【コーンウォールの聖杯】
スーザン・クーパー
おもな登場人物
サイモン
ドルウ家の三人きょうだいの長男で、海と船が大好き。妹と弟を連れて宝さがしに活躍。
ジェイン
兄のサイモンとは11か月しかちがわない。兄や弟のことにも気をつかう。
バーニイ
三人きょうだいの末っ子。アーサー王のことに夢中。頭がよく、いつも陽気で活発な性格。
メリイおじさん
三人きょうだいの死んだおじいさんの友だち。学者だが、ときどき姿をくらます。そびえ立つような大きな体に、神秘的なふんいきをただよわせた老人。
ミスター・ヘイスティングス
牧師だと思われている。メリイおじさんと同じくらい大男で、いつも黒いものを身につけている。
ミスター・ウィザース
白い大型ヨットであらわれ、きちんとした身なりで礼儀正しい男。
ミス・ウィザース
三人きょうだいの発見した古地図に関心をしめす女性。
ビル少年
村の少年で、ミス・ウィザースに忠実につきそっている。
ポークおばさん
サイモンたちが借りた別荘でお手伝いしてくれる元気な村の女性
第一章 ヨットのいる港
「おじさんはどこにいるのかな?」
バーニイは、汽車の昇降口につかまって片足、また片足とホームに飛びおりると、まわりを見まわした。セント・オーステル駅の改札口の方へ、白い人波が流れていく。でも、めざす人の姿は、見あたらないのだった。
「おじさんはいないよ。むかえに来てるの?」
「来てるにきまってるさ」と、サイモンが、おとうさんのつり道具のたばを、けんめいに手でしっかりとつかみながら言った。「むかえに来ているといったんだから。車でね」
サイモンたちのうしろで、でっかいディーゼル機関車が、巨大なフクロウのように汽笛を鳴らすと、動きはじめた。
「しばらくそこにいるんだ。メリイおじさんは消えていなくなったりしない。混雑がおさまるまで待っていよう」と、おとうさんがスーツケースのパリゲートのところから子どもたちに言った。
ジェインが、うっとりしたような顔で、鼻をひくひくさせた。
「海のにおいがするわ!」
サイモンは、ばかにしたような口ぶりで、「ここは海から何マイル(一マイルは一・六キロ)もはなれているんだぜ」と言った。
「だって、たしかににおうわよ」
「トリウィシックは、このセント・オーステルから五マイルも先なんだ。メリイおじさんがそういったんだからな」
「ああ、おじさんはどこにいるのかな?」と、バーニイはそわそわして、ほこりっぽい灰色のプラットホームの上を動きまわりながら、視界をさえぎっている人々のうしろの姿が、改札口の中へ消えていくのをかみつきそうな目でながめていた。そのとき、とつぜん、バーニイは下の方をじっと見つめたまま、動かなくなった。
「ほら――ごらんよ」
サイモンとジェインは、その方を見た。バーニイが見つめているのは、森の木のように人々の足が何本もならんで、動いていくそのすきまからみえる、大きな黒のスーツケースだった。
「一体あれがなんだっていうのよ?」と、ジェインが言った。
そのとき、三人は、そのスーツケースが二つのとがった茶色の耳をもち、長い茶色のしっぽをふるのを見た。持ち主がスーツケースを持ちあげ、立ちさっていった。すると、そのかげになっていた犬の姿が見えた。犬はその場に立ったまま、プラットホームの一方のはしから一方のはしへと、ながめやった。大きくて、あしがひょろ長く、体のほっそりした犬だった。太陽の光線があたったところの前あしの色は黒ずんだ赤にかがやいていた。
バーニイは口笛を吹き、手をさしのべた。
「いけませんよ」と、おかあさんが泣きごとを言うみたいな声を出した。ポケットにさしこんだ油絵の筆のたばを、おかあさんはにぎりしめていたが、それはまるでセロリをポケットにつっこんでいるように見えた。
ところがバーニイが口笛を吹くか吹かないかのうちに、もう犬はこちらに向かって、とことことかけてきはじめた。うさんくさそうにしたりまよったりしないで、なつかしい友だちでも見つけたというように、まっすぐバーニイの方にかけてきた。犬はみんなのまわりをゆっくりまわりながら、その長い赤い鼻を、順番にひとりひとりの方に持ちあげていたが、やがてジェインのそばに立ちどまると、その手をなめた。
「まあ、すばらしいじゃない!」
ジェインはそう言って犬のそばにしゃがむと、長い首の絹のような毛なみをなでてやった。
「気をつけなさいよ」と、おかあさんが言った。「その犬、おいてきぼりにされるわよ。きっとあそこのだれかの犬なんですからね」
「あたしたちの犬だったらいいのにな」
「ぼくたちのだよ。ほら」と、バーニイが言った。
バーニイが赤毛の頭をかいてやると、犬はのどの奥で、うれしそうな声をあげるのだった。
「だめだよ」と、おとうさんが言った。
人ごみは、だんだん少なくなってきて、さくごしに、駅の広場の上にひろがる、すみきった青空が見えた。
「首輪に名前があるわ」
まだ犬の首のところにしゃがみこんでいたジェインが言った。じょうぶな皮の首輪についている、銀のつけ札をジェインはいじくっていた。
「えーと、ルーファス。それから、まだ書いてあるわ……トリウィシック。あら、この犬は村から来たんだわ!」
でもジェインが顔をあげると、今までいたはずのみんなが急にいなくなっていた。ジェインは飛びあがって、みんなの後を追って日なたの中にかけだしていった。かけながらジェインはたちまち、ほかのみんながもう見つけていたものを見た。それは、広場に立って、みんなを待っている、あのそびえるように背の高いメリイおじさんの姿だった。
みんなはメリイおじさんのところにかけると、一本の木のまわりにむらがるリスのように、口々にしゃべりだした。
「やあ、やってきたのかね」と、メリイおじさんは、ごくあっさりした口ぶりで言った。そして、わずかにほほえみながら、白くなったこいまゆ毛の奥から、みんなを見おろしていた。
「コーンウォール(アーサー王伝説の舞台になっている土地の一つ)って、すてきだな」
バーニイが、うきうきした声で言った。
「そういっても、おまえはまだなにも見てはいないのだぞ」と、メリイおじさんは言った。それから、「エレン、おまえ元気かい?」と言って、ちょっと体をかがめて、バーニイたちのおかあさんのほおに、かるくキスをした。
メリイおじさんは、おかあさんの本当のおじではなく、おかあさんの父の友だちだった人だ。それでも、これまでずいぶん長い年月にわたって親しくつきあってきたので、今では、このメリイおじさんが最初どこからやってきたのか、もう家族のだれも考えてみようともしないほどだった。
メリイおじさんのことは、だれもよくは知らないし、あえてたずねてみようともしなかった。この人は、メリイおじさんという名前から受ける感じとは、まるでちがっていた。背が高くて、体はまっすぐで、頭には白い髪の毛がもじゃもじゃはえている。ごつごつした茶色の顔には、とがったワシ鼻が高くつき出し、両方の目は落ちくぼんで、暗い光をたたえているのだ。
一体何歳になるのか、だれも知らないのだった。「山や丘のように年とっているんだ」と、おとうさんは言っていた。そう言われてみると、バーニイたちは、本当にそうなのかもしれないという気がしてくるのだ。メリイおじさんには、どこか山のような、あるいは海のような、空のような、そんな感じがあるのだった。ずっとむかしからあるもので、それでいて年もとらなければ、おわりもないというような、なにかそんな感じなのだ。
いつだって、このメリイおじさんがいると、かわったことが起こるようだった。長い間、どこかにいってしまうこともよくあった。そして、とつぜんある日、まるでどこにもいったりしなかった、という顔でドルウ家の玄関を入ってくるのだった。そして、南アメリカで消えた谷を見つけたとか、フランスでローマ人の要塞を発見したとか、イギリスの沿岸で、焼けた海賊船が埋まっているのを発見したとか言うのだ。
メリイおじさんのしたことを聞いたら、おもしろい新聞記事が書けただろう。ところが記者がたずねてくるころには、メリイおじさんはもういなくなっていて、大学の静かなほこりのつもった建物の中にもどって講義している、という具合だった。朝起きて、「ごはんですよ」と、メリイおじさんを呼びにいくと、姿が見えない。それっきり、つぎに姿をあらわすまで、一か月ほどもまるで消息がわからなかったりするのだ。
今度だって、メリイおじさんが借りてくれたトリウィシックの家に、夏の間四週間まるまる、バーニイたちがメリイおじさんといっしょにすごせるなんて、あまり期待できないことだった。
メリイおじさんの白い髪が、太陽にかがやいていた。バーニイたちといっしょに汽車ではこばれてきた、二つの大きなスーツケースを、メリイおじさんはそれぞれ両方の腕にかかえると、大またで広場を横切って車の方へ歩きだした。
「どうだね、あの車?」
メリイおじさんは、じまんそうに言った。
みんなは、後に続いて歩きながら、その車を見た。使い古された大きな旧式の車で、どろよけはさびつき、ぬりははげ落ち、車輪にはどろがこびりついている。ラジエーターから、蒸気がかすかに立ちのぼっていた。
「こいつはすごいや!」と、サイモンが言った。
「ふうーん」と、おかあさん。
「メリイおじさん、保険をちゃんとかけといたほうがいいですよ」
陽気な声で言ったのはおとうさんだった。
メリイおじさんは、フンと鼻を鳴らした。
「じょうだんじゃない。すばらしい車だぞ。お百姓から借りたんだ。とにかく、全員乗れる。さあ乗って」
ジェインは、いちばん最後に車に乗りこみながら、ざんねんそうに駅の入り口の方をふりかえった。赤い毛のあの犬が、敷石の上にじっと立ったまま、こちらの方を見ていた。白い歯の上から、ピンク色の舌がだらりとさがっていた。
メリイおじさんが呼んだ。
「来るんだ、ルーファス」
「わあ!」と、バーニイが大よろこびの声をあげるのと、ほとんど同じだった。四本の長いあしとぬれた鼻づらが、弾丸のように車に飛びこんできて、バーニイは横へはねのけられた。バーニイは言った。
「おじさんの犬なの?」
「とんでもない」と、メリイおじさんは言った。
「しかし、これから一か月の間、おまえたち三人のものになるだろうな。飼い主の船長が、このルーファスを船に乗せていくことができなかったのだ。だから彼はずっとグレイ・ハウス(灰色の家)にいることになる」
そう言うと、メリイおじさんは体をかがめて運転席に乗りこんだ。
「グレイ・ハウスって?」と、サイモンが言った。「そんなふうに呼ばれてるの? どうして?」
「いずれわかることだ」
エンジンがかかり、うなりだした。車はスタートした。いくつもの街路をとおりぬけて郊外へと出ていく。よろよろ車の中で、みんなは大声で話しあった。やがて、いけがきが道ばたに続くようになった。道が登り坂になり、曲がりくねってくるにつれて、深くしげったいけがきは、いっそう高くそして深い緑になっていった。そのうしろには、ずっと空まで、草の生えた丘の斜面がひろがっている。空とのさかいめには、木が何本かと、黄色っぽい灰色をした岩はだとが見えるだけだった。海から吹いてくる風のために、それらの木はまっすぐ上にのびられず、おじぎでもするように曲がっていた。
エンジンのうるさい音のなかで、メリイおじさんが大声を出した。
「さあ、ここだぞ」
そう言いながらふりむき、片方の手をハンドルからはなしてふったので、おとうさんは軽いうなり声をあげ、目をつぶった。
「これがコーンウォールだ。正真正銘のコーンウォール。目の前にログレス(アーサー王が支配した美しい、幸せの国。地上にあらわれた神の国であり、理想の王国だったとされている。もちろん、伝説上の王国)を見ているわけだ」
エンジンのひびきが、あまりに高いので、メリイおじさんに問いかえすものはいなかった。
「ログレスって、なんのことなの?」と、ジェインがたずねた。
サイモンは首をふった。その耳を犬がなめた。
「西部の土地ということだよ」
思いがけないことにバーニイがこう言って、いつも目の上にたれている金髪を、うしろへなであげた。
「コーンウォールの古い名前なんだ。アーサー王のね」
「そういえばそうだったかもな」
サイモンがうなるように言った。
読むことをおぼえてからというもの、バーニイにとってはアーサー王とその騎士たちが最大の英雄で、もう夢中だった。夢の中でバーニイは、"円卓の騎士″のメンバーとして、勇敢に戦い、美しい貴婦人たちをたすけ、いんちき騎士たちをやっつけるのだった。"西部の地″にいきたいというのが、長い間のバーニイの願いだった。それは自分のふるさとに帰るような、なにかそんな気持ちがするのだった。サイモンの言い方に、腹を立てたようにバーニイは言った。
「にいさんは待ってよ。メリイおじさんが知ってるさ」
それから、長い時間がすぎたように思えた。丘のかわりにこんどは青い海岸線がずっと続いているのが見え、目の前に村が姿をあらわした。
トリウィシックの家々は、丘の下の曲がりくねった細い道にそって建っていて、灰色のスレート屋根の下にねむっているように見えた。レースのカーテンのある窓の内側は静まりかえっていて、小さな四角い家々の白い壁にエンジンの音がはねかえった。メリイおじさんが、大きくハンドルをきった。すると急に港が目の前にあらわれて、港のふちにそって車は進んだ。午後の太陽の下で、さざ波が金色にかがやいていた。船つき場につながれていたいくつもの小さい帆船が、波にかすかにゆれていた。何年も前におかあさんがかいた絵で見たことがあるだけの、コーンウォール地方独特の漁船の列も見わたせた。短くて太いマストをもち、船尾に小さな四角いエンジン室がついた、ずんぐりしたかっこうの漁船だった。
岸壁には、黒っぽい魚網がうちかけてあった。たくましい体つきの、日焼けした顔の漁師たちが何人か、足のつけ根まである長いブーツをはき、通りすぎる車を、ものうげにながめやった。ニ、三人が、メリイおじさんを見てにっと笑い、手をふった。
「あの人たち、おじさんを知ってるの?」
サイモンが好奇心をまる出しにしてたずねた。
しかしメリイおじさんはこたえなかった。質問にこたえたくないときには、だまってしまうことができるのが、メリイおじさんのやりかたなのだ。港の反対側の小高い丘まで、登り坂になった道を、エンジンを全開にしてつっ走らせたかと思うと、車はとつぜん止まった。
「さあついたぞ」メリイおじさんが言った。
ふいにやってきた静けさの中で、みんなの耳はまだエンジンのうなりにしびれているようだった。海の方に向けていた顔を、いっせいに反対側に向けて外をながめた。
丘の急な斜面にそって、家々が段をなしてならんでいる。その真ん中に、三階建てで『切り妻屋敷(本を開いて「へ」の字なりにしたような形の屋根)』の、たてにひょろ長い家が塔のように建っていた。いんきな暗い感じの家で、黒っぽい灰色にぬってあり、ドアと窓わくは白くかがやいている。屋根はスレートぶきで、青っぽい灰色をした、高いアーチのようだった。それは港をこえて海をにらんでいる。
「あれがグレイ・ハウスだ」
メリイおじさんがいった。
丘を吹いてくるかすかな風が、みんなの顔をなでてすぎた。塩分と、海そうのにおいと、どこか心をわきたたせるようなものをふくんだ風だった。 みんなは車からスーツケースをおろした。ルーファスが、すごく興奮してみんなの足の間をじゃれまわっていた。そのときサイモンが、とつぜんジェインの腕をつかんで、
「おや――ごらんよ!」と言った。
サイモンは海の方、港の入り口のかなたを見ていた。その指さす方向に、ジェインは長い三角の美しい帆をいっぱいにはったヨットが、トリウィシックの方にゆっくりと進んでくるのを見た。
「きれいだわね」と、ジェインは、さほど気がなさそうに言った。サイモンのような大の船好きではなかったからだ。
「すてきなヨットだ。だれのだろうな?」
そう言って、サイモンはうっとりしたように見とれて立ちつくしていた。ヨットはしだいに近づいてきた。帆がぱたぱた動くのが見えてきた。やがて、高い白い主帆《メンスル》がしわになっておりてきた。索具《リギン》をあやつる音が、海面をわたってかすかに聞こえてきたかと思うと、こんどはエンジンが始動しはじめた。
「晩ごはんまでに、下までおりて港を見てきてもいいって、おかあさんがいってるよ」と、サイモンとジェインのうしろから、バーニイが言った。「いってみる?」
「もちろんさ。メリイおじさんはいくかな?」
「車をしまいにいくところだよ」
そこで三人は、波止場へと通じる道を、下に向かって歩きはじめた。道の片側は、低い灰色の石がきになっていて、積んだ石と石の間に草やピンク色のカノコソウがはえていた。まだ何歩もいかないうちに、ジェインはハンカチをわすれたことに気がつき、走って車まで取りにもどった。バック・シートの下あたりをさがしながら、ちらと目をあげて前窓から外を見たジェインは、はっとなった。
グレイ・ハウスから出てきて車の方に歩いてくるメリイおじさんが、とつぜん立ちどまったのだ。メリイおじさんは、海の方を見おろしていた。あのヨットを見つけたのだということが、ジェインにはわかった。ジェインがはっとおどろいたのは、そのときメリイおじさんの顔にうかんだ表情を見たからだった。がっしりした大きな彫像のようにつっ立ったままメリイおじさんは、まゆをしかめ、おそろしくしんけんな、はげしい顔つきになったのだ。それはまるで耳で聞き、目で見るというより、体中でじっと見つめ、聞きとろうとしているかのようだった。
メリイおじさんが、おどろいたような顔を見せるなんて、そんなことはなかったとジェインは思った。でも、今のメリイおじさんの顔つきは、ジェインが今まで見た顔のうちで、おどろいたという感じにいちばん近かった。ぎょっとなり、なにか危険がせまったみたいに用心深く、身がまえて……いったいどうしたのかしら? あのヨットにはなにか奇妙なことでもあるのだろうか?
それからメリイおじさんは、向きをかえると急いで家の中にもどっていった。ジェインは考えにふけりながら車から出ると、サイモンとバーニイの後を追って、丘をくだっていった。
* * *
港には、ほとんど人かげはなかった。太陽はぎらぎら顔に照りつけ、サンダルの足底を通して、波止場の石のぬくもりが伝わってきた。港の中央部に、高い木造の倉庫があり、そのドアの正面のところから船つき場が海に四角くつき出していた。そして、あき箱が、三人の頭の上の方まで高く積みあげられていた。海カモメが三羽、バーニイたちに道をゆずるかのようにわきによけ、岸壁のふちの方へ歩いていった。目の前には、帆柱やロープが小さな林のようにならんで、ゆれ動いていた。潮は中くらいの高さで、つながれた船のデッキは船つき場の高さよりずっと下になり、三人には見えなかった。
「そら」と、サイモンが港の入り口の方を指さしながら言った。「あのヨットが入ってくるぞ。すごいじゃないか?」
そのほっそりした白いヨットは、港の外側にいかりをおろした。そこはグレイ・ハウスが建っている岬によって、外海からへだてられ守られていた。
ジェインが言った「あのヨットに、どこかへんなところがあると思う?」
「へんな? いったいなぜ?」
「ううん――よくわかんないけど」
「たぶんあのヨットは、港務部長のものだと思うな」と、バーニイが言った。
「こんな大きさの港なんかに、港務部長なんているわけないな。おとうさんが海軍に入った、ああいう港にしかいないさ」
「そんなことあるもんか。ほら、あそこの角に小さな黒いドアがあるよ。港務部長事務所と書いてあるじゃないか」と言ってバーニイは、勝ちほこったように飛びはねたので、一羽の海カモメがおどろいてそばをはなれた。それは、ニ、三歩ちょこちょこ走ったかと思うと飛びたって、海面近くをはばたいて鳴きながら、遠くの方へ飛んでいった。
「なるほどな」と、サイモンは、両手をポケットにつっこみ、両足を開いて立ち、体をゆらせるブリッジの上の船長スタイルで言った。「一つ勝ちこしというわけか。でも、あのヨットはそうとうな金持ちのものにちがいないな。あれで英仏海峡だってわたれるし、地中海にもいけるぜ」
「とんでもないわ」と、ジェインが言った。彼女は人なみに泳ぐことはできたけれど、ドルウ家の家族の中でただひとり、海がきらいだったのだ。「あんなちっぽけなので、大西洋をわたるなんて」
サイモンは、意地悪そうににたっと笑った。
「すばらしくいいぜ。でっかい波がおまえを持ちあげたかと思ったら、こんどはずーっと引きこむんだぜ。なにもかも落ちてしまって、ポットもフライパンも調理室ででんぐりかえるんだ。そして甲板ときたらあがったりしずんだり、すごいゆれ動きかたなんだ――」
「兄さんは、姉さんを気分悪くさせてしまうよ」と、バーニイがすました顔で言った。
「ばかな。このとおり陸地の上で、お日さんが照っているところでかい?」
「そうさ。陸地だって、姉さんの気持ちを悪くさせてしまうよ。ほら、もう顔色がちょっとあおくなってるよ」
「あおくなんかなっていやしないわ」
「いや、なってるぜ。それにしても信じられないけどさ、おまえはなぜ汽車の中で、いつもみたいに気分が悪くならなかったんだい。大西洋の波のことをちょっと考えてみろよ、マストが大ゆれにゆれてさ、そしてぼく以外はだれひとり朝ごはんを食べられないほど、よわっちゃってさ……」
「もう、だまってよ。あたし聞いてなんかいないから」
あわれにもジェインは、くるりと向きをかえると、魚のにおいのしみこんだ箱の山の横をまわってかけていった。その魚のにおいの方が、海を想像するよりもジェインに強烈な印象を与えて、よけい気分を悪くさせていたにちがいなかった。
「しょうがないなぁ!」と、サイモンがゆかいそうに言った。
そのとき、とつぜん、耳がつぶれるような大きな物音が、積みあげてある箱の反対側から聞こえた。悲鳴と、金属がコンクリートにぶつかる音がした。一瞬、サイモンとバーニイは、ぎょっとなっておたがいを見つめた。それから、箱の向こう側に向かって飛びだしていった。
ジェインが、自転車の下敷きになってたおれていた。自転車の前の車輪は、ひとりでまだまわっていた。背の高い、黒い髪の少年が、少しはなれた船つき場のところに、はらばいになってたおれていた。かんづめのはいった箱や、食料品のいろんな包みが、自転車の荷台から投げ出され、割れた牛乳びんから流れ出るミルクが太陽にぎらぎら光っていた。
その少年は、ようやく起きあがると、ジェインをにらみつけた。少年が身につけているものは、全部ネイビー・ブルーだった。ズボンのすそは、ウェリントン・ブーツの中にたくしこんであった。首は短くて太く、きみょうに平べったい顔だ。その顔が、今やおこったようにゆがんだ。
「おめえはどっち向いて歩いてやがるんだ? 前向いて歩けねえのかよ!」と、少年は怒りのために、コーンウォール地方なまりで、口ぎたなくどなりつけた。「とっとと、きやがれ」
少年は自転車を乱暴に引っぱり起こした。ジェインのことには、まるでかまっていなかった。ペダルに足首をとられて、ジェインは痛そうにたじろいだ。「あたしのせいじゃないわよ」と、ジェインは負けん気を出して言った。「あんたが前を見もしないで、すっとばしてきたんじゃない」
バーニイがだまったままジェインの方にいって、立ちあがるのを助けてやった。少年はふきげんそうに、かんづめを拾い集めて、手あらく箱に入れはじめた。ジェインは手伝おうと一つつかみあげた。ところが箱に入れようとしたしゅんかんに、少年がジェインの手をはらいのけたものだから、かんづめは船つき場の上をころころところげていった。
「よけいなことをするんじゃねえや」少年は、がみがみ声で言った。
「おい、」と、サイモンがむっとした声で言った。「そんないいかたはないぜ」
「おめえはだまってろ」と、少年はつっけんどんに言った。サイモンの顔を見あげようともしなかった。
「おまえこそだまれ」いどむようにサイモンが言った。
「兄さん、やめて」
ジェインがつらそうな声を出した。
「いわせておけばいいのよ」
ジェインの足は、ひりひりと痛んだ。足首のところの傷口から、血がたらたらと流れ出ていた。サイモンはジェインの赤らんだ顔を見た。ジェインの声には、いっしょうけんめいこらえているようなひびきがあった。チッというようにサイモンはくちびるを鳴らした。
少年は自転車をおして、積みあげた箱の山にもたせかけた。神経質に身をかわすバーニイを、少年はにらみつけた。急に、怒りがまた少年の胸にこみあげてきた。
「――どけ、おたんこなすめら」と、少年はかみつくように言った。
サイモンたちが聞いたこともなかったことばを、少年は使ったのだ。よくわからなかったけれど、ひどい悪口だということは声の調子ではっきりわかった。サイモンはかっとなって、こぶしをにぎりしめると前に進み出た。しかしジェインは、サイモンにしがみついてうしろに引きもどした。少年は船つき場のふちへさっさと歩いていき、腕に食料品の箱をかかえたまま、サイモンの方に体をむけて、岸壁をおりていった。ドシンという音と、ガタガタいう音が聞こえた。
上からサイモンたちがのぞくと、少年がボートの上でよろよろ動いているのが見えた。岸壁のリングにつないであったロープをとくと、ボートはほかの船の間をじりじりとぬけて、港の沖合の方へ出ていきはじめた。立ったまま少年はオールの一本をおし進めていった。急いで、しかもおこったように乱暴に進めるものだから、一隻の漁船の横っぱらにボートを強くぶつけたが、ぜんぜんかまってはいなかった。
やがて少年はひろいところに出ると、片手で速いピッチでオールをこいだ。そしてサイモンたちの方をふりかえり、さもけいべつしたようなせせら笑いを見せた。
そのとき、さっきぶつけられた漁船の中から、足音がパタパタしてくるのが聞こえた。と思ったら、甲板のハッチ(昇降口)からとつぜん、小さな、しわくちゃの人間が飛びだしてきて、おこって手をふりまわしながら少年に向かって、おどろくほどよくとおる低い声でわめいた。
少年はゆっくりとうしろをふりかえったが、そのままボートをこぎつづけた。突堤をまわって港の外に出たボートは、やがて見えなくなってしまった。
小さな男は、げんこつをふりまわしていたが、今度は船つき場に向かって船から船へと身軽に飛びうつりながら、岸壁の階段のところにきたかと思うと、サイモンたちの足もとからのぼってきた。おきまりのネイビー・ブルーのセーターとズボンを身につけ、ふとももまである長いブーツをはいていた。
「ちんぴらめが、あのビルのやつ」と、ぷんぷんしながら言った。「ひっつかまえてやる。ぜったいひっつかまえてやるぞ」
それからやっと、船つき場につっ立っているサイモンたちに気がついたようだった。なにやらぶつぶつ言いながら、サイモンたちの緊張した顔と、ジェインの足首から出ている血にすばやく目を走らせた。
「なにか声が聞こえたと思ったら」と、彼はずっとやさしい声になって言った。そして、「おまえさんたちは、あのやろうとけんかしていたのかい?」と言って、海の方にあごをしゃくった。
「自転車で妹をひきたおしたんです」と、サイモンは腹にすえかねるように言った。「本当は、ぼくが悪かったんだ。妹がかけだすようにしむけたんだから。でも、あいつったら、ばかみたいにしつれいなんです。ジェインの手をたたきのけるし、それに――それにぼくがなぐってやる前にいっちまったんです」サイモンの話はとびとびで不完全だった。
年とった漁師は、サイモンたちに向かってほほえんだ。
「いいかな、あのやろうには、かまうんじゃねえ。悪いやつじゃよ、あいつは。意地が悪くて、心がひんまがっているんだ。近よらねえことだ」
「そうするわ」と、ジェインはしみじみした口調で言い、用心するように足をさすった。
漁師は舌を鳴らして言った。
「ひどいしうちをしやがったなあ。やっつけてやりたいと思うだろうて。ところで、おまえさんたちは、ここに休暇できているのかい?」
「ぼくたちはグレイ・ハウスにとまっているんです」と、サイモンが言った。「あそこの丘の上の」
漁師はちらっとサイモンを見やった。なんの感情もあらわれないような、日焼けした、しわくちゃの顔に、好奇心が一瞬ひらめいた。
「へえ、そうか、なるほどな」
そう言って彼は、奇妙に、ちょっとだまりこみ、言おうとしていたことをとっさにやめてしまったようにみえた。サイモンは、不思議に思いながら、漁師が話しつづけるのを待った。でもバーニイは、サイモンと漁師との話を聞いていず、船つき場のふちから向こうを見つめていた。
「あそこにあるのは、おじさんの船なの?」と、バーニイはふりむいてたずねた。
漁師はバーニイを見つめた。半分、不意を打たれたように見え、半分おもしろがっているように見えた。まるで、小さい動物が急にほえかかったのを、見るときの様子ににていた。
「そうじゃよ、坊や。おれがさっき出てきた船はな」
「ほかの人の船の上を走っても、みんな平気なの?」
老人はさびついたような声で、ゆかいそうに笑った。
「おれの船から岸へあがるのに、ほかに方法はないからな。だれだって、人の船の上を通っていく。傷つけたりさえしなけりゃ、かまわねぇ」
「これからつりに出ていくの?」
「まだいかねえよ」と、漁師はやさしい声で言った。そしてポケットから、うすよごれた布きれをとり出し、手の油のしみをごしごしこすった。「日が落ちるころに、おれたちは出かけていくんだ。そして明け方にもどってくる」
バーニイは顔をかがやかせて、「じゃ、早起きして、おじさんが港にもどってくるところを見ようかな」と言った。
「あのやろうに出あったら、ただじゃおかねえからよ」といって漁師はウインクして見せた。
「さあ、おまえさんたちはこの女の子を連れて、急いで家に帰るんだ。そしてけがした足を洗っとくのじゃな。どんなばいきんが入りこんでるかわからねえから」
ぴかぴか光るブーツをひきずり、彼は船つき場に向かった。
「そうだよ、帰ろう、ジェイン」と、サイモンが言った。そしてもう一度、静かにならんでいる船の方を見やった。それから、太陽の方に手をかざしてサイモンは言った。
「見ろよ、自転車に乗ってきたあいつ、あのヨットに乗りこもうとしている!」
ジェインとバーニイは沖の方を見た。
突堤のずっと沖合いに、ヨットの長い白い船体にそってゆれる黒いかげがあった。サイモンたちは、あの少年がヨットの船腹をよじのぼり、甲板でふたりの人物といっしょになるのを、ちょうど目撃した。やがて三人の姿は消え、ふたたびヨットは人気もなくうかんでいた。
「ああ、そうじゃったのか。ビルのやつ、きのう食べ物やら石油やらいろんなものを買いおったぞ。航海するぶんくらいたっぷりとな。ところが一体だれのためのものだか、だれにもわからんじゃった。あれは、クルージング用のなかなかいいヨットだな。一体どういうことになっとるだかわからねえな」
漁師は船つき場にそって歩きはじめた。上のはしがあまって折れているブーツをはいた小さい老人が、体をゆさぶっていくその一歩ごとに、ブーツはぴしゃぴしゃと音をたてて鳴った。そのそばを、バーニイは、小走りに歩きながらついていって、熱心に話しかけた。老人がサイモンたちに手をふり、村の方へ歩いていくと、バーニイは船つき場の角でまたサイモンたちといっしょになった。
「あの人の名前、ペンハローさんていうんだ。そしてあの人の船は、"白いヒース号″って名前だよ。ゆうべは、イワシを山ほどとったんだって。雨がふりそうだから、明日はもっととれるらしいよ」
「質問のしすぎよ」、とジェインが言った。
「雨だって?」とサイモンは、信じられないという顔で、青い空を見あげた。
「あの人はそういったもの」
「ばかな。どうかしてるんだ」
「ぼくはあの人が正しいと思うな。漁師ってなんでもよく知ってるんだ、とくにコーンウォールの漁師はね。メリイおじさんに聞いてみるといいさ」
* * *
でもメリイおじさんは、みんながグレイ・ハウスでのはじめての夕食の席についたとき、そこに姿を見せなかった。三人きょうだいのほかには、おとうさんとおかあさん、それに赤いほっぺたの晴れやかな顔をした、ポークさんという村の女の人だけだった。このポークおばさんは、毎日、料理と洗たくをしにきてくれることになっていた。メリイおじさんは、どこかにいってしまっていた。
「メリイおじさんは、きっとなにかいって出ていったはずだわ」と、ジェインが言った。
おとうさんは、肩をすくめて見せた。
「いいや、べつになにも。ただなにかさがしに出かけなくちゃいけないとかつぶやいてたっけなあ。そしてあの車で、かみなりみたいにすごい音をたてて出かけたよ」
「でも、ぼくたちがここについたばかりだというのに」と、サイモンは心を傷つけられたみたいに言った。
「気にしないことよ」と、おかあさんは気楽な調子で言った。「そういう人なんだから。帰ってくるときがきたら、そのうち帰ってきますよ」
バーニイは、ポークおばさんが料理してくれたコーンウォールふうの肉入りパイを、うっとりしたように見つめていた。そして言った。
「メリイおじさんは探検に出かけたんだ。何年も何年もかかるかしれないな。探検っていうのはさ、さがしてさがして、そのあげくとうとう見つけられないかもしれないんだ」
「まったく、メリイおじさんの探検ときたら」と、いらいらしたようにサイモンが言った。「教会のくだらない古い墓だとか、なにかそういったものをさぐりにいったんだな。なぜおれたちに、いってくれなかったのかなあ?」
「あたしは、メリイおじさんは朝には帰ってくると思うわ」と、ジェインは言った。そして窓の外に目をやり、道のはしに続いている低い灰色の石がきをこえて港の方をながめた。
昼の光はもう消えさろうとしていた。夕日が岬のうしろ側にしずみ、海の色は黒っぽい灰色とみどりにかわっていき、港にはもやがゆっくりとしのびよっていた。だんだんこくなっていくもやをとおして、ジェインは海面をぼんやりした形のなにかが動いていくのを見た。と思ったら、その上で光がぱっと光った。最初は、うす暗やみの中に赤い光が小さくまたたき、つぎにみどりの光、そして赤と緑の上に白い光がいくつかまたたいた。
急に、ジェインは立ちあがっていた。今見たのが、あの不思議な白いヨットだと気がついたからだった。ヨットは、昼間港に入ってきたときと同じように、音もなく、だれにも知られずに、トリウィシックの港を出ていこうとしているのだった。
第二章 グレイ・ハウスの探検
つぎの日、みんながごはんを食べているとき、メリイおじさんはもどってきた。ドアのところにぬっとあらわれた背の高いメリイおじさんは、ふさふさした白髪の下のくぼんだ目で、おどろいているみんなの顔にほほえみかけた。
「おはよう」と、メリイおじさんは陽気に言った。「コーヒーはまだあるかな?」メリイおじさんの声に、マントルピースの上のおきものが、がたがた鳴りだすかと思ったほどだ。どんな部屋の中にいても、いつだってメリイおじさんはあまりにも大きすぎる、という感じをあたえるのだった。
おとうさんはすこしもあわてず、メリイおじさんのためにいすを用意した。「今朝は外はどんな具合ですか? わたしには、あまりよくないように見えるんですがね」
メリイおじさんは席につき、自分でトーストをとると、大きなてのひらにのせておとうさんのナイフでバターをぬった。「くもってる。海の方から、どんどんくもってきてる。雨になりそうだな」
バーニイは、好奇心をおさえきれず、そわそわしていた。と思ったらとつぜん、この不思議なおじさんに、おじさん自身のことを質問してはいけないという家族のルールをわすれて、とうとう口にしてしまった――。「ガメリイ、今までどこにいたの?」夢中だったものだから、バーニイはつい、自分が小さいときにメリイおじさんにつけた愛称「ガメリイ」で、呼んでしまった。いまでもみんなは、ときどきこの愛称を使うことがあったけれど、いつでもというわけではなかった。
ジェインが、口の中でシーッと、聞こえないような声を出した。そしてサイモンは、テーブルごしにバーニイをにらみつけた。しかしメリイおじさんは、聞こえなかったように見えた。
「雨は長く続かんだろうが」と、トーストをほおばりながら、おとうさんに会話の続きを話しかけた。「しかし一日は降ることだろうて」
「かみなりが鳴るかしら?」と、ジェインが言った。
サイモンが、期待するような声で、ジェインに続いて言った。「海はあらしになる?」
みんながテーブルのまわりでしゃべっている間、バーニイはだまったままだった。バーニイは、ひとりでおこっていたのだ。――天気だって? みんなが、天気のことを話している。メリイおじさんが探検から帰ってきたばかりだというのに。
そのとき、みんなの話し声のあいまから、遠くでかみなりが鳴るのが聞こえてきた。と思うと、雨がざあーっと降ってきた。みんな窓のところにかけよって、重くたれさがった灰色の空を見あげた。バーニイは、気づかれないようにメリイおじさんのところによりそい、ちょっとの間自分の手を、おじさんの手の中にすべりこませた。
「ガメリイ」と、バーニイはあまえるような声で言った。「さがしていたもの、見つかったの?」
どんな質問でも歓迎してくれるいつものがんこそうだが人なつっこい顔つきで、メリイおじさんがふりむいてくれるだろうとバーニイは思っていた。ところがこの大男の老人は、ほとんどうわの空みたいな顔で、バーニイを見おろした。ごつごつした、外からはうかがい知れないような顔にまゆ毛をきっとよせて、人をよせつけない感じだった。くぼんだ穴のような暗い目のあたりには、なにかはげしいものがひそんでいた。メリイおじさんは、静かな口調で言った。
「いいや、こんどは見つけることができなかったのだ」それから、ふたたび、メリイおじさんの顔は毛皮が落ちかかってきたみたいに、よそよそしくなった。「いって車をしまわなくてはな」と、おとうさんに言って、出ていった。
海の向こうの方で、かみなりが遠く鳴っていた。雨はこやみなく降りつづき、窓ガラスを流れ落ちて、外は見えなかった。子どもたち三人は、あてもなく、家の中をぶらぶらしていた。昼ごはんの前に、雨の中を外へ散歩に出かけてみたのだけれど、ぬれて、元気なく、もどってきてしまった。
午後になってすこし時間がたったころ、おかあさんがドアのところから出ていこうとして、子どもたちに言った。「おかあさんは夕ごはんまで、二階でお仕事するわ。いいこと、あんたたち三人――この家のどこにいってもいいけど、ちゃんとしまってあるものにはなに一つ手をふれないと約束して。大事なものには、みんなかぎがかけてあるわ。だれかの書類だとか品物があっても、いじくりまわしてもらいたくないの。いいこと?」
「約束するわ」と、ジェインが言い、サイモンもうなずいてみせた。
その後しばらくすると、おとうさんは大きな黒い防水布を頭からかぶって、港務部長に会うために雨の中に出ていった。ジェインは、本だなのまわりをぶらついていた。でも手のとどくところにある本といったら、どれもこれも、『喜望峰をまわって――大いなる航海日誌――一八八六年』といった題名の本ばかりのようだった。そんな本はジェインには、ひどくたいくつに思えた。
いすにすわって、朝刊で投げ矢をつくっていたサイモンは、とつぜん、いらだたしそうにそれらをくしゃくしゃにしてしまった。「あきちゃったよ、こんなもの。なにかすることないかなあ」
バーニイは、ゆううつそうに窓の外を見つめていた。「なにもかも雨という感じだな。港の海面だって、波の色もなくてつまんない。今日から、ここでの生活がはじまろうというときにな。ああ、雨なんかきらい、きらい、きらい、雨は大きらい……」バーニイは、気むずかしそうに、うたうような口調で言った。
サイモンは、部屋の中を休みなくうろうろと歩きまわり、暗い色の壁紙にかかったいくつもの絵をながめたりしていた。「中に閉じこめられていると、この家ってまったく、わびしくてやりきれないよ。船長って人は、海のことだけしか考えちゃいないみたいだよな?」
「去年の今ごろは、にいさんだって船乗りになろうとしてたくせに」
「ああ、気持ちがかわったんだ。いや待てよ、よくわかんないよ。とにかくだな、おれが乗るとしたら駆逐艦だな。あの絵みたいなちっぽけな、つまんない帆船じゃないぜ。なんて書いてあるんだろ?」といってサイモンは、図版の下の文字をのぞきこんだ。「"金のシカ号″か」
「ドレイクの船だ。これでアメリカまで航海し、ジャガイモを発見したんだ」
「あれはラーリイだったぜ」
「ああそうか」とバーニイは言った。どっちでも、たいして気にならなかったのだ。
「それにしても、つまんないものを発見したものだよな」と、サイモンが批判するような口ぶりで言った。
「おれだったら、野菜なんか見むきもしなかっただろうぜ。スペイン金貨とか、ダイヤモンドとか、真珠とかを積んで帰ってきただろうと思うな」
「それに、サルだとかクジャクもでしょ」と、ジェインが学校で習った詩のことを、かすかに思い出しながら言った。
「そしておれは内陸部の方まで探検するんだ。野蛮な原住民たちはおれのことを神さまみたいに思ってさ。自分たちの妻をおれにささげようとするんだ」
「なぜ原住民たちが野蛮なんだよ?」と、バーニイが言った。
「ばか、そういう意味で野蛮といったんじゃないぜ。それはつまり、その、ようするに原住民というものがそういうものなのだ。どんな探検家も原住民のことをそう呼んでるだろ」
「ねえ、探検隊をつくらない?」と、ジェインが言いだした。「この家を探検するのよ。まだあたしたち、じゅうぶんにはこの家のこと、よくわからないわ。未知の土地みたいよ。地下からてっぺんまですみずみ、探検するのよ」
「食料を持っていくべきだよ。そしたらついたときにピクニックができるもの」と
バーニイが、明るい声になって言った。
「そんなもの用意してなかったぜ」
「ポークおばさんにたのめばいいわ」と、ジェインが言った。「おばさんは台所で、おかあさんにケーキをつくってるのよ。さあ、いってみましょう」
ポークおばさんは台所で、赤い顔をくしゃくしゃにして笑った。「まったく、このつぎにはどんなことを考え出すんだろうかねえ?」おばさんはそう言いながらも、焼きたてのホットケーキを二つに切って、バターをいっぱいつけてまたくっつけあわせたものを、どっさり包んでくれた。それにビスケットをひと包みと、リンゴを三つと、フルーツをこってりつけた黒みがかった黄色のオレンジケーキをぶ厚く切ったのを、三人に用意してくれた。
「なにか飲みものもほしいな」と、サイモンは命令するように言った。いまや探検隊の隊長気どりだった。そこでポークおばさんは、はいはいときげんよく、最後に大きなびんに自家製のレモネードを入れてわたしてくれた。
「さあさあ、これでセント・アイブスまでだっていってこられますよ、ほんとに」と、ポークおばさんは言った。
「おれのリュックサックが二階にあるんだ」と、サイモンが言った。「とってくるからな」
「へーえ」と、ジェインが言った。すこしばかり、ばかばかしく感じはじめていたのだ。「あたしたち、何も外へ出かけるわけじゃないのよ」
「探検家というものは、みんなリュックサックを持ってるんだ」と、サイモンはもったいぶって言い、ドアを開けて出ていきながら、「すぐ来るからな」と言った。
バーニイはテーブルの上の黄色いケーキのはしを、少しとって食べた。
「こいつはいける」
「サフラン・ケーキですよ」と、ポークおばさんは、ほこらしげに言った。「ロンドンでだって、食べることはできません」
「ポークおばさん、ルーファスはどこにいるの?」
「出ていっちまったようですねえ。おかげで助かります。でもきっと、まもなくもどってきて、あの長いぬれたあしで家中歩きまわりますね。先生が散歩につれておいきになりました。あれ、坊ちゃま、つまみ食いはもうおやめなさい。せっかくのピクニックの楽しみが、へりますよ」
サイモンがリュックサックを持って、もどってきた。三人はその中に食料をつめ、台所を出て細い暗い廊下を歩いていった。ポークおばさんは、大まじめな顔で三人にさよならと手をふった。まるで北極探検に出かけるのを送り出すみたいだった。
「ルーファスを散歩につれ出したの、だれだっておばさんいった?」と、ジェインが言った。
「メリイおじさんさ。みんな先生って呼んでるんだよ、知らなかったのかい。ペンハローさんもそう呼んでたな。みんな、もう何年も前から、おじさんを知ってるみたいな口ぶりだよ」と、バーニイが言った。
三人は、二階のおどり場のところに出た。細長くて、うす暗く、小さな窓が一つついているだけだ。ジェインが、片すみに半分かくれている木の箱の方に手をやった。「あれはなに?」
サイモンが、ふたを開けようとしながら言った。「かぎがかかってる。これも、おれたちがいじっちゃならないものらしいな。ほんとはこの中には、原住民の黄金や財宝がつまってるんだ。帰りはこれをもっていって、船に積みこむとしよう」
「だれがはこぶんだい?」と、バーニイは実際的な質問をした。
「かんたんさ。われわれは原住民の労働者をひきつれているんだ。うしろから列になって歩いてきて、おれのことをボスと呼んでいるんだ」
「ぼくは兄さんを、ボスと呼んだりしないからな」
「おまえは船室つきのボーイというところだから、おれのことを閣下と呼ぶんだ。はい閣下!」と、サイモンは急にどなり声を出した。
「だまってよ」と、ジェインが言った。「おかあさんがこのつきあたりの部屋でお仕事してるのよ。びっくりして描きそんじてしまうわよ」
「この中は、なんだろう?」と、バーニイが言った。おどり場のいちばんはしっこの暗がりに、ドアがあったのだ。「今まで気がつかなかったよ」そう言いながらバーニイは、ドアのとってをまわした。ギーッときしむ音がゆっくりして、ドアは外側に開いた。「こりゃおどろいた。ちょっと先にもう一つ小さい廊下があるよ。そのはしがドアになっている。いってみようよ」
三人は、くたびれたカーペットの上を歩いていった。まわりの壁には、古地図が何列にもかかっている。
その小さな廊下には、この家全体と同じように、家具みがき剤と、長い年月を経たにおいと、海のにおいが、一つに入りまじったようなにおいがしていた。本当にそんなにおいがあるというより、とにかく奇妙な感じがするのだ。
バーニイがドアに近づいたとき、サイモンが言った。「おい、おれが隊長だぞ。おれが先頭になる。おそろしい敵がいるかもしれないぜ」
「おそろしい敵だって!」バーニイが、ばかにしたような声で言った。でも、サイモンにドアを開けさせた。
へんな小部屋だった。とても小さくて、かざりつけもないむき出しの部屋だった。鉛わくのついた丸窓が一つあり、そこから灰色のスレートぶきの屋根、そして草原をこえて、陸地部がながめられた。ベッドには赤としろの棒じまのカバーがかかっていた。それから木のいすが一つ、洋服だんす、それに特大のヤナギもようの容器と、水差しがのせられている洗面器台。それで全部だった。
「たいしておもしろくもないわね」と、ジェインが、がっかりしたように言った。そしてなにかがたりないような感じがして、まわりを見まわした。「あら、カーペットも敷いてないわ。床がむき出しなんだわ」
バーニイが窓の方にかけよった。
「これはなんだろう?」そして窓のしきいから、なにかとりあげた。長くて、黒っぽくて、しんちゅうのように光ったものだった。「なにか管みたいだよ」
サイモンがそれを受け取り、ものめずらしそうにひっくりかえして見た。「出し入れ式の望遠鏡だ」そう言ってサイモンは、中身をぬくようにその管をねじった。「いや、ちがうな。なんだい。中にはなにもない、ただの管だぜ」
「わかったわ、この部屋、なにかににてると思ったのよ」と、ジェインがとつぜん言った。「船のキャビンみたいだわ。あの窓は舷窓そっくりよ。これは船長の寝室だと思うわ」
「おれたちが方向を見うしなったときのために、この望遠鏡は持っていくとしようぜ」と、サイモンが言った。それを持っていると、自分がなにかえらくなったような、いい気分だった。
「ばかみたい、ただのからのケースじゃない」と、ジェインが言った。「とにかく、あたしたちのじゃないわ。返しときなさいよ」
サイモンはジェインをにらみつけた。
ジェインはあわてて言った。「だって、あたしたちはジャングルにいるんでしょ。海じゃないのよ。だからいろいろ目じるしになるものはあるのよ」
「よかろう、わかったよ」とサイモンは言って、そのケースをしぶしぶもとにもどした。
三人はその部屋を出て、小さな暗い廊下から出てきた。ドアを閉めると、ふたたび暗いかげの中にドアは消えて、それがどこにあったか、ほとんどわからないくらいだった。
「こには、ほかにたいしてないよ。あそこがメリイおじさんの寝室で、こっち側にバスルームがあって、向こう側がおかあさんのアトリエだもの」
「この家って、まったくへんな建て方をしてあるぜ」と、サイモンが言った。三人はもう一つのせまい廊下をとおって、三階に通じる階段の方へ歩いていた。「家がいくつもの小さな部分にわかれていてさ、それぞれの部分がおかしな小廊下でつながってるんだ。まるで、それぞれの部分の秘密を隣の部分から守るみたいだぜ」
うす暗がりの中で、バーニイは、きょろきょろまわりを見まわし、半分まで鏡をはめこんだ壁をとんとん軽くたたいた。「みんなすごくかたいや。秘密の仕切りだとか、しかけや、原住民の宝物がある洞くつに通じる秘密の通路があるはずなんだけどな」
「われわれはまだ探検しおわったわけじゃないぜ」サイモンは先頭に立って階段をのぼり、よく知っているいちばん上のおどり場に出た。そこに三人の寝室があるのだ。「暗くなりかけていないか? 雲が低くたれこめているんだと思うな」と、サイモンは言った。
バーニイは階段の最上段にしゃがみこんだ。「ぼくたちにはたいまつがいるよ。その明かりで道を照らし、野生の動物が近よらないようにするんだ。でもそれはできないな。だって、まわりには敵の原住民たちがいるんだ。たいまつをつければ見つかってしまう」
サイモンがバーニイの後を続けた。というのも、グレイ・ハウスの静まりかえったふんいきの中では、なぜか想像がつぎからつぎへとはたらくのだ。「今や敵は、われわれのすぐうしろにせまっているぜ。われわれの足あとをつけて、丘の上までしのびよってきている。もうすぐ彼らの足音が聞けるくらいになるぞ」
「かくれなくては」
「どこか敵が近づけないようなところにキャンプをつくるんだ」
「寝室の一つがいいわ。寝室はみんな洞くつなのよ」
「敵の息づかいが聞こえる」と、バーニイが言った。そしてうす暗い階段から下の暗がりを見つめた。半分ほど自分でも本気になっているのだ。
「はっきり洞くつとわかるのはだめだぞ」と、サイモンは言った。自分が指揮官だということを思い出したのだ。「そういうところはまっ先にわかってしまうからな」サイモンは、おどり場を横切ってドアを一つずつ、そっと注意して開けたり、閉めたりしはじめた。「おとうさんとおかあさんの部屋は――これはよくない。じつにありきたりの洞くつだ。ジェインの部屋――これも同じだ。バスルーム、バーニイとおれの部屋……これはどちらも逃げ道がない。われわれは全員いけにえにされてしまうぞ」
「たぶん、あたしたちがまだ見つけていないドアが、つまり洞くつが、ほかにあるわよ。さっき二階にあったようなのが」といってジェインが、サイモンとバーニイの部屋の横のおどり場の、いちばん暗いところをじっとのぞきこんだ。でも通路はそこでゆき止まりになっていて、三方の壁にはどこにも開いた口はなかった。「あるはずなんだわ。だって家はまっすぐ上まで建っているのよ。そうでしょ。そしてちょうどそこの真下に、さっきのドアがあったんだもの」といって、ジェインはなにもない壁を指さした。「そしてドアのうしろに部屋があったのよ。だからこの壁の向こうにも、同じ大きさの部屋がなくてはおかしいわよ」
サイモンは興味をしめしてきた。「たしかにそうだ。ところがドアなんて、ここにはない」
「たぶん秘密の仕切りがあるんだ」と、バーニイは元気づいて言った。
「おまえは本の読みすぎだぜ。本物の家で、本当の秘密の仕切りなんて見たことがあるかい? とにかくこの壁には、仕切りなんてないな。ただの壁紙さ」
「兄さんたちの部屋が、あちらがわにあるわけよね」と、ジェインが言った。「その部屋の中にドアがある?」
サイモンは首を横にふった。
バーニイが、自分たちの寝室のドアを開けて入っていき、歩いていきながらスリッパをベッドの下にけとばした。急に、バーニイは立ち止まった。
「ねえ、ここにきてごらんよ」
「どうしたんだよ?」
「ぼくたちのベッドの間の部分さ。壁がひっこんで小部屋みたいになっているところに洋服だんすがある。その向こう側はなんだろう?」
「そりゃ、おどり場にきまってるぜ」
「そんなはずはないよ。ここのところは壁がすごく厚い。兄さんは入り口のところに立って、部屋の内側と、おどり場の側と両方見てごらんよ――おどり場は、部屋のはしまでいかないところでゆき止まりになってるんだ」
「あたし、おどり場のはしの壁をたたいてみる。あんたたち、ここで聞いてて」と、ジェインが言った。ジェインは部屋の外へ出て、ドアを閉めた。サイモンとバーニイの耳に、バーニイのベッドの頭の上あたりの壁をたたく音が、かすかに聞こえてきた。
「ほらね!」とバーニイは、興奮してとびあがりながら言った。「おどり場は、そこまでしかきていないんだよ。ところが壁はそれからまだ何メートルかあって、兄さんのベッドのところから窓まであるんだよ。だから向こう側は、部屋になっているにちがいなよ」
ジェインが寝室にもどってきた。「この中で見るほどには、外の壁は長くないみたいだわ」
「長くない。そこでおれの見るところでは」と、サイモンがゆっくり言った。「洋服だんすのうしろにドアがあるにちがいない」
「あら、それじゃおしまいね」と、ジェインはがっかりしたように言った。「洋服だんすは大きいんだもの。あたしたち、とても動かしたりできないわ」
「おれはそうは思わないぜ」と、サイモンは洋服だんすをじっと見つめていた。「下のところを引っぱるんだ。上の部分がたおれないようにな。おれたちみんなが片一方のはしを引っぱったら、たぶん洋服だんすは向きがかわるだろ」
「やりましょう」と、ジェインは言った。「にいさんとあたしが引っぱって、バーニイは上をしっかり持って、たおれそうになったら声を出すのよ」
サイモンとジェインのふたりは、しゃがみこんで、洋服だんすのいちばん手前のあしを移動させようとした。びくともしなかった。
「なにかで床が打ちつけてあるんだと思うわ」と、ジェインがいまいましそうに言った。「ちがうね。そら、もう一度だ。ワン・ツー・スリー――引っぱれ!」
背の高い大きな木の箱は、キーッと音をたてて、ようやく何センチか床を動いた。
「そうだ、いいぞ、その調子だよ! 動いてる!」バーニイは、ほとんどじっとしていることができなかった。
サイモンとジェインは、うんうん、ふうふう言いながら、引っぱった。少しずつ、リノリウムの上を動いた洋服だんすは、やがて壁との間に三角のすきまをつくるほどになった。バーニイが、そのうす暗いうしろのすきまをのぞきこんで、とつぜんかん高い声をあげた。
「やっぱりある! ドアがある! あーうっ――」と、バーニイは、うしろにたじたじとさがり、息を止めたかと思うと、くしゃみをした。「ほこりとクモの巣だらけだよ、何年も開けられなかったんだな」
「さあ続けろ、やるんだ」とサイモンは、息をつめているのと、うまくいったのとで顔を赤くして、あえぐような声を出した。
「ドアがこちら側に開くんじゃなければいいけど」とジェインが言って、床にへなへなとすわりこんだ。
「もう一センチも引っぱる力ないわ」
「こっち側じゃないよ」というバーニイの声が、洋服だんすのうしろから遠く聞こえてきた。そしてドアがやっとのことで開くような音。バーニイがまた顔をあらわした。一方のほっぺに、黒い大きなよごれがくっついている。「部屋じゃないよ。階段なんだよ。それもはしごみたいだぜ。その上はハッチのようになっていて、上に明かりが見えるんだ。」そういってバーニイは、いたずらっぽくにやりと笑ってサイモンを見た。
「先にどうぞ、ボス」
ひとりずつ、洋服だんすのうしろにまわり、小さな秘密のドアをくぐりぬけた。中は、最初とても暗かった。サイモンは、目をぱちぱちさせた。目の前に、段と段の間隔の大きいはしごがあり、それはすごい急なこう配で上にのび、ほの明るい四角い口が開いている。その先にはなにも見えなかった。はしご段には、ほこりが厚くかぶっていて、しばらくサイモンは、動きだすのをためらっていた。
そのとき、ほんのかすかに、頭の上の方で、あの良く知っている低い海鳴りの音がしてくるのをサイモンは聞いた。その耳慣れた音に、サイモンの気持ちはふるいたち、自分たちがなにをしていたのかを思い出した。「最後にあがるものは、ドアを閉めろ」と、彼は肩ごしにうしろに向かって命令した。「原住民たちを湾にのこしてよせつけるな」そしてサイモンは、はしごをのぼりはじめた。
第三章 屋根うら部屋の古文書
ハッチの口から首を出したサイモンは、バーニイがやったようなくしゃみの発作におそわれた。「ハーッ、ハーッ――」そして大きなくしゃみをした。ほこりが一面にまいあがり、はしご段がぐらっとゆれた。
「おいおい」と、バーニイが下から文句を言い、目の前の、サイモンのぴくぴくする足から顔をそむけた。
涙のにじみ出た目を開けて、サイモンはまわりをきょろきょろ見まわした。そこは、この家のたてと横のひろがりをそっくりもった、大きな屋根うら部屋で、こう配のついた屋根にうすよごれた窓が二つついていた。そしてサイモンが今まで見たこともないような、ひどくめずらしい物がいっぱい、ごったがえしていた。
箱だとか、衣類など入れるひつ、トランクなどが、いたるところにおいてあり、よごれた灰色の帆布が小山のように横たわり、その間に雑に巻かれたロープが投げ出されていた。古くなって色のあせた新聞だとか雑誌が、積みあげられていた。しんちゅうのベッドわくと、文字盤のない振り子時計もあった。じっとながめているうちに、だんだん小さな物も見えてきた。こわれたつりざお、年月がたって黒ずんだ大きなしみのようになった油絵の肩に、ちょこんとのっかっているむぎわら帽子。からっぽのネズミとり器。びんに入った船。岩の大きなかけらがいっぱい入った、ガラスとびらのついたケース。くたびれたように横に折れた、ももまでの古いブーツ。使い古してつぶれたような、すずと鉛の合金の食器棚。
「こりゃおどろいた!」と、サイモンは言った。
ぶつぶつ文句を言う声が、下の方から聞こえてきた。それでサイモンはハッチの口から自分の体を引きあげ、横っちょの方に移動して道をあけた。あとに続いてバーニイと、ジェインが、あがってきた。「まあ、にいさん!」と、ジェインがサイモンの顔を見て、ぎょっとしたように言った。「なんてきたないの!」
「そりゃ、女の子みたいに楽じゃないさ。このへんのほこり、みんなかぶったんだ。だからおまえなんか、たいしてほこりかぶらないですんでる。はらえば落ちるさ」サイモンは、よごれてまだらになったシャツを、パタパタとたたいたけれど、むだだった。
「おどろいたな、見ろよ!」バーニイは、うれしくてたまらないみたいに、散らかった床の上をあっちこっち歩きまわった。「古い船のかじがあるよ……それにロッキング・チェア……馬のくらも。船長って、馬を持ってたことあるのかな?」
ジェインは、気分を害されたように見せようとしたけれど、うまくいかなかった。「なんだか探検みたいだわ。ここではなんでも見つかりそうよ」
「宝物のある洞くつなんだ。原住民たちがさがしていたものなんだ。聞けよ、やつらが下でむなしく怒りくるってわめいている」
「輪になっておどってるんだぜ。魔法使いがぼくたちみんなに、のろいをかけてさ」
「いつまでも、わめいているがいいさ」と、バーニイがゆかいそうに言った。「ぼくたちはたっぷり食料を持っているんだからな。おなかがすいたなあ」
「まだだ。だめだぞ。四時にしかなってないんだ」
「それなら、お茶の時間だよ。とにかくさ、逃げているときは、少しずつ、たびたび食べるんだよ。だって、長いこと休んでいるわけにいかないからさ。もしぼくたちがイヌイットだったら、古いくつの皮をかんでいるところだな。ぼくの読んだ本に――」
「おまえの本なんか、どうだっていい」と、サイモンは言った。そしてリュックサックの中に手をつっこんでがさがさやった。「ほら、リンゴをやるから、おとなしくしてるんだ。弁当を食べる前に、おれはいろいろちゃんと調べておきたいんだ。おれが待てるんだから、おまえだって待てるだろ」
「そんなこと、ぼくには納得できないな」と、バーニイは言ったが、それでも上きげんでリンゴにかじりつき、ぶらぶら歩きまわりながら、古いベッドのしんちゅうの骨組みとからっぽの食器だなの間に、見えなくなった。
三十分ばかり、三人はがらくたや、こわれた家具や、かざり物の間をぶらついてほじくりかえしながら、ほこりの中で、楽しい夢を追ってすごした。だれかの人生の物語でも読んでいるみたいだわ、とジェインは思った。緑のガラスのびんの中で、静止したまま、いつまでも航海しつづけているように見える船の、小さなマッチ棒のマストを、ジェインはじっと見つめていた。この部屋にある物はみんな、むかし使われたものであり、この家の日常生活の一部分だったのだ。だれかが、このベッドでねむり、時計の針を気にして見つめ、雑誌が到着すると、大よろこびでとびついたのだ。でもその人たちは、みんなとっくに死んでしまったか、いなくなってしまった。そしていまは、その人たちの生活ののこりかすが、ここにいっぱいたまり、わすれられてしまっているのだ。ジェインは、なんだか悲しいような気持ちがしてくるのだった。
「おなかぺこぺこだよ」と、バーニイが不満そうな声で言った。
「のどがかわいたわ。ほこりだらけだもの。ねえ、ポークおばさんが入れてくれたお茶を飲まない?」
「この屋根うら部屋は、どっちかというと食わせものだな」とサイモンが、帆布のつぶれたふちにしゃがみこみ、リュックサックを開けながら言った。「おもしろそうなものにかぎって、みんな錠がかかってる。たとえば、あれだってさ」サイモンは首をしゃくって、さびた南京錠が二つふたについている、黒い金属製のひつをしめした。「宝石がいっぱい入ってるんだぜ。かけたっていいな」
「だって」と、ジェインがざんねんそうに言った。「錠のかかっているものは、さわっちゃいけないことになってるんだもの、そうでしょ?」
「錠のかかってないのも、たくさんあるぜ」と、サイモンはレモネードのびんをジェインにわたしながら言った。
「そら。びんから口飲みするんだな。コップを持ってくるのをわすれたんだから。心配するなよ。おれたちは錠がかかってなくたって、なにもぬすんだりしないさ。もう何年も、だれもここにあがってきていないのは、たしかだけどな」
「食べる物」と、バーニイが言った。
「菓子パンがそのバッグにあるだろ。自分でとって食べろ。ひとり四つずつだ。おれはかぞえたんだからな」とサイモン。
バーニイは、おそろしくきたない手をバッグにのばした。
「バーニイ!」と、ジェインがかん高い声で言った。「手をふきなさいよ。いろんなばいきんがついているわよ。チフスとか、それからレイビーズとかそのほかなにかの病気にかかってもいいの? あたしのハンカチ使いなさい」
「レイビーズって狂犬病のことだね」と、バーニイは言って、菓子パンについた黒い指のあとをおもしろそうに見つめた。「とにかく、みんなばいきんのことであまり神経質にさわぎすぎる、とおとうさんはいってるよ。ああ、わかったよ、ねえさん、そのくだらない物をひっこめてよ。ぼくだって自分のハンカチくらい持ってるさ。女の子っていうのはどうやって鼻をかむのか、ぼくは知らないもんでね」
顔をしかめるようにしてバーニイは一方の手をポケットにつっこんだ。と、いやなものにさわったような表情になった。
「ありゃっ?」と、バーニイは言って、茶色になって、つぶれたリンゴのしんを、とり出した。
「すっかりわすれちゃってた。こいつはひどいや」バーニイはリンゴのしんを、屋根うら部屋の反対の方に放り投げた。それはバウンドし、ずるずるとすべり、物かげにころんでいった。
サイモンがにたりと歯を見せて言った。「ネズミをおびき出しちまうことになるだろうぜ。屋根うら部屋というところは、ネズミがいるんだ。はらをすかしてチューチュー鳴くのが聞こえてきて、暗がりに緑色の二つの目が光るのが見えてくるだろうぜ。そして床中ネズミだらけになるんだ。さいしょはリンゴのしんを食べて、それからおれたちをおそってくるぜ」
ジェインの顔があおざめた。「いや、いやよ。ここにはネズミなんかいないでしょ、ねえ?」
「もしネズミがいるんだったら、新聞なんかみんな食べてしまってるさ。ちがう?」と、バーニイがのぞみをかけるような口調で言った。
「いや、ネズミはインキがきらいなんだと思うな。古い家にはみんなネズミがいるんだ。学校がネズミをつかまえたけどさ、ときどき屋根うらで走りまわる音聞くよな。そういえばネズミの目って、緑色じゃなくて赤いな」サイモンの声が、だんだんしめっぽくなってきた。自分でも、ネズミのことがちょっとばかり気味悪くなってきたのだ。「バーニイ、あのリンゴのしんを、拾ってきといたほうがいいかもしれないぜ。だって、もしもということがあるからな」
バーニイは、菓子パンをふた口でほおばりながら、大げさにため息をもらして立ちあがった。
「あれ? どこへいっちまったのかなあ? とにかくあのへんだ。こっちのすみにはなにもおいてないけど、なぜなんだろ」
そう言いながらバーニイは、四つんばいになって、どこというめあてもなくはいまわった。
「手伝ってよ。どこにも見つからないよ」そのときバーニイは、屋根うら部屋のはすになった壁に三角の穴ができているのを見つけた。はり板が、床とあわさっているところだ。中をのぞきこんで見ると、かわらのすきまから明かりがかすかにさしこんでいる。ちょうど穴の中で床板がおわっていて、ひろい横げたがあるようだった。
「どうやらこの穴から落ちてしまったにちがいないよ」と、バーニイは言った。「さがしてみるよ」
ジェインが、バーニイの方に飛びだしてきて言った。「気をつけるのよ。ネズミがいるかもしれないんだから」
「いるわけないさ」と、バーニイは言って、もう穴の中に半分ほど体をつっこんでいた。「かわらのすきまから光がもれてるんだ。だから、どうやらこうやら見えるよ。でも、リンゴのしんはないなあ。たぶん床下から下に落ちて、天井うらにひっかかってるんだと思うけどな。ありゃ!」
バーニイのおしりが、とつぜんびくっとなった。
「どうしたの? ねえ、出てくるのよ!」ジェインがバーニイの半ズボンにしがみついた。
「なにかにさわったんだ。でもネズミなんかじゃない。動かなかったもの。どこにいっちまったのかな……ああ、あった。なにかボール紙みたい。ひゃあ――あのリンゴのしんもある」
バーニイが穴から体を引きぬくにつれて、その声が急に大きく聞こえてきた。まっ赤な顔で、目をかがやかせている。「ほら、あっただろ」と、バーニイはリンゴのしんを見せびらかしながら、勝ちほこったように言った。「さあネズミども、出てきてこれを取ってみるがいいさ。ぼくはネズミなんか一ぴきもいないと思うけどさ」
「おまえの持ってる、もう一つのものはなんだよ?」と、サイモンがものめずらしそうに、バーニイのもう一方の手の、ぼろぼろになった巻き物のようなものを見て言った。
「壁紙の切れはしだと思うよ。兄さん、菓子パンをみんな食べてしまったんじゃない? ずるいぞ」と言ってバーニイは、床を飛びはねるようにもとの場所にもどった。床板がギシッと鳴った。バーニイはすわりこむと自分のハンカチをとり出して、ジェインの方にこれ見よがしにふって見せた。そして両手をふくと、のこっていたもう一つの菓子パンを、むしゃむしゃ食べはじめた。三人で食べながら、バーニイは見つけた巻き物の上にしゃがみこみ、一つのはしを足先で床の上におさえ、もう一方のはしを木の切れはしでおしやりながら、つまらなそうに巻き物を開いていった。三人の目の前に巻き物はひろげられていった。
それがなんなのかを見たとき、三人とも急に食べることなどわすれてしまって、じっと目をそそいだままだった。
バーニイがひろげた紙は、ふつうの紙なんかではなくて、茶色がかったぶ厚い羊皮紙だった。はがねのように弾力があり、巻かれていたところはさけ目のような長いすじが走っている。その中側にもう一枚はりつけられている。この方はもっと黒っぽく、ずっと古いもののように見えた。ふちは、ぼろぼろになっていて、小さなおしつぶされたようなこげ茶色の字が、一面に書いてある。
字が書いてある下の方は、だいぶむかしに火にこげたかのように、なかばやぶれかかっているのを、ていねいにくっつけあわせて、外側の羊皮紙にはりつけてある。この部分にはざっとかいた絵のようなものが、はっきり見てとれた。どうやら、地図のようだ。
しばらくは、三人ともだまりこんでしまった。バーニイもだまっていたが、体の中がカッカと燃えてくるのを感じていた。ものも言わず、前に身をのり出して、木の切れはしを横に動かしながら、この古文書を注意ぶかくひろげた。
「ようし、なにかはしっこをおさえるものを持ってくる」と、サイモンが言った。
古い文鎮と、すずと鉛の合金の容器と、注意深くほこりをはらった木切れ二つ、四すみにのせると、三人はまたわれさきにとのぞきこんだ。
「すごく大むかしのものだわ。何百年、何千年もたってるわよ」と、ジェインが言った。「博物館でガラスのケースに入っているだろう。光があたらないようにカーテンでおおってさ。あれと同じ古文書だぜ」
「どこから来たものだろう? どうしてこんなところにあるのかな?」
「だれかが、かくしたんだわ」
「でも、この家より古いものだぜ。そうだろ、見てみろよ、ほとんど、消えかかっている字もあるぜ」
「かくしたものじゃないよ」と、バーニイが言った。なぜそう思うのか、自分でもはっきりした証拠があるわけではなかったけれど、ぜったい自信があるような口ぶりだ。「ぼくが見つけた場所へ、だれかが、ただ投げこんでおいたものだよ」
そのとき、とつぜんサイモンが興奮したさけび声をあげたので、ジェインとバーニイは飛びあがってしまった。「こりゃたいへんだ! おれたちは、ほんものの宝物の地図を見つけたんだ、そうだろ? おれたちの前には、いろんなものが待ってるんだ。どんなところにつれていかれるか、わからないぞ。秘密の通路があって、ほんものの洞くつがかくされていて――トリウィシックの宝物が――」と、サイモンは、"トリウィシックの宝物″というところを、熱っぽく発音した。
「地図なんてたいしたことないわ。みんな字ばかりよ」
「それはだな、説明なんだ。なんじの三階の小部屋を見よ、なんてさ。いや、きっとこうかいてあるんだ、つまりだな、左手の、なんじの床板の――」
「これがかかれたころは、床板なんてものはなかったんだよ」
「そんなことないさ、それほど古くはないぜ」
「いや古いよ」と、バーニイは静かに言った。「とにかくさ、この字を見てごらんよ。読めやしないだろ。なにかへんなことばだよ」
「ちゃんと見れば読めるにきまってる」と、サイモンはもどかしそうに言った。もう自分が、ぬけ穴をなかばくぐりぬけ、財宝の入った箱のふたをとっぱらって、無限の宝物を見つけたような気でいるのだ。スペイン金貨のチャラチャラいう音さえ、サイモンの耳には聞こえているのだ。
「調べてみようぜ」とサイモンは、かたくてざらざらした床板にひざをつき、体をのりだして、古文書をのぞきこんだ。そうしたまま長いこと時間がたった。とうとう、サイモンが、「うーん」と、しぶしぶのように声を出した。
バーニイはだまったまま、じつに意味深長そうな顔つきでサイモンを見た。
「いいよ、わかったよ」と、サイモンは言った。「そう得意がることないぜ。英語じゃないな。だからといって、なんてかいてあるのか、わからないということにはならないぜ」
「なぜ、英語じゃないんだろ?」
「そんなこと、おれにもわかるもんか」
「ぼくがいってるのは、つまり」と、バーニイはじっくりかまえて言った。「ぼくたちはイギリスにいるんだろ、とすればほかに考えられることばといえばなんだい?」
「ラテン語だわ」と、ジェインがふいに口を出した。それまでずっと、サイモンのうしろから古文書をじっと見つめていたのだ。
「ラテン語だって?」
「そうよ。古文書っていうのは、みんなラテン語で書かれているのよ。むかしの修道士はペンのかわりに、ガチョウの羽で、ラテン語を書きつけたのよ。そしていちばん最初の大文字のまわりに花だとか鳥だとかいろんなかざりをつけたの」
「そんなかざりなんか、これにはぜんぜんないぜ。なんだか急いで書いたものに見えるな。大文字だって一つもない」
「でも、なぜラテン語で書いたの?」と、バーニイはたずねた。
「それは知らないわ。ただ、修道士はいつもラテン語を使っていたということね。それだけの話よ。ラテン語は修道士と切りはなせないものの一つなのよ。あたしの想像でラテン語ってなにかしら宗教的な感じのことばなのね」
「兄さんは、ラテン語わかるんだったよね」
「そうよ、さあ、兄さん訳してよ」と、ジェインは意地悪そうに言った。学校でジェインはまだラテン語を習っていない。でもサイモンは、二年間ラテン語をやってきているのだ。だからこの場合、いちばんサイモンがまさっていることになる。
「これはラテン語なんかじゃないぜ」と、サイモンは反抗するように言った。そしてもう一度、古文書をのぞきこんだ。「すごくへんな書き方だよ、字だってみんな同じに見えるもんな。小さなまっすぐの線が、列になっていっぱいならんでいるように見えるだろ。それにここの明かりだって、あまりよく見えないしな」
「いいわけしてるのね」
「ち、ちがうよ。ラテン語って、どえらくむずかしいんだぜ」
「へえ。もし兄さんがこれを見て、ラテン語だということさえわからないんだとしたら、兄さんのラテン語なんて、ぜんぜんいうほどのことないのね」
「もう一度よく見てよ」と、バーニイが希望をすてないで言った。
「二つの部分からなっていると思うな」と、サイモンはゆっくりした口調で言った。「上に短い文章の節があって、そのあとずっと長い文章がひと続きになっている。二番目の文節の方は、おれにはちんぷんかんぷんだ。でも最初のは、ラテン語のようにも見えるな。いちばんはじめのことばはcum《クム》、つまり"〜でもって″という意味の単語みたいだ。でも、その後の文字は読めない。それからずっときて、post《ポスト》 multos《ムルトス》 annos《アノノス》いうのは、"長い年月ののちに″という意味だな。でも字がみんな小さくて、つぶれたようで、おれにはわから――おや、待てよ、最後の行に名前が書いてあるぞ。マル……いやマルコ=アルツロク(Marco Arturoque)」
「マルコ=ポーロみたいな名かしら」と、ジェインがうたがわしそうに言った。「でもへんな名前ねえ」
「一つの名前じゃない、二つなんだ。"queq《ク》″というのは"〜と″の意味なんだ。そしてまん中におくかわりに、おしまいにくっつけるんだ。それからおわりの"o《オ》″というのは、"ウス(-us)″からきている。だからこれは、"マルクスとアルツルスとによる、あるいは、から″という意味になる
Marco《マルコ》 Arturoque《アルツロク》
┬ ┬──┬─
└───|us《ウス》───┘ │
〜と
┌────────┘
Marcus《マルクス》とArturus《アルツルス》
「"とによる、あるいはから″ですって? なんてまあ――あらバーニイ! いったいどうしたの?」
見るとバーニイは、なにか言おうとして息がつまり、せきこんで顔をまっ赤にしながら、げんこつで床をたたいたかと思うと、もうれつなせきの発作におそわれた。サイモンとジェインは、バーニイの背中をたたいたり、レモネードを飲ませたりしてやった。
「マルクスとアルツルス」と、バーニイは息をぐっとのみこみながら、かすれ声で言った。「わかんないの? それはマークとアーサーだよ! アーサー王子とその騎士たちのことさ。マークというのは、騎士のひとりで、コーンウォールの王だったんだ。そのふたりの名前にちがいないよ」
「やったぜ」と、サイモンが言った。「バーニイのいっていることは正しいんだよ」
「そうにちがいないんだ。マーク王はどこかに宝物をかくしたんだ。だから地図がついているんだ」
「おれたちがそれを見つけたら」
「大金持ちになるよ」
「有名になるぜ」
「おかあさんおとうさんに、いわなくちゃならないわよ」と、ジェインが言った。
すっかり夢中になって、おたがいの体をたたきあっていたサイモンとバーニイは、たたくのをやめてジェインを見た。
「なんのためにだよ?」
「それは――」と、ジェインはたじたじとなって、うしろに体を引きながら言った。「そうしなくちゃいけないと思うからだわ。そうよ」
バーニイは、ふたたび床にすわりこみ、顔をしかめて、髪の毛に指をつっこんでひっかいた。三人がこの屋根うら部屋にあがってきたときからみると、バーニイの髪はずっと黒っぽく見えた。
「おかあさんたち、なんていうかな?」
「なんていうかわかってるさ」と、サイモンがすぐに言った。「そんなことみんな、おれたちの空想にきまってる、というだろう。そして、とにかく古文書がそれがあったところにかえしておけ、それはおれたちのものじゃないんだから、というだろうよ」
「だって」と、ジェインが言った。「それ、あたしたちのものじゃないんですもの、そうでしょ?」
「宝物を発見したんだ。発見した人間のものだよ」
「でも、ほかの人の家で見つけたのよ。それは船長のものだわ。なんにもさわっちゃいけないって、おかあさんがいったでしょ」
「ちゃんとしまってあるものは、いじくるなといったんだ。これはしまってあったんじゃないぜ。すみっこにほうりだされてあったんだからな」
「ぼくが見つけたんだ」と、バーニイは言った。「すっかりわすれられて、ほこりだらけだったんだ。あんなところにあったものって、船長のぜんぜん知らなかったものにまちがいないよ」
サイモンが言った。「なあ、ジェイン。宝物の地図を見つけて、わあ、すばらしい、といっただけで、またもとにもどしておくなんて、そんなことあるかっていうんだ。おとうさんやおかあさんが、おれたちにさせようっていうのは、そういうことなんだぜ」
「それは、まあ」と、ジェインはわからなくなってきた。「兄さんのいうとおりかもしれないけど。後でかえしておくこともできるわけだしね」
バーニイは、また古文書に向かいあった。そして言った。「ほら、この上のところを見てごらんよ。羊皮紙にはりつけられた古文書の方だよ。なにでつくられてるんだろ? 外側と同じようにヒツジの皮だと思ってたんだけどさ、よく見るとちがうよ。といって紙でもないな。なにかめずらしい、ぶ厚いものだよ。それにかたくて、木みたいだ」
バーニイは一本の指でおそるおそる。その見なれない茶色い物のはしをさわった。
「気をつけてよ」と、ジェインがはらはらするように言った。「みるみるこなごなになってしまうとか、どうかなってしまうかもしれないわよ」
「そうなったっておまえは、それをみんな見せたがることだろうぜ」と、サイモンが皮肉な口調で言った。「『ほら、これがあたしたちの見つけたものなの。さわってもかまわないかしら』なんていってさ、マッチ箱の中のほこりのかたまりを、みんなに見せるんだろ」
ジェインはだまったきりだった。
「まあ、気にするなよな」ちょっとかわいそうになって、サイモンは言った。けっきょくのところ、ジェインの言ったことはもっともなのだ。「おや、ここはずいぶん暗くなってきたぜ。おりていったほうがいいかな? そろそろおれたちをさがしにくるぜ。おかあさんは絵をかくのをやめるころだな」
「もうおそいくらいだわ」といってジェインは屋根うら部屋を見まわすと、急に身ぶるいした。がらんとした大きな部屋は、暗くなってきていた。天井の明かりとりの窓のガラスを打つ雨のかすかな音が、いまや気味悪く聞こえてきた。
サイモンたちの寝室にもどってきた三人は、ふたたび洋服だんすをもとのようにもどして、小さな秘密のドアをかくした。顔や手を洗い、急いで着がえをしているとき、夕食を知らせるドラがぶっきらぼうに短く、階段の下の方から聞こえてきた。サイモンは、よごれたシャツをぬぎすてると、洗たくしたてのシャツを出してクシャクシャに丸めてから、それに着がえた。バーニイの髪だが、これはどうやってみてもうまくいかなかった。今やカーキ色になっていたのだ。「おうちの居間のじゅうたんのことを、おかあさんがなんていっているか知ってるわね? その髪がまさにあれよ」と、ジェインは絶望的な声で言った。そして弟の髪のよごれをきれいにしてやろうとしたけれど、バーニイは、やめてくれと言ってもがいた。「このままだと、すぐにばれちゃうわよ」
「洗わなきゃならんだろうな」と、サイモンがバーニイを見つめながら、きびしい声で言った。
「いやだ」と、バーニイ。
「あーあ。ほんとにもう時間がないわ。とにかく、あたしおなかがへったわ。食事のときはバーニイは、明かりからはなれた席にすわることね」
* * *
夕食のテーブルにみんながついたとき、三人がどこにいたのか、だれもききだそうとはしなかった。なにもかも、まずくできているように思えるときがあるけれど、この夕方がちょうどそんな感じだった。おかあさんはつかれて、元気がないように見えた。ほとんど、しゃべらなかった。これは今日の絵の仕事が、うまくいかなかったことのしるしだと、三人にはわかった。外からもどってきたルーファスが、ぬれたしずくをボタボタ落としながら家にとびこんでくると、おとうさんはかんかんにおこって、ポークおばさんとルーファスを台所へ追いやった。そしてメリイおじさんは、ずっとだまったままで、なにかしら物思いにふけっているのだった。テーブルの一方のはしに、ひとりきりですわり、目の前の方を向いているけれどなんにも見ていない。大きなトーテム・ポール(北アメリカ北西部のインディアンが部族と特別の血縁関係にあるとして神聖視した特定の動物や植物などを彫刻した柱)のようだった。
サイモンたちは、メリイおじさんを注意して見ていて、食塩がほしそうだとわかると、言われるまえに塩をまわしてあげる、というように気をつけていた。でもメリイおじさんは、サイモンたちのことが、ほとんど目に入らないみたいだった。料理を手にし、自分でもなにをしているか気づいていないまま口にはこび、ただ機械的に口を動かしている。メリイおじさんのおさらに、コルクのテーブル・マットをそっと入れてみたら、いったいどうなるかな、とバーニイはふと思った。
ポークおばさんが入ってきて、リンゴ入りの大きなパイと、おさらに山ほど盛ったイエロー・クリームをテーブルの上においた。そしてガチャガチャ音をさせながら、よごれたおさらを積みあげた。出ていったポークおばさんが、よくひびく豊かなアルトの声で、「神さま、いつもおめぐみをありがとうございます」と言うのが聞こえた。
「コーンウォールの人たちは、信心深いんだよ」と、メリイおじさんがかげになっている方から、急に大きな声で言った。
「きっとそうなんでしょうな」と、おとうさんは言った。そしてサイモンにクリームのおさらをまわした。サイモンは、スプーンにいっぱいすくってとろうとしたので、テーブルクロスの上にこぼしてしまった。
「サイモン、気をつけなさいよ」と、おかあさんが言った。
「どうしようもなかったんだよ、こぼれちゃったんだ」
「一度にあまりたくさんとろうとするからだよ」と、おとうさんが言った。
「だって、おとうさんだってそうでしょ」
「かもしれん。しかしおとうさんは、半リットル入りの容器に、一リットル入れるようなまねはしないね」
「それどういうこと?」
「気にするな」と、おとうさんは言った。「サイモン、やめなさい、よけいひどくなるばかりじゃないか」
サイモンはこぼれたクリームをスプーンですくいとろうとし、テーブルクロスに大きな黄色のしみをつくってしまっていた。
「すみません」
「ああ、すまんだろうな」
「おとうさん、今日は、つりにいったの?」
と、テーブルの向かい側からジェインが、このへんで話題をかえさせようと思って、わざと明るい声で言った。
「いいや」と、おとうさんは言った。
「ばかだな、おまえも」とサイモンは、まだふきげんで、ジェインの心づかいなんかまるでなんとも感じないような口ぶりで言った。「今日は雨だったんだぜ」
「そうよ。でもおとうさんは、ときどき雨の日でもつりにいくわよ」
「いくもんか」
「いくわよ」
「おとうさんが自分のことを、自分で説明するのを許してもらえるとしたら」と、皮肉たっぷりの調子でおとうさんは言った。「ときには雨の日にもおとうさんはつりにいく、ということは知っているとおりだ。今日は、いかなかった。これでおわかりかい?」
「リンゴ入りパイをすこしおあがりなさいよ」そう言っておかあさんが、おさらをおとうさんにわたした。
「うむ……」と、おとうさんは横目でちらとおかあさんの方を見て、だまりこんでしまった。しばらくして、おとうさんは元気をとりもどすような声で言った。「食事の後で、みんなで散歩に出かけるのもいいかもしれんな。どうやら雨もあがるようだ」
みんなが窓の外を見、部屋の温度が何度かあがったように元気づいた。海の方では雲の切れ目から、深い青空がのぞいて見え、反対側の岬はとつぜんあざやかな緑に燃えるようになった。その日はじめて顔を見せた太陽が、今しずんでいくところだった。
そのとき、玄関のベルが鳴った。
「いやだわ、一体だれがやってきたのかしら」と、おかあさんがうんざりしたように言った。ポークおばさんが急ぎ足で出ていく足音が聞こえ、やがてもどってきた。部屋のドアから顔だけのぞかせて、ポークおばさんは言った。「どなたかおいでになりました。ドルウ先生にです」
「ようし、とび入りの侵入者を追いはらってやる」おとうさんはそう言って、玄関のホールの方へ出ていった。しばらくして、もどってきたおとうさんは、ドアを開けて入ってきながら肩ごしにだれかと話していた。「……いやそれはじつにご親切に、ありがとうございます。わたしたちも、明日はなにをするかまだ考えていなかったところでしてね。まるっきり自由に使えるわけなんですよ。ええと、これが家族です」と言って、おとうさんは、家族のみんなから"よそゆきの顔"と呼ばれている顔で、にこやかにみんなを見まわした。「妻に、サイモン、ジェイン、バーニイです……こちらは、ええと、ミスター・ウィザースとミス・ウィザースだよ。サイモン、おまえが昨日あんなに見とれていた、あのヨットからおこしになったんだ。けさ港でお目にかかったのだよ」
男の人と、そのうしろに若い女のひとが、入り口のところに立っていた。ふたりとも黒い髪で、日焼した顔には、はちきれそうな笑みをうかべている。どちらも、べつの世界からやってきた人のような、さっぱりして、どこかとってつけたようなそんな感じがあった。男の人は、前に進み出て、片手をさしだして言った。
「はじめまして、奥さま」
バーニイたちは、男の人がおかあさんの方に近づいていくのを、すわったままぽかんとしてながめていた。目もさめるようなまっ白なフランネルのズボンに、ブレザーコートを着ている。白いシャツの首のところには紺色のスカーフを巻いている。トリウィシックにきて、こんなかっこいい服装にお目にかかろうとは、夢にも思わなかったのだ。おかあさんが、握手をするために立ちあがったとき、バーニイたちもあわてていすを立った。そのときサイモンは、いすをひっくりかえしてしまった。そこへポークおばさんが、大きなティーポットとティーカップをのせたおさらを持って姿をあわした。
「もう二つ必要ですねえ」と言って、ポークおばさんはにっこり笑うと、ふたたび姿を消した。
「どうかすわってくださいな」と、若い女の人が言った。「あたしたち、ちょっとだけ立ちよらせていただいたんです。おじゃまするつもりはありませんの」そして体をかがめて、サイモンがたおしたいすを起こすのを手伝った。じっとその女の人を見つめながら、とても美しい人だわ、とジェインは思った。もちろん、三人のだれよりも、ずっと年は上だった。明るい緑のシャツに、黒いズボンをはいている。その目は、なにか自分だけの心に秘めた笑いを反映して、きらきら光っているみたいだった。とつぜんジェインは、自分をひどく子どもっぽく感じた。
ミスター・ウィザースは、白い歯を見せてあいそうよく笑いながら、おかあさんに話しかけていた。「奥さま、とつぜんおじゃましてほんとうにもうしわけありません。お食事のところを、なにするつもりは少しもなかったんですよ」
「いいえ、かまわないんですのよ」と、おかあさんは言った。ちょっとぼんやりしているような感じだった。「お茶をおひとついかがですか?」
「ありがとうございます。いや、本当にご親切はありがたいのですが、船に食事の用意がしてありますので、わたしたちは、ただおさそいにあがっただけなんです。わたしと妹とは、トリウィシックに数日おります。わたしたちのヨットで、沿岸を周遊している途中なんです。それでわたしたち、あなたやお子さんがたが、一日を海ですごされるお気持ちはないだろうかと思いましてね。わたしたち――」
「うわぁ!」と、サイモンが声をあげ、もうすこしでまたいすをひっくりかえすところだった。
「そいつはすごいな! あのすてきなヨットで海に出るんですか?」
「そうですとも」と、ミス・ウィザースはほほえみながらこたえた。
サイモンは、うれしさのあまり顔を真っ赤にし、ものも言えないほどだった。おかあさんがためらうように言った。「でも……」
「それはもちろん、わたしたちがあまりとつぜんおさそいしたのですから」とミスター・ウィザースはなだめるように言った。「でも、ごいっしょしていただくのも、気分がかわってよろしいのではありませんか。それに、今朝港湾部長のところでご主人とお会いしたときに、わたしたちはロンドンではごく近所どうしだということがわかりましてね――」
「ほんとうですか?」と、バーニイがテーブルについたまま言った。「どこですか?」
「マリールボーンハイストリートですのよ。あなたのおうちから角を曲がってすぐのあたり」と、女の人がえくぼを見せてバーニイに言った。「ノーマンはこっとう品を売っていますの」そして女の人は、こんどはおかあさんの方に向かって、「奥さまとわたしとは、同じ店で買い物しているんじゃないかしら。そうですわ、すてきなラム酒入りの菓子パンを売っている、あの小さなお菓子屋さん、奥さまごぞんじでしょう?」と言った。
「せっかくのおさそいですから、わたくしもなるべく」と、おかあさんは笑顔になりながら言った。「ほんとうに、ありがとうございます。わたしたち、あなたがたのお知りあいでもないんですのに。でも、はっきりとご返事できかねますの……それに、子どもたち三人ときたら、うるさくておじゃまですし」
「おかあさん!」サイモンはあっけにとられたような顔。
ミスター・ウィザースは、まるで子どものように鼻のところにしわをよせて、おかあさんに言った。「しかし奥さま、わたくしたちとしましてはご家族全員をおさそい申しあげているわけでして。あなたとご主人も加わっていただきたいと、心からそう願っております。なに、ほんのちょっと出かけて、もどって来るというだけですよ。商売している人たちがやっているように、湾をひとまわりするというだけです。たぶん、つりをすこしやりましてね。ヨットの中もいろいろお見せしたいですしね。明日はいかがです? きっとよいお天気にまちがいございませんですよ」
なんて古めかしい話し方をする人なんだろう、とジェインはぼんやり考えていた。こっとう品を売っている人だから、話し方まで古くさいんだわ……。そう思いながらジェインは、サイモンとバーニイを見た。ふたりとも、あのヨットに乗って一日遊びたいという思いでもう夢中だった。とても気がかりそうな顔で、おとうさんとおかあさんの方を見つめている。それからジェインはまた、ミスター・ウィザースのまっ白なフランネルのズボンと、首に巻きつけたスカーフに目をやった。この人、どうも好きじゃないわ、とジェインは思った。でも、なぜかしら?
