【光の六つのしるし】
スーザン・クーパー
第一部 発 見
冬至前夜
「多すぎるよ!」ジェイムスはどなり、後ろ手にドアをバタンと閉めた。
「何?」ウィルが言った。
「うちには子供が多すぎるって言ったんだ。いくらなんでも多すぎる」ジェイムスはかんかんに怒《おこ》った小さな蒸気機関車のように、踊《おど》り場に立ったまま頭から湯気《ゆげ》をたてていた。それから部屋を横切って、腰《こし》をおろせるようになっている出窓《でまど》のそばへ来ると、外の庭をじっと見つめた。ウィルは本をわきに置いて、膝《ひざ》を立てて場所をあけ、「どなっているのが聞こえたけど」とあごを膝に乗せて言った。
「何でもなかったんだ」とジェイムスは言った。「バーバラのばかが、またいばりちらしてたのさ。それを拾え、あれにさわるなって。メアリーも一緒になってピーチク、パーチク。これだけ広い家に住んでいるってのに、いつも誰かがいるんだから」
ふたりはそろって窓の外を眺《なが》めた。雪は、うっすらと、申し訳《わけ》程度《ていど》に世界をおおっていた。幅広く灰色になっているあたりは芝生《しばふ》のあるところだ。果樹園《かじゆえん》のはずれの木が、まだ黒々とその向こうに見えている。いくつもの白い四角は、車庫《しやこ》や古い納屋《なや》や、ウサギ小屋や鶏《にわとり》小屋の屋根だ。もっと向こうには、ドースン農場の平らな畑が、かすかな白いしま模様《もよう》になっているだけだ。広いそらはすっかり灰色で、降って来ようとしない雪をはらんでいる。色と呼べるものはどこにも見えない。
「クリスマスまであと四日か」とウィルが言った。「降るならちゃんと降ってほしいな」
「あしたはおまえの誕生日《たんじようび》だしな」
「うん」ウィルもそう言うつもりだったのだが、催促《さいそく》がましく聞こえると思ったのだった。それに、誕生日に一番ほしい贈《おく》り物は、誰もくれることのできないもの――雪だった。美しい、深い、すっぽり包んでくれるような雪だ。だが、そんなふうに雪が降ったことは一度もなかった。この年は、かすかに灰色に積《つ》もっただけ、何もないよりましというものだった。
ウィルは役目を思い出した。「ウサギにまだ餌《えさ》をやってないんだ。一緒《いつしよ》に来ない?」
長靴《ながぐつ》をはきマフラーを巻きつけたふたりは、外へ出るために、だだっぴろい台所をドカドカと通り抜けた。台所のラジオからは交響楽団《こうきようがくだん》の演奏《えんそう》がガンガン流れ、一番上の姉のグウェンがたまねぎを輪切りにしながら唄《うた》っていた。母親は赤い顔をして、天火の上に横向きにかがみこんでいたが、ふたりを見とがめると、「ウサギをお願い!」とどなった。「あと、農場からもう少し干草をもらって来て!」
「いま行くところ!」ウィルもどなり返した。テーブルのそばを通ると、だしぬけにラジオがバリバリッとものすごい音をたてたので、とび上がった。母親のスタントン夫人が金切り声を上げた。「音を小さくしなさい」
外に出ると、ふいに静かになった。ウィルは農場らしい匂《にお》いのする納屋で、飼料《しりよう》入れから、成長促進剤《そくしんざい》で包まれた粒状《つぶじよう》のエサをバケツに一杯《いつぱい》取り出した。納屋と言っても本当の納屋ではなく、背が低く、奥行きの深い、かわらぶきの建物で、もとは厩舎《きゆうしや》だったのだ。ふたりはわずかな雪を踏《ふ》み分け、かちかちに凍った地面に黒っぽい足跡《あしあと》をつけながら、がっしりした造りの木の小屋が並んでいるところへ行った。
ウィルは、餌箱を満たすために順ぐりに戸をあけながら眉《まゆ》をひそめた。普通なら、ウサギどもは小屋の隅《すみ》に眠《ねむ》たげにかたまっている。いやしい連中だけが、鼻をぴくつかせながら餌を食べに進み出るのだ。だが、きょうは、どのウサギも落ち着きがなく、不安気で、ゴソゴソ行ったり来たり、木でできた小屋の壁《かべ》に体あたりしたりしていた。一、二匹は、戸をあけてやると怯《おび》えてパッと後ろへとびさがりさえした。チェルシーという名のお気に入りのところまで来たので、いつものように、愛情をこめて耳の後ろをなでてやろうと手を入れると、ウサギはコソコソとあとずさりし、隅っこにちぢまって、怯えた虚《うつ》ろなピンク色の目でウィルを見上げた。
「どうしたのさ!」ウィルは心配になって言った。「ねえ、ジェイムス、見てよ。どうしちゃったんだろ? ほかのもみんな、どうしたんだろう?」
「ぼくにはまともに見えるぜ」
「ぼくには見えない。みんなビクついている。チェルシーまでだよ。ほら、来いってば、チェルシー……」だが無駄だった。
「変だな」ジェイムスはいくらか関心を示して見守った。「きっとおまえの手の匂いがいつもと違うんだよ。何かウサギの嫌《きら》いなものにさわったんだろ。犬とアニスの実みたいなものさ。効果《こうか》が逆《ぎやく》になっただけで」
「何もさわらなかったよ。それどころか、兄さんに会うちょっと前に洗ったばかりだ」
「そいつだ」ジェイムスは即座《そくざ》に言った。「それが問題なんだ。清潔《せいけつ》なおまえというものを嗅《か》いだことがなかったんだ。きっとみんな、ショックを受けて死んじゃうぞ」
「悪かったね」ウィルが殴《なぐ》りかかったので、ふたりともニヤニヤしながらの取っ組み合いになった。からになったバケツが、固い地面に転がってガラガラ音をたてた。だが、立ち去り際《ぎわ》にウィルがふりかえると、ウサギは相変わらず落ち着かなげに動き回り、餌を食べ始めもせずに、異様《いよう》に怯えた目を大きく見開いて、ウィルをじっと見送っていた。
「また狐《きつね》がうろついているのかもしれないな」とジェイムスが言った。「母さんに言うのを忘れないようにしなくちゃ」頑丈《がんじよう》な小屋の中のウサギに手を出すのはどんな狐にも無理だったが、鶏は危《あぶ》なかった。前の年の冬にも、狐の一家が鶏小屋のひとつにもぐり込《こ》み、市場に出す直前のまるまる太った鶏を、六羽も盗《ぬす》んでいったのだ。毎年、十一人分のクリスマス・プレゼントを買うのに鶏の売上をあてにしているスタントン夫人はかんかんになり、寒い納屋で、ふた晩《ばん》続けて寝ずの番をしたが、犯人《はんにん》どもは戻《もど》って来なかった。ぼくが狐だとしても、戻っては来なかったろうな、とウィルは思った。今は宝石細工師《さいくし》と結婚しているとはいえ、母さんの先祖は代々バッキンガムシャーで農場を営《いとな》んでいたのだ。古い本能がめざめたとなると、一筋縄《ひとすじなわ》でいく相手ではなかった。
二本の柄《え》に横木が渡してある手製の手押《お》し車をひきずりながら、ウィルとジェイムスは、草が伸《の》びすぎた私道を道なりに下り、公道に出て、ドースン農場に向かった。崩《くず》れかけた壁越しに黒っぽいイチイの大木が乗り出している教会墓地《ぼち》の前は急いで通り、教会小路《こうじ》の角の「カラスが森」のそばはゆっくり歩いた。ミヤケガラスの鳴き声で騒《さわ》がしく、大きな巣があちこちに散《ち》らばっているため、ゴミを屋根に頂《いただ》いているように見える。この背の高い西洋トチノキの林は、兄弟にとってはなじみ深い場所のひとつだった。
「ミヤケガラスの声を聞けよ! 何かに怯えてるんだ」鋭《するど》い不規則な合唱は耳もつぶれんばかりに騒々《そうぞう》しく、ウィルが梢《こずえ》を見上げると、空は旋回《せんかい》する鳥の群れで暗かった。はばたき、行きつ戻りつしながらも、慌《あわただ》しさや唐突《とうとつ》な動きは一切みせず、ただ騒がしく群れをなして入り乱《みだ》れていた。
「ふくろうかな?」
「何かを追いかけているようには見えないけどな。行こうぜ、ウィル。じきに暗くなる」
「カラスがあんなに騒いでいるのはおかしいっていうのもそこなんだ。もう、巣ごもりしている時間なのに」ウィルはしぶしぶ視線《しせん》を下げたが、途端《とたん》にとびあがって兄の腕《うで》をつかんだ。ふたりが佇《たたず》んでいる道から分かれている小道の暗がりの中で、何かが動くのが見えたのだ。教会小路と呼ばれるこの道は、カラスが森と教会墓地の間を通って、村のちっぽけな教会へと続き、さらにテムズ河へと続いている。
「ちょっと!」
「どうしたんだ?」
「誰《だれ》かあそこにいるよ。たったいま、いたんだ。ぼくたちのことを見てた」
ジェイムスはためいきをついた。「それがどうしたい? 誰かが散歩していただけさ」
「そんなんじゃなかった」ウィルは気ぜわしく目を細め、小さな脇《わき》道をすかし見た。「変てこりんな格好《かつこう》の男の人だった。前かがみになってて、ぼくが見てるのに気づくと、木の後ろに駆《か》けこんじゃった。逃げたんだよ、カブト虫みたいに」
ジェイムスが手押し車をグイッとひっぱり、道を歩き出したので、ウィルは遅《おく》れないよう駆け足にならなければならなかった。「じゃ、ただの浮浪者《ふろうしや》だよ」
ジェイムスは言った。「どうなってるんだ。きょうは誰も彼も、どうかなっちゃったみたい
だ――バーブだろ、ウサギにカラスだろ、今度はおまえまでカリカリしてさ。さあ、干草をもらって来ようぜ。ぼくはお茶が飲みたいんだ」
手押し車は凍《こお》った轍《わだち》の上を揺《ゆ》れながら進み、ドースンさんの庭にはいった。土がむき出しになった大きな四角い庭は、三方を建物に囲まれ、嗅ぎなれた農場の匂いがした。牛舎の掃除《そうじ》をしたらしく、歯のない牛番のジョージ爺《じい》さんが見のがすものはめったになく、一マイル離れたところで鷹《たか》が急降下するのをさえ見ることができた。ドースンさんが納屋から出て来た。
「やあ。スタントン農場じゃ干草がいるのかね?」ウサギや鶏を飼《か》っているということで「農場」と呼ぶのが、ドースンさんと兄弟の母親との間の冗談《じようだん》になっていた。
「ええ。お願いします」ジェイムスが言った。
「すぐやるからな」ドースンさんは言った。ジョージ爺さんは既《すで》に納屋に姿を消していた。「元気にやってるかね? おっかさんに、あした鶏を十羽もらうって伝えてくれ。ウサギは四羽だ。そんな顔をせんでくれよ、ウィル坊。連中にとっちゃ不幸せなクリスマスでも、食べる人間にとっちゃ幸せなクリスマスになるんだから」そう言って空を見上げたドースンさんのしわだらけの茶色い顔に、奇妙《きみよう》な表情が浮かんだようにウィルには思えた。低く垂《た》れこめ出した灰色の雲を背に、黒いミヤマガラスが二羽、農場の上空で、大きな弧《こ》を描《えが》いてはばたいていた。
「きょうはカラスどもがものすごく騒いでいるんだ」とジェイムスが言った。「ウィルは森のそばで浮浪者を見かけるし」
ドースンさんは鋭《するど》い眼でウィルを見た。「どんなやつだったね?」
「ただの小柄なお爺さんだったよ。すぐ物陰《ものかげ》に隠《かく》れちゃった」
「では<旅人>がうろついてるわけか」農場主は低い声でひとりごちた。「ああ、それも当然だな」
「散歩向きの天気じゃないよね」ジェイムスが明るく言って、農家の屋根のかなたの北の空にあごをしゃくってみせた。そのあたりの雲はますます暗くなっていくように見えた。集まって、黄味を帯びた不吉な灰色の層になっている。風も出て来た。ウィルたちの髪《かみ》を震《ふる》わせ、梢でかすかな葉ずれの音をさせた。
「また雪になるぞ」ドースンさんが言った。
「ひどい日だ」ウィルはだしぬけに言ってから、自分の口調の強さに驚《おどろ》いた。雪が降ってくれればいいと思っていたはずではないか。だが、なぜか、心の中で不安感がつのりつつあった。「なんだか――気味が悪いや」
「悪い夜になるな」ドースンさんが言った。
「ジョージ爺さんが干草を取って来てくれたよ」ジェイムスが言った。「行こう、ウィル」
「先に行きなさい」農場主は言った。「お母さんに持ってってほしいものがあるんだ。ウィルには母屋《おもや》まで取りに来てもらおう」だが、ジェイムスが手押し車を押して納屋へ向かってもドースンさんは動こうとはしなかった。古いツイードの上着のポケットに深く手を突っ込んだまま、暗くなりつつある空を見上げてたたずんでいた。
「<旅人>がうろついてる」ドースンさんは繰《く》り返した。「今夜は悪い晩になる。あすに到《いた》っては想像を絶する一日になるだろう」そう言うとウィルを見つめた。ウィルは怖《こわ》くなりながら、ドースンさんのしわだらけの顔の、何十年も太陽と雨風に目をこらして来たために細める癖《くせ》のついた、キラキラ光る黒い目を見つめ返した。今まで、ドースンさんの目がこれほど黒いとは気づかなかった。青い目の人間が多い郡に住んでいるのに、不思議なことだ。
「もうじき誕生日だな」
「うん」ウィルは言った。
「やる物がある」農場主はさっと庭の周囲に目を配ると、片手をポケットから出した。手の中には飾りめいたものがあった。
黒い金属でできた平たい輪で、十文字に交差した二本の線で四つに仕切られている。ウィルは輪を取り上げて、物珍《めずら》しげにいじった。ウィルのてのひらほどの大きさでかなり重い。鉄をざっと鍛《きた》えてこしらえたものかな、とウィルは思った。とがった切り口や出っぱりはどこにもない。鉄はひんやり冷たかった。
「これ、なあに?」ウィルはたずねた。
「今のところは、取っていてほしい物、としておこう。四六時中、ずっと身につけてるんだぞ。今はポケットに入れておきなさい。あとでベルトに通して、予備のバックルみたいに着けておくといい」
ウィルは鉄の輪をポケットにすべり込ませた。「どうもありがとう」とあやふやな声で言った。普段《ふだん》は頼《たの》もしいドースンさんなのに、きょうはまるで慰《なぐさ》めにならない。
農場主は、前と同じ熱のこもった目つきでウィルを見つめ、落ち着かない気分にさせた。ウィルの首すじが総毛立った頃になって、ようやく歪《ゆが》んだ笑みをわずかに浮かべた。少しも楽しそうではなく、どこか案じ顔だった。「大切にするんだよ、ウィル。人にはなるべく知られんほうがいい。雪が降ったあとで入り用になるから」それからきびきびした口調に変わり、「さあ、おいで、うちのかみさんが、お母さんにパイの詰物《つめもの》をひと瓶《びん》持ってってほしいんだとさ」
ふたりは母屋に向かったが、農場主のおかみさんはおらず、代わりに戸口のところで、マギー・バーンズが待っていた。マギーはこの農場で牛の世話をしている娘で、丸い顔に赤い頬《ほほ》をしていることから、いつもウィルにりんごを連想《れんそう》させた。マギーはふたりに向かってにっこりすると、赤いリボンで結《ゆ》わえた大きな白いせともののかめを差し出した。
「ありがとうよ、マギー」ドースンさんが言うと、
「おかみさんが、これをウィル坊やにって言いなすったもんで」とマギーは答えた。「牧師さんにご用とかで、村まで出かけていなさりますけど。ウィル、お兄さんはどうしてる?」
ウィルと会うと、マギーは必ずこうたずねた。お兄さんというのは、上から二番目の兄のマックスのことだ。スタントン家では、ドースン農場のマギー・バーンズはマックスにお熱だということになっていた。
「元気にしてるよ」ウィルは愛想よく言った。「髪の毛を伸ばしたんで、女の子みたいになっちゃった」
マギーは嬉《うれ》しそうにキャアキャア言った。「冗談ばかり!」と笑って手を振ったが、最後になって視線《しせん》がウィルの頭越しに動いたのにウィルは気づいた。振り向くと、視野の隅《すみ》の農場の門あたりで、誰かが、慌《あわ》てて身を隠したかのような気配を感じた。が、見直しても誰もいなかった。
パイ用の詰物の大きなかめを干草の梱《こり》ふたつの間にはさむと、ウィルとジェイムスは手押し車を押して庭をでた。背後の母屋の戸口に佇んでいる農場主の視線がウィルには感じられた。ふくれ上がりのしかかるような雲に不安な目を上げ、いやいやポケットに片手を入れて、奇妙《きみよう》な鉄の輪に触《ふ》れてみた。「雪が降ったあとで」空は今にも落ちて来そうだ。何が起きるんだろう、とウィルは思った。
農場の犬の一匹が尾を振りながら駆け寄ってきた。と、数ヤード手前でふいに立ち止まり、ふたりを見つめた。
「やあ、レーサー!」ウィルは呼んだ。
犬は尾を下げ、牙《きば》をむいて唸《うな》った。
「ジェイムス!」ウィルが言うと、
「咬《か》みつきゃしないよ。どうした?」
ふたりは歩き続けて道にでた。
「咬まれるとかそんなことじゃなくて、ただ、何かが変なんだ。何かひどいことが起きてるんだよ。レーサーも、チェルシーも――動物はみんな、ぼくのことを怖がってる」ウィルは今や、本当に怯えていた。
ミヤマガラスの棲《す》み家の騒ぎは、昼の光が死に絶えつつあるというのに、一段とうるさかった。梢に群れをなしている黒い鳥が前よりも興奮《こうふん》してはばたき、向きをくるくる変えているのが見えた。ウィルは正しかった。小道には見知らぬ男がいて、教会墓地のそばに立ち止まっていた。
ひょろひょろした、ぼろをまとった男で、人間というより古着を束ねただけのように見えた。その姿に少年たちは歩みをゆるめ、本能的に、手押し車に体を寄せ、互《たが》いに寄り添った。男はボサボサ頭を回して少年たちを見た。
突然《とつぜん》、現実とは思えないような恐《おそ》ろしい速さで、しわがれ声でわめく風のようなものが空から黒く突っ込んで来た。二羽の巨大なミヤマガラスが男に襲《おそ》いかかった。男はよろよろと後ずさりし、どなりながら手をかざして顔をかばった。鳥は、大きな翼《つばさ》を悪意に満ちた黒い渦巻《うずまき》のようにはばたかせ、少年たちをかすめて急上昇し、空の彼方《かなた》へ去ってしまった。
ウィルとジェイムスは凍りついたように立ちつくし、干草の山に体を押しつけたまま、まじまじと見ていた。
見知らぬ男は木戸を背に縮《ちぢ》こまった。
「カアアア……カアアアア……」頭が割れそうな騒ぎが、森の上で半狂乱《はんきようらん》になっている群れから聞こえて来た。それから、また三つのつむじ風のような黒い影《かげ》が、最初の二つの後を追って男に向かってやみくもに突っ込み、飛び去っていった。今度は男も恐怖《きようふ》の悲鳴を上げ、相変わらず腕を防御の形に頭にからめたまま、頭を伏《ふ》せて街道《かいどう》によろめき出て逃げ出した。少年たちはすれちがいざまに、つんのめるように走って行く男の怯えた息づかいを耳にした。男はドースン農場の木戸の前を通りすぎ、村の方角へと駆けて行った。汚《よご》れた古帽子の下の脂《あぶら》じみたバサバサの灰色の髪、紐《ひも》で締《し》めた破れた茶色いオーバーとその下にはためく何らかの衣類、それに古長靴を身につけているのが見えた。長靴の片方の底革《かわ》がゆるんでいたため、半ば片足跳《と》びのような奇妙《きみよう》なしぐさで、足を横っちょに突き出して走っていった。が、顔は見えなかった。
頭上高くでの鳥の旋回は、ゆっくりと弧《こ》を描《えが》く飛び方に変わりはじめ、ミヤマガラスが一羽また一羽と木々の間におりて行った。まだカアー、カアーと声を入り乱れさせてけたたましくしゃべり合っていたが、狂気《きようき》と荒々しさはもはやこもっていなかった。ぼうっとしていたウィルが初めて頭を動かすと、頬が何かにこすれたので、手を肩にやると、長い黒い羽根があった。ウィルは半分しか目がさめていない人間のように、のろのろと羽をポケットにしまった。
ふたりは荷を積んだ手押し車を一緒に家まで押して行った。背後ではカアカアいう鳴き声がおさまり、春になって水かさの増したテムズ河のような、不吉《ふきつ》なざわめきとなっていた。
ジェイムスがついに言った。「カラスはあんなことはしないはずだ。人間を襲うなんて、それに、あまり広くない場所で低空飛行することだって、あるもんか。するはずがないんだ」
「うん」ウィルも言った。ウィルはまだ切り離された夢の中で動いていて、はっきり意識《いしき》しているのは、頭の中の奇妙にあいまいな模索《もさく》感だけだった。あの騒音《そうおん》と急降下のさなかに、ウィルはそれまでに感じたこともないほど強烈《きようれつ》な感覚にふいに見舞われたのだ。誰かが自分に何かを告げようとしていた。だのに自分は、その言葉が理解できなかったので聞きのがしてしまった。ウィルはそれに気づいたのだった。言葉、というのは正確ではない。声なき叫《さけ》びのようなものだった。が、ウィルにはその内容をとらえる方法がわからずじまいだったのだ。
「ラジオを正しい局に合わせてない時みたいに」とウィルは声に出して言った。
「え?」とジェイムスが言ったが、本当に耳を傾《かたむ》けていたわけではなかった。「なんてことだろう。きっとあの浮浪者はカラスをつかまえようとしてたんだろうな。それでカラスどもが頭に来ちまったんだ。あいつ、鶏やウサギもこそこそねらいだすぞ。賭《か》けてもいい。鉄砲《てつぽう》を持ってなかったのは妙だけど。母さんに、今夜は犬を納屋にいさせるように言ったほうがいいな」家に着いて干草をおろしている間も、ジェイムスは機嫌《きげん》良くしゃべり続けていた。ウィルは次第に、あの狂暴《きようぼう》な襲撃《しゆうげき》のショックがジェイムスの頭から水のように流れ出、わずか数分で、それが起きたという事実さえ消え去ってしまったのに気づいてあっけに取られた。
何かがあの事件のいっさいをジェイムスの記憶からぬぐい去ったのだ。人に話されては困る、と思っている何かが、これでウィルも話すのをやめるだろうと心得ている何かが。
「ほら、母さんにパイの詰物を持ってけよ」とジェイムスは言った。「凍《こご》えないうちに中へはいろうぜ。風が本格的になって来た――急いで帰って来てよかったな」
「うん」とウィルは言った。寒気がしたが、風のせいではなかった。ウィルはポケットの中の鉄の輪を指で包み、きつく握《にぎ》りしめた。今度は、鉄は暖かかった。
*
ふたりが台所に戻った頃には、灰色の世界は闇《やみ》にすべり込んでいた。窓の外には、父親の使い古された小型のバンが、中からの光のかもし出す黄色い洞窟《どうくつ》に置かれていた。台所は前よりも一段とうるさく暑かった。テーブルに食器を並べているグウェンは、かがみ込んでいる三人のまわりを辛抱《しんぼう》強く迂回《うかい》していた。三人というのはスタントン氏と、父親と一緒に何か一緒に小さな、名前もない機械を覗き込んでいる双子《ふたご》のロビンとポールだった。そして、今やメアリーのぽちゃっとした体に護《まも》られたラジオは、ものすごい音量でポピュラー音楽を鳴らしていた。ウィルが近づいた時、ラジオが再びかん高いキーッという音をたてたので、誰もがしていたことを止めて顔をしかめ、わめいた。
「消しなさい!」スタントン夫人が必死になって流しのそばから叫んだ。だが、ふくれたメアリーが雑音《ざつおん》と雑音にうもれた音楽を消しても、騒音量はたいして変わらなかった。家族の半数以上が家にいる時は、なぜかいつも同じくらいの騒々しさだった。ピカピカに磨かれた木のテーブルを囲むと、大きな石床の台所には話し声と笑い声があふれた。ラックとサイという二匹のウェルシュ・コリー犬は、部屋のつきあたりの火のそばに寝そべってウトウトしていた。ウィルは近づかなかった。自分の家の犬にまで唸られたら、耐《た》えられなかったことだろう。お茶の時間もウィルは静かにしていた――この食事は、スタントン夫人が五時前にテーブルに出すのに成功した時には「お茶」と、五時以降なら「夕食」と呼ばれていたが、量のたっぶりある食事であることに変わりはなかった。ウィルは、しゃべらずにすむよう、皿も口もソーセージで絶えず一杯にしておいた。もっとも、陽気なおしゃべりぞろいのスタントン一家では、ひとりぐらい黙《だま》っていたところで気にする者はなかった。ことにそのひとりが最年少者とあっては。
テーブルの端にいる母親が、ウィルに手を振って声をかけた。「あしたのお茶には何が食べたい。ウィル?」
ウィルは聞き取りにくい言い方で、「レバーとベーコンがいいな」と言った。
ジェイムスが大きな呻《うめ》き声を上げた。
「お黙んなさい」十六歳でおとなぶっているバーバラが言った。「ウィルの誕生日だから、ウィルに選択権《せんたくけん》があるのよ」
「だって、レバーだぜ」ジェイムスが言った。
「いい気味だ」ロビンが言った。「この間のおまえの誕生日には確か、記憶違いでなけりゃ、みんな、あの吐気《はきけ》を催《もよお》すようなカリフラー・チーズを食べなきゃならなかったんだぜ」
「あれはわたしがこしらえたのよ」グウェンが言った。「吐気を催させたりしなかったわ」
「責《せ》めてるんじゃないよ」とロビンは穏《おだ》やかに言った。「ぼくがカリフラワーが苦手なだけさ。ともかく、ぼくの言う意味はわかるだろう」
「あたしにはね。ジェイムスにわかるかどうかは怪《あや》しいけど」
大柄《おおがら》で低い声のロビンは、双子のうちたくましいほうなので、軽々しく扱うのはまずかった。ジェイムスは慌てて言った。「わかったよ、わかった」
「あしたで一が二つ並ぶことになるね、ウィル」スタントン氏が上席から言った。「何か特別な儀式《ぎしき》をすべきだな。部族のお祭りをね」そう言って末息子にほほえみかけたその丸い、少しぽってりした顔には、愛情のこもった笑いじわがよっていた。
メアリーがフンと言った。「あたしなんか、十一の誕生日には、ひっぱたかれてお床《とこ》に追いやられたもんだわ」
「あらまあ」母親が言った。「あんなことをおぼえているなんて。それに、その言い方はないでしょう。事実だけを言えば、お尻《しり》を一回、しっかり叩《たた》かれたのよね。それに、母さんの記憶では叩かれてもしかたがないことをやったはずよ」
「あたしの誕生日だったのよ」メアリーはポニーテールにした髪を振り立てた。「忘れもしないわ」
「時間をかければ忘れるさ」ロビンが明るく言った。「三年ぽっちじゃあな」
「あなたはとても幼い十一歳だったしね」スタントン夫人が口をもぐもぐさせながら思い出すように言った。
「まあ!」とメアリーは言った。「ウィルは幼くないって言うこと?」
一瞬《いつしゆん》、誰もがウィルを見た。ウィルは自分を見つめる顔の輪に驚いて目をパチクリさせ、しかめっ面《つら》をして皿《さら》を見おろし、厚《あつ》く斜《なな》めな茶色い髪の幕《まく》以外は何も見えなくなってしまった。一度にこれほどおおぜいの人々、見つめ返せる以上の人数に見られるのは嫌《いや》な気分だった。まるで襲われているような気がした。そして、ふいに、これほどの人数が同時に自分のことを考えているのは、何らかの意味で危険かも知れない、と思い始めた。誰か友好的でない人間に聞かれるとでも言うように……。
「ウィルは」とようやくグウェンが言った。「どちらかと言うと、老《ふ》けた十一歳だわ」
「年齢知らず、と言ってもいい」ロビンが言った。ふたりとも、遠くにいる未知の人のことを言っているかのような、重々しい、突き離した言い方だった。
「もうよせよ」意外にもポールが言った。ポールは双子のうちのもの静かなほうで、一家の神童と考えられていた。本物の天才の可能性もあった。フルートを演奏し、フルート以外のことはほとんど考えないたちだった。「あしたのお茶に誰か招《よ》んだのか、ウィル?」
「ううん。アンガス・マクドナルドは、クリスマスをスコットランドで過ごすんだって行っちゃったし、マイクはサウスオールのお祖母《ばあ》さんのところに泊まってるんだ。ぼくは気にしてないけど」
だしぬけに裏口《うらぐち》で物音がした。冷たい空気が吹き込んで来て、激《はげ》しい足踏《ぶ》みと大げさに震える音がした。マックスが廊下《ろうか》から部屋に首だけ突き出した。長い髪は濡《ぬ》れていて、白い星を散らしたようになっている。「遅くなってごめん、母さん。共有地から歩かなきゃならなかったんだ。まったく、外の様子を見せたいよ――まるで吹雪だ」マックスはポカンとしている顔の列を見てニヤッとした。「雪が降ってるのを知らないの?」
一瞬、全《すべ》てを忘れてウィルは喜びの叫びを上げ、ジェイムスとともにドアに突進した。「本物の雪? うんと?」
「そうとも」マックスはスカーフをほどいてふたりの上に水滴《すいてき》を降らせた。何年も海軍にはいっていてめったに帰らないスティーヴンを数えなければ、兄弟の中で最年長だった。「そら」マックスがわずかにドアをあけると、風が再びヒュウーと吹きこんだ。外は大きな雪片から成る、キラキラ光る白い霧《きり》ばかりなのがウィルにも見えた――木や繁《しげ》みはまるで見えない。渦巻《うずま》く雪だけだ。台所から抗議《こうぎ》の合唱が上がった。「ドアを閉めて!」
「今のがおまえの儀式だよ、ウィル」父親が言った。「ちゃんと間に合ったね」
*
それからかなりたって部屋に引き上げたウィルは寝室のカーテンをあけ、鼻を冷たい窓ガラスに押しつけて、雪が前にもまして降りしきっているのを見た。窓敷居には既にニ、三インチ積もっていて、風が新たに吹きつけた雪でだんだんうず高くなるのが見えそうなくらいだった。風がすぐ上の屋根のまわり、全部の煙突《えんとつ》の中で泣いているのも聞こえた。ウィルは家のてっぺんの、傾斜《けいしや》した屋根の下の部屋で眠《ねむ》る。つい数カ月前、ずっと屋根裏の主だったスティーヴンが休暇《きゆうか》を終えて船に戻ったあとに、引っ越して来たばかりだった。それまではジェイムスと一緒の部屋にいたのだ――一家の者はみな、誰かと一緒の部屋で寝ていた。「でも、ぼくの屋根裏には誰かにはいってほしいな」と、ウィルがどんなに喜ぶかを知っていた一番上の兄が言ったのだった。
部屋の片隅の木箱の上には、今は英国海軍中尉《ちゆうい》スティーブン・スタントンの肖像《しようぞう》写真が立ててあった。礼装《れいそう》用の軍服は着心地が悪そうだ。その隣《とな》りには彫刻《ちょうこく》をほどこした木の箱がある。ふたには龍が彫《ほ》ってあり、中は、兄が考えられないほど遠くの国々から時々ウィルに送ってよこした手紙で一杯だ。このふたつが、いわばウィル専用の聖所を構成《こうせい》していた。
雪が、ガラスを撫《な》でる指《ゆび》のような音を立てて、窓に降りかかった。再び、風が屋根の中で、前よりも大きくうめくのが聞こえた。本格的な吹雪《ふぶき》になりつつあるのだ。ウィルは浮浪者を思い出し、どこで雪をしのいでいるのだろうと思った。「<旅人>がうろついている……今夜は悪い晩になる……」ウィルは上着を拾い上げ、奇妙な鉄の装飾品《そうしよくひん》を取り出し、輪の周囲、そして輪を四等分している十字に指を走らせた。鉄の表面はまっ平らではなかったが、磨かれた形跡《けいせき》がないにもかかわらず、全くすべすべしていた――台所の粗《あら》い石の床のある箇所《かしよ》を思い起こさせるなめらかさだ。その箇所は、ドアからはいって来てそこで角を曲がった何世代もの人々の足によって、ザラザラの部分がすっかりすり減《へ》らされてしまったのだ。鉄も妙な鉄だった。濃《こ》い、全くの黒で、つやはまるでないが、変色や錆《さび》も一箇所もない。それに、再び冷たく感じられた。あまりの冷たさに指先がかじかみ出したのに気づいて、ウィルはぎょっとした。慌《あわ》てて下に置いた。それから、いつも通りざつに椅子《いす》の背にひっかけておいたズボンからベルトを引き抜き、輪を取って、ドースンさんに言われたとおり、ふたつめのバックルのようにベルトに通した。風が窓枠《まどわく》の中で歌った。ウィルはベルトをズボンに戻して椅子にのせた。
その時、予告もなく、恐怖が訪れた。
最初の波は、ベッドに向かって、部屋を横ぎると同時にウィルをとらえた。部屋のまんなかに棒《ぼう》立ちにさせた。外の風の咆哮《ほうこう》が耳を満たした。雪が窓に横なぐりにあたった。ウィルはにわかに死ぬほど寒くなり、それでいて体じゅうがじんじんした。恐怖のあまり指一本動かせなかった。記憶がひらめき、再び、林の上にのしかかっていた空に黒くひしめいていたミヤマガラス、頭上に弧を描き旋回していた大きな黒い鳥たちを目《ま》のあたりにした。すぐにその光景は消え、浮浪者の怯えきった顔しか見えなくなり、逃げて行く時の悲鳴が聞こえた。それから、一瞬、頭の中はおぞましい闇、大きな黒い穴をのぞきこんでいるような感覚だけになった。と、風のかん高い咆哮が止み、ウィルは解放された。
震えながら立ちつくし、狂ったように室内を見まわした。どこもおかしいところはない。何もかもふだんと変わらない。考えるから面倒なことになるんだ、と自分に言い聞かせた。考えるのをやめて眠ってしまえば大丈夫だ。部屋着を脱いでベッドにもぐり込むと、傾斜した屋根の天窓を見上げて横たわった。窓は雪で灰色におおわれていた。
ベッドの脇の小さなスタンドを消すと、夜が部屋を呑《の》み込んだ。目が闇に慣《な》れても、わずかな明るささえなかった。眠る時間だ。眠れ、眠るんだ。が、体の片側を下にし、毛布をあごまで引き上げてくつろいで横たわり、目ざめた時には誕生日になっているという楽しい事実を考え続けても、全く眠れなかった。無駄だった。何かが狂っているのだ。
ウィルは落着きなく寝返りをうった。こんな気分は初めてだった。一分ごとにひどくなる。まるで何かすさまじい重荷が精神《せいしん》を圧迫《あつぱく》し、おびやかし、ウィルの心を乗っ取って、なりたくないものに変えてしまおうとしているかのようだった。それだ、とウィルは思った。ぼくを別の人間にしてしまうつもりなんだ。だが、そんなことは馬鹿《ばか》げている。誰がそんなことをしたがる? それに、何に変えようというのだ? 半《なか》ば開いたドアの外で何かがきしみ、ウィルはとび上がった。再びきしむ音がしたので何かわかった。床板の一枚が、よく夜になるとひとりごとを言うのだ。あまりにもなじみ深い音なので、いつもはまるで気づきもしないのだが。聞くまいと思っても、相変わらず横になったまま耳をすまさずにはいられなかった。別のきしみがもっと遠くで聞こえた。もうひとつの屋根裏部屋で。ビクッとして体を動かしたので、毛布があごをすった。神経質《しんけいしつ》になっているだけだ、とウィルは自分に言い聞かせた。昼間のことを思い出したせいだろうが、とりたてて記憶に残るようなことでもなかったではないか。ウィルは、あの浮浪者のことを、どうということのない人間、汚いオーバーを着てくたびれた長靴をはいた、ただの男にすぎないと思おうとした。だのに思い浮かべることができたのは、あのミヤマガラスの凶暴《きようぼう》な急降下《きゆうこうか》だけだった。「<旅人>がうろついている……」また、奇妙なバリバリと言う音がした。今度は頭の上、天井裏で。風がだしぬけに大きく泣き叫び、ウィルはベッドの上にがばっと起き上がって、怯えてスタンドに手を伸ばした。
部屋はたちまち黄色い光に満ちた快《こころよ》い洞穴《ほらあな》と化し、ウィルは恥ずかしくなって横になった。自分が間抜けに感じられた。闇が怖いなんて、ひどいもんだ、まるで赤ん坊だ。スティーヴンなら、この部屋にいても、闇を怖がるようなことはなかっただろう。見ろ。天井から下がっているモビールの六つの小さな横帆船《はんせん》があり、その影が向こうの壁を渡っている。何もかもいつも通りだ。眠れ。
再び明かりを消すと、とたんに全てが前にも増して悪化した。恐怖が、すきをうかがっていた大きなけもののように、再三とびかかってきた。ウィルは怯えきって横たわっていた。体が震え、自分でも震えているのを感じていながら身動きならなかった。気が狂いかけているのだと思った。外で風がうめき、少し止み、突然吠えたけり、部屋の天井の明り取りから、こすり叩くようなこもった音がした。と、狂ったような恐ろしい一瞬、恐怖が現実になった悪夢のようにウィルをとらえた。ひきむしられるようなメリメリッという音がし、風の雄哮《おたけび》がふいに、ずっと大きく近くで聞こえ、冷気がどっと吹き込んできた。そして、あの<感覚>に猛烈《もうれつ》なおぞましさで体当たりをくらわせられ、ウィルは縮み上がって投げ飛ばされた。
ウィルは悲鳴を上げた。といっても、あとでそうと知ったのであって、その時は自分の声を聞き取るには怯えすぎていた。ぞっとするようなまっ暗な一瞬、ウィルはほとんど意識を失くして横たわっていた。世界の外のどこか、黒い空間の中で迷子《まいご》になっていた。それから、ドアの外の階段《かいだん》をすばやく上がって来る足音がし、心配そうに呼びかける声が聞こえ、恵みの光が部屋を暖め、ウィルを甦《よみがえ》らせてくれていた。
ポールの声だった。「ウィル? どうした? 大丈夫か?」
ウィルはゆっくりと目をあけた。自分がボールのように丸くなり、膝をぐっとあごまでひきつけているのを知った。ポールが自分の前に立ち、黒っぽい枠の眼鏡《めがね》の奥から気がかりそうにまばたきしているのが見えた。声が出ないままうなずいて見せると、ポールは頭をめぐらせた。その視線を追《お》ったウィルは、屋根の天窓があいていて、ぶらさがった戸が、その時の反動でまだ揺れているのを見た。屋根には虚ろな夜が黒く四角く口をあけていて、そこから風が真冬の厳《きび》しい冷気を運び込んできた。下のじゅうたんには雪が山になっている。
ポールは天窓の枠をすかし見た。「止め金が壊《こわ》れている――雪が重すぎたんだろうな。そうでなくても相当古くなっていたはずだ。金具がすっかり錆びている。針金を取って来るよ。明日までもつように直しておこう。それで目がさめたのか? ショックだったろう。そんなふうにして起こされたのがぼくだったら、ベッドの下に逃げ込んでいるところを見つけてもらうはめになったろうな」
ウィルは言葉にならない感謝をこめてポールを見、なんとか弱々《よわよわ》しくほほえんだ。ポールの快い、低い声で言われるひとことが、現実のそばに近く引き戻してくれた。ウィルはベッドの上に起き上がって毛布《もうふ》を引きおろした。
「父さんが、あっちの屋根裏のがらくたの中に、針金を少し置いているはずだ」とポールは言った。「けど、この雪が溶けてしまう前に運び出そうぜ。ほら、まだ吹き込んで来る。雪がじゅうたんに降っているところを見られる家なんて、そう沢山はないだろうな」
ポールの言う通りだった。天井の黒い空間から雪片が渦巻いてはいりこみ、到るところに散っていた。ふたりは集められる限り古雑誌《ざつし》の上にかき集めていびつな雪玉にし、ウィルが階下《かいか》に駆けおりて、それを浴槽《よくそう》にほうり込んだ。ポールは針金でガラス戸を止め金に固定し直した。
「そら済んだ」ポールはきびきびと言った。ウィルを見たわけではなかったが、一瞬、互いに相手がよく理解できた。「いいことがある。ウィル、ここは凍えそうに寒いだろう?――下のぼくらの部屋へ行って、ぼくのベッドで寝ちゃあどうだい? あとで行って起こしてやるから――おまえがロビンのいびきに耐《た》えられるようなら、ぼくがここで寝てもいい。どうだい?」
「うん」ウィルはかすれ声で言った。「ありがとう」
脱ぎ捨てた衣類を――ベルトと新しい装飾品ごと――拾い上げ、腕《うで》の下に抱《かか》え込むと、ポールと一緒に部屋を出ながら振り返った。もう見るべき物は何もなかった。雪の山があったあたりのじゅうたんが、黒っぽく湿《しめ》ったしみになっているだけだった。が、冷たい空気が引き起こす以上に寒い、むかつくような虚ろな恐怖感がまだ胸にわだかまっていた。闇が怖いというだけだったら、何と言われてもポールの部屋に避難《ひなん》したりはしなかったろう。だがこのままでは、自分の部屋にひとりで残ることはできないとわかっていた。と言うのも、雪の山を掃除していた時に、ポールが見のがしたものをウィルは見たのだった。いかなる生き物であれ、荒れ狂う吹雪の中で、天窓が抜ける直前に耳にした、あの静かではあったが間違えようもないドサッという音をたてられたはずはない。だのにウィルは、雪の中にミヤマガラスの翼から抜け落ちたばかりの黒い羽を見つけたのだった。
農場主の声が再び聞こえた。今夜は悪い晩になる。あすに到っては想像を絶する一日になるだろう。
冬至
ウィルは音楽によって起こされた。音楽は軽《かろ》やかに、しつこくさし招《まね》いた。名前もわからない繊細《せんさい》な楽器で奏《かな》でられる繊細な音楽。その中を、ひとすじのさざめく鈴の音にも似た旋律《せんりつ》が、喜びの黄金の糸のように縫《ぬ》って行く。調べには、ウィルのあらゆる夢や空想が帯びていた深い魔法《まほう》が、沢山こめられていた。ウィルは、その音色を聞くことのまじりっ気なしの幸福感に、ほほえみながら目ざめた。起きた瞬間《しゆんかん》に音楽は薄《うす》れ出し、遠のきながらさし招き、目をあけると共に消えてしまった。ただ、あのさざめく旋律の記憶だけが脳裏にこだましていたが、それも急速に薄れていったので、ウィルはパッと起き上がり、引き戻そうというかのように手を空中にさしのべた。
室内はたいそう静かで音楽などなかったが、夢ではなかったことはわかっていた。
ウィルはまだ双子の部屋にいるのだった。ロビンの寝息が、ゆっくり深々と、もうひとつのベッドから聞こえる。冷たい光がカーテンの縁沿《ふちぞ》いに輝《かがや》いていたが、どこにも人の気配はなかった。朝まだきなのだ。ウィルはしわくちゃなままの前の日の服を着、踊《おど》り場を横ぎって中央の窓に歩み寄り、見おろした。
最初のきらめく一瞬に、未知であると同時になじみ深い世界全体が白くキラキラと目にはいって来た。戸外の建物の屋根は盛り上がって四角い雪の塔《とう》となり、その彼方の畑や生垣は全てうずもれ、溶け合ってひとつの大きな平たい雪原となり、切れ目なく白く地平線の際まで続いていた。ウィルは幸せそうに深呼吸し、無言のうちに喜んだ。その時、極めてかすかに、再びあの音楽、あの同じ旋律が聞こえた。ぐるっと振り向き、音楽を捜《さが》した。どこかで光のようにチラチラするのが見えるとでも言うように。
「どこなの?」
また消えてしまった。再び窓の外を見ると、自分の住んでいた世界も一緒に消えてしまっていた。その一瞬に、全てが変わっていた。雪は一秒前同様にあったが、もはや屋根に積もっても、芝生や畑の上に平らに拡《ひろ》がってもいなかった。屋根も、畑もなかったのだ。あるのは木ばかりだった。ウィルは大きな白い森を見おろしているのだった。塔のように太く、岩のように年経《へ》た巨木からなる森。葉をすっかり落とし、まとまっているものといっては、どの枝、どの小枝にも手つかずで積もっている深い雪だけだった。木は至るところにあった。家のすぐそばにも生えていて、ウィルは一番近い木の一番上の枝の間からのぞいている格好になっていた。窓をあける勇気があったなら、手を伸ばしてゆさぶることもできたろう。木木はウィルをぐるりと取り巻き、谷の平らな地平線まで続いていた。枝ばかりの白い世界を破っているのはずっと南のほうのテムズ河だけだった。河の曲がり目が、この白い樹海《じゆかい》の中では唯一《ゆいいつ》の動かぬ波のようにはっきりと見えたが、その形から見ると、河幅《かわはば》がいつもより広いように思われた。
ウィルは飽《あ》かずながめ続け、ようやく身動きした時には、ベルトに通してすべすべの鉄の輪をにぎりしめていた。鉄は手に暖かかった。
ウィルは部屋に戻った。
「ロビン!」と大声で言った。「起きてよ!」が。ロビンは前と同じようにゆっくりと規則《きそく》正しい呼吸を続け、ピクリともしなかった。
隣の寝室、かつてジェイムスとふたりで使っていたなつかしい小部屋に駆け込んで、ジェイムスの肩をつかみ、乱暴《らんぼう》にゆさぶった。だがゆさぶり終えても、ジェイムスは動かず、ぐっすり眠りこけていた。
ウィルは再び踊り場に出て深く息を吸い込み、声の限りにどなった。「起きろお! 起きろよ、みんな!」
今はもう、何の反応も期待していなかったし、現に反応はなかった。あたりをおおう雪のように深い、時間を超越《ちようえつ》した全くの沈黙があった。家も、その中で寝ている者も皆、破られることのない眠りの中にいるのだった。
ウィルは階下におりて長靴をはき、自分のものになる前は順繰《じゆんぐ》りにニ、三人の兄たちのものだった、古い羊の毛皮の上着を着た。それから裏口を出て、ドアを後ろ手に静かに閉め、はずむ白い息を通して外をながめながら立っていた。
異様な白い世界は、沈黙に撫でられるようにして横たわっていた。小鳥の歌もなかった。庭はもはや、この森ばかりの土地には存在していなかった。納屋や崩れかけた古い壁《かべ》もない。家の周囲には、木々が始まるところまでは、切れ目のない吹きだまりでボコボコになったせまい空地があるだけで、そこから細い小道が出ていた。ウィルは白いトンネルのようになった小道をゆっくりと、雪が長靴の中にはいらないよう、いちいち足を高く上げて歩み出した。家を離れると同時に、ひとりぼっちなのがひしひしと感じられたが、肩越しに降り返ることを自分に強《し》いた。振り向けば家が消え失せているのを見るだけだとわかっていたのだ。
ウィルは、頭に浮かぶことを全て、考えも疑いもせずに、夢遊病者のように受け容《い》れた。が、もっと奥のほうでは、夢ではないと知っていた。水晶のように目が冴《さ》えた状態《じようたい》で、ウィルが生まれた時から彼の目ざめを待っていた冬至《とうじ》の日の中にいるのだ。生まれた日どころか、その何世紀も前から待っていたのだということが、なぜかウィルにはわかった。明日に到っては想像を絶する一日になるだろう……。ウィルは白いアーチのかかった小道から、雪でなめらかに舗装《ほそう》され、どこもかしこも巨木で縁《ふち》取られた街道に出た。顔を上げて枝の間から見ると、黒いミヤケガラスがただ一羽、早朝の空高くゆっくりとはばたいて過ぎていくのが見えた。
右に曲がったウィルは、自分の時代ではハンタークーム小路と呼ばれている、幅《はば》のせまい街道を歩いて行った。ジェイムスと共にドースン農場へ行くのに歩いた道であり、生まれてこの方、ほとんど毎日のように歩き慣れた道だったが、今はすっかり変わってしまっていた。今は森の中のけもの道程度にしか見えず、雪を背負った巨大な木々が両側をふさいでいた。ウィルは目を光らせ、気を配りながら静けさの中を進んだが、ふいに、前方でかすかな音がした。
ウィルは立ち止まってじっとした。音は木々に吸収されかけながらまた聞こえてきた。規則正しい、調子はずれのカンカンという音で、金槌《かなづち》が金属を叩いているように聞こえた。不規則に休みをとっては、ちょっとの間続く。誰かが釘《くぎ》を打ち込んでいるかのように。耳を傾けながら、佇んでいるうちに、周囲の世界が少し明るくなったように思えた。木々は前ほど密には見えず、雪はキラキラし、見上げると、ハンタークーム小路の上の細長い空は澄《す》んだ青だった。灰色の雲のふてくされた土手からようやく太陽が昇《のぼ》ったのだと悟《さと》った。
槌音のするほうへ歩き続け、まもなく空地に出た。ハンタークームの村は失くなっており、あるのはその空地だけだった。予想外の音とながめと匂いを浴びせられて、あらゆる感覚がたちまち活動を開始した。厚い雪で屋根をふかれた低い石の建物がニ、三見えた。木を燃《も》やす青い煙が立ち昇るのを見、その匂いも嗅いだ。と同時に、焼きたてのパンの挑発的《ちようはつてき》な香《かお》りをも嗅ぎとり、口の中につばがこみあげ出した。三つの建物のうち一番近くにあるのは、三方にしか壁を持たず、道に向いている側はあけっ放しで、黄色い火がとらわれの太陽のように中で明るく燃えているのが見えた。鉄床《かなとこ》の上で男がひとり金槌をふるい、火花を雨と降らせていた。鉄床のそばには背の高い黒馬が立っていた。美しいつややかな動物だった。これほどみごとな真夜中色で、どこにも白のはいっていない馬を見たのは初めてだった。
馬は頭を上げてまともにウィルを見、地面を前足で掻《か》き、低くいなないた。鍛冶《かじ》屋の太い声が抗議し、馬の背後の暗がりからべつの人物が出て来た。その男を見るとウィルの息は乱れ、のどの中ががらんどうに感じられた。なぜかはわからなかった。
男は背が高く、衣のようにまっすぐ垂れる黒っぽいマントを着ていた。首をおおうほど長く伸びている髪は、奇妙な赤味を帯びて光っている。男は馬の首を軽く叩いて耳もとにささやきかけたが、馬が落ち着きを失った原因を察したらしく、振り向いてウィルを見た。男の両腕が唐突に下へ下ろされ、一歩前に進み出ると、そこで立ち止まって待った。
雪と空から明るさが失せ、遠い雲の土手に新たに重なった層が太陽を呑み込むと共に、朝が少しかげった。
ウィルは両手をポケットに突っ込んだまま、雪を分けて道を横切った。自分と向かい合っている背の高いマントの人物を見ることはせず、再び鉄床の上にかがみこんでいる、もうひとりの男を断固《だんこ》として見つめ続けた。そして、その男を知っているのに気づいた。ドースン農場の作男《さくおとこ》のひとりだった。ジョージ爺《じい》さんの息子のジョン・スミスだった。
「おはよう、ジョン」ウィルは言った。
革の前掛けをつけた肩幅の広い男は目を上げ、ちょっと眉をひそめたが、うなずいてウィルを迎えた。
「ああ、ウィル。早くから出歩いているんだね」
「誕生日だもの」
「冬至の日が誕生日か」マントのよそ者が言った。「それはめでたい。十一を数えることになるな」質問ではなく、知っていて言っているのだった。ウィルも今度は見ないわけにはいかなかった。光る青い目が赤茶色の髪によくうつり、話し方には東南部のものではない妙ななまりがあった。
「そうです」ウィルは言った。
近くの家の一軒から女がひとり出て来た。小さなパンの塊《かたまり》をいくつも詰めたかごを持ち、それと一緒に、さきほどあんなにもウィルを誘惑《ゆうわく》した焼きたての香りを運んで来た。ウィルは鼻をクンクンいわせた。胃袋が、朝食がまだなことを思い出させた。赤毛の男はパンをひとつ取り、ねじって割り、半分をウィルに差し出した。
「そら。腹《はら》が減っているのだろう。誕生日の朝食を私と共にしてくれ。ウィルとやら」男は残った半分にかぶりついた。パンの皮がパリパリと招くように鳴った。ウィルは手を出したが、それと同時に鍛冶屋が火から熱い蹄鉄《ていてつ》をはさみ出し、膝《ひざ》の間にとらえた馬のひづめに、ちょっとの間カチャッとあてた。物のこげるいがらっぽい臭いがさっとたちこめ、新しいパンの香りを殺してしまった。と思うと、蹄鉄は火の中に戻り、鍛冶屋がひづめをのぞき込んでいた。黒馬は辛抱《しんぼう》強くじっと立っていたが、ウィルは腕をおろして一歩さがった。
「いえ、結構《けっこう》です」ウィルは言った。
男は肩をすくめてガツガツとパンを食いちぎり、女は、包み込むようなショールの端で顔を隠したまま、かごをさげて立ち去った。ジョン・スミスはさっと蹄鉄を火から出し、バケツの水に突っ込んでジュウジュウ言わせ、湯気をたてさせた。
「さっさとせぬか」馬の乗り手は頭を上げて腹立たしげに言った。「日が暮れてしまうわ。あとどのくらいだ?」
「鉄は急がせてはならんのさ」と鍛冶屋は言いはしたものの、今や、すばやい確実な手つきで蹄鉄をひづめに打ち込んでいった。「できた!」とついに言い、ナイフでひづめの縁をけずった。
赤毛の男は馬の口を取ってぐるっと回らせ、腹帯《はらおび》を締め直すと、とび上がる猫のようにすばやく上向きに体をすべらせて鞍《くら》に腰を落ち着けた。そうやって、黒いマントのひだで黒馬の脇腹をおおってそびえたつ姿は、夜を刻んでこしらえた彫像《ちようぞう》のようだった。が、その青い目は、ウィルを離すまいとするかのようにじっと見おろしていた。「坊、乗れ、行きたい場所へ連れて行ってやろう。これほど雪が深くては、馬で行くよりほかにない」
「結構です」ウィルは言った。「<旅人>を捜しに来たんですから」と自分が言うのを聞いて目を丸くした。そうだったのか、と思った。
「だが今は<騎手>が乗り出したのだぞ」男は言い、ひと続きのすばやい動作で馬の頭をめぐらせ、鞍の上から身をかがめ、手をさっと出してウィルの腕をつかもうとした。ウィルは横に体をよじったが、つかまらずに済んだのは、鍛冶場のあけ放たれた窓際に立っていたジョン・スミスが前にとび出て、男の手の届かないところまでウィルを引きよせてくれたおかげだった。横幅の広い男としては驚くほど軽い身のこなしだった。
夜の色の馬は後脚《あとあし》立ちになり、マントの騎手はもう少しで振り落とされるところだった。男は怒声《どせい》を浴びせ、それから落着きを取り戻して、怒りよりも恐ろしい冷ややかな目で見おろした。「愚《おろ》かなことを、わが友、鍛冶屋よ」男は低い声で言った。「忘れはせぬぞ」そう言うと馬の向きを変えさせ、ウィルが来た方向へと去って行った。大きな馬のひづめの音も、雪の中ではこもったささやきにしかならなかった。
ジョン・スミスは嘲《あざけ》るように唾《つば》を吐き、道具を壁に掛け出した。
「ありがとう」とウィルは言い、「ぼくのせいで迷惑《めいわく》が――」と言いかけて止めた。
「あいつらは俺には手出しできん」鍛冶屋は言った。「俺は違う種族の出なんでね。それに、この時代の俺は道に属している。俺の仕事の腕も、道を使う者みんなのものだ。狩人の谷《ハンターズクーム》を通り抜ける道の上じゃ、やつらの力も悪さはできん。おぼえとくんだな。おまえさん自身のためにも」
夢うつつの状態が揺らぎ、ウィルは自分の思考力が働き出すのを感じた。「ジョン」ウィルは言った。
「<旅人>を捜さなきゃならないっていうのが本当なのはわかってるんだけど、その理由がわからないの。教えてくれる?」
鍛冶屋は振り向き、初めてウィルの顔をまともに見た。同情めいたものがしわのよった顔に浮かんでいた。「ああ、それはできんよ、ウィル坊。では、おまえさんは、まだ目ざめたばかりなんだね? それは自分で学ばなきゃならんことなんだよ。ほかにもまだまだある。きょうはおまえさんの初めての日だから」
「初めての日?」ウィルは言った。
「何か食え」と鍛冶屋は言った「もう食っても危険はない。<騎手>とパンを割《さ》くわけじゃなくなったからな。あれが危険だと、おまえさんはすぐに気づいただろうが。一緒に馬に乗ることはもっと危険だと気づいたようにな。一日中、自分の鼻に従うんだな、坊、自分の鼻にな」そう言って家のほうに呼ばわった。
「マーサ!」
女が再びかごを持って出て来た。今度はショールを押しのけてウィルにほほえみかけた。<騎手>の目に似てはいるが、ずっとなごやかな光を宿した青い目が見えた。ウィルは暖かいパリパリしたパンをありがたくかじった。パンは縦に割って蜂蜜《はちみつ》を塗られていた。その時、空地の向こうの道で新たにくぐもった足音がし、ウィルは怯えて振り向いた。
乗り手も馬具もない白い牝馬が、空地に小走りにやって来た。真夜中のように黒かった<騎手>の牡馬を反転した姿で、背が高く、みごとで、どこにもぶちひとつない。雲からまた顔を出した太陽の下の雪のまぶしさに較べると、馬の白さと弧を描く首にこぼれかかる長いたてがみには、かすかな金色の光が感じられた。馬は歩み寄ってきてウィルのそばに立ち止まり、ちょっとの間鼻づらを下げて、あいさつするようにウィルの肩に触れ、それから大きな白い頭を振り上げて、霧のような息の雲を冷たい空気の中に吐き出した。ウィルは腕を伸ばし、恭《うやうや》しく片手をその首に置いた。
「いい時に来た」ジョン・スミスが言った。「火が熱くなっている」
ジョン・スミスは鍛冶場に戻り、ふいごを一、二度押して火を燃え立たせた。それから先に鉤《かぎ》のついた道具で奥の陰になった壁から蹄鉄をひとつ取りおろすと、その中に投げ込んだ。「よく見るんだな」とウィルの顔をさぐるように見ながら言った。「こんな馬は、ただの一度だって見たことがないはずだ。これが最後にもなるまいが」
「きれいだ」とウィルが言うと、牝馬は再び首にやさしく鼻づらをこすりつけた。
「乗れ」鍛冶屋は言った。
ウィルは笑った。不可能なのは明らかだ。ウィルの頭は馬の肩にも届かないくらいだったし、あぶみがあったとしても、とても足が届かなかったろう。
「冗談で言ってるんじゃない」と鍛冶屋は言った。確かに、冗談を言うどころか、めったに笑いもしない男と見えた。「おまえさんの特権なんだ。たてがみの届くところをつかめば、わかる」
調子を合わせるつもりで、ウィルは腕を伸ばし、白い馬の首に低くたれているたてがみの長い剛《こわ》い毛に両手の指を巻きつけた。その瞬間、めまいがし、頭がコマのようにブーンと回った。その音の陰で、はっきりとではあるが遠く、朝起きる前に耳にした、忘れ難い鈴のような旋律が聞こえた。ウィルは叫び声を上げた。腕が奇妙に動き、世界がぐるっと回り、音楽が消えた。頭はまだ音楽を取り戻そうと必死にさぐっていたが、気がつくと、雪で太くなった木々の枝に前よりも近づいていた。白い牝馬の広い背に高くまたがっているのだった。ウィルは鍛冶屋を見おろして、嬉しさに声を上げて笑った。
「蹄鉄を打ったあとでなら乗せて行ってくれるさ」鍛冶屋は言った。「おまえさんが頼めばな」
ウィルはふと真面目《まじめ》になって考え込んだ。その時、何かが視線を、アーチをなす木々をくぐり抜けて空へと引き寄せた。高みを、黒いミヤマガラスが二羽、のんびりとはばたいて行くのが見えた。「ううん」ウィルは言った。「ひとりで行くべきなんだと思う」ウィルは牝馬の首を撫でると、両足を片側に回し、下までの長い距離をすべりおりた。衝撃《しようげき》があることを覚悟して身構えていたが、雪の中への爪先からの着地は軽くてすんだ。「ありがとう、ジョン。どうもありがとう。さようなら」
鍛冶屋はちょっとうなずくと、馬の世話で忙しく立ち働き出した。ウィルは少し失望してトボトボ歩き出した。せめて別れの言葉ぐらい言ってくれるものと期待していたのだ。森のはずれで振り返ってみると、ジョン・スミスは牝馬の後脚の一本を膝の間にはさみ、手袋を火ばさみに伸ばしたところだった。その時見えたものが、言葉や別れのことなど全て忘れさせてしまった。鍛冶屋は、古い蹄鉄をはずしも、蹄鉄に裂かれたひづめをけずりだしもしていなかった。この馬は蹄鉄をはめられたことなど一度もなかったのだ。そして今、ひづめに合わせられているくつは、鍛冶場の奥の壁に光っているのが見える残りの三つのくつ同様、馬蹄形《ばていけい》ではなくべつの形をしていた。よく知っている形だった。白い牝馬のくつは四つとも、ウィルがベルトにつけている四等分された輪の複製《ふくせい》だったのだ。
*
ウィルは、細長い青空の屋根の下、街道をしばらく下って行った。上着の内側に手を入れてベルトの輪に触れると、鉄は氷のように冷たかった。それが何を意味するのかも、そろそろわかりかけていた。だが<騎手>の影も形も見えない。黒馬の足跡さえ見えない。それに、邪悪《じやあく》なものとの出会いなどは、ウィルの頭にはなかった。ただ何かが自分を、段々強く、もとの時代ならドースン農場があるべきところへと引き寄せていると感じていた。
いつもの細い横道を見つけて曲がった。小道はゆるやかにうねりながらかなり遠くまで続いていた。森もこのあたりはかなりやぶが多く、小さい木や茂みの分かれた先端が雪におおわれたまま、こんもりした吹きだまりから突き出ているさまは、白く丸い頭から突き出た白い枝角のようだった。次の角を曲がると、前方に、粘土《ねんど》を荒っぽく塗りつけた壁と、雪帽子のために砂糖衣の厚いケーキのように屋根がうず高くなった、低い四角い小屋が見えた。その戸口に、片手を戸枠にかけ、決心がつきかねている様子で立ち止まっているのは、前日のヒョロヒョロした浮浪者だった。長い灰色の髪も同じなら、服も、しなびた悪賢そうな顔も同じだった。
ウィルは老人に近づき、前の日にドースンさんが言ったように言った。「では<旅人>がうろついているわけか」
「ひとりだけさ」と老人は言った。「俺だけだ。だからって、おまえになんのかかわりがある?」と鼻をすすり上げ、目を細めて横ざまにウィルを見ながら、脂じみた肩袖で鼻をこすった。
「教えてもらいたいことがあるの」ウィルは大胆《だいたん》さを装ってたずねた。「なぜ、きのうこのあたりをうろうろしていたのか、知りたいんだ。なぜ見張っていたのか。なぜミヤマガラスに襲われたのか。それから」とふいに本音をほとばしらせた。「<旅人>であるということが何を意味しているのかを知りたいんだ」
ミヤマガラスの名が出た時、老人はひるんで小屋に近づき、おどおどした目で梢をチラチラ見た。が、今や前よりも鋭い疑惑《ぎわく》をこめてウィルを見た。「おまえがあれのはずがない!」老人は言った。
「ぼくが何のはずがないんだ?」
「そんなはずはない……何もかも知っているはずだものな。ことに、あの地獄の鳥どもについちゃあ。俺を罠にかけようってのか? 哀れな爺《じじ》いを罠にかけようってんだな。おまえ、<騎手>と一緒だろ? あいつの家来だろ、ええ?」
「とんでもない。何の話だか、さっぱりだ」ウィルはみじめったらしい小屋を見た。小道はここで終わっていたが、ちゃんとした空地さえできていなかった。木々はすぐそばまでびっしり囲み、日射しの大部分を締め出していた。急に心細くなった。「農場はどこだい?」
「農場なんかない」老浮浪者はじれったそうに言った。「まだな。そんなこと知ってるだろうに……」再び激しく鼻をすすり、ぶつぶつひとりごとを言ったと思うと、目を細めてウィルに近づき、顔をのぞきこんだ。古い汗と洗っていない皮膚のむかつくような臭いが強烈にした。「けど、おまえがあれだということもありうる。ありうるな。<古老>にもらった第一のしるしを持ってるなら。そこに持ってるのか? 見せろよ。老いぼれの<旅人>に見せてみろよ」
嫌悪《けんお》にあとずさりしまいと努力しながら、ウィルは上着のボタンをはずそうとした。しるしというのが何かはわかった。が、ベルトに通した輪を見せようと羊の毛皮を押しのけた時、手がすべすべした鉄に触れ、それが氷のような冷たさで焼けつき、くらいついてくるのを感じた。同時に、老人が後ろに飛び下がり、縮み上がり、ウィルをではなく、ウィルの肩越しに後ろにいる何かを見つめるのを見た。ぱっと振り向いたウィルは、夜色《よるいろ》の馬に乗ったマントの<騎手>がいるのを見た。
「会えて嬉しいぞ」と<騎手>は低い声で言った。
老人は怯えたウサギのようにキイッと叫び、まわれ右して逃げ出した。めくらめっぽうに吹きだまりを突っ切り、木々の間に逃げ込んだ。ウィルはその場に立ちつくして<騎手>を見ていたが、心臓があまりに乱暴に打つので、息もできないほどだった。
「道を離れたのは賢明《けんめい》ではなかったな、ウィル・スタントンよ」マントの男が言い、目が青い星のように燃えた。黒馬は前へ前へとじりじり近づいて来る。ウィルはあとずさりしてちゃちな小屋の壁にはりつき、男の目を見つめ続けた。それから大変な努力をして、重い腕に上着の前を引きあけさせ、ベルトの鉄の輪がはっきり見えるようにした。輪のそばをつかむと、しるしの冷たさがあまりにも強烈なので、激しく燃えさかる火の放射熱を感じるように、その激しさを感じることができた。すると<騎手>は馬を止め、目をキラリとさせた。
「では、既にひとつ手に入れたのか」男は妙な形に肩を丸めた。馬は頭を振り上げた。どちらも力を増し、背が伸びていくように見えた。「ひとつでは助けてはもらえぬぞ。それだけではな。まだ無理だ」と言うと<騎手>はどんどん大きくなって、白い世界を背景に浮かび上がった。牡馬が勝ち誇っていななき、後脚で立つと前脚で空を切ったので、ウィルはなすすべもなく壁に体を押しつけるばかりだった。馬と騎手は黒雲のように前にそびえ立ち、雪も太陽も隠してしまった。
