【闇の戦い3 みどりの妖婆】
スーザン・クーパー
闇の寄せ手が攻《せ》め来る時、
六《む》たりの者、これを押し返す
輪より三《み》たり、道より三たり、
木、青銅、鉄、水、火、石、
五たりは戻《もど》る 進むはひとり
生まれ日の鉄、運命《さだめ》の青銅、
燃えた後の木、歌に出ずる石
蝋燭《ろうそく》の輪の火、雪どけの水、
六《む》つのしるしが印すもの
輪と、輪に先立つ杯《さかずき》と
山火の見出す金の琴《こと》、
そが音《ね》に目醒《さ》むる最古の民、
みどりの妖婆《ようば》の海底の力、
全て揃《そろ》いて樹上《じゅじょう》なる
銀の光を見るを得ん
第1章 四人の子供
事件のてんまつを詳《くわ》しく載《の》せている新聞は一紙だけだった。見出しはこうなっていた。博物館より宝物盗まる。
昨日、大英博物館より、時価五万ポンドの品一点を含《ふく》むケルト時代の美術品数点が盗まれた。警察は複雑な計画に基く犯行《はんこう》と断定しているが、計画の全貌《ぜんぼう》はまだつかめていない。警報機も鳴らず、盗難品の陳列《ちんれつ》されていたショーケースにも損傷《そんしょう》はなく、外部から押し入られた形跡《けいせき》も全くないとのことである。
消えた品物は黄金の台つき杯一点、宝石をちりばめたブローチ三点、それに青銅のバックル一点である。杯は「トリウィシックの杯」の名で知られており、昨年の夏にコーンウォールの洞窟《どうくつ》内で三人の学童によって発見されたもので、博物館の手にはいって間もない。推定《すいてい》価格は五万ポンドだが、博物館は、真の価値は「計算もできない」と語った。これは杯の側面に刻《きざ》まれた文字が他に例を見ないもので、専門家筋も未だ解読できずにいるためである。
博物館代表は犯人達に対して、杯を傷つけぬよう頼み、返却されれば多額の謝礼を支払う用意のあることを付け加えた。「聖杯は歴史的物証として実に珍しいものであり、ケルト研究のどの分野においても全く前例のないものです。研究者にとっては、本来の価値をはるかに上回る重要性を持っています」と代表は語った。
大英博物館理事であるクレア卿《きょう》の語るところによれば、昨晩、問題の杯は――
「いいかげんに新聞を置けよ、バーニー」サイモンが不機嫌に言った。「もう五十回も読んだじゃないか。何の助けにもならないのに」
「わからないよ」弟は新聞をたたんでポケットに突っ込んだ。「隠《かく》れた手がかりがあるかもしれない」
三人は博物館展示室のピカピカの床の上に、しょんぼり並んで立っていた。ぐるりを取巻く均一《きんいつ》な大きさのガラスケースよりも、ひときわ背の高い中央ケースの前だった。ケースは空っぽで、黒い木の台があるだけだった。明らかに、以前はその上に何かが飾られていたのだ。台の木部にちんまりとはまった銀色の四角い板には、次のような文字が刻まれていた。
「ケルト様式の黄金杯。作者不詳《ふしょう》推定年代六世紀。コーンウォール南部トリウィシックにてサイモン、ジェーンおよびバーナバス・ドルーにより発見、寄贈《きぞう》さる」
「あんなに苦労して連中を出し抜いたのに」とサイモン。「こうもまんまと盗み出されるとはね。言っとくが、ぼくは初めっから、きっとやられると思ってたんだ」
バーニーが、「辛《つら》いのは、誰のしわざか教えてやれないってことだよ」
「言ってみない?」ジェーンが言った。
サイモンは小首をかしげて妹を見た。「あの、ぼくたち、まっ昼間に鍵《かぎ》もこわさずに聖杯を取ってたのが誰か、知ってるんです。<闇《やみ》>の力がやったんですよ」
「あっちへいけ、ぼうず」バーニーが言った。「おとぎ話も持って帰ってくれ」
「そう言われそうね」ジェーンは落ち着かなげにポニーテールに結った髪をひっぱった。「でも、前と同じ連中がやったのなら、誰かに見られていたってこともありうるわよ。あのいやらしいヘイスティングスさんとか――」
「まず無理だね。ヘイスティングスはその時々で変わるんだって、メリー大伯父《おじ》さんが言ってたろ? 名前も顔も変えてしまうんだ。そのつど、違《ちが》う人間になれるんだよ」
「メリー大伯父さんは知ってるのかなあ? この事件をさ」バーニーはガラスのケースと、中の小さな、さびしげな黒い台を見つめた。
帽子をかぶった老婦人がふたり、バーニーのそばに歩み寄った。ひとりは黄色い植木鉢《ばち》型の帽子、もうひとりはピンクの花をピラミッド型に積み上げた帽子をかぶっている。「あそこから盗み出したんだって。案内係が言ってたわ」とひとりが連れに言った。「やるわねえ! ほかのはこっちにあったの」「チョッチョッ」ともうひとりは楽しむように舌《した》を鳴らし、揃《そろ》って先へ進んだ。天井の高い展示室の中を足音高く歩み去るふたりを、バーニーはぼんやり見送った。ふたりは脚の長い人物がかがみ込んでいるショーケースの前で立ち止まった。バーニーは体を硬《こわ》わばらせ、その人物をすかし見た。
「なんとかしなきゃ」サイモンが言った。「とにかくなんとか」
ジェーンが「でも、どこから手をつければいいの?」
背の高い人物は帽子の婦人たちがケースに近づけるように体を起こした。礼儀《れいぎ》正しく会釈《えしゃく》をした頭の、豊かなもじゃもじゃの白髪《しらが》が光をとらえた。
サイモンが言った。「メリー大伯父さんが知ってるわけないよ――だって、今はイギリスにいないんだろ? オクスフォード大学から一年休みをとって。有《ゆう》――なんとかってやつさ」
「有給休暇《きゅうか》よ。アテネでね。クリスマスにもカード一枚くれなかったわ」
バーニーは息を詰《つ》めていた。展示室の向こう端では、犯罪好きの婦人たちが移動し、背の高い白髪の男が窓に顔を向けた。ワシ鼻と窪《くぼ》んだ目を持つ横顔は間違えようがなかった。バーニーはひと声高く叫《さけ》んだ。「ガメリー!(メリー大伯父の愛称)」
すべるように部屋を横切るバーニーのあとに、サイモンとジェーンも目をパチクリさせながら遅ればせに続いた。
「メリー大伯父さん!」
「おはよう」背の高い男は愛想《あいそう》よく言った。
「ギリシャにいるって母さんが言っていたのに!」
「帰って来たのだよ」
「誰かが聖杯を盗むつもりだって知ってたの?」ジェーンが言った。
大伯父はふさふさした白い方眉《まゆ》を吊《つ》り上げてジェーンを見たが、何も言わなかった。
バーニーがあっさりたずねた。「どうすればいいの?」
「取り戻す」メリー大伯父は言った。
「連中のしわざなんでしょう?」サイモンがおずおずと言った。「敵の側の。<闇>の」
「もちろん」
「なぜほかのものも取ってったんだろう? ブローチや何かをさ」
「それらしく見せるためよ」
メリー大伯父はうなずいた。「効果満点だった。一番値打ちのあるものを盗んで行ったから、警察は犯人が黄金を狙ったのだと考えるだろう」大伯父は空のショーケースを見おろした。それからふっと目を上げた。三人の子供たちはそれぞれ、じっと動かずに、大伯父の深く窪《くぼ》んだ黒い目、決して消えない冷たい火のような光を秘《ひ》めた目をのぞき込まずにはいられなくなった。
「だが私には、やつらの目あてだけが聖杯だけだったとわかっている」メリー大伯父は言った。「さらに別のものを手に入れる手段として盗んだのだ。やつらの狙いはわかっている。なんとしても阻止《そし》せねばならぬ。それにはどうやら、発見者であるおまえたち三人の助けが再び必要になりそうだ――こう早くとは予想外《よそうがい》だったが」
「どうする?」ジェーンがゆっくりとたずねた。
「最高」サイモンが答えた。
バーニーは、「でもなぜ今《・》になって聖杯を盗んだんだろう? あの失《な》くなった古文書《こもんじょ》を見つけたのかな? ほら、杯の外側の文字を説明しているやつ」
「いや」とメリー大伯父は言った。「まだだ」
「じゃあ、なぜ――」
「私には説明できぬ、バーニー」大伯父は手をポケットに突っ込んで肩をぼめた。「この一件にはトリウィシックの村が関係している。あの古文書が関わり合っていることも確かだ。だが、同時にもっと大きなことの一部てもある。詳《くわ》しく説明することは許されぬ。ただ、前と同じように私を信じて、<光>と<闇>との長い闘《たたか》いの新たな局面に参加してくれるよう頼むだけだ。そして、力を貸すことができると確信したら、たとえ永久に理解できないような事情のもとでも、貸してほしい」
バーニーは色の薄《うす》い前髪を悠然《ゆうぜん》と目から払いのけた。「ぼくはいいよ」
「もちろん手伝うよ」サイモンが熱心に言った。
ジェーンは無言《むごん》だった。大伯父はジェーンのあごの下に指を一本あて、上を向かせて見つめた。「ジェーン」大伯父はやさしく言った。「気が進まないのなら、おまえたち三人とも巻き込まずにおくこともできるのだよ」
ジェーンは大伯父のいかつい顔を見上げて、博物館内で通り過ぎがてら見た猛々《たけだけ》しい彫像《ちょうぞう》のひとつに、なんと良く似ているのだろうと思っていた。「あたしは怖《こわ》がってなんかないわ。ううん、少しは怖いけど、ワクワクしているもの。ただ、もしバーニーが危険な目にあうっていうのなら、あたし――こんなことを言うとどなりつけられそうだけど、なんといってもバーニーはあたしたちより年下だし、やっぱり――」
バーニーは真っ赤だった。「ジェーン!」
「わめいたって無駄《むだ》よ」ジェーンはきっぱり言った。「あなたに何かあったら、あたしたちの責任《せきにん》になるんですからね。サイモンとあたしの」
「<闇>はおまえたちの誰にも指一本触《ふ》れはせぬ」メリー大伯父が静かに言った。「おまえたちちは保護されるのだ。心配ない。約束する。バーニーの身に何が起きようと、傷つくようなことはない」
大伯父とジェーンは互いにほほえみ合った。
「ぼくは赤ん坊じゃないぞ! バーニーはかんかんになって足を踏み鳴らした。
「やめろ」サイモンが言った。「誰もそんなこと言ってない」
メリー大伯父が言った。「復活祭休暇《ふっかつさいきゅうか》はいつからだね、バーニー?」
短い間があった。
「十五日からだったと思う」バーニーは不機嫌《ふきげん》そうに答えた。
「そうよ。サイモンの学校はそれより少し前に休みにはいるけど、一週間ぐらいは重なるわ」
「かなり先の話だな」大伯父は言った。
「遅《おそ》すぎるの?」三人は気づかわしげに彼を見た。
「いや、そうは思わない……その一週間を私と一緒《いっしょ》にトリウィシックで過ごしてほしいが、不都合《ふつごう》なことがあるかね?」
「ないよ!」
「なんにも!」
「一応ないよ。生態《せいたい》学会議に出るつもりだったんだけど、抜けられるし……」サイモンは聖杯を見つけたコーンウォールの小さな村のことを考えて、言葉を途切《とぎ》らせた。今後どういう冒険《ぼうけん》をしようとも、全《すべ》てはトリウィシックで始まったのだ。海の上、石の下、断崖《だんがい》の洞窟の奥深くで。そして、その時と同じように、全ての中心には今もメリー大伯父がいる。メリマン・リオン教授は三人の人生で最も謎《なぞ》めいた人物で、世界の支配をめぐる<光>と<闇>との長い闘いに、何かよくわからない形で関わり合っているのだ。
「お父さんたちには私から話そう」大伯父が言った。
「なぜまたトリウィシックへ?」ジェーンがたずねた。「犯人たちが聖杯をあそこへ持っていくと思うの?」
「かもしれぬ」
「一週間きりか」バーニーは考え深げに、目の前の空のショーケースを見た。「たいした長さじゃないね。それで足りるの?」
「長い期間ではないが、足りさせるのだ」
ウィルは一本の草の茎《くき》をそろそろと莢《さや》から抜き出して、元気なくかじりながら、門のそばの大石に腰をおろした。四月の陽光はライムの木々の新緑の葉にきらめき、どこかでツグミが高らかに楽しい歌を繰《くり》り返した。ライラックとニオイアラセイトウが朝をかぐわしいものにしていた。ウィルはためいきをついた。バッキンガムシャーの春が与えてくれる喜びは、それはそれで結構《けっこう》である。だが復活祭休暇をわかりあえる仲間がそこにいれば、はるかに楽しめたことだろう。大人数の家族の半分は今も家にいるが、一番年の近い兄のジェイムスはボーイ・スカウトのキャンプに行っていて、一週間は留守だし、その上の姉のメアリーはおたふくかぜが直ったあと、体力を回復するためにウェールズの親類のところに行ってしまっている。他の者は退屈《たいくつ》なおとなの関心事に忙《いそが》しかった。九人兄弟の末っ子で困るのはそれだ。他の者がみんな、あっという間におとなになってしまったように思えるのだ。
ウィル・スタントン自身はある意味では、兄や姉の誰より、人間界の誰より年を取っていた。だがウィルが、攻め寄せる<闇>から世界を護《まも》るよう動かし難《がた》い掟《おきて》に縛《しば》られた<光>の守護《しゅご》者<古老>たちの最後のひとりとして生まれたことを、十一歳の誕生日《たんじょうび》に明かしてくれた大冒険は、彼ひとりの知るところだった。知っているのは彼のみ――そして同時に普通の少年でもあるウィルは、今はそのことは考えていなかった。
飼《か》い犬の一頭であるラックが湿《しめ》った鼻をウィルの手に押し込んだ。ウィルは大きな耳をまさぐった。
「まる一週間だよ」と犬に言った。「何をしよう? 釣《つ》りにでも行くか?」
耳がヒクッと動き、鼻が手から離れた。体を硬ばらせ緊張して、ラックは道のほうを向いた。と思うと、タクシーが一台、門の外に停車《ていしゃ》した。村でタクシーの役割を果たしている見慣《みな》れた古い車ではなく、三マイル離れた町から来たピカピカの本物のタクシーだ。おりた男は小柄《こがら》で頭がはげかかり、いささかくたびれた身装《みな》りをしていた。レインコートを着て、形のない大きな合切《がっさい》袋を持っている。タクシーを走らせると、男は立ち止まったままウィルを見ていた。
とまどったウィルは立ち上がり、門に歩み寄った。「おはようございます」
男は一瞬《いっしゅん》重々しい顔で立っていたが、やがてニコッとした。「ウィルだね」男は頭のいい魚のようななめらかな顔と丸い目をしていた。
「そうです」
「スタントン家で一番若い子だ。七男坊。ひとつ負けたな――ぼくは六男坊だったから」
男の声はなごやかで少しかすれていて、奇妙な大西洋中間地域のなまりがあった。母音の発音はアメリカ風だが、抑揚《よくよう》はイギリス風なのだ。ウィルはわけがわからなかったが、愛想《あいそう》よくニッコリした。丸い目の目尻《じり》をくしゃくしゃにして、男は片手を差《さ》し出した。「こんにちは。君の伯父貴のビルだよ」
「うわ、本当?」ウィルは握手《あくしゅ》した。ビル伯父。ウィルの名はこの人にあやかったのだ(ビルもウィルもウィリアムの愛称)。父親と一番仲の良かった兄で、何年も何年も前にアメリカへ行き、何かの事業を興《おこ》して成功した――陶器《とうき》か何かを扱《あつか》っているはずだ。ウィルは一度も会った記憶《きおく》がない。クリスマスには毎年、名付け親でもある未知のビル伯父から贈り物が届《とど》く。それに対してウィルはおしゃべりな礼状を毎年書いたが、返事が来たためしがなかった。
「ずいぶん大きくなったな」ビル伯父はウィルと連れ立って家へ向かいながら言った。「最後に会った時は、ゆりかごの中で泣きわめいている痩《や》せっぽちのチビだったのに」
「なんだかアメリカ人みたいなしゃべり方だね」ウィルは言った。
「不思議はないさ。この十年間というもの、アメリカ人だったんだから」
「クリスマスに手紙を書いても、ちっとも返事くれなかったじゃない」
「気にしたかい?」
「そうでもなかった」
ふたりは一緒《いっしょ》に笑い出した。ウィルはこの伯父さんは悪くないと思った。家の中にはいると父親が階段をおりて来たところだった。父親はポカンとして、わが目を疑《うたが》いながら立ち止まった。
「ビリー!」
「ロジャー!」
「おいおい」ウィルの父親は言った。「髪《かみ》の毛はどうしたんだい?」
長いこと離《はな》ればなれになっていた親類との再会は時間がかかるものだ。ことに大家族においては。ウィルの一家の場合は何時間もかかり、ウィルは仲間がいなくてゆううつだったことも忘れてしまった。昼食までには、ビル伯父とフラン伯母がスタフォードシャーの陶器工場と、コーンウォールの陶土のとれるあたりを訊《たず》ねるためにイギリスに来たのだとわかった。その地方と複雑な英米間の取引をしているらしい。もう大きいふたりの子供のこともすっかり聞かされた。ウィルの長兄のスティーヴンと同じ年頃らしかった。それにオハイオ州と製陶業について、知りたい以上のことをたっぷり聞かされた。ビル伯父が裕福《ゆうふく》なのは明らかだったが、二十年以上前に移民して以来、イギリスに来たのはやっと二度目とのことだった。ウィルは伯父のキラキラする丸い目と、かすれ声の簡潔《かんけつ》な物言いが気に入った。ところが、一週間の休暇の見通しがかなり明るくなったと思っていた矢先、ひと晩しか泊まってもらえないことがわかった。ロンドンに仕事で行った帰りで、翌日にはコーンウォールにいる妻と落ち合う予定なのだ。ウィルは再び意気消沈《いきしょうちん》した。
「友達が車で迎《むか》えに来てくれる予定なんだ。そうだ、アメリカへ戻る途中でフラニーとに、三日寄せてもらうよ。迷惑《めいわく》でなければだが」
「ぜひ来て頂《いただ》きたいわ」ウィルの母親が言った。「十年間に手紙が約三通。それで二十四時間ぽっちの滞在《たいざい》ですまそうなんて、そうは問屋がおろさないわよ」
「贈り物も送ってくれたよ」ウィルが言った。「毎年クリスマスに」
ビル伯父はニヤッとして、「アリス」とふいにスタントン夫人に話しかけた。「ウィルは今週は休みだと言うし、たいして忙しくもないらしい。一緒にコーンウォールで休暇を過ごさせてやりたいが、どうだい? 週の終わりには列車に乗せて帰すよ。別荘を借りたんだが、必要以上に広くってね。友達ってのも甥っ子をふたりばかり招《よ》んだって言ってる。ウィルと同じ年頃の子らしいし」
ウィルは窒息《ちっそく》しかけたようなヒューッという音をたて、気づかわしげに両親を見た。重々しく眉《まゆ》をひそめながら、両親は予想《よそう》通りの二重唱を始めた。
「そう言ってくれるとは実に――」
「本当にご迷惑じゃ――」
「ウィルもきっと大喜び――」
「フラニーが構《かま》わないって言うのなら――」
ビル伯父はウィルに目くばせした。ウィルは屋根裏に上がり、ナップサックに身の回りの物を詰《つ》め出した。くつしたを五足、下着の替《か》えを五組、シャツを六枚、プルーオーバーとセーターを各一枚、半ズボンを二本、それに懐中電灯。そこまでやってから、伯父が出発するのは翌日なのに気づいたが、荷ほどきするのも無意味に思えた。階下におりたウィルの背で、ナップサックは膨《ふく》れすぎのサッカー・ボールのようにはずんでいた。
母親が言った「ウィルや、もし本当に行きたいなら――あら」
「さよなら、ウィル」父親が言った。
ビル伯父はくすっと笑った。「すまんが、電話を借りていいかな――」
「こっちだよ」ウィルは伯父を廊下《ろうか》に連れ出して、「多すぎないよね?」と、はちきれんばかりのナップサックに不安気に目をやった。
「大丈夫」伯父はダイヤルを回していた。「もしもし? やあ、メリー。万事うまくいってるかい? よかった。実はだね。一番小さい甥っ子が一緒なんだ。一週間の予定で。荷物はたいしてない」――とウィルにニヤッとしてみせ――「だが、君がふたり乗りのかわいらしい車なんぞで来ると困るから、確かめておこうと思って……ハハハ。君のことだからまさかとは思ったがね……よし、問題ない、じゃ明日」と電話を切った。
「決まりだよ、相棒《あいぼう》」とウィルに言った。「朝九時に発《た》つ。アリス、それでいいかい?」スタントン夫人は、お茶道具をのせた盆《ぼん》を持って廊下を横切りかけていた。
「文句なしよ」
電話での会話が始まった時から、ウィルは身じろぎもせず立ちつくしていた。「メリーだって?」ウィルはゆっくりと言った。「変わった名前だね」
「全くだ」と伯父は言った。「本人も変わってるよ。オクスフォード大学で教えていてね。すばらしい頭脳《ずのう》の持ち主だが、まあ変わり者と言えるだろうな――とても内気で、人に会うのを嫌《きら》うんだ。だが、そりゃ頼《たよ》りがいのある男だよ」とスタントン夫人のために慌《あわ》ててつけたした。「それに運転の腕はすごいもんだ」
「どうしたっていうの、ウィル?」母親がたずねた。「まるで幽霊《ゆうれい》でも見たみたい。どうかして?」
「べつに」ウィルは言った。「そうさ、なんでもないんだ」
サイモン、ジェーン、それにバーニーは、スーツケースや紙袋、レインコートや文庫本の下じきになりながら、聖オースル駅を脱出した。ロンドンからの列車をおりた人の群れは、自家用車やバス、タクシーに呑《の》み込まれ、三人の周囲から次第に減《へ》っていった。
「ここまで迎えに来てくれるって言ったよね?」
「もちろんさ」
「見えないよ」
「少し遅れてるだけでしょう」
「メリー大伯父さんは絶対に遅れたりしない」
「万一ってことがあるから、トリウィシック行きのバスがどこから出るか調べておいたほうがいいわね」
「ううん、いたよ。見つけた。絶対遅れないって言ったろ」バーニーはとび上がって手を振った。と思うとためらった。「けど、ひとりじゃないや。男の人が一緒だ」声がかすかに怒《いか》りの色を帯びた「それに男の子がひとり」
一台の車がスタントン邸《てい》の前で一回、二回、三回、横柄《おうへい》に警笛《けいてき》を鳴らした。
「ほら、行くぞ」ビル伯父は自分の合切袋とウィルのナップザックをつかんだ。
ウィルは、サンドイッチや魔法瓶《まほうびん》や冷たい飲み物のはいった袋を母親から押しつけられて、よろめきながら、そそくさと両親に別れのキスをした。
「いい子にするのよ」母親は言った。
「メリーは車からおりないと思うよ」車回しをテクテク歩きながら、ビルはスタントン夫人に言った。「とてもはにかみやだからね。だが気にしないでくれ。友達としてはいいやつなんだ。ウィルもきっと好きになる」
ウィルは言った「決まってるよ」車回しのはずれには、巨大な老いたダイムラーが待っていた。
「これはこれは」ウィルの父親が敬意《けいい》をこめて言った。
「三人乗れるかなんて心配して損《そん》した!」ビルが言った。「こういう車で来ることぐらい、予測《よそく》できそうなものだったのに。それじゃ、みんな、さよならだ。ほら、ウィル、前に乗りたまえ」
慌《あわただ》しく別れの言葉を交わすと、ふたりはいかめしい車に乗り込んだ。ハンドルの前にかがみ込んでいるのはマフラーに包まれた大柄な人物で、頭のてっぺんにひどくけば立った茶色の縁《ふち》なし帽《ぼう》をのせていた。
「メリー」車が動きだすとビル伯父が言った。「こちらはぼくの甥で名付け子のウィル・スタントン。ウィル、メリマン・リオンだよ」
運転手はぞっとするような帽子を脱ぎ捨てた。モジャモジャの白髪が自由になった。影《かげ》になった黒い目が尊大《そんだい》なワシ鼻の横顔から脇《わき》にいるウィルを見た。
(久しぶりだな、<古老>よ)なじみ深い声がウィルの頭の中に語りかけた。
(また会えるなんて最高)ウィルは声に出さず、嬉《うれ》しそうに言った。
「おはよう、ウィル・スタントン」メリマンが言った。
「はじめまして」ウィルは答えた。
バッキンガムシャーからコーンウォールまでの旅の間、会話はかなりはずんだ。ことに、弁当を食べ終えたあと、ウィルの伯父がうとうとし出し、そのままずっと眠りこけてしまうと。
旅も終わりに近づいた頃、ウィルは言った「じやあ、サイモンもジェーンもバーニーも、<闇>がわざわざみどりの妖婆《ようば》が作られる時期に合わせて聖杯を盗んだってことは、まるで知らないんだね?」
「みどりの妖婆そのものを知らないのだ」メリマンは答えた。「教えてやるのは君の特権《とっけん》だよ。もちろん、さりげなさを装《よそお》ってな」
「ふうん」ウィルはほかのことを考えていた。「<闇>がどんな形をとるかわかっていれば、もっと気が楽なのに」
「昔からその点が悩《なや》みの種《たね》だが、解決法はない」メリマンはふさふさした白い眉を片方上げ、横目でウィルを一瞥《いちべつ》した。「待って様子を見るよりない。さほど長くは待たされぬだろうが……」
午後もかなり遅くなってから、ダイムラーは穏《おだ》やかなエンジン音と共に、コーンウォールの聖オースル駅前広場にしずしずと滑り込んだ。小さな荷物の池のまんなかに、ウィル自身より少し年かさで学校の制服のブレザー着こみ、自分が責任者であることを意識《いしき》しているらしい少年がひとりと、少年と同じくらいの背丈で長い髪をポニーテールにした、案じ顔の少女がひとり立っていた。さらに、白に近い豊かな金髪の小さな男の子がひとり、落ち着き払ってスーツケースに腰かけ、ウィルたちが近づくのを見守っていた。
(ぼくの正体を教えちゃいけないとなると)ウィルは<古老>独特の精神感応術《せいしんかんのうじゅつ》を使ってメリマンに言った(ものすごく嫌《きら》われることになりそうだな)
(その通りかも知れぬ)メリマンは答えた。(だが今度のこの緊急事態《きんきゅうじたい》の前には、我《われ》らの気持ちなどは全く取るに足りん)
ウィルはためいきをついた(みどりの妖婆に心せよ、か)
第2章 奇妙な絵描き
「ジェーンにはこの部屋がいいだろうと思ってな」メリマンはとある寝室のドアをあけ、用心深く身をかがめて戸口をくぐった。「狭苦《せまくる》しいが、眺《なが》めはいい」
「まあ!」ジェーンは感嘆《かんたん》の声を上げた。部屋は白く塗《ぬ》られ、明るい黄色のカーテンがかかっていた。ベッドの上の刺子《さしこ》ぶとんも黄色だった。天井が傾斜《けいしゃ》しているので一方の壁《かべ》は向かい合った壁の半分の高さしかなく、ベッドと鏡台《きょうだい》、それに椅子《いす》一脚《きゃく》ぶんの広さしかなかった。とはいえ、小さな室内は、カーテンの外の空が灰色なのにもかかわらず、陽光に満ちあふれているように思えた。大伯父が男の子たちを部屋に案内する間、ジェーンは立ちつくしたまま外を眺め、窓から見える風景《ふうけい》を何よりもすばらしいと思った。
ジェーンのいる所は波止場《はとば》の片側の高台で、舟や突堤《とってい》、箱やウミザリガニを捕《と》るための籠《かご》が積み上げられた桟橋《さんばし》、それに小さな缶詰《かんづめ》工場が見おろせた。忙しい港の生命の全てがジェーンの眼下《がんか》に脈摶《みゃくう》っており、左のほう、波止場の岸壁《がんぺき》とケメア岬《みさき》と呼ばれる黒っぽい腕のような陸地との間には、海が横たわっている。今は白の斑点《はんてん》を浮《う》かせた灰色の海だ。ジェーンの視線は平らな水平線から再び本土へと移動した。波止場をはさんで真正面にある丘を見ると、前の年の夏に滞在した縦《たて》に細長い家が目にはいった。「灰色荘」だ。全てはその家で始まったのだ。
サイモンがノックして、戸口の端《はし》から首だけ突《つ》っ込んだ。「やあ、すごい眺めだなあ。ぼくらの部屋も、見晴《みは》らしは悪いけどいい部屋だぜ、ひょろひょろっと細長くて」
「棺桶《かんおけ》のように」バーニーがドアの陰《かげ》から虚《うつ》ろな声で言った。
ジェーンはくすくす笑った。「おはいんなさいよ。あそこの灰色荘を見て、去年借りた時の大家さんだったなんとか船長に会えるかしら?」
「トムズだよ」バーニーが言った。「トムズ船長さ。ぼくはルーファスに会いたいな。おぼえててくれるといいけど。犬って、ものおぼえがいいんだよね?」
「トムズ船長の家の戸口をくぐりゃわかるさ」サイモンが言った。「ルーファスが咬《か》みついたら、犬はもおぼえが悪いってことになる」
「それ、冗談《じょうだん》のつもり?」
「今の、何?」ジェーンがふいに言った。「しいっ!」
三人は黙《だま》ったまま立ちつくした。沈黙《ちんもく》を破るのは車の音とカモメの声、それに全体にかぶさる海のざわめきだけだった。と、かすかなトントンという音が聞えた。
「あの壁の裏から聞えるわ! 何かしら?」
「符号《ふごう》みたいだね。モールス信号だと思う。モールスのわかるやつは?」
「あたしはだめ」ジェーンが言った。「あなたたち、ボーイ・スカウトになるべきだったのよ」
「去年、学校でおぼえさせられたんだけど」バーニーがためらいがちに言った。「ぼくはあんまり……待てよ、今のはDだ……今のは知らない……E……ええとW……それからSはすぐにわかる。ほらまたやってるよ。いったいなんだろ?」
「DREWS《ドールズ》だ」サイモンがいきなり言った。「誰かが<ドルー達>って信号を送ってるんだ。ぼくらを呼んでるんだよ」
「あの男の子だわ。この家は小さな家二軒《けん》を一軒にしたものでしょ? だから、あの子はこれとちょうど同じ部屋にいるに違いないわ。この壁をはさんで背中合わせになっているわけよ」
「スタントンか」バーニーが言った。
「そうよ。ウィル・スタントン。バーニー、合図《あいず》し返してあげなさい」
「いやだ」
ジェーンはまじまじとバーニーを見た。長い黄白色の髪が斜《なな》めに下がって顔を隠していたが、下唇《くちびる》が強情《ごうじょう》そうに、見慣《な》れた形に突き出されているのが見てとれた。
「なんでまた、いやなの?」
「向こうだって、もう叩《たた》いてないもん」バーニーはまともには答えなかった。
「仲良くするんだからいいんじゃないの」
「だって。いやだよ。だってさ。ぼく、よくわかんないけど……じゃまっけじゃない。メリー大伯父さんがなぜ来させたのかわかんないや。知らない子にウロウロされてて、どうやって聖杯を取り戻す方法を見つけるのさ?」
「メリー大伯父さんも追っ払うわけにはいかなかったのよ」ジェーンは髪をほどき、ポケットから櫛《くし》を取り出した。「だって、この貸別荘を借りてくれたのはお友達のスタントンさんでしょ? ウィルはスタントンさんの甥じゃないの。だから、どうしようもなかったわけよ」
「追い返すぐらい簡単《かんたん》さ」サイモンは自信たっぷりだった。「寄りつかないようにするって手もある。じきに好かれてないことに気づくだろう。わりと呑み込みが早そうだから」
「でも、少なくと礼儀正しくはしてあげなくちゃ」ジェーンが言った。「たった今からね――あとニ、三分で夕食なんですもの」
「もちろんさ」サイモンはあっさりと言った。「もちろんだよ」
「すばらしい所だね」ウィルは顔をほてらせて言った。「ぼくの部屋からは波止場がすっかり見えるんだ。別荘の持ち主は誰なの?」
