エンジン・サマー Engine Summer
ジョン・クロウリー John Crowley
大森望訳
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)|機械の夏《エンジン・サマー》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)小春日和《エンジン・サマー》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)忘れなさい[#「忘れなさい」は太字]
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[#ここから3字下げ]
|蛇の手《スネークズ・ハンド》が物語の最上の部分に
なれると、やっぱり思っている
ランス・バードに
[#ここで字下げ終わり]
[#改丁]
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それにたいして、ある男はこう言った。「きみたちは、なぜいやがるのだね。寓意にしたがえばいいじゃないか。そうすれば、きみたち自身が寓意になり、それとともにすでに日常の労苦から解放されているだろう」
すると、べつの男が言った。「賭けてもいいが、それもひとつの寓意だね」
最初の男は、言った。「賭けは、きみの勝ちだよ」
第二の男は、言った。「だけど、残念ながら、寓意のなかでの勝ちにすぎないよ」
すると、第一の男は、「ちがうね。現実に勝ったんだよ。寓意のなかでは、きみの負けさ」
[#地付き] ――フランツ・カフカ「寓意について」
[#地付き](前田敬作訳『カフカ全集2』より)
[#ここで字下げ終わり]
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エンジン・サマー
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登場人物
〈|しゃべる灯心草《ラッシュ・ザット・スピークス》〉――語り手。|てのひら系《パーム・コード》の少年
〈|ひとこと話す《スピーク・ア・ワード》〉――その母
〈|七つの手《セヴン・ハンズ》〉――その父
〈|そう伝えられる《ソー・スポークン》〉――その祖母。ンババ
〈|絵具の赤《ペインテイド・レッド》〉――ンババの友人の|金棒曳き《ゴシップ》
〈|まばたき《ブリンク》〉――樹上に住む老人
〈|一日一度《ワンス・ア・デイ》〉――|ささやき系《ウィスパー・コード》の少女
〈|絶体絶命《イン・ア・コーナー》〉――|ほね系《ボーン・コード》の|パン男《ブレッドマン》
〈|芽生え《バディング》〉――双子
〈|花盛り《ブルーミング》〉――双子
ジンシヌラ――〈ドクター・ブーツのリスト〉の老婆
ハウド――〈ドクター・ブーツのリスト〉の男
ティープリー――復収者《アッヴェンジャー》
ブロム――猫
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第一のクリスタル 無数の生涯
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第一の切子面
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眠ってるの?
[#ここで太字終わり]
ううん。起きてる。目を閉じてろっていわれたんだ。それに、待てって。開けなさいといわれるまで。
[#ここから太字]
あら。もう開けてもいいわ……なにが見える?
[#ここで太字終わり]
きみ。
[#ここから太字]
わたしは……。
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きみは……知り合いの女の子に似てる。背はきみのほうが高いけど。天使ってみんな背が高いの?
[#ここから太字]
ほかになにが見える?
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いますわってる芝生。これ、芝生?
[#ここから太字]
みたいなもの。
[#ここで太字終わり]
空が見える。ガラスの天蓋ごしに。ああ、天使、こんなことってあるの?
[#ここから太字]
ええ、あるのよ。
[#ここで太字終わり]
じゃあ、着いたんだ。ここに。あの人がいったとおりだった、ここに来られるって……天使! 雲が下に見えるよ!
[#ここから太字]
ええ。
[#ここで太字終わり]
じゃあぼく、きみたちを見つけたんだ。失われた中で最高のものを見つけたんだ。
[#ここから太字]
ええ。わたしたちは失われていたけれど、あなたが見つけてくれた。わたしたちは盲目だったけれど、あなたのおかげで見えるようになった。さあ。あなたは短いあいだしかここに――いられないの、だから……。
[#ここで太字終わり]
ぼくのなにがほしいの?
[#ここから太字]
あなたの物語。
[#ここで太字終わり]
いまのぼくはそれだけさ、そうだよね。ぼくの物語。ああ、話すよ。でも、長い物語なんだ。どうしたらぜんぶ話せるんだろう。
[#ここから太字]
はじまりからはじめて、終わりまで話しつづける。そこでやめる。
[#ここで太字終わり]
はじまり……いまのぼくが物語でしかないとしたら、きっとはじまりがあるはずだね。生まれたときからはじめようか。そこがはじまりかな? きみがしてる、その銀の手袋《グラヴ》からはじめてもいい。銀の手袋とボール……うん、リトルベレアで、はじめて手袋とボールの話を聞いたときからはじめよう。そうすれば、はじまりの場所が終わりの場所にもなる。どっちみち、リトルベレアから話しはじめなきゃいけないんだ。
ぼくの人生はリトルベレアからはじまったんだし、リトルベレアで人生を終えたいと思ってるから。どういうわけだか、ぼくはいつだってリトルベレアにいる。ぼくはあそこで生まれたし、リトルベレアの中心がぼくの中心だから。ぼくが「ぼく」というとき、たいがいはリトルベレアのことをいってる。リトルベレアがどんなところかは説明してあげられない。リトルベレアはぼくが変わるように変わってきたから。ぼくが変化するのといっしょに変化してきたんだ。でも、これからぼくの話を聞けば、リトルベレアのこともわかってくると思う――すくなくとも、そのありようのいくぶんかは。
ぼくは、ンババの部屋で生まれた。ぼくのンババは母さんの母さんで、赤ん坊のころのぼくはたいていンババといっしょだった。それが慣わしだったから。リトルベレアの千の場所のどこよりも、ンババの部屋のことをいちばんよく覚えてる。そこはけっして変わらない場所で、部屋の境界線はじっと動かなかった。もっとも、ぼくが成長するにつれて、ンババの部屋はあちこちへ移動するみたいに思えた。まわりの壁や部屋がしじゅう動いていたからね。ンババの部屋は、リトルベレアでいちばん古いほうの部類に入る部屋じゃない。リトルベレアでいちばん古いのは、聖アンディが建てた迷路街で、リトルベレアの中心にある(迷路街っていうのは、小さな穴がたくさんあいた灰色の四角い天使石を積み上げてつくった小部屋の集まりで、ここの古い部屋にはありとあらゆる秘密がしまいこまれてる)。それに外≠フ部屋――風通しのいい、ほんとの意味では存在しない部屋ともちがう。外の部屋は、毎日変化する軽い透明の壁に囲まれてるんだけど、この壁は森の中のどこかで消えてしまう。リトルベレアはその壁のところでおしまいになって、壁の向こうから世界がはじまるんだ。ンババの部屋は、〈径《パス》〉からそう遠くない朝側《モーニングサイド》にあった。木の壁と、敷物をしいた土の床。床には甲虫がぞろぞろいたし、一度なんか黒い蛇が九日間いすわったこともある。朝には天窓の光が濡れた輝きで部屋を満たし、夕方、その光が槌せてくると、ランプが灯される。ンババの部屋は外からでも見分けがつく。小さな円屋根がついているし、横腹には赤いペンキを塗った通気孔があって、風に揺れているから。
ぼくが生まれたのは、十一月の終わりの午後だった。リトルベレアの人間がほとんどみんな、あたたかく閉ざされた屋内にもどってきて、めったに外に出なくなるころだ。冬の季節にそなえて、煙や食べものがあちこちにたくわえられていた。ぼくのンババの部屋では、母さんとンババと|金棒曳き《ゴシップ》兼名医の〈|高笑い《ラフ・アラウド》〉の三人が、いっしょにすわっていた。三人がクルミを食べ、木苺《きいちご》のソーダを飲んでいるとき、ぼくが誕生しはじめた。そんなふうに聞かされてるよ。
金棒曳きがぼくを〈|しゃべる灯心草《ラッシュ・ザット・スピークス》〉と命名した。湿地に生える灯心草にちなんだ名前だ。ぼくが生まれた日みたいな冬の日には、枯れてがらんどうになった茎を風が吹き抜けて、まるで人間がしゃべってるみたいな音をたてるから。
ぼくの系《コード》は|てのひら系《パーム・コード》、聖ロイと聖ディーンの系だ。てのひら系には、言葉や話すことにちなんだ名前が多い。母さんの名は〈|ひとこと話す《スピーク・ア・ワード》〉だし、ぼくのンババは〈|そう伝えられる《ソー・スポークン》〉。てのひら系というだけあって、もちろん手にちなんだ名前もある。〈|七つの手《セヴン・ハンズ》〉とか〈親指《サム》〉とか。ぼくはいつもてのひら系だったから、ぼくが話してあげられるリトルベレアは、てのひらのリトルベレアで、ぼくの系に似ている。でも、|このは系《リーフ・コード》や|ほね系《ボーン・コード》のことは、だれかべつの人に聞かなきゃいけない。そうすれば、またべつの場所のことを話してくれるよ。
銀のボールと手袋か。ぼくは七歳で、十一月のある日のことだった。覚えてる。はじめて|金棒曳き《ゴシップ》に会いに連れていってもらったのとおなじ日だから。リトルベレアでは、七歳になった年の、生まれたのとおなじ時期に、|金棒曳き《ゴシップ》に会いにいくことになってるんだ。
その日、ンババの部屋では、頭上にある小さな円屋根の通気孔がカチャカチャくぐもった音をたてていた。ぼくは、ンババが屋根の戸口から縄ばしごを降りてくるのを見ていた。鳥に餌をやってもどってきたところだった。ンババといっしょに一羽のスズメが飛びこんできて、天窓にぶつかってバタバタやかましい音をたて、床の敷物に白い糞を落とした。寒い日だったから、ンババはカチャカチャ鳴る房飾りのついた目の粗い厚手のショールにすっぽりくるまって、目だけのぞかせていた。もっとも、足もとは足輪をつけているだけだったけれど。
母さんの話では、ンババは年寄りがひとりで暮らすみたいに、ひとりぼっちで育ったそうだ。たしかに、ぼくが大きくなるにつれて、ンババはほとんどの時間をこの部屋で過ごすようになった。でも、ンババはいつだって、ほんとうにひとりぼっちだったわけじゃない。四方の壁には、てのひら系の|彫り箪笥《カーヴド・チェスト》があって、ンババはその番人だったから。彫り箪笥はまるで――まるで蜂の巣みたいだった。いちばん似ているのは、リトルベレアそのもの。複雑にからみあい、秘密と物語に満ち満ちている。百の抽斗《ひきだし》のひとつひとつには、それぞれ違うしるしがついていて、中身によってそれぞれ違うかたちに刻まれている。抽斗のひとつひとつは、その中にしまわれるものをしまうためだけにあつらえられていて、しまわれたもののことを教えてくれる。それぞれの来歴、それがなにをしたのか、どんな物語を語れるのか。てのひら系の抽斗にしまわれた記念品に囲まれているおかげで、ンババはけっしてひとりぼっちになることはなかった。
ンババのベッドのぶあつい上掛けの下に裸で寝そべって、ぼくは目をこらし、耳をそばだてていた。ンババはひとりごとをいいながら、部屋の中をうろうろしていた。
落ちくぼんだ歯のない口に長い指を押しあて、なにか思い出そうとしているふうだった。やがて、思い出すのをあきらめたらしく、パイプにかかりきりになった。ンババの部屋のパイプは古くてとても美しく、緑色のガラス製で、かたちは玉葱《たまねぎ》のよう、頭上の円屋根から鎖でぶらさがっていた。鮮やかな色を編み込んだ、蛇のような四本の羅宇《らお》がパイプから輪になって延び、パイプのてっぺんには、聖ビーの頭部をかたどった金属の火皿がついている。大きく開いた聖ビーの口に、聖ビーのパンのかけらをつめる仕組みだ。
ンババはマッチを擦り、それを片手に持ったまま、もう片方の手で、聖ビーの体からちぎった青緑色のかけらを聖ビーの口につめた。マッチの火でパンをあぶってから、長い羅宇の一本を手にとり、口にくわえて息を吸いこんだ。パイプの鉢の底から黒い泡がぶくぶく上がってきて水面に顔を出し、ぽんとはじけて煙を吐き出す。金属の口から薔薇《ばら》色の濃い煙のすじが立ち昇り、鎖に巻きつくようにして円屋根へと上がっていった。聖ビーのパンはいいにおいがする。さっぱりして香ばしく、ぴりっとしてあたたかく、中身がたっぷりつまったにおい。聖ビーのパンの味は、においとは違う。
パンは……ありとあらゆる味がする。そこにはどんな味もある。いっぺんに、ぜんぶの味がする。ほかのいろんな食べものの味――干し果実とか、酸模《すかんぽ》とか、榛《はしばみ》とか。それに焦げた枝、蒲公英《たんぽぽ》、飛蝗《ばった》の脚。土、秋の朝、雪。そしてそのとき、聖ビーのパンの味を思い、においを嗅いだぼくは、上掛けにくるまったままベッドから飛び起きると、冷たい床を走り、笑顔で手招きするンババに駆け寄った。ぼくは蓑虫《みのむし》みたいな姿でンババのとなりにすわりこんだ。ンババはぶつぶついいながら、ぼく用の羅宇をひっぱりおろしてくれた。そしてぼくたちふたりは、ぼくとぼくの母さんの母さんとは、いっしょにすわって煙をくゆらせながら話をした。
「わしらがさすらっていたとき」とンババがいい、ぼくの胸の奥から笑いの泡がこみあげてきた。ンババはわしらがさすらっていたとき§b《ばなし》をはじめるつもりだ。ンババは彫り箪笥の中にある品物の数とおなじ数の物語を知っているから、この朝の話がどの物語になっても不思議はなかった。けれど、ンババが語りだしたのはこの物語だった。
「わしらがさすらっていたとき、それは遠い遠いむかしのこと、いま生きている者も、彼らの系も、リトルベレアそのものさえ生まれぬ前、聖アンディが迷子になった。わしらがさすらっていたとき、聖アンディは七たび迷子になったが、そのうちの一度がこのときだった。聖アンディが迷子になったのは、ビッグベレアの宝をおさめた聖ロイの|くるま《ワゴン》を引く役目だったからだ。わしらの火が燃える場所で、人々は腰を下ろして体をあたためた。聖アンディのくるま[#「くるま」に傍点]は、その抽斗を開ける方法をだれも知らなかったにせよ、人々にとって大きな驚きの源泉であった。腰を下ろして体をあたため、なにか口に入れたいのは山々だったろうが、聖アンディはすばらしいくるま[#「くるま」に傍点]を見物にやってきた土地の人々のおかげで、いつも忙しかった。そこでとうとう、聖アンディはこういった。『もし、腰を下ろしてちょっと体をあたためるのを許してくれたら、ひとつふたつ奇跡を起こして楽しませてあげよう』まわりの人々はそれを聞いて、聖アンディをすわらせてやったけれど、食べものや飲み物をさしだそうとはしなかった。聖アンディは、食べものが出てくるのを待つのにうんざりして、みんなを奇跡で上機嫌にしてやることにした。
それが、聖アンディが起こした初めての奇跡だった。聖アンディはくるまの抽斗から、手にはめると笛の音が鳴る手袋と、おなじ音色を奏でるボールとをとりだした。聖アンディは、周囲の人々にそのふたつをよく見せた。人々は興味を引かれたことじゃろうな。が、そのとき、聖アンディはありったけの力で銀のボールを闇の中に放り投げた。ボールが木の枝にぶつかる音がみんなの耳にとどいた。聖アンディは手袋をはめた手をつきだして、じっと立っていた。やがてまもなく、ボールがもどってきて、鳥のようになめらかに、ふたたび聖アンディの手におさまった。みんな、びっくり仰天した。聖アンディは何度も何度もボールを投げ、人々は口笛を吹き喝采を贈った。しかし、毎度毎度、ボールがもどってくるまでに長い時間がかかったので、まもなく口笛も喝采もやんでしまい、とうとう人々はこういった。『この奇跡にはもう飽き飽きだ。なにかべつのを見せてくれ』
聖アンディは、銀のボールと手袋でほかにもいろんな手品ができるはずだと思ったが、ひとつとしてそのやりかたを知らなかった。まわりの人々は、ぶつぶつ文句をいいながら棒でつついてくる。そこで、聖アンディはボールと手袋を横に置いて、こういった。『では、べつの奇跡を見せよう。歯なしの男が生肉を食べる奇跡だ』それから、聖アンディは口をあけて、メロンのように歯がないのを見せた。ちょうど、いまのわしとおなじじゃな。
人々は、おもしろいかもしれないとうなずいたものの、生肉はない、あるのは焼いた肉だけだ、といった。聖アンディはとても空腹だったので、それでもかまわないと答えた。人々は焼いた肉を運んでくると、それを聖アンディの前に置いた。聖アンディは、とつぜんぱっくり口を開くと、きれいにそろった輝くような真っ白い歯を見せた。そして、大きくあごを開いて肉にかぶりつき、驚くべき歯がみんなに見え、音が聞こえるように、もぐもぐむしゃむしゃと噛みくだいた。
腹がいっぱいになると、聖アンディは人々がびっくり仰天している隙に立ち上がり、その場を去った。もっとも、いかに人々が驚きに打たれていたとはいえ、銀のボールと手袋をわがものにするのを忘れるほどではなかったから、この物語のその件《くだ》りがほんとうにあったことなのだと証明することはできん。しかし、あとのほうについては、ほら、これをごらん」
そして、物語の結末にくるとたいていそうするように、ンババは立ち上がって、彫り箪笥に歩み寄った。抽斗をすばやく一瞥すると、指先でしるしに触れて、めざす抽斗を見つけ出し、その抽斗から、口のかたちに刻まれた木箱をとりだした。ンババがいたずらっぽい目をしてその口型の箱からとりだしたのは、聖アンディの、きれいにそろった輝くような真っ白い歯だった。
「にせの歯じゃ」とンババはいった。「だれの口にもぴったり合う」
ンババはそれを口の中に放りこみ、舌の先でぴったりはめると、大きく口を開いてぼくに見せた。ぼくは金切り声をあげて笑った。なにかすごく大きなものを口いっぱいにほおばっているみたいに見える。そして、ンババがつぎに口をあけると――歯だ!
「聖アンディはこんなふうにやってみせたのさ」とンババはいった。「わしがしてるこの歯でね。なによりも古いというのに、新品同様、いまでもちゃんと役に立つ」
これが、ぼくの七番目の年の誕生期のことだった。いまからもう十年近く前になる。
なに?
[#ここから太字]
なんでもないわ。つづけて。
[#ここで太字終わり]
ぼく、なにかへんなこといった?
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つづけて。
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そうだな……七番目の年。七年目ごとに、系のことをよく知ってる金棒曳きを訪ねて、〈システム〉を見てもらい、自分がどんな状態にあるかを教えてもらうんだ。どうして七年目ごとなのかはわからない。七を区切りにして勘定することは、ほかにもたくさんあるけどね。ふたつの七年期を生きてきたぼくの経験からすると、どうやら七年目には、自分が、なんていうか、いちばん自分らしい感じがするみたいだ。ほかの時期にも金棒曳きに相談しにいくことはできる。結び目をほどいてもらいたいときとか、自分のことがわからなくなったときは、いつでも訪ねてかまわない。でも、最初の七年目と、それから七年ごとには、みんな金棒曳きのところへ行く。十四年目、二十一年目、二十八年目……。最初の七番目の年は、薔薇色の年でもある。
でも、薔薇色の年のことを説明するには、〈四つ壺《つぼ》〉と、それをつくる〈ドクター・ブーツのリスト〉のことを話さなきゃならないし、その前にまず、〈連盟《リーグ》〉のこと、それに天使の世界を終わらせた〈嵐〉のことを話さないと……。ひょっとしたら、ぼくの物語にはけっきょく、ほんとうのはじまりなんかないのかもしれない。
[#改ページ]
第二の切子面
ンババがぼくを連れていってくれた|金棒曳き《ゴシップ》は、〈|絵具の赤《ペインテイド・レッド》〉という名の老婆で、ンババの若いころからの友だちだった。ンババの記憶によれば、若いころの〈絵具の赤〉は|みず系《ウォーター・コード》で、〈システム〉と噂の読み方を学ぶ前は〈|風《ウインド》〉という名前だったそうだ。
「わしらの系のことをむかしから知ってたわけじゃない」ぼくに出かける仕度をさせながら、ンババがいった。冷たい空気の中で、ンババの吐く息がかすかに白く見えた。「〈絵具の赤〉がてのひら系のことを学んだのは、ほんの最近だよ」
「ぼくが生まれてからあと?」
「いや、その前からだけどね」とンババ。「でも、ほら、そう長い年月じゃないだろ」ぼくたちは、ふたりとも出かける準備がととのった。「だけど、〈絵具の赤〉はたいそうかしこいとみんないってるし、てのひら系をよく知っている。それに、てのひら系の癖もね」
「癖ってどんな?」
「おまえって子は!」ンババはぼくの両耳をつかんでひっぱった。「わかってるだろ、だれの癖でも」
「〈絵具の赤〉は〈径《パス》〉のそばに住んでる」歩く道々、ンババがいった。「通る人たちの足を感じたいといってね」
聖ロイは――もちろん、大聖ロイじゃなくて、小聖ロイのことだ――歩く足の下に〈径《みち》〉はできるといった。リトルベレアは、そもそもの始まりの場所である古い迷路街の中心から、外に向かって広がっている。大小の部屋がつながりあいながら、外向きに、蜂の巣状に広がっているけれど、かたちは蜂の巣ほど規則的じゃない。丘を越え小川をわたり、階段やせまい場所があり、どの部屋もかたちや大きさがまちまちで、出入口もちがう。丸太の柱を構えた大きな部屋から、鏡だらけでそこらじゅう輝いている小部屋まで、部屋には一千の種類がある。中心近くの古い部屋はいつまでも変わらないし、外のほうの新しい部屋はしじゅう変わっている。
〈径〉はリトルベレアの中心からはじまり、長い螺旋《らせん》を描いて古い迷路街を抜け、中ほどの大きな部屋の集まりを通り、それから外に出て、昼側《アフタヌーンサイド》にある|しめがね系《バックル・コード》の戸口のそばのハコヤナギの森までつづいている。リトルベレアから外に出る道は〈径〉以外にないし、リトルベレア生まれでない人間は、たぶんだれひとり中心までたどりつけないだろう。〈径〉は、〈径〉以外の場所とまるで見分けがつかない。〈径〉というのは、いたるところ扉でつながった無数の部屋を抜けてゆく唯一の経路につけられた名前でしかない。だから、部屋のつながりの中を永遠にさまよいつづけて、なおかつどこに〈径〉があるのか気づかないということだって、じゅうぶんにありうるわけだ。
〈絵具の赤〉の部屋は、リトルベレアの懐深く、中心にほど近い場所にあった。このあたりは、古えの時代にできた石造りの小さな部屋が集まっていて、夏は涼しく冬はあたたかい。金棒曳きたちは、こういう部屋に腰をおちつけ、蜘蛛《くも》の巣のようにつながり結ばれあいながらリトルベレアじゅうに広がる自分たちの系を感じている。
あたりは薄暗かった。ンババの部屋とちがって、〈絵具の赤〉の部屋に天窓はなく、かわりに泡まじりの薄緑のレンズが屋根にはめこんである。ンババはぼくの肩に手をのせて、部屋の外から声をかけた。
「〈絵具の赤〉」
中でだれかの笑う声か、咳きこむ音がして、ンババはぼくを連れて中に入った。
そこは、それまでにぼくが訪れた中でいちばん古い場所だった。壁は、ぼくたちが天使石と呼んでる灰色の石材でできていた。壁のあちこちに、石材を横向きに寝かせて積んである場所があって、天使石のそれぞれにあいている(と、いわれている)楕円形の穴が、壁に四つひと組の小さな窓をつくっていた。その窓越しに、小さな滝が、屋根のガラス板に照らされて光っているのが見えた。
ンババはぼくをすわらせた。ぼくは気圧《けお》されまいと勇気を奮い起こし、神経を張りつめて、つぎに起きることを待ち受けた。奥の部屋から出てきた〈絵具の赤〉は、まずンババを見て低い声で笑い、ブレスレットをカチャカチャ鳴らしながら、両手で歓迎のしぐさをした。〈絵具の赤〉はンババより年上で、大きな眼鏡をかけていた。ンババに向かってうなずいてみせたとき、その眼鏡がきらりと光った。
〈絵具の赤〉はぼくの向かいに腰を下ろすと、はだしの足を引き寄せて、両腕をひざにのせた。ぼくに話しかけはしなかったけれど、眼鏡の奥の目は、ンババの話を聞くあいだもぼくを観察していた。〈絵具の赤〉のしゃべる声は、流れる油のように豊かでゆっくりしていて、抑揚が強く、ぼくには部分的にしか理解できなかった。
ンババと話しながら、〈絵具の赤〉は小さな袋から聖ビーのパンをちぎりとり、薄青い紙葉で巻いて太い葉巻をつくった。ポケットから長いマッチをとりだすと、となりに来てすわるよう、ぼくを手招きした。ンババに背中を押されて、ぼくはゆっくりと歩き出した。〈絵具の赤〉がぼくにマッチをわたし、ぼくは彼女の見守る前で、それをざらざらの壁にすって火をつけ、両手でかこって葉巻に炎を近づけた。
〈絵具の赤〉が頬をすぼめ、音をたてて息を吸いこむと、葉巻から薔薇色の雲がたちのぼった。あけっぴろげで気やすい好奇心に満ちたその表情のおかげで、ぼくはにっこりするのと同時に赤くなってしまった。葉巻を吸ってしまうと、〈絵具の赤〉は口を開いた。
「こんにちは、おまえさんは礼儀正しい子だね。いまのあたしはおまえさんと話をしたい気分だよ。あたしのことをあんまりたくさん打ち明けるとは思わないでおくれ、あたしゃ親切だし、役に立てるけどね。あたしといるときは楽にするんだよ。ここは妙な感じがするだろうけど、すぐにおたがい気楽になれる、それと、友だち同士にもね……」
いや、もちろん、〈絵具の赤〉はこんなことはいわなかった。でも、じっさいに彼女が口にしたこと、彼女のあいさつの言葉の中には、そういう意思表示のすべてが含まれていた。というのも、〈絵具の赤〉は真実の語り手だったし、真実を語ることにかけてはとてもとても熟達していたからだ。だから、自分の考えていることをぼくの知識から隠しておくことはできない。もちろん、当時のぼくの知識などおそまつなものだったから、ンババと話すときには、ふたりともぼくには聞きとれないことをしゃべったけれど。
「おまえさん、真実の語り手じゃないね」と〈絵具の赤〉がいった。
「はい、ちがいます」とぼく。
「ふむ、すぐにそうなるさ」〈絵具の赤〉はぼくの肩に手を置くと、眉を上げてみせた。「おまえのことは〈|灯心草《ラッシュ》〉と呼ばせてもらうよ、おまえのンババにならって。それでいいね。〈|しゃべる灯心草《ラッシュ・ザット・スピークス》〉という名前は長すぎて、あたしの口に入らないんだ」
ぼくは思わず笑ってしまった。長すぎて口に入らないなんて! 〈絵具の赤〉はぼくとふたりきりにしてほしいという意味のことをンババにいい、ンババがいなくなると、パチパチ音をたてていた葉巻をもみ消して、奥の小さな部屋についてくるようぼくを手招きした。
奥の部屋に入ると、〈絵具の赤〉は、しわだらけのてのひらとぴったりおなじ大きさの、小さくて細長い箱を箪笥からとりだした。
「ンババから、おまえはいい子だと聞いているよ、〈灯心草〉」といって、〈絵具の赤〉は箱をあけた。中にはそれぞれ色のちがう、ぴったり蓋をした四つのまるい壺が入っていた。黒い壺、銀色の壺、灰色の壺、夕暮れどきの冬空みたいに真っ青な壺。
「物語が好きだそうだね」
「はい」
「あたしは、ものすごくたくさん物語を知っている」
〈絵具の赤〉の表情はおだやかで真剣だったが、きらきら光る眼鏡の奥の目が、いたずらっぽく輝いていた。「みんなほんとうにあったことだよ」
ぼくたちふたりは、そのせりふに口をそろえて笑った。〈絵具の赤〉の笑い声は軽やかで低かったけれど、重くてどっしりしたその響きに、ぼくはぞくっとした。そのとき、〈絵具の赤〉が聖なるものだということがわかった。ひょっとしたら、聖人かもしれない。
[#ここから太字]
どうして聖なるものだなんていうの?