「ほんとうにありがとうございます。それじゃ、こうさせていただきますわ」と、おかあさんがついに言った。「もうしわけありませんけど、わたくしはいかれないと思いますの。お天気がよけば出かけて、港を見おろす絵をかこうと思っていますので。でも主人と子どもたちは、よろこんでいかせていただくと思いますわ」
「ああ、そうでした。ドルウ先生からあなたが絵をおやりになることはうかがっていました」と、ミスター・ウィザースはていねいな口ぶりで言った。「そうですか。わたくしたちとしまてはざんねんですが――しかし芸術の女神が呼んでいるとあれば、奥さま、しかたございません……じゃ、あとのみなさんはおいでくださるんですね?」
「そりゃもう」と、すぐさまサイモンが言った。
「すばらしいな」とバーニイ。それから、気がついてこうつけくわえた。「どうもありがとうございます」
おとうさんも、楽しそうな声で言った。「まったくご親切なお申し出をいただいて恐縮です。家族一同厚くお礼申しあげます。ところで、じつは……」と言って、おとうさんは部屋の中を見まわすようなそぶりをした。「もうひとり家族のものが、ここにいるはずだったのですが、どうやら消えてしまったようです。妻のおじなんです。わたしたちにこの家を借りてくれた人なんですよ」
三人の子どもたちも、おとうさんにつられて、同じように部屋の中を見まわした。メリイおじさんのことをすっかりわすれてしまっていたのだ。今はじめて、このふたりのとつぜんの訪問者がやってきたときから、メリイおじさんがいなくなっていたことに、気がついたのだった。奥の、朝食をとる部屋に通じるドアが、ほんの少し開いたままになっている。バーニイが走りよって、中をのぞいてみたけれど、そこにはだれもいなかった。
「リオン教授のことですか?」と、女のひとがたずねた。
「そうです」とおとうさんは言って、ちょっとの間相手の顔を見つめた。「今朝わたしは、あの人のことはなにもお話ししなかったと思うのですが。するとあなたは、彼のことをごぞんじだったんですか?」
女の人にかわってミスター・ウィザースが、とっさに、すらすらとこたえました。「一度か二度、お目にかかったことがあると思います。こちらの場所ではなかったですね。そう、わたくしたちのこっとう品とか考古学の仕事に関係したことでね。なかなか魅力的なご老人だと記憶しています。少しばかりかわったところのあるおかたで」
「たしかにそういう人ですわ」と、おかあさんがしずんだ声で言いました。「いつも、どこかへ飛び出してしまいますの。今なんか、夕食もまだすませないうちにですわ。それはそうと、どうかお茶かコーヒーでもめしあがってください」
「ありがとうございます。でも、もうおいとましますわ」と女の人が言った。「ヴェインが夕食のしたくをして待っていますから」
ミスター・ウィザースは、まっ白なブレザーコートのふちを、きちっと、女のようなしぐさで引きおろすと、「そのとおりだ、ポリイ。おそくなってはいけないからね」と言って、あふれるほどの笑顔で灯台の灯のようにぐるりと部屋を見まわした。「ヴェインというのはわたくしたちの船長ですよ。根っからの船乗りでしてね。さて、それでは、もしお天気がよけば、港でみなさんとお会いすることにしましょうか? 九時半ではいかがでしょう? 船つき場にボートを待たせておきますから」
「けっこうですとも」と言って、おとうさんはミスター・ウィザースといっしょに玄関ホールの方へ歩いていった。その後から、ほかのものもぞろぞろとついていった。そのときポリイ=ウィザースが立ちどまり、うす暗い壁にかかっているいくつかの油絵の間の古いコーンウォールの地図を、サイモンの頭ごしに見あげた。「あら、ごらんなさいノーマン。すてきな地図じゃないこと?」ポリイはそれからおかあさんに向かって、「ほんとにすばらしいおうちですわ。あなたのおじさまは、お友だちからこの家を借りたのですか?」
「トムス船長ですの。わたしたち、会ったことありません――船長は航海に出てましてね。もうおじいさんなんですよ――なんですか第一線を引退した船乗りということで。その家族のかたが、このグレイ・ハウスを何年も前から持っているんだと思いますね」
「すばらしい」と、ミスター・ウィザースは専門家の目つきでまわりを見まわした。「なかなか古いいい本もありますね、なるほど」そういってミスター・ウィザースは、ホールの中の長い背の低い本箱のとびらに、なにげなく片手をかけた。でもそれは開かなかった。
「わたしがぜんぶかぎをかけたのです」と、おとうさんが言った。「おわかりのように、家具つきの家を借りて住むのも苦労なものですよ――なにかこわしたりしないかと、いつも気をつかいましてね」
「見あげたお心がけです」と、ミスター・ウィザースはうわべだけの返事をした。しかし妹の方は、サイモンに笑いかけながらこう言った。「いろいろ探検してまわるには、もってこいのところだわ。そうじゃないこと? あなたたち、秘密の通路だとか秘密の品物をもうさがしてみたかしら? あたしだったら、古い家にいればきっとそうしてるわね。もしなにか見つけたらおしえてね」
サイモンは、うしろでバーニイが心配そうに見つめているのを背中に感じながら、ていねいにこたえた。
「でもここには、そんなものなにもないと思います」
「さて、それじゃ、明日お会いしましょう」玄関のドアのところからミスター・ウィザースが言った。そしてふたりは帰っていった。
「すごいじゃない? あのヨットで一日中すごせるなんて! ぼくたちにも、ヨットを走らせるのを手伝わせてくれると思う?」ドアがしまったとき、バーニイが興奮した声で言った。
「手伝ってほしいといわれるまで、ぜったいじゃましちゃだめだよ」と、おとうさんが言った。
「万が一にも事故なんか起こしたくないからね」
「おとうさんは船医というわけだね」
「いいや、今は休暇なんだぞ」
「おとうさんは、あの人たちに会ったことを、なぜぼくたちに話してくれなかったの?」とサイモンがたずねた。
「話そうと思っていたさ」と、おとうさんは神妙な口ぶりで、「だけど、いらいらしておちつかなかったんだと思うね」と言って、にやっと笑った。「バーニイ、連れだすんなら、いまルーファスを出してもいいよ。しかし、明日ヨットへ連れていくのはだめだ、いいな?」
とつぜん、ジェインが言った。「あたしもいきたくないわ」
「えっ、なんだって!」と、サイモンがびっくりしたようにジェインの顔を見た。「なぜいかないんだよ?」
「船酔いになるわ」
「それなら心配ないさ――航海じゃないんだからな。古くさいエンジンがいやなにおいを出してゴトゴト動くなんてことないんだ。いこうよ、な」
「いやよ」ジェインは、いっそうがんこになってこたえた。「あたしは兄さんのような船好きじゃないわ。ほんとにいきたくないの。あの人たち気を悪くしないわよ。するかしら、おとうさん?」
サイモンが、はきすてるように言った。「ジェインって、まったくばかだよ」
「放っておきなさい」と、おとうさんが言った。「自分の気持ちは、自分がいちばんよく知っているんだ。あの人たちも気を悪くしないさ、わかってくれるよ。だれだってジェインを気分悪くさせて苦しませようなんて思ったりしない。まあ、朝になってそのときの気分しだいでいいさ」
「そうすれば、よけいいきたくなくなると思うわ」と、ジェインは言った。でも、なぜいきたくないかという本当の理由は、ジェインはなにも言わなかった。あの背の高い白いヨットと、笑顔のミスター・ウィザースとその美しい妹のことが、なぜかわからないけど奇妙な不安をジェインの心にかきたてるのだ。でもそんなことを口で説明してみたところで、あまりにばかげたことのように思われてしまうだろう。その不安でおちつかない気持ちが、なぜおこるのか、考えてみようとすればするほど、それはばかばかしいことのように思えてくる。だから、けっきょくのところジェインは、ほかの人がそう思いこんでいるように、ヨットに乗りたくないのは船酔いがおそろしいからだと、自分でも思いこんでしまった。
ところで、メリイおじさんはどこへいってしまったのだろう。だれにもそれはわからなかった。
第四章 牧師館の男
海には朝もやがうっすらとかかり、港を見おろすと、静かな波の上を船が何隻かゆっくりと動いていた。空には太陽がかがやいていた。ジェインは、自分の部屋の窓から、外をながめおろしていた。漁船はほとんど出はらってしまっていた。船つき場の小ボートから、人かげが二つ、岸によじのぼるのが見えた。
ジェインのうしろから、サイモンが声をかけた。「こいつもあずかってほしいと思って持ってきたんだ。ほんとにおまえがいかないのならさ」ジェインがふりかえると、サイモンは灰色のソックスを片方だけさし出した。へんにかたそうで円筒形のソックスだ。
「にいさんのソックスって、なんでそんなに特別あつかいするのよ?」
サイモンは白い歯を見せてニッと笑った。そして低い声で言った。「あの古文書なんだよ。ほかに入れておくものを考えつかなかったんだ」
ジェインは笑って、ソックスを受けとると、中から古文書を半分ほど引き出してみた。ところが、そっと引き出したにもかかわらず、古文書のふちがウールのソックスにあたって、不吉にも音をたててポロポロとくずれてくる。「だめだわ」と、ジェインは急に注意深くなりながら、「出したり入れたりするたびにこの調子だったら、一週間もすれば全部ぼろくずみたいにくだけてしまうわ。あの屋根うら部屋に、長い長い間だれもさわられないであったものでしょ。もしあたしたちが持ちまわっていたら――」
サイモンは心配そうに、巻いた羊皮紙を見つめた。ふちは年月のために黒っぽくつぶれたようになっている。前にはなかったと思うのに、さけめができている。サイモンはこまってしまった。「だって、なにが書いてあるのか見つけ出そうとすれば、何度もこれをみなくちゃならないわけだしな……いや、待てよ、あの部屋――」
あっけにとられているジェインを後にのこし、サイモンは古文書をつかむと階段をおりていき、二階のおどり場にあった、あの小さい暗いドアのところにやってきた。屋根うら部屋を見つけたとき、途中で発見した、あの通路に続いているドアだ。今もかぎはかかっていなかった。せまい通路に足をふみ入れ、三人が船長の寝室だと思ったあのがらんとした質素な部屋に入っていった。その部屋はそっくり昨日のままだった。そして望遠鏡も、窓のしきいの上にやはりあった。
サイモンはその望遠鏡ケースを手にすると、ねじまわした。どちらの筒のねじすじもひかってさびてはいない。かすかに油が表面についていた。そして筒にうちばりしてある銅が、光のあるところに持ってくると、かわいたきれいな光をはなった。巻いた古文書をサイモンはその中にいれた。ぴったりだった。二つの筒をふたたびねじあわせると、ちょうどその間に古文書はおさまってかくされてしまった。サイモンは考えぶかそうに、部屋の中を見まわした。まるで、部屋がサイモンになにか話しかけてでもいるみたいだった。でもあるのは沈黙と、そしてすいこまれてしまいそうな、不思議ながらんとした感じだけだった。ふたたび、そっとドアを閉めたサイモンは、二階まで走ってもどってきた。
「そら見ろよ」と、サイモンはジェインに言った。「まるで古文書をかくすためにつくられたみたいだぜ」
「そうかもしれないわ」と、ジェインは望遠鏡ケースを受けとりながら言った。
「どこかにそいつをかくしたほうがいいな」と、サイモンが言った。「おれたちの部屋の洋服だんすの上はどうかな?」
「あたし、いい場所を見つけるわよ」と、ジェインは考えをめぐらせるような顔つきで言った。
そのときサイモンの方は、もう自分の部屋に半分もどりかけていて、ジェインのことばはほとんど耳に入らなかった。すでにサイモンの頭の中は、きょう一日ミスター・ウィザースのヨットですごすということでいっぱいだったのだ。サイモンとバーニイとおとうさんが、防水服だのセーターだの水泳パンツのことで大さわぎをし、出かけていってしまうときまでに、ジェインは気持ちがかわっていっしょにいきたい、という気にもう少しでなりそうだった。
でも、サイモンが最後にからかってジェインをさそったとき、ジェインはきっぱりと言った。
「いかないわ。もし船酔いにかかったら、なにもかもぶちこわしになっちゃうもの」そして窓のところに立って、サイモンたちが船つき場へおりていき、小ボートに乗って背の高いスマートな白いヨットに向かって進んでいくのを、じっと見つめていた。
おかあさんが片方の腕に画架を、もう一方にサンドイッチと絵の具類の入ったバッグを持って、ジェインの方を気がかりそうに見た。「ねえ、ジェイン、あなたひとりだけで本当にさびしくないのね?」
「だいじょうぶよ」と、ジェインは強い口調でこたえた。「このあたりを歩きまわってみるわ。おもしろいわよ。ほんとうにだいじょうぶよ。おかあさんこそ絵をかいていて、さびしくなってくることはないの?」
おかあさんは笑った。「いいわ、わかりました。気ままに、散歩しなさい。まよわないようにね。おかあさんになにか用があったら、向こう側の港の上のあたりにいますからね。ポークさんがここに一日いてくれるから、お昼もつくってくれるわ。散歩はルーファスを連れていくといいんじゃないかしら?」
おかあさんは太陽の降りそそぐ中に出ていった。もうおかあさんの両方の目の中には、描こうとしている絵の形や色のことしかなかった。ぬれた鼻が手にさわるので、ジェインが見おろすと、ルーファスが茶色の目を大きく見開いてなにか期待するように見あげていた。ジェインは笑って、ルーファスといっしょに村の方へかけおりていった。見知らぬせまい道をいくつも通りぬけていった。いくつかの店先から、コーンウォールなまりの陽気な軽やかな会話が、通りすぎるジェインの耳に飛びこんでは遠ざかっていった。
でも、午前中ずっと、ジェインは奇妙におちつかなかった。なにかが、たえずジェインの心にひっかかってせりあいおしあいしている感じなのだ。つまり、あたしの心がなにかをあたしに言おうとしているのに、それがなんなのかまるであたしには聞こえないんだわ、とジェインは思った。ルーファスを家に連れてもどったとき、ジェインは息ぎれして心臓がどきどき鳴り、台所でポークおばさんのそばにすわりこんでしまった。そのときもまだジェインは、物思いにしずんで、気分が重かった。
「散歩は楽しかった? お嬢さま」と、ポークおばさんは言って、床をふいていた手を休めてお行儀にすわるかっこうになった。そばに石けん水の入ったバケツがあり、その顔は赤く、汗で光っていた。ポークおばさんは、灰色のスレートの床を、ごしごしみがいていたのだった。
「まあ、ね……」と、ジェインはあいまいにこたえた。そしてポニーテールの髪をもてあそんでいた。
「お昼は、今すぐできますよ」ポークおばさんはそう言って、よっこらさと立ちあがった。
「おやまあ、あの犬ったらごらんなさいな、くたびれはてて、水をやらなくっちゃ。わたしがやりますよ――」ポークおばさんはルーファスの食器の方に歩いていった。
「あたしは上で、手を洗ってくるわ」ジェインは台所からホールを通りぬけてゆっくり歩いていった。ひんやりして、うす暗く、あのポリイ=ウィザースが顔をかがやかせてじっと見つめていた古い地図の一枚に、一すじの光線がさしこんでいた。ミス・ウィザース……あの人とお兄さんのミスター・ウィザースとに、なぜ不吉な感じがしたのかしら? ふたりとも完全にふつうの人間なんだわ。そうでないと理由はなに一つありはしない。あのふたりが、あたしたちみんなに一日ヨットで遊ばないかと申し出たのは、親切なことなんだわ……でも、奇妙な感じ。ミス・ウィザースが家の探検をしてなにか見つけ出したらおもしろいといったあのこと……。
なにか見つけ出すこと。階段を半分のぼったところで、とつぜんジェインは、まずいことをした、と思ってハッとなった。あの古文書を午前中ずっと、あの新しいケースのまま、まくらもとのテーブルの引き出しに入れっぱなしにしておいたことを思い出したのだ。あれを持って出かけるべきだったかしら? いいえ、それはばかげてるわよ、とジェインは考えた。それでもジェインは階段を大急ぎでかけのぼり、心配そうに自分の部屋にかけこんだ。引出しの中に、ケースが静かに光をおびて横たわっているのを見ると、ほっとしてすくわれたような気持ちだった。
ジェインは巻き物になった茶色の羊皮紙を取りだして、窓のところに持っていき、注意しながらそれを開いた。読みづらい黒い文字の例を見ると、屋根うら部屋でジェインたち三人が、この巻き物がなんなのかをとつぜんさとったとき感じたのと同じ胸さわぎを、ジェインは感じるのだった。ジェインはじっとそれを見つめた。でも、ずんぐりした黒い文字の列は、今もあのときと同じように、読みとることはできなかった。サイモンが言ったマークとアーサーという文字の最初の字だけを、見わけることができただけだった。
この古文書にはどんなことが書いてあるのだろう? 一体、ジェインたちはどうやってそれをとくかぎを見つければよいのだろう?
巻きぐせのついた羊皮紙の下の部分に、ジェインは目をやった。うすく波のような線がいくつか見える。地図かもしれないと三人が考えたあの線だ。屋根うら部屋のうす明かりの中では、あんまりよく見えなかった。でもジェインは、今、真っ昼間の強い光線のもとで見ているのだ。身をかがめるようにして、近々とのぞきこんだ。とつぜん、最初に見たときよりも、その地図にはもっと線があることに気づいた。とてもかすかな線なので、前のときは、それを羊皮紙のひびだと見まちがえてしまったのだ。そして線の間に、さらにかすかに、なにか字が書かれてあった。
ひじょうにラフな地図で、大急ぎでかかれたものらしかった。沿岸の地図のように見える。Wの字を横にしたようで、二つの入り江と一つの岬のようだ。あるいは岬が二つ、入り江が一つと見るべきなのだろうか? 一体どちら側が海になるのか、わからなかった。つきだしている陸地部――あるいは海――の一つに単語が一つ書かれている。ところがその文字は、もろくなっている古い羊皮紙のさけめのために、完全に読めなくなっていた。ちょうど文字の上を、太いインキの線のようなさけめが走っているのだ。
「ざんねんだわ」と、ジェインはいまいましそうに、大きな声で言った。そう言いながら、自分がたった今、この古文書についてなにか発見してやろうという気になったことに気がついた。ヨットからサイモンとバーニイが帰ってきたときに、それを教えてやるためだ。ジェインは心の奥の方で、午前中ずっと、このことであせっていたのだ。
もう一つの名前が、地図の上に書いてあった。もしそれが名前だとしたらの話だけれども。その文字は小さくて、茶色だったけれど、古文書のほかの文字よりははっきりしていた。名前の字の一つ一つをたどっていったジェインは、それが三つのことばからなりたっていることを見つけた。「リング、マーク、ヒード(Ring Mark Hede)」ジェインはじっと見つめ、そしてがっかりした。まるで意味をなさないではないか。
「リング、マーク、ヒード」と、ジェインはたしかめるように、声に出して読んでみた。場所の名前なんかではない。地名だったら、こんなへんなのはないはずだ。
ホールにある船のドラを打ち鳴らす音が、階段の下の方からひびいてきて、今まで遠くの海の音とカモメの声しか聞こえてこなかった静けさを、うちやぶった。ポークおばさんが下で呼んでいる声が、かすかに聞こえた。
「ジェイン! ジェイン!」大急ぎで古文書を巻くと、ジェインはそれを望遠鏡の筒に落としこんだ。そして二つの筒を、しっかりと重ねあわせた。まくらもとのテーブルの引出しを開け、ちょっとためらったあと、ふたたび引出しを閉めた。自分の目からはなさないほうがいい。ジェインはベッドにあったカーディガンをひっつかむと、そのケースをくるんで手にもち、部屋をとび出した。そして一度に階段を二段ずつかけおりていった。
はやく走りすぎたのが悪かった。二階のおどり場の角をくるりとまわるとき、ものかげにあった長い、背の低い木びつに思いきりぶつかって、痛みのあまりうずくまってしまった。船つき場のところでけがしたのと同じ方の足にちがいなかった……。でもジェインがうずくまって、ひざをさすっているとき、なにか注意を引いたものがあった。ジェインがぶつかった木びつは、前の日に三人が気づいたあの木びつで、そのときはかぎがかかっていた。「原住民の黄金や飾り物だ」とサイモンが言って、ふたを開けようとしたが開かなかったのだ。ところが、今、ふたが十センチ近く開いて、ゆっくりと上下にゆれている。かぎがかかっていたのではなくて、くっつけられていたにちがいない。ジェインが衝突した拍子に、それがゆるんだのだ。
ものめずらしそうに、ジェインはふたを持ちあげて、木びつを開いた。中には、たいして入っていなかった。古い新聞、大きな皮手袋、重そうなウールのセーターが、ニ、三着、それに、半分かくれたように小さな黒表紙の本があるだけだった。つまんない宝物だわ、とジェインは思った。でも、本はひょっとしたらおもしろいかもしれない。手を底の方にのばして、ジェインはその本を取りだした。
「ジェイン!」ポークおばさんの声が近くなってきた。階段をのぼってくるのだ。どろぼうでもしたみたいにジェインは、木びつのふたをおろすと、その小さな本を、望遠鏡のケースといっしょにカーディガンに包みこんだ。手すりのところから、ポークおばさんがぬっと顔をあらわした。
「今いくわ」と、ジェインはしんみょうな声で言った。
「おや、そこでしたか。ベッドにもぐりこんでしまったかと思ったですよ。太りすぎて、この階段たいへん、わたしには」と言ってポークおばさんは、ジェインを見て笑った。「お昼食はテーブルの上にありますよ。オーブンでパイをつくっていましたんで、お嬢さまをすっかり待たせてしまいましたねえ」ポークおばさんは、よたよたしながら台所へもどっていった。おさらに山盛りのハムサラダが、食堂でジェインを待っていた。マホガニーのテーブルは、つやのある海のようで、山盛りのハムサラダはその海にうかんだ小さなかがやく島のように見えた。そのそばに、イチゴ入りのパイが一さらと、クリームの入った小さなジョッキがあった。
ジェインはテーブルにつくと、うわの空で食べ物を口にいれた。というのも、食事の間中、木びつで見つけた小さな本のページを片方の手でめくりながら読んでいたからだ。それは地元の牧師が書いた、この村の案内書だった。『トリウィシック早わかり』と最初のページにあり、流れるようなうず巻き状の書体で書かれていた。『トリウィシック、セント・ジョン教会牧師、美学修士(オックスフォード大学)・法学博士(ロンドン大学)E=J=ホウズメラー編』となっている。
おもしろくないわ、とジェインは思った。そしてこの本に対する興味がだんだんなくなってきた。このあたりの土地についての、″たいくつな研究″がこまごまといっぱい出てくるページを、ジェインは指ではじくようにめくっていった。古文書の文字のことが、今もジェインの目の先にちらつくのだ。あの地図について、サイモンとバーニイに言ってやれることを、なにか見つけることができさえすれば……。
そのとき、ジェインの指の下で、案内所の真ん中のページがばたんと開いた。なにげなく見ていたジェインは、急に動かなくなった。そのページにあったのは、トリウィシック村のくわしい地図だった。まっすぐの道も、曲がりくねった道もぜんぶのっている。二つの岬の間に、こぢんまりとおさまった港のうしろに、それらの道はもようのように入りくんで走っている。いくつかある教会も、公民館も、みんな一つ一つ出ていた。グレイ・ハウスも、その名前といっしょにちゃんと出ているのを見たとき、ジェインは一瞬、ほこらしい気持ちになった。それはケメア岬の先端に通じる道のそばに位置しており、道はさらに先にのびて途中でなくなっている。しかしジェインの注意を引いたのは、岬の上にはっきりと書かれている名前だった。「キング・マークス・ヘッド(King Mark's Head)」と書いてあるのだ。
「キング マークス ヘッド」と、ジェインは声に出して、ゆっくり発音してみた。それから、いすのそばにおいてあったくるんだカーディガンに手をのばし、望遠鏡のケースを取りだすと、テーブルの上に古文書をひろげた。読みづらい、なぞのような例の三つのことばをジェインは見つめた。「リング マーク ヒード(Ring Mark Hede)」見つめているうちに、最初のことばの最初の字は、時がたち、ほこりもついて、うすよごれているけれど、″R″ではなくて、″K″と読めないことはないと気がついた。ジェインは、高鳴る胸をおさえて、一つ大きく息をすいこんだ。
キング・マークス・ヘッド(マーク王岬)――両方の地図にこの同じ名前がのっている。ということは、屋根うら部屋にあった古文書の地図は、トリウィシックの地図にちがいない。それもグレイ・ハウスが建っているあたりの地図だ。マーク王岬という聞きなれない名前は、ケメア岬のむかしの名前にちがいない。
でも最初のどきどきするような気持ちがおさまって、もう一度、二つの地図を見くらべてみたとき、ジェインはちょっとがっかりした。古文書の地図の沿岸の線が、どうもおかしいのだ。手でざっと地図を書いたばあい、ほんとうの地形とはどうしてもちがってくるけれど、それにしても古文書の地図はちがいすぎる。沿岸の線が、案内書のものとくらべると、ちがっている。岬が奇妙にふくらんでいて、港の形もちがう。なぜなんだろう。
不思議に思いながらジェインは、食器だなから短くなった鉛筆を持ってきて、案内書の地図の上に、うすく、できるだけ正確に、古文書の沿岸の線を写してみた。疑問の余地はなかった。二つの図形は、同じものではないのだ。
とすると、おそらく、古文書の地図はけっきょくのところ、トリウィシックの地図ではないのかもしれない。あるいは、コーンウォール地方にはマーク王岬というのが二つあるのかもしれない。それとも、古文書が書かれた時代から何百年もすぎたために、沿岸の形がかわってしまったのだろうか。いったいどうやって、ジェインたちに、この疑問をとくことができるだろうか?
ジェインは、あまり気が進まないように古文書をわきへおしやった。そして案内書の地図の上の印刷された線と自分が鉛筆で書きこんだ線とをながめていた。やっぱり答えは見つからなかった。いらいらした気持ちで、ジェインは本のページをもとにもどした。そしてとつぜん、題名の出ているページに目を止めた。
「……E=J=ホウズメラー牧師、修士……」
ジェインは飛びあがった。そうだ、これだわ! そうじゃなくって? トリウィシックの牧師さんなら、この地方のことはなんでも知っているにちがいない。専門家であり、案内書だって書いているのだ。沿岸の形がかわったのかどうか、もしそうならむかしはどんな形だったのか、牧師さんなら知っているかもしれない。問題をとく糸口は、ここにしかない。ジェインはなぜそれを知りたいのか、牧師さんなら不思議がってその理由を聞き出そうとしたりしない。なぜなら、彼が書いた本にジェインは興味を持ったのだと、考えるだろうから。出かけて、牧師さんに会い、たずねてみなくては。
そのつぎにジェインが考えたことは、サイモンとバーニイがもどってきたとき、ふたりに言わなくてはならないことがいっぱいあるということだった……。
いつもは家族の中でも引っこみ思案のジェインだったけれど、これで午後をどうすごすかがきまったわけだ。ドアが開いたとき、ジェインはすばやくふりむいた。ポークおばさんが、体をローリングさせるような歩き方で入ってきた。「食事はおわりましたか? おいしかった?」
「とても。ありがとう」ジェインはそう言って、案内書と、カーディガンにくるんだ大事な宝物を、手にかかえた。「おばさん、トリウィシックの牧師さん知ってる?」と、ジェインはちょっと聞いてみた。信仰心があんなに厚い人だもの、知ってることはたしかだわ……と、ジェインは考えた。
「そうねえ、わたし、個人的には知りませんけど」と、ポークおばさんは急にまじめくさった、げんしゅくな顔つきになってこたえた。「教会にいったとき、あの人と話すことはありませんです。そりゃ、あの人の姿はよく見ますけども。とっても頭のええお人だと、みんなあの牧師さんのことをいいよりますがね。お嬢さま、教会を見てこようと考えていなさったのですか?」
「そうよ」と、ジェインは言った。そして心の中で、たぶんそうすることになるわ、とつけくわえた。
「とってもきれいな、古い教会ですよ。ちっと遠いけどもね――丘をのぼって村のいちばん高いところにありますよ。船つき場から、フィッシュ・ストリート(さかな通り)をあがっていくと、木の間から教会の塔が見えますから」
「わかると思うわ」
「日射病にかかるといけませんよ」ポークおばさんはやさしく言って、おさらを持ってゆっくりと部屋を出ていった。そしてまもなくすると、台所の方から、おばさんの歌う声が聞こえてきて、ホールをいっぱいに不気味に反響した。「わたしといっしょにいて」
ジェインは階段をかけのぼっていった。そして大急ぎでまわりを見まわし、古文書を入れたケースをかくす場所をさがした。とうとうジェインはベッドの下のカバーの間に、それをおしこんだ。マットレスのふちにそっておいたので、出っぱらないですんだ。神経質にあれこれ考えると、このかくし場所も心配になってきたかもしれなかった。でもその前に、ジェインは家を出た。そして昼さがりのねむくなるような太陽の下を、案内書をしっかり手に持って歩いていった。
* * *
丘の上にあるその教会は、海からは、切りはなされているように思えた。教会のところからは、木や丘だけしか見えず、村の小さな家々も、教会への道の二十メートルほど手前でおわっていた。四角い灰色の教会で、塔は低く、塔の反対側に大きな門があり、海から二百キロちかくもはなれた、木のしげった谷間にでも建っているような感じだった。
庭で、しわだらけのおじいさんがひとり、シャツ一枚につりズボン姿で、植木ばさみを持って草をかっていた。ジェインは、へいの外側から、おじいさんの近くまできて立ちどまると、大きな声で言った。「ちょっとすみませんけど。あれが牧師館ですか?」
おじいさんはぜいぜい息を切らせながら、片方の腕を体にまわして小さな背中をのばすようにした。
「そうじゃ」と、ぶあいそうに言ったきり、おじいさんはその場に立って、表情のない顔で、ジェインが道を横切って車寄せに通じる道を歩いていくのを、ずっと見つめていた。じゃりの上を歩く自分の足音が、午後の静けさの中で、ひどく音高くジェインには聞こえた。そして四角い大きな灰色の家は、窓はがらんとして、静まりかえり、ジェインの足音にじゃまされるのを怒っているみたいに思えた。
牧師の家にしては、むさくるしい家だわ、とジェインは思った。家の車寄せに通じる道のじゃりには、雑草が一面に生えている。まとまりのない庭には、アジサイがひょろ長くのび、手入れされている様子もなかった。しばふの草は、雑草のようにのびほうだいだった。ジェインは、ペンキのはげかけたドアの横についている、呼びりんのボタンをおした。呼びりんの音が、家の中でかすかに、遠くにこだまするように鳴っているのが聞こえた。
長い時間がたち、ジェインが家の中にはだれもいないのだと思って、かえってほっとした気持ちになりかけたとき、家の中に足音が聞こえた。ドアが開いた。そのドアは、めったに開けられないかのように、きしんでいやな音をたてた。
そこに立っているのは、背が高く、色の黒い男のひとだった。古くなったスポーツシャツを着て、だらしのない感じだった。それと同時に、ジェインが今まで見たこともないようなこい黒いまゆが、まん中で切れることなく、ひたいにほとんど一直線にのびていて、どことなく近づきにくい感じもあった。その男の人は、ジェインを見おろした。
「なにか?ひどく深味のある声だが、のっぺらぼうの口調だった。
「ホウズメラーさんはおいでになるでしょうか?」
背の高い男の人は、まゆにしわをよせて言った。「え? だれ?」
「ホウズメラーさんです。牧師さんです」
男の人の顔が、ちょっとやわらいだ。でもまだ、こい黒い眉の下からジェインを見つめる目は、するどかった。「ああ、わかりました。ホウズメラーさんね。ざんねんながら、あの人はもうここの牧師ではありません。何年も前になくなりましたよ」
「まあ」と、ジェインは言って、玄関口からうしろに身を引いた。このまま帰ってしまおうかとも思った。
「そうですか、それでしたら――」
「もしかしたら、わたしがお役に立てるかもしれませんよ」と、男の人は深い、どこか悲しそうなひびきのある声で言った。「わたしの名前は、ヘイスティングスです。ホウズメラーさんのかわりにここに入ったのです」
「まあ」と、ジェインはまた言った。孤独な感じのミスター・ヘイスティングスや、あれるにまかせている彼の家や庭のことが、ジェインには今までほど気にならなくなりかけていた。「いいえ、おじゃまになるといけませんから。ただ、あの人が書いたこの村の案内書のことで、ちょっと聞いてみたいことがあっただけなんです」
牧師さんのうすい黒い顔に、チラと興味ありげな色が走った。「トリウィシックの案内書? あの人がそのような本を書いたという話は聞いたこともあったけれど、今までわたしはその本を見たことがなかったですね。あなたが聞きたいと思ったというのは、どんなことです? もしあなたが、その本をさがしていて手に入れたいというんだったら、わたしはざんねんながらお役に立てないけど――」
「いいえ、そうじゃないんです」と、ジェインは言った。ちょっと得意なような気持ちが、ないこともなかった。「その本をあたし持ってるんです」ジェインは小さな案内書を前にさし出して牧師さんに見せた。
「この本の中にあることで、村のことなんですけど、もしかしてホウズメラーさんがまちがっていないかと思ったんです」
牧師さんは、その本を見つめた。なにか言おうとして口を開きかけたが、途中で思いなおしたようだった。ドアを大きく開けて、開きかけた口でぎこちなくほほえんで見ると、「さあ、ちょっと中にお入りなさい、お嬢さん。ふたりでなにかわかることがあるかもしれません。わたしもこの土地には何年も住んでいるので、トリウィシックのことは少しは知っていますよ」
「ありがとうございます」と、ジェインはぴりぴりしたような声で言った。玄関に足をふみ入れ、牧師さんの後について廊下を歩いていきながら、ジェインはポニーテールの髪につけたリボンを引きあげた。きちんとした身なりに見えればいいけど、とジェインは思った。だからといって、かりにジェインがぼろ服を着ていたとしても、この家ではふさわしくないということはなかったろう。まわりを見まわしてみて、この牧師さんの家は今まで見た中でいちばん好きになれない、きたない家の一つだわ、とジェインは考えた。大きくて、まとまりがなくて、グレイ・ハウスよりももっとがらんとしていた。ペンキははげかけていて、壁はきたなくよごれ、そして床はすりきれた敷き物が一つ二つあるだけであとはむき出しだった。四角ばった歩き方で前をいく牧師さんのことを、ジェインはかわいそうに思いはじめたくらいだった。
あきらかに書斎だと思える部屋に、ジェインは案内された。紙がいっぱい散らかった大きな机。色あせたクッションの、使いふるしたとういすが二つ。壁は全部本だなになっている。たてに長いフランス式の窓は、いっぱいに開けられて、ジェインが車寄せのところから見た、のびほうだいの草がのぞいて見えた。
「さあ」と、牧師さんは机の向こうに腰をかけ、おちつきのない手つきで机に散らかった紙をかたづけながら言った。「おすわりなさい。そしてホウズメラーさんに聞こうと思っていたことを、いってごらんなさい。あの人が書いた本を、あなたは手に入れたんですね?」
牧師さんは、ふたたび、ジェインが手にしている本を見つめた。どうやら心を引かれるらしい。
「そうなんです」と、ジェインは言った。「この本を見たいんでしたら」ジェインは本を牧師さんの方にさし出した。
牧師さんは、ゆっくりと手をのばして本を受けとり、まるでそれがとても大切な宝物であるかのように、長い指でそのはばのせまい表紙のまわりを包むようにした。彼は本を開かなかった。机の上の自分の前において、じっと見つめていた。あまり目を集中させて見ているので、本を見ているというより、なにかほかのことを考えているように見えたくらいだった。
「あなたは休みでこの土地にきてるの?」
「はい。名前はジェイン=ドルウといいます。家族みんなでグレイ・ハウスに泊まっているんです」
「ほう、そうだったの? あの家のことはわたしはそれほどくわしくないんだが」と言ってミスター・ヘイスティングスは、なぜか気味の悪い笑顔を見せた。「トムズ船長は、わたしとつきあうひまがないというところらしい。ふうがわりな、孤独な男でね」
「あたしたち、今まで会ったことはないんです。今は航海に出ています」と、ジェインは言った。
「ところであなたのこの本だけど」そう言いながらミスター・ヘイスティングスは、ほとんど無意識のうちに指で本の表紙をなでていた。「おもしろい?」
「すごくおもしろいです。密航する人たちだとか、そのほかいろんなことがあったむかしのトリウィシックの話って、みんなあたし好きなんです」ちょっとの間、ジェインは地図のことを言ってしまっていいものかどうか、まよった。でも、好奇心の方が、まよう気持ちにうち勝った。立ちあがると、机の方に歩いていってミスター・ヘイスティングスのそばに立ち、本のページをめくって南コーンウォールの地図が出ているところを開いた。「あたしが疑問に思ったのはこれなんです。沿岸の形です。むかしこれとちがった形をしていたことがあったかどうかを、たずねたかったんです」
牧師さんのうしろに立っているので、ジェインには彼の顔を見ることはできなかった。しかし、地図を見ているうちに彼の両肩がこわばり、机の上においた手の指がだんだんと曲がってにぎりしめられていくのがわかった。
「おもしろい質問だ」と、彼は言った。
「ただちょっと知りたかっただけなんです」
「地図の沿岸の線の上に、もう一つ鉛筆で書いた線があるね。あなたがかいたものなの?」
「ええ」
「想像で?」牧師さんの太く低い声は、ひどくもの静かだった。
「まあ、そんなところです。つまり、それというのも……どこかで、本かなにかでそんなような地図を見たんです」ジェインは屋根うら部屋で見つけた古文書のことを言わないようにしようとして、しかもはっきりしたうそはつきたくないので、しどろもどろの話し方になった。
「ヘイスティングスさん、もしトリウィシックのことをごぞんじでしたら、ここの沿岸はいつも同じだったかどうか知っていますか?」
「そうとしか考えたことはないけどね。花こう岩質の沿岸というのは、形がかわるのにはずいぶん長い年月を必要とするからね」彼は鉛筆でかかれた線をじっと見つめていた。「この沿岸の線を、あなたは本の中で見たといったんですね?」
「ああ、それは本だったか、それともほかの地図だったか、あるいはなにかほかのものだったか、はっきりしないんです」ジェインは、あいまいにこたえた。
「グレイ・ハウスの中で?」
「船長の本には、わたしたちさわらないようにしてるんです」と、ジェインはすらすら言った。案内書が船長の本であることをわすれてしまっていた。
「しかし、あなたは船長の本を見まわしたことはあるね、きっと?」そう言って牧師さんはジェインの上にそびえ立つようにいすから立ち上がった。そして長い腕をのばして本だなの一つから、一さつの本をとり出した。彼はその本をジェインにわたした。とても古い本で、皮の表紙がすりへって光っている。ジェインが中を開いてみると、ページはバリバリ音をたて、年代のたったかびくさいにおいがした。その本は『リオネス物語』といって、たくさんの″g″という字は″f″のような字になっていた。
「あの家で、その本のようなのを見たことはないですか?」ミスター・ヘイスティングスの声には、こだわるようなひびきがあった。彼は、ジェインと窓からさしこむ日の光との中間に立っていたので、その顔を見あげてもかげになっていて、二つの目が放つかすかな光しかジェインには見えなかった。それは一瞬、ひどく不吉な感じに見え、ひやっとするような不安が、足もとからはいあがってくるのをジェインは感じた。その小さな不安は、休みでこの地にきてから何度もおぼえのあるものだった。なにか得体の知れないものがある、という感じだった。つまり、ほかの人たちはみんな知っているのに、ジェインとサイモン、バーニイだけがそれを知ることができない、という感じなのだ。
「いいえ、見たことありません」
「本当に? たぶん、その本のような題名がついている本ですよ? そうした本の中で地図を見たのではないですか?」
「いいえ、ちがいます。あたしたち見てないんです」
「この本だなのようなところにあった一さつを、見たんじゃなかったの?」
「あたし、ほんとに知らないんです」といって、ジェインはしりごみするように、いすのところにもどった。ミスター・ヘイスティングスの声に、なにかただならぬひびきがあらわれてきたからだ。「なぜ船長に聞いてみないんですか?」と、ジェインは言った。
ミスター・ヘイスティングスは、ジェインから本をとりもどすと、本だなのもとの場所におしこんだ。彼はふたたび、きまじめな、ほとんどしかめっ面のような顔つきにもどっていた。
「あの人は、話のわかる人ではないからね」と、そっけない口ぶりで言った。
ジェインの気持ちは、だんだんおちつかなくなって、両足をかわるがわる、そわそわと動かしはじめた。
「あら、もうおいとましなくては」と、ジェインはおかあさんのよく使うせりふをまねて、上手に言った。ていねいに聞こえればいいけど、と思った。
「おじゃまして、すみませんでした」そう言ってジェインは窓の方から、ドアの方へと、ぶえんりょに視線を走らせた。
牧師さんは、立ったままだまりこんで考えにふけっていたが、やっと気分をとりなおしてフランス式の窓のところへ歩いていった。「こちらから出ることもできますよ、その方が早い。玄関のドアは、めったに開けたことがないのでね」
彼はジェインに手をさし出した。「お会いすることができてうれしかったですよ、ドルウさん。もっともお役に立てなくてざんねんだけど。でも、ここの沿岸がホウズメラーさんの地図にあるのとちがった形になったりしたことは、まずなかったと思いますよ。わたしの知っているところでは、あの人はなかなか評判の高い地図製作者でした。わたしに会いにきてくれて、ありがとう」
ミスター・ヘイスティングスは、ジェインの手をにぎって、ていねいに頭をさげ、奇妙なむかしふうのおじぎをした。とつぜんジェインは、グレイ・ハウスにやってきたミスター・ウィザースが、帰りぎわに見せたあいさつを思い出した。でもこのミスター・ヘイスティングスのやりかたの方が、いっそう本物のようにジェインには思えた。ミスター・ウィザースは、この人のまねをしようとしたのかもしれない、と思ったくらいだった。
「さようなら」ジェインは急いで言った。そしてぼうぼうとはえた草の間を走りぬけ、静まりかえったむさくるしい家の、車寄せに通じる道から、家にもどる道路へと出ていった。
第五章 ふしぎな盗難事件
ジェインがグレイ・ハウスに帰りついてみると、居間でサイモンとバーニイが、メリイおじさんに向かってサルのようにやかましくおしゃべりをしていた。メリイおじさんの方は、大きなひじかけいすに深く体をしずめ、もの静かにふたりの話に耳をかたむけているのだった。サイモンもバーニイも、すっかり夢中で顔をほてらせてしゃべっている。色白のバーニイのはだでさえ、潮風と太陽に日焼して、茶色がかったピンク色になっている。
「あら、帰ってきたわね、ジェイン。どうしたのかと心配になりかけていたところよ」と、おかあさんが言った。
サイモンは部屋の中から、大声でジェインをむかえ入れた。「おまえもいくべきだったぜ! まるで信じられないくらいさ、ほんとに航海に出たみたいだったな。追い風のときなんか、すごく速く走るんだぜ、モーターボートより速い……帰りはさ、風がやんだからエンジンかけたけど、それだっておもしろかったな。ウィザースさんは、おれたちといっしょに家まできて一服していったんだ。さっき帰っていったよ。おとうさんがいっしょに出かけた。おれたちがとったサバを忘れてきたんで取りにいったんだ」
「ところでジェインは、今までなにをしていたのかな?」と、部屋のすみからメリイおじさんが、静かな口調でたずねた。
「べつになにって……。そのへんを散歩していたの」と、ジェインはこたえた。
でも三人きょうだいが上の寝室にあがったとき(その日は早く寝室に追いやられた。というのも、サイモンがおとうさんのいすのすぐうしろで灯台船のサイレンのまねをしたとき、おとうさんがけわしい口調で、みんなひどくつかれてるんだとしかったからだ)、ジェインはサイモンたちの寝室のドアをノックして中に入っていくと、自分が発見したことや、牧師さんをたずねたことを話した。ジェインが期待していたような興奮ぶりをサイモンたちはぜんぜん見せなかった。
「古文書の一部分を写しとったって?」と、サイモンはたずねた。その声は、キーキー声のようになってふるえていた。「そして、彼に見せたんだって?」
「そうだわ」ジェインは相手のけんまくに負けまいと、自分を防ぎょするような口調で言った。「だって、それがなにか悪い結果でもまねくと思って? 案内書の中のちょっとした鉛筆の線なんて、だれにとっても無意味だわよ」
「おれたち全員が賛成しなければ、古文書に関係のあることはどんなことだってしてはいけなかったんだ」
「古文書には関係ないわ。少なくとも彼はそのこと知らないのよ。あたしはただ、沿岸のことについてあることを知りたいと思ったんだと、あの人にいっただけだわ」サイモンがふんがいするものだから、ジェインは自分の立場を守ろうとけんめいになり、牧師さんのことで不安を感じたことなどわすれてしまっていた。「古文書の地図はケメア岬をしめしていることを、あたしは見つけたのよ。とうぜん兄さんたちから感謝されてもいいと思っていたわ」
「姉さんのいいぶんは正しいよ」と、バーニイがベッドのまくらの上から言った。「そのことがわかったのは、すごくたいしたことだよ。今までのぼくたちの知識だけだったら、あれはティンブクトゥ(西アフリカの都市)とかの地図かもしれなかったんだ。そしてもし、牧師さんがいった通り、ぼくたちの見つけた地図がかかれた時代から、トリウィシックの地形がかわっていないとなれば、古文書になにかかぎがかくされているとわかったとき、それは参考になると思うよ」
「そうもかな」と、サイモンはしぶしぶながら言って、ベッドにあがると、毛布をみんなけっとばした。
「ああ、わかったよ、参考になるよ。そのことは明日話そうぜ」
「いよいよ宝さがしがスタートできるってわけだね」と、バーニイはねむそうな声で言った。
「おやすみ、姉さん。またあした」
「おやすみ」
* * *
ところがつぎの朝は、だれもが予想していなかったことが起こっていた。
いちばん早く目をさましたのはサイモンだった。とても早い時間だった。空気は、前の日に負けないくらいあたたかだった。しばらくのあいだ、サイモンはパジャマのまま天井をながめ、隣のベッドに寝ているバーニイの平和な寝息を聞いていた。そのうち、だんだんじっとしていられなくなって、部屋を出ると、はだしのまま階段をおりていった。おなかがすいていた。もしポークおばさんがもう台所に来ていたら、サイモンはなにか食べさせてもらい、朝ごはんを二度食べることになったはずだ。
でもポークおばさんは、まだ来ていないらしく、家の中は静まりかえっていた。ホールにおりていく階段にさしかかったときはじめて、サイモンはどうもへんだということに気づいた。
いつもサイモンは朝食にホールへおりていくとき、階段の曲がり角の壁にかかっているコーンウォール地方の古い地図を、立ちどまって見るのだった。ところがこの朝は、サイモンがその地図をさがしても、そこにはなかった。壁紙に長方形のあとがついていて、地図がそこにかかっていたことを物語っているだけだった。階段の下の壁にならんでかかっている絵に眼を走らせたサイモンは、そこにもいくつか絵が足りなくなっているのに気がついた。
おかしいと思いながら、サイモンはゆっくりと階段をおりてホールに入っていった。絵がとりはずされたあとが、いくつもむき出しのよごれのようになっていて、かってがちがう感じだった。一つのなくなっている絵の隣には、晴雨計がかかっていたけれど、それは横にかたむいていた。
サイモンは部屋の中を歩いていって、その晴雨計をまっすぐにした。はだしだったので、敷き物を敷いていない木の床は冷たかった。細長いホールをながめわたしたところでは、最初はほかにかわったところは見つけられなかった。が、まもなく、ホールのいちばん向こう側のところ、台所に通じる開いたドアから日光が差しこんでいるあたりに、建材がいくつかもぎとられて、床一面に散らばっているのがわかった。サイモンはわけがわからず、じっと見つめていた。
それからホールを歩いていって台所の方に向かい、ふと途中で思いついて右に曲がり、居間のドアのつまみに手をかけた。いつものように、そのつまみはきしんだ音をたてた。サイモンはそうっとドアを開け、中を見まわした。そして思わず息をのんだ。
部屋の中は、夜のうちにたつまきが通りすぎたみたいだった。壁の絵はひん曲がったり、がくぶちからはずれて床の上に投げ出されたりしている。そして、サイモンのびっくりした目には、家具という家具がみんな本の中に完全にうずまってしまったように見えた。
どこもかしこも本だらけだった。床の上にも、開いた本や、閉じた本や、ひっくりかえった本がいっぱい散らかっている。テーブルの上にも、いすの上にも、本が積んであった。食器だなの上も本の山だった。からっぽになった本だなに、なんさつかがちょこんとのこっていた。サイモンたちがふれてはいけないと言われていた壁ぎわのかぎのかかった本箱は、からっぽになっていた。ガラスのとびらは、ちょうつがいのところからぶらぶらしていて、錠前のまわりには木の破片がくっついている。ガラスとびらのうち一つ二つは、完全に本箱からもぎとられ、壁にもたせかけてあった。たなにあったものはきれいになくなり、下側の引き出しは開きっぱなしで、中から書類などの紙が、本が散らかっている床まではみ出している。かびくさいにおいがかすかにし、部屋の中にはほこりの煙幕がうっすらとたちこめているように見えた。
どぎもをぬかれて、サイモンは、こおりついたように立ちすくんでいた。それから体の向きをかえると、二階の方にかけあがりながら、おとうさんを呼んだ。
サイモンのさけび声に、朝のあさいねむりの中にいた家族のものは、みんな目をさました。おとうさんを先頭に、みんなパジャマやナイトドレスのまま廊下によろよろと出てくると、サイモンの後について下におりていった。サイモンの口から飛びだしてくることばをわかろうとしても、みんなには、なんだかぴんとこないのだった。
「どうしたんだい?」
「なにがあったの、火事なの?」
「どろぼうだってさ!」と、階段をおりていきながら、おとうさんは信じられないような声で言った。「こんな村で、どろぼうなんてあるものか――とんでもない!」居間の開いたドアから、おとうさんはあらされた部屋の光景を見た。おかあさん、ジェイン、それにバーニイも、続いてそれを見ると、同じようにだまりこんでしまった。でも、そんなに長い時間ではなかった。
一階のどの部屋も、同じようにあらされているのがわかった。本箱という本箱のとびらは、みんなはぎとられ、本だなの本は床の上にめちゃめちゃに投げだされていた。かぎのかかった引出しとか戸だなは、どれもこれもこじ開けられ、中から引っぱりだされた紙類が乱雑に散らばっていた。朝食をとる部屋にあった、半ダースほどの料理の本までも、たなから放りだされてしまっていた。
「しかし、わけがわからないな」と、おとうさんがゆっくりと言った。「徹底的にあらされている。なのに、一つか二つ、明らかにねうちがあって目につくものには、手をふれていないんだからなら。例えば、あそこのマントルピースの上の小さい彫像。それに表の間のサイドボードの上の大きな銀のカップ。なにがねらいなのか、さっぱりわからない」
「おもしろがって、めちゃめちゃにしたんだな」と、バーニイが大まじめな顔で言った。
サイモンは、ゆっくりした口ぶりで、「どろぼうたちは、ひどい音をたてたにちがいないんだ。なぜおれたちは、目がさめなかったんだろう?」
「二階分もはなれているんだ。三階からじゃなにも聞こえないさ。でもぼくは気に入ったな、ミステリーみたいだもの」と、バーニイは言った。
「あたしはちがうわ」と、ジェインは身ぶるいをした。「あたしたちが上でねむっているとき、だれかがここで、一晩中うろついていたこと想像してみて。ぞっとするわ」
「だれもいなかったかもしれないさ」と、バーニイが言った。
「ばかなこといわないでよ、いたにきまってるじゃない。それともバーニイは、本がみんなひとりでに本だなから飛びだしたとでも思ってるの?」
「かならずしも人間がやったとはかぎらないさ。ゆうれいの中に、物を投げておもしろがる特別な種類のものがいて、そいつがやったのかもしれないな。そいつの名は、ええと、ポルター――ポルト――」
「ポルターガイスト」と、おとうさんがうわの空で言った。おとうさんは銀の食器だなをぜんぶ開けて、なくなった物がないか調べていた。
「それそれ、そいつらの仲間がやったのかも」
「ポークおばさんが、この家にはゆうれいが出るといってたけど」と、ジェインは言った。「いやだわねえ」
みんなは、たがいに眼を丸くして顔を見あわせ、急に身ぶるいをした。
ふいにそのとき、おかあさんが入り口のところにあらわれたので、みんな飛びあがっておどろいた。おかあさんは言った。「クレープゴムのくつをはいたゆうれいなんて、はじめて聞きましたよ。ディック、ちょっとここを出て、見てくださらない?」
おとうさんは腰をのばすと、おかあさんの後について台所の方へいった。バーニイたちも、その後にすぐ続いた。おかあさんは、なにも言わないで指さした。
台所の二つの窓が開いていた。大きい方の窓は流しの上にあり、さらにその上に小さい窓がある。ドアも開いていた。流しの横のひらたい白タイルの台の上に、かすかにだが、まちがいなく足あとらしいものが一つついていた。大きな足あとで、横線が何本もある。同じ横線が、窓のしきいの上にもついていた。
「こいつはおどろいた!」
「おまえのいう、ゆうれいだよ」おとうさんはおどけた口のききかたをしたけれど、少しもゆかいそうではなかった。
それから、おとうさんはきびきびした態度になって、サイモンたちに向きなおった。「さあいいな、おまえたちみんな、上にあがって服を着がえるんだ。もう見るものはみんな見たはずだ。いや、だめだめ」――三人が不服そうに強く反対しようとしたので、おとうさんは両手をふってそれをしりぞけた。「遊びごとじゃない。とても重大な事件なんだ。警察を呼ばなくてはならない。警察が来るまで、どんなものにもさわってほしくない。いくんだ!」
おとうさんは、どんな議論もやめさせてしまうような声を出すことがあった。この時が、まさにそれだった。サイモン、ジェイン、それにバーニイは、つながるようにしてしぶしぶと台所を出て、ホールを通りぬけると、階段の上がり口のところで立ちどまって、上を見あげた。メリイおじさんが、三人の方に重そうな足どりでおりてくるところだった。まっ赤なパジャマを着て、白い髪はぼさぼさにつっ立っている。
メリイおじさんは大あくびをしながら、なにかしら当惑したように目をこすっていた。そしてひとりごとを言っていた。「よろしくないな。わからない……ねむりこけてしまった……めったにないことじゃ……」そのとき、三人の姿に気がついた。「おはよう」と、メリイおじさんは、もったいぶって言った。まるで一点のすきもなく盛装しているときみたいな言い方だった。「けさはわしは頭がぼやっとしてるんだが、下の方からえらく大きなさけび声がしていたな、なにかあったのかね?」
「どろぼうに入られたんです……!」サイモンが話しはじめたとき、おとうさんが台所の方から三人の後を大またで歩いてきて、手をたたいて言った。「ぐずぐずしてるんじゃない。いって着がえをするんだといっただろ……おや、これはメリイおじさん。とんでもないことが起こりましてね――」おとうさんは子どもたちをにらみつけた。三人は大急ぎで階段をのぼっていった。
朝ごはんがおわったとき、セント・オーステルの町から警察がやってきた。がっしりした赤ら顔の巡査部長と、かげのようにその後にだまってくっついているひじょうに若い巡査とだった。サイモンは、自分が最初の発見者だからいろいろ質問されるだろうと待ちうけていた。少なくとも、見たことを申し立てなくてはならないだろうと、ばくぜんと考えていた。この申し立てということが、どういう意味を持っているかサイモンははっきりとは知らなかったけれど、とにかくこんな場合にはそうするものだし、重要なことなのだと思えた。ところが巡査部長は、ひどくコーンウォールなまりの強い話し方で、こう言っただけだった。
「最初に下におりてきたのが、きみかね?」
「はい、そうです」
「なにかさわった?」
「いえ、一つもさわりません。ああ、晴雨計をまっすぐになおしました。曲がっていたんです」散らかり放題のまわりを見まわしながらサイモンは、とるに足らないつまらないことを言ったように感じた。
「そう。なにか物音を聞いたかね?」
「いいえ」
「いつもとかわらなかった。ただめちゃくちゃになっておったと?」
「はい、そうなんです」
「なるほど」と、巡査部長は言った。いすのはしっこにのり出すようにすわったサイモンに向かって、巡査部長はにっと笑ってみせた。「よろしい。今のところは、きみはもういっていい」
「えっ」サイモンは拍子ぬけしてしまった。「もういいんですか?」
「そう、いい」巡査部長はおだやかに言った。そして上着をふとった腹の方に引っぱりおろすようにした。「ところで、ドルウさん」巡査部長はおとうさんに言った。「この足あとのことですが、あなたが発見されたと……」
「ええ、そのとおりです」おとうさんはサイモンたちを台所の外に追い出した。子どもたちは、ドアのところから、かたまるようになって中をのぞきこんでいた。巡査部長はしばらくのあいだ、無感動に足あとを見つめていたが、だまったままの部下の巡査に、「ジョージ、この足あとをちゃんと記録にとっとくんだ」というと、なにか考えにふけりながら混雑した居間の方へ移動した。
「なくなっている物は、なにもないといわれるんですね?」
「ええ、そりゃもちろん、借りた家なので、はっきりとはいえませんが」と、おとうさんは言った。「しかしねうちのあるものは、なにもなくなっていないのは、たしかなようです。銀の食器類は、そうたくさんあるわけじゃありませんが、とにかく一つも手をつけられていません。あそこのカップですが、あれにも手をつけていません。どろぼうたちは、どうやら本がねらいだったらしいのですがね、本となるとわたしも保証できません。わたしたちにはわからなくても、なくなっているものがあるかもしれませんし」
「たしかに、これはめちゃくちゃですな」巡査部長は、ちょっと苦しげに身をかがめて、一さつの本を拾いあげた。表紙にしぼんだクモの巣がかかっていた。「とても古い本ですな。これらは――たぶん、ねうちのあるものでしょうな。いい暮らしをしている人です、船長は。そう思いませんかな」
「わたしからいいたいことがあるんだが、よろしいですかな――」と、メリイおじさんが気おくれしたような声で、はしっこの方から言った。
「なんでしょうか、教授?」巡査部長は赤ら顔の、いかにも土地の人らしい顔でメリイおじさんに向かってほほえんだ。メリイおじさんのことはとてもよく知っているようだった。
「本箱にはほとんどかぎがかかっておったので、わたしもじゅうぶんに見ておく機会はなかったのだが。ただ、この家の中の本で、まあ古本屋にとってねうちのあるものは、ほとんどないといってよかったと思うね。どんなに見積もっても、数ポンド(ポンドは英国のお金の単位)をこえるような本は、一さつもなかった」
「奇妙ですなあ。どろぼうたちは、なにかさがしまわったらしいのに……おや、これは」巡査部長は床が白くなるほど散らばった紙を、すこし横にどけた。その下に、からっぽのがくぶちが積みかさなっているのが見えた。
「ホールにあったものです。」と、サイモンがすぐに言った。「あのでこぼこのある金色のがくぶちには地図が入れてあって、階段の上にかかっていたんです」
「なるほど。今、中に地図はない。どれもこれも、はぎ取られている。しかし、わたしの見るところ中身の方は、このごった返しの山の中のどこかにあると思いますがね」巡査部長は、かかとを立ててあっちこっち動き、ちょっとおしそうな顔つきでこわれた本箱や本の山を見つめた。それから巡査部長は考えにふけるように、光る銀ボタンの一つをこすっていたが、ついに決心した様子でおとうさんの方をふり向いた。「まったくの悪質ないたずらですな。ほかに解釈のしようはないです。とにかく、ここらへんではめったにないことで」
「ああ」と、若い巡査が不服そうに言った。でもすぐに顔を赤らめて、下を向いて足もとを見つめた。
巡査部長は彼を見てほほえんだ。「だれか船長にうらみを持っていて、その持ち物をいっちょうぶっこわしてやれと、たぶんそういうわけでしょう。このあたりで、船長をきらいな人がひとりやふたりいてもおかしくないですよ。あの人はかわりものの老人だから。教授、そう思いなさらんですか?」
「そういっていいのかもしれない」と、メリイおじさんはぼんやりと言った。なにか考えあぐねているようにまゆにしわをよせて、まわりを見まわしながら立っているのだった。
巡査部長は言った。「トリウィシックのような土地でなら、どろぼうにおし入るのはむずかしかないですからな。人々はどろぼうに入られるなどとは思ってもいない。窓も開けっぱなしにしておきますんで……ドルウ先生、ゆうべは戸閉まりはしましたか?」
「ええ、わたしはいつもします。おもて口もうら口もね」おとうさんは頭をかいた。「一階の窓で開いていたのは一つもなかったとちかえます。ただ、いちいちたしかめて歩いたわけではないことは、認めなくてはなりませんが」
「それはむりもない。こんなことがあるなどとは思ってもなかったでしょうから……それにしてもわからないのは、ただあらすだけでなにもぬすまない。わざわざ危険をおかしてそんなことをする人間がいるということですな。さて、あの足あとをもう一度見てみたいと思いますが」そういって巡査部長は先に立って部屋を出ていった。
サイモンは、ジェインとバーニイに、ついていかないでのこっていろと合図をした。「いたずらの、か」と、サイモンは考えこみながら言った。カーペットの上に、開いたページを下にして投げだされている一さつの本を拾いあげると、ていねいにその本を閉じた。「とにかく、悪質ないたずらというのはおかしいわよ」と、ジェインが言った。「だってあまり徹底しすぎているもの。引出しはぜんぶ開けられているし、ほとんど全部の本が取りおろされているのよ」
「それに地図がみんながくぶちから取りはずされているんだ」と、バーニイも言った。「地図だけだよ。気がついた? 絵は一つもそんなになってない」
「どろぼうたちは、なにかをさがしたのにちがいないわ」
「そして見つからないもんだから、家中をひっかきまわしたんだ」
「たぶんそれは、この一階にはなかったんだな」と、サイモンがゆっくりと言った。
「でも、上にあったなんて考えられないわ」
「なぜそういえる?」
「だって、上にはなにもありはしないもの。あたしたちがいるだけよ」
「ほんとにそうか?」
「そういえば――」と、ジェインが言ったとき、とつぜん三人ともぎょっとなって、おたがいの顔を見つめあった。ふりかえりざま、部屋を飛びだした三人は、階段をかけのぼり、三階の寝室めざして走った。サイモンとバーニイのベッドの間に、例の大きな四角い洋服だんすがあるのだ。
サイモンが大急ぎでいすを前に引きずりよせ、上に飛びのって洋服だんすの上を手でさぐった。おどろきのあまり、サイモンの顔色がまっさおになった。「なくなってる!」
おそろしいような沈黙の一瞬だった。そのときジェインが、どしんとバーニイのベッドに腰かけると、ひきつったようにくつくつ笑いはじめた。
「やめろ!」と、サイモンがするどく言った。その口調はちょっとの間、おとうさんのように威厳にみちているように聞こえた。
「あやまるわ……だいじょうぶなの。なくなってはいないわ」と、ジェインが細い声で言った。
「あたしのベッドにあるのよ」
「おまえのベッドに?」
