フレンチ警部最大の事件
クロフツ/長谷川修二訳
目 次
一 殺人!
二 デューク・アンド・ピーボディ商会
三 糸口集め
四 行方不明
五 フレンチ 旅行に出ること
六 バルセロナのホテル
七 結婚式について
八 シルヴィアとハリントン
九 ピッツバーグのルート夫人
十 幾組かの毛布
一一 宝石の取引
一二 尻尾《しっぽ》のつかめないX夫人
一三 フレンチ夫人が気まぐれを思いつくこと
一四 悲劇
一五 セント・ジョンの森の家
一六 強い手がかり
一七 株の取引
一八 汽船イーノク号
一九 フレンチ 謎を提出すること
二十 結末
解説
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登場人物
ゲシン……ロンドンのダイヤモンド商社、デューク・アンド・ピーボディ商会の老支配人
デューク……デューク・アンド・ピーボディ商会社長
ヴァンデルケンプ……デューク・アンド・ピーボディ商会外交員
ルート夫人……米国の鉄鋼王の妻、オリンピック号でロンドンへ渡る
ウォード夫人……ルート夫人と同船していた英国夫人
X夫人……三千ポンドを詐取した謎の女
シシー・ウィンター嬢……十三年前に引退後、消息不明の女優
ヴェーン夫人……ロンドン郊外クルー荘に居を構えていた謎の女
シルヴィア・デューク……デューク氏の一人娘
ハリントン……シルヴィアの許婚者
フレンチ警部……ロンドン警視庁捜査課員
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一 殺人!
ロンドン旧市内のハットン・ガーデンを取りまく裏通りの景色は、一番いい時期でも、愉快とか爽快とかいうものではない。幅が狭く、見すぼらしくて、両側の建物というのが醜《みにく》くむさくるしい上に、それが町の煙と霧《きり》にすすけ、ペンキを塗りかえないもので、よごれ放題になっているから、われらの住む二十世紀文明の高揚に熱心な人が見れば、まず間違いなく失望するに違いない。
明るい太陽の出ている昼間ですら、そんなに陰気なのだから、これが十一月中旬の、ある侘《わび》しい夜の十時であったのだから、もっと陰気くさいものであった。湿った霧にかくれがちな、うるんだ月が、鎧戸《よろいど》をおろした家々の正面を青白く照らしていた。空気は冷え冷えしていたし、少し前まで降っていた小雨のために、歩道は黒く見えた。その雨もやんでいた。歩く人もまれだったし、よほどの用でもないかぎり、戸外に出る人もなかったのである。
この辺でも道幅が狭く、魅力に乏しいハックリー通りは、まったくのところ、ただ一つの人影が見えるほかは、猫の子の姿もなかった。文明の高度な、道徳的な面は、見えすぎてはいないものの、決して欠けていたわけではない。その人影は法律と秩序とを代表していた。つまり、巡回中の警官だったのである。
ジェームズ・アルコーン巡査は、ゆっくり歩いていた。歩きながら、機械的ではあるが馴れた目つきで、受け持ち区域の鎧戸がおりた窓や、事務所や倉庫の入り口を見る。元来あまり空想的な人間でなかったからいいようなものの、さもなかったら、この警官は任務の退屈と単調さを、今よりもっと激しく痛感したに違いない。みじめだよ、旧市内の夜の巡邏《じゅんら》というやつは、と思いながら、彼は辻に来て足をとめた。そして、四方に放射する小汚い、わびしい横町を代わるがわる一つずつ見通した。何という不景気な横町だろう! 何一つ起こらない! 腕を見せる機会ひとつ起こらない! 昼間は通りが賑やかだし、向こうから声はかけないにせよ、人間の姿も見えるから、そう悪くもないが、夜ときたら、眺めようにも人間はいないし、来る気遣いのない機会を当てもなく待つ以外に手はないのだから、まったくありがたくない仕事だ。彼はうんざりした!
しかし、当人は知らなかったが、腕を見せる機会が手近にあったのである。チャールズ通りを通り抜け、いよいよハットン・ガーデン区域に踏みこんだとたんに、突然、少し下った所にある扉が勢いよく開けられ、若い男が闇の中に駆け出してきた。
その扉が街灯の真下にあったので、アルコーンには青年の表情が恐怖と驚愕《きょうがく》に凍っているのが見てとれた。一瞬間ためらっていたが、警官の姿を見て、彼は急いで駆け寄った。
「おまわりさん!」と叫ぶ。「すぐ来てください。事件なんです!」
アルコーンは、憂欝もたちまち消え、急いで青年の方へ駆けつけた。
「何ですか?」彼は尋ねた。「何事です?」
「人殺しらしいんです」相手は叫んだ。「上の事務所です。来て見てください」
青年の出て来た扉は開いたままだったので、二人は急いで走り寄った。すぐ階段に続いていて、上には電気がついていた。青年は駆け上がって、最初の踊り場に接した扉の中に入った。続いてアルコーンが入ると、そこは事務所で、机が三、四脚ある。奥まった部屋に入る扉が向こうにあって、開いたままになっているのを、青年は指さした。
「あの中です」と教える。「社長の部屋です」
ここにも電気がついていて、アルコーンは中に入ると、悲劇の現場にいることがわかった。彼はしばし動かずに、あたりの状況に目をやった。
狭い部屋であったが、よく調和がとれていた。窓べりには古くさい型の、畳込み蓋のある机がある。革張りの客用の椅子が一脚、その近くにあり、その後ろにはギッシリつまった書棚がある。暖炉には残り火がまだ赤く光っていた。本や書類の置かれたテーブルが一脚、それから大型のミルナー金庫が一つ。この金庫の扉は二枚とも開いている。
アルコーンは機械的にこうした細部を心にとめたのだが、彼が注意力を集中したのは、そうしたものではなかった。金庫の前に男が倒れていた。前のめりに、何かを取り出そうとして屈《かが》んだとたんに崩れたかのような格好で、背を弓なりに曲げたままである。顔は隠れていて見えないが、その格好から見て、死んでいるのは疑いない。それから、死の原因もまた、あきらかであった。禿《は》げた後頭部の、残った白髪の縁《へり》のすぐ上に、傷が醜い口をあけていて、何か鈍くて重い兇器で殴られたらしい。
おや、と一声、アルコーンは進み出て、頬に手をふれた。
「冷たい」彼は叫んだ。「死んでから、かなりたっていますな。いつ発見したのです?」
「今しがたです」青年が答えた。「本を取りに入ると、そこに倒れていたんです。で、すぐ人を呼びに駆け出したんです」
警官はうなずいた。
「とにかく医者を呼ぶのが第一だ」彼はこう決めた。机の上に電話があったので、本署を呼び出し、すぐ誰かに医者を連れて来てくれるよう頼んだ。それから彼は相手に向き直った。
「ところで、一体どうしたというのですか? あなたはどなたですか。どうしてここに来たのですか?」
青年は興奮していたし、落ち着かない様子でもあったが、返事は要領をえていた。
「僕の名はオーチャードといいます。ウィリアム・オーチャードです。そして、この事務所に――ダイヤモンドを扱っているこのデューク・アンド・ピーボディ商会に勤めているんです。今しがたお話しした通り、忘れた本を取りに入って、発見したんです――ご覧の通りのありさまを」
「そして、あなたはどうしたのですか?」
「どうするって。そういう場合、誰でもするようなことをしましたよ。ゲシンさんが死んでいるかどうか、よく見たのですが、死んでいるのがわかると、死体にさわらず、人を呼びに駆け出したのです。最初に目についたのがあなたでした」
「ゲシンさん?」警官が鋭く繰り返した。「では、あなたはこの死人を知っておいでなのですね?」
「ええ。うちの支配人のゲシンさんです」
「金庫はどうなのです? 何かなくなっていませんか?」
「どうですか」青年は答えた。「ダイヤモンドがたくさん入れてあったはずですが、どのくらいの分量かは知りませんし、それに今どれだけあるか、まだ見てないのです」
「誰ならわかるのですか?」
「おそらくデュークさんだけしかわからないでしょう。ゲシンさんは死んでしまったし……。デュークさんは社長で、僕が会ったことのある唯一の出資者なんです」
アルコーン巡査は口をつぐんだ。次にどうしたらいいのかわからず、困っているように見えた。そこで、先例にしたがうことに決めて、いささか隅の折れた手帳をポケットからとり出し、短くなった鉛筆で、さきほどから集めた要点を記しはじめた。
「ゲシン、というのでしたな、死人の苗字は。それで名前は?」
「チャールズです」
「チャールズ・ゲシン、死亡」警官は繰り返したが、それは記入した通りを読んだのであろう。「なるほど。そして住所は?」
「フラムのモンクトン通り十二です」
「フラム――モンクトン――十二、なるほど。それからあなたの姓名はウィリアム・オーチャードでしたな?」
こうした冗長な問答がゆっくり続いた。二人はいい対照であった。書き取る努力のため息づかいは荒くなっているものの、アルコーンは冷静で実際的で、上司に見せる報告書に遺漏《いろう》のないように心をくばっている。反対に、彼に伝える側は、抑えた興奮に震えながら、床《ゆか》の上の沈黙した動かない肉体が気になってたまらない。気の毒なゲシン老人! 親切な老人の典型だった! あんな不格好なさまで放置しておくとはひどいではないか。負傷した頭をハンケチで覆《おお》うくらいの敬意も見せないなんて。しかし、この件はもう彼の手を離れていた。警察は自分の流儀でやるだろうし、それに対して、オーチャードは干渉できないのだ。
質問と返事と、それから筆記を繰り返すうちに十分ほど経った。階段に人の声と足音がして、四人の男が部屋に入って来た。
「どうしたんだ、アルコーン?」先頭の、太った、顔をきれいに剃った男が叫んだ。見るからに上役らしい。彼は自分の部下が事務員のオーチャードに言ったのと同じことを言った。扉のすぐ内側で足をとめ、鋭い目つきで部屋を見渡した。彼の視線は警官から死体へ移り、扉の開いた金庫へ行き、うさん臭《くさ》そうに事務員を眺め、またアルコーンへと戻った。
警官は気をつけの姿勢でしゃちこばり、法廷で正式の証拠事実を読み上げるかのように、鈍重な、潤《うるお》いのない口調で答えた。
「自分は巡回中でありましたが、十時十五分ごろ、チャールズ通りからハットン・ガーデンに曲がりましたところ、この青年が」ここで彼はオーチャードの方を身ぶりでさした。「この家から駆けだしてくるのを認めました。こちらに異変のある由《よし》を申しましたので、自分は様子を見にここへまいりましたところ、ご覧の通りの死体があったのであります。何にも手は触れておりませんが、報告いたします資料は集めておきました」彼は手帳を持ち上げた。
新来者はうなずきながら、連れの一人に向き直った。いかにも医者でございといった風体の、背の高い男である。
「死亡しているのが確認できたら、しばらくそのままにしておきましょう。おそらく本庁の扱う事件らしいし、そうならそうで、派遣されて来る相手にこのまま引き渡すとして」
医者は部屋を横切って、死体の脇にかがんだ。
「死んでいることはたしかです」彼は宣言した。「それも、あまり時間が経ってませんな。身体をひっくり返すと、もっと詳しくお話できますが。でも、何ならこのままにしておきますが」
「いや、今はそのままにしておいてください、差しつかえないなら。ところで、アルコーン、そのほかに何かわかったことは?」
警官が上司に報告するのは数秒間で充分であった。上役は医者の方に向き直った。
「ただの殺人じゃないですよ、ジョーダン博士、この調子じゃ。あの金庫が事件の鍵ですな。ありがたい、本庁扱いだ。これから電話しますから、三十分もすれば誰か来るでしょう。すまんですが、博士、待っていてください」彼はオーチャードの方を向いた。「あなたも待っていてもらわなければなりませんが、本庁の警部は長くは待たせないでしょう。ところで、この老人の家族は? 細君はいたのですか?」
「はア、ですが奥さんは病人で、寝たっきりです。娘さんが二人います。一人は家にいて家事を見ていて、もう一人は結婚して、市内のどこかに住んでいますが」
「伝言をしなければいけない。君、行ってくれ、カースン」彼は四人組のうちの、制服姿の二人の警官の一人に言った。「ばあさまには話すんじゃないよ。娘さんがいなかったら、帰ってくるまで待つのだ。それから、頼まれたら用を足してあげることだ。姉さんを呼びたいというなら、君が行く。ジャクスン、君は表の戸口に行って、本庁の人が来たら案内してくれ。アルコーン、君はここに残ってくれ」こういうふうに配分を終わると、彼は本庁に電話をかけて、伝言し、それからもう一度若い事務員に向かった。
「オーチャードさん、何か金庫から失くなったにしても、たった一人の現業重役デューク氏のほかは誰にもわからない、と言われましたな。デューク氏にすぐここに来てもらわなければならん。自宅に電話はありますか?」
「ジェラド局一四一七Bです」即座にオーチャードが答えた。青年の興奮もいささか鎮《しず》まった模様で、警察の活躍ぶりを興味ありげに眺め、自信にみちた有能な仕事ぶりに感心していた。
警官はふたたび机の上の受話器を取り上げ、先方を呼び出した。
「デュークさんはご在宅ですか?……こちらは警察の者だと伝えてください」短い沈黙の後で、彼は言葉を続けた。「デュークさんですか?……私はハットン・ガーデンのあなたの事務所からかけています。残念ですが、ここで悲劇が起こりました。御社の支配人のゲシンさんが亡くなられたのです……はい。あなたの私室で倒れておられるのですが、状況から見ますに殺人であることは歴然としています。金庫は開いたままで、そして――はい、そうらしいですが――むろん、私は内容については存じませんが……いえ、でもそれだけではわからないのです。……で、至急こちらにおいで願いたいと思いまして。スコットランド・ヤードにも電話しまして、一人来てもらうよう手配してあります。……承知しました。お待ちいたしております」彼は受話器を元に戻し、一同の方に向き直った。
「デューク氏はすぐ見えるそうだ。われわれがここに立っていても仕方がない。この部屋から出て、椅子にでもかけようではないですか」
事務室は寒かった。かなり前に火は消えてしまったに違いなかったが、署長があっちの部屋の調度には一切手をつけてはいけないと言ったので、そこに腰をおろして待つことにした。四人のうちで、署長だけが気楽そうで得意そうであった。オーチャードは見るからに神経にこたえているらしく、心配げで、たえずそわそわしているし、アルコーン巡査はこういう場に馴れない模様で、椅子の端っこに固くなってかけ、正面を見つめていた。医者の方は明らかに退屈していて、家に帰りたがっているように見えた。ともすれば会話が途絶えそうになるので、署長は絶やすまいとして、思いついたように話の種を持ち出したが、階段に足音が聞こえた時には一同はホッとした模様で、誰一人としてこれを残念に思った者はいなかった。
入って来た四人のうち、黒い革カバンをさげた二人は、明らかに私服の警察官であった。三番目はツイードの服を着た頑丈な体格の男で、中背というよりは少々背が低く、きれいにひげを剃りあげた気さくな顔つきで、黒っぽい青眼は、鋭い半面、新鮮な冗談でも秘めているかのようにいつも輝いている。態度はのんびりしていて、鷹揚《おうよう》で、いかにも食欲旺盛に見えた。またその後の喫煙室の会話からも、相当な活躍ぶりを示しそうなタイプであることがわかった。
「ああ、署長、いかがですか」彼は愛想よく手をさしのべながら大きな声を出した。「しばらく会いませんでしたな。あのライムハウスの理髪店の事件以来ですね。あれは厭な事件でしたねえ。ところで、何かまた貧乏人にせっかくの休息を与えまいというたくらみがあるようですな?」
署長は、相手の呑気な馴れ馴れしさを、この場にふさわしくないと感じているらしかった。
「こんばんは、警部」彼は形式ばった素っ気ない調子で答えた。「ジョーダン博士をご存じですな? 本庁の捜査課のフレンチ警部です。それからこちらは、この会社の事務員のオーチャードさんで、この事件の発見者です」
フレンチ警部は愛想よく挨拶した。本庁では、彼が態度の穏やかさに重点を置いているのをからかって、「猫撫《ねこな》でジョー」などと陰口をきいていたものである。「かねてうかがっていますが、博士、お目にかかるのは始めてでしたな。どうぞよろしく、オーチャードさん」椅子に腰を据えると、彼は続けた。「署長、この辺で、一つ、事件について教えてもらえますかな」
これまでにわかった事実が、ただちに繰り返された。フレンチは注意深く耳を傾け、警官の手帳も含めて彼の勤勉さをほめた。「では」彼は一同に微笑みかけた。「デューク氏が現われるまでに、部屋の中を一通り見るとしましょうかな」
一同は奥の部屋に移った。フレンチ警部は両手をポケットに入れたまま、その場を眺めながら、しばらく身動きもしなかった。
「何にも手は触れていないでしょうな、むろん?」彼は尋ねた。
「触れていません。二人の話から察しますに、オーチャードさんもアルコーン巡査も大変慎重だった様子でして」
「けっこう。では、仕事を進められる。カメラの仕度をしてください、ジャイルズ、いつも通りに撮影を頼みます。諸君、撮影が終わるまで、われわれは外の部屋で待っていた方がいいでしょう。長い時間はかかるまいから」
フレンチは巧みに仲間を外へ送り出してしまった。そのくせ自分はあとに続こうともしないで、部屋の中をあちこちと歩きまわり、手こそ触れないが調度のたぐいをしきりに調べるだった。一、二分でカメラの仕度がととのい、死体やら金庫やら、両方の部屋や、階段、廊下に到るまで、フラッシュがたかれ何枚も写真が撮られた。凶事の伝わるのは驚くほど早いもので、犯罪のニュースはもう洩《も》れたと見えて、物見高い野次馬の一団が、口を開けたまま、扉の付近にかたまっていた。
カメラが片づけられるとすぐに、新しい人物が到着して、捜査は中断された。急いで階段を登る足音が聞こえて、背の高い、痩せた、身なりのいい老紳士が部屋に入って来た。明らかに六十の坂を越えてはいるが、まだ美男の面影を残していて、整った目鼻立ちに、髪は雪のように白く、姿勢も立派であった。普段なら、定めし≪威あって猛《たけ》からず≫といった姿なのであろうが、今は、顔の表情は恐怖と困惑にゆがみ、セカセカした動きも心中の憂慮を示している。見知らぬ顔がたくさん見えたので、彼はとまどっていた。警部が進み出た。
「デュークさんですな? 私は新スコットランド・ヤードの捜査課のフレンチ警部です。遺憾ながら、先ほどお話したニュースを確認しなければならないのですが、御社の支配人のゲシン氏が殺害されました。また、金庫も荒らされている模様です」
老紳士の胸中は察するまでもなかったが、彼はよく制してもの静かに語り始めた。
「たいへんなニュースです、警部。気の毒に、ゲシン老人が死んだとは、私は信じられないのです。お電話をいただいて、すぐ家を出ました。詳しくお話しください。事件はどこで起こったのですか?」
フレンチが開いている扉を指さした。
「あちらです。あなたの私室の中です。まだ発見された時のままになっています」
デューク氏は前進したが、死体を見たとたんに、足をとめ、低い恐怖の叫び声をあげた。
「ああ、気の毒に!」彼は叫んだ。「あんな格好でたおれていようとは。恐ろしい! 聞いてください、警部、私は本当の親友を失ってしまったのです。忠実で、信用できて、頼りになる親友を。彼を起こしてやるわけにはいかないのですか? あんな格好でいるのを見るのはたまりません」彼の視線が金庫の方へ移った。「それから金庫が! 大変です、警部! 何かなくなっているのですか? すぐおっしゃってください! あの忠実な老人があすこにたおれているのに、こんなことを言うのは情がないようですが、私もただの人間ですので」
「まだ金庫に手はつけていませんが、すぐ調べましょう」警部は答えた。「よほど入っていたのですか?」
「約三万三千ポンドほどの値打ちのダイヤモンドが、下の引き出しに入っていました。ほかに札で千ポンドほど」
相手はうなった。「死体を動かしてください。調べてみます」
フレンチの驚きは口笛の形になって外へ洩れた。そして彼は部下に言った。
「そっちの机の上の物をどけてくれたまえ。そして死体をその上に移動するのだ」こう命令してから、彼は医者の方へ向けてつけ加えた。「一つ今、検死をしてもらえますか?」
遺骸は丁重にかつぎ上げられ、部屋から運び出された。デューク氏はもどかしそうに金庫の方へ歩み寄ったが、警部が彼を押しとどめた。
「少しお待ちください、すみませんが。この上にまだご辛抱願うのは恐縮なのですが、金庫に手をおつけになる前に、指紋の検査をしなければならないのです。それが必要なわけは、おわかりくださるでしょうな?」
「こんなことをした悪漢どもの逮捕に役立つのでしたら、私は一晩じゅうでも待ちます」老紳士はむつかしい声で答えた。「どうぞご随意になさってください。私は我慢できますから」
それならば、とフレンチ警部は、部下の運んで来たケースの一つを持って来て、滑石粉と油煙を入れた小箱をとり出し、金庫の滑《なめ》らかな部分に振りかけ始めた。黒い部分には白い粉を使い、またその反対の使い方もするのである。余分な粉を吹きとばすと、彼は勝ちほこったように幾多の指紋を指さしながら、皮膚から出た湿気が付着している箇所からは粉が落ちないでくっついてしまうだと説明した。指紋の大部分はボヤけていて役に立たなかったが、少数のあるものは明瞭に、親指やほかの指の小さな渦巻きや溝《みぞ》や波まで見せていた。
「もちろん」フレンチは続けた。「こうしたものは、あるいは全部役に立たないかもしれません。この金庫を開ける権利のある人々の指紋かもしれません――たとえばあなたの指紋ですね。しかし、万一、それが泥棒の――泥棒がいたとしたらば――指紋でしたなら、その重要性は無限であるはずです。では、いいですか、指紋に全然手を触れないようにして、引き出しを開けて差し上げますから」
デューク氏は明らかに忍耐の限界に来ていて、絶えずそわそわしていて、手の指を握りしめたり開いたりして、極度の焦《あせ》りと不安の徴候を見せていた。引き出しが開くと、彼はつと前に進み、片手を中につっこんだ。
「ない!」彼はしわがれ声で叫んだ。「みんな失くなっている! 三万三千ポンドの石が! ああ神様! これでは破産だ」彼は両手で顔をおさえ、途切れがちに言葉を続けた。「私は心配していたのです。もちろん、お電話があった時、ダイヤモンドに違いないと思いました。しかし私はそれに直面する勇気を振るい起こそうと努めていたのです。私は自分はどうでもかまわない。娘なのです。娘が窮乏にさらされるかと思うと! だが、金を失っただけの私がこんなことを言うのはよろしくないことです。気の毒にゲシンは命を落としているです。私にかまわないでください、警部。続けてください。今、私が一番ききたいのは殺人犯と泥棒の逮捕なのです。それについて私にお手伝いができることがありましたら、何でもお申しつけください」
彼は立ち上がった。少し猫背で、顔はやつれてはいるが、心配の絶頂にあっても取り乱してはいない。フレンチは持ち前の、人好きのする親切なやり方で、相手を安心させようとした。
「いえ、そうがっかりなさるには及びませんよ」彼は忠告した。「ダイヤモンドは処分するのがたやすい品ではありませんし、われわれはその紛失をすぐに発見したのですから。泥棒が人手に渡す前に、われわれはあらゆるルートを見張りますよ。特別に運が悪くない限り、取り戻せますよ。ところで、保険はかけていなかったのですか?」
「一部分だけです。約一万九千ポンドほどのものにはかけてありました。残りにかけなかったのは、呪《のろ》うべき私の失策でした。ゲシンが私に忠告してくれたのでしたが、私は今まで何一つ盗まれたことがありませんでしたし、また、その金を倹約したかったのです。ご存じかと思いますが、われわれの商売は戦争以来むつかしくなりまして、利益の方も以前とは打って変わった状態です。どんな小額でも響きますので、経済的にやらなければならなかったのです」
「最悪の場合、では、一万四千ポンドの損をなさるわけですな」
「保険会社が全額払ってくれますなら。それと別に札《さつ》で千ポンドで全部です。しかし、警部、それはあまりにも多額です。私の負担しなければならない損害を払えば、私は無一文になってしまうのです」彼は意気|阻喪《そそう》した様子で、力なく頭《かぶり》を振った。「しかし、今は私の事情などはお構いにならないでください。お願いですから。手遅れにならないうちに犯人をお探しになってください」
「ごもっともです。では、あちらで三、四分腰かけていてくださいませんか。その間にほかの仕事を片づけます。その後で、もう少しうかがいたい点もありますので」
フレンチが事務室に行ったあと、老紳士はグッタリと椅子にかけた。ゲシンの家族に悲劇の知らせを伝えに行った巡査が、今しがた帰って来た。フレンチは聞きたそうな顔つきで彼を見た。
「くださった所番地を訪ねてまいりました」彼は報告した。「ゲシン嬢がおられましたので、事件を話しました。たいそう驚かれまして、自分に向かって、バタシーのホーキンス通り、ディーリ・テレス十二番地の姉さんと姉|婿《むこ》に伝言を頼めないかと言われました。自分は、その二人を呼んで来てあげようと言いました。姉婿のギャメッジという人は毛皮商の外交をやっているので、リーズに出かけて留守でしたが、ギャメッジ夫人は在宅でしたので、自分はお連れいたしました。病弱のゲシン夫人は何が起きたのか知りたがっていた様子で、ゲシン嬢が事情を話しますと、発作を起こされました。お医者を呼ぶのを頼まれましたので、自分が行きました、二人の娘さんのお話では、母親につき添わなければならないから、こちらには来られないということでした」
「その方がいい」フレンチはこう言いながら、ギャメッジ夫妻の名前と住所を手帳に書きこむと、医者の方を向いた。
「どうです、博士」彼は人好きのする声で言った。「どんな状態です?」
医者は死体の上にかがみこんでいたが、まっすぐに立ち上がった。
「ここでできる限りのことは終えました」彼は答えた。「頭部の殴打《おうだ》によって即死した点には何の疑いもないと思います。頭骸骨に骨折がありますから、何か重い鈍器を使ったのでしょう。老人が前かがみになって、金庫に何か出し入れでもしているところを、うしろから殴ったものと思われます。もっともそれはおそらくあなたの領分なのでしょうが」
「そのヒントだけでもありがたいですよ。ところで、諸君、今夜われわれにできるところは、まずこのくらいだろうと思う。あなたの部下の方々で死体の運搬ができますかな、署長? 私はもう少し残って、距離など計っておきたいので。検死法廷の開く日を、明日にでも教えてください。オーチャードさん、あなたも少し残ってもらえませんか。一つ二つうかがいたいことがあるのです」
署長が部下の一人に取りにやらせた担架が来たので、遺骸をそれにのせて、待たせてあったタクシーへゆっくりかつぎ降ろした。挨拶が交わされ、地方警察の連中は帰って行った。後にはフレンチ警部とデューク氏とオーチャードが残り、それから本庁から来た二人の私服が事務所全体の番をするためにふみとどまった。
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二 デューク・アンド・ピーボディ商会
フレンチ警部が事務員のオーチャードを連れて奥の部屋に入ってみると、デューク氏はまったく腑《ふ》に落ちないといった面持ちで床の上を歩きまわっていた。
「ねえ、警部、一つわからないことがあるのです」彼は叫んだ。「金庫の扉の裏をちょっと見てみたのですが、扉は鍵で開けてあるのです。最初、私は破ったか、こじ開けたか、錠前に細工でもしたのだと思っていたのです。ところが、鍵で開けてあるのですよ」
「はア、私もそれには気がついておりましたが」フレンチ警部は答えた。「ですが、お話がのみこめませんね。それがどう不思議だとおっしゃるのですか?」
「つまり、鍵ですよ、もちろん。私が確実に知っていることですが、この鍵は二つしかないはずなのです。一つは私が鍵輪にはめて、輪ごとベルトに鎖でつけていまして、昼も夜も離したことがないのです。ほれ、この通り。もう一つは取引先の銀行に預けてありまして、その方はまず誰も手をふれることはできないのです。すると、現に今、あの錠前にささっている鍵は、泥棒がどこで手に入れたのでしょう」
「それはわれわれが調べなければならない事がらの一つですな」フレンチが答えた。「あなたはおそらく、不思議とお考えでしょうが、そうした点は、最初はいかにも事件の謎を深めるように見えるのですが、往々にしてそれが姿を変えた吉報であることがわかるのです。それは攻撃点をもう一つ供給することになりますし、しばしば捜査の範囲を狭《せば》めてくれるのです。あなたはまだその鍵に手をお触れになっていないでしょうな?」
「はア。あなたが指紋についておっしゃったことを思い出しましたので」
「結構です。さて、皆さん、どうぞお掛けになってください。二、三の質問をしたいと思いますから。まずあなたからお願いしましょう、オーチャードさん。あなたのお名前はわかっていますし、お住まいはブルームスベリ広場でしたね。話してください。それはご自宅なのですか」
青年はためらう様子もなくその質問に答えたが、まともに顔を見ながら話した点と、まったく包み隠そうというところのない点をフレンチは認めて、大いに気に入った。ブルームスベリ広場の住居は下宿屋らしく、この事務員の本宅はソマセット郡になっている。その日の午後、事務所を五時半ごろに出たが、ゲシン氏はその時はすぐ後から帰りそうな模様であった。いつも最後に出るのはゲシン氏に決まっていた。その日は彼の態度に変わったところは見られなかったが、オーチャードはこの二、三週間、彼が何となく機嫌が悪く憂欝そうなのに気がついていた。オーチャードは事務所を出るとリヴァプール通りに行って、イルフォード行きの五時五十二分に乗った。そこで、フェンチャード通りの回漕店に勤めている友人のフォレストという男と夕食をすませ、九時半ごろ出て、十時少し前に町へ帰って来た。雨はもうやんでいたし、いつもは思うように運動もできないので、駅から下宿まで歩いて帰ろうと決めた。ハットン・ガーデンは少しまわり道になるだけであったが、近づくにしたがって、昼食時に図書館で借りかえて来た本を机の中に忘れて来たのを思い出した。寝る前に少し読むつもりで、事務所に寄って、取ってくることにした。彼はそういう経緯で、前に説明した通り、ゲシン氏の死体を発見したのである。往来に面している扉は閉まっていたので、彼は鍵を使って開けた。踊り場と外の事務室の境にある扉も、デューク氏の部屋の扉も、両方とも開けっぱなしになっていた。電気は方々つけっぱなしだったが、もっとも、外の事務室は中央の電灯だけがついていて、卓上のは全部消してあった。どっちの事務室にも、誰もいる気配はなかった。
フレンチは明確な陳述をほめ、別れを告げて、青年を帰した。だが、彼が部屋から出たとたんに、部下の一人に耳うちをした。相手はすぐうなずいて、自分も出て行った。フレンチはデューク氏に向き直った。
「なかなか正直そうな青年ですな」彼は感想を述べた。「どう思っていらっしゃいますか?」
「正直そのものです」重役ははっきり言った。「私の所へ来ましてから四年になりますが、いつも良心的で、よくやってくれています。実際のところ、私は部下運がよかったのです。ほかの連中にもまったく同じことが言えると私は思っています」
「それは結構でした、デュークさん。では今度はあなたの会社とほかの従業員についてお話し願いましょうか」
デューク氏はまだひどく興奮していたが、感情を抑えようと努めていて、静かな口調で答えた。
「商売は大規模なものではありませんで、近ごろは事実上、私一人が管理しています。ピーボディは私ほど年を取ってはいないのですが、健康を害していまして、いわば働けなくなっているのです。事務所にもめったに顔を出しませんし、仕事は何一つしていません。平取締役のシナモンドは今は東洋を旅行していますが、もう出かけてから何ヵ月にもなっています。われわれの営業は一般のダイヤモンド商の商売と同じですが、アムステルダムに小さい支店を持っています。実のところ、私はロンドンとアムステルダムとに、半々の割で暮らしているのです。事務所は今ご覧になった二部屋だけです。外の事務室にいる従業員は、今では少なくなりましたが、五人います。支配人で私の腹心の番頭の、先刻殺された気の毒な男と、重役候補になっているハリントンという若い男と、オーチャードと、タイピストの女の子と、給仕です。そのほかに、嘱託《しょくたく》として一人、ヴァンデルケンプという名のオランダ人の外交員を雇っています。この男は販売などを受け持っていまして、出張していない時にはアムステルダム支店に駐在しています」
フレンチ警部はデューク氏が口にした従業員の一人一人に関するこうした話をみんな書き取った。
「ところで、このゲシン氏ですが」彼は話を戻した。「彼はあなたの所に二十年以上いる上に、あなたは全幅の信頼をよせていらしたのですが、一つうかがわせていただきたいのです。あなたのお目違いというようなことはなかったのですか? 言葉をかえますと、彼自身があなたのダイヤを狙《ねら》っていたなどということはありませんか?」
デューク氏は決定的に頭を振った。
「そんなことはなかったと、私は確信をもっています」彼は心をこめて言い放ったが、何か憤慨したような気持が態度に出ていた。「私はむしろ、自分の息子の方を先に責めるでしょう、もし息子がいましたらの話ですが。いいえ、命を賭けて申し上げますが、ゲシンは盗みを働くような人間ではありません」
「そううかがってたいへん嬉しいです、デュークさん」フレンチ警部は穏やかに答えた。「では、御社の従業員は全部除去するとしまして、誰かほかに怪しんでおられる人でもありますか」
「一人すらないのです!」デューク氏はこの点も同じく強調的であった。「一人すらないのです! そんなことをする者は一人も想像できません。できれば嬉しいのですが」
警部はためらった。
「もちろん、あなたが誰かの名をお挙げになっても、その人に対する私の意見は、全然偏見を受けないことがおわかりですね。私が調査する必要が起こるというだけなのです。人に迷惑をかけるなどというふうにお考えにならないでください」
デューク氏は微笑したが、態度は変えない。「ご心配には及びません。少しでも怪しめば喜んでお話しいたしますが、心当たりがないのです」
「故人を最後にお見かけになったのは、いつなのですか?」
「今日の四時半ごろです。私はその時刻に、いつもよりは約一時間早く、事務所を出ました。五時十五分前に、弁護士でリンコンス・インに住んでいるピーターズ氏と仕事の話で会う約束があったものでして」
「そして事務所にはお戻りにならなかったのですな?」
「はい。ピーターズ氏と半時間ほど話しこみましたが、用件が終わらなくて、今夜のうちに片づけたいと相手が言うものですから、ガウア通りの私のクラブで一緒に食事をすることに決めたのです」
「そして、ゲシン氏の態度に何も変わったところをお認めにならなかったのですな?」
「今日は特に変わった点はありませんでした。まったく普段と同じ様子でした」
「≪今日は≫変わった点がなかった、とおっしゃるのはどういう意味なのですか?」
「これまで二、三週間、何か頭を悩ますことでもあるようで、少し憂欝な様子だったのです。始めて気がつきました時、私は何か悩みでもあるのかと尋ねましたが、家庭の問題について何やら小声で言いました。細君の具合がよくないと――長|患《わずら》いをしているのです。あまり話したくない様子でしたので、私もしいて問いつめませんでした。しかし、この二週間に較べて、今日の午後は別に悩みがひどい様子も見えませんでした」
「なるほど。ところで、彼は何の用があってまた事務所に戻って来たのでしょう」
デューク氏は当惑した身振りをしてみせた。
「見当もつかないのです」彼は断言した。「何の用もなかったのです! 少なくとも、私の知っていた、ないしは想像できる用事はありませんでした。会社は特に忙しくもありませんでしたし、私の考えられる範囲では、彼の仕事は少しも溜《た》まっていなかったのです」
「四時半から閉店時間の間に、郵便の配達はありましたか?」
「ありました。それから、むろん、電報が来たり、来客があったり、書状が届けられたりしたかもしれません。しかし、すぐ扱わなければならないような重要なことが起こったとしましても、ゲシンなら私に相談せずに何かをするはずがないのです。ただ私の所に電話を一本かければすむのですから」
「では、あなたのいらっしゃる場所を知っていたのですね?」
「いいえ。ですが私の家に電話をかければよかったのです。家の者は私の居る所を知っていました。クラブで食事をすることに決めました時、そう伝えるために私は家に電話をしておきましたから」
「ですが、ずっとクラブにおられたのですか? 根ほり葉ほりで恐縮ですが、彼があなたとお話ししようと試みなかった点を確かめるのが重要だと思いますで」
「おっしゃる点はわかります。そうです、私はあすこでピーターズ氏と、ほとんど九時三十分近くまでしゃべっていました。それから一日じゅう仕事のことばかり考えていて疲労を感じましたので、少し運動をしたら気も晴れるだろうと思いまして、家まで歩いて帰りました。家に着いたのは十時一分か二分過ぎでした」
「それではっきりしました。しかしやはり、お宅にお帰りになったら、どこからも電話がなかったかをお確かめになった方がいいですが」
「そうしましょう。しかし、私のところの小間使いは、そうした点ではたいへん確かですから、もしかかったのでしたら必ず話してくれたと思うのです」
フレンチ警部は考えこんだまま何秒か坐っていたが、今度は違う問題について質問を始めた。
「あなたは、三万三千ポンドの値打ちのあるダイヤモンドを金庫に入れておかれたとおっしゃいましたね。事務所に置きっぱなしにするにしては、法外に大きな額ではありませんか?」
「おっしゃる通りです。額が大きすぎます。これといい、保険の点といい。私の重大な手落ちです。しかし、あの石を長い間入れたままにするつもりはなかったのです。実際、あの大部分を売却する商談が進行中だったのです。一方、私としても拠《よ》りどころがあったのです。あの金庫はごく能率のいい、近代的な型だったのですよ」
「ごもっともです。ところで、その石があるということについて、あなたを別にして誰と誰が知っていたのですか?」
「どうも」デューク氏は暗い面持ちで認めた。「その点は誰でも知っていたのです。ゲシンが知っていたのはもちろんです。外交のヴァンデルケンプも私が最近値のはる品々を買ったのを知っています。何しろ彼は下相談を受け持っただけではなく、自分の手であの石を事務所に持って来たのです。おまけに、あの石に関する手紙が何通もあり、全従業員はそれを読もうとすれば読めたのですから。つまり、事務所の者は一人残らず、あすこに石がたくさんあるのを知っていたのです。もっとも、正確な数量は知らなかったでしょうが」
「そして従業員が社外の人に喋ったかもしれないのですね。若い連中は噂話が好きですし、アイルランド人の言う『お相手のある』場合などは特にそうですから」
「お説の通りです」デューク氏は、若い連中のこの癖を非難するように同意した。
警部は坐り心地が悪いのか姿勢を変え、そっと手でパイプを探った。しかし、よく自分を制して、質問を続けた。彼はデューク氏から紛失した石の詳しい説明を聞いて表をこしらえ、それから新しい問題に移った。
「その紙幣で千ポンドの件ですが。番号はわかっておられないでしょうな?」
「ええ、残念ながら。しかし銀行では知っているかもしれません」
「問い合わせてみましょう。ところで、デュークさん、鍵の件ですが。これもまた奇怪な話ですね」
「じつに驚くべき話です。どこから出たものか、私にはまったく理解できないのです。申し上げました通り、この鍵は現在にも過去にも、一度も私の身体から離したことのない私専用の鍵ですし、もう一つの合鍵は、≪唯一の≫合鍵なのですが、これも銀行で保管していまして、誰にも手のつけられないものなのです」
「いつも金庫はご自身で開け閉めなさっていたのですか?」
「いつもです。少なくとも、私が立ち会って私の命令で開け閉めしていました」
「ああ、しかし、それはまったく同じことにはなりませんな。あなたに代わって開閉したことのあるのは誰ですか?」
「ゲシンです。しかも、一度や二度ではなく、何十遍もです。いや、何百遍といってもいいくらいです。でも、いつも私の目の前だったのです」
「よくわかりました。ゲシン氏のほかには誰か?」
デューク氏はちょっとためらった。
「いいえ」彼はゆっくり言った。「ほかには誰もいません。そこまで信用していたのは彼だけでした。それから、彼には信用する理由があったのです」何か反抗するような語調で、彼はつけ加えた。
「もちろん、よくわかります」フレンチは穏やかに答えた。「私はただ、事実をはっきりと頭に入れようと努めているのです。では、あなたの鍵を手にしたのは、あなたご自身を除けば、故人が唯一の人物であった、とおっしゃるのですな? お宅でもどなたの手も届かない所にありましたか。たとえば女中さんたちも?」
「はい。一度も放り出しておいたことはありません。夜分すら肌身から離したことがないのです」
警部は椅子から立ち上がった。
「さて」彼は丁寧に言った。「長いことお引き留めしてすみませんでした。金庫についているのと較べますから、あなたの指紋をとらせていただきまして、それで私の仕事を終わります。電話をかけてタクシーをお呼びしましょうか?」
デューク氏は自分の時計を見た。
「なんと、もう一時ですね」彼は驚いていた。「では、すみませんが、ぜひそういうことに」
フレンチ警部はできる限りの仕事はその晩のうちにしてしまったと言ったが、デューク氏が帰る時にも、彼はこの建物から出なかった。それどころか、彼は奥の部屋に戻り、急ぐふうもなく、部屋の調度のたぐいをさらに深く、いっそう綿密に検査し始めた。
まず手始めが金庫の鍵であった。特別製のピンセットで柄《え》を押さえて引き抜き、つまみの部分の指紋を検出しようとしたが、うまく出てこない。今度は尖端の方を眺めると、刻み目の一つの表面の仕上げがいささか粗《あら》いのが注意を惹《ひ》いた。拡大鏡で仔細に眺めるうち、表面という表面にはみな細かい並行した掻《か》き傷のあるのが発見された。
「さては読めたぞ」満足げに彼は独り言を言った。「高価な金庫の鍵の仕上げをいい加減にするような製造業者はいない。これはやすりで刻んだものだが、おそらくは」――彼はふたたび仕上げぶりを入念に眺めた――「素人の仕業《しわざ》なのだろう。そして、今のデュークの言葉によれば、ゲシン老人がこの鍵を扱った唯一の人間だというから――蝋《ろう》型を取ることのできた唯一の人間だ。ところでと、まあ調べてみよう」
彼は金庫に錠をおろし、鍵をポケットに納め、暖炉の所へ戻ったが、その間も独り言を続けていた。
犯罪の発見された十時少し過ぎ、この火はまだ赤く燃えていたのだった。ということは、外の事務室の火はむろん消えてしまっていたから、ことさらに石炭を投げこんで火を起こしておいたのに違いない。だから、誰かがこの部屋で相当の時間を過ごすつもりだったのだ。
フレンチに考えられたのは、ゲシンしかいなかった。しかし、もしゲシンが盗むつもりなら――多めに見て、たかだか十分間ぐらいの仕事だから――火を起こす必要はなかったはずである。いや、この様子では本当に何か用事を果たさなければならなかったらしい。果たすのに時間のかかる用事だったに相違ない。だが、もしそうだったとすると、なぜゲシンはデューク氏に相談しなかったのであろう。フレンチはその疑問点を、将来いろいろな発見があった後に照合してみようと、手帳に控えた。
だが、火を起こした人物が誰かという点では、疑う余地はなかった。またもや指紋である! 石炭すくいの柄は滑《なめ》らかにニスをひいた木で、跡をとどめるためにはお誂《あつら》え向きなので、白い粉でちょっとやってみると右の親指の立派な指紋が現われた。
次に火掻き棒が目についた。これでフレンチは第二の発見をした。前に鍵をいじった時と同じ用心深い手つきで、ピンセットで持ち上げてみると、柄に暗褐色の汚れのあるのが目にとまった。この汚れのそばに、一本の白髪がへばり着いている。
手に持っているのが兇器であることが、ほぼ確実になったので、彼は反対側の一端から指紋を検出しようと、熱心にやってみた。しかし今度はハタと弱った。指の跡のありそうな箇所からは何も現われない。殺人者が手袋をはめていたのか、あるいは柄をきれいに拭《ぬぐ》ったらしい。どっちにしても、これは冷静に行われた犯罪であり、計画的な犯行に違いない。
彼は熱心に部屋の捜査を続けたが、ほかに彼の興味をひくものは何も発見されなかった。とどのつまり、部下が彼の発見した指紋を撮影している間、彼は革張りの肱《ひじ》かけ椅子に腰をかけて、これまでに知り得たところを再検討してみた。
たしかに、証拠の中の相当の部分はゲシンを指している。ゲシンはダイヤモンドがそこにあるのを知っていた。デュークによれば、合鍵を作ろうとしても、金庫の鍵に手をつけられた人間は、彼のほかにはいなかったはずだ。おまけに、扉の開いた金庫の前で死体となって発見されている。すべては状況証拠には違いない。積み重ねてみると強いけれど。
しかし、ゲシンが盗もうと意図したか、しなかったかを問わず、彼は遂行できなかった。誰かほかの者がダイヤモンドを盗んでしまった。ここで最初に署長の話を聞いて以来、頭にあった可能性がふたたび頭をもたげて来た。オーチャードが犯人だとしたら、どうなるだろう。オーチャードが晩になって事務所にやって来て、開いた金庫の前にこの老人がかがみ込んでいるのを発見したら、どうなるだろう。とたんに彼は怖ろしい誘惑に襲われるであろう。仕事はきわめてたやすく思えるだろうし、逃げ道はわかり切っている。おまけに収益はきわめて確実である。フレンチは肱かけ椅子の背にもたれ、その情景を頭に描いてみた。
老人が金庫の前にかがみこんでいて、青年が入って来るが、足音に気づかない。ギクッとして青年が足をとめる。宝石を手に入れようとする圧倒的な衝動。抜き足さし足で前に進む。火掻き棒をつかむ。一撃は、あるいは単に相手を気絶させるつもりで下されたのかもしれない。だが、打ち方が強すぎて、自分の仕業に胆《きも》をつぶすが、しかし身の安全のためには何から何まで細心にやらなければならない。指紋の危険なことを思い出して、火掻き棒の柄《え》と、ダイヤモンドを取り出した金庫の引き出しとを拭《ぬぐ》う。驚嘆すべき先見の明をもって、彼は死体が冷たくなるまで待つ。さもないと、呼んだ警官の検査によって自分の話がくつがえされるとまずいから。冷えるのを待って彼は興奮した様子で外へとび出し、急を告げる。
この仮説は色々と実情にはまりはしたが、フレンチはあまり満足しなかった。この説では、ゲシンが金庫の前で何をしていたのか説明できないし、オーチヤードの人柄にもピッタリしそうにない。しかしながら、部下にオーチャードの尾行を命じたのは、あの場合には避けられない単なる用心からではあったが、彼はこの点を見すごさなかったのを喜んだ。
革張りの椅子にかけたまま、この件を吟味しているうちに、もう一つの問題が頭に浮かんだ。もしオーチャードが宝石を盗んだとしたら、急を告げる場合に、それを身につけているような危険をおかすまい、という点である。必ず隠してから騒ぎ立てるに違いないのだ。フレンチには彼がどうしたら石をこの建物の外に運び出せたか、考えられなかった。で、この事務室の綿密な捜索が行われた。
警部は疲れており、もう時間も遅かったけれど、彼はまる三時間を費やして、事務所全体を細かく捜索した。そして、どこにも絶対にダイヤモンドが隠されていないという確信がもてた時、やっと捜索をやめた。それから、犯罪の現場からはもう求めるべきものがまったくないと信じられたので、ようやく、もう退散しても大丈夫という気持になった。外に出て、扉を閉め、家の方角をさして歩き始めると、東の空はすでに白みかかっていた。
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三 糸口集め
前夜ずっと仕事で出ていたという事実は、フレンチ警部の眼には、翌朝の出勤が遅くなるという理由にはならなかった。だから、彼は、定刻に新スコットランド・ヤードに着いて、すぐにハットン・ガーデン事件の予備報告書の準備に取りかかった。これがすむと、彼は事件の捜査をふたたび始めた。
まだ調査しなければならない点がたくさんあった。決まった手続きといってもいいくらいの調査なのだが、犯罪の性質から必然的に行うことになっているのだ。その最初のものは、デューク・アンド・ピーボディ商会の従業員の、ほかの連中に会うことであった。
オクスフォード通りのバスでハットン・ガーデンの端まで行き、まもなく彼は昨夜捜査した現場へ向かう階段をふたたび登った。デューク氏が外の事務室に立っていて、オーチャードとタイピストと給仕がいた。
「私は若い人たちに、もう帰ってもいいと話していたのです」社長は説明した。「葬式のすむまで店を閉めることにしましたので」
「さぞかしゲシン氏のご家族は感謝なさるでしょう。たいへんご親切なことですし、また適切なことと思います。しかし、この若い淑女と紳士の帰られる前に、私は一つ二つ、質問をしたいのですが」
「もちろん。私の部屋をお使いください。お入り、プレスコット嬢、そしてフレンチ警部の知りたいとおっしゃることをみな、お話ししてあげてください」
「せっかくですがあなたには、全部は答えられないでしょう」フレンチはこの娘が感じているに違いない不安の気持を鎮《しず》めたいと思って、相変わらず快活な調子で無駄口を叩きながら微笑した。
しかし彼女から聞き得たのは、デューク氏がきわめて立派な紳士であって、彼女が何となく彼に畏敬の念を抱いていることと、ゲシン氏がずっと彼女に親切で、どんな失敗をしても言いつけなかったことだけであった。事務員のオーチャードについても、見習いのハリントンについても、彼女はお喋りをしなかった。給仕のビリー・ニュートンについては、彼女はまるで害虫か、ないしは、必要であっても無視し得る害毒かのように、一言の下に扱ってしまった。ゲシン氏は、彼女の下した結論から判断すれば、昨日は健康も元気も普段の通りであったが、過去二、三週間は何か苦労に悩んで心配していたように見えたそうである。彼女自身については、この事務所が気に入っていたし、仕事も落ち度なくやっていっているし、気の毒なゲシンさんには同情にたえない、といった。前の日、彼女は事務所からまっすぐ家に帰って、一晩中ずっと母親と一緒に家にいた。フレンチは彼女が知っていることをすべて話したのに満足して、指紋を取って、帰した。
早熟な給仕のビリー・ニュートンからは、新しい事実を一つしか聞けなかった。前夜一番遅く事務所を出たのはニュートンであった。そして、ゲシン氏は帰る前に、自分すなわちゲシンは、ある特別な仕事をしに、また帰って来るから、社長室に火を起こしておくようにと命令したそうである。少年は火をたっぷり起こして、それから事務所を出た、という。
フレンチが外の事務室に戻ってみると、新来者がいた。背の高い、顔だちのいい青年がデューク氏と話をしていたが、デューク氏は彼を、重役候補として目下修業中の事務員スタンリー・ハリントン氏だと言って紹介した。ハリントンは遅刻したのを詫び、事務所に来る途中、ずっと連絡の絶えていた学校時代の同窓生に会って、その男が九時三十分の汽車で北部に出発するので、キングス・クロス駅に案内してくれと頼まれたのだと言いわけをした。
この青年は様子が何となく不安げであったが、フレンチが彼を奥の部屋に案内して、話を始めると、彼が神経質になっているのはいよいよ確実になった。フレンチは好奇心をそそられた。風貌から見て、普段は、この男は明らかに率直な顔をしていて、快活で無遠慮な態度の男に相違ない、と彼は想像した。しかし今は、その目つきは緊張し、態度は何となくうさん臭《くさ》い。かねてから大勢の陳述者と話をした経験のあるフレンチは、こうした場合にありがちな心の動揺以上のものがあるのを感じたが、質問を進めるにしたがって、この男が平素は正直なのだが、今は本当のことを言うまいと決めているのだと信じるようになった。しかし、フレンチの疑念はまったく態度には現われず、質問を重ねる態度は丁重そのものであった。
話を総合すると、ハリントンはこの商会の外交を勤めているヴァンデルケンプ氏の甥《おい》であった。このオランダ人の妹のヴァンデルケンプ嬢はヨークシャー出身の隆盛な株式仲買人のステュアート・ハリントンと結婚した。スタンリーは立派な教育を受けたが、大学の一年の時に一大打撃に見舞われた。大陸を旅行していた両親が、二人ともミラノ付近で列車事故で死んでしまったのである。それからわかったのだが、彼の父は大金を儲けていたが、収入いっぱいの生活をしていて、後継者のためには何の用意もしておかなかったのである。負債を払うために全財産がほとんどなくなってしまい、スタンリーは無一文同様になってしまった。このとき伯父のヤン・ヴァンデルケンプが愛情を発揮した。あり余るほどの財産もないのに、ケンブリッジの残りの数年の学費を払い、その上デューク氏に対する勢力を利用して、事務所に使ってもらえることにまでした。
ところが、勤務し始めてからまもなく、思いがけない悶着《もんちゃく》が起こった。その悶着というのも、デューク氏に関してだけのことかもしれないのだが、この社長の娘のシルヴィアが父親を訪ねて事務所に来て、この行儀のいい青年と知り合った。デューク氏が何も気づかないうちに、二人の若者は猛烈な恋におち、その結果デューク嬢はまもなく、驚きあわてる父親に向かって、結婚の約束をしたと宣言したのだ。気の毒な父親の抗議も、何の効も奏しなかった。デューク嬢というのは、いつも我《が》を通しつけていたので、ついに彼女の父親は万策つきて、いさぎよく諦めることに決めた。彼は二人の結婚を快く許すことにして、修業が終わって見どころがあるとわかり次第、取締役にしてやる約束をした。この点はハリントンもうまく合格したので、結婚式は来月と決まり、式を挙げしだい、取締役会の一員となることになったのである。
フレンチは青年に前夜の行動について質問した。事務所で一日働いたあと、自分の下宿に帰ってまもなく、デューク嬢から電話がかかってきて、彼女の父親が今しがた、町で食事をしなければならなくなったと電話で言ってよこしたので、一人ぽっちになるから、ハムステッドにやって来て、一緒に食事をして欲しいと言ったらしい。こういう相手からこういう招待を受ければ、もとより恭悦《きょうえつ》の至りとばかり命令にしたがうのが世の常だから、彼は七時前にデューク家に着いた。しかし彼はある意味でこの一夕には失望してしまった。デューク嬢は食後に外出するつもりだったのだ。エーミ・レストレーンジ嬢という友人がやっているホワイト・チャペルにある女性クラブに行くつもりだった。ハリントンはイースト・エンドまで一緒に行ったが、彼女はクラブの中へは連れて行ってくれない。だから、彼は後でまた戻って来て、彼女を家に送り届け、それからまっすぐに下宿へ帰った、のだそうな。
上手に質問した結果、右のような情報を得たフレンチ警部は、じっと坐ってそれを頭の中で反芻《はんすう》した。話は辻つまが合っているし、これが本当だとするなら、ハリントンは疑いもなく潔白である。だが、フレンチには青年の態度が腑《ふ》に落ちなかった。≪何かある≫と断言してもいいくらいだった。話のどこかが本当でないのか、あるいは全部が嘘か、ないしは何か隠しているところがあるに違いない。どこかほかに強力な手がかりでも出れば別だが、昨夜のハリントン氏の動きを充分に調べなければならないし、その陳述も検討してみなければいけない、とフレンチは決心した。
しかし、怪しまれていることを当の本人に知らせる必要はないので、朗らかな挨拶の言葉をかけて彼を帰らせてから、フレンチは外の事務室にいるデューク氏の所へ行った。
「では、ご都合がよろしかったら、鍵の件で銀行にお伴いたしましょうか」
必要な事がらはすぐわかった。朝刊で強盗事件を読んでいた支店長はこの件に興味をおぼえていたので、自分で調べてくれた。鍵は在《あ》るべき場所にあっただけでなく、デューク氏が預けて以来、一度も誰も手を触れていないのであった。
「紙幣で千ポンドの金も盗まれたのです」フレンチは続けた。「番号が控えてあるといったようなことはないでしょうか」
「おたくの出納係が、あの取引を覚えておいでかもしれませんよ」デューク氏がせっついた。「私が自分で来て千ポンドの小切手を現金にしたのです。殺人の前の日の火曜です。十六枚は五十ポンド礼で、残りは十ポンド札で貰いました。ポルトガルの商人が訪ねてくることになっていたので、ダイヤモンドの小さな取引ができるつもりでいたのです。御社からいただいたまま、金を金庫に入れておいたのですが、その商人が現われなかったので、そのままになってしまったのです」
「調べるより手はありませんな」支店長は自信なさそうに言った。「五十ポンド札の方は控えてありそうですが、十ポンド札の方はまずなさそうです」
ところが運よく、その出納係は用心がよくて、その札の全部の番号を書き取ってあった。番号の写しを貰ったフレンチは、一枚でも発見されたら本庁に知らせてくれるよう支店長に頼んだ。
「札は首尾よく行きましたね」デューク氏と並んで往来に出るとフレンチ警部が言った。「ですが、鍵があすこにあったのがどういう意味になるか、おわかりですか? あの合鍵はあなたが持っていらっしゃる鍵から作られた、ということになるのですよ。ですから、誰かが、蝋で型をとるに充分な時間だけ、自分で持っていたに違いないのです。むろん、電光石火の早業《はやわざ》です。ものの二秒もあれば全部すんでしまいます。上手な人間なら、掌に蝋《ろう》を持っているのです。手品師のように、いわゆる『掴《つか》んで』いるのですな。そこに鍵を押しつけるのですが、ごく自然な動作なので、気をつけていないかぎり、全然気がつかないのです。ここで一つ、もう一度よくお考えいただきたいのは、ゲシン氏以外に誰もその鍵を扱わなかったのなら、その型を取ったのは彼に≪相違ない≫のです。ほかに解釈のしようがない。ですから、ほんのわずかな間でも、ほかの人が鍵にさわったようなことがあったかどうか、確実にしていただきたいのです。私の申し上げる要点はおわかりですね?」
「もちろん、わかります」デューク氏はいささか疳《かん》にふれたように言い返した。「しかし、それは決定的なようには見えますが、ゲシンがそんなことをしたなどとは、私にはどうしても信じられないのです。ありそうなことに見えるのは、警部、あなたが彼をご存じないからですよ。しかし私は疑うにはあまりに長く彼を知っているのです。鍵を盗み出したのは、誰かほかの男に違いありません。もっとも、誰だか想像もつかないのは事実なのですが」
「誰かが、夜、あなたのおやすみになっている間に、ですか?」
デューク氏は肩をすくめた。
「そんなこともありそうにない、と申し上げる以外にないですね」
「では、あらゆる可能性をお考えになっておいてください。私は本署に行かなければなりませんから」
「私もゲシンの家へ行かなければならんのです」デューク氏が答えた。「細君の容態がひどく悪いそうなので。あの驚きですっかりまいってしまったのです。捜査の進行状態はご連絡いただけますな?」
「たしかに。何でもお知らせするようなことが起こりしだい、お耳に入れます」
警察署は遠くなかったので、まもなくフレンチはチャールズ・ゲシンの亡骸《なきがら》の上に身体をかがめていた。彼は遺骸そのものに関心を持っていたのではなく、死人の手の指紋をとって、事務所で発見されたものと比較したかったのである。だが、彼はポケットの内容を全部調べ、故人が事務所に行かなければならなかった用事が何かを判断する手がかりでもあるかと探してみた。残念なことには、手がかりになりそうなものは、何一つなかった。
検死法廷の開かれるのはその夕刻の五時と決まっていたので、警察側から提出する証拠物件を署長と一緒に目を通しながら、彼は少々時間をつぶした。評決については、むろん、疑う余地はなかった。
もうデューク氏もゲシン家を出ただろうと思うと、フレンチは自分も訪ねてみようと考えた。この老人について知ることができれば、それだけ好都合だ。
タクシーを呼びとめ、十五分ほど後に、モンクトン通りに着いた。フラム街道からはずれた、狭い上に、相当不景気な横町である。三十七番地の扉を開けたのは鳶《とび》色の髪の女で、年のころは三十五ぐらい、人好きのする親切そうな顔立ちだが、何となく疲れた表情である。フレンチは帽子を脱いだ。
「ゲシン嬢ですね?」彼は尋ねた。
「いえ、私はギャメッジの家内です。でも、妹はおりますから、ご用でしたらどうぞ」彼女は憂いのある柔らかい声で話したが、フレンチはなかなか魅力のある声だと感じた。
「お二人ともにご面倒をかけなければならないと思いますが」彼はいつもの温かい笑顔で答えながら、自分の身分を名のり、用向きを述べた。
ギャメッジ夫人は狭い通路を後ずさりした。
「お入りください」彼女は招じた。「もとよりお役に立ちたいと思っておりますわ。おまけに警察の方々はたいそうご親切でした。特に昨夜知らせに来てくださった警官の方《かた》は、本当に何から何まで親切にしてくださいまして。まったく、どなたも大層よくしてくださいましたわ。デュークさんもご自身、今しがたお見舞いくださいました。こんな時こそ、どなたもお人柄がわかります」
「ゲシン夫人の容態が大変よくないとうかがってご同情しています」フレンチは言いながら、案内されるまま小さい客間に入った。家具の貧弱なのを見て、彼は驚いた。何一つ例外なく、押しせまる貧窮を前に、体面と自尊心を保とうとする絶望的な努力の刻印が見られた。すり切れた絨毯には方々に穴があき、それが小ぎれいにかがってあるし、二脚ある、やや傾斜の足りない安楽椅子の覆《おお》いも同様であった。第三の椅子は脚が一本折れていて、釘と針金で修理してある。一点の汚れも見えないし、充分すぎるほど掃除はしてあるのだが、一つとしてみすぼらしくないものはない。寒い日だったのに、炉には火のカケラさえ燃えていない。ここにはたしかに調査しなければならない事がらがある、と警部は思った。この家具が示すように、ゲシンが本当にそれほど困っていたのなら、間違いなくこの難事件に関係があったのだろう。
「母は長い年月|病《や》んでおりますの」と答えたギャメッジ夫人は無意識にフレンチの欲した説明を補強したのである。「坐骨の病気でして、もう治らないんです。死にました父は母のためにお医者やら治療などに、ひと財産使いましたけれど、どれもあまり効き目はなかったようでございます。そこへ今度の事件で、母はすっかり弱ってしまいました。ほとんど今は昏睡状態でして、もういつ息を引き取るかわからないありさまですの」
「ご同情申し上げます」フレンチは口ごもりながら言ったが、その声は心底から悲しんでいるように響いた。「お話をうかがいますと、私の不愉快な用件をあなたがたに押しつけなければならないのが、一層残念になります。しかし、私としてはどうにもならないので」
「もちろん、よくわかりますわ」ギャメッジ夫人は穏やかに微笑んだ。「おっしゃっていただければ、私はできるだけお返事いたしますし、私のご用がすみましたら、私が看病を代わって、エスタをよこしますから」
けれど、ギャメッジ夫人が話せるところはあまりたくさんなかった。四年ほど前に結婚して以来、彼女はあまり父親とは会っていなかった。彼女が父親を偶像視していたのは明らかであったが、自分の家の用事にかまけて、里に帰れたのはほんの時たまにすぎなかったのである。だから、まもなくフレンチは、彼女に協力の礼を述べて、妹の方をよこしてくれるように頼んだ。
エスタ・ゲシンは明らかに二人のうちの妹とわかった。ギャメッジ夫人とよく似てはいたが、器量はもっとすぐれている。穏やかな、目立たない美人といえば当たるだろう。同じく鳶《とび》色の眼であったが、ごく落ち着いたまっ正直な色をたたえていたから、フレンチですらこれは信頼できるとばかり乗り気になった。表情も同じように思いやりに満ちていたが、こちらの方が姉より実力がありそうに見えた。両親がどれだけ頼りにしていたか、想像に難くはなかった。善良な女だ、と彼は思った。女性に対してこうした形容詞をめったに使わない男であったが、この「善良な女」の一句の持つ全幅の意味が、ちょうど当てはまる人物だ、と彼は感じたのである。
警部のたくみな誘導のもとに、彼女はこの数年間、両親と自分の送った単調な生活を説明した。母親の病気が一家の生活の支配的要素であったらしく、すべては病人の幸福に従属しており、療養の費用が家計の大きな枯渇《こかつ》の元になっていたのである。デューク氏の帳簿から、故人の俸給が一年で約四百ポンドであったのをフレンチは知っていた。もっとも、つい最近、デューク氏が、ちょっとゲシン氏が臥床《がしょう》しているおりに見舞に来て以来、四百五十ポンドに増額されたのではあったが。デューク氏は昔からいつも雇主として思いやりが深かった、とゲシン嬢は語った。
最後まで父親の健康と元気がいつもと変わらなかったかと問われて、彼女は否と答えた。ほぼ三週間前、彼は憂欝そうで、何か心配しているふうであった。時々、彼女はその原因を問いただしてみようとしたが、彼は事務所に問題が起こっている、と言うだけで、いっこう真相は話してくれなかった。ただ、一度だけ、彼女を考えこませた一言を吐いたことがあった。けれど、彼の真意はついに察することができなかったし、彼も説明してはくれなかった。彼が彼女に向かって、≪善いことを起こさせるために悪いことをするのは至当と思うかどうか≫と尋ねたことがあったのである。そして、自分にはわからない、と彼女が答えると、彼は嘆息をもらしながら言った。
「そんなことの是非を決めなければならない運命に陥《おちい》らないですむよう、神様に祈っておおき」
彼の死の当夜、娘の属している教会の合唱隊の懇親会があったので、彼が代わって看病する手はずになっていた。ところが、夕方家に帰った時の彼は、今までに見たことのないほど心配そうで慌てていて、色々と気の毒だが、と言いながら、急に起こった用件で、どうしても今晩は事務所に戻らなければならないと告げ、誰か代わりに看病する人が見つからないなら、懇親会に出るのはあきらめてくれ、と頼むのであった。たえず苛々していて、不安そうで、夕食もそこそこに八時ごろ出て行きながら、今夜は何時ごろ帰れるか見当がつかない、と言った。この時が、彼女が彼の生きた姿の見納めで、十一時半ごろ警官が怖ろしいニュースを持って来るまでは、何の音沙汰もなかったのであった。
ゲシン嬢も姉と同じく父親を崇拝し、敬愛していたから、彼の死の原因に関しては、自分と同様に、まったく何が何やらわからないでいるのを悟った。これ以上は収穫もないと判断して、やがて彼は辞去したが、彼女の行先の苦労に対してくれぐれも同情すると述べたのである。
本庁に帰ってみると、彼の発見した様々の指紋の拡大写真ができていたので、彼は坐りこんで、熱心に自分の指紋カードと比較してみた。線や渦巻の鑑定にかなりの時間を費やしたあげく、彼は次のような結論に到達した。
金庫の上の指紋は、内部のも外部のも、デューク氏かゲシン氏のものであって、大部分は後者のものである。石炭すくいの柄の指紋はゲシン氏ので、残りは事務所の従業員の面々のものである。この方面からの捜査の綱は、かくして、まったく切れてしまった。
溜息をつきながら時計を見た。法廷の開かれる前に、前夜のオーチャードの行動に対する陳述の真偽に関する調査をする時間が、まだ残っている。半時間後、彼はあの事務員がイルフォードで食事を共にしたという青年を見つけた。この男は青年の話を充分に実証した。オーチャードはこれで決定的に調査の枠《わく》から除去された。
検死官の前で行われた弁論は、ほとんど形式だけのものであった。オーチャードとデューク氏とアルコーンがそれぞれ陳述を行い、訊問がほんのちょっとあっただけで、みな帰された。フレンチと所轄の署長が、警察側として審査に立ち会ったが、口を出すまでもなく、故人の近親者側は誰も召喚されていなかった。一時間で、検死官は略説に移り、陪審員は別室にも入らずに、ある不明の一人ないしは数名による謀殺であるという明白な評決を下した。
その晩、食事を終えた後、居間の火の前にゆっくり坐り、口にパイプをくわえ、手帳をひじのそばの小テーブルの上に広げて、フレンチは自分の立場の再吟味にとりかかり、この新しい問題を明確に把握しようした。
まず、チャールズ・ゲシンがデューク氏の金庫の中のダイヤモンドのために殺害されたのは、自明のことである。傷の位置から見ても、偶然の事故でないことは確かだし、自分でつけたはずもない。おまけに、合鍵をこしらえてある点から見ても、計画的な強盗であることはわかっている。だが、宝石はゲシン老人の身体にはついていなかった。だから、誰かほかの者が持って行ったことになる。もっとも最初ゲシンが宝石を金庫から盗み出したのか否かは、はっきりしていない。
ここまでは、フレンチは発見できた事実を容易に整理できた。が、それ以上進もうとすると、様々な困難にぶつかった。
第一がゲシンの困窮状態である。彼の俸給は地位から見て不当ではないが、細君の病気という大きな出費があったので、彼はつねに四苦八苦の状態でいた。フレンチはこうした苦悩が与える疲労について思いをめぐらした。こうした窮地から脱却するためには、人はかなりの危険をも冒すものだ。その上に、自分の手の届く所にある富に対する知識があるから、それを手に入れようとするのには、ただひと頑張り努力すればいいのだ。あの男は誘惑に負けたのだろうか?
