クロフツ/田村隆一 訳
目 次
第一部 ロンドン
一 異様な積荷
二 追跡するバーンリー警部
三 塀の上の監視者
四 真夜中の会見
五 フェリックスの話
六 推理
七 樽の発見
八 樽をあける
第二部 パリ
九 パリ警視総監
十 手紙を書いたものは?
十一 デュピエール商会
十二 聖ラザール停車場にて
十三 ドレスの持ち主
十四 ボワラックの話
十五 ボワラック邸
十六 壁にぶつかったバーンリー警部
十七 作戦会議
十八 ルファルジュの単独捜査
十九 アリバイの裏づけ
二十 決定的な証拠
第三部 ロンドン・パリ
二十一 あらたなる観点
二十二 フェリックスの二度目の陳述
二十三 クリフォードの活動
二十四 ジョルジュ・ラ・トゥーシェ
二十五 失望
二十六 ついに手がかりを
二十七 探偵のジレンマ
二十八 罠をあばく
二十九 劇的な解決
三十  結末
解説
登場人物
エーヴァリー I・アンド・C海運会社専務
ブロートン 同社の青年事務員
フェリックス 画家、デザイナー
マーチン 医師
ル・ゴーティエ パリのワイン商
ボワラック ポンプ製造会社専務
アネット その妻
ボンショーズ アネットの従兄
フランソア ボワラック家の執事
クリフォード 弁護士
ラ・トゥーシェ 私立探偵
バーンリー警部 ロンドン警視庁勤め
ウォーカー巡査 ロンドン警察署勤め
ショーヴェ パリ警視総監
ルファルジュ パリ警視庁の警部
第一部 ロンドン
一 異様な積荷
エーヴァリーは会社の自室に入ったばかりだった。彼はインシュラー・アンド・コンティネンタル海運会社の専務取締役だった。自分あての手紙や、この日の予約表に目を通すと、会社の船の運航状況の報告書を調べた。それから、しばらく考えていたが、主任のウィルコックスを呼んだ。
「今朝、ブルフィンチ号がルーアンから入ったようだが、この船には、ノートン・アンド・バンクスあてのワインが積んであるんだろうね」
「はあ、積んでおります。ちょうど、埠頭《ふとう》事務所に電話で問い合わせたばかりでして」と主任。
「社から埠頭に人をやって、特別に照合させなければいけないね。このまえのとき、うちの会社はさんざんひどい目にあっているじゃないか。だれか、たのもしいのを埠頭にやってくれないかね? だれにする?」
「ブロートンなら大丈夫です。経験もありますし」
「では、そういうことにしよう、それから、ミス・ジョンソンをよこしてくれたまえ、手紙を片づけてしまいたいから」
この事務所は、インシュラー・アンド・コンティネンタル海運会社(通称|I《アイ》・アンド・|C《シー》)の本社で、フェンチャーチ街の西端にあるビルの大きな一区劃にあたる二階を占めている。この会社はなかなか有力な船会社で、三百トンから一千トンの貨物船を三十数隻ももっていて、この貨物船は、ロンドンとヨーロッパ大陸の比較的小さな港々のあいだを往復している。数こなしの安い貨物輸送が商売だったが、持ち船を酷使《こくし》するようなことはなく、もっと派手な船会社とスピードの点で競争しようなどという考えも頭になかった。ま、こういったわけで、この会社は、野菜、魚類といった腐敗貨物をのぞいた、ありとあらゆる種類の貨物を引受けて大幅の商売をしていた。
主任のウィルコックスは、いくつかの書類を手にすると、仕事をしているトム・ブロートンのデスクにつかつかと歩みよった。
「ブロートン」と主任が声をかけた、「これからすぐ、君に埠頭《ふとう》に行ってもらって、ノートン・アンド・バンクスあての積荷のワインを照合するようにと、エーヴァリー専務が言われているんだけどね。昨夜、その貨物が、ルーアンからブルフィンチ号につまれて来たんだよ。このまえのときは、数量があわないと文句をつけられて、|うち《ヽヽ》の社はひどい目にあっているんだ。だから、こんどはヌカリのないようしっかりたのむぞ。送り状はこれだ、数量は他人まかせにしないで、一樽《ひとたる》ずつ、君が自分であたってみてくれ」
「わかりました」ブロートンが答えた、二十三歳の青年で、いかにも率直な感じの、どこか子供っぽい表情、物腰もキビキビしていて抜け目がなさそう。この事務所の単調な空気と、あの埠頭の活気にあふれた雑沓《ざっとう》とのとりかえっこなら、それこそ願ってもないことだ。青年はいそいそと帳簿を片づけると、上着のポケットに送り状を大切そうにしまい、帽子をとるなり、階段をかけおりてフェンチャーチ街にとび出した。
四月初旬の、心もうきうきするような午前だった。肌寒《はださむ》い、にわか雨模様のいやな天気がしばらくつづいてから、やっとのことで陽春の|きざし《ヽヽヽ》が大気にあらわれ、いままでが気の沈みがちの悪天候だっただけに、心もおどり出したくなるようなさわやかさが感じられた。長雨がカラリとあがったときの、あのういういしい光をはなちながら、陽はかがやきわたっていた。ブロートンは、雑沓する街路を急ぎ足で通りぬけ、埠頭につづく大通りをきれ目なく流れて行く車馬や人の群れを見守っているうちに、青年の心は躍動してくるのだった。
青年の行先きは、ブルフィンチ号が碇泊《ていはく》している聖キャザリン埠頭だった。彼はタワー・ヒルを横切り、不気味な昔の要塞の外側をまわって、汽船が横づけになっている泊渠《はっきょ》まで、まるで突進するような勢いで歩いていった。ブルフィンチ号はほぼ八百トンの船で、長くて、どちらかというと低めの船型だった。エンジンは船体の中央部にあり、ただ一本の黒い煙突には、会社のマークの、グリーンの帯が二本ついている。ごく最近、年に一度のドック入りをしてきたばかりの船体は、ぬりたての黒いペンキにすっかりひきたてられて、見ちがえるばかりにきれいに見えた。もう荷おろしがはじまっていた、ブロートンは、積荷のワインの樽がひとつでもおろされないうちに行かなければとやきもきしながらあわてて甲板《かんぱん》にあがった。
まさに間一髪というところだった。ワインの樽がつんである、下の前部|船艙《せんそう》のハッチがもうすでにひらかれていて、青年がたどりついたときには、いまにも取りはらわれようとしているところだった。彼は、その作業がすむまで、船橋の甲板に立ったまま、あたりを見まわした。
泊渠《はっきょ》には数隻の汽船が横づけになっていた。ブルフィンチ号のすぐうしろ、つまり、その船尾の突出部《カウンター》におおいかぶさるように高々と切り立った船首を見せているのは、青年の会社の最大の貨物船スラッシュ号で、この午後、コラナとヴィゴーにむけて出航することになっていた。前の錨地《びょうち》にはクライド海運会社の船が停泊していて、ベルファストとグラスゴー行きで、この船もまた、この午後、出航することになっている。その黒い煙突から、煙りが輪をえがきながら、ものうげに澄みわたった空にたちのぼってゆく。泊渠の反対側には、|I《アイ》・アンド・|C《シー》の競争会社バブコック・アンド・ミルマンの持ち船であるアークテュラス号が横づけになっている。船長は『黒マック』、このニックネームは、髪の毛の色から『赤マック』と呼ばれるマックタヴィシュ船長と混同しないためにつけられたもので、『赤マック』もおなじ会社のシリウス号の船長なのである。ブロートン青年にとって、これらの船は、神秘にみちたロマンスのはるかなる世界と彼とをむすぶ環《リンク》を象徴するものであって、船の出航光景を見るたびに、その先きであるコペンハーゲン、ボルドー、リスボン、ラ・スペツィア、そして、ただ耳にするだけでも心がときめくような寄港地ならどこであろうと、自分も乗りこんで行きたいという願望だけが燃えさかるのだった。
前部のハッチがひらいたので、ブロートンは手帳を用意して船艙におりていった。樽の陸揚げがはじまった。樽は四個一組につり索《なわ》をかけられて、船から埠頭につり出される。一組の樽が陸揚げされるたびに、書記はその数量を手帳に書きとめて、そのあとで送り状の数量と照合することになる。
作業は迅速《じんそく》にはかどっていった。仲仕《なかし》たちはその重い樽にうまい具合につり索をかけるために汗だくになって樽ととっくんでいる。作業がすすむにつれて、ハッチの近くにつんであった荷は片がつき、こんどは船艙の奥の方から、つり索まで、樽をころがしてこなければならなくなった。
ちょうど四個の樽がつり索にかけられてひきあげられたところだった、ブロートンがつぎの一組をあらためようとふりかえった瞬間、突然、『あ、危ない! 退け!』という叫び声がおこり、自分のからだをだれかに乱暴につかまれたかと思うと、うしろにグイッと力まかせにひっぱられた。からだが一回転したおかげで、四個の樽がつり索からはずれて、地ひびきをたてて船艙の床に落ちてくるのが青年の目にとびこんだ。さいわい、はずれたのがほんの四、五フィートばかりの高さにつりあげられたところだったのでよかったが、それでも重量のかさむ代物《しろもの》だったので、すごい勢いで落下したのだ。四個の樽のうち、下になった二個はほんのわずかだが傷がつき、樽板のあいだからワインがにじみ出ていた。あとの二樽は落ちかたもさしてはげしいものではなかったから、いずれもたいしたことはないようだった。仲仕たちは、みんな、うまく身をかわしたので、怪我《けが》をしたものはひとりもいなかった。
「おい、樽を立てろ」樽の損傷をすばやくあらためてから、監督が仲仕たちに声をかけた、「ワインがもれないようにするんだ」
泌《にじ》みだしている二個の樽は、傷のついている方を上にむけて、応急手当をするために、かたわらにどけられた。三個目の樽は、どこにも傷が見あたらなかったが、四個目の樽をしらべてみると、ぜんぜん無傷というわけではなかった。
この樽は、見た目にもほかの三個の樽とちがっているので、こいつはノートン・アンド・バンクス酒造の積荷ではないぞと、ブロートンはすぐ気がついた。この四番目の樽は、ほかのにくらべると、|つくり《ヽヽヽ》も頑丈で、仕上げも上等だった、それから淡褐色《たんかっしょく》に着色してあり、ワニスがぬってあった。おまけに、中身がワインでないことはあきらかだった、というのは、そもそもこの樽が無傷でないことを教えてくれたものが、樽板のはしの割れ目からこぼれ落ちたひと山の鋸屑《おがくず》だったからである。
「こいつは妙な樽だな、こんなやつを、まえにも見たことがあったかね?」とブロートンは、I・アンド・Cの監督に言った。さきほど青年をうしろにひっぱってくれたのは、この男で、名前はハークネス。背が高く、がっしりした体躯《たいく》、頬骨《ほおぼね》が張っていて、角ばった顎《あご》と赤黄色の口髭《くちひげ》をはやしている。ブロートンは、この監督とはかなり前からのおなじみで、この男の頭と腕を高く買っていた。
「いや、まったくはじめてでさあ」とハークネスが答えた、「こいつは、すこしぐらい荒っぽくあつかっても、ビクともしないくらい頑丈につくってありますよ」
「たしかにそう見える。とにかくわきにどけて、立たせてくれないか、損傷をよくしらべてみようや」
監督のハークネスは、その樽に手をかけると、荷揚げの邪魔にならない舷側《げんそく》のそばまで、ヨイショヨイショところがしていったが、そこで樽を立てようとしたものの、重くて自分ひとりの手ではどうにもならない。
「こいつは、鋸屑《おがくず》のほかに、もっとなにか入っていますぜ」と監督が言った、「こんな重いやつにお目にかかるのははじめてでさあ、きっとこいつのおかげで、つり索にかかっていたほかのやつがずれて、おっこちやがったんですよ」
監督は、仲仕の一人をよびよせると、二人がかりで、破損した側を上にして、その樽を立てた。ブロートンは、荷揚げの記帳係のところに歩みよると、樽の損傷度合をしらべるまで、自分のかわりによく樽の勘定《かんじょう》をしておいてくれと言いおいた。
それから、監督のところに行こうと、六ヤードほど歩くうちに、いまの樽の割れ目からこぼれおちたひと山の鋸屑に、ブロートンは目をおとした。と、なにかキラリと光るものに、青年は思わず目を見はった。彼は腰をかがめると、ひろった。それを手にとって見たときの青年の驚きようは、やすやすと想像されよう、なぜなら、それはソヴリン金貨(一ポンド金貨)だったのだ!
ブロートンはあたりをサッと見まわした。ハークネスしか見ていたものはなかった。
「鋸屑をもっとひっくりかえしてごらんなさいよ」と監督が言った。あきらかにこの男も青年同様びっくりした様子だった。「もっと出てくるかもしれませんぜ」
ブロートンは指でその山をかきまわしてみた、すると、さらにおどろいたことには、そのなかから、また金貨が二枚も出てきたではないか。
青年は、三枚の金貨を手のひらにのせて、しげしげと見つめた。と、ハークネスがおしつぶしたような叫び声をたてると、サッと腰をかがめ、船艙の床の板の間から、なにやらひろいあげた。
「ここにも一枚ありまさあ!」監督は息を殺して叫んだ、「おや、また一枚!」男はさらに身をかがめて、立っている樽のかげから、二枚目をひろった。「こいつはすごい金鉱にぶちあたったもんじゃありませんか」
ブロートンは五枚の金貨をポケットにしまうと、ハークネスと二人で、こっそり甲板をすみずみまでさがしてみた。丹念にくまなく見てあるいたものの、もう金貨は見あたらなかった。
「私があなたをうしろにひっぱったときに、落したんですかい?」とハークネスがたずねた。
「僕が? とんでもない、金貨なんか、僕が持っているものか、落してみたいくらいなものさ」
「するてえと、だれか、ほかのものが落したんですな、ひょっとすると、ピータースかウィルソンですよ、二人とも、ここで、とび上って身をかわしたんですから」
「いや、このことはしばらく口外するなよ、樽からこぼれ落ちたんだと、僕はにらんでいるんだ」
「樽ですって? こいつはおどろいた、なんだってまた、樽なんかに金貨をつめて送る馬鹿がいるというんです?」
「僕にだって、そんなことはとても考えられないんだがね、しかし、金貨が鋸屑のなかにあったんだから、樽の割れ目から出たとしか考えられないじゃないか」
「なるほど」ハークネスは思案|投首《なげくび》といった|てい《ヽヽ》で言ったが、つづけて、「ねえ、ブロートンさん、あなたさえよかったら、あの割れ目をもうすこしこじあけて、樽の中身を調べてみますぜ」
青年には、そんなことをするのは不法だということが百もわかっていたのだが、好奇心の方が強すぎたために、思わずためらってしまった。
「なあに、いじった跡をのこすようなヘマはやりませんや」と監督がとどめを刺すように言った。ブロートンは、たちまちその手にのってしまった。
「たしかに中身を調べてみなければならないだろうね」と青年は答えた、「この金貨は盗まれたものかもしれないし、とにかく調査してみる必要がある」
監督はニヤッと笑うと、どこかへ行ったが、やがて金槌《かなづち》と冷鉄たがねを手にしてもどって来た。樽板の端の割れた一片は、割れ目のために、樽から完全にはがれてしまっていたが、鉄の輪がはまっていたおかげで、そのまま、もとのところについていた。このはがれた一片を、ハークネスはどうにか苦心しながら上の方に押しあげて、割れ目をひろくした。その最中にも、鋸屑がまるでこまかい雨のように外に吹きこぼれてきたが、それにまじって何枚かの金貨が出てきて、床の上に転々とおちてきたときには、二人ともいよいよ胆《きも》をつぶしてしまった。
ちょうどこのとき、ほかの連中は、ひとりのこらずハッチからつり出される四個一組の樽に注意をうばわれていた。さっきの事故のおかげですっかり神経過敏になってしまったのが、まだおさまらないのだ。そのために、樽から金貨がこぼれおちたのを見たものはひとりとしてなく、だれもこちらをふりむかないうちに、ブロートンとハークネスは金貨をみんな拾ってしまったのだ。六枚の金貨が樽から出て来たのだが、それを、ブロートンはさっき見つけてポケットにしまっておいた五枚とあわせ、それからまた監督と二人で、ほかの連中の目をぬすみながら、まだ落ちてないかとさがしあるいた。しかし、もう見つからなかった。二人は狐につままれたような表情で、問題の樽のところに引きかえしてきた。
「割れ目をもうすこしひろげてみてくれ」とブロートンが言った、「いったい、どう思う?」
「どうもこうもあったもんじゃありませんや」と監督が答えた、「いずれにしろ、私たちはどえらい事件にぶつかったんですよ、とにかく樽板のかけらを樽からはがしますからね、私の帽子を割れ目の下にあてがっててくださいよ」
やっとのことで、樽板のかけらが金槌でたたき出され、樽の側面に幅四インチ、深さ六インチばかりの穴があいた。帽子に半分ほど鋸屑がたまったが、ブロートンが、木の折れた端にたまっているのをきれいにはらい落したので、もっとたまった。それから青年は樽のてっぺんに帽子をおき、二人がかりで鋸屑のなかを懸命に指でさぐった。
「こいつはすごいや?」ハークネスが熱くなって、息を殺してささやいた、「まるで、金貨ばかりでさあ」
まさにその感じだった、なにしろ金貨が七枚もあったのだから無理もない。
「全部あわせると十八枚になるよ」ブロートンは、いま出てきた金貨をポケットにすべりこませると、畏怖《いふ》のひびきをこめて言った。「この樽いっぱいに、こいつがつまっていたら、数十万ポンドということになるね」
二人の男は立ちはだかったまま、ごく平凡な樽を喰い入るように見つめていた。ま、外面的に人目を惹《ひ》く点といえば、そのしっかりとしたデザインと仕上げのよさだけであって、もし、この見た目にはなんの変哲《へんてつ》もない樽のなかに、二人が想像したような巨額の金貨が隠されているとするなら、これほど驚嘆すべきことがあろうか。やがてハークネスは床にひざまずくと、自分があけたばかりの穴から、樽のなかをのぞきこんだ。と、その瞬間、なにやらわめき声をあげて、とびさがった。
「ブロートンさん、なかを、なかをのぞいてください!」監督は息をおし殺して叫んだ。
ブロートンはいれかわってひざまずくと、なかをのぞきこんだ。と、青年もまた、のけぞった。なかの鋸屑から、人間の指がつき出ているではないか。
「なんということだ」ついにたいへんな事件と鉢合せをする羽目になったかと、青年は観念して、ひくい声でささやいた。だが、ふと考えなおしてから、こんな馬鹿な話があってたまるものかと、自分で自分のあわて方が癪《しゃく》にさわるくらいだった。
「なんだ、ただの彫刻だよ」と青年は叫んだ。
「彫刻ですって?」ハークネスがするどくききかえした、「あれが彫刻なもんですかい? 死んだ人間の手ですぜ、あれは。間違えないでくださいよ」
「とにかく暗すぎてたしかめようがないんだ。灯《ひ》をもってきてくれ、はっきり見とどけようじゃないか」
監督が手さげランプを持って来たので、ブロートンはあらためて樽のなかをのぞきこんでみた。と、一見しただけで、自分のはじめの印象の正しかったのがわかった。その指は、あきらかに婦人のものだった。小さく、とがっていて、デリケートで、いくつか指輪をはめていて、ランプの光にキラリとひかった。
「もうすこし鋸屑をかき出してくれ、ハークネス」ブロートンは腰をのばすと言った、「とにかく、できるだけのことをして、調べるんだ」
青年は、さっきの要領で割れ目の下に帽子をあてがった、監督は慎重に冷鉄たがねを使いながら、つき出ている指のまわりの鋸屑をかき出していった。鋸屑がならされてくるにつれて、手の埋っていた部分と手頸《てくび》がしだいにあらわれてきた。手の全体がすっかり見えると、はじめに受けた|きゃしゃ《ヽヽヽヽ》な美しさとエレガンスな印象が、まえにもまして強くうった。
ブロートンは、樽のてっぺんに、帽子の鋸屑をあけた。さらに金貨が三枚、そのなかから見つかった。青年は、その金貨もおなじポケットにしまった。そして、もっと念入りに調べてみようと、彼は樽を見すえた。
この樽は、ワインの樽よりもひとまわり大きく、高さはほぼ三フィート六インチ、直径は約二フィート六インチあった。前述したごとく、作りはきわめて頑丈、胴体は、その折れた樽板から見ても分るとおり、たっぷり二インチの厚さをもっている。たぶん、こんな厚板をまげるのはむずかしいせいか、この樽は、いわゆる樽形よりも円筒形にちかく、そのために天地の部分はいちじるしュ大きくなっていて、監督のハークネスがひとりでこの樽を立てようとしてどうしても歯が立たなかったのは、あきらかにこれもまた、ある程度はその原因になっているにちがいない。締め金も、あたりまえのものなら、薄い金属のバンドだが、これにはとくべつに厚い鉄の輪を用いているのだ。
天地の一方には、まわりを鋲《びょう》でとめてある荷札がついていて、外国人らしい筆蹟で、つぎのような宛名が書いてある――『ロンドン、西区、トットナム・コート・ロード、西ジャブ街一四一 レオン・フェリックス様 ルーアン経由 長海路』それに『彫像』というゴム印が捺《お》してある。荷札には差出人の名前も書いてあった――『パリ、グルネル、コンヴァンション街、プロヴァンス通り、彫刻品制作デュピエール商会』木の部分には、『乞返送』と黒い文字がフランス語、英語、ドイツ語で刷りこんであって、同じ商会の名前が明示してある。ブロートンは、なかば無意識のうちに、差出人の筆蹟から、なにか手がかりになるようなものが発見できるかもしれないと、その荷札を注意深く調べてみた。筆蹟からは、なにひとつ得るものがなかった、しかし、手さげランプを近づけてみると、いささか面白いことに気がついた。
荷札は二つの部分にわかれていて、つまり、その一つは、差出人である商会の広告図案になっている飾り縁と、宛名が書きこんである中央の部分である。この二つは太い黒線で分かれている。ブロートンの注意をひいたものは、この黒線がふぞろいになっていることだった。さらに丹念に調べてみると、中央の部分は切り抜かれていて、その空間をふさぐために、荷札の裏から、紙がはりつけられていることが分った。つまり、送り先のフェリックスの名前と住所は、このはりつけられた紙に記入されているのであって、荷札そのものに書かれたものではないのだ。じつに手際よく変造してあるので、ちょっと見ぐらいでは気がつかないほどである。ブロートンは、はじめのうち、この変造に頸をかしげたものの、やがて、この商会は、きっと荷札がきれてしまったので、一度使ったものを応用したにちがいないと思いあたった。
「樽のなかに、金貨と女の手――たぶんその死体――がつめこまれている」青年は考えこんだ、「じつに奇怪な事件だ、それにしても、なんらかの手を打たなければならない」彼は、どういう善後策をとったものか、それを考えているあいだ、立ちはだかったまま、その樽をじっと喰い入るように見つめていた。
重大な犯罪が行われたということは、火を見るよりもあきらかだった、この発見を、ただちに報告する義務があることも、わかりきった話だった。だが、荷揚げされるワインの樽を照合する問題があった。そのために、わざわざ、この埠頭まで社から派遣されてきたのに、その仕事をこのまま、ほうり出してしまっていいものかどうか、ブロートンはちょっとためらった。いや、大丈夫だ、と青年は腹をきめた。なにしろ、重大事件なのだから、自分の行動を責められる筋はないにきまっている。それに、ワインの樽がぜんぜん照合されていないというわけのものではない、荷揚げの記帳係だっているのだ、それにその男の仕事が丹念で、正確だ、ということもブロートンはよく知っていた。おまけに、埠頭事務所から応援をくり出すことだってできるのだ。青年は決心した。これからすぐ、フェンチャーチ街にかけもどって、エーヴァリー専務に報告しなければいけない。
「ハークネス」ブロートンは監督に言った、「ぼくはこの報告に、本社まで行ってくる。できるだけ巧く、こじあけた穴をふさいで、ここで樽の見張りをしていてくれ。専務のエーヴァリーさんからの指令があるまで、どんなことがあろうと、この樽を動かしては駄目だよ」
「合点でさあ、ブロートンさん」と監督が答えた、「そうなさるのが、いちばんですよ」
二人がかりで、鋸屑をできるだけ樽につめかえし、ハークネスは、こじあけた穴に、折れた樽板の一片をあてがうと、金槌でたたいて、もとどおりにしっかりと釘《くぎ》づけにした。
「じゃ、あとはたのんだよ」こう言いおいて、ブロートンはその場をはなれた、と、ちょうどそのとき、船艙に降りてきたひとりの紳士に、彼は声をかけられた。中背の、一見外国人風の男で、顔色は浅黒く、黒いとがった顎髯《あごひげ》、上仕立てのブルーの服を着て、白い|靴甲かけ《スパッツ》をつけ、つばのせまい中折帽をかぶっている。男は会釈《えしゃく》すると、微笑した。
「失礼ですが、I・アンド・Cの方ではありませんか?」立派な英語だったが、いかにも外国人らしいアクセントだった。
「はあ、本社の書記ですが」とブロートンは答えた。
「ああ、やっぱりそうでしたか。それでは、あなたにおききすれば分るかもしれませんね、じつは、この船で、パリのデュピエール商会から、樽づめの彫刻類が私あてに来ることになっているのですが、着いたかどうか、お分りになりませんか? 私はこういう者です」紳士はブロートンに名刺を出した。『レオン・フェリックスロンドン市、西区トットナム・コート 西ジャブ街一四一』
ブロートンは、この名前が、問題の樽の荷札の名前と同一であることを、一目で見てとったが、わざとていねいに読むふりをして、どう返事をしたものか、考える時間をかせいだ。この男が荷受人であることはあきらかだった、だから樽が着いていると答えれば、即座に、その樽を受取りたいと要求することは分りきっている。青年には、うまい拒絶の口実がひとつも思いつかなかったけれど、どんなことがあっても樽は渡さないぞと決心した。そこで、到着したかどうか、まだ分らないが、すぐ調べさせましょう、と答えようとした途端に、ある一つのことにハッと気がついた。
損傷を受けた樽は、埠頭よりの船艙の横側に移してあるのだが、ハッチに接している荷揚げ場に立っているものなら、だれにでも見えるはずということに、ブロートンはハタと思いついたのである。まさかそんなことはないと思うものの、ひょっとしたら、このフェリックスという男は、監督と二人がかりでしたこと、つまり、樽に穴をこじあけたことから、金貨をとりだすまで、ずっと見ていたのかもしれないのだ。もし、この男が自分の所有物だと知っているなら、――それは充分に考えられることだ――いまいるところから、ほんのひとまたぎ歩きさえすれば、樽の荷札を指摘して、ブロートンの虚言をあばくことができるのだ。で、青年は、この場合、正直こそ最善の策だと、肚《はら》をきめたのである。
「たしかに、あなた宛の樽はついております。どういう手ちがいからか、ほかの荷のなかにまぎれこんでいたものですから、ワインの樽からべつにしたばかりでして」
フェリックスはいぶかしげに青年の顔を見まもっていたが、ただこう言っただけだった――「そうですか、それはありがとう、私は美術品の蒐集家《しゅうしゅうか》なのですよ、その彫刻が、見たくてたまらないのです。荷車を用意してありますから、いますぐにでも、受取れるわけですね?」
相手がこう出てくることは、ブロートンにもはじめから読めていた、だが、巧い身のかわしかたがあると、青年は思った。
「じつは、まことに恐縮なのですが」とブロートンは低姿勢で応じた、「私の管轄外《かんかつがい》のことなので、なんともご返事が申し上げられないのです。しかし、埠頭事務所までご足労ねがって、所定の手続きさえしていただけますなら、すぐ荷をお受取りになれると思います。私もこれからその事務所に行くところですが、なんならご案内しましょうか?」
「やあ、それは好都合だ、そう願いましょう」と、その外国人は応じた。
外国人と歩き出したとき、ブロートンの頭に、ある懸念がうかんだ、彼がフェリックスに答えたことを、ハークネスがそのまま受取ってしまったかもしれない、すると、この外国人がまた引返してきて、もっともらしいことをならべたら、樽をあっさりと渡しかねない。そこで、青年は大声で怒鳴《どな》った。
「おい、ハークネス、専務さんから指令があるまで、なにもしないでいてくれよ」監督は手をふって、諒解《りょうかい》の合図をした。
この若い書記が片づけなければならぬ問題は、三つあった。まず第一に、この事件を専務に報告するために、フェンチャーチ街の本社まで行かなければならないこと。第二に、専務がその対策を決定するまで、どんなことをしてでもあの樽を会社の手からはなさないようにすること。第三に、この二つの問題を、フェリックスからも、埠頭事務所の連中からも怪しまれずにやりおおせたいということ。これはなかなか容易ならぬ問題ばかりなので、はじめのうちはブロートンも、まったく自信がなかった。ところが、外国人をともなって、埠頭事務所に入ると、彼の頭に一案がパッとひらめき、よし、こいつで行こうと、即座にきめたのである。青年は外国人にふりかえった。
「ここで少々お待ちください、係りのものを探して、すぐこちらによこしますから」
「おねがいします」
ブロートンは、事務所の内外をわけている衝立《ついたて》についているドアを通って、所長の部屋に行くと、青年は声をおとしてささやいた。
「ヒューストンさん、外に、フェリックスという客がいるんですがね、この客あての樽が、ブルフィンチ号で、パリから着いているのです、いますぐ、その樽を受取りたいと、客は言うんだが、樽はたしかに着いていても、専務さんが、それになにか疑問の点があるから、はっきりした指令があるまで、その引渡しをのばすようにあなたに伝えるように、僕をここによこしたわけなんです。なんとでも口実をつくって、絶対に樽は渡すなと言われているんです。もうすこし調べて、あと一時間もしたら、専務があなたにお電話するそうですが」
所長のヒューストンは、いぶかしそうに青年の顔をながめたが、これだけしか言わなかった、「よかろう」そこで、青年は所長を外に連れ出すと、フェリックスに引きあわせた。
ブロートンは、事務所のなかにしばらくとどまって、自分が本社に行っている間の、陸揚げの樽の照合の件を、書記のひとりと打ちあわせた。それがすんで、所長とフェリックスが話しあっているカウンターの横を通って、おもてに出ようとしたとき、青年の耳に、フェリックスの怒声が入った。
「よろしい、ではこれからすぐ行って、その専務に会ってみようじゃありませんか、そうすれば、こうした妨害やいやがらせに対して、専務は私に謝罪するにきまっている」
「こいつは、一足先きに本社に行かなくちゃ」ブロートンは、タクシーをつかまえようと、埠頭の門から小走りに歩きながら、そう思った。だが、タクシーは一台も見あたらなかった。彼は立たずんだまま、目下の形勢を考えてみた。もしフェリックスが、自分の車を待たしていたなら、ブロートンがタクシーを探しているあいだに、本社へ行ってしまうにちがいない。よし、なにかほかの手を打たなければ駄目だ。
青年は、リトル・タワー・ヒル郵便局にとびこむと、本社に電話をかけて、専務の部屋につないでもらった。そこで彼は、ふとしたことから、重大犯罪が行われた形跡を発見したこと、フェリックスという男が、それについてなにか知っているらしいこと、その男がもうまもなく専務に会いに行くことを手短に説明して、なおも言葉をつづけた――
「ところで専務さん、私の提案をきいてくださるなら、フェリックスが本社に行っても、すぐ会わないでいただきたいのです。それから、裏のドアから、専務さんのお部屋に私をいれていただけませんか、そうすると、外の事務室を通らなくて行けますから。そこで、いままでの|いきさつ《ヽヽヽヽ》をくわしくご説明しますから、そのうえで、どういう手を打つか、きめていただきたいのです」
「どうも雲をつかむような話だね」と遠い声が答えた、「どんなものを見つけたのか、いま、話せないのかね?」
「電話口ではまずいのです。とにかく、今回だけ、私にまかせていただきたいのです、私の説明をおききになれば、私が正しかったと、きっと、ご満足いただけると思うのですが」
「よし、分った、すぐ来なさい」
ブロートンは郵便局を出た、すると、もうあわてることもないというのに、タクシーの空車がすぐ見つかった。青年はタクシーにとびのると、フェンチャーチ街にむかって走らせた。本社の階段をのぼって、専務室のドアをノックした。
「さ、ブロートン、腰をかけたまえ」と専務は言った、それから外の事務室に通じるドアまで歩みよると、主任のウィルコックスに告げた、
「いま、電話がかかってきて、手紙を書かなければならないのだ、三十分ばかり、私のからだはあかないからね」
専務はドアをしめ、ボルトをかけた。
「君ののぞみどおりにしたわけだ、こんどは君の話をきく番だ。こんな面倒なことをするだけの値打ちはあるのだろうね」
「ご期待にそえると思います。それに、いろいろとご配慮してくださいまして、ありがとうございます。じつは、こういう問題が起こったのです」ブロートンは、自分が埠頭に行ったこと、陸揚げ中の樽が落ちたこと、こわれた樽から、金貨と女の手が見つかったこと、フェリックスが来たこと、埠頭事務所での会見のことなど、細大もらさず説明して、最後に、二十一枚の金貨をとり出して、専務の机の上に、つみあげてみせた。
説明が終ると、ものの四、五分というもの、沈黙があたりを支配した。その間、専務はいまの話をじっくりと考えていた。話は奇怪きわまるものだったが、ブロートンの性格はよく知るところだったし、その説明する態度から判断しても、専務は、いまの話をことごとく信ぜざるを得なかった。専務は、この問題における社の立場を考えてみた。ひとつの見方からすれば、輸送を依頼された密封の樽の中身が、大理石だろうが金貨だろうが、舗装用《ほそうよう》の割石だろうが、運賃さえ頂戴してあるかぎり、会社の関知するところではない。船会社の契約というものは、貨物をひとつの地点から他の地点まで運んで、依頼されたときの状態のままで引き渡せばいいのである。
たとえ、彫像といつわって金貨を送るような客があったとしても、文句をつけるのは税関であって、船会社ではないのだ。
また一方、重大な犯罪を示す形跡に、船会社が気がついたような場合には、警察に通報するのが、会社の義務というものである。樽の中の女の手が、はたして殺人事件につながるものかどうかは分らないが、この問題を黙過してしまうには、あまりにも事が異常すぎる。専務はついに肚《はら》をきめた。
「ブロートン」と彼は口をひらいた、「君の処置には、じつに感心した。これから私と二人で警視庁へ行って、君の口から、もう一度説明してもらいたいのだ。それさえすめば、もう私たちはなにも心配はないわけだ。では、君がいま入って来たドアから表に出て、タクシーをつかまえて、フェンチャーチ街のマーク横町の端で、私を待っていてくれたまえ」
青年が出て行くと、専務は部屋のドアに鍵をかけ、コートを着、帽子をかぶると、外の事務室に入っていった。
「二時間ばかり外出するからね、ウィルコックス」と専務は声をかけた。
主任は一通の手紙を持って、専務のそばまでやって来た。
「分りました。フェリックスさんという紳士が十一時半ごろ、専務に面会においでになったのです。ただいま、専務は来客中だと申しますと、その方は、それでは待つわけにいかないから、手紙を書く用箋と封筒をくれといわれまして、これがその手紙です」
専務はその封筒を受取ると、読むために自分の部屋にもどった。彼は、なんだか狐《きつね》にでもつままれたような気持ちだった。というのは、十一時十五分に、三十分ばかり、からだがふさがっていると、主任のウィルコックスに言っておいたはずだ、したがって、そのフェリックスという男は、ほんの十五分間、待てばよかったわけだ。専務は封筒をあけながら、この男は、わざわざ埠頭からやって来たというのに、どうしてこんなみじかい時間が待てなかったのかと、いぶかしく思った。ところがまた、専務はあっけにとられてしまった、封筒の中はからっぽだったのだ!
専務は思案にふけりながら、たたずんでいた。フェリックスという男が手紙を書いているとき、なにか、びっくりするようなことが起こって、その興奮で、手紙を封入するのを忘れてしまったものか? それとも、ただ単にうっかりしたためか? あるいは、なにか深い謀《たくら》みが、この裏にかくされているのか? とにかく、警視庁に行って、警察の意向を知ることだ。
専務は、その封筒を紙入れにしまうと、通りに出て、ブロートンが待っているタクシーに乗りこんだ。
車が、雑沓する往来を縫って走って行くあいだに、エーヴァリー専務は、封筒の一件を青年に話した。
「ずいぶんおかしな話ですね」と青年は言った、「私がフェリックス氏に会ったとき、興奮しているような色は、ぜんぜんありませんでしたけど。とても冷静な感じの、頭がよく切れるような男でしたが」
ちょうど一年ばかりまえ、この船会社は、じつに巧妙にたくらまれた盗難事件につづけざまにひっかかって、その事件の後始末のおかげで、エーヴァリー専務は、警視庁の警部の二、三とすっかりおなじみになっていた。とりわけ、そのうちのひとりは、機敏で腕ききであるうえに、事件の担当になってもらったらじつに親切で、いかにも気持ちのいい警部だと、専務はほれこんでいた。こんなわけで、二人が警視庁に着くと、専務はこの警部に面会を申しこんだ。うまいぐあいに、その警部はからだがあいているところだった。
「これは、これはエーヴァリーさん」二人が警部の部屋に入って行くと、彼は声をかけた、「いったい、どういう風の吹きまわしですか」
「こんにちは、警部さん、これは、うちの社のもので、ブロートン君ですが、きっとあなたが興味をお持ちになるような、じつに異様な話をもっているのですよ」
バーンリー警部は握手をかわすと、ドアをしめて、それから二脚の椅子をひきよせた。
「ま、とにかくおかけになってください、耳よりの話とあれば、いつでも歓迎いたしますよ」
「さ、ブロートン、こちらのバーンリー警部さんに、さっきの話をもう一度してあげておくれ」
そこでブロートンはあらためていきさつを説明していった、埠頭に行ったこと、頑丈なつくりの樽が損傷したこと、金貨と女の手を見つけたこと、フェリックス氏と会ったことなど。警部はその話に真剣にききいりながら、メモを一つ二つとったが、青年が話しおわるまで、一言も口をはさまなかった。
「いや、じつに要領を得たお話ぶりでしたよ、感心しました、ブロートンさん」警部は、青年の説明がすむと、はじめて口をひらいた。
「一言だけ、それにつけ加えておきたいことがあるのですが」とエーヴァリー専務が言った、そして、フェリックス氏が本社に面会に来たことを話し、その男がおいていった封筒を警部に手渡した。
「この封筒は十一時半に書いたものなんですな」と警部は言った、「ところで、いまは十二時半になろうとしているところです、こいつは面倒なことになるかもしれませんね、エーヴァリーさん、これからすぐ、埠頭まで行っていただけますか?」
「ええ、いいですとも」
「よし、ぐずぐずしてはいられない」警部は、ブロートンのまえにロンドンの人名簿をドサッと投げ出した、「私が電話で手配するあいだに、フェリックスをさがしてみてください」
ブロートンは西ジャブ街のところを繰って探してみたが、トットナム・コート・ロードの近辺には、そんな人名は見あたらなかった。
「ま、そんなところだとにらんでいましたよ」と電話をしていたバーンリー警部が言った、「さ、出かけましょう」
三人が中庭に出ると、タクシーがさっときて、運転手のほかに、私服の刑事が二人乗っていた。バーンリー警部がドアをいきおいよくあけるなり、一同は中に乗りこみ、車は通りに勢いよく走り出した。
警部がブロートンの方に顔をむけた。「フェリックスという男の人相風体をくわしく説明してくれませんか」
「その男は中背で、やせぎす、スマートなからだつきでしたね、一見、外国人風で、フランス人、ひょっとしたらスペイン人かもしれません、眼は黒、顔は浅黒く、髪の毛も黒でした。みじかい、とがった顎髯。服は上質のブルー、ダーク・グリーンか茶色のみじかい縁の中折帽、白っぽい|靴甲かけ《スパッツ》を黒靴につけていました。カラーとネクタイは、はっきりとおぼえていませんが、とにかく、寸分の隙《すき》もないような服装だったような印象をうけましたね。左手の小指に、なにかの名の指輪をはめていました」
二人の私服は、青年の説明に熱心に耳をそばだてていたが、それからしばらく、警部をまじえて三人でなにやらささやきあっていた、それがすむと、みんな黙りこんでしまった。
車はブルフィンチ号の泊渠《はっきょ》の反対側でとまった。ブロートンが一同の先に立った。
「あれが船です」青年が指さした、「あの舷門から上船すれば、前部船艙へまっすぐおりられるわけです」
私服の二人も車からおりていた。五人の男は、その舷門にむかって歩いていった。一同は舷門から上船すると、艙口に近づき、船艙を見おろした。
「あそこに――」ブロートンは、下を指さして言いかけたまま、突然言葉をのんだ。
うしろの四人がまえにすすみ出て、下をのぞきこんだ。船艙はからっぽだった。監督のハークネスと樽は、あとかたもなく消えていた!
二 追跡するバーンリー警部
一同の頭にひらめいたものは、むろん、ハークネスが用心のためにその樽《たる》を、どこかほかの場所に移し変えたのだ、ということだった。そこで五人の男は、そこを探すことにした。
「この船艙《せんそう》の荷揚げをしていた連中をつかまえてください」と警部が言った。
ブロートンはすっとんで行くなり、仲仕の頭《かしら》をつれてきた。話によると、この船艙は、十分ばかりまえにすっかり空《から》になり、仲仕連中は荷揚げがすっかりすむのを待ってから、昼食をしに船からおりてしまったということだった。
「食事はどこでするのかね? いますぐ、その連中をつかまえられるかな?」とエーヴァリー専務がたずねた。
「そのうち何人かなら、つかまると思います。大半のものは町まで出てしまいますが、夜警の部屋を使わせてもらう連中もおりますから、なにせ、そこですと、火がありますもんで」
「よし、行ってみましょう」と警部が言った。頭に道案内をさせて、五人の男たちは岸壁《がんぺき》ぞいに百ヤードばかり歩くと、倉庫から独立している煉瓦造《れんがづく》りの小屋に着いた。その小屋の中や、入口のところに、ひとかたまりの仲仕の連中が腰をおろしていて、あるものは湯気のたっている弁当をたべ、あるものは短いパイプをくゆらしていた。
「おまえらのなかに、ブルフィンチ号の前部船艙のものがいるか?」と頭が叫んだ、「いるなら、専務さんがききたいことがあるとよ」
すると、二人の男がゆっくりと腰をあげて、まえに出て来た。
「あんたがたに教えてもらいたいことがあるのだ」と専務が口をひらいた、「監督のハークネスと、傷がついた樽のことを知らないかね? われわれが来るまで、ハークネスはその樽の番をして待っていることになっていたのだが」
「ハークネスなら、その樽を運んで行きました」と、そのうちの一人が答えた、「三十分しないまえでしたが」
「運んで行った?」
「はい、青い服を着た黒い顎髯の旦那《だんな》がやってきましてね、紙片をハークネスに渡したんでさあ、そいつを読むと、監督は大きな声で言ったんで、『この樽を吊り出すから、手をかしてくれ』とね、私らが手伝って、樽を荷馬車につみましたよ――ええ、四輪馬車で。それから、みんな、出かけました、監督と青服の旦那は、荷馬車のあとについて歩いて行ったんで」
「荷馬車には、行先きの名前がついていたかね?」と専務が口をいれた。
「ええ、ありましたよ」と、その男が答えた、「ですけど、はっきりしたことは分りませんので。なあ、ビル、おまえは、あの馬車についていた名前のことを、なんか言っていたな? どこだった?」
すると、別の男が口をひらいた。
「トットナム・コート・ロードとあったんで。だけど、通りの名前は見たこともきいたこともないもんだから、頭をひねっていたんでさあ、トットナム・コート・ロードといやあ、そのはずれに、生れたときから、私は住んでいるんですからね」
「東ジョン街じゃなかったかね?」とバーンリー警部がたずねた。
「はい、そんな通りの名前でした、東か西がつきました、そうだ、西だったような気がします。そのつぎは、ジョンみたいな名前でしたけど、ジョンじゃありません、そいつに似た名前で」
「荷馬車の色は?」
「ブルーでさあ、すごくあざやかなやつで」
「馬の色をおぼえているものはいないかね」
しかし、この質問は、彼らにはちょっとお角《かど》ちがいだった。なにしろ、馬は、彼らの繩張《なわば》りの外のものだから、その色などに気がつくはずはなかった。
警部が、これ以上、たずねることはもうないという合図をすると、エーヴァリー専務が口をひらいた、
「いや、どうもありがとう、これはほんのお礼だから、とっておいてくれたまえ」
警部は、手まねきしてブロートンをよびよせた。
「そのハークネスという男の人相を説明してくれませんか?」
「赤黄色の口髭をはやした背の高い男で、頬骨がすごく張っていて、顎が角ばっているんです。茶色の作業服に、布地の帽子をかぶっていました」
「分ったね」警部は、二人の私服の刑事に顔をむけると言った、「その連中は、三十分まえに、ここを出ているのだ。その足どりをつかむことだ。まず、西と東をさがしてみてくれたまえ、われわれとぶつかる心配があるから、西には行かんだろう、本庁に報告するように」
二人の刑事は、足早に立ち去った。
「さて、こんどは電話だ」警部はつづけて、「埠頭事務所の電話を拝借できますな?」
三人は事務所まで歩いていった。専務は、所長室の電話が使えるように取りはからった。ものの二、三分もすると、警部は電話をかけおえて、専務たちのところへやってきた。
「ま、さしあたり、われわれに打てる手といえばこれだけですね」と警部は言った、「二人の男の人相と荷馬車の色が、全管区の警察にただちに手配されますから、ほどなく、ロンドン中の警官が非常警戒につくはずです」
「それは大がかりなことで」専務が言った。すると警部は拍子ぬけのような顔をした。
「とんでもない、こんなことは、ごくあたりまえのことですよ。ところで、私もここにこうしているのですから、なにかべつのことを調査してみたいものです。ひとつ、あなたから、社員の方に、私があなたの承認のもとに捜査にあたっているということをお話ねがえたら、こちらのみなさんにも、すすんで協力していただけると思うのですが」
エーヴァリー専務は、所長のヒューストンを呼んだ。
「ヒューストン、こちらは警視庁のバーンリー警部だ。君もすでに知っていることと思うのだが、あの樽の件で、警部さんはその捜査にあたっておられる。ま、できるだけの便宜をはかってもらえたら、私もうれしいのだが」専務は警部の方に顔をむけた、「もうこれで、いまのところお役に立てることもないようですね、シティ(ロンドンの商業区)にひきかえさせてもらえますと、私はたいへん好都合なのですが?」
「ええ、もうお願いすることはありません、ありがとうございました、専務さん、私はこのあたりをすこしあたってみます。捜査がはかどりましたら、追ってお知らせしますよ」
「おねがいします、では、それを愉《たの》しみに、失礼します」
これで会社になんの気がねもなしに捜査がすすめられるようになったバーンリー警部は、ブロートンをそばに呼びよせると、ブルフィンチ号に乗船して、あらためてまた、事件のいきさつをくわしく説明してもらい、その現場をひとつひとつ指さしてもらった。警部は、なにか手がかりになるようなものが落ちていないかと探してみたが、収穫はひとつもなかった。そこで波止場に行ってみたり、ブロートンと監督が問題の樽の調べにかかっているところが見とおせるようないくつかの地点に立ってみたりして、周囲の情況がくわしくのみこめるようにした。そうこうしているうちに、前部船艙で樽の荷揚げをしていた他の仲仕たちが、町からもどってきたので、警部はそのひとりひとりにたずねてみたが、これといった新しい手がかりは得られなかった。
そこでまた、警部は埠頭事務所にかえった。彼は所長のヒューストンにたのんだ、
「お手数でも、あの樽の関係書類を全部見せていただけないでしょうか、貨物運送状、発送状など、ひとつのこらずですが」
所長は姿を消すと、すぐ書類をもってひきかえしてきて、それを警部に手渡した。警部は一渡りしらべると、こう言った、
「これによると、あの樽は、デュピエール商会が発送人で、パリの聖ラガール駅のちかくのカルディネ街の貨物駅から、フランス国有鉄道で発送されたのですな。運賃は先払いで、ルーアンまで鉄道輸送、そこから、ブルフィンチ号に積まれたわけで」
「そのとおりです」
「パリでの集荷が、鉄道の車をつかったものかどうかは、おわかりにならんでしょうな?」
「そうですね、しかし、まず鉄道の車は使っていませんよ、さもなければたぶんべつにその運送料の問題が出てくるでしょうからね」
「この書類は、ひとつも落ちや間違いがないものと考えていいわけですね?」
「ええ、それはもう、立派なものです」
「あの樽が検査もされずに税関を大手をふって通ったわけは、どうなんですか?」
「あの樽には、なにも怪しい点がありませんでしたからね。なにせ、有名な信用のある会社の荷札がはってあることですし、送り状にも、樽に刷りこまれていたのと同様、『彫像』としるされていましたからな。また、あの樽が、彫像を輸送するのにはうってつけのいれものでしたし、重さもまったく|ころあい《ヽヽヽヽ》でしたよ。なにか、うさんくさい場合でないかぎり、ああいった|てあい《ヽヽヽ》の貨物だと、めったにあけられて調べられるようなことはないのです」
「どうもありがとう、ヒューストンさん、いまのところ、おたずねしたいのはこれだけです。ところで、ブルフィンチ号の船長に会えるでしょうか?」
「ええ、会えますとも。船に行ってみましょう、私がご紹介しますから」
マックナブ船長は大男の、骨ばった北アイルランド人で、鉤鼻《かぎばな》で髪の毛は赤黄色だった。船長は、キャビンでなにかノートにさかんにしたためているところだった。
所長が警部を紹介すると、船長はこう言った、
「さ、どうぞ、どうぞ、この私で、お役に立ちますかどうか?」
バーンリー警部は用件を説明した。たずねてみたいことは、二つしかなかった。
「ルーアンで、鉄道の貨車からこの船に荷を積みかえるときは、どうするのですか?」
「貨物列車が波止場に平行してやってくるのですよ。そこで、ルーアンの仲仕たちが港の移動クレーン(起重機)か、さもなければうちの船のウィンチ(巻き揚げ機)を使って貨物を移すんですがね」
「船に積みかえてから、樽に細工をするような真似《まね》は、いったい、できるものですか?」
「細工をするというのは、どの程度のことなのです? ワインの樽なら、穴をあけて酒をぬすむという手もありますが、それ以外にはどうすることもできやしませんよ」
「たとえば、樽をすりかえるとか、中のものをすっかり|から《ヽヽ》にして、なにかべつのものをつめこむとか?」
「そいつはとても無理ですな。まったく不可能ですよ」
「そうですか、どうもありがとうございました、船長、ではこれで」
バーンリー警部は、なにごとによらず徹底的に調べなければ気がすまない|たち《ヽヽ》だった。彼はウィンチの操縦係から機関士、炊事係《すいじがかり》にいたるまで、順々にあたってあるき、六時にならないうちに、ルーアン港から、このブルフィンチ号で航海した全員にひとりのこらず会ってしまったのである。だが、その成果は、残念ながらまったくあがらなかった。問題の樽についての聞き込みはなにひとつなかった。一点の疑念も、その樽から起こらなかったのだ、また、その樽に注意がひかれるようなこともまったく起こらなかった、つまり、いかなる点であれ、異常な感じをあたえるようなことはなにもなかったというのである。
途方に暮れはしたものの、勇気をくじかずに、バーンリー警部は警視庁に車でひきかえした。彼の胸中は、この深い謎《なぞ》にみちみちた事件でいっぱいだった。そして彼の手帳には、ブルフィンチ号と、その船荷と、乗組員についてのありとあらゆる種類の事実が書きこまれていた。
二つの報告が、警部をまちかまえていた。その第一は、ランストン刑事からのもので、警部の命令で、埠頭から、北方方面に荷馬車の足どりを追っていった私服のひとりだった。以下、その伝言――
[#ここから2字下げ]
『リマン街の北端まで、一行の足どりをつかむ。その地点にて足どり不明』
[#ここで字下げ終わり]
二番目のものは、アパ・ヘッド街の警察署が打った電報だった。その電文は――
[#ここから2字下げ]
『手配中の一行は、午後一時二十分ごろ、グレート・イースタン街よりカーテン・ロードに曲るところを目撃』
[#ここで字下げ終わり]
「ふーむ、連中は北西にむかってすすんでいたのか?」警部は、この地区の大縮尺地図をひろげながら、口のなかでつぶやいた、「ええと、ここがリマン街だ、すると、聖キャザリン埠頭から真北にすすんで、半マイル、いや、もうすこしあるな。さてと、二番目の報告はなんだ?」――警部は電文をみた――「カーテン・ロードなら、この地区にあるはずだぞ、やっぱり、ここだ、同一線上の延長をすすんでいるのだ。ほんのすこし、西よりになってはいるが、待てよ、埠頭から一マイル半のところだ。そうか、連中はまっすぐにすすんでいたわけか、大通りを通って――なるほど、すると、いったい、どこにむかってすすんでいるんだろう、ふーむ」
警部は頭をかかえて考えこんだ。「ま、いいさ」彼はとうとう|ね《ヽ》をあげた、「明日まで待つより手はないな」彼は、二人の刑事にひきあげるように指令を出すと、帰宅の途についた。
だがこれで、バーンリー警部の一日の仕事がおわったわけではなかった。やっと夕食をすませ、お気に入りの強い黒葉巻に火をつけるかつけないうちに、警視庁によびもどされてしまったのである。待ちうけていたのはブロートンだった、その青年にもうひとり連れがいて、背の高い、顎の角ばった男、それは監督のハークネスだった。
警部は椅子を二つひっぱり出した。
「さ、坐ってください」青年が監督をひきあわせると、警部が言った、「話をきこうじゃありませんか」
「さきほどお会いしたばかりなのに、また、私がここにうかがったので、さだめしおどろかれたことと思いますけど、警部さん」とブロートンが言った、「埠頭で別れてから、なにか指令が僕あてに来やしないかと思って、社にひきかえしてみました、すると、僕たちが探していたこのハークネスがかえってきたところじゃありませんか。専務に会わせてほしいと、この男は言いましたけど、専務は帰宅したあとでした。そこで、いままでの模様を僕に話してくれたんですが、きっと専務なら、この男をあなたのところにさしむけるにちがいないと思ったので、一刻も早く、この男を連れてうかがうのがいちばんいいと考えたわけです」
「いや、まさにそのとおりですよ、ブロートンさん、それではハークネスさん、ひとつ、いままでのことを私に話してくれませんか」
監督は、固くなって椅子に坐っていた姿勢を|らく《ヽヽ》にした。
「では、旦那、お話しますが、私ぐらいの大馬鹿者はこのロンドンにもちょっといませんぜ。今日の午後ときたら、みごとにひっかかってしまいましたよ、それも一度ならず二度までも、べつべつにやられたんですからねえ。それはそうと、ま、はじめっからお話することにしましょう。
ブロートンさんとフェリックスが船をおりてしまうと、私はその場にのこって、樽の番をしてました。樽を修理するつもりで帯鉄をすこしばかり持ってこさせましたから、私がいつまでもその樽のまわりをうろついていたところで、怪しむものはなかったはずです。かれこれ一時間ちかく待っていますと、フェリックスがもどってきたわけで。
『あんたがハークネスさんだね?』と彼が言いました。
『さいでございます』と私が返事しました。
『あんたあてのエーヴァリー専務の手紙をもって来たのだが、いますぐ、読んでくれないかね』と言いました。
その手紙は、本社からのもので、エーヴァリー専務のサインがしてありまして、ブロートンさんに会ったが、樽についてはなんの心配もない、ただちにフェリックスにその樽を引き渡せと書いてありました、それからまた、荷札の住所に樽をとどけなければならないから、樽とフェリックスについて行くように、無事に届けたら、その旨を報告せよ、とも書いてあったんで。
『承知しました』と私は答え、二、三のものをよびよせて、その樽を陸揚げし、フェリックスが用意してきた四輪の荷馬車に積んだんです。その荷馬車には二人の男がいて、ひとりは赤毛の強そうな奴《やつ》で、あとのひとりは小柄の、色の黒い男で、これが馭者《ぎょしゃ》でした。埠頭の門を出ると東に曲り、リマン街に出て、それから私の知らない町に入っていったんで。
一マイルか、それより少しばかり行きますと、赤毛の男が一杯飲みたいと言い出しました。フェリックスは、はじめのうち、もっと先まで行くように言いはってましたが、それからすぐあとで赤毛の言葉を|のん《ヽヽ》だので、私らは一軒の飲み屋のまえで荷馬車をとめたんです。小男の馭者の名前はウォティでした。フェリックスがそのウォティに、荷馬車を表にとめたままでいいかとたずねますと、馭者は『そいつは駄目でさあ』と答えました、そこでフェリックスはウォティに、ほかのものが店に入っているあいだ、おまえだけ残って荷馬車の番をしろ、自分はすぐ出て来て、おまえと交替してやるから、そしたら、おまえが中に入って飲むがいい、と言ったんです。話がきまって、フェリックスと私と赤毛のジンジャーの三人が店に入りますと、フェリックスがビールを四本注文して、その勘定を払いました。フェリックスは自分のビールを飲みほしてしまうと、表にいるウォティを飲みによこすから、それまで腰をあげずに待っていろと私らに言って、出て行きました。と、その途端に、ジンジャーが身をのりだすと、私の耳にささやいたんで、『おい、兄弟、あのいやに派手な樽を、大将はどうする気なんだろう? おれは五対一で賭《か》けてもいいが、なにか|いわく《ヽヽヽ》があるぜ』
『さあ、どうかねえ』と私は答えてやりました、『そういうことは、おれにはちっともわからねえ』いや、旦那、じつは私も|くさい《ヽヽヽ》とにらんでいたんでさあ、しかし、怪しい点があるなら、専務さんが『なんの心配もない』なんて、太鼓判《たいこばん》をおすはずがありませんからね。
『そこで相談だが、あんたとおれとで、目をひからせて見張っていたら、二、三ポンドの余禄《よろく》にありつけるかもしれねえぜ』とジンジャーが言い出しました。
『そりゃあ、どういうわけだね』と私がききかえしました。
『どうもこうもあるものか、もしも、大将があの樽でなにかうしろぐらい儲《もう》けをたくらんでいるなら、他人にかぎつかれて割りこまれたくないにきまっているよ。そこで、あんたとこのおれが口どめ料を出せといってせびったら、大将だって、いくらか出しておれたちを追払った方が利口だと考えるだろうさ』
そこで私は、じっくりと考えてみたんですよ、まずはじめに、この赤毛の野郎は、あの樽のなかに死体があるのを知っているんじゃないか、それなら、こっちの肚《はら》のうちを見すかされずに探り出せないものかどうか、やってみようとしたんです。それから、こいつはひょっとすると、この赤毛の野郎もおなじ穴の|むじな《ヽヽヽ》で、自分に|かま《ヽヽ》をかけているのかもしれないぞ、と考えたんです。だもんですから私は、もうしばらく、うまく受け流しておいてやろうと肚《はら》をきめて、こう言ってやったんですよ、
『馭者のウォティも仲間に一枚くわえるのかい?』
するとジンジャーが言いました、『そいつはまずいや』こういう仕事にゃ、三人じゃ多すぎる、って言うんでさあ、そんなことからしばらく私らは話しこんでいました。と、手もつかずにそのままになっているウォティのビールが、ふと私の目に入ったんで、そういえば奴が飲みに入ってこないじゃないか、と私は思ったんです。
『せっかくのビールが気がぬけてしまうぜ』と私が言いました、『飲みたけりゃ飲みたいで、さっさと来りゃいいに、グズな野郎だ』
すると、ジンジャーがからだをおこしてサッと坐りなおしました。
『なにをしてやがるんだろう? よし、ちょっと表に出て見てきてやる』と赤毛は言いました。
どういうわけか私にも分りませんが、そのとき、なんだか様子がおかしかったもんですから、私も赤毛のあとにつづいて表に出たんです。荷馬車はありませんでした。赤毛と私は大通りを見渡してみたんですが、荷馬車はおろか、フェリックスも馭者のウォティの姿も見あたりません。
『クソッ、おれたちを|まき《ヽヽ》やがった』とジンジャーが叫びました、『さ、グズグズしちゃいられねえ、あんたはあっちを探せ、おれはこっちに行ってみる、そうすりゃ、どっちかが、角を曲ったところで、きっと奴らの姿を見つけるさ』
そこで、こいつはいっぱい喰わされたと、私は思ったんです。奴ら三人はグルになってる悪人どもで、なんとかして死体を処分しようとしているんだ、だから、このおれがそばにつきまとっていては仕事にならないんだ、飲み屋に入ったのも、あれはみんな、おれを荷馬車から追払うためのたくらみで、ジンジャーの野郎がおれに話しかけたのは、ほかの連中が姿をくらますまで、このおれをひきとめておくための手段にすぎなかったんだな、よし、二人にはまんまとにげられてしまったが、この赤毛だけはどんなことがあったってにがさねえぞ。
『駄目だ、そうはいかねえよ』と私は言ってやりました、『おまえとおれとはべつべつにならない方がいいさ』私は赤毛の腕をつかむなり、やつが自分で探しに行くといった方角に、せきたてました。しかし、曲り角まで行ってみても、荷馬車はぜんぜん見あたりませんでしたよ。やつらは、あざやかに私らをまいてしまったんです。
ジンジャーの野郎ときたら、わめきちらし、いったいだれが今日の日当を払ってくれるんだといきまく始末なんです。私は、やつの素姓や、雇い主はどこのだれかということをきき出そうとしたんですが、やつはこれっぽっちも口を割らないんで。とにかく私はやつのそばにピッタリついてはなれませんでした、いずれはやつだって家に帰らなければならないでしょうし、やつの巣をつきとめさえしたら、働き先をかぎつけるのは|ぞうさ《ヽヽヽ》もないこってすからね、そうなれば、フェリックスをふんづかまえてやれる見こみもでてくるというわけでさあ。赤毛のやつは、なんべんも私から逃げ出そうとしましたが、それが駄目だと分ると、こんどはまるで気ちがいみたいになって怒り出したんですよ。
私らは、夕方の五時ちかくになるまで、かれこれ三時間以上も歩きまわりました。それから飲み屋に入り、ビールをいくらか飲み、そこを出てから、二つの通りの角に立たずんだまま、私らはこれからどうしたものかと思案しました。と、だしぬけに、ジンジャーのやつが私によろけるようにしてもたれかかってきたものですから、その勢いにおされて、そばを通りかかった婆さんにドスンとぶつかってしまい、すんでのところで婆さんは突き倒されそうになったんです。私はあわてて婆さんをだきとめました――そうする以外にないじゃありませんか――私があたりを見まわすと、畜生、赤毛のやつがいないんですよ、私ははじめの通りをつっ走りました、それから二番目の通りもかけおりました、それからさっきの飲み屋にもどってみたんですが、やつの影も形もみえませんでした。われながら自分の間抜けに腹を立てたんですが、いずれにしろ、ことの|てんまつ《ヽヽヽヽ》をエーヴァリー専務さんにお知らせしに会社にもどった方がいいと考えたんです。私がフェンチャーチ街の本社に行きますと、このブロートンさんが、ここへつれて来てくださったというわけでして」
監督が口をつぐむと、あたりはシーンとしたままだった。バーンリー警部は、いまきいたばかりのハークネスの話と、昼間きいたブロートンの話とをあわせて、その特有のねばり強さでじっくりと考えていた。そして、この一連の出来事を細部にわたって再検討しながら、証人の主観的な意見にすぎないものから、明確な客観的事実だけを可能なかぎり切り離そうとつとめていた。もし、この二人の証人が信用できるなら、また、バーンリー警部にそのどちらをも疑うべき理由がないとしたら、問題の樽の発見と荷馬車による運搬の事実は、ひとつの点をのぞいて、きわめて明白だった。ひとつの点、つまり、その樽に死体がほんとうにつめられていたというはっきりした裏付けがないように思われるのだ。
「ブロートンさんの考えでは、その樽に死体がつめられているというのですが、あなたもそれに同意しますか、ハークネスさん?」
「そうですとも、旦那、そいつはもう疑いのないところですよ、なにしろ、私ら二人が女の手をこの目で見たんですからね」
「しかし、彫像とも考えられないことはないじゃありませんか? たしか、その樽には『彫像』というラベルがはってあったという話でしたね」
「なに、彫像なんかじゃありませんでしたよ、旦那、はじめは、ブロートンさんもそう思ったんですが、二度目に調べたら、私が言うとおりだと、みとめたんですからね。ありゃ死体です、まちがえっこありませんや」
さらに質問をかさねていくうちに、この二人の証人たちは、いずれも、その手がほんものであると確信していることが分った、もっとも、その裏付けとして、『見た目にそううつった』という以上に二人の証言は出られなかったが。警部は、二人の意見が一応妥当なところだと思ったものの、それにちがいないと確信するまでにいたらなかった。それにまた、樽につめられているものが片手か、せいぜい片腕一本ということも考えられると、警部は思った。また、いささか度《ど》はすぎるが、いやがらせのつもりで、医学生などがこんなものを樽づめにするかもしれない、などと、フッと思ったりした。警部は、あらためてハークネスのほうに顔をむけた。
「フェリックスが、ブルフィンチ号であなたに渡したという手紙を持っていますか?」
「こいつです、旦那」監督は警部に手渡した。
事務用の小型の便箋で、見たところ、いかにも若い書記が書いたような筆蹟だった。頭のところに、I・アンド・Cの社名が印刷してあった。その文面は――
[#ここから2字下げ]
一九一二年四月五日
聖キャザリン埠頭
ブルフィンチ号のハークネス殿
フェリックス氏宛の樽について
右の件につきフェリックス氏とブロートン書記に会いましたところ、その樽はまちがいなくフェリックス氏宛のものであり、ただちにお渡しすべきことが判明しました。
この手紙を一読次第、すみやかにその樽をフェリックス氏にお渡し願いたい。
当社としては宛名の住所まで、その樽をお届けする責任があるから、当社を代表して同行し、無事お届けしたら、小生までその旨ご報告願いたし。
I・アンド・C海運会社
専務 X・エーヴァリー
X・X代筆
[#ここで字下げ終わり]
『|X《エックス》』の頭文字は判読しがたいほどくずしてあって、いかにも重役らしい筆蹟だったが、奇妙なことに、おなじ手になる『エーヴァリー』という名前のところだけは、いやにはっきりとサインしてあった。
「いずれにしろ、おたくの会社の便箋をつかったことはたしかですな」と警部はブロートンに言った、「この頭の社名の印刷もあなたの会社のもので、にせものではないですね?」
「うちの社のものにちがいありません」と書記は答えた、「しかし、手紙がにせものだということはあきらかです」
「私もそうにちがいないとは思いますが、どういうところで、それが分るんです?」
「ま、それにはいくつか理由がありますね、まず第一に、うちの社では、従業員に連絡するのにこういう上等の便箋は使用しないのです。もっと安っぽいメモ用のやつで用をたしますから。第二には、みんなタイプでうつんです。第三は、うちの書記には、こんな代筆のサインをするものはいませんからね」
「それでは決定的ですな。すると、この偽造者が、専務さんの頭文字も、それから書記の頭文字も知らなかったことはあきらかですね。犯人が知っていたのは、エーヴァリーという名前だけにかぎられていたわけで、あなたがお話してくださった事件のいきさつから判断すると、フェリックスが、専務の名前だけは知っていたと考えてもいいわけですね」
「それにしても、いったいどうやって、あの男はうちの社の便箋を手に入れたんでしょう?」
警部はニッコリと微笑した。
「なに、そんなことは|ぞうさ《ヽヽヽ》もないことですよ、おたくの主任さんがフェリックスにあげたじゃありませんか」
「あ、そうか! やっとからくりが分りましたよ。やつは専務に手紙を書くからと言って、便箋と封筒を主任からもらう。封筒だけ会社にあずけて、便箋をもったまま姿を消したというわけか」
「そうなんですよ。エーヴァリー専務から、からっぽの封筒の話をきいたとたんに、私は分ったのです。フェリックスの手が読めたものですから、それであんなにあわてて、私は埠頭に急行したんですよ、なんとかしてやつより一足さきに着けないものかと思ってね。ところで、こんどは樽にはってあった荷札のことですが、もう一度、できるだけくわしく説明してくださいませんか」
「その荷札は、横六インチ、縦四インチばかりのカードで、その縁《ふち》のまわりを、鋲《びょう》でとめてありました。カードの上の部分には、デュピエール商会の名前と広告になっていて、下の部分の右隅に、ほぼ三インチのスペースがあって、そこに宛名と住所が書きこまれていたわけです。そのスペースは、太い黒線で縁どりがしてあるのですが、あの荷札は、この黒い線の縁ぞいに、そのなかの書きこみの部分が切りぬかれてあって、三インチに二インチばかりの穴があいていたんです。そして、その裏から紙かカードをはりつけて、切り抜いた部分をわからないようにうめてあったんです。ですから、フェリックスの宛名と住所は、この裏うちの紙に書かれていたもので、荷札そのものに書かれていたんじゃなかったわけですよ」
「ずいぶんおかしな細工《さいく》をしたものですね、あなたはどう解釈します?」
「たぶんそのとき、デュピエール商会で、荷札がたまたまきれていたので、使い古しを切り抜いてつかったんじゃないでしょうか」
バーンリー警部は、この荷札の問題を胸中であれこれと考えながら、上の空の返事をしただけだった。ブロートンの解釈は、むろん、あり得ることだった、実際のところ、もしあの樽のなかに、荷札どおり彫像が入っていたものなら、いかにもありうることなのだ。だが一方、もし死体がほんとうに入っているとしたら、こんな細工をした理由はもっと深いところにあるはずだ、と警部は見てとった。この場合、デュピエール商会からあの樽が発送されたものだということは、まずありそうもない、と彼は考えた。では、もし発送されなかったとしたら、どういうことになったのか? と、ちょっと考えられそうな解釈が警部の頭に浮かんだ。かりにある人物が、デュピエール商会から、彫像の入っている樽を受取ったとする、そして、その樽を返えさないうちに人殺しをしたとするのだ、犯人が、死体を処分するために、樽づめにしてどこかに送りつけてしまおうとしたら、荷札はどうするか? そうだ、現におこなわれたとおりの細工をするにきまっている。税関を難なくパスさせるために、その樽についているデュピエール商会の荷札をはがさずにおいて、送先の宛名と住所が書きこまれている部分だけを変えるにちがいない。そうするには、書きこみの部分をきりぬいて、裏うちするやり方が、いちばん巧妙な細工のし方だと、警部は考えた。彼はブロートンとハークネスの方に、あらためて顔をむけた、「すぐとんで来てくださったり、情報を提供していただいたりしましたが、ほんとうにありがとうでございました。ところで、おふたかたの住所を教えていただけませんか、今夜はこれで充分だと思いますので」
バーンリー警部は、もう一度、帰宅の途についた。だが、今夜はよくよく|ついて《ヽヽヽ》いない晩だった。九時半ごろ、警部はまたまた、警視庁から呼び出されたのである。その使いのものの話では、電話で大至急連絡したいと言ってきたものがあるというのだ。
三 塀の上の監視者
バーンリー警部が警視庁でブロートンとハークネスの二人に会って話をきいていたちょうどおなじころ、さらにべつの、問題の樽をめぐる一連の出来事が、ロンドンの他の地区で進行していたのだ。
巡査|Z《ゼット》七六号、ジョン・ウォーカーは、最近、警察に入ったばかりの新米の警官だった。機智に富む前途有望の青年で、責任感に強く、職務には忠実だった。彼はいろいろな野心に燃えていたが、なんといっても、そのおもな望みは、刑事になることだった。警視庁の警部という目もくらむようなすばらしい地位に昇進する日を夢みては、この青年巡査は胸をときめかしていた。コナン・ドイル、オースチン・フリーマン、その他、探偵小説の巨匠のものを読破したおかげで、彼の想像力は刺激されていたのである。これらの探偵小説に登場してくる名探偵の|ひそみ《ヽヽヽ》にならおうとする彼の努力が、警察官としての生活をさらにいきいきとしたものにしてくれるのだ、また、作中の名探偵たちから、実質的にさして学ぶところがなかったにしろ、すくなくとも彼にとってマイナスになるようなことはなかった。
その夜の六時半ごろ、ウォーカー巡査は、私服に着かえて、ホロウェイ・ロードをブラブラと歩いた。ほんのいましがた、勤務が終ったので、お茶をのんで、これから観に行くイズリントン劇場で上映中のスリラー映画『愛の罠』の二回目がはじまるまでの時間をつぶしているところだった。けっこう遊び好きのくせに、歩いているときでも、彼は観察と推理の訓練に余念がなかった。行きあう人たちの人相風体を観察して、この人たちの過去を推定する習慣を身につけていた、たとえシャーロック・ホームズほどの見事な成功がおさめられなかったにせよ、いつの日か、その域にまで達するような腕前になることを、ひそかにねがっていたのである。
ウォーカー巡査は通りすがりの歩道の人々に目をむけたが、練習にうってつけの材料になりそうな人間は、ひとりとしていなかった。ところが、往来を行き交う車馬を見渡しているうちに、青年の注意をひかずにはおかない一台の車が、パッと目にとまったのである。
青年にむかって車道をやって来たのは、薄茶色の馬がひいている四輪の荷馬車だった。その上に、立てかけた大きな樽が乗っている。前には二人の男が腰をおろしている。うち、頬のこけた、針金みたいに筋ばった男が馭者《ぎょしゃ》だった。もうひとりのは、やや小柄な男で、精根つきたといった|てい《ヽヽ》で樽によりかかっている。その男には黒い顎髯《あごひげ》があった。
ウォーカー巡査の心臓は早鐘《はやがね》のように鳴りだした。この青年のいいところは、つねづね、手配中の犯人の人相風体をことごとく記憶していることで、今日の午後も、ちょうどこれとそっくりの馬車を手配中の警視庁の電報を見たばかりのところだった。しかも、それは緊急手配のものだった。|このおれ《ヽヽヽヽ》が見つけたのか? 夢ではないかと半信半疑でいるうちに、ウォーカー巡査はしだいに興奮してきた。
彼はごくさりげなくからだのむきをかえると、荷馬車の行く手にむかってブラブラと歩き出した、そして手配電報にあった細目をことごとく懸命に思い出そうとした。四輪荷馬車――まさにドンピシャリ、一頭立《いっとうだて》――こいつもピタリだ。樽――がっしりした|つくり《ヽヽヽ》、鉄の輪がかけてあって、端で折れている一本の樽板を、釘《くぎ》をぶっつけてあらっぽく修理してある。と、ちょうどそのとき、うしろから来た荷馬車が、歩道を歩いている青年と肩をならべたので、彼はすばやく視線をなげた。そうだ、樽の|つくり《ヽヽヽ》はばかに頑丈、鉄の輪がはめてあるぞ、樽板がおれているかどうかはここからじゃ見えない。たしか手配中の荷馬車は、あかるい青塗りで、トットナム・コート・ロードの番地がついていたぞ。だが、ここでウォーカー巡査はショックをうけた。目の前を行く荷馬車の色は、くすんだ褐色で、『下ビーチウッド・ロード、マドックス街一二七、ジョン・ライオンズ父子商会』となっているではないか。絶望のあまり、青年巡査の目のまえはくらくなってしまった。絶対に間違いなしというところまでいきかけて――しかも、荷馬車の色をのぞいたら、なにからなにまで手配電報の馬車とそっくりだというのに。
ウォーカー巡査は、赤っぽい褐色の塗りに、もう一度、目をやった。と、おかしなことに、塗りにむらができているではないか。ある部分はいくぶんか色つやがいいのに、ほかの部分はくすんでいて、まるっきりさえない。ここでまた、消えかけた興奮の火が、青年の胸のなかでもえあがったのだ。なぜ、こんな|むら《ヽヽ》があるのか、彼に分ったからだ。
彼が子供のころ、故郷の村のちいさなペンキ屋にいつも遊びに行っていて、ペンキのことを、二、三おぼえこんでいたのだ。ペンキを早くかわかしたかったら、つや消しをいれる――オイルのかわりに、テレピン油か、つや消しになるようなものをいれればいい。こうすれば、塗りたてのペンキも一時間以内にかわいてしまうが、そのかわり、色つやは失せて、全体がくすんだ色になってしまう。ところが、オイル入りのペンキを塗ったばかりのところへ、つや消しのペンキを塗ると、なかなか乾かないうえに、乾く途中で|むら《ヽヽ》になり、乾いた部分はくすんだ色になってしまうが、乾ききらない部分は色つやがあるということになるのだ。この荷馬車が、つや消しを入れた褐色のペンキを塗ったばかりであり、それがまだ、ほんのところどころしか乾いていないことが、ウォーカー巡査にはあきらかになった。
と、ある考えが青年の頭にパッとひらめいた、彼はまだらになっている荷馬車のわき腹のあたりを喰い入るように見つめた。やっぱり、にらんだとおりだった。つや消しのペンキの下地に、かすかではあるが白文字の痕跡が、塗りつぶされた地よりも淡い色になって、おぼろげに浮かびでているではないか。青年巡査の心臓がおどりあがった、ついに尻尾《しっぽ》をつかんだのだ! 正に一つのあやまりもなかった。
彼は荷馬車からわざとおくれた、あくまでも目を釘づけにしたまま、自分がつかんだ絶好のチャンスに、胸をおどらせていた。このとき、馬車には男が四人乗っていなければならないはずだということを、彼は思い出した。背が高く、赤黄色の口髭《くちひげ》をはやしている、頬骨の張った、四角い顎の男。小柄できゃしゃなからだつき、一見外国人風の黒い顎髯の男。それから、手配電報で人相にふれていない男があと二人。荷馬車には、黒い顎髯の男は乗っているが、背の高い赤毛の男は見あたらない。手綱《たづな》をもっている男は、おそらく手配電報の人相書に出ていないうちのひとりにちがいない。
たぶん、ほかの二人は歩いているのだということに、ウォーカー巡査はふと思いついた。そこで荷馬車にひきはなされるのもかまわず、同じ方向に歩いてくる男の通行人を、かたっぱしから、必死になってたしかめてみた。彼は道路を渡り、さらにまた渡りかえった。だが、手配電報の赤毛の男に該当するものは、だれひとり見あたらなかった。
荷馬車はあくまでも北西にむかって進んでいった、ウォーカー巡査はかなりおくれて尾行していった。ホロウェイ・ロードの町はずれに出ると、そのままハイゲートを通りぬけ、それからグレート・ノース・ロードにそってすすんで行った。もうこのころになると、夕闇がおりてきた、荷馬車に不意に曲がられでもしたら見失うおそれがあるので、巡査はすこしばかり間隔をつめた。
尾行は、四マイルちかくもつづけられた。時間も八時になろうとしていた、ウォーカー巡査の頭を、畜生、いまごろは『愛の罠』がはじまっている最中だな、といういかにも残念そうな思いがかすめた。都会を思わせるようなものはすべて背後に消え去ってしまっていた。あたりはまったくの郊外で、道路の両側には、土地つきの一戸建や長屋づくりの別荘がポツンポツンとならんでいるばかりで、『宅地用貸地』という札が立っていた。この夜はあたたかく、シーンとしずまりかえっていた。西の空はまだあかるかったが、東には星がチカチカとかがやきはじめている。まっくらになってしまうのも、あとわずかだ。
と、突然、荷馬車がとまった。男がひとり降りると、道路の右手にある車道の門をあけた。巡査は五十ヤードばかりはなれた生垣《いけがき》に身をかくすと、じっと息を殺した。と、また荷馬車の動き出した音がきこえ、道路にひびくガラガラいう車《わだち》の音が、砂利道にきしむやわらかな音にかわった。巡査が生垣にそってにじりよってみると、荷馬車の灯《ひ》が、右手にむかって動いていくのが分った。
いま、荷馬車が入っていった地所のほんの手前から、ほそい小径《こみち》が同じ方向にわかれていた。じっさいのところ、荷馬車が通っていった車道は、この小径からほぼ三十フィートのところを走っていて、ウォーカー巡査の偵察《ていさつ》したかぎりでは、手前の小径も、そのむこうの車道もともに道路から直角におれていて、小径は地所の外側を、車道は地所の内側を平行するように走っているのである。巡査は足音をしのばせて、その小径をたどっていた。したがって、彼我《ひが》の間には生垣という厚い境界線がひかれているわけだ。
まだ、すっかり闇につつまれてしまったわけではなかったので、空を背景にして、黒く浮かびあがっているその家の、かなり低い輪郭をつかむことができた。入口のドアは、小径に面した切妻壁《きりづまかべ》の端についていて、家の中は真の闇だったけれど、あいていた。家の背後には、その切妻壁の端から小径に平行して、高さ八フィートほどの塀があり、門がついていた。あきらかにこれは、中庭の塀なのだ。車道は、玄関のドアと切妻壁のまえを通って、塀についている門にまでのびていた。家の建物は小径よりにあって、いま、巡査がちいさくうずくまっているところから、四十フィートとはなれていない。生垣のすぐ内側には、ちいさな並木がつづいている。
庭の門の正面には、荷馬車がとまっていて、ひとりの男が馬の|くつわ《ヽヽヽ》をとっていた。巡査がさらににじりよると、閂《かんぬき》をはずす音がきこえ、庭の門がひらいた。無言のまま、外に立っている男は馬車を庭のなかにひきこむと、門はまたしまってしまった。
ウォーカー巡査の胸中に、冒険心がやみくもにたかまってきた、青年は、どういうことになるのか、その模様を見とどけるためにもっと近よってみたい衝動にかられた。と、玄関のドアの向い側の、生垣にちいさな門があるのに巡査は気がついた。彼はその門までひきかえすと、満身に注意をこめてその門をあけ、足音をしのばせて、スルッとしのびこんだ。生垣のかげや、木のかげにたくみに身をかくしながら、彼はまたむかい側の庭の門のところまでしのびかえすと、偵察にかかった。
門をこえたところ、つまり家から離れた側に、庭の塀が五十フィートばかりつづき、その端からすじかいに生垣が出ていて、塀と、いま巡査が身をかくしている生垣とをつないでいるのである。巡査は、このすじかいの生垣にそってあたりに気をくばりながら、庭の塀にたどりつくまでソロソロとすすんでいった。
ふかまりつつある闇のために、そこまでたどりつくまで巡査に分らなかったのだが、生垣と塀のあいだの隅に、ちいさな、丸木造りの|あずまや《ヽヽヽヽ》があった。巡査はこれに気がついた途端、あるアイデアが頭にひらめいた。
根《こん》かぎりの注意をはらって、彼はその|あずまや《ヽヽヽヽ》の屋根にのぼりはじめた、体重をかけるまえに、一歩一歩、足でたしかめながら。ソロソロとよじのぼってゆくうちに、ソッと頭をもたげてみると、塀越しに、なかの様子がのぞけるようになっていた。
中庭の奥ゆきはかなりたっぷりあって、巡査が身をしのばせているところから家までの距離は、七十、いや八十フィートはあった、もっとも幅はせいぜい三十フィートといったところだ。家の向い側には納屋《なや》が一列にならんでいる。そのなかの、一見馬車小屋と分る一軒の大きな両開きのドアはあいていて、その奥から光りが流れ出ている。そのドアの正面におしりをむけて、荷馬車がとまっていた。
この馬車小屋は、中庭のいちばん奥のほうにあるので、ウォーカー巡査には、その中の様子をうかがうわけにはいかなかった。そこで彼は|あずまや《ヽヽヽヽ》から塀にのりうつると、ソロソロと音をころして、塀の上をはいながら、家のほうにむかってにじりよっていった。塀の上をはって行くのは、戦略的に言って、きわめて拙劣《せつれつ》だということは分っていたものの、塀は中庭の南東にあたっているのだから、まっ暗な空を背景にするわけだし、それに塀ぞいにならんでいる木のかげで、いっそうカムフラージュになるにちがいないと、彼は判断したのである。まず、敵に気づかれる心配は無用だと、彼は馬車小屋の正面ちかくまで、塀の上をジワジワとすすんでいった。そこで、彼はピタリとからだをふせると、小屋のなかから流れているランプの光に顔が白く浮かびあがってはおしまいだと思って、茶色の上着の袖《そで》で顔をかくして、じっと待ちかまえた。
ここまで来たら、馬車小屋の中が手にとるように分った。ひろびろとした|ガランドウ《ヽヽヽヽヽ》の部屋で、白塗りの壁に、床はセメントだった。壁の釘に耐風ランプがつるされていて、その光のおかげで、顎髯の男が、床のまんなかにおいてある脚立《きゃたつ》からおりてくるところが、巡査には見えた。そのすぐそばに、針金のような男がつっ立っている。
「あの鉤《かぎ》なら大丈夫さ」と顎髯の男が言った、「梁《はり》にしっかりとかけたからな、さ、こんどはおつぎの番だ」
顎髯はそう言うととなりの部屋に入っていったが、ほどなく、小型のチェーン・ブロックをもってひきかえしてきた。そして、そのはしっこを持って、脚立をのぼると、天井のほうにあるなにかにしっかりとひっかけた。それから、床にあった脚立がかたづけられた。塀の上のウォーカー巡査のところからは、わずかに、細い吊しぐさりのついたブロックの鉤がぶらさがっているのが、入口のドアの横木の下からしか見えなかった。
「よし、荷馬車をバックさせろ」と顎髯が言った。
荷馬車はおしりをむけたまま小屋のなかに入ってくると、つんである樽がブロックの鉤の真下にきたところでピタリととまった。二人の男は、つり索《なわ》を樽にかけるのに骨を折っていたが、やっとのことでそれがかかると、鎖の輪にはめて、そろそろと樽をつりあげた。
「よし」樽が六インチばかりつりあげられると、顎髯が言った、「こんどは馬車をひっぱり出せ」
痩せた男は、馬の|くつわ《ヽヽヽ》をとると、その建物から荷馬車をひき出し、中庭の門の正面にとめた。それから、顎髯も、壁の釘からランタンをはずすと、樽をちゅう吊りにしたまま、建物から出て来た。彼は馬車小屋の両開きのドアをしめ、ボルトと南京錠《ナンキンじょう》をかけて厳重に戸じまりをすると、中庭の門まで歩いていって、その門をあけにかかった。いまや二人の男は、ウォーカー巡査のほんの目と鼻のさき、十五フィートとはなれないところにいるので、彼は息を殺したまま、じっと塀の上に腹ばいになっていた。
痩せた男がはじめて口をひらいた。
「ちょっと待っておくんなさい、日当はいついただけるんで?」
「ああ金か」と顎髯が言った、「おまえの分なら、いまあげるよ、おまえの相棒の分は、私のところへ来さえすれば、いつでもやろう」
「そいつは無理でさあ」と痩せた男は喧嘩腰《けんかごし》で言った、「相棒の分は、いま一緒にいただきましょう、わざわざここまで貰いにくる暇なんざ、なんであるもんですかい」
「おまえに渡したところで、あの男がまだ貰っていないと言って、ここにまたやって来ないともかぎらないが」
「あっしが、たしかに頂戴しましたって言う以外に、保証なんざありませんよ、さ、旦那、|ごたく《ヽヽヽ》をならべねえで、さっさと払うものは払って、あっしを帰えしてくれませんか、それから、お断りしておきますがね、二ポンドで話がすむと思ったら、とんでもねえ大間違いだ、この仕事ときたら、はじめに話があったときと、たいへんなちがいじゃありませんか、ま、こんなヤバイ仕事をさせておいて、あっしたちの口が割れねえようにしようと思うんだったら、それだけのことはちゃんとしていただかなくちゃねえ」
「なにを言うか! いったい、それはどういう意味なんだ?」
痩せた男は横目でジロリと顎髯を見た。
「こんな哀れな人夫を、頭ごなしに怒鳴りつけなくたってよさそうなもんじゃありませんか、ねえ、旦那、あっしらの肚《はら》のうちはたがいによく分っているはずですぜ。旦那だって、野暮な|せんさく《ヽヽヽヽ》はご迷惑にちげえねえ、ま、あっしたちの日当に、一人十ポンドいただけりゃ、あっしも相棒も、なんにも知らねえことにいたしますがねえ」
「おいおい、気でも狂ったのじゃないのかね、私には、なにも秘密にするようなうしろ暗いことはひとかけらもないのだ、樽の運搬にしろ、べつに秘密にしなければならないようなものじゃない」
痩せた男は、わざとらしくウィンクをしてみせた。
「そうでしょうとも、旦那、うしろ暗いところなんか、あるもんですか、それに十ポンドずつくださりゃあ、ちゃんとそういうことになるんで」
しばらく沈黙がつづいた、やがて顎髯が口をひらいた。
「おまえは、あの樽になにかうさんくさいことがあるとでも思っているのか? それなら、あいにくだったな、なんの不正もないんだから。しかし、おまえがこんどの木曜日までに樽のことを喋《しゃべ》ってしまうと、私が賭けに負けてしまうことはたしかなのだ。よし、それではおまえたちに五ポンドずつ払うことにしよう、おまえの相棒の分も一緒に払う」顎髯は金貨を何枚かとり出すと、手のなかでチャラチャラならしてみせた、「さ、五ポンドで手を打つか、それともあきらめるか、断っておくが、私のほうは、これ以上|金輪際《こんりんざい》出さないぞ、それくらいなら賭けに負けたほうが安あがりだからな」
痩せた男は、さも|のど《ヽヽ》から手が出そうな顔つきで金貨に見とれたまま、モジモジしていた。やがて答えようとして口をひらいたものの、突然、なにかが頭にひらめいたとでもいった様子だった。なんとも煮えきらない態度で、顎髯の顔をもの問いたげに見つめたまま立ちはだかっている。ウォーカー巡査には、ランプの光で、痩せた男の表情が手にとるように分った。底意のある冷笑に、その唇はひきつっていた。さんざん難問に頭をなやましたあげく、やっと結論に達した男みたいに、彼は金貨を受取ると、馬の|くつわ《ヽヽヽ》をとった。
「なに、旦那」男は荷馬車を動かしながら言った、「まったく公明正大でさあ、このあっしがちゃんとお約束しますよ」
顎髯は中庭の門をしめるとボルトをかけ、ランプを手にして、家のなかに入っていった。やがて砂利道を軋《きし》りながら去って行く荷馬車の音も絶えると、あたりはまったく静寂にかえった。
しばらくのあいだ、ウォーカー巡査は息を殺したままの姿勢でじっとしていたが、塀の上からしずかに身をすべらして地面にそっとおりた。生垣まで足音をしのばせてもどり、小門を音もなくしのび出ると、またさっきの小径に出た。
四 真夜中の会見
ウォーカー巡査は小径に立たずんだまま、じっくりと考えこんだ。いままでのところ、大成功だ、と心から思った、まったく|つい《ヽヽ》ていたぞ、とわれとわが身を祝福してやったくらいだった。だが、つぎにうつべき手が、彼には|かいもく《ヽヽヽヽ》見当がつかないのだ。いちばん近い警察をさがしあてて、そこの部長に直接報告すべきか、それとも電話をするか、いや、警視庁までひっかえすべきだろうか? あるいは、さらにむずかしくはあっても、このまま一歩もはなれずにここにとどまって、あらたなる事件の進展を見張っているべきか?
彼は十五分ばかりというもの、つぎに打つ手をあれこれと迷いながらたたずんでいたが、やっとのことで、自分の署に電話で報告して指示を仰ぐことにきめかかったときだった、いま自分が立っている小径を、ゆっくりと歩いてくる足音を巡査は耳にしたのだ。姿を見られたら万事休すとばかりに、ウォーカー巡査はやにわに生垣の小門にひきかえすと、スルリと抜け、中庭のちいさい木の幹のかげに、ピタリと身をつけてかくれた。足音はしだいに近よってくる。近づいてくる人間の正体は、まるでわからなかったが、その足どりはひどくのろかった、まるでしのび足でやってくるような気がする。足音は、巡査が身をひそめている木のまえを通りすぎた、その後姿から、彼は闇をすかして、中背の男とかろうじて判断した。と、ほんの四、五秒で、その足音はピタリととまり、またのろのろとひきかえしはじめて、巡査のまえを通りすぎ、小門のすぐそばまできてとまった。あたりは死のような静寂につつまれていたので、その見知らぬ男があくびをしたり、力なく咳《せき》ばらいしたのが、巡査にははっきりきこえた。
いまは残照も空からあとかたもなく消えうせ、星がキラキラとかがやいていた。風はまったくなかった、だが、夜特有の鋭さが、あたりの空気にじわじわとしのびこんできていた。なんの脈絡もない夜の物音が、ときたま、思い出したようにひびいてくる、犬の吠《ほ》え声、カサカサと草のなかを走る小動物の音、街道を走る自動車の音。
さしあたり、ウォーカー巡査を迷わせていた問題は、おのずと決着がついてしまったようなものだ。つまり、もう一人の監視者がこの場にいるかぎり、身動き一つできないというわけである。巡査はかすかに身ぶるいすると、運を天にまかせて、このまま待つことに肚《はら》をきめた。
彼は、いま何時ごろか、頭のなかで計算しはじめた。まず八時半前後にちがいない、と彼は胸のなかでつぶやいた。あの荷馬車が車道に曲って入っていったのが八時ごろだったから、あれからすくなくとも三十分はたっていなければならないと、彼はにらんだわけだ。ウォーカー巡査はこの夜の十時まで非番だった、許可なく遅刻したくはなかったのである。もっとも事が事だけに、弁明は立派に立つはずだ。彼は勤務に遅刻したときの光景を頭のなかで描きはじめた――きっと巡査部長のやつ、陰険な怒り方をするだろうな、上司に報告するといって、おれをおどかすにきまっている、そこでおれがおもむろに遅れた理由を説明してやる、すると、いまのいままで仏頂面《ぶっちょうづら》をしていた巡査部長のやつ、こんどは腰をぬかさんばかりにびっくりして……
と、このとき、カチリというかすかな音が車道の門のあたりでしたので、ウォーカー巡査は思わずハッとわれにかえった。砂利道を歩いてくる足音、ドシッドシッという力強い足音、それもかなり早足だ。ひとりの男が家に近づいて行く。
巡査は、じりじりとからだを木の幹にそって動かした、玄関のドアから光でも射《さ》した場合、からだをさらさないためである。男はドアのところまで行くと、ベルを鳴らした。
ものの二、三秒もしないうちに光がドアの欄間越しに射し、顎髯がドアをあけた。訪ねた客は、がっしりとした肩幅のひろい大男で、黒い外套《がいとう》にソフト帽子といういでたちで、玄関の石段の上に立っている。
「やあ、フェリックス!」客は心から叫んだ、「よく家にいたね、いつ帰ってきたんだ?」
「なんだ、マーチン? さ、入りたまえ、日曜日の夜に帰ってきたんだよ」
「いや、ありがたいけど、そうしちゃいられないんだ、じつは君を誘いにきたんだよ、ブリッジをやろうと思ったんだが、頭数がそろわないもんでね。いま、トム・ブライスが家に来ているんだ、友人をひとりつれてさ、若手の弁護士でね、リヴァプールから来たんだよ、ね、来てくれるだろ?」
フェリックスと呼ばれた男は、ちょっとためらって、即座には答えられなかった。
「ありがとう、じゃ、お言葉にあまえて伺《うかが》うよ、でも、ぼくはぜんぜんひとりきりだし、それに着かえていないから、ちょっと入って、待っていてくれないかな」
「すると、失礼だけど、夕食はまだなんじゃないの、君ひとりだとすると?」
「いや、ロンドンですませてきたんだ。いま、かえってきたばかりなんだ」
二人の男が家の中にひっこむと、玄関のドアがしまった。それからしばらくすると、男たちはまたあらわれ、玄関のドアをしめると、車道のほうへ消えていった。車道の門のあたりで、またカチリというかすかな音がしたので、二人の男が道路に出たのが分る。この音がするやいなや、小径にいた監視者が二人の男たちのあとを風のごとく追って移動してくれたので、いまやウォーカー巡査はためらうことなく、つぎの行動にうつれることになった。
邪魔者がいなくなったので、巡査は小径にしのび出ると、それから道路まで歩き、ロンドンの方角にとってかえした。ちょうどそのとき、時計が九時をうつのを耳にした。
いちばんはじめの旅館にとびこむと、ウォーカー巡査はビールを一杯注文し、宿のあるじに話しかけて、ここがグレート・ノース・ロード沿いのブレントというちいさな村のちかくで、フェリックスの家がサン・マロ荘と呼ばれているということが分った。それからまた、いちばん近い公衆電話のありかをたずねると、うまいぐあいに、ほんのすぐ近くにあった。
その数分後、巡査はロンドン警視庁に電話をかけていた。バーンリー警部が帰宅してしまったあとだったので、警部をまた警視庁まで呼びかえすあいだ、しばらく待たなければならなかった。もっとも、十五分もしないうちに、彼は警部にいままでの|いきさつ《ヽヽヽヽ》を報告し、指令を待っているところだった。
バーンリー警部は、フェリックスの家の位置をこまかくたずねてから、中庭の、さっきの木のかげにかくれて、今後の成行きを見張っているようにと、ウォーカー巡査に命令した。
「これからすぐ応援をくり出してそっちへ行く。生垣の小さな門のところで、君を探すからな」
ウォーカー巡査はいそいでひきかえした。もとの場所にくると、さっきの時計が十時をうつのを耳にした。ちょうど一時間、はなれていたわけだ。一方、バーンリー警部はタクシーをつかまえると、大縮尺地図で道順と地の利の状況を子細《しさい》に調べあげてから、三人の刑事をひきつれて、サン・マロ荘にむかった。その途中、警部は、クィーン・メアリイ・ロードのウォルポール・テラスに住んでいるトム・ブロートンに会って、一行に加わることをすすめると、青年はこおどりしてよろこんだ。車のなかで、警部は、問題の家と地の利の状況をこまかく説明して、めいめいの部署を指示し、予想されるさまざまな状況に応じられる対策をさずけた。街路は雑沓《ざっとう》をきわめ、車のスピードは思うようにあげられなかったが、それでもグレート・ロードにさしかかったときは、まだ十一時にかなりあった。
警部が問題の家に近いぞと判断するまで、車は走りつづけた。やがて、車を街道からそれた路に入れて、エンジンをとめた。警部以下五人の男たちは、無言のまま、ひそかに歩いていった。
「ここで待て」かなり歩いたところで、警部は一行にささやくと、ひとりだけで闇のなかに消えていった。警部は小径をかぎつけると、生垣の小さな門まで、足をしのばせて歩いて行き、その門をスルリとくぐりぬけて、中庭の例の木のかげに立っているウォーカー巡査のところまでたどりついた。
「バーンリー警部だ」と彼はささやいた、「だれか出入りしたか?」
「いいえ、だれひとり」
「よし、部下を配置につけるまで待て」
警部は待機している四人の男たちのところへひきかえすと、声をころして、指示をあたえた。
「車のなかで説明したとおり、めいめい配置につけ。呼子を合図に、いっせいに集る。ブロートンさん、あなたは私と一緒に来てください、しずかにね」
警部と青年は小径を歩いて行って、例の小さな門の外でとまった。三人の刑事は、指示どおり、めいめいの配置についた。そして、全員は待機した。
どこか遠くのほうで時計が十二時を打ったとき、ブロートン青年には、何時間もたったような気がしてならなかった。青年と警部は生垣の下に身をひそめて、ならんで立っていたのだ。一度か二度、青年は警部にささやきかけようとしたのだが、警部はぜんぜん答えようとしなかった。夜気はかなり冷えこんでいて、星はキラキラとかがやいていた。かすかな夜風が吹き、生垣がそよぎ、木々の枝がふるえた。どこか右手の遠くのほうで、さっきから犬がいやになるほど吠えている。荷馬車が一台、車軸をギイギイと、まるで歯のうくような音をたてて街道を通っていった。その音がきこえなくなるまでかなり時間がかかり、コンパスの四分の一ちかくの方角からしつこくきこえていたのだ。こんどは自動車が一台、ヘッドライトの光を木々のあいだごしにギラギラとまきちらして、すごいスピードで走っていった。だが、なにごとも起こらなかった。
それからまた何時間もたったような気がしたとき、遠くで時計が打った――一時。べつな犬がほえはじめた。夜風がまえよりも強く吹き出した、ブロートン青年はもっと厚い上着をきてくればよかったとつくづく思った。思いきり足踏みをして、しびれた脚をらくにしてやれたらどんなに気持ちがいいだろうな、と彼は胸のなかでぼやいた。と、車道の門の掛け金がカチリと鳴り、砂利道を歩いてくる足音がした。
警部と青年は、近づいてくる足音を、固唾《かたず》をのんで待ちかまえた。すぐ黒い人影が闇のなかからあらわれ、玄関のドアにむかってすすんでいった。とり出した鍵束のチャラチャラという音、鍵穴にさしこんで廻す音、玄関のドアの輪郭は一段と黒さを増し、人影はそのなかに消えると、ドアがしまった。
間髪いれずにバーンリー警部がブロートンの耳もとでささやいた、
「これから私が玄関のドアをたたく、奴が出てきたら、その顔を私が懐中電灯で照らす、はっきりとたしかめてください、そいつがフェリックスに間違いなしとにらんだら、『よし』と言ってください、『よし』と一言だけでいい、わかりましたね」
二人は小さな門をくぐって中庭に入っていった、もう足音をしのばせる必要はなかった。玄関までズカズカ歩いて行って、バーンリー警部がドアをつよくノックした。
「いいですね、確信がないかぎり、なにも言っちゃいけませんよ」と警部がささやいた。
玄関の欄間《らんま》越しに光がながれ、ドアがひらいた。出てきた男の顔を、警部の懐中電灯がサッと照らした、それは、ウォーカー巡査の注意をひいた、あの色の浅黒い顔、黒い顎髯だった。「よし」とブロートンが言った。警部が口をひらいた、
「レオン・フェリックスさん、私はロンドン警視庁のバーンリー警部です。じつは緊急を要する用件でお訪ねしたのですが、少々お時間が拝借できますか」
顎髯はギョッとしたようだった。
「ええ、結構ですとも」男は一瞬ためらってから答えた、「もっとも雑談するには、いささか時間はずれのようですがね、お入りになりませんか」
「いや、こんなに遅く伺って恐縮です、じつはお帰りになるのを、ずっとお待ちしていたのですよ。外はちょっと寒いですから、部下を一人、玄関のなかに入れさせていただきたいのですが?」
警部は、|あずまや《ヽヽヽヽ》の近くで張りこんでいた刑事の一人を呼びよせた。
「ヘイスティングス、君は、私がフェリックスさんと話をすませるまで、ここで待っていてくれ」呼んだらすぐ来いというサインを刑事にしながら、警部は言った。それから、ブロートン青年を、ウォーカー巡査やほかの刑事たちと一緒に、家の外に待たせたまま、警部は、フェリックスのあとについて、玄関の左手にある部屋に入っていった。
その部屋は、書斎としてはさして贅《ぜい》をこらしたものではなかったけれど、いかにも居心地がよさそうに調度類がそなわっていた。書斎の中央には、モダーンなデザインの平《たい》らな机があった。煖炉《だんろ》の両側には革ばりの安楽椅子があり、炉には燃えさしが、まだあかあかとのこっていた。ちいさなサイド・テーブルには、酒の飾り瓶台と葉巻の箱があった。壁は本棚になっていて、そこここに立派な版画がかかっていた。フェリックスは机のスタンドをつけた。彼は警部のほうにからだをむけた。
「面倒なお話ですか?」彼は警部に安楽椅子をすすめながら言った。警部が腰をおろすと、フェリックスも一方の椅子に身をしずめた。
「フェリックスさん」と警部は口をひらいた、「今日の午前、いや、もう昨日ですかな、今日は火曜日になりますからね、あなたがブルフィンチ号から受取られた樽のことで、おたずねしたいことがあるのです。その樽は、まだあなたのところにあるはずですが――」
「それで?」
「海運会社のほうでは、手ちがいから、まちがってあなたにお渡ししてしまったというのです。あの樽は、あなた宛のものでもなければ、あなたがお待ちになっていた品物でもないというのですが」
「いや、私が受取った樽は、たしかに私宛のものでしたよ、私宛の送り状がついていましたし、運賃もちゃんと支払い済みになっています。いったい、このほかに船会社はなんの文句があるんです?」
「しかし、あなたが受け取った樽は、あなたの住所宛ではなかった。送り状の住所は、トットナム・コート・ロード、西ジャブ街のフェリックス氏となっているんですからね」
「あの樽は私宛のものですよ、たしかに送り主の友人は、私の住所をまちがえてはいますがね、いずれにしろ、受取人はこの私になっているのですから」
「だが、もうひとりのフェリックスさんを――西ジャブ街のフェリックスさんをこちらにお連れして、このひとが自分の樽だと主張されたら、いくらあなただって、あくまで自分のものだと言い張るわけにはいかないと思いますがね?」
黒い顎髯の男は、ソワソワとからだをうごかした。男はなにか言いかけようとして口をあけたが、そこでためらってしまった。やつはすんでのところで罠《わな》に気がついたか、と警部は肚のなかで見てとった。
「そういう男をお連れになれば」男はようやく言った、「あの樽は私宛に送られてきたもので、彼にではないということを簡単に納得させてごらんにいれられますがね」
「よろしい、その件はまたのちほどということにしましょう。ところで、もうひとつ、おたずねしたいことがあるのです。あの樽の中身は、なんだと思っておいでなのです?」
「彫像ですよ」
「それはたしかですね?」
「むろん、そうですとも。しかしですね、警部さん、いったい、どういう権限にもとづいて、こんな訊問《じんもん》を私が受けなければならない羽目になったんです?」
「つまりですな、フェリックスさん、ロンドン警視庁は、あの樽について、いささか疑念を持っているのです、それで調査に乗り出さざるを得なくなったわけで、当然、まず第一におたずねに伺わなければならないのは、受取人のあなただということになるのですが、あの樽があなたのものでないということが判明した以上――」
「私のものじゃないですと? それはどういう意味なんです? いったい、だれがそんなことを言いました?」
「いや、失礼、あなたご自身の口から言われたばかりじゃありませんか。あの樽の中身は、彫像が入っているはずだとね。ところが、あの樽には彫像が入っていなかったのですよ。ですから、あなたは、ちがう樽を受け取られたことになる」
と、突然、フェリックスの顔から血の気がひき、その目に、驚愕《きょうがく》の色がひろがった。バーンリー警部は安楽椅子から身をのり出すと、フェリックスの膝をかるくたたいた。
「ねえ、フェリックスさん、ご自分でもよくお分りのはずだ、この問題をきれいさっぱりと片づけたいのなら、こうした食いちがいの点を、われわれの納得がいくように、はっきりと説明していただかなくちゃなりません。いや、なにもあなたにその説明ができないと言っているのじゃない、それどころか、あなたにはちゃんとできると私はにらんでいるのです。しかし、あなたがそれを拒絶なさるようなことになれば、つまらない嫌疑《けんぎ》を受けなければならない羽目になることは事実ですよ」
フェリックスはかたくなに沈黙をまもっていた、警部も、彼が思案しているところを妨げようとはしなかった。
「そうですか」顎髯の男はやっとのことで口をひらいた、「正直なところ、私には隠すようなことは、なにひとつないんです、ただ、頭からおどかされるのは、いい気持ちのものじゃありませんからね、私にできることなら、あなたのほうからたずねてくだされば、それにお答えしますよ。ところで、あなたがロンドン警視庁の方だという証明書を見せてくれませんか」
バーンリー警部は警察手帳を示した。
「よくわかりました」とフェリックスは言った、「あの樽の中身について、たしかに私は、あなたを誤解させるようなことを言ったかもしれません、しかし、あくまでも、嘘いつわりのないほんとのことを私は言ったのですけれど。あの樽には、メダルのようなもの――キングとクィーンのメダルがいっぱいはいっているのです。メダルだって、彫像にはちがいないでしょう? それに、このメダルが、とても小さくて金でつくられていて、ソヴリン(一ポンド金貨)と呼ばれていたって、やっぱり彫像じゃないでしょうか? それが、あの樽の中身なんですよ、警部さん、ソヴリンが入っていたんです、金貨で九百八十八ポンド」
「ほかには?」
「いいえ、べつに」
「いやいや、フェリックスさん、樽のなかに金貨が入っているのは、われわれだってよく知っていましたよ。だが、そのほかにも、あるものが入っているのが分っているのです。ひとつ、胸に手をあてて考えてみてくれませんか」
「あ、そうだ、詰物なら、むろん入っているはずですよ、私はまだあの樽をあけてみないから、はっきりしたことは分りませんけどね、金貨で九百八十八ポンドしか入っていないんですから、それだけじゃ樽の中はガラあきです。当然、砂とか、雪花石膏《せっかせっこう》といったような詰物が入っているはずですよ」
「私がおたずねしたのは、詰物のことじゃないのです。金貨のほかになにか、特別な|もの《ヽヽ》は入っていないと、あなたはきっぱり言いきれるのですか?」
「ええ、そうですとも、しかし、なにからなにまで、この|いきさつ《ヽヽヽヽ》をあなたにお話してしまったほうがよさそうですね」
フェリックスは、煖炉の残火をかきあつめると、そこに薪《まき》を二本投げいれた、そして、安楽椅子に、さらにふかぶかと身をしずめた。
五 フェリックスの話
「あらためて言うまでもなく、私はフランス人なのです」とフェリックスは語りはじめた、「しかし、ロンドンには、ここ数年間住んでいるのですよ、ま、商売と息ぬきをかねて、ちょいちょいパリに出かけることもありますがね。ちょうど三週間ばかりまえのことです、そんなわけで私がパリに出かけたとき、ロワイヤル街のカフェ『トワソン・ドール』にちょっとよってみたのですが、そこで昔なじみの連中と一緒になったのです。そのうちに一座の話がフランス政府の宝くじになりました、と、そのなかのル・ゴーティエという男が、さかんに宝くじを弁護していたのですが、私にこう言いました、『どうだい、僕と|のり《ヽヽ》で買ってみないか?』はじめのうち、私は断ったのですが、そのうちに気がかわり、彼も同じ金額だけ出すなら、五百フラン|のって《ヽヽヽ》もいいと、私は言ったのです。すると、彼がその話を|のんだ《ヽヽヽ》ので、自分の分として二十ポンドあまりを彼に渡したのです。彼は、自分の名義で、二人で出しあった金を宝くじに賭け、その結果を私に知らせること、もしいくらかでも儲《もう》けたら、そいつを折半《せっぱん》すると、言いました。ところが、先週の金曜日まで、その宝くじの件を私はすっかり忘れていたのです、その日の夕方、私が家にもどってくると、ル・ゴーティエから手紙がきていて、それを一読して私はびっくりし、おどりあがってしまったのです、と同時に、こいつはめんどうなことになったぞと思わずにはいられなくなったのです」
フェリックスは、書きもの机の引出しから一通の手紙をとり出すと、警部に手渡した。中身はフランス語だった。警部はフランス語にかなりくわしかったが、この手紙は手に負えなかったので、フェリックスが訳した。以下、その内容――
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パリ
・フリードランド通り
ヴァロルヴ街九九七
一九一二年四月一日木曜日
親愛なるフェリックス――いま、すごいニュースが入ったばかりだ。僕たちの宝くじがあたったんだ! 買った宝くじは大当り、千フランが五万フランになったんだ――ひとり二万五千フランというわけさ! ほんとによかったな!