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聖なるもの。前に〈まばたき〉から聞いた話だと、古えの時代には、思わず口をつぐんでしまうようなもののことを、聖なるものと呼んだそうだ。でもぼくたちは、思わず笑ってしまうようなもののことをそう呼ぶんだ。それだけのこと。
〈絵具の赤〉は、小さな黒い壺を選びだし、蓋をとると、中に入っていた薔薇色のものを親指でこそげとって、その親指をぼくの唇になすりつけた。ぼくは唇についたものを舌でなめた。味はしなかった。〈絵具の赤〉は箪笥のべつの場所から、ひとつひとつ黒い箱におさめた小さなレンズつきの筒をひとそろいとりだし、天井に大きなレンズがはまっている大きいほうの部屋に持っていって、筒を組み立て、筒の先が壁の白いところを向くようにセットした。〈絵具の赤〉が天井から下がっているひもを引くと、天井の緑のレンズの瞳孔が閉じてゆき、やがてレンズの光は小さなまばゆい点になって、彼女が箱のうしろに置いておいた鏡に反射した。反射した光は筒の中を通って、壁に薄緑の明るい円をつくった。
〈絵具の赤〉は慎重な手つきで細長い箱をあけると、しばらく思案顔になり、やがて、たくさん入っている薄くて四角いガラス片の一枚をとりだした。彼女がガラス片を光にかざすと、なにか模様が描いてあるのが見えた。そして、ガラスを正しい場所にさしこんだとたん、それとおなじ模様が壁に投射された。何十倍も大きくなった模様は、まるで壁にじかに描いてあるみたいにくっきりしている。
「それが〈ファイリング・システム〉?」ぼくはささやき声でたずねた。
「そのとおり」
それから何年かたって、〈まばたき〉が〈ファイリング・システム〉の正しい名前を教えてくれた。ぼくは、自分でいえるようになるまで何度も何度もそれをくりかえしてもらい、意味のない戯れ歌を覚えるときみたいに、自分でも何度となく口ずさんだ。夜、眠りにつくまでのあいだに、それを口の中でくりかえし唱えていたこともある。|ヴァッサー‐ドジエ多変数社会環境人格記録用圧縮ファイリング・システム《コンデンスト・ファイリング・システム・フォー・ヴァッサー・ドジエ・マルチパラメトリック・パラソサエタル・パーソナリティ・インベントリーズ》第九版。〈まばたき〉は、それがどういう意味なのか説明してくれたけれど、それはもう忘れてしまったし、一日じゅう前にすわってそれをながめている金棒曳きたちでさえ、ただ〈ファイリング・システム〉と呼んでいる。
系《コード》の由来はこのファイリング・システムなんだ。といっても、〈システム〉をつくった天使たちは、系のことなんかなんにも知らなかったけどね。〈システム〉は、金棒曳きがそこに系を見つける何百年も前からあった。
「古《いにし》えの時代」と、あるとき〈まばたき〉が話してくれた。「ファイリング・システムは、知識をもたらすものではなく、ただ事実をそのまま記録しておくだけのものであるはずじゃった。だが、これを考えだした天使たちは、それ以上のものをつくった。だから、〈システム〉が保存していたはずの事実はもう失われてしまったが、かわりに系についての新しい知識が発見されたというわけじゃ。〈システム〉の創造者たちが思ってもみなかったようなものがな。世の中には、得てしてそういうことがある」
ぼくは、壁に映された、ぼくの系を示すかたちを見つめた。この偉大な系には、ふたりの偉大な聖人がいる。「ぼくの系には聖人がふたりいる」とぼくはいった。
「おまえはとても利口だね」と〈絵具の赤〉がいった。「もっと教えてくれることがあるんじゃないかい」
やさしい口調だったけれど、ぼくは急に恥ずかしくなった。ろくに知りもしないことなのに、出すぎた口をきいてしまった。〈絵具の赤〉は、ぼくが口を開くのを礼儀正しくじっと待っていたけれど、やがてやさしい笑い声をもらして〈システム〉のほうを向くと、長い間を置いてから、半分はぼくに向かって、半分はひとりごとのように、てのひら系とそのありようについて、てのひら系がどんなふうに人生を歩むかについて話しはじめ、長椅子のとなりにすわるぼくの手に自分の手を重ねた。
部屋の中には、壁の明るい模様のほか見るものはなく、〈絵具の赤〉のおだやかな声のほか聞くものはなかった。そのうち、唇が妙にしびれ、力が入らなくなってきたけれど、そのことはろくに意識しなかった。意識したのは、〈絵具の赤〉の質問と、それに対するぼくの答えが、どういうわけか実体を具《そな》えはじめたこと。〈絵具の赤〉がなにか口にすると、それはただ話されるだけでなく、存在しはじめる。〈絵具の赤〉がぼくに母のことをたずねると、母がそこにいた。いや、母といっしょにぼくがそこにいた。屋根の上にある蜂の巣のそばで、母はぼくに、巣に耳を押し当てて、冬眠している蜂たちのたえまない低いつぶやきを聞いてごらんと話している。〈絵具の赤〉がぼくに夢のことをたずねると、ぼくはまた最初から夢を見はじめるようだった。また空を飛び、落ちてゆく恐怖とめまいに悲鳴をあげる。〈絵具の赤〉がそばにいて話していることや、自分が質問に答えていることを忘れてしまったわけじゃない。でも――もちろんそれは、あの薔薇色のもののせいだったけれど、それさえも意識になかった――〈絵具の赤〉のそばを離れてはいないこと、彼女の手がいまもぼくの手に重なっていることはわかっていたのに、にもかかわらずぼくは、自分の人生を行きつもどりつ旅していた。
いままでの人生の長さとおなじだけの時間がかかるような気がした。けれどしだいに、ぼくの人生の、はっきりと見えていた出来事が色褪せ、ぼんやりして、となりにいる〈絵具の赤〉の顔にくらべると現実味のないものになってきた。ぼくは、はっとわれに返り、大きなあくびをしながら、一晩ぐっすり眠ったあとみたいな感じで、まだ壁に模様が輝いている小さな部屋へともどってきた。
「〈しゃべる灯心草〉」〈絵具の赤〉はやさしくいった。「おまえはまちがいなく|てのひら[#「てのひら」に傍点]だよ、それも二重にてのひら[#「てのひら」に傍点]だね」
ぼくはなにもいわなかった。というのも、成長するにつれて学んだのだけれど、父の〈|七つの手《セヴン・ハンズ》〉がてのひら系で、母もおなじ系の出身だというのは、人前では口にしないほうがいい内緒事で、ひょっとすると恥ずかしいことかもしれない。両親の双方がおなじ系の出だというのは、そうそうあることじゃない。両親がきょうだいだというのとおなじくらいめずらしいことなんだ。おなじ系のもの同士が子どもをつくるべきではないと金棒曳きは警告する。そんなことをすると結び目ができると金棒曳きはいう。
「〈七つの手〉はいつ発つんだね?」
「知りません」
〈絵具の赤〉が〈七つの手〉の秘密を知っていたことにはべつに驚かなかった。〈絵具の赤〉はありとあらゆることを知っているような気がした。〈七つの手〉の旅立ちがぼくの最大の悲しみだということまで知られていても、驚きはしなかっただろう。
「もうすぐだとしかいってくれなくて」
「そしておまえは、行かせたくないんだね」
今度もまた、ぼくは答えなかった。答える言葉の中にあらわれるかもしれないものが怖かった。顔を合わせる機会はあまりないけれど、〈七つの手〉はぼくのいちばんの友だちだ。そして、ゲームや物語の最中に、〈七つの手〉がとつぜん黙りこみ、ため息をついて、世界がどんなに大きいかを話しだすと、ぼくの胸はいつも、恐怖にわしづかみにされる。恐怖は、世界が――リトルベレアの外の世界が――大きいということにあった。世界は広大で未知だ。そしてぼくは、外の世界で〈七つの手〉を失いたくなかった。
「〈七つの手〉はどうして行きたがるの?」とぼくはたずねた。
「たぶん、結び目をほどくためだろうね」
〈絵具の赤〉は、関節をきこきこ鳴らして立ち上がり、細長い箱からもう一枚、薄い四角のガラス片をとりだした。それを最初の一枚と重ねて箱の鏡の前にさしこむと、筒をちょっと手前に引いて、絵をくっきりさせた。するととたんに、すべてが変わった。きれいな線で描かれた模様が変化し、色がついて、黒っぽい、くすんだ絵になった。
〈絵具の赤〉は、夢見るような思慮深い視線をその絵に向けた。
「〈しゃべる灯心草〉」と〈絵具の赤〉はいった。「人生はさまざまなかたちをとるんだよ。階段のような人生もあれば、円のような人生もある。ここ≠ナはじまり、そこ≠ナ終わる人生もある。ここ≠ナはじまり、おなじ場所で終わる人生もある。いろんなものに満ちた人生もあれば、なにもない人生もある」
「ぼくの人生はどんなかたち?」
「知らないね」と〈絵具の赤〉はあっさり答えた。「でも、〈七つの手〉みたいな男の人生とはちがう。それだけはたしかだよ。教えておくれ。おとなになって、真実の語り手になったら、おまえはなにをするつもりだい?」
ぼくは顔を伏せた。正直に答えるのは生意気な気がした。ガラスをつくりたいとか、蜂を育てたいとかと答えるなら、あるいは噂の守り手になりたいと答えたとしても、べつに不都合はなかっただろうけれど。
「ものを見つけたい」とようやく答えた。「失われたぼくたちのものすべてを見つけ出し、とりもどしたいんです」
「ふむ」と〈絵具の赤〉はいった。「なるほど。しかし、失われたものの中には、見つけ出さないほうがいいものもあるかもしれないよ」
でもぼくには、〈絵具の赤〉がこういうのが聞こえた。おまえの望みを捨てるんじゃないよ、〈灯心草〉。それはよい望みだからね。
「〈七つの手〉にはそのことを話したのかい?」
「ええ」
「なんといわれた?」
「失われたものは――永遠に失われたものは――最後にはすべて〈空の都市〉にたどりつく、と」
それを聞いて〈絵具の赤〉は笑った。それとも、壁のごちゃごちゃしたかたちになにかを見てとって笑ったのかもしれない。
「てのひら系だね、まさしく」〈絵具の赤〉はそういってから、長いあいだ、考えにふけっていた。「こうしなさい、〈しゃべる灯心草〉」と、やがてまた口を開き、「〈七つの手〉に、出発するとき、いっしょに連れていってほしいと頼んでみるんだよ」
ぼくの心臓がびくんと跳ねた。「連れてってくれるかな?」
「いいや。そうは思わないね。でも、頼んでみないことには、どうなるかわからない。ああ。それがいちばんいい」それから壁の模様を指さして、「その中にある径《みち》。名前は〈小さな結び目〉で、径はそんなに長くない……」
〈絵具の赤〉はたっぷり見つめつづけていたが、やがて、眠りからふと目をさましたように立ち上がると、二枚の四角いガラス片をつまみあげ、きれいに拭いた。それから、小さな鏡をとってそちらも磨き、ガラスといっしょに細長い箱にしまった。そのとき、箱の片側に、ぼくの系を意味するてのひらのしるしがついているのに気づいた。ということは、この箱はそっくりぜんぶ、ぼくの系なんだ。そのときまでぼくは、ありうべきそのかたちのひとつのごく一部をべつにすると、自分の系をぜんぜん見たことがなかった。
「それって……」とぼくは箱を指さした。「それってどんな……」
「どんな仕組みなのかを知るには、あたしとおなじくらい年をとらないといけないね、おまえが聞きたいのがそういうことなら」〈絵具の赤〉は急ぐようすもなく箱をしまい、それからぼくのほうに向きなおった。「でも、考えてごらん。みんなガラスでできてるんだよ、いまさっき見た二枚みたいに、薄くて透きとおっている」
「じゃあ、三枚一度に筒にはめることもできるんだ」とぼくはいった。「光が三枚ぜんぶを通ったとき、どんなふうに変わるか見られるんだね。どんな……」
〈絵具の赤〉はにこにこしながら手をたたいた。
「七枚でも十枚でも、おまえの知恵がいっぺんに読めるだけたくさん」〈絵具の赤〉はすぐ前にひざまずき、ぼくの顔を間近に見つめた。「すべてに名前があるんだよ、〈灯心草〉。それに、おまえはてのひらだから、一枚一枚が、おまえについての新しい知識を持っている。一枚加わるごとに全体が変化し、違いが生まれる。〈ファイリング・システム〉はたいそう賢いんだよ、〈灯心草〉。あたしよりもずっと賢い」
「名前はなんていうの?」教えてもらえないと知りつつ、ぼくはたずねた。
「そうだね。それを学ぶだけの時間はあるだろう、もしおまえが学びたいなら。いいかい、〈灯心草〉。ちょくちょくあたしに会いにきたいかね? ほかにも何人か、ちょくちょくやってくる子どもたちがいるんだよ。あたしは物語を語り、いっしょに話をして、いろんなものを見せてやってる。興味はあるかね?」
興味はあるかって! ぼくがてのひら系だということ、そしてこの部屋には、ぼくの理解がおよびもつかない知識が無尽蔵にあるということは、〈絵具の赤〉だってわかってるはずなのに。
「はい」やっと声を出した。このささやかな真実の語りが、気持ちを伝えてくれることを祈っていた。
眼鏡をかけた〈絵具の赤〉の顔が、笑みでくしゃくしゃになった。
「よろしい。〈七つの手〉に話をして、それから――いいかい、よくお聞き――〈七つの手〉が頼むこと、あるいは命じることをきちんとやって、それがすんだら、あたしに会いにおいで。そう長くはかからないだろうよ」〈絵具の赤〉はぼくの髪に手をすべらせた。「行きなさい、〈しゃべる灯心草〉。おまえ自身をほどきなさい。そのあとここにもどっておいで」
ぼくの驚きと混乱と興奮は、〈絵具の赤〉の目にも明らかで、部屋の中いっぱいに広がった彼女の笑い声がいちどきに千の話をしゃべり、千年の歳月を祝福した。
部屋を出ると、ンババはもういなくなっていた。心配することはない。〈絵具の赤〉の部屋は〈径〉のそばにある。リトルベレアには、まだ行ったことのない場所がたくさんあるけれど、迷子になる場所はどこにもない。ぼくの足の下に〈径〉はできるのだから。
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第三の切子面
リトルベレアには、ある特定の系に属する人たちが見つかりやすい場所がある。小川のそばや朝側の柳の木のそばには、みず系の人々がいる。彼らは簡単に見つかる。もっとも、みず系は単純な系で、彼らはいつも、予想どおりの行動をとる。てのひら系は予測不可能な系だけれど、もちろんぼくはどこをさがせばいいか知っていたから、土の床に円天井がついた古い部屋のひとつで、〈七つの手〉を見つけた。まだぼくたちが会議をしていたころ、会議室として昼側のほうに建てられた部屋だった。午後の太陽に面した大きなガラス天井ごしに光がふりそそぎ、あたたかい日だまりにすわって話している小人数のにぎやかな一団から、煙が太陽めがけて雷雲のように立ち昇っていた。
みんなてのひら系だった。ほかの系の人たちが仲間に入るのを許されていないわけではないけれど、よその系の人たちは、てのひら系の際限ないおしゃべりにすぐうんざりしてしまう。このおしゃべりは、いろんな約束事や蛇の手や、ほかの系の人たちにはたいしておもしろいとも思えない複雑な冗談でいっぱいなんだ。てのひら系の人たちはひたすらしゃべりつづける。ほら、ぼくがこうしてしゃべりつづけてるみたいにね。
みんなの前で話を切り出すのは恥ずかしかったから、〈七つの手〉に、ふたりだけで話がしたいんだけどと頼みこんだ。〈七つの手〉はぼくを見てにっこりしたけれど、ぼくの口調がすごく真剣だったせいか、しぶしぶ立ち上がって、ガラス天井を支えている大きな梁《はり》の向こう側までいっしょに来てくれた。
〈七つの手〉はまだ笑みを浮かべていた。てのひら系の人間がいちばん苦手なのは、陰謀とか秘密だ。それと、世の中についてじゃなくて自分について質問されること。
だからぼくは、単刀直入にたずねた。
「ベレアを出発するとき……」のどに大きなかたまりがつかえるみたいな感じだった。ぼくは、知っているかぎりのささやかな真実の語りを自分の言葉にした。「いっしょに連れていってくれない?」
「そうだな、大将」
〈七つの手〉はぼくのことを大将と呼ぶ。冗談なのはわかっていたけど、そう呼ばれるのは好きだった。〈七つの手〉はスカートのすそをひっぱりあげると、柱に背中をもたれて腰を下ろした。すわるとき、ひざの上に長い腕を置き、片手の親指をもう片方の手で握るくせがある。ぼくも〈七つの手〉を真似して、おなじようにすわった。
〈七つの手〉はぼくの顔を見て、思慮深げにうなずき、ぼくがもう一度さっきの質問をくりかえすのを待っているふうだった。たぶん、そうすれば、なぜぼくがそんなことをいうのか、もうすこしはっきりすると思っていたのだろう。でもぼくはそれ以上なにもいわなかった。〈絵具の赤〉は、たとえ〈七つの手〉がぼくを連れていってくれなくても、ぼくが頼むこと自体が重要だと考えているふうだった。だからぼくは、ただ返事を待っていた。
「いっておくが」と、ようやく〈七つの手〉はいった。「出発までは、たぶん長い時間がかかる。ほんとうに出発するまでには、な。その前に――そう、やっておかなければならん準備がたくさんある。だからたぶん、おれが出発する準備ができたときには、おまえの準備もできているだろう」
〈七つの手〉の言葉には、言葉にした以外のなにかがあった。ぼくも真実の語り手のはしくれだったから、それを感じとることはできたけれど、それがなんなのかをつきとめるところまではいかなかった。〈七つの手〉はぼくの腿を軽くたたいた。
「もし本気で行くつもりなら、おまえも準備をしなければならん。いいか、まず、ふたりでいっしょにちょっとした遠出をすることからはじめる」
「遠出?」
「そのとおり。ささやかなハイキングだ。足慣らし、というところかな。〈道路〉を見たことはあるか?」
「ううん」
「見たいか?」
ぼくはなにもいわず、ちょっと肩をすくめてみせた。必要とあれば喜んでやってみせるよ、という意味だった。
「ンババにたずねてみて、許しが出たら――きっと許してくれるはずだ――雨が降ったりしないかぎり、あした出かけるとしよう。朝早く迎えにくる」
〈絵具の赤〉は、〈七つの手〉が求めるとおりのことをしなければならないといった。彼がぼくを連れていってくれるとは思わないと〈絵具の赤〉はいったけれど、〈七つの手〉は連れていかないとはいわなかった。だから、ぼくとしては喜んでしかるべきだったし、足慣らしに誘ってくれたことも喜んでしかるべきだった。それでも、ぼくの心には悩みと不安があった。だれかと結び目をつくるというのは、そういうものなんだ。それがどんなものでも――たとえいちばん単純な感情でも――だれかとのあいだに絆《きずな》ができると、かならずもつれが生じるような気がした。
ともかく、そんないきさつで、翌日、ぼくは〈あの川〉と呼ばれている川にかかる橋のまんなかに立っていた。橋は、赤く錆《さ》びた鉄骨を組んだだけのものだった。歩いて渡れる道のついた橋がぼくの生まれる前に落ちてしまって以来、川にかかっている橋はそれだけだった。前の晩には霜が降りていて、〈あの川〉を吹きわたる冷たい風が肌を刺した。
ぼくたちふたりは、鉄骨から鉄骨へと慎重に足を運び、鉄骨のあいだから見える、怒れる黒い川を見下ろしながら――いや、見下ろさないように気をつけながら――橋を渡っていった。古い金属材が、強くなりはじめた風にきしみ、キイキイと音をたてる。ぼくは〈七つの手〉のあとについて、彼がつかんだ場所をつかみながら進んだ。
ぼくたちの手や服には汚い赤錆がべったりこびりつき、ぼくの手は鉄の冷たさで芯から冷え切ってしまった。
やがて、橋の鉄骨に大きなすきまができている場所にさしかかった。〈七つの手〉はぼくの前で立ち止まり、周囲を見まわした。この橋は用をなさなくなるのももうすぐだ。ここでは鉄骨の一本が落ちて、ぽっかり穴になっている。橋全体がおなじ運命をたどるのもそう遠い先のことじゃないだろう。風にあおられた長い髪が〈七つの手〉の顔にかぶさり、結び目のついた長い袖が波打つ。彼が上下に視線を移し、なにごとか考えているあいだにも、橋はたえまなく揺れ、きしみ、眼下では黒い水が逆巻いていた。
〈七つの手〉はこちらをふりかえってにっこり笑うと、両手をこすりあわせ、ふうっと息を吹きかけてから、体勢をととのえ、ジャンプした。
ぼくは叫び声をあげたような気がする。でも、〈七つの手〉は両腕をまっすぐのばして、穴の向こう側の鉄骨にぶらさがっていた。片手をもっと楽な位置に動かして、冷たい金属をがっちりつかむと、ぐいと体を引き上げてから、ぼくのほうを向いた。胸がはげしく上下し、服は錆で真っ赤に汚れていた。
「さあ来い、〈|灯心草《ラッシュ》〉、こっちだ」
〈七つの手〉はあえぐ息の下からそういった。でもぼくは、ただそこにつっ立って、〈七つの手〉を見ているだけだった。彼は鉄骨をまたぐと、その下で両足を組み合わせた。
「すわるんだ」と〈七つの手〉にいわれて、ぼくはそのとおりにした。背が低いので、足は下の足がかりまで届かない。〈七つの手〉は長い両腕をこちらにのばした。ごつい手が、身を乗り出せと手招きする。彼の手首をつかんだ。指の下に骨と腱を感じるほど強く。それから、彼の合図でぐいと身を乗り出した。視線は鉄骨に固定し、川を見ないようにして空中をつっきる。肩になにかががつんとあたるのを感じ、それから夢中でよじのぼった。片足が鉄骨にかかったと思ったが、その瞬間、すべってしまった。必死にもがいてなんとかバランスをとりもどし、顔を〈七つの手〉の胸におしつけて、だいじょうぶだと確信するまでぎゅっとしがみついていた。そのときでさえ、ぼくはまだ〈七つの手〉の手首をつかんだままだった。笑い声が聞こえた。誇らしげな大きな顔が目の前にあり、ぼくもあえぎあえぎ笑い出していた。それからようやく、つかんでいた手を放し、自分ひとりの力で鉄骨の上にすわった。
「足慣らしだ」と〈七つの手〉はいった。「わかったか? どこかに行こうと思ったら、かならずそこにたどりつけると信じていなきゃならん。どういうやりかたをするにしても」
ぼくたちは橋を渡りきり、支柱を伝って下に降りて、しばらくは口もきかずにすわりこんだまま、いましがた踏破してきた橋をふりかえっていた。そのときとつぜん、強く思った。〈七つの手〉がほんとうに出発するとき、どんなことがあってもいっしょに行って、彼の冒険のすべてを共有したい。
「ほんとに連れてってくれる、ぼくがちゃんとおとなになったら?」とたずねた。「いつになるの?」
「ああ、大将、そうだな」彼の言葉に、またあの影が聞こえた。後悔に似た響き。でも、それがぼくに対する気持ちじゃないことはもうわかっていた。〈七つの手〉は立ち上がった。「まだ日のあるうちに〈道路〉まで行かないと、見物できなくなるぞ」
それからしばらくのあいだ、落葉でいっぱいの森を抜け、霜が降りた地面を踏んで、斜面を登りつづけた。やがて木々がまばらになり、灰色に苔《こけ》むした岩肌を登って、岩がちの高台に出た。重たげな灰色の空が頭上に低くのしかかっている。登るにつれて、空に近づいていくような気がした。丘のいただきにたどりつくと、遠くに横たわる灰色の尖った山々の上で、青空の細い割れ目が雲のヘリを銀色に照らしているのが見えた。〈七つの手〉は行く手の常緑樹の連なりを指さした。
「あの向こうだ。〈道路〉が見える」
風にあたる頬には氷の粒がつき、頭上の頑丈な枝が悲鳴をあげる。ぼくたちは常緑樹の木立をつっきって、谷を見下ろす岩棚に出た。谷の向かい側の丘の上では、空一面ピンクとブルーに染まり、雲が急速に流れてゆく。雲が通り過ぎたあとの頭上には、高い空、無限に高い青空が残された――きっと、上ではものすごい風が吹いてるんだろう。まもなく、夕暮れ間近の陽光がぼくたちの立っている場所にも届き、目の前の谷間を照らしだした。
そこに、〈道路〉があった。谷の底を通っているけれど、それはほんのわずかの距離だった。〈道路〉は傲岸不遜《ごうがんふそん》に、ありえないほどまっすぐに、谷のなだらかな起伏をつっきっていた。そんなにばかでかいものを見るのは生まれてはじめてだった。びっくりすることばかりで、いきなりそのぜんぶが目に飛び込んできたときのことを、どんなふうに話せばわかってもらえるかな。
いちばんの驚きは、〈道路〉がひとつじゃなくてふたつだということ。それぞれ、二十人の人間が横に並んでらくらく歩けるくらいの幅がある、二本の〈道路〉。並んで走っているところは、まるで二匹の灰色リスが競走してるみたいだった。色もリスとおなじ灰色。二本の〈道路〉は見わたすかぎりずっと、並んで走っている。道幅も、二本のあいだの距離もかわらず、競いあうようにずっと――いったいどこまで?