そこへ、おぼろげに、べつの物音が聞えた。後脚立っていた黒い影が片側にのいたように見えた。白熱した輪や太陽や星からなる鮮やかな紋様《もんよう》でまばゆい、燃えるような黄金の光に払いのけられたかのようだった――ウィルは目をしばたたき、今度は前に、鍛冶場にいた白い牝馬が後脚で立っていることをはっと見て取った。揺れるたてがみを夢中でつかみ、前と同じように広い背中に引き上げられ、牝馬の首に前のめりになって、必死にしがみついているのに気づいた。大きな白馬はかん高い叫び声を上げ、森を抜ける小道めがけてひとっ跳びした。空地に煙のようにじっとわだかまっている形のない黒雲の脇を抜け、次第に速くなる駆け足であらゆるものを通り過ぎ、ついに道に、狩人の谷《ハンターズクーム》を通り抜けるハンタークーム小路にたどり着いた。
大きな馬の動きは、ゆっくりと上昇する、波打つ力強い足取りに変わった。世界が白くぼやけて過ぎ行くに連れて、自分の心臓の音が耳の中で聞えた。すると突然、灰色がまわりを包み、太陽が塗りつぶされてしまった。風がウィルの衿や袖口や長靴の上端にもぐり込み、髪を裂かんばかりに引っ張った。北の方角から、大きな雲がぐんぐん向かって来てあたりを取り囲んだ。巨大な黒灰色の雷雲《らいうん》だ。空は轟《とどろ》き、唸った。ひとつだけ、白っぽい霧に満たされた裂け目が残っていて、その背後にはまだかすかに青味があったが、それも次第に閉じつつあった。白馬は必死にそこをめがけて跳んだ。ウィルは、肩越しに、巨大な雲よりもさらに黒い影が彼らに向かって駆け寄って来るのを見た。のしかかるような大きさになった<騎手>だった。目が、恐ろしいふたつの青白色の火の玉となっている。稲妻《いなずま》がひらめき、雷が空を引き裂き、牝馬がぶつかり合うくもに向かって跳ぶと同時に、最後の裂け目が閉じた。
ウィルたちは安全だった。前も上も、空は青かった。太陽は燃え、ウィルの肌を暖めてくれた。自分の家のあるテムズ谷をあとにしたのがわかった。彼らは今やブナやカシやトネリコの大木を戴いたチルターン丘陵《きゆうりよう》の、うねる丘の間にいた。丘陵の線に沿って雪の中を糸のように縫っているのは、古くからの野原を仕切る生垣だった――野原がとても古くからあるものだということは、ウィルも前から知っていた。丘陵と木々をべつとすれば、彼の世界にある何よりも古いものなのだ。と、白い丘のひとつに、べつな形が見えた。その形は、雪と草を貫いて土の下の白亜《はくあ》に達するほど深く刻《きざ》み込まれていた。見慣れたものでなかったなら、見極めにくかったことだろう。だがウィルにはわかった。十文字に四等分された輪の形だった。
その時、きつくつかんでいた厚いたてがみから手が振りほどかれ、白い牝馬が長くかん高くいなないた。その声は、ウィルの耳には大きく聞えたが、奇妙にもすぐに、遠い彼方へと薄れてしまった。ウィルは下へ下へと落下していった。が、地面にぶつかった衝撃は感じず、ただ、自分が冷たい雪の上にうつぶせに伸びていることだけを意識していた。よろよろと立ち上がって雪を払った。白馬はいなくなっていた。空は晴れわたり、日射しが首すじに暖かかった。ウィルは積もった雪でこんもりした丘に立っていた。遠く見える頂上は背の高い木立を戴き、木の上を飛び交う二羽の黒い鳥が小さく見える。
そしてウィルの前には、白い斜面に高くぽつんと、どこへも通じていない、彫刻をほどこした両開きの大きな木の扉が立っていた。
しるしを捜す者
ウィルは冷えた手をポケットに突っ込み、前にそびえる閉じられた扉の、彫刻で飾られた鏡板をまじまじと見上げて立っていた。扉は何も語ってはくれなかった。どの鏡板にも何度も何度も繰り返され、無限の変化を見せているジグザグ模様にも、何の意味も見出せなかった。扉の木材は、今までに見たどんな木材にも似ておらず、ひびや窪《くぼ》みがありながら、年月によって磨き抜かれているため、節穴の跡を消しきれずに湾曲《わんきょく》した部分がところどころになければ、木とはわからないくらいだった。それらの特徴がなければ、石でできていると思ったことだろう。
ウィルの視線は、扉の輪郭《りんかく》の外へとすべった。扉の周囲一帯のものが震えているのが見えた。たき火の上の空気の震えか、夏の太陽に焼かれた歩道の上の陽炎《かげろう》のような動きだ。にもかかわらず、ここには説明をつけてくれるような気温の変化はなかった。
扉には取手はなかった。ウィルは両腕を前へ伸ばし、てのひらをそれぞれ平らに板にあてて押した。扉が手の下でスーッと開くと同時に、あの逃げ足の速い、鈴に似た旋律を聞きとがめたように思った。が、すぐにそれは、記憶と空想のはざまにある、霧にかすむ裂け目へと消えていってしまった。戸口を通り抜けると、巨大な扉は音もなく自然に後ろで閉じ、その瞬間から、光と、その日一日と、世界とが、もはやどうだったかまるで思い出せないほどの変貌《へんぼう》をとげた。
ウィルは今や大広間にいた。日の光はここにはなかった。それどころか、高い石壁にはまともな窓さえなく、細い縦長のすきまがいくつか切ってあるだけだった。すきまの間には、どちらの壁にも幾枚ものつづれ織りが掛けてあり、その風変わりさと美しさといったら、ほの明るい光の中で輝かんばかりに見えた。太陽に照らされたステンドグラスのようなけんらんたる色彩《しきさい》で、織り出されたり、ししゅうされたりしている鮮やかな動物や花や鳥に、目もくらむほどだった。
さまざまな図柄が目にとび込んで来た。銀の一角獣《いつかくじゆう》を、赤いバラの野原を、輝く黄金の太陽をウィルは見た。頭上には、丸天井のアーチ形のはりが、弧を描いて暗がりにはいり込んでいた。部屋のずっと奥のほうは、べつの暗らがりに隠されている。ウィルは夢見後心地でニ、三歩前に出たが、石の床をおおう羊の毛皮の敷物の上では、足音もしなかった。ウィルは前のほうをすかし見た。だしぬけに火花がとび、火が闇の中に燃え上がって、奥の壁にしつらえた大きな暖炉を照らし出した。いくつもの扉、背もたれの高い椅子、それに重そうな木彫りのテーブルがひとつ見えた。暖炉の両側には、それぞれ人がひとり立ってウィルを待っていた。杖にもたれた老婦人と、背の高い男だ。
「ようこそ、ウィル」と言った老婦人の声は、やわらかくやさしいにもかかわらず、丸天井の広間に最高音の鐘のように響いた。ウィルに細い片手をさしのべると、火明かりが、指の上にビー玉のように丸く盛り上がっている大きな指輪にきらめいた。老婦人はたいそう小柄で、小鳥のようにきゃしゃだった。腰はまっすぐだったし、きりっとしていたが、見ているウィルは、たいへんな高齢なのだという印象《いんしよう》を受けた。
顔は見えなかった。ウィルはその場に立ち止まり、無意識に手をベルトにしのばせた。すると、暖炉の反対側にいた背の高い人物が動き、身をかがめ、暖炉の火で長い先細りのろうそくを灯し、テーブルへと進み出ると、そこにあった丈の高いろうそくの輪に火を灯し出した。いぶる黄色い炎からの光が、男の顔に踊った。力強い、骨ばった頭部が見えた。深く窪んだ目、鷹のくちばしのように厳しい鉤鼻、ひいでた額から後ろへ勢いよく伸びている剛い白い髪、ふさふさした眉と突き出たあご。そして、なぜかはわからないながら、その顔の猛々《たけだけ》しく秘密めいた線をみつめているうちに、生まれた時から住んでいた世界が渦巻き、砕け、前とは異なった形を取って再び落ち着いたように思えた。
背の高い男は体を起こすと、テーブル上の、平らに置かれた車輪形の枠に立てられた灯ったろうそくの輪越しにウィルを見た。かすかに笑うと、いかめしい口の端が斜めに上がり、窪んだ目の両側にふいに扇状《おうぎじよう》のしわが寄った。男はすばやいひと吹きで、火のついた先細りのろうそくを消した。
「はいって来るがいい、ウィル・スタントン」男は言った。その深々とした声もまた、ウィルの記憶を刺激するように思えた。「来て学ぶのだ。そのろうそくを一緒に持ってくるがいい」
とまどってウィルは周囲を見回した。右手のそばに、ウィルと同じくらいの高さがある、鍛えた黒い鉄の台があった。先が三つに分かれている。そのうち二つの先端には鉄の五芒星《ごぼうせい》がついていたが、三つ目は燭台《しよくだい》になっていて太い白ろうそくを支えていた。ウィルは、両手で持たねばならないほど重いそのろうそくを抜き取り、広間を横ぎってつきあたりにいるふたりに近づいた。明るさに目をしばたたきながら近づくと、テーブルの上のろうそくの輪が完全に円ではないのが見えた。輪の燭台のひとつが空だった。テーブル越しに身を乗り出し、ろうそくの固くなめらかな側面をしっかりつかんで、輪の中の一本の火で灯し、空の台に注意深く指し込んだ。ほかのとそっくり同じだった。奇妙なろうそくで、太さはまちまちだったが、白い大理石のように冷たく固く、煙を出さずに長く明るい炎を上げて燃え、松の木のような、かすかな樹脂《じゆし》の匂いがした。
まっすぐ立とうと体をそらしてみて始めて、ろうそくの輪の内側に十文字に組まれた鉄の腕木に気づいた。ほかのあらゆる場所と同じように、ここにもしるしがあったのだ。輪の中の十時、四等分された円。今や、枠の中にろうそく立てがまだあるのが見てとれた。十文字の四本の腕に二つずつ、そして、四本が出会う中央にひとつ。だが、これらはまだ空だった。
老婦人は緊張《きんちよう》をゆるめ、炉端《ろばた》の背もたれの高い椅子に腰をおろした。「たいへん結構」と同じ音楽的な声で快げに言った。「ありがとう、ウィル」
ほほえむと顔がしわでおおわれて、クモの巣のようになった。ウィルも心から笑い返した。自分がなぜ急に、これほど幸せな気持ちになったのかわからなかった。疑問を抱いたりするには、あまりにも自然なことに感じられた。ウィルは火の前の、ニ脚の椅子の間の、明らかに彼を待ち受けている腰掛けにすわった。
「あの扉」とウィルは言った。「ぼくが通り抜けて来たあの大きな扉。あれはどうやって、ひとりで立っているの?」
「扉?」老婦人が言った。
その声の中の何かが、ウィルをして肩越しに振り返らせ、いままでいた反対側の壁際、つまり、両開きの背の高い扉のある壁と、ろうそくを抜き取ったあの燭台を見ようとした。ウィルは目をむいた。何かおかしい。大きな木の扉は消えていた。灰色の壁が無表情に伸びている。壁の四角い大石には何の特徴もなく、例外は、高いところにぽんつと掛けられて、暖炉の光を鈍く反射している丸い金の楯《たて》だけだった。
背の高い男は静かに笑った。「見た目通りのものなどないのだよ。坊、何も期待せず、何も恐れないことだ。ここでも、どこでも、な。それが、君が最初に受ける教えだ。今度は最初の応用問題の番だぞ。私たちの目に見えているのは、ウィル・スタントンだ――ここ一日二日、ウィルの身に起きたことを話してくれたまえ」
ウィルは、寒い室内で顔を暖めてくれている、歓迎《かんげい》すべきせわしない炎をのぞきこんだ。前の日にジェイムスとふたりで家を出て、ドースン農場に干草を――干草!――取りに行った瞬間へと頭をねじ戻すのは、ひと苦労だったが、しばらくして語り出した。「しるしが。十字のある輪のことだけど、きのう、ドースンさんがぼくにしるしをくれたんだ。すると<旅人>がぼくをつかまえようとした。」ウィルは夜の恐怖を思い出して寒気がし、つばを呑み込んだ。「しるしを手に入れるためだよ。あれを欲しがってるんだ。何もかも、そのためなんだ。きょうのこともそのためだけど、前よりもずっと複雑になっていて、なぜかっていうと、今が今じゃない、べつの時代だからなの。いつの時代かは知らないけど。何もかも夢みたいだけど、本当で……。やつらはまだしるしを追っている。<騎手>と<旅人>を別とすれば、やつらが誰かはわからない。あなたたちが誰かも知らないけど、やつらの敵だってことはわかってる。あなたたちもドースンさんもジョン・ウェイランド・スミスも」
ウィルは言葉を切った。
「続けたまえ」深々とした声は言った。
「ウェイランド?」ウィルはとまどって言った。「変な名前だなあ。ジョンの名前の一部じゃないのに、何が言わせたんだろう?」
「精神は、知っている以上のことを抱えているものだ」背の高い男は言った。「ことに君の精神はな。ほかに話してくれることは?」
「わかんない」ウィルは言った。下を見て腰掛けの縁に指を走らせた。ゆるやかな規則正しい波模様に彫られていて、穏やかな海のようだった。「ああ、あるある。ふたつ。ひとつは、<旅人>は何だかおかしいってことなの。やつらの仲間だとは、本当には思えないんだ。<騎手>を見たとたんに震え上がってしまって、逃げ出したくらいだもの」
「もうひとつは?」大柄な男はたずねた。
大きな部屋の暗がりのどこかで時計が鳴った。押し殺した鐘のような深い音だった。一度だけ、三十分過ぎを告げて。
「<騎手>なんだけど」とウィルは言った。「<騎手>は、しるしを見たとき、『では、既にひとつ手に入れたのか』って言ったんだ。持っているのを知らなかったことになる。だのにぼくをねらって来た。追っかけまわしたんだよ。なぜだろう」
「そうね」と老婦人が言った。いささか悲しげにウィルを見て。「あなたを追いかけまわした。ウィル、あなたの頭にある考えは正しいのですよ。あの者たちが何よりも欲しがっているのは、しるしではない。あなたなのです」
大柄な男は立ち上がり、ウィルの背後を通って、片手を老婦人の椅子の背に置き、もう一方の手を、着ている黒っぽいつめ衿《えり》の上着のポケットに入れた格好で立った。「私を見たまえ、ウィル」と男は言った。テーブルの、燃えるろうそくの輪からの光が、たてがみのような白い髪にきらめき、影の中にある不思議な目をますます暗い影の中に落としたので、骨ばった顔の中で闇の池のように見えた。「私の名はメリマン・リオンだ。よく来た、ウィル・スタントン。私たちは長いこと、君を待っていたのだよ」
「あなたを知ってるよ」ウィルは言った。「と言うか……見たような……なんとなく……会ったことがあるでしょう?」
「ある意味でな」メリマンは言った。「君と私とは、いわば同類なのだ。同じ才能を持って、同じ気高い目的のために生まれて来た。君が今この場所にいるのはな、ウィル、その目的がなんなのか理解し始めるためなのだ。だがまず、才能が何かを教わる必要があるな」
何もかも、あまりにも速く進みすぎているように思えた。「わけがわからないや」ウィルは不安になって、男の力強い、熱心な顔を見た。「ぼくには才能なんかないもの。本当だよ。特別なところなんか、何もないのに」ろうそくと暖炉の踊る炎《ほのお》によって、交互《こうご》に照らされたり陰になったりしているふたりの人物をかわりばんこに見ながら、恐怖が――逃げ道を失ったという感じが、次第に湧き起こってくるのをウィルは覚えた。ウィルは言った。「ただ、変なことが僕の身に起きたってだけなんだから」
「思い返してごらんなさい。起きたことのいくつかを思い出してごらんなさい」老婦人が言った。「きょうはあなたの誕生日。冬至です。あなたにとって十一回目の冬至です。きのうを思い返してごらんなさい。あなたの十回目の冬至前夜、しるしを始めて見る前のことを。何も変わったことはなかったのですか? 目新しいことは何も?」
ウィルは考えた。「動物たちが僕のことを怖がったっけ」としぶしぶ言った。「それから、鳥も怖がってたのかも知れない。けど、その時は、何か意味があるとは思わなかったけど」
「それに、家の中でラジオかテレビがついていると」とメリマンが言った。「君が近づくたびにおかしくなった」
ウィルはメリマンをまじまじと見た。「確かにラジオは雑音ばかり出していたけど、どうして知っているの? 太陽の黒点か何かのせいだと思ってた」
メリマンは微笑《びしよう》した。「ある意味ではね。ある意味では」それからまた真面目になった。「いいかね。聞きたまえ。私の言う才能とは、ある力なのだ。見せてあげよう。この土地と同じくらい、いや、それよりももっと古い、<古老>たちの力なのだ。ウィル、君は、君の人生の十年目の終わりにたどり着いた時に、その力を引き継ぐべく生まれついたのだよ。誕生日の前の晩にはもう目ざめかけていた。そして今、君の生まれたこの日には、力は自由になって花開き、すっかり成長しきっている。だが、君がまだ使いこなし索《さく》をなしとげるには、まず君にその扱い方を仕込まなければならぬ。そう怒ったような顔をするものではないぞ、坊。立ちたまえ。力にできることを見せてあげよう」
ウィルが立ち上がると、老婦人が励《はげ》ますようにほほえみかけた。ウィルは唐突に老婦人に尋ねた。
「あなたは誰?」
「この御《ご》夫人は――」とメリマンが言いかけた。
「この御夫人はたいへん年を取っていて」と老婦人が澄んだ若々しい声で言った。「そして昔は、それは沢山の名前を持っていました。今は、老婦人――という名で考えてもらうのが、一番いいのではないかしらね、ウィル」
「はい」ウィルは言った。老婦人の声を聞くとともに幸福感が潮《うしお》のように戻って来て、湧き起こりつつあった不安が退いた。ウィルはわくわくしてまっすぐに立ち、老婦人の椅子の後ろの、メリマンがニ、三歩下がったあたりの暗がりをのぞき込んだ。背の高い姿の頂《いただき》で白い髪がキラリとするのが見えたが、それだけだった。
メリマンの深い声が暗がりからした。「じっとしたまえ。何を見てもいいが、じっくり見てはならぬ。集中するな。うわの空になるのだ。学校で退屈《たいくつ》な授業に出ているつもりになりたまえ」
ウィルは笑い、くつろいだ気分で、頭をのけぞらせて佇んだ。目を細め、高い天井の交差した黒っぽいはりとその影である黒い線をのんびりと識別《しきべつ》しにかかった。メリマンがさりげなく言った。「君の頭に、ある光景を送る。何が見えるか言ってくれ」
あたかも、架空《かくう》の風景を絵にする時に紙に描く前に構図《こうず》を思い描くように、その情景《じょうけい》はウィルの脳裏に、ごく自然に浮かんで来た。ウィルは見えて来た順に細部を説明し出した。「草の生えた丘の斜面があるよ。なだらかな崖みたいに、海のそばにある。青い空がうんと見えていて、下の海はもっと濃い青だ。ずっと下のほう、海が陸と出会うところに、細長い砂浜がある。きれいな光る金色の砂だよ。それから草の生えた岬《みさき》から内陸にはいると――本当はこの位置からは見えないんだけど。目の隅からちょっとだけ――そこには丘陵がある。霧のかかった丘陵だ。やわらかい紫《むらさき》色がかっていて、端のほうは青いもやに溶け込んでしまっている。絵を濡らしたままにしておくと、絵具がにじんでしまうみたいにね。それに」――ウィルは情景を見ていた半ば忘我の状態から脱し、物問いたげな関心をこめて暗がりをのぞき込み、メリマンをじっと見た。――「それに、なんだか悲しい所だ。あなたはそこが恋しいんだ。どこだか知らないけど、ホームシックになっている。どこなの?」
「十分だ」メリマンはそそくさと言ったが、喜んでいるような口調だった。「いいできばえだ。さあ、今度は君の番だよ。どこかの情景をくれたまえ、ウィル。何か平凡《へいぼん》な場面を選べばいい。何でもかまわぬ。それをながめているつもりで、どのように見えるか考えてごらん」
ウィルは最初に頭に浮かんだもののことを考えた。さいぜんからずっと、他の考えに隠れて自分を悩ませ続けていたものだと気づいた。雪の丘の中腹に孤立して立つ、複雑な彫刻をほどこされた両開きの巨大な扉と、それを縁取っていた不思議な青味。
メリマンが即座に言った。「扉はだめだ。そんなに近いものはまずい。この冬が訪れる前の経験の中から見つけたまえ」
一瞬、ウィルはうろたえてメリマンを見たが、つばをゴクンと呑み込むと、父親が小さなイートンの街で営んでいる宝石店のことを考えた。
メリマンがゆっくりと言った。「ドアの取手はレバー式だ。丸い棒状で、あける時は十度ぐらい押し下げる。ドアが動くと、吊り下げた小さな鐘が鳴る。床面に立つには数インチおりなければならず、その段差は危険ではないが、ドキッとさせる。まわりの壁にはガラスのショーケースがあり、その下にはガラスのカウンターが――なるほど、ここは君のお父さんの店だね。美しい品がいくつかあるな。奥の隅には大時計、文字盤《もじばん》には色がぬってあり、時を刻む音も低くゆっくりとしている。中央のショーケースにはトルコ石の首飾りがある。台座は銀の蛇《へび》の形だ。スーニー族の細工らしい。生まれ故郷《こきよう》からずいぶん遠くまで来たものだ。大きなみどり色の涙のようなエメラルドのペンダント。十字軍の城の、小さいがうっとりするような模型《もけい》。金でできている――塩入れかな――君が幼い頃から大好きだったものらしいな。それから、カウンターの後ろの男は小柄で満ちたりていて、やさしい。君のお父さんのロジャー・スタントンに違いない。お父さんを霧にじゃまされずにはっきり見ることが、ようやくできた。興味《きようみ》深いことだ……目に宝石細工士用のルーペをはめている。指輪を見ている。古い金の指輪で、九つの小さな石が3列に並んでいる。中の列はダイヤモンドの小さいのが三つ。両側にルビーが三つずつ。それに、奇妙なルーン文字風の線が縁《ふち》を囲んでいる。近いうちに、もっとそばで見せてもらわなければ――」
「指輪まで見えたね!」ウィルは夢中になって言った。「あれは母さんのなんだ。ぼくがこの間店に行った時に、父さんが見ていたんだ。母さんは石のひとつがゆるんでいると思ったんだけど、父さんは目の錯覚《さつかく》だって……。どうやったの?」
「何を?」深々とした声には危険な穏やかさがあった。
「何って――今のを。ぼくの頭の中に風景を送り込んだり、ぼくの頭にあった場面を見たり、テレパシーって言うんでしょ? すごいや」だが、ウィルの頭の中には、不安が生じつつあった。
「よろしい」メリマンは辛抱強く言った。「べつの形で見せてあげよう。ウィル・スタントン、そばのテーブルの上に、ろうそくの火の輪がある。さて――その炎のひとつを、吹き消すのでもなく、水や芯《しん》切りばさみや手を使うのでもなくて消す方法を知っているかね?」
「ううん」
「さよう。そのような方法はない。しかしだ。教えてあげるが、君は君であるがゆえに、単に消えろと願うことによって消せるのだ。君の持っている才能から見れば、そんなことは小さな仕事にすぎぬ。頭の中でどれかひとつの炎を選び、その炎のことも見もせずに、ただ考えて、消えろと命じれば、それで炎は消える。普通の少年に可能なことかな?」
「ううん」ウィルは悲しげに言った。
「やりたまえ」メリマンは言った。「今」
ふいに、ビロードのように厚い沈黙が室内にたちこめた。ふたりがウィルを見ているのが感じられた。ウィルは必死に考えた。何とか切り抜けてやる。炎のことは考えるけど、あの中のひとつじゃなくて、もっとずっと大きいものだ。メリマンも知らないようなすさまじく不可能な魔法でもなければ、到底消せないようなものだ。……。ウィルは、部屋の向こうの石壁に掛けられたけんらんたるつづれ織りの上を、隣り合って横切る踊る光と影を見つめた。そして猛烈に集中して、背後の大きな暖炉の中の、燃え盛る焚火のことを懸命《けんめい》に考えた。そのぬくもりを首すじに感じながら、大きな薪の山の輝くオレンジ色の中心と、ひらめく黄色い炎の下のことを考えた。消えろ、火よ、と心の中で言いながら、だしぬけに力の脅威《きようい》から安全で自由になったように思った。もちろん、これほど大がかりな火ともなれば、まともな理由なしには消えるはずがないからだった。燃えるのをやめろ、火よ。消えろ。
すると火は消えた。
にわかに部屋が寒く――暗くなった。テーブル上のろうそくの火の輪は燃えつづけたが、自分たちの出す光だけの、小さな冷たい空間の中でだった。ウィルはパッと振り返り、狼狽《ろうばい》して炉端を見つめた。煙も水も、火が絶えた原因を示すものは露《つゆ》ほどもなかった。にもかかわらず、火は確かに絶えていて、冷たく黒く、火の粉ひとつなかった。ウィルはのろのろと歩み寄った。メリマンも老婦人もひとことも言わず、身じろぎもしなかった。ウィルは身をかがめ、炉の中の焦げた薪に触れてみた。石のように冷えきっていた――が、ま新しい灰の層でおおわれていた。灰はウィルの指の下でこぼれて白い塵《ちり》となった。ウィルは立ち上がり、手をのろのろとズボンの足にこすりつけ、なすすべなくメリマンを見やった。男の窪んだ目は黒い燭火《しよつか》のようだったが、その中には同情の色があり、ウィルがおどおどと老婦人に目をやると、その顔にも一種のいたわりがあった。老婦人がそっと言った。「少し寒いわね。ウィル」
無限に感じられたが、実は神経《しんけい》が震えた程度にすぎなかった一瞬、ウィルは恐怖が悲鳴を上げてひらめくのを感じた。吹雪の時の暗い悪夢の中で覚えた恐怖の再来だった。と思う間に恐怖は失せ、それが消えた時の安らぎの中で、ウィルはなせが力が増し、自分が何らかの形でそれを受け容れたのだと悟った。今までは抵抗《ていこう》していたのだということも、これからなすべきこともわかった。深呼吸をすると、ウィルは肩を怒らせ、背中を伸ばして大広間の中にすっくと立った。老婦人にほほえみかけ、それから彼女を通り越して何もないところを見、火を思い浮かべて精神を集中した。戻って来い、火よと心の内に言った。もう一度燃えろ。すると再び光がつづれ織りに飾られた壁に踊り、炎のぬくもりが首すじに戻って来て、火が燃えていた。
「ありがとう」老婦人は言った。
「よくやった」メリマンが静かに言った。火を消してまたつけただけのことを言っているのではなかった。
「この力は重荷だ」とメリマンは言った。「その点を心得違いせぬように。偉大《いだい》な力や才能を持って生まれるということは、いかなる場合にも重荷なのだが、この力の場合はどれよりも重い。君はしばしば、力から解放されることを願うようになるだろう。だが、どうすることもできぬ。この力を持って生まれたものは、これに奉仕しなければならぬのだ。この世の何ものも、またこの世の外のものも、その奉仕の前に立ちはだかることは許されぬ。それが君が生まれた理由であり、掟《おきて》だからだ。ウィル坊、君がまだ自分の中にある力をごくわずかしか悟っていないのは、かえって幸いだ。勉強の最初の試練《しれん》が終わるまでは、大変な危険にさらされているのだからな。自分の力の意味をあまり知らぬほうが、力のほうでも、過去十年間同様に君を護る上で効果的なはずだ」
メリマンは一瞬眉をひそめて火をながめた。「これだけは教えて上げよう。君は<古老>のひとりなのだ。五百年このかた、<古老>の誕生は君が最初で最後だ。全ての<古老>同様、君も光と闇との長い戦いに身を捧ぐべく、生まれながらに定められている。ウィル、君の誕生は、この国の最も古い地域で四千年かけて拡げられてきた輪を完成させた。<古老>の輪だ。力を引き継いだ今、君のつとめはその輪を決して破られぬものにすることだ。君は六つの偉大な<光のしるし>を探し出し、護らねばならぬ。そのしるしは、<古老>たちが何世紀もかけてこしらえたもので、輪が完全になった時に初めて、ひとつにつながれることになっている。第一のしるしは君のベルトにあるが、残りを見つけ出すのはたやすくないだろう。君は<しるしを捜す者>なのだ、ウィル・スタントン。それが君のさだめ、君の最初の探求《たんきゆう》だ。それを成しとげることができれば、<古老>たちが、<闇>の力を滅ぼす方向に向けなければならぬ三つの偉大な力のうち、ひとつを動き出せることになる。<闇>の力は今や、ゆるぎなくひそやかに、この世界のいたるところに手を伸ばしているのだ」
上がり下がりしながら、次第に儀式めいた形になりつつあった声のリズムは、微妙《びみよう》に変化して一種の詠唱《えいしよう》式の戦唄《いくさうた》になった。呼びかけだ、とウィルはふいに思い、寒気がして皮膚がつっぱった。大広間の彼方、呼びかけの行なわれている時代を超えたところにいるものを呼んでいるのだ。「<闇>が、<闇>が攻めて来る。<旅人>が徘徊《はいかい》し、<騎手>が駒《こま》を進めている。彼らは目覚めた。<闇>が立ち上がったのだ。輪の最後のひとりが名乗りを上げに来た。今や全ての輪をつながねばならぬ。白馬は狩人のもとへ行き、川は谷を襲わねばならぬ。山上に火、石の下に火、海の上に火を。<闇>を焼きつくす火を。<闇>が攻めて来るのだ!」
ほの暗い部屋に、メリマンは木のように背高く立っていた。深い声はこだまして鳴り響き、ウィルは目を離すことができなかった。<闇>が攻めて来る。それこそゆうべ感じたことだった。いま再び感じているのもまさにそれだ。
悪の存在を、指先で、背骨のてっぺんで、うずく影のように意識していた。が、どうしても口をきくことができなかった。メリマンは、その堂々たる姿には不釣合《つりあ》いに感じられる唄うような調子で、暗唱をしている子供のように言った。
<闇>の寄せ手が攻め来る時、
六たりの者、これを押し返す
輪より三《み》たり、道より三たり、
木、青銅《せいどう》、鉄、水、火、石、
五たりは戻る 進むはひとり
それからメリマンは暗がりの中からさっと歩み出、背もたれの高い椅子にかけたまま動かずに目を輝かせている老婦人の脇を通り、片手で、燃える輪の中から太い白いろうそくの一本を取り上げた。そして、もう一方の手で、ウィルをそそり立つ横の壁に向かせた。
「一瞬一瞬をよく見るのだぞ、ウィル」メリマンは言った。「<古老>たちが自らの一部を見せて、君の中の最も深い部分の記憶を呼びさましてくれるから。一瞬にひとつずつ見るのだ」そう言うとウィルを連れて大広間を長い足で一周した。一枚一枚のつづれ織《お》りのそばで、いちいちろうそくを高くかかげて、そのたびに、メリマンに命ぜられたかのように、それぞれの輝くししゅう画面から、ひとつの鮮やかな像が一瞬光彩《こうさい》を放った。窓枠を通して見る日向の光景のように、明るく、深く。ウィルは見た。
白い花におおわれたサンザシの木が、一軒の家のかやぶき屋根から伸びているのを見た。海の上のみどりの岬に、巨大な灰色の石が四つ立っているのを見た。虚ろな目でニヤニヤしている馬の白い頭蓋骨《ずがいこつ》を見た。その骨ばった額には折れた太い角が一本あり、長いあごには赤いリボンがまいてあった。大きなブナの木に雷が落ちるのを見、黒い空を背景にしたむき出しの山の中腹に火が燃え盛っているのを見た。
あまり変わらない年恰好の少年の顔が、好奇心にかられたように自分を見つめているのを見た。ところどころに明るい房《ふさ》のまじった、黒い髪の下の浅黒い顔。奇妙な猫のような目の瞳《ひとみ》は、縁は薄茶だが内側は黄色に近かった。また幅の広い河が洪水《こうずい》を起こしているのを見、そのそばに、巨大な馬にまたがったしなびた老人を見た。メリマンが無慈悲《むじひ》にひとつの絵から次へと連れ回るうちに、ふいに、中でも一番鮮やかな像を見て恐怖を覚えた。それは人間の顔と、牡鹿《おじか》の頭と、ふくろうの目と、狼《おおかみ》の目と、馬の体をもった仮面の男だった。その姿はとび出して来るようで、ウィルの頭奥深く失われている何かの記憶をひっぱり出そうとした。
「これらをおぼえておきたまえ」メリマンが言った。「力になってくれるだろう」
ウィルはうなずいたが、すぐに体を硬《こわ》ばらせた。だしぬけに広間の外で、次第に大きくなる物音が聞え、なぜ少し前にあれほどの不安を覚えたのかを確信《かくしん》を持って悟り、愕然《がくぜん》とした。老婦人が椅子にかけたまま動かず、ウィルとメリマンが再び炉端に立つ間に広間は急に、呻きと呟《つぶや》きと騒々しく泣き叫ぶ声との、ぞっとするようなごたまぜに満たされた。邪悪な動物園の檻《おり》に封じ込められたかのようだった。ウィルが今までに聞いた何よりも、純粋《じゆんすい》にいやらしい音だった。
ウィルの首すじの毛が逆立ったと思うと、突然沈黙が訪れた。ガサッと音がして、薪が一本、火の中に落ちた。ウィルは血管の中で血が脈打つのを聞いた。すると、静けさの中に、つきあたりの壁の向こう、外のどこかから新しい音が聞えてきた。胸もはりさけそうな、捨てられた犬のすがるような鳴き声だ。
怯えて救いとやさしさを呼び求めているのだ。スタントン家の飼い犬のロックとサイが、まだ仔《こ》犬で、暗闇の中でいたわりを求めていた時そっくりの声で、ウィルは自分の心が同情《どうじよう》に溶けるのを感じ、本能的に声のするほうを向いた。
「ああ、どこにいるんだろう? かわいそうに――」
つきあたりの壁の何もない石組みを見るうちに、その中にドアの形が現れるのが見えた。中にはいるのに用いた、巨大な消えた両開きの扉とは異なり、ずっと小さかった。妙なきゅうくつそうなドアで、まるて場違いに見えた。が、それをあければ、助けを求める犬を救ってやれるのがわかった。犬は前にもましてひどい苦しみようで再び鳴いた。声は大きくなり、哀願《あいがん》し、半ば死にもの狂いで泣き叫んだ。ウィルは衝動的《しようどうてき》に前に出てドアに駆け寄ろうとしたが、足を踏み出しかけて、メリマンの声に凍りついた。その声は穏やかだったが、冬の石のように冷たかった。
「待ちたまえ。哀れな淋《さび》しい犬がどんな姿かたちかを見たら、とても驚くことになるだろう。また、それが君が見る最後のものになるぞ」
ウィルには信じられなかったが、立ち止まって待った。鳴き声は、最後にひと声長く遠吠《ぼ》えして消えた。一瞬、沈黙があった。と、ふいにドアの向こうから母親の声がした。
「ウィル? ウィ〜〜ル……来て、助けてちょうだい、ウィル!」間違えようもない母の声だったが、耳慣れない感情がこもっていた。半ば抑《おさ》えきれない恐怖の響きがあって、ウィルを慄然《りつぜん》とさせた。声は再び聞えた。「ウィル? あなたの手が要るの……、どこにいるの、ウィル? ああ、お願いよ、ウィル、助けに来てちょうだい――」それからしゃくり上げるような悲しいとぎれ方をした。
ウィルには耐えられなかった。よろりと進み出てドアに駆け寄った。メリマンの声が鞭《むち》の音のように追って来た。「止まれ!」
「だって、行かなくちゃ。聞えないの?」ウィルは怒ってどなった。「母さんがつかまってるんだ。助けなくちゃ――」
「そのドアをあけるな!」深い声にはかすかに必死の響きがあり、いよいよとなったらメリマンには止められないことを、ウィルは本能的に知った。
「あれはお母さまではありませんよ、ウィル」老婦人がはっきり言った。
「お願い、ウィル!」母の声が懇願《こんがん》した。
「いま行く!」ウィルはドアの重い掛け金に手を伸ばしたが、慌てたあまりつまずき、頭まである大きな燭台にぶつかって腕を脇腹に押しつけられた。突然、前腕《ぜんわん》に焼けつくような痛みを覚え、ウィルは声を上げて床にうずくまって、手首の内側を見つめた。四等分された輪のしるしが、痛々しく赤く、皮膚に焼きつけられていた。ベルトの鉄のしるしが再び冷気の牙をむいたのだった。今回は白熱にも似た冷たさで、悪の存在を――ウィルが感じはしたが忘れてしまった存在を警告《けいこく》するために、ヒリヒリ猛烈に痛み続けた。メリマンと老婦人はそれでも動きはしなかった。ウィルがふらふしながら立ち上がり、耳をすませている間、ドアの外では母親の声が泣き、怒り出し、おどし、またやわらいでなだめすかし、ついに消えたが、その断末魔《だんまつま》のすすり泣きは、頭と感覚がいかに現実のものではないと教えても、身を引き裂かずにはおかなかった。
するとドアも声と共に薄れ、霧のように溶け去って、また元通り、がっちりした切れ目のない灰色の石壁に戻った。外では、恐ろしい呻き声や叫びの非人間的な合唱が再開された。
老婦人が立ち上がり、大広間を横切って来た。長いみどり色のドレスが一歩ごとにさやさや鳴った。老婦人はウィルの痛む腕を両手で取り、涼しい右のてのひらをその上にかざした。それから手を放した。腕の痛みは消え、赤く焼けたところが、古い火傷《やけど》のあとのように毛のないテラテラした皮膚になっているのが見えた。が、傷跡《きずあと》の形ははっきりしていて、死ぬまで消えないであろうということがわかった。焼き印《いん》のようなものだった。
壁の外の悪夢の物音は、不規則な波になって上がり下がりした。
「ごめんなさい」ウィルはみじめな気持ちで言った。
「見ての通り、私たちは包囲されているのだ」とメリマンが歩み出てふたりに加わった。やつらは、君が全力を発揮《はつき》できるようになる前に、手中に収めてしまおうとしている。これなどは、まだ危険の序の口なのだよ、ウィル。この冬至の頃を通じて、やつらの力は膨《ふく》れ上がり強くなる。<いにしの魔法>の力をもってしても、それを遠ざけられるのはクリスマス前夜《イブ》ただひと晩だ。そのうえ、クリスマスが過ぎてもやつらの力は伸び続け、主顕祭《しゆけんさい》である十二日目すなわち一月六日、そしてその前の晩、十二夜までは最大力を失わない――昔はこの主顕祭の日がクリスマス当日とされていた。それよりさらに以前、遠い昔には、この日に、われらがいにしえの一ヵ年の、冬の大祭を祝ったものだ」
「その日には何が起きるの?」ウィルは言った。
「何をせねばならないかだけを考えましょう」と老婦人が言った。「まず、この部屋のまわりにいま敷《し》かれている<闇>の力の円陣《えんじん》から、あなたを自由にせねばなりません」
メリマンはじっと耳をすましながら言った。「用心したまえ。何に対してもだ。ひとつの感情では失敗したが、今度は別な感情を通じて、君を罠にかけようとするだろう」
「それが恐れであってはなりません」老婦人が言った。「おぼえておくのですよ、ウィル。怯えることは、しばしばあるでしょう。けれど、あの者どもを恐れてはなりません。<闇>の力にはいろいろなことができますが、破壊《はかい》はできません。<光>の者たちを殺すことはできないのです。この地球全体の最終的な支配をかちとらない限り。そしてそれを阻《はば》むことこそ<古老>たちの――あなたやわたしたちの――務めなのです。だから、恐怖や絶望に追い込まれてはなりません」
老婦人は言葉を続け、もっといろいろ言ったが、その声は満潮時の波の下にもぐった岩のように呑まれてしまった。壁の外で泣き叫び哀願するおぞましい合唱が、次第に大きくなり、早くなり、怒り狂って、悲鳴とこの世ならぬ哄笑《こうしよう》と、恐怖の金切り声とふざけた馬鹿笑い、そして咆哮《ほうこう》と唸り声の不協和音になったのだ。ウィルは聞いているうちに、総毛《そうけ》立ち、冷や汗をかき出した。
メリマンの深い声が、ぞっとするような騒音の中から響き出て自分を呼ぶのを、夢の中のことのように聞いた。老婦人が手を取って部屋を横切り、暗い室内で唯一の光の洞穴《ほらあな》となっているテーブルと炉端のほうへ連れ戻してくれなければ、動けないところだった。メリマンがウィルの耳もとで、切迫《せつぱく》した調子で口ばやに言った。「輪のそばに立つのだ。光の輪のそばに。テーブルを背にして、私たちの手を取りたまえ。こうしてつなげば、やつらには破れぬ」
ウィルはその場に立ち、腕を大きく左右に拡げた。両脇の視野《しや》の外で、ふたりがそれぞれ、ウィルの片手を取った。暖炉の火の光が消え、背後でテーブルの上のろうそくの輪が高く伸び、巨大になったのを意識した。うち仰ぐと、輪が白い光の柱となって頭上高くそびえているのが見えた。この巨大な炎の木は熱を出さず、たいへんなまぶしさで輝いているのにテーブルより先へは光が届いていなかった。広間のほかの部分は、壁も絵も、ドアひとつウィルには見えなかった。見えるのは暗黒だけ、迫り来るおそろしい夜の茫漠《ぼうばく》たる黒い空虚《くうきよ》さだけだった。
これが<闇>だった。ウィル・スタントンが強くなって自分に害をなす前に呑み込んでしまうために攻めて来たのだ。不思議なろうそくの光の中で、ウィルは老婦人のかぼそい指と、メリマンの木のように固いこぶしにしっかりつかまった。<闇>の叫びは耐え難いほど高くなり、かん高く勝ち誇ったいななきとなった。ウィルは、目には見えないながらも自分の前の暗闇の中に、あの大きな黒い牡馬が林の中の小屋の外でやったように後脚で立っていて、<騎手>もまた、新たに蹄鉄を打ったひづめが用を成さなかった場合に備え、ウィルを打ち倒すためにそこに来ているのを察した。今回は、空から助けにとびおりて来てくれる白い牝馬はいないのだ。
メリマンがどなるのが聞えた。「炎の木だ、ウィル! 炎で叩くのだ! 火に命じたように、炎に命じて打ち倒せ!」
夢中で従ったウィルは、頭の中を、背後に白い木のように伸びている、高い、高いろうそくの炎の輪の像でいっぱいにした。と同時に、二人の味方の精神が同じことをするのを感じ、三人が一緒になれば想像したこともないようなことが可能になるのだと悟った。両手それぞれに、握っている手からすばやく圧力がかかり、ウィルは頭の中で光の柱を前に打ちおろし、巨大な鞭《むち》のように振りおろした。頭上で白い光がすさまじく炸裂《さくれつ》し、背の高い炎が前から下へ稲妻のように襲いかかった。前の暗闇からものすごい絶叫《ぜつきよう》があがり、何かが――<騎手>と黒馬が、ともに――倒れ、放り出され、下へ果てしなく下へ落ちて行った。
そしてウィルたちの前の暗闇に生じた裂け目に、ウィルがまだくらんだ目をしばたたいている間に、最初に大広間にはいる時に通った二枚の木彫りの扉が立っていた。
ふいの沈黙の中で、ウィルは自分が勝ちどきを上げるのを聞いた。そして扉に駆け寄るために、握られていた手を振りほどいて前にとび出した。メリマンと老婦人が警告を発したが遅すぎた。輪を破ったウィルはひとりになっていた。それに気づくや否や、めまいがして、頭を抱えてよろめいた。耳の中が異様に脈打ち鳴り出した。無理に足を動かし、ふらつきながら扉に歩み寄ってもたれかかり、こぶしで弱々しく叩いた。扉はビクともしなかった。頭の中の不気味な音は大きくなった。メリマンが自分の前に移動して来るのを見たが、強風に逆らっているかのようにひどく前のめりになり、歩くのもやっとだった。
「愚か者」メリマンはあえいだ。「ウィル、愚かなことを」メリマンは扉をつかみ揺さぶった。両腕の力をこめて押したので、眉のそばのねじれた静脈《じようみやく》が太い針金のように浮き上がった。同時に頭を上げ、ウィルには理解できない言葉で長い命令的な文句を叫んだ。が、扉は動かず、ウィルは、太陽のもとで溶けて行く雪だるまのように、力が抜け、下へひきずりおろされるのを感じた。
もうろうとしかけていたウィルの意識をはっきりさめた状態に引き戻してくれたのがなんだったか、ウィルにはついに説明できなかった――正確に思い出すことすらできなかった。苦痛の終わる時のような気分だった。不協和音がハーモニーに変わる時のようでもあった。そして、灰色のうっとうしいある日に、ふいに感じる気分の高揚《こうよう》にも似ていた――陽が射《さ》して来たからだと気づいて初めて説明がつくような。ウィルの頭にはいり込み元気を出させた音のない音楽が老婦人から発していることは、即座にわかった。言葉を使わずにウィルに話しかけているのだった。彼らふたりに――そして、<闇>に。老婦人を振り返ったウィルは目がくらんだ。老婦人は前よりも背が高く、大きくしゃんとなったように見えた。ひとまわり大きくなっていた。そして体のまわりには、ろうそくの光から来ているのではない輝きが、金色のもやがかかっていた。
ウィルはまばたきしたが、よく見えなかった。まるでヴェールでへだてられているようだった。メリマンの深い声が、今で聞いたなかでは一番やさしく、だが何か急な強い悲しみに歪められているようにひびいた。「ご老女さま」メリマンは辛そうに行った。「ご用心なされ。ご用心を」
答える声はなかったが、ウィルは祝福されたように感じた。が、すぐにそれは消え、老婦人でありながら老婦人でない、背の高い輝く人影は、暗闇のなかをゆっくりと扉に歩み寄った。一瞬、ウィルは再三《さいさん》あのとらえがたい記憶の中の不思議な旋律を耳にした。外には灰色の光と静けさがあり、空気が冷たかった。
背後ではろうそくの輪の光が消え、暗闇だけが残った。落ち着かない、虚ろな暗闇なので、もはや大広間もそこにはないことがわかった。そしてハッと気づくと、目の前の輝く金色の人影も薄れ、消え出していた。どんどん薄くなってしまいには見えなくなってしまう煙のように。一瞬、老婦人の指の大きな指輪からバラ色の光が輝いたが、それも失せ、老婦人のきらめく存在は無に帰《き》していた。ウィルは、自分の世界の全てが<闇>に呑みつくされたような、絶望的な喪失《そうしつ》の痛みを覚え、声を上げた。
肩に手が触れた。メリマンがかたわらにいた。ふたりは戸口を通り抜けていた。巨大な木彫りの門はゆっくりと閉じた。チルターンの丘の白い未踏の中原で自分のために開いてくれたのと、確かに同じ不思議な門なのを見極める時間をウィルに与えて、そして、閉じ合わさった瞬間に、扉もまたそこにはなかった。何も見えず、ただ灰色の空を反映する灰色の雪明りがあるばかりだった。その朝まよい込んだ、雪に閉ざされた森林地帯に戻っていたのだ。
ウィルは気づかわしげにメリマンのほうを向いた。「あの人はどこ? 何が起きたの?」
「無理だったのだ。負担《ふたん》が大きすぎた。いくらあのかたであっても。初めてだ――このようなことになるのを見たのは初めてだ。」メリマンの声はしわがれ、苦々《にがにが》しげだった。何もないところを腹立たしげに見つめていた。
「あいつらに――つかまったの?」ウィルは不安を言い表す言葉を思いつけなかった。
「違う!」メリマンが言った。あまりにもさげすみに満ちた言い方だったので、笑っているようにも取れた。「あのかたにはやつらの力も及ばぬ。いかなる力も及ばぬ。もう少しものを知れば、そのような質問はしなくなるだろう。しばらく遠くへ行かれた、それだけだ。扉を閉じておこうとしていたあらゆる者たちに逆らってあけたのが、お体にこたえたのだ。<闇>にはあのかたを滅ぼすことはできないが、力を使い果たさせ、抜け殻《がら》にしてしまった。あのかたは遠くで、おひとりで、力を回復されなければならぬ。その間に私たちに必要が生じたら、困ったことになる。必要は生じるだろう。世界は常にあのかたを必要としているのだ」メリマンは暖かみのかけらもなく、ウィルを見おろした。ふいに遠い人に、敵のように不安を感じさせる人間に思えた。メリマンはじれったげに片手を振った。「上着の前を留めたまえ。凍えてしまう前に」
ウィルは重い上着のボタンをはめた。メリマンは立衿の、古びた長い青いマントにくるまっていた。
「ぼくのせいだったんでしょう?」ウィルはみじめになって言った。「ぼくが扉を見ても、走り出したりしなければ――ずっと手を握ってて、輪を破ったりしなければ――」
メリマンは邪険《じやけん》に「そうだ」と言ったが、少し後悔したらしく「だが、それもやつらのしわざだよ、ウィル、君のではない。やつらは君の性急さと希望を通して、君をつかまえたのだ。良い感情をねじまげて悪を成さしめることこそ、やつらの好むところだ」
ウィルはポケットに手を突っ込んで背を丸め、じっと地べたを見つめた。頭の奥のほうを、はやしたて嘲《のの》しる声が駆け抜けて行った。老婦人を失くした、老婦人を失くした、と。悲しさがのどにわだかまり、つばを呑み込んだが口がきけなかった。そよ風が木々の間から吹いて来て雪の結晶を顔に吹きつけた。
「ウィル」メリマンが言った。「私は腹を立てた。許してくれたまえ。君が三人の輪を破らなかったとしても、結果は同じだったはずなのに。あの扉は<時>へのわれわれの偉大なる門なのだ。君もじきに、その使い道をもっと知るようになる。だが、あの時は、君にはあけられるはずもなかった。私にも、輪の誰にもあけられなかったろう。あの扉を抑えつけていた力は、<闇>の持つ真冬の力の全てだったのだから。あれにひとりで打ち勝てるのは、あのかただけだった。――それさえ、たいへんな犠牲《ぎせい》を払って初めて可能だったのだ。元気を出したまえ。しかるべき時が来たら、あの方は戻って来られる」
メリマンはマントの立衿をひっぱってフードにし、頭の上に引き上げた。白い髪を隠してしまうと、急に背が高く謎めいた、黒っぽい姿になった。「来たまえ」というと、メリマンはウィルを導いて深い雪の中、ブナの大木や葉を落としたカシの樹間《じゆかん》へとわけいった。やがて、とある空地でふたりは立ち止まった。
「どこにいるのか、わかるかな?」
ウィルはなめらかな雪の土手や、そびえ立つ木々をじろじろ見まわした。「わからない」と答えた。
「わかるわけないよ」
「だが、この冬が四分の三も終わらないうちに、君はこの小さな谷間にしのび込んで、木々の間のいたるところに花開くスノードロップを見に来ることだろう。春には水仙《すいせん》を見つめるためにまた戻って来るだろう。去年の例から判断《はんだん》すると、一週間の間、毎日来ることになりそうだな」
ウィルはぽかんと口をあけた。「館《やかた》のこと?」とたずねた。「館の地所《じしよ》なの?」
ウィル自身が生まれた世紀においては、ハンタークーム館は村の名家である。家そのものは道からは見えないが、地所はハンタークーム小路に沿って、スタントン家があるのとは反対側にあり、どの方向にも長く伸びていて、高い鉄の柵《さく》と古びたレンガ壁が交互にめぐらされている。持ち主はミス・グレイソーンという婦人で、代々彼女の一家の地所だったのだが、ウィルはあまり良くは知らなかった。ミス・グレイソーンも、その館もたまにしか見ることはなく、館については高いレンガの破風《はふ》と、テューダー時代様式の煙突がいっぱいついている、というあいまいな記憶しかなかった。メリマンが口にした花々は、ウィルの一年を区切る個人的な目安《めやす》とでも言うべきものだった。おぼえている限り、冬の終わりにはいつも館の柵をくぐり抜け、この唯一の魔法めいた空地に立って、冬を追い払ってくれるやさしいスノードロップをながめ、その数週間後には春の水仙の黄金の光を見るのが常だった。誰が植えたものかは知らなかったし、訪れる者を見かけたこともなかった。花があるのをほかに知っている者がいるのかどうかも確かではなかった。花の姿が脳裏に明るく浮かび出た。
が、疑問が首をもたげて花を追い払った。「メリマン、じゃあ、この空地は、ぼくが初めて見たのより何百年も前からここにあったって言うの? それからあの大広間、あれは何世紀も昔の、今の館の前の館なの? それから、この辺の森は、鍛冶屋と<騎手>に逢《あ》った時に通りぬけた森は――この辺全部そうみたいだけど、みんな館の地所の一部――」
メリマンはウィルを見おろして笑った。楽しげな笑いで、ふたりの上にのしかかっていた重苦しさは嘘《うそ》のように消えていた。
「ほかのものも見せてあげよう」と言うと、メリマンはウィルを連れて空地を離れ、さらに木々の間を進み、ついに連続する木の幹や吹きだまりが途切れるところに出た。前方に見えたのは、ウィルが予期していた、朝の細い小道――密集した古木の果てしない森の中をうねうねと走る小道――ではなく、見なれた二十世紀のハンタークームの小路の輪郭《りんかく》であり、その向こう、少し道を上ったところにちらりと見えたのは自分の家だった。館の柵が立ちはだかっていたが、雪のせいでいくらか低くなっていたので、メリマンは足をのばしてまたぎ越した。ウィルがいつも使うすきまから抜き出すと、ふたりは雪の土手に縁取られた道に立っていた。
メリマンはフードをおろし、この新しい世紀の空気を嗅ぐかのように、白いたてがみを戴いた頭を上げた。「いいかね、ウィル」メリマンは言った。「われわれ輪の者は、<時>の中にゆるく置かれているにすぎないのだよ。あの扉は<時>を通り抜ける手段のひとつだ。どちらでも、好きな方角に出られる。なぜなら、あらゆる時間は同時に存在しているのだ。未来が過去に影響《えいきよう》を及ぼすことも時にはある。過去が未来へ通じる道であってもな……だが、人間にはこれが理解できない。君にもしばらくは無理だ。年月の中を旅する方法はほかにもある。そのひとつが、けさ、君を五世紀ほどさかのぼらせるのに用いられた。それが、君のいた場所だよ――サザンプトン入江から、このテムズ河沿いの谷間まで、この国の南部一帯をおおう王室御猟林《ごりようりん》の時代だ」
メリマンは道のむこうの平らな地平線を指した。ウィルはその朝テムズ河を二度見たことを思い出した。一度は見なれた畑の中で、一度は畑ではなく木々にうずもれているところを、メリマンの顔が回想に引き締まるのをウィルはまじまじと見つめた。
「五百年前」とメリマンが言った。「イギリスの王たちはこれらの森を保存することを、わざわざ選んだ。村や集落をまるごと呑みつくさせ、野生の動物、鹿や猪《いのしし》や狼までもが繁殖《はんしよく》して狩りの獲物を提供《ていきよう》することができるようにした。だが森というのは従順《じゆうじゆん》な場所ではない。王たちは、知らないうちに、<闇>の力のための憩いの場までこしらえてやっていたのだ。それがなければ、北の山々やへき地に追い払えたものを……、な。君はきょう一日が始まった時にもあそこにいた。雪をかきわけて森の中を歩いていた時だよ。チルターンの何もない浜辺にいた時も、最初に扉をくぐったときも――あれは君の最初の歩みの、<古老>のひとりとしての誕生日の象徴《しようちよう》だったのだ。そしてそこに、過去に、私たちはあのかたを残して来た。いつ、どこでまたお会いできるのか、知っていたらいいのだが。しかし、来られるようになり次第、きっと来て下さる」メリマンは重苦しさを再び追い払おうと言うかのように、肩をすくめた。「さあ、もう君自身の世界にいるのだから、帰ってもいいぞ」
「あなたもでしょう?」ウィルは言った。
メリマンはほほえんだ。「また戻って来たわけだ。複雑な気持ちだね」
「あなたはどこへ?」
いにしえの道
「まだ降るってさ」と巾着型《きんちやくがた》の袋をさげたふとった婦人は、バスの車掌《しやしよう》に言った。
西インド諸島出身のバスの車掌は首を振り、ゆううつそうに大きなためいきをついた。「ひどい天気だね。こんな冬がまたあったら、あたしはポート・オブ・スペインに帰るよ」
「元気おしよ」ふとった婦人は言った。「こんなのは二度とないよ。あたしゃこのテムズ谷に六十六年住んでるけどね。こんな大雪は初めてだものね。クリスマス前にはさ。初めてだよ」
「一九四七年」と婦人の隣にかけている、長い尖《とが》った鼻の痩《や》せた男が言った。「あの年はたいした雪だった。全くすごかった。頭の上まである吹きだまりが、ハンタークーム小路にも沼小路にもいっぱいで、共有地の向こうまであった。二週間というもの、共有地を横ぎることもできなかった。除雪《じよせつ》車を出すはめになったもんだ。ああ、あの年の雪はすごかった」
「でも、クリスマス前じゃなかったよ」ふとった婦人が言った。
「ああ、一月だった」男は悲しげにうなずいた。「クリスマス前じゃなかった。うん――」
メイドンヘッドまでこの調子で話が続きそうだったし、事実続いたかもしれなかったが、ウィルは、外の白一色の世界の中を自分のおりる停留所《ていりゆうじよ》が近づいて来るのにハッと気づいた。袋や箱を抱きかかえながらパッと立ち上がった。車掌が停車ベルを押してくれた。
「クリスマスの買い物だね」車掌は言った。
「うん。三……四……五……」ウィルは包みを胸に押しつけ、揺れるバスの手すりにつかまった。「これで全部終わったんだ。やれやれだよ」
「あたしのも終わってたらなあ」車掌が言った。「クリスマス・イブはあしただってのに。血が凍っちまうんだよ。それが悩みの種さ――あったかい陽気にならないと、目がさめないのさ」
バスが停車すると、車掌はウィルがおりるのを支えてくれた。「楽しいクリスマスを、おにいさん」と言った車掌とウィルとは、学校への往復にバスに乗っているので知り合いだった。
「楽しいクリスマスを」ウィルは言った。それから、バスが動き出すと同時に衝動的に呼びかけた。「クリスマスの当日はいい陽気になるよ!」
車掌は白い歯を見せてニコッとした。「あんたが何とかしてくれんのかい?」とどなり返した。
できるかもしれないよとウィルは考えながら、国道をハンタークーム小路へ向かって歩いた。できるかもしれないよ。雪は歩道の上でさえ深かった。この二日間というもの、出歩いて踏み荒らす者も少なかったのだ。ウィルにとっては、前に起きたことの記憶にもかかわらず、平和な日々だった。誕生日は楽しく過ごせた。家族だけでのパーティのにぎやかさときたら、そのあとベッドに倒れ込んで、<闇>のことなどほとんど考えもせずに眠り込んでしまったほどだった。次の一日は、家の裏手の傾斜した原っぱで兄たちと雪合戦をしたり、間に合わせのトボガンぞりで遊んだりした。雪が頭上に待機《たいき》していながら、なぜか未《いま》だに降って来ない、灰色の日々だった。牛乳屋とパン屋のトラック以外は小路にやって来る車もない沈黙の日々だった。ミヤマガラスも静かで、時折り林の上を一羽か二羽が、ゆっくり行きつ戻りつしているだけだった。
動物たちがもはや自分に怯えてないのをウィルは知った。むしろ、前よりも愛情が増したように見えた。二頭のコリーのうち年上のラックだけが、腰をおろしてウィルの膝にあごを休めるのが好きなくせに、時々、電気ショックにかられたかのように、これといった理由もなくパッと身を引くことがあった。そのあとはニ、三秒間、室内を落ち着きなく歩きまわり、それから戻って来て物問いたげにウィルの顔を見上げ、また前のようにくつろいだ。ウィルには何と考えたらいいのかわからなかった。メリマンならわかるだろうと悟っていたが、メリマンは連絡のつかないところにいた。
二日前、家に到着したとき以来、ベルトの十字入りの輪は触れると暖かかった。今も歩きながらコートの下に手を入れて確かめてみた。輪は冷たかった。が、何もかもが冷えきっている戸外にいるからに過ぎないだろうと思った。その日の午後は、最寄《もよ》りの大きな町であるスラウで、クリスマスの贈り物を買うのに費《つい》やされた。恒例《こうれい》の儀式だった。クリスマス・イブの前日なら、さまざまな叔父《おじ》や叔母《おば》からの誕生祝いの金がはいっていることが確実だからである。だが、ひとりで買いに行ったのはこの年が初めてだった。ウィルは楽しんだ。ひとりのほうが、うまくものごとを整理して考えられる。何よりも大切なスティーヴンへの贈り物――テムズ河に関する本――は、ずっと前に買って、ジャマイカのキングストンに発送済みだった。スティーヴンの船はカリブ駐留《ちゆうりゆう》とやら言うものになっていた。何だか電車のことを言っているみたいだ、とウィルは思った。友人であるバスの車掌にキングストンがどんな所か聞いてみなくては、もっとも車掌はトリニダードの出身であるから、ほかの島々に対しては点が辛いかもしれない。
この二日間に訪れた意気の消沈《しようちん》を再び覚えた。記憶している限り、スティーヴンから誕生祝いが届かなかった年は初めてだったのだ。ウィルは、これで百回目だったが、郵便の配達ミスか、でなければ船が緊急《きんきゆう》の任務でみどりの島々へと航海《こうかい》に出たのだと論じて、失望を押しやった。スティーヴンはいつだって誕生日をおぼえていてくれた。今度もおぼえていてくれたに違いない。何かがじゃまをしたのでない限り、スティーヴンが忘れるはずがない。
行手には、誕生日の朝以来初めて顔を出した太陽が沈みかけていた。雲の切れ目から金色がかかったオレンジに輝くふとった太陽で、あたりの白銀の雪景色が小さな金色の光をキラキラ照り返した。町のぬかるんだ灰色の通りを見たあとなので、何もかもがまた美しかった。ウィルはどんどん歩き続け、庭塀《べい》や木々を通り越し、舗装されていない小さな道のてっぺんに出た。道とも呼べないほどで、浮浪者横丁《ふろうしやよこちよう》と言う名で知られ、国道からさまよい出て次第にカーブし、スタントン家の近くでハンタークーム小路と合流する路地だ。子供たちは時々近道として使っていた。ウィルは先のほうまで一瞥して、雪が降り出した時以来、誰も通らなかったのを見てとった。雪は踏み荒らされることなく積もり、なめらかで白くて、招いているようで、小鳥の足跡《あしあと》が象形文字のようについているほかは、なんの跡もなかった。未体験の領域《りよういき》。ウィルにはたまらなかった。
そこでウィルは浮浪者横丁にはいって行った。きれいな、少しサクサクした雪の中を思いきり踏んで歩いたので、かけらが房のようになって、長靴の中に押しこんであるズボンにくっついた。小道とハンタークーム小路のてっぺんを縁取っている数件の家々との間に、林野になった区域があり、それにさえぎられて太陽はあっという間に見えなくなった。雪の中をドスドス歩きながら、ウィルはいくつもの包みを胸に抱え直し、もう一度かぞえた。ロビンへのナイフ、ポールへのフルート磨き用のセーム革布、メアリーへの日記帳、グウェニーへの浴用塩、マックスへの超特性フェルト・ペンのセット。ほかの贈り物は全てもう買って包んである。九人兄弟のひとりともなると、クリスマスはややこしい行事なのだ。
横丁の散歩、じきに期待ほど面白くはなくなり出した。雪を蹴《け》って道を拓いているため足首が疲れて痛み出し、荷物は持ちにくかった。金と赤の夕映えは消えて鈍いねずみ色になった。ウィルは空腹で寒かった。
右側には木が高くそびえていた。ほとんどはニレで、たまにはブナもある。道の反対側には荒地が広がっていた。雪のおかげで、はびこった雑草《ざつそう》と繁みの乱雑なとり合わせが、白いなだらかな勾配《こうばい》と陰になった窪《くぼ》みからなる月景色へと変貌をとげている。雪におおわれた小道一帯に、積雪の重みで木からもげた小枝細枝が散らばっている。すぐ先に、行手を阻む大枝が転がっているのが見えた。ウィルは不安になって視線を上げ、風や雪の重みで墜落《ついらく》できるのを待っているニレの枯枝は、あと何本ぐらいだろうと考えた。たきぎを集めるにはいい時期だ、と思うと、ふいに、あの大広間の暖炉にかっかと燃えさかっていた火の幻に心をそそられた。自分のひとことで消え、またおとなしく燃え出すことによって、ウィルの世界を変えてしまった火。
冷たい雪のなかをつまずきがちに進むうちに、あの火を思い出したことから無茶苦茶に楽しい思いつきが唐突にひらめいた。ウィルは立ち止まり、ひとりでニヤニヤした。あんたがなんとかしてくれんのかい? いや、お友達、暖かいクリスマスにしてあげるのは恐らく無理だけど、今、この場所を、もう少し暖かくすることならできるよ。ウィルは前に転がっている枯れ枝を自信たっぷりに見て、今では自分の中にあるとわかった力を楽々と扱って、そっと、いたずらっぽく命じた。「燃えろ!」
するとその場で、雪の上で、木から落ちた枝は火を噴《ふ》いた。腐《くさ》った太い根元から一番小さい小枝にいたるまで、すきまなく、なめるような黄色い火で燃え上がった。シュウという音がし、火の中から背の高い光のすじが柱のように上昇した。燃えているのに煙は出ず、火勢も安定している。燃え上がり、ちょっとの間はぜてから灰になって崩れるはずの小枝も、延々《えんえん》と燃え続けた。まるで内部にべつの燃料源《ねんりようげん》があるかのようだった。その場にひとりで立ちつくしているうちに、ウィルはにわかにちっぽけになったような気がし、怖くなった。これは普通の火ではない。普通の方法では制御《せいぎよ》できない。暖炉の火のようにはちっともふるまってくれない。ウィルはこの火をどうすればいいのかわからなくなった。慌ててもう一度精神を集中し、消えるよう命じたが、相変わらず順調に燃え続けるばかりだった。自分のしたことが愚かしく不適切で、もしかしたら危険でさえあるのがわかった。震える光の柱をすかして見上げると、灰色の空高く、ミヤマガラスが四羽、ゆっくりと円を描いてはばたいているのが見えた。
ああメリマン、とウィルはみじめな気持ちで思った。どこにいるの?