「そうよ、あたしがそうしたの。今もそこにあるわ。すっかりわすれていたのよ」ジェインはすらすらとしゃべると、やっともとの状態にもどった。「牧師さんに会いにいったとき、あれを持っていかないほうがいいと思ったの。それであたしの部屋のどこかに、かくさなくちゃならなかったわけ。あたし、ベッドのシーツの下のところにつっこんどいたわ。いちばん手近な場所でしょ。それでゆうべは、そこにおいたことをわすれてしまって、体にも感じないでそのままねむってしまったのね。いらっしゃいよ」
手前のジェインの寝室には、日がいっぱい差しこんでいて、窓からは、世界はなにものにもみだされず平和そのものだというように、海が明るくちかちか光っているのが見えた。ジェインは、しわくちゃにみだれたベッドのシーツをめくりあげた。そこには、あの望遠鏡のケースが、すみっこの底のところにおしこまれてあった。
三人はベッドのはしに、ならんで腰をおろし、ジェインがひざの上でケースを開いた。中に古文書のおさまった、見なれた長い筒を、三人はほっとしたような顔つきでだまって見つめていた。
サイモンが、重々しい口ぶりで言った。「おそらくこれがもっとも安全なかくし場所だっただろうということ、おまえにわかる? どろぼうたちが家中をさがせたとしても、おまえを起こさないでベッドの中までさがすことはできなかったんだ」
「どろぼうが上まであがってきて、ぼくたちの部屋までさがした、と考えてるわけじゃないんだろ?」と言って、バーニイはあおくなった。
「どこもかしこもみんなさがしたかもしれんさ」
「ばかなこと、いわないで」ジェインは、まるで頭をきれいにするかのように、ポニーテールの髪をくるくるふりながら言った。「古文書のことを、どうしてどろぼうたちがちょっとでも知ってるわけがあるの? あたしたちが屋根うら部屋で、かくされていたのを見つけたのよ。どう見ても長い年月の間ずっとあそこにあったんだわ。それに何年もあの屋根うら部屋にあがった人はいないのよ――だって、階段のあのひどいほこりを考えればわかることよ」
「だからおかしいんだ。よくわからないんだよ」と、サイモンが言った。「おれに理解できないことが、いっぱいあるんだ。ただわかってるのは、おまえが会いにいった牧師が案内書に写した地図のことでひどく興奮したとおまえから聞いて以来、この古文書のことがどうも奇妙に感じられるんだ」
ジェインは肩をすくめた。「牧師さんというものが、一体悪者になったりできるものなの? あたしには信じられないわ。とにかくあの人は、古文書のことは知らなかったわ。いくつか質問はしたけど、ただせんさく好きでそうしたんだと、あたし思うの」
「ちょっと待ってよ」と、バーニイがゆっくりと言った。「思い出したことがあるよ。ほかにもある人が質問したんだ。それはウィザースさんだけどね。昨日ヨットで、ぼくがあの人と下の船室で昼ごはんを食べていたときなんだ。あの人はグレイ・ハウスのことでいろいろ妙なことをいいはじめてね。もし、ぼくたちがなにかとても古く思えるものをみていたら、どんなものでもいいからいってごらんというんだ……」――バーニイは一気に後をしゃべった。「古い本だとか地図だとか紙だとか……」
「やめろよ」と、サイモンが言った。「あの人がゆうべのどろぼうだったなんて、そんなことありえないぜ」
「でも、だれがどろぼうだったにせよ」と、小さなはっきりした声でバーニイは言った。「古文書をさがしに入ったんだ――ちがうかい?」
グレイ・ハウスは静まりかえっていた。その場にすわったまま三人は、どろぼうのねらいが古文書なのはまちがいない、ということをさとった。
「おそろしくほしがっているにちがいないな」と、サイモンは古文書に目を落とした。「それも地図の部分だ、そう考えるとつじつまがあう。とにかく、それがこの家の中にあることを知っているものがいるんだ。ああ、古文書にかいてあることがわかればなあ」
ジェインが決心したように言った。「ねえ、これを見つけたってことを、おかあさんとおとうさんにいう必要があるわ」
サイモンは不服そうにあごをつき出した。
「そんなことしたってなんにもならないさ。おかあさんはひどく心配してうるさくいうにきまってる。とにかく、おれたちだけの秘密にしておかなくちゃならないってことがわからないのか。かくされた宝物が、出てくるかもしれないんだぜ」
「宝さがしのためにごたごたに巻きこまれるなんて、あたしはいやよ。なにかおそろしいことが、起きるにきまってるわ」
バーニイは、自分が古文書を見つけたのにかってなまねをされたくないという思いで、こわさもわすれてしまった。「ぼくたち、古文書のことだれにもいっちゃだめだ。ぼくたちが見つけたんだ。ぼくが見つけたんだ。だから、ぼくがさがすんだ」
「あんたはまだ小さいからわからないのよ」と、ジェインはもったいぶった言い方をした。
「だれかにうちあける必要があるわ――おとうさんかそれとも警察か。ね、わかってよ」そしてジェインは、今度は泣きそうな顔でつけくわえた。「ゆうべあんな事件が起こったのよ。あたしたち、もうのんきにかまえてることはできないわ」
そのとき、部屋の外の階段のあたり、それもすぐ近くで、三人を呼ぶおかあさんの声がした。悪いことをしていたみたいに、三人はびっくりして立ちあがった。そしてサイモンは、古文書のケースを背中にかくすようにした。
「おや、そこにいたのね」ドアのところに、おかあさんが姿をあらわした。なにかに心をうばわれているようだった。「いいこと、午前中は家の中、てんやわんやになるわ――だから、あんたたち泳ぎにいってらっしゃい。そして一時半ごろお昼にするから、そのころ帰ってらっしゃい。午後はメリイおじさんが、あんたたち三人を外へ連れだしてくれるといってるから」「いいとも」と、サイモンが言った。おかあさんはいってしまった。
「そうだよ!」とバーニイが、助かったというように、興奮してまくらをたたいた。「そうともさ、きまってるじゃない。なぜ今まで考えつかなかったんだろ? なんの心配もなしにうちあけていい人がいるよ。メリイおじさんだよ!」
第六章 古文書の秘密
三人といっしょに丘の道を港の方へ下っていきながら、メリイおじさんは言った。「なあ、散歩するにはもってこいの陽気じゃないか。おまえたち、どこへいきたいかな?」
「どこかさびしいところ」
「どこか遠いところ」
「ゆっくりお話ができるところ」
メリイおじさんは、三人のはりきった顔をひとつずつ順に見おろした。そのきびしい、おちついた顔は、少しもかわらないで、ただ「よろしい」というと、大またになって歩きはじめた。それに追いつくために三人は、小走りに走らなくてはならなかった。メリイおじさんは、なにひとつ三人にたずねなかった。だまったまま歩いていった。ケメア岬やグレイ・ハウスとは反対側の、港の曲がりくねった細い道をのぼっていった。村の家はだんだんまばらになり、最後の家をすぎると、がけのような道だった。そしてとうとう、ケメア岬と向かい向かいあった岬の、むらさきっぽい緑のゆるやかなスロープが目の前にあらわれた。
斜面をのぼるのは苦労だった。ヒースや、とげのあるハリエニシダが生えている間を、通りぬけていった。それから、風雨にさらされ、コケがはえて黄色味をおびた灰色の岩が、あらあらしくむき出しになっているところをのぼっていった。港を通っているときは風など少しもなかったのに。ここでは風はぴゅうぴゅう吹いているのだった。
「うわあ」バーニイが立ちどまって、うしろをふりむいて見おろしながら言った。「みてごらんよ!」みんなもバーニイといっしょにふりかえった。港がはるか下に小さく見え、糸を引いたような道路に、グレイ・ハウスが豆つぶのように小さく見えた。もうケメア岬よりも高いところに立っていたけれど、岩があちこちに出っぱった斜面はまだ上に続き、その先には空がひろがっている。
四人は、ふたたび体を向けなおして、斜面をよじのぼっていった。そしてとうとう、岬の頂上にたっした。足もとのはるか下の方に、岬によせる波が、ゆっくり動く地図のように、きれいな曲線のもようをえがいている。そのまわりには青い海が、どこまでもひろがっていた。のぼってくる途中にあったどの岩よりも高く、みかげ石の大きなのがひとつ、ななめにかたむいて立っていた。メリイおじさんはそれに背中をもたせて、すわりこんだ。ひざをアーチ状に立てるようなかっこうに投げ出しているので、コールテンのズボンが風になびき、その中のメリイおじさんの足が、長くふしくれだっているのがわかった。三人の子どもたちは、ひとかたまりに立ったまま、下の方をながめおろしていた。山のようにもりあがったところや、目に見えない谷間などが、夏のかすんだような大気の中で一つの色にとけあい、ひそかに息づいていた。それは三人にとって、見なれないめずらしい景色だった。
「ヒク・インキビト・レグヌム・ログリ……」メリイおじさんが、三人の見ている方を同じようにながめわたしながら、まるで石碑に書いてある文句を読むような調子で言った。「それどういう意味?」
「ここにログレスの王国ははじまる……さて、三人とも、まあすわるんだ」
メリイおじさんのそばに、大きな岩の前に半円形になるかっこうで、三人はしゃがみこんだ。メリイおじさんは、王さまがけらいをながめるみたいに、三人をひとわたり見わたした。そして、おだかやな声でこう言った。「さあ、どんな問題がおこっているのか、だれが話してくれるのかな?」
あたりの静けさの中に、風がふきすぎていく音だけが聞こえた。ジェインとバーニイは、サイモンの方を見た。「あの、どろぼうのことなんだけど」と、サイモンはためらいがちに口を開いた。「それでぼくたち、心配なことがあるんです……」それに続いて、こんどは三人はわれがちにと一度にしゃべりはじめた。
「ウィザースさんたちがこの間の夜やってきたとき、妹の方がグレイ・ハウスのことでいろいろたずねたんだ。ぼくたちがなにか見つけたかってね」
「同じようなことをミスター・ウィザースも、ヨットでぼくにいったんだよ。古い本のことをぼくにたずねたんだ」
「ゆうべのどろぼうがだれなのか、それはともかくとして、本と古い地図だけにさわっているでしょ……」
「……あれをねらっていたんだよ、きっとそうにちがいないんだ……」
「……ところがどこにあるかわからなかったんだね。ぼくたちがもうそれを手に入れているということ、知らなかったんだ」
「もしあたしたちが持ってるということを知ったら、きっとねらわれると思うの……」
メリイおじさんが片手をあげた。体は動かさなかった。あごをあげていた。メリイおじさんは、なにかを待ちうけているように見えた。「静かに話すんだ」と、メリイおじさんは言った。「グレイ・ハウスでなにか見つけたそうだが、いったいなんだね、それは?」
サイモンはリュックサックの中をさぐった。古文書の巻き物を取りだすと、それをメリイおじさんの方にさしだした。「これを見つけたんです」
メリイおじさんは、だまったまま古文書を受けとると、ひざの上で静かに開いた。長い間、メリイおじさんはことばもなくそれに見入っていた。目が文章を追って動いているのが、三人にはわかった。
岬を吹いていく風は、まわりでゆっくりうず巻いていた。三人はメリイおじさんの顔をじっと見つめていた。その顔つきはかわらなかったけれど、メリイおじさんがなにか大きく心を動かされたらしいのが、三人にはとつぜんわかった。心の奥をつらぬいて走った。ただ、それがなんなのかサイモンたちには、よくわからないのだった。やがてメリイおじさんは顔をあげると、ずっと遠くまでうねって続いている、コーンウォールの丘陵地帯をながめわたした。そして、全世界のあらゆるなやみから解放されたかのように、ほっとした大きなため息をもらした。
「これをどこで見つけたのかな?」と、メリイおじさんが静かな、いつもとかわらぬ声で言ったとき、三人はまるで呪文からときはなされたみたいに飛びあがった。
「屋根うら部屋よ」
「でっかい屋根うら部屋があるんだ。ほこりだらけで、がらくたがいっぱいでね。ぼくたちの洋服だんすのうしろに、ドアがあるのを見つけたんだ。そこからはしご段が上に通じていたんだよ」
「ぼくがそれを見つけたんだ」と、バーニイが言った。「リンゴの食べかすを放りなげたんだけど、ネズミが出てくるといけないからそれを拾いにいったんだ。そしたら床の下のすみっこのところに、ぐうぜんこの古文書を見つけたんだ」
「メリイおじさん、これはなんなの?」
「なんて書いてあるの?」
「ひどく古いもんだよね、そうでしょ?」
「大事なものなの? かくした宝物のことが書いてある?」
「まあ、そうともいえる」と、メリイおじさんは言った。その目は、焦点がきまらなくて、ちょっととまどったような感じだった。しかし口の両はしはぐいと引きしめられていた。ほほえんではいないけれど、とにかく、メリイおじさんは今まで見たこととがなかったほど幸福そうに見えた。そんなメリイおじさんの顔を見つめながら、ジェインは思った。いつもは悲しそうな顔なんだわ、だから、いまのこの顔が、とてもちがって見えるんだわ。
メリイおじさんは古文書をふとももの上において、ジェイン、サイモン、バーニイの順に顔を見、もう一度、今度はぎゃくの順に見ていった。なにか言おうとして、ことばをさがしているように見えた。
「おまえたちは、自分で考えているより以上に重要なものを、見つけだしたのだ」と、メリイおじさんはとうとう言った。
三人は、その顔をじっと見ていた。メリイおじさんは、また目をそらして、丘のかなたをながめた。
「おまえたちがずっと小さかったころ、″むかし、むかし、あるところに……″というおとぎ話をいくつも聞いたのをおぼえているだろう。おとぎ話はなぜ、きまってそういう文句ではじまるのだと思う?」
「それは、その話が本当のことじゃないからさ」と、サイモンがすぐにこたえた。
ジェインは、この高いへんぴな場所にこうしていることが、夢の中のできごとのように思えた。「たぶんおとぎ話は、かつては本当のことだったんじゃないかしら。それがいつのことなのか、今ではだれも知らない。だからそういう出だしなんだと思うわ」
メリイおじさんはジェインの方に顔を向けて、ほほえんだ。「そうだ。むかしあるところに……むかし、むかし、そのむかし……たぶんそれらの話は本当にあったことなんだ。しかし、あまり長い間にわたって語りつたえられてきたものだから、今では誰も本当のことを知らないのだな。人々は魔法の剣だとか、ランプだとか、いろんなものを話につけくわえてきたが、話のしんになっているのはいつも一つのことだ――つまり心の正しい英雄が、巨人や、魔法使いのばあさんや、悪者のおじさんと戦うという話だ。よい者と悪者。善と悪」
「シンデレラ姫の話がそうだわ」
「アラディンの物語も」
「巨人退治のジャックもだ」
「そのほかみんなそうじゃな」と言って、メリイおじさんは、ふたたび下を見た。そして古文書の丸くなったふちを、指でなでた。「この古文書は、なにについて書いているか、わかるかな?」
「アーサー王」と、バーニイがすぐさま言った。「それにマーク王。兄さんがその二つの名前を見つけだしたんだよ、ラテン語のね」
「アーサー王のことではなにを知ってる?」
バーニイは勝ちほこったように、サイモンやジェインの顔を見まわすと、長々としゃべりはじめようとして息をすいこんだ。ところが、その意気ごみとはぎゃくに、どもりどもりの話し方になってしまった。
「つまり……アーサー王はイングランドの王だったんだ。円卓の騎士たちをけらいに持っていた。ランスロット、ガラード、ケイ、それにほかの名前の騎士たちもね。その騎士たちは馬に乗って何度も戦い、悪い騎士たちから人々を救ったんだ。アーサー王はエクスかリバーという名前の剣で、どんな相手でもうち負かしたんだ。ぼくは、さっきメリイおじさんがおとぎ話のことでいったように、これは善と悪との戦いだったと思うな。ただ、アーサー王は、本当にいたんだ」
メリイおじさんの顔に、また静かな、楽しそうなほほえみがうかんだ。「それでイングランドのアーサー王は、いつごろ生きていたのかな?」
「それはええと――」と、バーニイはあいまいに両手をふった。「ずーっとむかし……」
するとジェインが、バーニイにかわって、「……おとぎ話の中の人みたいにね」と言った。
「わかったわ。でもメリイおじさんは、あたしたちに一体なにをいいたいわけ? アーサー王もやっぱり、おとぎ話なの?」
「ちがうよ!」と、バーニイが怒ったように言った。
「そう、ちがう」と、メリイおじさんは言った。「彼は実在の人物だ。ところが、わかるな、同じことが起こったんだ――ずいぶんむかしの人なので、その記録がなにものこっていない。それで彼もお話、つまり伝説の人物になってしまったんだ」
サイモンはいらいらしたように、リュックサックのひもをいじくっていた。「でも、それと古文書と、どういう関係があるのかな」
岬の上を吹きすぎていく風が、空に白くつき出ているメリイおじさんの髪を、かきたてた。サイモンたちをながめるその姿は、おごそかで、きびしい感じだった。
「あわてるでない。よく注意して聞くのだぞ、おまえたちにはむずかしいことかもしれないが、まず最初に、さっきわしがログレスといったのを聞いたな。この土地はむかしそう呼ばれていた。何千年も前のことだ。そのころは、善と悪との戦いが今以上にはげしかった。この戦いとは、いってみれば戦闘中の二つの軍隊のように、この世界ではいたるところで、いつもおこなわれている戦いだ。ある時は、一方が勝ちをしめしたように見え、またあるときは、もう一方が勝ったように見える。が、どちらの側も、完全に相手をほろぼしてしまったことはない。これからだってそうだろう」そしてメリイおじさんは、自分に言いきかせるように、おだやかな口調でつけくわえた。「それというのも、どんな人間にもどうやら善と悪の両面があるからな」
メリイおじさんは、さらに話しつづけた。「時として、何百年にわたって、このむかしからある戦いが、天下分け目の決戦をくりひろげる時がある。悪がひじょうに強くなり、ほとんど勝ちをおさめそうになる。ところがいつも、そういうときに世界にすぐれた指導者があらわれる。それは偉大な人間で、ときには超人のように思われるほどだ。彼は善の軍勢をひきいて、敵にうばわれた領土や人間をとりもどすのだ」
「アーサー王がそうだ」と、バーニイが言った。
メリイおじさんは続けた。「アーサー王はそういう指導者のひとりだった。王は、ログレスの国をうばおうとしたものたちを相手に戦った。ぬすみをし、人を殺し、戦いのルールなどすべてふみにじってしまうやつらを相手にだ。アーサー王は強くて、心のまっすぐな人だった。だから当時の人々は、王を心から信頼したのだ。その信頼をバックに、アーサー王は絶大な力を発揮した。――だからその時以来伝えられてきた物語の中では、アーサー王は魔法の助けを借りていた、といわれるほどだ。しかし、魔法とかなんとかいうのは、ようするにつけたしだ」
「それで、アーサー王は勝たなかったのね」と、ジェインが急に確信を持ったように言った。「もし勝ってたら、そのときから戦争なんてなくなってるはずだもの」
「そうだ、勝たなかった」と、メリイおじさんは言った。午後の明るい日ざしの中なのに、メリイおじさんは話していくにつれて、しだいに遠い人のように見えてくるのだった。うしろの岩と同じくらい、またさっきメリイおじさんが口にしたむかしのことばと同じくらい、大むかしの存在のように思えてくるのだった。
「アーサー王は完全にうち負かされはしなかった。しかし完全に勝ちもしなかった。だからそれ以来、善の側と悪の側の同じ戦いが、ずっと続いているのだ。しかし善の側は、だんだん旗色が悪くなってきている。それでログレスの時代以来ずっと、アーサー王によって与えられた力をまたとりもどしたいと、努力してきたのだ。だが、とりもどせないでいる。それというのも、あまりに多くのことがわすれられてしまったからだ。しかし古い時代のことをおぼえている人たちは、アーサー王によって与えられた力の秘密を、これまでずっとさぐり出そうとしてきた。一方、同じようにそれをさぐり出そうとしてきたものもいた――敵だ、悪い連中だ。アーサー王が戦った相手と同じように、心が冷たく、欲のふかい連中だ」
メリイおじさんは目をあげて、遠くの方をながめた。その顔は、彫刻のりっぱな像のように空につき出し、何百年もむかしからあって、今もそのままかわらないでいるように見えた。
「わしもさぐりだそうとしてきた。長い、長い間な」と、メリイおじさんは言った。
尊敬の気持ちと、すこしこわいようなきもちが、入りまじったような目で、三人はメリイおじさんを見つめた。一瞬、三人の目には、メリイおじさんがまるで知らない人のように見えた。とつぜんジェインは、メリイおじさんが実在の人物ではないような、奇妙な感じにおそわれた。もしジェインたちが息をしたり、しゃべったりしたら、ぱっと消えてしまうのではないかと思った。
メリイおじさんは、ふたたび視線を下に向けて三人を見た。「われわれのさがしているものが、コーンウォールのこの地方にあるということが、わしには最近になってわかってきていた。子どものおまえたちがそれを見つけようとは、考えもしなかった。おまえたちが、どんな危険に自分たちを巻きこもうとしているかも、わしは知らなかった」
「危険?」と、サイモンが信じられないというように言った。
「たいへん危険なのだ」と、メリイおじさんは、サイモンの顔をじっと見つめて言った。サイモンは思わずつばをのみこんだ。「サイモン、この古文書はな、さっき話した戦いの真っただ中に、おまえたちを巻きこむのだ。そりゃ、だれかがおまえたちの背中にナイフをつきさすとか、そんなことはないだろう――敵のやりかたはそれよりもっとずるがしこい。それだけに、おそらく成功する確率もずっと高いだろう」メリイおじさんは、もう一度古文書に視線を落とした。そして、今までよりふつうの口調になって、言った。「これはな、写したものなんだ」
「写し?」と、バーニイが言った。「でも、とても古いものだよ」
「そうだ、古い、だいたい六百年ほどむかしのものだ。しかしこれは、さらにもっとむかしのものの写しだ――九百年以上もむかし書かれたもののな。最初の部分はラテン語だ」
「ほら、あたしがいったとおりだわ」と、ジェインが勝ちほこったように言った。
サイモンは、下くちびるをつき出した。「それで、ぼくが訳したんじゃないか、ちがうかい? そりゃ、ちょぴりだけど」そしてサイモンは、メリイおじさんに白状した。「字がぜんぜん読めなかったんだ、ぼく」
「おまえに読めるとは思えない。これは中世のラテン語で、おまえが学校で習っているラテン語とはちがうのだ……。このあたりに住んでいた修道士が書いたもので、日づけはないが、わしの見るところ約六百年むかしだな。こう書いてある。かいつまんでいうと、その修道士のいた修道院の近くで、古いイングランドの書きものが発見された。それにはマーク王やアーサー王のころの古い伝説が書いてあったそうだ。ところが、その書きものは古くなってくちはててしまいそうだったので、書かれている伝説がうしなわれてしまわないように修道士は書き写した、といっている。それからあとは、ぜんぶ、修道士が写した伝説だな――そしていちばん下のところに地図がのっているというわけだ」
「もし六百年前に、そのもとの古文書がとても古くてくちはててしまいそうだったとすると……」と、バーニイが考えごとに夢中になっている顔つきだった。
待ちきれないというように、サイモンが口をはさんだ。「メリイおじさんは、その写された部分を読める? そこはラテン語じゃないよね、そうでしょ?」
「そう、ちがうな」と、メリイおじさんは言った。「初期のイングランドの方言の一つだ。何百年も前に話されていた古いことばだな。とても古いもので、むかしのコーンウォールで使われていたことばがさかんに出てくるし、ブルターニュ(フランス北西部の半島)のことばまでいくらかまじっている。どういうことになるか、まあ――できるだけ読みとってみよう。しかしへんてこな英語になるかもしれんし、途中でゆきづまるかもしれないが……」
メリイおじさんは、ふたたび古文書をじっと見つめた。それから、太陽の光線に当ててはっきり見ようとしたり、頭の中で訳語をさがしたりで、何度もつまったり中断したりしながら、深味のある、夢みるような遠い声で読みはじめた。三人の子どもたちは、すわったまま耳をかたむけた。顔にあたる日ざしは暑く、風は耳もとでなにかささやくように、吹きすぎていった。
「わたしがこれを書くのは、やがて時がきて、しかるべき人物によってこれが発見されるように、という願いからである。わたしはこれを、やがて姿を消す古い陸地にゆだねる。
マーク王の領地である、コーンウォールの地に、わたしの祖先の時代に、ひとりの見知らぬ騎士が、西方へ逃げのびる途中で立ちよった。そのころ、古い王国は侵略者によってほろぼされ、アーサー王の最後の戦いもやぶれて、多くの者がこちらへ逃げてきたのである。なぜなら、西方の地でだけ、人々はいぜんとして神をうやまい、先祖にいいつたえられてきた習慣を守って生きていたからである。
わたしの祖先のところにやってきた、その見知らぬ騎士は、名をペドウィンといった。そして彼は、ログレスの最後の形見であり、あかしであるカップを持っていた。それは聖杯(キリストが最後の晩さんのときに使ったさかずき。キリストが十字架にかけられたとき、その最後の血をこのさかずきで受けたと伝えられている。後にこれがイギリスに運びこまれたが、悪いものが近づくと消えうせたといわれる。中世の騎士たちは、この聖杯をさがすことが理想だった)ににせた形につくられており、その側面には、やがて人々の心から消えてしまうであろうアーサー王にまつわる真実の物語がすべて、ほりこまれてあった。アーサー王と神の味方たちによって悪がうちやぶられたが、最後には悪がすべてをほろぼすにいたったいきさつが、このカップのどの面にも物語られていた。そして、いちばん最後のところには、アーサー王がふたたびこの世にあらわれるという約束と証拠がしめされていた。
見るがいい、とペドウィンはわたしの先祖に言った。今や悪がわれわれを支配している。われわれがいかにその滅亡を願おうと、長い間にわたり悪の支配は続くだろう。しかし、古い世界の最後のあかしであり形見であるこのカップが、もしもうしなわれなかったならば、時が満ちきたればペンドラゴン(古代ブリテン国の王。アーサー王はワーゼル=ペンドラゴン王の血をひいているとされている)はふたたびあらわれるだろう。その時こそはついに、者みなすべて安全となり、悪はうちくだかれて二度とよみがえることはないであろう。
だからこの形見が守られるように、あなたにこれを手わたすのだ。あなたの後は子どもに、その後は孫にというように代々にわたって、時が来るまでこれを守りつづけてほしいのだ、とペドウィンは言った。彼は、わたしは最後の戦いで傷つき、もう死も間近い、もはやわたしはこのカップを守ることができないので、あなたにたのむのだ、と言った。
まもなく彼は死んだ。人々は彼を、海の上、岩の下にうずめた。われわれの主の時代がやってくる日まで、彼はそこに横たわっているのだ。
こうしてそのカップは、わたしの先祖代々に伝えられてきた。人々がまだ古い時代の生き方を大切にしようと努力しているコーンウォールの地で、わたしの先祖たちは、それを守ってきた。東方では、悪い人たちの数はふえつづけ、ログレスの国はますます暗黒になっていたのである。それというのもアーサー王がなくなり、マーク王も死んで、新しい王たちはもうむかしの王のようではなかったからだ。代がかわるごとに、カップは、長男の手にゆだねられてきた。そして最後に、わたしの手にゆだねられたわけである。
わたしの父がなくなって以来、わたしは秘密を守り、まことの誠実さを持って、できるかぎり安全にそのカップを守りつづけてきた。しかし、今やわたしも年をとり、しかも子どもはいない。そしてこの地には、世にもまれな暗黒の時代がおとずれようとしている。むかし東方の地にやってきて、イギリスの人たちを殺し、土地をうばった、神を信じない悪者たちが、今や西方に向かってやってきはじめたからだ。われわれは、遠からず彼らの侵略をうけるだろう。
コーンウォールに、暗黒がせまってきている。たくさんの長い船がわれわれの沿岸にしのびより、戦いは近づいている。この戦いによって、われわれは決定的に敗北し、われわれの世界がついにほろびさってしまうことはまちがいない。カップを守る者は、もはやだれもいない。というのも、わたしが自分のむすこのように愛していた、わたしの兄弟のむすこは、すでに神を信じない者たちの仲間に走り、彼らを西方へ案内しているからだ。わたしの命を救うために、そして、カップを保管する者だけが知っているカップの秘密を守るために、あの見知らぬ騎士ペドウィンが逃げたようにわたしも逃げなくてはならない。しかし、ログレスの国には、もうどこにも避難できる場所はなくなってしまった。だからわたしは、海をわたって、コーンウォールの人たちがおそろしいことがあった時はいつも逃げることにしているとされる地へ、いかなくてはならない。
けれどもカップは、この土地をはなれてはなるまい。この地で、時がくるまで、ペンドラゴンがあらわれる日を待つのだ。
だからわたしは、カップをこの地の、海の上、岩の下にゆだねる。そして、しかるべき人によって、そのありかが発見されるよう、わたしはここに暗号を書いておく。月が満ちたりかけたりする、しかしなくなることはない、という暗号だ。この暗号をとくかぎは、わたしは書かないでおく。それはだれにも語られることなく、わたしとともに墓場にねむるのだ。それでも、カップを発見し、そしてわたしののこした別のことばを見つける人は、その両方によっておのずからなぞをとくことができるだろう。その人にこそ、カップを守り、カップにしるされた約束と証言をつたえる責任があるのだ。その人の生きているうちに、ペンドラゴンはふたたびあらわれるのである。その時こそ新しいログレスの国が誕生し、悪は追放されるのだ。そして、美しく、幸せに満ちた古い世界が、夢ではなく地上にその姿をあらわすのだ。
メリイおじさんは読みおわった。けれどもその声がまだひびきつづけているみたいに、三人の子どもたちは声もなく、じっとすわっていた。この物語は、下の方にうねってひろがっている緑の地に、まったくぴったりのように思え、三人はむかしの時代の真っただ中にいるような気持ちだった。丘のスロープをこえて、見知らぬ騎士ペドウィンが、馬に乗ってこちらに向かって来るのが、見えるようだった。灰色の花こう岩の岬のかなた、波が白くくだけてよせている海の向こうに、侵略者たちの長い船がいくつもしのびよる光景も、ありありと見えてくるようだった。
やっと、サイモンが言った。「ペンドラゴンって、だれなの?」「アーサー王さ」と、バーニイは言った。
ジェインはだまったままだった。危険がせまって、自分の土地をのがれて海をわたっていった、古文書を書いた、悲しいコーンウォール人のことを考えていたのだった。ジェインは、メリイおじさんの顔を見た。トリウィシックの海や岬を通して、そのかなたに、なにか見えないものを見つめているような目つきだった。がっしりした顔の線はゆるみ、もの思いにふけっている表情だった。「……そして、美しく、幸せに満ちた古い世界が」と、メリイおじさんは静かに、ひとりごとのようにくりかえした。「夢ではなく地上にその姿をあらわすのだ」
サイモンは、メリイおじさんのすぐ近くまでにじりよって、しゃがみこむと、そのひざの上の古文書を見た。「するとこの地図は、カップのありかをしめしているということになる。ねえ、ぼくらがそれを発見したとしたら、いったいどういうことになるの?」
「たいへんなことだ、そうなったら」と、メリイおじさんはきびしい表情で言った。「おそらく、そう気分のよいことばかりではあるまいな」
「カップはどんな形をしているんだろ? どういうものなのかな?」
「酒を飲むうつわの一種だ。え《・》のついたさかずき、つまりカップだな。ただ、ふつうのカップのようじゃない」メリイおじさんは、おごそかな顔つきになってサイモンたちを見た。「いいか、よく聞くのだ。おまえたちが見つけたこの地図は、何百年もの間、人々がさがしつづけてきた、ある秘密のありかをしめしている。わしもそれをずっとさぐりつづけてきたということは、さっきいったな。しかし、わしはこうもいったはずだ。ほかにも同じようにそれをさがしている連中がいるのだとな――もしなんなら、敵側の連中といってもよい。それらの連中は、悪魔のようなやつらだ。じっさい、どんな危険きまわりないことでも、やりかねない人間どもなのだ」メリイおじさんが、体を前にかたむけるようにして、おそろしく真剣な口調で話すものだから、サイモンたちは不安になって、だんだん体をうしろへ引くかっこうになった。
「もうかなり長い間ずっと、彼らはわしのすぐ間近にいた。そして、このトリウィシックでは、彼らはおまえたちの間近にもあらわれた。そのひとりが、ノーマン=ウィザースという男だ。もうひとりは女で、彼の妹だとかいっているやつだ。ほかにもまだいるかもしれぬ。が、わしにはわかっておらん」
「それで、あのどろぼうの事件は」三人がメリイおじさんの顔を見つめていると、ジェインが言った。「あれは、その人たちなの?」
「まちがいなくそうだ」と、メリイおじさんは言った。「といっても、おそらく自分で手をくだしてやったのではあるまい。しかしとにかくすべては彼らが背後であやつっているにちがいないのだ――ひっかきまわされた本、ぬすまれた地図、床の下の秘密のかくし場所をさがした形跡など、すべてそのことを物語っている。いいかな、彼らは秘密のとても近くにいたのだ。わしよりも近くにな。わしがグレイ・ハウスを借りたときは、あの家にねらいをつけたわけじゃなく、あてずっぽうだった。わしはトリウィシックにねらいをしぼってきていたが、ただそれだけのことだった。自分がなにをさがしだせばよいのか、それさえわしはつかんでいなかった。とにかく、なんだってよかったのだな。ところが、彼らは知っていたのだ。どのようにしてだか、まあ、黒い手をのばしてだろうが、彼らは古文書のことを知って、それを見つけるためにゆうべやってきた。ところがなんと、おまえたちが先にたまたまそれを見つけていたとは、彼らは思ってもみなかったというわけだ」そう言ってメリイおじさんは、かすかにほほえんだ。
「今日ウィザースがどんな顔をしているか、見たいものだ」
「それで、なにもかも読めたぞ」サイモンがゆっくりした口調で言った。「彼が、おとうさんとあんなに早く友だちみたいになったわけも、ぼくたちをヨットに連れだしたわけも――」そのときサイモンは、メリイおじさんがことばに力をいれて、「彼らはじっさい、どんな危険なことをしでかすかもわからない……」とまた言うのを聞いて、ちょっとの間いやな気分になった。
バーニイが言った。「でもメリイおじさん、ぼくたちがとにかくなにかを見つけるってこと、メリイおじさんにはわかっていたの? ぼくたちというのは、つまり、ぼくと、兄さんと、姉さんとのことだけどさ」
メリイおじさんは、するどい目でバーニイを見た。「なぜそんなことを聞きたいのだ?」
「それは――なんていうか――」と、バーニイは頭の中でことばをさがした。「ぼくたちが来る前に、メリイおじさんは自分でさがしたんじゃないかと思うんだ。そしてなにも見つからなかった。ところがぼくたちが来てから、メリイおじさんはいつもあの家にいなかった。いつもどこかに消えてしまって、まるでぼくたちに、あの家の中でかってにさせておくためみたいに思えるんだ」
メリイおじさんはほほえんだ。「そうだ、バーニイ。おまえたちが見つけるかもしれない、とわしは思った。というのも、おまえたち三人がどんな子どもか、わしにはよくわかっているからな。われわれの敵もそのことに気づいたが、その前にわしは、彼らがグレイ・ハウスにひどく関心を持っているにもかかわらず、わしがなにをしているか気になるように、わしの方に注意をそらせようと思ったのだ。そのためにわしは、お前たちが家にいる間、連中をわしの方におびきよせて、南コーンウォール中を引っぱりまわしてやった。いってみれば、わしは敵の注意をそらせるためのおとりだった」
「それで――」と、バーニイが言いかけるのをサイモンがさえぎった。彼はおちつかなくて、メリイおじさんのそばをうろうろしていたのだった。「それよりメリイおじさん、今やなにもかもはっきりしたんだね。問題は、この地図のことなんだよね?」
「そのとおりだ」と、メリイおじさんは言って、また岩のそばにすわりこんだ。「もううかうかしてはおれない」
「それはトリウィシックの地図なんだ」と、サイモンはいきおいこんで言った。「ジェインがそのことを見つけたんだよ。ただ沿岸が今はかわっているように見えるんだけど――」
「あたし、グレイ・ハウスにあった案内書の中の地図と、くらべてみたのよ」と、ジェインは言った。牧師をたずねたことは、言うだけの価値もほとんどないようにジェインには思えた。
「そしたらおかしいことに、沿岸の線はにていないけど、同じ名前が出てくるの。古文書の方を注意して見ると、岬の一つがマーク王岬となってるのよ。つづりはまるでちがっているけど。ところがそのマーク王岬が、案内書ではケメア岬のかわりにつかっているのよ。だから古文書の地図は、トリウィシックをしめしているにちがいなのよ」
「うん、なるほど」メリイおじさんは、おおいかぶさるように羊皮紙の古文書を見つめながら言った。「つづりがちがっているだけだ。子音が落ちておる――」メリイおじさんは急に顔をあげた。「さっき、なんていった?」
ジェインは「えっ?」というように相手を見た。
「案内書の中で、マーク王岬となっているといったな?」
「ええ、そうよ。それがどうかして?」
「ああ、いや」メリイおじさんの顔に、ヴェールをかぶったみたいに、遠い人のようないつもの表情があらわれた。「ただ、そのマーク王岬というとくべつな名前は、もうずいぶん長いこと使われていないのでな。だからそんな名前は、ほとんどの人が忘れてしまっている。おまえさんのその案内書を、ちょっと見てみたいな」
「わからないなあ」と、サイモンが古文書の地図をのぞきこみながら言った。「かりにこれがトリウィシックだとして、それがなにがわかってくるというんだろ? 今までに、こんなに役に立たない宝さがしの地図って、見たことないよ。へんなしるしみたいなのが、ずいぶんいろいろついているけどさ、意味のないものばかりだよ。なんにもないところからは、ほかになにも出てきやしない。いったいこの地図から、どうやってカップのありかがわかるというの?」
メリイおじさんは、古文書を指さした。「どんな文句が書いてあるか、思い出してみるんだな――しかるべき人間が、しかるべき場所で、見つける――」
「それはきっと、よく本などに出てくるなぞときの文句の一つみたいなものよ」と、ジェインが、いっしょうけんめい考えをめぐらせながら言った。「一度わかってしまうと、かんたんなんだけど、どこからとっかかるか糸口を見つけるとなると、とてもむずかしいというあれよ。そのことを″しかるべき場所で″といっているんじゃないかしら。もし地図を、正しい出発点に持ってくれば、そこからどこへいけばよいかわかるのよ」
サイモンが、さけび出すみたいな声で言った。「だって、どこからスタートするか、どうやって見つけだすんだよ?」
バーニイは、メリイおじさんのすぐそばに立っていたけれど、サイモンたちの言っていることを聞いてはいなかった。前にもときどきしたように、このときも、だまりこんでなにかもの思いにふけっているのだった。目をいっぱい見開いて、港の方をながめているかと思うと、ときどき地図の方にちらと目を走らせた。「そうだ。思い出したことがある」と、考えごとにしずんでいる声で、バーニイは言った。
でも、だれもぜんぜん注意をはらわなかった。バーニイはひとりごとのように、ぼんやりとした様子でつぶやいた。「おかあさんがかいた絵に、この地図みたいなのがあった。透視画(遠近画)法とおかあさんはいっていた。この地図は、ほんとのところ地図なんかじゃなくて、絵みたいだな。見おろすと港のふちの上にこの丘がつき出して、岬はこの地図みたいにカーブして見える」線バーニイは目の前の景色をなぞるように、指で宙に線をえがいた。「そして岬の頂上のこれらの岩が、地図でいうとへんな小さなこぶにあてはまる――」
「そうだ、やったぜ、こいつ!」サイモンはさけんだ。そしてバーニイをつき動かし、彼をもの思いから引きもどした。「まさにその通りだよ。見ろよ! これは絵なんだ。地図じゃないんだ。だから形が案内書の地図にくらべるとぜんぜんちがってるんだ。ほら、わかるだろう――」と言ってサイモンは、メリイおじさんの手から大事そうに古文書を受けとると、岩はだが長く海につき出したケメア岬の方に古文書をかかげて、みんなに見えるようにした。岬と古文書を見くらべてみると、走りがきされた茶色い線は、まさにぴったりと目の前の景色をかいた絵に見えてきた。これが地図だなんて、どうしてそう考えたのか、不思議なくらいだった。
「それじゃ」と、ジェインが言った。岬の景色と古文書とにかわるがわる、目をやっているうちに、ジェインの顔にしだいに信じられないといった驚きの表情がひろがっていった。「ここが、しかるべき場所にちがいないというわけね。なぞときの出発点というわけね。今までそのことを知らないで、あたしたちは、この絵をかいた人と同じ場所にずっと立っていたのね。まあ!」ジェインはおそれうやまうように古文書を見た。
「ようし、いいぞ」と、バーニイは自分が発見したことに興奮して顔を赤くさせながら言った。「どこからスタートするかがわかったんだ。彼がここからどこへいったか、どうすればわかるかな?」
「この絵を見ろよ。この岬のところに、しみのようなものがある」
「あっちこっちにいっぱいあるわよ。半分はしみで、あとのはよごれね」
「長い時の流れのしるしだ」と、メリイおじさんは墓場から聞こえてくるような声で言った。
「いいや、このしるしはわざとつけたものだよ」と、サイモンは主張した。「ここだよ。つまり――おや、これはメリイおじさんがよっかかっている岩のしるしにちがいないよ!」
メリイおじさんは、きびしい顔つきになってまわりを見まわした。「なるほど、そうかもしれないな。そうだ、たしかにありうることだ。自然の力で岩があらわれてつっ立ったものだな。人間が立てたものではあるまい」
バーニイは立ちあがると、岩のまわり中を、小走りに見てまわった。黄色いコケのあとや、小さなさけめや割れ目など、いちいち目を近づけてながめたが、かわったところはなにもなかった。「ただふつうの岩みたいだよ」がっかりしたように言うと、ふたたびもといたところに姿をあらわした。
ジェインが急に声をあげて笑いだした。「あんたってルーファスにそっくりだわ。ウサギのあとをクンクンかいでいって、けっきょくなにも見つからないのよ」
バーニイは、ぴしゃっと自分のひざをたたいた。「ルーファスを連れてくるべきだったと、ぼくは思っていたんだ。ルーファスならなんでもかぎだすから、ハントにはすごく役に立ったと思うよ」
「何百年ものあいだかくされているものを、においでかぎだせると思ってるの? ばかね」
「できないわけないさ。まあ見てるんだな。ルーファスは役に立つにきまってるよ」
「ありえないわ。そんなこと」
「とにかくさ、ルーファスはどこにいるんだい?」
「ポークおばさんが連れてったわ。かわいそうに、どこかに閉じこめられてるんだと思うわ。この間の晩、おとうさんがおこったでしょ。あの時以来、おとうさんはルーファスを家の中に入れちゃいけないっていってるのよ」
「ポークおばさんは、いつも夕方ルーファスを連れて帰るんだ」
「もし昨日の夕方、おばさんがルーファスを連れて帰らなかったら、どろぼうたちをつかまえていたかもしれないわ」
「そうだ、つかまえていたかもしれないな」ちょっとの間、三人はその考えを心の中ではんすうするように、だまりこんだ。
「あたし、ポークおばさんのこと信用できないわ」と、ジェインが暗い声で言った。
「まあ、それは気にすることはない」と、メリイおじさんはすんなりと言った。「わしの見るところでは、あの犬は家にいたとしても、どろぼうたちの手をなめて、さあ通れ、といったことだろう」
「ルーファスはウィザースさんがきらいだよ」と言ったのはバーニイだった。「昨日ぼくたちがボートをおりて家にもどってきたとき、ルーファスはしっぽをふりながら出むかえたんだ。ところがウィザースさんを見たとき、ルーファスはしっぽをさげちゃって、ほえたんだよ。その時は、ぼくたちみんなそれを見て笑っちゃったけど」と、バーニイは考えこみながら言うのだった。
「明日はルーファスを連れだそうぜ。そろそろ帰らなくちゃならないけど、まだぜんぜん出発点には近づけないな。メリイおじさん、この岩には、本当になにか意味があると思う?」といってサイモンは、岩の灰色の表面を、うたがわしそうになでた。
「きっと、なにかと一直線をなしてるのよ」と、ジェインがみこみありげに言った。「磁石で方角をきめるみたいにね。地図を見てみるのよ、つまり絵のことだけど」
「だめだな。どの黒い点とだって一直線になるだろうぜ」
「それじゃ、黒い点がついている場所全部にいってみるのよ。そして近くになにかありはしないか、調べてみる必要があるわ」
「そんなことしてたら、何か月もかかるぜ」
「あーあ」と、バーニイは言って、いらいらしたように足をふみ鳴らした。「ばかげてるよ。一体どうしようというんだい?」
「もうよい」ふいに、メリイおじさんが言った。
「もういいって?」と、三人はメリイおじさんの顔を見た。
「また明日のことにするのだ。新鮮な頭で考えてみることだ。あまりのんびりもしていられないし、けっきょくはこれはレースのようなものになるが、さしあたってはこれで心配はない。われわれがなにか見つけたとは、敵は気づいていない。彼らはタカのようにわしを見張っているが、おまえたちのことはうたがっていないし、うまくいけばこれからもうたがわれないですむだろう。まあ心配せずにゆっくりと、今夜はいろいろそのことを考えてみることだ」
「またもう一度どろぼうに入られないかしら?」と、ジェインが不安そうに言った。
「まさかもう一度はやらないだろう。そうとも。彼らばくぜんとしたねらいでやったのじゃ――手はじめになにか糸口を見つけ出せるかどうか、ということでどろぼうに入り、けっきょくみつけられなかった。今度はべつのやり方でくるだろう」
「どんなやり方でくるか知りたいわ」
「メリイおじさん、どうして警察にあの人たちがやったんだっていえないの? いっちゃえばもうぼくたちをかぎまわったりできなくなるんだ」と、サイモンが言った。
「そうよ。なぜいえないの?」と、ジェインもいきおいこんで言った。
「そんなことだめさ」バーニイが、いやにはっきり言った。
「なぜ?」
「そりゃわからないけど」
三人はメリイおじさんの方を見た。メリイおじさんは自分の意見は言わず、「どろぼうがなにをさがしたのか、自分たちは知っていると、なぜ警察にそういわなかったのか?」と、ぎゃくにたずねた。
「だって――いっても笑われちゃったでしょ。本に出てくるようなお話だと、あの人たち考えたにちがいないんだもの」
「だからとにかく、あたしたちが古文書を見つけたっていうことは、さしあたっておかあさんにもおとうさんにも話さなかったんだわ」と、ジェインがまた、両親にだまっているのは本当は悪いんだという気持ちになって、そう言った。
「つまり」と、メリイおじさんは言った。「おまえたちは警察の人にこういったとする。ぼくたちは屋根うら部屋で古い巻き物を見つけました。どろぼうたちが家中ひっくり返してさがしまわったのは、その巻き物だと思います、とな。すると、家をかきまわしたのはやくざな男のいたずらだと思いこんでいる、あのたいした巡査部長どのは、おうようにほほえんで、向こうへいって遊んできなさい、とおまえたちにいっただろう」
「そうなんだ、その通りさ。だからぼくたち、だまってたんだ」
メリイおじさんは、にっこりして言った。「それじゃ、わしが巡査部長のところへいってこういったとする。この古文書は、グラールと呼ばれるむかしのカップにまつわる秘密をとくかぎなのです。それはトリウィシックにかくされています。アーサー王についての真実が、その聖杯にはしるされているのです。レディー・メアリ号というヨットからやってきた男が、それをほしがり、どろぼうに入ったのです。その男は、わたしが先にその古文書を見つけたかどうか、昼も夜もわたしを見はらせているのです、とな。するとどういうことになると思うのじゃな?」
「警察はウィザースさんを逮捕しにいくんじゃないかな」と、サイモンはのぞみをかけるように言ったが、今までより確信が持てないような口ぶりだった。
「よろしい、巡査部長はミスター・ウィザースのところに出むいていくわけだな。もちろんウィザースの方は、どろぼうのあった夜については完全なアリバイを持っていることだろう。巡査部長は申し訳ないといった調子で、わしが話した信じられないような話について彼に質問することだろう。ミスター・ウィザースは、自分は礼儀正しい紳士で、美しい妹といっしょに、むじゃきに休暇を楽しみにやってきた古物商だと、巡査部長に信じこませてしまうというわけだ」
「ぼくたちもミスター・ウィザースのこと、そう思っていたんだものな」と、バーニイが指摘しだ。
メリイおじさんは続けた。「巡査部長はわしのことを知っておる。わしがやっていることが、ときどき、その」と言って、メリイおじさんはくっくっと笑った。「常識はずれみたいに見える、ということを知っておる。そこで彼は、なにもかもこれではっきりした、と思うことだろう。そして自分にこういいきかせるだろう。″あわれなおいぼれ教授め、とうとうあんなことまでいいだすようになってきたか。本ばかり読んでるから、とうとうやっこさんの頭もいかれちまったか″」
「サイモンよりずっとまねがじょうずだわ」と、ジェインが感心したように言った。
「わかったよ」と、サイモンは言った。「ぼくたちが本当のことをいっても、だれも本気になんかしないってことなんだな。もしぼくたちが、ミスター・ウィザースと妹が古い本のことでいろいろたずねたと、巡査部長にいっても、それはまったく当たり前のことで、うたがわしいことなんかまるでない、ということになるんだな」
サイモンは顔を上げて、ちらっと歯を見せて笑った。「もちろん、ぼくたちはどんなことがあっても話しちゃいけなかったんだね。ごめんなさい。気がつかなかったんだ」
「さて、おまえたちが考えなくてはならぬことがある、それも真剣にな」メリイおじさんは、暗いきびしい眼で三人をかわるがわる見ながら言った。「これからわしがいうことは、二度とは口にしないつもりだ。あの巡査部長と同じように、おまえたちも考えるかも知れぬ。つまりこれはまったく個人的な争いごとだとな。ひとりの老教授と、ひとりの本の収集家が、とにかくほかのどんな人間にもまるで関係のないあることをめぐって、相手をうち負かそうとしているんだと」
「ちがう!」
「そうは思わないよ」
「そんなことより、もっとたいへんなことだわ」と、ジェインは興奮したように言った。「あたしの感じでは……」
「まあ――おまえたちみんなが、なにかを感じているなら、そしてさっきわしがいおうとしたことについて少しなりとも理解しているとすれば、それで申し分ない。しかしわしは、おまえたち三人を、この事件に巻きこんでしまいたくはないのだ。おまえたちのしていることがどういうことなのか、おまえたちにはわかっていないとも思いたくない。もしそうなら、わしはいっそう気が重いというものだ」
「メリイおじさんは、いやにしんこくぶったいい方をするんだな」と、サイモンは不思議そうに言った。
「そうとも……わしが気をつかっていることは、おとりとして動きながら、彼らが相手にするのはわしだけだと思わせておきたいということだ。そうやって四六時中わしが彼らとわたりあっているかぎり、こちらは有利だ。そうすればおまえたちは、まったく争いに巻きこまれることなしに、自分たちで古文書のなぞをとくことにかかりきりになれる」メリマンはそう言って、サイモンが手にした古文書にふれた。「骨のおれるむずかしいことだがな」
「そいつはいい考えだ!」と、バーニイがうれしそうに言った。
サイモンは、弟と妹の方を見やって、半ズボンにサンダルというかっこうだけれど、できるだけかんろくをつけるように胸をはった。
「おれがいちばん年上だから――」
「たった十一ヶ月ね」と、ジェインが言った。
「とにかく、おれが年上なんだ。だからおまえたちふたりについて責任があるし、おれがスポークスマンをしなくちゃならないんだ。それで――ええと――」サイモンは、ことばにつまった。それから、かんろくを見せようとすることはたちまちあきらめて、「あの、メリイおじさん、はっきりいってぼくたち、自分たちの役割がよくわかったよ。バーニイがいったように、ある意味で、これは一種の探求だよね。といって、ぼくたちだけのかってな探求じゃないんだ」
「よろしい」と、メリイおじさんは言った。「これで、おまえたちと契約をとりかわしたというわけだ」そしてメリイおじさんは手をさし出すと、三人とかわるがわる、おごそかに握手をかわした。四人は、目を見開き、ちょっと息を止めて、おたがいの顔を見つめあった。それから、急になんだかばかばかしいような気がして、ぷっとふき出した。でも笑いながらも、これからどんな危険がせまってくるかもしれないけれど、おたがいが新しくしっかりとむすびつけられたのだ、と感じていた。
帰りじたくをして、丘をおりはじめたときだった。メリイおじさんが、道の途中で三人を立ちどまらせると、こう言った。
「まず、よく見ておくことだ」メリイおじさんは腕を前方で水平にふって、港や、岬の絶壁や、海の上一体をさししめした。「そしてありのままの姿を、心の中にたたきこんでおくことだな。どんなふうに見えるか、よくおぼえておくんだな」
斜面の上に立って、三人はもう一度景色をながめわたした。西の方、ケメア岬とグレイ・ハウスの上の空に、太陽が、しずんでいくところだった。夕日は、岬の先端と、空につきささるようにたっている奇妙な灰色の岩とを、照らしていた。しかし港はもうかげになって、暗くなりつつあった。見つめていると、太陽がしだいしだいにしずんでいくのが、わかるようだった。最後には、ひとかたまりになって立っている、空にくっきりとつき出した岩の上で、目がくらむほどかがやいたかと思うと、そのほのおのようなかがやきの中に、岩の姿は見えなくなってしまった。
第七章 恐怖のレース
「ねえ、カップはグレイ・ハウスの下にあるんじゃないかしら」
「そうだよ――だってどろぼうたちは、床を持ちあげようとしたんだもの」
「でも、どろぼうは地図をさがしてたんだわ、カップじゃないのよね」
「そりゃちがうよ。メリイおじさんがいったこと、おぼえてるだろ。めあてのものは、はっきりしてなかったんだよ。メリイおじさんも知らなかった。なにか秘密のかぎになるもの、つまり地図のようなものかもしれなかったし、そのものずばりかもしれなかったというわけだね」
「とにかく、秘密をとくかぎがあそこにあったのだから、秘密のものだってあそこにあっていいわけでしょ?」
「ばかだな、いいか」と、サイモンが地図を開きながら言った。「グレイ・ハウスはマークされてないんだぜ。小さなしるしさえないんだ。そのころにはありもしなかった。古文書をのこしたコーンウォール人が、九百年むかしの人だってこと、考えてみろよ」
「ああ、そうだったわね」
三人は、ケメア岬を半分くらいのぼった草の上に腰をおろしていた。すぐ横のところに、草をふみしだいた小道が、ジグザグになりながら、斜面の上の方までのびていた。メリイおじさんは、三人に、自分たちで古文書のなぞをとけ、とまかせたのだった。「最初のかぎを見つけるのに、一日だけ待ってやろう」と、メリイおじさんは言った。「その間、わしは追っ手を引きはなしておく。一つだけ忠告しておくが――午後になるまでは動きだすでないぞ。午前中は海岸で遊ぶとか、なにかしてすごすのだ。そうすれば追っ手は、おまえたちからはなれているはずだ」
それからメリイおじさんは、おとうさんといっしょにつりに出かけた。沿岸から一マイル(約一・六キロメートル)ほどの岬の沖合いでつりをやろうというのだった。ふたりの乗った小さな舟が、ゆっくりゆっくりと港を出ていった。おとうさんがかじをとり、メリイおじさんはへさきにつっ立っていた。すると案の定、何分もしないうちに、レディー・メアリ号が太陽に白い船体をかがやかせながら、おとうさんたちの小舟の後を追って静かに動きはじめた。ヨットのエンジンの音が、朝のひっそりした海の上にかすかにひびいていた。サイモンたちは、それを家の中から見ていたのだった。ヨットは、湾にさしかかると帆をしだいにあげ、それが風にはためくのが見えた。ヨットは沖に向かって進みはじめた。でも、メリイおじさんとおとうさんの動きが、いつもつかめるようなコースをとっていた。
さて、午後の岬の上は、太陽の日ざしが強く、三人のむき出しの足はひりひりするほどだった。風が少し吹いていた。「あーあ」と、ジェインががっかりしたような声で言った。草の葉を、そのつけ根のところから引きぬいて、歯でかんでいた。「のぞみないわ。どこから手をつけたらいいのか、あたしたちわからないんだもの。昨日の線までもどって、考えてみたほうがいいわね」
「でも、むこうの岬から景色がどう見えたか、ぼくたち知ってるわけだよ」
「だからどうだというの? どう見えたというの?」
「つまり――岬と、海と、太陽と――それにあの頂上に立っている岩だよ」バーニイはそう言って、斜面の上の方をみんなの頭ごしに指さした。「ぽくは、あの岩はなにか関係があると思うんだ。古文書を書いたコーンウォール人には、あの岩が見えたにちがいないんだ。メリイおじさんは、あの岩は三千年ほどむかしのものだといっている。とすれば九百年前にも、今と同じように古い岩に見えただろうと思うよ」
「たしかに向こう側からも、はっきり見えるものな」と、サイモンは興味をそそられて、立ちあがった。
「でもあの岩のところまでいくなんて、ずいぶんあるわ」と、ジェインが言った。「あたしがいうのは、第一のかぎというのは、たとえば左へ十歩進めとか、そういったことだと思うの。うめられた宝物をさがしだす話は、みんなそういうふうになってるわ。ところがあの岩のところまでいくには、向こうの岬からだと、港を横切って何千歩と歩かなくちゃならないわけでしょ。そんなのおかしいわよ」
「そうとばかりはいえないぜ」と、サイモンは言った。「昨日もちょっと出たけど、方角を磁石で決めるような方法、ということもありうるな。つまりさ――ある物とある物を、一直線にむすんでみると、第三の物がわかってくるかもしれないんだ」
バーニイは目を閉じて、しかめっつらの顔を上の方にねじるようなかっこうで、昨日の夕方しっかりと頭に焼きつけておいた景色を思い出そうとしていた。「昨日夕日がしずんだときのこと、おぼえてる?」と、バーニイはゆっくりした口調で言った。「ぼくたちがいた場所からは、あの岩のうちいちばん大きいやつが、太陽とちょうど一直線になっていたんだ。だからあの位置からずれたところでないと、いちばん大きい岩は見られなかったんだよ。ぼくのいうこと、わかるかなあ」
サイモンはゆっくりと、もう一度古文書を見つめた。その顔に、しだいに赤みがさしてきた。「そうだよ、バーニイのいっていることは重要な点だぜ。このひょろ長い岩の上に書いてある丸いしるしは、ただのかざりだとおれたち思っていただろ――ところがそうじゃなくて、太陽かもしれないぜ。つまりこういうことだよ。この地図を書いた人が、何十年何百年もの間地図が発見されないものと予想していたとすれば、彼は太陽のようなしるしをつかっただろうと思うな。そういうものなら、何年たとうとかわらないだろうからな」
「それじゃいきましょうよ。上までいって調べてみるのよ」ジェインがいきおいよく立ちあがった。そのとき、急にジェインは、こおりついたように、動かなくなった。「兄さん、早く」ひきつったような、こわばった声で、ジェインはそっと言った。「地図をしまって。かくすのよ」
サイモンは顔をしかめた。「なんだよ、一体――」
「早く! ミス・ウィザースなのよ。道をあがってくるわ。だれかがいっしょだわ。すぐにここにやってくるわ」
サイモンは大急ぎで古文書を丸めると、リュックサックにつっこんだ。「いっしょのやつはだれなんだい?」と、サイモンはひそひそ声でたずねた。
「わからないわ――いや、わかったわ」そういうとジェインは、まるで見たくないものでも見たというように、くるりと向きをかえ、また腰をおろしてしまった。ひどくほてった顔だった。
「あのときの男の子よ。あたしをつきころがしたあいつよ。とにかく、なにか今度のことで関係を持っているって、あたしにはわかっていたんだわ」
まもなく、声が聞こえてきた。それは丘の斜面をあがって、しだいに近づいてくる。ミス・ウィザースのすんだ声が、三人のところまで流れてきた。「かまわないわよ、ビル、どんなことだって調べてみる必要があるわ。たぶん彼はもう――」そのときミス・ウィザースは、三人のいるところにさしかかった。空をバックに、ミス・ウィザースの姿がうかびあがった。三人が表情のない顔で、自分の方を見あげてすわっているのを見つけて、ミス・ウィザースの足が急に止まった。男の子の方も、しかめっつらをして、立ちどまった。
ちょっとの間、ミス・ウィザースは口をかすかに開いたまま、びっくりした様子で立っていた。でもつぎの瞬間には、うってかわったように、にこやかに三人にほほえみかけた。「あら!」ミス・ウィザースは明るい声で言うと、前に進み出た。「あなたたちにここで会えるなんて、すばらしいわ! それも一度に三人ですものね。サイモン君とバーニイ君は、この間わたしたちがヨットにさそった日には、くたびれてしまわなかったかしら」
「少しもそんなことありません。ありがとうございました」と、バーニイがはきはきした、最高によそゆきの声を出して言った。
「ほんとにすてきなヨットですね」と、サイモンも同じようによそよそしい、ばかていねいな口調で言った。
「ところであなたたち、ここでそろってなにしているの?」ミス・ウィザースは、むじゃきな口調でたずねた。彼女はスラックスの上に、そでなしの白いブラウスを着ていて、二本の腕はこんがりと日焼していた。黒い髪が、丘を吹いていくそよ風にかきたてられた。とても魅力的で、健康そうに見えた。
ジェインにこたえてもらいたいというみたいに、ミス・ウィザースはジェインの顔を見つめた。ジェインは、ごくりとつばをのみこんだ。「あたしたち、ただ海をながめていただけなんです。今朝、ヨットが出ていくのを見ましたけど」
「あなたもあのヨットに乗ってるものとばかり、ぼくたち思っていました」と、サイモンがべつに考えがあってのことではなく、なにげなくつけくわえた。
ポリイ=ウィザースの顔に、当惑したような色がちらと走った。彼女はそれでもすらすらとこたえた。「ああ、わたしってあまり船の上はとくいじゃないほうなの。きっと、いつかもお話したと思うけど」
サイモンは、もの思いにふけるように海を見おろしていた。海はまるで池のように静かで、波一つなかった。サイモンの視線を追って、ミス・ウィザースも海をながめながら言った。「そのうちに風が出るわね、きっとわたしがいうとおりよ」
「そうですか?」と、サイモンは言った。サイモンの顔はまるで表情がなく静かだったけれど、その声には、かすかに相手を傷つけるような不信のひびきがあった。ミス・ウィザースの顔から、笑顔が消えうせたようだった。なにか言うことばを、ミス・ウィザースがさがしている間に、連れの男の子が口をきいた。「ポリイさんは、海のことならいつも正しいんだぞ」と、彼はサイモンをにらみつけながら、つっけんどんな口調で言った。「あそこらへんの年寄りどもが、たばになったよりも、ポリイさんの方が海のことよく知ってるんだ」そう言って、けいべつするように港の方に向かってあごをしゃくった。
「あら――まだ紹介してなかったわね」と、ミス・ウィザースが明るい声で言った。「ごめんなさい。ジェイン、サイモン、バーナバス、わたしたちの片腕になってくれてるビルよ。この人がいないと、レディー・メアリ号も動かないくらいなの」
するとその男の子は、ちらりとミス・ウィザースの方を見て、赤黒く顔を赤らめると、うつむいて自分のよごれた足を見つめた。この人、ミス・ウィザースにあこがれてるんだわ――とジェインは思った。ちょっとあわれなようにも思えた。
「ぼくたち、前に出会ったな」と、サイモンがぶあいそうな声で言った。
バーニイも言った。「きみの自転車の具合はどうだい?」
「くだらねえこときくんじゃねえ」少年はかみつくような口調で言った。