谷の何マイルも先のほうで、〈道路〉は螺旋を描き、見え隠れしつつカーブして、橋や斜面《ランプ》を登り下りしている。ぼくたちのいる場所からだと、まるで巨大なクローバーの葉っぱみたいに見えた。それとも、巨人の子どもがおもしろがって、大地をゆるがす腕立て側転をやらかしたあとみたいに見えた。
目の届くいちばん遠くで、〈道路〉は高い山にまともにぶつかっていた。当然、そこでおしまいになるはずだ。が、それが最後のびっくりだった――おしまいになっていない。二本の〈道路〉はどちらも、きれいなアーチ型の高い洞窟、もしくは穴を山腹にうがち、山の中へとつづいていた。だからきっと、〈道路〉は山の反対側に出てどこまでもどこまでもつづき、登り下り曲がりくねりをくりかえしながら、でこぼこの大地に、天使のつくりだした直線をのばしつづけているにちがいない。
「どこにのびてるの?」とぼくはたずねた。
「どこにでも、さ」〈七つの手〉はあっさりそう答えると、地面にしゃがみこんだ。「〈こっちの海岸〉から〈あっちの海岸〉へ、そして〈あっちの海岸〉にたどりついたらターンして、べつの経路を通ってまた〈こっちの海岸〉にもどってきて、それからまた引き返す。千回も横断をくりかえし、そのたびに倍になって、千種類の蜘蛛の巣みたいに放射状に広がってゆく」
「そのぜんぶが、ここみたいな〈道路〉なの?」
「ここくらいのもあるし、もっと大きいのもある」
「数ももっと増えるの?」
「いや。いつも二本だ。一本はこのままこっち向きにどこまでも進みつづけ、もう一本はあのままあっち向きにどこまでも進みつづける。横断のあいだにもっと広くなったり、いまそこに見えてるみたいにカーブしたり、でっかい花みたいな模様を描いたりもする。〈都市〉に入ると、背中の上に橋、腹の下にトンネルがくっついて、ごちゃごちゃになる。そういう話だ。いつかこの目で見るつもりだが」
「いったい……なんのためのもの?」
「人を殺すためのものだ」〈七つの手〉はさっきとおなじようにあっさり答えた。「聖人たちはそういっている。むかしはあの上を車が走っていた。夜には、ここからでも車の姿が見えたはずだ。一台残らず光をともしていたからな。そのことはおれも知っている。どの車も光をつけていた、前には白い光、うしろには赤い光。だから、こちら向きの道はぜんぶ白、あちら向きの道はぜんぶ赤の光が見えたはずだ」
「〈道路〉はどうやって人を殺したの?」
「いや、〈道路〉が殺したわけじゃない。車が殺したんだ。人々は車の中にいた。車には、両手両足を縮めてなんとかしてすわれるぐらいの広さしかなくて、壊れやすかった。車全体がぺしゃんこになって、中の人間はクルミ割り器にはさまれたみたいにつぶれてしまう。
車のスピードは速かった。コウモリよりも速かったが、コウモリほど慎重じゃなかったから、しじゅう衝突していた。聖クレイは、その話を大聖ロイから聞いたといっていた――そして聖ロイは、末期の〈道路〉を自分の目で見たことがあった。小道を歩いていく蟻の群れのように、小魚の大群のように、数百万の車が〈道路〉を走っていた。聖ロイの話では、〈道路〉はたった一年で、リトルベレアにいる人間すべての二倍の数の人間を殺したそうだ」
その誇らしげな灰色の帯に向かって、ぼくは歩き出した。そばに寄ってみると、〈道路〉の表面の石はひび割れ、すきまから雑草が生えていた。〈道路〉をふたつに分割している溝には、背の高くなった若木が茂っている。二分割された〈道路〉の片側に立ち、〈あっちの海岸〉に向かってまっすぐ出発するとしよう。どのくらい距離があるかは天使のみぞ知る。真実の語り手が数百年のあいだ忘れていたさまざまなものの前を通り過ぎ、ようやく〈あっちの海岸〉にたどりついたら、〈道路〉の反対側にわたって、今度は故郷をめざして引き返す。そのあいだ、ただの一度も〈道路〉を離れることはない。それなのに、〈道路〉は人を殺す。
いまではもう、空全体が晴れ上がり、青い高みまで大気を満たしていた風はおさまりかけていた。〈七つの手〉は立ち上がり、急な斜面を〈道路〉に向かって下りはじめた。ぼくもそのあとにつづいた。
「じゃあどうして車に乗るのをやめなかったの?」とぼくはたずねた。「ただ歩くだけにすればよかったのに。それとも、ただ――ただ見るだけにすれば」
「そうしたさ、けっきょくはな。なにもかもがだめになってしまったときに」〈七つの手〉は足がかりをさがしながら答えた。「でも、むかしの人間たちは、たいして気にもしなかった。心配してはいなかったんだ。彼らは天使だったからな。それに、仲間は何百万もいた。二、三千人死んだところでべつにかまわなかったのさ」
ぼくたちは〈道路〉の端にたどりつき、手前の〈道路〉のまんなかに足を踏みだして、数マイル向こうの巨大な結び目と、そのはるか遠くにある〈あっちの海岸〉のほうに顔を向けた。
「わしらは〈道路〉を通ってやってきたんだ」〈七つの手〉が、〈道路〉のなめらかな表面を足どり軽く歩きながらいった。「聖ビーと聖アンディは聖人の時代に〈道路〉を通ってやってきて、〈道路〉はここに残したまま、ビッグベレアを再建しにいった。でも、そのことなら、おまえはもうぜんぶ知っているな」
いくらかは知っていた。でも、ここがその場所だとは、これがぼくたちのあとにしてきた〈道路〉だとは知らなかった。
「教えてよ」とぼくはいった。
「そうだな」と〈七つの手〉はいった。「焚火《たきび》をおこすのに手を貸してくれ」
ぼくたちは棒切れやたきつけを集めてきて、〈道路〉のまんなかに山をつくった。〈七つの手〉が袖からマッチをとりだして、それに火をつけた。小さなまぶしい炎が燃え上がると、ぼくたちはそのそばに腰を下ろし、両手を袖にくるみこみ、フードをおろした。そうして〈七つの手〉は語りはじめた。
「わしらは千人近くいた。わしらは、そう、それまで百年も百五十年も放浪の旅をつづけていたが、コープ・グレートベレアのことも真実の語り手のこともけっして忘れはしなかった――〈嵐〉が過ぎ去ったあとの長い年月にも。わしらは離れ離れになることもなく、団結を崩すこともなく、訪ねてきた者たちを仲間に受け入れて、数を増やしつづけた。そしてある日、わしらはここにやってきた。春のことだった。ひと晩眠るために足を止め、この〈道路〉に腰を下ろしてテントを張り、荷をおろした。やがて聖ビーと聖アンディが古いワゴンを開け、火が灯された。なあ、千人の人間がここで火を囲んでいるところを想像してごらん。
聖ビーはその夜遅くまで、聖アンディと話し合った。いっしょにいる子どもたちのこと、老人たちのことをふたりは話した。ビッグベレアのころから、はるかむかしの時代から知っているもののことについて何度も何度も話し合った。もしワゴンがなくなって、それといっしょに去りにし日々の多くの記憶が失われたら、いったいどうなるだろうか。すでに、多くが忘れ去られていた。たぶん、そのときふたりは、自分たちがたどってきた〈道路〉に目をやったんだろう、いまわしらがそうしているように。聖ビーの頭にその考えが浮かんだのはこのときのことだった、と聖アンディは伝えている。どんな考えだったかはおまえにもわかるな」
「リトルベレアだね」
「聖ビーはいった。『いまは春。この地方はとてもすてきだし、土壌は豊かで景色もすばらしい』そして彼女は、流浪の旅はもうじゅうぶんじゃないかと考えた。天使たちの死と廃墟からもうじゅうぶんに遠ざかったんじゃないかと。天使たちも、このあたりの土地をひどく傷つけたことはなかった。もしかしたら、いまこそ放浪をやめるときなのでは? そうすれば、聖アンディが貴重なワゴンといっしょに永遠に迷子になってしまう心配もなくなる。〈嵐〉が去って以来、天使のつくった世界からの脱出行がはじまって以来、ずいぶん長い年月がたっていた。もしかしたら、すべての罪はすでに許されているのかもしれない、もしかしたらもうずっと前に。わたしたちは多くのことを学んだ、と聖ビーは思った。もしかしたら、そろそろ学ぶのをやめて、ささやかな生活をはじめるべきときなのかもしれない。
しかし、聖アンディには、どうすればいいかわからなかった。聖アンディは、移動しつづける方法なら知っていた。彼はいった。『ぼくたちは天使から逃げている。〈連盟〉はぼくたちの友だちじゃない。ぼくたちのことをぜんぜん愛してない人たちがたくさんいる』すると聖ビーはこういった。『天使たちは死に、この世から消えた。それ以外の人たちには、対策をたてられるわ』聖ビーは焚火の灰の上にひとつ円を描き、それが今日のリトルベレアになった。その円には、語り手以外だれも知らない秘密の扉や〈径《みち》〉があった。そして、聖ビーはいった。『天使石を使ってすべてをつくりましょう。ビッグベレアとおなじように、窓はひとつもなく、すべての部屋がつながりあった街を』
さて、聖ビーは聖アンディを説き伏せた。『彼女はとても説得のうまい女性だった』と聖アンディはよくいったものだ。そうしてふたりは、焚火のまわりに|金棒曳き《ゴシップ》たちを呼び集め、夜明けまでのあいだに、ここに――ほとんど止まることなく走りつづける〈道路〉をべつにして、天使たちも一切手をふれなかったこの土地に――できるかぎりうまくコープを再建することを決断した。
「かくしてその日、真実の語り手たちは〈道路〉をあとにし、それからのち、二度と〈道路〉を通ることはなかった」
いまでは太陽は暮れかかり、風は吹きはじめたときとおなじようにぱったりとやんでいた。前より寒くなっている。ぼくはフードつきの外套をぎゅっと引き寄せた。
「でも、父さんは〈道路〉を通るんでしょ」とぼくはいった。「いつか」
「ああ、大将」と〈七つの手〉は低い声でいった。「いつかな」
そして、彼がそういったとき――この冒険をともにしたせいか、それとも〈七つの手〉が聞かせてくれた物語のせいか、あるいはいまはじめて彼自身がそのことをほんとうにさとったせいか、なぜなのかはわからないけれど――〈七つの手〉がリトルベレアをあとにして〈道路〉の先をめざすことはないとぼくにはわかった。それこそが、ぼくたちふたりのあいだにできていた結び目だった――彼が旅に出るといったとき、ぼくがそれを信じ、そう決断した〈七つの手〉に怒りと尊敬とを感じたことが。心の奥底では、自分がけっして旅に出ることはないと知っていた〈七つの手〉は、彼にできないことができると信じこんでいるぼくを疎んじていたのだ。旅立ちの計画や、そこで目にするだろうもののことを話してくれているときでさえ、彼はいつも真実を語っていた。でも、いまにいたるまで、ぼくはそれを聞きとることができないでいた。やっと聞きとれる、ささやきのようなその音とともに、ぼくの中で結び目がほどけ、さびしさだけが残された。
「いつかね」とぼくはいった。フードの下の〈七つの手〉の顔はむっつりとして、やはりさびしそうだった。ぼくがいまようやくさとったことを、そのひとことで伝えたからだった。
ぼくたちのまわり、前にもうしろにもはてしなくのびてゆく〈道路〉は、急速に薄れていく光の中でかすかに輝いているように見えた。まるで、内部にたくわえていた古い光を消費しているみたいだった。谷の上に広がる空は巨大だった。空にほんとうに街があるんだろうかとぼくは思った。もしあるなら、そこの人たちにぼくらの姿は見えるんだろうか――ふたりのちっぽけな人間と焚火、かつて聖ビーが止まった場所からまっすぐ立ち昇ってゆく煙のすじ。その白い煙は、いまでは、ぼくたちふたりが火をつけて吸っている聖ビーのパンの煙とまじりあっている。かつて数百万の人々が争って走り過ぎていった、巨大な〈道路〉のまんなかにいるふたりの男。十一月の夕暮れだった。いまはふたり、かつては数百万。自分の街にいる天使たちは、それを思って泣いたんだろうか?
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いいえ。
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泣かなかった。天使は泣かないんだ。
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天使たちも泣くわ、でもそれは自分たちのため。それに、そこにいたあなたたちを見てはいなかったの。
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第四の切子面
またべつの日、ぼくは〈径《みち》〉を通ってひとりで〈絵具の赤〉に会いにいった。眠っているンババを残して、林檎《りんご》を食べながら、まだ薄暗い道を急ぎ足で歩いていった。天使みたいに空中に浮かんで見下ろしたら、リトルベレアの中を走りまわるぼくが(眠っている人々をまたいで通る近道一カ所はべつにして)長くゆるやかな螺旋を描くのが見えたはずだ。
小川の音が聞こえるあたりまで来るころには、人々が起き出して着替えをはじめていた。六人の人間が煙をくゆらせ、笑いながら話をしている部屋を通過した。はしごに登った男たちが天窓をあけ、凛とした朝の空気を嗅ぎ、またはしごを降りてくる。ぼくは、外に向かう大勢の人たちとは逆方向に進んでいた。〈七つの手〉に連れられて〈道路〉を見にいったあの日よりもあたたかい日だったから、みんな、昼間は日のあたる外の部屋で過ごして、夜になると、冬に必要なものを持ってもどってくるんだ。
〈輪っか〉の道具とか日用品とか、夏のあいだは外の部屋に置いてある大きなパイプやなんか。今年最後の木の実拾いに森へ遠征する人たちもいる。このは系の人たちなら、屋外の部屋で落ち合って、おしゃべりしながら機織りをする。しめがね系の人たちなら、ベレアのいちばん上まで登って冬にそなえて目張り仕事をする。ささやき系の人たちなら自分たちの系について議論するし、みず系の人たちならほかの系について、てのひら系の人たちなら世界について議論する。それに、ぼくらがさすらっていた時代、その前のビッグベレアの時代、さらにその前の古代、それぞれの時代の聖人から聞いて覚えていること、又聞きしたことを話し合うから、どんな知識も忘れられてしまうことはない。
〈径〉にはいつも、見物したり、その前で立ち止まったりするものが千とある。探険する蛇の手があり、話を聞く相手がいる。〈絵具の赤〉の部屋の近くの蛇の手で、|だれのひざ《フーズ・ニー》をして遊んでいる友だちに出会ったから、ぼくはしばらく待って、ゲームの順番に入れてもらった……。
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ちょっと待って。前に聞いたとき、蛇の手は話の中に出てくるものだった。なのにいまは場所なのね。それと、だれのひざのことも教えて。話が止まってるついでに。
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わかった。〈径〉のことは話したよね。〈径〉は蛇みたいなかたちをしてる。リトルベレア全体を包みこむようにとぐろを巻いてて、頭はまんなか、しっぽの先はしめがね系の戸口のあたりにある。でも、リトルベレアをよく知ってる人にしか、〈径〉のある場所はわからない。ほかの人にとっては、〈径〉は四方八方に逸れていくみたいに見えるんだ。だから、〈径〉を離れると、そこにも〈径〉そっくりに見えるものがあるんだけど、それはつながった部屋がつくりだす小さな迷路で、また〈径〉にもどる以外に出口はない――そういうのが蛇の手だよ。蛇みたいなかたちをした〈径〉から、ひと組の小さな指みたいに枝分かれしたもの。蛇には手がないし、それとおなじように〈径〉もたった一本で、枝道なんかない。だから蛇の手って呼ぶんだよ。でも、蛇の手にはほかの意味もある。ぼくの物語も――願わくばの話だけど――一本の〈径〉だから、この物語にも蛇の手があるはずだ。蛇の手が、物語の中でいちばんおもしろい部分だっていう場合もあるんだよ、もしそれが長い物語ならね。
だれのひざだったね。ぼくはむかしからだれのひざが不得手だったけど、ベレアの子どもたちみんなとおなじように、いつもボールと玉ばさみを持ち歩いていた。ぼくのボールはさくらんぼの種を糸でぐるぐる巻きにしたやつだった。玉ばさみは、前腕くらいの長さの灯心草をふたつに裂いたもの。根元だけはくっついてるけど、先のほうでボールをつかむことができる。遊び方はいろいろ。ボール一個でもできるし、何個も使うこともできる。人数はふたり以上、何人でも――人の輪の大きさが玉ばさみの届く範囲におさまっているかぎりはね。どんなやりかたをするにしても、ボールはひざの上にのせてバランスをとる。ほら、こんなふうにひざを上げてね。そしてほかの人たちは、玉ばさみでボールをひざからとって、べつの人のひざにのせる。遊び方のちがいは、だれのひざにボールをのせるか、だれが動くかを呼びかける、その掛け声のちがいなんだ。
このゲームは、すごい速さでどんどんボールを動かさなきゃいけない――そこがおもしろいんだからね。ボールを落とすか、自分の番じゃないときに動くか、そういうミスが三度重なったら、このまま仲間に加わってていいか、まわりのみんなにお伺いをたてる。いいよといわれることもあるし、だめだといわれることも……。
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どうすれば勝ち?
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勝ちって?
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どうやってほかの人を負かすの?
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負かす? 勝負じゃないよ、遊びなんだ。ボールを動かしつづけ、それを邪魔しないようにしつづけるだけさ。すごい集中力が必要だから、どんなにおかしくても笑いすぎちゃいけない。しめがね系はこのゲームがとってもうまいんだ。みんなすごくいっしょうけんめいでまじめな顔をして、玉ばさみをチャッチャッチャッとひらめかせる。おまけにしめがね系の人たちのひざは、ほかの系の人のひざより大きくて真っ平らみたいだ。
とにかく、だれのひざの輪にひとり空きができたから、ぼくも仲間にはいって腰を下ろした。輪の向かいには女の子がいて、一度だけ顔を上げてこっちを見たんだけど、その目ははっとするくらい青かった。青さが目立ったのは、豊かな髪の毛が真っ黒で、眉毛も真っ黒だったからだよ。眉はきれいなカーブを描き、鼻の上で左右がくっつきそうだった。その子はちらっとぼくを見て、だれのひざをやる相手を確認すると、自分のボールをセットした。
「だれのひざ?」とみんながいって、ゲームがはじまった。がっかりや万歳の小さな叫び声。「ミス! これで二回」
向かいの女の子の態度には、うわのそらみたいな妙な熱心さがあった。ゲームに完全に没入しているけど、それが夢の中のゲームだとでもいうような感じ。ぎゅっと結んでいた口がちょっとだけ開いた。小さな歯は真っ白だった。
「だれのひざ?」とぼくたちはいった。
「〈大蜜蜂《ビッグ・ビー》〉がささやき系を動かす」とリーダーがいった。
さっきまで笑っていた、このは系の痩せた男の子が、輪の顔をさっと見まわすと、ぼくの向かいの女の子のボールを動かした。ささやき系。そう、ぼくでも彼女を選んだと思う。放心したような顔や、ほんとはそこにいないみたいな態度のせいだけじゃない。自分から主張するまでもなくこの輪の中心になっている――すくなくともぼくの目にはそう映った――せいだけじゃない。なにかべつのものがあった。なにかのささやき。ぼくが彼女を動かす番が来たとき、彼女はとつぜん、ありえないほど青い瞳を上げてぼくを見た。ボールが落ちた。
「ミス!」
彼女は、もうぼくのほうは見ずにボールをもどした。今度はうまくやろうと思ったけれど、次にぼくの系が呼ばれたとき、力みすぎてよろけてしまった。ぼくはすぐに輪からはずれた。
こういう話もみんな、つまりこのゲームのことはみんな、ぼくの物語の中の蛇の手だ。でも、〈径〉の一部みたいに見える蛇の手があるように、〈径〉の中にも蛇の手みたいに見える部分があるからね。ぼくが立ち上がったとき、その子も立ち上がった。うしろでは、輪の外にいた子たちが、ぼくらふたりの場所を引き継ごうと名乗りをあげていた。〈径〉に出ると、彼女がぼくの前に立ち、〈絵具の赤〉の部屋のほうに向かって歩いていた。ぼくはすこし離れてそのうしろを歩き出した。曲がり角で女の子は立ち止まり、ぼくが追いつくのを待った。
「どうしてついてくるの?」
釣り上がった眉のせいで、彼女の顔はいつも怒っているみたいに見えるけれど、その表情とおなじ気持ちでいることはごくたまにしかない――といっても、このときのぼくには、そんなことは知る由もなかった。
「ちがうよ。ぼくは〈絵具の赤〉って名前の金棒曳きのところに行くんだ」
「わたしもよ」彼女はたいして関心もなさそうにぼくを見た。「ちょっと子どもすぎない?」
これにはむっとした。そういう自分だって、ぼくより年上じゃないくせに。
「〈絵具の赤〉はそう思ってないよ」
彼女は、透きとおるように白い腕を組んだ。細くて黒い産毛が生えていた。
「じゃ、いらっしゃい」
ぼくには保護者が必要だから、気は進まないけどその役を引き受けてあげるとでもいいたげな口ぶりだった。彼女の名前は、たずねると教えてくれたけど、〈|一日一度《ワンス・ア・デイ》〉といった。彼女のほうは、ぼくの名前をきいたりしなかった。
〈絵具の赤〉はまだ眠っていた。ぼくらはふたつある部屋の大きなほうに入り、集まっていた子どもたちのあいだに腰を下ろした。先客たちは、ぼくの顔を見ると名前をたずねた。起きるまで静かに待っていようとみんな努力はしたけれど、そう簡単にはいかず、まもなく小さなほうの部屋で〈絵具の赤〉が起き出す物音がした。〈絵具の赤〉は眼鏡をしていない眠そうな顔をのぞかせ、また奥にひっこんだ。
やっと彼女が出てくるころには、ぼくたちはもう、静かにする努力を放棄していた。
〈絵具の赤〉はわいわいがやがやのただなかに腰をすえ、悠揚迫らざる態度で青い紙にパンのかけらを巻いた。だれかがそのたばこに火をつけてあげると、〈絵具の赤〉は深々と煙を吸いこみ、すっかり気分がよくなった顔であたりを見まわした。ぼくたちに笑みを向け、たばこに火をつけてくれた女の子の頬をやさしくたたいた。こうして、〈絵具の赤〉のところで過ごすはじめての朝がはじまった。
「わしらがさすらっていたとき」と〈絵具の赤〉は口を開き、前にンババから聞いたことのある聖ゲアリと蠅《はえ》の物語を語りはじめた。〈絵具の赤〉が林檎の籠《かご》を持ってきてくれたので、ぼくたちはそれを食べながら話を聞いた。〈絵具の赤〉の語りはみず[#「みず」に傍点]系の流儀で、見せかけのはじまりやちょっとした皮肉に満ちていたから、筋を追うのを忘れて考えはじめるとすぐについていけなくなってしまう。それに、物語はぼくが知っているのとそっくりおなじではなかった。物語の最後で、聖ゲアリが蠅を放してやったときも、子どもたちはだれひとり笑わなかった。〈絵具の赤〉の語りでは、それはまるで謎々か、解かなきゃいけないなにかになってしまったみたいだった。でも、それと同時に、答えは物語の中にあるようにも感じた。この物語そのものが、謎ではなく、たずねたことも知らない質問に対する答えだという気がした。
このは系の男の子の〈大蜜蜂〉は、口いっぱいに林檎を頬張ったまま、どうしてこんな物語を語ったのかと〈絵具の赤〉にたずねた。このは系は謎が嫌いなのだ。
「聖人が語った物語だからさ」と〈絵具の赤〉はいった。「さて、聖人はどうして聖人なのかな」
〈絵具の赤〉はぼくらの顔を見まわし、笑みを浮かべて答えを待った。
「それは」とだれかが答えた。「聖人たちの人生の物語をぼくたちが覚えているからです」
「あたしたちはどうして聖人の人生の物語を覚えているのかな」
「それは――けっして忘れられないようなやりかたで、聖人たちが物語を語ったからです」
「どんなやりかただね?」
「真実の語りを語ったのよ」〈|雨の日《レイン・デイ》〉という名の、みず系の少女がいった。
「では、真実の語りとはどんなものかな」と〈絵具の赤〉がその子にたずねた。
その子は、みず系らしい流儀で答えはじめた。
「むかし、コープ・グレートベレアがありました。けれども、それよりも前にはじまりがありました」そして、古えの時代にはほとんどの人間が、一生を過ごす家を持たなかったこと、唯一の例外がコープ・グレートベレアだったことを語った。コープ・グレートベレアの千の部屋で、人々は、いまのリトルベレアの人々のように、ささやかな人生を生きた。「でも、彼らは天使でもありました」とその子はいった。「彼らのコープは高く、彼らはエレベーターに乗り、電話で話をしました……」
「そう」と〈絵具の赤〉はいった。「電話。その時代、天使たちが昇降機に乗り、距離を越えて話し、連帯を求めれば求めるほど、孤独がつのってゆくようだった。世界がせまくなればなるほど、おたがいのあいだの距離が広がるようだった。コープ・グレートベレアの人々がいかにしてこの運命を逃れたか、あたしは知らないよ。だが、そこで育った子どもたちは、コープ・グレートベレアを出ても、そこにいたときほどしあわせに暮らせる場所をどこにも見つけられず、自分たちの子どもを連れてまたコープ・グレートベレアにもどってくることになった。こうして、何世代も何世代も、そういう暮らしがつづいた。
「さて」と〈絵具の赤〉は金棒曳き特有のしぐさで一本の指をつきだし、「さてその時代には、すべての人がすべての人と電話で話をした。コープのすべての部屋には電話があり、すべての人が電話を持ち、電話をかけたりかけられたりしていた。ぴんと張った糸の片端をはじくと、その振動が反対の端まで伝わってゆくのとおなじように、電話は声だけを線《コード》伝いに遠くまで運ぶ。こうしてコープの人々がたがいの距離を縮めるにつれてわかってきたのは、この機械《エンジン》を使ってだれかと話すのは、面と向かって話すのとはちがうということだった。電話でなら、面と向かっていえないことがいえる。思ってもみなかったことをいってしまう。嘘をつくことも、針小棒大にいうこともできるし、誤解されることもある。なぜなら、人間にではなく、機械に向かって話しているからだ。電話を正しく使う方法を学ばなければ、コープは立ちゆかないと彼らは思った。他の百万の場所のように、ただ人間を収容するだけの場所になってしまうだろう。だから、彼らは学んだ」
〈絵具の赤〉がこうして話しているあいだ、ぼくたちは黙って聞いていたわけではなかった。各人がこの物語のいろんな断片を知っていて、その話をつけくわえようとしたし、それがだれかに反駁《はんばく》されることもあった。黙っていたのは、ワンス・ア・デイひとりだけ。けれどだれも、彼女がなにかいうとは思っていなかった。レイン・デイは、当時の金棒曳きたちがどんなふうだったかを語った。そのころの金棒曳きは、すべての人間、すべての事件を知っている老婆で、どんなことにも助言を与えたけれど、いまほど注意深く相手の話に耳を傾けることはなかった。べつのだれかが、最初のころのコープ・グレートベレアは、すべての扉に鍵がかかっていて、いくつかの部屋からなる箱はどれもそっくりおなじ大きさとかたちをしていたと話した。けれど、聖ロイがみんなを連れ出すころには、鍵のかかった扉はひとつもなくなり、コープの中も変化して、いまのリトルベレアみたいな、いろんなかたちの部屋の集まりになっていた。〈絵具の赤〉は子どもたちそれぞれの話に耳を傾け、あるときはうなずき、あるときは小首をかしげたり手を振ったりしながら説明をくわえてぼくたちの話を補足し、いくら時間がかかっても気にしないようだった。
「彼らが学んだのは」と〈絵具の赤〉は話をつづけた。「電話でしゃべるとき、自分が心に思っていることを聞き手がかならずわかってくれるような話し方、話し手の側からいえば、自分が心に思っていることがかならずそのままあらわれてしまうような話し方をすることだった。彼らは、自分たちが話す言葉を、いってみればガラスのように透明にして、言葉を通して真実の顔を見せるすべを学んだ。
彼らは、みずからを真実の語り手と呼んだ。その時代、おなじような考えを抱く人々は、それぞれ集まって、ひとつの教会をつくった。そこで彼らも、〈真実の語り手〉教会となった。
真実の語り手たちいわく、わたしたちは、口にするとおりのことを心に思い、心に思うとおりのことを口にします。それがモットーだった。彼らはまた、他の教会とおなじく、たくさんのことに反対したが、それがなんだったかを覚えている者はもういない。
コープ・グレートベレアは、子どもを育て、話し方を学びながら、長いあいだ生き延びたが、やがてもちろん、あの日がやってきた。まず光が消え、ついには電話も止まった。そこで、大聖ロイに導かれて〈道路〉へと旅立ち、わしらはさすらった。それが聖人の時代だ。わしらがさすらっているあいだ、聖人たちはコープではじまった語りを受け継いで磨き上げ、迷路街が建設されてゆくあいだ、物語に託して彼らの人生を語り、いまのわしらはそれを思い出して語り伝える。
さて、ここでひとついっておくことがある。真実の語りが生まれる前、人々が電話でしゃべりあっていたころ、そのせいで話が行き違って、だれかが傷ついたり、だれかと喧嘩したりすると、当時の金棒曳きはよくこんなふうにいった。『きっと電話線《コード》に結び目ができてたんだよ』系《コード》に結び目とは! 大笑いだね」
そういって〈絵具の赤〉は言葉どおりに澄んだ大きな笑い声をあげ、ぼくらもいっしょに笑った。
ワンス・ア・デイは笑っていなかった。彼女はじっとぼくを見ていた。興味のある視線ではなく、ただ見ていた。
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第五の切子面
この当時の冬、〈絵具の赤〉の部屋にいるとき、金棒曳きになることこそ、この世でいちばんすばらしく、いちばん変わった生き方じゃないかと思うことがあった。ベレアの中心近くにある、彼女の古《いにし》えの部屋は、ぼくらのあらゆる叡知《えいち》の源だ。そこにすわって、〈ファイリング・システム〉をながめたり、聖人のことを考えたりしながら、〈絵具の赤〉は叡知を生み出してゆく。いろんなものごとがひとつに集まり、聖人もしくは〈システム〉が新しいものを明らかにする。そこにあるとは思ってもみなかったものなのに、ひとたび生まれ出ると、それは〈径〉とおなじように、螺旋を描きながらいくつもの系を伝い、系によって変化しながら広がってゆく。
ぼくは大きくなるにつれて、〈絵具の赤〉が語る聖人たちの物語にますます強く惹かれるようになった。ある日、ほかのみんなが帰ったあとも、もっと話を聞きたくてひとりで残っていたとき、〈絵具の赤〉がいった。
「いいかい、〈|灯心草《ラッシュ》〉、聖人になることよりもしあわせになることを望まない人間なんてひとりもいないんだよ」
ぼくはうなずいたが、どういう意味なのかはわかっていなかった。聖人になる人間はだれでもしあわせになるはずだということのような気がした。だれにも話したことはなかったけれど、聖人になるのが夢で、そのことを考えるだけでしあわせだった。
けれど他人の目には、ぼくはしあわせそうには見えなかったかもしれない。恥ずかしがり屋の、どうということのない子ども。知識を愛しすぎる、てのひら系の子ども。心に秘めた願いのせいか、愛想がなくて、おとなしい子どもだった。当時のことについて、自分でも妙だと思うような記憶ばかりが残っているのも、たぶんその願いのせいだろう。このは系の人間は、遠出したことや自分がやりとげたこと、裸ですごした夏や雪迷路をつくった冬を覚えている。しめがね系は技術を、いと系は謎々を、みず系は人間のことを覚えている。ほかのみんなは、具体的なものにまつわる記憶を持っているのに、ぼくの記憶はちがっていた。言葉にできないものの記憶。それを覚えているのは、いいあらわす言葉がないせいで忘れることさえできなかったというだけのこと。〈絵具の赤〉の話を思い出してみると、いまはわかるよ、ぼくは聖人なんかになりたくない――それよりしあわせになりたい。なにがいいたいか、これじゃぜんぜんわからないよね?