その時、ハッとあえぐ間もなく、誰かが後ろからウィルをつかまえた。ばたつかせた足も雪の中で動けなくされ、手首をつかまれて背後で腕をねじ上げられた。買い物包みは雪の中に散らばった。ウィルは腕の痛みに大声を上げた。とたんに手首をつかんでいる手はゆるめられた。ウィルを本気で痛めつけるのは気が進まないかのように。だが、がっちり抑えられていることに変わりはなかった。
「火を消せ!」切迫したかすれ声が耳もとでした。
「できないんだ!」ウィルは言った。「本当だ。やってみたけど、だめだった」
男は悪態《あくたい》をつき、妙にぶつぶつ呟いた。ウィルにはすぐに誰だかわかった。重しが離れたように恐怖が離れた。「<旅人>、放してくれ。こんなふうにつかまえとくことはないんだから」
すぐにまた手首がきつくつかまれた。「その手には乗らないぜ。おまえの手口なんかお見通しなんだ。確かにおまえがあれなんだ。今じゃわかってる。おまえは<古老>のひとりなんだ。けど、俺はおまえの仲間も闇と同じくらい信用してないからな。おまえ、目がさめたばかりだろう。おまえの知らないことを教えてやろう――目ざめたばかりのうちは、相手の目を見ない限り、誰にも何もできないんだぜ。だから、俺の顔が見えないようにしとくんだ」
ウィルは言った。「あんたをどうこうする気はないよ。本当に信用できる人間だって、世の中にはいるんだよ」
「ほんのわずかだ」<旅人>は苦々しげに言った。
「放してくれれば、目をつぶってもいい」
「へっ!」と老人は言った。
「あんた、第二のしるしを持っているんだろう? ぼくにくれ」
沈黙があった。男の手が腕から離れるのを感じたが、ウィルはその場に立ったまま振り向かなかった。
「第一のしるしはもう持ってる。それは知ってるね。ほら、上着のボタンをはずして、前をあけるから、ベルトにひとつめの輪がついているのを見てくれ」
頭を動かさないままコートを開くと、<旅人>の猫背《ねこぜ》になった体が脇にまわり込んで来るのが意識された。見ているうちに男の歯のすきまから、息が長いためいきとなってスーッと漏《も》れ、慎重《しんちよう》さを失ってウィルへと顔を上げた。燃えつづけている枝の黄色い光の中で、ウィルは相争《あいあらそ》う感情にひきつった顔を見た。希望と不安と安堵《あんど》が、迷いの苦しみによってきつくひとつに束ねられていた。
男が口をきいた時、その声は不幸な小さな子供のように、とぎれとぎれで飾り気がなかった。
「すごく重いんだ」と<旅人>は訴えるように言った。「もうずっと長いこと運んでるし、なぜかも忘れてしまった。いつだって怖くて、逃げていなけりゃならなかった。これにおさらばできさえしたら、休むことができさえしたら。ああ、これがなくなりさえすれば。けど、間違った相手に渡したりしたら大変だ。そんな危険《きけん》は冒《おか》したくない。そんなことをしたら、どんなひどいことが俺の身に起きるか。口では言えないくらいだ。<古老>たちは、いくらだって酷《むご》くなれるんだから……おまえが正しい相手なんだとは思うよ。もう長いこと、ずっと長いことおまえを捜してたんだ。しるしを渡すために。けど、どうしたら確かめられる?<闇>のペテンでないと、どうして言い切れる?」
あまり長いこと怯えていたんで、やめ方がわからなくなってしまったんだ、とウィルは思った。完全にひとりぼっちとは、なんて恐ろしいことだろう。ほくをどう信用すればいいのかわからないんだ。長い間、人を信用せずにきたので、やり方を忘れてしまったんだ……「いいかい」とウィルはやさしく言った。「ぼくが<闇>の一部でないことはわかってるはずだよ。考えてもごらん。<騎手>がぼくを倒そうとするのを見たじゃないか」
が、老人は苦しげにかぶりを振った。ウィルは、<騎手>が空地に現れると同時に男が悲鳴を上げて逃げ出したのを思い出した。
「それが手がかりにならなくても、この火が教えてくれただろう?」
「もう少しでね」と<旅人>は言って、希望をこめて火をみつめたが、恐怖がよみがえって顔を歪めた。
「けど、この火はやつらを呼び寄せちまう。それぐらいわかってるだろう? からすどもがもう道案内をしてるはずだ。それに、火をつけたのだって、おまえが目ざめたばかりの<古老>で、ちょっと遊びたかったからだけなのか、それともやつらを呼んで俺をつかまえさせるためなのか、わからないじゃないか」男は苦悩のあまり呻《うめ》き、自分で自分の肩を抱えた。哀れな男だ。とウィルは気の毒になった。だが、なんとか理解させなければならない。
ウィルは上を見た。のんびり頭上を旋回しているミヤマガラスの数はふえており、互いに荒々しく鳴き交わしているのが聞えた。老人が正しいのだろうか? 黒い鳥どもは<闇>の使い走りなのだろうか?
「後生《ごしよう》だよ、<旅人>」ウィルはじれて言った。「信用してくれるしかない――一度は誰かを、しるしを渡す間だけでも信用しなければ、永久に運び続けることになるんだよ。そうしたいのかい?」
老いた浮浪者は嘆《たん》じ、つぶやき、狂気じみた小さな目でウィルを見つめた。くもの巣にかかったハエのように、何世紀もの不信のとりこになっているのだった。だがハエにも、くもの巣を破る羽がある。はばたく力を一度だけ与えられさえすれば……、頭の中の未知の部分に動かされ、自分でも何をしているのかよくわからないまま、ウィルはベルトの鉄の輪をにぎりしめ、できるだけ背が高くまっすぐに見えるよう立ち、<旅人>をゆびさして呼ばわった。「最後の<古老>が来たのだ、<旅人>よ。時が来た。しるしを渡す時は今。今をのがせば二度とない。それだけを考えろ――二度と機会は訪れない。今だ、<旅人>よ。永久に運び続けたくなければ、いま<古老>たちに従え。今だ!」
言葉がどこかのバネをゆるめたかのようだった。たちまち、ひきつった老いた顔に宿っていた不安と疑惑がくつろいで、子供じみた従順さに変わった。痴呆《ちほう》めいた笑みを浮かべていそいそと、<旅人>は胸に斜めにかけている帳の広い革帯をいじくり、四等分された輪をひっぱり出した。ウィルのベルトについているのにそっくりだったが、青銅特有の鈍い金褐色《きんかつしよく》の光沢を帯びて光った。ウィルの手に押し込むと、<旅人>は驚きと喜びにかん高い笑い声を上げた。
ふたりの前の雪の上で黄色く燃えていた枝が、唐突に明るく燃え上がり、消えた。
枝は、ウィルが最初に横丁にやってきた時のままの格好で転がっていた。灰色で、焦《こ》げた跡もなく、冷えきり、火の粉や炎に触れた部分など一箇所もないかのようだった。青銅の輪をにぎりしめながら、ウィルは何の跡もない雪の上の粗い樹皮《じゆひ》に包まれた枝をじっと見つめた。その光が失われてしまうと、あたりは一段と暗く、影だらけに見え、夜までいくらも残ってないのに気づいて愕然《がくぜん》とした。もう遅いのだ。行かなくては。その時、行手の影の中から澄んだ声がした。「こんにちは、ウィル・スタントン」
<旅人>が恐怖にキーッと叫んだ。細い、醜悪《しゆうあく》な声だった。ウィルは青銅の輪をすばやくポケットにすべり込ませ、体を硬わばらせて前に進み出た。それからホッとして尻餅《しりもち》をつきそうになった。やって来たのはドースン農場で牛の世話をしているマギー・バーンズにすぎなかった。マックスにあこがれているりんごの頬のマギーには、怖いところなどひとつもない。丸ぽちゃの体をコートと長靴とスカーフにすっかりくるみ、おおいのかかったかごをさげて、国道に向かうところだった。マギーはウィルににっこりし、それからとがめるように<旅人>を見た。
「あれまあ」とマギーは丸みを帯びたバッキンガムシャーなまりのある声で言った。「ここニ週間がとこうろうろしていた、宿無しの爺さんじゃないの。お爺ちゃん、農場の旦那《だんな》さんが、どっかへ失《う》せてほしいもんだって言ってなすったわよ。からまれてのたね、ウィル坊や? そうなんでしょう」マギーがにらみつけると、<旅人>はふてくされて、汚らしいマントに似たコートの中で小さくなった。
「とんでもない」ウィルは言った。「スラウからのバスをおりて走ってたら――この人とぶつかったんだ。本当にぶつかったんだよ。クリスマス用に買った物を全部落としちゃった」と慌ててつけ加え、まだ雪の上に散らばったままの包みや箱を集めにかがみ込んだ。
<旅人>は鼻をすすり、コートの中でますます体をまるめるようにすると、マギーの脇をすり抜けて逆の方へ行こうとした。ところがマギーと肩を並べたとたん、何か見えない壁にでもぶつかったように身をグッと引いて、ビタッと立ち止まった。ぽかんと口があいたが声は出なかった。ウィルはゆっくりと体を起こし、脇に包みをいっぱい抱え込んだまま、その様子を見つめた。こがらしの冷気のように、ぞっとするほど不吉な予感がじわじわ感じられ出した。
マギー・バーンズは愛想良く言った。「ウィル坊や、スラウからこの前のバスが通ってから、ずいぶんになるじゃない。実はあたし、次のをつかまえるつもりなんだけど、バス停から五分のとこを歩くのに、いつも半時間かかるっての? ウィル・スタントン」
「何にどれだけ時間をかけようと、あんたの知ったことじゃないよ」ウィルは言った。凍りついた<旅人>の姿を見ているうちに、頭の中に混乱したイメージが渦巻き出した。
「たいしたお行儀《ぎようぎ》ね」とマギーは言った。「しつけのいい子にしちゃあ」頭に巻いたスカーフの中からウィルをのぞき込む目は、いやにキラキラしていた。
「じゃ、さよなら、マギー」ウィルは言った。「帰らなくちゃ。もうお茶の支度《したく》もできてるだろうし」
「あんたが今、ぶつかったけどからまれはしなかったっていう、この爺さんだけど、こういういやらしい、薄汚い宿無しってのは厄介なのよ」マギー・バーンズは猫撫《ねこな》で声で、動かずに言った。「連中の何が厄介って、ものを盗むことがね。この爺さんもこないだ、農場からあるものを盗んだのよ、ウィル坊や。あたしのものをね。飾りものでね。大きな金色っぽい茶色の飾りで、丸くって、あたしは鎖《くさり》につけて首にかけてたの。返してほしいわね。今すぐ!」最後のひとことは意地悪く投げつけられたが、すぐにまた穏やかで愛想良くなり、声の調子を変えたことなどなかったかのように続けた。「本当に返してほしいのよ。あんたが見てなかった時、ぶつかった時に、あんたのポケットにすべり込ませたんじゃないかと思うんだけどね。あたしの来るのが見えたとしてだけど。でも、今ここんとこで、おかしなたき火をしてたでしょ。あの光で見えたんじゃないかしら。ウィル・スタントンの坊や、あんた、どう思う? ええ?」
ウィルはつばを呑み込んだ。聞いているうちに首すじの毛が逆立った。そこに立っているマギーの姿は、いつもとまるで変わらず、ドースン農場の乳しぼり機を動かし、小さな子牛を育てる、バラ色の頬の素朴《そぼく》な牧場の娘だった。にもかかわらず、これらの言葉を繰り出す精神は<闇>の精神にほかならない。彼らがマギーの精神を奪ったのだろうか? それとももとから彼らの一員だったのだろうか? もし、もともとそうなら、ほかにどんなことができるのだろう?
ウィルはマギーと向かい合い、片手で包みの山を抱え、片手をそろそろとポケットに入れた。指に触れた青銅のしるしは冷たかった。あらん限りの精神の力を呼び集めて追い払おうとしたが、マギーは相変わらず、冷ややかな笑みを浮かべたまま佇んでいた。メリマンが使ったあらゆる名前を思い出し、老婦人の、輪の、しるしの名において去るよう命じた。だが、正しい言葉を知ってはいないのがわかっていた。マギーは声を上げて笑い、ゆっくりと前に進み出てウィルの顔を見つめた。ウィルはピクリとも動けないのに気づいた。
つかまってしまったのだ。<旅人>と同じように凍りつき、金縛《かなしば》りになって固定され、一インチも位置を変えられなくなっていた。しわひとつない赤いスカーフと地味な黒いコートをまとったマギー・バーンズをにらみすえたが、マギーは平然と、ウィルの手の上からコートのポケットに手を入れ、青銅のしるしを抜き出した。それをウィルの目の前につきつけると、てばやく彼のコートのボタンをはずし、ベルトを抜き取って青銅の輪を通し、鉄のと並ぶようにした。
「ズボンをひっぱり上げなさいよ、ウィル・スタントン」マギーは嘲るように言った。「あらまあ、できないんだったわねえ……でも、本当は、ズボンを抑えとくためにベルトをしてたわけじゃないんでしょ? 安全にしまっとくためによね……この小さな……飾りを……」ウィルはマギーがふたつのしるしをなるべく軽く持とうとしていて、しっかり持つはめになると顔をしかめるのに気づいた。輪から送り出される冷気に骨まで焼かれているに違いない。
ウィルは絶望しきってマギーを見つめた。出来ることは何もない。今までの努力と探求が、きちんと始められもしないうちに終わろうとしているのに、どうすることもできないのだ。吠えたけりたいと同時に泣きたかった。その時、頭の奥のほうで何かが動いた。何かの記憶の微妙な断片《だんぺん》がひらめいたが、つかみきれなかった。いきいきとしたマギー・バーンズが、第一と第ニの輪を一緒に通したベルトを前に突き出して見せ、鈍い鉄とつややかな青銅が並んだ瞬間に、初めて思い出せた。ふたつの輪を意地汚く見つめながら、マギーは嘲《あざけ》るような低い笑いをほとばしらせた。バラ色の率直《そつちよく》な顔から発せられると、一段と邪悪に聞えた。そしてウィルは思い出した。
……あの者の輪が、ベルトの上で最初のと並んだら、また来よう……
それと同時に、ウィルがさきほど少しの間ともしたニレの枯枝から火の手が上がり、炎がどこからともなく降って来て、焼けつくような白い光の輪となってマギー・バーンズを囲んだ。背丈よりも高い光の輪だった。マギーはふいに雪の上にしゃがみ込み、縮こまり、恐怖にだらしなく口をあけた。力無い手からふたつのしるしをつづったベルトが落ちた。
そしてメリマンがそこにいた。長い濃い色のマントをまとった背の高い姿で、包み込むようなフードの陰に隠し、道ばたに、燃える輪と萎縮《いしゆく》した娘のすぐ向こうにいた。
「娘をこの道より連れ出せ」とメリマンははっきりした大きな声で言った。燃え盛る光の輪はゆっくりと片側に移動し、マギーにもよろよろ進むことを余儀なくさせ、道に接している荒地の上で止まった。それから唐突なパシッという音とともに消え、その代わりに、道の両側に光の大壁が立つのが見えた両側を縁取ったひらめく炎は、前後にもずっと遠くまで伸びていた――ウィルが浮浪者横丁の名で知っている道の全長より、はるかに遠くまで。ウィルは少し怖くなってその壁を見つめた。外側の暗がりの中で、マギー・バーンズがみじめったらしく雪の中を這《は》いずり、腕で光から目をかばうのが見えた。だがウィルとメリマンと<旅人>は冷たい白い炎の果てしない大トンネルの中にいた。
ウィルはかがんでベルトを拾い、ホッとしてあいさつするように、ふたつのしるしを握った。左手で鉄を、右手で青銅を、メリマンがかたわらに来て右腕を上げたので、マントが腕から何か大きな鳥の翼のように垂れ下がった。長い指で娘を指すと、長ったらしい異様な名で呼んだ。ウィルが初めて聞く名で、頭にとどめておけなかったが、マギーは大声でわめいた。
メリマンは、声に死のように冷たい侮蔑《ぶべつ》をこめて言った。「帰れ。そして、しるしには触れられぬと彼に言え。傷つきたくなければ、われらの道のひとつに立っているときは、意思を通そうとはせぬことだ。いにしえの道はめざめ、その力は再びよみがえった。今度は哀れみも呵責《かしやく》も感じてはくれぬぞ」再びあの異様な名を繰り返すと、道を縁取る炎がますます高く舞い上がり、娘は大変な苦痛を覚えているかのようにかん高くつんざくように絶叫した。それから、体を丸くして小動物のように雪原を横ぎって逃げて行った。
メリマンはウィルを見おろした。「君を救ったふたつのものをおぼえておきたまえ」と言った。顔を隠しているフードの下のワシ鼻と窪んだ目に光があたった。「第一に、私はあの娘の真実の名をしっていた。<闇>のやからを無防備にする方法は、真実の名で呼んでやることだけだ。やつらはその名をひた隠しにしている。それから、名前だけでなく、道も手伝った。この小道の名を知っているかね?」
「浮浪者横丁」とウィルは反射的に言った。
「それは本当の名ではない」メリマンは嫌悪をこめて言った。
「うん。お母さんは絶対にこの名前で呼ばないし、ぼくたちも呼んじゃいけないことになってるんだ。醜い名前だって、お母さんは言うんだ。けど、ほかの名前で呼ぶ人なんか、いやしないんだよ。何だか馬鹿みたいじゃない。オールドウェイなんて呼んだら――」ウィルはハッと言葉を切り、生まれて初めてその名前をまともに耳にし、味わった。ウィルはゆっくりと言った。「オールドウェイ小路なんて本当の名で呼んだら」
「馬鹿みたい、か」メリマンはむすっとして言った。「しかし、君を馬鹿みたいな気分にさせる名前が、生命《いのち》を救ってくれたのだぞ。オールドウェイ小路。さよう、べつにどこかのオールドウェイ氏の名前をもらったわけではない。この名は単にこの道が何であるかを教えてくれているのだ。古い地方の道の名や地名にはよくあることだ。人間がもっと関心を払いさえすればな。君がちょっとした火遊びをした時に、<古老>たちが三千年あまりも通いつづけたオールド・ウェイ、即ちいにしえの道のひとつに立っていたのは幸運だった。ほかの場所だったら、訓練《くんれん》されていない力を持った今の状態では、あまりにも無防備になってしまい、国じゅうの<闇>のやからを引き寄せてしまったことだろう。魔女むすめが鳥に呼ばれて来たように。この道をじっくり見るのだ、坊。二度と卑《いや》しい名で呼んではならぬ」
ウィルはつばを呑み、気高い太陽の通り道のように遠くまで伸びている炎に縁取られた道を見、だしぬけに衝動にかられて、腕に抱えられたいくつもの包みが許す限り深く腰を曲げ、ぎごちなくおじぎした。炎がまた高く躍り上り、返礼のように内側に湾曲し、消えた。
「よくやった」メリマンは驚きながらも、少しばかり愉快《ゆかい》そうに言った。
「ぼく、もう二度と決して、あの――力を使って何かしたりしないよ。理由があればべつだけど。約束する。老婦人といにしえの世界にかけて。けど」――言わずにはいられなかった――「メリマン、<旅人>を呼び寄せたのはぼくの火だったんでしょう? そして<旅人>がふたつめのしるしを持っていたんだ」
「<旅人>は君を待ち伏《ぶ》せていたのだよ、愚かだな」メリマンは怒ったように言った。「向こうで見つけてくれると教えてやったのに、おぼえていなかったな。よくおぼえておきたまえ。この、われわれの魔法においては、どんな小さなひとことも、重さと意味を持っているのだ。君への私からの――また他の<古老>からの言葉は全てな。<旅人>か? これは、君の想像《そうぞう》もつかぬような大昔から、君が生まれ、自分とふたりきりになり、自分からしるしを取ってくれるを待っていたのだ。あの時の君のやり方はよかった。それはほめておこう――時が来てもしるしを差し出すかどうかが、悩みの種だったのだから。哀れなやつよ。かつて、ずっと以前に、<古老>たちを裏切ったためにこういう運命《さだめ》になったのだが」メリマンの声が少しやわらいだ。「これにとっては辛い年月だった。第二のしるしを運んでいたのだから。休む前にもうひと働きしてもらわねばならぬな。これにその心があればだが。それはまだ先のことだ。」
ふたりとも、マギー・バーンズが置いて行った時のまま、道ばたに動作の途中で凍りついた格好で立っている<旅人>を見た。
「ひどく居心地《いごこち》の悪そうな姿勢だなあ」ウィルが言った。
「これは何も感じてはいない」メリマンは言った。「筋肉のこりひとつ起きはせぬ。<古老>たちと<闇>の者たちには、小さいものではあるが、共通の力もいくつかある。そのひとつに人間を<時>の外に置くというのがある。必要な間だけ、な。<闇>の場合には、そうやって遊ぶのに飽きるまで、ということになる」
メリマンが金縛りになっているぶかっこうな人影に指を突きつけ、ウィルには聞き取れない言葉をいくつか、小さな声で口ばやにつぶやくと、映画の中で止められてまた動き出した人物のように、<旅人>は息を吹き返して体をくつろげた。目を大きく見開いてメリマンを見ると、口をあけ、変な、乾いた、言葉にならない音を立てた。
「行け」メリマンが言った。老人はへつらうように身を引き、はためく衣類を体に引き寄せると、半ばよろよろ駆けながら細い小道を逃げて行った。見送ったウィルは目をぱちくりさせ、それから瞳をこらし、さらに目をこすった。<旅人>が薄れ、妙に細くなり、木々が体を透《す》かして見えるような気がし出したのだ。やかで、雲に隠された星のように、ふっと見えなくなってしまった。
メリマンが言った。「私がやったのだ。あれの力ではない。しばしの安らぎを、ここ以外の場所で与えてしかるべきだと思ったのでな。それがいにしえの道の力なのだよ、ウィル。使い方さえ知っていたなら、これを使ってやすやすと魔女むすめから逃げられたものを。これと、さまざまなものの正しい名前と、そのほかにも多くのことをじきに学ぶだろう」
ウィルは好奇心にかられてたずねた。「あなたの正しい名前はなんと言うの?」
フードの中から黒い目がウィルを見て光った。「メリマン・リオンだ。初めて会った時に教えたはずだが」
「けど、もしそれが本当に、<古老>としてのあなたの正式な名前なら、教えたりしなかったはずでしょう?」ウィルは言った。「少なくとも、声に出してはね」
「早くも学び出したな」メリマンは機嫌《きげん》よく言った。「行こう。暗くなる」
ふたりは一緒に小道を下って行った。マントに包まれ、大またで歩くメリマンの隣で、ウィルは袋や箱を抱きしめて小走りにならなければならなかった。あまり言葉は交わさなかったが、ウィルが窪みや吹きだまりにつまずくと、いつもメリマンの手がそばにあって支えてくれた。小道のはずれのカーブを曲がってずっと広いハンタークーム小路に出ると、兄のマックスがきびきびとこちらへ歩いてくるのが見えた。
「見て、マックスだ!」
「うむ」とメリマンはいった。
マックスはウィルを呼び、陽気に手を振り、すぐそばまで来た。「今度のバスで帰ると思って、迎えにいくところだったんだぞ」とマックスは言った。「母さんがちょっぴり騒ぎ出したもんでね。末っ子坊やが遅いって」
「ああ、よしてほしいな」ウィルは言った。
「なぜ、あんなほうから来たんだい?」マックスは浮浪者横丁のほうへ手を振って見せた。
「ぼくらはただ――」ウィルは言いかけ、ぼくらと言うのにメリマンもふくめようと振り返ったが、あまり唐突に口をつぐんだので舌を噛《か》んでしまった。
メリマンはいなかった。一瞬前まで立っていた雪の中にも、何の痕跡《こんせき》も残ってはいない。いま横切ったハンタークーム小路と小道の手前のカーブを、もと来たほうへ振り返ってみても、足跡は一列しかついてなかった――ウィル自身のだ。
かすかな銀のような音楽が、空気中に聞えたような気がしたが、耳を傾けようと頭を上げたときにはもう、それも消えてしまっていた。
第二部 修 業
クリスマス前夜
クリスマス・イブ。スタントン家ではこの日こそ、クリスマスの喜びに本当に火がつく日だ。何週間も前から生活の場に見え隠《かく》れしていた特別にいいことのほのめかしや手がかりや約束が、今やパッと花開いて、絶間《たえま》なく楽しい期間となった。家は台所から漂う焼き菓子のすてきな香りに満ち、当の台所の片隅では、クリスマス・ケーキの砂糖衣に最後の手を加えているグウェンの姿が見られた。ケーキは三週間も前に母親が焼き上げたものだ。クリスマス・プディングはそれよりも三ヶ月前にできていた。誰かがラジオをつけるたびに時代遅れになることのない、なじみ深いクリスマス音楽が家じゅうに行き渡った。テレビのほうはまるでスイッチを入れられなかった。この季節ばかりは、取るに足りないものとなっていた。ウィルに関して言えば、この日のほうで、まだ早いうちから自然にピントを合わせてくれた。朝食――いつもよりももっとでたらめな内容だった――のすぐあとに、ユールの大薪《まき》とクリスマス・ツリーの、二重の儀式が控《ひか》えていたのだ。
スタントン氏はトーストの最後の一枚を食べ終えようとしていた。ウィルとジェイムスは、朝食テーブルについている父の両側に立ってもじもじしていた。父親は片手に持ったパン切れを忘れて、新聞のスポーツ面に読みふけっている。ウィルもチェルシー・フットボール・クラブの運命には熱狂的な関心を持っていたが、クリスマス・イブの朝は別だった。
「父さん、もっとトーストは?」ウィルは大声で言った。
「ふーむ」とスタントン氏は言った。「あ〜あ」
ジェイムスが言った。「お茶はもういいの、父さん?」
スタントン氏は顔を上げ、丸い穏やかな目と頭をふたりに向けて見比《みくら》べ、笑い出した。新聞を置き、紅茶カップを干《ほ》し、トーストの切れ端を口に積め込んだ。「じゃ、行くか」とモゴモゴ言って、ふたりの耳をひっぱった。ふたりは嬉しそうに大声を上げ、長靴と上着とスカーフを取りに駆け出した。
一行は手押し車を押して道を歩いて行った。ウィル、ジェイムス、スタントン氏、それに背の高い、父親より大きい、誰よりも大きいマックス。マックスの長い黒い髪は、みっともない古い縁無し帽の下から、滑稽《こつけい》な房となってはみ出している。マギー・バーンズがこれを見たらなんと思うかなあ、とウィルは楽しげに考えた。いつものようにマックスの目をとらえようとカーテンの脇からいたずらっぽくのぞくであろうマギーは。そう考えたとたんにマギー・バーンズの正体を思い出し、不安がどっと襲って来た。ドースンさんは<古老>のひとりだ。マギーのことを注意してあげなきゃ――前に思いつかなかったとは、どうかしていたに違いない。
ドースン家の庭にはいって立ち止まると、ジョージ・スミス爺さんが歯のない口で笑いながら迎え出た。除《じよ》雪車が通ったあとなので、その朝は道沿いに進むのも楽だったが、まだどこもかしこも、間断《かんだん》ない灰色の、無風の寒気の中でじっと動かない積雪でおおわれていた。
「どんなやつにも負けんような木を取っといてやったぞい!」ジョージ爺さんは喜ばしげにどなった。
「うちらの旦那のとおんなじで、マストみてえにまっすぐなんじゃ。どっちも、王さまの木ちゅうてもええ」
「あれこそ王さまの木さ」ドースンさんがコートにしっかりくるまりながら出て来て言った。文字通りの意味で言っていることが、ウィルにはわかっていた。毎年、ウィンザー城のまわりの王室植林から、何本かのクリスマス・ツリーが売りに出される。そのまた何本かが、ドースン農場のトラックで村へ運ばれて来るのだ。
「おはよう、フランク」スタントン氏が言った。
「おはよう、ロジャー」ドースンさんは言い、少年たちにほほえみかけた。「やあ、坊主《ぼうず》ども。その手押し車と一緒に裏へ回ってくれ」ドースンさんの目は、気づいた合図のまばたきひとつせずにウィルをさらりとながめたが、ウィルはあらかじめわざと上着の前をあけ放し、ベルトにつけた輪に十字のしるしが、今やひとつではなくふたつであるのが、はっきり見えるようにしてあった。
「元気そうで嬉しいねえ」とドースンさんは、少年たちが手押し車を納屋の裏手へと押し出すと、全員に向かって快活に声をかけたが、一瞬、ウィルの肩に手を置いた時のかすかな圧力が、ここニ、三日に起きたことをかなりよく承知しているのだと告《つ》げてくれた。ウィルはマギー・バーンズのことを考え、警告になるような言葉を慌てて捜した。
「マックス、彼女はどこにいるんだい?」とウィルはわざと大きな声ではっきりと言った。
「彼女?」マックスはむっとしたように言った。ロンドンにある美術学校で一緒の金髪の女学生に夢中で、しかもその女学生からは青い封筒入りの分厚い手紙が毎日郵送されて来るので、地元の娘たちには全く興味を持っていないのだった。
「ホッホッホー」ウィルは頑張《がんば》った「わかってるくせに」
幸い、こういうことはジェイムスのお得意だったので、熱心に参加してくれた。「マギー、マギー、マギー」とジェイムスは楽しげに唱《とな》えた。「乳しぼりのマギーちゃん、大芸術家のマックス君を、好きでたまらず、わーい、わーい……」マックスにあばらぼねを一撃《げき》されて、ジェイムスは鼻息も荒くクスクス笑い出してしまった。
「マギーはやめたんだ」ドースンさんが落ち着き払って言った。「身内に病人が出てな。実家で手が要《い》りようになって。けさがた早く、荷物をまとめて出てった。がっかりさせて気の毒したな、マックス」
「がっかりなんかしてないよ」マックスはまっかになった。「この馬鹿なチビどもが勝手に――」
「わーい、わーい」ジェイムスは、兄の腕の届《とど》かないところで踊りまわりながら唄った。「わーい、かわいそうなマックス君、マギーちゃんが行っちゃった――」
ウィルは何も言わなかった。満足していた。
何本ものけば立った白い紐《ひも》で枝をくくられた背の高いモミの木が手押し車に積み込まれた。それと一緒《いつしよ》に、ブナの木の節くれだったふるい根が乗せられた。ドースンさんが、自分とスタントン家のユールの大薪をこしらえるために、何カ月も前に切り倒し、半分に割って取っておいたものだ。木の枝ではなく根でなければならないことはウィルも知っていたが、なぜかは誰も説明してくれたことがなかった。家では、夜になるのを待って、この大薪を今のレンガ作りの大きな暖炉の火にくべる。家族がベッドにはいるまで、ひと晩じゅう、ゆっくりと燃え続けてくれるのだ。去年のユールの大薪のかけらがどこかにしまってあるはずで、それは、あとを引き継《つ》ぐ大薪に火をつけるために、わざと取っておかれたのだ。
「そら」木戸から手押し車を押し出しかけている時に、ひょいとジョージ爺さんがウィルのそばに現れた。「これを少し持ってかにゃあ」と突き出したのは、実がどっさりついたヒイラギの束だった。
「すまないねえ、ジョージ」スタントン氏が言った。「しかし、うちにも玄関《げんかん》ドアの前に、大きなヒイラギの木が植わっていることだし、もし、ない人がいたら、その人に――」
「いいや、持ってきな」老人は指を振り立ててみせた。「お宅のにゃ、この半分も実がついてねえ。こいつはとくべつのヒイラギだかんな」ジョージは注意深く束を車の中に置くと、すばやくひと枝折り取って、ウィルのコートの一番上のボタン穴にすべり込ませた。「<闇>からよく護ってくれるし」老いた声がウィルの耳元で低くささやいた。「窓の上とドアの上に、ピンで留《と》めとくんじゃ」それからピンクの歯ぐきをむき出した笑みが、しわだらけの茶色い顔を横に裂き、老人らしいケラケラという笑い声とともに、<古老>は再びジョージ爺さんに戻って手を振ってウィルたちを送った。「いいクリスマスを、ジョージ!」
木を作法通り玄関口から運び込むと、十字に組んだ板やねじ回しを持った双子が奪い取り、台座《だいざ》を打ちつけにかかった。部屋の奥ではメアリーとバーバラが、カサカサ言う色紙《いろがみ》の海の中にすわり込み、紙を赤、黄、青、みどりの短冊《たんざく》に切り、のりづけしてつなぎ、紙の鎖をこしらえていた。
「そいつは、きのうのうちにやっとくべきだったんだよ」ウィルは言った。「のりを乾《かわ》かすのに時間がかかるんだから」
「あんたがきのうやっとくべきだったのよ」メアリーが長い紙を後ろへ振り払って恨めしげに言った。
「末っ子の仕事ってことになってるんだから」
「このあいだ、沢山切っといたもの」ウィルは言った。
「あれっぽっち、何時間も前に使いきっちゃったわよ」
「でも、切ったことは切ったんだぜ」
「それに」バーバラが穏やかに言った。「ウィルはきのうは、クリスマスの買い物に行ってたのよ。だから黙ったほうがいいわよ、メアリー、さもないと贈り物を撤回《てつかい》されるかもしれないから」
メアリーがこぼしながらおとなしくなったので、ウィルも気が乗らないながら、紙の輪をいくつか貼《は》り合わせた。目は戸口から離さず、父親とジェイムスが古いボール箱を沢山抱えて現れるのを見ると、こっそり抜け出してあとを追った。クリスマス・ツリーを飾りつけるのを阻止《そし》することは、何ものにもできなかった。
箱からは、いつかの生活を十二昼夜の間お祭りに変えてくれる、なつかしい飾り物が全部出て来た。木のてっぺんにつける金髪の人形、宝石のような色の豆電球の連《つら》なり、それから、何年も大切に保存されてきた、壊れやすいガラスの玉飾り。赤と金縁《きんぶち》の、貝殻《かいがら》のように渦を巻いた半球飾り、ほっそりしたガラスの槍《やり》、くもの巣のようなガラスとビーズ玉、木の黒っぽい枝に全てが飾られ、静かに反転しながらきらめいた。
まだほかの宝物もあった。小さな金色の星やワラを編んだ輪。軽い、ゆらゆらする銀紙の玉。次は、スタントン家の九人の子供たちの手になる飾り物が続々と現れた。ウィルが赤ん坊の時に作ったパイプ・クリーナーのトナカイから、マックスが美術学校一年生の時に銅線を使って作り上げた美しい透《す》かし細工の十字架に到るまで。それから、空いている場所に掛け渡すための金モールが何本もあって、それで箱は空になった。
が、完全に空ではなかった。自分と同じくらいの高さがある古いボール紙の箱の中のボロボロになった詰め物を、ひとつかみずつそうっと指でさぐっていたウィルが、てのひらぐらいの大きさしかない平たい小箱を見つけたのだ。カタカタと音がした。
「これ、なあに?」好奇心にかられたウィルは、蓋《ふた》をあけようとした。
「まあ」中央に置かれた肘掛《ひじかけ》椅子の中から、スタントン夫人が言った。「ちょっと見せてちょうだい、坊や、もしや……まあ、そうだわ! その大きい箱にはいってたの? 何年も前に失くしてしまったと思ってたのに。これを見てちょうだい、ロジャー。あなたの末っ子が何をみつけたか、見てやって、フランク・ドースンの文字の箱よ」
母親が箱の蓋《ふた》のポッチを押すと、バタンと開いたので、ウィルは、何か名前は知らない明るい色の木を彫った、小さな飾りがいくつかはいっているのを見てとった。スタントン夫人がひとつをつまみ上げた。湾曲したSの字で、細かいところまで美しく彫られた頭部とうろこだらけの胴体を持ったヘビの形で、見えないほど細い糸の先でくるくる回っていた。次のはアーチ形のMの字だった。ふたつの山の部分が、妖精《ようせい》の教会のふたつの塔のようになっていた。彫刻のできばえがあまりにも繊細なので、ぶらさげるのに使う糸がどこに通してあるのか、到底《とうてい》見分けられなかった。
スタントン氏が脚立《きやたつ》からおりて来て、指を一本そっと箱の中に突っ込んだ。「これは、これは」と父親は言った。「ウィルもやるなあ」
「ぼく、こんなの見たことないよ」とウィルは言った。
「本当は見てるのよ」と母親が言った。「あまり昔のことなのでおぼえているはずもないけど。何年も何年も前に見えなくなってしまったの。ずっと、あの古い箱の底にあったとはねえ」
「でも、何なのさ?」
「クリスマス・ツリー用の飾りに決まってるじゃないの」メアリーが母親の肩越しにのぞき込んだ。
「ドースンさんがこしらえてくれたの」スタントン夫人は言った。「きれいに彫刻されているでしょう。それに、うちの家族とちょうど同い年なのよ――わたしたちがこの家で過ごした最初のクリスマスに、フランク・ドースンがロジャーの頭文字のRと」――とつまみ出し――「わたしのAをこしらえてくれてね」
スタントン氏が、同じ一本の糸にぶらさがったふたつの文字をひっぱり出した。「ロビンとポールのだ。このふたつは、いつもより遅れて届いたな。双子は予想外だったから……まったく、フランクは本当に親切だった。もうこの頃じゃ、こういうことをする暇《ひま》はないだろうなあ」
スタントン夫人はまだ、小さな木の飾り文字を、細いが力のこもった指でひっくり返していた。「マックスのMと、メアリーのM……同じ文字を使ったというので、フランクはひどくご機嫌ななめだったわ……ああ、ロジャー」ふいに母親の声がやさしくなった。「これを見て」
ウィルは父親の隣に立って見た。二本の枝をいっぱいに拡ろげた、優美な木の形のTの字だった。
「T?」ウィルは言った。「Tで始まる者なんか、いないじゃない」
「それはトムのだったのよ」母親が言った。「なぜ今まで、あなたたち下の子にトムのことを話さなかったのかしらね。あまり昔のことだから、つい……トムはあなたの小っちゃな兄さんだったのよ。何か肺《はい》にいけないところがあってね、新生児が時々かかる病気だとかで、生まれてから三日しか生きられなかったの。フランクがもう頭文字を彫り上げてあってね。わたしたちの初めての子だったんで、名前も、生まれる前からふたつ選んであったの。男の子ならトム、女の子ならテスと……」
母親の声が少しくぐもって聞え、ウィルは文字を見つけたりしなければよかったと思った。ぎごちなく母親の肩を撫《な》で、「もういいよ、母さん」と言った。
「まあまあ」スタントン夫人はさばさばと言った。「悲しんでるんじゃないのよ、坊や。ずうっと昔のことなんですもの。トムも今頃は成人していたはずだわ。スティーヴンより上なんだから。それにね」――と人と箱でごたごたしている部屋を、おどけて見回した――「九人もヒナがいれば、どんな女のひとだって十分だと思うわよ」
「それは言えるな」スタントン氏が言った。
「農民を祖先に持ったせいだよ、母さん」とポールが言った。「大家族がいいとされてたからね。労働力が無料でどっさり得られるってね」
「無料の労働力と言えば、ジェイムスとマックスはどこだね?」と父親が言った。
「ほかの箱をとりに行ったよ」
「おやおや、たいした率先力だ!」
「クリスマス精神さ」ロビンが脚立の上から言った。「よきキリスト教徒よ、喜べってやつだよ。誰か音楽をかけちゃどうだい?」
母親のかたわらの床にすわり込んでいたバーバラが、母の手から小さな木彫りのTをとり、じゅうたんの上に順に並べた頭文字の列に加えた
「トム、スティーヴ、マックス、グウェン、ロビンとポール、あたし、メアリー、ジェイムス」といった。「ウィルのWはどこ?」
「一緒にはいっていたはずよ、箱の中に」
「Wそのものじゃなかったろ。おぼえてるかい?」スタントン氏が言った。「一種の模様だった。きっとフランクもその頃には、頭文字ばかりやるのに飽きてたんだろ」とウィルを見てニヤッと笑った。
「でも、ここには無いわよ」バーバラが言い、箱を逆さにして振った。それから末の弟を見てまじめくさって言った。「ウィル、あんたは存在してないんだわ」
だがウィルは、自分の精神のどこかとても深く遠い部分から生じているような、つのりいく不安を感じていた。「Wじゃなくてもようだったって言ったよね」とさりげなく言ってみた。「どんなもようだったの、お父さん?」
「私の記憶では、マンダラだったな」スタントン氏が言った。
「何?」
父親はクックッと笑った「深く考えるな。知ったかぶりをして見せただけさ。フランクもそんな名では呼ばなかったと思うよ。マンダラっていうのはな、太陽崇拝《すうはい》とかそんなものまで起源《きげん》がたどれる、とても古い象徴《しようちよう》なんだ――円形で放射《ほうしや》状の線が外か内に出ているものは、みんなマンダラと呼ばれるんだよ。おまえの小さなクリスマス飾りは簡単なものだった――円形で、中に星があった。十字架だったかな? 十字だったと思うな」
「なぜほかのと一緒にないのか、見当もつかないわ」とスタントン夫人が言った。
が、ウィルには見当がついた。<闇>の者たちの正しい名前を知ることに力があるのなら、<闇>のほうでも、木彫りの頭文字のような、名前を表すしるしを使うことによって、他人を魔法にかけられるのかもしれない……。もしかすると、誰かがウィルを操《あやつ》る力を手に入れるために、ウィルのしるしを取ったのかもしれない。それにもしかすると、だからドースンさんは頭文字をやめて、<闇>の者には決して使えない形にしたのかもしれない。それでも彼らは一応盗《ぬす》んだのだろう。試《ため》してみるために……。
しばらくたってから、ウィルは飾りつけの場を離れて屋根裏へ上がり、ヒイラギの小枝をドアと、部屋の全ての窓の上にピンで留めた。ついでに、修理したばかりの天窓の留め金にも少しはさみ込んだ。それから、クリスマス前夜には一緒に使うことになっているジェイムスの部屋の窓にも同じようにし、下へおりて来て、家の表口と裏口の上にひと束ずつきちんと留めつけた。窓にも全部つけるつもりだったが、グウェンがホールを通りかかって見とがめた。
「あら、ウィル」とグウェンは言った。「そこらじゅうにつけることはないわ。始末《しまつ》に負《お》えるように、暖炉棚の上にでも並べときなさいよ。だって、でないと、誰かがカーテンを引くたびに、ヒイラギの実を踏んで歩くことになるわよ」
まったく女の考えそうなことだ、とウィルは頭に来たが、はでに抗議してヒイラギに注意を引きつけたくはなかった。それにここなら自分が忘れていた唯一の入り口を護ることにもなる。ヒイラギを暖炉棚の上に芸術的に飾りつけようとしながら思った。サンタクロースを信じていた日々をあとにした今では、煙突のことなど考えつきもしなかったのだ。
家は今や、光と色彩と興奮で輝いていた。クリスマス前夜の支度はほとんど完成していた。最後に残るはクリスマス・カロルの歌い歩きだけだった。
その日のお茶のあと、クリスマス用の豆電球がともされ、贈り物をこっそり包む紙の音がようやく途切《とぎ》れると、スタントン氏がくたびれた皮の肘掛椅子の中で伸びをし、パイプを取り出して、もったいぶって全員に笑顔を向けた。
「さて」と父親は言った。「ことしは誰が行進に加わるんだね?」
「ぼく」とジェイムスが言った。
「ぼく」とウィルが言った。
「バーバラとあたし」とメアリーが言った。
「もちろん、ポールも」とウィル。兄のフルート・ケースは既に台所のテーブルに置かれていた。
「ぼくはどうしようかなあ」ロビンが言った。
「来いよ」ポールが言った。「パリトンなしじゃ意味がない」
「わかったよ」双子の相棒《あいぼう》はしぶしぶ言った。この短いやりとりは、この三年間、毎年繰り返されていた。大柄《がら》で機械いじりが好きでフットボール選手としても優秀なロビンは、カロルの歌い歩きのようなお上品な活動に熱意を示すのは、不適切《ふてきせつ》なような気がしているのだった。ところが実は、他のみんな同様、心から音楽を愛していて、快い「こげ茶色」の印象を与える声を持っていた。
「あたし、忙しすぎるの」グウェンが言った。「悪いわね」
「本当はね」メアリーが安全な距離《きより》から言った。「ジョニー・ベンが来るかもしれないから、髪を洗っとかなきゃって言いたいのよ」
「かもしれないってことはないだろう」マックスが父親の隣の肱掛椅子から言った。
グウェンはひどいしかめっ面をしてみせた。
「じゃあ、兄さんはどうなのよ」と詰問《きつもん》した。
「おまえよりもっと忙しいんだ」マックスはのんびりと言った。「悪いな」
「兄さんの今のせりふはね」と今やドアのすぐそばで身構《がま》えながらメアリーが言った。「部屋で遅くまで起きてて、サザンプトンにいる金髪の小鳥に、またもやものすごく長い手紙を書かなくちゃって意味なの」
マックスはスリッパを片方脱いで投げつけようとしたが、メアリーは逃げてしまっていた。
「小鳥だって?」父親が言った「お次はなんと呼ぶようになるんだろうな?」
「父さんたら!」ジェイムスが、ショックだというように父親を見た。「本当に石器時代に生きてるんだなあ。女の子のことを小鳥って呼ぶのは、有史《ゆうし》以来、あたりまえじゃないか。ぼくに言わせりゃ、脳みそのほうも小鳥なみだしね」
「本物の鳥の中には脳みそのうんとあるのもいるよ」ウィルが思い出すように言った。「そう思わない?」だが、ミヤマガラスの一件があまりにもみごとに頭から取り除かれていたので、ジェイムスは気づきもしなかった。言っても耳にはいらないのだった。
「さあ、みんな行きなさい」スタントン夫人が言った。「長靴と厚いコートを忘れずに。八時半には戻ること」
「八時半?」ロビンが言った。「ベル先生に三曲唄ってあげて、ミス・グレイソーンがみんなにパンチをごちそうしてくれると言ったら?」
「じゃあ、ぎりぎりで九時半よ」と母親は言った。
*
出かけた頃にはすっかり暗くなっていた。雲の晴れない空には月もなく、黒い夜を貫く星のきらめきひとつなかった。ロビンが棒の先につけて掲《かか》げているカンテラから輝く光の輪が雪に落ちていたが、子供たちは一応それぞれポケットにろうそくを入れていた。館に着けば、老ミス・グレイソーンが、中にはいって、明かりを全《すべ》て消した石の床の大広間で灯《とも》したろうそくを手に唄《うた》ってくれ、と言い張るだろう。
外気は凍えそうに寒く、息が濃く白い雲になった。時折り、迷子の雪片がひらひらと舞いおりてきた。ウィルはバスの中のふとった婦人が予言したことを思い出した。バーバラとメアリーは、わが家にでもいるように気楽なおしゃべりを続けていたが、話し声の陰《かげ》で、凍った雪道に、一行の足音が寒々しく響いた。クリスマスなのだという思いと唄い歩きの楽しさに心地良くひたっているウィルは、幸福だった。ハンタークームの小さくて古くて有名で、急速にいたみつつあるサクソン時代の教会を援助するための大きな募金《ぼきん》箱を抱えて、ウィルは満ち足りた夢心地で歩いて行った。やがて前方にドースン農場が見えた。裏口の上に、実沢山《みだくさん》のヒイラギの大きな束が釘づけされている。唄い歩きが始まった。
村を通りぬけながら、一行は唄った。牧師のためには「まきびと羊を」、村はずれのテューダー様式まがいの新しい家に住む大柄《おおがら》な実業家で、いつも大変楽しく安らっているように見える陽気なハットンさんには「楽しく安らえ、殿方《とのがた》よ」、未亡人の郵便局長で、紅茶の葉で髪を染め、灰色の毛糸玉のような元気のない子犬を飼っているベテュグルー夫人には「ダビデの村の」村の校長を引退《いんたい》した小柄なベル先生のためには「神の御《み》子は」をラテン語で、「荒野《あらの》の果てに」をフランス語で唄った。よその学校に進学する前に、どの子もみな、読み書き算術、そして話し方、考え方をベル先生から教わったのだ。小さなベル先生はかすれ声で、「きれいだこと、きれいだこと」と言い、そんな余裕がないことは周知の事実なのに募金箱に硬貨《こうか》をニ、三枚入れ、ひとりひとりを抱きしめた。そして――「クリスマスおめでとう! クリスマスおめでとう!」の声と共に――一行はリスト上の次の家へと進んだ。
あと四、五軒あり、その一軒は、週に一回「手伝い」に来てくれる気の毒《どく》なホーニマンおばさんの家だった。おばさんはロンドンのイースト・エンドで生まれ育ったのに、三十年前に爆撃《ばくげき》で家を吹き飛ばされてしまったのだ。通貨の切り替《か》えなどどこ吹く風と、昔ながらにひとりひとりに六ペンス玉をくれ続けていた。「六ペンス玉がなきゃ、クリスマスじゃないよ」ホーニマンおばさんは言った。「十進法とやらいうのを押しつけられる前に、沢山ため込んでおいたんだよ。だから、これからも毎年、クリスマスは昔ながらにやれるってわけさ。あたしがお墓《はか》にはいって、あんたらがこのうちの玄関でほかの人に唄を聞かせる日までは、ためといたぶんが続いてくれるだろうから。クリスマスおめでとう!」
それからが家へ帰る前の最後の一軒、ハンタークーム館だった。
われら、酒を乞《こ》いに行く
みどりの葉の中を
われらはさまよい行く、
みめよき姿して……
ミス・グレイソーンのためには古い「酒宴《しゆえん》の歌」で始めるのが常だったが、ウィルには、みどりの葉という歌詞が例年にも増して不適切に思えた。歌は調子よく進み、最後の一番になるとウィルとジェイムスは、息がきれるのでめったに曲の終わりにはやらない高く響くディスカントへと声を昇《のぼ》りつめさせた。
よき主《あるじ》どの、奥方よ
火のかたわらに座す時も、
われら貧《まず》しき童《わらべ》の
雪踏《ふ》みまどうを思い見よ……
ロビンが大きな金属の呼鈴紐《よびりんひも》を引くと、ガランガランと、いつも何がしかウィルを怖がらせる低い音がした。最後の節を次第に高く唄い上げるうちに大扉が開き、クリスマス・イブの燕尾服を来た、グレイソーン家の執事《しつじ》が立っていた。執事としてはあまりもったいぶらないほうだった。ベイツといい、背の高い、痩《や》せた陰気な男で、館の裏門のそばの菜園《さいえん》でひとりしかいない老庭師を手伝っているところや、郵便局で、ベティグルー夫人と持病の関節炎《えん》のことを話題にしているのをしばしば目撃されていた。
愛と喜びあれよかし
酒の宴《うたげ》あれよかし……
執事は微笑《びしよう》し、礼儀正しく一行に会釈《えしやく》して扉を大きくあけ放った。ウィルはすんでのところで最後の高音を呑み込んでしまいかけた。ベイツではなく、メリマンだったのだ。
歌が終わると、みな緊張をゆるめ、雪の中で足踏みした。「すばらしい」メリマンが重々しく言ってこだわりなく一行をながめ回したところへ、中からミス・グレイソーンの高い、尊大《そんだい》な声が朗々《ろうろう》と響いた。
「入れておやり! 入れておやり! 上がり口に立たせとくものじゃない!」
ミス・グレイソーンは、奥行きの深い玄関ホールの、いつもの背もたれの高い椅子にかけていた。若い頃事故にあい――乗っていた馬がつまずいて、ミス・グレイソーンの上に転がったのだという話だった――それ以来何十年も歩けずにいるのだが、車椅子にかけた姿は決して人には見せなかった。細い顔にキラキラする瞳を持ち、灰色の髪を頭のてっぺんに梳《す》き上げてまげに結っているミス・グレイソーンは、ハンタークームにおいては全くの謎とされていた。
「お母さんは息災《そくさい》かえ?」ミス・グレイソーンはポールにたたみかけた。「お父さんは?」
「大変元気にしています、ミス・グレイソーン」
「クリスマスをお楽しみかえ?」
「はい。すてきなクリスマスです。そちらも楽しんでらっしゃるといいんですが」ポールはミス・グレイソーンを気の毒に思っていて、礼儀正しい中にも暖かみをこめようといつも努力するのだった。今も、口をききながら目が天井の高いホールをきょろきょろしないよう、気をつけた。ホールの奥ではコック兼家政婦と女中がニコニコして佇んでいたし、玄関扉をあけてくれた執事もいるにはいたが、それを除けば、この大きな館のどこにも、客やモミの木や飾りはおろか、暖炉棚の上に吊《つ》るされた実沢山のヒイラギの大枝のほかには、クリスマスのお祭り気分の影さえない。
「妙な季節だからねえ」ミス・グレイソーンは考え深げにポールを見た。「ある詩に出てくる感じの悪い小娘の言い方をもじれば、いくつかのことでいっぱいの季節、というところだよ」と言うと、いきなりウィルのほうを向いた。「お若いの、今年は忙しいかえ」
「はい、とても」ふいを突かれたウィルは正直に言った。
「ろうそくに火を」メリマンが低く恭しい声でいい、ばかに大きいマッチのはいった箱を手に進み出た。一行が慌ててろうそくをひっぱり出すと、メリマンはマッチをすり、注意深く子供たちの中を進んだ。光がメリマンの眉を逆立ったすごい生垣に変え、鼻から口へのすじを影深い谷に変えた。ウィルは考え深げに、腰から四角くくれて後ろへ流れる燕尾服《えんびふく》と、白ネクタイの代りに首のあたりにつけた一種のひだ飾りを見つめた。メリマンを執事と考えるのはひと苦労だった。
ホールの奥にいた誰かが明かりを消し、縦長《たてなが》の部屋を照らすのは子供たちの手のゆらめく炎の集団のみとなった。そっと足で拍子《ひようし》をとる音がし、彼らは甘《あま》くやさしいクリスマスの子守唄を始めた。「眠れ小さき幼子《おさなご》よ……」最後の一回は歌詞《かし》をつけず、ポールがひとりで演奏した。フルートの澄んだ穏やかな音色《ねいろ》は光のすじが天から降るようで、ウィルを不思議な、痛いほどのあこがれで満たした。理解できない何かが遠くで待っているような。次に、「よきウェンセスラス王」をまたやることになった。ミス・グレイソーンにはフィナーレとして必ずこれを唄うことになっていたが、ウィルはいつもポールがかわいそうになるのだった。ポールは以前に、この曲はあまりにも自分の演奏に向いていない、フルートを軽蔑《けいべつ》していた人間が作曲したに違いない、と言ったことがあったのだ。
とは言え、小姓《こしよう》の役になって、ジェイムスの声と自分のとをぴったり合わせ、ひとりの少年としか聞えないように努力するのは面白かった。
王よ、あれは、はるかなる……
……ウィルは感心した。今回はものすごくうまく合ってる。まるでジェイムスが唄っていないみたいだ。ああやって……
山のふもとに住める者
……ああやって口が動いているから、唄ってるのがわかるけど……
森の垣根を背にのせる……
……そう考えて、唄いながら暗がりをすかし見たとたん、腹を殴《なぐ》られたような激しいショックを受けた。ジェイムスの口は動いていなかったのだ。動いていないのは口ばかりではなく、またロビンやメアリーや他の者も同様だった。兄弟は全員、金縛りになり、闇の娘に魔法をかけられた<旅人>がオールドウェイ小路に立ちつくしたように、<時>の外に置かれていた。その手のろうそくの炎ももはやゆらめかず、あの日ウィルの燃える枝から立ち昇ったのと同じ、異様な、物を焼くことのない白く輝く空気の柱となって燃え、フルート上で指を止めたポールも、管を口にあてたまま動かなかった。にもかかわらず音楽は、フルートに似てはいるがずっと甘美《かんび》な音色で続き、ウィルもまたやめるにやめられず、その節を唄い終えた……
聖アグネスの水――辺――に……
……空気の中から聞えるように思われる不思議な甘い伴奏《ばんそう》を聞きながら、次の節はどうしよう、ボーイ・ソプラノでよきウェンセラス王の声を出せというのだろうか、と思い始めた時、美しく深い、朗々たる声が、なじみ深い歌詞を室内に響き渡らせた。唄うのを聞いたことがなかったにもかかわらず、その深い美声が誰のものか、すぐにわかった。
……肉を持て、酒を持て、
松の大薪《おおまき》持ちて来よ
われと汝と運びゆき、
あれなる者に食させん……
少しめまいがし、部屋が大きくなり、また縮んだように思えた。それでもなお、音楽は続き、光の柱はろうそくの炎の上にじっと立っていた。次の節が始まると同時に、メリマンがさりげなく手を伸ばしてウィルの手を取った。ふたりは合唱《がつしよう》しながら歩き出した。
小姓と王は立ち出でぬ
ともに連れ立ち出で行きぬ
風すさまじく、おらび哭《な》く
酷《むご》き季節のその中に
ふたりは長いホールを進んだ。動かないスタントン兄弟を離れ、椅子にかけたミス・グレイソーンと、コック兼家政婦と女中を通り越した。みな動かなかった。生きていながら、生の外にしばし留められていた。ウィルは、まるで自分が床に触れずに、空中を歩んで暗いホールを前進しているような気がした。もはや前に光はなく、あるのは背後からのほの明かりだけ、闇の中へ……
王よ、宵《よい》闇深まりて
風もいやまし吹きぬれば、
なぜか心もくじけ萎《な》え
もはや進むもおぼつかず……
自分の声が震えるのがこわかった。歌詞は頭にあることにそのままあてはまっていた。
わが足跡に心して
恐れず踏みて従えよ……
そうメリマンが唄うと、ふいにウィルの前に闇以上のものが現れた。
大きな両開きの扉が目の前に浮かび出た。雪の積もったチルターンの丘辺で最初に見たあの木彫りの大扉だった。メリマンが左腕を上げ、五本の指をいっぱいに拡ろげてまっすぐに伸ばし、扉に突きつけた。扉はゆっくりと開いた。<古老>たちの、あのとらえがたい銀の旋律が湧《わき》起こって、ちょっとの間、歌の伴奏と重なり、また失われてしまった。ウィルはメリマンと共に光の中に歩み入った。べつの時代、べつのクリスマスへと。いま唄っている調べの中に世界じゅうの音楽を全《すべ》て注《つ》ぎ込めるかのように――そして、顔の上げ方やあごの使い方にうるさい学校の聖歌隊主任が聞いたら驚《おどろ》きと誇《ほこ》らしさのあまり唖然《あぜん》とするであろうほどの自信を持って唄いながら。
仙術の書
ふたりは再び明るい部屋の中にいた。見たこともないような部屋だった。天井は高く、木や森や山の絵が描かれていた。壁には光沢のある金色の羽目板が貼《は》られ、ぼうっと光る奇妙な白い球体がところどころにあって照らしていた。室内は音楽に満ちていた。ふたりの唄に加わったいくつもの声は、そこに集まった、歴史書の鮮やかな一場面から出て来たような装《よそお》いの人々のものだった。女は肩をむき出し、スカートの部分が手のこんだひだやリボンで飾られ大きくふくらんでいる、長いドレスを着ていた。男のスーツはメリマンが着ているのに似ていて、身頃《みごろ》が前で四角くくれた燕尾服に長くまっすぐなズボン、首には白いひだ飾りか、クラヴァットという黒絹《ぎぬ》のネクタイの一種をつけている。似ているどころか、メリマンを見なおしてみて、初めから、執事の服装《ふくそう》などではなく、全くこの世紀のものである服装をしていたのだと悟った。何世紀かはわからなかったが。
白いドレスの夫人が迎えにさっと進み出ると、まわりの者が敬意《けいい》をこめて道をあけた。歌が終わると婦人は叫《さけ》んだ。「きれいだったわ! とっても! おはいり、さあさあ!」――少し前に館の玄関でウィルたちを迎えたミス・グレイソーンそっくりの声で、顔を見ると、ある意味ではこの婦人もまたミス・グレイソーンなのだとわかった。目も、いくらか骨張った顔も同じ、気さくだが高飛車《たかびしや》な態度《たいど》も同じだった――ただ、このミス・グレイソーンのほうが若く美しく、つぼみから開きはしたがまだ陽と風と日々の経過によって痛めつけられていない花、といった風情《ふぜい》があった。
「来なさい、ウィル」ミス・グレイソーンはほほえみかけながら手を取った。ウィルはためらわずに近づいた。ミス・グレイソーンが自分を知っていることは明らかだった。まわりにいるにこやかで楽しげな人人もまた、男も女も、老いも若きもウィルを知っていた。まぶしい人々の大部分は、男女のカップルや、にぎやかなグループに分かれて部屋を出て行きつつあった。出て行く方向からおいしそうな料理の匂いがしているのは、明らかに別の部屋に晩餐《ばんさん》が整ったことを示していた。だがまだ二十人そこらの一団があとに残っていた。
「あなたがたを待ってたのよ」ミス・グレイソーンは、部屋の奥の豪華《ごうか》な暖炉のほうへウィルを引き寄せた。火が暖かく親しげに燃えている。メリマンもまた「あなたがた」の中に含まれていた。「準備《じゆんび》はできたわ。何も――じゃまは、はいりません」
「確かかな?」メリマンの声が鉄槌《てつつい》の一撃のようにすばやく深く響いた。ウィルは好奇心にかられて目を上げたが、ワシ鼻の顔は相変わらず秘密めいていた。
「確かよ」ミス・グレイソーンはいきなりウィルのそばにぬかずいた。スカートが大輪の白いバラのようにまわりに波打った。ウィルの目と同じ高さになると、ウィルの両手を握り、見つめ、小声で、切迫した口調で話し出した。「第三のしるしなのよ、ウィル。木のしるし。学びのしるしと呼ぶこともあります。今はその作り直しの時なの。始まり以来一世紀ごと、百年ごとに木のしるしは新しくされなければなりません。六つのうちで変質を防ぎ得ないのはこれひとつなのよ。初めに教わった通りの方法で、わたくしたちは百年ごとに作り直して来たわ。それも今度が最後、あなた自身の世紀がきたら、あなたはこれを永久に隠し場所から解放し、ほかのしるしとつなぐでしょう。そうなれば、もう新しくする必要はなくなるから」