金はすでに受取ったから、いますぐ、君の分を送る。ところで、君にちょっとした|いたずら《ヽヽヽヽ》をしようと思うんだが、どうか、あんまり怒らずにきいてくれたまえ。
君はあのデュマルシェをおぼえているね? じつは先週、君のことで、彼と僕はちょっとした議論をしたんだ。僕たちは警察の目をごまかす犯罪者の才気と策略について議論したんだよ。その最中に君の名前がたまたまとび出したというわけだ、君のような発明の才があれば、すばらしい犯罪者になれると僕は力説したんだ、すると、デュマルシェは『駄目だ』と反対してきた、君は正直すぎるから、とても警察の目をあざむくわけにはいかないというのさ。僕らは言い争ったあげく、とうとうちょっとしたテストをやることにしたんだ。僕は君の分け前を樽につめた――イギリスの一ポンド金貨で九百八十八枚――そして君宛に、運賃払いずみにして、ルーアン港から出るインシュラー・アンド・コンティネンタル海運会社の船で発送することにする。四月五日の月曜日ごろにロンドンに到着する予定。しかし、宛名の住所は『ロンドン市西区トットナム・コート・ロード、西ジャブ街レオン・フェリックス』とし、樽のおもてには『彫像のみ』というラベルをはり、発送人は『グルネルの彫刻品製作商デュピエール商会』とする。にせの宛名とにせのラベルがついている樽を、それこそ泥棒の嫌疑もかけられずに、船会社から受取って運び出すには、なみなみならぬ才智がいる。テストというのは、これなんだ。僕は、君の成功に、五千フラン、デュマルシェと賭けた。やつは、君がかならず捕ると断言している。
僕は、君の一発必中を心から祝福する、そして、その具体的な証拠が樽につめられて君の手もとに届くことを。ただとても残念なのは、君がその樽をあけるところを、僕がその場にいて見られないことだ。妄言深謝。
アルフォンス・ル・ゴーティエ
追伸 タイプライターで失礼、手を怪我したものだから。
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「夢にも思わなかった千ポンドちかい大金がころがりこんだ喜びと、ル・ゴーティエがもちだした樽のテストの困惑《こんわく》と、はたしてどっちが大きかったか、私にはちょっと見当がつかないくらいなんですよ。ここのところを考えれば考えるほど、私はだんだん腹が立ってきたんです。私の友だちが馬鹿げた理屈になにを賭けようと、それは連中の勝手ですが、そんな他愛のない賭けごとの犠牲に、この私がされるのは、それこそたまったものではありません。それに、二つの点が事態を紛糾《ふんきゅう》させるものと見なければなりません。ラベルに『彫像のみ』とある樽の中に、金貨が入っていることがわかれば、当然、嫌疑がかかるでしょうし、宛先の住所がにせものだということをだれかに発見されても、事態はおなじようなことになります。樽の中身を、重量の点でたずねられるかもしれない――ということには、私は気がつきませんでした。にせの宛先の住所は、樽の到着の通知書が発送されれば露見してしまうかもわからないし、その他予想できないような事故に対する心配も、つねにあったわけです。私はもうすっかり頭にきてしまって、ル・ゴーティエに樽の発送を中止するように、翌朝早く電報を打ってやろうと決心したのです、そして、こっちから金を受取りに行くからと言ってやるつもりだったのです。ところが、かさねがさね困ったことには、つぎの朝、第一便で、樽をすでに発送したからという葉書が来てしまいました。
こうなったからには、船の入港しだい、一刻も早く樽を手にいれるように手配しなければなりません。さもなければ、私の住所はデタラメなのですから、面倒なことになってしまいます。そこで私は、樽を持ち出す計画を練りました、ところが、計画に熱中しているうちに、いつのまにか私の困惑感は消え失せ、むしろその計画にスポーツのような快感を私は味いはじめたのです。まず第一に、私はにせの住所を印刷した名刺を何枚かつくりました。つぎに、場末のごくちいさな運送屋を探し出すと、その店から四輪の荷馬車と二人の馬方をやとい、ついでに、あいている馬車小屋を三日間借りることにしたのです。
問題の船が入港するのが、つぎの月曜日だと分ると、その二日前の土曜日に、私は二人の馬方に言いつけて、荷馬車を借りきった馬車小屋のなかに入れさせ、計画にもとづいて、準備にとりかかったのです。二人の馬方に協力してもらうためにも、また彼らにつまらぬ疑念を起こさせないためにも、私はル・ゴーティエの話にちょっと色をつけて、彼らに話してやりました。じつは、賭けをしたのだが、あんたがたに手伝ってもらって、その賭けに勝ちたいのだと、二人に言ってやったのです――ある樽が一個、私の友人の宛名で、ルーアン港から船で送られてくるのだが、ここで友人が大金を賭けたのだ、つまり、この私が船会社からその樽をまんまとせしめ、私の家に運ぶようなことはほとんどできまい、と言ってね、私は、やってみせると言って賭けた。賭けの目的は、ごくありふれた職業的な警戒心が実際にものを言うかどうかを験《ため》すためだ、と私は説明してやったのですよ。だから、こんなことをしても、絶対に厄介な問題にならないこと、失敗して尻尾《しっぽ》を出したにしろ、泥棒あつかいをされるような目にはあわないこと、樽を受取るための委任状を、友人が私に書いてくれたことを、馬方たちに話してやりました。もっともこの委任状は、私がまえもって自分でつくっておいたもので、これを彼らに見せてやったわけですがね。で、最後に、まんまと成功したら、めいめい二ポンドずつ日当をはずんでやると、私は約束したのです。
乾きの早い青と白のペンキを買っておきましたから、荷馬車の腹についている文字を塗りつぶし、ル・ゴーティエが樽につけた住所を書いたわけです。こういう仕事は、私の得意とするところですから、人手をかりずに自分でやってのけたのです。
日曜日の朝、私たちは荷馬車で埠頭に行きました。ブルフィンチ号は、パリから来た船荷を積んで、ちょうど入港したばかりのところでした。前部|船艙《せんそう》から樽を陸揚げしている最中で、私は波止場にそって歩きながら、その作業を見まもっていたのです。陸揚げ中の樽はみんなワインでしたが、船艙の片側に、樽が一個、おいてあって、仲仕と、書記風の青年が二人がかりで、その樽にかがみこんでいるのが、私の目にとまりました。二人の男たちはすっかりその樽に夢中になっている様子で、むろん、私は胸のなかで自問自答してみました――『あれが僕宛にきた樽かな、金貨が奴らに見つかったのか?』そこで私は書記風の青年に話しかけてみました。つまり、その樽は私宛のものだから、すぐ引きとっていいかと、たずねたわけです。
その青年の応待はきわめて鄭重《ていちょう》でしたが、いっこうに役に立たず、ただ、埠頭事務所まで案内するから、そこで係りのものに会ってくれ、と言うのです。その青年と私が事務所に行きかけるとき、青年は樽にかかりきっている男に声をかけました、『わかったね、ハークネス、エーヴァリーさんの指示がないかぎり、なにもしないでくれ』
埠頭事務所につくと、青年は私を外の部屋にのこしたまま、係りのものを呼んでくると言って、奥のほうに入っていきました。ところが、一見、所長とわかる男とつれだって、青年がもどってきましたので、こいつはまずいことがあったんだな、と、私の頭にピーンときたのです。所長が樽の引渡しについて、いろいろとゴタクをならべだしたので、やっぱり自分の勘《かん》が正しかったのだと、私は思いました。
こちらからたくみに誘導して、『エーヴァリーさん』というのが、フェンチャーチ街の本社の専務のことだと分りました。私は埠頭事務所を出ると、貨物の箱に腰をおろして、どういう手を打つべきか、思案してみたのです。
なにかが、あの若い書記と仲仕のハークネスに疑惑を起こさせたことだけは、火を見るよりもあきらかでした。それに、あの青年が、仲仕にむかって、エーヴァリーさんの指示がないかぎり、なにもしないでくれと言ったのは、とりもなおさず、その疑惑を専務に報告するつもりなのだ、ということぐらい、私にも見当がつきました。『なにもしないでくれ』というのは、あきらかに、樽をだれにも引き渡すなという意味です。ですから、あの樽を手に入れるためには、『エーヴァリーさんの指示』を自分でつくって、仲仕の男にあたえる以外にありません。
私はフェンチャーチ街の本社へ行って、エーヴァリー氏に面会をもとめました、幸運にも、専務は用談中だったのです。そこで、待っているわけにいかないから、手紙を書く、そう言って便箋と封筒をもらいました。ただ、からの封筒に専務の宛名を書き、封をするだけで、社名入りの便箋を一枚、まんまと私はせしめたわけです。
私は社を出てから酒場に入り、ビールを注文して、ペンとインクを借りました。そこで、ハークネス宛の、ただちに私に樽をひき渡せというエーヴァリーの手紙を、私はでっちあげたのです。
このにせ手紙を書いているとき、この男がほんとうに疑惑をもっているなら、まず樽のあとをつけ、私の家までついてくるのではないか、という考えが、私にフッとうかんだのです。この点をあれこれ考えるのに、おかげで十五分も損をしてしまいました。そうこうしているうちに、一案がひらめきました、つまりこうです、会社は契約により、市内の宛先までこの樽を届けることになっているから、ハークネスは樽と同行し、安全に目的地まで届けられるのを見とどけるように、という一文を追加したのです。
私は、そのにせの手紙を、いかにも新米の書記の筆蹟のように見せかけて、まるっこい字体で書き、それから『I・アンド・C海運会社』とおなじ筆蹟でサインし、こんどは筆蹟をガラリとかえてわざと判読できないような頭文字をつけて、『エーヴァリー』と署名し、それからまた、書記の筆蹟で『代筆』と書き、不明瞭な頭文字を二つ、ならべておいたのです。かりに、ハークネスがエーヴァリー専務のサインをたまたま知っているにせよ、代筆とやっておけば、うまくごまかせると思ったのです。
私の計画では、樽と二人の馬方ともども、ハークネスを船からつれ出して、うまいチャンスを見つけて、奴をまいてしまおうというのです。私はとうとうそのチャンスをつかみました、馬方の一人に、まえもって、酒が飲みたいとごねるように言いふくめておき、それではというので私が一行をつれてビールを飲みに飲み屋に入ろうとしたとき、もう一人の馬方、ウォティは、私の指示にしたがって、馬から離れるわけにはいかないと言って表に残る。私は、ウォティと交替してやるという口実をつくり、ビールをのんでいるハークネスともう一人の馬方を店におきざりにする、そしてウォティと荷馬車ぐるみ、私は姿をくらましてしまったのです。それから私たちは借りきっている馬車小屋にもどり、荷馬車にペンキを塗りなおし、もとの茶色にして、にせの所番地を塗りつぶしました。夕方になって、私たちは荷馬車に乗り家にむかいました。ちょうど夜になってから家に到着するように見計ったわけです。それから、中庭の小屋で荷馬車から樽をおろしたのですが、樽なら、その小屋にちゃんとありますよ」
フェリックスは口をとじた。二人の男はしばらくのあいだ、無言のまま対坐していたが、警部は胸のなかで、いまのフェリックスの話を熟考していた。まさに現実離れした出来事の連続である、だがしかし、話の辻褄《つじつま》はよくあっている、そしてこの話を細部にわたって検討していくにつれて、フェリックスの身になって考えると、警部にはこの話に疑問をさしはさむ余地がなくなってくるのである。もしフェリックスがパリの友人、ル・ゴーティエの手紙を、話のとおり、頭から信じたとするならば、彼のとった行動は立派に説明がつくし、また、その樽のなかにほんとうに彫像が入っているなら、この手紙は万事を解く鍵となるわけだ。だがしかし、もし樽のなかに死体が入っているなら、この手紙は真赤な偽物《にせもの》ということになり、フェリックスがグルになっているか、なっていないかが問題になってくるのだ。
警部が熟考をかさねているうちに、じょじょに、問題の核心は、三つの重要点に集約されていった。
第一は、フェリックスの態度や話し方である。警部はこれまでに、真実を語る人間と嘘をつく人間について、長年にわたりさまざまな経験をつんできたのだ。そしていま、警部の本能は直観的にこの男を信じてもいいと、自分にささやいている。だが、このような本能をあてにすると、とんでもない失敗をしでかすことがあるということも、彼は充分に心得ていた――いままでにも、彼自身、一度ならず苦い目にあってきたのである――だが、それにもかかわらず、彼の受けた印象のかぎりでは、フェリックスの態度、物腰が、いかにもまじり気のない真正直なものにうつったという事実だけは、打ち消しがたい。むろん、こうした感じだけでは、彼が結論を下すにあたって決定的なきめ手とはならないが、判断の手がかりになることはあきらかである。
第二は、フェリックスが自分で語った、ロンドンにおける行動についての説明である。これが嘘《うそ》いつわりのないところだということは、もうすでに警部はかなり重要な別個の証拠を手にいれているのだ。彼は一連の出来事を思いうかべてみて、フェリックスの話が、ほとんどといってもいいくらい裏付けが得られているのに気がついてびっくりしたほどだった。フェリックスがはじめてブルフィンチ号に行った|くだり《ヽヽヽ》は、埠頭事務所でブロートン青年と所長のヒューストンが話してくれたのと、ひとつひとつあてはまるではないか。フェンチャーチ街の本社への訪問と、トリックをつかって、社名入りの便箋をまんまとせしめた件は、エーヴァリー専務と主任のウィルコックスがすでに証言ずみである。フェリックスがハークネスに見せるためにでっちあげたにせの手紙の話が、事実とまったく符合する点は、警部自身、その目でしかとたしかめたところだ。それから、樽の運搬とハークネスを|まいて《ヽヽヽ》しまった話は、ハークネスの証言とピタリと一致するし、そして最後に、中庭の小屋のなかで樽を荷馬車からおろしたというフェリックスの説明も、ウォーカー巡査がひとつのこらず目撃しているところなのだ。
このフェリックスの話のなかで、外的な証拠によって裏づけされていない個所は、事実上、ひとつとしてないのである。実際のところ、バーンリー警部は、容疑者が口を割る、その舌の根のかわかぬさきから、ぞくぞくとそれを裏づける証拠があがってくるといった事件には、これまでに一度としてお目にかかったことがないのだ。警部は、こうした点をひとつひとつ熟慮した上で、ついに、フェリックスの話は無条件で信用せざるを得ないという結論に達したのである。
ロンドンにおけるフェリックスの行動は、まさにその話のとおりだったのだ。だが、問題は第三にある――すなわち、友人ル・ゴーティエの手紙の核心ともなるべき、パリにおけるフェリックスの行動なのだ。手紙。これこそ事件の鍵である。ほんとうにあの手紙は、あのような事情のもとで書かれたのか? ル・ゴーティエが書いたのか? 事実、ル・ゴーティエなる人物が実在するのか? だが、こんなことを、と警部は胸のなかでつぶやいた、洗い出すのは、さしてむずかしいことではない。フェリックスをつっついてもっときき出せばいいのだし、必要とあらば、パリまで極秘に足をのばして、フェリックスの陳述を実地にあたってみればいいのだ。ここで警部は、口をひらいた。
「ル・ゴーティエという方は、どういうひとなんです?」
「ル・ゴーティエ商会の副社長で、アンリ四世街でワインの販売をしているのです」
「デュマルシェという方は?」
「株の仲買人です」
「その住所をご存じですか?」
「自宅の住所は分らないのです。事務所は、たしか、ポワソニエール大通りにあると思いましたけど。ル・ゴーティエに問いあわせればすぐ分りますよ」
「この二人の方とは、どういうお知り合いなのですか?」
「そうですね、二人とも、もう何年もまえからつきあっていて、ごく親しい仲なのですが、金銭的な関係ができたのは、この宝くじの一件がはじめてなのです」
「この手紙のこまかい点について、間違いはありませんね?」
「ええ、そのとおりです」
「宝くじの話が出た場所を、はっきりとおぼえていますか?」
「あのカフェの一階の部屋で、入口から入って右側の窓ぎわでした」
「ほかにも何人かお友だちがいたようでしたが?」
「ええ、私たちのグループがいましてね、あたりさわりのない話ばかりしていました」
「お二人が宝くじを|のり《ヽヽ》で買う話が出たとき、その場にいた人たちもそれをきいていましたか?」
「ええ、知っていますとも、おかげでみんなからさんざんからかわれてしまいましたよ」
「そのひとたちを、ひとりひとり思い出せますか?」
フェリックスはちょっと考えこんだ。
「さあ、そいつはどうですかな」と彼はやっと答えた、「グループといっても、ほんの偶然に落ちあったものですし、私もほんのしばらく、そこに同席しただけですからね。言うまでもなく、ル・ゴーティエはいました、それからドービニという男、アンリ・ボワソン、たしかジャック・ロージェもいたと思いますが、ちょっと自信がありません。ほかにもまだたくさんいましたよ」
フェリックスは、警部の質問によどみなく答え、警部はそれを手帳に筆記していった。宝くじの一件も、警部は、そのまま信じてもいいような気持ちになってきた。いずれにしろ、パリであたってみれば、この点はあっさり確認できる。だがしかし、たとえなにからなにまで真実であったにしろ、ル・ゴーティエが問題の手紙を書いたという証明にはならないではないか。同席していたたくさんの人間が二人の宝くじのやりとりをきいていたのだから、書く気になれば、だれにだってこんな手紙ぐらい書けるはずだ、いや、フェリックス自身だって書けるぞ!いいところに気がついたな! そうだ、フェリックスが書いたのではないか? そいつを見破る方法があるか? 警部はじっと考えていたが、あらためて口をひらいた。
「この手紙のはいった封筒がありますか?」
「なんですって? 封筒? もうそんなものはありませんよ、封筒なんか、とっておきませんからね」
「では、葉書は?」
フェリックスは机の上の書類をひっくりかえしてみたり、引出しのなかをさがしたりした。
「ありませんね、どうも見つからない。きっと葉書も破いてすててしまったのでしょう」
すると、手紙と葉書をフェリックスが受取ったという証拠はないのだ。といって、受取らなかったという証拠があるわけでない。警部はあくまでも偏見にとらわれずに、問題の手紙を調べにかかった。
やや薄めの、つや消しの用紙にタイプで打ったもので、警部はこういったものにあかるくはなかったけれど、このタイプライターは外国製のものにちがいないとにらんだ。使い古された活字のなかには磨滅したものもあったので、それを手がかりに、このタイプライターを確認できるかもしれないと思った。|n《エヌ》と|r《アール》の活字がかすかに右にかたむいているし、|t《ティ》と|e《イー》はわずかに下にずれている、|l《エル》はてっぺんのちいさな斜線がとんでいる。警部は、その用紙をあかりにかざしてすかしてみた。すかし模様は、一面のタイプの文字の下にかくれてはっきりしなかったが、根気よくながめているうちに、分るようになった。用紙は、あきらかにフランス製のものだった。むろん、こんなことは重要な決め手にはならない、フェリックスは自分の口から言ったように、パリへはちょいちょい行くのだ、だが、それにしても一考の価値はある。
警部はもう一度、その文面を読みかえしてみた。それは四文節にわかれているが、彼はその一節一節を吟味していった。はじめの文節には宝くじのことが書いてある。彼はフランスの宝くじについてよくは知らなかったが、すくなくともここに書いてある程度のことなら、調査すればたしかめられるはずだ。フランス警察の手をかりれば、宝くじの抽籤《ちゅうせん》や賞金の支払いが最近あったかどうか、これを調べるのはぞうさもないことである。それに、当選者のリストだって手に入れられる。五万フランの当選者となると、ざらにいないはずだから、パリ市内かその郊外に住んでいる該当者を探し出すことぐらい、それこそ朝めしまえだ。
第二と第三の文節には、賭けのことと、樽を輸送することが書いてある。警部は胸のなかで、細部にわたって検討してみた。はたしてこの話は、信じるにたるものだろうか? どうも彼には、そうはとれないのである。かりに、このような奇怪な賭けが現実に行われたにしろ、そのテストというのは、いかにも貧弱なアイデアである。いやしくも樽の計画を案出するほどの男なら、もっとましなものを考え出すのが当然ではないか。とはいえ、こういうことがあり得ることもたしかなことだ。
と、べつの考えが、警部の頭にうかんだ。いや、ひょっとすると、九百八十八ポンドの金貨のことばかり頭にあって、死体の手のことをなおざりにしすぎていやしなかったかな? あの樽のなかに、ほんとに死体がつめられているならだ。すると、どういうことになる?
こう仮定してみると、あらゆる事情は一段と重要性をましてくるし、樽を輸送するという理由もある程度まで分ってくる。だが、警部が考えたかぎりでは、輸送方法についてはなんらのヒントも得られないのである。しかし、第四節に目を移すと、その文意が二つにとれるのではないかということに、彼は気がついた。彼はあらためて読みなおした。
[#ここから2字下げ]
『僕は、君の一発必中を心から祝福する、そして、その具体的な証拠が樽につめられて君の手もとに届くことを。ただとても残念なのは、君がその樽をあけるところを、僕がその場にいて見られないことだ』
[#ここで字下げ終わり]
この文面だと、最初に読んだだけでは、宝くじにあたったお祝いの言葉ぐらいにしかとれないだろう。『その具体的な証拠』つまり九百八十八ポンドの金貨が樽のなかに入っているという意味だ。しかし、『具体的な証拠』というのは、ほんとうに金貨を意味しているのか? いや、もっと不吉な意味がかくされているのではあるまいか? 死体が『具体的な証拠』だとしたらどうか? その死が、たぶん間接的にではあろうが、フェリックスのなした行為の結果だと仮定したらどうか? 金貨だけを樽で輸送するのなら、なにもル・ゴーティエは、フェリックスがその樽を開けるところを見られないからといって残念がることはないじゃないか? だが、死体が思いもよらずその樽につめられていたとしたら、その文意はきわめて明白になるではないか? そうだ、たしかにそう見える。どうやら、ひとつのことだけははっきりしてきたようだぞ。死体がフェリックスにあてて輸送されたのなら、こうなるまでの事情について、この男はなにかを知っているはずだ。警部はまた、口をひらいた。
「お話をしていただきまして、ありがとうございました。いまのお話は、ぜんぶほんとうのことだと思います。ところで、まだお話にならないでいることがあるような気がするのですが?」
「重要なことはひとつのこらずお話しましたよ」
「いや、重要なことと言われたが、その解釈に喰いちがいがあるようですね、ま、いずれにせよ、私の当初の質問にかえるわけですが――『その樽のなかに、なにが入っているのか?』」
「すると、金貨が入っているという私の話を、信じないと言うんですか」
「いや、あなたが金貨にちがいないと思っていられる点は、私にもよく分ります。しかし、あなたがただそう信じているというだけでは、私はそれを額面どおりに受けとるわけにはいかないのですよ」
「よし、それなら」フェリックスは椅子からとびあがった、「樽は馬車小屋にあります、これから行って、その樽をあければいいんでしょう、今夜は開けたくなかったんだ、たくさんの金貨を家のなかにおいておくのは、いやですからね、でも、開けなければあなたの気がすまないんだから仕方がない」
「恐縮ですな、じつは、私のほうからそうお願いしようと思っていたのです。開ける以外に、この問題を解決する道はありませんからね。それではヘイスティングス巡査部長を証人として呼びますから、すぐ行ってみましょう」
フェリックスはそれに返事をしようともせず、耐風ランプをとると、先に立って歩き出した。三人の男は裏口から中庭に出ると、馬車小屋のまえまできてとまった。
「鍵を出すから、ランプをかざしてくれませんか」
警部は、両開きのドアをピッタリとじている長いボルトの上に、カンテラの光をかざした。ドアのハンドルには、南京錠がかかっている。フェリックスが鍵をさしこんだ、するとたったそれだけで、南京錠があいてしまった。
「や、かかっていないぞ!」彼は叫んだ、「さっき、自分でちゃんとかけたはずなのに!」
フェリックスは南京錠をとりはずし、ボルトをひっこぬくと、両開きのドアを力まかせにあけた。警部がランプの光を小屋のなかにパッとあてた。
「樽は?」と警部が言った。
「天井からつるさげてあるんです」フェリックスはドアをもとどおりにピタリとしめると、警部のそばにやってきて、そう答えた。と、顎がガクッとおちた、その目は一点を見つめたまま、大きく見ひらいた。
「大変だ! ない!」フェリックスは息もたえだえにあえいだ、「ない、樽がない!」
六 推理
この思いもよらぬ事件の進展に、さすがのバーンリー警部もすっかりおどろいてしまったが、フェリックスの態度からするどい目をはなすようなことはしなかった。フェリックスが心底から驚愕し、呆然自失の|てい《ヽヽ》であることは、警部の目にもあきらかだった。その驚きようは、疑う余地もないくらいはげしいばかりか、金貨を失った彼の怒りと苛立《いらだ》ちは、まぎれもないものだった。
「この私が鍵をかけたんです、自分でちゃんとかけたんですよ」フェリックスはしきりにくりかえした、「八時には、樽はあったんだ、それから以後、だれに入りこめるというんです? この私だけしか、樽のことは知らないんですよ、どうしてほかのものに分ったというんです?」
「私たちが見つけなければならないのは、そこのところですよ」と警部が応じた、「家にひきかえしましょう、ひとつ、よく話しあおうじゃありませんか。とにかく、あかるくなるまでは、外の仕事は無理ですからね」そして警部は言葉をつづけた、「ま、あなたはご存じないでしょうが、あなたが荷馬車で樽をここまで運んでくるところを、警察のものがずっとつけてきたのですよ、この馬車小屋のなかで、その樽をおろすところまで、ちゃんと見ていたのです。その巡査は、九時ちょっとまえに、あなたが友人のマーチンと外出されるまで、張りこんでいたんですよ。それから、私に報告しなければならなかったので、その場をはなれましたが、十時にならないうちに、またここへひっかえしてきたのです。十時から十一時までのあいだは、その巡査ひとりで見張っていたわけですが、それから以後は、うちの刑事たちが、お宅のまわりに張りこんでいるのです、相手は一人ではなく、何人かの仲間があるものと、私はにらんでいたものですからね。したがって、樽を盗み出したものがだれであれ、それは九時から十時までのあいだだということになりますな」
フェリックスは口をポカンとあけて、警部の顔を穴のあくほど見つめた。
「これはおどろいた! いったいどうやって、私の足どりが分ったんです?」
警部は微笑した。
「ま、|もち《ヽヽ》屋は|もち《ヽヽ》屋ですからね。船から、あなたがどんな手をつかって樽を持ち出したのかも、みんな私には分っているのです」
「そうですか、正直にお話しておいて、ほんとによかった」
「そうですとも、賢明でしたよ。あなたがお話になるのを、私の方ではいちいち事実と照合できるのですから、あなたがありのままにお話しになるのをきいて、じつは私もよろこんでいたのです。しかしですね、フェリックスさん、私の仕事の性質上、樽の中身をこの目でたしかめてみないことには、納得するわけにはいきませんのでね」
「樽をとりもどしたいのは、むしろあなたより、この私のほうですよ、自分の金が入っているんですからね」
「そうでしょうとも、ところで、ちょっと失礼、部下に指示しておきたいことがありますから」
警部は外に出ると、部下たちを呼んだ。ヘイスティングス巡査部長とウォーカー巡査の二人を残して、あとのものは明朝八時にここまで来るように指令して、車でかえした。警部は、ブロートン青年に、ここまで同行し、協力してくれたことについて礼をのべ、別れの挨拶《あいさつ》をした。
警部が書斎にまたもどってくると、フェリックスは煖炉に火をあかあかと燃やし、ウィスキーと葉巻をすすめた。
「ありがとう、いただきます」警部は、安楽椅子にふかぶかと身をしずめると言った、「ところで、フェリックスさん、樽があの小屋のなかにあったのを知っているものについて、ここであらためて吟味してみようじゃありませんか」
「私とここまで運んだ馬方のほかは、だれひとりいませんよ」
「あなた、馬方、それにこの私とウォーカー巡査――この四人から吟味しましょう」
フェリックスは微笑した。
「では私からはじめましょう、よくご存じのことと思いますが、私は樽を荷馬車からおろして、ほどなく外出し、一時すぎまでもどってきませんでした。その間というもの、医者のウィリアム・マーチンや、おたがいによく知っている連中と一緒にいたのです。私には、ちゃんとアリバイが証明できるわけですよ」
バーンリー警部もまた微笑をうかべた。
「こんどは私の番ですな、私の言葉を信じていただくよりしようがないのですが、ウォーカー巡査は十時からこの家を見張っていたのです、したがって、それ以後の時間には、どうすることも絶対に不可能だと考えてもいいのではないでしょうか」
「すると、のこるのは馬方ですね」
「そうです、馬方がのこるわけです、そこで、どのような可能性もなおざりにできませんから、その運送屋の番地と、その馬方についてご存じのことを、教えてくださいませんか」
「店の名前はジョン・ライオンズ父子運送店、番地は下ビーチウッド、マドックス街一二七です。馬方の名前は、ウォティというだけしか分りませんね、小柄の痩せた男で、顔は浅黒く、ちいさな口髭《くちひげ》をはやしていました」
「それでですね、このほかに、樽のことを知っていそうな人間に心あたりはありませんか?」
「いや、だれもありませんよ」フェリックスはきっぱり答えた。
「はたしてそう言いきれるものでしょうか、いや、そうは問屋がおろしませんよ」
「じゃ、ほかにだれがいるというのです?」
「パリのお友だちですよ。ル・ゴーティエが、あなた以外の人に手紙を書かなかったとは言いきれませんからね」
まるで弾丸にあたったみたいに、フェリックスは椅子のなかでパッと身をおこした。
「あ、そうか! そいつは夢にも考えなかった」と彼は叫んだ、「だけどそんなことはちょっと考えられない――いや、ありうべからざる話ですよ」
「それなら、この事件全体だって考えられないことばかりではありませんか。たぶん、あなたは、昨夜、ほかにもなにものかが、この家を見張っていたことを、お気づきになっていないでしょうね?」
「なんですって、警部さん! それはどういうことなんです?」
「あなたが荷馬車に樽をつんで帰ってからほどなく、なにものかが、あの小径にやってきたのですよ。その人間は見張っていて、あなたが友人のマーチンと言葉を交わしているのをきいていたのです。あなたがその友人と一緒に外出すると、その人間は尾行していったのです」
フェリックスは手で額をこすった、顔からサッと血の気が失《う》せた。
「いや、こんどのことでは、すっかりまいりましたよ、とんでもないことにまきこまれてしまったものです」
「それほどお困りなら、どうか私に協力してください、ね、いいですか、じっくりと考えてみてください、ル・ゴーティエのこちらにいる友人で彼が手紙を出しそうな相手はいませんか?」
しばらくのあいだ、フェリックスは黙りこくったまま、考えこんでいた。
「そう、たったひとりいますがね」やっとのことで彼は、ためらいがちな口調で言った、「とても仲のいい友だちで――パーシイ・マーガトロイドとかいう男ですよ、鉱山技師でしてね、ウェストミンスターに事務所があります。しかし、彼が、こんどのことでなにかかかわりがあるなんて、私にはぜんぜん信じられませんけどね」
「ま、いずれにしろ、その男の住所氏名を教えてくださいませんか」
「ヴィクトリア街、聖ジョン・アパート四号です」フェリックスは住所録を見ながら言った。
「よろしかったらあなたが書いて、サインしてくださいませんか」
フェリックスは微笑しながら、警部の顔を見上げた。
「いつもなら、警部さんが自分で手帳に書くはずですがね?」
バーンリー警部は声をあげて笑った。
「いや、こいつは一本やられましたな、じつはあなたの筆蹟も見たかったのですよ。なに、職務上のほんの手順でしてね。さ、どうでしょう、ほかに心あたりの友人は?」
「私が知っているかぎりでは、もういませんね」
「そうですか、では、もうひとつ、おたずねしたいことがあるのですが、パリでは、どこにお泊りでした?」
「コンティネンタル・ホテルです」
「ありがとうございました、これで結構です。ところで、夜があけるまで、この椅子を拝借して、ちょっとやすませていただきたいのですが、それから、どうかもうおやすみになってください」
フェリックスは腕時計を見た。
「三時十五分ですね、では、そうさせていただきましょう、ただ、なにぶん一人暮らしのものですから、警部さんのベッドがつくれなくてどうも、それとも、空いている部屋で仮寝でも――?」
「なに、大丈夫です、この椅子で結構ですから」
「ではよろしいように、おやすみなさい」
フェリックスが書斎から出て行くと、警部は椅子に腰をおろし、強い黒葉巻をくゆらしながら、思索にふけった。身動きひとつせずにじっとしたままだったが、眠ってはいなかった。ただ、三十分おきぐらいに身を起こして、新しい葉巻に火をつけるだけだった。時計が五時を打つと、はじめて彼は椅子から立ち上って、窓から外を見た。
「やっと夜があけた」警部は口のなかでつぶやくと、裏口からしずかに中庭に出た。
まずはじめに捜査したのは、中庭と馬車小屋のなかをすみからすみまで調べて、樽がほんとうに盗み出され、どこかほかの小屋かなにかに隠してあるのではないことを、たしかめてみることだった。この点は、たちどころに満足な結果が出た。
樽がどこにも見あたらない以上、車で運ばれたことは、火を見るよりもあきらかだった。そこで、つぎに打つべき手は、どうやって車をいれたか、その痕《あと》がのこっているかどうかを調べることだった。警部はまず馬車小屋のドアを調べた。
彼は南京錠をはずして手にとると、丹念にあらためた。それはごくありふれた旧式な四インチの錠だった。リングは鍵のかかっているまま無理矢理にこじあけられていて、錠の『かん』が通る、開く側の穴はひきさかれていた。その破れ方から判断して、錠の胴の部分と、リングが通してあったドアのハンドルについている|U《ユー》字形の止め金とのあいだに、なにか梃子《てこ》みたいなものをさしこんで、こじあけたと見える。警部は、その梃子を見つけようとあたりを探したが、見あたらなかった。そこで、そういう道具――ドアにつけられた痕跡とピッタリあうような道具を探すこと、と彼は手帳に書きいれた、これは重要な証拠になるかもしれないからだ。
つぎの問題は、中庭の門だった。この門は、二枚の戸が真二つに割れて内側にひらくようになっていて、門の戸じまりは、中央から一枚の戸のはしに蝶番《ちょうつがい》でついている角材が、その役目をはたしていた。つまり、その角材を垂直にすれば門の戸がひらき、水平にすると、二枚の戸にそれぞれついている腕木にかかって、門はピタリとしまるわけだ。南京錠《ナンキンじょう》をつけて戸じまりをすることもできるが錠はついていなかった。いま、警部が調べてみると、その門はしまっていて、腕木に角材が水平にかかっている。
警部は、フェリックスが角材を横にたおして戸じまりをしておいたかどうか、これを調べようと、手帳にそのことを書きとめた、それから、そこにたたずんでじっと考えこんだ。荷馬車が出ていったあと、この庭の門が内側からしめられたにちがいないことはあきらかだった。樽を盗みに来た車がやって来たときにも、おなじように内側から開けられたにちがいない。それなら、開けたものはだれか? フェリックスが嘘をついているのか、それともほかにだれかが、あの家にいたのか?
はじめは、どうもそうらしいぞと思えたが、ややあって、警部は、べつな考え方をしてみた。そうだ、ウォーカー巡査は塀によじのぼったではないか。それなら、この庭の門を開閉した人間が塀によじのぼることだって、充分考えられるわけだ。警部は塀にそってゆっくりと歩きながら、塀とその下の地面を綿密にしらべてみた。
最初のうちはこれといってめぼしいものは見つからなかったが、もう一度やりなおしてみると、中庭の門から三ヤードばかり歩いた塀の漆喰《しっくい》に、泥かほこりの跡が二つ、かすかについているのを見つけた。その跡は、地面からほぼ六フィート上のところについていて、二つの跡の間隔は約十五インチあった。中庭のだれも通らないような、丸石の敷きつめてあるやわらかな土の上に、塀から一フィートばかりのところ、塀についている泥の真下に、くっきりとつけられた凹みが二つあった。長さ二インチ、幅半インチばかりのもので、長さにあたる辺が一直線にならんでいた。あきらかになにものかが短い梯子《はしご》をかけたのだ。
バーンリー警部は、この二つの凹みをじっと見つめながら、そこに立っていた。梯子にしては、脚の間隔がひらきすぎているぞ、と警部は思った。計ってみると十五インチもあった。普通の梯子なら、十二インチぐらいのところだということを、警部は知っていた。
中庭の門をあけて、彼は塀の外側に行ってみた。こちら側は、塀ぞいに草地になっていた。警部は腰をかがめて、内側の跡に一致する跡を探してみた。やっぱり、ちゃんとあった。中庭よりもやわらかい地面に、梯子のようなものの脚がつけた凹みが二つのこっていて、庭のものよりもさらに深かった。しかも庭のものほど幅はせまくなく、くっきりと矩形型《くけいがた》になっていて、長さ三インチ幅二インチだなと、警部は見てとった。それから、塀の漆喰《しっくい》を見たが、拡大鏡をとりだして、なお一層綿密にしらべてみると、塀の内側についていた泥の跡に対応する位置に、二つのかすかな擦《す》り疵《きず》があるのを見つけて、彼は満足した。
と、さらにまた、考えが警部の頭にうかんだ。彼は、草地から、ひとつかみの泥をすくうと、中庭にふたたびひきかえして、その泥と、漆喰についている乾いた泥とを、拡大鏡で比較してみた。やっぱりにらんだとおり、その泥はまったくおなじものだった。
ここで警部は、前夜の出来事を、おぼろげながら頭のなかで描いてみることができた。なにものかが塀の外側に、ある特別な梯子をかけ、たぶん塀をのりこえて、中庭の門をひらいたにちがいない。それから、犯人はその梯子を中庭のなかにかつぎこみ、こんどは内側から塀にかけたのだが、おそらくなにかの手ちがいで、その梯子をさかさまにかけてしまったのだ。そのために、外側の塀の漆喰には擦《かす》り疵《きず》がついているだけで泥がなく、内側の漆喰には、草地に立てた脚の泥がのこっているのだ。犯人が庭の門に閂《かんぬき》をかけて外に出るとき、梯子にひもをつけて塀越しに引きあげたにちがいないと、警部は想像してみた。
警部は外側の草地にもどると、さらに丹念に調べてあるいた。すると彼は、その推理を裏づけてくれるものを発見した。塀から二フィート六インチばかりはなれた地面に、梯子の片脚がつけた跡が一つのこっていたのだ。犯人が中庭を出るとき、梯子を塀越しに投げおろしたものだから、こんな跡がついたのだ、と警部はにらんだ。それからまた、足跡を三つ見つけたのだが、残念なことに、あまりにも不明瞭なので、手がかりにはならなかった。
警部は手帳をとり出すと、自分が知り得たかぎりの梯子の形状を、正確な寸法にもとづいてスケッチした。――長さ、幅、両端の脚の形などである。それから、フェリックスが天井からチェーン・ブロックをつるときにつかった脚立を馬車小屋から持ち出すと、警部は塀の上にあがった。セメントづくりの塀のてっぺんを入念に調べてみたが、足跡一つ発見することができなかった。
中庭は石で舗装されているので、車の跡や足跡はぜんぜんのこっていなかったが、警部はながいことかかって行きつもどりつしながら、なにか手がかりになるようなものは落ちていないかと、目を皿のようにして、すみからすみまで一フィートずつくぎりをつけて見てあるいた。以前に一度、ちょうどおなじような事件にぶつかったとき、運よく、ズボンのボタンが木の葉のかげになっているのを見つけ出し、それがきめ手となって、二人の犯人を検挙できたことがあった。だがこんどは、そうは問屋がおろさなかった。いくら探しても、獲物はまったくなかった。
警部は中庭をあきらめて車道に出た。ここには、いろいろな跡がたくさんあった、だが、さすがの警部でも、ここから手がかりがつかめるものではなかった。車道一面には、こまかい砂利があつく敷きつめてあって、輪郭のさだかでないさまざまな跡が判然とせぬままみだれているばかりだった。だが警部は、中庭を調べたときとおなじ要領で、車道を丹念に調べはじめた。規則正しくすみからすみまで見て歩きながら、警部は門にむかって一歩一歩すすんでいった。家のそばから遠ざかると、敷きつめてある砂利はかなり薄くなってきたが、その下の地面が固いものだから、なんの跡もついていなかった。彼は門のちかくまで、辛抱《しんぼう》強くつづけて行くと、そこで思いがけない幸運にぶつかった。
家と道のあいだの芝生で、なにか工事がすすめられているところなのだ。テニス・コートかクロケー(木球を打って関門を通過させるゲーム)のグラウンドでも作っているんだなと警部は思った。このグラウンドの隅から、ごく最近土をかぶせたばかりの細い溝《みぞ》が、車道の下を横切って、生垣の外の小径までつづいているのだ。あきらかに、排水路をつくったばかりなのだ。
この排水路が車道の下をくぐっているあたりで、埋めたばかりの地面がいくらかひくくなっていた。その凹《くぼ》みの中ほどには砂利をいれて高くしてはあったものの、たまたま、さしてひくくならなかった芝生よりのちいさな地面は砂利を敷かないで、やわらかい地肌《じはだ》が見えていた。この地肌に、足跡が二つ、家の方に靴の先端をむけてくっきりとついていたのである。
いま、二つと筆者は書いたが、厳密にいうと、それは正しくない。その一つは、頑丈な鋲がうちつけてある労働者用の右靴で、まるで石膏《せっこう》のように地面にありありときざみつけられていて、完全にその靴型をのこしていた。もう一つは、その左側のほんのすこし前方にあって、あきらかにつぎの一歩をふみだしたものである。この靴跡は、地肌のでている地面の境目にあたっており、踵《かかと》の跡だけがやわらかい土の上にくっきりと残っていて、靴底の部分はその前方の堅い地面にかかってしまっていたのである。
バーンリー警部は、目をキラリとかがやかせた。こんなにくっきりと残っている足跡にお目にかかったのは、はじめてだった。ついに明白な証拠を見つけたのだ。警部はさらに綿密に調べようと、腰をかがめた、と、その途端に、いらいらした身ぶりでパッと立ち上った。
「馬鹿だな、おれは」彼はうなった、「こいつは馬方のウォティが樽を運んだときにつけた代物《しろもの》じゃないか」
だが一応、警部はその二つの靴跡を丹念にスケッチした、二つの靴の間隔や、やわらかな地肌が出ている部分の寸法を書きいれたのである。馬方のウォティなら、運送屋にあたってみれば容易に分ることだし、この靴跡が彼のものであるかどうかたしかめるのは簡単なことだ、と警部は思った。だが、もしものこと、この靴跡がウォティのものでなかったら、樽を盗み出した犯人の重要な手がかりを見つけたことになると考えてもいい。
バーンリー警部は進路をかえて、そのさきにすすもうとしたが、あくまでも気がすむまで考えぬくという持ちまえの癖が出て、その場にたたずんで、二つの靴跡を見つめたまま、じっくりと考えこんだ。二つの靴跡の間隔があまりにもすくなすぎるのが、警部には腑《ふ》に落ちなかった。彼は巻尺をとり出して、その間隔をはかってみた。踵から踵まで十九インチしかなかった。これでは、あまりにも間隔がなさすぎる。このサイズの靴をはく男なら、すくなくとも三十インチの歩幅があるのがあたりまえだし、それに馬方というものは、歩幅の大きいのが相場になっている。ウォティなら三十二インチか三十三インチの歩幅があって、ちょうどいいくらいのものだ。では、なぜ、こんなに歩幅がないのか?
警部は二つの靴跡を喰いいるように見つめながら、考えこんだ。と、突然、彼の目にあらたなる興奮の色がきらめき、ふたたび地面にパッとかがみこんだ。
「おお!」彼は思わずつぶやいた、「すんでのことで、見のがすところだった! そうだ、いよいよウォティのものに間違いはないぞ、もしそうなら、これこそ決定的じゃないか! 絶対にそうだ!」頬は紅潮し、目はキラキラときらめいた。
「よし、ひょっとすると、これで尻尾をつかんだぞ」警部は顔をかがやかして言った。だが、それにもかかわらず彼は、車道の未調査の部分と外の道路を、まえとかわらぬ丹念なやりかたで調べていった、しかし、獲物はもうほかになかった。
彼は腕時計に目をやった。七時だった。
「のこるは、あと二つだけだ」彼はさも満足げな口調で、自分に言いきかせた。
警部はほこ先をかえて、小径にすすむと、ゆっくりと歩いて行きながら、車道を調べたときの要領で、こんどはその地面を入念に見ていった。その間に三度立ちどまると、のこっている足跡を調べ、その寸法を計った。三度目は、生垣についている小門のごくちかくだった。
「これでひとつはすんだ。さて、調べるのはあとひとつだ」警部はそうつぶやくと、入口の門にひきかえし、そこにたたずんだまま、しばらくのあいだ、道路を前後に見渡していた。
彼はロンドンの方角にむかって、両側の通用門をひとつずつ丹念に調べながら、四分の一マイルばかり歩いていった。なかでも、空地につづいている通用門をとくに注意した。だが、彼が求めていたものは、あきらかに見つからなかったようだ。途中から、左に入るわき道までひきかえすと、その道ぞいを調べていった。しかし、ここではいっこう運にめぐまれず、こんどはつぎのわき道を捜査してみたが、結果はおなじだった。もうほかに、わき道がなかったので、警部はもとの小径にもどると、ロンドンの逆の方角にむかって、捜査をはじめた。三つ目の木戸のところで、彼は立ちどまった。この、道の左側の通用門に入ると、奥は空地になっているのだ。
この通用門は、ごくありふれた農場用の鉄の門で、道の境目をつくっているやや高くて厚い生垣についていた。空地には雑草がおいしげり、住宅用貸地の看板が立っていた。その鉄の門のすぐ入ったところは、見たところ、ひくい湿地帯になっていて、ここを横断したばかりのあたらしい轍《わだち》がいくつもついているのが、警部の目をひいたのである。
その鉄の門には、南京錠《ナンキンじょう》がかかっていなかった。バーンリー警部は閂《かんぬき》をはずすと、その空地に入っていった。彼は入念に、その車の跡を検分した。轍から判断すると、車は門に入るとすぐ直角にまがり、それからほんのすこしばかり生垣にそってすすみ、その生垣のなかに生えている一本の木のそばで停っていた。そして、綿密な調査の結果、そのおなじ地面に一頭の馬の蹄の跡と、大きな鋲をうった男ものの靴の跡がついていたのが分った。
空地から出てきたバーンリー警部の顔には、満足の色がありありとうかんでいた、そして彼はサン・マロ荘にひきあげていった。彼は、昨夜一晩の仕事に、すっかり満足していた。まずはじめに、フェリックスからいろいろな話をひき出すのに成功したし、おまけにそのフェリックスを、事件の謎《なぞ》をときあかすのに積極的に協力してくれる味方にしてしまったのだ。もっとも、樽が盗まれるという思いもよらぬ邪魔が入ったとはいえ、この朝方の三時間のうちに見つけた手がかりがものを言えば、あの樽をとりかえすのも、さして遠いことではないと、警部は思った。
玄関のドアに警部が近づくと、フェリックスが大声で呼びかけた。
「あなたがもどってくるのが見えたんですよ、首尾はどうでした?」
「まあまあといったところですよ、これから私はロンドンにかえります」
「でも樽は? これはどうなるのです?」
「捜査にかかりますから、なんとか目鼻がつくと思いますね」
「それはひどい、警部さん、そんな、水臭い真似はやめてくださいよ、あなたの腹案を私に話してくださったって、いいじゃありませんか、あなたの胸に、なにか一物があることぐらい、私にだって分りますからね」
バーンリー警部は声をあげて笑った。
「いや、まいりましたね、ま、いいでしょう、私が見つけたものをお話ししますから、それでひとつ、判断してみてください。
まずはじめに、あの馬車小屋の南京錠が、梃子で力まかせにこじあけられているのに、気がつきました。そのちかくには梃子に該当するものが落ちていませんでしたから、どんな推理を立てるにしろ、この梃子の出所と隠し場所を洗うのが先決問題となってきます。その梃子には、南京錠の破れ口と符合する傷があるものと考えてまず間違いはないはずですし、おそらくこれは重要な証拠となりますね。
それから、犯人が中庭の門のところまで車をもってきて、きわめて特殊な梯子をかけて塀をのりこえたことが分ったのです。それから犯人は、内側から門をあけ、車に樽をつんだあと、車道まで引き出して、また内側から門をしめ、おなじように塀をのりこえて出ていったものと思われます。犯人がその梯子を塀ごしに引きあげた証拠がのこっていますが、たぶん、梯子にひもでもかけてひっぱりあげたのでしょうな。
いま、その梯子がきわめて特殊なものだと言いましたね。これが、そのスケッチなのですよ、ま、知り得たかぎりのことから推定して描いてみたのですがね、ほら、この梯子は、みじかくて幅があり、両端の形がこんなにもちがっています。
ついでに言いますと、どんなに樽が重かろうと、そんなものを車に積むのはじつに造作《ぞうさ》もないことなのですよ。ただ、天井からつり下げてある樽の真下まで車を後退させて行って、チェーン・ブロックをおろしさえすればいいのですからね、なに、そんなことは、男ひとりでも片手でらくらくできますよ。
私は車道を調べてみました、べつにこれといったものはありませんでしたが、ある個所だけには、きわめて興味のある靴の跡が二つ、のこっていたのです。あなたの目にだってはっきり分りますよ、なんなら、車道まで行ってみましょうか、私がそいつを教えてあげます。その靴跡は、馬方のウォティが荷馬車をひいて、この家までやってきたときにつけたものと思われるのですが、いまのところ、はっきりと言いきるわけにはいきません。
それから小径も調べてみたのです、三か所に、同一人物の靴跡を見つけました。おしまいに、街道を北に二百ヤードばかり行ったところで、雑草の生えている空地のなかに車をひきいれた、その轍を、私は見つけたのです。そのすぐそばに、男の足跡もあったのです。
ところで、フェリックスさん、いままでに私が発見した手がかりを全部、総合して判断してみてください、いかにも暗示に富んでいると思われるでしょうが、なかでも車道にのこっている靴跡は、犯人を割り出す決定的な証拠といってもさしつかえがないくらいです」
このとき、警部とフェリックスは、ちょうどその靴跡のところに来ていた。
「ほら、こいつですよ」とバーンリー警部が言った、「この靴跡をどう思います?」
「べつにこれといったことには、思いあたりませんけどね」
「もう一度、よく見てください」
フェリックスは顔を横にふった。
「では、フェリックスさん、この砂利の上に立って、第一の靴跡にならべて、あなたの右足をおいてみてください、よろしい、さてこんどは、家にむかって歩くような気持ちで、左足を一歩踏み出してくれませんか、結構です、さ、これでなにかに気がつきましたか?」
「いや、べつに、ただ、私だったら、歩幅がずっとひろくなりますがね」
「といって、あなたの歩幅は、人並以上にひろいというわけではないのです」
「ところが、それとは逆に、この靴跡をのこした男は、歩幅がせまかったのですね、きっと」
「しかし、はたしてそうだったでしょうか? この靴跡をのこした男が馬方のウォティだと仮定してみてください、私はウォティだとはっきりにらんでいるのですがね。あなたなら、この男と一緒にいたのだから、彼の歩き方を見ているはずです」
「ねえ、警部さん、私にそんなことがどうして分るんです? たしかにあの男は、普通に歩く場合、人並以下に歩幅がみじかかったということはありませんでしたよ、さもなければ、私は気がつくはずですからね、しかし、あの男が絶対に歩幅をみじかくして歩いたことがないとは、私にだって断言できないじゃありませんか」
「いや、歩き方に変った点が見あたらないかぎり、その点は重要ではないのです。しかし、いくら可能であるとはいえ、馬方のウォティがこんな小股《こまた》でチョコチョコあるくなんて、とても考えられないということは、あなただって、おみとめになるはずです――三十三インチが普通だというのに、十九インチしかないのですからね――つまずいたり、足を踏みちがえたりしないかぎりね」
「またどうして、ウォティがつまずかなかったと言いきれるんです?」
「靴跡ですよ、フェリックスさん、この靴跡を見れば分るではありませんか、つまずいたり、足を踏みちがえたりすれば、靴跡がずれて|ぼけ《ヽヽ》てしまうか、どちらか一方に力がかかっているはずです。ところがこの靴跡は、いまいった点はひとつもなく、全体がくっきりときざみつけられているじゃありませんか、あきらかにこれは、ごく普通に歩いて、つけられた靴跡ですよ」
「そう言われてみれば、たしかにそうですね、だけど、それがいったいどうしたというのです?」
「決定的なきめ手とは言えないまでも、これは私にとって、きわめて暗示的に思えるのです。いや、決定的と言ってもさしつかえない点があるのですよ、フェリックスさん、この靴の跡をもう一度、見てください」
「いくら見ても、私にはさっぱり分りませんよ」
「では、二つの靴跡をくらべてみてください」
「そう言われても、踵の部分しかくらべられませんけどね、ちがいはほとんどみられませんよ、たしかに一足の靴の踵ですね」そこまで言って、フェリックスはためらった、「おや! 警部さん、やっと、あなたの言う意味がわかりましたよ、こいつはまったくおなじ踵の跡だ、おなじ右足でつけた跡なんですね」
「私はそうにらんだのですよ、フェリックスさん、あなたにも分ったわけですね、ほら、これです」警部はからだをこごめた、「二つの踵とも、左側の四番目の鋲がぬけています。これだけなら、偶然の一致ということも考えられますが、ほかの鋲や皮の減りかげんをくらべてみれば、この二つの靴跡は、あきらかにまったく同一のものだということが分るはずです」
警部は、踵の跡にかすかにあらわれている不揃いの凹凸《おうとつ》やはっきりしない個所をひとつひとつ指摘してみせたが、いずれも、両方の踵の跡にそのままあらわれていた。
「しかしですね、これがまったくおなじ靴跡であるにしろ、そこから、いったいどんな手がかりをあなたがつかむのか、私にはさっぱり見当がつきませんよ」
「見当がつきませんか? では、いいですか、この靴跡の主《ぬし》がウォティだとしたら、この男は、いったいどうやって、こんな靴跡を残すようなことになったのでしょう? それには、二つの歩き方が考えられますが、そのうちの一つでなければなりません。その一つは、あの男が片足でピョンピョンとんで歩いた場合です。しかし、そんな歩き方をしたとは考えられない理由が三つあります。第一に、あの男がそんな真似をしたら、あなたの目にとまらぬはずはありません。第二に、ピョンピョンとんで歩いたら、こんなにはっきりした靴跡をのこせるものではありません。第三は、片足でとばなければならない理由がどこにあるか? そんな歩き方をするわけはまったくなかった。したがって、この靴跡は、二つのうちの第二の歩き方でつけられたものです。では、その歩き方は、なんですか、フェリックスさん?」
フェリックスはハッとなった。
「そうか、やっと警部さんの言われる意味がわかりましたよ、つまり、ウォティのやつは、車道を二回往復したんですね」
「そうですとも、あの男は、第一回は樽をおろすために、あなたと一緒にやってきた、第二回目は、からの荷馬車をひっぱって、その樽を盗み出しにやってきたのです。この靴跡がほんとうにウォティのものなら、そうにらんでまずまちがいはありませんな」
「それにしても、ウォティのやつ、あの樽を盗んでどうする気なんでしょう? 樽のなかに金貨が入っているなどと、やつは知りっこないんですから」
「ま、たぶんそうでしょうな、しかし、なにか値打ちのあるものがあると、にらんだのにちがいありませんよ」
「警部さん、あなたのおかげでほんとうに私はたすかりましたよ、じゃ、ウォティのやつが犯人なら、樽をとりかえすのは簡単ですね」
「さあ、それは一概に断言できませんな、問題は、『はたしてあの男は、自分の考えだけで盗んだのか』ですよ」
「じゃ、ほかにだれがいるというのです?」
「パリのル・ゴーティエはどうでしょう? 彼が手紙を出すかもしれない相手を、あなたはご存じない、それに、あなたが樽を運搬するところを、いちぶしじゅう見られていたかどうかも、あなたには分らない」
「おねがいだからものごとを悪く解釈するのはやめてください、そんなことより、ウォティの足どりをさぐってくださるのでしょうね?」
「むろん、さぐりますとも、ですが、こいつは、あなたが|たか《ヽヽ》をくくっているよりも、骨がおれるかもしれませんよ、とはいうものの、どうやらあの男の単独犯行を裏付けてくれそうな点が二つあるのです」
「というと?」
「第一の点は、小径にいたという謎の監視者のことです。これは、この車道を二度往復した男とにらんでまずまちがいのないところです。小径づたいに、その男の靴の跡を三つ見つけたと、あなたにお話しましたね、その一つは、小門のすぐそばの、生垣にむきあった場所にのこっていたもので、その男がそこに立っていたことを示すものです。ウォーカー巡査が、その謎の監視者をみとめたのも、ちょうどそこだったのです。
第二の点は、馬と荷馬車についてなのですが、このおかげで、謎の監視者はウォティにまちがいないということを、私は確信するにいたったのです。もしウォティがあの小径で、足音に耳をそばだてていたとしたら、馬と荷馬車はどこにあったでしょうか? もしあの男に共犯者がいたとしたら、その共犯者は荷馬車をひっぱって道路を行ったり来たりしていたはずです。ところがその反対に、ウォティひとりの単独犯ならば、彼があなたを監視しているあいだというものは、荷馬車をどこか人目のつかないところにかくしておかなければなりません。私は、お宅と関係のある道路という道路を片端から調べてあるきました、そして、四度目の狙いが見事に命中したのです――さっきお話したとおり、ロンドンとは逆の方角、つまり北よりの道路で――その隠し場所を見つけたのですよ。ここでどういうことが起こったか、手にとるように分りました。ウォティは樽を馬車小屋におろしてから、からの荷馬車をひいて帰って行く途中、奥が空地になっている鉄の門を見つけたのにちがいありません。お話したように、そこは雑草のおいしげっているただの空地でした。その地面にのこっていた轍《わだち》や靴の跡は、まったく見間違う余地のないものです。ウォティは生垣のかげに荷馬車をひきこみ、そこにはえている一本の木に、馬をつないだのです。それからあの男はあなたの様子をさぐりにひきかえし、あなたが外出するのをかぎつけたわけなのです。あなたが外出されると、間髪をいれず、ウォティは荷馬車をひいて中庭に入りこみ、樽をつんで逃げていったのです、ま、これは私の想像ですが、あの男が立ち去ったのは、ウォーカー巡査が警視庁に電話をかけてまたもどってくる、ほんのすこしまえのことだったと思うのです。私はこう推理してみたのですが、どうお考えになります?」
「まさに決定的だと思いますね、絶対にそのとおりですよ。それで、あのへんてこなかっこうの梯子も、説明がついたわけです」
「なんですって? どういうことなんです、それは?」
「それは、荷馬車に樽を積むのにつかう運送屋用の梯子にちがいありませんよ。あの荷馬車のデッキの下に、そいつがつってあるのを、私はこの目で見てますよ」
バーンリー警部は、思わず自分の腿《もも》をハッシとたたいた。
「すごい! フェリックスさん、いや、お手柄ですよ、私はぜんぜん気がつかなかった、すると、これでまた、ウォティの決め手が出てきたわけです」
「警部さん、おめでとう、とうとうあなたは、動かぬ証拠をつかみましたね」
「これなら、まず絶対に大丈夫だと思いますね。さて、私は警視庁にかえらなければなりません」そこでちょっと、警部は言いよどんだが、つづけて、「じつは、まことに言いづらいことなのですが、率直に申しますと――この樽の件が解決するまで、一応あなたを、監視させていただかねばならないのです。むろん、私としては不本意なのですが――しかし、あなたにつまらないご迷惑をおかけしないことだけは、はっきりお約束します」
フェリックスは微笑した。
「ええ、結構ですとも、あなたの義務だから仕方がありません、ただひとつ、お願いしたいことは、事件の経過を知らせていただきたいのです」
「それだったら、午後になれば、なにかお知らせできると思います」
八時をすこしすぎたところだった、昨夜家にかえした二人の刑事をのせた車が、すでに到着して、バーンリー警部を待っていた。警部は、その二人に、フェリックスの見張りを指示すると、いれかわりに、ヘイスティングス巡査部長とウォーカー巡査をつれて、その車にのりこんだ、そしてロンドンにむかって車を急行させた。
七 樽の発見
バーンリー警部は、警視庁にむかう途中、ウォーカー巡査にあたたかい激励の言葉をかけてやり、その勤務先の警察署のまえで車からおろしてやると、おかげで青年巡査の胸は勝利に高鳴り、いつの日か、警視庁きっての凄腕《すごうで》とよばれ信望を一身にあつめているウォーカー警部の姿を、まざまざと空想してみるのだった。車が市中を疾走《しっそう》しているあいだ、バーンリー警部は作戦をあれこれと練っていたが、まず手はじめにヘイスティングス巡査部長を自分の部屋によび、大縮尺地図を机の上にひろげることによって行動を開始した。
「いいかね、ヘイスティングス」警部は自分の推理をひととおり説明してから、問題の運送屋をさがしあてると、口をひらいた。「ここだよ、ジョン・ライオンズ父子運送店という運送屋は。ウォティはこの店で働いていたのだ。例の荷馬車は、ここのを借りたわけだよ。ほら、こんなちっぽけな店さ。グール街のすぐそばだ、ここにグール街郵便局がある。店の場所は分ったかね? よろしい、それでは朝食をすませたら、その店まで行って、ウォティを洗ってもらいたいのだ。まずやつの姓名と住所をつきとめてくれたまえ、分り次第、電報か電話でこちらにすぐ報告するように。それから、やつを尾行してくれたまえ、ま、やつが樽をもっていると私はにらんでいる、自分の家か、それともどこかに隠してあるかだ。やつを尾行しさえすれば、だまっていても樽のありかが分るというわけだよ。たぶん、暗くなるまでウォティは樽をどうすることもできまいが、だからといって、絶対にそうだとは言いきれんしね。とにかく、こちらから余計な手出しをしたり、やつに感づかれたりしないようにしてくれたまえ、だが、やつが樽をまだあけていないのなら、樽をあけさせてはならんし、樽からなに一つ取り出すような真似は、どんなことがあろうと、させてはだめだ。いずれにしろ、君のあとから私もすぐ行くから、こまかい手筈《てはず》はそれからまた打ち合せができるよ。グール街郵便局を、われわれの本拠にする、だから、君の居場所を連絡するのは、そうだな、偶数時間ごとにしてくれたまえ。変装は君にまかせるから、とびきりのやつでたのむ、大至急、仕事にかかってくれ」
巡査部長は敬礼をすると、部屋から出ていった。
「よし、さしあたり、これだけだったな」警部はひとりごとを言うと、あくびをひとつもらして、朝食を食べに自宅にかえった。
それからややあって、バーンリー警部が自宅から出てきた、ところがどうだ、頭のてっぺんから、足のつまさきまで、ガラリと変ってしまったではないか。ロンドン警視庁きっての名警部の姿はみじんもなく、どう見ても小商人か、さもなければちっぽけな請負業者《うけおいぎょうしゃ》といった感じにしか、人目にはうつらなかった。いいかげんくたびれているチェックの服、そのズボンの膝はぬけ、上着はよごれている。ネクタイはおそろしく時代おくれ、靴は泥だらけで、踵はペチャンコだ。このうすぎたない服装に加えて、からだつきはまえかがみ、その歩き方といったら、まえのめりというだらしなさ。
警部は警視庁にひきかえすと、さっそく連絡の有無をたずねた。するともう、ヘイスティングス巡査部長から電話が一本かかっていた。『容疑者の本名はウォルター・パーマー、住所は下ビーチウッド・ロード、フェネル街七十一番地』警部は、ウォティこと、ウォルター・パーマーの逮捕状をとると、私服の運転する警察の自動車にのりこみ、いよいよ、最前線に乗りこんでいった。
この日もまた、すばらしい上天気だった。太陽は、雲ひとつない紺碧《こんぺき》の空にさんさんとかがやいていた。外気は、早春のかぐわしい新鮮さにあふれていた。頭のなかが樽や死体でいっぱいになっているバーンリー警部にさえ、外気の美しさに心をはずませないわけにはいかなかった。なかば吐息まじりに、いつの日か、きっと持ってみたいものだと日ごろから念願している田舎《いなか》の庭園のことを、警部は思った。いまごろなら、黄水仙はさだめしきれいに咲くことだろうし、それに桜草も咲く、そのあとに美しい花をひらく草木を栽培するたくさんのたのしい庭仕事……
警部は予定の行動にしたがって、車をゲール街のはずれで停めると、そこから歩いていった。すこし歩いただけで、彼は目指す建物についた。ひとむれの建物のはじっこにあるアーチのついた入口だった。その上に、『ジョン・ライオンズ父子運送店』という色あせたペンキの看板がかかっていた。警部は、そのアーチの下をくぐり、ほそい路地を入ると、広場に出た。一方の側には正面がガランとあいている小屋があり、反対側には馬が十頭ちかくもつなげるような大きな廐《うまや》があった。種々雑多な荷馬車が四、五台、小屋ののき下に並んでいる。広場のなかほどのところに、馬をつないだままの褐色の荷馬車があった。バーンリー警部は、その馬車に歩みよりながら、褐色のペンキのしたに、消えのこっている白文字の輪郭をおぼろげに読みとった。廐の入口のそばに立っている若い男が、警部の顔を、ただ黙ったまま、ジロジロと見つめていた。
「親方はいるかね?」警部は大声で若い男によびかけた。
その男は広場の入口のほうを指さした。
「事務所でさあ」
警部はそこから引きかえすと、門のすぐ内側にあるちいさな木造の建物に入っていった。すると、帳簿を記入している、からだつきのがっしりとした初老の、白い顎髯《あごひげ》をはやした男が椅子から立ちあがって、警部のところまで出てきた。
「やあ、荷馬車を一台借りたいんだがね?」とバーンリー警部は言った。
「ええ、ようがすとも」と、がっしりとした男が答えた、「いつ、おつかいになるんで? それに期間は?」
「じつはこういうわけなんだ、私はペンキ屋でね、商売がら、いろいろと材料を運ばなければならないんだよ。ところが、うちの荷馬車がこわれてしまってね、そいつの修繕がすむまで一台借りたいんだよ。友だちのやつを借りようと思って頼んでみたんだが、あいにくと、そいつが|あいて《ヽヽヽ》いないんでね。ま、四日もすれば修繕がすむんだが」
「すると、馬と馬方はいらないというわけなんですな?」
「そうなんだ、うちのをつかうからね」
「さいですか、それじゃなんですが、お貸しするわけにまいりませんな、うちでは、馬方なしの荷馬車だけをお貸しするというのは、やっておりませんのでね」
「いや、そいつは無理もない話だよ、だけどねえ、馬方をつけてもらってもしようがないんだが、じゃ、こうしようじゃないか、荷馬車を貸してもらえるなら、手付金をたっぷりはずむよ、それなら、親方だって心配はあるまい」
初老の男はほっぺたをさすった。
「そうですかい、じゃ、そういうことにしていただきましょうか。ま、こんなことははじめてなんですがね、話がそうとなれば、お断りするのもなんですから」
「それでは荷馬車を見せてもらおうか」と警部。
二人は広場に出ると、さっきの荷馬車のところまでやってきた。バーンリー警部は、いかにもすみからすみまで調べるふりをしてみせた。
「ペンキの罐《かん》もつまなければならないし、ちいさな樽もたくさんのせるんでね。ちょっと、あの積荷用の梯子をかけてくれないか、幅がちょうどいいか、たしかめてみたいんだ」
親方はとりつけてある梯子をはずすと、荷馬車にかけてみた。
「なんだか、こいつは幅がちょっとひろすぎるようだぜ」警部は巻尺をとりだすと、そう言った、「ひとつ、はかってみるか」
幅は十五インチ、長さは六フィート。六インチ×二インチの角材で、その両端には鉄の金具がついている。地面についている方の一端、つまり梯子の脚の部分はするどくとがっていて、その反対側、すなわち梯子の頭部は、荷馬車にかけるための鉄製の器具がついている。この鉄の先端は、ほぼ三インチ×二インチの矩形になっている。警部は、その矩形に見入った。両方とも土がついていた。彼は満足した。あきらかにこの梯子は、ウォティがあの塀を乗りこえるのにつかったものなのだ。
「ま、これなら大丈夫だ、それからと、|まぐさ《ヽヽヽ》や修理道具をいれる箱はあるね?」警部は、その箱をパッとあけると、なかを丹念に調べた。端綱《はしづな》、飼葉袋、ちいさい一巻きのロープ、スパナ、それにこまごましたもの。警部はスパナを箱からとり出した。
「こいつは、車の心棒をしめるのにつかうんだね?」警部は腰をかがめると、ためしてみた。
「うん、ナットにぴったりだよ」そのスパナを道具箱にいれるときに、警部はその把手《とって》をすばやく見た。たがいに向いあっている両側に、一組の傷がついている。もし照合することができるなら、その傷が、あの馬車小屋の南京錠とドアについているU字形の壺金《つぼがね》の傷とピッタリ一致するにちがいないと、警部は確信した。
親方は、ちょっと面白くなさそうな表情で警部をジロリと見た。
「いったい、この荷馬車を買うつもりなんですかい?」
「いや、冗談《じょうだん》じゃない、借りるまえに手付金をおくんだから、途中でエンコされないように、たしかめておきたいのさ」
二人は事務所にもどると、賃貸料を話しあった。やがて折合いがつき、はっきりしたことはペンキ屋になりすましたバーンリー警部がその友人に会った上で、あらためて事務所に電話で返事をするということにきまった。
広場を出てきた警部の心は、よろこびにあふれていた。自分の推理が正しかったこと、ウォティがいまの荷馬車で樽を盗んだこと、このうごきのとれぬ証拠を、彼ははっきりとつかんだのである。
警部はグール街にもどると、郵便局に行った。あと十分で十二時だった。まだ、ヘイスティングス巡査部長からなんの連絡もなかったので、彼は局のドアのところに立って待っていた。と、ものの五分もしないうちにひとりの浮浪児がやってきて、なんべんも警部のことを、頭のてっぺんから足のつまさきまで見ていたが、とうとう言葉をかけた。
「おじさんの名前はバーンリー?」
「そうだよ、私に手紙をもってきたのかい?」
「べつのおじさんは、手紙をとどけたら六ペンス銀貨がもらえると言ってたけど」
「ああ、いいとも、ほら」警部は銀貨を子供にやると、手紙を受取った。文面はこうだった――
[#ここから2字下げ]
『|ほし《ヽヽ》は昼食のため帰宅するところ。運送屋の広場の南側道路で待つ』
[#ここで字下げ終わり]
バーンリー警部は、警察の車のところまで歩いて行くと、それに乗りこみ、巡査部長が張り込んでいる地点へ車を走らせた。警部のサインに、私服の運転手は車を道路の端によせると、そこでエンジンをとめた。警部は車からとびおりるなり、前部のフードをあけて、エンジンをのぞきこんだ。知らないものがこれを見たら、なにかちょっとした故障が起きたのだと思うにきまっている。
おそまつな服を着た、背の高い、みるからに貧相な男が短い粘土のパイプを口にくわえ、両手をポケットにつっこんだまま、車のそばにのろのろと近づいてきた。警部はふりむきもせずに、ひくい声で言った。
「やつを逮捕したいのだ、ヘイスティングス、やつの姿が見えたら、教えてくれ」
「五分しないうちに、やつは昼食をとりに、この道をやってきます」
「よし、わかった」
失業者風の男はさらに近よると、エンジンの修理を、さもひまつぶしといった感じで、ぼんやりとながめた。と、突然、その男はあとにさがった。
「|やつ《ヽヽ》です」男がささやいた。
バーンリー警部は、車のうしろの窓ごしに、こちらへやってくる背のひくい痩せた男を見た。ブルーの作業服にグレイのウールのマフラーをしている。男が車のところにさしかかると、警部はパッと車からはなれ、男の肩をつかんだ。失業者風の男と運転手が、逃げ道をふさいだ。
「ウォルター・パーマー、私はロンドン警視庁の警部。樽を盗んだかどにより、おまえを逮捕する。これよりおまえの喋ることは、おまえに不利に用いられるかもしれないということを、まえもって警告しておく。おとなしくしたほうが身のためだぞ。こちらは三人いるのだ」
呆然《ぼうぜん》自失のまま、鳩が豆鉄砲をくったような顔をしている男の両の手頸に、手錠がカチャリとはめられ、車のほうにグイッと背をおされた。
「そうですかい、旦那、行きますよ」男は車に乗りこみながら言った。バーンリー警部とヘイスティングス巡査部長とがそれにつづいた。運転手がエンジンをかけると、車はしずかに道路を走っていった。ものの二十秒もかからない、まったくアッという間の出来事だったので、通りすがりのもので、それに気がついたものは一人もいないくらいだった。
「こいつはひょっとすると、重罪になるぞ、パーマー」と警部は口をひらいた、「樽を盗んだことも立派な犯罪だが、夜中に他人の中庭におしいったのも罪になるのだ。夜盗罪が成立するから、すくなくとも七年はもって行かれるぞ」
「いったい、なんの話なんで、旦那」男は乾いた唇をなめると、かすれた声で答えた、「樽のことなど、さっぱり、見当もつきませんや」
「おい、つまらない嘘をつくと、あとで後悔するようなことになるぞ。なにもかもネタはあがっているんだ。すこしでも罪を軽くしてもらいたかったら、つつみかくさず、ありていに白状するのだ」
パーマーの顔から血の気がひいたが、それでも彼は答えなかった。
「いいか、おまえが昨夜の八時にフェリックスさんの家まで問題の樽をはこんだことから、馬車小屋に樽をおろし、そのあとで、盗み出す機会をうかがいにまた逆もどりする気になったということまで、ちゃんと、こっちではあらってあるのだ。それから、すぐ近くの空地に荷馬車を隠し、小径をひきかえして、盗み出すチャンスをねらっていたことも分っているのだ。おまえは、あの家が留守になることを知り、フェリックスさんが外出したあとで、荷馬車をひいてまたやってきたことも知っている。積荷用の梯子で中庭の塀をのりこえ、車の心棒の修理につかうスパナで、あの馬車小屋のドアの錠をこじあけたのも分っている。いいな、われわれには、なにからなにまで割れているのだから、いくらおまえがとぼけてみせたところで、なんにもならないのだ」
警部に容赦《ようしゃ》なく痛いところをひとつ、ひとつつかれて行くうちに、男の顔はいよいよ蒼白《そうはく》となり、いまや、まるで幽霊のように蒼《あお》ざめてしまった。顎は力なく落ち、玉のような汗が額からながれおちた。それでもなお、男は頑強に口をとじていた。
バーンリー警部は、男の表情にはっきりと効果があらわれたのを見てとると、まえにからだを乗り出して、男の肩をやさしくたたいた。
「いいかね、パーマー、これがいったん裁判にまでいってしまったら、おまえを助けることは絶対にできないのだ。どう軽く見積っても五年の懲役、いや、たぶん七年は喰うだろうな。しかしだよ、おまえにその気さえあるなら、私は一か八かのチャンスをあたえてやろうと思っているのだ」男は、おそろしく緊張しきった目で、警部の顔を喰いいるように見つめた。「つまりだね、被害者のフェリックスさんがおまえを告訴する場合にだけ、警察はおまえを送検できるのだ。ところが、フェリックスさんのほしいものは、あの樽なんだよ。もしおまえがあの樽をいますぐ開けないままで返すなら、フェリックスさんにおねがいして――かならずとは言えないがね――おまえを釈放してもらうように取り計えないこともないのだ。どうなんだ、おまえの気持ちは?」
とうとう、男の自制心はやぶれてしまった。手錠をはめられた両の手を、絶望的にふりあげた、
「ああ、どうしよう、あっしには、返せないんですよ」男はかすれた声で叫んだ。
警部は思わずとび上った。
「なに、返せないだと?」彼はするどく問いかえした、「それは、それはどういうわけだ、いったい?」
「どこにあるのか、あっしには分らないんです、いえ、ほんとうに分らないんですよ、旦那」男の口から、言葉が堰《せき》をきった急流のように流れ出してきた。「ほんとのことを話します、なにもかも、正直に話してしまいますよ、じつはこうなんだ、こういうわけなんですよ」
一行の車はロンドンの中心部に入り、警視庁にグングンと近づいていった。警部は運転手に命じて、車をしずかな通りに入れ、そこをゆっくりと走らせることにした。それから、すごく興奮しきっている男のほうに、警部は身をかがめた。
「さ、おちつくんだ、いいか、みんな喋ってしまったらどうだ、つつみかくさず白状してしまうのだ、正直に話してしまうのが、おまえが助かる唯一のチャンスなんだぞ」
パーマーの話から、ロンドン訛《なま》りと誇張した喋り方をとりのぞくと、つぎのようになる――
「フェリックスさんがうちの店に荷馬車を借りにきたときのいきさつは、あっしの口から喋るまでもありませんね」とパーマーは語り出した、「それから、その荷馬車の色を小屋のなかでペンキで塗りなおしたことや、相棒のジム・ブラウンとあっしのこともね?」警部はうなずいてみせた、パーマーは言葉をつづけた。「じゃ、そこんところははぶきますよ、ただね、ジムの野郎とあっしは、はなっからこいつはちょっとばかりくさいぞとにらんでいたんでさあ。フェリックスさんの話じゃ、怪しまれずに樽を船から運び出せるという賭けをしたんだって言うんですが、あっしたちはてんから信じやしませんや、なに、やっこさんはほんとに樽を盗み出すんだと、見たわけで。おまけに、フェリックスさんは、一緒についてくる仲仕を途中で撒《ま》いてしまう計画だと言うもんですから、あっしらは|てっきり《ヽヽヽヽ》かっぱらいにちがいないと思いこんでしまったんでさあ。じゃ、フェリックスさんとあっしが、相棒のジムと仲仕の野郎を飲み屋におきざりにして、小屋にひきかえし、荷馬車の色をまた変えてしまったくだりは知ってますね? ご存じなんですね?」
「ああ、わかっている」とバーンリー警部は言った。
「あっしたちはあたりが薄暗くなるまで、その小屋のなかで時間をつぶしていたんですよ、それから、フェリックスさんの家まで樽を運送し、中庭の馬車小屋のなかで樽をおろし、チェーン・ブロックにつるしておもてに出たんでさあ。でね、旦那、あっしは約束の日当の倍以上の金をフェリックスさんにふっかけてみたら、あっさり|のんで《ヽヽヽ》くれたので、こいつは、あっしがこわいんだなと、すっかり思いこんでしまったんですよ。そこであっしは肚のなかで、こう呟《つぶや》いたんです、『あの樽には人に知られたくない秘密があるもんだから、やっこさん、口どめ料をたっぷりはずむ気なんだ』とね。それじゃひとつ、あの樽をちょっくら拝借すれば、そいつをとりもどすのに、こっちのいい値どおりの金を出すにちがいない、と思いついたんで。いいえ、なにも盗むつもりはこれっぽっちもなかったんでさあ、旦那。ただ、やっこさんが礼金をたっぷりはずむまで、一日か二日、ほんのちょっと、おあずかりしておこうといったわけなんで」
男はそこで言葉をきった。
「おい、パーマー、脅喝《きょうかつ》だって、夜盗と同罪なんだぞ」と警部が言った。
「いいえ、ただあっしはほんとのことをお話してるだけなんですよ、旦那。いきさつはこんなわけなんで。そこであっしは、フェリックスさんの寝る部屋はどこか、ほかにもだれか人間が住んでいるのか、かんづかれずソッと荷馬車をもう一度中庭にひきこめられるものかどうか、ひとつあたってやろうと思いましてね、お察しのとおり、あっしは荷馬車を空地のなかに隠し、小径をひっかえしたんですよ。フェリックスさんさえ外出して、あの家をガラあきにしてくれなかったら、いくらこのあっしだって、手も足も出ませんや。ところが、邪魔者がいなくなり、樽が馬車小屋のなかでチェーン・ブロックにつるされたままとあっちゃ、こんな楽な仕事はほかにあるものかっていう気がしてきたんでさあ、とうとうあっしは我慢しきれなくなって、あっしは荷馬車をひいてとってかえし、塀をのりこえて忍びこんだというわけで。するってえと、はなっからしまいまで、警察の旦那がたは、あっしのすることを見ておいでだったんだ、ね、そうでしょう?」
警部はなにも答えなかった。で、パーマーはそのさきをつづけた。
「話はちがいますが、あっしはかなりまえから、家を引越したいと思っていたんで。ところがごく近所に、ころあいの空き家がありましてね、土曜日に大家《おおや》から鍵をかり、日曜日にその家を見にいったんですよ。ちょうどそのとき、その鍵が服のポケットにまだ入ってたんですよ、大家に鍵をかえすひまがなかったもんですからね。
あっしの|もくろみ《ヽヽヽヽ》では、路地を入っていってその空き家の裏に荷馬車をつける、それから樽をおろし、あっしだけ表にまわって玄関から入り、裏口のドアをあけて、樽をころがしこみ、あらためて戸じまりをしてから、店に荷馬車をかえすという段取りでした。大家にはなんとかうまい口実をつくって、フェリックスさんから金がもらえる一日か二日、その空き家の鍵をかえさずにおくつもりだったんですよ。
さて、あっしは空き家の裏まで路地に荷馬車をいれたんです、ところがどうです、とんでもないことになってしまったんですよ、旦那、樽が、どうしてもいうことをきかないんでさあ、とにかく重すぎるんです、あっしはそいつに肩をあてがって、力いっぱい横に倒そうとしたんですが、ビクともしませんや。
あっしは汗だくになって、片端から梃子になるようなものを見つけてはさんざやってみたんですが、いっこうに|ラチ《ヽヽ》があかず、てんで動きやしません。そこで力を貸してくれそうなやつはいないかと、仲間の顔をひとりのこらず胸のなかで思いうかべてみたんですが、すぐとんで来てくれそうなやつは、この近所にはいなかったんです。それに、信用しきれないやつに、うっかりたのめたものじゃありません。ジムの野郎なら頼んでも大丈夫だと思ったんですが、野郎の家ときたら、二マイルも離れたところですし、なにしろ、店にかえる時間もすっかりおくれているんですから、野郎の家までノコノコ行っている暇はないんでさあ。
といって、ほかにどうすることもできないもんですから、とうとう空き家に鍵をかけ、ジムの家まで、荷馬車をひっぱっていったんですよ、ところが、ここでまた、あっしはがっかりしてしまいました、野郎は一時間ばかりまえに外出してしまって、女房の話では、どこへ行ったのか、いつかえってくるのか、さっぱり分らない始末なんですよ。
あっしは、ほんとにツイてないと、心からてめえの不運をのろいましたね、こうなると、樽をなんとかして手に入れたいと思っていたよりも、いっそのこと、こんな邪魔物をどこかに捨ててしまいたいという気持ちのほうが十倍も強くなってきたんです。すると、そのうちにうまい手を思いつきました、あっしはそのまま店にひきかえし、一晩中、樽をつんだまま荷馬車を広場においておいて、つぎの朝早くジムの野郎をつかまえ、手をかりて、樽をあの空き家にはこびこもうというのです。もし親方になにかきかれたら、フェリックスさんの言いつけで、一晩だけ店の広場において、翌朝、指定の場所まで運んでくれと言われたと、あっしは答えるつもりでした。なに、十シリングも親方に渡して、その分の費用に、フェリックスさんからもらったと言えばいいんで。
そこであっしは、店まで荷馬車をひいてかえりました、ところが、なにからなにまで|あて《ヽヽ》がはずれてしまったんです。まず第一に、親方が広場に頑張っているじゃありませんか、おまけに苦虫《にがむし》をかみつぶしたような顔をしているありさまです。そのときはあっしにもわけがわかりませんでしたが、なんでもうちの荷馬車の一台が、夕方、トラックにぶつけられ、どえらくやられてしまったというので、親方はすっかり頭にきてしまっていたんでさあ。
『なんだい、おまえが積んでいるのは?』親方は樽をジロッと見るなり、そう言いました。
そこで、さっきの筋書どおり親方に説明し、翌朝配達するようにフェリックスさんからたのまれたと言って、親方に十シリング渡したんですよ。
すると親方が言いました、『どこに配達するんだ?』
こいつにはあっしも音《ね》をあげてしまいました、広場に入った早々、そんなことまでたずねられようとは夢にも思っていなかったもんですから、あっしは答える用意をしてなかったんですよ。そこで、あっしは配達先の住所をデッチあげました、四マイルばかり遠くの、商店や倉庫がならんでいる大通りを言ったんで――遠方なら親方だってそうくわしくは知りませんしね、番地はいい加減にならべたんです。
『リトル・ジョージ街一三三番地でさあ』とあっしは言いました。
親方はチョークをつまむなり、黒板にその番地を書きました。それから親方は、こわれた荷馬車のほうに行ってしまったんで、あっしは馬を馬車からはなしてやり、家にかえったというわけなんで。
話が|ちぐはぐ《ヽヽヽヽ》になってしまったもんですから、あっしは気が気ではありませんでしたが、あんな番地ぐらい親方に言ったところで、たいしたちがいはあるまいと、あっしは|たか《ヽヽ》をくくったんです。なに、手筈どおり、夜があけたら、あの空き家に樽を運べばいいんですからね。
その翌朝、はやばやとジムの野郎の家におしかけて、いままでのいきさつを話したんです。あっしの話をきくなり、野郎は真赤になって怒りだし、あっしのことを大馬鹿野郎のコンコンチキだと言って毒づくんです。そこであっしは、|ヤバイ《ヽヽヽ》ことはちっともないんだと、根気よく野郎を説得してやったんです、なにせ、あっしら二人とも、フェリックスさんが警察にとどけたり騒ぎだてするような真似は、できるはずがないと思いこんでいましたからね。で、とうとう、ジムの野郎はあっしの片棒をかつぐことを承知して、野郎がじかに空き家に行き、あっしが店から樽を運ぶという相談がまとまったわけなんで。ジムは病気ということにして、店を休むことにしたんですよ。
うちの親方は、あっしらが店に出て行くころはめったに来たこともないくせに、今朝にかぎって来ているじゃありませんか、しかもご機嫌は昨日のままなんで。
親方はあっしの顔を見るなり、こう言いました、『おい、今日はおまえは休むのかと思っていたんだ、有蓋車《ゆうがいしゃ》に、あの大きな|あし《ヽヽ》毛の馬をつないで、この番地まで運ぶんだ』――親方は紙きれをあっしに渡して――『ピアノを一台だ』
あっしはどもりどもり言いました、『でも、あの樽が』
『余計なことを言わないで、言われたとおりのことをすりゃいいんだ、あの樽は、もう送ってしまったよ』
あっしは広場を見まわしました。あの荷馬車は見あたりません、いったい親方が、あの樽をもう一度フェリックスのところへ配達させたのか、それともあっしが言った番地へ運ばせたのか、あっしには分りっこありませんや。
あまりのことに、あっしは肚《はら》のなかで、ウラ目ウラ目と出る運の悪さを呪いに呪ってやりました。なかでもとりわけ、空き家で待ちかまえているジムのことを思うと、いても立ってもいられるもんじゃありませんよ。といって、ほかに手のうちようはないんですからね、あっしは親方の言いつけどおり、有蓋車をつなぐと、広場から出て行きました。あっしは廻り道をして空き家により、ジムにことの|てんまつ《ヽヽヽヽ》を話したんですよ、いや、あんなに怒った男を見たのは生れてはじめてでして。いくらなだめてみたところで、どうしようもなかったもんですから、あっしは野郎をそこに置き去りにして、ピアノの運送にかかりました。ピアノを配達して、店にもどり、これから昼めしを喰いに行こうとするところを、旦那につかまってしまったわけなんで」
この話のなかで、パーマーがリトル・ジョージ街の番地のことを言ったとき、バーンリー警部はすぐさま運転手にその方向を命じたので、パーマーの話がおわると同時ぐらいに、車はリトル・ジョージ街にさしかかっていたのである。
「一三三番地だったな?」
「へい、そのとおりで」
一三三番地は、大きな金物屋だった。バーンリー警部は、そこの主人に会った。
「たしかに樽がまいりました。うちの番頭が送り状や書きつけもなしにそんなものを受取ったものですから、私はほんとに困っていたところです。あなたが警視庁の方だというれっきとした証明さえあれば、すぐにでもお引取りくださって結構ですから」
そこで警部が警察手帳を示すと、主人は一行を中庭に案内した。
「あれかね、パーマー?」と警部がたずねた。
「へい、たしかにあれですよ、旦那」
「よし、ヘイスティングス、荷馬車がくるまで、君はここを動かないでくれ。荷馬車にあの樽をつみこんで、警視庁まで君がじかにおくりとどけてくれたまえ。それがすんだら、休んでよろしい。パーマー、おまえは私と一緒にくるんだ」
警部とパーマーは待たしてある車に乗りこむと、警視庁にむかって車を走らせた。そこに着くと、パーマーはべつの警官にひきわたされた。
パーマーが警官にひかれて行こうとすると、バーンリー警部が言った、「フェリックスさんが告訴を取り下げてくださるようだったら、おまえはすぐ釈放されるからな」
警部は、荷馬車が到着するまで、警視庁で待っていた。問題の樽がほんとうに着いたのを自分の目でしかとたしかめると、彼はなじみのレストランまで歩いていって、はじめてゆっくりと食事をたのしむことができた。
八 樽をあける
バーンリー警部が、ワインを飲んで元気をあらたにした巨人のように、ふたたび街路に姿をあらわしたのは、もう五時になるところだった。警部はタクシーをつかまえると、グレート・ノース・ロードのサン・マロ荘の番地を運転手につげた。
「さ、こんどはフェリックスの番だぞ」警部は葉巻に火をつけながら、胸のなかでつぶやいた。彼はつかれていた、クッションに背をもたせて、車馬のあいだをたくみに縫って疾走して行く車に身をまかせながら、のんびりとした気分をたのしんでいた。ロンドンのあらゆる生活面に通暁《つうぎょう》していたとはいえ、それでもなお、パノラマのように移りかわる街頭風景、絶え間なき動き、千変万化する色彩の変化に、彼はうむところをしらなかった。歩道の光景、アスファルトの車道を走るタイヤのひびき、ガソリンの匂いにいたるまで――警部が愛してやまない魅力的な都会生活の一部として、彼の心にうったえてくるのだ。
車はヘイマーケットの繁華街を通りすぎ、シャフツベリー大通りに沿って走り、トットナム・コート・ロードに折れ、さらにケンティシュ・タウンを走り抜けて、グレート・ノース・ロードに出た。ここまでくると、車馬の交通はグンと減って、スピードをあげることができる。バーンリー警部は、帽子をぬぐと、つめたい風を頭にあてた。目下のところ、捜査はきわめて順調。彼は満足だった。
一時間ちかくも車で走りつづけて、やっと警部は、サン・マロ荘の玄関のベルをならした。フェリックスがドアをあけた。番犬みたいな役を命じられていたケルヴィン巡査部長は、ホールの奥で、げっそりしたような顔をしていた。
「吉報ですか、警部さん?」フェリックスは警部だと見てとると、まっさきに声をあげた。
「見つけましたよ、フェリックスさん。二時間まえです。タクシーを待たせてありますから、よろしかったら私たちと同行していただいて、すぐ樽をあけてみたいのですが」
「ええ、いいですとも、すぐ行きましょう」
「君も一緒に来てくれ、ケルヴィン」と警部は巡査部長に言った。フェリックスが帽子をかぶり上衣を着てくると、三人の男は待たせてあるタクシーのところまで歩いていった。
「警視庁へ」警部は運転手に命じた。車はグルッと向きをかえると、市内にむかってスタートした。
疾走する車のなかで、警部はいままでの経過をフェリックスに説明してきかせた。フェリックスはソワソワと興奮した様子できいていたが、事件のカタがついてくれさえすればなによりだと言った。この男は金のことをしきりに心配していた。千ポンドの金があれば、抵当を入れてある借金がきれいに払えるのだが、その金がもしないとなると、たいへんなことになるというのだ。警部は、この話をきくと、ジロッとフェリックスの顔を見あげた。
「フランスの友人は、この借金の件を知っていたのですか?」と警部はたずねた。
「ル・ゴーティエですか? いや、彼が知っているものですか」
「さしでがましいですが、あまり樽のお金をあてになさらないほうがいいと思いますね、いや、正直なところ、むしろ不愉快な目にあうぐらいの肚《はら》でいたほうがいいですよ」
「それはどういう意味なんです?」とフェリックスが叫んだ、「あの樽には、金のほかになにかまだ入っているとあなたがにらんでいるような言いぶりですね。いったい、なんだというんです?」
「残念ながら答えるわけにはいかないのですよ。まだほんの疑いの範囲内のことですし、なに樽をあけてみればはっきりしたことが分るのですから、ここでとやかく言ってもつまらないことです」
バーンリー警部は、ほかの仕事のことでちょっとより道をしなければならなかったので、帰途は別の道をとり、ロンドン橋のちかくの河畔《かはん》に出た。すでに夕闇がせまり、建ちならぶ豪華なホテルの窓々には黄色い灯《あかり》があかるくともりはじめ、また南側の陰気な建物にも、灯がチラチラと見えだした。わりあい交通量のすくないテムズ河堤防の道路で、車はスピードをグンとあげ、警視庁に勢いよく横づけになったのは、ちょうど議事堂の大時鐘《だいじしょう》が七時十五分を鳴らしているときだった。
バーンリー警部は、自分の部屋に着くとすぐ言った、
「総監がおられるかどうか、見てきましょう、樽をあけるのを見たいと言われていましたからね」
総監はちょうど退庁するところだったが、警部に会うと思いとどまった。彼は鄭重にフェリックスに挨拶した。
「じつに異様なことばかりですな、フェリックスさん」総監は握手しながら言った、「しかし、ほんものの事件にならないようにねがいたいものですよ」
「どうも、警察の方のおっしゃることがよくのみこめないんですが」とフェリックスが言いかえした、「警部さんからも、妙なことを言われたものですから、気になっていろいろとたずねてみたんですが、どうしても口を割ってくれないのです」
「なに、すぐ分ることですよ」
バーンリー警部の案内で、一同は廊下を通り、四、五段降り、さらにまたいくつかの通路をぬけ、窓がたくさんついている高層建物にビッシリととりかこまれたちいさな空地に出た。あきらかにこの空地は、陽の光りを各部屋にいれるためにつくられてあるのだが、すでに夕闇が濃くたれこめているいまは、アーク燈の強い光りがかがやいていて、花崗岩《かこうがん》の床をすみずみまであかるく照し出している。その中央に、問題の樽が、破損した樽板を上にむけて、立ててある。
一行は五人だった。総監、フェリックス、バーンリー警部、ケルヴィン巡査部長、それにもうひとり、得体の知れぬ男。警部がまえにすすみ出た。
「この樽のつくりはじつに頑丈にできていますので、大工さんを呼んだわけです。では、樽をあけてもらってよろしいでしょうか?」
総監がうなずいた。大工が樽のところまで出てくると、仕事にとりかかり、手ぎわよく樽のてっぺんの部分をとりはらった。大工は、その板の一枚を手にして、一同に示した。
「どうです、みなさん、厚さが二インチちかくもあるんですからねえ、これじゃ、あたりまえのワイン樽の二倍以上ですよ」
「やあ、ご苦労、大工さん、用があったら、また呼ぶからね」警部がこう言うと、大工は帽子にかるく手をやって、その場から出ていってしまった。
あとにのこった四人は、樽のまわりにあつまった。樽は、てっぺんまで鋸屑《おがくず》がつまっていた。警部はソロソロと指で篩《ふる》いわけながら、その鋸屑をとりのぞきはじめた。
「ほら、ここにまず一枚」警部は、床の片側に、金貨を一枚おくと言った、「もう一枚! また一枚!」
たちまち、金貨はちいさな山となって、ピカピカとかがやき出した。
「ここにとてもデコボコしたものがあるんですがねえ」警部はまた説明した、「樽のまんなかの鋸屑の厚さは、半インチもないのですが、周囲は厚くなっていて、底のほうまで詰っているんですよ、ケルヴィン、ちょっと手をかしてくれないか、よく注意して、力まかせにしないようにね」
鋸屑をとり出す作業は、つづけられた。樽からすこしずつ鋸屑を手ですくい出しながら、篩《ふる》いにかけたあとで、金貨の山のそばに、盛っていった。樽の底のほうに近づくにつれ、鋸屑をすくい出す速力はにぶり、ぎっしりと鋸屑がつまっているスペースはせまくなって、すくい出しにくくなってきた。金貨もしだいに出なくなってきて、どうやらこれは、ほかの物体を樽につめたあとから、その上に金貨をいれたようである。
「これで、すくい出せる鋸屑はみんな出したんですがね」ほどなくすると、バーンリー警部はそう言ったが、それから声を殺して言った、「どうも死体が入っているらしいのです。手があるんですよ」
「手? 死体?」フェリックスが叫んだ、その顔から血の気が失せ、眼には恐怖の色がひろがった。
しばらくのあいだ、警部と巡査部長は黙々と樽と取り組んでいたが、やがてまた、警部が口をひらいた。
「さ、なかからもちあげるんだ、注意しろよ」
もう一度、二人は樽の上に身をかがめると、一気に紙でつつまれた物体をなかからひきあげ、床の上にソッとおろした。「あ!」フェリックスがするどい叫び声をあげた。泰然自若とした総監でさえ思わずハッと息をのんだ。
婦人の死体だった、頭部と両肩は、茶色の紙で包まれていた。樽のなかにつめられていたものだから、身体ぜんたいがまるめこまれていた。ただ、指先のほっそりとしたしなやかな手が一本、その茶色のつつみ紙を突きやぶって、まるめられた肩のところから、硬直《こうちょく》して上方に突き出ていた。
四人の男たちは身じろぎひとつせず、ひたすら息をのんで、その死せる物体を見おろしたまま、たちすくんでいた。フェリックスは全身をこわばらせて棒立ちになっていた、顔面は蒼白、眼球がとびださんばかりに目を見はり、顔には恐怖の色がありありときざみつけられていた。総監がひくい声で言った。
「紙をとってみなさい」
バーンリー警部は紙のたれさがっているはしっこを持つと、しずかにめくっていった。茶色の紙がめくられるにつれ、一同の目に、物体はその姿をあらわしてきた。
死体はまだわかわかしさをとどめている女性だった、頸や両肩のまわりを大きくカットしてある淡いピンクのイヴニング・ドレスを優雅に身にまとい、そのドレスには古代レースがついていた。ゆたかな黒髪は、ちいさな頭に美しくまきつけられている。指にはめられたいくつかの宝石が、まばゆいばかりにかがやいている。絹靴下をはいてはいるが、靴はなかった。ドレスにピンでとめられているのは、一枚の封筒だった。
だが、四人の男の視線が釘づけにされているのは、その死体の顔と頸《くび》だった。生前、美しかったのはあきらかだった、しかし、いまはその顔もどす黒くかわりはて、脹《は》れあがっているではないか。黒い目はとび出すばかりにカッと見ひらかれ、すさまじい恐怖のいろに凍りついている。両唇は力なくゆるみ、あいだから歯並の美しい真白な歯がのぞいている。そして、その口もとの真下、咽喉のところに二か所、ちょうど気管のあたりにくっきりとならんでいる変色した傷跡、冷酷無残にも、この美しい女性を絞殺した野獣のごとき犯人の拇指《おやゆび》の跡。
死体の顔から、紙がとりのぞかれた途端、フェリックスの目は、顔からとび出したと形容しても過言ではなかった。
「あッ!」まるで絹をひきさくような悲鳴が、彼の口からとび出した、「アネット!」一瞬、彼は棒をのんだみたいに立ちつくしていたが、ブルブルと両手をふるわせると、グラッと身をかたむけ、そのまま意識を失って、床にドウと倒れた。
総監は、フェリックスの頭が床にぶつかる寸前に、彼をだきとめた。
バーンリー警部と巡査部長がパッとそのそばにかけより、気絶したからだを抱きあげると、となりの部屋に運びこみ、床《ゆか》の上にソッと横たえた。
「医者」と総監がただ一言《ひとこと》、巡査部長はあわてて部屋からとび出した。
「厄介な事件だね、これは」と総監が言った、「この男は、樽の中身を知らなかったようだな?」
「はあ、私もそのように思います。どうも私には、この男が、フランスの友人にだまされているような気がしていたのです、そのフランスの友人が何者であるにせよですね」
「ま、いずれにせよ、これは殺人事件だ。君にはパリへ行ってもらわなければならん、バーンリー君、捜査だ」
「はい、かしこまりました」警部は自分の腕時計に目をやった、「いま、八時です、すると今夜はもう、パリに出発するのは無理です。それに、この樽と死体のドレスを持って行かなければなりませんし、死体の写真を撮ったり、寸法を計ったり、検屍の報告をきかないとなりませんし」
「なに、明日で充分だ、それにしても九時の汽車がいいだろう。パリ警視庁のショーヴェ総監に、私から紹介状を書くとしよう。君はたしか、フランス語が話せるね?」
「はあ、不自由はしないつもりです」
「それなら大丈夫だろう、パリの警察なら、最近の失踪者の調べもきっとつくことだし、それが駄目でも、樽と被害者のドレスがあるのだから、なんとかなるよ」
「はあ、きっと役立つと思います」
廊下から、医師がやってくる足音がきこえてきた。医師は総監に挨拶もそこそこに、意識不明の男のほうに顔をむけた。
「いったい、どうしたのです?」と医師はたずねた。
「なに、ショックを受けたのだ」総監はそう言うと、ごく簡単にいきさつを説明した。
「それではすぐ病院に移しましょう、担架をおねがいしたいのですが」
巡査部長はまた部屋から出て行ったかと思うと、すぐ担架と巡査をひとりつれてもどってきた。フェリックスは、それに乗せられると、運び出された。
医師が、その担架のあとについて部屋から出て行こうとすると、総監によびとめられた。「あの男の手当がすんだら、大至急、検屍をたのむ。死因ははっきりしているようだが、一応、検屍報告書をつくっておいてもらったほうがいい。毒薬を用いられているかもしれんしね、このバーンリー警部が、捜査のために、明朝九時の汽車でパリに発《た》つことになっておるから、君の報告書の写しがあれば好都合だと思うのだ」
「はあ、すぐ報告書をつくります」医師はそう答えて、総監に会釈すると、いそいで担架のあとを追っていった。
「よし、それでは死体についている手紙を見よう」
総監とバーンリー警部は、中庭にひきかえした。警部は死体のドレスからピンでとめてある封筒をはずした。それには宛名が書いてなかった。総監は封を切ると、折りたたんである一枚の便箋をぬき出した。たった一行、つぎのようにタイプで打ってあった――
[#ここから2字下げ]
『君から借りた五十ポンド、二ポンド十シリングの利息をつけて返す』
[#ここで字下げ終わり]
文面はこれだけだった。日付も宛名も、前文後文も、署名もなかった。この手紙の主がだれなのか、この封筒のついていた死体がだれなのか、それを示すものはどこにもなかった。
「ちょっと拝借します」とバーンリー警部が言って、その便箋を手にとると、ためつすかしつ、それを調べはじめた。それからこんどは、その用紙をアーク灯の光にかざしてみた。
「この便箋も、ル・ゴーティエのものですね、ほら、このすかし模様です。フェリックスが受取った手紙の用紙も、これとまったくおなじものです。タイプの活字も、ごらんになってください、|n《エヌ》と|r《アール》がまがっていますし、|l《エル》のてっぺんが欠けています、それから|t《ティ》と|e《イー》は、ほかの活字よりも下っています。ですからこれは、おなじタイプライターで打ったものですね」
「たしかにそうだね」総監はそう言ったまま、ちょっと言葉を切ったが、「ショーヴェ総監あての紹介状を書くから、私の部屋まで来たまえ」
二人はいくつかの廊下を通りぬけていった、そして警部はパリ警視庁あての紹介状をもらった。そこからまた、ちいさな中庭にひきかえすと、警部はパリ行の準備にとりかかった。
まずはじめに、床の上に積みあげてある金貨の山を手にすると、数えてみた。イギリス金貨で三十一ポンド十シリングあった。彼はその金額を手帳に記入すると、だれか来ないともかぎらないので、用心のために金貨をポケットにしまった。すでにブロートン青年が、船艙でひろった二十一ポンドの金貨を、エーヴァリー専務に渡してあるから、この分を加えると、手紙にあるとおり五十二ポンド十シリングとなる。それから彼は、死体を解剖室《かいぼうしつ》に移し、いくつかの角度から撮影した、それがすむと、婦人警官が死体の衣服をぬがせた。警部は衣類をすみずみまで丹念に調べ、製造元の名前、頭文字、その他のマークでもついていないものかと、目を皿のようにして虱《しらみ》つぶしに探していった。やっとどうにかその労苦がむくいられて、婦人持ちの白麻《しろあさ》ハンカチの隅にある曲線模様のなかに、ちいさく刺繍《ししゅう》してあるA・Bという頭文字を見つけたのである。指からはずした指輪やゆたかな黒髪からとったダイヤモンドの櫛と同様に、衣類のひとつひとつにも札をつけると、パリに輸送できるように、彼はちいさな旅行鞄《りょこうかばん》に慎重につめこんだ。
警部は、さっきの大工を呼びよせると、樽のてっぺんの部分をもとどおりにはめこませ、麻袋をかぶせて、その上から繩をかけさせた。そして、パリの北停車場留めの自分宛の荷札をつけると、いますぐチャリング・クロス駅から発送するようにと言いつけた。
出発の準備がすっかりととのった時は、もう十時をすぎていた、だが、もうこれで家にかえることができ、夕食とベッドにありつけると思うと、さすがに警部はいやな気がしなかった。
第二部 パリ
九 パリ警視総監
その翌朝、午前九時に、急行『大陸号』は、しずかにチャリング・クロス駅をすべり出した。その一等車の喫煙室の一隅に、バーンリー警部は腰をおろしていた。二、三日つづいた好天気も今朝からあやしくなり、空から雲がたれさがり、いまにも雨がふり出しそうな気配だった。やがて車窓に見えてきたテムズ河はどんよりと暗く、陰鬱《いんうつ》な感じだった。その南岸に建ちならんでいる家々は、いつもの、あのくすんだ、うすぎたない外観に立ちかえっていた。南西から、微風が吹いているので、船にはあまり強くないバーンリー警部は、これならドーヴァ海峡もさして荒れるようなこともあるまいと思った。汽車がロンドン橋の南の、錯綜《さくそう》をきわめている鉄路のなかを、スピードをあげながら走っているとき、彼は愛用の香りの強い葉巻に火をつけると、ゆっくりとくゆらしながら、ものおもいにふけった。
警部は、この旅行に出られたのが、なによりもうれしかった。パリが好きなくせに、もう四年もご無沙汰しているのだ、英仏両国間に一大センセーションを捲きおこした、あのマルセル殺人事件以来である。この事件のおかげで、その捜査に協力してあたってくれたフランスの親切な探偵、ルファージュとは、すっかり親友になってしまったのだ。またこの探偵に、ぜひあってみたいものだ、警部はつくづく思った。
汽車はロンドンの郊外もかなりはずれを走っていて、ロンドンに近いあたりには、ちいさな別荘がならんでいたのが、いつのまにか、ところどころに畑が見えはじめてきた。しばらくのあいだ、車窓の外をとび去って行く景色をぼんやりと眺めていたが、やがて警部はホッと溜息《ためいき》をつくと、ちょうど弁護士が法廷に入るまえに訴訟事実の要領書をつくるように、こんどの樽の事件に注意をむけた。
まずはじめに、彼はこのパリ行の目的をじっくりと考えてみた。それは、なんとしても殺害された女の身許をつきとめることである。もし女がほんとうに殺害されたものならば、だ。もっとも、殺害されたという点にかけては、まず疑いをさしはさむ余地はなさそうである。それから、犯人の手がかりを探し、はっきりとした証拠をつかむこと、最後に、なぜ犯人は樽などという手のこんだものをこの事件につかったのか、その理由をさぐり出さなければならない。
そこで警部は、いままでに入手している資料を検討してみた、はじめに医師の報告を手にしてみたが、これはまだ目を通す|ひま《ヽヽ》がなかったのである。最初に、フェリックスの病状が書いてあった。フェリックスは、あのときのショックで意識不明になったまま、危篤《きとく》状態にあるという報告だった。
このことは、警部もすでに知っていた、というのは、フェリックスから、なにか証言が得られるかと思って、今朝の七時まえに病室へ行ってみたのである、だが、フェリックスの意識は混濁《こんだく》したままで、うわごとを言っているありさまだったのだ。したがって、被害者の身許を、この病人からきき出すことはできなかった。バーンリー警部には、自分の手で、その身許を割る以外に道はないのである。
そのつぎに被害者の報告があった。女の年齢は二十五歳前後、身長五フィート七インチ、きゃしゃな体格で、体重は百十二ポンド強。頭髪は豊かできわめて長く黒色、睫毛《まつげ》は長く、眉は細く描いたもの。口はちいさく形よし。鼻は少々|反《そ》り加減。顔は楕円形《だえんけい》。額は幅ひろく、せまい。顔の色は黒く変色しているが、生前は綺麗なものと推定される。身体には顕著なる痕跡なし。
「よし、これだけ分っていれば、すぐ身許は割れるぞ」とバーンリー警部は胸のなかでつぶやいた。
医師の報告はさらにつづいている――
『被害者の頸部には十個の痕跡《こんせき》があり、これはあきらかに指によるものである。そのうち八個は頸の後部にあって、痕跡はうすい。あとの二個は咽喉部《いんこうぶ》の正面にあって、ともに接しており、いずれも気管の片側についている。この部分の皮膚は黒色の痣《あざ》になっていて、加えられた圧力がいかに強かったかを証している。
この痕跡は、被害者と向きあって立っていた犯人が、その拇指《おやゆび》を気管に押しあて、他の指を頸部にまわして、両手で被害者の咽喉部を扼《やく》したときにつけられたことはあきらかである。このような痣をつくるだけの力の強さから判断すれば、犯人は男性であるように考えられる。
解剖の結果、他の臓器にはまったく異常がみとめられず、毒物その他による死因の痕跡は一切みられない。したがって、被害者はあきらかに扼殺《やくさつ》されたものと結論する。死亡推定日は、ほぼ一週間か、それよりわずか以前のものと思われる』
「いずれにしろ、これではっきりしたわけだ」と警部は心のなかでつぶやいた、「身許を割る手がかりには、ほかになにがあるかな――」
被害者は上流社会の婦人なのだ。富豪ではないにしろなに不自由なく暮らしていたのにちがいないし、また生れもいいにきまっている。あの指を見ただけで彼女の教養の深さがわかるというものだ、あの指は、画家か音楽家のものだ。右手にはめられている結婚指輪から考えても、彼女には夫があり、フランスに住んでいることがわかる。
「たしかに警視総監が言われたとおりだ、こういった上流階級の婦人が、行方不明になれば、フランス警察に分らぬはずがない。これじゃ、むこうの警察に行ったとたんに、被害者の身元も割れてしまうというものだ」
だが待てよ、フランスの警察に心あたりがぜんぜんなかったとしたらどういうことになる? どんな手を打てばいいのだ?