「ペンハローという漁師《りょうし》だ」伯父が言った。「メリーの友達だと。一族代々の持ち家だったらしい。あれを見ればわかるけ」と、暖炉《だんろ》の上にかけられた、手のこんだ額縁《がくぶち》の中の大きな黄ばんだ写真のほうに手を振った。厳粛《げんしゅく》な面持《おもも》ちのヴィクトリア朝の紳士《しんし》が、固いカラーと黒っぽいスーツに身を包んで写っている。「ペンハロー氏のお祖父《じい》さんだそうだ。もちろん、別荘は近代化されている。一軒ずつでも、二軒一緒でも、貸せるようになっている――メリーがドルー家の子供達を招《まね》くことに決めたんで、二軒とも借りることにしたのさ。食事はここで全員でしよう」
伯父は明るい室内を身ぶりで示した。本箱や肘掛椅子《ひじかけいす》や電気スタンドが、とても新しい物からとても古い物まで取り混《ま》ぜて散らばっている。さらにがっしりした大きなテーブルと、背もたれの高い堂々《どうどう》たる椅子が八脚置かれていた。「リオンさんとは知り合って長いの?」ウィルは好奇心《こうきしん》にかられてたずねた。
「一、二年かな」ビル・スタントンは肱掛椅子の中で伸びをした。「ジャマイカで初めて会ったんだよ。そうだったね、フラン? ぼくらは休暇中だった――メリーのほうは休暇だったのか仕事だったのかはっきり聞いたことはないが」
「仕事よ」テーブルの用意に忙しい伯父の妻が言った。伯母は穏やかで金髪で背が高く、動作がゆったりとしていて、ウィルが考えていたアメリカ人とは大違いだった。「何か政府の調査をしに来てらしたのよ。オクスフォード大学の教授でね」と敬意のこもった口調でウィルに教えた。「それはそれは頭のいい方なの。おまけにとても気さくでね。去年の秋、エール大学で講演なさるためにアメリカにいらした時も、わたしたちとニ、三日過ごすために、わざわざオハイオ州まで足を伸ばして下すったのよ」
「ははあ」ウィルは考え深げに言った。それ以上の質問は、すぐそばの壁からのふいの物音に中断された。大きな木のドアがスーッとあいた。危《あや》うくウィルの背にぶつかるところだった。戸口から、向かいあったそっくりのドアを閉じようとしているメリマンの姿が見えた。
「二軒の別荘はここでつながっているのだよ」メリマンはかすかに微笑して、驚いているウィルを見おろした。「べつべつの人に貸す時は、両方のドアに鍵《かぎ》をかけるというわけだ」
「もうじき夕食ですよ」フラン・スタントンが独特のゆったりとした柔《やわ》らかい語調で言った。と同時に、フランの後ろから、灰色の髪をお団子《だんご》に結《ゆ》ったがっちりした小柄な女の人が、盆にのせた茶碗《ちゃわん》や皿をカチャカチャいせながら運んで来た。
「こんばんは、先生」女の人はメリマンに笑いかけた。ウィルはひと目でその顔が好きになった。どのしわも全て、笑いじわらしかった。
「ウィル」伯父が言った。「ペンハローさんの奥さんだよ。御主人ともども、この別荘の持ち主だ。甥のウィルです」
ペンハローおばさんはウィルにほほえみかけ、盆をおろした。「トリウィシックによう来たね、坊や。とびっきりの休暇にしてあげるけんね。あとの三人のいたずらっ子も一緒に」
「ありがとう」ウィルは言った。
仕切りのドアが勢いよく開き、ドルー家の三人がなだれ込んできた。
「ペンハローおばさん! 元気だった?」
「ルーファスを見かけなかった?」
「あのいやなポークおばさん、まだいるの? あの人の甥は?」
「<白ヒース号>はぶじ?」
「そうあせらんと」おばさんは笑っていた。
「じゃあ」バーニーが言った。「おじさんは元気?」
「達者さね。今はもちろな、舟で海に出とるけっど。さあ、あんたら、料理を取って来っけん、ちょこっと待っとり」おばさんはせかせかと部屋を出て行った。
「君ら三人はこのへんに詳しいようだな」ビル・スタントンが丸い顔を重々しくして言った。
「うん、そうだよ」バーニーが満足気に言った。「このへんの人はみんな、ぼくたちのことを知ってるんだ」
「会いに行かなければならない友達が大勢いるんです」サイモンがいささか大きすぎる声でい、すばやく横目でウィルを見た。
「そう、この子たちは前にも来ている。去年の夏、二週間ここで過ごした」メリマンが言った。バーニーが腹立たしげににらんだが、大伯父のごつごつしたしわの深い顔にはなんの表情も浮かばなかった。
「三週間だったよ」サイモンが言った。
「そうだったか? すまなかったね」
「戻って来られて嬉しいわ」ジェーンが外交手腕《がいこうしゅわん》を発揮《はっき》して言った。「来ることを許して下さってありがとうございます、スタントンのおじさま。おばさまも」
「どういたしまして」ウィルの伯父は空中で手を振り回した。「何もかもちょうどうまい具合《ぐあい》にいったね――君ら三人とウィルは一緒におおいに楽しんで、われわれお堅《かた》い老人のことはほっとけばいい」
ごくわずかの間、沈黙があった。が、ジェーンは兄や弟を見ずに明るく言ってのけた。「ええ、そうします」
ウィルはサイモンに話しかけた。「なぜトリウィシックと呼ばれてるの?」
「え?」サイモンは面くらった。「実は知らないんだ。ガメリーどういう意味か知ってる?」
「調べてごらん」大伯父はとぼけた。「研究は記憶力をとぎすましてくれるものだ」
ウィルが遠慮《えんりょ》がちに「みどりの妖婆の儀式《ぎしき》があるのは、ここだろ?」
ドルー兄弟は目をみはった。「みどりの妖婆? それ、何さ?」
「ウィルのいう通りだ」メリマン彼らを見おろして言ったが、その口の片側がおかしそうにヒクヒクしていた。
「コーンウォールのことを書いた、何とかって本に書いてあったんだ」とウィル。
「ああ」ビル・スタントンが言った。「ウィルは、親父さんに言わせると、たいした人類学者らしいよ。気をつけたほうがいいな。儀式やなんかにえらく詳しいから」
ウィルはいささかきまり悪げだった。「ただの春のお祭りなんだ。葉っぱで人形をこしらえて海の中へ投げ込む。<みどりの妖婆>って呼ばれることもあれば、<マーク王の花嫁>って呼ばれる時もある。古い風習さ」
「ああ、収穫祭《しゅうかくさい》みたいなもんだね」バーニーが片づけた。「夏のさ」
「いや、ちょっと違うな」ウィルは耳をこすりながら、申し訳《わけ》なさそうに言った。「だって、あの八月の収穫祭は、どっちかっていえば観光客めあてだろ?」
「へっ!」とサイモン。
「ううん、ウィルの言う通りさ」バーニーが言った。「去年の夏も、道で踊ってるのは地元の人たちより観光客のほうが多かった。ぼくも含めてね」といくらか考え深げにウィルに言った。
「できたよ!」ペンハローおばさんが、自分の体ほどもある盆に料理をのせて現われた。
「ペンハローさんなら、みどりの妖婆のこともよく知っているでしょう」フラン・スタントンが柔らかいアメリカ風の声で言った。「ねえ、ペンハローさん?」少しばかりとげとげしくなってきた空気をなごやかに抑《おさ》えようとの善意《ぜんい》の発言だった。ところが逆効果《ぎゃくこうか》だった。小柄な丸ぽちゃのコーンウォール女は唐突《とうとつ》に盆をテーブルの上におろしたのだ。微笑が顔から失せていた。
「魔女《まじょ》のなんのっちゅうのは好かんけんね」とぶしつけでこそなかったがきっぱりと言い、部屋を出て行ってしまった。
「まあ、どうしましょ」フラン伯母は困《こま》ってしまって言った。
彼女の夫はクスッと笑った。「アメリカ人は帰れってことさ」
「あのみどりの妖婆って、本当はなんなのさ、ガメリー?」サイモンが翌朝たずねた。
「ウィルが教えてくれたじゃないか」
「あんなの、なんかの本のうけうりだよ」
「あいつ厄介物《やっかいもの》になりそうだね」バーニーがさもいやそうに言った。
メリマンがキッと見おろした。「よく知りもしない人の値打ちを、あっさり決めてしまってはいかん」
「ぼくはただ――」
「お黙《だま》んなさい、バーニー」ジェーンが言った。
「みどりの妖婆作りはな」メリマンが言った。「古い春の儀式《ぎしき》で、ここでは今でも、夏を迎え、大漁《たいりょう》と豊作《ほうさく》を祈るために祝われる。もう二日もすればその日が来る。おまえたちがもう少し穏やかに振舞《ふるま》えば、ジェーンも現物させてもらえるかも知れぬよ」
「ジェーン?」バーニーが言った。「ジェーンだけ?」
「みどりの妖婆作りは、村のごく内輪のことなのだ」ジェーンはメリマンの声に張りつめたものを感じたが、顔を見ようにも狭い踊り場の天井に近すぎて影にまぎれてれしまっていた。「普通は観光客はそばへも寄れぬ。それに、地元の人間でも、参加できるのは女だけなのだよ」
「なんだい、そりゃ!」サイモンがうんざりしたように言った。
ジェーンが「ガメリー、聖杯《せいはい》のこと、どうにかしないといけないんじゃない? だって、そのために来たんですもの。あまり時間もないし」
「辛抱《しんぼう》することだ」とメリマンは言った。「思い出しなさい。前にトリウィシックに来た時も、事件を起こしに行く必要はなかっただろう? 事件のほうで勝手《かって》に起きてくれたではないか」
「そういうことなら、ぼく、ちょっと出かけてくるよ」バーニーは手に持った平たい本のようなものを目立たないよう脇腹《わきばら》に押しつけていたが、大伯父は灯台のように高い所から見おろした。
「写生かね?」
「うん」バーニーはしぶしぶ答えた。ドルー兄弟の母親は画家である。バーニーはいつも、母親と同じ才能を持つなどと考えただけでもぞっとする、と言っていたのだが、この十二カ月のうちに才能が忍び寄っているのを発見してとまどっていた。
「向こう岸からのこの高台を書いてごらん」メリマンが言った。「船も入れてな」
「いいけど、なぜ?」
「なぜってこともないがね」大伯父はあいまいに言った。「役に立つかも知れぬ。誰かへの贈り物にするとか、私がもらうかも知れぬよ」
船つき場を横ぎる途中で、バーニーは画架《がか》に向かっている男のそばを通りすぎた。トリウィシックではよくあることだった。コーンウォールの他の美しい村々同様、日曜画家の出入りが激しいのだ。この画家は櫛の通っていない黒っぽい長髪と、角張ったたくましい体格の持ち主だった。バーニーは立ち止まり、男の肩越《かたご》しにのぞき込んだ。そして目をパチクリさせた。画架の上にはどぎつく派手な色づかいの奔放《ほんぽう》な抽象画《ちゅうしょうが》があったが、見たところ、目の前の波止場風景とは何ら関連がないようだった。トリウィシックの波止場画家二十人のうち十九人までが描《か》くであろう小ぎれいで貧血症気味な水彩の小品と較《くら》べると、意外の感を与えた。男は精神に異常をきたした者のように塗《ぬ》りまくっていた。手を休めも振り向きもせずに「あっちへ行け」と言った。
バーニーは一瞬《いっしゅん》たゆたった。その絵には真の意味での力がこもっていたが、それも妙《みょう》に不安感を与える異様《いよう》な力だった。
「あっちへ行け」
゛行くよ」バーニーは一歩後退した。「けど、なぜみどりにしたの? あの一番上の隅っこのところ。なぜ青じゃいけないの? でなきゃ、もっときれいなみどりとか」バーニーを悩ましているのは、とりわけいやらしい色合いで描かれた鮮《あざ》やかなジグザグ模様《もよう》だった。黄がかった、からし色に似たみどりで、絵のほかの部分から目をそらせてしまっている。男は唸《うな》っている犬のような低い声をたてはじめ、広い肩を硬《こわ》ばらせた。バーニーは逃げた。そしてむきになってひとりごちた。「あの色は絶対間違ってるのに」
波止場の向こう岸に着くと、バーニーは低い壁《かべ》に腰かけ、岬の削《そ》げたように切り立った岩を背にした。そこからは、あのかんしゃく持ちの絵描きの姿は見えなかった。どこの波止場にも必ずある魚の出荷箱の山の陰に隠れてしまっていた。バーニーはペンナイフで新しい鉛筆を尖《とが》らせ、描き始めた。漁船を一艘《いっそう》だけ描いたスケッチは出来が悪かったが、波止場全体をざっと描いた一枚がいい感じになり始めたので、バーニーは鉛筆から、特別気に入っているペン先の軟《やわ》らかい昔風の万年筆に切り替えた。それからはどんどんはかどった。絵自体に満足し、細部に没頭《ぼっとう》し、この春になって知ったばかりの、自分の中の何かが指を通ってほとばしり出る感覚《かんかく》を意識していた。それは一種の魔法《まほう》だった。息をつきに浮上すると、バーニーは手を止め、絵を持った腕をいっぱいに伸ばしてみた。
すると音もなく、黒っぽい袖《そで》に包まれた大きな手が脇から出て来てスケッチブックをつかんだ。振り向く間もなく、紙の破れる音が聞えた。と、スケッチブックが足もとに投げ返され、土の上で転《ころ》がった。足音が走り去った。バーニーは憤慨《ふんがい》の声を上げてとびあがり、ひとりの男が船つき場の脇を走って逃げて行くのを見た。スケッチブックから取ったページが黒っぽい服の隣で白くはためいている。船つき場で見かけた長髪の怒りっぽい画家だった。
「おーい!」バーニーはかんかんになってどなった。「戻って来ーい!」
男はあとも見ずに波止場の壁の角を曲がった。ずっと後《おく》れをとっていた上に、波止場の道は上り坂だった。バーニーが猛スピードで駆《か》け上がっていくと同時に車のエンジンのかかる音がし、爆音《ばくおん》が遠ざかって行った。バーニーは角をビューンと曲がって道にとび出し、壁の向こうの道を上って来た誰かと正面衝突《しょうとつ》した。
「うっ!」とその誰かは息を詰まらせたが、すぐに声を取り戻した。「バーニー!」
ウィル・スタントンだった。
「男の人が」バーニーはあたりを見まわしながらあえいだ。「黒っぽいセーターの男の人が」
「君のすぐ前に波止場を駆け上がって来たのがいたな」ウィルは眉根《まゆね》を寄せた。「車にとび乗ってあっちへ行ったよ」と村のほうをゆびさした。
「そいつだ」バーニーは恨《うら》めしげに人気のない通りを見た。
ウィルも、上着のチャックをいじりながら通りを見て、驚くほどの激しさをこめて言った。「ぼくが馬鹿だった。全く。何かあるってわかってたのに――ぼうっとしていたせいだ。考えごとをして――」
ウィルは何かを振り払うかのように頭を振った。「何をされたんだ?」
「あいつ、おかしい。気が変なんだ」バーニーはまだ憤慨のあまり、口をきくのもやっとだった。「あそこに腰をおろして写生してたら、いきなり降ってわいて、絵を破り取ってすたこらさ、だぜ。まともな人がそんなことする?」
「知ってる人かい?」
「ううん。えっと、見かけたことは見かけたけど、それだってきょうが初めてだよ。船つき場の上で絵を描いてたんだ。画架に向かって」
ウィルはにっこりした。馬鹿みたいな笑い方だ、とバーニーは思った。「君の絵のほうがいいと思ったんだろう」
「よしてくれよ」バーニーはじれったげに言った。
「そいつの絵はどんなだった?」
「変わってた。すごく変なの」
「それごらん」
「違うってば。変な絵だったけど、うまいことはうまかったんだ。いやな感じにうまかった」
「そいつは大変だ」ウィルはぽかんとした顔で言った。バーニーは厚い茶色の前髪に縁取られたウィルの丸い顔をにらみ、ますます苛《いら》立ってその場を離れる口実を考え始めた。
「車に犬を乗せてた」ウィルは心ここにあらず、といったふうだった。
「犬?」
「やたら吠《ほ》えてた。聞えなかったかい? はねまわってね。男が乗り込んだ時なんか、もう少しでとび出しそうだった。君の絵を食いちぎってなきゃいいけどね」
「食いちぎっただろうよ」バーニーは冷たく言った。
「きれいな犬だった」ウィルは相変わらずぼうっとした、夢見るような口調《くちょう》だった。「脚《あし》の長いアイリッシュ・セッターでね、すばらしい赤犬だった。あんな犬を車に閉《と》じこめるなんて、ちゃんとした人間のすることじゃない」
バーニーは棒《ぼう》立ちになってウィルを見た。そんな犬はトリウィシックじゅうに一匹しかいない。バーニーは、道をはさんで真向かいに、見覚《おぼ》えのある背の高い灰色の家があるのにハッと気づいた。ちょうどその時、家の横手にある木戸が開き、男がひとり出て来た。がっしりした年配の男で、短い灰色のあごひげをたくわえ、ステッキにもたれている。道に出ると、男は指を口に入れ、鋭く二度、指笛を吹いたそれから呼ばわった。「ルーファス? ルーファス!」
バーニーは思わず駆け寄った。「トムズ船長? あなた、トムズ船長でしょう? 聞いて、あのね、ぼく、ルーファスを知ってるんです。去年の夏、世話するのを手伝ったんだけど、誰かがさらってったみたいなの。男の人が車に乗せてったから。長い黒い髪の、ひどいやつなんだ」バーニーはためらった。「あの、もしお知り合いなら、話はべつなんだけど――」
ひげの男はじっくりとバーニーを見た。「いや」とゆっくり、かんでふくめるように答えた。「君の言うような人はしらん。だが。君がルーファスを知っとるのは事実らしいな。その髪の毛から察《さっ》するに、メリマンの末の甥っ子かな? 去年、うちを借りた子たちのひとりじゃろ? 見つけ物のうまい子たちの」
「そうだよ」バーニーにっこりした。「ぼく、バーナバス。バーニーっていうの」だが、トムズ船長の態度にはどこかおかしなところがあった。まるで、同時にほかの人とも話をしているみたいなのだ。老人はバーニーを見てさえいなかった。水面をぼんやり眺めながら、何も見ておらず、自分の考えごとにうずもれているようだった。
バーニーはふいにウィルのことを思い出した。振り返ると――驚いたことに、ウィルもまた、すぐそばにいて虚ろな目で空を見つめ、何かを聞いているかのように無表情だった。誰も彼も、どうしてしまったというのだろう? 「こちらはウィル・スタントン」バーニーは大声でトムズ船長に言った。
ひげの顔は表情を変えなかった。「ああ」と静かに言い、それから頭を振って、目がさめたようだった。「黒髪の男と言ったっけな?」
「絵を描いてた人だよ。すごく怒りっぽいの。どういう人か知らないんだけど、そいつがルーファスそっくりの犬を連れてくのをウィルが見たんだ――それに、お宅のまん前だったから――」
「調べてもらうよ」トムズ船長は安心させるように言った。「ともあれ、おはいり、おはいり、ふたりとも、バーナバス、お友達に灰色荘を案内しておあげ、鍵《かぎ》を見つけなくては……今まで庭仕事をしとったんじゃよ……」とポケットの中をさぐり、ステッキにもたれていないほうの腕で上着をはたいてたが効果《こうか》はなかった。と思うまに、三人は玄関にたどり着いていた。
「ドアがあいてる!」ウィルが鋭い声を発した。歯切れのいい、数分前に間の抜けたたわごとを言っていた時とはまるで違う声だったので、バーニーは目をみはった。
トムズ船長は半ばあいていたドアをステッキで押しあけ、のっしのっしと中に歩み入った。「ルーファスを連れ出せたわけじゃ。わしが裏にいる間に表のドアをあけたんじゃよ……まだ鍵が見つからんな」そう言うと、再びポケットの中をさぐり回し始めた。
あとについて中にはいったバーニーは、何かが足もとでカサコソいうのを感じた。身をかがめてみると一枚の白い紙だった。「落し物を忘れてま――」言葉が途切れた。文面はとても短く、大きな文字で書かれていた。ひと目で内容を読みとったのも無理からぬことだった。船長のほうに差し出したが、紙切れを取り上げたのはウィル、人が変わったようにきびきびしているウィルだった。ウィルと老人は立ったまま、若い頭と老いた頭、茶色の頭と灰色の頭を寄せて紙を見つめた。
文面は、新聞から切り抜かれててきれいに貼《は》り合わされた太く黒い文字から成っていた。こういう内容だった。「犬をぶじに返してほしければ、みどりの妖婆には近づくな」
第3章 祭りの夜
夕焼け空の下、海はガラスのようになめらかだった。皮膚《ひふ》の下の筋肉《きんにく》の様に波打つ大西洋からのゆったりした大うねりだけが、この静かな宵《よい》に大海の目に見えない巨大な力を示す唯一のものだった。漁船団は静かに船出して行った。魚の尾びれ形の、幅広の航跡《こうせき》がそれぞれのあとに拡がった。動かぬ空気の中を、柔らかいエンジン音が通り抜けていく。ジェーンはケメア岬の突端《とったん》、海面まで二百フィートもむき出しになっている切り立った花崗岩《かこうがん》の壁の頂に立って船出を見守っていた。その位置からだと、おもちゃの船のように見えた。はてしのない年月の間、毎年、毎月、毎週、夕暮れ前にニシンやサバを追って船出し、明け方まで追いつづけるまばらな漁船団。年ごとに船数は減っていったが、それでも毎年、彼らは船出するのだった。
太陽が地平線に落ちた。ポッテリした輝く球となって、なめらかな海一帯に黄色い光を投げかけて、最後の一艘が、エンジンの音をジェーンの耳にかすれた心臓の鼓動《こどう》のように響《ひび》かせて、トリウィシックの波止場を忍び出て行った。航跡から拡がるさざなみの最後のなごりが波止場の岸壁を洗うと同時に、さっと一気に巨大な太陽が水平線の下に沈み、四月の宵の残光がゆっくりと死に絶え出した。とたんに微風が吹き始めた。ジェーンは身震《ぶる》いし、上着の前をしっかり重ね合わせた。夕暮れ迫《せま》る外気は急に冷え込み出した。
吹き始めたそよ風に応《こた》えるかのように、トリウィシック湾《わん》の向こう、ケメア岬と向かい合った岬に星のような光が灯った。と同時に、ジェーンの背後がだしぬけに温かくなった。パッと振り返ると、丈《たけ》の高い炎を背にした黒い人影がいくつも見えた。このひと晩の篝火《かがりび》となるために積み置かれていた流木や枝のうず高い山に、火がつけられたのだ。ふたつの篝火は漁船が戻って来るまで絶やされず、炎は明け方まで夜を徹《てっ》して燃え続けるのだと、ペンハローおばさんが言っていた。
ペンハローおばさん。ここにも謎がある。ジェーンは再び、その日の午後、サイモンを待ちながら居間でひとり雑誌をパラパラめくっていた時のことを思い出した。ばつの悪そうな咳《せき》ばらいが聞えたと思うと、台所の戸口にペンハローおばさんが立っていたのだ。丸ぽちゃでバラ色の頬《ほお》をして、いつになく落ち着かなげに。
「嬢《じょう》ちゃん、今夜、作りに来たいんなら、来てもいいんよ」おばさんは何の前触《ぶ》れもなく言った。
ジェーンは目をパチクリさせた。「作りに?」
「みどりの妖婆作りさね」おばさんのコーンウォールなまりの唄《うた》うような調子が、いつにもまして耳についた。「ひと晩まるまるかかるっし、普通はよそもんはそばへ来させんけど、嬢ちゃんが来たいんなら……先生とつながってるおなごは嬢ちゃんひとりだけん……」おばさんは言葉を捕《とら》えるかのように手を振った。「おなご衆《しゅう》もみんな、構わんちゅうてくれたんよ。よけりゃ、連れてったげるっけん」
「どうもありがとう」ジェーンはとまどいながらも喜んだ。「あの……スタントンのおばさまも誘《さそ》っていい?」
「いけん」おばさんは言下にはねつけた。ジェーンが眉を吊《つ》り上げたので、口調を和《やわ》らげて言い添《そ》えた。「あのお人は、外人さんだけんね。ふさわしゅうないんよ」
岬の上で火を眺めながら、ジェーンはその時の口調が、反ぱくを許さぬ断固《だんこ》たるものだったのを思い出した。その言葉をそのまま受け容《い》れ、フラン・スタントンに事情を説明しようもとせずに、夕食のあと、ペンハローおばさんと岬にやって来たのである。
にもかかわらず、これから何が起きるのかはいっさい聞かされていなかった。みどりの妖婆と呼ばれる物がどんな形なのか、どうやって作られるのか、どう扱われるのか、誰も教えてはくれなかった。ただ、ひと晩じゅうかかり、漁師たちの帰還《きかん》とともに終わるとうことだけを知っていた。ジェーンは再び身震いした。夜になるのだ。コーンウォールの夜はあまり好きでなかった。未知のものを多く秘めていすぎる。
黒い影が周囲の岩の上を走り、炎が上がるに連れて踊ったり消えたりした。本能的に人のそばにいるとを求め、ジェーンは篝火《かがりび》のまわりの明るい光の輪の中に進み出た。だがそこでもまたドキッとさせられた。そこから見ると、他の人影は暗闇の縁を行き来しているのでジェーンの目には見えず、急に自分が無防備《むぼうび》に感じられ出したのだ。ジェーンははりつめた空気に怯《おび》えてためらった。
「おいで、嬢《じょう》ちゃん」ペンハローおばさんのやさしい声がそばでした。「こっちおいで」かすかに切迫《せっぱく》した調子を帯《お》びていた。おばさんはジェーンの腕をつかむと脇へ連れて行った。「作り始める時間だけん、なるったけ、じゃまにならんようにね」
そう言うと再び行ってしまい、ジェーンは、何かよく見えない物を扱うのに忙しい女たちのそばにひとり残された。岩を見つけて腰をおろし、火に暖められながら、ジェーンは見物した。何十人もの女がいた。年齢もさまざまで、娘たちはジーパンとセーター姿、そのほかはオーバーほども長い丈夫な布地の黒っぽいスカート、それに重たげな長靴《ぐつ》をはいている。ひとひとつが人間の頭ほどもある石が、山と積まれているのが見えた。それよりさらに高く積み上げられているのはみどりの枝だった――サンザシだわ、とジェーンは思った――火にくべるにしては葉がつきすぎているが、使い途《みち》はわからなかった。
そのうち、ひとりの背の高い女が他の者の前に進み出、片腕を高くかかげた。女がジェーンには理解できない言葉をかけると、女たちはすぐに小《こ》人数ずつ固まって、妙に手際《てぎわ》よく仕事を始めた。ひとりが枝を一本取り上げ、葉や小枝をむしり取り、枝を一本取り上げ、葉や小枝をむしり取り、しなやかさを試す。別の者がその枝を受け取り、すばやい慣れた手つきで他の枝と合わせ編《あ》み上げる、といった具合で、やがてのろのろとではあるが、一種の枠《わく》が形を表わし始めた。
しばらくすると、枠は大きな円筒《とう》になりそうな様子を見せた。枝をきれいにし、結び合わせる作業は延々《えんえん》と続いた。ジェーンは落ち着きもなくもぞもぞ体を動かした。枝のうちあるのについている葉は、サンザシとは形が異なっているように見えたが、何の葉であるか見極《きわ》めるには離れていすぎた。だがジェーンは移動するつもりはなかった。ぶじでいられるのはここだけ、この岩の上で人目を避《さ》け、気づかれずに遠くから見ている限りにおいてなのだ、という気がした。
気づくと、傍《かたわ》らに女たちの頭《かしら》らしいあの背の高い女がいた。きらきらする目が、あごで結んだスカーフに縁取られた細い顔の中からジェーンを見おろしている。「ジェーン・ドルーだね」女は妙にぎすぎすしたコーンウォールなまりで言った。「聖杯を見つけた子らのひとりだ」
ジェーンはとびあがった。聖杯のことを頭から完全に消し去ったことは一度ととしてなかったのだが、この不思議な儀式と結びつけてみたこともなかったのだ。だが女はそれきり、聖杯には触れなかった。
「みどりの妖婆に心するんだよ」女は普通のおしゃべりでもしているように言った。あいさつか何かのようにジェーンには聞えた。
空はもはや黒に近く、縁のほうがかすかに昼の光を残して輝いているだけだった。ふたつの篝火は岬の上であかあかと燃えている。ジェーンは、淋《さび》しい暗闇の中でやっと得られた話し相手にしがみつく思いで、慌ててたずねた。「あの枝で何をしてるんですか?」
「ハシバミは骨組み」と女は言った。「ナナカマドは頭。それから体はサンザシの枝とサンザシの花。中には石を入れるんだよ。沈むようにね。悩みのある者、子のない者、何か願い事のある者は、このあとみどりの妖婆が崖《がけ》っぷちに移される前に、手でさわることになっている」
「まあ」
『みどりの妖婆に心するんだね」女は再び愛想《あいそ》よく言って離れて行った。と、肩越しに振り返って「よかったら、あんたも願い事をしていいよ。ちょうどいい時に、あたしが呼んであげよう」
残されたジェーンはどういうことだろうと頭をひねり、神経《しんけい》を尖らせるばかりだった。女たちはますます忙《いそが》し気《げ》に手を動かし続け、風変わりな言葉のないふしをくちずさんでいた。円筒の形が、編み目が細かくされたため鮮明《せんめい》になった。石蟹運ばれて来て中に入れられた。頭が形造《づく》られ始めた。長く、角張り、目鼻のない巨大な頭だ。骨組みができると、白い花を星のように散らしたみどりの枝が編み込まれ始めた。サンザシの甘ったるい香りがジェーンにも嗅《か》ぎとれた。なぜか、海を思い出させられた。
何時間もが過ぎ去った。岩のそばに丸くなってウトウトした時もあったが、目をさましてもそのつど、骨組には何の変化もないように見えた。編み込みの作業は果てしなく感じられた。ペンハローおばさんが二度、魔法壜から熱《あつ》い紅茶を淹《い》れて持ってきてくれて、案じ顔で言ったものだった。「もう沢山だと思ったら、言うんよ。すぐ連れて帰ったげるけん」
「平気よ」ジェーンは、休みなく働く人々に取り巻かれた大きな木の葉の人形《ひとがた》を見つめたまま言った。みどりの妖婆を好きではなかった。こわかったのだ。その幅広のずんぐりした形には、何か心をおびやかすようなものがあった。にもかかわらず、見る者を魅《ひ》きつける。ジェーンはそれから目を離すことができなかった。それ。今まではいつも、魔女は全て女だと思っていたのに、みどりの妖婆の中には、彼女と呼べる要素はまるで感じられなかった。岩や木と同様、分類は不可能だった。
たきぎがまめにくべられている篝火は、まだ燃え続けている。冷えびえとした夜にそのぬくもりはありがたかった。硬《こわ》ばった脚《あし》を伸《の》ばすためにその場を少し離れたジェーンは、本土寄りの空にかすかな灰色の光が射《さ》しているのを見つけた。じきに朝が来る。もやがかかった朝だろう。細かい水滴《てき》が早くも顔にかかった。明けゆく空を背に、トリウィシックの古代遺跡《いせき》である巨大な石が見えた。石は五本あり、ケメア岬を半《なか》ば行ったところに、空をさす太古の指のように屹立《きつりつ》している。ジェーンは思った。みどりの妖婆はあれに似ているんだわ、あの石柱《いしばしら》を思い出させるんだわ、と。
再び海のほうを向くと、みどりの妖婆ができあがっていた。女たちは大きな人形から離れ、火のそばに座《すわ》ってサンドウィッチを食べ、笑い、紅茶を飲んでいた。木の葉や枝で作られた巨大な像を見ているジェーンには、女たちの陽気さが理解できなかった。この黙りこくった像が、未だかつて何ものについても感じたことのない膨大《ぼうだい》な力を内に秘めているのを、肌《はだ》寒い夜明けに佇《たたず》むジェーンはふいに悟《さと》ったのだった。像の中には雷鳴と嵐と地震、大地と海のあらゆる力がある。<時>の外に存在し、境界も年齢も知らず、善悪を分ける線のおよばぬところにいるのだ。ジェーンは震えあがって像を見つめた。すると視力のない頭部から、みどりの妖婆も見つめ返した。動いたり、生きているように見えたりすることはないとわかっていた。ジェーンが震えあがったのは恐怖からではなく、像から感じられた、耐《た》え難く果てしない孤独感のためだった。大いなる力は大いなる孤立のもとにのみ保《たも》たれる。みどりの妖婆を見るジェーンの胸に、恐るべき畏怖《いふ》の念と共に、一種の憐《あわれ》みが浮かんで来た。