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すこしはわかるような気がする。それに、あなたのいいたいことがよくわかる人を知ってるわ。
[#ここで太字終わり]
その人きっと、てのひら系だね。ただ、ここには系なんてないけど……。
[#ここから太字]
いいえ、ある。ある意味ではね。彼はてのひら系だと思う。
[#ここで太字終わり]
泣いてるの? どうして?
[#ここから太字]
いいえ。つづけて。あなたが学んだのは、聖人についての物語だけ?
[#ここで太字終わり]
そんなことはない。ほかにもいろいろあったよ。〈絵具の赤〉は、古えの物語をたくさん語ってくれた。金棒曳きみたいな記憶力がないかぎり、とてもぜんぶは覚えてられないような、長くて途方もない物語を。ぼくが覚えているいちばん長い物語は、〈おかね〉という題なんだけど、その話は何日もつづいたし、ずいぶん長い年月にわたる物語で、いろんな面がある。ぜんぶほんとうだとはとても信じられなかったけど、真実の語り手が語った話だし、証拠だってあった――〈おかね〉にまつわる途方もない出来事や、それが持っていた力にくらべたら、ずいぶん冴えない証拠だったけどね。ただの長方形の紙切れで、皮みたいにやわらかくてよれよれで、小さな数字がそこらじゅうにいっぱいついてて、たぶん葉っぱだと思うけど、そんなような模様があって、その中に顔があった。たしかにその紙切れは魔法っぽく見えたけど、命とひきかえにしてまで手に入れたいと思うようなものじゃなかった。ずいぶんたくさんの人がそれのために命を落としたんだといって〈絵具の赤〉は譲らなかったけどね。
でもたいがい、〈絵具の赤〉の話の中身は、話そのものほど重要じゃなかった。〈絵具の赤〉はしょっちゅうなんでもないような話をしながら、あとでふりかえってはじめてわかるような、言葉にしにくい技を使って、ぼくらをすこしずつ真実の語り手にしていった。〈絵具の赤〉の部屋に通っていたころ、ぼくたちはみんな若くて正直だった。子どもはそういうものだからね。真実を語っていないときでさえ正直なんだ。でも、ぼくたちが〈絵具の赤〉の部屋を卒業するとき――一年後だったり二年後だったり五年後だったり、〈絵具の赤〉が各人に必要だと考える期間が過ぎたあと――ぼくらはそれぞれ真実の語り手になっていた。そのときは説明できないけれどいつもあとになるとわかる、そういう古えのやりかたで、ぼくらは〈口にするとおりのことを心に思い、心で思うとおりのことを口にする〉ようになったんだ。
聖オリーブの黒髪の子ども、ささやき系の秘密の守り手であるワンス・ア・デイさえ、みずから望んでとはいわないまでも、最後には真実の語りを学んだ。それ以降、彼女はぼくに嘘をつくことができなくなった、ほんとうの嘘はね。もしワンス・ア・デイに嘘がつけたら――つまり、真実の語り手にならなかったらってことだけど――そうしたら、いまみたいにぼくの人生が彼女の人生とぴったり重なって、彼女の物語がぼくの物語になることもなかっただろうね。
〈おかね〉の話が終わった日、〈径〉を歩いていたぼくの横にワンス・ア・デイが並んで、ぼくの腕に腕をからめてきた。あんまりびっくりしたので、ぼくは口もきけなかった。彼女はいつもそうしているみたいな態度だったけど、じつのところ、あの最初の日以来、ろくろく話しかけてきたこともなかったんだ。
「〈絵具の赤〉はかしこいと思う?」とワンス・ア・デイがたずねた。
もちろんぼくは、とてもかしこいと思う、と答えた。たぶん、この世でいちばんかしこい人間じゃないかな、と。
「〈絵具の赤〉はいろんなことを知ってる」とワンス・ア・デイはいった。「でも、なにもかも知ってるわけじゃないわ」
「なにを知らないっていうんだい?」
「秘密があるの」
「教えて」
ワンス・ア・デイは横目でちらりとぼくを見て、かすかにほほえんだが、それ以上なにもいわなかった。そして、〈径〉の曲がり角に来たとき、カーテンで仕切られた部屋にぼくをひっぱりこんだ。部屋は暗くて、なんだかわからないものがいっぱい置いてあった。だれかが静かな寝息をたてて眠っている。
「〈絵具の赤〉が〈おかね〉のことをなにもかも知ってると思う?」
ぼくは答えなかった。なぜだか、動悸《どうき》が速くなっていた。ワンス・ア・デイは、ぼくの顔を見つめたまま、ポケットからなにかとりだした。闇の中でも輝いているように見えるそれを、ワンス・ア・デイはぼくの前にかざした。
「これも〈おかね〉よ。〈絵具の赤〉はこの〈おかね〉のこと、なんにもいわなかったけど」
それは、銀でできた小さなまるい板だった。表面には人間の顔がある。描くのではなく、刻みつけてあったから、きらきら光る表面からその顔がいまにもとびだしてきそうに見えた。部屋のかすかな明かりを浴びて、その目はぼくを検分しているみたいだった。ワンス・ア・デイはそれを手の中でひっくりかえし、裏側を見せた――翼を開いた鷲《わし》の模様。それからぼくの手をとって、てのひらに円盤をのせた。円盤は彼女の体温であたたかくなっていた。
「わたしが〈おかね〉をあげたら、あなたはわたしのいうとおりにしなくちゃいけないのよ」ワンス・ア・デイはぼくの手を握らせた。「さあ、受けとったわね」
むかしの人は他人に〈おかね〉を与えて命令に従わせていたという話を〈絵具の赤〉から聞いたことがあった。この大地とおなじくらい古い罪の共犯になったような気がしたが、それでも手の中の〈おかね〉を返したくはなかった。
「なにを……」と口を開いたけれど、のどがからからで、「すればいいの」という言葉はかろうじて声になった。
ワンス・ア・デイは、おもしろい冗談を聞いたか、手品を見たときのような笑い声をあげ、質問には答えないで走り去った。彼女がくれた〈おかね〉の顔を親指の腹でたしかめてみた。顔立ちも、結い上げた髪のかたちもはっきりわかった。
翌日、ワンス・ア・デイは〈絵具の赤〉の部屋に来なかった。おなじ系のおとなたちといるところを見かけたけれど、用事の途中だったらしく、ぼくに気づいたとしてもそんなそぶりは見せなかった。そしてある日、みんなから遅れて〈絵具の赤〉の部屋にこそっと入ってきたときも、ワンス・ア・デイはぼくにひとことも話しかけなかった。まるで、ふたりのあいだにはなんにもなかったみたいだった。たぶん、そのとおり、なんにもなかったんだろう。ぼくはポケットの中の〈おかね〉を指でこすり、彼女のことしか考えられずにいた。〈絵具の赤〉が使った古えの言葉――なんていったっけ? そう、ぼくは|買れた《ボット》≠だ。
冬になると、人々は混雑したあたたかい迷路街にもどってくる。それと反対に、だんだんあたたかくなってくるにつれて、外へ出ていく人が増えはじめる。年寄りは晩春まで中にこもっているけれど、子どもたちはまだ雪も溶けないうちから飛び出していき、クロッカスと風邪をおみやげに持って帰ってくる。ぼくは森の中で過ごしていた。〈|七つの手《セヴン・ハンズ》〉といっしょに探険したり、母親の〈|ひとこと話す《スピーク・ア・ワード》〉と木の実を拾ったり。でも、たいがいはひとりきりだった。そして、ある肌寒い日の夕方、凍った滝の陰に用心深く隠されたものを――ワンス・ア・デイの心の鍵をあけてくれるかもしれないものを見つけた。
ようやくさがしあてたワンス・ア・デイは、赤い服を着て、おなじ系のべつの女の子と、〈輪っか〉をやっていた。人前では頼めないから、近くにすわってゲームをながめながら、ワンス・ア・デイがひとりになるのを待った。〈輪っか〉のゲームは、やっている人間が属している系によっては何日もかかることがある。ささやき系は、この遊びで未来を占うのだけれど、ぼくにはそのやりかたがどうしてもわからなかった。ワンス・ア・デイがさらに複雑なルールをつけくわえるせいで、もうひとりの女の子はかんかんになり、とうとうどこかへ行ってしまった。ぼくとワンス・ア・デイはふたりきりになった。
ワンス・ア・デイはほっぺたをふくらませて、つないだ輪っかを数字のついた盤の上に投げ捨て、それからまた拾い集めた。
「ここ、暑いわね」
「外は気持ちいいよ」
「そう?」半分うわの空ででたらめに輪を投げながらワンス・ア・デイはいった。
「きみが気に入りそうなものがあるんだ。森に」
「なに?」
「それは秘密。連れてってあげてもいいけど、だれにもいっちゃだめだよ」
そう、ささやき系の人間はみんな秘密が大好きで、秘密を蒐集《しゅうしゅう》してるから、いくらしつこくきかれても答えないでいると、ワンス・ア・デイはとうとう立ち上がり、連れていってと自分からいいだした。
森は、深緑の芽を吹きはじめていた。小川は泉の水で勢いをまし、地面はやわらかく、草が顔を出しかけている。刷毛ではいたような雲が冷たい空に流れていたけれど、午後が過ぎるにつれて陽射しはあたたかくなり、肩かけにくるまったぼくたちふたりは、古い枯葉と濡れた根っこを踏みしめて、森の中を歩いていった。濡れた黒い枝からガラスみたいな若葉が顔を出し、枝を押し分けて進むぼくたちの上に朝の雨のしずくを降らせた。
「ここだよ」めざす場所にたどりつくと、ぼくはそうささやいた。
「なに?」
「登って。手を貸すから」
ワンス・ア・デイは、不器用かつ優雅な身のこなしで、大きな倒木の山を登っていった。春は、倒木にまで若枝を芽吹かせていた。思いきり足を踏んばって登っていくせいで、ワンス・ア・デイの太腿が張り、脇腹がへこんだ。なめらかな白い脚は、朽ちた樹皮のかけらで黒く汚れ、一カ所、小さな赤いひっかき傷ができていた。山のいちばん上にたどりつくと、ぼくたちは肩を寄せあって、大きな木の股の細い隙間から向こうをのぞいた。ちょうどそこからは、からまる根っこに守られた洞窟がまっすぐ見下ろせた。その洞窟に、狐の一家がいた。母親と子ぎつねたちの姿がやっと見分けられるくらいで、いま立っているこの場所以外のどこからも死角になっている。そして、ぼくたちの目の前で、明るい色のしっぽをした雄が、小さな動物の死骸を口にくわえてもどってきた。
ぼくたちは、母ぎつねの腹にむしゃぶりついてうごめく子どもたちを、息をひそめて見つめつづけた。でたらめによちよちと這い出してきては、また鼻先を母親のほうにすり寄せていく。ぼくはワンス・ア・デイにぴったりくっつき、彼女のほうはもっとよく見ようと片腕をぼくの首にまわして背中に寄りかかってくるものだから、ぼくらは頬と頬とをくっつけあうかっこうになった。うっとりしたように黙りこんでいるその態度で、ワンス・ア・デイがぼくの秘密に心を奪われたのがわかった。片脚がしびれてきたけれど、彼女に動いてほしくなかった。
「何匹いるの?」
「三匹」
「ぜんぷいっぺんに産んだの?」
「双子みたいにね」
「双子って?」
「女の人が一度にふたりの赤ちゃんを産むことだよ」
「はじめて聞いたわ」
「ンババが教えてくれたんだ。そういうことがあるって。たまにね」
とうとうワンス・ア・デイはぼくから身を離し、倒木の山を下りはじめた。先に地面に降りて、ぼくが降りるのを見守っている。ぼくが最後の丸太から飛びおりると、ワンス・ア・デイは軽く頭を振って目にかぶさった髪の毛を払い、こちらに向かって歩きながら、ぼくを目で招き寄せた。ふたりが出会うと、ワンス・ア・デイは両手でぼくの顔をはさみ、笑みを浮かべて、唇にキスをした。ぼくがあんまり激しくキスを返したので、彼女はびっくりしたんじゃないかと思う。ようやく体を離すと、両腕でぼくの肩をおさえ、まだ笑みを浮かべたまま、片手の甲で口もとをぬぐった。
「今度はわたしが秘密を見せてあげる」
「なに?」
「来て」ぼくの手をとり、緑に色づく森をひきかえして、リトルベレアの二十三の塔が木々の上からのぞいている場所までやってきた。
ワンス・ア・デイは急ぎ足で、古い迷路街の中心へと向かう〈径〉を歩いていく。
「どこなの?」
並んで小走りに歩きながらたずねたけれど、ワンス・ア・デイは前を指さしただけでなにもいわず、さっとふりかえって笑顔をひらめかせた。まもなく、まわりの建物がすべて天使石の壁になり、明かりはまばらに、部屋の扉は小さくなってきた。このあたりもやっぱりあたたかい。リトルベレアをあたためている水槽や石の真上を歩いているからだ。ある角で、ワンス・ア・デイは立ち止まり、ちょっと迷うようなそぶりを見せた。それから、古代のカーテンを押し分けて、中に入った。そこは、石壁がむきだしの小さな部屋で、薄暗くあたたかだった。片隅にひとつだけ、小さな天窓があった。午後の光がそこを通って、ざらざらの壁にダイヤモンドのかたちをつくっていた。
そのとき、目がまんまるになった。壁ぎわに置かれた箪笥の上に、脚が一本立っている。ワンス・ア・デイがこちらを向き、押し殺した笑い声をたてた。しばらくしてやっと気づいたが、それは本物ではなく偽物の脚だった。蝋を塗ったような黄色い色は死体の肌のよう。ところどころに腐食した金属の部品と帯金がのぞいている。それをじっと見つめた。
「なんなの?」とささやいた。
「脚」といって、ワンス・ア・デイはぼくの手をとり、ぎゅっと握りしめた。だれの脚なのか聞きたかったけれど、ぼくはただそこに突っ立ったまま、ワンス・ア・デイの手の中で自分の手が汗ばむのを感じていた。
「こっちに来て」ひっぱられるまま、部屋の反対側に行くと、頭上の壁になにか掛けてあった。ワンス・ア・デイはそれを指さし、「ここに来てこれを見たこと、ぜったいぜったい、だれにもしゃべっちゃだめよ」と早口の命令口調でささやいた。「わたしの系のすごくだいじな秘密なの。あなたにもいっちゃいけないのはわかってるけど、それでも教えてあげる」
青い瞳は真剣そのものだったから、ぼくも真剣そのものの顔でうなずいた。
壁に掛けてあるものは、プラスチック製だった。とんがり屋根の小さな家に似ていたけれど、奥行きはほとんどなくて、正面から小さな棚が突き出しているだけ。両側にひとつずつドアがついている。小さな家には三人の人間が住んでいる。と、そのうちのひとりが――それを見た瞬間、うなじの毛が逆立った――ちっぽけなぎくしゃくした動きで右のドアから家の中に入り、あとのふたりが左のドアからぎくしゃく飛び出してきた。中に消えたのは、腰の曲がった老婆で、頭巾をかぶって、杖をついていた。出てきたふたりはどうやら子どものようで、おたがいの体に腕をまわしている。
「どうやって動くんだい?」
「それが秘密」
ふたつの小さなドアのあいだには、ピンクとブルーの奇妙な写し絵が貼りつけてあった。写っているのは大きな山で(下から見上げているちっぽけな人間がいっしょに写っていたから、だいたいの大きさがわかった)、それが四つの頭だった。四人の人間の頭部だった。山とおなじぐらい大きなその四つの頭――もしくは、ひとつの山をなしている四つの頭――には、いかめしい巨大な顔がついていて、中のひとつは眼鏡をかけているみたいだった。
「これは」とワンス・ア・デイは、ドアの内側にかろうじて鉤鼻だけのぞかせている老婆を指さして、「大陽が出ているあいだ、中に隠れてるの。そしてこのふたりが」と、子どもたちを指さし、「かわりに出てくる」
ワンス・ア・デイはまばゆい天窓をふりあおいだ。
「わかった? それに、天気が変わったときも動くのよ。どんなものより古いわ。たくさん秘密があるの」
「そこの四人だけど」とぼく。「いったいだれなんだい?」
「四人の死者たち。気が狂ってる」
ぼくたちは四つの石の顔と、その背後に広がる、ピンクとブルーの偽物っぽい空を見つめた。
「自業自得なのよ」とワンス・ア・デイがいった。
部屋の中はあたたかく、熱がちくちくと体じゅうを刺しているというのに、ぼくはぶるっと身震いした。偽物の脚。|明るさ《ライト》と|暗さ《ダーク》に応じて動く、壁にかかったもの。ささやき系だけが知っている秘密。そして、ぼくの手の中の、小さくて熱い彼女の手。
ちょうどそのとき、雲が太陽をさえぎり、壁にあった光のダイヤモンドが消えた。ぼくはちっぽけな子どもたちと老婆を見つめたけれど、それは動かなかった。
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第六の切子面
ぜんぶ話すなんて、どうすればできるんだろう? どうすればいい? なにかひとつでも話そうと思ったら、その前にまず、なにもかも話しておかなきゃいけないのに。どの物語も、もとから知ってる物語ぜんぶが下敷きになってるんだから。
[#ここから太字]
あなたなら話せる。できるわ。聖人になるってそういうことじゃないの? 自分の人生のたったひとつの物語の中で、すべての物語を語るんでしょう?