死の前の二、三週間、何か考えこんでいたのは明白であるし、それが何か秘密な事がらであったのも、同じく明瞭であった。デューク氏が心労の原因について尋ねた時、ゲシンは家庭の問題と妻の病気だと言ったが、娘が同じ質問をした時には、彼は仕事上の心配だと言った。あの老人は、隠そうとして双方に嘘をついていたのだ。
また、この苦労ないしは問題が、彼の死んだ晩に急激に悪化したのも明らかである。彼は娘に、特別な用事ができたので事務所に行かなければならない、と告げた。だが、デューク氏はそんな用件は何も知らないし、そうした記録は一つも残されてはいない。
しかし、二週間か三週間前にゲシンが金庫の中身を盗もうと決心したのだったら、こうした神秘的な矛盾も辻つまが合うし、死の晩の格別な興奮も、この企てを実行するために彼が選んだ日だったとしたら、よく符合する。
これに反して、こうした見方を支持できない点も色々とある。第一が、誰もが知る彼の性格である。彼はあの商会に二十年以上も勤めていた。それで彼を充分知り抜いているはずのデューク氏が、彼の犯罪を絶対に信じようとしていない。彼の娘たちも明らかに彼に対して温かい愛情を抱いていたし、フレンチが娘たちから感じたところから察するに、ゲシンが悪い、ないしは弱い性格の男だったなら到底不可能な話なのだ。フレンチが自分で集めたほかの証言も、みなそれと同じ方向を指している。
次に、ゲシンが公然と事務所へ帰って行ったという点がある。金庫から盗もうとしたのだったら、彼の訪問を秘密にしておくのが当然ではないか? しかし彼は給仕に向かって、奥の部屋に火を起こしておくように言いつけ、自分が後からまた来ると告げたし、また合唱隊の会合の件を相談した時にも、そう言ったのだった。
さらに、奥の私室の火の一件がある。ゲシンが金庫の品を盗むつもりだったなら、火は何のためだったろう。彼が給仕に火を絶やさないようにと言っただけではない。彼自身、後から石炭をくべている。これはシャべルの柄に残った彼の指紋からもわかる。金庫の品を盗むのはわずか数分の仕事である。火の話から推しても、ゲシンは娘に話したように、本当に何か特別な仕事をしていたことにはならないであろうか?
全体から見ると、ゲシンを有罪とする証拠は無罪とする証拠より強い、とフレンチは考え、次のような仮説を立てはじめた。すなわち、ゲシンは家庭生活の苦しさにもはや堪え切れなくなって、金庫の中にいつにない多額の品が入れてあるところから、それを失敬しようと決心した。おそらくは、そのごくわずかを盗むつもりで、しかもその損害がデューク氏にはかからずに、保険会社にかかるであろうことを知っていたのだ。そこで彼は、鍵の型を取り、それから合鍵をこしらえた。その晩、何か偶然なことから発見された場合にそなえて、事務所で用事があると称した。ところが、彼は発見されてしまったのである。おそらく偶然の機会からであろうが、誰かに見つけられた。そしてその見つけた男は自分の前に展開されようとしている可能性を見るや、がぜん誘惑に襲われ、老人を殺して、盗品をつかんで逃げてしまった。
この仮説は、少なくとも事実の大部分と符合する。
次の朝、彼はわかりやすい調査を二、三やってみた。巧妙な間接的な質問で、ゲシン氏ほか、デューク・アンド・ピーボディ商会の事務所の者は鍵を作り上げるような技術的才能がないのを確かめ、部下の一人に命じて、合鍵を作った専門家が誰かを調べ上げることにした。彼は盗まれたダイヤモンドの説明書を作って、イギリスとオランダの警察に通知する一方、売り手が来た場合に通報してもらえそうな業者にも知らせた。盗まれた紙幣に関する通知が各銀行へ出されるように手配もした。それから、あの宝石のあることを知っている者で、殺人の夜の動きを完全に説明できないような者を、誰かつかまえようとしたのであったが、このほうは成功しなかった。
何の情報も得られないうちに幾日かが経過した。フレンチは神経質になって、いよいよ努力を倍加した。考えられる限りの人物を彼は疑ってみた。タイピスト、給仕、それからデューク氏自身まで疑ってみたが、依然何の効果もあがらなかった。タイピストは一晩中ずっと家にいたことがわかった。ビリー・ニュートンがボーイ・スカウト大会に出席していたことは間違いなかったし、社長のクラブや家をひそかに調べてみたが、彼のあの晩の行動はどの点でも彼の陳述とは少しの誤差もなかった。スタンリー・ハリントンの動きは、もうすでに調査ずみであって、この青年のアリバイは完璧ではなかったが、さりとて有罪にするだけの事実は一つも発見できなかった。
八方ふさがりになったので、フレンチは落胆しはじめた。それなのに、彼の上司はいやが上にもしつっこく不愉快な質問を浴びせるのであった。
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四 行方不明
チャールズ・ゲシンの殺害から十日目の朝の十時ごろ、フレンチ警部は新スコットランド・ヤードの自分の部屋の椅子に腰をおろして、もしや自分が見落とした手がかりでもないか、忘れている捜査の線でもありはしないかと、千度目の吟味をしていた。
これほど弱らされた難事件にぶつかった経験は、今までにめったになかった。事件の性質からいって、楽に解決できそうなはずだと、彼は腹を立てながら自分に言い聞かせるのだが、さてどこを掴《つか》んでいいのか、いっこうに見当もつかない。彼の得た色々な手がかりは充分に有望に見えた――が、すべては徒労に終わった。盗まれた札は一枚も銀行に現われないし、ダイヤモンドは一個すら市場に出ない。彼が当たりをつけた人間は、誰一人として急に金まわりがよくならないし、彼が怪しんだ連中は全部、曲がりなりにも事件の晩の動きの辻つまを合わすことができるのだ。
フレンチは何か手抜かりが発見されるかもしれないと思って、今日までの捜査の一覧表を書いてみようとペンを取り上げた。ところが、その時、電話が鳴った。彼はボンヤリと受話器をとった。
「フレンチ警部をお願いします」という声は聞き憶えがあった。「こちらはデューク・アンド・ピーボディ商会のデュークですが」
相手の声に熱心さが感じられたので、警部は興味をかき立てられた。
「フレンチ警部です」すぐ彼は答えた。「おはようございます、デュークさん。何かいいニュースを聞かせてくださるのですか?」
「ニュースはあるのですが」遠くの声が答えた。「しかし、これがこの事件と関連しているかどうか、私にはわからないのですが。私は今しがた、スホーフスから手紙を受け取ったのです。覚えておいででしょう。私のところのアムステルダム支店の支配人です。彼の手紙によりますと、うちの外交員のヴァンデルケンプが、どうやら行方不明になったらしいのです」
「行方不明?」フレンチがおうむ返しに言った。「どういうふうにです? いつからですか?」
「正確なところは、わからないのです。日《ひ》にちを調べるために、今、綴じ込みを調べさせているのですが。何でもアムステルダム支店に何日も顔を出さないので、スホーフスは彼がこっちへ来たのではないかと思ったのです。でも、こちらには現われていないのです。私には見当がつきません。お時間がございましたら、こちらにご足労いただければ、スホーフスの手紙をお目にかけますが」
「すぐうかがいます」
三十分後、フレンチはハットン・ガーデンにある例の事務所の階段を登っていた。満面に笑みをたたえながら、ビリー・ニュートンが彼を奥の部屋に案内した。デューク氏は握手しながらも、不安らしく、いささか興奮していた。
「考えれば考えるほど、警部、気になってくるのです」彼は短刀直入に始めた。「何も間違いのないことを望んでいるのですが。私にわかっていますことは、みな申し上げますが、しかしスホーフスの手紙をお目にかけます前に、それが書かれた経緯《いきさつ》をお話し申し上げた方がいいかと思うのです」
彼は相手から答えを求めるかのように見上げ、フレンチがうなずくのを見て、言葉を続けた。
「もう申し上げたと思いますが、ヴァンデルケンプは私の店の外交係です。ヨーロッパのあちこちの国での販売と競売を担当しています。私のために色々と大きな取引を決めてくれまして、彼の商売上の眼と正直さに、私は絶大な信頼を寄せているのです。それから、色々と申し上げたはずですが、今度なくなった宝石の大部分も、彼が買いつけてロンドンに持って来てくれたことも、お話しいたしましたか?」
「うかがいました」
「最近は、旅行に出ていない時は、アムステルダム支店に勤めておりました。気の毒なゲシンの死ぬ三、四日前、革命で没落した元貴族から宝石を買う目的で南ドイツを旅行していたのが帰ってまいったのです。じつは三日前、正確に申しますと、この月曜なのですが、フィレンツェで、宝石の有名なコレクションが近く売りに出るという話を聞きまして、私はその晩スホーフスに宛てて、すぐヴァンデルケンプをイタリアヘ遣って、そのうちの一部を買う目的で下見と値踏みをさせるようにと手紙を書きました。これが今朝来ましたスホーフスの返事です。彼はこういっております。『ヴァンデルケンプをフィレンツェに派遣する件の貴翰、拝受しましたが、まだ当人はロンドンから帰っていません。彼は貴下の御指令により御地に滞在しているのだと思っていました。帰社し次第、すぐ派遣いたします』どうお思いになりますか、警部?」
「では、ヴァンデルケンプはロンドンには来なかったのですな?」
「私の知る限りでは。彼はたしかにここには来ませんでした」
「なぜスホーフス氏は彼がここに来たと思ったのか知りたいですな。それから彼の出発したと思われている日《ひ》にちとか」
「スホーフスに電報を打てばわかりますが」
フレンチ警部はしばらく黙ったままでいた。
このオランダ支店の存在をおろそかにしていたのは、いかにもまずかったと彼は感じた。少なくとも、これも調査すべき線であったし、同時に、すぐ容易に有益な結果が出たかもしれなかったのだ。
前にデューク氏の説明したところによれば、あちらの従業員は四人で、支店長と事務員とタイピストと給仕であった。それからまた、時々この外交員のヴァンデルケンプが加わる。つまりスタンリー・ハリントンの伯父であるヴァンデルケンプだ。こういう連中が例のダイヤモンドのコレクションについて知っていたのは察するに余りある。支店長はこの件について、デューク氏から打ち明けられていたに相違ない。ヴァンデルケンプは現に、そのうちの大部分の宝石を自分で買って自分でロンドンに運んでいるし、それを金庫に入れるのも見ていたはずだ。もっとも、そのままそこに納まっていたのを彼が知っていた、ということにはならないのだが。おまけに、ロンドンの店と同じように、こうした話が社外に洩れるなどということは容易にあり得る。どうしてもアムステルダムで捜査をしなければならない、とフレンチは感じた。
「電報はまずいと思いますが」やがて彼は言った。「何か間違いのあるのが確実にならないかぎり、世間騒がせをするには当たらないと思いますよ。おそらく、この件は説明を聞いてみれば何でもないことなのでしょう。しかし、こういうことにしたいのです。私はこっそりとアムステルダムに行って、二、三の捜査をしてみます。何かまずいことが起こっているのでしたら、私はそれを発見するでしょうから」
「結構です。そうしていただけるなら、私はたいへん嬉しいです。スホーフスに手紙を書いて、できるかぎり、あらゆる方面でお手伝いをさせましょう」
フレンチは頭を振った。
「それもまずいと思うのです、お言葉ですが」彼は言った。「私はただ、あちらへ行って、様子を見てみたいのです。誰にもそのことを言う必要はありません」
デューク氏は自分がちょっと書いてやれば、スホーフス氏の援助がすぐにも得られるのに、と言って異議を唱えた。しかしフレンチが自分の説を主張したので、彼の好きなようにやらせることにした。
フレンチはハリッジから夜行で出発して、翌朝の八時半には駅舎を出て、気持のいい旧世界の首都に現われた。厭な仕事を始めなければならなかったが、ダムラク通りにある『聖書ホテル』まで車を走らせる間も、それから朝食の後で偵察に出てからも、彼はこの町の古風な魅力に心を動かされずにはいなかった。デューク・アンド・ピーボディ商会の事務所は、並木が両岸にある運河のすぐそばの、シンゲルグラフト通りという半商業街にあった。通りの一角には破風《はふ》のたくさんついている教会が建っていて、奇妙な小さな木の塔があり、この形は巨大な蝋燭消しに似ていなくもない、と思った。
フレンチはあらかじめ来訪をアムステルダムの支店員たちに知られたくなかったので、デューク氏が支店長に紹介状を書こうと申し出たのに反対したのだった。彼は今まで色々な場合に、のっけからかんじんなヒントを得たり、不安な顔色を把握したりしたが、これはみんな不意の質問がもたらしたものであったから、この事件でも似たような暗示の可能性を無駄にしたくなかったのである。だから、彼は揺り戸を押し開くや否や、自分の名前も言わずに、支店長に面会を求めた。
スホーフス氏はこざっぱりした小柄な人物で、大げさな身振りをするところなど、明らかに自分の価値を正しく知っていた。彼は見事な英語をしゃべり、来訪者を丁寧に迎えて椅子に腰かけさせた。フレンチはすぐさま要点に入った。
「私の伺ったのは」彼はいつもの≪猫撫でジョー≫とは別人のようなけわしい声で始めた。しかも相手を冷たい敵意のある目つきで睨《にら》むように見すえている。「ゲシン氏殺害事件に関してです。私は新スコットランド・ヤード捜査課のフレンチ警部です」
しかし彼の小さい謀略は利かなかった。スホーフス氏はいささか眉をあげただけで、肩をちょっとすくめると、驚いたのはその問題ではなく、来訪者の言いかたである、という微妙な暗示を示そうとした。
「ああ、なるほど!」彼はすらすらと答えた。「じつに悲しい事件でしたな! まだ殺人犯や泥棒の手がかりがないそうですね? あんな暴力的な行為が行われて、しかも犯人がまだ罰せられないとあっては、あの広い都に住むロンドン市民はさぞ不安でしょうな」
フレンチは第一歩でやり損じたのを悟って、語調を変えた。
「まだ逮捕のはこびにならないのはお説の通りですが、まもなく逮捕できる望みがないわけでもありません。私はその上にも情報を得ようと思いまして、お訪ねしたわけです」
「できるだけご協力いたしますが」
「直接に役に立つ情報をお知らせ願えるかどうかをうかがう必要はないと思うのです。いただけるのならば、すでに自発的にお申し出になっているはずですから。しかし、まだその重要性にお気づきになっていない派生的な点について、何かお話しいただけるかもしれませんな」
「たとえば?」
「一例をあげれば、デューク氏の金庫の中にあのダイヤモンドがあったということを知っていた人々の名前などです。これは多くの線の一つにすぎませんが」
「はア? それから?」
「まず今の点を取り上げましょう。こちらではわかっていたのでしょうか」
「私は知っていました。もし私のことをお尋ねになっておいでなのでしたら」スホーフス氏はいささか素っ気ない調子で答えた。「デューク氏から買いたい意志を言ってよこされ、そうした石を探すよう命じられました。ヴァンデルケンプ氏もまた知っていました。石をたくさん買って自分でロンドンに運んだのですから。しかし、そのほかの者は誰も知ってはいなかったと思うのですが」
「こちらの事務員や給仕などは?」
スホーフス氏は頭を振った。
「二人のどちらも、知っていたはずはありません」
フレンチは、出だしはまずかったが、いつもの慇懃《いんぎん》さで質問を続けた。彼はそのほかにも色々質問したが、興味のある情報は何一つ聞けなかったし、スホーフスを急襲して狼狽《ろうばい》させるとか、怪しげな兆候を露呈させることもできなかった。そこで、彼は訪問の真の目的に話題を移した。
「ところで、御社の外交員ですが、スホーフスさん。ヴァンデルケンプ氏はどういった人物なのですか?」
フレンチの示す丁寧な敬意のこもった態度に、スホーフスの気持も解け、できるだけの応援をしようという熱意を見せてきた。ヴァンデルケンプは、年のせいで――ちょうど六十を過ぎていた――以前ほどの仕事はできなくなっていたが、会社にとっては相当の人財であるらしかった。個人としては、彼はあまり立派とはいえなかった。彼はいささか飲みすぎたし、勝負ごとにもふけったし、私行上にも証拠はないけれど、かんばしからざる噂があった。おまけに生来むっつりした性格で、少々気も短かった。もっとも、本職の商談の時はべつで、この時にはひどく人好きがよくなり、態度も丁寧になる。しかし、親切なことをすることでもよく知られていて、一例をあげれば、甥《おい》のハリントンに対して実に親切であった。スホーフス氏や会社の連中の話では、特に彼が好きではなかったが、しかし、彼には一つ、非常に貴重な天賦《てんぷ》の才能があった、ということだった。つまり宝石に対する深奥な知識と、ほとんど気味の悪いほどの値踏みの正確さである。彼は会社のために大いに尽くしたので、デューク氏は他所《よそ》に行かせないために喜んで欠点を大目に見ていたのであった。
「私は一つ彼と無駄話をしてみたいですな、今、会社におられますか?」
「いいえ、二週間近く前にロンドンに行きました。そしてまだ帰って来ていません。ですが、もう今日にも帰って来るかもしれませんよ。デューク氏からフィレンツェに派遣するよう指令が来ていますから」
フレンチは興味を感じた。
「ロンドンに行ったのですって?」彼は繰り返した。「ですが、彼はあちらには来ませんでしたよ。少なくともデューク氏の事務所には来ませんでした。私は何度も御社の職員についてうかがったのですが、はっきりおっしゃっていました。このヴァンデルケンプ氏とは殺人の二、三週間前以来、ずっと会ったことがないと」
「でも、それは奇妙ですな」スホーフスが叫んだ。「彼はたしかにロンドンヘ向けてここを出発しましたよ。あの日は――何曜でしたかな――ちょうどあの気の毒なゲシンの殺された日でした。昼間の汽車で、ロッテルダムとクイーンブロ経由で、出発したはずです。私はその前の晩に会ったきりですが」
「でも、着かなかったのですよ。ご商用でいらしたのですか?」
「はあ、デューク氏からお手紙がありまして」
「デューク氏から?」フレンチはおうむ返しに尋ねたが、とうとうその驚きは本音になった。「何ですと? あの日に横断を?」
「次の朝、デュークさんと事務所で会うために、です。そのお手紙をお目にかけられますよ」彼は呼び鈴を鳴らし、必要な命令を下した。「この通りです」彼は事務員の持って来た紙を手渡しながら言葉を続けた。
それは八つ折の便箋で、上に会社の名前が印刷してあり、左の通りの文がタイプしてあった。
十一月二十日
H・A・スホーフス殿
新規の購入のため商議に着手願いたいので、本月二十六日水曜日午前十時に当事務所にて小生と会見するよう、ヴァンデルケンプ氏にお話しくだされば幸甚に存じます。早々ストックホルムヘ出発してもらうことになるかもしれません。
手紙には「R・A・デューク」と署名してあったが、つきものの飾り書きは、近ごろではフレンチもだいぶ見馴れてきている。
この新発見を現在の話の成り行きにあてはめようと、この一枚の紙を見つめながら、彼はじっと坐りこんだ。しかし彼にも、これは解けない謎であった。しからばデューク氏は本当は今まで彼の想像していたような、汚れのない親切な老紳士ではなくて、何か底の深い陰謀の、計画者ではないにしても、その一味であったのか? もし彼がこの手紙を書いたのなら、なぜヴァンデルケンプの話が出た時に、事実を語らなかったのだろう。なぜスホーフスの手紙を受け取って、外交員がすでにロンドンに向けて出発したと書いてあるのを読んで、あんなに驚いた顔をしたのだろうか。一体こうした事がらの底には何があるというのだ。
一つの案が頭に浮かんだので、彼はその手紙をもっと綿密に見た。
「これは、たしかにデューク氏の署名ですか?」彼はゆっくりと尋ねた。
スホーフス氏は不思議な顔つきで相手を見た。
「ええ、そうですとも」彼は答えた。「少なくとも、私は今まで怪しいなどとは考えもしませんでしたが」
「彼の手紙のほかのがあったら、お見せ願えませんか?」
五、六秒のうちに、六、七通の手紙がさし出された。フレンチはポケットから拡大鏡を出して、署名を較べていたが、やがて低い音で驚きの口笛を吹いた。一つ一つを組織的に調べ終わると、彼は手紙をテーブルの上に置いて、椅子の上に反《そ》りかえった。
「われながら愚かでした」彼は断言した。「こうしてほかの手紙を見せていただかなくても、知りたいことは全部わかるべきでしたよ。その署名は偽物です。さあ、ご自身でご覧ください」
彼は拡大鏡をスホーフスに渡すと、スホーフスは代わって署名を調べ始めた。
「その筆跡の線がなめらかではないでしょう? 始めから終わりまで細かく震えています。つまり、手早く大胆に書いたものではないのです。ゆっくり書いたか、鉛筆の上をなぞったかしたものです。ほかのものの一つと較べてご覧になれば、遠くから見れば署名は同じように見えますが、実際はまったく似てもつかない代物《しろもの》です。そう、それを書いたのはデューク氏ではないのです。どうも、ヴァンデルケンプ氏は何かのいたずらの犠牲になってしまったようですな」
スホーフスは目に見えて興奮していた。相手の言葉に聞き入りながら、その結論を聞くと力をこめてうなずいた。それからオランダ語で何かしゃべったが、それが悪態であったのはよくわかった。
「大変ですよ、警部!」彼は叫んだ。「これの意味がおわかりですか?」
フレンチは鋭く相手を見た。
「どういうふうにですか?」彼は詰問した。
「でも、殺人と強盗があったばかりじゃありませんか。そこに、この事件が起こったのですよ。しかも同じ日です……何かを暗示するとはお思いにはなりませんか?」
「つまり、この二つの事件は関連があるとおっしゃるのですか?」
「あなたはどうお考えですか?」スホーフス氏はいささか焦《じ》れ気味に答えた。
「なるほど、そういえばそうですね」フレンチはゆっくりと認めた。すでに彼のすばやい頭は仮説を立てかけていたのであったが、彼はまず相手の見方を知りたかった。「つまり、ヴァンデルケンプ氏がこの犯罪に関係がある、とおっしゃるのですか?」
スホーフスは決定的に頭を振った。
「私は何もそんなことを申し上げているのではないのです」彼は言い返した。「それは私の仕事ではありませんから。ただ、奇妙だと私は感じたのです」
「いや、いや」フレンチはおだやかに答えた。「私の言い方がはっきりしなかったのですね。私たちは誰も咎《とが》めてはいないのです。ただ、真実を発見しようというだけの意味で、私的に、また友人として相談をし合っているつもりです。どんな暗示も役に立つかもしれません。この可能性を話し合うために、もし私がヴァンデルケンプ氏が犯人だと言ったとしても、私たちのどちらかがそれを本当だと信じているということにはならないのですし、むろん、すぐさま私が彼の追跡を始めるというわけでもないのです」
「私もそれは承知していますが、私はそうした暗示はいたしません」
「では、私がしましょう」フレンチが宣言した。「ただ議論の基礎として、だけですよ。では、純粋に議論だけのためにですが、ヴァンデルケンプ氏が会社の富の一部を自分のものにする決心をしたと仮定しましょう。宝石を金庫に入れる時、彼はそばにいて、何かの都合でデューク氏が向こうを向いたのを狙って、鍵の型を取るのです。ロンドンに渡って、ゲシンが事務所にいるのを発見するか、あるいは彼に妨げられて、老人を殺し、ダイヤモンドを手に入れ、逃走する。あなたはこの見方をどうお思いになりますか?」
「この手紙はどうなります?」
「でも、ちゃんと当てはまるではありませんか。ヴァンデルケンプ氏はあなたから疑問をもたれないように、またあなたがロンドン事務所に問い合わせなどなさらないように工作して、何とかこの支店を出なければならないのです。手紙を偽造するよりいい手段がありますか」
スホーフス氏はまたもや神にかけて誓った。「もし彼がそんなことをしたのなら」彼はむきになって叫んだ。「何という悪党でしょう! 警部、私はあなたが発見なさるよう、できるだけのお手伝いをいたしますよ。単なる正義、人道のためだけではなく、ゲシン老人のために努力します。あの老人を私は心から尊敬していたのです」
「あなたがきっとそういうふうにお感じになるだろうと思っていました。ところで、細かい点に移りましょう。その手紙の入っていた封筒は、ここにありますか?」
「私は全然見たことがないのです」スホーフス氏が答えた。「開封した事務員が破ってしまうものですから」
スホーフス氏は突然大きな身振りをした。
「なんと!」彼は叫んだ。「それはヴァンデルケンプ自身でしたよ。彼はここにいる時には支配人格ですから」
「では、その点では証拠は何もないわけですね。この手紙が郵便で来たとすれば、彼がいつもの通り封筒を破ってしまったのでしょうし、そうでなければ、彼が自分で手紙を事務所へ持って来て、ほかの手紙の間にこっそりと挾《はさ》んだのでしょう」
フレンチはふたたび手紙を手にした。タイプライターで打った文書は、個々にきわめて顕著な特徴があることを、経験から学んでいたので、目の前の手紙を見て、その秘密のいくつかが探れないかと考えたのである。
たしかに特色はあった。拡大鏡で見ると、nの字の曲線のところに凹《へこ》みがある。たしかに何かその活字は堅い物にぶつかったことがあるに違いない。それからgの尻尾がほんの少し欠けている。
フレンチは次に本物の手紙を調べてみたが、面白いことには、その活字も同じ欠点があるのである。だから、この偽造の手紙がロンドン事務所でタイプされたのは確かである。
彼は考えこんで坐っていた。閉じた歯の間から、無意識に、口癖になっている短い曲の口笛が洩《も》れた。偽造した手紙からもう一つ特色が発見された。文字が少し深く窪《くぼ》みすぎており、タイプライターのキーをいつもより心もち強く叩いていることを示していた。紙を裏返してみると、強く叩きすぎているから、読点や句点はほとんど紙を抜けてしまっている。本物の手紙を手にして、そんなものを探してみたが、本物の方は叩き方がずっと軽いので、読点ですら微かにしか出ていない。この点から、さらに一歩すすんだ推理ができそうだ――偽造の手紙の書き手はタイプが上手でなく、おそらくは素人であり、ほかのは専門の馴れた者がタイプしたのに違いない。フレンチは、偽造の手紙は、タイプする権限をまかせられていない人間がロンドン事務所の機械を使って作ったものだと推定して、まず大丈夫だ、と感じた。
しかし、彼に考えられるかぎり、こうした推理はヴァンデルケンプの有罪か無罪かという問題には何の光も投げなかったのだ。この手紙は誰かほかのロンドンに住む人間が出したのかもしれない。または、ヴァンデルケンプが首都を度々訪ねている間に、いつか自分でタイプしたのかもしれない。結論を出す前に、もっと資料が要《い》る。
スホーフスに会った感じからいうと、当人がようやく遠大な陰謀であると信じ始めているこの事件に巻きこまれてはいそうもない、と警部は考えた。が、彼はこうした見解を話さないまま、あくまで行方不明の外交員に関する資料を彼から吐き出させようと努めた。ヴァンデルケンプは背の高い男であるらしい。というよりは、背中をまっすぐにすれば背が高いはずなのだが、背中を丸くして前かがみになって歩く癖があったので、実際よりも低く見えたそうだ。顎《あご》ひげはきれいに剃っているが、黒い濃い口ひげを生やしている。近眼なので、つねに眼鏡をかけている。
フレンチは彼の筆蹟の見本を手に入れることができたが、彼の写真は事務所には一枚もなかった。実際、スホーフス氏はこれ以上の資料はまったく提供できないらしかったし、タイピストも給仕も少々英語ができたが、質問してみても何の収穫もなかった。
「ヴァンデルケンプ氏はどこに住んでいたのですか?」もう事務所からは何の資料も出ないと思って、フレンチは尋ねた。
この外交員は未婚らしく、おまけにスホーフス氏はハリントン以外には親類があるのかどうかを知らなかった。
彼は、キンケルストラート通りのメヴラウ・ボンディクス家に下宿していたので、そこへ二人は出かけて行った。通訳してもらわなければならない場合のために、フレンチは頼みこんで同行してもらったのである。メヴラウ・ボンディクスはよくしゃべる小柄な女性で、英語はわずかしか知らなかったが、スホーフスが質問すると、ボタンを押した電鈴のような結果になった。ものすごい会話の洪水で、彼女は二人を圧倒したのである。フレンチはひとこともわからなかったが、支店長すら意味をつかみかねるほどであった。しかし要点は、ヴァンデルケンプは彼女の家を殺人の前の晩の八時半に出た、というのであった。しかも九時のロンドン行きの汽車に何としても乗るつもりだったという。それ以来、彼女は彼を見たこともなければ、消息にも接していない。
「ですが」フレンチが叫んだ。「あなたは殺人の日の昼間の汽車で彼が横断したとおっしゃったと思いましたが?」
「彼はそうすると私に言ったのです」スホーフスは何となく狐《きつね》につままれたような様子で答えた。「はっきりとそう言ったのです。特に私の覚えていますのは、デューク氏に会った後で、多分午後の大陸列車で新たな旅行に出ろと言われるだろうし、だから前の日は昼間の旅行にしておいて、ロンドンで一晩ゆっくり寝ておきたい、という点を私に話したことです。会う前の晩に出発すれば充分間に合うだろう、と私が提案したのに答えて、彼はそう言ったのです」
「その汽車でたつと、何時にロンドンに着くのですか?」
「私は存じませんが、事務所で調べればわかります」
「あなたが来てくださるのでしたら、ここからすぐ中央駅へ行きたいのですが」フレンチが主張した。「あちらで調べましょう。しかし、ここを出る前に、あのどれかにヴァンデルケンプ氏がいるかどうか、教えていただきたいのですが」彼は炉棚の上や壁を飾っている集合写真をさした。
運よく、行方不明の外交員はその写真の一枚に写っていて、スホーフス氏もメヴラウ・ボンディクスもよく撮《と》れていると証言した。
「ではこれを貰って行きます」フレンチは写真をポケットに入れながら言った。
二人は次に中央駅へ行って、時刻表を調べた。昼間の汽車で行くとヴィクトリア駅に着くのは夜の十時五分になることがわかった。この発見はフレンチには無駄ではなかった。オーチャードはハットン・ガーデンの事務所に着いたのは十時十五分だと述べたし、それより遅くなかったはずなのは、アルコーン巡査の証言によって確実である。そのころ、死体は冷たくなっていたから、犯罪はそれより相当前に起こったに違いない。だから、昼間にアムステルダムを出発した人間があの殺人を行うことができなかったはずだ。昼間の汽車で行くと話したのは、ヴァンデルケンプが故意にスホーフスに嘘をついたのだろうか? もしそうなら、それはアリバイを作っておくつもりだったのだろうか? あの事件の晩、彼はもっと早くゲシンと秘密の約束があって、その時間に間に合うために、その前の晩に横断しておいたのであろうか? フレンチはこの疑問点こそ満足な答えを必要とすると感じ、これを発見するまでは一刻も休むまいと決心した。
新しい友人の助力を得て、行方不明の人物が、はたして問題の列車に乗ったかどうかを確かめようとして、彼は中央駅の職員に質問してみた。しかし、この点では、何の聞き込みも得られなかった。職員は誰一人としてヴァンデルケンプの格好を知ってはいないらしく、しかも時がたっているので、そうした人相の乗客を見かけたかどうか、誰一人思い出せないのであった。
その日と次の一日を、フレンチはこの魅力的な古い都会で過ごし、行方不明の人物の生活と習慣について知り得るだけ知ろうと努めた。この外交員を知っていた多くの人々と会ったが、その中には、本当に親しくしていた者は一人もいなかった。誰一人としてろくな情報を彼に供給できなかった上に、どの人もヴァンデルケンプが行方不明になろうとなるまいと、別に気にする様子もなかったのである。みんなから聞いたあげくに、フレンチは結論に達した。ヴァンデルケンプの性格はいかにも罪を犯しそうに思える、と。
だが、動機に関する証拠はほとんどなかったし、罪を犯したという証拠に到っては、全然ないのだ。
彼は夜行を利用してロンドンに帰り、彼の乗った汽船がヴァンデルケンプが旅行したはずのものと同じであることを確かめると、船員にこと細かに質問したのであったが、残念にも何の結果も生み出さなかった。
次の日も彼の努力は同じように実を結ばなかった。彼はデューク氏と情勢を相談するのにほとんど丸一日つぶしてしまった。そして、例のタイプライターを使おうと思えば使えたはずの人間の表を作ろうとしたが、一縷《いちる》の光明すら彼は得られなかった。例の手紙の書き手の正体は、ゲシン殺しの謎と同じように、まったく謎のままなのである。
例の写真をつけたヴァンデルケンプの人相書を配布してから、フレンチは家に帰ったのだが、その晩の彼はまったく心労と、やるせなさに打ちひしがれんばかりであった。しかし、彼は知らなかったのだが、この瞬間ですら、さらに一歩すすんだ情報が、彼のもとへ届けられる途中だったのである。
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五 フレンチ 旅行に出ること
その晩、フレンチ警部が夕食を食べ終わらないうちに電話が鳴った。すぐ本庁に帰れという命令である。例の事件に関する情報が入ったのだという。
希望を抱きながら、元気に家を出て、何分かの後にはふたたび自分の仕事部屋に坐っていた。そこには、つい先刻、誰かが届けて来た手紙が彼を待っていた。封を切るのももどかしく、彼は読んだ。
ロンドン市銀行 レディング支店
十二月十一日
拝啓、ある種の紙幣に関するお問い合わせに関し、イングランド銀行券十ポンド紙幣AV一七三二五八W及びNL三八六四二七Pが本日、閉店間際に当支店に払い込まれましたことを御報告申し上げます。幸い出納係が当該番号をほとんど即時に発見いたしたため、絶対確実とは申しかねますが、右の払込みをした人物は、当郡のフィツジョージ大佐と推察いたします。大佐の住所はウィンザー街道オークランズ通りで御座います。
本日午後、御地に所用ある当支店員に託し、本状をお届け申上げる次第です。敬白。
支店長ハーバード・ヒンクストン
フレンチはこの通知を受け取って大いに喜んだが、それはたちまち疑念へと変わってしまった。最初は、盗まれた紙幣のいくつかが発見されたのだから、彼の捜査にはこれ以上貴重な話はないように見えた。しかし、この札がレディングに住んでいる軍人の払い込んだものであることを考えると、この見込みのありそうな手がかりも、やはり何の進展も見せないものになってしまうのではないか、という疑惑がすぐ忍び込んで来た。明らかに、もしこのフィツジョージ大佐なる人物がその札を払い込んだからといって、彼が泥棒だということにはならないし、また彼が泥棒からそれを受け取ったということにもならない。レディングの銀行に着くまでに、その札は十何人かの手を経ているかもしれない。
しかし、いずれにせよ、フレンチのとるべき行動は明白であった。彼のとるべき次の手段は、疑いもなく、フィツジョージ大佐を訪ねることであった。
彼は鉄道旅行案内を取り上げた。そう、今晩のうちに行ってくる時間はある。パディントンを八時十分に出る汽車があるから、それに乗ればレディングには九時前に着く。
彼は巨大な建物を駆け降り、タクシーを呼びとめ、目的地まで走らせた。発車一分前にやっと間に合って、九時少し前に彼はレディングのグレート・ウェスタン駅の外でタクシーの運転手と話をしていた。
「へい、へい」男は請け合った。「あそこなら存じてやす。ウィンザー街道を十分走らせた所でやす」
暗い夜だったので、あたりの様子はよくは見えなかったが、まもなく車輪の音から、車が街道から曲がって、細かい砂利で鋪装した道を走ってオークランズに入ったことがわかった。
玄関の前に立って、彼の身体の上に大きくかぶさろうとしている家の宏大さを見ると、ここの持ち主は、さぞかしこの世の財を多く持っているに違いないのが知れた。彼の問いに答えて、年老いた立派な執事が、大きい堂々たる広間を通って、贅沢な居間に案内するに及んで、この印象は確認された。そこに執事は彼を置き去りにしたが、二、三分でふたたび現われて、主人は書斎にいてフレンチ氏にお目にかかると言っていると伝えた。
フィツジョージ大佐は長身白髪、姿勢もよく、またひどく慇懃《いんぎん》な態度の人物であった。フレンチが入ると、一礼して、松の木の薪が赤々と燃えている前の、自分の椅子の正面にある深い革張りの安楽椅子を指さした。
「寒い晩でござりまするな、警部」彼は快活に言った。「お掛けになりませんか?」
フレンチは礼を言い、訪問時間について詫《わ》びを述べてから、言葉を続けた。
「今夜うかがいましたのは、私の捜査いたしております、ある紙幣に関連してでございます。少し以前のこと、旧市内で盗難がございまして、数枚のイングランド銀行券が盗まれたのです。所有者は幸いに、銀行から紙幣の番号を教えてもらうことができました。この事件が私どもの所に報告されました時、当然のことでございますが、各銀行にそうした紙幣に注意するよう依頼いたしました。本日まで何の通知もございませんでしたが、今日の午後、閉店まぎわに、そのうちの二枚がロンドン市銀行のレディング支店に払い込まれたことがわかりました。出納係は、確実ではないのですが、払い込んだのはあなただと信じております。というわけで、私のうかがいました目的はおわかりと存じます。あの札をどこで手にお入れになったかお聞かせいただいて、私の捜査にご助力いただけまいか、うかがいにまいりました。それは二枚ありまして、両方とも十ポンド紙幣で、番号はAV一七三二五八WとNL三八六四二七Pなのですが」
フィツジョージ大佐は興味ありげに見えた。
「私はたしかに今日の午後、銀行に行って、少々預金をいたしました」と彼は答えた。「大部分は配当支払証でしたが、紙幣も何枚かありました。さて、どこであれを貰ったのでしたかな? 即座にお話しするべきなのですが、どうも自信がないのです。少々考えさせてください」
豪華な調度に飾られた部屋は、しばし沈黙の支配するところとなった。いつの場合でも疑い深いフレンチは、この新しい知り合いをひそかに見守っていたが、この人物には犯罪者のつねである例の徴候を一つも見出せない点を認めざるを得なかった。しかし彼は、外見ではものはわからない、と自分に言い聞かせながら、次に来る返事が完全に満足すべきものでない限り、殺人の夜のフィツジョージ大佐の動きを調査してみようと決心した。
「どうやら」突然大佐が言った。「あの札を手に入れた場所がわかりましたよ。決して確信があるわけではないのですが、どうもわかったような気がします。私が大いに思い違いをしているのでない限り、あれはシャモニーのボー・スジュール旅館の支配人から受け取ったものです」
「シャモニー?」驚いてフレンチは問い返した。こんな地名を聞こうとは夢にも思わなかったのである。
「さようです。この六週間、私はスイスとサヴォアに行っておりまして、二日前、正確に申しますと木曜の午後、シャモニーを出発いたしました。ジュネーヴから夜行の汽車に乗りまして、次の朝パリに着いて、昨日の水曜の午後チャーリング・クロスに着きました。今日は手紙を読んだり書いたりしまして、昼食後、配当支払証と余分の現金を持って、銀行に預けに行ったのです」
「そして、その二枚の十ポンド札は?」
「その二枚の十ポンド札は、今も申しました通り、シャモニーの旅館で受け取ったつもりです。私は予定より早く帰らなければならなくなりまして、スイスを出ます以上、外国貨幣をほんの少々残して英貨に戻そうと思ったのです。旅館ですと交換に便利ですし、おまけにカレーや船の中ですと、往々にして全部かえてもらえない場合があるのです。私がボー・スジュールの支配人に手持ちのフラン貨を英貨に換えてもらえないかと頼みますと、すぐに換えてくれたのです」
「どういうところから、その特別な紙幣が彼の手から出たとお考えになったのですか?」
「くれたのは全部十ポンド札だったのです。五枚くれました――全部で五十ポンドの値打ちのあるフラン貨を換えたので。ほかにも英貨を私が持っていたのは、事実で、またこの家にもいくらかは持ち合わせていましたが、私の覚えている限りでは、そのうちに十ポンド紙幣はありませんでしたし、みな五ポンドか一ポンドの法定紙幣でした」
これだけでフレンチは満足しなければならなかった。ほかにも色々と質問をしたのだが、それ以外には役に立つことは何も聞き出せなかった。しかし、ほかの場所でその札を受け取ったのかもしれないという口実の下に、彼は大佐の外国旅行の旅程を書き取らせてもらった。これによると、チャールズ・ゲシン殺害の晩、この旅行者はカンデアシュテークのベルヴュー旅館で眠り、次の日にゲンミ峠を徒歩で越えるのにそなえたのであった。調査が必要になった場合には、この点を調査すればいいと、フレンチは頭に入れておいた。
タクシーを待たせておいたので、ほんの少し探しただけでロンドン市銀行の出納係の住所を探しあて、時刻の遅いのもかまわずに訪問した。しかし、彼から知り得たのは、フィツジョージ大佐があの札を払い込んだという記憶だけで、銀行の支店長がフレンチに書いてよこした手紙よりは、もっと彼が確信を持っているらしい点であった。ほかに新しい資料は得られなかった。自分が記憶だけに頼っていることは認めたが、大佐が現われるすぐ前に手許の金の点検を終わったばかりであったし、あの盗まれた紙幣は絶対にその時にはなかったと言った。
レディング駅からロンドンに向かう最終列車の喫煙室の片隅に坐ったフレンチ警部は、はっきりと悲観的な気持になっており、翌朝、知り得たところを課長の前に述べる時にも、ほとんど変わらなかった。盗難にあった紙幣のうち二枚が発見された。確実に言えることは、ただそれだけなのだ。フィツジョージ大佐がそれを銀行に払い込んだということは、決して確実ではないし、彼がそれをシャモニーの旅館の支配人から受け取ったという点になってはなおさらである。しかし、大佐の記憶が正確だったと仮定しても、別にそれが大きい助けになるわけでもない。その支配人にしても、自分があの札を誰から受け取ったか述べられるということもあるまい。事実、よしんば彼が述べられたとして、何かの奇蹟によってフレンチが彼に払った人間をつかまえられたとしても、その男も犯罪には関係がないということになりそうだし、いっこう目的に近づいたことにはならないに違いない。課長に向かってフレンチの述べたことだが、この話は何から何まで大失敗だという気がしたのである。
ところが偉い人は違う意見であった。彼はフレンチ自身が別の場合に言ったのと同じ文句で答えた。
「外見では、ものはわからないぜ」と言うのだ。「君はこの見込みがはずれたので、すっかり気が滅入ってしまっているようだね。だが、行ってその支配人に会ってみれば、どんな運にめぐりあうものかもしれないよ。もしその泥棒がその旅館に泊まったとすれば、宿帳に名前を書いたはずだ。そこからも、何か手がかりが得られるだろう。いいかね、僕とても見込みの薄いのはよく承知しているが、薄くても全然ないよりはましだ」
「では、シャモニーに行くべきだとおっしゃるのですか?」
「そうさ。費用も大してかかりはしないし、何か役に立つ情報が得られるかもしれんのだ。君はあっちへ行ったことがあるかね?」
「ございません」
「じゃあ、きっと楽しいだろう。いくらか出して君の代わりに行きたいくらいだよ」
「ああ、旅行は楽しいに違いないと存じます。しかし、結果に自信がありませんので」
課長は、熱こそなけれ、親切な笑顔を見せた。
「フレンチ、君は普段はそんな馬鹿げた悲観論者じゃなかったがね。さあ行きたまえ。最善を期待して、がんばりたまえ」
フレンチはシャモニーとカンデアシュテークの位置を前の晩に調べておいた。わずかに迂回《うかい》をすれば、シャモニーに行く途中にカンデアシュテークを訪れることができることも発見していた。というわけで、彼は殺人の夜のフィツジョージ大佐の所在について気の休まるまで調べるのも一案だと決心したのである。別に彼を疑っていたわけではなかったが、確実にできるなら、しておいた方がいい。
けれども、これをやるためにはもっと資料が必要だ。可能ならば、大佐の写真と署名の見本を手に入れなければならない。まだ十時にはなっていなかったから、この二つを手に入れた上でも、午後の大陸行き列車に間に合う、と彼は考えた。
十一時半に彼はふたたびレディングに来ていた。そこで彼は汽車の中で書いた手紙をタクシーの運転手に渡して、それをフィツジョージ大佐の所へ持って行って、その返事を駅で待っているから届けてくれるように頼んだ。その手紙は、われながら不手際なものであったが、この時にはこれ以上のものは思いつかなかった。「またもや手数をかけて申しわけない」が、と新しい知り合いに詫びを述べてから、例の盗難にあった紙幣を手に入れたシャモニーの旅館の名を書いたメモを愚かにも紛失してしまったので、恐縮ながらフィツジョージ大佐がもう一度ご教示くださるならば幸甚である、と彼は書いたのである。
その手紙を持たせてやってから、彼は用件の第二部に入った。平素から観察が細かいこの人のこととて、大佐の書斎の炉棚の上に、当の紳士の写真があったのを見ていたし、それがレディングのゲール・アンド・ハードウッド写真館で撮影したものであることにも注意しておいた。運転手から、写真館の所番地を教わっておいたので、コピーを手に入れられはしないかと、そちらへ向かったのである。
この仕事は思いがけず成功であった。ゲール・アンド・ハードウッド写真館は、飾り窓にそのコピーを出していたので、五分も経たないうちに、それは警部のポケットに移された。それから駅へ戻ると、まもなく運転手が手紙の返事を持ってやって来たのだった。
こちらの方でも、運がついていた。フィツジョージ大佐はちょうどレディングヘ出かけるところであったそうだ。運転手はフレンチに返事を渡したが、その上にはしっかりした男性的な筆跡で「ボン・スジュール。B・L・フィツジョージ」と書いてあった。
写真と手紙を手帳の中にしまい込んで、フレンチはロンドンに戻り、午後二時にヴィクトリアを離れて、大陸向けの二度目の旅行に出た。彼はフランスとドイツには以前に行ったことがあったが、スイスは始めてなので、かねて聞きおよんだ素晴らしい山の光景が見られると思うと嬉しかった。
カレーで船を降り、税関を通り、レッチバーク・シンプロン急行に乗り込んだのだが、見るものすべて、生粋《きっすい》のイギリス人の目には気に入らないものばかりであった。しかし、時がたって、汽車がアベヴィルとアミアンとの間の明るい田園の中を走っている間においしい食事が供されると、彼は穏やかな気分になり、上等な葉巻と、今までにめったに味わったことのないようなコーヒーを楽しみながら、すっかり満足しきって、昼が夜へとうつろう光景を眺めるのであった。
次の朝の六時半ごろ、多くのイギリス生まれの人の先例にもれず、彼はバーゼル駅の長いプラットフォームに降りて、朝のコーヒーを飲んでいた。ふたたび汽車は走り始め、次第に興味の深まる風光の中を通り、ベルンを抜けシュピーツヘさしかかった。ロンドンにいた時、スイスで作ったポスターを見て、何度も鼻の先で嘲笑しながら、じつはひそかに感服していたトゥール湖が、本当に信じられないような色をしていることもわかった。いよいよフリュティーゲン渓谷の側のループ線を汽車はグルグルと這いまわったあげく、カンデアシュテークに停車したので、鞄を片手にプラットフォームに降り立った。「ベルヴュー」という旅館の名を帽子につけた迎えの給仕が目についた。少し車を走らせると旅館に着いた。
昼食の後で、彼は支配人に面会を求めた。支配人は穏やかな人物で、ほんの少しニューヨークなまりのある英語をしゃべった。フレンチの面会の目的は、部屋の苦情ではなかった。彼はこの時、自分が二週間しか、この旅館に滞在できないのが残念だった――一日も早く勤めをやめて、ここにやって来て、のんびりしたかった――が、なにぶん今は宮仕えの、出張中の身だ。この支配人に秘密を打ちあけてみようか。自分は探偵だと……この支配人は力になってくれるだろうか? その紳士の写真はこれなんだが。
「ああ、もちろん! そうですとも」支配人は写真を見たとたんに答えた。「フィツジョージ大佐ですよ、ロンドンにお住まいのイギリス紳士の。ここにご滞在でしたよ。ええと、二、三週間前でした。宿帳を調べてまいります」
調べてみると、大佐はこの旅館に三晩泊まって、殺人の翌々日早くたって、ゲンミ峠を越えてロイカーバートへ出かけたことがわかった。
カンデアシュテークでの用事がすんだので、律儀《りちぎ》なフレンチは、すぐ次のシャモニー行きの汽車を調べた。しかし、この日には都合のいい汽車のないことがわかり、旅で疲れたこともあったので、次の朝までそのまま滞在することに決めた。午後はこの魅力ある渓谷見物に費やし、夜は窓の下を流れる渓流の音を聞きながら眠った。
次の朝、彼は南行きの汽車に乗って、レッチバーク・トンネルの九マイルを通り抜けたあとで、レッチェンタールの寂涼たる荒野や、ローヌ渓谷の深い窪みを感服して眺め、汽車がものすごい絶壁に沿って驀進《ばくしん》するのに驚嘆した。ブリークで乗り換え、ローヌ渓谷を降り、またマルティニで乗り換えて、ヴァロルシーヌとアルジャンティエールを経てシャモニーへと、またもや四時間も汽車に揺られたのであったが、同じ客車に乗り合わせた声の鼻にかかる旅客は、これを「今までに乗った一番立派な」線だ、と言ったものである。分水|嶺《れい》を越えると、視界はにわかに開けて、巨大なモン・ブランの姿が谷間の上に空高く聳《そび》え、文字通り彼をハッとさせた。で彼は、次に休暇を貰った時には必ず、こうしたものすごい大山脈の圧倒的な風光を見ながら過ごそうと心に誓ったのであった。
シャモニーで、歴史は繰り返された。ホテルに着いて、気持よく食事をすませ、それから彼は支配人に面会を求めた。マルセル氏はカンデアシュテークの同業者と同じく、なかなか慇懃《いんぎん》な人物で、フレンチの話を注意深く聞いてくれた。しかし、依頼された問題の性質を悟ると、彼はただ頭を振って肩をすくめるだけだった。
「ああ、ムシュー」彼は悲鳴をあげた。「それはどうお手伝いしようと考えましても、無理ですな。英貨は何枚も何枚もお換えいたします……その十ポンド札をイギリスの紳士に差し上げたことは覚えております。フランス貨を英貨に換えるご依頼をうけますのは比較的珍しいことですので。しかし、英貨はしょっちゅう、いただいております。せっかくでございますが、あれの出所はわかりかねるのでございますよ」
フレンチはこう来るものとほとんど決めてかかっていたのであったが、やはり失望を禁じ得なかった。彼がフィツジョージ大佐の写真を支配人に見せたところ、相手はすぐに、それが札を両替してあげたイギリス紳士であると認めた。だが、それ以上のヒントを与えることはできなかった。
この手がかりが薄くなったので、フレンチはいよいよ宿帳を見せてもらって、ある筆蹟による記帳でも探してみるよりほかはないと決心した。しかし、その前に彼はヴァンデルケンプについて尋ねてみた。そういう名前の客が最近やって来やしなかったか?