だが、人間の頭では考えられないほどの力への驚きから発する畏怖の念のほうが、ほかのどの感情よりも強かった。
「じゃ、あんたも感じるんだね」女たちの頭がそばに来ていた。ぎすぎすしたそっけない口調は問いかけではなかった。「感じられる女が何人かいる。子供もね。ごくわずかだけど。あそこにいる連中の中にゃ、ひとりだっていやしないがね」女は陽気な一団を軽蔑《けいべつ》したような身振りで示した。「けど、聖杯を手で持ったことのある人間には、いろんなことが感じとれるようになるものさ……おいで。願い事をするんだよ」
「いいです」ジェーンは本能的に身を引いた。
ちょうどその時、若い女が四人固まって一団を離れ、大きな影のような木の葉の像に駆け寄った。笑いに身を震わせ、互いの名を呼び合っている。中でも騒々《そうぞう》しいひとりがとびついて、頭上高くそびえるサンザシの胴《どう》を抱《だ》きしめた。
「あたしらに金持ちの亭主をおくれね。みどりの妖婆よ、頼んだよ!」
「さもなきゃ、若い衆のジム・トリゴーニィがいいとさ!」別な娘がどなった。キャアキャア笑い転げながら、四人は描け戻ってきた。
「そらね!」女は言った。「間抜けな連中がほとんどだけど、あの子らだって害は受けない。わけのわかっているあんたはなおのこと。来ないかね?」
女は黙りこくった大きな像に歩み寄り、片手を置いて、何か聞きとれないことを言った。
ジェーンはおずおず従った。みどりの妖婆に近づくと、再びそれが体現している想像もつかぬ力を感じた。だが、同時にあの測《はか》り知れぬ孤独感をも感じとった。愁《うれ》いがもやのようにその周りにたゆっているように思えた。手を出してサンザシの枝をつかむと、ジェーンはためらった。「かわいそうに」思わず口をついて出た。「あなたが幸せになれますように」
言いながら思った。なんて赤ん坊じみたことを言ったのかしら。どんな願いでも言えたのに。聖杯を取り戻せるよう願うことだって……くだらない迷信だとしたって、言ってみることはできたのに……。だが、きつい目をしたコーンウォール女は、感心したような妙な目つきでジェーンを見ていた。
「危険《きけん》な願いだ!」女は言った。「害のないことで幸せを感じる者もいれば、人を傷つけなけりゃ幸せになれないものもいるんだからね。けど、これが幸いしないとも限らないよ」
ジェーンは何と言っていいかわからなかった。ふいにひどく馬鹿げたことをした気分になった。
その時、海の彼方《かなた》でかすかなポンポンという音が聞えたようだった。ばっと振り向くと、女もまた海のほう、それまでは見えなかったひとすじの灰色の水平線を見つめていた。暗い海上には灯火《とうか》が白や赤やみどりにチラチラしていた。漁師たちの先頭が帰ってきたのだった。
後になっても、そのあとの長い待ち時間のことはほとんど思い出せなかった。空気は冷たかった。のろのろ、じわじわと、漁船団は寒い夜明けの光にきらめく石の灰色の海の上を近づいて来た。そして、船がようやく桟橋《さんばし》に迫った時、村ははじかれたように息を吹き返した。突堤の上に明かりや人声がよみがえり、エンジンの咳払いが聞え、あたりはどなり声、笑い声、そして荷揚《にあ》げの騒音に満たされた。それらの全ての上空では、盗みを働きに早々と起きだしたカモメが弧《こ》を描き、金切り声を上げ、捨てられた魚をねらって漁船の周囲に大きな群れとなって旋回《せんかい》していた。ジェーンがあとまで最も良くおぼえていたのはカモメたちのそのさまだった。
波止場から――荷揚げが終わり、トラックが市場へ去り、箱類が小さな缶詰工場へと運ばれてしまった波止場から、漁師たちの行列が道を上がって来た。行列には工場の作業員や機械工や商店主や農夫など村中の男がいたが、長い人の群れを率いているのは、黒っぽいセーターを着て目を伏《ふ》せ、あごに無精《ぶしょう》ひげを生やし、疲れきり、魚の匂《にお》いをさせている漁師たちだった。岬に登って来ながら女たちに明るく声をかけている。暁《あかつき》の死んだような灰色の光のもと、眠りの失われた寒気の中で会うなんて、これほどロマンチックでない出会いもないわ、とジェーンは思った。にもかかわらず、全員がとてつもなく晴ればれとしていた。篝火はまだ燃えていた。残ったたきぎが新たにくべられて炎を上げている。男たちは火のまわりに集まり、手をこすり合わせた。彼らの低い声のざわめきは、夜通し続いた女たちの軽い話し声のあとなので、ジェーンには耳ざわりに感じられた。
空中のカモメたちは迷いつつも望みを失わずに舞い上がったりおりたりしていた。全てのざわめきのなかに、みどりの妖婆は立ちつくしていた。そびえ立ち、黙《もだ》し、光と騒音によって少しかすまされてはいるが、陰《いん》うつで不気味《ぶきみ》であることに変わりはなかった。男女の間でさまざまな言葉がしゃがれ声で交《か》わされていたが、異様な木の葉の像に対しては奇妙な恭々《うやうや》しさが感じられた。明らかに、みどりの妖婆を冗談の種にするのはみな気が進まないのだ。ジェーンはその事実になぜかホッとしている自分に気づいた。
メリマンの背の高い姿がコーンウォール人の群れの端に見えたが、そばまで行こうともしなかった。今はただ待機《たいき》して、次に起きることを見届けるべき時だ。男たちが一団に固まりつつあり、女たちが離れて行くように見えた。だしぬけにペンハローおばさんが傍らに現れた。
「さあ、おいで。どこへ行くか教えたげるっけん。お天道《てんと》さんが昇るっと一緒に、男衆がみどりの妖婆を崖の上にあげるんよ」ジェーンにほほえみかけたおばさんは、半ば真剣、半ばきまり悪げに弁解《べんかい》した。「縁起《えんぎ》かつぎなんよ。そら大漁と豊作を願うためさね。そういうことになっとるんよ……けど、離れとらんと、男衆が思いっきり走れんけん」さし招かれたジェーンはあとについてみどりの妖婆のそばを離れ、岬の片側に寄った。どういうことになっているのか、半分ほどしか理解していなかった。
男たちがどやどやとみどりの妖婆のまわりに集まった。何人かは大げさな身振りで手を触れ、笑いながら大声で願い事を言った。次第《しだい》に増す昼の光の中で初めて気づいたことがあった。木の葉で編まれたずんぐりした象は、板で出来た大きな盆のような台の上に立っており、台の四隅《すみ》には、動かないよう大きな石をがっちりかまされた重い車輪がついていたのだ。男たちが呼び交わし、歓声《かんせい》を上げながら石を車輪からはずすと、台が自由になるにつれて像がゆらぐのが見えた。みどりの妖婆はおとなの一倍半ほどの高さしかなかったが、その割に横幅《よこはば》が極めてあり、巨大な四角い頭も、幅の点では胴体とほとんど変わらなかった。人間を模《も》したようには見えなかった。別の星から、または地球の歴史の中でも想像もつかないほど遠い時点からやってきた恐ろしい未知の種族をひとりで代表しているようにジェーンには思えた。
「みんな、引っ張れ!」誰かの声がかかった。台の四方に綱《つな》を付け終えた男たちは、その周囲をめぐり、揺《ゆ》れる像を支え、安定を保ちながら、そろそろと岬の突端へ引いて行った。みどりの妖婆はゆるゆると進んだ。ジェーンはサンザシの甘ったるい香りを嗅《か》いだ。花は前にも増して鮮《あざ》やかに見え、妖婆の側面のみどりの枝は輝かんばかりだった。本土の方角、トリウィシックのはずれの荒野の上に陽《ひ》が昇り出したのだと悟った。黄色い光がまばゆく一同を照らした。人混みから歓声が上がり、みどりの像を乗せた台は崖の縁に散らばった岩のすぐそばまで進んだ。
突然、叫び声が、悲鳴のようにかん高く、一同の上に響き渡った。とびあがったジェーンが振り返ると、群集の端の方で何人かの人影がもみあっていた。男がひとり、人混みを突破しようとしているらしい。黒い頭と怒りにねじれた顔がちらりと見えたが、すぐに人々の体にふさがれてしまった。
「どうせまた、新聞の写真屋さね」ペンハローおばさんの感じのいい声に満足気な響きが加わった。「みどりの妖婆は写真に撮《と》っちゃならんのだけど、毎年ひとりかふたり、撮ろうとするのがおるんよ。たいていは若い衆が片づけてくれる」
どうやら、若い衆は今年の闖入者《ちんにゅうしゃ》をみごとに片づけているらしかった。男はもがきながらも、みるみる遠ざけられて行く。ジェーンはもう一度メリマンを捜《さが》したが、姿を消してしまったようだ。人々の声音《こわね》が変わったので、ジェーンの目はケメア岬の突端に引き戻された。
再び誰かの声が、今度は子供の頃からなじみ深い言葉を叫んだ。「位置について……用意……ドン!」今や、握《にぎ》られている綱は台車の後部と左右の三本だけで、それぞれに十二人ばかりとりついていた。最後の号令に群集はどよめき騒ぎ、男たちの列は斜め前方に走り出した。みどりの妖婆はその前を、のめりながらぐんぐん加速して走った。と、一瞬の複雑な動きによって台車は崖っ縁からとび出し、綱のおかげでかろうじて落下を免れた。
そして木で編まれたみどりの妖婆の巨大なみどりの像は、引き戻してくれる綱のないまま空中に投げ出され、ケメア岬の突端を越えて行った。一瞬そのまた一瞬、落下しながらも見えていた。鳴きながら旋回する白いカモメの間、青とみどりの中に。だがすぐに、体内の石の重量にひきずられ、まっさかさまに墜落《ついらく》して、見えなくなった。コーンウォールじゅうが息を詰めたかのように静まり返り、水音が聞えた。
岬からは歓声がどっと上がった。人々は綱の引き手たちがゆっくりと台車を引き上げている崖の縁に押し寄せた。崖下を一瞥すると、台車を引く男たちの列を囲み、声援を送りつつケメア岬をもと来たほうへ戻り出した。岩のあたりの人混みが薄くなると、ジェーンは突端までよじ昇り、慎重《しんちょう》に下をのぞいた。
下方では、何事も起きなかったかのように、海が悠々たる大波で崖のふもとを洗っていた。サンザシの小枝がほんの数本まばらに水に浮かび、ぷかりぷかりとうねりに合わせて上下しつつ漂《ただよ》っている。
急に目が回って、ジェーンは岩の上から陽気なトリウィシックの村人達のそばまで退却《たいきゃく》した。もはやサンザシの香りはなく、木を燃した煙と魚の臭いだけがあった。篝火は既に燃えつき、人々は三々五々、村へ戻り始めていた。
ジェーンは自分が見つかるより先に、ウィル・スタントンを見つけた。そばにいた数人の漁師が立ち去ったので見えたのだ。ウィルの輪郭《りんかく》は灰色の朝空にくっきり浮かんでいた。まっすぐ茶色の髪が肩までバサッとかかり、あごの突き出し方が一瞬、妙なことにメリマンをほうふつとさせた。バッキンガムシャーから来た少年は海を眺めていた。身じろぎもせず、何か個人的な物思いに一心不乱《ふらん》だった。それから頭をめぐらせてジェーンをまともに見た。
思いつめた表情から愛想のいいなごやかな微笑への変化があまりにもすばやかったので、ジェーンには不自然に思えた。あたしたちがあれだけ冷たくしたんだもの、顔を見るのがそんなに嬉しいはずはないわ、とジェーンは考えた。
ウィルがやって来た。「やあ。ひと晩じゅういたの? 面白かった?」
「すごく長かったのよ。面白い部分もあっちこっちにとんでてね。みどりの妖婆は――」ジェーンは言葉を途切らせた。
「作ってる時、どんなだった?」
「そうね。すてきで、ぞっとして――うまく言えないわ」常識的な昼の光の中では到底《とうてい》説明できないのがわかっていた。「サイモンやバーニーと一緒だったの?」
「ううん」ウィルはすいっと視線をはずした。「あのふたりはどっかへ消えちゃってた。きっと君の大伯父さんと一緒だろ」
「あなたを避けてるんだと思うわ」ジェーンは自分のバカ正直さに呆《あき》れた。「しかたないのよ。でもそう長いことじゃないと思うわ。あなたになじんでしまいさえすれば。実は、ほかのことでふたりとも頭が一杯《いっぱい》なの。あなたとは全く関係のないことで……」
「心配いらないよ」ウィルが言った。安心させるような笑顔がさっとジェーンに向けられたが、次の瞬間、視線は再びそらされていた。ジェーンは弁解は息の浪費《ろうひ》だという気がしてばつが悪くなった。ドルー兄弟の非礼など、ウィル・スタントンは全く意に介《かい》していないのではないか? 慌てたジェーンは、どうでもいいことを言ってその場をとりつくろおうとした。
「漁師さんやほかの人たちが波止場から上がって来たんでホッとしたわ。そこらじゅうにカモメがいて……ガメリーのことも見かけたんだけど、またどっかへ行っちゃったみたい。あなた、見なかった?」
ウィルは首を振り、くたびれた革上着のポケットに深々と両手を突っ込んだ。「ここへ来る機会を与えられるなんて、ぼくらは本当にツイてたね。普通は、観光客は締め出されることになってて大変らしい」
ジェーンも思い出した。「新聞社のカメラマンがひとりいたわ。みどりの妖婆を崖っ縁に運んでた時、そばまで行こうとしたの。男の子たちがおおぜいでひきずり出したのよ。ものすごくわめきちらしてたっけ」
「黒い髪の男じゃなかった? 長髪で」
「ええ、そう言えば。確かそうだったと思うけど」ジェーンはウィルをまじまじと見た。
「ははあ」ウィルの気の好よさそうな丸顔が再び無表情になった。「それ、メリマンを見かける前、それともあと?」
「あとよ」ジェーンは何のことかわからなかった。
「ははあ」ウィルは再び言った。
「おーい、ジェーン!」バーニーが息をはずませ、大きすぎる長靴をブカブカさせて駆け上がって来た。サイモンがそのあとに続いている。「何やったと思う? ペンハローおじさんに会ったんだよ。『白ヒース号』に乗っけてくれたんで、荷揚げを手伝って――」
「うえっ!」ジェーンはあとずさりした。「手伝ったのは確かね!」兄と弟の魚のウロコだらけのセーターに顔をしかめながら、ジェーンはウィルを振り返った。
だがそこにはいなかった。あたりを見回してもどこにも見えない。
「どこへ行ったのかしら?」
サイモンが言った。「誰のことだい?」
「ウィル・スタントンがいたんだけど、消えちゃったわ。見なかったの?」
「ぼくらが怖くて逃げたんだろ」
「もっと親切にしてやんなきゃ、いけないんじゃない?」バーニーが言った。
「ああ、よし、よし」サイモンが甘《あま》やかすように言った。「機嫌《きげん》を取ってやるさ。山登りか何かに連れてってやるとしよう。それより、ジェーン、みどりの妖婆のことを話してくれよ」
だがジェーンは聞いていなかった。「おかしなこともあるものね」とゆっくり言った。「ウィルがいなくなったことを言ってるんじゃないの。あたしと話してた時に言ったことなのよ。あの子、ガメリーと知り合ってまだやっと三日だし、割と礼儀正しいほうでしょ? なのに、たった今、ガメリーのことを話してた時にね――ほら、考えずにしゃべるとうっかり口をすべらすことがあるでしょ。ちょうどああで――ガメリーのことをいつものように『君の大伯父さん』とか『リオン先生』とか呼ぶ代わりに、『メリマン』って呼んだのよ。まるで同い年みたいに」
第4章 妖婆《ようば》の宝
その日一日の奇妙な出来事は、空に端《たん》を発した。ドルー兄弟がケメア岬に沿《そ》って波止場まで歩いて戻るうちにも、太陽は次第に前方の空高く昇って行ったのだが、にもかかわらず少しのぬくもりも与えてくれはしなかった。陽が昇るにつれて、濃《こ》いもやがどんどん拡《ひろ》がり出したからだった。ほどなく、もやは空全体をおおった。太陽は、けばだったオレンジのような、なじみ深いと同時に異様な姿で天にかかっていた。
その事実をジェーンに指摘されたサイモンは、「春霞《はるがすみ》だよ」と言った。「いい日になるさ」
「そうかしら」ジェーンは疑わしげだった。「あたしには変に思えるわ。何か危険信号みたい……」
別荘で、眠そうなペンハローおばさんの出してくれたたっぷりの朝食を食べ終えた頃には、もやは一段と濃くなっていた。
「蒸発《じょうはつ》しちまうさ」サイモンが言った。「陽がもっと高くなれば」
「メリー大伯父さんが帰って来てくれるといいのに」とジェーン。
「心配するのはよせよ。ウィル・スタントンだってまだなんだぜ。ふたりとも、ペンハローおじさんか誰かとおしゃべりでもしてるのさ。けさのおまえはどうかしてるよ」
「昼寝したいんだろ」バーニーが言った。「かわいそうなお嬢ちゃんは睡眠不足なんだよ」
「かわいそう、とは何よ」と言ったジェーンだったが、すさまじいあくびが思わず出てしまった。
「ほらね」とバーニー。
「言う通りみたいね」ジェーンはおとなしく認めると、自分の部屋へ行って、一時間後に起こしてくれるよう目覚まし時計をセットした。
やがて頭を貫いた鋭いベルの音は、ジェーンを起こしたのはいいがすっかり混乱させてしまった。カーテンがあけてあるというのに、室内はまっくらに近かった。一瞬、夜が明けないうちに目をさましちゃったんだわ、と思ったが、そのうちに、朝まだきの海へと落下していくみどりの妖婆の姿が意識に流れ込んできたので、ぎょっとしてベッドからとびおりた。外の空は重い黒雲にびっしりうずめられていた。そんな空は見たことがなかった。光は、陽が昇らなかったのでは、と思わせるほどわずかだった。
階下ではサイモンとバーニーが、ふたりぼっちで不安気に空を眺めていた。スタントン夫妻が朝早くトリウィシックを発って、陶土採取場めぐりの一泊旅行に出たことはジェーンも知っていた。ペンハローおばさんは、兄たちによると、ベッドに退散したらしい。そしてメリマンとウィルはまだ姿も見せていなかった。
「ガメリーったら、いったい何をしてるのかしら? 何かあったに違いないわ!」
「だからって、どうしようもないよ。待つしか」サイモンも今や意気消沈していた。「そりゃ、捜しには行けるけど、どこから手をつければいいんだ?」
「灰色荘からだよ」バーニーがふいに言った。
「いい考えだ。行こうぜ、ジェーン」
「そいつは画家になりすましているらしいんだ」とウィルがメリマンに言ったのは、ふたりが陽気な毛ラビとたちの最後の数人のあとから、ケメア岬に沿って、本土に戻って来る途中だった。「色の黒いやつで中背、黒い髪を伸ばしてる。絵の才能は本物だけど、かなり悪趣味《あくしゅみ》なんだって。芝居《しばい》としちゃひねってるね」
「意図的《いとてき》に悪趣味にしたのではなかろう」メリマンが仏頂面《ぶっちょうづら》で言った。「<闇>の大君《おおきみ》たちにさえ、真の性質が仮面を彩《いろど》るのを抑えることはできぬ」
「大君たちのひとりだと思うの?」
「いや。まずそうではあるまい。ともかく、話を終えてくれ」
「もう子供たちとは接触《せっしょく》したよ。バーニーとね。おまけに身代わりを手に入れられちゃった――バーニーが描いた波止場の絵を盗んだんだ」
メリマンは歯の間からスーッと息を吸い込んだ。「あの絵には使い途《みち》を用意していたのに。我らが友人にはずいぶん先回りをされてしまったな。そこまでやれるとは思っていなかった。<闇>を過小評価《かしょうひょうか》してはならぬぞ、ウィル。私も今回はその寸前まで行ってしまったが」
「それにね、トムズ船長の犬のルーファスをさらわれたんだ。みどりの妖婆に近づいたら犬は死ぬことになるって手紙を船長に残してった――バーニーの目にもはいるようにしてね。うまい脅迫《きょうはく》だよ。船長がそれをおしてケメア岬に出かけていたとしたら、バーニーは船長のことを人殺し同様に思っただろう……もちろん、<闇>のほうでも、脅迫によって遠ざけておけるのは<古老>のうちひとりだけだってわかってたはずだけど、それだけでも仕事が楽になったのかもしれない……けど、ルーファスは本当にすばらしい犬だねえ」一瞬、ウィルの声は年齢知らずの<古老>のそれではなく、生き生きとした小さな男の子の声になった。
メリマンのごつごつした暗い案じ顔が、くつろいで小さな微笑を浮かべた。「去年の夏の聖杯奪取戦《せいはいだっしゅせん》には、ルーファスも独自《どくじ》の役割をつとめてくれた。普通の人間と意志を通わせる才能の点では、ほとんどの四つ足動物をしのいでいる」
草深い岬のはずれまで来ると、村人の大部分は曲がって、船つき場や中央通りへと続く坂を下って行った。メリマンはウィルをそのまま一直線に、波止場を見おろす上の道へと導いた。立ち止まって、疲れ果てた<妖婆>の作り手数人をやりすごしてから、ふたりは道を横切って、丘の家並みのどれよりも背が高く、灰色に塗られた間口の狭い家にたどり着いた。メリマンが玄関ドアをあけ、ふたりは中にはいった。
長い廊下《ろうか》が早朝の光の中にぼうっと伸びていた。右側の開いた戸口から、トムズ船長が「ここだよ」と言った。
本棚や肱掛椅子や帆船《はんせん》の絵のある横長の部屋で、船長は皮張《かわば》りの肱掛椅子にかけ、右脚をまっすぐ突き出していた。包帯《ほうたい》の上からじゅうたん地のスリッパをはいた右足は、詰物をした革の足台に乗せられていた。「痛風《つうふう》じゃよ」トムズ船長は申し訳なさそうにウィルに言った。「思い出したようにぶり返しよる。若い頃に悪さをした証拠《しょうこ》だと人は言うがな。わしを動けなくするって点では、<闇>の誰かさんに負けず劣《おと》らず効果的じゃよ――わしらの相手に少しでも先見《せんけん》の明《めい》があれば、かわいそうなルーファスをひっさらう必要なんかなかったのに」
「どうやら、その才能は持ち合わせていないらしい」メリマンはかすかな安堵《あんど》の吐息《といき》と共に、長いすに大の字になった。「明らかに暗いの高いやつなのに、先見の明がないのはどうもわからぬ。持ち合わせてはいるが、働かすのは危険だとでも思っておるのかな? ともかく、聖杯を盗んだこと、子供たち、殊《こと》にバーニーと接触を計ったこと――全て、同じ方向を指しておる」
トムズ船長は考え深げに灰色のあごひげに指を一本走らせた。「あの子に聖杯をのぞかせて、未来を読みとってもらう肚《はら》だと思うのか?……水晶占《すいしょううらない》いの古い形で……まあ、ありうることじゃ」
「いずれにせよ、バーニーから目を離さぬようにせねば」
「ぼくがつきまとうよ。ものすごくいやがられるだろうな」ウィルは落ち着きなく室内を歩き回り、絵画を見つめたが、見てはいなかった。「だけど<闇>はどこにいるんだろう? あの男はどこなんだろう? 遠くにはいないって気がするんだ」
「わしもそんな気がしとった」トムズ船長が肘掛椅子から静かに言った。「かなり近いところにいる。けさ、日の出の直後に、やつがうちの前を急ぎ足で通るのを感じたんじゃ。それ以来、近くにいるといいうかすかな気配《けはい》が漂っとる」
「みどりの妖婆が投げ込まれる前にそばまで行こうとしていた時だな」メリマンが言った。「失敗に終わったのは幸運だった。あれが反応していたかもしれぬ。漁師たちがこっちの方へ追い払った――みんな、たいそう憤慨して、かなり手荒《てあら》だったな……村にはいってからも、みんながやつを放してるところまでは尾《つ》けて行ったのだが、そのあとは影に身を包んでしまわれて、見失ってしまった。だが、君たちの言う通り、やつは近くにいる。悪意が感じとれる」
唐突にウィルが歩き回るのを止め、獲物《えもの》を指し示す犬のように体を硬ばらせた。メリマンりは慌てて長い脚を長椅子からおろし、立ち上がった。「どうした?」
「何か感じない? 聞こえない?」
「聞こえたようじゃ。ウィルの言う通りじゃ」トムズ船長が杖に体をあずけてヒョコヒョコとドアに歩み寄った。「出てみよう、早く」
ホールを横切る間にも犬の吠え声は高まり、三人が灰色荘の段々に立つと、声はますます大きくなり近づいて来た。自由を要求している犬の狂ったような必死の叫びだった。頭上の空は鉛色《なまりいろ》になり、昼の光は暗く澱《よど》んでいた。坂を下った波止場や突堤が始まるあたりから、村からの道に沿って赤いスピードの塊《かたまり》が一目散に三人めがけてすっとんで来る。そのあとを黒っぽい人影が迫って来る。
ウィルがぎょっとしたように声を上げた。「見て――子供たちが!」
波止場からの道に沿った船つき場の上にいたサイモンとジェーンとバーニーが興奮して走り出すのが見えた。まだルーファスの姿を見てはいないのだが、吠え声に霧中で反応しているのだ。「ルーファス!」バーニーが大喜びで叫んでいる「ルーファス!」
<古老>たちは立ったまま、待ち構えた。
ルーファスが嬉しそうに子供たちのほうに角を曲がると同時に、黒髪の男が片手を上げるのが見えた。犬は空中で凍りつき、金縛《かなしば》りのまま、丸太のように子供たちの前に落ちた。
サイモンはバランスをくずしたが、よけるには遅すぎ、なすすべなくルーフぁすにつまずいて勢いよく地べたに転がった。そのまま起きなかった。危うく立ち止まったジェーンとバーニーは呆然《ぼうぜん》となった。黒髪の男が近づき、歩みを止め、片手を上げてバーニーのほうに突き出した――
見たのはサイモンだけだった。丘のほうに顔を向けて地べたに横たわったまま、倒れたときに自分を呑み込んだ一瞬の黒い失神状態から漂い出た祭文は、かすむ目をしばたたいてあけた。そして見た。あいは見たと思った。まばゆく白い光輝《こうき》に包まれた輝く三つの人影を。それらはそびえ立ち、どんどん大きくなり、あまりのまばゆさに目がくらんだ。膨れつつ彼のほうに近づいて来るようで、痛いほどの光にサイモンは目を閉じてしまった。頭の中はまだわーん《・・・》と鳴っていて、失神状態を完全に脱しきっていなかった。後には、全て想像の産物だった、頭を打って錯乱《さくらん》したのだ、と自分に言い聞かすことができるようになったが、一瞬のうちに自分を襲った圧倒されるほどの畏怖の念は、後になっても記憶から完全に消え去ることはなかった。
ジェーンとバーニーのほうは動きを止めたまま、すぐそばまで迫っている男を怯えて見つめていたため、ふいにその形相《ぎょうそう》がすさまじく変わり、何か目に見えぬ力にはじきとばされて彼らとは反対の方向へよろめき、反転するのを見ただけだった。敵意《てきい》と怒《いか》りに歯をむきだし、男は熾烈《しれつ》な戦いを――無《・》を相手に闘っているように見えた。体は硬直したままで、戦闘は全て目の中、口の冷たい線の内に存在していた。黒髪の男が暗い空の灰色の光のもとで、恐ろしくねじれた格好で金縛りになっている間、子供たちは絶え難い思いで待ち続けねばならなかった。と、男の中の何かがぷつんと切れたのか、男はもはや彼らに一顧《こ》だに与えず、身を翻《ひるがえ》して走り去った。
ルーファスがキュウンと鳴きながら動いた。サイモンは身動きし、半身を起こした。手と膝《ひざ》をついて犬の上にかがみ込むと、おぼつかない手で頭をなでてやった。ルーファスはその手をなめ、生まれたての仔牛《こうし》のようにふらつく足でなんとか立った。
「ぼくもそんな気分だよ」サイモンは慎重に立ち上がった。
ジェーンがおっかなびっくり指でつついた。「兄さん、大丈夫?」
「かすり傷ひとつないよ」
「何が起きたの?」
「わからない。すごくまぶしい光があって……」思い出そうとしてサイモンは言葉を途切らせた。
「頭を打ったせいだよ」バーニーが言った。「あの男、兄さんは見なかったろ、あいつ、ぼくらにとびかかろうとしたんだよ。そしたら――よくわかんないけど、何かが止めたの。気味が悪かった」
「発作《ほっさ》でも起こしたみたいだったわ。ぞっとするような顔つきになって、体をひきつらせたと思うと、何もしないで逃げてったの」
「あの絵描きだったよ。ぼくの絵を盗ったやつさ」
「まあ、ほんと? そうだわ、ルーファスのこともさらったのよね。だから――」
だがバーニーは聞いていなかった。波止場脇の急な坂道の上のほうをじっと見ていた。「見てよ」と妙に抑揚のない声で言った。
バーニーにつられて見ると、灰色荘の方角から大股《おおまた》に下って来るのはメリマンだった。はだけた上着ははためき、両手はポケットの中、白い蓬髪《ほうはつ》は、あたり一帯に吹き始めていたそよ風に躍《おど》っていた。三人のところまで来ると、メリマンは「雨が降るのを立って待っていては、濡《ぬ》れてしまうぞ」と言った。
ジェーンはどうでも良さそうに、暗くなりつつある空を一瞥した。「たったいま起きたことを見なかったの?」
「少しは見た。サイモン、どこか痛めたかね?」
「大丈夫だよ」
バーニーはまだ混乱した表情でメリマンを見つめていた。「ガメリーだったんでしょ?」そっとたずねた。「ガメリーがあいつを止めてくれたんだ。どうやってかはしらないけど。あいつ、<闇>のひとりなんだね」
「これこれ、バーニー」メリマンはきびきびと言った。「それは推測としては規模が大きすぎる。おまえの感じの悪い友人がどこから来たか、そのようなことを思いめぐらすのはよそう――ただ、いなくなってくれたことを喜べばよい。そしてルーファスがぶじに戻ってくれたことをな」
赤犬はメリマンの手をなめ、羽根のような尾を夢中で振った。メリマンはその軟らかい耳をこすってやると、「家へお帰り」と言った。あとも見ずに、ルーファスは波止場脇の坂を上って行った。灰色荘の横の入り口に姿を消すのを、三人は黙って見守った。
バーニーが言った。「いいけどね、手伝わすためにぼくらを連れて来たんじゃなかったの?」
「バーニー!」ジェーンが言った。
「もう手伝ってくれている」メリマンが優《やさ》しく言った。「言っただろう、忍耐《にんたい》が肝心《かんじん》なのだ」
サイモンが「捜しに来たんだよ、ぼくたち。何かあったんじゃないかと思って」
「灰色荘でトムズ船長と話していただけだよ」
「ウィル・スタントンもみどりの妖婆の騒ぎ以来、戻って来ないのよ」
「たぶん、村を見物しているのだろう。私たちが家に着く頃には、ウィルも戻っていよう」メリマンは再び、迫り来る灰色の雲を見上げた。海の上の空からゴロゴロと尾を引く低い音がした。「行こう。帰るのだよ。嵐になる前に」
大伯父の大股な足どりに遅れないようおとなしく小走りになりながら、ジェーンがぽつんと言った。
「かわいそうなみどりの妖婆。海の中でひとりぼっちなんて。波がこなごなにしてないといいけど」
別荘への細い段々を駆け上がり、ドアにたどり着くと同時に、白い光が天を切り裂《さ》き、叩きつけるような轟音《ごうおん》が湾一帯に響き渡ってこだました。
その音をついて、メリマンが言った「しておらぬと思うがな」
ジェーンは再びケメア岬に立っていたが、今度はひとりで、しかも嵐が最高潮に達している時だった。夜とも昼ともつかなかった。空は見渡す限り灰色で、重く垂《た》れこめている。鋭い稲妻《いなずま》がその空を裂き、雷が唸り轟き、本土の荒野からこだまが返って来ていた。カモメが嵐の中でくるくる回り、金切り声を上げている。眼下では海が湧《わ》きかえり、波が荒れ狂って岩をかきむしっている。ジェーンは自分が風に身を任せ、崖から乗り出し――空中高くとび上がり、外へ、下へ、風を切って落ちて行くのを感じた。落ちる彼女の周りをカモメがめぐった。