[#ここで太字終わり]
ぼくは聖人じゃない。
[#ここから太字]
あなたはたったひとりの聖人。つづけて。できるなら、わたしも力を貸すわ。夜になるまでには話し終えられる。すくなくとも、月が昇るころまでには。
[#ここで太字終わり]
ぼくがいいたかったのはこういうことなんだ。ささやき系は、ベレアのいろんな系の中にぐるぐる巻きになって横たわっている。なんとなくいつまでも忘れずにいる古い約束とか、夜が来てまた新しい夢を見るまで昼じゅうずっと消えずに残っているゆうべの夢のかけらとか、そんな感じ。でも、ささやき系について説明するには、まず系のことを話しておかなきゃならない。女たちの〈長期連盟《ロング・リーグ》〉のこと、それが結成され、解体されたいきさつ。聖オリーブのこと、彼女がベレアに来て、ささやき系を発見したいきさつ。〈ドクター・ブーツのリスト〉のこと、四人の死者たちのこと、ぼくがここに来てこの物語を語ることになったいきさつを話しておかなきゃならない。
系《コード》。系は、名前や鏡に映る姿よりもたしかな自分自身なんだ。名前も顔も、自分が属する系に属してるんだけどね。リトルベレアにはたくさんの系があるけど、正確な数はだれも知らない。金棒曳きのあいだでも、系の分類については議論があって、ある系はべつの系の一部でしかないという人もいるから。だれでも、自分の系に属する存在になるように成長していく。自分が自分自身に近づくにつれて、ますます自分の系になってゆく。やがて――ふつうの人でないなら――自分の系が大きくなってほかの系を呑みこみ、ひとつの系の中だけではとても足りなくなる。むかし、〈絵具の赤〉はみず系で、〈風〉という名前だったといったでしょ。いまの彼女はもっと大きくなって、これと名指しできるような系は持ってない。ただし、しゃべりかたや身振り手振り、暮らし方や細々したことでは、彼女はいまもみず[#「みず」に傍点]系だけど。
みず、しめがね、このは。てのひら、ほね、こおり。聖ジーンの小さないと[#「いと」に傍点]系に、もしあるとしたら〈まばたき〉の系。その他いろいろ。それに、ささやき系。でもどっちなんだろう。ぼくがワンス・ア・デイを好きになったのは彼女の秘密のせいだったのか、それとも彼女を好きになったから秘密を愛するようになったのか。
ワンス・ア・デイは、昼より夜が好き、空より大地が好き――ぼくとはまるで正反対だった。外より中が好きだし、窓より鏡が好きで、裸でいるより服を着ているほうが好き。ときどき、起きているより眠っているほうが好きなんじゃないかと思うことがあったくらいだ。
その年の夏と、それにつづく冬、そしてその次の夏、ぼくらはしだいに、リトルベレアを自分のものにしていった。こういういいかたがいちばんぴったりくるかな。ほら、赤ん坊のころは母親と暮らしていて、母親がどこかに行けばいっしょに行く。ちょっと大きくなるとすぐ、ンババと暮らすようになる。蜜蜂の仕事で忙しいぼくの母親みたいに、母親がなにかで忙しくしている場合は、それがとくに早くなる。ンババには子どものために割く時間が母親よりたくさんあるし、たぶん母親より辛抱強いし、ずっとたくさん物語を知っている。自分のンババの部屋を出発点にして、子どもたちは遠征をはじめる。ぼくが蜂の巣のある屋根に登ったり、〈径〉の蛇のかたちを学んだりしたみたいにね。そうしていつも、いちばん安全だと思える場所、ンババの部屋に帰ってくる。でも、ぜんぶ自分のものなんだよ、ほら、中も外も。子どもたちは大きくなるにつれ、そこを自分の場所にするすべを学ぶ。疲れたらその場で眠り、おなかがすいたらそこで食べ、煙をくゆらせる。そのときいる部屋が自分の部屋なんだ。もっとあとになって、ぼくは〈ドクター・ブーツのリスト〉と暮らすようになったけど、あそこにいた猫は、子どものころのぼくたちみたいにして暮らしていた。いまいる場所が自分の場所で、そこの居心地がよければとどまり、眠ったり、人間をながめたりする。
ぼくたちにもお気に入りの場所はあった――いろんな出来事や知らせをたずさえた人々が集まるにぎやかな一画とか、あたたかな古い迷路街の奥にある静かな蛇の手とか。そういう部屋にはだれのものでもなさそうな箪笥があって、古いぼろぼろの服や細々した身の回りのものがいっぱいつまっている。ワンス・ア・デイはきれいに着飾って、聖人や天使、〈長期連盟〉の英雄たち、ぼくの知らない物語の人物を演じるのが好きだった。
「わたしは聖オリーブよ」といって、ワンス・ア・デイは箪笥の中で見つけた青い宝石のブレスレットを天窓の光にかざして見せた。「あなたは小聖ロイで、わたしが来るのを待っている」
「なにをして待ってるんだい?」
「ただ待ってるの。何年も何年も」ワンス・ア・デイは地味な色の長いマントを着て、もったいぶった足どりで離れていった。「はるか彼方で、〈連盟〉の会議が開かれている。ずっとずっとむかしに〈嵐〉が過ぎ去って以来、会議は一度もなかった。いまふたたび、彼らは集まった。さあ、ここがその場所よ」
ワンス・ア・デイはゆっくりと腰を下ろし、片手を眉のところに持っていった。それから目を上げてぼくを見ると、ふだんの口調にもどり、
「わたしたちが会議を開いているあいだ、あなたはその噂を聞きつける。つづけて」
「どんなふうに?」
「訪問者よ。訪問者がやってきて、あなたに伝える」
「どんな訪問者?」
「何百年も前なのよ。訪問者がいたわ」
「わかったよ」ぼくは聞き役を引き受けた。想像上の訪問者は、〈長期連盟〉の女たちがふたたび会議を開くことになったと伝えた。「議題は?」とぼくは訪問者にたずねた。
「彼は知らないわ」とワンス・ア・デイ。「男だから。でも、彼の妻が赤ん坊を連れて会議に参加して、年配の女たち、すべての女たちを手伝っている」
「でも、ベレアの女はべつだ」
「ええ、そうよ」ワンス・ア・デイは片手を上げた。「彼女たちはただ待っている。あなたたちみんなが待っている、〈連盟〉がどんな決定を下したかを聞こうと」
ぼくは〈連盟〉の会議が開かれているあいだ、もうしばらく待った。
「あなたはなぜか、だれかがやってくるのを知る」とワンス・ア・デイがいった。「その会議から、だれかがリトルベレアにやってくる。何年もかかるかもしれないけれど、知らせをたずさえて……」
「どうしてわかるんだ?」
「あなたが小聖ロイだからよ」ワンス・ア・デイはそろそろしびれを切らしかけている。「小聖ロイは知ってたでしょ」
ワンス・ア・デイは立ち上がり、のろのろした小刻みな足どりで、できるだけ時間をかけて、ぼくのほうに歩いてきた。
「さあ、オリーブが来たわ、会議を終えて」
ワンス・ア・デイはぼくを見つめたままゆっくり進んでくる。ぼくは、いつか彼女がやってくることを知りつつ、迷路街で何年も待ちつづけている。
「夜よ」とワンス・ア・デイはいった。あんまりゆっくりで小刻みな歩みなので、よろけてしまいそうになる。「あなたが予想もしていなかったとき……オリーブがそこにいる」
彼女はいずまいをただし、自分のいる場所に気づいてはっとしたようにあたりを見まわして、
「まあ。リトルベレアね」
「ええ」とぼくはいった。「あなたはオリーブですね?」
「わたくしは、あなたが待っていた相手です」
「おお。そうですか」ワンス・ア・デイは期待するような目でぼくを見ている。ぼくは小聖ロイがいいそうなことを考えた。「なにか新しい知らせは? 〈連盟〉からの?」
「〈連盟〉は」とオリーブはおごそかにいった。「滅びました。わたくしはそのことを伝えるためにやってきました。あなただけに聞くことのできる多くの秘密をたずさえてきました。あなたは待ちつづけていたし、忠実だったからです。その秘密を、〈連盟〉は語り手たちから守りつづけてきました。真実の語り手たちはわたくしたちの敵だからです」彼女はぼくのかたわらにひざまずき、耳もとに口を寄せた。「では、お話ししましょう」
けれど、ぼくの耳にささやいたのは、言葉ではなくぶつぶつという意味のないつぶやきだった。
「さあ」とワンス・ア・デイはいって、立ち上がった。
「待って。秘密を教えてよ」
「教えたでしょ」
「なるほどね」
彼女はゆっくりと首を振り、「さあ」と命令口調でいった。「わたしたちふたりはあなたの小さな部屋に行って、いつまでも末長く、そこで暮らさなくてはならないのよ」
ワンス・ア・デイは細い肩からマントをはらりと落とした。笑みを浮かべてぼくの横にひざまずくと、ぼくをあおむけに押し倒した。となりに横たわる彼女の頬の産毛がぼくの頬をくすぐり、片脚がぼくの体にからめられた。
「いつまでも末長く」と、彼女はいった。
「〈長期連盟〉と語り手とはどうして敵同士だったの?」ぼくは〈七つの手〉にたずねた。「〈連盟〉はどんな秘密をぼくたちから隠していたの?」
〈七つの手〉はガラスづくりの仕事をしている最中で――リトルベレアのガラスは有名だから、いまでも交易商人たちがそれを求めてやってくる――午前中ずっと、ブナの灰と細かな砂を、あちこちから集めてきた天使製ガラスのかけらとまぜあわせていた。いま、〈七つの手〉は、夏のような緑色の割れたガラス瓶をそこに投げ入れた。
「秘密のことは知らん。それに、語り手はけっして〈連盟〉の敵じゃなかった、〈連盟〉のほうはそう思い込んでいたがな。ことの起こりは、天使の最後の日々にまでさかのぼる。〈嵐〉がやってきたときの話だ。その〈嵐〉は、嵐の例に洩れず、空気が暑く淀んで黄色っぽくなり、大きな雲が西の空高くかかっている日にやってきた。嵐は近づくにつれ速くなる。少なくとも、速くなるように見える。そしてとつぜん、山々に雨が降り出し、冷たい風が吹きはじめ、次に気がつくともう頭の真上に来ている。天使たちを滅ぼした〈嵐〉も、そんなふうだった。天使たちの力がいちばん強かったころでさえ、〈嵐〉は向かってきていた。たぶん、そもそものはじまりからずっと、接近をつづけていたんだろう。しかし、〈嵐〉の到来を予見した者はほとんどいなかった。唯一の例外が、女たちの〈連盟〉で、彼女たちはちゃんと準備を整えていた。
だから、とうとう〈嵐〉が千の方角から増殖しつつ襲いかかってきたとき、天使たちにとってそれは、まったく突然の災厄のように見えた。しかし、〈連盟〉は驚かなかった」
〈七つの手〉はふいごを足で踏み、炎が咆哮《ほうこう》をあげた。
「〈嵐〉が過ぎ去るには何年もかかった。やがて、すべてがだめになり、数百万の人々がよるべなくとり残され、〈嵐〉が増殖するにつれて巨大な死と広範な災厄が増殖し、大地のいたるところを見舞ったとき、彼らを助ける役目を背負っていたのは〈連盟〉だった。〈連盟〉は救えるものと救える人間とを救い、それ以外は切り捨てた。壊れた天使製品のうち、修理できるものは修理し、修理できないものは永遠に土に埋めた。この大仕事をやりとげるために、〈連盟〉は古くからの沈黙を破り、〈連盟〉のすべての女たちがおたがいに存在を認めあった。というのも、だれが〈連盟〉の仲間なのかは、むかしからずっと秘密にされてきたからだ。そして、〈女たちの長期連盟〉は、何年にもわたって救いつづけ、埋めつづけ、いつかついに、世界は姿を変えた。いまのような世界になったんだ」
ガラスの溶け具合がちょうどよくなったのを見定めると、〈七つの手〉は長いパイプをとり、細心の注意を払って何度も回転させながら、ガラスの球のかたちを整えはじめた。
「みんな〈連盟〉のいうとおりにしたの? どうして?」
「さあな。準備を整えていたのが〈連盟〉だけだったからだろう。それに〈連盟〉は、天使の生き方とはちがう、新しい生き方を知っていた。人々は、だれかのいうことを聞かなければならなかったんだよ」
〈七つの手〉はパイプに息を吹きこみはじめた。顔が真っ赤になり、頬は信じられないほどまるくふくらんでいる。緑色のガラス球は風船のようにふくらみはじめた。適当な大きさになると、〈七つの手〉はすばやく端を切り落とし、両手でパイプをまわしはじめた。風船だったものは広く平たくなって、皿のかたちに変わり、いまにもパイプから落ちてしまいそうだ。
「でも、語り手たちは〈連盟〉のいうことを聞かなかったんでしょう」
「そうだ。その時代、わしらは放浪の旅をし、そのあとはベレアを建設していた。ベレアの女たちは〈連盟〉にくわわったことなどなかったし、自分たちが〈連盟〉の一員であるとはぜったいに認めなかった。〈連盟〉は、すべての場所のすべての女たちが集まった〈連盟〉だといわれていたがね。しかし、わしらの女たちは、自分たちの語りと歴史と聖人とをのぞくすべてに対して、まったくといっていいほど無関心だった。それが〈連盟〉の女たちを怒らせ、失望させたんだろうな。〈連盟〉が怒ったのは、手に入るかぎりの助けが必要だったせいだし、失望したのは、世界にとって最上の方策を知っているのは自分たちだと確信していたからだ」
「ほんとにそうだったの?」〈七つの手〉のガラス皿はすでに完成していた。温度が下がると、かすかに緑色がかって、縞模様がついているのがわかった。
「たぶんな。わしらの女たちはただ、そんなのは知ったことじゃないと思っていただけだと思う。ただ、ひとつ不思議なのは」といいながら、〈七つの手〉はガラスの皿をパイプから抜きとった。「世界が変わらざるを得ないようにするため、天使たちの恐るべき知識をすべての人間から隠しておきながら、〈連盟〉自身はその知識を捨てようとしなかったことだ。いちばん天使を憎んでいたはずの彼らが、けっきょく天使の知っていたことを知る唯一の存在になってしまった」
「たとえばどんな?」
〈七つの手〉は、小さな池のさざ波だつ水面のような、小さな泡が散る薄緑のガラスの皿を目の前にかざした。
「おれに聞くな。女たちに聞け」
「そういうことをしつこく聞くのは、あのささやき系の女の子のせいなのかい?」と、ンババはたずねた。ぼくは答えなかった。すべての系の中でも、ささやき系はほとんどほかの系と交わらないことで知られている。結び目はよその系の人間とのあいだに生じるのだ。
「ともあれ」とンババはいった。「小聖ロイが知っていた秘密など、わしはひとつも知らん。あのおかたは、自分が知っていたことはすべて語りつくしたんじゃないかと思うがね。知ってのとおり、小聖ロイは金棒曳きになることを望んだ。だが、かしこさが足りなかった、とのちにみずから語っている。しかしあのおかたは、生涯を金棒曳きとともにすごし、彼らに仕え、彼らの用事をし、彼らの伝言をたずさえて〈径〉を走りまわった。そして、彼らのおしゃべりに耳を傾けた。自分は金棒曳きの心の中の考えみたいなもので、水がいっぱいになったバケツと思いがいっぱいになった頭を抱えてベレアじゅうを走りまわっていたと、小聖ロイは語っていたよ。
あとになって、オリーブと暮らしはじめたとき、小聖ロイはつらい物語を語った。けれどあのおかたは、いつもつらい物語を語っていたんだよ、たぶん本人も知らなかったことだろうが。知っていたかどうか、いまではだれにもわからない。
その当時、人々は〈ファイリング・システム〉のことを学びはじめたばかりで、オリーブはなににもましてそれについて学ぶようになった。小聖ロイはいった。『いいかい、オリーブ、自分自身を追い求めるのはいいけれど、それが自分自身を追いつめることになったら、やめる潮時だよ』
小聖ロイは、オリーブについて、|暗い《ダーク》ときにはとてもとても|暗く《ダーク》、|明るい《ライト》ときには|空気よりも軽い《ライター・ザン・エア》、といっている。どういう意味なのか、わしにはわからん。ささやき系ならわかるかもしれんけどな」
〈絵具の赤〉にたずねると、彼女はこんなふうに答えた。
「天使のどんな秘密をオリーブがたずさえてきたのか、わたしは知らない。わたしの知っている物語に、秘密のことは出てこないね。出てくるのは猫と、それに〈光〉だ。それだけだよ」
そういって、〈絵具の赤〉は物語を語りはじめた。
「十月の中ごろの夜のこと、小聖ロイは外≠フ近くにすわって満月をながめていた。そのころはいまとちがって、何枚もガラスの入った天窓が、リトルベレアの奥深くじゃなくて、もっと外≠ノ近い場所にあったから、すわって月をながめるには絶好の場所だったんだ。ちょうど、大月の先触れの、ちっぽけで白い小月があらわれたところで、小聖ロイは満月をながめるのに夢中だったけれど、そのとき物音がした。小聖ロイがはっとして視線を移すと、目の前に大きな黄色い猫がいた。気やすくこちらをながめている猫を見て、うなじの毛がいっぺんに逆立った、と小聖ロイは語っている。そして、猫が彼を見ているあいだに、外≠ゥら戸口を抜けて、光の玉が漂ってきた。
白い光の球で、大きさは人間の頭くらい、それが人間の背の高さくらいのところをふわふわと、まるでトウワタの綿毛みたいに軽く漂ってきて、猫の頭上で動きを止めた。するとそのとき、一陣の風が吹き抜け、〈光〉はそれに吹かれて、小聖ロイの頭上にやってきた。さて、彼の系の人間のつねで、小聖ロイはほかのだれも見ることのできないものを見ることができた。そして、そのしるしを目にした彼は、つぎに起こることを待ち受けた。なにが起きるかを予期していたんだ。そうして彼がじっとすわっていると、光の球のあとからひとりの人間がやってきた。背が高くて痩せた女性で、鼻はとがり、灰色の髪は短く刈ってあった。
『まあ』彼女は小聖ロイを見るとそう声をあげた。『ついたわ』
『ああ』と、ロイはいった。というのも、彼女がだれなのか、小聖ロイにもわかったからだ。それは、ずっと待ちつづけていた相手だった。『やっと』
彼女の巨大な猫はゆっくりと床にうずくまり、前足に頭をのせた。彼女は歩いてきて猫のとなりにすわると、マントをかき寄せた。『では、わたしを中に入れて、わたしがたずさえてきた知らせを聞くべき人々すべてを呼び集めていただかなければ』
『おねがいです』とロイはいった。『あなたをあっというまに街の奥深くまで連れていけるし、あなたの知らせを聞くべき人間は全員知っています。だれが最初で、だれが最後かも。でも……』さて、女は待っていた。大月がいま部屋の中を照らし、女の光を翳《かげ》らせた。聖ロイはとうとうまた口を開いた。『〈連盟〉の会議がすんでから、ずいぶん長いことになる。だれかがやってくる、あるいは知らせがもたらされるとわたしたちが知ってから、ずいぶん長い時が流れました。わたしはそのことを知り、リトルベレアにそのことを伝え、きょうのこの日まで待ちつづけてきました。そのせめてもの代償として、いまあなたにおねがいしたい。わたしは、その知らせがなんなのかを最初に知りたいのです。いますぐ、ほかの人間よりはやく』
女は長いあいだ彼の顔を見つめていた。それから、やさしく笑うと、『〈長期連盟〉がいつもおそれていたのは、この街の物語でした。物語のために、〈連盟〉からの知らせが無視されるのではないかと不安に思っていたのです。事情が変わったのですか?』
聖ロイも笑みを浮かべた。『ここには、古いものもあれば、新しいものもあります。〈長期連盟〉もいまではきっと変わってしまったはずだと思いますが』
『いいえ』と女はいった。『いいえ、もはや〈連盟〉に新しいものはありません。わたしはそのことを伝えにきたのです。かつて〈連盟〉の敵だったすべての人々のところに、仲間たちがおなじことを伝えにいっています。古い古い時代にわたしたちが敵をつくったあらゆる場所に女たちが赴き、彼らすべてにこう伝えました。〈連盟〉は滅んだ。〈連盟〉はすっかり滅び去ったのです、と。すべての強大な力がかならずそうなるように、わたしたちの力は長い時間をかけて衰えてきました。その力に挑戦し、ふたたび成長させるようなものは、ひとつもあらわれませんでした。世界はもう変わってしまったのです。わたしたちがみんなでこの事実を伝えてまわったところで、そこにいったいどんな意味があるのか、わたしにはわかりません。でも、おそらく、この最後の承認こそが、もっとも大きな成功なのです。それはともかく、このために、わたしはやってきました。あなたに伝えるためだけに。長く記憶されてきた〈長期連盟〉は滅びました。わたしの名はオリーブ、この知らせをたずさえてまいりました。そしてもしあなたがたが受け入れてくださるなら、ここにとどまり、助けになりましょう』
そして部屋の中は、猫と月のたてる物音だけを残して、静寂に包まれた」
〈絵具の赤〉は耳のうしろから眼鏡のつめをはずし、慎重な手つきで眼鏡を拭いた。
「彼女がどんな秘密をロイのもとにもたらし、ささやき系がいまに継承しているのか、わたしにはわからない。けれど、ささやき系について知っていることがひとつある。彼らにとって、秘密とは、話したくないものではない。話すことのできないものなんだよ」
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第七の切子面
年によっては、初霜のあと、太陽がまた熱くなり、しばらく夏がもどってくることがある。冬はもうすぐそこ。朝のにおいを嗅ぎ、半分色が変わりかけたカサカサの木の葉がいまにも落ちようとしている姿を見れば、それがわかる。なのに、夏が訪れる。ささやかな、いつわりの夏。ささやかな、いつわりのものだからこそ貴重な夏。リトルベレアではそれを――だれも知らない理由から――|機械の夏《エンジン・サマー》と呼ぶ。
たぶん、終わりのない夏に思えるからだね。でも、その年のその季節は、ワンス・ア・デイとぼくも、けっして離れることができないように思えた。たとえどんな不幸を相手にもたらしても、自分たち自身がいくら離れたいと思っても、ふたりは、しめがね系にも分けることができない太陽と水晶のように、離れられなかった。いっしょにいないときは、いつもおたがいのことをさがしていた。愛がけっして終わらないものだと考える人にとっては、べつに不思議なことじゃない。愛は季節とよく似ている。そんなことがありえないのはわかってるさといくら自分にいいきかせても、この季節はけっして終わらないという気がすることがあるから。
その年の機械の夏、ぼくたちは〈|絶体絶命《イン・ア・コーナー》〉という名の、ほね系の老いた|パン男《ブレッドマン》に連れられて、聖ビーのパンを集めに出かけた。彼はワンス・ア・デイのンババと古い知り合いで、ぼくらを連れていってくれたのは、彼女に対する好意のしるしだった。というのも、ぼくらは若すぎて、たいして役に立たないからだ。ぼくとワンス・ア・デイは、外の近くにある〈絶体絶命〉の部屋で彼といっしょに眠り、透きとおった黄色の壁から夜明けの光が射し込むころ目を覚ました。機械の夏特有の、霧の朝だった。やがて空気が乾けば、暑くて天気のいい一日になりそうだった。ワンス・ア・デイは身震いとあくびを同時にしながら立ち上がり、暖を求めてぼくに寄りそい、白い夜明けの中、みんなが集まってくるのを待った。先端に大きな鉤のついた長い棒を持っている人が大勢いた。しばらく頭数を数えたり相談したりしたあと、ぼくら一行は、川筋をたどりながら、霧がたちこめ木漏れ日が射す森の中へと出発した。
ちょうど日没のころにパンの木のところにたどりつくはずだと〈絶体絶命〉は考えていた。その時刻、パンの木はいちばん大きくなる。
「夜になって気温が下がると、パンの木は小さくなる」と彼はいった。「朝顔とおんなじ。花びらを閉じるかわりに、縮むんだ。もっともそれは、パンの木のおかしなところのほんの一例だがな」
「ほかのおかしなところって?」とワンス・ア・デイがたずねた。
「すぐにわかるさ」と〈絶体絶命〉は答えた。「きょうの午後、今晩、あした。おかしなところをぜんぶ見られる」
パンの木に通じる道はひとつもない。ほかのパン男たちは広く散開していたから、ときたま、森のあいだにひとりかふたり、そばを歩いている姿が見えるだけだった。
語り手たち以外にも、聖ビーのパンの煙を吸う人間は大勢いるけれど、パンの木が生えている場所はいまでもぼくたちだけの秘密だったから、みんな、そこへ通じるルートに足跡をつけないよう注意していた。パンを収穫し、準備すると、交易のためによその人たちがベレアにやってくる。それは楽しみだったし、みんなの利益になっていたと思う。
午後遅くなって森を抜け、風にそよぐ大きな松の林の下から、心に波打つ銀色の広い草原に出た。ほかのパン男たちは、ぼくらの左右に長い列をなして広がり、ときおり肩まで草に埋まりながら、草原に黒い畝をつくりだしていた。大地には大きな起伏があり、すでにその丘のいただきに立っていた数人のパン男たちが、こちらに手を振りながら大声で叫んだ。
「ここに登ると見えるぞ」
〈絶体絶命〉はぼくたちのほうを向いて、「急いで」といった。
そこでぼくらは、尾根のてっぺんへと駆け出した。そこには、背の高いコンクリートの柱が、一定の間隔をおいて、まるで衛兵みたいに立っていた。
「見て」コンクリートの柱のそばに立って、ワンス・ア・デイがいった。「わあ。見て」
細い谷川の水面に陽光が降り注ぎ、銀のようにまばゆく輝いている。陽光は、(ぼくの知るかぎり)この世で唯一、ここだけに生えている聖ビーのパンの木にも降り注いでいた。
ねえ、しゃぼん玉を吹いたことってある? 濃い石鹸《せっけん》液を使ってそうっと吹くと、大きい泡や小さい泡がまじりあって、ストローの先の受皿に、すごくでかい泡のかたまりができる。さてそこで、木とおなじくらい大きな、そういう泡のかたまりを想像してほしい。下のほうにある大きな泡は人間くらいの大きさで、てっぺんの小さな泡は人間の頭や手より小さい。ぷるぷる震える枝先からそういう泡が次々に落ちてきて、でたらめなかたちの巨大な球のかたまりをつくる。泡みたいに中身がないように見えるけど、それでも、重なり合った下のほうの球が楕円形にひしゃげてしまうくらいの重さはある。その球は、しゃぼん玉みたいな透きとおった泡じゃなくて半透明で、日のあたる上側が薄い薔薇色、陰になった下側は青緑色なんだ。森のもみの木とおなじ数だけあるこういう泡のかたまりが、やわらかにもたれあって、おごそかなダンスを踊るみたいに膨張し、はねるところを想像してみて。半透明の泡を通して入ってくる午後の陽射しで、地面は色とりどりに染まっている。これが、リトルベレアの生活の糧《かて》なんだ。
ぼくたちはパンの木が森をなして立ち並んでいる場所に向かって駆けおりていった。ひび割れたコンクリートの大きな広場を横切り、天使流の正方形で建ち並ぶ、屋根のない建物の廃墟と、そのあいだをまっすぐにのびる、雑草にひび割れた道路を通り過ぎて、パンの株のところにたどりついた。
「ほんとに泡なのね」ワンス・ア・デイは感心したように笑った。「中にはなんにもない。ぜんぜんなんにもない」
泡には乾いた膜がついていて、蛇の皮みたいに何十もの細かい区画に分かれている。その中には、空気しかはいっていない。そのあいだに立っていると、香り豊かな、土っぽくて甘いにおいがした。
パン男たちはみんな、泡の木がつくる薔薇色の光の中に集まってきた。たがいに笑みをかわし、背中をたたきあいながら、下のほうの泡のざらざらでぶあつい膜をひっぱったりつねったりしては、ひたいに手をかざし、青白くてきれいな木のてっぺんを見上げる。湿度が高くて暑い、いい夏だった。この分なら、今度の冬には節約しなくてもすむだろう。パン男たちが持ってきた、鉤のついた棒は、あしたにそなえて、ひと山にして置いてある。やがて、巻いた細いロープの束が大きな袋からとりだされ、手から手へとまわされた。それから、全員が散開して――ワンス・ア・デイとぼくは〈絶体絶命〉についていった――パンの木の株全体を大きな輪になってとりかこみ、内側に向かって進みはじめた。こうすれば、最後に全員が中心で出会うことになる。
〈絶体絶命〉は短いロープを選んで、低い泡の下についている茎の、羽毛におおわれた首にぎゅっと巻きつけた。茎はワンス・ア・デイとぼくの胸ぐらいまで達する高さがあり、たくさん集まって一本の木を支えている。
「ただし、じっさいには支えてるわけじゃない」と〈絶体絶命〉がいった。「そいつもまた、おかしなことのひとつでな。茎は泡を支えてるというより、泡が飛んでいかないようにつなぎとめてるんだ。ほら、太陽が泡の中の空気をあたためると、いまみたいに木全体がすごく大きくなる。それに、軽くなるんだ。あたたかい空気は冷たい空気より軽い。だから、もし茎でつなぎとめてないと、泡は――」
「飛んでっちゃうのね」とワンス・ア・デイ。
「たちまち飛んでっちまうね」そういいながら、〈絶体絶命〉の老いた強靭な手がロープをぎゅっとひっぱり、茎をしばる。ぼくたちはもう、株の奥深く入りこみ、ゆっくりと中央に向かっていた。あたり一面、かすかな微風にも揺れる、ふくれあがった泡がおおいつくし、青緑の底をさらしている。心浮き立つようなながめだった。そこらじゅうをはねまわり、叫び声をあげたくなる。
「|空気より軽い《ライター・ザン・エア》」ワンス・ア・デイが笑いながらいった。「空気より軽い!」
株の中心には空き地があり、その中心には低い建物の廃墟があり、折れ曲がり錆びついた高い金属の塔が群れをなしていた。中には根元から折れているものもある。どの建物も、中央の大きな穴に面していて、その穴には、まるでそれに合わせて設計されたみたいに、鋲を打った黒い金属材が複雑にからみあうずんぐりしたかたまりがガッチリはまりこんでいた。その物体から突き出した支柱が、穴のコンクリートのヘリをつかんでいる――穴から這い出してきた巨大な蜘蛛。理解を超えた形状の機械が、盛り上がった蜘蛛の背中から四方八方にのびている。周囲の建物や塔はまるで、その金属体を見守りながら眠りについてしまったかのようだ。
「あれがプランターなの?」とぼく。
「そうだ」と〈絶体絶命〉が答えた。最後のロープを肩に巻きつけると、ぼくたちふたりについてこいと合図した。ワンス・ア・デイは尻込みしたけれど、ぼくが彼女の手をとると、ぼくのうしろにぴったりくっついて、プランターめざして歩き出した。
「星々に行ったんだね」とぼくはいった。
「ああ。そしてもどってきた」
この機械は(それに、これとおなじような百の機械が)星々のもとに赴いた。幾世紀もののち、風変わりな異星の知識を満載して彼らがもどってくると――迎えてくれる人間はだれひとり残っていなかった。大地に残った者の中で、まだ彼らの目的を覚えていたのは、彼ら自身だけだった。受けとってくれる人間がいなかったから、彼らの知識は彼らの内部に封印された。そして彼らは、はてしない忍耐力で待ちつづけたけれど、だれもやってこなかった。人間たちはみな、路上にあるか、死ぬか、いなくなっていた。やがてついに、プランターたちは着陸した場所で息絶え、錆び、朽ちていった。彼らの記憶はばらばらになり、天使製の心は塵に返った。
「考えてみると奇妙な偶然だが」と〈絶体絶命〉はいった。「彼らが植民者《プランター》と名づけられたのは、人間を他の星々に植民させる初の機械システムになるはずだったからだ。ところがそのかわり、ここに着陸したまま彼らは、文字どおりの栽培容器《プランター》になってしまった。どこかよそで生まれた、小さな風船みたいな木をこの地球に移植し、そのプランターになったわけだ。ンババが金盞花《きんせんか》を育てるのに使う、古ぼけた黒い壺みたいにな」