支配人はそういう名前を覚えていなかったが、記録を全部探させてくれた。これもまた失敗であった。それでフレンチはアムステルダムで手に入れたヴァンデルケンプの写真を渡して、こういう人間を見たことがあるかと尋ねてみた。
今度は運がよかった。マルセル氏はにわかに陽気になった。「はい、はい」彼は何度もうなずきながら叫んだ。「このお方は何日もご滞在でした。二週間ほど前におたちになりましたよ。ハリスンさんはあなたのお国の中部地方の大都会の一つにお住まいですね。市の名前を伺ったのでしたが、忘れてしまいました」
「その男なんですよ!」フレンチはこの新発展が嬉しくてたまらないので、心から叫んだ。「この男を私は追いかけまわしていたのです。宿帳の記入を見せていただけますか?」
ふたたび記録が持ちこまれたが、それを見たとたんにフレンチは全面的勝利を感じた。支配人の指さした「イギリス、ハダスフィールド、J・ハリスン」というのとスホーフス氏から手に入れたヴァンデルケンプの筆蹟を較べて見たところ、疑いもなく同一の手で書かれたものであった。ではヴァンデルケンプがこの男か! こうなれば、もう彼が犯人であることには何の疑いもない。
この発見が何を意味するかをよく考えながら、しばらく彼は黙っていた。もう明白である。ヴァンデルケンプが、ハリスンなる偽名を使って、犯罪から二日目の正午にボー・スジュール旅館に到着して、一週間滞在した後に、いずこかに立ち去ったのである。しかし問題はここで終わったのではなかった。突然、芝居じみた身振りをまじえ、支配人はもっと言うべきことのあることを示した。
「あなたのお話で、あることを思い出しました」彼は言った。「このハリスン氏が私に、あの札の両替を頼んだのでした。やっと、はっきり全部思い出しました。お勘定が四、五百フランになったのでしたが、あの人はイギリスの十ポンド札で払ったのです。換算率が現在のようなわけですから、あと三百フランほどお釣りを上げなければならなかったのです。ところが、今思い出したのですが、あの人はその時にもう一枚、十ポンド紙幣を両替してくれと頼んだのです。私は両替してあげて、千フランほど渡しました。ですから可能なわけです。私は確実とは申しませんが、可能性はあるわけです」……彼は肩をすくめ、両手を広げて、この可能性に責任のあるのは彼ではなくて運命である、というかのような態度を示し、質問したげに来訪者を見上げた。
フレンチ警部は狂喜せんばかりに嬉しかった。この事実から、いよいよこの事件も解決したかのように見えた。アムステルダムで、ヴァンデルケンプを怪しく思うだけの原因を見つけたのであったが、今やここでそれを確証すべき最もしっかりした証拠が出たのである。急いで彼はこの事件で、この外交員に不利な主だった点を頭の中で数えてみた。
ヴァンデルケンプはこの犯罪を起こすのに必要な知識をすべて持っている。彼はダイヤモンドのコレクションに関して知っていたし、ロンドン事務所の事情や、そこの従業員の性格や癖によく通じていた。どう見ても裕福とはいえなかったのだから、こうした知識がごく本質的な誘惑の下地を作ったに違いない。ここまでは全般的な根拠だ。
それから、細目だ。彼をロンドンに呼び寄せる、ないしはそれに類似した工夫をほどこした偽造手紙がこの場合、必要となるはずだ。そして、そうした手紙は存在しているのだ。おまけに、それをタイプした機械はヴァンデルケンプが手を下せる場所にある。スホーフス氏に向かっては、殺人が犯された後でロンドンに着くはずの汽車で出発すると言っておきながら、じつは彼はもっと早い汽車に乗った。その汽車なら、あの犯罪を犯す時間のあるうちに着けるのだった。こうした証拠は、状況的なものには違いないが、かなり強かった。それに加うるに、ヴァンデルケンプが何の説明もなしに会社から姿を消し、殺人から二日目にシャモニーに到着し、偽名と偽りの住所を宿帳につけ、デューク氏の金庫から盗まれた紙幣のうちの二枚を払ったというのだから、訴訟事実は圧倒的に有利になる。彼の罪を信じまいとするのは不可能だった。実際、警部はこれほど明白な事件にはめったにぶつかったことがなかったのである。これでヴァンデルケンプを発見して逮捕しさえすれば、仕事は終わってしまう。
ところが、勝利の興奮のまっただ中に、彼の運がまたもや一転した。相手は一週間前にボー・スジュールを出発しているのだが、どっちへ向けて行ったのか、支配人は全然心当たりがないのである。フレンチは色々と質問したり、暗示したりして、支配人に何かを思い出させるようなことを自分が言い出すこともあろうかと望んだ。支配人はすぐに、応援するつもりで、従業員のなかで何らかの意味でこのお尋ね者と接触した者を全部呼んでくれた。そして、ここでも、彼の不撓不屈《ふとうふくつ》の頑張りが効を奏して、必要な暗示を得ることができたのであった。
従業員の全部に当ったが何の結果も得られずに、もう諦めてしまおうかと思った時、ふと彼は、今まで会った連中のうち誰一人として、ヴァンデルケンプの出発の日に彼の荷物を部屋から運び出したことを認めた者がいなかったのに思い当たった。フレンチはここで、直接的に誰が荷物を扱ったのかと尋ねた。そして一層よく調べたところ、こういう事実が判明した。
いつもの世話係が不在だったので、普段は台所の用事をしていた補助給仕が呼ばれたのである。この男はヴァンデルケンプのスーツケースの上のラベルを注意して見た、と述べた。それはバルセロナの一ホテル宛てに届けるようになっていた。彼はそのホテルの名前を思い出せなかったが、市の名前に関しては自信を持っていた。
フレンチは支配人に篤《あつ》く礼を述べ、従業員一同にチップをはずんで、給仕長の助言をかりながらシャモニーからバルセロナヘ行く準備をしたが、いよいよこれでサヴォア地方での仕事が終わったのを感じた。彼は希望を抱きながら寝につき、次の朝、早い汽車でスペインヘと出発した。
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六 バルセロナのホテル
フレンチ警部のような比較的旅行嫌いな人間は、プリマスやニューカッスルぐらいに行くのでも大旅行に感じていたのだから、ヤン・ヴァンデルケンプを追跡して南西フランスまで行ってみると、自分がその上に生を受け、その上を動いている地球というものの大きさに対する概念が新しく開け、いささか畏怖《いふ》の感に打たれてしまった。サヴォアからスペインまでの旅程は無限に続くように見え、距離は信じられないほど遠く感じられ、彼と故郷との間隔は、計測できないほど遠く思えた。何時聞も何時間も彼は汽車の中に坐っていたが、次第にニレやカシの木が見えなくなって、かわりに糸杉やオリーブの木が現われ、リンゴの木が葡萄に、小麦がタマネギに取って代わられるようになるうちに、ようやく二日目の日が暮れて夜になり、汽車はバルセロナのフランシャ駅に到着した。
シャモニーのボー・スジュールの給仕は、英語が通じるはずのホテルの名前を二、三軒書いておいてくれたので、駅から出ると、フレンチはその紙をタクシーの運転手に見せた。その男は最初は疑い深く目を見はったが、やがて意味をのみこんで、破顔一笑すると、何やらわからない言葉の奔流を口からほとばしらせながら、タクシーのドアを開け、客を中に招じ入れると、エンジンのクランクを急回転させ、夜の闇の中へ出発した。フレンチは、今まで見たことのあるどこよりも幅の広い街路にあかあかと灯がつき、真ん中にヤシの木が幾重にも立ち並んでいる所を、大変なスピードで運ばれているのだけがわかっていた。中央に記念塔のようなものが立っている、すごく大きな広場に来ると、車は曲がって、並木のあるやや狭い通りに入り、それからまもなくガクンとカーブしたと思うと、フレンチは降ろされた――東洋《オリエンタル》ホテルであった。
とてもありがたいことに、ボーイ長は英語ができ、タクシーの運転手と料金の話をつけてくれた。まもなく彼は贅沢な風呂と食事の助けをかりて旅の疲れを忘れかけた。
一日の仕事はもうこれで充分したことに決めて、葉巻を楽しみながら、彼はホテルの真ん前の、並木と明るいアーク灯に飾られた広い通りに出た。この時には彼は、この緩《ゆる》やかな坂になった大通りが、世界有数の有名な通りであるランプラスであって、ロンドンのピカデリー、パリのシャンゼリゼー、ニューヨークの五番街と等しく知られているのだとは夢にも知らなかった。一時間ほど散歩して、くたびれてしまったので、東洋ホテルに戻ると、五分か六分しか経たないうちに寝床に入って、夢一つ見ないで眠ってしまった。
翌朝早く、彼はやはり英語のできる支配人を訪ねた。しかし、この支配人も彼の部下も、何も情報を提供できなかったので、フレンチはこの東洋ホテルに関する限り、空籤《からくじ》を引いたことを悟った。そこで他のホテルを当たってみることにして、まず大きい所からと考えて、カタルーナ広場のコロンとかクァトロ・ナシオーネスなどという所に行ってみた。それから今度は小さい所をめぐり歩いて、四軒目のホテルにさしかかったとたんに、思いもかけなかった光景を見て、思わずハッとした。
このホテルは、|海岸通り《パセオ・デ・コローン》、つまり前の晩に彼が車で通り抜けた広い大通りから、ちょっと横町を曲がった所にあった。入り口の扉からすぐロビーに行けるようになっていて、そこには六人ほどが坐っていた。昼食を待っているのに相違なかった。一人を除いて、残りはみなスペイン人であることは明らかだったが、その例外こそ、フレンチは誓ってもだいじょうぶだと感じたのだが、例の写真の実物なのであった。
こうした邂逅《かいこう》こそ願っていたところなのだが、警部は不意をうたれて、思わずタジタジとした。しかし彼がためらったのは一瞬だけであった。そのままロビーの裏に続く小さい事務室に行くと、彼は英語で言った。
「昼食を食べたいのですが? すぐできる?」
眼と髪の黒い少女が出て来たが、ニコニコしながらも気の毒そうに頭を振って、わからないという意味に違いないことをつぶやいた。
「英語はしゃべらないの、お嬢さん?」警部は続けたが、大きい声で、ごくはっきりと発音した。「私の聞きたいのは、お昼を食べさせてもらえるか、それからすぐできるか、ということなんだ」
女の子がなおも頭を振り続けるので、フレンチはロビーの方を振り向いた。
「すみませんが」彼は一同に向かって声をかけた。「どなたか英話をお話しになる方はいらっしゃいませんか? このお嬢さんに話が通じませんので」
この小さい計略は成功した。ヴァンデルケンプによく似た男が立ち上がった。
「私は英語ができます」彼は答えた。「何がお望みなのですか?」
「昼食なんです」フレンチが答えた。「そして、すぐできるかどうか」
「それは私でもお返事ができるのですが」相手は、事情を少女に説明したあとで、言った。「昼食はちょうどあと五分でできますし、外からのお客はいつも歓迎しているのです」
「ありがとう存じます」フレンチは、ゆっくりした、いかにも話好きらしい口調で言った。「私は東洋ホテルに泊まっているのですが、あちらは英語のできる者が一人二人いますけれど、用事でこっちの方へ来てしまったもので、わざわざ昼食だけのためにあちらへ帰るのもおっくうなものでして……。この言葉というものはまことに厄介なものですねえ! 人に話をしようという時には、まことに弱ってしまうのですよ」
「本当です」その男は相槌《あいづち》をうった。「大きいホテルでは、たいていはフランス語と英語が通じるのですが、小さい所では何語もほとんど通じないのです。たとえばここですが、ボーイの一人がフランス語をほんの少々話すだけです。英語もイタリア語もドイツ語も、全然駄目なのです。従業員のうちには、スペイン語すら話せないのがいましてね」
フレンチはもっと大きな問題で頭が一杯であったのだが、これには興味をひかれた。
「スペイン語も、ですか?」彼はおうむ返しに尋ねた。「どういう意味ですか? では何語を話すのですか?」
「カタルーニャ語です。ここはカタルーニャ地方ですから、人種も言葉もほかのスペインの各地方とは違っているのです。こちらの人間は、もっと南寄りの地方の人間よりも、進取の気性と事業意欲が強いのです」
「そううかがうと、ちょっとアイルランドに似ていますね」フレンチが言った。「私はベルファストにも南部にも行っていたことがあるのですが、やはり同じことがいえますな。もっともダブリンは立派な町で、間違いはありませんけれど」
二人は人種の話やら言語の話やら、ほとんどどの国に行ってみても北国の人間ほど精力的な傾向が見られることなどを語り続けたが、やがて時計の針が正午を指して、昼食の時間が始まった。この時フレンチは先刻から待っていた機会をつかんだ。この見知らぬ男は一緒のテーブルにつこうと誘って来たのである。
警部はなおも愛想よくしていた。食事が終わると相手をコーヒーと葉巻に誘って、ロビーの人気のない一隅に移った。それから、もう相手も警戒をといたころだと考えて、彼は会話の途切れたのを幸いに新しい話題を持ち出した。
「世間にはいろんな職業があるものですね」彼は自分のカップに二杯目のコーヒーをつぎながら、感慨めいた口調で言った。「私は十ポンド札を賭けてもいいですが、おそらくあなたには私の素性や、何をしにここへ来ているのか、おわかりにならないでしょうな」
相手は笑った。「じつは、そのことで考えていたのですよ」と白状した。「残念ながら、私は賭けに負けそうです。全然見当もつきませんね」
「では、お話ししましょう。もっとも、原則として私どもは、自分の職業について話さないことになっているのですがね。私はロンドン警視庁の警部なのです」
こう言いながら、フレンチは相手の顔を注視した。もしこれが彼の捜索している人物だったら、何らかの感情を出させる自信があったからである。
しかし、ここまでのところでは、彼は成功しなかった。彼の新しい知り合いは、ただ笑っただけである。
「では、私は負けたはずでした。それは私にも考えつきませんでした」
フレンチはなおも観察を続けながら、いっそう真剣な態度で、話を続けた。
「本当なのです。それから、私はかなり重要な用件を帯びているのですよ。ロンドン旧市で強盗殺人を犯した男が手配されているのです。兇悪事件ですよ。この男はハットン・ガーデンのダイヤモンド商の番頭を殺して、金庫を洗いざらい空っぽにして、その何万ポンドだかわからない宝石を持って逃げてしまったのです」
フレンチの話が始まった当初は、この見知らぬ男は普通よりほんのちょっと興味あり気な様子で聞いていたのだったが、ハットン・ガーデンのダイヤモンド商という言葉を耳にしたとたんに、彼は『居ずまいを直す』という態度で、聞き耳を立てた。
「ハットン・ガーデンですって?」彼は繰り返した。「それは意外な偶然ですな。だって、私はハットン・ガーデンでダイヤモンドを扱っている店に勤めているんですから。あの辺の同業者はみな知っています。どの店なのですか?」
フレンチ警部は途方にくれた。ヴァンデルケンプ――今となっては彼が当人であることには疑いの余地もない――は、まったく身に覚えがないのか、あるいは彼はほとんど信じられないほどの名優なのか、どっちかである。この男をもっと観察したいと思って、彼はいささか肩すかしをくわせてみた。
「あなたはご存じなかったのですか?」フレンチは明らかに驚いたような尋ね方をした。「最後に本社からお便りをお受け取りになったのはいつでしたか?」
「出発して以来、何一つ便りがないし、もう三週間近くになるのですよ。正確にいえば、出たのが先月の二十五日の晩ですから」
「二十五日! いや、これも偶然の一致ですな。ゲシン老人の殺されたのは、ちょうどその晩なのですよ」
ヴァンデルケンプは急にシャチこばって、両手で椅子の肱かけを強くつかんだ。
「何ですって?」彼は叫んだ。「まさか、チャールズ・ゲシンではないでしょうな、デューク・アンド・ピーボディ商会の?」
今やまったく隠そうともせずに相手をじっと観察していたフレンチはうなずいた。
「当人です。ではゲシン老人をご存じだったのですか?」
「もちろん、知っていましたとも。だって、私のいる会社ですもの。なんと、殺されたのはゲシンさんだったのですか! それから金庫が空にされたのですって? まさかデューク氏のダイヤモンドのコレクションが盗まれたのではないでしょうな?」
「全部やられたのです、現金までも。殺人者はゴッソリ持って行ったのです」
ヴァンデルケンプは口笛を吹き、それから「|おお、神よ《オー・マイゴッド》」とつぶやいた。「くわしく話してください」
フレンチは狐につままれたような気持になった。この外交員の態度や、よそ目にもわかる感情や、質問ぶり――すべては、身に覚えのない者のそれに見えた。疑惑が頭の中に湧いて来た。何かしかるべき事情があるのかもしれない……彼はとっさには答えず、何としたら相手の隙に切り込んで真実を認めさせられるかと作戦を練った。
しかし、ヴァンデルケンプの方も明らかに考えていたらしく、もっと深い関心の色が急に顔に現われた。咳《せき》ばらいをすると、違った口調で尋ねた。「何時ごろ、事件が起こったんですか?」
フレンチはすばやく身体を前にかがめ、相手を見つめながら、低い緊張した調子で言った。「それをうかがいたいのですよ、ヴァンデルケンプさん」
その男は愕然《がくぜん》とした。彼は返事をしなかった。油断のない目つきが、深い心配に変わり、さらに刻々と深くなった。やがて、彼は口を開いた。
「警部さん、あなたの今のお言葉で、ここでお会いしたのが最初私が想像していたような偶然の出会いでなかったことが、やっとわかりました。あなたは私が犯人ではないかと疑っておいでなのですな。何が起こったのか私は知りませんし、あなたがどういう証拠をお持ちなのかも知りませんが、しかし私は絶対に身に覚えがないことは、ただ今でも申し上げられるのです。あなたが今おっしゃるまで、私はそんな犯罪のあったことも知らなかったのです。こちらの事情を全部お話ししますし、どんなご質問にも答えます、あなたがお信じになろうとなるまいと」
フレンチはうなずいた。たしかに、身に覚えがあるのだとしたら、この男は稀有《けう》の大名優だ。が、少なくとも、何も知らないのかもしれない可能性はあったから、彼はこう返事した。
「私はあなたを何の罪に問おうとしているのでもないのです、ヴァンデルケンプさん。しかし、説明を必要とする、疑わしい状況があるのです。あなたの説明で、全部が氷解するかもしれません――私はそう希望しているのですが。同時に、公平であるために警告しておきますが、説明できない場合は、あなたを逮捕することも不可能ではないのですし、その時にはあなたが今おっしゃることはすべて、あなたに対する証拠として使われるかもしれないのです」
ヴァンデルケンプはこの時、おそろしく不安げであった。顔色は蒼ざめ、表情は早くも苦悶《くもん》に気味悪くゆがんでいた。しばらくの間、考えこみながら黙っていたが、急にどうにでもなれといったような身振りをすると、彼はしゃべりはじめた。
「知っていることを申し上げます、警部さん」彼は熱心な顔つきで言った。「あなたが私を逮捕なさるのか、これからお話する私の行動が賢明なのか愚かなのか、私は何もわからないのです。けれど、少なくとも私は保証しますが、これは文字通りの真実なのです」
彼は警部を見た。警部はわが意を得たりとうなずいた。
「もちろん、私はあなたにどうせよと忠告する立場にはないのです、ヴァンデルケンプさん」彼は言った。「しかし、やはり、私はあなたが賢明なことをしておいでだと思っているのですよ」
「私は困っているんです」ヴァンデルケンプは続けた。「状況のうちのどれだけをご存じなのか知らないので。ですから、あなたから質問してくださった方がいいでしょう」
「質問はしますが、まずあなたの陳述をうかがいたいですな。私はあなたの名前と会社での地位は知っています。それから先月の二十一日にスホーフス氏の所へ手紙が来て、スウェーデンで大切な用件を果たしてもらいたいからあなたをロンドンによこすように、という命令があったのでしたな。それから、あなたがキンケルストラートの下宿を二十四日の晩の八時三十分に出られたこともわかっています。それから後のあなたの行動についても色々と知っているのですが、それは目下のところ、お話しする必要はないでしょう。あなたにただ今していただきたいのは、下宿を出られた瞬間から現在までにご経験になった事がらの詳細なのです」
「かしこまりました」ヴァンデルケンプは早く片づけてしまいたいかのように、熱心な口調でいった。「しかし、時間の点から考えて、先にお話ししなければならないことが一つあります。多分もうデューク氏からお聞きおよびのことでしょうが、とにかく私からもお話ししておきます。それはロンドン行きの件に関する、追加の指令なのです――秘密の指令です。その写しをご覧になりましたか?」
フレンチはいつも慎重だったから、知っているともいないとも答えなかった。相手が何のことを言っているのか怪訝《けげん》には感じたけれど、ただこう答えた。「まだ私が見ていないと仮定してください、ヴァンデルケンプさん。私の持っている資料であなたの陳述を調べなければならないのは明白ですから」
「では、すでにご存じと思いますが、ロンドン行きに関して追加の指令が来たことを申し上げておきます。デューク氏が下宿宛に私信をよこして、こういって来たのです――が、ここに手紙がありますからご自分でご覧になってください」
彼は手帳の間から封筒を取り出して、相手の方に押しやった。それにはスホーフス氏の受け取った偽手紙と一見ほとんど同じような紙片が入っていた。それは社名入りのもっと安っぽい便箋《びんせん》にタイプしてあって、同じ色のリボンで打ってあった。拡大鏡で調べてみると、nとgには同じような欠点があり、署名は明らかに偽筆で、紙の裏は叩き方が強すぎるので飛び出している。明らかにこの手紙は両方とも同じ人物がハットン・ガーデンのタイプライターで叩いたものである。文面はこうなっていた。
ヴァンデルケンプ君――本月二十六日水曜の朝に君に来てもらう件でスホーフス氏宛に出した手紙の追加だが、君に会いたかった用件は、最初小生が思っていた以上に緊急を要することがわかったので、君との会見の時間を早め、またその直後にロンドンをたってパリヘ――ストックホルムでなく――行ってもらわなければならない。二十五日火曜の晩、小生は夕食後また事務所に戻るから、君が午後八時三十分に来てくれるなら幸甚である。そこで指令を出す。そうすればサウサンプトンとル・アーヴル経由の線で九時三十分のパリ行きに間に合うであろう。
問題の取引はきわめて内密を要するから、予定変更の件は誰にも言わないでもらいたいことを念のため申し添える。早々。R・A・デューク
フレンチ警部は大いに興味を感じたが、この手紙が証拠物件としていかに不得要領であるかがわかるにつれ、癪《しゃく》にさわってたまらなかった。ヴァンデルケンプに郵送されたのならば彼は無罪なのだが、彼が自分で書いたのであったら、たしかに彼は有罪なのだ。この場合には封筒がついていて、ちゃんとロンドン東中央局の消印があり、日取りも正確であったが、この点もこの封筒に本当にこの手紙が入って来たのかどうか、証拠はないのである。こういう点が警部の頭をかすめたが、後でゆっくり考えることにして、ひとまず頭から追い払って、ふたたび相手の方に向き直った。
「差しつかえなかったら、この手紙は預りますよ」彼は言った。「続けてください」
「私は手紙の中の指令通りにしたのです」ヴァンデルケンプは続けた。「時間が変更になったので、私はアムステルダムを二十四日の夜汽車でたち、次の日はロンドンのホテルと芝居の昼興行の見物で過ごしました。八時半に、鞄をさげたまま、ハットン・ガーデンに着きました。外の事務室は真っ暗でしたが、奥の部屋の扉の所から光がさしているのが見えました。ゲシン氏が一人で中にいました。私に中に入って扉を閉めるように言ったので、私はその通りにして、客用の安楽椅子にかけました。ゲシン氏はデューク氏の机の前に坐っていましたが、机の蓋《ふた》は開いていました」
「金庫は開いていましたか?」
「いいえ、私のいた間はまったく一度も開けられませんでした。ゲシン氏の言うには、私に直接に指令するためデューク氏が来るつもりだったが、直前に来られない事情ができたので、ゲシン氏は代わりを頼まれたということでした。デューク氏はコンスタンティノープルにいる信ずべき周旋人から、一人のロシアの旧貴族が家宝の宝石を持ってボルシェヴィキの監視から脱出したことと、その貴族がコレクションの全部を金にかえたがっているという知らせを受けたらしいのです。この貴族はかつてはセルゲイ大公といい、ウラル地方の一つに領地があったのです――その地名は二階にある手帳に書いてあります――が、今はポーランド人と称し、名前をフランツィスコ・ロートといっているのです。そのコレクションは素晴らしく立派なものでして、デューク氏は、実際の値打ちの三分の一、ないしはもっと安く買えると信じていました。彼はその周旋人を通じて大公に近づいて、取引を申し出ました。しかし、困ったことにソビエト政府が大公の逃走を知って、逮捕するためにものすごい精力を費やしていました。大公のスパイたちは全ヨーロッパをくまなく探しまわっており、ロートは、見つかれば必ず死刑になるので、縮みあがっていたのです。ゲシン氏は隠さずに私に言ったのですが、もし私がそれを買い上げるのに成功した暁《あかつき》には、うまく品物を届けてしまうまでは、いつ何どき殺されるかわからない、というのです。こういう危険があるので、デューク氏も私の手数料を相当に増さなければいけないと考えていたそうですし、第一、この仕事を私が引き受ける気があるかどうか、と彼は私に尋ねたのでした」
「で、承知したのですか?」
「さて、どうお考えです? もちろん私は承知しました。もっと詳しい点を尋ねますと、彼は話してくれました。私自身とロートの身の安全のために、私は異例の用心をしなければなりませんでした。私の名はヨーロッパじゅうの同業者によく知られています。ソビエトのスパイにも知られているでしょうから、偽名を使うことになり、ジョン・ハリスンというハダスフィールド出身のブリキ製造業者になりすましました。通信は事務所に直接に出していけないということで、何か知らせなければならない時には、ハムステッドの家の近くに住んでいるデューク氏の友人のハーバート・ライオンズ氏に宛てることになりました。書く場合にも、文面によほど注意して、万一私が目をつけられ、手紙が盗まれたような場合でも、内容が洩《も》れないようにしなければいけないというのです。私宛の指令はハリスン宛に送られ、社名の入っていない紙を使い、やはり同じような注意深い文面になるわけです。ゲシン氏は交渉が成立した金額を打電する場合の暗号表もくれました。金は特別の使者が届けるのです。もちろん、それは条件が折り合った場合の話です」
ヴァンデルケンプは口を休めて警部の方を見たが、何も言わないので、また続けた。
「元セルゲイ大公のロートは、コンスタンティノープルに隠れていたのですが、西へ来ようと試みていました。陸路がいいか海路がいいか、決しかねていました。陸路でトルコから出られれば、ドナウ河をさかのぼって、オーストリアからスイスに抜け、シャモニーのボー・スジュール旅館にたどり着こうというのです。もしそれが不可能とわかれば、海に道をとって、|全イタリア海運会社《ナヴィガツィオーネ・ジェネラーレ・イタリアーナ》のどれかの汽船でジェノヴァヘ来て、そこからバルセロナヘ行き、そこでゴメス・ホテル、つまりここに投宿しようというのでした。コンスタンティノープルの例の友人を通じて、彼はもし四日までにシャモニーに現われない場合は、ボルシェヴィキに捕えられたか、あるいはバルセロナヘ行ったかのどちらかであることを、デューク氏に知らせておいたのです。ですから、私に対する指令は、まずシャモニーへ行って、四日までボー・スジュールに泊まって、背の高い、皮膚の白い、髪の黒い男でフランツィスコ・ロートというのが現われるのを見張れというのでした。もしこの日までに彼が現われないなら、私はここへ移ることになっていました。私はここで二週間待機して、彼から何の消息もないようだったら、コンスタンティノープルまで足をのばして、デューク氏の手先に会い、ロートの運命に関する情報を求めることになっていたのです」
「そしてあなたはその指令通りにしたのですな?」
「そうです。私はシャモニーに行って、一週間いました。それらしい男も現われないので、ここに来て、それ以来ずっと待っていたのです。明日はいよいよコンスタンティノープルヘ出発するつもりでしたが」
フレンチは短くなった葉巻を捨てて、新しいのを選んだ。
「そうした旅行は金がなくてはできませんな」彼はゆっくり言った。「そっちの方の用意はどうなっているのですか?」
「ゲシン氏が十ポンド札で百ポンドくれたのです。シャモニーで二枚崩しましたが、八枚は現にポケットに持っています」
「見せてください」
ヴァンデルケンプはすぐ出したが、果たせるかな、その八枚の紙幣は金庫から盗まれたものの一部であった。警部は質問を続けた。
「あなたは、八時半ごろハットン・ガーデンの事務所に着いた、と言いましたね?」
「そうです。そして九時ごろ出ました。用談は三十分ぐらいしかかからなかったのです」
「そしてあなたはゲシン氏以外の誰にも会わなかったのですか?」
「ええ、誰にも」
フレンチは葉巻をもう一本出して、将来自分が逮捕するかもしれない男に渡してから、黙って坐ったまま考え込んだ。脱出したロシア人の話が、始めから終わりまで嘘であることは疑いもなかった。おまけに、話自体がありそうもない上に、作者の点で崩れている。ヴァンデルケンプの言い分だと、ゲシンはその話をデューク氏から聞いたのであって、不慮の原因で妨げられなかったなら、デューク氏自身が現われて、自分の口からヴァンデルケンプに話すはずだったのである。これも明らかに作り話であるが、これを話の中に挿入した理由は充分に明らかである。それがないと、話に権威がなくなってしまう。重役のデューク氏の名前を使うのが、そうした策謀の主要な部分であるのは、デューク氏の署名の偽造がスホーフスやヴァンデルケンプヘの指令の手紙に必要だったのとまったく同じ理由なのだ。
しかし、ここまではフレンチは自分の拠《よ》りどころの確かな点に自信があったが、ここから一歩前進しようとすると、偽の手紙に関して直面したのと同じ困難が横たわっているのであった。ゲシンが悪人であって、ヴァンデルケンプに嫌疑《けんぎ》をかけようとして、こんな手のこんだ計画を立てたのであろうか、それともヴァンデルケンプが犯人で、この物語というのが殺人事件以後の彼の動きの辻つまを合わそうという計略なのであろうか。この点はまことに難問で、フレンチは坐りこんだまま考え続けた。何か試してみる方法がないだろうか、何か確かめる手段はないものか、どうしても抜けられないような陥穿《おとしあな》はないものだろうか。
しばらくは何も考えつかなかったが、やがて試みるだけの値打ちのありそうな一案が頭に浮かんで来た。偽の二通の手紙のタイプの仕方から、何か材料が生まれるかもしれない。ヴァンデルケンプはタイプができるのだろうか。もしできたら、彼は軽く叩くであろうか、それとも強く叩くであろうか。彼は相手に向き直った。
「犯罪の晩のあなたのロンドンでの動きを手短かに文章にしてくれませんか。いろんな所へ着いた時間とそこを出た時間を入れて。できたらタイプして欲しいのですが。タイプはできますか?」
ヴァンデルケンプは力なく微笑した。
「できます」彼は答えた。「私はタイプも速記も四ヵ国語でできるのです。ですがタイプライターを持っていませんが」
「事務所でお借りになるといい」フレンチは相手の能力をほめてから、提案した。
それには自分で出向かなければならなかったが、ヴァンデルケンプは警部の気まぐれに敬意を表して、事務所を牛耳《ぎゅうじ》っている眼の黒い、もの憂《う》げな美人の疑惑をなんとか克服し、やがてタイプライターを抱えて得意然と帰って来た。十分後、フレンチは望みの時間表を手にした。
すぐにわかったのは、ヴァンデルケンプのタイプ操作の老練さであった。軽く正確に叩くから、印字は完全だが紙を凹《へこ》ますようなことはない。その点で、この男に有利であった。どんな意味でも決定的ではなかったが、しかしまた、決しておろそかにはできない。
フレンチ警部は当惑した。経験から考えれば、この世の中に起こることはすべて、ごく普通の、自然で、明白なものである。犯罪の起こったとおぼしい時刻に、犯罪の場所をひそかに訪れた人間が、その後不思議な、ありそうもない指令――しかも指令を発したと称される当人が事実を否定している――を帯《お》びて国外に出て、ポケットには犯罪の現場から盗まれた紙幣を持っていれば、こういう男は、普通の散文的な日常生活では、犯罪者なのである。こういうのは常識だ、とフレンチは思った。そして、常識は百のうち九十九までは正しいのだ、と彼は考えた。
しかし百番目の機会というものも、常にある話だ。ありそうにもないことも、偶然の符合も、時として≪事実≫起こることもありえる。もしこの場合、法則を証明する例外であることがわかるならば、彼は即座にいくらでも出したであろう。
考えてみると、自分の考えた第二の説明も、幾分こじつけ気味ではあっても、やはり、はっきり真実の可能性をもっているではないか。ヴァンデルケンプの方が欺《だま》されているのかもしれない。彼が招いている嫌疑をいっそう彼の方に引き寄せ、実際の犯跡がくらまされるようにと、殺人者の手でこんな根も葉もない目的の追及に誘い出されたのかもしれない。事実のうちには、そっちの方向を指しているものも、かなり多い。偽の手紙、その取引をスホーフスに隠している点、どっちの会合場所にもロシア貴族が現われなかった点、偽名で旅行する点、事務所に通信してはいけないという点、それから最後に挙げるが、重大さは他の諸点にまさるとも劣らないこの会見中のヴァンデルケンプの態度。こうした事がらは、この外交員が途方もなく大きい偽の手がかりを補強するために使われた、とする見方を疑いもなく支持する。
もしそうなら、何という非道な罠《わな》をこの不運な好人物のためにしかけたものだろう。どういう結果をもたらそうとして意図されたのか、フレンチはわかるような気がした。ヴァンデルケンプはこういう不思議な旅行に出ているうちに――コンスタンティノープルに住むデューク氏の周旋人の所へ着けば確実に――殺人の話を知り、すぐに自分がどんなふうに利用されていたかを悟るに相違ない。詳しいことを知れば知るほど、いかに完全に陰謀にひっかかっていたかを悟るであろう。イギリスに帰って、話をしてみたところで、濡れ衣《ぎぬ》を晴らす見込みが到底ないことがわかって、見せかけの逃避行は本物になり、罪を無言のうちに承認したことになって、未来|永劫《えいごう》帰れなくなってしまう。じつに見事にたくらんだ陰謀である。はたして彼のした不思議な行為がこの説明通りであったとするなら、これを考案した人間の性格や頭脳の力もおのずと察することができるわけだ。
どっちが本当なのか、フレンチは決めかねていたが、全体から見て、この外交員の逮捕と引き渡しを要求してもいいだけの証拠を疑いなく握っているとは考えていたものの、もしできたらそれは避けたいと思った。この男が逃げようとしても、地元の警察がすぐ捕えるに違いない。で、彼はもう一度ヴァンデルケンプの方に向き直った。
「ヴァンデルケンプさん」彼は始めた。「私はあなたのお話を信じる方に強く傾いているのです。しかし、あなたも世馴《よな》れた方だからすぐおわかりでしょうが、全幅の承認をするためにはもっと完全に吟味しなければならないのです。ところで、問題は、あなたが私と一緒にロンドンに帰って、事実の探求に手をかしてくださるか、という点です。イギリスに着いたとたんにあなたが逮捕されないと約束はできないのですが、公正な取り扱いをあなたがうけ、無罪を証明するあらゆる機会と助力を与えられるようにする点はお約束できるのですが」
ヴァンデルケンプは少しもためらわずに答えた。
「行きましょう」彼は即座に言った。「あなたがなさろうとすれば、スペインの官憲にお申し出になって、ここで私を逮捕できることはわかっているのです。ですから、私には好き勝手は言えないのです。ですが、どうあろうと私はやはり行くべきだと思います。私は何も法に背《そむ》いたことはしていませんし、何も恥ずベきことはしていないのです。私は無罪が証明されるまでは気が休まりません」
フレンチは真面目にうなずいた。
「もう一度申し上げますが、あなたは賢明なことをなさっていらっしゃるのですよ。今夜のパリ急行で行きましょう。それはともかく、これから私と一緒に郵便局まで行ってくださらんですか。本庁に電報を打ちたいので」
翌々日の朝、二人はロンドンに着いた。もとよりデューク氏は部下の物語を聞いて呆れかえったが、証言を聞くと、ヴァンデルケンプは、誰かはわからないが一人ないし数名の人物にうまく操《あやつ》られたに違いないという意見であった。もっと都合のいいことには、フレンチの直属の課長であった主任警部ミッチェルもそれと同じ見方をとったので、日夜尾行がつくことにはなったが、ヴァンデルケンプは逮捕されなかった。フレンチは彼の私行と暮らし向きを調査してみたところ、正当とされるにはいささか暗い点が出て来たのだが、この犯罪に関する証拠は何一つ出てこなかった。おまけに、例の宝石は何一つ彼の身辺からは現われなかったし、自分で述べた分以外、例の盗まれた紙幣も出てこないのであった。
ふたたび、何も新しい事実が現われないうちに、何日かが過ぎた。時のたつにつれて、フレンチはますます心配と憂欝に襲われ、彼の上司はますます口やかましくなった。そこに、ある件が起こって、彼の注意をまったく従来とは違った面に向けさせ、彼は新しい希望と精力とをもって、この新たな手がかりを追求し始めたのである。
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七 結婚式について
フレンチ警部は事件の捜査中、本当に行き詰まってしまうと、いつも事件の状況を細大洩らさず逐一《ちくいち》細君に話して聞かせるのを常としていた。気の毒に、細君は大好きな家事という神秘的な仕事から引き離され、よんどころなく縫い物を片手に、ソファの片隅につつましやかに腰をおろすと、彼女の主人であり夫であるフレンチは、部屋をあちこち歩きまわりながら、自分の前提を述べ、それを基にして、無情な論法を使って、身ぶりもまじえて事実を検討し、類別し、さらに言い換えるといったふうに論じ立てるのである。時々は彼女が意見を述べるが、述べない時もある。たいていは、ピアノの脇の小テーブルをひっくり返さないようにと良人をたしなめながら、絨毯《じゅうたん》のすり切れている所ばかりを歩かなければいいのに、と心で願っている。しかし、彼の言うことにはよく耳を傾けていて、おりにふれて意見を出した。彼によれば、「気まぐれを思いつく」のだ。そして、一度ならず、こうした気まぐれは当面の問題に対して、まったく新しい光を投げかけた。少なくとも二つの事件では捜査の線を指示し、これが元になって、奇怪な事件がついに解明されたのであった。
スペインから戻って二日目の夜、警部は「ハットン・ガーデン事件の概要」と称して、長広舌《ちょうこうぜつ》をふるって、細君に耳の保養をさせていた。彼女はいつになく熱心に耳を傾けていたが、やがて彼女が気まぐれを思いついたのを彼は知った。
「でも、その気の毒な老人が、悪気があって何かしていたとは私には思えませんね」彼女は言った。「死んだ人をそんなに悪く考えたりして、気の毒じゃないの」
フレンチは部屋じゅうを歩きまわっていたのをやめて、振り返った。
「でも、私は悪く言っているのではないのだよ、エミリ」背後から不意に攻撃されたのにいらだって、彼は抗議した。「私はただ、鍵の型を取ることができたのは彼しかいなかった、と言っているのだ。もしそうなら、彼は金庫から盗む気でいたのだよ」
「でも、私はあなたが間違っていると思いますわ」彼女は彼の論法にも負けない無情な調子で断言した。「金庫から盗む気だったのなら、あなたが説明なさったような人間ではないはずだし、もしあなたの説明なさったような人間だったのなら、金庫から盗む気なんか持ち合わせていなかったはずよ。私はそこを考えているのよ」
フレンチはいささか怯《ひる》んだ。最初から認めていた難点ではあったが、今までそう重大とは考えていなかったのである。ところが今、例によって、徹底的な、非妥協的な、歯に衣《きぬ》着せぬ細君の言葉で浴びせられると、にわかに決定的なように感じられて来た。彼女の言ったことは本当である。ここに矛盾があったのだ。もしゲシンが知人たちが口をそろえて言ったような人格者であったなら、泥棒根性などは持ち合わせていなかったはずだ。
セカセカ動きまわるのをやめて、テーブルの前に腰をすえると、彼は手帳を開いて、今は亡《な》きあの男について実際に調べあげた資料を吟味し始めた。そして、吟味すればするほど、細君の言う通りに違いない。これだけ大勢の証言者たちが全部、驚くほど目がないのでない限り、ゲシンは潔白だったのだ。
彼はこの両刀論法のもう一方に考えを戻した。もしゲシンが潔白だったのなら、鍵の型をとったのは誰だろう。銀行で保管してある方からとったのではないのだから、デューク氏の所持している方から型を取ったのに違いない。誰の仕業《しわざ》だろう。
事務所の者ではない。少なくとも、デューク氏の目がよほど狂っていない限り、この点は間違いはない。そして彼は、この点で社長が判断をあやまっていたとは信じなかった。いつもの習慣を変えた時があったとしたら、これほどことが重大なのだから、気もつけば思い出しもするはずである。いや、フレンチはこの点はデューク氏の陳述を信頼してもよかろうと感じた。
しかし、家の者が鍵をいじったはずがないと断言した点については、かなり根拠が弱いのを警部は見てとった。事がらの性質上、このダイヤモンド商は家庭の雇い人たちに対する時は、事務所の連中に対する時よりも目を光らせてはいないはずである。気の許せる人たちだと信じているから、潜在意識的に、このくらいの慎重さで充分だと気やすく考えてしまうに相違ない。家の者が鍵をいじるはずがない、とデューク氏は信じきっていた。それで誰もいじったことがないと述べてしまったのではなかろうか?
このあたりに何か見落とした点があるかもしれない、とフレンチは感じ始めた。人間というものは妙なもので、そうした結論に達したとたんに、彼は自分の過誤を埋め合わす方法を考え始めた。
最初、彼はデューク氏に肚《はら》を打ちあけて、何とかうまい口実を作ってもらって、家の中に入ろうかと考えた。だが、やがて、あの老紳士にはこの計画は何も知らせない方がいいのを彼は悟った。うっかりと、犯人かもしれない人間に警告を与えてしまうことになるかもしれない。
同じ理由から――デューク氏に感づかれるとまずいから――この仕事を自分でやらないほうが賢明だろうと決めた。ちょうどこの仕事にお誂《あつら》えむきの人間を知っている――ペトリック・ノーランという名の巡査部長である。この男は一種のドンファンで、女性の信用を得ることにかけては珍しい才能を持っていた。あの家の女中たちに、ちょっとしたきっかけさえできたなら、ほどなく彼女たちの知っていることはみな聞き出してしまうだろう。
で、翌朝、ノーラン巡査部長を呼んで、自分の案を説明した。ノーランは上司に対してはあまり口を利かない男だったので、「わかりました」と言っただけで、さがって行った。
次の日、彼は第一報をもって戻って来た。腕のある職工といったような服に着かえ、小さい道具袋を手に、電灯の配線を点検に来た電気会社の者と称して、デューク邸を訪れたらしい。
令嬢はたまたま外出中で、扉を開けたかなり器量のいい女中が、来訪者の行儀のいいのが気に入って、ためらわずに中に入れてくれた。彼は家じゅうを歩きまわったが、とくにデューク氏の寝室に注意した。正午になると、彼は持参のスープの缶を台所で温めさせてくれと頼み、それが聞き入れられたから、これをいい機会と話しこんで、辞去するまでには、その器量のいい娘の次の休暇に、夕食と映画見物に連れて行く約束をとりつけた。
「一度きっかけをつかめば、先方の知っている限りのことは聞き出してしまいます」彼はこう結んだ。「もっとも、たいした話ではないでしょうが」
「今までのところは成功だね」フレンチは認めた。「だが、実際には何を聞き出したのだね?」
「その、最初は家族についてです。小人数なのですな。父娘二人暮らしなのです。シルヴィア嬢という娘と。母親は生きているのですが、精神病院に何年も入院したっきりで、何でもとうてい回復の見込みはないそうです。シルヴィア嬢は感じのいい令嬢で、好かれています。それはレーチェルの――その女中の言葉なのですが。それから、雇い人たちです。このレーチェルと、もう一人の女中のアニーと、料理女のセーラと、それからマンリという名の運転手がいます。この男には会いませんでしたが、女中たちは大丈夫のようで――とにかく、宝石の入った金庫の鍵を狙うような手合いではありませんでした」
「どんなふうな家だね?」
「かなり大きな家でして、家具なども買った時は相当なものだったでしょう。今は少し古ぼけていますが。デューク氏の寝室は左の端にあり、令嬢のは家の正面ですから、誰でも人に見られずにデューク氏の部屋に行けます。風呂にでも入っている時など、部屋に置きっぱなしにしておけば、誰にでも鍵の型は取れるのです」
「何か可能性でも見つけたかね? 君のような職人が入っているとか、誰か滞在客でもあるというような?」
巡査部長は頭を振った。
「見つけられませんでした」彼は認めた。「一日分にしては少しやりすぎたような気がしましたので。みなに不審に思われて、ついてまわられては困ると思ったのです。しかし、その点は明日の晩、レーチェルから聞きだせます」
「運転手のマンリに会ったほうがいいな――いや、僕が自分で会おう。君は今の件を続けたまえ。ほかに何か?」
「いえ、ないです。女中たちが一番しゃべったのはシルヴィア嬢の婚約の話でした。何でも旧市内に住む友人と婚約していて、月末には結婚式を挙げるはずになっていたのを、何だかうまくいかないことがあって、延期になってしまったのだそうです、破談ではなさそうですが」
「そうかね? その理由はしゃべらなかったかね?」
「しゃべりませんでした。しかし、ご希望でしたら、おそらくレーチェルから聞き出せるでしょう」
「いや、それには及ぶまい」フレンチが答えた。「しかし、できたらやってみてもらってもいいな――やまをかけて。相手の青年が誰だか知っているかね?」
「いいえ。女中たちがしゃべりませんでしたので」
フレンチは手帳を出した。
「僕のほうが君よりずっと知っているらしいな」彼はつぶやいた。「デューク氏の事務所の事務員でね、ハリントンという名なんだ――スタンリー・ハリントンだ。殺人の翌日、事務所でほかの連中と一緒に会ったが、婚約の話をしていた。あのころは何の支障もなかったらしい。いつ延期にしたのかな?」
「それも何とも言いませんでしたが」
「では、それも聞き出してくれたまえ。今のところは、そのくらいでいい」
その晩フレンチは失業中の機械工といった変装で、デューク氏の家の近所をうろついていたが、やがて老紳士が事務所から車で帰って来るのが見えた。一時間後、彼は車庫から出て来た運転手のあとをつけて、エスタ街道をはずれた狭い横町にある一軒の家に入ったのを見届けた。そこでフレンチはものの一時間もねばったであろうか、やっと待ったかいがあって、当の相手がふたたび外に出て来て、往来を下って、「薔薇《バラ》とアザミ」という酒場の中に姿を消した。じつは、これを警部は狙っていたのであった。彼は三、四分おくれて中に入った。
近づきになるには何の苦もなかった。フレンチは失業中のモーター修理工という触れ込みだから、どんな運転手とでもすぐ話ができた。ビールを二杯も飲むうちに、まずこの付近で勤め口がありそうかどうかと尋ね、次に、上手に話を持ちかけたあげく、この新しい友人の仕事やデューク家の内輪の話などを色々と聞きこんだ。しかし、怪しいと思う点もなければ、興味をそそられる件も一つもなかった。おまけに、その運転手ご当人というのが、正直な、毒のない男で、金庫の合い鍵を作ろうなどという企《たくら》みに自分から関心など持ちそうにもない、鈍い人柄であった。
この日一日は調査ははかどらなかったが、やがてノーラン巡査部長が持って来たある報告を聞くと、警部の思索はさらに別の溝《みぞ》に入ってしまった。ノーランは例の器量よしの女中レーチェルをまず映画に連れて行き、それから流行《はやり》のレストランで夕食をおごったらしい。この娘は、巡査部長の言葉をかりれば、「弁才」があったので、時々うまく話題を投げれば、たちまちにして適切な情報がいくらでも耳に入るのであった。
まず彼は、晩か朝早くデューク氏の居間に入った者がないかどうか確かめた。すると、すぐにわかったことだが、彼自身が訪ねる前には、もう何ヵ月も職人たちは家に来たことがないのであった。おまけに、滞在した客といえば、デューク嬢の婚約者スタンリー・ハリントン氏が唯一の人物であった。当時この若い二人は、付近の素人劇団の、ある劇の稽古に夢中であったが、演劇会の前の四晩は、デューク嬢が婚約者の往復の時間の無駄を言いたてて、家に泊まらせてしまった。これは殺人の一ヵ月ほど前の話で、ハリントンはデューク氏の寝室の真向かいの部屋で眠った。だから、もし鍵が居間に置いてあったなら、ハリントンなら楽々と必要な型がとれたはずである。
ノーランは言葉を続けて、今度は結婚式延期について聞き出したことを語った。それを聞いてフレンチはこれこそ大いに考える値打ちがあると感じた。どうやらその延期は、原因が何であろうと急に発生したらしく、それは殺人のあった翌日のことであったようだ。
犯罪のあった晩、レーチェルの言葉によれば、デューク氏は家で食事をしなかったが、ハリントン氏はやって来た。彼とデューク嬢は一緒に食事をしたが、そのころは何もかも調子がよかった。二人は食後おそろいで出かけた。十時ごろ、デューク嬢は家に帰って来て、そのまま寝てしまった。だから、あの晩デューク氏が事務所に出かけたことを、おそらく彼女は知らなかったのであろう。次の朝、彼女は父親と一緒に朝食をとった。この時に例の悲劇の話を聞いたのであろう。しかし、朝食が始まって、ものの五分とたたないうちに、彼女は部屋から抜け出して、電話をかけた。そしてデューク氏が家を出るとすぐ、彼女は着かえて、あとを追った。約二十分ほど家にいなかったが、帰るや否や、頭痛がすると言って寝室に入って、一日じゅう出てこなかった。用があって、レーチェルが入ってみると、彼女はベッドに横になっていたが、一日じゅう部屋の中を歩きまわっている足音が聞こえたところから、女主人の病気というのが、肉体的より精神的なものであったに違いない、というのが彼女の意見であった。
その日の午後四時ごろ、ハリントン氏から電話がかかって来た。デューク嬢は自分の居間で彼と会ったが、会見の間に何かひどい口論でも起こったに違いない。半時間ほどでハリントン氏は帰って行ったが、その時にドアを開けてやったレーチェルが言うには、彼はまるで死刑の判決でも受けたようなありさまだったそうだ。顔には強い当惑と苦痛の色をたたえ、何かものすごい災難に呆然とした、夢の中の人間のように見えた。いつも帰る時には陽気な調子で女中に声をかけるのであったが、この日に限って彼女の存在にも気がつかないかの様子で、目の見えない人間のようにとまどいながら家を出て、打ちひしがれたような足どりで帰って行った。
その午後遅く、彼女はデューク嬢の姿を見たが、目を赤く泣きはらしているのだった。それ以来、令嬢はまったく別人のようになってしまった。口数が少なくなり、憂欝になり、陰気になった。痩せて、老けて見え、何も食べなくなった。何とかしなければ、今に身体がもたない、とレーチェルは言った。
フレンチ警部はこういうことを聞いて、少なからずも驚いた。チャールズ・ゲシンの殺害と結婚式の延期との間に関係があるとは信じ難かったが、しかし聞いてみれば、そうした事実はほとんどその方向を指さしている。
デューク嬢が朝食の時に父親から事件について始めて聞いたとしたら、電話をかけたのはこれを知ったためなのだろうか。誰に電話をかけたのだろう? 家を二十分あけた時、彼女は何をしたのか? デューク嬢とハリントンの会見の間に何が起こったのだろう? それから、一番大切なのは、どういうわけで挙式が延期されたのかという点だ。フレンチは、こういう疑問の解答を得るまでは一瞬間も安閑としていられない気持がした。そして、そうした解答を得るためには、問題の期間の彼女の動きを正確に調査する以外に手はないように思えた。
長い間、彼は方法や手段を考えながら、机の前に坐ったまま動かなかった。そのあげく、彼はもう一度ノーラン巡査部長に電話をかけた。
相手が現われると彼は言った。
「君、もっとあの女から聞き出してくれないか。今度会えるのはいつだね?」
「日曜日です」誘惑者が言った。「またご用があるといけないと思って、約束だけしておいたのですが」
「今日は金曜だね。うむ、どうにも待つ以外に方法はないね。日曜日に彼女に会って、次のことをこの順番に調べてくれないか。第一は、犯罪の晩にデューク嬢はどんな乗り物で友人のやっている女性クラブに出かけて行ったのか。次に、どんな乗り物に乗って帰って来たのか。それから第三に、その晩帰って来た時から次の日にハリントン氏が訪ねて来るまでの間に、何か手紙か伝言を受けとったかどうかだ。もっとも彼女が電話をかけている間と朝食の後で出かけた間に聞いたかもしれないことは別にしてだよ。わかったかね?」
ノーランはわかったと合図しながら部屋を出た。フレンチは色々なことですっかり予定より遅れてしまっている日常の仕事に注意を戻した。
次の月曜の朝、ノーラン巡査部長は報告に来た。日曜の午後、例の美人をテムズの上流ヘピクニックに誘って、そこでうまく聞き出したのであった。
デューク嬢とハリントン氏は八時少し前にデューク氏の車で出て行った。運転手のマンリは、デューク氏が夜おそくクラブから帰宅する時に電話がかかるだろうから、自分たちを待っていないでいいとお嬢さんがおっしゃった、とレーチェルに言った。彼女は十時ごろタクシーで帰って来たが、すぐに家に入って、自分の部屋に行ってしまった。レーチェルが知る限りでは、その時からハリントン氏が次の日に来るまでの間、彼女の所には来訪者もなければ手紙も伝言も一切来なかった。
フレンチはデューク嬢の行動を調べていることを秘密にしておきたかったので、この事件でマンリを調べるのは面白くなかった。彼はハリントンから女性クラブの所番地を聞いておいたので、あすこへ行って調べてみたら必要な話が聞けるかもしれないと考えた。それで、一時間後には、シャドウェル区にある、小汚い不景気な家が立ち並んでいる狭い通りに面した、何となく立ち腐れになりそうな感じのする教会付属の小学校の前に立った。学校は閉まっていたが、隣家で尋ねて、管理人が四十七番地に住んでいるのがわかった。
彼が四十七番地に行ってみると、顔色の悪い、くたびれた顔つきの若い女が赤児を抱いて立っていたが、二、三分ものを尋ねたいと言うと、整頓といい掃除といい、あまり行き届いていない台所に招じてくれた。彼の質問に答えて、彼女が答えたところによれば、あのクラブはエイミー・レストレーンジ嬢という人が主《おも》になって、大勢のご婦人方がやっているのであった。毎晩集まりがあるのだが、彼女はただ部屋の掃除だけを引き受けているので、出席はしていない。が、彼女の良人は管理人だから、毎晩顔だけは出している。問題の若い婦人が到着したときには、彼は居合わせたかもしれないが、自分にはわからない。しかし、彼は近所の工場に勤めていて、あと半時間もすれば食事に帰って来るから、何ならお待ちになりませんか。
フレンチはほどなくまた来ると告げて、不景気な通りをゆっくり通り抜けた。四十五分後、彼が四十七番地に戻ってみると、ちょうどその管理人が帰って来たところであった。フレンチは彼に食事を続けるようにと言って自分は彼の食べている脇に坐りこんだ。この管理人は、話をすれば必ず金銭面で報酬があるだろうと思って、知っていることを洗いざらい話したがった。
問題の晩、彼はクラブの集会に出ていたらしく、フレンチが例の年若い二人連れの人相を話すと、彼は二人が来たのを思い出した。立派な自動車がこの陰気な地域に入ってくるのはめったにないことだったから、よく覚えていたのである。その紳士が先に降りて、ここがカーティス町クラブかと尋ね、それから連れが降りるのに手を貸した。女性は運転手に向かって、待つ必要もないし、迎えに来なくてもいい、と言った。彼女はそれからクラブの中に入り、紳士は歩道で見送った。九時半ごろ、タクシーが一台やって来て、同じ紳士が降り、彼すなわち管理人に、ハリントン氏が待っているとデューク嬢に伝えに行かせた。若い女性はすぐにクラブの会長のレストレーンジ嬢と一緒に出て来た。三人は一、二分そこで話をして、それから二人はそのタクシーに乗って帰って行った。
「立派な娘さんですよ、デューク嬢というのは」フレンチはそう述べながら、タバコ入れを出して相手に一服すすめた。「私は長年知っていますが、いつもにこやかで、快活で」
「本当ですね」相手は嬉しそうにパイプを一杯にしながら答えた。「それに第一、大した美人じゃありませんか」
フレンチは満足気にうなずいた。
「一ポンド賭けてもいいが」彼は言った。「帰る時も、来た時と同じようにニコニコして快活だったんでしょうな。いつもそうなのだから」
「その通り、賭けてたら勝ちなさるところでしたよ。ですがね、大将、あんなにしこたま金を持ってるご婦人がたは、快活にしているのは当たり前でさ。そうでしょ?」
フレンチは立ち上がった。
「いやね、ああいう連中にも、こちとら同様に苦労があるんでしょうて」彼は待ちかねている男の手に半クラウンを滑りこませながら言った。
はたして管理人の言った通り、デューク嬢が帰る時に元気であったとすれば、あの狼狽の原因は、何であるにせよ、その時までは発生していなかったことになる。というわけだから、次になすべきことは、二人がハムステッドまで乗って行ったタクシーを見つけて、途中で何か変わったことがあったかどうかを調べることだ。
彼は本庁に帰って、部下を何人か呼び、問題の点を説明した。その問題に最初に気づいた人間は彼であることに相違ないのだが、この捜査の第一日めに求める情報が手に入ったのは、彼の指導ぶりがいいためというより、むしろ運がよかったからだ。問題の夜、例の二人を乗せて走ったのが、タクシー運転手ジェームズ・トムキンズであると部下がつきとめ、五時にならないうちに、運転手は本庁に現われてフレンチを喜ばせた。
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八 シルヴィアとハリントン
タクシー運転手のトムキンズはしなびたような格好の男で、不機嫌で、いつも不平が絶えないような顔をしているのだが、今度はとんでもない事件にまきこまれたらしいと感じて、警部の質問に何とかはっきり答えようと努めていた。
彼は問題の夜のことを覚えていた。リヴァプール通りの近所で一人の紳士に呼びとめられ、カーティス町の女性クラブまでやるようにと言われた。そこで、少し待たされた後で、一人の若い女性が乗ってきた。
「今度の行先はどこだと言われたのですか?」
「それが今ちょっと思い出せませんで」彼は頭をかきながら、ゆっくり言った。「何でもハムステッドのどっかだったんですけど、どこだったか、まるっきり忘れちまいやして」
「ハムステッドのシーダズではなかった?」
「そうす、大将。そうでした」
「そして二人は一緒に乗って行った?」
「へえ、そして、も一人の別の若い女の人が見送ってました」
「ところで、家に着くまでに二人は誰かに出会わなかったかい?」
「いえ、車に乗っている間は、会いませんでしたよ」
「あるいは、新聞を買うとか何とかで、車をとめはしなかったかね?」
「車を停めましたね、ほんのちょっとの間、降りました。新聞を買ったかどうかはわかりませんが」
「ああ、停めたのかね? どこでだね?」
「ホルボーンです。ハットン・ガーデンの端をちょっと出た所で」
「なに?」フレンチは驚きのあまり、いつもの冷静な態度を忘れて叫んでしまった。「もっとくわしく話してくれたまえ」
運転手は血のめぐりが悪く、何かうさん臭そうな目つきをしたが、詳細を思い出すのにそう手間はとらなかった。ボルボーンに沿ってまっすぐな道が走っていたから、その道を通って問題のところまで来ると、青年は伝声管で呼びかけた。
「ちょっと停めてください、運転手さん」彼は言った。「大急ぎで」
運転手は歩道ぎわへ車をまわしたが、停めるか停めないうちに青年はとび出して、往来を向こうに走って行った。するとその女性も降りて、トムキンズに待つようにと言って、彼の後を追った。トムキンズは始めは乗り逃げされるのかと心配したが、ものの二分もたつと二人とも帰って来て、女の方が乗った。相手の男におやすみと言ったので、トムキンズは男を歩道に残したまま車を出した。ハムステッドに着くと、その女性は金を払って、家の中に入った。運転手の気づいたかぎりでは、二人のうちどちらも興奮もしていなければ取り乱してもいなかった。
この話を聞いて、フレンチはいよいよ考えざるを得なくなった。殺人の次の朝、ハリントンの陳述を聞きながら、この青年は何か隠しているのではないかと想像したのであった。それが今や、やはりそうであったのがわかったのだ。あの若い男は犯罪の起こった時刻に、現場からわずか数ヤードの所に居あわせたという事実を述べなかったのだ。彼はシルヴィアを家まで送った、と言ったが、今聞いたところだと、じつは送らないで、同行したのはただの半分の距離だったのだ。フレンチはこうした点で自分の直感がめったにひどくはずれることのないことがわかったので、内心ほくそ笑んだことである。
その上、この情報は、デューク嬢もまたこの件について何か知っているに相違ないという彼の疑惑が正しかったことを証明したのだ。犯罪の現場の近くで不意に車を停めさせたこと、彼女とハリントンの二人ともが精神的な狼狽《ろうばい》を見せたこと、それから結婚式の延期、それらが、あの悲劇とはまったく関係がなかったというのは、偶然の一致にしてはあまりにも無理がある。どんな関係があるのか、彼には想像もつかなかったが、何かあるとは信じざるを得なかった。
これ以上遅れないうちにこの件を確認しておく決心をして、彼はハットン・ガーデンに車を走らせ、ハリントンに面会を求めた。青年は丁寧に彼を迎えたが、フレンチはどうも態度にぎこちないところがあるような気がした。挨拶もそこそこに、彼はすぐ要点に入った。
「ハリントンさん」彼は始めた。「一つあなたにおたずねしたいことがあるのです。犯罪の翌朝うかがったお話では、前夜、デューク嬢を家まで送ったとおっしゃいましたな。なぜそうおっしゃったのですか。ハットン・ガーデンまでしかお送りにならなかったのに」
青年は少しばかり青くなった。愕然《がくぜん》とした様子はなく、むしろ長い間このことのあるのを予期していた危機についに直面したのだ、といった印象をフレンチは受けた。ためらうところもなく返事をしたが、威厳を失うまいと努めているのが明瞭だった。
「私がデューク嬢とハットン・ガーデンの端の近くで別れたのは認めますが、それが前にお話ししたことと矛盾するとは認めません。あなたをだますようなつもりはまったくなかったのです」
「あなたのおっしゃる意味がわかりませんな」フレンチは手きびしく言った。「デューク嬢をお宅まで送ったのと送らないのでは、相当の開きがありますよ」
青年は赤くなった。
「私はタクシーを拾って、デューク嬢を迎えにクラブヘ行って、家までの距離のうち相当の部分を一緒に乗っていたのです。家に送った、と言っても差しつかえないと思いますが」
「では、われわれの言葉の意味のとり方が不思議にも大いに違っていますな。ハットン・ガーデンの近くで、なぜあなたがたがお二人ともタクシーからお降りになったのか、また、なぜその後であなたはデューク嬢を一人で帰らせたのか、聞かせていただければ嬉しいのですが」
今度はハリントンは愕然《がくぜん》としたらしかった。が、すぐ気持をとり直して、筋道の通った答えをした。
「その点には何の秘密も不思議もないのです。われわれが車を走らせているうち、デューク嬢が急に、よくある光った青いレーンコートを着た、背の高い女の人を指さして、その人に用があるから車を停めてくれと言ったのです。私は運転手に声をかけ、車が歩道に着いた時、とび出して行って、その女の人を追いかけました。残念なことに、その女の人はどこかに行ってしまっていて、方々探してみたのですが、見つかりませんでした。車に戻ってみると、デューク嬢も降りていました。彼女の友達を見失ったと説明しますと、彼女はただ『いいわ、仕方がありませんもの』と答えました。彼女はまた車の中に入ったので、私も入ろうとしますと、彼女は私をとめて、もうこれ以上私が遠まわりするのは無駄だから、一人で帰る、と言ったのです」
「その女の人はあなたがご存じの人でしたか?」
「いいえ、デューク嬢は誰だか教えてくれませんでした」
「どんな格好の人でしたか?」
「よくは見えなかったのです。ただ、背の高いことと、青いレーンコートを着ていて、傘を持っていたという以外は。あの、夜でしたし、街灯の光でチラッと見ただけでしたし。彼女は足早やにオクスフォード通りの方へ歩いていたのです」
「デューク嬢が行ってしまった後で、あなたは何をしましたか?」
「家へ帰りました、前にお話しした通り」
フレンチ警部が彼から聞き出せたのは、それだけであった。ほかにも色々と質問したのだが、青年はこの話に固執するばかりであった。
次にはデューク嬢の陳述を求めなければならないのはわかりきっていた。フレンチはそうするつもりで車をシーダズに走らせた。ハリントンが彼女に電話をして警戒させるのを妨ぐために、彼にも同行を求め、家に着くと、とたんに彼に向かって冷ややかに笑いながら、別れを告げた。
デューク嬢は家にいた。彼女は彼を食堂に通しておいて、やがてそこに姿を現わした。
顔立ちの整った娘で、どちらかといえば少し太り気味ではあったが、きれいで、親切そうで、健康そうで、見る人が男だったら必ず心の温まるのを覚えるに違いない容姿だ。しかし、顔は青く、憂いにくもっていた。フレンチは彼女の経験したことが何であれ、強い打撃だったに相違ないと感じた。
「ご手数をかけますが、デューク嬢、私はお父様の事務所で最近起こった犯罪の捜査をしていますので、あなたに二、三質問をさせていただかなければならないのです」
こう言いながら、彼は彼女を鋭く注意したが、一抹《いちまつ》の不安の色がその澄んだ目に現われたのを見て、興味をそそられた。
「お坐りになりません?」彼女は何となく固い笑顔をつくりながら招じた。
彼はゆっくり腰をおろして続けた。
「私の質問は、あるいは個人的なことにわたりまして、失礼になるかもしれないのですが、どうしても伺わないわけにはいかないのです。前置きはこれまでにして、すぐ質問にかかります。第一は、犯罪の翌日、大変にお取り乱しだったのはどういうわけなのですか」
彼女はいかにも驚いたように彼を見たが、その顔つきには何か安堵《あんど》の色があるように彼は思った。
「まあ、何ということをお尋ねになりますの?」彼女は叫んだ。「あんなことがあったのを聞いたら、誰でも取り乱すでしょう。だって、私は気の毒なゲシンさんを物心ついて以来ずっと知っていましたし、私にずっと親切にしてくれていたんですの。私はあの人を心から好きでしたし、尊敬していましたのに、突然あんなに酷《むご》たらしく殺されたんですもの。まったくひどい話ですわ――ひどいですわ。私はたしかに取り乱しました。取り乱すのが当然だと思いますわ」
フレンチはうなずいた。
「ごもっともです、デューク嬢、お気持はよくわかります。しかし、あえて申し上げますが、古い知人の悲劇的な死という以上に何かがあなたの頭にありましたね。もっと緊急な、もっと個人的な利害関係が。さあ、デューク嬢、話してください。それは何だったのですか」
彼女の目に不安がさっと現われたが、またもや安堵の色が見えた。
「ダイヤモンドが盗まれたことをおっしゃるのですね」彼女は静かに言った。「もちろん、そのことも私は嘆きました。おもに父のためにです。ですが本当に、あなたのおっしゃるように、私が取り乱した原因はゲシンさんが殺されたことだったのです。ダイヤモンドは無くても私たちはやって行けますけれど、あのお気の毒な人の命はもう戻りませんもの」
「私の申し上げたのはダイヤモンドの盗難ではないのです、デューク嬢。それよりもっと個人的な件なのです。その件をぜひお話ししていただかないといけないのです」
娘が心配し始めたのは目に見えていたので、フレンチは自分の狙いが何か重大なものに当たったに違いないと、次第に希望が強くなるのをおぼえた。しかし彼女は何も白状しなかった。
「あなたは誤解していらっしゃるんですわ」彼女の声は低かった。「私が取り乱した原因は、あの殺人のニュースでした。それ以外にはありません」
フレンチは頭を振った。
「そのお返事はいただきかねますな。どうぞもう一度お考えください。ほかにおっしゃることはありませんか?」
「ございません。それ以上申し上げることはございませんわ」
「結構です。では、その件を繰り返す必要はないと思います。ところで、ハリントン氏とのご結婚を延期なさったわけをうかがいたいのですが」
デューク嬢はひどく頬を赤らめた。
「そんなことは申し上げられませんわ、警部さん!」彼女はいささか怒りを示して言いきった。「そんな質問をなさる権利がどこにおありなのですか? あれはハリントンさんと私だけの間のことでございます」
「おっしゃる通りだといいのですが、デューク嬢、あなたは間違っておられるかもしれないと私は思うのです。あなたは絶対に答えるのを拒否なさるのですか?」
「もちろんですわ! 誰だって女はそんなことはお断りしますわ。そんなご質問は失礼ですもの」
「では」フレンチは冷ややかに言った。「たってとは申しますまい――今日のところは。では別の問題に移ります。今度は、あなたがカーティス町の女性クラブから犯罪の晩にご帰宅の途中、なぜハットン・ガーデンで車をお停めになったか、うかがわせてください」
一瞬、娘は驚いたあまり返事ができない様子であったが、やがて強い怒りの色を見せながら答えた。「本当に、フレンチさん、これはあんまりですわ! 私があの犯罪に関係があると思っていらっしゃるのですか?」
「あなたが犯人とは思いません」フレンチはおごそかに言い返した。彼は前にのり出して、鋭く彼女の眼に見入った。「あなたが何かご存じだと思っているのです。デューク嬢、あなたはお考え一つで私に犯人を教えることができるのではないのですか?」
「いえ、いえ、いえ!」娘は傷《いた》まし気な声をあげ、両手を振って、そんなひどい考えをあたりから追い払いたいような格好をした。「どうしてそんなことをおっしゃれるのですか? ひどいですわ! 怖ろしいお話!」「もちろん、デューク嬢、あなたがいやとおっしゃるのでしたら、お答えを強要できません。しかし、申し上げておきますが、そうお隠しにならないで、もう一度考え直されたほうがよろしいのではないでしょうか。私が納得しなければ、あなたは法廷でこれと同じ質問を受けになることになり、そうなれば、否《いや》でも応《おう》でもお答えにならなければならないのですよ。では、もう一度うかがいますが、なぜあなたはハットン・ガーデンでタクシーからお降りになったのですか?」
「あなたは何の根拠もないのに、私にそんな言いがかりをおつけになるなんて、本当にひどいと思いますわ」彼女はいささか声を震わせながら答えた。「私がタクシーを停めたのには何の秘密もありませんし、また一度も、それを隠そうとしたこともございません。なぜそれがそんなに重要なことになるのか、見当もつきませんわ」彼女はここで切ったが、やがて慎重さを振りすてるかのような、ちょっとした動作をすると、言葉を続けた。「あれは、私たちが車を走らせている時に、突然、会いたくてたまらなかった女の人の姿を往来で見つけたのです。私は車を停めさせ、ハリントンさんに追いかけてもらったのですが、彼は見失ってしまったんです」
「それは誰だったのですか?」
「知らないんです。だからこそ、私はぜひ会いたかったんです。全部お話ししなければいけませんか?」彼女は頭をもたげると、返事を待たずに続けた。「この夏、休暇に行っていたトンブリッチからこちらへ帰って来ました時、その女の人と私しか客車に乗っていませんでした。私たちは口をききあいまして、仲好くなりました。切符を集めに来た時に気がつくと、私は切符をなくしてしまっていたのです。車掌は私に名前を言えばいいと言ったのですが、その女の人はぜひといって、私に汽車賃を貸してくれたんです。お返しする時のために、紙切れに名前と住所を書いておいたのですが、家に帰ってみますと、それがなくなっていて、おまけに私は全然覚えておこうとしなかったのです。お金を送ることはできず、さぞ私のことを悪く思っておられるだろうと、気が気ではなかったのです。ですから、タクシーの中で姿を見た時、どんなに私が会いたかったかお察しになれましょう」
「ですが、どうして料金を二度もお払いになったのです? お名前と住所を車掌におっしゃれば、それですんだのではありませんか」
「そうだったのでしょうね」彼女は認めた。「ですが、言いわけをしたり、本社に手紙を出さなければならなくなるより、お金を払ったほうが面倒でないと思ったのですわ」
フレンチ警部は無念でたまらなかった。本能的に彼はこの話を疑ったが、デューク嬢の答え方が割に秩序立っているし、もし彼女があくまでこの話に固執するなら、それを覆《くつが》えす手だても思い当たらないのだ。これだけ時間がたった後だから、詳しい点を確かめるのも不可能に違いない。ことにデューク嬢の言う仮想の同乗者を探しようもないことだから。彼は別にこの陳述には何の感想も加えずに、次の質問に移った。
「殺人の翌朝、朝食の後でどなたに電話なさったのですか?」
デューク嬢が愕然《がくぜん》としたに違いないのは警部によくわかっていたが、彼女は即座に答えた。
「ハリントンさんです」
「何をおっしゃるために?」
「未来の良人に話した個人的な会話まで申し上げなければならないんですの? 用があるからすぐ私に会ってほしいと申しました」
「どういう性質のご用だったのですか?」
デューク嬢はふたたび憤然とした。
「まったく」彼女は声をあげた。「私は抗議しますわ。私たちの個人的な事がらが、いったいあなたに何のご用があるのでしょう」
「それはあなたのせいなのですよ、デューク嬢。あなたが事実をありのままにおっしゃらないから、それで私が疑念を抱くのです。私はあなたが隠しておられる事がらをうかがいたいのですし、これは申し上げてもいいと思いますが、私はあくまでもあきらめませんよ。何の用で、至急ハリントン氏にお会いになりたかったのですか?」
娘は非常に困った様子であった。
「ぜひとおっしゃるのでしたら……、それは結婚式の延期についてでしたの」彼女は小声で言った。「私たちは前の晩に色々と話し合っていたのでしたが、まとまらなかったのです。休みながら考えていますうち、延ばした方がいいと決心がつきましたので、すぐハリントンさんに知らせたかったんですの」
「でも、なぜそうお急ぎになったのですか? 午後でもよかったのではないですか?」
「待てない気がしましたの。私たち双方にとって、この上もなく大切なことですもの」
「そして延期の理由にはお答え願えないのですか?」
「はあ。お尋ねになる権利がおありになりませんもの」
「その朝ハリントンさんにお会いでしたか?」
「はい」
「どこで?」
「フィンチリ街道の地下鉄の入り口で」
「なぜご自分がお出かけになる代わりに、訪ねて来ておもらいにならなかったのです?」
「できるだけ事務所に遅れないですむようにと思ったのです」
フレンチは突然思い出した。殺人の翌朝、彼が事務所に行っている間にハリントンが入って来て、デューク氏に遅刻の詫《わ》びを言っていた。その時には気にしなかったが、思えば、デューク氏が事件について彼に話すと、彼はもう聞いて知っていると答えたのだ。どこで? フレンチは不思議に感じた。単に朝刊で見たのだったのか、それとも≪デューク嬢から聞いた≫のか? あるいはもっと緊急な疑問だが、二人は前夜すでに知っていたのではないだろうか?