ミス・グレイソーンは立ち上がり、はっきりと言った。「会えて嬉しいわ。ウィル・スタントン、<しるしを捜《さが》す者>。とても嬉しく思うわ」周囲がどよめいた。低い声、高い声、やさしい声、深い声、みな好意を示し、同意を表していた。まるで壁のようだ、とウィルは思った。よりかかると、支《ささ》えてくれているのがわかる。この美しく着飾った見知らぬ一団からは強い友情《ゆうじよう》がひしひしと感じられた。全員が<古老>なのだろうか? かたわらのメリマンを見上げてウィルが嬉しそうにニコニコすると、メリマンも見おろして微笑した。厳《きび》しい、どちらかといえばいかめしい顔には、ウィルが今までに見た中でも最もあけっぴろげなくつろいだ表情が浮かんでいた。
「もう時間よ」ミス・グレイソーンが言った。
「その前に、新来《しんらい》のお客にお飲み物など、いかがでしょう」そばにいた男が言った。ウィルぐらいの背丈の、小柄な男だ。グラスを差し出したので、受け取って目を上げると、細く生き生きとした、三角に近い顔が見えた。しわが多いのに老けてはいない。ハッとするほどキラキラする目がウィルを、そしてウィルの内部をのぞきこんでいる。多くのことを秘めた、気になる顔だった。と思った時には、男は顔をそむけウィルにみどり色のビロードに包まれたきりっとした背を向け、メリマンにグラスを渡していた。
「ご主人さま」と渡しながら恭しく言い、おじぎした。
メリマンはおかしそうに口をゆがめ、無言で、からかうように男を見つめていた。ウィルに妙なあいさつだと思う暇《ひま》も与えずに、小男は夢から急に呼びさまされた人のように目をしばたたき、頭をはっきりさせたらしかった。男は笑い出した。
「ああ、そうだった」と笑い転《ころ》げながら言った。「かんべんして下さい。長年の習慣《しゆうかん》ですから、しかたないでしょう」メリマンはかわいくてたまらないと言うように笑い、グラスを上げて乾杯《かんぱい》した。この妙なやりとりがまるで理解できなかったウィルも飲んだが、初めての味に驚きに満たされた。味と言うより一瞬の閃光《せんこう》、突然の音楽、五感全てを一度に襲う猛々しくすばらしいものだった。
「これ、なんですか?」
小男はぱっと振り向き、笑った。顔じゅうのしわが全て斜めに上向いた。「蜜酒《みつしゆ》と言うのが一番近い呼び名だったな」といって空になったグラスを取り、息を吹き込むと、思いがけなく「<古老>の目には見えるはずだ」と差し出した。透明なグラスの底を凝視《ぎようし》したウィルは、ふいに、茶色の衣をまとった一団がいま飲んだものをこしらえているところが見えるような気がした。目を上げると、みどりの上着の男がじっとウィルを見ていた。ねたましさと満足のまざったような表情が気になった。すると男はふふっと笑い、さっとグラスをどけた。ミス・グレイソーンが彼らを呼んだ。部屋の白球の光は弱まり、人々の声が止んだ。館のどこかでまだ音楽が聞えているような気がしたが確かではなかった。
ミス・グレイソーンは火のそばに立っていた。一瞬、ウィルを、さらにメリマンを見、つと顔をそむけて壁を見た。長いことじっと見つめていた。羽目板と暖炉と戸棚は全部つながっていて、同じ一枚の金色の板を彫り上げたものだった。すっきりしていて、湾曲した部分や唐草《からくさ》模様もなく、ところどころにある四角に単純《たんじゆん》な四枚花びらのバラが彫り込んであるだけだった。ミス・グレイソーンは暖炉の左上の隅にある小さなバラ飾りのひとつに手を上げ、その中心を押した。カチリと音がし、バラの下、ミス・グレイソーンの腰と同じ高さの羽目板に四角く黒い穴が現れた。羽目板が横に動いたようすはなかったのに、穴がぽっかりとあいたのだ。ミス・グレイソーンは手を入れて小さな円形のものを取り出した。ウィル自身が持っているふたつの輪そっくりで、気づくと、前と同じように、既に手が勝手に動いて護るようにふたつを握りしめていた。部屋はしんと静まり返っていた。扉の外からは今や確かに音楽が聞えていたが、何の音色かはわからなかった。
しるしの輪はたいそう黒ずんでいて、見ている間にも横木の一本が折れた。ミス・グレイソーンがメリマンに差し出すとさらに欠けて、欠けた部分が塵《ちり》になって落ちた。ウィルにも木でできているのが見て取れた。ざらざらして古びているが、木目が通っている。
「それ、百年もたってるの?」ウィルはたずねた。
「百年ごとに新しくされるからね」ミス・グレイソーンが言った。「そうよ」
ウィルは思わず、静まり返った部屋の中で口走っていた。「でも、木はもっと長くもつものだよ。大英博物館で見たもの。テムズ河のそばで堀《ほ》り出された古い船のかけらで、有史以前のものだって、何千年もたっているんだ」
「クエルクス・ブリタニクスだろう」メリマンがふいに、怒《おこ》りっぽい教授《きようじゆ》のような口調できめつけた。
「カシの木だ。君の言うカヌーはカシで出来ていた。南のほうにある今のウィンチェスター大聖堂はカシの堆積《たいせき》の上に建てられているが、そのカシが地下に沈んだのは九百年も昔だ。未だに昔と代わらず頑丈だ。さよう、カシは何年も何年ももつ。ウィル・スタントン、いつか、君の若い人生においてカシ木の根が重要な役割を果たす日が来るだろう。だが、しるしの木はカシではない。われらが使うのは<闇>が嫌う木だ。ナナカマドだよ、ウィル。それがわれらの木だ。山トネリコとも言うな。ナナカマドには、ほかのいかなる木にもない特質が、われらが必要としている特質がある。とはいえ、しるしにかけられる負担《ふたん》は相当のものだから、耐えぬくことができない。カシなら耐えられるかもしれぬし、鉄や青銅なら確実に大丈夫なのだが。そこで、しるしを生まれ変わらせる必要があるのだ」――メリマンは長い人さし指と深くそり返った親指で輪をつまみ、掲《かか》げた――「百年ごとに」
ウィルはうなずいたが、無言だった。室内の人々をひどく意識しているのに気づいた。全員がひとつのことに精神を集中しているかのようで、集中する音が聞えそうなくらいだった。そのうえ、にわかに人数がはてしなくふえ、館の外、この世紀の、否《いな》、あらゆる世紀の外まで続く大群衆となったかに見えた。
次に起きたことは完全には理解できなかった。メリマンがさっと手を突き出し、木のしるしをやすやすとふたつに割り、スタントン家のユールの大薪《おおまき》のような大きな丸太が半ば焼けくずれている暖炉の中にほうり込んだのだ。炎が躍り上った。と、ミス・グレイソーンがみどりのビロード上着の小男のほうへ手を伸ばし、飲み物のはいっている銀の水差しを取り上げ、中身を火にふりかけた。ジューッという音と煙と共に火は消えた。ミス・グレイソーンは長い白いドレスにも構《かま》わずにかがみ込み、腕を煙といぶる灰の中に突っ込んで、太い丸太の半ばこげた破片を取り出した。大きくいびつな円盤《えんばん》形をしていた。
その木の破片を全員に見えるよう高く掲げると、ミス・グレイソーンはオレンジでもむくようにこげた部分をむしり取り始めた。すばやい指の動きにこげた縁はけずり取られ、骨組みだけが残った。はっきりしたなめらかな輪の形で、中に十字を抱《いだ》いている。
もともとこの形だったかのように、いびつなところなど少しもなかった。そしてミス・グレイソーンの手にも、すすや灰の跡さえなかった。
「ウィル・スタントン」ミス・グレイソーンはウィルのほうを向いた。「あなたの第三のしるしよ。この世紀においてあなたにあげるわけにはいきません。あなたの探求は全て、あなた自身の世紀に果たされねばならないのよ。とはいえ、木は学びのしるしだから、学ばなければならないことを全て学んだら、見つけられるはずです。わたくしには、見つけるのに必要な行動をあなたの頭に植えつけてあげることができるし」ミス・グレイソーンはウィルをキッと見すえ、それから手を伸ばして、木の輪を羽目板の黒い穴にすべり込ませた。もう片方の手でその上の壁のバラを押した。前と同じように、目くらましのごとき鮮やかさで穴はふっと消えてしまった。羽目板の壁は変化など起きなかったかのように、なめらかで切れ目なかった。
ウィルはじっと見ていた。どうやったかおぼえておかねば、よく……。押したのは左上の隅の最初のバラだった。だが、隅には三つ固まっているではないか。どれだろう? よく見るうちに、驚きと不安が生じ出した。今や羽目板の壁全体が木彫りの四角でおおわれ、どの四角の中にも四枚花弁《かべん》のバラがひとつあるのだ。目の前でふえていったのだろうか? 初めからあったのに、光の加減で見えなかったのだろうか? 慌ててかぶりを振り、メリマンにたずねようとまわりを見た。が、遅すぎた。近くには誰《だれ》もいなかった。重々しい雰囲気《ふんいき》はなくなり、室内は再び明るくなって、誰もが楽しげ気におしゃべりしていた。メリマンは体を二つ折りに近くかがめて、ミス・グレイソーンの耳もとで何かささやいていた。ウィルは腕に触れられたのを感じて振り向いた。
みどりの上着の小男がさし招いているのだった。部屋の反対側《がわ》の扉近くでは、クリスマス・カロルの伴奏をしてくれた楽師たちが演奏を再開した。リコーダーとバイオリンと、ハープシコードらしい楽器のやさしい音色で、奏《かな》でているのはべつのカロル、古い、この部屋の存在する世紀よりもはるかに古い歌だった。ウィルは聞いていたかったが、みどりの服の男がつかみ、しつこく脇《わき》のドアへ引っ張って行こうとしていた。
ウィルは逆《さか》らいたい気分で踏んばり、メリマンのほうを向いた。メリマンの背の高い姿がピンと伸び、ウィルを求めて振り向いたが、何が起きているか見てとると緊張をほぐし、承知したというように片手をあげた。ウィルは頭の中に励ましの言葉が送り込まれるのを感じた。行きたまえ。大丈夫だ。私もあとから行く。
小男はランプを取り、さりげなくまわりを見回すと、すばやく脇ドアを、ウィルと自分がすり抜けられるだけあけた。「信用してないんだろ?」小男は鋭《するど》い、ギクシャクした声で言った。「いいぞ。必要がない限り、誰も信用するなよ、坊。そうすれば、役目を果たすまで生き残ることができる」
「この頃は人間がだいたいわかるようになったんだ」ウィルは言った。「というか、信用できる人はなぜか見分けがつくんだ。たいていはね。けど、あんたには……」言葉を途切らせた。
「どうなんだ?」
ウィルは言った。「あてはまらないんだ」
男は大声で笑い出した。目が顔のしわに隠れて見えなくなった。それから唐突に笑い止んでランプを掲げた。ゆらめく光の輪の中に、小さな部屋らしいものが浮かび上がった。羽目板貼りで、家具といっては肘掛椅子とテーブル、小さな脚立、それにどの壁のまんなかにも一本ずつ置かれた天井までのガラス戸つき木箱、それっきりだった。低く規則正しく時を刻む音が聞え、暗がりをすかし見て、たいそう大きな振子《ふりこ》式の時計が隅に立っているのを知った。この部屋は読書だけにあてられているらしかったが、そうだとすれば、この時計は読書に時間をかけすぎることを大声で警告するものといえた。
小男はランプをウィルの手に押し込んだ。「こっちに明かりがあるはずだ――ああ」何だかわからないシュウシュウいう音がした。隣の部屋でも一、二度耳にしていた。それからマッチをする音がし、「ポッ!」と大きな音をたてて壁に明かりが出現した。最初は赤っぽい炎を上げていたが、やがて拡がって、例の大きな白い光球になった。
「マントルさ」小男は言った。「個人の家じゃまだ目新しくって、流行の最先端なんだぜ。ミス・グレイソーンは、この世紀の人間にしちゃ、珍《めずら》しいくらい流行に敏感《びんかん》でね」
ウィルは聞いていなかった。「あんたは誰なの?」
「ホーキンというんだ」男はニコニコして言った。「苗字《みょうじ》はない。ただのホーキンさ」
「じゃ、ホーキン、聞いてくれよ」ウィルはある考えを整理しようとしていて、不安な気持ちにさせられていた。「あんたにはここで起きていることがわかってるらしいから。教えてほしいことがあるんだ。ぼくは今、過去に連れて来られたわけだ。もう済《す》んでしまった、歴史の本の一部になった世紀にだ。もしぼくが過去を変えるようなことをしたら、どうなるんだ? するかもしれない。できるかもしれない。すること事態は小さくても、歴史の何かを変えてしまうかもしれない。本当にこの時代にいたみたいに」
「そりゃあ、いたんだからね」ホーキンはウィルの手のランプの火でこよりを灯した。
ウィルはポカンとして言った。「ええ?」
「この世紀に実際《じつさい》にいた。いや、いるんだよ。誰かが今夜のこのパーティのことを歴史に書きとめるとしたら、あんたもわが君メリマンさまも、ちゃんと描写《びようしや》されて登場するんだ。そんなことにはならないだろうがね。<古老>はどこかに名前を記録《きろく》させることはめったにしない。あんたがたはたいてい、人間には決して知れないような形で、歴史を動かしてのけるんだ……」
ホーキンは燃えるこよりを肘掛椅子のそばのテーブル上にある三叉《みつまた》になった燭台《しよくだい》に近づけた。椅子の皮貼りの背が黄色い光につややかだった。ウィルは言った。「けど、そんなことが――どうやって――」
「しっかりしろよ」ホーキンがすぐに言った。「わからなくてあたりまえさ。謎なんだから。<古老>たちは<時>の中を好きなように旅することができる。あんたがたは、俺たちの知ってる宇宙の法則なんかには、縛られないんだ」
「あんたは<古老>じゃないの?」ウィルは言った。「そうかと思ったのに」
ホーキンは微笑してかぶりを振った。「違うんだ。普通の罪深い人間さ」ホーキンは目を伏せて上着のみどりの袖をそっと撫でた。「けど、すごい特権《とつけん》を与えられてるんだぞ。あんた同様、俺もこの世紀の人間じゃないんだ。あることをしに連れてこられただけで、それが済めば、わが君メリマンさまがもとの時代に送り返してくださる」
「その時代にはね」カチリと静かにドアがしまり、メリマンの深い声がした。「ビロードなどという布地はないのだよ。そのきれいなコートをえらく気に入っているのはそのためだ。この時代の基準《きじゆん》から言えば、いささか洒落《しやれ》すぎているのだぞ、ホーキン」
小男が顔を上げてニコッとすると、メリマンはいつくしむようにその肩に手を置いた。「ホーキンは十三世紀に生をうけたのだよ、ウィル。君が生まれる七百年前だ。私の術により、この一日だけ、時代を下ってやって来た。きょうが終われば、また戻ることになっている。普通の人間には極めて稀《まれ》なことだ」
ウィルは混乱して髪の毛をかき上げた。列車時刻表の解読を試みているような気がした。ホーキンがふふっと笑った。「言っただろ、<古老>よ。謎なんだ」
「メリマン?」ウィルは言った「あなたはどの時代の人なの?」
メリマンの浅黒い、ワシ鼻の顔が、遠い昔に彫られた像のように無表情にウィルを見た。「じきに理解できるようになる。われら三人がここにいるのは、木のしるし以外にも目的があってのことだ。私はどこにも属《ぞく》さず、どこにでも属しているのだよ、ウィル。私が最初の<古老>だ。あらゆる時代に存在して来た。ホーキンの世紀にも存在していた。いや、いる。私はホーキンの君主であり、君主以上の者なのだ。これは、両親が死んで私にひきとられた時以来、ずっと共に暮らし、息子のように育てられて来たのだから」
「息子でも、これほどかわいがっては頂けなかったでしょう」ホーキンが声を少しつまらせて言い、自分の足もとを見つめたまま、上着をまっすぐにひっぱり直した。しわだらけの顔にもかかわらず、兄のスティーヴンよりいくらも年上でないのにウィルは気づいた。
「ホーキンは私に仕《つか》えてはいるが、友人でもあり、私は深く愛している。たいそう信頼してもいる。信頼すればこそ、この世紀において成しとげねばならぬ務めの中でも、重要な役割を振りあてたのだ――君に学ばせる、という務めのな」
「はあ」ウィルは弱々しく言った。
ホーキンはニヤニヤし、パッと前へ飛び出して低く一礼し、深刻《しんこく》な雰囲気をわざと切り替えた。「あんたが生まれてくれたことを感謝しなければならないな、<古老>よ、ほかの時代に、ネズミのようにチョロッと忍び込む機会をくれたんだから」
メリマンも顔をよろこばせた。「ウィル、ホーキンがガス灯をともすのが大好きなのに気づいたかな? ホーキンの時代ではいぶりやすい臭《くさ》いろうそくを使うのだ。ろうそくと言っても、葦《あし》を獣脂《じゆうし》に突っ込んだしろものだがね」
「ガス灯?」ウィルは壁に取り付けられた白い球を見た。「あれ、ガス灯だったの?」
「そうとも、まだ電灯はあるはずがないだろう」
「だって」ウィルは自己弁護《べんご》した。「今が何年か知らないんだもの」
「紀元千八百七十五年だ」メリマンは言った。「悪い年ではない。ロンドンではディズレーリ宰相《さいしよう》がスエズ運河を買収《ばいしゆう》しようと最善をつくしている。運河を航行するイギリス商船の半分以上が帆船《はんせん》だ。ビクトリア女王が即位して三十八年目。アメリカの大統領がユリシーズ・S・グラントというすばらしい名前の持ち主で、合衆国三十四州中、最新の州はネブラスカだ。そしてバッキンガムシャーの片田舎《かたいなか》、世界で最も貴重な黒魔術《まじゆつ》関係のささやかな蔵書《ぞうしよ》がある点を除けば、一般には有名でも悪名高くもない館において、メアリー・グレイソーンなる婦人が友人のために、歌と音楽つきのクリスマス・イブ・パーティを開いているわけだ」
ウィルは手近な本棚に歩み寄った。本は全て革装丁《かわそうてい》で、大部分は茶色、背の金箔《きんぱく》が輝く真新しいぴかぴかの本もあれば、古すぎて革がすりへり、厚い布のようにザラザラになっているボッテリした小型本もある。いくつかの題名に目を凝《こ》らした。「悪魔崇拝《あくますうはい》」、「刑罰《けいばつ》の書」、「魔術の発見」、「魔女の槌《つち》」――そのほかフランス語、ドイツ語、さらには文字を判読できない言語の本が続いた。メリマンはそれらと、まわりの棚全部をあっさり片づけた。
「ひと財産《ざいさん》の値打ちがある」メリマンは言った。「われらにとってではないが。これらは卑小《ひしよう》な人々の物語だ。ある者は夢想家で、ある者は狂人。魔術と、人間が、かつて魔女と呼んだ哀《あわ》れで素朴な人々に対して加えた、ぞっとするような行為《こうい》の物語だ。魔女と言っても大部分は普通の無害な人間だった。ひとりふたりは本当に<闇>と交渉《こうしよう》を持っていたが……。もちろん、<古老>とかかわりのあった者は皆無だ。人間が魔法だの魔女だのについて語ったことは、ほとんどひとつ残らず、愚かしさと無知と病んだ精神の産物――あるいは、理解できない物事を説明する手段にすぎぬからな。人間が、人間の大部分が、全くあずかり知らぬ唯一のもの、それらがわれらの当面の関心ごとなのだよ。それはな、ウィル、この部屋にあるただ一つの本に全て収められている。ほかの本は、<闇>にどういうことができるかを、また、<闇>の者たちが時折り用いるおぞましい手段を、折りに触れて思い出すよすがとして役に立つ。だが、ある一冊の本こそ、君がこの時代に連れて来られた目的なのだ。それこそ、君の<古老>としての立場を教えてくれる本であり、どれほど貴重《きちよう》なものかは口では言い表せぬ。秘められたものの、真の魔法の書なのだ。遠い昔、文字で記された知識《ちしき》が魔法に関するもののみだった頃には、われらのすることは単に<知ること>と呼ばれていた。が、君の時代には、陽の下のあらゆることについて、あまりにも知るべきことが多すぎる。そこでわれらは、半ば忘れられた言葉を使っている。<古老>自身が半ば忘れられているのだがな。その言葉は<仙術《せんじゆつ》>と言うのだ」
メリマンは、ついて来るよう招いて部屋を横切り、大時計に向かった。ホーキンに目をやると、自信家らしい細い顔が、不安にひきしまっているのが見えた。あとに従うと、メリマンは、背の高い彼よりもさらにニフィートはある、隅《すみ》の古い大時計の前に立ち、ポケットから鍵《かぎ》を出して正面の戸をあけた。ウィルにも中の振子がゆっくり揺れるのが見えた。催眠的《さいみんてき》に、行ったり……来たり、行ったり……来たり。
「ホーキン」メリマンが言った。たいそうやさしく、いとおしげでさえあったが、命令だった。みどりの服の男は、ひとことも言わずにメリマンの左側にひざまずき、じっとそこにいた。すがるような声で「わが君――」とささやいた。が、メリマンは意に介《かい》さず、ホーキンの肩に左手を置くと、右手を伸ばして時計の中に入れた。長い指を慎重《しんちょう》に、振子に振れないようできるだけ平べったくして片側の奥に這わせ、すばやく手をひねって小さな黒表紙の本をひっぱり出した。ホーキンがへたへたとすわり込み、恐ろしさから解放されたようにひどくあえいだので、ウィルはあっけにとられてまじまじと見た。が、メリマンに脇へ引き寄せられ。メリマンは部屋の唯一の椅子にウィルをかけさせ、本を手に押し込んだ。表紙には題がなかった。
「世界最古の本だ」メリマンはあっさりといった。「読み終えたら、消滅《しようめつ》させてしまう。いにしえの言葉で書かれた仙術の書だ。<古老>でなければ理解できない。この中の力の呪文《じゆもん》のどれかを理解した人間や生物がいたとしても、<古老>でなければ呪文を唱えることはできぬ。従って、長の年月この本が存在していること事態には、何ら危険はなかった。とはいえ、さだめの日が過ぎた後まで、この種のものを取っておくのはよくない。常に<闇>の脅威にさらされて来た本なのだ。これを手にすれば、<闇>のつきることのない巧妙《こうみよう》さは、何とか利用する方法を講ずることだろう。だから、今この部屋で、最後の<古老>である君に仙術の才能を授《さず》けるという究極《きゆうきよく》の目的を果たしたら――その後、消滅させられることになっている。ウィル・スタントン、君が知識を得てしまえば、本をしまいこんでおく必要はなくなるのだ。輪は君を入れて完全になるのだから」
ウィルはじっとしたまま、頭上の力強い厳しい顔に影がうごめくのを見ていたが、すっきりさせるように頭を振り、本を開いた。「英語で書かれてるよ! あなたはさっき――」
メリマンは笑った。「英語ではないよ、ウィル。君と私とがしゃべっているのも英語ではない。いにしえの言葉を使っている。舌の中に持って生まれたものだ。英語を話していると思うのは、英語しか理解できないはずだと君の常識《じようしき》が教えるせいだよ。話しているところを家族の人たちが聞いたら、でたらめな言葉だと思うだろう。本にしても同じことだ」
ホーキンは立ち上がっていたが、顔には血の気がなかった。息を乱して壁にもたれているので、見ているウィルは心配になった。
が、メリマンは無視して続けた。「誕生日が来て力がめざめたとたんに、君は<古老>としてしゃべれるようになったのだよ。自分でも知らずに使っていた。<騎手>が道で出会った時に君を見分けたのはそのためだ――君がジョン・スミスにいにしえの言葉であいさつしたので、向こうも同じ言葉で答えぬわけにはいかなかった。ジョン自身も<古老>であることを知られる危険を冒してな。鍛冶屋という職業《しよくぎよう》は敵味方を問わぬことになってはいるが、普通の人間でもしゃべれる者はいる――このホーキンや、輪の一員ではないが今この館にある者の中にもいる。<闇>の君たちもしゃべれる。必ずそれとわかるなまりがあるが」
「思い出した」ウィルはゆっくりと言った。「確かに<騎手>には、ぼくの知らないなまりがあった。もちろん、英語をしゃべってると思い込んでたから、よその地方から来たぐらいにしか思わなかったけど。どうりで早くからねらわれたわけだ」
「単純なことさ」メリマンはそう言うと、初めてホーキンを見て肩に手をかけたが、小男は動かなかった。「いいかね、ウィル。読み終えるまでひとりにしておこう。普通の本を読むのとは一味違った経験になるはずだ。終わったら、戻って来る。どこにいようと、その本が開かれているか閉じているかは、常に私にはわかる。さあ、読みたまえ。君は<古老>のひとりだ。一回読みさえすれば、永久に君のものになる。それが済んだら、始末しよう」
「ホーキンは大丈夫? 気分が悪そうだけど」
ぐったりしたみどりの服の小男を見おろしたメリマンの顔に、苦痛の色がよぎった。「多くを期待しすぎた」と不可解なことを言い、ホーキンをまっすぐ立たせた。「それより本だ、ウィル。読みたまえ。長いこと君を待っていたのだぞ」
メリマンはホーキンを支えながら、隣室《りんしつ》の音楽と話し声の中へ戻って行き、ウィルはひとり取り残された。仙術の書とともに。
裏切り
後になっても、どれくらいの時間を仙術の書を読むのに費《つい》やしたのかはわからなかった。本の頁《ページ》からウィルの中にはいり込み、変化させたものはあまりにも多く、一年かかったとしても不思議はなかった。が、完全に没頭《ぼつとう》していたので、終わっても始めたばかりのような気がした。確かにほかとは異《こと》なった本だった。各頁についている見出しはごく簡単なものだった。「飛行について」、「挑戦《ちようせん》について」、「力の呪文《じゆもん》について」、「抵抗について」、「扉を通じての<時>について」。ところが、物語や方法が提示《ていじ》されているわけではなく、詩の一説や鮮やかなイメージが与えられているにすぎなかった。それらの詩やイメージは、ウィルを、素材《そざい》となっている体験のただなかに、たちまち引き込んでしまうのだった。
われ、鷲となりて旅をせり――という一行を読んだだけで、ウィルは羽があるかのように空高く昇り、感じることを通して学んでいた。風に乗って休み、上昇する空気の柱のまわりを斜めに旋回するすべを、舞い上がり舞おりるすべを、黒っぽい木々を戴《いただ》いたみどりのつぎはぎの丘陵と、丘あいにきらめきうねる川を見おろすすべを、ウィルは感じ取った。そして飛びながら、ワシが<闇>の者たちを見ることのできるわずか五種の鳥の一つだということを知り、他の四種が何か即座に知り、それぞれに順ぐりに身を変えた……。
ウィルは読んだ。……おまえがたどり着くのは、……この世で最も老いたる者の居るところ。最も遠くまで旅せしそのものの名はグウェルナブイの鷲と言う……するとウィルは世界の上のむき出しの大岩の上にいた。灰色と黒のきらめく花崗岩《かこうがん》の岩棚に恐れることなく座し、体の右側を、やわらかい金の羽毛におおわれた脚《あし》とたたまれた翼にもたせかけ、片手を鉄のように固い酷そうな鉤爪《かぎづめ》のそばに休めて、荒々しい声が耳に吹き込むのは、風と嵐《あらし》、空気、雲と雨、そして雪と雹《ひよう》――日と月と惑星《わくせい》と星々を除き、天にあるもの全てを意のままにする言葉だった。
それから再び青黒い天を自由に翔《か》けていた。星々は時のうつろうをも知らずに頭をめぐって燦然《さんぜん》と輝き、その織《お》りなす形が、遠い昔に人間があてはめた形や力に似るものも似ぬものも、全て明らかにされた。明るいアルクトゥルス星を膝に牛飼《か》いが会釈して過ぎ、うなりを上げてかすめた牡《お》牛は、背に大きな太陽アルデバランと、聞いたこともないような小さな美しい声で唄うプレアデスの星団を乗せていた。上へ、外へと黒い宇宙を飛び、死んだ星々、燃えさかる星々、そしてそのかなたの果てしない虚空《こくう》にわずかにばらまかれた生命を見た。終わった時には天の全ての星を知っていた。名前も、天文学上の座標《ざひよう》も知り、その上でそれらをはるかに超えた存在として認識《にんしき》していた。太陽と月の呪文を全て知り、天王星の神秘《しんぴ》を、水星の無残《むざん》さを知り、彗星《すいせい》の尾に乗った経験さえ持っていた。
そして、本はただの一行で、天からウィルを引きおろした。
……しわ寄りたる海は眼下を這《は》いずり……ウィルは急降下し、青いしわだらけの水面に向かった。ぐんぐん近づくにつれ、水面は変化し、盛り上がっては叩きつける大波の連続となった。と、思うと海中にいて、混乱を脱し、みどりのもやを抜け、美と非情と殺伐《さつばつ》たる冷酷《れいこく》な生存競争の、驚くほど澄《す》んだ世界にはいり込んだ。どの生物もべつのをえじきとし、全く安全なものは何ひとつない。本はここで、敵中で生き抜くさまざまな形を教え、海と大河とせせらぎと、湖と谷川とフィヨルドの呪文を教えた。あらゆる魔法をある程度まで阻める唯一のものが水であることを見せた。流水は善悪にかかわりなくいかなる魔法にも甘んじず、なかったもののように洗い流してしまうのだ。
危険な鋭い珊瑚《さんご》の枝の間を本は泳がせた。たなびく不思議なみどりや紅や紫の海草の間を、ウィルに近寄っては目をむき、ヒレや尾をひらめかせて去る鮮やかな虹《にじ》色の魚群の間を泳がせた。黒く意地悪そうなウニのとげを過ぎ、草とも魚ともつかぬやさしく招く生物を過ぎ、白い砂に上がり、金まだらの浅みをしぶきを上げて抜け――木々の間にはいった。根のような剥き出しの木がびっしりと海水の中まで伸び、葉のない密林の様相を呈《てい》していた。あっと思うと、ウィルはもつれた木々を脱し、目をしばたたいて再び、仙術の書の一頁を見ていた。
……われは火に侵《おか》され、風に遊ぶ……
今度は木々の間にいた。やさしい春の木の若芽の比類《ひるい》ない新緑、まだらに照らす明るい太陽。葉におおわれ、さやぐ巨大な夏の木々、恐るるに足る主を持たず、おのが森にいかなる光の侵入《しんにゆう》も許さぬ黒っぽい冬のモミの木。あらゆる木の本質と、カシとブナとトネリコにこめられた特殊《とくしゆ》な魔法を学んだ。それから、本のとある頁に詩の一節がぽつんとあった。
野生の森の木の揺れるを見、
水鏡めぐるタゲリを見る者は
未知なる者を夢に見ん。われらには
未《いま》だ闇なる者たちを、嗚呼《ああ》!
するとウィルを<時>全体を吹きぬけめぐる風に巻き上げて、精神に<古老>たちの物語が流れ込んできた。初めの頃、世界を魔法が闊歩《かつぽ》していた頃の彼らを見た。魔法は岩と火と水といけるものの力であり、最初の人間は、水中の魚のように、魔法の中で魔法と共に生きていた。人間の時代を生きる<古老>たちを見た。石器、青銅、鉄の時代は、それぞれ六つのしるしのひとつを産《う》んだ。祖国である島国を異民族があいついで襲い、絶え間なく押し寄せる船団がそのつど<闇>の悪意を乗せて来るのを見た。寄せ手は順ぐりに土地になじみ、愛し、平和になり、再び<光>が栄《さか》えた。が、<闇>は常にあり、一進一退《たい》を繰り返し、同朋よりも強く恐れられる存在となることを自ら選ぶ人間が出るたびに、新たな<闇>の君を得ていった。これらの人間は、<古老>たちのように運命に生まれつくのではなく、そうなることを選ぶのだった。<黒騎手>の姿ははじめからどの時代にも現れていた。
<光>の最初の大試練を見た。<古老>たちは三世紀に渡って、<闇>の影から国を救い出そうとし、ついに最大の指導《しどう》者に助けられて成し遂《と》げたが、指導者はそのために失われ、いつか目ざめて戻って来るという希望だけが残った。
その時代の中からウィルの前に丘がそそり立った。草深く、陽に照らされ、みどりの芝生に刻まれた丸に十字のしるしが、チルターンの白亜層《はくあそう》を見せ白く大きく輝《かがや》いていた。白い十字の横棒の一本の回りに集まって刃の長い斧《おの》に似た妙な道具でひっかいているのは、みどりの服を着た一団だった。小柄で、大きなしるしの幅のせいでいっそう小さく見える。そのひとりが、夢を見ているように身をひるがえして一団を抜け、近づいて来た。みどりの上衣に濃い青の短いマントをはおり、フードをかぶっている。男は腕をいっぱいに拡げた。片手には青銅の刃の短剣、もう一方には光る台つきの杯《さかずき》。回れ右をしたと思うと、消えてしまった。次の頁のとりこになり、ウィルは深い森の中の小道を歩いていた。かぐわしい濃緑の薬草を踏みしだいて、小道は拡がり、固い石の道となった。摩滅《まめつ》し起伏《きふく》のある、岩に似た石灰石の道はウィルを森から連れ出し、やがて、灰色の空の下の、高い風の強い峰《みね》を歩いていた。下は暗い、霧《きり》に包《つつ》まれた谷。足を運ぶ間じゅう、連れがいないにもかかわらず、精神にはたゆみなく、順々に、いにしえの道の力を動かす呪文が送られて来た。さらに今後世界中どこにいても、現存するとせぬとにかかわらず、最寄《もよ》りのいにしえの道のありかを教えてくれる感覚やしるしが……
こうするうちにウィルは、本の終わりに近づいたことに気づいた。目の前の頁には詩があった。
わしは羊歯《しだ》を盗《と》りあさり
あらゆる秘密を盗《ぬす》み見た
マス・アブ・マソヌイ老人も
わしより多くは知らなんだ
裏表紙と向かいあった最後の頁には六つの丸に十字のしるしが、つながったひとつの輪として描《えが》かれていた。それで全部だった。
*
ウィルはゆっくりと本をとじ、宙《ちゆう》を見つめていた。百年も生きてきたような気がした。これほど多くのことを知り、できるようになったのだから、ワクワクするべきだったが、今までのこと全《すべ》て、これからのこと全てを考えると、重荷を負い込んだ気がしてゆううつになった。
メリマンがひとりで戸口からはいってきて、立ったままウィルを見おろした。「さよう」とそっと言った。「前にも言ったように、重荷なのだよ。だがしかたがない。われらは<古老>、輪の一員として生まれついたのだ。救いはない」メリマンは本を取り上げ、ウィルの肩に触れた。「来たまえ」
部屋をよぎって背の高い大時計に歩み寄るメリマンに従い、再びポケットから鍵を出して前の戸をあけるのを見守った。振子は前の通り、長くゆっくりと、心臓の鼓動のように揺れていた。が、今回はメリマンはまるで用心しなかった。本を持ったまま手を差し込んだが、その動きは、不器用な男の役を大げさに演じている役者のように、妙にぎくしゃくしていた。本を押し込んだとき、角が振子の長い腕をこすった。揺れがわずかに途切れるのが見えたと思う間もなく、ウィルはよろよろとあとずさり、両手で目をおおっていた。部屋を満たしたものは何とも形容しがたかった――無音の爆発《ばくはつ》、目もくらむような黒い閃光《せんこう》、見ることも聞くこともできないが、一瞬、世界が吹っ飛んだように感じられたすさまじいエネルギーのうねり。手を顔からどけて目をしばたたくと、もといた場所より十フィートも離れた肘掛椅子の側面に叩きつけられていた。メリマンはそばの壁に大の字にへばりついていた。そして大時計があった部屋の隅は空だった。壊れたところも、暴力や爆発の形跡もまるでない。何ひとつなかった。
「今のがそうだ」メリマンが言った。「今のがわれらの歴史が始まって以来、仙術の書を護っていたものだ。書を護っている物に触れただけでも、その物も書も触れた人間も――無になってしまう。<古老>たちだけが破滅《はめつ》を免《まぬが》れ得るが、見ての通り」――と恨めし気に腕をさすり――「われらでさえも、多少の打ち身は避《さ》けられぬ。護る物はもちろんいろいろな形を取った――大時計は単にこの世紀のためだけのものだ。これで、長の年月、保護《ほご》するのに用いたと同じ手段で書を破棄《はき》できた。もうわかったはずだが、魔法を用いる上で正しいやり方というのは、まさにこれひとつなのだよ」
ウィルは震えがちに言った。「ホーキンはどこ?」
「今回はあれにいてもらう必要はなかった」
「大丈夫なの? ひどく具合が――」
「大丈夫だ」メリマンの声には妙な固さがあり、悲しんでいるかのようだったが、ウィルが得た新しい知識も、それがどういうものから発しているのかは教えてくれなかった。
ふたりは隣室のパーティに戻った。出て来るときに始まった歌がようやく終わりかけているところで、ウィルたちの不在が一、二秒以上に及んだかのようにふるまう者は無く、全然時間がたたなかったかのようだった。そんなことを言えば今だって現実の時間ではない、とウィルは思った。過ぎ去った時間だ。それさえも、好きなように伸ばし、速くも遅くもできるらしい……
人々の数が増え、晩餐の間《ま》から三々五々戻って来る客がまだいた。彼らの大部分は普通の人間なのだとウィルは気づいた。前に部屋に残った小さな一団だけが<古老>だったのだ。当然だった。しるしの再生を目撃できるのは<古老>たちだけに決まっている。
*
客はほかにもいた。観察しようと振り向いたウィルは、ふいに驚きとおぞましさに何も考えることができなくなった。目が部屋の一番奥にひとつの顔をとらえたのだ。若い娘だ。こちらを見てはおらず、物陰にいる誰かと話している。見ていると、娘は頭をそらし、明るく気取って笑った。それからまたかがみ込んで耳を傾け、他の客に邪魔されて見えなくなった。が、誰だか見極めるには十分だった。笑った娘はマギー・バーンズ、百年後のドースン農場のマギーだった。このビクトリア時代のミス・グレイソーンがウィルの知っているミス・グレイソーンの先祖であるような、そんな意味での先祖ですらなく、ウィル自身の時代で最後に見かけたマギーそのものだった。
心配になって振り向いたが、メリマンと目が合うと、もう知っているのがわかった。ワシ鼻の顔には驚きはなく、一種の苦痛のきざしだけがあった。「さよう」疲れたような口調だった。「魔女むすめが来ている。今からしばらくの間はそばにいてくれたほうが良さそうだ、ウィル・スタントン。一緒に見てくれ。一人で見るのは気が進まぬ」
いぶかしみながら、ウィルは人目に触れない片隅にメリマンと共に立った。マギーはまだ人混《ご》みのどこかに隠されていた。待っているうちに、小ぎれいなみどりの上着のホーキンが、人波を縫ってミス・グレイソーンに歩み寄り、何かの時に手助けできるよう控《ひか》えているのに慣れた人間の態度で、恭しくかたわらに佇んだ。メリマンがかすかに体を硬ばらせたのでウィルは目を上げた。力強い顔には苦痛のしわが深まり、あたかもひどく傷つくのを予期しているかのようだった。また向こうにいるホーキンを見ると、ミス・グレイソーンの言葉に明るくニッコリするのが見えた。図書室で気分を悪くさせたのが何であれ、今はその名残も見せていない。この小柄な男には宝石のように光るものがあり、どんなに陰気な時にも喜びをもたらしてくれそうだった。メリマンがかわいがるのも理解できた。それと同時に、災《わざわ》いが待ち構えているという恐ろしい確信がどっと押し寄せて来た。
かすれ声で言った。「メリマン! 何なの?」
メリマンは人々の頭越しに、活気に満ちた尖った顔を見た。そして無表情に「危険だ、ウィル。私のせいで危険が訪れるのだ。この探求の間じゅうつきまとう大きな危険だ。私は<古老>として最悪の過《あやま》ちを犯《おか》してしまった。それがもうじき、倍になってわが身に降りかかって来るのだ。限りある生命の人間に、その力に余る信頼をよせる――われら一同が、何世紀も昔に、それだけはしてはならぬと学んだことだ。仙術の書が私に預《あず》けられるよりはるか昔に学んでいたのに、愚かにもその過ちを犯してしまった。もはや正すことはできぬ。見守り、結果を待つだけだ」
「ホーキンなんでしょう? ホーキンをここに連れて来たことと、何か関係があるんでしょう?」
「仙術の書を護るための魔法はな」メリマンは辛そうだった「ふたつの部分から成り立っていた。最初のは見ただろう。だが私はもうひとつ、べつな魔法を組み込んだ。<闇>から護れるようにな。それによって、振り子の奥から本を取り出せるのは、もう一方の手でホーキンに触れている場合に限られた。最後の<古老>のために本が取り出される時には、どの世紀であろうと、ホーキンを彼自身の時代から連れだし、その場にいさせねばならなかった」
「普通の人間じゃなく、<古老>を魔法に組み込んだほうが安全だったろうに」
「それは違う。人間を関係させることが目的だったのだ。われらが戦っているこの戦《いくさ》は冷酷なのだよ、ウィル。時には冷たいまねをせねばならぬ。この魔法は本を預かる者たる私を中心としてめぐらされた。私は<古老>であるから、<闇>に滅ぼされることはない。が、魔法によって、本を取り出すようだまされることはありうる。そうなった時のために、他の<古老>たちが手遅れになる前に私を止められるよう、手段を講《こう》じる必要があった。私が<闇>の手先となっても、<古老>たちには滅ぼせぬ。だが人間を滅ぼすことならできる。最悪の事態《じたい》となり、<闇>が魔法を用いて私に本を取り出させようとしたとしても、実行できる前に、<光>がホーキンを殺しただろう。それで本は永久に安全だ。取り出す時に、解放の呪文を唱えるためにホーキンに触れることができないのだから。本に手を届かせることもできなかったろう。<闇>にも、他の誰にも」
「つまりホーキンは生命をかけたんだ」ウィルはゆっくりと言い、楽師たちのほうへと部屋を横切るホーキンのきびきびした足取りを見守った。
「その通りだ。われらに仕えていれば<闇>からは安全だったが、生命が危《あや》ういことに変わりはなかった。引き受けたのは私の臣下であり、それを誇《ほこ》りに思っていたからだった。危険の度合いを本当に理解していたのかどうか、確かめるべきだった。二重の危険があったのだよ。きょう私の手で滅ぼされる可能性もあった。私がうっかり振り子に触れていたらな。実際《じつさい》に触れた時、何が起こったか見ただろう。君と私は<古老>だから、揺さぶられただけで済んだが、もしホーキンがあの場にいたら、一瞬のうちに死に、本と同じように消し飛んでしまったろう」
「勇敢《ゆうかん》だけじゃなく、本当に息子のようにあなたを愛してるんだね」ウィルは言った。「あなたと<光>のためにそこまでするなんて」
「だがしょせん人間にすぎぬ」メリマンの声は荒々しく、深い苦痛の色が顔に戻った。「愛し方も人間のそれで、愛情の証《あか》しを見返りとして要求する。私の過ちというのは、その危険を無視したことにあるのだ。その結果として、あとニ、三分で、ホーキンは私を裏切り、<光>を裏切り、君の務めが取るべき形を決定する。私と仙術の書のために実際に生命をかけた先ほどのショックは、あれの忠誠心《ちゆうせいしん》を持ってしても強すぎた。あれの肩をつかみ、危険な場所から本を取った時の顔を見たか? あの瞬間に初めて、私があれを死なせてもいいと思っていることを、ホーキンは完全に理解したのだ。理解してしまった以上、あれが慕《した》ってくれているのと同じほどには――あれの目から見れば――愛してやらなかったことを、決して許してはくれまい。われらを逆恨《さかうら》みするようになるだろう」メリマンは部屋の向こうを指した。
「始まるから見たまえ」
音楽が軽快に奏でられ、客たちは踊るために男女ふたりずつの組になり出した。ウィルが<古老>と見分けた男女がミス・グレイソーンに近づき、一礼して腕をさしのべた。そこらじゅうで男女の組が8の字形に並んで、ウィルの知らない踊りを始めようとしていた。ホーキンが頭で音楽の拍子《ひようし》を取りながらためらっているのが見えた、と、赤いドレスの娘がそばに姿をあらわした。魔女むすめ、マギー・バーンズだった。
マギーは笑いながらホーキンに何か言い、少し足を引いておじぎした。ホーキンはあやふやに愛想笑いをし、かぶりを振った。娘はいっそうにこやかに笑み、気を引くように髪をゆすり、目をホーキンにすえて再び話しかけた。
「ああ」ウィルは言った。「聞えたらなあ!」
メリマンは考えごとをしているような暗い顔で、一瞬、重々しくウィルを見た。
「ああ」ウィルは馬鹿なことを言ったと思った「そうだった」自分の力を使うことに慣れるまでにはどうやらかなり時間がかかりそうだった。ウィルは再びホーキンと娘を見、話していることが聞えるようにと念じた。聞えるようになった。
「本当です、お嬢さん」ホーキンが言った。「無礼なやつと思われたくはありませんが、踊りはやらないんです」
マギーはホーキンの腕を取った。「自分の時代にいないから? ここでも足を使って踊るのよ。五百年以上昔のあんたがた同様。さあ」
ホーキンは数組のカップルのそばへ連れて行かれながら、呆然《ぼうぜん》とマギーを見つめていた。「あんたは誰だ?」ホーキンはささやいた。「<古老>か?」
「願い下げだわ」マギー・バーンズがいにしえの言葉で言うと、ホーキンはまっさおになって立ちすくんだ。娘はふふふと笑い、英語で言った。「もうよしましょう。踊りなさい、人目につくわ。けっこう簡単よ。音楽が始まったら、隣の人を見ればいいわ」
青ざめ、取り乱したホーキンは、踊りの前半をやっと切り抜け、次第にステップをおぼえていた。メリマンがウィルの耳もとで言った。「ここには自分のことを知る者はいない、君以外の者にいにしえの言葉を用いたら死ぬことになる、と言ってあったのだよ」
再び会話が始まった。
「元気そうね、ホーキン、死を免れたばかりにしては」
「なぜそんなことを知っている? あんたは誰だ?」
「あの連中はあんたを死なせようとしたのよ、ホーキン。なぜ、あんな馬鹿なまねをしたの?」
「あのかたは俺を愛して下さっている」ホーキンは言ったが、どこか弱々しかった。
「利用したのよ。あんたのことなんか、何とも思っちゃいないわ。もっといい主人につくべきだわ。あんたの生命を大切にしてくれて、もとの時代だけに閉じこめずに何世紀も続くようにしてくれる、そんな主人にね」
「<古老>の生命みたいに?」ホーキンの声に初めて熱がこもったウィルは、<古老>たちについて語ったときにホーキンがみせたかすかなねたみを思い出した。今は欲《よく》もいくらか加わっていた。
「<闇>や<騎手>は<光>よりもやさしい主人だわ」マギー・バーンズが耳もとでささやくと同時に踊りの第一部が終わった。ホーキンが再び立ち止まって見つめ続けたので、娘はまわりを見まわし、はっきりと言った。「冷たい飲み物が頂きたいわ」ホーキンはとび上がり、娘を連れ去った。関心を魅《ひ》きつけた上に、人のいない場所で話す機会を与えられた<闇>の娘は、その気になっている聞き手にしゃべりまくるだけでいい。ウィルは近づきつつある背信《はいしん》に胸が悪くなり、聞くのをやめた。かたわらのメリマンはまだ暗い顔で宙をにらんでいた。
「あの調子で続く」メリマンは言った。「ホーキンは、人間にはよくあることだが、<闇>について魅力《みりよく》的な甘い夢を描き、それと<光>の要求するもの全てを較べてみるだろう。<光>の要求するところは今も、そしてこれからも、厳しいからな。その間もずっと私が何のほうびもなしに生命を棄《す》てさせようとしたことへの恨みの念を後生大事に抱え込んで。<闇>は、生命を要求するそぶりすら見せまい――今はまだ。実をいえば、<闇>の君たちは死を要求するような危険は冒さぬ。暗い生を与えるだけだ……ホーキンよ」
メリマンは低く、うらぶれた声で言った。「家子《いえのこ》よ、どうしてそんなまねができるのだ?」
ウィルがふいに恐怖を覚えたのをメリマンは感じ取った。「もうよそう。どうなるかは既にわかっているのだから。ホーキンはこれ以後、屋根の雨もり穴、地下室へのトンネルとなる。私の臣下だった時に<闇>が手を出せなかったように、<闇>の臣下となった今は<光>の手で滅ぼすこともできぬ。われらのさなか、今まで砦《とりで》であったこの館の中において、ホーキンは<闇>の耳となるのだ」メリマンの声は避《さ》けがたいことを受け容れ、冷《ひ》ややかだった。苦しみは消えていた。「あの魔女むすめは館にはいり込んだものの、魔法のかけらも使うことができなかった。<光>に滅ぼされてしまうからな。だが、これからは、ホーキンが呼びさえすれば、よそ同様ここにも、<闇>は攻められて来られる。危険は年とともに増《ま》すだろう」
メリマンはひだを寄せた白いクラヴァットをいじりながら立ち上がった。猛々しい弧を描く横顔には恐るべき冷厳《れいげん》さがあり、ひそめた眉の下から一瞬ほとばしった目つきは、ウィルの血をどろりとさせ、流れを遅くした。裁判官《さいばんかん》の顔だった。容赦《ようしや》なく、断罪《だんざい》していた。
「この行為によってホーキンが自分の身に負った運命は、いまわしいものだ」メリマンは無表情に言った。「死にたいと何度も願うようになるだろう」
ウィルは憐《あわ》れみと不安のとりことなり、呆けたように立っていた。小柄な明るい目のホーキン、ウィルをからかい、助け、ごく短い間ではあったが友となったホーキンの身に、何が起きるのかはたずねなかった。知りたくなかった。踊《おど》りの場では、第二部がにぎやかに終わり、踊り手たちは笑いながらおじぎを交わした。ウィルは悲しくなってじっと立っていた。メリマンは凍りついた顔をなごませ、手を伸ばしてそっとウィルに中央を向かせた。
人混みの中にすきまが生じ、その先には楽団しか見えなかった。そうするうちに、再び「よきウェンセスラス王」が始まった。最初に例の大扉を通ってはいって来たときにやっていた曲だ。集まった人々が陽気に唄い出した。そして二番が始まり、メリマンの深い声が部屋を横切って響き渡ると、ウィルは目をしばたたき、次は自分の番だと気づいた。
ウィルは息を吸い込むと頭を上げた。
王よ、あれは、はるかなる
山のふもとに住める者……
別れの瞬間もなく、十九世紀が消えうせるのを見るいとまもなく、変化が起きたことさえ感じなかったが、唄いながらフッと<時>がまばたきしたのを知った。べつの若々しい声が一緒に唄っていた。ぴったり調子が合っているので、唇《くちびる》の動きが見えないものなら、ひとりの少年の声しかしないと誓《ちか》ったことだろう……
森の垣根を背にせる
聖アグネスの水――辺――に……
……ジェイムスやメアリーや他の者と共にいて、ジェイムスと一緒に唄ってるのを知り、声に伴《ともな》う音楽はポールのフルート一管だとわかった。暗い玄関ホールに立ち、灯したろうそくを胸に捧《ささ》げ持っているのだった。ろうそくが最後に見た時から一ミリも短くなっていないのが見てとれた。
歌が終わった。
ミス・グレイソーンが言った。「良かったよ。とても良かった。『よきウェンセスラス王』が一番だね。昔からどれよりも好きだった」
ウィルはろうそくの炎越しに、大きな木彫りの椅子にかけたじっと動かない姿に目を凝らした。声は老け、きつくなり、年月によって鍛えられていたし、顔もそうだったが、それを除けばそっくりだった――お祖母さんに。あの若いミス・グレイソーンはこの人のお祖母さんに違いない。それともひいお祖母さんだろうか?
ミス・グレイソーンは言った。「ハンタークームのカロルの唄い手たちは、あんたがたやわたしがおぼえているよりずっと昔から、この家で『よきウェンセスラス王』を唄って来たんだよ。さて、ポールとロビンとほかのみんな、クリスマスのパンチを一杯どうだえ?」問いも伝統的《でんとうてき》なら答えもそうだった。
「はい」ロビンが重々しく言った。「ありがとうございます。ミス・グレイソーン。少しだけなら頂きます」
「今年はウィルも頂けますよ」ポールが言った。「十一歳になったんです、ミス・グレイソーン、ご存知《ぞんじ》でしたか?」
家政婦がキラキラ光るグラスと赤茶色のパンチのはいった大鉢《はち》を載《の》せた盆《ぼん》を持って前に出た。部屋にいる者の目はほとんど全て、グラスを満たしに進み出たメリマンにそそがれていたが、ウィルの視線は、背もたれの高い椅子の人物の、ふいに若々しくなった目にとらえられていた。「ああ」ミス・グレイソーンはひとりごとのようにそっと言った。「おぼえているよ。ウィル・スタントンは誕生日を迎えたんだったね」近づいて来ていたメリマンのほうを向き、持っていたふたつのグラスを取り上げた。「誕生日おめでとう、ウィル・スタントン、七男坊の七男坊」とミス・グレイソーンは言った。「全ての務めにおいて成功するよう祈ってるよ」
「ありがとうございます」ウィルはいぶかしみつつ答えた。ふたりは、スタントン家の子供たちが夕食にぶどう酒を飲むことを許される年に一度のクリスマスの乾杯の時にするように、しかつめらしく互いにグラスを上げ、干した。
メリマンが室内をひとめぐりし、やがて誰もがパンチのグラスを持って満足げにチビチビやっていた。館のクリスマス・パンチはいつもすこぶる美味だったが、何がはいっているのかは誰にもまだわからなかった。年長者の義務として、双子は部屋を横切り、ミス・グレイソーンとおしゃべりを始めた。バーバラは、メアリーを従えて、まっすぐ家政婦のハンプトンさんと女中のアニーをめざした。ふたりとも、バーバラが無理やり活動させようとしている村の劇団《げきだん》に、いやいや加入させられていたのだ。メリマンがジェイムスに言った。
「あなたも弟さんも歌がお上手ですね」
ジェイムスは笑みがくずれた。ウィルよりふとってはいるが、背は変わらず、年上であり優秀《ゆうしゆう》であることを他人が見分けて喜ばせてくれることなど、めったになかったのだ。「ウィルもぼくも、学校の聖歌隊《せいかたい》で唄ってるんです。コンクールでは独唱《どくしよう》もしますよ。去年はロンドンでも唄いました。音楽の先生がコンクールに熱心なんです」
「ぼくは熱心じゃないのにね」ウィルが言った。「よその子の母さんが大勢いてにらむんだもの」
「だっておまえ、ロンドンの大会で学年別一位になっただろう?」ジェイムスは言った。「だから当然《とうぜん》、かわいいわが子を負かしたっていうんで、みんなおまえを嫌ってたのさ。ぼくは学年別で五位にしかはいらなかったんです」ジェイムスはさらりとメリマンに言った。「ウィルのほうがずっといい声なんですよ」
「よしてくれよ」とウィル。
「だって、そうじゃないか」ジェイムスは公平な考え方をする子で、白昼夢《はくちゆうむ》より現実のほうがいいと心から思っていた。「少なくとも、ふたりとも声変わりするまではね。そうなったら、どっちもだめになるかも知れない」
メリマンがどうでもよさそうに言った。「実際には、あなたは極めてすぐれたテノール歌手になられる。プロと同等ぐらいのね。弟さんの声はバリトンです――きれいはきれいですが、特別良くはなりますまい」
「可能性はありますね」ジェイムスは信じてはいないものの、礼儀正しく言った。「もちろん、まだ誰にもわかりっこありませんけど」
ウィルは挑《いど》むように「だって、この人は――」と言いかけたが、メリマンの黒い目を見てやめ、「んーと、ええと」とごまかした。ジェイムスが呆《あき》れたように見つめた。
ミス・グレイソーンが部屋の向こう側からメリマンに声をかけた。「ポールが古いリコーダーやフルートを見たいそうだよ。連れてってやっておくれ」
メリマンは軽くおじぎして、ウィルとジェイムスにさりげなく言った。「一緒にいかが?」
「結構です」ジェイムスは即座《そくざ》に答えた。目を奥のドアにすえている。家政婦がべつの盆を持って出て来るところだった。「ハンプトンさんのミンス・パイの匂いがする」
ウィルは理解して言った。「ぼくは見せてもらいたいな」
メリマンと共にミス・グレイソーンの椅子に近づいた。両脇に、固くぎごちない様子で、ポールとロビンが護衛のように立っている。「行きなさい」ミス・グレイソーンがきびきびと言った。「ウィルも行くのかえ? そうそう、あんたも音楽好きだったね。忘れていたよ。あそこには、楽器や何かのかなりいいコレクションがあるんだよ。見たことがなかったとは驚いたね」
言葉の攻勢に頭が鈍ったウィルは、考えなしに言った。「図書室にですか?」
ミス・グレイソーンの鋭い目がキラリとした。「図書室? 誰かと間違えておいでだね。ここには図書室はないよ。前には小さいのがあって、たいそうな値打物の本が何冊かあったらしいけど、百年近く前に焼けてしまったよ。館のこの部分に雷《かみなり》が落ちてね。かなりの被害《ひがい》を受けたという話だよ」
「それは、どうも」ウィルはいくらか混乱して言った。
「クリスマス向きの話じゃないね」ミス・グレイソーンは手を振ってウィルたちを去らせた。振り返ると、ロビンは外交辞令《じれい》的な明るい笑顔を向けるのが見え、ウィルは、ふたりのミス・グレイソーンはやはり同一人なのではないかと思っている自分に気づいた。
メリマンはウィルを、ポールともども、脇ドアから連れ出した。かび臭い、おかしな小廊下《ろうか》を通って天井の高い明るい部屋に出たが、ウィルにはそれがどこか、すぐにはわからなかった。暖炉を認めて初めて自分のいる場所がわかった。広い炉端、四角いパネルとテューダー王朝が紋章《もんしよう》に使ったのと同じ木彫りのバラのある横長の暖炉棚。が、部屋の周囲の羽目板はなくなっていた。壁は平坦な白に塗《ぬ》られ、ところどころに毒々《どくどく》しい青みどりで描かれた、まるで本物らしくない海景色の大きな額《がく》がかかっていて、彩《いろど》りを添《そ》えていた。かつてウィルが小さな図書室にはいるのに通った場所には、もはやドアはなかった。
メリマンは横の壁際にある背の高い、ガラスのはまった戸棚の鍵をあけていた。
「グレイソーンさまのお父さまは大の音楽好きであられましてね」と執事らしい口調で言った。「芸術家でもあられました。あちらの壁の絵は全て、ご先祖が描かれたものでございます。西インド諸島の風景かと存じます。ですが、こちらは」――メリマンはリコーダーに似た美しい小さな楽器を取り出した。黒地に銀が象嵌《ぞうがん》してある――「ご自分で演奏されたわけではない、と承っております。鑑賞《かんしよう》なさるのがお好きであられただけで」
ポールはたちまち夢中になり、メリマンが戸棚から取り出して渡すそばから、古いフルートやリコーダーをためつすがめつ、のぞき込んだりした。ふたりとも極めて丁重《ていちよう》に扱《あつか》い、ひとつを注意深くしまってから次のを取る、という具合だった。ウィルは背を向けて暖炉のまわりの四角パネルを見始めたが、ぎょっととび上がった。メリマンが声を出さずに呼びかけるのが聞えたのだ。ポールに話しかけているメリマンの声も同時に聞えている。無気味でさえある取り合わせだった。
「さあ、早く!」頭の中の声が言った。「どこを捜すかはわかっているな。早く、機会があるうちに。しるしを取るのは今だ!」
「でも――」ウィルの精神が言った。
「やれ!」メリマンは声を出さずに言った。
ウィルはすばやく肩越しに振り返った。入り口のドアはまだ半開きになっていたが、ここと隣の部屋の間の通路を来る者があれば、耳が警告してくれるだろう。ウィルは足音を忍ばせて暖炉に歩み寄ると、手を伸ばし、四角いパネルに触れた。一瞬目を閉じ、持てる新たな能力の全てと、それらの源である古い世界に助力を求めた。どの四角だったろう? どの木彫りのバラだろう? 周囲の羽目板がなくなったため混乱してしまった。戸棚が前より小さく見えるのだ。しるしは、あの平べったい白壁の後ろのどこかに塗《ぬ》りこめられ失われてしまったのだろうか? 見える限りのバラを押して暖炉の左上の隅を一周したが、どれも一インチの何分の一も動かなかった。最後の最後になって、隅の頂点に半ばしっくいにうもれているバラをみつけた。それが突き出ているあたりの壁は、明らかにウィルが最後に見た時から今までの百年間――十分間かな、と慌てた頭で考えた――に改造《かいぞう》ばりか修理されていた。
ウィルは急いで手をグッと伸ばし、木の花のまんなかに、呼鈴でも押すように、親指を力一杯押しつけた。静かにカチリというのが聞えたと思うと、ウィルは、ちょうど目の高さにある壁にあいた四角い黒い穴をのぞきこんでいた。手を突っ込むと木のしるしの輪に触れ、ホッとためいきをついてなめらかな木をつかむと同時に、ポールが古いフルートの一管を吹き始めるのが聞えた。
おっかなびっくりの吹き方だった。まずゆっくりと、ドミソドソミドと吹き、それからためらいがちに全部の音を、そして、そうっと、やさしく、「グリーンスリーヴス」の調べを吹きはじめた。ウィルがその場に立ちつくしたのは、古い旋律の調子の美しさばかりでなく、楽器の音そのもののためでもあった。なぜなら、ふしは違うのに、それはウィルの旋律、ウィルの呪縛《じゆばく》、人生において最も大切な時間に必ず耳にし、必ず失った、あのこの世ならぬはるかな音色と同じだったのだ。兄の演奏しているこの楽器は何なのだ?