「ビル、お行儀に気をつけなさい」ミス・ウィザースは、にこやかにほほえんでいたけれど、その声は冷たくて、はがね線のようにぴりっとしていた。「わたしたちのお友だちにたいする口のきき方じゃないわよ」
ビルは、すねたような顔でミス・ウィザースを見あげると、急に前に飛びだして、ものもいわず小道の上のほうへ歩いていった。「やれやれだわ」と、ミス・ウィザースはため息をついた。「わたしはあの子の気を悪くさせてしまったわけだわね。この村の人たちときたら、とても感じやすいんだから」ミス・ウィザースはそう言いながら三人の方を見て、ちょっとしかめっつらをして見せた。それは魅力的で、三人とミス・ウィザースとが同じ仲間だとでもいうみたいな、そんなジェスチャーなのだった。「あの子の後を追っていかなくちゃ」と言って、ミス・ウィザースは少年の後を追っていこうとして、もう一度くるりとふりむいた。そして彼女の口から出てきたことばは、いなずまのように三人につきささった。「あなたたち、地図を見つけたの?」
しばらくのあいだ、おそろしい沈黙がたれこめて、それはまるで一時間も続いたかと思われたほどだった。三人は、ミス・ウィザースの顔を見つめたままだった。やがてバーニイが、このままではまずいと本能的に感じて、早口の冗談に逃げ場をもとめた。
「ウィザースさん、地図《マップ》っていったんですか? それとも切れめ《ギャップ》といったんですか? いけがきの切れめなら、ぼくたち、下の方で見つけましたよ。それでぼくたち、そこを通りぬけて岬の方へやってきたんです。でもぼくたち地図《マップ》なんて手に入れてません。少なくともぼくはそうです。サイモンとジェインはどうなのか、ぼくはよく知らないけど……丘の上の方へいく道がわからないんですか?」
さぐるような目でじっと三人を見つめていたミス・ウィザースは、ふたたび親しげな態度にもどって、こう言った。「そう、そうなのよ、バーナバス君、地図なの……ほんといってわたし、道がまるでわからないの。それで今朝、あちこちの店でさがしてみたけどどこにも地図は売ってなかったわ。ちょうど向こう側なんだけど、人がふんで通るような細い道をわたしさがしてるの。ビルったら、まるで助けにならないし」
「あたし、メリイおじさんが地図を持ってると思うんだけど」と、ジェインがばくぜんとした言い方をした。目のすみっこのところで、相手がどんな反応をしめすか、一つも見のがすまいと観察しながらだ。でもミス・ウィザースは、顔色一つかえなかった。「ウィザースさん、あなたはメリイおじさんに会わなかったでしょ? きょうはおとうさんといっしょに、つりに出かけたんです。ざんねんだわ。お役に立てなくて、ほんとにすみません」
「道が見つかると、ほんとにいいですね」と、サイモンが親切そうに言った。
「ええ、でもだいじょうぶ、見つかると思うわと、ミス・ウィザースは言った。そして三人に向かってこれ以上ないような笑顔をおくると、向きをかえて上の方にのぼっていきながら手をふった。「さよなら」
丘のスロープが空と出あっている、その向こうに、ミス・ウィザースの姿が消えていくまで、三人はだまったまま見送っていた。やがて、バーニイがとつぜん顔を地面にくっつけるようにして、ほっとしたような長いため息をつきながらころげまわった。
「ウヘエエエー! びっくりしたな、もう! 急に彼女が地図のこといったときは……!」そういってバーニイは、草の中に顔をうずめた。
「あの人、感づいていると思う?」と、ジェインは気がかりそうにサイモンにたずねた。「あたしたち感づかせないようにやったかしら?」
「わからないな」とサイモンは言って、静かな緑の丘のスロープを、考えこむようにながめた。そこにはもう、ミス・ウィザースのかげも形もなく、ただはるか遠くの方でヒツジが一匹草を食べているのが、見えるだけだった。「感づかせたかもしれないと思うな。というのは、彼女が地図のことをいったとき、ぼくたちみんな、間のぬけた顔をしていたにちがいないんだ。おまえの顔つきときたら……」
「兄さんだってそうだったわ。魚みたいな顔してたくせに」
「わかったよ……まあ、彼女があんなふう、まるでだしぬけに地図のこといいだすもんだから、おれたちがとにかくびっくりしたような顔になったことは確実なんだ。だからといって彼女に、それはぼくたちが地図を見つけていたためなのか、それともただ不意の質問におどろいたからなのか、見わけることができたとはぼくには思えない。たぶんできなかっただろうぜ」と、サイモンは言った。しゃべっているうちに、だんだん自信が出てきて、サイモンはさらにこうつけくわえた。「彼女が道を知るためのふつうの地図をほしがっている――ぼくたちが本当にそう考えたんだと、彼女は思いこんでいると思うな」
「それに彼女がほしがったのは、ほんとにふつうの地図だったにちがいないわ」
「心配いらないさ!」草の中から顔をつきだしながら、バーニイは言った。「彼女はぼくたちをためしてみたんだ、そうだよ。でなければ、なぜ″見つけた″といったんだい? あなたたち地図を見つけた《・・・・》、って? ふつうなら、そうだな、あなたたち地図を買った《・・・》? とかいうはずだもの」
「バーニイのいう通りだ」サイモンはそう言って立ちあがると、足についたごみをはたいた。
「メリイおじさんのいったことも、本当だったな。敵はまだ行動を開始できないでいるんだ。ミス・ウィザースはおれたちを見てびっくりしただろ、五分もしないうちに地図のことをいい出したりしてさ」
ジェインが、そうすると記憶を追いはらえるとでもいうみたいに肩をくねらせながら、「とにかくいやな出会いだったわ」と言った。そして丘のスロープを見あげながら、「ところで、どうやってあの上までいけるのかしら? ミス・ウィザースとあのいやな男の子が、どこかにかくれていて、あたしたちのすることをみんな見ているかもしれないんだし」
サイモンが、あごをつき出していった。「だからといって、おれたちがなにもしないでいるなんできないぜ。もし見られていると思ったら、なに一つできやしない。おれたちが、ただぶらぶら散歩しているみたいに、ふつうにふるまっているかぎりは、だいじょうぶなはずだぜ」サイモンは、リュックサックをとりあげた。「さあいこうぜ」
ケメア岬は、反対側の岬よりもけわしかった。曲がりくねった小道を、苦労しながら長いことのぼっていく間、見えるものはといえば空と出あっている丘のスロープだけだった。太陽がぎらぎらかがやいて、三人の目を射るのだった。岬の先端は、岩だらけで灰色をしており、三人のはるか下の方で海につきでてのびていた。そこまで続いている岬の地図はおそろしくかたそうに見え、まるで全部が岩で、土が皮膚のようにうすくついているだけのように見えた。
とうとう三人は頂上にたどりついた。一面に、かわいたような緑色の短い草がはえひろがっていて、ひょろ長い石がいくつか立っていた。近づくにつれて、それらの石はしだいに大きく見えてきて、まっすぐにたてられた巨大な墓石のように、空に向かって静かにそそりたっているのだった。
サイモンが言った。「こんなでっかいものを石と呼ぶなんて、いままで聞いたこともないくらいだな。ネルソンの軍艦をボートと呼ぶみたいなものだな」
頭の上にそそりたっている大きな花こう岩の石柱を、じっと見あげたまま、サイモンは立っていた。ぜんぶで四本あった。うち一本がほかのよりぬきんでて大きく、のこりの三本は不規則にそのまわりをとりかこむように立っている。
「たぶん宝物のカップが、このうちのどれかの下にうまっているんだな」と、バーニイが軽い口調で言った。
「そんなはずがあるもんか。この石はどれも、とてもむかしのものだぜ……とにかく、カップがうまっているなんて思うのはまちがいだな」
「なぜまちがいなの? うまっているにちがいないわ」と、ジェインが言った。「そうでなければ、何百年もの間、だれの目にもふれないでいるわけがないじゃない?」
「それに、古文書になんて書いてあったと思う?」と、バーニイが言った。「海の上で岩の下だと書いてあっただろ?」
サイモンは、まだなっとくしないで、耳をこすりながら言った。「ここは海の上なんかじゃないんだぜ。海は何キロもむこうだ。ああ、わかってるさ。何キロもじゃないけどさ、だけどとにかくここから岬の先端までは、約四百メートルはあるな」
「でもここは、海より上にあることにはちがいないよ、そうだろ?」
「古文書の文句はそういう意味じゃないとおれは思うな。海、海の上――はっきりとはいえないけどさ。とにかく、おれたちはあまりいっそくとびに飛躍して考えすぎるよ。一歩一歩なぞをといていけ、そうメリイおじさんはいったぜ。はっきりと証明できることをもとにして、一つ一つ根気よく前進しなくちゃいけないんだ」
そう言って、サイモンは太陽をながめた。ケメア岬の向こうの方は、断崖になった沿岸がずっと続き、さらにその向こうはかすみの中に消えている。太陽はその沿岸の上にあって、しだいにしずんでいくところだった。「あの、立っている石を見ろよ。もうすぐ太陽が、昨日と同じくらいの低さになるぜ」
「近くから見ると、とてもちがって見えるわね」ジェインが、風雨にさらされた花こう岩の石のまわりを、まわっていきながら言った。「昨日あちら側の岬から見たとき、太陽とちょうど一直線上になったのは、この石のうちのどれなのかしら?」
「いちばん大きいやつだよ」と、バーニイが言った。「ほかのよりも高く見えたんだ」
夕日は地平線を真っ赤にそめ、三人の顔も、オレンジがかった金色の光線があたって赤くなった。「かげを見ろよ」とつぜん、サイモンが言った。サイモンが指さすと、それにつれて地面に長く落ちたサイモンのかげの長い腕が動いた。地面には草がはえているので、動くかげのふちはぎざぎざになって見えた。「この岬からたしかめるにはこうすればいいんだ。ぎゃくに考えればいいのさ。昨日、この石のうちのどれかが、太陽とおれたちをむすぶ直線上にちょうどあったんだ。ということは、ここからだと、その石のかげは、おれたちが昨日立っていた点をちょうどさしているはずだろう。つまり、メリイおじさんがすわってもたれていたあの岩をさ」
サイモンの指さす方を見ると、なるほど、向こう側の岬にずんぐりした岩が一つ見える。空に小さくぽつりとつき出して見え、しずむ夕日をあびて明るくかがやいている。こちらのケメア岬の石よりも高い位置にあり、またずっと海の方によっている。しかし、昨日たっていたのは、まちがいなくあの地点なのだ。
ジェインが、すっかり感心したようにサイモンの顔を見た。それはジェインにしてみればめずらしいことだった。サイモンはちょっぴり赤くなった。と思ったら、急にひどく元気づいて、「さあ、バーニイ、早くしないと日がしずんでしまう。どの石がそうだと思う?」
「そうだなあ、いちばん大きいやつだったら、これにちがいないと思うけど」
バーニイは一メートルか二メートルほど斜面をおりて、いちばん背の高い石のところにいった。そして石の向こう側へいき、港の方をむいて、石のかげの中にしゃがみこんだ。そこから、湾をこえて、向こうの岬のぽつんと小さくつき出した石を、じっと見つめた。へんだなあ、というようにバーニイは顔をしかめた。サイモンとジェインは、そのそばまでいって、待ちきれないといった様子でバーニイのこたえを待っていた。
バーニイのしかめっつらは、しだいにひどくなった。そして急に今度は草の上に腹ばいになったかと思うと、石のかげの通りにまっすぐ体をのばし、真正面の方向を見た。「ぼくの体、まっすぐになってる?」口の中でもごもご言うような声で、バーニイは言った。
「ああ、なってるぜ、ぴったりまっすぐだ。その石がやっぱりそうか?」
バーニイは体を起こした。がっかりした様子だった。「ちがうんだ。この石のかげは、あの岩の方を正確にはさしていないよ。あの岩は、はっきり見えるんだけど、まっ正面に見るようにするには、目の位置を少しずらさなくちゃならないんだ。だまされてるみたいだな」
「でもバーニイ、おまえが見たのはいちばん背の高い石だったって、そういったんだぜ」
「だってそうだったもの」
「そんな話ってあるかしら」と、ジェインががっかりして、きげんの悪い声で言った。
サイモンは、いっしょうけんめい頭をはたらかせていた。リュックサックの皮ひもを手に持って、自分でも気づかないでぶらぶらふっては足にぶつけていた。サイモンはうしろをふりむくと、ほかの三つの石をながめた。石は今では黒く見え、そのふちだけが、しずむ夕日の明かりで金色だった。そのとき、サイモンはさけび声をあげ、リュックサックを投げ出すと、いちばんはなれている石の方に走りよっていった。そしてバーニイがしたように、その石のかげの中に体を横たえた。息を止めて、草の上にあごをつけ、目を閉じた。
「頭の方をほんの少し左へ動かして。まっすぐなってないわ」ジェインがサイモンのすぐそばで言った。サイモンがなにを考えているのか、わかりかけてきたのだ。
サイモンはひじで体をささえるようにして、何センチか体を横にずらした。「これでいいかい?」
「オーケー」
両手の指を組んで、サイモンは目を開けた。草の葉ごしに、まっすぐ前方に目をやると、むこうの岬の夕日に明るくかがやいているあの岩が見えた。視野のちょうどまん中にあって、それはサイモンをまっ正面から見つめていた。「この石がそうだ」と、サイモンは妙におしころしたような声で言った。
バーニイがあわててかけよって、サイモンの横に寝そべった。「ぼくにやらせてよ、ぼくに――」バーニイはひじでサイモンを横へおしやると、目を細めてはるか港の向こうの岩をじっと見つめた。「兄さんのいう通りだな」と、バーニイはしぶしぶ認めた。「でもぼくが見たのは、いちばん大きい石だったんだよ、まちがいないんだ」
「その通りよ」と、ジェインが言った。
「なんだって? なにがその通りなんだよ?」
「石がどんなふうに立っているか、見てみなさいよ。地面の傾斜もね。ここは岬の頂上だけど、平らじゃないでしょ。いちばん大きい石は、ほかの石より低いところに立ってるのよ。いまあんたのそばに立ってる石は、いちばん背の高い石じゃないけど、この丘からいちばん高く頭を出している。それで、昨日この石が空につき出ているのを見たときに、この石がいちばん背の高い石のように見えたというわけよ」
「なんだ、ちきしょう」と、バーニイは言った。「それは考えてみなかったな」
サイモンが、お高くすましたような口ぶりで言った。「おまえ、最後にはそれに気づくかと思っていたけどな」
「兄さんって、とても頭よかったわね」ジェインが言った。「もし、あれほどすばやく考えつかなかったら、とうとうわからずじまいだったかもしれないわ。もうすぐ、かげはなくなっちゃうもの」そしてジェインは、草の生えた地面を指さした。三人のうしろの、はるか遠くの地平線上に、真っ赤な夕日は今やしずもうとしていた。夕やみがしだいにあたりにたちこめ、その中に石の長いかげもとけこんでしまおうとしていた。でも港の向こう側の岬の岩は、こちらの石よりも高い位置にあり、それだけ太陽が当たる時間も長かった。今もなお明るくかがやき、灯台のようだった。
バーニイが、よろこびの声をあげた。「ついにやったぞ! ぼくたちやったぞ!」立っている石の、かたい、まだ太陽のぬくもりののこっている表面を、バーニイは一方の手でひっぱたくようにすると、そのまわりをぐるぐるまわった。「最初の手がかりをつかんだぞ。信じられないみたいだね?」
「まあ、ほんの第一歩にしかすぎないけどな」と、サイモンは言った。口には出さないけど心の中では、サイモンもうれしくてしかたがないのだった。三人とも急に、すごく力が体中に満ちあふれて来るように感じていた。
「ぼくたち、すでに第一歩をふみ出したんだ……」
「つぎのかきがどこにあるのか、あたしたちには今やわかってるわけね」
「それはここなんだ」そう言ってバーニイは、もう一度立っている石の上に手を走らせた。「この石なんだ」
「しかし、この石からどこへこんどは進むんだ? それにどうやって?」と、サイモンは現実的になろうと心にきめて、言った。
「そりゃ地図をもう一度見さえすればいいんだと思うよ。きっとなにかがわかるはずだよ。というのは、向こうの岬からここの石までどうやってさがしあてるかという最初のかぎだって、実際、じつにめいりょうにかいてあったんだから」といってバーニイは、さっきサイモンがリュックサックを放りだしたところまでかけよると、ひもをほどいて中をかきまわし、ケースからよごれた茶色の古文書の巻き物をとり出した。「ほら」といって、バーニイはドシンと腰をおろすと、自分の前の草の上にそれをひろげた。
「ここに石のしるしがある……」
「もっと上の方に持っていくんだ」と、サイモンが肩ごしに斜面の上の方を見ながら言った。
「上の方の草にはまだ日が当たってる。それを見るのには、いちばん明るいところがいいんだ。それに、とにかく上の方があたたかいだろう」
バーニイはいそいそと斜面をよじのぼっていった。いちばん背の高い石の、大きな灰色の根もとのところをすぎると、しずむ夕日の最後の金色の光をあびて、草はまだ明るい色をしていた。バーニイに追いついたサイモンとジェインは、自分のかげが、カールした古文書の、不めいりょうな字を見えなくしないように、それぞれバーニイの両側に立った。三人はのぞきこんで、食いいるような目で、九百年も前にひとりのコーンウォール人がかきしるした、この岬に立っている石のぞんざいな走りがきの線を見つめた。
ミス・ウィザースの声が、うしろで聞こえた。「やっぱり地図を見つけていたってわけね」
どぎもをぬかれたバーニイは、古文書の上にかぶさるようになって、こおりついたみたいに動かなくなった。サイモンとジェインはぎょっとなって、くるりと体がひとまわりした。
ミス・ウィザースは三人の少し上のところ、それもすぐ近くに立っていた。夕空を背景に、彼女のシルエットが黒く、せまって来るようにうきあがり、その顔は見えなかった。ビル少年が声もなく彼女のうしろに姿をあらわし、すぐ横にならんで立っていた。そのふたつのシルエットを見て、ジェインは思わず逃げだしたくなった。そしてとつぜん、岬には物音一つせず、人気もなくひっそりと静まりかえっているのを知って、こわさが胸につきあげてきた。
知らず知らずのうちにバーニイは、開いている指をにぎりしめていた。おさえていた古文書のはしが手からはなれ、ひとりでに巻きもどった。その巻きもどるかすかな音が、あたりの静けさの中で、機関銃の音のように聞こえた。「あら、しまわないでちょうだい」と、ミス・ウィザースがはっきりした口調で言った。「わたしに見せてほしいの」
彼女は手をさしだして、一歩前に進み出た。おそろしさのためにこわばった声で、ジェインはふいにさけんでいた。
「兄さん!」
黒いかげが、上の方からみるみる自分の方に気味悪くせまってきたとき、サイモンははっとわれにかえった。考えるよりも先に、体の方が動いていた。くるりと向きをかえると、すばやくバーニイのところにかけより、そのひざもとの古文書をひっつかんだ。それからサイモンは、すべるようにケメア岬の斜面を、村の方へ向かって、かけおりていった。
「ビル! はやく追うのよ!」ミス・ウィザースがかみつくように言った。するとそばに立っていた、もの言わぬ大きなかげは、とつぜん弾丸のように飛びだして、サイモンの後を追って丘をすさまじいいきおいでかけおりていった。しかしビル少年は、体がついていけないほどのスピードを出したものだから、斜面のはしのあたりでは、体が地面からうきあがらんばかりになり、足がもつれて、今にもころびそうになった。それでもビルは、まもなく体勢を立てなおしたけれど、その間にサイモンは草の上をまっすぐすべりおり、曲がりくねった小道をどんどんかけおりて、三十メートルほどリードをうばった。
「追いつけやしないわよ」と、ジェインは言った。興奮のあまりその声はふるえていたけれど、ほっと安心して、こわばったほおに微笑がひろがるのを彼女は感じていた。
「負けるな、にいさん!」バーニイは両足をばたつかせながら丘の下の方にむかってさけんだ。
ミス・ウィザースがふたりの方におりてきた。その顔を見て、ジェインとバーニイは思わずあとずさりした。怒りのためにその顔はゆがみ、ぎょっとなるような、今まで見たことのない顔になっていた。もうぜんぜん魅力的ではなく、若々しくもなかった。つっけんどんな口調で、ミス・ウィザースは言った。「ばかな子どもたちよ、あんたらは。自分たちにわかりもしないものを、いじくりまわしたりなんかして」
そういうと、身をひるがえして、丘の斜面を急いで大またに、サイモンのおりていった方角におりていった。その怒ったようなとがったうしろ姿が、曲がりくねった小道を右むいたり左むいたりしながらどんどん遠ざかっていき、ついに岬のすその向こうに消えてしまうのを、ジェインとバーニイはじっとながめていた。
「さあいこう。メリイおじさんをつかまえなくちゃ。兄さんには助けがいるよ」と、バーニイが言った。
* * *
かわいた草は、サイモンにはつるつるした木みたいだった。丘の斜面をすべりおりるとき、なにもつかむものがない。だから足ですべりおりているかと思うと、バランスをうしなって今度は背中とひじで、ずるずるすべりおりるという具合だった。一方の手にもった古文書だけは、いつも、いためないように高くかかげて持っていた。うしろの方で、あの村の少年がすべりおり、よろめく重そうな音が聞こえた。彼の、ハア、ハアいうあらい息づかいも、ときどき足場をうしなってころび、「あっ、ちきしょう」と口ばしる声も、聞こえた。
走りおりながら、目の下にひろがる港を見てサイモンは、いっそのことまっすぐに海に飛びこんでしまいたいような気になった。丘の小道を三人でのぼっていった時よりも、傾斜はひどく急なように思え、斜面は緑のカーブをなして、下の方までどこまでも続いているのだった。サイモンの心臓はどんどん鳴っていた。逃げることにせいいっぱいで、もしつかまったらどうなるかということまで考えられなかった。でもしだいに、サイモンのみぞおちのあたりをしめつけていたおそれあわてる気持ちが消えていって、頭が少しずつはたらきはじめていた。
いまや、サイモンにすべてがかかっているのだ――古文書を安全に守り逃げること。そう考えると、なんだかもりもりと気力がわいてくるようだった。たとえばこんなふうに考えることもできるだろう。つまり、これは学校での競走《レース》か闘技《ファイト》みたいなもので、サイモンとビル少年との対決なのだと。もちろんサイモンは、勝ちたいと思った。息をきらせながら、肩ごしにうしろをふりかえった。少年は、サイモンとの距離を少しずつつめてきているように見えた。サイモンはのこりの斜面を、体を放りだすようにずんずんおりていった。すべりおりたり、背中を斜面にドシンドシンたたきつけたりしながら、びっくりするような速さでずり落ち、ときどき両足で立って、ニ、三歩よろめくようにかけおりる、といった具合だった。
そしてとうとう、サイモンは斜面のいちばん下のところにたっし、思わずよろよろしながら、大きく息をすいこんだ。追いかけてくるビルの方をちらと見あげると、ビルはサイモンを見てわめき声をあげて睨みつけた。サイモンは平らになった地面をかけ出した。ウサギのようにかけながら、しだいに自信が強くわいてくるのを感じていた。でもサイモンはビルをふり切ってしまうことはできなかった。サイモンより強く、大きく、足も長いこの村の少年は、しつようにサイモンの後を追っかけてくるのだ。重そうな足どりだけれど、けっしてころぶことはなかった。
野原のはずれまで走ってきたサイモンは、いけがきの横木に近づくと、ぐらぐらするその上のはしを片手でつかんで、いけがきを乗りこえた。反対側に出ると、そこは静かな道だった。深くきざまれた車のあとが、地面に岩のようにかたくついていて、道ばたには木が立ちならび、深くしげった葉が道の上に天井のようにはり出していた。もう日ざしはすっかりなくなって、木の下はうす暗かった。道のどちらの方向も、数メートル先は見分けがたく、やみの中にとけこんでいた。
サイモンは手に古文書をにぎりしめ、両手のひらが汗ばむのを感じながら、きょろきょろと道の両方向をながめた。一体どちらへ進めば、グレイ・ハウスの方にいけるのだろうか? もはやここには海の音は聞こえてはこなかった。
あてずっぽうに、サイモンは右を向くと、そのまま道をかけだしていった。うしろの方で、ビル少年がいけがきの横木をよじのぼるブーツの音が聞こえた。こちこちにかたまっている車のあとに足をとられないように、たくみに身をかわして走りながら、どこまでいってもこの道はおわりがないようにサイモンには思えた。曲がり道を走りぬけると、その先にさらに道はのびていた。どこまでも続く暗いトンネルのように、木の枝やもり土が道の両側をふさぎ、どこかの門に通じる出口も、ひろいところに出る切れ目もないのだった。
ビル少年の足音が、うしろの方で、道のかたくかわいた土をふんで追ってくるのが聞こえた。
もうさけび声はあげず、だまったまま、しつようにどこまでも追いかけてくるのだ。サイモンの心に、ふたたびおそろしさがこみあげてきた。このトンネルのような道を早くぬけて、どこかひろい場所に出てくれないかと願いながら、サイモンは必死になって走った。
つぎの曲がり角まで来ると、ふいに空が見えた。うす暗いところを走りつづけていたので、空はとても明るく見えた。そしてサイモンはやがてトンネルのような道をぬけ出て、ひっそりと立っている壁や木を横に見ながら舗装道路を走っていた。どこへいくのか考えている時間も、ないままに、サイモンは、ひとりでにまた道を曲がっていた。人気のない道の上を、サイモンはゴム底のくつのやわらかい音を立てて、走っていった。
一方の側は、高い灰色の壁が長々と続き、もう一方の側は、野原とのさかいになっているいけがきだった。今どこを走っているのか、サイモンにはまるでわからなかった。いつか、走るのがおそくなっているのに、サイモンは気がついていた。どんなにけんめい走ろうとしても、つかれが出てきはじめたのだ。だれか来てきてくれないか、とサイモンは願いはじめていた。だれでもいい、道を歩いている人がいてくれれば――。
今や、ビル少年の足音は、しだいに近く大きく聞こえてきた。木にひそんでいる小鳥たちの静かな夕方のさえずりよりも、その足音の方が大きかった。自分の足音よりも耳につく相手の足音をうしろにして、サイモンはふいにある考えを思いついた。ようやく道が二つにわかれているところにさしかかったとき、サイモンは最後の力をふりしぼるように全速力で走り出し、横の道にかけこんだ。
へいのいちばんはしに、門柱が二つならんだ門があり、そこから一面に草の生えしげった車を乗り入れる道が見えた。サイモンがかけこんだ横道のはるか先の方に、トリウィシック教会の塔がつきでているのを見たとき、家からすっかり遠くまできてしまったことを知ってサイモンは、がっくりした気持ちになった。
ビル少年は、まだ角を曲がってきてはいなかった。でもサイモンの耳には、少年の足音がしだいに大きくひろい方の道からひびいてくるのが聞こえてきた。サイモンはすばやく、車を乗り入れる長い道のさびれた入り口から、身をすべりこませた。そして門の横のところにからまったように生えているしげみの中に、もぐりこんだ。四方八方から、とげや、とがった小枝が、体につきささる痛みに、サイモンは飛びあがった。でも、しげみのうしろにじっとうずくまって、はく息をしずめようとけんめいだった。心臓の鼓動が、道のどこからでも聞こえるにちがいないと、サイモンには思えたからだ。
サイモンの計略はうまくいくだろうか? ビルが見えてきた。髪はもじゃもじゃで、真っ赤な顔をし、道のはしに立ちどまって、通りをあちら、こちらと見つめていた。おかしいなというように、そしておこったような顔で、頭をぴんと起こし、足音がどっちの方へいったかと耳をすましていた。やがてビルは向きをかえると、横道の方に足をむけ、サイモンがかくれている方へゆっくりと歩いてきはじめた。それでも確信はなさそうに、肩ごしにまたうしろをふりかえったりした。
サイモンは息を止めた。そしてしげみの奥の方へさらにしゃがみこんだ。
ふいに、うしろの方から物音が聞こえてきた。はっとしてふりむいたとき、赤紫色の大きなフクシアの花が目にあたって、サイモンはちぢみあがった。じゃりをふむ足音が、車の乗り入れ道を門の方へ進んでくるのがわかった。しげみのすきまから見ていたサイモンの目の前が、一瞬暗くなり、ひとりの男がすぐ近くを通りすぎた。そして門のところから出ていった。とても背の高い男で、黒い髪をしていたけれど、顔はわからなかった。
その男はゆっくりした歩き方で、表通りの方へ歩いていく。全身に黒いものを着ていた。長くて細い黒い足は、サギのあしのように見えた。黒い絹の上着の肩のあたりが、銀色に光っていた。ビル少年のふきげんな顔が、この男を見たとき急に明るくなった。そして道の中ほどまでかけよっていった。ふたりはなにか立ち話をしているらしかった。でもサイモンのところからは、はっきりしない低いぼそぼそ声しかわからず、なにを話しているのか、まるで聞きとれなかった。ビルが両手を使いながら、走ってきた道路の方をさして、それから車を乗り入れる道へと、手を動かして説明していた。背の高い黒い服の男が、首をふっている。サイモンにはやはりその顔は見えなかった。
やがて、ふたりとも門の方をふりむき、サイモンのいる方に歩いてきはじめた。ビルはまだ熱心に話しつづけている。サイモンはぎくりとふるえて、いっそう体をひっこめた。急に、ビルに追いかけられはじめて感じたこわさよりも、もっと強いおそろしさが、サイモンをとらえた。この男は、ビルの顔見知りの人物なのだ。ビル少年はほほえみながら話している。ビルはこの男に出会って、ほっとしているのだ。だれか知らないが、この男も敵なのだ……。
サイモンにはもうなにも見えなかった。首をひっこめてしげみの葉に向かいあい、じっと動かないでいるのがせいいっぱいだった。ところが、砕石をしいた外の道路を歩く足音は、じゃり道をふむ足音へとかわらなかった。ふたりはへいの外をそのまま通りすぎていったのだ。なんだかわからないけれど話し声が聞こえた中で、一つだけサイモンに聞きとれた文句があった。それを言ったとき、村の少年の声が高くなったのだ。「あいつをぜったいつかまえよと、あの人がいったのに…。たしかにこの道にまちがいないのに、おれ見うしなってしまったようです……」
ぼくを見うしなったな、とサイモンは考えてにやりとなった。ふたりの足音が消えていき、こわい気持ちがうすれていった。自分よりも大きい少年をとうとう出しぬいたぞ、と思うと、ほこらしい気持ちがこみあげてくるのだった。片手に持った古文書を見やって、サイモンはよかったなというように、そっと手に力を入れた。ふたたび、沈黙がまわりをとりかこんでいた。しのびよる夕やみの中で、小鳥たちの歌う声が聞こえるだけだった。もう何時ごろになるだろう、とサイモンは思った。ビル少年との追いかけっこは、まるで一週間も続いたように思えた。長い間じっと体をちぢめていたので、足の筋肉がそろそろしびれを切らしはじめていた。でもサイモンはまだ待っていた。あの男と少年が今も近くにいる気配はないかと、耳をすませていた。
ついに、サイモンは、ふたりは道を歩いていってしまったのだと判断した。古文書をしっかりつかむと、もう一方の手で目の前のしげみをかきわけ、門内の車入れの道に足をふみ出した。だれもいなかった。なに一つ動くものもなかった。
用心深く、つま先で車入れの道を横切って、門のところから、道路の様子を左から右へとうかがった。人の姿はなかった。ほっとして、元気づいてきたサイモンは、門から道路へ出ると、もときた道の方へ歩いていった。
数歩もいかないうちに、サイモンは、ビル少年と黒い服の男が五十メートルほどはなれたあたりに、へいのところにいっしょに立っているのを、はっきりとみた。
息が止まりそうだった。そしておどろきのあまり胃のあたりがねじれてはきけがしそうだった。ちょっとの間サイモンは、ふたりに見つかるより先に、もとのかくれ場所にもどるべきかどうか、まよってその場に立ちつくしていた。催眠術にでもかかったように、サイモンが一瞬ぽかんとして、ためらっていたとき、ビルが顔をこちらに向けたと思うと、大声でさけんで追いかけてきた。いっしょにいた男も気がついて、ビルの後から走ってきた。サイモンはくるりと体の向きをかえると、ひろい道路の方へ向かってかけだした。まわりは静まりかえっていた。あの木の葉のしげったトンネルのような道を走りつづけていたときと同じように、急におそろしさがこみあげてきた。人ごみの中に出れば安心できるのにと、サイモンは痛いほど思った。人がおおぜいいて、車もたくさん走っているところなら、サイモンはすくなくともひとりきりだという心細い、こわい思いをしないですんだことだろう。ところが今、サイモンは、どこまでも執念ぶかく追いかけられながら、どこまでいってもひとりきりで、だれにも助けられるあてはないのだった。
横道をどんどん走りぬけ、角をまわり、教会の庭のへいにそって、サイモンはかけつづけた。早く、早くと心はあせった。でも走っていくうちに、しだいに、心臓が弱ってきた。さっきしげみの中でうずくまっていたので、両足がかたくなっていた。体中が、ひどいつかれのために、くずれてしまいそうだった。もう、そう長くは走りつづけられないとサイモンは感じた。
一台の車が通りすぎた。スピードを出してサイモンと反対の方向へ走っていった。道路をけってかけつづけるサイモンの、うすいゴム底のくつの中の足が、痛くなってきたとき、サイモンは必死で思った――大声をあげて、通りかかる車に手をふってみようか……それとも小さな家にとびこんで助けをもとめようか……。村にだんだん近づいてきて、道路の外側に小さな家があらわれるようになてきたのだ。でもビル少年のほかに、もうひとりの男がいるのだ。サイモンがだれか見知らぬ人にすくいをもとめても、あの男はどんな口実でもつくりあげるだろう、そして見知らぬ人はたぶんそれを信じてしまうだろう……。
「とまれ!」うしろで太く低い声が、サイモンを呼びとめた。絶望的な力をふりしぼって、サイモンはスピードをあげようとした。もしつかまったら、なにもかもおしまいなのだ。古文書はうばわれ、すべての秘密が彼らにわたってしまう。そうなれば、もうどうしようもない。サイモンは信頼をうらぎってしまうことになり、メリイおじさんを敗北者にさせてしまうのだ……。
息がとても苦しくなってきた。そして足もともふらついてきた。少し先に十字路があった。うしろで聞こえる、速いしっかりした足音が、いよいよ間近にせまってきた。ほとんど耳のすぐうしろで、相手の息づかいが聞こえるほどだった。ビル少年が、勝ちほこったような声でさけぶのが聞こえた。「そら……もうひと足……」ビルのその声は、サイモンのすぐうしろにせまった足音より、ずっとうしろの方から聞こえてきた。すると足音のぬしは、あの男にちがいなかった。それはもう手がとどきそうなくらい、すぐ近くにせまっていた……。
呼吸が苦しくなって耳が割れそうに鳴っていた。目の前に十字路があらわれてきたけれど、サイモンの目には、それはぼんやりかすんだようにしか見えなかった。もうろうとした意識の中で、すぐ近くで車のエンジンのうなりがするのを聞いたけれど、サイモンのつかれはてた頭には、それっきりなにも感じられなかった。急にするどいブレーキの音がして、十字路を半分ほどいったところで、サイモンは大きな車のさびついたボンネットに衝突しそうになった。
サイモンは両足をふんばってすべるように急停止しながら、うまく体をそらして車をまわりこんだ。うしろにせまった危険のことしか、サイモンの頭にはなかったのだ。そのときだった。暗くなっていくたそがれの空に、ふいにふたたび太陽がぱっと明るくかがやくのを見たように、サイモンは、車のウインドウから身を乗り出したメリイおじさんを見たのだった。
エンジンがまたもうれつにうなった。「反対側だ! 乗りこめ!」窓からメリイおじさんが、サイモンに向かってどなった。
助かったという思いに、泣きだしそうに息を切らしながら、サイモンはよろめくように大きな車のうしろをまわり、反対側のドアを開けた。そしてきしむシートにたおれこむように体を入れると、ドアを引いてしめた。メリイおじさんはクラッチを入れ、あらっぽくアクセルをふんだ。車は前に飛びだし、すごいいきおいで角を曲がると、道路をまっしぐらに走りさった。
第八章 夜のケメア岬
「でもどうしてあそこへ来ればいいとわかったの?」グレイ・ハウスにのぼっていく丘のふもとで、メリイおじさんが大きな音をたててギアをチェンジしたとき、サイモンはたずねた。
「いやわからなかった。わしはただ、おまえを見つけようと思って村中車を走らせていたんだ。ジェインとバーニイがあわてふためいて家にもどってきたので、わしはすぐに出かけた。あのふたりときたら、ひどいとりみだしようだった――客間に飛びこんでくるなり、わしの体をひっつかむようにしてな。おとうさんとおかあさんは、むしろおもしろがってるようだった。わしたちが、なにか秘密のゲームでもやってるように思ったらしい」そう言ってメリイおじさんは、きびしい顔つきで暗い笑いを見せた。
「でも、メリイおじさんがあの道を来てくれたのはラッキーだったなあ」サイモンは言った。
「だれかに会ってあんなにうれしかったことって、今までになかったもの」
「そりゃ、わしはトリウィシックをよく知っておるからな。ジェインたちが、家にもどるほうの道には、おまえはいなかったといっていた。それでわしには、おまえがほかにいったとすれば道はもう一つだけしかないとわかった。おまえはペントリース小道の方へ出たのとちがうかな?」
「ええ、小道があったよ」サイモンは言った。「まわりがぜんぶ木でおおわれていてね。なんていう道なのか、見るよゆうなんてまるでなかったけど」
メリイおじさんは、ふくみ笑いをした。「たしかに、そんなよゆうはなかっただろう。とにかく、わしはおまえがその小道から出てきたトレゴニイ大道路に出る、とかけたのじゃ。じっさいにおまえはその通りにした。反対の方向へいかなくてよかった」
「なぜ?」と、サイモンは言った。あの少年がうしろの方で、いけがきの横木をこえようとしていたときに、サイモンは小道のどっちの方向にいこうかとまよって、あてずっぽうに進む方向を決めたときのことを思い出したのだ。
「反対方向にいくと、あの小道はいきどまりになっている。ペントリース農場に出てしまう。農場といえるかどうか――もう長い間あれほうだいにまかせてあるのでな。ポークおばさんの、心がけの悪い兄弟がそこに住んでいる――ビル=フーバー少年の父親だ。あの少年は、わしの見るところ、そうたびたびは家にもどっていないが、とにかくいやいやでも、もどってくればそこに住んでるわけだ。まあそういったわけで、おまえがそこへ逃げこむには、あまりいい場所ではなかったろう」
「そうだったの!」サイモンは、そこへ逃げこんでいたときのことを考えてみて、背すじが寒くなってくる思いだった。
「まあ、気にしないことだ。とにかくおまえはそうしなかったんだからな」メリイおじさんは、最後に車をがたがた、ぶるんぶるんいわせて止めると、ハンドブレーキを引いた。「さあついた。ぶじに家までな。走っていって、おかあさんに見つかるまえに体をきれいにしておくんだな。いい具合に、おかあさんの友だちのだれかが夕食にきている。だからおかあさんは客間にずっといることだろう。さあ、おりて。わしは車をしまうから。ああそうだ、サイモン――」
古文書をしっかり胸にだくようにして、ドアから出ようとしていたサイモンは、そのままの姿勢でうしろをふりかえった。メリイおじさんの顔だけがそこに見えた。もじゃもじゃの白髪は、かげになって黒くもつれて見え、丘に立っている街灯の光を反射して、二つの目だけが、やみの中に光る二つの点のように気味悪く光っていた。
「たいへんよくやったな」と、メリイおじさんは静かに言った。
サイモンはなにも言わなかった。急にぐっとおとなになったような気持ちになって、ドアを閉めた。車が中古らしい音をたてながら丘の上の方へ走っていったとき、サイモンはつかれたこともすっかりわすれてしまっていた。背中をしゃんとのばして、道を横切っていった。
サイモンが玄関に一歩足をふみ入れるか入れないうちに、ジェインとバーニイが姿をあらわした。ふたりはサイモンを引っぱりこむようにむかえ入れると、階段の方へつれていった。
「つかまったの?」
「まだ古文書持ってるわ! まあ、うまくやったのね……」
「兄さんはつかまって、ひどくぶたれたにちがいないとぼくたち思ってたんだ……」と言ったのはバーニイだった。目を大きく見開いて、大まじめな顔つきだった。
「けがはなかったの? どんなふうになったの?」ジェインは医者のように注意深くサイモンの体に目を走らせた。
「おれはだいじょうぶさ……」
とつぜん、客間のドアがあいて、階段のホールのところに明るい光が横切った。客間の中の話し声が聞こえてきて、おかあさんがこちらに向かって大きい声で言った。「あなたたちなの、そこにいるの?」
「ええ、そうよ」と、ジェインが手すりごしにこたえた。
「もうすぐお夕食だから、おくれないでね。手を洗ったらすぐにいらっしゃい」
「はい、おかあさん」ふたたびドアが閉まった。「あそこでずっと、話し通しなのよ」と、ジェインがサイモンに言った。「おかあさんとおとうさんが港で、長らく会わなかった友だちに会ったの。そしてその女の人がペンザンスに住んでることがわかったってわけね。その人も絵をかくんだと思うわ。夕食にきてるのよ。なかなかいい人みたい。兄さんは何キロも追いかけられたの?」
「何百キロもさ」と、サイモンは言った。あくびが出てきた。「何百キロも、何百キロも……そしてとうとうつかまりそうになった間一髪のところで、メリイおじさんが来てくれたんだ」
「ぼくたちがメリイおじさんに、兄さんの後を追っかけてもらったんだ」と、バーニイがいきおいこんで言った。三人は階段をのぼっていった。
「あたしたちがいってもらったんじゃないわよ」ジェインは文句ありげに言った。「メリイおじさんが自分からいったの。なにがあったか聞いたと思ったら、まるでロケットのように飛び出していったんだわ」
「でもぼくたちが話さなかったら、メリイおじさんはいかなかったと思うよ。そうしたら兄さんは、助けてもらえなかったんだ」バーニイはしだいに興奮してきながら言った。もし自分が追いかけっこで英雄になるという役になれるのなら、バーニイはだいじな耳をやってもおしくはない、どんなことだってする、とさえ思った。「兄さんがどっちへいったのか、ぼくたちにはわからなかったんだ。ちょっとの間ミス・ウィザースの後をつけていったんたけど、あの人は岬をおりていくと、ふもとのところで草の上にすわりこんで、海の方をながめていただけだった」バーニイは、へんにかん高い声になって言った。
「それでぼくたちは、うちへ走って帰ったんだ。そしたらちょうどメリイおじさんが、つりから帰ってきたところだったんだ。メリイおじさんと兄さんが車からおりるのを見たときは、ほんとにぼくたちうれしかったな」と、バーニイは思いがけもなく、そうつけくわえた。
「おれのうれしさの半分もいかんだろうさ」といって、サイモンはまたあくびをした。そしてひたいをこすりながら、「なんだか気持ち悪いな。きっとしげみの中にかくれていたからなんだろう……さあこいよ。洗いながら話してやるぜ」
* * *
はじめのうち三人は、食べるのにいそがしくてほとんど話さなかった。そして夕食のおわりごろになると、今度は今にもねむってしまいそうで、ねむけと戦うのにけんめいだった。だから三人にとっては、ミス・ハザートンがいてくれたことはありがたかった。この人は小柄で、元気よくおしゃべりする、ぴちぴちした感じの女の人だった。かなり年をとっていたけれど、灰色の髪を短くかりこんで、目はきらきら光っていた。彼女は彫刻家で――それも有名な女彫刻家だと、後になってメリイおじさんが話してくれた――おかあさんが美術学校の学生のときおそわった先生なのだった。それにこの人は、サメとりが大好きのようだった。夕食の間、おかあさんと美術の話をとても熱心にしているかと思うと、おとうさんとはつりの話しをするという具合だった。ジェインたち三人は興味を持ってその話を聞いていた。だが、ポークおばさんがコーヒーを持って入ってきて、子どもたちのあくびを見のがさなかったおかあさんが、もうベッドへいきなさいと言ったときは、正直言ってほっとした。いすから立ちあがり、おやすみなさいを言うと、ミス・ハザートンはゆかいそうな声で言った。
「コーンウォール地方の空気ときたら、あなたたち子どもをねむらせるにはいちばんですからね」それからおかあさんに向かって、「もしこの中で、あなたの後をつぐ子がいるとしたら、それはあの子ね」と言って、めんくらったことには、バーニイを指さした。
バーニイはミス・ハザートンを見て目をぱちくりさせた。
「大きくなったらなにをしようと思ってる、きみは?」と、彼女はバーニイにたずねた。「ぼくは漁師になるつもりです」と、バーニイはすぐさまこたえた。「大きな船に乗るんです。″白い羽″号のような」
ミス・ハザートンは大声で笑いころげた。「それを十年たってわたしにいうのね。とても信じられませんよ。あなたがその通りになってるとは。おやすみなさい。あなたの最初の絵は、わたしが買いますからね」
「あの人どうかしてるよ」三人が上にあがってきたとき、バーニイは言った。「ぼくは画家にはなりたくないんだよ」
「気にするな」と、サイモンが言った。「いい人だよ。ジェイン、いってしまわないで、ちょっとぼくたちの部屋によっていけよ。メリイおじさんもあがってくると思うんだ。ドアを閉めて出てくるとき、そんな顔でぼくたちの方を見てたから」
三人が待っていると、まもなくメリイおじさんがドアのところに姿を見せた。「ほんのちょっとしかいられないのでな」と、メリイおじさんは言った。「ミス・ハザートンやおかあさんと、カラバッジョとサルバトール=ローザのどちらがすぐれているかということで、ひどく長く、熱のはいった議論をはじめているのだ」
「やれやれだね」と、バーニイが言った。
「そう、バーニイがいうように、やれやれさ。わしはあのふたりとはすんでいる世界がちがうと思うんだが。しかし――」
「メリイおじさん、あたしたち見つけたの」と、ジェインが熱っぽい口ぶりで言った。「二番目の糸口をつかんだのよ。あたしたちのスタートはまちがっていなかったのよ。それはケメア岬に立っている石のうちの一つなの。兄さんとバーニイが本当にたしかめたのよ」ジェインは正直にそうつけくわえた。「さあ、兄さん、古文書を出して」
サイモンは立ちあがって、望遠鏡のケースを洋服だんすの上から引っぱりだした。それは前よりもよごれて、へこんだようになっていた。三人はベッドの上に巻き物をひろげると、いちばん最初の出発点になった岩と、ざっと小さくスケッチした太陽とをメリイおじさんにしめした。それからどのようにしてあの立っている石まで、なぞをたぐっていたかを説明した。
「でもぼくたちには、地図に出ているのが、立っている石の中のどれなのか、わからないんだ」と、サイモンが言った。「というのも、じっさいに岬にある石は、この地図のとはちがっているみたいなんだ」
やっぱり地図としかいいようがない、古文書のえんぴつがきの線を、三人はそろってのぞきこんだ。メリイおじさんも、だまってそれを見つめていた。
「ねえメリイおじさん」と、ジェインがなにか思いついたように言った。はっきりとはつかめないけれど、ある考えが、ジェインの頭にちらちらしはじめたのだった。「この古文書を書いた人は、なにもかも同じやり方でやったのかしら?」
「一体なんのことだい?」と、サイモンがベッドの上にあおむけにひっくりかえって言った。
「つまり、あたしたちがいちばん最初のなぞをとこうとしてたときのこと、おぼえてるわね。あたしがいったでしょ――六歩東へ進め、とかなんとか、そういうのがどの宝さがしの地図にも書いてあるものだって。そしたら兄さんは、そうとはかぎらないといったわね。あるものと、もう一つのものとを一直線にむすんで、位置をしめすようになっているのかもしれないって」
「それで?」
「ということは、何番目のなぞをとくときも、一つのものをほかのあるものと一直線にしてみなくてはならない、ということなのかしら? どのかぎも、けっきょく同じような種類のかぎなのじゃないかしら?」
「つまりジェインは、つぎにはおれたちは、あの立っている石とほかのなにかを一直線にむすんでみなくてはならないんだと、そういうわけかい?」
メリイおじさんは、なおも地図をじっと見つめていた。「その可能性はある。どうしてそう考えたんだね?」
「あれです」と、ジェインは言った。彼女は地図を指さした。みんながその方向を見つめた。
「なにもないじゃないか」と、バーニイ。
「ほら、そこよ、ケメア岬の先端の方よ」
「それって、ただのしみじゃないか」と、サイモンがはきすてるように言った。「そんなものになにも意味なんてあるものか」
「それを見てなにか思い出さないこと?」
「思い出さないな」と、サイモンは言った。そしてまたもあおむけになると、あくびをした。
「まあ、そりゃ、兄さんは……」と、ジェインは、いらいらしたように言った。「今日はよくやったわよ。それでつかれてるのよ。でも正直なところ――」
「ぼくが聞いているから」と、バーニイがすぐ横で言った。「そのしみがどうしたの?」
「それはぜんぜんしみなんかじゃないのよ」と、ジェインは言った。「少なくともあたしは、そうは思わないわ。ちょっとよごれてるみたいになってるけど、でも円だわ。かかれた円よ。なにか意味があると思うのよ。もう一つの円とよくにてるわ。立っている石の上にかいてある、夕日のことだとわかった円とよ」
サイモンがひじで上体を起こし、ふたたび興味をしめしはじめた。
ジェインが、大きな声で、考えながら話しつづけた。「一番目のかぎをといたときはどうだったかというと、太陽と、あたしたちの出発点になった岩とをむすぶ一直線上にあるあの石を、見つけなくてはならなかった。それからあたしたちは、その石のところにいって、かげの方向を調べて、それがまちがいないことをたしかめなくてはならなかったでしょ。だから、たぶんこんども、あたしたちは同じことをしなくてはならないのよ。その石と一直線をなすものを見つけて、それからそこへいって、そのかげが石の方向をさしているかどうか調べるの」
メリイおじさんがおだかやな口調で言った。「月のように満ちたりかけたりするが、けっして消えさることのないサイン……」
ジェインが興奮したような顔で、メリイおじさんに言った。「それだわ。それは古文書に、彼が書いていたことばでしょ? 地図の方と同じように、文の方にも、ぜんぶのかぎが書いてあるにちがいないわ。でもとてもわかりにくいかぎなので、あたしたちには手がかりをつかめないだけなのよ」
「かげ、かげというけどさ」と、サイモンが疑問ありげに言った。「おまえが今いったような方法より、もっとかんたんだったらいけないのかい? たぶんおれたちは、あの立っている石のかげがなにをさししめしているのかを、見つけさえすればいいんだと思うな」
「でもそれは、ぼくたちが最初にスタートした場所をさしてるんだよ」と、バーニイが行った。「だって古文書をかいた人は、かげを最初のかぎには使わなかったんだもの。最初のかぎは、″おまえと夕日との間になにがあるか調べよ″ということだったんだよ。かげは、ぼくたちが、それはあの石だということを証明するために、利用しただけなんだ」
「とすればこんどは、夕日でできるかげとはかぎらないわけだな」
「そうなのよ、それであたしのいうあのしみのようなしるしが問題になってくるのよ」と、ジェインは言った。
バーニイが、ねむそうな声で言った。「それは朝日かもしれないな。でもそんなことありえない。場所がそれだったらおかしいもの」
「そうなんだ」と、サイモンが言った。「たしかにおかしいんだ。だからあれは、ただのしみだな」
ジェインはいらいらしたように、口の中でぶつぶついいながら、サイモンの顔をにらむようにした。
「でも……なぜ太陽でなくてはいけないというの?」
メリイおじさんは、あいかわらずだまったきり、彫像のようにベッドのはしに腰をおろしていた。そしてまた、愛情をこめたような口調でひとりごとを言った。
「月のように満ちたりかけたりするが、けっして消えることのないサイン……」
サイモンが、ぽかんとした顔でメリイおじさんを見た。
「兄さんわからないの?」ジェインが、ほとんどほえるみたいにサイモンに言った。「太陽じゃないのよ――月なのよ!」
サイモンの顔が、風の強い日の空のようにかわりはじめた。いろんな表情がつぎからつぎとあらわれては消えた。ジェインから視線を地図にうつし、それからメリイおじさんを見た「メリイおじさん」と、サイモンは非難するような声で言った。「おじさんにはわかっていたんだね。ジェインのいうことは正しいの?」
メリイおじさんは立ちあがった。動いたときにベッドがきしんで鳴った。メリイおじさんの大きな体は、部屋をふさいでしまうように思えたほどだった。頭のうしろの天井からさがっている明かりで、メリイおじさんの顔が深いかげになっていた。そして子どもたち三人の心に、前に感じたことのあるあの不思議な印象が、またよみがえってきた。その大きな黒い姿の、頭のまわりをかすかに光が銀色にふちどっているのを見て、三人はおそれと尊敬の入りまじった気持ちになってだまりこんだ。
「これはおまえたちの仕事だ。いつでもおまえたちだけで、道を発見しなくてはならない。わしは、おまえたちを守る役で、それ以上のことはしない。最後までおまえたちを守るが、さらにおまえたちといっしょになぞをといたり、おまえたちを手助けしたりはできないのだ」メリイおじさんが、体の向きをわずかにかえたので、光がその顔にあたり、ふたたびふつうの声にもどった。「このつぎの段階でも、おまえたちにはなんらかの護衛が必要になるだろう。今度の段階がどういうものか、もうおまえたちにはわかっているな?」
サイモンがゆっくりと言った。「ぼくたちはあの立っている石のかげが、夜、どの方向をさしているか、見つけ出さなくてはならないんだ。月明かりの中でね」
バーニイが、あたりまえのように言った。「満月だよ」
「満月?」
「だって姉さんのいうあのしるしは――かいた人は丸くかいていて、三日月形にはかいてないよ。ということは満月を意味してるにちがいないもの」
「今は、月はどんな形してる?」
「今夜は月を見に岬へ出ていかないことだ」と、メリイおじさんがきっぱりと言った。
「いかないよ、そういうつもりでいったんじゃないんです。とにかくぼくの責任で、夜かってに出かけていくなんてことができるとは思わないもの」と言って、サイモンはまたあくびが出そうになるのをかみころした。「今は満月なのか、そうじゃないか、それが知りたかったんだ。もし今満月で見えなかったら、ぼくたち月が満ちてくるのを何日も待たなくちゃならない」
「今夜は満月よ」と、ジェインが言った。「あたしの寝室の窓から、よく見えたのよ。だから明日も、今夜と同じくらい丸いということよ。どうかしら、メリイおじさん? つまり明日の晩、あたしたちいって調べてみるってこと?」
メリイおじさんがこたえるより先に、サイモンがふたたびすわりなおすと、考えにふけるような様子で言った。「おまえたちのいっていることには、まずい点が一つあるな。もし満月をすぎたばかりの月が出ているとすると、そりゃじゅうぶんなくらい明るいだろうけどな。しかし、月というのは、変化しているものじゃないか? つまりだな、のぼったりしずんだりする時間もいろいろだし、時期によってその位置もちがっているんだ。ところで――いま八月だよ。古文書をかいたコーンウォール人が、なぞをとくかぎのことをかきしるしたのは、一月の中ごろのことかもしれないし、四月かも、そのほかの月かもしれないんだ。とにかく、おれたちが見る月とは、ちがって見えたかもしれないんだ。それがいつなのか、どうすればわかるんだい?」
「兄さんは、話をただややこしくしてるだけなんだ」と、バーニイが言った。
「そうじゃない」と、メリイおじさんは言った。「サイモンのいうことは正しい。しかし、一つだけいっておこう。いまは一年のうちで古文書のなぞをとく正しい時期だということが、いずれおまえたちにもわかるだろうと思う。幸運だといってよい。なんといってもよい、自分の好きなような。おまえたちが一番目のかぎを、とくことができたとき以来、のこりのかぎもおまえたちはといていけるだろうとわしはみている。そうだジェイン、明日の晩は月と立ち石を見るには、もってこいだぞ。おまえたちはまだ知らないが、願ってもないことがある――というのは三人が上にあがってからすぐあとミス・ハザートンがおとうさんとおかあさんに、ペンザンス(イギリス西南端の町。銅・錫の輸出地として知られる。漁港がある)にある彼女のアトリエを明日見に来ないか、そしてひと晩泊まっていかないか、といっていたからな」
「わあ! おかあさんたちいくの?」
「まあ、見ているんだな。もう寝るのだ。そして月を信じすぎてしまわないようにすることだ。まだまだ、おまえたちの考えている以上に大きな問題が、おまえたちを待ちうけているかもしれないでな」
* * *
ミス・ハザートンの小さなカブトムシ型の車のドアに片手をかけて、おかあさんは立っていた。「あんたたち、ほんとにだいじょうぶ?」おかあさんは心配そうに言った。
「もちろん、だいじょうぶよ、おかあさん」と、ジェインは言った。「一体どんなことが、あたしたちに起こるというの?」
「それはわからないけど、でもあんたたちをおいていくのが、なんだか気がかりなの……あのどろぼうの一件もあったし……」
「あれはもう大むかしのことよ」
「とにかく火事を起こさないよう、気をつけてればよろしい」と、おとうさんは楽しそうに言った。ミス・ハザートンがおとうさんに、つぎの日にサメをつりに連れていくと約束したのだ。だからおとうさんは、まるで学校の生徒のようにはしゃいでいた。
「メリイおじさん、この子たちの寝る時間がおそくならないよう、気をつけてやってください」車に乗りこみながら、おかあさんが言った。
「だいじょうぶ、心配しないでエレン」と、メリイおじさんが玄関のところから父親のような口調で言った。そのまわりに、子どもたちがぶらさがるみたいにくっついている様子は、まるで旧約聖書に出てくるむかしの族長のように見えた。「ポークおばさんがいるのだから、わしには子どもたちをそそのかして悪いことをさせるチャンスなぞないだろう。それどころか、わしたちはみんな、死ぬほど食べすぎることになりそうだな」
「ほんとにみんなもいっしょにこないの?」と、ミス・ハザートンが、朝日をうけてきらきら光っているハンドルによりかかるようにして言った。おとうさんが、うしろのシートに体をおしこむように乗りこむと、車がすこしゆれた。そのあとからサイモンが、おとうさんのつりざおを車の中に入れた。
「ほんとに、ぼくたちいきませんから」と、サイモンはミス・ハザートンに言った。
「むだですよ、この三人をトリウィシックから引きはなすことなんて、とてもできませんよ」と、おとうさんは言った。「まったくこの子たちを、隣の村までいかせようとするのだって、岩にくっついてはなれない貝を引きはがそうとするみたいなものですからね。家に帰ってくるときに、なにが起こってるやら」
「まあ、まあ、この子たちにはこの子たちの考えがあるんでしょ。だからあたしは、リオン教授、あなたをおさそいして連れだすこともできないんですわね?」
「おお、メリイおじさん」と、おかあさんが言った。「この子たちがあなたにつきまとって、すみません」そしておかあさんは、サイモンたちをにらむ顔をしてみせた。
「なにをいってるんだ。いかないのはわしの勝手だよ。とにかく、ペンザンスなんか、大きらいなところでな」と、メリイおじさんは言って、ミス・ハザートンに向かっておおげさに顔をしかめてみせた。ミス・ハザートンは笑いながら、メリイおじさんをにらみかえした。
「旅行者がうようよいて、アイスクリームとか、銅と錫くさい町だ。けばけばしい町だ。あんたにくれてやるよ」
「それじゃ」と、ミス・ハザートンはにやにやしながら、エンジンをスタートさせた。「その銅や錫くさい町へいくとしましょ。教授には岩のかけらでも送ってあげますよ、さよなら。子どもたちも、さよなら」車は動きはじめた。どっち側もおたがいにふざけあうように、さよならを口ぐちにさけびあった。
「さよなら!」とつぜん、サイモンたちのうしろに、ポークおばさんが姿をあらわして、金切り声で叫んだ。彼女は玄関のところに立って、テーブルかけをふっていた。おとうさんたちを乗せた小型車は、エンジンのうなり声をあげて丘をのぼり、やがて見えなくなった。
「いっちゃったわねえ。でもああして夫婦いっしょに出かけるなんて、いいものじゃありませんか?」と、ポークおばさんは、しんみりした口調で言った。「きっとむかしもそうだったですよ。今のように、うるさくわずらわされるようになる前には」
そう言いながらポークおばさんは、子どもたちにテーブルかけをふるのだった。「それ、ぼくたちのこといってるのかい?」と、バーニイがむっとしたような声でたずねた。
「そうですよ。ほんとに、頭痛のたね……これからだって、やっぱりそうにきまってます」ポークおばさんは笑いながら、台所の方へ姿を消した。
「あのハザートンって、まったく役に立つよ」と、サイモンは満足気だった。「そりゃ、あの三人が楽しい思いをしてほしいと、おれは思うぜ。だけどそのおかげで、こっちは自由に仕事ができるというものさ。ちがうかい?」
「あの月のかげのことね……」と、ジェインがなにか考えながら言った。「ねえ、あたし思うんだけど……」
「いや、今日は考えるのはやめだ」メリイおじさんが、きっぱりと言った。「夜までは、なにもできないんだからな。わしは、今年ここにやってきてから、一度も海にいっておらん。それでおまえたちが、わしを海水浴に連れていってくれてもいいと思うがな」
「海水浴に?」バーニイが、へえというように、高い声で言った。
「そうだよ」と、メリイおじさんは、いっぱい生えた白いまゆの奥の目で、じっとバーニイを見つめた。
「おまえは、わしが年をとりすぎていて、泳げないと、そう思っているのかい?」
「いや、そのう――ちがうんです、ぜんぜんそう思ってるわけじゃないんです」と、バーニイはしどろもどろになって言った。「ぼくはただ、メリイおじさんが海につかるなんて考えたこともなかったので」
「でも地図のことはどうなるの?」ジェインが泣き出すみたいな声で言った。
「ぼくたち、そのことちゃんとやるときめたばかりじゃないか」と、サイモンがしかるように言った。
「そうだな、これからだってやめたりはしない。海岸にいって、太陽の下ですばらしい平和な一日をすごすとしよう」メリイおじさんはみんなの顔を見て、にっと笑った。「今夜は今夜のことだ。たぶん月夜になるだろう」
* * *
グレイ・ハウスの窓から、八月もなかばをずきた夕ぐれの月が空に出ているのが見え、一日を海岸ですごした四人は、ポークおばさんが夕食のしたくができたとつげるまえに、体を洗っていた。海岸では太陽が一日中ぎらぎら照りつけていたので、みんなすっかり日焼していた――バーニイの色白のはだも、真っ赤になっていた。でも日がしずんでしまうと、今や月が空を支配していた。空の色は、不思議な灰色と黒にだんだん深まっていき、一面にあふれ銀河色の光の中で、もっとも明るい星さえかすんで見えた。でも、それが月のせいだとは、ちょっと気がつかないくらいだった。
サイモンが低い声で、感激したように言った。「申し分のない夜だぜ」
「ええ」と、ジェインは言った。ジェインはそれまで外に出て、夜空を見あげていたのだ。そして、家のうしろ側に黒くうき出たケメア岬を、気がかりそうに見つめていたのだった。サイモンと同じように、ジェインも興奮していた。けれども、前にも感じたあの不安な気持ちも、胸の奥の方にあって消えないのだった。
自分にしっかり言いきかせるように、ジェインは心の中でつぶやいた。暗やみのことは、考えない方がいいんだわ。少なくとも、あたしたちがさがしている秘密をとくかぎを、何百年もむかしあのコーンウォール人がかくそうとしたときの、その暗やみと、いまの暗やみとが、同じものだと考えない方がいいんだわ。でもおそらく、いまのこの暗やみの中にも、あのコーンウォール人にしのびよったのと同じ邪悪なものが、ひそんでいるにちがいないのだ。その邪悪なものは、敵意を持って東方の地からやってきて、あのコーンウォール人が、けんめいにかくし場所をさがしもとめた聖なるカップを、おびやかしたのだ……おそらくその邪悪なものは、あそこで、あたしたちを待ちうけているのだわ……なぜウィザース兄弟のヨットには、明かりがついていないのかしら……?