この時、さもありそうな仮説が一つ頭に浮かんだので、彼は黙って坐ったまま、それを吟味した。ハットン・ガーデンの近くで車を停めた時、ハリントンが何かの目的で事務所に寄る、と言ったのだとしたら、どうだろうか? それとも、デューク嬢が立ち寄るように頼んで、そのため彼は彼女と別れたのではないのだろうか? 次の朝、朝食の時、彼女は父親から殺人の件を聞いて、とたんにハリントンのことで慌《あわ》てふためいた。もし彼が寄ったことを認めれば、犯行の嫌疑を受けるかもしれないから、警告を与えるために、事務所に行かないうちに彼を呼び出した。それとも、この仮想の立ち寄りを知っているところから、デューク嬢自身がハリントンを怪しんで、彼の説明を聞こうとして一刻も早く会えるように呼び出したのであろうか。
フレンチはこうした思いつきに満足はしなかったが、何か重大な事がらを、この二人が心を合わせて、ひた隠しにしているという確信をますます深めたのである。
彼は大いに不満のままこの家を辞し、ハットン・ガーデンに戻って、またハリントンと会った。彼は全力を尽くして青年を追及した。例の運命の夜、この事務所に立ち寄ったのだろう、と直接的に責めてもみた。これをハリントンは頑強に否定したので、フレンチはそれ以上何一つ彼から聴き出すことができなかった。彼はふたたび犯罪の夜の彼の動きを問いただしたが、何一つとして捜査上の進歩は見られなかった。ハリントンはデューク嬢と別れてから、歩いて下宿に帰ったと言ったのだが、この陳述の真偽については何ら直接的な証拠は挙げられないのである。
突如《とつじょ》、また別の仮説が警部の頭に浮かんだが、よく考えたあげく、これは捨てた方がいいと感じた。もしヴァンデルケンプが犯人であったら、こうした不思議な事がらはすぐ解決するだろう。ハリントンは伯父から深い恩をこうむっていて、大いに感謝しているらしい。デューク嬢が彼と気持を共にしているのか、ないしは共にしようと努めているのか、フレンチには知るよしがなかったが、まず可能性があるのはわかった。彼とデューク嬢が、イースト・エンドからタクシーで帰る途中、ハットン・ガーデンのはずれで外交員のヴァンデルケンプの姿を見かけたとしたら、どうなるだろう。その上、彼の様子が、いつもに似あわず、何となく後ろめたく邪気ありげに見えたとしたらどうであろう。これと、この外交員がアムステルダムにいるはずの事実とが結びつけば、ハリントンはすぐタクシーを停めて、伯父に話しかけようとするに違いない。だが、彼が歩道に着いた時には、ヴァンデルケンプは姿を消してしまっていた。二人ともこの件は単に些細《ささい》なことだと考えて、忘れてしまったのだろうが、翌朝の朝食の時、デューク嬢が殺人の話を聞いたなら、その意義もおのずから明らかになったに違いない。彼女は外交員が犯人だとは思わなかったかもしれないが、あの状況から相当の説明が必要だと考えたに違いない。すぐ、まず第一にハリントンに至急に話しておく必要があると頭に浮かんだであろう。さもないと、彼はうっかりして伯父が殺人現場のすぐ近くにいたのを見たなどとしゃべってしまうかもしれない。彼女は婚約者が事務所へ行こうと下宿から出かける前につかまえようと、すぐ電話をするに違いない。電話では詳しい話はできないから、会見について取り決める。彼女は事務所のその後の様子を知りたいから、できるだけ早く彼女の所へまた報告に来るようにハリントンに依頼する。で、彼は昼過ぎに訪ね、二人は情勢が不安だから、式は延ばしたほうがいいと決める。ヴァンデルケンプのいわゆる逃走で彼等の疑いは確乎《かっこ》たるものになろうし、それならば二人が狼狽していた心理状態も辻つまが合う。
この仮定はまことによくできていたので、次の日フレンチはもう一度ハリントンとデューク嬢に会って、明らさまに、ヴァンデルケンプの姿を見たのではないか、と尋ねてみた。しかし、二人ともそれを否定したので、彼は気がくじけ、心も苛立ったが、せっかく見込みのありそうだった手がかりが目の前で消えて行くのをいたずらに口惜しがるだけであった。彼は二人に尾行をつけ、二人の過去を調べるのに相当な時間を費やしてみたが、何の成果も得られなかった。
かくして、何日が何週間となって、この奇怪な事件の解決はいつのことになるのか見込みも立たなくなってしまった。
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九 ピッツバーグのルート夫人
ハットン・ガーデンの殺人から六週間ほどたったある朝、フレンチ警部は上司に呼ばれた。
「なあ、フレンチ、ゲシン事件には相当長くかかっているね。もうこれ以上時間の無駄はできないのだが……。今は何をしているんだね?」
フレンチは日ごろの陽気な自信もすっかりしぼんでいて、口ごもりながら目下のところは大したこともしていないのを認め、いささか言いにくい次第であったが、実は何もしていないことと、何度も手がかりがはずれて、今や進退きわまっていることを報告した。
「そうだろうと思ったよ」上司が言った。「それならば君も時間があるだろうから、コクスパ通りのウィリアムズ・アンド・デーヴィス商会という金融業者の所へ行ってくれたまえ。そこから今しがた電話があって、最近ダイヤモンドを手に入れたのだが、それがどうやらデューク・アンド・ピーボディから盗まれた品物に似ていると人に言われたのだそうだ。この件を調べてくれたまえ」
十五分後、コクスパ通りのストレーカ館の階段を登って、ウィリアムズ・アンド・デーヴィス商会の事務所へ向かうフレンチは、生まれかわったような様子だった。
退屈そうなところも、憂欝さも、くたびれたような黙想も、まったく消えうせ、またもや昔のように陽気な楽天主義や、にこやかな自信や、元気のいい足どりが見られた。彼は自在戸を押し開け、父親めいた慈愛にみちた態度で、小さい給仕にウィリアムズ氏が在社かと尋ねた。
社長は折から暇だったので、二分後フレンチは、狭くてやや暗い事務室に通されたが、そこには背の高い、立派な服装をした男が坐っていた。髪は霜《しも》をまじえ、几帳面な、何となく衒学《げんがく》的な様子の人物である。
「あなたがお見えになると今、本庁からお電話をもらいました、警部」フレンチが名乗ると、その男は言った。「ただ願うのは、こうしてご足労いただいたのが無駄骨に終わらないことです。しかし、たしかに調べる必要があると思いましてな」
「まだ状況は何もうかがっていないのです」フレンチが注意した。「ですから何か役に立ちそうな情報をいただければありがたいのですが」
「電話で詳しいことをお話しするのはまずいと思いましてね」ウィリアムズ氏は説明した。「誰が聞き耳を立てているかわかりませんしね。私は以前、ある若い女性が、結婚に違いない申し込みを断っているのを耳にしたことがありましてな。この事件の状況というのはごく簡単なのです。約六週間前、一人の婦人が来まして、チャーンシ・S・ルート夫人と名乗って、明らかにアメリカ人でしたが、この会社の幹部の誰かに会いたい、と言ったのです。私の所に案内されて来たのですが、彼女は自分がピッツバーグの大製鋼業者であるチャーンシ・S・ルートの妻であると述べました。ヨーロッパで休養するつもりでオリンピック号で横断して、前の晩にロンドンに着いたばかりでした。それが、様々の不運にあって、まことに具合の悪いことになってしまったので、何とか援助してもらえないか、というのです。まず、愚かなことには、航海中に賭けごとの好きな連中とつきあいすぎて、彼女の言葉によると、『とってもたくさん』損をしたのだそうです。ご承知のような例のアメリカ式の話しかたをする婦人でしたが、頭もよく優秀な人物である印象を与えました。その損をした額は数百ポンドにのぼって――正確な額は言わなかったのですが――手持ちの現金はみな失くなり、おまけに何枚か借用証書まで出してしまったのだそうです。
しかし、そんなことは平気でした。それより何倍かの額の信用状を持っていたので、サウサンプトンでその上に災難に会いさえしなければ、何のこともなかったはずなのです。彼女はそこの埠頭《ふとう》の混雑のなかで、小さい手さげ鞄《かばん》に現金や書類を入れておいたのを掻っぱらわれてしまって、無一文になった上に、銀行の信用状も、旅券も、その他の身分証明書のたぐいも全部なくしてしまったというのです。もちろん、警察当局に届けたのですが、できるだけのことをするとは約束してくれたものの、大変おぼつかないような顔つきだったそうです。事実、彼女は旅行中に知り合った一人から二十ポンド札を一枚かりて、ようやくロンドンに来たものの、もうほとんど無一文なのでした。それで三千ポンド借りたいというのです。それだけあれば、勝負事の借金も払えるし、新しい信用状が銀行から来るまでロンドンに滞在できるからです。
幸い、ロンドンの宝石商の手腕をよく聞いていて、こちらで台にはめさせようと思ってダイヤモンドのコレクションを携えていました。そのダイヤモンドを抵当にしたいと言い、相場通りの割で利息も払おうというのでした。で、その婦人はそうした条件で私の会社が金を貸すかどうかと尋ねたのです」
「なぜ良人に電報を打たなかったのでしょう」
「私がそう尋ねますと、良人は勝負事が大嫌いで、もう前にも何度か彼女の賭博癖でもめたことがあるから、ルート氏には知らせたくない、というのでした。事実、夫婦仲は相当のところまで緊張しており、彼女は改心すると誓ったあげくの出来事なので、今さら白状すれば重大な仲|違《たが》いを惹き起こす。また、盗まれたことにするのも、額があまりに大きすぎて、手さげ鞄に入れておくような額ではないはずなので、駄目なのでした。彼女は事務を頼んでいる人に手紙を書いて、自分の持ち株を現金にしてもらうまで、借金でやっていきたい、というのです。
私の会社では、貸金の抵当に宝石や装身具の類をしばしばとりますので、私はそのお申し出は引き受けられるが、なにぶん身許を知らないから、彼女の誠意を証明する品がなければ取引はむつかしい、と答えました。それは当然だ、という返事でして、書類も、ことに旅券をなくしてしまっている以上、何かそういうものが必要なのはよくわかる、ということでした。どういう調査をしてもかまわないが、一刻も早く金が要《い》るから、早くしてもらわなければ困る、というのです。どのくらいの時間がかかるかと尋ねますので、私が二十四時間と答えますと、そのくらいは当然だろうと認めました。
もし取引をするのだったら、石をロンドンでも一番よく知られている宝石商に持って行って値踏みをしてくれ、とその婦人は提案しました。私は賛成して、ボンド通りのハースト・アンド・ストロン商会のストロン氏に電話をかけ、値踏みを引き受けてもらえるか尋ねました。この人は、おそらくご存じでありましょうが、世界で指折りの鑑定家です。承知してくれましたので、鑑定料を取り決めました。そして、調査の結果さえ満足ならば、次の朝の十時半にルート夫人とハースト・アンド・ストロン商会で会うことに決め、その時に先方は石を、私は小切手帳を持って来ることにしたのです。私はそのダイヤモンドの値打ちの六分の五を払う約束をいたしました。この婦人は四週間のうちに借りを返し、決めた利息も払えるつもりだと言いました」
ウィリアムズ氏は話を切って、相手が自分の話にふさわしいだけの注意を払っているのを確かめるように、相手を見た。フレンチが全身を耳にして聞き入っているので、疑う余地もないと思って、彼はまた続けた。
「石を調査しましたところ、すべては本物でした。私はサヴォイ・ホテルに電話して、ルート夫人に取引する用意のあることを告げ、前にお話しした時間にハースト・アンド・ストロンで彼女と会ったのでした。ストロン氏は私たちを私室に連れて行きましたが、そこでルート夫人は石の袋を出して見せました。大部分はダイヤモンドでしたが、エメラルドも何個かあり、ルビーの大きいのも一個ありました。それらはすべて石のままでした。全部で石は十六個で、それぞれ値段で言えば四十ポンドから四百ポンドの間でした。平均でいいますと一個当たり二百ポンドから二百二十ポンドといったところでした。ストロン氏はたいへん注意深く値踏みをされ、私たちはさんざん待たされたあげくに、結論を聞きました。
全体で約三千三百ポンドの値打ちということなので、約束にしたがって私はルート夫人に二千七百五十ポンドの小切手を渡そうと提案しました。その額が正しいことは認めたのですが、彼女はぜひ三千ポンド要るというので、少し話し合ってから私は望み通りにすることに同意して、それだけの金額を書いて小切手を切りました。すると彼女は、どこの銀行でも身元を調査しないでは支払いはしないだろうし、そうなるとまた遅れるから、といって、自分がこの小切手の受取人に違いないことを証明するために一緒に銀行に行ってくれるか、と尋ねました。私はこれに同意しまして、二人でロンドン・アンド・カウンティーズ銀行のピカデリー支店へ行きました。そこで私たちは支店長に会い、そこで別れました。私はこちらに戻って、石を金庫に入れました」
「支店長はあなたの身許保証に満足されたのでしょうな?」
「ええ、そうです。私とは個人的にも知り合いですから、何の困難もありませんでした。それで、私に関するかぎり、この取引はすみましたので、四週間というもの、私はそれについて何も考えなかったのです。ところが、五週目が過ぎ、六週目が終わるのに、その婦人が現われないので、不思議に思い始めました。サヴォイ・ホテルに電話しますと、取引の日に引きはらったといいます。しかし、大陸に行っているのだろうと考えましたので、この件に不正があろうなどという疑念は少しも起こりませんでした」
「では、どこからご不審を抱かれたのですか?」
「これからお話しするところです」ウィリアムズ氏は、いささか冷たい調子で答えた。「今朝ほど私は、その石を、ほかの用件で訪ねて来た私の友人のスプロールというダイヤモンド商に見せたのです――むろん、どういう筋から私の手に入ったかは言いませんでしたが……。それを見ますと、彼はたいへん驚きまして、私にどこで手に入れたかと尋ねました。その理由を色々と聞いてみますと、デューク・アンド・ピーボディ商会から盗まれたという手配書に出ているものとピッタリ合うというのです。ぜひあの会社に知らせるようにと彼は力説しましたが、私はまず、あなたがたのほうにお電話したほうがいいと思いまして」
「たいそうご賢明です」フレンチは賛成した。「そうなさるのがたしかに正当な筋道です。さて、私たちが最初にしなければならないことは、あなたのご友人のスプロール氏の疑念が果たして正しいかどうかを調べることだと思います。行方不明の石の表をここに持っていますが、見きわめをつけるだけの目があるかどうか、自信はないのです。デューク氏にここへ来てもらいましょう。お電話を拝借できますか?」
もとよりデューク氏は、捜査の新しい情報を知りたくてたまらなかったから、三十分とたたないうちにウィリアムズ氏の事務室に現われて一同に合流した。フレンチは状況を説明して、こう結んだ。「で、デュークさん、この石があなたの盗まれた品の中のものかどうか、見ていただきたいのです」
ダイヤモンド商は明らかに興奮したようすで、さっそく検査にとりかかった。拡大鏡で仔細《しさい》に眺め、持って来た精巧な竿秤《さおばかり》で目方を計り、またほかの検査をするなど、見ている二人にはなかなか興味深かった。一つ一つ、下に置くたびに彼は判断を下した。一つ一つが鑑定されていった。どれもこれも、彼の所から盗まれた品で、コレクションのうちの一番小さい、そして一番値の安い十六個なのであった。
この事実を知った三人の男の思いは三様に違っていた。デューク氏の儲《もう》けはウィリアムズ氏の損であるから、結果として満足と驚愕は互いの顔にはっきり現われた。一方フレンチの顔には、快活きわまる悦びの表情が浮かんでいたが、いささか煙にまかれたような色も見えないではなかった。
「なんと!」ウィリアムズ氏は心の動揺と興奮に声を震わせながら叫んだ。「では、私は詐欺《さぎ》にあったのだ! 三千ポンドもまき上げられたのか!」まるで警部のせいでもあるかのように、ウィリアムズ氏は相手を睨《にら》みつけた。「もしこの方が損害賠償をお言い立てになれば、この損害は私がこうむることになるのでしょうな。とてもそんな額は私には払えない」
「そうならないことを望みましょう」フレンチは同情的な口調で言った。「運よくあなたがお金を取り戻せるようになることを望みます。しかし一刻も無駄はできません。その金が全部引き出されているか、まず銀行に行って見てみましょう。ウィリアムズさん、あなたも来ていただけるとありがたいのですが。デュークさん、事件の進捗具合は始終ご通知します。それからもちろん、正規の手続きをとってあなたの石がお手許に戻るようにします」
ウィリアムズ氏はもう気持を取り直していたので、宝石を金庫の中に納め、三人は事務所を出て、往来に出た。そこでフレンチは何となく立ち去りたくないような面持ちをしていたデューク氏に別れを告げ、それから二人は銀行へと歩いた。ほんの一、二分待たされた後、彼らは支店長の部屋に案内された。
「スカーレットさん、どうやら私は大変な災難にあってしまいましたよ」坐るのももどかしそうにウィリアムズ氏は始めた。「今わかったのですが、私は三千ポンドを詐取されてしまったのです。こちらは警視庁のフレンチ警部です。われわれはこの件であなたのお力を借りなければならないのです」
スカーレット氏は身だしなみのいい中年の紳士で、当世風の身なりに丁重な態度の人物であったが、ほどよく関心を見せていた。
彼はフレンチと握手をして、取引先の損失に対する同情を手短かに表現し、またできることなら何なりと協力すると述べた。
「ご記憶でしょうか」ウィリアムズ氏は熱心に言った。「私が六週間ほど前のある朝、一人の婦人をこちらへ連れて来て、アメリカのピッツバーグのルート夫人としてご紹介しましたが? その婦人は私が切った三千ポンドの小切手を持参しており、それで私はあなたにご紹介に来たのでしたが」
支店長はそうしたことがあったのを思い出した。
「じつは、あの金は貸した金でして、あの婦人はそのかわりにダイヤモンドを色々と私の所に預けて行ったのです。そのダイヤモンドはハースト・アンド・ストロン商会のストロン氏に鑑定してもらって、値打ちより少ない額を私は用立てしたのです。私は充分な警戒をしておいたつもりだったのですが、今や」ウィリアムズ氏は絶望の身振りをちょっとしてみせた。「今や、どうやら詐取されてしまった模様なのです」
「詐取ですと?」スカーレット氏は驚いて繰り返した。「なんと! なんともお気の毒に思いますが、発見されるのが遅すぎましたなあ。あなたの小切手は全額引き出されています」
ウィリアムズ氏は明らかに凶報を予期していたのだったが、低いうめき声をあげた。何か言おうとするところを、フレンチが割って入った。「そうですか。じつはその点をうかがおうと思ってまいったのです。では、どうかできるだけ詳しく全部の取引をご説明願えませんでしょうか」
「もちろん、そういたします」スカーレット氏が答えた。「しかし、お話しいたしましても、たいしたお役には立たないかと思います」彼は卓上電話を取り上げた。「プレンティアス君にここに来てもらってください」
若い金髪の青年が入って来ると、また続けた。「こちらが取引を全部しましたプレンティアス君です。ウィリアムズさんのおっしゃった通り、こちらの方とその婦人が私を尋ねて見えたのは」彼は日記のページを繰った。「十一月二十六日木曜の昼ごろでした。こちらがその婦人をピッツバーグのチャーンシ・S・ルート夫人とご紹介になり、ご自身のお切りになった小切手の受取人であることを証明するために見えたのだとおっしゃったのです。その婦人は三千ポンドの小切手を出し、ウィリアムズさんはこれがご自分のだということを確認されました。婦人は礼を言い、こちらはお帰りでした。それから、彼女は口座を開きたいといって、千五百ポンドだけ現金にして残額を預けておきたいと言ったのです。私はプレンティアス君を呼びまして、この件の処置を頼みましたので、彼は婦人を案内して自分の席に行きました。次の日に残額は二、三シリングを除いて引き出されましたが、その残額はまだ帳尻に残っていると思います。そうなのだね、プレンティアス?」
「はい」金髪の青年が答えた。「その通りです。残額の正確な数字はすぐお目にかけられます」
「ではお願いします、プレンティアスさん」フレンチが割りこんだ。「それまでに、この部屋を出てからあなたとその婦人の間にあったことをうかがわせていただきましょうか」
上司の顔をちょっと見てから、書記は答えた。
「ルート夫人は私に三千ポンドの小切手を渡され、半分だけ預けたいと言われました。私はいつもの書類を作りまして、署名をしてもらってから、規定通り通帳をお渡ししました。すると、残りの千五百ポンドは小額の紙幣で払ってほしいという話でした。ロンドンは始めて来たのだが、イングランド銀行券を崩すのが面倒なのをもう体験した、と言われるのです。手持ちの現金が少ないので、ある店で二十ポンド紙幣を出したところ、崩すのを断られたので、たまたま隣にあった銀行で両替を頼んだところ、出納係は取引のない人には両替をしてはならない規則だから、と言って丁寧に断られたというのです。それで、わざわざホテルまで帰って、両替してもらったそうです。そういうわけで、十ポンド以上の紙幣は厭だ、と言って、その結果、私は頼まれるまま十ポンド紙幣を百枚と五ポンド紙幣を百枚数えてお渡ししました。婦人はそれを手さげ鞄にしまいました。私はそんな多額の金をそんなふうに持ち歩くのはあまり安全ではないと指摘しましたが、笑って、金を入れていると気づく人もあるまいから大丈夫だ、と答えました。婦人は別れを告げて出て行きましたが、それっきり一度も会ったことはありません」
「その婦人の態度や物腰に、何か少しでも怪しいようなところは見えませんでしたか?」
「何一つありませんでした」
「その預金は後で引き出されたのですか? その点について話してください」
「引き出されたというのは、ほとんど全額に等しい額の小切手が切られた、という意味なのです。あの婦人はその後一度も現われませんし、口座もそのままになっています。まだ少々帳尻に残っていますが」
フレンチはうなずいた。
「なるほど。そうおっしゃるだろうと思っていました。帳簿と、切られた小切手を拝見できますか?」
数秒のうちに、書記は重い帳簿を抱えて戻って来て、ヘレン・セイディ・ルート夫人という名のページをあけた。勘定は数行しかなかった。借方の欄には千五百ポンドという一行の記載しかなく、反対側には六口の記載があり、二百十ポンド十シリングから二百九十五ポンドまでの額で合計千四百九十五ポンド七シリング九ペンスになっている。支払済みの小切手六枚は記載された数字と合っている。フレンチがそれを検査しながら興味を覚えたのは、どれもロンドンの流行の宝石店宛に振り出してある点であった。
「これを拝借できますか?」彼は小切手を指さしながら尋ねた。
係員は躊躇《ちゅうちょ》したが、スカーレット氏が口をはさんだ。「いいですとも」彼はすぐ言った。「もっとも会計検査員に見せる受取証を、お渡し願わねばなりませんが」
これはすぐすんだ。フレンチが二、三の質問をした後、彼とウィリアムズ氏は銀行を出た。
「さて」彼は相手が一言も述べる隙を与えずに、元気な声で言った。「私はこの六軒の宝石店をまわりますが、その前にもう一歩進んだ資料をいただきたいのです。お店へ戻りましょうか?」
ウィリアムズ氏は喜んで承知した。彼は飛びぬけた几帳面さを失ってしまって、駄々っ子のように、巧くいくかどうかと様々な質問をした。フレンチはいつもの陽気な楽天的な調子で返事していた。が、まもなく二人がふたたびウィリアムズ氏の私室に腰を下ろすと、ここで彼はにわかに父親らしい慈愛にみちた態度を捨て、警視庁の敏腕かつ有能な警部の姿に戻った。
「第一に」彼は手帳を取り出しながら始めた。「この婦人の人相をあなたの口からうかがいたいのです。美人であって、外見も態度も魅力がある、と私は想像していますが。あなたもそうお感じになりましたか?」
ウィリアムズ氏はためらった。
「ええ、そう感じました」彼は認めたが、何となく弁解がましい匂いが見えたとフレンチは感じた。「独自な風貌を持っていました――私の所へ見える普通のお客様とは違っていました。態度から見ますなら、一点の疑いもはさむところはありませんでしたが」
「悪い女の大部分は、美貌の持ち主なのですよ」フレンチは角《かど》の立たないように断言した。「美貌は彼らの商売道具の一部です。できるだけくわしく、人相をおっしゃっていただけますか?」
話によれば、この女は中背で、髪もまつげも黒かったが、目はそれほどでもなかった。目はどちらかといえば金色の勝った鳶《とび》色であった。鼻の先が少し上を向いていて、楕円形の顔に小さい口が格好よくおさまっていて、顔色は病的ではないがひどく蒼白い。髪は耳の上にかぶさるように低く結び、笑うと思いがけないえくぼが見えた。ウィリアムズ氏がそうした細かいところまでくわしく述べたので、フレンチは内心微笑しながら、厳粛な顔つきでそれを手帳に記していった。金貸しは彼女の着ている物に対しては特によく注意してはいなかったが、こっちの方はスカーレット氏がよく見ていて、着物の方はもう手帳に書き留めてあったから、かまわなかった。
「今度は、ウィリアムズさん、この女がどんなふうに自分の身分を述べたか、またその陳述を確かめるために、あなたがどんな調査をなさったか聞かせてください。旅券はなくしたのでしたね?」
「なくした状況、というより、彼女がそれについて私に語った話は、もうお話ししましたね。名刺を私にくれまして、ピッツバーグの自宅宛の手紙の封筒を色々と見せてくれました。そのほか、オリンピック号の上で撮影した、自分もその中にいる記念写真を見せましたし、出帆して三日目の日付になっている晩餐の献立表も見せました。帰りの切符は旅券と一緒に盗まれたので見せることはできないと説明したのです」
「あまり決定的な証明ではありませんな」フレンチが批評した。「そうした証拠は偽造したものかもしれませんからね」
「ごもっともです。私もその時そう思いました」金貸しが言った。「ですから、そのまま安閑とはしていませんでした。私はダッシュフォードに依頼しました。ご存じの私立探偵社です。私はこちらに頼んで、そのピッツバーグの代理店に電報でルート夫人の人相と、もしやオリンピック号でイギリスに渡ったかどうかを調べてもらったのです。ここに返事があります」
彼は綴じ込みから一枚の紙を取り出し、相手に渡した。便箋には「私立探偵調査、J・T・ダッシュフォード事務所」と社名が刷ってあり、本文はこうなっていた。
拝啓
チャーンシ・S・ルート夫人に関して。
昨日のお問い合わせに関し、在ピッツバーグ代理店に電報いたしましたところ、左の返事を受け取りましたので、お伝えします。
「チャーンシ・S・ルート、当市製鋼会社重役、富裕、妻は美貌、中背、髪は黒、顔色蒼白、うりざね顔、口もと小さく、態度は活発で魅惑的。オリンピックにて欧州へ行く。家族OK」
右の報告は貴意に添うものと信じます。敬白。
J・T・ダッシュフォード事務所
フレンチは考えこみながら口笛を吹いた。
「充分確実なように見えますな」彼はゆっくり言った。「私はダッシュフォードの連中を少々知っていますが、こういう点では信頼がおけますよ。どうやら偽装らしく見えてきましたな」
「ああ」ウィリアムズ氏が叫んだ。「偽装! それは考えつかなかった」今度は彼が話をきったが、また続けた。「しかし、そんなことがあり得るわけがないのです。私はダッシュフォード探偵社に依頼しただけではなかった。ホワイト・スター社にも電話をかけたのです。するとルート夫人はたしかに航海をした、という返事です。それから私はサヴォイ・ホテルにも電話しました。彼女の言った通りの時刻に投宿したそうです。オリンピック号のラベルのはったトランクも持って来ていました。最後に、私としては念には念を入れたつもりで、サウサンプトンの警察に電話をかけ、手さげ鞄の盗難事件が本当であることを確かめたのです。それはちょうどルート夫人の話した通りの状況でした。これだけの材料がそろったのですから、私は絶対に大丈夫だと思ったのです」
「まことにごもっともです」フレンチが認めた。「たいていの人なら満足するでしょう。しかし、今のわれわれにはそうではないのです。何しろ疑念というものがすでに湧《わ》いたのですから。この婦人が訪ねて来た時には、あなたが彼女の話をお疑いになるような状況は少しもなかったのです。深くご同情します。もっとも、ご同情申し上げたからといって、別にこの場合、どうなるというものでもありませんが。しかし、今ではもちろん、よくおわかりと思いますが、あなたのお集めになったこうした材料は、どれ一つとして決定的ではないのです。オリンピック号でヨーロッパ旅行に出かけたこと、ピッツバーグのチャーンシ・S・ルート夫人という人が実在すること、それから、彼女があなたの所に現われた婦人と大体において似ていることは、私は少しも疑いません。が、ルート夫人がその借金の話をした当人であるかどうかという点で、私は大いに疑いを持っているのです。本当の身分証明書、つまり彼女の名前の書いてあるはずの旅券と帰りの切符がないのですから。その上、その婦人はルート氏に相談するのを拒《こば》んだというではありませんか。そう、ここに現われた婦人はルート夫人ではなかったといっていいのではないですか。しかし一方、その婦人はルート夫人と個人的に交際があるか、あるいはよほどよく知っているに違いないですな。その点をどうお考えですか?」
「そうですね、たしかにそうですね、警部。あなたのおっしゃる通りに違いありません。ですが、もしそうだったら、私の金を取り戻す機会はどうなるでしょう」
フレンチは頭を振った。
「残念ながら、見通しはあまり明るくありませんね」彼は認めた。「しかし、わかりませんよ。もちろん、われわれはこの婦人をつかまえるように努めます。その金をまだ使っていない場合もあるわけですからね。さて、もしこれ以上うかがうことがなければ、私はサヴォイ・ホテルやあの婦人が小切手を払った店に行ってみようと思いますが」
フレンチ警部はゆっくりとコクスパ通りを下った。この意外な発展に、頭は霧がかかったような気がする。ルート夫人というのが偽装であったというのは理解しやすい――あるいは、少なくとも、比較的理解しやすい。知謀に富んだ女なら、たいした困難もなくやりとげるだろう。もっともサウサンプトンの警察に被害を届けたというのは驚くべき計略であるが。
しかし全然見当がつかないのは、どういうところからこの女がデューク氏のダイヤモンドを持っていたのか、という点である。この偽装は、ダイヤモンドを盗む≪前に≫実際上に計画されていたのに違いないが、もしそうだとするならば、今まで考えていたよりずっと遠大な犯罪であることを意味する。そして、犯人も一人以上であるに違いない――もっともこの奇怪な婦人があの殺人も自ら手を下したのなら別だが、これは信じがたい話だ。まもなく然るべき資料が手に入るに違いないと思いながら、彼は満足げに微笑した。今度こそ今までの汚名をすすげるに相違ない。
彼は突然、デューク嬢のことを思い出した。あの娘とこの神秘的な婦人の間に何かつながりがあるのではなかろうか? ルート夫人というのがレインコートの主《ぬし》ではなかったのか? それともデューク嬢自身ではなかったのか? これは遠大な疑問であった。こういうことを考えているうちに、いよいよこの先の二、三日の仕事こそ腕の見せどころであるのに気がついた。
[#改ページ]
十 幾組かの毛布
短い昼食の時間中、フレンチ警部はウィリアムズ氏の話が提起した焦眉《しょうび》の難問について、考えに考えた。つまり、新しい捜査を始めるに当たって、どの点を攻めるのが一番有利であるか、ということをである。
事実から見ても、くわしく捜査しなければならないに決まっている線がたくさん出ているので、犯罪の全般的な仮説をたてようとする前に、いつもの系統的な方法でこれを片づけてしまった方がいいような気がした。まず、この不可思議きわまるルート夫人についてわかるだけ調べなければならない。この件で、ピッツバーグに問い合わせることや、ホワイト・スター汽船の人々に質問したり、サウサンプトン警察に報告を求めたり、サヴォイ・ホテルで調査したり、小切手が振り出されている色々な宝石商の店で問い合わせることなどを頭に描いた。できるなら、彼女ないしはその偽装者をつかまえなければならない。こういうことが全部すんでから、彼は自分の注意力を、この発見された人物とデューク嬢との関係、また何はともあれ、デューク氏の宝石との関係に向け、最後にチャールズ・ゲシン殺害との関係に向ければいいのだ。
食事が終わるころには、彼はまずサヴォイを手始めに作戦を始める決心がついていたので、十分後に彼はその前の広場へと曲がって、支配人に会うために事務所の方へ進んでいた。
しかるべき順序で彼は用件を支配人に説明したのだが、彼は自分が何を要求されているかを聞くと頭を振りながら、どういうふうに助力したらいいのかと尋ねた。
「まず宿帳を拝見させていただきたいのです」フレンチが説明した。
「それならお安いご用です」
支配人は彼を帳場に案内し、予約係の主任をしている若く美しい女性に紹介した。それから宿帳のページを繰っていたが、やがて彼は声をあげた。「これらしい様子ですな、警部」
記載は「十一月二十四日。チャーンシ・S・ルート夫人。アメリカ、ピッツバーグ。一三七号室」となっていた。
フレンチはスカーレット氏から貰った小切手を出して、注意深く双方の署名を較べてみた。「これです」彼は断言した。「同じ手で書いたことは間違いありません。では、問題は、この若い女性がこの女を思い出せるか、ということになりますが」
予約係は、しばらくためらっていた。
「この日はアメリカのお客様がたくさんいらっしゃいましたので」彼女は名前の表の上に目を走らせながらゆっくり言った。「皆様を思い出すのは容易なことではございません。それに、六週間も前のことですし」彼女はふたたび話を切って、それから頭を振った。「今のところ、どうしても思い出せませんわ」
「それはオリンピック号がサウサンプトンに着いた日ですよ」フレンチが促した。「あの豪華船から降りた人が多かったに違いありませんな」彼はふたたび宿帳に目をやった。「ね、ここにアメリカ人がひとかたまりになっています。ニューヨーク、ボストン、ニューヨーク、ニューヨーク、フィラデルフィア、などとね。これが豪華船の一団です。しかし――」彼は、話を切って、さした指をその欄の下へ走らせた。「おや、これはなかなか興味がある。ルート夫人の名前はこの一団の中に入っていませんね。ここにあった。表の一番下に近い所に。これは、夜おそく来たということになりますね? それが何かの役に立ちますか、ピヤスン嬢?」待ったが、娘が答えないので、彼は言葉を続けた。「あるいは、部屋は? 一三七号室という番号を見て、何か思い出すことはありませんか?」
娘は可愛い頭を振った。
「勘定の帳簿を見てごらんよ」支配人が言った。
娘はもう一冊、大きな帳簿を出した。三人とも一項目ずつ調べ始めた。ルート夫人の払った部屋代――一三七号室は寝室と浴室と居間からなるスイート・ルームであった――は、十一月の二十四日、二十五日、二十六日の三日分であるらしい。到着の晩、それから次の二日間、朝昼晩と、ホテルでは七回食事をしている。こうした食事を全部、彼女は自分の部屋に運ばせている。
「人目につくのを避けるためだな」フレンチは思ったが、それから声に出して、こう言った。「では出発の朝には食事をしなかったのですな?」
この言葉にピヤスン嬢は声をあげた。
「いま思い出しました!」彼女は叫んだ。「そうおっしゃったので、頭に浮かんで来ましたの。ええ、その前の晩に出発なさったので、おっしゃる朝には食事はなさらなかったんです。今、前後のいきさつを、みな思い出しました。この方が見えたのは」彼女は宿帳をチラと見た。「二十四日の晩――かなり遅く――七時と八時の間だったと思います――で、三、四週間滞在したいからスイートのお部屋をというお話でした。髪が黒く、顔色の蒼白い方で、話しかたがごくアメリカ風でした。一三七号室にお泊まりになれるように手配いたしますと、食事をお部屋にとのことでした。二晩たった後、八時少し前でしたが、帳場へ見えまして、パリから急な電報があって、その晩のうちに行かなければならないというお話でした。一週間ぐらいで戻れるつもりだとおっしゃっていましたが、予定がどう変わるかわからないから、部屋は取っておくのはやめるというお話でした。それで勘定書を作って差しあげたのです。このお話を思い出したわけは、こちらの規則ではその晩の宿泊料をいただかなければならなかったからです。こういう時にはよくご不満な方がありますが、別に気になさるご様子もありませんでした。それでお帰りになりまして、それ以来一度もお目にかかったことはございません」
美人の係員の話はそれだけだったので、フレンチは次に、問題の夜、一三七号室を受け持っていた部屋係りに会いたい、と頼んだ。
この女からは最初、何も聞き出せなかった。十五分間ほど、彼は色々と思い出させようとして何の効果もあげられなかったが、予約係の場合とちょうど同じで、偶然の言葉から光明がさし始めた。
オリンピック号のラベルとルート夫人という名のついた荷物を見たのを思い出せないかと尋ねられると、彼女はにわかに思い出した。新聞で同じ名前のえらいアメリカ人の記事を読んでいたので、ルートという名に興味をひかれ、この荷物の持ち主が何か関係でもあるのかと考えたのであった。その荷物はよく覚えていた。大型の、真新しいアメリカ式のトランクが二つで、船のラべルがはってあり、何とかルート夫人と書いてあった。そう、たしかチャーンシだった。とにかく、何か変てこな外国の名で、アメリカ人以外は使わない名前だった。しかし、彼女は荷物は覚えていたが、当の婦人についてはまったく何も思い出せないのであった。
ほかの雇い人にも色々と質問したあげく、何の効果もないので、フレンチは誰も人のいないロビーの片隅にひっこんで、この問題を考えぬくことにした。やがて彼は思いついた。そのトランクが手がかりになるかもしれない。運び出すのにタクシーが要《い》ったはずだし、もしそうなら、そのタクシーを見つけ出せるのではないか。
彼はホテルの運搬係の主任の所へ戻って行って質問した。車はたいていは隣接した往来に並んでいるのを雇う。もちろん、偶然通りかかった車を拾う場合も間々あるが、十のうち七までは行列している車を使う。
フレンチはホテルを出て、タクシーの行列の方へ歩いて行き、列の先頭の車の運転手に話しかけた。並んでいる車は全部、メトロポリタン運輸という一つの会社の車だ、と男は語った。毎日の走行記録は日報で会社に出すから、ヴィクトリア通りにある本社に尋ねる気があるなら、何でもわかるだろう、というのであった。
フレンチは気があるどころではなかったから、十五分後には本社の支配人と話をしていた。しかし、この紳士は希望の資料を提供できるかどうか自信がなさそうであった。この会社では一日の走行の記録を相当正確につけていて、メーターの提示と差し出された料金とは合っているのだが、乗客の名前や人相などは全然載ってはいない。十一月二十六日の夜、七時四十五分ごろ、サヴォイ・ホテルからヴィクトリア駅まで車が走ったことは発見できるが、誰がそれに乗ったかはわからないのである。
「行先はとにかく、七時四十分から八時十分の間にホテルを出た車の表をいただければありがたいのです」フレンチは言った。「私はその運転手全部に会ってみます、そのうちの誰かがこの女を思い出すかもしれませんから」
「それは差し上げられます」支配人は承知した。「ですが、調べるのに少々時間がかかりますが」彼はベルを押して書記を呼び、必要な命令を出すと、椅子の背にもたれて、座談を始めた。
「何か事件なのですか? こういうことを伺うのは不謹慎《ふきんしん》ですか?」
フレンチは優しい微笑を浮かべた。
「そんなことがあるものですか」彼は相手を安心させた。「全部お話ししましょう。私の探している婦人は、どうやら悪党――ダイヤモンド泥棒らしいのです。アメリカの大金持ちの鉄鋼王の細君だと自称しているのですが、われわれはそれが嘘だと信じています。この婦人はトランク二個と小さい荷物をいくつか持って八時二十分のヴィクトリア駅発でパリに行くと称して、その晩ホテルを出て、そのまま行方をくらましたのです。で、私は今、探しているのです」
支配人は興味を感じた様子であった。
「なるほど」彼は言った。「今おっしゃったのは、たいへんいいヒントになりました。うちの運転手は荷物の記録を控えているのです。つまり、屋根に積む荷物には別に料金をいただくのです。ですから、屋根にトランクを二つ積んだ車だけ探せばいいのなら、ずっと範囲も狭くなります」
「一つの狙いですな」フレンチは認めた。「しかも、いい狙いです。しかし、手荷物のほかに大型トランクが二つあった、というだけしか私にはわかっていないのです。屋根に二つ以上乗せたかもしれませんが」
「そういうことはありそうにないですね。婦人が一人きりだったら、手荷物は中に持ち込むでしょうから。ああ、表が来ました」
支配人が受け取った一覧表を見ると、問題の夜の七時四十分から八時十分までの間に、実に二十八台のタクシーがサヴォイから出ている。そのうち、二十台は方々の劇場へ行き、残る八台のうち、二台はユーストン駅へ、一台はキングス・クロス駅へ、一台はハムステッドヘ、一台はケンジントンヘ、それから三台がヴィクトリア駅ヘ行っている。
「これですよ」支配人はヴィクトリア駅ヘ行った二台目のを指しながら言った。「別料金の欄の下に『荷物二個』とあります。これが探していらっしゃる車ですよ」
どうも支配人の言う通りらしかった。ヴィクトリア駅へ行った三台のうち、最初のは荷物を屋根に積んでいないし、三番目のは五人連れの客である。二番目のは七時五十五分に一人の乗客と二個の荷物を乗せて出ている。
「有望ですな」フレンチは認めた。「この車の運転手がどこにいるか教えていただけませんか」
「ジョン・ストレーカですな」支配人は卓上電話を手にした。「今、ジョン・ストレーカはどこにいるね?」と彼は尋ね、まもなくフレンチに向けてこう言った。「出ています。サヴォイ・ホテルの横の行列に入っていますから、今からいらっしゃって、少しお待ちになれば、会えますよ。彼に宛てた手紙を差し上げましょう。それがあれば、素直にお話しするでしょう。変わった顔をした男ですよ。ひげのない、痩せた白い顔で、鉤《かぎ》鼻で目が真っ黒です。ご覧になればすぐわかります。彼の時間表もお持ちください。思い出すでしょうから」
フレンチは支配人に礼を述べ、車の行列している所へ戻った。運転手の顔を見ながら行列に沿って歩いて行くうち、一台のタクシーが走って来て、列の最後にとまった。その運転手が例の人相書通りであったし、エンジンのスイッチを切って、ひまそうに見えたので、フレンチはそばに寄って、用件を説明した。
何秒間か、その男は顔を掻いたり、時間表を繰ったりして考えこんでいた。やがて、彼はフレンチを見た。
「思い出しましたよ」彼は言った。「不思議な話なんですが、あの週にヴィクトリア駅ヘ行ったのはあの時だけだったんです。おわかりでしょうが、あすこはわれわれが実にチョイチョイ行く場所なんです。ですが、あの晩行ったのを覚えています。婦人客が一人で、大きな箱を二つ持っていました。屋根に乗せるには少々大きすぎたんで思い出したのです。もっとも、うまく積みましたがね」
「どこへ行ったんです?」
「ヴィクトリア駅の本線の出発点側だったと思います。よくは覚えていないのですが」
「上できだ!」フレンチは心から言った。「ところで、その婦人の人相を言えるかね?」
これは、だが、この運転手には無理であった。特に気をつけて眺めたわけではなかった。荷物を受け取った赤帽の顔も彼は記憶していなかった。しかし、実はフレンチはこれは始めから当てにしていなかったし、これだけわかったので、もう充分に驚き、かつ喜んでいるのだった。
その時から翌日の大部分までを彼はヴィクトリア駅で過ごして、赤帽やら監督やら改札係やら、彼の獲物を見たかもしれない係員に全部会ってみた。しかし、どこへ行っても運にめぐりあわなかった。未知の人物は依然として未知のままなであった。
この件をよく考え直しているうちに、ふと、このトランクに関する手がかりの得られそうな事がらを思いついた。大きなトランクなのだ。客車には持ち込めない。だから、まずチッキにして送ったに違いない。こういうチッキ荷物には記録があるのだろうか、と彼は考えた。ところが、正《まさ》にあったのだ。しばらく保存しておいて、それから破るのである。十一月二十六日のニューへーヴン行きの臨港列車のチッキの控えなら、少し探せば出て来るから、ご用ならば探して上げよう、という返事であった。
ところがいよいよ出してみると、その控えの中には、ルート夫人という名もなければ、大型トランクが二個その列車にチッキで積まれたという記載もないのである。
問題の荷物をチッキにせずに積むことの可能性を彼は係員と話し合ってみた。できることはできるが、まずありそうもない。どっちみち、そういうことをすれば、税関の連中が注意したに違いない、と係員は言った。しかし、注意したかどうかを調べるには時間がかかる。
「調べなくてもいいですよ」フレンチは言った。「少なくとも、今のところは」
この女悪党が、彼の信じている通りに、ルート夫人に化《ば》けていると仮定すれば、彼女は例のダイヤモンドの始末をつけ次第、すぐ姿を消して元の自分自身に戻ろうとするのではないだろうか? もしそうなら、トランクも処分してしまわないだろうか? 本当にトランクが後まで要るのだろうか、それともヴィクトリア駅ヘ着いた時にはもう目的を達していたのではないか?
最後の頼みの綱として、彼はこの案に基づいて動いてみることにした。もし女がトランクを処分したいと思ったら、どういうふうにするだろうか?