<古老>たちの一部で、彼らの魔法に属しているのだろうか? それとも人間のこしらえた、似ているというだけのものなのか? 壁の穴から手を抜き出すと、穴はバラを押さぬうちに、サッと閉じた。ウィルは木のしるしをポケットに忍ばせ、聞きほれながら振り向いた。
そして凍りついた。
部屋の反対側、戸棚のそばではポールが演奏していた。メリマンは背を向け、ガラス戸に手をかけていた。が、今や室内にはもうふたつの人影があった。入り口にはマギー・バーンズが佇み、恐ろしい悪意をこめて、ウィルではなくポールを見ていた。そしてウィルのそば、すぐそば、かつてもとの図書室へのドアがあった場所に、<騎手>がぬっと立っていた。手を伸ばせば届くほどの距離だったが、<騎手>は動かず、歩みの途中で音楽に呼び止められたかのように、その場にじっとしてた。目は閉じられ、唇は声を出さずに動き、手は前に突き出され、不吉にも、地上のものならぬ甘美な調べを奏で続けるポールに向けられていた。
ウィルは新しく学んだ本能で、ひとつのことはうまくやった。即座にメリマンとポールと自分の周囲に抵抗力の壁を張りめぐらし、その力に押されて<闇>のふたりがよろっとあとずさりをするようにしたのだ。だが同時に「メリマン!」と金切り声を上げてしまった。音楽がとぎれ、ポールとメリマンが一緒にぎょっとして振り向いたとたん、何をしくじったかがわかった。<古老>同士がするように精神を通して呼ばず、声を出してどなるという大失態《だいしつたい》をやらかしてしまったのだった。
<騎手>とマギー・バーンズは一瞬にして姿を消した。ポールが心配そうに歩み寄って来た。「いったいどうしたんだ、ウィル。どこか痛くしたのか?」
メリマンがその後ろから、間髪《かんぱつ》入れずに如才《じよさい》なく、「つまずかれたようですな」と言ってくれた。ウィルも、顔を苦痛にゆがめて苦しそうにゆっくり前かがみになり、片腕をパッと抑えるくらいの機転はきいた。
走ってくる足音がし、ロビンが廊下から部屋にとびこんで来た。バーバラがすぐあとに続いている。
「どうした。ものすごいわめき声が聞えて――」
ロビンはウィルを見、とまどったように速度を落として立ち止まった。「大丈夫か、ウィル?」
「うん」ウィルは言った。「ぼく――あの――ひじの骨をぶっつけただけなんだ。ごめん痛かったもんで」
ウィルは、ポケットの中で指を動かして第三のしるしの無事を確かめると、恥《はじ》知らずにも、無礼に振舞うことでこの場を切り抜けることにした。「がっかりさせて悪かったねえ」とすねてみせた。「本当に大丈夫なんだ。ぶつかったはずみで大声を上げただけさ。驚かしたのは悪かったけど、そんなに大騒ぎすることないだろ」
ロビンがにらみつけた。「この次は何があったって、助けになんか走って来ないからな」と縮み上がるような口調で言った。
「『狼』って叫んだ子の話、知ってる?」バーバラも言った。
「どうでしょう」メリマンが戸棚を閉め、鍵をかけながらやさしく言った。「あちらへ戻って、グレイソーンさまにもう一曲お聞かせしては」すると一同は、彼が執事にすぎないことをすっかり忘れて、おとなしくあとについて部屋を出た。ウィルは背後から、今度はきちんと声を出さずに呼びかけた。「でも話しときたいことがあるだ! <騎手>がいたんだよ! あの女も!」
メリマンは頭の中で「わかっている。あとにしよう。やつらがこういう会話を聞き取る手段を持っているのを忘れたのか」と答え、苛立《いらだ》ちと不安に体を震わせているウィルには構わずに、さっさと行ってしまった。
戸口でポールが立ち止まり、ウィルの肩をグッとつかんで自分のほうを向かせ、顔をのぞきこんだ。
「おまえ、本当に大丈夫なのか?」
「本当だよ。騒いでごめん。あのフルートの音、最高だった」
「すばらしいよ」ポールは手を放し、振り返って、あこがれをこめて戸棚をながめた。「全く、あんなのは聞いたことがない。もちろん、吹いたこともね。おまえには見当もつくまいな。何と言ったらいいのか――ものすごく古いものなのに、新品と言ってもいいような状態なんだ。それに、あの音色――」ポールの声と顔にこめられた痛いほどの想《おも》いに、ウィルの中の何かが、深く古い共感《きようかん》をもって応えた。ウィルにはふいにわかった。<古老>は、これと同じ、手の届かなかったものに対する形も名もないあこがれを、常に感じるように運命づけられているのだ。それは<古老>の生の不朽《ふきゆう》の一部なのである。
「たとえ一日でも、あんなフルートを持てたら」ポールは言った。「何んだってくれてやるのに」
「ほとんど何だって、だろう」ウィルはそっと言った。あっけにとられているポールの目に、小さな男の子のせりふではなかったとウィルの中の<古老>が遅ればせながら気づいた。そこでニヤッとし、いたずらっぽくポールに舌を出し、廊下をスキップで通って、普通の世界の普通の人間関係へと戻って行った。
最後の歌として「まきびと羊を」を唄い、別れのあいさつをし、再び雪と、身の引き締《し》まるような外気の中に出た。お愛想で穏やかな微笑を浮かべているメリマンの顔が、館の扉の後ろに見えなくなった。ウィルは広い石段に立って星を見上げた。雲はようやく晴れていて、星が、針でつつき出された白熱した火のように、夜空の黒いうろの中で燃えた。今までずっと複雑《ふくざつ》な謎《なぞ》だった星の織りなす奇妙な形も、今では果てしなく意味深長だった。「今夜はプレアデスがよく光るね」と小さな声で言うと、メアリーが目を丸くした。「何がよく光るって?」
そこでウィルは注意を燃える黒い天から引きおろした。黄色い灯りに照らされた小さな世界の中を、スタントン家の唄い手たちは家へ帰って行った。ウィルは夢心地で、兄たちにまじって無言で歩いた。みなは疲れたのだろうと考えたが、実はあまりの不思議さにぼうっとなっているのだった。力のしるしはこれで三つになった。また、仙術の才能を使う知識も持っていた。止められた時間の中で与えられた、長い一生ぶんの発見と学識《がくしき》だ。もうニ、三日前までのウィル・スタントンではない。今も後も永久に、今までに知り合い、愛した誰とも異なる時間の物差《ものさ》しの上を占めているのがわかった……。だが、頭をほかのほうへ向けることに成功した。あのふたりのまがまがしい<闇>の侵略者《しんりやくしや》たちからも頭を切り離せた。なんといっても今はクリスマスなのだ。昔から、彼にとっても誰にとっても、魔法の季節だった。クリスマスは光明であり、輝かしい祭りであり、世界がその魔法にかけられている間は、ウィルの家族と家庭からなる輪は、外部のいかなる侵略者からも護られているはずなのだ。
家の中ではモミの木が光輝き、クリスマス音楽が空中に流れ、香料《こうりよう》をきかせた料理の香りが台所から漂《ただよ》い、居間の広い炉の中のねじれた大きなユールの根が、じわじわ焼けてくずれながら炎をひらめかせ、燃え上がらせていた。ウィルは、炉端の敷物の上にあおむけに寝そべり、渦巻《うずま》いて煙突を昇って行く煙を見つめていたが、ふいにひどい眠気をおぼえた。ジェイムスとメアリーもあくびをこらえており、ロビンでさえまぶたが重そうだった。
「パンチの飲みすぎだよ」背の高い兄が肱掛椅子の中で大あくびをするのを見て、ジェイムスが言った。
「失せろ」とロビンは機嫌よく言った。
「ミンス・パイのほしい人は?」スタントン夫人が大きな盆に、ココアのはいったカップをいくつも載《の》せてはいって来た。
「ジェイムスはもう六つも食べたのよ」メアリーが気どって非難《ひなん》した。「館でね」
「八つだったよ」ジェイムスは両手にひとずつミンス・パイを持っていた。「やーい」
「ふとるぞ」ロビンが言うと
「始めからふとってるのよりましだよ」とジェイムスはパイをほおばったまま言い、あてつけがましくメアリーを見た。姉は丸ぽちゃの体型を最近とみに気にしてゆううつがっていたのだ。メアリーはしょげたが、すぐに口を引き締め、唸り声をあげて、ジェイムスに詰めよった。
「ほっほっほう」床の上のウィルが陰気《いんき》な声を出した。「良い子はクリスマスには、けんかせぬものだぞよ」そしてメアリーがあまりにも手近にいたので、つい足首をひっつかんだ。キャーッと楽しそうに叫んで、メアリーはウィルの上にひっくり返った。
「火に気をつけて」スタントン夫人が長年の習慣で言った。
「うっぷ」ウィルは姉に腹《はら》をこづかれて、手の届かないところへ転がって逃げた。メアリーは動きを止め、好奇心にかられてウィルをながめた。「そのベルト、なんでそんなに沢山バックルがついてるの?」とたずねた。
慌ててベルトの下までセーターを引きおろしたが、遅すぎた。全員が見てしまった。メアリーが手を伸ばし、またセーターをひっぱり上げた。「変なの。何、これ?」
「ただの飾り」ウィルはぶっきらぼうに言った。「学校で、金属工芸の時間にこしらえたんだ」
「作ってるところなんか見なかったぜ」とジェイムス。
「見ようともしなかったからだろ」
ベルトの最初の輪に指を着きつけたメアリーが、悲鳴を上げて後ろへ下がった。「やけどしちゃった!」とわめいた。
「そりゃそうでしょう」母親が言った。「ウィルもベルトも火のすぐそばに寝転んでいたんですもの。そんなふうに転げまわっていると、ふたりともいまに火の上よ。さあさあ、クリスマス・イブの飲み物を飲んで、クリスマス・イブのミンス・パイを食べて――クリスマス・イブの寝床にはいりなさい」
ウィルはホッとして立ち上がった。「ココアをさます間にプレゼントを取ってこようっと」
「あたしも」メアリーがついて来て、階段を上がりながら言った。「そのバックルだかなんだか、きれいね。来学期になったら、ブローチにできるように、ひとつ作ってくれない?」
「かもね」ウィルは内心ニヤッとした。メアリーの好奇心は心配するほどのものではない。いつも同じところへ行き着くのだから。
ふたりはドタドタとそれぞれの寝室に行き、包みをどっさり持っておりて来た。木の下の次第に大きくなる山に加えるためだ。唄い歩きから戻った時から、ウィルはこの魔法の山を見まいと必至《ひつし》だったが、至難《しなん》の技《わざ》だった。ことに、巨大な箱がひとつあって、明らかにWで始まる名前が記されているのを見てはなおさらだった。Wで始まる者がほかにいるわけではなし……。それを強《し》いて無視し、自分の包みの山を、木の横のすきまにきっぱりと置いた。
「見てたわね、ジェイムス!」メアリーの金切り声が背後でした。
「見てないよ」ジェイムスは言ったが、クリスマス・イブなので、「いや、やっぱり見てたな。ごめん」と言い直した。あっけに取られたメアリーはニの句がつげず、無言で包みをおろした。
クリスマス前夜には、ウィルはいつもジェイムスと寝る。ツインの寝台はふたつとも、ウィルがスティーヴンの屋根裏部屋に移る前のままに、ジェイムスの部屋に置かれていた。唯一の違いは、もとのウィルのベッドに、今は視覚芸術を気取ったクッションが山のようにのせられ、それをジェイムスが「ぼくの長椅子」と呼んでいることだった。ウィルもジェイムスも、クリスマス・イブには何か仲間の存在を要求するところがある、と感じていた。空のくつしたをベッドの足もとに吊《つ》るしてから、クリスマスの朝という奇跡《きせき》となって花開くはずの快い忘却に陥《おちい》るまでの夢ではちきれそうな暖かく美しい時間には、ささやき交わす相手が必要となるのだ。
ジェイムスが浴室《よくしつ》で水音をたてている間にウィルはベルトをはずし、三つのしるしに二重に通してバックルで留め、枕《まくら》の下に入れた。今夜ばかりは誰も、何も、自分やこの家を悩《なや》ますことはないと、疑問《ぎもん》の余地なくわかってはいたが、それでもこうするほうが賢明に思われた。たぶんこれが最後となるだろうが、今夜のウィルは普通の少年に戻っていた。
階下から音楽の断片や低い話し声が伝わって来た。重々しく儀式めかして、ウィルとジェイムスはクリスマス用のくつしたをベッドの柱にひっかけた。大切にされてはいるが美しくはない茶色のくつしたは、厚手のやわらかい素材でできていた。想像もつかないほど遠い昔に母親がはいた品だったが、今ではクリスマスの贈り物入れとしての長年の奉公《ほうこう》により形が崩れてしまっている。贈り物が詰められると、頭でっかちになるためぶらさがっていられなくなり、ベッドの端に堂々と横たわった形で発見されるのだった。
「おまえが母さんと父さんに何をもらうか、あててみようか」ジェイムスが小さい声で言った。「きっと――」
「言ったら承知しないから」ウィルがささやくと、兄はクスクス笑って毛布の中にもぐり込んだ。
「おやすみ、ウィル」
「おやすみ。いいクリスマスを」
「いいクリスマスを」
あとは例年と同じだった。心地良くくるまれて、幸せな気分で丸くなり、絶対《ぜつたい》に眠るものかと誓い、今か今かと……
……待っているうちに目がさめた。薄暗い朝の部屋には、カーテンを引いた窓の黒っぽい四角のまわりから、わずかに光が忍《しの》び込んで来た。が、期待に満ちた魔法の一瞬《いつしゆん》というもの、ウィルは何ひとつ見も聞きもしなかった。感覚の全てが、毛布に包まれた足の上と周辺の重荷、眠りに落ちた時にはなかった異様なデコボコや突起《とつき》や形の重荷に集中していたのだ。クリスマスの日が来たのだった。
クリスマス当日
クリスマス・ツリーのそばにひざまずいて、「ウィル」と記された巨大な箱から華やかな包み紙をむしり取ると、まず、ただの箱ではなく、木の荷箱だとわかった。台所のラジオからは、クリスマス聖歌隊が遠く喜ばしげに唄っていた。クリスマスのくつしたのあとの朝食前のひとときには、集まった家族全員が、自分あての「木の贈り物」のうちひとつだけあけることになっていた。残りの色とりどりの包みの山は、そのまま夕食のあとまで、お楽しみとしてじらすように置いておかれる。
末っ子なのでウィルが最初だった。例の箱にまっすぐ向かったわけは、あまりにも大きくて印象的なのと、スティーヴンから届いたのではと疑《うたが》っていたのとが、半々だった。誰かが木の蓋から釘を抜いて、あけやすくしてくれたのがわかった。
「ロビンが釘を抜いて、バーとあたしが包んだのよ」肩《かた》のところでメアリーが夢中になって言った。「でも中は見なかったわ。早く、ウィル、早く」
ウィルは蓋を取った。「枯葉《かれは》がいっぱいだ! それとも葦かな」
「ヤシの葉だ」父親がのぞきこんだ。「詰物にしたんだろうな。指に気をつけろ。縁で切れることもあるんだぞ」
カサカサ音をたてる葉をひとつかみずつひっぱり出すうちに、何か固い物の形が初めて見え出した。細くて妙に湾曲した形で、茶色でなめらかで、枝のようだった。一種の固い張り子細工らしく、鹿のに似ているが、そっくりではない枝角《えだづの》だった。ウィルはハッと手を止めた。角に触れた時、全く予想外の強い感覚に襲われたのだ。家族といる時には一言も味わったことのない気分だった。興奮と安心と喜びのまざった、<古老>のひとりといる時に必ず覚える感覚だった。
角のそばの詰物の中から封筒が突き出ているのを見つけ、あけてみた。紙の上部にきちんと刷《す》り込《こ》まれているのはスティーヴンの船の名だった。
ウィル坊
誕生日おめでとう。クリスマスおめでとう。このふたつを一緒にはしないっていつも誓ったのに、やってしまった。わけを話そう。理解してもらえるかはわからない。ことに贈り物が何かをみたらね。いや、おまえならわかるかな? おまえはもとから、誰とも少し違っていたから。おかしいって意味じゃないよ! ただ違っているんだ。
こういうわけなんだ。謝肉祭《しやにくさい》の頃のある日、ぼくはキングストン市でも一番古い地区にいた。このあたりの島々では、謝肉祭はとても特別な時なんだ――とても楽しくて、遠い昔まで起源がさかのぼれる部分が沢山ある。とにかく、ぼくはある行進に巻き込まれてしまっていた。笑っている人たちや、島の楽器を演奏するにぎやかな楽隊や、とっぴょうしもない仮装をした踊り手たちがいっぱいで、その中でひとりの老人に会ったんだ。
とても印象的な老人で、肌はまっ黒、髪はまっ白だった。どこからともなく現れて、ぼくの腕をつかみ、踊りの列の中からひっぱり出した。生まれてこのかた見たこともない男なのは、絶対に確かだ。だがぼくを見ると、こう言った。「あんたはイギリス海軍のスティーヴン・スタントンだな。渡すものがある。あんた自身にではなく、末の弟、七男坊に渡してほしい。贈り物として、今年の誕生日とクリスマス兼用《けんよう》になるよう送ってやれ。兄であるあんたからの贈りとして。どう使えばいいかは、弟にはいずれわかる。あんたはわからずじまいだろうが」
あんまり意外だったんで、動転してしまって「あんたは誰だ? なぜぼくを知ってるんだ?」と言うばかりだった。老人は、ぼくを通してあさってを見ているようなまっ黒い深い目で、ぼくをもう一度じっと見た。そして「どこにいても見分けがつく。あんたはウィル・スタントンの兄だ。われわれ<古老>には独特の顔つきがある。家族にも多少はそれが出る」と言った。
これで全部だ、ウィル。老人はそれっきり口をきかなかった。最後の文句が支離滅裂《しりめつれつ》なのはわかっている。だが、言われたままを書いたんだ。そのあと老人は再び謝肉祭の行進の中にはいり込み、また出てきた。出てきた時に持っていたのが――いや、着けていたのが――この箱の中にはいっている品だった。
だからこうして送る。言われた通りにね。気違いじみてるし、もっとおまえの気に入りそうなものを、いくらでも思いつける。だが、どうしようもない。あの老人にはどこか特異なところがあって、なぜか言われたとおりにせずにはいられなかった。
このおかしな贈り物が気に入るといいがな、相棒。どっちの日にも、おまえのことを考えるつもりだ。
愛をこめて
スティーヴンより
ウィルはゆっくりと手紙をたたみ、封筒に戻した。「われわれ<古老>には独特の顔つきが――」では輪は世界を一周しているのだ。当然だ。でなければ意味がない。スティーヴンがその中に組み込まれたのは嬉しかった。なぜかしっくり来るように思えた。
「ねえ、早くってば、ウィル!」メアリーは好奇心のとりことなってとびはねていた。部屋着がバタバタはためいた。「あけなさいよ、早く!」
伝統を大切にする家族が、手紙を読んでいた五分間というもの、辛抱強く立って待っていてくれたことにハッと気づいた。木箱の蓋を盆代わりにして、てばやくヤシの葉の詰物をつかみ出し始め、ようやく中の品物を出せるようにした。重さによろめきながらひっぱり出すと、誰もが息を呑んだ。
それは大きな謝肉祭用のかぶりもの。華やかで奇怪《きかい》だった。色彩は鮮やかで稚拙《ちせつ》、目鼻立ちは大胆《だいたん》で容易に見分けがついた。全てが張り子用の紙に似た材料か、木目のない木の一種でなめらかに軽く仕上げられていた。人間の頭ではなかった。こんなものを見るのは初めてだった。枝角が生えている頭部は牡鹿《おじか》の頭の形だったが、角の脇の耳は、犬か狼のそれだった。角の下の顔は人間のものだったが、羽毛に縁取られた丸い、鳥の目を持っていた。がっちりした人間の鼻、きりっとした人間の口はかすかに微笑している。純粋に人間的な部分は、ほかにはほとんど見られなかった。あごにはひげが生えていたが、山羊か鹿のあごと言っても通るような形にされていた。怖いと見ることもできた。みなが息を呑んだ時に、メアリーがたてて慌てて押し殺した声は、小さな悲鳴に近かった。だがウィルには、どういう効果を及ぼすかは見る者次第だという気がした。外見は取るに足りない。醜くも美しくも、恐ろしくもおかしくもない。精神から深い反応を引き出すように作られたものだった。いかにも<古老>に属するものらしかった。
「これはこれは!」と父親は言った。
「変な贈り物」とジェイムスは言った。
メアリーは何も言わなかったが、少し体を引いた。
「誰かさんを思い出させるなあ」ロビンがニヤッとした。
ポールは何も言わなかった。
グウェンも何も言わなかった。
マックスがそっと「あの目を見ろよ!」
バーバラが「何に使うものなの?」
ウィルは異様な大きな頭の上に指を走らせた。捜しているものを見つけるのに二秒とかからなかった。予期していなければ見えないくらいに、角の間、額の上に刻まれていた。十字に四等分された輪の刻印だった。
ウィルは言った。「西インド諸島の謝肉祭用のお面だよ。古くて特別なんだ。スティーヴンがジャマイカで見つけたんだって」
ジェイムスがそばに来て、仮面の中をのぞき込んだ。「針金の枠《わく》で肩に乗せるようになってるよ。口のちょっとだけあいているところが細く切ってる。そこから外を見るんだろうな。さあ、ウィル、かぶってみろよ」
ジェイムスは後ろから仮面を抱え上げて、ウィルの肩に乗せようとした。だが頭のべつの部分からの声なき声に教えられて、ウィルは身を引いた。「今はだめ。ほかの人が贈り物をあける番だよ」
するとメアリーは、今度は自分がクリスマスを祝う番だと気づいた嬉しさに、仮面も自分の反応も忘れてしまった。木のそばの贈り物の山にとびかかり、再び楽しい発見が始まった。
ひとりがひとつずつあけ、ほとんど終わりかけて朝食の時間が近づいた時、玄関のドアを叩く音がした。自分あての包みのひとつを取り上げようとしていたスタントン夫人は、腕を下へおろして、きょとんとして顔を上げた。
「いったい誰かしら?」
みな互いに見つめ合い、答えを期待するかのようにドアを見つめた。こんなことがあってはおかしい。音楽の旋律が途中で切り替わったようなものだ。クリスマス当日のこの時刻に訪ねて来る者などあるはずがない。しきたりにないことだ。
「ひょっとして……」スタントン氏の声にかすかな憶測《おくそく》が芽生《めば》えた。父親はスリッパをきちんとはき直し、立ち上がってドアをあけに行った。
ドアのあく音がした。父親の背中にさえぎられて訪問者の姿は見えなかったが、スタントン氏の声が嬉しさも露わに高くなった。「いやあ、すまなかったねえ……まあ、はいってくれたまえ、さあ、さあ……」居間のほうを振り向いた父親の手には、前にはなかった小さな包みが握られていた。戸口にぬっと現れた背の高い人物が持って来たに違いない。男はあとについて中にはいって来た。スタントン氏はニコニコして顔をほてらせ、家族を紹介《しようかい》するのに忙しかった。「アリスや、こちらはミトーシン君だよ……クリスマスの朝なのに、これを届けにわざわざここまで来てくれたんだ……無理しなくてもよかったのに……ミトーシン、息子のマックスと娘のグウェンだ……ジェイムスにバーバラ……」
ウィルはおとなの社交辞令にぼんやり耳を傾けていた。未知の人の声を聞いて初めて目を上げた。低くてかすかに鼻にかかり、なまりの痕跡《こんせき》をとどめている声には、どこか聞きおぼえがあった。声は注意深く名前を反復した。「始めまして、スタントン夫人……いい日になるといいね、マックス、グウェン……」
その顔の輪郭《りんかく》と長めの赤茶けた髪を見て、ウィルは凍りついた。
<騎手>だった。どこから来たのかわからない父親の友達のミトーシン氏は、<時>の外のどこかから来た<黒騎手>その人だった。
ウィルは一番手近なものをつかんだ。ジャマイカのスティーヴンから姉のバーバラに送られた派手な布地だったが、それをすばやく謝肉祭の仮面の上にひっぱりおろして隠した。振り向くと同時に、<騎手>が顔を上げて部屋の奥をのぞき、ウィルを見た。おおっぴらに勝ち誇り挑んでいる目でウィルを見つめ、唇に薄笑いを浮かべていた。スタントン氏が手をひらひらさせて招いた。「ウィル、ちょっとこっちへおいで――末の息子なんだ、ミ――」
ウィルはとたんに怒り狂った<古老>と化し、激怒《げきど》のあまり何をすべきか考えようともしなかった。怒りに身長が三倍にもなったかのように、体の隅々まで感じとれた。右手の指をぴんと伸ばして家族のほうへ突き出し、みながたちまち動作の途中で凍りつき静止した時間にとらわれるのを見た。誰もが部屋の中にまるでロウ人形のように、硬く動かず立ちつくしていた。
「よくもはいって来たな!」ウィルは<騎手>にわめいた。ふたりは部屋をはさんで向かい合った。室内で生きて動いているのは彼らのみ。人間も動かず、戸棚の時計の針も動かず、暖炉の炎はゆらめきはしたが、燃やしている薪は減らなかった。
「よくも! クリスマスに、クリスマスの朝に! 出てけ!」これほどの怒りを覚えたのは生まれて初めてだった。快いものではなかったが、何よりも大切にしている家族の儀式を<闇>があえて邪魔したと思うと、煮《に》えくり返る思いだった。
<騎手>は静かな声で言った「落ち着くことだな」いにしえの言葉を使うと、なまりが急にはっきりした。冷たい青い目に何の変化も見せず、ウィルに微笑した。「きさまの敷居をまたぎ、きさまの実沢山のヒイラギの下を通れるのも、招かれたからにほかならぬ。きさまの父親が、全くの善意で、中にはいれと招いたのだ。この家の主は父親だから、きさまにはどうすることもできぬ」
「できるとも」ウィルは自信たっぷりな<騎手>の微笑を凝視し、全力を集中してその頭の中をのぞき、意図を読みとろうとした。ところが、砕きようのない敵意の壁に衝突してしまった。ありえないはずだと感じたウィルは動揺した。怒りに任《まか》せて自分の記憶をさぐり、滅びの言葉を捜した。<古老>が<闇>の力を破る最後の――本当に究極の手段だ。だが<黒騎手>は笑った。
「いやはや、ウィル・スタントンよ」と平然と笑った。「それは無理だ。そのての武器はここでは使えぬ。家族全員を<時>の彼方へ吹き飛ばしたくばべつだが」と、かたわらでじっと動かないメアリーをあてつけがましく見た。メアリーは父親に何か言いかけたところを止められ、半ば口をあいたままだった。
「そうはしたくなかろうが」ウィルに目を戻した<騎手>の顔から、吐《は》き捨てたように笑みが消えた。<騎手>はウィルをねめつけた。「愚かな小わっぱめが、いかに仙術の才能があるとはいえ、この私を意のままにできると思うのか? 身のほどを知れ。まだ達人と呼ばれる身にもならぬのに。工夫《くふう》の限りをつくすことはできても、奥儀《おうぎ》はまだまだきさまの手には負えぬ。この私もな」
「おまえはぼくの師たちを恐れている」ウィルはふいに言った。どういうつもりで言ったのかは自分でもわからなかったが、真実であることは知っていた。
<騎手>の青白い顔に血が昇り、低い声で言った。「<闇>が攻めて来るのだ、<古老>よ。今回は何ものにも邪魔はさせぬ。今は決起の時期だ。続く十二カ月のうちに、われらはついにこの地に腰をすえる。きさまの師どもにこう伝えろ。何ものにも止められぬと言え。やつらが手に入れようとしている力の品々は全て、杯も竪琴《たてごと》もしるしも、われらが頂くと伝えておけ。きさまらの輪なぞ、つながらぬうちに砕いてやる。<闇>が攻めてくるのを止める者はおらぬのだ!」
最後の文句はかん高い勝利の叫びとなってほとばしり、ウィルは身震いした。<騎手>は色の薄い目をぎらつかせて見つめていたが、やがて、馬鹿にしたように両手を広げてスタントン一家に向けた。家族はたちまち息を吹き返し、クリスマスのざわめきが戻り、ウィルにはどうすることもできなかった。
「――の箱?」メアリーが言った。
「――トーシン、これがうちのウィルだ」スタントン氏がウィルの肩に手をおいた。
ウィルは冷ややかに言った。「初めまして」
「いい日になるといいな、ウィル」と<騎手>は言った。
「あなたが願ってくださったことだけを、ぼくからもお返しに願いましょう」とウィルは言った。
「たいへん論理的だ」と<騎手>。
「もったいぶってるだけよ」メアリーが頭をそびやかした。「時々、こうなの。父さん、この人の持って来た箱、誰がもらえるの?」
「ミトーシンさんだよ。『この人』じゃない」父親は反射的に言った。
「お母さんにだよ。びっくりさせようと思って」と<騎手>は言った。「出来上がりがゆうべに間に合わなくて、お父さんが持って帰れなかったんだ」
「おじさんから?」
「父さんからだと思うわ」スタントン夫人は夫にほほえみかけ、<騎手>のほうを向いた。「朝食をご一緒にいかがですか? ミトーシンさん」
「だめだよ」ウィルが言った。
「ウィル!」
「急いでるのがわかったんでしょう」と<騎手>は如才なく言った。「いえ、ありがたいおさそいですが、きょうは友人と過ごすことになっていますので、もう行かねばなりません」
メアリーが言った「どこへ行くの?」
「北のほうへ……メアリーの髪はずいぶん長いんだね。とてもきれいだ」
「ありがとう」メアリーは満足そうに長く垂《た》らした髪を肩から払った。<騎手>は手を伸ばしてメアリーの袖《そで》から抜け毛をひとすじつまみ上げた。「取ってあげよう」と礼儀正しく言って。
「いつも見せびらかしてるんですよ」ジェイムスが平然と言ってのけた。メアリーは舌《した》を突き出した。
<騎手>は部屋の奥を再び見た。「みごとな木だなあ、このあたりの産ですか?」
「王さまの木なんですよ」ジェイムスが言った。「大御苑《ぎよえん》から伐《き》り出したんです」
「そばで見てよ!」メアリーが<騎手>の手をつかんで、ひっぱって行った。ウィルは唇を噛み、朝食に何が出るかを必死に考えることによって、仮面に関する思考をわざと空白にした。頭の表面は読まれるかもしれないが、それより奥にうずもれているのは大丈夫だろうと踏んだのだ。
だが危険なことは何もなかった。大きな空の箱と異国風の詰物の山がすぐそばにあるのに、スタントン一家に囲まれた<騎手>は、おとなしく感心して木の飾りをながめるだけだった。ドースンさんの箱にはいっていた小さな木彫りの文字が、ことのほか気に入ったらしかった。「きれいだ」と言いながら、ツタが左巻きにからめついたメアリーのMをいたずらにクルクル回した――その頭文字のぶらさがり方が逆さまなのにウィルは何となく気づいた。
それから<騎手>は両親のほうを向いた。「もう本当においとましなくては。みなさんも朝食になさりたいでしょうし。ウィルが腹ぺこらしいですからね」ウィルと見交わした目には悪意のきらめきがあったが、<闇>の見る力にも限度《げんど》があると思ったのが正しかったことを知った。
「全く、とてつもなく感謝してるよ、ミトーシン」スタントン氏が言った。
「たいしたことじゃありませんよ。ちょうど通り道だったし。みなさん、いい日であるよう祈《いの》ってますよ――」慌しく別れを告げ、大またで小道を下って、<騎手>はいなくなった。ウィルが残念に思ったことに、エンジンをかける音が聞える前に、母親がドアを閉めてしまった。<騎手>が自動車で来たとは考えられなかった。
「さて、アリス」スタントン氏は妻にキスして箱を渡した。「これが君の最初の『木の贈り物』だよ。クリスマスおめでとう!」
「まあ!」箱をあけた母親は言った。「まあロジャー!」
ウィルは興奮している姉たちを押しのけてのぞいた。父の店の名のはいった箱におさまり、白ビロードの上に鎮座《ちんざ》ましましているのは、母親の古風な指輪だった。数週間前にスタントン氏が石のゆるみを調べているのを見かけ、メリマンがウィルの頭から取った光景の中に見た、あの指輪だ。だがそれを囲んでいる物がべつにあった。指輪の拡大版として作られた、そっくりな腕輪だった。黄金の平打《ひらうち》で、中央の列にダイヤモンドが三個、両側にルビーが三個ずつ、そしてまわり一面に、円や線や唐草めいた奇妙な紋様が彫り込まれている。ウィルはじっと見つめ、なぜ<騎手>はこれを手にしたかったのだろうと考えた。この朝の訪問の陰にはそういう下心があったはずだ。家の中にあるものを見るだけなら、<闇>の君のひとりたる者、何も足まで踏み入れる必要はなかったはずだ。
「父さんが作ったの?」マックスが言った。「すごい出来栄《ば》えだ」
「ありがとう」
「持って来てくれた人は誰なの?」グウェンが不思議そうに言った。「一緒にお仕事してるの? とってもおかしな名前ね」
「石の販売人だよ。扱うのはダイヤモンドがほとんどだ。変わっているが、愛想はいい。知り合ってもう、二年くらいかなあ。ミトーシンの会社からはずいぶん石を買わせてもらってる――これもそうだ」スタントン氏は一本指でそっと腕輪をつついた。「きのうは早目に店を出なければならなくてね。あの若いジェフリーが、石のひとつの爪をきつくしかけている最中で――たまたま店に居合わせたミトーシンが、取りに戻らないで済むよう届けてくれると言ったんだ。どのみち、けさここを通ることになってたんでね。とはいえ、わざわざ自分から言い出してくれるとは、いい男だ」
「とてもいい人ね」と妻が言った。「でも、あなたのほうがもっといい人だわ。これ、すばらしいわ」
「おなかがすいたよ」ジェイムスが言った。「いつ食べ始めるの?」
ベーコンと卵、トーストと紅茶、マーマレードと蜂蜜が全てなくなり、最初の贈り物開封《かいふう》の残骸《ざんがい》が片づけられたあとになって初めて、スティーヴンからの手紙がどこにもないことにウィルは気づいた。居間じゅうを探し、全員の持ち物を調べ、木の下にもぐり込み、まだあけられていない贈り物が待機している山のまわりを這いずりまわった。が、なかった。もちろん、包み紙と間違えられて、うっかり捨てられたのかもしれない。せわしないクリスマスの日には時として起こることだった。
だがウィルには、手紙がどうなったかわかるような気がした。そして、はたして<黒騎手>を家へ呼び寄せたものが母親の指輪を調べる機会だったのかどうか、わからなくなった――他のものを捜すためだったのかも知れない。
*
ほどなく、一同はまた雪が降り出したのに気づいた。やさしく、だが無常に、雪は小止《こや》みなく舞いおりて来た。ドアから車道までの小道についたミトーシン氏の足跡は、まもなくすっかりおおわれ、もとからなかったかのようになった。雪が降る前に外へ出たがったラックとサイが、しおしおと戻って来て裏口の戸をひっかいた。
「白いクリスマスも、たまになら歓迎《かんげい》だけど」とマックスがゆううつそうに外をながめた。「こいつは行き過ぎだよ」
「珍しいことだ」父親が肩越しに外を見た。「父さんが生まれてから、クリスマスにこんなふうになることは一度だってなかったぞ。きょうあまり降るようだと、イギリス南部一帯で交通機関が止まってしまう」
「ぼくもそのことを考えたんだ」マックスが言った。「あさってはサザンプトンに行って、デボラの家に泊まる予定なのに」
「ああ、悲しいかな、悲しいかな」ジェイムスが胸をかきむしって言った。
マックスは弟をじろりと見た。
「クリスマスおめでとう、マックス」とジェイムスは言った。
ポールが長靴をはき、オーバーのボタンをかけながらドカドカと居間にはいって来た。「雪だろうが何だろうが、ぼくは鐘《かね》を鳴らしに行くよ。あしこの塔ん中の古鐘ァ、遅れたからって待っちゃァくれんでなァ。異教徒《いきようと》どもの中にこれから教会に行こうって者はいないのかい?」
「ウグイスどもが行くってさ」マックスはウィルとジェイムスを見た。このふたりで教会の聖歌隊の三分の一を構成《こうせい》していた。「それで足りるだろ」
「季節の善行をしてみせてよ」通りかかったグウェンが言った。「兄さんがじゃがいもの皮むきみたいに役に立つことをしてくれれば、母さんも教会に行けるのに、母さんだって、できれば行きたいと思ってるのよ」
しばらくたって深まる雪の中を出かけた着ぶくれ一団は、ポール、ジェイムス、ウィル、スタントン夫人、それにメアリーから成り立っていた。もっとも、メアリーは、ジェイムスの意地は悪いが嘘《うそ》ではない言葉を借りれば、神に奉仕するよりも家事を免れることのほうに関心があるらしかった。ゆっくりと道を上る一行の頬《ほほ》を、激しくなった雪が刺《さ》し始めた。ポールは先に行ってほかの鳴鐘《めいしよう》当番たちに加わった。まもなく、小さな四角い塔に吊り下げられた六つの音のいい古い鐘の音《ね》が周囲の灰色に渦巻く世界に鳴り響き、再び明るいクリスマスの雰囲気にした。その音にウィルは少し気が晴れたが、たいしたことはなかった。新たな雪の重苦しいしつこさが気がかりでならなかった。<闇>によって、べつな何かの先触《さきぶ》れとしてよこされたのでは、という疑惑が忍び寄るのを払いのけることができなかった。羊の毛皮の上着のポケットに深く手を突っ込むと、片手の指先がミヤマガラスの羽を握っていた。誕生日の前の、あのぞっとするような冬至前夜以来、忘れていたものだった。
教会の外の雪道には四、五台の車が駐車《ちゆうしや》されていた。いつもなら、クリスマスの朝にはもっと来るのだが、歩ける範囲《はんい》外に住んでいる村人の大部分が、この渦巻く白いもやをついて出かけないほうを選んだのだった。ウィルは、上着の袖に断固《だんこ》として積もったきり溶けない大きな白い雪片を見つめた。ひどく寒かった。小さな教会の中でもなお、雪片は頑固に残り、溶けるのに長いことかかった。ウィルはジェイムスと、わずかな他の聖歌隊員と一緒に行って、せまい法衣室の廊下で白い法衣をかぶり、やがて鐘の音が溶け合って礼拝の始まりを告げると、信徒《しんと》席の間の通路を通り、小さな四角い本堂の奥のちっぽけな聖歌隊席に上がり込んだ。そこからは列席者全員が見え、聖ヤコブ教会が今年はクリスマスだからといって満員ではなく、半分しか人がはいっていないのが明らかになった。
「エドワード六世王の治世の第二年に、議会の許可のもとに英国教会」が定めた朝礼拝は、牧師の臆面《おくめん》もなく芝居がかったバス・バリトンの声に先導されて、いつものクリスマス通り、雄々《おお》しく進められた。
「おお、なんじ霜よ寒気よ、なんじ主を祝し、主を賛《たた》え、とこしなえに賛美せよ」と言いながらウィルは、この頌詠《しようえい》を選ぶとは牧師のポーモントさんも皮肉めいたユーモア感覚の持ち主だな、と思った。
「おお、なんじ氷よ雪よ、なんじ主を祝し、主を賛え、とこしなえに賛美せよ」
震えているのに気がついたが、頌詠の言葉のせいでも、寒さを覚えたせいでもなかった。めまいがし、一瞬、聖歌隊席の縁につかまった。音楽がちょっとの間、すさまじく耳ざわりな不協和音にかんじられた。それからまた薄れて元通りになったが、ウィルは動揺し、悪寒《おかん》を覚えたままだった。
「おお、なんじ光よ闇よ」ジェイムスが唄いながらまじまじと見ていた――「大丈夫か? すわってろよ――とこしなえに賛美せよ」
が、ウィルはじれったげにかぶりを振り、礼拝の間じゅう、立つのも唄うのも、すわるのもひざまずくのもちゃんとやって、少し気が遠くなっただけのことだと自分で納得《なつとく》してしまった。めまいはおそらくおとなたちが「のぼせすぎ」と呼ぶもののせいだろう、と。ところがまたまた妙な違和《いわ》感、不調和感が襲ってきた。
それもその一度だけ、礼拝がまさに終わろうとしている時だった。ポーモント師が聖クリソストムの祈りを朗々《ろうろう》と唱《とな》えていた。「……御名《みな》のもとに集《つど》える者ふたり、もしくは三たりあれば、その者らの願いを聞き届け給わんとの、御誓《みちか》い固ければ……」いきなり騒音がウィルの脳裏にとびこんで来た。なじみ深い音律の代わりにかん高い叫び、恐ろしい咆哮があった。耳にするのは初めてではなかった。いつともわからぬ世紀のハンタークーム館の大広間にメリマンと老婦人といた時に、外で聞えた、<闇>の包囲陣の声だ。だって教会の中なのに、と英国教会の少年聖歌隊員としてのウィルには信じられなかった。教会の中で感じるなんて、ありっこないよね? いや、と<古老>としてのウィルが悲しげに答えた。どんな宗教のどんな聖堂も彼らに攻められると弱いものなんだ。こういう場所こそ、人間が光と闇にかかわる事柄に思いをはせる場所なのだから。ウィルは騒音に殴打《おうだ》されながら肩の間に頭をうずめた――すると再び音は消え、前と同じように、牧師の声だけが響き渡っていた。
すばやくまわりを見ましたが、他の者は何も気づいていないのは明白だった。白い法衣のひだの陰で、ウィルはベルトの三つのしるしをつかんだ。が、指の下にあるものは暖かくも冷たくもなかった。しるしの、警告を発する力から見ると、教会は一種の中立地帯なのだと思われた。壁の内側まで実害がはいり込まないから、警告も不要になるのだ。とはいえ、害がすぐ外に待ち構えているのだとすると……。
礼拝は終わり、誰もがクリスマスの喜びをこめて、「神の御子《みこ》は、今宵《こよい》しも」を熱唱していた。聖歌隊は席からおりて祭壇《さいだん》に歩み寄った。ポーモント師の祝祷《しゆくとう》が会衆《かいしゆう》の頭上に響き渡った。「……神の愛、そして聖霊《せいれい》の交わり……」だが、その言葉もウィルに安らぎをもたらしてはくれなかった。何かが狂っている。何かが<闇>の中から浮かび上がり、外で待っているとわかっていたのだ。その時が来たら、何の支えもなしにひとりで対決しなければならない。
誰もがニコニコしながら列を作って教会を出て行くのを見守った。みな互いにほほえみ合い、会釈し、傘をしっかり握り、逆巻く雪に対して衿を立てた。引退した会社社長の陽気なハットン氏が車の鍵を握り回しながら、ウィルたちの昔の教師である小さなベル先生を、車で送るという暖かい申し出で包み込むのを見た。その後ろでは、満艦飾《まんかんしよく》のガレオン船のように毛皮にくるまった陽気なハットン夫人が、足の悪い郵便局長のベティグルー夫人に同じことを申し出ていた。何人かの村の子が、一番いい帽子をかぶってきた母親たちからのがれ、雪合戦とクリスマスの七面鳥料理めざしてドアからとび出して行った。気の毒なホーニマンおばさんはスタントン夫人やメアリーと肩を並べて出て来て、災いを予言するのに忙しかった。メアリーがおかしさをこらえながら、歩みを送らせてドースンのおかみさんと、そのお嫁に行った娘さんと一緒になるのが見えた。五歳になるドースン家の孫息子は真新しいぴかぴかのカウボーイ・ブーツをはいて、楽しそうに歩き回っている。
聖歌隊もコートを着、マフラーを巻いて、「クリスマスおめでとう!」「牧師さん、また日曜に!」の声と共に帰り始めた。ポーモント師は、今日はこの教会で朝礼拝だけ執《と》り行ない、他の礼拝は他の教区へ行って行なうのだ。ポールと音楽の話をしていた牧師はほほえんで、適当に手を振った。ウィルが兄を待っている間に教会は空になり出した。大嵐の前に空中に重く垂れこめる静電気のせいでなるように、首すじがぞわぞわっとなった。いたるところにこの感じがあった。教会内の空気に電流が流れているかのようだった。牧師は相変わらずしゃべりながら、よく見もせずに手を伸ばし、教会の明かりを消した。会堂内は寒々しい灰色の薄闇で満たされ、白い雪明りがはいって来るドアのあたりだけが、いくらか明るかった。暗がりから人影がドアへ向かうのを見て、教会がまだ空ではなかったのを知った。十二世紀ものの小さな洗礼盤《せんれいばん》のそばにいるのは、ドースンさん、ジョージ爺さん、ジョージ爺さんの息子で鍛冶屋のジョン、そしてジョンの無口なかみさんだった。輪の<古老>たちが待っていて、外をうろついているものに対して支えてくれようというのだ。暖かい安堵《あんど》の大波に洗われて、ウィルは一瞬力が抜けた。
「帰り支度はいいかね、ウィル?」牧師がオーバーを着ながら愛想よくたずね、そのままポールとの話を続けた。「それは私も、あの合奏《がつそう》協奏曲が彼の最高傑作のひとつだという点では賛成だよ。とはいえ、バッハの無伴奏組曲も吹き込んでくれたらいいのに、と思うんだ。エジンバラの教会で演《や》るのを聞いたことがある。祭りでね――すばらしかった――」
もっと目の鋭いポールはたずねた。「どうかしたのか、ウィル?」
「ううん」ウィルは答えた。「あのね――ううん」ウィルは、自分がドアに近づく前にこのふたりを教会の外へ出す方法はないものかと必死に考えた。何が――何が起きるとしてもその前に。教会のドアのそばで<古老>たちが次第に体を寄せ合い、支え合うのが見えた。今や周囲に一段と強まった力がひしめき、空中に密集しているのが感じられた。外には闇の中核をなす破壊と混沌《こんとん》があるのに、それをはぐらかす方法は何ひとつ思い浮かばなかった。牧師とポールが振り向いて本堂を通りぬけようとしたが、ふたりとも同時に立ち止まり、危険を察した野生の鹿のように、頭をハッと上げるのが見えた。遅すぎた。<闇>の声は人間にさえ威力《いりよく》が感じとれるほどすさまじくなっていた。
ポールは胸を突かれたようによろめき、座席のひとつにつかまらねばならなかった。「今のはなんだ?」とかすれ声で言った。「牧師さん? あれ、なんでしょう?」
ポーモント師はまっさおだった。教会は再び冷えきっているのに、額には汗が光っていた。「この世のものではないようだ。神よお許しを」と言うと、海の波をかきわけて進む人のように、ニ、三歩よろよろと入り口に近づき、少し前のめりになってさっと十字を切った。つっかえつっかえ言った「われら卑《いや》しきしもべらを、敵のもろもろの業《わざ》より護りたまえ。主のご加護を堅く信じて、いかなる仇《あだ》の力をも恐れず……」
ドースンさんが、入り口のそばの一団の中から、静かにだがはっきりと言った。「無駄です、牧師さん」
牧師には聞えないようだった。目を見開いて外の雪を見つめ、直立不動で熱病にかかったように震えていた。汗が頬を伝って流れた。やっとのことで片腕を少しもたげ、後ろ手にゆびさした。「……法衣室……」とあえいだ。「……本が、テーブルに……悪魔ばらいを……」
「勇敢《ゆうかん》な人だ、かわいそうに」ジョン・スミスがいにしえの言葉で言った。「この人の戦うべき戦ではないのに。自分の教会だからそう思うのも無理はないが」
「気をお楽に、牧師さま」ジョンのおかみさんが英語で言った。やわらかい、やさしい声で、いかにも田舎の人間らしかった。牧師は怯えたけもののようにおかみさんを見たが、もはや話す力も動く力も奪われていた。
ドースンさんが言った。「おいで、ウィル」<闇>を押しのけながらウィルはゆっくり進み出、すれ違いざまにポールの肩に触れ、牧師のと同じくらいなすすべなくひきつった顔の、当惑《とうわく》した目をのぞきこんで、そっと言った。
「心配しないで。すぐ大丈夫になるよ」
一団に加わると、<古老>のひとりひとりがそっとウィルに触れた。自分たちとつなぐかのように、ドースンさんが肩をつかんだ。「あのふたりをなんとか護らなくてはならんよ、ウィル。さもないと精神をねじ曲げられてしまう。こんな圧力には耐えられず、<闇>に狂わせられてしまうだろう。坊にはその力があるが、わしらにはない」
他の<古老>にできないことができると知らされたのはこれが初めてだったが、不思議がっている暇はなかった。仙術の才能を使って、ウィルは兄と牧師の精神を、いかなる力にも破られることのない壁の中に封じ込めた。危険な手段だった。壁を取り除けるのはウィルひとりなのだから。もしウィルに何かあれば、護られているふたりも、一切の意思伝達の道を断たれ、永久に植物人間と化すのだ。だが、ほかに策がない以上、危険を冒すよりなかった。ふたりの目は、静かに眠りについたかのようにそろそろと閉じ、体は微動だにせず立ちつくしていた。一瞬の後に再びあいた目は、穏やかで虚ろで、何も見てはいなかった。
「よし」ドースンさんが言った。「さあ」
<古老>たちは隣同士で腕を組んで、教会の戸口に立った。互いに口をきく者はなかった。外では荒々しい音とどよめきが起こり、光が暗くなり、風が吠え、泣き叫び、雪が吹き込んで来て白い氷のかけらで<古老>たちの顔を鞭打った。突然、雪の中にミヤマガラスが現れた。何百羽も、黒くはばたく悪意となって鳴き、わめき、かん高い叫びとともに玄関口に突っ込んでくるかと思うと、またさっと舞い上がった。ひっかき引き裂けるほどそばへは寄らず、まるで見えない壁が、目標まであと数インチのところではじき返しているかのようだった。だがそれも<古老>たちの体力が続く間のことだ。黒と白の荒れ狂う嵐となって<闇>は攻め寄せ、<古老>たちの体ばかりか精神にも体当たりして来た。<しるしを捜す者>であるウィルが一番に狙われた。ひとりだったら、どれほど防御の力を備えていても、精神が崩壊《ほうかい》してしまったであろうことがわかった。いま持ちこたえさせているのは<古老>の輪の力だった。
だが、これで二度目だったが、輪にも<闇>の力をさえぎるのがやっとのありさまだった。団結していてさえ、押し返すことはできなかった。しかも今度は、より大きい助力をもたらしてくれる老婦人はいなのだ。ウィルは再び、<古老>であるということは年齢不相応に老いてしまうことなのだと悟り、やりきれない思いだった。いま覚え出した恐怖は、屋根裏部屋で知ったやみくもな恐怖よりも、大広間で<闇>が注ぎ込んだ不安よりも、はるかにひどかったのだ。今度の恐怖はおとなのそれで、経験と想像力と他人への配慮《はいりよ》から成り、どの恐怖よりも大きかった。そう悟ると同時に、自分、ウィルだけが、自身の恐怖を克服し、輪を強め、<闇>を追い払う手段なのだとわかった。おまえは何者だ? とウィルは自問した――そして答えた。おまえは<しるしを捜す者>だ。しるしのうち三つを持っている力の品々の輪の半分だ。使え。
牧師の時と同じように、ウィルの額に汗が噴き出した――牧師とポールは今は穏やかに微笑していて、何もかも忘れて、起きていること全ての外にいたが、他の者の顔に疲労が見えた。特にドースンさんの顔に。ウィルはゆっくりと自分の手を内側に寄せ、それぞれが握っている手――ジョン・スミスの左手とドースンさんの右手を近づけた。十分近づくと、隣のふたりの手を結び合わせ、輪の外に出た。一瞬パニックし、結び目をきつくするように、もう一度ふたりの手をつかんだ。それから放して、ひとりで立った。
今や輪にかばわれてはいるが護られてはいないウィルは、教会の外で荒れ狂う悪意の激しさにふらついた。だが徐々《じよじよ》に手を動かして、貴重な三つの荷を負ったベルトをはずし、腕に巻きつけた。ポケットからミヤマガラスの羽根を取り出し、まんなかのしるし、青銅のしるしにくぐらせた。それから両手でベルトをつかみ、前に捧げ持ってゆっくりと向きを変え、ひとりで教会の玄関口に立ち、からすの鳴き声に満ちて吠えたける氷のような<闇>と向かい合った。これほど孤独だったことはなかった。何もせず、何も考えなかった。その場に立ち、しるしが働くに任せた。
ふっと沈黙が訪れた。
はばたく鳥はいなくなった。吠えたける嵐もなかった。空気と精神を満たしていたおぞましい狂ったような騒音は全く消えうせていた。緊張が失せ、ウィルの体じゅうの神経と筋肉がぐったりとなった。外ではまだ雪が降っていたが、雪片は小さくなっていた。<古老>たちは顔を見合わせて笑った。
「完全な輪なら本格的にやっつけられるんじゃが」ジョージ爺さんが行った。「半分でも結構やれるもんじゃなあ、ウィル坊よ?」
ウィルは手にしたしるしを見おろし、信じられない思いで頭を振った。
ドースンさんが静かに言った。「杯が消えて以来、偉大なかたたちのひとりの精神以外のもんが<闇>を追っ払うのを見たのは初めてだ。物が追っ払ったんだぞ。わしらも賢明に念じたが、やったのは、しるし自体だ。力の品々がわしらの手に戻ったんだ。長かったなあ」
ウィルはまだしるしを見ていた。何かの目的があって見させられているように、凝視していた。「待って」と心を奪われたまま言った。「動かないで。ちょっとじっとして」
みなギョッとして立ち止まった。鍛冶屋《かじや》が「何かまずいことが?」
「しるしを見て」ウィルは言った。「何かが起きてる。ほら――光ってる」
三つのしるしのついたベルトを前のように持ったままゆっくり踵《きびす》を返して、戸口からの灰色の光を体でさえぎり、手を教会の暗がりの中に入れた。しるしはどんどん輝きを増した。ひとつひとつが奇妙な内にこもるような光でぼうっと明るくなっていた。
<古老>たちは目を丸くした。
「<闇>を追い払った力のせいかねえ」ジョン・スミスのおかみさんが抑揚《よくよう》に富んだやわらかい声で言った。「中で眠っていた何かが、目ざめだしたのかしら?」
ウィルはしるしの告げるところを感じ取ろうと空しく努力していた。「何かの言葉なんだ。何かを意味してるんだと思う。けど、通じない――」
光は三つのしるしから流れ出し、暗い教会のこちら半分をまばゆさで満たした。陽光のような、暖かく強い光だった。ウィルはおずおずと手前の輪、鉄のしるしに指で触れた。熱くも冷たくもなかった。
だしぬけにドースンさんが言った。「あれを見ろ!」
突き出した腕は本堂の奥、祭壇を指していた。振り向くや否や、みなにも見えた。かたわらのしるしから光が発せられているように、壁からもべつな光が発せられていた。壁の光は巨大な松明《たいまつ》の光線のように輝き出ていた。
そしてウィルは理解して、嬉しそうに言った。「そうだったのか」
ふたつめの光のしみに向かって、ベルトとしるしを持ったまま歩き出した。座席や屋根のはりの影がウィルと共に動いた。ふたつの光は近づき合うに連れて、ますます明るく輝いた。ヌッと背が高くがっしりしたフランク・ドースンを後ろに従えて、ウィルは壁から伸びている光のすじの中央に立ち止まった。まるで、想像もつかない明るさの部屋が壁の向こうにあって、そこから細い窓を通して光が洩《も》れているかのようだった。光は何かとても小さいものから出ていた。横向きになったその長さは、ウィルの指と同じくらいだった。
ウィルは確信を持ってドースンさんに言った。「急いで取らないとだめなんだ。光を出しているうちにね。光ってなければ、見つけられっこないんだから」そして鉄のしるしと青銅のしるしと木のしるしのついたベルトをフランク・ドースンの手に押し込むと、光の楔《くさび》を打ち込まれた壁に歩み寄って、魔法の光線の源《みなもと》に手を差し入れた。
輝くものは簡単に取れた。そのあたりの壁は化粧しっくいが割れて、下のチルターン産の火打石がむき出しになっているのだった。てのひらに横たわったそれは、十字に四等分された輪だった。石工の手でその形に刻まれたのではなかった。光を通してさえ見てとれた側面のなめらかな丸みが、千五百万年前にチルターンの白亜層《はくあそう》の中にできた天然の火打石だと教えてくれた。
「石のしるしだ」ドースンさんの声はやさしく、恭しげで、黒い目の表情は読みとり難《がた》かった。「第四のしるしが手にはいったぞ、ウィル」
ふたりは輝く力の品を持って他の者のところへ戻った。三人の<古老>はじっと見守っていた。ポールと牧師は今は静かに座席にすわり、眠っているかのようだった。ウィルは仲間とともに立ち、ベルトを取り、石のしるしを通して他の三つと並ぶようにした。まぶしさに目がくらみそうで、半ば閉じたまぶたの間からすき見せねばならなかった。第四のしるしが残りと並んで位置につくと、光は全て消えてしまった。前と同じように暗く静かになり、石のしるしが、瑕《きず》ひとつない火打石の灰白色の表面を持った、なめらかな美しいものなのがわかった。
しるしから光が消えると、ポールと牧師が身じろぎした。目をあけ――彼らの感覚では――一瞬前まで立っていたのに、今は座席に腰をおろしているのを知ってギョッとしていた。ポールは本能的にパッと立ち上がり、頭をめぐらせてあたりの気配をうかがった。「消えてる!」ウィルを見ると、当惑《とうわく》と驚異と畏敬《いけい》のまざりあった奇妙な表情を浮かべた。目がウィルの手のベルトに行った。「どうなったんだ?」
牧師も立ち上がった。しわのないふっくらした顔が、不可解なことを理解しようと努めるあまりに歪んでいる「確かに消えてしまった」牧師はゆっくりと教会を見渡した。「なんの――力だったのかは知らんが。主は誉《ほ》むべきかな」やはりウィルのベルトのしるしを見ると、牧師は目を上げ、破顔《はがん》した。安堵と喜びのこもった、子供のような笑顔だった。「それがきいたんだね? 十字架が。教会の十字架ではないが、キリスト教の十字架には違いない」
「その十字形はえらく古いもんなんでさ、牧師さん」意外にもジョージ爺さんが、断固たる口調ではっきりと言った。「キリスト教よかずっと昔の時代にこさえられた。キリストよかずっと前にね」
牧師はジョージにほほえみかけた。「しかし神より前ではないよ」と簡潔《かんけつ》に言った。
<古老>たちは牧師を見た。気を悪くさせずに済む答えはなかったので、誰も何も言わなかった。少ししてウィルが口をきくまでは。
「前もあとも、本当はないんですよね」ウィルは言った。「大切なものはみんな<時>の外にあるんですから。やって来るのもそこからだし、そこに出かけていくこともできる」
ポーモント師はびっくりしてウィルのほうを向いた。「無限性のことを言ってるんだね、ウィル」
「それとも違うんです」ウィルである<古老>が言った。「ぼくたち全てにある、そしてぼくたちが考えたり信じたりすること全てにある、昨日とも今日とも明日とも無関係な部分のことを言ってるんです。それはべつな次元にあるんですよ。その次元には昨日もまだあります。明日もね。どちらを訪ねるのも自由です。それにあらゆる神々と、神々が象徴してきたもの全ても、そこに存在するんです。それから」と悲しげに付け加えた。「その反対のものも」
「ウィル」牧師はまじまじと見つめた。「君に悪魔ばらいを施《ほどこ》すべきなのか、聖職者《せいしよくしや》に任ずるべきなのか、わからなくなってきた。そのうちにじっくり話し合わねば」
「はい、そうですね」ウィルは穏やかに言うと、貴重な荷を負ってずっしりと重いベルトを締めた。締めながらすばやく、懸命に考えた。頭に浮かんで離れないのは、ポーモント師の混乱した神学的仮説ではなく、ポールの顔だった。兄は遠い人でも見るような、一種の恐れをたたえたまなざしでウィルを見ていた。くいこむ鞭の痛みにも似て、耐え難かった。ふたつの世界をぴったりくっつかせるわけにはいかない。ウィルは頭を上げ、力を全部かき集めると、両手の指をピンと拡げ、ポールと牧師のそれぞれに片手ずつ突き出した。
「忘れるんだ」といにしえの言葉でそっと言った。「忘れろ。忘れろ」
「――祭りでね。すばらしかった。」牧師は手を伸ばして、ポールのオーバーの一番上のボタンを留めてやった。「五つめの組曲のサラバンドには、文字通り涙ぐんでしまったよ。あの人は世界一のチェロ奏者だよ。疑問の余地はないね」
「ええ、その通りですよ」ポールはコートの中で肩を丸めた。「母さんは先に行ったのかい、ウィル? やあ、ドースンさん、こんにちは。クリスマスおめでとう!」と他の者たちにほほえみかけ、会釈した。みな教会の玄関口と舞い込んで来るまばらな雪のほうを向いたところだった。
「クリスマスおめでとう、ポール。ポーモント先生も」ドースンさんは重々しく言った。「いい礼拝でしたよ、先生、とてもよかった」
「ああ、クリスマスでみんな熱がこもってたからね、フランク」牧師は言った。「すばらしい祝節だ。これだけの雪も、私たちのクリスマス礼拝を妨《さまた》げることはできなかったんだからね」
笑いさざめきながら、一同は白い世界に出て行った。雪は見えなくなった墓石《はかいし》の上にこんもりかぶさり、白い野原がずっと、凍りかけているテムズ河まで続いていた。音ひとつ、騒音ひとつなく、たまに遠くのバース街道を通る車のつぶやきが聞えるだけだった。牧師は自分のオートバイを捜しに横へそれた。残りの者たちはにぎやかに散らばり、それぞれ家路についた。
ウィルとポールが墓地の屋根付き門にさしかかると、止まっていた庭の黒いミヤマガラスが、中がはねるようにして、ゆっくりと飛び立った。白い雪を背景に、場違いな黒い姿だった。一羽がウィルの足もとをかすめ、何かを落とし、弁解がましくカァーと鳴いて通りすぎた。拾ってみると、カラスが森のつややかなトチの実で、きのう熟《じゆく》したばかりのように新鮮だった。ウィルとジェイムスは秋口にはいつも、学校で「トチの実ぶつけ」競争をするために森へ集めに行ったが、これほど大きくて丸いのは初めて見た。
「へええ」ポールは面白がった。「友達ができたね。クリスマスの贈り物がひとつふえたじゃないか」
「仲直りのしるしかな」フランク・ドースンが後ろから言った。深いバッキンガムシャーなまりの声は全く無表情だった。「違うかもしれんな。クリスマスおめでとう、ふたりとも。ごちそうを楽しめよ」その言葉を最後に、<古老>たちはみんな道を遠ざかって行ってしまった。
ウィルはトチの実をしまった。「嘘みたいだ」
教会の門を閉めると、平たい鉄の柵から雪がパッと落ちた。角の向こうからオートバイの咳《せき》込んだような音が聞えた。牧師がエンジンをふかして生き返らせようとしているのだった。そこへ、ニ、三フィート先の踏み荒らされた雪の上へ、さっきのミヤマガラスがまた舞いおりて来た。迷っているように行ったり来たりし、ウィルを見た。
「カーア」ミヤマガラスにしてはやさしく鳴いた。「カーア、カーア、カーア」それからニ、三歩進んで墓地の柵に寄り、墓地にまたとびおりて、前と同じように数歩後退した。これほど明らかな招きもなかった。
「カーア」とカラスは再び、声を高くして鳴いた。
<古老>の耳は、鳥の物言いが言葉を使うような正確なものではないことを知っている。鳥は感情を伝えるのだ。感情にもいろいろ種類と程度があり、鳥の言葉の中にもさまざまな表現がある。だが、何かを見に来てくれと言っているのは容易に知れたが、はたして闇の手先として使われているのか、そこまではウィルにもわからなかった。
ウィルはためらい、ミヤマガラスたちがしたことを思い返した。それから手の中のつややかな茶色いトチの実をいじった。「わかったよ、鳥」ウィルは言った。「ちょっとだけなら見てやるよ」
再び門をくぐると、ミヤマガラスは古い押し開きドアが軋《きし》むような声を上げながら、先に立ってぎこちなく歩き、教会の小道を行き、角を曲がった。ポールはニヤニヤしながら見ていた。と、角に到り着いたウィルが体を硬《こわ》ばらせ、一瞬見えなくなり、また現れるのが見えた。
「ポール! 早く来て! 雪の中に人がいる!」
ポールは、ちょうどエンジンをかけるためにオートバイを道に押し出しかけた牧師を呼び、一緒に駆けつけた。ウィルは、教会の壁と塔にはさまれた隅に丸くなって倒れている人物の上に屈《かが》み込んでいた。男はピクリとも動かず、衣服には既に冷たい羽毛のような雪が積もって、半インチほどの厚さでおおっていた。ポーモント師はやさしくウィルを押しのけ、ひざまずいて男の顔をあおむかせ、脈をさぐった。
「生きている。ありがたや。だが冷えきっているな。脈もあまり強くないし。長いことこうしていたに違いない。たいがいの人間なら凍死《とうし》していたところだよ――この雪をごらん! 中へ運び込もう」
「教会の中ですか?」
「もちろんだよ」
「うちへ運びましょう」ポールがとっさに言った。「角を曲がってすぐですし。暖かいし、ずっとましですよ。少なくとも救急車か何かに来てもらえるまで」
「すばらしい考えだ」ポーモント師は熱をこめて言った。「君たちのお母さんは、よきサマリヤ人《びと》だしね。アームストロング医師《せんせい》を呼べるまでだけでも……この哀れな人をここに置いとくわけにはいかんのだからね。骨折ではなさそうだ。心臓がどうかしたんだろう」牧師はオートバイ運転用の厚い手袋を男の頭の下に突っ込んで、雪から浮かせた。初めて男の顔が見えた。
ウィルはギョッとした。「<旅人>だ!」
ふたりが振り向いた。「誰だって?」
「このへんをうろついている浮浪者だよ……ポール、連れて帰るなんてだめだよ。アームストロング医師《せんせい》の診療所に連れてけない?」
「この中を?」ポールは暗くなりつつある空を示した。雪がまた激しくまわりに渦巻き出し、風が強くなっていた。
「でも、一緒には連れてけないよ! よりによって<旅人>を! またやつらを呼び戻――」ウィルは半ばわめきかけて、ふいに言い淀《よど》んだ。「ああ」と困ってしまって言った。「そうだった。おぼえてるわけがないよね」
「心配は要《い》らんよ、ウィル。お母さんは気にはなさらないよ――哀れな人が窮地に陥っている《イン・エクストレミス》んだから――」ポーモント師はいそいそと動き回った。ポールとふたりで、白いものでおおわれた古着の山のような<旅人>を門まで運んだ。ようやくオートバイを始動させ、生気のない体をなんとかよりかからせると、半ば乗り、半ば押しながら、奇妙な一団はスタントン家に向かった。
ウィルは一、二度振り返ったが、ミヤマガラスの姿はどこにもなかった。
*
「やれやれ」食事室におりて来たマックスが潔癖《けつぺき》そうに言った。「本当に汚らしい爺さんに会ったのは初めてだ」
「あの人、臭かったわよ」バーバラが言った。
「ぼくが知らないとでも思うのか? 父さんとふたりで風呂にいれたんだぜ。全く、見せてやりたかったよ。いや、見なくて良かったかな。クリスマスのごちそうがはいらなくなっただろうから。とにかく今はもう、生まれたての赤ちゃんみたいに清潔だ。父さん髪とひげまで洗ってやったんだ。それに母さんが、貴重品がはいってないのを確かめたら着てるものは燃やしてしまうって」
「貴重品なんかありそうもないわね」グウェンが台所から出て来た。「ほら、腕をどけて。このお皿、熱いのよ」
「楽器を鍵のかかる場所にしまったほうがいいな」ジェイムスが言った。
「楽器って何のことよ?」メアリーがけんもほろろに言った。
「じゃ、お母さんの宝石だ。それとクリスマスの贈り物もね。浮浪者って決まって人の物を盗るんだから」
「あの浮浪者は当分は盗みなぞ働かんよ」スタントン氏がぶどう酒の壜と栓《せん》抜きを手に、テーブルの端のいつもの席についた。「病気だからね。それに今はぐっすり眠ってる。ラクダみたいな大いびきで」
「ラクダのいびきなんて、聞いたことあるの?」メアリーが言った。
「あるよ。乗ったこともね。残念でした。マックス、お医者はいつ来てくれるって? ごちそうの最中に邪魔をするのは気がひけたんだが」
「ごちそうの最中じゃなかったよ」マックスが言った。「お産があるんで留守で、いつ帰るかわからないって。双子が生まれる予定なんだってさ」
「なんてことだ」
「眠ってるなら、きっと大丈夫だよ。休養が必要だっただけだろ。もっとも、熱にうかされてるんじゃないかとも思ったけどね。変なことばかり言って」
グウェンとバーバラが野菜の皿をさらに運んで来た。台所では母親が、天火に期待の持てそうな音をカタカタさせていた。「変なことって?」とウィルはたずねた。
「わからないんだ」ロビンが言った。「最初に二階に連れてった時だけどね。まだ人間が耳にしたことのない言語みたいだった。火星から来たのかもしれないな」
「そうなら良かったのに」ウィルは言った。「それなら送り返せるのに」
だがその時、ドッと歓声《かんせい》が上がった。母親が
、つやつやしいきつね色の七面鳥の上に笑顔をのぞかせて登場したのだ。ウィルの言葉を聞いたものはいなかった。
*
洗い物を片づけながら台所のラジオのスイッチを入れた。
「イングランド南部と西部にまた激しい雪が降り出しました」よそよそしい声が言った。「北海において十二時間にわたり吹き荒れているブリザードのため、南東部沿岸の船舶《せんぱく》は相変わらず航行不能の状態にあります。ロンドン市内の波止場は、大雪と零度《れいど》近い低温によって引き起こされた停電と交通事情の悪化のため、けさ閉鎖《へいさ》されました。遠隔地《えんかくち》では、雪に道をふさがれて孤立した村も多く、英国鉄道は無数の停電発生および雪による小脱線事故の発生と戦っている現状です。鉄道側は、緊急《きんきゆう》の場合を除いては、なるべく利用を控えてもらいたいとの声明を、けさ発表しました」
紙の触《ふ》れ合う音がした。声が続けた。「ここ数日間イングランド南部に猛威《もうい》をふるっている異常な吹雪は、クリスマス休暇が終わるまで弱まらない、との予報を気象庁がけさ発表しました。東南部では燃料不足が深刻化し、一般世帯に対して、午前九時から正午まで、午後3時から午後六時までの両時間帯には、いかなる電気暖房装置も用いないよう要請《ようせい》が出されました」
「かわいそうなマックス」グウェンが言った。「電車がないなんて、ヒッチハイクで行けるかしら」
「聞いてろよ!」
「本日、自動車協会から道路交通は現在のところ主要高速道路を除いては危険な状態である、との発表がありました。また、現在路上にあって吹雪のため動けずにいる方は、雪が止むまで車を離れないようにとのことです。現在地がはっきりしており、十分以内に人のいる場所にたどり着けることが確かな場合以外は、決して車を離れてはならない、と協会代表はこのように勧告《かんこく》しました」
驚きの声や口笛の中を、ラジオの声は続いた。が、ウィルは顔をそむけた。これ以上聞きたくはなかった。<古老>といえども、しるしの輪が完全になるまではこの吹雪を止められない。そして吹雪をよこすことによって、<闇>はウィルに輪を完成させまいとしているのだ。ウィルは動けない。<闇>はウィルの任務ばかりか、普通の人々にまで魔手を伸ばしている。その朝、<騎手>に快いクリスマスを侵されて以来、危険が増すのは目に見えていた。が、この広範囲に及ぶ脅威のほうは、予想だにしていなかった。ここ数日間、自分の身の危険にとらわれすぎていて、外の世界のそれに気づかずにいたのだ。だが、雪と寒気におびやかされている人の数は今やあまりにも多い。幼い者、老いた者、弱い者、病人……<旅人>も今夜はお医者に見てもらえないな、とウィルは思った。それは確実だ。死にかけてなくて幸いだった……。
<旅人>。なぜここにいるのだろう。何か意味があるはずだ。勝手にうろうろしていて、<闇>が教会を攻めた時に吹き飛ばされたのかもしれない。だがそれなら、なぜ<闇>の手先であるミヤマガラスが、ウィルを呼んで凍死から救わせたのだ? だいたい<旅人>は何者だ? なぜ仙術は、あの老人について何も教えてくれないのだろう?