そうだ、まず第一にフェリックスのところに来た手紙があるじゃないか。差出人のル・ゴーティエ、この人物がちゃんと実在するなら、この男から手がかりが得られるはずである。また、カフェ『トワソン・ドール』のボーイたちが、なにか知っているかもしれない。それに、活字のすり減ったあのタイプライターだって、探せばかならず見つかる代物《しろもの》だ。
被害者の衣類にしろ、また別の捜査面を教えてくれているじゃないか。パリの一流店を洗えば、まずドレスの出所がつかめると見ていい。ま、それがうまくいかなくとも、指輪とダイヤモンドの櫛がある。これだったら、きっとなにか手がかりがつかめるにちがいない。
それに、問題の樽がある。こいつはありふれた樽とはちがって特別製だったから、それだけに、なにか特殊な用途に使われたものにちがいないのだ。ラベルに印刷してあった社名の会社に問いあわせたら、ぜんぜんなにも分らないということはまずあるまい。
ところで、いままで考えた手がみんな失敗に帰したとしても、最後にとっておきの手がまだあるのだ、それは広告だ。賞金つきの、効果的な広告を出して、被害者の身許を求めれば、きっとうまい情報がとびこんでくるにちがいない。バーンリー警部は、こんどの事件では、申し訳けがないくらいたくさんの手がかりがあると思った。これまでに、もっと貧弱な手がかりで、難事件を解決してきたことが数えきれないほど、彼にはあったのだ。
警部は、石橋をたたいて渡るといった、あの入念な思考方法で、ひとり胸中で、事件をじっくりと考えつづけていった、と、突然、列車はトンネルの闇に突入し、ブレーキがかかって、あとわずかでドーヴァだということを彼に知らせてくれたのだった。
ドーヴァ海峡はいたっておだやかで、まったく無事だった。連絡船がカレー港の一対の埠頭のあいだに入っていかないうちに、太陽が雲間から顔を出し、空をおおっていた雲はしだいにうすれ、遠くの空に、青い色が見えはじめた。
パリまでは、途中、アミアン駅に停車しただけで列車は快走をつづけ、五時四十五分きっかりに、パリの北停車場の、ひろびろとした、反響のこだまするアーチ形天井の構内にゆっくりと汽車は入っていった。警部はタクシーを呼ぶと、定宿みたいになっている、キャスティリヨーヌ通りのちいさなホテルにむかった。彼はそのホテルで部屋をとると、その足でまたタクシーに乗りこみ、パリ警視庁に行った。
警部は紹介状を出して、ショーヴェ総監に面会をもとめた。ちょうど総監のからだはあいているところで、ほんの二、三分待っただけで、バーンリー警部は部屋に案内された。
ショーヴェ総監はごく小柄な、初老の人物で、黒いとがった顎髯をたくわえ、金縁の眼鏡をかけていて、ひどく物腰の鄭重なひとだった。
「さ、おかけなさい、バーンリー君」総監は、握手をかわすと、じつにあざやかな英語で言った、「たしか、まえにも共同捜査をしたことがありましたね?」
バーンリー警部は、それはマルセル殺人事件のときです、と答えた。
「ああ、そうだ、そうでしたね、で、こんどもまた、そういった事件のことで、見えたわけですな?」
「はあ、じつはこんどの事件も、なかなか手ごわいのです。しかし、たちどころに解決するだけの手がかりはつかんでいるつもりなのですが」
「いや、私もそうあってほしいと思っていますよ。ひとつ、その事件をごくかいつまんで話してくださらんか、そのうえで、あらためて、こまかい点は、私のほうからおたずねするから」
バーンリー警部は言われたように、事件の要点を簡単に説明した。
「なるほど、じつに奇妙な事件ですな、それではと、|うち《ヽヽ》ではだれに協力させましょうかね、そうだ、デュポンならいちばん適任なのだが、あいにくと、いま、シャルトルの強盗事件の捜査にあたっておるのでね」総監は部下の配置を見るために、インデックス・カードを調べた、「いまのところ、からだがあいているのは、カンボン、ルファルジュ、ボンタンといったところだが、みんな腕ききですよ」
総監は卓上電話に手をのばした。
「失礼ですが、総監」バーンリー警部が声をかけた、「まことに僣越《せんえつ》ではありますが、じつはマルセル事件のとき、ルファルジュさんに協力していただいて、たいへん助かったのです、で、今回も、ルファルジュさんに力を貸していただければ、たいへんありがたいのですが」
「それは名案だ、いや、よろこんで君の意見にしたがいますよ」
総監は卓上電話をとりあげると、たくさんついているボタンの一つを押した。
「ルファルジュ君に、すぐ来るように」
と、一分もしないうちに、背の高い、きれいにひげを剃った、一見、イギリス人風の感じのする男が、部屋に入って来た。
「やあ、ルファルジュ、ここに君の友人がおいでだ」
二人の警部は、親しみにあふれた握手をかわした。
「また、殺人事件のことで見えたのだが、なかなか難物らしいのだ、では、バーンリー君、こんどはくわしく説明してくださらんか」
バーンリー警部はうなずくと、書記のトム・ブロートンが、ルーアンから入港して来た貨物船のぶどう酒の樽の数を照合するために船艙まで出むいたところから説明をはじめ、それからつぎつぎと起こった異様な出来事、問題の樽の発見、それによって浮かび上ってきた数々の疑惑、会社の指令に見せかけた偽の手紙、樽の運搬、仲仕頭《なかしがしら》のハークネスが馬車の一行からまかれてしまったこと、荷馬車の追跡と、樽が馬小屋のなかからまたまた消え失せたこと、最後にはその樽が発見され、中には死体が入っていたこと、それから、足まめに動きまわればおそらく手がかりがつかめるのではないかと想定される諸点を列挙してみせた。総監とルファルジュ警部は、その説明のあいだじゅう、一言も口をはさまずに、熱心にバーンリー警部の話にきき入っていた。説明がおわっても、二人はじっと考えこんだまま、椅子に腰をおろしていた。
「ひとつだけ、私にはどうしても腑《ふ》に落ちない点があるのだがね、バーンリー君」やがて総監が口をひらいた、「どうやら君は、この被害者がパリに住んでいた婦人だと、頭からきめてかかっているようだが、どういう点から、そう割り出したのです?」
「問題の樽は、パリから発送されたものなのです。その点は、船会社の書類をごらんになれば分るように、はっきりしております。また、フェリックス宛の手紙の差出人は、パリ在住のル・ゴーティエとかいう男と判断してもいいようですし、その手紙の用紙も、死体のドレスにピンでとめられていた手紙も、フランス製の用紙にタイプライターで打ったものですし、おまけに、樽にはってあったラベルには、パリの商社名が印刷されていたからです」
「どうも私には、それだけでは決定的な材料になるとは思えないね。たしかにその樽がパリから発送されたことには間違いあるまい、だがね、パリで発送されるまえにですよ、いろいろとほうぼうを廻ってきたのではないだろうか? ま、たとえばだね、まず最初にその樽を、ロンドンとか、ブリュッセル、あるいはベルリンといったようなところから発送しておいて、こんどは警察の目をごまかすために、パリから再発送したものではないと、どうして言いきれます? また、フェリックス宛の手紙について言えば、君の話では、君はその手紙の封筒を見なかったということだ。したがって、その手紙がほんとうにフランスから来たという証拠にはならないと思うがね。フランス製の用紙の点もそのとおり、フェリックスはフランスにちょいちょい来ているのだから、自分でその用紙を手に入れることだってできる。それに、樽にはってあったラベルにしたってそうだ、一度つかったものを、またつかったのですからな。そうなると、ぜんぜん縁もゆかりもない荷から、そのラベルをはぎとって、その樽にはりつけたとも考えられないだろうか?」
「たしかに、証拠が裏づけられるところまでいっていないことは、私もみとめます、もっとも、パリで、問題の樽が再発送されたのではないかという総監の第一の疑点については、もしそうなら、パリに共犯者がいなければならぬという答が出てくることになります。ま、いずれにしろ、ロンドン警視庁の総監も、この私自身も、このパリで捜査の第一歩をふみ出さなければならぬと考えるのですが」
「いや、そうだとも、その点については私もまったく同感です。ただ、事件を解く鍵がこのパリにあるという|れっき《ヽヽヽ》とした証拠はひとつもないということを、私は言いたかっただけでね」
「残念ながら、たしかにそうです」
「では、さきへすすもう、いまも君が言われたように、まずはじめに被害者に似た婦人で、最近行方不明になったものがあるかどうか、それをたしかめてみることにしよう、険屍医の診断では、死後一週間かそれよりすこし長く経過しているということだが、われわれの捜査を、その期間だけに限定するわけにはいかないと思うのだ。たとえば、被害者が誘拐されて、かなり長い間監禁されていてから、そのあとで殺害されたかもわかりませんからな。ま、そんなことはめったにあるとは思えないが、あり得ることだからね」
総監は卓上電話をとりあげると、こんどはべつのボタンを押した。
「ここ四週間のパリ地区の行方不明者のリストをたのむ、いや、いっそのこと――」総監は言葉を切ると、二人の警部の顔を見た――「フランス全国だ」
と、すぐ書類をもった書記が部屋に入って来た。
「これが三月中に届けられた失踪者全員のリストでして、こちらのは四月に入ってから今日までのものです。ここ四週間分だけの報告書はありませんが、ご入用なら、すぐつくって持参いたしますが」と書記は言った。
「なに、これで結構だよ」
総監はその書類に目を通した。
「三月は、七名行方不明の者がおる、うち六名が女、四名がパリ地区の者です。今月は二名あるが、二名とも女で、パリ地区の者。すると、ここ五週間のうちに、パリの女が六名行方不明になったことになる。それではと――」総監はリストの欄を指で追っていった、「スーザンヌ・ルメートル、十七歳、最後の足どりは――いや、年がちがうから、この女ではない。ルシル・マルクエ、二十歳――これもちがう。いや、みんな二十一歳以下の娘ばかりだ、一名だけ年がちがうが、これだ、これはどうかな! マリー・ラシェーズ、三十四歳、一七二センチ――イギリス流になおすと、ほぼ五フィート八インチ――髪と眼の色は黒、綺麗な顔色、アラゴ大通り、タンク街四一、弁護士アンリ・ラシェーズの妻。先月二十九日、いまからほぼ十日前だね、午後三時、買物に行くと言って自宅を出る。それ以後、消息を絶つ。これはノートしておいたほうがいいね」
ルファルジュ警部はノートしたが、はじめて口をひらいた。
「むろん、洗ってはみますが、たいした期待は持てませんね。もし、被害者がこの女で、買物に行くと言って家を出たのなら、イヴニング・ドレスを着て行くはずはありません、問題の死体はイヴニングを着ていたのですから」
「それにまた」とバーンリー警部が口をはさんだ、「被害者の名前は、アネット・Bだと考えていいのではないでしょうか」
「ま、おそらく諸君の言うとおりだろう、だが、念には念をいれたほうがいいね」
総監は書類をわきに押しやると、バーンリー警部の顔を見た。
「もうほかには失踪者の報告はないし、捜査の手がかりになるような情報も、ここには来ていないですな。こうなると、また振り出しにもどって、ほかの手がかりを求める以外にはなさそうだ。こんどはどういう手を打つべきか、ひとつ、ここでじっくりと考えてみるとしましょう」
しばらくのあいだ、総監はじっと黙っていたが、やがてまた口をひらいた。
「ま、バーンリー君、フェリックスの証言のなかで、君がまだ手をつけていないところから、調べにかかったらいいと思うのだがね。で、そのためにはル・ゴーティエに会ってみて、ほんとうにフェリックスに手紙を出したものかどうか、たしかめてみなければならない。もし、ル・ゴーティエがたしかに書いたと言えば、われわれの捜査は一歩進んだことになるし、彼が否定したら、宝くじと賭けの話がどこまでほんとうなのか、またフェリックスの証言にあるカフェでの|やりとり《ヽヽヽヽ》が実際にあったかどうか、それを調べてみなければならない。この場合、だれがカフェにいて、その|やりとり《ヽヽヽヽ》を聞いていたか、問題の手紙を書くだけの知識をもっていたか、はっきりとつきとめることが必要だ。そこまでやってみて、なんの手がかりも得られないようだったら、カフェに居合せた連中のひとりひとりを丹念に洗ってみて、それから消去法で、フェリックスに手紙を書いた人物をつきとめるという段取りになるわけだ。むろん、この捜査には、犯人が使用したタイプライターを見つけ出す仕事も入る。さっきバーンリー君も言われたとおり、活字に特徴があるのだから、すぐ見分けはつくはずだね。それと併行して、被害者の衣類と、樽の出所をつきとめなければなるまい。ま、だいたいこんなところだが、どう思うかね、諸君は?」
「これ以上の名プランはないと思いますが」総監がバーンリー警部の顔を見ると、警部はそう答えた、ルファルジュ警部もこれに同調してうなずいた。
「それではと、君とルファルジュ君は、明日から、手紙の線を洗ってみてください、とにかく、君たち自身で、最上のプランを練ってみて、捜査の進捗《しんちょく》状況を私に報告してくれるように。ところで、被害者の衣類のことだが、どういうものか、見せてくれないかね」
バーンリー警部は、テーブルの上に、被害者の衣類と宝石類をひろげてみせた。しばらくのあいだというもの、総監は黙々と調べていた。
やがて総監は口をひらいた、
「これは三つに分けたほうがいいな、ドレス、下着、宝石類というようにね、本腰をいれて出所を洗うとなると、どうしても三人いるな」
総監はインデックス・カードを見てから、受話器をとりあげた。
「フルニエ夫人、ルコック嬢、ブレーズ嬢をここに」
と、すぐ三人の、当世風の身なりをした女性が部屋に入って来た。総監はバーンリー警部を紹介すると、事件をごく手短に説明した。
「この衣類と宝石類を三人で分担して、買った人間をつきとめてほしい」と総監は三人の婦人警官に言った、「品物を見れば、売っている店の|あたり《ヽヽヽ》はおのずからつくと思う。明朝早々、この調査にかかるように、警視庁との連絡はたえずやってくれたまえ」
婦人警官がめいめい品物をもって退室すると、総監はバーンリー警部のほうに顔をむけた。
「こういった調査だと、一日の進行状況を、その日の夜に、いちいち報告してもらうことにしているのでね、できるなら、君とルファルジュ君は、明晩の九時ごろに、ここまで来てくれたまえ、そうすれば、またいろいろと打ち合せができるからね。ところでと、もうそろそろ八時だし、今夜はなにをするといっても無理だ、バーンリー君、さぞかし旅行でお疲れだろうから、今夜はゆっくりホテルで休んでください、それではおやすみ、諸君」
二人の警部は、総監に会釈すると、部屋を出た。ひさしぶりに会った二人はいろいろと挨拶をかわしたあとで、ルファルジュ警部が言った。
「今夜は休まないといけませんか? でなかったら、いまから捜査の小手調べをしてみる気はありませんかね?」
「いや、結構ですとも、で、小手調べというと?」
「とにかく向う側に渡って、ブール・ミッシュ街の『ジュール』の店で食事でもしようじゃありませんか。さっき、総監がリストから探した例の失踪した婦人の家に行く途中なんですよ。食事をしたら、樽につめられていた被害者がマリー・ラシェーズ夫人かどうか、調べに行きましょう」
二人はサン・ミシェル橋をゆっくりと渡り、セーヌ河の対岸の大通りに出た。バーンリー警部はロンドンにいると、この都会ぐらいいいところはないと心から思うのだが、さて、パリに来てみると、その確信もはなはだあやしくなってくる。いやはや、パリにまたやって来て、ほんとによかった、おまけに、このルファルジュに再会できるなんて! この分だと、多忙な捜査のあいまにも、きっと愉しめることがあるぞ、と彼は思った。
二人は、簡素ではあるが結構うまい食事をすませると、時計が九時を打つまで、葉巻をくゆらし、リキュール入りのコーヒーを味わってやすんでいた。やがて、ルファルジュが椅子から腰をあげた。
「あまり遅くなると悪いから、そろそろ出かけませんか?」
二人はタクシーをひろった、車はリュクサンブールをあとにすると、アラゴ大通りまでのほぼ一マイルを疾走していった。失踪した婦人の夫である弁護士のラシェーズは、すぐ二人に会ってくれた。そこで、死体の写真を見せて、仕事とはいえ、気色の悪い用件を話した。弁護士は、その写真をあかりの下に持っていって、喰い入るように見入った。やがて、ホッとしたような身振りで、その写真を警部たちにかえした。
「ああよかった」ややあってから、彼は言った、「妻ではありません」
「被害者は、うすいピンクのイヴニング・ドレスを着ていて、ダイヤモンドの指輪をいくつか指にはめ、髪には、ダイヤ入りの櫛がさしてあったのです」
「いや、それなら、ぜんぜんちがいますよ、妻はピンクのドレスを持っていませんし、それにダイヤ入りの櫛もさしたことはなかったのです。おまけに、家を出たときは散歩着のままだったし、イヴニング類はみんな衣裳箪笥《いしょうだんす》にしまってあったのですから」
「これでは疑問の余地はまったくありませんな」とルファルジュはそう言うと、二人は弁護士に礼をのべて、外に出た。
「はじめっから駄目だとにらんでいたんですがね」とルファルジュが言った、「しかし、|おやじ《ヽヽヽ》にああ言われては、たしかめないわけにはいかないし」
「それはそうですとも、それに、会ってみなければ分らないんだから。ところでね、僕はやっぱり疲れているんです、わるいけど、これで、ホテルに引きあげたいんだが」
「どうぞ、どうぞ、それでは大通りの端までブラブラ歩いて行きましょうか、オルレアン通りの向う側から、地下鉄に乗れるから」
二人はシャトレ駅で乗換え、明日の午前に会う約束をして、バーンリー警部はコンコルド行きに乗り、ルファルジュは、それとは逆方向の電車に乗った、彼の自宅はバスティーユ広場のそばなのだ。
十 手紙を書いたものは?
翌日午前十時に、ルファルジュは、バーンリー警部が泊っているキャスティリヨーヌ街のホテルにたずねてきた。
「今日はひとつ、ワイン屋のアルフォンヌ・ゴーティエをあたってみましょうよ」タクシーをとめながら、ルファルジュが言った。
車はほんの一走りしただけで、フリードランド通りからすこしはずれたヴァロルブ街についた。たずねてみて、問題の男は架空《かくう》の人物ではなく、ちゃんと実在していることがわかった。ゴーティエは町角の大きな建物の一階のフラットに住んでいた。そのひろびろとした入口や高雅な調度を見ただけでも、この男の教養の高さとかなりの資産をもっていることがわかる。家人の話だと、彼はすでにアンリ四世街の店に行ったあとだというので、二人の警部は、その足で店にむかった。ゴーティエは、年のころは三十五歳前後、まっ黒な頭髪、青白い鷹《たか》のような容貌の持ち主で、いかにも抜け目のない、神経質そうな物腰だった。
「じつは」自己紹介をすませたあとで、ルファルジュがきり出した、「私どもが手がけておりますちょっとした捜査に、あなたのお力を貸していただくようにと、警視総監が言われましたので、おたずねしたわけですが。ある人物の行動を調査したいと存じましてね、ひょっとしたら、ご存じかも知れませんが、それは、ロンドン在住のレオン・フェリックスというひとのことですが」
「レオン・フェリックス? なに、この男のことならよく知っていますとも。で、彼がなにかしでかしたとでもいうのですか?」
「いや、法に抵触するようなことではないのです」ルファルジュは微笑をもらしながら言った、「ま、すくなくとも、私たちはそう信じておりますので。ところが、不幸なことに、べつの事件のことで捜査をしていますと、彼のごく最近の行動を証言したある点について、その裏づけをとらなければならないことになりましてね、ま、そんなわけで、あなたのお力ぞえをおねがいにあがったのです」
「さあ、ご期待にそえるかどうか分りませんが、私にできることなら、なんでもお答えしますよ」
「おそれいります。それでは、おいそがしいでしょうから、前置きはぬきにして、おたずねします、最後にフェリックス氏にお会いになりましたのは?」
「いや、都合のいいことに、これには特別な理由がありましてね、はっきりとした日をお答えできるのですよ」ゴーティエはポケット用の日記をとり出した、「それは三月十四日の日曜日で、こんどの日曜で、ちょうど四週間前ということになります」
「で、その特別の理由というのは?」
「こういうわけなんですよ、その日、フェリックス君と私は、政府の宝くじを買う約束をしたのです。つまり、五百フランずつ|のり《ヽヽ》で買おうというので、彼は五百フランを私によこしました、私はそれに自分の五百フランをたして、宝くじを買う約束をしたわけで。ですから、この手帳に、そのとりきめを記入しておいたのです」
「どういうところで、そんなお約束をなさったのです?」
「はじめは宝くじのことをなに気なくみんなで喋りあっていたのですがね、場所はロワイヤル街のカフェ『トワソン・ドール』で、午後でした、私たちのほかに、何人か仲間があつまっていましたよ。雑談がおわったとき、運だめしに一寸やってみるかと私が言ったのです。フェリックス君に、私に|のって《ヽヽヽ》みないかと言うと、彼も、|のろう《ヽヽヽ》と言ったので」
「で、あなたは宝くじを買ったわけですね?」
「ええ、買いましたよ。その夜、小切手を同封して申し込んだのです」
「すると、その運だめしが大成功だったというわけで」
ゴーティエは微笑した。
「いや、それはまだ分りっこないじゃありませんか、来週の木曜日が抽籤《ちゅうせん》ですからね」
「来週の木曜日? そうですか、ではご幸運を祈りますよ、宝くじを買ったということなどを、フェリックス氏に手紙で連絡なさいましたか?」
「いや、べつに手紙を出すまでもないと思いましたからね」
「すると、ここ三週間以上というものは、フェリックス氏にはあなたからなんの連絡もなさらなかったわけで」
「ええ、そうなりますね」
「そうですか、ところで話はかわりますが、ボワソニエール大通りに事務所を持っている株式仲買人のデュマルシェとかいうひととお知り合いですか?」
「ええ、知っていますよ、事実、宝くじの雑談をしていたとき、この男もその場にいたのです」
「その話があってから、あなたはデュマルシェ氏とある賭けをしたのですね?」
「賭けですって?」ル・ゴーティエはジロッと見上げた、「いったい、なんのお話なんです? 私は賭けなんぞしませんよ」
「犯罪者と警察に智慧《ちえ》くらべをさせるというような話を、そのデュマルシェ氏としたおぼえはありませんか?」
「そんな話をした記憶はありませんね」
「すると、そんな話は絶対にしなかったと言い切れるのですね?」
「ええ、そうですとも、それにしても、いったい、どういう目的があって、こんなことをいろいろとおたずねになるのです?」
「おいそがしいところ、あなたをわずらわして、ほんとに恐縮しているのです、といって、ただ無意味におたずねしているわけではありません。じつを申しますと、ことはきわめて重大な問題なのですが、目下のところ、ありていに説明することを許されておりません、ま、ご寛恕《かんじょ》いただけますなら、あと一、二のことをおたずねしたいのです。宝くじの話が出たおり、『トワソン・ドール』というカフェにいた仲間の方の名前をきかせていただけませんか?」
ル・ゴーティエはしばらくじっと考えこんでいた。
「さあて、みんな思い出せそうもありませんな」やがて、ル・ゴーティエは口をひらいた、「そうですね、かなりおおぜいいたのですよ、フェリックス、デュマルシェ、それに私がいたほかに、アンリ・ブリアンとアンリ・ボワソンがいましたね、ほかにもまだいたようですが、だれだったかちょっと思い出せませんね」
「ドービニとかいうひとはいませんでしたか?」
「ああ、そうだった、彼のことを忘れていましたよ、たしかにあの男はいました」
「それから、ジャック・ロージェ氏は?」
「さあ、どうでしたかな」ル・ゴーティエはここでまたためらった、「いたような気もするのですが、はっきりしたことは言えませんね」
「いま言った方たちの住所を教えてくださいませんか?」
「全部はちょっと分りませんがね。デュマルシェ君はヴァロルブ街で、私の家から五軒目です。ブリアン君はワシントン街のはずれで、シャンゼリーゼにまがる角ですよ。その他の連中の住所は、おぼえていませんが、人名録を見て探してあげましょう」
「おそれいります。ところで、さっきの話にもどるのですが、たしか、あなたはフェリックス氏に、宝くじの件で手紙をお出しになったことはないと、言われましたね?」
「ええ、そうですよ、きっぱりとそう申したつもりですが」
「ところが、フェリックス氏は、あなたとちょうど正反対のことを証言しているのです。つまり、先週の今日ですね、四月一日、木曜日づけのあなたの手紙をもらったと言っているのです」
ル・ゴーティエはあっけにとられた顔をした。
「なんですって? 私の手紙を受取ったと彼は言うんですか? とんでもない、そいつはなにかの間違いですよ、私は手紙を出したおぼえなんかないのですからね」
「ところが、その手紙を見せてもらったのですよ」
「そんな馬鹿な、出さない手紙を見せられるわけがないではありませんか。彼がどんな手紙をお見せしたにしろ、私が出したものじゃありませんよ、ひとつ、あるなら見せていただきたいものですね、いま、お持ちですか?」
それに答えるかわりに、ルファルジュは、あのサン・マロ荘で夜ふけに会見したおり、フェリックスがバーンリー警部に渡した手紙をとり出した。ル・ゴーティエがその手紙を読み出すと、その狐につままれたような表情に、さらに驚きの色がひろがっていった。
「これは驚いた!」ル・ゴーティエは叫んだ、「いや、まさに奇怪な話です、私はこんな手紙を書きもしないし、出しもしない、こんなものがあるとは夢にも知りませんでしたよ。こいつは偽手紙どころか、まったくの創作ではありませんか。賭けと樽の話はまったくの出鱈目《でたらめ》ですよ、もっと説明してくださいませんか、この手紙をどこで手に入れたのです?」
「フェリックス氏からじかに手に入れたのですよ。彼は、このバーンリー警部に渡したのです、あなたから来た手紙だと言ってね」
「いや、まったく驚きました!」ル・ゴーティエは椅子からパッと立ち上ると、部屋のなかを歩きまわりだした、「まるで狐につままれたような話です。それにフェリックスはちゃんとした男なんだから、ほんとに私の手紙だと信じなければ、そんなことを言うはずはありませんからね。それにしても、どうして彼のような男が私の手紙だと信じこんでしまったのでしょう? いや、馬鹿馬鹿しくて、お話にもなりませんよ」ル・ゴーティエはそこで言葉をいったん切ってから、またつづけた、「すると、フェリックスが、この手紙は私から来たものだと言ったと、あなたがたは言われるのですね? しかし、どういうわけで彼は、そう思いこんだのでしょう? この手紙には、ペンで書いた字が一字だってないじゃありませんか、私のサインさえないのですよ。こんな手紙をタイプで打って、その下にまた私の名前をタイプで打つぐらいのことは、だれにだってやれるということが、いくらなんでも分りそうなものではありませんか、おまけに、こんな出鱈目を、この私が書くなんて、あの男が正気なら考えるはずはありませんよ」
「いや、そこなのですよ、問題は」とルファルジュが口をいれた、「あなたが思われるほど、そう出鱈目ではないのです。この手紙にある、宝くじの話や、あなたとフェリックス氏とが|のり《ヽヽ》で買う件は、あなたも認められたように、ほんとのことですからね」
「たしかにそこのところはそうです、しかし、あとの部分、賭けや樽の話はまったくの出鱈目じゃありませんか」
「いや、どうやらその点も、あなたは誤解しておいでのようですね、樽の話も、見かけはまったく手紙と該当するのですよ。とにかく樽は到着したのですし、宛名も日付も、まったく手紙にあるとおりだったのです」
ここでまたル・ゴーティエは、おどろきの声を発した、「樽が着いたんですって?」彼は叫んだ、「じゃ、ほんとに樽があったんですね?」そう言ったまま、彼はまた言葉を切った、「分らない、どう考えても分らない、ただ私に何度でもお答えできるのは、そんな手紙を書いたことは絶対になかったこと、まったく心当りがないということだけです」
「むろん、あなたが言われたとおり、手紙とあなたの名前をタイプで打つぐらいのことは、だれにだってできますからね、だが、あなたが宝くじをすすめたことを知っている人間でなければ、この手紙を書けないことも、あきらかですね、あなたは、手紙を書かないと言われる、私たちもあなたの言葉を全面的に信じます、すると、ル・ゴーティエさん、この手紙を書いたものはだれでしょうか?」
「ま、カフェ『トワソン・ドール』にいたもので、宝くじの雑談に加っていた人間なら、だれにでも書けるはずですよ」
「まさにそのとおりですね、ですから、その場にいたひとをあなたにおたずねしたのには、深い|わけ《ヽヽ》があるのですよ、わかっていただけますね」
ル・ゴーティエは、室内をゆっくりと歩きまわっていた、あきらかに思案にふけっているのだ。
「いや、私にはよくのみこめませんね」ややあってから、ル・ゴーティエは口をひらいた、「かりにですよ、この手紙に書かれてあることが、ぜんぶ本当のことだとします、それからまた、議論の便宜上、私がこの手紙を書いたと仮定します、と、どういうことになるのですか? なぜ、そんなことに警察は口を出さなければならないのです? いまの仮定が、たとえ事実にしろ、私が法に違反するとはどうしても考えられませんがね」
ルファルジュは微笑した。
「いずれにせよ、これははっきりさせなければならない問題ですよ。いいですか、事実をよく考えてみてください。一個の樽が|I《アイ》・アンド・|C《シイ》の貨物船でルーアン港からロンドンまで輸送されてきました。荷札は、ロンドン在住のフェリックスなる人物宛になっています。ところが、調査の結果、そういう名前の人物は、その番地には住んでいない。そのうえ、樽の荷札には、『彫像のみ』と記入してあるにもかかわらず、検査してみると、彫像はなく、金貨が入っていたのです。それから、フェリックスと自称する男があらわれ、虚偽の住所に住んでいるとうそをつき、この貨物船で彫像入りの樽が輸送されてくることになっていると、またうそをつき、その樽をすぐ受取りたいと要求します。船会社としては、当然ぬかりがありませんから、男に樽をやすやすと渡すような真似はしません、するとフェリックスはトリックを用いて、その樽をまんまとせしめ、ぜんぜんちがう番地に運んでしまいます。警察に訊問されると、彼はこの手紙を持ち出してきて、自分の行動を説明します。いいですか、こういうわけなら、私たちがこの手紙を書いたものをつきとめるのに躍起となり、手紙の内容の真偽をただしたいと思うのもあたりまえではないでしょうか」
「そうですか、いや、それなら当然のことですよ。私にはいままでのそういう|いきさつ《ヽヽヽヽ》がぜんぜん分りませんでしたからね、それにしても、じつに奇怪な話ですな、こんなことをきくなんて、生れてはじめてのことですよ」
「たしかに不思議な話です。ところで、ル・ゴーティエさん、あなたはかつて、フェリックスさんと仲たがいをしたようなことはありませんでしたか? なにか、彼に恨まれたり、悪意を抱かせることになるような原因について、心あたりはないでしょうか?」
「いや、いっこうありませんね」
「たとえば、それがどんなにとるにたりないことであれ、彼に嫉妬《しっと》をいだかせるような原因もなかったのですね?」
「ぜんぜんありませんよ、しかし、なんだってそんなことをおたずねになるのです?」
「いや、じつはフェリックス氏がなにかを根にもって、あなたをひどい目にあわせたんじゃないかと、思ったものですからね、自分であの手紙を書いたりして」
「とんでもない、絶対にそんなことはありませんよ、フェリックスは実直な、じつにちゃんとした男ですからね、あの男がそんな真似をするものですか」
「では、あなたがひどい目にあうのを見て、手をたたいてよろこびそうな人間はいませんか? 宝くじの話が出てたとき、その場に居合せた人のなかで、どうです? あるいは、そのほかの人間で?」
「ひとりとして思いあたりませんね」
「宝くじの話を、だれかべつのひとにも話しましたか?」
「いや、だれにも喋りませんでしたよ」
「それでは、もうひとつだけおたずねします、あなたは、フェリックス氏から五十ポンド、あるいはそれに相当する金額をフランスで借りたことがありますか?」
「あの男から、一フランだって借りたことなんかありませんよ」
「では、それだけの金額をフェリックス氏から借りたひとを知りませんか?」
「いや、いっこうに」
「そうですか、どうもいろいろとご迷惑をおかけしまして、申し訳ありません、それに、心よくお答えくださいまして、ほんとうにありがとうございました」ルファルジュはバーンリー警部の顔をチラッと見た、「この上、さらにご迷惑をおかけすることになるかもしれませんが、もしよろしかったら、ここまでデュマルシェ氏に来ていただいて、みんなでもうすこし話あってみたいのですが」
「それはたいへんいい思いつきですよ、さ、どうぞ、どうぞ」
この朝、二人の警部が捜査にかかるまえにたがいに予想しあっていたことは、ル・ゴーティエがデュマルシェと賭けをしないと頭から否認する公算があるということだった。で、もしそうなった場合、ル・ゴーティエが相手方に連絡するまえに、デュマルシェを訊問しなければならないという作戦を、二人の警部はたてたのである。そこで、予定どおり、ルファルジュは、ル・ゴーティエのそばにバーンリー警部をのこすことにして、自分はデュマルシェに会いに出かけたのだ。
ルファルジュが、ポワソニエール通りにある株式仲買人の事務所の入口につくと、堂々とした顎髯をたくわえた中年の紳士が、そのドアをあけて出て来た。
「失礼ですが、デュマルシェさんですか?」とルファルジュが声をかけた。
「ええ、そうですが、なにかご用で?」
ルファルジュは自己紹介をすると、用件を手短に告げた。
「それではどうぞ」デュマルシェが言った、「ちょうど先約がありましてね、パリのべつの地区まであとすこししたら出かけなければならないのです、ま、十分ぐらいでしたら、お話ができますが」彼は私室に案内すると、ルファルジュに椅子をすすめた。
「じつは例の賭けの件ですがね」とルファルジュは切り出した、「警察との智慧《ちえ》くらべに失敗したものですから、警察では、あの樽のなかに、荷札どおりの品物がほんとに入っているかどうか、たしかめなければならなくなったのですよ」
デュマルシェは目をむいた。
「いったい、なんの話です、その賭けというのは?」
「あなたとル・ゴーティエ氏とで賭けたやつですよ。フェリックス氏が樽を取りに行くような羽目になったのも、その賭けのおかげじゃありませんか、ですから、こうしてフェリックス氏の自供の裏づけをとらざるを得なくなるのは、あなたにだってよくお分りのはずだ」
株式仲買人は、もうこれ以上話をしても無駄といわんばかりに、つよく頭をふった。
「あなたは、なにか勘《かん》ちがいをしておいでだ。第一、私はル・ゴーティエ君と賭けなんかしたことはないし、おまけに、あなたがなにを言っているのか、さっぱり分りません」
「しかしですね、フェリックス氏に、あの樽がまんまとせしめられるはずがないと言って、あなたはル・ゴーティエ氏と賭けをしたと、当のフェリックス氏がスラスラと自供しているんですよ。もしも、これが事実でないとすると、フェリックス氏はたいへんなことになりますな」
「だいたい、樽のことから、私には分らないのですよ、そのフェリックスというのは、どのフェリックスなんです?」
「レオン・フェリックスですよ、ロンドンのサン・マロ荘に住んでいる」
と、デュマルシェの顔に、心をそそられたような色がうかんだ。
「レオン・フェリックス? その男なら、私もたしかに知っていますよ。それに、なかなか実直な男ですよ。するとなんですか、その男があなたにこう言ったと言うんですね、この私が、樽のからんでいる事件にかかりあいがあると?」
「ええ、そうですとも、すくなくともフェリックス氏は、私の同僚にそう自供したんですからね、ロンドン警視庁のバーンリー警部にですよ」
「そのロンドンの警部さんというのは、きっとねぼけているんですよ、フェリックスが話したとしても、だれかほかの人間のことにきまっています」
「絶対に間違いはありません、フェリックス氏は、三週間前の日曜日に、カフェ『トワソン・ドール』で政府の宝くじの雑談をしているうちに、賭けの話になったと言っているのです、その場にあなたもいたとね」
「ま、宝くじの雑談の件は、まったく彼の言うとおりですがね、ええ、私もはっきりとおぼえていますよ、しかし、賭けのことはぜんぜん知りませんね、私は賭けなんか、ぜったいにしませんでしたよ」
「そうですか、それならば、たいへんあなたにご迷惑をかけてしまいました。どうか、おゆるしください。どこかに間違いがあったのですね。ところで、おいとまするまえに、そのカフェに居合せたほかの方々の名前を教えていただけないでしょうか、いや、そのなかのどなたかのところへ、私は伺うべきでしたね」
しばらくデュマルシェはじっと考えこんでいたが、やがて、三人の男の名前を教えてくれた。だが、いずれもル・ゴーティエからきいて、ルファルジュが手帳に書きとめたものばかりだった。株式仲買人は、先約があるからと言って、あわただしく店から出て行ってしまった、ルファルジュは、バーンリー警部とル・ゴーティエのところへ、いまの報告をしにひきあげた。
その日の午後、二人の警部は、カフェ『トワソン・ドール』で宝くじの雑談のとき、その場にいたと教えられたひとりひとりを、訪ねてあるいた。そのなかで、ブリアンはイタリアに旅行中で不在だったが、ほかの連中には会うことができた、しかし、その結果はみんなおなじだった。いずれも、宝くじの雑談のことはおぼえていたが、樽や賭けのことになると、だれも知らなかった。『トワソン・ドール』のボーイたちにもあたってみたが、やっぱりなんの手がかりもつかめなかった。
「どうも思うようにはかどりませんな」その夜、二人が食事をすませてコーヒーを飲んでいたとき、バーンリー警部が言った、「なんだか私も、今日会ってきた連中は、ほんとに樽のことはなんにも知らないのだ、という気になってきましたよ」
「いや、まったく同感ですね」とルファルジュが応じた、「それはともかく、連中の話のほんの一部だけは、その裏づけをとるのに、さしてむずかしくないはずです。宝くじの係りまで行って調べてもらえば、三週間前の日曜日に、ル・ゴーティエが千フランの宝くじを買ったかどうか、すぐ分りますからね。事実、彼が買ったと分れば、カフェ『トワソン・ドール』での宝くじの雑談の件は本当だと信じなければならないし、ル・ゴーティエとフェリックスが|のり《ヽヽ》で宝くじを買うことにしたという話も、疑うわけにはいきません」
「まずその件については、疑いをさしはさむ余地がないですな」
「それからまた、来週の木曜日に宝くじの抽籤があるかどうかも、はっきり分りますよ。もしそうなら、手紙のなかの、宝くじが当ったことと、樽をだましとるテストの|くだり《ヽヽヽ》はぜんぶ、出鱈目だということになります。また、その反対に、すでに抽籤がすんでしまっていたなら、手紙の内容は真実だと考え得られることになり、ル・ゴーティエが私たちに嘘をついたことになるわけです、しかし、そういうことは、まずないでしょうな」
「私も同感ですね、しかし、手紙については、あなたの意見に、どうしても賛成できないのですよ、あの手紙が真赤なにせものだということは、もう私たちには分っている。手紙には、樽に九百八十八ポンド入れて送ると書いてありながら、実際には死体と五十二ポンド十シリングしか入っていなかったんですからね。だがそれにしても、樽をだましとるテストの件は、どうも私にはよくのみこめないのです。あの樽は、手紙にあるとおり、荷札に出鱈目な住所と『彫像のみ』という内容物を記入して|ちゃん《ヽヽヽ》と到着した、ところで、もしあの樽が、手紙にあった理由でなしに送られたとしたら、ほかにどういう理由が考えられるでしょう?」
「いや、さっぱり、思い浮かびませんね」
「それではと、あの手紙を出した人間について、私たちに分っている点を整理してみましょうか、まず第一に、その人間は、宝くじの雑談と、フェリックスとル・ゴーティエとが|のり《ヽヽ》で買う約束をしたのを知っていたにちがいない、つまり、その話があったとき、『トワソン・ドール』に居合せたか、あるいはその連中のだれかからまたぎきしたにちがいないということです。第二に、その人間は、あの樽を発送する情況をすっかりのみこんでいたということ、すくなくとも、荷札に出鱈目な住所と内容物の名が記入されるということを知っていなければならない。第三に、かなり使い古されたタイプライターに近づく機会のあるもの、このタイプライターは、摩滅した活字にはっきりした特徴があるから、探し出せば見分けは容易につくはずです。第四に、その人間はフランス製のタイプ用紙を持っていたか、またはそれを入手できるもの、ここまでは、確実と考えていいわけです。このつぎは、はっきりした証拠もないし、さして重要なことではありませんが、こういう推理も成り立つわけです、つまり、その人間は、タイプライターを自分で打つことができるもの、ああいった手紙を、口述でタイピストに打たせるとは、ちょっと考えられませんからね」
「たしかにそのとおりですね、ま、私に考えられるかぎりでは、いまの条件に該当するただひとりの人間は、フェリックスしかいないのです」
「ところが私には、フェリックスだとは思えないのですよ、あの男は、正直にありのままを話したと、私は信じているのです。もっともいまのところは、そうはっきりと言い切れるだけの情報を、私たちは手に入れていませんがね。おそらく、樽のことを調べていけば、今日会った連中のうちのだれかとむすびつけられるでしょうがね」
「そいつは充分に考えられますよ」ルファルジュは椅子から腰をあげながら答えた、「警視庁に九時までに行くつもりなら、そろそろ出かけたほうがよさそうですね」
「おたくのおやじさんは、夜の九時に会議をするのが習慣なんですか? ずいぶん変った時間にやるのですね?」
「うちのおやじは、人間もなかなか変っていましてね、ご存じのとおり、仕事は一流、人格は清廉潔白、ただし変り者なんです。おやじは午後外出して、夕食後に警視庁にもどってきて、夜中まで仕事をするんです、その言い分がいいじゃありませんか、そのほうが静かで仕事がはかどる、ってね」
「それはそうでしょうな、それにしても、ずいぶん変った考えですね」
ショーヴェ総監は、その日の捜査状況の報告に、熱心に聞きいっていた、やがてルファルジュの報告がすむと、しばらくのあいだ、身じろぎひとつしないで、熟考していた。と、いかにも結論に到達したといった口調で、総監は言葉を発した――
「現在までの経過から考えると、以下の諸点に分解できるように思われるね、まず第一は、宝くじの雑談が、いまからほぼ四週間まえに、カフェ『トワソン・ドール』でほんとうにあったか? という点だ。これは事実あったものと推定していいと思う。第二は、フェリックスとル・ゴーティエとが宝くじを|のり《ヽヽ》で買う約束を実際にしたか、もしそうなら、ル・ゴーティエは、その日のうちに小切手で払込みをすませたか? という点である。これは宝くじの係りに問い合せればはっきりと分ることだ、明日、うちのものをやって調べさせよう。第三は、宝くじの抽籤はもう終ったか? という点。これも同様にたしかめられる。ま、これ以上のことは、現在の段階では、なんとも言えないのだが、つぎに打つ手として、樽の出所をあたってみるのが先決問題だと私は考える。この線を洗って行けば、諸君が今日会った連中のうちのひとりが浮かびあがってくることになるかもしれないし、あるいはあたらしい人間が浮かんできて、その人間も『トワソン・ドール』に居合せたのがわかるかもしれない。諸君、私の意見をどう思うかね?」
「じつは私たちも、総監のご意見とおなじ結論に達したのです」とルファルジュが答えた。
「それでは、明日、樽の線を洗ってみたまえ、わかったね、よろしい、では明日の夜、またここで」
二人の警部は、明朝八時に、北停車場で落ち合う約束をすると、たがいにおやすみの挨拶を交して、めいめいの|ねぐら《ヽヽヽ》にもどっていった。
十一 デュピエール商会
その翌朝、北停車場の大時計の針が八時三分まえを指したとき、バーンリー警部が、駅の入口の階段をあがってきた。ルファルジュはすでに待っていて、二人の男は親しい挨拶をかわした。
「警察の箱馬車を待たせてあるんですよ」とルファルジュが言った、「書類をくれませんか、なに、樽を受け出すのに手間はかかりませんよ」
バーンリー警部は書類を渡した、それから小荷物係のところへ行った。ルファルジュの名刺は効果てきめんだった、ほんの一、二分で袋にはいっている樽は探し出され、馬車に積みこまれた。ルファルジュは馭者に行先きを命じた、「グルネルのコンヴァンション街のはずれまで運んでもらいたいんだ。これからすぐ出発して、ミラボー橋を渡ったグルネル側で待っててくれたまえ。あとから、行くからな。一時間かそこらで行けるんじゃないのかね?」
「いや、一時間半はたっぷりかかりますよ、なにせ、道のりはあるし、荷が馬鹿に重いですからね」
「よし、とにかく早いとこたのむよ」
馭者は敬礼すると、出発した。
「私たちも急ぐんですか?」とバーンリー警部がたずねた。
「いや、馬車がつくまで、ブラブラしているより仕方がないんですよ、なにか用でも?」
「べつに用なんかありませんがね、ただ|ひま《ヽヽ》があるんだったら、セーヌ河に出て、船に乗りませんか、あのセーヌのポンポン蒸気が好きなんですよ」
「私もそうなんです、空気と乗心地はいいし、バスよりしずかですしね、バス・ストップの数を考えたら、あの船だってそんなに時間はちがいませんからね」
二人はバスに乗って、ルーヴル美術館を通って南側に出、美術橋で降りて、そこからシュレーヌ行の蒸気船に乗った。この日の午前は空気もかぐわしく、雲ひとつなく晴れわたっていた。はじめのうち、太陽は二人の真うしろから照っていたが、セーヌ河のカーブにしたがって船がまがるにつれ、太陽も左側にゆっくりとまわってきた。船が橋にさしかかるたびに、バーンリー警部はその橋の高雅な建築を、五十回も絶讚しただろうか、世界中の都市で、こんなに美しい眺めはないと言って、彼は賞めたたえるのである。また警部は、まるではじめて見るような熱心さで、両岸をすぎさってゆくかずかずの建物を心から愉しみながら眺めていた。右岸にそびえる巨大なルーヴル美術館から左岸のドルセーヌ河岸のひろびろとした台地に立ちならぶ家々、そしてトロカデロとシャンゼリーゼ宮殿からはるか後方にほっそりとそびえ立つエフェル塔へと。バーンリー警部には、あの塔の下の階にあるレストランに、ルファルジュとランチをたべに入った日のことがどうしても忘れられないのだ。ちょうどそのとき、隣りのテーブルで、あの若くて魅力的なマルセル夫人が食事をしていたのだ、彼女こそ、イギリス人の夫に、遅効性の刺激的な毒物を長期間にわたって飲ませて殺害した犯人だったのだ。彼は、あのときのことをルファルジュに思い出させようとしてふりかえった、と、ちょうどそのときルファルジュがさきに声をかけたので、警部は|われ《ヽヽ》にかえった。
「じつは昨夜、あなたと別れてから、また私は警視庁にひっかえしたのですよ。さっきの箱馬車のことをたしかめておいたほうがいいと思ったし、それに、これから行くデュピエール商会の調査カードも目に入れておこうと思いましてね。どうやら、この彫像屋さんは、たいして大きな店じゃなさそうですよ。専務取締役のポール・テヴネという男が、店を一手に牛耳《ぎゅうじ》っているのです。創立は古くて、業界ではなかなかの顔でしてね、警察関係の記録は、まったくきれいなものですよ」
「そうですか、そいつは参考になります」
二人は、ミラボー橋で船から降りて路を横断して南側に行き、そこでこぎれいな喫茶店を見つけると、舗道にあるちいさなテーブルに早速腰をおろした。そこは、往来との仕切りに、鉢植えの灌木《かんぼく》がならべられていた。
「ここなら、橋のたもとが見通せますからね、馬車がつくまで、のんびり待ってましょうや」ルファルジュはこう言うと、黒ビールを二杯注文した。
二人は、ポカポカと陽にあたりながら、煙草を吸ったり、朝刊を読んだりしていた。それから一時間もすると、馬車がゆっくりと橋を渡ってくるのが見えた。二人は喫茶店を出ると、馭者についてくるように手で合図して、コンヴァンション街にむかって歩いて行き、プロヴァンス街に曲った。そこをしばらく行くと、ほぼ、その反対側の近くに、探していた店があった。店の間口《まぐち》は、二番目の区劃全部を占めるだけのひろさで、その一部は、古風な四階建ての工場か倉庫になっていて、他の部分は高い塀にかこわれていて、中庭になっていることが一目で分る。建物のはじにあたる塀のところに、中庭に通じる木戸口がついていて、そこを入るとすぐ建物の壁のはじっこにドアがあり、『事務所』という札が出ている。
二人は、門の外で待っているように馭者に言いつけると、事務所のちいさなドアをあけて、私用で専務のテヴネさんにお目にかかりたいと、伝えた。ほんの少々待たされただけで、番頭が二人を専務の部屋に案内した。
テヴネ専務は、いささかしなびた感じの小柄な初老の男で、白い口ひげをたくわえていた。とっつきはいいとはいえないが、物腰はいやに鄭重だった。二人の警部が部屋に入ると、専務は椅子から立ち上り、まず朝の挨拶をしてから用件をたずねた。
「名刺も出さないで、たいへん失礼をしました」ルファルジュは名刺を差し出しながら、口をひらいた、「じつは用件がちょっとこみいっているものですから、社の方《かた》に、警察のものだということをお知らせしないほうがいいと思いましてね」
専務は頭をさげた。
「こちらは、ロンドン警視庁のバーンリー警部です」とルファルジュは紹介した、「じつは、あなたにお話をうかがいたいと言っているのですが、お力ぞえをいただけないでしょうか」
「私にできますことなら、なんなりとおたずねください。バーンリー警部さんにご便宜なら、英語でお話いたしましょう」
「おそれいります」バーンリー警部が口をひらいた、「ことは、かなり重大なのです。簡単に申しますと、こうなるのです、先週の月曜日――つまり四日前にあたりますが、一個の樽がパリからロンドンに到着しました。いま、ここでは省略しますが、警察に不審をいだかせるような事態が生じまして、その結果、樽は押収《おうしゅう》され、開けられることになったのです。すると、鋸屑をつめた樽の中から、二つの|もの《ヽヽ》が出てきたのです。まずはじめにイギリス金貨が五十二ポンド十シリング、それからあきらかに上流階級とおもわれる若い女性の死体、人間の両手で扼殺《やくさつ》された歴然たる証拠がのこっていたのです」
「なんということを!」小柄の老専務は思わず声をあげた。
「その樽は特別製のもので、桶板の部分は、そこいらにあるワイン樽の、すくなくとも二倍の重さがあり、頑丈な鉄の輪で、その胴は締めつけられているのです。で、専務さん、私どもがこちらへ伺いましたのは、その樽におたくの社名が『乞返却』という文字のあとに刷りこまれてあり、また社名入りの荷札に、社の住所が入っていたからなのです」
小柄な専務はびっくりして椅子から立ち上った。
「うちの樽? うちの荷札ですって?」専務は驚愕の色をありありと顔にうかべて、叫んだ、「すると、その死体のはいっている樽が、うちの社から発送されたとおっしゃるのですか?」
「いや、いや、専務さん」とバーンリー警部が答えた。「なにも私は、そう申したわけではないのです。到着したその樽には、おたくの社名と荷札がついていたと言ったまでです。死体が、いつ、いかなる方法で樽につめこまれたのか、それについては皆目《かいもく》分っておりません、私がロンドンからわざわざやって来たのも、それを捜査するためだったのです」
「それにしても、到底信じられない話です」テヴネ専務は部屋のなかをグルグル歩きまわりながら言った、「いや、ちょっとお待ちを」バーンリー警部がなにか言いかけると、専務はそれを手で制した、「私はなにも、あなたのお言葉を疑っているわけではないのです。ただ、どこかにとんでもない間違いがあるような気がしてならないのですよ」
「これだけはつけ加えさせていただきたいのですが、専務さん」とバーンリー警部が言葉をはさんだ、「じつは私自身、その荷札をこの目では見ていないのです。しかし、船会社の連中はちゃんと見ておりますし、とりわけひとりの書記が、樽に不審をいだいたとき、丹念に見ているのです。そのあとで、樽の受取人であるフェリックスが、その荷札を破り捨ててしまったのです」
「フェリックス、フェリックス、どこかできいたような名前ですな、氏名と住所を教えてくださいませんか?」
「氏名はレオン・フェリックス、住所はロンドン西区トットナム・コート・ロード、西ジャブ街一四一です」
「ああ、分りました」間髪いれず、テヴネ専務は応じた、「すると、ほんとうにそういう男がいるわけですな? いや、じつはあの時、私はちょっと疑念を持ちましてね、というのは、樽の輸送の通知状を出したところ、『該当者なし』という符箋《ふせん》がついてもどってきたものですから、ロンドンの人名録を探してみたのです、ところがやっぱり見当らなかったのですよ、もっとも、社としては代金もすでにいただいておりましたから、べつにどうという問題はありませんでしたが」
バーンリー警部とルファルジュは、サッと椅子の背からからだを起こした。
「失礼ですが、専務さん」とバーンリー警部が言葉をはさんだ、「いま、なんとおっしゃいました? あの時ですと? それはいつのことなのでしょうか?」
「むろん、うちの社で樽を発送したときですよ、そのほかに考えられますか?」専務は、警部の顔をするどく見つめながら、切りかえした。
「と言われても、どうもよくのみこめませんな、すると、トットナム・コート・ロードのフェリックスあてに、樽を送られたことが|あった《ヽヽヽ》のですね?」
「ええ、送りましたとも、なにせ、代金をいただいたのですから、お送りしないわけにはいかないじゃありませんか?」
「ねえ、専務さん」バーンリー警部は喰いさがった、「どうもおたがいに話がトンチンカンのようですね、とにかく、荷札のことを、もうすこし詳しく説明させていただけませんか、私どもが得た証言によりますと、この証言は信じられるものですが、送先の住所と氏名を書きこむ部分はきれいに切りぬかれていて、その裏から別の紙をあてがい、そこに問題の住所と氏名とが記入されていたというのです。したがって、なにものかがおたくから樽を受取り、荷札の宛名の部分を書きかえて、樽に死体をつめ、あらためてまた発送したのではないかと思われたのです。ところが、いまのお話によりますと、その樽は、おたくから発送されたことになります。では、どうして荷札の宛名の部分を書きかえなければならなかったのです?」
「私にはいっこう分りませんね」
「こちらから発送したおり、その樽になにが入っていたか、教えていただけませんか?」
「ええ、いいですとも、りっぱな彫刻家がほったちいさな群像でしてね、かなり高価なものです」
「専務さん、じつはどうもまだ腑《ふ》におちないのです。おそれいりますが、その樽を発送したときの模様を、できるだけくわしく、お話してくださいませんか」
「なに、かまいませんとも」専務がベルを押すと、番頭が部屋にやってきた。
「ロンドンのフェリックスさんにお送りしたル・マルシャルの群像の販売関係の書類を、ひととおり、ここに持ってきておくれ」専務は番頭に言いつけると、また警部たちのほうにむきなおった。
「とりあえず、うちの店の仕事の内容から、ご説明したほうがいいようですね。じつは、三つの仕事を、うちでは、いちどきにこなしておりますんで。その一つは、名作の彫刻を模造した石膏細工《せっこうざいく》をつくっております、これは、まあ、値打ちといったものはありませんから、売値もごくしれたもので。第二に、記念碑、墓石、装飾用の石の鏡板、それに建築関係のものを作っております。なにぶん、あらっぽい仕事ですが、かなりの儲けになりますんで。第三は、それこそ立派な彫刻を取引きしております、いわば彫刻家とお客さまの仲立ちみたいな仕事で。ですから、うちの陳列室には、かなりたくさんの名作がおいてありまして、毎日、お客さまをお待ち申しているような次第なのですよ、で、フェリックスさんがご注文になりましたのも、このなかにあった千四百フランの群像でしてね」
「フェリックスが注文した?」バーンリー警部は思わず口走った、「いや、失礼しました、その先きをどうぞ」
このとき、さっきの番頭がひきかえしてきて、専務の机の上にひとかさねの書類をおいた。専務は、一枚一枚めくって見ていたが、そのなかから、一通の手紙をとり出して、バーンリー警部にわたした。
「これが、三月三十日の午前にうちにとどきましたフェリックスさんのお手紙でしてね、紙幣で千五百フラン同封してありました。封筒にはロンドンの消印があります」
文面は、便箋の片側に、つぎのようにペンでしたためられている――
[#ここから2字下げ]
パリ市、グルネル、コンヴァンション通り
プロヴァンス街
デュピエール商会御中
前略、カピュシーヌ大通りにある貴社の陳列所の、むかって左側の奥にある群像を購入したいと存じます。三人の女人像で、うち二人は坐り、一人は立っているものです。陳列窓の左側には、これに該当するものは一つしかありませんでしたから、私の注文品はすぐ分ると思います。
左記の住所まで至急お送りください。
はっきりした値段が分りませんが、おおよそ千五百フランぐらいかと存じます。その分だけ紙幣を同封します、もし差額が生じた際は、手紙によって清算できると思います。
突然イギリスに帰らなければならなくなりましたので、貴社まで行って、直接購入することができなくなった次第です。
草々
一九一二年三月二十九日
ロンドン市西区、トットナム・コート・ロード
西ジャブ街一四一番地
レオン・フェリックス
[#ここで字下げ終わり]
バーンリー警部は、その手紙を丹念にしらべた。
「よろしかったら、しばらく、この手紙を拝借させていただけませんか」警部がたずねた。
「ええ、いいですとも」
「代金は紙幣だと言われましたね、すると、支払人をつきとめるわけにはいかない普通の紙幣で、銀行経由で支払われる小切手や為替《かわせ》のたぐいではないわけですな?」
「そのとおりです」
「どうぞ、その先きを」
「なに、もうお話することはさしてありませんので。早速、その群像を荷造りしまして、手紙がまいりましたその日に発送したのです。値段は千四百フランでしたので、おつりの百フランは、群像と同封いたしました。樽には全額の保険をつけておきましたから、こうして送るのがなにより安全だと思いましてね」
「樽? すると、樽につめて荷造りしたのですか?」
「はい、うちでは、二種類のサイズの、重くて頑丈な特別製の樽をつくりましてな、美術品の発送に用いております、これはわが社独特のアイデアでしてね、いささか自慢にしているような次第で、これですと、木枠《きわく》などで荷造りするよりもずっと簡単で、安全なのが分ったものですから」
「じつは、門の外に待たせてある馬車に、その樽があるのです。ここまでその樽を運びますから、ひとつ、たしかめていただけないでしょうか、まず、おたくの樽かどうか、もしそうなら、フェリックスに発送したものかどうか」
「あいにくと、カピュシーヌ大通りの陳列所からじかに発送したものでしてね、そこまでおいでねがえるなら、私から支配人に申しつけまして、全面的にお力ぞえするようにいたさせますが。そうだ、私もご一緒にまいりましょう、これが片づかないことには、気がおちおちいたしませんから」
警部たちは、専務にあつく礼をのべた、ルファルジュが馭者に行先きを命じているあいだに、テヴネ専務はタクシーを呼んで、三人はカピュシーヌ大通りにむかって、車を走らせた。
十二 聖ラザール停車場にて
陳列所は、さしてひろくはないが贅沢《ぜいたく》な飾りつけがしてあり、すばらしい|でき《ヽヽ》の、高価な彫刻がたくさんならべられてあった。テヴネ専務が支配人のトーマをひきあわせた。まだ若くて、なかなかの|やり手《ヽヽヽ》といったつらがまえの男だった。彼は、一同を事務所に案内した。支配人は英語が駄目なので、ルファルジュが話をすすめた。
「こちらの方は」とテヴネ専務が切り出した、「先週、ロンドンのフェリックスさんに、ル・マルシャルの群像を売却した件で、調査をなさっておいでなのだ。君の知っていることを、全部話してあげてくれないかね、トーマ」
若い支配人は頭を下げた。
「はい、よろこんでなんでも」
ルファルジュは、ごく簡単に要点を説明した、「とにかく、あなたの知っていることをひととおりお話してくだされば、こちらで納得のいかない点をおたずねするようにしますよ」
「それはもう結構でございます、ただ、お話するといっても、あまりないものですから」支配人は備忘録をしらべた、「さいですね、先週の火曜日、つまり三月三十日に、本店から電話がかかりまして、陳列窓に出ているル・マルシャルの最新作の群像が売れたから、と言ってまいりました。ただちにロンドンのフェリックスさん宛に送るように、それからおつりの百フランも品物と一緒に同封するようにと言いつかったものですから、指図どおりいたしました。群像とお金をいれてきちんと荷造りし、発送したのです。それはもう、言いつけどおりぬかりなくいたしましたし、日ごろからやっているとおりにいたしました。ただ、ほかのお客さまとちがう点は、フェリックスさんから、荷の受取りがまいりませんことで。これまでは、お客さまに荷をお送りすれば、かならず無事に着いたというご通知がいただけましたし、とくにフェリックスさんの場合は、お金をお入れしたのですから、きっと御返事がいただけるものと思っておりました。それから、このこともお耳に入れておいたほうがいいと存じますが、そのおなじ火曜日に、フェリックスさんがロンドンから長距離電話で問いあわせてまいりまして、樽をいつ、どういう経路で発送するのか、というのです、それには、この私が電話に出て、直接お答えしたのですが」
支配人はそこで言葉を切った、するとルファルジュが、群像をどんなぐあいに荷造りしたかとたずねた。
「平素のきまりどおり、A号サイズの樽につめましたんで」
「樽が一個、ここまでくるのです、ええ、もう着くころなんですがね、そいつを見分けてもらえますか?」
「私か、うちの頭《かしら》なら、見れば分るはずですが」
「それでは、専務さん、樽がつくまでべつに用はないようです、ちょうど、かるい食事をとるぐらいの時間がありますから、どうです、よろしかったらトーマさんとご一緒に、私たちとつきあっていただけませんか」
話がまとまって、四人は大通りにある気のきいたレストランに入って、昼食をとった。それから陳列所にもどってみると、馬車が着いていた。
「馬車を中庭に入れたほうがよさそうですね」と支配人のトーマが言った、「みなさんはそのまま店から通りぬけてください、私が馬車の道案内をしますから」
中庭は、ほんのちいさな空地で、いくつかの小屋にとりかこまれていた。その小屋の一つに、うしろむきの形で馬車を入れると、樽の梱包《こんぽう》をといた。トーマ支配人が、その樽を綿密に調べた。
「たしかにこれは、うちの樽ですね」とトーマは言った、「デザインもうちのものですし、私が知っているかぎりでは、ほかの店では、こういった樽をつかっておりませんから」
「しかしですね、トーマさん」とルファルジュが言った、「なにか|きめ手《ヽヽヽ》になるような具合に、見分けていただけませんかな? むろん、あなたの意見を疑うつもりは毛頭ないのですが、もしこの特別製の樽が、こちらの中庭から発送されたものと確認されると、こいつは重大な問題になりますのでね、ただ、樽の外形が似ているというだけでは、なにものかが犯行をくらますために、おたくの店のデザインを盗用したと考えられないこともありませんからな」
「いや、おっしゃることはよく分るんですが、そういうことになると、ちょっと私では手に負えないようです。それでは頭《かしら》と荷造り人をよんで来ましょう、その連中なら、きっとお役に立つと思いますから」
支配人は、もう一軒の小屋のなかに入ってゆくと、四人の男をつれて、すぐ引き返して来た。
「この樽をちょっと見てくれないか」と支配人は男たちに言った、「この樽に見おぼえのあるものはいないかね?」
男たちは樽にちかよると、てっぺんから底のほうまで、のこりくまなく調べた。四人のうち、二人はかぶりをふってひきさがった、だが、三人目の、白髪の初老の男がきっぱりと言った。
「たしかにこいつでさあ、二週間もしないまえに、こいつを荷造りしましたよ」
「なにが証拠に、そう言いきれるんだね?」とルファルジュがたずねた。
「旦那、こいつですよ」初老の男はいたんでいる樽板を指さした。「ほら、こいつが割れているでしょう、この裂け目のつきかたを、はっきりとおぼえているんですよ。こいつに気がついたとき、よっぽど頭《かしら》に言おうと思ったんですがね、このぐらいなら大丈夫だと思って、言わなかったんでさあ。ですが、相棒にゃ話したんで、なあ、おい、ジャン」初老の男が、四人目の男に声をかけた、「いつだったか、おまえさんに見せたのはこの裂け目だったろ、それとも似ているだけかい?」
四人目の男は樽にちかよると、相手と入れかわって、しげしげと見つめた。
「やっぱりこいつだよ」男は自信たっぷりに言った、「あのとき、この割れ目は、おれの手の形にそっくりだと思ったもの、こいつにちがいないさ」
男は、その割れ目のすぐよこに自分の手をおいてみた、なるほど、そう言われて見れば、かなり似ている。
「この樽になにをつめたか、宛名はだれだったか、二人ともおぼえていないだろうな?」
「たしか、三人か四人の女の群像だったと思いますがね、送り先は、ちょっと思い出せませんや」と初老の男が答えた。
「ロンドンの、フェリックスという男じゃなかったかね?」
「そんな名前はおぼえていますがね、そのひとのところへ送ったものかどうか、あっしには分りませんので」
「いや、ありがとう、ところで、荷造りはどんなぐあいにやったんだね? 群像の|つめもの《ヽヽヽヽ》は?」
「鋸屑でさあ、旦那、鋸屑だけをそっとつめたんで」
「樽はどうやって発送したんだね、鉄道の馬車がここまできて、それに積みこんだのかい?」
「いいえ、旦那、うちの荷は、みんな店のトラックで運ぶんで」
「そのときの運転手を知っているかね?」
「あの日の運転手は、ジュール・フーシャールだったと思いますよ、ですけど、運んだのがこの樽だったかどうかは、はっきりうけあいませんがね」
「どうでしょう、専務さん」ルファルジュは、テヴネ専務のほうに顔をむけた、「そのフーシャールという運転手に会わせてくださいませんか?」
「ええ、いいですとも、トーマ君に探してもらいますから」
「旦那、その運転手なら、いまここに来ていますよ」と初老の荷造り人が口を出した、「ほんの十分もしないまえに、会いましたがね」
「そうか、よし、それならすぐ探してくれないか、見つけたら、こっちの話がすむまで、どこへも行くなと言ってくれないか」
ほんの二、三分で、運転手が見つかった。ルファルジュは、外で待っているように言いつけると、樽の調べをつづけた。
「この樽をここから積み出したのは、何時《なんじ》ごろだったね?」
「四時ごろでした。二時には、もうすっかり荷造りがすんでいたんですが、それから二時間も、トラックのやつがやってきませんのでね」
「ところでいいかね、あんたが群像をつめてから、トラックがここに着くまでのあいだ、この樽はどこにおいてあったの?」
「ここでさあ、旦那、あっしが荷造りをしたこの小屋のなかですよ」
「樽をおいたまま、あんたは出ていってしまったのかね?」
「いいえ、旦那、あっしはここにずっといましたよ」
「すると――いいかね、ここのところをとっくりと考えておくれ――この中庭から樽を積み出すまでのあいだに、だれかがつまらない細工をするような真似はできなかったわけだね?」
「滅相《めっそう》な、そんなことはできっこありませんや、旦那」
「いや、ありがとう、おかげでたいへんたすかった」もどりかける男の手に、二フランをつかませると、ルファルジュは言った、「それでは、トラックの運転手に会ってみますか」
ジュール・フーシャールは、背のずんぐりした、見るからに精力的な男で、利口そうな目をした、ぬけ目のなさそうな顔つきだった。自分の扱った仕事のことはよくおぼえていて、テキパキと訊問に答えた。
「フーシャール君」とルファルジュが切り出した、「こちらのロンドン警視庁の方と私は、ここから発送した樽の一つの経路を追及しているところなんだがね、調べたところによると、その樽は、先週の火曜日、つまり三月三十日の午後四時に、君のトラックで、ここを出たという話なんだ。君はその時のことをおぼえているかね?」
「それでは配達簿をとってまいります」
運転手は小屋から出て行くと、小型の布表紙の帳面をもって、すぐもどって来た。そのページをパラパラとめくると、わけなく探し出した。
「ええと、ロンドン市、トットナム・コート・ロード、西ジャブ街一四一のレオン・フェリックスさん宛ですね? それなら分りますよ、旦那、あの日、ここから積み出した樽は、たった一つしかありませんでしたからね、私は、聖ラザール停車場までその樽を運んでいって、駅の係員に渡したんです。これが受取りのサインでさあ」
運転手が帳面を渡すと、ルファルジュは、その名前を読んだ。
「ありがとう、このジャン・デュヴァルというのは、なんの係りなんだね? たぶん、会ってみることになると思うから、どこの課にいるのか、知っておきたいのだ」
「旅客用の手荷物預り所の係りです」
「君のトラックがここを出たのは、たしか四時ごろだという話だが?」
「はい、そのころで」
「じゃ、何時に聖ラザール停車場に着いた?」
「ほんの五、六分後です、まっすぐ行きましたから」
「すると、どこにも寄らなかったわけだね?」
「はい」
「それではいいかね、じっくり考えてから答えてくれたまえ、ここでトラックに樽を積み込んでから、聖ラザール停車場で、駅員のジャン・デュヴァルに引き渡すまでのあいだに、なにものかがその樽に|ちょっかい《ヽヽヽヽヽ》を出す気があれば、はたして出せただろうか?」
「とんでもありませんよ、旦那、だれが私の目をごまかして、トラックの上にとび乗ったり、おまけに樽に|ちょっかい《ヽヽヽヽヽ》を出せるものですか」
「すると、樽をすりかえることも、ぜんぜんできないわけだな?」
「そんな芸当は、さか立ちしたって、できっこありませんよ」
運転手に礼を言って、ひきとらせると、四人はまた、支配人の部屋にもどった。
「目下のところでは、こういうふうに考えられますね」一同が椅子に腰をおろすと、ルファルジュが口をひらいた、「あの樽は、群像をつめこまれて、この中庭から積み出され、ロンドンに到着したときは、中身が女性の死体に変っていたということになります、したがって、その入れ換えは、その途中で行われたものと考えなければならない、そして、船会社の証言から推して、入れ換えが行われたのは、ここからルーアンまでのあいだに|しぼられる《ヽヽヽヽヽ》ようです」
「またどうしてルーアンまでに?」専務と支配人がほぼ同時に声をあげた。
「いや、もっと正確に申せば、ここから、ルーアン港の埠頭で、貨物船に積みこむまでの間と言うべきでした」
「しかしどうも、なにか勘《かん》ちがいしておいでのようですね」とトーマ支配人が口を出した、「あの樽は、アーヴル港から積み出されているのですよ、うちの荷は、みんな、そこ経由なんで」
「ちょっと待ってください、トーマさん、あなたのお言葉を否定するようだが」バーンリー警部があまり流暢《りゅうちょう》でないフランス語で、口をはさんだ、「それは、いま私がここに腰をおろしているとまったく同じくらいたしかなことなんですよ。あの樽がどこから送られたにせよ、ルーアン港出航のインシュラー・アンド・コンティネンタル(|I《アイ》・アンド・|C《シー》)海運会社の貨物船で、ロンドン港の埠頭に到着したことは、絶対に間違いないことなんです」
「そんな馬鹿な話があるでしょうか」トーマ支配人がびっくりして言った。彼はベルを押すと、番頭がやって来た。
「先月の三十日に、ロンドンのフェリックス宛に樽を送ったときの、鉄道関係の書類をたのむ」
番頭がその書類をとってくると、支配人はバーンリー警部に言った、「これがそうです、ご覧になってください、これが、あの樽を発送したときの運賃の領収書で、聖ラザール停車場で出したものです。ここからロンドンまでのもので、客車便の経由はアーヴルとサザンプトンになっていますが」
「なるほど」とバーンリー警部は言った、「こいつはおどろきました」警部はちょっと考えこんでから、言葉をつづけた、「それではですね、フェリックスがロンドンから長距離電話で、いつ、どこ経由で樽を送るのかと問いあわせてきたとき、あなたはなんと返事したのです?」
「三月三十日火曜日の夜行便で、アーヴル港――サザンプトン経由で送ると申しました」
「どうやら聖ラザール駅まで行ったほうがよさそうですな」とルファルジュが言った、「トーマさん、その領収書を貸していただけますね」
「結構ですよ、ただ、借りたというサインをしてくださいませんか、会計検査に必要ですから」
二人の警部は、感謝の色をあらわしながら、専務と支配人に、かならず捜査の進行を知らせるからと言って、ひきあげた。
二人はタクシーをひろって、聖ラザール駅に行った。駅長室で、ルファルジュが名刺を出すと、いつものことながら、効果てきめんだった。
「さ、どうぞおかけになってください」と駅長は椅子をすすめた、「ご用件はどういうことでしょうか」
ルファルジュは、駅長に例の領収書を示した。
「どうも話がこみいってましてね、途方にくれているのですよ」ルファルジュはこう切り出した、「この領収書にあるとおり、この樽は、先月の三十日にアーヴル――サザンプトン経由で発送されたことになっているのですが、それにもかかわらず、今月の五日月曜日に、インシュラー・アンド・コンティネンタル《I・アンド・C》海運会社の、ルーアン港出航の貨物船ブルフィンチ号で、ロンドン港に到着したんです。樽の中身は、デュピエール商会の陳列所から積み出されたときには彫刻の群像だったのに、ロンドンの聖キャザリン埠頭に着いたときには――駅長さん、これは極秘なのですが――女性の死体にかわっていたのです、それも殺害されてね」
駅長はおどろいて、思わず声をあげた。
「そこで、できるだけ内密に、樽の輸送経路を追及しなければならないのです」
「いや、よく分りました。それでは、ほんの少々お待ちねがえませんか、ほんの一部でも、ご期待にそえるような情報があつめられると思いますから」
その、『ほんの少々』が一時間ちかくもたったころ、やっと駅長がもどってきた。
「どうもすっかりお待たせしてしまって、申し訳ありません」と詫びをいれてから、「問題の樽は先月の三十日の午後四時十五分ごろ、当駅構外の旅客手荷物預り所で受付けたことが判明しました。この樽は、午後七時ごろまでそこにありまして、その間というもの、デュヴァルというこの係員がずっと監視していたのです、この男はごく信頼のおける良心的な人間でしてね。このデュヴァルの話によりますと、自分の机から、その樽がまる見えだったから、絶対にだれかがその樽をどうこうするわけにはいかない、というのです。なにしろ、独得な形といい、重さといい、ちょっと類のない樽だったし、客車便で送るにしてはずいぶん変った代物だと思ったせいで、デュヴァルはとくにはっきりとその樽のことをおぼえていたのです。午後七時ごろ、二人の運搬夫がその樽をひきとり、七時四十五分発のイギリス連絡船行の列車についている貨車に積みこんだのです。積みこみの際は列車の車掌がその場にいましたが、発車するまで車掌はそこにいたはずです。ちょうどまずいことに、その車掌は今日は非番でしてね、いま呼びにやりましたから、その車掌から話がおききになれると思います。とにかく、その列車が出た以上、樽はそのままアーヴル港まで行ってしまうのですからね、保険がついているのですから、もし着かなかったら、かならず当駅までなにか言ってこなければなりません。しかしまあ、いまからアーヴル港に連絡してみましょう、そうすれば、明朝、はっきりしたことが分りますから」
「ですけど、駅長さん」バーンリー警部が頼りなげな声を出した、「なんと言われようと、その樽がルーアン港から長航海してロンドンにやってきたのは、絶対に間違いがないのですよ。むろん、駅長さんの言葉を疑うつもりは毛頭ないんですが、これはきっと、どこかにとんでもない喰い違いがあるんですよ」
「ああ、そうでした」駅長は微笑しながら言った、「いま思い出しましたよ、きっとなにかの参考になると思いますがね。問題の樽は、先月の三十日の夜、当駅から出ているのですが、もう一個、別の樽がそれより二日後、つまり今月の一日に発送されたことが判明したのです。この樽も、ロンドンの同番地に住むフェリックス氏宛のもので、やっぱり差出人はデュピエール商会になっているのですよ。この荷札は、ルーアン港経由で、|I《アイ》・アンド・|C《シー》海運会社の船になっていたのです。その夜、貨物列車で輸送されました、とにかくルーアン港に問いあわせてみますが、むこうの駅としても、とくにその荷に注意を払う理由はなかったのですから、まず駄目だと思いますがね」
思わずバーンリー警部は言葉にならぬ叫び声をあげてしまった。
「いや、失礼しました、しかし、ますますこんがらかってきましたな、樽が二つとはね!」警部はうなり声を出した。
「すくなくとも、これで」と駅長が言った、「アーヴル港から出た樽が、べつの経路であるロンドン港に到着したという怪事件は解決したじゃありませんか」
「たしかにそのとおりです、これも、いろいろとご親切にお力ぞえいただいたおかげです、ほんとうにありがとうございました」
「ほかにもなにかお役に立つことがありましたら、よろこんでいたしますが」
「恐縮です、ただ、二番目の樽をこの駅まで運んできた車をつきとめたいのですが」
「いや、これだけはどうもわれわれの手に負えませんな」と駅長は頭をふって、言った。
「むろん、そうでしょうとも、ですが、駅長さんのお力ぞえで、その二番目の樽を受付けた係員の方を探すわけにはいかないでしょうか? ひょっとすると、係員の方々から、なにか手がかりがつかめるかもしれませんからね」
「やれるだけのことはやってみましょう、とにかく、明日の午前中に来ていただければ、これから判明したことをお知らせいたします」
二人の警部はあらためて礼をのべると、駅長に会釈しておもてに出た、それから広大な駅の構内をブラブラ歩きながら、二人はつぎのプランを練った。
「いまからロンドン警視庁に電報を打ちたいのですよ、それから今夜の便に間に合うように手紙も書きたいのです」とバーンリー警部が言った、「警視庁では、二番目の樽の、ウォータールー駅からの|足どり《ヽヽヽ》を、大至急、つかみたいでしょうからね」
「郵便箱から手紙をあつめるのは、普通六時半ということになっていますが、それ以後だったら、九時十分までに北停車場へ行って、イギリス行の郵便車に手紙をたのむこともできますよ、そのつもりなら、手紙を書く時間はたっぷりあるはずです。いま、この駅で電報だけ打って、それから、コンティネンタル・ホテルへ行って、フェリックスを洗ってみたらどうです?」
バーンリー警部はこれに同意した。電報をロンドン警視庁に打つと、二人はタクシーをひろって、フェリックスが泊ったというコンティネンタル・ホテルにむかった。ルファルジュが名刺を出すと、支配人がとび出してきて、愛想のいい鄭重な物腰で、お役に立つことならなんでもする、と申し出た。
「じつは、話によると、最近このホテルに泊った男のことを調べているのだがね」とルファルジュは説明した、「客の名前は、レオン・フェリックスというのだが」
「すると、背は小柄、痩せぎすの方で、黒い顎髯をはやしておいでの、あたりのやわらかなお客さまで?」と支配人がききかえした、「ああ、そのフェリックスさまでしたら、毎度ごひいきにいただいております、じつに感じのよろしい方で、あの方は、つい最近もお泊りになりましてね、ちょっとお待ちを、ただいま、はっきりした日付を調べてまいりますから」
支配人は奥に入っていったが、すぐにもどってきた。
「フェリックスさまは、三月十三日土曜日から十五日の月曜日までご滞在でございました。それからまた、二十六日の金曜日にお泊りにおいでになり、二十八日の日曜日の朝八時二十分発のイギリス行の列車で、北停車場からおかえりになりましたので、はい」
二人の警部は、たがいに驚きの目をかわしあった。
「宿帳にある彼のサインと、私がいまここにもっているのとくらべさせてもらえますか?」とバーンリー警部がたずねた、「同一人物かどうか、はっきりとたしかめたいのでね」
「どうぞ、どうぞ」支配人は答えると、案内に立った。
サインはまったくおなじだった。警部たちは支配人に礼を言うと、ホテルを出た。
「こいつは思いがけない拾いものでしたよ」とバーンリー警部が言った、「フェリックスは十日まえに、パリにいたなんて一言《ひとこと》も私に言わなかったのですからな」
「そいつは、ちょっと|くさい《ヽヽヽ》ですね」とルファルジュが答えた、「その滞在中、やつがどんなことをしたか洗ってみなければならない」
バーンリー警部はうなずいた。
「とにかく、これからロンドン警視庁に報告を書かなければ」と彼は言った。
「そうだ、こっちもパリ警視庁へ行って、報告してきましょう」とルファルジュ。
二人は、またあとで会う約束をして、別れた。バーンリー警部は、ロンドンの総監に、この日の捜査報告を詳細にしたため、二番目の樽について、ウォータールー駅に問い合せてもらえるように依頼した。警部は、その手紙を郵送すると、こんどは、デュピエール商会に彫刻の群像を注文したフェリックスの手紙の調査にとりかかった。
その手紙の用紙は、フェリックス宛に来た、あのタイプライターで打った二通の手紙の用紙と、まったくおなじ種類のものだった。警部は、そのすかし模様を細心にくらべてみて、ピッタリおなじものだと確信した。それがすむと、こんどは、ロンドンのサン・マロ荘でフェリックスに住所を書かせた紙片をポケットから取り出すと、手紙の書体と比較してみた。
二つの筆蹟は、同一のものだった、いや、すくなくとも、見た瞬間の感じではそうだった、だが、仔細に調べてゆくにつれて、なんだかすこし怪しくなってきた。彼は、筆蹟鑑定の専門家ではなかった、だが、いままでにそういうたくさんの専門家の仕事に立会ってきたし、その鑑定法のいくらかは見よう見まねで、おぼえていた。警部は、自分の知っている鑑定法を応用してみて、やはりフェリックス自身がこの注文の手紙を書いたのだという結論にどうにか達したものの、どこかに疑念がのこっているような気がしてならなかった。そこで彼は、あらためてもう一通、ロンドンの総監に手紙を書き、フェリックスの二つの筆蹟を同封して、その鑑定を依頼した。
それから警部は、その夜、ルファルジュと会う約束があったので、外出した。
十三 ドレスの持ち主
それからしばらくして、二人の警部が落ち合うと、ルファルジュが言った、「いま、うちの|おやじ《ヽヽヽ》に会ってきたんですがね、捜査の進行状況が、おやじさんにはぜんぜん面白くないんですよ。可哀想に、あの三人の婦人警官は、ひとりも、衣類の手がかりがつかめないような始末でね、|おやじ《ヽヽヽ》は業《ごう》を煮やして、広告を出す以外に手はないという意見なんです、それで、相談したいから、今夜の九時に私たちに集ってくれというんですよ」
そこで二人の警部は、午後九時に、警視庁の総監室に顔を出した。
「ま、椅子にかけたまえ」と総監が言った、「じつは、こんどの事件について、諸君と相談したいのだ。被害者の身許をつきとめるのが、なによりも先決問題だと、われわれの意見は一致したのだが、遺憾ながら、いまだに成功を見るにいたらないのです。あの三人の婦人警官諸君も、すみからすみまで足を棒にして歩いてくれた点では、じつによく働いてくれたのだが、手がかりひとつつかむわけにはいかなかったのです。諸君のほうは、いろいろと重要な事実を発見してくれたのだが、これとて被害者の身許を割り出す手がかりとはならない。そこで私は、いっそのこと広告を出すべきだという肚《はら》になったのだが、諸君の意見はどんなものかね?」
「広告とおっしゃいますが、なにをお出しになるつもりなのですか?」バーンリー警部がたずねた。
「一切合財、広告に出すのだよ、一件につき百フランの賞金をつけてね、つまり、ドレス、下着類(これは一つ一つ別でもいいが)、指輪、櫛、被害者の身許、以上の情報を求める広告を出すのです」
しばらく沈黙があたりを支配した。やがてバーンリー警部がためらいがちに答えた、
「その、ロンドン警視庁では、特別な場合をのぞいて、広告を出すということに、少々偏見を持っているのです。つまり、広告など出すと、あっさり口を割るような人にまで、警戒心をおこさせる点を考慮に入れているのだと思うのです。もっとも、本事件では、いちばん早道の方法かもしれませんが」
「どうも私には、たとえこの殺人事件のかかりあいになるのを恐れて、あくまでも知らぬ顔をきめこむような連中がいるにしても、その反対に、広告を見て、すすんで情報を提供してくれるひとたちもその何倍かはいるような気がするのです」とルファルジュが意見をのべた。
「私もだいたいその意見なのだ」と総監はこれに同調した、「たとえば、奉公人たちのことを考えてみようじゃないか、一流品のドレスを身につけている被害者なら、その邸宅には何人かの奉公人がかならずいるはずだ。だから、広告を出せば、その奉公人のだれかの目にとまるはずだし、読めば、自分の女主人だと、思いあたることになる。そこで、その奉公人に賞金をとる気が起こりさえすれば、われわれの手に情報が入るというわけだ。よし当人にその気が起こらないにしろ、自分の朋輩《ほうばい》に、その新聞を見せるだろうから、ひとりぐらい情報を提供しようというのが、きっと出てくるよ。こういうことは、商店の店員にもあてはまる。ただの店員なら、みすみす賞金がもらえるというのに、あくまでも秘密にしておこうなどと考える馬鹿はいないからね、よし、ひとつ、新聞に広告を出してみようじゃないか、それでは、こういった調子で、広告の文案を諸君で練ってみてくれたまえ、『賞金百フランを進呈――去る三月三十日ごろ死亡したものと信じられる一婦人の身許を確認するために、その情報を提供された方に』といったぐあいでね、『死亡』と書いてくださいよ、『殺害』では駄目だ、それから、人相、服装などを説明して、『最寄りの警察署で受付けます』といれてください。ほかの衣類や指輪などの文案も、その品物を買った人を探しているから、その情報を提供してくださる方には――、といった調子でやってほしい」
「衣類などを正確に説明するとなると、あの三人の婦人警官に話をきかなければなりませんね」とルファルジュが言った。
「そうだ、ここへ来てもらおう」
ショーヴェ総監は、婦人警官に電話をした、ものの二、三分もすると、三人の婦人警官がやって来た。そこで、彼女たちの助言を得て、広告の原稿ができあがった。最後に総監に目を通してもらって、パスすると、その広告原稿は、翌日の新聞に出すために、各一流新聞社に、電話で送られた。婦人服と宝石類に関係のある特殊な業界紙にも、次号に広告をのせるために、その写しが送られた。
「ところでね」婦人警官が部屋から出て行くと、ショーヴェ総監が言った、「宝くじの件について、報告がきているのだよ、ル・ゴーティエの話は二つとも事実どおりだった。彼は、やはりその日のうちに小切手で払いこんでいるし、宝くじの抽籤は、来週の木曜日なのだ。したがって、一応ル・ゴーティエは正直な男で、あの手紙とは無関係だと考えてもいいような気がする。さてと、明日のことだが、諸君の予定は?」
「まずはじめに聖ラザール停車場へ行って、その後また情報が駅長に入ったかどうか、会ってくるつもりです。それから、ルーアン経由で、輸送された第二の樽がどこから出たものか、洗ってみる予定です」
「よろしい、私のほうはもう一つの線を捜査させてみるつもりだ、ま、成功するみこみはあまりないがね、バーンリー警部が持っている被害者の死体写真を、二人の刑事にもたせて、社交界に出入りしている写真屋たちをひとめぐりさせてみよう、ひょっとすると、被害者の肖像写真が出てくるかもわからないからね、むしろ、君にやってもらいたいくらいなんだが」――総監はバーンリー警部の顔を見た――「なにしろ君は、被害者の死体をじかに見ているんだからね、もっとも、うちの刑事でも、なにか手がかりがつかめるかもしれない。では、今日のところはこれだけだね、おやすみ」
「毎晩、こんなにおそくまでやられちゃ、かないませんな」二人が総監室を出ると、ルファルジュが言った、「骨休みにパリ名物のフォリー・ベルジェールへでもあなたを誘おうと思っていたのに。もっとも、いまから行っても観られないこともないが、どうします?」
「いいですね」とバーンリー警部が答えた、「でも、せいぜい一時間ぐらいにしたいですな、どうも私は、睡眠さえ充分にとっていれば、仕事がはかどる|たち《ヽヽ》なんですよ」
「じゃ、そうしましょう」二人はタクシーを呼びとめると、評判高きミュージック・ホールにいそいそと出かけた。
その翌朝、ルファルジュは、ホテルに泊っているバーンリー警部を迎えに来た、それから、二人は、聖ラザール停車場の駅長室にむかった。
「お待ちしていましたよ」駅長は、二人に椅子をすすめると言った、「あなたがたによろこんでいただけそうな資料が入ったのです」駅長は二、三枚の書類を取り出した、「これが、サザンプトンの船会社が出した、一番目の樽の受領書なんですよ、つまり先月の三十日の夜、当駅発七時四十七分の列車が到着したとき、その樽は船会社に引渡されたわけです。それから」駅長はおなじような書類を取りあげた、「これが、二番目の樽に出した、|I《アイ》・アンド・|C《シー》海運会社のルーアン支店の受領書です。この二番目の樽は、今月の一日に当駅から貨物列車で輸送され、三日に船に積みこまれております。なお、カルディネ街の貨物駅の駅長から、二番目の樽を受付けたとき、それをおろす手伝いをした運搬夫が分ったと、私に知らせてきたのです。いまから、その貨物駅に行かれて、お会いになってみたらいかがでしょう」
「なんともお礼の申しようがないくらいです」とルファルジュが言った、「おかげさまで、ほんとうに大助かりです」
「いや、お役に立ててなによりです」
駅長と別れの挨拶を交わしてから、二人の警部はバティニョールまで環状線で行き、そこから宏大な貨物駅まで、カルディネ街を歩いていった。
二人が、待ち受けていた駅長に自己紹介をすると、駅長は早速、案内してくれて、長い通路を通りぬけ、貨車の出入りで活気を呈しているひろびろとした車輛置場を横切って、外国行貨物列車専用の大きな貨物置場の片側にある線路の行止りのところまでつれていった。そこで駅長は青い作業衣を着た二人の運搬夫を呼ぶと、警部たちのたずねることになんでも答えるように言いつけて、自分は用事があるからと言って、その場からかえっていった。
「じつは、どうしても調べたいことがあるのだが、教えてもらえたら、すこしぐらいのお礼を出してもいいのだ」とルファルジュが切り出した。
その二人の運搬夫は、どんなことでも話すと、意気ごんだ。
「それじゃたずねるが、今月の一日、つまり先週の木曜日だが、ロンドンのフェリックス宛で、ルーアン経由という荷札がついている樽を一個、積みおろしたおぼえがあるかね?」
「そいつなら、おぼえていますとも」二人の運搬夫は異口同音に言った。