「ああ、やめて」と、ジェインは声をあげた。
「なんだよ?」サイモンがびっくりしてたずねた。
「なんでもないの……ひとりごとをいってたんだわ……あら、ベルが鳴ってる。さあいきましょう」
ポークおばさんは、台所からごちそうを山もりしたおさらをはこんできて、からになったおさらをまたはこんでいく間、まるでおかあさんにでもなったような態度をくずさなかった。メリイおじさんは、今夜はサイモンたち三人といっしょに外港の沖へ夜づりにいくからと、ポークおばさんに言った。そうしたらポークおばさんはすぐさま、魔法びんに熱いコーヒーを入れたり、みんなが帰ってきたときのために台所にサンドイッチをおいておく用意をしはじめた。でもポークおばさんは、バーニイもいっしょにいくのはだめだと言いはった。
「そんなに日焼けがひどいというのに、どこにもいってはいけないですよ。そんなことをしてはよくないです、坊ちゃま。わたしと家にいて、楽しく夜をおくるんです。その方が、よっぽどいいんですよ。もしいってみなさい、皮がすれて、すぐに水ぶくれになって、それで明日は寝ていなくちゃならないことになりますよ。今夜出かけなければ、明日だってお日様に当たれるというのにね。どうです、坊ちゃま? そんなひどいことになりたかないでしょ」
「ぼくはほんとにだいじょうぶだよ」と、バーニイはなかば本気でそう言った。ポークおばさんは、バーニイの真っ赤に焼けた足に、やけどぐすりをぬってくれたのだけれど、皮膚は炎症を起こしていて、ちょっとでもなにかにふれると痛かった。バーニイは痛みをこらえようとしたけれど、一歩歩くごとに、ちぢみあがってしまうのだった。それにバーニイは、外で一日中走ったり泳いだりしたので、とてもねむくなっていた。
メリイおじさんが言った。「ポークおばさんのいうようにするのが、いちばんいいと思う。もしおまえがまだねむらないでいたら、帰ってから話してあげるからな」
「それはなりませんよ」と、ポークおばさんは言った。彼女はメリイおじさんのことを、″教授″と言ってとても尊敬していたけれど、その一方では、サイモンやバーニイやジェインに対するのとまったく同じやさしさときびしさで、あつかうのだった。「この子は、だれにもじゃまされずに、朝まで、ぐっすりねむることです。そうしたら朝になると、ひりひりする痛みもすっかりなくなって、ヒナギクみたいに新鮮な元気をとりもどしますよ。そのとき、なんだって話してもらえばいでしょう」
「ポークおばさん」と、メリイおじさんはやさしい声で言った。「あんたはいい人だな。わしは小さいころの乳母のことを、どうしても思い出してしまう。その乳母は、わしがオーバーシューズをはかないままでは、ぜったいに外に出してくれなかった。ところで、バーニイ、わしはこう思うんだが……」
「ああ、わかりました」と、バーニイが悲しそうな声で言った。「ぼくもそう思います。家にいることにします」
「それでいいんです」ポークおばさんは、晴れやかな顔になって言った。「わたしはいって、坊ちゃまに、寝る前に飲む熱いおいしい飲み物をつくりましょう」そう言うとポークおばさんは、あたふたと部屋を出ていった。
「にいさんとねえさんは、運がいいよ」と、バーニイはうらやましそうに言った。「きっとにいさんたちは、なにかとてつもない手がかりをつかむだろうさ。それというのも、ぼくがいけないからなんだ。そんなことって、不公平だよ」
「だけど本当のところは、おまえは、今晩いちばん大事な仕事をすることになるんだぜ」と、サイモンが熱っぽい口調で言った。「それにいちばん危険な仕事でもある。おれたちは地図を持っていくのはあぶないから、持っていかないことにしたんだ。だからおまえが、ここで地図を責任を持って守ることになるんだ。命にかけても、守りぬかなくてはならないことになるかもしれないぜ――またどろぼうがやってきてみろ」
「いやよ、そんなこと」と、ジェインがハッとなったように言った。
「あまり起こりそうにはないな、それは。心配しなくてよい」メリイおじさんは、立ちあがりながらそう言った。「しかしバーニイ、責任があることにはかわりないぞ。だからおまえだけが、のけものになるわけじゃないのだ」
バーニイは責任を感じるべきなのか、悲しむべきなのか、自分でもよくわからなかったけれど、とにかくおとなしく寝にいった。あとの三人が家を出て、外の暗がりの中に出ていきながらふりかえると、上の部屋の窓の一つにバーニイの顔が白く見え、ふっている手がぼんやりと見えた。
「わあ、寒いわ」村を通りぬけていきながら、ジェインがかすかに身ぶるいした。
「歩いているうちには、やがて寒くなくなるだろう」と、メリイおじさんは言った。出かける前にメリイおじさんは、上着の下にセーターとマフラーを着こんだほうがよいと言いはったのだ。その通りにしてきてよかったと、サイモンたちは思った。
「なにもかも、すごく大きく見えるね」とつぜんサイモンが言った。本能的に三人は、小さい声でしゃべっていた。というのも、暗がりの中で、自分たちの低い足音のほかには、なに一つ聞こえなかったからだ。ただ、ときどき、村の中を車が通りすぎる音が聞こえた。そして、かすかに、下の方から港の波の音と、つないである小舟がきしむ音が聞こえた。
ジェインは銀色に光る家々の屋根と、月光が投げかけるその黒いかげの部分を見まわした。
「兄さんのいうことがわかるわ。それは物の一つのはししか見えないためなのよ。かげというのは、いつだって一つの側のかげでしょ。だからその物がどれくらいの大きさなのか、全体がわからないわけよ……それであの岬もすごく気味悪く見えるのね。あたしは自分のかげの部分が見えなくてよかったわ」
昼間だったら、ジェインはこんなことは言いださなかったにきまっている。でも今は暗がりの中だから、こわがってこんなことをいっても、そうはずかしいことではないように思えた。
「ぼくだってそうさ」と、意外にも、サイモンもそう言った。
メリイおじさんは、なにも言わなかった。ふたりのそばを、だまって歩いていた。とても背が高く、考えごとにふけっているメリイおじさんの顔は、かげになって目も口も見わけられなかった。長い足で一歩一歩歩いていくごとに、メリイおじさんは夜の中にとけこんでいくように見えた。まるで神秘と、沈黙と、得たいの知れぬかすかな音の世界と、一体になっているように思えた。
港をすぎ、道の曲がり角のあたりで、三人は向きをかえ、かきねをこえて岬の方へと向かった。道はふたたび海と反対の方向にカーブしてのび、頭の上の方に丘のスロープの黒い草原がひろがっていた。その先に、あのひょろ長い石が立っているのだ。すぐにサイモンたちは、いつかの小道を見つけた。そして頂上めがけて、曲がりくねった小道をどこまでものぼっていった。
「聞いて!」ふと足を止めて、ジェインが言った。
三人は立ちどまって耳をすませたが、なにも聞こえなかった。ただ、遠く潮さいのひびきが耳にはいってくるだけだ。
「そら耳だろ」と、サイモンが神経質そうに言った。
「ちがうわ――たしかに――」
ずっと上の方、まだ見えていない岬の頂上から、かすかな声がつたわってきた。
「ホー、ホー」
「ああ」ジェインが、ほっとしたように言った。「フクロウだったのね。いやだわ、あたしなんだかわからなかったのよ」
メリイおじさんは、あいかわらずなにも言わなかった。三人は、またのぼりはじめた。そのとき、まるで相談してそうしたみたいに、三人はとつぜん足を止めた。四方から黒いカーテンがおりてきたような感じだった。
「なんなの?」
「月に雲がかかったんだ。ほら、小さな雲だよ」
煙が流れるみたいに、その雲は月にかかるときと同じくたちまち流れて月をはなれ、陸も海もふたたび銀色の世界になった。
「兄さんは雲なんか出ないだろうっていったでしょ?」
「でも、たくさんは出てないぜ。小さいのがほんの少しだ」
「風向きがかわったのだ」と、メリイおじさんが言った。ずっとだまっていた後だから、その声はとても深みのある声に聞こえた。「南西の風で、コーンウォール風というやつだ。ときどきこれは雲をはこんでくるが、あるときはほかのものをはこんでくることもある」メリイおじさんは、丘の傾斜をそのままのぼっていった。サイモンとジェインは、ほかのものってなんなのか、たずねてみようとは思わなかった。
メリイおじさんの後を追って、ふたりがのぼっていく間にも、雲はしだいにふえて群れ集まり、それは月光で銀色にふちどられていた。丘の斜面を吹きおりてきて、サイモンたちの顔をなでていくそよ風のほかに、空にはべつの風が吹いているらしかった。その風はもっと強くて、一つの方向に目的を持ったもののように吹いているのだろう。だから雲は、すべるように空を飛んでいるのだった。
ようやく、岬の暗い頂上にぼんやりと長い石の姿が見えてきた。まわりが暗いために、それらの石はいっそう神秘的に、銀色におおわれた空にむかってそびえ立っていた。そして雲が月の中では、石はひょろ長く見えた。けれども今は、不気味に大きく、岬や、はるか下の方にかすかにまたたいている家々の明かりや、月があわく照らしている山あいの谷間の上に、のしかかるようにそびえていた。ジェインは、とつぜんおそろしさにとらえられ、サイモンの腕にしがみついた。
「きっと、あたしたちにここに来てほしくないんだわ」と、ジェインがみじめな声を出した。
「だれがだい?」と、サイモンがたずねた。むりして強がろうとしていたので、つい声が高くなった。
「シーッ。そんな声出しちゃだめ」
「子どもみたいなこというな」と、サイモンはぞんざいな口のきき方をした。夜の底知れないひろがりの中で、サイモンはけっしていい気分ではなかったけれど、そのことは考えまいと決心していたのだ。しかしメリイおじさんの太く低い声が、ジェインの言ったことが正しいのだと思えるような感じで、前の方から聞こえてきたとき、サイモンは胃のあたりが一瞬、冷たくなったように感じた。
「彼らはそんなこと気にしてはいない。どちらかといえば、わたしたちにここに来てほしいのだ」
サイモンは、かすかに身ぶるいした。そして、なにも聞こえなかったふりをした。今や、三人のまわりに、ひょろ長い石の群れは、空につきさすように立っていた。サイモンはそれを見まわした。「これが例の石だよ」と言って、前の日にバーニイたち三人で見つけた石のところへ、近よっていった。「横のところに、この奇妙な穴があいているのでおぼえているんだ」
ジェインが、そのそばにやってきた。サイモンの声があたりまえみたいな調子だったので、ジェインも気持ちがおちついてきていた。「そうだわ、まちがいないわ。あたしたちがここから見たとき、太陽と、この石と、最初にあたしたちが手がかりをつかんだ岩とが、完全に一直線になっていたのよね。あの向こうの岬の岩のことよ。でもへんだわ、今は見えないのね。あたし、太陽と同じように、月だってあの岩を照らしているかと思っていたわ」
「月はべつの方向にあるんだ。海の方にずっとよってる」と、サイモンは言った。「ほら、かげを見るんだ。さあ、おれたちが調べなくちゃいけないのは、かげなんだからな」
「あら、また暗くなったわ」と、ジェインが言った。雲がまた月をよぎり、三人はふたたびやみの中にとりのこされてしまった。「雲はだんだんふえてくるばかりだわ。なくなってくれないかしら。それに、ここも風が次第に強くなってきたみたい」そう言ってジェインは、ぶ厚いラシャの上着を体に引きよせるようにし、マフラーをしっかりと首に巻きつけた。
「おそくならないようにやるのだ」とつぜん、暗がりの中からメリイおじさんの声が聞こえてきた。メリイおじさんはほかの石のところに立っていたのだが、その石のかげの中にすっかりのみこまれて、姿を見わけることはできなかった。ジェインはまたそのとき、なにかよくないことが起こりそうに感じた。
「なぜなの? なにか悪いことでも?」
「いや、べつに……ほら、また月が出たぞ」
ふたたび月明かりの銀世界になった。空を見あげると、月は、まるで雲の間を航海してぬけていくように見えた。いくつもの雲の断片の間をぬって、月は空をずんずんかけていく。でも本当は、月は同じ位置にいて、動いているわけではないのだ。
サイモンが、がっかりしたような声で言った。「ぜんぜんなにもさししめしていないや!」その背の高い石のふもとの地面を、サイモンはじっと見つめていた。銀色にかがやく草原の上にこうこうと照る月の光が、石のかげをくっきりと黒く落としていた。それは太く短い指のように、ケメア岬からコーンウォール平野の黒く長い地平線の方を、さしているのだった。
「たぶん、あたしたちがまだ知らない、なにかの目じるしをさしているんだわ」と、ジェインは納得がいかないように、かげになってつらなる丘の方をただながめていた。
「いや、それより可能性があるのは、あのコーンウォール人がなにかの目じしるを使ったけど、それはもうたおれてしまったか、こわされてしまったか、ぼろぼろにくちてしまったかしたんだな。つねにその危険性はあったわけだから。とすると、おれたちはこれ以上、もうどうすることもできないというわけだ」
「でもあのコーンウォール人は、そんな結果になるようなことはしなかったと思うわ、きっとそうよ」ジェインはそう言って、きょろきょろとまわりを見まわした。わびしい岬の上には、風がひゅうひゅうと鳴って吹きすぎていくのだった。ジェインは、たった一つのまちがいない目じるしである、いちばん大きい石のほとりに立っていた。そこから、顔を月の方に向けていた。月はケメア岬の上空で、また海の上空で、じっと止まったまま、雲とレースをしていた。ジェインはまるではじめて見るように、月の光が海の上をすすむ道すじを見た。
矢のようにまっすぐに、月の反射が海面をわたって岬の方に長くのびてきている。それは過去からの道であり、そして、未来への道であるように見えた。その光のすじのはしのところは、風で波だつのといっしょにゆらゆらとゆれ、光は消えたりうつったりしていた。そして、まっすぐのびてきて、いちばんこちらのはしのところは、ケメア岬の先端で、その黒いくっきりしたシルエットが、海面の光のすじとさかいをなしていた。
ジェインは、かすれた声でサイモンに言った。「見てよ」
サイモンがふりむいてそれを見た。見た瞬間にサイモンが、ジェインと同じように、これこそさがしもとめた手がかりにちがいないと思ったらしいのを、ジェインは感じた。
「岬のはしっこにある岩の集まりよ」と、ジェインが言った。「あそこに見えている、あれよ。きっとそうだわ。だからこんどは、かげのさす方をさがしても関係なかったんだわ――あたしたちここで、この石のところに立って、月の光が次のかぎをさししめしてくれるのを見とどければよかったのよ」
「そういうことなんだ」サイモンの体の中には、なぞをさぐって追求していく興奮がよみがえり、うわずった声になっていた。「そしてあのコーンウォール人が、月がかけるように消えるけれども、なくなることはないといった、あの暗号の意味がこのことだったとすれば、聖なるカップは、あの岩の集まりの中のどこかにかくされているんだ。ケメア岬のはしっこにうめられているんだ。やったぞ――メリイおじさん、ぼくたち見つけたよ!」サイモンは、静まりかえって立っている背の高い石の方をふりかえった。そしてためらった。「メリイおじさん?」サイモンの声に、不安のひびきがあった。
ジェインがすぐに、サイモンのすぐそばによってきた。岩かげから出ると、まともに風をうけて、ジェインのポニーテールは頭の方まで吹きなびいた。サイモンより大きい声で、ジェインは呼んだ。「メリイおじさん! どこにいるの?」
返事はなかった。風がうなりをあげて吹きすぎ、遠く聞こえていた波の音も、今は耳に入らなかった。大きな石の下にいる自分が、とてもちっぽけなように思えて、ジェインはサイモンのそでをつかんだ。ふるえまいと思ってもジェインの声は、ふるえていた。「ねえ、サイモン、メリイおじさんは――どこへいってしまったのかしら?」
ますます強くなる風にむかって、サイモンはさけんだ。「メリイおじさん! メリイおじさん! どこにいるの?」
返ってくる声はなくて、まわりには暗がりがひろがっているだけだった。そして月は、あるときは雲にかくれ、あるときは顔を見せながら、上空に高くかかり、風が高くうなっているのだった。また、フクロウの鳴く低い声が聞こえた。こんどは、最初のときよりも近くで、反対側の谷のあたりから聞こえてくるようだった。さびしそうで、冷酷で、人をよせつけないような声だった。ジェインは、すっかりこわくなった。もう声も出せないで、その場に立ちすくんでいた。まるで大きな波が自分の上に落ちかかってくるのに、どうしても足が動かず、逃げることができない、というような感じなのだった。もしジェインがいっしょでなかったら、サイモンも、同じようにこわさに立ちすくんでしまったことだろう。でも今、サイモンは大きく深呼吸をすると、両方のこぶしをにぎりしめた。
「メリイおじさんは、あそこらへんにいたんだ」つばをのみこみながらサイモンは言った。「いってみよう」サイモンは、ほかのひょろ長い石の方へ動いていった。あたりは真っ暗で、ほとんど石の姿は見えないくらいだった。
「いや――」ジェインは、かん高い声で言った。そしてサイモンのそでにしがみついた。「石のそばにいっちゃ、いや」
「しっかりしろよ、ジェイン」と、サイモンは落ちついた声で言った。自分で思っているよりも、その声はずっと勇敢そうに聞こえた。
またフクロウが鳴いた。意外にも、今度は前と反対の方向で、岬の先端の方から聞こえてくるのだった。「ああ、おうちに帰りたい」と、ジェインがあわれな声で言った。
「さあこいよ」と、またサイモンが言った。「メリイおじさんは、あのへんにいるはずだ。風がすごく強いせいで、おれたちの声が聞こえないのかもしれない」サイモンはジェインの手をつかんだ。しぶしぶとジェインは、やみの中にぼんやりうき出てている石の方へ、サイモンといっしょに近よっていった。月がかげり、大きな雲の中にかくれてしまった。いまや星明かりだけが、わずかに物の形にぼんやりとしめしていた。サイモンとジェインはよろけるように、闇の中を進んでいった。いつ、ふいになにかにぶつかるかもしれない、という感じだった。メリイおじさんが、とつぜんそばに姿をあらわすかもしれない……というかすかなのぞみだけが、ふたりの気持ちをかろうじてささえていた。メリイおじさんがいない今、はじめて、メリイおじさんがとても強くて、ふたりを守ってくれるのに必要な人なんだと思えた。
ふたりは、ひょろ長い石の群れの、ちょうど真ん中へんに来ていた。自分たちのまわりに、石の黒い姿が、見えるというより、そそり立っているのが感じられる、と言った方がちかかった。草の上を吹きわたっていく風が、ひゅうとうなってすぎていく。そしてまた、下の方のやみの中で、フクロウが鳴いた。ふたりは手をとりあって、目をかっと見開くように、必死に前方を見つめながら、やみの中をゆっくりと進んでいった。そのとき、空の雲がふたたび銀色に明るくなり、月が顔をのぞかせていた。小さい雲が月のはしをかすめとるように飛んでいく。その瞬間ふたりは、目の前に黒い長いものが立っているのに気がついた。そこには、石はないはずだった。
風が吹くのにつれて、その黒いかげは、大きくふくれあがるように見えた。それでふたりは、それが石ではないことをとっさにさとった。全身黒づめの、背の高い男の姿だった。長いマントを風にひるがえして、その黒いかげはふたりに向かってきた。一瞬、月の光が、男の顔を照らした。つき出たひたいの下に、目は黒いかげになり、白い歯がきらりと光った。笑っているのではなかった。ジェインが悲鳴をあげた。すっかりおびえて、サイモンの肩に顔をうずめた。
またもや、雲が月をおおいかくし、おそろしい暗やみがふたりをとりまいた。くるりと向きをかえると、ふたりは声もなく、かけだしていた。つまずきながらも、ただもうおそろしくて、無言で立っている石の群れからはなれて走りつづけ、丘をかけおりていった。そして、あの聞きなれた深みのある声がふたりを呼んでいるのを耳にしたとき、ふたりはほっとすくわれた気持ちになって立ちどまった。息を切らせながら、前方を見ると、海を背景に、小道に立っているメリイおじさんのシルエットが見えたのだった。
サイモンとジェインはかけよっていった。ジェインはメリイおじさんの腰にしがみつくと、いままでの緊張がとけて思わず泣きだした。サイモンは、自分をおさえているのが精いっぱいだった。「メリイおじさん」と、サイモンは息せき切っていった。「どこをさがしても、おじさんが見つからなかったんだ」
「早くここを立ちさらねば」低い、緊張した声でメリイおじさんは言った。そしてジェインをだきかかえるようにし、ふるえるその頭をなでた。「おまえたちをさがしていたのだ。あの鳴き声がなんだか、フクロウのものなんかじゃないので、おかしいと思っていたのだ。さあ早く」と腕にだきあげた。そしてすぐうしろにサイモンをしたがえて、丘を下っていった。雲の間からときどき顔をのぞかせる月の明かりで、小道を見うしなうことはなかった。
小走りになり、息を切らせながら、サイモンは言った。「上に男がいたんだよ。ぼくたち見たんだ。暗やみの中から、ふいに姿をあらわしたんだ。マントみたいに大きなコートで全身包まれていて、黒づくめなんだよ。こわかった」
「その男たちを見つけにいったのだが」と、メリイおじさんは言った。「彼は、わしをやりすごしたにちがいない。それからほかにもいたのだ。おまえたちをのこしておくのじゃなかったな」
丘をくだっていくメリイおじさんの腕の中で、ジェインは目を開けてメリイおじさんの肩ごしに、岬の頂上をふりかえって見た。黒い指のように、ひょろ長い石の群れは、空に向かってつっ立っていた。地平線のむこうに、その石の姿が消えてしまう直前だった。ジェインは、そこに、今までの倍くらいも黒い姿がふえているのに気がついた。石の群れのほかに、黒いかげがまじって立っているのだった。
「メリイおじさん、あの人たち追っかけてくるんだわ!」
「わしがついているかぎりは、追いまわしてくることもあるまい」と、メリイおじさんはおちついた声で言った。そして丘の斜面を、同じように軽々と大またでくだっていった。
ジェインがちょっともじもじしながら、小さい声で言った。「あたし、もうだいじょうぶだと思う。おろしてくださらない?」
ほとんど止まらないで、メリイおじさんはジェインを地面におろした。そしてサイモンと同じように、ジェインはメリイおじさんについて歩くために、ほとんど小走りになった。三人は、スロープを下りきったところで、原っぱをこえて道路に出た。だだっぴろく、わびしい岬の上からくらべると、ここはもう安心できる場所という感じだった。風は、ここでは、耳もとでうなりはしなかった。そのかわりに、あの海のやさしい波の音が、ふたたび聞こえてきた。
「あの男」と、サイモンが言った。「あの男だったんだよ。メリイおじさん、ぼくたちが前に会ったことなかった男なんだ。メリイおじさんが、この間ぼくを助けてくれたでしょ。あの男が、ビルといっしょになって、ぼくを追っかけたんだよ」
ジェインは、歩きながら、家々のまたたく明かりをまっすぐ見つめて、低いおびえたような声で言った。
「あたしは、あの人がだれだかすぐわかったわ。月の光があの人の顔を照らしたときよ。だから、あたしあんなにぎょっとなったのよ。あれはトリウィシックの牧師さんよ。案内書にあたしがえんぴつでかいた地図を見たのはあの人なんだから」
第九章 真夜中の足音
家にのこったバーニイは、ジェインの寝室の窓ガラスに鼻をおしつけるようにして、外を見ていた。サイモンとジェインが見あげて、手をふった。でもメリイおじさんは、まっすぐ前を向いたまま歩いていく。やせて、背の高いその姿は、やがて暗やみの中に消えていった。バーニイは思わずにっこりした。あの断固とした歩き方は、メリイおじさんのくせなんだということを、バーニイはよく知っていたのだ。
三人の姿がやみに消えていき、ぼんやりと見える船の間に黒くゆれている波の上に、家々の明かりがおどっているのしか見えなくなるまで、バーニイはじっと見送っていた。ウィザース兄妹のヨットには、明かりはついていなかった。バーニイは窓をはなれると、ひとりとりのこされてがっくりしたように、ちょっとため息をついた。そんな自分をなぐさめるみたいに、バーニイは、サイモンたちが出かける前にさよならを言いにあがってきたとき、サイモンが大事そうに手わたした望遠鏡のケースを、しっかりにぎりしめてみた。だいじょうぶだ、とバーニイは思った。神聖な役割を背おわされた騎士みたいなものだった。戦で負傷したにもかかわらず、秘密を守りぬかなくてはならない騎士というわけだ……かわるがわるバーニイは足を曲げてみた。ひざのところの皮膚がつっぱって焼けるように痛く、バーニイはちぢみあがった。敵は四方にいて、バーニイが責任を持って守っている秘密を、さぐり出そうとしているのだ。でも、敵はひとりも近よることはできないだろう……。
「さあさあ、もうベッドにもどってくださいな」ふいにポークおばさんの声が、うしろから聞こえた。バーニイはおどろいてふりかえった。ポークおばさんは、入り口のところに大きな体いっぱいに立ちはだかり、階段の方から来る光が、そのすきまから部屋の中に流れこんで来る、ポークおばさんは、じっとバーニイを見つめていた。本能的にバーニイの指は、つめたい金属のケースをしっかりとにぎりしめていた。そしてはだしのまま、ゆっくりと歩いて、ポークおばさんの方に進んでいった。ポークおばさんはバーニイがドアを通れるように、階段のほうに体をよけた。バーニイがその横を通りぬけようとしたとき、ポークおばさんは奇妙なふうに手をのばした。
「それはなにを持ってなさるだね?」
バーニイは、おばさんの手がとどかないように、さっとケースを遠ざけると、とっさに笑ってごまかした。「ああ」と、バーニイはできるだけ、なんでもないというふりをよそおって言った。「これは船長の望遠鏡で、ぼくが借りたんだ。すごくいいんだぜ。湾の中を通る船だってみんな見えるよ。にいさんたちが港の方へいくのも、これで見たら見えるかと思ったんだけど、でも暗いからとてもだめなんだ」
「まあ、そう」ポークおばさんは興味がなくなったように見えた。「でもへんですね、船長が望遠鏡を使うの、わたしは見たことないんですけど。でもまあ、この家の中にはいろんなへんなものがいっぱいあって、わたしなんか思ってもみないようなものもたくさんあるでしょ、きっと」
「それじゃ、おやすみ、ポークおばさん」バーニイはそう言って、自分の寝室の方に向かった。
「おやすみなさい、坊ちゃま」と、ポークおばさんは言った。「なにか用があったら、ちょっとわたしに声をかけてくださいよ。わたしももうすぐ寝にいくつもりですよ、つりに出た人の帰りを起きて待っていたのはむかしのこと」ポークおばさんは下へおりていき、やがて階段の明かりが消された。
バーニイは、ベッドのわきのランプをつげると、そっとドアを閉めた。メリイおじさんが家にいないと思うと、バーニイは心細いような、それでいて気持ちがたかぶるような、そんな感じだった。いすを、ドアの前に立てておこうかと思ったけれど、やめることにした。サイモンがもどってきたときに、それにつまずいてぶつかるかもしれない、と考えたからだ。ひとりきりにされていたものだから、心細くて心配だったなどとは、だれにも思われたくなかったからだ。
バーニイは古文書をとり出して、もう一度ながめた。あのひょろ長い石のかげから、サイモンとジェインはどんな発見をするだろうかと、想像してみた。でも古文書の石と月のかんたんな絵をながめていても、バーニイはなにもわからなかった。急にねむくなってきたので、古文書の巻き物をケースにもどすと、明かりを消した。ケースをだくようにしてベッドに深くもぐりこんだバーニイは、やがてねむってしまった。
* * *
どうして目がさめたのか、バーニイにはよくわからなかった。半分夢うつつの状態で、なにか音を聞いているような感じでいるうちに、ふと目がさめた。部屋はまっ暗だった。静まりかえった中で、つぶやくような海の音だけが聞こえていた。家のこちら側からは海の音は、とてもかすかにしか聞こえなかったけれど消えることはなかった。体の全神経がはりつめて、なにかを感じとろうとしているようだった。バーニイの一部分は、ねむってしまってはいなかったのだ。そして、なにか危険がとても近くにせまっていることを、今バーニイに教えているのだった。バーニイはじっとしていた。なにも物音はしなかった。そのとき、頭のうしろの方で、かすかにきしむような音がした。ドアの方だった。
胸のどうきが、少し遠くなったのをバーニイは感じた。夜なにかの物音がすることにはバーニイは、なれていた。というのは、ロンドンでバーニイたちが住んでいるのが、古い建物の一部分で、夜中きしむような、ひとりごとをいうような音をたてるのだ。まるで、壁や床が息でもしているような感じだった。この家に来てからは、夜の物音で目をさましたことはなかったけれど、グレイ・ハウスもたぶん同じように鳴るのだろうと思った。でもこの音は、あの聞きなれていた建物のたてる音ともちがっている……。
バーニイは、ロンドンの家で夜、目がさめて、床がきしむ音というより、どろぼうが歩くような音が聞こえるとき、いつもやっていたやりかたをした。だれもがねむっているときにときどきするように、小声でうなって、あくびするように鼻を鳴らすと、ベッドの中で寝がえりをうった。体の向きをかえるとき、片方の目を少し開けて、すばやく部屋の中を見まわした。
家でこのやり方をしたときは、いつだってなにも見えなかった。だから、なんだかばかばかしくさえなって、またねむってしまったものだ。ところが、こんどはちがっていた。ドアが開いているのが、かすかな明かりでわかった。そしてドアの近くに、小さな懐中電灯の光が動いて、部屋を横切っていく。バーニイが寝がえりをうったので、懐中電灯の光は、ぴたりと動きを止めた。バーニイはふとんの中で体を楽な位置におちつけると、そのままじっとして、目をつぶって何分間か深い息をしていた。小さな物音が、しだいにまた動きはじめたのがわかった。バーニイはじっと聞いていた。こわいというよりも、一体なんだろうという気持ちの方が強かった。だれなんだろう? なにをしているのだろう? ぼくの頭を打ちのめそうとしているんじゃないな、とバーニイは自分に言った。もしそうなら、今までにもう、ぼくの頭を打ちのめしているはずだもの。ぼくを起こすまいとしているし、音をたてまいとしている。なにかをさがしているんだ……。
少しも体が動かないように、そして音をたてないように注意しながら、バーニイはふとんの中で手さぐりした。望遠鏡のケースはぶじだった。バーニイはしっかりとそれをにぎりしめた。
そのとき、べつの音が聞こえた。音もなく暗い部屋の中を動いている人間が、ほんのかすかに、鼻をすすったのだ。ほとんど聞きとれないくらいの音だったけれど、バーニイは、それに聞きおぼえがあると思った。ほっとしたように、バーニイは心でにやっと笑った。体中が、楽になったような感じだった。ゆっくりゆっくりと、バーニイは夜具の下から、サイドテーブルに手をのばすと、スタンドのスイッチをひねった。
ポークおばさんが飛びあがり、持っていた懐中電灯を床に落とすと、片方の手を心臓におしあてた。しばらくのあいだバーニイは、急に部屋が明るくなったので、完全に目がくらんだようになっていた。でもまばたきしながら見ると、ポークおばさんの顔におどろきと、がっかりしたような色がうかんでいるのがはっきりわかった。ポークおばさんは、すぐにいつもの顔つきをとりもどすと、バーニイに向かってにっこりと安心させるように笑ってみせた。
「あらまあ、坊ちゃまを起こしちゃいけないと思っていたのに。悪いことをしましたね。すみませんね。びっくりしましたか?」
バーニイは、ぶっきらぼうな声で言った。「一体なにをしているの、おばさん?」
「坊ちゃまの具合がいいか、よくねむっているか、それを見にあがってきましたんですよ。それに、坊ちゃまのよごれたコップを下へ持っていって、ほかのといっしょに洗っておこうと思いましてね。坊ちゃまのホーリックのコップは、ここにきていたでしょ、ねえ? おや、子どもだわね、半分ねむっているわ」と、ポークおばさんはやさしい声で言った。
バーニイは、ポークおばさんをながめていた。ねむかったけれど、それでも、バーニイがベッドにはいったときジェインがあがってきて、こう言ったのを思い出した。「ポークおばさんが、もしあんたが飲みおわっていたら、コップを持ってきてほしいといってたわ。それとも、まだほしいの?」
「ジェインが、ぼくのコップ持っておりたよ」と、バーニイは言った。
ポークおばさんは、部屋の中をなんとなく見まわしていたと思うと、ベッドのところのサイドテーブルの上に、なにもないのを見て、目を大きく見開いた。「すると、ジェインが持っておりたんですね。すっかりわすれちまって。あたしももうろくしたものね。さあ、もういかないと坊ちゃまがねむれないね。起こしてしまって、ほんとに悪かったですね」ポークおばさんはそう言って、おかしなくらい大急ぎで部屋を出ていった。
バーニイがふたたびねむりにおちたと思ったころ、ドアの外に低い声がして、サイモンが入ってきた。バーニイはベッドの中で飛びおきた。「どんなことがあったの? なにか見つけた? どこへいったの?」
「たいしたことはなかったな」と、サイモンはつかれたように言った。そして風よけとセーターを、床の上にぬぎすてた。「次にいかなくちゃならない場所がわかったんだ。次のかぎがそこをしめしているんだよ。ケメア岬のはしっこの、海につき出している岩がそうなんだ」
「それで、いってみたの? そこになにかあった?」
「いや、いかなかった」サイモンはぶあいそうに言った。ジェインとふたりきりで暗やみの中にとりのこされて、ひどく危険な目にあったあのときのことを、思い出すまいとしていたからだ。
「なぜいかなかったの?」
「敵のやつらがいたんだ、だからさ。暗やみの中でおれたちをとりまいていたんだ。その中のひとりは、いつかビルといっしょにおれを追いかけてきたあの男だった。ジェインは、あれは牧師だというんだけどな。おれにはよくわからないんだ、なにもかもすごくこみ入っているからな。とにかく、おれたちは逃げた。あとを追っかけてくるやつはいなかった。おかしいんだな、彼らはみなメリイおじさんのこと、おそれてるみたいなんだ」
「彼らって、だれなんだろ?」
「知らんなあ」と言って、サイモンは大きなあくびをした。「そうだ、下にいって、ココアでも飲んでくるかな。朝になったら話をしようぜ」
バーニイまたベッドに体を寝かせると、ため息をもらした。「ああ、いいよ。あっ、そうだ――」またもやバーニイははね起きた。「ちょっと待って。ドアを閉めてよ」
なんだろうというように、バーニイを見たサイモンは、ドアをおして閉めた。「どうしたんだ?」
「ポークおばさんの前じゃ、なにもいっちゃだめだよ。ひとことも。姉さんにもそういっといて」
「そりゃむりだよ。ポークおばさんだって、わけがわからないだろう」
バーニイがさも大事なことのように言った。「のんきなことをいってる場合じゃないんだよ。さっきぼくが目をさましたら、ポークおばさんが懐中電灯を持って部屋の中をかぎまわっていたんだ。もちろんぼくは、地図はちゃんと安全なようにかくしてあったけどね。あの人は、地図をさがしていたんだよ。ぜったい、そうにきまっているよ。あの人は悪者だと思うな」
「へーえ」と、サイモンは皮肉っぽい調子で言って、バーニイの顔を見た。バーニイの髪の毛はもじゃもじゃで、その目はねむっているみたいだった。バーニイがしゃべっていることは、夢でみたことなんだな、とサイモンはすっかり思いこんでしまった。
* * *
朝がきて、バーニイたちが下へおりたとき、台所でポークおばさんは腕を機械のように動かしながら、ボールの中でたまごをかきまわして、いかにもいそがしそうな様子だった。「朝ごはん?」と、ポークおばさんは明るい声で言った。バーニイは、注意深くおばさんを見つめた。でも、あやしいところはどこにもなくて、いつものようにきげんがよく、いかにも正直で人がいいという感じなのだ。それでもバーニイは、まだ自分にいい聞かせていた。ぼくが明かりをつけたとき、この人はなにか悪いことしていたみたいにびっくりしたじゃないか……。
「今日もまた、すばらしいお天気だわ」と、三人がテーブルについたときに、ジェインがうれしそうな声で言った。「風はかなり強いけど、空には雲一つないわ。きっと風がみんな吹きとばしてしまったのね」
「そうですねえ。その風がお祭りも吹きとばしてくれなけりゃいいけども」と、テーブルにクリーム色のミルクの入った大きなカップをおきながら、ポークおばさんが言った。
「お祭りって?」
「なんとまあ!」と、ポークおばさんが目をむいた。「ポスターを見ていなかったんですか? 今日は、カーニバルの日ですよ。あちこちから人がいっぱい集まってきますよ、セント・オーステルあたりからもね。いろんなことがあるんですよ……港では水泳大会があって、それからバンドがやってきて、それに海岸から山の方までずっと、ダンスする人で道がうずまっちまいますよ。″花ダンス″をおどるんです。きっと、この歌、知ってるでしょ」といってポークおばさんは、陽気な声でうたいはじめた。
「それ、知ってる」と、サイモンが言った。「だけどそれ、どこかべつの土地のおどりの歌だと思ってたけどなあ」
「ヘルストンよ」と、ジェインが言った。「ヘルストン毛皮おどりよ」
「そうです」と、ポークおばさんは言った。「でもあっちの方が、わたしたちのまねをしたんだと思いますよ。トリウィシックの花おどりは、だれだって知ってますでね。あたしのばあさまのころから、このおどりはあったんですから。みんな思い思いにはなやかに着かざって、道は人でいっぱいで、みんなおどったり笑ったり。今日はつりにいく人もひとりもいませんよ。村のうしろの原っぱでは、大きな催しがありますよ。売店やらゲーム場やら、それにレスリングやら、それはいっぱいね……。それからお日様がしずみはじめると、みんなでカーニバルの女王をえらんで王冠をのせるんです。暗くなってからも港のへんにおそくまでのこって、お月さまの下でおどる……カーニバルの日にはトリウィシックでは、だれもみな夜おそくまでねむろうとしませんよ」
「おもしろそうだわ」と、ジェインが言った。
「うーむ」と、サイモン。
「そりゃもう、見のがしちゃだめですよ」と、ポークおばさんは力をこめて言った。「あたしは一日中ずっと、お祭りに出てますよ。むかしからいつだってそうだったようにねえ。あら、ここでつっ立っておしゃべりしていたら、あなたたちのいりたまごがかたくなってしまいそう」ポークおばさんは急ぎ足で部屋を出ていった。
「おもしろそうじゃないこと?」と、ジェインがサイモンに文句ありげに言った。
「まあな。でもおれたちは、ほかにしなくちゃならないことがあるんだ。そりゃおまえが秘密のカップを見つけるより、カーニバルにいきたいというのなら……」
「シーッ」といってバーニイが、気になるようにドアの方を見た。
「まあ、おばさんのことなら心配するな。彼女はだいじょうぶだよ。メリイおじさんは、おりて来るのおそいじゃないか?」
「あたしは、カーニバルにいくほうがいいなんて、そんなつもりでいったんじゃないわ」ジェインが、おとなしい声で言った。「ほかのなによりも、あの岬にまたいってみたいのよ。そしてあの岩を見つけ出したいわ」
「メリイおじさんがいなくちゃいけないぜ。起きているかなあ」
「ぼくがいって見てくる」といってバーニイが、いすからはなれた。
「おやおや、どこにいきなさるかね?」おさらを持って入ってくるポークおばさんとバーニイは、もう少しでぶつかるところだった。「すわって、これをおあがりなさい。あたたかいうちにね」
「ぼく、メリイおじさんを呼びにいくところだったんだ」
「あのお年寄りは、じっとしておいてあげなさい」と、ポークおばさんはきっぱりした口調で言った。「夜中にほっつき歩くなんて、自分の年を考えてみることですよ。ぐっすりとねむりこんでいるのもあたりまえです。じっさい、夜づりだなんて。それもほっつき歩いたあげく、一ぴきの魚もつってこないんだから。あんたたち、ゆうべはあの人をつかれさせたんですよ。あんたたち三人のようには、あたしたちは若くないんですから」ポークおばさんは三人に向かって、ゆっくり指をふってみせた。「朝ごはんがすんだら、外へ出ていきなさることね。そして、あの人を、目がさめるまで寝かせておいてあげることですよ」と言ってポークおばさんは、三人のところをはなれて、うしろ手にドアを閉めて出ていった。
「どうしよう」と、ジェインが赤くなって言った。「ポークおばさんのいう通りだわ。メリイおじさんは、ほんとにそうとうの年なんだもの」
「でも、よぼよぼしてないぜ」と、サイモンが反抗するように言った。「ときどきは、ぜんぜん老人みたいに見えないんだ。ゆうべだって、ロケットみたいに進んだぜ。それについていくのが、おれにはせいいっぱいだったもの」
「たぶん、そのつかれが後で出たんだわ」ジェインは、良心の痛みを感じはじめていた。「ゆうべは、あれやこれやあって、メリイおじさんには、とてもこたえたにちがいないわ。起こしちゃだめよ。起こすとしても、九時になってからね」
「でもぼくたち、メリイおじさんとなにも打ちあわせていないんだよ」と、バーニイが言った。
「だから、メリイおじさんが起きてくるまで、ここで待っているしかないな」と、サイモンは元気のない声で言った。
「あら、だめよそんなの。あたしたちが岬へ出かけても、メリイおじさんは気にしないと思うわ。目がさめてから、あたしたちの後を追ってくることだってできるし」
「メリイおじさんといっしょでなくては、これからはどこへもいっちゃいけないって、メリイおじさんはいわなかったかい?」と、バーニイが不安そうな声で言った。「でなくてもとにかく、メリイおじさんになにもいわないで出かけるの、どうかな?」
「それじゃ、メリイおじさんへのことづてを、ポークおばさんにたのめばいいわよ」
「だめ、だめだよそんなこと!」
「バーニイはポークおばさんのこと、敵のひとりだと思っているんだ」と、サイモンがうたがわしそうに言った。
「まあ。それはちがうわよ」と、ジェインはあいまいな調子で言った。「それはとにかく、ことづてをおいておく必要も、本当はないんだわ。あたしたちがどこへいったか、メリイおじさんにはわかるはずだもの。あたしたちみんながいきだかっているところって、たった一つしかないんだもの。もちろん、それはケメア岬の岩のところよ」
「ポークおばさんには、おれたちのいき先は、メリイおじさんにはわかることだから、といっとけばいいわけだな。そうすりゃ問題ないさ。そしたら、ポークおばさんはその通りいうよ。そしてメリイおじさんにはわかるってわけさ」
「ルーファスを散歩に連れていくことにしてもいいよ」バーニイが、元気づいたように言った。
「それも悪くない考えだな。あの犬どこにいる?」
「台所だよ。ぼくがいって連れてくる」
「台所へいったら、ポークおばさんにいっとけよ。おばさんの大好きなカーニバルでお会いしましょうってな。とにかくおれたち、たぶんそうなると思うぜ」
バーニイは、いりたまごののこりを大急ぎでのみこみ、トーストを一切れむしゃむしゃ食べながら、台所の方へ出ていった。
そのときサイモンの頭に、とつぜんひらめいたことがあった。立ちあがると、窓の方へ歩いていき、丘の様子をのぞき見た。サイモンは、ジェインの方をふりかえった。「もっと早く気がついてもよかったんだ。もうおれたちは見張られている。あのビルが道のはずれにいる。石がきの上に腰かけてる。なんにもしてないぜ――ただすわって、こっちを見あげている。おれたちが出かけるのを待ちうけているにちがいない。だって敵は、おれたちがゆうべ、つぎにどこを探検すればいいかという手がかりを見つけたかどうか、わかっていないんだからな」
「まあ!」ジェインはくちびるをかんだ。岬でのゆうべの出来事は、ジェインを前よりいっそう不安な気持ちにさせていた。なんだか人間を相手に戦っているという感じではなくて、人間を道具みたいにあやつり、思うままにできる、ある闇の力と戦っているように思えるのだった。
「岬へ出られるうら道はないのかしら?」
「知らない。うら道のこと、ぜんぜん考えなかったというのも、おかしな話だ」
「それは、あたしたち、べつのことを今までしてたんだもの。もしうら道があるとしても、それだって見張られていると思うわ」
「待てよ……うら道のことを知っていそうな人間といえば、あのビルしかいないな。そのビルが、前で見張っているんだ。ということは、うら道をさがしてもむだだということだな」
バーニイがもどってきた。そばにルーファスが、うれしそうな様子で舌をたらしている。「一つ道があるよ」と、バーニイは言った。「うら庭のいちばん上のところのいけがきだ、くぐりぬけられるんだよ。いつかの朝、兄さんたちがまだ起きていなかったときに、ぼくがそれを見つけたんだ。本当は、ルーファスが教えてくれたんだけどね――うら庭でルーファスが走りまわっていて、急に見えなくなったんだよ。しばらくして、外のずいぶん遠いところでルーファスがほえるのが聞こえたんだ。岬の中腹のあたりでね。いってみると細道があって、あれっと思ったらもうケメア岬に出てるんだ。その道なら、門もなにもないし――ぼくたちがそこをぬけていくなんて、あの連中思ってもみないだろうから、いいと思うけどな」
「メリイおじさんは、その道のことを知らないと思うわ」と、ジェインが急に言った。「メリイおじさんは、おもての道から出ていくわ。そしたら後をつけられて、あたしたちが後をつけられるのと同じことになってまずいじゃないの」
「心配ないさ」と、バーニイは自信ありげにこたえた。「メリイおじさんはなんとかして敵をまいてしまうだろう。ぼくたちがどこにいるか、敵にぜんぜんわからなくさせる絶好のチャンスだよ」
* * *
子どもたちが出かけたあと、静まり帰った家の中で、ポークおばさんは二時間ほどてきぱきと仕事をしてすごした。物音をたてないように彼女は気をつけていた。そのあと台所に腰をおろして、ゆっくりと一杯のお茶を飲んだ。
こいお茶にし、船長のいちばん上等のカップの一つをつかった。そのカップはとても大きくて、うすくてほとんどすきとおりそうな白い中国製陶器だった。台所テーブルにすわって、そのカップに入れたお茶をすするポークおばさんの顔には、人知れぬ大きな満足感のようなものがあらわれていた。しばらくして、ポークおばさんは流しの下の戸だなから、大きなショッピングバッグを引き出すと、ごっちゃになったはなかやな色のリボンを取り出した。それらのリボンにはたんねんに羽かざりがしてあって、インディアンの頭のかざりににていないでもなかった。リボンを頭につけて、鏡を見たポークおばさんは、満足そうな笑いをうかべた。そして大事そうに横にそれをおくと、新しいカップにお茶を入れた。それをおぼんにのせ、台所を出てホールを通りぬけ、階段をのぼっていった。まるでむかしのスペインの大帆船ガレオン船のように、しずしずと進みながら、ポークおばさんはほほえんでいるのだった。
ノックしないで、メリイおじさんの部屋のドアを開けると、ベッドのそばにお茶のおぼんをおいた。メリイおじさんは、ベッドぶとんにくるまるようにして、ふかい寝息をたてていた。ポークおばさんはカーテンを開け、暗い室内に光線をいっぱいそそぎこませると、ベッドのところにかがみこんで、メリイおじさんの肩を強くゆすった。メリイおじさんが身動きしたとき、ポークおばさんはすばやくうしろに身を引いて、じっと立って待っていた。いつもの愛情深い母親のような笑顔で、メリイおじさんを見おろしていた。
メリイおじさんはあくびをし、うなり、ねむそうに頭を両手でつかんだ。そして手をもじゃもじゃの白髪につっこんでうしろに引くようにした。
「起きる時間ですよ、教授」と、ポークおばさんは明るい声で言った。「たっぷりねむらせてあげましたよ。ゆうべはずいぶん歩きまわったですからね。おとなしくしてなくちゃいけないと思いますよ。むかしのようには、先生様もあたしも若くないんですもん、ちがいますかね?」
メリイおじさんは、ポークおばさんを見てうなるようになにか言うと、まばたきしながら目をさました。
「さあ、お茶をお飲みになって。あたしは、朝ごはんをつくりますのでね」窓のところへいってカーテンをたばにしてしばりながら、ポークおばさんのよく通る大きな声が部屋の中にこだました。「めったになく、おちついて静かに朝ごはんをめしあがれます。子どもたちは何時間も前に出かけましたから」
とつぜんメリイおじさんは、はっきりと目ざめた。真っ赤なパジャマの上着で、ぎょっとしたように体をまっすぐ起こした。「いま何時かね?」
「そう、もう十一時すぎましたよ」ポークおばさんはにっこりしながらこたえた。
「子どもたちはどこへいったのかな?」
「心配することはありませんよ。あの子たちだって、一日くらい、自分たちだけでうまくやれますよ」
「ばかな――彼らはどこにいるんだ?」メリイおじさんのひたいにしわがよった。
「まあ、まあ先生様」と、ポークおばさんはしかるように言った。「あの子たちったら、実際のことをいうと、先生様が旅行しなくてすむように、出かけてしまいましたよ。なかなか考えぶかい、育ちのいい子どもたち。母親ときたら、ちょっとばかり散らかし屋なのに、にあわないくらいですよ。あら、こんなこといってごめんなさいまし。先生様のかわりにトルロにいきましたよ」
「トルロ!」
ポークおばさんは、むじゃきにほほえんだ。「そう、その通りです。サイモンちゃんがけさ、電話でこたえていましたよ。あれはいやな機械ですねえ」と、本当にそう思いこんでいるような口調でつけたすと、ちょっと身ぶるいした。「あたしは、びっくりして逃げだしたくなりますよ、あれが鳴りひびきますと、長い間電話の男の人と話していましたよ、サイモンちゃんは。それから、あたしのところにやってきて、ひどくしんけんな顔をしてこういいました――ポークおばさん、今のはメリイおじさんの友だちがトルロの博物館から電話をかけてきたんだ。そしてあることについて、大至急ぼくたち三人に会う必要があるって」
「それはだれなんだ」
「ちょっと待ってください、先生さま。あたしはまだいいおわってません……サイモンちゃんはこういいました。おじさんがまだねむっているなら、ぼくたちは今すぐ出かけるべきだと思うって。そして、バスでいきました。それから、おじさんは目がさめたら、後からくればいいんだからって」
「だれなんだ、それは?」と、またメリイおじさんはたずねました。
「サイモンちゃんは名前をいいませんでした……なんだか、とても大事そうなことみたいな感じでした。それで三人とも、出かけて、セント・オーステルゆきのバスに乗りました。心配しないでいいよ、ポークおばさん、メリイおじさんにこのことをつたえてくれればいいんだって、あの子たちいいました」
「あの子らだけでいかせては、ぜったいいけなかったのだ」と、メリイおじさんはぶっきらぼうな口調で言った。「わるいがポークおばさん、わしは起きて服を着がえるから」
「はい、わかりましたですとも」と、ポークおばさんは、なおもほほえみながら、おちついた様子で、あまやかすような口調でこたえると、部屋を出ていった。
数分後、メリイおじさんはすっかり出かける用意をして、下におりてきていた。むずかしい顔をして、ときどき、なにか気がかりな様子でひとりごとを言うのだった。朝食はいらないと言って、足ばやにグレイ・ハウスから出ていった。ポークおばさんは玄関のところから、メリイおじさんを見つめていた。乗り古して、へこんだようなメリイおじさんの大きな車が道路にあらわれ、けたたましいエンジンの音をのこして走りさっていく。その後に、旧式のエンジンがはき出した黒い煙が、車が村から見えなくなってもただよっていた。
ポークおばさんはにっこりほほえんで、グレイ・ハウスの中にに引きかえした。何分かたって彼女は、ふたたび外に姿をあらわした。口もとに、まだ秘密めいたほほえみがうかんでいる。ドアにかぎをかけると、ショッピング・バッグを持って、ポークおばさんは港の方に向かって丘をおりていった。そのショッピング・バッグからのぞいている何本かの赤と青の羽が、ポークおばさんの体の横で、歩くたびにひょこひょこと首をふるみたいに動いていた。
第十章 岬の先端で
「こりゃ、思ってたほどかんたんじゃないぜ」と、サイモンが顔をしかめながら言った。そしてあたりのぎざぎざしたいくつもの岩を見まわした。「ゆうべ、あのひょろ長い石のところからみたときには、ここには、一かたまりの岩だけしかないように見えたんだ。ところが、こんなにあちこちにあるうえ、どれもこれも大きな岩ばかりだものな」
海の方から吹いてくる風が、ジェインのポニーテールの髪を背中のあっちへやったり、こっちへやったりしていた。ジェインは陸の方をふりかえった。「ちょうど、海の上にいるみたいだわ。ここだけ切りはなされて、外から陸地をながめているみたい」
ケメア岬の先端は、ジェインたちが今までに見たどこよりも、荒涼としてわびしい場所だった。はるか下に海面があり、太陽の光を反射してきらきら光っていた。そして風は潮のかおりをはこんできた。三人は、岬のほとんどいちばん先のところの草の上につき出た、むきだしの岩の間に立っていた。すぐ目の下は、草の生えたけわしいがけで、垂直に六十メートルほど真下に、波がたえまなく打ちよせて、白くくだけているのが見える。まわりを見まわしても、生き物や動く物の姿はどこにもなかった。
「さびしいな」と、バーニイが言った。「ぼくがいうのは、とにかくこの場所そのものがさびしいと感じているみたい。ぼくたちがさびしいと思うのとちがう意味でさ。つぎの手がかりってなんだろうな、もしあるとすれば」
「ないんじゃないかしら」と、ジェインはゆっくした口調で言った。「だって、あまりにへんぴな場所すぎるわ。ここからはもうどこにもいかれない。だって、なにもかもすべて、ここに通じていて、ここがいきどまりという感じだもの……でもへんねえ、のぼってくる途中でだれひとり出会わなかったわ。たいていひとりかふたり、ぶらぶらしているものよ、岬だってそうだわ」
「ゆうべもそうだったぜ」と、サイモンが言った。
「やめて、あたしは思い出さないようにしてるんだから。でも、この上には、なに一つ生き物なんていないのね。へんだわよ」
「ペンハローさんは、この岬の先端には、土地の人は近づかないようにしてるといってたよ」とバーニイは言いながら、岩の一つによじのぼった。ルーファスがその横をのぼっていこうとしたが、ずるずるとすべり落ち、クンクン鼻を鳴らしながらバーニイのかかとをなめた。「土地の人たちは、あのひょろ長い石だって、好きじゃないんだよ。でもここにも、けっしてやってこないんだ。ペンハローさんは、あまりたくさん話してくれなかったけど。あの人は、土地の人たちがここの岩にはゆうれいがついていて、不幸せを呼ぶと考えてるんだといったよ。あの人も、それを信じてるみたいな口ぶりだった。土地の人はここの岩のことを墓石と読んでると、ペンハローさんはいっていた」
「あのひょろ長い石を、そう呼んでるって?」
「ちがうよ、ここの岩のことだよ」
「へんねえ、あたしだったらぎゃくに考えると思うわ。あっちの石の方が、見方によっては、ずっと墓石みたいに見えるわよ。ところがこの岩って、どこにもある岩みたいに、ただの岩じゃないの」
「だって、あの人がそういったんだ」と、バーニイは両肩をすくめてみせたが、その拍子に、バランスをうしなって、もう少しで落ちそうになるところだった。「ようするに土地の人たちが、ここの岩を好きじゃないっていうことだね」
「なぜかしら」ジェインはすぐそばの、自分の頭より高くつき出しているごつごつした岩を見あげた。サイモンがジェインの隣で、その岩の表面を古いしんちゅうの望遠鏡ケースでなんとなくたたいていた。そのケースの中には、古文書が巻かれて安全にしまわれているのだ。バーニイが今朝、もったいぶった様子でそれをサイモンに返したのだった。そのとき、急にサイモンがたたくのをやめ、つっ立ったままで動かなくなった。
「どうしたの? なにか見つかったの?」と言って、ジェインが岩をのぞき見るようにした。
「いや……そうだ……どうもしないよ、おれはべつになにも見ていたわけじゃない。古文書に書いてあること、思い出さないかい? メリイおじさんがいってたのを今思い出したんだ。古文書をかいたコーンウォール人が、どこに秘密のカップをかくしたといったか。海の上、岩の下だ」
「その通りよ。そしてあの見知らぬ騎士を埋葬したのもそこよ。なんていったかしら、あの騎士の名前……」
「ペドウィンだ」と、バーニイは言った。「やっ、にいさんの考えていることがわかったぞ。海の上、岩の下、それはここなんだ!」
「でも」と、ジェイン。
「いやここにきまってる!」といってサイモンは、興奮して片足で飛びあがった。「海の上だぜ――見ろ、ここくらい海の上ということがはっきりしている場所はほかにない。ちがうかい? そして岩の下だ。見ろ、ここには岩がある」
「そしてここには、ペドウィンも埋葬されているにちがいないよ!」と言って、バーニイはあわてて岩からすべりおりた。「だから土地の人たちは、ここの岩のことを墓石だなんて呼ぶんだ。そしてゆうれいが出るなんていうんだよ。人々は、本当にあった出来事はみんなわすれてしまっているんだね。だって何百年もむかしのことだもの。それでも人々はここへ来てはいけないというおきてはおぼえていたんだ。少なくとも、ここに来るとこわいことがあるというようにおぼえていたんだよ。だからどちらにしても、ここには来ないわけなんだ」
「土地の人たちがいってること、たぶん正しいかもしれないわよ」と、ジェインが気味悪そうに言った。
「気にするなよ。とにかくさ、もしペドウィンのゆうれいがどこかにさまよっているにせよ、おれたちはペドウィンと同じ側の人間なんだから、おれたちをおどろかそうとしたりしないと思うよ」
「メリイおじさんが、なにかそのようなことをゆうべいったわ」ジェインは思い出そうとするように、ひたいに神経を集中させた。
「そんなこといいよ。それより、どんなことになったかわからないのかい? ぼくたち、問題の場所にいるんだよ、ついに見つけ出したんだ!」バーニイはよろこびのあまり、口からつばを飛ばすほどせきこんで言った。ルーファスにもそれが感染したらしく、風に向かってほえながら、うれしそうに三人のまわりをはねまわった。
サイモンがバーニイを見た。「よし、いいだろう。で、それはどこなんだい?」
「それは」バーニイはちょっと口ごもった。「ここさ。ここの岩のうちのどれか一つの下だよ」
「よろしい。それじゃ、そんなに興奮して動きまわるのをやめて、しばらく考えてみるんだな。おれたちがなにをしなくちゃならないか。ここの岩の下をぜんぶ堀りかえすのかい? 岬の一部分なんだぜ。岩ばかりなんだ。見ろよ」と言ってサイモンは、ペンナイフを取り出した。じょうぶなはがねでできている、二枚の大きな刃と、綱通し針とがついているナイフだ。サイモンはひざを折ると、ごつごつした岩の一つの根もとのところの地面を、そのナイフで堀りかえしはじめた。草をむしり取り、穴を掘っていったけれど、十センチも掘らないうちにかたい岩にぶつかった。「ほら、わかったかい?」サイモンはナイフの刃で、岩をごしごしこすったので、それはギーギーといやな音をたてた。「こんなところになにがうめられるというんだい?」
「どの岩のところもみんなそうとはかぎらないよ」と、バーニイは負けまいとして言いかえした。
「たぶんどこかに、ちがったところがあるかもしれないわ」と、ジェインが希望をつなぐように言った。
「三人で手わけして、自分の範囲のすみずみまで、なにかかわったところはないか調べてみるとどうかしら。本当は掘る道具を持ってくるべきだったと思うけど。さあ、やりましょう」
そこでバーニイが岩の下の一方のはしへいき、そこから二十メートルほどはなれたもう一方のはしへジェインがいった。サイモンは、岬のけわしいがけをおそるおそる見おろしながら、海ぎわまでまわっていき、そこから岬の内側に向かって進みはじめた。三人はそれぞれ、とがった岩をはいのぼったりおりたりしながら、岩の間のはりがねのような草のあたりを調べたり、石があると動くかどうか、そして下になにかうめられるような場所になっていないかどうか、引っぱってみるのだった。けれども、どの石も一センチも動きはしなかった。けっきょくは、花こう岩の岩と草ばかりで、かくし場所のある気配はまるでなかった。
三人がまた集まったときに、ジェインが手になにかを大事そうに持っていた。「見てよ」と、ジェインはそれをふたりに見せた。「こんな高いところで貝がらを見つけるなんて、おかしな話だと思わない? だって、もしだれも今までここに来た人がいないとすればなおのこと、この貝がらはどうやって、一体海辺からここまで来たというのかしら?」
「貝がらというより、石みたいじゃないか」と、サイモンがそれをジェインの手からとりながら、ものめずらしそうに言った。それはトリ貝のからで、その穴のところは岩のようなものがつまって、かたくかたまっていた。そして表面は、海辺で見つかるもののように白くてざらざらしていなくて、つるつるしてこい灰色だった。
「だれかよその土地からきた人が、それを落としていったにちがいないよ」と、バーニイがさもわかりきったことのように言った。「そういう人たちは、ここにのぼってくることをこわがったりしないだろうからね。だって、トリウィシックの人たちがいってることをぜんぜん知らないわけだから」
「そうかもしれないな」三人は、軽べつの思いをこめて、そうした人たちのことを考えた。
「あーあ」、とジェインは貝がらをポケットにしまって、がっかりしたようにあたりを見まわした。「どうしようもないわ。いき止まりってわけね。あたしたちにできることって、もうなにがあるというのかしら?」
「ここに、なにか大事な物があるにちがいないんだ、きっとある」
「本当にあるかどうかはわからないんだ……たぶん解決までの道のりの中で一歩だけ進むというだけのことかもな」
「でも、ここにはなんの手がかりもないのよ。もう一度あの地図を見てみましょうよ」
サイモンは地面にしゃがみこみ、望遠鏡のケースを開けた。それから三人は、古文書をのぞきこんだ。その上の文字も線も、太陽のもとではうすく茶色に見えた。
「ここが探検の最後の場所だということはたしかだと、ぼくは思うよ。この古文書をかいた人は、そういってると思うんだ」と、バーニイはあくまでも言いはった。「岬の先端がどんなふうにえがかれているか見てごらんよ。そこだけ独立したようになってるだろ。ほかのどこにも、つながるようなものは一つもないんだ」
サイモンは考えこみながら地図を見つめていた。「たぶんおれたちがスタートした場所へ、引きもどされるんじゃないかな。この古文書をかいた人は、これまでずっとおれたちをあやつって、からかっていたのかもしれない。一種の安全策さ、秘密のカップを見つけるのをむずかしくするための」
「たぶん、ぜったい見つからないどこかへ、それをかくしたんだ」
「たぶん、自分といっしょに持っていったのかもしれないわ」
「たぶん、それはもうこの世にはないのかもしれないさ」
三人は重っ苦しい気分になって、丸くより集まるようにすわっていた。太陽の日ざしのことも、下の海岸と海のすばらしい景色も、まるで目の中に入らなかった。がっくりしたように、三人は長いことだまったままだった。バーニイが、なんとはなしに顔をあげて、言った。「ルーファスはどこにいったのかな?」
「知らんな」と、サイモンがふきげんな声で言った。「がけから落ちたんだろ。あいつのやりそうなことだぜ」
「そんなことあるもんか!」バーニイは気になるように立ちあがった。「だいじょうぶだと思うよ。ルーファス! ルーファス!」バーニイは二本の指を口にあてて、耳がさけそうなほど吹き鳴らした。ジェインはちぢみあがった。
なにも見えなかった。そして聞こえるのは風の吹く音だけだった。そのとき、三人の頭の真上で、奇妙な音がするのに気がついた。ふんふん鼻を鳴らすような声だった。
「あそこにいる!」バーニイは岩をまわってはいのぼっていった。そして立ちあがったバーニイの金髪の頭のてっぺんが、つき出た灰色の岩の向こうに見えた。と思ったら、ふいにバーニイの姿は見えなくなった。岩の向こう側から、バーニイの声が風にのってふくみ声のように、でも興奮して緊迫したひびきをともなってつたわってきた。「おーい! ここにきてよ、早く!」
岩は要塞のようにならんでいた。一つの岩の次には、またべつの岩がつき出ているという具合に、戦列のようにならんでいた。その中央にバーニイがいるのを、サイモンとジェインは見つけた。バーニイはとがった岩のふもとにしゃがみこんで、ルーファスをじっと見ていた。ルーファスは岩に鼻を近づけ、においをかぎ、鼻を鳴らしながら、一本の足で軽くそこを引っかいていた。なにかに注意を集中して、ふるえるようにそこに立っていた。
「早く」と、バーニイはふりかえらないまま言った。「なにをしようとしているのかよくわからないけどなにか見つけたんだと思うよ。今までこんなルーファスを見たことないよ。もしネズミだとかウサギだったら、気がくるったようになってほえたて、走りまわるんだけど、こんどはちがうんだよ。ルーファスを見てごらんよ」
ルーファスは、まるでたましいをうばわれたみたいに、岩の表面からはなれられないで立っているように見えた。
「おれに見せろよ」と、サイモンが言った。用心深くバーニイのそばを通って、ルーファスの首に片腕をまわすと、あごの下をなでながらルーファスをその岩から引きはなした。「小さなすきまがここにあるぞ」というサイモンの声が、ジェインとバーニイに聞こえた。「指が中に入る――あれっ! おい、上のこの岩は動くぜ! そう感じたんだ、たしかだよ。もう少しで手がはさまってしまうところだった。ものすごく大きいんだ、しかしおれの考えでは……ジェイン、おれの隣へまわれるか?」
ジェインは岩の間をくぐりぬけるようにして、サイモンの隣に場所をしめた。「そこにいるんだ」と、サイモンは命令した。「そのつきでている部分だ……おれがいったら、できるだけの力でおすんだ海の方へだよ。ちょっと待ってくれ、おれの方の持つところを決めなくちゃ……こいつが動くかどうかわからないけどな……よし、動かせ!」
言われるままに、自分がなにをしようとしているのかはっきりしないまま、ともかくジェインは力いっぱい岩をおした。その隣でサイモンも、うんうん言いながら岩を持ちあげるようにしていた。けんめいに力をふりしぼって長いことそうしていたけれど、なにも起こらない。ふたりの胸がもう破裂しそうだというときだった。手の下で、岩が動いたように感じた。かすかに震動したかと思うと、うすがまわるみたいにぎーっときしみながら、岩は動いた。ふたりがよろけるようにしてうしろに身を引いたとき、ふたりの手をはなれたその大きなごつごつした丸い岩は、ころがって近くのへこんだところに落ちこんだ。どしんという重いひびきが、サイモンたちの立っている岩をふるわせた。
丸い岩があったあとには、直径六十センチほどのぶかっこうな穴が、ぽっかり口を開いていた。
三人はつっ立ったまま、思わず口を開けてそれを見つめていた。ルーファスは岩の間を横切って穴に近づき、においをいっしょうけんめいかいでいた。やがてもどってくると、しっぽをふり、まるでにっと笑っているみたいに、歯の間から長い舌をたらしているのだった。
ようやくサイモンが前に進み出て、穴のふちにあった小さな岩のかけらを二つ三つのけた。それからひざをついて、穴の中をのぞきこんだ。穴がどれくらい深いか、手をつっこんでみた。
サイモンの姿が、肩のところまで見えなくなり、サイモンははらばいになってしまった。中にはなにもなくて、穴のまわりはごつごつした岩だった。サイモンは、バーニイとジェインの方にちらりと目をやり、おし殺したような声で言った。「この穴は底なしだ」
その声に、バーニイとジェインはわれにかえった。今まで息をつめて、じっと見つめていたことに気がついた。
「起きてよ、あたしに見せてよ」
「これがそうにちがいないぜ。ぜったいそうだ。この中にカップがかくしてあるんだ!」
「どれくらいの深さだと思う?」
「どえらいことだよ! ルーファスって、えらい!」
ルーファスは、ますます速くしっぽをふった。
「あのずんぐりした岩は」と、ジェインはひっくりかえされた丸い岩を、うやうやしい目つきでながめて言った。「そこに九百年の間のっかっていたんだわ。考えてごらんなさいよ……九百年よ……」
「ぐらぐらなんかしていなかったんだ」サイモンが、つっぱった腕の筋肉をもみほぐすように曲げたりのばしたりしながら言った。「でも、かなりうまくバランスをとってのせてあったんだな。でなければ、おれたちにはぜんぜん動かせなかったはずなんだ。とにかく、この中になにかあるかどうかより先に、一体穴がどれくらい深いのか知る必要があるな」
サイモンが考えこむように、岩の中にぼっかり開いてた暗い穴を見つめていた。ジェインは、ため息をもらし、何百年という時の流れについて考えることを中止した。
「石ころを落としてみるんだよ、そうすれば音で深さがわかるよ。かみなりの近さをはかるときみたいなものさ。ほら、いなびかりと雷鳴との間が何秒かかぞえれば、かみなりがどれくらい近いか遠いかがわかるだろう」
サイモンは、穴のふちから岩のかけらを一つ拾いあげて、暗い穴の真上にもってきた。サイモンは手をはなした。岩のかけらは落ちていき、見えなくなった。三人は耳をすました。
長い時間がたってから、すわりこんでいたジェインが、体をうしろにそらせるようにして言った。
「なにも聞こえなかったわ」
「ぽくもだ」
「もう一度ためしてみよう」
サイモンは、石ころをもう一つ、穴の中に落とした。そして三人はまた、石ころが底にとどく音を聞こうと耳をすました。なにごとも起こらなかった。
「今度も、ぜんぜん音もなにもしなかったぜ」
「そうよ」
「底なしにちがいない!」
「ばかなこというな、そんなことがあってたまるか」
「たぶん、オーストラリアまで続いている穴なんだろう」と、バーニイが言った。そして気味悪そうにその穴を見つめた。
「音があまり遠すぎて、おれたちに聞こえなかっただけの話だな」と、サイモンは言った。「すごく深いにちがいない。ロープを持ってくればよかったな」
「ポケットの中をさがしてみたら」と、ジェインが言った。「いつだって、がらくたがいっぱいつめこんであるんだから。バーニイもそうよ。少なくともおかあさんはそういってるわ、あんたたちのポケットをからにしてきれいにしなくちゃならないときに。ひもかなにか入っているかもしれないわよ」
「おまえのがらくたこそしまつするんだな」と、サイモンはむっとしたように言った。それでも彼はポケットの物を出して、岩の上にひろげた。
なかなかおもしろい見ものだったけれど、たいして役に立つような物は出てこなかった。ナイフをはじめ、うすぎたないハンカチ、カバーガラスに傷のついた磁石、一ペニー銅貨が二枚と七ペンス分の半ペニー銅貨、ろうそくのつかいさし、めくれあがったバスの切符が二枚、しわになったセロファンに包まれた落花生入りのあめが四つ、それに万年筆が一本。これらがずらりと岩の上にならんだ。
「とにかく」サイモンは言った。「あめはひとりに一つずつわけられる」そしておごそかな顔つきで、みんなにあめを手わたした。セロファンがゆるんでいるはしの方は、わずかにけばだったようになっていたけれど、そのために味がまずいなんてことはまるでなかった。サイモンは四つ目をルーファスにやった。ルーファスは、二度三度むずかしげな顔でかみくだこうとした後、まるごと飲みこんでしまった。
「こんなことしてもむだだよ」と、バーニイは言った。ポケットの物をぜんぶ出すと、砂がざらざらとこぼれ落ちた。オレンジ色の星が入っている緑のビー玉が一個。小さな白い石が一個。六ペンス銅貨が一枚に一ペニー銅貨が四枚。頭のない鉛の水平さん。めずらしいことに、サイモンのよりずっときれいなハンカチ。両はしが丸く曲がったはりがね。
「そんなもの一体、なんのために持ち歩いているの?」と、ジェインがたずねた。
「そんなことどうだっていいだろ」と、バーニイはあいまいなこたえ方をした。そして、「役に立つことだってあるさ。さあ、今度は姉さんの番だよ」
「あたしのポケットにはなんにもないわよ」と、ジェインはちょっと気どって言った。そして両方のポケットをひっくりかえしてみせた。
「そうだ、ダッフルコートを持ってきただろ」と、サイモンが言った。彼は岩の間を横切って最初に三人が立っていた場所までおりていくと、ジェインのコートを取ってきた。
「ほら、これだ。ハンカチが一枚、ヘアピンが二個。なるほどね。鉛筆二本。マッチ一箱。このマッチでどうするつもりなんだい?」
「バーニイと同じよ――役に立つことだってあるわよ。とにかく古いはりがねなんかより、よっぽど役に立つわよ」
サイモンは、ジェインのコートのもう一つのポケットに手をつっこんだ。「お金、ボタン……こいつはなんだい?」サイモンは糸巻きを取り出した。「そうだ思いついたぜ。こんな物持ちあるくなんて、まぬけた話だけど、しかしこれは穴の深さをはかるのに役に立つかもしれんな」
「それを持っていたことわすれていたわ」とジェインは言った。「わかったわ。にいさんの勝ちよ。あたしもがらくたを持っているってわけね。でも、あたしのはセンスのあるがらくただってこと、認めるべきよ」サイモンの手からジェインは糸巻きを受けとった。「これにはもめん糸が百メートル巻いてあると書いてあるわ。それ以上深い穴なんてないわよね?」
「この穴がそれ以上深くても、ぼくはおどろかないさ」と、サイモンは言った。「糸になにかをくくりつけて、ゆっくりおろしていくんだ」
「なにか軽い物でなくちゃ」と、バーニイが言った。「そうしないと糸が切れるよ」
ジェインは糸を少し引き出して、両はしを引っぱってみた。「さあね、この糸かなり強いわよ。そうだわ、あのはりがねをかして」
バーニイは、うたがわしそうな顔でジェインを見たが、はりがねをを彼女に手わたした。そのはりがねのはしっこに、ジェインは糸をむすびつけた。「できたわ。これをだんだんおろしていって、底につくまでやっていけばいいのよ」
「もっとうまい方法がある」サイモンは糸巻きを自分の手に取ると、ジェインの鉛筆の一本を糸巻きの真ん中の穴に通した。ちょうどいいくらいの長さに、鉛筆の両はしが糸巻きの両側に出る。「どうだい。鉛筆の両側を手でもってれば糸巻きは、はりがねの重さでしぜんに糸がほどけるだろう。魚をつるときと同じ要領さ」
「あたしにやらせて」ジェインは穴のそばにひざをついて、その暗い口の中にはりがねをおろした。糸巻きがくるくるまわって糸がどんどん消えていく。三人は息を殺して見つめていた。とつぜん、糸巻きの動きがにぶくなり、弱々しくまわったかと思うと、止まってしまった。はりがねが底までとどいたんだな、と三人が考えてふと見ると、糸の先がぶらぶらしているではないか。
「あらまあ」と、がっかりしてジェインが言った。「糸が切れてるわ」暗い穴の中をのぞきこんで、糸がどこへ消えてしまったかジェインはさがそうとしたけれど、それはむだだった。サイモンが、ジェインの手から糸巻きを取って、調べてみた。
「糸はそれでも、半分なくなっているな。その間になにもぶつかららなかったんだ。ということは、この穴は少なくとも五十メートルはあるということだな。なんてことだ!」サイモンは、ジェインの肩をたたいた。「おい、とんまさん、いくらのぞいてもなにも見えやしないぜ」
ジェインはサイモンをはらいのけるみたいに手をふって、なおも穴の中をのぞきこんでいた。
「うるさいわよ」
がまんしてサイモンとバーニイが待っていると、ようやくジェインが、顔を真っ赤にして体を起こした。そしてまぶしそうにまたたきしながら、「海の音が聞こえるのよ」と言った。
「あたりまえさ。海の音なら聞こえるよ。ぼくにも聞こえる。だって、ここは岬の突端なんだものな」
「いえ、ちがうのよ。あたしがいうのは、この穴の下の方で聞こえるということよ」
サイモンはジェインを見て、ばかにしたように頭をふりながら、ため息をついた。
でもバーニイは、穴のすぐそばにはらばいになって、穴の中に首をつっこんだ。「ねえさんのいう通りだ、ほんとだよ」と、バーニイはサイモンの方を見あげて、いきおいこんで言った。
「やってごらんよ、耳をこの中に入れてみるんだよ」
「ふーん」と、サイモンは半信半疑で、バーニイとならんではらばいになった。するとサイモンの耳に、ひじょうにかすかにだけど、穴がうなるような音が底の方から聞こえてきた。その音はゆっくりした、規則正しい間隔で、消えたかと思うとまた聞こえてくる「あれは海の音かい?」
「もちろんよ」と、ジェインが言った。「あの、うわーんとひびくような深い音が、なんの音だかわからないの? ああいう音は、波が洞くつの中にうちよせるとき、出るものなんだわ。それがどういうことを意味しているかといえば、この穴はがけにそって海まで通じているのよ。そして下には入り口があるにちがいないわ。あのコーンウォール人がカップをかくしたのは、そこなんだわ」
「そうとばかりはきまっていないさ」サイモンは耳を手でこすりながら、ゆっくりと立ちあがった。「この音は、下の方の岩のふちからつたわってくる、震動かなにかだということだって考えられるだろ?」
「それじゃ聞くけど、そんなふうに聞こえるというの?」
「いいや」、とサイモンは認めた。「そうは聞こえないけどさ。ただ……だれがやったにせよ、こんなに細くて深い穴を、どうやって掘ることができたんだ?」