胸の悪くなるような恐怖と共に、一種の無鉄砲《むてっぽう》な歓《よろこ》びが落下に伴《ともな》った。大波が渦《うず》巻いてジェーンを迎え、衝撃《しょうげき》も水音も、空中から水中に移ったという感覚すらなく、ジェーンはさらに落ちて行った。ゆっくりと、みどりの懐中、上空の嵐の狂乱が決して届かぬところを下へ下へと漂《ただよ》って行った。雄大な海のうねりの奥深い指に触れられた藻《も》がゆるやかに揺《ゆ》らぐほかは、何ひとつ動くものはない。と、前方に、みどりの妖婆が見えた。
大きな木の葉の像は、ごつごつした岩石群にもたれて直立していた。岩が守ってくれていた。みどりの妖婆は傷ひとつなく、ジェーンが前に見た時のままに、四角い非人間的な頭を巨大なずんぐりした胴の上に乗せていた。葉やサンザシの花々は、やさしく引っ張る水の中で藻のように拡がり、ゆらゆらと動いていた。小魚が頭の周囲をめぐっている。たまに時化《しけ》の大波が長い手を伸ばして引くと、像全体が拍子《ひょうし》をとるように前後に揺らいだ。
すると、ジェーンが見守るうちに、揺らぎ方が強くなった。嵐が海の深みまで届き始めたかのように。ジェーン地震、波の引きを感じることができ、抗《あらが》うと同時に従いながら、魚のように動いた。みどりの妖婆は揺れながら回り始め、次第に動きを速く大きくしていった。どの方向にもぐーんと引かれるようにのめるので、全体がひっくりかえって押し流されるに違いないと見えた。水中に暗い冷気を感じ、大いなる力におびやかされるのを感じとると同時に、みどりの妖婆の動きが変化するのを見てジェーンは、振るえ上がった。像の四肢《しし》がひとりでに動き、葉に包まれた頭部が顔のように波打ち動いた。と、冷気がすっと消え、海は再び沈んだ青とみどりに戻り、藻と魚がうねりの中で揺れているだけになった――だが今や、みどりの妖婆が生命を得たことがわかった。善でも悪でもなく、ただ生きて、ジェーンがずっと像を意識していたのと同様に、ジェーンを意識していた。
巨大な気の葉の頭がジェーンのほうを向き、声を出さずに語りかけてきた。心の中へ。
「宝物を持ってる」とみどりの妖婆は言った。
ジェーンは、そもそものはじめに岬の上で像から感じ採った孤独感を再び覚えた。その悲哀と哀《かな》しさを。だが、その奥で、みどりの妖婆が慰《なぐさ》めを求めて何かを抱《かか》え込んでいるのがわかった。おもちゃを手にした子供のように――違うのは、この子供が何百歳にもなっていて、際限《さいげん》なく更新《こうしん》される生の全てを通じて、それまでは一度もそのような慰めを得たことがなかったのだった。
「宝物を持ってる。宝物を持ってる」
「うらやましいわ」ジェーンは言った。
木の枝から成る生きた塔は、ジェーンのほうに身をかがめ、近寄った。「宝物、わたしのもの。わたしの、わたしの。でも見せてあげる。しゃべらないと約束すれば、約束すれば」
「約束するわ」
小枝や木の葉の腕飾《うでかざ》りを水に一斉《いっせい》に震わせながら、みどりの妖婆は横に動いた。動いて、もたれていた岩の間の浅い凹《くぼ》みを離れるにつれ、その中の暗がりに何かが見えた。鮮《あざ》やかに《が役小さな物で、岩の亀裂《きれつ》の中、白い砂の上に横たわっていた。小さな光る棒のようだった。奇妙な光を放っていることを除けば、とりたてて重要な品とも見えなかった。
おもちゃを見せてくれた小さな子供に言うように、ジェーンはみどりの妖婆に言った。「すてきだわ」
「わたしの宝。わたしが護る。誰にもさわらせない。しっかり護ってやる。いつまでも」
何の予告もなく、闇と冷気が再び水の上を渡って来て海底の世界全体にそそぎ込まれた。一瞬にして、みどりの妖婆はすっかり変わってしまった。敵意に満ち、怒り、おびやかすものとなって、ジェーンの前にそびえた。
「人に言う気だ! 人に言う気だ!」
葉に包まれた頭がくわっと裂《さ》け、怒りにねじれた顔のようになった。みどりの妖婆が押しとどめようもく前身するにつれ、枝におおわれた体は拡《ひろ》がり、ジェーンを捕えて包み込もうとした。ジェーンは怯えてあとずさりし、縮《ちぢ》こまった。海水はいきなり熱くなり、轟音に満たされて猛然《もうぜん》と迫って来た。「言わないわ! 約束する! 約束する! 約束するってば《・・・・・・・》……」
冷たい空気が顔にあたっていた。「ジェーン! 起きなさい!、 さ、ジェーン、起きるのだよ、もう済んだ、現実ではない……ジェーンや、起きなさい……」メリマンの低い声は穏やかではあったが一歩も譲《ゆず》らず、両手は力強く安心させるようにジェーンの肩に置かれていた。ジェーンは小さな寝室の中でガバッと置き上がり、大伯父の顔を見るや、汗ばんだ額《ひたい》をその腕にうずけてワッと泣き出した。
「話してごらん」メリマンがなだめた。
「だめ! 約束したの!」ますます涙が出た。
「さあ、いいかね」ジェーンが少し落ち着くと、メリマンは言った。「おまえは悪い夢を見たのだ。もう夢は終わったのだよ。妙にこもった叫び声がこの部屋から聞えたので、来てみたら、おまえは掛《か》けぶとんや何かの中にもぐり込んでしまっていた。あれでは暑くてたまらなかったろう。夢を見たのも不思議はない。さあ、話しておくれ」
「どうしよう」ジェーンはみじめになったが、話してしまった。
「ふうむ」話が終わるとメリマンは言った。その骨張ったいかつい顔は陰《かげ》になっていて、そからは何も読み取れなかった。
「怖かったわ。最後のところが」
「それはそうだろう。ゆうべの出来事は、おまえの想像力にはぜいたくすぎるごちそうだったようだな」
ジェーンは弱々しく少し笑って見せた。「夕食の時、アップルパイとチーズが出たわ。そのせいもあるみたい」
メリマンはふふっと笑って立ち上がった。低い天井のため、そびえ立っているように見えた。「もう平気か?」
「平気よ。ありがとう」だがメリマンが出て行きかけると、ジェーンは呼び止めた「ガメリー?」
「何だね?」
「あたし、今でもまだ、みどりの妖婆がかわいそうでならないの」
「その気持ちを失わぬことを願うよ」メリマンは謎めいた言い方をした。「今度は安眠するようにな」
ジェーンは平静を取り戻して横になり、窓にあたる雨音と、消え行く嵐の最後の雷鳴に耳を傾けた。ウトウトし始める直前に、一瞬、記憶がよみがえり、夢の中でみどりの妖婆が秘密にしていた、小さな光る物がなんだかわかったと思った。だが、その記憶をつかまえられる前に、眠り込んでしまった。
第5章 箱馬車
サイモンは枕《まくら》と掛ぶとんの間の小さいが居心地のいい洞窟にますますもぐり込んだ。「ムニャムニャ、ウーン、あっち行け」
「ねえってば、兄さん」バーニーはしつこくシーツを引っ張り続けた。「起きてよ。ものすごくいい天気なんだ、見てごらんよ。ゆうべの雨でどこもかしこもピッカピカだ。朝食前に波止場へおりて見ようよ。散歩にさ。まだ誰も起きてないんだ。ねえってば」
唸りながらサイモンは片目をあけ、しばたたいて窓を見た。済《す》んだ青空にはカモメが一羽、クルリと宙返りしたと思うと、翼を動かさずに下向きの弧を描いてのんびりと漂っていた。「やれやれ。いいよ」
波止場では何ひとつ動いてはいなかった。船はもやい場所にじっと浮かび、波ひとつない水面に映った帆柱の影もゆらりともしない。繕《つくろ》うために波止場の壁にかけてある網《あみ》からは、いかにも海辺らしいクレオソートの臭いがした。静けさを破るのは、村の斜面《しゃめん》の上のほうを走っているらしい牛乳配達のガチャガチャという遠い音だけだった。少年たちは雨水でまだらになった段々をバタバタとおり、狭い路地を抜けて海へ出た。顔にあたる陽射しは早くも暖かくなっていた。
手近な船を見ていると、村の雑種件がトコトコ歩み寄って来て、愛想よくふたりのかかとの臭いをかぎ、そのまま先へ行った。
「ルーファスも外に出てるかもしれないよ」バーニーが言った。「見に行こう」
「いいよ」サイモンは満足した気分で、静けさと日光と海の穏やかなざわめきにすっかりくつろいで、ぶらぶらと歩いて行った。
「ほら、いた!」
ひょろりとした赤犬は船つき場を横切ってとぶように駆けてきた。ふたりの周りをはね回りながら尾を振りたて、長いピンクの舌をだらりとさせ、白い歯をむきだして笑いかけた。
「バカ犬」サイモンは舌にびっちゃり《・・・・・》と手を包まれながら、愛情こめて言った。
バーニーはしゃがんで、重々しくルーファスの茶色い目をのぞき込んだ。「口がきけたらいいのになあ。どんなことを話してくれる? ねえ。<闇>の絵描きや、連れてかれた場所のことかい? ルーファス、どこだったんだい? どこにおまえのことを隠したの?」
セッター犬は一瞬じっとしてバーニーを見た。それから細長い頭を一方にかしげ、吠えるのと鳴くのとの中間の、問いかけのような声をたてた。回れ右をして船着き場に沿ってニ、三歩進むと、立ち止まってふたりを振り返った。バーニーはのろのろと立ち上がった。ルーファスはさらにニ、三歩走り、また振り向いて彼らを待った。
「どうしたんだろう」サイモンが見ながら言った。
「ぼくらに見せたがってるんだ!」バーニーは落ち着かげにとびはねた。「行こう、サイモン、早く! 絵描きの隠れ家を見せてくれるつもりなんだ、賭《か》けてもいい、そしたらガメリーに教えたげられるよ!」
ルーファスがクーンと問いかけた。
「いいのかなあ」サイモンは言った。「もう帰ったほうがいいと思うけど。誰もぼくらの居《い》場所を知らないんだし」
「うーん、行こうってば。早く。あいつの気が変わらないうちに」バーニー兄の腕をつかみ、引っ張りながら、既《すで》に自信ありげに船つき場を小走りに横切り出した細い赤犬のあとを追った。
ルーファスはふたりを従えて波止場を横断し、灰色荘や海から内陸へと続く満ちに回り込んだ。初めのうちは道も見慣れたものだった。兄弟が抜けて来たばかりの村の一番せせこましいあたりを通り、レースのカーテンの後ろでまだ眠っている静かな家々や、一、二軒の、名前だけは「個人ホテル」として大仰《おおぎょう》だが実はつつましやかな家の前を通りすぎた。そうするうちにトリウィシックをあとにして、陶土の出る場所の白い円錐《えんすい》やみどりのいけを取り囲みずっと内陸で荒野と出合う、生垣《いけがき》に縁《ふち》取られた農地に出た。
「これ以上遠くへはいけないぜ、バーニー。戻らなきゃ」サイモンは言った。
「もうちょっとだけ」
ふたりは、新たな葉に包まれた木々の春のみどり鮮《あざ》やかな、静まり返った道に沿って進みつづけた。サイモンはあたりを見回しながら、頭の隅に不安がちらつくのを覚えていた。何も妙なところはない。太陽は暖かく、タンポポは星のように華やかに草の上にちりばめられている。妙なことなどあるはずないではないか。だしぬけにルーファスが道をそれ、細い、みどり豊かな小路にはいった。角の道しるべには「ベントレス農場」とあった。》道の両側の木々は枝を上に差し伸べ、アーチ型に反《そ》らせて木の葉の屋根をつくつていた。日の光がさんさんとそそいでいるというのに、小道は影になり、涼しく、まだらな光がかすかに葉の間から洩《も》れて来るばかりだった。突如《とつじょ》、サイモンはとてつもない不安感に満たされて、石のように動かなくなった。
バーニーが肩越しに振り返った。「どうしたの?」
「はっきりは、わからないんだ」
「何か聞えたの?」
「いや。ただ……まるで前にも来たことがあるような……」サイモンは身震いした。「すごく変な感じだ」
バーニーはおどおどと兄を見た。「やっぱり、戻ったほうがいいのかな?」
サイモンは答えなかった。前方を凝視《ぎょうし》して、眉をひそめていた。小道の角を曲がって一瞬姿の見えなかったルーファスが、どういうわけかものすごく慌てて駆け戻って来るのだ。
「木の陰に、早く!」サイモンはバーニーの腕をつかみ、すぐあとに続く犬と共に、小道の縁までびっしり生えている木々や繁《しげ》みの間にすべり込んだ。足音をガサゴソさせないように注意深く木から木へ伝い歩いて、少しずつ、角を曲がった先の小道が見えるところまで進んだ。しゃべらず、ささやきも交わさなかった。生きすらほとんどせず、足もとではルーファスも死んだようにじっとうずくまっていた。
小道の先のほうは木々も密生してはおらず、木の葉のトンネルもできてはいなかった。その代わりに大木が点在し、潅木《かんぼく》が固まって生えている広い原っぱが見えた。そこを横切る小道は二本の深い轍《わだち》に仕切られた草深いすじに過ぎず、再び木々が密生しているところまでうねうねと続いていた。ペントレス農場への道を通う人は多くはなさそうだった。農家がある様子もない。代わりに、陽を浴《あ》びた原っぱの中、子供たちの正面に見えたのは、一台の箱馬車だった。
丈が高く、ピカピカで、美しかった。本物の古風なジプシーの箱馬車、絵でしか見たことのないものだった。木の幅《や》をつけた背の高い車輪の上から白い板壁が立ち上がり、ゆるやかに外側に傾斜して、円錐形の帽子をかぶった煙突を戴いた、木のかまぼこ屋根と出合っている。屋根と壁との間の隅は全て、鮮やかに塗られた唐草模様《からくさもよう》でうずめられていた。側壁《そくへき》にはきちんとカーテンの下がった四角い窓がはめこまれ、馬車の前部からは、そばで静かに草をはんでいる馬をつけるための轅《ながえ》が突き出ていた。後部には頑丈そうな六段ばしごがあり、唐草模様と遭うに飾り模様を描かれたドアへとつながっていた。厩《うまや》などで用いられる上下に別れたドアで、上半分はあけ放たれ、下半分は閉まっていて掛金《かけがね》がかかっていた。
木々の後ろにしゃがみ、息を詰《つ》めて見守るうちに、人影が戸口に現われ、下半分の戸をあけて馬車のはしご段をおり出した。バーニーはサイモンの腕をぎゅっとつかんだ。長いモジャモジャの黒髪、気むずかしげな額、まちがえようはない。絵描きは前二回と服装まで同じだった。漁師のような濃紺《のうこん》のセーターとズボンを着けている。あまりに近すぎるのが苦しく、バーニーは神経質につばをのみくだした。悪意の雲が男を取り巻いているかのようだった。バーニーはふいに、絶対に見られない木々の奥にいるのが嬉しくなった。ぴくりとも動かずに立ちつくし、ルーファスが音をたてませんように、と祈るばかりだった。
ところが、木の中の小鳥の澄んだ朝の歌を除けばコソッとの物音もしなかったにもかかわらず、黒髪の男ははしご段の下でハッと立ち止まった。頭を上げて、臭いを嗅ぎつけた鹿のようにぐるっとめぐらせた。目が閉じられているのが見えた。と、男はふたりのほうに顔を向け、寄せた眉の下の冷たい目をあけ、はっきりと言った。「バーナバス・ドルー。サイモン・ドルー。出て来い」
逃げようという考えはおろか、ためらわず従うことのほかは何ひとつ思い浮かばなかった。バーニーは反射的に木々の陰から進み出、サイモンが同じ様に躊躇《ちゅうちょ》なく動くのを感じた。ルーファスまでもが傍らをおとなしくトコトコ歩いていた。
明るい野原の中、馬車のそばで立ち止まり、黒っぽい服を着た黒服の男と向かい合うと、陽が肌に暖かかったにもかかわらず、急に気温が下がったように感じられた。男はニコリともせず、無表情に彼らを見つめた。「何の用だ?」と男はたずねた。
バーニーの頭のどこかで、飛び散った火花がほくち《・・・》を見つけてボッと燃え上がるように、小さな恨《うら》みの火が怒りとなって燃え上がり、恐れを焼きつくしてしまった。バーニーは大胆《だいたん》に言った。「まず、絵を返してほしい」
傍らで、サイモンが眠気を払うように頭を少し振るのがチラッと見え、兄もまた呪縛《じゅばく》から放《はな》たれたのだと知った。そこで声を強めた。「あんたは波止場でぼくの絵を盗んだ。わけなんか知らない。ぼくはあれが気に入ってたんだから。返してもらいたいな」
黒い目が淡々《たんたん》とバーニーを見た。感情らしいものは全く読み取れなかった。「なかなか見所のあるいたずら描きだった。その年にしては」
「でも、あんたには必要ないだろ」一瞬、男の絵にこもっていた本物の迫力を思って、バーニーの口調に感嘆の念がこもった。
「ない」男は妙に陰気な薄笑いを浮かべた。「もう必要ない」そしてはしご段を再び上がり、二段式のドアを開けて中へはいると、肩越しに言った。「まあ、いいだろう。はいれよ」
初めからピクリとも動かなかったルーファスが、喉の奥深くで低い唸り声を上げ始めた。
サイモンは片手で制しながら言った。「そいつは賢《かしこ》いとは言えないぜ、バーニー」
だがバーニーは「ううん、大丈夫さ」と軽くいなすと、馬車のはしご段のほうへ進んだ。サイモンもついて行くほかはなかった。「待ってろ、ルーファス」と言うと、セッター犬は長い脚を折ってはしごの下に伏せたが、尾を引く低い唸り声は途切れもせず不気味に続き、小止《おや》みない警告のように、静かに流れていた。
黒髪の男は彼らに――を向けていた。「ロマニーの馬車《ヴアルド》をよく見ておけよ」と振り向かずに言った。「もうほとんど見られない代物《しろもの》だ」
「ロマニーだって?」サイモンが言った。「じゃ、あんたはジプシーなの?」
「半分ロマニーで半分ゴルジオ(ジプシー以外の者)さ」男は振り向いて立ったまま腕を組み、ふたりほ観察した。「そう、半分だけだがジプシーだ。半分だってめっけもんなんだ。居留地《きょりゅうち》へ行けばべつかも知れんが。この馬車《ヴアルド》でさえ、半分しかジプシー風じゃない」
馬車の天井のほうにあごをしゃくったので、子供たちが見上げると、天井は外側を飾っていたのと同じ鮮やかな色の唐草模様にぐるりを縁取られていた。一方の壁一面に何か小さな道具がずらりと下げられ、古いバイオリンとおかしな縞柄《しまがら》の毛織物が掛けられているのが見えた。だが嗅ぐは現代風の安ピカであり、煙突は本物の煙突ではなく、小ぎれいな電気レンジからの熱気を逃がす換気《かんき》口にすぎなかった。
ハッと気づいたことに、天井には絵が描かれていた。端から端まで、唐草模様の色鮮やかなありふれた曲線の内側を埋めて、巨大なのたうつ抽象画が頭上に拡ろがっていた。形も色も定まってはいなかったが、心をかき乱される怖いような作品で、異様な渦巻きや陰影に満ち、神経を逆《さか》なでする毒々しい色がところどころに端っていた。バーニーは再び、男が波止場で書いていたキャンパスから目にとび込んできた力といやらしさを感じ取った。この天井にも、波止場であれほど不快に思ったあのぎょっとするようなみどり色が使われていた。バーニーは唐突に兄に言った。「帰ろうよ」
「まだだ」黒髪の男は言った。微動《びどう》だにせず、静かな声で、バーニーは、<闇>が支配の手をのばしている、という冷たい感触に襲われた。――ちょうどその時、それまで何の音だろうと思っていたシュウシュウというかすかな音が、ふいにグラグラッと煮《に》立った湯の音になり、やかんの鋭いピーッという笛が部屋を満たして、悪の気配を思いすごしに変えてしまった。
だが、サイモンはまたも感じ取っていたのだ。黒髪の男を見ながら、サイモンは考えた。さっからぼくらを怖がらせまいとしてる《・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。おどかすのを裂きに伸ばしてる《・・・・・・・・・・・・・・》。帰らせたくない理由でもあるのか《・・・・・・・・・・・・・・・》?
黒髪の男は、インスタント・コーヒーをスプーンですくって大きなカップに入れ、やかんの湯をそそぐ、というありふれた行為に忙しかった。「どっちか、コーヒーを飲むか?」と肩越しに言った。
サイモンはすばやく「結構」と答えた。
バーニーは「水を一杯ほしいな」と言い、サイモンが顔をしかめるのを見ると、訴えるようら言った。「だって歩いてたら、のどがカラカラになっちゃったんだもの。水道の水を一杯ぐらい、いいだろう?」
「右足のそばの戸棚に」と絵描きは言った。「オレンジ・エードの缶がはいってる」そして馬車の突き当たりの小さなテーブルに寄り、コーヒーをかきまわした。「密封《みっぷう》されたままだ」と皮肉っぽい目でわざとらしくサイモンを見つめて付け加えた。「気も抜けてない。無害だ。工場を出た時のままだよ」
「ありがとう」即座《そくざ》にバーニーは戸棚の前へ身をかがめた。
「ボール箱がひとつあるから、それも取ってくれ」男が言った。
「いいよ」ゴソゴソ、ガタガタ捜した末、バーニーはこれといって特徴のない茶色の箱を取りだし、テーブルの上におろすと、肘ではさんで清涼飲料《せいりょういんりょう》の缶二個を置いた。サイモンは無害で一顧を手に取り、栓《せん》をあけた。安心させるようにシュッと空気の抜ける音がしたが、頑固な警戒心から飲むのは機が進まず、あおるふりをしただけだった。バーニーはよほどのどが渇《かわ》いていたらしく、ゴクゴクとうまそうに飲みほした。
「ああ、さっぱりした。ありがとう。じゃ、絵を返してよ」
「箱をあけてみろ」カップを口にあてている男の顔に髪がかぶさった。
「この中なの?」
「箱をあけてみろ」繰り返した声には無理に自分を抑えているような、かすかな響きがあった。サイモンは思った。ピンと張った針金みたいにピリピリしてる《・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・》。なぜだろう《・・・・・》?
飲み物をテーブルに置くと、バーニーは茶色いボール箱のふたをあけた。一枚の髪を取りだし、検分《けんぶん》するように掲げた。「うん、こいつだ」
ところが箱にひょいと視線を戻したとたん、目に光がとびこんで着た。脳にまで達するような燦然《さんぜん》たる輝きだった。バーニーは驚愕《きょうがく》の目を見開いて、かすれ声で叫んだ。
「サイモン! 聖杯だ!」
周囲の様相が一変した。バタンと小さな箱馬車の戸が閉まり、壁には日除けが下がり、日光を完全に遮断《しゃだん》した。一瞬、暗黒が訪れたが、ほとんどかすかな明るさが現われ、バーニーは目をしばたたいた。光源を求めてあたりを見まわすうちに、そのぼうっとした不快な光が、ランプなどではなく絵具を塗りたくられた天井から発せられているのを知り、ぎょっとして胸が悪くなった。いま初めて、絵が形を成してはいることが見てとれた。角張った形がいくつかずつまとまっていて、未知の書体のようにも見える。冷たいみどりの光の中で、バーニーはおっかなびっくり、怪しみつつ視線を落とした。前に見た通りのすばらしいものがボール箱の中で光っていた。何もかも忘れたバーニーは、それをそっと取りだし、テーブルに載せた。
サイモンが傍らでささやいた。「本当だ!」
ふたりの目の前、テーブルの上で、コーンウォールの聖杯は輝いた。幸い探索《たんさく》のあと、ケメア岬の崖の下の洞窟の奥で初めて目にし、<闇>の人々と力から、しばしの間守り抜いた小さな黄金のさかずき。それが何なのか、どんな力をもっているのかは理解できなかった。ただ、メリマンと<光>にとっては偉大な力の品々のひとつであり、測《はか》り知れぬ値打ちを持つこと、いつの日か、その側面に刻《きざ》まれた不思議なルーン文字や言葉が理解されたときに、真の威力《いりょく》を発揮《はっき》するのだということを知っているだけだった。バーニーは以前にも何百回となくしたように、聖杯の黄金の側面に刻まれた絵や模様や不可解なしるしを眺めた。あれ《・・》がありさえすれば……だが、あの失われた深い洞窟で聖杯と一緒に発見した古文書を収めた鉛の筒《つつ》は、今では海の底に眠っている。バーニー自身が、迫って来た<闇>の手から守ろうと、最後の土壇場《どたんば》で聖杯もろとも、ケメア岬のはずれから投げたのだ。聖杯は助かったが、古文書は海に落ちた。聖杯に記された大切な言葉を理解する嗅ぎは、その古文書の中にしかないというのに……
馬車内部のくすんだ光も、聖杯から発する光を鈍《にぶ》らせることはできなかった。炎のように黄色く、暖かく、キラキラと輝いていた。サイモンがそっと言った。「ぶじだ。傷ひとつない」
冷たい声が暗がりから聞こえた。「持主がいいからな」
夢中になっていた子供たちは唐突に<闇>の絵描きの用意した無気味な薄明かりの中に引き戻された。男の黒いビーズ玉のような目が、テーブルの向こう側でぎらついている。男は超現実派《シュールレアリズム》の絵のような白黒まだらだった。黒い目、白い顔、黒い髪。そのうえ、声には力と自信が増し加わっていた。勝ち誇《ほこ》ってさえいた。
「聖杯を拝《おが》ませてやったのは、取引をするためだ」
「ぼくらと取引だって?」サイモンは行ったが、そんなつもりはなかったのに声がうわずり大きくなった。「あんたは盗んで手に入れる主義じゃなかったのか? バーニーの絵だろ。トムズの船長の犬だろ。それに聖杯も――博物館から盗んだのはあんただな。でなきゃ、あんたの友達――」
「友達などいない」男がふいに早口に言った。意志に反して出たらしかった。男自身、それに気づいて冷たい眼差《まなざ》しにうろたえの色が走った。が、次の瞬間にはもう落ち着きを取り戻し、完全に自分を抑えてふたりを見おろしていた。
「盗みは目的のための手段ともなりうるんだよ。お若いの。おれの目的はごく単純だし、害もない。ほしいのは時間を五分だけ。気味の弟の時間をな。それと、その子の持ってる……ある種の……能力とな」
「ぼくはこいつにくっついてるぞ。一分だって離れるもんか」サイモンは言った。
「誰もそんなことは言ってない」
「じゃ、なんだ?」
バーニーは無言で慎重に見守っていた。サイモンに任すのも、今度ばかりはいやではなかった。頭の奥のほうで、何かがこの異様に緊張している白い顔の男を恐れ初めていた。恐怖はどんどん増した。その絵の才能が明らかにすばしらかったからかもしれない。単純な怪物を相手にするほうがずっと楽だったろう。
絵描きはバーニーを見た。「簡単なことだ。バーナバス・ドルー。君が聖杯と呼びたがってるその杯に、おれが水と油を少々入れる。そのあと、君に腰をおろして心を静めてもらい、杯をのぞき込んでみえたことを聞かせてもらう」
バーニーは呆れて男を見た。海にかかるもやのように、奇妙な考えが頭の中にはいり込んできた。この男は悪人などではなく、ただ頭が少しどうかしただけなのではなかろうか? それならこの妙な絵描きのやったことは全て説明がつく、とバーニーは気づいた。なにしろ、偉大な画架たちでさえ、時には変な行動をとり、おかしなふるまいに及ぶのだ。頭が変だったヴァン・ゴッホを見ろ……
バーニーは用心して言った。「水と、それから油を見て、何が見えるか言うんだね? 確かに脂は澄み゛の上で面白い模様や色になるけど手店まあ、悪いこととはいえないな。ねえ、サイモン」
「うん、そうだな」サイモンは黒髪の男を、その見開かれた目とものに憑《つ》かれたような顔をじっとにらんでいたが、バーニーと同じ考えが催眠術《さいみんじゅつ》の暗示のように頭に忍び込み始めていた。敵だと思った男は<闇>とは無関係なのかもしれない、メリー大伯父が何と思おうと、ただの変人、害のない狂人なのかもしれない、という思いが次第に強まった。狂人だとしたら、さからわないほうが安全だ。
「そうだな」サイモンはきっぱり言った。「いいだろう」
そして考えた。この馬鹿げたことが済んだら、聖杯をひっつかんで逃げよう。なんとかすきをついてルーファスを呼び、ガメリーのもとへ聖杯を持って帰るんだ……サイモンは意志を伝えようとして弟をじっと見つめた。こっそりつついて視線を聖杯にやると、バーニーはうなずいた。兄の言いたいことはわかっていた。同じ考えが鮮やかに脳裏に浮かんでいたのだ。
黒髪の男は水道の蛇口《じゃぐち》からコップに水をくみ、聖杯に空《あ》けた。それからテーブルのそばの棚から茶色の小びんを取って、何かの油を一、二滴たらした。そしてものほしげにバーニーを見た。はじかれた弦《げん》が鳴るように、男の緊張ぶりは音になって聞えるほどだった。
「さあ、坐れ。ここに。そしてよく見るんだ。じっくり、時間をかけて。何が見えるか聞かせてくれ」
バーニーはテーブルの前の椅子に腰をおろし、輝く黄金の杯をゆっくりと両手で捧《ささ》げ持った。文字の刻まれた外側の黄金はいつに変わらずまばゆいのに、内側の表面はつやのない黒だった。バーニーは中の液体を凝視した。頭上から発せられる冷たいみどりの光、不可解にも天井に塗られた模様から輝き出ている光の中で見えたのは、水面の薄《うす》い油膜《ゆまく》が渦巻き、ねじれ、そり返り、とぎれ、またくっつき、縞をなしては漂い出、消え、全体と溶け合うさまだった。それから……見えたのは……
闇が突然の睡魔《すいま》のように脳を支配し、何もわからなくなった。
第6章 サイモンの記憶
ジェーンは泣き出さんばかりだった。「ただいなくなってしまうわけはないわ! 何か恐ろしいことが起きたのよ!」
「何を言う」メリマンが言った。「もうとびこんで来るとも。朝食をよこせと騒ぎながらな」
「朝食なんて、一時間以上も前のことじゃないの」
ジェーンは自失《じしつ》の体《てい》で、日の光を浴びて活気に満ちている忙しい波止場の彼方を見つめた。彼女たちは別荘の前の舗装《ほそう》された小道に立ち、波止場へと続く曲がりくねった網の目のような石段や路地を見おろしていた。
ウィルが言った。「きっとぶじだよ、ジェーン。早起きして散歩に出て、思ったより遠くまで足を伸ばしちゃっただけさ。心配するなよ」
「そうかもしれないわね。いえ、きっとそうだわ。でも、あたし、いやな場面ばかり思い浮かぶのよ。兄さんたちが、去年やったみたいにケメア岬に出かけて、どっちかが崖の途中で身動きがとれなくなったとか……いやだわ、ばかばかしいとはわかってるんだけど。ごめんない、ガメリー」ジェーンは苛立ったように長い髪を後ろへ払った。「みどりの妖婆が落ちるのを見たせいね。もう黙るわ」
「いいことがある」ウィルが言った。「ケメア岬へ確かめに行こう。そうすりゃ、ずっと気が楽になるだろ?」
少し元気の出たジェーンはふたりを見較《くら》べた。「本当にいいの?」
「いいとも」メリマンが言った。「行き違いになっても、ペンハローのおかみさんが不良息子《むすこ》どもに朝食を出してやってくれるだろう。先に出なさい――私はおかみさんに伝言してから行く」
ジェーンは顔を輝かせた。「よかったわあ。待ってるのってたまらないもの。ありがとう、ウィル」
「こっちこそ」ウィルは明るく言った。「絶好《ぜっこう》の散歩日和《びより》だもんね」
だがメリマンの精神に語りかけた声は沈んでいた。(どうやら<闇>につかまったみたいだね。感じない?)
