
だが、少ししてイドリス・ジョーンズが羊を見せに連れていってくれた時、ウィルには見えるところまで近づかせてくれなかった。
「見て気持ちのいいものじゃない、坊や《パハゲン》」と帽子をかぶり直しながらあやふやにウィルを見た。「一日二日カラスにつつかれた羊はひどい格好になってるからな。慣れてない者には……ちょっとここで待っといで。すぐ戻るから」
「わかった」ウィルは諦めた。が、ふたりのおとなが急な、滑《すべ》りやすい山腹を登っていったあとで、ふいにめまいに襲われて、それ以上登らなかったのは確かに賢明《けんめい》だったと気づかせた。そこは湖の上のほうまで続く斜面で、ところどころに岩棚や花崗岩《かこうがん》の突起がある以外は小石とみすぼらしい草ばかりの広いむきだしの土地だった。谷の先のほうの山々は針葉樹の黒っぽい林におおわれていたが、ここの土地は裸《はだか》で愛想がなかった。死んだ羊はウィルには到底《とうてい》登り様がなさそうに見える岩棚に横たわっていた。ウィルの頭上高い所の山腹から張り出し、その上の痛ましい白い塊はいま坐っているところからは見えなかった。また、二匹の黒犬をつれて上へ登っているはずのジョン・ローランズとイドリス・ジョーンズの姿も見えなかった。
二百フィート下に湖があった。静かな水面を乱すものは、対岸の山のふもとにちょこんとある小さな釣師専用のホテルからのんびりと漕《こ》ぎ出した一艘《そう》の小舟だけだった。ほかには、湖上にも谷のどちら側にも、動く者は全く見えない。湖は前よりもやさしい印象で、流れる雲の間から時折り気まぐれに陽が射すおかげで、くすんではいるがさまざまな色合いをたたえていた。
と、上のほうで足音が騒々しく聞こえ、まばらな草の間のゆるい土にしっかりかかとをめり込ませながら、ジョン・ローランズが斜面をおりて来た。イドリス・ジョーンズと犬もあとから来た。ローランズのしわだらけの顔は暗かった。
「確かに同じ羊だ、ウィル。だが、どうやってあのコテージを出てここまで登ったものやら、わしには到底わからん。すじが通らない」そう言うとローランズは、小鳥に似た頭を当惑《とうわく》したように振っているイドリス・ジョーンを肩越しに振り返った。「イドリスにもわからんのさ。いま一部始終を話したんだ」
「そう」ウィルはもうとぼける気も起きなかった。「本当は割と単純なことなんだ。ミルグウンが運んだんだよ」
視野の隅《すみ》に、イドリス・ジョーンズ=タ=ボントが急に斜面に立ち止まったまま動かなくなり、じっとウィルを見つめているのが映《うつ》った。農場主と目が合わないように坐ったまま膝を胸につけて抱え込みながら、ウィルは初めて、警戒心を捨ててジョン・ローランズを見上げた。少年の目ではなく、<古老>の目で。もう時間があまりないのだ。それに、外面を取りつくろうのはもううんざりだった。
「ミルグウンの王だよ。ブレーニン・フルイドの狐の長だ。一番大きくて力もある。それに主《あるじ》からいろいろなことをする手段を授《さず》かっている。けものに過ぎないけど、まるで……並みのけものじゃないんだ。たとえば、今はベンと全く同じ毛色になっている。羊を襲っているところを誰かが見れば、見た者は自分の目で見た以上、ベンでなかったとは信じられなくなるように」
ジョン・ローランズは焦茶色の目を磨いた石のように光らせてウィルを見ていた。そしてゆっくりと言った。「その前は、もしかすると、カーヴァルそっくりの色をしてて、その結果、他人の目には――」
「うん」ウィルは言った。「そう見えたかもしれない」
ローランズは唐突に、重い物を払い落とすように首を振った。「そろそろこの山をおりたほうがよさそうだ、イドリス」と断固《だんこ》たる口調で言うと、ウィルをひっぱり起こした。
「ああ」イドリス・ジョーンズは慌てて言った。「そうとも、ああ」だが、ウィルとローランズのあとからついて来るイドリスの顔には、たったいま羊が犬のように吠えるのを聞いて自分の耳をどうしたら信じられるか考えているような、完全に混乱《こんらん》した表情が浮かんでいた。
二匹の犬は三人の前を小走りに進んだが、時々、ちゃんとついて来るか確かめるために保護者のように振り向いた。ジョン・ローランズはまもなくウィルの手を離してひとりで歩かせた。人のめったに通らない羊道は曲がりくねっていて傾斜《けいしや》が急で、一列縦帯《じゆうたい》にならなければとても歩けなかった。湖まで半ば下った時、ウィルが転落した。
どうしてつまずいたのか、あとになっても説明できなかった。ただ何の粉飾もなく、山が肩をすくめた、と言う以外には――ジョン・ローランズがなんでも信じてくれる気分になっていたとしても、そればかりは信じられなかったろう。とはいえ山が主であるブレーニン・フルイドの悪意のせいで、肩をすくめたのは事実だった。そのため、ウィルの足の下の道がそれとわかるほどはっきり、背を弓なりにした猫のように、片側にはねのいてまた戻り、ウィルがそれを見てぞっとなった時には既に平衡を失ってもんどり打っていた。おとなたちが叫ぶのが聞こえ、ローランズがつかまえようととび出すのが見えた。だが、既にウィルはゴロゴロ転落していて、死んだ羊が見つかった岩棚のような花崗岩棚がなければ、湖の岸の百フィートをそのまま転がり落ちているところだった。その尖《とが》った岩棚にドスッと音をたててぶつかり、左腕が燃える炎に貫《つらぬ》かれたように感じて苦痛の悲鳴を上げた。だがとにかく、その岩が命を救ってくれたのだった。ウィルはじっと動かなかった。
母親のようにやさしく、ジョン・ローランズがウィルの腕の骨に沿ってあちこち触れた。陽灼《や》けの下の血の気が失せた顔は妙な色になっていた。「やれやれ《デイウ》」とかすれ声で言った。「運のいい子だ、ウィル・スタントン。ここニ、三日は痛むだろうが、触《さわ》ってみた限りではどこも折れてない。こなごなになってたかもしれなかったのに」
「本人はフリン・ムアンギルの底に」イドリス・ジョーンズは震え声で言って、体を起こし、呼吸を整えようとした。「どうやればあんなふうに落ちるんだね、坊や《パハゲン》? たいして急いでもいなかったのに、あの落ちるスピードときたら――」と細い口笛を吹き、帽子を脱いで額をぬぐった。
「そうっとだぞ」ジョン・ローランズが慎重にウィルを立ち上がらせた。「どうだ、歩けそうか? ほかはどこも痛まないか?」
「平気だと思う。本当に。ありがとう」ウィルはイドリス・ジョーンズを振り返ろうとしていた。
「ジョーンズさん? 湖のこと、なんて呼んだんですか?」
ジョーンズはきょとんとしてウィルを見た。
「え?」
「本人は湖の底だったかもしれなかったって言ったでしょ? けど、タル・ア・フリンじゃなくて、何かほかの名前で呼んだんです。フリンなんとかって」
「フリン・ムアンギル。それが本当の名前なんだ。昔はウェールズではそう呼んでた」ジョーンズは目を丸くしてウィルを見つめていた。落ちた時に頭を打ったのだろうと思っているのは明らかだった。が、どうでもよさそうに付け加えた。「きれいな名だが、最近はあまり使われない。測量《そくりよう》地図でも……バーラと同じさ。バーラは昔のままならフリン・テギドのはずなんだが、今じゃどこでも、バーラ湖としか言わない……」
ウィルは言った。「フリン・ムアンギル。それ、英語にするとどうなりますか?」
「そうだな……佳《よ》き所にある湖かな。快《こころよ》き山陰に、かな。そんなところだ」
「佳き湖か」ウィルは言った。「落ちたのも道理だ。佳き湖だったんだ」
「うん、まあ、そう訳してもいいだろうな」と言ったイドリス・ジョーンズはハッと我に返って、とまどいと困惑《こんわく》をあらわに振り返った。「ジョン・ローランズ、おまえの見つけて来たこのバカ息子はなんだ? 首の骨を折りかけたばかりだっていうのに、山の上に立ったまま言葉の意味なんか論じてるんだぜ。うちへ連れ戻そう。発作《ほつさ》を起こしてぶっ倒れて、外国語をしゃべり出したりしないうちに」
ジョン・ローランズの低い笑い声には安堵がこもっていた。「行こう、ウィル」
丸ぽちゃのジョーンズ夫人は心配そうに舌を鳴らしながらウィルの上にかがみこみ、前腕に冷たい湿布《しつぷ》をしてくれた。何をするのもどこへ行くのも、よってたかって反対された。晴れ間の陽射しもぬくもりも増していたので、農場の近くの草の中にあおむけに寝そべり、ベンの冷たい鼻に耳をさぐられながら、淡い青空を急ぎ足で横切る雲をながめるのはなかなか快いものだった。ジョン・ローランズは近くのアベルガノルウィンまで行って、リースが欲しがっていたプラグをそこの修理工場で求めて来ることに決めた。イドリス・ジョーンズは、同行しなければならない用事を二、三、思い出した。ふたりとも、ウィルはジョーンズ夫人と犬たちと共に残って休息しなければいけない、と断言した。ウィルにはふたりのほうが彼の落下のショックからまだ回復の途中にあるように感じられた。ウィルのことを壊れやすい瀬戸《せと》物のように扱っているのだ。奇蹟《きせき》的にひび一つ入らなかったので用心深く棚の上にあげ、一定の気休め期間は動かしてはならない、とでもいうように。
ランドローバーはふたりの男を乗せてゴトゴト走り去った。ジョーンズ夫人は機嫌《きげん》よく母屋とウィルとの間を行ったり来たりして世話を焼いていたが、ウィルが痛みさえ覚えていないということをようやく納得《なつとく》すると、母屋へ戻って台所での菓子作りに専念し出した。
しばらくのあいだ、ウィルはのんびりと犬たちと遊びながら、灰色の王のことを、一瞬の勝利感と恨《うら》みと、闘志《とうし》と、次に起きるかもしれないことへの不安との混じった気持ちで考えた。もはや逃げ道はないのだった。朝、クルーイドを出た時から、そのことは既になんとなくわかっていた。道はブレーニン・フルイドの領地の心臓部へとゆるぎなく続いている。チョウゲンボウ鳴くカドヴァンの道の……佳き湖に眠る者……。このなぞなぞを最も単純に解釈して、カドヴァンの道に沿って湖にたどり着くまで歩けばいい、とはまるで思いつかなかったのだ。だがどのみち、最終的には同じことだったろう。遅かれ早かれ、ウィルはここへ、タル・ア・フリン、フリン・ムアンギル、灰色の王の影の下の佳き場所へ来るはめになっていたはずだった。
ベンを連れ、辛抱強く諦めのいいララを残して、ウィルは農場の門を出、スレート塀《べい》に縁取られた小道を下って行った。草深い土手には季節後れのイチゴがいくらかしだれかかり、塀の裏側でヒバリが鳴いていた。夏かと錯覚《さつかく》しそうなくらいだった。だが、日が照っているにもかかわらず、イバラ越しに見える彼方のカーデル・イドリスの峰々の周囲に霧がかかっているのが見えた。
ジョーンズ夫人が腕の痛みのためと言って飲ませたアスピリン錠《じよう》のおかげで宙《ちゆう》ぶらりんになったような夢心地でいた時、突然、自転車に乗った少年が小道をウィルに向かってまっすぐ突き進んで来るのが見えた。ウィルは片側にとびのいた。ブレーキが軋《きし》り、砂ぼこりがもうもうと蹴立てられ、少年は道の反対側に足とぐるぐる回る車輪の山となってひっくり返った。帽子が脱げ落ち、白い髪が見えた。ブラァンだった。
ブラァンの顔は汗で濡れ、シャツは胸にはりつき、息はゼイゼイいっていた。あいさつや言いわけをしている暇はないらしかった。
「ウィル――ベン――どっかへつれてくんだ。隠せ! カラードグ・プリッチャードにばれたんだ。こっちへ来る。完全に狂っちまってて、何があろうとベンを殺してやるっていきまいてる。もうこっちへ向かったよ、銃を持って……」
眼《まなこ》石《いし》
ブラァンは立ち上がり、ほこりと草を払い落とした。
ウィルは目を丸くした。「クルーイドからここまで、ずっと自転車をこいできたの?」 ブラァンはうなずいた。「カラードグ・プリッチャードはけさ、ハンを運転して乗りつけてきたんだ。ベンを捜しに。殺すって決めちゃってるんだ。怖かったよ、ウィル。あの顔つき、人間じゃないよ。どうやらひと晩中、ジョン・ローランズとベンを捜し回ってたみたいなんだ。服がヨレヨレだったし、ひげもそってなかったもの」呼吸はもう平常なみに戻っていた。ブラァンは自転車を起こした。
「行こうよ。早く!」
「どこへ?」
「わかんない。どこだっていい。ここから離れさえすりゃ」道の左側を縁取る土手の上に自転車をひっぱり上げると、ブラァンは先に立ってやぶや木々の間を通り抜け、湖と反対の方角に谷を横切る広い荒野へ向かった。