「そんなことわからないわよ。でもあのコーンウォール人はやったんだわ。あたしが見つけたあの小さな貝がらは、たぶんそのときに、どうやってかは知らないけど上に投げあげられたものだわ」
「それじゃ、もしカップがこの穴の下にあるとしても、海水が入ってきている入り口からそこへいかなくちゃいけないな。洞くつはあるにちがいない。でも港の方から、がけをつたわっていけるのかどうかわからないな」
「聞いて!」とつぜんバーニイが、起きあがってまっすぐ立った。そして頭をオンドリのようにぴんと立てた。「なにか聞こえる。エンジンの音みたいだ」
サイモンとジェインも立ちあがり、波の音と風の音のかなたに、なにが聞こえるかと注意を集中した。カモメが鳴いているのが聞こえた。そのもの悲しい、泣いているような声は、下の方から風にのって急にはっきりと聞こえてきたりする。それから、バーニイの言った音が聞こえた。それは港の方角からしてくるトントントンという低いエンジンの音だった。
ヨットの長い白い船首が、ケメア岬のカーブをまわって進んでくるのを発見したのは、サイモンだった。彼はしゃがみこんだ。「低くしろ、早く!」とサイモンはしわがれ声で言った。
「あいつらだ!、レディー・メアリ号だ!」
バーニイとジェインは、サイモンのそばに身をふせた。「岩のうしろにいるようにすれば、見つけられる心配はないさ」と、サイモンは静かに言った。「だれも動くんじゃないぞ、あいつらが見えなくなるまではな」
「ここにすきまがあったよ」バーニイがささやいた。「岩の間から、あいつらの様子が見えるよ……ミスター・ウィザースが甲板にいる。妹がいっしょだよ。船長はそこにはいない。甲板の下にいるにちがいないな……ふたりはこっちを見てる。この上の方じゃない、がけを見てるみたいだ……ミスター・ウィザースが双眼鏡を持った……今おろした、そして妹の方を向いてなにかいってる。どんな表情なのかはわからないな、それほど近くないから。もっと近くまでやってくればいいのに」
「そんな!ジェインは声をつまらせた。心がさわいで、声はしわがれていた。「下にカップがある洞くつがあって、あの人たちがそれを見たら、どうするの!」
そのことを考えると、三人はしびれたようになった。身動きもできないで横たわったまま、三つの心は、ヨットが遠ざかることを願った。レディー・メアリ号のエンジンの音が、ひときわ高くなった。三人のいる岬の突端のすぐ下を、通っているのだった。
「あいつらなにしてる?」サイモンが、ひどく緊張したささやき声で言った。
「見えないよ。今ちょうど岩がじゃまになるんだよ」と、バーニイがじっとしていられないといった様子でこたえた。
エンジンの音は、高らかにあたりの空気をふるわせた。でも、それは止まなかった。三人が息をころして、じっと耳をかたむけているうちに、その音はやがてしだいに遠くなり、海の方へ向かっていった。
「またあいつらが見えるようになった。もうひとつすきまがあるんだ……彼はまだ双眼鏡で岸の方を見てるよ。なにか見つけたわけじゃないと思うな。まださがしているという感じだよ……今ヨットは岬のコーナーをまわっていってしまった」バーニイが、体を巻きあげるようにして、半身を起こした。「もしあいつらが洞くつをさがしているんだとしたら、どうして洞くつのことがわかったんだろう?」
「知ってるわけがないわ、だって古地図を見ていないんだから」ジェインが苦しそうに言った。
「知ってるなんてありえない。だって、もしあの牧師さんが、あの人たちの仲間だとしても、そしてあたしが村の案内書にかいた略図についてあの人たちが知っているとしても、そんなこと、なんの手がかりにもならないわよ。あたしはなに一つ、手がかりになることは書き入れてなかったのよ」
「それでも、もしあいつらがどこをさがしたらいいか知らないんだとしたら、どうして正しい場所をさがしているんだろう?」
「おれの考えでは」と、サイモンが安心させるように言った。「今のは、ただ、彼らの仕事の一部分なんだな。つまり、彼らはどこをさがすべきか知らないので、あらゆるところをさがしているんだ。メリイおじさんとおれたちが話しあったあの最初の日に、メリイおじさんはそのようなことをいってたもの。彼らがこの間家をひっかきまわした、あのやりかたと同じだよ――なにも計画なんかなしに、手あたりしだいにさがすんだ。おそらくばくぜんと、洞くつのことだって考えてみたんだな。そして洞くつがあるかしれないと、沿岸中心全部調べているんだ。この場所をというのじゃなく、あっちこっち全部なんだ。問題の洞くつがここにあるんだということを、彼らは知っているわけじゃないんだ」
「あたしたちは知ってる。もしそれがこの下にあるんだったら、でもどうしてあの人たちは洞くつがわからなかったの?」
「たぶん、見たんだ」と、バーニイは顔をくもらせて言った。
「じょうだんじゃないわ、見たはずないわよ。もし見たのなら、ヨットを止めたはずでしょ。とにかく、バーニイが岩のすきまから見ていていったみたいな、あんなさがし方はしなかったはずだわ。あんたがいったのよ、ちがって?」ジェインはいらいらしたように、バーニイを見た。
「そうだよ――ヨットが見えなくなるときもあのウィザースのやつ、まだ双眼鏡でいっしょうけんめいのぞいていたもの」
「じゃ、だいじょうぶだわよ」
「ほかのことが一つ考えられるんだ」と、サイモンがしぶしぶのように口を開いた。そしてちょっとだまりこんだ。
「なんなの?」
「おれたちは海の音を聞いた、ということはその洞くつの口はふさがっているのかもしれないんだ。海面より下にあるのかもしれないんだ。だから彼らに、見つけられなかったんだとも考えられる。コーンウォールには、海面下の洞くつがたくさんあるんだ。なにかでそう読んだことがある。あのコーンウォール人がカップをかくしたときとは、今はちがっているかもしれない。九百年もの間には、陸地だって少し沈下しただろうし」
「それならうまい具合だね」と、バーニイは言った。「あいつらにはぜったい見つけられないというわけだもの」
サイモンはバーニイを見て、まゆをつりあげた。「おれたちにだって見つけられないということだぜ」
バーニイは目を丸くして相手を見た。「そんな。ぼくたちは見つけられるさ。にいさんは、もぐるのがうまいだろ」
「見つけられないだろうな。おれはもぐるさ、しかし、魚じゃないんだ」
「なにもかも水びたしなのかもしれないわ」と、ジェインがゆっくりと言った。「そして、カップも海の中にあるのかもしれない。難破船のように、すっかり魚や貝のえじきにされてね」
「表面にはフジツボがくっついてな」と、サイモンも言った。
「そんなことないよ。ぜったいちがうよ。海の上、とあのコーンウォール人はいったんだ。だからぜったい海の上にちがいないんだ」
「ようするに見つけなければいけないのよ。メリイおじさんにはわかると思うわ」
このとき三人は、はっとしたように、おたがいに顔を見つめあった。
「メリイおじさんだよ! すっかりわすれてしまっていた」
「どこにいるんだろう?」
「バーニイ、おまえポークおばさんに、正確にはどういってメリイおじさんへのことづてをたのんだんだ?」
「ぼくたち、ルーファスと散歩に出かけたといってくれませんか、メリイおじさんはぼくたちがどこへいったかわかるはずだから、といったんだよ。ポークおばさんは、ちょっとおかしな顔をしてぼくを見たけど、メリイおじさんにことづてをつたえるからといったよ。ぼくは、わざとゲームでもやってるような調子で、ポークおばさんにへんに思われないようにしたんだけどな」と、バーニイはひどくしんけんな顔でこたえた。
「メリイおじさんに、なにも起こっていなければいいけど」ジェインが心配そうに言った。
「心配するなよ、メリイおじさんはまだいびきをかいて寝ているだろ」と、サイモンは言った。そして時計を見てから、「十一時半だ。ヨットがもどってくる前に、早いところここからおりよう。今度は音が聞こえないんだからな。でも、さっきはどうして帆を出さなかったのかな。風はたっぷり吹いているというのに」と言って、サイモンは顔にしわをよせた。
「気にしないさ」と、バーニイは言った。「もどってメリイおじさんと会おうよ。またうら道をまわってね――あの男の子はまだおもて通りを見張ってるかもしれないな」
「いやだめよ、あたしたちおもて通りからいくべきよ。メリイおじさんが出かけて来る途中かもしれないもの。あたしたちには、もう時間があまりのこされていないような気がするの。つかまる危険をおかすのもやむをえないわ。さあいきましょう」
第十一章 カーニバルの人波
港が見えるところまで歩いてきたとき、三人には、見られないように通りぬけることも、つかまることも、どちらもありえないということがわかった。
港のあたりの道路は、人でごったがえしていた。漁師たちも商店主たちも、外出着を着て道路に出ていた。その奥さんたちも、いちばん上等の夏のドレスを着ている。そしてトリウィシックで、今まで見たこともないほどおおぜいの観光客たちが、陽気に群がり、さわいでいるのだった。満ち潮のため、たくさんの船がつながれている波止場の水位は上がっていた。そして船は全部一方側に移動させられて、四角い海面があらわれていた。その海面は、うきしずみするいくつもの白いうきのついたロープでかこってあった。三人が港に近づいていく道の途中で、かすかにピストルの合図の音が聞こえた。日焼けした六人の体が海に飛びこむのが見え、プールのように仕切られたコースにそって、白い水しぶきをあげながら泳ぎはじめた。人々が、わあっと歓声をあげた。
「水泳大会の最後にちがいなくてよ」と、ジェインが下に見えるカーニバルのふんいきに巻きこまれて、うわずった声で言った。「ちょっと見ていきましょうよ」
「おいおい、わからないのか」と、サイモンがげんなりした口調で言った。「おれたちには任務があるんだぜ。どんなことよりも先に、メリイおじさんを見つけなくちゃならないんだ」
ところがグレイ・ハウスに帰りついてみると、玄関のベルをおしても中からなんの返事もなかった。三人が玄関のところに立っていると、家の前の道を、開放的な服装の観光客たちが丘の方へのぼっていったり、おりてきたりして通りすぎていった。サイモンがうらにまわって物置き小屋の秘密のかくし場所からかぎを取ってきた。そして三人が家の中に入ってみると、だれもいなくて、家中しんと静まりかえっていた。
メリイおじさんのベッドは、きれいにととのえられてあった。寝室にもほかのどこにも、メリイおじさんがどこにいったのか教えるような物は、なに一つ見つからなかった。ポークおばさんも、どこにもいなかった。台所のテーブルの上には、おおいをかけた三つのおさらがあって、冷たいピザとサラダがそれぞれに入っていた。三人の昼食だった。ほかにはなにもなかった。家の中はちり一つ落ちてなくて、しんとして、なにもかも片づいていて――そしてからっぽという感じなのだった。
「いったいメリイおじさんは、どこにいったというんだろ? それに、ポークおばさんだって」
「それはかんたんよ。ポークおばさんは外出して、みんなにまじって水泳を見物してるわよ。あの人が、カーニバルの日を子どもみたいに楽しみにしていたこと、知ってるでしょ」
「おばさんをさがしにいこう。メリイおじさんがどこにいるか、知っているにちがいない」
「こうしたらいいよ」と、バーニイが言った。「兄さんと姉さんは港にいく、そしてぼくはメリイおじさんがいってるかどうか丘の上までかけていって見てくるよ。もしメリイおじさんが岬へのぼっていく途中だったら、丘の上から見えるもの。頂上まではかなり時間がかかるよ」
サイモンはちょっと考えていた。「よし、それはいい考えみたいだ。でもくれぐれもいっとくけど、もしヨットがもどってくるのが見えたら、ぜったいに見られないようにするんだぜ。それと、できるだけ早くもどってくること。おれたちはべつべつになってしまいたくないからな。ジェインとおれは、水泳をやっていたあの波止場のところにいる」
「了解」急いで出ていこうとしたバーニイが、ふりむいてこう言った。「ねえ、古文書はどうするつもり? もしメリイおじさんが見つからなくて、ぼくたちだけということになったら、古文書を持ち歩いているの安全だと思う?」
「どこかにおいていって心配するよりは、よっぽど安全だよ」と、サイモンは手にしたケースを見ながら、きびしい顔つきで言った。「どんなことがあっても、おれはこれをぜったいに守ってみせる」
「ああ、わかったよ」と、バーニイは陽気に言った。「港に落としたりしないでね。それだけさ。じゃあね。すぐ後で会おう」
「バーニイがどんなときも、とても明るいのでうれしいわ」おもてのドアがバタンと閉まるのが聞こえたとき、ジェインが言った。「あたしもああなりたいけど。でもなんだか、どこにいても、だれかがあたしたちのうしろから、飛びかかろうと待ちかまえているような気がするのよ。ベッドに入ったときくらいのものよ、安全だと感じるのは」
「元気を出せよ」と、サイモンは言った。「ゆうべのことまだこわがっているんだろ。おれもあのときはきもをつぶした。でも今はなんでもない。わすれるようにするんだ」
「それはいいんだけど」と、ジェインはあわれな声を出した。「でもだれも彼も悪者だとわかってくるような、そんな感じだもの。しかもそれがどんな種類の悪者なのか、あたしたちには、わかってもいないのね。なぜみんな、そんなにあの古文書をほしがるのかしら?」
サイモンはひたいにしわをよせて、メリイおじさんがいちばん最初の日に言ったことを思い出そうとしていた。「彼らがほしがっているのは、聖杯ににたカップなんだよな。なぜそれをほしがっているかといえば、どうやらそれがなにかのシンボルだからなんだ。メリイおじさんがそれを見つけたがっているのも、同じ理由からなんだ。歴史の中で戦っている二つの軍隊みたいなものさ。彼らがどういうふうにじっさいに戦っているのか、それについてはよくわからない。しかしおたがいに相手をたおそうとしていることだけは、はっきりしているんだ」
「ときどき、メリイおじさんが軍隊のように思えることがあるわ。それもひとりだけで一方の軍隊を代表してているみたいに。まったくふうがわりで、遠い人みたいに見えて、そばにいてもそこにいるのはメリイおじさんじゃないみたいに思えるときがあるでしょ。そういうときに、メリイおじさんは軍隊のようにあたしには思えるんだわ」
「うん、そこなんだな。相手のやつらの場合も同じことなんだ。ただ彼らの場合は、いわば悪い軍隊さ。ゆうべ、あのひょろ長い石のところで、彼らがきていることを知らなかったときに、おまえはすでに悪の気配を感じとっていたっけな」
「そうなの」ジェインは、矢もたてもたまらぬように言った。「ああ、メリイおじさんがどこにいるかわかったら、あたしは元気づくのに」
「ポークおばさんを見つければすぐわかることだよ。しゃんとしろよ、ジェイン」と言ってサイモンは、ぎこちないやりかたでジェインの肩をたたいた。「さあ、港の方へいってみようぜ。このぶんだと、おれたちより先にバーニイがもういってるかもしれないさ」
少し元気が出てきて、ジェインはうなずいた。「そうだわ――今日の午後はおとうさんとおかあさんがもどってくるわね。なにか書きのこしておくべきかしら?」
「いや、ふたりが帰ってくるよりずっと前に、おれたちの方がもどってるさ」
* * *
静まりかえったグレイ・ハウスを後にして、ふたりは丘をくだって港の方へ歩いていった。見おぼえのない子どもたちが、両親がしきりに呼んでいるのにおかまいなく、いたるところをかけまわっていた。波止場のところでアイスクリームを売っている、古ぼけた小さな店は、旗やらポスターやらをぶらさげて大繁盛していた。
サイモンとジェインは港にそった道を、人ごみをかきわけながら、水泳大会をやっているコースの方へ歩いていった。ところがふたりには、流れにさからって船をこぎ進むような感じがするのだった。人々はこちらに向かってみんな歩いてくるのだった。めざす場所にふたりがついたときには、なにもかもおわってしまっていた。ぬれた水着のまま、人ごみの間をたくみに通りぬけていく少年少女の姿と、だれも泳いでいない海面に、ひょこひょこと頭をあげさげしているうきの列とが、水泳大会のあったことを物語っているだけだった。
水着姿のひとりが、サイモンの横をかすめて通りすぎた。そのぬれた日焼した体にちらと目をやったとき、頭にへばりついた黒い髪の下の顔に、見おぼえがあった。ビルだった。
ビルは口を開けて、けんかするか、というような態度で立ちどまった。しかしそれもちょっとの間で、気をかえたらしく、にらみつけるような顔をしてみせると、立ちさっていった。人ごみをわけてビルはおもての波止場の方に向かって、はだしで走っていった。
「おーい、ジェイン! ジェイン!」サイモンは大声で呼んだ。彼女は数歩先を歩いていて、ビルには気がついていなかったのだ。
そのときサイモンの耳に、低音の声がとびこんできた。「おまえさんの友だちは、レースに負けたんだよ。それできげんがよくないんだ。フーバー家の者はみんなそうだがね」
サイモンはあたりを見まわした。すると、サイモンがはじめてビル少年に出くわした日に、波止場であった老漁師の、しわだらけの顔が笑っているのが見えた。
「こんにちは《ハロー》ペンハローさん」と言ったすぐその後で、こんなあいさつのしかたなんて、ずいぶんおかしいなと気がついた。「それじゃ彼は、水泳大会に出たの?」
「そうよ、出たともさ、チャンピオンを決めるレースにな。いつものことながら、態度が悪かったねえ。数メートルの差で負けたが、優勝した若者が、よいレースができたと握手をしにいったらな、彼はくるりと背中を向けおった」老漁師はくっくっと笑った。「その優勝者というのは、わしのいちばん末のむすこじゃった」
「あなたのむすこさん?」と言ったのはジェインだった。サイモンが呼ぶのを聞いて、もどってきていたのだった。
ジェインは、ペンハローさんの日焼けした顔を見つめた。水泳競技に出られるほど若いむすこがいるとは思えないくらい、すごく年とって見えた。
「その通り」と、老漁師はおちつきはらってこたえた。「タフなヤツでな。いま十六だが、商船に乗っておって休暇でもどっておる」
サイモンが感心したように言った。「ねえ、ぼくも十六になったら、商船の船員になれると思う?」
「おまえさんにはちょっと早いな」といってペンハローさんは、ウインクするような目でサイモンを見つめた。「海の上の生活はきついでな」
「バーニイはあなたのような漁師になりたがっているの」と、ジェインが言った。「そして、″白い羽号″のような船を持ちたいんですって」
ペンハローさんは笑った。「どうせ長くは続かん考えじゃて。もうちょっと大きけりゃ、わしがひと晩、いっしょに海へ連れていってやるがの。そうすりゃ、すぐに考えがかわるじゃろう」
「おじいさんは、今夜海に出るの?」
「いいや、休みじゃよ」
ジェインは、ふと、片方のくつがしめってきたのに気づいた。足もとを見ると、水たまりの中に立っているのだった。急いでジェインは横に身をうつした。「泳いだ人たちったら、ずいぶん水しぶきをいっぱいとばしたのね。波止場中いたるところ水たまりだわ」
「水泳のためなんかじゃないよ、お嬢さん」と、ペンハローさんは言った。「潮のせいなんじゃ。今朝はその上まで満ちてきた――今月の大潮はいつもより高いでな」
「ああ、そうなんだ」と、サイモンが言った。「ほら見てごらんよ――道のうしろ側に海そうがいっぱいある。潮が満ちてきて壁のところまでうちよせたにちがいないな。あんなに高いところまで潮が来ることって、よくあるの?」
「たびたびはないのう。ふつうなら年に一回か二回じゃな――三月と九月じゃ。八月にこんな大潮があるのはめずらしい。このところ風が強いで、そのせいじゃとわしは思うがね」
「引き潮のときは、どれくらい低くなるの?」と、ジェインが心をうばわれたみたいにたずねた。
「ああ、ずいぶん引くな。この港は、干潮になるといつもきたなくなるが、大潮の大きなやつが来るときは、干潮になるともっときたなく見えるでな。こびりついたどろや海そうやら、ふつうなら見えない物まであらわれてくる。今日は五時ごろになればそれが見られる。もっとも、おまえさんたちはみんなと同じように、そのころカーニバルを見ているのじゃろうが」
「そうかもしれません」と、サイモンはあいまいなこたえかたをした。頭の中が、もうれつにいそがしくはたらいていたからだった。この漁師のことばが、サイモンの頭のぜんまいの一つにふれて、それが急に動きだした、とでもいうような感じだった。「ペンハローさん」と、サイモンはむとんじゃくな態度をよそおいながら言った。「そうしたすごい引き潮のときには、港の外でも、いつもは見えないような岩なんかいっぱいあらわれるでしょ?」
「そうじゃ、こういう話もあるでな。つまりトリウィシックの港からドッドマンまで、ずっと海岸づたいに歩いていける、とな。ドッドマンというのは、ケメア岬の先二つ三つの湾をいったところじゃて。そうはいっても、これはようするに話しだけのことで――岩があらわれても、そこを半分もいかないうちに、また潮が満ちてきていけなくなるさ」
ジェインはもう、うわの空だった。「ペンハローさん、あたしたちポークおばさんをさがしているの。あたしたちの家のお手伝いさんをしてくれている女の人だけど。おじさん、知っているかしら?」
「モリー=ポークをか?」と、ペンハローさんは満足そうに笑いながら言った。「そりゃ知っているとも。いいあねさんだったが――いまでもそうじゃが、しかしジム=ポーク老人が死んでからはあの女はしみったれになった。おまえさんたちのとうさんやかあさんも、きっと金がかかることじゃろうて。余分に金をもらうためなら、なんだってやる。そういう女になったみたいだな。そうじゃ思い出した。彼女はおまえさんたちの知ってるビルのおばさんだ」
「ポークおばさんが?」ジェインがびっくりして言った。「あのいやな男の子の!」
「そうじゃよ」と、ペンハローさんは、たんたんとした口調でこたえた。「あの家族の二つの系統は、たがいに心のむすびつきはほとんどないのでな。トリウィシックのたいていのものは、あの家族の二つの系統が親せきどうしだということさえわすれておるくらいよ。あの女は知られたくないと思っておる」
「そういえば、メリイおじさんが前にいったことがあるんだ」と、サイモンが言った。「すっかりわすれてしまっていたんだけど、ビルはポークおばさんの悪い兄弟のむすこだっていっていたな」
ジェインが考えごとにふけりながら言った。「それじゃ、もし、……あら、そうだわ、今はそんなことどうでもいいの。おじさんはポークおばさんをどこにも見かけなかった?」
「はてと……そう、わしはたしかに彼女といっしょにいたんじゃ。ああそうだ。おもての波止場だったな。カーニバル向きに着かざって、頭におかなし物をなにかくっつけて、カーニバルの行列のこと、どうやら、手伝ってるようじゃった。いってみれば、まだそのへんにいるだろう。もっとも、ごちそうでも食べに鉄砲玉みたいに飛びだしちまっていればべつだが」
あたりの人ごみは、まばらになってきていた。そのかわり、おもての波止場の方に人がいっぱい集まっていて、バンドのグループがその中のあそこ、ここに見えた。バンドマンたちは明るい青のそろいの服を着て、銀色に光る大きな管楽器を両手にかかえ持ち、あまりにあわない青いとんがり帽子をかぶっていた。サイモンとジェインは、港の海面ごしにじっと見つめていたけれど、人の顔までははっきり見わけられなかった。
「さて、わしはむすこのウォルターを見つけにいかなくてはな。あいつはほんとに得意になっていることだろうて。おまえさんたち、弟の小さい漁師さんによろしくな」と言ってペンハローさんは、ひとり笑いながら波止場をひょこひょこと歩いていった。
この前会ったときとは、どうも感じがちがう、と今まで不思議に思っていたジェインは、はじめてその理由がわかった。ペンハローさんは、青いセーターと、ももまである長ぐつのかわりに、今日はきちっとした黒い背広を着て、キュッキュッと鳴るくつをはいていたのだった。
「あのおじさんがポークおばさんのこと、あんなふうにいうとは思わなかったわ」と、ジェインがとまどったように言った。
「わからないけど、もしかしたら大事なことかもしれないな」と、サイモンは言った。「とにかく、今おれたちなにをしようとしているんだっけ? メリイおじさんがどこへいったかきくために、ポークおばさんを見つけだす必要があるんだったな。ペンハローさんは、港の向こう側にポークおばさんがいたといったけど、バーニイとおちあう場所はこっち側なんだ」
「バーニイはどこにいるのかしら? どう考えても、丘の上までいってここにもうもどってきてもいいはずよ。ねえ、兄さんがあっちへいってポークおばさんをさがし、あたしはバーニイが来るまでここで待っていることにしたら」
サイモンは、耳をかいた。「さあな。みんながこうしてばらばらになってしまうの、あまり感心しないな。メリイおじさんに会えないでいるんだ、そして今はバーニイにも会えないでいる。もしおまえがおれとわかれてしまったら、おだかいにみんなが完全にばらばらになってしまう。だれかひとりがつかまっても、ほかの者はそれを知らないということになる。おれたちはいっしょにいるべきだと思うな」
「そうね、わかったわ」と、ジェインは言った。「もう少し待っていましょう。おもての波止場の角のところにもどらない? あそこなら、バーニイをこちらへ来る途中でつかまえられるわ。ここへ来るにはあの道しかないから、バーニイはあそこをぜったい通らなければならないんだもの」
ふたりがもどっていく途中で、トリウィシックのバンドが港の方から勢ぞろいして出てくるのが見えた。そのまわりにおしあいへしあい人が群がり、子どもたちがそのふちを、興奮してあちこちかけまわっていた。白いシャツ姿や夏の洋服にまじって、ひとりかふたりかわった服装をしているのが目立った。背が高く、奇妙な色の服をまとい、リボンだとか木の葉のかざりをつけ、頭には奇怪な仮面をかぶっている。
「カーニバルの仮装行列の人たちにちがいないわ」
「今からスタートなんだ。ほら、ひどい音出すなあ」
バンドが、まよい歩くようなふぞろいなラッパの音を出しはじめたと思ったら、それはしだいに、行進曲らしい音になっていった。
「やるじゃない、それほど悪くないわよ」とジェインは言った。「あの人たちはトランペットを吹いたりするより、つりのほうが本職なんだもの。とにかく、とてもゆかいに聞こえるわ。あたしは好きよ」
「ふーん。あの角の石がきの上にすわろう。バーニイが通ったら見つけられるよ」サイモンは道路に出て、丘の方をながめた。「バーニイの姿はまるで見えないな。人があまり多いもんだから、なかなか見つけるのはほねだな」
「それじゃしかたないわね」と言いながらジェインは、石がきの上にのっかった。石がきのざらざらしたスレートが、ひざのうしろ側をこすったので、ちょっと痛そうに体をちぢめた。「待っているしかないわね。そら聞いて、音楽が大きくなってきたわ」
「あれが音楽だって……」と、サイモンは言った。
「だって、その……あら見て、行列がスタートしたんだわ! こちらの方にやってくるわ!」
「ポークおばさんは、行列は丘の上までずっと進んでいくんだといっていたな」
「たぶんほかの角からじゃなくて、この角から丘の方へのぼっていくのよ。それとも、まずはじめに村中をまわって……ほら、みんな着かざっているわ。それに、ポークおばさんが今朝歌っていた、あの″花のダンス″をおどっているわ」
「ここならよく見えるな」サイモンは石がきの上にとびのって、ジェインとならんですわった。
おもての波止場の方からあらわれた人波は、ゆっくりとふたりの方に近づいてきた。顔を真っ赤にして吹いているバンドの前を、子どもたちが走りまわったりはねたりしている。バンドのうしろには、サイモンとジェインが港の海面をへだてて見た、あのふうがわりなかっこうをした人たちが、おどりながらやってくる。頭にかぶった奇怪な面が、ダンスをふざけながらゆっくりおどるにつれて、急に横にかたむいたり、とびあがったりしている。そのほかにマスクで顔をかくし、変装した人たちが、まわりでよろこんでおしあいへしあいしている観光客たちの間に入っていったり、また出てきたりしながら、おどっている。あっちこっちで、彼らは見物人の間にとびこんでいっては、きれいな少女の手をとったり、リボンのついた棒で、黄色い声をあげるおばあさんをたたくようなふりをしたり、村人たちと観光客たちが手をつなぐようにさせて、いっしょに道いっぱいに列をなしておどるようにしむけたりしていた。
「プカ……プカ……ドン・プカ・プカ・プカ……」石がきの上にすわっているサイモンとジェインの耳に、カーニバルの音楽は鼓膜がやぶれそうなほどひびきわたった。角にいるふたりのまわりは、人でごったがえし、その人波はあふれて、上は丘の方まで、下は港の方まで続いているのだった。
歯をむいて笑っている大きな仮面を、ゆかいそうにながめていたジェインが、とつぜん人波の中の一点を見つめた。そして指さしながら、サイモンの方に向かってさけんだ。
サイモンはぜんぜん聞こえなかった。聞こえているのは、石がきがふるえるかと思うほどのまわりの音楽だけだった。「なんだって?」と、サイモンはさけびかえした。
ジェインは、サイモンの耳のところに顔を近づけて言った。「ポークおばさんがいる! ほら! あそこだわ、頭に羽をつけている。木の葉をかぶった男の人のうしろ。早くいって、おばさんをつかまえなきゃ!」サイモンが止めようとするより先に、もうジェインは石がきからおりて、人波のふちにいた。
サイモンはその後を追って飛びおりると、おどり、笑っている二つのグループの間の人がきをかきわけて、中に進もうとしていたジェインを、ようやくのことで腕をつかんで引きもどそうとした。「今はまずいよ、ジェイン!」しかし、おどる人たちのいきおいにサイモンもしだいにおし流されて、やっとジェインを人波の外に連れだしたときには、数メートルほど最初の場所から動いていた。ふたりはくぎづけにされたみたいに、道路の反対側の石がきのところにへばりついていた。そこは最初の場所より港から遠い位置になり、カーニバルの行列がおどりすぎていくのを見物する人たちが、サイモンとジェインをとじこめるように、まわりにいっぱい立っているのだった。
ふたりがバーニイを見なかったのは、そのためだった。バーニイは、丘をおりてきてグレイ・ハウスを通りこして歩いてくると、人々の足の間をたくみにくぐりぬけ、行列にはかまわず石がきのある角をまわっていたのだった。そして、サイモンたちとおちあう約束になってた場所に向かって、うらの波止場にそって、けんめいに走っていったのだった。
第十二章 悪魔の誘惑
丘をおりてきて家を通りすぎていく道で、バーニイはずいぶん手間どったのだった。岬にはメリイおじさんの姿はなかった。そして帰りの道は、ぶらぶら歩く人たちがいたるところにかたまっていて、腹が立ってくるほどなかなか前に進めなかった。せまい急な坂を車が入ってきて、バーニイが道をよけなくてはならないことも三度あった。バーニイはいらいらしながら、道を左や右にくねり歩いたり、道の外側に身をよけたりした。そのうしろをルーファスがついてくるのだった。
丘を半分ほど下ってきたところで、港の向こう側から音楽が聞こえてきた。そして道を歩いて来る人たちの頭の間から、ダンスの行列が波止場にそって進むのが見えた。ルーファスの首輪に指をつっこんで、バーニイは、しだいにふえるばかりの人ごみの中を、道のはしに身をよけて通りぬけながら、できるだけの速さで丘を下っていった。池の中の小エビのように、ちょっとでもすきまが見つかると、そこをさっとくぐりぬけた。
バーニイが港の角にさしかかったとき、ちょうどカーニバルの行列に出くわした。目の前は人の足と背中ばかりで、先はなに一つ見えなかった。バーニイは、もがき、のたうつように、その人がきをつきやぶって進んだ。耳にはバンドの音楽ががんがん飛びこんできた。やっとのことで、人ごみの外に出ると波止場についた。ふーっと、ほっとしたようなため息をついて、バーニイはルーファスの首輪から指をはなした。そしてサイモンとジェインとおちあうことに決めてあった、今は人気のない波止場のすみに向かって、ルーファスといっしょに走っていった。
そこには、だれひとりいなかった。
バーニイは、きょろきょろとまわりを見まわした。ふたりがどこにいってしまったのか、どこを見てもその手がかりになるようなものは一つもなかった。いろいろ考えをめぐらせてみたすえ、ふたりはポークおばさんを見つけたのにちがいない、とバーニイは結論をくだした。ポークおばさんは、カーニバルとダンスのことで夢中だった。だからポークおばさんは、行列の中にいるにちがいない。そしてバーニイの役目が岬にいって様子を見てくることであったように、ポークおばさんを見つけるのがサイモンとジェインの役目だったわけだ。とすれば、ふたりはポークおばさんを追っていったにちがいない。ふたりがどこへいったか、バーニイにはわかるだろうと思って。
バーニイは自分のこの推理に満足して、カーニバルの行列を見つけに出かけた。道路には、行列のいちばん後尾の人たちがまだのろのろとさまようみたいに歩いていた。海の方から吹いてくる風には、港の奥の方までも吹いてきたけれど、それはときどきやんだ。そして、村のどのあたりからか、家々の屋根をわたって、人をじらせるように切れぎれの音楽が、バーニイの耳に聞こえてきた。
「プカ……プカ……ドン・プカ・プカ・プカ」路上の人たちは、あてもなくのらりくらり歩きながら、たいくつなおしゃべりをしていた。「みんなどこへいったんだ?」
「グラウンドへいけば出会えるさ」
「だけどまだまだみんなは、道をねり歩いておどるんだよ」
「さあ、いこうぜ」
その人たちにかまわず、バーニイは小さな横道にそれた。その後から、あいかわらずルーファスが根気よくついてきた。曲がりくねった道から、またべつの小道へとバーニイはぶらぶら歩いていった。道の両側の家のスレートの屋根と屋根がほとんどくっつきあっている、せまい道路を通っていったかと思うと、玄関のドアのしんちゅう製のノッカーが、太陽の光を受けて金色にかがやいている、きれいな家々の前を通りすぎた。また、家々の玄関が歩道なしの道に直接面している、玉石を敷いた路地も歩いていった。小さな土地なのに、トリウィシックは、曲がりくねった小さな道路がはてしなく迷路のように続いている町のように思えた。バーニイはたえず耳をすまして、バンドの音楽のしている方へと、この迷路のような町の中を通りぬけていった。
一度か二度、まちがって道を曲がったために、バンドの音が聞こえなくなった。それから、しだいにまたバンドの音は大きくなり、それといっしょに人々の声のざわめきや、地面をふんでいくおおぜいの足音が聞こえはじめた。バーニイは、ルーファスに向かってパチンと指を鳴らすと、かけ足で走りだした。人気のない静かな路地から、またほかの路地へと、かけぬけていった。とつぜん、耳をつんざくような音が目の前でしたと思うと、バーニイは音をさえぎっていたせまい道から、ひろい道路に出ていた。まわりは人でいっぱいで、明るい光線が満ちあふれ、行列がおどりながらゆっくり進んでいる。「よう、わたしの大好きな坊や」と、だれかがバーニイに向かってさけんだ。まわりの人たちがふりむいて、笑った。
おどっている人たちの中には、サイモンもジェインもいなかった。それに、もしさがしても、ふたりに会えそうな見こみはほとんどなさそうに、バーニイには思えた。見とれるように、バーニイは首をふっておどっている大きな仮面の頭を目で追っていった。着ている物は、派手で、けばけばしい色の、むかしの人が着ていたような腰のところがくびれている上着と、赤と黄と青のももひきのように足にぴったりついたズボンだった。どちらを見まわしても、仮装した人たちがいた。ひとりの男の人は、緑の木の葉を頭の上でゆすりりながら、木のように体をぴんとはっておどっていた。海賊や、船乗りのかっこうの人もいた。高い帽子をかぶり、まっ赤な服を着た軽騎兵もいた。どれいの少女、そして道化師、またひとりの男の人は長い絹の青いガウンをつけて、パントマイムの女の人のかっこうをしていた。全身まっ黒の服をまとい、ひげのはえたネコの仮面をかぶって、ネコのように体をくねらせておどっている女の人もいた。緑の服を着てロビン=フッドのかっこうをした小さな男の子たちや、長い金髪をたらして、″不思議の国のアリス″になっている小さな女の子たちもいた。むかしの追いはぎ、伝説に出てくる人物たち、花売り、小鬼たちもいた。
バーニイには、これは生まれてはじめて見る光景だった。バーニイと同じように道ばたに立って見物している人たちの中へ、仮装しておどる人たちはぐるぐるまわりながら入ってきたり、また出ていったりするのだった。そしてとつぜん、気がついてみると、バーニイのまわりで彼らはおどっているのだった。
バーニイはだれかに、手をつかまれたかと思うと、おどっている人たちの真ん中に引っぱり出されていた。まわりはリボンや、羽や、ぴくぴく動く明るい色の仮面をつけた人たちばかりで、バーニイはその人たちと調子をあわせておどるように、しむけられているのだった。
息を止め、歯を見せて笑ったような顔になりながら、バーニイは上を見あげた。バーニイの手をつかんでいる黒い手袋をした手は、あのネコの仮装をした人のだとわかった。その人は体にぴったりくっついた黒いタイツを着、長くて黒いしっぽをふって、身をくねらせながらくるくるおどっている。かぶった仮面のほおのところから、長いまっすぐなひげが何本もはえていた。仮面の穴の奥で、二つの目がきらりと光り、白い歯が笑うのが見えた。まわりでおどっている人たちの中で、すぐ近くのひとりが、大きな羽かざりをつけたインディアンの頭をし、ポークおばさんそっくりの顔をしているのをバーニイは見た。声をかけようとして口を開いたとき、黒ネコの仮装をした人がバーニイの両手をつかんだかと思うと、いきなり人ごみの間をぬって、目がまわるほどのいきおいでくるくるまわりだした。人々は、そばをとおりすぎる小さいバーニイを見てほほえんだ。音楽と、スピードと、目の前でからまるように動きまわるネコの仮装をした黒い足のために、バーニイは目の前がぐるぐるまわりはじめ、ふりまわされながら笑いつづけた……。
……そのうちとつぜん、バーニイは、アラビア人の族長のかっこうをした人の、白くて長い着物にぶつかって止まった。その人はほかの人たちといっしょに動きながら、白い着物がぱっとひろがって波うつようにひらひらさせているのだった。目の前が大きくゆれているような目まいの中で、その人がやせていて、色の黒い細った顔をしているのがちらと見えた。と思った次のしゅんかん、ネコの仮装をした人がバーニイの両手をつかんだかと思うと、アラビア人のかっこうをした人のひろがった白い着物の中に、バーニイを投げ入れた。
まだ笑いながら、でも急にまわりが黒くなって、バーニイがよろめくと、その白い着物はねじれるようにバーニイの体にまといついた。そして、バーニイがはっとしたときはもうおそく、その着物の男の人は鉄のバンドのようにかたくバーニイを片腕でだきとめ、地面から持ちあげていた。もう一方の手が、着物でバーニイの口をおさえた。どこかに連れていかれるのだ、とバーニイは思った。
あばれようとしても、耳の割れそうな音楽と人ごみの中でバーニイはもみくちゃになっているのだった。男の体をおしのけようとしても、まるで効果はなかった。そして男が数歩走ったのを感じたとき、人々の声やバンドの音が急に遠いのいたのがわかった。バーニイは、めちゃくちゃに足をばたばたさせた。男のむこうずねをけっとばした。手ごたえがあった。でも、バーニイはサンダルをはいていたものだから、大きな打撃を相手に与えることはできなかった。男は口の中でなにかのろいのことばをはいたけれど、そのまま止まらないで、バーニイを両手にかかえてゆすぶるように、さらに何歩か歩いていった。そこでバーニイは高く持ちあげられたかと思うと、クッションのきいたシートの上に投げ出された。スプリングが音をたててきしんだ。
口をおおっていた着物がゆるんだ。バーニイはわめきだした。でもまた一つの手が、バーニイの顔を強くおさえつけてだまらせた。
女の人の声が、切迫したような口調で言った。「早く! この子を連れていくのよ!」
女のような高い声だけれど、たしかに男がしゃべっているもう一つの声が、短くこう言った。
「乗れよ。きみが運転しなくちゃ」
急にバーニイは動かなくなり、全身の神経をはりつめた。二つ目の声には、どこかしら聞きおぼえがあったのだ。首すじが寒くなってきた。と思ったら、バーニイの口をおさえつけていた手の力が、もめんの着物の布の中ですこしゆるんだ。耳のすぐそばで、その声がやさしくこう言った。
「あばれるな、バーナバス、動いちゃいけない。そうすれば、だれも痛い目にあいはしない」
ふいにバーニイは、ネコの仮装をした黒ずくめの人物と、アラビアの族長の着物を着た色の黒い男のことがわかった。力強いエンジンがかかり、ぶるんぶるんとうなりだして、シートがふるえるのを感じた。それから音がぐいと深まったと思うと、バーニイの体はがくんとかたむいた。車でどこかへ連れていかれるんだ、ということがわかった。
* * *
ルーファスは、バーニイのところへいこうとするのだけれど、バーニイのまわりで歩いたりおどったりしている足にじゃまされて、そのたびにおこったようにうしろにとびのいた。ためすようにルーファスは、鼻をつき出して前に出ようと、一度、二度とやってみるのだけれど、そのたびにいつも足が目の前に出てきてルーファスをついけっとばしてしまう。それでルーファスはしかたなく、身をかわしてとびのくのだった。
安全な距離から、ルーファスは大声でほえた。でもその声は、割れるような音楽と人ごみのさわがしさの中に、かき消されてしまった。おしつぶされるような音とさわぎに、ルーファスはびっくりしてしまって、耳を頭の横にたおしてぴったりくっつけていた。しっぽはうしろあしの間に巻きこみ、目は白目になっていた。
ルーファスはさらにうしろの方にさがっていった。そして道路のすみっこで、バーニイがふたたび姿をあらわしてくれるのを、待っていた。でもバーニイは、ぜんぜん姿を見せなかった。ルーファスは心配でならないというように、体を動かした。
バンドはラッパやドラムの音をとどろかせて、音楽のリズムを道路のあらゆるところまでゆさぶりふるわせた。それが目の数メートルのところにきたとき、ルーファスにとっては、それはもうおそろしいほえるような音以外のなにものでもなかった。ルーファスはとうとうがまんできなくなって、バーニイのことをあきらめると、くるりとまわれ右をしてカーニバルのさわぎから逃げだした。せまい路地をとことこ歩いていきながら、だらんとたれたしっぽを地面にこすり、鼻も地面に近づけて、家に帰る道のにおいをかいでいくのだった。
* * *
港の角のところで、サイモンとジェインはまたいっしょになった。夏の午後の日ざしの下で、そこはふたたび静けさをとりもどしていた。
「あたしたちが約束した場所へいってきたわ。バーニイはそこにいないのよ」
「おれは家の中をよく見てきた。そこにもバーニイはいなかった」
「ポークおばさんの後をついていった可能性もあるんじゃない?」
「いってるだろ。おまえが見たのはポークおばさんなんかじゃないよ」
「なぜちがうのよ。もし兄さんが止めさえしなければ、ポークおばさんをつかまえることができたんだわ」
「だとしてもここでバーニイに出会えることにはならないだろう」と、サイモンが言いはじめた。
「ああそうよ、わかったわ。とにかくまだあたしたちバーニイに会っていないのよ」
「ということは、バーニイはまだ岬からおりてこられないでいるのか」
ジェインのことばの調子がかわった。「あらどうしよう、バーニイはあの上でなにか事件に巻きこまれたのかもしれないわ」
「いや、ちがう、そうむやみに心配するのはよすんだな。それより可能性があるのは、バーニイはけっきょくメリイおじさんを見つけて、ふたりともまだ岬にいるんじゃないかということだ」
「いいわ、それなら見にいきましょうよ」
* * *
車は生きているものみたいに、ゆれ動いたり、うなったりするのだった。バーニイは荷物のように着物で包みこまれ、横たわっていた。もちろんその着物は、ミスター・ウィザースがバーニイを車の中に放りいれたときに、ぬぎすてたものだ。バーニイは、これはシーツにちがいないと考えた。そのにおいが、家にあるベッドのさっぱりした洗たく物のにおいににていたからだ。しかしバーニイは、家にいるのではなかった。口の中でだだをこねるみたいにつぶやくと、バーニイは車の横っぱらを足でけっとばしてやった。
「これ、これ」と、ミスター・ウィザースが言った。彼はあまりていねいではないあつかい方で、バーニイの足を持って、シートにすわるしせいにさせると同時に、バーニイの顔からシーツを引きはがした。
「もう、きみを暗いところから出してやってもいいだろうと思うんでね、バーナバス」
急に光線にさらされて、バーニイはまぶしくて目をしばたたいた。はっきり目を開けて道路を見られるようになる前に、車はきいっと音をたてて曲がると、高いへいの一つの切れ目の中に入っていった。それからスピードを落としたかと思うと、木がならんでうわっている車入れの道にそって、車のタイヤがじゃりをふむ、ばりばりいう音をたてた。
「もうすぐだよ」と、ミスター・ウィザースはおだやかな口調で言った。
バーニイは首をねじ曲げるようにして、彼の顔を見あげた。こげ茶色の染料をぬってアラビア人のようになっているその顔が、ミスター・ウィザースのものだと見わけるのが、バーニイにはやっとだった。目と、それに歯が不自然に白っぽく見え、メイキャップのうしろに自分は引っこんでしまっているような感じだった。それを自分でおもしろがっているような、そしてほとんどおうへいといっていい感じをバーニイは受けた。
「どこへいくんですか? どこへぼくを連れていくんです?」
「知らない? ああ、知らないの」と、その色の黒い顔がぬけめなさそうに首をふってみせた。
「もちろんきみは知らなかったろうね。じゃ、もうすぐわかるわけだよ、バーナバス」
「なにがほしいんですか?」と、バーニイはたずねた。
「ほしい? なんにもほしくなんかないさ、坊や。わたしたちは、きみをちょっとドライブに連れてきただけさ。わたしたちの友だちに引きあわせようと思ってね。会ってみれば、ふたりはうまくやっていけると思うよ」
並木の間から、一軒の家が見えてきた。バーニイの体には、まだシーツがまといついていたので、バーニイは胸が自由になるようにもぞもぞやっていた。ミスター・ウィザースが、すばやくふりむいた。
「このじゃまっけなもの、どけてください。ぼくいやなんです」
「ほんのじょうだんなんだよ」と、ミスター・ウィザースは言った。「きみのユーモアのセンスはどうしたね、バーナバス? きみは楽しんでいるんだと思っていたけどな」
ミスター・ウィザースは体をのばすようにして、そのシーツを引っぱりはじめた。そのとき車は、大きな、がらんとしたような家の、ペンキのはげ落ちた玄関の前に横づけになった。「できるのなら、そのまま飛びおりるんだね。この中じゃ、シーツをうまくとりさることができないな」と、ミスター・ウィザースはむとんじゃくで、きさくな口調で言った。その声にはバーニイをきょうはくするようなひびきはまるでなかった。どうも信じられないという顔でバーニイがながめると、ミスター・ウィザースはふたたび白い歯を見せて、にっこりほほえんだ。
女の人が運転席からおりて、黒いタイツの体をヘビのようにくねらせてバーニイのすわっているシートの方にまわってくると、ドアを開けた。バーニイが車からおりるのを彼女は手伝った。それからバーニイにまといついているシーツをとりさるために、それを引っぱったので、バーニイの体はくるくる回転させられた。バーニイはよろめいた。腕も足も、シーツでしめつけられるようになってつっぱっていたので、バーニイはほとんど自分で動くことができなかったのだ。
ポリイ=ウィザースが笑った。彼女はまだ黒ネコの仮面をかぶっていた。それは目と口をのぞいて顔全部にびったりくっついていた。「ごめんなさい、バーニイ」と、彼女は友だちどうしみたいな口のききかたをした。「あたしたち、ちょっとやりすぎたわね。あなたはなかなか上手におどっていたわ。それでわたしは、止めるのは悪いみたいに思ったくらいよ。でも、気にしないでね、さあいってお茶でも飲みましょう。この時間にお茶を飲むのが早すぎるのでなければだけど」
「ぼくはまだお昼食べてないんです」急にそのことを思い出したものだから、バーニイはすじちがいの返事をしてしまった。
「あら、それだったらわたしたち、あなたになにか食べるものを用意しなくてはね。なんとまあ、お昼まだだったのね? わたしたちのせいなんでしょうね。ノーマン、ベルをおしてちょうだい、かわいそうなこの子に食べる物出してあげなくちゃ」
ミスター・ウィザースも、バーニイのおなかをすかせてしまって悪かったというように、舌を鳴らしながら、車からはなれて、大きなドアの横のベルをおした。彼の着ている物は全部まっ白だった。アラビア人の着物はもうぬいだわけだが、シャツも、フランネルのズボンも白だった。顔と同じように腕は、こげ茶色にぬってあった。
ポリイ=ウィザースは肩を組むみたいに片手をバーニイの肩に軽くのせ、ミスター・ウィザースの後からついていった。ウィザース兄弟のバーニイに対する友だちみたいな態度に、バーニイはどうしていいかわからなくなった。自分がなにもかも悪い方に見ようとしていたのではないか、とバーニイは思いはじめた。たぶん、これはけっきょくはじょうだんで、カーニバルの日の気ばらしの一つなのかもしれない。そしてウィザース兄弟というのは、まったくふつうの人たちで……今までこの人たちが、敵であることをはっきり証明するようなことを実際にやったことはないのだ……だからたぶんバーニイとサイモンとジェインは、なにもかも悪く解釈していたのかもしれない……。
そのとき、家の中で足音がするのが聞こえた。そのドシンドシンという足音はしだいに近づいてきて、やがてドアが開けられた。最初はバーニイは、黒いタイツに緑のシャツを着たその人物がだれなのか、わからなかった。だがすぐに、それが地図をうばおうとしてサイモンを追っかけたあのビル=フーバー少年だとわかった。あの日のケメア岬での光景が、バーニイの頭に一瞬よみがえった。ミス・ウィザースがあの古地図を見たとき、その顔にうかべたどん欲な表情も思い出した。やっぱりぼくたちが考えていたことは、まちがってはいなかったんだと、バーニイは思った。
ビルのうつむきかげんのむっつりした顔が、バーニイを見るやいなや急に元気づいた。そしてミス・ウィザースの方をちらりと見て、にやりとした。
「つかまえたんだね?」
ミスター・ウィザースがすばやくビルとバーニイの間に入り、家の中に入っていこうとしながらほとんどビルをつきとばさんばかりにした。「やあ、ビル」と、ミスター・ウィザースはこともなげに言った。「若い友だちのお客さんをお連れしたんだ。だれもいやだとはいうまいね。とりあえずなにか食べ物をあげたいんだ。なんでもいいから、早いところ用意してきてくれないかね?」
「いやだと思うって?」と、ビル少年は言った。「そんなこと、おれは思わないさ」彼はバーニイをふたたび見つめて、最初のときと同じように歯を見せてにやりと、いやな笑い方をした。それからくるりと向きをかえると、長い廊下をずんずん歩いていって姿を消した。歩いていく途中で、開いている一つの部屋のドアの前で、中に向かってなにか言っていた。
「さあバーニイ、お入りなさいよ」と、ミス・ウィザースが言った。そしてやさしくバーニイを中へおしやるようにすると、うしろ手にドアを閉めた。長い、がらんとした廊下に立って、バーニイはあたりを見まわした。色のあせた壁紙には、いくつも雨もりのあとがあった。バーニイは自分がとてもちっぽけで、ひとりぼっちだと感じた。家の中のどここから、太く低い声が聞こえてきた。「ウィザースかね? きみかい?」
かすかに微笑をうかべて立ったまま、バーニイを上から下まで見つめて、ミスター・ウィザースは、その声に飛びあがって、ほとんど無意識にえりのところに手をやった。「さあ」と、彼はぶっきらぼうに言った。そしてバーニイの手をとると、廊下を歩いていった。カーペットをしいていない木の床の上に、バーニイたちの足音がひびいた。廊下のいちばん奥にある部屋の入り口のところまで、バーニイは連れられていった。
その部屋は大きくて、外の光線がぎらぎら明るいものだから、部屋の中はうす暗い感じに見えた。部屋の一つの側は、長い窓が床から天井まであって、それには薄汚れたようなビロードの長いカーテンがかかっていた。そのカーテンは半分ほどななめに開けられていて、そこから光線が、部屋の真ん中の大きな四角い机の上に差しこんでいた。机の上には紙やら木やらがいっぱい散らかっていた。部屋の中には、だれもいないように見えた。と思ったしゅんかん、部屋にさしこんでいる光線の向こう側のかげの中で、背の高い人が動くのを見てバーニイは飛びあがった。
「ああ」と、太く低い声が言った。「彼らのいちばん下の子を連れてきてくれたんだね。亜麻色の髪をした子だね。知りあいになれるのは、とてもうれしいことだ。はじめまして、バーナバス君」
彼はそういって手を差し出した。バーニイは、ついふらふらっと、その手をとった。その人の声は、ふゆかいではなかった。むしろ、親切そうな感じだった。
「こんにちは」、とバーニイは小さい声で言った。
背の高いその相手を、バーニイは見あげた。部屋がうす暗いので、黒くてこいまゆの下に深く落ちくぼんだ目と、きれいにひげをそった顔が、ぼんやりとわかっただけだった。絹の上着のそでのはしっこが、やわらかくバーニイの手をこするのを感じた。
「わたしは冷たい飲み物を飲もうとしていたところでしたよ、バーナバス君」と、その男の人は言った。まるで、自分より年上のだれかに話しているみたいに、ていねいな口調だった。「いっしょにいかがですか?」そう言って彼が手でしめしたかげの方を見ると、机のそばの低いテーブルの上に、銀色に光っている物と、白い布がのっているのが見えた。「この子はまだなにも食べていないのです」と、バーニイのうしろでミス・ウィザースが言った。みょうにおしころしたような、えんりょがちの、相手をうやまうような声だった。「ビルがたぶん、なにか用意ができると思いまして……」ミス・ウィザースの声は、おわりの方は聞こえないくらいだった。男の人は彼女を見つめて、うなずいた。
「よろしい、よろしい。ポリイ、なにかふつうの服に着がえてきなさい。そのかっこうじゃ、こっけいだよ。仮装の必要はもうないのだ、今はもうカーニバルじゃないのだからね」男の人はするどい口調で言った。
ミス・ウィザースがまるで従順に「はい、おっしゃるとおりでございます……」と返事をするのを聞いて、バーニイはおどろいてしまった。ミス・ウィザースは、体にぴったりした黒ネコの仮装のまま、まるで人間ではないみたいに体をくねらせるようにして、廊下に出ていった。
「さあ、中に入って、おすわりなさい」と、男の人はふたたびやさしい口調にもどって言った。バーニイはゆっくりと部屋の中に進んでいって、ひじかけいすに腰をおろした。それはヤナギ細工のいすで、バーニイがすわると小枝がきしむような音をたてた。ふいにバーニイは、この部屋に以前いたことがあるような気がした。部屋の中のうす暗がりに目がなれてくると、バーニイはうす暗い壁や、天井まである本だなを見まわした。なにか、前にいたことがあるような……でもどうしてもはっきりとは思い出せなかった。おそらく、この部屋が、グレイ・ハウスのことをバーニイにちょっと思い出させる、というだけのことなのかもしれなかった。
バーニイの心の中を読みとったかのように、その男の人は言った。「あなたがたは休暇で、港の上のあのグレイ・ハウスに来ているんだそうですね」
バーニイは、自分でもびっくりしたほど、大胆なこたえかたをした。「とてもおもしろい家にちがいありませんよ。だれもがぼくたちにいうときは、決まってそういうんです」 男の人は、片方の手を机のふちにやって、体を前にのり出した。「ほう?」太く低い声が、強い興味のせいですこし高くなった。「ほかにだれが一体、そんなことをいったのです?」
「ああ、べつにたいした人じゃありません」と、バーニイはあわてて言った。「とにかくあれはすてきな家です。あなたはここに住んでいるんですか、ミスター……」
「わたしの名はヘイスティングス」と、大きな男の人は言った。その名を聞いたとき、バーニイはまたそれがなにかににているような気がちょっとしたのだけれど、すぐにその思いは消えてしまった。
「そうですよ。これはわたしの家です。気に入りましたかね、バーナバス君」
「じっさいのところ、グレイ・ハウスになんだかにてますね」と、バーニイは言った。
男の人は、ふたたびバーニイの方に向きなおった。「本当に? どうしてそう思うのですかな?」
「それは――」と、バーニイがしゃべりはじめようとしたとき、ドアがまた開いて、少年が大きなおぼんを持って入ってきた。そのおぼんにはミルクの入った大きなジョッキと、弱いビールが何本かと、コップがいくつか、それにサンドイッチの入ったおさらとがのっていた。ビル少年は部屋を横切って、背の高い男の人が立っているところにやってくると、机の上にそのおぼんをおいた。あまり近くによるのをこわがっているみたいに、おどおどと、ようやく机にとどく距離のところからおいたのだ。「ミス・ウィザースがなにか食べ物を、といいいましたので」と、しわがれたような声で言うと、もうドアに向かって歩いていた。男の人はひとこともしゃべらず、手をふって彼を出ていかせた。
サンドイッチを目にしたバーニイは、朝ごはんを食べてからずいぶん時間がたったことに気がついた。それと同時に、今までより元気が出てきたように感じた。きしむいすに越しかけたまま、まわりをながめまわした。もっと悪いことになっていたかもしれなかったんだ、と考えた。このミスター・ヘイスティングスという不思議な人物は、バーニイにとって危険な人間ではないように思えた。敵の連中がひとりのこらず、この人間の前ではこわがってぺこぺこしているのが、だんだんおもしろくなってきた。おさらからサンドイッチを一つととると、楽しそうにたべはじめた。パンは、やわらかくて新鮮だった。バターがたっぷりぬってあって、真ん中の方にはうまく煮たなにかの肉が入っていた。バーニイはいっそう気分がよくなってきた。
ミスター・ウィザースが、静かに机の方に近づいてきて、コップにミルクをいっぱいそそぎ、弱いビールのびんの口を開けはじめた。ヘイスティングスといった大きな人は、机のうしろのいすに腰をおろし、ゆっくり体をゆすりながら、こいまゆの下から考えぶかげにバーニイを見ていた。やさしい、くつろいだような口調で、ミスター・ヘイスティングスは言った。「あれはグレイ・ハウスの下に埋められているの、それともあのひょろ長い石の下なの、バーナバス?」
ミルクを飲みほそうとしていた途中で、バーニイはとつぜん息がつまった。あわてて机の上に、大きな音をさせてコップをおくと、前かがみになって、せきこみながらミルクを口から吹きだした。ミスター・ウィザースが、そっとバーニイのうしろにやってきて、背中をたたいた。
「どうしたことだろう、バーナバス」と、彼はつぶやくように言った。「なにかのどにつかえたの?」
バーニイは、けんめいに頭の中で考えをめぐらせながら、必要以上に長くせきこんでいた。そして顔をあげたときは、本能的になにも知らなかったようなふりをした。「すみません、息がつまったんです」と、バーニイは言った。「なにかおっしゃいましたか?」
「わたしのいったことを、きみははっきり聞いたと思うけどね」と、ミスター・ヘイスティングスは言った。そしてふたたび立ち上がると、弱いビールの入ったコップを手に持って、窓の方に歩いていった。立ちあがったときには、低いいすにすわっているバーニイの目には、おおいかぶさるような感じがするくらい背が高く見えた。はじめてその男の人の顔を、明るい光線の中で見ることができたバーニイは、じっと見つめているうちに、かすかに不安になってきた。いつもしかめたようなまゆと、口もとの方に走っているきびしいしわが、バーニイにうそ寒いような感じをあたえたのだった。それは、強くてしかも遠くをながめているような、メリイおじさんにどこかにている顔だった。けれども、このミスター・ヘイスティングスの顔から感じられる、ぞっとするような冷たさは、メリイおじさんの顔にはまるでないものだった。自分がどこにいったのかを、だれかメリイおじさんにつたえてくれる人がいないかと、バーニイは心の中でとても願っていた。
ミスター・ヘイスティングスは、コップを窓に向けてかざした。光線がグラスをつらぬいて、コップの中のビールは、すきとおった金色にかがやいた。「コップ一杯の、ふつうのビールだ」と、彼はぼんやりしたような口調で言った。「光線にかざしてみるまではね。ところがひとたび光線にかざすと、これはまったくすきとおってくる。中の方までも見える……」ミスター・ヘイスティングスは、バーニイの方をくるりとふりむいた。その姿は逆光線のためにまた暗くシルエットになり、おびやかすような感じに見えるのだった。「……きみたち子どもが、ここ何日間していたこともすべて、すきとおったようにお見とおしなんだよ。わたしたちがずっとそれをなにもかも見ていなかったと思うかね? わたしたちが見張っていなかったと思うかね?」
「どういう意味なのか、ぼくわかりません」と、バーニイは言った。
「きみはばかな少年だね」と、ミスター・ヘイスティングスは言った。「といって、いまきみたちがしていることが……みんなばかなまねだとは思わないが。きみたちが地図を見つけたことは、わたしたちは知っている。それにきみたちの尊敬する大おじさん、つまりリオン教授」――このことばを発音するときミスター・ヘイスティングスは、まるでなにかまずいものでも食べるときみたいに口をゆがめた――「その助けを借りながら、きみたちが地図をもとに、ある場所をさがしだそうとしていることも、わたしたちにはわかっている。きみたちがほとんどその目的を達しようというところまできていることも、わたしたちにはわかっている。だから、いいかねバーナバス君、わたしたちは、きみたちがその目的に到達することをどうしてもはばまなくてはならないのだ。わたしたちはついに決心して、網をしかけてきみたちの探検をやめさせることにした。というわけで、今こうしてきみはここにいるのだ」
その冷たい声のひびきに、バーニイはふるえあがった。口がとてもかわいてきた。手を前にのばすと、ふたたびミルクの入ったコップを取り、ごくり、ごくりとひと息にのどに流しこんだ。「すみません」と、バーニイは目を大きく見開いてまばたきしながら、コップのふちごしにミスター・ヘイスティングスを見つめ、上くちびるにひげのようについたミルクのあとをなめた。「あなたのいっていることがわからないんです。サンドイッチのおかわりをいただけませんか?」
うしろで、ミスター・ウィザースが息をのむのが聞こえた。バーニイはちょっとの間、頭の奥の方で、勝ちほこったような声がかすかにおこってくるのを感じた。でもバーニイは、窓のところにいる背の高いミスター・ヘイスティングスの方を、気になるように見つめていた。その姿はだんだん大きくなって、バーニイにおそいかかってくるのではないかという気がしてくるのだった。ふいにその姿が動いて、部屋のうす暗いところにひっこんだ。
「サンドイッチのおかわりをやりたまえ」と、ミスター・ヘイスティングスは言った。「そしたらウィザース、きみはいってよろしい。することはわかっているな。あまり時間がないのだ。ベルを鳴らしたら来てくれ」
部屋のうす暗がりの中では、ミスター・ウィザースの黒くぬった顔がほとんど見えないくらいだった。サンドイッチの入ったおさらを、バーニイのひじのところにうしろからつき出し、こびへつらうように、「わかりました」といって、頭を下げると、部屋を出ていった。
バーニイはサンドイッチのおかわりを食べた。たとえなにが起ころうと、食べる方がいいんだ、とまるで運命で決まっていることのようにバーニイは感じていた。「なぜみんなは、あなたのことをえらい人にむかっていうみたいに呼ぶんですか?」と、バーニイは不思議そうにたずねた。
背の高い男は、また机のところにやってきて、腰をおろした。指で鉛筆をもてあそんでいた。
「きみがそのように呼ぶとしたら、だれがいるかね?」
「さあ、だれもいません。学校の先生くらいのものです」
「わたしもおそらく、そういう先生のひとりなんだな」と、ミスター・ヘイスティングスは言った。
「でも、ここは学校じゃありません」
「きみにはよくわかってないんだと思うね。バーナバス。じっさい、きみにはわかってないことが、じつにたくさんあるのだ。あのきみたちの大おじさんは、きみの頭にどんな話を吹きこんだもんだかね。わたしたちは悪者で不正な人間たちだと、きっとそういったのだな。そして、彼はいい人間なんだと?」
バーニイは、ミスター・ヘイスティングスを見て目をぱちぱちさせ、またサンドイッチをぱくついた。
ミスター・ヘイスティングスは、うすら笑いをうかべて言った。「ああそうだったね、わたしがなにをいってるのか、きみにはわからないんだったね。さっぱり見当がつかないんだよね」その太く低い声には、もうれつな皮肉がこもっていて、バーニイは鼻のところにしわをよせた。
「よろしい、それじゃそのことはわすれるとしよう、しばらくの間だけね。そしてたきみにはわたしのいっていることがわからないのだと、そういうことにしておこう。わたしの考えでは、きみは思いこまされてきたわけだ、わたしの友だちも、わたしも、悪人以外の何者でもないとね。そしてわたしたちが悪いことをするために古地図の中に書いてある秘密を、さぐり出したいと思っているんだとね。きみの大おじさんの話したことと、ウィザース兄弟がやったらしい一つか二つの奇妙なこと、それだけでもってきみはそう思いこんでいるわけだね」
彼の声は低くなって、ねこなで声のようにやさしくなった。「でも考えてごらん、バーナバス。きみの大おじさんのしているいくつもの奇妙なことをだよ。どこからともなくあらわれて、またいなくなってしまう……今日だって、いなくなってしまっただろう? そうそう、もちろんきみはわたしに返事はできないんだね、わたしが話していることについてきみはなにも知らない、ということにしてあるのだから。でもきみの大おじさんがふいに消えてしまったのは、これがはじめてじゃないし、またこれからだってあることだろうね」
ミスター・ヘイスティングスは、じっとバーニイを見つめた。その暗い目つきは、まゆの下からさすようにバーニイに向けてそそがれていた。バーニイは、相手の視線から目をそらすことができないまま、今までより少しゆっくりとサンドイッチを食べた。「わたしたちが悪者だということだけれど……いいかね、バーナバス、わたしが悪者みたいにきみをぶっているかい? きみを少しでも痛めつけたかい? きみはそこにすわって、まったく幸せに食べたり飲んだりしている。たしかにびくびくもしていない。きみはわたしがこわいかね?」
「あなたは、ぼくを誘かいさせたんです」と、バーニイはぴしゃりと言った。
「おやおや、あれはポリイのほんのちょっとしたじょうだんだったのだよ。わたしはきみと話がしたかった、それだけのことなんだよ」
ミスター・ヘイスティングスは、またいすにすわると、腕をいっぱいにひろげた。両手の先が、机の両はしに、ちょうどとどいていた。「どうだろう、きみ。わたしは一つ約束をしよう。今までに起こった出来事について、その真相がじっさいにどうなっているのか、わたしはすべてきみに話すことにしよう。それできみの方は、古地図を見なかったなどといううそはやめることにしよう」
バーニイがなにか言うまで待たないで、ミスター・ヘイスティングスは続けた。「わたしたちはたしかに、きみの大おじさんがさがしているのと同じ物をさがしている。わたしの友だちもわたしもね。けれども彼がわたしたちについてきみに話したことというのは、率直にいって、わたごとみたいなものだね。きみの大おじさんは学者だ、それもえらい学者だよ。だれひとりそのことを認めないものはいないし、わたしもおそらくきみ以上にそのことを知っている。ところが問題なのは、彼自身も自分がえらい学者だということを知っていて、しかもそのことについて考えすぎるということなのだよ」
「それはどういう意味ですか?」と、バーニイはむっとしたように言った。
「偉大な学者だということで有名な人は、いつまでも有名なままでいたいと、とても願っているものだよ。きみたちは古文書を発見した、きみと、きみの兄さんと、姉さんとがね。そして大おじさんにそのことを話したときに、きみたちにはわからなかったのだけれど、それがどんなに重要なものかということが彼にはわかった。その古文書を見て、いよいよそれはたしかになった。ところでバーナバス、わたしは館長なんだ、つまり、世界でもっとも重要な博物館の一つを、管理している人間なんだよ。きみたちが発見した古文書を、わたしは今までずっとさがしつづけてきた。とくに、その古文書によってどういうことがわかるかを、それは長い間にわたってさがしもとめてきた。そうしたことを研究している人たちにとっても、同じくそれはとても大事なことなのだね。その古文書にとってわかる事実が、いま人々が信じている知識を大きくかえることになるかもしれないのだよ。きみの大おじさんは、わたしがそれをさがしもとめていることを知っていたのだ」
ミスター・ヘイスティングスは、なおも続けた。
「ところがきみたちがその古文書を発見したとき、彼は自分自身で探求をやりとげ問題を解決するチャンスだということがわかった。そう思えば思うほど、ますますその考えに彼は引きつけられた。きみの大おじさんは、その古文書の秘密に関係のある時代のことについて、ひじょうによく知っている人物として、いつも有名だったわけだ。もし彼がその古文書によって発見されるあたらしい事実をつかめば、世界中のだれよりも、彼はその時代のことについてよく知っているということになるだろう。人々はいうだろう、リオン教授はなんてすばらしい人物なんだろう。そんなにたくさんのことを知っている彼のような人はどこにもいない……とね」
「どれくらいたくさん知っていることになるんですか?」と、バーニイは言った。
「くわしいことは、きみにいってもわからないだろう」と、ミスター・ヘイスティングスはぶあいそうに言った。それから、また声を落として、その前までと同じく相手を信じこませてしまうような口調で続けた。「わからないかね、バーナバス? きみの大おじさんは、自分の名誉だけが問題なのだよ。考えてごらん。きみたちが探検しおわったときに、その手がらが一つでもきみたち子どものものになると思うかね? 手がらはぜんぶ彼のものになる……。それに反してわたしとわたしの博物館は、それにわたしがやとっている人たちは、すべての知識はみんなにわかたれるべきだと、そしてひとりの人間だけが知識をひとりじめする権利はないのだと、そう信じているのだよ。そして、きみがもしわたしたちに協力してくれるならば、どんな手がらもきみたちのものになるようにわたしたちはとりはからう。世界中の人たちが、きみたちのしたことを知るようになるわけだよ」
自分でも気づかないままにバーニイは、サンドイッチとミルクのことをわすれてしまっていた。すわったまま相手の話に引きこまれ、心にまよいが出てきた。真実はどうなのだろうと、自分の心にいっしょうけんめい問いかけているのだった。たしかに、メリイおじさんはかわっている、しばしば、ほかの人とはちがっているように見えるんだ。でも、それでもやっぱり……。
ゆっくりと、そしてまごついたような口ぶりで、バーニイは言った。「ぼく、よくわからない――今まで聞いたことはみんな、メリイおじさんにはにつかわしくないことみたいだけど、あの人は、ぜったいそんなことできないのとちがいますか?」
「ところがそうじゃないのだよ、わたしはきみに断言するよ――」ミスター・ヘイスティングスは立ちあがって、机とドアの間をいったりきたりしはじめた。もうじっとしていられない、という感じだった。「みんながよく知っているたくさんの人、それもしばしばもっともすぐれた人たちが、とてもへんな行動をすることはよくあるのだよ。きみがびっくりし、ショックを受けるかもしれないことは、わたしにもよくわかる。しかしこれは真実なのだよ、バーナバス。それにきみがいままで思いこまされてきたことよりは、はるかに単純明快なことだ」
バーニイは言った。「そうするとぼくたちは、あなたに地図をわたして、そして――」もうちょっとのところで、バーニイは″聖杯ににたカップ″ということばを言ってしまうところだった。今までのミスター・ヘイスティングスとの話の中では、地図がなんのあり場所をしめしているのかということは、まるで出てきていなかったのだ。彼らは、自分で言ってるほどよく知らないでいるにちがいないのだ。バーニイにわなをしかけて、まんまとしゃべらせるようにしむけようとしたのは、それを知りたかったこともあったのだ。
ミスター・ヘイスティングスの動きが、ちょっと止まった。「そして?」と、彼はバーニイの続きを待った。
「つまり、その地図にしめしてあるものを、あなたが見つけるようにしてあげるべきだというんですね」
バーニイはそう言って、ミルクの入ったコップをふたたび手にとり、考えにふけっているような顔つきでミルクを飲んだ。「そうすれば、あなたはそれを博物館におくことができ、そして、みんながそれについて知ることができる、というわけですね」
ミスター・ヘイスティングスは、おごそかな顔つきで大きくうなずいた。「その通りなのだ、バーナバス。あらゆる知識は神聖なものだ。しかしそれは秘密であってはいけない。きみにはわかっていると思う。だから、それはきみにとってしなくてはならないことだし――わたしにとってもしなくてはならないことなんだよ――学問の名においてね」
バーニイは、コップの中のミルクをゆっくりゆすりながら、見つめていた。「でも、それはメリイおじさんがしていることじゃないんですか?」
「ちがう、じょうだんではない!」と、ミスター・ヘイスティングスはがまんできないというみたいに、背の高い体をふり動かすように部屋の中をいったりきたりしはじめた。「あの男のすることはなんだろうと、リオン教授の名においてなのだ。それがすべてなのだ。ほかになんのためにするというのだね?」
バーニイはこたえた。
「アーサー王の名において、そして闇の世界がやってくる以前の古い世界の名において」
自分がはっきりとそう言うのがバーニイには聞こえた。でも、なぜこんなことばが頭にうかんだのか、後から考えてみてもどうしてもわからなかった。まるでだれかが、バーニイの口を借りて話しているみたいに、バーニイが考えるよりも先に、ことばが口から出ていたのだ。
背の高いミスター・ヘイスティングスの暗いかげが、とつぜん止まった。背中を向こうに向けたまま、まったく身動きしなくなってしまった。部屋の中は、死んだように静まりかえった。まるでバーニイが、かみなりまじりのあらしを、いつでも止められるスイッチをおしたとでもいうような感じだった。バーニイは身じろぎもしないで、ほとんど息もしないで、いすにすわっていた。ゆっくりと、相手は体をまわしてこちらを向いた。バーニイはごくりとつばをのみこんだ。髪の毛のつけ根に、ちくりとさされるような痛みが走った。ミスター・ヘイスティングスは、ドアの近くの、うす暗いすみの方にいた。その顔は、かげになってかくれていた。でも、今まで以上に、その姿はますます大きく、そしてこわい感じに見えてきた。彼が口を開いたとき、その太い声には、今までとはちがうひびきがあり、バーニイはおそろしさで体がしびれたようになった。
「バーナバス=ドルウ君、闇の世界はいつだってやってくる、そしていつも勝つのだ。そのことがきみにもいずれわかる」
バーニイは、だまったままだった。しゃべり方をわすれてしまったような、さっきのことばを言ってしまうとともに声がまるで消えて出なくなってしまったような、そんな感じなのだった。
ミスター・ヘイスティングスは、バーニイをじっと見つめつづけていた。近くによってくると、机のそばに天井から下がっているひもを二度引っぱった。すると待っていたかのように、ドアが開いて、ミスター・ウィザースが音もなく部屋に入ってきた。こげ茶色にぬっていた顔や腕は、すっかり洗いおとしていた。
「用意はできたかね?」と、太く低い声は言った。
「はい、できております」と、ミスター・ウィザースはこびへつらうような声で、「車を出口のところに待たせてありまりす。女の子は着がえをしました。彼女が今度も運転します」
「きみは彼女といっしょに乗るのだ。わたしはこの子といっしょに後から箱型車でゆく。ビルはもう車の用意をしているのか?」
「もうエンジンをふかしております……」
「ぼくをどこへ連れていくんです……?」バーニイは、おびえてかん高い声になって言うと、いすから飛びおりた。でも、あいかわらずバーニイにじっと視線をそそいだままの、背の高いミスター・ヘイスティングスを見ると、そのそばをかけぬけて部屋を飛びだすことはできなかった。
「わたしたちといっしょに海にいくのだ」と、バーニイを見つめる暗い目の奥の方から声を出すように、ミスター・ヘイスティングスが言った。「きみはじたばたすることはできない。そしてわたしのいう通りになんでもするのだ。海に出たときに、きみはわたしたちに地図のことを話すわけだ。そしてどこをさがすのかを、わたしたちに教えることになるわけだよ、バーナバス君」
第十三章 もう時間がない!