近寄ってみると、それはとてつもない大きさだった。真っ黒い壁が目の前にそびえ、ぼくたちを傲然と見下ろしている。それをその場所に固定している連結装置の力は、とても信じられないほどだった。あれほどぶあつく、錆ひとつない金属、あれほど完璧に建造された支柱、あれほど強い接着力。プランターの中心には、かつてはドアだったとおぼしきものがあり、それが壊れて、開いたままになっていた。その戸口から、ひと房の巨大なぶどうのように、いびつなかたちの泡が山をなしてあふれ出してきている。パンの木の最初の一本、他のすべての木の母親にあたる木から生じた泡だった。この母木から分かれた青緑色の枝木が、プランターの支柱や金属板をつたって下に降りてゆき、それから根っこのように地下にもぐって、やがてまた地表にあらわれる。〈絶体絶命〉の話では、ここにあるほかの茎もすべておなじなのだそうだ。
「こいつはみんな、一株の植物なんだ」と彼はいった。「そもそも植物だとしたらの話だがね」
この日の仕事はあらかた終わりかけていて、日没までのあいだ、ぼくたちは木の枝を集め、パンの木の向こうのコンクリートの広場で焚火をした。
「あれがどこから来たのか、おれは知らん」一晩中あたたかくしていられるように、ワンス・ア・デイとぼくが集めてきた木の枝をまるく並べながら、〈絶体絶命〉がいった。「だが、その場所についてはいくつか考えていることがある。冷たい星で、ここよりずっと大きいんだと思う。パンの木も、そこではこんなに大きくはならないし、そこの生きものはもっとゆっくり動くか、あるいはまったく動かないんだろう」
ぼくたちはパンの木のほうに目をやった。夜の寒気が忍び寄るにつれ、泡はすでに縮みはじめている。
「どうしてそう思うの?」とぼくはたずねた。
「子どものころからこいつの煙を吸ってきたからさ。こいつのおかげでおれは一人前の男に成長した。おれの眼もおれの血もおれの脳みそも、いまじゃ何割かはこいつでできてるようなもんだ。だからわかるんだと思う。こいつが教えてくれたんだよ」
プランターはどんな人間よりずっとかしこいといわれている。だれも知らない場所から帰還したこのプランターが、自分の得た知識を伝える相手がいないことを知り、いつの日か人類が多少なりとも学んでくれることを願って(機械にも願うことができるのか?)積み荷の植物を意図的に外に出した――そんなことが、はたしてありうるだろうか? 〈絶体絶命〉が学んだのは、その結果なんだろうか? たぶん、ちがうだろうな……。
〈絶体絶命〉は、節くれだった指で、去年のパンをひとつかみ、袋からとりだした。そのパンはぜんぶ青緑で、泡の薔薇色はなく、奇妙な光で内側から輝いていた。〈絶体絶命〉は首にかけてある大きなひょうたん製のパイプの火皿にそれをつめた。
「むかしは、しじゅうこいつを吸うのはよくないことだと考えられていた。それからあとは、しじゅう吸っていたいなら水煙管《みずきせる》を使えということになっている。しかし、おまえたちみたいな若い連中は、そんなこと気にしやせん。おれはそれでいいと思うね。体に害なんかあるもんか。いままで、これで体を壊したやつはいない。ただ、変えてしまうだけだ。もし人生を男として過ごし、男の食いものだけじゃなく、こいつを食うとしたらな」
むかし、パンが体によくないと考えられていたのは、もちろん、聖ビーのせいだ。リトルベレアの最初のつらい冬が過ぎたあとのこと、聖ビーは泡の木の株を見つけた。太陽にあたためられると、泡はすごくいいにおいがした。それに、聖ビーは空腹だった。しかも、パンを食べたせいで聖ビーが死んだわけでも、病気になったわけでもない。ただ、それから数週間後に、聖アンディが聖ビーを見つけたとき、彼女はまだ泡の木の下にいて、服はみんなぼろぼろになっていた。腹が減るとパンを食べる毎日で、彼女は聖アンディのことも語り手たちのことも忘れはてていた。自分自身の発案だった新しいコープのことさえ覚えてはいなかった。そのあとまだしばらく聖ビーは生きていたけれど、聖アンディに理解できる三つ以上の言葉を発することは二度となかった。
[#ここから太字]
あなたがパンを吸うのに使ったあのパイプ、ンババの部屋にあった……。
[#ここで太字終わり]
うん。パンの煙を吸う習慣が広まったあと、ずいぶん長いあいだ、といったってもう何百年も前のことになるけど、パイプの皿は聖ビーの顔をかたどってつくられていたんだ。聖ビーの開いた口に、パンを入れるようになっていた。
〈絶体絶命〉がマッチの火を近づけると、パンはシュウシュウと音をたて、泡を吹いた。〈絶体絶命〉は噛みつぶされた古い吸い口に唇をあて、頬をへこませて煙を吸った。最初の薔薇色の煙の雲が立ち昇った。彼はワンス・ア・デイにパイプをまわし、ワンス・ア・デイが煙を吸いこむと、彼女の肺を通って、鼻と口から薄い薔薇色の霧が出てきた。ぼくは、パンを消費するこの妙なやりかたにふと驚きを感じて、ぶるっと身震いした――物心つく前から、こうやって煙を吸うのを見てきたし、自分でも吸ってきたのに、まったくおかしな話だよね。
近くの青い空に、この夜最初の星たちがまたたきはじめた。風がパイプの火皿を輝かせ、煙を運び去る。星々のひとつ、たぶん、いまこうして見ている星のどれかが、このパンの故郷だ。でも、どんなに高く風に運ばれたところで、この煙が故郷に帰りつくことはけっしてない。
翌朝、空には雲が低くたれこめていた。南から、筏《いかだ》の一団が川をさかのぼってきた。パン男たちは一日中、もつれあった茎から鉤つきの棒で大きな泡のかたまりをこそげとり、それを浮かせて(こういう曇った日だと、泡は空気より軽くなることはないけれど、それでも空気とほとんど変わらない重さしかない)、大声で叫んだり方角を指示したりしながら、筏のほうへと運んでゆき、泡の表面に穴をあけて鉤をつけたりロープでゆわえたりして、筏に固定した。ワンス・ア・デイとぼくはたいして役に立てなかったけれど、それでもほかの人にまじってあちこち走りまわり、せいいっぱいの力で押したり引いたりを手伝った。きょうのうちにぜんぶ積み込んでしまわないと、泡がテントみたいにぺちゃんこにつぶれて動かせなくなってしまうのだ。
すべての泡は、しめがね系の人々が楓《かえで》の木を燃やして泡を乾燥させる炭をつくっている場所へと運ばれた。泡はそこで砕かれ、ふるいにかけられて、運搬用に箱づめされる。空き地の株は丸裸になり、残っているのは青緑の茎だけだった。筏でやってきた男たちはあとに残って、冬に備えて茎を袋でおおい、ほかの人たちは母木を雪から守るために、プランターの周囲にビニールシートや布を巻きつけた。さて、これで収穫はおしまい。ワンス・ア・デイとぼくも、それに手を貸したのだ。そしてぼくたちは、最後から二番目の筏に乗りこんだ。
疲れはてたワンス・ア・デイは、頭をぼくのひざにのせて横たわっていた。風が冷たく、ぼくたちはだれかにもらった毛足の長い外套にいっしょにくるまっていた。灰色の川面に、落葉が浮かんでいる。
「冬が来るね」とぼくはいった。
「いいえ」とワンス・ア・デイが眠そうな声でいった。「いいえ、来ない」
「いつかは来るに決まってるさ」
「いいえ」
「でも、もし冬が……」
「しーっ」とワンス・ア・デイはいった。
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第八の切子面
ある雨の冬――というのはこれよりもずっとあと、ぼくが聖人と一年を過ごし、ドクター・ブーツからの手紙を受けとったあとの話なんだけど、ひとりぼっちでしょっちゅう眠ってばかりだったその冬に、ぼくは自分の心を使ってやる手品を学んだ。夢とうつつの境目にあるときなら、心がまた若返ることがある。どう説明したらいいかな? まるで、ほんの一瞬だけど、若いときの自分にもどるみたいな感じ。それとも、過去の一瞬がそっくりもどってくるみたいなものといったほうがいいかな。一部分たりとも欠けずに、完全なかたちでその一瞬がもどってきて、それがあまりに突然だから、どの一瞬にいるのかわからない。それに気づかないうちにまた眠りに落ちてしまうか、でなければ思い出そうと意識を集中するせいで目が覚めてしまい、その一瞬が失われてしまう。
そう、この体験はおもしろかったし、練習する時間はたっぷりあったから――それどころか、ほかにはなにもすることがなかった――しばらくそれをつづけて、過ぎ去った時間をそっくり生きなおしたこともある。唯一のちがいは、それを外からながめてびっくりしている小さな目があることだけ。そのはてしない冬、ぼくは自分の人生のおしまいに来ていると思っていたから、短い人生を細切れに反芻《はんすう》できるのはもっともなことに思えた。もっとも、ぼくの目には、人生はすごく長いものに見えたけどね。ちょうど、ンババが箪笥の中身を点検するみたいな感じだった。いつの時点の自分を発見するか、ぼくには選択の余地がない。二歳の自分かもしれないし、十歳の自分かもしれない。夏の屋根で、帽子とたれ布をかぶり、熱にがんがんする頭で、母といっしょに蜜蜂の世話をしている自分かもしれない。冬に、リトルベレアの奥深くのあたたかい部屋で、ワンス・ア・デイといっしょに輪っかをやってる自分かもしれない。頭の中はその冬に考えていたことでいっぱいで、その冬の香りがする。どの年のどの季節にも――どの日のどの朝、どの夜にも、ということだってあるかもしれないけど――まぎれもないそれぞれの味があって、もうすっかり忘れてしまっているけれど、また味わえばすぐに思い出すんだ。
ぼくは、〈絵具の赤〉があの豊かで深い声で聖人たちの物語を紡ぎだすのに耳を傾け、それらすべての物語がある意味ではたったひとつの物語なのだということに気づきはじめているかもしれない。生きていること、人間であるということについての、単純な物語。単純ではあるけれど、それ自身は語られることの不可能な物語。
そして、いったん目を閉じて、じっと動かずに待っていると、自分が十度目の春にいることに気づく。しめがね系の戸口に仲間と腰を下ろし、ぽつぽつと花を咲かせた木々が並ぶ南への道に目をこらして、ピンクと白の春を背景にくっきり目立つ黒い服を来た旅人の一団がパンの交易のためにやってくるのを見つめている。しめがね系の半透明の壁が太陽の光を浴びて薄黄色に輝き、足元の土の床には鮮やかなじゅうたんが敷かれ、近くには模様入りの外套に身を包んだみず[#「みず」に傍点]系の交易商人と、パンをつめた白っぽい袋の山。すぐとなりにはワンス・ア・デイがいて、たったいま、ぼくの手から手をふりほどいた。そしてぼくは、目を見開き、寒さに震え、胸をどきどきさせながら、冬の朝に目を覚まして冷たい雨の音を聞く。
その十度目の春、何週間ものあいだ、ワンス・ア・デイが話すことといえば、もうすぐやってくる〈ドクター・ブーツのリスト〉のことだけだった。彼らの話をしていないとき、ワンス・ア・デイは黙っていた。〈リスト〉の交易商人たちは、毎年春にやってくる。ぼくたちが迎える訪問者はほかにほとんどないから、彼らの到着は大事件だったけれど、ささやき系にとってはただの訪問者以上の存在だった。
「あの人たちはわたしのいとこなの」とワンス・ア・デイはいった。ぼくにはわからない言葉だったから、どういう意味なのかたずねてみたけれど、ワンス・ア・デイにも説明できなかった。彼女と彼らとを結ぶ絆だということだけ。
「そんなわけないよ」とぼくはいった。「あの人たちは真実の語り手じゃないし、きみの系の人間でもない。名前だって知らないじゃないか。ただのひとりも名前を知らないくせに」
「わたしの系はオリーブの系よ。オリーブは〈連盟〉の一員だった。〈ドクター・ブーツのリスト〉もそう。いとこ≠ニいうのはそういう意味なの」
「〈連盟〉は滅び、消え去った。オリーブがそういったんじゃないか」
「知りもしないことを話すのはやめて」
いまではもう、十数人がこちらに向かっていた。ほとんどは、花で飾った黒くて平たい帽子をかぶった男たちだ。近づくにつれて、彼らの歌声が聞こえてきた。いや、歌とはいえないかもしれない。言葉も節もなく、高低大小さまざまのハミングのあちこちにブンブンゴロゴロという音がまじり、ひとりがやめるとべつの人間が自分なりの音でそれをひきつぐ。みず系の老いた男女が丘を下り、彼らを出迎えにいく一方で、若い連中は彼らの荷物を運んだ。複雑に縛った包みや箱。そこらじゅうで、静かで礼儀正しい再会のあいさつがかわされ、黒い帽子の男たちと背の高い女たちは、しめがね系の戸口を抜けて、外≠フ近くにしつらえたこぎれいな部屋に入ってきた。ぼくやワンス・ア・デイはそこで待っていて、彼らを出迎えた。身につけている鐘をチリンチリンと鳴らしながら、彼らは巻き舌のアクセントと音流のくぐもったなまりでしゃべる。
彼らの荷物はわきに積まれ、果実のソーダと冬の木の実がはこぼれてきた。ワンス・ア・デイは彼らから一瞬たりとも目を離そうとしないくせに、部屋に集まった人たちの顔を見まわす〈ドクター・ブーツのリスト〉のだれかと偶然目が合うと、あわてて顔をそむける。ワンス・ア・デイが彼らに向ける笑みは、ぼくがはじめて目にする種類の笑みだった。
離れて見ると、黒い服を着てひげを生やした彼らはいかめしい感じがしたが、近くで見るとぜんぜんちがっていた。丈の長いまっすぐなローブは金をはじめ色とりどりの模様で精巧に飾られ、入り組んだひだがついている。鐘はびっくりするような場所に結わえつけてあって、それが鳴ると思わず笑ってしまう。チリンチリンという鐘の音、人のよさそうな笑みに包まれていると、彼らは温厚でつきあいのいい人種で、いつまでもいっしょにいて飽きない上品さと活力を兼ね備えているんだという気がしてくる。ぼくは、いつか〈絵具の赤〉が話してくれた、聖オリーブの猫のことを思い出した。
秋に収穫されたパンが、みず系の交易者の手から訪問者たちにわたされた。彼らは、鉦《かね》やブレスレットを鳴らしながら、手から手へとひと握りの輝くパンのかけらをまわし、手触りをたしかめ、においを嗅ぎ、ためつすがめつしている。老〈絶体絶命〉は、前日、お客の到着に備えて三脚に据えつけておいた、琥珀色の大きなガラス製パイプの上にある真鍮製の聖ビーの大きな口(ほとんど実物大の大きさだった)に、ちぎったパンをつめた。この聖ビーは数百年前のもので、しめがね系のいちばんの宝物のひとつだけど、古いこと以外なんにも物語を持っていなかったから、てのひら系はそれにさほど重きをおいていなかった。
交易商人のひとりがやってきて、ワンス・ア・デイのとなりにすわろうと優雅に腰をかがめた。褐色の肌にしわが寄った、木の実のような男で、両手はふしくれだっていたものの、その笑みはあけっぴろげで、警戒と微笑とを同時にたたえた目でワンス・ア・デイを見下ろしたが、ワンス・ア・デイは気後れしたように目をそらした。彼が目をそらすと、彼女が見上げる。彼が見下ろすと、彼女が目をそらす。そしてワンス・ア・デイは、古い箪笥で見つけて自分のものにしていた青い宝石のブレスレットをはずした。
彼女がそれをさしだすと、男は爪の黄色くなった指先で軽くつまみあげた。
「これはすてきだ」と彼はいった。ぐるっとまわして、光にかざす。にっこりして、「これと交換に、なにをお望みかな? なにがほしい?」
「なんにも」とワンス・ア・デイはいった。
男は、両手でブレスレットをもてあそびながら、ワンス・ア・デイに向かって眉を上げ、それからにっこりほほえんで、ブレスレットを自分の手首にはめ、なにもいわずに、それを軽く振ってほかの装身具のあいだにおちつかせると、また取引に注意をもどした。ワンス・ア・デイはひそやかな笑みを浮かべ、そばにあった男の黒いローブのすそを手にとり、持ち上げた。
午後いっぱいかけて、〈リスト〉の男女は持ってきた箱をあけて品物を並べ、パンの重さをはかった。彼らは〈四つ壺〉を持ってきていた。四つひと組で、それぞれ箱に入っている。そのうちのひとつ、黒い壺には薔薇色のものが入っていて、ぼくは〈絵具の赤〉のことを思い出した。ほかの三つには、それぞれべつの用途がある。〈リスト〉はそれを薬の娘たち≠ニ呼んでいて、彼らだけがその秘密を知っている。彼らが|錆びない鋼鉄《ステンレス・スチール》≠ニ呼ぶ天使銀でつくった道具や奇妙な小物。いろんなかたちの箱や壺につめた、甘い香草や乾燥香辛料、ビートからつくった砂糖、猫の蚤とり粉。しめがね系用には、修理を要する古い品物や、鋭い刃のついた道具、ボルトがついた天使製のナット。てのひら系用には、発掘された古えの時代の品物、鍵や笛、小さな家を封じこめたガラス球。
こうした品々と交換に、ぼくたちはガラス鉢をはじめとするガラス製品や、プラスチックのつるをつけた眼鏡、赤、黄、青の喫煙用の紙、蜂の巣、プラスチックそっくりに磨き上げた亀甲《きっこう》、ベルトにうってつけの、数百枚の四角い絵をつなげた半透明のプラスチックの長い長いリボンをさしだした。それにもちろん、袋づめのパンも。彼らにとってパンは、ぼくらにとっての薬とおなじくらい価値があるんだよ。二つか三つの部屋で取引はつづき、甘い煙とくぐもった会話が空気を満たし、やがて黄色の壁の色が濃くなりはじめた。交易を望む人々、訪問者たちを見物し話を聞きたいと思う人たちの数があまりにも多くて、とうとうぼくは自分の場所を明けわたす羽目になったんだけれど、ワンス・ア・デイは彼女のブレスレットをはめた例の褐色の男のそばから離れようとしなかった。
訪問者たちはその夜、ささやき系の部屋で眠った。ひと部屋に二、三人ずつ分かれて、〈径〉から遠く離れた、外≠フそばで――これは用心のための古い決まりで、とっくに形骸化しているものの、まだ守られている。だから、夜遅くその部屋を通れば、おしゃべりに没頭したり、大声で笑ったりしている彼らの姿を見ることができる。じっさい、ぼくも彼らの部屋を通ったけれど、おしゃべりの輪に加わろうとはしなかった。そうしてはいけないとだれかにいわれたわけでもないのに、輪の外をうろうろして、彼らの話を立ち聞きしようとした。
夜明けの最初の光を浴びて、ぼくはひとりぼっちで目を覚まし、悲鳴をあげた。とつぜんあらわれた顔がぼくを見下ろしていたんだ。でも、目を開くとそんな顔はなかった。ぼくは、まるでなにかに呼ばれたみたいに、その呼び声を無視できるほどには目が覚めないまま、急ぎ足で〈径〉を進み、頭上の天窓から射す青い光のぼんやりした輪から輪へと走りながらしめがね系の戸口をめざした。だれも目を覚ましていなかった。けれど、しめがね系の戸口のそばに近づいたとき、〈径〉をやってくるべつの人影が目に入り、ぼくは身を隠してようすをうかがった。
〈ドクター・ブーツのリスト〉が、ささやき系の女性に先導されて出発しようとしていた。薄暗いなか、肩にかついだ大きな荷物のせいで、彼らの姿がちがって見えた。一行のために扉は開け放たれ、四角く切りぬかれた夜明けの青い光がしだいに明るくなってくる。ささやき系の女は別れのあいさつを告げずに引き下がった。〈リスト〉の一行は、全員集まるのを待って、戸口のほうに歩き出した。と、そのとき、小柄な人影が、彼らのあとを追って〈径〉から飛び出してきた。
ぼくは隠れ場所から出て、ワンス・ア・デイの腕をつかんだ。いまのいままで、こんなことは予想もしていなかったのに、なぜか驚きは感じなかった。
「待って」とぼくはいった。
「行かせて」
「わけを話して」
「いやよ」
「もどってくる?」
「聞かないで」
「もどってくるといってくれ。約束してくれ。でないと、追いかけていくよ。〈七つの手〉や〈絶体絶命〉や、きみのンババに話して、みんなで追いかけ、連れもどす」
ぼくは早口のささやき声で狂ったようにしゃべりつづけた。自分の言葉にも半分うわの空だった。ぼくの手はまだワンス・ア・デイの腕をつかんだままで、今度はワンス・ア・デイがぼくの腕をつかんだ。ぼくたちは薄闇の中で相手の顔を見つめながら、じっと立っていた。
「〈おかね〉をあげたでしょ」ワンス・ア・デイは、静かな、しかし熱をこめた口調でささやいた。〈おかね〉はぼくの袖の中にあった。あれ以来、肌身離さずいつも持ち歩いている。「〈おかね〉をあげたんだから、わたしのいうことをきかなきゃいけないのよ」ワンス・ア・デイはぼくの手をふりほどくと、「追いかけてこないで。どこへ行ったかだれにもいわないで。きょうと、それにあしたも――わたしが遠くに行ってしまうまで黙ってて。わたしのことはもう忘れて。あの〈おかね〉のかわりに」
ぼくはなすすべもなくその場に立ちつくし、おびえていた。ワンス・ア・デイはぼくに背を向けた。〈ドクター・ブーツのリスト〉の最後のひとり、あの褐色の、根っこみたいな男が、駆け寄っていくワンス・ア・デイをふりかえった。
「春になったら」とぼくはいった。「もどってくるね」
「いまが春よ」
ワンス・ア・デイはふりかえりもせずにいい、そして彼女は行ってしまった。ぼくは戸口に立ち、外套をまとい帽子をかぶった彼らが、朝霧のなか、一列になって南へと去ってゆくのを見送った。青いドレスに身を包んだワンス・ア・デイは、黒髪をなびかせ、一行に追いつこうと走ってゆく。霧か涙に包まれて彼らの姿が見えなくなる直前、だれかが彼女の手をとるのを見たように思った。
その日一日、ぼくは身を隠していた。なにも聞かないでいてくれそうな知り合いはひとりもいなかったし、真実を語ってしまうことなく話ができそうな相手もひとりもいなかったからだ。もうちょっとで、ほんとにもうちょっとで、迷いと苦悩のあまり、〈七つの手〉のところに行ってしまうところだった。でも、行かなかった。ぼくが自分から口を開かないかぎり、ワンス・ア・デイの不在をだれも不審には思わないだろう。彼女はどこにでも行けるのだし、ベレアの迷路のどこにいても安全なのだから。でも、口を開くことが最善かどうか、ぼくにはわからなかった。なにもわからなかったから、決断を彼女にゆだねることにした。きっと、すべてが手配済みだったんだ。なにもかも、みず系が手配したんだ。おとなたちがそう決めたんだ。それが真実かどうかは知る由もなかったけれど、そう信じようとした。そして、ぼくは隠れた。
ひとりになれる場所をさがして、古い迷路街の奥深くへ入りこんでいった。ずいぶんたってから、ワンス・ア・デイがこの前の春に連れてきてくれた、天使石の壁に小さなひらべったい家が掛けてあるあの部屋にたどりついた。ふたりの子どもと老婆が天気に合わせてちっぽけなドアを出たり入ったりするあの小さな家と、偽物の脚を載せた箪笥がある部屋に。
どうして予想できなかったんだろう。そのときになるまで気づかないなんてことが、どうしてありえたんだろう。ぼくたちふたりは、おなじひとつの手の二本の指のような存在だった。しかも、ぼくたちは真実の語り手だった。なのに、ぼくにはわからなかった――理解できずにいることはいまもおなじだけど。たぶん、夜明けのあの瞬間まで、ワンス・ア・デイ自身、決意をかためてはいなかったんじゃないかと、ぼくは思った。でも、そう信じることはできなかった。彼女は最初からわかっていて、前々から計画を立て、そのことについてじっくり考え、ほかのことはなんにも考えられずに何日も過ごした(そうにちがいない)。それなのにぼくは、気づきもしなかった。
ぼくは彼女が口にしたことについて考えた。いとこ。ささやき系の彼女は〈連盟〉の一員であり、〈ドクター・ブーツのリスト〉でさえ、いかに遠い関係だとはいえ、やはりその一員であるということ。オリーブがたずさえてきた〈連盟〉の秘密、ささやき系が知っているというその秘密について考えた。〈ドクター・ブーツのリスト〉はもっとよく知っているにちがいない。彼らはかつての〈連盟〉のように、薬の知識を持ってあちこち旅をしているのだから。ささやき系にとって秘密は話したくないものではなく、話すことのできないものなのだという、〈絵具の赤〉の言葉について考えた。
それらすべてを考えてみたけれど、どれをどう組み合わせてみても辻褄が合わなかった。ぼくは、壁に掛けてある小さなプラスチックの家を見つめた。張り出したその棚には、いま、老婆ひとりが立っている。ふたりの子どもは中に隠れていた。
老婆は暗くなると外に出てくる、ふたりの子どもは日があるときに出てくるとワンス・ア・デイはいった。天気が変わると、彼らも場所を変える。それと、四人の死者。四人は気が狂っているとワンス・ア・デイはいった。
けれど、頭上には太陽が輝き、春は満開だ。
ぼくはなにひとつ理解できず、その薄暗い小部屋で長いあいだ泣きつづけた。ひとりきり、その小さな家と、脚と、語られることのない秘密といっしょに。
[#ここから太字]
晴雨計よ。
[#ここで太字終わり]
なんだって?
[#ここから太字]
晴雨計。壁の小さな家のこと。晴雨計なの。天気の変化を教えてくれるもの。機械《エンジン》よ、つまり。
[#ここで太字終わり]
うん。天気のこと。でも、そうじゃなくて……。
[#ここから太字]
待って。このクリスタルがいっぱいになったから。
[#ここで太字終わり]
[#改丁]
第二のクリスタル 片脚のない男の笑い
[#改丁]
第一の切子面
なに?
[#ここから太字]
クリスタル。八面体のクリスタルよ。ほらね? いま、新しいのととりかえたから。これでつづけられるわ。
[#ここで太字終わり]
わからないな。どうして中断したの?
[#ここから太字]
このクリスタルが、あなたの言葉を記録するの。あなたが話すことはぜんぶ、このクリスタルの八つの切子面に――刻みこまれるというか、焼きつけられるのよ。どういう仕組みなのか、わたしには説明できないけど。それから、べつの機械を使って呼び出すと、あなたがいったことをそっくりそのまままた聞けるの。一語一語、あなたがしゃべったとおりに。
[#ここで太字終わり]
〈まばたき〉が持ってた〈本〉みたいに。
[#ここから太字]
そう。ある意味では……。
[#ここで太字終わり]
でも、そうしてそんなものがいるの? いまのぼくは、ぼく自身、〈本〉とおなじようなものなんだろ。それはわかってるよ、自分ではほんとにここにいるみたいな気がするけどね。いまのぼくはただのクリスタルみたいなものなんだ、でなきゃ――でなきゃ、プラスチックの箱に閉じこめられた蠅みたいなもの……。
[#ここから太字]
なに?
[#ここで太字終わり]
蠅さ。プラスチックの箱の中の。それも、〈まばたき〉が持っていた……教えて。
ぼくはなんなの?
[#ここから太字]
〈しゃべる灯心草〉。
[#ここで太字終わり]
それじゃあ答えにならないよ。
[#ここから太字]
いま真実なのはそれだけ。
[#ここで太字終わり]
頭が混乱しちゃうね。ぼくは自分が自分だという気がするし、それ以外のものだとは思えない。でも、そんなはずはない。
[#ここから太字]
物語をつづけて。物語のほうは混乱してないから。ただ物語を語るのがいちばんよ、はじまりからおしまいまで。あなたの物語のことならわたしたちにもわかってるから。〈まばたき〉のことを話してくれる?
[#ここで太字終わり]
〈まばたき〉。
もし〈まばたき〉が聖人だったんなら、いまのぼくは聖人じゃない。もし〈まばたき〉が聖人じゃなかったのなら、ぼくはほんとに聖人になれたのかもしれない。透明。〈絵具の赤〉の話では、聖人は透明なんだそうだ。でなきゃ、透明になろうとした。いまのぼくがまさにそれ、透明だよね。
〈絵具の赤〉はこういった。「聖人は、真実の語りがたんに理解されるだけのことじゃないのを発見した。重要なのは、よく語れば語るほど、聞き手が自分自身を語り手の中に見るということだ。まるで、鏡を見るようにな。あるいは、鏡以上にはっきりと。聞き手が語り手を通じて自分自身を見つめれば見つめるほど、語り手は透明になってゆく」
それはぼくの、二度目の七番めの年の終わりのことで、ぼくはまた、〈システム〉に自分を読んでもらうために、〈絵具の赤〉の部屋を訪れていた。レンズや四角いガラス板を使って〈絵具の赤〉が作業をはじめる前に、ぼくたちはすわって、林檎を食べながらおしゃべりした。ぼくは、この部屋にはじめて来た日のことを思い出していた。
「いまはどうして聖人がいないの?」とぼくはたずねた。
「そうだねえ」と〈絵具の赤〉はいった。「いまもいるのかもしれないよ。聖人たちは、死んでからずいぶん長いことたって、彼らの物語がまだ生きつづけていることに人々が気づくまで、聖人として知られることはなかった。だから、いま聖人がいたとしても、あたしたちはそれに気づかないんだ」
「でも、ずっと聖人はいないよ。もう何世代も」
「そのとおりだね。小聖ロイと聖オリーブが最後の聖人だ。それと、聖ジーン――いと系が信じているとおり、彼がほんとうに聖人だとしたらね。しかし、静かな時代が、ときには何世紀もつづくことだってある。そういう時代には、忙しい時代が発見したことを学ぶのが唯一の仕事なんだ。それから、新しい発見の時代がやってくる。人々が動きはじめる」
「〈七つの手〉は、もうその時代がはじまろうとしてると思ってる」
「ほう?」
「ベレアを出ていく話をしてるんだ。『待つのをやめて、出迎えにいく』って」
「そうかい」
その語りから、〈七つの手〉がほんとうに新しいことを知っているのかどうか、あるいは、ほんとうにそれを見つけにベレアを出ていく気があるのかどうか、〈絵具の赤〉が疑っていることがわかった。
「それに、ワンス・ア・デイは出ていった」とぼくはいった。
「だれだい?」と〈絵具の赤〉はいった。「ああ、あのささやき系の娘……」〈絵具の赤〉はぼくの顔をのぞきこんだ。「あの娘が聖人になる方法を学ぶために出ていったと思うかい?」
「わからない」
「あの娘のあとを追うつもり?」
「わからない。行かないよ」
ワンス・ア・デイの失踪がようやく発覚したとき、ぼくは質問された。彼女が〈リスト〉といっしょに、みずから進んで行ってしまったことは知っている、でもその理由も、もどってくるつもりがあるかどうかも知らない、とぼくは答えた。そしてみんなは、それが真実であることをさとった。この知らせはまたたくまにベレアじゅうに広まり、非難の声があがり、もうちょっとで会議が開かれるところだった。〈径《みち》〉づたいに伝言がとびかい、金棒曳きたちが集まった。しかし、どの疑問に対しても、答えを出せる者はひとりもいなかった。ささやき系のおとなたちはワンス・ア・デイの行動を前もって知っていたのか? 〈リスト〉が彼女に来てくれと頼んだのか? そもそもどんないきさつでこういうことになったのか? 真実の語り手のあいだでは、こうした謎は生じてはならないはずのものだったが、それでも生じてしまうことはある。小聖ロイはこういっている。「真実の語りは、すべての真実が単純なものであり、語られることが可能だった場合には、真実を語る単純な方法となる」
次の春にやってきた〈リスト〉の交易商人たちの中に、ワンス・ア・デイの姿はなかった。彼らの到着を待つあいだ、ぼくはいろんなことを想像していた。ワンス・ア・デイはもどってくるが、見分けもつかないほど変貌して、真実の語りを語れなくなっている。あるいは、以前とすこしも変わらず、むかしのようにあいさつし、自分が見てきた驚異の数々を話してくれる。あるいは、逃げ出したことを後悔していて、もどるのを許してほしいと謙虚に詫びる。あるいは、〈リスト〉の慣れない環境で体を壊し、命を落として、交易商人たちが彼女の白く悲しい亡骸《なきがら》を運んでくる……。
しかし、そもそも彼女はもどってこなかった。交易商人たちのいうことといえば、娘は元気だ、しあわせに暮らしている、それ以外のことは忘れてしまったが、べつにだいじなことはない、さあ、取引をはじめてもいいか?