方法はたくさんあるが、一番やさしくて一番いいのは、一時預けにしたままほったらかすことだ、と思いつくと、彼は大いに満足した。人が疑念を起こすまでには相当の時間がかかるし、そのあげくには、結局鉄道の係員が開けて、中味は競売にでもなってしまうのがオチであろう。
彼は一時預け所へ出かけて尋ねてみた。すると、とたんに意外な吉報に接した。紹介された係員は微笑しながら、何か書類を繰って、ある一項を指さした。
「アメリカ風大型トランク二個。ホワイト・スター社のオリンピック号のラベルつき。サウサンプトン行きの船客、チャーンシ・S・ルート夫人」
「運がよかったですね」係員が言った。「実は今日、この表を調べてみたところだったのですが、この項目が気になったのです。箱は先月の二十六日に預けられ、まだ誰も取りに来ないものでして」
「それを開けたいのです。あるいは本庁に持って行くかもしれませんが」
必要な権限はすぐ得られたので、フレンチはその係員の後について、色々な荷物をしまってある大きな部屋に行った。係の赤帽を呼ぶと、二人は一隅に案内された。そこには大きな箱型トランクが二つ置いてあったが、フレンチはラベルを見たとたんに、自分の探している品だと知った。
「それを引っ張り出してくれないか、ジョージ」係員は命令した。「この方がお開けになって、何ならお持ち帰りになるのだから。それだけでいいのですね?」
フレンチは一人になって、まずラベルの上の筆蹟が小切手のと同じ手のものであるのを知って、満足した。それから、色々と合鍵の束をポケットから出して、錠前にかかった。ほんのわずかの間に、二つとも蓋《ふた》が開いた。
しばくの間、彼は中味を見おろしながら、呆気にとられて立っていた。二つとも中は毛布で一杯なのだ! ただの新しい薄い毛布で、質は安っぽい。これがかなり堅く詰めてあって、完全にトランク一杯になっている。彼はその毛布を出し、一枚一枚広げ、振ってみて、たたんだ間に何か小さい品物でも隠されていないかと確かめてみた。しかし、何もない。
空にしたトランクの内側には、指紋の残りそうな滑らかな表面もなかった。裏張りは帆布で、質は上等であったが、指紋が残るにはやはり粗《あら》すぎた。
フレンチ警部はがぜん狐につままれたような気になってしまった。いったいぜんたい、この毛布は何のためなのだろう。そして、これを持ち歩いた女はどこに行ってしまったのだろう。
彼女を見つけ出すという点では、たしかに少しも進捗は見られていない。フランスに渡ったのか、南方線のどこかの地点に行ったのか、それとも単に駅から外に出て、広いロンドンの町に呑まれてしまったのか、その行方は前と同じく完全に不明なのだ。トランクを発見するというような予期しない発展が、これだけしか成果をもたらさないとは、何という運の悪さだろう。
しかし、一つだけ成果があがった。変装の問題が解決されたのだ。ほかの仮説ではトランクの放棄は説明できない。
前に一度考えた狙いがまた頭の中に戻って来た。もしこの身許不明の女がルート夫人に変装したのだったら、彼女は夫人と交際があったか、ないしはよほどよく知っていたはずだ。だから、ルート夫人の方もこの身許不明の女を知っているかもしれない。それからまた、|X《エクス》夫人は――この身許不明の婦人を頭の中でこう呼び始めたのだ――本当にオリンピック号で横断したのも事実らしく見える。そうでなければ、どうしてラベルや晩餐の献立表が手に入れられるだろう。この二つの仮定を許せば、まず本物のルート夫人とX夫人は船の上で会っていることになる。もしそうなら、ルート夫人に会ってみるだけの値打ちがあるのではなかろうか。そうすれば、消去という方法によって夫人は、自分になりすますようなトリックをやったかもしれない一人ないしは数名の者の名前を暗示でき、フレンチに新しい攻撃点を与えてくれるかもしれない。
この件を調べる値うちがあると考えて、まず彼は本庁に戻って、ピッツバーグの警察に電報をうって、ルート夫人の現在の所在を知ろうと決めた。
彼は時計を見た。まだ五時になっていなかったから、勤務時間が終わるまでにもう一軒まわれる。十五分後、彼はストランドから少しはずれた、サフォーク通りにあるダッシュフォード探偵事務所の扉を押し開けていた。
「パーカーさんいる?」彼は受付に出て来た頭のよさそうな若い婦人に尋ね、名前をきかれたので続けて言った。「本庁のフレンチ警部ですが、パーカー氏は旧友だから、このまま行きますよ」
彼がカウンターを通り抜け、事務室を横切り、一番遠い壁についている扉を叩くのを、その女の子は疑い深い目つきで眺めていた。返事を待たずに、彼は扉を押し開け、中に入って、扉を閉めた。
部屋の真ん中の机で何か書いているのは、すごく図体の大きい、頑丈な男であった。顔をあげずに、焦《じ》れたような口調で、「何だね?」とつぶやいた。
「何が何だね?」フレンチは相手の口調をまねしてつぶやいた。
太った男は顔をあげた。赤味を帯びた顔に微笑が浮かんだ。彼は重たそうに立ちあがって、大きな手を差し出した。「なんだ、ジョーか、よく来たねえ。しばらく見えなかったじゃないか。火の方へ椅子を持って来たまえ。何か珍談があるらしいね」
フレンチは、言われた通りにしながら言った。「万事順調かね? 忙しいかい?」
「君と駄弁《だべ》れないほど忙しくはないさ。本庁の様子はどうだね?」
「本庁は相変わらずだ。相変わらずの安月給だ。君が早く見切りをつけて、ここに納まったのは賢明だったといつも思うよ。自分でやっているのは、楽しいだろう?」
太った男は頭を振った。
「どうかな」彼はタバコ入れを来訪者に差し出しながら、ゆっくりと言った。「どうかな。自分でやるとなると、心配もそれだけ多いよ。仕事を取って来なければ金にならないし、貯めた金の利息がつくほかには、やめても年金なんてものも貰えないしね。やめてから、何度も年金のことを考えたものさ」
「何を言ってるんだ!」フレンチはパイプを詰めながら、親しそうに言った。「年金などを考えるほどの年じゃないくせに。一週間ほど前にちょっと君に会いに来たが、君はスコットランドに行っていた」
「うん、マンロー事件でね。マンロー老人の側に立ってね。彼はどうやら助かりそうだぜ」
「そうだろうとも」話は段々あらぬ方にそれたが、ここでフレンチは来た目的の方へ方向を変えた。
「僕は今、君たちも関係したある事件にかかわっているんだが。君に手伝ってもらえるかどうか知りたいんだ。それはコクスパ通りのウィリアムズ・アンド・デーヴィスが六週間前に頼んだピッツバーグのルート夫人の件なんだがね。どんな人相だか、またオリンピックで大西洋を渡ったか調べてくれるように頼んで来たろう」
「ああ」太った男は言った。「だが、もう教えたよ。僕自身が扱ったんだ」
「知りたいわけを君に話したのか?」
「いいや。ただ調べろというだけの依頼だった」
「その点が彼らの間違いのもとだったのだな。一人の女がウィリアムズを訪ねて、ルート夫人だと名乗り、オリンピック号で横断したのだと話した。旅券と切符と金を入れた手さげ鞄を盗まれたから、トランクに入れておいたダイヤモンドを抵当に三千ポンド借りたい、と彼女が言ったんだ」
「それで? それが何かいけなかったのかい?」
「そこまでは完全によかったのだ。ウィリアムズは君がその女が当人だと言ったので満足して、金を貸してやったんだ」
フレンチは話を切って微笑した。彼の友達は腹立たしげに叫んだ。
「おい、よせよ! 早く続けろよ。その石が練物《ねりもの》だったのかい?」
「全然違う。彼らはその石をハースト・アンド・ストロン商会のストロンの所へ持って行き、彼が鑑定をした。完全に立派な石で、三千三百ポンドほどの値打ちがあった。だが」――フレンチは話を切って、今度は力をこめた口調に変えた――「その石はみな、その前の晩に、デューク・アンド・ピーボディで盗まれたものだったんだ!」
太った男はみるみる表情を変えた。彼はフレンチをじっと見つめた。まるで彼の目の前でこの哲学者がルート夫人に変わってしまったかのような目つきである。それから、彼は強く腿《もも》をたたいた。
「畜、生!」彼はゆっくり言った。「前の晩にね! 相当な悪党だな! 話してくれたまえ」
「話というのは大体それだけなんだ」フレンチが言った。「その女は、その前の晩の八時ごろ、いかにもオリンピックから下りたような顔をしてサヴォイ・ホテルにやって来て、次の晩に出て、姿を消してしまったのだ。今までのところ、手がかりは全然ない。僕はヴィクトリア駅までたぐったが、そこから足どりが消えているのだ」
太った男は考えこんだ。
「でも、もしウィリアムズ・アンド・デーヴィスがその件でわれわれに文句をつけようというのだったら、おかど違いだぜ」やがて彼は言い放った。「彼らはわれわれに質問し、われわれは正確かつ迅速な報告をしたのだからな」
「それはわかっている」フレンチが同意した。「ウィリアムズの質問の仕方がまずかったのだ。ルート夫人は誰か偽者に名前を使われたのだ。少なくとも、僕はそういう説を立てている。だが、僕が君から聞きたいのは、君があの資料をどういうふうにして得たかだ。ここだけの話だが、君はあれに満足しているのかね?」
太った男は気がよさそうな態度で拳《こぶし》を振った。「こら、若いの」彼は忠告した。「失礼なことを言ってはいけないよ。だが、話すとしよう」
彼は急に真面目になって続けた。「ピンカートン〔アラン・ピンカートンというアメリカの探偵の創立した私立探偵事務所〕を通したんだ。あの社とは協定ができていてね。あすこのニューヨークの店に電報をうったら、先方で資料を集めてくれたんだ」
「大丈夫なのはわかっていたんだ」フレンチが答えた。「だが、どういうふうに君がやったのか知りたかったのさ」
二人はしばらく駄弁《だべ》ったが、やがてフレンチはもう帰らなければならないと言った
三十分後、家に着いた彼は、スリッパと安楽椅子のことを考えながら安堵《あんど》の溜息をもらし、扉を開けた。
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一一 宝石の取引
フレンチ警部の陽気な自信は、目先の行動の筋道に関して不安がまったくない時には、最も強くあらわれる。何か、明らかにしなければならないことがある時には、彼はいつも必ず勇往邁進《ゆうおうまいしん》して行い、任務を遂行する上には困難も不愉快さも眼中にない。彼が憂欝な顔をするのは、見通しのついていない時だけだが、こういう時には、彼は頭痛やみの熊のように不機嫌になり、部下は仕事の許すかぎり、できるだけ彼から遠ざかっているのである。
私立探偵社の太った代表と話をした次の朝、彼は上機嫌であった。つまり、この日の彼の行動計画が満足な形になっているだけではなく、その計画の絶妙な点についても何の疑いの雲ひとつ頭にないのであった。彼はまず、X夫人が小切手を振り出した宝石店を訪ねるつもりでいた。それから、この訪問が何も新しい捜査の線を出さなかったなら、ホワイト・スター汽船会社の事務所で質問をしよう、そのころには、ピッツバーグから返事が来るに違いない。
今朝本庁に出勤した時、彼は例の小切手を出して、訪問すべき店の表を作っておいた。最初の二軒はピカデリーにあるので、彼はまずそこへ行くバスに乗って捜査を開始した。
午後一時までに、彼は六軒とも回ってしまい、クランバン通りを少しはずれた小さいフランス料理店で昼食をとりながら、これまでにわかった事実を吟味した。どの店でも、時間に多少の遅速はあったが、X夫人に応待した店員が見つかった。そして、彼女のしたことは、どの店でもまったく同じであったらしい。どの店に行っても、彼女はこれから結婚する親しい友人に宝石を贈りたいからといって、何か単純な、しかし質のいい品を見せてくれと言ったのであった。ダイヤモンドの指環か、宝石をちりばめた腕環か、何か高価なちょっとした品、要するに若い娘の喜びそうな品である。一軒での買物は二百ポンドと三百ポンドの間ぐらいで、どの場合にも彼女は小切手を出した。自分から言い出して、使いの者を銀行にやらせた。始めての客の小切手を受け取る店がないのはわかっているから、というのである。店員はそんな必要はございませんと言って強く反対したが、用心をしながら丁寧に話しかけて引きとめた。やがて電話が銀行からかかって、大丈夫ということがわかると、店員は品物を渡して、お辞儀と共に彼女を送り出した。どの店も取引について怪しいとも思わず、変わった様子にも気づかなかったし、万事円満にすんだのに満足していた。
フレンチはこの買物の件が不思議でたまらなかったが、コーヒーを飲んでいるうちに、その刺激で、あり得そうな仮説が頭に浮かんできた。
こうした、高価ではあるがありふれた宝石類を、六軒の違った店で買ったというのは、デューク氏の十六個の石を金に換える計画の一部にすぎないのではないだろうか。この点を考えているうちに、フレンチはおぼろげながらこの計画の全貌をつかみ得たような気がしたのだ。まず、金貸しのウィリアムズ氏もストロン氏も、最初の訪問によって、次に来ることの性質がわかっていた。この最初の訪問に対しては、いかなる疑いも起こり得ない。なぜなら、この時にはまだ宝石の盗難事件を知らなかったからだ。ここでフレンチは悟ったのだが、事務員のオーチャードが偶然に事務所を訪ねなかったとしたら、この二人の紳士は第二の訪問が行われた時に、盗難については何一つ知るはずがなかったのである。犯罪者の計画としては、実に頭のいい限りである。だが、それはとにかくとして、X夫人の虚勢は終わりまであばかれず、彼女は自分の、否《いな》、デューク氏の石をウィリアムズ氏の小切手と交換することに成功したのであった。しかし明らかに彼女は、小切手全体を現金にするのを恐れていた。そしてフレンチは彼女の狙いを読んだのである。つまり、口座を開いて千五百ポンド預けたというのは、三千ポンドもの金を小額紙幣に換えれば怪しまれるおそれがあるので、それを避けようとした計画的な、抜け目のないやり方なのだった。しかしこうした用心のおかげで、今度は彼女は預金を現金化する方法を考え出さなければならなくなった。で、フレンチは悟ったのだが、ここに宝石を買うという手が生まれたのだ。≪買ったばかりの品物を彼女は売ったのではなかろうか?≫もし売れれば、三千ポンド全額が、足のつかない紙幣に変わってしまうのだ。
むろん、この作戦には一歩ごとに損失があるだろう。まず第一に、宝石を処分した時に損失がある。ストロン氏は三千三百ポンドと鑑定したのに、彼女はウィリアムズ氏から三千ポンドしか受け取っていない。ピカデリーやリージェント通りで買った宝石類を本当に売ったとすれば、もっと大きい損をしたに違いないし、おまけに銀行に残した少々の残額も損している。
だが、それにもかかわらず、彼女の計略はそれだけの値打ちがある。こうしたことによって、彼女は石の値打ちの七割か八割は得られたに相違ないのだ。が、もし名の通った故買屋《こばいや》と取引したなら、一割五分か二割そこそこしか手に入れられないだろう。おまけに、彼女の計略の方が安全であった。つまり、今のところまでは、彼女は自分の身許を隠しおおせているが、故買屋に口をかければ、相手の手中に陥って後から脅迫されるし、あるいは橋渡しをしてもらった仲介者に脅迫されるかもしれない。だから、この計画は後腐《あとくさ》れもないし、またごく頭のいい計画で、フレンチの楽天主義にもかかわらず、何となくこの女はまだ巧く逃げおおせるかもしれないという懸念《けねん》が、頭の奥から抜けないのであった。
しかし、もしこの仮説が正しいとすると、この買い手さえたぐれば、この逃げ足の早いX夫人を探すための新しい手がかりが、一つないし幾つかは、わかるはずだ。だから、彼の次の難問は、X夫人がはたして宝石を売っただろうか、となる。そして、もし売ったのなら、この買い手をたぐれるであろうか、となる。
彼はその六軒の宝石店に戻って、彼女の買った品物の特徴を詳しくきいた。それから本庁に帰って、興信録と旧市内に対する自分の知識をたよりに、こういう物を扱うであろう業者の表を作った。六名の私服が動員され、こうした業者を訪ねて、かくかくの品物が手許に来ていないか調べて来いという命令を受けた。
フレンチ警部がこういう手配をし終わったちょうどその時に、電報が渡された。それは前夜の問い合わせに対する返事で、こう書いてあった。
「チャーンシ・S・ルート夫人、月末までミュレン市ペルガルド旅館」
ミュレン? スイスの町ではなかったか? 彼は地図と欧州鉄道案内を取り寄せて、調べてみた。そう、スイスにあった。おまけに、それは彼が前に行った所に近い。あの素晴らしい色調の湖――トゥール湖のそばを通って、インターラーケンや、誰でも名前は知っているベルン高地などのような、彼が昔から行きたいと思っていた所を抜けて行くのだ。彼は少なからぬ熱心さで、ルート夫人に会わなければならない理由を再吟味して、それから充分であると確信がついたので、上司の部屋へ行った。上司は彼の話に耳を傾け、納得してくれたので、フレンチは雀躍《こおど》りする思いで、次の晩に立つつもりで支度を始めた。
次の朝、本庁に出勤の途中、ホワイト・スターの事務所に寄って、問題の航海の時のオリンピック号の船客名簿の写しを貰った。あの船は今、ニューヨークに行っていて、あと三日で当地を出帆することになっているという。だからサウサンプトンには次の週の水曜日に着くことになる。
このほかに、彼は船客一人一人の筆蹟の見本も手に入れられることを知った。切符を買ったり、税関に手荷物の内容を申告したりするために、書類に記入したり、署名したりする必要があったのである。もしフレンチがそういうものを調べたいのなら、サウサンプトン支店か同市の税関当局に申請すれば、見せてもらえるそうだ。
フレンチはルート夫人に会ってみて何の手がかりも得られなかったら、この忠告にしたがう決心をしたが、そうするのならオリンピック号が入港している時にサウサンプトンに行き、ついでに船の連中にも会おうと決めた。
本庁に着くと、宝石について色々と報告が来ていた。六人の私服の一人は運がよかった。最初に行ったオクスフォード通りのロブスンの店という所で、例の取引された品物の一つに間違いない指環を一つ発見し、それがX夫人が銀行に口座を開いた日の次の日の午後、ある婦人から買い取ったものであるとわかった。彼はその指環を、問題の取引をしたリューイス・アンド・トットナム商会に持って行くと、それがX夫人に売って、代わりにルート夫人の小切手を貰った品物に違いないことがわかった。ロブスンはそれに百九十ポンド払ったが、リューイス・アンド・トットナムは二百二十二ポンド請求したのだから、その婦人はこの取引で相当ひどい損をしたことになる。彼女はその金を小額の紙幣で受け取り、店のほうはその番号を控えてはない。
X夫人に応待したロブスンの店の係員は、彼女の人相を思い出せなかった。取引の伝票を調べてみてやっとそれを思い出したのであった。しかし、その売り手がアメリカの婦人であったという点には同意したし、年もさほどとってもいないし、ごく若くもない、また特に目立つほどの美人でもなかったと思うといった。
フレンチ警部はこの報告を聞いて喜んだ。これは彼の仮説が疑う余地もなく正しいことを証明した。こういう宝石を買ったのは、盗まれたダイヤモンドを、証拠のない現金の形にしようという計画の一部分であったのだ。さらに、その婦人がヴィクトリア駅へ自動車で行った晩に、フランスに向けて汽車で発たなかった、という彼の推測が正しかったことを示している。その次の日、彼女はまだロンドンにいたのだ。
しかし、彼の判断できるかぎりでは、この発見は、その不思議な女を見つけるという点では、何の足しにもならない。この店の店員は人相も覚えていないし、女の方もたぐれるような痕跡《こんせき》は何も残していないのだ。事実、この手がかりもまた有望そうに見えながら、見事に雲散霧消《うんさんむしょう》してしまいそうだった。この可能性を考えているうちに、口惜しさが彼の喜びの鋭さを鈍《にぶ》らし始めた。
午前中に、もう一人の私服が一つ捜《さぐ》りあて、昼食までには三番目の取引も明るみに出た。残念な点は、この双方とも最初のと同じく何の手がかりも生み出さないことであった。どの店でも売り手の人相を覚えていなかった。フレンチは自分でその店をまわってみたが、いくらしつこく食い下がってみても、何一つニュースは出てこなかった。
その晩、彼はミュレンに向けて出発した。予定の時刻にベルンに着き、汽車を乗り換えて、シュピーツを過ぎ、偉大な円錐形をなすニーゼンの丘の下を、トゥール湖に沿って走り、インターラーケンに入った。そこで一夜を明かし、次の朝、ベルヌ高地の峨々《がが》たる巨峰の群れるまっただ中へ南行する狭軌鉄道に乗った。マッターホルン、アイガー、メンヒ、ユングフラウなどの巨峰が相つらなって眼前にそびえ立つ光景に、彼はまったく圧倒されたが、汽車が狭い渓谷をうねりながら登るにつれ、まるでその圧倒的な大きな塊《かたまり》が両側から彼を圧しつぶしにかかって来るかのような気分を感じた。
ラウターブルンネンに着くと、ケーブル鉄道でミュレン高原に登り、そこから電車で有名な保養地へと旅を続けた。ベルガルドヘ向かう途中、ユングフラウ峰の偉大な峡壁を谷ごしに眺めて魂を奪われた。一つの山頂の目のくらむほど白いのが次の山頂に続き、そうして高く高く高く、澄んだ大空の薄青の中へとそびえたっているのである。一緒に電車に乗った一人が、さも満足げに、さんざん雪の中を旅行したが、やっとこれで世間なみの酒が飲めると言ったくらいでは、彼の心は地界には降りてこなかった。彼と新しいこの友達はベルガルド旅館の酒場へ行って、互いにスコッチを飲んだ。次第に山の魔術は薄らぎ、ルート夫人との会見が元通りの重要性を取り戻し始めた。
宿帳を調べるとすぐわかった。名前はサヴォイの時と同じく、米国ピッツバーグのチャーンシ・S・ルート夫人であったが、書いた手はまったく違っていた。今度は本物のルート夫人なんだな、とフレンチは事務所から出ながら考えた。
この婦人をとっつかまえるのは昼食の後まで待つことに決めたが、彼は給仕長に頼んで、食堂に入って来るところを教えてもらった。彼女はアメリカの私立探偵たちやウィリアムズ氏の言った人相書に符合した。しかし、実際に見てみると、その人相書の曖昧《あいまい》さと不満足な性質とを、今まで以上に認めたのであった。その人相書は何百人の女にも当てはまる。
昼食後、ロビーで彼は彼女に言葉をかけた。まず、とつぜん話しかける無礼を詫《わ》び、自分の身分を名乗り、話をしたいことと、もしできるものならば、ある種の話をしていただきたいと頼んだ。
「よござんすとも」彼女は承知した。「じゃあ、これから私の部屋のリビングにまいりません?」
ここでフレンチは、この発音のしかたは、世界広しといえどもアメリカ人以外には絶対にできないと、自分に言い聞かせた。
「あなたはチャーンシ・S・ルート夫人ですね?」このホテル随一のスイート・ルームの一室に坐ると、彼はさっそく始めた。「お話を始めます前に、申しわけありませんが、旅券をお見せいただければまことに嬉しいのですが。理由は後で申し上げます」
「理由を先におっしゃった方がいいでしょう」彼女は肱かけ椅子にそり返って、巻きタバコに火をつけながら言った。
フレンチは微笑した。
「お望みでしたら。じつは、互いに米国ピッツバーグのチャーンシ・S・ルート夫人と名乗る二人の婦人がオリンピック号に乗って、サウサンプトンまで来たのです。そのどちらが本者かを調べるように私はロンドン警視庁から派遣されたのですが」
婦人は信じられないといった顔をした。
「どこからそんなことを思いついたんですの? 私はオリンピック号で横断しましたけれど、同じ名前の人はほかには乗っていませんでしたよ」
「でも、オリンピック号で横断したというチャーンシ・S・ルートという人が、船がリヴァプールに着いた日にサヴォイ・ホテルに現われて、ロンドンのある男から三千ポンドに及ぶ詐欺を働いたのです。それがあなたでないのはよくわかっているのですが、私の上司に納得させるために証拠が欲しいのでして」
興味と驚きの声をあげて、婦人は立ち上がったが、手さげ鞄の錠を開けると、その中から一冊の帳面を出した。「この旅券を今すぐご覧なさいな」彼女は断言した。「ずいぶん面白いお話らしいわね。さあみんな詳しく話してくださいな」
フレンチは旅券を調べたが、そのうちに最後の疑いも消失した。彼の前にいるのはルート夫人であった。X夫人は依然――X夫人であった。ここだけの内証の話だが、と断りながら、彼はかなり詳しくウィリアムズ氏の不思議な訪問者について語ったあげく、
「さあ、ルート夫人、私がどの点でご助力いただきたいのか、おわかりでしょう。誰かがあなたに変装していたのです。その人物はあなたと一緒にニューヨークから横断したに違いないのです。それが誰だったか、お考えになっていただきたいのです。ここに船客名簿の写しがあります。どうぞゆっくりと、船の上でお会いになった人々を検討なさってくださいませんか。確信のおありの人々を消去なさって、そうでない人々の名の上に印をおつけください。私のお願いしていることがおわかりですね?」
「わかることはよくわかりますわ。でも、あなたの考えていらっしゃるほどたやすいことではありませんよ。ニューヨークからロンドンまでの間に会った人をみな思い出すことなんてできませんもの」
「そうでしょうな。ですが、要するに、そう大勢でもないでしょう。注文に合うのはごく数名の婦人のはずですよ。第一に、背丈も姿もあなたに似ていなければいけないのです――むろん、ごくそっくりでなくてもいいのですが、まずだいたいはね。皮膚の色はどうでもいいのです――その点は、眼は別として、変装ができますから。眼は明るい黄金色を帯びた鳶《とび》色です。そんな眼をした人を誰か思い出されますか?」
婦人は頭を振ったが、フレンチは言葉を続けた。
「では、頭のいい女に違いありませんな。頭がよくて、勇気があって、決断力があって、いささか芝居っ気もあって。そんな取引を上手にやってのけるのですから、そうした特質をみなそなえていたに違いないです」
フレンチは自分の言葉が浸透するだけの時間、話を切った。そして、もう一度続けた。
「そして、あなたのことを相当くわしく知っているはずなのです。あなたのご様子を観察したばかりではなく、あなたのことをできるかぎり知ろうとして、先で聞かれた時に返事ができるように準備していたのです。こういう点から、誰かに思い当たられませんか? お願いです、ルート夫人、何とか私を助けてください。もしあなたが何かヒントを授けてくださらないとすると、じつは私は、今度はどこを捜査すればいいのか、見当もつかないのです」
「そうね、私もできるだけのことはいたしますけれど、今までのところは何の見当もつきませんのよ」彼女は部屋を横切って、もう一度手さげ鞄をさぐった。「ここに私がコダックで写した写真が少しあるんですが。これを調べれば何かわかるかもしれませんわね」
船の上で撮影した船客の一群の写真が二十五、六枚あった。ルート夫人は系統だった正確さで一枚一枚調べ始めた。一人一人を指しながら、彼女はその人について知っていることを警部に話した。
「ジェフス夫人――この人は駄目ね――こんなに太っていちゃ。えーと――何嬢だったかしら、この若い女《ひと》の名前は思い出せませんわ。でも、どっちみち、こんなに背が高くてはね。私より頭半分だけ高いんですもの。その次のはハイディー・スクアンス。連合石油のスクアンス老人の娘です。物心がついて以来、私はずっと知っていますのよ。それから、これは――ええと、これは誰だったかしら。思い出したわ。ディンスモワという娘さん。きっと、アイルランド系だと思いますわ。このひとも駄目だわ――とても淡い青眼なんですもの。次のはパース夫人」というふうに、暖炉の上の電気時計で計って二十五分間やった。
フレンチはこの婦人のやり方が能率的なのを大いに喜んだ。だが、とどのつまり、得られた結果は失望するほどわずかであった。写真の中の八人には可能性ありとして印がつけられたが、そのうちルート夫人が名前を覚えているのは五人であった。その五人のうち、ウォード夫人という――ルート夫人は船の上で始めて知り合いになった人物だが――のが、色々な理由から一番それらしく見えた。もっと頑丈な身体つきではあったが、ほぼルート夫人ぐらいの背丈で、ルート夫人の信じているところといえば、淡い鳶《とび》色の眼をしていて、なれなれしく、それからルート夫人が今思い当たったところでは、少し詮索《せんさく》好きであった。だが、この女は国籍の点で不合格になった。本人も言っていたが本当にイギリス人で、この点はルート夫人も疑ってはいなかった。フレンチは例の小切手を出して見せたが、その上に書いてある筆蹟はいまだかつて見たことがないような気がする、といった。
しかし、これは値打ちがあると彼が感じたヒントを一つ、彼女は与えてくれた。彼女の船室の世話をしてくれていたスチュワデスは、非常に頭のいい、観察力の鋭い女だったという。ルート夫人はこのスチュワデスが口にした話から、自分自身や同船の船客のことを、ひどくよく知っているので驚いたことが何回かあったそうだ。別にスパイをしていたと咎《とが》めたのではなかったが、この女に尋ねてみたら、誰に質問するよりも一番フレンチの要求にかなった返事が得られるだろう、と言ったのである。彼女はその女の名前を覚えてはいなかったが、かなり凄い美人で、眼は黒く、若々しい顔つきで、真っ白なプラチナ・ブロンドだから、見ればすぐわかるという。
ルート夫人はこの事件全体にひどく興味を感じていて、捜査の進み具合を絶えず知らせてもらいたいと警部に頼んだ。必ずそうすると約束して、彼は辞去した。
いよいよ彼はオリンピック号の入港している時にサウサンプトンを訪れるべき理由が増えたのだ。それで彼は翌朝帰路について、火曜の午後ロンドンに着いた。
本庁では、例の謎の婦人のやった残り三つの取引が既にわかっていた。が、残念なことに、どの場合も彼女の身許の知れそうな手がかりはまったく得られていなかった。こうした発見は夫人の買った宝石のうちの千二百ポンドほどの分に相当しており、これを売って彼女は千九十ポンド受け取っていたから、取引上の損はわずか九パーセントにすぎない。
彼は時を移さずウィリアムズ氏を訪問して、ルート夫人の写真を見せ、このグループの中に例の不思議な訪問者がいるかどうかと尋ねてみた。しかし、この金融業者は自信がなかった。しばらく、彼は何も答えずに、不確かな眼つきで写真をひっくり返していたが、そのうちにウォード夫人の姿を彼は指した。
「これが似てはいますね」彼は確信のなさそうな調子で言った。「しかし、たしかとは言えないのです。もし彼女だとしたら、ずいぶん悪く撮れていますね」彼はなおも写真を見つめた。「ところがですね」彼はゆっくりと続けた。「私はこの婦人を前に見たことがあるような気がしますね、あなたがウォード夫人だとおっしゃる女を。たしかにどこかで見たことがあります。奇妙な話ですが、ダイヤモンドを持って例の婦人がここに訪ねて来た時にも、同じ印象を受けたのです。その時、私はただボンヤリと、どこかで見たな、と思っただけでした。ですが、今このウォード夫人について私の感じているほどの自信はなかったのです。どこかで、いつだったか、私はこの女を見ましたよ。どこだったか思い出せたらなあ」
「思い出してくださいよ」フレンチは何となく不満っぽい口調で言った。「私にとって万事がひどくやさしくなるんです」
「私が自分の三千ポンドを取り返してもらうためにだって思い出せないのですから、あなたのお仕事をやさしくするためには思い出せそうにもありませんな」相手は冷淡に答えた。「見当がつかんのです。何度も何度も考えたのですが、駄目なんです。汽車の中で見かけたか、あるいは料理屋の中ですかな。会って話をしたことがある女でないのは確かですが」
フレンチは次にロンドン・アンド・カウンティーズ銀行のピカデリー支店を訪ね、スカーレット氏と係員のプレンティアスに会った。二人は躊躇《ちゅうちょ》せずウォード夫人の写真を指して、ここへ来た謎の女性らしいと言ったが、二人とも確信はなかった。ウィリアムズ氏の場合と同じく、支店長はこの婦人の顔立ちに見覚えがあるような気がすると言ったが、やはり一度も会ったことはない婦人だという。これだけでフレンチは満足しなければならなかった。
彼は午後いっぱいをつぶして、この尻尾のつかめないX夫人が取引をした店や代理店を訪ねてまわった。彼女に応待した十一人の店員のうち、七人はウォード夫人に似ていると言ったが、四人は全然覚えていなかった。
こうした証言はみな、フレンチにとっては不満足であったが、差引勘定をすると、ウォード夫人が彼の探している女であるとする方が強いと思って、以前より自信を深めながら水曜日の晩、サウサンプトンに向けて出発した。次の日に入港するオリンピック号の到着を待とうという心算なのであった。
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一二 尻尾《しっぽ》のつかめないX夫人
フレンチ警部は町の警察署に近い、小さなホテルに泊まって、翌朝早くホワイト・スター汽船の事務所に行った。聞けば、もうオリンピック号は入港しつつあるという。彼は急いで埠頭《ふとう》に行って、この巨船の到着を眺めた。大きな船体がゆっくりと指定位置に近寄り、桟橋に横づけになって、つながれるのを見るのは印象的な経験だった。舷門から、一週間の大部分をその上で過ごした船客が流れのように降り始める。ある者は、もう商売に気を取られていたり、汽車に遅れまいとしたりして大急ぎだし、またある者は悠々とタクシーや自動車を待っているし、また嬉しそうに笑顔で友達に挨拶をする者もあれば、航海中の友達に別れの手を振る者もいたが、次第に散り散りばらばらになり、彼らのいた場所には他の者が来て、さらにまた……フレンチは船客の種は尽きないのではないかと考え始めたが、ついには人の数もまばらになったので、彼は船の上にあがって事務長を探し始めた。入港早々で用事が多く、忙しいので、事務長はすぐには彼に会えなかったけれど、ボーイをよこしてフレンチを自分の部屋に招き、やがて自分もそこへやって来た。
「お待たせしました、警部」彼は詫びた。「十一月遅くの帰国航海について、何か資料がご入用なのですと?」
「そうです」フレンチは答えて、用件を説明し、ルート夫人の印をつけた写真を取り出すと、こう結んだ。「私はこの八人の婦人の名前と住所と、ほかにご存じの限りの資料をいただきたいのです」
「せっかくですが、ほとんどお役には立てませんな」事務長は答えた。「一航海の終わるごとに記録は全部陸にあげてしまいますので、ここにはただ、今の航海の分だけしか持っていないのです。ですが、船員の誰かがこの婦人方のお名前を覚えているかもしれませんから、覚えていましたら、住所の方は陸の事務所でお調べになればすぐわかります」
「それは好都合です。私は船客名簿の写しをここに持っていますから、あるいはお役に立つかもしれませんね」
「ええ、思い出す上に役に立ちましょう。私もお役に立つかもしれませんから、研究させてください。私で駄目でしたら、わかりそうなのを呼んで来ます」彼は写真をひねくり始めた。
「これがルート夫人です」フレンチは後ろにまわって相手の肩ごしに眺めながら指さした。「夫人から名前を五人までは教えていただいたのですが、それも確かめたいと思うのです。ほかの三人は夫人も思い出せないそうでして」
事務長は写真をひっくり返しながらうなずいた。
「これはフォーブズ夫人という人です」彼は指さした。「それから、これはグレースン嬢とかグレーヴズ嬢とか、何かそんな名前の人です。こういう顔は大部分は思い出しますが、名前の方はちょっと困りますね」
「フォーブズ夫人とグレースン嬢というのは、ルート夫人によれば、正しいのだそうです」
事務長は写真を静かな決意をみせた表情とともに下に置いた。かなり思い切りのいい人物らしい。
「これが私の限界らしい」彼は呼び鈴を押した。「ホープ夫人に来てもらってくれないか」と命令してから、フレンチに向かって続けた。「ホープ夫人というのはスチュワデスの主任です。ご一緒にいらしてくだされば、おそらくご入用なことはわかると思いますから」
ホープ夫人は仕事面でかなり有能らしい顔つきの婦人で、用件をすぐに把握した。フレンチに自分の部屋に来るようにと言い、部屋へ来るとその写真を眺めた。そのうちの六人までは彼女自身で見わけがついたが、残った二人の名前も、まもなく思い出した。
フレンチはルート夫人の同船客の名前の記憶が正しかったのを知って喜びながら、この大きな船を離れたのであったが、X夫人が自分の指示した八人のうちにいるはずだと信じていた点もまた正しくあってくれと、心から念じるのだった。もしそうならば、あの逃げ足の早い女性の身許調査に関して、彼は大いに進んだわけだ。
彼はホワイト・スターの事務所に帰って船客名簿を渡しながら、これに印のつけてある八人の婦人船客の住所氏名、その他知れるだけの特徴を教えてもらいたいし、また筆蹟の見本も欲しいと説明した。
唯一の決定的な証拠は筆跡にあることを彼は悟った。X夫人が小切手に書いたのと同じ筆蹟で書く者が八人の中にいたとするなら、彼は目的地に到達したのである。もしいなかったなら、彼は問題の航海で横断したあらゆる婦人客の手荷物申告を調べても探し出してみせる決心をした。
彼に応待をするよう命令を受けた事務員は、ひと抱《かか》えもある書類を持って来た。
「すみませんが」彼は気の毒そうに言った。「これをご自身でお調べいただけるでしょうか。今日はわれわれの忙しい日でして、しなければならない仕事が山のようにあるのです。簡単におわかりですよ。これは乗船申告書ですから、お開けになればすぐわかります。アルファベット順に綴《つづ》ってありまして、等級別になっています。ですから、ご覧になればすぐわかるはずです」
「ごもっともです」フレンチは勝手に振るまえるのに喜んだ。「どうぞ私のことはご心配なく。一人でやりますし、何か困ったことがあったら、うかがいに行きます」
彼は八人の婦人の一人一人の申告書を探し出しながら、「一人でやった」。名前をみつけ、住所を書き取り、国籍その他の特徴を写し、それから筆蹟を夫人の小切手の署名と較べた。
彼は筆蹟の鑑定家ではなかったが、手を変えようとしても必ず残る特徴を発見する科学的知識については充分に知っていた。だから、捜査にあたって、彼は、ごく辛抱強く、慎重で、一見いかにもサンプルと違ったふうに見えても見のがすようなことはせず、自分の習った規則に一つ一つあてはめて検査し、いよいよ別の手で書いたに違いないと確信の持てるまでは次に進まなかった。
何の発見もないまま、表の上の八番目の名前に来た。だが、ウォード夫人の申告の欄に来ると、これはルート夫人が中でも一番怪しいといった婦人であったが、彼は突然、低いけれど嬉しそうな笑い声を立てた。小切手のと同じ手だ、同じ手であることには何の疑いもない。しかも全然変えようと試みずに書いてある! これだ! エリザベス・ウォード夫人、三十九歳、イギリス人、等々、住所はヨーク市、サースク街道、オークランズ。目的地に着いたのだ!
しかしすぐさま彼は悪い予感に打たれた。ルート夫人はウォード夫人が変であるとは思ったが、国籍の点から除外してしまったのだ。ウォード夫人はイギリス人だ、と彼女は言ったのだが、X夫人を見たことのある、少なくとも十七、八人の人間は、口をそろえて彼女はアメリカ人だと言った。ルート夫人が間違えたのかと思ったが、申告書にもイギリス人と書いてある。フレンチは当惑して、また船に戻って船の人々の意見を確かめようと決めた。
ところがみなはルート夫人を支持した。ウォード夫人はイギリス人でしたよ。疑いもなく、まがう方ないイギリス人でしたとも。
ボーイたちもスチュワデスたちもこの点にはいささか経験があったから、自分たちは知っているつもりだと言った。彼は船医にも出くわしたが、この人は色々な場合にウォード夫人と口をきいたらしいが、同じように自信を持っていた。
船を降りようとしている時、ふとしたことから、ルート夫人が会ってみるようにと教えてくれた、例の、眼の黒い、髪がプラチナ・ブロンドの、素敵な美人スチュワデスにぶつかったので、彼は立ちどまって声をかけた。
不幸にして、彼女はたいして話す材料を持っていなかった。彼女はウォード夫人の名も容貌も覚えていたが、自分の係ではなかったのだ。しかしながら、航海の終わりに近いころ起こったある事から、彼女が特に気をつけて見たことがあったのである。
昼食の時間に廊下を通っていると、自分の受け持ちの船室の一つの扉が少し開くのが目についた。と、一人の婦人が出て来て、素早くあたりを見まわした様子が、いかにも誰かが見てはいないかと気遣うふうであった。それはルート夫人というアメリカ人の船室であったのだが、扉からそっと出てきた女は、ウォード夫人であった。その様子が何となく人目を忍び、うさん臭かったので、このスチュワデスは怪訝《けげん》に思い、別の船室に身をひそめて、事の成り行きを見守った。ウォード夫人は誰にも見られなかったのに満足した様子で、食堂に現われ、席についた。スチュワデスはなおも監視を続けたが、食事が終わると、彼女はルート夫人の方へ歩いて行って、まるで頼まれた用件の結果でも報告するかのように話しかけるのを見た。これでスチュワデスの疑惑はおさまったが、何かに手をつけた模様でもないかと、ルート夫人の部屋に戻って様子を調べたのだ。彼女が気のついた限りでは、何も紛失物はない模様だったし、ルート夫人も人が何かいじった形跡があるといって文句も言わなかった。
もし彼が抱いていた疑惑に確認が必要なのであったら、この挿話で充分である、とフレンチは感じた。疑いもなく、ウォード夫人は変装に役立たせるために相手の服とか持ち物とかに対する知識を集めていたのだ。あるいは必要な時に偽物を作るために、封筒とかいったような書類の写真を撮っていたのかもしれない。
しかし、まだ彼女の国籍という困難が残っていた。外国人のアクセントとか態度とかを真似るのは容易であるが、大勢の人間をそうも完全に欺《だま》すほどの真似ができるとはフレンチにも信じ難かったし、しかも相手の多くはこの点では玄人なのだ。けれど、これは全般的な難問から見れば一部分にすぎなかったので、彼はいよいよ本腰を据えて、ヨーク市サースク街道のエリザベス・ウォード夫人を探し出す決心をした。
陸に上がると、彼は電信局に寄り、ヨーク市の警察部長に電報を打って、問題の所番地にこの名の婦人が住んでいるか、もし住んでいれば目下在宅中か否か、返事をもらいたいと依頼した。
次の用件は警察だったので、そっちへ向けて歩いている途中、ふと思いあたることがあったので、脇道にそれて、大西洋を渡って来る手荷物を検査する建物に入って行った。まだ何人も税関吏がいたので、彼は近づいて一人に話しかけた。
「おや」その青年は驚いて答えた。「その件で僕の所に見えたとは、不思議な話ですなあ。まったくの偶然ですなあ。そのトランクを検査した男を僕は知っているんですよ。その時、その男から聞いたんです。アメリカから、毛布を詰めたトランクを持って来るなんて、実に馬鹿馬鹿しいと思うじゃありませんか。一緒にいらっしゃい、その男を見つけてあげますから。では、あの女はいよいよお尋ね者ですか。おい、ジャック!」
彼は同僚に声をかけた。これも似たような身ぎれいな、能率的らしい、同じタイプの青年であった。「君にご用だとおっしゃるんだ。オリンピック号が二航海か三航海前に帰って来た時に、君の話した毛布入りトランクの件をききたいそうだ。その件で僕の所に見えたのは実に不思議な縁じゃないか。まったく、これこそ縁だよ!」
「そう、あなたは運よくいい男にぶつかりましたね」第二の男がフレンチに言った。「僕はあのトランクも持ち主の婦人もよく覚えていますよ。わざわざ大西洋の向こうから毛布をトランクに詰めて持って来た人の気が知れなかったものですから。そんなことをした人はそれまでに一人も出食わさなかったんで」
「あなたは、何とも意見はおっしゃらなかったのですか?」フレンチが尋ねた。
「ええ、でも先方が言いましたよ。アメリカから毛布をトランクに詰めて持って来るなんて珍しい話に違いない、って彼女は言ったんです。僕は最初は少し怪しんでいて、わりに注意深く検査したんです。僕がいかにもそうだと答えますと、彼女は小さいが高価な磁器の装飾品のコレクションを持って帰るつもりなので、それをこの毛布で包むつもりで、どっちみちトランクは持って来なければならないのだから、新しく買わないですむように、ついでに詰め物も持って来た、というのです。どうも少しおかしな話だとは思ったのですが、箱の中には課税品は一つもありませんでしたし、干渉するのは商売ではありませんからね。あれが何か不正だったのですか?」
「わからないのです」フレンチが答えた。「私はあの女は悪党だと思っているのですが、まだ毛布の件までは調べがついていないのです。時に、その女はこのグループの中にいますか?」
青年はためらわずにウォード夫人を指さしたので、これで税関吏からきくことは全部すんだとばかり、フレンチは警察の方へ踵《きびす》を返した。
いったいこの毛布の一件は何を意味するのだろう、と彼は考えた。頭を前に垂れ、眼をうつろに歩道に落としながら、ゆっくり歩いているうちに、ありそうな説明が頭に浮かんできた。あのトランクは詐欺に役立たせる小道具としてだけ入用だったに違いない。ピッツバーグの富豪の妻なのだから、ルート夫人がアメリカから来たというのに、アメリカ製のトランクを持って来ないはずはない。しかしルート夫人が姿を消す段になると、トランクが邪魔になる。処分をしなければならなくなるし、事実、処分されてしまった。だから当の婦人の品物、所有者の手がかりになるかもしれないような物は、何一つ入っていてはいけないのだ。しかし、何か入っていなければまずい。空っぽのトランクでは軽すぎるし、部屋係のメイドが気づくかもしれないし、ホテルの従業員たちの間に噂が立ってそれが事務所に聞こえるかもしれない、そうなった場合、ウィリアムズ氏が信用調査の電話をかけて来た時に大きく響くだろう。だが、毛布はその注文にピッタリである。この目的のためにこれ以上の物はフレンチにも考えつかなかった。毛布ならかなりの目方があるし、ウォード夫人に対する手がかりにはならないし、安いし、税関の役人に見とがめられたにしても立派に言いわけができる。そうだ、フレンチは考えた、いかにも本当らしい説明として税関を通ったのだもの。
警察署に着くと、彼は名前を名乗って署長に面会を求めた。
ヘーズ署長は今の職につく前にロンドンに駐在していたことがあったので、フレンチとは一度ならず会っていた。だから、慇懃《いんぎん》に迎えて、坐り心地のいい椅子に招じ、上等の葉巻を供した。
「トリニダッド産ですよ」彼は説明した。「あちらの知人から直接にとったのです。ところで、ご近況を伺わせてください」
二人はしばらく昔話をしていたが、やがてフレンチは用件に話を向けた。
「興味のある事件なんです」相手に詳細を伝えながら、彼は言葉を続けた。「この女は相当な強《したた》か者に違いないんです。ウィリアムズに聞かせるために、旅券をなくした話をすぐさま考え出すなど、偉いものですが、しかしあなたの所へ訴え出ていたというのは少し行きすぎでしたな」
「ずうずうしいものですよ、ええ」署長が認めた。「しかし、必要だったのでしょうよ。旅券のないのがウィリアムズ氏の不審の種になるだろうというのを知っていたに違いないのですから、その疑念を除く必要があったのです。そうした鞄を盗まれて、警察に届けもしないというのも変ですから、それで届けたのです。ウィリアムズ氏が照会して来ればすぐわかることを知っていたのです。また事実、照会して来ましたからね。いいえ、彼女がこちらへ来ないわけにはいかなかったのですよ。ぜひ打っておかなければならない手ですからね」
「あなたのおっしゃる点には、まったく異存はありません」フレンチは答えた。「しかし、あれほど頭の冴えている人物にしては、いささかどうかと思いますね。いわば、ライオンの口に頭をつっこむ、という冒険ですし、その上に頭が口の中に入っていることをライオンに注意してやるようなものですからな。とにかく私は彼女を見つけなければならないのです。そこで、彼女についてできるだけ詳しいことを教えていただきたいのです。オリンピック号の連中からも少し聞きましたが、力の及ぶかぎりは集めておきたいので」
署長は誰かに電話して、マカフィー巡査部長をよこすように言いつけた。背の高い、血色の悪い男が入って来ると、問題の一件を扱った男だと言って紹介した。
「マカフィー巡査部長はつい最近、リヴァプールからこちらに転任になって来たのです」と彼は説明した。「坐りたまえ、マカフィー。フレンチ警部は七週間前にオリンピック号から下りたとたんにハンドバッグを盗まれたと届け出た、あの女のことについて、詳しいことを聞きたいとおっしゃっているのだ。君が扱った事件だったね。君はピッツバーグのルート夫人というのを覚えているかい?」
「よく覚えとります」男は変な訛《なま》りのある言葉つきであった。フレンチはベルファスト弁だなと思った。「ですが、盗まれたのはオリンピックから降りたとたんではなかったようです。同じ日でしたが、時刻はずっと後でした。もっとも、埠頭《ふとう》の出来事ではありましたが」
「くわしく話してくれたまえ」
巡査部長は手帳を出した。「別の手帳に書いてあります」彼は言った。「ちょっとご免をこうむって、取ってきます」
すぐに戻って来た彼は腰をおろして、ひどく手ずれた、端の折れた手帳を繰りながら、法廷で証言を読み上げるような口調で始めた。
「昨年十一月二十四日、午後三時ごろ、本職は外側の埠頭の群集の中を巡回中、婦人の叫び声を聞きました。『泥棒、泥棒』とわめきながら走って来て、本職の腕をつかみました。その女は中背で、痩せぎすで、顔色は青くて、黒味の勝った髪でした。アメリカ風の発音で、狼狽ないしは興奮の色がありました。息を切らしながら本職に向かって言いました。『ちょいと、お巡りさん。手さげ鞄を盗まれちゃったんです』
本職は、その場所と、状況と、その内容を尋ねました。その婦人は、ちょうどわれわれの立っているその場所で、ものの三秒とたたないころだと言いました。手に持って歩いているところを、掻《か》っぱらわれたのです。振り返ると、一人の男が群集の中に紛《まぎ》れこむのが見えたそうです。婦人はわめきながら後を追ったのですが、近寄るまもなく、男は逃げてしまいました。鞄の格好を尋ねますと、小さくて四角い褐色のモロッコ皮の鞄で、金の付属品がついていた、と答えました。本職は付近を巡回中の二名の同僚を呼びまして、みなで出口を張り番したのでしたが、そんな品物は全然見ることができませんでしたです」マカフィー巡査部長は憂欝そうに頭を振って結びの文句を述べた。「金《きん》の付属品のついた箱などをあの群集の中を持ち歩く用事もなかったのに」
「その通りだね、巡査部長」署長は同意した。「そして、その品物は全然出てこなかったのだね?」
「はい。その婦人を署へ連れて来まして、姓名などを書きとめました。ここに報告書があります」彼は一枚の紙を広げ、署長の机の上に置いた。
その報告書には、その婦人に関する詳しい記述があり、申し立てられた手さげ鞄とその中身、発見するために採られた方法などが書いてあった。質屋には通知を出し、故買者どもや、普段よく盗品処分の行われる別のルートは特別の監視をすることにした。
フレンチは、こういう詳細をよく飲みこんでしまうと、もう一度例の写真を出して巡査部長に渡した。
「それを見てください、巡査部長、そしてその中に例の婦人がいたら教えてください」
巡査部長はゆっくりと一枚一枚めくりながら、ウィリアムズ氏やスカーレット氏や、そのほかそれを見せられた連中とまったく同じ怪訝《けげん》な面持ちで眺めた。そして同じ疑わしそうな、ためらうような目つきで、やがてウォード夫人を指さした。
「これかと思います」彼はゆっくり言った。「つまり、ここに居るとすれば、ですが。よく似て撮れてはいませんけれど、やはりこれではないかと思います」
「確信はないのですか?」
「ありません。ですが、やはりこの人だと思います」
フレンチはうなずいた。巡査部長の証言はウィリアムズ、スカーレットその他の面々のと合致していて、どうしても一つの解釈しかつかない。X夫人はウォード夫人に間違いないのだが、彼らに会う前に彼女はルート夫人に変装してしまっていたのだ。やはり本人なのだから、ウォード夫人に似て見えるわけなのだが、その後に変装をしているから、みなは疑わしく見ているのだ。
警部は身体を前にかがめて、その写真を軽く叩いた。
「こういうふうに考えてください、巡査部長」彼は提案した。「この写真はこの婦人の本来の姿なのです。君が彼女を見た時には、彼女は別の女に見えるように変装していたのだ、と。この見方をどう思いますか?」
マカフィー巡査部長の目が突如として輝いた。「その点なんです」彼は答えたが、その態度には、にわかに興味に近いようなものが見えていた。「そうです。間違いありません。顔立ちは写真の通りですが、変装で違って見えたのですね」彼はこれで読めた、といったふうに何度もうなずいた。
「けっこうです」フレンチ警部はいつも自分の弓にはできるだけたくさんの絃《つる》を用意しておくのが好きだった。「では、彼女を捜索する上で何か役に立ちそうなヒントを教えてもらいたいのですが」
しかしこれはマカフィー巡査部長には無理であった。この婦人は連絡先を二つ言い残して行った。一つはロンドンのサヴォイ・ホテル、もう一つはピッツバーグのルート夫人の自宅である。どっちも何の役にも立たないし、ほかの資料は手に入りそうにもない。
彼は旧友の署長と一緒に昼食をとり、それからホテルのロビーに帰って、ゆっくりタバコをふかしながら、問題を吟味することにした。
坐りこんでいると、ボーイが電報を持って現われた。それはヨーク市の警察から来た返電で、本文はこうなっていた。
「貴電拝受。該当する氏名、番地ともなし」
フレンチは腹を立てて毒づいた。むろん、あれが偽名かもしれないとは考えていたが、それでも万一を希望して、捜査も少なくともこの点だけは終わったのではないかと考えていたのだった。しかし、相も変わらず、真相とはまったくかけ離れているのだ! それどころではなく、この尻尾のつかめない婦人――彼は心の中では、もう一つ別な形容詞を使った――の足どりを新たに始めから探さなければならないのだし、この捜査はウィリアムズ氏の事務所から開始された時と較べて、資料的には何ひとつ増えてはいないのだ。何と癪《しゃく》にさわる事件なのだろう――有望らしい手がかりがいたるところにあるくせに、それを、いざ手繰《たぐ》り始めると、すぐたよりなく馬脚を見せてしまう。まるで飛び石づたいに流れを渡っている時に、身体の重みを託そうとするたびに足許から崩れてしまうようなものだ。この件について上司が思っているのも、その程度のものだと考えるのも、やはり癪の種であった。課長はもうこの間から彼のこの事件の扱い方について、あまりほめていないのだから、今度の行き詰まりを見る目も同情的なものでないに違いない、とフレンチは感じた。
しかし、不平を並べてもどうなるものではないから、彼は勇を鼓《こ》してこの難問に頭の動きを切りかえることにした。考えているうちに、また一つの狙いが頭に浮かんだ。
サヴォイ・ホテルを始めて訪ねた時以来、彼はなぜこの婦人がほかのオリンピックの船客たちよりあんなに遅れて現われたのかと不思議に思っていたのだったが、今になってその理由に気がついたのである。ハンドバッグの話は汽船が着いてから約四時間後に発生し、特別の臨時列車がとっくに出てしまった後であった。X夫人は――まだ彼女はX夫人なのだから――、だから、午後の汽車で、おそらく五時三十六分か六時二十二分の西駅発に乗ったのに違いないし、それなら六時五十八分と八時二十分に着くのだ。さて、どうしてこんな遅延が起こったのか? この四時間、彼女は何をしていたのか?
その答えはそう困難ではなかった。それは変装する時間とチャンスを得るためではなかっただろうか? それに違いない、と彼は感じた。
あの婦人は、オリンピック号に乗っている間――名前のほかは――自分の生地のままでいたのだが、容貌を変える機会のないまま、税関はそのままの姿で通った。だから船の連中や税関吏はすぐあの写真の姿を認めたのである。だが、ルート夫人に変装したのはサウサンプトンの警官に会う前であったのに相違なく、そうすればマカフィー巡査部長やロンドンの人々が彼女を識別するのにためらったのも辻つまがあう。だから彼女は税関を十一時に通過してから、巡査部長に三時に会う間に変装したのだ。この四時間、彼女はどこにいたのだろう?
彼は自分を彼女の立場に置いてみた。彼女と同様の問題に直面したとして、自分ならどうしたであろうか?
もちろん、ホテルに行ったに違いない。部屋をとって、そこで変装したのだ。X夫人はあの午後、サウサンプトンのホテルのどれかに部屋を一つ契約しなかったか?