ウィルはベンを脇《わき》に従えてあとを追った。「けど、本当にここにいると思ってるのかな? わかりっこないのに」
「そこがぼくたちにも理解できないんだ。ベンの居場所について君の従兄《いとこ》のリースとすごい口論しているまっ最中に、ふいに口をつぐんで、静かになっちまった。まるで何かを聞いているみたいだった。それから『どこへ行ったかわかった。湖へ行ったんだ』って、そう言ったんだよ。あっさり。リースがそんなことはないって一生懸命に言ったけど、説得できなかったみたいだ。プリッチャードのやつには、なぜかわかっちゃったんだよ。もうタ=ボントに向けて出発したに決まってる。ベン! おーい!」と口笛を吹くと、犬は少し先で立ち止まり、ふたりを待った。彼らの歩いている場所は今や登り坂になっていて、ワラビが腰まで来る曲がりくねった羊道だった。
「じゃ、いったいどうやって、先回りができたんだい?」ウィルがたずねた。
自転車を押して先を歩いていたブラァンは、肩越しに振り返ってニヤッとした。何かのせいで、前の日にウィルが見た打ちひしれがた少年とはまるで違ってしまっていた。
「カラードグ・プリッチャードはさぞかし腹を立てているだろうな」とブラァンは重々しく言った。
「ほく、ポケットに折りたたみナイフを持ってたんだ。たまたま、あいつが見ていない時にバンのそばを通りかかったもんで、後輪に刺《さ》してグリッとひねっといてやった。ついでだから予備のタイヤにも突き刺しといたよ。あいつ、予備のを車体の外側にボルトで留めつけてるだろ? あれは失敗だな。内側にしまっとくべきだ」
ウィルの中の緊張が壊れたバネのように弾《はじ》けとび、ウィルは笑い出した。いったん始まると止められなくなった。ブラァンはニヤニヤしながら立ち止まったが、やがてクスッと笑い洩らし、まもなくふたりとも笑い転げていた。転げ回り、互いにしがみつき、勝利の哄笑《こうしよう》は発作のようにとめどなかった。その周りを犬のベンが嬉しそうにはねまわった。
「顔が見たいよ」ウィルはあえいだ。「バンに乗り込んで矢のように、と思ったとたん、プシューッ! タイヤがパンクして、かんかんになっておりてきてタイヤを替え、再び矢のようにってところで、プシューッ!」
ふたりは再びゲラゲラ笑い転げた。
ブラァンは黒メガネをはずして拭《ふ》いた。「言っとくけど、却《かえ》って事態を悪くしたようなものだよ。誰かがわざとタイヤを切ったんだって気がついたろうから、前にもまして頭に来てるだろうし」
「それだけの価値はあったよ」ウィルは自制心を取り戻しはしたが、陽気な気分なのは変わらなかった。ブラァンを横目で、少し照れくさそうに見ると、「ねえ、く来てくれたね。いろいろあったのに」
「うん、まあね」ブラァンは黒メガネをかけ直して再び表情を隠した。白い髪は湿ったすじになって額にはりついていた。何か言いかけて、気を変えたように見えた。「来いよ!」と自転車にとび乗ると、ワラビの中のうねうねした道を危なっかしくこぎ出した。
ウィルも走り出した。「どこへ行くつもり?」
「わかってたまるか!」
ふたりは幸せなうかれた気分で谷間で追いかけっこを始めた。開けた斜面を越え、窪《くぼ》地へ下り、苔《こけ》のへばりついた丸い岩の間を縫《ぬ》い、草やワラビやヒースやハリエニシダの間を通り抜け、川の支流を取り巻く葦《あし》とアイリスの葉の中の湿地の上をしばし走った。湖からはずいぶん遠ざかり、今や谷そのものにはいり込んでいた。そこ広い牧草地で、突き出た山裾をいくつか通り過ぎた先で、クルーイドやプリッチャードの農地と合流していた。
だしぬけにブラァンが横に自転車を滑らせて倒れ込んだ。あやまってのことだと思ってウィルが助けに行くと、ブラァンはウィルの胸をつかんで荒地の向こうを必死にゆびさした。「あっちだ! 道のほう! ずっと先にカーブがあって近づいて来る車が早くから見えるんだ――たった今、プリッチャードのバンが見えたみたいなんだ!」
ウィルはベンの首輪をつかみ、慌ててあたりを見回した。「どこかに隠れなきゃ――あの岩の後ろは?」
「待てよ! このあたりなら、いいとこがある! こっちだ――早く!」ブラァンは再びガタガタと自転車を走らせた。大きな牧羊犬はウィルの手をすり抜けてあとを追った。ウィルも走った。近くの木立ちを回ると、その向こうに、低い壊《こわ》れた石垣の後ろに、灰色のスレート壁に光が反射するのが見えた。コテージは裏側からはまるで違って見えたので、ウィルが気づいた時には遅すぎた。呼び止める間もなくブラァンは既に壊れた裏口の戸を叩きあけて中へとび込んでいた。続くほかはなかった。
灰色の王の目にさらされ、いきなり巨大な手のようにのしかかってきた<闇《やみ》>の力を感じながら、ウィルは犬と白髪の少年のあとからコテージにまろび入った。ミルグウンが傷ついた羊を盗《ぬす》み出したコテージ、ブラァンを産んで捨てた女をめぐってオーウェン・ディヴィーズがカラードグ・プリッチャードと争ったコテージ、前にもまして立ち上がる<闇>の悪意に取り付かれているコテージに。
だが壁に自転車をもたせかけたブラァンはまるで気にしておらず、明るかった。「完璧《かんぺき》だろ? 古い羊飼小屋なんだよ。もう何年も誰も住んでない……さっ、こっちだ――頭を下げて――」
窓のそばにうずくまると、ベンも静かにそばに伏せた。縁がギザギザになった破れ穴から、五十ヤードほど離れたところの道を小さな灰色のバンが通り過ぎるのが見えた。プリッチャードは徐行していた。左右を見回し、あたりをうかがっているのが見えた。が、コテージにはおざなりに目を向けただけで通過して行った。
バンはタル・フリンの方角へ姿を消した。ブラァンは壁に寄りかかった。「ふう! ついてた!」
が、ウィルは関心を払わなかった。灰色の王のたけり狂う敵意から精神を遮断《しやだん》することで一杯だった。くいしばった歯の間から洩れた言葉は切れぎれでたどたどしかった。「ここ……から……出るん……だ」
ブラァンはまじまじとウィルを見たが、質問はしなかった。「いいよ、じゃあ。タルド アマ、ベン」と犬を振り返ったが、とたんに電線の間を吹きぬける風のように声がかん高くなった。「ベン! どうした? 見ろよ、ウィル!」
犬はべったり腹這いになり、四本の脚を外側に広げ、頭を横向きにして床に押しつけていた。ぞっとするような、不自然な姿勢だった。普通のいかなる生き物にも不可能な姿勢だった。のどがかすかな笛のように鳴ったが、身じろぎもしなかった。まるで、目に見えないピンでむりやり押しつけられているかのようだった。
「ベン!」ウィルは慄然《りつぜん》となった。「ベン!」だが犬の頭を持ち上げることはできなかった。金縛《かなしば》り状態《じようたい》は自然な原因によるものではなかった。生きた人間の手で動かせないほど強く地べたに押しつけるなどということは、魔法にしかできない。
「なんなの?」ブラァンの顔に怯えた色があった。
「ブレーニン・フルイドだ」ウィルの声は、ブラァンには前よりも深く、よく響いて聞こえた。「ブレーニン・フルイドだ。きのう話した時に約束したことを忘れてしまったんだ。ひと晩と一日くれると言ったのに」
「君と話したの?」窓辺にじっとうずくまったブラァンは、自分の声がとぎれとぎれのささやきになって出て来るのを聞いた。
だが今度もウィルは注意を払っていなかった。その異様におとなびてしまった声で、半ば自分に話しかけていた。「ぼくではなく、犬に向けられている。ということは、間接的なものだ。何か道具を使ってるんだ。はてな……」
いったん言葉を切り、ブラァンを見て、警告のしるしに指を振り立てた。「見ていたければ見てもいい。見ないほうがいいんだが。けど、ひとことも口をきいちゃいけないし、ピクリとも動いちゃいけない。絶対にだよ」
「わかった」
ブラァンは汚ない、壊れたスレート床の片隅《すみ》にうずくまって、ウィルが中央に進み出、不気味な大の字になった犬のそばに立つのを見守った。
ウィルは身をかがめて、空家だった年月に家のあっちこちにたまったゴミの中から折れた棒切れを拾い上げた。それを足の前の地面に触れさせ、棒切れの先端で床の上に、自分とベンを囲むように円を描いた。円が描かれたところには青い炎が燃え上がり、全部描き終わると、ウィルは緊張をほぐして体をまっすぐに起こした。大変な重荷を取り除かれた者のように。棒切れを頭上に垂直に上げて低い天井に触れるようにすると、ブラァンには理解できない言語でいくつかの言葉を発した。
コテージは次第に暗くなっていくように見え、ブラァンの弱い目でまばたきしても、冷たい火からなる青い輪とその中心にいるウィルの影のような姿しか見えなくなった。ところがその時、べつの<光>が室内に輝き始めるのが見えた。小さな青い火花で、どこか遠い隅の方で次第に明るさを増して行き、ついにあまりのまぶしさに目をそらさなければならなくなった。
ウィルがブラァンにはわからない言葉で鋭い怒《ど》声を発した。青い炎の円は燃え上がった。高く、低く、高く低く、高く低くと三度繰り返すと、ふっと消えてしまった。たちまちコテージはもとの日光に満ち、まばゆい光点はどこにも見あたらなかった。ブラァンはゆっくりと長い吐《と》息を洩らし、あの光点がなんだったのか、キョロキョロと見回した。だが室内は今は、少し前とはまるで違う全く普通の部屋に見えたのでわからなかった。また、ウィルの周囲に円が描かれていたことはわかっていたが、その引かれた跡《あと》すら見つからなかった。
じっと動かずに佇んでいるウィルだけが、あの一瞬に変化したようには見えなかった唯一のものだった――そのウィルでさえ、前とは違っていて、もと通りの少年ではあったが、苛立《いらだ》たしげに床をねめつけていた。どこかへ転がって行った、しようのないビー玉でも捜《さが》すように。
ブラァンを一瞥《べつ》すると、ウィルは怒っているような口調で言った。「来いよ。これを見てごらん」そしてブラァンが慌てて立ち上がるのも待たずに部屋の反対側の隅に歩み寄り、うずくまって、そこの瓦礫《がれき》の中にほこりだらけになってちらばっている小さな石のかけらをかき回し始めた。それらを押しのけて床の上にすきまをあけると、そのすきまには小さな白いさざれ石がぽつんと転がっていた。ウィルはブラァンに言った。「持ち上げてごらん」
とまどったブラァンは手を伸ばし、小石をつかんだ。が、持ち上げられないのを発見した。指でひねくりまわしてもみた。立ち上がって石の両側に足を踏ん張り両手の親指と人さし指で床からひっぱり上げようともしてみた。ついに、小石をまじまじと見つめ、それからウィルを見た。
「床の一部なんだよ。それしかない」
「床はスレートだ」ウィルはまだ腹立たしげで、すねているようにさえ聞こえた。
「うん……そうだ。スレートの中には石なんかはいってこないけど、とにかく何かでくっついちゃってる。石英《せきえい》のかけらみたいだけど。ビクともしないぜ」
「眼石なんだ」ウィルの声は今度は疲れたように生気がなかった。「灰色の王の意識だ。気づくべきだった。ここでは、この石が、あいつの目であり、口でもある。この石を通して――石がそこに転がってるだけで――ここで起きることが全てわかるだけじゃない、何かをするために自分の力を送ることもできるんだ。なんでもじゃないけど。たいして大きな魔法は使えない。けど、たとえば、そこにいるベンを金縛りにして、眼石そのものと同じくらい動かなくすることはできる」
ブラァンはみじめな犬の傍《かたわら》にひざまずいて、不自然に床にへばりついた頭を撫でてやった。「でも、もしカラードグ・プリッチャードがここにいるのを嗅《か》ぎつけたら――ありうるんだよ。犬をつれてるから――そしたら、ベンはここに伸びたまんま、撃ち殺されちゃう。ぼくらにはどうすることもできない」
ウィルは苦々しげに言った。「それが狙いなんだろう」
「だって、ウィル、そんなことさせられないよ! なんとかしてやってよ!」
「ひとつだけ打つ手がある。けど、もちろん眼石がそこにある以上、君に話すわけにはいかない。君の自転車を借りなきゃならないな。しかし、君をひとりでここに置いて行っていいものか……」
「誰かが残らなくちゃ。ベンをこのまま置いては行けないよ。ベンだけなんて」