「しかし、樽なら、何百もおろすはずじゃないか、それなのに、どうしてその樽だけをはっきりおぼえているんだね?」
「なあに、旦那があの樽をおろしてみたら、忘れっこありませんや、なにしろ、その重さったらありませんでしたからね、それにあんなかっこうの樽は、そんじょそこらにゃ一つだってありませんよ、胴体には、ふくらみがぜんぜんないんですからね」と、運搬夫の一人が答えた。
「その樽は、何時《なんじ》にここについたんだね?」
「ちょうど、午後六時をまわったところでしたよ、すぎたとしても、五分から十分のあいだでさあ」
「その時からずいぶん日日《ひにち》がたってしまったのに、どういうわけで、そんなにはっきり時間をおぼえているんだね?」
「なあに、旦那」ひとりの運搬夫がニヤッと笑って言った、「六時半から非番になるんでね、時計ばかり見ていたんで」
「どんな男が、その樽をここまで運んできたのか、話してもらえるかね?」
運搬夫は、二人とも肩をすくめた。
「さあ、そいつだけはわからねえ」ひとりが代弁した、「その馬方にまた会えば、ちゃんと分りますけどね、その馬方がどこの人間で、どこの店のものだということは、私ら二人とも知らないんで」
「どんな人相だった?」
「そんなら、言えますとも、背が|ちびっこく《ヽヽヽヽヽ》、ガリガリにやせていて、どっか悪そうな顔色でしたよ、しらが頭で、ひげはぜんぜんありませんでした」
「よし、それじゃよく見張っていて、その男をまた見かけたら、名前をつきとめて、私まで知らせてくれないか、これが私のいるところだ、うまくやってくれたら、君たちに五十フランずつ出すよ」
ルファルジュは、ふたりに五フラン銀貨を二枚つかませると、かさねて約束したり、礼を言ったりして、二人の警部はその場を引きあげた。
「こんどは、二番目の樽を運んできた馬方の広告を出したらいいですね」二人がクリンシーの方角にもどって行く途中、バーンリー警部は言った。
「とにかく、警視庁に報告したほうがいいでしょう」とルファルジュが言った、「|おやじ《ヽヽヽ》さんに相談した上で、もしいいとなったら、今日の夕刊にその広告を出しましょう」
バーンリー警部はその意見に同意した。二人は昼食をおえると、最寄りの電話局から警視庁に電話をした。
「ルファルジュ警部ですか?」交換台が言った、「総監が至急もどるようにとのことです、新しい情報が入りました」
二人はクリンシーからシャトレまで地下鉄で行った、警視庁に着くと、時計がちょうど二時を打った。ショーヴェ総監は在室だった。
「やあ」二人が部屋に入ると、総監が言った、「もう、ドレスの広告のききめがあったよ。パレ・ロワイヤルのちかくの、『マダム・クロティルド』の店のものから十一時ごろ電話がかかってきてね、そのドレスならたしかに店で作ったものだと言うのだ。早速、係官のルコック嬢を呼んで、その店にやってみたところ、一時間ばかりまえに帰ってきたのだ。報告によると、そのドレスは、この二月にアネット・ボワラック夫人につくったもので、アメリカン教会からほど遠くない、アルマ通りと聖ジャン街の角に住んでいるそうだ。いまから、諸君もその夫人のところへ行って、調べたほうがいいね」
「は、行ってまいります」とルファルジュが答えた、「ですが、そのまえに樽の問題があるのです」彼は午前中の報告をすると、馬方の広告を出したらどうかと提案した。
ちょうど、総監がそれに答えかけたとき、ドアにノックの音がし、給仕が一枚の名刺をもって入って来た。
「この方が、至急総監にお目にかかりたいと申しておりますが」
「なんだと!」総監は名刺を見ると、びっくりした身振りで叫んだ、「諸君、いいかね」彼は音読した、「『アルマ通り聖ジャン街一番地、ラウール・ボワラック』きっと、いま話していたアネット・ボワラック夫人の夫だぞ。いや、広告はすごいものだ。ああ、君たちは二人とも、この部屋にいたほうがいい」それから総監は給仕に言った、「ちょっと待って」
総監は電話台のボタンを押すと、受話器をとりあげた。
「ジューベル嬢をすぐここへ」
と、ものの三十秒とかからぬうちに、速記係の若い女性が部屋に入って来た。総監が部屋の片隅を指さした、バーンリー警部がそのほうを見ると、そこには行手をさえぎるかのように衝立《ついたて》がたてかけてあった。
「いいかね、会話はぜんぶ|とって《ヽヽヽ》くれたまえ」と総監は速記係に言って、「とりはぐれのないようにね、それから音をたてないように」
速記係の若い女性は頭をさげた。彼女が衝立のかげに身をひそめるのを見とどけると、総監は給仕のほうにふりむいた。
「よし、ここに通しなさい」
ほどなく、ボワラックが部屋に入って来た。中年にそろそろ手のとどきそうな男だった、みるからにたくましそうな体格で、頭髪は黒々としていて、大きな口ひげをはやしている。その顔は、緊張にこわばり、ある期間、肉体的にか、さもなければ、精神的に苦痛を耐えてきたような感じをあたえる。服装は黒一色、その物腰はあくまでもしずかで、感情をじっと殺している。
男は部屋のなかを見まわした、ショーヴェ総監が挨拶に椅子から腰をあげると、コチコチになって頭をさげた。
「警視総監でいらっしゃいますか?」と男は口をきった、総監がかるく会釈して椅子をすすめると、男は言葉をつづけた。
「じつは、身を斬《き》られるような用件でおたずねしたのです、あなたと二人だけでお話ができるものと思っていたのですが」男はそこでちょいと言葉を切った、「しかし、ここにおいでの方々《かたがた》は、総監の、腹心の方ばかり、かと存じますが」男は一語一語区切っては、ゆっくりと話していった、まるで何度も口のなかでくりかえしてみて、一番いいと考えた言葉をやっとのことで口から押し出すみたいだった。
「あなたのお話というのが、最近、奥さんが行方不明になられたという不幸な事件と関係があるようでしたら、ここにいるのは、その事件の捜査にあたっている係官ですから、かえってここにいてもらったほうが、おたがいに好都合だと思うのですよ」と総監は言った。
思わずボワラックは椅子から腰をうかした、はじめて強い感情の色が、いままで抑制していた顔にあらわれた。
「すると、やっぱり妻が?」男はおし殺した声で言った、「もうこちらには分っているのですね? 広告を見て、もしやとは思ったものの、私には信じきれなかったのです、ひょっとしたら、人違いかとも思ったのですが――疑う余地はないわけなんですね?」
「とにかく、当局に分っていることだけはお話します、ボワラックさん、あとはあなたのご判断におまかせします、まずはじめに、これが発見された被害者の写真です」
ボワラックはその写真を手にとると、喰い入るように見つめた。
「妻です」彼はかすれた声でつぶやいた、「まちがいありません」
悲嘆のあまり、彼の言葉は途切れてしまった、総監はじめ警部たちは、男の胸中を思いやって、そのまま沈黙をまもっていた。やがてボワラックは勇をふるって言葉をつづけたが、その声はまるでささやくみたいにひくかった。
「これは、いったい、どうしたのです?」彼はやっとの思いで声に出したのだが、その声はふるえていた、「なんだって、こんなにおそろしい顔をしているんです? この咽喉《のど》のひどい痕は? どうしたというのです、これは?」
「ボワラックさん、まことに申しづらいことなのだが、奥さんはあきらかに扼殺《やくさつ》されたのです。しかも、この写真は、死後何日も経過してから撮影したのですからね」
ボワラックは椅子にドサッと身をしずめると、両手のなかにガックリと頭をうずめた。
「ああ!」彼はあえいだ、「可哀想なアネット! 彼女を愛す|いわれ《ヽヽヽ》などどこにもないのに、私は妻を愛していたのです、なんということだ、あんなことがあったというのに、私は妻を愛した、彼女が永遠に私のところからいなくなったのが、いま、わかりました。さ、おねがいします」男はまた言葉をきってから、蚊《か》の鳴くような声でつづけた、「くわしい話を」
「いや、お話するのも、心がかきむしられるような気がするのです」総監は、いたいたしいくらい同情に声をくもらせて言った、「樽が一つ、ロンドン警視庁の目にふれたのです、ま、こまかい点はここでははぶきますが、警察では、怪しいとにらんだわけなのです。そこで、その樽は押収され、ふたがあけられたのです、すると、なかから、死体が出てきたのです」
ボワラックは顔を手にうずめたままだった。やがて彼はからだを起こすと、ショーヴェ総監の顔を見つめた。
「で、手がかりは?」男は息もたえだえにたずねた。「こんなひどいことをした犯人の手がかりを、なにかつかんだのですか?」
「手がかりなら、いくつかあります」と総監が答えた、「しかし、その手がかりをたしかめてみる|ひま《ヽヽ》がないのですよ、犯人を逮捕するのも、あとは時間の問題だということは、はっきり言えます。そこでひとつ、犯人の逮捕をさらに早めるために、ドレスを鑑定していただけないでしょうか」
「妻のドレスを? ああ、それだけは許してくれませんか、といって、やっぱり鑑定しなければならないでしょうね」
総監は受話器をはずすと、被害者の衣類をもってくるように言いつけた。指輪と櫛は、婦人警官のブレーズがききこみに持ちあるいているので、総監室に持ってくるわけにはいかなかった。
「ああ! これです」ボワラックはドレスを一目見ると、いたましい声をはりあげた、「これです、まちがいありません、妻は、家出した夜、このドレスを着ていたのです。もうこれで疑いの余地は、ひとつもありません、可哀想な、無分別なアネット!」
「ボワラックさん、さだめしつらいこととは思いますが、奥さんが家出されたいきさつを、できるだけくわしく、話していただかねばなりません、ここにいるのは、ロンドン警視庁のバーンリー警部と、うちのルファルジュ君です、二人は、共同して本事件の捜査にあたっているのです。ですから、どんなことをお話になろうと、ご心配はいりませんよ」
ボワラックはかるく頭を下げた。
「それでは、なにもかも申しあげましょう、多少、話がチグハグになるかもしれませんが、その点はどうかゆるしてください、なにしろ、私自身、気が|どうてん《ヽヽヽヽ》しているものですから」
総監は戸棚に歩みよると、ブランディの小瓶をとり出した。
「いや、そうでしょうとも、お気持ちはよく分りますよ、ひとつ、これでもいかがです」総監は強いブランディを一杯ついだ。
「では、お言葉にあまえて」そう言うと、ボワラックはブランディを飲みほした。すると、たちまち彼は元気づき、部屋に入ってきたときの、あの冷静なビジネスマンにたちかえった。彼はよく自制し、いきさつを説明するあいだというもの、感情に溺れたり、圧倒されるようなことはなかった、とはいえ、自制心をふるいおこして、何度か切りぬけたことは、よそ目にもわかった。うってかわった力のある声で、彼が説明しだしたので、総監と警部たちは安心して椅子にゆったりと身をしずめると、その話に耳をかたむけた。
十四 ボワラックの話
「私の名前と住所は、あらためて言う必要はありませんね」と、ボワラックは話をきり出した、「私は、アヴロット・ポンプ製造会社の専務取締役をしております、うちの工場は、シャンピオネ街のはずれにありまして、乗合自動車会社の車庫から、さしてはなれておりません。ま、経済的にも不自由しないほうで、裕福にくらしております、妻は、社交界にちょいちょい顔を出しておりました。
そうです、いまから二週間まえになりますが、先月の二十七日土曜日の夜、私ども夫妻は、アルマ通りの自宅で、晩餐会《ばんさんかい》をいたしました。主賓はスペイン大使で、去年マドリッドに行きましたおり、妻がその大使のお宅を訪問したことがありました。ほかのお客のなかに、妻の昔からの友人で、ロンドンでなにか商売をしているレオン・フェリックス氏もいました、お客たちがあつまり、晩餐のテーブルにつきました、すると、運がわるいことに食事がまだおわらないうちに、工場から電話がかかってきて、大きな事故が起きたから、私にすぐとんで来てくれというのです。それではどうしようもありませんから、お客にひとまず詫びをして、片がつき次第、すぐもどってくるからと言いおいて、私は家をとび出したのです。
私が工場にかけつけますと、その週末までに据えつけることになっていた新しい二百馬力のエンジンの主要台座が、工事中に横に滑り落ちて、即死一名、重傷二名という事故だったのです。シリンダーの一本は折れ、台座は壁とはずみ車のくぼみのあいだにのめりこみ、どうしても引きあげられないといった始末でした。
事故が想像以上に大きいのを見てとると、すぐさま私は家に電話して、遅くならなければとても帰れないから、お客たちには今夜はもうお目にかかれない、と伝えたのです。ところが、思ったより片が早くつき、私が工場を出たのは、やっと十一時になるくらいの時間でした。タクシーがなかなか見つからないものですから、私は地下鉄のサンプロン駅まで歩きました。家に帰る道順は、ご存じかと思いますが、シャトレ駅で電車を乗りかえることになります、そこで私は電車からおりました、すると、その途端に、だれかが私の背中をたたくではありませんか、私がふりかえってみると、マイロン・H・バートンというアメリカ人でした。その男とは、ニューヨークのホテルで同宿したことがあり、それから親しくなったわけです。二人はしばらく立話をしましたが、私は彼にたずねました、ホテルはどこか、もしよかったらホテルにもどらずに、このまま私の家に泊らないか、とすすめてみたのです、ところが、そのアメリカ人は辞退して、ドルセー河岸駅から十二時三十五分の列車でオルレアン市まで行くところだ、見送りかたがた、その駅でちょっと飲まないかと言うのです。私はためらいましたが、そうだ、帰宅が遅くなると家に電話したのを思い出し、私は承知して、アメリカ人を駅まで送ることにしたのです。その夜はあたたかく、とても心地がよかったので、二人はセーヌ河岸づたいに歩いて行きました。そして、ロワイヤル橋に着いてみると、まだ十二時に十五分も間があるという時間です。バートンが、もうすこし歩こうじゃないかと言うので、私たちはさらに歩きつづけました。コンコルド広場をまわり、シャンゼリーゼのはずれまで歩いたのです。なにしろ話に気をとられていて、時間のたつのもすっかり忘れてしまい、ドルセー河岸駅についたときは、バートンの乗る列車が出るまであと一分しかない始末で、彼はとても残念そうな顔をしていましたが、いくらおごってくれるといっても、飲む時間がないわけです。私はすっかり目がさえてしまったので、家の方角にむかって歩き出したのです、ところがその途中で雨が降りはじめてきました。私はタクシーを探しましたが、一台も見つかりません、そこでとうとう家まで歩きつづけ、着いたのは午前一時ごろでした。
執事のフランソワが、玄関に迎えに出てくれたのですが、なんだかソワソワしている感じでした。
『ほんの十分もしないまえに玄関のドアが、バタンと鳴る音がいたしましてね、旦那さま』私が濡れたコートを脱いでいますと、彼は言うのです、『何事かと思って、様子を見に起きてきたところでございますよ』
『じゃ、おまえは寝ていたというのか?』と私は言いました、『私がまだ帰らないというのに、どうして寝てしまったのだ?』
『十一時半ごろ、奥さまが、やすむように、私においいつけになったものですから。旦那さまのお帰りはとても遅くなるから、自分が起きているとおっしゃいましたので』
『そうか、で、妻はどこにいる?』と私はたずねました。
すると、執事はもじもじしていました。
『それが分りませんので』と、やっとのことで答えました。
『分らないだと?』私はききかえしました、私はだんだん腹が立ってきました、『じゃ、寝たのか?』
『いいえ、おやすみではございません』と執事が答えました。
総監に申しあげますが、私はけっして想像力のゆたかな男ではありません、ところがその瞬間、なにか虫の知らせのようなものが、私の胸にひらめいたのです。私は応接間に駈けこみ、その部屋から、こんどは妻のちいさな居間に走っていきました、どちらもカラッポでした、そこで私は妻の寝室へ行ってみました、そこにも、人影はありませんでした、と、私の書斎で、よく妻が私の帰りを待っていたっけ、と思いつきました。書斎に行ってみますと、そこにも妻はいませんでした。私がそこを出ようとした途端、机の上にある一通の手紙が、目に入ったのです。そんな手紙など、夕方には机の上においてなかったのです。妻の筆蹟で、私あてに書かれた手紙でした、はりつめていた心がいっぺんにくずれ落ちたような気持ちで、私は開封しました、これがその手紙です、総監」
その手紙は短いもので、クリーム色の用箋にしたためられていて、日付も宛名もなかった。その文面は――
[#ここから2字下げ]
『ラウール、あたしには、今夜の自分の行動を、あなたに許していただくつもりなど毛頭ありません。それではあまりにも身勝手というものですもの。しかし、このことだけはどうか信じてください――こんどのことが、あなたにあたえるにちがいない苦痛と悩みを考えますと、あたしの胸は張り裂けるばかりです。いつもあなたは、ご自分の考えに従って、公正で親切でした。ですけれど、ラウール、あなたにもあたしにも、おたがいに愛し合っていないということがよく分っていたはずです。あなたは、あなたのお仕事と美術のコレクションを愛していましたし、このあたしは、レオン・フェリックスを愛していたのです。これからあたしは、彼のところへ行こうと思っております。あたしはもう絶対にお目にかからないつもりですし、あなたもまた二度とあたしの消息をお聞きになることはないでしょう。どうか、あたしのような女を離縁なさって、どなたかもっとすばらしい方を妻となさり、おしあわせにお暮らしになることを心からお祈りいたします。
では、さようなら、ラウール、できるなら、あたしのことをあまり悪くお考えにならないでくださいますよう。
アネット
[#ここで字下げ終わり]
ボワラックは、総監と警部たちがこの不幸な手紙を読んでいるあいだというもの、ただ頭をたれているばかりだった。彼は感情にうちひしがれている様子だった。しばらくのあいだ、総監室は水を打ったように静まりかえっていた。
一片のかげりない、あかるい陽の光りは、この悲劇などに目もくれずアーム・チェアにかがみこんでいる男の背を無心に照し出し、思いやりがあるならばやさしくそっと影にしておいてやりたいようなすみずみまでも、苦悩にしかめられた額にうかぶ汗のしずく、机の縁の下で固くにぎりしめられている蒼白《そうはく》の手にいたるまで、情け容赦《ようしゃ》なくくっきりと、その光りのなかにさらけ出しているではないか。一同がしずかに待っていると、ボワラックはやっとのことで気を取りなおして、言葉をつづけた――
「私は、その思いもよらぬショックで、いまにも発狂しそうになったのです。しかし、歯を喰いしばって、ここでは何事もなかったような顔をしてふるまわねばならないと、私は本能的にサッと感じました。心をしずめますと、執事のフランソワを呼びました。彼はまだホールにいたのです。
『わかったよ、フランソワ、妻の手紙があった。突然、スイス行の列車に乗らなければならない羽目になったのだ。妻の母親が危篤《きとく》だという知らせが、来たのでね』
執事はいつもとかわらぬ口調で返事をしましたが、心の中では私の言葉など一言も信じていないことが、手にとるように私にはわかりました。執事のフランソワの目にうかんだいかにも万事心得ているというわけ知りの色と憐れみの光りとが、いまにも私を狂暴なものにかりたてようとしたくらいです。ここで私は、できるだけさりげない口調でフランソワに言いました。
『それはそうと、妻はシュザンヌを呼んでちゃんと外出着に着かえて行く|ひま《ヽヽ》があったかな、ここへシュザンヌを呼んでおくれ。おまえはもうやすんでいいからね』
シュザンヌというのは、妻の小間使なのです。やがて、その女中が書斎に入ってきたとき、そのギクッとした表情や、ぎごちない物腰を一目見て、こいつはなにからなにまで知っているな、と私は思いました。
『シュザンヌ、奥さんは突然、スイスに行かなければならなくなったのだね、荷造りする暇もなく駅にかけつけなければならなかったそうだが、旅行にいる品物だけは持って行けただろうね?』
すると、シュザンヌはオロオロした口調ですぐ答えました。『はい、旦那さま、いま、奥さまのお部屋に行ってみましたが、奥さまは、毛皮のコートとお帽子と、それから散歩靴のままで、お出かけになったようでございます。今晩、はいておいでになった夜会靴は、お部屋ではき替えていらっしゃいました。べつに奥さまはあたしをお呼びになりませんでしたものですから、奥さまがお部屋にお入りになったのをいっこうに存じませんでした』
どうやら、私もここで落着きをとりもどしてきましたので、女中が喋っているあいだに私はめまぐるしく頭を廻転させました。
『ああ、そうか、それなら明日、奥さんの入用な品物を荷造りしておくれ、なに、あとから送ってやればいいさ。お母さんの家に滞在しているのだから、自分の品物が届くまで、必要なものは借りればいいわけだ』
執事のフランソワは、まだ廊下でうろうろしていました。そこで、私は二人をベッドに追いやると、突発した出来事をじっくりと考えてみたのです。
ま、そのときの考えをくだくだとここで話してみても仕方のないことです。いずれにせよ、その数日間は、私の心は半狂乱みたいなものでした、しかし、そのうちにどうにか心を落着けることができるようになりました。とりあえず私は、女中のシュザンヌに暇を出して家に帰しました、妻が、実家の女中を一人雇うことにしたと手紙で言ってよこしたからと、シュザンヌには言ってやったのです」
そこでボワラックは、ちょっと言葉を切った。
「お話しなければならぬことは」と彼はやっと言った、「これで全部だと思います。あのおそろしい夜から、つい二時間前にフィガロ紙で私が広告を目にするまで、妻からもフェリックスからも、ぜんぜん梨《なし》の礫《つぶて》だったのです」
ボワラックは単刀直入に事件のいきさつを説明した、その語る態度はいかにも真情のあふれたものだった。彼の陳述は、聴くものを心から信服させ、裏切った妻に対してかくまでまごころをつくしたこの夫に、だれひとり同情をよせぬものはなかった。ショーヴェ総監が口をひらいた、
「いや、ボワラックさん、今回の事件に対し、なかんずくあなたが本庁まで足を運び、まことにいたましい陳述をなさらなければならぬ仕儀に対し、私どもは衷心《ちゅうしん》より遺憾の意を表すものです。また、それのみにとどまらず、さらに遺憾としますのは、この戦慄《せんりつ》すべき破局によって、本事件を世間に極秘にしておくことがまず不可能にならざるを得ないということです。むろん、殺害犯人に対する捜査は、すでに開始されています。これ以上、あなたをおひきとめするつもりはありませんが、いままでのあなたのお話をより完全なものにするために、二、三の氏名と時間について、念のため、もう一度たずねさせていただきたいのです」
ボワラックは会釈した。
「どうも、ご鄭重《ていちょう》に痛みいります」
総監は言葉をつづけた。
「まずはじめに、あなたのおところですが、これは名刺をいただいてありますから結構です。ところでつぎは――手数をはぶくために尋問形式で伺うことにしますよ――晩餐会《ばんさんかい》は、何時にはじまりましたか?」
「八時十五分前です」
「工場から事故の連絡があったのは、何時です?」
「九時十五分前ごろです」
「で、あなたが、工場に着いた時刻は?」
「時計は見ませんでしたが、たしか九時十五分すぎころだったと思います。シャンゼリーゼまで歩き、そこからタクシーをひろいました」
「工場に着くとあなたは、帰宅するのがずっと遅くなると、奥さんに電話したという話でしたね?」
「そのとおりだと思いますが、正確に言うとちょっとちがいます。私は工場に着くや、すぐ事故現場にとんで行き、そこでしばらく時間をとられたわけです。ですから家に電話したのは、十時ごろだったと思います」
「ところが、予想に反して、十一時ごろには工場から出られたわけですな?」
「そうです」
「すると、シャトレで友人に会ったのは、十一時二十分ごろということになりますね?」
「ま、そんな時刻だと思います」
「ところでその友人ですが、その名前と滞在先を控えさせてくださいませんか?」
「名前は、さっきも申しましたとおり、マイロン・H・バートンです。あいにくと滞在先は存じませんので、申せませんが」
「では、アメリカの方の住所は」
「それも知らないのです。ニューヨークのあるホテルで、私はあの男に会ったのです。私たちは、二、三回玉突きをしているうちに、すっかり仲良くなったわけですが、たがいに家庭のことはまだ話し合うほどの間柄ではなかったのです」
「それはいつのことです、ボワラックさん?」
「一九〇八年、いや、一九〇九年の夏です。三年前になりますね」
「ホテルは?」
「ハドソン・ヴュー・ホテルといいましたが、昨年のクリスマスに焼けてしまいました」
「そうだ、たいへんな火事でしたな。その友人は十二時三十五分発の汽車でオルレアンに行ったと、言われたが、すると、そこに滞在しているわけですね?」
「いや、オルレアン駅で乗りかえて、もっと先へ行く話でしたが、行先は私には分りません。その汽車だと着くのが四時三十分ごろになってしまいますし、それよりもパリで泊って急行に乗れば、ほんの二時間でオルレアン駅に行けるのですから、どうしてそんな汽車に乗るのだと、私がたずねましたら、彼がその|わけ《ヽヽ》を話してくれたのです」
「そうですか、ま、さして重要なことではないから、それくらいのところでいいでしょう。ところで、もう一つ、奥さんの小間使の名前と住所をおたずねしましょうか?」
ボワラックはかぶりをふった。
「あいにくと、名前も住所も私には分らないのです。ただ、シュザンヌとだけしか知らないのです。もっとも執事のフランソワか、ほかの召使いの誰かが知っていると思いますが」
「それでは、ここであなたのご諒解を得ておいて、のちほど本庁のものをお宅へやって、調べさせることにしましょう。ボワラックさん、なにからなにまでお話してくださって、心からお礼を申します。ところで、遺骸の正式の身元確認はどうします? むろん、あなたのお話をうかがえば、奥さんの遺骸であることはあきらかなのですが、法律上の手続として、あなたにはっきりと確認していただくことになると思うのです。あなたにロンドンまで行っていただいて確認していただきたいのですが、ご都合はどうでしょう? たしか埋葬はまだしていないという話ですが」
ボワラックはソワソワとからだを動かした。あきらかにこの総監の話は、彼にとって、いちばんたまらないことだったのだ。
「むろん私としては、遺骸を見になど行きたくはありません。しかし、どうしても確認が必要だと言われるのなら、それに従わざるを得ないわけですね」
「いや、まことに恐縮ですが、ぜひそうしていただくよりほかにないのです。身元確認の証拠には、あなたご自身で見ていただかなければ駄目なのですよ。それに、老婆心《ろうばしん》から言いますと、どうせ行かれるのなら、都合のつくかぎり早いにこしたことはないと思いますね」
ボワラックは両肩をすくめた。
「そうですね、行かざるを得ないなら、すぐ行ったほうがいいかもしれません、今夜、ドーヴァ海峡を渡れば、明朝十一時にはロンドン警視庁に着きますからね。警視庁へ行けばいいわけですね?」
「そうです、承知していただいて、たいへんありがたい、では、ロンドン警視庁に電話して、あなたが行くからと言っておきましょう」
総監は椅子から立ち上ると握手した、ボワラックは部屋から出て行った。彼の姿がドアの外に消えると、ショーヴェ総監はパッととび出して、衝立《ついたて》のかげに行った。
「いまの陳述と、質疑応答とを、六枚ずつ、大至急タイプしてくれたまえ、あと二人婦人警官に、手伝ってもらいなさい」
総監は二人の警部の方に顔をむけた。
「どうだね、諸君、なかなか面白い陳述が手に入ったじゃないか、われわれがどう判断するにしろ、イの一番にしなければならぬ仕事は、できるかぎりいまの陳述の裏づけをとることだ。そこで諸君は、いまからすぐ、アルマ通りのボワラックの家に行って、執事のフランソワに会ってみたらどうか。できることなら、ボワラックが帰宅するまえの方がいいね。とにかく家をさがして、手がかりになるものをつかんでくれたまえ、とりわけ、夫人の筆蹟の見本をたのむ。それと、暇を出された小間使の行先きもつきとめることだ。そのあいだに、私は私で、ほかをあたってみることにする。今夜の九時ごろ、また捜査報告に来てくれたまえ」
十五 ボワラック邸
バーンリー警部とルファルジュ警部は、河岸まわりの市街電車に乗り、アルマ橋で降りて、通りを歩いて行った。ボワラックの邸宅はアルマ通りに面した角にあったが、入口はその横町にあった。邸宅は歩道から数フィート奥にひっこんだところに建っていて、ごくありふれた二重|勾配《こうばい》の屋根に、赤い砂岩でつくられた刳形《くりがた》の軒縁と飾装をもった灰色の粗石造りの、ルネサンス風の建物だった。
二人の警部は、飾りつけの凝《こ》った玄関に通じる石段をのぼって行った。右手には二つの街路に面している、大きな部屋の窓がならんでいた。
「どうもあの部屋は、外から中がまる見えだから、僕の|オハ《ヽヽ》には合いませんな」とバーンリー警部が言った、「部屋の飾りつけから見ると客間らしいが、もしそうなら、あれじゃ玄関に行きつくまでに、だれがきているか、すっかり分ってしまいますよ」
「もっとも、それとは反対に」ルファルジュが答えた、「ホステスにしてみれば、訪ねてくる客の顔がわかるからあわてないですむじゃありませんか」
玄関のドアをあけたのは、つやつやした顔つきの、全身これ体面と礼儀作法のかたまりといった、いかにも典型的な老執事だった。ルファルジュ警部が名刺を出した。
「あいにくとボワラックさまは、ご不在でございますが」執事は鄭重な口調で言った、「シャンピョーネ街の工場の方においでかと存じます」
「ありがとう」とルファルジュは答えた、「いまボワラックさんとお会いしたばかりなのです。じつを言うと、私たちはあなたに会いに来たのですよ」
すると執事は、ホールの裏手にある小さな居間に、二人の警部を案内した。
「で、ご用件はなんでございましょう?」
「今日の朝刊に出ていた、ある婦人の死体の身元を求める広告を見ましたか?」
「はい」
「じつにお気の毒だが、その死体というのは、こちらの奥さんだったのです」
執事のフランソワは、悲しげに|かぶり《ヽヽヽ》をふった。
「じつは、そうではないかと、私も胸をいためておりましたが」彼は蚊《か》の鳴くような声で言った。
「ご主人のボワラックさんも、あの広告を見たわけです。ついいましがた、警視庁に訪ねて来て、夫人の遺品をはっきりと確認されたのです。いや、なんとも痛ましい事件です、可哀想にこちらの奥さんは惨殺されたのですよ。そこで私たちはボワラックさんの諒解を得て、こちらに調査に来たというわけなのです」
老執事の顔から、サッと血の気がひいた。
「惨殺!」執事はおびえきった口調で、ささやくようにくりかえした、「そんな、そんな馬鹿な、あの奥さまを知っているものなら、だれにそんな真似ができるものですか。奥さまを愛さないものがどこにおりましょう。それこそ奥さまは天使みたいな方でございましたもの」
老執事は、真情にあふれた口調で語った、あきらかに、胸中にたぎっている感情を制御しかねているのだ。
「よろしゅうございますとも」執事はちょっと言葉を切ってから、つづけた、「憎い犯人が見つかるのでしたら、私はどんなことでもよろこんでお力ぞえいたしますよ。どうか、一刻も早く犯人を逮捕してくださいまし」
「私たちだってそう願っているのですよ、フランソワさん、とにかく全力をつくしますよ。それではひとつ、たずねることに答えてくださいね。三月二十七日の土曜日、つまり晩餐会の夜ですが、九時十五分まえごろ、ボワラックさんが工場から、突然、呼び出されたことがありましたね、時刻はそのくらいでしたか?」
「はい、たしかに」
「ボワラックさんはすぐ出かけたのですね?」
「はい」
「それから十時半ごろになって、おそくならなければ帰れないという電話があった。時間はそのころでしたか?」
「たしか、十時半よりもう少し早かったように思いますが。正確にはおぼえておりませんが、十時を過ぎていたにしろ、ほんのすこしだったように思います」
「すると、ほぼ十時ごろだったと思うのですね? その電話で、ご主人はどんな言葉づかいをしたか、おぼえていますか?」
「はい、事故が大きい、帰りは非常におそくなる、ひょっとすると朝まで帰れないようなことになる、とおっしゃいました」
「で、そのとおり、奥さんにとりついだわけですね? お客さんたちも、その言葉をきいたのですか?」
「いいえ、奥さまがそれを大きなお声で一座の方にお伝えになりました」
「そうしたら、どうなりました?」
「もうほどなく、そうでございますね、十一時十五分ごろに、お客さまがたはお帰りになりはじめました」
「全部?」
執事はためらった。
「お一人、フェリックスさまという方だけが、みなさまがお帰りになったあとも、残っておいででした。フェリックスさまは、ごく内輪のご友人というわけで、ほかのお客さまがたとは立場がちがっておいででして、ほかのお客さまは単なるお知り合いでございますから」
「その人は、みんながひきあげてから、どのくらいまでいたのです?」
執事のフランソワはあきらかに狼狽《ろうばい》したようだった、すぐには言葉が出てこなかった。
「さあ、それが、私には分らないのでございますよ」と彼はポツリポツリと言った、「じつはこういうわけなのでございます、あの晩、ひどく頭痛がいたしまして、すると奥さまが、どこか具合でも悪いのじゃないかと心配しておたずねになりました――いえ、あの奥さまは、そういうところにほんとによく気のまわる方でしてね――奥さまは、私に早くやすむように、今夜は旦那さまのお帰りを待たなくてもいいからとおっしゃってくださいました。それから、フェリックスさまは本を借りるので残っているのだから、ひとりでお帰りになるから、ともおっしゃいまして」
「で、あなたはやすんだわけですね?」
「さようでございます、私は奥さまにお礼を申し上げて、それからほんのしばらくして、やすませていただきました」
「ほんのしばらくというと?」
「そうでございますね、三十分間くらいだろうと思います」
「そのときは、フェリックスさんが――帰ってしまったあとですか?」
「いいえ、まだ残っておいででした」
「それからどうなりました?」
「そのまま私は眠ってしまいましたが、一時間ばかりしますと、突然、パッと目がさめたのでございます。頭痛も少しおさまったような気がしましたので、ご主人がお帰りになってたかどうか、戸締りにぬかりがないかどうか、調べてまわろうと思いたちました。で、ベッドから出て、ホールの方へ歩いてまいりますと、ちょうど階段のところに来たときでございます、玄関のドアがパタンと閉まる音が耳に入りました。そこで、『ご主人のお帰りだな』と私は思ったものの、それっきりで、ホールを歩くもの音もしませんので、私は様子をうかがいに階段をおりてまいりました」
「それで?」
「ホールには人影一つありません、それで、部屋を片端から調べてあるきました。電灯はついておりましたが、どの部屋にも人影はございません。『これはおかしいぞ』と私は胸のなかでつぶやきました。そこで私は、奥さまづきの女中のシュザンヌを探しにまいりました。シュザンヌはまだ起きて、奥さまの用事をしておりました。奥さまはもうおやすみになったのかと、私がシュザンヌにたずねますと、彼女はまだ起きておいでだと答えました、『それでは奥さまは階下にはいらっしゃらないから、二階に行って、お部屋においでかどうか見てきた方がいいよ』と私が申しました。シュザンヌは出かけて行ったかと思うと、ひきかえしてきて、びっくりしたような顔で言うではございませんか、お部屋は空っぽで、奥さまの帽子と毛皮のコートと散歩用の靴が見あたらないと申すのです。晩餐会で穿《は》いておいでだった夜会靴が、床の上にころがっているから、その場で散歩靴とはきかえたのだと言うのです。そこで、私も二階へ上って行って、二人がかりであちこち探しておりますと、そのときまた玄関のドアの掛金がカチリと鳴る音がしたものですから、私は玄関におりていったのです。こんどはご主人がお帰りになったばかりのところで、私はコートと帽子を受け取りながら、さっきもドアの閉まる音がきこえたということをご主人にお話したのです。すると、奥さまはどこかと、ご主人がおたずねになりましたので、私は存じませんとお答えしました。ご主人はご自分でいろいろな部屋を探しておいででしたが、書斎で、一通の手紙を見つけられたのです、奥さまが書き残して行かれたものではないかと存じますが。というのは、その手紙をお読みになると、それ以上おたずねになろうともせず、ただ、奥さまは実家のお母さまがご病気のため、スイスまで行かねばならなくなったのだと、私におっしゃったからでございます。しかし、その二日後、ご主人がシュザンヌに暇をお出しになったとき、もう奥さまは二度とお帰りにならないのだと、私は思ったのでございます」
「ボワラックさんが帰宅したのは、何時ごろでした?」
「一時ごろでしょうか、ほんのちょっと過ぎていたような気もいたします」
「ボワラックさんの帽子とコートは、濡れていましたか?」
「ひどい濡れ方というほどではありませんが、雨の中を歩いておいでになったことはまちがいございません」
「ほかにもなにかなくなったものがあるかどうか、あらためて探してみるようなことはなかったでしょうな?」
「いいえ、探しましたとも。女中のシュザンヌと私と二人がかりで、日曜日に家のなかをすみからすみまで探したのでございます」
「で、べつに異状はなかったのですね?」
「はい、ございませんでした」
「まさかこの家には、死体をかくしておけるようなところはないでしょうな?」
執事は、この警部の言葉に、目を見はった。
「滅相もございません、そんな馬鹿な、絶対にそんなことはありません。私自身、すみからすみまでこの目で見てあるいたのですし、そのようなものの入りそうな所は、ひとつのこらず開けて調べたのですからね」
「いや、ありがとう、これでおたずねしたいことは全部すんだようです、それはそうと、暇をとったシュザンヌと、なんとか連絡がとれないものでしょうか?」
「あの娘《こ》のすまいなら、仲よしの朋輩《ほうばい》が一人おりますから、その女中からきいてさしあげられますよ」
「それは願ってもないことだ、じゃそのあいだに、お宅の中をちょっと見せてもらいましょう」
「私がご案内しなくてもよろしいですか?」
「いや、結構です」
一階の間取りはいたって簡単だった、細長いホールが、聖ジャン街に面した玄関のドアから階段ののぼり口まで、アルマ通りに平行してのびている。右側には、二つの通りにはさまれた大きな客間があって、いずれの往来も見渡せる窓がいくつかついていた。そのホールを横切ると、客間の入口と向いあわせにドアがあって、そこは聖ジャン街に面している立派な書斎になっていた。故ボワラック夫人がおもに使っていた小さな居間と、食堂とは、ちょうどこの書斎と客間のうしろにあたっている。さらにまた、居間と食堂のドアの奥まったところに、階段と召使部屋があった。
二人の警部は、階下の部屋をひとつのこらず丹念に調べてあるいた。部屋の飾りつけはいずれも贅《ぜい》をこらしたもので、芸術的だった。客間の調度類はルイ十四世時代のもので、フランス製の花模様の手職りの絨緞《じゅうたん》が敷きつめられ、ブール象眼《ぞうがん》の飾り棚とテーブルがいくつかあった。それからセーヴル焼と鍍金物《めっきもの》の名品がたくさん飾ってあるが、その選択と飾りつけに、蒐集家《しゅうしゅうか》の洗練された趣味がありありとあらわれていた。食堂と夫人の居間もまた、おなじようにゆたかな財力と高い教養を物語っていた、ひとつひとつ部屋を調べて行くにつれて、警部たちはいたるところにあらわれている高雅な趣味を感じざるを得なかった。二人の捜査はあますところなくすみからすみまで行われたのだが、不幸にしてなんの手がかりも得られなかった。
書斎は、たった一つの点をのぞいたら、典型的な男性の部屋だった。床に敷かれているごくありふれた厚い絨緞、どの書斎にもあるような、ぎっしりと本で埋められている壁、窓際にある精巧な机と大きな皮張りのアームチェア。だが、この書斎にもまた、一大コレクションといっていいくらい、大理石とブロンズで作られた彫刻がならべられていた――立像、群像、帯状彫刻、飾り板、浮彫《うきぼり》など。その高価な点にかけても数量においても、また質においても、一都市の美術館に優に匹敵するものだった。これを一目見ただけで、ボワラックという男が、自分の道楽をあとうかぎり満足させられるだけの知識と手段とをもっていることは、火を見るよりもあきらかだった。
バーンリー警部はドアの内側にたたずんだまま、なにか手がかりになるようなものはないかと、藁《わら》にでもすがるような気持ちで、どんな細かい点も見のがすまいと、なめるような目つきで書斎のなかを見まわした。警部は二度もくりかえして、室内にあるさまざまな物体を丹念に見直した、警察に入って以来鍛えあげてきた、あの積木をひとつひとつ積みあげるような慎重な方法でじっくりと観察しながら、対象物がすっかりのみこめたことをたしかめたうえで、はじめてつぎの対象物に移っていくのだった。と、警部の視線は、棚の上に並べられている一つの物体にピタリと釘づけにされてしまった。
高さ二フィートばかりの白い大理石の群像、花飾りをつけた三人の女性像で、二人が立ち、一人は坐っている。
「おや」バーンリー警部は、勝利を目前にひかえたような声で、ルファルジュに言った、「あの彫像によく似た話を、つい最近、聞いたような気がしませんか?」
だが、返事はなかった。相棒のことなどすっかり念頭からはなれていたバーンリー警部は、あたりを見まわした。ルファルジュは床に膝をついたまま、絨緞の厚い|けば《ヽヽ》の中にひそんでいるなにかを、さかんに拡大鏡でのぞきこんでいるところだった。すっかり夢中になっていたおかげで、バーンリー警部の言葉など、彼の耳には入らなかったようだ。もっとも、バーンリー警部がそのそばにやってくると、ルファルジュはいかにもしてやったりといった笑いをうかべて、床から身を起こした。
「どうです!」彼は叫んだ、「こいつを見てくださいよ」
ルファルジュは、書斎のドアに接した横壁までさがると、床に頭がスレスレになるくらいにからだをうずめて、自分と窓をつなぐ線上にある絨緞の一点に、じっと目をこらした。
「なにか見える?」
バーンリー警部も、おなじように床にうずくまると、絨緞に目をそそいだ。
「いや」彼はゆっくり言った、「いっこうに」
「そこじゃ近すぎて駄目ですよ、こっちまで来て、見てごらんなさい」
「あっ!」バーンリー警部は思わずうわずった声をあげた、「樽だ!」
その絨緞には、直径二フィート四インチばかりの輪の跡が、光線に照らされて、かすかにうかびあがっていた。そこの|けば《ヽヽ》だけが、ほかのところよりもわずかにへこんでいるのは、重い樽の縁で押しつけられたものにちがいない。
「僕もそうにらんだのですよ」とルファルジュが言った、「こいつを使うと、もっとはっきりしますよ」
彼は拡大鏡を差し出すと、さっきまで調べていた絨緞の上を指で教えた。
バーンリー警部はそこにひざまずくと、|けば《ヽヽ》を押し分けながら、拡大鏡をのぞいた。|けば《ヽヽ》のあいだには、妙なホコリみたいなものがいっぱいたまっていた。警部はそのホコリをつまみ出すと、手の上で調べた。
「こいつは鋸屑《おがくず》だ!」とバーンリー警部が声をあげた。
「そうなんだ、鋸屑なんですよ」ルファルジュはうきうきした口調で、いかにも鍵をにぎったぞといわんばかりに答えた、「ほら、どうです」――彼は絨緞の上に円をえがいた――「鋸屑がここいらにたくさんこぼれているじゃありませんか、それからここに樽が立っていたわけだ、いいですね、それから、バーンリー君、これでとうとうわかった、フェリックスか、ボワラックか、それとも二人が共謀して、夫人の死体をつめこむあいだ、樽が立ててあったのは、この書斎なんです」
「そうだ!」バーンリー警部は、また叫んだ、彼はこのルファルジュの言葉を胸のなかで噛みしめた、「たしかに、君の言うとおりにちがいないですね」
「むろん、そうですとも。こいつは火を見るよりもあきらかというものだ。ひとりの女が、行方不明になった、女は鋸屑をつめこまれた樽の中から死体となって発見される。ところが、その女が失踪したという当の家の中にですよ、まったく同型の樽の輪が床にのこっている――それもありきたりのサイズのものじゃないんですよ――おまけに鋸屑まで落ちているというわけです」
「いや、こいつは充分に考えられることだ、しかしですね、そのくせ、どうもまだ、腑《ふ》に落ちないところがあるんですよ。かりにフェリックスが犯人だとしたら、いったいどうやってあの樽をこの部屋に持ちこんだり、送り出すことができたのだろう?」
「それなら、ボワラックがやったのかもしれない」
「じゃ、ボワラックのアリバイは? あの男のアリバイは完全にあるんですよ」
「ま、いままでのところはボロがでてきませんがね、だが、それに間違いなしと、どうして言いきれるんです? あの男のアリバイの裏づけをとったわけじゃないんですからね」
「執事のフランソワの証言だけはとりましたがね、かりに、ボワラックかフェリックスかのいずれかが犯人だとするなら、執事のフランソワもグルだということになってくる。どうもこの点が僕にはさっぱり腑に落ちないんですよ」
「そうなんだ、僕だってあの執事のじいさんの証言に嘘がないような気はするんですがね、だが、フランソワかボワラックが犯人でないとすると、あの樽がこの部屋にあったことは、どういうことになるんです?」
「たぶん、あれとなにかつながりがあるのじゃないだろうか?」バーンリー警部は、大理石の群像を指さした。
ルファルジュは、それに目をやるなり、ハッとした。
「や、あいつはフェリックスのところに送りつけられた彫像じゃありませんか?」彼はびっくりして叫んだ。
「たしかにそうとしか思えないが、ちょっと待ってください、フランソワが来ましたよ、彼にあたってみようじゃありませんか」
一枚の紙きれを手にした執事が、書斎に入ってきた。フランソワは、その紙をルファルジュに手渡した。
「シュザンヌの住所でございます」
ルファルジュが読んだ――
『ディジョン、ポポー街、一四B
マドモアゼル・シュザンヌ・ドーデ』
「ところで、フランソワさん」ルファルジュは問題の大理石の群像を指さしながら言った、「あれはいつから、ここにあるんです?」
「なに、つい最近のことでございますよ、申すまでもなく、ボワラックさまは、こうしたものの蒐集家でございましてな、あの彫刻は、手にお入れになったばかりのものと存じますが」
「じゃ、あれが着いた日がはっきりと分りますか?」
「たしか、あの晩餐会のあったころだと存じますが、そうでございます、いま、はっきり思い出しました、やっぱりあの日でございますよ」
「梱包《こんぽう》はどんな具合でした?」
「樽につめてございました。あの土曜日の朝、ボワラックさまは、すぐ中身がとり出せるように樽の鏡板だけをゆるめただけにして、樽をこの書斎に入れておおきになったのです。なにせうちのご主人ときたら、ほかのものに指一本さわらせるようなことは決してなさいませんので」
「すると、そういった樽はいつも来たのですか?」
「はい、たいていの彫刻は樽づめでまいりました」
「そうですか、ところで、その樽を開けたのはいつです?」
「二日おいた月曜日の夜でございます」
「で、その樽はどうしました?」
「店に返しました、それから二、三日して、荷馬車がまいりまして、樽をもっていきました」
「それが何日だったか、はっきりとおぼえていないでしょうな?」
執事はしばらく考えこんでいた。
「はい、おぼえておりません、水曜日か木曜日のことにちがいないのですが、しかと申せませんので」
「どうもありがとう、フランソワさん、それからもう一つ、どうしてもおねがいしたいことがあるのですがね、じつは奥さんの筆蹟の見本がほしいのです」
フランソワはかぶりをふった。
「私の手もとにはひとつもございませんが、お探しになるつもりなら、奥さまのお机までご案内いたしますが」
執事と警部たちは夫人の居間に入っていった。フランソワが小机を指さした。そのちいさな書きもの机には、優雅な彫《ほ》りものがほどこされ、象眼細工《ぞうがんざいく》の鏡板で仕上げられていて、一流の家具師の腕が見事に発揮された見本と言ってもいいくらいだった。ルファルジュは、その小机のまえに腰をおろすと、なかに入っている書類をしらべはじめた。
「一足先きに、だれかが、この机をさがしているぞ、獲物はほとんど見あたらないですな」
彼は、おびただしい古い受取りや回状などを、捨ててもいいような手紙類や刷りものといっしょくたにとり出して見たが、肝腎《かんじん》の夫人の筆蹟は一字も見あたらなかった。
と、だしぬけに執事のフランソワが声をあげた。
「そうだ、奥さまの筆蹟ならございましたよ、ちょっとお待ちになってくださいまし」
「これでございます」執事は部屋から出て行ったかと思うとすぐもどって来た、「たぶん、これならお役に立つかと存じますが。召使部屋に貼ってあったものでございまして」
それはごく簡単な奉公人心得といったようなもので、召使各自の仕事の区分とか勤務時間とか、それに類似の指示などがペンで書きこまれてあり、二人の警部が思い出したかぎりでは、あのボワラックに宛てた夫人の最後の手紙とまさしくおなじ筆蹟だった。ルファルジュは、その書きつけを、自分の手帳に大切そうにしまった。
「それでは夫人の部屋を見せていただきましょうか」
警部たちは夫人の寝室を調べた。とりわけ古い手紙を探してみたが、収穫はなかった。それからほかの奉公人たちに会ってみたが、おなじようになんの手がかりも得られなかった。
ルファルジュが老執事に言った、「あの晩餐会に招かれたお客の名前を教えてもらいたいのですよ、ま、すくなくとも、そのうち何人かはね」
「なに、ひとりのこらずお教えできると思いますよ」とフランソワは答えた。ルファルジュはその氏名を手帳に書きとめていった。
「ボワラックさんの帰宅は、いつも何時ごろなのです?」
客の名前の調べが一段落すると、こんどはバーンリー警部がたずねた。
「いつもなら、もうお帰りになっていらっしゃるころでございますよ。たいてい六時半までには、帰宅なさいますので」
すでに七時近かった。しばらくすると、玄関のドアの掛金がカチリと鳴る音がした。
「やあ、これは、これは」とボワラックは挨拶した、「もうおいでになっていたのですね、なにか手がかりでも?」
「いや、残念ながら見つかりません」ルファルジュはそう答えて、ちょっと間をおいてから、言葉をつづけた、「ボワラックさん、おたずねしたいことが一つあるのです、それはこの大理石の群像のことなのですが」
「はあ?」
「この彫刻を入手なさいましたいきさつと、お宅に届いた日などについて、お話をうかがいたいのです?」
「いや、結構ですとも、きっとお気づきになったことと思いますが、私はこうした美術品の蒐集家でしてね。ほんのすこしまえのことです、私がカピュシーヌ広小路のデュピエール商会の陳列所の前を通りますと、あの群像が目にとまり、すっかり惚れこんでしまったのです。どうしたものかと、ちょっと思案したものの、結局は注文してしまいました、あれが届いたのは――たしか、あの晩餐会の日だったような気がします――いや、それともその前日だったか――そこのところはどうもよくおぼえておりません。とにかくあの群像が入っている樽を、自分であけようと思いましてね、書斎に運ばせておいたのです――新しく手に入れたばかりのものを自分で荷ほどきをするのが、昔からの愉しみでしてね――ところが、あんな始末です、私はすっかり気が顛倒《てんとう》していまして、樽をあけるどころの騒ぎではありません。とはいうものの、つぎの月曜日の夜、なんとか気をまぎらそうと思いましてね、樽をあけてみたというわけなのです」
「ボワラックさん」こんどはバーンリー警部が口をはさんだ、「フェリックス氏も、こういった彫刻類に興味を持っていたのですか?」
「あの男も好きですよ。絵描きですし、油絵専門ですからね、彫刻についてだって目がありますよ」
「じゃ、フェリックス氏は、この群像に興味がなかったとは言えませんね?」
「さあ、それは私にはなんとも言いかねますがね。もっともこの群像のことは、あの男にも話したり、いろいろと説明してやったことはあります、といって、私の知っているかぎりでは、あの男はこの群像をまだ見ていないはずですがね」
「フェリックス氏に値段を言いましたか?」
「ええ、千四百フランだと言いましたよ、値段のことをとくにきくものですからね。そうだ、この群像を買った店の名前までたずねていましたよ。なんでも、いまは買う余裕がないが、そのうちになんとか工面して、別のものを手に入れたいとは言ってましたがね」
「ええと、これでおたずねすることはもうないと思います。どうもありがとうございました。ボワラックさん」
「では、ごめんください」
二人の警部は会釈すると、外に出た。通りのはずれまで歩き、そこから地下鉄でコンコルド駅まで行って、夕食をとるために、キャスティリヨーヌ街を経てグラン広小路に出ると、警視庁にもどらなければならない時刻まで、そこですごした。
十六 壁にぶつかったバーンリー警部
その夜の九時、例の会合は警視庁の総監室で行われた。
「私のほうにも情報がいくらか入ったよ」ショーヴェ総監は、バーンリー警部とルファルジュの報告をききおわると、こう言った、「問題のポンプ工場に刑事を一人やってみたんだがね、あの事故が突発した夜、ボワラックが工場に着いた時間も帰った時間も、彼の陳述どおりであることがはっきりと裏づけられたのだ。それにまた、ロンドン警視庁の方からも報告が届いている。それによると、バーンリー君の電報が行くや早速、アーヴル=サザンプトン経由の樽について調査したというのだ。問題の樽は、パリから発送された翌朝、たしかにウォータールー駅に到着したそうだ。その樽の宛先は、ご存じのとおり、トットナム・コート・ロードの近くになっていた、そこで駅のほうでは、従来どおり貨物自動車で配達するつもりでいたのだね。で、列車の手荷物車からその樽をおろしていると、そのとき一人の男がやってきて、自分がその荷の受取人で、その樽はちがう場所へ運びたいから、そのためにいま馬車と人夫をつれて引き取りに来たのだと言って、そのためにその場で渡してくれと要求したというのだよ。男の風体は、中背で、髪の毛も顎髯《あごひげ》も黒、駅の係員は、外国人、それもおそらくフランス人ではないかとにらんだそうだ、この男はレオン・フェリックスだと駅の係員に名前を告げて、その証明にトットナム・コート・ロードのフェリックス宛の封筒を数通出して見せたというのだ。そして荷の受取りにサインし、その樽をもらうと、さっさと運んで行ってしまったというわけだ。それからあとの、その男の足取りはまったく不明で、いまのところぜんぜんつかめないのだよ。そこでフェリックスの写真をウォータールー駅の係員に見せたのだが、その係員は、その男に似ているが、本人だとは断言できないと言ったそうだ。
ロンドン警視庁では、フェリックスの身元も洗ってみたそうだ。彼の職業は、フリート街の広告ポスター会社、『グリーア・アンド・フッド商会』専属の画家もしくはデザイナーであることが判明した。独身で、中年すぎの家政婦をやとっている。この家政婦は三月二十五日から四月の、つまり今月の八日まで、休暇を二週間とっていたそうだ。
ま、ロンドン警視庁の報告はそれだけだがね」ショーヴェ総監はさらに言葉をつづけた、「ところでと、われわれのつぎに打つべき手を考えてみようじゃないか。まず第一に、ディジョンにいるという夫人づきの小間使に会うこと。そうだ、ルファルジュ君、これは君に行って貰おうか。明日は日曜日だが、ひとつ明日行ってくれないかね、ディジョンで一泊して、月曜日にはできるだけ早くもどって来てもらいたいのだ。それからバーンリー警部、君にはボワラックの群像の件をもっと洗ってもらいましょうか、ま、月曜日の午前中にデュピエール商会に行って調べれば、その問題は片づくと思うね。とにかく電話で私とたえず連絡をとるように心がけてください。私のほうは、べつの線を洗ってみることにする。それでは月曜日の夜も、またこの時間に」
二人の警部はシャトレ駅から地下鉄に乗った。バーンリー警部はキャスティリヨーヌ街のホテルへ、ルファルジュはリオン駅へというぐあいに、二人はそこで西と東に別れた。
月曜日の午前、バーンリー警部は、カピュシーヌ広小路のデュピエール商会の陳列所に行って、支配人のトーマに面会をもとめた。
「またお邪魔します、トーマさん」たがいに挨拶をかわすと、警部が口をひらいた。まず、聖ラザール駅でききこんだ二つの樽のことを説明して、「そういうわけですから、樽が二個、発送されたのにちがいないのです。そこでおたずねしたいのですが、第二の樽の発送について、なにか心当りがないでしょうか?」
「そんな馬鹿な、絶対にそんなことはありませんですよ」支配人のトーマは、事件の思いがけない展開に目をみはって、びっくりして答えた、「うちでは、一個しか樽を発送しなかったことは、この私がうけあいます」
「なにかの手違いから、フェリックスの注文が、この陳列所と、プロヴァンス街の本店のほうでと、二重に受理されて発送されたというようなことはないでしょうな?」
「絶対にありませんですね、というのは、本店には高級美術品はいっさいおいてございませんし、その保管と取引はすべてこちらの陳列所でやっておりますので。では念のために、早速本店に電話して、調べてみましょう」
ほんの二、三分で、本店のテヴネ専務から返事があった。それは、どんなサイズの樽であれ、該当する日の前後に、プロヴァンス街の本店より積み出されたものは一個もなく、またフェリックスという名前宛の荷を発送したおぼえは一度もないというのだった。
「それにしても、トーマさん、おたくの樽が一個、今月の一日前後に、ルーアン=長海路経由で発送されたことは、たしかなんですよ。ひとつお手数でも、ちょうどそのころ、おたくの中庭から積み出された、あのサイズの樽のリストをつくってくださいませんか? そのなかに問題の樽がかならずあるはずです」
「そうですね、きっとあるでしょう。リストはお作りできると思いますが、少々時間がかかると存じます」
「ご面倒なことをおねがいして、ほんとうに恐縮です。なにしろ、ほかに方法が見つからないものですから。問題の樽を虱《しらみ》つぶしにあたってみるしかないのです」
トーマ支配人は、すぐ調べさせるから、とうけあってくれた。バーンリー警部は言葉をつづけた。
「あと一つ、おねがいしたいことがあるのです。アルマ通りのラウール・ボワラック氏とお店との関係、それからとくに、最近、ボワラック氏に品物を売られたことについて、ちょっとおききしたいのですが?」
「ああ、ボワラックさんですか? よろしゅうございますとも。あの方には、それはもうたいへんごひいきにあずかっておりましてね、どうしてなかなかの目の高い美術品の愛好家でおいでですよ。この六年、私がこちらの支配人になってからも、もう三、四万がとこは、お買上げを願っておりますですね。月に一度か二か月に一度はかならず店にお立寄りになりまして、陳列棚をひととおりごらんになり、かならず名品をおえらびになるくらいです。なにか新しいものが入荷しますと、あの方にいつもお知らせするのですが、そういうときはたいていお買い上げになってくださいます。そうですね、近ごろお売りしたものでは――」トーマ支配人は帳簿をめくった、「ええと、いちばん最近のものですと、これはどうも驚きました、じつは妙な話ですが、フェリックスさんの注文品の姉妹品にあたるものですよ。その品は、大理石の群像で、二人が立ち、一人が坐っている女人像でございます。三月二十五日に注文をいただき、二十七日にお届けしておりますね」
「樽につめて届けたのですか?」
「はい、手前どもでは樽を梱包につかうしきたりになっておりますので」
「で、その樽はもどって来たのですか?」
トーマ支配人は、ベルをならして事務員を呼ぶと、ほかの帳簿をもってくるように言いつけた。
「はい、もどっておりますね」支配人は、帳簿がとどくと、それに目を通してから言った、「先月の二十七日にボワラックさんにお届けした樽は、今月の一日に、店にもどってまいっております」
「あと一つ、おたずねします、トーマさん、フェリックス氏に送った群像と、ボワラック氏に届けたものと、その見分けはどうやってつけるのです?」
「そんなことは朝めし前でございますよ。いずれも三人の女性像ですが、フェリックスさんのものは、二人が坐って一人が立ち、ボワラックさんのものは、二人が立って一人が坐っておりますので」
「いや、ありがとうございました。おたずねしたいことはそれだけです」
「どういたしまして。それではと、さきほどの樽のリストですがどちらへお届けいたしましょう?」
「警視庁におねがいします」二人は挨拶をかわすと、警部は陳列所を出た。
支配人のトーマからきき出した情報のおかげで、バーンリー警部はすっかりなにがなにやら分らなくなり、また|あて《ヽヽ》がはずれたような気持ちにおそわれた。鋸屑《おがくず》入りの樽がボワラックの書斎で最近あけられたばかりだという形跡を、ルファルジュが発見してからというもの、バーンリー警部は心に強い感銘を受けてきたのだ、もっとも、あのときは、深い意味に気がつかなかったのだが。あの場所で、樽に死体をつめたのは、フェリックスかボワラック、さもなければ二人がグルになってやったのだと、ルファルジュが強硬に推断していたが、なるほど、考えれば考えるほど、バーンリー警部にはきわめてありそうなことに思われてくるのだ。もっとも、そのルファルジュの推理には、いくつかの難点がある。まず第一の難点は、バーンリー自身、ルファルジュに指摘したとおり、執事フランソワなる人間が存在することである。あのフランソワが白だということは、あくまで自分の名誉にかけて太鼓判《たいこばん》をおしてやりたい気持ちだが、その老執事を抱きこまないで、あの家の中で夫人を殺害できるなどとは、とうてい警部には考えられなかった。第二に、フェリックス、ボワラックのいずれにも、夫人を殺害しなければならぬ動機が考えられるだろうか? いずれにせよ、このような難点は、警部も予想していたところだったが、絶対に克服できないものとは思わなかった。だが、いかに障害があろうと、われわれは正しい捜査線上をすすんでいるにちがいないと、警部は確信していたのだ。ところがどうだ、いまや、あらゆる希望はみごとに粉砕されてしまったではないか。樽があの書斎にあったことについて、ボワラックの説明には一分の隙もないばかりか、執事のフランソワによってもすでに確認された事実なのである。また、動かぬ証拠があったわけではないが、あのトーマ支配人も、樽をボワラックに届けたことをはっきりとみとめているのである。こうした証言をまえにすると、それをくつがえす余地がどこにもないようにバーンリー警部には感じられた。したがって、夫人の死体は、あの樽につめられるわけにはいかない、なぜなら、あの樽はボワラック家から陳列所へまっすぐ送りかえされたからである。こうなってはもう、ルファルジュの推理を捨てるより仕方がないと、警部はしぶしぶあきらめた。おまけに、さらに悲しいことは、その推理にかわるべきものが、なに一つないことだった。
と、そのとき、バーンリー警部の頭に、ある考えがひらめいた。そうだ、あの晩餐会の夜、フェリックスが自分のホテルに帰って来た時刻や、そのときの彼の挙動をつきとめられたら、いままでの証言や陳述に対して、はっきりと裏づけをとれるし、また反証をあげることもできるかもしれん。そこで警部は警視庁に電話で連絡して、べつに用事のないことがわかると、ふたたびコンティネンタル・ホテルにきびすをかえして、支配人に面会をもとめた。
「またお邪魔します」警部は支配人の顔を見るなり言った、「ちょっとおたずねしたいことができたものですから」
「それはもう、できますことならなんなりとおっしゃってください」
「じつは、ちょうど二週間まえの土曜日、つまり三月二十七日の夜ですね、このホテルに、フェリックス氏は何時に帰ってきましたか? またそのときの彼の様子をおたずねしたいのですが」
「ただいま、調べてみますから。少々お待ちのほどを」
支配人はしばらく姿を消していたが、三十分以上もたってから、またもどってくると、かぶりをふった。
「いっこうに|らち《ヽヽ》があきませんので」と彼は言った、「心あたりの者にひとりのこらず当ってみたのですが、知っているものはおりません。ホール・ポーターのひとりは、あの晩十二時まで当直で起きていたのですが、フェリックスさんは交代までお帰りにならなかったとはっきり言っております。この男は信用できる人間ですから、そのまま言葉どおりおとりになってさしつかえないと思いますね。その十二時から交代した男は、いま非番でおりませんし、それに夜間のエレベーター・ボーイも、フェリックスさんの係りの女中も、まだきておりませんから、のちほどたずねてみて、分り次第お知らせすることにいたしましょう。すこし、ひまがとれましてもよろしいでしょうか?」
「いや結構ですとも」バーンリー警部は礼を言うと、ホテルを出た。
警部は、ルファルジュがその場にいないのをものたりなく思いながら、ひとりきりで昼食をとった。それからまた警視庁に電話で連絡をとった。すると、総監からお話があるそうです、と交換台が言って、すぐ総監室に電話を切りかえた。
「ロンドン警視庁からまた電報が来たんだがね」総監の声がつたわってきた、「樽が一個、四月一日木曜日に、チャリング・クロス駅から、ドーヴァ=カレー経由で、パリに客車便で輸送されたというのだ。その樽の差出人はレイモン・ルメートルで、荷受人はジャック・ド・ベルヴィルとなっている。これからすぐ北停車場に行って、その樽をあたってみたほうがよさそうだね」
「こいつは驚いた、いったい、いくつ樽にお目にかかればいいんだ?」狐にでもつままれたように、バーンリー警部は、北停車場目指して走る車のなかで、そう呟いた。タクシーが雑沓《ざっとう》する往来をまるで縫うように疾走していくうちに、警部はまた、五里霧中につつまれて、まったく途方にくれている自分をみとめざるを得なかった。これまでに集め得た情報は――いろとりどりに入ってきたことはたしかだが――いずれも有機的なつながりに欠けていて、証言や陳述が出てくるたびに、その一つ一つがたとえ相容《あいい》れないとはいえないまでも、事件の解決はおろか、余計|紛糾《ふんきゅう》させていくように思われるのだ。バーンリー警部は、まだパリに出てこないで、ロンドンにいたときには、フェリックスを白だとにらんでいたのだが、こうなってくると、その推断さえゆらぎはじめてくるのである。
あいにくと、警部は、駅の小荷物係に見せるルファルジュの名刺を持ってなかったが、うまいぐあいに、その係りは、このまえルファルジュと連れ立って訪ねた彼の顔をおぼえていてくれたのである。
バーンリー警部がたどたどしいフランス語で用件を説明すると、その係りは言った。
「そうですか、その樽のことならわかりますよ」係りは書類をめくった。
「ありました、こいつです、その樽はですね、四月一日木曜日、午後四時四十五分に、カレー発の臨港列車で到着したのです。チャリング・クロス駅から列車に積みこまれたもので、荷受人はジャック・ド・ベルヴィルさんですね。指定は駅留《えきど》めになっています。荷が着くとすぐ、荷受人自身がやって来ましてね、その樽を受取ると、連れてきた荷馬車にのせて、持っていったのです」
「そのド・ベルヴィル氏の人相など、分りますか?」
「中背の男でしてね、髪の毛も顎髯も黒かったですよ。べつに注意したわけじゃありませんから」
バーンリー警部は、ロンドン警視庁から届いたフェリックスの写真をとり出した。
「これじゃありませんか?」警部はその写真を係りに渡しながら、たずねた。
係りは、目をこらして眺めた。
「さあ、なんとも言いかねますが」小荷物係はためらいがちに答えた、「似ていると言われれば似ているような気もしますけど、この人だとはっきり言いきるわけにはいきませんね、たったいっぺん会っただけですし、それに十日も前のことですからねえ」
「いや、たしかにおぼえていろというほうが無理でしょうな。あと一つだけ、おたずねしますが、その樽を受取って行ったのは何時ごろでした?」
「それならわかりますよ、私の時間あけが五時十五分だったんですが、その樽を受け渡すので五分のびてしまったんです。ですから、その人が帰ったのは、五時二十分きっかりでしたよ」
「どうでしょう、その樽はごくありふれた樽で、べつに注意をひくような代物《しろもの》じゃなかったでしょうな?」
「それが、そうじゃないんですよ」と、その係りは答えた、「そこいらにころがっている樽とちがうところが二つあるんです。まず第一は、ものすごく頑丈な特別製の樽でしてね、あんな分厚い鉄の|たが《ヽヽ》がはまっているのを見たのは生れてはじめてですよ。第二は、すごい重量があったことですね。なにしろド・ベルヴィルさんがつれて来た荷馬車まで、そいつをここから運んでのせるのに、人夫が二人がかりだったくらいですから」
「荷札のほかに、その樽にはなにかが書いてなかったですか?」
「ええ、ありましたよ、樽の横腹に仏、英、独の三か国語で『乞返却』とあって、パリの商会の名前が入ってました」
「その名前は思い出せませんか?」
小荷物係は、じっと考えこんでいた。
「さあ、だめですね」係りは、言葉をちょっと切ってから、答えた、「やっぱり、ぜんぜん思い出せません」
「じゃ、その名前を聞いてもだめですか? たとえば、グルネル街、記念碑彫刻品商、デュピエール商会、といったような名では?」
小荷物係はまたちょっとためらった。
「さあ、そんな気もしますけど、はっきりそうだとはうけあえませんね」
「そうですか、いや、いろいろとありがとう。ついでに、もう一つおたずねしますが、その樽の中身は?」
「送り状には彫像と書いてありましたね。もっとも開けて見たわけじゃないですから、そのとおりのものが入っていたかどうかわかりませんが」
バーンリー警部は、若い小荷物係に礼を述べると、大停車場を出た。どうやらその樽は、彼がロンドン警視庁に運んだ、あのフェリックスの樽とまるっきり同一のものではないにしろ、類似のもののような気がしてくる。むろん、その樽がデュピエール商会のものであったとしても、(それだってまだ確認されたわけではない)、商会が梱包用に使っている樽は、無数に出まわっていることを頭におかなければならないし、したがってその樽が、この事件の捜査に密接なつながりがあるものとは言いきれないのだ。捜査全般の情勢から見て、ここでまた警部はじっくりと考えざるを得なかった。目下の行きづまりは、三個目の樽がとび出してきても、すこしも打開されはしないのだ、と彼は思った。警部は、自分のホテルの方向に、ラファイエット街をゆっくりと歩きながら、いままでに手に入れたさまざまな事実を、一つのつながりのある全体のなかにくみいれようとして、頭脳を集中した。警部は、テュイルリー公園の中へブラブラと入って行った。木かげの静かな場所をえらぶと、そこに腰をおろして、じっくりとその問題にとりくんだ。
第一に考えなければならないのは、数個の樽の不可思議な輸送だった。警部は、三個の樽について考えてみた。一番目の樽は、あの晩餐会ののちの火曜日の夜、デュピエール商会から発送された樽。これはアーヴル=サザンプトン経由でロンドンに輸送され、その翌朝、ウォータールー駅で、フェリックスと目される黒髯の男がこの樽を受取っている。その樽の荷受人は、フェリックスとなっていて、中には彫像が入っていた。二番目の樽は、それから二日後の木曜日の夜、パリから発送され、ルーアン=長海路経由で輸送されたもので、聖キャザリン埠頭で、フェリックスが受取ったことは確認されている。この二番目の樽に、アネット・ボワラック夫人の死体がつめこまれていたのだ。最後は、なんなら三番目の樽と名づけてもいいのだが、この樽は、同じ木曜日に、ロンドンからパリに輸送され、北停車場に到着すると、早速ジャック・ド・ベルヴィル氏があらわれて、持ち去ったのだ。この樽も、一番目と二番目と同じように、『彫像のみ』と荷札に記載してあったが、中身が記載どおりのものかどうかは、不明。
警部は、いつもの、あの強い葉巻に火をつけると、ゆっくりとくゆらしながら、胸の中で、この三個の樽の輸送問題を、なんべんもくりかえして考えてみた。はじめのうちは、つかみどころがなかったが、やがてこの三個の樽のあいだには、なんらかのつながりがありそうだと思いはじめたのである。と、このとき、もし三個の樽を、発見された順序ではなしに、発送順にたどってみたら、なにかの糸口が見つかるかもしれないぞ、という考えがパッと頭にひらめいた。そこで警部は一切を白紙にもどして、あらためて考えなおした。いちばんはじめに輸送されたのは、やはり火曜日の夜、パリからロンドンにむけて発送された樽で、アーヴル=サザンプトン経由で、水曜日の朝ウォータールー駅に到着している。つぎは、木曜日の朝、ロンドンから発送されて、ドーヴァ=カレー経由で、同日の午後パリに到着している樽である。第三は、おなじ木曜日の夜、ルーアン経由で、パリからロンドンへ輸送された樽で、つぎの月曜日に聖キャザリン埠頭に到着している。つまり、パリからロンドンへ、それからロンドンからパリへ、さらにまたパリからロンドンへ、ということになる。こう考えると、この図式のなかに、なにかの人為的な意図がひそんでいるように思われてくる。と、このとき、一つの、いかにもあり得べき脈絡の糸が彼の心にはっきりとうかんだ。そうだ、樽は三個あるのではなく、たった一個しかないのではあるまいか? 同一の樽が三度輸送されたのではなかったか?
バーンリー警部には、考えれば考えるほど、ますますそうだとしか思えなくなってきた。そうだ、そうなれば、積出した樽はたった一個だけだというトーマ支配人の言葉が生きてくるではないか。そして、死体を詰めた樽の入手方法まで、おのずからあきらかになるわけだ。また、特別製の樽が三個も、ごく短期間に、輸送されたという驚くべき暗合の謎《なぞ》を解《と》いてもくれるのだ。
そうだ、まずこいつに間違いはないぞ。だが待てよ、もしこの推理が正しいとすれば、この三回にわたる輸送の途中で、樽の蓋をあけ、なかの彫像を取り出して、死体を詰めこまなければならない。その樽がカピュシーヌ広小路の陳列所の中庭から積み出されたときには、彫像がちゃんとはいっていたという証言、それから、その樽が、午後七時四十七分聖ラザール駅発のアーヴル港行列車の手荷物車に積みこまれるまでのあいだに、局外者から指一本触れられなかったという証言は、まず信じて大丈夫だ。さらにまた、その樽が聖キャザリン埠頭に到着したときには、もうすでに死体が中に詰めこまれていたのだが、ブルフィンチ号の船艙内で樽があけられたような形跡は絶対にないというれっきとした証言があるのだ。したがって、彫像と死体の詰めかえが行われたのは、聖ラザール駅――アーヴル港――サザンプトン港――ウォータールー駅――チャリング・クロス駅――ドーヴァ港――カレー港――パリ・北停車場――カルディネ街貨物駅――ルーアン港を結ぶ線上の一地点ということになる。バーンリー警部は、このルートのあらゆる地点を、徹底的に洗うことが当面の緊急問題である、と心にきざみつけた。
警部はさらに考えを一歩すすめた。三回の輸送のいずれの場合でも、きまって、その樽の受取人として中背で、黒い顎髯の男、一見してフランス人とわかる男が登場するのだ。三番目に樽が輸送されたときあらわれた男は、フェリックスだった。前二回の輸送の場合では、樽の受取人の正体は確認されていないが、フェリックスの人相風体と酷似《こくじ》している。もし、いずれの場合でも、その男の正体が正真正銘のフェリックスだとするならば、このこともまた、樽がたった一個しかなかったことを、さらにまた、フェリックスになんらかの|ふくみ《ヽヽヽ》があって、たった一個の樽を送ったり送りかえしたりしたのだということを、裏書きすることにはならないだろうか? 警部は、この点までは、推理は正しいぞ、と確信した。
だが待てよ、もしフェリックスがいまの仮定どおりに行動したとするなら、彼はボワラック夫人殺しの犯人で、死体を片づけるために、死体入りの樽をロンドンの自宅へわざわざ引き取ろうとしたものか、さもなければ、あの男はまったくの白で、真犯人がフェリックスに死体をつかませるために仕組んだ芝居か、そのいずれかということになる。この後者の仮定は、かなりまえから警部の頭のなかで熟しつつある考えだった。これは、フェリックスが聖キャザリン埠頭で樽を受取りにきたとき、樽の中身をはたして彼が知っていたかどうかによって、決定的になるように思われる。バーンリー警部は、ロンドン警視庁で樽を開けたときの、あの光景を思いうかべてみた。あのフェリックスの驚き方から考えて、彼が比類なき名優か、さもなければほんとうに樽の中身を知らなかったのか、そのどちらかでなければならない。警部は、いかなる名演技でも、あれほど迫真的にやれるものではないと思わずにはいられなかった。それに、すごいショックを受けて、倒れてしまったフェリックスの様子も、まったく仮病《けびょう》ではなかったことを、警部は思い出した。そうだ、きっとフェリックスは、死体のことなど夢にも知らなかったにちがいない、もしそうだとすると、彼は犯人でないことになる。この点は、自分ひとりで決められる性質のものではないと、バーンリー警部は思った。はっきりと医学的な証明が得られなければ、この問題を素通りするわけにはいかない。
それにしても、かりにフェリックスが白だとすれば、真犯人に該当しそうな人物はなにものか? フェリックスのほかに、はたしてボワラック夫人殺害の動機をもっているものがあるか? いや、たとえあるにせよ、いったい、その動機とはなにか? 警部にはまったくわからなかった。いまのところ、その動機を暗示するような手がかりは、ぜんぜん見当らないのだ。
ここで警部は、犯罪の動機から殺害手段に考えをうつした。いずれにせよ、絞殺とは、まったく異常な手段というほかはない。おまけに、身の毛もよだつような残酷きわまる殺害方法であり、瞬時のうちに息の根をとめるというわけにはいかないものである。たとえ犯人がいかに残忍な手段に訴えるにしろ、わざわざ絞殺などという方法をえらび、冷血に事を運ぶなどということは、とうてい警部には考えられなかった。そうだ、これはあきらかに激情による犯罪なのだ。愛情や憎悪のような本能的な暴力からしか生れないものだ。嫉妬《しっと》、まさにこれがもっとも有力な候補だ。警部は、例の積木を一つずつ丹念に積んで行くような、あの細心な方法で、そのことを、じっくりと考えていった。そうだ、嫉妬がいちばん有力な動機ではないか。
と、そのときまた、ある考えが、警部の頭にひらめいた。たとえ激情の頂点にあったとしても、絞殺のような手段に訴えるのは、ほかにとるべき方法がない場合だけではないか。まさに相手を殺そうとする人間でも、その手に凶器がありさえしたら、その凶器を使うにきまっている。したがって、この事件では、きっと犯人は凶器を持っていなかったのだ、とバーンリー警部は考えた。では、その推理どおりに、犯人の手に凶器がなかったとしたら、それはどういうことになる? そうだ、この犯罪は計画的なものではなかったということになる。これがもし、計画犯罪ならあらかじめ凶器が用意してあるはずである。
したがって、この殺人は事前に計画された冷酷な犯罪ではないと考えたほうが妥当ではないか。なにものかが、夫人とたった二人だけでいるとき、突然、狂暴な激情にかり立てられたのだ。すると、またここで警部は、はげしい嫉妬以外の原因で、狂暴な激情に見舞われるようなものがほかにあるだろうか、という考えにぶつかった。
バーンリー警部は、あたらしい葉巻に火をつけると、さらに考えに没頭した。もしその動機が、いまの推理どおりのものであるとしたら、夫人にはげしい嫉妬を燃やしそうな人物はだれか? 以前の恋人だろうか、と警部は考えてみた。いままでのところ、そういう情報はなにも入っていなかった、そこで警部は、そういう恋人にあたる人間がほんとうに実在するかどうか、ただちに調べてみる必要がある、と心に銘記した。昔の恋人の線が弱まってくると、夫のボワラックが、警部の心に大きくクローズアップされてきた。すると警部には、夫のほうが、さらに確実度が高くなるように思われてくる。かりに夫人がフェリックスと通じていたとする、夫のボワラックがその秘密をかぎつける、そうなれば殺人の動機となるのは造作もないことである。妻の密通を知ったボワラックが、どんな感情をいだくか、それは当然、嫉妬である。いままでに分ってきた事実に関するかぎり、ボワラックの黒が、だれの目にも見のがせない可能性であることはあきらかだった。
ここで警部は、事件全体の展望に、考えをふりむけた。彼は、どんなことでもノートにとることをモットーとしていた。警部は手帳をとり出すと、いままでに分ったかぎりの事実を、その発見の日時とはかかわりなく、発生順にリストを作ってみることにした。
まず、その第一は、三月二十七日(土曜日)のボワラック邸における晩餐会だった。これにはフェリックスが出席していた。ボワラックが工場の事故で、現場へかけつけたあとも、またほかの客がみんなひきあげてしまってからも、フェリックスだけひとり残り、ボワラック夫人と二人だけでいたのである。執事のフランソワの証言によると、フェリックスは、午後十一時から少くとも十一時半まで、夫人と二人だけですごしたというのである。午前一時ごろ、フランソワは玄関のドアの閉まる音をききつけ、階下におりてみたところ、フェリックスも夫人も、姿を消してしまったことを発見。夫人は靴をはきかえ、コートと帽子を持って行った。その数分後に、夫のボワラックが帰宅、妻の置手紙を見つける。それには、フェリックスと駈落ちする旨がしたためてあった。フェリックスは、その翌日、ロンドンに帰ったものと信じられる。これは、コンティネンタル・ホテルの支配人の証言によるものであり、またウォーカー巡査が、フェリックスの家の小路で張り込み中、自宅を訪ねてきた友人のマーチンに、フェリックス自身、そう言っている。つぎの日曜日か月曜日に、あきらかにフェリックスが書いたものと思われる一通の手紙が、ロンドンで投函された。内容は、ある群像をロンドンへ送ってくれるように、パリのデュピエール商会に注文したもの。この手紙は、その週の火曜日に、同商会に着いた。同日(火曜日)、その注文の群像は樽で梱包されて、アーヴル=サザンプトン経由でロンドンに輸送された。その樽は、翌朝ウォータールー駅に到着、フェリックスと自称する男(おそらく本人と考えられる)があらわれて、樽を受取って運び去る。その翌朝(木曜日)、こんどは、おなじような樽がロンドンのチャリング・クロス駅からパリの北停車場駅留めで発送され、ジャック・ド・ベルヴィルと自称する男が受取って運び去ったが、この男もフェリックスと思われるふしがかなりある。同日の夕方、そのほぼ五十分後に、またおなじような樽が、カルディネ街の国鉄の貨物駅に持ちこまれた、この樽はルーアン港=長海路経由でロンドンに輸送された。その翌日(金曜日)、フェリックスは、ル・ゴーティエ名義によるタイプライターで打った手紙を受取ったと陳述している。手紙には宝くじと賭けの件が書いてあり、樽を長海路経由で送るから、受取って自宅まで運んでくれという内容だった。その翌朝(土曜日)、おなじゴーティエから葉書がきて、それには、樽はすでに発送したとあった。そこで、四月五日(月曜日)、フェリックスは、聖キャザリン埠頭に碇泊中の、ブルフィンチ号からその樽を受取り、自宅に運び帰った。
バーンリー警部のリストはつぎのように作られた――
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三月二十七日(土曜日)――ボワラック邸の晩餐会。夫人の失踪。
三月二十八日(日曜日)――フェリックス、ロンドンに帰ったと信じられる。
三月二十九日(月曜日)――フェリックス、デュピエール商会に彫像を注文す。
三月三十日(火曜日)――デュピエール商会にフェリックスの注文書到着。彫像をアーヴル=サザンプトン経由で発送。
三月三十一日(水曜日)――樽は、ウォータールー駅で、フェリックスらしき男あらわれ、引き渡しを要求して、運び去られる。
四月一日(木曜日)――樽が、チャリング・クロス駅より発送される。パリの北停車場で荷受人に受取られる。ロンドン向けの樽、カルディネ街貨物駅に持ちこまれる。
四月二日(金曜日)――フェリックス、ル・ゴーティエの手紙を受取る。
四月三日(土曜日)――フェリックス、ル・ゴーティエの葉書を受取る。
四月五日(月曜日)――フェリックス、埠頭にて樽を受取る。
[#ここで字下げ終わり]
警部は、このあとに、右のリストにはふくまれない若干の事項を追加した。
[#ここから2字下げ]
(1) フェリックスが警察に提出した、あのル・ゴーティエの名義による、宝くじと賭けと例の樽のテストの件を記載したタイプライターの手紙、ならびにロンドン警視庁で樽をひらいたさい、五十ポンドの借金を返済する旨をしるしたタイプライター刷りの紙片は、いずれも同一タイプライターで同種類の用紙に打たれたものである。
(2) フェリックスがデュピエール商会宛に彫像を注文した手紙もまた、右の二通と同種類の用紙に書かれてあり、それは、二通の手紙の共通の出所を示すものである。
[#ここで字下げ終わり]
バーンリー警部は、仕事が思いのほかはかどったのに気をよくして、木かげのベンチから腰をあげると、日課になっているロンドン警視庁宛の報告を書くために、滞在中のキャスティリヨーヌ街のホテルへ、ゆっくりとした足どりで、もどっていった。
十七 作戦会議
その夜の九時に、バーンリー警部は、警視庁の総監室のドアをノックした。もうルファルジュは来ていた。バーンリー警部が椅子に腰をおろすと、待ちかねていたようにショーヴェ総監が口をひらいた。
「ああ、よかった、ディジョンから帰ってきたルファルジュ君が、これからその報告をしようとしたところですよ。では、ルファルジュ君、たのむよ」
「土曜日にここで打ち合せたとおり」と、ルファルジュは話にとりかかった、「昨日、ディジョンまで行って、ポポー街に住んでいるドーデ嬢を訪ねたわけなのです。いかにもおだやかな、信頼できそうな娘で、私の見たところではとても正直そうでした。彼女は、ボワラックと執事の話を、ひとつのこらず裏づけしてくれたうえに、この二人の証言にはない三つの事実まで教えてくれたのです。その一つは、ボワラック夫人はひろい|つば《ヽヽ》の帽子をかぶって行ったくせに、ハット・ピンを持っていかなかった、ということです。このことが、あの娘にはどうしても腑《ふ》に落ちない様子なので、私はその理由をたずねてみたのです。すると、あの帽子はハット・ピンがなければ、頭にとまらないから、かぶれるはずがない、と言うのですね。そこで私が、夫人はあわてたものだから、ハット・ピンのことなど、きっと忘れてしまったのだ、と言いますと、そんなことは絶対に考えられないと、彼女は言うのです。ハット・ピンは、奥さまのすぐそばのクッションに刺してあったのだから、それをとるくらいのことは造作もないことだ、それに貴婦人というものは、知らず知らずのうちに、自然とハット・ピンに手がいくはずだ、と言うのです。たとえ忘れたにしろ、階段をおりるときのかすかな空気の動きでだって、帽子がゆれるから、忘れものをしたとすぐ気がつくはずだ、というわけなのです。二番目に気がついたことは、夫人が手荷物一つ持って行かなかったということなのです、その晩、すぐにもなければ困るハンドバッグさえ持って行かなかったそうですよ。第三の事実は、さらに重要だと思われるのです。あの晩餐会があった日の朝、夫人は、コンティネンタル・ホテルに滞在しているフェリックスのところへ、女中のシュザンヌに手紙をもたしてやったということなのです。フェリックスは出てくると、手紙はたしかにいただいた、のちほどお宅に伺うからと、奥さまに伝えておくれ、と彼女に言ったそうです」
「腑におちない点は、そのハット・ピンのことだね」総監がポツリと言った。そのまま、ちょっと言葉を切ってから、こんどはバーンリー警部のほうに顔をむけると、報告をうながした。その報告と検討が終ると、総監は言葉をつづけた――
「私のほうにも、二、三の情報が入ってね、コンティネンタル・ホテルの支配人から電話があったのだ。フェリックスが、晩餐会の夜おそく、つまり日曜日の午前一時三十分に、ホテルに帰って来た事実が、確証されたというのだ。彼の帰ってきたところを見たものは、ホール・ポーター、エレベーター・ボーイ、それに部屋付の女中だが、ホテルにもどった時間については、三人とも一致している。それにまた、この三人は口をそろえて、そのときのフェリックスの様子はいつもとすこしも変ったところがなく、どちらかといえばすこぶるご機嫌で、なにかとてもうれしいことがあったような感じだったと、証言したというのだ。もっとも、フェリックスはいつも上機嫌だったから、さして注目すべきことではないかもしれぬ、と支配人は言っていたがね」
ショーヴェ総監は、引出しから葉巻の箱を取り出すと、自分で一本とってから、二人のほうにその箱をまわした。
「まあ、吸ってくれたまえ。ところで、私はこう思うのだ、つまりだね、目下の段階で一呼吸いれて、捜査状況はどこまで進んでいるか、われわれが知り得たものはなにか、はっきりと主張しうる推理があるかどうか、手を打つべきことがまだのこっていはしないか、そういう点をここで検討してみる必要があるとね。もっとも、めいめいがこうした検討はやりつくしていることと思うが、ま、三人よれば文珠《もんじゅ》の知恵というからね、どうです、バーンリー警部」
「いや、名案だと存じます」バーンリー警部はそう答えたが、今日の昼間、総監に言われぬ先に、あの木かげのベンチでひとり検討に没頭したことが、心中とてもうれしかった。
「それでは、君がこの事件をどう見ているか、説明してくれませんか。その説明につれて、こちらの意見をはさんでいけばいいと思うが?」
「本事件の核心となるものは、あくまでも殺人であって、他の付帯的な出来事は、ただたんに死体を処置し、濡《ぬ》れ衣《ぎぬ》を他のものに着せようとする真犯人のもくろみのあらわれにすぎない、という仮定のもとに、私は捜査活動に入ったのです」
「まさに同意だと思うが、どうだね、ルファルジュ?」
総監の言葉に、ルファルジュはうなずいた。バーンリー警部は説明をつづけた――
「そこで私は、犯人がとった殺害方法について考えてみたのです。なんといっても、絞殺という手段は、残忍きわまる殺害方法です、まず狂人か、さもなければ激情から気ちがいみたいになった男でなければ、とてもそんな手段に訴えられるものではないと思うのです。この事件でも、ほかにべつの殺害手段があったら、なにも絞殺するような手段はとられなかったでしょう。その点からして、ボワラック夫人殺害事件は、まず計画的な犯罪ではないものと、私は考えました。もし計画的なものなら、犯人は凶器をあらかじめ用意していたにちがいありません」
「まさに図星だよ、バーンリー警部、私の結論も、まったくそのとおりなのだ、さ、つづけてください」
「もし、その推理に間違いがないならば、ボワラック夫人と二人だけでいたある人物が、突然、狂気のような激情にかられたということになります。そこで、いったいなにが原因で、その人物はそのような激情にかられたのか、私はひとり胸中で自問してみたのです。
その答は情事です、はげしい憎悪や嫉妬の原因となる情事が、おのずと私の頭にうかびました、しかし、どうも私にはピンとくるものがないのです。そうです、いったい、夫人の周囲に、そのような憎悪や嫉妬にかられる人物がいるのか?