考えていくうちに、次から次へと蓋然性が頭に浮かんで来た。あの婦人はその部屋に入るのだが、別人に変装して出て来る。だから、ホテルが大きければ大きいほど、この変身が気づかれる機会が少ないことになる。大勢と一緒に、彼女は予約係の所へ行って、数時間休息したいからといって部屋を契約し、その場で室料を払う。それから、変装をすますと、人ごみにまぎれて抜け出す。そうだ、フレンチはこの狙いが確かだと感じると、新たな元気も湧いてきて、パイプの吸殻をはたくと、建物を出た。
彼はまず南西ホテルに行き、色々と質問してまわった。だがここでは何の結果も得られなかった。ドルフィンでも同様だったが、ポリゴン・ホテルに行くと、求めていた通りのものにぶつかった。記録を調べてから、予約係はその取引を思い出した。昼ごろ、一人のアメリカ婦人がやって来て、ロンドン行きの五時二十六分に乗るまでの数時間を休息したいからといって、静かな階の一室を契約した。宿帳に記入してあったので、フレンチが見ると、嬉しいことに、またもや小切手の婦人と同じ筆蹟なのである。もっとも、この場合には、彼女はマサチューセッツ州ボストン市ヒル・ドライヴのサイラス・R・クラム夫人と名乗っていたが、彼女の癖を知っているから、フレンチは前と同じ名前を見つけたらその方がびっくりしたに違いない。
最初は自分の仮説があまりにもきっちりと確認されたので彼は大喜びであったが、質問をし始めるにつれ、彼の満足感は次第に消え、ふたたび憂欝と腹だたしさで頭がいっぱいになった。なぜなら、予約係は部屋を貸したという単なる事実のほかは何一つ思い出さないし、ホテルの他の連中はまったくその女のことを思い出さないのであった。いつもの根気よさで、彼はその女と接触したかもしれない人々全部に質問をしたが、誰一人として何の役にも立たなかった。変装のためにX夫人がこのホテルで顔を作ったのは明白なのであったが、残念なことに、何の痕跡も残さずにこの建物から姿を消したことも同じく明白なのであった。
一番困ったのは、これから先、どうしたらいいのか皆目《かいもく》わからない点であった。彼の仮説の根拠になる特別の手がかりが役に立たないことがわかってしまったのだから、彼はいよいよ写真に写っている一般的なものに戻るより手段がないような気になってきた。写真の一枚は、細かいところまでよく出ていたので、彼はX夫人だけの部分を引き伸ばさせて、方々の警察に手配する決心をした。そのうちに誰かが、この婦人を発見するかもしれない。あまり有望な方法でないのは確かだが、そのほかにはまったく手がない。
西駅から汽車に乗って二時間ほどで家に着いた時には、彼は心身ともに綿のようになっていた。
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一三 フレンチ夫人が気まぐれを思いつくこと
夕食をすませて、大好きな特別の調合をしたタバコのパイプに火をつけるころになると、フレンチ警部はだいぶ気分も落ち着いてきた。汽車の中では早く寝てしまうつもりだったけれど、彼はそれをやめて、たびたび煩《わずら》わすことなのだが、細君に問題を一通り聞いてもらうことにした。細君が何か思いついてくれれば、やがて自分にも思いあたることがあるに違いない。
そういうわけで、フレンチ夫人が夕食の後始末を終えると、彼はぜひ来て問題を考えるのを手伝ってくれと頼み、彼女が例の通り肱かけ椅子に坐を占めて静かに編み物を始めると、彼は苦労話をとりあげた。
ゆっくりと、細大もらさず、彼はウィリアムズ・アンド・デーヴィス商会に派遣されて、奇怪なX夫人の話を聞いた時から、その日に方々を訪問したことを述べ、結論としてX夫人とウォード夫人が同一人物であろうと信じていることを話し、その足どりを捜査する上で直面している困難を告げた。彼女は何も言わないで聞いていたが、彼が話し終わると、この次は何をするつもりなのかと尋ねた。
「その点なんだよ」彼はいささか焦《じ》れた調子で言った。「それなんだよ。それがはっきりすれば、問題は何もないんだ。君ならどうしろと忠告するかね?」
彼女は頭を振り、身体を前にかがませて、すべての注意力を編み棒に集中しているように見えた。これが彼の話に興味を感じていることを意味しているのをフレンチは知っていた。彼女独特のやり方である。だから彼は多少の希望を持ってしばらく待っていたが、二、三分たって彼女が質問し始めたので、彼の希望は大いに強まった。
「ルート夫人とその船の連中は、その女をイギリス人だと思った、とあなたはおっしゃるのね?」
「そうだよ」
「イギリス人だと思った人は大勢いたの?」
「ああ、そうだ」フレンチが答えた。「ルート夫人、医者、事務長、食堂の給仕、それから少なくとも四人のスチュワデスだ。みな間違いないと言っている。それから他の船客や係員もそう信じていたのに違いない。さもなければ議論もあっただろうからね。しかし、君が何を思ってそんなことを言うのか、私にはわからないが」
フレンチ夫人は質問の鉾《ほこ》をおさめなかった。
「で、≪あなた≫はイギリス人だと思うの?」彼女はしつこかった。
フレンチは躊躇《ちゅうちょ》した。自分はそう思っているだろうか? そこのところがはっきりしなかった。イギリス人であるという証拠は強かったが、しかし彼女がアメリカ人であるとする証拠は同じように、いや、もっと強いかもしれない。たとえば、ウィリアムズ氏は――
「わからないのね」フレンチ夫人が彼の思索を破った。「じゃあ、ね。ウィリアムズさんは彼女がアメリカ人だと言ったの?」
「そうなんだ」彼女の良人はふたたび話に入った。「彼の言うには――」
「それから銀行の支店長と事務員だけれど、その二人ともアメリカ人だと思ったの?」
「うん、でも――」
「それから宝石を買ったり売ったりした店や、サヴォイや、サウサンプトンの警察でも、みな彼女をアメリカ人だと思ったの?」
「うん、でもわれわれは――」
「じゃ、何かあなた、わかっていいはずじゃないの」
「二人が姉妹だ、ってのかい? 私はその点も考えたが、筆蹟を見るとそうでないことがわかるんだ」
「もちろん、私の言うのは姉妹っていう意味じゃないのよ。もういっぺん考えてみるといいわ」
フレンチは居ずまいを正した。
「どういう意味なんだよ、エミリー。君の言うことがわからないんだ」
細君はこの遮《さえぎ》る言葉を無視した。
「思いあたってもいいはずのことが、もう一つあるわよ」彼女は続けた。「そのウィリアムズって人は、前にどこかでその女を見たような気がする、って思ったのね。そのウィリアムズって人はいくつぐらい?」
フレンチはまったく何が何だかわからなくなってきた。
「いくつ?」彼は力なく繰り返した。「いくつかなあ。六十ぐらいかな」
「やっぱりね」細君が言った。「それから、もう一人の男の、スカーレットという人も、前に見たことがあると思ったのね。その人はいくつぐらい?」
警部は神経質に身体を動かした。
「まったく、エミリー」彼は抗議した。「何のことを指しているのか話しておくれよ。何の話だか全然わかりゃしない」
「頭を使えばわかるはずよ」細君がやり返した。「スカーレットって人、いくつぐらい?」
「同じぐらいだろう――五十五か六十さ。でも、それがいったい何の――」
「それなのに、その若い方は、その銀行員は、その女を覚えていなかったのね?」
「そうさ、でも――」
「さあ、わかったでしょ――頭が悪いわね! ほかの女に変装できて、イギリス流にでもアメリカ流にでも話ができて、古いロンドンっ子が覚えているっていう女は何者でしょう? 子供だってそのくらいはわかるわよ、ウォトスン!」
フレンチ夫人が良人のことを偉大なホームズの相棒の名前で呼ぶ時には、二つの意味があって、その第一は、彼のよく言う「ご機嫌」なときで、第二は、彼が見落とした点を自分がわかっているとき、ないしはそう思っているときで、大いに優越感を味わっているのだ。だから話がこの段階に来ると、何か助けになることが出て来るのだとわかって、彼は期待に胸がふくらむのだ。
しかし、この場合、彼女の言葉のはしから彼は意味をつかんだ。もちろん! いったいぜんたい、どうして彼はこの点を見落としたのだろう。あの女は女優なのだ。以前ロンドンで知られていた女優なのだ! それで話が全部わかる。そして、もしそうなら、すぐ探し出せる。俳優クラブの書記や係員、演劇関係の紹介所、楽屋の出入り口の番人、社交界新聞の編集部の人々――何十人の人間が知っているはずだから、名前と経歴を聞き出すのは簡単なことに違いない。
彼はとび上がって細君に接吻した。「なんとね、エミリー! 君はまったく天下の鬼才だよ」彼は心からそう言ったが、依然として静かに編み物の手を休めない彼女は、彼に対して感じている愛情と尊敬の念を隠しおおせないまま、余儀なく「なんですねえ、いい年をして」と言ったものである。
次の朝、フレンチは新しい、充分によく練った計画を胸に、元気いっぱいに出て行った。まずあたって見るつもりの演劇関係の紹介所の表は作ってあるし、そこで運がなかったら、次には方々の劇場をまわって、楽屋番に話してみて、いざとなれば興行主か演出家か、ないしは誰にせよ知らせてくれそうな人間に会うつもりなのだ。
しかし彼の探求は、いざとなってみると、彼がひそかに希望していたところよりもっとずっと簡単になってしまった。訪ねた紹介所の最初の三軒では、態度の偉そうな若い女性たちが例の写真を見て、みなきれいな頭を振るばかりで、彼の難問に光を与えることはできなかった。だが、四軒目の女の子はありがたいことに、いい提案をしてくれた。
「こういう人は全然知りませんわ」彼女は言った。「でも、もし何年か前に舞台をひいたのでしたら、私は知らないはずですのよ。私はここへ来てまだ二年なんですから。それからあなたのお役に立ちそうな人も知りませんわね。ここは開業してからあまり長くありませんので。ですけれど」彼女はにわかに明るい顔つきになりながら続けた。「ローマーさんが中においでですわ。ロンドンの誰かが知っていることなら、あの方はご存じのはずです。出ていらっしゃる時につかまえて、おききになるといいわ」
ホレス・ローマー氏! 演出界の大御所! フレンチは、一度も会ったことはなかったが、名はよく知っていた。彼はその女の子に礼を言って、腰をおろして待った。
やがて彼女が呼んだ。「今、出ておいでです」フレンチは前に進み出た。背の低い、太った、ユダヤ人らしい風体の紳士が階段の方へ歩いて行くところである。彼は急いで追いつき、名前を告げてから、例の写真を出して、質問をした。
「おお、何と、そう」彼は言った。「知っていますよ。だが、ここのああいう連中は知らんですよ」彼は紹介所とそこに勤めている連中のことを後ろ頭でさしながら言った。「彼らの前の時代の人間だから。これは、名女優シシー・ウィンターですよ。少なくとも、彼女は一時は名女優になれる素質を持っていました。パントン一座の主演女優でした。もう十二、三年にもなるが。私は彼女の『あら、ジョニー!』、『公爵夫人』、『女事務員』などというのをみな覚えています――あのころには受けた芝居だったが、今ではすっかり時代遅れだ。事件でも起こしたのではないでしょうね?」
「ダイヤモンドの盗難事件です」フレンチが答えた。「しかし、私は彼女が盗んだと言っているのではありません。われわれはただ、ある説明を聞きたいだけなのでして」
「何か間違いがあったと聞くのは残念なことです」ローマー氏が言った。「ひところは、私は大いに彼女の芸を買っていたのです。もっとも、彼女は自分からやめてしまって、すっかりぶちこわしてしまったのだが」
「とおっしゃいますと?」
「男関係です。やめて、誰か細君のある相当の年の男と一緒になってしまったのです。少なくとも、当時はそういう噂でしたな。私も木石ではないのだから、舞台さえ続けてくれれば文句を言う段ではなかったのですが。ところが、彼女はやめてしまって、忽然《こつぜん》と姿を消したのです。どんなにでも芸がのばせたのに。有望な若い女が前途を棒に振ったのです。じつに、嘆かわしい話です」
「どうすれば行方が知れるでしょうか。お心当たりはないのでしょうね?」
演出家は肩をすくめた。
「せっかくですが、全然駄目です。彼女がまだ生きていたことすら知らなかったのです」
「どの劇場に出ていたのですか?」
「色々ですが、一番いい仕事をしたのは喜劇座でしたな」
「そちらをあたってみます」
「それもいいが、あまり当てにはなさらんように。劇場関係の者はすぐ変わってしまうし、記憶も短いのですよ。あちらで何もわからなかったら、ジャックの所へ行きなさい――演出家のリチャード・ジャックです。もし私の記憶違いでなかったら、私のさっき言った劇を演出したのはあの男でした。もし違っていたにせよ、誰がやったかは教えてくれるでしょう」
フレンチは嬉しくてたまらなかった。何と運のいいことだろう。彼の仮説はついに証明ができた――彼はもう、自分の細君が演じた役割を見落とし始めていた――彼は手際のよい推理をやってのけ、それの正しいことがわかったのだ。今度こそ間違いなく目的地に導いてくれるに違いない情報を今や手に入れたのだ。次になすべきことは喜劇座へ行くことに決まっている。そこで、もし運が続くなら、あの女の行方をすぐにでも突きとめられるような情報が得られるのだ。
紹介所から出るとまもなく、フレンチの肩に手を置く者がある。それはデューク氏だった。この老紳士は温かく彼に挨拶をして、その後の捜査状況を尋ねた。
「私は今、ここに入ってコーヒーを飲もうとしていたのです」彼は、二人の立っているすぐ前にある、何となく旧式な、すたれかけているようなレストランを指さしながら続けた。「いっしょに一杯飲んでください。お目にかかるのも、近ごろのご活躍ぶりをうけたまわるのも、じつに久しぶりですなあ」
フレンチは新発見で胸が一杯だったので、自分の手柄を打ちあける相手ができたから、もう夢中になってしまった。そんなわけで、静かな片隅に坐ると、すぐに彼はいかにも楽しそうに最近の発見について語り始めた。ミュレン行きの話、ルート夫人から貰った写真の話、サウサンプトンで例の尻尾のつかめない婦人の動きを調べた話、彼女が女優に違いないと推理した話、それから最後に、彼女の身許を知り得た好運な話。
デューク氏はこの長広舌を、当のフレンチの自負心すら満足させるほどの熱心な興味をもって聞いていた。彼はこの婦人の名前を記憶していた。
「ヴァンデルケンプが聞いたら喜ぶでしょう」彼は断言した。「すぐに彼に教えてやりましょう。あなたがたは彼の監視はお解《と》きになったが、当人としてはまだまったく懐疑が晴れていないような気持でいるのです。あなたの今回のご発見で彼も大いに満足するでしょう。ええ、そして、それから?」
彼はふたたび坐りなおして耳を傾けたが、フレンチの話がすべて終わった時に、シシー・ウィンター嬢に関する手がかりというのが、X夫人を追っていた当時の手がかりから、じつは一歩も出ていないのを悟ると、いかにも失望落胆したような面持ちになり、絶望に近いような表情をした。
「ああ、警部! 私にさんざん希望を持たせたあげくに、全然まだ進捗していないなどとおっしゃるのですか」彼は嘆いた。それから声を落として、ゆっくり続けた。「もし何かが近いうちに発見されないと、じつは私はどうしていいかわからなくなるのです。私は今や財力の限界まで来ています。現金にまで不自由し始めているのです。保険会社は金をくれません――まだ、石が回収できないと決めるのは早計だというのです。私に待てというのです。ですが、私の債権者は待ってはくれません」
彼が話をやめ、うつろな眼で前方を見つめたので、フレンチは今までとは違った見方でよく眺めてみると、驚いたことに、何とこの人物は老けてしまい、弱ってしまっているのだろう。
「よしんば保険会社が全額払ってくれたにせよ、決済できるかどうかわからない始末なのです」彼は続けた。「破滅が目の前に迫って来ているのです。私は気丈で、逆境をものとも思わないでいられるつもりだったのですが、もう駄目です、警部、駄目なのです。私は昔の私ではなくなりました。この事件で、すっかり力を落としてしまったのです」
この感情のほとばしりにフレンチは何となく不意をうたれたが、比較的贅沢な、成功者の生活を送った人生の末期になって、失敗と貧困に直面しているこの老人が、本当に気の毒になってきた。彼はできるだけ慰めた。X夫人の身許がわかったというのが、本当に一歩前進したわけである点を指摘して、それほど名の知られた人間なのだから、そう長く姿を隠していられるはずがないという確信を披瀝《ひれき》した。
「あなたが正しいことを本気で信じますよ」デューク氏は答えた。「それから、こんなに取り乱したところをお目にかけて恥ずかしいと思います。ですが、とにかくご努力ください、警部」彼は訴えるように相手を見た。「どんどん進めてください。もちろん、あなたのことですから」彼は、笑顔を見せた。「できる限りのことをなさっているのはわかりますが、私にとっては本当に命と同じくらい大切なことなのです。私が不平を言っているのではないことをわかってくださるでしょうな? 大きい困難にぶつかりながら、立派な働きをしてくださるのを本当にありがたいと思っているのですよ」
フレンチは、この奇怪な事件を解決したいという点では自分が誰にも負けずに心をくだいている点を保証し、できるかぎりの努力を最後まで続ける気だから、必ず心配のないようにと告げた。二人は相互の親睦をさらに表明して別れた。
警部は次に喜劇座へ向かった。稽古中で、建物は開いていた。楽屋口へまわって、彼は番人に話しかけた。
「存じませんなあ」男は丁寧に言った。「手前は長くないんでして。九ヵ月にしかなりませんので」
「君の前にいたのは?」
「ダウズという名の人で、老人でした。もう年が年で、働けなくなったのです。それで、やめてしまったのです」
「どこに行ったらその人に会えるかね?」
「事務所でおききになったらいかがですか。住所が控えてあると思いますから。この廊下の突き当たりを右へ行った所です」
少々迷ったあげく、フレンチは事務所を探し当てた。机の上に身体をかがめていた青年が顔を上げた。「ご用件は?」活発な言い方であった。
フレンチは用件を説明した。元女優のシシー・ウィンター嬢の行方を知りたいのだが、誰も知らない模様なので、前の楽屋番のダウズという人が何か知っているかもしれないから、その人の住所を教えてもらえないだろうか。
「シシー・ウィンター嬢ですか?」利口そうな青年が繰り返した。「名前は聞いていますが、私の来たころには、もうここに出ていませんでした。出ていた時代とか劇の名とか、何かご存じですか」
「十二年ないしそれ以上前に舞台をひいたと聞いています。出演したのは、『女事務員』、『公爵夫人』、『あら、ジョニー!』です」
青年は坐ったまま考えこみながら、低く口笛を吹いた。
「その婦人については、私は何も申し上げられませんね」ついに彼はそう言いきった。「十二年前の記録はここにはないのです。ですが、ダウズの住所ならお教えできますよ。少なくとも、やめた時の住所ならば」
「恐縮です」
青年は部屋を横切って、戸棚から帳簿を取り出し、手早くページを繰った。
「バブコク通り二九です。チャリング・クロス街道からはずれた所で、南に向かう横町を半分ほど行った左手です。まだ引っ越していないなら必ず家にいますよ」
フレンチはその所番地を控えて、帰ろうとした。
「ちょっとお待ちください」青年が言った。「自信はないのですが、あなたのおっしゃった劇の演出をしたのはリチャード・ジャックだと思うんです。もしそうなら、誰よりも一番あなたにお教えできるかもしれませんよ。近ごろ手に入れた新しい所でやっています。ピカデリーのアラディン座です。訪ねてみてごらんなさい」
フレンチは新しい友人に礼を言って、ふたたびこの大きな建物のはてしない廊下をたどって、やっとの思いでまた往来に出た。
バブコク通り二九の扉を開けてくれたのは、立派な顔つきの婦人で、良人のピータ・ダウズは在宅していると言った。身体の具合が今はよくないが、お入りになってくだされば、何とかしてお目にかかるであろう、という。
フレンチは小さな客間の椅子に腰かけて待った。やがて足を引きずる音が廊下づたいに近くなって、扉がゆっくりと開いて、背は低いが恐ろしく太った男が入って来て、フレンチが立ち上がって挨拶するのを、小さな眼玉を不審そうにパチパチさせながら眺めた。
「いらっしゃい、いらっしゃい」その男は咳《せ》きこみながら部屋を横切って、椅子の一つにドッカと坐った。「喘息《ぜんそく》でして」彼はしゃがれた声で続けた。「毎年、今ごろになると悪くなりましてな」彼は話をやめ、しばらくあえいだ後で、続けた。「何か私にご用だそうですが」
「ええ」フレンチは認めた。「ですが、そう喘息がお悪くてはいけませんな。どういう手当てをしておいでなのですか?」
警部は長い経験から、病人と会った時には、病気の話でつぶした時間は決して無駄に終わらないことを知っていた。彼の与えた喜びは同情と好意をつくり出し、それが会見の第二段階に入ると彼を助け、望むような親切な援助が得られるようになるのだ。彼はこの点、まったくの偽善者ではなかった。それは業務上の技術の一つであったし、また、彼は根が善人であったので、人に喜びを与えるのが好きなのだった。で、彼は喘息と喘息の療法について何分間か語ってから、ようやくシシー・ウィンター嬢の問題に入ったのである。
しかし目下の場合、彼が疑いもなくつくり出したいい印象は、ほんのわずかの便宜しかもたらさなかった。この太った楽屋番はよくウィンター嬢を覚えていて、写真を見せるとすぐにわかったが、今の所在については何も知らなかった。ある男と一緒になるためにやめてしまったのだが、その男のことも彼はよく覚えていて、彼女が出て来るのを待っている間、よく楽屋口で話しこんだものであった、という。背の高い男で、頑丈な体格で、中年をずっと越していて、何かの専門家か商売人のような人間だった。名前はヴェーンといったと思うが、確かではない。どういうところから彼女がこの男、ないしはどこかの男と一緒になるためにやめたのがわかるのか、と問われると、彼は、じつは自分は全然知らないのだが、当時そういう、もっぱらの噂だったのだという。彼はその男の住所は知らなかったが、金をふんだんに持っていて、祝儀をよくはずんだ、といった。その時以来、もう十三年近くなるが、ダウズは二人の消息も聞かなければ、見かけたこともないのであった。芸は上手だったかもしれないが、彼女は気難しくて意地が悪く、口やかましかった。どこがよくて一緒になったのか、ダウズにはわからないが、見たところではすっかり彼女にまいっていた。
こういう細かい点まで来てしまった以上、この楽屋番の有用性の限界に来ていることがフレンチにわかったので、彼はすぐ次の訪問先、ピカデリーのアラディン座に向かうことにした。
ジャック氏は劇場の中にいたが、用事があって、フレンチはものの二時間も焦《じ》れたり怒ったりしていたが、やっとのことで彼の部屋に案内された。だが、案内されてみると、長い間待った苦労がすっかりつぐなわれるのを感じた。彼と接触した大部分の人と同じように、フレンチはまもなくこの大演出家の人をそらさない愛想のよさと態度の魅力のとりこになってしまった。丁寧にこの老紳士は待たせたことを詫びた。じつは大変に面倒な稽古の最中であった、と断ってから、フレンチの述べる話によく耳を傾けた。
しかし、結局、彼はたいして教えるところがないのであった。ウィンター嬢を覚えていて、古い記録を色々と探したあげく、彼女の過去についていささか詳しい点を話してくれた。
最初に彼女を見たのは、ニューヨークのティヴォーリ劇場で、もう十六年も前なるが、彼女の演技に打たれたのであった。彼女はどうしてか彼の来たことを知ったらしい。なぜなら、あとを追ってホテルに来て、イギリスの演劇界に足がかりが欲しいと思っていることを説明し、彼が上演することにしていた劇の一つに出してもらえないかと頼んだ。彼が承知したので、ニューヨークの契約がすむと、彼女は彼の後からロンドンに渡った。そこで彼は『あら、ジョニー!』のほか、当時やった色々の劇に主演させた。全部で七本の劇に出演し、ジャック氏は彼女の才能を高く買ったのであった。
三年ほどたった後のこと、彼女は当時結んでいた契約が終わり次第、舞台をやめたいと彼に申し出した。きわめて有望な前途を棒に振ろうとしているのだといって彼は反対したが、彼女は頑として聞き入れず、結婚をするのだからと説明した。これを彼は本当とは思わなかったが、信じないといっても別に適確な理由があったわけではなかった。彼女は誰か細君のある男と一緒になるので舞台をやめた、という評判であったが、どういうところからこの話が出たのかは知らない、という。とにかく、彼はそれっきり彼女の姿を見なかったのである。十三年前に彼の劇団を出た時、彼女は二十九で、住所はチェルシー市、スタンフォード通り一七だった。
「残念な話なのですが」フレンチが言った。「彼女は悪党になったらしいのです」そして、ルート夫人に変装した件をかいつまんで話した。
「もちろん、私はその点は点も知りませんが」ジャック氏は答えた。「しかし、少なくともお話できるのは、そうした計略をやりぬく段になっては、誰もシシー・ウィンターにはかないませんね。頭もよく、神経もず太く、知識もありましてな。彼女が悪人になったと聞くのは、残念な話ですが、あなたが彼女を向こうにおまわしになるのだったら、申し上げておきますが、相手は一筋縄《ひとすじなわ》ではいきませんよ」
立ち上がりながらフレンチは沈んだ微笑をもらした。
「それはもう私もわかっています」彼は認めた。「しかしこれだけ知ってしまえば、逮捕するのもあまり先のことではないと思います」
「あなたのご好運を祈らなければならないのでしょうな」ジャック氏は手を伸ばしながら言った。「しかし、それはご勘弁ください。ひところは高く買っていた女優ですし、彼女がそういう羽目におちたのが気の毒ですので」
フレンチ警部は、この女優の経歴についてニューヨーク警察に情報を求める電報をうってから、スタンフォード通り一七へ行ってみると、ここは高級な下宿屋であった。が、ここで彼は何一つ知ることができなかった。元の持ち主は死んでおり、現在いる人々には十三年も前にこの場所と縁のある者は一人もなかったし、ウィンター嬢の話も聞いたこともないのであった。
ふたたび失望して本庁に帰った彼は、最初の計画を押し通すことにした。彼は、あの婦人の写真に、できる限りの人相書きをつけて、お尋ね者として「警察情報」の次号に入れてもらう手配をした。あまり有望な手がかりではなかったが、彼ができるのはそれだけだったのだ。
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一四 悲劇
何日か後、フレンチ警部はまたもや上司から呼ばれた。上司はいらいらしているらしく、彼が部屋に入るか入らないうちに、もうしゃべり始めた。
「これを見たまえ、フレンチ」と言うのが挨拶であった。「あのゲシン事件が新しい発展を見せたよ。読んでみたまえ」
フレンチは机の前まで進み、上司の延ばした手から電報を取った。それはオランダのフックの警察部長からの通信で、その朝の八時二十七分に発信したものであった。
「汽船パルケストン号の船長より左の報告に接した。長身、無髯、白髪の男子にてデュークと名乗るらしき人物、ハーウィジよりの航海中、自殺をとげた。外套およびスーツケースは船室で発見された。なお、ハムステッド、シーダズのデューク嬢に宛てた遺書あり。委細書面」
このニュースでフレンチの驚きは相当なものであった。あの老紳士と実際に親密であったと感じたことは一度もなかったのだが、部下に対する親切そうな行為や、損失にあった時のスポーツマンらしい態度を尊敬していたのだった。しかし、外に見せていたよりも酷《ひど》い打撃を受けていたに違いない。フレンチはこの前に会った時の委細を思い出し、あの商人の心配にゆがめられた顔や、疲れた様子や、ほとんど絶望を訴える言葉――「私は今や財力の限界まで来ているのです。破滅が目の前に迫って来ているのです」という言葉を思い出して暗然とした。あの時、フレンチは彼の愚痴をそれほど真剣には考えていなかったのだが、今にしてその真意がわかったのだ。デューク氏は心底《しんそこ》困っていて、盗まれたダイヤモンドが戻ってこない限り、どうにもならなくなっていたのに、フレンチは彼がこうした最期をとげようとはまったく考えていなかったのだ。
「意外だっただろう?」課長が言った。「もっとも、これは事件を実際に左右するものではなかろうが」
「はあ、左右しないでしょうな」フレンチは後の方を先に返事した。「ですが、要するにそれほど意外な話ではなかったのではないか、とも思われます。とにかく、意外でもあり、当然のようにも思えますね。つまり、デューク氏のような性格の人間が、自分の困難からのがれるのにああした方法をとったとは、私も驚くのですが、実際ひどくまいっていたのは私も知っていたのです」
課長は眉をあげた。
「君は僕に言わなかったよ」
「じつは、私はあの老人の言ったことを真剣には取らなかったのです。前の週にピカデリーで会いましたが、彼は私からの情報を聞きたがっていまして、一緒にコーヒーを飲まないかと誘ったのです。その時は、相当に弱っていました。現金にも不自由し始めたとか、財力の限界に来たなどと言っていました。顔つきも老けていましたよ。老けて、くたびれたように……」
課長がつぶやいた。
「だから、たいした違いにはならないのだよ」と彼は言った。「だが、あの娘のことを考えてやらねばならないな。君は行って、あの娘に会った方がいいね。要するに、新聞で見る前に、何か予備知識を与えておかなくちゃ」
「ごもっともです。では、これから行って来ます」
厭な役目だったが、仕方がないので、急用があるからそちらに行くとデューク嬢に電話をかけてから、彼は出かけた。
彼の電話で、彼女が度胆《どぎも》を抜かれたのは明白であった。彼を迎えた娘の頬は蒼白で、眼は心配にくもっていた。それで、これは何か包み隠していることがあって、この訪問の原因がこの秘密にあるのではないかと恐れているのではないか、という気持がふたたび彼の頭に浮かんだほどであった。
しかし、彼が口ごもりながら、いささか口下手にニュースを伝え終わると、彼女はことの意外にまったく愕然《がくぜん》とした。自分が予期していた話とはまったく違っていたに相違なく、哀れな娘はひどく打ちひしがれてしまった。低い叫び声をあげると、坐りこんでしまい、ただ恐怖でいっぱいになった眼で彼を見つめるばかりだった。この衝撃は完全に彼女を麻痺させてしまったようだったが、彼女の感情の中には安堵《あんど》の要素が混ざっているとフレンチは考えざるを得なかった。彼は心から娘を気の毒に思ったが、疑念は疑念として残った。
やがて、彼女は口を開いた。艶《つや》のない、抑揚に乏しい声で、父親が昨今ひどく心配げで不幸なように見えたことを説明した。父親はできるだけ軽い調子で言おうとは努めていたようだが、心配の根本が財政的困難にあることを彼女にわからせるような話もした、と語った。ある時、保険会社さえ払ってくれれば万事はもっと楽になる、と話したのだが、その話しぶりがいかにも元気だったので、娘はそんなにひどくなっていたとは夢にも思わなかった。
「くわしいことは、いつわかるのでしょうか」やがて彼女が尋ねた。「フックヘ行ったほうがいいでしょうか」
「いらっしてもほとんど益はありますまい」フレンチは答えた。「あなたにはお辛《つら》いことになるでしょうし。むろん、留めだてしようというのではありませんよ。もし、その方が気が楽になるとお考えでしたら、いらっしゃい。しかし、どっちになさるにせよ、あなた宛のお手紙を読んでから決められた方がいいのではないでしょうか。おまけに、オランダ警察の報告書が、訪ねて行っても仕方がない、といって来るかもしれませんし」
彼女はしばらく考えたあげく、同意した。その報告書が明朝の第一便で来るかもしれないとフレンチは説明して、すぐハムステッドに持って来る約束をした。
「それはそうとして、デュークさん」彼は本当に親切な口調で続けた。「これは、むろん、私が口を出す筋合いではないのですが、どなたかこちらに来ておもらいになった方がいいのではないですか――誰か女のお友達、伯母さんとか、従姉妹《いとこ》とか? あるいはハリントン氏とか? つまり、電話をかけるとか、電報を打つとかで、何か私にできることはないでしょうか?」
彼に礼を述べて、事務所に電話をかけてハリントンを呼んでもらえないか、と頼む彼女の眼は涙でいっぱいであった。彼女には近い親類はない様子である。彼女は一人っ子であったし、その父親は今や死んでしまったのだ。おまけに彼女の母親は気の毒に、死よりも悪い状態で、長年オタラムの精神病院でわびしい存在を続けていることは、フレンチの知る通りであった。
電話が通じると、フレンチは辞去した。悲劇の詳報が来るまで、するべきことはもう何もない。
本庁へ帰ろうと地下鉄に乗っているときも、彼はこの会見中の自分の態度に何か不満な気持がしてならなかった。彼はデューク嬢を苦しめまいとして最善を尽くした。これはもとより当然、かつ親切な人なら誰でもするはずのことだったが、しかし、それは彼の義務であったろうか? むしろこのニュースを挺子《てこ》にして、何かあの娘が隠している情報を吐かせてしまうような手を使うべきではなかったか? もし何か有望な手がかりを取り逃がしてしまったとしたら、彼は職務をおろそかにし、また自分を傷つけたことになる。しかも、課長は馬鹿ではない。その可能性に必ず気づいて、どういうふうにこの機会を利用したかと尋ねるに違いない。
しかし、こういうふうないささかの不安はあったけれど、彼は自分のしたことをどうしても悔《く》やめなかった。彼は性来が親切な人間であったばかりでなく、想像力を持って生まれていた。娘の立場に自分を置いて考えてみて、自分が彼女の不幸を一層ひどいものにしなかったのを喜んだのである。
次の朝、報告書がオランダから来た。デューク嬢宛の手紙も一緒だった。報告書の方は長い公式文書で、悲劇の模様を仔細《しさい》に述べてあった。大略をしるせばこうなる。
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「一月四日。
本日午前七時二十一分、フックのハーウィジ汽船の埠頭《ふとう》事務所から、電話を受理した。船客が一名、航海中に行方不明となり、前後の状況より見て、自殺と見られる。調査のためヴァン・ヴィーン警部を派遣したところ、次の報告を得た。
本船の桟橋着少し前、習慣通り、給仕は船室をまわって、船客を起こした。左舷にある専用の一等船室N号の返事がないので、給仕ジョン・ウィルスンは二度目のノックの後、覗いてみた。船室は空であったが、人のいた痕跡は残っていた。ベッドには眠ったらしくはないが、人が横になった跡があった。大型スーツケースが床の上にあり、男子用の洗面道具一式がそばに置いてある。給仕は船客が白髪の老人であるのを覚えていたが、すでに甲板に出ているのであろうと思って、そのまま行き過ぎた。約三十分後、ふたたび覗いてみたところ、万事、前と同じ状態のままであった。桟橋に着くまで彼は用事に多忙であったが、乗客が降り始めた時、またその船室に戻ってみると、やはり万事は元通りであった。心配になったので、彼は事の由を給仕長に報告した。後者はウィルスンとともにN号室に行き、捜査した。紙の半分の片と封筒が手洗用の金だらいの上の小さい木の棚の上の、コップの後ろに立てかけてあるのを発見した。紙片には左の文が書いてあった。
『財政上の困難に堪えかね、小生は今宵、自ら生命を断ちます。甲板から身を投げれば、死は急速また安易でありましょう。手紙の投函をお願いします。R・A・デューク』
その手紙は『ロンドン、ハムステッド、シーダズ、デューク嬢』宛になっている。遺書と手紙をここに同封する。
本航路の乗船券は次のような扱いを受けている。すなわち、埠頭を離れる時には、舷門で遅延を来たしやすいので、船客の点検は行わない。船の上で、船客は給仕長の事務所に申し出て、切符を渡すかパンチを入れてもらい、寝台番号と上陸切符を受け取る。上陸切符は船客が船を降りる時に集められ、これによって船客がみな船賃を払ったかどうかを検査することにしている。問題の航海では、百八十七枚の上陸切符が発行され、百八十六枚しか回収されていないから、ハーヴィジで乗った船客中の一名がフックで下船しなかったことを示している。
船内を捜索したが、行方不明の人物は発見されず、同夜当人が廊下を通るところを見た者も、甲板の上にいたのを見た者もなかった。給仕長は当人が寝台を申し込んだのを記憶していたが、それは前から予約してあったものであり、彼はこの老人がぼんやりしていることと、何か強い興奮を抑えているらしいことに気がついたのを記憶している。
スーツケースには三、四日の旅行に充分な洗面用具および衣類があったが、悲劇の原因を示唆するような物は何も見当たらない。貴庁にお届けするが、今はデューク嬢の物であると思惟するから、同嬢宛にご送達いただきたい」
[#ここで字下げ終わり]
この報告書を読んでしまうと、フレンチ警部は注意をデューク氏の手紙に向けた。封筒は角型で、上等の紙で、表書きはデューク氏の筆蹟であった。フレンチは坐って、それをひっくり返した。彼はどうしようかと考えた……やめておこうと一度は考えたが、また思い直した……何かヒントを与えるものがあるかもしれない……。
彼はジレットの刃を引き出しから出して、糊《のり》で封をした舌の下に挿しこんで、左右に動かした。すぐ封筒は開いた。彼は手紙を抜き出して、気をつけて広げた。これもまたデューク氏の筆蹟で、こう書いてあった。
[#ここから1字下げ]
「最愛のシルヴィア、
これを手にするころには、私のこれからしようとすることについて、もう承知のことだろう。私は自分の行いに箔《はく》をつけようとはしますまい。もっと勇気を出して最後まで闘うべきなのだろう。しかし、私は迫り来る破滅と不名誉が堪えられない。盗難の前から、仕事はあまりうまくいっていなかった。おまえも知るように、戦争がわれわれのような商売には特にひどく響いたのだ。今では、たとえ保険会社が払ってくれても、もう払い切れない何千ポンドという負債が残ってしまうだろう。シルヴィア、私をあまり責めないでおくれ。私はそんな目にあうのが堪《たま》らないのだ。地位、友人、家庭、すべてを失うのだ――しかも私の年で。とても堪らないのだ。
しかし、一番つらいのは、私と一緒にお前を引きずり降ろすことだ。お前は今やその点からは解放される。お前のお母さんの寡婦財産には誰も手がつけられない。あれは、お母さんの物――お前の物です。お母さんの要る費用を払ってくれれば、残りはお前のものです。もちろん、家は売らなければならないだろうが、暮らしていくだけは充分だろう。結婚をすることになるだろうが、早いことと期待します。これは私の最後の願いであり、最後の訓示なのだが、都合のつくかぎり、早くお前の選んだ人と結婚してください。私と時々は意見が一致しなかったが、お前は私にとって終始いい娘でした。
愛《いと》しいシルヴィア、このことであまり嘆かないでください。未来に直面して――未来があるとして――私は何の不安も感じていません。私のとる道は臆病者の道であるかもしれないが、これは私たちみなにとって、いちばん容易で、一番いい道なのです。
さようなら、最愛の娘、そしてもし神があるのなら、その加護を切に祈ります。
愛する父  R・A・デューク」
[#ここで字下げ終わり]
フレンチ警部はこの不幸な手紙をたたみ直しながら少々恥ずかしく感じたが、手ぎわよく機械的にたたんで、封筒の舌に糊をつけ直し、また貼りつけた。彼はこの遺書から何ら役に立つ情報が得られなかったのに失望した。溜め息を洩らすと、彼はこの知らせを届けようとハムステッドに向けて出発した。
デューク嬢とハリントン氏は心配しながら待っていた。彼は娘に報告書も遺書も渡しながら、別室で読みたいのなら待っていてもいいが、と言った。彼女は冷静で落ち着いていたが、顔は青く、眼の下には黒ずんだ輪ができていたから、緊張しながらも冷静にと努めているのがよくわかった。彼女は言いわけをしながら引っ込んで行き、ハリントンもついて行ったので、フレンチは坐ったまま考えた。もし不意討ちに直接的な質問を浴びせたとしたら、二人のうちのどちらかが思わず何かをしゃべってしまって、かねて二人が隠している秘密のヒントが得られるのではなかろうか。
しかし、三十分ほどして二人が戻って来た時、デューク嬢がいきなり手紙を差し出したので、一瞬、彼は力をそがれた。
「これをお読みになった方がいいですわ」彼女は言った。「ご覧になりたいでしょうし、何も内輪なことは書いてありませんから」
一瞬、フレンチは安全剃刀の件を白状したい誘惑におそわれたが、警察のやり方を暴露してはいけないと思ったので、それを受け取って、また読んで、礼を言いながら返した。
「お父様はオランダに行くと言っておいでだったのですか?」
「はい、いつもの通り、アムステルダムの事務所へまいりましたの。二日か三日行って来る、と言っていましたわ。でも、今から思えば、決心していたのですね――この――ことについて――出発の前に。さよなら、と言いましたっけ――」
唇をふるわせて、彼女は話をやめたが、急にソファに身を投げかけると、せきとめられない涙に泣き伏した。「ああ!」彼女はとぎれがちに泣き声をあげた。「海でさえなかったら! 考えるのもたまらないわ――あんな所で――」彼女は胸も裂けよと泣いた。
フレンチはこうなられては彼の作戦も駄目だと観念した。今の状態では、微妙な質問をして探るなどということはできない。黙って帰るよりほかに手はない。で、彼は彼女をハリントンにまかせて、できるだけ邪魔にならないように立ち去った。
誰が会社のデューク氏の地位を継ぐのだろうか、と彼は考えてみた。行方不明のダイヤモンドの捜索をする彼の努力が成果を収めたあかつきには、その人と折衝することになるのだ。それで、事務所を訪ねて何か聞いてみることに決めた。
彼は旧市内行きの地下鉄に乗り、約半時間の後に、ハットン・ガーデンの会社の階段を登っていた。
スホーフス氏がもう采配《さいはい》をふるっていて、この来訪者と今は亡き元社長の部屋で会った。事業はデューク嬢のものになるだろう、と彼は言った。もっとも、特にそうすべき理由はないのだそうだが。しかし、リンコンス・インのディンズリー・アンド・シヤープ事務所が故人の顧問弁護人であったから、そちらに尋ねればもっと詳しい話が聞けるに違いない。
「私は昨夜来ましてね、ただ臨時に引き継いでいるだけなのです」と彼は説明した。「ですから、私にでもディンズリー氏にでもおっしゃってください」
「ありがとう」フレンチは答えた。「では、あなたとご相談しましょう」
「本当は今日は仕事を休みにしているのです、わかってくださるでしょうが」スホーフス氏は続けた。「私はただ、この機会にデューク氏の書類を見て、商売の具合を調べているのです。ハリントンが重役になっていたら、彼のすべき仕事なのですが、あの調子ですから、みな私がしなければならなくなって」
フレンチは適当に返事をして帰りかけたのだが、帰るのをやめて、話を続けた。
「あんなふうに老人がおさらばを決めるとは、意外でしたな。そんなふうな人とは思いませんでしたからね」
スホーフス氏は気の毒なという身振りをした。「そんな人じゃなかったですとも」彼は同意した。「ですが、結局はそう驚いた話でもないのですよ。この一、二週間お会いになったことはなかったでしょうが、ひどく弱っていましたからねえ。すっかり元気がなくなって、一日ごとに悪くなっていたのです。具合も悪かったらしいですな――健康なかたなんですが、きっとあの事件が気持に影響したのでしょう。損をしたことをひどく気にやんでいましたから」
「本当に破産しかけていたのですか?」
スホーフス氏は正確な数字は知らないのだったが、大いにそれを心配していた。彼の娘にとって前途は暗かった。そればかりでなく、彼ら全部にとっても前途は暗かった。年をとった者が仕事をやめて、また新規にやり直すというのは辛い話である。これも、近ごろの様々な悶着《もんちゃく》と同じく、みな戦争のせいなのだ。警部、あなたもあるいは何か影響でも受けはしませんでしたか?
「長男を亡くしましたよ」フレンチはぶっきらぼうに答え、話を故社長の方へ戻した。社長はいつもの決まった用件でアムステルダムに行くことになっていたらしい。宝石は一つも身につけていなかったから、彼の失踪が自殺以外の原因であるはずはなかった。
フレンチはオランダ警察の結論を疑っていなかった。大きな値打ちの包みを持っている人間の非業の死は常に疑わしいが、この場合にはそうしたものがなかったことは確実なので、彼は嬉しかった。
次に彼が行ったのは、リンコンス・インのディンズリー・アンド・シャープ法律事務所だった。ディンズリー氏が生存している唯一の出資者で、フレンチはすぐ彼の部屋に案内された。
デューク氏はあらゆるものをシルヴィアに遺贈することにしていたらしかった。「もっとも、気の毒に」ディンズリー氏はつけ加えた。「どっちみち、たいした額にはならないのです」ディンズリー氏が遺言執行者であったから、盗難事件でフレンチがこの先、何か交渉するとしたら、この人を相手にするわけである。デューク氏と彼は旧友であった。それどころか、彼はデューク氏の結婚式には介添役をつとめた――もっとも、何十年前の話か考えるのを彼は好まなかったが。死の三日前に訪ねて来ており、老紳士の変化に彼は大きな衝撃を受けていた。デューク氏は身体が悪いらしく、また気分もすぐれない模様で、「どうも具合がよくないんだ、ディンズリー。心臓ではないかと心配しているのだが、それに、金の心配というやつもあってね」と言いながら、「万一、何かあった場合」にはシルヴィアの面倒をみてもらう約束をして帰ったそうである。
「その後のことから考えるのに」ディンズリー氏は結論を下した。「彼はそのころはもう、死ぬのが一番手っとりばやい解決方法だと決めていたのですな。もっとも、彼の死を聞いた時には私はひどく驚いたのですが」
「お察しします」フレンチは立ち上がりながら言った。「では、あの盗難事件の新しい発展でもありましたら、あなたにご連絡します」
彼は本庁に帰り、報告をすませ、日課の雑用を色々やるうちに、いつのまにかもう退庁の時間になっていた。
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一五 セント・ジョンの森の家
彼のような立場の人間には非番という時間が全然ない、というのがフレンチ警部の口癖になっている不平の一つであった。一日よく働いた後で家に帰って、パイプと本を手にゆっくりくつろいで愉快に過ごそうと思っていると、夕食もすまないうちに、本庁で何かが起こって、とたんに計画はみな、ぶちこわされてしまう。また引っ張り出され、祖国の法律の敵と戦わなければならなくなる。八時間労働だの、高率な過勤手当だの、出張手当だの、経費だのは、いっさい彼には縁がない……仕事をやりとげて元々で、さもないと昇進しなかったり、ひどい時には職まで失ってしまうのが彼の場合なのだ。
「うまくやりとげたところで、誰も感謝してくれるわけではないし」と彼はこぼす。「万一、失敗しようものなら、一時間もたたないうちに叱責をくらうし」だが、そう言いながら彼の眼が輝くところをみると、友人の大部分は知っているところだが、フレンチ警部殿はよほど職務を楽しんでいるらしい。その上、近い将来にはもっと報酬の多い地位に昇進させることに上司たちは決めているのであった。
しかし、この晩の彼の不平は、当然とはいえなくても、まさにいい実例であった。夕食のテーブルに向かったか向かわないかに、表のベルが鳴って、コルドウェル巡査がお目にかかりたいと言っていると女中が知らせたのであった。
「お待ちいただきなさい」良人が何も言わないうちに、フレンチ夫人が答えた。「居間にお通しして、夕刊を差し上げておいて」
フレンチは半分立ち上がったが、また坐った。
「急用かどうか聞いておいで」向こうに行こうとする女中に彼は呼びかけたが、半分は純粋の好奇心からで、半分は彼が自宅では人に制限を受けずに行動するという虚妄《きょもう》の説を失墜させまいとするためなのであった。
「あなたの食事ほど急用じゃありませんよ。待っていただけばいいんですよ」フレンチ夫人は容赦なく繰り返した。「一分や二分おくれたって、何の違いがあって?」
彼女の見方は当の巡査自身にも支持されたらしかった。
「急ぎではございませんそうで」扉の所へまた姿を現わしたエリザが報告した。「お支度のすむまでお待ちになるそうです」
「よろしい。では、待っていてもらおう」フレンチはこの件が満足に片づいたので安心しながら繰り返し、十五分ほど腹の虫を満足させることに専念した。それから、パイプを出すと、彼は来訪者の所へ行った。
「今晩は、コルドウェル。今ごろ何があったのだね?」
コルドウェルは、背の高い中年の頑丈な男で、窮屈そうに立ち上がって敬礼した。
「警部殿のお出しになった回状でありますが」彼は説明した。「あの女を見つけました」
「すごいことをやってくれたな!」フレンチは詰めかけていたパイプも忘れ、とたんに聞き耳を立てた。「何者だね?」
コルドウェルはポケットから手帳を出して、指あとのついたページをゆっくり繰った。彼のゆっくりした態度が頭の鋭い上司をいらいらさせた。
「早く言いたまえ、コルドウェル」フレンチは不満だった。「そのくらいのこともご大層に手帳を見ないと思い出せないのか?」
「わかります」男は答えた。「ここにあります」彼は手帳を読んだ。「ヘンリー・ヴェーン夫人という名で、セント・ジョンの森街道のわきにある小さい離れ家に住んでいます。クルー荘という名の家でして」
「すごい!」フレンチは大喜びだった。「それは確実なのだろうね?」
「そうだと存じます。写真を三人の違う人々に見せましたが、本人だと申しますから」
これは有望そうに思えた。ことに喜劇座の元の楽屋番のダウズが、ウィンター嬢の恋人がヴェーンという名であったと言ったのをフレンチは覚えていた。彼は巡査に、坐って詳しい話を聞かせるようにすすめ、同時に、一服やらないかと、タバコをすすめた。
コルドウェル巡査はすすめられたタバコ入れを受け取って、ゆっくり椅子に腰かけた。
「ありがとう存じます。では遠慮なく」彼は大きな親指でタバコをパイプの中に押しこんで、ゆっくり詰めると火をつけた。「こういうふうだったのであります。あの女の写真の入った回状をポケットに入れたまま、非番になりましたので、今日の午後早く、外に出たのです。家へ帰る途中、若い女性ですが、友達に会いました。それで、自分は方角をかえて、一緒に歩きました。ほどなく話題につまりましたので、自分はあの写真を見せたのです。もとより何も期待して見せたのではなかったのです。すると、一目見て、『この人知ってるわ』と言うのです。『何だって?』と自分は言いました。『知っているって? じゃ、誰なの?』と言ったのです。『ときどきお店に来る女の人よ』と彼女が言いました。『聞いたんだけれど、ちょっと今は名前が思い出せないわ』と言うのです。申し上げておきますが、自分が話していました若い婦人は、織物の店に二週間ほど前まで勤めていまして、今は失業中です。『そう』自分は言いました。『名前が知りたいなあ。思い出せないかい?』『いいえ』どうしても思い出せないというのであります。一度聞いただけで、別に気に留めていなかったそうでして」
「それから?」巡査が言葉を切りそうになったので、フレンチは励ますように言った。
「彼女が思い出せなくても、誰かほかの婦人たちが知っているだろう、と自分は言いました。お茶と映画をおごると言ったのですが、最初は彼女は言うことを聞かずに、行ってしまおうとしたのです。ところが、自分が本気なのを知りますと、折れてくれまして、前に勤めていた店に私と一緒に行きました。三、四人の女の子に聞いてまわっているうち、名前を知っている一人にぶつかりました。『それはヴェーン夫人だわ』と言うのです。『セント・ジョンの森に住んでいるのよ。クルー荘っていう家よ。お誂《あつら》えの品を何度もお包みしたから覚えているの』」
「よろしい」フレンチは嬉しそうな声でふたたび賞《ほ》めた。
「念のために、確かめた方がいいと思いまして」巡査は例のゆっくりした鈍重な口調で続けた。「自分はスウォン嬢――というのが自分と一緒にいた女性なのですが――に、そっちの方へ一緒に歩いてくれないかと頼みました。その家はベーカー通りのはずれの近くで見つかりましたが、小さい屋敷で、ひどく奥まっています。自分で行って尋ねるのはまずいと思いましたので、スウォン嬢に隣の家に行ってヴェーン夫人にお目にかかりたい、と言ってくれないかと頼みました。彼女が行って、そう言いますと、それは隣だという返事でした。それがクルー荘です。それで自分は間違いないことを知りましたので、映画に行くのは今夜はよすことにしまして、まっすぐこちらへお知らせに来たのです」
フレンチはにこやかに微笑した。
「なかなかうまいね、君。実際に僕がやってもそれ以上にはできないだろう。君に損をかけないように何とかするぜ。支度するから、その間にもう一服やって、それからタクシーを呼んでくれたまえ。一緒に行くとしよう」
彼は警視庁に電話をかけ、手配を頼んだが、その結果、彼とコルドウェル巡査が本庁に着いてみると、私服が二人、用意をととのえて待っていた。一人がフレンチに小さい袋と、ヴェーン夫人、別名ウォード夫人、別名を米国ピッツバーグのルート夫人に対する逮捕状を渡した。そこで四人の警官はタクシーに押し合いへし合い乗り込んで、セント・ジョンの森街道へと出発した。
ホワイト・ホールに曲がった時、国会議事堂の大時計は九時半をうった。晴れた晩であったが、月はなく、街灯の照らす範囲のほかは、漆《うるし》を流したような闇であった。フレンチが手短かに任務を新来者に話した後、四人は黙ったまま座席に坐っていた。彼とコルドウェルは抑えに抑えながらも興奮を禁じ得なかった。フレンチは彼の困難がもうすぐ解決するという希望のためであり、巡査の方はこの捜査がうまくいけば昇進する可能性があるからだった。他の二人は単にこの件を余分な仕事が増えたと考えているだけだったから、終始味気ない顔をして、いっこうに興味を感じない模様であった。
セント・ジョンの森街道で車をとめ、タクシーを帰すと、コルドウェル巡査を先頭に、往来との境に立っている高い石塀が切れている馬車道の門へやって来た。門の上の横木には「クルー荘」という文字が出ている。右手にはくぐり戸があったが、どちらも閉まっていた。塀の内側は立木が厚くめぐらしてあって、馬車道はその中をうねって走っている。枝葉の間を透かして見ると、向こうに小さい家の壁や破風《はふ》が街灯の光で微かに見えた。窓からはまったく灯が洩れていなかった。一瞬迷っただけで、フレンチはくぐり戸を開け、四人は中に入った。
「パイとフランクランドは、この木の間で待っていてくれたまえ」彼はささやいた。「コルドウェル、君は一緒に来るのだ」
馬車道は短かくて、ものの四十ヤードもなく、やがて家の輪郭が一目で見渡せた。最初に覗いた時に感じたのより、さらに小さい家だったが、凝《こ》った建て方で、破風のある屋根、大きな張り出し窓、それから小さいバルコニーがあって、それにガラス扉がついている。大都市の中心に近いにしては、驚くほど奥まった感じで、木立や塀や、それに常緑木の根もとの下草も所々にあって、往来も隣家もまったく見えないようになっている。
家の正面は真っ暗なので、本能的に足音を忍ばせながら、二人は横へまわった。こっちにも灯は見えなかったが、二人はなおも進むと、ぐるっと一まわりして、また正面に来てしまった。
「空っぽらしいね」フレンチが低い声で言って、ベルを押した。
何度押しても応答がない。家は真っ暗のまま、音一つ立たない。フレンチはふたたび巡査の方を向いた。
「ほかの二人を呼んで来てくれたまえ」と彼は命令した。すぐにパイは正面と側面の中間の角に配置され、フランクランドはその反対側にまわされ、姿を隠しながら、外から来る者はそのままにして、そのかわり中から出て来たら押さえるようにという指令を受けた。
懐中電灯を片手に、フレンチは扉や窓を用心深く調べ始めた。ついにバルコニーの扉に決めて、コルドウェルに灯りを持たせ、最初は合鍵の束で、次には短い針金で、錠をこじ開けにかかった。何分も苦労したあげく、カチリと音がして錠が戻ったので、ハンドルをまわして、用心しながら二人は部屋に入って、後ろを閉めた。
そこは小さいが、贅沢に家具を入れた居間で、明らかに婦人の部屋であった。家具調度はいささか華麗さと見栄を狙った式と見られ、趣味よりは値段を主眼にしたようなところが見られた。誰もいなかったが、最近まで使われていたように見える。暖炉には灰があり、本が方々に置いてあって、特に一冊などは椅子の上に、開けたまま伏せてある。小テーブルの上には午後のお茶のセットがのっていて、一つのコップは使ったままになっていた。
フレンチは詳しく調べないで、続く小さい廊下に出ると、それに沿って三つの部屋があった。また、二階に上がる階段もある。階段の下には釘が一列に並んでいて、男の服が一着と、帽子や外套が二つほどと、レインコートが一枚かかっていた。
急いで彼はほかの部屋を覗いてみた。最初のは喫煙室で、男の部屋で、暗い色の革で包んだ椅子のたぐいが入っていて、壁は暗い色の槲《かし》で張ってある。次の扉は食堂で、これも小さいが、値打ちものの銀器がたくさんあった。四番目の扉は台所で、流しや配膳室から裏庭へ続いている。ここも最近まで人の住んでいた証拠として、何となく散らかっていたし、いたる所に食料品もあった。
一階には誰も隠れていないことがわかったので、フレンチは二階に進んだ。一番大きい寝室は明らかにこの家の主婦のものと見えたが、いかにも取り乱した光景であった。タンスも衣裳戸棚も開けっ放しで、中味は引っかきまわしてあり、床《ゆか》の上にはドレスやら、靴やら、そのほか婦人用の下着のたぐいが点々と散らかっている。この混乱を見た時、フレンチは低い声で畜生と言った。どうも獲物は逃げた後らしい。しかし、誰かが今にも現われるかもしれないから、彼は急いで捜索を続けた。
次の扉は男子用の寝室と控えの間であった。控えの間はいっこう乱れていないし、続きの誰も寝ていない寝室もキチンとしていたが、次に彼が入った女中部屋の方は、つい最近に荷物を運び出した形跡が歴然としている。衣裳戸棚の引き出しは抜きっぱなしであったし、壁に作りつけた戸棚の扉は開けっぱなしである。紙のたぐいと、着古した服が床に散らばっていた。ところが、主婦の部屋と違っていることには、値打ちのある品は何一つ残っていないのである。
フレンチはここでも畜生と言った。疑いもなく、後の祭りなのだ。X夫人ことヴェーン夫人は風をくらって逃げてしまったのだ。もしそうなら、いったいぜんたい、わが身の危険をどこから察したのだろうか。
彼は取り散らかした部屋に立ったまま、しばし考えた。こういう新しい情勢の下で、彼は何をしたらよいのだろうか。
第一に、このヴェーン夫人というのが彼の求める女に違いないということを徹底的に確かめなければならないのは明らかである。次に、本当に立ち去ったのかどうかを調べなければならないし、もし立ち去ったのであれば、その理由と、もし可能なら、どこへ行ったのかも調べなければならない。また、もし彼女が逃げたのであったなら、どういうふうにして、まただれの手で警告されたのか発見しなければならない。最後に、彼女の隠れている所をつきとめ、逮捕しなければならない。
だが、ヴェーン夫人だけで終えてはいけないのだ。彼女の良人も発見しなければならない。もし彼女がX夫人で、盗品のダイヤモンドを受け取った人物であって、またおそらくゲシン老人の殺害者であったのならば、ヴェーン氏も関係があるに違いない。彼がかかわり合いにならずにすんでいるとは、まず信じられない。
であるから、まず彼のしなければならないことは、このクルー荘の不思議な住人についてできるだけ調べ上げることである。捜査の線はいくつも見えていた。まず、家自体がある。住む人間は個性を家に残すから、この家を注意深く調べれば、この夫婦について相当のデータがあがるに違いない。次に使用人である。これを発見できれば、彼らの証言はまことに値打ちがあるに相違ない。近隣の人々とか、土地の商人などに彼はあまり期待はしていなかったが、大勢に尋ねてまわれば有益なヒントの三つや四つ、聞き出せるはずである。最後に、家屋の代理業者がある。これが役に立つこともあり得よう。
もう時刻は十一時近かったが、彼はよしんば徹夜仕事になろうとも、即刻ここから捜査を始めるべきであると決めた。そこで、彼はこういうことに馴れているパイとフランクランドを呼んで、コルドウェル巡査の方には邸内の巡視をさせることにした。
ここで、最も綿密で徹底的な捜査が開始された。一部屋ずつ、三人はきわめて慎重な態度で調べていった。家具、書物、紙片、着物、みな一点ずつ調べた。疲労も空腹もものともせず、捜査は続けられ、やっと翌朝の六時半になってすべてが完了した。次第に明るくなって来るなかを、三人の警視庁の警察官は、一人ずつ往来に忍び出て、町角で落ち合うと、最寄りの地下鉄の駅まで歩き、朝食を食べに各自の家に帰った。
本庁へ戻る前に、朝食後のパイプを吸いながら、フレンチは捜査中に気がついた点を手帳に記した。ヴェーン夫妻に関しては、どちらの方にも何の資料もあがらなかったけれど、なかなか含蓄《がんちく》のある点をいくつか発見した。
第一に、この婦人の出発が突然であり予期していなかったのは歴然としている。寝室が散らかっているし、使った形跡のある居間には、今度手に取る時にページがわからなくならないようにと逆に伏せたままの本があり、居間の暖炉には灰があるし、使ったままの茶道具もあった。また台所の証拠が大きい。調理をこれから始めようというところだったらしく、フライパンがガス台にかけてあるし、テーブルの上には色々な材料がフライパンに入れるばかりに並べてある。台所と戸棚には食料が相当あったし、食堂の戸棚にはワインやウィスキーもあった。一方、男の主人の方にはいっこう急いだ形跡はない。
出発の日は、食料の状態から見てだいたいわかるとフレンチは見当をつけた。牛乳は鉢に一つと瓶に二本あった。酸化してはいたが、まだ凝固はしていない。戸棚には新鮮な肉がつるしてあって、何ともなっていない。パンはかなりひからびて固くなっていた。流しの棚にあったレタスはしぼんでいたが、居間の花瓶にいけてある菊はいきいきとしていた。
全体から推して、この逃走は四日前に起こったものと見てよかろうと考えたが、彼のこの見方は、別に発見した違う証拠によって支持された。
廊下の扉の裏についている郵便箱の中に、「セント・ジョンの森街道、クルー荘、ヴェーン夫人」に宛てた一通の手紙を彼は見つけたのである。消印によると、それは三日にロンドンで投函したことになっている。だから三日の夕方か四日の朝に配達されたはずだ。ところがこの日は八日である。だからこの婦人は、少なくとも四日前にここを出たのだ。
その手紙自体もかなり彼の好奇心をそそった。内容はただ株の売買の表だけであるが、ひどく大量の取引で、価格にして数千ポンドになっている。取引の日付は書いてなくて、別に添状もなければ差出人の名もわかっていない。誰かが複雑な財政的操作をしているのは明らかであったが、その男か女の身許を知らせるようなものは何もなかった。
家の設備から見ても、ヴェーン一家が少なくとも裕福に暮らしていたのは確かである。家具も調度もドッシリしていて、金目のものであった。居間は前に述べた通りで狭かったが、フレンチは絨毯《じゅうたん》だけでも少なくとも百二十ポンド以上はしたであろうと考えた。細君のドレスは上等の絹で、宝石類こそ残ってはいなかったが、高価な装身具や小間物のたぐいがあった。その上、喫煙室の半分|空《から》になった葉巻の箱には高価なコローナ・コローナが入っていた。車庫も自動車もなかったが、車はどこか近所の車庫に預けてあったのかもしれない。全体から推して、この夫婦は一年二、三千ポンドの暮らしをしていたらしい。ヴェーン夫人の取引銀行の名前が書類の中に発見されたから、これは照会すればすぐわかることだった。
もう一つ、警部が奇妙だと感じた点があった。この家の主人も細君も文学趣味をまったく持っていないらしかった。立派な製本の「一流の作品」が何冊も喫煙室の本棚にあったが、本の状態から見て、まったく装飾のために置いてあるのが明瞭であった。実際に読んである本は、喫煙室にあるものの中には一冊もなかった。居間には、もっと軽い種類の小説本が色々とあり、また、ひどくあくどい、上品ならざる表紙のフランス語やスペイン語の本が相当あった。だが、その中に混じって、バール神の祭りに現われたエリヤ〔バール神崇拝を打破するために預言者エリヤは遣わされた〕ではあるまいし、コンサイス・オクスフォード辞典の真新しいのが一冊置いてあったのだ。
細君の象眼入りの書きもの机には、古い勘定書がたくさんあったが、彼女が最近どんな店と取引していたかというほかには、フレンチは何の手がかりも見出せなかった。居間には立派なキャビネ版の写真があって、写っている婦人を彼はどうやらそれがルート夫人の船中で撮ったスナップ写真の本物だと思ったので、これを彼は上着のポケットに入れたのだった。
記入が終わったので、彼はパイプの灰をはたいて、その日の仕事のために出かけた。セント・ジョンの森街道に戻ると、彼はコルドウェルの交代に来たエスラという巡査と会って、まだ誰も家に近寄った者がいないことを知った。それから彼は隣家や近所の店を訪ね始めた。どこへ行っても彼は、ヴェーン夫人に会いたいのだが、家が閉まっていて会えないと述べ、どこへ行けば会えるのか知っている人はないだろうか、というふうに尋ねた。
大都会では、何年も隣同士であっても、一度も会わないでしまうことがあるのを知っていたから、彼はあまり結果を期待していなかった。最初に訪ねた二軒では全然何も聞けなかったが、三軒目で彼は予想外の幸運にめぐりあった。扉を開けてくれた女中がヴェーン家について何かを知っているらしいのだ。けれど、何かうさん臭く感じているのか、フレンチが例の質問をすると、何も教えたくないといった顔をした。渇望している様子を態度にあらわさないようにしながら、フレンチは雑談めいた調子で続けた。
「前にお住いだったカンタベリに近い田舎の地所の所有権のことで、ヴェーン夫人にお目にかかりたいと思ったんです。私はリンコンス・インの法律事務所ヒル・アンド・リューイシャムの者ですが、夫人のお父さんの地所の境界線のことで少し知りたいのです。特に大切というわけではないのですが、夫人と連絡がつけば私は五シリングもらえるので、会えるように考えてくださるなら、そのくらいのお礼はできるのですが」
女の子は乗り気になったらしい。彼女は廊下の方を振り返ってから、玄関先に出て来て、後ろを閉めて、やや早口にしゃべり始めた。
「あまりよくは知らないんですけれど」彼女は言いわけした。「でも、知っていることはお話しします」と言って、前の金曜日、つまり五日前、ヴェーン夫人の良人がニューヨークで危禍にあい瀕死《ひんし》の重傷を負ったからすぐ来い、という電報が来た。彼女は急いで荷物を作って、家を閉めて、リヴァプール行きの臨港列車に間に合うため、自動車をとばして行った。ヴェーン氏の方については、女中は何も知らなかった。男などは、どうでもいい付属品だと思っているらしい。めったに家にはいなかったし、いる時でもほとんど姿を見せなかったという。
どういうところから、あの一家をそんなによく知るようになったのか、とフレンチが尋ねてみると、彼女とヴェーン夫人の家の女中とは、うちの坊ちゃまの模型飛行機が境界の塀を越えてしまったのを返してもらったことから知り合いになったのだと説明した。それ以来、二人は心安くなって、お互いに雇い主についての情報を交換するようになった。その金曜の夕方、ヴェーン夫人の女中がかねてこしらえておいた合図をして、彼女を塀の所へ呼び出し、女主人が急にアメリカに呼ばれるようになったことを口早やに語り、家を閉めことになったから、彼女と料理女は解雇されたことを話した。
「臨港列車に間に合うようにって、大慌てでいらっしゃるのよ」その女中は言った。「それで、家を閉めておしまいになるのだから、私たちは先に出なければならないの」この女の子は大急ぎで別れを告げ、消えて行った。
こういう事実を教わって、フレンチは嬉しかったが、それは必ずしも彼の知りたいと願っていた話ではない。ニューヨークでの良人の話はあるいは本当でもあろうが、そうなると彼の築き上げていた仮説の大部分は崩れてしまう。しかし、この婦人が問題の日に本当に船に乗ったか否かを調べるのはたやすい話である。彼は女中に向かって言った。
「私は、そのあなたのお友達というのにぜひ会いたいのだが、名前と家を教えてもらえないかな」
名前はスーザン・スコットというらしかったが、家は知らなかった。一瞬フレンチは途方に暮れたが、上手に質問しているうちに、スコット嬢の口の利き方がロンドンっ子のようだったから、エッジウェア街道のあたりにたくさんある家政婦紹介所によく出入りしているのかもしれないことを聞き出した。
「ところで、もう一つだけ」彼はつけ加えた。「クルー荘の家主か管理人の名前を知りませんか?」
女中は残念だが知らなかった。
「では、この家のは?」フレンチはねばった。「並んで立っているから、この二軒は同じ人のものかもしれない」
女中はそれも知らなかったが、主人は知っているだろうし、まだ外出してはいない、という。フレンチは会見を申し込み、自分の身分を話し、両方の家の管理人がヘイマーケットの裏のカプルズ通りのフィンドレータ・アンド・ハインド事務所であることを知った。
得られる限りの情報をこれで得たと思ったので、フレンチは約束の五シリングを女中に払って辞去した。
彼のプログラムの次の項目は、ウィリアムズ氏を訪ねることだったので、二十分後、彼はコクスパ通りの事務所の扉を押し開けた。ウィリアムズ氏は彼一流の熱心さで迎えた。
「こんにちは、警部」彼は叫んだ。「よくいらっしゃいました。何か耳新しい話をお持ち願えたのでしょうな?」
フレンチは腰かけてポケットから、ヴェーン夫人の居間で見つけたキャビネ版の写真を抜き出した。
「どうですか、ウィリアムズさん」彼は静かに答えた。「これはあなたに取って目新しいものですか?」
写真を手にとると、みるみるウィリアムズ氏の眼は興奮に輝いた。
「なんと驚いた!」彼は叫んだ。「ついに彼女を発見なさったのですか? ルート夫人ですよ!」
「それをうかがいたかったのです。たしかにルート夫人ですね?」
「たしかですって? 絶対確実ですよ。少なくとも、これが私から三千ポンドせしめた女です、名前は何であろうと。お見つけになったのですか?」
「いや、違うのです」フレンチは認めた。「まだ見つけたのではないのです。ですが、大いに見込みがあるのです」
「話してください」
「残念なことに、あまりお話しする種はないのです。この女、つまりこの写真のご当人はこの金曜にニューヨークヘ出発したという報せを得たのです。本当かどうかわかりませんが。もし本当なら、アメリカの警察が船の中で捕えてくれるでしょう」
ウィリアムズ氏は詳しい点まで聞きたがったのだが、フレンチは無口であった。しかし、帰る前に、この捜査の結果は必ず教えるという約束をした。
コクスパ通りから家の管理をしているフィンドレータ・アンド・ハインド事務所まではほんの一またぎであった。ここでフレンチはハインド氏に会い、この会社がクルー荘の管理をしていることを確認した。が、この事実のほかには、興味のある話はほとんど聞けなかったし、役に立つ話にいたっては何一つ得られなかった。あの家は五年前にヴェーン夫人が借りた。契約書にはヴェーン氏が署名した。借家人としてはまことに結構な人たちで、家賃はきちんと払うし、家の修理もそう始終は要求しなかった。
「昼食までにもう一軒訪ねよう」とフレンチは考え、数分後にはホワイト・スター汽船の事務所に入った。ここで、特に驚いたわけでもなかったけれど、彼に相当考えこませるような情報を聞いた。それで、いよいよ自分の狙いが今度こそ正しいことがわかった。というのは、ホワイト・スターのであれ、どの会社のであれ、土曜の午後より前にリヴァプールを出帆してアメリカに向かった船は一隻もなかったし、金曜の晩にはユーストンから臨港列車は一本も出ていないのであった。
だからヴェーン夫人は疑いもなく彼の求めている女であり、彼女の出発はたしかに逃走なのであった。
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一六 強い手がかり
今やフレンチ警部は捜査上の攻撃点があまりありすぎるので、どれから手をつけようか、いささか迷っていた。ヴェーン夫人の足どりの探求が最も近道なのであるが、どの線を調べたら最も適確で短時間にこの目的が達せられるのか、いっこうに明瞭でない。うっかり脇道にそれようものなら、時間を空費するばかりであるし、この場合には二、三時間の差が成功と失敗のわかれ目になりかねない。かの婦人はすでに五日も前に家を出ているのだから、一分間といえども無益に相手を得《とく》させることはできない。
昼食をしながら彼はこのことを考えていたが、やがて第一歩として女中のスーザン・スコットを発見することに決めた。これに対する準備工作は、手腕は要らず、助手でもできるし、その間、自分はほかの捜査ができる。
というわけで、彼は本庁に戻って、二人の部下に仕事を言いつけた。一人はエッジウェア街道区域の紹介所の表を作り、もう一人はこうした紹介所に一軒一軒電話をかけて、この女の名前が登録してあるかどうかを調べるのである。それから彼は上司に会って、発見した事がらを告げ、ヴェーン夫人の取引銀行の支店長を訊問する上で必要な許可を貰った。
閉店まぎわに銀行に着いた彼は、まもなく支店長の部屋に通された。ハロッド氏は平素の職業上の沈黙は、この場合にはやめた方がいいと決心すると、彼になかなか興味のある情報を与えてくれた。
ヴェーン夫人は約五年前にこの銀行に口座を開いたという。セント・ジョンの森街道の家を借りたのとほぼ同じころだな、とフレンチは気づいた。彼女の預金はそう巨額ではなく、千ポンド近くになったことがほんの何度かあっただけで、それを越したことは一度もなかった。いつも四百から八百ポンド程度で、比較的最近まで固定していたのだが、ここ三、四ヵ月の間に次第に減って、十週間前には全然なくなってしまった。事実、このころ振り出された一枚の小切手は十五ポンドばかりの超過になって、出納係は現金にする前にハロッド氏に相談したのだった。ハロッド氏はクルー荘を知っていたし、ヴェーン夫婦の暮らし向きの程度も知っていたので、躊躇《ちゅうちょ》せずに許可したが、彼の判断が正しかったことがすぐにわかった。というのは三日ほどしてからヴェーン夫人は自身で現われて百ポンドを預けて行ったのであった。これもその後引き出されて、現在では十一ポンドなにがしが残っているだけである。
こういう資料は彼が苦心して作ろうとしている訴訟事実と符合するようにフレンチには思われた。ヴェーン夫婦は明らかに収入を上まわる暮らしをしていたのだ。ないしは、少なくともヴェーン夫人は収入以上の暮らしをしていたので、次第にやりくりがつかなくなってきていたのである。残高が次第に少なくなって、過振りまで出るという以上、ほかの解釈はつかない。この過振りは、あの婦人のアメリカ行きの切符と関係があるのではないか、と彼は想像した。それから百ポンド払い込んだ日というのはすぐわかったことであるが、ウィリアムズ氏がX夫人に三千ポンド払ったちょうどその翌日なのである。ここに少なくとも宝石泥棒の動機を暗示するものがあり、また、その成就の最初の結果がある。おまけに、その後、全部振り出してしまわずに、ほんの少額だけ残したのは疑惑をのがれるためで、逃亡説とまさしく符合する。まず、だいたいにおいて、フレンチは訪問の結果に満足した。
しかし本庁に帰ってみると、もっと満足したことには、彼の助手たちは首尾よくスーザン・スコットの名前の登録されている紹介所を探し当てていたのである。不思議な偶然で、最初にかけた電話が当たったのだった。彼らはむろん、ロンドン中にはスーザン・スコットという名は何人もいるに違いないと思ったが、この本人がヴェーン夫人の出発の翌日にこの紹介所の帳簿に名前を登録したのを発見すると、これこそ求める人物に違いないと感じたのだ。で、二人はそれ以上照会するのをやめ、一刻も早くこれを知らせようと思って、警部の居場所をさがすのに時間を費やしていたのであった。
紹介所というのはエッジウェア街道、ホースウェル通り七五のジル夫人の店で、さっそくフレンチ警部はそっちへ出かけた。この紹介所は小さな店で、エッジウェア街道をはずれた静かな通りにある普通の家の部屋を二つ使っていた。表がわの部屋には若い女が二人いて、人を雇いに来たと思ったらしく、好奇心に燃える目で彼を眺めた。ジル夫人はもう一人の女の子と話をしていたが、フレンチが来るとすぐその女の子が帰ったので、彼は奥の私室へ通された。
この婦人は最初はあまり快く話そうとしなかった。しかしフレンチが自分の職業を明かして、法律の力と尊厳でもって威嚇《いかく》すると、彼女はやたらに詫びを言いながら、協力的になった。帳簿を繰って、その女の子はミスルート街道、ノーフォーク・テレス三一番地に下宿していると告げた。
近所だったので、フレンチは歩いて行った。ここでも運がよかったので、彼は何だか気味が悪くなってきた。背のすらっとした、下卑《げび》てはいるが器量のいい金髪娘が扉を開けて、彼の問いに答えて自分がそのスコット嬢だと言った。まもなく彼は小さい客間で彼女と向かい合って坐っていたが、女の方はかなり大胆な眼に不遜に近い色を浮かべて彼を見つめていた。
フレンチは相手の様子を見てとり、慇懃《いんぎん》ではあるが、断乎たる態度をとった。彼はこれ見よがしに手帳をテーブルの上に出し、新しいページを開くと、「スーザン・スコットさんですね?」と言って、ページの一番上にその名を書いた。
「さて、スコットさん」彼はキビキビした口調で言った。「私は警視庁のフレンチ警部ですが、ある強盗殺人事件を捜査しています」ここで切って、女がちゃんと感じとったのを見て、言葉を続けた。「じつは、あなたが最近まで雇われていたヴェーン夫人に、ある事件の証言を求めたいので、どこに行けばあの人に会えるか、あなたに教えてもらいに来たのです」
女は驚いて声をあげ、恐怖と戦慄的《せんりつてき》な喜びの混じった色が青い眼に現われた。
「私は何も知らないんですよ」彼女は断言した。
「あなたがよく知っているのはわかっているんですよ」フレンチが言い返した。「私はただ、あなたに少々質問したいだけなんだ。本当のことを答えるなら何も恐れることはない。ご存じとは思うが、証言をしないと重い罪になるんだよ。牢屋に入れられるんだ」
こういうことを言って、女の眼から不遜の色を追い払い、適当な心境にさせてから、フレンチは商売にとりかかった。
「この前の金曜日まで、セント・ジョンの森街道のクルー荘のヴェーン夫人のところで女中兼小間使いをしていたね?」
「はい、三ヵ月ほどあちらにいました」
フレンチは自分の記憶を助けるほかに、この会見の重大性を信じさせるつもりで、この返事を手帳に控えた。
「三ヵ月、ね」彼はゆっくり言った。「よろしい。ところで、なぜやめたの?」
「仕方がないんです」女はすねた声を出した。「奥様が家をお閉めになったんで」
フレンチはうなずいた。
「という話だね。どういうわけなのか、話してください。あなたの口から」
「あの日の午後、四時少しまわったころ、奥様があわてた様子で入っていらして、すぐニューヨークに行かなければならないとおっしゃいました。いましがた電報が来て、旦那様があちらでお怪我をなさって、助からないかもしれないというのです。料理女に、私がお荷物の支度をを手伝うあいだに、お茶を一杯入れるようにおっしゃいました。奥様はお召し物をスーツケースにどんどんほうり込んでおしまいになるんです。もし私があんなふうな荷作りをしようものなら、きっと叱られるでしょうに! お荷物ができた時、お料理女がお茶を持って来たので、奥様が召し上がっていらっしゃる間に、お料理女と私が、自分たちの荷物をまとめました。お茶道具を片づけ始めますと、奥様はそんなことをしている時間はないから、それはそのままにしておいて、急いで外に行ってタクシーを二台呼んで来るようにとおっしゃいました。ぜひ乗りたいアメリカ船に連絡する臨港列車があるとおっしゃるのでした。それで私はタクシーを呼んで、みな一緒に出たのですが、私の知っているのはそれだけなんです」
「何時でしたか?」
「四時半ごろだった、と思います。時計は見なかったんですが」
「タクシーはどこでつかまえたの?」
「ガーディナー通りの端の駐車場です」
「ヴェーン夫人の運転手に行き先を教えたのは?」
「私です。ユーストンでした」
「あなたも料理番もひどい目にあったねえ、いきなり出て行ってくれと言われて。何か相当なことをしてもらったのだろうね?」
スコット嬢は軽蔑するような笑みを浮かべた。
「大丈夫です」彼女は答えた。「奥様にそう申し上げたら、五ポンドずつくださいました。お給料のほかに」
「そう悪くはないね」フレンチは認めた。「家に鍵をかけたのは?」
「奥様です。鍵はお持ちになりました」
「で、あなたと料理女はどうしたの?」
「私たちはここまでタクシーを走らせ、私はここで降りました。ここは私の姉の家なんです。お料理番の女はパディントンに行きました。リーディンかどこか、そっちの方に住んでいるんです。奥様は戻っていらしたらまた探すから、その時にひまだったらまた来るようにとおっしゃいました。でも、そのために遊んでいない方がいい、どのくらいアメリカにいなければならないかわからないから、というお話でした」
フレンチはちょっと考える間は休んだが、やがて話を続けた。
「あなたが雇われていた間、ヴェーン夫人は何度も家をあけるようなことがありましたか?」
「いいえ、一度だけです。でも、その時には三週間もお留守でした。ちょっと変ですけれど、その時も怪我人なんです。スコットランドにおいでの妹さんが倒れて鎖骨を折った、というお話で、お直りになるまで家事を見なければならなかったので。どこだったか、スコットランドでしたわ」
「それはいつごろ?」
女はためらった。
「はっきり覚えていないんです」しばらくして答えた。「お帰りになってから六週間か二ヵ月ぐらいになります。その前に三週間行っていらしたんですから、私がうかがってから二週間目ぐらいでしょうか。十週間ぐらい前のことです」
これはたしかに満足すべき答であった。ヴェーン夫人の留守の期間は、X夫人のアメリカ訪問と合致する。
「できたら正確な日にちが知りたいんだが」フレンチはねばった。「少なくとも、帰ってきた日ぐらいは。よく考えてみてください。何か思い出す種になることはない?」
女の子は何か考えていた。しばらく黙っていたが、考えても何も出て来ないらしかった。彼女は頭を振った。
「留守番をしていたの?」
「いいえ。私はここの姉の家へ来ましたし、お料理の人は家へ帰りました」
ますますいい。その日付に対して大勢の人の注意力がひかれているから、誰か一人ぐらいは正確に思い出すであろう。
「奥さんのところに帰って行ったのは何曜だった?」
フレンチが助け船を出した。
女はこれを考えた。
「木曜でしたわ」ついに彼女が言った。「今思い出しました。木曜は夜、休めたんです。それで、今週はお休みは貰えないな、と思ったのを思い出しました」
フレンチはこの返事に喜んだ。七週間前の木曜の晩といえば、X夫人がサヴォイからヴィクトリア駅へ車を走らせ、トランクを置いて姿を消した晩である。符合する。
「何時ごろ奥さんは帰って見えたの?」
「晩でした」スコット嬢は今度は即座に答えた。「八時半か九時十五分前ごろでした」
ますますいい! X夫人はサヴォイ・ホテルを八時少し前に出たのだから。ヴィクトリア駅まで行って、トランクを一時預けにして、セント・ジョンの森街道まで行くのには四十五分ほどかかる。
「では」フレンチは続けた。「あなたか、あなたの姉さんが、その週をはっきり思い出してくれるなら、ありがたいのだが」
スーザン・スコットはかなりきれいな顔を強くしかめて坐りこんだ。つめて考えるというのは、たしかにあまり馴れない仕事に違いない。しかし、ついに彼女の努力は成果を結んだ。
「わかりました」何か凱歌《がいか》を奏するような調子で彼女は言った。「十一月の最後の週です。姉の主人が十二月の第一週に新しい就職口を見つけたのですが、それがその次の月曜だったのです。あの就職口のことではさんざん聞かされたので、忘れるはずがありませんわ」
この日付にまず間違いはあるまい、とフレンチは考えていたのだったが、こんなに正確になったのはありがたい話であった。今度こそは、尻尾のつかめないX夫人のまわりに、絶対的な網をはりおおせて見せられそうだ。
「それはたいへん結構だ」彼は賞めた。「ところで、ヴェーン氏のことを話してもらえませんか?」
女は鼻を鳴らした。
「あの人?」彼女の声は嘲《あざけ》るようであった。「あの人については、ほとんどお話しすることはないんです。めったにいないんですから」
「それはどういうこと? 夫婦仲でも悪かったの? ここだけの話だから安心して話したまえ」
「だって、私は一度も見たことがないんです。私のいた三ヵ月というもの、一度もやって来ないんですもの。でも、話はお料理の人から聞きましたけど。いつも来る時は、二日だけなんです。晩おそく来て、二日泊まるんですが、お部屋のドアの外には全然出て来ないで、そしてまた晩に帰るんだって、お料理の人が言ってました」
「つまり、たとえば、月曜の晩来たとすると、水曜の晩まで泊まる、という意味?」
「ええ。それから、時々は三日泊まった、とお料理の人が言いました」
「晩の何時ごろ来たり帰ったりしたの?」
「晩の十時半ごろ決まって来て、朝は八時少し前に帰るそうです」
「つまり、いつでも来る時間と帰る時間は同じなの?」
「ええ、いつも同じくらいだそうです」
「暗くなってから?」
「いいえ。さっきお話しした時間なんです。夏でも冬でも同じです。少なくとも、お料理の人は私にそう言っていました。私たちは何度もその話をしたんです。少し低能だ、って言ってましたわ」
フレンチはこの話を聞いていささか当惑した。話全体が、彼が比喩《ひゆ》的純粋さを無視してよく使う言葉で言うと、「まゆつばもの」である。最初、ヴェーン氏が自分の家をこっそりと訪問しているというふうに、珍しい話として響いたのであって、もしそうならば、楽屋番の老人が言った例の人間で、まだどこかよそに一軒かまえているのかもしれない。だが、この最後の答えは、ヴェーンの不思議な動きに別の解釈を暗示するように思えた。ちょっとしてからフレンチが続けた。
「こっそり来る、といったような感じを受けたことはないのかい?」
「ないようですわ」女は残念そうに言った。「お料理の人はそんなふうには言いませんでした。でも」今度は希望をもって、「そうだったのかもしれませんわねえ?」
「私は知らないよ」フレンチが言った。「あなたにきいているんだ」
スコット嬢も知らなかったが、彼女の意見では、警部の提議したことがことが真相だったのかもしれなかった。これは先になってよく考えることにして、とにかくフレンチはそれを手帳につけ、質問を続けた。
「ヴェーン氏はどんな格好の人? 料理番が言わなかったかい?」
料理女はこの点でも情報を流したらしかった。フレンチは雇い人たちのやり方を知っていたのだが、この二人が主人どものことを語り合ったその徹底した詳しさには、その彼も胆《きも》をつぶしたのである。ヴェーン氏は背は高いが、猫背で、血色が悪く、太い口ひげを黒々とはやし、眼鏡をかけている、そうな。
この人相を聞いているうちに、信じられないような考えが彼の頭に閃《ひらめ》いた。彼は、アムステルダムのデューク・アンド・ピーボディの支店にいて、身ぎれいな支店長スホーフス氏の声をふたたび聞いているかのような幻想をいだいたのである。彼は支店の外交員について、こう言った。
「背は高いのですが、猫背で、血色が悪く、太い口ひげを黒々とはやし、眼鏡をかけているのです」
まさか? いや、この不思議なヴェーン氏は、ほかならぬ彼の旧知のヴァンデルケンプではなかろうか?