「わかってる。けど眼石が……」ウィルは、あたかも、そこに坐って高価すぎる品物を握《にぎ》ったきり離さないいまいましい小さな子どもを見るように、小石をにらみつけた。「特別に力のある武器でもないんだ。非常に古い武器ではあるけどね。みんな使うんだよ。<光>も<闇>も。まあ、不文律みたいなものがあって、ぼくらのうちの誰も、実際に眼石を通してどうこうされることはない――観察されるだけだ。あのしゃくにさわる小石は、灰色の王に、ぼくがここでしたり言ったりすることをある程度伝えられるる。おおまかにだけどね、感じがつかめるように――テレビほど具体的じゃない。ありがたいことに。ぼくを傷つけたり、やりたいことを妨《ぼう》害したりはできない――他の者に及ぼせる力を利用する以外には。つまり、ぼく自身に手を出すことはできないわけだ。ぼくは<古老>だからね。けど、<闇>の――<古老>の眼石の場合には<光>の――力を伝えて、人間や、動物や、土に育つものを動かすことはできる。ベンを動けなくすることによって、ぼくがベンを連れ出すのを防いだわけだ。わかるかい? だから、君がここに残れば、どんなことをしかけてくるかわからないのさ」
ブラァンは頑固《がんこ》だった。「かまわない」と犬のそばにあぐらをかいた。「ぼくを殺せはしないだろう?」
「もちろん」
「じゃ、いいよ。ぼくは残る。行けよ。自転車を持って」
ウィルは予想通りだというようにうなずいた。「できるだけ急ぐつもりだ。でも、気をつけるんだよ。目をちゃんとさましてるんだ。何かが起きるとすれば、一番意外な形で起きるからね」
そう言うとウィルは出て行き、ブラァンはコテージの中に、目に見えない強風によってスレートの床に不可能な形に押しつけられた犬とともに残され、小さな白い石を見つめていた。
「こんにちは、ジョーンズの奥さん、お元気かな?」
「元気よ、プリッチャードさん、ありがとう。あなたは?」
カラードグ・プリッチャードのボッテリした顔は汗で光っていた。苛立ちがウェールズ式の礼儀を押しのけて、唐突に聞かせた。「ジョン・ローランズはいるか?」
「ジョン?」感じのいいミーガン・ジョーンズは、粉《こな》だらけの手をエプロンで拭いた。「あらまあ、残念だったね。ちょうど出かけたとこよ。イドリスと一緒に、半時間ほど前にアベルガノルウィンに出かけたのよ。お昼食《ひる》までには戻ってくるって言ってたけど、きょうは遅昼食《おそびる》の予定だから……急ぎのご用なの? プリッチャードさん」
カラードグ・プリッチャードは虚ろな目で彼女を見つめ、返事をするかわりにかん高い、ひきつった声で「ローランズの犬は?」
「ベン? もちろんいませんよ」ジョーンズ夫人は正直に言った。「ジョンがいないんだもの」と愛想よく笑いかけた。「人間のほうに会いたいの? それとも犬のほうに? まあ、ここで待ってて下すってもかまわないのよ。さっきも言ったように、相当に時間がかかるでしょうけど。お茶を淹れるわね、プリッチャードさん。それにおいしい焼きたてのウェールズ風ケーキをね」
「いらん」プリッチャードはまっかな髪をおざなりに手でかき上げた。「いや……いや、けっこう」あまりにも自分の考えごとに熱中しているので、ジョーンズ夫人の存在もろくに意識していないように見えた。「町へ行って、捜してみよう。王冠亭にいるかも……ジョン・ローランズはイドリス・ジョーンズ=タ=ボントに用事があってきたのか?」
「あら」ジョーンズ夫人は気楽そうに言った。「ただ遊びに来ただけよ。どのみちアベルガノルウィンに用があったんでね。ちょっと寄っただけよ。プリッチャードさん。あなたと同じ」と、屈託《くつたく》なげにほほえみかけた。
「それじゃ」とカラードグ・プリッチャードは言った。「どうもありがとう。さよなら」 灰色のバンが慌《あわただ》しく向きを変え小道を走り去るのを、ミーガン・ジョーンズは見送った。微笑が薄れた。「感じの悪い人」と庭一帯に宣言した。「あの小さい目の奥には何かとってもいやな感じのものがあるわ。あのウィル坊やが犬を連れて散歩に出たところだったのは、本当に運がよかった」
ウィルは懸命にペダルをこぎ、谷間の道がうねってはいるが平坦《へいたん》であることを感謝した。ペダルをとめて惰性《だせい》で走るに任すのは、ドキドキする心臓が胸から本当にとび出してしまいそうになる時だけだった。片手しか使っていなかった。痛めた腕のことは口にしなかったのでブラァンはまるで気づかなかったが、左手でハンドルに触れただけですさまじく痛むのだ。黄金の琴を抱えたらどんなに痛むかということは考えまいとした。
今となってはそれしか手だてはなかった。ベンを眼石の力から解放できる魔法で、ウィルの手の届くところにあるのは琴の音楽だけだった。どのみち、もはや琴を佳き湖に運んで、より重要な目的をとげさせる時でもあった。何もかもがひとつに収束していた。同じ峠へと導く二本の道のように。ウィルの願いは、両方の道を一度に遮断してしまうような障害物《しようがいぶつ》が現れないことだけだった。今回は、ほかのどの時にもまして、<闇>を抑《おさ》えるのは、<光>の力と同じくらい人間の判断や感情にかかっているのだ。否、<光>以上にかもしれない。
雲が空を急ぎ足で横切ると、きれぎれの陽光が目にあたっては消えた。少なくとも天気だけはいいな、とウィルは皮肉っぽく考えた。車輪は唸りを上げて道を走り、クルーイド農場まではもういくらもなかった。いきなり戻ってきてまたいきなり出て行くことを、ジェン叔母にどう説明したものかウィルは悩んだ。おそらく叔母ひとりしかいないだろう。朝がた、カラードグ・プリッチャードが来て傷つけられたタイヤを取り替えた時もいただろう。プリッチャードをはぐらかし、ベンを見つけられないようにする何かを取りに来たと言ってもいい……ジョン・ローランズに言われたのだと……だが、それでも、黄金の琴を持って家を出なければならない。ジェン叔母の鋭い目にボロ袋にくるまれた品が触れれば、何か包んでいるのかぐらい聞かれずにはすむまい。見せないですむ口実があるか? ましてや、叔母、甥の仲で。
ウィルは、これまでも何度も願ったように、こういった面倒を処理してくれるメリマンがいてくれたら、と思った。<光>の師ともなれば、まばたきひとつする間に、空間ばかりか時間の彼方からさえ人物や品物を取り寄せるくらいなんでもない。だが<古老>の中でも最年少のウィルにとっては、いかに必要にさし迫られていても、それは荷がかちすぎるのだ。
農場に着くと自転車を乗り入れ、裏口からとびこんだ。が、声をかけても、誰も出てこなかった。外の庭に車が一台もなかったことをハッと思い出して、ウィルはすっかり気が軽くなった。叔父も叔母も出かけたに違いない。ひとつだけは運が向いていたわけだ。自分の寝室に駆け上がると、金の琴を護っていた魔法から解放するために必要な呪文を唱《とな》え、粗《あら》いボロ布に包まれた妙な三角形の包みを腋《わき》にかかえてまた駆けおりた。自転車に向かって庭を半ば横切った時、ランドローバーが一台、門をはいって来た。
一瞬、ウィルは慌てたあまり棒立ちになった。それからゆっくりと、慎重に歩き出し、自転車までたどり着くとすぐ出発できるよう向きを変えた。
オーウェン・ディヴィーズが車からおり、じっとウィルを見つめた。「門をあけっ放しにしたのは君か?」
「あっ、いけない」ウィルは心から恥《はじ》入った。農場における古い罪《つみ》を犯しながら、気づきもしなかったのだ。「はい、ぼくがやったんです、ディヴィーズさん。とんでもないことしちゃって。本当にごめんなさい」
痩せたきまじめなオーウェン・ディヴィーズは、平たい帽子をかぶった頭をとがめるように振った。
「どうしてもおぼえてなきゃならないことのひとつに、農場ではあけた門は全て閉めるってのがある。君の叔父さんの家畜のうち、出しちゃいけなかったのが抜け出したかもしれないんだよ。君はイングランド人だし、たぶん都会育ちなんだろうが、そんなことは言いわけにはならない」
「わかってます。ぼく、都会育ちでさえないんだから、もっと悪い。本当に、申し訳ないことをしました。デイヴィッド叔父さんにもちゃんと話します」
正直に認められて面くらったのか、オーウェン・ディヴィーズは呑み込まれかけていた正義感の淵《ふち》から急速に浮上《ふじよう》した。「いや、まあ、今回のことは忘れよう。ふたりとも。君も二度としないだろうから」視野が少し横に流れた。「そいつはブラァンの自転車じゃないか? 一緒に来たのかい?」
ウィルはくるんだ琴を肘と脇腹の間にぎゅっとはさんだ。「借《か》りたんです。ブラァンはサイクリングの途中で、ぼくが……谷の奥のほうを散歩してるのに出会って、造りかけの大きな模型《もけい》飛行機を一緒にやらないかってことになって」と腕の下の包みを軽く叩き、同時に自転車のサドルにまたがった。「これから引き返すところなんです。かまわないでしょう? ブラァンに何かご用でも?」
「いや、いや」オーウェン・ディヴィーズは言った。「べつに用はないよ」
「ジョン・ローランズはベンをぶじにタ=ボントのジョーンズさんのところへ連れてきましたよ」ウィルは明るく言った。「ぼくも、お昼食《ひる》をごちそうになる予定なんです。遅めになるってジョーンズさんのおばさんは言ってました――ブラァンも一緒に招《よば》れていいですか、ディヴィーズさん? いいでしょう?」
オーウェン・ディヴィーズの細い顔に、いつものきまじめな慌《あわ》てた表情が浮かんだ。「いや、それはいかんよ。ジョーンズの奥さんが招んでくれたわけじゃなし、余分な口がふえたら大変だろ――」
ふいに言葉が途切れた。まるで、理解できない何かを聞きつけたかのように。とまどったウィルは、ブラァンの父親の顔が、何度も見はしたが叶《かな》ったことのない夢を見ているような、混乱《こんらん》した表情を浮かべるのを目にした。ブラァンの父親のように一本気で、次に何をするか察しがつくような男の顔には、全く意外な表情だった。
オーウェン・ディヴィーズは、さらに彼らしくないことに、ウィルをまともに見すえた。
「どこでブラァンと遊んでたって?」
ウィルは最後の言葉をとやかく言うような子供じみたまねはせず、自転車のペダルを足で蹴った。「荒野です。谷のずっと奥のほうで。道の近くですよ。どことはうまく言えないけど、ジョーンズさんの農場へ向かって、半分以上行ったとこ」
「ああ」オーウェン・ディヴィーズはあやふやに言うと、もとのおどおどした男に戻ったのか、ウィルを見て目をしばたたいた。「まあ、ついでのことだ。昼食《ひる》に招ばれてもいいだろう。ジョン・ローランズもいることだし――ミーガン・ジョーンズはおおぜいに食べさせるのは慣《な》れっこだからな。だが、暗くならないうちに帰るよう言ってくれ」
「ありがとうございます!」ウィルはディヴィーズが気を変えないうちにと出発し、門を通り抜けてから注意深く閉めた。さよならっと声をかけ、ブラァンの父親の手がゆっくりと上げられるのを見るか見ないかのうちに遠ざかっていた。
だが、痛む左腕に琴をつかんで片腕だけでギクシャクしながらのろのろと進むうちに、いくらも行かないのにオーウェン・ディヴィーズのことは頭から追い払われ、灰色の王のことに取って代わられた。今や谷は力と悪意に脈搏《う》っていた。太陽は、十一月の空の半ばまで昇ったに過ぎなかったが、既《すで》に頂点に達していた。ウィルの唯一の単独探索を成就《じようじゆ》するための最後の時がきたのだ。言葉には出されていないが戦いの火蓋《ひぶた》が既《すで》に切って落とされたことで頭が一杯だったため、体のほうは道に沿って自転車と自分自身をゆっくり進ませるのがやっとだった。
同じ方向に急ぐ一台のランドローバーに追い越された時も、たいして注意を払わなかった。往復とも何台もの車とすれ違っていたし、この地方ではランドローバーはありふれていた。この一台に限って特別だなどと思う理由はなかった。
荒野の家
身動きのならない牧羊犬とひとり取り残されたブラァンは、再び部屋の隅の瓦礫の山に歩み寄り、眼石を見つめた。実に小さく、実にあたりまえで、この地方のあちこちに散らばっている白い石英のかけらとまるで変わらない。もう一度かがんで拾い上げようとし、動かないのであらためて驚異《きようい》に思った。ベンのぞっとするような大の字の姿勢と同じだ。ブラァンはありえないものを見ているのだ。