第一の候補に、私はフェリックスを考えてみました、だが、自分と駈落ちしてくれるような女性に、憎悪や嫉妬をもやすわけはありません。たしかに、恋人同士でも痴話喧嘩《ちわげんか》をやり、ほんの一時的に憎しみあったりすることもありますが、絞殺してしまうくらい、はげしい憎悪に燃えるなどということはとても考えられないことです。また嫉妬の問題は、フェリックスの場合、考える余地がないと思います。したがってフェリックスは、本事件の関係者のうちで、もっとも容疑の薄い人物だと、私には思われたのです。
そこで、憎悪と嫉妬とくれば、だれの目にも、夫のボワラックの顔が浮かぶのではないか、という考えが私の頭にひらめいたのです。もしボワラックが真犯人だとすれば、その動機は歴然たるものです。それで、昨日、ボワラックの書斎で、死体の詰めこまれていた樽とそっくりな樽が、あけられた形跡をルファルジュ君が見つけたときは、もうこれで事件は解決したと、私は確信したのです。ところが、ボワラックの家にあった樽についての陳述や証言をきいてからというもの、私はまた、迷いだしてしまったのです」
「いや、私も君の言葉に、まったく同感ですな、バーンリー警部、ただし、つぎのことだけは肝《きも》に銘《めい》じておかなければならない、憎悪や嫉妬にもえる激情がボワラックの心をおそうのは、ある事情のもとにおいてだけだということです、つまり、ボワラック夫人がフェリックスと駈落ちしてしまった場合、もしくは駈落ちしようとしているのを、彼がかぎつけた場合のみです。もしもボワラックが夢にもそんなことを知らなかったら、そういう激情にかられるようなことは、なかったにちがいないのだ」
「はあ、たしかにそのとおりです、ボワラックが知ったときだけにかぎられますね」
「それから、いいかね、その場合には、ボワラックが心から夫人を愛しているという条件が不可欠なのだ。さもなければ、夫人が駈落ちしたところで、ボワラックはただ当惑したり、狼狽《ろうばい》したりするのが関の山で、いま言ったような盲目的な激情にかられて、夫人の頸を締めるなどという真似はできるものじゃない。もしボワラック夫妻の仲がしっくりいかなかったり、あるいはまたボワラックにだれか好きな女でもいたら、妻が駈落ちしてくれることを、願ってもないことだと、彼は手を打ってよろこぶかもしれないのだ。しかもボワラック夫妻には、子供がないのだから、いざ離婚となれば話はごく簡単だよ」と総監は、反応を見るような目つきで、二人の警部の顔をながめた。
「その点に関しても、私はまったく同感です」とバーンリー警部は、総監の視線に答えた。
「私もそのとおりです」ルファルジュも言いたした。
「すると、われわれの意見はこういう結論に達したことになるね、もしボワラックが妻を心から愛していて、彼女が駈落ちしたか、あるいはしようとしているのをかぎつけたとしたら、彼にははっきりとした殺害の動機があったということになる。だが、そうでない場合は、フェリックスや他の事件関係者とおなじように、ボワラックから夫人殺害の動機をひき出すわけにはいかないことになる」
「総監、いま、他の事件関係者と言われましたが、そのお言葉から、いろいろな可能性が考えられそうですよ」とルファルジュが口を入れた、「こいつはひょっとすると、犯人はぜんぜん別の人間ではないでしょうか? なにも容疑者を、フェリックスとボワラックにしぼってしまうことはないと思うのです。犯人は、たとえば、ル・ゴーティエとか、まだ情報に入っていないぜんぜん別の人間かもしれませんからね」
「いや、まったくそのとおりだよ、ルファルジュ君、その説もあきらかにあり得ることだ。ほかにもまだいる、たとえば執事のフランソワがそうだ。この男の動きを調べてみる必要があるぞ。また、夫人には、昔の恋人があったかもしれない、このことも頭に入れておくべきだね。ま、それにしてもだね、つぎにすすむまえに、ボワラックとフェリックスについて、はっきりとした意見をまとめておく必要があると思うのだ」
「それから、もう一つ考えなければならない問題があるのです」バーンリー警部は説明にもどった。「検屍医の証言によると、夫人が自宅を出てから殺害されるまでの時間は、ほんのわずかしか経過していないということです。またホテルの支配人の証言によって、フェリックスは晩餐会の翌朝、ロンドンに帰ったと推定されるのですが、もしそれが事実なら、そのときボワラック夫人も彼に同行したのでしょうか? もし同行したのなら、フェリックスが黒、同行しなかったとすれば、ボワラックが黒ということになります」
「たしかにそう推論することはできると思いますね」とルファルジュが口をはさんだ。
「どういうふうにだね?」と総監。
「はあ、つまりこうなのです、ここで犯人はだれかという問題は一応ふせておくことにしてですね、その犯人がどうやって、樽の中身の彫像と死体とをすりかえたか、これを考えてみることにします。その樽の足取りは、かなり明確に分っています。その樽は、カピュシーヌ広小路にあるデュピエール商会の陳列所で荷造りされ、中には注文の彫像が詰められたわけです。そこから積み出されて、ウォータールー駅まで、その樽は輸送されました。その途中で、局外者から指一本さわられなかったという証言はまず動かせません。したがって、樽がウォータールー駅に着いたときには、死体はまだその中に詰められてなかったわけです。それから二十二時間、その樽は姿を消します。やがてその樽は、こんどはチャリング・クロス駅にふたたび姿をあらわします。というのは、その間にかなり時間があるわけですから、問題の樽が実際に二個あったとは考えられないのです。そしてこんどは、その樽は、パリへ輸送されましたが、この場合も、その途中で樽の中身をつめかえるということは、絶対に不可能だったのです。パリに着くと、その樽は午後五時三十分に北停車場で荷受人にひきとられ、そのまま、ふたたび姿を消しましたが、それから五十分後の午後六時十分に国鉄の貨物駅に姿をあらわし、長海路経由で、またまたロンドンに輸送されたのです。ところが、ロンドンに着くと、その樽の中には死体が入っていたのです。樽の中身が詰めかえられたのは、いままでのべた三度にわたる輸送の途中でなかったことは確実です、したがって詰めかえは、ロンドンかパリで、姿を消していたあいだに行われたものと考えるべきです。
樽が姿を消したのは二回ですが、まずはじめにパリの場合を考えてみることにします。そのときは、たかだか五十分しか姿を消していませんでした、その短時間のうちに、北停車場からカルディネ街の貨物駅まで、荷馬車で運搬される時間が入っているのです。そこで総監におたずねしますが、この両駅間を荷馬車で運搬するとなると、どのくらいの時間がかかるものでしょうか?」
「だいたい五十分はかかるだろうね」と総監。
「私もそう見積ったのです。すると、樽が姿を消していた五十分間というものは、これで説明つくわけです。それにまた、樽の蓋をあけて、彫刻をとり出し、死体を詰めて、梱包をしなおすには、たっぷり時間がかかるわけですから、わずか五十分以内に、中身の詰めかえと、荷馬車の運送を同時にやることは、まったく不可能なことだと、考えていいわけです。その樽は、運送されただけで中身の詰めかえは行われなかった。したがって、死体は、ロンドンで、その樽に詰めこまれたということになります」
「いや、まったくすごいぞ、ルファルジュ君、まさに、その推理どおりだと、私は思うよ」
「総監、まだ一つ問題があるのです。もし、いまの推理が正しいならば、どうしてもボワラック夫人はまだ生きているうちにロンドンに行ったことになるのです。なぜなら、彼女の死体をロンドンに運ぶことは、絶対にできない相談だからです。そこで、さきほど、バーンリー君が説明した検屍医の証言に、照らして考えるならば、ボワラック夫人は、あの日曜日に、フェリックスとロンドンへ同行したものと断定せざるを得ないのです。
もし彼女がフェリックスと同行して、ロンドンに渡ったとしたら、フェリックスが犯人だということは、ほぼ確実だと思われます。おまけに、フェリックスの容疑を深める材料は、そのほかにもたくさん揃っているのです。いまここで、ひとまず彼を真犯人と仮定した上で、死体処理という難問に直面した彼を、頭に描いていただきたいものです。そのとき、彼にほしいものは、死体をかくす|いれもの《ヽヽヽヽ》です。と、突然、ほんの二、三時間まえに、それにうってつけなものを見たばかりだ、という考えが、彼の頭にきらめきます。それは彫像を梱包する樽です。とにかくフェリックスにとって、運がいいことは、その樽を目にしたばかりか、それと同じような樽の入手先までボワラックから聞いて、ちゃんと知っていたことだったのです。そこで、彼はどんな手を打つか? むろん、梱包用の樽を入手する工夫にとりかかります。フェリックスは、その特製の樽を、梱包用に使っているデュピエール商会に手紙を出し、かならずその樽に入れて送ってくるような彫像を注文することになります」
「では、にせの住所をしたためたのは?」
「どうも、そこのところは説明がつかないのですが、おそらく犯跡をくらますために、そんなことを思いついたのではないかと、私はにらんでいるのです」
「さ、そのさきをつづけてくれたまえ」
「そこで、フェリックスは、注文した樽がロンドンに到着するや、それを受取って、サン・マロ荘に運び、樽の蓋をあけて、とり出した彫像はおそらく壊《こわ》して処分でもしたのでしょう、ボワラック夫人の死体をかわりに詰めこむと、チャリング・クロス駅に運びます、そこからパリに発送すると、そのおなじ列車に自分も乗り込んで、パリに行ったのではないでしょうか。パリに着くと、荷馬車をやとって、北停車場からカルディネ街の貨物駅まで、受取ったばかりの樽を運び、あらためてロンドンへ発送する、彼もその足でロンドンにひきかえして、その翌日の月曜日に、聖キャザリン埠頭で、到着した樽を受取る、といったわけです」
「しかしだね、なんども樽の輸送をくりかえしたのは、いったい、なにが目的だったのだね? 死体を処分するのが目的なら、発送は一度だけでたくさんではないか、なんだってまた、ロンドンに逆送するような手のこんだ計画をたてたのか?」
「じつは、そこのところが一番厄介だと、私も思ったのです」とルファルジュはすなおにみとめた、「私には、どうしても説明がつかないのですが、ま、私の想像では、にせ住所を書いたのとおなじ目的、つまり捜査の目をくらまそうとして、そんな真似をしたのではないでしょうか。しかしですね、そんなことよりももっと重要な問題があるのです。樽が輸送されるたびに、かならず受取りにあらわれる黒い顎髯の男が、フェリックスに似ていたという証言です。それにもかかわらず、本事件を通じて、フェリックスをのぞいたら、黒い顎髯の男は、ひとりも登場していないのです。ですから、その黒い顎髯の男はフェリックスにちがいないものと思われるのです」
「いまの、ルファルジュ君の推理に間違いがないとすればですね」とバーンリー警部が口をはさんだ、「賭けのことが書いてある例の手紙は、フェリックスが書いたということにもなります。では、この場合、その手紙と三回にわたる樽の輸送は、ル・ゴーティエに濡れ衣を着せるために、しくまれた仕事ではないでしょうか?」
「またはボワラックにね?」と総監がほのめかした。
「そうだ、ボワラックだ!」ルファルジュはおどりあがらんばかりに声をあげた、「そうです! やっとわかりました。そのにせ手紙も、樽の輸送も、みんなボワラックに濡れ衣を着せようとして、フェリックスが仕組んだ仕業《しわざ》だったのですよ。総監、あなたはどうお考えです?」
「いや、なかなか地についた推理だよ」
「しかしですね、それならなぜ」とバーンリー警部が疑問を提出した、「ル・ゴーティエの名前なんかを手紙の中で使ったのです? どうしてボワラックの名を使わなかったのでしょう?」
「そんな真似をしたら、手のうちが見えすいてしまうからですよ」とルファルジュは、自分の推理のあざやかな進展ぶりにすっかり気をよくして、答えた、「それじゃ、露骨すぎるじゃありませんか、ボワラックがその手紙を書いたとしたら、自分でそれに署名するはずのないことぐらいは、フェリックスだって考えたはずです。わざわざル・ゴーティエの名前を出したところが、|みそ《ヽヽ》なんですからね」
「もしフェリックスが、その手紙を書いたのなら」と、バーンリー警部は言った、「差出人の正体はだれかという厄介な問題はきれいに解決されるわけです。われわれの知り得た範囲では、あの手紙を書くのに必要な知識をもっている男といえば、フェリックスだけです。ちょうど彼は、カフェ『トワソン・ドール』にいあわせて、ル・ゴーティエと|のり《ヽヽ》で、宝くじを買うことになったのだから、その件については百も承知なわけです。そのとき、ル・ゴーティエとデュマルシェとがやりあった、犯罪者が警察の鼻をあかせるかどうかという議論や賭けの件は、(ま、こんなやりとりが実際にあったとは信じられませんがね)フェリックスが樽を埠頭でせしめる口実にでっちあげたことかもしれませんな。それにまた、樽の三回の輸送について、彼がこまかい点まで知っているのは当然なことですよ、なにしろ、自分で手配したのですから」
「まったくそうですとも」ルファルジュは熱くなって叫んだ、「これですべてがピタリと符合するじゃありませんか、さ、事件の解決も、あと一息だぞ。それにボワラック夫人がホテルのフェリックスに手紙をとどけさせたという女中のシュザンヌの証言も、なかなか重要ですよ。あの晩餐会の夜、夫人とフェリックスだけのあいだで、ひそかになにか連絡がとれていたことはあきらかです、いや、すくなくとも、二人のあいだで伝言がかわされたこと、そのときのフェリックスのさりげない返事が、じつは密会を意味しているのだということくらいは、はっきり分りますからね」
「たしかに、そのところは重大な点だね、それにしても厄介な問題がいくつかあるね」と総監は異議をとなえた、「たとえば、あのハット・ピンの謎だ。ルファルジュ君、君はその問題をどう解釈するかね?」
「それは夫人が興奮しすぎていたせいですね、総監、駈落ちするところなので、すっかりワクワクしてしまって、もう無我夢中だったのだと思いますが」
総監は|かぶり《ヽヽヽ》をふった。
「私にはまったく腑に落ちないのだ。おまけに手荷物一つ持たずに失踪したという事実は、夫人がボワラック邸から一歩も出なかったことを意味するのではないか? 言いかえると、夫人は、晩餐会の当夜、殺害され、捜査の目をくらますために、夫人の帽子とコートは、犯人によって処分されたのではないか、ということなのだ。もっとも、君たちだって、すでにそう疑ってみたこととは思うがね」
バーンリー警部は、間髪いれず答えた。
「じつは私もイの一番に、そのことを考えてみたのです、ただつぎの理由から、不可能だという結論に達したので放棄してしまったのです。理由の第一は、もし夫人が晩餐会の当夜、つまり土曜日の夜に殺害されたとしたら、犯人はその死体をどこに隠すか? 書斎においてあった樽の中に詰めるわけにはいかないのです、はじめのうち、私もそう思ったのですが、よく考えてみると、そのときはまだ、彫像が中に入っていたからです。その彫像は、晩餐会のあった日から二日後の月曜日まで、樽の中から取出されなかったのです。事実、死体はその樽の中に詰められませんでした。というのは、その樽は、彫像をとり出すと、そのままボワラック邸から一直線にデュピエール商会へ送りかえされ、中がカラッポだったからです。第二に、ボワラック邸には死体を隠しておくような場所がひとつもなかったことです。その翌日の日曜に、執事のフランソワと女中のシュザンヌが二人がかりで、家中をすみからすみまで探しましたし、いくらなんでも死体を、二人が見のがすはずはありません。それにまた、夫人が自宅で殺害されたとしたら、フェリックスかボワラックか、あるいは第三の一人ないしは二人以上のものが犯人ということになります。しかし、それではフェリックスが犯人というわけにはまいりません。なぜなら、フェリックスに共犯者がいないかぎり、とても彼一人だけでは、死体を片づけるわけにはいかないし、そういった共犯者は、われわれの捜査線上にはひとりもうかんでこなかったからです。フェリックスにくらべると、ボワラックには、死体を処分するチャンスがかなりあるようです、もっとも、どんな手段で処分するものか私には見当がつきませんが。しかし、彼には完全なアリバイがあるのです。最後に、執事のフランソワはまず信用していいものと、私はあくまでも信じるものです。殺人の片棒をかつぐあの老人の姿など、私にはとても想像がつかないのです。それに、第一、総監が言われた、晩餐会のおわった夜に、あの老執事の目をかすめて、殺人を犯すなどということは、とてもできない相談だと、私は思うのです」
「なるほど、たしかに考えられることだね。ま、実際のところ、いまの君の推理と、死体はロンドンで樽に詰めかえられたとするルファルジュ君の推理をつなぐと、おのずから、結論らしきものが出たように思うがね」
「私も、晩餐会のおわった夜に、殺害されたものではないと確信します」ルファルジュが口をはさんだ、「それにしても、ボワラックのアリバイは完全であるというバーンリー警部の意見には、賛成しかねるのですがね」
「そうかね、私もあのアリバイはそのままみとめてもいいような気がしていたのだが」とショーヴェ総監が言った。「いったい、どの部分が怪しいと、にらんだのかね、ルファルジュ君」
「それは、ボワラックが工場を出てから後のアリバイです。パッタリ会ったというアメリカ人がほんとうに実在するかどうかも、われわれには分らないのですからね。私がにらんだかぎりでは、みんな、でっちあげたことかもしれませんよ」
「いや、たしかにそのとおりだ」と総監はみとめた、「だがね、そこのところは、私にはさして重要だとは思われないのだよ。なんといっても決定的なポイントは、ボワラックがあの夜、工場から帰宅したという時間――つまり、午前一時をわずかにまわった時刻――だと思うのだ。しかし、その帰宅時間は、執事のフランソワと女中シュザンヌのたしかな証言があるのだから、そのままみとめていいものと思うね。それよりももっと信用せざるを得ないような事実があるのだ。君たちは、ボワラックが、ケー・ドルセー駅から自宅に歩いて帰る途中、雨が降りだしたと陳述したのを、おぼえているかね? そうだ、諸君はじつに丹念だからね、そんなささいな点まで裏づけをとってくれて、執事のフランソワに、帰宅したときボワラックのコートが濡れていたかどうかを、ちゃんとたしかめたことがある。すると、フランソワは、濡れていたと答えたね。じつは私も、その晩の天候を調べさせてみたのだよ、それによると、ほぼ午前一時まで晴天だったが、ちょうどそのころからにわか雨が降り出している。したがって、ボワラックが、陳述どおりの時刻まで外にいた事実はうごかせないと見ていいわけだ。すると、彼は午前一時十五分前に、夫人を殺害することができないことになる。と同時に、その時刻以降にも殺人を犯すことは不可能なわけだ、なぜなら、そのときはもう、夫人は失踪していたのだし、おまけに執事や女中がまわりにいたのだからね。したがって、もしボワラックが犯人だとすれば、その夜以後に夫人を殺害したことになるのだ」
「総監、その点は、まず問題がないように思われます」とルファルジュが言った、「いずれにせよ、われわれが調べたかぎりでは、ボワラックと、例の手紙や樽がまったくむすびつかないという事実と、夫人が殺害されるまえにロンドンに渡ったとにらんで間違いないという推理をあわせて考えるならば、ボワラックを容疑者のリストからはずしても大丈夫だと思うのです。バーンリー警部、君の意見は?」
「いや、だれにかぎらず捜査の対象からはずすことは、ちょっと早すぎる気がしますね。率直に言えば、こと動機に関するかぎりボワラックがいちばんくさいと思われてならないのですよ」
「いや、だからこそ、かえって、あの晩、ボワラックが殺人を犯さなかったことを示していると思えるのだ」と総監が言った、「つまり、君の意見では、夫人がフェリックスと駈落ちしたので、ボワラックが妻を殺したということになってしまう。いいかね、もしボワラックが帰宅したとき、彼女が家の中にいたのなら、彼女は駈落ちを|しなかった《ヽヽヽヽヽ》ことになるではないか。したがって、夫人殺害の動機は、すくなくともその晩にはあり得ないことになるよ」
ここで三人は、思わず声をあげて笑ってしまった。ショーヴェ総監はさらに言葉をつづけた。
「ところでと、ここで、われわれの現在の見解をひとまず要約してみることにする。ボワラック夫人が殺害されたのは、晩餐会のあった土曜日の午後十一時三十分から、つぎの月曜の夜、つまりフェリックスと自称する人物が、デュピエール商会に手紙を書いて彫像を注文した日までのあいだ、ということがわかっている。あきらかに犯人は、フェリックスか、ボワラックか、もしくはある第三の人物にしぼられる。ところで、いままでのところ、ボワラック夫人殺害に直接かかわりのある第三の人物については、まったく証拠がないのである。したがって、犯人は、ボワラックとフェリックスの二人のうちのいずれかと考えて、まずさしつかえはあるまい。はじめにボワラックを検討してみると、たしかにある状況においては、夫人殺害の動機を持つにちがいないことが分る、だが、ボワラックにそうした動機をいだかせるような状況が現実にあったという証拠は、いまのところ、なに一つ、あがっていない。この動機の点を別にすれば、彼を黒とする材料を見つけることができない。それとは反対に、われわれに判明するかぎりでは、ボワラックが夫人を殺害し得る唯一の時間に対して、彼はきわめて有力なアリバイを持っている。
ところで、フェリックスの場合は、いくつかの怪しい材料がそろっている。まず第一は、密会の約束と推定される夫人の手紙を受取っていることである。それからまた、晩餐会の当夜、フェリックスはボワラックの不在をいいことに、夫人とたった二人だけで会っていることだ。その時間は、午後十一時からすくなくとも同十一時三十分までである。さらに、はっきりした証拠はないが、午前一時まで、二人で会っていたと信じられる理由がある。それから、ボワラック夫人は、われわれの推定によると、フェリックスと同行したか、あるいはまた、ほぼおなじころ、ロンドンに渡ったと考えられる。それは、三つの理由によって、断定できる、その第一の理由は、夫人みずから、フェリックスと同行すると夫に置手紙を書いている。むろん、この証拠価値は、筆蹟鑑定人の判断をまつしかないが、その手紙が夫人の手によるものであるという報告は、まだない。第二の理由は、執事と女中が家の中をくまなく探してあるいたにもかかわらず、夫人の影さえ見つけることができなかったのだから、生きているにしろ、また、すでに死んでいるにしろ、ボワラック邸の中にはなかった、ということである。また、夫人の死体が、書斎の樽の中に詰めこまれていなかったこともたしかである、というのは、その樽の中にはまだ彫像がはいっていて、それから二日後のつぎの月曜日の夜まで、蓋をとらなかったからである。第三は、夫人の死体が、ロンドンで樽に詰めかえられたことは、樽の輸送状況から判断して、確実である、つまり、ロンドン以外のところでは、樽の詰めかえが不可能だという、至極簡単な理由から推定される。この三つの理由によって、夫人は殺害されるまえにロンドンに渡ったものと断定できる。
さて、フェリックスのところに来たル・ゴーティエ名義の|にせ《ヽヽ》手紙だが、これはフェリックスが、埠頭で樽をせしめるとき、発覚しても言いのがれができるように、自分自身で書いたものと考えれば、はっきりと筋がとおるわけだ。あの手紙の、賭けと例のテストのくだりにあたるところは、真赤な嘘であり、樽のいきさつを追及された場合にそなえてでっち上げたのはあきらかなのだから、そういった目的があって、その手紙が書かれたことにまちがいないのである。したがって、ル・ゴーティエは、その手紙を書かなかった、と推定してさしつかえあるまい。ところが一方、フェリックスは、いままでにわれわれが知り得たかぎりでは、その|にせ《ヽヽ》手紙を書く上に、不可欠な知識をそなえているただ一人の人物なのである。
また、フェリックスにそっくりな、黒い顎髯の男が、樽の輸送を手配したことも分っている。しかも、現在までのところ、われわれの捜査線にうかんでいる黒い顎髯の男は、フェリックスただひとりなのだ。とは言え、フェリックスの強みになる点が二つある。その第一は、彼の犯行の動機を立証し得ない点、第二は、死体が樽の中から出てきたときの、あの彼の驚きかたが、芝居とはとうてい思えない点なのだ。むろん、フェリックスの容疑を深めるだけの材料はたくさんそろっているが、いずれも状況証拠であるばかりでなく、反対に、彼の白を示すような材料もあるということを頭におくべきだね。
ま、正直のところ私の意見では、真犯人の決め手になるだけの充分な材料が、そろっていないということ、真犯人を割り出すためには、まだいろいろと、しのこしていることがあると思うのだ。まず第一に、あの、宝くじと賭けの手紙だがね、その差出人の正体をつきとめなければならない。そのためには、例のタイプライターを探し出すことが先決問題ではないかと思うのだ。この|にせ《ヽヽ》手紙を書いた人間は、自分でそのタイプライターを使っていたものと考えていいのだから、この問題は、さして難かしくはないはずだ。したがって、|にせ《ヽヽ》手紙を出しそうな人間が使いうるタイプライターだけを調べればいいのだ。明日にでもさっそく刑事をやって、ボワラックの使えるタイプライターから、ひとつのこらず見本をとって来させる。それで手がかりがつかめなかったら、ル・ゴーティエ、デュマルシェ、その他名前のわかっている連中のタイプライターを虱つぶしに調べさせることにする。バーンリー君、ロンドン警視庁でも、フェリックスのタイプライターを洗ってくれるでしょうな?」
「もう、その調べはついていると思いますが、今夜手紙で連絡して、たしかめてみます」
「いまの件はきわめて重要なことだが、つぎのこともそれに匹敵するくらい重要だと思うのだ。つまりだね、晩餐会の土曜日の晩から、死体詰めの樽がパリから発送された木曜日の晩までの、フェリックスの動きをつきとめなければならぬということだ。それからまた、ボワラック夫人が、ロンドンにフェリックスと同行したかどうかも、直接的証拠によって、たしかめなければならないね。
これと同様に、その期間中における、ボワラックの動きも調べなければならぬ。これまでしてなんの手がかりもつかめなかったら、黒い顎髯の男と直接樽の受け渡しをした各駅の手荷物所の係りに、フェリックスとボワラックをそれぞれ対決させるほかはないね。きっと、係りの中には、ひょっとすると黒髯の正体をはっきり確認できるようなものがあるかもしれない。それから、樽を駅から駅へ運送した馬方を探し出せば、その依頼者の目星がつかないともかぎらないからね。ボワラック夫人をはじめ、事件の関係者全員の過去を徹底的に洗うことも、おなじように必要だ。まだこのほかにも、捜査上の方針がいくつかあるが、ま、以上のことを調べてみれば、犯人の決め手になるものが得られるはずだ」
三人の討議はそれからもしばらくつづけられた、そして、細部にわたって、徹底的に検討されたのである。その結果、明日バーンリー警部とルファルジュが二人がかりで、晩餐会の晩からフランスを離れるまでのフェリックスの足取りを洗い、そのあとひきつづきバーンリー警部が単独捜査を行い、一方ルファルジュは、全力を集中して、この決定的な期間中におけるボワラックの動きを探知することに方針が決定した。
十八 ルファルジュの単独捜査
その翌日、午前九時に、二人の警部は、キャスティリヨーヌ街のホテルで会った。昨夜、別れしなに、今日の捜査のプランについてすでに話し合いがついていたので、ただちに実行に移った。二人はタクシーを呼ぶと、またまたコンティネンタル・ホテルに車を走らせて、すっかり顔なじみになってしまった支配人に面会をもとめた。ほんの少し待たされただけで、二人の警部は、あの鄭重きわまる、微笑をたたえた支配人のところに案内された、もっとも、さすがに支配人もうんざりした色はかくせなかったが。
「またお邪魔して、申し訳ありません」と、ルファルジュが低姿勢で出た。「じつは、例のフェリックス氏について、もう少しおたずねしたいことができたのです。何度もご協力ねがって恐縮なのですが、今回もひとつおねがいしたいのです」
支配人は会釈した。
「およばずながら、なんなりとおたずねください、どんなご用件でございましょう?」
「フェリックス氏がこのホテルをひきはらったあとの足どりを調べているのです。このまえおたずねしたときは、フェリックス氏が、北停車場八時二十分発のイギリス行臨港列車に乗るために、こちらを出たと、あなたは言われましたね。しかし、はたしてその列車にほんとうに乗ったのでしょうか? そいつがはっきりたしかめられますと、たいへん助かるのですが?」
「うちのバスは上り臨港列車が到着します際には、かならず迎えに行きますが、下り列車の場合にはお乗りになるお客さまがあるときだけ出すことになっております。少々お待ちくださいませ、その日、うちのバスを出したかどうかを、ちょっとたしかめてまいりますから。その日は日曜日でございましたね?」
「ええ日曜日ですね、三月二十八日です」
支配人はしばらくどこかに行っていたが、やがてポーターの制服を着た背の高い青年をつれてもどって来た。
「おたずねの日は、バスが出ておりますね、このカールが、そのバスに乗って行きました。カールなら、たぶんお答えできると存じますが」
「どうもありがとうございます」ルファルジュは支配人に礼を言うと、ポーターのカールのほうに顔をむけた、「君は、三月二十八日の日曜日、八時二十分発のイギリス行臨港列車に乗るお客さんと一緒に、バスで北停車場まで行ったのですね?」
「はい」
「そのバスで行ったお客さんは何人でした?」
ポーターはじっと考えこんだ。
「三名さまでございます」ややあってから、青年はそう答えた。
「お客さんたちの名前はわかりますか?」
「うち二名さまは存じております。そのお一人はルブランさまとおっしゃいまして一か月以上もご滞在になったお客さまでございます。あとのお一人さまはフェリックスさまという方で、もう長年、ごひいきをいただいております。三人目のお客さまは、イギリスの紳士の方で、あいにくとお名前は存じておりません」
「そのお客さんたちは、バスの中で、喋っていましたか?」
「ちょうどバスをお降りになるとき、フェリックスさまがイギリスの紳士になにか話しかけていらっしゃいましたが、そのほかは気がつきませんでした」
「三人とも、八時二十分発の列車に乗ったのですか?」
「はい、お乗りになりました。私がお三名さまの手荷物を客車の中までお運びしたのですし、発車いたしますとき、お三名さまとも乗っていらっしゃるのを、この目で見たのですから」
「フェリックス氏には連れがなかったですか?」
「いいえ、おひとりでした」
「駅で、婦人と会って話すか、しましたか?」
「そのようなことはなかったと存じます。ご婦人の姿は、ぜんぜん見かけませんでした」
「フェリックス氏には心配事のありそうな感じか、どことなくソワソワしたそぶりが見えなかったですか?」
「みじんもそのようなところはございませんでした、いつもとすこしもかわらないご様子でした」
「いやありがとう、おかげでたいへんたすかりました」
ポーターは、銀貨を何枚かつかまされると、その部屋からひきさがった。
「なかなか重要な聞きこみが得られましたよ、支配人さん、ところで、そのバスにフェリックス氏と乗り合せたお客さんの氏名と住所を教えてくださいませんか、それだけでいいのですが?」
これは、調べるのに造作はなかった――一人は、マルセイユ市ヴェルト街に住むギューム・ルブラン氏、もう一人は、グラスゴー市ソーチホール街アンガス小路三二七番地のヘンリー・ゴートン氏だった。二人の警部は、鄭重に礼をのべると、ホテルを出た。
「こいつはツイてますよ」二人が車に乗って、北停車場にむかう途中、ルファルジュが言った、「いまの二人の客はその旅行中に、どこかでフェリックスの姿を見かけるにちがいないから、ひょっとすると、北停車場を発車してからの足取りがつかめるかもしれませんな」
二人の警部は、午前中いっぱいを、北停車場の大構内でつぶした、改札係、それにいろいろな駅の係員に会ってたずねてみたが、これといった手がかりはひとつもなかった。だれひとり、この三人の旅客の姿を見かけたものはなかった。
「こいつは連絡船のほうがきっと調べやすいですよ」とバーンリー警部が言った、「フェリックスが常客なら、船のボーイのうちで、フェリックスとなじみのものがいるはずですからね」
二人は、午後四時発の列車に乗ると、夕闇がおりてくるころ、ブーローニュ駅に着いた、そして埠頭でただちに聞きこみにかかった。ところが、警部たちの関心の的《まと》であるコースを航行した、パ・ドゥ・カレー号は、翌日の正午まで出港しないことが分ったので、二人は土地の警察署にひきかえした。そこで、問題の日曜日に船が出航するとき、当番だった警官に何人か会ってみたのだが、やっぱり、なんの聞きこみも得られなかった。そこで二人は、連絡船に乗りこんでいって、ボーイ長をさがした。
「はい、この方なら存じております」二人の警部がはじめに自己紹介して、ルファルジュがフェリックスの写真を見せると、ボーイ長は答えた、「たしかこの方は、ちょいちょい、そうですね、月に一、二回は、連絡船にお乗りになると存じます。お名前はフェリックスさまですが、住所は存じませんし、また、ほかのことはなに一つ存じていない次第でして」
「私たちがつきとめたいのは、この男が連絡船に最近乗ったのは、いつだったか、ということなんですよ。それが教えてもらえると、とてもたすかるんですがね」
ボーイ長はじっと考えこんだ。
「あいにくと、はっきりしたことをおぼえておりませんので。たしかごく最近、連絡船で往復なさいましたがね。さあ、それが十日前のことか二週間まえになるか、いずれにしろ、はっきりした日はおぼえていないのですから」
「それは、三月二十八日の日曜日だとにらんでいるのですがね。その日だったかどうか、それをたしかめる方法をなにか思いつきませんか?」
「ございませんですね、なにしろ、そういった記録はなにものこっておりませんので。もういまとなっては、あの方の切符を調べるわけにはまいりませんし、これといって、お客さまの身元をたしかめたり、記録にとっておくようなものはなにもないのでございます。ただ記憶をたよりにお答えすればいまおっしゃった見当だと思いますが、はっきりそうだとは申しかねますので」
「この船の乗組員のなかで、そこのところを教えてもらえそうなひとはいませんかね?」
「まことにお気の毒ですが、そういうものはいないと存じますね。船長か、高級船員のなかに、そのお客さまと知り合いのものでもいると、よございますが、めったにそういううまい話はございませんから」
「そうですか、ではあとひとつだけ、たずねさせてください、その男はひとり旅でしたか?」
「たしか、おひとりだったと思いますが、そうだ、ちょっとお待ちくださいまし、あの方は――そう言われてみると、ご婦人とご一緒だったようにも思いますね。なにせ、仕事に追いまわされて、ほかのことには目をくれるひまもないものですから、ただぼんやりとしか記憶にのこっていないのですが、遊歩甲板のところで、あの方がひとりのご婦人とお話しになっているのをお見かけしたように思いますが」
「どんな婦人だったか、おぼえてないですか?」
「申し訳ございません、なにしろ、そのご婦人がほんとにおいでになったかどうかさえ、おぼつかないくらいで」
二人の警部は、これ以上喰いさがっても無駄だと見てとると、ボーイ長にねんごろに礼を言って別れた、それから、なおしばらくというもの、船にのこって、聞きこみの得られそうな目星をつけた船員にひとりのこらず会ってたずねてみた。その中で、たった一人、あるボーイだけがフェリックスと顔なじみになっていたものの、肝腎の日曜日にはフェリックスに会っていなかった。
「どうもかんばしくありませんな」バーンリー警部は、一軒のホテルの方へ行くみちみち、こう言った、「たしかにあのボーイ長は、フェリックスと話していたという婦人を見たにちがいないと、僕は思うんだが、あの調子じゃ、証人にはとても無理ですね」
「まったくですよ、フォークストーンへ行っても、たいした獲物《えもの》はなさそうですな」
「たしかに、そんなところでしょうね。だが、あたってみるよりほかに手がないですからな。ま、たぶん、グラスゴーまで行って、フェリックスとバスに乗りあわせた男にも会ってみようと思うのです。なにか知っているかもしれませんからね」
「その男が駄目だったら、こんどは僕が、もうひとりのほうの男、マルセイユに住んでいるというのに会ってみましょう」
その翌日、正午にあとすこしという時刻に、二人の警部はイギリスの連絡船が横づけになっている桟橋をブラブラと歩いていた。
「では」とルファルジュが言った、「ここでお別れしましょう。僕がフォークストーンまで行ったところで、なんの|たし《ヽヽ》にもならないから、二時十二分の列車でパリに帰ることにしますよ。君とは快適に捜査をすすめることができたが、ただ、はっきりした手がかりがつかめなかったのは残念でしたよ」
「しかし、なにもこれで捜査を打ち切ったわけじゃありませんからね」とバーンリー警部が答えた、「事件を解決しないうちには、だれが手を引くものですか。しかし、ここでおわかれするのはほんとに残念だ。また近いうちに、君と一緒に捜査にあたれるのをたのしみにしていますよ」
バーンリー警部は、パリで受けたあたたかいもてなしに厚く礼をのべ、またルファルジュは、このつぎの休暇には、パリにぜひどうぞとすすめて、二人の警部はたがいの好意を心から信じあって別れた。
さて、話は、ルファルジュとともにパリにもどり、晩餐会のあったあの土曜日の晩から、死体詰めの樽がカルディネ街の国鉄貨物駅からロンドンに発送されたつぎの木曜日の夜までの、ボワラックの動きを必死でつきとめにかかった彼の活躍ぶりに移ることにする。
ルファルジュは、午後五時四十五分にパリの北停車場に着いた、そこから一気に警視庁へ車でむかった。ショーヴェ総監は総監室にいた。ルファルジュはパリを出発してからの捜査状況を報告した。
「昨日、ロンドン警視庁から電話があったよ」と総監が口をひらいた、「その話の模様では、ボワラックは予定どおり十一時にロンドン警視庁に出頭したようだ。例の死体は自分の妻だと確認したというから、この問題は片がついたわけだ」
「で、ボワラックがロンドンをひきあげたかどうか、お分りですか?」
「いや、それは知らないが、またなぜだね?」
「パリにまだもどっていないようなら、その隙《すき》に、殺人以後のボワラックの動きを、執事のフランソワからひき出してやろうかと思うのです」
「それはなかなか名案だよ、なに、ボワラックが帰って来たかどうかすぐ分るさ」
総監は電話帳のページをくって、電話番号を見つけると、早速電話をかけた、
「もしもし、ボワラックさんのお宅ですか?――ボワラックさんはおいでですか?――なに、七時ごろ? いや、ありがとう、それではまたのちほど……なに、結構です、たいした用件ではありませんから」
総監は受話器をかけた。
「ボワラックはチャリング・クロス駅十一時発の汽車で帰途についたから、七時ごろには帰宅するそうだよ、彼が工場からいつも帰宅する六時半ごろに君が訪問すれば、怪しまれずにすむし、フランソワからなにか聞き出せるわけだ」
「では、そういたします」ルファルジュは一礼すると総監室を出た。
アルマ通りのボワラック邸にルファルジュがたどりついたのは、時計がちょうど六時半を告げたばかりのところだった。執事のフランソワが玄関のドアをあけた。
「やあ、今晩は、フランソワさん、ご主人はおいでですか?」
「いえ、まだご帰宅ではございません。あと三十分もしますと、おもどりになりますから、どうぞおはいりになって、お待ちくださいませんか?」
ルファルジュは、ちょっと考えるふりをしてから、おもむろに、
「いや、ありがとう、じゃ、そうさせてもらいましょうか」
執事は、はじめて二人の警部が訪問したときに通した、あの小さな居間にルファルジュを案内した。
「警視庁で聞いたのだが、ご主人はロンドンまで死体の身元確認に行かれたそうですね。確認がちゃんとついたかどうか、あなたはご存じないでしょうな?」
「はい、ロンドンへおいでになったことは存じておりますが、どんなご用件なのか、いっこうに私には分りませんでした」
ルファルジュは安楽椅子にドッカと腰をおろすと、シガレット・ケースを取り出した。
「一本いかが。こいつは特製のブラジル・タバコでしてね。煙草を吸ってかまいませんか?」
「どうぞ、どうぞ。では、お言葉にあまえていただきます」
「ロンドンとは、かなりありますね。それにしても、こういう旅行だけは願い下げにしてもらいたいものですな。あなただってロンドンに旅行したことがあるんでしょう?」
「はい、二度ございます」
「ロンドン見物も一度ぐらいはいいが、それ以上は――ご免こうむりたいですな。それにしても、ご主人は旅慣れた方でしょうね? なにごとも慣れだとよく言いますからね」
「それはもう旅慣れておいでのようで、なにせいろいろとご旅行なさいますから。ロンドン、ブリュッセル、ウィーン――この二年間に、私の存じておりますだけでも、これだけご旅行なさいましたよ」
「いや、おどろきましたね、この僕がボワラックさんのように忙しい目にあわなくてほんとによかった。それにしても、この事件のおかげで、ご主人の旅行熱もすっかりさめてしまったでしょうな。さしずめだれにも会わずに自宅にとじこもって、しずかにしていたいというのが、ご主人のほんとのところではないでしょうか。あなたはどう思います、フランソワさん?」
「いずれにしろ、そんなお気持ちではなかったのか、あるいはじっとしておいでになれなかったのか、そこのところはよく分りませんが、あの事件があってから、もう二度目のご旅行でございますからね」
「こいつは驚いた、いや、べつに驚くにはあたらないことかもしれない。ま、それほど関係のない話だとは思わないが、その最初の旅行先の用件をピタリとあててみましょうか、なんならナポレオン金貨を一枚|賭《か》けたっていい。その旅行はウィルスン試験を見に行ったのだ、どうです?」
「ウィルスン試験? いったい、なんのことで?」
「へえ、ウィルスン試験を知らないのですか? ウィルスンというのは、イギリスの一流のポンプ製造会社の社長の名前なんですよ、毎年、その会社の製品よりもたくさん水がくみ出せるポンプに一万フラン以上の賞金を出しているのです。ウィルスン試験は毎年あり、今年はこの水曜日に行われたのです。ボワラックさんも、ポンプ製造会社の経営者なんだから、その試験に興味をもつのはあたりまえの話ですよ。だからご主人はウィルスン試験に行った、と見たわけですよ」
「それでは、ナポレオン金貨をあなたからいただくことになりますよ、たしかにボワラックさまは水曜日にご旅行に出られましたが、ベルギーへおいでになったことを、私は存じておりますので」
「なんだ」とルファルジュは声をあげて笑いながら言った、「それじゃ、ほんとに賭けなくてよかった、しかしだね」と彼は口調をかえて、言いだした、「ひょっとすると私のほうが正しいのかもしれませんよ。ご主人はベルギーからロンドンへまわったのかもしれないし、あるいはその逆かもしれませんからね、その旅行は長かったのですか?」
「そんなはずはございませんよ、ほんの二日間だけで、水曜日と木曜日でした」
「いや、とてもいい教訓になりましたよ。どういうものか、私は人の逆へ逆へと賭けたがるたちでしてね」そろそろ主人が帰宅する時刻だから、その仕度をすると執事のフランソワが逃げ口上を言い出すまで、ルファルジュは、これまでに自分が勝ったり負けたりした賭けの談義をしてきかせたのである。
七時になってからほどなくすると、ボワラックが帰宅した。彼はすぐにルファルジュに会った。
「旅から帰ってこられたばかりのところを、お邪魔にあがって恐縮です」とルファルジュは切り出した、「このあいだの事件について、また二、三の問題が出てまいりましたので、お話をおききしたいのですが、ご都合のいい日時を指定していただけないでしょうか」
「都合なら、今日のようなときがいちばんいいですね。着がえをして食事をすませるまで、一時間ばかりお待ちいただけますか、それなら、お話をうかがえますが。ええと、お食事はもうおすみですか?」
「はあ、すませました。それでは、こちらで待たせていただきます」
「いや、書斎へおいでください、たぶん書棚にお読みになるようなものがあるでしょうから」
「おそれいります」
煖炉《だんろ》の上の置時計の針が、八時をさすと、ボワラックが書斎に入ってきた。彼は安楽椅子にゆったりと腰をおろすと、口をひらいた。
「では、ご用件を」
「じつは少々申し上げにくい問題なのです」とルファルジュは切り出した、「なにか警察があなたに疑惑をいだいているような印象をおあたえするといけないと思いまして、あらかじめお断りするのですが、実際にそのようなことはありません。もっとも世情に通じておいでのあなたのことですから、今回のような事件の渦中にあった夫の立場を、警察としましても、あきらかにせざるを得ないことは、お分りになっていただけると思うのです。それも、捜査上の、ほんの手続きみたいなものでしてね、ショーヴェ総監の命によりまして、事件以後のあなたの行動を二、三おたずねしなければならないのです、むろん、これはあくまで形式的なものにすぎないのですが、私としてははなはだ心苦しい次第でして」
「これはどうも、たいへん遠回しなお言葉ですな。つまり、警察では、私が妻を殺害したものと疑っているわけなのですね?」
「とんでもございません、今回のような事件の場合ですと、関係者の行動は、ひとりのこらず調べる建前になっている、というだけの話でございましてね。ま、たとえてみれば三度の食事みたいなものでして、警察の意向にかかわりなく形式的におたずねすることになっているのです」
「そうですか、ではどうぞ。これもあなたにとっては任務でしょうからな」
「総監は、あの土曜日の晩餐会の晩から、つぎの木曜日の夜までの、あなたの行動についてご説明をねがいたいと申しておるのですが」
ボワラックの顔には苦悶《くもん》の色がひろがった。彼は答えるまえに、しばらく黙りこくっていた、やがて、あらたまった口調で言った。
「あの当時のことは、思い出すだけでもゾッとするくらいです。なんともおそろしい目にあったものですよ。きっと、一時的に発狂していたのでしょうね」
「そこのところを、あつかましくおたずねするのは、まことに恐縮なのですが」
「いや、お話しましょう。ま、発作《ほっさ》というか、錯乱《さくらん》状態はおさまりましたし、以前の自分をとりもどしましたからね。あの当時、私の身に起ったことは、つぎのようなことです。
妻が家出したことを知ったあの土曜日の夜、というより日曜日の明け方からというもの、まるで私は悪夢にさいなまれているようなものでした。脳は麻痺《まひ》したようになり、自分自身がこの肉体からぬけ出して、その外側にあるような、なんとも言われぬ奇妙な錯覚におそわれていたのです。月曜日には、いつものように会社に行き、またいつもの夕刻に帰宅したのです。夕食のあと、すこしは元気でも出るかと思って、例の樽をあけてみました、だが、いっこうに興味もわいてこなければ、ふさぎこんだ気持ちをまぎらわしてもくれなかったのです。その翌朝、つまり火曜日ですね、私はいつもの時間に会社に行きました。しかし、一時間も努力してみたのですが、もはや自分の仕事に、心を集中できないことが分ったのです。会社のものに平気な顔を装いつづける緊張から解放されるために、どんなことをしてでもひとりにならなければいけないと、私は思ったのです。私は夢遊病者《むゆうびょうしゃ》のようにフラフラと会社を出ると、街路を歩いて行って地下鉄の駅にはいりました。と、駅の壁の『ヴァンサンヌ方面』という掲示板が私の目についたのです。そうだ、ヴァンサンヌの森こそうってつけの場所だという考えがパッと頭のなかでひらめきました。あの森なら、知人に会う心配もなく、ゆっくりと散歩できるというものだ。早速私は、地下鉄でヴァンサンヌ駅まで行くと、その午前中はなるべくひっそりした小径《こみち》ばかりをえらんで、ひとりで散歩していたのです。肉体的な運動は、私の気持ちをほぐしてくれました、だが、歩き疲れると、こんどは別の感情におそわれてきたのです。人間的な同情をよせてもらいたいという切実な感情にかられてきて、だれでもいい、この胸の悩みをすっかり打ちあけたい、さもなくば発狂してしまうにちがいないと、私はそう思ったのです。すると弟のアルマンドが頭にうかびました、弟なら、きっと私に心から同情をよせてくれるものと思ったのです。弟のアルマンドは、ベルギーのマリーヌの近くに住んでいるのです、私は一刻も早くとんで行って弟に会おうと決心しました。私はシャラントンのちいさなカフェでランチを喰べると、その店から会社と自宅に電話して、これから二日ばかりベルギーへ行ってくると、知らせてやったのです。それから執事のフランソワに、旅行に必要なものを私の手提鞄《てさげかばん》に詰めて、すぐ北停車場の手荷物一時預り所に預けておくように、あとから私が取りに行くから、と言いつけました。ランチを食べているあいだに、もし午後四時五分の列車に乗るとすると――この汽車がいちばん早く乗れるのですが――弟のところに着くのはどうしても夜半過ぎになると思いあたったものですから、いっそのこと、夜汽車まで見合わせて、弟のところには翌朝着くようにしようと決めたのです。で、私はセーヌ河に沿ってかなり長いこと歩いて、そこからリヨン駅までローカル線に乗ってひきかえしたのです。バスティーユ広場のあるカフェで夕食をとってから、やっと北停車場に行って、フランソワが預けた鞄を受取ると、午後十一時二十分発のブリュッセル行の列車に乗って、パリを立ったのです。その夜汽車の中ではグッスリとねむれました、ブリュッセルで汽車からおりると、北広場のはずれにあるカフェで、朝食をとりました。午前十一時ごろ、マリーヌにむかって歩き出しました、弟の家まで四マイルあるのですが、ま、運動になると思って歩いたというわけです。ところが、弟の家についてみると、家の中はカラッポではありませんか。と、そのとたんに、あ、そうだ、弟は夫婦で、商用でストックホルムまで行ってくるとまえに言ってたっけ、と、私は思い出したのです。そのときまで、私はすっかり忘れてしまっていたのですよ。思わず自分の頭をのろったものの、私の心にはまだ余裕などなかったものですから時間や金の損失は、さして気にかかりませんでした。私はとぼとぼとマリーヌへひきかえしながら、その夜のうちにすぐパリへ帰ろうと思いました。しかし、まる一日というものは旅行のしつづけじゃないかと、私は思いなおしたのです。午後の陽《ひ》ざしはじつに心地よいものでした。私は時のたつのも忘れてブラブラと歩きつづけ、ブリュッセルに着いた時は、夕方六時ごろになっていました。夕食は、アンスパシュ広小路のあるカフェですませました、それから、気持ちをまぎらわすために、二時間ばかり劇場でものぞいてみようと思ったのです。私の常宿になっているマクシミリアン・ホテルに電話して、部屋を予約すると、モネー劇場でやっているベルリオーズの『トロイ人』を観に行き、それがハネてから、十一時ごろホテルにまいりました。その夜は熟睡しました。おかげで、そのあくる日は頭もすっきりし、正常になったのです。私はブリュッセルをミディ駅十二時五十分発の汽車で立ち、夕刻の五時ごろパリに到着しました。いま、手ぶらで帰ってきたベルギー行きを思いかえしてみると、まるで悪夢を見ているような気もしますが、たったひとりきりで、あてもなく時をすごしたことは、疲れきった心身をいやすのに、とてもよかったことだと思うのです」
ボワラックが口をとじると、しばらくのあいだ、沈黙が座を占めた。その間、ルファルジュは、あのバーンリー警部とおなじような丹念なやり方で、いまのボワラックの話を胸のなかで吟味《ぎんみ》していった。彼は、万が一にもボワラックが真犯人の場合、この男に警戒心をいだかせたくなかったので、根掘り葉掘りボワラックに問いつめるわけにはいかなかった。とはいえ、他の証言で、できるだけその裏づけがとれるように、ボワラックの話の、ほんの細部にいたるまで聞きもらすこともできなかった。概してボワラックの話はつじつまが合っていたと思われるし、いままでのところ、怪しむにたる矛盾はどこにも見あたらなかった。そこで、ルファルジュは、ほんの二、三の点だけをききかえすだけにして、今夜のところはあっさり引きあげようと考えた。
「どうもありがとうございました、ボワラックさん、いまのお話のことで、ちょっと補足的におたずねしたいことが、二、三あるのですが。火曜日に社を出られたのは、何時でございました?」
「午前九時ごろです」
「シャラントンでランチを食べられたのは、なんというカフェでしょう?」
「さあ、おぼえていませんな。駅と蒸気船の桟橋とのあいだの通りでしてね、店の正面は張り出しの木組になっていて、あまりパッとしないカフェでしたよ」
「その店に入ったのは何時ごろだったのです?」
「だいたい一時半ごろだったと思いますが、はっきりわかりませんな」
「お宅や会社に電話されたのはどこからです?」
「そのカフェですよ」
「それは何時ごろです?」
「一時間ばかりあとですから、二時半ごろでしたね」
「ところでと、バスティーユ広場のカフェに移りますが、この店の名前は?」
「それもはっきりおぼえていないのです。たしか聖アントアーヌ街の角だったと思いますね。いずれにしろ、リヨン街に面していましたがね」
「その店に入られたのは何時ごろです?」
「八時半ごろだったと思いますね」
「旅行に持って行かれた鞄は、北停車場で受取られたわけですね?」
「ええ、そうですよ、駅の左側の手荷物預り所にあずけてあったのです」
「列車は、寝台をおとりになったのですか?」
「いや、一等のコンパートメントでした」
「そのコンパートメントにはほかに乗客はありましたか?」
「三人いましたね。しかし知らない人ばかりでした」
「その火曜日ですが、この日、顔見知りの人とか、またはあなたのいまのお話を裏づけられるような人に、お会いになりましたか?」
「どうも思い出せませんな、カフェの給仕たちなら、私の話を裏づけてくれるかもしれませんが」
「その翌日の水曜日に、どこからマクシミリアン・ホテルに電話なさいました?」
「夕食を食べたカフェからですよ。アンスパシュ広小路の、ブルーケール広場へはいる手前の店ですがね。名前はちょっと思い出せませんな」
「電話をかけられたのは何時です?」
「食事をしようとしていたところですから、七時ごろだったと思いますよ」
ルファルジュは椅子から腰をあげると、頭を下げた。
「ご親切にいろいろとありがとうございました、ボワラックさん、これで、おたずねすることは全部です。では失礼いたします」
その夜は、さわやかに晴れていた。ルファルジュは、バスティーユ広場のちかくにある自宅まで、ゆっくりと歩いて帰った。その道すがら、いま聞いたばかりの話をじっくりと吟味してみた。その陳述に一点の虚偽がないものなら、ボワラックが白であることはまず確実と見ていいようだ。もし彼が月曜日にパリにいたとすれば、デュピエール商会に彫像を注文する手紙は出せなかったことになる。注文の手紙は、火曜日の朝、デュピエール商会に配達されたのだから、その前日の月曜日に、ロンドンで投函されていなければならないはずだ。また、ボワラックがベルギーのブリュッセルとマリーヌに行ったのなら、どうあってもロンドンで樽を受取るわけにはいかない。したがってまず第一にしなければならないことは、ボワラックの陳述を、それとは切り離した調査によってテストしてみることである。ルファルジュはさらにもう一度、その陳述を細部にわたって検討してみた、そして裏づけを要する点をひとつのこらず、心にきざみつけた。
まず裏づけを要する点のなかで、ボワラックがほんとうに火曜日の夜までパリにいたかどうかをたしかめるのは、造作もないことである。日曜日と、その夜と、月曜日の夜については、執事のフランソワと女中たちが証言してくれるだろうし、月曜日の朝から夜までと火曜日の朝については、ポンプ製造会社の社員たちが証言してくれるはずである。それにまた、召使たちは、月曜日の晩、ボワラックが樽詰めの彫像を荷ほどきしたかどうかも証言できるわけだ。それから火曜日に、彼が会社をぬけ出した時間の問題がある、だがこれもたしかめるのはごく簡単である。シャラントンのレストランについては、ボワラックのような客は、その場所柄からいって、身だしなみの点だけでも人目につくはずだから店のものの目をそばだてたことはあきらかである。あの男がほんとうにその店で昼食をとったのなら、その裏づけはたやすく得られるにちがいない。おまけに電話までかけたというのだから、よけい人目につくはずだ。実際電話があったかどうか、また北停車場に鞄を預けたかどうかも、たしかめることは簡単な話である。北停車場の小荷物預り所の係りや、バスティーユ広場のレストランの給仕から裏づけをとるのは、なにしろ、たくさんの見知らぬ客を相手にするのが商売だから、あまり|あて《ヽヽ》にはできないかもしれないが、とにかく小荷物預り所とレストランは|あたって《ヽヽヽヽ》みる価値がある。マリーヌまで行って調べれば、ボワラックがほんとうに訪ねて行ったものかどうか、その裏づけがとれるだろうし、弟が実際にそこに居住しているか否か、はっきりするし、その火曜日の日に、留守だったかどうかも、あきらかになるはずである。ブリュッセルのマクシミリアン・ホテルのものにあたったって、ボワラックが水曜日の夜に泊ったものかどうかも、また、部屋を予約する電話があったかどうかも分るはずだ。最後に、ベルリオーズの『トロイ人』が、水曜日の夜にモネー劇場で実際に上演されたか否かも、たしかめてみるだけの値打ちはある。
ルファルジュは、熟考をかさねるにつれて、ボワラックの陳述には裏づけを要する点がたくさんあることに気がついてきた。そしてもし、いま挙げた点の裏づけがとれて、そのとおりだということが分ったら、ボワラックの陳述は頭から信用してもいいぞと、彼は思った。
十九 アリバイの裏づけ
その翌朝、ルファルジュがルーヴル美術館裏の美術橋でシャラントン行の蒸気船に乗ったとき、セーヌ河の眺めはじつにすばらしかった。その日はなんともいえぬいい陽気だった、春の、あのみずみずしい気配はなくなってはいたものの、初夏の暖かさとゆたかな色彩が大気のなかにただよっていた。蒸気船が振動しながら桟橋をはなれて河の流れに出たとき、ルファルジュはこのおなじ桟橋からこのまえ乗ったときのことを思い出した――そうだ、バーンリー警部といっしょに、デュピエール商会のテヴネ専務を訪ねるので、こいつに乗ってグルネルまでセーヌを下っていったっけ。しかし、こんどは、おなじ仕事とはいえ、行く先は正反対だった。蒸気船は、ラテン・クォーターの古本屋の露店が立ち並んでいる河岸に沿ってシテ島をめぐり、ノートルダム寺院の荘厳な双塔の下をすぎ、オーステリッツ駅と向いあった地下鉄の橋の下をくぐった。蒸気船が河幅のひろいセーヌをさかのぼるにつれて、両岸の建物はしだいにその影をひそめ、マルヌ河がセーヌに合流する、シャラントンの郊外まで四マイルの距離をのぼらぬ矢先に、もう緑なす木立と畑が見えはじめてきた。
ルファルジュは、終点のシャラントンで蒸気船からおりると、駅にむかって街路をぶらぶらしながら、店の正面が張り出しの木骨造りになっているレストランをさがしてあるいた。その店はすぐわかった。この通りでいちばん大きく、いやにけばけばしい店がまえのカフェが、まさにボワラックの説明どおりの感じだったし、電話線が店内にひきこんであるのを見たとたんに、こいつだ、こいつだ、とルファルジュが胸のなかでつぶやいた。彼は店に入ると、ちいさな大理石張りのテーブルの椅子に腰をおろし、黒ビールを注文した。
カフェの中はひろびろとしていた、コーナーにはバーがあり、ドアに面したところに、小さなダンスのステージがあった。客は、ルファルジュのほかに見あたらなかった。初老の、白い口髭の給仕が、うしろの部屋から出たり入ったりしていた。
「いい天気だね」ルファルジュは、その給仕が黒ビールを運んできたとき、声をかけた。「この時間じゃ、まだひまなんだろうね」
給仕はそうだと言った。
「この店でとてもうまいランチを食べさせるときいたものだからね」ルファルジュはなおも話しかけた、「じつはせんだって、僕の友だちがここでランチを食べてね、とてもうまかったとほめていたんだよ。この友人はなかなかほめない男なんだがね」
給仕はあいそ笑いをうかべると、会釈した。
「うちでは、どのような召し上りものであれ、手をぬくような真似はいたしませんので。そのお客さまにご満足いただきまして、こんなうれしいことはございません」
「その友人は、君のまえでほめなかったかい? 腹のなかで思ったことはなんでも口に出す男なんだがね」
「さあ、そのお客さまのことはしかとおぼえておりませんので。いつごろお見えになったのでございます?」
「なに、顔を見たらすぐ思い出すよ、これが、その友人なんだがね」
ルファルジュは、ポケットからボワラックの写真を取り出すと、給仕に渡した。
「この方なら、はっきりおぼえております、しかし」と給仕はためらいがちに言った、「このお客さまは、いま言われたように、手前どものランチにご満足していただいたようにはお見受けできなかったのですが。正直なところ、あのお方は、うちの料理のことなど眼中には――」給仕は両肩をすぼめた。
「その友人はからだの具合があまりよくなかったのだよ、でも、ここの料理をとてもほめていたんだ。その男がこの店にやって来たのは、たしか先週の木曜日だったね?」
「先週の木曜日でございますと? いいえ、もっと前のことかと存じますが、そうでございますね、たしか月曜日だったと思いますが」
「そうだ、僕の思いちがいだったよ、木曜日じゃなかった、彼は火曜日だと言ってたっけ、火曜日ではなかったかね?」
「はあて、火曜日のような気もいたしますが、しかとおぼえておりませんので。ですが、どうも私には月曜日だったような気がいたしますが」
「あの日、その友人は僕のところにシャラントンから電話をかけて来たんだがね――たしかにこの店で電話しているって言ったようだったが。この店で電話をかけたかね?」
「さようでございます、二回おかけになりました。あれがその電話でございますよ。お客さま用になっておりますが」
「なるほど、なかなかいいアイデアだね、客にはなんといっても便利だよ。ところでね、せっかく友人があのとき電話をくれたんだが、あいにくと話がうまく通じなくてね、二人で会う約束をしたのだが、その人はとうとうやって来なかったのさ。もしかしたら僕のほうで友人の言葉をききまちがえたのじゃないかと思うんだが、どうだろう、そのときの電話をそばで聞いていなかったかね? もし聞いていたなら、友人が先週の火曜日の約束のことを電話でどう言っていたか、教えてくれないか?」
と、いままで、満面に愛想笑いをうかべていた給仕は、その言葉を聞いたとたんに、ルファルジュの顔を警戒するような目でジロッと見た。営業用の微笑だけは浮かべていたものの、その給仕がまるで殻にとじこもったカキみたいに黙りこくってしまったのをルファルジュは見てとった。やがて、「さあ、どんなお電話だったか私にはいっこう聞こえませんでしたが。なにせ忙しかったものですから」と給仕が答えたときは、シラを切ってやがる、とルファルジュはとっさに読んだ。
こうなったらおどしの一手だ、とルファルジュは肚《はら》をきめた。ガラリと態度をかえると、ドスのきいた低い声で言った――
「ねえ、給仕さん、私は警視庁のものなんだ。その電話の内容が知りたいんだが、そんなことでわざわざおまえさんを警視庁までしょっぴきたくはないんだがね」警部は五フラン銀貨を取り出した、「どんな電話をかけたか、そいつを喋ってくれれば、こいつはおまえさんのものだ」
給仕の目に警戒の色がチラッと浮かんだ。
「ですが、旦那――」給仕は口ごもった。
「おい、おまえさんは知っているとちゃんとにらんでいるんだ、さっさと喋ったらどうだ。あっさり話して五フランもらうか、あとから警視庁でドロを吐いて一フランにもならないか、それはおまえさんの料簡しだいだが、さ、どっちにするね?」
だが給仕はなおも黙りこくっていた。給仕が肚のなかで、喋ったものかどうかさかんに迷っているのが、ルファルジュには手にとるように分った。給仕がためらっているところを見ると、電話の内容を知っていることはあきらかである。よし、あと一押しだと、ルファルジュは肚をきめた。
「おまえさんは、私がほんとに警視庁のものかどうか疑っているようだね、じゃ、これを見たまえ」
ルファルジュは警察官の身分証明書を出して見せた、するとひと目見て、給仕はとっさに決心したようだった。
「ではお話しいたします。あのお客さまは、はじめ誰か召使らしい人を電話口にお呼び出しになって、突然ベルギーへ行くことになったから、北停車場までなにかを持ってくるように言いつけておいででした。それがどんなものか、私には聞きとれなかったのですが。それから、こんどは別のところへ電話をおかけになって、ただ、二日間ベルギーへ行くとおっしゃっただけでして。それだけでございます」
「そうか、よく分った、それではこの五フランをとってくれたまえ」
『こいつは|さいさき《ヽヽヽヽ》がいいぞ』ルファルジュは、そのカフェを出ながら胸のなかでつぶやいた。そして、セーヌ河に背をむけると、街路をのぼっていった。ボワラックが、その陳述どおり、シャラントンで昼食をとったことは、もうこれではっきりした。
もっとも、ボワラックは火曜日と言っていたが、あの給仕は月曜日に来たものと思いこんでいる節がある。しかし、その給仕にしろはっきり分らないと自分でも言ったくらいだし、いずれにしろ、こうした思いちがいはままあることである。それに、この点はちゃんとたしかめられることだ。ボワラックの会社の主任なり、執事のフランソワなりにたずねれば、何日に電話があったか、はっきりわかることである。
ルファルジュはシャラントン駅まで歩き、そこからリヨン駅まで汽車で行った。駅からタクシーに乗ると、ボワラックが専務をしているポンプ工場のあるシャンピオネ街のはずれまで行った。タクシーからおりて、歩道を歩き出したとき、ルファルジュは十一時半を告げる時計の音をきいた。
ポンプ工場の正面の間口は、さして大きくはなかったが、開いている門からざっと見ただけで、ルファルジュにはかなり奥行のあるのが分った。門の片側に四階建の建物があった。その入口のドアに『三階・事務所』という札がかかっていた。警部は、あたりを見まわして、ほかの工場への出入口がないことをたしかめると、わざと顔をそむけたまま、そのまえを通りすぎた。
工場から五十ヤードばかりはなれた街路のむこう側に、カフェがあった。ルファルジュはのんびりした足取りで、その店に入ると、窓ぎわのちいさな大理石のテーブルの椅子に腰をおろした。その窓からなら工場の事務所の入口や作業所の門がよく見渡された。彼は黒ビールを注文すると、ポケットから新聞を取り出し、椅子にゆったりと背をもたせかけて読みはじめた。彼は工場の入口がちょうどスレスレに見えるような高さに新聞を持った。こうしてさえおけば、ちょっと上にあげただけで、いざという場合、ごく自然に自分の顔がかくせるわけである。かなり長いあいだ、彼はこの待機姿勢のまま、黒ビールをすすりながら、ネバっていた。
何人かの人間が、工場を出たり入ったりした。しかし、一時間ちかくも待ち受け、さらに黒ビールを二杯あけるまで、目ざす相手は出て来なかった。やっとのことでボワラックが事務所の入口から出て来た、そして門を出るとカフェとは逆の方向に足をむけて、パリのほうへ街路を歩いていった。ルファルジュは、さらに五分間だけ待ってから、ゆっくりと新聞をおりたたむと、煙草に火をつけて、カフェを出た。
警部は、工場を百ヤードもやりすごしてから、街路を横断し、そこからあともどりして、さっきボワラックが出て来た事務所の入口から入って行った。彼は警察の肩書がついてない私用の名刺を出すと、ボワラックに面会を求めた。
「お気の毒ですが」出て来た事務員が言った、「いましがた出かけたばかりです。おもてでお会いになりませんでしたか?」
「それじゃ、うっかりしていたのかもしれませんね。幹部の方がおいででしたら、かわりに会っていただきたいのですが? 席にいらっしゃいますか?」
「はあ、いると存じます、どうぞ、その椅子におかけになってください、たしかめてまいりますから」
と、いまの事務員がひきかえしてきて、主任のデュフレーヌが会うと告げた、そして、小柄の初老の男のところへルファルジュを連れて行った。主任はちょうど昼食に出ようとしているところらしかった。
「なるべくならボワラック専務にお目にかかりたかったのですが――」ルファルジュはひととおり挨拶をすませると、こう切り出した、「じつは個人的な問題についてなのです。あなたでもお話になっていただけることと存じますので、専務さんのお帰りを待つまでもないと思い、お目にかかったわけです。私は警視庁の警部ですが」ルファルジュは、警察の名刺を出した。「ここへあがりましたのは、目下ボワラックさんと連絡をとってすすめている捜査に関連したことなのです。不本意ではありますが、その詳細を、ここでお話するわけにはいかないことを、ご諒解していただけると思いますが、とにかくその件に関連して、最近ボワラックさんが警視庁においでになり、ある陳述をなさったのです。そのおり、まずいことにお話の中で言い落された点が二つあるのです。私どももこの二点が事件の捜査と関連があるとは気がつかなかったものですから、うかつにおたずねしなかったわけなのです。それは、先日ボワラックさんがベルギーへおいでになったことと関連があるのですが、今日、ボワラックさんにお会いしておたずねしようと思った二点というのは、その火曜日にこの会社を出られた時間、あと一つは、シャラントンから、ベルギーに行くと社へ電話をなさった時間なのです。主任さんにお話ししていただけるでしょうか、それとも専務さんのお帰りを待って、直接おたずねしたほうがよろしいでしょうか?」
主任のデュフレーヌは、すぐに答えようとはしなかった。ルファルジュには、主任が迷っているのがよく分った。そこで、警部は言葉をつづけて言った。
「なに、すこしでも気がすすまないようでしたら、お答えくださらなくても結構ですよ。そのほうがいいとお考えなら、私は専務さんのお帰りをお待ちするくらい、なんでもありませんから」
まさに効果てき面だった、主任はあわてて答えた。
「どういたしまして。専務の帰りをお待ちになるにはおよびません。すくなくともそのひとつにつきましては、私がかわってお答えできます。あと一つのほうは、はっきりとうけあいかねますが。シャラントンから専務がかけた電話を私が受けましたのは、午後二時四十五分ごろでした。私がその時間をとくに書きとめておきましたので、それははっきりしております。あの朝、専務が、社を出かけた時間のほうは、しかとお答えできないのです。あの日の午前九時に、専務から私は、少々厄介な手紙の返事を書いて、でき次第持ってくるようにと言いつけられておりました。ところが、事情をあきらかにするためにいくつかの数字をあげて説明をしなければならなかったものですから、その返事を書き上げるのに三十分もかかってしまったのです。その手紙を専務のところへ持ってまいりましたのが九時三十分でしたが、もうそのときは専務が社を出たあとだったのです」
「その日は火曜日だったのですね?」
「そうです、火曜日でした」
「で、ボワラックさんが旅行から帰って来られたのは、金曜日の朝だったのですね?」
「そのとおりです」
ルファルジュは椅子から腰を上げた。
「どうもいろいろありがとうございました。専務さんのお帰りまで待たずに用がかたづきまして、ほんとうにたすかりました」
ルファルジュは事務所を出ると、地下鉄のサンプロン駅まで歩き、都心まで地下鉄で行った。捜査がはかどるので、彼はうれしかった。この事件の捜査に手をつけ出したころとおなじように、証言がぞくぞくと集ってくるではないか。ボワラックの陳述のはじめのところは、これで完全に裏づけが得られたものと、彼は考えかけた。だが、ここで常日頃の訓練が|もの《ヽヽ》を言った、ルファルジュは、アルマ通りのボワラック邸にひきかえして、この際できることなら、執事のフランソワの証言も得ておこうと決心したのである。そこで彼は、シャトレでおりると、マイヨー行の地下鉄に乗りかえて、アルマまで行き、そこからアルマ通りへ歩いて行った。
「やあ、フランソワさん」執事が玄関のドアをあけると、ルファルジュは声をかけた、「またおじゃましますよ、ほんの少々、おたずねしたいことがあるのですが?」
「結構ですとも、どうぞ、おはいりください」
二人は、例のちいさな居間に入った、ルファルジュは愛用のブラジル・タバコをとり出した。
「どうです、こいつは|いけ《ヽヽ》ますか?」執事がそのタバコを一本ぬきとると、警部はたずねた、「どうもひとによっては強すぎると思うらしいのですが、私の好みにはピッタリなのですよ、葉巻の風味こそありませんが、匂いの強いところは小葉巻といった感じゃないですか。ところで、と、用件はすぐ終りますからね、じつは、先週火曜日に、あなたが北停車場へあずけに行ったボワラックさんの鞄のことなのですがね、そのとき、駅まで尾行されるようなことはなかったですか?」
「尾行? この私がですか? 滅相もない、そんなことは絶対にありませんでしたとも、いや、すくなくとも私は気づきませんでしたが」
「すると、駅の左側の手荷物預り所で、背が高く、灰色の服の、赤い顎髯をはやした男を見かけなかったですね?」
「見かけませんとも、そんな男はひとりもおりませんでしたよ」
「あなたが鞄を預けたのは、何時でした?」
「三時三十分ごろでございますよ」
ルファルジュは、ここでちょっと考えるふりをした。
「そうか、それじゃ私の思い違いかもしれないな」ややあって、彼は口をひらいた、「その日は火曜日でしたね?」
「はい、火曜日でございました」
「それから、ご主人がこちらに電話してきたのは、二時ごろだったのですね? たしかボワラックさんは二時ごろと言われたように思うのですが」
「いえ、もうすこしおそうございましたよ。もう三時近くになっておりましたね、それにしても不思議でならないのは、どうして警部さんは、私がボワラックさまの鞄を北停車場まで持っていったことをご存じなのでございます?」
「なに、昨夜、ボワラックさんからうかがったのですよ、突然、ベルギーに旅行しなければならなくなったという話から、あなたがご主人の鞄を駅の左側の手荷物預り所に預けに行った話も出たわけなのです」
「で、その赤い顎髯の男と申しますのは?」
まんまと情報をひき出してしまったルファルジュにとって、そのきっかけに使ったちいさな計略を、うまく言いくるめるぐらいのことは朝めしまえだった。
「なあに、うちの刑事ですよ。この刑事は、貴重品の入っている鞄の窃盗事件のことで調べに行っていたのですよ、ひょっとしたらあなたが、その刑事を見かけはしなかったかと思ったものですからね。それはそうと、ご主人はその鞄を持って帰られましたか? 盗まれなかったですか?」
ルファルジュが微笑した。執事も、なんだ、冗談かとさとったらしく、微笑をかえした。
「おかげさまで、ボワラックさまはちゃんとお持ち帰りになりましたよ」
ここまではボワラックの陳述どおりだった。ボワラックが、火曜日の午後二時四十五分ごろ自宅に電話して、執事に、自分の鞄を北停車場に預けるように言いつけたことは、これではっきり裏づけられたわけである。さらにまた、ボワラックが自分で駅まで行って、その鞄を受取ったことも確実である。そこまでは疑いをさしはさむ余地はない。だが、彼の陳述のうちで、日曜日と月曜日の彼の行動を語った部分、それに月曜日の夜、樽の梱包《こんぽう》をといたところは、まだその裏づけがとれていないのだ。そこで、ルファルジュはネバった。
「フランソワさん、せっかくあなたとお会いしたのだから、報告書に書く日付が間違っているといけないから、二、三たしかめてくださいませんか?」彼は手帳をとり出した。「いま読みあげるから、あっているかどうか、答えていただきたいのです。では、おねがいします、三月二十七日土曜日、晩餐会の日」
「間違いございません」
「同二十八日日曜日、特に記すべきことなし。その夜、ボワラック氏、樽の梱包をとく」
「そこはちがいますね、樽の梱包をといたのは、月曜日でございます」
「あ、月曜日ですか」ルファルジュは、手帳を直す真似をした。
「そうだ、月曜日の夜でしたね。ボワラック氏、日曜日の夜は在宅、ただし樽の梱包は月曜日までとかず。これでいいですね?」
「間違いございません」
「火曜日、ボワラック氏ベルギー行き、木曜日の夜帰宅、いいですね?」
「間違いございません」
「どうもありがとうございました。書きちがいを訂正していただいて、ほんとにたすかりましたよ、どうやらこれで大丈夫のようです」
ルファルジュは腰もあげずに、それからしばらく、老執事の面白がりそうな話や、自分が警察に入ってからの経験談に花を咲かせた。彼は、このフランソワに会えば会うほど、老執事に尊敬の念をいだくようになった。そして、フランソワの証言なら頭から信用していい、この老人はいかなる不正にも手を貸ような人間ではないと、警部は確信するにいたった。
まるで午前中の成果を相殺《そうさい》するみたいに、午後に入ってからというものは、ルファルジュはつまらぬ空くじばかり引いている始末だった。彼は、アルマ通りのボワラック邸を出ると、北停車場の手荷物預り所に行って、係りのものにあたってみたのだが、まったくなんの情報もつかめなかった。だれひとり、鞄を預けに来た執事のフランソワのことも、それを受取りに来たボワラックのことも、おぼえているものはいなかった。おまけにその鞄を預った記録さえどこにもなかった。その足で、バスティーユ広場に行き、ルファルジュは、その附近の通りという通りに、何軒となくあるいろいろなレストランの給仕たちにあたってみたのだが、数時間も足を棒にして歩いたことは、まったくの無駄骨だった。どのレストランでも、ボワラックが食事をしたという形跡は、まるっきりなかったのである。
だが、それにもかかわらず、ルファルジュは、その日の成果に心から満足していた。彼が得た証言はいずれも明確で貴重なものだった。事実、こと火曜日に関するかぎり、ボワラックの陳述の信憑性《しんぴょうせい》は、決定的なものとなったではないか、と彼は考えた。もし水曜日と木曜日についても、これと同様にその裏づけが完全に得られたら、ポンプ製造会社専務ボワラックのアリバイは成立し、本事件における彼の無罪は全面的に承認されなければならないことになるのだ。
ルファルジュは、その裏づけをとるためにはブリュッセルまで足をのばさなければなるまいと考え、その夜の十一時二十分発の寝台車を、北停車場に電話で予約した。それから警視庁に電話で連絡したのち、汽車が出る時間までを、食事と休息のために、家路にむかった。
夜汽車では、快適といっていいくらい熟睡できた。ルファルジュは、その翌朝ブリュッセルの北広場のカフェで朝食をすませると、午前中の汽車に乗ってマリーヌへむかった。マリーヌに着くと、まずはじめに郵便局に寄って、アルマンド・ボワラックの家に行く道をたずねた。だが、局員は、その名前だけは知っていたものの、かんじんの住所ははっきりと知らなかった。そこで、ルファルジュはめぼしい商店を二、三軒たずねて歩いたところ、やっとのことで、ボワラックの家に出入りの商店を見つけた。
「はあ、存じております。このルーヴェン街道をたっぷり四マイルばかり行きましたところで。十字路をこえまして、すぐ右側の林のなかの赤い屋根をのせた大きなお屋敷でございます。しかし、ボワラックさんをおたずねになるのでしたら、たしかにお留守かと存じますが」
「そうですか、ボワラックさんに会いたかったのですが、それでは奥さんに会っていただきましょう」
「ところが、奥さまもお留守ではないかと存じますので。ま、すくなくとも、私の存じておりますかぎりではね。二週間ほどまえのことでございます、奥さまが店にお見えになりましてね、いや、思い出しました、ちょうど二週間前のことでございますよ、『あの、ラローシュさん、こちらから注文するまで、二、三週間はなにもとどけないでくださいな。私たち旅行するので、家をしめて行きますからね』とおっしゃいましたので。さいですから、これからおいでになっても、旦那さまにも奥さまにもお会いになれないと存じますが」
「どうも親切にありがとう。では、そのついでに、ボワラックさんの事務所を教えてもらえないだろうか。事務所へ行ってみたら、ボワラックさんの旅先きが分るかもしれませんしね。ボワラックさんは、なにか、事業をしていたはずですね?」
「あの方は銀行家でございますよ、ちょくちょくブリュッセルにお出かけになりますが、その銀行の名前は存じません。この通りの向う側の、弁護士のルブランさんのお宅へおいでになれば、きっとお分りになりますが」
ルファルジュは、親切な店員に礼を言うと、その言葉にしたがって、弁護士をたずねてみた。すると警部は、ボワラックが、ブリュッセルのサンヌ広小路にあるマジェール銀行という大きな民間銀行の重役だということをおしえてもらった。
そこで彼は、いっそのこと、これからすぐブリュッセルにとってかえそうかと思いかけたものの、そこは長年警察で苦労してきただけのことはあって、それがどんな陳述であろうと、たしかめもせずにそのまま鵜《う》のみにする愚を心底から知っていた。とにかく大事をとって、自分の目でボワラックの弟の家が実際に留守かどうかを自分の目でたしかめて来よう、と彼は考えた。そこで小型自動車をやとうと、ルーヴェン街道を走らせた。
空気にはどことなく冷気がふくまれていたものの、陽は晴れわたった空にさんさんとかがやきわたっていた。おかげでルファルジュは、ベルギーの美しい田園をドライブしながら満喫することができた。なんとかしてこの仕事を、午後のうちにすませてしまいたいものだと彼は思った。そうすれば、夜行でパリに帰れるのだ。
車で十五分ばかり行くと、ボワラックの弟の家に着いた。さっきの店員の説明をきいていたので、ルファルジュは一目で分った。おもてから眺めただけで、その家が留守だということもわかった。通りに面した門は、南京錠《ナンキンじょう》と鎖で閉じられていた。家のまわりの木立のあいだから、窓のシャッターがおりているのが見えた。警部はあたりを見まわした。
門のまえの道路に沿ったところに、小屋が三軒建っていた、外見から推して、小作人か、作男が住んでいるのが分る。ルファルジュは、いちばん手前の小屋まで行って、ドアをノックした。
「やあ、お早う」ルファルジュは、戸口に姿をあらわした、まるまると肥えている中年の女に声をかけた、「ボワラックさんに用があって、ブリュッセルから来たんだが、家が閉まっているんでね。あの家の留守番はいないんですか、それとも、だれかボワラックさんの行先を知っている人はいませんかな?」
「留守番は私ですが、でも、ボワラックさまの行先は存じません。お出かけになるときに、私にお言いつけになったのは、手紙は全部、ブリュッセルのマジェール銀行へ回送するように、そうすれば自分のところへ転送されるから、というだけで」
「じゃ、旅行に出かけられたのは、そうまえのことではないんですね?」
「はい、今日でちょうど二週間になります。三週間旅行するとおっしゃいましたから、あと一週間ほどしてからおいでになれば、おかえりになっていると思いますよ」
「それはそうと、先週、私の友だちが、ボワラックさんをたずねて来たはずだが、じゃ、やっぱり会えなかったわけですね、この男を見かけなかったですか?」とルファルジュはボワラックの写真を見せた。
「さあ、見かけませんでしたね」
ルファルジュは女に礼を言った、それから近所の家を二、三軒歩きまわって、おなじことをたずねてみたが、結果はおなじだった。彼は、待たせておいた小型自動車に乗るとマリーヌにひきかえし、汽車が来次第、それに乗ってブリュッセルにむかった。
ルファルジュが、マジェール銀行の堂々とした正面玄関を入ったのは、もう午後二時ちかかった。弟のボワラックが重役をしている銀行だ。その銀行は、すごく豪奢《ごうしゃ》な建物で、金に糸目をつけず装飾に贅《ぜい》をこらしていた。ひろびろとした店内の壁には、一面に極上の大理石がつかわれていた、そして、その大理石の高雅な緑色の羽目は、純白の壁柱と蛇腹《じゃばら》で仕切られていた。テラス張りの高いドームの円花窓からさしこむやわらかな美しい光りが、銀行のなかにあふれていた。『金に不足のないところか』ルファルジュはこう胸のなかでつぶやきながら、カウンターに近づくと、名刺を出して、店長に面会をもとめた。
彼は、しばらく待たされたが、事務員に案内されて、店内の装飾とおなじスタイルの廊下を通り、やがて背の高い初老の紳士にひきあわされた。ひげをきれいに剃り、漆黒《しっこく》の髪の店長は、たたみこみ式の蓋《ふた》のついた、大きな事務机にむかって坐っていた。
ひととおりの挨拶がおわると、ルファルジュが切り出した。
「おいそがしいところ、まことに恐縮ですが、おたくの重役のアルマンド・ボワラック氏と、パリのアヴロート・ポンプ製造会社の専務のラウール・ボワラック氏とはご兄弟なのかどうか、お教えねがいたいのですが? じつは今朝、アルマンド・ボワラック氏をたずねてマリーヌまで行ったのですが、あいにくご不在だったのです。もしその方が、ラウール・ボワラック氏のご兄弟でないとすると、ご旅行先をつきとめたり、ご連絡したりするのは、この際時間がおしいものですから、それでこちらへうかがってみたのですが」
「たしかにアルマンド・ボワラック氏は、ラウールさんのご兄弟ですよ。もっとも私は、ラウールさんとはまだ面識がございませんが、当銀行の重役のボワラックさんから、パリにいらっしゃるご兄弟のことをおききしたことがあります。おのぞみなら、アルマンドさんの滞在先をお教えいたしますが?」
「ありがとうございます。教えていただければ、たいへんたすかるのですが」
「ストックホルムのリードベリー・ホテルでございます」
ルファルジュは、手帳に書きとめると、かさねて礼をのべてから、銀行を出た。
『さて、こんどはモネー劇場だが』と彼は胸のなかでつぶやいた、『この角をまわったところだ』
ルファルジュはブルーケール広場をつっきって、その角をモネー広場にまがった。モネー劇場の切符売場はあいていた、彼は事務員にあたってみて、あの水曜日の夜、ベルリオーズの『トロイ人』が、ボワラックの陳述どおり、実際に上演されたことをつきとめた。だが、その夜座席予約表で、ボワラックの名前をさがしてみたが、みつからなかった。もっとも、その事務員が言いそえたように、ボワラックが、その夜の座席を予約しなかったというだけのことで、劇場に来なかったということにはならない。
ルファルジュのつぎの目標は、マクシミリアン・ホテルだった。そのホテルは、ポルト・ルイズからさして遠くない、ワーテルロー広小路の一区画いっぱいを占めている、近代的な大ビルディングだった。窓口に出て来た番頭が、鄭重に彼に応対した。
「じつはこのホテルでボワラックさんに会うことになっているのだが」とルファルジュが口をひらいた、「いま、滞在しておられるかどうか分るかね?」
「ボワラックさま?」番頭は腑《ふ》におちないといった顔つきで、くり返した、「そういうお名前のお客さまは、ただいまのところ、お泊りになっていないと存じますが」番頭は机の上のインデックス・カードをくりながら答えた、「やっぱり、その方は、まだおみえではございません」
ルファルジュは写真を出した。
「このひとなんだがね、パリのラウール・ボワラックさんという名前だが」
「このお客さまでしたら、たしかによく存じ上げております。まえまえからごひいきをいただいておりますが、ただいまは、ご滞在ではございません」
警部は、いかにもメモをさがすようなふりをして、手帳のページをめくってみせた。
「すると、約束の日を間違えたかな? じゃ最近、ボワラックさんはここに泊らなかったかね?」
「はい、お泊りになりましたですよ、それもほんの最近――たしか先週のことでございます。一晩、お泊りになりましたが」
ルファルジュはしまった、というような身ぶりを示した。
「そいつはうっかりしていた!」と彼は声をあげた、「じゃ行きちがいになってしまったのだ、ボワラックさんは、何日に泊ったんだね?」
「ええと」番頭は帳簿をめくった、「三月三十一日、水曜日の夜にお泊りでございました」
「やっぱり行きちがってしまったんだね。そいつはほんとに残念なことをした。きっと約束の日どりをまちがえたのだ」警部はいかにも思いあまったような表情で、たたずんでいた。
「ボワラックさんは、私のことを帳場に言わなかったかね――私の名前はパスカル、ジュール・パスカルというのだが?」
番頭はかぶりをふった。
「いいえ、べつにおっしゃいませんでしたが」
ルファルジュは呟くみたいに言った、「そうだ、あの晩彼はパリからまっすぐ来たにちがいない」それから番頭のほうに顔をむけて、「ボワラックさんが、ホテルに着いたのは何時ごろだったか、おぼえていないだろうね?」
「いえ、おぼえております、なんでも夜分おそうございました、たしか十一時ごろだったかと思いますが」
「そんな時間に来るなんて、ちょっと乱暴すぎやしないかね? ホテルがいっぱいで、断られたらどうするつもりなんだろう?」
「それはもう、お部屋を予約なさっておいででしたから。その日の夕方アンスパシュ広小路のレストランからお電話で、お部屋をおとりになりましたので」
「その電話は五時前にあったのかね? 私は五時ごろボワラックさんと会うことになっていたのだが」
「いいえ、そんなに早い時間ではございません。たしか、七時半すぎか、いや、八時ごろだったようにおぼえておりますが」
「そうか、まるで狐にでもつままれているような話だ。それはそうと、いつまでもグズグズしていて、君のお邪魔になってもいけない、伝言を書いて行くから、すまないが、ボワラックさんがまたホテルに来られたら、渡してくれないかね? いや、いろいろとありがとう」
ルファルジュは、探偵という職業にかけては、なかなかの芸術家だった。ひとたび、ある人物に扮すると、どんな微細な点までもその役になりきらないと、気がすまない|たち《ヽヽ》だった。そこで彼は、いかにももっともらしく、行きちがって会えなかったのが残念ということと、たくみにでっちあげたデタラメの用件を、ボワラックあてにサラサラと書いてみせた。それに『ジュール・パスカル』とれいれいしく署名すると、番頭にあずけて、彼はホテルを出た。
ルファルジュがパリにひきかえそうと、ワーテルロー広小路から出てくると、大時計がちょうど六時を打った。彼は旅行の目的をはたし、上々の成果をおさめて満足はしたものの、すっかり疲れてしまっていた。そこで、一、二時間映画館に入って、ひと休みしてから、ゆっくり夕食を食べて、パリ行の夜汽車に乗ることにした。
彼は、ノール広小路の、大きなレストランのしずかな一隅に腰をおろして、コーヒーをゆっくりのみながら、ボワラックの陳述をはじめから再検討してみた、そしてこれまでに裏づけの得られた点を、胸のなかで、ひとつひとつチェックしていった。土曜日の夜、夫人は失踪した。日曜日とその夜、ボワラックは自宅にいた。月曜日、彼は会社ですごし、その夜も自宅にいた。そのおなじ月曜日の夜、彼は樽の梱包をといて彫像をとり出す。火曜日の朝、彼は定刻に会社に出勤したが、午前九時から同三十分のあいだに社を出る。同日午後一時三十分ごろ、彼はシャラントンのレストランでランチを食べると、午後二時三十分をすこしまわった時刻に、彼は執事のフランソワと会社に電話をする。執事フランソワは、ボワラックの鞄を、午後三時三十分ごろ北停車場へ預けに行く。ボワラックはその鞄を北停車場の手荷物預り所から受出す。彼がその鞄をベルギー旅行から、ちゃんと持ち帰っていることで、それは分る。彼は、水曜日の午後七時半か八時ごろ、ブリュッセルのマクシミリアン・ホテルに電話で部屋を予約し、その夜は同ホテルに一泊。その翌日、彼はパリに帰り、その夕刻帰宅。なお、ボワラックの弟がベルギーのマリーヌ近郊に居住していること、その弟の家が、問題の水曜日には留守であったこと、ベルリオーズの『トロイ人』が、ボワラックの陳述どおり、水曜日の夜に上演されたことも事実である。
ここまでは、完全に裏づけが得られた正真正銘の事実であって、疑問の余地はまったくなかった。そこでルファルジュはいまだに裏づけの得られない、ボワラックの陳述の他の部分に考えをうつした。
その陳述どおり、シャラントンのレストランでランチをとるまえに、はたしてボワラックはヴァンサンヌの森を散歩したものかどうか、またそのあとでほんとうにセーヌ河の岸を上流にむかって歩いて行ったものかどうか、その点は、ルファルジュにはなんとも言い切れないのだ。それから、またボワラックが、バスティーユ広場のカフェで食事をしたと陳述したが、その店をつきとめることもできなかった。また、ボワラックが、ベルギーのマリーヌに行ったことも、弟の家を訪ねて行ったことも、その裏づけは得られていないし、ブリュッセルで彼がオペラを観たということも、まだ証明されていないのである。
ルファルジュは、この問題をじっくり検討してみたのだが、その結果、それらの点の裏づけをとることは、その性質上、まず困難であるという結論に達せざるを得なかった。と同時に彼は、これらの点は、ボワラックの陳述のなかでさして重要な部分でないとも、判断したのである。なんといってもいちばん重要な点は、ボワラックがシャラントンとブリュッセル、とくにこのブリュッセルに行ったという事実である、しかし、この点はとことんまで、その裏づけを得ているのである。したがって、どう考えてもボワラックの陳述は真実であるという結論に達せざるを得なかった。そこで、この結論が正しいということになると、ボワラックは完全に白だということになる、彼が白ならば――フェリックスが……
翌日、ルファルジュは警視庁でショーヴェ総監に会うと、その報告をした。
二十 決定的な証拠
バーンリー警部は、ブーローニュの埠頭で、ルファルジュに別れると、まるで辛苦をともになめてきた旧友を失ってしまったような感情におそわれた。あのフランスの警部の、親切な人柄と明るい交友のおかげで、パリ滞在中のバーンリー警部は愉快に日々を送ったばかりか、ルファルジュの熟練した腕と判断力が、こんどの捜査に有力な一翼をになってくれたのである。
そうだ、なんとめざましく捜査がはかどったことか! ほんの短時日に、かくも多くの証言や陳述を手に入れたことは、バーンリー警部にとって、はじめてだと言ってもいいくらいだ。むろん、捜査が完了したというわけではないが、事件の解決まで、あと一息だということが、警部の目に見えてくるような気がした。
つつがなくドーヴァ海峡を渡ると、警部はフォークストンに着いたその足で、地もとの警察署をたずねた。そこで、連絡船のパ・ドゥ・カレー号が、問題の日曜日に碇泊していたときの当直だった巡査に会って、たずねてみたが、なんの情報も得られなかった。だれひとり、フェリックスやボワラック夫人に似たものを見かけてさえいなかった。
そこでこんどは、税関の役人、船から手荷物を運んだ赤帽、埠頭駅の駅員などに、警部はあたってみた、しかし、これもまた情報はゼロだった。
『そうか、グラスゴーへ行けという神さまのお告げか』と警部は胸の中でつぶやいた、彼はプラットホームの電報受付所へ行くと、電報を打った。
[#ここから2字下げ]
「グラスゴー、ソーチーホール街アンガス小路三二七 ヘンリー・ゴードン殿。
アスアサ一〇ジユク ゴツゴウイカガ ヘンマツ」ロンドン・ケイシチョー、バーンリー
[#ここで字下げ終わり]
それから、警部は、つぎのロンドン行の汽車に乗るため、鉄道の駅にむかって歩いていった。
彼は、ロンドン警視庁に着くやすぐ、総監のところに行った、そして、パリ警視庁で協議して決定した捜査方針と、この二日間にわたる自分の捜査経過を報告し、もしゴードンが、明朝会ってくれるようなら、今夜にでもすぐグラスゴーへ発ちたいと思うと言った。警部は総監との会見をすませると、一時間ばかり休息するために自宅に帰った。それからまた、午後十時に警視庁にひきかえしてみると、ゴードンからの電報が来ていた、『アス ゴシテイノジカンニマツ』
『ま、いままでのところはすごく順調だぞ』と、警部は胸の中でつぶやいた、そしてタクシーをひろうと、ユーストン駅にむかった。そこから北に行く十一時五十分発の急行に乗りこんだ。むかしから汽車ではよく眠れる彼だったが、この夜行ではとくによく熟睡できた、グラスゴーに着くほんの三十分前に、ボーイに起こされるまで目がさめないくらいだった。
警部は、セントラル・ホテルで入浴して朝食をとると、ほんとに生き返ったような気持ちになった。それから、ゴードンに会いに、彼は足どりも軽く、ソーチホール街のアンガス小路へむかった。『卸売茶商ヘンリー・ゴードン』という札がかかっている三二七番地のドアを、警部が押して入ったとき、ちょうど街の時計塔の鐘が十時を告げた。ゴードンはロンドンの客を待ちかまえていたところだったので、そのまますぐ警部は、彼の部屋に案内された。
ゴードンが椅子から立ち上った。金色の小さな頬ひげにするどい青い目をした、背の高い男だった。
「おはようございます」警部がまず挨拶をした、「私がロンドン警視庁の警部です。目下捜査中の事件につきまして、ご協力いただきたいと存じましたもので、あつかましくも、電報を打った次第です」
ゴードンも会釈した。
「よく分りました、それで、私にご用件というのは?」
「おさしつかえなければ、二、三のことにお答えねがいたいのですが」
「私にできますことなら、よろこんでなんなりと」
「ありがとうございます。最近、あなたはパリへおいでになったと存じますが?」
「はい、まいりました」
「で、コンティネンタル・ホテルにお泊りになりましたね?」
「そのとおりです」
「こちらへお帰りになるために、パリをお立ちになったのは何日でしょう?」
「三月二十八日の日曜日です」
「たしかあなたは、ホテルから北停車場まで、ホテルのバスで行かれたと思いますが?」
「そうです」
「では、ゴードンさん、そのとき、あなたのほかに、どんな人たちがバスに乗り合せたか、おぼえていらっしゃいますか?」
ゴードンはちょっと考えていた。
「さあ、格別気をつけておりませんでしたので、はっきりお答えできないのですが」
「私が調べたところによると、あのバスには三人の客が乗っていたはずなのです。そのうちの一人はあなたですが、いま私が調べておりますのは、あとの二人の中の一人なのです。私の得た証言によると、その男は、あなたとなにか話をしていた、いや、すくなくとも、駅でバスからおりるときに、その男はあなたになにか話しかけた、というのですが。いかがでしょう、こう申し上げれば、そのときの光景が思い出されるのではないでしょうか」
と、ゴードンは、そうだといわんばかりの身ぶりをしめした。
「いや、おっしゃるとおりです、あのバスの中のことをやっと思い出しましたよ、一人の客は、小柄で、からだつきのがっしりした初老の人で、ひげをきれいに剃っていましたね、あとの一人は、黒いとがった顎髯をはやした青年で、なかなか派手な服装をしていました。いずれもフランス人だと、私は見ましたが、黒い顎髯の男のほうは、英語が達者でしたよ。その青年は口がかるかったが、もう一人の初老の男はむっつりしていましたね。すると、その黒い顎髯の男のことですか?」
バーンリー警部は、黙って、フェリックスの写真をさし出した。
「この男ですか?」
「そうです、たしかにこの男ですよ、はっきり思い出しました」
「その男とは、ロンドンまでご一緒でしたか?」
「いや、一緒ではありませんでしたが、その男がロンドンに着いたことはたしかですよ、というのは、一度は連絡船で、もう一度は私がチャリング・クロス駅で汽車からおりたとき、その男をこの目で見ましたからね」
いずれにせよ、これはじつに明確な証言だった。バーンリー警部はうれしかった。すぐゴードンに会って、ほんとによかった、と彼は心から思った。
「で、その男には|つれ《ヽヽ》がいませんでしたか?」
「私の見たかぎりでは、|つれ《ヽヽ》はいなかったですね、ホテルからバスに乗ったときもたしかに一人でしたよ」
「すると、ロンドンまで行く途中でも、その男はだれともおちあわなかったわけですね?」
「連絡船で、私がその男を見かけたときは、一人の婦人と話しあっていましたが、その婦人が彼の|つれ《ヽヽ》なのか、あるいはただ知り合いで、船でパッタリ会ったものか、そこのところは、ちょっとわかりかねますな」
「ロンドンのチャリング・クロス駅で、あなたが見かけたときも、その婦人は彼と一緒でしたか?」
「いや、私が見かけたときは、その男は一人でしたね。ちょうど私が汽車からおりたとき、その男はプラットホームで、一人の男とさかんに話しているところでした。背の高い青年で、色の浅黒い、ちょっとした美男子でしたよ」
「その青年にまた会えば、本人かどうかお分りになりますか?」
「まず大丈夫だと思いますね。その青年の顔をよく見ておきましたから」
「もう少し詳しく、その男のことを説明していただけないでしょうか?」
「そうですね、背は五フィート十一インチか六フィートくらいで、痩せ型のスポーツマン・タイプでしたね。顔色は青白く、小さな黒い口ひげをたくわえて、あとはきれいに剃っていました、一見、フランス人のような感じでしたね。黒っぽい服に、茶色のオーバーを着ていたような気がしますが、これははっきりしません。たぶん、その青年がプラットホームまで黒い顎髯の男を迎えにきたものと、私は見たのですが、これは、ま、私の想像にすぎませんからね」
「ところで、こんどはその婦人のことですが、どんな女性だったか、説明していただけませんか?」
「どうも、それは手に負えないですね、その婦人は、顎髯の男の横に腰かけていたものですから、私からは、その顔が見えなかったのですよ」
「それでは、どんな服装をしていたか、おわかりになりませんか?」
「着ていたのは、赤みがかった褐色の毛皮のコート、たぶん黒貂《くろてん》のような気がしましたが、はっきりしませんね」
「その婦人の帽子はどんなものでした? なにひとつ、特徴が目につきませんでしたか?」
「いいえ、べつに」
「たとえば、帽子の縁《ふち》がひろいとか?」
「ひろい縁《ふち》? いや、気がつきませんでしたね、ま、そうだったかもしれませんよ」
「その二人が腰かけていた場所は、風が当るところでしたか?」
「あの日はどこにいても、ひどい風に吹きさらされているようなものでしたよ、いや、ひどい目にあいました」
「すると、そんなに風がひどいときに、縁のひろい帽子をかぶっていたら、その婦人はさぞかし帽子をおさえるのに苦労したでしょうな?」
「ま、たぶんね」ゴードンはそっけなく鼻であしらった、「なにもそんなことまで、私におたずねにならなくてもいいでしょうに」
バーンリー警部は微笑した。
「なにしろ、ロンドン警視庁の人間は、どんなことでも知りたがるので有名ですからね」と警部は言った、「それではゴードンさん、いろいろとご親切にありがとうございました」
「なあに当然のことですよ。ところで、大人《おとな》げない話ですが、どういう理由から、おたずねになったのか、おききするわけにはいかないのですか?」
「いや、どういたしまして、ただ残念なことに、いまのところ、くわしい説明はゆるされておりません、問題の尖った顎髯の男というのは、フランスのある婦人をイギリスにおびきよせて殺害したという、嫌疑を受けているのです。もっとも、現在のところでは単なる容疑にすぎませんが」
「そうですか、ひとつ、その結果がどう出たか、教えていただきたいものですな」
「いずれお知らせすることになると思います。この男が逮捕されて公判に付せられるようなことになれば、あなたに証言していただかねばなりませんから」
「では、あなたのためにも、この私のためにも、どうか一日にも早く犯人が検挙されますように、これで失礼します、警部さん、あなたにお目にかかれて、ほんとによかったと存じます」
警部は、これでグラスゴーの用件もすっかり片づいたので、セントラル・ホテルにかえると、正午発のロンドン行急行に乗った。汽車が、初夏の陽にかがやく田園を横切って、ロンドンへまっしぐらに驀進《ばくしん》を開始したとき、いま会って来たばかりのゴードンの証言を、警部はじっくりと検討してみた。そして、この事件の捜査に手をそめてからというもの、まるでついてまわるみたいに、一苦労するとかならず幸運がやってくることに、彼はあらためて目を見はらざるをえなかった。これまでに証言をもとめて会った人間のほとんどが、たとえ期待どおりとはいかないまでも、なんらかの情報は提供してくれたのである。ゴードンが、そのいい例である。警部はつくづく思った――毎週、ドーヴァ海峡を渡航する旅客は、何千何万という数にちがいない、したがって、いちいち旅行中の行動をつきとめるなどということは、およそ不可能なことだ、それなのに、おれが求めている情報をちゃんと提供してくれた男がいたではないか。もしフェリックスが、ホテルのバスに乗らなかったとしたら、乗りあわせたゴードンがあれほど観察していなかったとしたら、そのときの状況がほんのすこしでもちがっていたとしたら、警部は、あの日のフェリックスの行動について、はっきりとした証言は得られなかったにちがいないのだ。これとおなじことが、あらゆることに当てはまるのである。事実、もしこれで、真犯人がつきとめられないとしたら、それはあくまでおれ自身の責任だ、と警部は思った。
だが、それにしても証拠が不充分だ、決定的な証拠がまだあがっていないのだ。いずれも状況証拠ばかりで、つねにフェリックスを指してはいるものの、あと一息というところで、きめ手になるものが欠けているのである。こんどの場合でも、ボワラック夫人がフェリックスと連れだって、ドーヴァ海峡を渡航したという有力な推定があるにもかかわらず、その裏づけとなる証拠が何一つ、あがらないのである。まず十中八九まで考えられないことだが、船でフェリックスが話していた婦人というのは、ひょっとすると、ボワラック夫人以外の女性だったかもしれない。警部がこれまでに得た証拠の大半は、状況証拠ばかりであって、のどから手が出るくらいにほしいのは、決め手となる決定的な証拠だった。
ここで警部は、あらためて事件そのものの検討にかかった。たしかにフェリックスの黒の可能性は、いままでよりも強くなっていると、警部はにらんだ。ゴードンの証言は、パリ警視庁で立てた仮説とピッタリ一致している。フェリックスがパリをはなれるとすれば、当然、あのような行動をとるはずである。パリにいるあいだは、フェリックスとボワラック夫人は、二人が一緒のところを人目にさらさないように用心するにちがいない。また北停車場のような大きな駅では、二人の知り合いがいつ現われるともかぎらない、そこでフェリックスとボワラック夫人とは、わざとおたがいに知らん顔をして、はなれていたと見ていい。連絡船となると、思いきっておたがいに言葉をかわすぐらいのことはしたかもしれない、おまけにあの日は風が吹き荒れていて、デッキには人影がほとんどなかったのだ。ロンドンのチャリング・クロス駅では、もしフェリックスが、だれかが出迎えにくることをあらかじめ知っていたとしたら、二人はパリで打ち合せたとおり、べつべつに駅を出るにちがいない。そうだ、こう考えれば、たしかに話はあうぞ。
警部はつよい葉巻に火をつけると、車外をとびさって行く田園風景をぼんやりながめながら、じっと考えこんでいた。ロンドンに着いた二人は、それからどうしたか? フェリックスは、プラットホームまで迎えに来た青年をうまくまいてしまうと、まえもってしめし合せておいた場所でボワラック夫人とおち会い、彼女を自宅であるサン・マロ荘につれて行ったことはまずまちがいのないところだ。いや、待てよ、フェリックスは家政婦に休暇をやっていたから、二人がサン・マロ荘に着いたところで、食べるものもなければ火の気もなく、家の中がただガランとしていてしめっぽいことを思い出す、そこでホテルへ泊ったかもしれないぞ。こいつはありそうなことだと考えると、警部はロンドンに着き次第、まず二人の泊りそうなホテルを片端からあたってみることを計画した。だが、どのホテルから調べはじめたらいいか、と考えているうち、もし、フェリックスがすでにボワラック夫人を殺害してしまったとしたら、その犯行場所は十中八九までサン・マロ荘にちがいない、という考えが、フッと警部の頭にうかんだ。どう考えても、町中のホテルで、そんな真似はできっこないと、警部は思った。すると、まず二人はサン・マロ荘に行くとしか考えられないではないか。
警部はさらに考えを一歩すすめた。もし、サン・マロ荘で夫人を殺害したならば、あの樽はそこで梱包をとかれたにちがいない。ここで警部は、樽の梱包をといた跡がボワラックの書斎の床の上に、ありありと残っていたことを思いうかべた。かならず、それとおなじような痕跡《こんせき》が、サン・マロ荘の床の上にも残っているのではないか、と警部は思った。もしあの樽が、絨緞《じゅうたん》の上、いや、リノリュームの床であっても、いちど置かれたなら、きっと樽の底の、あの輪の跡が残っているはずだ。さもなければ、鋸屑《おがくず》があるはずだ。あの微細な鋸屑の残滓《のこりかす》をあとかたもなくきれいにとりのぞくことができるなどと、警部には到底信じられなかった。
いずれにしろ、あのサン・マロ荘は捜索すべきだ、というのが、彼の考えだった。その場合、樽の輪の跡や鋸屑にはとくに注意を要すると、念頭にきざみつけた。サン・マロ荘の捜索こそ、なにをおいてもやらなければならないと、警部は意を決した。
その翌朝、バーンリー警部は、ケルヴィン巡査部長を助手に、ただちにサン・マロ荘に出動した。車が疾走して行くみちみち、警部は、梱包用の樽があけられている場合の推理を説明し、もし実際に樽があけられていたら、どんな形跡があるか、こまごまと巡査部長に注意をあたえた。
フェリックスは、ロンドン警視庁で卒倒して以来、まだ入院中だったので、サン・マロ荘は空っぽだったし、家政婦もまだ休暇から帰っていなかった。バーンリー警部は、フェリックスの鍵束の鍵で、玄関のドアをあけると、二人は家のなかにふみこんだ。
それから、徹底的な家宅捜索がはじまった。バーンリー警部は中庭から手をつけて、そこに建っている小屋を片端から調べていった。どの小屋も床はコンクリートになっていた、したがって、樽の痕跡がある見込みはまずなかった。しかし、警部は、床の上のゴミを、慎重に掃きあつめると、拡大鏡までとり出して、鋸屑がまじっているかどうか検査した。それから彼は、小屋の中のものも、ひとつのこらず、点検した、馬車小屋にあったフェリックスの二人乗りの自動車は、とりわけ厳重に検査された。それが一段落すると、こんどはサン・マロ荘の中に移った。部屋という部屋をしらみつぶしにすみからすみまで調べて行ったが、とうとうフェリックスの化粧室で、バーンリー警部ははじめて獲物を発見したのである。
戸棚の中には、フェリックスの服が何着もかかっていた。そして、そのなかの上衣の――それはブルーの背広だった――右のポケットに、一通の手紙が入っていたのである。それはいかにも無造作につっこんだものらしく、しわくちゃにねじれていた。警部は、はじめその手紙を一読しても、ぜんぜん食指がうごかなかったし、さほど重要なものとは思わなかった。だが、さらにもう一度読みかえしてみると、これこそ、われわれが血眼《ちまなこ》になって探していたもの、フェリックスにとって不利な一連の状況証拠のなかで、いままで見つからなかった決定的な証拠ではないか、という考えが、警部の頭にパッとひらめいたのだった。
その手紙は、一枚の粗悪な便箋に、女の筆蹟で書かれていた。その文章や字からいっても、教育程度の低い女が書いたものだということが一目で分る。こういう手紙は、まずバーの女か、カフェのウェイトレス、それとも女店員が書くしろものだと、警部はにらんだ。その便箋には、すかし模様も入っていなければ、これといった目印になるようなものもついていなかった。手紙には、住所も書いてなく、文面はつぎのとおりだった――
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月曜日
おなつかしいレオンさま――あまりの淋しさに耐えきれず、このお手紙を書きます。ね、あなた、どうかなさいましたの? ご病気じゃなくって? もしご病気なら、あたしがどんな目にあおうと、あなたのおそばにとんでまいります。あなたなしでは、生きて行けないあたしなのよ。きっと昨日はいらっしゃるものと思って、あたし、一日中、お待ちしていたんです。このまえの日曜日も、いいえ、それから一週間というもの、夜ごと夜ごとに、あなたのおいでをお待ちしていたんです。それなのに、あたしは待ちぼうけ。じつは、もうほとんど一文なしなんです。ポプキンズのおかみさんときたら、来週中に払えなかったら、とっとと出て行っておくれ、とこうなんです。あなた、あたしにもう飽きたんじゃないかしら、それでぜんぜん来てくださらないのかしらって、ときどき思うことがありますの、だけどそれはほんの一瞬だけ、あなたはそんなひとじゃない、きっとご病気か旅行でもなさっているのだ、と思いなおしますの。おねがい、お手紙くださるか、来てちょうだい。だって、あたし、あなただけがほんとにたよりなんですもの。
悲歎にくれる
あなたのエミーより
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バーンリー警部が、はじめて、この泣かせる手紙にザッと目を通したときは、あんなおとなしそうな顔をしているくせにフェリックスもなかなかの漁色家だな、というくらいの印象しか受けなかったのである。ところが、もう一度読みかえしてみると、こいつは事件と重要な関係があるのじゃないか、という気が警部にはしてきたのである。もし、この手紙が原因で、殺人の動機となったとしたらどうか? この手紙を読んだボワラック夫人が、フェリックスのかくれた一面、いや、故意にひたかくしていた秘密の一面をかぎつけたとしたらどうか? バーンリー警部はじっと考えているうちに、おぼろげではあるが、ある一場面が頭のなかにうかんできた。フェリックスとボワラック夫人がサン・マロ荘にたどり着く。と、なにかのことからフェリックスはとんでもない不注意をしでかし、夫人は女の手紙を見つける。むろん、喧嘩《けんか》になる。フェリックスは、そのとき、どうでるか? まず彼は、夫人の手から手紙をひったくり、読まれまいとしてあわててポケットにねじこむ。さてこんどは、いきりたっている夫人をなだめにかかる、だが、それが駄目だとなると、争いは一層ひどくなる、ついに激情の極に達すると、フェリックスは夫人ののどにつかみかかり、息の根をとめてしまう。殺人! 彼は気が顛倒《てんとう》したあまり、女の手紙のことなど眼中になかったにちがいない。犯罪者のちょっとした手ぬかりは、ままあることではないか。
考えれば考えるほど警部は、この推理があたっているような気になってきた。だが、ここでもまた、なんの裏づけのない推理にすぎないということを、警部は痛感せざるを得なかった。その証拠になるようなものは、なに一つないのである。これもまた、ロンドン行の急行列車のなかで、警部が切歯扼腕《せっしやくわん》した『状況証拠』にすぎないのである。だが、いずれにせよ、女の手紙を見つけたことは、捜査上にあたらしい線が浮かんできたことになる。とにかく、このエミーという女を見つけ出して、彼女とフェリックスとの関係を調べることだ。バーンリー警部は、自分の行手に、けわしい障害がたくさんあることを覚悟せざるを得なかった。
警部は、女の手紙を手帳にはさむと、さらに家宅捜索を続行した。そして、あたりがうす暗くなりだしたころには、書斎だけをのこして、ほかの部屋はぜんぶ完了した。その書斎は、警部とフェリックスとが、真夜中にいろいろと話しあった部屋だった。
「書斎は、明日にまわしたほうがよさそうだね」とバーンリー警部が言った、「ランプのあかりじゃ、ろくに探せないよ」
その翌朝、警部と巡査部長は、またサン・マロ荘に出かけてくると、仕事にかかった。二人は書斎の床の上をはいまわって、しきつめてある絨緞をくまなく調べてみたが、なんの形跡も発見するにいたらなかった。二人は、拡大鏡まで使って、絨緞の|けば《ヽヽ》のなかをのぞきこんだり、ふかぶかとした皮張りの椅子の肘掛とシートとのあいだまで調べてみたが、やっぱり駄目だった。それからほどなくして、バーンリー警部は第二の獲物を見つけた。
書斎と、そのとなりの食堂との境界にドアがついていた、見たところ、そのドアは使われていない模様で、錠がおり、それに錠がかかっていた。このドアの書斎側には、ダーク・グリーンの絹綿ビロードの厚ぼったいカーテンがおりていた。そのカーテンに背をつけて、ちいさな椅子がおかれてあった、その腕木をつけた椅子の、皮張りのひくい背は、半円形をしていた。床の絨緞をすみずみまで調べようと、バーンリー警部は、その椅子をわきへどけたのである。
警部が、椅子をうごかした跡にかがみこむと、ダーク・グリーンのカーテンに、なにかピカッと光るものが突きささっているのに、気がついた。彼は、さらに目をグッと近づけると、たしかめた。それはちいさな、弓状にまがっている金のピンで、小粒のダイヤモンドが一列についていて、カーテンの打ちひもにひっかかっていたのだ。さして深くささっていなかったので、警部がカーテンにさわっただけで、そのピンは床におちた。
警部はピンをつまみあげた。
「こいつは、あのお洒落《しゃれ》なフェリックスの持ちものにしても、ちょっと上等すぎるじゃないか」警部は、ケルヴィン巡査部長にピンを見せながら、そう言った。と、そのとき、警部の頭にある考えがパッとひらめいた、そのとたん、彼はその場に立ちすくんでしまった――こいつはひょっとすると、フェリックスの容疑材料のなかで、いままでにつかめなかったもう一つの決定的な証拠、いや、どの証拠よりも重要な決め手になるかもしれんぞ。もしこのピンが、フェリックスの品物でないとしたら? 男子用のものとしては、優美すぎるし、華奢《きゃしゃ》すぎるではないか。もし、婦人用のものだったら? いや、いちばん決定的な疑問は、このピンの持ち主がボワラック夫人だとしたら? ということである。その確証さえあがれば、事件はここで見事に解決されるわけだ。
バーンリー警部は、いつかの真夜中にフェリックスと話しあったときの肘掛椅子に、ふかぶかと身をしずめると、見つけたピンからいろいろと出てくる可能性について考えてみた。どうしてまた、殺害された婦人の品物(ピンか、またはブローチ)が、この書斎のカーテンなどにつきささっているのか、その問題から、なんとかして推理をくみたててみようと、警部はじっと考えを凝《こ》らした。と、そのうちに、おそらくこうだと想像される光景が、しだいに彼の頭のなかにくっきりとうかんできた。そうだ、まずイヴニング・ドレスを着た婦人なら、こういったダイヤモンドのピンをつけるだろうし、つけるとすれば頭か肩のあたりだ、と警部は思った。もし、あのカーテンを背にした椅子に、婦人が腰かけていて、その咽喉になにものかが手をかけ、グイッと、婦人の頭を後方に押しつけたとしたら、もがき苦しんでいる婦人のからだから、ピンがはずれて落ちることは、充分考えられるではないか? また、実際にピンがはずれたとしたら、いま警部が見つけたあたりに落ちることも、ほぼ確実である。
これもまた、ただの推理にすぎぬことは、警部にも分っていた。しかし、そのピンが、いかにも力ずくでもぎとられたかのように弓なりに曲っている事実は、この推理の強みだった。このことを考えれば考えるほど、いよいよ、その推理が正しいように、警部には思われてくる。いずれにせよ、推理が正しいか否かを調べることはいたって簡単だ。それに決定的な解答をあたえてくれる二つの点が、警部の頭に浮かんだ。その第一は、もし、ダイヤモンドのピンが、夫人の品物だとすれば、小間使のシュザンヌがそれを確認するにちがいない。あの特徴のある小粒ダイヤモンドのならび方を見れば、一目でわかるはずだ。またシュザンヌは、あの晩餐会の夜、ボワラック夫人がそのピンをつけていたかどうかも知っているにちがいない。第二は、もしこのピンが、夫人のドレスから力まかせにもぎとられたものならば、着ていたドレスに裂け目があるか、すくなくとも、ピンをさしていたあとは残っているにちがいない。この二つの点は、いずれも簡単に調べられることだ。警部は今夜にでもすぐ手紙を書いて、この二点のことを、パリ警視庁に連絡しようと思った。
バーンリー警部は、そのダイヤモンドのピンを、小箱に入れてポケットにしまいこむと、椅子から腰をあげて、また書斎の捜索にかかった。それからしばらくのあいだ、なんの獲物もなかったが、やがて、さっき手に入れたピンよりもさらに重要だと思われる獲物を見つけたのである。それまでに警部は、書斎の調度類を徹底的に調べつくし、こんどは一時間以上も、フェリックスの机におみこしをすえたまま、引出しという引出しを片端からあけて、古い手紙を読んだり、便箋のすかし模様、タイプで打った書類の、活字の並び具合などを調べていた。あきらかに、フェリックスには、芸術家気質によくある欠点があった。机の引出しの中の書類は、綴じ込みもしてなければ、きちんと分類もしてなく、ただもう滅茶苦茶につっこんであるというありさまだった。計算書、領収書、招待状、契約書、仕事関係の手紙――こういった書類が、なにもかもいっしょくたに、手近の引出しにつっこんであった。警部は、それをいちいち選り分けて、丹念に目を通していったが、食指を誘うようなものは、なに一つなかった。デュピエール商会へ彫像を注文した、あの手紙の便箋とおなじすかし模様のはいっているものは、一枚も見あたらなかったし、また、ル・ゴーティエ名義で、フェリックス宛に来たというあの|にせ《ヽヽ》手紙のような、タイプライターの活字が痛んでいる書類は、一通もなかった。あと半ダースばかりの書棚を調べさえすれば、いよいよこれで、サン・マロ荘の家宅捜査も一段落だな、と警部が思ったとたんだった、彼は三番目の獲物を見つけたのである。
机の上には、吸取紙が何枚か、まるでパンフレットのように折り重ねてあった。吸取紙のあいだに、ペンで書いたばかりの用紙をはさんで、濡れているインクを吸いとらすのが、フェリックスの|くせ《ヽヽ》なのだ。警部は、いつもの丹念なやり方にしたがって、浴室から鏡をもってくると、その鏡に照らしながら、吸取紙を、上から一枚ずつ、調べていった。四枚目の吸取紙に来たとき、警部は思わず、しめた! といったジェスチャーをみせながら、めくっている手をピタッと止めた。鏡には、デュピエール商会の陳列所で見たことのある文章がとぎれとぎれに写っていたからである。
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左記・住所まで…お送り……
はっきりした値段……せんが、おおよそ千五百フラン……い……と存じ……の……紙幣…同封します………
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こいつは、デュピエール商会に彫像を注文した、あの手紙の一枚目の末尾ではないか! これこそ動かぬ証拠だ、ついに決め手となるような、決定的な証拠をにぎったのだ! フェリックスがあの彫像を注文したのだ、その手紙を書いたはいいが、うかつにもこの吸取紙にはさみ、文字がそのままにじんでいる吸取紙を処分しなかったのだ!