(危害《きがい》は加えておらぬ)と平然たる答が返ってきた。(却《かえ》ってこちらの得《とく》になるかも知れぬよ)
バーニーは箱馬車の入り口に立って外光に目をしばたたいた。「どうしたのさ」と言った。「取って来ないの?」
「何を?」サイモンはたずねた。
「飲み物に決まってるだろ?」
「飲み物?」
「どうしちゃったんだい? たったいま勧《すす》められた飲み物のことだよ。小さな戸棚に缶がはいってるから勝手に取れって言われたじゃない。それからボール箱がなんとかって」名《にはいろうと振り返りざまに、バーニーは笑いながら兄を見た。が、すぐに立ち止まった。
「兄さん、本当にどうしたの?」
サイモンの顔は蒼白《そうはく》で硬《こわ》ばり、口角が下がって、妙におとなっぽい懸念《けねん》と動揺の表情を浮かべていた。一瞬まじまじとバーニーを見たと思うと、話を合わせ始めたが、それもやっとのことのように見えた。「おまえ、取って来いよ。飲み物をさ。おまえが取って来い。ここで飲もう。日なたは気持ちがいいから」
背後の馬車の中で物音がした。バーニーはサイモンが刃物で刺されたようにとびあがり、すぐにさいぜんと同じように必死に自分を抑えるのを見た。サイモンは馬車の壁に寄りかかり、顔を太陽に向けた。「行けよ」と言った。
とまどいながらも、バーニーは馬車の中にはいった。内部は窓から流れ込む陽光で明るかった。黒髪の絵描きは、テーブルにもたれてコーヒーをすすっていた。
「この戸棚?」バーニーは流しの下の小さな戸を片足で示した。
「そうだ」と男は言った。
膝をついてオレンジ・ソーダをニ缶取り出すと、バーニーは暗い小さな戸だの中をのぞき込んだ。
「ボール箱って言ったけど、そんなの見えないよ」
「なら構わん」
「でも、何かある――」腕を突っ込んで取り出したのは一枚の紙切れだった。ひと目見ると、バーニーは膝をついたまま体を起こして無表情に男を見上げた。「ぼくの絵だ。あんたが取ったやつだよ」
「返してほしくて来たんだろうが?」黒い目が、ひそめた眉の下からバーニーに向けられ、冷たくギラリと光った。「ソーダを飲んだら、そいつを持ってさっさと帰れ」
「なぜかっぱらったのか知りたいんだ」
「頭に来たからさ」男はぶっきらぼうに言うと、コーヒー・カップを置いてバーニーに戸口を示した。
「ガキになぞけなされてたまるか。また繰り返す気か?」バーニーが口をあけるのを見て、男の声が無気味に高くなった。「黙って行け」
サイモンが戸口から声をかけた。「どうかしたのか?」
「べつに」バーニーは絵をくるくると丸め、二個の缶を取り上げて戸口に向かった。
「本当はそれほど渇いてないんだ」サイモンは言った。
「ぼくはカラカラだよ」バーニーはグイッとあおった。
絵描きは、ふたりが馬車の中に引き返せないように戸口に立ちふさがって、険悪《けんあく》な顔で見ていた。外の陽射しの中で男の大きな馬が、リズミカルに草を食いちぎりながらのんびりと一歩前に出た。
サイモンがたずねた。「もう帰ってもいいかい?」
男の目がきつくなり、即座に問い返した。「おれにどうしてひき留《と》められる? なぜ聞く?」
サイモンは肩をすくめた。「たった今、バーニーが『帰ろうよ』って言ったら、あんたが『まだだ』って言ったからだよ。それだけさ」
安堵めいたものが男の暗い顔を横切った。「弟に大事な絵を返したんだから、もういい。行けよ。農場の左寄りに」――と角を曲がって見えなくなっている草深い小道を示し――「村へ戻る近道がある。草がぼうぼうだが、ケメア岬に出られるはずだ」
「ありがとう」とサイモン。
「さようなら」とバーニーが言った。
ふたりは振り返らずに原っぱを突っ切った。暗い霧の中から出てきたような気分だった。
「罠《わな》だと思う?」バーニーがささやいた。「誰かが農場で待ち伏せしているかも知れないよ」
「そんな面倒なこと」サイモンは言った。「あいつには罠なんか必要ないんだ」
「なら、いいけど」並んで小走りに進みながら、バーニーは不思議そうに兄を見上げた。「兄さん、ひどい顔色だよ。本当になんともないの?」
「その話はもうよせ」低く激しい声だった。「なんともないから、さっさと歩けよ」
「見て!」つかの間の沈黙のあと、角を曲がったバーニーが言った。「空っぽだ!」
ずんぐりした灰色の石造りの農家が正面にあった。空家なのは明らかだ。どこにも動く物とてなく、古い機械類が庭で錆《さ》びるに任せられ、いくつかの窓はギザギザの縁を残して黒い口をあんぐりとあけている。物置の萱《かや》ぶき屋根はまんなかが危なっかしく陥没《かんぼつ》し、じわじわと母屋のほうへ前身しつつある林の近くでは、茨《いばら》が伸び放題になったみどりの腕を振り立てていた。
「馬車に住むのも無理ないや。本当に半分ジプシーなんだと思う?」
「怪しいもんだ」サイモンは答えた。「人と違った外見の言い訳に都合がいいからだろ。それと馬車の言い訳に。本当の理由はわからない。ガメリーが知ってるさ。道があったぞ」と古い家のそばのこんがらがった繁みが途切れている個所《かしょ》に向かった。ふたりは幅の狭い、茨のはみ出た小道を踏《ふ》み分けて進んだ。
「ぼく、腹ペコ」バーニーが言った。「ペンハローおばさんが卵とベーコンを用意してくれてるといいな」
サイモンは相変わらずひきった顔のまま、あたりをさっと見回した。「ガメリーと話さなくちゃ。おまえもだ。まだ説明できないけど、急ぐんだ」
バーニーは兄をまじまじと見た。「だって、別荘に戻れば、いるだろ?」
「かも知れない。けど、もうとっくの昔に朝食をすまてるだろうから、ぼくらを捜しに出てる可能性のほうが強い」
「じゃ、どこに?」
「わからない。手始めに灰色荘に行って見よう」
「いいよ」バーニーは機嫌良く言った。「この道もきっと、あのあたりを通るだろうし。そしたら――」そこまで言ってハタと立ち止まり、サイモンを見た。「ルーファスが! 連れ戻すのを忘れちゃった! サイモン、どうしよう、ぼくすっかり忘れちゃってた! どこ行ったんだろう?」
「逃げたんだ。それも説明しなきゃならないことのひとつさ」サイモンは疲れきった様子で先を急いだ。「前部、同じ話の一部なんだ。とにかく、できるだけ早くメリー大伯父さんを見つけないと、取り返しのつかない恐ろしいことになる」
「ここには影も形もないよ」ケメア岬の先端の岩を伝ってウィルが戻って来た。
「うむ」メリマンは、白い髪を潮風に旗のようになびかせながら、じっと佇んでいた。
「隣りの湾の側へ伝いおりて、崖の下の岩場に行ったのかもしれないわ」ジェーンが言った。「見に行きましょうよ」
「いいよ」
「待て」メリマンが言った。ウィルとジェーンが驚いて振り向くと、片腕を上げて岬からもと来た本土のほう、トリウィシック湾を見おろす物言わぬ灰色の巨石の群れの方角をゆびさした。ジェーンには、すぐには何も見えなかった。それから、こちらへ休息に近づいて来る赤茶けた点が見えた。数秒後には、点は死に物狂いで駆けて来る犬と判明した。
「ルーファス?」
赤いセッター犬は三人の前で危《あや》うく止まり、あえぎながら、ゲホッゲホッと奇妙な声で吠えようとした。
「年じゅう、とごかから駆けつけては、何かを伝えようとするんだけど」ジェーンはほかにどうしようもないので、しゃがんで頭をなでた。「口がきけさえしたら。ルーファスや、あたしたちと来る? バーニーとサイモンを捜しに行く?」
だがじきに、ルーファスの望みは、岬に沿った来たばかりの方角へ戻るよう彼らを説得することだけなのが明らかになった。とび上がっては鼻を鳴らし、吠えるので、あとについていくことになった。風に吹かれた草の上に淋しげに立っている巨大な灰色の花崗岩の柱の一団に近づくに連れ、村のほうからサイモン、バーニーそれにトムズ船長がやって来るのが見えた。老人がまだ杖をついてヨタヨタしているので、進み方はのろかった。ジェーンには、兄と弟のゆっくりした歩調にじれったさが秘められているのが感じ取れた。
サイモンらが近づいた時には、メリマンは石柱の傍らに立ち止まっていた。そしてサイモンだけを見て言った。「で?」
「それから、何かの油を聖杯の中に少したらして水面に拡がるようにした」サイモンは言った。「そのあとバーニーが、腰をおろしてそいつを見つめさせられたんだよ」
「腰をおろした?」バーニーが言った。「どこに?」
「テーブルの前にだ。馬車の中の。中はまっ暗だった。天井から射して来るみどり色の変な光を除いてはね」
「みどりの光なんて、ぼくはおぼえてないよ。それに、サイモン、たとえ一秒でも聖杯を見たのなら、ぼくが忘れっこないじゃないか――絶対に見てない」
「バーニー《・・・・》」辛さそうな震え声でいうと、サイモンは手近な石柱に寄りかかった。「黙っててくれないか? おまえは何か魔法をかけられてて、何もおぼえてないんだ」
「おぼえてるよお。あそこでしたことはひとつ残らずおぼえている。ほとんど何もしなかったけどね。一分かそこら、絵を取って来る間しかいなかったもん。中で腰をおろしたりなんか――」
「バーナバス」メリマンの声は静かだったが、冷ややかな凄みがあり、バーニーはもぞもぞ動くのをやめてささやいた。「ごめん」
サイモンは弟を見てはいなかった。目にかすみがかかったようになり、そこにない物を見ているように虚ろだった。「バーニーが聖杯をのぞきこんでいるうちに、馬車の中がひどく寒くなり出して、急にぞっとした。バーニーがしゃべり始めたけど」――サイモンはつばを呑み込んだ――「あれは……あれはこいつの声じゃなかった。違ってた。しゃべり方も違ってた。言葉遣《づか》いとか……ぼくにはチンプンカンプンのことを沢山《たくさん》しゃべった。アヌビス(エジプトの死者の神)って人のこととか、偉大な神々のために用意を整える、とか。それから『おいでになった』と言ったけど、誰のことかは言わなかった。すると絵描きが、あの<闇>の男がいろいろ質問しはじめて、バーニー答えさせた。全然こいつらしくない、ほかの人みたいな変な低い声で」
サイモンは落ち着き鳴く体を動かした。一同は彼を囲んで巨石郡の中に腰をおろし、熱心に、無言で、耳を傾けた風が草の間、そびえ立つ柱のまわりでやさしく唄った。「あいつが『誰が持ってる?』って言うと、バーニーは『みどりの妖婆が』って答えた。『どこに?』って聞くと、『みどりの水底《みなそこ》、ティーシスの王国、手の届かぬ所に』って答えた。そしたら絵描きは『おれの手なら届く』って言った。バーニーは、しばらく何も言わなかったと思うと、自分の声に戻った。何か見えている物を説明しているのがわかった。とても興奮した声で、『薄っ気味の悪い大きな生き物がいるよ。すっかりみどり色だ。まわりじゅう暗闇だけど、一箇所だけ、すごくまぶしい光が見える。まぶしくって見てられない……この生き物はあんたのことを嫌ってる。ぼくのことも、誰のことも。誰も近づけないつもりだ……』って。絵描きはもう夢中で、じっとしてられないくらいだった。『どの呪文《じゅもん》なら従わせられる?』って聞くと、ふいにまたバーニーがバーニーじゃなくなって、顔から表情が消えて、もうひとつの気持ち悪い低い声が口から出て来てこう言った。『マナの呪文とレックの呪文とリールの呪文。だがティーシスの意に染まねば、いずれも役には立たぬ。みどりの妖婆はほどなく、海から生まれたもろもろの生命の、もろもろの力を携《たずさ》えて、ティーシスの民のひとりとなるゆえ』って」
「ああ」トムズ船長が言った。
ウィルが追及《ついきゅう》した。「マナの呪文とレックの呪文とリールの呪文。そう言ったんだね? 確かかい?」
疲れきったサイモンは恨めしげに顔を上げ、いやなものでも見るようにウィルを見た。「決まってる。自分の弟の口からあんな声が出て来るのを聞いたら、一言一句、忘れようたって一生忘れられないよ」
ウィルは丸い顔になんの感情も表さず、静かにうなずいた。メリマンがじれったげに言った。「先を。その先を」
「そしたら絵描きは、うんとバーニーに近づいてささやいた。聞き取るのがやっとだった。『見られているかどうか、教えてくれ』って言ったんだ。バーニーが気を失うんじゃないかと思った。聖杯をじっとのぞいてるうちに、顔がひきつって、白眼《しろめ》をむいちまったんだ。けど、すぐまたもとに戻って、口からあの声が出て来た。『寒気の呪文を使わぬ限り、安全だ』って。そしたら、あの男はうなずいて、歯の間からスーッと息を吐《は》き出して、ばかに嬉しそうな顔になった。椅子にふんぞり帰ったらから、たぶん、聞くだけ聞いたんで終わりにするつもりだったんだと思う。ところが、いきなりバーニーが背中をピーンと伸ばして、あのいやな声が、どなってるような大声で、『春の盛《さか》りの今この時に力ある品の秘密を見出さねば、聖杯は<光>のもとへ戻さねばならぬ。急がねばならぬ。みどりの妖婆が大いなる水底へと去る前に、急がねばならぬ』って言った。それっきり声が止《や》んで、バーニーが腰かけたままぐったりとなったんで、それで」声が少し震えたが、サイモンはそれを振り払うようにフンと言うと、猛然《もうぜん》と頭を上げた――「それでぼくは、なんともないことを確かめようと肩をつかんだ。絵描きのやつ、かんかんになってぼくをどなりつけた。呪文《じゅもん》が破られたと思ったんだろうな。ぼくも頭に来て、ガメリーたちにこのことを話してやる、逃げられるもんなら逃げてみろって意ってやった。そしたら、またふんぞり返って、すごく気味の悪い笑い方をして、おれが指をパチンと鳴らしさえすれば、おまえたちは何もかも忘れてしまう、どれくらい前のことで忘れさせるかはおれの胸ひとつだってぬかした」
「バーニーはその通りになったんだわ」ジェーンが乱れた声で言った。「でも兄さんは違った」
「ちょうどその時、ルーファスが戸の外で吠えてるのが聞えた。で、ぼくもバーニーも、呼びに行こうと前に出たんだ。そしたら、黒い髪の男はパッととび起きて、パチンって一回、ぼくらの顔の前で指を鳴らした。バーニーの目がトロンとなるのが見えた。こいつがゆっくりゆっくり前に進んで、夢遊病者《むゆうびょうしゃ》みたいな感じで戸をあけたんで、ぼくもその通りに真似《まね》して動いた。忘れてないってことを気取《けど》られるのだけは、絶対に避けなくちゃならないのがはっきりしてたからね。ルーファスはいなくなってた。逃げたんだ。バーニーは、まばたきをして頭を振ったと思うと、ほとんどすぐ、つい一、二秒前に来たばかりみたいに話し出した。時間が逆戻《ぎゃくもど》りしたみたいにね。だからぼくも同じようにやってみた」
「兄さんはあまりうまくなかったよ」バーニーが言った。「すごい顔色で、吐くんじゃないかと思ったくらいだ」
「聖杯はどうなったの?」ジェーンがたずねた。
「まだあいつが持ってると思う」
「ぼくにはわかんないや」とバーニー。「見たのもおぼえてないんだもん。けど、絵を返してもらったのはおぼえてるよ。ほら」とメリマンに絵を振って見せると、メリマンは取り上げて、サイモンを見守りなから、上《うわ》の空で指の間でヒラヒラさせていた。
「サイモン」ジェーンが言った。「バーニーは忘れたのに、なぜ兄さんには効《き》かなかったの?」
「飲み物だよ。なんだかうそみたいな話だけど、そうに違いない。オレンジ・ソーダを飲んだんだ。あれに何か薬がはいってたんだろう」
「へたなやり方だ」メリマンが言った。「古臭いし、面白い」そしてウィルを見た。ウィルも視線を返し、ふたりの目は読み取り難くなった。
「だって、オレンジは密封した缶にはいってたよ」バーニーは半信半疑《はんしんはんぎ》だった。「だからこそ飲んだんだ。何も入れられたはずないってわかってたから。第一、兄さんは自分のをあけもしなかったくせに」
「マナの呪文」ウィル・スタントンは声をひそめてメリマンに言った。「それにレックの呪文」
「そしてリールの呪文だ」
「違うよ、バーニー」サイモンが言っていた。「おまえは実は二度、飲み物を取りに行ったんだよ。ただ、一度目のほうは忘れてしまったんだ。それに、確かに二度目は口をつけなかったけど、最初の時はぼくも飲むふりをした。だからあいつは、両方に効いたと思い込んだのさ」
ウィルがメリマンに行った。「もう時間がない。今すぐ行こう」
サイモンとジェーンとバーニーは目を丸くしてウィルを見た。ウィルの声にはてきぱきした、子供らしくない決断の響《ひび》きがあったのだ。メリマンは鷹《たか》のような顔を厳《きび》しくひきしめ、うなずくと、トムズ船長に「三人は任せた」と不可解なことを言った。そして冷たくいかつい顔をサイモンに向けた。「最後にバーニーの口から出て来た声が、『みどりの妖婆が大いなる水底へと去る前に』と言った。それは確かだな」
「うん」サイモンはおどおどして答えた。
「じゃ、まだここにあるんだ」ウィルは、子供たちが唖然《あぜん》としたことに、メリマンと共に踵《きびす》を返し走り出した。岬の突端へ、その先の海へ。
長身の痩せた男とがっちりした少年とは、獣《けもの》のようにすばやく楽々と走った。大股に、ひたすらに走るそのさまからは、年齢も親しみも感じられなかっ。ぐんぐん速度を増して行って、岬の最先端の岩場に着いても止まらずに走りつづけた。ウィルは軽やかにケメア岬の頂にとび上がり、身を投げ出した。宙に、虚空《こくう》に、両腕を大きく拡げ、鳥のよう風に乗って。続くメリマンの白い髪はは、アオサギの冠毛のようになびいた。一瞬、大の字になったふたつのく炉意人影は宙に浮いたように見えた。やがて、時間そのものが息を詰めたかのような緩慢《かんまん》なう誤記で、ふたりは下方に孤をを描き、見えなくなった。
ジェーンが悲鳴を上げた。
サイモンは恐怖に息を詰まらせた。「死んじまう! 死んじまう!」
振り向いたトムズ船長の赤ら顔は厳しかった。杖にもたれてはおらず、前より背が高く見えた。船長は片腕を子供たちにつきつけ、ご本の指を一杯に拡げた。「忘れろ。忘れるのだ」
子供たちは一瞬、意識を停止させられた。その顔からは恐怖が引き、あとに放心状態だけが残るのを、船長はいたわりをこめて見守った。
そしてやさしく言った。「わしら全員の氏名は、<闇>の男をみどりの妖婆に近づけないことにある。ウィルと君らの大伯父さんは、ある道を通って漁師らのもとへ行った。わしらはべつの道を見張らねばならん。君らの別荘と、灰色荘からな。いま言うたことをおぼえるのじゃ。恐れることはない」
ゆっくりと腕をおろすと、操《あやつ》り人形のように子供たちは息を吹き返した。
「じゃあ、もう行ったほうがいいな」サイモンが言った。「来いよ、ジェーン」
「ぼくは船長さんと行くんだ。そうだよね?」とバーニー。
「朝食を食わせてやるぞ」トムズ船長はいたずらっぽく目を光らせた。「もう遅すぎるくらいだが」
第7章 白い女王
鳥が突っ込むようにふたりは水中にとび込み、大西洋の大うねりにさざなみひとつたてなかった。みどりの波、、淡《あわ》いみどりの光の中をどんどん潜《もぐ》って言った。魚と同じ形で呼吸はしていたが、いかなる魚もかなわぬ速さで、ふたすじの光のように水の中をかすめて言った。
何マイルも沖へ、幾尋《いくひろ》もの深さへと彼らは潜った。先へ先へ、はるかな深海めざして。海は音でいっぱいだった。シュウーという音、うめくような音、パチパチ鳴る音、それに大魚の群れが驚いて道を空けるたびに大砲《たいほう》の一斉射撃《いっせいしゃげき》のような連続音がした。水は次第に温かくなり、ひすいの色、半透明《とうめい》になった。下を見たウィルは、はるか下方に古い難破船《なんぱせん》のなれの果てを見つけた。マストも高いデッキも最下部しか残っていない。全て船食い虫に食べられてしまったのだ。船体にうず高くなった砂の中から、サンゴのためにでこぼこになった大昔の大砲が突き出ていて、白いどくろ《・・・》がふたつ、ウィルを見上げて笑いかけた。海賊に殺されたのか、とウィルは思った。あまりにも多くの人間が、このように、<闇>でも<光>でもない、自分たちの同朋の手によって破滅してきた……イルカが頭上で遊び、大きな灰色のサメが数匹、通りすぎては向きを変え、かすめ去っていくふたりの<古老>を物珍しげに見おろした。下へ下へとふたりは進み、薄明層《はくめいそう》と呼ばれる、日の光がごくわずかしか届かない薄暗い海層に達した。ここでは全ての魚――口の大きい細長い魚、伸縮自在《しんしゅくじざい》の角に目のある異様な平たい魚など――が、それ自身の発する冷たい光で輝くのだ。それからふたりは深海へと進んだ。地球の表面の大部分を占める深海。陸も草も木も、山も砂漠も及ばない。普通の人間なら物を見ることも生きることも叶《かな》わぬ冷たい暗黒の世界だった。ここは恐れと裏切りの領域《りょういき》、どの魚も他の魚を食い物にし、生が獰猛《どうもう》な襲撃《しゅうげき》と、必死の逃亡の恐怖からのみなりたっている世界だった。ウィルは巨大なガマに似た魚が、背中から先端の光る釣糸を吊《つ》るし、歯がびっしりの大きな口の前に、残酷《ざんこく》な誘惑者《ゆうわくしゃ》としてぶら下げるのを見た。蓋《ふた》つきのじょうごのような口が全てとも言えるおぞましい生き物をも見た。体はちっぽけで、すぼまり、長い鞭《むち》のような尾へと続いている。その傍らにいた同類の、罠《わな》にも似た口の中に、大きな魚がもがきながら姿を消すと、ちっぽけな体は無気味にも膨れ上がり出した。ウィルは身震いした。
「光もない」と先へ進みながらメリマンに言った。「喜びってものがまるでない。あるのは恐怖だけだ」
「ここは人間の世界ではない」メリマンは答えた。「ティーシスの世界なのだ」
暗黒の懐中にいても、ふたりは、観察され、付き添《そ》われているのを知っていた。<古老>の目にすら見えぬティー死すの臣下《しんか》によってである。よそ者がそばまで行き着くよりもずっと前に、知らせは海の女王に届く。ティーシスにはティーシスのやり方があるのだ。陸よりも年経《としふ》り、<古老>たちよりりも年経り、全人類よりも年経りているティーシスは、波の王国を世の初めよりずっと変わらぬ形で治めてきた。ひとりで。絶対者として。
ウィルたちは海床に生じた大きな亀裂《きれつ》にたどりついた。深海の底よりさらに深い淵《ふち》である。細かい赤い泥が底をおおっている。日光の最後の名残《なご》りまでもとうの昔に何マイルも上に置きざりにして来たにもかかわらず、黒い水の中には別種の光があり、そのおかげで深淵の生物と同じように物を見ることができるのだった。いくつもの目が闇の中、割れ目や亀裂の中から見守っていた。目的の場所に近づいたのだった。
その大海《おおうみ》の失われた奥処《おくが》で速度をゆるめるにつれ、ウィルとメリマンは周囲の視線を感じ出したが、それも少しずつ、おぼろげに、夢のように感じるばかりだった。そして、ようやく海がティーシスのもと導いてくれた時も、その姿を見ることは全くできなかった。ティーシスはひとつの存在、海そのものとして感じられ、ふたりは<いにしえの言葉>で恭しくあいさつをした。
「歓迎しよう」ティーシスは、その海の深淵の暗がりの中から言った。「よう参った、地上の<古老>よ。<古老>に逢《お》うたのは、かなり前、十五世紀ほど前が最後であったな」
「それも私でございました」メリマンは微笑した。
「いかにもそちであった、鷹よ。あの折は、いまひとり、そちより偉大なる者が一緒に参ったが、それにおるは別人と見た」
「まだ地上に生を受けて間もない者です。奥方さま。ですが、心よりご尊敬申し上げております」とウィルは言った。
「ああ……」ティーシスが答えた。「ああ……」そのためいきは海のためいきだった。
「鷹よ」ティーシスは続けた。「なにゆえ再び参った? 辛い道のりであったろうが」
「お願いのすじあってのことでございます、奥方さま」
「やはりな」ティーシスは言った。「いつものことだ」
「それと、贈り物を差し上げるために」
「ほう?」海の静かなうねりのように、深淵の暗がりでかすかに動きが感じられた。
ウィルは驚いてメリマンを振り返った。贈り物のことなど初耳だった。今にして思えば、何よりふさわしいことだったが、メリマンは袖の中から、丸めた紙を引き出した。暗がりの中で、紙は筒形《つつがた》に輝いた。拡げたのを見ると、バーニーが描いたトリウィシック風景だった。好奇心に駆られて顔を近づけると、ペンとインクで描かれた粗《あら》いが生き生きとしたスケッチだった。波止場や家々からなる背景は軽く輪郭をとったにすぎず、描き手の関心は全て、前景の一艘の船と波打つ海の一部を細密に描くことに傾《かたむ》けられていた。バーニーは船尾に記されていた船の名前まで写し取っていた。「白い女王」としいうのだった。
メリマンは絵を持ったまま、腕を一杯に伸ばし、手を放した。たちまち絵は暗がりの中に消えた。間があり、やがて、ティーシスが静かに笑った。気に入ったようだった。
「では漁師らは忘れておらぬのだな」と言った。「これほどの年月が過ぎても、忘れぬ者もおるのだな」
「海の力は決して変わりません」ウィルがそっと言った。「人間にもそれはわかります。そのうえ、ここの漁師たちは島国の民でございます」
「島国の民とな」ティーシスはその言葉を楽しんだ。「わが民でもある。他のあらゆる者に先立って」
「漁師らの行いは今も昔も変わりませぬ」メリマンが言った。「日没と共に魚を求めて海に乗り出し、暁と共に戻ります。そして欠かさず、年に一度、春が盛りに達し、夏が目前に迫る頃、あなたさま、白い女王のために、彼らは木の枝や葉でみどりの人形《ひとがた》を作り、贈り物として海に投じます」
「みどりの妖婆か。あれは既に新たな生を得た。今はその季節ゆえな。ほどなくここへたどりつくであろう」暗がりから洩《も》れる声に冷ややかさが加わった。「頼みとは何か? 鷹よ? みどりの妖婆はわがものぞ」
「みどりの妖婆は常にあなたさまのものでした。これからも常にそうでしょう。ですが、あなたさまほどの叡智《えいち》を持たぬ身の悲しさで、<光>の所有に帰するべき品をわがものにするという過《あやま》ちを犯してしまったのでございます」
「わらわのあずかり知らぬことだ」
かすかな光がティーシスのひそむ藍《あい》色の影からきらめくように見えた。周囲で見守り、待機していた魚や海の生物が、一斉に光を発し始めた。あんぐりあいた口の上にぶらさがった囮《おとり》の星、細長いさなかの体に並ぶ舷窓《げんそう》に似た丸い光の列が見えた。遠くの方に見える色合いの異なった奇妙な光の集まりは、影の中に隠れている何か大きな生き物と思われた。ウィルは身震いし、自分たちが魔法によってしばしば息をし泳ぐことを許された、この異質の世界に恐れを覚えた。
「自然の荒《あら》魔術には敵も味方もありませぬ」メリマンは言い放った。「それはご存知のはず。お助け下さらぬまでも、私どもの邪魔《じゃま》をなさることもなりますまい。そのようなことをなされば、<闇>に荷担《かたん》されたも同じこと。また、みどりの妖婆が見つけた物を渡さぬとあれば、<闇>は著しく力を増すことでありましょう」
「言い訳《わけ》にもなっておらぬな」ティーシスは言った。「そちの言うのは、そうなれば<光>が優勢に立てぬということだけに過ぎぬ。が、<光>と<闇>のいずれを優勢にすることも、わらわには許されておらぬ……物は言い様だな、わが友よ」
「白い女王は何もかも見通しておられる」メリマンの声にこもった穏やかで悲しげな謙虚《けんきょ》さがウィルを驚かせたが、それとなく贈り物のことを思い出させているのだと思いあたった。
「ふむ」影の中の声が、チラリと面白がっているような調子を帯びた。「取引致そう、<古老>よ。わが名において、その……大切な……物とやらを返すよう、みどりの妖婆を説き伏せることを許す。この深みにたどりつくまでは、あれとそちたちの問題だ。わらわは介入《かいにゅう》せぬ。またわが王国内では、<闇>の介入も許さぬ」
「ありがとうございます、奥方さま!」ウィルは喜びに駆られて叫んだ。
が、声はそのまま続けた。「したが、それも、みどりの妖婆が深海へと旅立つまでのこと。毎年するように、真の棲《す》み家、わがもとへと……。その後は、<古老>よ、あれの手にある物が何であれ、もはやそちたちのものにはならぬ。迫って来ることは許さぬ。何者にも許さぬ。その時には、今日ここへそちたちを導いた呪文を用いるとも、再び参ることは叶わぬ。みどりの妖婆がそちたちの秘密を水底へ運ぶことを選べば、その物はとこしえに水底に眠るのだ」
メリマンが何か言おうとしたが、暗がりからの声は冷淡だった。「それだけだ。行くがよい」
「奥方さま――」
「去れ!」怒りが突如、ティーシスの声に満ちた。あたりが閃光と轟音に包まれ、強い潮流が怒って手足をひっぱった。魚やウナギが四方八方にとびまわり、遠い暗がりの中から巨大な影がやって来た。ウィルが見た明るい光の塊を内に秘めた黒い生き物だった。光はぐんぐん接近してますます大きさを増した。白と紫とみどりに輝き、家ほどもある膨れた黒い体の中でぎらついていた。深海の大怪物のひと、恐るべき化物イカなのを知って、ウィルは背すじが冷たくなった。振りまわす吸盤《きゅうばん》のついた足の一本一本がウィルの背丈を上回る長さだ。化物が稲妻のように動けることも、そのおぞましいくちはじめいた口のひと咬《か》みでふたりとも瞬時に抹殺《まっさつ》されてしまうであろうことも、ウィルにはわかっていた。おののきながら、ウィルはイカを滅ぼす呪文を捜し求めた。
「よせ!」すぐにメリマンの精神が語りかけてきた。「危険なように見えても、ここには我らを傷つける者はおらぬ。海の女王はおそらく、我らに立ち去るよう……勧めて……いるだけだ」そう言うと深淵の暗がりに向かって大げさに深々と頭を下げた。「感謝と臣従《しんじゅう》の礼をとらせて頂きます、奥方さま」と力強い、澄んだ声で呼びかけ、ウィルを連れて、さっと上方に泳ぎ去った。化物イカの茫洋《ぼうよう》たる影のそばを過ぎ、開けたみどりの大洋へ、もと来た方へ引き返した。
「みどりの妖婆のもとへ行かねば」とメリマンはウィルに言った。「一刻《こく》を争うのだ」
「ぼくらがふたりして」ウィルは水中を突き進みながら呼びかけた。「みどりの妖婆にマナの呪文とレックの呪文とリールの呪文をかければ、古文書を渡してくれるかしら?」
「渡してくれるのはあとになるだろうが」メリマンも叫び返した。「それらの呪文は、妖婆に耳を傾けさせる効果がある。妖婆を作った魔法を御《ぎょ》することができるのは、その三つだけなのだ」
光のすじのように海の中を進み、深い冷水から熱帯の温かさに、そしてコーンウォールの冷たい水へと戻った。だが、ケメア岬に叩きつける波の下の目的の場所についてみると、みどりの妖婆はいなくなっていた。名残りすらなかった。行ってしまったのだった。
第8章 船長の話
別荘に戻ったサイモンとジェーンは、フラン・スタントンが食堂のテーブルに皿を並べているのを発見した。「お帰りなさい」フランは行った。「お昼はどう? ペンハローの奥さんは出かけなければならなかったんだけど、とてもおいしそうなコーンウォール風の肉入りパイを作っておいてくれたのよ」
「匂いがする」サイモンが飢《う》えたように言った。
「すてき」ジェーンも言った。「ご旅行は楽しかったですか?」
「遠くへは行かなかったのよ。聖オースルのあたりだけ。陶土の出るところや、陶土房《ぼう》や、そんなものをね」親しみやすい顔にしわを寄せたが「まあでも、ビルはそのために来たんですものね。それに、あの大きな白い陶土のピラミッドや、その底の池には、本物の魅力があったわ。あんなに緑の濃い水なんて……あなたがたは他の死んでる? みんなは何をしてるのかしら?」
「ウィルとメリー大伯父さんは散歩に行きました。バーニーは灰色荘でトムズ船長と一緒です。あたしたちも午後になったら行く予定なんです。船長が夕食に招《よ》んでくださったもんで」ジェーンはその場の思いつきで言ってのけた。「もちろん、おばさまが置きになさらなければの話ですけど」
「それはよかったわ」フラン・スタントンは言った。「ビルとわたしはどのみち外食なの――ビルが聖オスールの近くで人に会うとか言うんで、置いてきてしまったの今夜迎《むか》えに行かなければならないわ。私が戻って来たのは、のんびりしたかったからよ。食べましょう――ジェーン、わたしが見せてもらえなかったみどりの妖婆のお祭りについて、詳しく話してちょうだいな」
そこでジェーンは、いささか苦労して、みどりの妖婆作りのことを、地元の若い娘たちが楽しむ陽気な徹夜パーティめかして眉宇者した。その間ずっと、サイモンはコーンウォール風の肉入りパイを積めこみながら、妹と目を会わさないようにしていた。スタントン夫人は金髪の頭を感心したように振りながら、嬉《うれ》しそうに聞き入っていた。
「そういう古い習慣が守られてるなんて、すばらしいことだわ」と夫人は言った。「それに、外国人に見せないところがいいわ。わたしの国じゃ、大勢の原住民のインディアンたちが白人達に昔ながらの踊りを見せて、その結果、あっという間に客寄せになってしまったのよ」
「怒っておられなくてよかったわ」ジェーンは言った。「気になさったんじゃないかと――」
「あらまあ、とんでもない。ただでさえ、もう、故国《くに》の旅行サークルで発表する材料はたっぷりあるの。会を作っててね、月に一度集まるんだけど、毎回、誰かがスライドを映して、旅行した先の話をするのよ。初めてだわ」と少しばかり残念そうに付け加えた。「珍しい所を取りあげられるのは――ジャマイカも変わってるけど、ほかの人もみんな行ったことがあるんでね」
しばらく後、波止場へと下りながらジェーンはサイモンに言った。「割といい人なのよね。会で話す材料ができてよかったわ」
「原住民とその風変わりな古い風習だとさ」サイモンは言った。
「原住民でもないくせに、その言い方はないでしょ。兄さんだってロンドンから来たよそ者どものひとりじゃないの」
「けど、スタントンのおばさんほどズレていないぜ。あの人が悪いんじゃないけどな。あんまり遠くから来たんで、感じがつかめないだけなんだ。博物館にゾロゾロ行って、聖杯を見て、それが本当は何なのか知りもしないで、まあ、すばらしい、なんて言う連中と同じさ」
「聖杯があそこにあった時に、見た人たちのことでしょ?」
「そうさ。こだわるなよ」
「でもね、あたしたちがアメリカに行ったって、今のおばさまと同じことになるのよ」
「そりゃそうさ。問題はそんなことじゃ――」
悪気のないやりとりをしながら、ふたりは船つき場を横切り、灰色荘めざして坂を登り始めた。息をつくために立ち止まったジェーンは、来たばかりの方角を振り返った。突如、そばの壁にしがみつくと、目をみはったまま立ちつくした。
「サイモン!」
「なんだい?」
「見て!」
波止場に船つき場の中央に、例の絵描き、<闇>の男がいた。画架の前に折りたたみ椅子を置いて腰かけ、口のあいたナップサックを傍らの地面において、絵を描いていた。慌てている様子もなく、悠然と落ち着き払って、キャンバスに筆を走らせている。観光客がふたり、後ろに立ち止まって見物し始めたが、男は全く意に介さず、平然と作業を続けた。
「よくも《・・・》平気で坐ってられるもんだ!」サイモンは呆れていた。
「目くらましよ。決まっているわ。共犯がいて、自分があたしたちの注意を引きつけてる間に、何かしてもらってるんじゃない?」
サイモンはゆっくりと言った。「箱馬車にはほかの人間がいた形跡はなかった。農場のほうも、もう何年も空家のままみたいだったし」
「船長のところへ行って話してみましょうよ」
だが話す必要はなかった。灰色荘に着いてみると、バーニーが、波止場を見おろす階上の小部屋に陣《じん》取って、トムズ船長の一番大きい望遠鏡で絵描きを観察していた。老人自身は、ふたりを中に入れると、そのまま階下にいた。「この足がな」とくやしそうだった。「階段の上り降りは得意でないんじゃよ」
「ああ言ってるけど、きっとその気になれば目をつぶってても、ぼくにこいつを通して見えるのと同じくらいいろんなものが見えるんだよ」と言ったバーニーは、片目を閉じ、顔をしかめて望遠鏡をのぞいていた。「あの人、特別なんだ、気がついた? ガメリーと同じさ。ふたりとも同じ種類の人間なんだ」
「その種類が問題よね」ジェーンは考え深げだった。
「なんだっていいさ」バーニーは立ち上がり伸びをした。「変わったしゆるい。特別いい種類。<光>の側《がわ》にいる種類さ」
「それがどういうものであれね」
「そう。どういうものであれ」
「おい、ジェーン、見てみろよ!」サイモンは望遠鏡の接眼レンズの上に頭をかがめていた。「すごいぜ。あいつの上に乗っかっているみたいだ。まつげまで勘定《かんじょう》できるくらいなんだ」
「あんまり長いことあの顔を見てたんで、もう見ないでも似顔絵が描けそうだよ」バーニーが言った。
サイモンはとりこになって、レンズにへばりついていた。「これなら、そばで声を聞いてるのと変わらない。唇の動きだって読めちまう。表情のちょっとした変化も全部見えるんだ」
「そうなんだよ」バーニーはさりげなく窓の外を見、ガラスに息を吹きかけて曇った部分に小さな顔の絵を書き、ぬぐい去った。「顔の眺めは最高さ。困るのは、描いてかいる絵のほうがまるで見えないってことなんだ」
今度はジェーンが交替《こうたい》して望遠鏡をのぞいた。強力なレンズによって遠い所からとらえた顔をおっかなびっくり見つめた。眉の濃い顔は長いボサボサの髪に縁取られ、熱中のあまりひきしめられていた。「そうね、この角度からじゃ、キャンバス越しに顔を見おろしているんだから、当然、画架の裏側しか見えないわね。でも、そんなことは重要じゃないでしょう?」
「バーニーみたいな芸術家にとっては、重要なのさ」サイモンは頭を両手で抱え、大げさに芸術家ぶったポーズをとった。
「まあいいけど」バーニーは、いかにも耐えているという口調で言った。「でも、それだけじゃないんだ。もしかしたら絵に何か意味があるんじゃないかと思って」
「なぜ?」
「よくわかんないけど。トムズ船長にあいつが何を描いてるか聞かれたんだ」
「見えないって言ったら、船長はなんて言った?」
「何も」
「そらみろ」
「あの絵描きったら、まるで表情を変えないのね」ジェーンはまだのぞいていた。「ただ坐って、キャンバスをにらみつけているだけ。おかしいわ」
「べつにおかしくはないよ」サイモンが言った。「あいつ、にらむのが得意なんだ」
「そうじゃないの。ほかを見ないのはおかしいって意味よ。母さんが風景画を描いてるのを見てると、目がしじゅう上下に動いているをチラッチラッてね。描いている対象を見て、絵を見て、また対象に戻すでしょ? あの人は全然動かしてないわ」
「もう一度見せて」バーニーは姉を押しのけ、じゃまな金色の前髪を掻《か》き上げると、熱心にレンズをのぞき込んだ。「ああ、ほんとだ。なんで気がつかなかったんだろ?」とこぶしで膝を叩いた。
「それが騒ぐようなことかねえ」サイモンがいなした。
「なんでもないのかも知れないけど、ともかく、トムズ船長に言いに行こうよ」
三人は三階下までバタバタと駆けおり、家の表寄りにある、本がずらりと並んだ居間にとび込んだ。ルーファスが立ち上がって尾を振った。トムズ船長は本箱のひとつのそばに立ち、手にした小さな本を開いて眺めていた。子供たちが駆け寄ると顔を上げ、本を閉じた。
「何かあったかね、市民諸君?」
バーニーが言った。「まだあそこに坐って絵を描いてるよ。でも、ジェーンがたったいま気づいたんだけど、あいつ、写生しているんじゃないんだ。つまり、キャンバスしか見ないんだよ。ほかの物はまるっきり見てない」
「じゃ、ここで描こうが馬車の中で描こうが、全く同じことなんだ」サイモンの頭が動き出した。「ということは、描くのが目的でここまで来たんじゃないってことだ。何かほかに目的があるんだよ」
「その通りかも知れん」トムズ船長は手近の棚の本を注意深く分けて、手にしていた本をすべり込ませた。「また、その通りでないかも知れん」
「どういう意味ですか?」ジェーンがたずねた。
「絵と、べつの目的なる物は、結局同じ物かもしれんのじゃよ。困ったことに」と船長は、語れと命ずるかのように沢山の本を見つめた。「それが何七日、なんとしてもわからんのじゃ」
何時間も何時間も、彼らは交替で見張った。やがて、遅いおやつと言ったほうがよさそうな早い夕食を済ませたジェーンとサイモンは、本に包まれた居間にトムズ船長と共に腰をおろした。船長は、なじみ易い匂いのするパイプを満足そうにふかしていた。はげた頭部を細々と取り巻く灰色の髪が、温和な老修道僧の髪型を思わせた。
「もうじき暗くなるわ」ジェーンがオレンジと赤の夕焼け空を見ながら言った。「そしたら、描くのをやめざるを得ないわね」
「うん。けど、今はまだ続けてるんだよ」サイモンが言った。「やめたのなら、バーニーが見張り台からおりて来るはずだもの」そう言うと、室内をぶらぶら歩き回り、本箱と本箱の間にかかっている額に目をこらした。「この船は去年見たおぼえがある。<黄金の牡鹿《おじか》号>……<メアリーとエレン号>……<くじ号>――最後のは船にしちゃ変な名前だなあ」
「確かにな」船長が言った。「だがこの場合はふさわしい。くじ《・・》というものは、一種の博奕《ばくち》じゃ――そしてこの船の持ち主たちは、一種の博奕打ちじゃった。有名な密輸船《みつゆ》船じゃったのさ」
「密輸!」サイモンの目が光った。
「二百年前のコーンウォールでは、ごくあたりまえの商売さな。密輸……その頃は密輸とは言わなかった。公正取引と呼んどった。足の速い小船を使ってな。そりゃみごとな船ばかりだった。そういった公正取引の船が、このトリウィシックでもずいぶん造られたもんじゃ」老人はうわの空でパイプを眺め、ひねくり回した。遠い物でも見るような目だった。「だが<くじ号>の物語は暗い物語だ。わしの先祖が出て来るが、時々、そいつのことなぞ忘れられたらいいのに、と思う。おぼえているに越したことはないんじゃが……ポルペローの出じゃったよ、<くじ>は。追い風に走るさまは実に美しかった。乗組員は何年も公正取引をやっとった連中で、一度もつかまったことがなかった。ところが、ある日、ここの比嘉氏で、監視《かんし》船に追いつかれちまった。双方《そうほう》ともに発砲して、監視船のほうに死者が出た。さて、密輸と人殺しでは話がべつじゃ。<くじ>の乗組員は全員、おたずね者になってしもうた。コーンウォールでは捕方《とりかた》の目をのがれるのは難しくない。しばらくの間は全員ぶじだった。まだまだぶじでいられたかも知れなんだが、乗組員のひとりのロジャー・トムズが自首して、検事側の証人になっちまいよった。そして、問題の一発を撃《う》ったのは仲間のひとりのトム・ポッターだと教えたんじゃ」
「そのロジャー・トムズがご先祖なんですね?」ジェーンが言った。
「ああ。哀《あわ》れな馬鹿じゃった。ポルペローの衆はロジャー・トムズをつかまえて、法廷《ほうてい》でトム・ポッターに不利な証言ができんよう、海峡《チャネル》諸島行きの船に乗せちまった。だが、税関の連中が連れ戻したんで、トム・ポッターは逮捕され、ロンドンの最高裁判所で裁《さば》かれ、縛《しば》り首になった」
「ポッターは有罪じゃなかったんですか?」サイモンがたずねた。
「未だに誰にもわからん謎《なぞ》なんじゃよ。ポルペローの衆は無実じゃと言うた――中には、撃ったのはロジャー・トムズ自身じゃと言う者もおった。だが、それも身内をかばいたいからに過ぎなんだのかも知れん。トム・ポッターはポルペロー生まれじゃったが、ロジャー・トムズはトリウィシックの人間でな」
サイモンが決め付けた。「仲間を裏切《うらぎ》ったりしちゃいけなかったんだ。ポッターが本当にやったんだとしても。それじゃ殺人と変わりない」
「そうとも」トムズ船長は静かに言った。「そうとも、ロジャー・トムズはそれっきり、死ぬまでコーンウォールには足を踏《ふ》み入れなんだ。だが、裏切った真の動機は最後までわからなんだ。トリウィシックの衆の中には、ポッターは有罪で、トムズが訴《うった》え出たのは大勢の女房《にょうぼう》子供たちのためを思ってのことだと言う者もいる。積みのある唯一の人間を訴えなければ、いずれ<くじ>の乗組員全員がつかまって縛り首になる、と考えたんだとな。だがおおかたの者はトムズを疑っておる。町の恥なんじゃよ。今に到るも忘れられてはおらん」船長は窓の外の暮れゆく空を見た。丸く福々しい顔の中の青い目が、ふいにきつくなった。「最良のものも、最悪のものも、いずれもコーンウォールから生まれたのじゃ。またこの地にはいって来るものの中にも、最良と最悪とがある」
ジェーンとサイモンはとまどって彼を見つめた。何も言えないうちに、バーニーがはいって来た。
「兄さんの番だよ。船長、あのすごくおいしいケーキをもう少しもらってもいい?」
「見張りは腹の減るもんじゃ」トムズ船長は重々しく言った。「もちろん、いいとも」
「ありがとう」バーニーはドアのそばでちょっと立ち止まり、室内を見回した。「見て」と言うと、スイッチに手を伸ばして明かりをつけた。
「まあ!」ジェーンは突然のまぶしさに目をしばたたいた。「ずいぶん暗くなったのねえ。気がつかなかったわ。おしゃべりしてたもんで」
「あいつ、まだあそこに坐ってるよ」バーニーが言った。
「まだ? 暗い中に? 暗くちゃ描けないでしょ?」
「でも描いてるもん。目の前にある物を描いてるんじゃないにしても、まるっきり平然として絵具を足してるんだ。月が出たんだよ。半月だけど。望遠鏡で見るには十分明るいからわかる。ねえ、あいつ、完全に気が狂ってるんだ。違いないよ」
サイモンが言った。「おまえは馬車でのことをおぼえてないから。狂ってなんかいるもんか。<闇>のひとりなだけさ」
そう言うとサイモンは部屋を出て階段を上がって行った。肩をすくめたバーニーは、ケーキを取りに台所へ向かった。
ジェーンはたずねた。「トムズ船長、ガメリーはいつ戻るの?」
「調べに行ったことがわかったらじゃ。心配はいらんよ。まっすぐここへ来るとも」トムズ船長は杖に手を伸ばし、どっこらしょと立ち上がった。「わしも、今からでも、望遠鏡をのぞいてみるとするかな。ちょっと失礼するよ、ジェーン」
「階段、上がれる?」
「大丈夫さ、ありがとうよ。ゆっくり上がれば大丈夫」船長がびっこをひきひき出て行くと、ジェーンは出窓の腰掛けに膝をつき、波止場のほうを凝視した。外では風が吹き出していた。窓湧くのすきまで静かに哭《な》き始めるのが聞える。<闇>の絵描きもじきに寒くなるでしょうね、とジェーンは思った。なぜあそこを離れないのかしら? 何をしてるのかしら《・・・・・・・・・》?