なぜ怖くないのだろう、とふと思った。こうやってまのあたりにしていても、やはりこんなことはありえない、と頭のどこかで思っているせいか? 小石に何ができるというのだ? コテージの戸口に近づくと、ブラァンは立ったまま谷の向こうの鳥岩を見つめた。ここからは岩《クライグ》は見えにくかった。目立たない黒い瘤《こぶ》のようで、後ろの高峰の連なりのせいで小さく見える。だが、あれもまた、ありえないものを内に秘めているのだ。あの岩の奥底におりて行って、魔法の岩屋で上なる魔法の君たち三人に会ったのではないか……ブラァンはふいに海青の衣をまとっていたひげの人物を思い浮かべ、ずきんに隠れた顔の中の目が自分の目をとらえたのを思い出した。そして思い出したことによって、不思議な暖かみをひしひしと感じた。明らかに三人の中で最も偉《い》大だったあの人物のことは、一生忘れないだろう。どこかほかと違って親しみがあった。カーヴァルのことまで知っていた。
カーヴァル。
「恐れることはない、子供よ。上なる魔法はそなたの犬をそなたから取り上げたりはせぬ……子供よ、互いに奪い合うのは地に生きる者だけなのだ。あらゆる生き物の中でも、人間はその最たる者だ。生命も奪ってしまう……おのれの種族に心するのだぞ、ブラァン・ディヴィーズ――そなたを傷つけるのは彼らだけなのだ……」
隠すことをおぼえ始めたばかりの愛するものを失った痛みが、ブラァンを矢のように貫いた。頭の中にめまぐるしくさまざまな場面が浮かんだ。足もとのおぼつかない仔犬のカーヴァル、学校へついて来るカーヴァル、牧羊犬として仕事をするための合図や命令を学ぶカーヴァル。雨に濡れて、長い毛が背骨に沿って真っすぐ分け目をつけられ、体にべったり張りついているカーヴァル、走っているカーヴァル、小川で水を飲んでいるカーヴァル、温かいからだをブラァンの足の上に載せて眠っているカーヴァル。
死んだカーヴァル。
ウィルのことが思い浮かんだ。ウィルのせいだ。ウィルがあんなことに首を突っ込ませなければ――
「違う」ブラァンは唐突に声に出した。振り返って眼石をにらみつけた。ウィルのことを悪く思わせて、仲違《なかたが》いさせようとしているのだろうか。<闇《やみ》>は予想もつかない形で手を伸ばしてくるだろう、とウィルが言ったではないか。今のがそうに違いない。知らないうちに、ウィルに反発するよう影響されていたのだ。こんなに早く気がついたことにブラァンは満足した。
「無駄な努力はやめるんだな」と眼石を嘲った。「ぼくにはきかないからね」
再び戸口に戻って山々を眺めた。またカーヴァルのことを考え始めた。最後の姿を思い浮かべずにいるのは難しかった。最も恐ろしい姿でありながら、一番最近のものだけに大切だったのだ。あの銃声が、あれがどんなふうに庭にこだましたかが再び聞こえた。倒れたカーヴァルの生命が流れ去り、カラードグ・プリッチャードが成功したという思いにほくそえんでいた時の父の言葉が聞こえた。カーヴァルは羊をねらったんだ。疑問の余地はない……父さんがカラードグだったとしても、撃たなかったとは言い切れない。こうしたのは正しかったんだよ……
正しい。正しい。父親はいつも自信たっぷりだった。何が正しくて何が間違っているか。父親も、非国教会に行く父親の友人達も、ブラァンにとってはしつけの一部だった。日曜には二度、非国教会に行って、もじもじしないでおとなしく坐って説教を聞き、聖書で禁《きん》じられている罪を犯さないこと。父親にとってはそれ以上のもので、時には週に二回も祈祷《きとう》会に行き、常に、人が教会執事《しつじ》に期待する態度を崩さないことだった。非国教会やそのさまざまな規則には悪いところがあるわけではない。だがブラァンには、父親が他の会衆の誰よりもそれに打ち込んでいるのがわかった。まるで何かに追われているような心配そうな顔と丸めた肩を持ち、ブラァン自身には決して理解できなかった罪の意識をしょい込んでいた。親子の生活には軽みというものが全くなかった。父親のいつ果てるともしれぬ無意味な苦行が、軽軽しいことを禁じていた。ブラァンはタウィンの映画館に行かせてもらえたこともなく、日曜でも、教会へ行き山々を歩き回る以外には何ひとつすることを許されなかった。学校での音楽会や劇《げき》に行かせることさえ、父には気が進まないようだった。ブラァンがエイステズフダウのコンクールで竪琴を弾くことになった時など、ジョン・ローランズが長時間かけて説得しなければならなかった。オーウェン・ディヴィーズがあたかも自分とブラァンを谷の中の小さな箱に封じ込めて鍵をかけたかのような、殺風景な、寂《さび》しい、人生の明るいこと全てと接触を断《た》った暮らしだった。まるで生涯を牢獄《ろうごく》ですごすことを命ぜられたかのように。
ブラァンは思った。不公平だ。ぼくにはカーヴァルだけだったのに。そのカーヴァルさえいなくなっちゃって……。悲しみがのどの中に膨れ上がったが、懸命に呑み下して歯を食いしばり、泣くまいと決めた。代わりに怒りと恨《うら》みが頭の中で大きくなり出した。どんな権利があって父親は人生を暗いものにしてしまうのだ? ほかの人々とどこが違ってると……
そうじゃないか、と頭の中で声がした。違ってるじゃないか。おまえは白い髪と、陽灼けしない蒼白い皮膚と、強い光に耐《た》えられない目をもった変り種だ。白髪《しらが》っぽ、と学校では呼ばれているだろう。白んぼとも。谷の奥から来ている子で、見られていないと思うと、おまえに向かって凶眼《きようがん》を防ぐ古いしぐさをするのがいるじゃないか。みんな、おまえを嫌っている。そうとも、おまえは違ってるのさ。その顔とあの父親のせいで、生まれてからずっと人と違うことを感じていたはずだ。髪を染めようが、皮膚を黒く塗ろうが、心の中は変り種のままさ。
ブラァンは怒りにかられながらも当惑して、コテージの室内を行ったり来たりした。片手をドアに叩きつけた。頭が破裂《はつれ》しそうだった。眼石は忘れられていた。この思いもまた<闇>のひそかな手によってもたらされたのかもしれない、とは思いあたらなかった。世界からいっさいが消えてしまったようで、父親への恨みと怒りだけが頭にあふれていた。
その時、コテージの壊れた表戸の外で、車が停車するブレーキの音と砂利を噛む音がした。ブラァンがのぞくと、ちょうど父親がランドローバーからおりて、コテージに向かって来るところだった。
ブラァンは頭の中が怒りと驚きでわーんと鳴っているまま、じっと立ちつくしていた。オーウェン・ディヴィーズは戸を押しあげ、立ち止まって息子を見た。
「ここにいると思った」と父親は言った。
ブラァンはぶっきらぼうだった「なぜ?」
父親は神経質な時にいつもやるように、頭をヒョコッと奇妙にゆすった。「ウィルが農場に何かを取りに来た。おまえもこのあたりにいるって言ったんで……そのうち来るだろう」
ブラァンは体を強張《こわば》らせて立っていた。「なぜ来たの? なにかあったとウィルが思わせたの?」
「いや、そんなことはない」オーウェン・ディヴィーズは慌てて言った。
「じゃあ、何を――」
だが父親はベンを見てしまった。一瞬《しゆん》、身じろぎもせず立ちつくしていたが、やがてやさしく言った。
「だが、何かあったんだね?」
ブラァンは口をあけたが、また閉じた。
オーウェン・ディヴィーズは奥まではいって来て、動けずにいる牧羊犬の上にかがみ込んだ。「どこを怪我《けが》したんだ? どこかから落ちたのか? こんな寝そべり方は見たことが……」犬の頭を撫で、四肢のあちこちに触れてみてから、前足の一本を持ち上げようとした。ベンはほとんど聞き取れないほどの鳴き声を上げ、目玉をぐりっと回した。前足は動かなかった。硬直しても固くなってもおらず、ただ地面にへばりついていた。眼石と同じように、ブラァンの父は四本の前足を順ぐりに試したが、一インチの何分の一でも動かせたものは一本もなかった。立ち上がり、のろのろとあとずさりをすると、父親はベンをまじまじと見た。それから頭を上げてブラァンを見たが、その目には、非難に混じって恐ろしい不安の色があった。
「おまえ、何をしてたんだ?」
ブラァンは答えた。「ブレーニン・フルイドの力だよ」
「下らん!」オーウェン・ディヴィーズは決めつけた。「下らん迷信だ! そんな異教徒の昔話を本当のように言うことは許さん」
「いいよ、父さん。犬を動かせないのも下らん迷信ってわけだね」
「何か関節の硬直だろう」父親はベンを見て言った。「おそらく、背骨を折って、それで神経や筋肉が全部強張《こわば》ってしまったんだ」だが自信がなさそうだった。
「どこも怪我してなんかいないよ。怪我じゃないんだ。こうなったのは――」ブラァンは急に眼石のことまで話すのはやりすぎだと感じた。そこで代わりに、「ブレーニン・フルイドの悪さのせいなんだ。あいつの目くらましのせいで、罪もないカーヴァルも撃ち殺された。今度はベンのことも、あの気違いのカラードグ・プリッチャードが仕止めやすいようにしてやってるんだ」
「ブラァン、ブラァン!」父親の声は取り乱してかん高くなった。「カーヴァルが死んだことを、そんなふうに思ってはいかん。どうしようもなかったんだ。坊や《パハゲン》。羊をねらうようになっちまった以上、どうしようもなかったんだ。殺し屋になった犬は、殺さなきゃならない」
ブラァンは声が震えるのを抑えようとした。「殺し屋なんかじゃなかったよ、父さん。父さんには何もわかっちゃいないんだ。わかってるなら、ベンをそこから一センチも動かせないのはなぜさ? ブレーニン・フルイドのしわざなんだってば。父さんにはどうしようもない」
オーウェン・ディヴィーズの不安そうな目の色から、心の奥底ではブラァンの言い分を真実だと認めているのがわかった。
「わかってるべきだった」父親は辛そうに言った。「ここにいるのを見つけた時に、何が起きてるか気がつくべきだった」
ブラァンは目を丸くした。「なんのこと?」
父親には聞こえないようだった。「よりによって、ここにいたんだから。血は争えないと言うから。血は争えない。彼女《あれ》は山の中からここへ来た。暗闇の中からこの場所へ。だからおまえも来たわけだ。何も知らなくても、ここへ来てしまった。今度もろくなことにはなるまい」父親の目は大きく見開かれ、まばたきを繰《く》り返していたが何も見てはいなかった。
谷に拡《ひろ》がる夜霧のように、父の言う意味が少しずつブラァンの脳裏に忍《しの》び入って来た。「ここ。さっきから、ここって言ってるけど……」
「ここはおれの家だった」オーウェン・ディヴィーズは言った。
「そんな」ブラァンは言った。「まさか、そんな」
「十一年前には、おれはここに住んでいた」
「知らなかったんだよ。考えてもみなかった。おぼえてる限《かぎ》り、いつも空家だったもの。ちゃんとした家だなんて思ったこともなかった。ひとりの時にはよく来るんだ。雨の時とか。ただ坐ってることもある。時には」――ブラァンは生唾を呑み下した――「自分の家のふりをすることも」
「カラードグ・プリッチャードの持ち家だ」父親は虚ろに言った。「あいつのおやじさんは羊飼いの家にあてていた。今ではプリッチャードの作男《さくおとこ》たちは農場のそばに住んでいるが」
「気がつかなかったんだ」ブラァンは繰り返した。
オーウェン・ディヴィーズはベンのそばに立って、細い肩を丸め、見おろした。そして苦々しげに言った。「ブレーニン・フルイドの力か。そうとも。彼女《あれ》を山からおれのもとへ連れ出し、また連れ戻したのもそれだ。ほかにはありえない。おれは、おまえをそういうものとは縁《えん》のない子に、祈《いの》りと善《ぜん》を知る子にきちんと育てようとした。だのに、ブレーニン・フルイドはずっと、おまえを母親のところへ連れ戻そうと手を伸ばしてたんだ。ここへ来たりしちゃいけなかった」
「だって、知らなかったんだ」ブラァンの中で、怒りが火花のように燃え上がった。「知るわけないだろ? 何も教えてくれなかったじゃないか。それに、ほかにはどこも行くところがなかったんだ。タウィンには絶対《ぜつたい》に行かせてくれないし、放課後、ほかの子とプールや海に行くのも許してくれなかった。荒野以外にどこに行けたって言うの? ここに来ちゃいけないなんて、どうやってわかれって言うんだよ?」
ディヴィーズは苦しげだった。「おまえには知らせたくなかったんだ。済《す》んだことだ。終わったことだ。おまえを過去から切り離しておきたかった。ああ、ここに残るんじゃなかった。最初《はな》っから谷を出ちまえばよかった」