警部は、ぬきさしならぬ証拠を見つけると、うれしさのあまり、ふくみ笑いをおさえることができなかった。やっぱりフェリックスの奴が、彫像を注文したのだ。いまはもう、火を見るよりもあきらかである。そして、もしそれが事実としたら、あの樽の第一回の輸送は、フェリックスのせいである、したがって第二回、第三回の輸送も、すべて彼のせいであることはあきらかである。事実、三回にわたる樽の輸送を計画し、そのとおり実施したのがフェリックスであることは、疑いをさしはさむ余地がないのだ。もしそうだとすれば、ボワラック夫人の死体を樽に詰めたのはフェリックスでなければならない、彼が死体を詰めたのなら、彼が犯人であることは明白である。
それからまた、デュピエール商会に注文した手紙の、用紙の問題もあった。この注文書の便箋は、宝くじや賭けのことをタイプした、あのル・ゴーティエ名義の|にせ《ヽヽ》手紙の用紙とまったくおなじものだったのである。フェリックスは、ル・ゴーティエ名義の|にせ《ヽヽ》手紙が郵送されて来たと、自分では言っている、しかし、ショーヴェ総監の部屋で検討が行われた際には、フェリックスが自分で書いた公算があるとされたのだ。この公算は、ル・ゴーティエ名義の|にせ《ヽヽ》手紙とおなじ用紙、つまりその特漉《とくすき》のフランス製の用紙で、フェリックスが彫像を注文した証拠があがった以上、はるかに大であると考えなければならない。
発見された三つの証拠、『悲嘆にくれるエミー』の手紙、暗緑色のカーテンにささっていた曲ったブローチ、吸取紙にのこっているのっぴきならぬ文字の痕は、フェリックスの黒を決定的なものにしたと、警部には思われた。
だが一方、梱包用の樽をあけた形跡を、警部はなに一つ発見することができなかった、家宅捜査は徹底的に行われたのだ、すると樽をあけたのは、このサン・マロ荘ではないぞ、と判断を下すほかはなかった。と、そのとき、ある考えが、警部の頭にひらめいた。もしフェリックスが、つぎの朝、樽をふたたびどこかへ運ぶつもりで、馬車を雇い、サン・マロ荘へ運んだもの、と仮定してみる。するとその晩、彼は樽をどこにおくだろうか? 樽はすごく重いから、とても彼一人で動かせるものじゃない。といって、人手はかりられっこない。では、どうする? そうだ、樽は、馬車に積んだままにしておくにちがいない! 馬は中庭につなぎ、樽は馬車に積んだまま、あける、これが、奴の計画だったのだ。馬車の上で鋸屑をこぼしたところで、風がきれいに後始末をしてくれる。いまとなっては、なにも残っちゃいない。
警部は、自分の推理が正しいところをすすんでいると確信した、そして、なおも考えつづけた。もし馬が、サン・マロ荘の中庭に、一晩中つながれていたとしたら、なにかその形跡がのこっているはずだ。そこで警部はまた中庭へ出ていってあらためて調べてみた。しかし、こんどは幸運にめぐまれなかった。こうなると、馬はつながなかったのだ、と警部は判断を下すよりほかはなかった。
待てよ、馬方は馬車だけを残して、その晩は馬だけひいて帰ったのかもしれないぞ、と警部は思いついたものの、こんなことはちょっとありそうもないように考えられたので、この問題は、一時保留しておくことにした。
バーンリー警部はロンドン警視庁にひきあげて、総監に報告した。総監は耳をそばだてて聞きいっていたが、警部が三つの証拠を探しあてた段になると、膝をのりださんばかりに感動した。それから総監は自分の意見をかなりくわしくのべたあとで、こう言った、
「そのダイヤモンドのピンは、早速パリ警視庁に送り、小間使が確認するかどうか調べてもらおうではないか。だが、いずれにせよ、とうとう、フェリックスの逮捕に踏み切れるだけの証拠をつかんだようだね。それはそうと、君にはまだ話さなかったと思うが、フェリックスの勤めているポスター会社に刑事をやって調べさせたのだがね、あの樽がパリ=ロンドン間を往復している最中、彼は休暇をとっていたことが分ったのだよ。むろん、これは、フェリックスの有罪を決定する証拠とはならないが、われわれの推理とはピッタリ一致するがね」
それから二日して、パリ警視庁のショーヴェ総監の名前で、入電があった。
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『シュザンヌ・ドーデ、ピンヲ、ボワラック夫人ノモノトミトム』
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「よし、これで決定だ」と総監は言った。入院中のフェリックスの容態が回復次第、ただちに彼を逮捕するよう、逮捕状が作成された。
第三部 ロンドン・パリ
二十一 あらたなる観点
それから数日たったある朝、新聞をひらいた数百万の読者の目に、『樽の怪事件ついに解決、レオン・フェリックス逮捕さる』の大見出しがとびこむと、そのほとんどのものが、血が逆流するような興奮にかられたのである。これまでは、警視庁の捜査によって発見された事実がひとつとして公表されるようなことは絶対になかったのだが、おのずと世間に洩れる話だけでも、一般大衆のはげしい好奇心をよぶのに充分だったのである。樽事件の悲劇的ないきさつ、またそれにおとらず、事件の捜査経過が一切公表されず、極秘裡に捜査がすすめられているとなると、よけいに大衆の想像をそそったのだ。なに、あのロンドン警視庁のことだから、ぬかりなく手がかりはつかみ、犯人が検挙されるのも時間の問題さ、などと大衆のあいだでさかんに取沙汰されてはいたものの、その実、警察当局をのぞいたら、捜査線上にいかなる容疑者がうかんでいるのか、ほんとうのところを知っているものは、だれひとりいなかったのである。
だが、この数百万の読者のうちでも、グレート・ノース・ロードのブレント村のちかくの、エルム荘の医師ウィリアム・マーチンほどに、今朝の記事から、個人的なショックと侮辱を受けたものは、ほかにはいないはずである。このマーチン医師は、読者もご記憶のことと思うが、ウォーカー巡査が木かげに張りこんでいた夜、ブリッジをやらないかと、サン・マロ荘にフェリックスを誘いに来た男である。この二人は親しい仲だった。これまでにも、すぐそばの小川の土手で、肩をならべてマス釣りに興じた午後は数えきれないほどあったし、マーチン医師の家の玉突台で、撞球に熱中した夜もしばしばあった。それにマーチン医師の家族たちにも、フェリックスは人気があった。彼が自宅に遊びにくることをよろこばないものは、家族のなかにだれひとりいなかったし、みんなこころから、信頼しあっていたのである。
はじめ、このゆゆしい大見出しに目をとめたとき、マーチン医師は、その目を信じることができなかった。フェリックスが、気心を許しあった、親友のフェリックスが逮捕されるとは! しかも殺人罪! そんな馬鹿な、そんなことがあってたまるものか、なんというおそろしいことだ、医師には、どうしても納得がいかなかった。悪夢ならいつかは消え失せように、これは永遠にさめることのない、まぎれもなき事実なのだ。たとえ彼には半信半疑だったにしろ、フェリックスが逮捕されたという事実には変りがなかった。ついに彼も、その冷厳な事実のまえに、カブトをぬがざるを得なかった。
そこで、マーチン医師は、友の身を案じはじめた。フェリックスは、ひごろから自分の私生活にふれたがらなかったが、身よりのない孤独な男にちがいないと、医師はにらんでいたのである。フェリックスは、サン・マロ荘でたったひとりで暮らしている、あの家にだれか客が来ていたことを、マーチンは一度も見かけなかったくらいだ。それに、あの男の口から、親戚縁者の話をきいた記憶も、医師にはまるでなかった。
『逮捕されたというのに、いったいだれが、フェリックスの力になってやれるのだ?』と医師は首をかしげた。
もっとも、このマーチン医師のような、親切で心のやさしい人間というものは、ただいつまでも手をこまねいて、思案していられるものではなかった。
『よし、このおれがフェリックスに会いに行ってやろう』と医師は思った、『彼と相談して、弁護士をだれに頼むかきめるのだ。彼に心当りがなかったら、おれが奔走するまでだ』
しかし、いざ実行する段となると、なかなか厄介だった。いったい、どういう手順をふめば留置人に面会できるのか、医師には皆目見当がつかなかった。彼ほどの年齢と社会的地位にありながら、法律関係のことにまったく暗いのも、めずらしい話だった。だが、こんな場合には、彼にはごく簡単な手があった。『クリフォードに会えば』いいのである。この危急の際にも、マーチンはこの手に頼るしかない、つまり、『クリフォードに会う』のだ。
『クリフォード』――その氏名はジョン・ウェイクフィールド・クリフォード、すなわち、法学院の会員であり、クリフォード・アンド・ルイシャム法律事務所の所長は、マーチンの顧問弁護士であると同時に遊び仲間でもあった。たまたまこの二人は、おなじ週末に、ゴルフ場で顔をあわせたのがきっかけで親しくなり、おたがいに家をときどき訪問しあうほどの仲になったのである。弁護士のクリフォードは、快活なマーチン医師にくらべると、すごく対照的な人物だった。背はひくく、初老に手のとどく年配で、やせたからだはしなびきっており、頭髪も髭もすっかり白くなっている。身だしなみにはいつも神経質なくらいで、まるで礼儀作法の化身《けしん》みたいな印象をあたえる。その態度物腰は几帳面《きちょうめん》すぎて、面白味がない、ただ、生れつきユーモアのセンスにめぐまれていたおかげで、話をしていても、相手を退屈させるような目にはあわせなかった。
クリフォードはじつに腕のいい弁護士だった。数多い彼の讚美者たちは、いかなるときでも、クリフォードを味方にすれば必ず裁判に勝つものと信じていたし、敵にまわせばなによりもおそろしいその鋭さのかげに、真に人間らしい思いやりのある気質がかくされていることも知っていた。
マーチン医師は、やむを得ない用事のおかげで、午後まで仕事から手がはなせなかったが、やっと三時になって、彼はクリフォード・アンド・ルイシャム事務所の石段をのぼっていった。
「やあ、お元気ですか、マーチンさん?」と所長のクリフォードが声をかけた、「ようこそおいでになってくれた、ほんとにおもいがけない」
「ありがとう、所長さん」すすめられた煙草を一本とると、マーチン医師はこう言って、ふかぶかとした皮張りの安楽椅子に腰をおろした、「じつは今日おたずねしたのは、あまり愉快な話ではないんですよ、法律的な用件なのです、しかも、じつに面倒な用件でしてね、おいそがしいでしょうが、ちょっと相談にのってくださいますか?」
小柄な弁護士は、ていねいに会釈した。
「結構ですとも、どういう相談でも受けますよ」
「近所づきあいをしているレオン・フェリックスのことなのです」医師はいきなり本題に入った、「あなたも新聞でお読みになったでしょうが、その男は、樽詰め死体となって発見された婦人の殺害容疑で昨夜検挙されてしまったのです。もうご存じですね?」
「朝刊で、その記事なら読みましたよ。すると、そのフェリックスは、あなたのご近所の人なのですね?」
「そうなんですよ、それに、私の親友なんだ。まるで家族みたいに、私の家にしょっちゅう出入りしていたのですよ」
「そうですか、それはお気の毒なことに」
「あの男のことが心配で心配で、それですっかり私は、気がてんとうしてしまったのですよ。私だけじゃない、家のものもみんなそうなんです。あの男のためになんとかしてやれないものか、あなたにご相談に来たわけなんです」
「すると、その弁護のことですか?」
「そうなんです」
「留置されてから会いましたか?」
「いや、まだです、そのことについても、あなたにおたずねしようと思っていたのです。どうすれば面会できるのか、さっぱり分らないものですから」
「面会の申請に充分な理由さえあれば大丈夫です、すると、弁護人をどうするか、フェリックスの意向をぜんぜんきいていないのですな?」
「そのとおりですよ、私の考えでは、まずフェリックスに面会して、弁護士の件を相談してみようと思うのです。まだ手を打っていないようだったら、あなたにその弁護人を引き受けていただきたいのですがね」
クリフォードはしずかにうなずいた。マーチンの言葉に、弁護士はたいへん満足だった。金のことはさておき、その異常性と劇的な性質から考えて、この樽事件が、すくなくとも今年の、世間をアッといわせる重大事件になることは、目に見えていた。もし弁護を依頼されたら、自分自身でその弁護を引受け、被告を無罪にするために、あらゆる手段をつくしてたたかおうと、クリフォードは決心したのである。
「フェリックスの弁護を当事務所に依頼してくださるなら」と彼は、やっと口をひらいた、「あなたとの個人的な友情とは一切かかわりなしに、あなたの友人であるフェリックスのために全力をあげて弁護しますから、信頼してくださって結構です。ただし、この事件はかなり費用がかかりますね。弁護士も二人、いや三人ぐらいはどうしても必要ですし、その依頼料もバカにはなりません。それから、言うまでもないことですが」と、クリフォードはわびしい微笑をもらした、「私たちとて、食べてゆかにゃならない、ま、いずれにせよ、そういうことになるわけです。また、証人を捜し出してくるのにも金がかかるにきまっているし、私立探偵だって傭わにゃなるまい。要するに大事件の弁護となると、莫大《ばくだい》な費用がかかるものですよ。ところで、フェリックスには、それだけの費用が持てるのですか? 懐具合はどうなのです?」
「まず大丈夫だと思いますね、もっとも、いずれにしろ、その費用は私がもちますよ。フェリックスも払えるだけ払うでしょうが、あとはみんな、私が引受けます」
弁護士は、マーチン医師の顔を穴のあくほど見つめた。
「いや、あなたはじつに気持ちのいい人だ、マーチン君」クリフォードはなおもなにか言いかけようとしてちょっとためらったが、こんどはあらたまった口調で言った。
「それではまず、フェリックスに面会して、どういう手を打つかたしかめてみたほうがいいですね。いまおひまなら、あなたと一緒に、これから中央警察裁判所へ申請しに行って、面会の許可をとってあげてもいいですよ、で、あなたがフェリックスと相談の上で、私どもに依頼することにきまったら、よろこんで弁護はお引受けしますよ。さもないときは、どうか気がねなく、ほかの弁護士に依頼なさってください。そうしようじゃありませんか」
「どうもありがとう、クリフォードさん、そうお願いできれば、それにこしたことはありません」
クリフォードは、どうやら依頼人になってもらえそうな医師を、フェリックスが留置されている警察署の係官に紹介すると、ほかに約束があるからと言って、すたすたと帰ってしまった。ひとりあとに残ったマーチンは、椅子に腰かけて、面会の許可がおりるのを待っていた。正式の手続きにかなりの時間がかかった。おかげで、フェリックスの独房のドアをあけてもらって、面会ができたのは、もう五時ちかかった。
「マーチン!」悲運のどん底につきおとされていたフェリックスが叫ぶと、椅子からとび上って、面会者の手を両の手ににぎりしめた。「ほんとによく来てくれたね! 君に会えるなんて、僕は夢にも思っていなかったんだ」
「親友が窮地にあるというのに、黙って見ていられるかね」フェリックスのあまりのよろこびように、思わずマーチン医師は、わざと乱暴に言った、「なんのざまだい、この|ていたら《ヽヽヽヽ》くは? しようがない奴だな、いったい、どうしてこんな騒ぎを起こしたんだ?」
フェリックスは、いかにも無気力に自分の額を手でなぜた。
「ああ、それが僕にも分らないんだ、マーチン」彼はうめいた、「ほんとに分らないんだよ、狐につままれたみたいなんだ、なぜ、こんなひどい目にあわされたのか、見当もつかないんだよ、今日のなんか、取調べだってぜんぜん形式的なんだ、どんなものにしろ、証拠一つ、示さないんだからね。なにが証拠で僕を検挙したのか、さっぱり分らないんだ」
「僕だって事件のことはぜんぜん知らないんだよ、ただ君が逮捕されたというので、あわてて面会に来たんだ」
「マーチン、お礼の言葉もないくらいだ、君の恩は一生忘れないからね! じつは今日、君に一肌ぬいでもらおうと、手紙を出そうと思ったんだが、それは明日にしようと思いなおしたんだ、それなのに君は、自分からすすんでとんで来てくれた――それがどれだけ僕にはうれしいか、どういうことを意味するか、君にはちょっと分らないだろうな。このいまわしい嫌疑を、君が信じていないからこそ、面会しに来てくれたんじゃないかね、え、そうだろう?」
「むろん、そうだとも、さ、へこたれちゃだめだぞ、腹に力をいれて落着くのだ、この僕のほかに、君にはまだ味方がついているのだよ。僕の家のものは、君が逮捕されたことをどんなにびっくりしたか、妻も子供たちもほんとにショックだったんだ。容疑はすぐ晴れるから、へこたれちゃ駄目だ、しっかり頑張って、と家のものはみんな君を応援しているんだよ」
「ありがとう、ありがとう」フェリックスは叫ぶと、感きわまって、立ち上り、独房のなかを歩きまわった、「奥さんにも子供さんたちにも伝えてくれ――みなさんの声援で、僕がどんなに心強く思ったかしれないと」
「馬鹿を言うなよ!」マーチンはわざとすげなく言った、「そんなこと、当り前じゃないか、それはそうと、面会時間ものこりわずかだから、これだけは相談しておきたいんだが、だれか弁護士には|あて《ヽヽ》があるのかい?」
「弁護士? ぜんぜん考えてもいないよ。第一、考える余裕なんかなかったし、それにだれに依頼したらいいか、またそれにはどうすればいいか、僕には見当がつかないんだよ、君になにか腹案があるのかい?」
「それだったら、クリフォードだ」
「えっ? なんだって? 僕にはなんのことかさっぱり分らないけど」
「クリフォード・アンド・ルイシャム法律事務所のクリフォード弁護士に依頼したまえ。愛想のないコチコチの男だけどね、頭がよく切れるうえに、なかなか気持ちのいい男なんだ。頼むとしたら、この男だね」
「僕はその弁護士にまるっきり面識がないけど、僕の弁護を引受けてくれるかしら?」
「そいつは大丈夫だ。じつは、ここへ来るまえに彼のところへ寄って、どういう手続きをとれば面会許可が得られるのか、きいてきたのさ。それに僕は、かなり親しい間柄だしね、一応、打診はしておいたんだ。こちらで依頼すれば、その事務所では引受けてくれるというのさ、それに、そのクリフォードが自分で弁護を担当してくれるというのだ。これ以上の弁護士は、まずほかにはいないよ」
「マーチン、君は僕の命の恩人だよ! なにからなにまでほんとうにありがとう! じゃ、その弁護士に正式に依頼してくれないか? だが、待てよ、僕にその費用が払えるかしら? ずいぶん高いんだろうね?」
「どのくらいまでなら出せる?」
「はっきりしたところはわからないが、せいぜい千ポンドぐらいかな」
「それだけあれば大丈夫だよ、それでは、これからすぐ行ってクリフォードに、依頼するからね」
それからほんのしばらく、フェリックスとマーチンは話しあったが、やがて看守が独房のドアをあけた。面会時間がきれたのである。医師は、また面会に来ると約束して、フェリックスをはげまして立ち去った、フェリックスの目には感謝の涙がひかっていた。
マーチンは一刻も早く弁護士の件を片づけてしまおうと思って、すぐその足でクリフォード・アンド・ルイシャム法律事務所にむかった。だが、事務所はもう終っていて、若い事務員が一、二名しか残っていなかった。そこで、医師は翌日また来るからと、そこの事務員に言いおいた。それから、親友のために大活躍をしたのだというなごやかな気持ちになって、妻や子供たちに、今日の報告をしに、家に帰って行った。
翌日の午後、マーチン医師はあらためて法律事務所を訪ねた。
クリフォード弁護士は、フェリックスの弁護を正式に引受けると、言った、
「あらかじめ断っておきますが、訴訟手続きにはかなり時間がかかりますよ。まずはじめに検事側が起訴状を作成する――宣誓証言をあつめたり、その他いろいろなことがある――こいつになかなか時間を喰われるのですよ。むろん、弁護人側もただちに仕事にとりかかりますが、被告に対する検事側の証拠が全部、こちらに分らぬうちは、まずたいした進行はないものと考えなければなりません。したがって、弁護の準備期間には、さらに時間がかかるわけです。もしフェリックスが裁判ということになれば――私の耳に入ったところでは、そうなるものと覚悟しなければならないが――検事側、弁護人側の準備が完了するまでには、数週間、いや数か月はかかるでしょうな。ですから、あなたも私も、忍耐がなによりも第一だということになります」
「ま、そうでしょうね」と医師はつぶやいた、「だいたい法律家というものは、どんなことにでも時間がかかるものですよ」
「なに、お医者さんのように、失敗してもとりかえすわけにいきませんからね。それで私どもは慎重にならざるを得ないのです」弁護士は微笑をうかべながら答えた。
マーチンはポンと膝をたたいた。
「なるほど、そうですか」医師は声を立てて笑った、「こいつはいい、いや、一本やられましたよ、それはそうと、いつまでもお邪魔しているわけにはいかないが、なにかほかに、お話がありますか?」
「そうですね、二つばかり、あるのです。その第一は、ヘップンストールにも依頼してみたらどうかということです――ほら、王室弁護士のルーシャス・ヘップンストールですよ、彼だと、助手が二、三人いるというかもしれないが、それはいいでしょうね?」
「結構ですとも、あなたにいっさいおまかせしたんだから」
「第二は、フェリックスのことで、あなたがご存じのことを、すべて話していただきたいのです」
「じつをいうと、お話しするほど、たいして彼のことを知らないのですよ、いったい、フェリックスのことをどのくらい知っているかと考えてみたんですが、意外と知らないのに、自分でもびっくりしたくらいなんです。私たちが知り合いになったのは四年ばかりまえでした。私のところから二百ヤードほどはなれたところにある、空き家のサン・マロ荘を、フェリックスがちょうど買ったときで、彼は引越してくるそうそう、肺炎にかかってしまったのです。私は往診に行ったのですが、病状が悪く、一時はあやぶまれたのですが、どうにか危機を脱し、その回復期に、私たちは親しい友人になったのです。フェリックスが全快したとき、よかったら私の家に一、二週間泊って静養しないかと、彼にすすめたのです――なにしろサン・マロ荘には、気がきかない家政婦が一人しかいなかったものですからね――そんなことから、妻や子供たちも彼のことがすっかり気に入ってしまって、しまいには、まるで家族の一員のようになってしまったのです。それ以来、フェリックスは、なんの気がねなしに僕のところに出入りしていましてね。ちょくちょく僕の家で食事はするし、そのお礼だといって、うちの子供たちや、ときには妻を芝居につれていってくれるのですよ」
「すると、フェリックスはまったくのひとり暮らしなんですね?」
「そうなんです、もっとも家政婦はいますがね」
「と、あなたは彼と血すじのつながっているものには、ぜんぜん会ったことがないのですね?」
「ええ、ひとりも。その話を聞いたこともないんですよ。兄弟や親戚なんか、一人もいないんじゃないですか。かりにあったにしても、あの男はただの一度だって口にしたことはないんですからね」一瞬、マーチン医師は言いよどんだが、やがてつづけた、「私だけの思いすごしかもしれませんけど、どうもあの男は、女性を避けているような気がしてならないのです。たった一度だけでしたけど、皮肉な口調で、女は金がかかる、とあの男が言ったのをおぼえていますよ。もしかしたら、フェリックスは失恋したのじゃないか、と私はよく思ったくらいです。もっとも、あの男はそんなことをほのめかしもしませんでしたがね」
「いったい、なんで食べているのです?」
「フェリックスは画家なんです、商業区にあるポスター会社で、デザインを描いたり、かなりいい雑誌に插絵なんかもかいているのです。ま、財産があるかどうか知りませんが、ゆとりのある生活はしていたようですね」
「この樽の怪事件について、あなたはなにもご存じない?」
「ええ、てんで知りませんね。ただ一つ、こんなことがありましたよ、ええと――あれはいつだったっけ? そうだ、月曜日だったような気がするが――たしかに四月五日の月曜日でしたよ。私の友人が二人、家へやって来ましてね、ブリッジの三回勝負をやろうということになったのです。そこで私は、フェリックスがやらないかと思って、サン・マロ荘へ誘いに行ったのですよ。夜の八時半ごろでしたね。はじめのうち、フェリックスはなんだかためらっていたのですが、とうとう、ブリッジをしに私の家へ来ることになったのです、そこで私は、サン・マロ荘の中に入り、あの男が着かえるのを待っていました。書斎の煖炉はちょうど火をつけたところだったので、その書斎ばかりか、家の中の空気がひえびえとしていて、とても陰気な感じだったのです。私たちは午前一時近くまで、ブリッジをやりました。そんなことがあってから、突然、フェリックスが精神的なショックで卒倒し、聖トマス病院に入院しているということを、聞いたのです。私は、医師としてではなく、親友として、見舞いに行ったのですが、そのとき、樽のことを、彼は話したのですよ」
「樽のことというと?」
「なんでも、金を入れた樽を送ったという手紙が、フェリックスのところに来たというのです――そのこまかい点は、自分であなたに説明するでしょうが――そこであの男は貨物船からその樽を受けとり、サン・マロ荘へ運んだというのです、ちょうど私が、ブリッジを誘いに行ったのが、その月曜日の夜だったのです。あの晩、せっかく私が誘ったというのに、はじめのうち、なぜあんなにためらったかというのは、その樽があけたくてたまらなかったからだというのですよ」
「どうしてそのとき、フェリックスは、あなたにそれを言わなかったのです?」
「じつは私もそのことをたずねてみたのです、なんでもその樽を受取るについては、船会社と一悶着《ひともんちゃく》あったので、その樽がサン・マロ荘にあるということをだれにも知らせたくなかったというのですよ。つまり、船会社の耳に入るのを警戒したのですね。もっとも、この点については、フェリックス自身に説明してもらったほうがいいと思いますが」
「それは、たずねてみますがね、それにしても、あなたが個人的に知っていることがあれば、みんな、私に話していただきたいのだが」
「いや、ほかにはありませんね」
「フェリックスの友人関係については、分りませんか?」
「ぜんぜん、知りませんね。ただ二度だけ、彼の友人に会ったことがありますが、いずれも画家で、フェリックスのアトリエで絵を見ているところでしたよ。そして夜おそくまでいるようなことはありませんでしたね。昼間、どんな連中と彼が会っているか、そこのところは、私には分らないですね」
しばらくのあいだ、弁護士のクリフォードは黙って考えていた。
「それではと」やがて弁護士は口をひらいた、「今日のところは、このくらいのものでしょう。ま、進行状況はそのつどお知らせするが、おことわりしたように、この裁判は時間がかかりますからね」
マーチン医師は、クリフォードと心のこもった握手を交わすと、厚く礼を言って事務所を出た、またクリフォードは、王室弁護士のヘップンストールに、弁護を依頼する手紙を書くために、机にむかった。
二十二 フェリックスの二度目の陳述
その翌日、弁護士のクリフォードは、さまざまな裁判に要する正式な手続きや、事件関係の資料を当局から手に入れるために一日中忙殺されてしまったおかげで、依頼人であるフェリックスに面会に出かけたのは、その翌々日の午前だった。弁護士が独房をたずねてみると、フェリックスは頭を両手でかかえこみ、陰鬱《いんうつ》きわまる表情で、椅子に腰をおろしていた。しばらく、二人はとりとめのないことを話してから、弁護士は用件に入った。
「ところで、フェリックスさん、この不幸な事件について、あなたが知っていることをひとつのこらず――たとえどんな些細《ささい》なことでも、またとるにたりないようなことでも、全部話していただきたいのです。よろしいですか――つぎの点だけは、絶対に心にきざみつけておいてくださいよ――あなたのような立場におかれた人間にとって、なにか隠し立てをするということは、いわば自殺するようなものです。隠し立てはいっさい禁物です。どんな秘密だろうと、私がきくかぎり、教会のざんげ室同様、絶対に安全ですよ。たとえあなたが過ちをおかしたにしろ、また、おろかしいことや法にふれるようなこと、いや、失礼な言い方だが、現在あなたが嫌疑を受けている犯罪行為をしたとしても、真実を全部、この私に話していただきたい。さもないと、盲人の手を盲人がひくようなものですし、二人は共倒れになってしまうのです」
フェリックスは椅子から立ち上った。
「なにもかもお話します、クリフォードさん、隠し立てなんか、絶対にしません。まずはじめに、くわしくお話するまえに、どうしても一つのことだけ、はっきりさせておかなければなりません」彼は片手をあげた。「わが全能なる神にお誓いします。この事件について、私はあくまで潔白であります」フェリックスは腰をおろした、それから弁護士にむかって口をひらいた、「あなたが私のことを信じてくださるかどうか、それは私が話しおわるまで、おたずねするのはよしましょう。ただ、あなたに私の弁護をおねがいするにあたって、つぎの事実だけは、記録にのこす意味で、はっきりと言っておきたいのです。私は、このいまわしい犯罪について、絶対に無実です。それでは、これからお話しましょう」
「いや、その言葉をきいて、私はほんとにうれしいですよ、フェリックスさん」弁護士のクリフォードはフェリックスの真面目な態度とその熱意に感銘を受けたのだ、「では、はじめから説明してください。ご存じのことをできるだけくわしく、ひとつのこらずおねがいします」
フェリックスには、話術にかけてなかなかの才能があった。彼の異様な物語は、クリフォードの職業的本能に訴えたばかりか、弁護士の心を完全に魅了してしまったのである。
「どこから説明していいのか、ちょっと分らないのですが」とフェリックスは言った、「この事件に直接かかわりのあるそもそもの発端はパリのカフェ『トワソン・ドール』で、私が何人かの友だちと会ったことなのです。ですが、その話に入るまえに、私の経歴と、フランス人である私が、なぜまたロンドンで生活するようになったか、説明する必要があると思うのです。また、そうすれば、あの可哀想なアネット・ボワラックと、私が昔から知り合ったいきさつも、はっきりお分りになると思うのです、どうでしょう、やっぱり説明する必要がありますか、クリフォードさん?」
『説明する必要だと?』弁護士は胸のなかでつぶやいた。彼には、フェリックスが殺害された婦人と昔からの知り合いだという事実が、なにかいまわしい新発見のようにひびいたのである。『必要どころか、そいつはおまえさんにとって一番の鍵だよ』だが、クリフォードは、ただこう答えただけだった。
「そうですね、やっぱり説明していただかねばなりませんな」
「では、私の生い立ちからお話します、いまも言ったように、私はフランス人で、一八八四年にアヴィニヨンで生まれました。ちいさいときから絵を描くのが大好きで、学校の先生たちも、将来ものになる、と折り紙をつけてくれたものですから、ほんの若いときからパリに出て、ドーファン先生の画塾に入ったのです。その塾で、私は何年か勉強しました、その当時、ブール・ミシュのはずれにあるちいさなホテルに、私は住んでいたのです。父も母もこの世を去り、ほんのわずかですが、遺産を相続しました――さほどの金額ではないのですが、それだけあれば、生活には困りませんでした。
その画塾の生徒のなかに、ピエール・ボンショーズという青年がいました。私より四つほど年下でしたが、なかなか魅力のある、とても感じのいい青年でした。たちまち私たちは親友になり、あげくのはては同室に住むようになったのです。しかし、この青年の絵は、あまりたいしたことはありませんでした。そもそも根気というものが欠けている上に、パーティとかトランプ遊びが大好きで、じっくり腰をおちつけて、まじめに絵をかくことができない|たち《ヽヽ》なんですね。ある日この青年が絵にはもううんざりしたから、実業に商売がえするつもりだ、と打ちあけたときも、べつに私はおどろきもしなかったくらいなのです。なんでもお父さんの昔からの友人で、ナルボンヌのぶどう酒を輸出しているロージェ商会の社長に頼みこんだ様子で、やがてその商会に採用されて、彼はそこに就職することになったのです。
ところでその青年が、パリを去る一か月か二か月ばかりまえのことです、従妹《いとこ》にあたるアネット・アンベールというお嬢さんを、この画塾に入れるためにつれてきました。この二人は、従兄妹というよりも、兄妹といった感じでした。私がボンショーズにきいた話では、なんでもこの二人は、ずっと一緒に育てられ、イギリス人のよくいう『仲よし』だということでした。この従妹こそ、クリフォードさん、のちにボワラック夫人となった、薄命の女性なのです。
彼女は絶世の美少女でした。私は一目見た瞬間から、生れてはじめて感じたほど、その美しさにはげしくひかれたのです。これが運命というのでしょうか、その少女と私は二人ともパステル画を勉強していたのです、したがって、いつも一緒に画架をならべていたので、私たちはおたがいの絵に興味をもつようになったのです。そして当然のなりゆきです、私はひそかに彼女に恋してしまったのです。彼女のほうも私に好意をよせていてはくれたものの、彼女はだれにでも親切でやさしかったものですから、私には、自分からすすんで、意中を打ちあけるようなことはとてもできなかったのです。話がながくなりますから、省略しますが、とうとう私は思いきって彼女に求婚したのです。ところがどうでしょう、彼女は承諾してくれたではありませんか、あまりの幸運に、私はまるで夢を見ているような気持ちでした。
そこで私は、まず彼女の父親に、結婚の諒解を得なければならなくなりました。父親のアンベール氏は家柄の古い、名門の出で、その血統に大きな誇りをもっていました。富豪というわけではないのですが、かなり裕福で、ラローシュにある古い館《シャトー》で格式のある生活をおくり、その地方の社交界では幅をきかしておりました。地方の名士である父親に、お嬢さんをいただきたいというような交渉をするのは、だれだって苦手でしょうが、まして私のような、社会的地位のまったくない無名の画学生にとっては、冷汗がにじみでてくるような、なんともいえないつらい経験でした。しかも、私の不吉な予感どおりだったのです。父親のアンベール氏は鄭重に会ってはくれたものの、私の申し入れを、きっぱりとはねつけたのです。娘はまだ若すぎるし、世間のことも、自分自身の気持ちもほんとうにはわかっていない、それに父親としては、娘の将来についてほかに考えがある、というのが、拒絶のおもな理由でした。それからまた、私のような、ひとにぎりの親の遺産しかない、無名の画学生では、名門の家柄の娘と結婚するのは、少々つりあいがとれないではないかと、アンベール氏は暗にほのめかしました。
父親の拒絶が、私たち二人にどんな影響をあたえたか、それはくだくだと説明するまでもないことだと思います。ま、アネットは、悲嘆のあまり一時は自暴自棄におちいりましたが、やがて父親の威光に従わざるをえなくなり、画塾をやめると、南フランスの叔母さんのところにあずけられることになった、というくらいのことにとどめておきましょう。この私といえば、アネットのいない画塾生活にたえられなくなって、私もまたパリをはなれ、このロンドンに移って、いまのグリーア・アンド・フッド商会の専属デザイナーとして、勤めることになったのです。この会社は、フリート街にある広告ポスターを印刷しているのです。会社のサラリーと、漫画雑誌の『パンチ』や、新聞などに、勤めのかたわら描く插絵の画料などで、まもなく私の収入は年千ポンドを超えるようになりました。そこでかねてからの夢を実現しようと、郊外にちいさな住宅を買ってそこに移り、また会社までの通勤用に二人乗りの自動車を手に入れたのです。この郊外住宅、つまりサン・マロ荘ですが、その場所はグレート・ノース・ロードのブレント村のほとりなのです。私はサン・マロ荘におちつくと、年よりの家政婦に来てもらって、独身生活をはじめました。この家の大きな屋根裏に手を入れて、アトリエにすると、かねてから描きたいと思っていた絵にとりかかったのです。
ところが、サン・マロ荘に移ったほんの一か月もしないうちに、私はひどい肺炎をわずらいました。そこで、すぐ近くのマーチン医師に往診をたのんだのですが、それがきっかけで私たちは親友となり、またそのおかげで、今日、あなたに来ていただけるようになったわけです。
こうして二年ばかり、平穏無事に暮らしてきたのですが、ある朝のことです、思いがけなく、パリの画塾時代のピエール・ボンショーズが訪ねてきたのには、うれしくもあり、おどろきもしました。彼の話によりますと、その後、仕事に精励したおかげで、ロンドンの支店長として、こちらに赴任してきたというのです。また、従妹のアネットは、その後一年ばかり、彼の言葉をかりると『すねていた』ということですが、とうとう父親ののぞみどおり、大きな工場を経営しているボワラックという男と結婚した、ピエール・ボンショーズがロンドンに転勤する途中、パリに寄って彼女に会ったが、とても幸福そうな顔をしていた、とも語りました。
ボンショーズと私は、パリ時代の親交をとりもどし、その翌年の夏には、ちょうど二年前のことですが、二人でコンウォールへ徒歩旅行に出かけたのです。私がわざわざこんなことをお話するのは、その徒歩旅行の際、ペンザンスの近くで思いがけない事故に遭い、それが原因で、私たち二人の間柄は、一層親密なものとなったからなのです。二人が、あの岩だらけの海岸の、人影のない入江で泳いでいたときのことです、突然私は、沖にむかって流れる潮流にまきこまれてしまいました、私は必死になって泳ぎまくったのですが、どんどん沖へ流されて行くのです。私の叫び声をききつけたボンショーズは、間髪いれず、私のあとを追って来てくれて、自分の命もかえりみず、波のしずかなところまで、私をつれもどしてくれたのです。そのあとで、彼はごく何気ない顔をしていましたが、私にしてみれば、自分の命まで賭して私を助けてくれたのですから、どうしても彼の犠牲的行為が忘れられず、いつか機会があれば、ボンショーズに恩返しをしようと、心からそう思ったのです。
ところで、さっきも言いましたように、私はロンドンで暮らしてはいたものの、ぜんぜんパリに行かなかったわけではないのです。はじめのうちは、ごくたまにしかパリに行きませんでしたが、あとになってから、ちょいちょい出かけては、画塾時代の友だちに会ったり、フランスの絵描き仲間と交際するようになったのです。ちょうど八か月ほど前のことです、いつものように、パリへ出かけた際、偶然、ある有名な彫刻家の作品展に立ち寄ったのですが、そこで、じつに面白い批評をする男と知り合いになったのです。この男の趣味は彫刻の蒐集でしたが、その審美眼から言ってもあきらかに玄人《くろうと》はだしでした。そのとき、自分の家にある彫刻のコレクションは、個人が蒐集したものでは、世界でもいちばん大きな規模の一つだ、というようなことを、彼は私に話したのです。だんだん親しく話しあっているうちに、その晩、コレクションを見に、家で食事をしないかと、私を誘ってくれました。そこで私は、その男の邸宅を訪問したのですが、着くとすぐ彼は、夫人を私に紹介したのです。ああ、クリフォードさん、そのときの私の気持ちがどんなだったか、分ってくださるでしょうね。その男の妻は、あのアネットだったのです。あまりにも思いがけなかったものですから、とっさに私と彼女は、初対面のような顔で挨拶を交したのですが、あのとき、ボワラックさんが自分のコレクションにかかりきっていなかったなら、きっと彼も、彼女と私のうろたえた表情を見てとったにちがいないですね。もっとも、私たちが晩餐のテーブルについたときは、はじめアネットの顔を見たときの驚きもしずまり、彼女と同席しても、私の心はすこしもみだされはしませんでした。むろん、アネットを讚美する私の気持ちにはいささかも変りがありませんでしたが、あの熱病のような心酔は過去のものとなり、あれほど彼女を熱愛していた炎も、いまではすっかり消え失せてしまっていることに、私は気がついたのです。それに、アネットの態度から、彼女の私にいだいていた感情もまた、私とおなじ変化をたどったことが、私にははっきりと感じられたのです。
ボワラックさんと私は、そのコレクションを通じて親友になりました。それからというものは、私がパリに行くたびに、彼から招待されては何度もその邸宅を訪問したのです。
クリフォードさん、以上が、事件の説明に入るまえの、いわば、私の経歴です。どうも話がこみいってしまったようですけど、できるだけ筋道をたててお話したつもりなのです」
弁護士はしずかに会釈した。「いや、じつにはっきりしたお話ですよ、どうぞ、そのさきを」
「それではこれから、問題の樽の話に入ります、したがって、あの悲劇をめぐる出来事についても、お話することになります。それには、出来事があった日を追って、その発生順に説明していったほうがいいと思うのですが、いかがでしょう? 多少、私の話がまとまりのないものになるとは存じますけど」
弁護士のクリフォードは、ここでもうなずいてみせた。そこでフェリックスは、説明にかかった。
「三月十三日の日曜日、私は週末をすごすためにパリに行き、つぎの月曜日の朝、ロンドンに帰ってきたのです。で、その日曜日の午後、私はふと、ロワイヤル街のカフェ『トワソン・ドール』に入ってみると、ほとんど顔なじみの連中がいるではありませんか。連中は、フランス政府が売出している宝くじについて、さかんに議論しているところでした。その話の途中で、アルフォンス・ル・ゴーティエという男が、私にこう言いました、『僕と|のり《ヽヽ》で、一山あててみる気はないかね』はじめのうち、私はその提案を鼻であしらっていたのですが、話をきいているうちに、とうとうル・ゴーティエと|のり《ヽヽ》で宝くじを千フラン買う約束をしてしまったのです。そこで、宝くじを買うのは彼が引き受け、もしあたったら、儲けは二人で|せっぱん《ヽヽヽヽ》ということに相談がまとまったのです。私は五百フランを彼に払いこんだのですが、宝くじなんか、あたりっこないと思いこんでいたものですから、共同で買ったなどということはすっかり忘れてしまいました。
私がロンドンに帰って一週間すると、ボンショーズが私のところに訪ねて来たのです。一目見て、彼が参っている様子が私には分ったのですが、話をきくと、その事情がはっきりのみこめました。なんでもトランプの賭博でひどく負けこみ、その金を払うために高利貸しから借りたのですが、いま、その借金のために矢のような催促を受けているというのです。私がいろいろとたずねてみますと、いままでの借金はだいたい返済したが、あと六百ポンド残っているという話です。ところが、その六百ポンドがなんとしても工面できないというありさまで、もし三月三十一日までに、つまりその一週間以内に、その金ができないとすると、彼は破滅するよりほかにないというのです。その話をきくと、私はほんとうに腹をたてました。もうそれまでに、おなじような急場を、二度も金を出して、救ってやったのですし、そのたびにボンショーズは、金輪際《こんりんざい》トランプには手をふれないと、私のまえで誓ったのですからね。もういくら金を出してやっても、それこそ焼石に水だと私は思ったのですが、といって、二人の親しい仲を考えたり、また海で命を助けてもらったときの恩を思うと、破滅寸前の親友を見殺しにするわけにはいかないのです。すると、ボンショーズは私の胸のなかを読んだものか、これまでに再三迷惑をかけたことは、自分でもよく知っているし、今回はそのことで頼みに来たわけではないときっぱり言うのです。そして、従妹のアネットに目下の苦境を手紙に書き、なにも金をくれというのではない、四分の利息をつけるから、一時その金を貸してもらえないかと、頼んだと言うのです。そこで私は、彼と真剣に相談してみました、といって、私の口からは金を貸してやるとは言いませんでしたが、金ができるかどうかその報告だけはしてくれるように、彼に言ってやったのです。じつは、ボンショーズに面とむかって言いはしませんでしたが、いざというときには、その六百ポンドを出してやろうと、私は肚をきめていたのです。
『この金曜日にパリへ行く予定だ』と私はさいごにつけ加えました、『土曜日にはボワラック氏邸の晩餐会に出ようと思っているから、そのときアネットが君の借金の件を僕に相談したら、君がひどく困っている事情を、よく説明しておくよ』
『おい、彼女に水をさすようなことだけは、どうか言わないでくれよ』と彼は懇願しました。そこで私は、『大丈夫だとも、水をさすような真似は絶対にしないよ』と言ってやったのです。するとボンショーズは、アネットの返事がききたいから、私がパリから帰ってくるとき駅まで迎えに行く、いつロンドンに帰るか教えてくれと、たずねました。で、私は、日曜日にブーローニュ経由で帰る予定だと答えたのです。
その週末、つまりカフェ『トワソン・ドール』で宝くじのことを相談しあったちょうどその二週間後に、私はまた、パリへ行きました。土曜日の朝、ドーファン先生のアトリエにでも行ってみようと考えながら、コンティネンタル・ホテルの一室で、私が椅子に腰をおろしていると、そのとき、一通の手紙がとどきました。それはアネットの手紙で、内密に話したいことがあるから、晩餐会のはじまる十五分ほどまえに、つまり午後七時三十分ごろ来ていただけないか、その返事は、手紙を持参した使いのものに口頭で伝えてほしい、という文面でした。そこで私は、その使いのものに、指定の時間にうかがうからとことづけてやったのです。その使いは、アネットの小間使のシュザンヌだったのです。
言われたとおりの時間に、私はボワラック邸に着いたのですが、アネットの姿は見えませんでした。玄関から中に入ると、ちょうどボワラックさんがホールを通りかかりました、彼は私に気がつくと見本に送って来たエッチングがあるから、見てみないかと、私を彼の書斎にさそいました。むろん、いやだというわけにはいきません。私たちは書斎に行って、そのエッチングを観賞しました。すると、その書斎に、もう一つ、私の注意を強く惹きつけたものがあったのです。絨緞の上に置いてあったのは、大きな樽だったのです。クリフォードさん、こんなことを言っても、あなたには到底信じてもらえないでしょうが、なんとその樽は、あわれなアネットの死体を詰めて、私宛に送られた樽と同一のものか、さもなければそれとまったく瓜《うり》二つの樽だったのです!」
フェリックスは、そこで言葉を切った。この意味深長な説明を、弁護士の心に強くきざみつけようと、彼はあきらかに考えたのだ。だが、クリフォードはかるく会釈しただけで、こう言っただけだった。
「フェリックスさん、どうぞ、その先を」
「書斎に置いてあるにしては、いかにも場ちがいな感じがしたものですから、私はその樽に、興味をいだいたのです。そこで、その樽のことをボワラックさんにたずねますと、つい最近彫像を買ったのだが、これは特別製の梱包用の樽なのだ、と彼は説明してくれました」
「ボワラックさんは、その彫像のことは、なにも説明しなかったのですか?」と、弁護士がたずねた。フェリックスの話をさえぎったのは、これがはじめてだった。
「ええべつに、ただとても美しい群像だと言っただけでしたね、このつぎ、私が訪ねたとき、見せてくれると、約束してくれましたが」
「その彫像をどこで手に入れたか、その値段はいくらだったか、という話をしましたか?」
「いや、そんなことはなにも言いませんでしたよ。その群像の話は、私たちが書斎を出るとき、たまたま出ただけですから」
「そうですか、ありがとう、どうぞ、そのさきを」
「私たちがサロンに行きますと、もう何人か客が来ていました、そんなわけで、アネットと内密な話をかわすことはできませんでした。
その夜の晩餐会は、かなり重要な催しでした。なにせスペイン大使が主賓として招かれていたのですからね。ところが、その最中に、ボワラックさんは、自分の工場で思いがけない事故が突発したおかげで、現場へ急行してほしいと、社から呼び出されてしまったのです。そこで彼は、中座する非礼を一同に詫びて、用がすみ次第、すぐもどってくると言いおいて、工場へかけつけて行ったのですが、それからしばらくすると、事故が想像以上に大きいから、帰宅するのはずっとおそくなるか、あるいは一晩中工場にいなければならないかもしれないと、電話をかけてきたのです。客たちは、十一時ごろになると、ぞろぞろ帰りはじめましたが、私はアネットの合図で、みんながひきあげたあとも、ひとりだけ残っていたのです。私たちが二人だけになると、アネットは、ボンショーズから手紙をもらったが、どうしていいかわからないので、とても困っていると言いました。ボンショーズがいくら借金で首がまわらなかろうと、そんなことは自分の知ったことじゃない、いっそのこと、この際ひどい目にあったほうが、かえって彼の身のためだと思うくらいだ、と彼女は言うのです。ただアネットが心配している点は、放っておいたら、ボンショーズは、ほんものの賭博者になってしまうのじゃないか、ということなのです。そこで、彼に対する腹臓のない意見をきかせてほしいと、彼女は私にたのみました。
で、私は、率直に自分の思っていることを話したのです。ほんとのところ、ボンショーズには、悪いところなど少しもないのだが、ただ不良仲間とつきあっているのがいけないのだ、だから、そういう連中となんとかして手を切らせるより方法がない、と言ったのです。するとアネットも、この意見に賛成して、ボンショーズが悪い連中とスッパリ手が切れるものなら、金を出してやる、さもなければ相談にのらないほうがいい、と言いました。そこで、彼女と私は、その金をどうねん出するか、話しあってみたのです。彼女には都合のつく金が三百ポンドだけしかないようで、夫のボワラックさんに相談してみたところで、駄目なことは彼女にも分っているらしく、そういうわけで残額の三百ポンドを夫に頼みたくなかったのですね。そこで、アネットは、自分の宝石を二つ売ると言い出しました。そして、宝石を渡すから、それを売って金をつくってくれないか、と私にたのむのです。しかし私には、どうしてもそれに同意する気にはなれませんでした。そこで、もし彼女が三百ポンド出してくれるなら、残額の三百ポンドは私がなんとか工面する、と言ったのです。はじめのうちは、アネットは頑として私の意見をききいれませんでした。私たちははげしく議論しあったのですが、とうとう最後には、私の主張が通りました。彼女は二階に上って行くと、金を持ってきました。そこで、ボンショーズの借金の件が片づき次第、報告すると彼女に約束して、私はすぐ、ボワラック邸を出たのです。アネットはなんといってもボンショーズのことを心から気にかけていましたから、とてもうれしかったのでしょうね。その翌日、つまり日曜日に、私はロンドンに帰ったのです」
「フェリックスさん、たしかあなたは」とクリフォードが口をはさんだ、「客がみんなひきあげたのは十一時だったと、言いましたね?」
「ええ、だいたいそんな時刻でした」
「で、あなたがボワラック邸を出たのは何時だったのです?」
「十二時十五分前くらいでした」
「すると、あなたとアネットさんは、四十五分ばかり話をしていたことになりますね、ところで、あなたが帰るのを、だれか見てましたか?」
「いや、アネットだけでした。彼女は玄関のドアのところまで、送ってきてくれたのです」
「それから、あなたはホテルへ帰ったのでしょう?」
「そうです」
「何時にホテルに着きました?」
「たしか午前一時半ごろだったと思います」
「ボワラック邸からコンティネンタル・ホテルまで、歩いても十五分ぐらいしかかかりませんが、それではいったい、あなたはなにをしていたのです?」
「目がすっかりさえてしまいましたし、散歩でもすれば、気持ちがよくなるかと思ったのです。パリをはしからはしまで歩きましたよ、リヴォリ街からバスティーユ広場まで、それから大通りを歩いてホテルに帰ったのです」
「そのとき、知っている人に会いましたか?」
「いや、思い出せませんね」
「これはきわめて重大なことですよ、フェリックスさん、さ、もう一度よく考えてください、その散歩の途中で、あなたに会ったことを証言できる人は、だれもいないのですか? たとえばカフェの給仕とか、係りのものとか?」
「いや、会いませんでしたね」フェリックスは、しばらく考えていてから、言った、「だれにも話しかけたおぼえがありませんし、それにカフェには一軒も入りませんでした」
「そのあくる日、ロンドンに帰ったと言いましたね。そのとき、知っているひとに会いましたか?」
「ええ、会いました、しかし、証人にはなりませんね。フォークストーン行の連絡船で、グラディス・ディヴァイン嬢に会ったのです、だが、彼女には、その証言ができなくなってしまいました。きっとご存じだと思うのですが、それから一週間後に、突然、死亡したのですからね」
「グラディス・ディヴァイン嬢? あの有名な女優の?」
「そのとおりです。よく、パリのパーティで、彼女とは会っていたのです」
「しかし、それならその裏づけが得られそうなものじゃありませんか? 有名な女優というものは、とかく人目につくものですからな。では、彼女の船室を訪ねたのですね?」
「いや、デッキで会ったのですよ。彼女は、煙突のかげに腰をおろしていました、そこで三十分ばかり、私は彼女と話していたんです」
「それにしても、あなたがたが一緒にいるところをだれかが見かけたでしょう?」
「そうも考えられますが、まず駄目でしょうね。なにしろ、その日は海がすごく荒れていたのです。客の大部分が船酔《ふなよい》にかかっていましたから。いずれにしろ、デッキを散歩しているものは、ひとりもいませんでした」
「ディヴァイン嬢の女中はどうしていました?」
「私は見かけませんでしたね」
「いいですか、フェリックスさん、私が帰ったら、これだけのことはじっくりと考えてくださいよ、まず第一に、晩餐会のあった土曜日の、夜の十一時から一時半までのあいだの、あなたの話を裏づけてくれる証拠がないか? 第二は、フォークストーン行の連絡船で、あなたが女優のディヴァイン嬢と一緒にいたところを見かけたものがないか? この二点ですよ。では、その先きを」
「汽車がロンドンに着くと、ボンショーズが、チャリング・クロス駅まで、私を迎えに来ていました。彼は、アネットの返事が知りたくて、首を長くしていたわけです。私たちは車で彼のアパートへ行きました。そこで私は、アネットと相談した結果を話してやったのです。賭博仲間とスッパリ手を切るという条件なら、六百ポンド渡そうじゃないかと、私は彼に言ったのです。すると彼は、もう悪い仲間とぜんぜんつきあっていないと断言するので、私は金を渡してやりました。それから私たちはサヴォイ・ホテルへ車で行って、早目に夕食をすませ、私はボンショーズと別れて、サン・マロ荘に帰ったのです」
「それは何時でした?」
「八時半ごろです」
「なにに乗って帰ったのです?」
「タクシーでした」
「どこから?」
「サヴォイ・ホテルの守衛が呼んでくれたのです」
「では、その先きを」
「それから、たいへんな手紙が私のところに来たのです」フェリックスはこう言うと、それが『ル・ゴーティエ』名義のタイプライターで打った手紙だったこと、その手紙にしたがって、樽を貨物船からせしめる準備をしたこと、聖キャザリン埠頭へ行ったこと、船会社の事務員のブロートン青年や埠頭事務所の所長に会ったこと、|I《アイ》・アンド・|C《シー》の用箋をごまかしたこと、仲仕頭《なかしがしら》のハークネスに見せる手紙を偽造したこと、サン・マロ荘へ樽を運んだこと、マーチン医師の家で夕食をご馳走になったこと、バーンリー警部と真夜中に自宅の書斎で会見したこと、樽が紛失したこと、やっとのことで、樽が発見されたこと、樽をあけたこと、樽の中から無惨な死体が出て来たこと――これらのことをクリフォードに話していったのである。「さて、クリフォードさん、泣いても笑っても、この事件について私が知っているのは、これだけです」
「いや、あなたがちゃんとお話しになったことは、たいへんよかったと思いますね。ところでと、もうほかにおたずねすることがないかどうか、考えてみますから、ちょっと失礼」
クリフォードはこう言うと、いままでの話を書きとめた厚いノートを、ゆっくりとめくっていった。
「そうですね、第一の点は」やがて弁護士は口をひらいた、「あなたとボワラック夫人とのあいだが、どの程度まで親密だったか、ということなのですが、彼女が結婚してから、あなたは何度ぐらい会っているのです?」
フェリックスはちょっと考えた。
「そうですね、六回ばかり、いや八回か九回にはなりますね、しかしそれ以上ということは絶対にありません」
「あの晩餐会の夜をのぞいたら、あなたが夫人とあう場合、かならず夫のボワラック氏がそばにいましたか?」
「いや、そうでないときもありましたね、そのうち、すくなくとも二回は、午後、ボワラック邸をたずねて、彼女だけに会ったことがあります」
「ま、こんなことはいまさら言うまでもないことですが、私には正直に話してくださいよ。これまでに、あなたと夫人とは、なにか恋愛的感情をいだいたか、もしくは、人に聞かれてはまずいような話をしたことが一度でもありますか?」
「絶対にそんなことはありません。ボワラックさんに見られたり聞かれたりして困るようなことは、ただの一ぺんもしていないと、きっぱり言いきれます」
弁護士のクリフォードは、ここでまた熟考した。
「それではと、あなたがパリから帰って来た日曜日の夜、つまり、ボンショーズと夕食をとって別れたときから、翌日の月曜日に、聖キャザリン埠頭へ樽を取りに行くまでのあいだのことを、できるだけくわしく、正確に説明していただきたいのです」
「ええ、それはお話できますとも。私はボンショーズと別れると、さっきも言ったとおり、サン・マロ荘へ車で帰り、九時半ごろ着いたのです。ちょうど家政婦は休暇をとっているところだったので、その足ですぐブレント村へ行き、明日から家に来て朝食をつくってもらう通いの女中を手配してきたのです。この女中は、前にも頼んだことがあるのです。私も会社から一週間休暇をもらっていましたので、毎日おなじようなことをして、すごしました。朝は七時半ごろ起きると、朝食をとり、それから屋根裏のアトリエに入って、絵を描きました。臨時の女中は、私の朝食がすむと自分の家に帰ってしまいますので、昼食は私ひとりでとります。午後は、また絵を描きつづけ、夜は夕食をたべにロンドンへ出かけ、たいてい芝居を観に行きました。いつもサン・マロ荘にかえってくるのは、十一時から十二時のあいだでしたね。土曜日は、一日絵を描くのはやめて、ロンドンに出ると、樽を貨物船からせしめる準備をしたのです」
「すると、水曜日の午前十時には、あなたはアトリエで絵を描いていたわけですね?」
「ええ、そうですよ、しかし、なんだって特別にその日の時間をおたずねになるんです?」
「そのわけはのちほど説明します。ところで、その時刻に実際に絵を描いていたという証明がありますか? たとえば、お宅のアトリエにだれかが訪ねて来たとか、あなたがアトリエにいるところをだれかが見かけたとか?」
「その証人はいないと思います」
「臨時の女中はどうなんですか? ついでに、その女中の名前も?」
「ブリジット・マーフィーというおかみさんです。その女中には、私がなにをしているか、ちょっと分らないと思いますがね。実際のところ、女中と顔をあわせる機会がありませんからね。私が寝室から階下におりて行くと、もう朝食の支度がちゃんとできていましたし、朝食がおわると、私はアトリエに入ってしまうのです。その女中が自分の家に帰るのも、私には分りませんが、おそらく、とても早いうちに帰ってしまうのではないかと思うのです」
「朝食は何時です?」
「たてまえは八時ということになっているのですが、なかなかそういうわけにはいきませんでした」
「問題の水曜日に、あなたは朝食を何時にたべたか、おぼえていませんか、またそれが証明できるような方法がないものですかね?」
フェリックスはじっと考えこんだ。
「いや、考えつきませんね」と彼は答えた、「なにしろ、その水曜日の朝も、ふだんとまったく変らなかったのですから」
「そこのところがきわめて重大なんですからね、ひょっとすると、女中のマーフィーがおぼえているかもしれませんな?」
「まず、そんなことはないでしょうね」
「もうほかには証明できるものがいないのですか? お客さんか、ご用聞きはひとりも来なかったのですか?」
「ええ、だれも。玄関のベルを鳴らしたものも、一、二あったようですが、絵を描いていたものですから、私は出ていかなかったのです。その日は、べつに訪問客の予定もありませんでしたから、私はしらん顔をしていたのです」
「それはまずかったですね、ところで、ロンドンで夕食をとるときは、どこの店ですか、それからどこへ行くのです?」
「毎晩、レストランはちがっていましたし、芝居は、むろんおなじみのものは観ませんからね」
弁護士のクリフォードは、それからさらに質問をつづけて、フェリックスが、休暇のあいだに行った場所を、ひとつのこらず、リストにまとめあげた。つまり、クリフォードの意図は、フェリックスの行ったさきざきを虱《しらみ》つぶしにあたってみて、フェリックスのアリバイの裏づけとなるネタを探そうというのである。しかし、弁護士がこれまでにきき出したところでは、いずれも失望するようなものばかりだった。このぶんだと、仕事の見通しは、ますます厄介なことになるぞ、とクリフォードは思わずにはいられなかった。弁護士はさらに質問を続行した。
「さて、ル・ゴーティエ名義の、タイプライターで打った手紙のことですがね、それを受取ったとき、あなたは本物だと思ったのですか?」
「ええ、そう思いましたね。むろん、その文面は、じつに馬鹿げたとんでもないものだと思いましたが、それがにせ手紙だとは夢にも思わなかったのです。そうじゃありませんか、私はほんとにル・ゴーティエと|のり《ヽヽ》で宝くじを買ったのですし、運さえよければ、五万フランになるのですからね。私もはじめは、こいつはル・ゴーティエのいたずらではないかと思ったのですが、考えてみると、彼はわるふざけをするような人間ではありませんから、やっぱり本気でこんな手紙をよこしたのだと、私はきめてしまったのです」
「で、あなたはル・ゴーティエに手紙を出すか、電報を打つかしたのですか?」
「あの日は、私が夜おそくサン・マロ荘に帰ったものですから、その手紙を見ても、すぐ返事を出すわけにはいかなかったのです。そこで、こちらからパリへ行くから、樽は送るなと、翌朝電報を打ってやろうと思ったのです、ところが、あくる日の朝、葉書が来て、これもまたタイプライターで打ってあり、『ル・ゴーティエ』名義で、樽はすでに発送した、と言って来たのです。このことは、うっかりして、あなたに言い忘れていたのですが」
クリフォードはうなずくと、あらためてそのノートを繰ってみた。
「あなたは、パリのデュピエール商会に注文の手紙を出して、彫像を西ジャブ街のあなた宛に送るように言いましたか?」
「いいえ」
「サン・マロ荘の、書斎の机の上にあった、吸取紙をおぼえていますか?」
「ええ、おぼえていますとも」フェリックスはびっくりした顔で言った。
「その吸取紙をなくしたおぼえはないのですか?」
「知っているかぎりでは、ありませんね」
「吸取紙を、フランスへ持って行ったことがありますか?」
「一度もありませんよ」
「それならば、フェリックスさん」弁護士はゆっくりと言った、「どうしてその吸取紙に、あなたの筆蹟で、注文の手紙を書いた文字の跡が残っていたか、そこのところをどう説明するのです?」
フェリックスはパッと立ち上った。
「なんですって!」思わず彼は声をあげた、「それは、どういう意味なんです? この私の筆蹟? そんな馬鹿な! 絶対にあり得ないことです!」
「しかし、私はこの目で見たのですよ」
「あなたが見たんですと?」フェリックスははげしい身ぶりを示しながら、興奮して独房のなかを歩きまわった。「クリフォードさん、冗談もいい加減にしてくれませんか。注文の手紙など、私は書いたことはないのですよ。あなたは誤解しているんだ」
「はっきり言いますが、フェリックスさん、私は誤解などしていないのです、その吸取紙にありありとしみこんでいるインクの跡を見たばかりか、デュピエール商会に来たその注文の手紙までちゃんと見ているのですからね?」
フェリックスは椅子に腰をおろすと、目がくらんだみたいに、額に片手をやった。
「なにがなんだかさっぱり分らない。私の注文の手紙など、あなたが見るわけはありませんよ、はじめっから、そんな手紙はないんだから。あなたが見たのは、にせ手紙にきまっている」
「では、吸取紙に|れっき《ヽヽヽ》としてのこっている文字の跡は?」
「そんなことは、私の知ったことですか! 私には、これっぽっちも心あたりのないことなんです、そうだ、分りましたよ」ここで彼は口調をかえた、「なんかのトリックです。あなたがその目で見たという以上、私もその言葉を信じないわけにはいきませんからね。しかし、そいつはトリックですよ、絶対にそうだ」
「なるほど、もしトリックなら、じつは私もあなたの意見に同意したいところですがね、それでは、いったい、だれが、そんなトリックをしかけたというのです? そのためには、なにものかがあなたの書斎に入りこみ、その場で|にせ《ヽヽ》の注文の手紙を書くか、あるいは机の上にある吸取紙を盗み出し、小細工をしてから、またもとにもどしておかなければなりません。いったい、だれに、そんな真似ができるというのです?」
「私にはわかりません、そんなことは誰にもできないし――またやろうと思えば、だれにだってできることですからね。しかし、そんな真似をしそうな人間は、私にはぜんぜん思いあたりませんね。その注文の手紙というのは、いつ、着いたのです?」
「デュピエール商会にその手紙が来たのは、三月三十日の火曜日の朝です。ロンドン郵便局の消印がついていたから、日曜日の夜か、月曜日に、ロンドンで投函されたものにちがいないのです。ちょうどあの晩餐会の翌日、つまり、あなたがロンドンに着いた夜か、そのつぎの日にあたるわけです」
「私の外出中なら、あのサン・マロ荘には、入ろうと思えば、だれだって入れますからね。あなたの話が事実なら、だれかが忍びこんだにちがいない、それにしても、侵入した形跡は、見あたりませんでしたが」
「ところで、フェリックスさん、エミーというのはなにものです?」
フェリックスは目を見はった。
「エミーですって? いったい、なんです、それは?」
弁護士のクリフォードは、フェリックスの顔を穴のあくほど見つめながら言った。
「あなたの悲嘆にくれるエミーですよ」
「ねえ、クリフォードさん、あなたの言うことは、まるっきり私にはチンプンカンプンなのですよ。『あなたの悲嘆にくれるエミー』とは、いったい、なんのことなんです?」
「しらばっくれるのはやめていただきたいものですな、フェリックスさん、つい最近、どうか捨てないでほしいという哀願の手紙をあなたによこし、『悲嘆にくれるエミー』と署名してあったその女は、だれなのです?」
フェリックスはあきれはてて、クリフォードの顔を見つめた。
「こいつは、あなたが気が狂っているか、私が気が狂っているか、どっちかだ」フェリックスはゆっくり言った、「どんな女にしろ、どうか捨てないでくれなどという手紙を、もらったことは、一度もないし、エミーという女からどういう用件であれ、手紙が来たことなど、生れてからいっぺんもないのですからね。いったい、どういうわけなんです?」
「それでは、ほかのことをたずねましょう、フェリックスさん、たしかあなたは、濃紺の背広を二着持っていますね?」
フェリックスはびっくりした表情のままで、うなずいた。
「その二着の背広を、あなたが最後に着た日が知りたいのですよ?」
「そんなことなら、分りますよ。その一着は、パリへ旅行したときも、またつぎの土曜日に樽を貨物船からせしめる準備にロンドンへ出たときも、それから月曜日と、それに引きつづき私が入院するまで着てたのです。現に、ここでもその背広を着ているのですからね。もう一着のほうは古くなってしまって、もう何か月も着たことはないのですよ」
「では、エミーのことや背広のことをたずねた理由を説明します。あなたの濃紺の背広、いまの話にあったように、それは古いほうの服ですが、その上衣のポケットの中に、『おなつかしきレオンさま』という書き出しで、『あなたの悲嘆にくれるエミー』でおわっている一通の手紙が入っていたのです。その手紙の文面は――いや、ここにその写しがあるから、読んでみてください」
フェリックスはまるで狐につままれたような顔で、その写しを読んでいった。読みおわると、彼は弁護士に顔をむけた。
「誓って言いますが、クリフォードさん」と彼は真剣な口調で言った、「あなたと同様、私にもさっぱりわけが分らないのです。こんな手紙は、もらったおぼえがありません。いままで見たこともないのです。エミーという名前だって初耳です。こいつは、なにからなにまででっちあげられたものですよ。いったいどうしてこんな手紙が、私の服のポケットへ入っていたのか、私には見当もつかないのですが、私の関知するところでないということだけは、きっぱりと、あなたに断言できます」
クリフォードはうなずいた。
「よく分りました、では、あと一つだけ、たずねたいことがあるのです。サン・マロ荘の書斎にかかっている絹綿ビロードのカーテンの前に、背のまるい皮張りの肘掛椅子が置いてありますね?」
「ええ、あります」
「では、胸に手をあててよく考えてください、その椅子に、最後にかけた女性はだれですか?」
「そんなことなら考えるまでもないことです。あの椅子を買ってから、腰をおろした女性は一人もないのですよ。私がサン・マロ荘に引越してから、訪ねて来た女性は、ごくわずかですが、いずれも絵に関心のあるものばかりで、アトリエだけにしか入らなかったのです」
「では、フェリックスさん、かさねておたずねするが、どうか我慢してくださいよ、その椅子に、ボワラック夫人が腰かけたことがありましたか?」
「名誉にかけて、あなたに誓います、夫人は、一度もあの椅子にかけたことはありません。サン・マロ荘に訪ねて来たこともないのですし、おそらく、ロンドンに来たことさえないと、私は思うのです」
弁護士はうなずいた。
「ところで、もう一つ、|いや《ヽヽ》なことを話さなければならないのです。じつは、その椅子のかげになっている、絹綿ビロードのカーテンの縁に、ピンが――それもダイヤモンドのピンがひっかかっていたのですよ。そのピンは、フェリックスさん、あの晩餐会の夜、ボワラック夫人のイヴニング・ドレスの肩についていたブローチなのです」
さすがのフェリックスも、いまは口をきく元気もなく、ただ茫然《ぼうぜん》と椅子に腰をおろしたまま、弁護士の顔を見つめているばかりだった。その顔から血の気が失せ、その目には恐怖の色がありありとうかんでいた。薄暗い陰気な独房には、死のような沈黙がおとずれた。その壁は、これまでにも、かずかずの悲惨と苦悩の物語をきいてきたのだ。フェリックスを、するどい視線で見まもっていた弁護士のクリフォードの胸に、一時消えかけていた疑念の火が、このときまた、パッと燃えあがった。この男は、芝居をしているのではないか? もしそうなら、なんという名優だ、だが……ついにフェリックスは身を動かした。
「ああ!」彼はかすれた声でつぶやいた、「まさに夢だ! もう絶体絶命だ。見事に私は罠《わな》にかかったのだ、しかもその罠は、じわじわと私の死命を制してくるのだ。いったいこれは、どういうことなんです、クリフォードさん? だれが、こんな罠をかけたんです? 私には、ひとに怨まれる筋合いはないんです、だが、だれかが、この私のことを目の敵《かたき》にしているんだ」彼は絶望に身をよじった。「もう駄目だ、これでもまだ、私がたすかる見込みがあるというのですか、クリフォードさん? あるんなら言ってください」
しかし、それがどのような疑念の火であろうと、フェリックスはなにか隠しているぞ、と弁護士はにらんだ。
「あきらめるのは、まだ早すぎますよ」とクリフォードはごくさりげない口調で答えた、「こういった難事件では、ちょっとしたささいな事実が、なにかの偶然から発見されたおかげで、一挙に事件が解決したという例を、私はいままでに、しばしば経験して知っているのですよ。ま、あなたも絶望しないことです。まだ手をつけたばかりじゃありませんか。とにかく一、二週間待ってください、それから、私の考えを話すことにしましょう」
「ありがとうございます、クリフォードさん、おかげで、あかるい気持ちになりました。それにしても、ダイヤモンドのピンのことですが、あれはどういうことなんでしょうか? なにか、おそろしい罠に、私はかけられているのです。その罠をあばくことはできないものでしょうか?」
弁護士は腰をあげた。
「私たちの仕事はそれですよ、フェリックスさん、では、もう帰らなければなりません、いいですね、元気を出すんですよ。どんな証拠でもよろしい、あなたの裏づけになるようなものを思いついたら、私にすぐ知らせてください」
弁護士のクリフォードは、握手をすると、独房から出て行った。
二十三 クリフォードの活動
その夜、クリフォードは食事をすませると、書斎に入った。夜分はまだ冷えるので、大きな肘掛椅子を煖炉のまえにひきよせると、彼は葉巻に火をつけて、フェリックスの事件を、その詳細にわたって冷静に頭にきざみつけたのである。彼がフェリックスの話に気ぬけがしたというのでは、その気持ちをそのまま表現したことにはならないだろう。がっかりしたというより、彼はむしょうに残念でたまらないのである。クリフォードにしてみれば、依頼人であるフェリックスが、弁護の方針がすぐにでもたてられるような内容を話してくれるものと思ってもいたし、それがまた希望でもあったのだが、今日のあの話の調子では、いったいどこに弁護の手がかりをもとめていいか、見当もつかないのである。
おまけに、考えれば考えるほど、前途の見通しはまっくらなように思われる。弁護士は、頭のなかで、事件の材料をきちんと整理して、その事実を一つ一つ、フェリックスが白か黒かという問題にむすびつけて検討していった。
まず第一の基本問題は、あの晩餐会の夜、午後十一時から午前一時十五分までのあいだに、アルマ通りのボワラック邸でいかなることが起こったか、ということである。午後十一時には、アネット・ボワラックはピンピンしていたのである。ところが、午前一時十五分には、彼女は姿を消してしまったのだ。現在までに判明したかぎり、生きている彼女を見た最後の人物は、フェリックスである。したがって、彼に彼女の失踪の手がかりをもとめるのは、理の当然なのだ。ところが、フェリックスは、なにひとつ、その手がかりになるものをあたえてくれなかった。
たしかに彼は、夫人とひそかに会った動機を説明してくれた。それが真実か否かは、ボンショーズの借金の件を調べてみれば、はっきりすると、クリフォードは考えた。だが、たとえ真実だということが確認されたにしろ、フェリックスの殺人容疑が、どこまで弱められるものか、彼には分らなかった。それだけでは、どう考えても無罪の証明にはなるまい。いや、実際のところ、そんな話が二人のあいだでかわされたのなら、その相談こそ、夫人の失踪の間接的原因だ、と検事側から主張されるかもしれない。ボンショーズの借金の件が、フェリックスに、夫人と二人だけで会う機会をあたえたのだ。もし、そんな話がなかったら、フェリックスには、あの夜、彼女と会う機会などなかったのである。そして、これがきっかけで、いままで眠っていた情熱がかき立てられなかったとは、けっして言えないではないか。だめだ、これは、むしろフェリックスにとって不利な材料だ。
また、フェリックスがボワラック邸を出てからの陳述も、おなじように有利な材料にはならなかった。午後十一時四十五分までボワラック夫人と相談してから、午前一時三十分までパリを歩きまわった、と彼は言っていた。しかし、じつにおかしな偶然だが、フェリックスはボワラック邸を出るときも、夫人だけにしか見送られず、街を歩いているときでも、顔見知りの人間にはだれにも会わず、どこのカフェにも入らなかったという。偶然にしては、話がうまくできすぎていはしないか、とクリフォードは疑った、これはむしろ、フェリックスが真理を語っていないということの反証になるまいか?
こんどは、ボワラック邸の玄関のドアの音のことを、弁護士は思い出した。執事のフランソワは、玄関のドアのしまる音を、午前一時に耳にしたと証言している。もしフェリックスが午後十一時四十分に邸を出たのなら、いったい、だれがそのドアを閉めたのか? クリフォードに考えられるかぎりでは、フェリックスが午後十一時四十五分に出たと陳述したのはまっかな嘘か、あるいは、ボワラック夫人があとから一人でぬけ出したのか、そのいずれかにちがいない、ということだった。だが、弁護士には、そのどちらが事実なのか分らなかった、そのうえ、いちばん困るのは、それを発見する方法がないように思われることだった。
これとおなじように、弁護人側にとって、なんら有利な材料になりえないのは、フォークストーン行の連絡船で毛皮のコートの女性に会ったという、フェリックスの話だった。たとえその女性が女優のディヴァイン嬢だったにしろ、ボワラック夫人がイギリスに渡らなかったという証拠にはならないのだ。夫人と一緒に連絡船に乗っていたフェリックスが、おなじ船で、偶然その女優を見かけ、それからほどなく女優が突然死亡すると、そのことから、いつわりの陳述を思いついたのではなかろうか? いや、かりにドーヴァ海峡を渡ったときのフェリックスの話が、ひとつのこらず裏づけられたとしても、いっこうに有利な材料とはならないのである。
それにしても、フェリックスが自分のアリバイを証明できないことのほうが、さらに重大だった。クリフォードは、フェリックスから陳述をきけば、きっと弁護の手がかりになるものが得られると期待していただけに、その落胆はいっそうひどかった。弁護士は、現在までに判明している事実に、ざっと目をとおした。樽を輸送する手配をした一人の男、または男たちの所在が確認されているのは、ウォータールー駅にあらわれた水曜日の午前十時と、パリの北停車場にあらわれた木曜日の午後五時十五分である。クリフォードは大陸旅行案内を取り出して調べた。それによると、ロンドンにいるものがその時刻にパリにいるためには、木曜日の午前九時発の列車で、ロンドンのチャリング・クロス駅をたたなければならない、そしてロンドンにもどってくるのは、どんなに早くても、金曜日の午前五時三十五分以後ということになる。したがってフェリックスは、水曜日の午前十時のアリバイか、または木曜日の午前九時から金曜日の午前五時三十分までのアリバイが証明さえすれば、この事件における彼の容疑は大部分晴れることになる。ところが、そのアリバイが、彼には証明できなかったのだ。
クリフォードは、フェリックスの陳述を書きとめておいたノートを繰ってみた。それによると、水曜日の午前十時には、フェリックスはサン・マロ荘のアトリエで絵をかいていたことになっている。ところが、あいにくと家政婦が休暇をとっているうえに、臨時の女中も朝食の支度さえすれば家にかえってもいいという約束だったので、フェリックスがアトリエにいたことを証明するものはいないのである。しかも、じつに馬鹿馬鹿しい話だが、玄関のベルを鳴らしたものがいたというのに、仕事を邪魔されるのがいやなものだから、フェリックスは玄関のドアをあけなかったというのである。そのとき、ドアをあけさえすれば、彼の容疑は晴れたかもしれないのだ。
さてつぎに、木曜日と木曜日の夜について考えてみよう。フェリックスが、チャリング・クロス駅午前九時発の汽車に乗るためには、おそくとも八時五分までに、サン・マロ荘を出なければならない。彼の陳述によると、朝食は八時でなければ支度ができないのだから、食べるひまはないはずである。しかし、二、三分で食器をよごし、中のものをすててしまえば、いかにも食事をすませたように見せかけるのはわけなくできることである。いずれこの問題は、女中にあたってみればわかるはずだ。そこで、クリフォードは女中に会うまでは、保留しておくより仕方がなかった。
弁護士はノートに目をもどした。フェリックスの話によると、彼は朝食をすませると、おひるにココアを一杯飲んだだけで、午後六時半まで絵を描きつづけていたことになる。それから服を着かえると、ロンドンに出て、レストラン『グレシャム』に入り、そこでひとりで夕食をとった。この有名なレストランで、彼はひとりも顔見知りのものに会っていないにしろ、その店の給仕か守衛か、ほかの係りのものなら、フェリックスが店で食事をしたのをおぼえているかもしれない。彼は、九時ごろレストランを出た、疲れていたので、そのまままっすぐサン・マロ荘に帰った。それから翌朝の七時三十分まで、つまり女中のマーフィーがノックして、それに答える彼の声をきくまでのあいだというものは、フェリックスが自宅にいたということを証明できるのは、だれひとりいないのである。
ところで、もし彼が北停車場で樽を受取るために、パリに行ったとしても、やはり翌朝の午前七時半までには、ちゃんとサン・マロ荘に帰ってこられるのだ。したがって、女中のノックに答えたというだけでは、彼がその夜から朝まで自宅にいたという証拠にはならないのである。もしフェリックスの陳述が真実だったとしたら、このぐらい確証に見はなされた陳述というものもないのだから、不運の一語につきると言わざるを得ない。だがしかし、フェリックスの陳述ははたして真実であるか?
それにまた、バーンリー警部がサン・マロ荘で発見した三つの証拠である、『エミー』の手紙、吸取紙に残っている文字。ダイヤモンドのピン、このうち、たった一つだけでも、フェリックスにとっては致命的なのに、それが三つもそろえば、それこそ決定的ではないか。それにもかかわらず、フェリックスは一言も説明しようとはしないのだ。ただ、知らぬ存ぜぬの一点張りなのである。かんじんの被告に、この三つの致命的な事実が説明できないとあれば、いったい、弁護人のクリフォードにどんな手が打てるというのか?
だがそれにしても、あらゆる材料のなかで、フェリックスがボワラック夫人との昔のつながりを認めたことぐらい、弁護士を意気銷沈させたことはなかった。実際のところ、もしフェリックスがまったく見ず知らずの人間として、ボワラック家に出入りするようになったとしても、夫人と恋に落ち、彼女を説きふせて駈落ちしたかもしれないのだ。だが、もし彼が、見ず知らずの人間どころか、昔、結婚するまえのボワラック夫人とはげしい恋愛をしたのみならず、結婚まで約束した仲だとすれば、二人がボワラック邸から駈落ちする公算はきわめて大きなものとなる。頭脳の明敏な弁護士なら、ボワラック夫人の身になって考えた場合、どう想像するか? おそらくいやでたまらないいまの夫と無理矢理に結婚させられ、味気ないみじめな生活をおくっている彼女のまえに、突然、ほんとうに好きだった昔の恋人が姿をあらわす……その男性も、不幸な結婚にしばりつけられている彼女に思いがけなくめぐりあうと、その男の胸に、一度はあきらめた恋の火が、ふたたびめらめらと燃えあがる……もうそうなれば、駈落ちは火を見るよりもあきらかではないか。もし、クリフォードがフェリックスから聞き出したこの事実を、刑事裁判所がつかんだなら、フェリックスは死刑の宣告を受けるにちがいないと、弁護士には思われた。いや、正直のところ、彼としても、この事件について考えれば考えるほど、フェリックスの白はますます疑わしくなってくるのだ。まず弁護士に考えられるかぎりでは、フェリックスにとってどうにか有利だと思われる点は、ただ一つ――樽の中から出てきた死体を見たときの、あの彼のショックなのである。そしてこれは、およそ医学的証言の問題であって、反対の証拠が提出されることもあきらかである……クリフォードは、この点にすら、ほとんど絶望せざるを得なかった。
と、弁護士は、なにもフェリックスを裁くのが、自分の仕事ではないと、思いなおした。無罪だろうと、有罪だろうと、フェリックスのために全力をつくして弁護にあたるのが、自分のつとめではないか。だが、全力をつくすには、いかなる手段を講ずべきか?