ラジオはまたクリスマス・カロルを流していた。世界よ、クリスマスおめでとう、とウィルは苦々しく考えた。
通りかかった父親が、ピシャリと背中を叩いた。「元気を出しなさい、ウィル。今夜じゅうにはやむよ。あしたはトボガンぞりですべれるぞ。おいで、残りの贈り物をあける時間だよ。これ以上メアリーを待たせたら、爆発してしまうからな」
ウィルは陽気な騒々しい家族に加わった。暖炉の火と輝くモミの木のある、心地良い明るい洞窟《どうくつ》のような細長い部屋に戻ると、しばらくの間はいつも通りの、瑕ひとつないクリスマスに思えた。それに母と父とマックスが共同で、競争用のハンドルと十一段変速ギアのついた新しい自転車をくれたのだ。
*
その晩起きたことが夢だったのかどうか、ウィルはあとになっても断言《だんげん》できなかった。
夜が一番暗くなる、日が変わった直後の冷《ひ》え冷《び》えとした時刻に、ウィルは目をさました。メリマンがいた。ベッドの脇に、自分の体から射《さ》しているような光の中にそびえ立ち、顔は陰になって表情が読み取れなかった。
「起きたまえ、ウィル。起きるのだ。儀式に出席せねばならぬ」
あっという間にウィルは立ち上がっていた。ちゃんと服を着ていて、しるしのベルトも締めていた。メリマンと一緒に窓に歩み寄ると、窓が半ばまで埋まっているのに、なお静かに雪は降り続けていた。ふいにウィルはみじめな気分になった。「なんとかやませることはできないの? 国の半分を凍えさせてるんだよ、メリマン、人が大勢死んでしまうよ」
メリマンは白髪《はくはつ》の頭をのろのろと、重たげに振った。「今から主顕祭までの十二日間に、<闇>の力は最強に達する。これはその下準備なのだ。やつらの力は冷えた力、冬を食べて育つ。手遅れになる前に輪を永久に砕くつもりなのだ。ほどなく辛い試練に直面することになろう。だが、全てがやつらの意のままに動いているわけではない。<古老>たちの道には、まだ引き出されていない魔法が流れている。それに、もう少ししたら、べつの希望も見出《みいだ》せるかもしれん。さあ」
目の前の窓がさっと外に開き、積もっていた雪を全て散らした。幅広のリボンのようなかすかに光る道が、まっすぐ雪まだらの空気中に伸びていた。下を見ると、道をすかして、地上の屋根や垣根や木々の雪におおわれた輪郭が見えた。それでいて、道はしっかりしていた。メリマンはひとまたぎで窓を抜けて道に出、すべって行くような異様な動きでどんどん遠ざかり、夜の中に消えた。ウィルがあとを追ってとび出すと、不思議な道は彼をもさらって夜の中を突っ走ったが、速さも寒さも感じなかった。取り巻く夜は黒く濃密《のうみつ》で、<古老>たちの空中の道のきらめき以外は、何ひとつ見えなかった。と、一瞬にして、ふたりは<時>の泡《あわ》のようなものの中にいて、ウィルが仙術の書の鷲《わし》から学んだように、風に体を傾けて漂っていた。
「見ていたまえ」メリマンのマントが護るようにウィルの体を包んだ。
暗い空の中に――自分の頭だったかもしれないが――葉のない巨木の一群が見えた。葉の無い生垣の上にそそり立っている。冬めいてはいるが雪はない。奇妙なかすかな音楽が聞えた。高い笛の音と伴奏の太鼓《たいこ》の絶え間無い小さな音が、繰り返し繰り返し、同じもの悲しい調べを奏でている。やがて深い暗闇から影のような木立の中へ、行列が姿を現した。
少年ばかりの行列で、長上着と脚絆《きやはん》という遠い過去のいでたちをしていた。髪は肩まであり、ウィルが初めて見る、袋様《ふくろうよう》の形の帽子をかぶっていた。ウィルより年上で十五歳ぐらいと見えた。文字あて芝居の役者めいた、半ばまじめくさった表情を浮かべていた。真剣な目的と湧き上がる楽しさとを混ぜ合わせているのだ。最前列の少年たちは杖《つえ》と樺《かば》の小枝の束を持ち、最後列の者たちが笛と太鼓の主だった。間には六人の少年が、葦と枝を編《あ》んでこしらえた一種の台を運んでいた。台の四隅にはヒイラギの束があった。担架《たんか》みたい、とウィルは思った。だが肩の高さでかつがれている。初めはただそれだけのもの、空の台に見えた。そのうちに何かが乗せられているのが見えた。たいそう小さなものだった。編んだ柩《ひつぎ》の中央にツタの葉のしとねがあり、その上に小さな鳥の体が横たわっていた。砂色の小鳥で、くちばしの形がよかった。ミソサザイだった。
頭上でメリマンの声が、闇の中から静かに聞えた。「ミソサザイ狩りだ。人間の歴史始まって以来、毎年、冬至《とうじ》に行なわれて来た。だがこれは特別な年だから、全てがうまく行けば、もっと見るべきものがあるだろう。ウィル、もっと見せてもらえることを、心の中で念じるのだ」
少年たちとその音楽は、空の木々の間を縫ってはいながら、少しも遠ざからないように思えた。そのうちにウィルは息を呑むようなものを見た。小さな鳥の体の代りに、柩台の上にべつな形がぼんやり生じ、大きくなり出した。メリマンはひとことも発しなかったが、手が鉄の万力《まんりき》のようにウィルの肩をつかんだ。四つのヒイラギの束の間のツタのしとねに横たわっているのは、もはや小さな鳥ではなく、小柄な、繊細な骨格《こつかく》の女だった。たいへんな高齢で、鳥のようにきゃしゃで、青い衣をまとっている。手は胸の上で組み合わされ、一本の指には大きなバラ色の石の指輪がはめられていた。と同時に顔が見え、老婦人だとわかった。
ウィルは悲痛な叫びを洩《も》らした。「死んでないって言ったのに!」
「死んではいない」メリマンが言った。
少年たちは音楽に合わせて歩み、黙《もく》せる姿の横たわった柩台に近づき、また遠ざかり、行列と共に夜の中に消えて行った。悲しい笛の音と太鼓の響きもあとを追って小さくなった。まさに消え失せんとした時、演奏《えんそう》をしていた三人の少年が立ち止まり、楽器をおろして踵を返し、無表情にウィルを見つめた。
ひとりが言った。「ウィル・スタントン、雪に心せよ!」
ふたりめが言った。「老婦人はいずれ戻られる。だが<闇>は、いま攻め寄せている」
三人目は口ばやに、歌でも唄うように何か唱えた。ウィルにはすぐに何だかわかった
<闇>の寄せ手が攻め来る時、
六たりの者、これを押し返す
輪より三《み》たり、道より三たり、
木、青銅、鉄、水、火、石、
五たりは戻る 進むはひとり
だが少年はメリマンのようにそこで止めはしなかった。先を続けた。
生まれ日の鉄、運命《さだめ》の青銅、
燃えた後《のち》の木、歌に出《い》ずる石
蝋燭《ろうそく》の輪の火、雪どけの水、
六つのしるしが印すもの
輪と、輪に先立つ杯と
どこからともなく大風が吹き起こり、雪と暗闇がひるがえったと思うと、少年たちは吹き飛ばされたようにいなくなった。ウィル自身も、後ろ向きに旋回しながら<時>を逆行し、<古老>たちの光る道を戻って行く気がした。雪が顔に切りつけた。夜が目にしみた。暗闇の中からメリマンが呼んでいるのが聞えた。切迫してはいたが、新たな希望と深みがこもった声だった。「危険は雪とともに襲って来るぞ、ウィル――雪に用心するのだ。しるしに従い、雪に心せよ――」
そしてウィルは自分の部屋、自分のベッドに戻っていて、眠りに落ちかかっていた。不吉な一語が、積もりゆく雪の上を鳴り渡る一番深い鐘の音のように、頭の中に鳴り響いた。「心せよ……心せよ……」
第三部 試 練
寒気の訪れ
翌日も雪は一日中降った。その翌日も。
「やんでくれないかしら」メアリーが何も見えない白い窓をながめて悲しげに言った。「いつまでも続いて、ぞっとするわ――大っ嫌い」
「馬鹿なこと言うなよ」ジェイムスが言った。「ただの長吹雪じゃないか。ヒステリーを起こすことないよ」
「普通じゃないわ。気味が悪いじゃないの」
「下らないな。雪が沢山《たくさん》あるってだけさ」
「こんなに降ったことってないのよ。どれだけ積もったかごらんなさいよ――最初に降り出したときから雪かきしてたからいいようなものの、さもなきゃ裏口からは外へ出られなかったところよ。あたしたち、生き埋めになっちゃうんだわ。雪が押してるもの――台所の窓を壊しさえしたんだから。知ってた?」
ウィルが鋭くたずねた。「何だって?」
「裏に面した小窓よ。レンジのそばの。グウェニーがけさおりて来たら、氷みたいに冷えきってて、あの隅に雪とガラスのかけらが一杯落ちてたんだって。雪が窓を押し割ったのよ。重みで」
ジェイムスが大きなためいきをついた。「重みってものは、押したりしないよ。家のあっち側には雪が吹きだまりになるのさ。それだけだ」
「あんたがなんと言おうと、ひどいことに変わりはないわ。雪がはいって来ようとしているみたい」メアリーは今にも泣きそうだった。
「行って、旅――あの浮浪者が目をさましたか見て来ようよ」ウィルは言った。メアリーが真相に近づきすぎる前に止めねばならない。この雪のせいでメアリーと同じくらい怯えている人は、国じゅうで何人になるだろう。ウィルは<闇>のことを激しく思いつめ、どうすればいいのかわかれば、と思った。
<旅人>は前日は眠り通し、ほとんど身じろぎもしなかった。たまに意味のないことを口走り、一、二度かすれた小さな叫び声を上げただけだった。ウィルとメアリーは<旅人>の部屋に、コーンフレークスとトーストと牛乳とマーマレードを盆《ぼん》に載せて持って行った。「おはよう!」中へはいりながら、ウィルは大声で明るく言った。「朝食はいかが?」
<旅人>は薄目をあけ、洗ったのでますます長く、ものすごく見えるボサボサの灰色の髪を通してすかし見た。ウィルは盆を差し出した。
「フェッ!」と<旅人>はしゃがれた唾《つば》を吐《は》くような音をたてた。
「まああ!」メアリーが言った。
「ほかのものがいいの?」ウィルはたずねた。「それとも食べたくないの?」
「蜂蜜」と<旅人>は言った。
「蜂蜜?」
「蜂蜜とパン。蜂蜜とパン。蜂蜜と――」
「わかったよ」ウィルたちは盆を持ち去った。
「すみませんとも言わないのよ」メアリーが言った。「いやらしいお爺さん。あたし、もう近づかないわ」
「お好きに」ひとりになったウィルは、食料品室の奥の底にまだ蜂蜜の残っている盆《ぼん》を見つけた。まわりが少し結晶化していたが、それを薄切りのパン三切れにたっぷりと塗りつけた。それを牛乳と一緒に持って行くと、<旅人>は意地汚く起き上がり、ガツガツと平らげた。食べている姿は気持ちのいいものではなかった。
「うまい」と<旅人>は、ひげから蜂蜜をぬぐい取ろうとし、ウィルを盗み見しながら手の甲をなめた。
「まだ雪があるのか? まだ降ってるのかい、ええ?」
「雪の中で何をしてたんだい?」
「何も」と<旅人>はふてくされた。「おぼえてない」目がずるそうに細められ、額を指し示して哀れっぽい泣き声を上げた。「頭、ぶつけたんだ」
「どこでぼくたちが見つけたか、わかる?」
「いいや」
「ぼくが誰だか、おぼえてる?」
即座《そくざ》にかぶりを振った。「いいや」
ウィルはもう一度そっと、今度はいにしえの言葉で言った。「ぼくが誰だか、おぼえてる?」
<旅人>のひげだらけの顔は無表情だった。本当に記憶を失ったのかもしれない、とウィルは思い出した。空の皿とコップの載った盆を下げようと、ベッドの反対側寄りに縮こまった。「やめろ!」と金切り声を上げた。
「よせ! 行っちまえ! あっちへ持ってけ!」
目を大きく見開き、嫌悪をこめてウィルを見つめている。初めウィルにはわけがわからなかったが、気がつくと、セーターが腕を伸ばした拍子にずり上がっていた。<旅人>はベルトの四つのしるしを見たのだった。
「あっち持ってけ!」老人はわめいた。「焼ける! どけてくれ!」
記憶喪失《そうしつ》もこれまでか、とウィルは思った。誰かが心配して上がって来る足音がしたので、部屋を出た。なぜ<旅人>は偉大なしるしに怯えるのだろう? あれほど長いこと、そのうちのひとつを運んでいたというのに。
*
両親が深刻な顔をし出した。ラジオのニュースは悪化する一方で、寒気が国じゅうをとらえて放さず、新たな規則が次から次へと出された。気温の記録を繰《く》っても、イギリスがこれほど寒くなったことは未だかつてなかった。一度も凍ったことのない河まで厚い氷の塊《かたまり》となって動かず、沿岸のどの港も氷に封じこめられてしまった。人々にできるのは雪がやむのを待つことぐらいだったが、雪は降り続けた。
スタントン一家は家に閉じこめられ、落ち着きのない毎日を送っていた――「冬の原始人みいだ」とスタントン氏は言った――そして火と燃料を節約するために早めに就寝《しゆうしん》した。元日が来て、また過ぎて行ったが、誰もろくに気にも止めなかった。<旅人>は寝込んだきり、もぞもぞブツブツを繰り返し、パンと牛乳以外の食物を拒《こば》んだ。その牛乳も、この頃には缶ミルクを水で薄めたものになっていた。心やさしいスタントン夫人は、体力がついてきたようね、と評した。ウィルは寄りつかなかった。寒さが厳しくなり、雪がどんどん舞いおりて来るにつれて、次第にせっぱつまった気持ちになり出した。早いうちに家を出ないと、<闇>に永久に箱詰めにされてしまうような気がした。逃げ道を与えてくれたのは母親だった。小麦粉と砂糖と缶ミルクが切れたのだ。
「よくよくの緊急自体以外は家を出ちゃいけない。それはわかってるの」母親は心配そうに言った。「でも、これは緊急と見なしていいと思うのよ。食べ物がなくては」
男の子たちは二時間かかって庭の雪を掘り返し、道に出られるようにした。道には、除雪車一台ぶんの幅だけ雪をどけて、屋根のないトンネルがつけてあった。スタントン氏は自分とロビンだけで村まで行って来ると宣言したが、ウィルが、息を切らして雪をかきながら、二時間ぶっとおしで一緒に行かせてくれとせがんだので、しまいには父親の抵抗力もすっかり弱まり、承知《しようち》してくれた。
三人とも耳をスカーフでおおい、厚い手袋をはめ、オーバーの下にセーターを三枚着込んだ。懐中《かいちゆう》電灯も持った。まだ朝も半ばだったが、雪が相変わらず容赦なく降っているので、帰ってこられるのが何時になるかは誰もわからなかった。村の唯一の通りには両側が切り立った道がつけてあり、そこから、数少ない店と中央部の家々まで、雪かきや人の足で小さなでこぼこ道がいくつもつけられていた。足跡から、誰かがドースン農場から馬を連れて来て、ベル先生やホーニマンおばさんなどひとりでは絶対に無理な人達の家まで、道を切り開く助けとしたのがわかった。よろず屋では、ベティグルー夫人の小犬が片隅に灰色の塊となって丸くなり、時々ビクッと動き、いつにもまして力なく悲しげに見えた。ベティグルー夫人の息子で、店の切り盛りを手伝っているでぶのフレッドは、雪の中で転んで手首をくじき、腕を三角巾《きん》で吊《つ》っていた。その上、ベティグルー夫人はすっかり取り乱していた。神経質そうにベラベラたわごとをしゃべりまくり、物を落とし、砂糖と小麦粉を捜すのにとんでもないところばかり見て、結局見つけられずに終わるありさまで、ついに、糸から落ちた操《あやつ》り人形のように、ふいに椅子にかがみ込んでワッと泣き出した。
「ああ」ベティグルー夫人はしゃくり上げた。「すみません、スタントンさん、このひどい雪のせいです。怖くって、もうどうしたらいいか……夢に見るんですよ。あたしらが孤立しちまって、誰にもどこにいるかわからなくなって……」
「もう孤立してるよ」息子が悲し気に言った。「この一週間、一台の車も通らなかった。物資の補給《ほきゆう》はないし、みんな買いおきが切れてきてるし――バターはもうないんだ。缶ミルクまでなくなっちまった。小麦粉もそう長くは持たないな。これのほかには、あと五袋しかないから」
「燃料もどこにもなくなったし」ベティグルー夫人がすすり泣いた。「ランダルさんとこの赤ちゃんが熱を出してるってのに、石炭がひとっかけらもないって、かわいそうに奥さんが言ってましたよ。ほかにもどれだけ病人が――」
リーンと鈴を鳴らして店のドアがあき、村の習慣で反射的に、誰が来たのかとみな振り返った。マントと言ってもいいくらいたっぷりした黒いオーバーの背の高い男が、つば広の帽子を脱いで、ふさふさとした白い髪を見せた。深い影の中の目が、際立ったワシ鼻の上から一同を見おろした。
「ごめん下さい」メリマンは言った。
「いらっしゃいませ」ベティグルー夫人は強く鼻をかんだ。ハンカチのためによく聞きとれない声で、「スタントンさん、リオンさんをご存知? 館の方なんですよ」
「よろしく」ウィルの父親は言った。
「グレイソーンさまの執事を務めております」メリマンは恭しげに頭を下げた。「ベイツさんが休暇から戻られるまで。と言うより、雪がやむまでですが。現状では、もちろん、私も出られませんし、ベイツさんもはいって来られないわけです」
「やみっこありませんよ」ベティグルー夫人が嘆《たん》じ、再びワッと泣き出した。
「もう、母さん」でぶのフレッドがうんざりしたように言った。
「お知らせすることがあって来たのですよ、ベティグルーさん」メリマンが大声でなだめた。「地元のラジオ局を通じて発表があったのです――館の電話も、みなさんのと同様、不通になってますのでね。この雪なので、空から見て目立つ館の敷地内に、燃料と食料が投下されるそうです。そこでグレイソーンさまより、緊急の場合なので村を挙《あ》げて館に移っておいでになっては、とのことです。混雑《こんざつ》はしますが、そのほうが暖かいでしょう。それに心強いかも知れません。医師のアームストロング先生もおいでになります――もう館に向かわれたと思います」
「大がかりだね」スタントン氏が考え深げに言った。「封建的《ほうけんてき》と言ってもいいくらいだ」
メリマンの目が少しきつくなった。「そんなつもりではございませんが」
「ああ、いや、それはわかってる」
ベティグルー夫人の涙が止まった。「すてきな考えですわ、リオンさん! ほかの人と一緒にいられるとホッとしますもの。ことに夜には」
「ぼくだってほかの人だよ」フレッドが言った。
「ええ、そりゃね、でも――」
フレッドはもっそりと言った。「毛布を少し取って来る。店の品も少し詰めて行こう」「そのほうがいいでしょう」メリマンが言った。「ラジオによると、今夜の吹雪は一段とひどいそうですから。早く集まって頂いたほうが安心です」
「知らせに回るのを手伝いましょうか?」ロビンがまたオーバーの衿《えり》を立てた。「ありがとう。それは助かります」
「みんなで協力しよう」スタントン氏が言った。
「吹雪」のひとことにウィルは窓を振り返ったが、一面灰色の空から漂《ただよ》って来る雪は、前とあまり変わらないように思えた。窓はほとんど曇っていて外を見ること自体難《むずか》しかったのだが、その時、何かが表で動くのがちらりと見えた。ハンタークーム小路に切り開かれた雪道に誰かいるのだ。はっきり見えたのはほんの一秒、その人影がベティグルー家の小道のはずれを横切ったときだけだったが、黒い大馬に姿勢《しせい》よくまたがった男を見分けるには一秒で足りた。
「<騎手>が通った!」ウィルは口ばやにはっきりと、いにしえの言葉で言った。
メリマンの頭がパッと振り向いたが、すぐ気を取りなおして、これ見よがしに帽子を取り、かぶった。「ご協力頂ければありがたく存じます」
「いま、なんて言ったんだい、ウィル?」ロビンはそっちのほうに気を取られて弟を見つめた。
「なんでもないよ」ウィルはオーバーのボタンをとめるのに忙しいふりをして、ドアに向かった。「誰かを見たような気がしただけさ」
「だっておまえ、変な言葉で何か言ったろ」
「言わないよ。『外にいるの、誰』って言っただけだよ。どっちみち誰もいなかったんだけど」
ロビンはまだウィルを見つめていた。「あの浮浪者の爺さんそっくりの口ぶりだった。最初に寝かしつけた時の、あのうわごとにさ……」だが、もともとあて推量《すいりよう》に時間を使わないたちだったので、実際的な頭を振って、不問に付した。「まあ、いいや」
ベティグルー家を出て、他の村人たちに知らせるべく分散すると、メリマンはなんとかウィルのすぐ後ろについて、いにしえの言葉でそっと言った。「できれば<旅人>を館に連れて来るのだ。それも早く。さもないと、家から出られなくされてしまうぞ。だがお父さんの自尊心のせいで、すんなりはいかぬかも知れぬ」
苦労して村じゅうを回り、わが家に帰り着いた頃には、父親についてメリマンが言ったことなどウィルは忘れかけていた。担架《たんか》など使わずに<旅人>を館まで連れて行く方法を講じるのに忙しかったのだ。思い出したのは、台所でオーバーを脱ぎ、食料をおろしながら、スタントン氏が言っていることに耳を傾けた時だった。
「……あのお婆《ばあ》さんもいいところがあるな。みんなを入れてやるとは。もちろん広さは十分だし、火もおこせるし、あの古い壁の厚みときたら、どこの家より良く寒さを防げるだろう。小さい家の人たちには何よりだ――気の毒なベル先生なんか、長くはもたなかったろうからな……まあ、うちはここで大丈夫だが。うちだけでやっていけるさ。館のお荷物をふやすことはない」
「そんな、父さん」ウィルは思わず言った。「行ったほうがいいんじゃないの?」
「そうは思わんね」父親は悠然《ゆうぜん》と言った。どんな熱弁をふるわれるよりも、こういう自信のほうが崩《くず》しにくいことを察しておくべきだった。
「でも、リオンさんが、あとになるほど危険だって言ったよ。吹雪がひどくなるからって」
「天気のことなら自分で判断できるよ、ウィル。ミス・グレイソーンの執事の手なぞ借りずともね」スタントン氏は穏やかに言った。
「うわあ」マックスが明るくふざけて言った。「いばっちゃって。執事なぞ、だってさ」
「こら、そんな意味じゃないって、わかってるくせに」父親は濡《ぬ》れたスカーフをマックスに投げつけた。
「どっちかと言うと、逆なんだな。何も、ぞろぞろ行って、お館さまの奥方さまのお情けにあずかることはないと思うんだよ。ここで大丈夫なんだから」
「その通りよ」スタントン夫人がきびきびと言った。「さあ、みんな、お勝手から出てちょうだい。パンをこしらえるんだから」
望みは<旅人>自身だけだ、とウィルは判断した。
みんなから離れて、<旅人>が寝ている小さな客用寝室に上がって行った。「話がしたいんだ」
老人は枕の上の顔を上げた。「わかったよ」おとなしげで不幸せそうに見えた。ウィルはふっと哀れを催《もよお》した。
「少しは良くなったかい?」ウィルはたずねた。「ぼくが言うのは、今、実際に病気なのか、それとも力が出ないだけなのかってことだけど」
「病気じゃない」気のない答えだった。「いつもこうなんだ」
「歩ける?」
「雪ん中におっぽり出そうってのか?」
「まさか。こんな天気なのに。行きたいと言っても、お母さんが許しゃしないよ。ぼくだって。もっとも、ぼくにあまり発言権がないけどね。一番年下だから」
「おまえは<古老>だ」<旅人>は嫌悪をこめてウィルを見た。
「それとはべつだ」
「べつじゃない。普通の家のガキみたいな言い方しても無駄だってことさ。俺は知ってるんだから」
「あんたは偉大なしるしのひとつを任されていたじゃないか――なぜ僕たちを憎んでるのか、わからないな」
「むりやりやらされただけだ」老人は言った。
「おまえたちは俺をつかまえて……運び出して……」何か遠い昔のことを思い出そうとするかのように額にしわを寄せたが、また気のない口調に戻った。「むりやりだったんだ」
「いいかい、ぼくはむりやり何かさせようっていうんじゃないんだ。けど、みんながしなければならないことがひとつある。雪があんまりひどくなってきたんで、村の人たちは館で暮らすことになった。共同生活みたいにね。そのほうが安全で暖かいからなんだ」話しながらも、<旅人>にはもう先がわかっているのではという気がしたが、老人の頭の中にははいり込めなかった。試みるたび、クッションの詰物の中に突っ込んだかのように、もがきまわっている自分に気づくのだった。
「お医者さんもそこにいるんだ。だから、あんたがお医者さんのいる場所にいる必要がある。とみんなに思わせれば、ぼくたちみんな、館に行けるんだよ」
「でなきゃ、行かないのか?」と<旅人>は疑わしげにウィルをねめつけた。
「父さんが許さないんだ。けど、行かなくちゃならない。そのほうが安全だし――」
「俺も行かない」と<旅人>はそっぽを向いた。「あっち行け。ほっといてくれ」
ウィルは低い声で、警告するように、いにしえの言葉で言った。「<闇>があんたをつまえに来るぞ」
間があった。それからゆっくりと<旅人>はボサボサの灰色の頭を振り向けた。ウィルはその顔にたじろいだ。一瞬、その歩んできた人生がむきだしにされていた。目に苦痛と恐怖の底なし沼があり、恐ろしい体験を物語るしわは、はっきりとすさまじく刻まれていた。この男は過去のどこかで、大変な恐怖と苦悩《くのう》を経験し、そのためもはや他の何ものも、本当には感じなくなってしまったのだ。<旅人>の目はここに至って初めて大きく見開かれ、恐怖の体験が中からのぞいていた。
<旅人>は虚《うつ》ろに言った。「<闇>はもう俺をつかまえた」
ウィルは深く息を吸い込んだ。「今度は<光>の輪がつかまえに来る」そして、しるしのベルトを抜き取って<旅人>に突きつけた。老人はひるみ、顔をゆがめて、怯えたけもののように泣き声を上げた。ウィルは胸が悪くなったが、しかたがなかった。しるしをねじれた顔にじわじわ近づけると、ついに、針金が切れるように、<旅人>の自制力がぷつりと切れた。絶叫し、わけのわからないことを口走ってのたうち回り、助けを求めてわめいた。ウィルが部屋から走り出て父親を呼ぶと、家族の半数が駆け上がって来た。
「何か発作《ほつさ》を起こしたみたいなんだ。ひどいよ。館のアームストロング先生のところへ連れてったほうが良くない?」
スタントン氏はあやふやに言った。「先生に来てくれるよう頼んでみるか」
「でも、あっちにいたほうが楽かもしれないわ」スタントン夫人は心配そうに<旅人>を見た。「このお爺さんにとってよ。先生が目を離さずにいられるし――ここより暖かくて食べ物もあるでしょうし。これは少しひどいわ、ロジャー。どうしてやればいいのか、わたしにはわからないわ」
ウィルの父親は折れた。まだのたうち回り、あらぬことを口走る<旅人>には、万一を考えてマックスを付き添わせ、大きい家族用のトボガンぞりを可動担架にしつらえ直しに行った。ウィルを悩ませていることがひとつだけあった。思い過ごしだろうが、<旅人>が偉大なしるしを見て屈服し、再び狂った老人となったその瞬間に、またたいた目に勝利のひらめきを見たような気がしたのだ。
*
<旅人>を連れて館に向かう時も、空は灰色に重苦しく、雪を降らせようと手ぐすねひいていた。スタントン氏は双子とウィルを連れて行くことにした。妻は珍しく不安の色を浮かべて見送った。「本当におさまってくれたんだといいけど。ウィルを行かせて大丈夫?」
「これだけの雪だと、体重の軽い者がいるほうが便利な時もあるんだ」とウィルの抗議《こうぎ》をさえぎって父親が言った。「大丈夫だよ」
「向こうに残るんじゃないわね?」
「あたりまえだよ。こうやって出かけるのは、爺さんを医者のもとへ送り届けるためだけなんだからね。どうした、アリス、君らしくないぞ。危険なんかありはしないよ」
「それもそうね」
一行はトボガンぞりをひっぱって出発した。ひもで縛りつけられている<旅人>は、姿が見えないくらいに毛布でぐるぐる巻きにされていて、人間ソーセージのようだった。最後に家を出たウィルに、グウェンが懐中電灯と魔法瓶《まほうびん》を渡して言った。「あんたの拾い物が行ってくれて嬉しいわ。怖かったもの。お爺さんというより、けものね」
館の門まではずいぶん長く感じられた。館の車道は雪かきされ、大勢の足で踏み固められていた。大扉のそばに明るい耐圧《たいあつ》ランプがふたつ出され、玄関を照らしていた。また雪が降り出し、風が冷たく顔のまわりに吹き始めていた。ロビンの伸ばした手が呼鈴に届く前に、メリマンが扉をあけていた。メリマンはまずウィルを捜したが、ほかにはその切迫した目の動きに気づいた者はいなかった。「ようこそ」
「今晩は」ロジャー・スタントンが言った。「すぐ帰る。うちはうちで大丈夫だから。だが、この老人が病気で、医者を必要としてるんだ。いろいろ考えたが、ここへ連れて来たほうが、アームストロング先生を行ったり来りさせるよりましだと思ってね。また吹雪になる前にやって来たのさ」
「もう始まりかけております」メリマンは外を見て言った。それから身をかがめ、双子が老人のじっと動かないぐるぐる巻きの体を中に運び込むのを手伝った。敷居際《しきいぎわ》で、毛布の塊はけいれん発作のようにビクッとし、布に押し殺されてはいたが、<旅人>が「いやだ! いやだ! いやだ!」とどなるのが聞えた。
「先生を」とメリマンがそばに立っていた女に言うと、女は急いで立ち去った。ウィルたちがカロルを唄った空っぽの大玄関ホールは、今や人でいっぱいで暖かくにぎやかで、同じ部屋とは思えなかった。
アームストロング医師が現れ、きびきびと全員に会釈した。小柄なせわしない男で、はげあたまを灰色の髪がぐるりと縁取っているところは、修道僧のようだった。スタントン一家は、ハンタークームのあらゆる人同様、医師とは古なじみだった。ウィルの年齢よりずっと長い年月、家族の病気という病気を治してくれてきた人だった。医師は、今や身をよじり抗議のうめき声をあげている<旅人>をのぞき込んだ。「どうしたんだね、ええ?」
「ショックでしょうか」メリマンが言った。
「全く様子が変なんだよ」スタントン氏が言った。「何日か前に、雪の中で気を失っているところを見つけたんだがね。快方にむかっていると思ってたのに、それが――」
玄関の大扉が強まった風でバタンと閉まると、<旅人>は悲鳴を上げた。「ふむ」医師は若くて大柄な助手をふたり呼び、どこか奥の部屋に運ばせた。「任せといてくれ」と明るく言った。「今のところ、足の骨折が一件に、足首のねんざが二件なんだ。変化があっていい」
医者が患者《かんじや》のあとを小走りに追うと、ウィルの父親は振り返って暗くなりつつある窓の外をのぞいた。
「家内が心配し出すだろう。帰らなくては」
メリマンが控えめに言った。「今お出になれば、出たきり、どこにもたどりつけないことになると存じますが、たぶん、もう少しすれば――」
「父さん、<闇>が攻めて来てるんだよ」
父親は半ば笑みを浮かべてウィルを見た。「急に詩的なことを言うようになったな。いいだろう。少しだけ待とう。正直言って、ひと息つきたいと思ってたところだ。今のうちにミス・グレイソーンにあいさつしといたほうがいいな。どこにおられるんだね、リオン?」
礼儀正しい執事のメリマンは人混みの中を先に立って案内した。こんな妙な集団は初めてだった。村の半分がにわかに親密な生活を営んでいて、ベッドやスーツケースや毛布のちっぽけな植民地ができていた。大きな部屋のあちこちに散らばった小さな巣から、人々がウィルに声をかけた。巣と言っても、ベッドやマットレスを隅に寄せたり、客がロビーに寝泊まりしている乱雑なホテルのようだった。ミス・グレイソーンは火のそばの車椅子に、しかつめらしく背すじを伸ばしてかけ、口もきけずにいる村の子供たちに「不死鳥とじゅうたん」を読んで聞かせていた。部屋の誰もがそうであるように、ミス・グレイソーンもいつになく明るく陽気に見えた。
「変なの」ウィルは人の間を縫って行きながら言った。「何もかも最悪なのに、みんな、いつもよりずっと楽しそうだ。見てよ、はつらつとしてる」
「イギリス人ですから」メリマンが言った。
「その通り」ウィルの父親が言った。「逆境《ぎやつきよう》にあってはすばらしく、順境《じゆんきよう》にあっては退屈《たいくつ》きわまりない。要するに、満足することがないのさ。われわれは変人の集まりなのさ。君はイギリス人じゃないね?」とふいにメリマンに言った声に、かすかな敵意を聞きとったウィルはびっくりした。
「雑種でございますよ」メリマンはさらりと言った。「お話しすれば長くなります」窪《くぼ》んだ目がきらりとスタントン氏を見たが、その時、ミス・グレイソーンが全員の姿を見とめた。
「ああ、見えましたね! ごきげんよう、スタントンさん。おちびさんたちも。ご息災? これをどうお思いになる? 楽しいじゃないの」ミス・グレイソーンが本をおろすと、子供たちの輪が開いて新来の者たちを通した。双子と父親はじきにおしゃべりに巻き込まれた。
メリマンがいにしえの言葉でそっとウィルに言った。「火をのぞき込みたまえ。右手で偉大なしるしのひとつひとつをなぞり、その間ずっと火を見るのだ。中を見つめたまえ。友達になれ。その間じゅう、目を動かしてはならぬ」
不思議に思いながら、火にあたるふりをして進み出、言われた通りにした。暖炉の中の、大きな薪の火の躍る炎をじっと見つめ、指をそっとしるしに走らせた。鉄のしるし、青銅のしるし、木のしるし、石のしるし。火に話しかけた。ずっと前に、消してみろと挑まれた時のようにではなく、<古老>として、仙術の知識の中から話しかけた。王の大広間の赤い火を語り、沼の上で躍る青い火を語り、ベルテーン祭や万聖節《ばんせいせつ》前夜に灯される、狼煙《のろし》の丘の黄色い火を語った。鬼火や魔除《まよ》けの篝火《かがりび》や、海の冷たい火を語った。太陽を、そして星々を語った。炎が躍り上がった。指が最後のしるしをめぐり、旅を終えた。ウィルは目を上げた。見た目に映ったのは……
……映ったのは、床置き式の電気スタンドに照らされた天井の高い羽目板張りのモダンな部屋と、そこに集まった愛想のいい村人の集団ではなかった。一度、べつの世界で見たことのある、ろうそくにぼんやり照らされた大きな石の広間と、そのつづれ織りの壁掛けと高いアーチ形の天井だった。薪の火は同じだったが、今や異なった暖炉で燃えさかり、顔を上げると、前と同じように、過去から出て来たニ脚の重い木彫りの椅子が、暖炉の両側にあるのが見えた。右の椅子にはマントをまとったメリマンが、左には、つい数日前に死んだように柩台《ひつぎだい》に横たわっているのを見た人物がかけていた。ウィルはすばやく身をかがめ、老婦人の足もとにひざまずいた。「ご老女さま」
老婦人はやさしくウィルの髪に触れた。「ウィル」
「最初の時、輪を破ったりしてすみません。もう――すっかり――いいんですか?」
「何もかも大丈夫ですよ」やさしい澄んだ声が言った。「ずっとそうなるでしょう。しるしをめぐる最後の戦いに勝てればね」
「ぼくは何をすればいいんですか」
「寒気の力を砕くのですよ。雪と寒気と霜を押しとどめ、この国を<闇>の手中から解放するのです。全て、輪の次のしるし、火のしるしを用いて」
ウィルは困って老婦人を見た。「でも、持ってません。どうやって使えばいいのかもわかりません」
「火のしるしのうちひとつは、とうにあなたのものですよ。もうひとつはあなたを待っています。それをかちとることが、寒気を砕くことになるのです。でも、その前に、わたしたちの炎の輪を完全にしなければなりません。しるしを反映しているものなのですから。それには<闇>から力を奪い取る必要があります」老婦人はテーブル上の大きな錬鉄《れんてつ》のろうそく立ての輪を指し示した。十字に四等分された輪。腕を上げた時、光が手のバラ色の指輪にきらめいた。外側のろうそくの輪は完全で、十二本の白い柱が、前にウィルがこの大広間にいた時とそっくり同じに燃えていた。が、横棒にはまだろうそくがなく、九つの穴があんぐりあいていた。
ウィルはゆううつになって穴を見つめた。今度ばかりはどうしていいかわからなかった。九本の大きな魔法のろうそくを、何もないところから取り出さねばならない。<闇>から力を奪取《だつしゆ》せねばならない。火のしるしのひとつは既に持っていると言うが、何を指しているのかわからない。もうひとつのしるしは、見つかる場所も方法もわからない。
「勇気をお出しなさい」老婦人の声は弱々しく疲れたようで、ウィルが目をやると、輪郭まで薄れだし影にすぎないように見えた。心配になって手を伸ばしたが、老婦人は腕をひっこめた。「まだよ……せねばならない仕事がほかにもあるし……ろうそくが燃えるのが見えるでしょう、ウィル」小さくなりかけた声がまた持ち直した。「ろうそくが教えてくれますよ」
ウィルはまぶしいろうそくの炎を見た。背の高い光の輪に目を奪われた。見ているうちに、世界中が身震いしたような衝撃を感じた。顔を上げ、目を上げると……
……目を上げると、ミス・グレイソーンの時代、ウィル・スタントンの時代の、羽目板張りの館に戻っていた。沢山の声のざわめきが聞こえ、その中のひとつが耳もとで何か言っていた。アームストロング医師だった。
「……来てほしいとさ」と医師は言っていた。スタントン氏がそばに立っている。医師は言葉を切り、妙な顔をしてウィルを見た。「大丈夫かね、ウィル」
「はい――はい、大丈夫です。ごめんなさい。今、何ておっしゃったんですか?」
「君の友達の浮浪者が来てほしがってるって言ったんだよ。『七男坊』なんて気取った呼び方をしていたが、どうして知ってるんだろうな」
「でも、本当に七男坊だもの、ね?」ウィルは言った。「このあいだ、亡くなった兄さんのことを聞くまでは、ぼくも知らなかったけど。トムのことです」
アームストロング医師は一瞬遠い目をした。
「トム。初子《ういご》の。おぼえているよ。昔のことだ」と視線を戻し、「そうとも。君は七男坊だ。そんなことを言えば、君のお父さんもね」
ウィルがパッと振り返ると、父親が微笑するのが見えた。
「父さんも七男坊なの?」
「もちろんさ」ロジャー・スタントンの丸いピンク色の顔はなつかしげだった。「この前の戦争で半分に減ってしまったが、もとは十二人家族でね。そのことは知ってるだろう? まさに一族という感じだった。お母さんは喜んだよ。ひとりっ子だったからね。きっと、だからこんなに沢山子供を欲しがったんだろうな。人口過剰《かじょう》の時代だってのに、とんでもない話だ。そう。おまえは七男坊の七男坊だよ――おまえさんが赤ん坊の頃は、よく冗談の種にしたものさ。大きくなってからはやめたがね。七男坊の七男坊は千里眼やら何やら持って生まれるって、言い伝えがあるだろう? そんな考えを吹き込んじゃいけないと思って」
「あはは」ウィルは無理をして笑った。「あの浮浪者、どこが悪いのかわかりましたか、先生?」
「正直言って、いささかとまどってるんだよ」医師は言った。「錯乱《さくらん》しているから鎮静剤《ちんせいざい》を打つべきなんだが、脈拍《みやくはく》数も血圧も初めてお目にかかる低さなんで、打っていいものかどうか……。診察《しんさつ》した限りでは、体のどこが悪いということはない。たぶん、頭が弱いだけだろう。ああいう浮浪者には多いんだ――もっとも、近頃は浮浪者もめったに見かけないな。ほとんど姿を消してしまって。とにかく、君に会わせろとわめくばかりなんでね。ウィル、嫌でなかったら、ちょっと来てくれ。危ないことはないよ」
<旅人>は派手に騒いでいた。ウィルを見るとおとなしくなり、目を険《けわ》しくした。前とはすっかり気分が変わっていて、再び自信ありげで、しわのよった三角の顔には生気が満ちていた。ウィルの肩越しにスタントン氏と医師を見、「あっちへ行け」と言った。
「ふむ」とアームストロング医師は言ったが、ウィルの父親を連れてドアのそばに寄り、姿は見えるが声は届かないところに控えていた。病室代わりの小さな外套《がいとう》置場には、けが人がもうひとり――骨折患者だった――寝かされていたが、眠っているようだった。
「俺をひきとめようたって、無理だからな」と<旅人>は毒づいた。「<騎手>が迎えに来てくれる」
「前には<騎手>のことを怖がってたじゃないか」ウィルは言った。「見たんだから。それも忘れちゃったのか?」
「俺は何ひとつ忘れたりはせん」<旅人>は軽蔑したように言った。「あの恐怖はもうない。しるしを手離すと同時に失せてしまった。出してくれ。仲間のもとへ行かせてくれ」しゃべり方に妙に形式ばった堅苦しさがはいり込み出しているようだった。
「あんたの仲間は、雪の中で行き倒れても、気にもしてくれなかったんだぞ。それに、ぼくがひきとめているわけじゃない。ぼくはお医者さんのところに運ばせただけさ。吹雪の最中に出て行くなんて、先生が許すと思うのかい?」
「ならば<騎手>が迎えに来る」老人の目がざらつき、声を高めて室内の者全てに向かってわめきたてた。「<騎手>が来る! <騎手>が来る!」
ウィルが離れると、父親と医師がすばやくベッドに近寄った。
「あれはいったい何のことだ?」スタントン氏が言った。
医師は<旅人>の上にかがみ込んだ。老人はベッドの上にぐったりとなり、また腹立たしげにぶつぶつ呟くばかりだった。
「さっぱりわからないんだ」ウィルは言った。「めちゃくちゃなことを言ってただけだよ。アームストロング先生の言う通り、少しおかしいんだと思うよ」室内を見まわしたが、メリマンの姿はなかった。
「リオンさんはどうしたの?」
「どこかにいるだろう」父親はおざなりに言った。「双子を見つけて来てくれないか? ちょっと行って出られるくらいに吹雪の勢いが落ちたか、見て来る」
毛布や枕、紅茶のカップ、台所からのサンドイッチ、台所へ返す皿などを持って行き来する人々でざわざわしているホールに、ウィルは立ちつくしていた。妙に切り離された気分だった。この忙しい世界のまんなかに宙ぶらりんになりながら、その一部になりきれずにいるようだった。暖炉に目をやった。炎のぼうぼう燃える音も、外で鳴き叫ぶ風と窓を打つ水まじりの雪の音をかき消すことはできなかった。
炎が舞い上がり、ウィルの目をとらえた。<時>の外のどこかから、メリマンが頭の中に放しかけて来た。「用心したまえ。本当なのだ。<騎手>があれを迎えに来る。だからこそ<時>によって強められたこの場所に連れて来てもらったのだ。さもなければ、<騎手>は君の家に、眷属《けんぞく》の全てを引き連れて来ただろう……」
「ウィル!」ミス・グレイソーンの尊大なコントラルトの声が鳴り響いた。「ここへおいで!」ウィルは現在に目を戻し、そばへ行った。ロビンがミス・グレイソーンの椅子の脇に立ち、ポールが、見おぼえのある形の長く平たい箱を手に近づくところだった。
「風が弱くなるまで、音楽会みたいなものでもやろうかと思ってね」ミス・グレイソーンがきびきびといった。「みんな何かしらやるんだよ。やる気のある人だけだけどね。スコットランド人が『ケイリー』とやら言うやり方さ」
ウィルは兄の目が幸せそうにきらめくのを見た。「ポールが、お気に入りのあのフルートを吹くんですね」
「あとでね」ポールは言った。「おまえも唄うんだよ」
「わかった」ウィルはロビンを見た。
「ぼくは先に立って拍手する役さ」とロビンは言った。「かなり拍手があるだろうよ――うちの村は、ものすごく才能豊からしい。ベル先生が詩の暗唱をするし、ドーニイ寄りの村はずれから来た男の子三人は、フォーク・グループを作っているらしい――そのうちのひとりはギターまで持って来てるんだぜ。デュウハーストおじさんはひとり芝居をする。止めるだけ無駄らしい。誰かのちっちゃい娘が踊りたがってるし。きりがないんだ。」
「ウィル、あんたから始めたらどうだえ?」ミス・グレイソーンが言った。「あんたが何でも好きなものを唄い出せば、みんなだんだん耳を傾け出して、そのうち全く静かになるんじゃないかね――わたしが鐘か何か鳴らして『さあ、みなさん、音楽会ですよ』と言うよりいいと思うんだけど、違うかえ?」
「いえ、その通りだと思います」と言いはしたものの、その瞬間のウィルの頭の中は、平和に音楽を奏でるどころではなかった。だが、ちょっと考えると、先学期に学校の音楽教師がウィルのために試みに転調してくれたばかりの、もの悲しい唄が思い浮かんだ。見せびらかしているような気分だったが、ウィルはその場で口をあけ、唄い出した。
月に白く長い道、
月は虚ろに空の上
つきに白く長い道、
いとしの人よりわれを離《さ》く
風なき崖《がけ》はゆるぎなく、
影は静かにたゆとうも、
月の砂踏むわが足は
果てなき道をたどるのみ
周囲の話し声がとだえて静寂《せいじやく》が訪れた。何人もの顔が向けられるのを見て、あやうく音をはずすところだった。期待してはいたが前には見当たらなかったいくつかの顔があったのだ。ひっそりと後ろのほうに控えているのは、ドースンさん、ジョージ爺さん、ジョン・スミス、それにそのおかみさんだった。万一の時には輪が作れるように、<古老>たちも再び待機しているのだ。そのそばにはドースン家のほかの者たちと、ウィルの父親が立っていた。
世界は丸いと人はいう
直く伸びゆく道なれど、
ひたすら歩め、案ずるな、
いずれめぐりて還《かえ》るゆえ
一方の目の隅から見えたものに愕然となった。<旅人>だった。毛布をマントのように巻きつけ、小さな病室の戸口に立って耳を傾けていたのだ。一瞬その顔を見たウィルはあっけにとられた。しわだらけの三角形の中にはずる賢《がしこ》さも恐怖もなく、ただ悲しみと空《むな》しいあこがれだけがあった。目には涙さえきらめいていた。失ってしまったこの上なく貴重なものを見せられている人の顔だった。
一瞬、自分の音楽で<旅人>を<光>に引き込めるような気がした。じっと見つめて唄い、悲しげな調べで訴えかけると、<旅人>は力なく、辛そうに見つめ返した。
だが立ち還《かえ》るその前に
まずはるかなり旅の道、
月に白く長い道、
いとしの人よりわれを離《さ》く
唄ううちに室内は劇的《げきてき》に静まり返り、いつもの他人のもののように感じられる少年の澄んだソプラノが、空中を遠く高く昇りつめていった。やがて少しの間、沈黙が訪れた。ウィルにとって、唄うことの意味は、この沈黙にあった。それから、大きな拍手が湧き起こった。ウィルはそれを遠いもののように聞いた。ミス・グレイソーンが一同に呼びかけた。「退屈しのぎに、やりたい人だけで余興《よきよう》をしたらどうかと思ってね。吹雪の音を消すために。参加したい人は?」
楽しげなざわめきは室内を満たした。ポールが館の古いフルートを、きわめてそっと、低く吹きはじめた。そのやさしい甘やかさは室内を満たした。ウィルは聞いているうちに自信が増してきて、<光>のことを考えつづけた。次の瞬間、音楽はもはや力を与えてはくれなかった。聞き取ることさえできなかった。総毛《そうけ》立ち、骨が痛んだ。何かが、誰かが近づいて来るのだ。館と、館の中の者全て、ことにウィル自身に悪意を持つものが。
風が強まった。ヒイッと鳴き叫び、窓を打った。大扉を叩く、すさまじく大きな音がした。部屋の反対側では<旅人>がとび上がり、再び顔をゆがめ、緊張して待っていた。ポールは何も聞えないかのように吹奏《すいそう》しつづけた。たたきつけるようなノックの音が、再び聞えた。誰にも聞えてないんだ、とウィルはふいに悟った。風のせいで耳がつぶれそうだったが、ほかの者たちには聞えてない。何が起きようとしているかも知らずに終わるのだろう。ドーンと再三、扉が叩かれ、ウィルは自分が出なければならないことを知った。目もくれない人々の間を通り、扉の大きな輪の形をした鉄の把手《とつて》をつかむと、いにしえの言葉でニ、三こと、声を殺して呟き、パッとあけた。
雪が吹きつけ、みぞれが顔を横切り、風がヒュウーとホールを吹きぬけた。外の闇の中では、巨大な黒馬がウィルの頭上高く前脚を振り上げ、ひづめを振り回し、白目をむき、むき出した歯から泡をほとばしらせた。その上には<騎手>の青い目と燃え立つような髪の赤が輝いていた。ウィルは思わず叫び、身を護ろうと本能的に片腕をかざした。
黒い牡馬は絶叫し、<騎手>もろとも闇の中に消えた。扉が自然に閉まったと思うと、ウィルに聞えるのは、ポールが吹き続ける古いフルートの甘い旋律だけになっていた。人々は前と変わらず、平和にすわったり寝そべったりしていた。ウィルは、頭の上に防御の形に曲げてかざしたままだった腕をゆっくりとおろした。そして、完全に忘れ果てていたものに気づいた。腕をかざした時に<黒騎手>に向けた前腕の内側に、鉄のしるしが焼きつけた傷跡があった。あのもうひとつの大広間に最初に行った時、<闇>が最初に襲って来た時に、しるしで火傷した痕《あと》だ。老婦人が治してくれたあと、その存在さえ忘れていたのだ。「火のしるしのうちのひとつは、とうにあなたのものですよ……」
これのことだったのだ。
火のしるしのひとつが<闇>をくいとめ、おそらくは最強のものであろう攻撃をかわした。ウィルはぐったりと壁にもたれ、呼吸をゆるやかにしようと努めた。だが、音楽に聞き入る平和な人々の頭越しに再び全ての自信を無に帰《き》さしめる人物を見た。仙術の直感が即座にだまされたと告げた。挑戦に応じ、勝ったのだと思っていたし、事実そうだったのだが、そのためには<闇>と<旅人>の間の扉をあけねばならなかった。それによって<旅人>はすっかり強められ、待ち望んでいた力を与えられてしまったのだ。
<旅人>は今やすっくと立ち、目を輝かせ、頭をそらし、背すじをしゃんと伸ばしていた。片腕を高く差し上げ、明瞭《めいりょう》な力強い声で呼ばわった。「出《い》でよ狼、出でよ犬、出でよ猫、出でよネズミ、出でよヘルド、出でよホルダ、われ汝《なんじ》らを呼び入れん! 出でよウーラ、出でよタン、出でよコール、出でよクエルト、出でよモッラ、出でよマスター、われ汝らを請《しよう》じ入れん!」
召集は続いた。延々と続くリストの名前は、全て仙術の書を通じてウィルが知っているものだった。ミス・グレイソーンの広間のものは誰も見てもいなかった。全てが今まで通り続き、ポールの音楽が終わると、デュウハーストおじさんのひとり芝居が有無を言わさぬ大声で始められたが、たとえウィルのほうに目を向ける者があっても、見えていない様子だった。まだドースン一家と話している父親が、末っ子の姿が見えないことにそのうち気づくかしら、とウィルは思った。
だがまもなく、<旅人>の朗々たる召集が続くに従って、不思議がるのをやめた。広間が微妙に変化し出したように感じられ出した。老婦人の古い大広間が意識によみがえって、現在の部屋をどんどん吸収していった。友人も家族も薄れ、今は火から一番離れた大広間のはずれにいる<旅人>だけが、もと通り鮮明だった。父親のいる一団を見守っていると、薄れるそばから、<古老>たちが<時>に出入りするのを可能にする、分離が行なわれるのが見えた。フランク・ドースンの元の体から、べつな体がすいっと抜け出し、分身を現在の一部として薄れるに任せた。残ったほうはウィルに近づくにつれて鮮明さを増し、同じ形でジョージ爺さんと、息子のジョンと、青い目の女が続いた。ウィルは自分もそうして大広間に姿を現したのだと知った。
まもなく、四人はウィルを囲んで、老婦人の大広間の中央に立っていた。それぞれ外側を向き、正方形の四隅《よすみ》を成していた。<旅人>が長々と<闇>を呼び続けるうちに、大広間自体がまた変化し出した。異様な光や炎が壁をつたい、窓や壁掛けを隠した。呼ばれた名前によっては、そここで青い炎が空中に走り、シューッと言って消えた。暖炉と向かい合った三面の壁のそれぞれを三すじのまがまがしい炎が駆け上がり、消えずに、そのまま不吉にまばゆく躍り、ゆらめき、大広間を冷たい光で満たした。
暖炉の前の大きな木彫りの椅子に初めからかけていたメリマンは、じっと動かなかった。その姿には、すさまじい力が抑制されてこめられており、ウィルはその広い肩を、予感めいたものを感じつつ見つめた。いつ弾かれるかわからない巨大なばねを見るように。
<旅人>はますます大声で唱えた。「出でよユアス、出でよトルーイス、出でよエリウ、出でよロス! 出でよヒュールゴ、出でよケルミス、われ汝らを請《しようじ》入れん……」
メリマンが立ち上がった。白い羽を戴いた黒い大柱のように。マントを体に巻きつけ、彫刻のような顔だけが見えていた。ふさふさとした白い髪から光がほとばしった。<旅人>はメリマンを見てうろたえた。大広間のぐるりにびっしりと、<闇>の火と炎がシュウシュウ音をたてて躍った。白と青と黒ばかりで、黄金や赤や暖かい黄色はどれにも見られなかった。最も背の高い九すじの炎はウィルたちをおびやかす木のようだった。
だが<旅人>は再び声を失ったように見えた。もう一度メリマンを見ると、少し縮こまった。そして、その光る目に浮かんだあこがれと不安の色から、ウィルは<旅人>の正体をハッと悟った。
「ホーキン」メリマンが静かに言った。「まだ帰って来る時間はある」
闇の中の鷹
<旅人>はささやいた。「いやだ」
「ホーキン」メリマンは再びやさしく言った。「誰にでも、最初の選択のあとで、最後の選択が与えられるものなのだよ。許される機会がな。遅すぎはしない。翻《ひるがえ》れ。<光>のもとへ来るのだ」
声はやっと聞きとれるほど、かすれた息遣《いきづか》いにすぎなかった。「いやだ」
炎は停止し、堂々と大広間を取り巻いていた。誰も動かなかった。
「ホーキン」メリマンの口調には命令はなく、暖かさと懇願《こんがん》だけがあった。「ホーキン、わが家子《いえのこ》よ、<闇>から顔をそむけよ。思い出しても見よ。一度はわれらの間には、愛と信頼があったではないか」
<旅人>は破滅に向かう人間のようにメリマンを見つめた。今や尖《とが》ったしわだらけの顔に、小柄なはしっこいホーキンの面影《おもかげ》がはっきり見とめられた。仙術の書を取り出すために、自分の時代から連れ出され、死に直面したショックから<古老>を<闇>に売ったホーキン。裏切りの開始を見守っていたメリマンの目の苦悩の色、そしてホーキンの運命を語った時の、あの確信が思い起こされた。
<旅人>はまだメリマンに目を向けていたが、何も見えてはいないようだった。目は時をさかのぼって見つめ、忘れたことの全て、頭から追い出したことの全てを、老人に再発見させた。ゆっくりした口調に徐々に非難がこもった。「本のために俺に生命をかけさせた。たかが本のために。俺がもっとやさしい主《あるじ》に目を向けると、それをとがめてもとの時代に送り返した。もとの体では無くしてな。しるしを運ぶという運命を負わせたんだ」思い出すにつれて、苦痛と恨みで声に力がこもった。「青銅のしるしを、何世紀も。あんたは俺を人間から、絶えず逃げ、絶えず捜し、絶えず追われている生き物に変えてしまった。自分の時代でまともに老いることも禁じた。どんな人間だって人生の終わりには、老いて、疲れて、死の眠りに沈み込めるのに。あんたは俺の死ぬ権利《けんり》を奪った。遠い昔に、しるしを持たせて。もとの時代に連れ戻し、この時代まで六百年も運ばせ続けたんだ」
ウィルを一瞥した目が憎悪に燃えた。「最後の<古老>が生まれて、しるしを取ってくれるまでな。おまえだ、小僧、何もかもおまえのせいだ。人間としての俺のまともな一生を奪ったこの時間の中での逆行《ぎやつこう》は、全部おまえのために仕組まれたんだ。生まれる前とあとの二度。その呪《のろ》わしい仙術の力のために、俺は愛したもの全てを失くしてしまった」
「わからぬのか」メリマンが叫んだ。「帰って来てよいのだぞ、ホーキン! 最後の機会だ。<光>につけば、元通りのおまえになれるのだ」誇り高い堂々たる体を乗り出して懇願した。ウィルは胸が痛んだ。しもべであったホーキンを裏切りに追い込み、みじめな<旅人>、<闇>に縛られた卑屈《ひくつ》な抜け殻《がら》としての一生に追い込んだのは、自分の誤まった判断だと感じているのがわかったのだ。
メリマンは苦しげに言った。「わが子よ、頼む」
「いやだ、あんたよりいい主人を見つけたんだ」壁のまわりの九すじの<闇>の炎が冷たく高くとび上がり、青い<光>を放って震えながら燃えた。<旅人>は体に巻きつけた黒っぽい毛布をもっときつく寄せ、狂ったように大広間の中を見渡した。かん高く挑むように叫んだ。「<闇>の主たちよ。われ汝《なんじ》らを請じいれん!」
すると九すじの炎が壁から部屋の中央に接近し、ウィルと、外側を向いている四人の<古老>に近づいた。その青白い輝きにウィルは目がくらみ、もはや<旅人>が見えなかった。大きな光の後方のどこかで恨みに狂った金切り声が高くわめきつづけた。「あんたは俺の生命を、本と引き替えにしようとした! しるしを運ばせた! 何世紀もの間、<闇>に追われるがままにして、しかも死なせてはくれなかった! 今度はあんたの番だ!」
「今度はあんたの番だ! 今度はあんたの番だ!」と悲鳴はぐるりの壁にこだました。背の高い九すじの炎はじわじわと近づき、<古老>たちは床の中央に立ってその接近を見守った。暖炉のそばでは、メリマンがゆっくりと中央を向いた。顔は再び無表情になり、深い目は暗く虚ろで、しわは非情に刻まれていた。その顔に自己をさらけ出すような強い表情を見ることは、当分の間ないだろうとわかった。ホーキンの体と心に戻る機会を与えられたのに、<旅人>は拒絶《きよぜつ》した。もはや永久に機会はない。
メリマンは両腕を上げた。マントが翼のように腕から垂れ下がった。火の音だけの沈黙に深い声が鞭のように切り込んだ。「止まれ!」
九すじの炎はためらい、止まった。
「しるしの輪の名において」メリマンは明瞭に断固として言った。「われ汝らに立ち去るよう命ず」
大広間を取り巻く冷たい<闇>の火が、巨大な炎の後ろで笑っているようにゆらめき、はぜた。そしてその彼方《かなた》の暗黒の中から、<黒騎手>の声がした。
「きさまらの輪は完全ではない。それだけの力はない」と嘲った。「それにわれらを呼び入れたのはきさまの臣下《しんか》だ。これが始めてでもなければ最後にもならぬであろう。われらの臣下と言うべきだな、<光>の君よ。鷹は<闇>にくみした……きさまにはもはや、われらは追い出せぬ。炎も腕力《わんりよく》も全員の力もかなわぬ。きさまらの火のしるしなぞ取られる前に壊してやる。そうすれば輪は決してつながることはない。寒気の中で砕けるのだ、<光>の君よ、<闇>と寒気の中で……」
ウィルは身震いした。事実、大広間は冷え込み出していた。ひどく、空気が冷水の流れのようにあらゆる方向から押し寄せて来た。大きな暖炉の火も、もう熱は発してはいなかった。発しても、まわりの<闇>の冷たい青い炎に吸い込まれてしまうのだ。九すじの炎は再び震え出した。見ているうちに、炎ではなく巨大な氷柱に思えてはならなかった。青白いのは同じだが実体を持ち、あぶなっかしい大きな柱となって今にも内側へ倒れ、彼ら全員を重さと冷たさで押しつぶしそうだった。
「……寒気……」暗がりから<黒騎手>がそっと言った。「……寒気……」
ウィルはあせってメリマンを見た。ひとりひとり、室内の<古老>がそれぞれが、<騎手>の声が聞こえ出した時から、ありったけの力で<闇>をはね返そうとしていたのを知っていた。まるで効果がなかったことも知っていた。
メリマンが静かに言った。「ホーキンが引き込んでいるのだ。最初の裏切りの時にしたようにな。われらには止められぬ。かつて私の信頼を受けていた者として、その事実から力を得ているのだ。信頼そのものが失われた今も、唯一の望みは、初めと少しも変わってはおらぬ。ホーキンが人間にすぎぬという、その点ひとつだ。厳寒《げんかん》の呪文が唱えられたとなると、打つべき手はほんどない」
青白い火の輪がゆらめき舞う中で、メリマンは眉をひそめた。その彼も寒そうに見え、顔の骨格に沿って暗く、ひきつった感じがあった。「やつらが厳寒を運んで来る」と半ばひとりごちた。「無の、黒い虚空の寒さを……」
寒さはますます厳しさを増し、体を切り裂いて精神に達した。と同時に、<闇>の炎が弱まるように見え、ウィルは自分の時代がまた立ち戻って来て、再びミス・グレイソーンの館にいるのを知った。
だが寒気はそこにも存在していた。
全てが変わり始めていた。低い話し声は、陽気なおしゃべりから不安そうなつぶやきに変わった。天井の高い部屋はわずかに照らされているのみで、それも燭台《しよくだい》やカップや皿や、あらゆる空間に立てられたろうそくによってだった。明るかった電灯は全て消え、部屋の大部分を暖めていた金属の長い放熱器は、熱を出していなかった。
メリマンが、急ぎの用事から戻った者のような様子でそばにスッと現れ、驚かせた。マントは微妙に変化して、その日の昼間に着ていたゆったりしたオーバーとなっていた。メリマンはミス・グレイソーンに「奥さま、下を見て参りましたが、どうにも手のつけようがございません。炉はもちろん消えてしまっておりますし、電線も全てやられております。電話も不通でございます。ある限りの毛布や刺子《さしこ》ぶとんも出させました。ハンプトン家政婦がスープや熱い飲み物を沢山こしらえているところでございます」
ミス・グレイソーンはわが意を得た、というようにうなずいた。「古いガス・ストーブをみんな取っておいてよかったよ。中央暖房を取り入れた時に、ストーブを替えろと言われたんだけどね、リオン、断ったんだよ。電気なんて――この家が喜んでいないことはわかっていたよ」
「火を絶やさないように、できるだけ沢山の薪を運ばせております」とメリマンが言ったとたん、嘲笑《あざわら》うかのように、大きな暖炉からジューという激しい音と蒸気《じようき》がほとばしり、すぐそばにいた者たちが息を詰まらせ、咳込みながら逃げた。吹き込んで来た煙の雲を通して、ドースンさんとジョージ爺さんが火の中から何かを掻《か》き出そうとしているのが見えた。
だが火は消えてしまった。
「雪が煙突から!」とドースンさんが咳込んで叫んだ。「バケツが要る、メリー、早く。こいつはひどい」
「ぼくが行く」ウィルはどなると、動くきっかけができてホッとして台所に向かった。ところが、冷え切り、怯えて固まっている人々の中を通ってドアまで行き着く前に、立ち上がって行手を阻んだ物があった。ふたつの手にガッキと両腕をつかまれ、ウィルは苦痛に息を呑んだ。ギラギラ輝く目が勝利に酔ってウィルの目にくいいり、<旅人>のかん高い、細い声が耳もとでわめきたてた。
「<古老>よ、<古老>よ、最後の<古老>よ、おまえがどうなるかわかるか? 寒さがはいり込んで来て、<闇>がおまえを凍えさす。冷たく、カチカチになって、誰も、どうすることもできないのさ。そのベルトにつけた小さなしるしを護る者はいなくなる」
「放せ!」ウィルは乱暴に体をひねったが、手首をつかんだ老人の手には狂気の力がこもっていた。
「小さなしるしが誰のものになるかわかるか、<古老>よ? 俺だ。哀れな<旅人>の俺が身につけるんだ。俺の奉公のほうびとして、もらえることになっているんだ――<光>の君たちは誰も、これほどのほうびをくれたことはなかった。ほかの誰も……俺が<しるしを捜す者>になるのさ。俺がな。いずれ、おまえのものになるはずだったものは、全て俺のものになる……」
ウィルのベルトをつかもうとしたその顔は勝ち誇ってねじれ、つばが口を泡のように縁取った。ウィルは助けを求めて叫んだ。たちまちジョン・スミスが、次いでアームストロング医師がとんできた。大柄な鍛冶屋はもがく<旅人>の手を後ろにねじ上げた。老人は毒づき、わめき、憎悪に燃える目でウィルをにらみつけ、押さえておくのはふたりがかりでやっとだった。ようやく、害をなせないよう動けなくしてしまうと、アームストロング医師が一歩さがって腹立たしげなためいきをついた。
「カッカしているのは、国じゅうでこいつだけだろうよ。何もこんな時に凶暴性《きようぼうせい》を発揮しなくても――脈があろうがなかろうが、しばらく眠らせておこう。みんなにとっても、こいつ自身にとっても、このままじゃ危険だ」
ウィルは痛む手首をさすりながら、どういう種類の危険か先生が知ってさえいたら、と思った……そしてふいに、メリマンの言ったことの意味かわかり出した。唯一の望みは、初めと少しも変わってはおらぬ。ホーキンが人間にすぎぬという、その点ひとつだ……。
「押さえておいてくれ、ジョン、かばんを取ってくるから」医師は姿を消した。ジョン・スミスは大きな片手で<旅人>の肩を、もう一方でその両手首をつかみ、ウィルに励ますように目くばせして、台所のほうへあごをしゃくった。ウィルはハッと用向きを思い出して走り去った。空のバケツを両手にぶらさげて駆け戻って見ると、暖炉のそばでは新たな騒ぎが起こっていた。またジューッと音がし、煙が吐き出され、フランク・ドースンがよろめいてあとずさった。
「どうにもならん!」とやけ気味に言った。「どうにもならん! 炉の雪をどけたと思うと、またドサッと落ちてくる。それにこの寒さ――」と絶望したようにまわりを見まわした。「ごらん、ウィル」
室内はみじめさと混乱に満ちていた。赤ん坊は泣き声を上げ、親は、息ができる程度に暖めようと、子供を囲んでうずくまった。ウィルは冷えた手をこすり合わせ、寒さでかじんだ足と顔の感覚を戻そうとした。部屋は次第次第に冷えこみ、凍りつくような外界からは、風の音さえ聞こえない。<時>の中の二箇所に同時に存在しているような感覚が、脳裏にまだつきまとっていた。もっとも、あの古代の館に関しては、部屋の三方を囲んだ九本の巨大なろうそくの、しつこく不吉な存在しか意識されなかった。新たな寒気によって自分の時代に引き戻された時にはまだ亡霊《ぼうれい》のようでほとんど見えなかったがそれらは、寒さが増すにつれて鮮明になり出していた。ウィルはそれらをくいいるように見つめた。それらが何らかの意味で、真冬に最頂点に達した<闇>の力を体現しているのがわかった。だが同時に、<闇>に操られているにすぎない全く独立した魔法の一部で、この長い戦に関わっている他の多くのもの同様、正しい時に正しいことをしさえすれば、<光>の側に奪い取ることができるものなのだ。だが、どうやって? どうやって?