ブラァンは何かを払いのけるように頭を左右に振った。コテージ内の空気が急に暑苦しく感じられ、重たく、雷鳴の前兆《ぜんちよう》のようにピリピリしているようだった。ブラァンは冷ややかに言った。「父さんはぼくには何ひとつ話してくれない。いつも言われた通りにさせられるだけだ。これが正しいんだ、ブラァン、こうしなさい、これが一番いいことだ、こう振舞わなくてはいけない。母さんのことも絶対に話してくれない。話してくれたことなんかない。ぼくには母さんがいない――そいつはそんなに珍《めずら》しいことじゃないさ。学校にもふたり、そういう子がいるもの。けど、ぼくは自分の母さんについて知ってることすらないんだよ。グウェンって名前だったことだけ。髪が黒くて目が青かったことも知ってるけど、それだってローランズのおばさんが教えてくれたんだ。父さんじゃない。父さんは何も教えてくれない。ぼくが赤ん坊の時に出てったってことだけだ。生きてるのか死んでるのかさえ、ぼくは知らないんだ」
オーウェン・ディヴィーズは静かに言った。「おれも知らんのだ」
「ぼくは、どんな人だったのか知りたいんだ!」ブラァンの頭の中にはりつめたものが怒涛《どとう》のように鳴り響いた。ブラァンはどなり出していた。「知りたいんだ! けど、父さんは教えるのが怖いんだろう。出てったのが父さんのせいだったからだ! 父さんのせいだ。ぼくには前からわかってた。ぼくのことを閉じこめとくみたいに、母さんのことも誰ともつきあわせず閉じこめといて、それで出てっちゃったんだ!」
「違う」父親は辛そうに小さな部屋の中を行きつ戻りつし始めた。ブラァンのことを、とびかかって来るかもしれない野獣でも見るように、不安そうに警戒して見た。ブラァンには怖がって警戒しているように思えた。少年の経験の範囲《はんい》内では、それ以外に思いつかなかった。
オーウェン・ディヴィーズはつっかえつっかえ言った。「おまえはまだ小さい、ブラァン。わかってほしい。おれはいつだって、正しいことをしようとして来た。話してもいいことだけを話そうとして来た。おまえにとって危険かもしれないことは話すまいと――」
「危険!」ブラァンはさげすむように言った。「自分の母さんのことを知るのがどうして危険なのさ?」
一瞬、ディヴィーズの自制心がはじけとんだ。「あれを見ろ!」とベンをゆびさして言い放った。犬は相変わらず動かず、干してある生皮のようにぞっとするほど平べったくなっていた。「あれを見ろ!あれはブレーニン・フルイドのしわざだと言ったな――だのに、どうして危険か、などとたずねるのか?」
「母さんとブレーニン・フルイドは関係ない!」が、自分の言葉を耳にしたブラァンはあとを続けず、目を見開いた。
沈黙を父親が沈んだ声で破った。「それは最後までわからんだろう」
「どういうこと?」
「聞きなさい。おれは彼女がどこへ行ったか知らん。山から出て来て、結局は山へ帰って行った。それきり見かけた者はいない」オーウェン・ディヴィーズは、ひとことひとことが苦痛を与えるかのように、苦労してむりに吐き出していた。「自分からいなくなったんだ。出て行ったんだ。誰にもなぜかわからなかった。おれが追い出したんじゃない」急に声が割れた。「追い出すだと! ばかな、おまえ、おれは気も狂いそうになって山の中を捜し回ったんだ。捜したけどとうとう見つからず、呼んだけどとうとう返事してくれなかった。聞こえたのは鳥の鳴き声と羊だけ、それとおれの耳の中でヒューヒュー鳴る風だけだった。そしてブレーニン・フルイドはカーデルとフリン・ムアンギルの上の霧の陰で、おれの呼び声がこだまするのを聞いてほくそえんでいたんだ。彼女《あれ》がどこへ行ったのか、永久におれには教えまいと……」
声の中の明らかな苦悩《くのう》には何のてらいもなく、ブラァンは口をはさむこともできずに黙《だま》りこくっていた。
オーウェン・ディヴィーズはブラァンを見て静かに言った。「こうなった以上、もう全部話してやるべきなんだろうな。おまえがある程度わかる年になるまで、待つ必要があったんだ。おれは法的にはおまえの父親だ、ブラァン。そもそもの初めに養子にしたから。赤ん坊の時からおまえを育ててきたし、心と魂《たましい》においては本当の父親のつもりだ。それは神様がご存知《ぞんじ》だ。だが、おまえは、おれとおっかさんの間にできた子ではない。本当の父親が誰なのかは知らない。おっかさんはそれについちゃ、ひとことも話してくれなかった。山の中からいきなり出て来た時に、もうおまえを抱いていたんだ。三日間おれといて、それから永久に姿を消した。おれの一部を持ったまま」声が震えたが、すぐに落ちついた。「書き置きをしてってくれた」
古びた革の紙入れをポケットから出すと、内側の仕切りから小さな紙切れを取り出した。そうっと開くと、ブラァンに渡した。紙は折り目がついてもろくなっており、折山のところがバラバラになりかけていた。鉛筆で二、三言、変わった丸い字で書かれているだけだった。ブラァンという名です。ありがとう、オーウェン・ディヴィーズ。
ブラァンはゆっくりと、注意深く、手紙をたたみ直し、父親に返した。
「自分のものでおれに残してくれたのはこれだけだった、ブラァン」と父親は言った。「この手紙と――おまえと」
ブラァンには言うべき言葉がなかった。頭の中は互いにぶつかり合う考えや疑問で一杯で、一ダースも道があるのに道しるべがひとつもない交叉《こうさ》点のようだった。物心ついて以来何度も考えたように母である謎《なぞ》の人物のことを考えた。顔もなく、声もなく、ブラァンの人生において胸の痛むような空白でしかなかった人のことを。今頃になって、年月を越えて、母は空白をもうひとつ、不在をもうひとつもたらしたのだ。父親までも奪《うば》って行こうとしているかのようだった。――少なくとも、意見の食い違いはあっても実の父だとばかり思っていた人物を奪おうとしているのだ。恨みの念と混乱がブラァンの脳裏で風のように吹き荒れた。狂ったように考えた。ぼくは誰なんだ? ベンを見、コテージと、ブレーニン・フルイドの眼石を見た。父親の苦々しい回顧《かいこ》の言葉がよみがえってきた。ブレーニン・フルイドはカーデルとフリン・ムアンギルの上の霧の陰で……。それらの名が頭の周囲にこだましたが、その理由がわからなかった。フリン・ムアンギル、タル・ア・フリン……頭の中の轟音《ごうおん》は大きさを増し、眼石から発せられているように思われた。
ブラァンは石を見た。再び、ウィルがいた時のように、コテージの中が暗くなったように見え、暗い隅から青い光の点が輝き出した。だしぬけに、ブラァンは、それまで意識したこともなかった頭の一部からショックにも似た異様なものを感じた。あたかも、自分の中のどこかでドアがあけられているようで、その向こうに何があるか自分でもわからなかった。意識の中に一連の映像が矢つぎばやにひらめいていた。何の意味も持たぬ、目がさめているのに見ている夢のように。
霧が山の上に渦巻いているのを見たように思った。その中に、ウィルがメリマンと呼んでいる背の高い青衣の貴人が立っていた。ずきんをかぶり、頭《こうべ》を垂れて、片腕をさしのべ、谷の中のあるコテージをゆびさしていた――今ブラァンのいるコテージだった。一瞬、黒髪をなびかせた女が見え、愛とやさしさに洗われるように感じ、恋《こい》しさのあまり、その感じをのがすまいと声を上げかけた。だがたちまちそれは消えてしまい、霧が渦巻き、再びずきんに包まれた人物がそこにいた。女もいて、コテージを振り返り、たまらなさそうに両腕を差しのべた。と、メリマンという貴人が衣に包まれた腕をさっと女の肩に回し、ふたりはいなくなった。霧の中へ、視野の外へ、そして世界の外へ消えてしまったのがブラァンにはわかった。もうひとつだけ見えたものがあった。霧の晴れ間にかいまみえた、失われた宝石のようにきらめくはるかな湖水だった。
ブラァンには理解できなかった。どういう方法でか母親に関する過去のひとこまを見たのだとはわかったが、まだ不十分だった。母親の訪《おとず》れと、事件の一部始終と、メリマンがどう関係しているというのだ? 目をしばたたくと、父親の顔が再び前にあった。ディヴィーズの目は不安に見開かれ、ブラァンの腕をつかんで名を呼んでいた。
そして、それまでは知らなかった精神の新しい部分で、ブラァンは普通ならできないこともする力が今や自分に備《そな》わっているのをふいに悟った。その日起きたことは全て忘れ去られ、ただ、輝く湖水のほとりの山の上にいた母親のことだけを考えて、タル・ア・フリンとカーデル・イドリスの山腹に行きたくて矢も楯《たて》もたまらなくなった。そこに行けば、この新しい精神の一部を使って自分の出生についてもっと記憶を喚起できるのではないか、と。同時に、ほかにもできることがあるのを悟っていた。とび上がると、自分のものとも思えぬ力強い声で犬に呼びかけた。「タルド アマ、ベン!」
すると押しつぶされたような麻痺《まひ》状態から犬は即座にはね起き、少年と犬とはコテージから駆け出して、荒野を突っ切って行った。
不安と懸念のしわのため老《ふ》け込んだオーウェン・ディヴィーズは、黙ってしばし見送っていた。それからのろのろと車に歩み寄ると、コテージを離れ、イドリス・ジョーンズの農場へと続く道に車を進めた。
ウィルは予定よりもゆっくりと進んだ。胸に押しつけられた琴は扱いにくい形をしていて痛めた腕にくいこみ、ひどく苦痛を与えたので、まもなく落とさないようにするのがやっとになった。しじゅう立ち止まる理由はほかにもあった。谷間に積み重ねられた敵意の猛威《もうい》が、今や巨大な手のようにウィルを押し、大きな指でとらえて握《にぎ》りつぶしてしまおうとしていたのだった。だがウィルはしゃにむに前進した。まずコテージへ、それから湖へ。彼を押し戻そうとしている不協和音のような混乱状態の中では、ごく単純な考えや映像だけが生き残り、形をとどめられていた。まずコテージへ、それから湖へ。気がつくと、息を殺してそうくちずさんでいた。このふたつが、二、三時間以内に何がなんでも果たさなければならない、琴を使っての任務なのだ。魔法の音楽で、コテージで眼石の呪縛《じゆばく》からベンを解放し、カラードグ・プリッチャードの銃口《じゆうこう》からのがしてやらねばならない。それは簡単だ。だが次には、世界中の何よりも大切なことが待っている。音楽で佳き湖の<眠れる者>たちを、タル・ア・フリンのほとりで時間を超越《ちようえつ》して眠りつづけている者たちを――それが何であろうと、誰であろうと、起こさねばならない。なぜなら、灰色の王のような<闇>の君に、何世紀も自分の山の下で寝言を言っていたあとで今この谷を満たしているような驚くべき力を得るとができた以上、確かに<闇>は立ち上がったのだ。その全勢力は巨大な雲のように世界を呑みつくそうと日増しに強まっているだろう。
ようやくコテージに着いてみると、中は空っぽだった。
ウィルは殺風景な石壁の室内に立って、とまどい、気をもんだ。ベンはどうやって眼石の力からのがれたというのだろう? ブラァンはどこだ? カラードグ・プリッチャードが灰色の王の助けを得て捜しに来て、少年と犬を連れ去ったのだろうか? ありえない。カラードグ・プリッチャードは何も知らずに利用れているのだ。灰色の王と自分とのつながりなど、全く気づいていない。ただの人間にすぎず、人間の本能しか持っていない――悪い本能ばかりで、いいのは悲しいことに全て埋もれている。ブラァンはどこだ?
部屋の隅へ行ってみた。眼石である小さな白い石は前と同じように転がっていた。無害でありながら、恐るべきものとして。ウィルのぐるりに灰色の王の意志の力が容赦《ようしや》なく叩《たた》きつけられた。去れ、諦めよ、勝てはせぬ。諦めよ、去れ。ウィルは自分の精神の力を必死に動員して、ブラァンと犬に何が起きたのかさぐり出そうとしたが、わからなかった。みじめな気持ちで思った。置いていくべきじゃなかった、と。一種の自己卑下《ひげ》と怒りに駆られて、ウィルはもう一度かがみ、地面にしっかりとへばりついていて一インチの何分の一も動かすのは叶わないとわかっている丸い小石に手をかけた。
眼石は、ほかの石と何ら変わることなく簡単に取れ、ウィルの掌《たなごころ》に、使ってくれと言うように乗った。
ウィルはまじまじと石を見た。自分の目が信じられなかった。眼石の呪縛を解いたものは何だ? 知る限り、こんなことのできる魔法はない。掟の一部なのだ。<光>には<闇>の眼石は動かせず、<闇>にも<光>の眼石を左右することはできない。あの怪物じみた硬直状態は、一度喚起されたなら、石の持ち主によってのみ解かれるのだ。となると、ブレーニン・フルイドの眼石の力を砕《くだ》けたのは、ブレーニン・フルイド、灰色の王その人しかいないではないか?