夜がしらじらとあけるまで、クリフォードは椅子に腰をおろしたまま、葉巻をくゆらして、この事件を熟考し、あらゆる観点から検討してみたのだが、その答はなかなか得られなかった。しかし、当然決めなければならぬ弁護の方針を発見するにはいたらなかったとはいえ、ただちに打つべき手は、あきらかだった。なにをおいてもまず、ボンショーズ、女中のマーフィー、それからフェリックスの話に出てきたいろいろな連中と会ってみなければならぬ。それは、彼の陳述の裏づけを得るばかりでなく、なにかほかにも新しい事実がきき出せるかもしれないからだ。
その翌朝、早速弁護士は、ピエール・ボンショーズが住んでいるケンシントンの、アパートの階段をのぼって行った。しかし、クリフォードの|あて《ヽヽ》はすっかりはずれてしまった。ボンショーズは、社用のため南部フランスに出張中で、三、四日しなければ帰らないという話だった。
「そうか、これでフェリックスが逮捕されたというのに、ボンショーズが会いに来なかったわけがわかった」弁護士はひとり言をつぶやいて、アパートを出ると、こんどはフェリックスの女中にあってみようと、タクシーを呼んだ。
それから一時間もすると、彼の車はグレート・ノース・ロードの、ブレント村に着いた、そして女中のマーフィーが住んでいる田舎家《いなかや》をきいて、たずねていった。玄関のドアを開けたのは、若いときはスラッと背が高かったのにいまではもうすっかりしなびてしまった婆さんだった、その苦労につかれはてたするどい顔と灰色の髪は、この女の絶えまない不幸の生活をあきらかに物語っていた。
「こんにちは」弁護士はていねいに帽子をぬぐと、口をひらいた。
「マーフィーさんですね?」
「はい、そうですが、どうぞ、おはいりくださいませんか」
「ありがとう」クリフォードは、いかにもみすぼらしいちいさな居間に案内されると、女がすすめる使いふるされた椅子にソッと腰をおろした。
「もうご存じでしょうね、この近くのサン・マロ荘のフェリックスさんが、たいへんな容疑で逮捕されたことは?」
「はい、知っております、ほんとうにお気の毒ですよ、あんな、立派な、おだやかな方が」
「ところで、マーフィーさん、私はクリフォードというものです、こんど、フェリックスさんから依頼を受けた弁護士です。ひとつ、フェリックスさんのために、少々私のたずねることに答えてくれませんか?」
「はい、よろこんで」
「ここのところ家政婦さんが休暇をとっているあいだ、あなたはフェリックスさんの世話をしていたわけですね?」
「はい、そうです」
「で、フェリックスさんが、その仕事をあなたに頼んだのはいつのことです?」
「日曜日の夜です。ちょうど寝ようと思ったところへ、あの方がお見えになりましてね」
「それでは、サン・マロ荘で、あなたは毎日、どういう仕事をするのか、くわしく説明してくれませんか」
「わたしは朝うかがうことになっていました、煖炉に火をつけますと、朝食の用意にかかります。それからお部屋の掃除、洗いもの、昼食の支度をしておきます。フェリックスさんは、おひるになりますと、ご自分で昼食をおとりになり、夜の食事はロンドンでなさいます」
「そうですか、で、朝は、何時にサン・マロ荘に行くのです?」
「七時ごろです。七時半に寝室に声をかけ、あの方は八時に朝食をおとりになるので」
「あなたが帰るのは何時ごろです?」
「きちんときまっていたわけではありませんが、だいたい午前十時半か十一時ごろ、もっとおそくなるときもありますが」
「あの週の水曜日のことをおぼえていますか? 午前十時には、まだあなたはサン・マロ荘にいたのでしょう?」
「はい、おりました、十時前に帰ったことは一度もありませんので」
「なるほど、ではおたずねするが、その水曜日の午前十時には、フェリックスさんは家にいましたか?」
「たしかにおいでだったと思いますが」
「いや、私ははっきりしたことが知りたいのです。彼が在宅していたと、はっきり言えますか?」
「さあ、そう言われると、うけあいかねるのですが」
「では、マーフィーさん、その翌日の木曜日には、フェリックスさんの顔を見ましたか?」
女はためらった。
「そうですね、二、三日は、たしかにお会いしましたが」と女はやっと言った、「それが木曜日であったかどうかは、はっきりしませんね、たぶん木曜日だったような気もしますが」
「木曜日の朝、フェリックスさんは何時に朝食をとったか、おぼえていませんか?」
「さあ、それは、ちょっと」
女中のマーフィーは、なかなか血のめぐりのいい女だとはいえ、証人として役に立たないことは、クリフォードにはあきらかだった。ひきつづき、かなり長いこと弁護士はねばりつづけて、根掘り葉掘りたずねてみたのだが、証言になるようなものはつかめなかった。臨時の女中を頼みに行ったというフェリックスの陳述は、マーフィーの言葉で裏づけられたものの、あわよくば水曜日から木曜日にかけてのフェリックスのアリバイを成立させようとした弁護士の期待は、みごとに打ちくだかれてしまった。
クリフォードがロンドンにひきかえしたのは、午後一時ごろだった。そこで彼は、レストラン『グレシャム』で昼食をとるかたわら、店のものにフェリックスのことをあたってやろうと考えた。
はじめに給仕頭にあたってみた、この男自身はなにも知らなかったが、弁護士から渡されたフェリックスの写真をほかの給仕たちに見せてまわり、とうとう、その写真の顔に見おぼえのある給仕を探しあててくれたのである。その給仕の話によると、フェリックスは五、六週間前の夜、この店で食事したというのだった。この給仕はイタリア人で、はじめフェリックスのことを同国人かと思ったものだから、よくおぼえているというのである。だがしかし、残念なことには、その日時をはっきりおぼえていないのである。そしてクリフォードが知り得たかぎりでは、ほかの給仕はだれ一人、フェリックスを見かけたものはいなかった。ここでも弁護士は、女中のマーフィー同様に、この給仕の話も、証言としてはまったく無力だということを、みとめざるを得なかった。クリフォード個人の判断では、その給仕の言葉で、フェリックスの陳述を確認してもいいような気持ちがしてきたし、フェリックスという人間を次第に信用するようになってきた。だが、これはあくまで個人的な印象であって、法廷では通用しないのだ。
彼は事務所にもどると、ボンショーズに手紙を書いた、緊急を要する用件があるから、ロンドンに帰り次第、当事務所までおいでを乞う、という文面である。
その翌日も、クリフォードはブレント村へ出かけて行った。フェリックスの陳述によると、あの問題の週、彼は毎晩、ロンドンへ汽車で行ったということである。そこで弁護士は、もしかしたら駅員のなかで、彼を見かけたものがいるかもしれない、と思いついたわけである。彼は駅員を片端しからあたってみた、そしてとうとうひとりの改札係を見つけたのだ。この駅員は、自発的に情報の提供を買って出てくれたのである。その改札係の話によると、フェリックスは規則正しい乗客だったという。まるで判でも押すみたいに、彼は毎朝八時五十七分の汽車に乗り、夕方は六時五分の汽車できちんと帰ってきている。ところが、数日間かだけ、フェリックスは朝夕ともおなじみの汽車に乗らなくなり、そのかわり夜だけ六時二十分か六時四十七分の汽車に乗るようになったことに、改札係は気がついたのである。もっとも、この改札係は、午後七時から交替するので、フェリックスの帰りについては、なにひとつ知らないと言うのである。なお、クリフォードがたしかめ得たかぎりでは、ほかの駅員で、フェリックスの帰りを知っているものは、ひとりもいなかった。しかもあいにくと、フェリックスが朝夕の通勤をやめて、夜だけ乗車するようになったのは、いつからという点になると、その改札係にもはっきりしたことが言えなかったし、問題の木曜日の夜に、彼がロンドンへ行ったかどうかも、その駅員には証言できなかった。
そこでクリフォードは、あの運命の木曜日に、フェリックスを見かけた人でも、近所にいるかもしれないぞ、と思って、サン・マロ荘まで歩いて行った。だが、その期待もむなしかった。サン・マロ荘の隣近所には、一軒も家などないのである。
つぎに打つべき手を考えあぐみながら、クリフォードは事務所にひきあげた。ところが、切迫した他の仕事が待ちかまえていたおかげで、その日はむろんのこと、つぎの二日間も、その仕事に追いまわされてフェリックスの事件に取組むひまがない始末だった。
それからちょうど四日目の朝、王室弁護士のルーシャス・ヘップンストールから手紙が来た。その手紙はデンマークの首都、コペンハーゲンから出したもので、文面は、仕事で当地に来ているが、一週間以内に帰国する予定、帰国したら早速会って、フェリックスの事件の弁護に協力してあたりたい、という旨だった。
クリフォードがその手紙をすっかり読みおわらぬうちに、ひとりの青年が彼をたずねて来た。背が高く、痩せぎすの青年で、髪も目の色も黒く、それに小さな黒い口髭とみじかい鉤鼻《かぎばな》とが、ちょっと鷹《たか》のような印象を、弁護士にあたえた。
『ボンショーズだな』とクリフォードは胸のなかでつぶやいた、やっぱりにらんだとおりだった。
「フェリックス氏が逮捕されたのをご存じなかったのですか?」弁護士はその青年に肘掛椅子をすすめると、シガレット・ケースを差し出してこうたずねた。
「ええ、ぜんぜん」ボンショーズは、フランスなまりはあるが、なかなか達者な英語で答えた。彼の物腰は活発でキビキビしていた、そして、まるでいらいらしているように、からだをたえず動かしている。「あなたからお手紙をいただいて、ほんとにびっくりしました。すごいショックですよ。それにしても、こんな馬鹿な話があるものでしょうか――滅茶苦茶じゃありませんか! かりにもフェリックスを知っているものなら、そんなだいそれたことが仕出かせないくらいのことは、だれだって知っているはずです。きっとなにかの間違いですね? こんな容疑はすぐ晴れますね?」
「それが、なかなか、そういうわけにはいかないのですよ、ボンショーズさん、まことに不幸なことに、フェリックス氏の容疑はきわめて濃厚なのです。いまのところ、情況証拠だけで不利な材料がじつに多いのですよ。ま、正直なところ、私には弁護の方針が立たないくらいなのです」
ボンショーズは愕然《がくぜん》とした表情をしめした。
「嘘だ! おどかさないでください!」青年は叫んだ、「おねがいです、おどかさないでください。まさか有罪のおそれがあるなんて、言うんじゃないでしょうね?」
「いや、遺憾ながら、そうなのです。有罪の公算はきわめて大きいのです――現在われわれが知っている以上の事実が、ぞくぞくと出てこないかぎりはね」
「ああ、なんということだ!」ボンショーズは両の手をしぼった。「ひどすぎます! あの可哀そうなアネットが殺されたと思ったら、こんどはフェリックスとは! しかし、まさか、万事休すだと、いうのじゃないでしょうね?」青年のその口調には、心配と不安のひびきがこもっていた。
クリフォードにはそれがなにより満足だった。フェリックスに対する、この青年の愛情と信頼感は、嘘いつわりのないものなのだ。このような友情を相手にいだかせるような人間なら、フェリックスは悪人であるはずがない。弁護士は、ここで口調を変えた。
「いやいや、ボンショーズさん、なにもそういう意味で言ったのではないのです。つまり、この戦いはなまはんかなものではないということを強調したかったからです、そこで、フェリックス氏のお友だちに、ぜひとも応援していただきたいのです。じつはロンドンにお帰りになり次第、当事務所まで来ていただくようにおねがいしたのも、いよいよ活動をはじめることになったからです」
「今朝早くロンドンに着いたその足で、まだ事務所が開くまえに駈けつけたのですよ。もうこれだけで、僕の熱意が分っていただけると思うのですが」
「いや、むろんそうでしょうとも、ボンショーズさん、それでは、フェリックス氏のことや、どういういきさつでお二人がお友だちになったか、また現在までの交友状況など、できるだけくわしくお話しねがいたいのです、それにまた、あなたの従妹にあたる、ご不幸なボワラック夫人のこともひとつ」
「では、お話しします。はっきりしない点が出てきましたら、そのつど、おたずねになってください」
ボンショーズは、自分とアネットとの関係――二人はラローシュのアンドレ・アンベール(死亡)の妹娘と長男のそれぞれ子供で、従兄妹同士であること――から説明をはじめて、二人の幼年時代のこと、二人ともちいさいときから絵が好きだったこと、パリのドーファン先生の画塾に入ったこと、その画塾でフェリックスと友だちになったこと、フェリックスがアネットに恋をしたことなどを話していった、それから、ボンショーズがナルボンヌのワイン商会に勤めるようになったこと、ロンドンに転勤したこと、フェリックスと再会したこと、トランプがどうしてもやめられなかったこと、フェリックスがいつもその尻ぬぐいをしてくれたこと、最近また、トランプの賭博で負けこみ、その借金で首がまわらなくなり、破滅寸前に追いつめられたこと、そこで、アネットに手紙で泣きついたこと、フェリックスにこの件でアネットに会ってくれるように頼んだこと、フェリックスがロンドンに帰ってきた日曜日の夜、チャリング・クロス駅まで出迎えに行ったこと、二人で夕食をたべたこと、そのときフェリックスから六百ポンド受取ったこと、フェリックスはサン・マロ荘へタクシーに乗って帰っていったところまでこまごまと説明したのである。
このボンショーズの話は、女中のマーフィー、レストラン『グレシャム』の給仕、それにブレント駅の改札係の話と、まるっきり共通しているではないか、とクリフォードは胸の中で思った、ま、いまの話をきけば、フェリックスの陳述が確認されたし、彼が白であるという信念はますます強められはしたものの、このボンショーズの話だけでは、法廷に出してもほとんど通用しないと、弁護士は考えざるを得ないのである。現在、クリフォードは、フェリックスの陳述の大部分を、裏づけ得る立場にあるということは、事実だった。だが、最大の弱点は、フェリックスの陳述の大部分が立派に裏づけられたとしても、フェリックスの無罪を立証することにはならないということである。こう考えてくると、クリフォードには、一切のことが、事前に打ち合せがついていたのではないかという疑念を、頭から追い払うわけにはいかないのである。
弁護士はボンショーズに根掘り葉掘りたずねていった。だが、ひとつとして新しい事実をつかむことはできなかった。この青年は水曜日にも木曜日にもフェリックスとは会っていなかった、したがってフェリックスのアリバイの裏づけには、なんの|たし《ヽヽ》にもならなかった。クリフォードは、このさき、いくらたずねてみたところで、獲物はないと見てとると、いずれ、仕事の進行状況は連絡するからと約束して、鄭重にボンショーズを送り出した。
二十四 ジョルジュ・ラ・トゥーシェ
それから数日のち、クリフォードの家で、彼と王室弁護士ルーシャス・ヘップンストールは、夕食をともにした。二人は親友だった。食事をしてから、フェリックスの事件について、ゆっくり相談するのが主眼だった。ヘップンストールがデンマークからロンドンに帰って来たのは、思ったよりもすこし早かった。そのおかげで、検察当局から受取った事件関係の書類にも、クリフォードの、あの分厚いノートにも、王室弁護士はすでによく目を通していたのである。それからまた、二人は一緒に、フェリックスと、ボンショーズにも会い、そのほかにもちょっとした調査をしたのであるが、収穫といえるただ一つのものは、突然死亡した女優のディヴァイン嬢が、あの日曜日に、連絡船でフランスのカレーからイギリスのフォークストーンに渡航したこと、そのとき、召使いたちがひどい船酔いにかかっていたので、デッキに出たのは、女優ひとりだったという事実だった。その夜の相談は、被告側の綿密な作戦を立て、その弁護の方針を明確に打ち出すことにあった。
だが、一口に方針を決定するといっても、その難かしさは、クリフォードにも王室弁護士にも、身にしみて感じられるのである。これまでに二人がそれぞれ手がけてきた事件では、まず全部といっていいくらい、弁護の方針がじつに明確だったのである。もっとも、考えられる方針が二つも三つも出てくる場合はしばしばあるが、そのなかから、最上の方針を選択するのに、一苦労すればいいわけである。ところが、フェリックスの弁護の難かしさは、まるっきり方針のたてようがないという点にあった。
「まずなにを措《お》いても決めてかからなければならぬことはだね」王室弁護士ヘップンストールは、安楽椅子の背に身をなげかけながら言った、「このフェリックスという男が、無罪なのか有罪なのか、そこのところをわれわれはどちらに仮定するかだよ。君自身はどうにらんでいるのだね?」
クリフォードは、ややあってから口をひらいた。「いや、それが見当もつかないのだよ。たしかに、フェリックスの態度、人柄といったものが、僕に好印象をあたえることは事実なのだ。彼の陳述にしても、聞いていると信用せざるを得なくなるのだよ。つい最近、君と二人で会った連中の話も、フェリックスの陳述の大部分と符合するじゃないか。おまけに、証言した連中は、フェリックスに好意をよせているし、また頭から信頼しきっていることが、一目で分る。たとえば医師のマーチンだ、あの男はなかなかうるさくて、口やかましい人間だが、けっして馬鹿ではないからね。彼はフェリックスのことをよく知っていて、無罪にするためだったら、われわれに払う弁護料を自分で持つと言ったくらい、フェリックスを信頼しておるんだよ。こういうことは、やっぱり考えに入れなければね。それにフェリックスの陳述にだって、絶対にあり得ないという点は、なにひとつないのだ。彼の話したとおりのことが、実際に起こったのかもしれないのだよ。それから、あの樽をあけて、中から死体が出て来たときの、卒倒するくらいフェリックスの受けたショックは、彼にとってきわめて有利な材料になると思うのだ」
「だが、しかし?」
「そうなのだ、いずれの場合にも、『だがしかし』というやつがあとにつくのだよ」
「すると、君自身にははっきりした意見がないのだね?」
「白か黒か、というようには言えないのだ。ま、強いて言えば白にかたむいているのだが、きっぱりと断定するわけには、どうしてもいかないのだ」
「僕も、ほぼ君と同意見だよ」と王室弁護士はポツンと言った。そのまま口をとじてしまったが、ややあってから、「フェリックスの事件について、熟考を重ねてみたのだが、証拠から判断すると、フェリックスを無罪にできる余地はひとつもないのだ。あまりにも不利な材料が揃いすぎているのだよ。その材料が事実だとしたら、フェリックスの有罪は文句なしだ。そこで、われわれにとってただ一つの希望は、その不利な材料を頭から否定する以外に道はないように思われるのだ」
「頭から否定する?」
「そうだ、否定するのだよ、フェリックスが真犯人か、さもなければ濡《ぬ》れ衣《ぎぬ》を着せられたのか、君だって、そのいずれかだということはみとめるはずだ」
「それはそうだとも」
「そうか、それならば、われわれの方針はあくまでその線で行こうではないか。つまり、フェリックスは真犯人の罠《わな》にかかったのだ、それゆえに、彼に対する不利な証拠は真実のものではない、という線だ、どうだね、この方針は?」
「いや、真相が事実そのとおりであったとしても、僕はいささかもおどろかんね。僕もさんざん頭をしぼったのだ。考えれば考えるほど、サン・マロ荘で発見されたあの三つの証拠物件がうさんくさくなってくるのだよ。エミーの手紙、吸取紙にのこっている文字の跡、ダイヤモンドのピン。これでは、あまりにもおあつらえむきすぎるではないか、かえって不自然な感じがする。いかにも、ここには証拠がちゃんと揃っていますといった調子だ、真犯人がフェリックスに濡れ衣を着せるために道具だてをしたように思えてくる。それに、あんなタイプライターで打った手紙など、だれにだってらくらくと偽造できるしね。ま、君のにらんだとおりでも、僕には当然としか思えないくらいだ」
「いずれにしろ、その線が、われわれにとって最上の弁護方針だと思うね」
「いや、唯一の血路だよ。だがね、君、その理論は机上ではいたって簡単だが、いざ実際に証拠をあつめて裏づけるとなると、まさに至難の業《わざ》だぞ」
「それには手段はただ一つ」ヘップンストールは、すぐそばにある瓶からウィスキーを自分で注ぐと言った、「われわれの手で、ほかに真犯人がいるということを示すのだ」
「真犯人をわれわれが見つけるくらいなら、この事件からあっさり手を引いたほうが早いではないか。ロンドン警視庁とパリ警視庁が血眼になって探したにもかかわらず真犯人が逮捕できないというのなら、われわれにできるはずがないよ」
「どうも君には、僕の言うことが、よくのみこめないようだね。なにも真犯人を見つけるとは言っていない。ただ真犯人が、フェリックスのほかにいるということを示すだけでいいのだよ。つまり、われわれの仕事は、フェリックス以外の人間で、ボワラック夫人殺害の動機をもち、夫人を殺して、その罪をフェリックスになすりつけるために罠を仕掛けたものがいるということを、指摘できればことたりるのだ。そうなれば、真犯人はフェリックスか、あるいはほかの人間か、という二者択一の疑問が起こってくる。そして、その疑問が根拠のあるものと見なされるようになれば、フェリックスの立場はずっと有利になるわけだ」
「それにしても、被告側が直面している問題はすこしも片づかないよ。もうひとりの人間、つまり真犯人を見つけ出さないかぎり、依然として困難はあるのだ」
「とにかく、やってみる以外に手はない。犬も歩けば棒にあたるからな。それではと、第一の設問は――もしフェリックスが白ならば、だれがもっとも真犯人と考えられるか?」
一瞬、沈黙があたりを支配した、やがてヘップンストールが言葉をつづけた。
「いや、質問をこう変えたほうがいいかもしれない――もっとも真犯人らしからぬものはだれか?」
「その答はただ一つしかないようだね」とクリフォードが言った、「この事件の性質から判断すれば、当然ボワラックに嫌疑がかけられなければならない。だが、きくところによると、警視庁はボワラックを徹底的に洗ったが、結果は白と出たというではないか」
「それはボワラックのアリバイが|もの《ヽヽ》を言ったからだよ。しかしね、言うまでもないことだが、アリバイというやつは、でっちあげがきくからね」
「むろんそうさ、しかし警視庁は、ボワラックのアリバイは正真正銘のものだという結論に達したのだ。その捜査経過については、こまかいことは分らないが、アリバイの裏づけ調査は手ぬかりなく行われたという話だ」
「ま、いずれにせよ、現在までに得られた材料から判断するとだね、フェリックスが白なら、ボワラックは黒だと仮定してもいいと思うのだ。この事件には、いかなる第三者も関係しているような形跡は、ぜんぜん見あたらない。したがって、ボワラックに犯行の動機があったこと、夫人を殺害できたこと、フェリックスに罠が仕掛けられたことを、われわれが示すことさえできるなら、それで充分なのだ。なにもボワラックの有罪を立証して見せる必要はないのだよ」
「たしかに、それはそうだね、すると、第二の設問は――ボワラックの動機はなにか?」
「その答は、簡単に出てくる。もしボワラックが、妻がフェリックスによろめいたのを嗅ぎつけたとすれば、もうそれだけで、彼に殺意が生じたことを説明できるではないか」
「そうだ、それなら、フェリックスに濡れ衣を着せるために、ボワラックが罠を仕掛けた理由の解答にもなるわけだ。その第一の理由は、警察の容疑を他に転嫁して、わが身はのがれるため、その第二は、わが家の幸福を破壊した男に復讐《ふくしゅう》するため」
「まさにそのとおりだ。この動機なら、だれだって納得できるはずだよ。では、第三の設問――いつ、死体を樽に詰めかえたか?」
「警視庁では、ロンドンで詰めかえたものとにらんでいるのだ、その理由は、ロンドン以外の場所では詰めかえる機会がないというのだよ」
「なるほど、その推理はまず完璧《かんぺき》に近いと、僕にも思われるね。すると、いいかね、もしその推理が事実どおりだとしたら、ボワラックが真犯人だとすると、彼は死体を樽につめるために、ロンドンへやって来たことになる」
「しかし、ボワラックのアリバイは?」
「アリバイの問題はひとまず伏せておくことにしよう。とにかく、ボワラックが妻のあとを追ってロンドンに来る、ロンドンで、彼は妻を殺害するというのが、われわれの弁護の血路なのだからね。ところで、われわれに、そのときのボワラックの行動と足どりを、ことこまかに推定して示すことができるか? 彼はあの日曜日の午前一時すぎに自宅に帰り、妻がいないことを知る。妻の置手紙で、彼女がフェリックスと駈落ちしたことが分る。それから彼はどうするか?」
クリフォードは椅子から乗り出すと、からだをかがめて、煖炉の火をかき立てた。
「じつは、僕もそのことをじっくりと考えてみたのだ」と彼はややためらいがちに言った、「そして、考えられるだけの推理をたててみたのだよ。むろん、なんの裏づけもない|あて《ヽヽ》推量にすぎんのだがね。しかし、ある程度まで事実と符合するのだよ」
「さ、話してくれないか、当然、いまの段階では、推理を立てるにしろ、|あて《ヽヽ》推量以外に手はないのだからね」
「僕の想像ではこうなのだ――まずボワラックは、日曜日の午前一時すぎに、妻の駈落ちを知ると、まるで気が狂ったみたいになり、椅子に腰をおろしたまま、復讐の手はずを考える。たぶん、朝になると、彼は北停車場に行って、二人が汽車に乗りこむのを見とどけただろう。ボワラックは二人のあとを追って、ロンドンにやってくる、あるいは北停車場で、すくなくともフェリックスだけは見つけて、そのままロンドンに渡る。ボワラック夫人は人目につかないようにべつのコースを選んだかもしれない。駈落ちした二人がサン・マロ荘にたどりついたのをかぎつけるまでには、ボワラックの復讐計画はでき上る。彼は、サン・マロ荘に二人だけしかいないことを知ると、二人が外出するまで、根気よく見張っている。やがて、二人が家を留守にすると、ボワラックは忍びこむ、たとえば、開いている窓から、中に入りこめばいいわけだ。まず彼はフェリックスの机にむかって腰をおろすと、デュピエール商会宛に、すでに自分が買いもとめてある彫像の姉妹品を注文する|にせ《ヽヽ》の手紙を書く。つまり、ボワラックは妻を殺害する計画だったから、その死体を詰める樽を手に入れたいために、こんな手紙を書いたわけだ。フェリックスに嫌疑をかけるために、手紙の字体は画家の筆蹟に似せて書き、机の上の吸取紙で吸い取る。また、おなじ理由から、その手紙にはフェリックスの名前をサインする。しかし、送ってくる樽を手に入れるのが目的だから、フェリックスの住所はでたらめに書いておく」
「すばらしい!」ヘップンストールが言葉をはさんだ。
「やがてボワラックは、その手紙をもってサン・マロ荘を出ると、ポストに投げ入れ、パリのデュピエール商会に電話をかけ、注文した樽がいつ発送され、どういう径路でロンドンに輸送されるかをたしかめる。それから、運送屋に荷馬車を一台たのむと、その馬車でパリから着いたばかりの樽を引取り、まっすぐサン・マロ荘には運ばせないで、その近くで待っているように馬方に言いつける。それと同時に、ボワラックは、手紙か電報か、ちょっとしたトリックを使って、フェリックスをサン・マロ荘からおびき出し、自分の妻だけを家の中にのこすようにする。ころあいを見はからって、ボワラックは玄関のベルを鳴らす、夫人がドアをあける。彼はそのままズカズカとあがりこむと、書斎のちいさなまる背の椅子に妻をおしこめて絞殺する。そのとき、ダイヤモンドのピンが夫人のドレスの襟もとから抜け落ちるが、ボワラックには分らない。彼は待たせてある馬方のところにもどると、サン・マロ荘の中庭まで樽を運ばせる。それから馬方を近くの宿屋へ食事にやり、そのすきをねらって、樽をあけ、中の彫像を処分して、妻の死体に詰めかえて、もとどおりに荷造りする。そのうちに食事から馬方がもどってくる、ボワラックは、翌朝パリへその樽を発送するように、馬方に言いつけて、荷馬車をかえす。フェリックスの容疑をさらに深めるために、彼はあらかじめ用意しておいたエミーの手紙を、フェリックスの上着のポケットにねじこんでおく」
「すごいぞ」ヘップンストールはまた言葉をはさんだ。
「その足で、ボワラックはパリにひきかえすと、北停車場で、自分が送った樽を受取り、こんどはその樽をカルディネ街の貨物駅から、フェリックス宛に発送する。そして、どうしてもフェリックスが、その樽を貨物船からせしめてこなければならなくなるような、奸智《かんち》にたけた手紙を、ボワラックはタイプライターで打って出す。フェリックスは、まんまとその手にのって、樽をせしめ、そのために、警察から追及される|はめ《ヽヽ》になる」
「いや、おどろいたね、クリフォード、君もなかなかやるじゃないか、君の推理が、事実とスレスレのところへ行ったとしても、僕はべつにおどろかないくらいだよ、しかしだね、実際にそのとおりのことが、サン・マロ荘で起こったとしたら、フェリックスだって、なにか言うはずだと思うのだが、そこのところはどうかね?」
「じつは僕もそう思うんだが、また一方、フェリックスの身にとってみれば、ボワラック夫人の美しい思い出をそのままそっとしておきたかったのかもしれないね、もし、そうなら、彼にはとても喋る気になれなかったはずだ」
「臨時のあの女中は?」
「たしかに、こいつも問題だね、しかし利口な女というものは、なかなか尻尾を出さないからね」
「いまの君の推理だと、かなりいろいろなことの説明がつくよ。よし、この推理をわれわれの調査の土台にしようじゃないか。ところで、この推理を適用すると、どういうことになるか、ここでまた考えてみよう」
「つまりだね、いまの推理で行くと、ボワラックは、あの晩餐会のあと、日曜日の夜か月曜日には、フェリックスと妻の様子をさぐるためと、注文の|にせ《ヽヽ》手紙を書くために、ロンドンに来ていたことになるし、また、水曜日にも妻を殺害するためと、樽の手配のために、ロンドンにいたことになるのだ」
「なるほど、すると、われわれがまず第一に打つべき手は、いまあげた日に、ボワラックがどこにいたかをつきとめることだ」
「ボワラックはパリとベルギーにいたと陳述しているが、警視庁でもそのアリバイをくずすわけにはいかなかったのだ」
「それは分っているよ、しかしだね、アリバイは工作のきくものだという点で、われわれの意見は一致したではないか。あらためて、徹底的に洗ったほうがいいね」
「そうなると、私立探偵を依頼しなければならない」
「そうだよ、ラ・トゥーシェに頼んでみたらどうかね?」
「ラ・トゥーシェなら、それこそ願ってもないが、彼に依頼するとなると、費用がすごくかさむね」
ヘップンストールは肩をすくめた。
「そんなことを言っていられるときではないよ、彼に依頼することだ」
「よし、そうしよう、では、彼に来てもらうようにするが、――明日の三時だと、君の都合は?」
「大丈夫だ」
そのあとも、置時計が十二時を告げるまで、二人はいろいろと意見をかわしつづけ、やがてヘップンストールはロンドンに帰るために、クリフォードの家を辞した。
ジョルジュ・ラ・トゥーシェは、ロンドンでいちばん腕ききの私立探偵として、盛名をはせていた。父親が外国書籍の小売店を経営しているこのロンドンで、彼は生れたときから育てられたので、十二歳のときにはもう、英語とイギリス流のものの考え方をすっかり身につけてしまっていた。やがてイギリス人の母親が死ぬと、一家はパリに移り、ジョルジュも新しい環境に順応しなければならなくなった。二十歳になると、外国旅行者の案内係としてクック社に就職した、そこでイタリア語、ドイツ語、スペイン語とつぎつぎにマスターすると、中部および南西ヨーロッパの生きた知識をしだいに習得していった。ほぼ十年間、この仕事に専念していたが、旅行ばかりしているのに飽きると、彼はロンドンに渡って、有名な私立探偵社に入った。ここで彼はよく働いたが、入社してから十五年ばかりたつと、初代の社長が死んで、二代目の社長になった。ほどなくして彼は外国関係の事件や国際的な事件ばかりを専門に扱うようになったが、これには青年時代の特殊な訓練がものを言ったわけである。
しかし、彼は風采《ふうさい》のあがらない男だった。背はひくく、土色の顔でおまけに少し猫背ときている、もし顔立ちがキリッとひきしまっていなくて、見るからに知的にかがやく黒い目でもないとしたら、ごく貧弱な男にうつったにちがいない。彼は、多年にわたる訓練のたまもので、自分の表情を自由に変えるという芸当ができたものだから、人を警戒させるようなするどい表情や目のかがやきもたくみに隠すことができるわけである。また、いかにも貧相なよわよわしい表情をしていると、相手の疑惑をとく上に、きわめて有効だということを、彼はしばしば経験したのである。
なによりも異常と怪奇が大好物の彼のことであるから、樽の怪事件についても、その詳細を注意深く新聞で読んでいたことは当然のことであった。そんなわけだから、この被告のために一肌ぬいでもらえないか、というクリフォードの電話を受けると、彼はただちに引受けてしまったくらいである。そのおかげで、約束の時刻に、クリフォードと王室弁護士と会うために、彼はさほど重要でない二、三の先約をみんな断らなければならなかった。
先決問題である、探偵の報酬料の話しあいがつくと、クリフォードは、フェリックスの事件について、現在までに判明している事実や材料を、私立探偵に逐一説明した。それからまた、彼とヘップンストールの二人が相談して決定した弁護の方針も話したのである。
「そこで、ラ・トゥーシェさん、あなたにおねがいしたいことは」とクリフォードは話をしめくくった。「ボワラックが真犯人だという仮定で、この事件をあらためて調査していただきたい。つまり、私たちが立てた推理に可能性があるかどうかという点を、はっきり裏づけてほしいのです。あなたも同意してくださると思うが、この鍵は、ボワラックのアリバイが真実であるか否かにかかっているわけです。したがって、彼のアリバイを、ひとつひとつ検証してみることが先決問題だ、もし、あなたの力をもってしても、このアリバイがビクともしないなら、われわれが立てた弁護方針は、根本的に崩壊するわけです。むろん、あらためておねがいするまでもないが、調査の結果が一日でも早く分れば、それだけありがたいのだが」
「やりがいのある仕事をあたえてくださいまして、じつに光栄です。誓って全力を傾注いたします。今日のところは、お話はこれだけですね? では、この関係書類を検討した上で、事件を整理してみましょう。ところで、クリフォードさん、パリへは、すぐ出発したほうがいいと思いますが、そのまえにもう一度お訪ねいたしましょう」
それから三日目に、ラ・トゥーシェは、その言葉どおりにたずねてきた。
「イギリス関係のものは、できるかぎりの調査をいたしました、クリフォードさん」と探偵は言った、「今夜、パリへたとうと思いますが」
「おねがいします、ところで、見通しはどんなものです?」
「さあ、お答えするのは、少々早いようです。しかし、手ごわいことは手ごわいですね」
「というと?」
「なにからなにまで、この事件はフェリックスに不利にできています。しかも、決定的と言っていいくらい不利です。むろん、それをくつがえす覚悟ですが、かなり骨が折れますね。お分りのとおり、フェリックスには有利な材料がほとんどありませんし」
「あの樽をあけたとき、彼が受けたショックは、有利な材料にはならないかね? あなたはその件で医師に会ってみましたか?」
「ええ、あたってみました、医師も、あれは仮病ではないと保証してくれましたが、しかし、あなたがお考えになるほど、有利の材料にはならないようですね」
「私には、きわめて有利だと思われるがね。こうは考えられないものだろうか――そもそもショックを受けるのは、驚いたときだけである、フェリックスが驚いたのは、樽から夫人の死体が出て来たからで、そのほかには考えられない。したがって、フェリックスは樽になにが入っているかを知らなかった、それゆえに樽に死体を詰めたのは彼ではない、したがって彼は白である、という三段論法になるのだが」
「たしかに、そういう論法でいけば、一見あたっているように思えますが、しかし腕ききの弁護士だったら、たちまち、かるく一蹴してしまうのではないでしょうか。よろしいですか、ショックの原因には、驚きもありますが、それよりももっとはげしいものがあるのです。それは恐怖ですよ。樽を開けたとき、フェリックスは驚きと恐怖に、いちどきにおそわれたのだと言えないでしょうか」
「もし彼に樽の中身が分っていたとしたら、そんなショックを受けるはずがないではないか」
「いや、こうなのです、樽の中身が、彼の予期していたおもかげをとどめていなかったからなのです。いまかりに、フェリックスはボワラック夫人の死の直後、つまり生前の美しさを保っている彼女の死体を樽に詰めたとします、ところが、警視庁で樽を開けたときは、もうすでに死後何日もたっていたわけです。生前のおもかげはまったくなかったものと考えなければなりません。彼は、かわりはてた夫人の姿を見たとき、はげしい恐怖におそわれます。死体が出てきたら、そのときは驚くふりをするのだぞ、と待ちかまえていた彼に、突然、ほんものの恐怖がおそいかかれば、それこそ卒倒するくらいのことは簡単ですね」
クリフォードは、この後味のわるい解釈には、一度も思いつかなかったのだ。いま、探偵の説明をきいて、なるほど、そういうことも考えられるかと思うと、目のまえが暗くなってきた。フェリックスのいちばん有利な材料が、いまのようにあっさり一蹴されたとしたら、それこそフェリックスの運命は火を見るよりもあきらかである。しかし彼は、いま胸の中で思ったことは、探偵には黙っていた。
「もし、ボワラックのアリバイが打破できないとなると、われわれは、べつの弁護方針をたてなければならないことになる」とクリフォードは言った。
「きっとご期待にそえると思います。ただし、すべてが順調に行くものではありません。今夜、私はパリへ出発いたします。一刻も早く、こちらに吉報をもたらせたいものだと思っております」
「いや、ありがとう、私も期待していますよ」
探偵は弁護士と握手を交すと、事務所を辞した。その夜、彼はチャリング・クロス駅から汽車にのって、パリへむかった。
二十五 失望
ラ・トゥーシェは、旅行にかけたらお手のものだった。夜汽車でも、きまって熟睡ができるのだ。だが、例外はある。ときによると、暗黒の世界を驀進《ばくしん》する列車のリズミックな振動とひびきとが、彼を眠気にさそってくれるよりも、かえって頭脳を刺激してしまう場合がある、そんなときは長距離急行の寝台車に横たわっていると、かえって思いもよらない考えがパッと生れたものである。今夜も、探偵はカレー=パリ間列車の一等室の一隅に腰をおろしたまま、いかにものんきそうな気のぬけた表情をうかべてはいるものの、頭脳はするどく回転していたのである。彼はこの好機を利用して、パリでしなければならぬ仕事の段取りを考えた。
イの一番に打つべき手は、ボワラックのアリバイを再検討することだった。探偵は、警視庁がおこなった、このアリバイの裏づけ調査の模様を全部知っていた、そこで、まず第一に、ルファルジュ警部がおこなった裏づけ調査を、自分の目で再吟味してみようと、彼は考えた。いまのところ、ルファルジュの裏づけ方法を、どう改善したらいいものか分らなかったが、再吟味をして行くうちに、警部が見おとした手がかりを、なにか得られるのではないかというのが、この探偵の唯一の期待だった。
ここまでの仕事の段取りには、疑問をはさむ余地がなかった。つまり、ボワラックのアリバイの再検証は、クリフォード弁護士からじかに依頼されたことなのだ。だが、それからあとの段取りは、探偵が最善と判断した行動を自由にとればいいのである。
ここで彼は、事件の核心と考えられる点、つまり、樽から死体が発見された点に、目をむけた。この点について、実際に判明した事実と、単なる仮定上のものを分離してみることにしたのである。第一に、死体は、樽が聖キャザリン埠頭に到着したときには、その樽の中にあった。第二に、パリのカルディネ街の貨物駅から発送されて、ロンドンの聖キャザリン埠頭に到着するまでに、死体を樽に入れることは不可能である。ここまでは確実。だが、これ以前の樽の足どりは単なる推測にすぎない。樽が北停車場からカルディネ街の貨物駅まで荷馬車で運送されたというのも推定である。この推定はどこから出たか? 三つの事実からである。その一は、樽が荷馬車に積まれて北停車場を出たという事実、その二は、おなじく樽は荷馬車に積まれてカルディネ街の貨物駅に到着したという事実、その三は、荷馬車による北停車場=貨物駅間の所要時間から推定したもの。この推定はいかにも筋が通っているように思われる、だがしかし……探偵は、犯人がなにものであれ、奸智にたけた人間であることを、思ってみなければならなかった。樽は、はじめの荷馬車で、北停車場から、その家か小屋に運送され、ここで死体を詰めると、こんどはその樽を貨物自動車で貨物駅のそばの小屋に急送し、そこからまたべつの荷馬車に樽を積みかえて、貨物駅へ運送したのではなかろうか? むろん、こんな推理は、ちょっと考えただけで不自然きわまるし、ありそうもないことだが、事実が判明していない以上、たしかめてみなければならないと、探偵は考えた。それにはまず、貨物駅まで樽を運送した馬方を見つけることである。そうすれば、どこで死体が樽に詰められたか、はっきりとたしかめられるし、したがって、ボワラック夫人が殺害された場所が、ロンドンかパリか、はっきり分るわけである。
ここで彼は第三の点に移った。この事件には、いろいろな手紙が何通も登場している。それが偽造されたものか否かはまだ分らない。もし僞造されたものだとすれば、その筆者を即答することは、彼にとってあきらかに不可能なことだった。しかし、すくなくともある意味では、僞造ではあり得ない手紙が一通ある。フェリックスが受取ったと陳述している、あのル・ゴーティエ名義の手紙がそれだが、この手紙は、一目で見分けのつくような、活字に特徴のあるタイプライターで打ったものである。この手紙をタイプで打った人間こそ、ボワラック夫人殺害の真犯人だと推定しても、過言とは言えまい。そのタイプライターを探し出すのだ、とラ・トゥーシェは考えた。そうすれば、真犯人の手がかりがつかめるかもしれない。
するとまた、ある考えが探偵の頭にうかんだ。もしボワラックが真犯人だとしたら、これからさきになって、尻尾を出さないとはかぎらないではないか? そこで探偵は、犯人が犯行後、なにかをしたり、どこかへ行ったりしたことから足がつき、とうとう逮捕されてしまったというような事件を、自分がこれまでに手がけてきた仕事のなかから、つぎつぎと思い出してみた。そうだ、ボワラックに尾行をつけるのも、案外面白いかもしれないぞ? 探偵は、この問題をじっくり考えていたが、やがて、尾行をつけることに決定して、部下を二人、パリへ呼ぶことにした。
さて、これで仕事の段取りが四つついたわけである。そのうちのはじめの三つは、ある程度、はっきりした見通しがついていた。いよいよパリに近づいて、汽車がスピードをおとしてきたとき、この仕事こそ、まさに自分にはうってつけだ、と探偵はしみじみと思ったのである。
やがて、探偵はパリの土をふむと、その足ですぐ、単調きわまる、労ばかり多くして、得るところのない仕事にとりかかった。ラ・トゥーシェの仕事ぶりは、すごく能率的で、徹底的なものだった。しかもじつに根気がよかった。だがしかし、そのたゆまぬ努力の結晶といえば、ボワラックの陳述を、さらに一段と裏づけたのにすぎなかった。
探偵は、まずレストラン『シャラントン』に行って、給仕にあたってみることにした。彼はあざやかな手腕を発揮して、給仕をたくみに話の本筋へ誘導すると、殺人の罪に泣く無実の男の話を、いかにもありありと目にうかぶように一席ぶって、しだいに給仕の同情心を手に入れてしまった。それから、こんどは手をかえて、その無実の男を救うために情報を提供してくれたら、謝礼はたっぷりはずむからと、探偵は給仕を金でつりはじめた。そして最後には、どんなことを喋っても絶対に君には迷惑をかけないからといって、給仕の恐怖心をなだめにかかった。その給仕は、いかにも正直そうなおとなしい男だった。探偵の手にまんまとのって、その男はなにもかも、率直にラ・トゥーシェのたずねたことに答えてくれたが、ただ一つの点をのぞいたら、まえにルファルジュ警部に話したことと、まるっきり変っていなかった。それによると、ボワラックは――給仕は探偵が出した写真を一目見ただけで、その客だとみとめた――彼は午後一時三十分ごろ、この店でランチをとると、二か所に電話をかけた――ボワラックが二つの電話番号を申し込んだのを、給仕は聞いていたのである。その日が何曜日だったかという点になると、ルファルジュ警部のときと同様に、はっきりしたことは分らないと断ってから、自分の感じでは、火曜日ではなくて、月曜日のような気がするが、これは思いちがいかもしれないと、給仕は答えた。この男の証言には、なんの動揺も見られなかったので、ラ・トゥーシェは、正直にありのまま答えたものと、確信した。
ところが、その給仕は、このまえルファルジュ警部に答えたのとおなじことをくりかえしてから、重要だと思われる情報を一つ、提供してくれたのである。探偵が、その電話番号のうち、一つでも思い出せないかとたずねると、一つの電話番号のおわりの二《ふた》けただけなら思い出したと言うではないか。四五だった。この店の電話番号が、シャラントンの四十五番だったので、給仕は、客がかけた番号の最後の二《ふた》けたをおぼえていたのである。彼には、それだけしか思い出せなかったし、局名も分らなかった。給仕は電話番号のこともルファルジュ警部に話そうと思ったのだが、警視庁から来たというので、すっかりドギマギしてしまって、そのときはうっかり失念し、あとになってから、考えているときにフッと思い出したというのである。
ラ・トゥーシェは電話帳をめくると、ほんの数秒間で、それに該当する番号を見つけ出した。アルマ通りのボワラック邸の電話番号はちがっていたが、ポンプ製造会社のほうをさがすと、ノール局七四五とあった。
新しい確証があがったわけである。これでその給仕の証言が真実だということがはっきりした。ラ・トゥーシェは、ボワラックが実際にこの店でランチをとり、電話をかけたことを確認せざるを得なかった。
探偵がパリへひき返す途中、フッとある考えが、彼の頭にうかんだ、いや、ひょっとするとあの給仕の印象のほうが正しいのかもしれないぞ、ボワラックがあの店に入ったのは、火曜日でなくて、月曜日だったかもしれないのだ。こいつをたしかめるには、どうすればいいのか?
そこで探偵は、ルファルジュ警部が、その点をどうやって確認したかを思い出してみた。ルファルジュは、ボワラックが電話した相手に会ったのだ。つまり執事と会社の主任に会って、その日が火曜日だったというはっきりした証言を得たのである。ラ・トゥーシェは、ルファルジュのひそみにならおうと決心した。
早速、探偵はまずアルマ通りのボワラック邸を訪ねて、執事のフランソワに会ってみた。彼にとってじつに意外だったのは、この老執事がフェリックスの逮捕を新聞で読んで、心から悲しんでいることだった。フェリックスとこの老人が会ったのはほんの数えるほどしかないというのに、フェリックスの人柄には、ほかの友人たちとおなじように、この老人にも愛情と尊敬をいだかせるなにかがあるのだ。ラ・トゥーシェは、あの給仕に用いた手をここでもつかって、無実の罪になくフェリックスのために、自分は駈けずりまわっているのだと説明すると、執事のフランソワは、できるかぎりの助力をすると申し出たのである。
だが、ここでもまた、ラ・トゥーシェの得たものは、ボワラックの陳述を確認するだけだった。フランソワは、電話の件をはっきりおぼえていて、あのとき電話に出たのは主人のボワラックにまちがいないと証言した。執事は主人の声をはっきりとみとめた上に、その電話がかかってきた日までちゃんとおぼえていた。やっぱり火曜日だった。フランソワはそれが火曜日だったことを証明するために、その日にあったこまごましたことを説明してみせた。
『ルファルジュ警部がたしかめたとおりだったのだ』探偵はアルマ通りをブラブラと歩きながら、胸のなかで呟いた、『やっぱりボワラックは、火曜日の午後二時半に、シャラントンのレストランから電話をかけたのだ、だが、調べられるだけ調べてやろう』
探偵はアヴロート・ポンプ製造会社の本社に足をむけた。彼も、ルファルジュ警部の戦術を見習って、ボワラックが社の門から出て行くのを待ちうけてから、事務所に入って行くと、主任のデュフレーヌに面会をもとめた。
「あいにくと、席をはずしているかと存じますが」と応待に出た事務員が答えた、「椅子におかけになって、少々お待ちいただけませんか、いま、たしかめてまいりますから」
ラ・トゥーシェは、すすめられた椅子に腰をおろした、そして、上品なつやが出ているチーク材の調度品、上から下までぎっしりとならんでいる書類棚の列、たくさんの電話機、カタカタ音を立てている何台ものタイプライター、見るからに勤勉に事務をとっている社員たちがいるひろびろとした事務所のなかを、感嘆しながらながめていった。このラ・トゥーシェとても、探偵の権化《ごんげ》ではなかった。彼のからだにも熱い血は流れているのだ。仕事に熱中していないときの彼は、美しい娘に目をとめるのにかけたら、なかなかの侍《さむらい》だった。そういうわけで、もの珍らしげに室内をジロジロと見まわしている探偵の視線が、二列目のタイピスト、年のころ二十二、三の娘のところにピタリととまったからといって、なにも異とするにはおよばないのである。たしかにそのタイピストは、ほれぼれするくらい魅力にあふれていた。小柄な娘で、髪の毛は黒く、見るからにはつらつとしていた、ちいさな尖った口、頬には可愛らしいえくぼがあった。彼女は、その職場にふさわしい簡素な服装をしているくせに、その美しい肢体をつつんでいるシックな感じは、探偵よりもっと上手の人物の目でも、きっと喜ばせたにちがいない。娘は、キラキラ輝く黒い瞳で、探偵のほうをチラッと見ただけで、小生意気そうな鼻をツンと上にあげると、タイプライターをカタカタと打っていった。
「やはり、主任のデュフレーヌは、身体の調子が少し悪いらしく早退いたしましたので。一両日もしますと、社に出られると存じますから、ご都合がおできでしたら、またおいでいただけないでしょうか」
ラ・トゥーシェには、この事務員の無駄のない応待ぶりがかえってありがた迷惑だったが、丁寧に礼をのべると、二、三日したら、もう一度来てみると言った。そして、タイプにむかっている、あの豊かな黒い髪の毛に、名残りおしげな一瞥《いちべつ》を投げると、探偵は事務所を出た。
主任が早退したために、それだけ仕事がおくれることは、なんともいまいましかった。ボワラックのアリバイの裏づけ調査が、そのおかげで、二日ばかりのびてしまうが、その間を利用して、パリへ来る車中で思いついた、あとの仕事にとりかかってもいいと、探偵は思った。たとえば、北停車場からカルディネ街の貨物駅まで、樽を運送した馬方を探し出す仕事だ。よし、こいつからやってやれ、と彼は考えた。
そこで探偵は、そのままカルディネ街の広大な貨物駅に直行した。彼は係りの駅員に自己紹介すると、用件を説明した。その係りは、じつに親切だった。しばらく部屋で待たされると、数週間まえにバーンリー警部とルファルジュ警部が会った、あの二人の運搬夫をつれて来てくれた。そこでラ・トゥーシェは、その二人にことこまかにいろいろとたずねてみたのだが、新しい情報はひとつとして得られなかった。二人は、樽を運んできた馬方の顔を、もう一度見れば分ると思う、という前の陳述をただくりかえすばかりで、その馬方の人相風体の説明も、いっこうに変りばえのしないものだった。
ラ・トゥーシェは、貨物駅を出ると、こんどは北停車場へ行ってみた。ここで彼は、運がいいことに、樽を、黒髯のジャック・ド・ベルヴィルにじかに渡した係りの駅員をみつけることができた。だが、ここでもまた、探偵は失望を味わざるを得なかった。その駅員も、また彼が会ったほかの駅員たちも、樽を運送してきた馬方を思い出すことができなかったのである。したがって、その馬方が、貨物駅に樽を運んでいった馬方と似ていたかどうか、だれにも分らない始末だった。
この点で、ハタと行き詰ってしまったラ・トゥーシェは、一軒のカフェに入って、黒ビールを注文すると、椅子に腰をおろしたまま、つぎに打つべき手をじっくりと考えた。ルファルジュ警部が新聞に広告を出したのは、まさに適切な処置だと、彼には思われた。探偵は、すでに目をとおした警視庁から得た関係資料によってその広告が、ほかの新聞と同じように『ル・ジュルナル』紙にも出たことを思い出した。彼は、なぜその広告のきき目がなかったのか、調べてみればその理由がわかるかと思って、その広告を研究することにした。
彼は、新聞社まで車で行くと、綴じこみを閲覧させてもらった。彼は、その広告にザッと目を通しただけで、それこそいたれりつくせりの、なかなかうまい文案だと、感心したほどだった。探偵は、その広告の最近の掲載紙を一部ずつ貰った――それは十二部ちかくもあった。それから、ホテルに帰ると、ベッドに横たわったまま、その広告をひとつ、ひとつ検討していった。
その広告は、掲載紙によって、それぞれ、文章や大きさ、それに掲載位置など、変ってはいたものの、実質的には、みんな似たりよったりのものだった。四月一日木曜日の午後六時ごろ、カルディネ街の貨物駅へ樽を運送した、馬方の情報をもとめる文案で、いずれにも千フランから五千フランの懸賞金がかかっていた、そして、情報を提供したために、その馬方に迷惑がかかるようなことは絶対にないという、保証がかならずついていた。
ラ・トゥーシェは、二時間ばかり熟考したあげく、この広告は、どこにも欠点がないという結論に達した。探偵がいくらアラ探しをしても、ルファルジュ警部が出したこの広告には、手を加える余地はおろか、文案そのものにも、情報の提供をはばむような個所はひとつもないとしか、思われないのである。
彼は、頭を休ませるために、今日はもう、仕事のことはいっさい忘れて、あそんでしまうと決心をした。そこで、広小路を散歩してあるき、うんとぜいたくな夕食をおごって、そこから『フォリー・ベルジェール』に足をむけ、その夜は、そこですごした。
そのかえりみち、探偵は、ポンプ製造会社の主任デュフレーヌの病気がなおって、彼が社に出てくるまでのあいだに、ベルギーまで行って、ボワラックのアリバイを、自分の目でたしかめて来ようかと、ふと思った。そこで、翌朝、探偵はブリュッセル行の汽車に乗ると、正午ごろに、ベルギーの首都に到着した。彼はマクシミリアン・ホテルに車を乗りつけると、そこで昼食をたべてから、ホテルの事務所で徹底的に調べあげた。彼は宿泊者名簿の控えを見せてもらった。ベルギーでは、どのホテルでも、宿泊者名簿を警察に提出しなければならないことになっていた。探偵は、この控えによって、ボワラックが問題の日に、宿泊したことをはっきりとたしかめたのである。このまえ、このホテルの番頭にルファルジュ警部がたずねたとき、その番頭は、ボワラックが自分の社に電話をしたときのことを思い出したが、こんど探偵がたずねたときの返事も、そのときのものとすこしも変りばえがしなかった。ラ・トゥーシェは午後の汽車でパリにひきかえしたが、このベルギー行の成績には、探偵もすっかりくさりきってしまった。
もう主任も病気がなおっているころだと見はからって、ラ・トゥーシェは、その翌日、ポンプ会社にまた行ってみた。このときもまた、ボワラックが社の門から出て行くのを見きわめてから、探偵は事務所にはいって行って、主任のデュフレーヌに面会を申し込んだ。このまえのときの、あのテキパキした事務員が応待に出て来て、デュフレーヌは、今朝から出社していると答え、主任にとりつぐあいだ、その椅子でお待ちになるようにと言った。と、このとき、突然ラ・トゥーシェは、あの美しいタイピストのことを思い出した。この前、ここを訪ねてからというもの、彼女のことをすっかり忘れてしまっていたのである。彼は事務所の中を見渡した。やっぱり彼女はいた、だが、その顔は、こちらからは見えなかった。専用のタイプライターが、どうやら故障したと見えて、彼女はたたくのを――ラ・トゥーシェは、どうして『弾く』とか『運転する』とでも言わないのかな、とフッと思った――やめて、機械に顔をうずめて、どこかのネジを調節している様子だった、だが探偵には、女性美をじっくりと研究するいとまがなかった。あのテキパキした事務員がアッというまにもどってきて、主任がお目にかかるそうです、と告げた、彼はその事務員のあとについて主任の部屋に入って行った。
主任のデュフレーヌは、ほかの証人たちとおなじように、こころよく協力はしてくれたものの、探偵の知らないことは、なにひとつ、彼の口から出てこなかった。主任は、このまえルファルジュ警部に答えたとおりのことを、そのままくり返しただけだった――ボワラック専務は、たしかに火曜日の午後二時三十分ごろ、社に電話をかけてまいりました、ええ、それはもう、私がこの耳できいたのですから、専務さんの声にはまちがいございません、日付の点も、絶対にまちがいのないことでして――
ラ・トゥーシェは、また街にもどると、自分のホテルまでゆっくりと歩いて帰って行った。いまや探偵には、あのボワラックのアリバイを打ち破ることが絶望的に思えてきたのである。つぎに、どういう手を打つべきなのか、それさえも見当がつかなかった。ボワラックを尾行させるために、パリまでわざわざ呼びよせた二人の部下、マレーとファロルにしろ、一刻も休みなく働いているというのに、まだなんの手がかりもつかめない始末だった。現在までのところ、ボワラックはすごく用心深く、すこしでも怪しまれそうなことはせず、また、疑いをまねくような所にも出かけなかった。ラ・トゥーシェはクリフォード弁護士にいままでの経過報告を書きながら、自分の仕事の前途にたいして、はじめてはっきりとした疑惑を感じたのである。
二十六 ついに手がかりを
ラ・トゥーシェは、クリフォード宛の報告書を書きおえると、帽子をかぶって、ラ・ファイエット街にとび出して行った。彼は、報告書をポストに入れてから、セーヌの南側にわたって、その夜は友だちと遊ぼうと思ったのだ。気分は義理にも愉快なものとは言えなかった。現在の調査状況から推して、探偵がいやでもみとめざるを得ない結論は、クリフォードを大きな失望につきおとすことになるだろうし、もしボワラック真犯人説の裏づけに失敗すれば、フェリックスを弁護する唯一の血路がたたれてしまうということは、弁護士どうよう、彼にもよく分っていたのである。
探偵は歩道をブラブラと歩いて行ったものの、彼の頭は無意識のうちに事件のことばかり考えているのだった。そのとき、街路の向側にポストをみとめると、彼はその通りを横断しようとした。と、歩道から足をふみ出そうとした瞬間、探偵の頭にある考えがパッとひらめいた、彼はまるで弾丸に射抜かれたように、その場に立ちすくんでしまった。そうだ、ボワラックの事務所で、あの美しい娘が使っているタイプライターは新品だったじゃないか。ラ・トゥーシェは、観察にかけてはすごかった、とにかく、目にふれたものなら、どんな細かいことでも観察するくせがあったので、あのタイプライターのこともはっきりと心にのこっていたのである。しかし、この瞬間まで、新品のタイプライターがあったということに、きわめて重大なふくみがあるとは、ぜんぜん気がつかなかったのである。例のル・ゴーティエ名義の手紙を打ったタイプライターを、血眼になって探していたルファルジュ警部は、ボワラックに使用できるあらゆるタイプライターから見本刷りをとったのである。だが、もしその中の一台が、新品のタイプライターととりかえられたとしたらどうか? もし、ル・ゴーティエ名義の手紙をタイプしてから、その古い機械が新品ととりかえられ、そのあとで、怪しいとにらんだルファルジュが、新品のタイプライターから見本刷りをとったとしたら、どうなのか? そうだ、たしかに、こいつは一考に価するぞ。この線から犯人の決め手がつかめれば、なにもクリフォード弁護士を失望させないでいいわけなのだ。よし、こいつの見通しがはっきりつくまで、クリフォードへの報告は一時延期だ、探偵はこう考えると、手にしていた手紙を、またポケットにしまいこんだ。
すると、いままでの重い気分は一掃されてしまった。もっとも、会社なら新品のタイプライターを買うのはごくあたりまえの話だし、ボワラックの事務所で新品を買ったからといって、それは事務上の必要ではなしに、べつの目的があってのことだと、推定する根拠はひとつもないのである。とはいうものの――探偵の頭にひらめいた想定は、きわめて魅力的であった。
いずれにしろ、クリフォードに報告書を送るまえに、新品のタイプライターの件を洗ってみたほうがいいと、彼は決心した。新品の購入をたしかめるのは造作もないことだし、もし、その購入日に問題がなかったなら、この件はあきらめるより仕方がない。
探偵は、どうしたら、その購入日をつきとめるのにいちばんいいか、考えてみた。まずはじめに思いついたのは、あの美しいタイピストに会って、じかにあたってみることだった。ところで、もしタイピストの答えが、彼の推理を裏づけてくれた場合には、さらに調査をおしすすめる必要があるばかりか、そういう調査がなされているということを、ボワラックにすこしでも気どられてはまずいのである。したがって、策略を用いたほうがいいわけだ。
いわば、外交的なかけひきは、ラ・トゥーシェの第二の天性だったので、その作戦を立てるのにも、さして時間がかからなかった。探偵は腕時計を見た。五時十五分。急げば、あの美しいタイピストが事務所を出るまえに、ポンプ工場に行きつけるかもしれない。
彼はカフェに入ると、何度かお世話になった、あの窓から、事務所の連中がゾロゾロと帰って行くのを見張った。しかし、いくら待っても、美しいタイピストはなかなか出てこなかった。こいつはきっと、もう帰ってしまったのだと、彼があきらめかけたとき、娘が出て来た。彼女は二人の同僚と一緒だった。三人は、通りをちょっと見まわしてから、ロンドンのほうへ、気どった足どりで、歩いて行った。
三人のタイピストたちがかなり行ったのを見はからって、ラ・トゥーシェはそのあとを追った。三人は地下鉄のサンプロン駅の入口でちょっと立ちどまったが、やがて、例の美しいタイピストだけが地下鉄の中におりて行き、のこった二人はそのまままっすぐに歩道を歩いて行った。ラ・トゥーシェが、あわてて地下鉄の入口まで走って行った、と、ポルト・ドルレアン方面と掲示板の出ている通路へ、タイピストの灰色のドレスがいますこしで消えてしまうところだった。彼は切符を買うなり、プラットホームに追った。プラットホームはかなり混みあっていた。彼は、タイピストの姿を見つけると、混雑にまぎれこんで、相手に気どられないように、うしろのほうにはなれて立っていた。
すぐ電車は来て、タイピストは乗りこんだ。ラ・トゥーシェは、となりの箱に乗った。彼はその箱のいちばん前に立ち、ガラス戸ごしに、自分のからだだけかくすと、タイピストの姿をうまく見張ることができた。一つ、二つ……五番目の駅を通過した。すると、彼女は席から腰をあげて、つぎの駅でおりるのか、ドアのほうに近寄っていった。ラ・トゥーシェもそれにならって、自分の箱のドアに近よると、車内の路線図で、つぎは、乗換駅でないことが分った。電車がギーッと音をたててとまると、探偵はドアからとび出して、街路にいそいだ。彼は街路を横断すると、新聞売場に足をとめ、夕刊を買った。探偵はそこのカウンターによりかかりながら、タイピストが地下鉄の階段から路上に出て、そのまま向側の歩道を歩いて行くのを見守った。やがて彼も、こちら側の歩道を歩きながら、慎重に娘のあとをつけていった。二町ばかり行くと、ちいさな、あまりパッとしないレストランに、タイピストは入った。
『彼女がひとりきりで食事をするつもりなら、こいつは運がいいぞ』とラ・トゥーシェは胸のなかでつぶやいた。
探偵は、娘が食事を半分くらい食べたころあいを見はからって、そのレストランに入った。
店の中は、小さな入口のとおり、間口はせまかったけれど、奥行がかなりあり、その端に電灯がともっていた。両側には、大理石張りのテーブルが一列ずつならび、一台のテーブルごとに籐椅子《とういす》が六つついていた。また両側の壁には、うすよごれた白と金色の枠のなかに鏡がはめこまれていた。店のつきあたりは、せまいステージになっていて、三人の女が、楽器をひいていた。
テーブルは半分ばかりふさがっていた。ラ・トゥーシェは、レストランのなかを一目で見渡すと、タイピストが、ステージから三、四番目のテーブルに、ひとりで坐っているのをいちはやく見つけた。彼はそのテーブルへツカツカと歩みよった。
「失礼します」探偵は、タイピストのほうをほとんど見ずに、かるく会釈して、つぶやくように言ってから、彼女の向い側の椅子を引き出して腰かけた。
彼は料理の注文をすませると、はじめてホッとしたように、あらためて、あたりを見まわした。と、自分の目のまえの娘の顔をチラッと見たとたんに、彼はいかにも、突然、相手に気がついたといった感じで、かるい驚きを見せて、もう一度会釈をすると、テーブルにからだをのり出した。
「あの、お嬢さん、たいへん失礼ですが」探偵は猫なで声を出した、「あなたとどこかでお目にかかったことがあるのですが、いや、そんな気がするだけかもしれませんが」
タイピストはただ眉をつりあげただけで、一言も返事をしなかった。
「あ、そうです、ボワラックさんの事務所でした」彼は言葉をつづけた、「むろん、あなたはご存じなかったはずです、とても立派なタイプライターで、お仕事をしておいでのところを、私がお見かけしたのですから」
だが、タイピストは、ぜんぜん彼を相手にしなかった。ただ肩をすくめただけで、ウンともスーとも言わなかった。ここでラ・トゥーシェは、もう一押しした。
「お嬢さんにやぶからぼうに話しかけるなどと、ずいぶん厚かましい男だとお思いになるでしょうが、けっして、そんなつもりではないのです。じつはタイプライターの新しい装置を、私は発明したのです。その装置がはたして実用にむくかどうか知りたいと思いましてね、一流のタイピストにお目にかかるたびに、ご意見をうかがうことにしているのです。もしおさしつかえがなければ、その図を書いて説明しますから、ご意見をきかせてくださいませんか?」
「それだったら、どうして、代理店にでも、行かないんですの?」タイピストはそっけなく言った。
「いや、それはですね、お嬢さん」ラ・トゥーシェは膝をのり出して言った、「この装置が実際につかってみて、ほんとに便利なものかどうか、私には自信がないのです。その装置を取りつけるのには、かなり金がかかりますし、タイピストの方に保証していただかないかぎり、どこの会社でも買ってくれませんのでね。ですから、そこのところをぜひうかがいたいのです」
タイピストは、いぜん冷淡だったけれど、探偵の話だけはきいていた。ラ・トゥーシェは、娘の返事を待たずに、メニューの裏に、その装置のスケッチを描きはじめた。
「この部分が、私の新案なのですよ」探偵は、自分でもよく知っている最新型のタビュレイター(位取り装置)のスケッチを描いてみせた。タイピストは、さも軽蔑しきった疑いの目で、彼の顔を見つめた。
「これはレミントンのタビュレイターじゃありませんか」と、吐き出すように言った。
「なんですって! あの、まさかお嬢さん、からかっていらっしゃるわけではないでしょうね? みなさんからは、いままでにない装置だと言ってほめられたのですよ」
「じゃ、その人たちが知らないんですわ、あたしは絶対にまちがっていませんわ、あなたが発明したという装置とまったく同じものを、あたしは何週間もまえから使っているんですからね」
「ほ、ほんとですか、お嬢さん? すると、私の発明は先を越されてしまって、一文の価値もないというわけなんですね?」
ラ・トゥーシェの失望があまりにもはげしいものだったので、さすがにタイピストも、いくらか態度をやわらげた。
「それなら、レミントン会社の倉庫へ行って、最新型のタイプライターを見せてもらったほうがいいですわね。そうすれば、レミントンのタビュレイターとあなたのと比較してみられますもの」
「ありがとうございます、お嬢さん、では明日、行ってみます。すると、あなたはレミントンを使っておいでなんですね」
「ええ、十号型ですわ」
「それは使い古したものでしょうか? 失礼ですけど、そのタイプライターを、もう長く使っておいでなんですか?」
「さあ、いつごろから、うちの事務所にあるのか分りませんわね、なにしろ、あたしが入社したのは、ほんの六、七週間まえですから」
六、七週間! ボワラック夫人が殺害されたのは、ちょうど六週間ばかり前のことではないか! これにはなにかのつながりがあるのか!あるいは単なる偶然の一致にすぎないのか?
「あたらしくまたタイピストを増員させるほど、事業が発展したら、まさに事業家として、もって瞑《めい》すべしですね」ラ・トゥーシェは、自分でワインをグラスに注ぎながら、会話をつづけた、「ボワラックさんがタイピスト募集の広告を出されたこともうらやましいですが、それにまた、あなたのような美しいお嬢さんが応募されたときの、社長さんの気持ちを想像すると、ほんとうに羨望《せんぼう》にたえませんね」
「うらやましいどころの話ではありませんわ」タイピストは、冷淡な、さげすんだ口調で言った、「だって、あなたは、二つも思いちがいをしているんですよ。うちの会社は、人を増やすほど発展なんかしていませんわ、なぜって、あたしは会社をやめたタイピストのあとに入ったんですもの、それに、あたしはスクリーブ街のタイピスト養成所から行ったので、うちの会社は広告など出すものですか」
これで、ラ・トゥーシェは、この娘からきき出せるとにらんでいたことは、ぜんぶ聞いてしまったわけだ。それからしばらくのあいだ、彼は勝手なことを喋りちらしてから、丁寧に会釈して、そのレストランから出て行った。ホテルにもどった探偵は、タイプライターの問題を徹底的に究明してやろうと、意を決した。
そこで探偵は、その翌日も、前日の夕刻とおなじ戦術をつかった。正午すこしまえから、彼は、ポンプ工場のそばの例のカフェの窓ぎわに張りこんで、昼食に出かける連中を見張っていたのである。はじめにボワラックが出てきた、それから主任のデュフレーヌが出てきた、それにつづいて、事務員やタイピストがゾロゾロと出てきた。あの美しいタイピストは、昨日の同僚二人と一緒に出て来た。そのあとから、例のテキパキした事務員が出て来た。と、やがて出て来るものはいなくなった。なおも十分ばかり待ってから、探偵は通りを横断すると、事務所に入って行った。ひろい事務所のなかには、給仕がひとり、残っているだけだった。
「やあ、今日は」ラ・トゥーシェは、愛想よく、その給仕に言葉をかけた、「じつはたずねたいことがあって、ここへ来たんですがね、どうだろう、君に二十フランあげるから、おしえてくれませんか」
「どんなことなんでしょう?」少年にちょっと毛がはえているくらいの給仕がたずねた。
「私は製紙工場の支配人なんだがね、うちの事務所で、タイピストをひとり探しているんですよ。たしか、おたくに勤めていた若いタイピストが、六週間ばかりまえにやめたときいたものですが?」
「それはほんとです、ランベール嬢ですよ」
「そうだ、そんな名前でしたよ」ラ・トゥーシェは、その名前をしっかりと頭にきざみつけた。
「そのひとは、なんで会社をやめたんです?」探偵は声をおとしてたずねた。
「|くび《ヽヽ》になったと思うんですけど、なぜ、くびになったのか、僕にはぜんぜんのみこめないんです」
「|くび《ヽヽ》?」
「ええ、そうなんですよ、彼女は、ボワラック専務にしかられるかなにかしたんです。はっきりしたことは、僕にも分りませんし、だれも知らないんですが」
「そのタイピストが解雇されたことは聞いたんですよ、それで彼女に食指がうごいたわけなんで。じつはうちの会社は、ここのところパッとしないんでね、自分の不始末で会社を|くび《ヽヽ》になったようなタイピストがいたら、少々給料がやすくてもよろこんで来てくれるんじゃないかと思ったもんですからね、彼女としてみればまた就職ができるんだし、うちの会社としても安く人がやとえるんだから、おたがいに得なわけですよ」
給仕はただうなずいてみせた。ラ・トゥーシェは言葉をつづけた、「で、たずねたいのはこういうことなんですよ、そのタイピストと、連絡する方法がありますかね? 住所が分りますか?」
給仕はかぶりをふった。
「さあ、知りませんねえ、住所はぜんぜん分らないんです」
ラ・トゥーシェは、ちょっと考えこむふりをした。
「よわったな、どうしたらそのタイピストに会えるものか?」だが、給仕はなにも言わないので、ちょっと間をおいてから、探偵はまた言葉をつづけた。
「そのタイピストが、いつ、こちらをやめたのか、それが分れば助かるんですがね、分りませんか?」
「六週間ぐらいまえです。すこし時間がかかりますけど、古い給料表をしらべれば、はっきりした日付が分りますよ。どうぞ、椅子におかけになってください」
ラ・トゥーシェは給仕に礼を言うと、椅子にかけた。ほかの事務員たちがもどってくるまえに、分ってくれればいいがと、彼は思った。だが、さして待たされずにすんだ。ものの三、四分もしないうちに、給仕がもどってきた。
「四月五日の月曜日ですね」
「こちらには長く勤めていたのですか?」
「二年ぐらいです」
「どうもお手数をかけました、そのタイピストの洗礼名はなんというのです?」
「エロアーズ、エロアーズ・ランベールです」
「どうもありがとうございます。ところで、私の来たことは、みなさんに黙っててくださいよ。うちの会社が不景気だということが知れますと、私の立場がなくなりますからね、これは、約束したお礼ですよ」探偵は二十フラン手渡した。
「多すぎますよ、僕、お礼なんかもらうつもりで教えたんじゃないのです」
「ま、そう言わずに、約束ですからね」彼は無理やりに金をつかませると、給仕にさんざん礼を言われながら、事務所を出た。
『こいつは面白くなってきたぞ』表通りにふたたび出ると、ラ・トゥーシェは胸の中でつぶやいた。『ボワラックは、樽が聖キャザリン埠頭に到着した、ちょうどその日に、タイピストを|くび《ヽヽ》にしているのだ。それからすぐ、あの美しいタイピストをやとったのではないだろうか、よし、くびになったランベールというタイピストを、探し出さなければならぬ』
だが、探し出すといっても、どうすればいいのだ? 彼女の住所が、あの事務所のどこかに記載されていることはまちがいないが、あまりつつくと、自分が疑っていることを感づかれる心配がある。むしろ、会社のほうは、ソッとしておいたほうが得策だ。すると、広告を出す以外に、手はなかった。
そこで探偵は、一軒のカフェに入ると、黒ビールを注文して、早速、文案にかかった。
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『速記者兼タイピストのエロアーズ・ランベール嬢へ。ラ・ファイエット街、スイス・ホテル内、ジョルジュ・ラ・トゥーシェまでご連絡ありたし。あなたにとって有利な用件あり』
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探偵は、その文案を読みかえしたが、ある考えが頭にうかんだので、もう一枚の紙に、つぎのように書きなおした――
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『速記者兼タイピストのエロアーズ・ランベール嬢へ。聖アントワーヌ・ホテル内、ギョーム・ファヌイユあてご連絡ありたし。あなたにとって有利な用件あり』
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『ボワラックの目にこの広告がふれることも考えられるのだから、こちらから、自分の手の内をさらけ出すことはない』と、彼は心のなかでつぶやいた、『一日か二日、ジョルジュ・ラ・トゥーシェを廃業して、聖アントワーヌ・ホテルに泊ることにするか』
探偵は、その広告をいくつかのおもだった新聞社に送ると、聖アントワーヌ・ホテルに行って、ギョーム・ファヌイユの名前で部屋を予約した。
「明日から泊るからね」彼は番頭に言った、そして、翌日、ホテルに移った。
その日の、まだ午後にならないうちに、彼の部屋のドアをノックするものがあった。ドアをあけると、背のスラリと高い、二十五歳ぐらいのしとやかな女性が入ってきた。とくに美人というわけではないが、いかにもあたりのやわらかな、愛想のいい娘だった。それに服装のこのみも、ごく|じみ《ヽヽ》ではあるが品のいいもので、失業してもさほど困っていないことがありありと分った。
ラ・トゥーシェは椅子から立ちあがると、会釈した。
「ランベールさんですね?」彼は微笑しながら言った、「私がファヌイユです。おかけくださいませんか?」
「『ル・ソアール』紙で広告を見たものですから、おたずねしたのです」
「いや、早速来ていただいて恐縮です」ラ・トゥーシェも腰をおろしながら言った、「ながくお手間はとらせませんから。まず用件に入るまえにおたずねしますが、あなたはつい最近まで、アヴロート・ポンプ製造会社に、タイピストとして勤めていたランベールさんですね?」
「はい、二年近く勤めておりました」
「失礼ですが、その証明になるようなものをお持ちですか? なに、これはほんの形式的なことなのですが、私の雇主の手前、おたずねしないわけにはいかないのです」
その女性の顔に、びっくりした色がうかんだ。
「あら、どうしましょう、まさか、そんなことをきかれるとは、思わなかったものですから――」
まずはじめに、ラ・トゥーシェの顔には、あれほど警戒したにもかかわらず、ボワラックのやつは、こっちの|もくろみ《ヽヽヽヽ》をいちはやく見破って、|にせもの《ヽヽヽヽ》をここへよこしたのではないか、という考えがうかんだのである。だが、いまの彼女の答で、その疑いはなくなったのだ。もし彼女が|にせもの《ヽヽヽヽ》なら、かえって身分証明書のようなものを用意してくるはずである。
「まあ、いいでしょう」と彼は微笑して言った、「たいしたことではありませんからね。では、もう一つおたずねしますが、あなたがまだあの会社にいるときに、新品のタイプライターを購入したのですか?」
娘の、愛想のいい顔に、ますます驚きの色がひろがった。
「はい、レミントンの十号型ですけど」
「いつ、購入したか、お分りになりますか?」
「よくおぼえています、私が会社をやめたのは四月五日の月曜日で、新しいタイプライターが事務所に入りましたのは、その三日まえでしたから――四月二日の金曜日ですね」
まさしくすごい情報ではないか? いまや、ラ・トゥーシェは、タイプライターの件を追及するのに、なんの疑念もなくなったのである。この娘から、きき出せるかぎりの情報をつかむことだ。また、敵に秘密がもれないように、探偵はおとくいの策略をつかうことにした。
彼は微笑すると、かるく会釈した。
「どうも失礼いたしました、私としましても、あなたがほんとうのランベールさんかどうか、たしかめてみなければなりませんのでね、ただそのために、いまのようなことをおたずねしたわけです。では、私がどういうものであり、用件とはなにか、お話ししましょう、ですが、これからお話することは、全部秘密にしていただきたいのですが、いかがでしょう?」
その女性は、まるで狐につままれたみたいな表情をうかべると、答えた――
「たしかにお約束しますわ」
「ではお話します、じつは、私はあるタイプライター会社から依頼されている私立探偵でしてね、最近ひんぴんと発生する、まことに異常な現象を調査しているのです。ま、私のみるところでは、不正手段としか思えないのですがね。まだ現在のところでは、その真相がつきとめられていないのですが、私が依頼を受けている会社の製品がかなり多数、つぎつぎと故障を起こすのです。機械がピタッと停ってしまうわけではないのですが、完全な働きをしなくなるのですよ。つまり、伸長力加減装置が狂ったり、タイプの活字がすこしねじれて、行がそろわなくなったりするのです。ま、わが社の製品の信用をきずつけるために、競争会社が、このような不正手段を講じるなどと、疑いたくはないのですが、それよりほかに、考えようがないのです。そんなわけでして、きっとあなたなら、なにか情報を提供してくださると思ったのです。私どもの希望をかなえていただけますなら、会社を代表して、私からお礼として百フラン差し上げますが」
いぜんとして、彼女の顔からは、驚きの色は消え去らなかった。
「お礼などいただかなくても、知っていることがあればどんなことでもよろこんでお話しますけど、でも、きっとお役になんか立ちませんわ」
「いや、あなたならきっと大丈夫ですよ。では、二、三おたずねしてよろしいですか?」
「どうぞ」
「まずはじめに、新品を購入するまえに、あなたが使っていたタイプライターのことを、話してくださいませんか?」
「レミントンの七号型でしたわ」
「いや、私がおねがいするのは、そういうことではないのです」こう答えながらも、ラ・トゥーシェは、『レミントン七号型』と頭にしっかりときざみこんだ。「七号型を目下調査中なのですから、むろん、そのことは分っているのです。私がおたずねしたのは、あなたが使っていたタイプライターに、ほかの七号型と識別できるような特別なマークか特徴があるか、ということなのですよ」
「さあ、べつにそういうものはなかったと思いますけど」彼女はしきりに思い出しながら答えた、「そうだ、ありますわ、SのキイについているSの活字が右のほうにすこしねじれていて、それからと、ここのところに三か所かすり傷がついていました」――彼女は手まねで、タイプライターのサイド・プレートを指すまねをした。
「じゃ、その機械をまた見れば、はっきりと見分けがつきますね?」
「それは大丈夫だと思いますわ」
「お嬢さん、もうほかに特徴はありませんか――たとえば不完全な活字があるとか、ほかの活字とそろわないではみ出すとか?」
「いいえ、ほんとに悪いところはありませんでしたわ。たしかに使い古した、旧式のタイプライターでしたけど、申し分のない機械だったのです。むろん、ボワラック専務は、そうとは思わなかったのですが、あたしはいまでもそう考えていますわ」
「ボワラックさんは、なんと言ったのです?」
「そのタイプライターのことで、私をお叱りになったのです。でも、あの機械には、どこも悪いところなんかありませんでしたし、もしあったにしろ、それはあたしの責任ではなかったのです」
「いや、そうでしょうとも、お嬢さん、その件について、どうでしょう、はじめからお話してくださいませんか?」
「これといって、お話しするほどのことではないのです、その日、タイプを打つ大きな仕事がありました――アルゼンチンへ送るポンプ装置の分厚い設計明細書をタイプするのです。やっとのことで打ちおわると、いつものようにボワラック専務の机の上に、それをおいてきたのです。ほんのしばらくすると、あたしは専務によびつけられて、どうしてこんなきたない書類をつくったのか、と言われたのです。あたしにはべつにわるいところが分らなかったものですから、どこがきたないのか、おたずねしてみたのです。専務はほんのちいさな欠点を指摘なさるではありませんか――それも行がわずかにそろっていないところや、一、二の活字がちょっとかすれているところだけなのです。ちょっと見ただけでは、気がつかないくらいですわ。で、私は専務に言ったのです、これはあたしの責任ではありません、このタイプライターを修繕しなければだめだって。すると専務は、シフト・キイをある程度動かさないうちに、打つからこんなことになるのだと言うのです。でも、ファヌイユさん、あたし、そんなことをしたことは、ただの一回だってないのですよ、あたしは専務にそう言ってやりました、すると専務は、あっさりあやまって、新品を購入してやるから、と言われたのです。さっそく、専務はレミントン会社に電話なさって、その日の午後に、十号型が事務所にとどいたのです」
「で、いままで使っていた七号型は?」
「レミントン会社の人が、新品とひきかえに持って帰りましたわ」
「あなたがボワラックさんに言われたことは、それだけなのですか?」
「ええ、そうですわ」
「失礼ですが、あなたが会社をやめられたのは、ボワラックさんとなにかいざこざがあったからだとききましたが?」
彼女はかぶりをふった。
「そんなことはぜったいにありませんわ、ボワラック専務は、つぎの月曜日に、つまり、新品のタイプライターが届いた日から二日あとですけど、事務所の編成がえをするので、タイピストをひとり減らしたいと、あたしに言われたのです。タイピストのなかでは、あたしが一番新しかったので、あたしがやめる|はめ《ヽヽ》になったわけです。専務は、いまからすぐ編成がえをしたいから、ただちにやめてほしいと言いました。解雇予告をしなかったかわりに、一か月分のサラリーと、申し分のない推薦状を書いてくださったのです、その推薦状なら、ここにありますわ。ですから、あたしは円満に退社したわけなんです」
その推薦状には、つぎのようなことが書いてあった――
[#ここから2字下げ]
エロアーズ・ランベール嬢は、一九一〇年八月より一二年五月まで、本社事務所に速記者兼タイピストとして勤務し、その間における仕事ぶりは、小生ならびに主任にとってまことに申し分のないものであったことを、心から証明するものであります。同嬢は精励恪勤、終始労を惜しまず、仕事にかけて有能であるばかりか、その態度、品行においても一段とすぐれた女性であります。同嬢の退社は、いささかも過失によるものではなく、ひとえに小社の業務縮小のためであって、この際、同嬢を手ばなすことは、小生のまことに遺憾とするところでありますが、同嬢を採用されんとする方々には、自信をもって推薦するものであります。
専務取締役 ラウール・ボワラック(署名)
[#ここで字下げ終わり]
「なかなかすばらしい推薦状ではありませんか、ちょっと拝借させてください」
ラ・トゥーシェはこう言うと、隣室に入ってドアをしめた。それからボワラックの筆蹟見本を、手帳からとり出すと、推薦状の署名と比較してみた。慎重に検討したところ、探偵は、それがまさしくボワラックのサインであることをたしかめ得た。彼はランベール嬢のところにもどると、推薦状をかえした。
「ありがとうございました、お嬢さん。ところで、ひとつ、思い出していただきたいのですが、あなたが退社する前の、三、四週間以内に、いささか風変りな文面の手紙をタイプなさいましたか――だれかが宝くじに当って、その多額な賞金を樽につめて、イギリスへ発送するといった内容ですが?」
「いいえ、ぜんぜん」彼女は、また妙なことをたずねられたので、途方にくれたような顔で答えた。ラ・トゥーシェは、穴のあくほどタイピストを見つめた。だが、彼女の様子には、彼の仕事を、これっぽっちも疑っているような気配がなかったので、探偵は安心した。とはいえ、彼はなにごとにも徹底しないと気のすまない性分だった、そこで、将来に禍根をのこさないように、念には念をいれることにした。探偵はさらに七号型のタイプライターについて質問をかさね、その機械にいたずらされたような形跡はなかったか、などとわざわざきいてみたりして、最後に、これはきっとなにかの思いちがいで、七号型は、自分が追求しているものではないらしい、と言った。それから、タイピストの住所を手帳にひかえると、探偵は彼女に約束の百フランを渡した。はじめのうち固辞したが、やがて受取った。
「では、お嬢さん、今日の件は、秘密にしておいてください」別れしなに、探偵は念を押した。
どうすくなく見積っても、タイプライターの情報を入手したことで、ますます興味深いことになってきた。もし、ランベール嬢の話が事実ならば――その点は充分に信じていいと、彼はにらんだ――ボワラックがタイピストをくびにし、古いタイプライターを新品にとりかえたことは、なにか曰くがあると考えられる。彼がタイピストを叱ったのも、口実にすぎないのではなかろうか。事実、ラ・トゥーシェには、この話ぜんたいが、古いタイプライターをとりかえる口実をつくるために、ボワラックが仕組んだ芝居のような気がしてならないのである。それに、ぬき打ちにタイピストを解雇したことは、事務所の編成がえをする予定だという理由だけでは、その説明にならないのである。事務所の編成がえが事実ならば、一か月の予告期間だけ、あのタイピストを働かせればいいわけであるし、おまけにすぐ、彼女の後釜《あとがま》を雇う必要など、どう考えてもないはずである。ホテルの勘定を払いながら、こうした疑問は、ひょっとしたらとるにたりないことかもしれないが、さらに調査してみるだけの値打ちはあると、ラ・トゥーシェは肚をきめたのである。彼はタクシーを呼ぶと、レミントンのタイプライター倉庫へ車でむかった。
セールスマンが応待に出てくると、探偵は言った、「中古がほしいのだが、見せてくれるかね?」
「さ、どうぞ、こちらにございますから」
探偵は、倉庫の裏手の部屋に案内された。その部屋の中には、大小の修繕をした、いろとりどりのタイプライターが、ぎっしりとならべられていた。値段や型をたずねながら、ラ・トゥーシェはゆっくりと歩きまわっては、その目だけはタイプライターにすばやく走らせて、ねじれているSの活字を探した。だが、いくら探しても、Sのねじれているタイプライターにはぶつからなかった。七号型のタイプライターが一つも見あたらないのである。この部屋にあるのは、比較的あたらしい型のものばかりだった。
とうとうあきらめて、探偵は店員に声をかけた。
「ここにあるのは、ちょっと値段がはりすぎるのだ。じつは、私は商業学校の校長でね、ごく初歩の生徒用のタイプライターが一台ほしいのだよ。値段さえやすければ、型はいくら古くてもいいのだ。もっと古いのはないかね?」
「かしこまりました、ごく調子のいい七号型は五、六台ございますし、五号型も少々ですがございます、では、どうぞこちらへ」
探偵は旧型専用の陳列室に案内された。ラ・トゥーシェは、ここでもまた、ねじれたSの活字を懸命に探して歩いた。
とうとうあった。Sの活字が右にねじれているばかりか、サイド・プレートには、ランベール嬢が言ったとおり、三つのかすり傷がちゃんとついていた。
「このタイプライターがよさそうだね。もっとよく調べてみたいから、おろしてくれないか」
彼は、いかにも丹念にすみからすみまで調べているようなふりをしてみせた。
「よし、うまく打てればこれにしよう、ためしに打たしてくれないかね」
探偵は紙を一枚はさむと、カタカタと、二、三語打ってみた。そして紙をぬきとると、活字と行の揃いぐあいを吟味した。
と、そのとたんに、長いことこの道で食べてきた彼なのに、あやうくよろこびの声を出しそうになったくらいだった。彼がにらんだかぎりでは、このタイプライターこそ、ル・ゴーティエ名義の手紙を打ったものにちがいなかったからだ!
探偵はまた店員に顔をむけた。
「なかなか具合がよさそうだよ、では、このタイプライターにきめよう」
彼は代金を払い、領収書をもらった。それからおもむろに、探偵は支配人に面会を求めた。
出てきた支配人を、彼はソッとわきにつれて行くと、言った――
「いささか変ったお願いがあるのです。このタイプライターを、いま買ったばかりなのですが、これを持って帰るまえに、あなたに見ていただいて、もしよろしかったら、二、三たずねさせていただきたいのですがね。なぜこんなことをおねがいするか、とくにあなただけにそのわけをお話しするのですが、じつは私は、私立探偵なのです。ある重大事件で検挙されている男のために、私は依頼を受けて活動しているのですが、その被告は、私の見るところでは絶対に無実なのです。被告の有罪か否かは、ある手紙を書いたかどうかに、その大半はかかっているのですが、もし私の目に狂いがなければ、このタイプライターで打たれたものなのです。遺憾ながら詳細にわたってお話するわけにはいきませんが、証拠物件とするためには、このタイプライターのはっきりした確認が、どうしても必要なのです。そこで、この機械に、確認の目印となるようなものを、あなたにつけていただければありがたいのです。それから、このタイプライターをどこから入手したか、教えてくださいませんか」
「そうですか、よろこんでお引受けいたしますよ。ですが、証人として呼ばれるようなことはないでしょうな」
「そういうことはないと思いますよ、まず、このタイプライターの確認は、うたがう余地がありませんからね。ただ用心のために、おねがいしただけなのです」
支配人は、小さな打印器で、そのタイプライターの台枠に数個の『点』をつけると、その機械のナンバーを帳面にひかえた。
「それから、この入手先でしたね、ちょっとお待ちください」支配人はラ・トゥーシェにこういうと、事務室に入っていったが、ものの二、三分もしないうちに、一枚の紙をもってひきかえしてきた。
「このタイプライターは、アヴロート・ポンプ製造会社の事務所から、ひきあげてきたものです」――支配人は紙を見ながら言葉をつづけた――「先月の、つまり四月二日に受取っております。数年前に、同事務所へ納品したもので、その日に、最新型の十号ととりかえるようにというご注文がありましたので」
「どうもいろいろとありがとうございました。とにかく、できるかぎり、こちらへはご迷惑のかからないようにしますから」
ラ・トゥーシェはタクシーを呼ぶと、そのタイプライターを、ラ・ファイエット街のホテルへ運んだ。そこでも一枚、紙にタイプしてみて、強力な拡大鏡をつかって、いま打ったばかりの活字と、ル・ゴーティエ名義の手紙からとった拡大写真とを、ひきくらべた。ズバリそのものだった。いま、探偵のまえにおかれてあるタイプライターこそ、血眼になって探していたものなのだ。
彼は、成功に心もおどるばかりだった。考えれば考えるほど、ボワラックがあのタイピストを叱った一件は、このタイプライターを処分する口実にすぎないことが、確信されてくるのである。それにまたボワラックは、ランベール嬢が、このタイプライターの特徴を知りすぎているという理由だけで、彼女を|くび《ヽヽ》にしたのだ。もし事務所が捜索された場合、彼女を解雇しておけば、ボワラックの身は安全だからだ。
そして、ボワラックのさらに深い魂胆はなにか? 探偵に考えられるかぎりでは、その説明はただ一つ。ボワラックは、ル・ゴーティエ名義の手紙が、このタイプライターで打たれたことを知っていたのだ。もしそれが事実ならば、彼がその手紙をフェリックスに送ったことにはならないだろうか? またもし、彼が送ったものならば、ボワラックこそ真犯人ではないか? いまやラ・トゥーシェには、そのように考えられてくるのだ。
と、そのとき、さらにもう一つのことが、探偵の頭にひらめいた。ボワラックが真犯人なら、彼のアリバイはどうなるのだ? あのアリバイは、どう見ても決定的ではないか。だがしかし、ボワラックが白ならば、このタイプライターはいったい、どういうことになるのだ? どう見ても、このジレンマからのがれる術《すべ》はない。ラ・トゥーシェは、まさに五里霧中というところだった。
だが、さらに熟考をかさねて行くうちに、せっかくこのタイプライターを見つけてはみたが、そのことはたいしてクリフォード弁護士の助けにならないということに、探偵は気づいてきたのである。はじめは、このタイプライターこそ、ボワラックの有罪を裏づける証拠だとばかり思いこんだのだが、よく考えてみれば、ボワラックはなんとでも言いのがれができるではないか。彼にしてみれば、あのランベール嬢の話にあくまでも固執することができるのである――あんなタイプでは、タイピストに言ったとおり、会社としてはたいへん困る、かなりまえから、位取り装置つきのタイプライターを購入しようと思っていた矢先、あのタイピストの打ったきたない書類を見て、早速取りかえることにしたのだ、と、いかにももっともらしく言えるのだ。それからまた、タイピストのことについても言いのがれができるのだ。あの娘は一見しとやかで正直そうな顔をしているが、ほんとうの性格などというものは、神さまでなければ分らない、自分でも専務と渡りあったと言っているくらいだから、ひょっとするとすごく生意気な女なのかもしれないのだ。ま、いずれにせよ、ボワラックは、くびにしたタイピストのことを、なんとでも言えるのだし、ほんとうのところは、第三者には分らないのである。おまけに、あの娘に書いてやった推薦状のことについても、あのタイピストは気にいらなかったので、|くび《ヽヽ》にしたいと思っていたが、あとあとまであの娘に傷をつけたくなかったから書いてやったのだとも、ボワラックには説明ができるのである。事務所を編成がえすると娘に言ったのも、彼女を円満に退社させたかったからだと、弁明することができるのだ。
ル・ゴーティエ名義の手紙については、ボワラックは、あくまで知らぬ存ぜぬの一点張りで押しとおすことができるし、ラ・トゥーシェにしても、それを否認しようがない始末である。いや、それどころか、フェリックスがボワラックに濡れ衣を着せるために、事務員を買収して、そのタイプライターで、ル・ゴーティエ名義の手紙を打たせたにちがいないと、逆に言い張れるのだ。もしフェリックスが真犯人ならば、そういう手を使うことも、充分考えられるからである。
ここでとうとう、ラ・トゥーシェは、このタイプライターを探し出したくらいのことでは、ボワラックの有罪を証拠だてられもしないし、フェリックスの容疑をはらすこともできない、という結論に達せざるを得なかった。よし、もっと頑張る以外に手はないぞ、どんなことがあってもボワラックのアリバイを打ちやぶり、馬方を探し出すのだ――
二十七 探偵のジレンマ
その夜、ラ・トゥーシェはどうしても眠れなかった。室内の空気はむし暑く、死んだように重くるしかった。南西の空のあたりには、どす黒い大きな雲がモクモクともりあがり、いまにも嵐の来そうな気配だった。探偵はベッドの上で、転々と寝返りを打ってばかりいて、からだはすこしも休まらず、頭だけが妙に冴えてしまっていた。と、突然、ある考えが、パッと頭にひらめいた。
彼は眠れないままに、ルファルジュ警部があの馬方を見つけるために新聞に出した、いろいろな広告の文案を、あれこれと吟味していたのである。考えてみると、どの広告にも、カルディネ街の貨物駅へ樽を運送した馬方の身元を知らせてくれたものに、賞金を出すという趣旨のものだった。すると、問題の性質から言って、この情報を提供できるものはだれか、と探偵は自問自答してみたのである。彼に考え出せるかぎりでは、二人の男しかいない――つまり、その馬方自身と、馬方を雇った男とである。そのほかには、貨物駅に樽を運送したことなど、だれも知りっこないことだ。この二人のうち、馬方を雇った男が、すすんで情報を提供するはずはない。これは論外。また馬方にしろ、たんまりと報酬をもらって口どめされているか、なにかの弱みでもにぎられていたら、口を割るまい。ルファルジュの広告に、ひとつも効果があらわれなかったのは、この点にあるのではなかろうか、とラ・トゥーシェは思った。
ちょうどここまで考えてきたとき、ある考えが、突然、探偵の頭にひらめいたわけである。ルファルジュ警部の広告の最大の欠点は、アッピールする相手を間違えていることである。その馬方に訴えるかわりに、この男の仲間に働きかけられないだろうか? いやむしろ、その馬方のほんとうの雇主がいいのではないか、ボワラックにしろ、またフェリックスにしろ、あの場合、ただ運送を依頼しただけで、雇主でないことはあきらかである。探偵はベッドからはね起きると、電気をつけ、ただちに回状を書きはじめた。
[#ここから2字下げ]
『冠省。一人の無実の青年が、ある証拠がないために、殺人罪の宣告を受ける寸前にあります。髭《ひげ》がなく、白髪の、ぬけ目のなさそうな顔をした馬方の証言さえあれば、その証拠がそろうのです。これに該当する馬方を雇っておられるか、(もしくは去る三月まで雇っておられたか)あるいはその男をご存じの方はなにとぞ私までご一報くださいますよう、心からおねがいいたします。私は、無実の罪のために泣く被告のために働いている私立探偵であります。その馬方にはいかなる迷惑もおよぼさないことを、ここに保証いたします。いや、それどころか、右記の人相に該当する方が、毎午後八時から十時までのあいだにおたずねくださいました場合には、五フランずつ、また、私が求めている情報を提供してくださった場合には、五百フランを進呈いたします』
[#ここで字下げ終わり]
ラ・トゥーシェは、ランベール嬢に出した広告のひそみにならって、自分の本名と住所は書かなかった。シャルル・エペーという名前にして、連絡先は、リヨン街のアルル・ホテルとした。
翌朝、彼はその原稿を印刷屋に持って行って、その印刷と、各封筒に『親展』のスタンプを押し、パリ中の荷馬車運送店の全店主に発送してもらうように依頼した。その足で、彼はリヨン街に行くと、シャルル・エペーの名前で、アルル・ホテルの一室を予約した。
探偵は、バスティーユ広場から地下鉄に乗ると、こんどはカルディネ街の貨物駅にむかった。彼は、だいぶ待たされてから、ほぼ二か月前の木曜日に、あの樽を荷馬車からおろした、顔なじみの二人の運搬夫に会った。そこで探偵は、目下探している馬方が、近いうちに自分の泊っているホテルへ、夜訪ねてきそうだから、午後八時から十時までのあいだ、自分の部屋に来てもらって、その男を鑑別してくれないか、一日五フランの日当をはずむから、当分どうだろうと、二人の人夫に相談してみた。すると二人はよろこんで承諾した。その夜、早速二人にアルル・ホテルの自室へ来てもらったが、成功しなかった。髭のない、白髪の、ぬけ目のなさそうな顔つきの男は、一人もあらわれなかったのである。
ラ・トゥーシェが、ラ・ファイエット街のホテルにもどってみると、弁護士のクリフォードから手紙が来ていた。文面によると、警視庁は、二つのことを発見したというのである。その一は、ラ・トゥーシェも、おそかれはやかれ嗅ぎつかれるものと覚悟していたことである。つまり、フェリックスの画塾時代に、彼がいまは亡きボワラック夫人と恋愛して、ごくみじかいあいだではあるが婚約まで交した仲だということを、警視庁は嗅ぎつけたのである。これによって、検察側はゆるぎない自信を得たというのだ。
その二は、前の問題の週の水曜日の朝、ウォータールー駅から樽を受取り、その翌朝チャリング・クロス駅に運送した馬方を、バーンリー警部が見つけたというのである。いずれも、同一人の馬方がやった仕事ものと、にらまれていたのである。
文面によると、その週の火曜日の夜七時三十分ごろ、顔があさぐろく、とがった黒い顎髯をはやした、一見外国人らしい男が、ウォータールー・ロードで大きく商売をやっているジョンソン運送店にやってきて、荷馬車と馬方を二日間契約し、それとおなじ期日に空いている小屋を借りることも、とりきめたというのである。その外国人風の客は、翌日の水曜日の午前十時に、ウォータールー駅まで荷馬車で来るように、馬方に言いつけたという。さて、その翌日、サザンプトン発の臨港列車がウォータールー駅に到着すると、黒髯の男は樽を受取り、待たしてある荷馬車に積みこんだことは、読者もすでにご承知のとおりである。荷馬車が駅から借りきってある小屋まで行くと、馬方は、馬車だけおいて、馬を廐舎《きゅうしゃ》までつれて帰るように、黒髯から命ぜられた、そして、今日はもうこれで仕事はいいから、翌日の木曜日の朝、その小屋までまた来て、こんどは樽をチャリング・クロス駅まで運送し、パリに発送するように言いつけられたというのである。黒髯は、パリまでの輸送料金と、馬方の駄賃に十シリングよこした。樽の送先はパリのどこかと馬方がたずねると、黒髯は、こちらでちゃんと荷札を樽につけておくから大丈夫だと言ったという。たしかにその話どおりで、樽には新しい荷札がついていて、『パリ北停車場、駅止め、ジャック・ド・ベルヴィル殿』という宛名が書いてあった。さて、その日は黒髯の言いつけどおり、馬方は、小屋に樽をつんだままの馬車だけのこすと、馬をひいて廐舎にかえり、翌朝(木曜日)、馬方はパリへ樽を発送したというのである。
その馬方は、黒髯の顔を見れば識別できるかと、警部からたずねられると、できると思うと答えたが、結果はかんばしくなかった。さっそくフェリックスの面通しをすると、このひとは、あの黒髯の客とよく似ていると馬方は言うだけで、きっぱり同一人だと断言できなかったからである。
このニュースは、ラ・トゥーシェにとってすごく興味ぶかかった。探偵は午前二時すぎまで煙草をふかしながら、クリフォード弁護士と話し合ったこの事件の推理に、手紙にある新事実がどの程度まで|もの《ヽヽ》を言うか、椅子に坐ったまま、考えつづけていた。もし検察側の主張が正しいならば、フェリックスは、火曜日の夜七時三十分に運送屋を訪ねた男だということになる。したがってフェリックスは、水曜日の午前十一時ごろから、翌日(木曜日)の午前七時まで、樽を完全に一人占めにしていたことになるから、その間に夫人の死体を樽に詰めかえられるわけで、それには二つの方法があきらかに考えられる。その一つは、別の馬をほかから工面すると、サン・マロ荘にその樽を運送し、だれにも見られる心配のない壁にかこまれた中庭で、樽から彫像をぬき出し、夫人の死体を詰めかえて、ふたたび荷馬車で小屋まで運ぶという方法、第二は、自分の二人乗り自動車に死体を隠しておいて、その車で小屋へ運び、そこで樽の中身をつめかえる方法。不幸にも、手紙にある新事実は、フェリックスの有罪説をことごとく裏づけるとしか、ラ・トゥーシェには思われなかった。
もっとも、この新事実の有利な点は、フェリックスのアリバイが発見されるかもしれないもう一つの時刻――つまり、火曜日の夜七時三十分という時間を教えてくれたことである。しかし、ラ・トゥーシェには、自分とクリフォード弁護士とが、それぞれ、あの週のフェリックスの行動を調査した結果をふりかえってみれば、まずあきらめたほうが早いと、思わざるを得ないのである。
そこで探偵は、クリフォードが立てたボワラック有罪説に考えを移した。すると、手紙にある新事実によって、いかにボワラックのアリバイの争点が具体化されたかに、彼はすぐ気がついたのである。現在までのところ、ボワラックのアリバイは、全体として考えられていたので、すでに裏づけられている部分も、まだされていない部分も、一列にあつかわれていたのである。言いかえると、もしボワラックが、あの問題の数日間、パリとベルギーにいたのなら、ロンドンにいられるはずがないと、考えられていたわけだ。ところが、新事実によって、一定の時間が、アリバイの直接の争点となってくるのである。たとえば、火曜日の午後七時三十分、黒髯の男はロンドンのウォータールー・ロードのジョンソン運送店にいた。同日午後二時三十分、ボワラックはパリのシャラントンにいた。ラ・トゥーシェは大陸旅行案内を調べてみた。それによると、午後七時十分に、ヴィクトリア駅着の汽車が一本あるから、こいつを利用すれば、パリからの旅客は、七時三十分すれすれに、ジョンソン運送店にたどりつくことができる。しかし、その汽車は、正午にパリを出るのだ。したがって、運送店にやって来た男は、絶対ボワラックではあり得ない。すると、タイプライターの問題は……
ここでまた、ラ・トゥーシェはまえとおなじジレンマにおちいったのである。もしボワラックが真犯人なら、彼はこのアリバイをどうやってつくったのか? また彼が白だとすれば、あのタイプライターをなぜ新品ととりかえたのか? 探偵はあまりの苛立《いらだた》しさに、髪の毛をかきむしった。しかし、そのために、いかなる難関だろうと、かならず突破して、真相を究明してやるのだと、彼はいっそう決意を固くしたのである。
その翌日の夜も、探偵はリヨン街のアルル・ホテルへ出かけて行き、貨物駅の二人の運搬夫と、白髪のするどい顔をした馬方のご入来を、待ちかまえた。
彼が出した回状の返事は、かなりあった。そのなかのあるものはまったく否定的で、回状の人相に該当する馬方はひとりも見かけたことがないと言ってきた。またあるものは、そういう人相の馬方を何人か知っているからと言って、その住所氏名を書いて送ってきてくれた。ラ・トゥーシェは、そのリストをつくって、ホテルにたずねて来ないものは、こちらから会いに行ってやろうと決心した。
探偵がさかんに馬方のリストを作っていると、はじめて一人目のお客さんがあった。この馬方は、髭もなく、白髪だったが、その顔にするどさがさして見られなかった。二人の運搬夫は、その男を一目見ると、まえもってきめてあったサインで、否、と探偵に知らせた。そこでラ・トゥーシェは、男に五フラン渡して帰ってもらうと、リストにある、その男の名前のところに『スミ』としるした。その男が帰ると、十時までに、いれかわりたちかわり十四人のお客さんがあった。いずれも、ほぼ回状の人相に該当していたが、二人の運搬夫は、片端から『否』のサインを送ってくる始末だった。その翌日の夜は十一人、翌々日の夜は四人来たが、どれもこれもサインは『否』だった。
三日目に、クリフォード弁護士からまた一通、手紙が来た。その文面によると、ロンドンで樽を運送した馬方の頭のいいのには、すっかり感心した、とある。弁護士は、こんなにも頭のいい人間が、なにを好んで馬方などになったのかと、奇異に感じ、その男を自宅につれて帰り、いままでの経歴をきいたという。ところが、そのおかげで弁護士はたいへん重要な発見をすることになった、きっと、これによって、自分たちの調査に一段落をつける解決の手がかりがあたえられたものと、思ったほどだというのである。名前をジョン・ヒルという、その馬方は、よろこんでこれまでの身の上を打ちあけたそうだが、それによるとこうである――ジョン・ヒルは四年まえまで、警視庁勤務の巡査だった。勤務成績もきわめて良好で、自分でも将来の昇進を確信していたくらいだった。ところが不運なことに、彼は上官と衝突してしまった。そのいきさつはくわしく話さなかったけれど、仕事上のことではなく、女がからんでいるらしいと、クリフォードは察した。それが原因で、とうとう勤務中に、逆上したあげく、喧嘩沙汰を起こしてしまい、彼は免職になってしまった。それからながいこと、足を棒にして職探しをしたが、いまの馬方になるより仕方がなかった、というのである。
『しかし』とクリフォード弁護士は手紙の中で、書いている、『ことわざにもあるとおり、まったく甲の損は乙の得というやつで、ジョン・ヒルの、この奇妙な身の上のおかげで、われわれの事件が解決にみちびかれるのではないかと思うのです。というのは、彼は警察で観察力をきたえられたことがあるので、樽の運送の依頼主についても、はっきりと見分けられる点を、ちゃんと観察していたのです。その男がヒルに金を払う際、その右手人差指の第一関節の裏側に、火傷《やけど》のような、ちいさな痕がついているのを、彼は見てとっていたのです。ヒルは、その傷跡は絶対についていたのだから、誓ってもいいと言っております。そこで、警察には、その傷痕のことを話したかと、私がたずねますと、警察ときいただけで胸糞《むなくそ》がわるくなるくらいだから、きかれた以外のことはこれっぽっちも喋らなかったと、ヒルは答えました。私が警察を相手に戦っていることを知って、すすんで情報を提供してくれたくらいですから、検察側の断定をくつがえすような証言なら、彼はよろこんでしてくれるものと考えます』
また、その手紙のつづきによると、クリフォード弁護士は、当然打つべき手を、ちゃんと打ったのである。彼は早速、フェリックスに会って、その指を調べたが、なんの傷痕もなかったというのだ。
はじめ、これを読んだときは、ル・トゥーシュも、これで事件が解決したような気がした。ジョン・ヒルの証言によって、フェリックスの無罪は決定的ではないか。こんどは、ボワラックの指を調べることだ、その指に小さな傷跡があれば、これで事件は解決である。
ところが、よく考えてみると、これくらい事実と相反するものはない、ということに、探偵は気がついた。依然、ボワラックには、れっきとしたアリバイがあるのである。このアリバイがあるかぎり、ボワラックの弁護人は、腕さえよければ、その無罪を主張するにちがいない。陪審員にしても、その主張はみとめざるを得ない。それにまた、巡査を|くび《ヽヽ》になったような馬方の証言など、頭から信用されまい。事実、われわれにその情報を提供せしめた、ジョン・ヒルの、警察に対する根強い反感は、かえって、その証言を、ほとんど無価値なものにしてしまうだろう。検察側の論拠をくつがえすために、ヒルが傷痕説をでっちあげたのだと主張されるのが|おち《ヽヽ》である。むろん、それだけでは、陪審員を説得するわけにはいかないが、そのときは、ボワラックのアリバイが|もの《ヽヽ》を言う。したがって、唯一の係争点はこのアリバイにかかってくるのだ。
だが、それにもかかわらず、つぎに打つべき手はあきらかだった。ラ・トゥーシェは、ボワラックの指を見なければならない、もし、傷痕があれば、馬方のヒルにもたしかめてもらわなければならないのだ。
午前十一時ごろになると、探偵は、利口そうな顔の運転手のタクシーをさがすと、その車にのって、シャンピオネ街のはずれまで行き、なにごとか運転手に言いふくめると、彼はおりた。と、すぐ探偵は、例のカフェの窓ぎわに座を占めると、通りの向側のポンプ製造会社の事務所の入口に、目をそそいだ。タクシーは、彼の命令どおり、いつでもとび乗れるように、そのあたりを、ノロノロと動いていた。
十二時十五分まえごろ、ボワラックが事務所から出てきた、そして、ゆっくりとした足どりで、市中にむかって歩いて行った。ラ・トゥーシェは、カフェを出ると、そのままボワラックと反対側の歩道をあるきながら、しずかに尾行にかかり、タクシーも、そのあとからスピードをおとしてついてきた。やがて、探偵は、自分の先見の明をほこった。ボワラックは、街のはずれまでくると、タクシーを呼んで乗りこむと、サッと走り出したではないか。
ラ・トゥーシェも間髪いれず、ついてきた車にとび乗ると、運転手にまえの車を追跡するように命じた。
二台の車は、そのまま大通りに出て、オペラ街のレストラン『ベリーニ』まで、走っていった。ボワラックは、そのレストランの前で車をおりると、店に入っていった。探偵もそのあとにつづいた。
この大きなレストランには、三分の一ほど客が入っていた。ラ・トゥーシェが入口のドアのところから店内を見渡すと、ボワラックが窓ぎわのテーブルについたのが目にとまった。探偵は、勘定台のそばのテーブルの椅子に腰をおろすと、定食を注文し、ゆっくりしていられないので、途中で店を出るようなことになるかもしれないからと給仕に言って、食事の勘定を先払いした。それからおもむろに、彼はボワラックを監視しながら、悠然と昼食にかかった。
ボワラックは、しごくゆっくりと食事をしていた。ラ・トゥーシェは、相手が腰をあげるまで、のんびりと時間をかけてコーヒーを飲んだ。何人かの客が食事をおわり、カウンターのまえにみじかい列をつくった。ラ・トゥーシェはうまくころあいを見計って席を立ったので、ボワラックのすぐうしろにならぶことができた。ボワラックが金を出したとき、探偵はその指を見た。痕跡があった!
「とうとう決め手をつかんだぞ」ボワラックの視線から身をかくしながら、探偵は心の中で叫んだ、「やっぱりボワラックが、運送屋にあらわれた男だったんだ! これで、おれの仕事も一段落だ!」
しかし、すぐそのあとに、あのいまいましい考えが、頭をもちあげた。ほんとうに自分の仕事は一段落ついたのか? ボワラックの黒を裏づける証拠は、これだけでいいのか? いや、まだボワラックのアリバイがある。つねにそのアリバイが背景に不気味な姿をあらわし、せっかく成功したと思ったとたんに、それをおびやかすのである。
いまや、ボワラックが、あの馬方が会ったという男であることは明白であったが、馬方にボワラックの面通しをさせて、絶対に本人にちがいなし、という証言が得られれば、完璧《かんぺき》だと彼は考えた。一刻もぐずぐずしていられなかったので、探偵はクリフォード弁護士に長距離電話をかけ、その問題をいそいで話しあった。そして、できれば、その日の夜行で、馬方のヒルをパリへ発《た》たすことにする、という話にきまった。その二時間後、弁護士の電報が来て、電話の話どおり手配した、と言ってきた。
そこで翌朝、ラ・トゥーシェは、イギリス発の臨港列車が到着する北停車場へかけつけ、背が高く、短い口髭をはやしている、色の浅黒いジョン・ヒルを出迎えた。二人が朝食をともにしたとき、探偵は、馬方のヒルに、自分の希望を説明した。
「むずかしいのは、ボワラックに気づかれずに、やつの顔を見なければならないことなのでね、われわれがやつをマークしていることを、さとられたくないんですよ」
「よく分りました」とヒルは答えた、「で、作戦がおありなのですか?」
「いや、べつにこれといったものはないが、その顔ににせの顎髯をはやし、眼鏡をかければ、やつもあんただとは気づくまい。服装をかえたほうがいいね。そこで、あのレストランで昼食をとり、やつが席を立つころを見はからって、私がやったように、そのうしろにならんで、やつが勘定を払うとき、その指を見ればいいわけですよ」
「では、そうします、それにしてもいちばん困るのは、パリはまったく不案内ですし、そんな高級なレストランには入ったことがないのです」
「フランス語はぜんぜんだめ?」
「はい、からっきし」
「それじゃ、部下のマレーをあんたにつけたほうがいいね、なんでもその男にまかせなさい、そうすれば一言も口をきかずにすむ」
ヒルはうなずいてみせた。
「そいつは名案ですねえ」
「よし、それではすぐ変装にとりかかろう」
二人は店から店へと車で走りまわり、|もと《ヽヽ》巡査の変装用品を、頭のてっぺんから足のさきまで、買いととのえた。それから、芝居のメイキャップ係のところへ行って、馬方の顔にふさふさとした顎髯と、長い口ひげをつけてもらった。それに、素通しの鼻眼鏡を買ったので、いっさいそろったわけである。その一時間後、ヒルが変装して、ラ・トゥーシェの部屋に立つと、この男を知っているものでさえ、これが|もと《ヽヽ》巡査だと見えないのはあたりまえだとしても、ましてロンドンの馬方だとは、夢にも思えないような、変りようだった。
「すごいぞ! ヒル、これじゃ、あんたのおふくろさんだって間違えるよ」とラ・トゥーシェ。
探偵は、まえもって部下のマレーに電報を打っておいたので、マレーは二人を待っていた。ラ・トゥーシェは、二人をひきあわせると、さっそく作戦を説明した。
「じゃ、時間がありませんから、準備がいいなら、出かけようじゃありませんか」とマレーは馬方のヒルに言った。
それから三時間もしないうちに、ヒルとマレーはかえってきた。遠征は大成功だった。とにかく、ボワラックをまた尾行するよりも、毎日ちがうレストランで昼食をとらないと狙いをつけたほうがいいと考えて、ヒルとマレーはレストラン『ベリーニ』へ直行したのである。まさに狙いはたがわなかった。正午ちかくなると、ボワラックが店の中に入ってきて、窓際の、たぶんおなじテーブルの椅子に腰をおろした。やがてボワラックが食事をおえて席を立つと、二人はラ・トゥーシェのひそみにならって腰をあげ、ボワラックが勘定を払おうとしたとき、ヒルはすぐうしろにならび、その指を見たのである。と、その瞬間、ヒルは、まさにあの傷痕を確認したのである。事実、ヒルは指の傷痕を見るまえから、ボワラックの体格や身のこなしだけで、同一人だということを確認したのである。
その夜、ラ・トゥーシェは、馬方のヒルにたっぷり夕食をご馳走し、謝礼もはずんで、ロンドンへ夜行で帰る彼を、駅まで行って見送ってやった。それから探偵はホテルへ帰ると、葉巻に火をつけ、ベッドにひっくりかえって、ボワラックのアリバイ問題と、また取組んだ。
もうこうなれば、ボワラックのアリバイがでっち上げであることは、探偵にははっきりと分っていた。あきらかにボワラックは、あの火曜の夜、七時三十分にロンドンにいたのだ、ウォータールー・ロードのジョンソン運送店にあらわれたのだ。翌水曜日、午前十時から同十一時までに、彼は馬方のヒルと一緒に、樽をウォータールー駅から小屋まで荷馬車で運送した。その間、ボワラックはロンドンを発てるはずがないのだから、火曜日の午後七時三十分から、水曜日の午前十一時まで、ロンドンにいたことになる。それから、そのおなじ水曜日の夜、午後十一時には、ベルギーの首都、ブリュッセルのマクシミリアン・ホテルにいた。ここまでは、疑いをさしはさむ余地のないたしかなことである。
ところで、いまあげた時間は、彼のアリバイとピッタリ一致しているか? 火曜日はあきらかに喰いちがっている。水曜日はどうか? 午前十一時にロンドンにいた男が、おなじ日の夜、午後十一時に、ベルギーのブリュッセルにはたして行けるものだろうか? ラ・トゥーシェは大陸旅行案内を調べてみた。あった。ロンドン発午後二時二十分、これならばブリュッセルに、午後十時二十五分に到着する。これなら、うまくいくじゃないか。この汽車で来る客は、『午後十一時ごろ』マクシミリアン・ホテルに着けるわけである。と、このとき、ラ・トゥーシェは、その日どうすごしたかというボワラックの陳述が、まだ裏づけられてないことを思いだした。その日は、弟がスウェーデンに滞在しているのをうっかり忘れて、マリーヌの弟の家へ行ったと、ボワラックはルファルジュ警部に陳述しているのである。この陳述の確証はまだあがっていないのだ。マリーヌの弟の家の留守番も、近所の人も、訪ねていったボワラックの姿を、だれひとり見かけていないのである。そうだ、彼はマリーヌの家までぜんぜん行かなかったのだ、とラ・トゥーシェが結論をくだすには、さして時間がかからなかった。ボワラックは、ロンドン発午後二時二十分の汽車で、ベルギーのブリュッセルへ行ったのだ。
そこで探偵は、電話の件を思い出した。ボワラックは、ブリュッセルのカフェから、マクシミリアン・ホテルの番頭に、電話で部屋を予約した件である。証言によると、その電話は午後八時ごろあった。しかし、午後八時には、ボワラックはブリュッセルにいなかったはずである。その時間は、彼がロンドンからブリュッセルにむかう途中のはずだ。
ここでまた、ラ・トゥーシェは大陸旅行案内を調べた。ロンドンのチャリング・クロス駅、午後二時二十分発の汽車に乗ると、午後八時にはどのへんまで行っているか? そして、探偵は、パッと一瞬のうちに理解したのである。旅行案内によると、午後七時三十分に、連絡船はオスタンドに到着する。そしてブリュッセル行の汽車は同八時四十分まで発車しない。これだ、ボワラックは、オスタンドから、ホテルに電話をかけたのだ!
なんだ、そうだったのか! 分ってみればごく簡単なトリックだが、それにしても、なんという巧妙さ、そしてラ・トゥーシェは、アンスパシュ広小路のカフェで食事をしたとか、モネー劇場で、ベルリオーズの『トロイ人』を観たというボワラックの陳述を、ルファルジュ警部がまったく裏づけられなかったことを思い出した。そうだ、これでとうとう正しい軌道に乗ったぞ。
水曜日は、これでちゃんと説明がつくが、火曜日というすごい障害が依然として残っているのである。シャラントンのカフェはどうなのか?
と、そのとき、ラ・トゥーシェの頭に、またインスピレーションがひらめいた。いま、水曜日の電話のトリックを見破ったではないか、それなら、火曜日のトリックも、これとおなじような手段で解けないものか?
すでに探偵には、パリを正午に発って、夜の七時十分にロンドンのヴィクトリア駅に着く列車に乗れば、同七時三十分までに、ウォータールー・ロードに行けることが分っていた。そこで、この点をさらにもう一度、熟考してみると、あの運送店にボワラックがあらわれた時間の意味が、突然、探偵にパッと分ったのである。そもそも午後七時三十分に運送屋に行くなどと、時刻としてはおそすぎるではないか。用事で行くなら、もっと早い時間にするはずだ。ところが、この人物にはそうできなかった。それは、午後七時十分にならなければ、ロンドンに到着できなかったからなのだ。
探偵は、ここでまた、電話の件に考えをもどした。彼はしだいに興奮しながら、胸のなかで自問自答した、正午の汽車でパリを出ると、午後二時三十分にはどのへんまで行っているか? ここで彼は、失望にうちのめされた。その汽車は、午後三時三十一分でなければ、カレーには到着しないのである。午後二時三十分には、まだアヴヴィルとブーローニュのあいだを、フルスピードで疾走しているところなのだ。ボワラックは、その車中で電話するわけにはいかない。したがって彼は、その汽車でロンドンまで来なかったことになる。
そこでラ・トゥーシェは、またボワラックがおなじ手をつかって、その途中のどこかの駅から、おそらくカレーあたりで電話をかけたのではないかと、期待して調べてみたのだ。だが、それはあきらかに見込みちがいだったのである。とはいうものの、一歩一歩と真相に近づきつつあることは、探偵も感じないわけにはいかなかった。
彼はまた、時間表を見た。問題の汽車は、午後三時三十一分にカレーに到着し、同三時四十五分に、連絡船が出航する。その間、十四分しかない。そのたった十四分のうちに、はたして長距離電話が二本もかけられるだろうか? まず無理だ、と探偵はにらんだ。もし自分がボワラックの立場だとしたら、どういう手を打つか、彼は考えてみた。
と、探偵はハッと気がついた。もっと早くパリを出る汽車に乗って、カレーでたっぷり時間をつくるようにしたら、いいではないか? 時間表はどうなっているのだ?