しばらく彼は考えこんだまま身動きもしないで、この可能性を吟味した。そうだとすれば、この事件のうち不思議でたまらなかった話がだいぶ解けて来る。殺人の前のヴァンデルケンプの行動から、スイスヘ逃亡した件まで、辻つまが合う。シルヴィア・デュークの狼狽や結婚式の延期の理由がつく。それから、デューク氏が自分でも言うといっていたように、シシー・ウィンターの発見をすぐヴァンデルケンプに話したので、これでヴェーン夫人が警告を受けた経路が説明つく。ヴェーンという名前を選んだのすら、この方向を指すように見えた。ヴェーンとヴァンデルケンプ――偽名を作る時には本名と同じ頭文字で始まるようにしておくのが得である。不注意に着物などに頭文字をつけておいたために秘密がばれる怖れがない。おまけに、この仮説には先天的な不可能さが一つも入っていない。ヴァンデルケンプはこの時、いや相当前から、表向きは長期のアメリカ旅行と称して出ていたが、彼の見る限りでは、この場合、アリバイなどは問題外であった。
最初、フレンチはいよいよ事件の謎が解けたように感じたが、頭の中で色々と吟味していくうちに、少しずつ自信がなくなって来た。この説では色々と重要な点の辻つまが合わない。まず第一に、彼の意見では、ヴァンデルケンプの人柄と符合しない。警部は自分の性格判断力を大いに買っていたし――相当の見識があるのは認めなければならないが――バルセロナで起こった例の重大な会見の時のヴァンデルケンプの率直な態度を考えれば考えるほど、あの外交員の潔白を信じたくなる。おまけに、三万ポンド以上も稼いだばかりの男が、自分の生活水準を少しでも高めないでいられると考えるのは、大いに無理な話である。
ところが一番の困難は、ウィンター嬢が十六個のダイヤモンドを持って逃げたこととヴァンデルケンプとを結びつける点であった。どういうふうにして彼女は受け取っただろう。ハットン・ガーデンでの窃盗と外交員のロンドン出発との間の時間、彼女はずっとサヴォイ・ホテルの建物の中にいたし、そうしてみると二人が会うことができた可能性はまったくない。また、あんな危険な品物を人に託したり郵便で送ったりすることも、まずありえないことだ、とフレンチは思った。
この仮説に対して、こういう疑うべからざる反論はあったのだが、しかし二人が万一会えたかもしれないと考えて、ことによると長い捜査も最後の追い込みに入ったのではないかと思いながら、フレンチは心の踊るのを感じた。本庁に帰ったら、まずこの件をゆっくり再吟味することに決心した。
こう決めると、彼はふたたびスコット嬢に向き直った。
「料理番の住所を知りたいんだが」
スコット嬢は料理女の住所を知らなかった。何でもリーディンの近くに住んでいるらしいが、それ以上はわからない。名前はジェーン・ハドスンといって、小柄で、太っていて、元気な女だそうである。
もしこの女に用があれば、この資料だけで充分に探し出せる、とフレンチは感じた。料理女からスコット嬢以上のことを聞きだせるとはほとんど期待していなかったが、万一ということもあるから、会ってみるのも無駄ではあるまい。本庁に帰るとすぐ、部下の一人に必要な指令を出そうと決めた。
もうスコット嬢の情報のネタがつきたのは明らかだったから、もし料理番か元の雇い主たちの消息を聞いたり姿を見かけたりした場合には電話をかけてくれるように頼むと、彼はそこを辞した。
本庁に帰ると、彼はハットン・ガーデンの事務所に電話をかけ、ヴァンデルケンプが最近泊まっていたとわかっている場所を聞き、アメリカの警察に電報をうって、同人の所在の調査を依頼した。
次の仕事はヴェーン夫人をユーストンまで乗せた男を発見することであった。二、三分歩いた後、彼はガーディナー通りに着いたが、タクシーの駐車場は遠くなかった。五台が行列していたが、彼は運転手を集めて、用件を説明した。彼は強い姿勢で、犯罪捜査課の課員として情報を要求する、という形をとった。すぐに効果があがった。
運転手の一人が、問題の日の午後四時半ごろ、自分と次の車の男がかなり器量のいい若い女に呼ばれて、クルー荘へ行ったと述べた。どうやら家を閉めるらしかった。その家の主婦に違いない一人の婦人が彼の仲間の車に乗って出発すると、自分を呼びに来た女の子とその友達――女中らしかった――が自分の車に乗って、これも出発した。その女の子をメーダ・ヴェールをはずれたどこかの通り――シスル街道だったか、ミスルトー街道だったか――で降ろし、もう一人をパディントンまで送って行った。奥さんの方を乗せて行った仲間は今、この駐車場にいないが、かなり前に出て行ったのだから、もうすぐ帰って来るかもしれない。警部さんがお待ちになれないなら、帰りしだい本庁の方に伺わせましょうか。
フレンチは待つことに決めた。三十分とたたないうちに、そのかいがあって、その車が現われた。運転手のジェームズ・タッカは問題の夕方のことを覚えていた。仲間と一緒にクルー荘へ行くと、その家の女主人とおぼしい婦人が彼の車に乗った。駐車場から呼んでくれた女がユーストン駅にやってくれ、と言ったので、ノース・ゲートを抜けて、アルバート街道を走らせた。しかし駅にだいぶ近くなった時、その婦人が伝声管で話しかけてきた。気を変えたそうで、セント・パンクラス駅に行きたいという。それで、彼はそちらの方の駅に走らせ、そこで婦人は料金を払った。
「荷物を持っていましたか?」フレンチが尋ねた。
はい、二つか三つ――数はよくわからないが――、スーツケースがたしか二つか三つだった。車の中に持ち込んだので、日報には出ていない。セント・パンクラスでその婦人は赤帽を一人呼んだと思ったが、今ではどんな男であったか忘れてしまった。車が走っている間は、話をしなかった。それで、どういうところから気を変えたのか、全然見当もつかない、ということであった。
次はセント・パンクラス駅を調べるに限ると、フレンチはタッカの車に乗って古い中部線の終点にやって来た。彼の獲物は一体どこに行こうとしていたのだろう。タッカの助言で、その婦人の到着を五時四十五分前と推定し、それから料金を払って彼を帰した。その時間にどんな汽車が出発したか調べようと、彼は時間表の所に行った。
こういう場合だから――一人の女が警察の目をのがれようと急いで逃げるのだから――旅行はまず遠い所に違いない、と彼は考えた。ごく頭のいい逃亡者はロンドン市内で所をかえる方が安全なやりかただと考えるだろうが、普通の犯罪者の心理は自分と犯罪の現場との間にできるだけ大きな距離を置くことに傾く。それは決してしっかりした推理ではなかったが、ほかにもっといい考えが浮かばなかったので、まず本線の列車を考えなければなるまいと思った。
時間表を見上げた彼は、すぐ五時発の急行があるのを発見した。ノッティンガム、チェスタフィールド、シェフィールド、それからリーズに停車し、ハロゲート、ブラッドフォード、モアカム、ヘイシャムなどに連絡し、ヘイシャムからはベルファスト行きの船に連絡する。しかし、こうした町のどれかから、さらに足をのばしたかもしれないし、何か手引きでもないかぎり、旅行者の足どりをたどろうというのはまったく絶望的なのだ。おまけに、彼女はこの汽車で行ったのではないかもしれない。五時五分発のノーサンプトン行きの普通列車があり、五時三十五分のノッティンガム行きは方々の中間駅に停車するし、北へ向かう六時十五分の急行がある上に、区間列車がまたたくさんある。いや、彼は時間表からそんなにたくさんのことが得られるとは思っていなかった。
彼は例の婦人の写真を、そうした列車の出た時に当直であった係員に見せ、聞ける限りのことを尋ねた。それはもちろん、あてにならない希望であったから、何もわからなかったが、彼はあまり失望しなかった。
これも駄目かとは思ったが、彼はノッティンガム、チェスタフィールド、シェフィールド、リーズ、ハロゲート、ブラッドフォード、モアカム、ヘイシャムおよびベルファストの各警察に電報をうって、先週の「週報」の第四ページに出ている女がそちらに立ち寄ったものと思われるから、よく見張ってくれるように依頼した。
フレンチはふたたびハタと困ってしまった。腹の立つ事件だが、またもや手がかりがまったく失くなってしまったのである。彼の得る情報は、いつもかんじんなところで腰くだけになるようだ。ほとんど絶望に近い気持で、その晩彼は机に坐って、ものの二時間というもの、事件の覚え書を再検討しながら、もしや今までに何か見落とした手がかりでもないかと調べてみた。よく考えたあげく、まだ手をつけてない捜査の線が一つあったのがわかった――むろん、あまり望みはなさそうだが、やはり線は線だ。それは株式取引所の表である。あれが何とかなるだろうか。たとえば、表に出ている会社に問い合わせれば、問題の取引を誰がしたのか教えてくれるだろうか。もし教えてもらえるなら、ヴェーン夫人ないしは彼女をよく知っている誰かの所へ行き着くだろう。彼は結果に対してあまり希望は持たなかったが、明日になっても他の情報が手に入らないようなら、これを当たってみようと決めた。
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一七 株の取引
新しい案で頭がいっぱいのフレンチは、次の朝登庁すると、ヴェーン夫人の家の扉についた郵便箱で見つけた手紙を引き出しから出して、机の上に広げてみた。
株の売買を記したその表を見ているうちに、取引の数がひどく多いだけではなく、扱われている株の種類の多いのに彼は驚いてしまった。イギリス戦時公債があったし、植民地政府や外国の鉄道株があったし、銀行あり、保険会社あり、商店あり、各種の産業会社あり――全部で二十五もあった。望む情報は、このどこに頼んだら得られるだろうか、と彼は考えた。
そのあげく、彼はジェームズ・バーカー商会と日刊ルッキン・グラス社を選び、その中で後者をまず当たってみることにした。彼はその登録した事務所に行って、係員に面会を求めた。彼の質問は単純なものだった。ある容疑者を洗っているうちに、日刊ルッキン・グラス社の普通株を八百九十五ポンド十九シリング八ペンス分だけ売ったメモが出て来た。取引をした人間ないしは取り扱った仲買店の名を教えてもらえないだろうか。
係員はわかったようなわからないような顔をした。彼はフレンチに取引の日を尋ね、それはわからないと言うと、それでは調べようがないと答えて、理由をこまごまと述べた。日がわからない上に、株価は始終変動しているから、その取引の関係者をつきとめるのはひどく困難である。事実、そういうことがわかるかどうかも保証し難い、というのである。代わってフレンチがこの事がらが急を要することと重大なことを長々と述べたので、その結果、二人の事務員が調べることになり、できるだけ早く報告をすることに落着した。
これまではうまくいったが、これだけでは不充分である。フレンチはジェームズ・バーカー商会に行って、やはり同じような質問をした。それから、念には念を入れよと、同じ質問をピカーディ・ホテルの本社でも繰り返した。
日刊ルッキン・グラスが最初に返事をして来た。係員は、注意深く調べたが、お問い合わせの金額に相当する取引は全然あった事実がない、という電話をかけて来た。フレンチ警部の言った数字と八ポンド以下の差の取引は一つもなかった、というのである。
この話が終わるか終わらないうちにジェームズ・バーカーの係員がかけて来た。彼も何年も前に遡《さかのぼ》って調べさせたが、警部の言った数字に符合する株は売買されていない、という。三月二日に取引があって、その額は警部の数字より一ポンド少々、正確にいえば一ポンド二シリング一ペニー多いのだが、それ以外にはそれに近いのは全然ない、というのだ。一時間後、ピカーディ・ホテルから同じような返事が来た。警部の言った額との差が十ポンド以内の取引はまったく実例がないのであった。
フレンチは考えた。この差額は仲買人の手数料、印紙代、あるいは何かの税のせいではないのだろうか。これを確かめるのは、いくつもある関係各会社の帳簿を全部調べるという面倒きわまる仕事になる、と考えた。彼は株式の仲買という仕事に対してはかなり不案内で、仲買人の手数料の額とか、その支払い方法については全然知らなかった。しかし、たとえば六社の場合を取り上げて、ヴェーン夫人の手紙にあるのに近い額のすべての取引に関係した者の名前の表を作って、そして同じ仲買人、売り手または買い手が、どの会社の取引にも顔を出していたら、この男がヴェーン夫人と関連があると考えてよかろう、と考えた。何となく複雑で、不愉快なほど曖昧《あいまい》だが、少なくとも手がかりになる。どういうふうにやればいいのか、フレンチはよくわからなかったが、とにかくやってみる決心をした。
少し考えてから、この問題を友人の仲買人に頼むことにした。ジョージ・ヒューイットはストランドからはずれたノーフォーク通りに事務所を持った小さな商店の重役だったが、フレンチは十五分後に訪ねる約束をして、この表をポケットに入れて、テムズの堤防に沿って歩いて行った。
彼の友人は、まるで長く行方不明にでもなっていた弟が現われたかのように歓迎してくれた。葉巻に火をつけてから、二人は昔話をはじめたのだが、その中には、故人のボルソーヴァという男の遺言状にからむ事件で、大法院が乗り出した時に、ヒューイットが証言をした件も入っていた。その話題もつきたのでフレンチは当面の用件にとりかかった。その表を相手に渡して、彼は話を説明し、専門家としての意見を求めたのである。
仲買人は紙を手にして、大急ぎで読み下した。それからもう一度ゆっくりと読み直し始めた。フレンチは坐って、葉巻をふかしながら彼を眺めていた。やがて、相手は判定を下した。
「さっぱりわからないね、フレンチ。たしかに誰かが株式市場で取引をした一覧表には違いないのだが、本職のする形式ではないよ。実際、僕はこんな形式は今までに一度も見たことがない」
「へえ?」フレンチはうながした。「きみが使っているのと、どういうふうな違いがあるのかね?」
ヒューイットは肩をすくめた。
「項目別にいえば、少しはよくわかるだろう。まず、取引の日付が書いてない。もちろん、この表が取引の結果だけを示す目的で作られているのだったら、日付は特に必要がないかもしれないが、仲買人なら必ず日付はつける。それから売買の根本方針がまったくわからない。ここにあるように、四分利の戦時公債を売って、五分利の戦時公債を買っている。大西部を売って東北を買っているし、豪州六分利を売って英領東アフリカ六分利を買っている。こういう公債は値打ちがほとんど同じようなものなので、一方を売って一方を買っても何の利益にもならないんだよ。同じように目の利く人ならば、連合保険を売って合同石油を買うようなことはしないのだ。僕の言う意味がわかるかい?」
「よくわかるよ。でも、取引した人が価値について無知だったり、誤導されたりしたのではないだろうか」
「むろん、そういうこともあろうし、そうだったに違いない。しかし、それを勘定に入れても、株式の売買というものを心得ないにもほどがあるよ。それから、こういう小さい項目が実に奇妙なんだ。この『残額』というのは何だろう? それからなぜ、『電報』が売方に入っていて買方に入っていないのか? まったくの話、フレンチ、これには僕もまいる。こういう取引が行われるのは、まず精神病院の中の取引所だな――もしそんなものがあるとすれば、だ」
「こういう会社の二、三に当たってみて、係の者に当の取引者を調べさせようとしたんだが、駄目だったよ」
「どことどこ?」
「日刊ルッキン・グラス、ジェームズ・バーカー、それからピカーディ・ホテル」
「そして何もわからなかった?」
「そういう数字に合う取引は全然なかったというんだ。一番近いのでも、ぼくの調べたいのと二、三ポンド違っているんだ。ぼくはこうした額には仲買人の手数料か印紙代か、何か税のようなものが入っていて、それでそうした差が出るのではないかと思ったんだが」
「僕はそう思わん」ヒューイットはなおもその紙をジッと眺めていたが、向き直ると来訪者を見つめた。
「あのね」彼はゆっくりと続けた。「僕がどう思っているか知りたいかい?」
「それを聞きに来ているんだ」フレンチが彼に注意した。
「よろしい。では言います。これは全部真っ赤なインチキなんだ。どこから僕がそう確認したかわかるかい?」
フレンチは頭を振った。
「じつは、それは君でもわかっていいはずのことなんだ。まず、足し算が合わない。合計欄の数字があっていない。全然インチキなんだ」
フレンチは自分の失策を呪《のろ》ったが、また急に驚くべき考えが頭にひらめいた。この売買の表が金銭勘定とは何の関係もないとしたら。何か秘密な信号か暗号を使った通信ではあるまいか。そういうことがあり得るだろうか? いつもの「猫撫でジョー」式の慇懃《いんぎん》さとはまったくかけ離れた挨拶をして帰る彼の声は少々震えていた。
この新しい天啓にしたがってやって見ようと、大急ぎで本庁に戻ると、彼は部屋に入るなり表を机の上に広げ、腰を下ろして研究し始めた。表はこうなっている。
公債および株式一覧表
買入    売却
単位はポンド、シリング、ペンス
一、五分利戦時公債    328・ 4・2
二、豪州六分利              568・ 5・ 0
三、大西部普通             1039・ 1・ 3
四、合同新聞普通     936・ 6・3
五、炭酸パン       713・ 9・2
六、バークレー銀行    991・18・1
七、連合保険               394・19・10
八、ライオンズ              463・17・ 5
九、ピカーディ・ホテル          205・14・11
一〇、英米石油              748・ 3・ 9
一一、四分利戦時公債           403・18・10
一二、英領東アフリカ六分利 401・ 3・9
一三、L&N・E      292・ 1・1
一四、英米タバコ      898・ 5・7
一五、陸海軍糧食            1039・ 0・ 4
一六、ロイド銀行             586・10・10
一七、アトラス保険            922・ 4・ 5
一八、電報                  16・ 7
一九、メープル              90・19・ 6
二〇、マッピン&ウェッブ  463・ 4・5
二一、合同石油       748・ 5・7
二二、四分五厘戦時公債          568・ 2・ 3
二三、カナダ政府三分五厘  958・ 5・6
二四、残額            17・3
二五、メトロ鉄道      812・10・4
二六、日刊ルッキン・グラス     895・19・ 8
二七、J・バーカー            371・18・ 2
―――――――――――――
6935・12・1 9127・18・ 2
6935・12・ 1
――――――
2192・ 6・ 1
この表に何か秘密の通信が含まれているとして、フレンチが考えついた第一の疑問は、通信文は株式の名称に入っているのか、数字なのか、それとも両方なのか、というものであった。
第一の案をとって、彼は名称のある文字から言葉を作ろうと試みて、いろいろと選んでみた。頭文字のW、A、G、A、A……は望みがなさそうだし、逆にJ、D、M、B、Cもだめだ。終わりの文字も、下から読んでも上から読んでも、いっこうまとまらない。頭文字の次の字も、終わりから二番目の字も同じく見込みがないし、斜めを試みたが、それも同様にだめだった。
フレンチは考えられるだけの案を試みた。各案ごとに、あらゆる場合を考え、緻密《ちみつ》に順序立ててやってみて、まったくこの方法は間違っているとわかるまでやめなかった。何の解決も見られはしなかったが、一つだけ発見したことがある。それは、もし通信文があるのなら、それは金額の欄にあるらしく、名称の欄ではない、という点だった。大部分の場合、株式の名称はアルファベットの始めに近い文字で始まっているのに彼は気がついたし、そうでない場合は、そうした株式はその種類では代表的なものの一つになっているのである。彼はデイリー・メール新聞を取り上げ、経済欄を見た。株式はいろいろな見出しで分けてある。イギリス公債、海外自治領、国内鉄道、カナダ及び外国鉄道、などのように。第一の区分けはイギリス公債で、その最初の項目が五分利戦時公債である。ところが、ヴェーン夫人の表の第一行は五分利戦時公債なのだ。
表の二番目は豪州六分利公債だが、デイリー・メールをもう一度参照して、豪州六分利は第二の区分けの第一項目になっているのをフレンチは見た。これはまことに興味をひいたが、次の五項目、つまり、大西、合同新聞、炭酸パン、バークレー銀行、連合保険がそれぞれの区分けの第一の項目であるのを発見すると、彼は偶然の符合以上のものにぶつかったことを感じた。
彼はこの新しい基本によってこの表を再検討したが、ますます自分の結論の正しいことがわかった。明らかに、これを書いた人物は何か新聞の――おそらくはデイリー・メール株式欄を単に引き写したのにすぎない。変化をつけるためと、人の疑惑をひかないような表を作るために、彼は単に続けて写すのを避けた。それで各区分けの第一項目を拾ったのである。それから区分けをふたたびたどって、第二項目ばかりを使うというようにして、必要な二十五の名称をそろえたのだ。それは絶対的に正確には行われてはいないが、疑いもなく原則になっている。これから推しても、この表に通信文があるとするなら、金額の欄になければならないので、フレンチは注意を後者に向け直した。
金額は一六シリング七ペンスから一〇三九ポンドにまたがり、この両極端の間に驚くべき多種多様にわたっている。一〇〇ポンド台と六〇ポンド台は一つもなく、ほかの台は出ている。大まかにいって、低い数字よりも八〇〇ポンド台と九〇〇ポンド台が多い。しかし、こうした事実が何を指示するのか、彼にはどうしてもわからなかった。
調べる線がまるで出ていないのだから、彼は置き換えの可能性について熱心に詳しく研究し始めた。つまり、数字ないしは符号が文字を現わす式の暗号法の一つである。単一の数字ではこの目的には添わない。それならアルファベットの十文字しか使えないからである。だから何か組み合わせが必要である。そこで、フレンチはこれに適合するような色々な寄せ算を試みた。こういう細かい試験に彼は三人の部下に手伝いを頼んだのだが、筋の通った組み合わせを暗示するようなものはいっこう出て来なかった。
こうして研究しているうちに、彼はポンドの数字に関するかぎり、似かよった一対の数字が三つもあることに気がついた。つまり、第二と第二二、第三と第一五、それから第一〇と第二一である。彼はこういう組み合わせをしばらく調べていたが、そのうちに突然、少なくとも彼の狙いが正しい方向に向いていることを示すらしい一発見をした。彼はその数字を並べて書いてみた。
第二  ―――568・5・0
第二二 ―――568・2・3
すると急に彼は気がついたのだが、そうした各項のシリングの数字とペンスの数字を寄せると、結果は同じになるのである。五プラス〇=五、二プラス三=五。大急ぎで彼は他の対を同じように書き出してみた。
第三  ―――1039・1・3
第一五 ―――1039・0・4
それから
第一〇 ―――748・3・9
第二一 ―――748・5・7
これで彼は一目で同じような例のあがったことを知った。ポンドの数字はそのままにして、シリングとペンスの数字を加えると、同じ一対ができるのだから、おそらく同じ文字をあらわすに違いない。
この発見で、彼の興味はふたたび燃えあがった。確実に三つのことが証明されたらしく、その一つ一つに彼は大いに満足した。第一に、こうした数字の組み合わせは、実際に何か計画が隠されていることを証明するし、それは通信文が隠されているということになる。第二に、それは彼、フレンチが解決に向かう直接の道を歩いていることを示す。そして第三に、それは対《つい》になった数でできている信号ないしは暗号を暗示している。よくある組み合わせで、暗号法のうちでもよく知られている式がたくさんある口だ。
で、彼が次に試みたのは、この表を二つの欄に分けてみることであった。ポンドを前にして、ペンスとシリングを寄せて後に書く。こうしてみると、次のようになって、また一つの新しい終点に来てしまった。
328――6
568――5
1039――4
936――9
713――11、等々。
この結果を彼は三人の部下に研究させた。四角や平行四辺形を使ったり、またほかの充分に信頼できる方法を使って、問題を解く鍵を探させた。そのうち、ポンドの数はこのためには大きすぎるのがわかったので、こうした数の各数字を寄せてみた。こうすると、三二八は三プラス二プラス八すなわち一三となるから、彼は第二の表を作ってみた。まず始めはこうなる。
13――6
19――5
13――4
だが、彼と部下がいくら努力してみても、鍵の手がかりは得られなかった。いつもの退庁時間よりずっと遅くまで働いたのだが、しまいに彼は、もう今夜はこれまでにすることに同意してしまった。
次の日、彼はふたたびこの難問に立ち向かったが、午後もしばらくたってから、ようやく彼は一つの進歩をとげた。疲労|困憊《こんぱい》のあげく、彼は頭を落ち着けようと思って一杯のコーヒーを頼み、それを飲んでから、いつもの習慣にはないことだったが、パイプに火をつけ、椅子の背に楽によりかかりながら、なおもこの件を考え続けた。この謎はまったく解けない、と諦めてしまいかけた時、とつじょ一つの考えが頭にひらめいたので、彼は坐り直した。ことによると解決できるのかもしれない。
彼は本が鍵になっている数字応用の暗号方式について考えついたのである。この方法だと、暗号は大抵は三つの数からできていて、最初のがページをあらわし、第二のがそのページの行の番号をあらわし、第三のがその行の上の言葉の番号になっている。しかし彼はこう考えた。数字の一つを定数にしておいてもいいわけだ。つまり、言葉は必ず、たとえば、そのページの五行目にあるとか、その行の第一字とか二つ目とかに決めておいてもいい。こうしておけば暗号は一対の数でも運用できる。こうした場合の困難は、通信するもの同士が使っている本が何であるかを発見することにあるのはもちろんである。
ここまで進めていった時、彼はすごいことに思い当たった。周囲の仲間とおよそ縁のないように見える本をどこかで見たぞ。そうだ! ついにわかった! ヴェーン夫人の居間にあったコンサイス・オクスフォード辞典だ!
これを吟味しているうちに、彼が正しい解釈に到達したのがますます確かなように感じられた。あの本があすこにあったという事実だけではなく、辞書がこういう目的に一番よく適している本であるだけでなく、実に二つの数字を使う方式では一番適しているのだ。最初の数はページをあらわし、第二の数はそのページの上の言葉の番号をあらわしている。さらに、ポンドの数――すなわちページ番号――は一から千ぐらいまでになっているが、シリングとペンスの数――すなわちそのページにある言葉――は三十より大きいのは一つもないのだから、この考え方は一層確かなことがわかったのである。フレンチは考えた。ついに今度こそは解いたぞ。
ロンドン警視庁では、どんなものでもすぐ手に入る。彼は部下に電話をかけて、至急コンサイス・オクスフォード辞典を手に入れて、彼の所に届けるように命令した。
五分後に、彼はむさぼるようにページを繰っていた。三二八ページを見つけるには一、二秒しかかからなかったし、六番目の言葉を探すのには一秒しかかからなかった。それは「フレンチ」だった。
これが自分のことを指しているのだったら、いよいよ解き得たことになるし、単なる偶然の一致であったら、解き得ていないのだが、彼はそんなことを考える間ももどかしく、大急ぎで次の数に進んだ。五六八ページの第五の言葉は「on」であった。
「French on」まだ、意味を成すかもしれないし、成さないかもしれない。彼は第三の数を見た。
一〇三九ページの四番目の言葉は、「your」「君の」であった。「French on your」と来ればなかなか調子がいいが、第四を調べてみて、九三六ページの九番目の言葉が、「track」であるのを発見した時には、すべての疑いは消えてしまった。「French on your track」「フレンチが君の手がかりをつかんだ」とうとう解いたぞ!
残った言葉はすらすらとわかっていったが、十七番のアトラス保険の九二二ポンド四シリング五ペンスで手こずった。九二二ページの九番目の言葉では意味をなさない。しかし彼はもうここまで進んでいたから、こうした難問も長くはかからなかった。ものの三、四秒で、彼は次の行のシリングとペンス――これにはポンドの欄に数字がない――を九二二ポンドの行のに加えればいいことを発見したので、求める言葉はすぐわかった。この場合は、辞典のそのページの問題の言葉の前に三十語以上あったためである。一九と一三、つまり三十という数が、シリングとペンスの行に出せる最大の数であるから、三十以上の数を作るためにはポンドの数字一つに対してシリングとペンスの行が二つ要るのだ。「電報」という言葉は明らかにごまかすために書いたものだったから、彼はまもなく「残額」という項目も同じ目的のために必要であったことを知った。それから後は、全部の言葉を並べるのには二、三分で充分であった。やがて、彼は椅子の背に反りかえりながら、自分の努力で完成した結果を眺めていた。
French on your track rendez‐vous victory hotel lee d s if i fail take your own ticket boat leave s on twenty six t h.
このままでも明瞭であったが、彼は句読点を入れ、大文字に直し、離ればなれの字をくっつけた。
「フレンチが君の手がかりをつかんだ。リーズのヴィクトリー・ホテルで落ち合え。もし私が現われなければ、自分の切符を買え、船の出帆は二十六日」
では、この警告を彼女によこした人物は、ヴェーン夫人とともに海から逃げようとしていたのか! その人物が誰なのか、フレンチはほとんど疑いを抱いていなかった。確実にそれはヴェーン氏であるし、もしそうならば、ほとんど疑いもなく、ヴェーン氏こそあの殺人を犯した当の人物になると彼は思った。いずれにせよ、ヴェーン氏であろうとなかろうと、一緒に逃走することを暗号文でヴェーン夫人に指令して来た者こそ、彼の求めている人物だ。今度こそ、もう少したてば、わかるのだと考えると、彼は笑いを禁じ得なかった。彼らの乗ろうとする船はまもなくわかるし、そうなれば彼らはもう逃げも隠れもできなくなる。
しかし、そうであろうか? 彼の眼が暖炉の棚の上にかかっている暦の上に落ちたとたんに、彼は口惜しそうな声を立てた。暦は容赦なく彼に今日が二十六日なのを教えたのである。船はこの日に出てしまったのだ!
しかし、それはとにかく、彼のなすべきことは明瞭であった。その船を発見しなければならない。ちょっとの間、彼は方法や手段を考えながら坐っていたが、やがて彼の注意はこの手紙の最後にひかれた。「船の出帆は二十六日」とある。これはたしかに手がかりを暗示する――この線の船は毎日は出ないのだ。もし毎日出るのだったら、「次の木曜の船に乗れ」とか何とかいう句になったはずである。もし彼の推理が正しかったなら、この船は大洋航路の船で、単なる海峡横断の船ではない。おまけに、この見方はある程度までは、逃亡者は隣国よりむしろ遠方に向かうものだという蓋然性によって支持されている。
では、どこから出帆するのか。リーズの付近から遠方に向けて船が出るという所はどこだろう? もちろん、リヴァプールもそうには違いないが、必ずしもリヴァプールでなくてもいいわけである。ハルからも、クリムズビーからも、あるいはマンチェスターでもグールからでも外国行きの汽船は出る。今日リーズ付近の港から出た大洋航路の船の表を作る必要があるだろう。
もう時刻は遅かったが、フレンチは仕事を続けた。航海ニュースを研究してみたところ、リヴァプールやハルや近隣の港から七隻の汽船が出帆することがわかった。リヴァプールからは、ボストンを経由してフィラデルフィアに行くホワイト・スター汽船の船が一隻、ブエノスアイレスからロサーリョに行くランポート・アンド・ホルトの船が一隻、パラからマナオスに行くブース汽船のが一隻、エジプトからコロンボを経てラングーンに行くビビ汽船の一隻がある。ハルからは、ヘルシングフォールスに行くフィンランドの船が一隻、それからコペンハーゲンに行くウィルスン汽船のが一隻と、また同じウィルスンの定期船がグリムズビーを出てクリスチャンサントに向かった。これらのほかに、貨物船が何隻か出て、それにも乗客はあったかもしれないが、定期船というのはそれだけであったから、フレンチはまずそれらを調べることにした。
彼は問題の各汽船会社に電話をかけて、本日出帆の船にヴェーンという名の人物が乗っているかどうか尋ね、もし乗っていなくても、こういう人相の夫婦者が乗っていないか調べてくれるようにと頼んだ。返事の来るのはかなり遅かったが、ブース汽船からの返事を聞いた時には、彼は時間を損したことを少しも悔やまなかった。リヴァプールを今日の午後三時に出帆したイーノク号で、セント・ジョンの森街道、クルー荘の、ヴエーン夫妻というのがマナオスまでの航海を予約しているという。おまけに、この二名はリヴァプールで船に乗り、本社の知っている限りでは、実際に航海をしているはずだ、というのである。
ブース汽船の航路に関してはフレンチはいささか暗かった。マナオスが南米にあるのは知っていた。多分ブラジルだろうと彼は考えたが、船がそこへ直接に行くのか、途中に寄港先があってそこで追いついて逮捕することもできるのか、その点はわからなかった。
彼はそこのところを知らせてもらいたい、と電話した。「最後の土壇場《どたんば》だ!」彼は汽船がマナオスに着いて、逃亡者たちが埠頭に降りて、待っていた警官の手に捕えられる所を空想しながら、大満悦であった。そして、彼にとっては、これは特に気にかかった難事件の終了というだけではなく、これで実際に昇進しないにしても、有名になることだけは間違いないのである。
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一八 汽船イーノク号
ロンドン警視庁の厖大《ぼうだい》な組織の中では、およそ人間の知り得る資料ならすべて索引で引けるようになっていて、その見事なことは世界に比類がない。たとえばフレンチが、プラハ市の人口とか、ロンドン水先案内組合の長老の好きなレクリエーションとか、アラハバートにおけるガンジス河の幅とかを知りたいと思うなら、ただちに望みの情報の入った解説か参考書が届けられる。単に汽車とか汽船とかに関する資料などは、ものの数ではない。
ほとんど待つ間もなく電話の返事が来て、前日の午後リヴァプールを出たブース汽船のイーノク号はル・アーヴル、オポルト、リスボン、マデイラ及びバラを経由したあげく、アマゾン河を千マイルもさかのぼってマナオスで航海を終えることがわかった。おまけに、この船はル・アーヴルでサウサンプトンから来る船の到着を待ち合わせるのであって、それに連絡する臨港列車は二十七日の晩の九時半にウォータールー駅を出る。
「今夜だ!」フレンチは急いで自分の時計を見ながら考えた。ちょうど八時四十二分であった。何と運のいいことだろう! それに乗ろう。運さえ当たり前にいけば、あと十二時間とたたないうちに、ヴェーン夫婦を無事に手中に納めてしまえる。
活動するとなったら、フレンチはすばやい点で人後に落ちない。五分とたたないうちに、彼は助手のカーターという敏捷かつ敏腕な若い巡査部長を呼んで、今夜の九時三十分の大陸列車で彼と落ち合うように指令し、またもう一人、敏捷で敏腕な助手を呼ぶと、犯人引き渡し請求などに必要な書類を至急そろえて同じ列車に届けるように命じ、それからタクシーを呼んで自宅に帰り、妻に計画の変更を告げ、旅行に要る品々をまとめさせた。かくして、努力のかいあって、ウォータールー駅の時計の針が九時二十五分を指すか指さない時に、彼と巡査部長カーターは臨港列車の出ようとしているプラットフォームに着いた。二人を待っていたのは、別の敏捷かつ敏腕な助手マニンで、ヴェーン夫婦の逮捕令状と引渡し請求書、旅券、英貨とフランス貨、ル・アーヴルのフランス警察への紹介状を手渡した。
「ありがとう、マニン! それで結構だ」フレンチはそうした武器を受け取って感謝した。二、三分で列車はゆっくりと駅を出て、南ロンドンの灯火の海を抜けるころから速力を増し、やがてその向こうの開けた田舎の闇の中を驀進《ばくしん》し始めた。
ありがたいことに、静かな晩で、列車は混んでいなかったので、警察官たちは寝台が取れ、横になることもでき、翌日の労苦にそなえることができた。一同は時間通りル・アーヴルに着いて、タクシーにとび乗ると、埠頭のかなり先の方にあるイーノク号の碇泊地点にかけつけた。フレンチは急いで船に上り船長に面会を求める一方、獲物がフレンチを見て、事態を悟って、船から抜け出すこともあろうかと、カーターを舷門に残した。
デーヴィス船長はすぐフレンチに会った。
「おかけください、フレンチさん」相手の信用状を調べると、彼は愛想よく言った。「そして、ご用の向きをおっしゃってください」
フレンチは勧められた椅子につくと、ポケットからヴェーン夫人の写真と彼女の良人の人相書を取り出した。
「説明します、船長」彼は言った。「私は強盗殺人の容疑で手配中の男女を追っています。二人はヴェーン夫妻と名乗っていますが、これが本名であるのか、二人が本当に夫婦であるのかは怪しいのです。二人はリヴァプールからマナオスまで、あなたの船の切符を買ったことが昨夜ようやくわかりましので、逮捕の目的でサウサンプトンをまわってここに来たのです。二人の人相はこういうのですが」彼は写真と人相書を手渡した。
船長はそれを受け取りながら彼をチラと見た。ゆっくり写真と人相書を見てしまうまで黙っていた船長は、やがて真面目な口調で言った。
「せっかくですが、フレンチさん、今度は手に負えないですよ。ヴェーン夫妻という人々から船室の予約はありましたし、二人はリヴァプールで船にも乗ったのですが、その直後に下船しまして、帰って来なかったのです。たぶん何か事故でも起きて、戻れなくなって、あなたがなさったようにサウサンプトンをまわって見えるのだろう、と私は考えていたのですが、お話から考えますと、あなたに足どりを知られたのを悟って、ゆくえをくらましたのですな。ですが、事務長に会いましょう。詳しいことを話してくれるでしょうから」
フレンチは呆気《あっけ》に取られた。今までに何度も何度も経験したことがまた降りかかったのだ。一番確実だと思って、一番自信がある時が、決まって失敗する時なのだ! 今まで何度も危ない橋を渡ってきた。事態にうまく対応できるという確信もなければ、自分の腕にも疑いを持っているようなとき、そうした場合には見事な成功を収めた。そして逆に、ああ、絶対成功と信じたことが何とたびたび失敗に終わったことだろう!