サイモンとジェインが出てきたときと同じように、グレイ・ハウスは静まりかえって、がらんとしていた。「バーニイ!」と、サイモンは階段の上の方にあがりながらさけんだ。「バーニイ?」サイモンの声は、むなしくこだまするように消えていった。
「家にいるわけないわよ」と、ジェインが言った。「だってかぎは、かくし場所のところにおいてあったままなのよ。兄さん、バーニイに一体なにがあったのかしら?」ジェインは心配そうに、開いたままの玄関のドアをふりかえり、丘の下の方をながめやった。
サイモンはまた下におりてきて、かげになっているうす暗いホールの中の、日ざしのさしこんでいるところにジェインといっしょに立った。「バーニイは港で、ぼくたちを見つけそこなったにちがいないな」
「でもバーニイは、たしかにあそこにもどってきたのかしら? あのへんにはひとっ子ひとり、もういないのよ。みんなバンドのあとにくっついていってしまったんだもの。あのやなビルと出くわしたわね――もしかしたら兄さん――」
「そんなことないさ」と、サイモンはそわそわして言った。「とにかく、バーニイはルーファスを連れていったんだから。そうそうトラブルに巻きこまれたりはしないさ。待つんだな、そのうち帰って来るだろう。メリイおじさんを見つけて、ふたりでぼくたちをさがしているのかもしれないさ」
サイモンが首をまわして家の中をながめていると、とつぜんジェインといっしょに立った。「バーニイは港で、ぼくたちを見つけそこなったにちがいないな」
「でもバーニイは、たしかにあそこにもどってきたのかしら? あのへんにはひとっ子ひとり、もういないのよ、みんなバンドの後にくっついていってしまったんだもの。あのいやなビルと出くわしたわね――もしかしたら兄さん――」
「そんなことないさ」と、サイモンはそわそわして言った。「とにかく、バーニイはルーファスを連れていったんだから。そうそうトラブルに巻きこまれたりはしないさ。待つんだな、そのうち帰って来るだろう。メリイおじさんを見つけて、ふたりでぼくたちをさがしているのかもしれないさ」
サイモンが首をまわして家の中をながめていると、とつぜんジェインがうれしそうな声でさけんだ。
「見て! 兄さんのいった通りだわ!」
ルーファスがこちらに向かって、丘をかけがあってくるのだった。灰色の道の上を、赤い一本のすじのようにルーファスが走ってきた。でもその後からは、だれもついてくる様子はなかった。ジェインが大声でルーファスを呼んだ。するとルーファスは鼻さきをいっそうあげ、スピードをあげて、入り口のふみ段をかけのぼってくると、ふたりの足の間をかけぬけて、家の中に飛びこんだ。それから舌をだらりと長くたらして、ふたりの前に立ちどまった。ところが、いつも家にもどってきたときにするように、うれしそうに飛びはねたりほえたりなど、まるでしないで、しっぽをさげたままなのだ。
「バーニイはかげも形も見えないわ」といって、ジェインは玄関の入り口から、ゆっくりと家の中にもどった。そしてルーファスを見おろした。「どうしたの? なにがあったの?」
ルーファスは、ジェインにはまるで目をとめなかった。そこに立ったままぼんやりとしていて、目はうつろだった。ふたりが水を飲ませて、港を見おろせる部屋に連れていっても、ルーファスはまだ自分が家にもどってきたことを知らないでいる様子なのだ。まるで、まったくべつのことを考えているとでもいうような感じなのだった。
「熱があるんじゃないのかな」と、サイモンは言った。でも自信のある口ぶりではなかった。
「とにかく、おれたちには待つこといがいになにもできない。あのヨットはまだ港にいるんだ」
「そんなことがどうだというのよ」と、ジェインはあわれな声を出した。
「それは、つまりだな――」と、サイモンが言いかけたとき、急にジェインが、サイモンの腕をぐいとつかんだ。見ると彼女は、ルーファスをじっと見つめている。
どういうことなのか、それはふたりにもまるでわからなかった。とにかくルーファスは、まるで何かの音に耳をすましているみたいにそこに寝そべって、そしてついに、待ちうけていたのもキャッチした、とでもいうような様子だった。サイモンとジェインには、ぜんぜんなんの音も聞こえてはいないのだ。ルーファスは頭をあげ、白目が見えるほど目を大きく見開いて、犬というよりは老人のようなしぐさで、ゆるゆると立ちあがった。耳を立て、鼻先を高くあげて、サイモンとジェインには見えないなにかを、まっすぐさしめしている。ルーファスは歩きはじめた。とてもゆっくりと、しんちょうな様子で、ドアの方に向かって進んでゆく。
催眠術にかけられたように、サイモンとジェインはその後をついていった。ルーファスはホールを出て、玄関のドアのところにやってきて、立ちどまって待っていた。ふりかえらないで、ただドアの向こうの方を見つめてそこにじっと立っていた。サイモンとジェインが、ルーファスのしてほしいことを当然知っているはずだといわんばかりだった。サイモンは前に出ていって、ルーファスの長い、まっすぐな、赤毛の背中を気がかりそうに見おろした後、ドアを開けた。そしてふたりは玄関のふみ段の上に立ったまま、あっけにとられたようにルーファスを見つめていた。ルーファスはあいかわらず確信のあるような態度でゆっくり進みながら、道路を横切っていく。道路の向こう側にいたルーファスは、ひょいと前足をあげて石がきに飛びあがると、体をまっすぐに立ててそこに立った。石がきの二十メートルほど真下は港のあるところだった。ルーファスは、海を見わたしているように見えた。
「飛びおりるというんじゃないでしょ?」ぎょっとしたように、ジェインが言った。でもその声は、ささやき声のようだった。
そのときだった、ふたりはわすれることのできない声を聞いたのだ。
* * *
バーニイにはぼんやりとり、大きな静かな家から連れだされて、自分が車に乗せられていくのがわかっていた。そして今、どこか近くから海の音が聞こえてくるところを、何人かの人間といっしょに歩いていることも、かすかに知っていた。けれども、全部で何人いるのか、それにどこへ連れていかれるのか、バーニイにはたしかでなかった。それというも、あのうす暗い部屋の中で、ミスター・ヘイスティングスのあの暗い二つの目が、ほのおをあげるようにバーニイの顔にそそがれていたときいらい、バーニイの頭の中にはたった一つのことしかなかったからだ。それは、これからしてもらうと言われたことだ。それ以後バーニイはもはや、自分のことは考えなくなっていた。まるで半分ねむっているような、奇妙な、心も体もゆるんでしまったような感じなのだった。もう議論なんかすることもない。戦いをすることもありえない。バーニイにわかっていることといえば、ただ、いま自分の横を歩いている背の高い男、黒い服を着て、ふちのひろい黒い帽子をかぶっている男が、自分の主人だということだけだった。
主人……このことばをその日、ほかにだれが使ったのだろうか?
「さあ、バーナバス」と、頭の上で太く低い声が言った。「急がなくてはならない。潮が引いているのだ。わたしたちはヨットに乗りこまなくてはならないのだ」
ヨットに乗りこむのか、とバーニイは夢の中でのように、自分に言った。海に出ていくところなんだ……あれは海のかおりだな……。トリウィシック港の岸壁を歩いていくバーニイたちのかたわらには、波が静かにひたひたとよせていた。
遠くの方では、まるでずっと高いところからふってくる声のように、ポリイ=ウィザースが緊張した声で言うのが聞こえた。「あの家のところの道路から、あたしたちのこと見られるおそれがありますわ。あたしたちの見わけがつくでしょう。そうしたらあの家の人たちは――」
「ポリイ」と、太く低い声がゆっくりと言った。「わたしは、そんなことはちゃんと考えてある。もしわたしたちのコーンウォール人の女が、うまくやってくれているなら、あの家にはだれもいないはずだ。たとえあとのふたりの子どもたちがのこっていたとしても……まあ、彼らがわれわれの戦う相手になぞなるかね?」
どこかでミスター・ウィザースが、小さい声で、皮肉そうに笑うのが聞こえた。
バーニイは、機械になったように、ただ歩いていった。大気はあたたかくて重っくるしい感じだった。顔に太陽が照りつけるのがわかった。あの家を出たときから、いっしょの人たちがずっと話をしているのがバーニイの耳にも入ったけれど、なにを聞いても、バーニイにはもはやなんの意味もないように思えた。バーニイはこわがっているのではなかった。サイモンとジェインのことはわすれてしまっていた。なんだか自分の心が、体の外にあってただよっているみたいで、体が歩いていくのをながめているようだった。そして、まるでなにも感じなくなっていた。
そのとき、とつぜん、ぶんなぐられるようなショックとともに、バーニイはその声を聞いたのだ。
バーニイたちの頭の上の方で、犬がほえたのだった。この世のものではないような、長く尾をひいた不思議なほえ声だった。あまりにとつぜんで、しかも悲痛なひびきのこもった声だったので、彼らは一瞬、死んだようにその場を動かなくなった。そのほえ声は、ゆっくりと港中にこだましていった。それは、この世のあらゆる警告と恐怖をこめて、こおりつくようなもの悲しい声だった。ミスター・ヘイスティングスでさえ、立ちどまったまま、しびれたようにその声のこだまを聞いていた。
バーニイの体の外にあって、空気中になかばはなれてただよっている感じだったもうひとりのバーニイは、その声にはげしくゆすぶられて目がさめたようだった。上を見あげると、ルーファスが、空をバックに赤い毛の体をうき出させて、バーニイの頭上に立っているのが見えた。そののどからは、なおもふるえるようなほえ声を出しているのだった。ふいにバーニイは、自分がどこにいるのか気がついた。そして逃げなくてはいけないんだ、ということを知った。
バーニイはくるりとまわれ右をすると、かけだした。つかまえようとする手の下をくぐりぬけ、波止場の岸壁にそって、道路の方に向かっていちもくさんに走った。丘の方に人かげはなかった。みんなカーニバルの行列についていってしまったのだ。あわてて、態勢をたてなおして追いかけてきはじめた敵を、バーニイは二十五メートルほど引きはなしていた。うしろから、さけび声と、どしんどしん追いかけてくる足音とが聞こえてくる。バーニイはグレイ・ハウスの方に向かって、ころがるように丘の道をかけのぼっていった。 サイモンとジェインは、玄関の入り口のところから、ルーファスの様子をびっくりしたようにながめていたのだった。そしてとつぜん、血もこおるようなルーファスのほえ声がしたと思ったら、やがてバーニイの姿を見たのだった。バーニイの後から、四人の人かげが追いかけてくる。本能的にふたりは、玄関の入り口のところからとびおりて、バーニイの方にかけだしていた。と思ったら、うしろで大きな音がしたので、ふたりはおどろいてふりむいた。なんということだろう、家のドアが閉まって、かぎがかかってしまったのだ。かぎは、家の中にあるのだ。
バーニイがよろめくように、ふたりの方にかけあがってきた。そしてルーファスは石がきをとびおりて、ころがるようにかけてきた。ジェインが、こわさにひきつったような声で言った。「どっちへ逃げるの?」
サイモンはやにわに石壁の横のところについた大きな木のドアの方につっ走った。グレイ・ハウスの通用門だ。いつもかぎがかかっていることが多かった。サイモンは、そのドアのかけ金のところをおした。心臓が割れそうなほど高鳴っていた。ドアが開いたとき、助かったという思いが波のように全身をかけぬけた。いっぱいにドアを開くと、「はやく!」と、さけんだ。
バーニイを追いかけてきた四人の姿は、もう数歩のところにせまってきていた。ジェインとバーニイが弾丸のようにドアの中に走りこんできた。その足の間からルーファスも、赤い突風のようにかけこんできた。サイモンがドアをピシャリと閉めたとき、石壁がゆれるかと思えたほどだった。大急ぎでサイモンは、大きな三本の鉄の差し錠をおろした。それから三人はグレイ・ハウスと隣の家との間の、ひんやりした細い道を走って、そのいちばんはずれのところまできて立ちどまった。
石壁の外で、走ってきた足音が急ブレーキをかけたように、ドアのところで立ちどまった。そして向こう側からドアをおすので、かけ金があがるのが見えた。おこっているみたいに、かけ金が何度もがたがた鳴っていたかと思ったら、ドアをなぐりつける音が一つ聞こえた。それから、静かになった。
「石壁をのぼってくるんじゃない?」と、ジェインがまっさおな顔でささやいた。
「そんなことできないさ」と、サイモンがささやきかえした。「高すぎるからな」
「ドアをこわそうとするかもしれないわよ!」
「差し錠はがんじょうだよ。それにそんなことしていたら、人に見られて、あやしまれるはずだぜ……聞けよ。みんないっちゃったぜ」
三人はじっと耳をすました。通路の向こうのはしのドアのところからは、なんの音も聞こえてこなかった。ルーファスがなにかいいたげに三人の顔を見あげて、鼻を鳴らすようなあわれっぽい声を出した。
「あの人たちはなにをしているのかしら? なにかたくらんでいるにちがいないわ……」
「急ごう!」と、サイモンが決心したような口調で言った。「彼らがうしろにまわってくるまでに、この家から逃げださなくちゃならない。もうすぐとりかこまれてしまうぜ」
そうなったらたいへんだと、三人はうらの小さな庭に走りだすと、ひざのところまである草の間をぬけて、いちばん上のところのいけがきの方に出た。ルーファスは、おもしろそうに三人のまわりを飛びはね、バーニイに飛びついて顔をなめるのだった。あの長く尾をひく、気味悪いようなほえ声を出したことなど、まるでわすれてしまったようで、なもかもがゲームで、それを楽しんでいるというような感じだった。
「この犬、おとなしくしていてほしいわ」と、ジェインが気がかりそうに言った。
サイモンが、いけがきのすきまから、様子をのぞいていた。
「おとなしくなるよ」と、バーニイが言った。しゃがみこんで、ルーファスの長い赤い鼻の上にそっと片手をのせ、顔をくっつけるようにしてつぶやくようにそう言うのだった。 サイモンが立ちあがった。「いなくなってしまってるぜ。こいよ」
ひとり、またひとりというように、庭から道の方にくぐり出た。その道は、港からずっと続いてきて、家々のうしろ側をカーブし、ケメア岬のふちにそってのびているのだった。
「ああ」とつぜん、ジェインが苦しげな声で言った。「メリイおじさんがどこにいったか、わかりさえすればね」
バーニイが、ぎょっとなって言った。「見つけたんじゃなかったの? ポークおばさんはどうしたの?」
「メリイおじさんは見つからなかったんだ。ポークおばさんにも会えなかった。だって人出がすごくて、ポークおばさんのところまで近よれなかったんだ。おまえはメリイおじさんに会わなかったのか? なぜ追っかけられていたんだよ? どこにいってたんだ? ルーファスだけがもどってきたとき、なにか悪いことが起こったにちがいないとおれたち思った。しかし、おまえをどこへさがしにいけばいいのか、わからなかったんだ」
「ちょっと待って」と、バーニイは言った。夢遊病者のようにあやつられていた状態から正気にもどったいま、バーニイは心の中で急に、容易ならないという気持ちが強くなっていった。あのとき聞かされたたくさんのことがらが、つぎつぎに思い出されて、頭の中はそのことでいっぱいだった。そして聞かされたことの意味がわかりはじめたとき、ますますバーニイの危機感は強くなった。
「兄さん」と、せきこんだようにバーニイは言った。「ぼくたちは、聖杯ににたカップを手に入れなくちゃならないんだ。すぐにもだよ。メリイおじさんがいなくてもだよ。メリイおじさんをさがしている時間も、待っている時間も、とにかくもう時間はないんだ。敵はもうちょっとのところで、それを手に入れそうなんだよ。でも、かんじんのことは知らないので、それでぼくをつかまえて聞き出そうとしたんだ」
「なにはともあれ、ここからはなれなくては」と言って、サイモンはしきりにまわりを見まわした。「港から、彼らはどっちかの道をやってくることになる。おれたちは道からそれて、岬のうしろ側のあの野原にかくれていよう。あそこは傾斜になっていないから、見つからないでいられるはずだ」
三人は道路を横切って、ケメア岬の下にひろがっている野原の方に出た。
太陽は真上からぎらぎら照りつけて、まるで巨大な手でおしつけられるみたいに暑さが三人をおそった。でもジェインでさえ、今は日射病のことなどを心配してはいなかった。
いちばん手前の野原のはずれの、いけがきのところまできたとき、声が聞こえた。サイモンたちはあわてて、その声の方を立ち止まってふりかえりもしないで、いけがきの中にもぐりこみ、反対側の長くのびた草の上に体をふせた。バーニイが片手をそろりそろりのばして、ルーファスの背中をおさえた。でもルーファスも、長いピンク色の舌をだらりと出したまま、静かに横たわっていた。
どこからやってきたのか、まるでわからなかった。とつぜん道に人が立っているのだった。ミスター・ウィザースが、ほっそりした体をすこし前かがみにし、イタチのように、あたりをするどく見まわしていた。ビル少年が、明るい色のシャツを着て、用心深く戦場にいるみたいな足どりで歩いていった。そしてふたりの上にそびえ立つみたいに、黒ずくめの背の高いすごみのある男が立っていて、その姿は、真夏の燃えるような大気の中にできた黒いさけめのようだった。サイモンは、じっと見つめながら、ふいにあの日のことを思い出した。さびしい道を、うしろからせまってくる足音から逃げのびようと、死にものぐるで走りつづけたあの日のことだ。そしてサイモンはその男から目をそらした。
「あの女の人がいないぜ」と、バーニイが低い声で言った。「おもての方を、見張っているにちがいないよ。ぼくたちがまたおもての道へ出てきやしないかと思って」
道の上で、彼らはさてどうしたものかというように、しばらく立ち止まっていた。ビルはふりむいて野原の方を見ると、いけがきの方向をまっすぐ見つめた。サイモンたちははっとなって、いっそう地面にぴったりと体をふせ、息をつめていた。でもビルは、ふたたび目をはなした。満足した様子がはっきり見てとれた。ウィザースも同じように、野原の方をすかし見て、ビルになにか言っていた。ビルが首をふっていた。
黒ずくめの背の高い男は、少しはなれたところに、身動きもしないでじっと立ったままだった。どの方向を見ているのか、まるでわからなかった。と、やがて彼は手をあげると、ケメア岬が高くつき出している海の方を指さした。なにやら熱のこもった表情で話しているようだった。
「どうしようというのかしら?」と、ジェインがささやいた。右足がけいれんして、かみ切られるような痛みがだんだんはげしくなってきていた。動きたい、とジェインは願っていた。
「もし岬の先へ彼らがいこうとしているのなら、おれたちは負けだ」サイモンが低い声で、ひきつったような口調で言った。
「ほかにも何人くらいいるのかしら? あの背の高い男の人と……」と言ってジェインは、いけがきの葉と葉のいくつもの小さなすきまから、その男を見つめていた。顔は見えなかったけれど、見おぼえがあるみたいだと思った。だんだんとその感じが強くなり、ジェインはハッとなった。そのとき男は、ふちのひろい黒い帽子をちょっとぬいで、手をひたいの上にはしらせた。ふいにジェインには、黒い髪がふさふさはえているその頭のかっこうが、だれのものなのかわかった。頭がくらくらして、いけがきの小枝と葉と太陽の光とが、ジェインの目の前でうずまいた。サイモンの腕を引っぱって、ジェインは言った。
「兄さん! またあの人だわ! あの――」
「わかってる」と、サイモンは言った。「あそこにやってきたときからわかっていたんだ。おまえにもわかったと思っていたぜ」
「彼がボスなんだよ」と、バーニイが同じように緊張した声でささやいた。「ヘイスティングスという名なんだ」
「その通りだわ」と、ジェインが消えそうな声で言った。「ヘイスティングスよ。あの牧師だわ」
バーニイが草の中で、ほんの少し体を動かして、ジェインの顔を見つめた。
「彼は牧師じゃないんだ」
「いいえ牧師よ。あたしは牧師館で会ったんだから。そら、あたしが話したでしょ……」
「だらだらひろがったような大きな家で、あれほうだいという家だろ?」と、バーニイがゆっくりと言った。「車入れの道が長く続いていて、本がいっぱいの部屋があるんだろ?」
こんどはジェインが、バーニイの顔を見つめる番だった。「あたしは、本のこと話したのおぼえているけど、車入れの道のことは話さなかったわ。どうしてあんたは――」
バーニイは、確信に満ちた顔で言った。「姉さんのいうことはどうだっていいことさ、とにかく彼は牧師じゃないんだ。何者なのかはわからないけど、牧師なんかじゃないさ。そんなことありえないんだ。あの人には、どこかぞっとするようないやなところがあるんだ。メリイおじさんが話をしてくれた悪者どものことさ、あれにそっくりみたいで、あいつを見ればその感じがわかるよ。そして彼はいうんだ――」
「低くしろ!」サイモンがとつぜん言った。バーニイたちは頭をさげて草の中につっこみ、長い間そのままだまって横たわっていた。太陽がまともに照りつけて、ひざ小僧のうら側の皮膚が、焼けるみたいだった。いけがきにそってはえている草の、ひんやりする長い葉が、三人のほおをくすぐった。ルーファスが身じろぎして、なにやら声を出したが、また静かになった。ルーファスはねむっているのだった。
サイモンがやがて、おそるおそる地面から少し顔をあげた。あたりはまったく静まりかえっていて、遠くの方で、カモメが一羽空高く鳴いているのが聞こえるだけだった。サイモンはさっき、三人の姿が向きをかえて野原を横切るのを見たのだった。だからそのとき、自分たちが、わなにおちてつかまえられるのかと思ったのだ。ところが、彼らが立っていた道に、今は人かげはなく、ひっそりした野原にも、だれひとり人はいなかった。
「いってしまったぜ」やったぞというように、サイモンはささやいた。バーニイとジェインも、ゆっくりと、用心しながら、顔をあげた。
「あれ見て!」片方のひじでささえて体を起こしたジェインが、沿岸の方を指さした。さっきの男たちだった。大またに歩いていく背の高い黒い人かげの両側に、それより背の低い姿がひとりずつ、つきそうように、ケメア岬にそってずんずん遠ざかっていき、見えなくなった。
「ああ!」バーニイが草の上をころがってあおむけになり、絶望したようにうめいた。「やられちまった! こうなったら、岬へ出ていくことももうできないじゃないか!」
ジェインが上半身を起こした。ひきつった足をのばしながら、痛そうな顔をした。そして、がっくりしたような声で言った。「起きあがってなにかしなくちゃならないことは、ないんだわ。あたしたちには、もうなに一つできることなんてないのよ。聖杯ににせたカップのあり場所は見つけたわ、でもけっきょく、そこへはいけないんだもの。かりに下に入り口があっても、それは海面の下だし、あたしたちが岬で見つけた穴はせますぎて、ロープがあってもおりていけないってわけよ」
バーニイが泣きわめくみたいな声で言った。「でも、あいつらにはできるだろう。きっとできるんだ。あの男は、なんだってできるんだ。どんなことだって、それが起こるとわかるよりまえに、ちゃんと計画ができていて、うまくやってしまうみたいなんだ。だから、あの岩のところの穴を見つけたら――」
「でもあの人たちにだって、あたしたちにできないのならよけいのこと、穴をおりていくことはできないんだわ」と、ジェインはりくつにかなったことを言った。「そして下の入り口から入っていくことだってできないはずよ。ヨットに潜水服を用意していないかぎりはね。とにかく」と、あまり自信なさそうにジェインはつけくわえた。「カップがそこにあるということだって、ぜったいにたしかだというわけでもないんだわ」
「そんなことないよ、たしかなんだよ!」
バーニイはヘイスティングスらに先をこされたことが気が気ではなくて、とうとうがまんできなくなった。「あいつらを止めなくちゃならないよ。ぼくたちだけではなにもできなくても、あいつらを止める必要はあるんだ!」
「むりなことをいうんじゃないわ」と、ジェインは言った。失望して、いらいらしているのだった。「あの人たちをいかせるほかどうしようもないのよ。そしてメリイおじさんを見つけ出すまで、あたしたちはかくれているほかないんだわ。あたしたちにできることなんて、一つもないのよ」
「いや、一つある」と、サイモンが言った。いつもサイモンが興奮しまいとするときのように、くもったような声で、つっけんどんな口調だった。バーニイとジェインは、サイモンの顔を見た。ジェインはうたがわしそうに、一方のまゆをあげた。サイモンはだまっていた。両ひざをだきかかるえようにしてすわったまま、野原の向こうを、目もとにしわをよせてながめているのだった。
「なにがあるのよ、いいなさいよ」
「潮だ」
「潮? どういうこと?」
「潮が引いているんだ」
「それがそんなにかわったことなの? それくらいぼくだって知ってるさ」と、バーニイは不思議そうに言った。「港にいくと底のどろが見えるさ」
しかしサイモンは、バーニイに耳をかそうともしなかった。「ジェイン、港でペンハローさんがいったこと、おぼえているな。潮が引いたらどうなるかってことだよ」
「ええ、おぼえてるわよ」ジェインの顔には、わずかに明るさがもどってくるように見えた。
「ええ、そうよ。今日はとても引くのよ、あの人はいったわ……大潮のとき、……岩をわたって……」
「岩をわたって歩いていけるんだ」と、サイモンは言った。
「だからどうなんだい?」と、バーニイがたずねた。
「もし岩をわたって歩いていけるとすれば」と、サイモンは興奮しまいとしんちょうにかまえたような口調で言った。「おれたちはケメア岬の下まで岩づたいにいける」
ジェインが横から、サイモンの話に割って入った。「だったら、海面の下に入り口がある。あの洞くつにもいけるのね――今朝、あの穴から海の音が聞こえたときは、満ち潮だったのよ。だから海面は洞くつの入り口より上にあったんだわ。でも、バーニイわからない? 今はとくべつ潮が引いているのよ――それで岬の下の岩がみんなあらわれるのだとしたら、洞くつの入り口だって、海面より上にあらわれるわ。だからあたしたち、中に入れるはずよ」
バーニイの奇妙な顔ったらなかった。ぽかんとしているような顔つきから、だんだん興奮してきて、しまいには血相をかえてさけんだ。
「たいへんだ! それならいかなくちゃ。岬の下へおりていこう!」バーニイはとびあがるように、立ち上がったが、急に泣きだしそうな声になると、「でもだめだ! あいつらのひとりが、港で見張っているんだ、そしてあとの三人は岬の上にいる――どうやって見られないで岬の下までいくことができるというんだい?」
「そのことも考えた」と、サイモンはもったいぶった顔つきで言った。「たった今考えたんだ。反対側があるんだ。岬のもう一つの側の入り江さ。おれたちが泳いだところだよ。彼らに見られないで、ここから野原を横切って、そこまでいけるさ。もし彼らがあのひょろ長い石のところに上がっていて、その方向を見ていたら見つかってしまうけどな。でも、おれの見るところ、ほかに方法はないんだ」
「だいじょうぶだわ」と、ジェインは自信ありげに言った。「あの人たち、あたしたちがそこをおりていくとは思わないわよ。港の側を見張ると思うわ」
「よしいこう、急がなくちゃならない。最高に急ぐんだ。おれたちが港にいたとき、潮は引いているさいちゅうだった。たしかにそうだった。でも、いつ満ちはじめるかわからないぜ。満潮にかわるのが何時か、正確にわかるといいんだがな」
バーニイは、はやくも数メートル先を歩きはじめていて、ルーファスがまたうれしそうにバーニイのまわりをとびはねていた。とつぜん、なにかこまったというようにバーニイは立ちどまると、ゆっくりとふりむいた。「メリイおじさんのことがまだあるよ。ぼくたちのこと、ぜんぜんさがせなくなるわけだもの。とほうにくれてしまうだろうな」
「けさ、メリイおじさんがいなくなったとき、おれたちがとほうにくれることなどメリイおじさんはあまり気にもかけなかったさ」と、サイモンがぶっきらぼうに言った。
「だけど、でもやっぱり――」
「いいか」とサイモンは言った。「おれがいちばん年上だろ、そしておれが責任者なんだ。メリイおじさんをさがすか、カップをさがすかなんだ。両方をさがしている時間はない。だからおれは、カップをさがそうといってるんだ」
「あたしもそうよ」と、ジェインが言った。
「ああ、わかったよ」と、バーニイは野原を先へ歩いていった。心の中でひそかに、命令を受けることができるということに、ほっとしているのだった。というのも、この日バーニイは、何年も続くかと思えたほど長い時間、ひとりきりで敵の中にいたので、ひとりで判断し行動するのはもうたくさんだという気持ちになっていたからだ。――だからバーニイにとっては、かがやくよろいにを身をかためて、ひとりだけで戦う勇敢な騎士のように行動したいという夢は、今までと同じような、単純なあこがれだけではすまないものなっているはずなのだった。
ケメア岬の向こう側、つまりトリウィシックの隣の入り江の岸にいきつくまでに、三人とも暑さにまいり、息もたえだえという感じだった。でもほっとしたことに、あきらかに潮はまだ満ちはじめてはいなかった
足あと一つないまっ白な砂浜が、太陽の下にぎらぎら光って、はるか先までひろがり、海はそのかなたに後退していた。そして岬にそって先端の方に目をやると、そのがけの下の岩があらわれているのが見えた。まえには、干潮のときでも、いつも波が絶壁に打ちよせていたのだ。
砂浜のいちばん上のところで、サイモンたちの足は、やわらかいかわいた砂の中にしずむのだった。バーニイはどさりとすわりこんで、サンダルをぬぎはじめた。「ちょっと待ってよ、くつをぬぎたいんだ」
「なんだよ、おまえ」と、サイモンがいらだったように言った。「岩のところへいったら、すぐにまたはかなくちゃならんのだぜ」
「かまわないさ、とにかく今はくつをぬぐんだ。つかれたんだよ」
サイモンはうなるような声を出した。そして腹を立てて、望遠鏡のケースでひざをたたいた。今までにもましてサイモンは、どこへいくにも古文書ははなすまいと決心していたが、そのケースは熱くなっていて、にぎりしめた手の汗でしめっていた。
ジェインが、バーニイとならんで砂の上にすわりこんだ。「ねえ、兄さん、五分間だけでもいいからひと休みましょう。それくらい休んだからって、どうってことないでしょ。あたしも、すごくまいってるの」
まったくしぶしぶというわけでもなく、サイモンは足を投げ出すと、ぱったりとあおむけに寝そべった。ぎらぎらする太陽が目の中にさしこむので、サイモンはくるりとうつぶせになった。
「ちきしょう、なんて日だろうな。泳ぐしたくもしてくればよかったぜ」とサイモンは、せつなそうに海の方をながめた。でもすぐにまた、その視線を岬の下の岩の方にむけると、
「思っていたより、ずいぶん岩があらわれているな。見ろよ、がけの下をまわっていくのはわけないぜ。海水がのこっているところもあって、かなりぬれているように見えるけど、かんたんに通っていけるさ」
「だから兄さんも、くつをぬぐってことになるだろうさ」と、バーニイが勝ちほこったように言った。両方のくつひもをむすんでサンダルを首にかけ、砂の中につっこんだ足の指をもぞもぞと動かしながら、バーニイは空を見あげていた。砂浜の上を高く、何羽ものカモメが輪をえがいて飛びながら、かすかに鳴いていた。ふと、バーニイは体をこわばらせた。「聞いて!」
「おれも聞いたさ」とサイモンが、不思議そうに空を見あげながら言った。「へんだな、フクロウの鳴き声みたいだったな」
「フクロウだったよ」とバーニイは、高くせり出している岬の上の方をじっと見つめた。「あの上から聞こえてきたな。フクロウというのは夜にだけ鳴き声を聞くものだと思っていたよ」
「夜だけさ。昼間姿をあらわしたりすれば、フクロウはいつもほかの鳥のヒナを食うやつだから、ほかの鳥たちにさんざんやっつけられるんだ。学校で習ったぜ」
「でもカモメたちは、ぜんぜん気がつかないでいるみたいだな」とバーニイは言った。カモメの黒い姿が、空をのんびりと、あちらからこちらへと飛んでいるのを、バーニイは見あげていた。それから、ふと砂浜を見まわすと、「あれ、ルーファスはどこへいった?」
「どこかそのへんにいるんでしょ。たった今まで、ここにいたわよ」
「ちがうよ、いなくなってるよ」バーニイは立ちあがった。「ルーファス! ルーファス!」
バーニイは口笛を吹いた。長い軽やかな調子の口笛で、それを聞くといつもルーファスは返事をかえすのだった。うしろの方から、犬がひと声ほえるのが聞こえた。三人が砂浜のずっと上、傾斜のある野原の方を見ると、そこの草のふちのところにルーファスが見えた。海と反対の方を向いているルーファスは、首をまわして、三人の方を見た。
バーニイは、もう一度口笛を鳴らし、ひざをたたいてみせた。でもルーファスは、動かなかった。
「あの犬、どうしたんだよ?」
「おびえてるみたいよ。けがしたのかしら?」
「ちがうと思うけど」バーニイは、砂浜をこえて走っていくと、ルーファスの首輪をつかんで、だきしめるようにした。ルーファスはバーニイの手をなめた。「さあいこう」と、バーニイはやさしく言った。「な、いこう。どこも悪いところはないんだ。さあいこう、ルーファス」そして首輪をそっと引っぱって、サイモンとジェインのいる方向にルーファスをまわれ右させて動かそうとした。ところがルーファスは、動こうとしないのだった。鼻を鳴らして、砂浜と反対の方向に体をつっぱっているのだった。立てた両耳は、しきりにひくひくさせている。バーニイがさらに力をいれて首輪を引っぱったとき、ルーファスは首をうしろにまわして、おこったように低くうなった。
どうしたらいいものかこまって、バーニイは手をゆるめた。そのとき、ルーファスは急になにか物音を耳にしたようにぴくりとし、ふたたびうなり声をあげた。そしてバーニイの手をぬけ出すように前に出ると、いちもくさんに野原をかけていった。バーニイが呼んだ。でも、ルーファスは止まりもしないで走っていった。頭を下げ、しっぽをあしの間に入れて、一直線に遠ざかり、やがて岬の横をまわって見えなくなった。
ゆっくりとバーニイは砂浜にもどってきた。「今の見た? なにかがルーファスをこわがらせたにちがいないな――まっすぐ家に走って帰ったと思うよ」
「さっきのフクロウのせいかもしれないな」と、サイモンが言った。
「そうかもしれないと思うけど――おや、聞こえたぞ、またあの声だよ!」
バーニイが上を見あげて言った。「岬の上だよ」
こんどは三人とも、フクロウの声を聞いたのだった。物悲しいようなしわがれた声が、長く尾をひいてしだいに消えていったのだ。ホーホーホー……。
この声を耳にしたときジェインは、本能的に心の奥ぶかいところで警戒心がざめるのを感じた。すぐにはジェインは理解できなかった。心がさわぐような思いで、ケメア岬の高くせり出したがけを見あげ、さらに空にくっきりとつき出しているひょろ長い石の先端を見つめていた。
「ばかな鳥だよ」と、サイモンはつまらなさそうに言うと、またあおむけに寝そべった。「今、夜だと思ってるんだ。まだ巣にもどっていろといってやれよ」
頭の中で、なにかが爆発したみたいだった。ジェインは思い出した。
「兄さん、急いで! あれは鳥なんかじゃない。フクロウじゃない。あの人たちよ!」
サイモンとバーニイは、ジェインの顔を見つめた。
ジェインは飛びあがるように、立ち上がった。とつぜん新しい恐怖におそわれて、太陽と砂の熱さもわすれてしまっていた。「思い出さないの?――あの晩のことよ、岬の上の、ひょろ長い石のところで、フクロウの鳴き声が聞こえたでしょ、それでメリイおじさんが様子を見にいったでしょ。あのときの声がフクロウの鳴き方とは少しちがっているとメリイおじさんは思ったからよ。そしたらやっぱりフクロウじゃなくて、敵だったじゃない。ああ、急いでよ。敵に見られたかもしれなくてよ! 今の声はたぶん、敵のひとりがほかの者に、あたしたちがここにいると知らせる合図だったのよ!」
ジェインが言いおわるより前に、サイモンは立ちあがっていた。「いこう、バーニイ。はやく!」
一面にひろがっている砂浜から、岬の下の岩の方へと、三人は必死にかけだした。足の下で砂がきしんだ。バーニイのサンダルは銅のまわりではねて。体をぶった。ジェインのポニーテールの髪からはリボンが吹っとび、髪がほどけて首のうしろをくすぐった。サイモンは、リレーの選手がバトンを持って走るときのように、望遠鏡のケースを手にして、むずかしい顔つきで走った。三人はがけの下まで一直線に走ってくると、その高い灰色の岩はだの下でちょっと立ちどまり、砂浜の向こうの、傾斜のある草原をこわごわふりかえった。だれも、後を追いかけてく姿は見えなかった。そしてフクロウの声もしなかった。「ぼくたちのこと見たわけではなかったのかもしれないな」
「岬の上からだと、どの場所からだって、この砂浜はぜったい見えやしないんだ」
「でも、とにかく急がなくちゃ。さあ、ぐずぐずしていると潮が満ちてきて、あたしたちは波に足をさらわれて、岩にぶつけられるわ」
三人はなおも砂の上を走った。岬のがけにそって、突端の海の方へと走った。やがて岩のあるところに出ると、三人は岩をわたりはじめた。
どの岩も危険だった。最初のころは、かわいていて、かなり平らな岩ばかりだったから、灰色をした一つの岩かどからつぎの岩かどへと、はいのぼるのもやさしかった。その間に小さな水たまりがあって、イソギンチャクが海そうの間で羽の花のように触手をひろげていたり、小エビが目に見えぬような動きであっちへ、またこっちへと矢のように動いていた。
やがて、大潮の干潮のときだけ海面上にあらわれる岩のところに三人はさしかかった。そこには海そうが小山のように生えていて、まだぬれたまま太陽の光をあびてぎらぎら光っていた。つるつるすべる茶色の海そうは、ふむとベシャとなり、パチッとはじけるかと思うと、ときどき三人の足をすべらせて、水たまりの中へいきなり落とすのだった。
そのうちに、岩にかこまれて長細く海水がたまっているところに出た。バーニイは、まだがんこにはだしのまま、サイモンとジェインから少しおくれて進んでいた。その海水のふちのところで、ふたりがバーニイを待っていると、バーニイはよろよろとなって、ふたりの方につっこんできた。貝の上をふんだバーニイが、「おお!」と痛そうな顔をした。
「くつをはきなさいよ」と、ジェインがたのむように言った。「ぬれたってどうってことないわ、あたしたちのはもうびしょびしょだわ。この水たまりの中では、なにをふむかわからなくてよ、足がちぎれても知らないわよ」
足の指を三本痛めていたバーニイは、おどろくほどすなおに言った。「わかったよ」つき出た岩の上にちょこんとのっかって、バーニイは、首のまわりからサンダルシューズをはずした。
「水の中をピチャピチャ歩いていくのに、くつをぬぐかわりに、はいたままいくなんて、ばかげているみたいだな」
「あさいところをピチャピチャ歩くというんならいえよ」と、サイモンはふきげんな声で言った。「ここには飢えた深海魚がうようよのこっているかもしれないんだ。ペンハローさんがいったぜ。岬のすぐ沖はすごく深くなっているってな」サイモンは水面にうかんでいる、小さな球のいっぱいついた茶色い海そうのかたまりを、じっとのぞきこむようにした。「ようし、いくからな」
三人は、海そうの中にザブザブッと足をふみ入れて、進みはじめた。がけの方にぴったりそって、バランスをうしなわないように岩につかまりながらだった。先頭をいくサイモンが、一歩一歩しんちょうに足を上げて、水面をかきまわした。ひんやりした海そうがねっとりと足にくっついて、うず巻いた。水たまりの底は、かなり平らになっているみたいだった。サイモンはそれで自信がついたように前に進み、その後からバーニイとジェインが続いた。そのときだった。さぐりながら前にふみ出したサイモンの足が、ズブズブッと深くしずんでいった。あわててうしろに重心をかけようとしたときはおそく、サイモンは腰まで水につかっていた。サイモンが落ちるのを、いちばんうしろから来るジェインが見て、思わず悲鳴を上げた。バーニイが、急にひどく背が低くしずんでしまったサイモンに、手をさしのべた。
「だいじょうぶだ」と、サイモンは言った。けがしたかどうかなどより、とにかく、ふいでびっくりしたのだった。そのショックが遠くのと、海水は、日焼けした足に気持ちよく感じられた。注意深く前進すると、二、三歩いったところで、ひざのところに岩が当たった。水面下にある岩だった。磯に打ちあげられた魚のように水をはねながら、サイモンは、その岩の上によじのぼった。そして少しいくと、ふたたび水たまりは、かかとの深さしかなくなっていた。
「一種の海溝だ。そのまま、がけに続いているんだ。用心しろよ、バーニイ。足の先を前の方に出してさぐりながら、足場があるかどうか見ていくんだ。水面の下で、つき出していたりするところがあるかもしれないからな。飛び石みたいにさ。さっきは気がつく前に落っこちたけど、もし足場になるような物がなかったら、おれがやったようにするしかない。ゆっくり来るんだぞ」
バーニイは、一方の足で用心深くあたりの水の中や、ゆれ動く海そうの下をさぐってみたけれど、がけからずっとはなれた方でも、いま立っているところが水面下の岩のふちになっていて、その先にはなにもないのだった。「ぜんぜん足場になるような物がないよ」
「それじゃ、そこからまっすぐ落ちるしかないな。ズブッとはいるんだ」
「けっきょくは泳ぐのと同じことなんだよね」と、バーニイは心細げな声で言った。そして両手をついて、水面下の岩のふちにしゃがみこみ、見えない底の岩の方に足をさしだしたかっこうになると、そのまますべりおりた。
足がかたい岩についたとわかったとき、バーニイはほとんど肩のところまで海水につかっていた。サイモンがバーニイよりもどれくらい背が高いか、バーニイはすっかりわすれていた。バーニイはそのまま進んで、サイモンがあさいところへ引っぱりあげた。ぬれて黒っぽくなったバーニイのショートパンツは、ももにぴたっとくっついた。バーニイは体をかがめて、足にへばりついた海そうの葉っぱをとりはらった。ほとんどすぐに、太陽が皮膚をかわかしはじめたのをバーニイは感じた。そして塩のために、皮膚がひりひりした。ジェインも同じようにあとに続いた。そして三人はいっしょに、最後のあさい水たまりをわたって、また茶色の海そうがいっぱいあるところにつき出しているかわいた岩のところにきた。
「潮のことが知りたいんだけどな」と、サイモンが気がかりそうにジェインに言った。バーニイは岩の上を、いっしょうけんめいに、ズルズルすべったりしながらふたりより先にいっていた。
ジェインは海の方を見た。数メートル先の岩に、波は静かによせては返し、がけの下のあたりの岩場には自然の水路ができていた。
「満ちはじめていないことはたしかよ。まだ引いているのかもしれないわ。だいじょうぶだと思うわ。あたしたち、ほとんどもう洞くつのところにきてるはずだもの」
「とにかく、潮から目をはなすな。おれが心配なのは、あの深いところなんだ。潮が満ちてきはじめると、まっ先にあの水たまりに海水が入りこんでくる。少し深くなるだけでも、おれたちはきた道を引きかえせなくなるぜ。すぐにバーニイの背たけよりも深くなってしまうだろう」
ジェインはあおくなった。バーニイの方に目をやると、いまやバーニイは四つんばいになって進んでいる。「ねえ、にいさん、バーニイはおいてきた方がよかったんじゃない?」
サイモンが歯を見せて笑った。「バーニイがそうしたと思うか? あいつはぜったいついてきたよ。まあいいさ。だいじょうぶたろう。おれたちが潮を見張っているかぎりはな」
ふりかえってみたジェインは、自分たちがずいぶん遠くまで来てしまったことにとつぜん気がついた。今や三人は、岬のいちばん突端の下にある岩場にいるのだった。もはや砂浜の方からは、陸の遠いかすかな物音も聞こえてはこなかった。ただ、ため息のような静かな潮騒だけが三人を包んでいた。三人だけが、もはや世界から切りはなされているように思われた。
そのときバーニイが、興奮したさけび声をあげた。「おーい、早く来てよ! ここだよ! 見つけたんだ!」
バーニイは数メートル先で、一つの岩にほとんどかくれるようになって、絶壁のすぐ近くに立っていた。バーニイが絶壁の一部を指さしていのが、サイモンとジェインに見えた。ふたりはたちまち、潮のことはわすれてしまった。水たまりの上を飛ぶようにかけ、岩の上をすべりころがるようにして、バーニイの方にいった。ふみつけられる海そうの気胞が、機関銃のようにふたりの足の下で鳴った。ふたりがやってくると、バーニイが言った。「あまり大きくないんだ」サイモンとジェインはすぐそばまで近づいたときはじめて、岩に深いさけめがあるのがわかった。それは、想像していたような洞くつとはちがっていた。せまい、三角形の穴で、その高さも、バーニイなら中に入ってようやく立てるくらいで、サイモンとジェインは、きっと四つんばいで進まなくてはならないだろう。入り口のあたりに、岩のかけらがいっぱいあり、天井にくっついたぬれた海そうから水がたれている。中の方はよく見えなかった。
ジェインが、うたがわしそうに言った。
「これがそうだというの?」
「これにきまってるさ」と、バーニイがきっぱりと言った。「一つよりほかにあるわけないもの」
「ほかにあるかもしれないわよ」
「ぼくもジェインにさんせいだな」と、サイモンは言った。「しかし、これがそうだとしてもいいさ。上を見ろよ――絶壁の上に緑の三角形みたいになっているところが見える。岩のふちに草がはえているところさ。あの上の穴があったところと、こことはほとんど一直線で、穴の真下におれたちはいるにちがいない」
ジェインも上を見あげ、またすぐに視線を落とした。おおいかぶさるように空につき出している絶壁の、気が遠くなるような高さに、身ぶるいしたのだった。「そうかもね」
バーニイは、暗い洞くつの中をじっと見つめた。「洞くつなんてものじゃないよね、まるで穴だよ、上にあったやつみたいな。うっぷ」――といってバーニイは鼻をひくひくさせてにおいをかいだ――「海そうと塩のにおいでいっぱいだ。まわりの壁はすっかりぬれて、緑色になっていて、ポタポタ水がたれている。ぼくたちはもうぬれてるから、ちょうどいいあんばいだな」
「いやだわ」ジェインがとつぜん言って、暗い入り口をきっと見つめた。その入り口は、絶壁の全体の巨大な岩のかたまりにくらべると、まるでちっぽけなものだった。
「いやだって、どういう意味?」
「だって、はっていかなくちゃならないもの。その中にはあたしたちは入れないわ」
「おまえはできないというんだな」と、サイモンは言った。「潮が満ちてくるといけないから、ずっと見張っていてもらうことにするさ。でもおれはやれる」
「ぼくどうなるのさ?」と、バーニイが文句ありげに言った。「ぼくが見つけたんだぞ」
「中に入りたいの?」と、ジェインがぞっとしたように言った。
「中に聖杯ににせたカップがあるんだよ。入りたくない者がいるものか。ぼくが入る方がずっといいよ」と、バーニイはサイモンを説得するように言った。「いちばん小さいのはぼくなんだ。穴はとてもせまいんだからね。兄さんは途中でつまってしまって、出てこられなくなるかもしれないよ」
「いやよ、そんなの」と、ジェインが言った。
「もしバーニイが入るのなら、おれはその後から入っていく」とサイモンは言った。
「オーケー」と、バーニイは陽気に言った。あの邪悪なミスター・ヘイスティングスの手からのがれていらい、バーニイはことばにあらわせないほど解放感にひたっていたので、あのときのこわさにくらべれば、どんなことだってまるでこわくなどなかったのだ。「でも、懐中電灯を持ってくればよかったなあ」バーニイは、考えこむようにぐっと洞くつの中を見つめた。入り口を数歩もいかないあたりから、もうまっ暗で、先はなにも見えなかった。
「ロープを持ってくるんだったわね」と、ジェインがせつないような声で言った。「そうすれば、もし兄さんたちが出られなくなっても、あたしが引っぱって出してあげられるのに」
サイモンは両手をポケットにつっこみ、空を見あげると、のんきそうに口笛を吹きはじめた。後のふたりはサイモンを見つめた。
「なんなの?」
「どうしたのよ?」
「まったくおれたち家族のだれかさんは、頭がいいな」と、サイモンは言った。
「だれが? 兄さんが?」
「おれがいなけりゃ、おまえたちどうしたことだろうな」
「まあ、じれったい」と、ジェインがいらいらしたように言った。「兄さんは、ロープも懐中電灯も持ってこなかったくせに、持ってきたみたいなこというのよしてよ」
「持ってきたといってもいいようなものさ」というとサイモンは、ショートパンツのポケットの中をさぐった。「今朝あの上で、ひもがないかとみんなのポケットの中の物を全部調べてみただろ。そしてジェインのもめん糸しかなかったんだよな――そこでだ、おれはいざというときのために、もっといいものを持っていなくちゃと思ったんだ。それで家に帰ったとき、おとうさんのつり糸を少々失敬してきたのさ。おとうさんは全部は持っていかなかったんだ」とポケットの中からサイモンは、茶色いつり糸をかたく巻いたかたまりを引っぱり出した。「どんなロープにも負けないくらいじょうぶだぜ」
「それはちっとも考えてみなかったわ」と、ジェインはあらためてサイモンを見なおしたような口調で言った。
「それからろうそくのつかいさしも持ってきたんだ。でもジェインは、あのマッチを今はもう持っていないんだろ」
ジェインはうめくように言った「あー、持っていないわ。あたしのダッフルコートの中だったでしょ。家においてきたんだわ。ああ、こまったわ」
「そんなことだろうと思ったんだ」と、サイモンはまるで手品師のように気どったポーズで、シャツのポケットからマッチと、ろうそくのつかいさしをとり出した。そのときサイモンの顔色がしずんだ。
「ちきしょう、しめってしまっている。あの水たまりにすべり落ちたとき、水をかぶったにちがいない。ろうそくのしんがしめってるんだ、これじゃ役に立たないな。だけど、マッチはだいじょうぶだぜ」
「じょうとうだね」と、バーニイが元気づいたように言った。「頭いいよ。さあいこう」 サイモンは、わきの下にはさんでいた望遠鏡のケースを手に持って、ジェインに手わたした。
「この古文書は、ジェインが持っていた方がいいな。もしおれが洞くつの中で落としたら、二度と見つけられないかも」
サイモンは、もう一度海の方を見た。三人が立っている岩場は、絶壁のいちばん下から海の方へ、ほとんど平らにのびていて、土手道のようにも見えなくはなかった。洞くつの入り口のあたりに、灰色のこぶのような岩が一つあるだけだった。
六メートルか七メートル先の岩のふちに、波があいかわらず静かによせていた。三人が砂浜からこちらに来たときから見て、波は近くもなっていなければ遠くもなっていなかった。サイモンは、潮が満ちてくるまでにあとどのくらいの時間があのだろう、と気になった。「三十分ほどは時間があると思うんだ」と、サイモンはゆっくりと言った。「その後は、潮にさらわれないように早く逃げなくちゃならないぜ。こっちへ来てくれバーニイ、そしてじっとしてるんだ!」
サイモンは、つり糸のはしをさがして、それをバーニイの腰へしっかりとむすびつけた。「おまえが最初に入っていくのなら、おれはうしろから、このつり糸を持ってついていけるわけだ」
「バーニイが最初にいくべきだと思うの?」と、ジェインが言った。
バーニイがふりかえって、ジェインをにらんだ。
「それは、おれはべつにぜったいそうすべきだとは思っちゃいないさ」と、サイモンは言った。
「でも、洞くつがせまいんだからとバーニイがいうのは、もっともなんだ。ちょうどうまく中まで入っていけるのは、バーニイしかいないだろう。よしいいよ、バーニイを見うしなったりしないさ。さあこれ――」サイモンはジェインに、巻いたつり糸を手わたした、「ゆるめてはだめだぜ」
「といってあまりきつくしないで」と、バーニイは言って、入り口の方にいきはじめた。「そうしないとぼくの胴体が、半分にちょん切れるから」
ジェインは、腕時計を見た。「すぐ五時になるところよ。十分たったら、二度このつり糸を引っぱるわよ」
「十分だって!」と、バーニイがばかにしたように言った。「ぼくたち、それじゃ、何キロも入っていかなくちゃな」
「窒息するかもしれなくてよ」心配するようにジェインは言った。
「今のはいい考えだ」と、ジェインの顔をちらと見て、サイモンが急いで言った。「おまえが二度引くんだな。そのときおれが二度引きかえしたら、おれたちがぶじで、まだ中にいるという合図だぜ。もしおれが三度引いたら、おれたちは出るという合図だ」
「それからあたしが三度引いたら、それは兄さんたちに出てきなさいという合図よ、潮が満ちはじめてね」
「いいだろ。それじゃ、どっちからにせよ四度引くのは、SOSの意味だぜ――といっても」と、サイモンは急いでつけくわえた。「そんなもの必要はないだろうけどさ」
「わかったわ」とジェインは言った。「ねえ、兄さん、おそくならないでね」
「そうだな、おれたち、ゆっくり進まなくちゃならないからな。でも心配するな、なにもまずいことなんかありはしないさ」サイモンはジェインの背中をやさしくたたくと、バーニイの後に続いた。バーニイはつながれた犬のように腰のまわりにつり糸をむすびつけられて、ジェインにちょっと片手をふると、やがて洞くつの中に見えなくなった。
第十四章 絶壁の下の戦い
洞くつの暗がりの中で、バーニイは目をぱちぱちさせた。日光がないところに目がしだいになれてくるにつれて、洞くつの中の様子が、ぼんやりと見えるようになった。入り口からさしこんでくる光は、思っていたよりも奥の方までとどいていることがわかった。少なくとも、最初の数メートルくらいまでは、洞くつの天井や壁にいっぱいくっついた、ぬらぬらした海そうがかすかに光っているのや、洞くつの底にあさくたまった海水がきらっと光っているのが見えた。
用心しながら、バーニイは前に進んでいった。一方の手で天井にさわりながら、もう一方の手は、片側の壁の方にのばしていた。腰に巻いたつり糸を、うしろから来るサイモンがしっかり持っていることが、かすかにバーニイには感じられた。水たまりの中を進む足音や、サイモンが息をする音が、まわりの岩にはねかえって、とても大きく聞こえるのだった。
「気をつけろよ」と、うしろでサイモンが言った。ほとんどささやくようみたいな小さい声なのに、まるでまわりの空気が、ぜんぶしわがれ声でささやきだしたかのように、洞くついっぱいにこだました。
「気をつけてるよ」
「頭をぶっつけるぜ」
「兄さんこそ、ここのところ用心して。低くなってきてるんだ。手で天井にさわってみるとわかるよ」
「まかしとけ」と、サイモンは強い口調で言った。彼は不自由なかっこうに首を下に曲げていた。バーニイより背が高いので、天井のぬらぬらした岩に頭をぶつけないように、たえずちょっとずつ立ち止まりながら、進まなくてはならなかった。ときどき、大きな水滴が、シャツのえりから背中に落ちてきた。
「寒くないかい?」
「こおりそうだよ」と、バーニイは言った。ショートパンツが冷たくねっとりとふとももにくっつき、シャツだけでは空気はひえびえして寒かった。しだいしだいに、まわりの様子がなにも見えなくなってきた。
やがてバーニイは、暗やみが目をおしつけるような感じがして、不安げに立ち止まった。上の方を手さぐりしてみたけれど、どこにも天井はなかった。バーニイの頭の上で、洞くつは手がとどかぬほど高くなっていて、バーニイの手は空気をつかむだけだった。
「ちょっと兄さん」自分の声が、まわりの岩に反響して、気味悪くこだましてはねかえってくる。「ここは天井が高くなっているんだよ。でも、ぜんぜんなにも見えないんだ。マッチ持ってるかい?」
サイモンはつり糸をたぐって、バーニイの立っているところまできた。バーニイの肩があった。肩にさわられたバーニイは、思ってもみなかったほどほっとした気持ちになった。
「動くなよ。ちょっとの間つり糸をはなすからな」そういってサイモンは、ポケットからマッチを取り出して箱を開けた。そのふちを注意深く手ざわりでたしかめて、中のマッチがこぼれおちないようにしたのはもちろんだ。
最初の二本は、いくらこすっても火がつかなかった。三本目は燃えあがって、サイモンの指を焼きそうになった。とつぜんの光に目がくらんで、まばたきできるようになるより前に、あちっと声を出して、サイモンはそのマッチを落としてしまった。足もとの水たまりで、じゅっと小さな音がした。
「ぐずぐずしないで」と、バーニイが言った。
「できるだけ急いでるんだぜ……ああ、ついたぞ」
四番目のマッチはかわいていた。しかし、燃えあがったと思うとすぐ、ちらちらっとして消えそうになった。サイモンは手でほのおをかこむようにした。「へんだな。この中にはすきま風が吹いてるにちがいないな。おれには感じないけど」
「でも、マッチは正直だよ。うまいぞ、向こう側のどこかに出口があるにちがいないよ。だからやっぱり、この洞くつがそうだったんだ」
サイモンの手が、小さなほのおを手でおおっている間に、バーニイは大急ぎで、光がゆらゆらするまわりの壁を見まわした。ふたりのかげが、大きく、グロテスクに壁におどっている。バーニイは上の方を見て、二歩三歩用心深く前に進んだ。「火を上にあげてよ……兄さん、ほら、ここで天井がずっと高くなっている。兄さんでもまっすぐ立てるよ」
サイモン、注意しながらマッチの火におおいかぶさるようなしせいで、バーニイの方へ進んでいくと、背中をまっすぐのばして、ほっとしたように大きく息をすった。そのときマッチが指を焼きそうになったので、サイモンは下に落とした。たちまち、まるで毛皮がかぶせられたみたいに、真っ暗やみがまたふたりを包んだ。「そうしてろよ、もう一本マッチをつけるから」
「ちょっと待って。マッチはなるぺく使いすぎないようにしようよ。さっきのが消える前に、少し先の方まで見えたんだよ。だから次のマッチをする前に、そこまでもう少しいけるよ」
バーニイは目をつぶった。洞くつは、目を開けていても真っ暗だったにはちがいないけれど、とにかく、目をつぶっている方が安全みたいな感じがしたのだ。やっぱり指の先で、ぬるぬるした壁にさわりながら、バーニイは二歩か三歩前に進んだ。サイモンは片手をバーニイの肩にのせ、暗やみの中をじっと見つめながら進んだ。でも顔のすぐ前に、厚いまっ黒なカーテンがたれさがっているみたいで、なんにも見えはしなかった。
かなり長く思える瞬間、ふたりは洞くつを奥へ奥へと進んでいった。ときどきマッチをすっては、そのほのおがついている間に前進し、さらに、火が消えてからも消える前に見ておいただけ、何歩か先に進んだ。一度はろうそくをつけようとしてみたのだが、そのしんはぶすぶすいうだけで火がつかず、サイモンはまたろうそくをポケットにしまってしまった。
空気はひんやりとしていて、いつも前の方から新しい空気が来るような感じだった。洞くつの中は塩分と海そうのにおいでいっぱいで、まるで海の中にいるような気持ちだったけれど、息をするのはらくだった。暗やみだけではなく、また沈黙も、まわりを満たしていて、ふたりの足音と、ときどき天井から落ちてくる水滴がこだまして、音楽のように聞こえるだけだった。
サイモンがまた立ちどまって、手さぐりでマッチの箱をあつかっているときだった。バーニイの腰に巻きつけた糸が、ぐいと引っぱられて、体にくいこんだ。一度、そして二度。「つり糸が二度引っぱられたよ。ジェインにちがいないよ。十分たったんだ。なんだ、もう何時間もここにいたような気がしたけど」
「おれが合図を送りかえそう」と、サイモンは言った。マッチをつけると、つり糸が細く、ぴんと張っているのが見えた。それをしっかりにぎって、ふたりが進んできた方向に、まっすぐにゆっくりと二度力を入れて引っぱった。
「このつり糸を、姉さんが外で持ってると思うと、おかしな気分だね」
「あと、どれくらいの長さのこっているんだろうなあ」
「ええ? つり糸がなくなるかもしれないの? どれくらいの長さあったの?」
「たっぷりさ」と、サイモンは内心で思っているよりは安心させるような口調で言った。「おれたちは、とてもゆっくり進んできたぜ。あちっ!」マッチが、指のところで燃えつきようとしていたのだった。サイモンはあわてて、投げすてた。
その燃えかすが落ちたとき、なんの音もしなかった。手さぐりで、ふたりが前進しているとき、サイモンはとつぜん、音がしないかと耳をすませている自分に気がついた。
「ちょっと止まれ、バーニイ」サイモンは一方の足で地面を引きずるようにして、下をじっと見つめた。「この底はもうぬれてないぜ」
「ぼくのくつは、今でもビシャビシャしてるよ」
「ばか、それはくつの中の水のためだ。くつの外じゃないぜ」サイモンの声は、洞くつをふるわせるようにこだましたので、あわててサイモンはもとのようにささやき声になった。音のために、洞くつの天井が、くずれかかってきはしないかという心配もあったからだ。
「両側の壁もここはぬらぬらしていない」と、バーニイがだしぬけに言った。「かわいた岩だよ。どのあたりからか、ぼくは気がつかなかったけど、壁はかわいていたんだよ」
燃えつきそうなマッチに、サイモンが新しいマッチをくっつけると、シュッと音をたてて明るくともった。それをサイモンは壁に近づけた。灰色の花こう岩がむき出しになっていて、ところどころ白く光り、海そうはついていなかった。バーニイはかがみこんで、洞くつの底にさわってみた。粉末のような砂でおおわれているのがわかった。
「ぼくたちはのぼっているにちがいなよ」
「波はここまで入ってきたことはなかったんだな」
「でもぼくたちは、今朝岬の上の穴から、波の音がするのを聞いたんだよ。たてに穴があいているところを、ぼくたち通りすぎてしまったんじゃないの!」バーニイは、首をのばすようにふりかえって、洞くつの天井を見た。
「そうは思わないけどな」と、サイモンはあまり自信なさそうに言った。「音っていうのは、遠くまでつたわるからな。おい、早く先の方を見るんだ、このマッチ、もうすぐ燃えつきる」
バーニイは洞くつの奥を、じっと見つめた。暗やみの中にトンネルが続いていて、そのせまい壁にかげがゆれている。今はそれに目がなれてきたけど、バーニイにとって、後になってわすれることのできなくなった光景だ。そして、ふたたび真っ暗やみになろうとした一瞬前、かげのうつっている壁が、今までより近くにあるように思えた。
ためらいながら、バーニイは前に進んだが、本能的に止まった。そして、しんとしたやみの中に、手をのばした。顔から十センチもはなれていないところに、かたい岩があった。「兄さん! いき止まりだよ」
「なんだって?」信じられない気持ちと、がっかりした気持ちとが、サイモンの声にはこもっていた。マッチをつけようとしたけれど、なかなかうまくいかない。マッチ箱の底が指にふれたところを見ると、マッチはいくらものこっていないのにちがいなかった。
ちらつく光の中では、暗やみとかげとの見わけがつきにくかったけれど、洞くつは、いき止まりになっているのではないことが、ふたりにはわかった。ふたりのちょうど前で、いっそう細くなっているのだった。たてに細長く、しかも、地面から一メートルくらいの高さのところを大きな岩がおしこまれたようにふさいでいるのだ。ふたりの頭の上に、手のとどかないあたりに、岩のさけめが天井まで開いている。でも、そこまでよじのぼる方法はなかった。大きなその岩が、道をさえぎっているからだ。「そこは通りぬけられないな」と、サイモンが絶望した声を出した。「あのコーンウォール人が通ってから後、岩が落ちたにちがいないな」
その岩の下のところ、うす気味の悪い暗いすきまを、バーニイは見おろした。それはゆらゆらする光の中で、ぎざぎざに見え、不吉なかげになり、そしてやみにのみこまれていた。ああ、もう太陽の明るいところにもどりたい、とバーニイは本気で思いはじめた。
そのとき、バーニイは秘密のカップのことを思いうかべた。それからミスター・ヘイスティングスの顔を思い出した。「はっていけば、この岩の下のすきまをくぐりぬけられるよ」
「だめだよ」と、サイモンはすぐに言った。「そんなこと危険だぜ」
「だってぼくたち、ここまで来てもどるわけにはいかないよ」議論しはじめると、バーニイの心の中に自信がわいてきた。「ここまでやってきたんだよ。ほんのもうちょっとで、めざすものまでいきつけるんだよ。もしせますぎるようだったら、出てくるからさ。ねえ、兄さん、ぼくにいかせてよ」
マッチの火が消えた。
「もうほとんどのこりはなくなった」と、暗がりの中でサイモンの声がした。「もうすぐマッチはおしまいだ。ろうそくをつける必要がどうしてもあるな。でないと、真っ暗やみの中に閉じこめられてしまう。どこにいるんだ、バーニイ!」
つり糸をたぐってバーニイのところへいったサイモンは、マッチ箱をバーニイの手にわたした。それから自分のポケットをさぐって、つかいさしのろうそくを取り出すと、そのしんをかわかそうと、シャツで何度もこすった。「さあマッチをつけろよ」
そのときだった。うしろの方の暗やみの中で、落石のような物音がした。ギシッギシッガラガラガラッという音がして、またもとのように静まりかえった。
「なんだろう?」
気が気でないように、ふたりは耳をすました。でも聞こえるのは、急にドキドキ高鳴りだした心臓の鼓動だけだった。バーニイはマッチをすったが、その手はふるえていた。洞くつの中はふたたび、バーニイたちのまわりだけぱっと明るくなった。でも、音のした方は真っ暗で、闇があざ笑うみたいに、ふたりの方におしよせようとしているように見えた。
「なんでもないさ」と、サイモンがようやく言った。「おれたちがさわって通って、ゆるんだ石が、一つ落ちただけだろう。さあ」サイモンは使いさしのろうそくを、マッチのほのおに近づけた。マッチは燃えつきたけれど、ろうそくのしんは、前にもそうだったようにジュッと音を立てただけだった。もう一度やってみた。ふたりは息をつめて見つめていた。今度はろうそくのしんに火が燃えうつり、長細い黄色のほのおが煙を出しながら、燃えあがった。
「マッチを持っていてよ」と、バーニイが決心したような声で言った。「ぼくが中に入ってみるから」バーニイは最後の数本がのこったマッチをサイモンに返し、ろうそくを受けとった。
「見てよ」とバーニイは言った。通路をふさいでいる岩の下の方にろうそくを近づけ、一方の手で、煙を出しているほのおをかばうようにした。「そんなにすきまは小さくないよ。四つんばいで入っていける」
サイモンは、つらそうな顔でそのすきまを見つめた。「それじゃ……たのむから気をつけるんだぞ。もし立ち往生したらつり糸を引っぱるんだ。おれがつり糸をつかんでいるからな」
バーニイは、ゆらゆらと消えそうになるろうそくを前にし、四つんばいになって、通路にはさまれた岩の下の暗いすきまの中に、もぐりこんでいった。体中岩にさわるので、頭を低く下げ、ひじを内側へよせるようにして、はい進んでいった。岩に閉じこめられてしまうような、ぞっとした気分が、一瞬バーニイをおそった。
でも、こわくなって進めなくなるより前に、ろうそくのほのおに照らしだされるまわりの様子がかわったのに、バーニイは気づいた。頭を上げてみると上につかえなかった。もう少し先にまで入っていった。ひざの下は、ざらざらで砂っぽい感じだった。そこは、まっすぐ立てるぐらいの高さがあり、まわりもずいぶんひろくなっていた。バーニイは、ろうそくのほのおが消えないように用心深くおおっていたが、その光の中では、まわりの壁もわからないくらいひろくなっているのだった。
「だいじょうぶか?」心配そうなサイモンの声が、うしろの方から岩のすきまをとおり、マスクをかけた声のようになってつたわってきた。
しゃがみこむようにして、バーニイは言った。「だいじょうぶだよ。ここはまたひろくなってい。るせまいすきまは入り口にちがいないよ……もっといってみる」
腰のつり糸が、きつくなったのがわかった。サイモンが返事のかわりに、引っぱったのだ。バーニイは、ゆっくりと洞くつを進んでいった。ろうそくの小さな明かりで、前方の暗やみが少しずつ開けていく。でも、ろうそくはもうニ、三センチになって、熱いろうがバーニイの指のつめに流れ落ちてくる。肩ごしにうしろをふりかえってみると、くぐりぬけてきた入り口は、もう見えなかった。
「ハロー」と、暗やみにむかって、バーニイは言ってみた。その声は、不気味な、ささやくようなこだまになってもどってきた。でも、あのトンネルみたいになっていたところでのように、まわりでうわんうわんと何度なく反響する感じではなくて、はるか遠くの方、それも高いところで、つぶやくようにこだまするのだった。バーニイは立ったまま、くるりとひとまわりしながら、暗やみの中を見つめた。どの方向に進めばよいのか、わからなかった。ここは、家ほどもある大きな空間にちがいなかった――しかもバーニイが今いるのは、ケメア岬の底なのだ。
どうしたらいいのだろうというように、バーニイは立ちつくした。ろうそくは燃えつきそうで、指の間でもうやわらかくなっていた。とつぜん、あの奇妙ながらんとした家の中にいる、背のすごく高い、黒ずくめの男のことが頭にうかんだ。それと同時に、バーニイたちが秘密のカップを見つけ出すのを、必死になって妨害しようとしている敵のおそろしさが、よみがえってきた。