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パリ発 午前九時五十分
カレー着 午後一時十一分
カレー発(連絡船) 午後三時四十五分
ヴィクトリア駅(ロンドン)着 午後七時十分
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もしボワラックが、この時間表どおりに旅行したものなら、カレーでは、連絡船が出るまで二時間半以上もあるではないか、それなら、長距離電話の二本ぐらいは楽々である。とうとう解決に達したぞ、とラ・トゥーシェは心からそう思った。
だがしかし、ボワラックがシャラントンのレストランで実際に電話をかけたところを、見ている証人がいるのだ。ここで探偵はグッとつまった。それにしても、ここまでは正しいのだ、と彼は思った。それならば、この障害を切りひらく説明が、思いうかぶはずだ。
いや、実際に思いうかんだのである。あのレストランの給仕は、ボワラックが月曜日に来たような気がすると言ってたではないか。そうだ、彼は月曜日に行ったのにちがいない! なにかの手をつかって、やつは電話をかける真似をしたのだ。まず、それ以外には考えられない。
すると、もう一つの点が、探偵の頭にうかんだ。長距離電話だと、交換手はいつも、その地名を相手方に言うではないか、もしボワラックがカレーから自分の会社に電話をかけたのなら、そのとき交換手は、『カレーから長距離電話です』と言わなかったろうか? もしそうなら、いったいどうやってボワラックは自宅の執事と、会社の主任をうまくだますことができたのか?
これは、まさしく難問だった。だが、この問題はしばらくそのままにしておいて、探偵は、新しい推理をどうしたら裏づけられるものか、考えはじめた。
まずはじめに、シャラントンの、あのレストランの給仕にもう一度会ってみて、ボワラックが食事に来た日をはっきりさせることが、なによりも重要だということを、言ってきかせてやることである。もしかしたら、給仕は、この点がはっきり分るような、なにかちょっとした出来事でも思い出すかもしれない。そのつぎに、執事のフランソワと主任のデュフレーヌに会ってみて、『カレーから長距離電話です』というような交換手の言葉をきかなかったかどうか、つきとめてみることだ。それにしても、このききこみは、とくに念をいれて巧妙にやらなければならない、さもないと、執事か主任の口からボワラックにつたわって、やつに感づかれたらそれこそおしまいだ、と探偵は思った。パリの電話交換局で分らなくても、カレーの電話交換局に問いあわせれば、あの日の、その時刻に、カレーからパリに長距離電話がかけられたかどうか、分るはずである。それにまた、ボワラックに相当する人間が、その電話を申しこんだことも分るかもしれない。最後に、オスタンドの電話交換局を調べれば、ブリュッセルに長距離電話がかけられたかどうかも、つかめるかもしれない。
いまあげた点を洗えば、自分の推理が正しいか否か、いずれにしろ、たしかめられるはずである。
その翌朝、ラ・トゥーシェは、シャラントンのレストランに、また足を運んで、このまえの給仕にあたってみた。
「あのお客の、この店に来た日をはっきりさせるのが、重要な問題になってきたのだが、そいつを、なんとか思い出してもらえないかね、そうしたら、あと二十フランはずむけど」と探偵は話をむけた。
給仕は、見た目にも金がほしそうだった。しばらくやっきになって考えこんでいたが、とうとう最後には、どうしてもはっきりした日が思い出せないと、音《ね》をあげる始末だった。
「じゃ、その客がどんな料理をとったか、思い出せないかね、そんなことから、そいつが思い出す糸口になると思うけど?」
給仕はまた考えこんでいたが、やがて|かぶり《ヽヽヽ》をふった。
「じゃ、テーブル・クロースだとか、ナフキン、そういったものを洗濯しなかった? しない? それではと、その時刻に店にいたほかのお客さんとか、電話をかけた客のことをだれかに話したようなおぼえはないかね?」
給仕はまた|かぶり《ヽヽヽ》をふった、だが、そのとたんに、男の顔にあかるい色がパッとさした。
「そうです、そうです」給仕はせきこんで言った、「いま、やっと思い出しました。あなたのお言葉で、思い出すことができたんでございますよ。あのお客さまが、ここにおいでのとき、パスコさんも、昼食をなさっていましてね、そのパスコさんが、問題のお客さまに気づくと、あのひとはだれだね、って、私におたずねになりましたので。パスコさんなら、あの日が何曜日だったか、はっきりおぼえていらっしゃるかも分りません」
「そのパスコさんというのは?」
「薬屋さんでしてね、この通りの十二軒目に、お店がございます。奥さんがパリへお買物にお出かけになると、たいていご自分は、てまえどもの店でお食事をなさいますんで。なんでしたら私も、そのお店までおともして、おたずねしてみましょうか」
「いや、ねがってもないな」
ほんの数ヤード歩くと、その薬屋があった。パスコは禿頭の大男で、血色がよく、いやに尊大な感じだった。
「ごめんください、パスコさん」給仕はやけに鄭重な挨拶をした。「じつはこの方は、私の知り合いの探偵さんでしてね、今、重要な調べごとをしておいでなんです。せんだって、旦那がうちの店においでになったおり、やはり食事をしていた黒い顎髯のお客さんをおぼえていらっしゃいますね? ほら、あの小室のちいさなテーブルにおいでで、しばらくたつと、電話をかけに立たれたお客さまですよ、おぼえておいででしょう、そのとき、あれはだれだね、と、旦那は私におたずねになったではありませんか」
「うん、おぼえている」薬剤師は、ふといバスの声で言った、「その男がどうしたというのだね?」
「この探偵さんは、そのお客さまが何日にうちの店にお見えになったか、それが知りたいといわれるものですから、こちらの旦那なら、たぶんご存じにちがいないと思いまして」
「どうして、わしにそれが分るというのかね?」
「いやですよ、旦那、あのお客さまがいた日は、旦那も、うちの店においでになった日ではございませんか、旦那なら、はっきりした日日《ひにち》を、おぼえていらっしゃると思ったのですよ、あの日は、奥さまがパリにおいでになった、とおっしゃっていたんですから」
この尊大な男は、まるで給仕が他人のまえで、あけすけと自分の私事をベラベラと喋り出したとでもいうみたいに、イヤーな顔をした。そこでラ・トゥーシェは、ひとあたりのいい口調で、二人のあいだに割って入った。
「パスコさん、どうかそこのところを、助けていただけないでしょうか、そうしていただけますと、たいへんありがたいのです。じつは申しおくれましたが、無実の罪におとしいれられた青年のために、私は事件の再調査にあたっているのです」ここで探偵は、フェリックスが濡れ衣を着せられた、邪悪きわまる事件について、めんめんと訴え、もしちゃんとした情報を提供してくだされば、その謝礼も考えていないわけではない、ということを、たくみににおわせた。
そのとたんに、横柄なパスコの態度がグンとやわらいだ。
「そうですか、では妻にちょっとたずねてまいりますから」大男は会釈すると、奥にひっこんだ。と、彼はほどなく店に出て来た。
「いや、何日だったか、はっきり思い出しましたよ。たまたま、妻がうちの弁護士に用事がありましてね、その日、パリへ出かけたのですよ。日付がちゃんとひかえてありました、三月二十九日の月曜日です」
「なんといってお礼を申したらいいか、分らないほどです、どうもありがとうございました」ラ・トゥーシェは心から礼をのべた、そして、まるで手品みたいな、目にもとまらぬ早業で、二十フラン紙幣を、薬剤師と給仕の手にすばやくにぎらせた。ラ・トゥーシェには、踊りだしたいくらいのよろこびだった。とうとう、ボワラックの鉄のアリバイを打ち破ったのだ。袖の下が|もの《ヽヽ》を言って、ペコペコ頭をさげたり、愛想笑いをふりまく薬剤師と給仕の二人に、探偵は別れると、こんどは桟橋にむかって歩き出し、そこから蒸気船に乗って、アルマ橋まで行った。彼はアルマ通りを歩いて、ボワラック邸の玄関のベルを鳴らした。するとすぐ、執事のフランソワが出てきて、執事の小部屋で二人は対坐した。
「そうだ、そういえば、このあいだ、お話した電話の件なのですがね」ラ・トゥーシェは、しばらく世間話をしたあとで、ふと気がついたみたいに切り出した。「ボワラックさんが、どこからその電話をかけたと、あなたがおっしゃったのか、ついうっかりして、忘れてしまったのです。カレーからかけてきたと、あなたが言われたようにも思うし、それともシャラントンだったかな、という気がしましてね。依頼人に報告書を出さなければならないものですから、そこのところをできるだけ、正確にしておきたいと思ったわけで」
すると、執事はおどろいたような顔をしたが、また、いかにも興味ありげな色をうかべた。
「そんなことをおたずねになるとは、じつに不思議な話ですよ、私には、そのことについて、一言も申し上げたおぼえがないんですからね。じつのところ、私も、はじめはカレーから電話があったとばかり思っていたのでございます。電話口に出ますと、たしか『カレーから長距離電話です』と交換手が言ったような気がしますので、私はびっくりいたしました、なぜって、ボワラックさまがそんな遠くまでおいでになったとは夢にも存じておりませんでしたので。ところが、それは私の聞きちがいでございましてね、ボワラックさまが電話口にお出になりましたので、私はさっそくおたずねしてみたのです、『カレーから電話をおかけになっておいでですか?』すると、ボワラックさまは、『冗談じゃない、シャラントンからだよ』とおっしゃいましたので。ですから、いまはもう、私のききちがいだということがはっきりしております。私がカレーときいたのは、じつはシャラントンだったのでございますね。どうも私は、あまり敏感なほうではないので、電話ですと、こういう名前はみんなおなじようにきこえてしまうのでございますよ。あなたまで、私とおなじ間違いをなさるとは、ほんとに奇妙な話です」
「まったく奇妙ですね」とラ・トゥーシェはあいづちを打った。「これじゃ、新聞で評判の、あの伝心術はだしですよ。それはそうと、シャラントンだということがはっきりして、たいへんたすかりました、ありがとうございます」探偵はここで話題をたくみにきりかえると、ほかの雑談に入った。
ラ・トゥーシェのつぎの目標は、中央電話局だった。はじめのうち、なかなか情報を提供してくれようとしなかったが、探偵が名刺を出して、責任者に用件を仔細に打ちあけると、やっとのことで彼ののぞみがかなえられた。局から電報で、カレーの電話局に問いあわせてくれたところ、かなりながいこと待たされたあとで、やっと返事があった、それによると、問題の火曜日には、午後二時三十二分と同四十四分に、パリへ長距離電話がかけられたということである。その申し込みは公衆電話からで、電話先の番号はつぎのとおり――パッシー局三八六、ノール局七四五。ラ・トゥーシェは、早速電話帳で、この二つの番号を調べ、一つはボワラック邸と、あとの一つはポンプ会社の事務所の番号だと分ると、とうとう声をあげて、笑い出してしまった。
『それにしても、どうしてルファルジュ警部は、シャラントンからかかった電話をすぐ調べてみなかったのかな?』と探偵は、胸のなかで自問自答してみた。だが、そうだ、きっと長距離電話だけしか、局には記録されないかもしれないな、と思いかえした。
これで、自分の推理は完全に裏づけられたように探偵には思われたので、オスタンドの電話局に問い合せるまでもあるまい、と考えた。事実、これで自分の任務もやっと果されたと思ったので、ラ・トゥーシェは、これからすぐロンドンに引きあげようと考えだしたくらいである。
二十八 罠をあばく
ラ・トゥーシェには、ボワラックがでっちあげたアリバイのからくりを見事に見破ったとき、もうこれで自分の任務は終ったのだというのが第一印象だった。だが、これまでの経験でもよく味わったように、あらためて考えなおしてみると、まだまだ、それどころでないということに気がついた。ただたんに、自分の気持ちでは、ボワラックの黒を完全に確証したとは思ったものの、これがそのまま法廷に通用するものかどうか、自信がなかった。それに、実際のところ、事件全体を考えると、解決にはまだかなりのへだたりがあった。
探偵は、カルディネ街の貨物駅に樽を運送したあの馬方さえ探し出せたら、自分が直面している難題のうちの、すくなくともいくつかは解《と》けるものと思った。そこで彼は、この馬方の問題に、もう一度とりくんでみることにしたのである。
パリ中の荷馬車運送店の店主宛にあの手紙を発送してからというもの、ラ・トゥーシェはもういままでに、髭のない、白髪の、するどい顔の二十七人の馬方に会ってきたのだ。しかし、すべては徒労だった。彼が探している馬方は、そのなかにいなかったのである。しかも、探偵が出した手紙に対して、一軒のこらず返事をくれたのだから、その計画が見事に失敗に終ったと、みとめざるを得ないのである。
その夜、部下のマレーが例のごとくボワラックの行動を探偵のところに報告に来たとき、二人は、馬方の件について、いろいろと話しあってみた。そのおり、マレーが発言したほんの一言のおかげで、自分がはじめから見落してしまっていた点に、探偵はハッと気づいたのである。
「どうしてその馬方が、運送店に雇われているものとばかり、お考えになるんです?」とマレーがたずねたのである。で、ラ・トゥーシェは、運送屋が馬方を雇うのはあたりまえの話じゃないか、と、いくぶんムッとして言いかえしてやろうと思ったとたんに、死角をついている部下の質問にハッと気がついたのだ。あ、そうだ!パリにいる何千人という馬方のなかで、運送屋につとめているのは、ほんの一握りしかいないではないか。大部分の連中は、いろいろな商店や会社にやとわれているのである。ひょっとすると、あの樽を貨物駅に運送した馬方も、運送屋以外につとめている連中の一人ではないか? もしそうなら、ルファルジュ警部が出した広告の失敗も、その原因はここにあるのではないだろうか? もし馬方が、アルバイトに、自分の会社の荷馬車を無断借用したとすれば、あとになって、自分から名乗り出るような真似は、金輪際《こんりんざい》しないはずだ。そこにつけこんで、そういう馬方を雇ったということも、あの抜け目のないボワラックなら、いかにもやりそうなことではないか、とラ・トゥーシェには思われた。
だが、この推理があたっているにしろ、もしこの馬方が会社の手前、頬かぶりをきめこむより仕方がないとしたら、どうやってその男を探し出し、ドロが吐かせられるというのか?
ラ・トゥーシェは、この難問に頭をなやまされたおかげで、葉巻を二本もたてつづけにふかしてしまった。と、いままでに自分がとった手段そのものは、かならずしも見当ちがいではないということに、探偵はふと気がついたのである。ただ、手紙を出した範囲が、ごく一部にしかわたらなかっただけのことなのだ。
ラ・トゥーシェのこれとにらんだ馬方を探し出す唯一の手段は、パリ中の会社や商店の代表者すべてに、このまえとおなじような手紙を出すことである。しかし、それをやるには数があまりにも多すぎる。
その晩、探偵は、貨物駅の、あの二人の運搬夫と、この件についていろいろと話しあってみた。二人ともなかなか血のめぐりのいい男たちで、馬方探しにすごく乗り気だということが分った。そこでラ・トゥーシェは、あの樽を運送した荷馬車の種類を二人に説明させ、それから、商工録をひらいて、この手の荷馬車を使いそうな会社、商店を虱《しらみ》つぶしにひろい出していった。さて、一仕事すませてみると、その数は数千にのぼったが、探偵にとって、そんな数は眼中になかった。
しばらくのあいだ、ラ・トゥーシェは、新聞に、回状をそのまま広告したものかどうか、考えてみた。だが、もしその広告がボワラックの目にとまった場合、やつのことだから、真実が暴露されるのをおそれて、いろいろな予防策を講じるものと、探偵はにらんだので、新聞には広告は出せないと決めた。そこで彼は、印刷屋にまた足を運んで、その手紙を、拾い出した数千の会社、商店の代表者あてに発送するように注文し、来た返事は表にまとめてもらい、その一覧表をくれるように頼んだ。なにもこれで、探偵は楽観などすこしもしなかったけれど、ひょっとすると手がかりがつかめるかもしれないと思ったのである。
それから三晩というもの、ラ・トゥーシェと二人の運搬夫は、それこそ目のまわるような忙しさだった。白髪の馬方が、何十人もアルル・ホテルにゾクゾクとつめかけたものだから、とうとうしまいには、ホテルの経営者からあやうく追い立てを喰いそうになり、新しい絨緞《じゅうたん》の損害賠賞を要求されたくらいだった。だが、その苦労もすべては水の泡だった。探偵たちが血眼で探している馬方は、ついにあらわれなかったのである。
その三日目に、印刷屋から届けてきた返事の手紙のなかに、思わずラ・トゥーシェの食指をそそるのが一通あった。差出人は、リヴォリ街のコロ商会で、その文面は――
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『去る十八日付の貴状拝見いたしました、それにつき、お答えいたします。当商会の雇用者のなかに、人相書に該当するものが、三月末日まで在職しておりました。その姓名は、ジャン・デュボアと申し、住所は、大市場近くのファレーズ街十八番地でございます。しかし、三月末日前後より、この男はひげを剃るのをやめ、現在では口髭と顎髯をはやしております。なお本人には、貴殿をお訪ねするよう申しつたえてございます』
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ここでラ・トゥーシェは考えた――ひげをきれいに剃っていた馬方が、あの樽が運送された三月末の直後から、口髭や顎髯をのばしはじめたのは、単なる偶然の一致だろうか? よし、二日待ってみて、その馬方がやってこなかったら、こっちから押しかけるのだ、と探偵は肚《はら》をきめた。
そこで、つぎの日の夜、ラ・トゥーシェは部下のマレーと、運搬夫の一人にアルル・ホテルのほうはまかせて、自分は、もう一人の運搬夫をつれて、デュボアという馬方を探しに出かけた。ファレーズ街は、高層の黒くくすんだ建物がひしめきあっている、ゴミゴミしたせまくるしい町だった。その十八番地をさがしあてると、探偵は石段をのぼって、うすぐらい石の踊り場に面した、いまにも倒れそうなドアをノックした。ドアをあけたのは、見るからにじだらくな女で、ただ入口の薄暗がりにつったったまま、相手の言葉をだまって待っていた。ラ・トゥーシェは、例の愛想のいい口調で、挨拶した。
「奥さん、今晩は。おたずねしますが、こちらは、コロ商会におつとめのジャン・デュボアさんのお宅ですか?」
女はうなずいてみせただけで、中に入れとも言わなかった。
「じつはご主人にお話がちょっとばかりあるのですが、お目にかかれないでしょうか?」
「いま、いないんです」
「それはどうも残念ですな、私はもとより、ご主人にとっても不運なことで。どこへおでかけか、分りませんか?」
女は肩をすくめてみせた。
「さあ、どこへ行ったもんでしょうね」女はいかにも|はり《ヽヽ》のない、一本調子な口調で答えた、生活に疲れはててしまって、生きることにもすっかり興味を失ってしまった、といった感じだった。
ラ・トゥーシェは五フラン銀貨をとり出すと、女の手ににぎらせた。
「ご主人のいどころを見つけてくれませんか、ちょっとした仕事を頼みたいのです、ご主人なら、ちゃんとできることなんですがね、迷惑はぜったいかからないし、お礼はたんまりはずみますよ」
女は一瞬ためらった。が、とうとう口をひらいた。
「じゃ、居場所を教えますけど、あたしから聞いたなんて言わないでくださいね?」
「むろん言いませんとも、偶然、見つけたという顔をしますよ」
「こっちですわ」
女は二人の先に立つと、石階をおりて、またゴミゴミしたせまい通りに出た。女は、まるでコソコソと隠れるように通りぬけると、二つ角をまがって、三つ目の通りの角で足をとめた。
「あれですよ」女は指さした。「ほら、色ガラスの窓のあるカフェが見えるでしょう? あの中にいるはずですよ」そう言ったかと思うと、礼を言うすきもあたえずに、女は身をひるがえして、夕闇のなかにかき消えてしまった。
探偵と運搬夫は、そのカフェのドアを押して入った。中は、かなりひろびろとしていて、小さな大理石張りのテーブルがあちらこちらにおいてあり、一隅はバー、奥はダンスをするステージになっていた。二人は入口にちかいテーブルの椅子に、ソッと腰をおろすと、酒を注文した。
カフェの客は、十五人から二十人ほどの男と、ほんの二、三人の女で、あるものは新聞を読んだり、ドミノをやったりしていたが、大部分の客は、あちらこちらにひとかたまりになって、喋りあっていた。ラ・トゥーシェは、そのするどい目で、客の顔をひとわたり見まわすと、すぐ馬方を見つけた。
「シャルコ、あの男かね、貨物駅に来たのは?」小柄の、いかにも不健康そうな男をさすと、シャルコというつれの運搬人にたずねた。その男は、のばしかけの、みじかい白い口髭と顎髯をはやしていた。
運搬夫のシャルコは喰いいるように、その男の顔を見つめていたが、大きくうなずいた。
「あの男です、たしかにそうです。ひげをはやしたんで、ちょっと感じがちがいますけど、まずあの男だとにらんでまちがいありませんね」
その馬方は、社会主義的な問題をさかんにまくしたてている、鼻のばかでかい、たくましい体格の男をとりかこむ、ひとかたまりの連中の尻にくっついていた。ラ・トゥーシェは、部屋を横切ると、その白髪の男の腕に手でさわった。
「ジャン・デュボアさんですね?」
男はギクッとすると、その目に恐怖の色をうかべた。だが、返事だけは丁寧だった。
「はい、そのとおりで、ですが、旦那を存じ上げませんが」
「私はラ・トゥーシェというものです。じつはちょっと話があるのだがね、どうです、友人もいるのだが、私たちといっぱいやらないか?」
探偵は運搬夫のシャルコのほうを指さした、それから、二人はそのテーブルに移った。
デュボアの目には、もう恐怖の色はなかったが、まだ、なんとなくソワソワしていた。三人はただ黙って坐っていた。
「デュボアさん、なにを飲む?」
馬方の注文の酒がくると、ラ・トゥーシェは、男のほうに身をのり出して、ささやくような、ひくい声で話しだした――
「いいかね、デュボアさん、おおかた、こちらの用件は言わないでも察したことと思うが、そのまえに、なにもかもあんたが正直に打ちあけてくれたら、なにもこわがることはないのだ、と言っておこう。いや、それどころか、私のたずねることに、ほんとのことを答えてくれれば、百フラン、あんたにあげるよ。だが、あくまでもシラを切るつもりなら、私は警察と縁のある人間でね、警察までご案内してもいいんだよ」
デュボアは口ごもりながら、ソワソワとからだをうごかした。
「その、私には、旦那のおっしゃることが、よくわかりませんのでね」
「じゃ、はっきり言おう、カルディネ街の貨物駅まで、いったいだれがあんたに樽の運送を頼んだのか、それが知りたいのだ」
馬方の顔を、穴があくほど見つめていたラ・トゥーシェには、男のからだがギクッとうごき、みるみるうちに顔から血の気がひき、その目に、また恐怖の色がひろがるのが、手にとるように分った。男が、探偵の言葉を理解したのは、火を見るよりもあきらかだった。無意識のうちにはっきり示した男の反応が、それを証している。
「旦那、ほんとになにをおっしゃっているのか、私にはさっぱり分らないんで。樽といっても、どの樽のことなんでしょう?」
ラ・トゥーシェは、さらにグイッと身をのり出した。
「さ、あっさりと言うんだ、その樽の中に、なにが入っていたか、知っているのかね? 知らない? では教えてやろう、あの中には死体が入っていたんだ――それも女だ、殺された女の死骸だぞ。いったい、新聞を見て、自分で察しがつきそうなものじゃないか、あんたが貨物駅に運送した樽が、新聞という新聞に大きく書きたてられていた樽だということが、分らなかったのか? よし、それなら、殺人事件の事後従犯者として、あんたは逮捕されたいのかね?」
男の顔は蒼白《そうはく》となり、その額には、あぶら汗の玉がブツブツとふき出した。それでもまだ男はふるえ声で、知らぬ存ぜぬと言いはった。ラ・トゥーシェはそっけなく、さえぎった。
「よさないか! いくらかくしても、ネタはあがっているんだぞ。おまえがその樽を運んだことは、ちゃんと分っているんだ、いずれにしろ、おまえはドロを吐く羽目になるんだ、いいか、デュボア、おまえには血も涙もないのか、さ、私の言葉どおりにするんだ、なにもかも、正直に言えば、百フランあげるし、それにまた、あんたが会社からにらまれるようなことのないように、私がうまくとりはからってやるよ。だが、あくまでもシラを切るというのなら、これからすぐ、警視庁まで行ってもらうまでだ。さ、どっちにするか、はっきりしてもらおう」
男は、見た目にもあわれなくらい、狼狽しきってしまって、貝のように口をつぐんでいた。ラ・トゥーシェは懐中時計をとり出した。
「いいか、あと五分だ」探偵はこう言うと、椅子の背にからだをもたせかけて、葉巻に火をつけた。
五分がきれないうちに、男は口をひらいた。
「なにもかも話せば、手がうしろに廻るようなことはないんでしょうね?」男のおびえかたは、あわれなくらいだった。
「絶対にそんなことはないよ。私だって、なにもすきこのんで、あんたを痛い目にあわせたいと思っているんじゃないんだからね。正直に話してくれさえしたら、あんたは百フランもらう上に、堂々と大手をふって歩けるんだ。だがね、私をだまそうなどと思ったら、それこそ明日は、判事のまえでドロを吐く羽目になるんだからな」
まさに、効果|てきめん《ヽヽヽヽ》だった。
「話します、旦那、なにもかも、ほんとうのことを話しますよ」
「よし、それなら、もっと人目につかないところで話をきいたほうがいい、私のホテルにしよう、ええと、シャルコ――」探偵は運搬夫に顔をむけた。「君はアルル・ホテルに行って、マレーと、君の友人に、見つかった、と伝えてください。これはお礼です、ほんのすこし余分にしておきました」
シャルコは頭を下げると、カフェから出て行った。ラ・トゥーシェは、馬方をつれて、広い通りまで出ると、そこからタクシーで、ラ・ファイエット街のホテルにむかった。
「さ、話をきこうじゃないか」二人が部屋におちつくと、探偵がうながした。
「はい、それでは、ありのままのことをお話しします」と馬方は口をひらいた。その、真剣な、心配そうな態度を見て、この男の話は信じても大丈夫だ、と探偵はにらんだ。「私のしでかしたことが間違っていなかったとは決して申しません。たとえ会社を|くび《ヽヽ》になっても、しかたないんです。私はまんまとそそのかされてしまったんですよ。だれにも迷惑かけずに、こづかいが稼げる話だと、私は思いこんでしまったんです。それだけはほんとです、旦那、私がしたことは、だれにも迷惑がかからなかったんですよ。
旦那、それは三月二十九日の月曜日のことでした、私は、コロ商会の荷を届けるので、シャラントンに行った日です。ビールをいっぱい飲もうと思いましてね、カフェに入ったんです。すると、私のところへ男がひとり、やって来ましてね、店のまえにあるのは、おまえの荷馬車かとたずねるんです。そこで、私は馭者だが、車はコロ商会のものだと、言ってやりました。『荷馬車でちょっと運送してもらいたいものがあるんだがね、わざわざパリまで行って運送屋にたのむのもなんだから、あんたが運んでくれれば、そのお礼に、駄賃はたっぷりはずむがね』と、その男は言うんです。そこで私が答えました、『旦那、そいつは駄目ですよ、会社にバレたら、こちとらは|くび《ヽヽ》ですからね』『しかし、会社に分るはずはないじゃないか、私が喋るはずはないし、むろんあんただって、喋りっこないからね』と男は言うんです。そこで、私たちはいろいろと話し合いました、はじめは私も断ったんですが、とうとう口説きおとされてしまったんです。たしかに、会社の荷馬車を小遣い稼ぎに使ったのは、私の罪ですが、その男が私をそそのかしたんですからね。一時間もあれば運べる仕事だし、駄賃に十フランはずむって、その男が言うもんですから、私はとうとう、引受けてしまったんですよ」
「どんな男だった?」
「中肉中背でしたよ、黒いとがった顎髯をはやしていて、えらく上等の服を着ていました」
「で、その男の頼みというのは?」
「つぎの木曜日の午後四時三十分に、その男が教えてくれた番地へ行って、樽を荷馬車に積みあげ、北停留所のすぐそばの、ラ・ファイエット街まで運送してくれというのです。そこで、私と落ちあい、そのとき、運送先をまた教えると、男は言ったんで」
「そのとおりに、落ちあったのか?」
「はい、私のほうが一足先きに着き、十分ばかり待つと、男がやってきました。男は、その樽からいままでついていた荷札をはがし、自分で持ってきたべつの荷札を鋲《びょう》でとめたんでさあ。それから、その樽を、カルディネ街の貨物駅まで運送して、ロンドンへ発送してくれと、男は私に言ったんで。そのとき、樽の輸送料のほかに、駄賃として十フランもらいました。別れしなに、男は、もし樽がロンドンに着かないようなことがあれば、すぐ分るし、へんな真似をしたら、私がやったことを、コロ商会にバラす、なんて、私をおどかしましたよ」
馬方のこの話は、ラ・トゥーシェの推理とまるっきりちがっていたので、探偵はかなり面喰ってしまった。
「男が、あんたに樽をとりに行けと言った場所はどこなんだね?」
「はっきりした番地は忘れてしまいましたが、アルマ通りの角にある大きな屋敷でした」
「なんだと?」ラ・トゥーシェはうなるなり、興奮して椅子からとび上った。「アルマ通り、とね」探偵は声をあげて笑い出した。
なんだ、そうだったのか! ロンドンの聖キャザリン埠頭に到着した樽は、つまり、死体がつめられていた樽は、パリの北停車場ではなしに、ボワラックの屋敷からじかに出たのである! そいつに気がつかなかったとは、うかつにもほどがあるではないか! しかし、とうとう曙光《しょこう》がさして来たのだ。ボワラックが自分の妻を殺害したのだ――自分の屋敷のなかで殺したのだ――邸内で、その死体を樽につめ、その場からロンドンのフェリックスに直接輸送したのだ。ああ、ついにラ・トゥーシェは、血眼で探していた証拠を手にいれたのだ、フェリックスの無実の罪をはらす証拠を、ボワラックを死刑台に送る証拠をにぎったのだ!
探偵は、この発見に思わず身をふるわせた。一瞬、これで事件全体がすみからすみまではっきりしたように見えたが、なおよく考えてみると、まだまだ説明を要することがたくさんあることに気がついた。もっとも、それをじっくり考えるのは、馬方のデュボアを帰してからのことである。
探偵はさらに馬方にくいさがって、あますところなく問いつめていったが、もうそのほかにはなにも得られなかった。この馬方に、自分をそそのかした男の正体を知るよしはなかった。馬方がこの男の口から聞いたただ一つの名前は、デュピエールという名前だけだった。というのは、ボワラックが馬方に言いつけて、デュピエール商会から梱包用の樽をとりに来たと、自分の屋敷のものに言わせたからである。いま、あんたの話してくれた情報を、賞金つきで求める新聞広告が、目につかなかったのか、と探偵が馬方にたずねると、見ることは見たが、なにしろこわかったので黙っていたと答えた。広告を見たとき、はじめ馬方は、小遣稼ぎに荷馬車をつかったことが、会社の耳に入れば、|くび《ヽヽ》にされると心配し、それから賞金があまり大きかったので、かえってしりごみしてしまったのである。つまり、自分が知らぬまに、なにかの犯罪の片棒をかついでしまったものと、思いこんだからだった。馬方は、新聞で樽が発見されたという記事を読むまで、犯罪といっても窃盗事件ぐらいとしか思わなかったのだ。ところが、犯人の殺害死体の処分に、自分が手をかしたことを思いあたってからというものは、この殺人事件に自分が関係していることが露見しないかと、それが心配で心配で、文字どおり、悪夢にさいなまれて生きた心地もしなかったというのである。もうこれで、きき出せることはみんなきき出してしまったと、見てとった探偵は、投げつけるようにして百フランを馬方にやると、部屋から追いかえした。それから、ラ・トゥーシェは、事件の、まだ説明のつかない部分を考えるために、椅子にどっかりと坐りなおした。
まずはじめに考えることは、樽の移動順序である。死体詰めの樽が、ボワラック邸から出たことは分った。だが、その樽はどこから手に入ったのか? あきらかにデュピエール商会である。その樽は、ボワラックが注文して、屋敷にとどけられた彫像の梱包用のものだったにちがいない。その樽は、あの晩餐会の土曜日にデュピエール商会を出て、同日、ボワラック邸にとどけられ、そのまま、つぎの木曜日まで置いてあったのである。その間に、樽から彫像を取出して、かわりに死体を詰めたのだ。死体入りの樽は、そこからロンドンに輸送され、それをフェリックスが受取ってサン・マロ荘に運び、最後に警視庁の手に入ったわけである。
すると、ウォータールー駅で受取られ、それからまたロンドンからパリの北停車場まで輸送された樽は、どういうことになるのか?
この樽は、ぜんぜん別個の樽だったにちがいない、と探偵は考えた。したがって、二個の樽が輸送されたのであって、いままでみんなが信じこんでいたように、一個の樽だけが何回も輸送されたのではない、と考えざるを得ない。そこで彼は、第二の樽の移動径路を追ってみることにした。その第二の樽は、火曜日の夜、デュピエール商会から出て、翌朝、ウォータールー駅に到着、そしてまたその翌日、つまり木曜日にパリへ輸送され、北停車場に同日の午後四時四十五分に到着している。この樽は、そのまま、カルディネ街の貨物駅まで荷馬車で運送されたものとばかり、推定されていたのである。ところが、いま、それが間違いだということが、馬方の話から、証明されたのだ。それでは、この第二の樽はどこへ行ったのか?
と、ラ・トゥーシェの頭にパッとひらめいたものがある。そうだ、その樽は北停車場から、まっすぐデュピエール商会に運送されたのだ。探偵は、自分で作った事件の日表を調べてみた。そうだ、やっぱり樽が一個、その木曜日の夕刻、デュピエール商会に着いている、だがこれは、ボワラック邸からもどってきた樽だとばかり、信じこんでいたのである。そこで、ラ・トゥーシェが、思いをこらして、犯行当時の模様を頭のなかで再現してみると、犯人の残忍きわまる筋立てのいっさいがおぼろげに分ってきたのだ。
ボワラックは、妻がフェリックスと駈落ちしようとしているところをかぎつけたのだ、と探偵は推測した。嫉妬《しっと》と憎悪に燃えくるった彼は、妻を殺害する。やがて、ハッとわれにかえったときは、自分の両の手にくびられて冷たくなっている妻に気づく。死体をどう始末したものか? そのとき、ボワラックは書斎に置いてある樽を思いつく。そうだ、あの樽こそ、死体をこの家から運び出すのに、あつらえむきの容器ではないか。そこで彼は、樽のなかの彫像を取り出して、かわりに妻の死体を詰めこむ。それにひきつづいて、この樽をどこに送ればいいか、という問題に直面する。と、おそろしい考えが、やつの頭にパッとひらめく。よし、フェリックスの家に送りつけてやって、復讐《ふくしゅう》してやるのだ。するとまた、第二の考えがうかんだ。そうだ、フェリックスのところに死体があることを、警察に発見させるように仕組めれば、当然、フェリックスに嫌疑がかかり、たぶん死刑になるのではないか? なんというおそろしい復讐! そこでボワラックは、ル・ゴーティエ名義の手紙をタイプで偽造し、フェリックスに出す。つまり、警察が乗り出して、死体を発見せざるを得ないような、うたがわしい行動をフェリックスにとらせるのが、その目的なのである。
ここまでの推測は、あまりはずれていないと、ラ・トゥーシェは思ったものの、第二の樽となると、いまだに皆目見当がつかないのである。だが、その難問も、熟考をかさねていくうちに、すこしずつ、光りがさしてきたのだ。
ボワラックは、注文した彫像の梱包用として、デュピエール商会から樽を受取ったのである。ところが、その樽をフェリックスに送ってしまったのだから、商会にかえす空樽がないわけである。どんなことをしてでも、空樽をデュピエール商会にかえさなければならない、さもなければ、殺人嫌疑はたちどころに、わが身にふりかかってくるからだ。では、その空樽をどこから手に入れるか?
つまり、この難問を解決するために、苦肉の策として考えだされたのが、第二の樽の|からくり《ヽヽヽヽ》にちがいないと、ラ・トゥーシェは見てとった。ボワラックは、フェリックスの筆蹟を模して、第二の樽を手に入れるために、デュピエール商会に彫像を注文したのにちがいない。ここで探偵は、その注文の手紙が、ル・ゴーティエ名義の手紙とまったく同一の用紙であり、この二通とも同一犯人によって出されたにちがいないと推測されたことを、思い出した。ボワラックは、第二の樽をロンドンで受取り、小屋にいったん運んでから、中身の彫像を処分して、その空樽をパリへ送りかえす。そして自分もパリにとってかえすと、北停車場で、その空樽を受取り、荷札をとりかえ、その樽がデュピエール商会に着いたときには、いかにもボワラック邸からかえされたように見せかけるために、アルマ通りの自宅の番地の荷札をつけたにちがいないのである。もう一枚の荷札は、ウォータールー駅経由を長海路経由に書きかえたものと見てさしつかえない。このことは、馬方のデュボアが、ラ・ファイエット街でボワラックと落ちあったとき、彼が荷札をはりかえた、という陳述と、海運会社の青年事務員ブロートンの、手のこんだ細工が荷札にしてあったという証言によって、説明がつくわけである。
ラ・トゥーシェは、この推理をふかく考えれば考えるほど、とうとう事件の真相に達し得たという満足感をおぼえてくるのである。とはいえ、まだ腑におちない点が二、三あることはいなめなかった。ボワラック夫人の殺害は、いつ、どこで行われたのか? 夫人はほんとうにフェリックスと駈け落ちしたのか? もしそうなら、ボワラックがつれもどしたのは、生きている妻をか、死体をか? どういうわけで、第二の彫像を注文した文字の跡が、フェリックスの吸取紙にのこっていたのか? ボワラック夫人がパリで殺害されたのなら、どうして、あのダイヤモンドのピンが、ロンドン郊外のサン・マロ荘に落ちていたのか?
だが、こうした難問がまだ残っているにせよ、ラ・トゥーシェは、自分の仕事の進捗《しんちょく》ぶりに満足だった。探偵は夜がすっかりふけてしまってから、寝室にひきあげたが、あとほんのすこしの調査で、自分の推理の裏づけはいっさい終るのだし、そうすれば、いま残っている二、三の疑問の個所も、おのずから片がつくわけだ、と思った。
二十九 劇的な解決
馬方のデュボアを探し出して、自分の信じていた、樽の怪事件解決の決め手を、ラ・トゥーシェが発見してから三日のち、かなり興味をいだかせる一通の手紙を、探偵は受取ったのである。ホテルへ郵送されてきたもので、その文面は――
[#ここから2字下げ]
『冠省。たびたびご足労をわずらわし、目下お調べ中の、亡き奥さまの件につき、ふとしたところから、あなたにお知らせしたい情報を、私は手に入れました。これはあなたにとって、かなり重要なことと確信いたします。こう申せば思い出されることと存じますが、これは、あの晩餐会の深夜、午前一時ごろ、私が耳にいたしました、玄関のドアのしまる音の謎《なぞ》をとく鍵となるものでございます。これによって、真犯人がなにものであるか、かならずしも判明するものとは言いがたいのですが、フェリックスさまの無実の罪だけは完全にはらされるものと存じます。今晩、ボワラックさまは、外でお食事をなさいますし、奉公人たちも、朋輩《ほうばい》の婚礼にまねかれて大半は出はらいますので、屋敷が無用心になりますため、こちらからおたずねするわけにはまいりませんが、もし今晩ご都合がおつきになり、おこしいただけますなら、私が得ました情報を、お知らせいたします。 敬具
アンリ・フランソワ』
[#ここで字下げ終わり]
『こいつはおどろいた』とラ・トゥーシェは思わず胸のなかで叫んだ、『ある情報が手に入ると、そのあとから、つづいて入ってくるものだな。そうじゃないか、ながいこと、この事件と取組んで、|にっちもさっち《ヽヽヽヽヽヽヽ》も行かないときにかぎって、執事のフランソワも、光明をあたえてくれるような手がかりを、なに一つ、みつけてくれなかったのだからな。ところがどうだ、事件の真相がほとんど分ったいまになって、フランソワが助太刀《すけだち》にあらわれるという始末だ。こいつはちょうど、〈悪いことはかさなってやってくる〉という諺《ことわざ》のさかさまじゃないか』
探偵は懐中時計を見た。五時きっかりだった。ボワラックは八時ちかくならないと、自宅から出ないだろう。だから、八時をすこしまわったあたりに、フランソワを訪ねれば、情報が手に入れられるはずだ。
だが、いったい、あの執事にどんなことが発見できたのか、と探偵はいぶかった。もし、フランソワが手紙に書いているとおり、つまり、玄関のドアのしまった音の謎がとけたのなら、あの事件の夜のことについて、いまなお残っている疑点をあきらかにしてくれるにちがいないのだ。
と、突然、ある考えが、探偵の頭にひらめいた――このフランソワの手紙はほんものだろうか? 執事の筆蹟をいままでに一度も見たことがない、したがって、ただ外観からでは、どうこう言えないのだ。しかし、手紙の文面から判断して、こういうことがあり得るだろうか? ボワラックの仕業とは考えられないか? ボワラックは、おれが、やつをマークして捜査していることをかぎつけ、罠《わな》をかけたのではないのか? このおれを自宅までおびきよせ、おれの命と、おれのさぐりあてた情報を、一挙に手中におさめるはかりごとではないのか?
これは、なんともいまわしい考えだった。ラ・トゥーシェは、しばらくのあいだ、その可能性をじっくりと吟味しながら、椅子に腰をおろしていた。冷静に全体から判断すると、どうやら、この考えは否定したほうがよさそうだった。探偵の生命と自由をおびやかすようなたくらみは、かえって、ボワラックの命とりになるようなものである。もしボワラックが、自分の犯行が発覚したことをほんとにかぎつけたとしたら、あり金をかきあつめて、さっさと逃亡するはずである。だが、いずれにせよ、自分の護身だけは、手をぬくまい、とラ・トゥーシェは思った。
探偵は、アルマ通りのボワラック邸に電話をかけた。
「執事のフランソワさんはおいでですか?」相手が電話口に出るなり、彼はこうたずねた。
「ただいま、おりません、午後、外出いたしまして、夜の七時三十分ごろにはもどると存じますが」
「そうですか、どうもありがとう、ところであなたは?」
「下男のジュールでございます。執事さんがもどるまで、留守番をしていますので」
フランソワが外出しているというのが、探偵には気にくわなかった、もっとも執事の外出などは、ごくあたりまえのことで、べつに疑うほどのことではない。ラ・トゥーシェは、こう考えて自分を納得させたものの、なにかあと味がわるかった。そこで、部下を連れて行ったほうがいいかもしれないと思うと、彼はもう一本電話をかけた。
「ああ、マレーだね? 君たちのうち、だれが非番? 君か? よし、それでは今夜、私と一緒にちょっと散歩してもらいたいのだがね。七時に、このホテルまで、夕食をたべに来てくれないか、それから出かけたいのだが?」
部下のマレーがやってくると、ラ・トゥーシェは、フランソワの手紙を見せた。この部下も、探偵の意見とまったくおなじだった。
「罠だとは思えませんがね、しかしボワラックのことですから、油断は大敵です。念のために、ピストルだけは持っていったほうがよさそうですよ」
「じゃ、そうしよう」ラ・トゥーシェは、自動拳銃をポケットにしのばせた。
探偵とマレーの二人は、八時十五分ごろ、アルマ通りのボワラック邸に着いた。ラ・トゥーシェが玄関のベルをならした。と、びっくりしたことに、玄関のドアをあけたのは、だれあろう、ボワラックではないか。外出する矢先と見えて、帽子をかぶり、黒いケープつきのオーバーを着ていたが、まえのはだけたところから、夜会服が見えていた。その右手には、血のにじんだハンカチが、しっかりとまきつけてあった。ボワラックの顔にはいらだたしげな色がうかんでいて、いまにも癇癪《かんしゃく》をおこしかねない感じだった。彼はけげんそうな目つきで、探偵とその部下の顔を見やった。
「執事のフランソワさんにお目にかかりたいのですが」とラ・トゥーシェは鄭重に言った。
「よろしかったら、少々お待ちになってくれませんか」とボワラックが答えた、「じつは、私が出がけに手を切ったものですから、血どめをしてもらおうと思いましてね、フランソワに、医者を呼びに行ってもらっているのです。なに、ほんの二、三分でもどってきますよ。フランソワの部屋に入って、お待ちになりませんか――右側の四番目のドアですよ」
一瞬、ラ・トゥーシェはためらった。これが、|やつ《ヽヽ》の手ではないのか? ボワラックがひとりきりで、家にいるのがくさいではないか。もっとも、手を切ったことだけはほんとのようだ。手をしばっているハンカチに、血がじょじょにひろがって行くのが、ラ・トゥーシェの目にもよく分った。
「さ、どうぞ、玄関をあけておくわけにもまいりませんから、お入りになってください、それとも、またあとでおたずねくださいますか」
ここでラ・トゥーシェは肚《はら》をきめた。二人ともピストルを携帯しているのだし、警戒は充分なのだ。探偵はホールに足をふみいれると、左手をオーバーのポケットに入れて、自動拳銃の柄をにぎりしめると、そのまま銃口を、ボワラックにむけた。
ボワラックは、二人の探偵の背後で玄関のドアをしめると、フランソワの部屋へ、先きに立って歩いていった。その部屋の中はまっくらだった。だが、ボワラックが先に入って電気をつけた。
「さ、どうぞ、おかけになってください。それはそうと、フランソワがもどるまえに、ほんのすこし、お話したいことがあるのですが」とボワラックが言った。
ラ・トゥーシェは、風むきが怪しくなってきたので、いささか不安になってきた。そういえば、ボワラックのふるまいも、だんだん疑惑をふかめていくように思われる。しかし探偵は、おれたちは二人だし、それにピストルも持っていれば、すこしも油断してないのだから、なにも心配することはないのだ、と自分に言いきかせた。それに、罠がかけられているはずはないのだ、ボワラックが先に立って、この部屋に入ってきたのだからな。
ボワラックは椅子を三つ、ひきよせた。
「どうかおかけになってください。じつは、ぜひあなたがたに知っていただきたいことがあるのです」
二人の探偵は、すすめられたとおり、椅子に腰をおろした、だが、ラ・トゥーシェは、あいかわらずポケットの中で、ピストルの銃口をピタリとボワラックにむけていた。
「あなたがたお二人をあざむいたことを、私はふかくおわびしなければならないのです」とボワラックは口を切った、「だが、それはですね、私が目下おかれている異常きわまる状況をお話すれば、かりにもっともなことだと思っていただけなくても、すくなくとも、おわびの弁明になると思うのです。まずはじめに、お二人がどういうかたで、なにしにこのパリまで来たのか、私にはちゃんと分っているということを、お話しなければなりません」
ボワラックは、ここでちょっと言葉を切った。だが、二人の探偵は一言も答えないので、彼は話をつづけた。
「ラ・トゥーシェさん、たまたま私の目に、あなたが新聞に出した、ランベール嬢を求める広告がとまったものです。そこで私は考えざるを得ませんでした。それから、マレーさん、あなたともう一人の相棒とに、自分が尾行されていることに、私は気がついたのです。そこで私はますます考えざるを得なくなったのです。熟考の末、私は私立探偵に依頼することにしました、そして、あなたがたの正体と仕事をつきとめたのです。あなたがランベール嬢を見つけたと知ったときには、あのタイプライターをあなたが見つけるのも、もう時間の問題と、私は観念したのです、事実、それからすぐ、あなたがレミントン七号型の中古品を手にいれたことを、私がやとっている探偵から報告を受けたのです。そこで私は、馬方のデュボアに尾行をつけました、おかげで、あなたが、その馬方を探し出したことも、私にはすぐ分ったのです。いや、ラ・トゥーシェさん、これだけのことをつきとめた、あなたの英知のすばらしさには、ほとほと、私はカブトを脱ぎましたよ」
ここでまた、ボワラックは言葉を切ると、二人の探偵の顔を、ちょっとためらうような、ものといたげな目つきで、見やった。
「その先きを、ボワラックさん」ラ・トゥーシェがとうとう口をひらいた。
「それではまず、あなたがたお二人をだましたことをおわびしましょう、じつは、この家までよび出した手紙は、この私が書いたのです。私の名前で出したのでは、なにか罠がしかけてあるのではないかと疑って、ここまでおいでにならないと、思ったものですからね」
「われわれの心に、そういう疑いが生じるのも、当然なことです」とラ・トゥーシェが言った、「ボワラックさん、はっきりと断っておきますがね、私たちはピストルを携帯しているのですよ」ラ・トゥーシェはポケットから自動拳銃を取り出すと、テーブルのはしに置いた。「いいですか、すこしでもあなたが変な真似をしたら、容赦なく発ちます」
ボワラックはにが笑いをもらした。
「いや、あなたがたがお疑いになるのも、もっともなことです。むりはありません、といっても、みんな事実無根のことなのですがね。ですから、あなたがたがピストルまで用意してきたからといって、腹を立てるわけにはいかないのです。それでは、なにもかも正直に言いますが、じつは、この右手を切ったというのも、嘘なのですよ。なに、ハンカチに、液体絵具の赤のチューブをしぼっただけでしてね。あなたがたが家にみえたとき、私がたったひとりでホールにいることを納得させるために、こんな真似をしたわけで、また、あなたがたを家の中に招き入れるためには、こういう手《ヽ》をつかうことも、やむをえないと思ったからなのです」
ラ・トゥーシェはうなずいた。
「どうぞ、その先きを」と探偵はまたうながした。
ボワラックの顔は、その年よりもはるかに老《ふ》けてみえたし、疲れているようだった。その黒い髪にも、ところどころ白いものが見え、顔はおもぐるしくゆがみ、その目は、疲れにどんよりと曇っていた。彼の話す口調はきわめておだやかではあったけれど、心のそこに動揺をひめていて、どう話をすすめたらいいものかと、思いなやんでいるように見受けられた。ついに彼は、高いところからとびおりるようなしぐさをすると、思いきって言葉をつづけた――
「これからお話ししなければならないことは、文字どおり身を切られるくらいつらいことなのですが、ああ、これも仕方がありません、いわば、身から出た錆《さび》ですからね。いや、遠まわしな言いかたはよして、単刀直入にお話します――じつは、今夜、あなたがたをここにおよびしたのは、なにもかも一切|ざんげ《ヽヽヽ》をするためだったのです。そうなのです、いま、お二人のまえにいるのが、あわれな罪人なのです。みなさん、妻を殺害したのは、この私です。あののろわれた晩餐会の夜、私は妻を殺してしまったのです。それからというもの、私は一瞬たりとも心のやすまるときはありませんでした。生きながらにして、どのような地獄の責め苦にさいなまれたか、とても口で言いあらわせるものではありません。あの夜以来、私は地獄の亡者だったのです。ほんの数週間で、私は十歳も年をとってしまいました。ところが、どうでしょう、あなたがたの捜査が一歩一歩と固められていくにつれて、私は良心の呵責《かしゃく》にさいなまれつづけ――とうとう耐えられなくなってしまったのです。なんとしても、この責め苦からのがれなければならない、終止符を打たなければならない、そこで、考えたあげく、なにもかも白状してしまおうと決心したのです」
ボワラックの、その真剣な態度と、まざりけのない感情は、ラ・トゥーシェにも、もはやうたがうことはできなかった。だが、まだ腑に落ちないところがあった。探偵はたずねた、
「ボワラックさん、どうしてまた、私たちをわざわざここまで呼んで、自白するのです? 警視庁に自首して出て、ショーヴェ総監に自白なさるのが、筋ではありませんか」
「それはよく分っております。たしかにそうすべきなのです。しかし、ここでお話してしまうほうが、まだ耐えられるのです。自分の家で、こうしてしずかに腰をおちつけて、あなたがたにお話するのさえ、針のむしろに坐っているような気持ちなのですよ、この家どころか、あの警視庁では――何人もの、頭のかたい連中やタイピストにとりかこまれて――ああ、考えただけでも、とてもたまったものではありません。お二人におねがいしたいことは、これだけです――私はなにもかもつつみかくさずお話します、どんなおたずねにも、お答えします、そのかわり、もう二度と、このような目にあいたくないのです。私のいまの希望といえば、一日も早く罪のつぐないをして、この世からお別れすることだけです。どうか、必要な手続きは、あなたがたのほうで、なさってください、法廷では、いさぎよく自分の有罪をみとめます。いかがでしょう?」
「それでは、話をうかがいましょう」
「私の話をきいてくださるとは、それだけでもありがたいことです」ボワラックは、われとわが身に鞭《むち》うつと、感情を極力おさえたひくい口調で、話をはじめた。
「私の話はかなりながくなると思います。そもそものことの起こりから、このおそろしい結末にいたるまでをことごとくお話して、そのいきさつを知っていただきたいからです。もっとも、その大半はすでにご存じですね――つまり、妻とフェリックスがパリの画塾で恋しあったいきさつ、彼女の父親が二人の結婚をゆるさなかったこと、やがて私も、彼女を熱愛するようになり、結婚を申し込んだこと、その求婚が快諾されたこと、私は、彼女からもその父親からも、画塾時代のフェリックスとの話を、ありのままにしてもらえなかったこと、それからほどなく私たちが結婚したことなどです。また、私たちの結婚が、そもそものはじめから失敗だったということも、あなたがたはご存じのことと思います。私は心から妻のアネットを愛していました、しかし妻は、私のことをただの一度だって愛してはくれなかったのです。ま、こんなことをいまさら言っても仕方がないのですが、アネットが私と結婚したのも、フェリックスとの話がこわれて、ただ自暴自棄のあまりだったということに、私はすぐ気がついたのです。つまり、妻のアネットは、私に最大の悪をはたらいたわけです。もっとも妻自身、そのことに気がついていたとも私は思いませんし、そういうもくろみがあってやったことではないと、私は思いますがね。とうとう、結婚生活がたえられなくなるまでに、私たちの心ははなればなれになってしまったのです。それから間もなく、私はフェリックスと知り合って、家に招きました。まさかこの男が画塾時代に妻と恋愛していたとは、それから数週間たつまで、私は夢にも知らなかったのです。しかし、フェリックスと妻の名誉のために、これだけははっきりお断りしておきますが、二人のあいだにはやましいことは、ひとつもなかったのです。たしかに妻は、私の人生をだいなしにしてしまいました、それはまぎれのない事実です、だが、妻はフェリックスと駈落ちなどしませんでしたし、フェリックスもまた、私の知るかぎりでは、妻をそそのかすような真似はしませんでした。二人はなかのいい友だちだったのです、そうですとも、私は絶対にそう信じていますが、二人の関係は、それ以上一歩も出ていなかったのです。妻とフェリックスにたいして、私がなしうる最小にして唯一のつぐないとして、このことだけは率直に言っておきます。
しかし、私の場合は、ああ、なんということでしょう、その二人とはちがっていたのです。妻のひどい仕打ち――私はあえてそう言います――ほかの男を愛しているくせに、私と結婚した妻のひどい仕打ちによって、将来のあらゆる幸福までも犠牲にされてしまった私は、家庭のそとにその幸福をもとめるという誘惑に負けてしまったのです。ふとした偶然で、私はある女性と知り合いました。この女性なら、きっと自分を幸福にしてくれると思ったのです。その女性がだれか、どうやって二人が密会していたかということは、今後ともぜったいにあなたがたには分らないでしょう。やがて私たち二人は、息をころして密会したり、しじゅう人目をはばかってびくびくしながら会っていることに、とうとう耐えられなくなってしまった、とだけお話すればいいと思うのです。こういう状態にがまんできなくなった私は、どうしてもこれを打開しなければならぬと肚《はら》をきめました。打開する方法に私がはじめて思いあたったのは、あの晩餐会の夜のときだったのです。
あの身の毛もよだつようなおそろしい夜の出来事の説明に入るまえに、あなたがたが、私の恋人をつきとめようとしたり、妻殺しの罪の一部を彼女に負わせようとするかもしれませんので、ここでもまた、私が運命に敗北したことを、あらかじめおことわりしておきます。これからお話する、あの血の凍るような犯行で、私がわれとわが心を破壊してしまった、その週に、その女性は悪寒《おかん》におそわれたのです。それから肺炎をひきおこし、わずか四日間寝たきりで死んでしまったのです。思わず私は、神の裁きがはじまったことを、さとりました。しかし、その裁きを受けるのは、この私だけです。いずれにせよ、彼女の名は永久に葬られてしまいました。どんなことをしても、あなたがたには、彼女がだれだったか、もう絶対につきとめられないのです」
ボワラックの口調は、ますますひくくなっていった。まるで機械が喋っているように、抑揚のない無感覚な話しかただったけれど、二人の探偵には、彼がただ気力だけで、かろうじて話しつづけているのが、手にとるように分った。
「あの晩餐会の夜、私は玄関から入ってきたフェリックスと、ホールでパッタリ出会いました。そこでエッチングを観せようと思い、彼を書斎につれていったのです。そのとき、注文して、ついたばかりの、群像入りの樽のことで、二人が話しあったことは事実ですが、その群像の姉妹品が、いくら金を出せば、フェリックスの手に入るかなどということは、私は一言も言いませんでした。
あの晩餐会の夜のさまざまな出来事にしても、私が工場へ駈けつけるまでの話は、全部事実なのです。工場についてからも、このぶんでは自宅にかえるのはだいぶ遅くなると思ったのも、それが案外早く帰れることになったのも、事実なのです。ほんとうに私は、午後十一時ごろ、工場をひきあげました。そこで地下鉄に乗り、シャトレ駅で乗りかえたことも、お話したとおりですが、警視庁で陳述した、そのあとのところは、みんな私がでっちあげたことなのです。私がシャトレ駅でおりたとき、私の肩をたたいた友だちのアメリカ人などはいませんでしたし、第一、その男はまったく架空の人物なのです。そのアメリカ人とドルセー河岸をぶらぶら歩いたこと、コンコルド広場を散歩したこと、彼がオルレアンに行くので汽車に乗ったこと、私が自宅まで歩いて帰ったこと――これはみんな、午後十一時十五分から午前一時までの私のアリバイをつくるために、でっちあげたことだったのです。この間に、実際にあったことはこうなのです――
私はシャトレ駅で乗りかえると、こんどはマイヨー行に乗って、アルマ駅でおりました。そこからアルマ通りを歩いて自宅に帰ったのです。家に着いたのは、たしか十二時十五分前か二十分前でした。
私は石段をのぼりながら、玄関のドアの鍵を取り出しました。と、そのとき、ポーチが見おろせる応接室の窓にかかっている、板|すだれ《ヽヽヽ》の小割板の一枚がめくりあがっていて、そこから細長い三角形の光りが、夜の闇に流れ出ているのに、私は気がついたのです。ちょうど、そのすきまは目の高さのところでしたので、思わず室内をのぞきこんだのです。と、そのとたん、私のからだはこわばり、室内の光景に目を釘づけにされたまま、私はそこに立ちすくんでしまいました。その部屋の奥の肘掛椅子に妻が腰をおろし、その上からおおいかぶさるようにして、こちらに背をむけているのは、フェリックスだったのです。室内には二人きりでした。私はそれを見まもっているうちに、ある計画がパッと頭にひらめきました。私は胸をドキドキさせながら、なおもその場に立ちはだかっていたのです。妻とフェリックスのあいだに、なにかあるのか? もし、なにもないにしろ、あったように見せかければ、私の目的におあつらえむきではないか? 私は室内の様子をさらに見つづけていました。やがてフェリックスがからだを起こし、二人はなにやら熱心に話しだしました。フェリックスは、例の調子で、手ぶり身ぶりをまじえて、さかんに喋っていました。すると、妻は部屋から出て行きました、と、すぐまたひきかえしてきて、なにかちいさなものを、フェリックスに渡しました。窓のすきまからでは遠すぎてよくわかりませんでしたが、どうやら札束のようでした。フェリックスは、服のポケットに、それを大切そうにしまうと、二人はホールのほうに出て行きました。と、すぐ玄関のドアがあいたので、とっさに私は、窓台のかげに身をひそめたのです。
『ああ、レオン』妻の声です、私の耳には、いかにも感情がこもっているようにひびきました。『ああ、レオン、あなたって、ほんとにいい方ね! あなたがこんなことまでしてくださるなんて、まるで夢みたい!』
フェリックスの声にも、なみなみならぬ感情がこもっていました。
『僕だって、とてもうれしいんですよ。あなたのためなら、よろこんでなんでもするじゃありませんか』
フェリックスは石段をおりました。
『じゃ、お手紙くださるわね?』
『ええ、すぐ出しますよ』彼はそう答えると、帰って行きました。
玄関のドアがしまったとたんに、妻にたいして、はげしい憎悪の火が、私の胸にメラメラと燃えあがったのです、私の人生を滅茶滅茶にしてしまった女――いや、滅茶滅茶にしたばかりか、私の幸福の芽をことごとく|つん《ヽヽ》でしまう女にたいしてです。そしてまた、たとえ潔白であろうと、私を不幸のどん底につきおとす原因となった、フェリックスにたいしても、はげしい嫉妬と憎悪をおぼえたのです。と、突然、まるで悪魔が私に乗りうつったように――いや、ほんとうに乗りうつって、私の魂を奪いとってしまいました。私の血は凍り、そこに立っているのは自分ではなく、だれかほかの人間をながめているような奇妙な感情に、私はおそわれたのです。私は玄関の鍵をソッととり出し、音を殺してドアをあけると、妻のあとを追って、応接室にしのびこみました。部屋の中を歩いて行く妻の、おちつきはらった冷静な足どりに、私の兇暴な血はなおいっそう逆流してしまったのです。妻の身のこなしなら、私はすべて知りつくしていました。このおちつきはらった冷静な足どり、私が工場から帰宅すると、これが迎えに出る妻のいつものしぐさなのです、愛情のかけらもない、ただ上品なだけの作法――たまには変ってもよさそうなものなのに……
妻は、部屋のすみの自分の椅子まで行くと、そこに腰をおろそうとして、こちらにむきました。と、そのとたんに、私に気がつくと、妻はアッというちいさな声をもらしました。
『まあ、ラウール、おどかさないでくださいね、いまおかえり?』
私が帽子を投げすてると、妻は私の顔を見つめました。
『ラウール』妻はまた叫びました、『いったい、どうなさいましたの? なぜ、そんな顔をしていらっしゃるの?』
私はつっ立ったまま、妻の顔を喰い入るように見つめました。うわべだけは平静をよそおっていましたが、そのじつ、私のからだのなかには、ものすごい高熱でとけた金属のようなドロドロの血液が、血管のなかをかけめぐり、心は、燃えさかる火そのものでした。
『なんでもないさ』私は言いました、それも生れてはじめて耳にするような、しわがれた身の毛もよだついやな声で、自分ではないだれかが言ったように、私には思えたのです。『とるにたりないことなんだ。夫が自宅に帰ってみれば、自分の妻が愛人をもてなしていたというだけのことだよ』
妻は、まるではげしくぶちのめされたみたいに、のけぞると、椅子にくずれおちました、それから、血の気のなくなったまっさおな顔を、私のほうにあげました。
『ああ!』妻はいまにも息のつまるようなふるえ声で叫びました、『ラウール、ちがう、ちがいます、ラウール、たいへんな誤解よ、ね、あなたはあたしを信じてくださらないの、ラウール?』
私は妻ににじりよりました。妻への憎悪は、盲目的な、麻痺させるような、制御しようのない激情にかわってしまったのです。そのおそろしい変化は、私の目にありありとあらわれたにちがいありません、なぜって、妻の目にも、突然、恐怖の色がひらめいたからです。
妻は大声を出そうとしました、だが、カラカラになっている咽喉からは、かすれた音しか出ませんでした。妻の顔は死人のように蒼白になり、その額からはあぶら汗がじっとりと流れてきました。
もうそのときは、私は、妻の目のまえにせまっていました。無意識のうちに、私の両手が前方にのびました。その手が、妻のかぼそい頸にまといつき、拇指がグイッと、その咽喉《のど》を……妻には、私の殺意がはっきりと分ったのです、二目《ふため》と見られないような恐怖の色が、その目にあらわれていたからです。そういえば、そのとき、彼女の手が、私の顔をかきむしろうとしたような気もしましたが……
私は手から力をぬきました。私の頭はすっかり麻痺していました。私は、立ったままはるか遠いところから、倒れている妻を眺めている自分自身の姿が、目に見えるような気持ちでした。妻は完全にこときれていました。私はかつてないほどの憎悪を、彼女の死骸におぼえたのです。カッと見ひらいているその目に、まだ恐怖の色がのこっているのを見ると、私はゾクゾクするくらいよろこびました。ところで、|やつ《ヽヽ》は? 私の恋と人生を滅茶苦茶にしたフェリックスこそ、八つ裂きにしても、なおあきたらぬ男だったのです。そうだ、これからすぐ行こう。やつのあとを追って殺してやるのだ、この妻とおなじ目にあわせてやるのだ。私は部屋を出ようと、まるで|めくら《ヽヽヽ》のようによろよろしながら歩き出しました。
と、そのとき、私にのりうつっていた悪魔がべつの計画を、私の耳もとでささやいたのです。|やつ《ヽヽ》は妻と結婚したがっていたのだ。よし、それなら、妻を|やつ《ヽヽ》にくれてやろうじゃないか。生きている妻と結婚できなかったフェリックスに、せめてもの心づくしで、そのつぎにいいものを贈ってやろう、妻の死体をな」
そこでボワラックは言葉をとめた。いつのまにか彼は、興奮にわれを忘れ、声《こわ》だかに、手ぶり身ぶりをまじえて、まくしたてていたのである。二人の探偵のことなど、眼中にはないようだった。恐怖の記憶に逆上したあまり、あの血の凍るような光景に、あたかもいま、自分がいるような、あの身の毛もよだつ瞬間の熱狂をいま一度経験しているような感じだった。しばらく沈黙していてから、ボワラックは気をとりなおすと、こんどはごく平静な口調で話しはじめた。
「そこで私は、妻の死体をフェリックスに送る肚《はら》をきめたのです。そうすれば、私の憎悪をはらすばかりか、送りつけられた死体の処分に、|やつ《ヽヽ》が躍起になればなるほど、殺人の嫌疑が|やつ《ヽヽ》にかかるのではないか、とにらんだからなのです。それにしても、死体をつめる容器の入手先きに、私はこまりました。と、そのとき、となりの書斎においてある樽が、私の頭にうかんだのです。その樽は、私が注文した彫像の梱包用として、着いたばかりでした。その樽だったら大きいし、つくりも頑丈で、胴には鉄の輪がかかっていましたからね。そいつなら、まさに容器にはうってつけです。
私は書斎に入ると、その樽の中から、群像をとり出しました。それから、まるで荷物でもかつぐように妻の死体をはこぶと、樽の中につめたのです。それにしても、まず自分に嫌疑がかからぬようにしなければならぬ、と思いついたものですから、死体の足から、夜会靴をぬがせたのです。そうしないと、妻が一歩も外へ出なかったものと、警察に思われるおそれがあるからです。樽の中に鋸屑をいれ、すき間《ま》にぎっしりとつめこみました。なんといっても死体の大きさは、群像の比ではないので、鋸屑もかなりたくさんあまってしまいました。そこで私は、ホールから衣服ブラシをとってくると、それであまった鋸屑を掃きあつめ、手提げ鞄につめて、鍵をかけたのです。で、最後に樽の蓋を、もとどおりすこしゆるめたままにして、はめました。もっとも、樽をうごかしても、大丈夫な程度には蓋をしたのですがね。さて、一仕事終って、あらためてその樽をよく見ますと、これなら指一本さわったと怪しむものはあるまい、と確信したのです。
それにしても、妻とフェリックスが駈落ちしたという印象を、警察にあたえるのが、私の|ねらい《ヽヽヽ》でした。それにはどうしても、二つの条件が必要だと思われました。まず第一は、妻が駈落ちするときに、着てとび出したと思わせるような外出用のドレスが、なくなっていることです。そこで私は、樽から出した群像と妻の夜会靴をもって、彼女の部屋に入りました。そして、その靴を彼女の椅子のまえに投げ出しておきました、つまり、妻が靴をはきかえたように見せかけるためです。それから、妻の毛皮のコート、帽子、外出用の靴をとり出すと、群像と一緒にかかえて、私の化粧室に運びました。以上の品物の安全な隠し場所としては、私には二つのカラの旅行鞄しか思いつけませんでした。そこで、一つの鞄には群像、もう一つの鞄には妻の衣類や靴、帽子などをつめこむと、きちんと鍵をかけたのです。
第二には、私あての妻の置手紙をでっちあげることです。つまり、フェリックスを愛しているので、彼と駈落ちするといった文面です。むろん、そのときは、こんな置手紙をでっちあげているひまがなかったものですから、一時しのぎに、あたらしい封筒に、私自身の古い手紙を入れ、その封筒の表には、できるだけ妻の筆蹟に似せて、私の宛名を書いたわけです。この手紙は、私の机の上においておきました。
これだけのことをするのに、四十五分以上もついやしてしまったので、かれこれ午前一時ちかくなっていました。で、最後に、なにかしのこしたことはないかと、念のため、あたりを見まわしてから、応接室を出ようとしたとたんに、ピカッと光るものが目にとまったのです。それは、妻が絶命した椅子のすぐうしろの絨緞の上で光っていました。そのそばにちかよってみると、二人ではげしくあらそっているときに、妻のイヴニング・ドレスからもぎれたと思われるブローチだったのです。あやうくこいつを見おとすところだったと思ったとたんに、私は思わず冷汗をかきました。もしこのブローチを、だれかほかのものに見つけられたら最後、私のつくり話はたちまち露見して、死刑台にもって行かれるところだと思うと、ゾッとしたわけです。とにかく、そのブローチをかくす以外にいい考えはうかばなかったので、そいつを自分のチョッキのポケットに入れると、私は帽子をかぶり、家からぬけ出すと、玄関のドアをバタンと力まかせにしめたのです。それからシャンゼリーゼのあたりまでブラブラ歩いて、また家にひきかえすと、自分の鍵で、玄関のドアをあけて中に入りました。私の|ねらい《ヽヽヽ》どおり、さっき家を出るとき、わざと力まかせにしめたドアの音は、ちゃんと執事の耳に入っていたのです。妻の姿がどこにも見あたらないので、執事がオロオロしているのが、私には手にとるように分りました。そこで私は、妻がフェリックスと駈落ちしたように、執事に思いこませようと、手をつくしました。これは、ご存じのように、完全に成功したのです。
その夜はほとんど一睡もせずに、私は書斎にこもったまま、今後の計画に没頭しました。まず、なにをおいても樽の問題です。樽は、彫像の梱包用として、デュピエール商会から、私のところに送られたものです。したがって、カラの樽を商会にかえさないかぎり、私の犯行が発覚することは、火を見るよりもあきらかです。では、カラの樽を、どこから手に入れるか?
返す樽を手に入れるにしろ、死体をつめた樽とそっくりでなければ話になりません、そこで、入手しうる唯一の方法は、あらためて、もう一つの群像をデュピエール商会に注文することです、そうすれば、まえとおなじように、梱包用の樽につめて送ってくるはずです。といって、この群像を私あてに送らせるわけにはいきません。これは言うまでもないことです。と、ある考えが私の頭にうかびました、つまり、架空の名義で群像を注文し、駅留めにして、小荷物預り所のようなところへ、樽を配達させることです。そうすれば、こちらの正体を知られずに、その樽が手に入るわけです。
だが、せっかくのこの案も、満点というわけにはいきませんでした。警察に、樽を取りに行った私の足どりを、つきとめられる心配があるからです。そこでまた、私は熟考をかさねました。そうだ、フェリックスの名義で群像を注文すれば、それこそおあつらえむきではないか、という考えがうかんだのです。そうすれば、私が送りつける樽が、フェリックスのところに着くことの説明になるし、また、彼が群像など注文しなかったと頭から否定しても、相手にされないでしょうからね。だが、フェリックスの名前とサン・マロ荘の住所を、そのまま注文の手紙に使うわけにはいかないのです。そんなことをしたら、フェリックスは、私が送る樽と、注文の樽を両方受取ることになり、私は私で、すこしも安全ではないからです。そこでとうとう、ご承知のような計画を考え出したのです。私はフェリックスの筆蹟をまねて、私が手にいれた群像の姉妹品を、フェリックスの架空の住所へ送ってくれという注文の手紙をでっちあげ、その手紙を複写した上で、にせの注文の手紙を、月曜日の夜、デュピエール商会の郵便受けの中に入れておいたのです。それから火曜日の朝、デュピエール商会に電話して、注文した群像の輸送径路をたしかめてから、その足で私はロンドンに行き、商会が発送した樽を受取って、空小屋に運んだのです。ま、このことは、あなたがたもすでに調査ずみのことでしょうが」
「ちょっと待ってください」ラ・トゥーシェが言葉をはさんだ、「どうも、あなたの説明は、ちょっと早すぎて、ついて行けないのですがね。いまあなたは、群像の姉妹品を注文するフェリックス名義のにせ手紙を複写してから、その手紙を、デュピエール商会の郵便受けに入れたと、言いましたな、そこのところが、よくのみこめないんですがね」
「ああ、ここのところは、まだお分りではなかったのですか? では説明します、この注文のにせ手紙を書いたときは、私はパリにいたのですよ。しかし、デュピエール商会には、その注文の手紙がロンドンから来たものと思いこませなければならないのです。さもないと、商会のほうではあやしみますからね。そこで、私の手もとにあるロンドンからきた古い手紙から、消印のついている切手をはがして、注文書の封筒にはりつけ、消印の切れている部分は油煙でおぎなって、うまく切りぬけたわけなのです。私は月曜日の真夜中に、グルネルまで出かけて行って、デュピエール商会の郵便受けに、その手紙を入れたのです。その翌朝、その手紙を見たデュピエール商会も、イギリスの切手に、ロンドン郵便局のスタンプがちゃんとついているのですから、すこしもあやしまなかったはずです」
ラ・トゥーシェとマレーは、この鉄面皮でいけしゃあしゃあとした説明に、胸くそをわるくしたものの、そのトリックのあざやかさに舌をまかざるを得なかった。とにかく、この事件の捜査にあたったすべての係官が、ロンドンから出した群像の注文書は火曜日にパリのデュピエール商会に着いているのだから、月曜日にロンドンで投函されたものにちがいない、その月曜日には、フェリックスはロンドンに、ボワラックはパリにいた、したがって、この手紙を投函したものは、フェリックスでなければならぬと、主張したではないか。それにしても、なんとあっさり、いっぱいくわされたものか! 正直なところ、これではボワラックのトリックが効を奏したのもあたりまえだ、と二人の探偵は不本意ながら感心せざるを得なかった。
「しかし、注文書の複写をとったわけは?」とラ・トゥーシェは喰いさがった。
「つまり、その注文書がロンドンから来たものと、デュピエール商会に思いこませるばかりでなしに、フェリックスが実際に書いたのだという証拠をのこしておかなければならないと、私は考えたのです。そこで、複写というトリックをつかったのです。私は、注文のにせ手紙を書き上げると、こんどはその文面の文字の上に、トレーシング・ペーパーをあてがって、丹念に複写したのです。おそらく、もうご承知のことでしょうが、私がロンドンに行っているとき、サン・マロ荘にこっそり行き、フェリックスのペンとインクをつかって、複写の上からさらにまたなぞり、吸取紙で、そのインクを吸いとっておいたのです。それで、あの吸取紙に、注文書の文字とおなじものがのこっていたわけですよ」
ここでまた、二人の探偵は、この絶妙なトリックにくやしいけれど舌をまかざるを得なかった。吸取紙にのこっている文字の跡を発見して、これで決め手がつかめた、と思われたのに――それがただのトリックだったのだ。しかも、蓋をあけてみれば、なんという簡単なトリックだ!
「おかげで、はっきりしましたよ」とラ・トゥーシェが言った。
「私は、フェリックス名義で注文した樽をロンドンで受取ると、小屋に荷馬車で運びました。そこで馬方を帰すと、樽の蓋をあけて、中の群像を取り出して、それをパリから持って来た旅行鞄につめかえたのです。それから、樽の荷札をはがすと、ポケットに大事にしまいこみ、こんどは、パリの北停車場駅留めの、ジャック・ド・ベルヴィル宛の荷札を、樽につけたのです。お分りのとおり、そのジャック・ド・ベルヴィルというのは、私のことだったのです。
もうあなたがたは馬方のデュボアを探し出したのですから、私が二個の樽をとりかえた方法はお分りになっているはずです。つまり、妻の死体をつめた樽は、私の家からロンドンのフェリックス宛に送り、私がロンドンで空にした樽のほうを、パリのデュピエール商会に返したわけです。そこのところはお分りですね?」
「充分に」
「ところで、ただ死体をフェリックスに送りつけるだけなら、もうそれでいいわけです。しかし、私のほんとうの目的は、その樽をフェリックスに開けさせ、妻の死体を見せつけて、はげしいショックをあたえるだけではなしに、警察に怪しまれて監視され、送りつけられた死体の処分にうろたえたところを見つけられて、彼の身に殺人の容疑がかかるようにしむけたかったのです。つまり、私の|ねらい《ヽヽヽ》は、フェリックスに殺人の濡れ衣をきせ、それによって自分の無罪を証明することにあったのです。この目的を完全に果すために、フェリックスがどうあがいてものがれられないような罠を、彼のまわりにはりめぐらしてやろうと思ったのです。そうです、動きのとれない証拠をつくりあげることです。じょじょに、私の頭のなかには、その計画の細目がはっきりとうかびあがってきたのです。
まず第一に、妻の置手紙をほんとうにつくっておく必要がありました。つまり、封筒だけは宛名を書いて用意しておき、私が書斎に入ったとき見つけたふりをした、あの手紙です。私は、妻の書物机の引出しから、彼女の筆蹟の見本をできるだけあつめて、パリ警視庁に見せた、あの置手紙をでっちあげたのです。ほんものの妻の手紙は、後日にそなえてとっておくと、私がつくったにせの置手紙とくらべられるおそれがあるので、みんな焼きすててしまいました。
つぎの問題は、送りつけようと思っている死体入りの樽を、フェリックスが受取ることによって、どうしたら警察の疑惑の目が彼にむけられるようになるか、という点に、私は没頭したのです。熟考をかさねた末、あなたがたもよくご存じの、あの計画に決定しました。その三週間ばかりまえに、たまたま私は、カフェ『トワソン・ドール』にフラッと入りました、そのとき、ひどい神経性の頭痛になやまされていたので、私は小部屋に入り、できるだけ人目をさけていたのです。すると、ほどなくフェリックスがこの店に入ってきて、ほかの連中と話しはじめたことに気がつきました。なにしろ、頭痛がひどかったので、私は声もかけずだまっていたのですが、連中の喋っていることが私の耳に入り、そのとき、フェリックスと彼の友人のル・ゴーティエとが政府発売の宝くじを共同で買う話を知りました。そのことを思い出したものですから、こいつを利用することに決め、ル・ゴーティエ名義の手紙をフェリックスに書き、本物と思いこませるために、宝くじの件を文面におりこんでおいたのです。また、べつの紙きれに、樽に入れて送る金のことを書きました。ル・ゴーティエ名義の手紙と、樽の中から出て来た紙きれの内容は、ご承知のとおりです。二つとも、あとで使うために、私は手帳のあいだにはさんでおきました。
その翌日の月曜日の夜、私は書斎にある樽をはじめてあけるようなふりをしたのです。土曜日の夜中に、樽から取り出して、旅行鞄に隠しておいた群像をまた出すと、書斎のテーブルの上に飾りました。それから、樽のおいてある床のあたりに、手提鞄から鋸屑をすこしとって、ばらまいておいたのです。こうしておけば、嫌疑がかかったとしても、月曜日の夜まで樽をあけなかったのだから、あの土曜日の晩餐会の夜に、死体が詰められるわけはないと、言い張れると思ったからです。ご存じのとおり、このトリックも、まんまと成功しました。それからまた、樽から荷札をはがすと、ポケットにしまったのです。
それからまた、私は樽をあけると、紙きれに書いたとおり、五十二ポンド十シリングのイギリス金貨を入れました。つまり、もし警察にこの樽が押えられた場合、フェリックスが自分宛に送られてきた樽の話を裏づけるために、その金を自分で入れたものと、警察はにらむのではないかと思ったからです。さらにフェリックスの仕業だと警察に思わせるために、わざとフランス金貨にしないで、イギリス金貨を中に入れたのです。フェリックスは、興奮のあまり策を弄《ろう》しすぎて失敗し、樽がフランスから輸送されるという筋書をすっかり忘れてしまったのだ、と警察が推定するのではないか、と私は山をはってみたわけです。
私は執事のフランソワを呼ぶと、樽から群像を出したことを話して、デュピエール商会から空樽をとりに来たら、渡すようにと言いつけた。それから、二日間旅行するからと言いおいて、その翌朝早く、私は汽車でロンドンにむかったのです。
月曜日に、変装用の顎髯を買っておいたので、フェリックスに変装すると、その二日間の旅行中、ずっとこれでおしとおしたのです。私はこの旅行に、妻の衣類や靴、帽子をつめた旅行鞄を持って行き、連絡船に乗ると、人目のない下甲板から、ソッと海中に、鞄の中身を捨てたのです。私はロンドンに着くと、すぐその足で運送屋に行き、樽を運ぶのに、二日間、荷馬車と馬方を手配したことは、すでにご承知のとおりです。それから私は、フェリックスのすまいであるサン・マロ荘を探しに行きました。なに、ちょっと頭をはたらかせれば、すぐ分ります。慎重にサン・マロ荘の様子をうかがってみますと、留守だということが分りました。そこで私は、窓という窓をあたってみますと、うまいことに、掛金のかかっていない窓がありました。私は、その窓をあけると、サン・マロ荘のなかにしのび込み、書斎に行きました。懐中電灯のあかりをたよりに、デュピエール商会に注文した|にせ《ヽヽ》手紙の複写の上を、インクで丹念になぞり、フェリックスの吸取紙で、濡れている文字を吸いとりました。よし、きっと、この吸取紙は警察に発見され、フェリックスが注文の手紙を書いたという証拠になるぞ、と私は確信したのです。
フェリックスには、私の妻を殺害する動機がないばかりか、およそこういう凶暴なことに縁のない男ですから、彼は白にちがいないと主張されることも、私は見越していました。したがって、私としても、その動機をつくっておかなければなりませんでした。そこで、フェリックスにだまされた女から来たように見せかける|にせ《ヽヽ》手紙を、私はでっちあげました。この手紙をわざとまるめると、フェリックスの上衣のポケットにつっこんでおいたのです。こいつが警察に発見されれば、私の妻が女の手紙を見つけたため、二人は喧嘩になり、そのあげく妻が殺されたという証拠になるのではないか、と私はにらんだからです。手紙をしわくちゃにまるめたのは、フェリックスが妻の手から奪いかえし、自分の上衣のポケットにねじこんだまま、忘れてしまった、ということをほのめかすためだったのです。
私は、その書斎に立っているうちに、さらにまた、いい考えが頭にうかびました。妻のイヴニング・ドレスからもぎれて落ちた、あのブローチを利用してやろうと思いついたのです。そいつは、あのとき、私の家の応接間の妻の椅子のうしろにおちていたのですから、フェリックスの書斎の椅子の背後の床におとしておいたら、妻がここで殺害されたものと、警察はにらむにちがいないと、私は考えたのです。そこで私は、書斎のカーテンのまえの、背のひくい椅子に目をつけました。と、ここなら、私の目的にまさにあつらえむきだと、私は即座に見てとったのです。私はその椅子のうしろに、妻のブローチをおとしました、するとカーテンの裾の打紐《うちひも》にひっかかりました。ちょっと見ただけでは、椅子のかげにかくれて、分りにくいのですが、警察なら、まず見のがすことがないということを、私は知っていました。私は、ほかのところにはなに一つ手をふれず、また、しのびこんだ形跡をのこさずに、外に出て窓をもとどおりしめると、ロンドンにひきかえしたのです。
いままでお話したことが、私の犯罪計画です、あなたのような名探偵が登場しなかったら、成功はうたがいなかったのですがね。まだ、わからない点がありますか?」
「あと一つ、あるようです」とラ・トゥーシェが答えた、「あの月曜日に、あなたがシャラントンのレストランで、会社の主任と、おたくの執事に電話をかけているところを、聞いていたものがあるのです。ところが、主任も執事も、火曜日に、カレーからのあなたの電話をきいているのです。これはどういうわけなんです?」
「なに、簡単なことですよ。月曜日には、私はぜんぜん電話をかけなかったのです。受話器をはずしたとき、電話器のフックがあがらないように、小さな木の|くさび《ヽヽヽ》をさしこんでおいたわけです。いかにも電話をかけているように見せかけてはいたものの、そのじつ、電話はぜんぜんかかっていなかったのですよ。そのほかに、なにか?」
「もうないようですな」ラ・トゥーシェはそう答えたが、まったく、腹立たしくはあるが、ボワラックの巧妙な手口に、すっかり感心してしまった。「これでもう、あなたの陳述は、あますところがないと思いますね」
「それが、まだ充分ではないのです。どうしてもお話したいと思うことが、あと二つあるのですよ、これを読んでくださいませんか」
ボワラックは、服のポケットから一通の手紙をとり出すと、ラ・トゥーシェに手渡した。二人の探偵は、その手紙を読もうと、からだをすこし、まえにかがめた。と、その瞬間、カチッというかすかな音がしたかと思うと、室内の電気がパッと消えた。ボワラックのかけていた椅子が、床に倒れるような音がした。
「ドアをおさえろ!」ラ・トゥーシェは怒鳴るなり、椅子からサッと立ち上って、自分の懐中電灯を手探りでさがした。マレーはドアにとびつこうとしたが、椅子につまずいて、間にあわなかった。やっとラ・トゥーシェが懐中電灯をつけたときには、ドアがしまるところだった。ひくい、嘲笑がひびいた。と、ドアがバタンとしまり、おもてで鍵をかける音がした。ラ・トゥーシェはドアにむかって、つづけざまにピストルを発射したが、なんの手ごたえもなかった。こんどはマレーが、ドアのハンドルにとびついた。しかし、手がふれただけで、ハンドルはぬけ落ちてしまった。まえもって、ネジの穴をひろげておき、ネジが馬鹿になるようにしてあったのだ。
そのドアは内側にしかあかない仕組だった。二人の探偵のまえに立ちはだかっているのは、ハンドルのとれた、ビクともしないツルツルしたドアだった。ホールのほうへ、いくら押そうとしても、それこそ無駄だった、頑丈な枠が、|てこ《ヽヽ》でも動かないようにドアをささえているのだ。こうなれば、ドアをたたき破るしか手がなかったが、まるで鉄のような、分厚い樫《かし》の戸板を見ただけで、この希望もはかなくついえさってしまった。
「窓だ!」ラ・トゥーシェが叫んだ。二人はパッとふりかえった。窓は簡単にあいたが、その外側には鉄のシャッターがピッタリとしまっている。二人は必死で押したりゆすったりしたがビクともしない。ボワラックには、ぬけ目がなかったのだ。
二人はハアハア息をきらして、なすところもなく、ただつっ立っていると、マレーが電気のスイッチを見つけた。スイッチは倒れていた。彼はつけた、だが、電気がパッとつくかと思ったら、期待は完全に裏切られた、と、マレーはあることに気がついた。
「懐中電灯を!」彼はラ・トゥーシェにむかって叫んだ。その光りをあてたとたんに、マレーにはすぐのみこめた。スイッチには釣糸がむすびつけてあったのである。その糸は、だれの目にもつかないように、部屋の壁をつたわって、床の小さな穴に入っていた。その糸をひきさえすれば、室内の電気が消える仕組みなのだ。
「まったく分らん、共犯でもいるのか?」とラ・トゥーシェが言った。
「ちがいます!」懐中電灯でさかんにあたりを探ぐっていたマレーが叫んだ、「ほら、こいつです!」
マレーは、床に横倒しになっている椅子を指さした。さっきまでボワラックが腰をおろしていた椅子だ。この椅子の左腕にも釣糸のべつの端がむすびつけられていて、それもまた、床の小さな穴に入っていた。
「こいつは、みんなつながっているんですよ!」
二人の好奇心が、一瞬、恐怖を忘れさせた。ラ・トゥーシェがスイッチをおこし、マレーが椅子の腕の釣糸をひっぱると、また、カチッという音がして、スイッチが倒れた。
「なんという悪知恵だ」とマレーが吐き出すふうに言った、「この糸は、床下にとりつけてある滑車をとおっているにきまっています。やつは、電気計器のところで、電流を切ってしまったのです」
「よし、マレー、ぐずぐずしてはいられないぞ、なんとかして、ここから脱出するのだ」
二人は全身に全重量をかけて、一丸となってドアに体あたりをくらわした。なんども、くじけずにぶつかった、だが、ドアはびくともしなかった。
「いったい、やつのねらいはなんでしょう?」とマレーがあえぎながら言った。
「ガスだね、おそらく木炭ガス」
「窓のところで、大声をあげてみましょうか?」
「無駄だ。シャッターがおりているし、外は中庭だよ」
と、突然、かすかな臭気が二人の鼻をさした。すでに神経が麻痺しているにもかかわらず、この臭気に、二人の血はたちまち凍り、さらに十倍ものはげしさで、ドアに体あたりをくらわさずにはおかなかった。その、臭気には、木の燃えるかすかなにおいがあった。
「畜生! やつは、家に火をつけたんだ!」
二人の体あたりは、いかなるドアをも打ち破らずにはおかぬようなはげしさだった。もし、外側にあくドアだったら、蝶番《ちょうつがい》も錠前も、いちはやく破壊されてしまったにちがいない。だが、この二人の奮闘も、このドアにかかっては水の泡だった。額に大粒の汗が流れ出るまでに、二人は体あたりをくらわしたのだ。その間にも、臭気はますますひどくなってきた。いよいよ、煙りが室内にしのびこんでくるのだ。
「おい、懐中電灯!」だしぬけにラ・トゥーシェが叫んだ。
彼はピストルをかまえると、ドアの錠のさし金めがけて、何発も発射した。
「みんな、射ってしまわないでください。あと何発です?」
「二発だ」
錠は粉砕されたようだった、だがドアは、やはりビクともしなかった。二人の体あたりは、いよいよ気ちがいじみてきた。とマレーにある考えがひらめいた。その部屋のむこう側の壁に、どっしりとした、古風なソファがあった。
「あのソファで、このドアを破ろうじゃありませんか」
すでに室内にはもうもうと煙りがたちこめ、二人の咽喉を刺し、いまにも窒息しそうだった。たえまない咳《せき》と、懐中電灯のわずかな光りだけでは、思うように仕事がはかどらなかった。だが、やっとのことでソファを二人がかりではこんでくると、その端をドアにむけた。その両側を、ひとりずつでかかえて、ソファを大きくふりもどしておいてから、全力をこめて、ドアにぶっつけた。二回、三回、ついに四回目の攻撃で、メリメリッと、ドアの裂ける音がした。やっと成功したのだ。
いや、二人にはそう思われただけだったのである。一瞬後、二人はまだ駄目だということをさとらざるを得なかった。ドアの右下の羽目板が割れただけだったのだ。
「こんどは左の羽目板だ! それがすんだら間の桟だ!」
二人は、熱病にとりつかれたみたいに、ガムシャラにソファをぶちあてたが、思うようにははかどらなかった。煙りは、すごい勢いでたちこめてきた。と、そのとき、ラ・トゥーシェの耳に、髪の毛のさかだつような、不吉な音がきこえた。すぐそばで、パチパチという音がしはじめたのだ。
「マレー、時間がないぞ」顔からダクダクと汗をながしながら、ラ・トゥーシェはあえいだ。
いまや、最後の力をふりしぼって、二人はドアの桟に、ソファをぶっつけた。だが、どうしても桟は打ち破れなかった。ソファのほうがさきにこわれはしないかという恐怖が、二人の心臓をしめつけた。
「懐中電灯をください!」マレーがかすれた声で叫んだ、「早く、さもないと、おしまいです」
マレーは自動拳銃をとり出すと、ドアの縦の桟めがけて、全弾七発をたてつづけにぶちこんだ。ラ・トゥーシェも、とっさにさとると、おなじところに、自分のピストルで、残りの二発を発射した。ドアの桟には、九つの穴が、横に一列にあけられたのである。
二人とも耳は鳴り、胸はいまにも窒息しそうだったが、最後の力をふりしぼると、腰のよわくなったドアに、その重いソファを、文字どおり、ぶっつけたのである。メリメリッという音をたてて、桟が裂けた。やっと出られるのだ。
「さきに出ろ、マレー、いそげ!」ラ・トゥーシェはそう叫けぶと、まるで酔っぱらったみたいに、ヨロヨロッと、うしろによろけた。だが、応答はなかった。もうもうと渦巻く煙りのなかで、死んだように倒れているマレーの姿が、探偵の目に入った。ついに最後の力を出しつくして、彼は倒れてしまったのだ。
ラ・トゥーシェの頭のなかもまた、グラグラしていた。もはや断片的にしか考えられないのだ。なかば無意識に、彼はマレーの腕をつかむと、ぶちあけられたドアの穴のほうへひっぱった。それから、自分がさきに穴をくぐって外に出ると、マレーをひきずり出そうとした。と、そのとたんに、一段とおそろしい耳鳴りがしたかと思うと、胸の重圧は限界を超え、目のまえがまっくらになってしまった。ついに彼は、ドアの穴から半身をのり出したまま、倒れてしまった。
そのとき、床からは、なめずるような焔の舌が、チラチラと出てきたのだ。
三十 結末
ラ・トゥーシェが意識をとりもどしたとき、戸外に横たわっている自分に気がついた。そのまくらもとに、もう一人の部下、ファロルが、探偵の顔をのぞきこんでいた。とっさに彼の頭にうかんだのは、倒れたマレーのことだった。
「マレーは?」ラ・トゥーシェは、かすかな声でたずねた。
「ご安心ください、間一髪というところで助け出しました」
「ボワラックは?」
「警察が追跡中です」
ラ・トゥーシェは、ジッと横たわったままだった。すっかりまいっていた。だが、戸外の新鮮な空気のおかげで、みるみるうちに元気をとりもどし、ほどなくすると、半身が起こせるようになった。
「どこなんだね、ここは?」やがて探偵はたずねた。
「ボワラックの家の角をまがったところです、目下、消防署の連中が活躍中ですよ」
「いったい、どういうことになったんだね?」
ファロルの話は簡単だった。その日、ボワラックは午後三時ごろ、自宅に帰った様子だった。それからまもなく、ボワラック邸からゾロゾロと奉公人たちが自分たちの荷物を手にして出て来るのを見て、張りこみ中のファロルはびっくりした。馬車やタクシーで、二人の下男と四人の女中が、めいめいの荷物をのせて、行ってしまったのだ。午後四時ごろになると、いちばん最後に、執事のフランソワが、これもまた自分の荷物をもって出て来た。ボワラックも一緒だった。フランソワは玄関のドアをしめると、おもてから鍵をかけ、その鍵をボワラックに渡した。そこで二人は握手をすると、べつべつの車に乗って、走り去った。ボワラック邸を、かなり長いあいだ、留守にすることはあきらかだった。
ファロルは、待機しているタクシーにとび乗ると、ボワラックの車のあとを追った。車は、聖ラザール駅に着き、ボワラックは車からおりると、駅の構内に入っていった。だが、切符を買うどころか、駅の中央ホールをほんの二、三分グルッとひとまわりしただけで、ボワラックは別の出口から出てきたのだ。それから地下鉄に乗り、アルマ駅でおりると、アルマ通りを歩いて、自宅のまえまでくるなり、あたりをサッと見まわしてから、家の中に入ったのである。尾行していたファロルには、こいつは臭いぞ、とピーンときた。そこで彼は、すこしはなれたところに身をひそめて、見張りつづけた。
いままでのおかしな雲行きに目を見はっていたファロルも、ラ・トゥーシェとマレーがボワラック邸まで車でやって来て、玄関のドアのベルを鳴らすのを見て、ほんとうにびっくりしてしまったのである。彼はその二人に警告しようと、ものかげからとび出したが、そのときはもう、玄関のドアがあいて、なかに入ってしまったあとだった。ますます不安の念にかられながら、それからかなりながいこと、ファロルが待っていると、ボワラックだけがたったひとりで、家から出てきたではないか。こいつは大変なことになった、と見てとったファロルは、ボワラックのほうは一時、あきらめるより仕方がないと肚《はら》をきめると、警視庁に、いままでの怪しいいきさつを電話で通報した。すると、ただちに警察官が車で出動した、ファロルが電話して、かけもどると同時くらいに、警察の車が、ボワラック邸に到着したのである。もうそのときは、二階の窓から、モクモクと煙りが出はじめていた。警官の一人が消防署へ走り、ほかのものは、玄関を打ち破って、中に入ろうとした。かなり手間どってからやっとのことで、とびこめた。もうもうと立ちこめる煙りのなかから、ラ・トゥーシェが、フランソワの部屋のドアから半身のり出して、ホールに倒れているのを発見した。危機一髪というところで、二人の探偵は救出された。二人を家の外に運び出したとたんに、ホールの奥は、一面の火の海となったのである。
「これから、警視庁へ行こう」ラ・トゥーシェは、ファロルの話をききおわると、言った。もうすっかり元気になっていた。
その二十分後、ショーヴェ総監は報告を受けるや、ただちにボワラックの追跡を命じた。
ラ・トゥーシェは総監に会うと、この事件で調査した数々のことを、のこらず打ちあけた。総監は思わず目を見はった。そして自分と、その部下たちの大失敗を、じたんだふんでくやしがった。
「なんという悪知恵だ!」と総監は叫んだ、「君たちを油断させるには、絶対の真実しかないということを、やつはちゃんと読んでいたのだね。しかし、ラ・トゥーシェ君、やつはかならず逮捕するよ、どうじたばたしたって、パリからは出られないのだ。もうすでに、あらゆる道路は遮断されているからね」
総監の予言は、思っていたよりも早く適中した。そのほんの一時間後には、逮捕の報告が入ったのである。
ボワラックは、自分の有罪をつきとめた二人の探偵さえ抹殺してしまえば、絶対に大丈夫だと、|たか《ヽヽ》をくくっていたらしく、自宅に火をつけると、悠々とクラブへ出かけていったのである。そのクラブへ網をはりにいった刑事の一人は、ラウンジで、しゃあしゃあとなにくわぬ顔で葉巻をふかしているボワラックを発見したのである。彼は必死に逃亡をはかったものらしく、刑事にピストルをむけた。だが、万事休すと見てとると、その銃口を自分にむけた、刑事が止めにとびかかる寸前に、われとわが頭を射ぬいてしまったのだ。
かくして、今世紀最大の冷血鬼は自滅したのである。
ところでフェリックスは、まことに奇妙な形で、そのつぐないを受けた。弁護を引受けることによって、フェリックスの人柄を尊敬し、その真価を知るようになった王室弁護士、ヘップンストールは、自分の妻の肖像を、この画家に依頼したのである。それが縁となって、フェリックスは、ヘップンストールの娘と知りあうようになり、たちまち若い二人は愛しあう仲となった。その半年のち、二人はごくしずかな結婚式をあげた。花嫁の、かなりの額にのぼる持参金のおかげで、フェリックスは会社をやめ、地中海の、太陽のさんさんとかがやく海岸に、あたらしいサン・マロ荘を建てて、そこに住むことになった。画家は新妻をやさしくいたわりながら、長いあいだの夢であった制作に打ちこんだのである。(完)
解説
『樽』を四か月がかりで訳了してみて、私はつくづくこの作品に感嘆した。正直なところ、『樽』はおろか、クロフツの作品を、私は生れてはじめて読んだのである。私の喰わず嫌いには、自分ながらほとほとあきれた次第である。
むろん、クロフツの『樽』が探偵小説史上、画期的な名作であることは、百も承知していた。しかし、『クロフツはアリバイ崩しのトリックにはすぐれているが、小説は下手くそである』といったような無責任な風評が、私を、この名作から遠ざけてしまっていたのである。それに、『二十世紀著述家辞典』や原書のカバーにのっている彼の顔が、どうにも私には気にくわなかったのである。いかにも『律義《りちぎ》な小官吏』といった印象で、私には、どうも苦手なタイプである。チェスタートンのにがみばしった面魂《つらだましい》や、ニコラス・ブレイクの渋いタッチ、レックス・スタウトのたくましい線、アガサ・クリスティの聡明な微笑に接すると、思わず手がその著書にのびてしまうのだが、このクロフツおじさんのポートレートがいけなかった。コツコツと貯蓄をする才はあっても、小説は下手くそみたいな感じなのである。しかし、『クロフツは小説が下手くそだ』などという風評は、まっ赤ないつわりである。第一、小説が下手くそで、アリバイ崩しのトリックに、かくもあざやかに成功できるものであろうか? 小説が下手くそだったら、この大作を、読者は一気に読みとおすわけにはいかないのだ。すくなくとも、私は一気に読み通した。むろん、ヴァン・ダインやエラリイ・クイーンのような、気のきいたペダントリーも、人目をそばだてる文体も、クロフツの小説にはない。だが、この作中に登場するロンドン警視庁のバーンリー警部を見よ、パリ警視庁のルファルジュ警部を見よ、私立探偵のジョルジュ・ラ・トゥーシェを見よ、彼らの手がたい捜査活動をいきいきと描くクロフツの手法と文体は、『樽』の卓抜な構想とともに、まさに画期的なものである。
『樽』の世界は、一九一二年のロンドンとパリとブリュッセルである。一九一二年を、クロフツが選んだのには、それなりに深いふくみがある、ということを、読者は見逃してはならない。(この作品は一九一九年、作者が四十歳のとき、長い病気の恢復期に、ノートに鉛筆で書き出したのである)第一次世界大戦は一九一四年の夏にぼっ発する。そして、それ以後の二十世紀は、さらに第二次大戦によって、あらゆる荒廃を経験するにいたる。一九一二年は、いわば、『古きよき時代』の最後の年といっても過言ではない。クロフツが一九一二年をえらび、大戦前のヨーロッパの三つの古都を舞台にえらんだのも、『樽』の主題とともに、たんなる作者の思いつきではないのである。そして、この小説の抑制された手法と文体も。
ロンドン警視庁のバーンリー警部は黒葉巻を愛用する。現代のハードボイルドの探偵諸君はラッキー・ストライクだ。
フリーマン・ウィルス・クロフツは、一八七九年アイルランドのダブリン市に生れた。ベルファストのメソジスト学校に学んだが、十七歳のとき、土木技師見習となり、二十歳にはドウネガル鉄道の拡張工事の技手に任命され、その十年後にはベルファスト本社の主任技手に昇進する。一九一二年(三十三歳)に、同地の銀行支配人の娘メリイ・カニングと結婚、子供には恵まれなかった。一九一九年(四十歳)、クロフツは長い病気をして、その恢復期の退屈まぎれに、鉛筆でノートに小説のようなものを書いて慰みとした。クロフツ自身、そのときのことを回想して、つぎのように書いている――
『実に愉《たの》しい時間つぶしであった。しかしそんな小説が本になろうなどとは夢にも考えず、病気がよくなると、それらのノートはどこかへしまい忘れてしまったが、あるとき、ふとそれを見つけ出して読んで見ると、なかなかよく出来ている。ひょっとしたら物になるかも知れないと思ったので、充分書き直した上清書して、ロンドンの出版仲介業者のところへ送って見た。すると幸運にも、仲介業者が出版社にうまく売りこんでくれたので、間もなく出版の運びとなった。それが私の処女作『樽』である。それから二十年後の現在(一九四一年頃)では、『樽』はすでに十万部以上を売りつくし、なお版を重ねつつある。私はそれに気をよくして、第二冊目の長篇『ポンスン事件』を書いたが、これもすぐ出版された。それ以来、私は探偵小説を書き続け、現在(一九四一年頃)二十四冊目の長篇を書き終ろうとしている。私は長い間、技師の職についたまま小説を書いていたが、一九二九年(五十歳)以来は、健康上兼業に耐えられなくなったので、技師の方をやめて小説に専念することとし、妻と共にロンドンに移住した』
『二十世紀著述家辞典』の編纂者であり、著名な探偵小説研究家のヘイクラフトは、つぎのように言っている――
『クロフツの作風は、プロットの面白さを主とするもので、人間的関心は鉄道技師としての興味に限られている。探偵小説好きの経済学者ジョン・ストレイチイは、クロフツを評して、「彼は探偵小説のメカニックスのみにとらわれ、文学的な要素を無視している」と言った。しかし、クロフツの代表作「樽」が、優れた古典の一つとして探偵小説史上に残る作品であることは、誰も否定しないであろう。又、登場人物の性格、心理、恋愛葛藤などの夾雑を好まない純謎解き小説の愛好者にとっては、クロフツの作風は、こよなき珍味に相違ない』
この解説を書くにあたって、江戸川乱歩先生の『海外探偵小説・作家と作品』(早川書房刊)を参照させていただきました。
昭和三十七年六月三十日(訳者)
◆樽
クロフツ/田村隆一 訳
二〇〇三年七月二十五日 Ver1