ウィルは苛立ってかぶりを振った。時間の無駄だ。ともかく、ひとつだけ確実なことがある。主を失い、支配する力を失った今、眼石は掟の外にあり、どうしてこんな不思議が起きるに到ったのかウィルに語ることができるのだ。
ウィルは琴をきつく握りしめた。二度と下へは置くまい、ことにここでは、と思ったのだ。それから部屋の中央に立つと、開いた掌に眼石を乗せたまま、<いにしえの言葉>で二、三こと言って、頭の中を空《から》にし、石が送り込んで来る知識がなんであれ、それを受け入れる態勢を取った。知識は単純でも明快でもないだろう。そうであったためしはない。
目を閉じ、精神を脈搏《みやくう》たせていると、知識は映像となって流れ込み、物語の一部のように次から次へと展開された。まず男の顔が見えた。力強く美しいが、やつれている。澄んだ青い目と灰色のあごひげの持ち主だ。衣服は風変わりで豪華《ごうか》だったが、ウィルにはすぐに誰だかわかった。鳥岩の岩屋にいた第二の貴人、海青の衣の君だ。ブラァンに対してなみなみならぬ――当時はなぜかわからなかった親しさを見せた人だ。
男の目には深い悲しみがあった。次いで、女の顔が見えた。黒い髪に青い目を持ったその顔は、悲歎《ひたん》と罪悪《ざいあく》感が恐ろしいほど混ざりあって歪《ゆが》んでいた。このふたりと一緒のどこかにメリマンもいた。と、場所が変わり、重たげな石壁に囲まれて屋根に十字架《か》を頂いた低い建物が見えた――教会か修道院だろう――そこからメリマンが赤ん坊を抱いたさきほどの女を連れ出していた。ふたりは高い所に、<いにしえの道>のひとつに立っていた。霧が渦巻き、風が吹き荒れ、映像が一気に流れてウィルにはついていけないほどだった。多少なりともつかめたのは、コテージと、背をまっすぐに伸ばして微笑を浮かべた、若々しい、しわのないオーウェン・ディヴィーズ。それに犬と羊とみどりのワラビにおおわれた霧の斜面と、人を呼ぶ声。「グウェニー、グウェニー……」と。
それから、何よりもはっきりと、群青の衣をまといずきんをかぶったメリマンが、黒髪の女と共にダサンニ谷の上の斜面、カドヴァンの道に立っているのが見えた。女は声を立てずに泣いていた。涙がゆっくりときらめいて頬を伝って流れた。今度は何も抱いてはいなかった。メリマンが指をピンと伸ばして片手を突き出し、ウィルは風の音を通して鈴に似た旋律《せんりつ》を耳にした。前にも、よそでも、<古老>として<古老>の道に従った時に、耳にしたことがある調べだった。再び全てが渦巻き、混乱したが、今度はあの旋律のおかげで、自分の見ているものが時間の逆行、別の遠い時代への逆行の旅なのだとわかった。人間には夢の中でしかできないが、<古老>や<闇>の君にはなんでもない<時>の中の旅だった。最後にひらめいた映像は、メリマンと一緒にいた女が背を向けて悲しげに石造りの修道院に戻り、その重い壁の中に姿を消すところだった。そして、どこか他の場所にひとりでいながら、額《がく》にはまったガラスに映った像のように修道院にかぶさって見えているのは、海青衣の貴人の、あごひげをたくわえた顔と金の王冠を戴《いただ》いた頭だった。
その時初めてウィルは、このブラァンという未来で育てられるために過去から連れ出された少年が本当は誰なのかを理解し、まだ自分でもはっきりとは呑み込めていないであろう恐るべき運命を背負って生まれた友人に、深い同情を覚えた。ブラァンの持っている力と責任の重大さは、考えるのも難しいくらいだった。今になって初めて、自分、ウィル・スタントンには、最後の<古老>としていずれブラァンを助け支えることがずっと前から定められていたのだと知った。ちょうどメリマンがブラァンの偉大な父親のそばに常にいたように。ブラァンの出生時には息子の存在すら知らず、何世紀もたった今になって、上なる魔法の君のひとりとして、初めてわが子をまのあたりにした父親の……。もはや、眼石の主の力がいかにして砕かれたかは明らかだった。これほどの位《くらい》の者の前には、灰色の王の力などチリも同然なのだった。だが――それはブラァンが自分のしていることを正確に承知していた場合に限られる。埋もれていた測り知れない偉大な力のうち、どれだけが真に解き放たれたのだろう? コテージでどこまで見たのだろう? 何も知らずにいたブラァンの精神にはどんな映像が紡《つむ》ぎ込まれたのだろう?
はやるあまり腕の痛みも忘れて竪琴を抱え込むと、ウィルはコテージから駆け出し、自転車にとび乗って、タル・ア・フリンへの道を走り出した。ブラァンが行ったのはそこしかない。全ての道は今や湖へ、そして<眠れる者>へと通じているのだ。なぜなら、危機に瀕《ひん》しているのは黄金の琴の探索と<眠れる者>のめざめだけではない。充分に認識されず、制御されていないならば、探索はおろか<光>そのものまで滅ぼしかねない上なる魔法の力もなのだ。
目ざめ
タル・ア・フリンに着いたウィルは、人目についてはならないと悟っていた。カラードグ・プリッチャードがどこにいるかわからないのだ。イドリス・ジョーンズの農場に行ったのか、そこからどこかへ回ったのかも……。農場へ確かめに行こうかとも思った。古い灰色のバンが駐車《ちゆうしや》してあるかもしれないので、道の角より先へは出ないようにして。だが気が変わった。時間が足りない。包みをしっかりつかむと、タ・ポントへ続く小道の入り口を通り越し、道が湖の周囲をめぐり出す角まで来た。
タル・ア・フリンは目の前にあった。空の上の塊上の雲を一日中吹き飛ばしていた風がさざ波を立てていた。草のみどりとワラビの茶色におおわれた山は、湖の左右に伸び、高くそそり立っていた。湖は谷の向こう端までを占《し》め、そこで山々は大きなVの字となって出会い、タル・ア・フリンの山道を形造っていた。ウィルは波打つ水面を見つめた。
山火の見出せし金の琴
そが音《ね》に目醒《さ》むる最古の民……
どこで、いつ弾けばいいのだろう? ここ、この何の護りもない谷間の道の上ではあるまい……左へ曲がると、ウィルは谷の片側、低くやさしいみどりの畑地の上、カーデル・イドリスの黒い斜面が空を天井に頂いた壁のように立ち上がっている側へと自転車を進めた。死んだ羊を見つけた斜面、主である灰色の王がウィルを湖中に取り落とそうと揺さぶった斜面だった。だが<古老>としての本能が、ウィルにそこを登らせた。押し戻そうとするすさまじい力にわざと挑《いど》んで、敵のふところにとび込むのだ。危険が大きいほど、勝利も大きいはずだ、とウィルは思った。
耳の中に低い唸りを覚えながら、ウィルは布にくるんだ琴を抱えて登り続けた。山腹がどんどん迫って来て頭上にそびえ出した。じきに道のほうはカーブを描いてそれて行く。湖のそばを離れずにいるには、自転車をおりて畑地を横切り、危なっかしいゆるい小石だらけの斜面をのぼって、水面を見おろせるところにひとりで立たねばならない。だが、それこそ取るべき道なのだとウィルは思った。
その時突然、さっとカラードグ・プリッチャードが行く手に立ちふさがり自転車のハンドルをつかんだので、ウィルは横ざまに地面に転げ落ちた。
ますます痛み出した腕で琴を抱き締めながら立ち上がったウィルは、もはや怒りも不安も覚えず、ただ苛立つばかりだった。プリッチャードか。いつもプリッチャードだ! 灰色の王が<光>の上に恐るべき脅威《きようい》としてそびえているというのに、プリッチャードはチュウチュウ鳴くネズミのように、どこまでも割り込んで、ウィルを普通の人間のケチな争いや癇癪《かんしやく》の次元にひきずりおろそうとする。ウィルは黙ったままさげすみをこてプリッチャードをねめつけたが、男には危険な相手を見てそれと知るほどの頭はなかった。
「どこへ行くつもりだ、イングランド野郎」プリッチャードはしっかり自転車をつかまえたまま言った。薄くなり出した赤毛は乱れ、小さな目には奇妙な光があった。
ウィルは、冬の魚のように冷たく言った。「あんたには全く関係ない」
「礼儀ってものを知らんのか」カラードグ・プリッチャードは言った。「どこへ行くつもりかぐらい、おれにはちゃんとわかってる。ええ、ハンサム坊や――おまえとブラァン・ディヴィーズはもう一匹のいまいましい羊殺しの犬を隠そうとしてるんだ。だがね、おれをあいつから離しておける方法なんか、世界中捜したってありゃしないんだぞ。そこに持ってるの、なんだ?」
疑心暗鬼《ぎしんあんき》になった男はウィルの腕の下の袋包みを取ろうとした。
ウィルの反応は自分の目にも止まらないくらい速かった。琴はこんな馬鹿げた脅威にさらすには、あまりにも重要すぎた。たちどころにウィルは持てる力の全てを燃え上がらせた。<古老>となり、光の柱のように恐るべき姿となった。激怒《げきど》して背を一杯に伸ばすと、片腕をカラードグ・プリッチャードに突きつけた――そして、同じくらい激しい、灰色の王の猛烈な抵抗の壁にぶちあたった。
初め、プリッチャードは縮み上がった。抹殺《まつさつ》を予期して恐怖に目が見開かれ、口がだらしなくあいた。だが、護られていることに気づくと、徐々に狡猾そうな光が目に浮かんだ。ウィルは用心深く見守った。ブレーニン・フルイドは、<闇>や<光>の君にとって最も危険なこと、即ち、自分が使えるようになった力がどれほど恐ろしいものかをまるで認識《にんしき》していないただの人間の中に、みずからの巨大な力を注ぎ込むことをしたのだ。これほどあてにならぬ下僕《げぼく》に戦いを任せるとは、<闇>の君はせっぱつまっているに相違なかった。
「ほっといてくれませんか、プリッチャードさん」ウィルは言った。「ジョン・ローランズの犬とは一緒じゃありません。どこにいるかも知りません」
「いいや、知ってるとも。おれも知ってる」新しい力への驚きよりも、プリッチャードにとってはこのほうが意識の表面にあるらしく、言葉はたて続けに出てきた。「あいつはジョーンズ=タ=ポントの農場に連れてかれたんだ。おれから離しといて、また羊殺しに精を出せるように。だが無駄《むだ》だよ。到底ごかません。おれはそんな間抜けじゃない。」とウィルをにらんだ。「おまえも、どこにいるか吐いたほうがいいぞ、小僧。何を企《たくら》んでるのか話すんだな。さもないと後悔《こうかい》するぞ」
怒りと悪意が、出口のない部屋に閉じこめられた鳥のように、男の頭の中でぐるぐる回っているのが感じられた。ああ、ブレーニン・フルイドよ、とウィルは一種の悲しささえ覚えた。おまえの力には、こんな自制心も持たず訓練されていない、ちゃんと使いこなすだけの頭もない人間に注ぎ込まれるよりは、もっとうまい使い途があったろうに……
口に出してはこう言った。「プリッチャードさん、頼むからかまわないで下さい。あんたには自分のしてることがわかってないんです。まるっきり。あんたに痛い思いをさせたくはありません」
カラードグ・プリッチャードは一瞬、本当にぽかんとしてウィルを見た。冗談《じようだん》を理解する直前の人のように。それからしゃくり上げるように笑い出した。「おれに痛い目を見せたくない? そりゃご親切にどうも。そいつは嬉しいねえ、思いやりのあるこった。実に親切な……」
朝から断続的に顔を出していた太陽はもはや見えなかった。灰色の雲が空に濃くなり、湖水を波立たせている風に吹かれて谷全体に拡がり出していた。ウィルの頭の奥の方にある一種のカンが、重しのように周囲に拡がりつつある灰色の影にハッと気づかせ、プリッチャードの嘲笑が次第におさまるにつれて、ひとつの決意を固めさせた。竪琴をぴったり脇に押しつけたまま、ウィルは一、二歩前進した。それから半ば目を閉じ、自分を一人前の<古老>にしてくれた才能に心の中で呼びかけた。風に乗らせてくれた呪文に、空の彼方、海の奥底へと飛ばしてくれた呪文に、そして<闇>と戦う上での護りの最後の一環《いつかん》を捜すために彼をこの探索に送り出した<光>の輪に呼びかけた。