風が強まった。月が隠れた。空は暗く、それまではおぼろげながら見えていた雲の模様がもはや見えなくなった。はっと気づくと、海の音が聞えていた。普段は、岸壁に打ち寄せる静かな潮騒《しおさい》はたゆまざる低い調べとなって生活の一部を成している。常にあるので、耳にとまることもほとんどない。だが今は、個々の波音がはっきりしていて、波の鼓《つづみ》のひと打ちひと打ちを聞き分けることができた。風と同じように海も騒ぎ出したのだ。
サイモンとトムズ船長が居間に戻って来た。ジェーンは窓に映った彼らの亡霊のような姿を見て振り返った。
「見えなくなっちまった」サイモンが言った。「光がないんだ。行ってしまったとは思えないんだが」
ジェーンはトムズ船長を見た。「どうしましょう?」
老船乗りは困った顔をして、額にしわを寄せていた。小首をかしげて風に耳を傾けた。「天気がどう出るか、少し様子を見てみよう。それは君らが思っとる以上の理由があるんじゃが。そのあとは――そのあとは、また考える」
バーニーが、大きく切った鮮やかな黄色のケーキをぱくつきながら、戸口に現れた。
「あらあら」ジェーンは海の音を聞くまいとにぎやかな声を上げた。「まだ食べてるの? ひと皿まるごと食べちゃったんじゃないの?」
「うふふ」と言うとバーニーはほおばったぶんを飲み込んだ。「ねえ知ってる? あいつ、まだいるよ」
「ええ?」三人はバーニーをまじまじと見た。
「ぼくだって、台所でただ詰め込んでたわけじゃないよ。裏から脱《ぬ》出して、この家の前の道を渡って、波止場の壁の上から見て来たんだ――玄関のドアをあけたら、光が見えちゃうかも知れないと思って。そしたら、まだいるんだよ! おんなじ場所にさ。サイモン、本当にイカれてるんだよ。<闇>であろうがなかろうが。だって、暗闇の中で画架に向かって描き続けているんだよ。まだ描いてるんだ。まっ暗闇なのに、何か明かりを持ってはいるんだ。それがぼうっと光るんで、いることがわかるんだけど、それだって大して変わりャ――」
トムズ船長がふいに肘掛椅子に腰をおろした。半ばひとりごちた。「気に入らん。すじが通らん。見ようとしても、影しかない……」
「風がずいぶんうるさくなったわ」ジェーンが身震いした。
「外にいると、波が岬にドーンとぶつかるのがよく聞えるよ」バーニーが明るく言い、ケーキの残りを口に押し込んだ。
サイモンが言った。「船長、嵐になるの?」
老人は答えなかった。椅子に前かがみになり、空っぽの暖炉を凝視していた。炉端《ろばた》の敷物の上におとなしく寝そべっていたルーファスが立ち上がり、キューンと鳴きながらその手をなめた。突風が煙突の中をヒュウーと吹き抜け、玄関ドアをガタピシいわせた。ジェーンはとびあがった。
「どうしましょう。ガメリーがぶじだといいけど。用ができた時に呼び戻せるように、何かものすごく大きな合図を決めとけばよかったわ。インディアンの狼煙《のろし》みたいなのを」
「火だけでいいんだよ。もう暗いんだから」バーニーが行った。「篝火だよ」
「このあたりでは」トムズ船長は心ここにあらずといった風だった。「篝火の起源は、それを焚《た》き続けた人々と同じくらい古い時代までさかのぼれる。警告として、世の初めより……」船長は身を乗りだし、ステッキの握《にぎ》りの上で利用手を組み合わせると、室内の様子も子供たちのことも忘れて、果てしない歳月をさかのぼって見ているかのように遠い目をして前をじっと見つめ続けた。再び口を開いた時、その声が若返り、はっきりし、力を増したように思えて、子供たちはあっけにとられてその場に立ち止まった。
「かつてこの地に押し寄せた折りには、<闇>は海からやって来た。コーンウォールの民は、その訪れを警告するため、到る所で篝火を焚いた。エストルズからトリコベンからカーン・ブリーアへと警告の火の手は燃え上がった。聖アグネスからビラヴリィと聖ベラミーンの岩山《トア》へ、さらに遠くキャドバローとラウ・トアとブラウン・ウィリーへ。最後のひとつはヴェラン・ドルーカーで焚かれ、そこで<光>は<闇>と戦った。<闇>の軍勢は海へと追い詰められた。海へのがれて再度襲わんとするところへ、老婦人が西風を呼び寄せられ、<闇>ののがれる手だてを全て浜に打ち上げさせられた。そうして<闇>の軍勢は敗北を喫《きっ》した。その折は。だが<古老>のうちの最初の者が予言《よげん》の言葉を吐いた。今一度、同じ海より、いつの日か<闇>が攻め来るであろうと」
ふいに口をつぐんだ船長を子供たちはただ見つめていた。
ようやく、サイモンがかすれ声で言った。「今……今が<闇>の攻め来る時なの?」
「わからん」とトムズ船長はいつもの声で簡潔に答えた。「違うだろう。攻めて来るのはまだ無理だ。だがそれでないとすると、わしにはまるで理解できん何かが起きているのだ」そう言うと、椅子の肘によりかかりながら立ち上がった。「そろそろ外へ出て見るか、何が見えるかを見るために」
「一緒に行く」即座にサイモンが言った。
「本当に来たいのか?」
「実を言うとね」ジェーンが言った。「外で何が起きるとしても、ここに私たちだけで残るよりは、船長と一緒に行くほうがいいの」
「その通り」バーニーが言った。
船長は微笑した。「なら、上着を取っておいで。ルーファス、おまえはここにいるんだぞ。ついて来るな」
恨めし気な赤犬を敷物の上に残して、四人は灰色荘を出、船長の痛々しい足取りに合わせて、ゆっくりとひそやかに坂をおりて行った。ふもとの、坂が船つき場と出会うあたりで、老人は子供たちを波止場の裏手の倉庫の影にそっとひっぱり込んだ。そこに、海から吹き込んで来る風になぶられながら一団となって佇んでいると、海のすぐそば、彼らから二十ヤードと離れていない所に<闇>の絵描きが見えた。男を取り巻く光のおかげではっきり見てとれた。
絵描きを初めてまのあたりにしたジェーンは息を呑んだ。他の三人が本能的に同じようにあえぐのを聞いた。絵描きは光に取り巻かれていながら、懐中電灯などどこにも持っていなかったのだ。光は絵から発しているのだった。
絵は闇の中でみどりや青や黄色の、蛇《へび》の巣めいたのたうちまわる図柄となって輝いた。初めて見たジェーンは、その形に、色に、雰囲気《ふんいき》に、即座にすさまじい嫌悪《けんお》をおぼえた。それでいて、目が引き離せなかった。男はここに到っても、まだ描き続けていた。風が服をあおり、画架を前にのめらせたので片手で抑えていなければならないほどだったが、それでも熱に浮かされたように、おぞましい色彩をたっぷり含ませた筆をふるい続けていた。ジェーンの混乱した目には、絵具をつける暇さえ惜しみ、不で自体から全ての色が出ているように見えた。
「ぞっとする!」バーニーが吐き捨てるように言った。考えなしの叫びだったが、口に出すが矢はイカ、風がさらって行ってしまった。声を限りにわめいたとしても、風上を向いている絵描きには聞えなかっただろう。
「やっとわかった!」船長が突然、ステッキで地面を突き、絵を見つめた。「これじゃ! やっと飲み込めた! 呪文を絵に描いたんじゃ! マナとレックとリール……力はすべて得に込められておる! やろうと思えばできることを忘れとった。やっとわかった……だが、もう遅い、もう遅い……」
ジェーンは怖くなって風に向かって言った「もう遅いの?」
すると風は耳もとで吠えたけり、顔を鞭打ち、塩気を帯びた水しぶきを目に投げつけた。雨もなく、稲妻も雷鳴もない。ただ風と、砕《くだ》ける波だけが聞えた。四人がよろよろと壁際に交代し、突風のために身動きならずにいる間に、船つき場の上では絵描きが広い肩を怒らせ、体をまっすぐに保つために風に逆らった。筆を投げ捨てると、絵具や紙も飛ぶように風に乗って行ってしまった。手にあるのは異様に輝くキャンバスだけだった。男は絵を頭上に差し上げると、子供たちに理解できない言語でふたことみこと叫んだ。
と、だしぬけに、それまでとは全く異なる音が生みから聞えた。小さな波止場の端から端まで轟《とどろ》き渡る、大きな吸引音だった。風が途絶《とだ》えた。強烈《きょうれつ》なう身の匂いがぷーんと鼻をついた。腐敗《ふはい》の臭いではない。泡《あわ》や、波や、魚や藻やタールや濡れた砂や貝殻《かいがら》の匂いだった。
ほんの一秒、月がちぎれた雲の陰からさまよい出た。四人はありえない巨大な横波が、波止場の両側にそり返るのを見た。そして水の中から、人間の倍の高さを持つ見上げるような黒い影が絵描きの面前にそそり立ち、さらにむせかえるほど強烈な海の匂いを運んで来た。
絵描きはキャンバスを持った腕を振り上げ、大きな黒い影に突きつけた。そして必死のあまり割れた声で呼ばわった。「とどまれ! とどまれ、命令だ!」
トムズ船長が不思議そうな小声で、半ばひとりごちた。「みどりの妖婆に心せよ」と。
第9章 荒魔術《あらまじゅつ》
四人は暗い倉庫の戸口に固まって見ていた。もはや風は絶え、波のどよめきによってのみ破られる突然の静寂《せいじゃく》は不気味だった。時折り、村の上の街道から通りすがりの自動車のエンジンのつぶやきが聞えたが、子供たちは注意を払わなかった。この世に存在するのは、目の前にそそり立ち、一瞬ごとにうねる海から登って来るそのものだけに思えた。
はっきりとは見えなかった。目鼻も、輪郭も、それとわかる形も残ってはいない。ただ、あらゆる光と星のきらめきを遮《さえぎ》り、<闇>の男の居場所を示す異様な光の輪の上にのしかかる、巨大かつ完全な暗黒の塊としてのみ認識された。ジェーンはふいに思った。ケメア岬から海に投げられるところを見た木の葉と枝の像よりも、はるかに大きい。ゆらめく篝火に屹立して待っていたあの暗い晩のみどりの妖婆も、巨大に見えたというのに……
絵描きが大声ではっきりと言った。「みどりの妖婆よ!」
サイモンはバーニーが発作的に震え出すのを見て、体を近づけた。弟の手がわずかの間、助かったと言うように、腕にしがみついてきた。
「みどりの妖婆! みどりの妖婆」
大いなる声がそびえ立つ影の塊から発せられた。夜を満たす、海のようなとらえどころのない音楽に満ちた声だった。「なぜわたしを呼ぶ!」
絵描きはおぞましいキャンバスをおろした。光が次第に薄れていた。「おまえに用があるんだ」
「わたしはみどりの妖婆だ」声は疲れたように言った。「海のために作られた、海の一部だ。おまえのためにしてやれることなどない」
「小さな頼みがひとつあるんだよ」絵描きは猫撫《ねこな》で声で、おもねるように言った。だがその声には、何千というきらめく破片となって割れてしまいそうな、ピーンと張りつめたものがあった。
声が言った。「おまえは<闇>だ。感じでわかる。<闇>と<光>のいずれとも、かかわりあいになることは許されていない。それが掟だ」
絵描きはすばやく「だが、おまえは掟によって禁じられている物を盗んだじゃないか、わかってるはずだ。古い力の品々のひとつのかけらを持っている。おまえが持っていてはならん物だ。みどりの妖婆よ、そいつをおれにくれ」
影の海のような声が、苦痛《くつう》を覚えたかのように叫んだ。「いやだ! わたしのだ! わたしの宝だ! わたしの宝!」それを聞いてジェーンはたじろいだ。声が突然、夢の中で聞いたすがるような、泣くような、子供の訴えになったのだ。
絵描きは決めつけた。「おまえのじゃない」
「私の宝だ!」みどりの妖婆は叫び、黒い影の塊は膨れ上がったように見えた。「わたしが護る。誰にもさわらせない。わたしのだ、いつまでも!」
即座に絵描きは声を落とし、やさしげに、穏やかになだめすかし始めた「みどりの妖婆よ、ティーシスの子よ、ポセイドーンの子、ネプチューンの子よ(いずれも海神の名)――深い水底《みなそこ》で宝物など、なんの必要がある?」
「おまえに必要なように、わたしにも必要なんだ」
「おまえの家は深海だ」絵描きはまだ穏やかに説得しようとした。「そんな宝物はあそこでは必要ない。おまえの全く知らぬさまざまな呪文で編まれた物だ。あそこにはそんな物のはいるべき余地はない」
影の大いなる声は頑固に繰り返した。いじましいほどだった。「わたしのだ。わたしが見つけた」
絵描きの声は震えながら、高くなった。「おろか者! 野蛮《やばん》なおろか者めが! 高等な魔術をおもちゃにする気か!」
男の絵の光はどんどん薄れて行った。子供たちの目には、もはや絵の周囲の物は見えず、みどりの妖婆の黒い影だけが空と光のかすかな灰色の光の中に浮き上がっていた。空っぽの波止場にふたつの声が響き渡るばかりだった。
「おまえは作れた物にすぎん。おれの言う通りにするんだ!」思い上がりが声音《こわね》をきつくし、命令調にした。今すぐよこせ、<闇>にこの世から吹き飛ばされんうちに!」
子供たちはトムズ船長に、やさしく、だが切迫した様子で壁際に引き戻されるのを感じた。船つき場で対立しているふたつの影の居場所からほとんど切り離された片隅へと、三人はいわれた通りにおずおずと動いた。
みどりの妖婆である影の中から、総毛立《そうけだ》つような声が発せられた。尾を引く、低い、呻《うめ》きにも似た慟哭《どうこく》で、大きくなったと思うと、つぶやきめいた泣き声へとひそめられた。と、それがハタと止み、妖婆はひとりごとをブツブツ言いだしたが、言葉きれぎれで聞き取れなかった。しばらくの沈黙の後、だしぬけに妖婆は明瞭《めいりょう》に言った。「おまえの<闇>の力は完全ではない」
「早く! 命令だ!」絵描きの声がうわずった。
「おまえの<闇>の力は完全ではない」とみどりの妖婆は繰り返した。不思議そうに、次第に自身を増して。「<闇>は、攻めて来るときには、ひとり人間としてではなく、天と地に満ちる恐ろしい大きな黒影として来る。わたしには見える。母なるかたが見せて下さった。だのに、おまえはひとりきりだ。小さな仕事をひとつするために<闇>が遣《つか》わしたにすぎぬ身で、主《あるじ》たちのひとり、大君のひとりになろうと、賭けを試《こころ》みているのだ。力の品々のひとつを自分の手で完全にすることで、偉大になろうと考えているな。だが、まだ今は偉大ではない、わたしに命令はできぬ《・・・・・・・・・・・》!」
トムズ船長が小声で言った。「わしらには見えなかったものをティーシスは見たんじゃ」
「必要な力ぐらい持っている!」絵描きは大声で言った。「さあ、みどりの妖婆よ、今のうちだ!<闇>の言う通りにしろ!」
みどりの妖婆は新たな声をたて始めた。低い唸り声で、そのあまりの不気味さに、子供たちはすくみ上がって壁にへばりついた。犬が唸るのと猫がのどを鳴らすのとの中間の音で、こう言っていた。気をつけろ《・・・・・》、気をつけろ《・・・・・》……
絵描きはたけり狂って叫んだ。「マナの呪文とレックの呪文とリールの呪文によって!」そしてキャンバスとそれに描かれた発光性の魔法を再び頭上に振り上げてみどりの妖婆に向けるのが、絵の最後のかすかなきらめきで見てとれた。だが、、何ら効果はなかった。みどりの妖婆の唸りは咆哮《ほうこう》に変わった。空気は叛意《はんい》と不安に張りつめた。ジェーンの頭の中に繰り返し叫ぶ声があった。ほっといて《・・・・・》! ほっといて《・・・・・》! ほっといて《・・・・・》! だが声に出して言われたものなのかは、最後までわからなかった。
周囲が煮えくりかえるのだけが意識された。恨めしげな怒りが耳の中で吠えたけり、岩に砕ける波のようにドーン、ドーンと脈摶《みゃくう》った。突然、世界がみどり色に光り輝いた。みどりの妖婆が一瞬、野生の力の全てをもって空にヌッと浮かび上がったのだ。あらゆる細部が生命を得て、後になっても互いに口にすることさえはばかられた皓々《こうこう》たる輝きをもって、くっきりと見えた。絵描きは悲鳴と共にのけぞり、地べたに転倒《てんとう》した。みどりの妖婆は巨大な口から怒号《どごう》を発し、村全体を抱え込むかのように恐ろしい腕を拡げ――姿を消した。海に沈んだのではなかった。風船が割れるように消えたのでもなかった。煙のように薄れ、見えなくなったのだ。だが恐怖から解放されたという感覚は全くなく、むしろ嵐が迫っているような緊張がいや増した。
バーニーがささやいた。「行っちゃった?」
「いや」トムズ船長が重々しく言った。「村じゅうに浸透《しんとう》しとる。ここに、わしらの周囲にいるんじゃ。怒り狂ったまま到る所に存在している。危険すぎる。すぐ帰るんじゃ。メリーがあの別荘を選んだのには、それだけの理由がある――<光>に守られとるから、灰色荘同様、安全じゃ」
バーニーはまだ船つき場の上の動かない人影を見ていた。おそるおそる口にした。「死んだの?」
「それはありえん」トムズ船長は静かに言い、絵描きのそばへ行って見おろした。男はあおむけになり、規則正しく呼吸していた。長い髪が黒い池のように頭のまわりに拡がっている。目は閉じられていたが、怪我《けが》している様子なかった。眠っているかに見えた。
波止場へ来る道から、車のエンジン音が聞え、次第に近づいて角を曲がった。サイモンが手を振って止めようと前に出たが、その必要はなかった。ヘッドライトの光が船つき場の四人にあたるやいなや、車は速度を落とし、ブレーキを軋《きし》らせて停止した。まぶしいライトの陰から、アメリカなまりの声が呼びかけた。「おーい! どうしたんだ?」
「スタントンさんだ!」子供たちは車のドアに駆け寄った。ふたつの人影がとまどったように降り立った。トムズ船長はさっと振り向き、よくとおる、うむを言わさぬ声で言った。「やあ――いい所へ来てくれなすった。つい今しがた、この人が倒れているのをめっけたんじゃよ。別荘へ行くところだったんじゃが――どうやら車にぶつかったらしい。ひき逃げじゃろう」
ビル・スタントンは伸びている絵描きの傍らにひざまずき、心臓をさぐり、片方のまぶたをめくり、そうっと手足をさすってみた。「生きてます……出血はしてない……折れてる所もなさそうだし……車じゃなくて、心臓発作《しんぞうほっさ》かも知れません。どうします? 救急車はありますか?」
船長はかぶりを振った。「トリウィシックにはない。緊急の備えができとらんのじゃ。警官もひとりっきりで、それもオートバイしか持っとらん……なあ、スタントンさん、一番いいのは、あんたの車に乗せて聖オースルの病院まで運ぶことじゃ。トリギーア巡査を呼んで来たりしてたら、かわいそうに、死んじまうかも知れんて」
「こちらのおっしゃる通りよ」フラン・スタントンの柔らかい声が案じた。「そうしましょう、ビル」
「ぼくは構わないよ」スタントン氏は船つき場を見まわし、すばしこい目で何かを捜した。「用心深く持ち上げないと……何か……あれだ!」と手近にいたサイモンをつついた。「あそこに板が積んであるだろ? ふたりで行って一枚取って来てくれ、早く」
力を合わせて、なんとか絵描きを板の上に寝かせると、そろそろと持ち上げたり傾けたりして、うまく車の後部座席に男の体をおろした。
「座席ベルトを回して締めてやってくれ、フラニー」スタントン氏は運転席にもぐり込みながら言った。「落ちないと思うが……船長、巡査に電話して、あとから来るように言ってくれませんか? ぼくらがはねたと思われたくありませんから」
「もちろんじゃよ」
フラン・スタントンが車のドアをあけたまま立ち止まった。「ウィルはどこ?」
彼女の夫も車のキイから手を放した。「そうだ。もう遅いのに、まだメリーと散歩ってことはあるまい。君たち、ウィルはどこだい?」
子供たちは何も言えずにスタントン氏を見つめた。ビル・スタントンの気のいい丸顔から明るさが消え、代わりに疑惑と懸念が浮かんだ。「おいおい、どうしたんだ? 何かあったのか? ウィルはどこなんだ?」
トムズ船長が咳払いをした。「ウィルは――」と言いかけた。
「心配いらないって、ビル伯父さん」一同の背後でウィルが言った。「ぼくならここだよ」
第10章 村の悪夢
「よかった」と、スタントン夫妻の車が排気温を残して波止場の角を曲がり、村の中央通りに出るのを見送りながらメリマンが言った。「ちょうど村の外へ出るのにまにあうはずだ」
「まるで誰かが爆弾でも落とすみたいない言い方だね」サイモンが言った。
ジェーンがおどおどとたずねた。「ガメリー? 何が起きるの?」
「おまえたちには、何も。来なさい」メリマンは回れ右をして、大股で足ばやに船つき場を横切り、別荘に向かった。子供たちは大急ぎで追った。
「あとでな、メリー!」トムズ船長が声をかけた。
子供たちは立ち止まり、驚いて振り返った。船長はびっこをひきながら灰色荘へ戻り始めている。
「船長? 一緒に来ないの?」
「トムズ船長ってば!」
「来なさい」メリマンは無感動に言い、子供たちを前に押しやった。サイモンたちは苛立ちと非難をこめて大伯父をチラチラ見た。ウィルだけが感情を見せずにトコトコ歩いていた。
「戻って来てくれてよかった」ジェーンは大伯父の脇にまわり込んだ。「お願い、何が起きるのか教えて。本当のことを」
メリマンは深く陰になった目でジェーンを見おろし、歩調をゆるめずに言った。「みどりの妖婆が地上に出たのだ。秩序《ちつじょ》も形も持たぬ自然の荒魔術の全勢力が、今宵《こよい》この地に解き放たれる。<光>の力はあらかじめ取り計らってあったゆえ、別荘と灰色荘は守ってくれる。だが他の場所は……トリウィシックは今夜はものに憑《つ》かれたようになる。気楽な村ではなくなのだ」その深い声の緊張と暗さに、子供たちは不安に満たされ、ビクビクしながら、曲がりくねった路地や段々を大伯父の隣りで小走りに通り、別荘の入り口にたどり着いた。そして、獲物を追うフクロウをのがれて地下にもぐるネズミのように、明るい室内に転がり込んだ。
サイモンはつばを呑み込み、息を取り戻すと、慌てたのが少しはずかしくなった。そこでけんか腰になってウィルに言った。「どこに行ってたんだよ」
「人と話してたんだ」
「へえ、で、何がわかった? ずいぶん長いこと消えてたじゃないか」
「たいしたことはわからなかったよ」ウィルは穏やかに言った。「みんな、もう起きてしまったことばかりだった」
「じゃ何も行くことはなかったんだ」
ウィルは笑った「全くだ」
サイモンは一瞬、目をむいてウィルを見たが、すぐに腹立たしげに横を向いてしまった。ウィルはジェーンをちらりと見て、ウインクした。ジェーンは残念そうな笑顔を返したが、ウィルが背を向けたあともずっと観察していた。サイモンはけんかを売ってたのに、あなたは買わなかった。と彼女は考えた。時々、おとなみたいな態度をとる。あなたは誰なの、ウィル・スタントン?