アームストロング医師が黒いかばんを持って、病室のほうへ戻って来た。もしかしたら、ひとつ方法があるかもしれない。寒気が破滅の域に達する前に、<闇>を押さえる方法がひとつだけ、何も知らずに他人を助けようとしている男。これが、ひょっとすると、<闇>の超自然的な力の全てをはぐらかす、たったひとつの小さなきっかけなのかもしれない……ウィルは、突然の興奮に神経を張りつめて待った。医師は、鍛冶《かじ》屋のジョンにつかまったままわけのわからない悪態《あくたい》を吐《は》いている<旅人>に近づき、器用に針を腕に差し込んでまた抜き取った。老人が気づく間もなかった。「そら」と医師がなだめた。「これでいい。ひと眠りするんだな」
万一を考えてウィルは本能的に前に進み出、それと同時に、メリマンとドースンさんとジョージ爺さんが近づいて来るのを見た。医師と患者はぐるりを、邪魔のはいらないよう固めている<古老>の輪に囲まれていた。
<旅人>はウィルを見とめ、犬のように唸って、欠けた黄色い歯をむき出した。「凍えろ。おまえは凍えるんだ」と吐き捨てるように言った。「しるしは俺のものだ。おまえが……どうあがいても……どう……」だが薬が眠気を全身にまわらせるに従って、<旅人>はふらつき、目をしばたたき、声をひそめた。疑惑が目に宿る頃には、まぶたが垂れ下がっていた。<古老>はそれぞれ一、二歩前へ出て、輪を引き締めた。老人は再びまばたきし、白目をひらめかせてぞっとさせたが、すぐに意識を失った。
一瞬にして変化が生じた。室内の緊張がゆるんだ。寒気は厳しさを減じ、まわりじゅうにきりのようたちこめていたみじめさと不安が、少なくなり出した。アームストロング医師は、とまどった物問うたげな目をして体を起こした。自分を取り巻く真剣な顔の輪を見ると目はますます見開かれ、ムッとしたように言いかけた。「いったい何の――」
だがウィルには最後まで聞きとれなかった。メリマンが人混みの中から、人間には聞えない精神の言葉でひそやかに、必死に、<古老>たちに呼びかけたのだ。「ろうそくだ! 冬のろうそく! 消える前に取るのだ!」
四人の<古老>は急いで、死んだように冷たい炎を上げる異様な青白い円柱がまだぼうっと三方を取り巻いている大広間に散らばった。足ばやにろうそくに近づくと、片手に一本ずつつかんだ。背の小さいウィルは慌てて椅子にとび乗り、最後の一本をひっつかんだ。冷たく、なめらかで重く、溶けない氷のようだった。触れたとたんにめまいがし、目が回って……
……そしてウィルは他の四人と共に、あの古代の大広間に戻っていた。炉端の背もたれの高い椅子には再び老婦人がかけていて、鍛冶屋の青い目のおかみさんがその足もとにすわっていた。
どうせねばならないかは明らかだった。一同は<闇>のろうそくを持って、厚いテーブルの上の大きな鉄のマンダラ形のろうそく立てに近づき、中央の横棒にあいたままの九つの穴に、一本ずつ挿《さ》し込んだ。どのろうそくも、そのたびに変化し、炎が細く高く伸び上がって、冷たい危険な青の代わりに金色がかった白になった。一本しか持っていないウィルが最後で、手を伸ばして紋様の中心に残った最後の穴にはめ込むと、全てのろうそくの炎がパッと上へ伸びて勝ち誇った火の輪となった。
老婦人がかぼそい声で言った。「それが<闇>から奪い取った力ですよ、ウィル・スタントン。彼らは寒気の魔法を用いて、冬のろうそくを破壊のために呼び出しました。わたしたちが良い目的のために奪い取った今、ろうそくの威力は増し、あなたに火のしるしをもたらすことができるのです。ごらんなさい」
一同は少し離れて見守った。ウィルが挿し込んだ中央の最後のろうそくが大きくなり出した。炎は、他の炎をはるかに追い越すと色づき出し、黄色に、オレンジに、朱色《しゆいろ》に染まった。さらに伸び続けるうちに炎は不思議な茎《くき》の上の不思議な花と化した。八重の丸い花が輝き、どの花びらも、異なった炎の色を表していた。ゆっくりと優美に、花びらは一枚ずつ開き、落ち、漂って空気に溶け込んで行った。そして最後に、炎の赤のその植物の、長く湾曲した茎の先端に、光る丸い種が残った。一瞬やさしく揺れていたと思うと、音もなくすばやく、はじけて開いた。五つに分かれた殻が固い花びらのように拡ろがった。中には金紅色の輪があった。全員がよく知っている形だった。
老婦人が言った。「お取りなさい、ウィル」
ウィルは驚愕《きようがく》の念に打たれたまま二歩テーブルに近づいた。ほっそりした長い茎はウィルのほうにしない、手を出すと、黄金の輪が落とし込まれた。とたんに見えない力の波に襲われた。仙術の書が破壊された時に感じたものと同じだった――よろめいて、体勢を立て直すと、テーブルが空なのが見えた。あっという間に、上にあった全ての物が消えていた。不思議な花も九本の輝くろうそくも、それらを全部支えていたしるし形の鉄の枠も。消え失せていた。何もかも。火のしるしだけを残して。
火のしるしはウィルのてのひらにあり、暖かく、今までに見たなかでも、最も美しいもののひとつだった。いくつかの異なった色合いの金が、極めて巧《たく》みに打ち合わされて、丸に十字の形になっていた。どの面にも小さな宝石、ルビーやエメラルドやサファイアやダイヤモンドが、妙に見覚えのある変わった紋様にちりばめられている。ありとあらゆる火のように、手の中できらめき輝いた。よく見ると、外側の縁に、小さく文字が記されているのが見えた。
リフト メク ヘフト ゲワルカン
メリマンがそっと言った。「<光>の命《めい》によりわれは造られたり」
これでしるしは、ひとつを除いては全てそろった。ウィルは喜びにあふれて腕を振りかざし、他の者に見えるようしるしを高く掲げた。黄金の輪は、大広間の全ての<光>のきらめきを反射し、炎で出来ているかのように燦然《さんぜん》と光り輝いた。
大広間の外のどここから、尾を引く怒りのうめきに貫かれた叩きつけるような大轟音《ごうおん》がした。音は轟《とどろ》き、うなり、再び叩きつけた……
……そして音が耳を打つと同時に、ウィルはミス・グレイソーンの大広間に戻っていて、まわりじゅうの見なれた村人の顔が、不思議そうに天井に、そして屋根の彼方の不満そうなうなり声に向けられていた。
「雷?」誰かがとまどったように言った。
青い光が窓という窓にひらめき、雷が耳もつぶれんばかりの近さで轟いたので、誰もがたじろいだ。再び光が走り、再び轟音が響き、どこかで子供が細くかん高く泣き出した。だが、音が続くのを予期していたにもかかわらず、混み合った部屋の人々の耳には何も聞えて来なかった。閃光《せんこう》も、雷鳴も、はるかな呟きすらもなかった。その代わりに、炉端の灰がシュウシュウ言うだけの息詰まる短い沈黙のあとで、そっと叩くような音が外で聞えた。徐々に激しく、次第に大きくなり、ついに窓にドアに屋根に、間違えようのない乱拍子となった。
さきほどの誰ともわからぬ声が歓声を上げた。「雨だ!」
あちこちで声が上がり、沈んでいた顔がほころんだ。外を見に暗い窓辺に駆け寄った者たちが、大喜びで他の者を招いた。一度も会った覚えのない老人が、ウィルを見て歯のない口で笑った。「雨がこの雪を溶かしてくれっぞ!」とかん高い声で言った。「それこそ、あっちゅう間に溶けっちまうぞい!」
ロビンが人混みの中から現れた。「ああ、見つけた。このいまわしい部屋が急に暖かくなったような気がするんだが、ぼくの頭がどうかしちまったのかな?」
「暖かくなってるよ」ウィルはセーターを引きおろした。その下のベルトには、今や火のしるしが残りと一緒にしっかり通してあった。
「妙だな。しばらくはぞっとするほど寒かったのに。また暖房が使えるようになったのかな……」
「雨を見に行こうぜ!」ふたりの少年が、ウィルたちのそばを駆け抜けて大扉に近づいた。が、まだ把手《とつて》をいじっているうちに、外側で叩く音が大きくたて続けにした。扉が開いてみると、上がり段の上に、やわらかく降り注ぐ雨に濡れた髪を頭に貼りつかせて、マックスが立っていた。
息せききっていて、言葉を形造るために必死に空気を呑み込むのが見えた。「ミス・グレイソーンは? 父はおりますか?」
ウィルは肩に手が置かれるのを感じた。見るとそばにメリマンがいて、その目の中の懸念《けねん》の色から、何らかの意味でこれが<闇>の新手《あらて》の攻撃なのだと悟った。マックスがウィルをみとめて近づいて来た。雨のしずくが顔を伝い落ちる。マックスは犬のようにしずくを振り払った。
「父さんを呼んで来い、ウィル。できれば先生も。母さんが事故にあったんだ。階段から落ちて、まだ意識が戻らない。足が折れたみたいなんだ」
スタントン氏は既に聞きつけて、医師の部屋に駆けて行った。ウィルは苦しげにマックスを見つめながら、怯えてメリマンに呼びかけた。「あいつらがこれもやったの? そうなの? あのかたが言ってらしたけど――」
「ありうる」と頭の中で答えがした。「確かに君を傷つけることはできぬし、人間を滅ぼすこともできぬ。だが、人間の本能をそそのかして自らに害をなすようしむけることはできる。あるいは、誰かが階段の上にいる時に、雷鳴でふいを突くとか……」
ウィルはそれ以上聞いていなかった。父や兄たちやアームストロング医師と共に扉の外に出て、マックスのあとについて家へ向かっていた。
火と水の玉
医師が無事に到着して居間でスタントン夫人を診察し始めても、ジェイムスはまだ蒼ざめ、うろたえていた。手近にいた兄弟――たまたまポールとウィルだったが――を脇にひっぱって、他のものに聞えないところまで連れて行くと、悲しそうに言った。「メアリーが消えちゃった」
「消えた?」
「本当だよ。行くなって言ったのに。まさか行くなんて。そんな度胸はないと思ったのに」日頃はがまん強いジェイムスも、心配のあまり泣き出さんばかりだった。
「行くってどこへ?」ポールが問い糺《ただ》した。
「館へだよ。マックスがみんなを呼びに行ったあとだった。グウェニーとバーは母さんに付き添って居間にいた。メアリーとぼくは台所で紅茶を入れてたんだけど、メアリーが慌て出して、マックスは時間がかかりすぎる、何かあったんじゃないか、見に行くべきだって言い出したんだ。ぼくは、馬鹿なことを言うな、外へ出たりしちゃだめだって言ったんだけど、その時グウェンが居間の火をおこすのにぼくを呼んで、戻って来たらいなかったんだ。オーバーと長靴がなくなってた」ジェイムスは鼻をすすった。「どっちへ行ったかもわからなかった――雨が降り出したとこで、足跡もきえちゃってた。ぼくも黙って捜しに行こうと思ったんだよ。姉さんたちには、ただでさえ心配ごとがいっぱいあるんだもの。けど、その時みんなが戻ってきたんで、メアリーも一緒だろうと思ったんだ。でも違った。どうしよう」ジェイムスは嘆いた。「全く間抜けなんだから」
「もういいよ」ポールが言った。「遠くまで行ったはずはない。あっちへ行って、折を見て父さんに話して、ぼくが迎えに行ったって言えよ。ウィルも連れて行こう。ふたりともコートを着たままだから、ちょうどいい」
「いいよ」ウィルは一緒に行く口実を慌てて考えていたところだった。
再び雨の中に出てみると、雪はすでに足の下でねずみ色にぬかり始めていた。ポールが言った。「そろそろ、わけをすっかり話してくれてもいい頃じゃないか?」
「ええ?」ウィルは仰天《ぎようてん》した。
「おまえ、何に巻き込まれているんだ?」ポールは分厚い眼鏡の奥から、水色の目で厳しく見すえた。
「べつに」
「いいか、もしメアリーがいなくなったことと何らかの形で関係があるなら、何がなんでも説明してもらうぞ」
「困ったなあ」ウィルは、自分をにらんでいるポールの断固たる顔を見て、どう説明すればいいのだろうと思った。十一歳の少年が、もはやただの十一歳児ではなく、人間の生存のために戦っている微妙に異なった存在なのだということを、自分の兄に説明せねばならないとは……
説明など、しないことだ。
「こいつらのせいだと思うんだ」ウィルは慎重に左右を見て、上着とセーターをベルトより高く上げ、しるしをポールに見せた。「骨董品《こつとうひん》なんだ。ドースンさんが誕生日にくれたバックルなんだとけど、本当はすごく値打ちがあるらしいんだ。変な人がニ、三人、ぼくから取ろうとしてつきまとってるんだもの。ハンタークーム小路で追いまわされたこともあるし……あの浮浪者も何かかかわりがあるんだよ。だから、雪の中に倒れているのを見つけた時、うちに連れて帰るのは嫌だったんだ」
われながら、いかにも作り話めいていると思った。
「ふうん」ポールは言った。「じゃ、あの館の新しい執事は? リオンって言ったっけ? あいつらも変なやつらの仲間なのか?」
「違うよ」ウィルは慌てた。「あの人は友達だよ」
ポールは一瞬、無表情にウィルを見つめた。ウィルは、全てが始まったあの晩、屋根裏部屋でポールがいかに辛抱強く思いやりがあったかを思い、古いフルートをどんなふうに吹いたかを思った。兄たちの誰かに打ち明けるとしたら、ポールをおいてはいない。だが打ち明けるなど問題外だった。
「どうやら、まだ半分も話してくれてないらしいな」とポールは言った。「しょうがない。じゃあ、おまえは、その骨董品狂いのやつらがメアリーを人質かなんかに取ったと思ってるんだな?」
車道のはずれに着いたところだった。雨が激しく、だが激しすぎずに降り注いだ。雪の土手を流れ落ち、木々からしたたり、道を急な流れにし始めていた。ふたりは空しく左右を見まわした。ウィルは言った。「そうに違いないよ。だって、館にまっすぐ向かったのなら、ぼくらが帰り道に会わなかったはずがないもの」
「とにかく行ってみよう。念のために」ポールはひょいと頭をかしげて空を見上げた。「この雨! 考えられないよ! あれだけ雪が降っていたのに、全くいきなり――それに気温もずっと上がっている。わけがわからない」流れる川と化したハンタークーム小路をしぶきを上げて歩きながら、ポールはウィルをちらりと見て、とまどったようにかすかに笑った。「まあ、わけのわからないことは、それだけじゃないけどね」
「ああ。うん。そう」ウィルは良心のとがめを隠すためにバシャバシャ音をたてて歩き、滝のような雨をすかして姉を捜した。今や周囲の騒がしさは驚くほどで、風が木々に規則正しく雨を吹きつけるたびに、飛び散る泡と、洗われる小石と、砕ける波から成る海の音が聞えた。太古の昔、人間や人類の祖先が生まれる前の大海に臨《のぞ》んでいるかのような音だった。ふたりは道を上がり、今や不安になって目を凝らし、呼び続けた。雨が雪をえぐって新たな小道や丘を作り、見るもの全てが異相《いそう》を呈していたが、とある角に来た時、ウィルはそれがどこなのかハッと気づいた。
ポールが身を護《まも》ろうと、腕をかざしてかがむのが見えた。つんざくような、耳ざわりなしゃがれ声がふいに大きく聞えたと思うと止み、横なぐりの雨を通して、ふたりの頭を低くかすめて飛ぶミヤマガラスの群れの黒い翼のはばたきが見えた。
ポールはゆっくりと体を起こし、目を丸くした「いったい全体――」
「道の向こうっ方《かた》に行くんだ」ウィルは断固として兄を横に押しやった。「時々カラスどもはおかしくなるんだよ。前にも見たことがある」
べつのわめきたてる一団が後ろからポールを襲い、前へ追い立てた。最初の群れは再び突っ込んで来て、吹きだまりにうずもれた森沿いの雪の土手にウィルをへぱりつかせた。繰り返し繰り返し、群れは襲って来た。かわしながら、自分たちが羊のように追いやられ、ミヤマガラスの意のままに動かされていることにポールは気づいたかしら、とウィルは思った。思いながらも遅すぎるのがわかっていた。灰色の雨の壁は完全にふたりを切り離してしまっていた。ポールがどこへ行ったのか、見当もつかなかった。
ウィルはあせって叫んだ「ポール? ポール!」
だが内に住む<古老>が乗り出すにつれて、不安が鎮《しず》まり、どなるのをやめた。これは普通の人間が関わるべきことではない。たとえ家族であっても。ひとりになったのを喜ぶべきだったのだ。今や、メアリーがつかまり、<闇>の手でどこかに留め置かれているに違いないのがわかった。取り戻す機会は今しかない。降りしきる雨の中に立ちつくして、ウィルはあたりを見まわした。どんどん暗くなりつつあった。ベルトをはずして右手首に巻きつけると、いにしえの言葉でひとこと言い、腕を差し上げた。五つのしるしからゆるぎない光の道が、懐中電灯の先からのように射しいでた。光の照らし出したものは波うつ茶色い水だった。道が川となって水かさを増し、勢い良く流れているのだ。
メリマンがずっと前に言ったことが思い出された。<闇>の力が最も危険な頂点に達するのは十二夜なのだ。今がそうなのだろうか?
ここ数日間、日にち勘定《かんじよう》が合わなくなり、頭の中で混乱をきたしていた。立ち止まって考えているうちに、水が長靴の上の縁を洗い、慌てて森を縁取る雪土手にあとずさった。道=川の中から茶色い波が出て、ウィルがそれまで立っていたあたりの雪の壁から、大きくひとかけら噛み取った。しるしの光で、水中にほかにも汚れた雪や氷の塊がプカプカ浮いているのが見えた。流れて行くにつれて、水が次第に、除雪車が残して行った両脇の固い雪堤を下から切り崩し、小型の氷山のようなかけらを運び去って行くのだった。
水中にはほかのものもあった。バケツが流されて行くのが見えた。ふさふさしたものは、干草入りの袋らしい。家々の庭から物を押し流せるまでに水面が上がっているのだ――ウィルの家の庭もやられたかもしれない。どうしてこんなに早く水かさが増すのだろう? 答えるかのように、雨が背中に叩きつけ、足の下の雪がまた少し崩れた。足もとの地面は雨が来る前に国じゅうを麻痺《まひ》させた大寒波のためにカチカチに凍ったままに違いない、と心づいた。雨は地下にしみこめずにいるのだ。土がゆるむのには、雪が溶けるのよりもはるかに時間がかかる――その間、雪どけ水は行き場を失い、合流すべき川を求めて凍った地表を流れまわるしかない。おそろしい洪水《こうずい》になるだろう、とウィルは思った。今までにないほどひどいものに。寒気もかなわぬほどひどいものに……。
いきなり声が掛かった。流れに行く水と叩きつける雨をついて叫び声が聞えた。ウィルはぬかるみに縁取られた雪の山をよろよろ上り、薄闇の中をすかし見た。再び呼ぶ声がした。「ウィル! こっちだよ!」
声は道=川そのものから、暗がりの中から聞えた。ウィルはしるしを掲げた。光のすじが逆巻く水越しに照らし出したものは、最初は蒸気の雲に見えた。が、すぐに、逆巻く蒸気は吐き出された息だと分かった。すさまじい吐息の源《みなもと》は、水の中に正面を向いて立ちはだかる巨大な馬だった。小さな狂ったような波が、膝のあたりを泡立ち流れている。幅の広い頭部、濡れて首に貼りついた長い栗色のたてがみを見て、この馬はカストールかボルックスのどちらかだとわかった。ドースン農場にいる、二頭の大きな荷馬の一頭だ。
しるしの光がもっと上をかすめると、黒い防水服にくるまったジョージ爺さんが大きな馬の背高くまたがっているのが見えた。
「こっちだ、ウィル。水かさが増す前に歩いて来い。仕事があるんじゃ。早く!」
ジョージ爺さんの有無を言わせぬ口ぶりというのは初めてだった。今の彼は<古老>なのだ。愛想のいい老いた作男ではない。馬の首にもたれるようにして、老人は水の中を前進させた。「そら行け、ポリー、もう少しじゃ、ボルックスどの」大きなボルックスは広い鼻腔《びこう》から湯気のような息を吐《は》き出して、ニ、三歩のっしのっしと歩いた。ウィルは川=道にまろび出て、馬の木のような脚につかまることができた。水はふともものあたりまで来たが、既に雨でずぶ濡れだったのでどうということはなかった。馬の背には鞍《くら》はなく、塗れた毛布が置かれているだけだったが、ジョージ爺さんがかがみ込んで驚くべき力でウィルの手をひっぱってくれ、かなり苦労したがなんとか乗ることができた。さんざんねじったり、ひねったりしていた間じゅう、手首に巻きつけたしるしの光は一度もゆらぐことなく、進むべき方向をまっすぐ照らし続けていた。
ウィルがまたがるには馬の背は広すぎ、すべったりずり落ちたりしそうになった。ジョージがひっぱり回して馬の首にまたがらせた。「ポリーの首は、おまえさんよりはるかに重い荷だって、かついだことがあるんじゃ」ジョージはウィルの耳もとでどなった。頑丈な荷馬は歩み出すにつれて、揺れながら、次第に深まる流れの中をしぶきを上げて進み、カラスが森から、スタントン家から遠ざかって行った。
「どこへ行くの?」ウィルはどなって、不安げに闇を見詰めた。しるしの光に渦巻く水、それ以外には何ひとつ見えなかった。
「狩りの手を上げに行くのさ」耳もとで老いた声が響いた。
「狩り? 何の狩り? ジョージ、メアリーを見つけなくちゃならないんだ。やつらがどこかに隠しているんだよ。それに、ポールも見失っちゃったし」
「狩りの手を上げに行くのさ」背後の声は騒がずに続けた。「ポールなら見かけた。無事だ。今頃は家へ向かっているだろう。メアリーはいずれ見つかる。今は狩人《かりゆうど》を呼び出す時じゃ、ウィル。白馬は狩人のもとに行かねばならん。連れて行くのはおまえさんの役目だ。それが順序というものじゃ。忘れてしまったな? 河が谷にやって来る。白馬は狩人のもとへ行かねばならん。そのあとのことは、あとのことよ。ウィル、わしらには仕事がある」
雨がますます激しく降り、遠く宵闇《よいやみ》のどこかで雷が轟く中を、大きな荷馬のボルックスは、かつてハンタークーム小路であった茶色い急流の中を辛抱強くしぶきを上げて進んだ。
現在地がどこかを見分けるのは不可能だった。風が吹き出し、ボルックスの規則正しい足音にかぶさるように、揺れる木々のざわめきが聞こえた。村には明かりひとつ見えない。事故か闇の手先によってか、停電させられたままなのだろう。どのみち、村のこのあたりに住む人々は、まだ館にいるはずだ。
「メリマンはどこ?」激しい雨音をついてウィルは声を上げた。
「館じゃ」ジョージが耳もとでどなった。「ドースン旦那と。包囲されてる」
「閉じこめられちゃったの?」ウィルの声は心配のためにかん高くなった。
ジョージ爺さんはぐっと近づいて、聞き取りにくくささやいた。「わしらが動けるように、注意を引きつけとるんじゃ。洪水のせいで忙しくもあるし、下をごらん、坊」
しるしの光は、逆巻く水に流されていくさまざまな奇妙な品々を照らし出した。籐《とう》のかご、バラバラになりかけたボール箱がいくつか、鮮やかな赤いろうそく、からまり合ったリボンが数本。そのうちの一本にウィルはハッとした。どぎつい紫《むらさき》と黄色の格子縞《こうしじま》。メアリーがクリスマスの日に、注意深く包みからはずして丸めていたものだ。リスのように何でもため込むメアリーは、これも宝物に加えていたのだ。
「これもみんな、うちから流されてきたんだ!」
「あっちも洪水だからな。土地が低いし。だが危険はないよ。ただの水だ。それと泥」
爺さんが正しいのはわかっていたが、自分の目で確かめたいと思わずにはいられなかった。みんな走りまわっているだろう。家具やじゅうたんを動かすし、本や動かせるものをどかして、これらの漂流物《ひようりゆうぶつ》は、水が実際にものをさらい出していることに誰かが気づく前に運び出されたに違いない……。
ボルックスが初めてつまずき、ウィルは濡れた栗色のたてがみにしがみついた。もう少しですべり落ち、自分まで押し流されるところだった。ジョージがなだめるように話しかけると、大きな馬はためいきをつき、鼻を鳴らした。今やかすかな明かりがいくつか見えた。村はずれの高台の、大きい家々の明かりだ。ということは、共有地に近づいているということだった。まだ湖と化していなければの話だが。
何かが変わりつつあった。ウィルは目をしばたたいた。水が遠ざかり、見えにくくなったようだ。手首にからめたしるしの光が弱まり、消えて行くのに気づいた。あっという間に暗闇の中にいた。光が完全に失せるや否や、ジョージ爺さんがそっと言った。「どうどう、ポリー」荷馬は水音高く立ち止まり、波うちすぎる水の中に突っ立った。
「ここでおわかれじゃ、ウィル」
「そう」ウィルはしょんぼりとなった。
「指示はひとつしかない」ジョージ爺さんが言った。「白馬を狩人のもとに連れて行くこと。おまえさんが面倒《めんどう》に巻き込まれさえしなければ、連れていけるように事が運ぶはずじゃ。面倒に巻き込まれないように、ふたつだけ忠告をしとこう。わしからおまえさんへの個人的な忠告をな。第一に、わしがいなくなったあと、百数えるまでじっとしてれば、あたりを見るのに十分な光が得られる。第二に、とっくに知ってることを思い出せ。流水には魔法はきかないのさ」と励ますようにウィルの方を叩いた。「さあ、しるしをまた腰に戻して、おりてくれ」
おりるのは乗るのよりもはるかに苦労で、びしょ濡れになってしまった。ボルックスの背が地面からあまりにも高いところにあるので、レンガでも落としたようにバシャーンと大しぶきを上げてしまったのだ。だが寒さは感じなかった。雨は相変わらず吹きつけてはいたが、やさしく、体が冷え切らないよう何か奇妙な形で護ってくれているようだった。
ジョージ爺さんは再び「わしは狩り手を集め行く」と言うと、ひとことの別れも告げずに、ボルックスを共有地に向かって進ませ、見えなくなった。
ウィルは川=道の脇の雪の土手をよじ登り、転ばずに立てる余地を見つけ、百まで数え出した。七十までいく前に、ジョージ爺さんの言葉の意味がわかった。次第に、暗い世界が内側から明るくなり出したのだ。奔流《ほんりゆう》、穴ぼこだらけの雪、痩せた木々。全てが暁《あかつき》のような灰色の死んだ光の中で見えた。とまどいがちにあたりを見まわしているうちに、あるものが急流に浮かんで通りすぎて行くのが見えた。驚きのあまり、また水の中に落っこちるところだった。
最初に見えたのは枝角だった。ゆっくりと上下に揺れるさまは、大きな頭がうなずいているかのようだ。それから色彩。派手な青や黄や赤がクリスマスの朝に初めて見た時そのままに。異様な顔の細部は見えなかった。鳥のような目も、突っ立った狼の目も。だがウィルの謝肉祭用の仮面であることは間違いなかった。老ジャマイカ人が、ウィルに渡すようにとスティーヴンに託《たく》した不可解な贈り物。ウィルにとって世界中で一番大切なものだ。
ヒッと声を上げ、ウィルは必死にとび出した。遠くへ運び去られないうちにつかまえなくては。ところがはずみで足をすべらせてしまい、体勢を立て直した時には、鮮やかで奇妙な仮面はプカプカと漂って見えなくなってしまっていた。ウィルは土手を走り出した。<古老>たちのものでスティーヴンからの贈り物なのに、失くしてしまうとは。なんとしても取り戻さなければ。その時、あることを思い出して足を止め、ためらった。「第二に」ジョージ爺さんは言った。「流水には魔法はきかないんだ」と。仮面は流水の中にある。明らかすぎるほど明らかだった。その限りにおいては、誰にも傷つけたり、悪い目的のために使うことはできない。
ウィルはしぶしぶ、仮面のことを考えないようにした。広大な共有地が目の前にひらけていた。それ自体の発する不思議な光に照らされて、何ひとつ動かない。普通なら一年中ここで草をはみ、霧深い日などには実体のある亡霊《ぼうれい》のようにヌッとどこからともなく現れる牛の群れさえ、雪に追われて農場の屋根の下にこもったままだ。ウィルは慎重に動いた。長いこと聞えつづけていた水音が変化し出し、大きくなった。ハンタークーム小路を満たしていた本流がウィルの前で脇にそれ、小さな地元の川に流れ込んだ。小川は今や泡立つ大河にふくれ上がり、共有地の上をどんどん流れ去っていく。川=道だった道はうねうねと続いている。邪魔ものはなく、がっちりとして、輝いて、ジョージ爺《じい》さんはこの道の先へ行ったのだ、とウィルは感じ取った。自分もそうしたかったが、川について行かねばならないという気がした。<古老>の第六感を通して、この川こそ、狩人のもとへ白馬を連れて行く方法を教えてくれるものだとわかった。
だが狩人とは誰だろう? 白馬はどこにいるのだろう?
ウィルは、新たに水量の増した川を縁取るでこぼこの雪堤に沿ってそろそろと進んだ。ずんぐりと枝を刈り込まれた柳の木が並んでいる。ふいに、向こう岸の黒い並木から、白い影がとび出した。闇ならぬ薄闇に銀色が走ったと思うと、濡れた雪を蹴り立てて、<光>の白い牝《め》馬がウィルの前に立っていた。息が雲のように雨のしずくをつつんだ。木のように背が高く、たてがみが風になびいていた。
ウィルはそっと触れてみた。「乗せてくれる?」といにしえの言葉でたずねた。「前みたいに?」
同時に風が強まり、鮮やかな稲妻が一閃《せん》して空をギザギザに縁取った。前よりも近い。白馬は身震いし、ビクッと頭を上げた。が、すぐにまた緊張をほぐした。ウィルにも、近づきつつある嵐が<闇>のなせるわざではないのが直感でわかつた。予期せること、これから起きることの一部なのだ。<闇>が攻めて来る前に、<光>が攻めて行くのだ。
しるしがベルトに固定されていることを確認すると、前と同じように手を伸ばして、白いたてがみの長い剛毛に指をからませた。とたんにめまいがし、遠いがはっきりと、あの音楽、鈴に似て忘れ難《がた》い、心を奪われる旋律が聞えた――ガクンという衝撃と共に世界が回り、音楽は消えた。ウィルは白い牝馬の背の上、柳の木々の間にいた。
今や轟く空のいたるところで稲妻がひらめいていた。ウィルの下の大きな背に筋肉が盛り上がり、長いたてがみにつかまると同時に、馬は共有地にとびだし、雪の丘や谷を越えた。ひづめが地表をかすって氷のようなはねを上げ、跡をつけて行った。弓なりになった牝馬の首にしがみついて風を切りながら、風の中に奇妙な高い鳴き声が聞えるような気がした。空高く渡る雁《かり》に似た声だ。声はウィルと馬を迂回《うかい》し、先へ進んで聞えなくなった。
白馬は高く跳躍《ちようやく》した。ウィルはますますきつくしがみつくと、溶けゆく雪の中から現れる生垣や道や壁を一緒に越えて行った。やがて風や雷よりも大きな音が新たに耳を打ち、行く手に波打つ黒いガラスが輝くのが見えた。テムズ河にたどり着いたのがわかった。
河がこのあたりでこれほど広くなったのを初めて見た。一週間以上も、かぶさる雪の冷たい壁によって細くせまく封じ込められていたのだ。自由の身となった今は、泡立ち、吠えたけり、雪や氷の大きな塊を氷のように浮かべてもてあそんでいた。これは河ではなかった。氷の復讐鬼《ふくしゆうき》だった。毒づき、咆哮《ほうこう》し、理性を失っている。見ているウィルは、生まれて初めてテムズ河を怖いと思った。<闇>のもの同様荒れ狂い、ウィルの知識と制御の範囲を超えている。とはいえ、<闇>のものでないのはわかっていた。<光>や<闇>を超越《ちようえつ》した、<時>の始めから存在している太古のもののひとつなのだ。太古のもの、それには火、水、石……木……そして、人類が生まれてからは、青銅、そして鉄がかぞえられる。河は解放されて、おのが心のままに動いて行く。「河が谷にやって来る……」とメリマンが言ったように。
白馬は荒れ狂う冷水のほとりにためらい、それからパッととび出した。逆巻く河の上高く上がった時初めて、ウィルは島を見た。前にはなかった島が、異様に光る浅瀬に囲まれて、ふくれ上がった激流の中に出現していた。白馬が再び黒い裸木《はだかぎ》の間に着地したショックを感じながら、これは島ではなく丘だと考えた。高台の一部が、水によってほかから切り離されてしまったのだ。いきなり、自分がここで大いなる危険に出会うのがはっきりわかった。この島ではない島、ここが試練《しれん》の場なのだ。ウィルはもう一度空を仰ぎ、ひそかに、必死にメリマンを呼んだ。が、メリマンは来ず、言葉も合図もウィルの精神に送り込んではくれなかった。
嵐はまだ始まらず、風も少し弱まっていた。河のどよめきが全てを圧していた。白い牝馬が長い首を下げたので、ウィルはぎごちなくおり立った。
凍って固いかと思うとふとももまで埋まるほどやわかい個所もある積雪を踏んで、この奇妙な島の探検を始めた。円形かと思ったが卵形で、白い牝馬の立っている端が一番高くなっていた。ふもとにはぐるりと木が生え、木の上にひらけた雪の斜面があり、それよりさらに上の方に帽子のようにかぶさった粗《あら》い潅木《かんぼく》の繁みに、一本の節くれだったブナの古木が君臨《くんりん》していた。この大木の根元の雪の中から、不思議きわまることに四本の小川が出て、丘である島を流れて下り、四つの部分に仕切っていた。白馬は微動だにしなかった。閃光の走る空で雷鳴が轟いた。ウィルはブナの古木のそばまで登り、一番手近な涌き水が、雪の積もった巨大な根の下から泡立ち流れ出るのを見守った。すると、歌が始まった。
歌には文句がなく、風に乗って聞えて来た。はっきりしたふしも形もない、細く高い、冷たい哀歌《あいか》だった。遠くから聞えていたが、感じのいいものではなかった。にもかかわらず、ウィルを金縛りにし、思考を正しい方向からそらし、あらゆるものを頭から追い払い、最も近くにあるものを見つめることしかできなくなった。ウィルは、頭上にそびえる木のように、自分も根を張り出した気がした。歌に耳を傾けるうちに、頭のそばの低い枝から別れている小枝が理由もないのに全く魅惑的《みわくてき》に見え、それひとつに世界全体がこめられているかのように、ひたすらながめるばかりだった。小さな枝に沿ってゆっくり目を動かし、またゆっくり戻し、あまりに長いこと見つめていたので何カ月もたったように思われた。高い、不思議な歌声は空の果てから延々と続いた。そして、ふっと止んだと思うと、ウィルはぼうっとしたまま、鼻の先をごくあたりまえのようにブナの小枝にくっつけんばかりにして突っ立っていた。
<闇>には<闇>なりに自分たちの魔法《まほう》を使うのに必要とあれば、<古老>をさえしばしの間、<時>の外に置くことが可能なのだと、その時にわかった。目の前、ブナの大木の幹のそばに、ホーキンが立っていたのだ。
年齢的には<旅人>のままだったが、今やホーキンだと見分けるのは容易だった。ウィルはふたりでひとりの男を見ているような気がした。ホーキンはまだあのみどり色のビロードの上着を着ていた。パリッとしていて衿もとに白いレースをのぞかせている。だが上着の中の体はもはや、小粋《こいき》でもなければしなやかでもなく、前より小柄だった。年齢のせいで腰が曲がり、縮んだのだ。長く薄い灰色の髪の下の顔はしわだらけでくたびれていた。ホーキンを痛めつけた年月が変えなかったのは、よく光る鋭い目だけだった。目は今、冷たい敵意をこめて、積雪越しにウィルを見ていた。
「おまえの姉はここにいる」とホーキンは言った。
ウィルはおもわず、すばやく島じゅうを見まわした。だが前と変わらず無人だった。
ウィルは冷ややかに言った。「いるものか。そんな子供だましにはひっかからないぞ」
目を険しくして「おまえは傲慢《ごうまん》だ」とホーキンはとがめた。「世界には知るべきものがまだまだあるのに見えていない。才能を持って生まれた<古老>よ、おまえの師たちも同じことだ。姉のメアリーは、ここに、この場所にいる。見えなくされているだけだ。俺の御主人である<騎手>が、一度きりの取引のために仕組んだのさ。しるしをよこせば姉は帰す。選択の余地はないと言っていいな。おまえらは他人の生命をかけるのは得意だ」――恨めしげな老いた口もとが嘲笑に歪んだ――「だが、ウィル・スタントンが、姉の死ぬのを見て楽しむとは思えん」
「ぼくには見えない。ここにいるんなて信じられない」
ホーキンはウィルを見つめたまま、虚空に向かって言った。「御主人さま?」と。すぐさま、あの高い声で歌われる言葉のない歌が再び始まり、ウィルをまたとらえて、近くのものをゆっくりと観察させた。夏の太陽のように温かくくつろげたが、精神をやんわりとだがしっかりとつかまえてしまうところは、同時に恐ろしかった。耳を傾けるうちに歌はウィルを変えた。<光>のために戦うことの緊張を忘れさせ、今回は、足もとの雪の上に影や窪みが織りなす模様の観察に埋没《まいぼつ》させた。ウィルは体を弛緩《しかん》させてのんびり佇み、ここの白い氷の点、あっちの黒っぽい窪みをながめた。崩れかけた家のすきまを吹きぬける風のように、歌は耳もとですすり泣いた。
やがて再び歌が止み、何も聞えなくなると、ウィルは冷水を浴びせられたように慄然《りつぜん》となった。見ていたのは雪に影が織りなすただの模様ではなく、姉メアリーの顔の線や曲面だったのだ。メアリーは雪の上に横たわっていた。服装も最後に見た時のまま。生きていて、怪我《けが》もないようだったが、虚ろにウィルを見上げていて、弟の顔を見分けた様子も、自分がどこにいるのか知っている様子もなかった。どこにいるのかぼくにもわからないんだから、とウィルは悲しげに思った。姉の姿を見せられてはいたが、本当にその雪の上にいるとは思えなかったからだ。触れようとすると、予想通りメアリーはかき消え、影だけが前のように雪の上に落ちていた。
「わかったか」ブナのそばを動かずにホーキンは言った。「<闇>にはいろいろなことができる。沢山な。おまえにも、おまえの師たちにも、どうにもならないようなことだ」
「それくらい、誰でもわかる。でなきゃ、<闇>なんか存在するはずがないだろ? 消えろって言えば済むことになる」
ホーキンは腹を立てたふうもなく微笑し、静かに言った。「消えはしないさ。一度やって来たら、あらゆる抵抗を砕いて無にする。<闇>は常に来るのさ。お若いの。そして常に勝つ。見ての通り、姉はつかまえてある。さあ、しるしをもらおう」
「あんたにやれって?」ウィルはせせらわらった。「敵方に這《は》いずって行った虫ケラにか? 誰が!」
みどりのビロード上着の袖口で、こぶしが一瞬固められるのが見えた。だがここにいるのは極めて老成《ろうせい》したホーキンで、挑発《ちようはつ》に乗るようなことはなかった。さすらいの<旅人>であることをやめて<闇>の一員となった今、自分を抑えることをおぼえていた。声がかすかに怒りに震えただけだった。「小僧、<闇>の使者と取引したほうが身のためだぞ。さもないと、見たくないものまで誘い出すことになる」
稲妻と雷が走り、あたりを一瞬明るく照らした。一面の濁流《だくりゆう》、ちっぽけな島の頂の大木、その幹のそばの、みどりの上着を着込んだ腰の曲がった人影。ウィルは言った。「あんたは<闇>の生物だ。裏切りを選んだ、無に等しい人間だ。あんたなんかとは取引しない」
ホーキンは顔を歪め、憎悪をこめてウィルを見た。それから暗い、空っぽの共有地のほうを向いて呼ばわった。「御主人さま!」さらにもう一度、怒りに金切り声になって「御主人さま!」
ウィルは心静かに待った。島の先端に<光>の白い牝馬が見えた。雪を背にしているので見え難かったが、頭を上げ、空気を嗅ぎ、静かに鼻を鳴らしていた。物言いたげに一度だけウィルを見、回れ右してもと来た方角に走り去った。
数秒とたたぬうちに、あるものがやって来た。ほとばしる河と、迫り来る嵐の轟きのほかには相変わらず何の音もしない。それは全くひそやかにやって来た。竜巻のように巨大な黒い霧の柱で、天と地の間に直立し猛回転していた。両端は広く厚みがあったが、中央部は揺れ動き、細くなったり太くなったりした。ジグザグに近づいて来るさまは死の舞踏のようだった。この回転する黒いお化けは世界の中にあいた穴、目に見える<闇>の永遠の空虚さの一部だった。たわみ、揺れて島にぐんぐん近づいて来るにつれて、ウィルは思わずあとずさりした。体のあらゆる部分が声無き不安の叫びを上げていた。
黒い柱はウィルの前で左右に揺れながら、島全体をおおった。黙したまま回転する霧は変化こそしなかったが、ふたつに割れた。中に<黒騎手>が立っていた。霧に手と頭を包まれて佇み、ウィルに微笑を向けた。冷たい、楽しさのない笑みで、目の上の太く刻まれた眉が不吉だった。全身黒ずくめなのは同じだったが、意外にも現代的な服装で、厚い黒の防寒上着とごわごわした黒デニムのズボンをはいていた。
冷たい微笑をぴくりとも動かさずに少し脇へ寄ると、くねくねした黒い霧の柱の中から馬が出て来た。燃える目をした巨大な黒馬。その背にメアリーが乗っていた。
「あら、ウィル」メアリーは明るく言った。
ウィルは姉を見た。「やあ」
「あたしを捜してたのね。みんなが心配してないといいけど。ちょっと馬に乗せてもらっただけなの。一分かそこら。つまり、マックスを捜しに言ったら、ミトーシンさんにお会いしてね、お父さんにあたしを捜してくれと頼まれたんだってうかがったの。だから、いいわけでしょ? すてきだったわよ。この馬すごいの……それにすっかりお天気も良くなったし……」
厚くなりつつある灰がかった黒雲の後ろで雷が鳴った。ウィルは苦しげにもじもじした。見ていた<騎手>が大声で言った。「メアリー、馬にやる砂糖がある。ほうびをやってもいいんじゃないかな?」そして空の手を差し出した。
「まあ、ありがとう」メアリーは喜んで馬の首越しに身を乗り出し、<騎手>の手から架空の砂糖を取った。牡馬の口の方へ手を伸ばすと、馬はそのてのひらを少しなめた。メアリーはにっこりした。「そら。おいしい?」
ウィルを見つめていた<黒騎手>の笑みが少し拡がった。メアリーの真似をして手を開くと、そこに氷のような半透明ガラスで作られた小さな白い箱があるのが見えた。蓋に古代文字に似た紋様が何行も刻まれている
「<古老>よ、この娘はこれによって縛られているのだ」鼻にかかった、なまりのある声が静かに勝ち誇った。「リールの古い呪文の文字にとらえられている。この呪文の文字は遠い昔にある指輪に刻まれ、それきり失われてしまっていた。母親の指輪をもっとよく見るべきだったな。きさまも、単純な職人である父親も、きさまの不注意な師であるリオンも。不注意だったな……この呪文のもとに、姉は身替わり魔法によって縛《しば》られている。きさま自身もだ。姉を救うすべはない。見よ!」
小さな箱をパッとあけると、中に丸い、繊細《せんさい》な木彫細工があるのが見えた。輪には細い金の糸が巻きつけてある。ウィルは内心うろたえた。ドースンさんがスタントン一家のために彫ったクリスマス飾りのうち唯一欠けていたものと、父の客としてやって来たミトーシン氏が、さりげない礼儀正しさをもってメアリーの袖から取り除いた金髪を思い出したのだ。
「生まれ日のしるしや髪の毛は、身替わりには最適だ」と<騎手>は言った。「誰もが今ほどすれていなかった昔には、相手の足が踏んだ地面をさえ身替わりにすることができたのだが」
「相手の影が通りすぎた場所とか」ウィルが言った。
「だが<闇>は影を落とさぬ」<騎手>は静かに言った。
「そして<古老>には、生まれ日のしるしなんかありえない」
はりつめた白い顔に迷いが走るのが見えた。<騎手>は白い箱を閉じてポケットにすべりこませ、「たわごとを」とそっけなく言った。
ウィルは考え深げに<騎手>を見た。「<光>の君が何かするのには、必ず理由がある。たとえその理由が何年も何年も知れなくてもね。十一年前、<光>のひとりであるドースンさんが、ぼくの生まれるのに合わせて、あるしるしを彫ってくれた――彫ったのがそれまで通り名前の頭文字だったなら、ぼくをとりこにするために利用することもできたかもしれない。けど、ドースンさんがこしらえたのは<光>のしるしだった。丸に十字の形だった。あんたも知っての通り、<闇>にはあの形のものは利用できない。禁じられてるんだ」
ウィルは<騎手>を見上げた。「それもはったりにすぎないと思うな、ミトーシンさん。黒い馬の黒い乗り手のミトーシンさん」
<騎手>は顔をしかめた。「とはいえ、きさまが無力なことに変わりはない。きさまの姉がこの手にある以上、救う方法はひとつ。しるしをよこすことだけだ」目に再び悪意がぎらついた。「きさまのごたいそうで気高い本は、<古老>と同じ血を引く者を傷つけることはできぬ、と書いてあったろう――だが、この娘を見よ。私が勧めればなんでもするだろう。このふくれ上がったテムズにとび込むことさえな。魔法の中には、きさまらが手をつけておらぬ分野が存在するのだ。人間を自ら事故にあうような状況に追い込むのは、実に容易なことだ。たとえば、きさまの母親のそそっかしさはどうだ」
<騎手>はまたウィルにほほえみかけた。ウィルはにらみ返しながら<騎手>を憎んだが、メアリーのねぼけたような幸せそうな顔を見ると、こんな場所へひっぱり出すなんて、と胸が痛んだ。それも全て、自分の姉だからだ。何もかも自分のせいだ。
すると頭の中で声なき声がした。「君のせいではない。<光>のせいだ。<闇>の攻《せ》めて来るのを防ぐためには常に起きるであろう全てのことのせいなのだよ」そして、もはやひとりではないと知って喜びの波に襲われた。<騎手>が姿を現したので、メリマンも近くに来たのだ。必要とあらば手を貸すために。
<騎手>は手を出した。「ウィル・スタントンよ、取引するなら今だ。しるしをよこせ」
ウィルは生涯《しようがい》きっての深い息を吸い込み、ゆっくりと吐き出した。「いやだ」
仰天という感情は、<黒騎手>が久しく忘れていたものだった。突き刺すような青い目があっけに取られてウィルを見つめた。「どうするかわかってるのか?」
「うん。わかってる。でも、しるしは渡さない」
渦巻く霧の巨大な黒い柱の中から、<騎手>は長いことウィルを見つめていた。信じられなさと怒りが、一種のよこしまな畏敬の表情とまざり合って顔に浮かんでいた。それから黒馬とメアリーのほうを振り返り、声高に何か言った。その骨までしみ通る冷たさから、めったに声に出しては用いられない<闇>の呪文用の言語だと察せられた。大きな馬は頭を振り上げ、白い歯をひらめかせて前へさっととび出した。メアリーは、痴呆《ちほう》のように楽しそうにたてがみにつかまり、笑い転げている。馬は河の縁に張り出している雪堤《ゆきづつみ》に近づいて立ち止まった。
黒馬がつんざくようにかん高くいなり、テムズの上空高くとび上がった。跳躍半ばで奇妙に体をひねり脚を蹴り上げた。メアリーは恐怖の悲鳴を上げ、しゃにむに黒馬の首にしがみついたが、平衡《へいこう》を失って転落した。空中でもんどりうつ姉の姿に、賭《か》けが裏目に出たと思ったウィルは気が遠くなりかけた。が、河に突っ込む代わりに、メアリーは岸の湿ったやわらかい雪の上に落ちた。<黒騎手>が口汚く毒づいて駆け寄ろうとした。が、そばまで行けずじまいになった。一歩踏み出しかけた時に、今やほぼ真上に来た雷雲の中から巨大な稲妻の矢が走り、すさまじい雷鳴が響き渡ると同時に、光と轟音《ごうおん》から踊り出た輝く白いものがメアリーめざして島をよこぎった。メアリーはあっと言う間に抱き上げられ、無事に連れ去られた。ウィルはかろうじて、マントとフードをつけたメリマンの痩躯《そうく》を<光>の白馬の背に認めることができた。抱きかかえられたメアリーの金髪のなびくのが見えた。その時、嵐が始まり、世界中がウィルの頭の回りで火を噴いて旋回《せんかい》した。
大地が揺れた。一瞬、白っぽい空に黒く、ウィンザー城の輪郭が見えた。稲妻が目を焼き、雷が頭を殴打した。やがて、耳鳴りを通して、何かがきしみ割れるような妙な音がそばで聞えた。パッと降り返ると、背後にあったブナの大木がまっぷたつに裂け、炎を上げて燃えていた。茫然《ぼうぜん》としながらも、島の四つの小川の流れがどんどん干上がり、なくなってしまったことに気づいた。<闇>の黒い柱へとおそるおそる顔を上げたが、荒れ狂う嵐のどこにも見当たらず、ほかで起きているあらゆることの不思議さに柱のことなど頭から消えてしまった。
引き裂かれ砕かれたのは木ばかりではなかった。島自体が変化し、ふたつに割れて河に沈みかけていた。ウィルは言葉もなく目をむき、消えた小川が残した雪におわれた片隅《かたすみ》に立っていた。まわりの雪や土はすべり、崩れてテムズの激流に落ち込んで行った。後ろに見えたものが最も不思議だった。土と雪がすべり落ちて行くにつれ、何かが島の中から現れ出していたのだ。島の高いほうの端から、まず荒削りな牡鹿の頭部が出て来た。枝角を高くそびやかしている。金色で、薄明かりの中でもきらめいていた。他の部分も見えるようになった。今や牡鹿の全身が見えた。誇らしげに歩んでいる格好の美しい黄金の像だ。続いて、今にもとんで逃げそうなこの鹿の台座。奇妙に湾曲した形をしている。その後ろには長い、長い水平なもの。島と同じくらいの長さがあり、反対側の端も高くなっていて、金色に光るもの――今度は巻物の一種――が先端についている。ウィルはハッとした。いま見ているものは船なのだ。台座と思ったのは船首で、牡鹿は船首の飾り像だった。
唖然《あぜん》として船に近づくと、河もわからないくらいにゆっくりとウィルのあとについて動き、ついに島はほとんど消えてしまった。最後の吹きだまりに囲まれた最後の円形の土の上の、長い船だけを残して、ウィルは目を丸くして突っ立っていた。こんな船は見たことがなかった。船体を構成している長い板は、塀《へい》の板のように重なり合い、重たげで幅が広かった。カシ材らしかった。マストはなく、その代わりに、船の全長に沿って端から端まで、漕《こ》ぎ手の座る席が幾列も幾列も並んでいた。中央には一種の甲板《かんぱん》室があり、そのために船はノアの方舟《はこぶね》のように見えるところだった。甲板室は壁に囲まれてはおらず、四方をあけて、隅の柱と天蓋《てんがい》のような屋根だけを残してあった。そして中には、天蓋の下には、ひとりの王が横たわっていた。
ウィルはそれを見て少しあとずさりした。鎖帷子《くさりかたびら》を着た人物はじっと横たわり、かたわらには剣と楯《たて》、周囲には宝物のきらめく山があった。王冠はかぶっていなかった。代りに、彫刻を施した大きなかぶとが頭と顔の大部分をおおっていた。かぶとのてっぺんには、野生のイノシシらしい鼻づらの長いけものの、どっしりした銀の像がついている。だが、王冠がなくても、その体が王のものなのは明白だった。王より身分の低い者に、銀の皿や宝石細工の財布、青銅と鉄の大きな楯、豪華な剣鞘《けんさや》、金縁の角杯《つのさかずき》、それに山のような宝飾品が捧げられるだろうか? ウィルはふと思いついて雪のなかにひざまずき、頭を下げて敬意を表した。再び顔を上げて立ち上がると、船べり越しに、前には気づかなかったものが目にはいった。
王の胸の上で安らかに組まれた手に、何かが握られていた。やはり宝飾品で、小さく、キラキラしていた。よく見るうちに、ウィルは高いカシの船べりをつかみ、石のように動けなくなった。長い船の王の静かな手にある飾り物は、円形で、十字によって四等分されていた。虹色に光るガラスでできていて、ヘビやウナギや魚、波や雲や海のものの彫刻が施されていた。輪はウィルに呼びかけた。疑問の余地はない。水のしるし、六つの偉大なしるしの最後のひとつだった。
ウィルは舷側《げんそく》をよじのぼり、王に近づいた。足もとに用心しなければ、繊細な革細工や織物や、エナメル、七宝《しつぽう》、金の透かし彫りなどの宝飾品を踏み潰しているところだった。一瞬、豪華なかぶとに半ば隠された白い顔を見下ろし、それから恭しく手を伸ばしてしるしを取ろうとした。が、その前に死せる王の手に触れねばならず、そのどんな石もかなわぬ冷たさにウィルはたじろぎ、身を引いてためらった。
メリマンの声がすぐそばで静かに言った。「恐れることはない」
ウィルはつばを呑み込んだ。「だって――死んでる」
「ここに埋葬《まいそう》されてから千五百年間、こうして横たわって待っていたのだ。一年のこの晩を除いては塵《ちり》のままで、こうして現れることもない。さよう、ウィル、外見は死んでいる。外見以外の部分はとうに昔に<時>の彼方《かなた》に去ってしまったのだよ」
「でも、死んだ人に供えられたものを取るなんて」
「しるしなのだぞ。しるしでなければ、『しるしを捜す者』たる君に渡すのでなければ、こうしてここに死者が姿を現したりはせぬ。取りたまえ」
そこでウィルは柩台の上に身を乗り出し、死者の冷たい手がゆるく握っていた水のしるしを取った。どこか遠くであの旋律がささやき、やがて消えた。舷側に向かうと、船のそばに白馬に乗ったメリマンがいた。暗青色のマントをまとい、白い蓬髪《ほうはつ》をむき出し、骨ばった顔の窪みには疲労のかげりがあったが、目には喜びがきらめいていた。
「よくやった、ウィル」
ウィルは手にしたしるしを見ていた。表面の輝きはあらゆる真珠母《しゆんじゆも》、あらゆる虹の輝きで、光は水に遊ぶように輪の中で踊った。「きれいだ」ウィルはそう言うと、しぶしぶベルトをはずし、水のしるしをきらめく火のしるしと並ばせた。
「最も古いもののひとつだ」メリマンが言った。「そして最も力を持つものだ。君の手にはいった以上、やつらはメアリーを動かす力を永久に失った――あの呪文はもはや死んでしまったのだよ。さあ、行かねば」
メリマンの声に気づかいがこもった。ウィルが慌てて柱につかまるのが見えた。長い船が全くだしぬけに、グラリとかしいだのだった。まっすぐになり、少し揺れたと思うと、反対側に傾いた。ウィルは船べりにたどり着こうとしながら、目を離している間にテムズの水かさがまた増したのだと知った。水が大きな船の周囲をなめ、今にも浮き上がらせそうだった。死せる王がかつて島だったこの地に憩《いこ》うのも、あと少しの間だ。
牝馬がウィルのほうへ回り込み、鼻を鳴らしてあいさつをした。前と同じように、音楽に満ちた魔法の一瞬があり、ウィルは<光>の白馬の背、メリマンの前にまたがっていた。船は傾き、揺れ、今や完全に浮かんでいた。白馬は道をあけ、力強い脚に泡立つ河の水をまつわりつかせて、近くに立って見守った。
きしみ、がたつきながら、長い船はふくれ上がったテムズの急流に身を任せた。大きいので圧倒されることもなく、逆巻く水の上でも、いったん平衡を取ったあとは、重量のおかげで安定を保つことができた。こうして、謎の死せる王の威厳《いげん》は武器や輝く供えものに囲まれて保たれつづけた。下流に去っていく大きな船の上の、仮面のような白い顔がちらりと見て、それが最後だった。
ウィルは肩越しに言った。「誰だったの?」
長い船が去って行くのを見送るメリマンの顔には、深い敬意が浮かんでいた。「暗黒時代のイングランドの王だ。大勢の<黒騎手>が、誰にも邪魔されずにわが国を駆けめぐっていた。<光>を生かしつづけたのは<古老>たちと、あの王のように気高く勇敢な数名の人間だけだった」
「そしてあの人は、北欧から来た、バイキングみたいに、船に乗せてうめられたんだね」ウィルは船首の黄金の牡鹿像の、最後の輝きを見守っていた。
「王自身、半分バイキングだったのだよ。過去において、君たちのこのテムズ河べりでは、大がかりな船埋葬《ふなまいそう》が三つあった。ひとつは十九世紀にタブロウの近くで発掘されたが、途中で崩れてしまった。ひとつは今の<光>の船で、人間には永久に見つからないようさだめられている。そして最後の、最大の船は、最も偉大な王のもので、まだ見つかってはおらぬ。永久に見つからぬかも知れぬ。平和に眠っているのだ」メリマンはふいに口をつぐみ、手を動かした。白馬は向きをかえ、河を離れて南の方角へ跳躍しようとした。
だが、ウィルはまだ長い船を見ようと伸び上がっており、その緊張がいくらか白馬とメリマンにも伝わったのか、一瞬ためらった。その瞬間、東のほう、雷雲におおわれた空からではなく共有地の彼方のどこかから、異様な青い光線がほとばしり、船にあたった。すさまじい炎が音もなく噴き出して、広い河とごつごつした雪堤をなめ、王の船が船首から船尾まで、燃え上がる火の手に縁取られた。ウィルはのどがふさがって、言葉にならない叫びを上げた。白馬は落ち着きもなくもぞもぞし、ひづめで雪を掻《か》いた。
ウィルの後ろで、メリマンの力強く深い声がした。「手遅れだと知ってやつあたりしているのだ。<闇>のやることを予見するのは、時によってはたいそう容易なのだよ」
「けど、王さまや、あのきれいな供えものが全部――」
「少し考えさえすれば<騎手>にも、自分の悪意の爆発が、単にあの偉大な船に見合った、ふさわしい最後を飾ってやったにすぎないことがわかるだろう。あの王の父親が死んだ時にも、やはり遺体《いたい》は船に置かれ、持ち物の中でもすばらしいものがまわりに飾られたものだ。だがその船はうめられはしなかった。臣下の者が火をつけて、燃えながらただ一隻《せき》、海に船出させたのだ。動く巨大な荼毘《だび》の火としてな。見たまえ。それこそ、われらが最後のしるしの王がしていることだ。火と水の中を、永《なが》の眠りめざして、イングランド最大の河を下って海へと向かっているのだ」
「いい眠りでありますように」ウィルはそっといい、ようやくひらめく炎から目をそむけた。が、その後も長いこと、どこへ行っても、燃える船の輝きが嵐《あらし》に曇《くも》った空の一部を白ますのが見えていた。
狩 り
「さあ」メリマンが言った。「これ以上時間を無駄にはできぬ!」すると白馬は河から少し離れるように回り込み、跳躍して泡立つ水をかすめ、テムズの向こう岸、バッキンガムシャーが終わってバークシャーが始まる側に渡った。命がけの速さで駆けているにもかかわらず、メリマンはせきたて続けた。ウィルにもその理由がわかった。メリマンの青いマントのひるがえるひだの間からちらりと、<闇>の巨大な黒い竜巻が前にもまして大きくなり、天と地の間の懸《か》け橋となって燃える船の残照の中で音もなく回転しているのが見えたのだ。ウィルたちのあとを追ってくる。それも猛スピードで。
風が東から噴きだし、彼らに切りつけた。マントが前になびいてウィルを包み込み、メリマンとふたり、大きな青いマントにこもっているかのようだった。
「これからがやまだ」メリマンが耳元で声のかぎりにどなったが、高まる風の咆哮《ほうこう》にやっと聞きとれるほどだった。「六つのしるしは手に入れたが、まだつなぎ合わせてはいない。君が今やつらの手に落ちたら、やつらは隆盛《りゆうせい》を極めるのに必要なものを全て手にすることになる。今までにないほど懸命になるだろう」
白馬は駆けた。家々や店や、洪水と戦う何も知らない人々を過ぎ、屋根や煙突を過ぎ、生垣を越え、畑をよぎり、木の間をくぐり、それでいて決して、地面から遠く離れることはなかった。大きな黒い柱は風に乗って追いつづけ、その中を、火のあごを持つ黒馬に乗った<騎手>がウィルたちを追って全力疾走していた。<闇>の君たちが、彼ら自身も回転する黒雲となって、<騎手>の肩先にくっついて来た。
白馬が再び舞い上がり、ウィルは下を見た。木々が眼下いたる所にあった。広い野原の中に単独で枝を拡げているカシやブナの大木、密生した森を仕切る長くまっすぐな道、今度はそういう道のひとつを駆けていて、雪の重みにふさぎこんでいるモミの木立を通り越し、再びひらけた場所に出た……稲妻がウィルの左隅で光り、巨大な雲のふところで躍った。その光にウィンザー城の黒い影が、すぐ近くにヌッと高く浮かび上がった。お城があそこなら、ここは大御苑《だいぎよえん》の中だ、とウィルは思った。
と同時に、メリマンとふたりきりではなくなった気がした。空から聞えるあの異様な高い鳴き声を既に二度耳にしていたが、それだけではなかった。ウィルの同類がこの辺にいるのだ。木でいっぱいの御苑のどこかに。また、どんよりした空ももはや空っぽではなく、<闇>でも<光>でもない力ある生物が沢山、行ったり来たり、集まったり離れたりしているように思われた……。白い牝馬は今や再三雪の上を駆けていた。ひづめは前よりもゆっくりと、吹きだまりやぬかるみに凍った道を越えていた。突然ウィルは、白馬がメリマンの指示に従っているのではなく、馬自身の感じている深い衝動に従っているのだと悟った。
また稲妻が一閃し、空が轟いた。メリマンが耳もとで言った。「ハーンのカシの木を知っているか?」
「もちろん」ウィルは即座に答えた。あるカシの大木にまつわる地元の伝説なら、生まれた時から知っていた。「ここ、あの木の近くなの? 第御苑のあの大きなカシの木――」
ウィルはつばを呑み込んだ。どうして思いつかなかったのだろう? なぜ仙術はこのことだけ教え残したのだろう? ウィルはゆっくりと続けた。「狩人ハーンが十二夜の晩に馬に乗って現れると言う、あの木のこと?」ウィルは首を回して不安げにメリマンを見た。「ハーンなの?」
「わしは狩り手を呼び集めに行く」。それがジョージ爺さんの言葉だった。
メリマンも言った。「そうとも。今夜はハーンが狩に出る晩だ。そして君がよく役目を果たしたおかげで、約千年ぶりに、しかるべき獲物《えもの》が得られるというわけだ」
白馬は速度を落とし、空気を嗅いだ。風が曇り空を裂き、雲間高く半月が姿を見せたが、すぐにまた消えた。稲光《いなびかり》が同時に六カ所でひらめき、雲は吠《ほ》え、唸《うな》った。<闇>の黒い柱がふたりをめがけて突進してきたが、はたと止まり、回転し波打ながら天地の間にとどまっていた。メリマンが言った。「大御苑はいにしえの道にぐるりを囲まれている。狩人の谷《ハンターズクーム》を抜ける、あの道だよ。あれを突破するには少し時間がかかるだろうな」
ウィルは懸命に前方の薄闇をすかし見ようとしていた。断続的な光のおかげで、ぽつんと立っているカシの木の形が見分けられた。短いがとてつもなく太い幹から大枝を何本も伸ばしている。その辺のほかの木と異なるのは、わずかな雪をもとどめていない点だった。幹のそばに影が見えた。人間ぐらいの大きさだった。
同時に白い牝馬もその影を見、鼻から強く息を吐き出して地面をひっかいた。
ウィルは小さな声でひとりごちた。「白馬は狩人のもとに行かねばならない……」
メリマンが肩に触れ、ふたりは魔法ならではのすばやさで、楽々と地面におりたった。牝馬が頭を下げたので、ウィルは固いがなめらかな白い首に手を置いた。「行け、わが友よ」とメリマンが言うと、馬は回れ右をして、孤立したカシの巨木と、その下にじっとしている神秘的な影にいそいそと歩み寄った。影の持ち主は偉大なる力を秘めていた。ウィルはそれを感じとってたじろいだ。月がまた雲にはいり、しばらくは稲妻もなかったので、木の下に動くものがあったとしても暗くて見えなかった。暗闇の中から一度だけ音が聞えた。白い牝馬のいななく、あいさつの声だった。
対抗するように、背後の木立から、もっと低い、息を切らしたいななきが聞えた。振り返ると同時に月が雲をやり過ごしたので、ドースン農場の荷馬ボルックスの大きなシルエットが見えた。ジョージ爺さんが背に乗っていた。
「姉さんは家に戻ったよ、坊」ジョージ爺さんは言った。「迷子になって、古い納屋で眠りこけてしまったのさ。えらく奇妙な夢を見たらしいが、もうそれも忘れかけている……」
ウィルは感謝をこめてうなずき微笑した。が、目はジョージが抱えている、ぐるぐる巻きにされて丸みを帯びたものを見ていた。「それ、なあに?」何であれ、近くにいるだけで首すじがうずいた。
ジョージ爺さんは答えずにメリマンのほうに身をかがめた。「うまくいってるかね?」「全て順調だ」メリマンは身震いし、長いマントを体に巻きつけた。「この子にやってくれ」
メリマンの推《お》し量り難い窪んだ目にじっと見られて、ウィルは首をひねりながらも荷馬に近づき、ジョージの膝のそばに立って見上げた。無理をしているのを隠すかのように老人はちらっと苦笑し、くるまれた荷物をおろして渡した。ウィルの背丈の半分ほどあったが重くはなく、袋に使う粗布《あらぬの》で包まれていた。手を触れるや否や、なにかわかった。まさか、と半信半疑で考えた。何のために?