急に背すじが冷たくなって、おびえたように、バーニイは身ぶるいした。まわりの静まりかえった真っ暗やみの中に、その敵のやつらがそんでいるような気がした。彼らは姿を見せず悪意に満ちて、バーニイを追いかえそうとしているように思えた。耳が、がんがん鳴っていた。洞くつの中はとても広くて、がらんとしているけれど、なにものかがバーニイをおしつぶそうとし、帰れ帰れとたえまなく言いつづけているみたいだった。ここにふみ入ってきたおまえは、なにものなのだ、とその声はささやいているように思えた。小さな子どもだな? おまえなどにわかりもしない、とてつもないものをほじくり出そうとしているのだな? それはだれにも手をつけられないまま、長い年月の間にそっとされてきたのだ。立ちされ、そんなむかしの物はそのままそっとしておいて、おまえの安全なところへ帰っていけ……。
でもそのとき、今度はメリイおじさんのことが頭にうかんだ。メリイおじさんの不思議な探求に、バーニイたちは仲間入りしたのだ。いちばん最初のときに、メリイおじさんが話してくれたことを、バーニイは全部思い出した。それは善と悪との戦いの話で、どちらもこれまで完全に勝ちもしなかったし、完全に負けもしなかったというあの話だ。ろうそくの黄色いほのおに照らされた小さい空間のまわりは、なにも見えない真っ暗やみだった。その中でバーニイの目にとつぜん、騎士ペドウィンの姿がいきいきとうかんできた。東方の地からコーンウォールに彼が逃げのびてきたときに、その戦いははじまったのだった。バーニイの心の中に見えるペドウィンは、アーサー王の最後のあかしを守って、よろいに身をかためて立っているのだった。今バーニイたちを追いつめようとしている、同じ悪の勢力に、騎士ペドウィンも追われていたのだ。
そしてバーニイは、ペドウィンがケメア岬にほうむられたということを思い出した。おそらく、バーニイが立っているこの洞くつの、ちょうど真上にちがいない。でもバーニイはこわくなかった。まわりの暗やみはおそろしかったけれど、ペドウィンのことを思い出したことで、親しみのようなものも感じた。
だからバーニイは引きかえさなかった。今にも消えそうな、小さなほのおをかばいながら、暗やみの中に進んでいった。自分の足音がささやくようなこだまになって、かえってきた。そのとき、頭の上の方で、今まで聞いたこともないような不思議な音がしているのに、バーニイは気づいた。
どこから聞こえてくるのか、まるで空のかなたからでも聞こえてくるような感じだった。遠くの方から、とてもかすかに、この世のものではないようなかすれたかわいた音がする。しかもその音は、洞くついっぱいにひろがっているのだった。木のこずえとか、電柱の電線を吹きすぎていく風のように、その音は高くなったり低くなったりした。バーニイは頭にひらめいたことがあって、ろうそくを高くかざしてみた。すると頭の上が、煙突のようになっていて、ずっと上の方まで続いて見えなくなっているのだった。
一瞬、その上から光がちらりと見えたような気がしたけれど、手に持ったろうそくの光にまどわされて、はっきり見えたかどうか自分でもたしかではなかった。聞こえた音というのは、はるか上の方で、その朝バーニイたちが見つけた岩の中の穴の上を吹いていく風の音なんだ、とバーニイにはわかった。洞くつの中の歌は、ケメア岬を吹く風の歌だったのだ。
ほとんどぐうぜんだった。バーニイが上を見あげていたとき、たなのように出っぱった岩が目についた。それは洞くつのいちばん奥で、煙突になっている部分の岸壁のところに、つき出ていた。穴の下に、自然にできた戸だなのように出っぱっているその岩だなは、バーニイにもとどく高さだった。そこに、岩とはちがう形をしたものが一つあり、それがろうそくの明かりできらりと光るのをバーニイは見た。
息を止めてバーニイが手をのばすと、なめらかでカーブしたものにさわった。それは、指のつめが当たると金属の音をたてた。それをつかむと、下におろした。岩だなからまいあがったほこりで、バーニイは目をぱちぱちさせた。カップだった。重くて、不思議な形をしていた。どっしりした台のところから、上に向かって細長く鐘のような形にふくらんでおり、バーニイが持っているアーサー王の本にえがかれていた台つきのカップににていた。あの絵をかいた画家は、本物を見たこともないのにどうしてかけたんだろう、とバーニイは不思議に思った。でもこれが、本当にあの聖杯ににせたカップなんだろうか。バーニイはなかなか信じることができなかった。
バーニイの手の中で、その金属は冷たかった。ほこりっぽくて、ひどくよごれていた。けれどもそのよごれの下で、にぶく金色にかがやいているのだった。岩だなには、ほかにはなにもなかった。
とつぜんろうそくのほのおが、ゆらゆらとなった。ろうはやわらかくなり、なまあたたかくなっていた。もうすぐ燃えつきて、暗やみの中にひとりとりのこされてしまうにちがいないとわかって、バーニイはぎょっとなった。岩だなのところから、もときた方向へと引きかえした。そのときになってバーニイは、腰にむすびつけたつり糸がなかったら、どんなにまよって途方にくれてしまったことだろうと気がついた。洞くつは丸くてひろく、バーニイの四方にまっ暗にひろがっていた。しっかりと張ったつり糸が、どの方向に進めばよいか、教えてくれたのだ。
バーニイはその方向に歩いていった。つり糸がゆるんで地面にふれ、やがてまたぴんと張った。サイモンがたぐりよせたにちがいなかった。バーニイはカップを一方の手でしっかりにぎって、体にくっつけ、いまにも消えそうなろうそくを、もう一方の手に持っていた。興奮してぞくぞくしているバーニイは、さっきまでのこわさなどまるでわすれてしまっていた。
「にいさん!」バーニイは呼びかけた。「見つけたよ!」
返事はなくて、からっぽの洞くつに自分の声だけが、ささやくようなこだまになってかえってきた。
「見つけたよ……見つけたよ……」自分の声がいくつにもなって、四方八方から聞こえてくるのだった。
そしてろうそくのほのおが、ゆらゆらっとしたかと思うと、消えてしまった。
ぴんと張っているつり糸に手をやって、バーニイはゆっくりと前に進んだ。「にいさん!」と、バーニイは心もとなげに声を出した。やっぱり返事はなかった。
ふとバーニイの心に、やっつけられて、力なく打ちしおれているサイモンの姿がうかんだ。そして岩の下のせまいすきまの向こう側に、背の高いミスター・ヘイスティングスがせせら笑いながら、まるで魚をひっかけたとでもいうように、つり糸を持ってたぐりよせ、待ちかまえているおそろしい光景が……。
バーニイは急に、のどがからからになった。暗やみの中で、カップをいっそう強く体に引きつけた。心臓がどきんどきん鳴っていた。そのとき、サイモンの声が聞こえたのだった。バーニイの前の暗やみの下の方から、マスクで包んだようなふくみ声になって、その声は聞こえてきた。
「バーニイ……バーニイか?」
バーニイが手をのばすと、岩があった。その岩のところから天井が急に低くなって、洞くつのせまい通路へと続いているのだ。「ぼく、ここだよ……兄さん、見つけたよ、聖杯を手にいれたんだよ!」
ところが、返ってきたのはひどく緊迫した感じのふくみ声だった。「出てくるんだ、早く」
バーニイは、四つんばいになって進んだ。岩のとがった角をくぐりぬけるので、また顔をしかめて痛そうにした。用心しながらバーニイは、洞くつを二つにくぎっている岩のさけめの方へとはっていった。でも天井が低くてでこぼこなので、暗がりの中で頭をぶつけてしまうのだ。カップを前に高くつき出すようにして進んでいると、岩にぶつかって音をたてた。その音は鐘のようにすんだ純粋なひびきで、長く余韻をのこしてひろがるのだった。
せまい岩のさけめの向こうの方で、ぱっとなにか光ったのをバーニイは見た。次のしゅんかん、マッチがともるのが見えた。そしてサイモンがうずくまるようにして、マッチを持っていない方の手でつり糸をたぐりよせているのが見えた。うす暗がりの中でサイモンの目が大きく、暗く、そしておどろきあわてているように見えた。バーニイがくぐり出てきて、その手に背の高いカップを持っているのを見ると、サイモンはなにもかもわすれてそれを見つめていた。
それまでサイモンは、しだいしだいに気がかりになっていくばかりだったのだ。つり糸の向こうのはしで、バーニイがまだ動いていることがわかると、せまい岩のすきまを自分でもぐりこんでいこうという気持ちをかろうじておさえてつけていたのだった。暗やみの中にひとり立ったまま、あらゆる物音に耳をぴりぴりさせ、明かりをつけたいと思いながら帰りの洞くつのことを考えて、六本だけのこったマッチを使わないでいたのだ。それはとても長い時間のように思えた。
サイモンはバーニイの手からカップをとった。「もっとちがう形をしているかと思っていたな、どういうわけか……中にあるのはなんだい?」
「どこに?」
「ほら見ろ――」サイモンはカップの中に手を入れて、一見、短い棒のように見えるものを取り出した。それはカップと同じくらい、古くて、黒っぽくなっているように見えた。カップの中に、はさまれるようにして入っていたのだ。バーニイは急いでいたので、それが目に入らなかったのだった。
「とても重いぜ。鉛でできているんだろ」
「なんなの、それは?」
「一種の筒だな。望遠鏡のケースのようなものさ。あれよりずっと小さいけど。でもこいつは、ふたがねじ開けられるようになっていないみたいだ。たぶんくっつけてあるんだろう」サイモンは、ためしにやってみるみたいにその筒をおしてみた。すると一方のはしが、いきなりキャップのようにはずれたではないか。そして巻いた物が中に入っているのを見たふたりは、それが自分たちのよく知っているものにひどくにているのに気づいた。「また古文書だ!」
「それで彼がいっていたんだな」と言いかけてサイモンは、急にことばを切った。サイモンはそのとき巻き物の一方のはしを持って、筒から出そうとしていたのだが、手でさわったふちがぼろぼろにくだけてしまったのだ。あわててサイモンは手をはなし、それと同時に、自分がなぜ心配そうな声で、バーニイに出てくるようにいったのかを思い出したのだった。
「さわれないや、あまりにも古い物なんだな。そうだバーニイ、できるだけ早くここを出なくちゃならないんだ。おまえがもどってくるすぐ前に、ジェインが三度つり糸を引っぱった。潮が満ちてきているにちがいない。すぐに出ないと、とりのこされてしまう」
* * *
サイモンとバーニイが洞くつの中に消えていってからジェインは、一つだけつき出したように立っている岩に、よりかかっていた。絶壁のふもとのそのあたりは、一面に平らな、緑がかかった灰色の花こう岩で、ぬれた海そうがあちこちにかたまって散らばっていた。ジェインは、望遠鏡のケースを、大事そうにわきの下にはさんでいた。サイモンがそれを持っているときジェインはいつもいっしょだったけれど、今ひとりで待っているのが、これほど責任を感じさせられることだとは思ってもみなかった。このケースの中になにが入っているかを考えると、ジェインは奇妙な心細さにおそわれるのだった。
手に持っている、きれいに巻いたつり糸を、ジェインは少しずつたぐり出していった。糸からつたわってくる手ごたえは、ときどきちがっていた。洞くつの中でサイモンとバーニイが、進んだかと思うと、また止まっているのがわかるようだった。ジェインは、つり糸をあまりきつすぎないように、といってゆるくて地面にたれてしまわないように、注意しながら持っていた。
とても暑かった。そびえ立つ絶壁の上から、太陽はぎらぎら照りつけ、ジェインの肌はひりひりしてくるのだった。もたれかかっている岩も、日光に焼かれて、シャツの背中を通してその熱がつたわってきた。うしろの方では、海面下から姿をあらわした岩のふちに、波がよせる音がしていた。そのほかには、どこからもなんの音も聞こえてこなかった。岬のふもとは、ひっそりと静まりかえり、まわりには海が広がっているばかりだった。もし手の中で動いているつり糸がなければ、ジェインは自分が世界でたったひとりの人間だと思ってしまったかもしれない。陸も、そしてグレイ・ハウスも、とても遠いもののようにジェインには思えた。
ジェインはぼんやりと、おかあさんたちはもうペンザンスから帰ってきているかしら、と考えた。家の中ががらんとしていて、だれがどこへいったのかまるでわからないとしたら、おかあさんたちはどう思うだろう。
それからジェインは、ケメア岬の方へ急ぎ足で出ていった三人の人かげを思い出した。先頭に立っていくのは、黒ずくめで、長い足をした、まるでなにか巨大な昆虫のように不気味なミスター・ヘイスティングスだった。本能的にジェインは絶壁の上を見あげた。でもなんの音もせず、なんの動きも見えなかった。のしかかってくるような灰色の岩の壁は、ジェインの頭の上に六十メートルほどの高さにつき立っていて、いちばん上のところに、帽子をかぶったように緑の草がはえているのだった。
続いてメリイおじさんのことが心にうかんだ。一体どこにいるのだろうか? 今度はどこへいったのだろうか? 探検ももうすぐおしまいだというときに、メリイおじさんがいかなければならなかったそんな大事なことが、あったというのだろうか? メリイおじさんが敵にやられるとか、つかまってしまうなどと、ジェインはほんの一瞬間たりとも考えたりはしなかった。メリイおじさんが深夜の岬で、ジェインを両腕にすくいあげてくれたときに言った、自信に満ちたことばを、ジェインははっきりおぼえていた。
「わしがいれば彼らは追ってこようとはしない……」
「ああメリイおじさん、ここにいてほしい」と、ジェインは声に出して言った。そしてまわりの暑さにもかかわらず、ちょっと身ぶるいした。ジェインの気持ちはしずんでいた。それは、サイモンとバーニイのことが気がかりでしかたなかったからだ。真っ暗な洞くつの中には、なにがひそんでいるかもしれないし、ふたりがまよってしまって出られなくなってしまうかもしれないのだ。それに天井が落ちてくずれるかもしれない……。
メリイおじさんがいてくれたら、そんなことなど起こらないと、ジェインを安心させてくれたにちがいないのだ。
ジェインは時計を見た。五時十二分だった。手の中のつり糸はまだ、少しずつ、不規則に、洞くつの方へと動いていた。ジェインはそのつり糸を、ゆっくりと二度、力を入れて引っぱった。少したって、こんどは向こうから二度引っぱったのが感じられた。でもその返事は、かすかにしか感じられなかった。つり糸は、もう三分の二が出ていっていた。たぐり出しながら何メートルくらい出ていったかはかればよかったのに、とジェインは思った。時間はなかなかたたなかった。いぜんとしてつり糸は、ジェインの手の中から洞くつの暗い入り口の方へと動いていたが、今はそれもゆっくりとだった。雲一つない青い空に、低く、かがいやいている太陽は止まってしまったように見えた。どこからか風がかすかに吹きおこって、ほどけたジェインの長い髪がそよがせた
ジェインは岩によりかかって、頭をからっぽにし、感覚だけに身をまかせた。肌には太陽の熱が感じられた。ぬれた岩や海そうには、海のにおいがしていた。そして波が静かに、ひたひたとよせているのが聞こえた。うとうとしているような気分の中で、つり糸を持っている指だけがめざめていた。そのときジェインは、海の音がかわったのに気がついた。
とつぜんジェインは岩をはなれて身を起こすと、あたりを見まわした。ぎょっとなった。波うちぎわに、海そうがいっぱいかたまり集まって、それが波のまにまにゆれ動いているのだ。今まではそんなものはそこになかった。岩のふちだったところは、波をかぶっていた。前より、こっちに近くなっている、とジェインは思った。潮が満ちてきはじめたのだ。
自分の顔色がかわるのが、ジェインにはわかった。もうつり糸はのこり少なくなって、巻きがやわらかくなっていた。洞くつの中をサイモンとバーニイは、どこまで深く入っていくのだろうか、もう警戒しなくてはならない。ジェインは、つり糸をしっかりにぎると、自分の手のまわりのゆるんだ部分を巻いていきながら、洞くつの暗い口のところまでまっすぐいき、強く糸を引っぱった。一度、二度、三度、ジェインは引っぱった。
なにごとも起こらなかった。うちよせる波がざぶんと岩にくだける、規則正しい音を聞きながら、ジェインは待った。こわくなって、いまにも涙が出てきそうになったとき、ジェインは返事の合図を手に感じた。かすかな手ごたえが、三度あった。と思うまもなく、糸はゆるんで、だらりとなった。ほっとしたように、ジェインは大きくため息をついた。糸を引っぱると、ジェインの方にもどってきた。はじめのうちは、ゆっくりとだったけれど、やがてジェインが糸をたぐって出していた時よりも早く、つり糸はたぐりよせられた。そしてついに、洞くつのせまい口から、よろめくようにサイモンとバーニイが出てくると、手で日光をさえぎりながらまぶしそうに目をしばたたいた。
「ハーイ」と、サイモンがまのぬけた声を出した。ぼーっとなっているような感じだった。洞くつの口に出てくる五分前には、マッチはなくなってしまったので、それからというものは、真っ暗やみの中をまるで悪夢のようにつり糸だけをたよりに進んできたのだ。サイモンはバーニイを先にいかせた。サイモンはたえず、進むたびに岩にぶつかるのではないか、名もわからぬ、なにかえたいの知れぬものと正面衝突するのではないか、とびくびくしつづけていた。だからもし髪がまっ白になってしまったといわれても、サイモンはべつにおどろかなかったかもしれない。
ジェインは、泣き笑いのような顔でサイモンを見て、サイモンが言ったように、「ハーイ」と言った。
「見てよ!」とバーニイがカップを高くさし上げた。
ジェインはよろこびで、自分の笑顔が大きくひろがるのがわかった。「じゃ、あたしたち、あの人たちに勝ったのね! やったわ! ああ、メリイおじさんがここにいてくれたら」
「これは金でできていると思うんだ」とバーニイは言って、カップをこすった。日光の下で見ると、洞くつの暗がりの中で見たときとまるでちがって、魔法の品物のような不思議さは感じなかった。けれどもその表面のよごれを通して、あちらこちら明るく黄金色に光っていた。「それにいたるところに、もようのようなものがあるよ」と、バーニイは言った。「でもみがいてみないと、よく見えない」
「すごく古いものだ」
「でも、それにどんな意味があるのかしら? つまり、だれも彼もが必死になって手にいれようとしているのは、その人たちにとってなにか大事なことがわかるからだわ。でも見たところ、そんなものはなにもないみたい。そのもようが、なにかのメッセージなら話はべつだけど」
「古文書だ」と、サイモンが言った。
「あっ、そうだよ」バーニイはカップの中から、小さくて重い鉛の筒を取り出すと、その中の古文書をジェインに見せた。「これがカップの中に入っていたんだよ。ぼくたちの古文書からではわからないことが、これを見ればわかるにちがいないんだ。すごく大事な物に決まってるよ。これを読めば、なにもかもわかるんだよ。でもこれを出してみようとすると、たちまちぼろぼろにくだけるんだ」バーニイは、注意ぶかく筒のキャップをもと通りにした。
「安全に家まで持って帰らなくちゃならない」と、サイモンが言った。「その中に入るかな……ちょっと待てよ」といってサイモンは、ジェインのわきの下から望遠鏡のケースを取ると、ねじをまわして開けた。彼らの見なれた古文書が下半分に、ぴったりおさまっている。
サイモンは黒っぽい鉛の筒の方を、注意深く、望遠鏡のケースの中の巻き物の中央に落とした。「これでいいや。ジェイン、ハンカチ持ってたな?」
ジェインはシャツのポケットからハンカチを取り出した。「どうするの?」
「こうするのさ」とサイモンはハンカチをかたくまるめると、巻き物の上におしこんだ。「こうすれば新しい古文書の方も、中でがたがたしない。潮が高くならないうちにここをはなれようとすれば、ぼくたち走らなくちゃならないだろう。そうなると、ケースもどんどんはねることになるだろうからな」
ジェインとバーニイが、そのことばにつられるように、ふりかえってふたたび海を見た。まったく同時に、ふたりはこわさに息がつまったように、のどの奥であえいだ。サイモンは、ケースの二つの部分をまたもとどおり合わせようと下を向いていた。ふたりの様子に、サイモンは急いで目をあげた。三人が立っているところから二メートルくらいのところまで今や波がよせていて、海そうが動いているではないか。でもまずいのは、そのことではなかった。ジェインとバーニイは、動きだそうとして立ったまま、海の遠くの方を見ているのだった。
ちょっとの間、つき出した岩がじゃまになって、サイモンにはよく見えなかった。だがすぐにサイモンの目にも、レディー・メアリ号が帆を高くあげて進んでくる姿がとびこんできた。ヨットはいっぱいに帆を張って、岬の先をまわってサイモンたちの方に近づいてくる。ヨットのへさきには、背の高い黒い人かげが立っていて、一方の腕を上げて、こちらを指さしているのが見えた。
「さあ、早くいくんだ!」ショックのあまり、身動きもできず立っているジェインとバーニイをつかむようにして、サイモンはふたりを前におしやった。
三人は海そうのかぶさった岩の上を飛び、またすべるようにして、洞くつから、そして追いかけてくるヨットから、逃げだした。バーニイは、カップを一方の手にしっかりつかみ、体のバランスをとるように両方の腕をひろげて走った。そしてサイモンは、二つの古文書の入ったケースを、胴にぴったりくっつけるようにして走った。肩ごしにふりかえると、ヨットの大きな白い帆がデッキの上にしわになっておろされ、そして小さなボートが舷側から海へおろされるのが見えた。
バーニイがすべってころび、すぐあとから走っていたサイモンもジェインも、もう少しで折りかさなってたおれそうになった。バーニイはころんだときも、カップを手からはなさなかった。けれど、それは岩にぶつかって、あの洞くつの中で聞いたのと同じような鐘のようにすんだ音色をたてた。大急ぎで走る三人の水をけちらす音よりも、その音は大きくひびいた。
バーニイは、けんめいに立ちあがった。すりむけたすねに、海水がしみて痛いのをがまんするように、歯をくいしばって、またサイモンたちといっしょに走った。どこもかしこも海水なので、三人は水をけちらしどおしだった。波は大きくなっていて、潮が刻一刻と高まるにつれて、岩をこえて打ちよせていた。水たまりや穴になったところは、茶色の海そうがただよっていて、岩がむき出しになっているところは、海水がその上をみがくようにうずまいていた。やがて、すぐにもそれは強い流れになって、必死にかける三人の足をすくってしまうことは明らかだった。
バーニイがまた足をすべらし、バシャンと水の中にたおれた。
「あたしがそれを持つわ」
「いやだ!」
バーニイが足場をもとめてはいあがろうとするのを、ジェインが片手で引っぱりあげた。そして三人はいっそう速く、まるで悪夢の中のレースのように、波が洗っている岩の上をむちゃくちゃに走った。サイモンは、またうしろを見た。小さなボートに乗った二つの人かげが、ヨットから三人の方をめがけて、ぐいぐいこぎ進んできていた。ヨットのエンジンがかかったのが聞こえた。
「急ぐんだ! 早く!」と、サイモンはあえぐように言った。「まだあきらめるな!」三人は急いだ。半分よろけるようになりながら、とにかく足をけんめいに動かしつづけた。まだ、岬をまわったところの砂浜は見えてこなかった。一方は海で、もう一方はそそり立つ巨大な絶壁だった。そして三人の前には、岩や海そうの岩場がずっと続き、満ち潮のために岩場はしだいに小さくなってきていた。
「止まれ!」うしろの方から、とつぜん、太く低い声がさけぶのが聞こえた。「もどってくるのだ! なんてばかな子どもたちなんだ、こっちへ来るんだ!」
「つかまりゃしないさ」と、サイモンは息を切らしながら言った。バーニイが三度目にまたころびそうになるのをつかんで、ぐいと引っぱって立ちなおらせた。そのサイモンの横を、ジェインは走るたびにはあはあ声を出しながら、よろめきつつ死にものぐるいで走りつづけた。そのとき、三人の前方、岬をまわったところに、なにか見えてきたものがあった。それがなにかわかったとき、まるで海の底にしずんでいく石のように、三人ののぞみはたたれてしまった。
もう一そうのボートが、やってくるのだった。たらいのように幅のひろいボートで、はしけのように波をけたてて進んでくる。最後尾にとりつけたポッポッと音をたてる発動機のところに、ビル少年がすわっている。その前にミスター・ウィザースがいて、長い黒い髪を風になびかせながら、前方に体をのり出すようにしている。彼はサイモンたちを見つけ、いたぞ、もうこっちのものだ、というような顔でさけんだ。ビルがボートを、三人の通り道になっている岩の方に向けながら、にたりと歯を見せていやな笑い顔をするのが見えた。
三人の足は急ブレーキがかかったように止まった。ぞっとして、度をうしなってしまった。
「どっちへいくの?」
「前にはいかれないわ!」
「でも引きかえせない。見ろ、うしろのやつらは岩にとびうつろうとしている!」
海水が足もとに流れこんでくる中で、三人は気が気でないようにうしろを見、また前を見た。十メートルとはなれていない先を、意地悪そうに笑っているミスター・ウィザースを乗せたボートが、三人の道をふさぐように進んできていた。そしてうしろには、もう一そうのボートがほとんど岩のところまで来て、上下にゆれていた。三人は、きれいに、わなにかけられてしまったようなものだった。
「こちらへ来るのだ!」太く低い声が、ふたたび三人の方に向かってさけんだ。「逃げられはしないのだ。ここへこい!」
ミスター・ヘイスティングスがボートの中で立ちあがって、その背の高い姿を見せ、一方の腕を三人の方にむけてふり動かしていた。バランスをとるために両足を開いて立っている。ボートのゆれにつれて上下するその姿は、まるで海にまたがって立っているみたいに見えた。
「バーナバス!」その声は低くなり、催眠術をかけるような調子の声にかわった。「バーナバス、ここへ来るのだ」
ジェインがバーニイの腕をつかんだ。「だめよ、あっちへいっちゃ!」
「心配するなよ」バーニイはぎょっとなっていたが、前のときのように催眠術にかけられはしなかった。
「兄さん、どうする?」
サイモンは絶壁を見あげた。そして一瞬、そこをのぼっていけないものかという思いが心を横切った。でも、きびしくそそりたった花こう岩の絶壁は、サイモンたちの頭上はるかに高く、高く、そびえているのだった。たとえのぼっていっても、足場などないだろう、そして上までのぼりつくはるか手前で、落ちてしまうにきまっている。
「バーナバス」と、またあの声が、やさしく、ずるがしこい調子で呼びかけた。「おまえが手になにを持っているのか知っているぞ。そしてきみもだ、サイモン。そうともサイモン、きみが持っているものにはとくに用があるのだ」
サイモンとバーニイは、どちらも、本能的に手に力を入れて古文書とカップをにぎりしめた。
「それはおまえたちの物ではないんだ」その声は高くなり、いっそうあらあらしくなった。
「おまえたちにそれを持つ権利はない。ちゃんとしかるべきところに返さなくてはならないのだぞ」
ミスター・ヘイスティングスは、サイモンたちの方をじいっと見つめた。そして岩に飛びうつるタイミングをはかって、ボートの中で身がまえた。岩のふちにういてゆれている海そうのかたまりが、彼をためらわせていた。オールをこいでいるポリイ=ウィザースが、波の中でけんめいにボートをあやつっていた。
とつぜん、バーニイがさけんだ。「あんたのものにはならないぞ。あんただってこれの持ち主なんかじゃないんだ。なぜそんなにほしがるんだ? 本当は博物館なんか持っていやしないんだろ。あんたが話したことなんか、ぜんぜん信じやしないからな」
ミスター・ヘイスティングスは、低い笑い声をたてた。そのうす気味悪い、背中が寒くなるような声は、おだやかな潮さいの上をわたって、サイモンたちのところに聞こえてきた。
「あんたたちは勝てやしないぞ」と、サイモンがけんか腰で言った。「ぜったい勝てるもんか」
「こんどは勝つのさ」という陽気な声がうしろでした。三人はまたふりかえった。ウィザースだった。発動機を止めて、彼の乗ったボートは三人の方へいよいよ近づき、ビルがオールで岩をさぐってボートを引きよせようとしていた。
三人は絶壁に背中をむけて、よりそうように立っていた。そしてできるだけ相手から遠ざかるように、体をうしろに引いていた。でも相手のニそうのボートは、三人の両側からしだいにしのびよってくる。レディー・メアリ号は岬の沖を、ゆっくりと進んでいた。エンジンの音がかすかに聞こえたけれど、甲板に人かげはなかった。
「ボートがあったら」と、ジェインが絶望したように言った。
「泳いでいけないだろうな?」
「どこへよ?」
「なにかやれることがあるはずだよ!」とバーニイが、必死の声でさけんだ。
「きみたちは、もうどうすることもできやしないさ」あざけるようなウィザースの陽気な声が、岩をこえて三人に聞こえてきた。波にゆれるボートのへさきにいるウィザースは、もう五メートルもないくらいのところに近づいてきていた。「古文書をわれわれにわたすんだよ。そうすればきみたちを安全に連れだしてあげるよ。潮がとてもはやく満ちてきはじめたじゃないか。それをわれわれにわたすしかないんだ」
「もしわたさなかったらどうなんだ?」と、サイモンが反抗するように言った。
「海を見るんだな、サイモン。きみたちが来たところをもどっていくことは、もうできないぞ。潮を見るんだな。きみたちはそこにとりのこされてしまったんだよ。われわれといっしょでないかぎり、そこからのがれる道はないんだよ」
「彼のいう通りだわ」と、ジェインがささやくように言った。「見て!」と、彼女は指さした。岩場の向こうまでずっと、いまや波は絶壁のふもとを洗いはじめているのだった。「サイモン、きみたちのボートはどこにあるんだね?と、あざ笑うような声が言った。
「降参するほかないのか」と、サイモンは低い、おこったような声で言った。
「時間をあげよう、サイモン。われわれは待ってもいいんだよ。いくらでもわれわれは好きなだけ待てるんだ」
ボートのもう一方のはしで、ビルがくすくす笑っているのが聞こえた。
「とうとうあたしたちの負けだわ」
「いや考えるんだ――考えるんだよ――今あきらめることはできないよ」
「メリイおじさんのこと」
「なにかというとまっ先にいつもメリイおじさんのこと考えるなんて、なさけない」と、サイモンがあらあらしい口調で言った。「そんなことむださ、おれたち降参することにする」
「いやだ!」バーニイがただならぬけんまくで言った。そしてサイモンとジェインには、なにがなにやらわからぬうちに、バーニイはサイモンから古文書のケースをひったくると、ぬれた岩をばしゃばしゃわたって波がうちよせるところまで進んでいった。一方の手に、ぴかりと光るケースを持って高くさしあげ、もう一方の手にはカップを持って、バーニイはすごい顔つきでミスター・ヘイスティングスをにらんだ。「ぼくたちを助けてこの二つを家に持って帰らせないなら、これを海に投げこんでやる」
「バーニイ!」ジェインがしわがれ声で叫んだ。サイモンはジェインを止めて、耳をすました。
ミスター・ヘイスティングスは動かなかった。ごうまんな態度で、不気味にだまって立ったまま、ふんぜんとしておこっているバーニイの小さな姿をながめていた。そして彼が口を開いたとき、その太く低い声は、いままで聞いたこともないほど冷酷なひびきをおびていた。
「バーナバス、もしきみがそんなことをしたら、わたしはきみも、兄さんも、姉さんも、ここにおきざりにしておぼれ死んでもらうぞ」
それが本心であることを、三人はうたがわなかった。しかしバーニイは、つきあげるような怒りにとらわれていて、ミスター・ヘイスティングスのことばなど二度とぜったいに信じるものかと決心していた。もし信じれば、また自分が魔法にかけられたように相手のいいなりにさせられてしまうことがわかっていた。
「投げこむとも、ほんとうにそうしてやるんだ! もしあんたが約束しないのなら、ぼくは投げこんでやる!」右手に持ったカップを、バーニイは高くあげると、腕を曲げてそれを投げようとした。サイモンとジェインは息をのんだ。
そびえ立つような黒ずくめの男と、小さな少年を中心にして、まわりの世界は止まってしまったように思われた。ふたりははげしくにらみあって、どちらもゆずろうとしなかった。バーニイは体中が怒りで煮えたぎっているために、命令にしたがわせようとする相手のおそるべき目の力に屈服しなかった。ミスター・ヘイスティングスの顔がゆがんだかと思うと、のどをつまらせたようにさけんだ。「ウィザース!」
そのしゅんかんから、バーニイたちにとって、世界は音をたてて、この世のものとも思われない状態に突入していった。なにが起こり、またどうしてそうなったのか、まるで訳のわからないような状態になった。
両側から、ノーマン=ウィザースとミスター・ヘイスティングスが、バーニイの方めがけて飛びかかってきた。
「やめるんだ、バーニイ!」と、サイモンはさけんで、バーニイの方に飛んでいくと、そののばした腕をつかんだ。ウィザースは、すぐ近くのところで、ボートから大きく跳んで岩に飛びうつってきた。その拍子にボートが大きくゆれたので、ビルはけんめいにかじにしがみついていた。ところが、ウィザースが岩があると思ってつき出した足の下には、岩はなかった。悪意にみちた彼の顔が、おどろきにかわったかと思うと、両手をあげて海中にしずんでいった。
ウィザースが飛びおりたところは、岩の間にできた落とし穴のような水たまりだった。引き潮のときでもその岩のすきまには海水がのこるのだが、今や満ち潮のためにいっそう深くなっていた。ジェインは、ふるえながら絶壁のところに立っていた。もしジェインたち三人が、もう一メートルほど先へ走っていったら、三人ともまっさかさまにその中に落ちていたんだと思うと、ぞっとなって寒けがした。
ウィザースが海面にうかびあがり、せきこんだり口から海水を吹き出したりしていた。それを見てバーニイは、頭の上にカップをふりかざしたまま、ためらった。ミスター・ヘイスティングスは海に落ちないで岩に飛びうつると、ウィザースの反対側から、バーニイの方に大またでかけるように近よってきた。まっ黒なまゆを一直線にし、あごを引いて歯をむき出したおそろしい顔つきだった。サイモンが、死にものぐるいで飛びついていったが、ミスター・ヘイスティングスの長い腕が、サイモンをはらいのけた。でもたおれながらサイモンが相手の足にしがみつくと、彼はぬれてころびやすい岩の上にどっとたおれた。
その長い体が、ウナギのように岩の上で動いた。と思うと次のしゅんかんには、ミスター・ヘイスティングスはふたたび立ちあがっていた。一方の大きな手でサイモンの腕をつかみ、すばやくうしろにまわしてしめあげた。サイモンは痛さに悲鳴をあげた。ボートの中のミス・ウィザースは、静かに笑っていた。はじめから彼女は少しも動いていなかった。ジェインはその笑い声を聞き、彼女をにくんだ。でもジェインは自分の頭の上にある顔の、悪のかたまりのような残酷な表情から、目をはなすことができずに立ちすくんでいた。ジェインが、今までに体験したことがないほどの、ぞっとするようなおそろしさを感じたのは、ミスター・ヘイスティングスの目の奥に、まるで怪物じみた光を見たからだった。
「それを下におくのだ。バーナバス」と、ミスター・ヘイスティングスはあえぎながら言った。
「古文書を下におくのだ。さもないと、サイモンの腕をおる」サイモンはもがいて、足でうしろをけとばしたけれど、次のしゅんかんには、息をのむようにして、ぐにゃっとなった。ミスター・ヘイスティングスが、サイモンの腕を乱暴にさらに高くしめあげたので、熱湯が血管を流れるような痛みが全身をつらぬいたのだ。波をこえて、ヨットから大声でさけぶ声が聞こえてきた。そのあらあらしいさけび声には、ただならぬひびきがあった。「マスター!」
そのとき同時に、ミスター・ヘイスティングスたちの帰りを待っているヨットの、低いエンジンの音のほかに、べつの音が聞こえてきた。それはハイピッチにうなる音で、しだいに高くなり、近づいてくる。とつぜん、岬の向こう側、トリウィシックの方から、大きな高速モーターボートが、白い水しぶきをあげて走ってくるのが見えた。それはすばらしい速力で近づいてきたかと思うと、ヨットの向こう側を大きくまわって、彼らのいる方にやってきた。高い水しぶきをとおして、そこに乗っているのがだれなのか、ひと目でわかった。ミスター・ヘイスティングスと同じくらい高くそびえ立つ、あの人だった。その頭には、あの白い髪がもじゃもじゃになって風になびいている。
救われたというように、ジェインが高いさけび声をあげた。「メリイおじさんだわ!」
ミスター・ヘイスティングスはうなり声を出すと、急にサイモンをはなした。そして必死の形相でバーニイの方に突進した。岩のふちで手をふっていたバーニイは、間一髪のところでそれに気づき、ミスター・ヘイスティングスの手の下をかいくぐってうしろに逃げた。
ビルが、ボートのうしろのモーターに飛びつくようにして、エンジンをふかした。それから、すべりながらも岩に飛びうつった。黒ずくめのそびえ立つような大男とならんで、ずんぐりしたビルは、少し体を前かがみにしたかっこうで、今にも飛びかかりそうに三人に立ちむかってきた。
メヌエットのおどりに出てくるダンサーのように、ふたりの男は危険な足もとをたしかめながら、そろりそろりと進んできた。三人は、ひるんで、絶壁の方へ後退していった。 高速モーターボートがものすごいしぶきをあげて、突進してきた。たちまちそれは岬のすぐそばまでやってきた。エンジンの音が太く低い調子にかわり、モーターボートはゆっくりとかたむきながら岩に接近してきた。一歩一歩近よってくるビルの肩ごしに、おびえた視線をやったジェインは、メリイおじさんがまっすぐに立っているのを見た。そしてその横には、青いセーターのペンハローさんがうずくまって操縦しているのだった。助かったという思いが、体中につきあげてきて、もうなにもかもわすれてジェインは、いきなり岩のふちの方へかけだしていった。ビルはめんくらってびっくりし、あわてて彼女をつかまえようとしたときは一瞬おそく、バランスをうしなってミスター・ヘイスティングスにぶつかってしまった。ミスター・ヘイスティングスはおこってビルをどなりつけたと思うと、これが最後とばかり、バーニイの方に手をのばした。バーニイはへばりつくように、絶壁にびたりと体をくっつけ、もうどうすることもできないで、ただ目を大きく見開いているだけだった。下にさげた腕は、いまや力なくだらりとしていた。
しかしサイモンは、最後の力をふりしぼるようにして、バーニイの手からカップと望遠鏡の長い筒をひったくると、ミスター・ヘイスティングスの手をたくみにかわして、波うちぎわの方に走った。
そしてサイモンは必死でさけんだ。「メリイおじさん!」メリイおじさんがふりむいたとき、サイモンは腕をあげて、力いっぱいカップをモーターボートの方に投げ、うまくとどくかどうか、苦しげに見つめていた。ハンドルをにぎっていたペンハローさんは、けんめいにモーターボートをあやつった。鐘のような形をしたカップは宙を飛びながら、太陽の光にきらりと金色にかがやいた。メリイおじさんが、一本の腕を外野手のように横につき出すと、カップが海面に向かって落ちかかるところをつかみ取った。
「気をつけろ!」と、バーニイがわめくように言った。カップに続いて古文書のケースを投げようと腕をうしろにふりあげながら、つかまるまいとして横に逃げるサイモンめがけて、ミスター・ヘイスティングスがくるりと体をひねって飛びかかろうとしたのだった。サイモンは投げた。だが、ケースが彼の手をはなれたとき、ぽたぽた水をたらしながらボートに立ちあがったミスター・ウィザースが、それをさまたげようとして、ぎこちないかっこうでオールをつき出した。
ジェインが、金切り声をあげた。
オールが、飛んでいるケースに当たった。ざまあみろというように、ウィザースがさけんだ。ところが彼の声は、のどの奥であっというおどろきの声にかわった。長くてかさのあるケースは、サイモンが投げた力のいきおいでオールに激突したものだから、空中で二つにわかれてしまったのだ。二つの部分は、ボートからはなれたところできりもみ状に落ちていった。サイモンたちが何度となく研究したあの古文書の破片が、いくつも宙に舞い、洞くつから持ってきた小さな鉛のケースが、石のようにザブンと音をたてて海中にしずんでいった。ほとんど同時に、二つになった望遠鏡のケースが、ばらばらになった巻き物といっしょに、海面に落ちたかと思うと、見えなくなってしまった。巻き物の切れっぱしは、海面にうかばなかった。まるでとけてしまったように、姿を消してしまった。ジェインのハンカチだけが海面にのこり、たよりなく波にゆれていた。
そのとき、動物のほえるような、人間のものとも思えぬ声が海の上にひびきわたり、みんなは体中の血がこおりついたようになって、立ちすくんだ。そのような長いほえ声を聞くのは、その日はこれで二度目だった。でも一度目の時とは、それは同じ物ではなかった。ミスター・ヘイスティングスが、犬のように頭をうしろに引いて、苦痛と、おそれと、はげしい怒りのこもった大きな悲鳴をあげたのだった。彼は二歩大またで岩のふちをとぶと、ケースがしずんでいった。さざ波の立っている海面をめがけて、ざんぶと飛びこんだ。
ミスター・ヘイスティングスの顔が消えていった海に、太陽の光がおどるのを、みんなはじっと見つめていた。エンジンの低い音と波の音意外に、なんの音も聞こえなかった。ヨットのところで動くものが見え、みんなはその方をながめた。ポリイ=ウィザースがデッキに引きあげられるのが見え、その下でボートが波にゆれていた。
ビルは子どものように口をぽかんと開けて立ったまま、夕日に照らされて、今や金色にかわっていく海をながめていた。するとウィザースが、ビル少年に向かってさけび、のこっているもう一そうのボートの上で、後部のエンジンのところによろよろとよっていった。ボートが岩をはなれようとするとき、ビルはそれに飛びのった。
サイモンとジェインとバーニイの三人は、なおも見つめながら立ちつくしていた。だれも動こうとせず、高速モーターボートに乗ろうともしなかった。モーターボートはよせる波に乗って、岩の方に引きよせられていた。ビルたちの乗ったボートが、おこったハチのようにうなりながら、動きだしたとき、その近くの海面から黒い頭がうきあがるのが見え、ぜいぜいとけんめいに息をすいこんでいる音が聞こえた。ボートはスピードをゆるめ、男と少年とが背の高い黒ずくめの人間を引っぱりあげた。その手にはなにも持ってはいなかった。
ボートの底に横たわったミスター・ヘイスティングスは、苦しそうに、はあはあ息をしていた。そして彼が顔をあげたとき、ぬれた髪が仮面のようにひたいにへばりついているのが見えた。彼はウィザースに手をのばして、体を起こさせた。はげしい怒りとにくしみにゆがんだ顔で、ミスター・ヘイスティングスは、メリイおじさんをふりかえった。
メリイおじさんは高速モーターボートの中で、一方の手を風よけの上におき、もう一方の手でカップを持って立っていた。夕日をうしろに受けて、白い髪が美しく光っていた。とても背が高く、まっすぐ立ったその姿は、一瞬メリイおじさんを、なんだか海と岩からつくられたもののように思わせた。メリイおじさんはミスター・ヘイスティングスの方に向かって、強い声でなにかさけんだ。その声は、絶壁に当たってはねかえった。なにを言ったのか、サイモンたちにはわからないことばだったけれど、そのことばの調子は、サイモンたちにとつぜん身ぶるいをおこさせた。
ボートの黒ずくめの男は、その声を聞くとちぢんでいくように見えた。そして人をおそれさせる彼の力は、たちまち消えうせてしまった。ぬれて肌にぴったりくっついた服を着たその姿は、とつぜんこっけいに見えてきて、いままでよりも小さく見えた。ヨットに向かってもどっていくボートの中で、三人の男たちは身動きもせず、なんの声もたてず、ただちぢこまっていた。
サイモンたちは急に元気づいた。「すごいや!」と、バーニイがささやいた。「一体なんていったの?」
「わからないな」
「わからなくてあたしはうれしいわ」と、ジェインはゆっくりと言った。
三人のかげがヨットにうつるのを、サイモンたちはながめていた。彼らが乗りうつってしまうとすぐに、エンジンの音が高くなり、レディー・メアリ号の白く細長い船体は海をすべりはじめた。うしろに、幅のひろいボートがたよりなげに引っぱられている。もう一そうのボートは、からっぽのまま取りのこされ、波のまにまにただよっていた。
ヨットは、へさきを湾の外にむけ、トリウィシック港を通りすぎ、沿岸をぬけていった。そしてついには、夕日に赤くそまった海に、その白い姿が小さく見えるだけになってしまった。サイモンたち三人が高速モーターボートに乗りうつって、もう一度見たときには、ヨットの姿はもうなかった。
エピローグ
博物館の長い回廊に立ちならぶ、ぴかぴかの柱の間をぬって、パチパチと拍手の音がこだましていった。顔を真っ赤にしたサイモンが、重々しい顔に微笑をうかべている学者や名士たちの間を通りぬけて、バーニイやジェインのいるところにもどってきた。人々はまた動きはじめ、サイモンたちのまわりは、おしゃべりの声に満たされた。
三人のそばに、明るい目の色をした若い男が、メモ帳を手にしてあらわれた。「なかなかりっぱなスピーチだったよ、サイモン。きみをこのように名前で呼んでも許してくれね。こちらがジェインにバーナバス?」
サイモンは相手の顔を見て目をぱちくりさせ、そしてうなずいた。
「ぼくは新聞協会の者なんだけれども」と、その若い男ははきはきした口調で言った。「ちょっと聞かせてください。館長はいくらの小切手をきみたちにプレゼントしたの?」
サイモンは手に持った封筒に目をやった。そして指を神経質そうに封筒のたれぶたに入れて、それを開いた。きれいに折られた小切手を取り出したサイモンは、しばらく見つめていたと思ったら、だまってジェインに手わたした。
ジェインは小切手を見て、つばをのみこんだ。「百ポンド《*》、って書いてあるわ」
「すごいや!」と、バーニイが言った。
「ほう、よかったね」と、若い男は陽気な声で言った。「おめでとう。それはそうと、そのお金できみたちどうするつもりかな?」
三人は、ぽかんとして相手を見つめた。
「わかりません」と、ようやくサイモンが言った。
「おやどうした、いってほしいな」と、若い男はしつようにたずねた。「なにか考えているはずだな。いつもいちばん買いたいと思っていたのは、どんなものかな?」
三人はこたえようがないというように、おたがいに顔を見あわせた。
「お若いの」と、メリイおじさんの太く低い声がそばでした。「もしとつぜん百ポンドおくられたら、きみはなにを買うね?」
その取材記者は、たじろいだように見えた。「そうですね……ええと……わたしは……」
「そらその通りだ」と、メリイおじさんは言った。「きみはわからない。この子らにもわからないんだよ。さようなら」
「ちょっともう一つだけ」と、若い男は、心臓強くも立ちさらず、メモ帳にすばやく速記で書きなぐりながら言った。「あれを発見したとき、きみたちはなにをしていたの?」
「聖杯ににせたカップのことだね、あれというのは」と、バーニイが言った。
「ああ、そうだね、きみたちはそう呼びたいわけだね?」と、若い男は軽い口調で言った。
バーニイは、むっとしたように相手をにらみつけた。
「ぼくたちはたまたま洞くつを探検していたんです」と、サイモンが急いで言った。「そしたら岩だなの上にあれを見つけたんです」
「だれかがあれをさがしていたという話はなかったの?」
「ばかげてる」と、メリイおじさんは断固とした口調で言った。「いいかな、きみ、いって館長に聞いてもらえないか、あそこにいるよ。彼がなにもかも知っておる。この三人は、今日はいろんなことがありすぎてつかれているのだ」
若い男は、口を開いてなにか言おうとしたけれど、メリイおじさんの顔を見ると、ふたたび口を閉ざした。あいそよく歯を見せて笑うと、彼は人々の中に消えていった。メリイおじさんは子どもたちを、柱のかげの静かなところに連れていった。
「さて」と、メリイおじさんは言った。「明日は、どの新聞にもおまえたちの写真が出るだろう。これから先も、有名な学者たちがたくさん、おまえたちの発見について本の中でふれることだろう。それにおまえたちは、世界でもっとも有名な博物館の一つから百ポンドをおくられた。おまえたちにはそれだけの資格があるといわねばなるまいな」
「メリイおじさん」と、サイモンが考えこみながら言った。「どのようにしてカップを見つけたかを人に話しても、なんにもならないことは、ぼくはわかっているんだ。でも、少なくともミスター・ヘイスティングスのことについてみんなに警告するのは、いいことじゃないかな? つまりぼくのいいたいのは、彼はポークおばさんやビルをそそのかして、悪くさせたんだし、これからだって、だれをそんなふうにさせるかわかったものじゃないのに、彼を止めるすべがないんだもの」
「彼はいってしまったのだ」と、メリイおじさんは言った。度の強いめがねをかけた、フクロウのような顔のふたりの男の人が通りかかって、メリイおじさんにていねいにえしゃくし、メリイおじさんはあいまいにうなずきかえした。
「それはわかっているよ、でもまた帰ってくるかもしれないんだ」
メリイおじさんは、人びとの頭ごしに、長い回廊をながめわたした。その顔に、また人をよせつけぬような表情がもどってきていた。そしてこう言うのだった。「彼が帰ってくるときには、ミスター・ヘイスティングスとしてではあるまい」
「彼の本当の名前は、ヘイスティングスではなかったの?」と、サイモンは不思議そうにたずねた。
「わしは、彼がいくつもちがう名前を使ってきたのを知っている」と、メリイおじさんは言った。
「いろんな場合におうじてな」
ジェインは一方の足を、なめらかな大理石の床の上であっちへ、またこっちへと動かしながら、「牧師があんなに悪いなんて、とてもおそろしいみたい」
「彼はほかの牧師さんたちやいろんな人たちを、善人だと思いこませてだましてきたにちがいないな」と、サイモンが言った。「ちょうど、トリウィシックの人たちみんなをだましていたようにさ」
「そうじゃない」と、メリイおじさんは言った。
サイモンはメリイおじさんの顔を見つめた。「でもあの人は……つまり、人々は日曜日ごとに、彼が教会で説教するのを聞いたにちがいないもの」
「いや、彼が日曜ごとに教会で説教するのを聞いたものはいない。それにわしは、あの男が今まで牧師であったこともないのではないかと思う」
こんどは三人ともがメリイおじさんの顔を見つめた。まるでわけがわからないという顔つきの三人を見て、メリイおじさんは口の両はしをひねるようにしてかすかにほほえんだ。「かんたんなことだ。暗示の力というやつだな。あのミスター・ヘイスティングスはトリウィシックの牧師でもなければ、まるで牧師に関係などない人間だった。わしはほんとうの牧師をかすかにおぼえておるが、その人は背が高く、体つきはかなりやせていて、年は七十歳くらいだった……スミスという名だ」
「でもミスター・ヘイスティングスは、あの牧師館に住んでいたんだよ」と、バーニイが言った。
「あれは、以前には牧師館だった。今は、だれでも借りたい人がいれば入れる……教区の評議会がもう何年も前に、スミスさんがひとりで住むには、かごの中の一粒の豆みたいなものであの家は大きすぎると考え、教会の反対側に小さな家を見つけてあげたのだ」
「そういえば、あたしが牧師さんに会いにいったとき」と、ジェインが思い出そうとしながら、ゆっくりと話しだした。「牧師さんがどこに住んでいるのか、とはあたしはだれにもきかなかった。ただ、教会の近くにいたお年寄りに、あれが牧師館ですか、と聞いたんだったわ。そしたらお年寄りは、そうだといったの……なんだかきげんの悪そうなおじいさんだったわ……それにメリイおじさん、ミスター・ヘイスティングスは、自分が牧師だといわなかったように思うの。でもあの人が、ホウズメラーさんがそこに前に住んでいたとかなんとかいうので、あの人が牧師さんだとあたしは思いこんでしまったんだわ。でも、あたしが思いちがいをしていることが、あの人にはわかっていたはずなんだわ」
「もちろんさ、なぜおまえがやってきたのかを知ると、彼はおまえの思いちがいをそのままにしておこうと考えたのだな。おまえがなにものかということは、彼にはちゃんとわかっていたんだ」
「ほんと?」
「彼が玄関を開けたときからな」
「まあっ」と、ジェインは言った。そのことを考えると、背中が寒くなった。「いやだわ」
「だからそのときから、彼が牧師だとおれたちは考えるようになったんだ」と、サイモンが言った。「それでおれたちがだれかに、たとえばペンハローさんに、彼のことをいったとき、みんなはおれたちが本物の牧師さんのことを話しているんだと思ったにちがいないんだ……でもメリイおじさんはそのことわかっていなかったの?」
メリイおじさんはくっくっと笑った。「わからなかった。わしもおまえたちが本物の牧師さんのことを話しているのだと思っていた。それでかなりの間――そうだな、事件のおわりごろまで――害など人にあたえないあのスミスさんのことを、ひどくうたがうはめになった」
ふいにバーニイが言った。「でも、もしメリイおじさんが前にミスター・ヘイスティングスとにらみあったことがあるんだったら、だれだろうとほかの人を、ミスター・ヘイスティングスとまちがえることはありえないはずだよね?」
「彼はかわるのだ」と、メリイおじさんはぼんやりしたような口調で言った。そしてまた考えにふけるように遠くを見つめた。「彼がどんなふうに見えるかは、そのときになってみるまでは、だれにもわからないのだ……」
メリイおじさんの声には、それ以上の質問を受けつけない、もうこれでおしまいだ、といったひびきがあった。三人がトリウィシックですごした日々に出くわした、あの得体の知れない敵のことについて、もっと知りたいと思って質問しようとしても、いつもそうなることだろう。これはメリイおじさんの秘密の世界にぞくすることだった。三人がその世界にあれほどかかわりあいを持ったとはいえ、今までもそうであったように、メリイおじさんは自分の秘密をこれからも守りつづけるだろうということが、三人にはわかっていた。
サイモンは、手の中の小切手を見て、「おれたちはカップを見つけた」と言った。
「それでだれも彼もが、そのことでいやになるくらいさわいでいるみたいだな。でも、カップだけではなんにもならないんだよね? あのコーンウォール人は書いていた。だれだろうとカップを見つけたものは、彼がのこしたことばを、手にいれることになるんだとね。それが、おれたちにはとうとう見ることができなかったあの第二の古文書に書いてあったんだ。それを読めば、カップになにが書いてあるのかも理解できるし、そのすべての秘密を知ることができたんだ。でもおれたちはもう永久にそれを知ることはないんだな。だって、古文書は二つとも海の底なんだ」
バーニイが暗い声で言った。「ぼくたち失敗したんだ、本当のところは」
メリイおじさんはだまっていた。三人はその顔を見あげた。集まっている人々のざわめきが聞こえる中で、メリイおじさんはそのそばの柱と同じくらい高く、静かに、立っているように見えた。
「失敗だったと?」と、メリイおじさんは言って、ほほえんだ。「そんなことはない。本当にそう思っているのかね? おまえたちは失敗しなかった。カップをさがしもとめることは、一つの戦いだったのだ。これまでおこなわれてきたどの戦いにもおとらず、重要な戦いだった。ヘイスティングスと名のっていたあの男の背後の勢力は、もう少しで勝ちをおさめるところだった。もしカップの秘密が彼らの手にわたっていたとすると、その結果は考えられないくらい大きな意味を持っていたのだ。しかしおまえたちのおかげで、彼らが必要としたかんじんの秘密は、今も安全にたもたれている。これまで、何百年にわたってそうだったように、おそらくこれから先も何百年もの間その秘密はぶじだろう。ぶじなんだ――消えてなくなってしまったんじゃないのだ、サイモン。最初の古文書、つまりおまえたちの地図の方は、海の中ですぐにばらばらになってしまったにちがいない。しかしあれは、ひとたびおまえたちを第二の古文書、そしてカップのところへみちびてしまった後は、だれにとってももう用はない。わしはの同類の学者たちを、いっそう興奮させたかもしれないがね」メリイおじさんはそう言って、まわりをながめやると、くっくっと笑った。「しかしそんなことは、問題じゃない。かんじんなのは、海の底にある第二の古文書が、ケースの中におさめられていて――もしそれが鉛でできているものなら海水におかされることもないだろうということだ。というわけで最後の秘密はぶじで、そしてかくされているわけだ。トリウィシック湾の底にじつにみごとにかくされたので、彼らは長いことかかってそれをさがし出そうとすることさえもできない。そんなことをしていればわれわれには見つけられるし、だから彼らをやめさせられることもできるからだ。彼らはチャンスをうしなってしまった」
「ぼくたちもそうだ」と、サイモンはにがにがしげに言った。あの時以来、心の中から消えたことのない光景を、サイモンはふたたび思い出していた。サイモンが必死の思いで投げた、大事な二つ古文書の入ったあのしんちゅうの望遠鏡ケースは、宙を飛んでいってきらりと光った。そして、あと数メートルでメリイおじさんの手に安全にとどくというところで、差しだされたオールにはねとばされ、二つに分解し、その中身は永久に海の中にしずんでしまったのだ。
「ちがうわ、あたしたちチャンスをうしなってしまったわけじゃないのよ」ふいにジェインが言った。ジェインもサイモンと同じしゅんかんのことを考えていた。一面に大理石を敷きつめた涼しい博物館から彼女の心はぬけ出して、興奮と焼けるような太陽に色どられたあのケメア岬にいるのだった。「あれがどこにあるか、あたしたちにはわかっているのよ。たった一つしかない手がかりになるもののそばに、あたしは立っていたの――岩の中のあの深い水たまりよ。あたしはそのふちのところにいたの。そして鉛のケースは、あたしのまん前に落ちたのよ。だからもしもどっていけば、どこをさがせはいいかあたしたちにはわかっているわけよ」
しばらく、メリイおじさんは本当にびっくりしたように見えた。「それは考えてもみなかった。すると、ほかの連中も同じことに気づいて――まっすぐその場所に出かけていき、もぐった古文書をさがし、だれにも見られないでいるうちに古文書を持って逃げさることもできるわけだな」
「ちがう、そんなことはできないわ」と、ジェインは、いきおいこんで顔をほてらせながら言った。「最高にうまくできているのよ、メリイおじさん。いいこと、まずあたしたちにあの水たまりがわかったのは、潮がいちばん引いているときにそこを通ったからなの。砂浜に向かってもどってくるときには、もうそこは海水でおおわれてしまっていたのよ。ミスター・ウィザースがそこに落ちこんだの。でもあの人はもともと深い水たまりだったところに落ちたんだとは知らないのよ。だから、またあのときと同じくらい潮が引いたときには、あたしたちはその水たまりをさがして、第二の古文書を見つけ出すことができるはずよ。でも敵の方はできないわ。だって、その水たまりのことはまるで知らないんだから」
「またもどっていける?」と、サイモンが熱心に言った。「ねえメリイおじさん、またもどっていい? そして、だれかにもぐってさがしてもらうんだ」
「たぶん、そのうちにな」と、メリイおじさんは言った。そのとき、メリイおじさんがなにかそれいじょう言おうとしてもできなかったくらい、まわりで話している人々のうちの何人かが、メリイおじさんの方にやってきた。「ああ、リオン教授! もしお時間がありましたら、テオドール=ライゼンシュタッツ博士をご紹介したいのですが――」
「わたしはあなたの学問には大いに敬服し学んでおりまして」と、とがったひげをはやした情熱的な小さい男の人がメリイおじさんに言い、握手をかわした。「メリマン=リオンのお名前はわたしの国でとても尊敬されています……」
「いこう」と、小さい声でサイモンが言った。頭のはげた人たちや、灰色のひげをはやした人たちが、おごそかな顔つきで首をふったりおしゃべりをしたりしているところをすりぬけて、三人は人びとの群れの外に出た。ぴかぴか光っている床のずっと向こうに、ぽつんとガラスの箱がおかれてあって、その中にあの聖杯ににせたカップが金の星のように入っているのが見えた。
バーニイは、まるでたましいをうばわれたように宙を見つめていた。
「目をさましなさい」と、ジェインが陽気な声で言った。
バーニイは、ゆっくりと言った。「あれは本当の名前なの?」
「だれの名前よ?」
「メリイおじさんのだよ――ほんとうにメリマンというの?」
「もちろんよ――だからそれをちぢめてメリイというのよ」
「知らなかった」と、バーニイは言った。「ぼくはいつも、メリイというのはニックネームだと思っていた。メリマン=リオンか……」
「おかしな名前だな?」と、サイモンは軽い調子で言って、「いこう、あのカップをもう一度見てみようぜ。ぼくたちのことをどう書いているか、また見たくなったんだ」
サイモンとジェインといっしょに、人びとの群れの外側をまわって歩いていった。でもバーニイは、もとの位置から動かなかった。「メリマン=リオン」と、バーニイはそっとつぶやいた。
「メリイ=リオン……マーリオン……マーリン……」
バーニイは、ほかの人より高く白い顔を出しているメリイおじさんの方に目をやった。メリイおじさんはほかの人がしゃべるときには、かすかに頭を下にかたむけて聞いていた。かどばった茶色い顔が、今までになく、古い、古い彫刻のように見え、けわしい鼻の上の二つの目は、深く落ちくぼんでかげになり、神秘的な感じをただよわせているのだった。
「ちがう」と、バーニイは大きな声で言い、身ぶるいした。
「そんなはずがない」(マーリンというのは、アーサー王伝説に出てくる魔法使い。アーサー王を助けて、ログレスという幸せの国をうちたてるためにはたらいたよい魔法使い)
サイモンとジェインの後を追っていきながら、バーニイはまだ信じられなくて、肩ごしにふりかえった。するとメリイおじさんは、知っているよというように、首をまわして一瞬まともに、バーニイの顔を人々の頭ごしに見つめた。そしてかすかにほほえむと、ふたたび目をそらした。
ぴかぴか光る石の床の大きな陳列室一面に、同じガラスのケースが列をなして向こうの方までずらりとならんでいる。ケースの中は、陶器、短剣、コイン、それから青銅や木のねじれたような奇妙な形をしたものなどが、ピンでとめられた標本のチョウのように、ひっそりとおさまっている。カップがおさまっているケースは、ほかのよりも背が高かった。大きな陳列室の中央の名誉ある位置におかれた。背の高いガラスの箱に、光っているカップ一つだけが入っているのだった。それは今は、みがかれて金色にかがやき、どっしりした黒い台座の上にのっていた。下にきれいな四角い銀の板がついていて、つぎのような文句が彫りこまれていた。
┌───────────────────────────────────┐
│ ケルト人のつくった金の杯で作者不明。六世紀の作品と思われる。 │
│サイモン=ドルウおよびジェインおよびバーニイにより、南コーンウォールの │
│トリウィシックにおいて発見され、寄贈された。 │
└───────────────────────────────────┘
そのカップをながめながら、三人はケースのまわりをまわった。曲線をなした、彫り物のあるその表面は、すみずみまできれいにみがかれていた。ケメア岬の下の洞くつの中で、何世紀もの間につもったよごれは取りのぞかれて、延べ金の地はだがあらわれ、彫り物の一つ一つの線がはっきりと見えた。その彫り物は、五つの部分にわかれているのが三人にはわかった。そのうちの四つは、戦っている男たちの絵だった。剣や槍をふりまわしていたり、楯のうしろにかがんでいたりする男たちは、よろいは着てなくて、ひざのところまでしかない奇妙な服を着ているのだった。かぶとをかぶっているけれど、それは首のうしろの方まで曲線をえがいてたれさがっていて、バーニイたちが今まで見たこともないような形をしていた。人物の絵の間に、つづれ織りの絵のように、文字のようなものがまじってびっしり彫りこまれていた。最後の一つの部分は、全部文字だけだった。三人があの古文書で見た、走り書きの黒い筆跡のように、間のつまった線で書かれてあった。でもこの金のカップにはある文字は、だれひとりとして理解できないことばであることを三人は知っていた。メリイおじさんをはじめ博物館の専門家たちも、それを解読することはできなかったのだ。
三人のうしろで、人々の群れから出てきたふたりの男が議論に熱中して、ガラスのケースをのぞきこんだ。
「……まったくめずらしい。もちろんここに刻まれた文句は、どれくらいの意義のあるものか評価するのはむずかしいがね。わたしはあきらかにルーン文字(古代北欧人がもちいた)だと思う――ローマの影響が支配的だった土地だけに、奇妙だが……」
「しかしきみ――」と、もうひとりの男が、大きなほがらかな声で言った。バーニイがその方を見ると、赤ら顔の男で、そばのめがねをかけた小さな男と対照的にとても大きな体をしていた。「古代北欧の要素を強調するということは、なんらかのサクソン人との関連を明らかに前提としている。ところがこれは、本質的にケルトふうの作品なんだ。もしなんなら、ローマ・ケルトふうといってもいい。しかしアーサー王伝説をうらづける証拠を考えてみたまえ――」
「アーサー王の?」と、最初の男は鼻にかかった不信の声で言った。「それについてはリオン教授の想像力ある推測もけっこうだが、わたしはもっと大きな証拠がなければ信じる気になれないね。ルーミスは、大きな疑問を持っているだろうね……しかしそれはともかくとして、じつにすばらしい発見だ、すばらしい……」
そしてふたりは、また、人の群れの中に入っていった。
「一体今の、どういう意味なの?」と、ジェインが言った。
「あの人はアーサー王のこと信じていないんだな」バーニイはふんがいして、さっきの小さな男の後をにらみつけるように目で追った。そのときほかのグループが、陳列ケースのところを通りかかって話す声が聞こえてきた。「今や、すべての学説は書きかえられなくてはなりませんな。アーサー王伝説に新しい光が投げかけられたわけです」その声はほかの人のように重々しい感じだったが、より若い声だった。そして、くっくっと笑ったと思うと、「あわれなあのバタースビーさん――スカンジナビア伝説との共通性を主張して得意げだったのに。まことの王――ケルト人のアーサーのネニウス以来、はじめてはっきりした証拠がここに出てきたわけですからな」
「ザ・タイムズがわたしにちょっとした記事を書けといってきましたよ」と、低音の深い声が言った。
「ほう、それでお書きになりました? 力作なんでしょう? ――″英国学界の全分野をゆるがせる発見″――といった」
「どういたしまして」と、低音の声の方が言った。「あれはうたがいようもなく本物です。またアーサー王が実在したということをしめす手がかりであることもうたがう余地はありません。しかしだからといって過大評価されてはいけないのです。あの最後の文字だけの部分が、ただどうもざんねんです」
「そうですね。ふしぎなことばです。暗号だとわたしは思います。きっとそうですよ。ふうがわりな古代英国文字で書かれていて――ルーン文字だと、のあバタースビーはいいはっていますが、もちろんそれはばかげていますよ――個人的にわたしは、かつてはあのことばを解読するかぎがあったのだと信じています。むろん、それはとうのむかしにうしなわれて、われわれにはついにその意味を知ることができない……」
話し声は遠ざかっていった。
「今のは、ましだな」と、サイモンが言った。
「あの人たちはみんな、カップのことを過去の遺物としてしか見ないみたい」と、ジェインが悲しそうに言った。「メリイおじさんはそのことをいったのね、あのカップの持つ本当の意味は、敵がそれを手に入れたときでないと人々にはわからないんだって。そしてそのときでは、おそすぎるんだって、そういってたでしょ」
「それで今や、敵はいつでもやってきて、好きなだけカップを見ることができるんだ」と、サイモンは言った。「でもあの古文書がなければ、カップをいくら見てもなんの意味もないんだ。さっきの人が話していたように、あの古文書はカップの文字の部分の暗号をとくかぎだったんだと思うな」
ジェインがため息をもらした。「あたしたちにとっても同じように、なんの意味もないのよね。そしてあたしたちはアーサー王についての信実を知ることはけっしてできないんだわ。古文書ではなんていってたかしら、アーサー王のこと――そう、ペンドラゴンね」
「そうなんだ、彼がなにものだったか、彼にどんなことが起こったのか、ぼくたちははっきり知ることはできないんだ」
「メリイおじさんが話していた、そして敵がほしがっていた、アーサー王の秘密がなんだったのか、あたしたちは知ることができないんだわ」
「あの古文書がいっていたもう一つの奇妙なこと――ペンドラゴンがふたたび地上に姿をあらわす日のことについても、ぼくたちは知ることができないんだ」
ふたりの話を聞きながらバーニイは、カップの光る表面に刻まれた不思議な文字を、もう一度ながめていた。それから頭を上げると、部屋のずっと向こうの方に立っている、大きな白髪の頭をもち、けわしく、はかり知れない神秘な顔をした、メリイおじさんの背の高い姿を見つめた。そしてバーニイは、ゆっくりと言った。
「ぼくたちにはわかるときが来ると思うよ、いつかね」
*百ポンド 本書がロンドンで刊行された1965年当時、イギリスの労働者の平均週間賃金は約20ポンド(平凡社「世界大百科事典」参照)だった。したがって100ポンドは労働者の1ヶ月の収入をかなり上回る金額。