声に出しては、「ガメリー、あたしたちはどうすればいいの? あたしとサイモンとで二階から見張ってましょうか?」
「おまえたちには寝てほしいな」メリマンは言った。「もう遅い時間だ」
『寝ろ?」バーニーの声は誰のにもまして憤慨していた。「せっかく面白くなって来たところなのに!」
「面白いという表現もあるか」メリマンの骨張った顔は厳しかった。「もう少ししたら、違う表現を思いつくだろうよ。言われた通りにしなさい」言葉には反論を許さぬ険《けわ》しさがこもっていた。
「おやすみなさい」ジェーンがおとなしく言った。「おやすみなさい、ウィル」
「じゃ、みんな、またあした」ウィルはあっさり言うと、建物のスタントン家側の半分に姿を消した。
ジェーンは身震いした。
「どうした?」サイモンがたずねると、
「誰かがあたしのお墓の上を歩いたんでしょ……なんでかわからないわ。風をひいたのかしら」
「熱い飲み物を持って行ってあげよう」メリマンが言った。二階に上がると、サイモンは寝室を結ぶ廊下に立ち止まって、絶望に駆られたような激しさで頭をかきむしった。「滑稽《こっけい》だよ! めちゃくちゃだよ! たった今まで、あのものすごい、すさまじい……あの、あの生き物《・・・》を見てたっていうのに……ガメリーが現われたらあっという間に、ココア片手におやすみなさい、だぜ」
バーニーが大あくびをした。「うん、そうだ……けど……くたびれた……」
ジェーンは再び体を震わせた。「あたしも着かれてる、とは思うのよね。よくわからないの。変な気分なのよ。まるで――うんとかすかな、ブーンて音が聞えない? ずっと遠くで」
「いいや」サイモンが答えた。
「ぼく眠い」バーニーが言った。「おやすみ」
「ぼくも寝るよ」サイモンはジェーンを見た。「おまえ、大丈夫か? ひとりで」
「もし何か起きたら、目にもとまらない速さで兄さんの部屋に駆け込んで、ベッドの下に隠れるわ」
サイモンは少しほほえんだ。「そうだな。ひとだけ確かなことがあるぜ。今夜は三人とも一睡《いっすい》もしないだろうよ」
ところが、しばらくしてジェーンの寝室の戸をそっと叩いたメリマンは、手にした盆に湯気の立つカップを三つのせたままだった。「わざわざ作ってやることはなかった。サイモンもバーニーも、もうぐっすり眠り込んでいる」
ジェーンはパジャマと化粧《けしょう》ガウンを着て窓辺に腰をおろし、外を見ていた。振り向きもせずに、「兄さんたちに魔法をかけたの?」
メリマンは静かに言った。「いいや」その声の中の何かがジェーンを振り向かせた。メリマンは戸口に立っていた。突き出た白い針金のような眉毛の下の、黒い影の池の中で目がキラキラしている。あまりに背が高いので、小ぢんまりした部屋の中にいると、ふさふさした白髪が天井にふれた。「ジェーン」メリマンは言った。「おまえたちに何かしたことは一度もない。これからもせぬ。それは最初に約束したはずだ。それにここにいれば危ないことは起きぬ。それをおぼえていなさい。私のことはよく知っているだろう。おまえたちを生命の危険にさらすようなことは、今も後も、決してないよ」
「わかってるわ、もちろんよ」
「では、安心して寝なさい」メリマンは長い腕を伸ばした。ジェーン?を出してその指先に触れた。契約《けいやく》でもするように。「さあ、ココアをお飲み。薬なぞはいってはおらぬ。誓うよ。砂糖だけだ」
ジェーンは反射的に言った。「歯をみがいちゃったわ」
メリマンはクスッと笑い、「みがき直せばいい」とカップを置いて外に出、ドアを閉めた。
ジェーンはココアを持って再び窓辺に戻り、カップの暑い、なめらかな側面で指を温めた。室内は寒かった。窓からのぞいてみたが、ベッド脇のスタンドが反射して邪魔になった。つと手を伸ばしてスイッチを切ると、ジェーンは暗がりに目が慣れるのを待った。
ようやくものが見えるようになっても、わが目が信じられなかった。
海を見おろす斜面の高いところに位置する別荘からは、波止場の全景と村のほとんどが見渡せる。ところどころに街灯が黄色い光の輪をかもしている。船つき場脇に二箇所、波止場の向こうの、灰色層の前を通る道に三箇所、さらに遠く、村のそこかしこにいくつか。だが、光の輪は小さく、ほかは全て闇だった。そして闇の中には、どっちを向いても、何かがうごめいていた。初めは気のせいだと言い聞かせた。なにしろ、視野《しや》の端に動くものが見えても、よく見ようと目を向けると消えてしまうのだ。まともにはっきり見ることは、何度やってもできなかった。だがそれも長いことではなかった。
事態を変えたのはたったひとつの人影だった。男は波止場の端の海から上がって来て、すべるような妙な身のこなしで階段を上った。
ずぶ濡れだった。服は体にまとわりつき、長い髪は黒っぽくべったりと顔のまわりに貼りついている。歩くにつれて水のしずくがまわりにしたたり落ち、通ったあとに道のように残った。男はゆっくりと、右も左も見ずに、トリウィシックの中央通りに向かった。船つきバーニーごちゃごちゃ並んだ煉瓦の建物の列から突き出している小さな缶詰工場の建て増し部分の角にさしかかったが、濡れねずみの男は歩をゆるめも、脇によけもしなかった。何も存在しないかのように壁を通り抜け、一、二秒後に、反対側に姿を見せた。そして中央通りの暗がりの中に姿を消した。
ジェーンはそのあたりを見つめながら、小声で必死につぶやいた。「これは夢よ。これは夢よ」
夜は静まり返っていた。ジェーンは現実を表してくれるお守りのように、カップにしがみついていた。が、ふいにとびあがったので、ココアを半分も窓敷居《しきい》にこぼしてしまった。すぐ下、別荘の戸口付近に動くものを見たのだ。こわごわ、いやがる目を無理に下へやると、ふたつの人影が戸口を離れるのが見えた。フードをかぶり、長いマントに包まれていても、メリマンの姿は間違えようもなかった。街灯の光が秀《ひい》でた額と猛々《たけだけ》しいワシ鼻を見せてくれた。だが、同じ様にマントとフードに身を包んだもうひとりの人物が誰かわかるまでには、一秒ほど間《ま》があった。ウィル・スタントンだった。歩き方の癖でやっとわかったのだが、それまでそんな特徴があるとは意識もしていなかったのだ。
ふたりは慌てず騒がず、船つき場の中央に出た。ジェーンは、窓を押しあけたい、警告の叫びを上げて道の恐怖から彼らを呼び戻したい、という熱望を感じた。だが、そうするには、不思議な大伯父とのつきあいが長すぎた。メリマンは昔から他の人々とは違っていた。予想もつかない力を持ち、これまでに会った誰よりもひとまわり大きく見える。現にいま起きていることも、メリマンのしわざなのかも知れないのだ。
「<光>のひとりなのよ」ジェーンは重々しく声に出して言い、初めてそれらの言葉の、不可能に近い真の重みを耳にした。
それから、考え深げに少し訂正した。「<光>の人たちなのよ」そしてフードをかぶった小柄なほうの人影を見、奇妙にも、ウィルに超自然的なところがあるとは信じたくない部分が自分の中にあるのを発見した。ウィルのにこやかな丸顔、灰青色の目とまっすぐな茶色の髪は、この冒険が始まった頃から、地味で心なごませる物に見えていたのだ。ウィルがメリマン・リオンと同種の人間とすると、心がなごむどころではなくなってしまう。
次の瞬間《しゅんかん》、ジェーンは、メリマンとウィルと、まわりのもの全てを忘れてましった。灯《ひ》が見えたのだ。
それは海に出ている船の灯だった。星のように明るく、波のように少し揺れている。暗闇の中で揺れ動く灯は、あまりにも近づきすぎていた。かなりの大きさの船の灯なのは明らかなのに、ケメア岬の下の岩場荷近すぎる。ぞっとするほど、危険なほど近づいている。かすかな叫び声がいくつか聞こえ、中のひとつが呼ばわったようだった。「ジャック・ハリーの船の灯だ!」海から視線をもぎ離すと、波止場が突如として人であふれるのが見えた。漁師、女、子供、誰もが走り、手を振り、海をゆびさしていた。じっと動かぬメリマンとウィルの前を通り、周囲にひしめいたが、ふたりのことなど見えていないふうだった。
すると、ジェーンの目に、場面がぼやけ、一瞬おぼろになったような気がした。視野が晴れると何もかも一瞬前と同じで、村人の群れに服装や外見の点で何か変化を感じたものの、確信は持てなかった。深く考える間も与えず、恐怖が群集をとりこにしたように見えた。異様にゆらめく光が波止場に拡がった。突然、波止場の岸壁を越えて大きな松明《たいまつ》を掲《かか》げた幾艘もの舟が押し寄せて来た。見慣れぬ幅広の舟の中は漕ぎ手でいっぱいだった。むきだしの頭から赤い髪をなびかせた者もいれば、黄金の猪《いのしし》をてっぺんに飾り、尖《とが》った鉄の鼻おおいを突き出させたずんぐりしたかぶとを頂いた者もいる。舟が浅瀬《あさせ》に着くと、漕ぎ手たちはオールからパッと離れ、剣や燃える松明をつかんで次々にとびおり、群れをなしてしぶきを上げ、閉じた窓のこちら側でも恐ろしくはっきり聞こえる血も凍《こお》るようなわめき声を上げて、浜へとなだれ込んだ。村人は悲鳴を上げて散らばり、四方八方に逃げた。何人かは棒やナイフで侵略者《しんりゃくしゃ》と戦った。だが赤毛の男たちのねらいはひとつで、剣をふるって手あたり次第に切りつけ、なぎ払い、切り刻んだ。その恐るべき冷酷《れいこく》さは、これが同じ人間かとジェーンに思わせた。血が鮮やかに船つき場からあふれて海へとつたい落ち、波をどんより黒っぽくにごらせた。
ジェーンは胸が悪くなってよろよろ立ち上がり、顔をそむけた。
震えながらいやいや窓辺に戻った時には、悲鳴もわめき声もほとんど絶えていた。最後まで逃げのびた人々と吠えたける侵略者たちは、ずっと遠くの道を駆け抜けており、不気味な赤い光が村全体に拡がり、空全体に映《は》えていた。トリウィシックが燃えているのだった。炎が波止場の向こうの坂の上の家々をなめ、いくつもの窓からまっかに輝いた。さっと炎になぶられたと思うと、波止場の突きあたりの倉庫が火を噴いた。レンガも石も、なぜか木のように盛んに燃えている。必死で把手《とって》をさぐると、ジェーンは窓を押しあけた。火がはぜ、ぼうぼうと燃え立つのが聞え、明るく照らし出された煙が大波のような雲となって噴きつけた。炎の反射か波止場の海面に踊っている。取り乱したジェーンには、藻のが燃えているというのに臭いもなければ熱さも感じられないことに気づくゆりとはなかった。
船つき場の脇の道には、初めから何ひとつ見なかったかのように、マントに包まれたメリマンとウィルがじっと立っていた。
「ガメリー!」ジェーンは金切り声を上げた。火が別荘に燃え移るかもしれない。とそのことしか頭になかった。「ガメリー!」
と、外の物音がハタと完全に止《や》み、自分の声だけが聞えた。かん高い絶叫と思ったものは、ほんのささやきにすぎなかったのがわかった。信じられず見守るうちに、火はおさまって消え、空の赤い光も薄れてしまった。もはや血も、血の跡もなく、トリウィシックの波止場のものは全て、海から赤毛の殺戮者《さつりくしゃ》が来たことなど初めからなかったかのようだった。
どこかで犬が遠吠《とおぼ》えした。
冷えきり、おびえて、ジェーンは化粧が運をしっかり体に巻きつけた。サイモンを呼んで着たくてならなかったが、窓から目を離すことができなかった。ウィルとメリマンの姿は、相変わらず海のすぐそばに佇んでいる。まわりで起きたことに気づいている調子はまるでない。
波止場の水面がきらめき輝く膜《まく》となった。見ると頭上の月が雲の陰から解放されたのだった。前とは異なる光が世界を照らしている。冷たいが穏やかで、全てを黒と白と葉色に見せている。そこへ、どこからともなく、声がした。細い、この世ならぬ声で、胸をしめつけるような高い一本調子で、同じ文句を三度唱《とな》えた。
時は来たが人が来ぬ
時は来たが人が来ぬ
時は来たが人が来ぬ
ジェーンは波止場一帯を眺めまわしたが誰も見えない。下のふたつの動かない人影だけだった。
再び犬がどこか見えない所で遠吠えした。再び、不思議なブーンという音が空中で聞え、さらに、遠く村のあちこちで、べつの声がいくつも上がり出した。
「<くじ>が! <くじ>が!」と叫んでいるように思えた。すると、ひときわ鮮やかに、男の声が叫んだ。「<くじ>が追いつかれた!」
「ロジャー・トムズ! ロジャー・トムズ!」
「かくまうんだ!」
「洞窟に連れてけ!」
「監視船《かんしせん》が来るぞ!」
女が泣いた。「ロジャー・トムズ、ロジャー・トムズ……」
波止場は人々であふれた。歩き回る者、案じ顔で沖を見つめる者、せわしく行き来する者。今度はトリウィシックでの知人たちに似た顔が見えるような気がした。ペンハロー、ポーク、フーヴァー、トリガーレン、トーマス、みんな気をもみ、みんなとまどい、陸と海の両方に不安な視線を送っている。互いの間にさえつながりはなく、それぞれが夢遊病者、夢走病者、悪夢に必死にのたうちまわる者に見えた。それが一斉にたまぎるような悲鳴を上げたかと思うと、最後の幻《まぼろし》が海から突っ込んできた。
見た目に恐ろしくはなかったが、どれよりも心臓をすくみ上がらせた。船だった。黒い船で、一本マストに横帆を張り、ボートを後ろに従えている。しめやかに、見る者の勇気を挫《くじ》くように、船は海から波止場へ滑《すべ》り込んで来た。ほとんど水に触れず、波の面《おもて》をかすめて、乗組員はいなかった。黒い甲板《かんぱん》のどこにも、人っ子ひとり動いていない。陸にたどりついても、止まるどころか前進し続け、沈黙のうちに波止場と家々の屋根と丘の上を通過して、トリウィシックを抜け、荒野へと向かった。すると幻の船に生命の証《あか》しを拭《ぬぐ》い去られたかのように、群集もまた消えてしまった。
気がつくとジェーンは痛いほどの力をこめて、窓敷居を握りしめていた。だから眠らせたがったんだわ、としょんぼりと考えた。安全に、何も知らずに、頭の中に毛布をかけておかせたかったんだわ。だのにあたしは、ひと晩のこととは思えないほど沢山の悪夢を見てしまった。一番恐ろしいのは、あたしの目がさめてるってこと……
もう一度、おそるおそるカーテンのすきまからのぞいた。メリマンとウィルが船つき場の中央に歩み出た。波止場の反対側から、マントとフードに包まれた三つめの人影が加わった。背すじを思いきり伸ばし、村と丘のほうを向いて、メリマンが両腕を上に掲げた。何ひとつ見えないにもかかわらず、ものに憑《つ》かれた暗いトリウィシックの村から、巨大な怒りの波が咆哮《ほうこう》しながら押し寄せ、彼らにのしかかったように思えた。
ジェーンはもはやたまりかねた。苦しげな呻《うめ》き声と共に部屋を横切り、ベッドにとびこんだ。掛けぶとんを頭の上にしっかりかぶると、息詰《いきづ》まる思いで震えながら横たわっていた。身の危険は感じていなかった。別荘は守られているとメリマンが誓《ちか》った。その言葉を信じていたのだ。波止場にいる三人の身を案じているのでもなかった。あれほど奇怪《きかい》な出来事の連続にも耐えられた者たちだ。何があっても死にはしまい。どのみち、メリマンに害を及ぼせるものなどないのだ。ジェーンにとりついているのは、別種の恐怖だった。未知のものへの恐怖、外の陸や海を駆け抜けている力がなんであれ、それに対する身の毛のよだつような恐怖だった。けもののように自分の片隅に、その力をのがれて安全に縮こまっていたかった。
その通りにしてみると、奇妙なことに、恐怖は大きくて定まらぬぶん、立ち去るのも早かった。
次第に震えが止まり、体が暖まった。緊張していた四肢《しし》がくつろぎ、息遣《いきづ》いが深く、ゆるやかになった。やがてジェーンは眠った。
第11章 「ロジャー・トムズ!」
波止場で、フードに包まれた影のようなウィルとトムズ船長を両脇に従えて、メリマンは両腕を、半ばすがり、半ば命を下すようにますます高く上げた。とをおおう闇に向かい、よく響く深い声で、マナの呪文とレックの呪文とリールの呪文を唱えた。
まわりじゅうから、怒りが波のように、目に見えぬ力となって叩きつけた。
「いやだ!」憤怒《ふんぬ》に満ちた大声で、みどりの妖婆は叫んだ。「いやだ! ほっといて!」
「来るのだ、みどりの妖婆よ!」メリマンは呼ばわった。「三つの呪文が命じるのだぞ」
「命じられるのは一度だけだ」声は吠えた。「だから海から出た。命ぜられたから出てきた。二度はきかぬ。二度はきかぬ!」
「来るんだ、みどりの妖婆よ!」ウィルの澄んだ声が、闇の中のひとすじの光のように、朗々《ろうろう》と響いた。「ぼくらの言葉に耳を傾けよと、白い女王がお命じになった。おまえが水底に去る前に呼び出すことを、ティーシスがお許しになったんだ」
怒りが津波のように三人を包んだ。背後では海が唸り、どよめき、足の下では大地が震えた。
だが、目には見えないながらも、それ《・・》はやって来た。恨みに煮えたぎりながら、三人のぐるりにあった。
メリマンが言った。「みどりの妖婆よ、宝はおまえのものではない。取っておくことは許されぬ」
「海の中にあったのを、わたしが見つけたんだ」
「それも、<光>と<闇>が一戦交《まじ》えたからこそだ。落ちたまま、失われていた物なのだよ」
「海の中に、母なるかたの国にあった」
「これこれ、わが友よ」トムズ船長が、丸みを帯びたコーンウォールなまりでやさしく言った。「海のものでないのはわかっとるじゃろうが。力の品の一部なのじゃよ」
「友などおそらぬ。<光>と<闇>の間に何があろうと、どうでもいいことだ」
「ほう」メリマンが言った。「この力の品が完全に<闇>の力に落ちてしまったら、どうでもよくはないことがわかるだろう。彼らは既にこの片割れを手にし、残りをおまえから取る気でいる。それがもし<闇>の手に渡って、完全になった品の力が彼らのものになれば、人の世は無残なことになる」
三人を取り巻く声はつぶやいた。「人間などわたしには――」
「人間などわたしにはかかわりがない?」ウィルの声が軽やかにはっきりと、夜を切り裂いた。「そう信じてるのか、みどりの妖婆よ? あらゆる点でかかわってるじゃないか。人間がいなければ、おまえは存在しない。人間は毎年、おまえを作ってくれる。毎年、海の中に投げ込んでくれる。人間がいなかったなら、みどりの妖婆が生まれることもなかったはずだ」
「作ってくれる《・・・》?」大いなる声は苦々しげだった。「自分のことと、自分のためを思ってやっているだけだ。生き物の形に作りこそすれ、供物《くもつ》を作るのと少しも変わらぬ。いにしえには、雄鶏《おんどり》や、羊や、人間をあやめて捧《ささ》げた。わたしはただの供物なのだ。<古老>よ、供物にすぎぬ。生命を持つと思われていれば、かつて雄鶏や羊や人間をあやめたように、わたしをあやめて贄《にえ》となすだろう。そうする代わりに人間は、木の枝や葉でわたしを人形《ひとがた》にこしらえる。まねごとなのだ。生き物の代用にすぎぬ。真の生を、深い水底へ行けるだけの生命を与えて下さるのは白い女王だけ。だが、今回は、別の生がわたしの中にめざめた。地上へ、海から引き出されたからだ……」声は物思わしげになり、ずるそうな響きをかすかに帯びた。「……<闇>のおかげだった」
「そのことは忘れろ」メリマンが言下に命じた。「自分本位ということにかけては、<闇>の右に出る者はいない。ティーシスがそう言われただろう」
「自分本位!」たちまち苦々しさが戻り、前にも増して深まった。「みんな自分のためばかり。<光>も、<闇>も、人間も。荒魔術を迎え入れてくれる所など、海のほかにはひとつもない……心にかけてくれる者も……心にかけてくれる者も……」
三人の<古老>は思わず後ろによろめいた。怒涛《どとう》が再び、唐突に押し寄せ、みどりの妖婆の怒りがはやる巨大な心臓のごとく、周囲に激しく脈摶《う》ったのだ。
よろめきながら、メリマンは体勢を立て直した。長いマントがひるがえり、フードが脱げて白い蓬髪《ほうはつ》を街灯の光にきらめかせた。「心にかけてくれた者はひとりもおらぬのか? みどりの妖婆よ、ひとりもか?」
「ひとりも!」とてつもない声は村を抜け、丘をめぐり、その後ろの荒野を越えて響きわたった。遠い雷鳴のように響き、こだました。「生ある者はひとりも! ひとりも! ひとり……も……」荒々しさが消え、雷鳴が少しおさまった。長い一瞬、三人は大うねりが砕けるあたりの崖を洗う、落ち着かぬ波音だけを耳にしていた。ようやくみどりの妖婆が口をきいた。「ひとりだけ。あの子だけ」
「あの子?」ウィルは思わず口走った。むきだしの不信がかすかに声を縁取った。ちょっとの間、自分を指しているのかと思ったのだ。
メリマンがウィルを無視して、低い声で言った。「おまえによかれと願った子だね?」
「作られた時に岬にいた」とみどりの妖婆は言った。「古い言い伝えを教えた者がいた。崖に上げられる前のみどりの妖婆に触れて願いをかける者は、その願いを叶《かな》えられると。あの子は、どんなことでも願えたのだ」声が初めて、暖かみを帯びた。「ほしい物はなんでも望めたのだ、<古老>よ。あの力の品の失われたかけらをさえ。だが、手を触れた時、あの子は人間を見るようにわたしを見てこう言った。『あなたが幸せになれすまように』」
かすかな雷鳴も絶えた。波止場は沈黙し、その思い出にはちきれんばかりとなった。
「あなたが幸せになれますように《・・・・・・・・・・・・・・・》」みどりの妖婆はそっと言った。
「それで――」ウィルは言いかけたがやめた。メリマンの手が腕に触れたのだ。周囲の空気は明るく、軽く、穏やかになりつつあった。このひと晩は、トリウィシックはみどりの妖婆のあらゆる気分をとらえるレンズの役を果たす。反響する妖婆の声はそっとひとりごとをつぶやいていた。一瞬ごとに、そのあたりの大地と海が安らかになっていくようにウィルには思えた。
春の夜の薄闇《うすやみ》に冷たい声がした。「あの娘も自分のためにそう言ったんだ。ほかの者と変わらん」
沈黙があった。やがて船つき場のはずれの暗がりから絵描きが、<闇>の男が歩み出た。黄色い街灯の光の中に佇み、黒いごつごつしたシルエットとなって彼らのほうを向いていた。
「自分本位」と空に向かって言った。「自分本位さ」それからメリマンに向き直った。「こいつの主人はおれだ、おまえじゃない。海から呼び出した呪文《じゅもん》はおれのものだった。命令するのはおれだ。<古老>よ、おまえじゃない」
ウィルは低い唸りを周囲に感じ、街灯の光が震えるのを見た。
メリマンが言った。「もはや命令すべき問題ではない。やさしさを持ってあたるべきことだ。海から呼び出した呪文にはもはや何もできぬのだ」
絵描きは笑いとばした。半円を描いて振り返ると、両腕を突き出した。「みどりの妖婆よ!」とどなった。「宝を取りに戻って来たぞ。<闇>の怒りが下る前にもう一度だけ機会をやる!」
唸りは雷のような大咆哮《ほうこう》に変わったが、すぐに止んだ。
「気をつけろ」トムズ船長が小声で言った。「気をつけるんだ」
だが<闇>の男の命令調は今や氷のようだった。過去何世紀にもわたって人々を恐怖と屈従《くつじゅう》に陥《おとしい》れて来た、冷酷で絶対的な傲慢《ごうまん》さだった。「みどりの妖婆!」男はよぞに呼びかけた。「おまえの宝を<闇>に渡せ! 従え! <闇>が最後にもう一度だけ、戻って来てやったのだ。みどりの妖婆よ! 渡すなら今だ!」 ウィルは手を握りしめ、爪《つめ》が掌《てのひら》に食い込むようにした。<古老>といえども、今のような命令が精神に咬みつくのを感じないわけにはいかなかった。どうなることかと息を詰めて見守った。このような挑戦の言葉が、<光>にも<闇>にも人間にも属さぬ荒魔術の威力《いりょく》に、どういう効果を及ぼすかわからなかったのだ。
周囲の空気は<闇>の使いの思い入れの激しさに鳴り響きねウィルたちの頭を混乱させた――ところが次第に、微妙に、変化が始まった。空気中の力がたじろぎ、それとわからぬほどながら、前にみどりの妖婆が絵描きを昏倒《こんとう》させた時以来、ずっと地球のこの小さな一角を支配していた魔法の形に戻った。荒魔術が、不敗の猪トルーアスのように、あらゆる挑戦をはねつけているのだった。ウィルは大きく息を吸い込んだ。何が起きるか見当がつき出した。
船つき場にぽつんと立った絵描きは、体を反転させ、よろめき、見えない何かを捜すかのように空中を手さぐりした。村のはるか上方の闇から、異様な声が前と同じ様に呼ばわった。
時は来たが人が来ぬ
時は来たが人が来ぬ
時は来たが人が来ぬ
そして朗々たる文句のあとの静けさに、ささやき声が混じり出した。沢山の声が次第に、つぶやき、呼び交わし、ささやいていた。ロジャー《・・・・》・トムズ《・・・》! ロジャー《・・・・》・トムズ《・・・》! 影が四方八方から波止場に群れをなして来た。その憑かれた一夜のもろもろの幻影や物《もの》の怪《け》や亡霊が、小さな海村が経《へ》て来たもろもろの生気から抜け出して来たトリウィシックの過去の民が、時間の中の暗黒の一転に集中したのだった。ロジャー《・・・・》・トムズ《・・・》! ロジャー《・・・・》・トムズ《・・・》! 彼らは呼んだ。初めはひめやかに、次第に大きく、大きく。召喚《しょうかん》であり非難であり裁きであり、波止場をめぐり海を越えて容赦《ようしゃ》なく繰り返された。
黙《もだ》したまま、目立たぬように、三人の<古老>はフードをかぶり、波止場の片側に揃って寄って、壁から落ちる影の中に、人目につかず佇んだ。
船つき場の中央では、ひとりになった黒髪の絵描きがのろのろと円を描き、信じられぬという面持ちで、過去が自分になだれかかり長年の恥部《ちぶ》に仕立てあげるのを見聞きしていた。男は必死に努力して両腕を上げ、弱々しく空気を押した。
だが、攻撃者にあらぬ罪を着せようと荒魔術が村から呼び出したやみくもな怒りは、押して突き離せるものではなかった。「ロジャー《・・・・》・トムズ《・・・》! ロジャー《・・・・》・トムズ《・・・》!」声は怒号となり、強まり、ますます要求した。
絵描きは夜空に絶叫した。「おれは違う! 人違いだ!」
「ロジャー・トムズ!」一斉に勝利の声が上がった。
「違う! 違う!」
過去の村人たちは絵描きを取り巻き、ちょうど現在の村人が出来たばかりのみどりの妖婆を崖から突き落とすために運びながら周囲に集まり、声をかけあって押したように、叫び、呼びかけ、ゆびさしていた。
すると夜の中から、暗い内陸の荒野から、トリウィシックの屋根を越えて再び、コーンウォールの幻の船、少し前に深夜の海から出てきた、一本マストに横帆を張り、後ろに小船を曳航《えいこう》した船が現われた。音もなく家々と道と船つき場の縁をかすめて来た。だが今度は無人ではなく、舵《かじ》をとっている者がいた。ジェーンが海から滑り出るのを見た溺《おぼ》れた男が、ずぶ濡れのまま思いつめたように、甲板の舵輪《だりん》のそばに立ち、右も左も見るとなく、黒い死の船を操っていた。喜ばしげな叫びと共に、影の大群はもがく絵描きをひきずりながら船の上へと賭け上がった。
「ロジャー《・・・・》・トムズ《・・・》! ロジャー《・・・・》・トムズ《・・・》!」
「違う!」
幻の帆が再び、生ある人間には感じられぬ風をはらみ、船は去って行った。海へ、海の中へ。トリウィシックの船つき場には<古老>たちだけが残された。
ジェーンは始めは熟睡《じゅくすい》していたのだが、夜半を過ぎた頃から夢がもぐり込み出した。絵描きが得を描いているのが見えた。その晩、窓から見たあらゆる恐ろしい物を再び見た。ロジャー・トムズや公正取引をしていた人々を見、<くじ>と呼ばれる船が監視船から逃げ、ニ艘《そう》の間で銃声が響き渡るのを見た。夢の中で<くじ>は、海から出てきて陸の上を走り去るという考えられないことをした黒い幻の船になった。
寝返りを打ちながら呼び交《か》わす声を聞いたように思った。ロジャー《・・・・》・トムズ《・・・》! ロジャー《・・・・》・トムズ《・・・》! と。そして声が薄《うす》れると、次第に夢の中にみどりの妖婆がはいり込んで来た。前に夢で見た時のように姿を見ることはできなかった。影にまぎれ見えにくく、声が聞えるにすぎなかった。不幸《ふしあわ》せそうだった。かわいそうに《・・・・・・》とジェーンは思った。いつも不幸せなんだわ《・・・・・・・・・・》。
ジェーンはたずねた。「みどりの妖婆、あの沢山の恐ろしいものはなんなの?」
「荒魔術だ」夢の中でみどりの妖婆は辛そうに言った。「人間の精神《あたま》にあのように働きかけるのだ。彼らがそれまでに味わったもろもろの恐怖、彼らの先祖が味わった恐怖の全てが引き出される。コーンウォールの民が常に恐れて来たいにしえの亡霊の全て。それがあれだ」
「でもなぜ今夜になって出て来たの?」
みどりの妖婆はためいきをついた。海のような、深い吐息《といき》だった。「わたしが腹を立てたからだ。わたしは決して腹を立てぬ。が、<闇>の男が怒らせた。荒魔術の一部であるものたちの怒りを引き出すのはよくないのだ。村はわたしの怒りを担《にな》い、怒りに乗り移られた……」
「もう済《す》んだの?」
「もう済んだ」とみどりの妖婆は再びためいきをついた。「荒魔術が<闇>の男を連れ去った。<闇>の使者を。あれはひとりで動き、主たちを欺《あざむ》こうとした。それゆえ主たちも守ろうとはせず、荒魔術の手で<時>の外へ連れ去ることができた。まともな形では二度と戻れぬ……」
「でも聖杯を持ってたのよ! 聖杯はどうなったの?」
「聖杯など知らぬ」みどりの妖婆はそっけなかった。「聖杯とはなんだ?」
「なんでもないのよ」ジェーンはかろうじて言った。「結局、あなたの宝物は取られちゃったの? 渡したの?」
「わたしのだ」すばやくみどりの妖婆は言った。「わたしが見つけた。だのに、誰もあれを持たせておいてくれぬ」
「<闇>にやっちゃったの?」
「やらぬ」
「ああ、よかった」ジェーンは言った。「本当にそれはそれは大事な物なのよ。<光>にとって。みんなにとって。本当なの。あなたを作った人たちにとって、あたしの兄弟やあたしにとって、あたしたちみんなにとって」
みどりの妖婆が言った。「おまえに?」その深い悲しげな声は、洞窟に打ち寄せる波のようにジェーンの周りでこだました。「わたしの宝が、おまえにとって大事?」
「もちろんよ」
「では、そら」巨大な声は言った。「お取り」
ジェーンはその瞬間の自分が夢の中で何をしていたか、後になってもどうしても思い出せなかった。立っていたのか、坐っていたのか、横になっていたのか、屋内だったか屋外だったか、夜か昼か、海の下か石の上か。おぼえているのはただひとつ、大いなる驚喜《きょうき》の波だけだった。「みどりの妖婆! あなたの宝物をくれるの?」
「そら」と声が繰り返すと、ジェーンの手の何か小さくいびつな鉛の筒があった。聖杯を見つけるための冒険の最後で海に落ちた筒――聖杯の秘密を解き明かしてくれる唯一の古文書《こもんじょ》が納められている筒。
「お取り」とみどりの妖婆は言った。「おまえは自分のためではなく、わたしのために願いをかけた。誰もしてくれなかったことだ。宝はあげる。お返しに」
「ありがとう」ジェーンはささやいた。周囲はまっくらで、世界中に、無の中に佇むジェーンと、大地の木の枝葉《えだは》で作られていながら海の子であるこの不思議な自然の生き物の、体を離れた声だけが存在しているかのようだった。
「ありがとう、みどりの妖婆、代わりにもっといい宝物を見つけてあげるわ」パッと頭にひらめいたのがあった。「これを見つけたのと同じ場所に置いておくわ」
「もう遅い」深く悲しげな声は言った。「もう遅い……」轟き、こだまし、次第に薄れて行った。「これから母なるかたのもとへ、深い水底へ行くのだ」暗闇の奥でこだまは死に絶えた。最後のささやきだけが漂っていた。「もう遅い……もう遅い……」
「みどりの妖婆!」ジェーンは取り乱した。「戻って来て! 戻って来て!」なすすべなく手をさしのべて、夢中で暗闇の中に駆け込んだ。「戻って来てえ!」
と同時に夢が溶け、目がさめた。
さめてみると、そこは明るく陽の射し込む白い小部屋の中だった。陽射しは窓辺の明るい黄色のカーテンや、彼女のあごまで引き上げられた黄色い掛けぶとんと同じくらい楽し気だった。前の晩に半ばあけたままだった窓からのそよ風にカーテンがやさしく揺《ゆ》れた。
そしてジェーンの手に握りしめられていたのは、長いこと懐中にあった岩のようにみどりのしみが浮き出ている、ちっぽけていびつな鉛の筒だった。
第12章 古い農場
寝起きのボサボサ頭にしわだらけのパジャマをなびかせて、子供たちはあいさつもせずにメリマンの寝室に駆け込んだ。
「どこかしら?」
「下じゃないか? 行こう!」
メリマンとウィルは、何時間も前に起きて着替えたかのような顔で、天井の低い細長い居間で、落ち着き払って朝食をとっていた。サイモンとジェーンとバーニーが転がり込むと、メリマンは大きく拡げていた新聞をガサゴソおろし、高い鉤鼻《かぎばな》に意表を突くように乗せた金縁の老眼鏡《ろうがんきょう》ごしに彼らを見た。
ジェーンが黙って差し出した古い鉛の筒を見て「うむ」と言った。
ウィルはトーストを皿に置き、丸い顔一杯に笑みを浮かべた。「よくやったね、ジェーン」
ジェーン入った。「あら、あたしは何もしなかったわ。これはただ――ただ現われたのよ」
「願い事をしたじゃないか」ウィルは言った。
ジェーンはまじまじとウィルを見た。
「ねえ、あけないの?」バーニーがしびれをきらした。「あけようよ、ガメリー」
「ふむ」メリマンはジェーンの手から小さな鉛の筒を取り、テーブルに置いた。しわの刻《きざ》まれた顔の中で黒い目がひらめいた。
ジェーンはまだ目をまるくして、ウィルと大伯父を交互に見ていた。「あたしが持ってること、知ってたのね。知ってたんだわ」
「そう願っていただけだよ」メリマンがやさしく言った。
サイモンが、祈りでも唱えているように、指を一本、筒の上に乗せた。「長いこと海の中だったからなあ。見ろよ。藻なんかがびっしりだ……水がはいっちゃわなかったかなあ? はいってたら、ぼくのせいだ。去年の夏にね、何がはいっているのか見ようと一度だけあけたんだ。また閉めたけど。考えてもみろよ。もし古文書がすっかりだめになってたら、もしきっちり閉まってなかったとしたら……」
「やめてよ」ジェーンが言った。
メリマンは細くしなやかな指で筒をつまみ上げ、みどりのしみだらけの灰色の金属をそっと引いたりひねったりした。と、ふいに一端《たん》がキャップのようにはずれた。中には、小さく巻かれた厚手《あつで》の羊皮紙《ようひし》が、筒の本体から指し示す指のように突き出ていた。
「ぶじだ!」サイモンの声はかすれていた。慌てて咳払いをして肩をそびやかしたが、パジャマを着たままで威厳《いげん》を取り戻すのは難しかった。
バーニーは自分の体を抱き締めながら、待ちきれずにそわそわしていた。「なんて書いてある? なんて書いてあるの?」
ゆっくりと、細心の注意を払って、メリマンは古文書の巻物を小さな鉛の筒から抜き出した。そっとテーブルの上で拡げ、平らになるよう片手で押さえながら言った。「こうして拡げられるのはせいぜい二度だな。こなごなの塵《ちり》にしたいならべつだが、これでもう、一度目だ」
長い指が、ひび割れた茶色い羊皮紙を白いテーブルクロスの上に開いたままに保った。巻物はニ欄《らん》に別れ、それぞれを太い線でくろぐろと書かれた記号がびっしりうずめていた。子供たちはぎょっとし、次いで狼狽《ろうばい》の色を浮かべて古文書を見つめた。
「何も書いてないよ! こんなの、言葉じゃないや!」
「でたらめだ!」
ジェーンはもう少し慎重で、ゆっくりと言った。「この文字はなんなの、ガメリー? 本当にこんな文字があるの?」
黒い一連の記号を見ても、あまり希望は持てなかった。まっすぐの線、斜めの線、孤立《こりつ》しているのもあればまとまっているのもある。きちょうめんな狂人のでたらめないたずら描きめいていた。
「うむ」メリマンは言った。「ある」そして両手を上げたので、古文書は再び丸まり、メリマンの肩越しにのぞき込んでいたウィルも静かに席に戻った。「古代の文字でオガムと言うのがある。英語を書くために考案されたものではないが――これはそれに少し似ている。とはいえ、本当の文章ではない、暗号なのだ。忘れてはいけないよ。聖杯を得るまでには何ら意味を持たぬのだ――聖杯の文字の意味を明らかにするために、合わせて書かれたものだからな。一方が他方に光明《こうみょう》を与えてくれるだろう」