その春は、彼らが行ってしまうとすぐ、ぼくらは子どもたちの数を数えた。
毎年春になると、ぼくはワンス・ア・デイを待ったけれど、彼女はもどってこなかった。毎年〈リスト〉が来るのを待ち、彼女を待つことは春の訪れを待つことの一部になった。そのおかげで、春への欲求は以前にもまして強く激しくなり、冬の終わりの退屈は気が狂いそうなほど耐えがたいものになった。さまざまなしるし――雪解け水の急流や渡り鳥の帰還――は、ぼくの心をさらに激しく駆り立てるようになった。ワンス・ア・デイ、あれほど秋を思わせ、あれほど屋内を好んでいた彼女が、いつのまにか、ぼくにとって春を意味するものになっていた。
「おまえは追いかけていかないんだね」と〈絵具の赤〉がいった。「では、どこに行くつもりだね?」
「さあ、ぼくにもわからない」とぼく。「はっきりとは」
「聖人になろうとしている人間にしては、おまえはあまり多くを知らない」〈絵具の赤〉はにっこりほほえんで、「いいしるしだよ」
〈絵具の赤〉にも、ほかのだれにも、リトルベレアを出て、物語に語られるような人生を生きるすべを学ぶつもりだということ――つまり、聖人になるつもりだということ――は話していなかったけれど、〈絵具の赤〉がそれを知っていたとしても驚かない。ぼくはたしかに、〈絵具の赤〉に語ったのだ。いまではもう、ぼくの知っていること、望んでいること、考えていることのどれひとつも、彼女に隠すことはできない。ぼくは真実の語り手なのだし、それを教えてくれたのは〈絵具の赤〉なのだから。
「人生とは」両手を組み合わせ、壁に映しだされた〈システム〉の一枚目のスライドを見ながら、〈絵具の赤〉はいった。「環境だ。環境は周囲をとりまくもの、つまり円だ。聖人の人生の円は、その環境すべては、聖人が語る彼の人生の物語に含まれている。そして彼の人生の物語は、あたしたちがそれを覚えていることに含まれている。聖人の人生の物語はあたしたちの人生の円の中にある。だから、聖人の人生の円は、あたしたちの人生の円に含まれている、水面に広がる波紋の円の重なりのように」
〈絵具の赤〉は、かたい土の床にスカートのあとを残して立ち上がった。てのひら系の細長い箱から二枚目の四角いガラス板をとりだし、それを一枚目に重ねて所定の場所にさしこんだ。壁に映る絵が変化した。色が交じりあってちがう色になり、ものはかたちを変えて、べつのかたちとのあいだに新しい関係が生まれた。
「わかるかい? 聖人は〈システム〉のスライドのようなものだ。スライドそのものではなく、たがいに重なり合うことが、新しいなにかを明かしてくれる」
「〈システム〉が聖人に似ているのは、彼らが自分たちの人生をスライドみたいに透明にしているからなんだね。ぼくらが覚えている彼らの物語によって、聖人の人生をぼくらの人生に重ね合わすことができる。そして、重なり合ったものが、ぼくら自身のことを明かしてくれる。物語や人生そのものじゃなくて、その――」
「重なり合い。ああ、そういうことだ」と〈絵具の赤〉はいった。「聖人が聖人であるのは、彼らがなしたことの故ではない。聖人がそれを語るさいに、彼らのなしたことが透明になり、それを通しておまえ自身の人生が照らされ、それを見ることができるように語ったからだ。
コープ・グレートベレアがなければ、真実の語りもなかっただろう。真実の語りがなければ、透明な人生もなかっただろう。透明な人生において、聖人は、いつかわしらが死から自由になることを望んだ。天使が望んだ不死ではなく、死から自由になると、すなわち、人生を生きているあいだにもその人生を透明にすることだ。〈ファイリング・システム〉や、真実の語りのような方法にさえよらず、みずからの環境の中で[#「みずからの環境の中で」に傍点]透明になること。つまり、人生を透明にする物語を語るかわりに、わしら自身を透明にすること、聖人の人生を聞き、記憶するのではなく、それを生きること。誕生と死とのあいだの瞬間に無数の生涯を生きること」
「どうしてそんなことが可能になるの?」ぼくにはそれを理解することも、想像することさえもできなかった。
「ふむ。もしあたしがそれを知っていたら、偉大な聖人になっていただろうよ。もしかして、おまえがそれを見つければ……しかし、ひとつ教えておくれ、〈しゃべる灯心草〉。真実の語りは、そもそもどのようにしてなされるのか?」
答えは知っているはずだった。ぼくは真実の語り手だったし、その技術がぼくから失われることはありえない。それなのに……どのようにしてなされるのか? ふたつの鏡のあいだにはさまれたものが際限なく増殖してゆくように、〈絵具の赤〉の質問はぼくの頭の中に反響した。寄り目になって視線が交差するように、心が寄り目になっているみたいだった。どうしようもなくて、笑い声をあげた。
「わからない。どんなふうにやるのかわからない」
〈絵具の赤〉もいっしょになって笑った。秘密を打ち明けるみたいに、こちらへ身を乗り出し、ささやくようにいった。
「そうか、そうかい。なあ、〈灯心草〉、このあたしも知らないのさ!」
まだくすくす笑いながら、〈絵具の赤〉はてのひら系のスライドをおさめた細長い箱をとり、準備にもどった。ガラス板の上で指先を動かしながら、〈絵具の赤〉はふと思いついたように、
「〈灯心草〉、前に一度たずねたことがあるね、このスライドはどういう名前で、どんなふうに組み合わせるのかと」
「うん」
「まだ知りたいかい?」
「知りたい」
「きょうがその日だ」そういうと、〈絵具の赤〉は別れのときのようなやさしさをこめた目で、長いあいだぼくを見ていた。「いま映している最初のスライドは、〈四番めの発見者〉で、てのひら系のスライドだ。ほら、まんなかの線がまじわっているところに、てのひらに似た模様があるだろう? さっきそれに重ねたもう一枚は、〈小さな最初の裂け目〉という。二枚合わさると、〈小さな結び目〉になる」
〈絵具の赤〉は三枚目のスライドを箱からとって、二枚のうしろに重ねた。
「〈小さな結び目〉と、〈両手〉で、〈ほどかれた小さな結び目〉になる」もう二枚、スライドを重ねて、「〈ほどかれた小さな結び目〉と、〈階段〉のスライド二枚で、〈大きな結び目〉になる」
〈絵具の赤〉は慎重な手つきで薄いガラス板を箱からひっぱりだしては筒の下にはさみこんでゆく。
「〈大きな結び目〉と〈最初の罠〉で、〈小さな罠〉になり、〈小さな罠〉と〈遠征〉で〈小さな二番目の門〉か、このは系の場合には〈はずされた大きな罠〉になる。〈小さな二番目の門〉と〈球技場〉で、〈門〉になる」
壁の模様はしだいにもつれあい、暗くなり、無限にからみあっていく。それまでのスライドと重なって、一枚のスライドがある模様をつくりだしたかと思うと、次のスライドがその模様を歪める。いまではもう、どんな模様も見えなくなっていた。〈絵具の赤〉の両手は、箱に残ったスライドの上でとまっている。
「〈門〉と二番めの大きな〈裂け目〉に、〈破れた心〉と〈砕けたかけら〉をぜんぶいっしょにすると、〈ほどかれた大きな結び目〉になるといわれている。しかしそれだけたくさんのスライドを一度に読める者はひとりもいない。〈門〉を多少なりとも理解できる者の中にも、そこまで読む糸口をつかめた者さえいない」
〈絵具の赤〉はレンズの筒に手を触れて、像を鮮明にした。〈絵具の赤〉が筒を動かすと、重なり合った像に焦点が合い、またずれた。〈絵具の赤〉はこちらにやってきて、またぼくの横に腰を下ろした。
「金棒曳きたちは、長年の探索の結果、いまでは、〈門〉から先は読むことができないことを知っている。だから、もし〈ほどかれた大きな結び目〉が全セットだとすれば、〈ほどかれた大きな結び目〉はけっして読まれることがないんだよ」
「それはつまり、もう役に立たないってこと? 読めないとわかってるんだから。役に立たないんでしょ?」
「いやいや」と〈絵具の赤〉はいった。「そういうことじゃない。〈小さな結び目〉でさえも、そこから学ぶべきことのすべてをわしらが学んでしまうまでには、長い時間がかかるだろう。しかし……。聖オリーブの時代、〈システム〉がはじめてきちんと探索されはじめたころには、輝かしい未来が約束されているように思われていた。つまり、いつかはきっと、すべてをいっしょに見ることができて、すべての質問に答えが与えられるだろう、と。いまのわしらは、そうではないことを知っている。そんなことはけっして起こらない。そのことがはじめて理解されたとき、みずからの〈システム〉を破壊して、ベレアをあとにした金棒曳きたちがいた。さびしい時代だった」
〈絵具の赤〉は眼鏡をきちんとかけなおした。
「あたしにとっては……ふむ、あたしは、〈システム〉に、幾生涯も学びつづけられるだけの脇道や蛇の手やいろんなものがあることを知っている。系にまつわるシステムの叡知、系の結び目や悶着に関する叡知を使って、たっぷり仕事ができる」〈絵具の赤〉は〈門〉に目をやった。〈門〉の放つ光が、彼女の眼鏡に反射した。「そして、すべての答えはそこにあるんだよ、〈灯心草〉、あたしには読めないが。あたしにはけっしてわからないが、〈システム〉は人間のすべてを知っている。それだけわかっていれば、〈システム〉のそばにとどまる理由としてはじゅうぶんじゃないか」
〈絵具の赤〉は長いあいだ黙りこくっていた。前より老けこんでしまったように見えた。それから、「いつ出発するんだい?」とぼくにたずねた。
「春に」とぼくは答えた。「それまでには準備ができてると思う」
「聖人か。なあ、〈灯心草〉、七年前、おまえがはじめてやってきたとき、おまえはちがう望みを持っていた。外の世界であたしたちの失われたものすべてを見つけ出し、ここに持ち帰るという望みを」
「うん」
「おまえのささやき系の娘も、失われたもののひとつなのかい?」
ぼくはなにもいわなかった。〈絵具の赤〉はこちらに目を向けず、〈門〉だけを見ていた。
「ふむ、もしかしたら、けっきょく、ちがう望みではないのかもしれんな、ほんとうのところは……」〈絵具の赤〉は両手でひざをたたいた。「いや。だめだ。今年はおまえのために読むのはやめておくよ。おまえがほんとうにやる気なら、読むことは助けになると同時に傷つけることもありうるからね。それでいいかい?」
「それが正しいと思うんだったら」
「思うよ」と彼女はいって、ぼくの手を借りて立ち上がった。「思うとも」
ありえないことだけれど、ほとんど一瞬のうちにぼくの背が〈絵具の赤〉より高くなるか、それとも彼女の背が縮んでしまったような気がした。〈絵具の赤〉は、力強い両手でぼくの肩をつかみ、
「出発するときは、わしらのことや、わしらに必要なもののことを忘れるんじゃないよ。なにを見つけようと、それがわしらに役立つものなら、とっておきなさい。ここで得た知識を箱につめて持っていくがいい、きっと役に立つから。そして、どんなに遠くへ行っても、見つけたものを持ってもどってくるんだよ」
そして〈絵具の赤〉はぼくを抱きしめ、彼女のもとを辞したぼくは、そらで覚えている〈径〉の迷路を走った。通ってゆく部屋や通路も、とつぜん小さくなってしまったような気がした。もし〈絵具の赤〉が読んでくれていたら、〈システム〉はぼくとぼくの努力についてなにを見せてくれただろう。どんな可能性、どんな失敗が見えただろうと考えた。そしてぼくは、自分の子ども時代とリトルベレアとを結びつけていた絆《コード》が切れるのを感じた。ぼくはすこしだけなにかを失い、すこしだけ自由になった。でも、〈絵具の赤〉はいちばんよくわかっているはずだ。たとえほかのことをなにも知らなかったとしても(もちろんほかにもいろんなことを知っているのだけれど)、〈システム〉が明かすことを話していいときと悪いときを知らないわけがないのだから。
それにしても、リトルベレアを忘れるなんて! ぼくがリトルベレアを忘れることがありうるなんて、よくもそんなことを考えられたものだ。遠く離れれば離れるほど、ぼくの心の中でリトルベレアは大きくなる。街を流れる川、虫や鳥、木苺の茂み、そして、おそらくは〈ファイリング・システム〉や彫り箪笥の中のものに隠された、リトルベレアの中心にある謎。たしかにいまでは――樹上の家で暮らし、ドクター・ブーツからの手紙を受けとり、暗くなり明るくなり、復収者《アッヴェンジャー》として生きたあと――さまざまな道筋に分かれたり合流したりを経験したいまになってみると、森に囲まれたあの場所はただの想像で、ぼくはそもそも真実の語り手なんかじゃなく、口にしたことを心で思っているわけでも、心で思っていることを口にするわけでもなくて、なにもかもぼくのつくりごとなのだと思うこともある。でも、たとえそれが夢だとしても、それは真実を語る声、嘘をつくことのできない声が口述した夢なんだよ。
[#改ページ]
第二の切子面
[#ここから太字]
でもあなたは、ほんとうにワンス・ア・デイをさがしにいった、そうでしょ?
[#ここで太字終わり]
わからない。たぶんそうなんだろうな。自分でもわからなかったけど。
子どものころは、失われたぼくたちのものを見つけ出すのが夢だった。大きくなるにつれて、聖人たちの物語を聞き、〈七つの手〉の話を聞くにつれて、新しい野心を持つようになった。聖人になりたい。不思議な冒険をして、その物語を語りたい。忘れられた秘密、ワンス・ア・デイがぼくから隠しつづけたものよりもっとすごい秘密を学びたい。ぼくが語る物語にあらわれる世界を理解したい。
〈絵具の赤〉は、ぼくのほんとうの望みはワンス・ア・デイを追いかけることなんじゃないかと疑っていた。ワンス・ア・デイこそ、ぼくがいちばん見つけ出したいと願っている失われたものなんじゃないかと。
〈絵具の赤〉が話してくれたところでは、聖人たちがやろうとしたのは、透明になることなんだそうだ。
その春、自分がいちばん望んでいることがなんなのか、あるいは自分がなんになるのかなんて、ぼくにわかるわけがなかった。ああいうことすべてが真実で、そのすべてがひとつ残らずぼくの身に起きるなんて、どうして予想できただろう。
まあとにかく、ぼくにはなにひとつ予想できなかった。ぼくが考えたのはこうだ。〈絵具の赤〉が最近の聖人たちについてなんといおうが、この世界のどこかに、きっと聖人がいるはずだ。ぼくがなりたいと思っている聖人のような聖人がいるはずだ。だから、まずしなきゃいけないのは、そういう聖人を見つけ出し、彼の前にすわって彼を研究し、いまのぼくには想像もできない状態、つまり透明になるすべを学ぶことだ。
〈七つの手〉とぼくは、何度も連れ立って探険に出かけた。ときには、目に見えるものを見るためだけに、ベレアの外で一週間過ごしたこともある。岩登りのやりかた、濡れた木で火を起こす方法、方角を見定め、どっちに向かって歩いているかわからないという不安抜きに一日じゅう歩きつづけること。準備。こういうことすべてを、〈七つの手〉はそう呼んだ。リトルベレアを出る決意が強まるにつれ、ぼくはこうした準備にもっと熱を入れ、もっと注意を払うようになった。そして〈七つの手〉は――ふたりで話したことは一度もなかったけれど――ぼくたちのしている準備が、けっきょくはぼくの準備で、彼の準備ではないことを知るようになった。
ぼくの持ち物は、青い毛織のシャツ、パンとパイプ、干し果実と木の実を少々。それに、〈七つの手〉がつくってくれた軽くて強いハンモックと、その上にかければ即席のテントになるビニール張りの布。〈四つ壺〉と、ほかの薬も持っていった。〈|わたしの目《マイ・アイズ》〉がつくってくれた新しい眼鏡もある。レンズの色は黄色で、白い五月の朝を真夏に変えてくれる。ぼくはおもしろがって、その眼鏡をかけたりはずしたりしながら、ときおり聖人をさがして木の枝を見上げた。
[#ここから太字]
木の枝を?
[#ここで太字終わり]
聖人はいつも、ぼくたちふつうの人間からは離れて住んでいるし、林の中に家を建ててることが多いんだ。なぜだか知らないけど。むかしの聖人みたいに、ぼくもいつか樹上の家に住もうと思ってた。よく見かける、枝が低く張りだした樫《かし》や楓の大木がいい。ぼくはもう、自分がこれからなるつもりの聖人を好きになっていて、その老人の姿を妙に鮮明に思い浮かべることができたし、はっきり聞きとれるわけじゃないけど、老いた自分が語るだろう魅惑的な物語が聞こえるような気がした……。
日が高いうちは、小さな森にもぐりこんで、パンの煙をくゆらせた。そばにはぬかるんだ小川があって、ときどき野生の牛が水を飲みにやってきた。進みつづける以外、することはなにもなかった。ぼくの冒険はまだひと朝過ぎただけだというのに、もうとてつもなく長い旅に思えはじめていた。そこでぼくは、旅の荷を軽くすることにした。
〈四つ壺〉の中のひとつ、銀色の壺が、旅の荷を軽くする薬だ。中にはいろんな大きさの、消し炭みたいな小さな黒い粒がたくさん入っている。前にンババがこの壺をあけて、粒のひとつを飲むのを見たことがあったから、それはわかっていた。旅の荷を軽くするには、自分がめざしている目的地、途中の道筋、いつ到着するつもりなのかを前もってはっきり知っておく必要がある。〈あの川〉までの道は知っていたし、〈七つの手〉といっしょに渡ったあの鉄骨の橋までたどりつくには、夕方近くまでかかるのもわかっていた。だからぼくは、壺を割って開くと――自分の身になにが起こるかに多少の不安と怯えを感じつつ(というのも、自分で飲んだことは一度もなかったから)――小さめの黒い粒をひとつ選び、それを飲んだ。
しばらくして、道に影を落としている大きな楓の木のそばまでやってきたころ、ぼくの歩調がゆっくりになってきた。楓の枝を吹き抜ける風の音も間延びして、うめき声のように低くなり、さらに間延びして、とうとう聞こえないほど低くなった。鳥のさえずりも、木の葉のそよぎもゆっくりになってゆく。陽射しは薄暗くかすんで、まだ昼間だというのに、日蝕の光みたいな青い闇に変わった。一本の小枝、つぎには一枚の木の葉が、ぼくの注意をひきつけた。一歩足を踏み出し、つぎの一歩を踏み出すまでのあいだに、その木の葉をじっくり観察するだけのゆとりがあったけれど、その葉を照らす陽射しはすこしも動かず、鳥の低いさえずりは、一音一音が無限の長さを持っていた。ぼくは無限の忍耐力で、上げた右足が地面に下りるのを待った。右足はいつまでたっても地面につかないように思えたけれど、木の葉と鳥のさえずりと音のない風のうめきが消え去ったとき、右足がようやく地面を踏み、そして気がつくと〈あの川〉が目の前にあった。場所は鉄骨の橋のすぐ下流。太陽が沈みかけていた。
びっくりして、思わず笑い声をあげた。旅の荷を軽くする! 午後いっぱいかけて何マイルも旅したのに、ぜんぜん気づかなかったんだ! 荷を軽くする黒い消し炭をひとつ飲んだあと、一日がかりの仕事を終えた老人たちが、ちょっとびっくりしたみたいな顔でくすくす笑っているのをいくどか見かけたことがあるけれど、その笑いの意味がやっとわかった。
やってきた道をふりかえり、夕風にそよぐ木々の葉をながめ、道程を知らずにここまで来たことを後悔した。百度も経験したことなら、あるいは気乗りしない旅なら、荷を軽くするのもいい。けれどこの薬は、新しい旅や、新しい聖人のためのものじゃない。教訓その一だな、と心の中でつぶやいて、その小さな壺を放り投げた。茶色にふくれあがった川面をかすめて飛び、壺は水の中に沈んだ。
〈あの川〉の向こうにかかる太陽は、まだ山々のいただきを照らしていたけれど、川べりの草むらや根のあいだには闇が忍び寄り、ちょっと寒くなりはじめていた。蛙が一匹、ぱちゃんとはねた。ぼくは腕を組んで、目の前を流れてゆく水をながめていた。体はくたくたに疲れていたし――じっさい、ずいぶん遠くまでやってきたものだ――持ってきたマッチの数はそんなに多くないから、いま煙をくゆらせるだけの余裕があるかどうか心もとない。
と、そのとき、じゃぶじゃぶバシャバシャの音とともに、男がひとり、川の上を歩いてきた。水は男の胸元まであり、肩が勢いよく動いているのが見える。男のうしろには航跡ができていた。暗がりにいるぼくには目もくれずに前を通り過ぎ、すごいスピードでまっすぐ流れを進んでゆく。
すごいや! 考えるより早く川岸を走り出し、根っこにつまずいたり泥に足をとられたりしながら男を追いかけた。一瞬見失ったが、のどかに過ぎゆく木々のあいだにちらっと男の姿が見えた。きちんと編んだ辮髪《べんぱつ》と、ひらひらする濡れた白いシャツ。川岸の柳やぶどうのつるを押しわけ、足もとのぬかるみと格闘しながらしばらく進むと、川にかかった木の桟橋に、あたりまえの人間のように立っている男が見えてきた。辮髪の水を絞りながら、かたわらの女に笑いかけている。女はタオルでせっせと男の体を拭いてやっていた。茂みを這い下りてきたぼくにふたりが気づいた瞬間、ぼくは足を踏みはずし、カワウソみたいに泥の川に飛び込んでしまった。
ふたりは笑いながら、ぼくがどうやってここまで来たんだろうと不思議に思いながら手をさしのべ、ぼくをひっぱりあげてくれた。そのとき――水をはねちらかしている最中に――ぼくはやっと、彼らが真実の語り手だということに気づいた。ふたりの手を借りて、ぼくは木の桟橋に這い上がった。桟橋のたもとには階段がついていて、川岸の一軒家につづいている。桟橋の突端には、男が川面を歩くことを可能にしていたからくりが係留されていた。いまはだれも乗っていないので、水の上に浮かんでいるのがはっきり見える。それは軽金属でできたふたつの大きな円筒で、あいだに座席とハンドルがとりつけられ、動かすための幅広の足踏みペダルがついていた。この人はしめがね系なんだと、それでわかった。彼が川を歩いているのを見てどんなにびっくりしたか話そうとしたが、ちょうどそのとき、川岸の家の戸口から男の子がひとり飛び出してきて、ぼくの姿を見ていきなり立ち止まった。ぼくより二つほど年下だけど、すでに真っ黒に日焼けして、髪の毛の色は陽光で槌せていた。手には棒を持ち、首に結んだ青い帯ひも以外は真っ裸だった。
どう自己紹介したものかと考えていると、またひとり、戸口から男の子が出てきて、ぼくの姿を見て立ち止まった。真っ黒に日焼けして、髪の毛の色は陽光で槌せている。手には棒を持ち、首に結んだ赤い帯ひも以外は真っ裸だった。
ふたりは、ぼくが生まれてはじめて見た双子だった。濡れた服を絞るあいだ、ふたりを見つめないでいるのはほねだった。ふたりのほうもぼくを見つめていたけれど、べつにぼくの姿にどこか変なところがあるわけじゃなかった。そのときはふたりの表情の意味がわからなかったが、それは、めったによそ者を見たことがない人に特有の表情だった。
「こっちは〈|芽生え《バディング》〉で、そっちが〈|花盛り《ブルーミング》〉だ」と、男がいった。ぼくはこらえきれずに笑いだし、男もいっしょになって笑った。「おれは〈|縫い合わせ《ソーン・アップ》〉で、この女は〈|月なし《ノー・ムーン》〉。さあ、中に入って体をかわかしなさい」
男のほうはまちがいなくしめがね系、女のほうはきっとこのは[#「このは」に傍点]系だ、とぼくは思った。ふたりの男の子のほうははっきりしない。たぶん、ふたりいるせいだろう。
家の中に入ると、水面に照り映える夕日の輝きが、天井と垂れ布をかけた暗い壁とに映り、まるで水の底にいるような感じがした。川のせせらぎが眠気を誘い、水歩きとその家族といっしょにこうしてすわっていると、友だちの家を訪ねてきた魚みたいな気分だった。〈縫い合わせ〉は、ガラス製のパイプを下ろしてパンをつめながら話した。いい声だったけれど、妙な響きがあったせいでぼくは笑い出し、〈月なし〉はもっと大きな声で笑った。ぼくは彼に、どうしてリトルベレアに住まないのかとたずねた。
「そうだな」と彼はいって、スプーンの先ですくえるくらいの小さなパンのかけらを吸っているふたりの息子を指さし、「この子たちは水が好きだし、リトルベレアを流れる小川だけじゃ不足なんだよ。ふたりのンババから、息子たちがふさぎこんでいる、と聞いてね。そこでおれは、そんなに水が好きならもどってきてここで暮らせ、でも、人間が好きなら――つまり、おれたち以外の人間が好きなら――リトルベレアにいたほうがいい、といった。ふたりは相性ぴったりだから、いっしょにここにいるというわけさ」
「ぼくたちはここで生まれたんだ」と〈花盛り〉がいい、〈芽生え〉は「ここがぼくたちの場所なんだ」といった。「わたしがこの子たちをしばらく連れもどしたの」と、〈月なし〉がいった。「いまもむかしも、ここはわたしの家だけど、ある意味ではふたりの家でもあるわけだから。でも、この子たちはここが気に入ったの」
「息子さんたちは、真実の語り手にならないんですか?」
「もしわたしたちが真実の語り手なら、息子たちもそうなるはずでしょ。川岸のこの家には真実の語り手がふたりいるけど、リトルベレアにはひとつも川がない。だから、ここでなら、なにもかもうまくいくの」
息子たちにとってもそのほうがいいと〈縫い合わせ〉はいった。人々はいつもふたりのことを特別扱いする。ふたりに会うためだけにはるばるやってくる人間までいた。しかし、〈縫い合わせ〉としては、息子たちに増長してほしくなかった。ほんとはおまえたちに特別なところなんかまるでないんだぞと息子たちにいいきかせたそうだ。息子たちは父親がそう話しているのを聞いてもなにもいわず、黙って瓜ふたつの笑みを浮かべているだけだった。ふたりは自分たちに特別なところがあるのを知っている。それはぼくたちもおなじだった。
冷たい部屋には、乾燥した濃密なにおいがたちこめていたけれど、ただの空気より呼吸しやすいくらいだった。〈縫い合わせ〉が話すと、鼻と口から出る煙がその言葉を真似した。
「リトルベレアを出て暮らすことをおまえさんが妙だと考えるのこそ、妙な話だな」青い灰の上に新しいパンをまきながら、〈縫い合わせ〉がいった。「おまえさんもおなじ道を選んでるようだし、おれたちが決断したときよりずっと若いじゃないか」
いえ、ちがうんです――といいかけて、考え直した。そう、たしかにそのとおりだ。何年も何年も先まで、リトルベレアに帰るつもりはない。それでも、〈芽生え〉と〈花盛り〉のことがかわいそうだった。世界でいちばんすばらしい場所で暮らすことができないなんて。「ぼくはただ、そう、歩きまわってるだけなんだ。いつかは帰ります。このままずっともどれないとしたら、ぞっとするな」
ほんとにぞっとするような気がしたのは、このときがはじめてだった。
「ともかく」と〈月なし〉がいった。「好きなだけ長くここにいてちょうだい。部屋はあるから」
そこで、迷路街のニュースの種がつき、〈月なし〉がともした光が暗くなったころ、ぼくはふたりの少年のあとについて螺旋階段を登り、四方にガラス窓のある部屋に入った。外は晴れて、夜空に小月がかかっていた。眠いには眠かったけれど、ぼくたち三人がちくちくする毛布の下でおとなしくなったのは、ずいぶんたってからのことだった。ぼくは横になったまま、〈芽生え〉が〈花盛り〉のいいかけた言葉を、〈花盛り〉が〈芽生え〉のいいかけた言葉をひきとっていい終えるのを、感心して聞いていた。まるでひとりの人間がしゃべっているみたいだった。ぼくにはわからないことでくすくす笑いながら、ふたりはカワウソみたいにごろごろ転げまわった。夕方見たときはずいぶん日焼けしていると思ったけれど、夜の薄明かりの下、黒っぽいシーツの上では、ふたりの肌は白く見えた。
ふたりは宝物を見せてくれた。ベッドの下につっこんだ箱にしまってある亀の甲羅と、干し草の巣にいる、鼻面の曲がった鼠《ねずみ》。そして最後に、壁の隠し場所からそっととりだしてくれたのが、ふたりのいちばんだいじな宝物だった。透きとおったプラスチックの小さな立方体で、その中には、飛んでいる最中の姿で静止した一匹の蠅がいた。本物の蠅だ。プラスチックの立方体の中に、どういうわけだか、蠅が浮かんでいる! ぼくたちはひたいを寄せ合い、月明かりの下でそれを何度もひっくりかえしてみた。
「これ、どうしたの?」とぼくはたずねた。「なにか物語はあるの? どこで手に入れたの?」
「聖人がくれたんだ」とひとりがいい、もうひとりがなにかべつのものをとりだそうとしたが、ぼくはあわててそれをさえぎり、
「聖人がくれたって? どんな聖人?」
「ぼくたちの知り合いの聖人だよ」と〈芽生え〉がいった。
「聖人と知り合いなのかい?」
「これをくれた人さ」と〈花盛り〉がいった。
「どうしてくれたの? それはなに?」
「知らない」とひとりがいう。「教訓だっていってた。上下左右ぜんぶ見えるし、自分を捕まえているものはなにも見えないから、蠅は空中を飛んでるつもりでいる。なのに蠅は動けない。それを教訓にしなさいっていってたよ」
「ただの贈りものだよ」ともうひとり。
「その人に会えるかな?」とぼくはたずねた。息せき切ったぼくの口調に、ふたりはびっくりしたにちがいない。「遠くに住んでるの?」
「うん」と片方。
「ううん」ともう片方。「そんなに遠くないよ。午前中いっぱい歩くだけ。連れてってあげるよ。きみのこと気に入らないかもしれないけど」
「きっと気に入るさ」
ふたりはたがいに顔を見合わせ、笑いだした。
「たぶんそれは」と〈芽生え〉がいい、「ぼくたちがふたりいるせいだね」と〈花盛り〉がいい、ふたりは両腕を相手の体にまわして立ち上がると、ぼくに向かってにっこり笑った。
このは系らしい礼儀正しさで、ふたりは寝る場所をぼくに選ばせてくれたのに、ぼくは長いこと寝つかれず、茶色の川のせせらぎに耳を傾けていた。あしたになれば、もう聖人に会えるんだ。こんなに早く!