静かな湖タル・ア・フリン、フリン・ムアンギルから潮騒《しおさい》のような音が聞こえ、暗い水面の向こう端から巨大な波が前進して来た。高くそり上がり頂《いただき》が白く、いまにも砕けんとする泡に縁取られていた。だが砕ける代わりに波はどんどん水面を渡ってウィルたちに接近した。そのそり返った頂《いただき》には六羽の白鳥が乗り、大きな翼《つばさ》を伸ばし、互いに翼の先端を触れ合わすようにして、ガラスのようになめらかに動いていた。すさまじく大きい、力強い鳥たちで、白い羽根は雲の垂れこめた空の灰色の光の中でも、磨き上げられた銀のように輝いていた。ぐんぐん近づくにつれ、中の一羽が湾曲した優美な首と頭をもたげ、長い、哀《かな》しげな叫びを上げた。警告のように。挽歌《ばんか》のように。
彼らは次第に迫って来た。岸に、ウィルとカラードグ・プリッチャードのいる所に、波はますます高くそびえた。みどりの波で、湖の底から射す不思議な半透明《とうめい》の光を発している。白鳥たちが彼らに襲いかかるのは明らかだった。波は彼らの上で砕けて谷のはずれまで押し寄せ、湖の水の全てがいっせいに流れ出し、農場も農家も人々も、あらいざらい破壊して海へと押し流すだろう。
ウィルにはそれが本当でないとわかっていた。カラードグ・プリッチャードの頭に送り込んだ幻《まぼろし》だったのだ。
白鳥はもう一度、高く哀しげに鳴いた。完全な虚無《きよむ》に陥《おちい》った魂の悲鳴だった。カラードグ・プリッチャードはよろよろとあとずさりした。小さな目玉は恐怖にとび出んばかり、手は赤毛をかきむしっていた。口をあけたが、異様な言葉にならぬ叫びが洩れただけだった。いきなり、何かにつかまったように硬直した。腕も足も不自然な角度に停止したままだ。空気中にシューッという音があふれたが、あっという間のことだったので、どの方角から来たのかわからなかった。
だがウィルは何の音か悟って慄然とした。<闇>の救援《きゆうえん》を受け入れることによって、ウェールズ男は自分の精神を崩壊へと導いたのだった。
灰色の王の恐るべき力によって人間としての理性が押しやられ、狂気が目の中にさっとひらめくのが見えた。当人もまだ気がついていなかったが、精神がゆらぐと共に体が何かに乗り移られた。背中がまっすぐになり、ボッテリした体の丈が伸びたように見え、大変な力をほのめかすように肩が怒《いか》った。ブレーニン・フルイドの魔法の威力が体内にはいって外まであふれ出ていた。前進して来る波を見つめると、しわがれた声でウェールズ語で何か叫んだ。
すると白鳥たちは鳴きながら舞い上がり、長い翼をゆっくりとはばたかせて弧《こ》を描いて飛び去った。そびえていた波が突如《とつじよ》くずれた。何千何万という魚にめちゃくちゃにかきまわされてひきずりおろされたのだった。魚は銀と灰色と暗く光るみどりに水面にひしめいていた。スズキにマスに身もだえするウナギ、小さく邪悪《じやあく》な目と針のような歯を持った斜《しや》に構《かま》えた口のカワカマス。ウェールズ中のあらゆる湖のあらゆる魚が大群となってフリン・ムアンギルの水の上に押し寄せ、なめらかで動かない震える水面に変えてしまったかのようだった。にもかかわらず、これほどの魔法をかけたのはただの声、人間のものにすぎない精神だったのだ。ウィルはぞっとした。ブレーニン・フルイドの新たな企みを理解したのだ。正面きっての対決はしないつもりなのだ。おそらくウィル自身は二度と灰色の王に会わないだろう。魔法の対極にある者同士が今のような形で対決したら、どちらかが抹殺されてしまうからだ。その代わりに、ウィルは今と同じように、悪意を抱いてはいるが罪のない人間の精神につながれた灰色の王の力のみと対決する。<闇《やみ》>のための極めてもろい器にされた人間と対決するのだ。<光>がこの対決において究極的《きゆうきよくてき》な抹殺の一撃《げき》を下しても、<闇>は護られたままだ。だが人間の精神のほうは必ずや破壊されてしまう。カラードグ・プリッチャードが今はまだ正気だとしても、そういうことになれば、永久に救いのない狂気の中に追い込まれてしまうのだ。ウィルがなんとかして対決を避けない限り、どうしようもなくなる。灰色の王はプリッチャードを楯にしているのだ。楯が砕かれても自分は無傷なのを承知の上で。
ウィルは懊悩《おうのう》のあまり、自分でも気づかずに叫んでいた。「カラードグ・プリッチャード! やめろ! ぼくらに手を出すな! あんたのためなんだ、ぼくをほっといてくれ!」
だが打つ手はなかった。ふたりの葛藤《かつとう》は既にはずみがつきすぎていて、車輪が坂を転げ落ちるにつれどんどんスピードを増すようなものだった。カラードグ・プリッチャードは子供のように喜んで魚のひしめく湖を眺め、手をこすり合わせながら、ウェールズ語でひっきりなしにひとりごとを言っていた。ウィルを見るとくすくす笑った。口をつぐむどころか英語に切り替えた。言葉は半ば狂った会話口調ですさまじい速さでほとばしった。
「きれいなやつらを見ろよ。何千も何万もいるんだぜ、みんなおれたちの言うことをきくし、白鳥六羽にとっちゃ思ったより手強《ごわ》い相手だろうが、ええ、魔法使い《デウイン》の小僧《パハ》? ああ、おまえは誰を相手どってるか知らなかったのさ。もうおふざけは沢山だ。おれもおれの友達も。そろそろ犬を見せてもらおうじゃないか。犬をさ、いくらおれたちの邪魔《じやま》をしようとしても無駄だからな。まるっきり無駄だよ。おれは今すぐあの犬がほしいんだ、イングランド野郎、どこに行けば見つけられるか教えてもらおう。おれのすてきな銃が車の中であいつを待ってるから、もうこの谷では羊殺しはなくなる。おれがなくしてやる」
小さな目をそれこそ魚のように上下させてウィルを見ていたが、突然、再びボロ袋に包まれた竪琴に視線が吸いついた。
「だが、その前にその腕の下に持ってるのが本当は何なのか知りたいもんだな、小僧、ほっといてほしけりゃ見せたほうがいいぞ」最後のところでまたくすくす笑い出し、ウィルは、琴を弾くのに最も完全かつ最も適していた山の側面まで行き着く望みは、もはやなくなったと悟った。ゆっくりと、カラードグ・プリッチャードが危険を感じないようななめらかな動きで後ろへさがると、農場主のぎらつく目に遅すぎた警戒心が宿ると同時に、包みから竪琴をするりと出し、ブラァンがしていたように腕を曲げて支え、もう一方の手で絃《げん》をかき鳴らした。
そうして世界は変わった。
午後が黄昏《たそがれ》と暮れて行き、雲が密集して雨模様になっていたため、空は既にそれまでよりも濃い灰色になっていた。だが、小さな竪琴の唄うような音色が痛いほどの甘やかさで空中にこぼれるにつれ、不思議な光が少しずつ少しずつ、湖と雲と空から、山と谷から、ワラビと草の中から射《さ》し出でるように見えた。色は鮮やかさを増し、暗い場所はますます陰にこもり、秘密めいた。目に見え、感じられるもの全てがひときわ鮮烈《せんれつ》になり、強調された。湖のうねる水面全体をおおっていた魚たちが変わり始めた。銀色にきらめきながら次から次へと宙に舞い上がっては下り、ついに湖はもはやうごめく重たげな生き物に押しひしがれているようには見えず、むしろ輝く銀の光のすじに満ちて生き生きと踊っているように見えた。
そして谷の海寄りの端から湖めがけて、ウィルがやさしく絃に指を走らすに伴《ともな》い高く低く唄う音にかぶせるように、べつの音が降ってきた。カモメの声に似た、鋭い鳴き声だった。そして、これといった陣《じん》形をなさず三々五々に飛んで来たのは奇妙な長円形の鵜《う》の群れだった。二十か三十はいたか、ウィルが初めて見る大集団だった。海で漁をする鳥の王者として、普通は決して海辺や岸壁や崖《がけ》を離れない鵜が、フリン・ムアンギルの水面にツーッと舞いおりて、はね上がる魚をつかまえ始めた。鵜はにわかにブラァンが話してくれたことを思い出した。鳥岩即ちクライグ・アル・アデーリンは、世界中でただひとつ、鵜が群れをなして内陸に巣をつくると知られる土地なのだ。灰色の王の領地の海岸には巣《す》作りに適した岩だらけの崖がなく、砂と浜と砂丘しかないからだった。
鳥は舞いおりた。魚がきらめきはね上がると、鵜はそれを呑《の》み込み、向きを変えて、再び舞いおり呑み込むのだった。カラードグ・プリッチャードが失望した子供のように腹立たしげな泣き声を上げた。不思議な光は谷に輝き渡った。ウィルの指は琴の上に滑り続け、楽《がく》の音《ね》は泉のようにゆったりと、冴《さ》え冴《ざ》えと波打ち響《ひび》いた。だがウィル自身は電気のようにピリピリする緊張を覚えていた。未知の驚異を予期し、全身の毛が逆立ったように気持ちがはりつめていた。すると、フッと魚が消え失せ、湖面がにわかに暗いガラスのようになめらかになった。鵜は全て雲のような塊となって上昇し、向きを変えて鳴きながら、長く広い谷をさかのぼって鳥岩へと姿を消して行った。そして日光と月光との中間のように谷をほんのりと照らしていた光を通して、六つの人影が姿を表すのがウィルには見えた。
馬に乗った一団だった。山の中から、湖から灰色の王の砦《とりで》へと続くカーデル・イドリスのふもとから出て来たのだ。銀灰色のきらめく一団で、同じ不思議な淡《あわ》い色の馬にまたがり、水に触れることなく、音もたてずに湖を横切ってきた。琴の調べが彼らをなめ、近づくにつれ、微笑《ほほえ》んでいるのが見えた。長上着《ながうわぎ》とマントを着ていた。おのおのが腰に剣を帯びている。ふたりはずきんをかぶり、ひとりは頭に輪をはめていた。王冠ではないが高貴な身分を表すきらめく輪だ。亡霊じみた一団が通りすぎがてらに、輪を戴いた者がウィルのほうを向いて、あいさつするようにひげに包まれた笑顔で会釈した。楽の音はウィルの手の琴から鈴の音のように谷一帯にさざめき、ウィルも重々しく頭《こうべ》を垂れてあいさつしたが、弾くのはやめなかった。
騎手《きしゆ》たちはカラードグ・プリッチャードの前を通過した。プリッチャードは虚ろな目で湖を見つめ続け、消えてしまった不思議な魚を捜していて、明らかに他のものは何も見えていなかった。灰色の王の力は持っているが、とウィルは思った。王の目は持っていないんだな……。と、騎手たちは唐突に山腹のほうに向きを変えた。驚く間もなく、ウィルはその山腹のゆるい小石の斜面を半ば登ったところ、その日の朝ウィル自身を受け止めてくれた岩棚の近くに、ブラァンが立っているのを見とめた。黒い牧羊犬のベンがそばにおり、あとを追って斜面を苦労して登っているのは、身をかがめ疲れた様子のオーウェン・ディヴィーズだった。ディヴィーズの顔はカラードグ・プリッチャードと同じようにきょとんとしていた。<眠れる者>たちが何世紀にも及んだ休息から目ざめ、攻めて来る<闇>から世界を救うために乗り出した光景は、普通の人間の目には見えないのだった。
だがブラァンには見えた。
蒼白い顔を喜びに輝かせて<眠れる者>たちを見ていた。片手をウィルに上げてみせ、琴の弾き方を讚《たた》えるために両腕を大きく拡げてみせた。一瞬、すばらしい光景をまのあたりにしてあふれでる驚嘆《きようたん》の念のとりこになっている、ごく普通の小さな男の子に見えた。だが、それもその時だけだった。銀灰色の馬の上で銀灰色に輝く六騎士が先頭のひとりに従って踵《きびす》を返し、ブラァンが立っている山の中腹のまんまえで一瞬、足をとめたのだ。全員が剣を抜き、顔の前に垂直に掲《かか》げて敬礼し、王に臣従の礼を取る時のように剣の平《ひら》に接吻《せつぷん》した。そしてブラァンは若木のようにほっそりと、まっすぐに立ち、白い髪を銀のとさかのように重々しく会釈した。家来の望みを叶える王のごとき静かな気位《きぐらい》の高さを見せて。
すると騎士たちは剣を鞘《さや》に納め、まわれ右をした。銀灰色の馬が空にとび上がった。そして、目ざめ乗り出した<眠れる者>たちは湖の上高く飛翔し、タル・ア・フリン山道に集まった夕闇の奥へと遠ざかって行き、ついに谷を出て彼方へと消え、見えなくなってしまった。
ウィルは黄金の琴に走らせていた指を止めた。音楽はやみ、風のささやきだけが残った。体じゅうの力が抜けたような疲労を覚えた。自分が<古老>であると同時に、そもそもウェールズに来る原因となった長い病《やまい》のためにまだ弱っている病み上がりの身であることを初めて思い出した。