バーニーが嘆じた。「だって聖杯はないよ!」
「<闇>だ」サイモンも苦々しげに言った。「あの絵描きが」それからもしやの期待に顔を硬《こわ》ばらせた。「けど、取りに行けるぜ。箱馬車のところへ行って、取って来られる。あいつは病院に運ば――」
「おはよう! おはよう!」ペンハローおばさんが盆を持って元気よくはいって来た。「声が聞えたけんね、ちびさんたち、朝食を持って来たんよ」
「わーい!」バーニーが即座に言った。
メリマンはそっと、新聞が古文書と筒の上に垂れ下がるようにした。
「あの」ジェーンはしわくちゃの化粧ガウンをしきりに引っ張った。「まだ着替えてもいないんだけど、でもありがとう」
「あれあれ、そんなこと誰が気にするっかね、休みだちゅうに。さ、あんたら、好きに食べてくつろいどり。その間《ま》にわたしゃ、あんたらの部屋を掃除《そうじ》しとくけん」盆《ぼん》を置いて、おばさんは台所にさっさと戻り、ほうきと雑巾《ぞうきん》を持って再び現われた。おばさんがぶじに二軒の別荘をつなぐドアの後ろの階段をミシミシ登って行ってしまうと、サイモンはふうっと息を吐き、再び興奮に体を緊張させ、しゃべり出した。
「あいつは病院に運ばれたんだから、馬車のところへ行っても平気だよ。いないんだから! あいつ――」
ウィルが歯の間からシーッと鋭《するど》い音を発し、警告するように片手を上げた。部屋に通じているもうとつのドアの外で、おぼつかない足音とつぶやき声が聞え、戸をあけてビル・スタントンがはいって来た。あくびをし、目をしばたたき、デッキチェアのような縞《しま》模様の信じ難いガウンのベルトを締めながら、ドルー兄弟を見ると、最後のあくびを手で隠した。「やれやれ、格好だけでもぼくと変わらん者がいてよかった」
サイモンは椅子にドシンと腰をおろし、乱暴にパンを切り始めた。
バーニーが言った。「おじさん、夕べ、あれからどうなった?」
ウィルの伯父は呻いた。「その話はよしてくれ。なんて晩だ! 病院に運ぶ途中で、あの気ちがい男め、逃げちまったんだ」
「逃げた?」室内がしんと静まり返った。
スタントン氏は腰をおろし、貪欲《どんよく》に紅茶ポットに手をのばした。「ぶじだといいがね」と言った。「それにしても手を焼かせてくれたよ。後ろの座席があまり静かだったもんで、まだ気を失ってるものとばかり思ってた。物音ひとつしなかったんだぜ。そしたら、聖オスールまでの道を半分ぐらい行った頃、えらく物淋《ものさび》しいあたりまで来たら、何かが車の前にとび出したんで、はねちまったんだ」と紅茶をゴクゴクと飲み干し、ありがたそうにためいきをついた。「で、車を停めて、様子を見におりてみた。苦しんでる動物をそのままにはしとけないだろ? で、ぼくが暗がりの中にいる間に、後ろにいたあの男ははね起きて、反対側のドアをあけて、フラニーが気づいた頃には、畑を突っ切って一目散だったんだ」
「だって怪我してたのよ」ジェーンが言った。「走れるかしら?」
「野ウサギみたいな走りっぷりだったぜ」スタントン氏は薄い頭髪をかき上げた。「生垣《いけがき》を通り抜けてるらしい音がしてた。かなり長いこと捜したんだが、明かりもなかったし、暗くて天気が悪いとなるとあまり気分のいい場所じゃなかったんで、結局、そのまま聖オスールまで行って、警察に一部始終《しじゅう》を報告した。フランが、トムズ船長からトリウィシックの駐在《ちゅうざい》に言ってもらったんだから報告しとかなきゃいけないって言うんでね。しかし結局は連絡は行ってなかったらしいな、メリー?」
「試みはしたのだが」メリマンは平然と言った。「トリギーア巡査が村を留守にしていたものでな」
「ふん、聖オスール署じゃ、こっちの頭がどうかしてるんだと思われたよ。ぼくもそんな気がしてきた。とにかく、最終的にはここへ戻って来た。えらく遅い時間にな」スタントン氏は紅茶をおかわりして、再びためいきをついた。「イギリス生まれのぼくだが」と不平がましく言った。「あの人のいいペンハローの奥さんがたまに朝食にコーヒーを出してくれれば、と思わずにはいられないね」
「はねた動物ってなんだった?」バーニーがたずねた。
「結局、見つからなかったよ。猫だろ。少し大きく見えたな――アナグマかもしれない。捜しあきた頃には」――氏はくすっと笑った――「古きよきコーンウォールのお化けってことにしちまったよ」
「そう」ジェーンが弱々しく言った。
「まあ、その話はもういい」スタントン氏は言った。「みんな良きサマリヤ人としての努めは果たしたんだし、あの男もどこかにぶじでいることだろう。おい、君たち、ここにいられるのも今日が最後じゃなかったっけ? いい天気になりそうじゃないか。フラニーがね、あのケメア岬の裏っ側の広い砂浜へ、みんなでピクニックに行かないかって」
「それは楽しそうだ」子供たちが反応できる前に、メリマンがすばやく答えた。「出かけるのはもう少しあとでもいいかね? この子たちみんなに見せておきたい物があるのだよ」
「結構だね。こっちもゆうべの一件から回復するには少々時間がかかりそうだ。フランに到っちゃ、まだ目がさめてもいないだろうよ」
見せたい物ってなあに、ガメリー?」ジェーンは熱意からよりも礼儀上たずねた。
「なに」メリマンは言った。「ただの古い農場さ」
一行はメリマンの大きな車で村を走り抜けた。ジェーンとトムズ船長は前に、少年たちは、嬉しがってじっとしていられないルーファスと共に後部座席を占めていた。窓は全てあけ放されていた。風がなく、陽が既にかなり高くなっているところを見ると、春としてはいつになく暑い日になりそうだった。
サイモンが言った。「けど、きっと待ち伏せされてるよ! 決まってるよ。そのために逃げたんだ! ガメリー、来るまであっさり乗りつけるなんて無茶だよ」
声音は不安のあまり、どんどん高っ調子になっていった。ウィルは同情するようにサイモンを見たが、何も言わなかった。
メリマンがついに、振り向かずに言った。「サイモン、<闇>の男は二度と我らを悩ませぬよ」
バーニーがたずねた。「なぜ?」
「どうしてわかる?」サイモンが言った。
「やつはあれからもう一度、みどりの妖婆の権利をおびやかそうとしたのだ。やりすぎだった」メリマンは車に勢いよく角を曲がらせた。「そのため、みどりの妖婆の属する荒魔術に連れ去られてしまったのだよ」そう言うと口をつぐんだ。これ以上の質問を禁ずる沈黙なのがわかった。
「ゆうべだね」サイモンが言った。
「さよう」メリマンが答えた。ジェーンは大伯父のワシに似たいかめしい横顔を横目で見て、一瞬ぞくっとしつつ、実際には何が<闇>の絵描きの身に起きたのだろうと考えたが、前の晩に見たものを重い出して、知らなくてよかったと思った。
ずいぶん走ったと思うより早く、大きな車は街道をそれ、低い枝が屋根をなしている細いわき道にはいっていた。通りすぎた立札にはペントレス農場とあった。
サイモンがおずおずと言った。「歩いたほうがよかない?」
わざと意味を取り違えて、メリマンは片手をひらひらさせた。「なあに、心配はいらぬ。このポンコツは、これよりもっとひどいデコボコ道をいくらも経験しておる」
サイモンは不安を飲み込もうとした。窓からみどりの草土手やボッテリと太い木々、それにレースのような葉に縁取られて窓をかすめる枝を眺めた。絵描きの馬車が見えるようになる前の最後の角に近づくと、無意識に両手を組んで固く握りしめた。そして車がグーンと曲がると、手にますます力をこめ、目をつぶろうという衝動《しょうどう》と闘った。
だが、繁《しげ》みの点在するみどりの原っぱを細めた目でやっと見てみると、箱馬車の姿はなかった。
「ちょっと停めて」サイモンは聞き慣れぬ高い声で言った。メリマンが問い返しもせずに車を停めると、サイモンはあたふたと降りた。バーニーがすぐあとに続いた。ふたりは連れ立ってその地点に急いだ。そこにかつてピカピカのジプシーの箱馬車があったのは、ふたりともよく知っていた。馬がのんびりと草をはんでいた場所、<闇>の男が自分の目的のためにバーニーの精神を利用した場所だ。だが、この数ヶ月の間にそこに来た者や置かれた物がある形跡はなかった。折れた草一本、つぶれた枝一本なかった。あとを追って車からとび降りたルーファスが、鼻づらを下げて落ち着きなく動きまわり、ぐるぐる回って捜したが、臭跡《しゅうせき》はとらえられなかった。と思うと立ち止まり、頭を上げて、妙に犬離れしたしぐさで頭を左右に、耳鳴りのする者のように振った。そしてすばやく走り出すと、道の次ぎの角を曲がって行った。
「ルーファス!」サイモンはどなった。「ルーファス!」
「行かせるんじゃ」トムズ船長が車からはっきりした声で言った。「戻って来なさい。あれについていこう」
大きな車は静かに小道を先へ進み、最後の角を曲がって、農場へと向かい合った。
背の低い灰色の建物は、サイモンには記憶よりさらに老朽化《ろうきゅうか》しているように見えた。今回は前より注意深く、玄関ドアの上に十字に釘《くぎ》づけされた板、阻《はば》むものがないので窓にまで這《は》い始めているツル草、そして、欠けた歯のように黒い、ガラスの割れたあちこちの窓を見た。長い生き生きとした草がびっしりと、庭に取り残されたさびた農具の周りに伸びている。骨組みだけのような古い鋤《すき》、まぐわ、大きなタイヤを失ったトラクターの残骸。空っぽの豚《ぶた》小屋の囲いの中には、イラクサが丈高くはびこっている。母屋《おもや》の裏手のどこかでルーファスがかん高く吠え、鳩《はと》が数羽、空中に飛び立った。濡《ぬ》れた青臭さが漂っていた。
トムズ船長が小声で言った。「自然がペントレス農場を乗っ取るのもじきじゃ」
メリマンは農場の中央に立ち、とまどってあたりを見回していた。顔のしわが深まったように見えた。トムズ船長は車に寄りかかって農場を見つめ、手にしたステッキでいいかげんな模様を地面になぞっていた。
ウィルは面に面した窓のひとつからのぞきこみ、暗がりの奥を見ようと目をこらした。「中にはいってみるべきだろうね」と自信なげに言った。
「ぼくはそうは思わないな」と言ったサイモンはウィルの肩先にいたが、今回ばかりは険悪《けんあく》な雰囲気はなく、共通の難題に取り組む気持ちだけがあった。「あの絵描きがこの中にはいったことはない。なんでだか、そういう気がするんだ。この前見た時も、まるっきり手入らずだった。あいつはひとりで箱馬車暗しをしているように見えた。孤立するタイプの男だったよ」
「孤立していたとも」メリマンの深い声が庭の向こうから届いた。「<闇>のひとりだが変わったやつよ。盗人《ぬすびと》として、聖杯を盗んで隠すことだけのために遣《つか》わされたのだ。うまい時を選んだものだ。大敗北を喫したあとなので傷口をなめるのに忙しいだろうと、我らは油断《ゆだん》していた……だが、あの<闇>の男は主たちを裏切る気でいた。大それた考えを抱《いだ》いたのだ。失われた古文書の話は聞いていたので、それをも自分で密《ひそ》かに手に入れ、力の品のひとつを完全なものにできれば、一種の脅迫《きょうはく》によって<闇>の大君たちのひとりとなれると思ったのだ」
「でも、主たちには、あの人のやってることがわからなかったのかしら?」
「命ぜられた以上のことに手を出すとは思わなかったのだ」メリマンは言った。「そのようなことに乗り出す一匹狼《おおかみ》の行手に、いかに救い難い運命が待ち受けているか、おそらく当人よりも主たちのほうがよく心得ていたろう。我らの考えでは、主たちは見張っていたのではなく、ただ帰りを待っていたのだ」
「<闇>は確かに忙しいんじゃ。しばらくはな」トムズ船長が言った。「去年の冬至《とうじ》のいくつかの出来事で受けた被害を繕《つくろ》う必要があるんでな。あまり姿は見栓だろうよ。次に兵を挙げる時までな」
サイモンがゆっくりと言った。「そのことだったのかもしれない。絵描きがバーニーに『見られているか?』って言ったのは。おぼえてる? ガメリーたちのことだとばかり思ってたけど、自分の主たちのことだったんだな」
「バーニーはどこだい?」ウィルがあたりを見まわしながらたずねた。
「バーニー? おーい、バーニー!」
はっきりしない叫び声が、母屋の、一同がいるのとは反対側の端のほうから聞えた。
「あの子ったら」ジェーンが言った。「今度は何をやらかしたのかしら?」
子供たちは声の方角に走り出し、メリマンはトムズ船長とゆるい歩調で続いた。母屋の横手と、少し離れた所にあるふたつの建物のまわりには、雑草とイラクサと茨《いばら》がからまりあった大きな繁みが伸びていた。
「あいたっ!」繁みのどこかからバーニーが苦痛の叫びを上げた。「刺《さ》されちゃったよお!」
「おまえ、何をやってるんだ?」
「ルーファスを捜してるのさ」
くぐもった吠え声が聞こえた。ふたつの建物のうち遠いほう、半ば陥没した危なっかしい屋根の、古い石造りの納屋《なや》から聞えるようだった。
「いたた!」バーニーが再びわめいた。「イラクサに気をつけて。すごいんだ……ルーファスったら、吠えるばかりで出て来ないんだよ。出られなくなったんじゃないかな。あっちへ行ったんだけど……」
トムズ船長がびっこをひきながら前に出た。「ルーファス!」と厳しく、大声で叫んだ。「来い! ここへ来い!」
倒壊《とうかい》寸前の納屋から興奮した吠え声がまた聞こえたが、終わりのほうは鼻を鳴らすような哀れっぽい声になった。
トムズ船長はためいきをついて灰色のあごひげを引っ張った。「馬鹿なやつじゃ。少し離れててくれ。よけといで、バーニー」重いステッキを大鎌《かま》のように左右にふるいながら、船長は徐々《じょじょ》に前進し、イラクサや下生《ば》えを通って納屋の崩れかけた石壁まで道をつけた。中にいるルーファスの吠え方はますます激しくなった。
「黙れよ、ワン公」船長の肘の後ろにくっついたバーニーが呼びかけた。「いま行くよ!」とすり抜けて、ひとつしかない蝶番《ちょうつがい》から横ちょにぶらさがっている朽《く》ちかけた木のドアに近づき、ドアと壁の間のV字形のすきまからのぞきこんだ。「ここからはいったけど、何かをひっくり返して、そいつに出口をふさがれちゃったんだな……ぼくならはいれると思う。こうして……」
「お願い、気をつけて」ジェーンが言った。
「わかってる」バーニーは傾いたドアの横から何かを押しのけてガラガラと崩れ落ちさせ、体を押し込み、姿を消した。納屋の中から嬉しそうな吠え声がほとばしったと思うと、ルーファスが舌を垂らし、尾をふりながらすきまからとび出した。トムズ船長のもとへ得意《とくい》顔で歩み寄った。ひどく汚れていて赤い毛皮には腐った湿っぽい木のかけらがくっつき、ねばつくクモの巣が鼻のまわりにまとわりついていた。
トムズ船長は上の空で犬を撫《な》でた。納屋を見つめるその顔は、とまどったようにわずかにしかめられていた。そして問いかけるようにメリマンを見た。その視線を追ったジェーンは、同じ表情が大伯父の目に浮かんでいるのを見た。ふたりともどうしたというのだろう? たずねる暇も与えず、バーニーが納屋のドアのすきまから頭を突き出した。髪はくしゃくしゃで片頬には灰色の汚れがついていたが、ジェーンの注意を引いたのは、にこりともしない虚ろな顔つきだった。ひどいショックでも受けたように見えた。
「出て来なさい、バーニー」メリマンが言った。「屋根が危ない」
「すぐ行くよ。けど、お願い、ガメリー、その前にちょっとだけ兄さんに来てもらっちゃいけない? 大事なことなんだ」
メリマンはトムズ船長を見、ウィルを見、バーニーに目を戻した。くっきりしわの刻まれた表情が緊張していた。「いいだろう。少しだけだぞ」
サイモンはメリマンらの脇をすり抜けて、すきまからもぐり込みにかかった。背後からウィルがおずおずと言った。「ぼくも行っちゃいけないかい?」
兄が剣突《けんつく》を食わせるだろうと、ジェーンは顔をしかめた。が、サイモンは簡潔に、「いいさ。来いよ」と言っただけだった。
ふたりはバーニーを追って中にもぐり込んだ。ドアの縁のささくれに腕をかすられてサイモンはたじろいだ。すきまは見かけより狭かったのだ。立ち上がると、ウィルが続いて来る間、立ったまませき込んだ。床にはほこりが厚く積もり、最初のうちは、伸びすぎた植物におおわれた汚れた窓からの薄明かりでは、物がはっきり見えなかった。
目をこらすと、バーニーがさし招くのが見えた。
「こっちだよ。見て」
バーニーのあとについて納屋の一方の壁際、床の他の部分のように木材や丸太の屋までおおわれていないところへ来ると、サイモンは立ち止まった。
目の前に、天井と壁が部屋の中にかもし出す影の中に幽霊のように、ジプシーの箱馬車が一台あった。<闇>の絵描きと対面した馬車と、形も模様も瓜《うり》ふたつだった。外側に反った高い壁もあれば、かぶさった木の屋根の軒下にはめこまれた木彫《きぼ》りの飾りもある。向こう端には馬をつける轅《ながえ》があり、こちら端には二段式の戸――上下二段に分かれ、厩《うまや》の戸のように掛け金だけで閉めると――があり、六段からなる木の階段ばしごで上がるようになっていた。その最上段は、サイモンとバーニーがあのあと立った段……
だがもちろん、同じ物のはずはない。この馬車はピカピカで小ぎれいでもなければ、塗りなおされたばかりでもない。この馬車のくたびれてほこりっぽい側面には、ところどころに古いペンキが残っているだけで、それもはがれ落ちつつあった。この馬車の轅のうち一本は折れていて、二段ドアの上段は、半分もげた蝶番からぶらさがっていた。古く、いたんでいて、使われても大事にされてもいなかった。窓のガラスは割れてから久しく経っていた。古い納屋が陥没し始めた頃以来、何年も動かされていないらしく、納屋の一番奥のほうでは、腐った梁《はり》が残った重みの全てを馬車のてっぺんに預けている。
遺物であり、骨董品《こっとうひん》だった。サイモンは目を丸くして見つめていた。まるで、よく知っている少年のひいひいお祖父《じい》さんに会ってみたら、老人が少年と全く瓜二つではあるが、すさまじく、考えられないまでに老いた顔を持っていたようなものだった。
サイモンは口をあけてバーニーを見たが、何と言えばいいのかわからなかった。
バーニーが抑揚のない声で言った。「何年も何年も何年も、ここにあったに違いない。ぼくらが生まれるずっと前からだ」
ウィルが言った。「絵描きの馬車の内部については、どのくらいおぼえている?」
兄弟はウィルの声にとびあがった。いることを忘れていたのだ。振りむくと、ウィルは納屋の戸のそばに佇み、半ば影の中だった。人の好さそうなとぼけた顔だが、光を受けてはっきりと浮き上がり、まばたきをしていた。
バーニーが答えた。「かなりおぼえているよ」
「サイモン、君は?」と言うと、ウィルは返事をする暇も与えずに続けた。「バーニーは聖杯を見たことすらおぼえていない。けど、君は何もかもおぼえてる。聖杯のはいった箱をバーニーが取り出した時からのことは全部」
「ああ」サイモンはさめた部分でなんとなく気づいた。自分は初めてウィルの言葉を年長視野の言葉のように受け入れているのだ。不満もなく、文句も言わずに。
ウィルはそれ以上は言わなかった。ふたりの後ろから、いたるところに積もっているほこりと破片を爪先《つまさき》で押しのけて、古い馬車の端のはしご段に歩み寄った。そして上って行った。戸のぶらぶらしている上半分をつかむと、錆《さび》に蝕《むしば》まれた兆番がこなごなに砕け、戸がとれてしまった。下半分をグイと引くと、古い農家の木戸のように軋《きし》りつつ、戸はしぶしぶ外側に開いた。
「バーニー」ウィルは言った。「中にはいるのはいやかい?」
「平気さ」バーニーは勇ましく言ったが、馬車の戸に向かう足どりはきが進まなげでのろかった。
サイモンはひとことも口をはさんでくれなかった。ウィルを見ていた。ウィルの声には、前に一度あったように、歯切れの良さと自信があってサイモンの脳裏に説明し難い反響を引き起こした。
「サイモン」とウィルは言った。「絵描きは、最初にバーニーに聖杯のありかを教えた時、正確にはなんて言ったんだい?」
半ば目を閉じて猛然と精神を集中すると、サイモンは記憶を逆行《ぎゃっこう》させ、何があったのかのぞいた。「ぼくらはふたりともはいってすぐの所にいた」そう言うと、バーニーの肩に手を置いてそっと誘導しながら、ガタのきたはしご段を夢遊病者のように上がり、共に馬車の内部をなしている小さな部屋にはいった。ウィルがあとに続いた。
「そしたらあいつは、バーニーがのどが渇いたって言ったもんで、こう言ったんだ。『右足のそばの戸棚に、オレンジ・ソーダの缶がはいっている。それから……それから、ボール箱がひとつあるから、それも取ってくれ。』で、バーニーはそうしたんだ」
バーニーは首をめぐらせて、おずおずとウィルを見た。すると、なぜかウィルでなくなったウィルが励ますように微笑したので、やはりこの奇妙な小休暇の始めに出合った、気の好さそうな間抜け面のし様年にすぎないように見えた。そこでバーニーは右の足もとを見おろし、そのそばに、何年分かのゴミに戸の前をふさがれた、把手《とって》のない低い戸棚を見つけた。膝をついてかがみこむと、バーニーはゴミを取り除き、小さな戸を詰めで引っ掻いて、なんとかあけられるところまで浮かせた。ようやく開くと中をさぐり、ひしゃげた、悪臭を放っているボール箱を取り出した。
バーニーは箱を床に置いた。三人は黙ったままじっと見つめるばかりだった。納屋の外からかすかに、ジェーンの細い声が気をもんで呼びかけるのが聞えた。「ぶじなの? ねえ、もう出て来てよ!」
ウィルがそっと言った。「あけてごらん」
のろのろと、しぶしぶと、バーニーは箱の蓋をつかんだ。腐っていた古いボール紙がもげ、輝きが目を射した。遠い昔に一度は箱馬車だったものの古びて崩れかけた残骸を満たすかのような、燦然《さんぜん》たる黄金の光輝だった。そして、三人の視線の先に、聖杯がきらめていた。
第13章 古文書《こもんじょ》と聖杯《せいはい》
母屋の前の庭土に、大きな円形の花崗岩《かこうがん》が埋めこまれていた。古いひきうすだったが、すり減り、草で縁取られていた。そのキラキラする表面に聖杯を置くと、一同は、古文書を納めた小さな古い筒をポケットから取り出したメリマンの周りに集まった。メリマンは縁がひび割れてはがれ出している羊皮紙の小さな巻物を筒からすべらせ、石の傾いた表面に拡げた。
「見るのはこれで二度目だ」とメリマンは言った。
子供たちは草の中から石ころを拾って、羊皮紙が平らになるようにそっと端に乗せた。それから本能的に片側へ寄り、メリマンとトムズ船長が一緒に古文書を検討できるようにした。
メリマンの隣にいたバーニーは、ウィルが自分の後ろにじっと動かず静かに立っているのにハッとした。そして急いで脇をのいた。「ほら、そばへ寄りなよ」
黄金の聖杯は陽射しにきらめいた。側面の彫刻は鮮明で汚れてさえいなかったが、内側のなめらかな板金は、サイモンが言ったように、すすけて黒かった。ウィルはその繊細《せんさい》で細かい彫刻をいま初めて目にした。五つの四角に仕切られ、うち四つは生き生きとした光景で埋められている。走り、戦い、楯の後ろにうずくまる男たち。長上着を着て妙なかぶとを戴《いただ》き、剣や楯を振り上げる男たち。それらの図は、ウィルが知っていることすら忘れていた事柄の、深い記憶を呼びさました。さらに顔を近づけると、人物の間に折り込まれた単語や文字を見、その同じ謎の言語でびっしりうずめられた最後の仕切りを見た。現存する学者のひとりとして理解できなかった言語だ。ウィルは他のふたりの<古老>と同じように、規則正しく古文書の記号と聖杯の記号とを照らし合わせ始めた。すると次第に関連が明らかになり出した。
銘文《めいぶん》の意味が頭の中で形造られるに従って、自分の息遣いが荒くなったのにウィルは気づいた。古文書をじっと見つめながら、メリマンが口を切った。ゆっくりと、言いにくそうに、難しい学科の説明でもするように。
年も死にゆく使者の日に
風砕《くだ》く鳥の戸をくぐり
いと若き者 古山《こざん》を開くべし
風見る銀目《ぎんめ》を供《とも》とせる
鴉《からす》の童子《どうじ》より火は走り
<光>は金の琴《こと》を得ん
集中のあまり硬わばった顔でメリマンは口をつぐんだ。「楽ではない」とひとりごちた。「形を保つのが難しい」
トムズ船長は太いステッキにもたれて、聖杯のべつの仕切りに目をこらしていた。小声で訳すと、その独特のなまりは単語をやさしく抱いているように聞えた。
チョウゲンボウ鳴くカドヴァンの道の
佳《よ》き湖に眠る者
灰色王の影凄《すご》くとも
金の琴の歌にぞ目ざめ
駒《こま》に打ち乗り馳《は》せ参《さん》じん
ウィルは花崗岩の大岩の傍らにぬかずき、聖杯をもう一度ぐるっと回して、ゆっくりと読み上げた。
失《う》せし国より光射す時
六騎士天翔《あまが》け、六のしるし燃え
夏至《げし》の木高くそびゆる下にて
ペンドラゴンの刃《やいば》に<闇>斃《たお》れん
メリマンは立ち上がり、まっすぐ背すじを伸ばした。「そして、最後の一行が呪文だ」とウィルを見すえながら言った。窪《くぼ》んだ黒い目がウィルの精神に突きささってきた。「おぼえるのだ。『ア・マエント・アル・マナゾエズ・アン・カヌー、アク・ア・マエル・アルグルアゼス・アン・ドード』即ち、山々唄《うた》い、老婦人きたる。おぼえておくのだ」
メリマンは岩の上にかがみこみ、石の重しを取りのけて、丸まろうとする小さな古文書を大きな片手で持った。ドルー兄弟など存在せぬかのように、ウィルとトムズ船長を見おろした。
「全て頭におさめたか?」
「うん」とウィル。
「しっかりおぼえた」トムズ船長が言った。
一瞬の胴さでメリマンは手を握りしめた。たちまち、縁がボロボロになっていたひからだ羊皮紙の巻物は、巣なのように細かく塵のように軽い、小さな破片となって砕けた。長い指を開いて大きく腕を振ると、破片は塵の雨となって四方に飛び散り、忘却《ぼうきゃく》のかなたへと消えて行った。
子供たちは鋭い叫び声を上げた。
「ガメリー!」ジェーンは茫然《ぼうぜん》として大伯父を見つめた。「全部おじゃんにしちゃったわ!」
「いやいや」メリマンは言った。
「だって、あれがなくちゃ、聖杯に書いてあることがわからないよ。誰にも」サイモンの顔には困惑のしわが寄っていた。「相変わらず謎のまんまだ!」
「わしらには謎じゃないのさ」トムズ船長はそう言うと、花崗岩の丸石にそろそろと腰をおろし、聖杯を取り上げ、日光が彫刻のほどこされた側面に反射するように手の中で回転させた。「今はもう、聖杯に秘められとった言葉がなんじゃったかわかっとる。そいつが、わしらの一生のうちこれからの十二カ月を形造り、ほどなく人間を恐るべき脅威《きょうい》から永遠に救う手助けをしてくれるじゃろう。一度頭の中に入れたからには、二度と忘れることはない」
「ぼくはもう忘れちゃったよ」バーニーが不平がましく言った。「ほとんど全部。金の琴《こと》と灰色の王様ってとこだけおぼえている。王様が灰色なんて、おかしいや」
「忘れて当然じゃ」トムズ船長は言った。「初めからそのはずだった」とバーニーにほほえみかけた。
「わしらは、あの<闇>のお兄さんと違って、忘れさせるのに魔法を使う必要すらない。君たちの記憶力のはかなさに頼ればすむのじゃ」
「ほかの人におぼえられる心配もないしね」サイモンが徐々に理解して言った。「だってもう誰にも、見ることも聞くこともできないんだから」
ジェーンは悲しげだった。「なんだかもったいないわ。かわいそうなみどりの妖婆の宝物が、あっさり捨てられておしまい、なんて」
「目的は果たしたのだ」メリマンの深い声が少し高くなり、かすかに様式張った。「遠い遠い昔にあれが作られた。そもそもの高邁《こうまい》な目的はな。<闇>が攻め来るのを防ぐ上での次ぎの大きな段階へと我らを導いてくれた。その窮極《きゅうきょく》の目的より大切なものなど、この世にはない」
「聖杯と古文書から読んだ、あの最後のところね」バーニーが言った。「あれ、何語?」
「ウェールズ(イギリス北西部)語だ」メリマンが答えた。
「探求の次ぎの部分はウェールズでやるの?」
「さよう」
「ぼくらも一緒に?」
「まあ、待つことだな」
ピクニックでごちそうぜめにあった胃袋の回復を待つ間、一同は思い思いの格好で砂浜にねそべり、ひなたぼっこをしていた。サイモンとバーニーは立ち上がりもせずに、ものうげにボールのやりとりをしていた。ビル・スタントンは、彼らと近くに転がっているクリケット球技のバットを、なつかしさと自信をもって眺めた。
「持ってろ」ビルは日光浴をしている妻に言った。「もうちょっとしたら、クリケットの正しいやり方を披露《ひろう》してやるから」
「すてき」フラン・スタントンは眠そうに答えた。
あおむけになって青空を見ていたジェーンは肘《ひじ》をついて体を少し起こし、海に目を向けた。砂は肌《はだ》に熱かった。美しく晴れた、風のないコーンウォールの一日、めったにない特別の日だった。
「ちょっと散歩してくるわ」と誰にともなく言うと、乾いた砂を踏《ふ》んで、長い金色の浜を突っ切り、ケメア幹のふもとの、干潮時《かんちょうじ》の藻できらめいている岩場へとおもむいた。岬は頭上にそびえていた。草深い斜面が途中でごつごつした灰色の崖になっている。最先端では、崖《がけ》は切り立った壁となって空を背にそそり立つ。ジェーンの頭は思い出でいっぱいだった。岩の上を歩き出し、まだ夏のように、蹠《あしうら》が固くなっていない素足《すあし》がごつごつした岩肌に触れる度に、少し顔をしかめた。この場所で、去年、彼女とバーニーとサイモンの冒険は頂点に達したのだ。干潮時以外は入口が完全に水でおおわれてしまう洞窟の中で、そこに何百年も眠っていた聖杯を見つけ出したのだ。この場所で、彼らは聖杯とその中にあった小さな鉛の筒を持って、追って来る<闇>から逃げた。そしてこの場所で、とジェーンは、足もとで白い波頭の砕ける岩場のはずれにたどりついて思った。ちょうどこの場所で、聖杯を救おうとあせったばかりに、小さな鉛の筒は波間に墜落し、海の底へと沈んでしまった。
そしてみどりの妖婆が見つけ、大切な宝物にしたのだった。
ジェーンは砕ける波の彼方の深緑の水を見やった。「さようなら、みどりの妖婆」とそっとつぶやいた。
手首にはめていた小さな銀の腕輪《うでわ》をはずすと、試すように手で重さ測《はか》り、海に投げ込もうと腕を後ろへ引いた。
背後でやさしい声がした。「それはおよしよ」
ジェーンはぎょっとして平衡《へいこう》を失いかけ、ぱっと振り向いてウィル・スタントンほ見た。
「まあ! おどろかさないで」
「ごめん」ウィルはバランスをとりながらジェーンの隣りにやって来た。岩に貼りついた黒っぽい藻の上ではウィルの素足はいやに白く見えた。
ジェーンは少年の感じのいい丸顔を見、それから自分の手の腕輪を見た。「馬鹿みたいに聞えると思うけど」としぶしぶ話した。「あたし、みどりの妖婆に、べつの宝物をあげたかったの。あたしたちが取ったのの代わりに。あたしが見た夢の中で」――ジェーンはきまり悪くなって言い淀んだが、すぐに雄々《おお》しく続けた――「夢の中であたしが、べつの宝物をあげるわ《・・・・・・・・・・》っ言ったら、みどりの妖婆はあのよく響く、悲しそうな大きな声で、『もう遅い《・・・・》、もう遅い《・・・・》』って言って、すうっと消えちゃったの……」
そのまま口をつぐむと海を見つめた。
「ぼくがよせって言ったのはね」ウィルが言った。「君の腕輪じゃだめだと思ったからなんだ。それ、銀だろ? 海水につかったら真っ黒で汚らしくなっちまう」
「そうなの?」ジェーンはしょんぼりしてしまった。
ウィルは濡《ぬ》れた岩の上で足の位置を変え、ポケットの中をさぐった。そしてちらりとジェーンを見ると、また視線をそらして言った。「君がみどりの妖婆に何かあげたがってるだろうと思って。これじゃだめかなあ」
ジェーンは見た。ウィルの掌《てのひら》には、あの古文書を、みどりの妖婆の最初の宝物を秘めていた、みどり色のしみだらけの小さな鉛の筒があった。ウィルは取り上げてキャップをはずし、小さな品をジェーンの手に転がり出させた。
細長い黄色の金属片で、光沢を帯びていた。極めて小さい文字で何か刻まれている。
「金みたいに見えるけど」
「金なんだ。カラット数は低いけど、金には違いない。永久にもつよ。海の中でもね」
ジェーンは読み上げた。「みどりの妖婆の海底の力《・・・・・・・・・・・》」
「そいつは詩から取ったんだ」
「本当に? ぴったりだわ」ジェーンはキラキラする金を指でなでた。「どこで手にいれたの?」
「ぼくがこしらえたのさ」
「あなたがこしらえた?」振り向いたジェーンがあんまりめんくらっていたので、ウィルは笑い出した。
「父が宝石細工師《さいくし》でね、筋彫《すじぼ》りを教えてもらってるんだ。放課後、店の手伝いをする時もあるし」
「だって、あなた、これを作ったのはここへ来る前でしょう? みどりの妖婆に会うなんて知りもしないうちによ」ジェーンはゆっくりと言った。「何を作ればいいか、何を彫ればいいか、どうしてわかったの?」
「運のいい偶然だろ、きっと」ウィルの声音には丁重《ていちょう》だが断固《だんこ》たるものがあり、ジェーンは即座にメリマンを思い出した。質問を禁じる声だった。
「そう」とジェーンは言った。
ウィルは小さな金の切れ端を筒に入れ、きっちりとキャップをはめて、手渡した。
「あなたの宝物よ、みどりの妖婆」そう言うとジェーンは筒を海に投げ込んだ。小さな筒は波間に沈み、波の泡は藻に縁取られた岩にまとわりついた。陽光を浴びて、水は砕けたガラスのようにきらめいていた。
「ありがとう、ウィル・スタントン」ジェーンは一瞬、言葉を切ってウィルを見た。「あなた、あたしたちとは少し違うでしょう?」
「少しね」
ジェーンが言った。「また会えるといいわね。いつか」
ウィルが言った。「きっと会えるよ」
ペンハロー夫妻は別荘の段々に立って、出発する彼らに手を振った。メリマンは四人の子供たちをロンドン行きの列車に乗せに、スタントン夫妻はトルーロまで日帰り旅行をしに出かけるところだった。
「さよならあ!」
「いい度をするんよ! さいなら!」
二台の車は船つき場を横切って走り去った。頭上でカモメが旋回《せんかい》し、鳴いた。
「先生はどうやら、今回の捜しもんをめっけなすったようだな」ペンハローおじさんが考え深げにパイプをふかした。
「去年めっけた、ちっこい金のカップのことかね? ロンドンで盗まれたってあれかね? ああ、そうらしいね。けど、ほかにもあったんよ」ペンハローおばさんはメリマンの車が角を曲がったあたりを見つめていた。いろいろ思いめぐらしている目つきだった。
「ほかにって?」
「みどりの妖婆の時期に来なすったのは、偶然じゃないんよ。今までは一度だってなかったんだけん。それに、トムズ船長がみどりの妖婆作りの時に村にいたのも、何年かぶりだろ……ようはわからんがね、ウォルター、ようはわからんがね。なんかあったに違いないよ」
「夢でも見たんさね」ペンハローおじさんは機嫌《きげん》を取るように言った。
「とんでもない。けど、ジェーンちゃんと見とったね。みんなが夢を見たあの晩、村じゅうが物《もの》の怪《け》に憑《つ》かれちまったあの晩のことさね……朝は村じゅう、その話でもちきりだったんよ。それも忘れとったほうがいいことばっか……それにあの朝、あたしゃ寝室の近くで仕事をしとったんさね。そしたらジェーンちゃんが目をさまして、ヒャーッとかなんとか言ったと思うと、けものみたいに部屋からとび出して、坊やたちの部屋にすっとんでったもんよ」
「そりゃ夢ぐらい見るっさね」ペンハローおじさんは言った。「それもおおかた、悪い夢だろ。それがどうしたってんだね?」
「気になっとんのは、夢と違うんよ」ペンハローおばさんは静かな波止場と、飛び交《か》うカモメを眺めた。
「あの子の部屋なんよね。前の晩にゃ針の頭みたいにピッカピカになっとた。きれいずきな嬢ちゃんだけん。それが、朝になってみたら、どこもかしこも、ちっこい枝葉の山なんよ。サンザシの葉っぱやら、ナナカマドやら。おまけに海の匂《にお》いがぷんぷんしてたっけ」