雷があたり一帯に轟いた。
ウィルの背後の暗がりの奥から、メリマンの声が聞えて来た。「そのまさかだとも。水が無事に運び出した。そのあと、頃合《ころあ》いを見計《みはか》らって、<古老>たちが水から引き上げたのだ」
「さあ、今度は」ジョージが辛抱強いボルックスの上から言った。「おまえさんが狩人のところへ持って行くんだ。、若い<古老>よ」
ウィルはおろおろしてつばを呑み込んだ。<古老>たる者、世界中に怖いものはないはずだ。ひとつも。だがカシの巨木の下の影には、何か極めて異様で恐るべきものがある。こっちが、不必要な、取るに足りないちっぽけな存在なのだと感じさせられる何かが……。
ウィルは姿勢を正した。少なくとも不必要というのはあたっていない。果たさねばならない務めがあるのだ。荷物を旗のように掲げると、おおいを引きはがした。鮮やかで不気味な半人半獣《はんじゆう》の謝肉祭の仮面が、いま遠いふるさとの島から届いたばかりのように、瑕《きず》ひとつなく華やかに現れた。枝角は誇らかに屹立《きつりつ》している。死せる王の船首像だった黄金の牝鹿の角と全く同じ形だった。仮面を前に掲げて、枝を拡げたカシの木の深い影の中へと力強く歩み出した。木陰《こかげ》にはいる直前に立ち止まった。牝馬の放つかすかな白い光が、ウィルを見分けて静かに動くのが見えた。誰かが馬の背にまたがっているのはわかったが、それだけだった。
馬上のものがウィルのほうへ身をかがめた。顔は見えず、仮面が手から取り上げられるのだけを感じた――手は大変な重荷を除かれたようにストンと垂れた。もともと仮面は軽く感じられたのだが。あとずさりするうちに月がふいに顔を出し、一瞬、その冷たい白い光をまともに受けて目がくらんだ。と、月は隠れ、白馬が木陰から歩み出た。薄明るい空に浮かび上がった乗り手の輪郭は、前とは違っていた。今や馬上の者は人間の頭より大きい頭を持ち、牡鹿の角を生やしている。そして、この化け物じみた鹿男をのせた白馬は、どんどんウィルに近づいて来た。
ウィルは待った。大きな馬はすぐそばまで来ると、もう一度だけ鼻づらでやさしく肩に触れた。狩人の姿が目の前にそびえていた。月光がまともにその頭部を照らし、ウィルは不思議な黄色い目を見上げているのに気づいた。黄金色の、底知れない、大きな鳥のような目。狩人の目を見つめているうちに、空の上であの異様な高い鳴き声がまた始まった。魅入《みい》られた状態から脱出する時のように、ウィルは懸命に視線をずらして、きちんと頭部全体を見ようとした――狩人にかぶってもらうために渡した角のある仮面を。
頭部は本物だった。
羽毛に縁取られた丸い金色の目はまばたきした。ふくろうの力強いまぶたのようにゆっくりと。その目を持つ顔は人間の顔で、ウィルにまっすぐに向けられていた。やわらかいあごひげの上にしっかり刻み込まれた口が開いて、ニコッとした。気がかりな口もとだった。<古老>の口ではない。友情の笑みを浮かべることもできるが、周囲にはほかの感情を意味するしわもある。メリマンの顔には悲しみと怒りのしわが刻まれているが、狩人のしわが物語るのは酷《むご》い、憐《あわれ》みのかけらもない復讐心《ふくしゆうしん》だった。確かに半分けものなのだ。ハーンの角の黒っぽい枝が湾曲してウィルの上に伸びていた。月がそのビロードのようなつやを引き出すと、ハーンは低い声で笑った。もはや仮面ではない。生きた顔の中の黄色い目でウィルを見おろし、中音の鐘のような声で言った。「<古老>よ、しるしを。しるしを見せよ」
そびえたつハーンから目を離さず、ウィルはバックルをはずし、六つの丸に十字を月光に高くかざした。狩人はしるしを見て頭《こうべ》を垂れた。ゆっくりと、静かな声で、前にも耳にした言葉を半ば唄い、半ば唱えた。
<闇>の寄せ手が攻め来る時、
六たりの者、これを押し返す
輪より三たり、道より三たり、
木、青銅、鉄、水、火、石、
五たりは戻る 進むはひとり
生まれ日の鉄、運命《さだめ》の青銅、
燃えた後《のち》の木、歌に出《い》ずる石、
蝋燭《ろうそく》の輪の火、雪どけの水、
六つのしるしが印すもの
輪と、輪に先立つ杯と
だがハーンもまた予期したところでは終わらず、先を続けた。
山火《さんか》の見出す金の琴《こと》、
そが音《ね》に目醒《さ》むる最古の民、
みどりの妖婆《ようば》の海底の力、
全て揃《そろ》いて樹上《じゆじよう》なる
銀の光を見るを得ん
黄色い目が再びウィルにむけられたが見えてはいないようだった。冷たく、焦点が定まらず、次第に輝きを増す冷えびえとした炎が顔に酷《むご》いしわをよみがえらせた。だが、今度はウィルにも、その酷さが避がたい大自然の猛々しさなのだとわかった。<光>や<光>のしもべが<闇>を狩り続けるのは、悪意からではない。自然の摂理《せつり》なのだった。
狩人ハーンは、大きな白馬にまたがって向きを変え、ウィルと孤立したカシの木から離れ、やがてその恐るべき姿は、月と低く垂れ込めた雷雲の下の広々とした場所に出た。ハーンは頭を上げ、空に呼びかけた。狩猟者が猟犬を呼び集めるのに吹く角笛の音のような叫びだった。声の狩笛《かりぶえ》はますます大きくなり、空を満たし、千もののどから同時にほとばしっているかのようだった。
事実そうだとわかった。御苑内のあらゆる場所、あらゆる木や影の後ろ、あらゆる雲の中から、地面をはねまわり、空を切り、数え切れない猟犬の大群が、臭跡《しゆうせき》を追い出した猟犬らしく、呼び交わし、鳴きながらやって来た。大きい真っ白な犬どもで、薄明かりの中では幽鬼《ゆうき》のように見え、走り、押し合い、はね、<古老>たちには目もくれなかった。白馬に乗ったハーン以外のものにはいっさい注意を払わなかった。耳は赤く、醜悪《しゆうあく》な生き物だった。彼らをやりすごしながらウィルは思わず身を引いた。一頭の大きな白銀の犬が歩調を乱し、落ちた枝でも見るように何気なくウィルを見た。白い頭の中の赤い目は炎のよう、赤い耳はぞっとするほどの熱意をこめてピンと立てられていた。こんな犬どもに狩られるという事態をウィルは想像しまいとした。
ハーンと白馬を囲んで、猟犬は吠え叫んだ。うねり、赤まだらに泡立つ海だった。突然、角を生やした男が緊張し、大きな枝角で、猟犬がするように獲物のいる方向を示した。そして緊迫した速い呼びかけで犬どもをまとめた。メネーと呼ばれる、群れに血の跡を追わせる呼びかけだ。ぐるぐる回る猟犬たちの間から、かん高く切迫した鳴き声が一斉《いつせい》に上がって空にあふれた。同時に、天の底がどっと抜けた。雲が大音声《だいおんじよう》と共にまばゆいギザギザの稲妻に引き裂かれ、ハーンと白馬は勝ち誇って空の狩場《かりば》に踊りあがった。赤目の猟犬どもは白い大洪水となって、あとについて嵐の空になだれ込んだ。
その時、いきなり、窒息《ちつそく》しそうな恐ろしい沈黙が訪れ、嵐の音を全て消してしまった。最後の機会と必死になった<闇>が、行手を阻んでいた障壁《しようへき》を突破して、ウィルめがけて突っ込んできたのだった。空と地を視界からさえぎり、回転する死の柱は迫って来た。すさまじい回転力とひそやかさは恐ろしかった。が、怖がっている暇はなかった。ウィルは孤立しており、そびえ立つ黒い柱は呑み込まんばかりに近づいている。そのねじくれた霧の中には<闇>の化け物じみた軍勢の全てが勢揃いし、中心に後脚立って泡を吹いている巨大な黒馬の背には<黒騎手>がまたがっていた。その目はまばやく青い双火《そうか》だった。ウィルは知れる限りの護りの呪文を空しく唱えた。しるしに助けを求めようにも手が動かなかった。その場に立ちすくみ、絶望し、目を閉じた。
すると、ウィルを押し込み、世界中の音を殺してしまった死の沈黙を破って、小さな声がした。その日三たび耳にした、秋の夜に渡る雁のような、遠い空の彼方からの不思議な高い鳴き声だった。声は次第に近づき、大きくなり、ウィルに目をあけさせた。その時のような光景を見たのは、それが最初で最後だった。空の半分は、<闇>の沈黙の怒りと竜巻のような回転力に満たされ、見るも恐ろしかった。が、西のほうから、落花する石のような速さで<闇>に向かって来るものがあった。ハーンと狂った猟犬の群れだった。今や力の頂点に達し、一斉に巨大な黒い雷雲の中からとびだし、走る稲妻と灰紫の雲を通りぬけ、嵐に乗ってやって来た。黄色い目と角を持つ男はぞっとするような笑い声も高らかに、猟犬を全力疾走に駆り立てるアヴォーントの号令を出した。輝く金と白の馬はたてがみと尾をなびかせて疾駆《しつく》した。
男と馬を取り巻き、後から後から白い広河のように流れ出てついて来るのは、「たける猟犬」、「おらぶ者」、「滅びの犬」。赤い目には何千という警告の炎が燃えている。空をまっ白にして西の地平線までひしめいていたが、まだいくらでも出て来た。その千の舌から発せられる鐘のような鳴き声に、<闇>の威容はひるみ、ぐらつき、震え出したように見えた。再び<黒騎手>の姿が黒い霧中《むちゆう》の高みに見えた。怒りと恐れと凍りついたような悪意にねじれた顔に、敗北を見とめた色があった。あまりにも乱暴に馬の向きを変えたので、しなやかな黒馬もよろめき、危うく転びかけた。手綱《たづな》をひっぱりながら、<騎手>はじれったげに鞍《くら》から何かを投げ落とした。小さな黒っぽいもので、だらしなくぐったりと地面に落ち、捨てられたマントのようにその場に転がった。
と、嵐と押し寄せる狂気の狩りの手が<騎手>に襲いかかった。<騎手>は回転する黒い隠れ家の中を上へ駆け昇った。想像を絶する<闇>の竜巻の柱は、曲がり、よじれ、苦しむヘビのようにのたうち、ついにてっぺんのほうですさまじい悲鳴が上がったと思うと、大変な速さで北へ進み出した。御苑も共有地も狩人の谷《ハンターズクーム》も越えて逃げる柱のあとを、嵐の波の長く白い波頭のように、ハーンと猟犬どもが総力を挙げて追って行った。
狩りのどよめきのうち、最後まで聞えていた猟犬の鳴き声が遠くで薄れて消えると、ハーンのカシの木の上には銀色の半月だけが残り、小さな雲の切れ端の漂う空に浮かんでいた。
ウィルは深く息を吸い込み、まわりを見た。メリマンは最後に見た時のままの姿で佇んでいた。長身で背すじをの伸ばし、フードを引きかぶり、黒っぽく特徴のない彫像のように。ジョージ爺さんはボルックスを木立の中にひっこめていた。普通の動物は、狂気の狩りを間近で見れば生きてはいられないからだ。
ウィルはたずねた。「済んだの?」
「まあな」フードに顔を隠したメリマンが言った。
「<闇>は――」口に出して言う勇気はなかった。
「<闇>はついに敗れた。今回はな。狂気の狩りに立ち向かって勝てる者はおらぬ。ハーンと猟犬たちは許される限りどこまでも、文字通り地の果てまでも獲物を追って行く。従って<闇>の君たちは地の果てに隠れ住まねばならぬ。次の機会を待って。だが、次の時には、輪の完成と、六つのしるしと、仙術の才能を得たぶん、われらの力も強くなっている。ウィル・スタントン、君が務めを果たしたことによって、われらは強められ、最後の、窮極の勝利に近づいたのだよ」大きなフードを後ろへ押しやったので、乱れた白髪が月光に輝いた。一瞬、陰になった目がウィルの目をのぞき込み、誇らしさが伝わって来て、嬉しさに頬が熱くなった。それからメリマンは、大御苑の積雪でまだらになった草地の向こうを見た。
「残るはしるしをつなぐことだけだ。だが、その前にひとつだけ――たいしたことでは――ないんだが」
妙なぎこちなさが声に感じられた。ウィルはとまどいつつも、ハーンのカシの木に歩み寄るメリマンに続いた。雪の上、木の陰の際に、<黒騎手>が逃げる時に落として行ったマントが見えた。メリマンは身をかがめ、そのそばの雪の上にひざまずいた。腑《ふ》に落ちないままもっとよく見たウィルはぎょっとした。黒っぽいものはマントではなく人だったのだ。あおむけに、ひどい角度にねじ曲がって倒れているのは<旅人>だった。ホーキンだった。
メリマンは深く抑揚のない声で言った。「<闇>の君と共に高く駒を進める者は、落ちることを予期せねばならぬ。あれほどの高みからの転落は、人間にはきつすぎる。背骨が折れているようだ」
ウィルは動かない小さな顔を見つめながら、ホーキンが普通の人間に過ぎないことを忘れていたのに気づいた。普通とは言えない――<光>と<闇>の両方に利用され、<時>の中をさまざまな方向に動かされ、ついに六百年のさすらいに痛めつけられた<旅人>となった男には、普通という言葉がふさわしくない。とはいえ、人間であり、限り在る生命の持ち主であることに変わりはない。白い顔がビクッとし、目が開いた。苦痛の色が浮かんだ。それと、べつの記憶の中の苦痛の影が。
「俺を投げ落とした」とホーキンは言った。
メリマンは黙って見守っていた。
「そうとも」ホーキンは恨めし気にささやいた。「あんたは、こうなると知ってたんだ」頭を動かそうとして苦痛に息を呑み、目に恐怖が宿った。「頭だけだ……痛むから、頭は感じるけど、腕も足も、どこも……感じられない……」
しわの刻まれた顔に、恐ろしいまでの絶望と救いのなさが表われた。ホーキンはまともにメリマンを見た。「俺はもうだめだ。わかってる。まだこのまま生かし続けるのか? 最悪の苦しみを背負ってしまったというのに。人間の最後の勝利は死ぬことだ。今まではあんたが死なせてくれなかった。何世紀もの間、何度も死にたいと願ったのに、あんたがむりやり生き続けさせた。俺が裏切ったせいだけど、それだって、<古老>並みの頭があれば……」声にこめられた悲哀《ひあい》とあこがれは耐え難いほどで、ウィルは顔をそむけた。
だがメリマンは言った。「おまえはホーキン、私の養い子、私の臣下《しんか》、そして自分の主君と<光>を裏切った者だ。そのために<旅人>となり、<光>がそれを要求する間は地上をさすらわねばならなくなった。従って、生き続けることにもなった。だが、わが友よ、その後までひきとめはしなかったのだよ。<旅人>としての務めが果たされた時からおまえは自由の身、永遠の休息を得ることもできたのだ。だのにおまえは<闇>の約束することに耳を傾けるほうを選び、再び<光>を裏切った……私はおまえに選ぶ自由を与えた、ホーキンよ。それきり撤回《てつかい》してはおらぬ。許されぬことなのだから。選ぶ自由は今でもおまえのものなのだ。<闇>の力も<光>の力も、人間を人間以上の力にはできぬ。演じていた超自然的な役割が終わってしまえば、それまでだ。同様に、<闇>の力にも、<光>の力にも、人間としての権利を奪うことは許されぬ。もし<黒騎手>ができると言ったのなら、それは偽《いつわ》りだ」
ひきつった顔が、九分通り信じかけて、苦しげにメリマンを見上げた。「休ませてもらえるのか? 俺が望みさえすれば、何もかも終わりにして休めるのか?」
「おまえの権利は全て、おまえだけのものだ」メリマンは悲しげに言った。
ホーキンはうなずいた。顔を痛みが横切り、消えた。が、やがて見上げた目は明るく活気に満ち、初めて会った時の、みどりのビロード上着を着たきりっとした小男の目だった。目をウィルに向けてホーキンはそっと言った。
「能力をうまく使うんだぞ、<古老>よ」
それからメリマンに視線を戻した。ふたりだけに通じる測り知れぬまなざしで長いこと見つめ、聞き取れないほどの声で言った。「御主人さま……」
それからキラキラした目の中の光が消え、もはや生きてはいなかった。
しるしをつなぐ
天井の低い鍛冶場で、ウィルは入り口に背を向け、火を見つめていた。ジョン・スミスが長いふいごの柄《え》を押すと、オレンジと赤と、まばゆい黄がかった白に燃えた。その暖かさにウィルは、その日初めての快さを覚えた。氷のような河で魚並にずぶ濡れになっても、<古老>であれば害はない。とはいえ、骨の髄《ずい》まで暖まるのはいいものだった。それに火は、部屋全体を明るくしているように、ウィルの気分も明るくしてくれた。
と言っても、まともに部屋を照らしているわけではない。とにかく何を見ても実体があるようには見えないのだ。空気が震えていた。火だけが本物で、あとはまるで蜃気楼《しんきろう》だった。
かすかな笑みを浮かべたメリマンに見られているのに気づいた。
「また例の、半分ずつの世界にいるような気分なんだ」ウィルは当惑して言った。「館で、二種類の時の中に同時にいた時とおんなじ」
「そうとも。全く同じなのだ。ふたつの<時>にいるのだから」
「だって、鍛冶屋があった時代にいるはずでしょう? 扉をあけて来たんだもの」
その通りだった。ウィルとメリマン、ジョージ爺さん、それに大きな馬のボルックスは、濡れた暗い共有地で狂った猟犬が<闇>を空の彼方へ追い払ったあと、両開きの大扉をあけて、六世紀前の時代にでたのだった。ホーキンがもといた時代、ウィルが雪深い静かな誕生日の朝に踏み込んだ時代だ。三人はホーキンをボルックスの広い背に乗せ、最後にもう一度、もとの時代に運んで来た。全員が大扉を通り抜けると、ジョージ爺さんが馬を引いてホーキンの体を教会の方へ運び去った。ウィル自身の時代に戻れば、村の境界墓地のどこか、後世の墓か、崩れて読めなくなった墓石の下に、ホーキンという、十三世紀に死んで以来ずっと安らかに眠っている男の墓があるだろうと知った。
メリマンが鍛冶場の表にウィルを連れ出した。狩人の谷《ハンターズクーム》を通りぬける細く固い土の道、いにしえの道に面している。「聞いてごらん」
ウィルはでこぼこの道と、向かい側に密生した木々と、夜明け間近の寒々した灰色の空を見た。「河が聞える!」と、とまどって言った。
「ああ」
「でも、河は何マイルも離れてるのに。共有地の向こうだもの」
メリマンは小首をかしげて、水の流れ、波打つ音に耳を傾けた。水量豊かだが氾濫《はんらん》してはない河、大雨の後の河の音だった。「いま聞えているのはテムズではない。二十世紀の音だ。つまりだな、ウィル、しるしは、ジョン・ウェイランド・スミスによって、この鍛冶場で、この時代につながれねばならない――このあと何年もせずに、鍛冶場は失くなってしまうのでな。ところが、しるしが揃ったのは君の探索によるもの、君自身の時代にはじめて成しとげられたわけだ。従って、輪つなぎは、ふたつの時代の両方にまたがる<時>のあぶくの中で行なわれねばならぬ。そのあぶくの中にいる<古老>の目と耳には、両方の時代が感じとれるのだよ。いま聞えているのは本当の河ではない。君の時代のハンタークーム小路を流れる、雪どけの水だ」
ウィルは雪とのこと洪水に包囲された家族のことを考え、ふいに家に帰りたくてたまらない小さな男の子に戻った。メリマンの黒い目が同情をこめて見つめた。「もうじきだ」 背後で金槌《かなづち》の音が聞えたので振り向いた。赤と白に燃える火のふいごを押し終えたジョン・スミスは、鉄床《かなとこ》に向かっていた。長い火ばさみが輝く炉のそばで待機している。いつもの重い金槌ではなく、大きなこぶしの中で滑稽《こつけい》なほど小さく見える槌を使っていた。ウィルの父親が宝石細工に使うような、きゃしゃな道具だった。細工しているのが馬の蹄鉄《ていてつ》よりもはるかにきゃしゃなものなのだから、それも当然だろう。六つのしるしを下げるための、大きな環《かん》をつないだ黄金の鎖をこしらえているのだ。環はジョンの手のそばに一列に並べられている。
ジョンは火にほてった顔を上げた。「ほぼ準備が整った」
「結構」メリマンはふたりを離れ、道に出た。ただひとり道に立った姿は長く青いマントに包まれ、背が高く印象的で、フードをおろした頭にふさふさした白髪が雪のように輝いた。だがここに雪はない。また、未《いま》だに流れる水音が聞えはするが、水もない……。
変化が始まった。メリマンは動いたようには見えなかった。ふたりに背を向け、手を軽く脇に垂らし、微動だにせず、じっと佇んでいた。そのまわりじゅうで、世界が動き出していた。空気が震えて揺れ動き、木や大地や空の輪郭が震動してぼやけた。目に見えるもの全てが回り、まざり合うように思えた。ウィルはこの揺らぐ世界を見ているうちに少しめまいを覚えた。次第に、見えない河=道の水音にかぶさるように、沢山の声のざわめきが聞こえ出した。ゆらめく陽炎《かげろう》を通して見た場所のように、震える世界が目に見える形を取り出した。ぼんやりした大勢の人間の姿が、道と木々の間のすきまと、鍛冶場の前庭を全て埋《うず》めているのが見えた。人々は全く本物、全く固定化しているとは言い難く、触れなば消えん亡霊じみた風情があった。みな、ウィルに顔をそむけたまま立っているメリマンにほほえみかけ、あいさつした。まわりを取り囲み、芝居を見に来た観客のように熱心に鍛冶場を見守っていた。それでいて、今はまだ誰にも、ウィルと鍛冶屋の姿は見えないらしかった。
人々の顔は際限《さいげん》もなくさまざまだった――陽気な顔、いかめしい顔、老いた顔、若い顔、紙のように白い顔、黒玉のように黒い顔、その中間の、ピンクや茶色のさまざまな濃淡《のうたん》と色合いの顔、何となく見覚《みおぼ》えのある顔、全く初めての顔。ウィルはミス・グレイソーンの館のパーティで見た顔がいくつかあるように思った。十九世紀のクリスマスの、ホーキンを破滅へと導き、ウィル自身を仙術の書へと導いたあのパーティで――そう思うと同時にウィルは悟った。これらの人々、メリマンがどうやってか呼び出したはてしのない群集は、全て<古老>なのだ。あらゆる国、世界のあらゆる場所から、しるしの輪つなぎに立会いにやって来たのだ。ウィルはにわかに怖くなり、地に沈んでこの魔法のかかった新たな大群衆のまなざしからのがれたいと願った。
ウィルは思った。ここにいるのはぼくの一族なんだ。本当の家族と同じように、この人たちも僕の家族なんだ。<古老>なんだ。ひとりひとりがみんな、世界で最大の目的のためにつながっている。すると、群集の間でざわめきが起こり、道に沿ってさざなみのように走った。何人かが道をあけるかのように位置を変えた。音楽が聞えた。細い笛と脈打つ太鼓の、滑稽なほど単純な音楽。夢とも現《うつつ》ともつかぬ夢で聞いた音楽。体を硬ばらせ、手を握りしめて待っていると、メリマンが振り向いて大またに歩み寄り、ウィルと並んで立った。群集の中からふたりのほうへ、前とそっくり同じささやかな行列が進んで来た。
居並ぶ人々の中を、誰よりも実体らしく見える少年たちの行列は進んだ。同じ少年たちだ。粗末な見慣れぬ形の上衣と脚絆《きやはん》、肩までの髪、おかしな袋状の帽子。今度も前列の者たちは杖や棒の小枝の束を持ち、後ろの者たちはたったひとつの悲しげな旋律を、笛と太鼓で繰り返し奏でていた。今度も、このニ隊にはさまれて、六人の少年が木の枝や脚で織り上げた柩台を肩に担《かつ》いでいた。四隅にはヒイラギの束があった。
メリマンがごく小さな声で言った。「まず聖ステバノの日、すなわちクリスマスの翌日に。それから十二夜に。ミソサザイ狩りは、特別な年の場合は、年に二度行なわれる」
今やウィルにもはっきりと棺台が見えた。今回は初めからミソサザイの姿はなかった。代りにべつのきゃしゃな影、青をまとい、片手に大きなバラ色の指輪をはめた老婦人が横たわっていた。少年たちは鍛冶場へと進んで来て、柩台をそっと地面におろした。メリマンがかがみ込んで手を差しのべると、老婦人は目をあけてほほえんだ。メリマンに助け起こしてもらい、前に進み出ると、ウィルの両手を取った。
「よくやりました、ウィル・スタントン」その言葉と共に、道に立ち並ぶ<古老>たち全員から賞賛《しようさん》のつぶやきが、木の間で唄う風のように湧き起こった。
老婦人はジョンが待っている鍛冶場に顔を向けた。「カシの上、鉄の上にて、しるしをつなぎなさい」
「さあ、ウィル」ジョン・スミスが言った。ふたりは鉄床に歩み寄り、ウィルが、任務を果たす間じっとしるしを負っていてくれたベルトを置いた。「カシの上と鉄の上って?」ウィルはささやいた。
「鉄は鉄床の上さ」鍛冶場は小声で言った。「カシはその台だ。鉄床の大きな木の台座は、必ずカシで作られる――それも、木の中で一番頑丈な、根っこの部分でな。誰かが先だって、カシの特質を説明してくれたろうが」青い目をいたずらっぽく光らせて、ジョンは仕事に取りかかった。しるしをひとつずつ取り上げ、金の環でつないでいった。中央に火と水のしるし、その片隅には鉄と青銅のしるし、反対側には木と石のしるし。両側には太い金鎖をつけた。ウィルが見守る中で、ジョンは手ばやく繊細に仕上げていった。外の大勢の<古老>たちは、生えている草のように動かなかった。鍛冶屋の槌音《つちおと》とたまのふいご音以外には、何世紀も未来のものでありながらすぐ近くのものでもある見えない川=道の流水の音しか聞えなかった。
「できた」ジョンがついに言った。
恭しく渡された輝くしるしの輪を見て、ウィルはその美しさに息を呑んだ。そうやってしるしを持つと、電気ショックのように異様で強烈な感覚を覚えた。強い、傲然《ごうぜん》たる力の再認識だった。ウィルは首をかしげた。危険は去り、<闇>は逃げたのに、なぜこれが要るのだろう? 腑に落ちぬまま老婦人のもとへ行き、しるしをその手に預けて足もとにひざまずいた。
「まあ、これは将来のためのものなのですよ、ウィル。わかりませんか? しるしはそのためにあるのです。過去何世紀もの間眠りつづけて来た四つの力の品々のうち第二のもので、わたしたちの力の大部分を占めています。力の品々はそれぞれ、<時>の中の異なった時点において、異なった光の細工師の手で、必要とされる日を待つよう作られました。聖杯《せいはい》と呼ばれる黄金の杯、しるしの輪、水晶《すいしよう》の剣、黄金の竪琴《たてごと》。このうち聖杯は、しるし同様、無事に発見されました。残りのふたつはこれから見つけるべきもの、べつな時期にふさわしいべつな探求の対象です。けれど、そのふたつが今までのふたつに加われば、<闇>が最後の、そして最大の野望を燃やして攻めて来た時に、勝てるという希望と励ましが得られるのですよ」
老婦人は顔を上げ、数え切れない幽霊《ゆうれい》じみた<古老>の群れをながめて「<闇>の寄せ手が攻め来る時」と無表情に言った。沢山の声が低く、予言めいてどよめいた。「六たりの者、これを押し返す」
再びウィルを見おろした老婦人の、老いを知らない目のまわりに、愛情のこもったしわが刻まれた。
「<しるしを捜す者>よ。あなたの誕生と誕生日とによって、あなたは生まれながらの力を確認し、<古老>の輪は完全になりました。今も後も永久に。そして仙術の才能をよく用いることによって、あなたは偉大な務めを成しとげ、試練に打ち勝てることを証明しました。いつかまた必ず会いますが、その日まで、あなたを思い出すたびにわたしたちは誇りを覚えることでしょう」
延々《えんえん》と続く群集はまたつぶやいたが、前のとは異なる、暖かい反応だった。大きなバラ色の指輪のきらめく細い小さな手で、老婦人は身をかがめて、ウィルの首につながったしるしの鎖をかけた。それから額に軽く、小鳥の翼がそっと撫でて行ったかのような軽いキスをした。「ごきげんよう、ウィル・スタントン」
つぶやき声が高まり、世界が木や火の渦となってウィルのまわりを回った。それらを全てかぶさるように、あの鈴の音に似た忘れ難い旋律が、今までになく大きく喜ばしげに聞えた。頭の中で鳴り響く音に深い喜びに満たされて、ウィルは目を閉じ、その美しさに身を任せた。ほんのわずかな一瞬、この音楽こそ、光の精神であり本質なのだとわかった。だが、やがて次第に薄れ出した。遠のき、さし招き、以前と同じように少しもの悲しげになり、無へと薄れ、薄れ、薄れ、代りに、流れる水の音が高まった。
ウィルは悲しさに声を上げ、目をあけた。
見るとハンタークーム小路のそばではあるがどこだかわからない場所の、生気のない早朝の光を浴びた冷たく固い雪の上にひざまずいていた。道の反対側の穴だらけの雪の中から、裸の木々が突き出ている。小路そのものは再び邪魔者のない舗道に戻っていたが、両側の排水溝《はいすいこう》に水が激しく流れ、小川の、いや大きな河並みの音をたてていた……。道は空《から》で、木々の間にも誰もいなかった。ウィルはあまりの喪失感に泣きたいほどだった。あの暖かい友人の群れ、あの輝きと光とめでたさ、それに老婦人。全てが消え去り、ウィルひとりを置いて行った。
首に手をやると、しるしはまだあった。
背後でメリマンの深い声がした。「家へ帰る時間だ、ウィル」
「そう」ウィルは振り向かずに、悲しげに言った。「あなたが残っててくれてよかった」「実に嬉しそうだな」メリマンは皮肉っぽく言った。「そうおおっぴらに喜ぶものではない。抑えてくれ」
ウィルはかかとに尻を乗せて、肩越しに振り返った。メリマンがとてつもなく重々しく、ふくろうのような黒い目で見おろしていた。ふいに、ウィルの中で固く耐え難い結び目となっていた感情が割れて砕け、笑い転げ出した。メリマンの口もとがかすかに震えた。手を出してくれたので、ウィルはまだ咳込みながら立ち上がった。
「今のは――」ウィルは言いかけてやめた。自分が笑っているのか泣いているのか、わからなかった。
「今のは――ちょっとした変化だ」メリマンがやさしく言った。「もう歩けるかね?」
「あたりまえだよ」ウィルは憤慨《ふんがい》して言った。まわりを見ると、鍛冶場のあったところには、車庫のようなくたびれたレンガの建物があり、その周囲の溶けかけた雪の中に、ガラスの温床《おんしよう》と野菜畑の形が見えている。パッと顔を上げると見なれた家の輪郭が見えた。「館だ!」
「裏口だよ」メリマンは言うと、「村寄りのな。利用するのはもっぱら御用聞きと――執事だ」とウィルにほほえみかけた。
「あの古い鍛冶場は本当にここにあったの?」
「古い館の図面では鍛冶屋門と呼ばれている。郷土史家たちはハンタークームについて書く時、その名の由来を憶測するのが好きとみえる。いつも間違っているがね」
ウィルは木の間から、館の高いテューダー様式の煙突と破風のある屋根を見た。「ミス・グレイソーンはいるの?」
「今はな。群集の中にいたのに気づかなかったのか?」
「群集?」ウィルは、自分の口が阿呆《あほう》のようにあいているのに気づいて閉じた。矛盾《むじゆん》し合う考えが頭の中を駆け抜けた。「じゃ、ミス・グレイソーンも<古老>のひとりなの?」
メリマンは一方の眉を上げた。「これこれ、ウィル、それくらい、とうの昔に感じ取っていたはずだぞ」
「うん……確かにね。でも、どのミス・グレイソーンが仲間なのか、はっきりしなかったんだ。現在のクリスマス・パーティのほうか。うーん。本当はそれもわかってたんだろうなあ」ウィルはためらいがちにメリマンほ見上げた。「ふたりは同じひとなんでしょう?」
「そうこなくては」メリマンは言った。「そうだ。君とウェイランド・スミスが細工に熱中している間に、ミス・グレイソーンから十二夜の贈り物をふたつ預かっている。ひとつは兄さんのポールに、ひとつは君にだ」メリマンはウィルに絹《きぬ》らしい布に包まれたぶかっこうな小さな包みをふたつ見せ、またマントの下にしまった。「ポールのは普通の贈り物だと思う。まあ、普通の贈り物と言えるだろう。君のは未来においてのみ使うべきものだ。いつか、必要だと思うときがあったら、その時に使いたまえ」
「十二夜」ウィルは言い、「今がそうなの?」と目を上げて、灰色の朝まだきの空を見た。「メリマン、父さんたちがぼくのことを心配するのをよく防げたね。母さんは本当に大丈夫?」
「もちろんだとも。それから君は館に泊まったのだ。ぐっすり眠ってな……さあ、そんなことは、ささいな問題だ。質問の内容は全て分かっている。家に帰り着けば、どう答えればいいかわかるはずだ。本当はもうわかっているはずだがな」ウィルに頭を近づけて、ひとにらみで人を殺すという怪物バジリスクのように、深い黒い目でじっと見た。「どうした、<古老>よ」とそっと言った。「自分を見失ってはならぬ。もはや小さな男の子ではないのだぞ」
「うん、わかってる」
「だが時には、子供だったほうが毎日がどんなにか楽しいだろう、と思うこともあろう」「時にはね」ウィルはニヤッとした。「でも、いつもじゃないよ」
ふたりはまわれ右をし、道の端の小さな流れをまたぎ越し、ハンタークーム小路に沿って連れ立ってスタントン家へと向かった。
*
だんだん明るくなり、前方の空の縁、じきに太陽が昇るであろうあたりに光が注がれ出した。道の両側の雪の上にはかすかなもやがかかり、裸木や小さな流れのまわりに渦巻いていた。良いことの約束に満ちた朝で、空はわずかに青味を帯び、雲こそなかったがぼうっとかすんでいた。ハンタークームでは何日間も見られなかった色合いだった。ふたりは旧友同士のように口数少なく歩いた。沈黙と言うよりは静かな意思の疎通《そつう》をわかち合いながら。むき出しの濡れた道に響く足音が、ツグミの歌と遠くで誰かがシャベルを使っている音を除けば、村じゅうで唯一の物音だった。道の片隅に黒く葉のない高い木々が見え、カラスが森の角にさしかかったのだとわかった。上を見上げたが、木の間からも、もやにかすむ枝高く作られた大きな汚ならしい巣からも、何ひとつ聞えなかった。
「カラスが静かだなあ」ウィルは言った。
「あそこにはおらぬ」
「いない? なぜ? どこにいるの?」
メリマンは微笑した。かすかな、重々しい微笑だった。「『たける猟犬』どもが空で狩りをするときにその姿を見かけたものは、けものでも鳥でも恐怖に狂ってしまうのだよ。この王国を通じて、ハーンと猟犬が通ったあたりに住む飼い主たちは、ゆうべ外に出しておいた家畜を見つけられずじまいになるだろう。昔はよく知られていたことだ。田舎に住む者たちは、十二夜の晩には、狩りが始まる場合をおもんばかって飼っている生き物を家に閉じ込めておいたものだ」
「でも、どうなるの? 殺されちゃうの?」ミヤマガラスが<闇>のために行なったあらゆることにもかかわらず、全て殺されてしまったとは思いたくなかった。
「いや、とんでもない。追い散らされるだけだ。近くを通った猟犬の気が向く限り、空の上をいやいや追い回されるのだ。『滅びの犬』たちは生き物を殺したり、肉を喰《くら》らったりはせぬ……カラスどもはいずれ戻る。一羽ずつ、ボロボロになり、くたびれ果て、しょんぼりしてな。<闇>と関わり合いにならなかった賢明な鳥なら、ゆうべは枝や軒《のき》の下に身を隠し、見つからぬようにしたはずだ。事実そうした鳥はいまでもここにいる。何ら被害を蒙《こうむ》ってはおらぬ。だが、われらが友ミヤマガラスが元気を取り戻すには相当かかるだろう。もはや悩まされることはないと思うがな、ウィル、私なら決して信用はせぬな」
「見て」ウィルは前をゆびさした。「信用できるのが二匹いるよ」誇りが声にあふれた。大慌てで駆け寄って来るのはスタントン家の二匹の犬、ラックとサイだった。二頭はウィルにとびつき、嬉しそうに吠えたり鳴いたり、手をなめたり、一カ月も留守にしていたような歓迎ぶりだった。話しかけようとかがむと、揺れる尻尾《しつぽ》や、息をはずませている暖かい頭や、濡れた大きな足に包まれてしまった。「こら、バカ犬、放してくれ」ウィルは嬉しくなって言った。
メリマンが小さな声で「静かに」と言った。とたんに犬は落ち着き、じっとし、尻尾だけを熱烈《ねつれつ》に振った。二頭ともメリマンのほうを向き、一瞬見上げた。と思うと黙って愛想良くウィルと並んで歩き出した。じきにスタントン家の車道が見え、シャベルの音が大きくなり、角を曲がると、寒くないよう厚着したポールとスタントン氏が排水溝からぬかった雪や木の葉や小枝を取り除いているのが見えた。
「おやおや」スタントン氏はシャベルにもたれて手を休めた。
「やあ、父さん」ウィルは明るく言い、駆け寄って抱きついた。
メリマンが言った。「おはようございます」
「早いうちに戻るだろうとジョージ爺さんが言ってたが」とスタントン氏は言った。「まさか、これほど朝早くとは思ってなかったよ。どうやってこの子を起こしたんだね?」
「自分で起きたもん。本当だよ。お正月だから、心を入れ替えたんだ。何をしてるの?」「排水溝の中身を入れ替えてるのさ」ポールが言った。
「へたな洒落《しやれ》」
「本当のことさ。雪どけがあまり急だったんで地面は凍ったままだし、水ははけないし。排水溝の雪がとけたと思ったら、排水のおかげでゴミがいっぱい流れ込んで詰まっちまった。見ろよ」ポールは水をしたたらせているゴミの塊をすくい上げた。
「ぼくもシャベルを取って来る。手伝うよ」
「先に朝食にしたほうがいいんじゃないか?」ポールは言った。「メアリーがこしらえてるんだぜ。信じられるか? みんな心を入れ替え出したみたいだな。新年と呼べるうちにってつもりかな?」
ウィルは最後にものを食べた時からずいぶん時間がたっているのに気づき、ものすごい空腹感を覚え、舌なめずりした。
「中で、朝食かコーヒーでもどうだね?」スタントン氏がメリマンに言った。「この時間に館から歩いて来るのは寒かったろう。ゆうべこの子を世話してもらった上に、送ってまでもらって、本当に感謝している」
メリマンは微笑しながらかぶりを振り、マントから再び二十世紀のオーバーに変わった服の衿を立てた。「ありがとうございます。ですが、これで失礼致します」
「ウィル!」かん高い声と共に、メアリーが車道を飛ぶようにやって来た。足をすべらせて、近づいたウィルと微笑し、ウィルの腹をポンと叩いた。「館は面白かった? 四本柱のベッドで寝たの?」
「ちょっと違った。姉さんは大丈夫?」
「決まってるじゃない。ジョージ爺さんに馬に乗せてもらったの。最高だったわよ。ドースンさんのところの、品評会に出た大きい馬の片方でね。うちを出てすぐくらいに、小路で拾ってくれたの。ゆうべじゃなくてずっと昔のことみたい」といささかきまり悪そうにウィルを見た。「あんなふうにマックスを捜しに行ったりしちゃいけなかったんでしょうね。でも何もかも立て続けに起きたでしょ。母さんを助けなきゃって心配で――」
「母さんは本当に大丈夫?」
「先生はそう言ったわよ。ねんざだったの。骨折じゃなかったのよ。でも頭をぶつけて気を失ったのは本当だから、一、二週間静養しなくちゃならないって。でも、会えばわかるけど、すごく元気なの」
ウィルは車道のはずれに目をやった。ポールとメリマンと父親が一緒に談笑していた。もしかしたら、父親は、執事のリオンもなかなかいいやつだと思うようになったのかもしれない。館の大道具にすぎなくはないと。
メアリーが言った。「ごめん、あんたまで森の中で迷子にしちゃって。全部あたしのせいだわ。あんたとポールは、実際にあたしのすぐ後ろを歩いてたんですって。ジョージ爺さんが三人とも見つけてくれて良かったわ。ポールったらかわいそうに、ひとりじゃなくふたり迷子になったって、心配したらしいの」とクスッと笑ったが、すぐにまた申し訳なさそうな顔に戻った。無理をしているようでもなかった。
「ウィル!」ポールがおとなたちを離れ、興奮して駆け寄ってきた。「見てくれよ! ミス・グレイソーン曰《いわ》く永久貸し出しなんだ。なんていい人なんだろ――見ろよ!」顔を嬉しさに紅潮《こうちよう》させて差し出しているのは、メリマンが持って来た包みのひとつだった。ひろげた布の上に、館の古いフルートが横たわっていた。
自分の顔がゆっくりとほころぶのを感じつつ、ウィルはメリマンを見上げた。黒い目で重々しく見おろしながら、メリマンはもうひとつの包みを出した。「こちらは、館の奥さまから、ウィルさんに」
ウィルはあけてみた。中には、古びて細くすり減り光沢を帯びている小さな狩りの角笛があった。ウィルはちらっとメリマンを見てまた目を落とした。
メアリーが笑いながらはね回った。「さあ、ウィル、吹いてみなさいよ。ウィンザー城まで届くくらいの音が出せるわよ。さあ!」
「あとで。吹き方を勉強しなくちゃ。どうもありがとうって伝えてくれる?」ウィルはメリマンに言った。
メリマンはうなずいた。「もう失礼しませんと」
ロジャー・スタントンは「すっかり世話になって、どんなに感謝しているか言いつくせないほどだ。何から何まで厄介《やつかい》かけて。この気違いじみた天気の間じゅう――子供たちのことも――本当に、すっかり君には――」と言葉が続かなくなり、腕を突き出すと、メリマンの手を握って熱をこめて上下に振った。いつまでもやめないのでは、とウィルが思ったほどだった。
メリマンのごつごつした猛々しい顔がなごみ、嬉しそうな、そして少し驚いたような表情が浮かんだ。無言でほほえみ、うなずいた。ポールも、メアリーも握手した。続いてウィルの手が力強く包まれ、ぐっと握られた。深く黒い目に一瞬くいいるように見つめられた。
「また会う時まで、ウィル」
全員に手をあげてあいさつすると、メリマンは大またに小路を下って行った。ウィルがぶらぶらとあとを追うと、メアリーがかたわらをスキップしながら、「ゆうべの雁《かり》の声を聞いた?」
「雁?」ウィルはぶっきらぼうに言った。ろくに聞いていなかった。「雁だって? あの嵐の最中に?」
「嵐ってなんのことよ?」メアリーは、ウィルに面くらう暇も与えずに続けた。「雁だったわよ。何千羽もいたに違いないわ。渡って行く途中だったのね、きっと。見えはしなかったのよ――ただすばらしく鳴くのが聞えたの。最初は、森の間抜けなカラスがカアカアうるさかったんだけど、そのあと、高い鳴き声がずうっと聞えてね、空のうんと上のほうを横ぎってったわ。ぞくぞくしちゃった」
「ああ、そうだろうね」
「あんた、まだねぼけてるわね」メアリーはうんざりして、ピョンピョンと車道の端まではねて行った。そしてはたと立ち止まって、じっと動かなくなった。「うわあ! ウィル! 見てごらん!」
メアリーはとある木の後ろの、雪堤の名残《なごり》に隠されたものを見つめていた。行ってみると、濡れた下草の中に、ふくろうの目、人間の顔、鹿の角を持った謝肉祭用の大きな仮面が転がっていた。ウィルは、何も言葉にならず、ただひたすら凝視し続けた。仮面は前と同じように華やかでカラッと乾いていた。これからも変わることはないだろう。空に吠《ほ》えた狩人ハーンの輪郭に、似て非なるものがあった。
ウィルはまだ無言で見つめ続けた。
「嘘みたいね」メアリーが明るく言った。「あそこにひっかかったなんて、運が良かったじゃない? 母さんが喜ぶわあ。もうあの頃には目がさめてて――ほら、いきなり床上浸水《しんすい》した時よ。ああ、あんたはいなかったのよね。一階が水びたしになって、気づいた時には、いろんなものが居間から押し流されていたの。あのお面も流されて――あんたが悲しむだろうって、母さんが気にしてね。それがどう? こんなことって――」
メアリーは仮面をのぞき込みながら楽しげにしゃべり続けていたが、ウィルはもはや聞いてはいなかった。仮面は庭の壁のすぐそばに転がっている。壁はまだほとんど雪に埋《う》もれていたが、両端が吹きだまりから顔を出し始めていた。そして、外側の端から道の縁までおおい、排水溝を流れる水の上に突き出ている吹きだまりには、いくつかの跡がついていた。ひづめの跡だ。ここで立ち止まり、向きを変え、雪の上をとび越えて去った馬のものだ。にもかかわらず、いずれも馬蹄型ではなかった。十文字に仕切られた輪の形、最初の日にジョン・ウェイランド・スミスが<光>の白い牝馬に打った蹄鉄の跡だった。
ウィルは足跡を、そして仮面を見、こみあげて来た思いをぐっと飲み込んだ。ニ、三歩進んで車道のはずれに出、ハンタークーム小路の先を見た。歩み去るメリマンの、黒っぽい服を着た背の高い後ろ姿がまだ見えた。と、ウィルは総毛だった。脈が止まった。背後から寒い灰色の朝の冷えた空気の中だというのに、信じ難いほど甘やかな音が聞えたのだ。やわらかく美しい、胸の痛むような音色は、館の古いフルートのものだった。ポールが魅力に抗《こう》しきれずに、組み立てて試しているのだろう。曲は再び「グリーンスリーヴス」だった。この世ならぬ魔法の調べは、動かぬ空気に乗って朝の中を縫っていった。メリマンが聞きつけ、歩調こそ崩さなかったが、乱れた白い頭を上げるのが見えた。
音楽を耳に道の先をながめるうちに、メリマンの向こうで、木々や霧《きり》や道の続きが見なれた震え方、揺れ方をするのが見えた。そして徐々に、その先に、大きな扉が現れ出した。ひらけた丘の中腹、そして館の中で見た時のままに、<時>の外へと通ずる背の高い木彫りの扉は今はハンタークーム小路の名で知られるいにしえの道にぽつんと直立していた。そしてゆっくりと開き始めた。ウィルの背後のどこかで「グリーンリーヴス」の調べがとぎれ、ポールの笑い声と、くぐもった声がした。が、ウィルの頭の中の調べはとぎれず、扉が開くたび、<古老>の人生に大きな変化が訪れるたびに聞える、あの忘れられぬ鈴の音に変わっていた。ウィルは耳を傾けながらこぶしを固め、甘く招く音色に焦《こ》がれた。この音楽こそ、めざめと夢、きのうときょう、記憶と空想の間を占めるものなのだ。調べはいつくしむように脳裏を漂い、次第に遠く、薄れていった。いにしえの道の上では、また青いマントをひるがえしたメリマンの長身が、開いた両開きの扉をくぐった。その背後で、彫刻を施した重いカシの大きな板はゆっくりと半転して合わさり、音もなく閉じた。魔法の楽《がく》の音《ね》の最後の響きが絶えると共に、扉も消えた。
そして、黄色と白に燦然《さんぜん》と輝いて、狩人の谷《ハンターズクーム》とテムズ谷に太陽が昇った。