そして一瞬そのまた一瞬、ジョン・ローランズが<光>の芯にある冷酷さについて言ったことを思い出し、自分がなぜあれほど突然に重い病を得たのかに思いあたった。だがごく一瞬のことだった。<古老>にとってはそんなことは重要でない。
だしぬけに横へ押しやられ、乱暴な手が黄金の琴をウィルの手から奪った。灰色の王の力はカラードグ・プリッチャードを離れたらしかったが、それでも、乗り移られる前とは人が変わっていた。
「じゃ、そういうことだったのか」とプリッチャードは怪《あや》しげなろれつで言った。「ばかげた琴だ。あの女が弾いていたみたいな小っちゃい金色の」
「返せ」ウィルは言ってから、ハッとした。「あの女?」
「こいつはウェールズの琴だ、イングランド野郎、古いやつだ」プリッチャードはふくろうのような顔で琴を眺めた。「なんでおまえが持ってるんだ。ウェールズの琴を持つ権利はない」とふいに憎々《にくにく》しげにウィルをにらんだ。「帰れ。自分の国に戻れ。関係ないことに首を突っ込むな」
ウィルは言った。「琴の役目は済んだ。どういう意味だ? あの女が弾いていたみたいなって」
「よけいなことを聞くな」プリッチャードは噛みつくように繰り返した。「ずっと昔のことだ。おまえとは関係ない」
視野の隅に、オーウェン・ディヴィーズが山腹のブラァンに追いつき、ベンが落ち着きなくふたりの間を行ったり来たりしているのが映った。必死にブラァンが移動して見えない所へ行ってくれるよう念じた。なぜ隠れ場所ひとつない所にいるのか理解できなかった。カラードグ・プリッチャードがちらっと目を動かしただけで見えてしまうというのに。移動しろ! ウィルは声を出さずに叫んだ。あっちへ行け! 何かが、おそらくは牧羊犬の不安気な動きが、プリッチャードの目をとらえた。何げなく視線を移すなり、その場に凍りついた。
その瞬間のあらゆる細部がウィルの脳裏に焼きつけられ、そのため、後々までも、迫り来る悲劇の叫ぶがごとき予兆を感じ、重い灰色の空とそびえる山々、波打つ湖水、白髪の少年と燃えるような赤毛の男のドキッとするような配色、そして全てにかぶさっている、大嵐の前にあたりをおおう警告するような明るさにも似た不思議な光を、鮮やかな絵のように目に浮かべることができた。振り向いたカラードグ・プリッチャードの顔は、怒りと非難と苦痛とがすさまじく混じり合った表情に汚され、それら全ての奥に、憎悪と、傷つけ返したいという欲求が細い核のようにひそんでいた。わざとウィルの顔を見ながら、腕を後ろへ引き、黄金の琴を湖に力いっぱい投げ込んだ。波紋《はもん》が暗い水面から岸のほうへ拡がり、すぐにおさまった。
プリッチャードは少年のように軽やかに、山のほうへ、犬のベンをつれて船のへさきの像のように佇んでいるブラァンのほうへとび出した。地面がせり上がり出す手前で横に曲がり、谷へ戻るカーブした道を走って行った。道に小さな灰色のバンが置いてあって、猛スピードでそこまで行き着こうとしているのが見えた。
と同時にウィルはそのわけを悟り、止めるべく大いなる魔法をプリッチャードに投げつけた――が、農場主がまだそれと知らずに身につけていた灰色の王の護りのためにはねのけられてしまった。カラードグ・プリッチャードはバンにたどりつき、後部ドアをひきあけて、銃身の長い散弾《さんだん》銃を取り出した。ブラァンの犬カーヴァルを撃ったのと同じ銃だった。すばやく撃鉄《げきてつ》を起こすと、振り向き、ゆっりと落ち着いた足どりで、山腹の少年と犬めざして歩き出した。もう急ぐ必要はない。ブラァンたちが走って間に合うところには楯にできるものは何もないのだ。ウィルは掌《てのひら》に爪をくいこませ、効果的な防御《ぼうぎよ》手段を必死に思いつこうとした。その時、騒々しい車の音がした。
ランドローバーがものすごい速さでタ=ポント農場の小道からとび出し、湖への角を曲がってきた。ジョン・ローランズは一瞬のうちにプリッチャードとバンと銃のぞっとする取り合わせを見たのだろう、ずんぐりした小型車は農場主の鼻先で急停車した。ドアがあいたとも見えぬうちにローランズのひょろりとした体は車から出ていた。立ち止まったまま、カラードグ・プリッチャードと、その先の山奥の少年と犬に顔を向けた。「カラードグ。ここにはのどを裂かれた羊はいない。あんたには何の権利も必要もない」
プリッチャードの声はかん高く、危険だった。「あそこに死んだ羊がいるじゃないか!」言われてウィルにも、ミルグウンに襲われた雌羊の死骸《しがい》が、岩棚の上に放置されたまま、彼らのいるところから白い塊となって見えるのに気づいた。その時初めて、灰色の王がなぜ自分のミルグウンにあの場所に持って来させたのかわかった。
「あれはベントレフの羊だ。クルーイドで冬を越してるなかの一頭だよ」ジョン・ローランズが言った。
「ふん、ありそうな話だ」プリッチャードは嘲った。
「見せてやる。上がって見ろ」
「だったとしても、それがなんだ。こんなことをするのがおまえの殺し屋だってことに変わりはない――おまえが世話してる羊までねらうとはな。おまえはどうかしてるんじゃないか、ローランズ? あいつを飼っとくなんて」怒りの汗で顔を光らせながら、プリッチャードは銃を腰まで上げ、山腹のほうを向いた。
「やめろ」ジョン・ローランズが背後から、凄味《すごみ》のある声で言った。
カラードグ・プリッチャードの中で何かが砕けた。パッと振り向くと、銃を構えたままジョン・ローランズと向かい合った。声がますますかん高くなり、切れる直前の針金のようだった。
「いつも鼻を突っ込みやがって。おまえのことだよ、ジョン・ローランズ。今度も止める気か、前の時みたいに。あの時おまえが止めなきゃ、もっとひどく殴《なぐ》り返して勝ってたのに。そしたらおれと来ただろうに。おまえさえ割り込まなきゃ、あの女はおれと来ただろうに」
銃をつかんだ手はまっ白で、言葉はあまりに口ばやに吐き出されるため混ざり合ってしまっていた。ジョン・ローランズは唖然《あぜん》として見つめていたが、プリッチャードが何のことを言っているのか悟るにつれ、驚きに次いで理解がやさしいと同時にいかつい顔に浮かぶのが見えた。
だがローランズが答える前に、オーウェン・ディヴィーズの声が頭上の山腹から、鳴り渡る鐘のように意外な力強さで朗々《ろうろう》と響いた。「とんでもない。そんなことがあるものか。彼女がおまえなどと行くわけはなかったよ。カラードグ。何があったって。あの時もおまえは勝ってなんかいなかった。百年かかったって勝てっこなかった。ジョン・ローランズが割り込んでくれたのは、おまえにとって幸いだったんだぞ。おれは自分のしてることがわかってなかったが、できるものならおまえを殺してた。おれのグウェンを傷つけたから」
「おまえのグウェン?」プリッチャードは吐き捨てるように言った。「男なら誰でもよかったんだ、あの女は。そいつは空に陽があるのと同じくらいはっきりしてた。でなきゃ、おまえなんぞを選ぶ理由があるか、オーウェン・ディヴィーズ? 山からおりて来た野育ちのきれいな女、花のような顔をして、持ってた琴から聞いたこともないほどすばらしい音を出せた……」一瞬、狂おしいまでのあこがれが声にこもった。だがさらに一瞬後には、さいなまれて半狂乱になった顔はねじれて悪意の固まりに戻った。プリッチャードはブラァンの白い顔を見た。
「それにあそこにいるあの女の父《てて》無し子、おれを苦しめるために、あの女を思い出させるために今まで手もとに置いといたんだろう……あの子を引き取る権利だって、おまえにはありゃしなかった。おれのほうがずっとよく、あの女と子供の面倒を見てやれたのに――」
ブラァンが高くよそよそしい声で言った。あまりにも遠い過去から発せられたようでウィルは背すじが寒くなった。「そうなってたとしてもぼくの犬のカーヴァルを撃《う》ちましたか、プリッチャードさん」
「あのけだもの、あいつはおまえの犬でさえなかった」プリッチャードは荒々しく言った。「おまえのおやじの作業犬だった」
「そう」ブラァンは相変わらず澄んだ遠い声で言った。「そう、確かに。ぼくの父はカーヴァルという犬を飼っていた」
ウィルの血が血管の中でじーんとなった。ブラァンの口にしたカーヴァルが撃たれたカーヴァルではなく、父というのがオーウェン・ディヴィーズではないのがわかったからだった。ではブラァンは、ペンドラゴン(英国を護る英国主)は、その真の、すばらしい、恐るべき血統《けつとう》を知ってしまったのだ。と、最後の驚きがウィルの中にふいに目ざめた。死んだ犬に名前を付けたのはオーウェン・ディヴィーズに違いない。カーヴァルが来たのは自分がまだほんの幼児の頃だった、とブラァンが言ってたではないか。だがオーウェン・ディヴィーズはなぜ、息子の犬にかの偉大な王の猟犬の名を付けたのだろう?
オーウェン・ディヴィーズの痩せた目立たない姿に目をやると、彼が自分を見ているのに気づいた。
「ああ、そうだ」ディヴィーズは言った。「おれは知ってたんだよ。信じまいとはしたが、ずっと知ってた。彼女はカーデル・イドリスから来ただろう? 英語では『アーサーの座』という意味になるんだ。アーサー王の息子をつれて彼女《あれ》は過去からやって来た。王である夫を裏切ったからで、そのせいで王がわが子を追い出すかもしれないと恐れたからだ。魔法使い《デウイン》の魔法で、自分たちの悩みから遠くはなれた未来に息子をつれてきた――未来、つまりおれたちにとっての現在に、そして子供をここに置いて行った。そしてもしかしたら、もしかしたら、自分も過去に戻らずに済んだかもしれなかったんだ。あのデブのばかものが顔を出して、琴を聞いて、おれのグウェネヴィアがほしくなって連れて行こうなんてせずにいたら」
ディヴィーズは冷たくカラードグ・プリッチャードを見おろした。憤怒《ふんぬ》の唸りを上げてプリッチャードは銃を肩まで上げたが、ジョン・ローランズがすばやく長い腕を伸ばし、カラードグの指が引金に届く前にもぎ取った。プリッチャードは怒りの叫びを発し、ローランズを力まかせに押しのけてとびのき、狂ったような激しさでプリッチャードとオーウェン・ディヴィーズが立っている岩棚へとよじ登り出した。
ブラァンはディヴィーズに歩み寄り、その腰に腕を回した。ウィルがふたりの間に初めて見る愛情のこもったしぐさだった。不思議そうな、いつくしみに満ちた驚きが、少年の白い頭を見おろしたオーウェン・ディヴィーズの疲《つか》れた顔に宿り、ふたりはそうして立ったまま、待ち受けた。
プリッチャードは殺意を目にみなぎらせてふたりをめざした。が、ジョン・ローランズがすぐあとに続いていた。ローランズは銃を棒のようにぶん回して横へ殴り飛ばすと、つかまえて、ずっと若い者のような力で押さえつけた。猛烈にもがいたが締めつけられて手も足も出なくなったカラードグは、頭をそらしてぞっとするような狂気の悲鳴を上げた。<闇>の力の全てが体から去り、精神が二度と立ち直れぬ状態にまで崩れ落ちたのだった。そして、<眠れる者>に乗り出され、ブラァンに危害を加える最後の望みを絶たれた今、灰色の王は戦いを諦めた。
プリッチャードの絶叫は長い尾を引く咆哮《ほうこう》となって山の中に響き渡り、高くなり、低くなり、また高くなり、峰から峰へとこだまして、それと共に<闇>の力は全て、カーデル・イドリスから、ダサンニの谷間からタル・ア・フリンから永久に消え去った。死のように凍《い》てつき、世界中の失われたものへの想いを集めたごとく苦悩に満ちた叫びは、次第に消えながらもまだ空中に漂っているように思えた。
彼らは慄然として身じろぎもしなかった。
やがて、人間が灰色の王の息と呼ぶもやが、もくもくと渦巻き、流れ、山道から忍び出て山腹を下り、届くもの全てを隠し、ついに彼らをそれぞれから切り離した。かすめ去るようなささやぎがもやの中から聞こえたが、幽霊狐たち、ブレーニン・フルイドのミルグウンの大きな灰色の体が山からまっしぐらに駆けおりて来て暗い湖に突っ込み、消えてしまうのを見たのはウィルだけだった。
そしてもやはフリン・ムアンギル、佳き山陰の湖をすっぽりおおい、谷には冷たい沈黙が行き渡り、ただ時折り山の羊の声だけが遠くで聞こえた。若い女の名を呼ぶ男の声のこだまのように、遠く。