事務長が入って来た時には、彼はもうある程度まで心の落ち着きを取り戻していた。「ジェニングズ君です――犯罪捜査課のフレンチ警部」と船長が二人を紹介した。「坐りたまえ、ジェニングズ、そして警部のご用をうかがってください。リヴァプールで船に乗りこんで、出帆の直前に降りてしまったヴェーン夫妻についてなんです。フレンチさん、おききになりたい点をおっしゃってください」
ジェニングズ氏は鋭そうな敏腕家タイプの四十がらみの人物で、フレンチは話をしているうちに、この人ならば正確に観察した事実を簡潔な言葉で答えてくれそうだという安心感がわいてきた。
「こうなのです、ジェニングズさん」彼は言った。「このヴェーン夫婦は強盗殺人容疑で手配中の者なのです。私は二人がこの船に乗ったところまで足どりを調べまして、この船で逮捕できると思って、昨夜ロンドンからこちらへ渡ったのです。ところが船長からうかがいますと、二人は乗っていないというじゃありませんか。二人についてご存じのことがありましたら、ぜひ話していただきたいのですが」
「たいしてお話しすることはないのですが」事務長が答えた。「その二人は木曜の正午に船に見えまして、ヴェーン氏が切符を出して、船室の番号を教えてくれと言いました。切符はリヴァプールからマナオスまでの片道が二枚で、異状はありませんでした。上甲板の一等船室の十二号がロンドン事務所で予約されていましたので、その番号を部屋つきの給仕に教えまして、荷物を運びがてら案内させました。約半時間後、二人はまた私の事務所に来て、出帆時刻を尋ねました。私は三時だと答えました。ヴェーン氏は、何か用を足したいから陸へ上がるが、早目に帰って来る、と言って、それから二人は舷門の方へ立ち去ったのです」
「実際に上陸するところをご覧になりましたか?」
「いいえ、事務所から甲板は見えないのです」
「それで? それから?」
「晩餐の後で、その部屋つきの給仕が、二人はどうなったのかと私にききました。食堂に現われもせず、船の中を探しても見当たらない、というのです。われわれが探しまわった後で、デーヴィス船長に話しますと、船長は船内をくまなく捜索させました。それ以後、二人は杳《よう》として姿を見せませんし、今もこの船にいないのはたしかです」
「どこかに隠れていて、このル・アーヴルで抜け出したということはありませんか?」
「まったく不可能です。二人はリヴァプールで乗り遅れたのに違いないのです」
「故意かな、偶然かな?」船長が言葉をはさんだ。
「その点はまったくわかりません」ジェニングズ氏が答えた。「しかし、本船と一緒に航海しなかったのは確実です。あるいは警部、あなたが追跡しておいでなのを上陸して知ったのでしょうか」
「不可能です」フレンチが断言した。「昨夜まで彼らがどこにいたのか、私自身知らなかったのですから」
これはみな偽りの手がかりを残そうという手のこんだ策略の一部なのだ、と彼は痛感した。船員とこういうことを論じても何の益もないのはわかりきっている。彼は女の写真と男の人相書を事務長の方に押しやった。
「これが彼らの人相に合っていますか、ジェニングズさん?」
写真を一べつするだけで充分であった。その主はイーノク号にわずか半時間乗っていたヴェーン夫人に相違なかった。それから、その人相書の方はヴェーン氏であった。フレンチはこの獲物はたしかに、船長の言葉通り、手に負えないという結論に到達せざるを得なかった。彼は憎々しげに口の中で呪《のろ》った。
「荷物を船室に残して行ったと言われましたね」彼は続けた。「見せていただけますか?」
「もちろんです。ですが、まだ二人は来るかもしれないのですよ。リヴァプールで船に乗り遅れたお客で、ここへ来て追いついた人が今までにたくさんあるのです。今にも現われるかもしれません」
「来てくれれば、ありがたいのですが」フレンチは答えた。「ですが、あてにはしません。お差しつかえなかったら、これから荷物を見させていただきますが、出帆はいつです?」
「三十分後です」
「それだけあれば結構です。ところで、舷門の所に部下を一人置いていますから、彼らが来れば気がつくはずです」
ヴェーン夫妻のために取ってある広い気持のよい船室には大型のスーツケースが四つあったほか、洗面道具とか着物のたぐいなど、まず急いで荷物を少し解いた、といった態《てい》になっていた。スーツケースには鍵がかかっていたが、フレンチは合鍵の束を出して、何の苦もなく開けた。このマナオス行きというのが注意深く案出したインチキにすぎないとする彼の仮説は確認された。スーツケースの中には何も入っていないのである。計略をまことしやかに見せるために持ち込んだ囮《おとり》の荷物だったのだ。逃亡者たちが本当はどこに行ったのか示すような手がかりは、船室のうちには何一つ見当たらなかった。
「彼らの現われるのを待つ必要はなくなりました」フレンチは厳しい声で言った。「この空《から》のスーツケースで万事は終わりました」
「そうらしいですな」事務長も認めた。「もっと早く気がつかないで、お気の毒でした」
「仕方がありません。われわれロンドン警視庁の者は、いつでもこういう目にあうのです」
彼は愛想のいい事務長に別れを告げ、ゆっくり船を降りた。
しかし彼は埠頭からは離れなかった。まさかとは思ったが、獲物が本当に乗り遅れて、追いかけている可能性もほんの少しはあったからだ。いちおう確かめようというのである。
しかし、イーノク号がともづなをとき、船首を海の方に向けるまで待っていたが、遅れて来る人もいないので、船が出発するのを見届けると、彼は不満げにカーター巡査部長の方を振り向いた。
「万事休すだ、カーター、この旅に関するかぎりはね。みんごと、肩透かしを食わされた。今ごろはどこへ行ったやら。うっかりすると、アメリカまでの道のりを半分も行ってしまったかもしれん。電信局を見つけて本部に報告しよう」
数分後、フレンチは長文の電報を本庁の課長宛てに打った。これですることもなくなったので、彼はカーター巡査部長の方を振り向いた。
「さて、カーター、これからどうするかね。今は十時だし、晩までは帰る船はない。丸一日遊べるぜ」
少しばかり空腹だという以外、カーターには何の思案もなかった。フレンチが笑った。
「僕もそう考えていたんだよ」彼は認めた。「だが、時期が悪い。この辺の連中はうまい朝飯というものの観念が全然ないんだし、まだ彼らの昼飯には早すぎるし。だが、一つあたってみようか」
二人は、とある小さい料理店に入って、コーヒーとハム・エッグスを頼んだ。英語のわからない給仕は手におえないとみえて、主人を呼んで来た。彼は少し英語がわかったので、ようやく話が通じた。
「はい、だんな様がた」彼は両手を振りながら叫んだ。「ハム、卵、オムレツあるな!」彼は頭を低く下げた。「すぐある、だんな様がた。だんな様がた、どうぞ、おかけください」
だんな様がたは腰をおろしたが、信じられないほど短い間に、湯気の立つオムレツにジャガイモの刻んだのとタマネギをあしらったのが、コーヒーやうまいロール・パン、バターと一緒に来た。空腹な二人はたちまち平らげにかかったが、これで今まで低かったフランス人に対するカーターの評価はにわかに急騰した。二人はゆっくり食べたが、食事もやがては終わり、時間をどうつぶすかという問題がまたもや切実になった。
「海岸の町をぶらっと見物しよう」フレンチが提案した。「サン・マロとか何とかいう所さ。それとも、なんとかすればディエップまで行けるだろうから、そこから午後のニューへーヴン行きの船をつかまえよう。どうだね?」
カーターは駅に行ってまずその可能性を確かめようと言ったので、二人はゆっくり町の方へと歩いて行った。忙しい港の異国情緒に二人は眼を見はるばかりであった。ル・アーヴルはきれいな町で、往来は立派で、町や公共建築物も多かったが、面白いという所ではないので、一マイル半ほど歩いて駅に着いたころには、二人は飽きてしまった。
時間表を調べてみると、ディエップに行くにはもう遅すぎた。向こうに着くころにはイギリス船は出てしまうのだ。サン・マロは全然このあたりではなく、はるか何十マイルも西南であることがわかった。トルーヴィルは湾の向こう側で八マイルか十マイルしか離れていなかったが、冬のトルーヴィルはあまり魅力のある所ではなさそうである。
「こうしよう」やがてフレンチが言った。「僕たちはフランス警察の連中に紹介状を貰っている。これから行って誰かに挨拶して来よう。ここの警察署を見学してみてもいい」
カーター巡査部長は上司のこうした丁寧な態度を喜んで、すぐ賛成したので、三、四分後には二人は例の「憲兵隊」という文字が扉の上についている大きな建物の階段を登っていた。ここでフレンチが紹介状を出すと、すぐに当直の将校に丁寧に迎えられた。
「せっかくお見えになったのに、隊長が不在で失礼します」たいへん上手な英語であった。「お目にかかれないのを残念に思うでしょう。やがて昼の食事にご案内申し上げたいと思いますが、それまでにご希望でもありましたら」
フレンチは事情を説明した。たいへん結構な朝食をすませてから時間がたたないから、昼食のご馳走にはなれないが、サウサンプトンに戻る船の出帆までの時間のつぶし方を教えてもらヲればありがたい、と。
「船は真夜中まで出ないのですよ」フランス人が答えた。「この地方をご存じないのですか?」
「全然知らないのです。あまり遠方でない所で、何か見るものでもあれば、それを見てもいいのですが」
「むろん、ありますとも。もし私があなたの立場なら、カーンヘ行きますね。興味ぶかい古い町で、一見の値打ちがありますよ。通しの汽船もあるのですが、それでいらしては時間がかかりすぎます。船足が遅いので。まず、船でトルーヴィルにいらして――湾のすぐ向こう岸ですから――そしてあちらから汽車でカーンまでいらした方がよいでしょう。それだけの時間をおつぶしになるのなら、それが持って来いだと思います」
フレンチは礼を述べたが、相手の話はまだ続いた。「船は潮まかせで走るのです。今日は」彼は暦に眼をやった。「正午に出ます。カーンにお着きになるのは二時ごろですから、あちらで食事をなさってから晩にお帰りになってもじゅうぶん船には間に合います」
十二時十分前にフレンチと彼の部下は埠頭に着いた。ここまで歩いて来る途中、大通りにたくさんあるきれいなカフェの一軒でビールを飲んで時間をつぶしたのである。切符を買って、二人は小さな汽船に乗った。空は晴れていたが寒い日で、乗客は数えるほどしかいなかった。二人は珍しい光景に興味をおぼえ、あちこちと歩きまわっていたが、やがて煙突の蔭になる所に座席が二つ見つかったので、腰をおろして出帆を待った。
正午になって、ゆっくりした動作で角笛が吹き鳴らされ、タラップが陸にひかれ、綱はゆるめられた。船長は唇を機関室に通じる管にあて、命令を下そうとした時に、岸辺から邪魔が入った。叫び声があがったと思うと、憲兵隊の青い制服を着た一人の男が現われ、船の方へ駆け寄りながら猛烈に手を振った。船長は命令をやめ、ゆるめられた綱はピッチリと引かれ、一同は何事が起こるのかと立ちどまった。
憲兵は船にとび乗り、船橋の梯子《はしご》を駆け上がって、船に乗っている全部の人々を見渡した。彼が早口に船長に言葉をかけると、眼をみはっている船客に向かっていった。
「フロンシュさん、おいでですか?」彼はわれ鐘のような声で呼びながら、上を向いている顔の群を一わたり見渡した。「ロンドンのフロンシュさん!」
「あなたのことですよ」カーターが叫んだ。「何かあったらしいです」
フレンチが急いで船橋に行くと、憲兵は青い封筒を彼に渡した。「隊長殿からです」と、急いで敬礼しながら説明すると、彼は急いで岸に上がった。
それは電報で、それが伝えて来たニュースは警部を、いわば、棒立ちにした。それは本庁から来たもので、本文はこうなっていた。
「リヴァプール警察よりの電によれば、ヴェーン夫婦はイーノク号に乗り、下船せず。ヘンスンを見張り中のマッケーが両人を見たという。まだ両人は船中のはず。船を追ってホールトまたはリスボンに行け」
「上陸だ、カーター」フレンチは舷側へと走りながら、大急ぎで叫んだ。船はもう動いていたが、二人は船長や船員のののしる声を後にして、一躍、埠頭の人になった。
「もしもし」彼はその光景を驚き、かつ喜んで見ていた例の憲兵をさし招いた。「本部に急いで行く道を教えてください」
男はお辞儀をして、肩をすくめ、自分にはわからないという身振りをした。フレンチは走っているタクシーを呼びとめ、二人の連れを押し込んだ。
「隊長殿!」と彼は当惑している憲兵に呼びかけ、手の電報を叩いた。「隊長殿は?」
男は飲みこんだ。弱っていた顔に微笑が浮かび、早口のフランス語で、きかれた所番地を言った。十分後、一同はふたたび憲兵隊に戻ったのであるが、フレンチは「隊長殿」を連呼してやめない。
彼は前に会った丁寧な将校の部屋に通された。
「ああ」相手は言った。「では、私の部下が間に合いましたな。電報は受け取られましたか?」
「はい、いただきましたが、お世話になって何とも恐縮です。ですが、私にはまったくわからないのです。今朝、高級船員たちは絶対に手配中の二人は乗っていない、と言ったのです」
将校は肩をすくめた。
「疑いもなく」彼は穏やかに言った。「ですがやはり、本庁が提案されている通りに、あなたが船を追おうとおっしゃるかもしれないと思って、電報を届けさせたのです」
「私は行くよりほかありません」フレンチが答えた。「本部からの命令なのですから。ですが、お世話になりついでにうかがいますが、どういう経路をとったらいいのでしょうか。言葉の違いの問題で、私は手も足も出ないのです」
将校は今まではヴェーン夫妻の動きについてはまったく退屈しきっていたらしかったが、ふたたび敏腕な関心を持った顧問になった。まずパリ経由にかぎる、と彼は言った。国内を横断してボルドーへ行けば国際列車に乗れるのだが、パリ経由の方が早くて、もっと快適である。幸いにもフレンチはパリに行く昼間の列車に間に合う。十二時四十分発だし、まだ二十分あるから悠々と駅へ行く時間がある。
電報を受け取った時からパリ行きの急行がル・アーヴル駅を出るまでは、忙しすぎて、フレンチは貰った電文を真剣に考える暇がなかった。今、二等車の一隅に、カーターを向こう側に置いて腰かけると、彼はポケットからその紙をとり出し、注意して読み始めた。
マッケーとヘンスンの話はわかった。巡査部長マッケーはリヴァプールの刑事の中では腕ききの一人で、今のフレンチと同じような任務についていた。彼は、チャールズ・ヘンスンという男を逮捕する気で、出航する船を見張っていたのである。ヘンスンは二人の共犯者とともに、ある田舎の銀行を襲って、支店長を殺害したあげく多額の金を強奪して、世間を大きく騒がした男だった。フレンチはマッケーを個人的にも知っていて、もし彼がヴェーン夫婦が船に上って行ってそのままになっているというのであったら、そうに違いあるまい、と納得した。
どうしてマッケーがその時にヴェーン夫婦を手配中の犯人だと認めなかったか、と彼は不思議に思った。多分、自分の事件に熱中するあまり、「週報」に出ていた件を詳しく読んでいなかったのだろう、と彼は考えた。要するに「週報」は専門的な任務についている者よりも、一般の警察官に読ませる目的で出しているのだ。しかし、マッケーが絶好の機会を逸したという事実は残った。詳しく観察するという平素の癖が、ある程度まで彼の過失を償ったのは事実であるが。
だが、もしヴェーン夫婦がリヴァプールで船から降りなかったとしたら、船長と事務長の証言はどうしたのだろうか。ああいう人物がこんな事がらでだまされるはずはない。彼らは本職である。おまけに、どの隅々もよく知り抜いている船の中の話なのだ。ヴェーン夫婦は、それとは反対に、あの船の勝手も知るまいし、平素の事務の扱い方も知っているはずはあるまい。こういう事情なのだから、夫婦が船の上のどこかに隠れているはずがないのだ。もし乗っているのならば、船長は知っているはずだ。フレンチにはまったく説明がつかなかった。話全体が矛盾にみちている。
しかし、彼は自分自身の計画を立てなければならなかった。親切なフランス警察官がブース汽船の当地の支社に電話をかけてくれて、イーノク号の航路を調べておいてくれていた。今日は土曜であるが、次の日の午後、つまり日曜に、あの汽船はポールトの外港であるレーションエスに着く予定になっている。その晩はそこに停まり、次の日の、日曜の晩八時にレーションエスを出る。その次の日の正午ごろに船はリジボア、すなわちリスボンに着いて、そこに二日停泊する。その次の寄港地はマデイラだ。
フレンチはリスボンで船をつかまえるつもりだったが、ポールトに行ってもつかまえられるかもしれない、と思いついた。彼はル・アーヴルで鉄道案内を買っておいたので、ここで汽車の連絡状況を調べ始めた。その経路は、パリ・オルレアン線でボルドーに行って、それから南部線でスペイン国境のイルンまで行き、そこからメディーナ、サラマンカを経てポールトに行く。パリに彼らは午後四時三十五分に着いて、最初の直行列車はケー・ドルセー駅から出る午後十時二十二分で、これはポールトには一日おいた月曜の正午少し過ぎに着く。ポールトからレーションエスまではわずか三十分ぐらいであるから、六、七時間の余裕があるわけだ。彼は目的地をポールトにかえた。
運よくパリとボルドー間の寝台がとれ、イルンまでの汽車には食堂車もあった。二人は国境の駅で一時間待ったが、フレンチは彼の身分証明書をフランスだけではなく、スペインやポルトガルでも有効なように作っておいてくれたマニンの頭のよさを祝福した。
フレンチは、シャモニーからバルセロナに行った時、地球の無限の広さに驚嘆したものだったが、あの時の驚異の感情は、今彼が経験するものとは比較にならなかった。イルンからポールトまでの旅は無限に思われた。少なくとも、涯《はて》しない鉄路が際限なく続き、昼が夜となり、夜はさらにゆっくりと昼に変わるのを体験しながら、彼はそう感じた。またスペインの高原を渡る時は寒かった――刺すような寒さであったし、好みの料理を探しても見当たらないし、汽車は汽車でひどく揺れるので、熟睡できない。しかしどんなことにも終わりはあって、月曜の一時半には、約一時間遅れて、汽車はついにポールトの中央駅に着いた。時間はたっぷりあったので、二人の旅行者はまっすぐにポールト・ホテルに行って、レーションエス行きの電車を探しに出る前に、しばらく休憩した。
けわしく起伏するドーロ河の堤の上に休んでいる、この絵のような旧世界の都市をフレンチはひどく気に入った。また、はるか下を流れている静かな河の上を、ほとんど六百フィートも一気にまたいでいるクモの巣のような高い鋼のアーチを持った平らなドム・ルエシュ橋が、馬のひずめ一つででも揺れ動くさまを不思議に思うのであった。それからけわしく傾斜した大通りをほとんど水ぎわまで下って行き、そこから二人は電車に乗って、流れの右岸に沿った道を走って海の方へと向かった。
こんなにはるかな所へ二人を連れて来た用件を忘れたかのように、彼らは強い興味をもって、沿道の見馴れない風物を眺めた。亜熱帯植物、長くて幅の狭い四輪の車を曳《ひ》く牛の一組、ドーロ河口を四分の三もふさいで残りの部分の洗流作用をよくしている島堤、それから、長く続く砂丘を通り過ぎて、ようやくレーションエスに来ると、立ち並ぶ家々の下に、二つの石の防波堤でかこまれた港が見え、、ありがたや、そこには碇泊中のイーノク号の姿が見えた。
肌の浅黒い船頭にかけあって、フレンチには一身代につきそうな駄賃を払い、十分後に二人はタラップをのぼって、ふたたびこの船の甲板に上がった。
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一九 フレンチ 謎を提出すること
もしデーヴィス船長が彼の部屋の扉のところにフレンチがふたたび現われたのを見て驚いたとしても、彼は感情をまったく見せなかった。
「いらっしゃい、警部」彼は静かに迎えた。「また乗られたのですか? 乗ったままでいらっしゃればよかったのですよ」彼はからかうように微笑した。「そんなふうに陸をグルッとおまわりになるより疲れないですんだでしょうし、おまけにずっと安くつきましたからな。犯人が見つかりましたか?」
「いや、見つからないのです、まだ」フレンチはゆっくり答えた。「しかし、まもなく見つけるつもりです。船長、本庁から電報がありまして、あの連中は結局まだ船に乗っている、というのです」
船長は厭な顔をした。
「警視庁が素晴らしく有能な組織であることには疑いはありませんよ」彼は真面目な顔をして言った。「が、私の船に誰が乗っているとか乗っていないとか、私に向かって教えるとなると――その、私の思うに、いささか行き過ぎになりますな。どういうところから、そんなことを言うのですか?」
「お話ししましょう。この船が土曜日にル・アーヴルを出てまもなく、私の所に電報が来まして、リヴァプールの刑事の一人のマッケー巡査部長が出帆までこの船を監視していたというのです。彼はやはり殺人の容疑で手配中の男を見張っていたのです――このヴェーンではなく、全然別の男です。彼はヴェーン夫婦が船に乗るのを見たのです。もちろん、あの二人も手配中だということには気がつかなかったのですが。しかし彼は少なくとも二人をよく注意して見ていたわけです。二人の身許について、本庁をついに動かしてしまったのですからね。マッケーは船が出帆するまで監視していたのですが、ヴェーン夫婦は上陸しなかったと述べています。私はマッケーを個人的にも知っていますが、彼はまことに用心深い正確な警察官です。こうした証言をしたのが彼であるなら、私は納得します。
ところで、あなたの部下は誰も二人が上陸しているところを見ておられないのですから、あなたとあなたの事務長には敬意を惜しまないのですが、やはり二人はこの船に乗っているのかもしれないと思うのです。電報には、結びに、ここかリスボンで船に追いついて、さらに捜査を続行せよ、と書いてあったのです」
「あなたはたしかにうまく追いつきました。しかし、追いつかれたからには、不謹慎でないならば聞かせていただきますが、次にどうなさるおつもりなのですか?」
フレンチはデーヴィス船長の協力を続けて得るためには、よほど気をつけて返事をしなければならないことを悟った。
「船長、じつはもうさんざんご面倒をかけたあげくなのですが、またご配慮をお願いしたいのです。汽車の中で考えていたことをお話ししましょう。議論上、本庁が正しいとして、二人がこの船に乗っているとしましょう。あなたが捜索されたことから見ても、二人は本名では乗ってはいないのですから、別人のようなふりをして乗っているに違いないのです。どうやら、本庁の連中もそう考えたらしいのです」
「それで?」
「ちょっと考えるとありそうにない仮定のようですが、じつはそうでもないのです。あの女は女優です。いや、女優なのでした。そして、すばらしく頭がいいのをわれわれは知っています。舞台に出ていたころ、よく思われていたばかりではなく、最近それ以上にむつかしいトリックを見事にやりおおせたのです。彼女はニューヨークからサウサンプトンまでオリンピック号で横断したのですが、船の中の人々に自分をイギリス人だと信じこませ、それからロンドンに行ってそっちの人々に自分をアメリカ人だと信じこませたのです。私は両方の場合の連中に会いましたが、――みな批判的な、見識のある、世馴《よな》れた人々なのですが――どちらの連中も、彼女がじつはそうではなかろうなどと言いますと、相手にしなかったのです。そういうことができるのですから、もう一つ別の変装もできるはずでしょう。あなたや事務長の疑惑を招く点は一つもないのですから、ごく簡単な変装でことは足りるのですし」
船長はかなりの関心をもって耳を傾けていたが、乱された感情は、まだ平静にはなっていなかった。
「それはたいそう結構な話でしょうが」彼は認めた。「しかし、あなたは切符という証拠をお考えに入れておられませんね。リヴァプールで百七十六名の乗客が乗船を申し込まれたのですが、大部分は何日も前に切符も受け取られ、寝台も予約されたのです。例外はありますが、それは全部男子です。百七十六名が乗船され、その中にはヴェーン夫妻もいました。しかしリヴァプールを出た時には、百七十四名しか乗っていなかったのです。私の申し上げる意味がおわかりでしょうね。ほかの乗っておられるお客さんは、全部数が合っているのですよ」
「それはわかります」フレンチはゆっくり認めた。「そして、あなたのおっしゃる通りなのでしょう。あなたのおっしゃることを反駁《はんばく》するのは、たしかにむつかしそうに見えるのです。それと同時に、私が本庁から受けた命令の手前、私は言われる通りにして、捜査を進めないわけにはいかないのです」
「当然です。が、どういうふうにです?」
「わからないのです。まだ、どういうふうにしていいかはっきりしないのです。一つだけ、私はこの船に乗っている女のお客にみな会ってみなければならないと思っています。変装をしているかもしれないので、それを見破るというだけの特別の目的で。それに失敗したら、私は捜査をあきらめるか、何かほかの方法をとることにします。どちらにせよ、リスボンまでは乗せて行っていただけるでしょうね?」
「いいですとも」般長は一時的な焦慮《しょうりょ》から恢復したらしかった。「何でもお力になれることがあったらおっしゃってください。私はあなたが無駄な追跡をしていらっしゃると思っているのを白状しますが、できるだけのご助力は惜しみませんから」
「すみませんね、船長。私が何を思おうと、要するに私は宮仕えの身なのです。今のところ、私がしたいのは、ただ事務長と船客名簿について雑談することなのですが」
「それは何でもなく手配できますよ」デーヴィス船長は答えながらベルを押した。
事務長はフレンチが来たところを見ていなかったので、彼が乗っているのを見てひどく驚いた。
「この船には幽霊が出るのではないかと思い始めますね」彼は握手しながら微笑した。「ヴェーン夫妻をわれわれはリヴァプールに置き去りにして来たのに、あなたはル・アーヴルで乗っているとおっしゃった。あなたをわれわれはル・アーヴルで置き去りにしました――私自身、あなたが埠頭にいらっしゃるのを見たのですよ――それなのに、レーションエスに来てみると、あなたは船に乗っておられる! リスボンでは、どんなお偉い人が乗っておられるのを発見するのでしょうかな」
「私はリスボンで四名が船を降りることを希望しているのですよ」フレンチが応酬した。「少し失礼に響きますが、私は故郷へ向かう船に乗り換えたいのですよ。部下のカーターとヴェーン夫婦を連れて、四人でね」
「何ですと? あなたはまだ二人が乗っているとお思いなのですか?」
「警部はまだ、そうお思いなんだぜ」船長が口を入れた。「そして、その件で君と話がなさりたいそうだ。君の部屋にご案内して、できるだけの協力をして差し上げたまえ」
「よござんす。いらっしゃいませんか、フレンチさん?」
ジェニングズ氏は敏腕な人には違いなかったが、愉快な、悠々とした態度だったので、彼の助言を求めに来る人の多くは、この人は普段はとても多忙なのだが、今はこうして急がずに身を入れて話を聞いていてくれる、と思ってしまうのであった。で、彼はフレンチの話を聞き終わると、名簿を出して、そこに載っている船客について説明ようと、腰をすえた。
「まず女の連中を当たりましょう」フレンチが提案した。「女の客は六十七名で、男の方はその倍くらいだとおっしゃいましたね。私はヴェーン夫人の資料を亭主のより詳しく握っているのです。さて、よろしかったら始めましょう」
事務長は指で表をさしていった。
「第一はアクフィールド嬢です」彼は説明した。「年は五十と六十の間ぐらいだと思います。いつでもお会いになれますが、私の意見では、この人は見かけ以外の人物ではまずあり得ないのです」
フレンチは特徴を調べた。
「なるほど」彼は言った。「お次をどうぞ」
「次はボンド嬢です。この婦人も相当の年輩ですが、少なくとも四インチは背が高いので、あなたがお捜しのお友達ではあり得ませんね」
「けっこうです」
「それから、その次はブレント夫人です。この人は若い婦人です。ご主人も乗っておられまして、明らかに新婚です。若すぎますな」
二人は表を上から下へと進んでいき、そうでなさそうなのは仮に消すことにした。コクス夫人は背が高すぎるし、タフィールド嬢は低すぎるし、イーグルフィールド夫人は太りすぎているし、フェントン嬢は痩《や》せすぎている、等々といった具合である。最後に二人は数を十人にまで減らしたが、フレンチはそのどれも、決して有望ではないのを認めざるを得なかった。
じつは最初に彼の興味をひいた一組があった。ペレイラ・ダ・シルヴァ氏という男と娘のマリヤ・ダ・シルヴァ嬢で、この二人はほとんどずっと船室にこもりっきりで、陽気な遊びにはいっこう顔を出さないのであった。ダ・シルヴァ氏は七十を越した人物であるとジェニングズ氏は思っていた。病人で、船に乗る時も痛々しいほどの骨折りで、ステッキと娘の腕にすがっている始末であった。ほとんど寝たっきりで、ダ・シルヴァ嬢は終始看護につとめ、ほかの同様の娘たちが甲板や社交室に出て他の船客と一緒に遊んでいる間も、本を読んで聞かせたり、相手をしていたりしていた。二人は食事も一緒で、その婦人は甲板に出たり、時に社交室に坐っていたりする時には人づきあいもいいが、めったに人前には出ない。これは逃亡者のよく使う手だ、とフレンチは思ったし、またダ・シルヴァ嬢の風貌がヴェーン夫人とまったく似ていないので、逆に彼の猜疑心を強めたのだった。しかしすぐにジェニングズ氏が彼の意味ない仮説を崩してしまった。ダ・シルヴァ親子は見るからにブラジル人なのであった。二人は、というよりは、親父は弱り切っていて、切符の用事すら自分では果たせなかったくらいだから、むしろ娘だけの問題だが、ポルトガル語が流暢で、しかも生まれつきのポルトガル人が使うポルトガル語だった。で、英語の方はまことにブロークンで、しかもポルトガル人しか使わないようなブロークンなのである。おまけに、彼女は見たところもいかにもポルトガル人らしい。彼らはリオの住人で――そうジェニングズ氏は察していた――ダ・シルヴァ氏の弟でロンドンで商業を営んでいる人に会うためにイギリスを訪ねたのである。二人は別の親類が住んでいるパラまでの切符を買っていて、そこからリオに帰るのであろう。彼らが切符を買って寝室を予定したのはヴェーン夫妻よりいくらか前であった。
フレンチは失望した。彼は山をかけてリスボンまでの切符を申し込んだが、乗客に見られるとまずいので、船室に閉じこもって、カーター巡査部長をボートに行ける梯子《はしご》のそばに残しておいた。
開けた舷窓のそばに坐ってタバコを吸いながら、彼はこの問題を解く方法がないものかと、さんざん頭をひねっていたが、ふとしたことで事務長のもらした言葉から一つのアイデアが生まれた。船が港の大きな防波堤の間を抜けて、深い悠然たる大西洋の中に鼻をつきこみ始めた後で、事務長が部屋にやって来て、こう言ったのだった。「変装といえば、あなたが変装して今夜サロンに来られないのは残念ですね、フレンチさん。この航海で最初の素人演芸会をしますので、婦人客をご覧になりたければ、その機会があるのですがね」
「それはいい案ですな」フレンチはその時に答えた。「私をどこかに隠しておくことはできませんか、たとえば、来る人が必ず通らなければならないサロンの扉の近くなどですね。そうすれば、前を通る婦人の顔が見えますからね」
ジェニングズ氏はそういうこともできるだろうと思ったので、何とかしてみると答えた。それから、彼が帰りかけた時、いい案がフレンチの頭に浮かんだので、彼は呼び戻した。
「今の件はしばらくお考えにならないでおいてください、ジェニングズさん、あと三十分ほどしてまた来ていただけますか? そのころには、何かお願いすることができましょうから」
ジェニングズ氏は奇妙なことを言う人だと彼の顔を見たが、口では「いいですよ!」とだけ言って仕事に戻っていった。三十分して彼がまたやって来たので、フレンチは熱心な口調で言った。
「あのね、ジェニングズさん、一つ、一生のお願いがあるんですが、聞いてくださいませんか。じつはこういうことです。まず、音楽会の始まる前に私を社交室にこっそり入れていただきたいのです。誰にも見られないようにです。入って来る人たちが、実際に中へ入ってしまうまで見えないような所に、私は坐っていたいのです。そういうことができるでしょうか」
「ええ、できると思いますよ。何とかして差し上げましょう。あなたの意図は、その婦人が急に意外な場所であなたを見れば、あわてて正体を自分で洩らすだろう、というのですね?」
「その通りですが、ほかにもまだあるのですよ、ジェニングズさん。その計略は彼女が私の顔を知っている場合にだけ有効なのですが、私は知ってはいまいと思うのです。私はこれを出題の一つとして、誰かに読んでもらいたいのですが、あなた、読んでくださいますか?」
彼は半時間待っている間に何ごとか書きつけた一枚の紙を渡した。文はこうなっていた。
「この謎の一番うまい解答をお寄せの方にチョコレート五ポンドの箱を差し上げます。
喜劇でウィンター、
オリンピックでウォード、
サヴォイでルートで、
クルーでヴェーンなら、
イーノクでは、なあに?」
ジェニングズ氏は何となく煙に巻かれたように見えた。
「意味がよくわからないんですが」彼は言った。
「女の変名と、それを使った場所なのですよ」
賞讃に似た色が事務長の眼に現われた。
「何とねえ! 相当な名案ですな! もしその女が何も気がつかずに来たとしたら、それを聞けばたちまち尻尾《しっぽ》を出しますな。でも、どうしてあなたはご自分で読まないのですか?」
「彼女が外へ出る気配を見せたら、私は先に出て待伏せしたいからです。もし出るなら、それは彼女の亭主がそこにいないということになりますから、彼に警告できないうちに彼女を捕えたいのです。カーターも同じ仕事をします」
「お望みなら私が読みますが、できれば誰かほかの人にさせていただきたいですね」
「デーヴィス船長はどうです?」
ジェニングズ氏はあたりを見まわしてから声をひそめた。
「悪いことは言いませんから、オヤジはこの件には一切入れない方がいいですよ。承知しないかもしれないです。船客を自分のお客として扱う人ですから、そういうふうにペテンにかけるのを喜ばないかもしれません」
「でもペテンにかけるのではないのですよ」フレンチは眼を光らせながら応酬した。彼は一ポンド紙幣をポケットから出して渡した。「チョコレート代です。一番うまい答えを出した人が取るのです。完全に正直な公明正大な話なんです。これであの女が捕まえられようと、捕まえられまいと、ほかの人は知る必要はないのです」
事務長は微笑したが、疑わしげに頭を振った。
「でも、あなたの責任ですよ。とにかく、私はやると言いましたから、ちゃんとやります」
「頼みます!」フレンチはふたたび温かい、楽しそうな本性に戻った。「ところで、もしこれが失敗したら、もう一つ手があるのです。ヴェーン夫人が船室から出ないかもしれません。出席している婦人連の名前を調べて、出席していない者の名を控えて私にまわしてくださいませんか。私は部屋をまわって、何とか口実をもうけて一人一人に会ってみますから」
事務長はこの件も引き受けた。「何か夕食をここに運ばせましょう。大急ぎで」部屋を出て行きながら彼はつけ加えた。「そして、お客が食堂に出ている間にあなたを呼びに来ることにします。そしてうまく社交室にかくまうことにね」
「カーターをここに呼んでくださいませんか。二人で食べながら私が案を説明してやりますから」
ジェニングズ氏が行ってしまうと、フレンチは舷窓の前に立って、寄せ始めた波を見つめた。太陽はすっかり没してしまったが、空は晴れていて、満月が皓々《こうこう》と冴えていた。海は荒涼たる黒玉の原のように見え、はるか向こうには大きな光の道が走り、その端は無数の白銀の輝きのようなものを帯びている。彼の船室は左舷で、約三マイル向こうに、岸の絶壁に打ち当たる白い波頭がおぼろげに見えた。海は怖ろしく冷たそうに見えたので、思わず彼が身ぶるいした時、扉が開いて巡査部長カーターが入って来た。
「ああ、カーター。ジェニングズ氏が何か夕食を持って来てくださるそうだ。一緒に食べよう。今夜は仕事があるんだぜ」と言って、彼は計画を説明し、部下が演ずべき役割を教えた。カーターが言った。「はい」
何を言われても、必ずこう返事をする男ではあったが、彼が興奮しているのはフレンチにもわかった。
八時少し前に、ジェニングズ氏が現われ、共謀者たちについて来いと手招きした。一同は急ぎ足で甲板を横切り、廊下をいくつか通り抜けて、誰にも見られずに社交室に入った。見ると、扉のすぐそばに事務長が肱かけ椅子を二つ置いてくれていて、衝立《ついたて》をおいて外からは見えないようにしてある。フレンチの椅子からは、入って来る人の顔は残らず見え、カーターの椅子からは、フレンチの所からは見えない客席が、一目で見渡せるようになっていた。
音楽会は八時半ということになっていたが、定刻にならないうちに三々五々と客は集まって来た。フレンチは小説本を膝の上に開き、入って来る男ないしは女の客を、目立たないように眺めていた。一度、彼の顔に熱心さが増したように見えた。それは皮膚の浅黒い、太り肉《じし》の婦人が二人の男と一緒に入って来た時のことであった。この女が何となく例の写真に似ているように彼には見えたが、彼女の外国人らしい身振りや、早口にしゃべる何国語だかを聞いているうちに、これが自分の求める女ではあり得ないという確信ができあがった。彼は通りがかりの給仕を呼んで、彼の口から、あれがかつて一度は疑って、心の中で無罪と決めたダ・シルヴァ嬢であるのを知った。
時がたつにつれ、社交室は次第に一杯になったが、怪しいと思われるような女は誰一人として現われなかった。定刻になって、音楽会は、健康のためにマデイラに旅行しようとしている有名なピアニストが弾く小曲で始められた。
フレンチは音楽好きではなかったが、もし好きであったとしても、番組にはほとんど何の注意も払わなかったに違いない。ひそかに周囲の男女の顔を眺めるので多忙をきわめていたのだ。彼はおぼろげながら気がついていた。この有名なピアニストが見事な、そして高度に器用な手の動きをもって自分の演奏を終えたあと、二人の婦人が――三人だったかな――歌い、それから深い声のバス歌手が何かスコットランドの歌らしい曲を一つ歌った。もの静かな、どちらかと言えば器量よしの女の子が、何か愉快な節まわしのヴァイオリン曲を奏した。この時、彼の注意は急に電気にでも打たれたかのように活気を帯び、やがて起ころうとしていることに対して、期待をこめた興奮と共に集中された。ジェニングズ氏が演壇に上がったのである。
「皆様」事務長はいつもの快活な口調で言った。「謎々《なぞなぞ》の時代はもう過ぎてしまったというのは、おそらく本当でありましょうが、そして、また演奏会の中途というのはたしかに謎々をかけるのに適した時でもないのでございますが、しかし、お許しを願いまして、謎々を一つかけさせていただきます。それはこの航海に関する時事問題を扱った謎々でして、こちらにお見えの、ある一人の方の出題であり、一番上手な解答をお出しになった方に、このチョコレートの大箱を賞品としてご提供になっているのでございます。謎々を読みますが、考えてみようというご希望の方々には写しを差し上げます。
『喜劇でウィンター、オリンピックでウォード、サヴォイでルートで、クルーでヴェーンなら、イーノクでは、なあに?』です」
聴衆は機嫌よく耳を傾け、ジェニングズ氏は一瞬間は身動きもせずに、まだ楽しそうに微笑しながら立っていた。番組の間に必ず起こる低いガヤガヤという会話はまだ始まっていなかったので、聞こえるものは、かすかな、いつも聞こえるエンジンのつぶやきだけで、ゆるやかに揺れている社交室の雰囲気はこの瞬間はしんとしていた。やがて、沈黙を破って、強くはなかったが予期しない音が聞こえた。ダ・シルヴァ嬢のハンドバッグが膝からすべり落ちて、金具が寄木細工の床に当たって、鋭い音を立てたのである。
フレンチはにわかに全身を通り抜けた戦慄《せんりつ》とともに彼女の顔を見やった。彼女の顔色は黄味を帯びた奇妙な赤褐色になっていて、脇に垂らした手は固く握りしめられ、節《ふし》は同じような土気《つちけ》を帯びた褐色になっている。ハンドバッグが落ちたのにも気づかない様子で、一方をキッと見つめている眼にはものすごい恐怖の影が宿っていた。フレンチのほかは誰も彼女の心の動揺に気がつかないらしかったが、隣の男が身体をかがめてそのハンドバッグを拾った。それと同時に、頑丈な軍人らしい老紳士が、「ハハ!」とか「何とね!」などと叫んで、この沈黙を破り、一同にこの謎々を解き始めるように勧めたので、みなは互いにしゃべり始めた。ダ・シルヴァ嬢は静かに立って、やや不確かな足どりで扉の方へ行った。
フレンチが立ち上がって彼女のために扉を開けてやったのは、一つの普通の礼儀の行為であった。ちょっと頭を下げて、彼女の通る間おさえていたが、通ってしまうと自分も外に出て、扉を閉めた。
階段に向かう通路には彼ら二人しかいなかった。そして、鋭く彼女の顔を見やった彼は、もう何の疑惑も感じていなかった。器用に髪や眉を変え、それからおそらくは義歯もはめかえ、皮膚の色を浅黒くし、眼鏡で眼つきを変えているのであろうが、彼の前に立っているのは例の写真の主《ぬし》なのである。彼は腕を押さえた。
「ウィンター嬢」彼はおごそかに告げた。「私はロンドン警視庁のフレンチ警部です。去る十一月二十五日に起こったチャールズ・ゲシンの殺害とデューク・アンド・ピーボディ商会の宝石と現金の窃盗に関係した嫌疑であなたを逮捕します」
女は答えずに、電光のように、自由な腕を口に持っていった。フレンチはやにわにそれをつかんだ。女はゴクリと飲み込み、それと同時によろめいた。フレンチは額《ひたい》に玉の汗をうかべ、震えながら、静かに女を床におろした。女は正体もなくそのまま動かなかった。彼は大急ぎで社交室に戻って、先刻見た船医の坐っている所へ静かに近寄ると、耳うちをした。同時にカーター巡査部長が立ち上がった。数秒後には二人の警官は困惑した顔で下を見ていた。サンディフォード医師は床の上の動かない女のそばに片膝をついた。
「なんと!」すぐに彼は声をあげた。「死んでいます!」彼の鼻を女の唇の方へ持っていった。「青酸だ!」彼は恐怖と驚きの混ざった表情で仲間を見上げた。
「そうです。自殺したのです」フレンチが簡単に言った。「誰も来ないうちに私の部屋に運んでください」
事情を知らない船医はにわかに猜疑《さいぎ》の眼を彼に向けたが、フレンチが手短かに説明すると、うなずいた。それで三人は動かない体をかついで、警部の部屋のソファの上に安置した。
「検死がすんだら、船長に話してください」フレンチが言った。「カーターと私はこれから、この哀れな女の亭主を逮捕に行かなければならないのです。おすみになったら、彼の船室を教えてください」
検死は数秒でこと足りたので、医者は黙って先頭に立って、上甲板の一室に通じる道を歩きだした。フレンチはノックしたとたんにドアを開け、二人を従えて中に踏み込んだ。
それは大きな広々とした一等船室で、居間風に家具が入れてあり、開いた扉の向こうに寝室が見える。部屋は居心地がよさそうで、使われていた様子が見えた。本や新聞が方々にあり、将棋が一箱とカードが一組、ロッカーの上にあって、長椅子の上には女の編物道具が置いてあった。テーブルの上には空のコーヒーカップが一つ置かれ、上等の葉巻の匂いが空気を強く染めていた。
電灯の下の安楽椅子に、部屋着とスリッパ姿の老紳士が腰かけて、片手には葉巻、片手には本を持っている。背の高い男らしく、長い髪は真っ白であった。長い白いひげを口からあごに生やし、眉は白々と濃かった。彼は驚いて侵入者を眺め、まことにうるさそうな顔をした。
しかし、眼がフレンチの顔に注がれると、表情が変わった。驚愕《きょうがく》、懐疑、それから次第に増してくる恐怖が、急速にひらめいた。フレンチは進み寄ったが、彼は身動きもしないで、なおも来訪者の顔を見つめたまま、蛇《へび》に魅入られた動物のような怖ろしい緊張を眼に浮かべている。この時、今度はフレンチの方が見つめ始めた。この眼には、何か見馴れた感じがある。めったにないくろずんだ青い眼で、たしかに見覚えがある。それから痣《あざ》がある。左の眼尻の下に小さい褐色の痣があるが、これはそう久しい以前に見たものではない。こうして、かなりの時間、お互いに睫毛《まつげ》一本動かさずに、二人は見つめ合った。
とつじょ、フレンチはこの色の瞳とあの痣《あざ》を見た場所を思い出した。驚きのあまり、奇妙な声でつぶやきながら、彼は進み出た。「デュークさん!」彼は叫んだ。
怒りの唸《うな》り声とともに、相手は夢中でポケットを探った。電光石火、フレンチとカーターが躍りかかって、なかば口まで行った腕をつかまえた。指の間には、小さい白い丸薬があった。次の一秒で手錠がかけられ、フレンチの馴れた指が彼の着ている物を探り、ポケットから、小さくて白い≪死の使者≫がもう幾粒か入っている小瓶を抜き出した。同じ瞬間に、デーヴィス船長が扉の所に現われた。
「扉を閉めてください、船長、すみませんが」フレンチが頼んだ。「結局、本庁の言う通りだったのです。この男です」
二言三言の説明で船長は事実をのみ込んだ。それからフレンチは穏やかな、そして心からの親切な口調でウィンター嬢の死んだニュースを不幸な捕虜に伝えた。しかし、その男が表現したのは安堵《あんど》だけであった。
「ありがたい!」彼は明らかに感激に打たれた口調で叫んだ。「彼女の方が私より早かった。ありがたいことに彼女は間に合った。彼女さえ免《まぬが》れたのなら、私はもうどうなろうとかまわない。娘のことさえなければ」――声が崩れた――「私は万事が終わったのが嬉しい。私はこの何ヵ月か、地獄の責苦を受けました。どこへ眼をやっても、ゲシンの眼が私を見つめているのです。地獄の責苦でした、本当の地獄でした! 私は一番憎い敵でも、この私の苦しみにおとそうとは思いません。私は何もかも自白します。私の願いは、ただ早く手続きをおとりいただいて、早く終わりにしたいだけなのです」
この場があまりにも早く演じ終えられたので、フレンチは最初に愕然としたとき以来、何も考える時間がなかったが、こうして急場の用事がひとまず片づくと、この驚くべき終局の不思議がますます強く感じられたのであった。彼はほとんど超自然な世界を覗いたような気持になり、自分が現に居合わせて、死からよみがえった者の一部始終を見ていたかのような感じを抱いたのだ。彼の知るデューク氏は既に自殺をとげていた。少なくとも二、三分前までは、彼はそう確信していたのだ。あの死の証言、オランダの警察部長からの電報や娘への遺書は絶対的だった。それなのに――いつわりだったのだ! どんなトリックをこの男はやってのけたのだろうか? ハーウィジからフックまでの不思議な航海中の出来事で、関係者一同を完全に欺《あざむ》いたのだが、どういうふうにあれをやったのだったろうか? あのやり方を知るまでは、とうてい我慢できないと感じた。考えれば考えるほど、彼は早く本庁に帰りたくなった。もう一度検討し直して、曖昧《あいまい》なまま残っているこの事件のすべての局面をすっかり解明してみたい。
次の日の午後、船はリスボンから少し離れたテージョ河口に碇泊した。ここでフレンチは囚人と一緒に故国へ向かう汽船に移った。三日目の朝リヴァプールに着き、その晩ロンドンに着いた。
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二十 結末
殺人者がわかってしまった今では、フレンチ警部としてはチャールズ・ゲシン殺しとダイヤモンドの窃盗の詳細を明らかにするのにはあまり時間もかからなかった。彼はその正しい全貌を順序よく整理することができた。そして彼は、以前から何度も経験したと同じように、複雑で不可解な事件のように見えたこれも、じつはごく単純な事件にすぎなかったことを知った。新しい捜査の結果と、デューク氏の自白によるものとを合わせて、手短かに述べると、次の通りになる。
レジナルド・エインズリー・デュークは幸福な満ち足りた人生を送っていたが、突然ひどい災難におそわれた。細君の頭が変になって、身体はしごく丈夫なまま、危険で不治の精神病患者として病院に移されてしまった。熱烈に愛したというのではなかったが、真面目に夫婦として暮らしていたので、しばらくの間、彼はこの打撃にひとかたならず挫《くじ》けてしまった。しかし彼の場合も、他の人の場合と同じく、時がたつにつれて悲嘆の鋭さが和らぎ、この辛かった期間は、厭ではあるが、次第に色の薄くなる悪夢と化した。このころ彼はシシー・ウィンター嬢が喜劇座に出演するのを観て、慕わしくなり、会合を取り決めた。相手も憎からず思っているらしく、重ねて会っているうちに、彼は猛烈な恋に陥ってしまった。それが、天にも登る気持になったのは、彼の熱情が酬《むく》いられたからであった。
二人の難問は、ありふれた例の問題であった。結婚できないのはわかっているから、考えたあげく、こうした場合たいていの人々がするのと同じことをした――内縁の家庭を持ったのである。問題はデュークの娘であった。彼女さえいなかったら、二人はこの状態を隠すような苦労もしなかったに違いない。だが、デューク氏は彼女に汚名を着せたくなかったので、ウィンター嬢の承諾を得て、二重生活をしながら二軒の家庭を持つことに決めたのである。簡単な変装が必要だったので、彼はヴァンデルケンプを見本にした。一つにはこの外交員がほぼ背丈も格好も彼と同じだったし、一つには事務所から帰りに第二の家に入るところを見られても、ヴァンデルケンプと見間違えられるだろうからであった。女優が先生のこととて、髪と偽《にせ》ひげと眼鏡をもちい、自分のまっすぐな姿勢をヴァンデルケンプの猫背にかえて、上手な変装を考え出した。デュークとして暮らす時は元のままの自分でいて、変装した時にはヴェーンと名乗った。計画はまことにうまく運び、誰にも疑われずに二人は暮らしていった。娘に向かっては、家を空けるのはアムステルダム支店に始終行かなければならないのだと言い、ペニントン――クルー荘に移る前の家――の雇い人たちには、ある工業会社の外交をしていると思わせた。
万事は好都合にいっていたが、戦争以来、商売が思わしくなくなって来て、二軒の家を持つのが堪えられない負担になって来た。一時は無理をして通したが、悪性の誘惑が頭に去来するようになって、困難が増せば増すほどそれは強くなるのであった。
このころ、彼はほとんど会社の全権を握っていた。出資者たちはみな、商売に身を入れなかった。ピーボディは年を取って老いぼれてしまい、シナモンドは金のあるにまかせて旅行ばかりして暮らしていた。数字を少々ごまかしたり、帳簿を少し書き変えたりすれば、欲しい金は楽に手に入る。彼は一生懸命に戦ったが、戦ううちにも、さらに巧くいきそうな――絶対に安全だと思われるような――案が頭に浮かぶ始末で、ついには彼は負けてしまった。計画は予想通りにいって、財政的困難はうまく切り抜けられ、彼は万事うまくいくに違いないとほくそ笑《え》んでいた。
しかしさすがの彼も考えていなかったことが一つあった。それは、ひとたび詐欺や泥棒を始めれば、好きな時にフッツリやめられるものではない、ということなのだ。まもなく彼が発見したのは、一つの改ざんはその穴を埋めるための次の操作を必要とするので、随分努力したものの、ますます深みにはまり込んで行ったのだ。やがて、予期しなかったことだが、のがれられない破局が来た。支配人のチャールズ・ゲシンが怪しみ始めたのである。彼は調べ上げ、自分の疑惑を確かめ、性来の率直さから、この発見を主人に告げ、義務としてこれを他の出資者に話さなければならないと断言したのである。
デュークは破局を悟ったが、ずぶとくゲシンの間違いだと主張し、アムステルダム支店から差額を持って来るから、しばらく待てば必ず帳簿がキチンとなっている、その説明と証拠を見せるから、と言って一時の言い逃れをしたのだった。彼はその晩、事務所を出てクルー荘に行き、ウィンター嬢にすべてを打ちあけた。機敏なこの女性は、内縁関係にすぎないのを隠すために、便宜上、結婚指環をはめていたのだが、これは結婚の偽装とは別の問題だと見てとった。この事態がばれれば、恋人は牢へ行かなければならなくなるし、自分は破滅となる。すぐさま彼女は決心して、これが暴露されない手段を講じることにした。
あらゆる知慧をしぼったあげく、また骨を折ってデュークを説きふせたあげくに、二人は自分たちの身の安全を守る計画を立てるために相談した。ウィンター嬢が計画を立案した。デュークは実行力には富んでいたが、頭の冴えた方ではなかったからだ。そして、細かい点を取り決めた。要するに、でき上がった計画というのは、事務所が盗難にあったように見せかけ、ゲシンを殺し、できるだけたくさんの石を手に入れ、どこか遠い安全な所へ行ってしまおう、というのであった。
ウィンター嬢はブラジルとアメリカについて、とてもよく知っていた。父親はイギリス人であったが、若い時に会社の支店長としてリオに遣《や》られ、そこに住みついてしまって、ポルトガル系の妻をめとり、ブラジルの首府を故郷にしてしまった。娘は演劇の才能があり、まだ十代に両親を失うと、リオの舞台で売り出すことに成功した。五年後、彼女の芝居を見た冒険心に富む、ブラジルを訪問中のニューヨークの支配人が契約を申し出たので彼女は受諾した。それからまた二年後、彼女はロンドンに来て、そこで前に述べた通り、デューク氏と知り会ったのであった。
このブラジルとアメリカの知識が彼女の陰謀の基礎になった。ブラジルという国は犯罪の後で引きこもるには理想的な国だというので、二人はまずそこへ逃亡する策を立てた。近隣ではヴェーン夫妻としてよく知られていたから、二人がブラジル行きの旅券を貰うために必要な証明書や推薦状を貰うには苦労は要らなかった。旅券を貰うと、デュークはダ・シルヴァ夫妻という名儀の、各種の証明書を偽造し、ウィンター嬢の演芸的知識のお蔭で、うまく変装して、同じ事務所に二度目の申請をして、今度は偽名の旅券を二枚獲得した。こうして二人はヴェーンという名のと、ダ・シルヴァという名のと、二組のブラジル行きの旅券を手に入れたのである。
次の仕事は犯罪の直後に、まとまった現金を手に入れることで、ブラジル行きの切符を買うためにも、また今後必要になるに決まっているさまざまの雑費にも当てなければならない。この目的で、ヴェーン夫人のニューヨーク行きが計画された。彼女は一つのコースであちらに行き、またすぐ別のコースで帰って来るのだ。帰りの航海中に、彼女は船客をよく注意して、自分が変装するのに一番適している人物を選び出す。この女に近づき、この女についてできるだけのことを調べあげ、詐欺に必要な資料をできるだけたくさん得ておく。サウサンプトンに着くとすぐ、相手とは駅で別れてしまって、必要な変装をした上で、その新しい人物としてロンドンに行き、相手に出会う気遣いのないホテルに投宿する。次の日、女は金融業者ウィリアムズと会う。ここまでの計画がうまくいったなら、自動電話からデュークに電話をかけ、彼は自分の役割を始めることになる。最後に彼女は次の晩の九時四十五分にホルボン地下鉄駅の非常階段で彼と会い、ウィリアムズの所へ持って行く宝石を貰う。
一方、デュークはゲシンをなだめるために、表面は食い違っている個所を詳しく説明すると約束し、その証明になる現金も、ある手紙がアメリカから着き次第、必ず耳をそろえて見せると言っておく。また、彼は力の及ぶかぎりたくさんの石を集めておかなければならない。その上で、例の晩に、ゲシンに事務所で会ってくれるように頼む。そこで全部の件を説明し、万事が異状ない証拠を見せるから、と言って。――それはウィリアムズ氏とウィンター嬢が最初の会見をすませた晩のことである。
こうしてゲシンを陥穽《かんせい》に入れてから、彼を殺し、ダイヤモンドと、また一緒に金庫に入れてある現金を出し、石のいくつかをウィリアムズ氏に渡すためにウィンター嬢に手渡し、できるだけ早く残りの石を持って家へ帰ってしまう。
この陰謀は二人の眼にはしごく完全に見えたのだが、二人はまだ満足しないで、何か疑惑を持たれた場合にも身を守ろうと、三つの狙いを追加して考えた。
その第一はデューク氏のアリバイである。彼はその晩は弁護士とクラブで食事をする手配にしておいて、前もって決めておいた時間に出る。適当な言葉を弁護士やクラブの給仕に言って、この時間を相手に覚えさせておき、また同様の手段で、家に帰って時刻を雇い人たちに確認させる。その間隔は歩いて帰るに充分なようにしておいて、警察に調べられた時には、かくかくの次第とそれを申し立てる。しかし実際には、クラブの近所から事務所の近所まではタクシーを飛ばし、殺してしまってからは、ハムステッドまで地下鉄で帰る。
第一の防衛手段は懐疑をヴァンデルケンプに向けるように計画された。これを実行するため、デュークは自分で秘密の指令をタイプして、あの外交員をロンドンに呼び寄せ、自分はゲシンに言いつけて、ヴァンデルケンプがロンドンに来たところを会わせ、大陸に無駄な旅行をさせ、銀行が番号を控えているに違いないと信ずべき紙幣の何枚かを渡させておいて、後であれは絶対に金庫から盗まれたものだと力説する。
犯行後の事情は、陰謀者たちの観点からいって、まことに都合よくいったので、最初は二人は第三の防禦《ぼうぎょ》手段を使わなかった。事実、二人はブラジルに引きこむことの必要すら認めず、前通りロンドンで暮らせることと考えていた。しかし、偶然にフレンチ警部がデュークに向かって、神出鬼没の例のX夫人がシシー・ウィンター嬢であるのを発見したと話したので、彼らのカードの家が崩壊しかけているのを知って、すぐさま逃亡しなければならないと悟った。デュークはクルー荘に行くのは危険だと考え、前から打ち合わせてあった暗号で警告を書いた。しかし、しばしば人間の生活や計画をくつがえす運命の悪戯《いたずら》から、彼がそれを投函したすぐ後で、犯人たちはある地下鉄の駅で会ってしまった。二人きりになるまでぶらついたあげく、デュークは先刻聞いたニュースを口頭で伝えた。それからウィンター嬢は二人の没落の端緒になった逃亡を行ったのであった――が、彼女はデュークが郵送したと伝えた暗号手紙のことを忘れてしまい、その手紙が警察の手に陥《おち》ることになってしまったのである。
デュークはそれから彼の第三の防衛手段の実行にかかった――彼の失踪の辻つまをあわせるための自殺の偽装である。彼はあらかじめ注意深く計画しておいたトリックによって巧くやった。それは、疑惑を持たれた場合には、ブース汽船でも使って警察をまくつもりでいたのである。デューク本人として、彼はクック旅行会社からハーウィジ経由のロンドンとアムステルダム間の往復切符を買い、その晩の寝台を予約し、係員に自分の身許をよく印象づけておいた。それから彼はリヴァプール通りに行って、ヴェーンとして、同じ線のロンドンとブリュッセル間の往復切符を買った。デュークとして、彼はアムステルダムによく行く時に使う旅券を持っていた。ヴェーンとしては、十八ヵ月も前からオランダとベルギー向けの旅券を持っていた。これは彼とウィンター嬢が短い休暇旅行で行った時に手に入れてあったものである。
デュークとして、彼は臨港列車に乗ってハーウィジに行ったが、一番先に船に行けるような客車を選んでおいた。事務所に切符を提出し、上陸切符を受け取り、船室に案内された。そこで荷物を取り出し、娘に宛てた手紙を残した。それから、ヴェーンに変装して、人目につかないように船室から外に出て、列車から来た最後のグルーブに混じって、第二の切符を出して、ヴェーンとして予約しておいた部屋に案内された。次の日、彼はヴェーンとして上陸し、船内にはデュークの死に対する反論できない証拠を残したのである。
ロッテルダムで、彼はハル経由の往復切符を買い、リーズヘ行って、ヴィクトリー・ホテルにイーノク号の出帆の日まで泊まっていた。彼とウィンター嬢はリーズとリヴァプール間の列車のなかで落ち合い、船に乗って、デュークが自殺を装う時に使ったのと同じ手を使って、どんな尾行の刑事でもまいてしまおうと企てた。二人は切符を二組持っていた――一組はクックで買ったマナオス行きで、ヴェーン名義。もう一つはブース汽船の事務所で買ったパラ行きで、ダ・シルヴァ名義のものである。二人はどちらの場合も船室を予約して、係員に自分たちをよく覚えさせるようにした。彼らはおまけに、大きいのと小さいのと二組の鞄を持っていた。小さい方には着物とダイヤモンドを入れ、「ダ・シルヴァ」というラベルをつけ、大きい方には「ヴェーン」とつけた。それから、「ダ・シルヴァ」のラベルのついたスーツケースを「ヴェーン」のスーツケースの中に入れ、ヴェーンとして乗船して、予約通りの船室に案内された。ヴェーン夫妻として二人は事務長の所へふたたび現われ、ちょっと陸にあがると告げた。二人は舷門の方角めがけて甲板に上がって行ったが、横切らないで、また元の船室にとってかえし、ダ・シルヴァの変装をすませてから、小さい「ダ・シルヴァ」用のスーツケースを出し、人に見られないように船室から抜け出し、いましがた乗船したような顔をして事務長の前にふたたび現われたのである。
陰謀は、全体としては、計画通りにいった――ウィンター嬢が、配達を待って暗号手紙を破棄するのを怠った以外は――が、主役たちは知るよしもなかったが、偶然のことから、ほとんど挫折に瀕したのだ。娘のシルヴィアと婚約者ハリントンが犯罪の夜、イースト・エンドからタクシーで家路をたどっている時、二人はデューク氏がハットン・ガーデンから出て、ホルボンヘと曲がったのを見てしまったのである。彼は気づかわしそうな顔つきで大急ぎで歩いていたのであったが、いつものまっすぐな、悠々たる態度とはまったく違ったもの腰であった。菓子屋の店から射す、明るい光線に照らされた彼の様子や顔つきには、何となく人目を忍ぶ色があり、ひどくゆがみ、またやつれて見えた。何か悪いニュースでもあったのかと気づかって、シルヴィアはタクシーを停め、急いで彼のあとを追った。しかし彼女が歩道に達しないうちに、彼は行方をくらましてしまった。しかし、彼女は別に深く気にもとめないでいたところ、次の朝の食事の時に、彼が娘に事件のことを語った。この時ですら、彼女は彼を疑う気持は少しもなかった。事実、あの出来事を彼女は忘れてしまっていたのだったが、彼がわざわざ、さりげない口調で、一晩ずっとクラブにいて、そこから直接家に歩いて帰ったと言ったので、急に思い出したのである。彼が嘘をついているのを彼女は悟った。疑わないわけにはいかない。ハリントンの口から、何か父親が警察に目をつけられてしまうことになるかもしれない話が洩れるとまずい、と思うと、絶望的になって、彼女は電話をかけ、すぐさま落ち合って、色々な可能性について彼に知らせたのであった。
その午後、ハリントンは事務所での成り行きを話したとき、彼女は事態が解決するまで式をのばすことに同意させてしまった。しかし、フレンチが彼女とハリントンが犯人を知っていると疑っていると聞いて、式をのばすのは彼の捜査に線を教えるようなものだと考え、これを避けるために、式の日取りがふたたび決まったとしゃべったのであった。可哀想に、警察が父親を逮捕に来たらどうしようかと、半狂乱になってしまったのだが、彼女にとってはしあわせにも、そうした事態にならずにすんだ。
あとは、もう語るべきこととては少ない。何週間かたって、レジナルド・エインズリー・デュークは罪に対する最高の罰を受けた。娘は三度目の正直でスタンリー・ハリントンとの式の日取りを決めたが、イギリスやロンドンにはひどい記憶があるからいやだとばかり、彼とともに幸せを求めて、彼の弟のやっている南カリフォルニアの牧場に行ってしまった。デューク・アンド・ピーボディ商会は難関を切り抜けた。生き残っている出資者たちは決算のつど、ゲシン家の残された姉妹のことを忘れないでいる。(完)
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解説
フリーマン・ウィルス・クロフツの作品は「樽」や「クロイドン発12時30分」で、おおかたの読者にとっては親しみ深いものがあろう。この両作はクロフツ本来の謎解き小説と倒叙推理物とをそれぞれ代表するもののように思われている。
他の作家なら代表作で満足するということがあり得るし、なかには一編のために名を覚えられている作家がないでもない。だがクロフツの場合は事情が異なるようである。私のようなクロフツびいきの者は彼の作風そのものに魅《み》せられているのだから、どの作品を読んでも失望することがない。ことにこの「フレンチ警部最大の事件」は彼ともっともなじみの深いフレンチ警部と結びついた因縁のあるもので、警部の克明で丹念な捜査ぶりを遺憾なく描いている。
クロフツは第一作「樽」でバーンリ警部とラ・トゥーシュ探偵、第二作「ポンスン事件」でタナー警部、第三作「製材所の秘密」でウィルス警部、第四作「フローテ公園殺人事件」でファンダムおよびロスの両警部を活躍させていたが、第五作の本編で初めてスコットランド・ヤード捜査課のフレンチ警部が登場し、探偵役が固定した。それ以前の作品に現われる警部たちもフレンチの異名同人に過ぎない。第二作のタナー警部が「スターベル事件」に「フレンチは自分の同僚たちを考えてみたが、すぐにタナー警部ならごく似かよったからだつきであると気がついた」とあるように、初めはヤードの一員であったものが、主人公を一定せしめることを得策として、その後フレンチを連続起用したものと思われる。
彼の風貌や捜査方針は本編がもっとも詳しく伝えている。がんじょうな体格で、中背というよりは少々背が低く、きれいにひげをそりあげた気さくな顔つきで、黒っぽい青目は鋭い半面、新鮮な冗談でも秘めているかのようにいつも輝いている。態度はのんびりしていて、鷹揚《おうよう》で、いかにも食欲旺盛、続く喫煙室の会話でも相当な活躍ぶりを示しそうなタイプである。
彼は態度の穏やかさに重点を置いているので、仲間がからかって「猫なでジョー」とかげ口をきいているほどであった。だがそれは必ずしも彼が表面だけを装っていたからではない。彼はいつも温かい笑顔を見せて人に接したし、人好きのする親切なやりかたで相手を安心させるのが持ち前でもあった。事件が暗礁《あんしょう》に乗りあげると、彼にももちろん憂欝が訪れ、疲労の色が影を落さないでもないが、不撓不屈《ふとうふくつ》の彼はまもなく「昔どおりの陽気な楽天主義や、にこやかな自信や、元気のいい足どりが見られる」ようになる。すなわち彼の「陽気な自信は、目先の行動の筋道に関して不安の全くない時には、最も強くあらわれる。なにか、明らかにしなければならないことがある時には彼はいつも必ず勇往邁進《ゆうおうまいしん》して行ない、任務を遂行するうえには困難も不愉快さも眼中にない。彼が憂欝な顔をするのは、見通しのついていない時だけだが、こういう時には彼は頭痛やみの熊のように不機嫌になり、部下は仕事の許すかぎり、できるだけ彼から遠ざかっているので」あった。
クロフツも当初は前四作と同様に本編でもヤードの一警部を主人公に起用し、以後フレンチで固定するつもりはなかったから、つい「最大の事件」と銘《めい》うったのであろう。だがこの事件は冒頭の殺人が平凡きわまる様相を呈しているわりに、なかなかの難事件であった。フレンチは幾度となく行き詰まり、途方にくれる。「有望らしい手がかりが至るところにあるくせに、それをいじくり始めると、すぐたよりなく馬脚を見せてしまう。まるで飛び石づたいに流れを渡っている時、からだの重みを託そうとするたびに足許から崩れてしまうようなもの」で、実にしゃくにさわる事件であった。彼の得る情報はいつもかんじんなところで腰くだけを食わせる。まったく腹の立つ事件でほとんど絶望に近い気持になる。
それでもフレンチのもって生まれた粘り強く克明な性格は断念を許さない。どんな小さな事柄でも自分で直接ぶつかり、先入観を排して虚心に検討してみなければおさまらない。現場の捜査に徹夜するのも珍しくないし、関係者の一人一人に同じような質問を繰り返す単調さも決していとわない。
時に彼が打開の策に困り果てでもすると、いつも事件の状況を細大洩らさず逐一《ちくいち》細君に話してきかせるのを常とする。気の毒に細君は編物を手にしてソファの片すみに腰をおろす。彼は部屋をあちこち歩き回りながら自分の前提を述べ、それを基にして事実を検討し、類別し、さらに言い換えるといったふうに論じていく。彼女は彼のいうことにはよく耳を傾けていて、おりに触れて意見を出す。彼によれば「気まぐれを思いつく」のだが、一度ならずこうした気まぐれは当面の問題に対して全く新しい光を投げた。少なくともそれまでの二つの事件では捜査の線を指示し、これがもとになって奇怪な事件がついに解明されたほどである。
彼が夢中になって話すのに反して、彼女はからだをかがませて全注意力を編み棒に集中しているかのようにみえる。だがそれは彼の話に興味を感じていないのを意味しないので、彼女独特のやり方であった。そして彼女の発する質問からフレンチは新しい一歩を踏み出す勇気を振い起こすので、夫妻のつつましやかな努力を描いて楽しい情景の一つになっている。
以上のようなフレンチの捜査態度がクロフツの作風になっているから、フレンチの長短がそのままクロフツヘの賛否にも通ずるに違いない。ホームズのような天才直観型の推理に快哉《かいさい》を叫ぶ読者は、あるいはこの地味で足一点ばりの捜査にまだるっこい感じを覚えるかもしれない。フレンチにはすばらしい推理も期待できないし、彼の見つけ出したデータは次の調査でもろくも崩れるかもしれない心配がある。だから読者も与えられたデータで明快な推理を試みて作中探偵と頭脳の明断さを競《きそ》うわけにはいかない。フレンチの足どりを追って彼の丹念な調査に耳を傾け、一喜一憂するほかはない。しかしこの、倦《う》まずたゆまぬ執拗な食いさがりは、なんらかの光明を認めずにはおかない。現実派推理小説の名称を冠せられているクロフツの作風は、天馬空を往くような天才探偵の活躍にあきたらぬ思いをしている読者には、なによりもかっこうの人物であった。
その点ではクロフツ愛好者はフレンチ流儀の探偵法への信頼を寄せていることが大きいから、まえにも述べたように、とくに一、二の作の出来不出来が気にかからない。クロフツの作品ならどれでもほとんど不満を覚えない。
クロフツの作品は文学的装飾が皆無と評されるくらい、なぞの追求にかかりきっているが、それ以外に全く余裕がないかというと必ずしもそうとは言いきれないようである。本編からもうかがえるように、クロフツは作中探偵を旅行させることによって、精細な風景描写を試みるのが道楽であった。ここでもバルセロナが、スイスが、南欧が舞台となって、ややもすれば色彩感に乏しい捜査談にうるおいを与えているが、これは作者の経歴が示すように、クロフツにとっては楽しい道草であろう。
一八七九年アイルランドのダブリンに生まれた彼は、ベルファストのメソジスト派教会所属のキャンベル・カレッジを卒《お》え、わずか十七歳で土木技師見習となり、五十歳まで引き続いてその職にあった。早く父親に死に別れた彼は母親が再婚したので、当時ベルファスト・北部アイルランド鉄道の主任土木技師であった伯父の世話で鉄道との縁が結ばれるに至ったのである。その後ドウネガル鉄道延長線路敷設工事の下級技手に任命され、ついでベルファスト・北部アイルランド鉄道の地方技手としてコールレインに勤務し、さらに一九二三年には同鉄道の主任技手としてベルファストに転じ、かたわら創作を発表して五十歳に至った。鉄道土木事業との関係は少年期に始まり、大半をそれに捧げたわけだから、彼の風景描写が正確でかつ念入りなのも、もとより当然のことであった。
彼は処女作を刊行した一九二〇年以来、毎年一作くらいのわりで著作を続けたが、本職との兼業は健康に無理を生じ、二九年には鉄道と別れ、作家専門となって、相変わらず毎年一、二作ずつ刊行した。七十歳を越してからでも九冊の著書があり、その中には少年向きの推理小説や福音書の宗教物語が含まれている。さらに五十余編の短編と三十編の短いラジオ劇脚本をBBC放送のために執筆したというのだから、八十歳近い老人のめざましい精進ぶりは類を見なかった。だがその彼も、一九五七年四月二十二日号の「タイム」誌によると、ワージングでの死去の報を載せているが、あいにくその日付はわからない。
彼の著書はアメリカ版が少ないところを見ると、それほど海を越えてもてはやされていないのかもしれない。ここ十年二十年の傾向からすればうなずかれないでもないが、推理小説に画期的なタイプを樹立した彼に敬意を表しないものはないはずである。作風にいちじるしい展開が見られないため、幾冊かを読めば足れりとする傾きがあるのかもしれないが、平板でありながら質朴で、しかも無類の緻密さにひかれている私などは決して飽きそうもないし、またこれに同感の読者も少なくあるまいと信じている。
わが国ほど海外の推理小説をむさぼるように翻訳した国は少ないのだが、さて作品にいちじるしい影響を与えた作家はきわめて乏しい。そのかみのビーストンは別として、ヴァン・ダインとこのクロフツがその尤《ゆう》なるものであったことでも、彼は東邦に知己を得たことになる。(中島河太郎)