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第三の切子面
朝になると、〈縫い合わせ〉が例のからくり仕掛けで、ぼくたちを〈あの川〉の対岸に渡してくれた。そのあいだじゅう、〈縫い合わせ〉はひっきりなしに笑ったり冗談をいったりで、その朝の彼ほどしあわせそうな人間を見るのははじめてだった。唯一例外があるとしたら、その朝のぼく自身だろう。なんといっても、いよいよ本物の聖人に会いにいくんだから。〈芽生え〉と〈花盛り〉は厚手のシャツを着ていた。朝の空気は刺すように冷たく、〈あの川〉にもその支流にも霧がぶあつくたれこめていて、ぼくはぞくっと身震いした。〈月なし〉は、余分のパンと、冬のあいだにつくりおきしてあった葡萄《ぶどう》のソーダをつめたきれいなプラスチックの瓶と、それにキスをくれた。
「秋には迷路街に行くから」と〈月なし〉はいった。「あなたに会ったこと、元気でいるってことを伝えるわ」
彼女に託す千の伝言を思いついたけれど――迷路街を出てたった一日しか経っていないのに!――ぼくは黙って、冒険者にふさわしいぶっきらぼうなうなずきをひとつ返しただけで、〈縫い合わせ〉のあとにつづいて仕掛けに乗りこんだのだった。
双子とぼくは、流れの速い支流に沿ってしばらく歩いていった。やがて流れがおだやかになり、両岸を林にはさまれた場所に出た。太陽が天高く昇り、暑さで霧が消えるころ、ぼくたちは入江にたどりついた。皿のかたちをした小さなボートが、水辺の若木のあいだにもやってある。天使が白いプラスチックでつくったもので、(この世界の多くのものとおなじく)天使たちがまったく予想もしていなかった用途に供されていた。へんてこなうねや突起、奇妙なかたちからして、ボートとしてつくられたのでないことだけはたしかだ。風はなく、たいへんな暑さになっていたから、〈芽生え〉と〈花盛り〉はほかほかのシャツを脱いで、そのボートの底に投げ捨てた。ぼくはそのシャツの上に腰を下ろし、双子が流れに棹《さお》をついてボートを漕ぎだすのを見物した。ボートが入江を出たとき、水辺に咲く白い花がいくつか流れてきた。ふたりはそれを水から引き上げて、帽子がわりに頭にのせた。ふたりは、木々の葉が水面に落とす影の下、頭に花をのせたきりの裸で、上流へとボートを漕ぎすすめた。
流れが浅く速くなり、川底に黒っぽい岩が目につくようになると、ぼくたちはボートをもやい、しだいにせまくなってくる岩がちの岸辺を、上流に向かって歩き出した。あたたかい森の中を流れてはいても、遠くの山々からの雪解け水がまじる小川は冷たく、涼しい風を運んできた。川岸に青々と茂るシダ植物を踏みしだいて長いこと歩いたあと、〈芽生え〉と〈花盛り〉が、静かにしろとぼくに合図して、川岸の土手を登りはじめた。土手の木立を抜けると、小さな白い花が咲き乱れる、日あたりのいい小さな草原があり、斜面の真ん中に、聖人が横たわっていた。
聖人はぐっすり眠っていた。両手を胸の上で組み、いびきをかいている。足には大きなブーツをはき、ひざを立てていた。白い髪の毛が体のまわり一面に広がり、小さな茶色の顔一面を白いひげがおおいつくして、まるでたんぽぽの綿毛みたいに見える。ぼくたちは聖人のそばに忍び寄った。そのとき、〈芽生え〉が〈花盛り〉の耳元でなにかささやき、〈花盛り〉が笑い声をあげた。その声で聖人は目を覚まし、がばっと身を起こすと、とまどったように周囲を見まわした。ぼくたちの姿を目にとめた聖人は、音をたてて鼻をすすり、ぶつぶついいながら立ち上がると、牧場を横切って森のほうへとよろよろ歩いていった。〈芽生え〉は叫び声をあげ、飼っていた小鳥に逃げられたときみたいに、聖人を追いかけはじめた。〈花盛り〉もそのあとにつづいて走っていったが、ぼくはといえば、ふたりのやりかたに面食らい、ひとりで残っていた。
聖人が姿を消した森の中をしばらくドタドタ歩きまわったあと、ふたりはあえぎながらもどってきた。
「木の上にいる」と〈芽生え〉がいった。
「こうなったら、もう見つからないよ」と〈花盛り〉がいって、唾をつけた指で太腿の長いひっかき傷をなでた。
「どうして放っとかなかったんだい?」とぼくはたずねた。「いつかは目を覚ましただろうし、それを待ってればよかったのに」
「〈花盛り〉が笑ったせいだよ」と〈芽生え〉がいった。「だから彼が目を覚まして……」
「〈芽生え〉が笑わしたんだ」と〈花盛り〉がいった。「だから逃げちゃった」
「きみを見た、そのせいさ」と〈芽生え〉がいった。「ぼくらのことは怖がってないもん」
ひとりで近づけたらよかったのに、とぼくは思った。もうこうなったら、彼に気に入られる望みはない。双子たちは、聖人のことなどたいして気にしていないらしい。あの小柄な老人を追いかけていったときとおなじ熱心さで、いまはバッタのあとを追いかけている。やがて、ふたり並んで腰を下ろすと、しばらくつっつきあったり囁きあったりしていたけれど、そのうちぼくのすわっている丸太のところにやってきた。
「聖人が逃げちゃったことはあやまるよ」と〈花盛り〉がいった。「でも、とにかく彼の姿は見られたわけだし、聖人がどんなかっこうをしてるかはわかったでしょ。そろそろ帰ろうよ」
ぼくの落胆を目のあたりにしているせいか、〈花盛り〉の口調はやさしかった。しかし、いますぐ出発したとしても、帰りつくころには夕暮れをとうに過ぎているだろうと彼はいった。
「ぼくはここに残る」
ふたりはぽかんとしてぼくの顔を見た。
「あしたの朝には、聖人も木から降りてくるかもしれない」とぼく。「そうしたら、彼に話をして、寝てるところを邪魔したことやなんかのお詫びをいえる。そうするよ」
「わかった」双子の片方がいった。「そうしたいんなら、かまわないよ。でも、ここへはぼくたちが連れてきてあげただろ。ひとりで帰れるかな?」
そのときとつぜん、自分でもびっくりするような考えが浮かんだ。双子がぼくとおなじくらいびっくりしてくれればいいなと思いながら、ぼくはいった。
「ぼくはもどらない」ぼくはもう、もどるつもりはないよ、双子たち。だからきみたちは、勝手にバッタを追いかけてればいい。「ここに残って、彼がやってくるのを待ち、ここで彼といっしょに暮らすよ。それから、たぶん聖人になる」
双子たちはまた腰を下ろし、ぼくと森とを交互にながめ、それからおたがいに目を見交わして、ぼくのいったことをしばらく考えているふうだった。それから、〈芽生え〉が立ち上がってぼくのそばにやってくると、まじめな顔でぼくの頬にキスした。〈花盛り〉もそれにならって、反対側の頬にキスした。ふたりは、草原のはずれに置いてきたぼくの荷物を運んできて、ぼくのそばに置いてくれた。そしてそれ以上一言もいわずに背を向けると、小川のほうに歩き出し、川辺のハコヤナギのあいだに姿を消した。
このは系の特徴のひとつは、ふだんはとても地に足のついた考え方をするけれど、必要とあれば、突飛な考え方にもすぐに適応することだ。
すわっているぼくの頭上に、夕闇がたれこめてきた。小さな草原の静かな空気の中で、生まれたばかりの小さな虫たちの群れがダンスを踊った。考えれば考えるほど、さっきの決断は分別のあるものに思えてきたけれど、いかに分別のある決断だったかと考えれば考えるほど、立ち上がって、この牧場のはずれの森に聖人をさがしに行こうという気がしなくなる。
ぼくは、彼になんといって謝罪するかを、頭の中で練習した――「やあ、どうも」とか、せいぜいそんな言葉しか思い浮かばなかったけれど、説得力と重みを持つようになるまで、何度も何度も口の中でそれをくりかえした(心に強く念じるだけでも、練習になる)。でも、最後の最後にぼくを森へと向かわせたのは、頬に焼けつく双子のキスの感触と、もしこのままおめおめ引き返したとしたら(つまり、そもそも帰り道を見つけられたらの話だけれど)自分がどんな気分になるかということだった。もちろん、双子はこのは系だから、べつだん気にもしないだろう。ぼくに再会できたことを単純に喜んでくれるはずだ――でもなぜか、そう考えるとよけいつらいような気がした。
だから、夕闇が迫る中で立ち上がり、ひょっとしてすぐそばにいるかもしれない聖人の邪魔をしないように、足音を忍ばせて森の中へと分け入った。森の中はもうほとんど真っ暗で、奥深く進んでいくにつれて、さらに闇が濃くなってきた。森を吹き過ぎる風は警告するようなささやきで枝をきしませ、やがてまもなく、転ばずに歩くのが不可能になった。壁のように立ちはだかる、巨大な樫の木――この森の源にちがいないという気がした――の下に来ていたので、風よけになってくれる大きな根っこのあいだに腰を下ろした。
ハンモックの準備をするには暗すぎたけれど、葉むらのあいだから星がひとつのぞいていたし、風はおだやかだった。ここでなら一晩すごせそうだ。自分の言葉どおり聖人になるつもりなら、水辺の家のことやベレアのことをくよくよ考えていてもしかたない。とはいっても、ひざを抱えてすわっているあいだ、それを考えずにいるのは至難の業《わざ》だった。ぼくはパンのかけらを紙に巻き、下に落ちたくずは注意深く拾い集めた。数日分の食料は持っているし、〈七つの手〉が教えてくれた食べられる木の根や木苺はどこにでもある。ただし、この季節では木苺はまだ熟していないだろうけれど。ほんとうに空腹になれば、小動物をつかまえて、火にあぶって食べることだってできる。むかしの人々はそうしていたんだから。それに、もしあの人がほんとうに聖人なら、自分の森にいるぼくを飢え死にさせるようなことはしないはずだ。
もし飢え死にしたら……。ぼくの身にふりかかるのは、あるいはそういうことなのかもしれない。悲しいことだけれど、未来の人々はそこから教訓を学びとるのかもしれない。ぼくはこの聖人物語の一部になるから、けっして死ぬことはない――〈絵具の赤〉がいっていたのは、こういうことなんだろうか。ワンス・ア・デイのことを思い、彼女がいつかその物語を耳にするだろうかと考えた。そのとき彼女は学ぶ――なにかを学ぶのだ。すわったまま、頭上の葉むらのそよぎのあいだからのぞく夜空を見上げ、死ぬことについて思いをめぐらした。
「そうやってひと晩じゅうそこにすわってる気なら」と、頭上で小さな声がした。「水を汲んできてくれんかな」
はっともの思いから覚め、頭上の闇を見上げた。いまもたれている樫の木の黒々とした葉陰に、白いあごひげがかろうじて見えた。さっきなんとあいさつするつもりだったのか、もう思い出せない。ひげが消え、やがて黒いものが降ってきた。あわてて身を伏せると、それはがちゃんと音をたててすぐそばに落ちた。プラスチックのバケツだった。ぼくはバケツをとって立ち上がり、木の上を見上げた。
「どうかな」と小さな声がいう。
ぼくはバケツを持って森を出て、斜面を下り、小川の黒い水を汲んで、根っこにつまずきながらもどってきた。また樫の根もとに立つと、枝のあいだから鉤のついたロープが降りてきた。バケツをそれにひっかけ、それが闇の中にするすると上がっていくのを見送った。
「なんだ、ほとんどこぼれちまってるじゃないか」
「暗いんですよ」
「ふむ。もう一回行ってもらわんとな」
バケツがまた降りてきて、ぼくはまた水を汲みに行き、今度はなるべくこぼさないように慎重な足どりでもどってきた。もうあの顔はあらわれなかった。首が痛くなるまで樫の木の上を見上げていたが、ピチャピチャ水がはねる音とドシンドシンという音が聞こえただけで、聖人はもう二度と口を開かなかった。
夜明けの最初の光に、こわばった体で震えながら目を覚まし、頭上をふりあおぐと、なにもかもはっきりした。木の上の黒いかたまりと見えたのは、大きく張りだした樫の太い枝の上にうまく建てられた小屋だった。編んだ枝や、天使製のさまざまなものであちこち補強され、小さな窓がひとつと、枝のあいだから外に長く突き出した煙突がついている。窓から手近の枝にのびた綱に、丈の長いシャツが二枚干してあった。
もしかしたらあの双子の話がまちがいで、彼らの友だちの小柄な老人は聖人でもなんでもないんじゃないかという疑いは、それまでただの一度も頭に浮かばなかった。あのふたりは真実を知っていると思いこんでいた。そして、この樹上の家を目のあたりにしたいま、疑いの余地はなくなった。それはまさしく、幾生涯幾生涯も前、ぼくらがさすらっていたころに聖人が住んでいた家そのものだった。聖ゲアリのブナの大木、聖モーリンの樫の木。聖ビーの死後、聖アンディが移り住んだ木は、いまもその切り株がリトルベレアに旧跡として残されている。
「|樹上の聖人《なんてこった》!」ぼくは、なにかびっくりすることがあったとき年寄りがつぶやく言葉を、思わず声に出していた。
大声で呼びかけるべきだろうか? 名前も知らないし、それに朝の光のもとでよくよく考えてみると、わざわざこんなところまでやってきた用件がなんだろうと、自分の木の根もとにうずくまっているぼくを、彼が歓迎していないことは明らかだった。
旅をはじめてまだ間もないというのに、教えを受けることのできる聖人に早くも出くわした興奮で、いままで相手の気持ちをまるきり斟酌《しんしゃく》していなかった――てのひら系にあるまじき失態! 恥ずかしさで顔がほてり、あわてて聖人の樫の木から離れたが、しかし彼の姿が見えなくなるほど遠くまでは行かなかった。ぼくは苔の上に腰を下ろし、ちょっと煙をくゆらし、そして待った。
そう長く待たないうちに、樹上の家のドアが開き、みごとな細工の縄ばしごが降りてきた。それにつづいて、聖人がゆっくりと、しかし自信に満ちた態度ではしごを下ってきた。そこにいないだれかに話しかけているみたいに、うなずいたり、否定の身振りをしたりしている。片手にはブラシとぼろぼろのタオルを持っていた。
顔を洗いに行ってしまった。そして、聖人の家へとつづく縄ばしごは、まだすぐそこで揺れている。
思い切ってやってみるべきだろうか? 留守をねらうとなると、ちょっとながめるのがせいいっぱいだ。はしごのいちばん上まで登り、中をのぞくだけにしよう。しかし、戸口から中をのぞいたとたん、ぼくはその決意を忘れ去り、家の中へと足を踏み入れた。
中に入ったぼくが目にしたものを、いったいどこから説明したらいいのやら。編み枝細工の壁のすきまには泥や苔がつめてあり、家と直角に交差する大きな枝が低いアーチとなって家を二分割していた。でこぼこの床は下で支える枝のかたちに合わせて起伏し、低い天井はふたつの面が斜めに交わっている。そしていたるところに――天井から吊るしたり、壁につくりつけた棚に置いたり、隅の押し入れにしまったり――ぼくの目には宝物だということしかわからないものがあった。この世界からはるかむかしに失われた技術で天使がつくりだしたもの。用途さえわかればいまも実用に耐えるはずの道具の数々。この小さな家には、リトルベレアにあるものぜんぶをあわせた以上の謎や天使製品がつめこまれているみたいだった。
あんまり夢中になっていたので、聖人がもどってくる足音が耳に入らず、家全体が揺れ、きしむ音でようやく、この家の主人がすでにはしごを登りはじめているのに気づいた。隠れる場所はどこにもない。さっと背負い袋をつかむと肩にかけ、外に出ようとしたそのとき、聖人が戸口に顔を――最初はびっくりした顔、つぎには不快げな顔――出し、ぼくは恐怖とばつの悪い思いにとらわれた。
足もとに注意しながら中に入ってきた聖人は――ぼくより背が低かった――ぼくをどうしたものかと考えるような顔になった。ぼくはといえば、ばつが悪くて口もきけない。そのとき、彼はなにか思いついたような顔になり、笑みを浮かべてこちらに歩み寄ってくると、片手をさしだした。
「さようなら」と聖人は礼儀正しくいい、ぼくはさしだされた褐色の手と握手した。すると彼は、大枝の低いアーチの下まで歩いていって、ぼくに背を向けた。出ていくのを待っているのだ。しかし、出ていくことはできなかった。聖人は背中にまわした両手をいらいらと組んだりほどいたりしている。ふと思いついて、背負い袋に手を入れると、〈月なし〉にもらった葡萄ソーダの瓶をとりだした。闖入《ちんにゅう》者がいなくなったかたしかめようと聖人がちらりとうしろをふりかえったとき、ぼくは笑顔で瓶をかざしてみせた。口を開くのはまだ怖かった。彼の目がしばし瓶に釘づけになる。やがて顔をそむけ、大きなブーツの上で前後に体をゆすりはじめた。待っていると、ようやくアーチの下からゆっくり出てきた聖人は、がたがたのテーブルの下に頭を突っ込み、泡が無数についた古いぶかっこうなグラスをひとつとりだした。ぼくのほうを見ないで、彼はグラスをテーブルに置いた。そちらに瓶を持っていくと、彼は唐突にぼくの顔を見上げ、その小さな顔いっぱいに笑みを浮かべた。
「わしの名は〈|まばたき《ブリンク》〉だ。おまえさんは?」
「ぼくの名前は〈|しゃべる灯心草《ラッシュ・ザット・スピークス》〉です」
ぼくはテーブルに瓶を置いた。窓から入る陽射しが瓶の紫色の中心を貫くのをふたりでじっと見つめた。聖ブリンクが瓶の蓋をとると、泡がいっせいに水面に吹き出してきた。聖ブリンクは、しゅうしゅう泡立つ液体をグラスになみなみと満たしてから、気が抜けてしまわないようにすばやくまた瓶に蓋をした。グラスを手にとり、ひと口ふた口、ごくごく音をさせながら長々と飲んだ。一瞬後、小さくて音楽的なげっぷがのどの奥から漏れ、聖ブリンクはぼくに向かってにっこり笑った。
「知っとるか」彼は、曲げた木と灯心草で組み立てたきいきい鳴る椅子にゆっくり腰を下ろして、グラスを太陽の光りにかざした。「はるかなむかしには、夏のくだものを保存するために、どろどろになるまで煮つめたんじゃ。蜂蜜みたいに、すごく甘いペーストにして、そうやって食したんじゃよ。知っとったか?」
彼がすわっているのと似たような椅子がもうひとつあったので、ぼくはおっかなびっくりそれに身を沈めた。
「いいえ」といったものの、なにか妙なかたまりがのどの奥につかえているような気がした。「いいえ、知りませんでした。でも、いまは知ってます」
「そうじゃ」と彼はいった。ぼくに好奇の視線を向け、ひとつうなずくと、またソーダを飲んだ。ぼくは椅子のひじに両腕をあずけた。心の中はまだ、信じていいものか不安だったけれど、ぼくはとうとう、長いあいださがしもとめていた場所にたどりつき、そこにとどまることができるのだ。
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第四の切子面
追い出されないまま夏が過ぎ、水を汲んだバケツを手に森へもどってきて、ささやく葉むらのあいだに樹上の家を目にしたときなど、こんなふうに思うことがあった。ぼくがやっと〈まばたき〉を見つけたのとおなじように〈まばたき〉もやっとぼくにめぐりあったんじゃないか。ぼくらふたりは、おたがいにとって、長いあいだ待ち望んでいた相手だったんじゃないか。縄ばしごを登り、水を満たしたバケツを引き上げる面倒な作業のあいだにも、ぼくはおたがいの幸運に思いをはせ、笑みを浮かべる。
バケツを家の中に運びこんだら、水を〈水差し〉に移すのがぼくの仕事だ。
テーブルの上の〈水差し〉は、ぼくのあごまで届く高さだった。プラスチック製で、色は鮮やかな黄色、手ざわりはすべすべで、かたちもなめらかだ。ぴったりはまる蓋は、むかしは透明だったけれど、いまでは曇ってしまっている。一日じゅう置いてあった水でも、〈水差し〉の細い注ぎ口からグラスに満たすと、小川に直接口をつけて飲んだみたいに新鮮できりっとした味がする。〈水差し〉の正面には、直接描くか貼りつけるかした人間の絵がついていた。いや、ひょっとしたら、人間に似たべつの生きものかもしれない。ずんぐりした脚は、走っている最中のように曲がり、両腕は大きく開かれている。太い片手にはグラスを持ち、そこからオレンジ色の液体が飛び散っていた。もう片方の手は、棍棒のような指を一本、ぐいとつきだしたかっこう。頭はグラスの液体とおなじオレンジ色で、体とは不釣り合いに大きく、まんまるで、動物的な歓喜――大声で叫びだしそうな、喜びの絶頂――の表情が見てとれる。それが〈水差し〉だ。
これも都市から持ち帰ったお土産なの? と〈まばたき〉にたずねたことがある。彼は若いころ都市まで旅をしたことがあり、夜にはよく、そのときの物語を聞かせてくれた。
「見つけたものを運ぶのに、この水差しを使ったんじゃよ」と彼はいった。「軽くて大きかったからな。背中に縛りつけて運んだんじゃ」
そして〈まばたき〉は、静寂の街――物音をたてる生きものがほとんどなにも存在しないので、どこよりも静かな都市――の物語を語った。古えの時代、都市には人間ばかりでなく、鳥やねずみや虫たちや、人間に依存して生きる多くの生きものがいた。そうした動物たちは、人間がいなくなったとき、みんな消えてしまった。〈まばたき〉は静寂の中を歩きまわり、ビルに登り、見つけたものを運ぶために〈水差し〉を手に入れたのだ。
〈まばたき〉が都市やそこで見つけたもののことを語るのを聞きながら、彼はほね[#「ほね」に傍点]系か、ひょっとしたらしめがね[#「しめがね」に傍点]系かもしれないと思った(もっとも、しめがね系からは、これまでただのひとりも聖人が出ていない)。しかし、そう結論するわけにはいかなかった。眼鏡をかけて、テーブルのクロスティック・ワードにかがみこみ、謎に没頭している〈まばたき〉の姿を見ていると――片手で蠅を追いながら、ひっきりなしに脚を組み替える、その美しい没頭ぶりを見ていると――聖ジーンの小さないと[#「いと」に傍点]系にちがいないとも思えてくる。でも、その確信も、完全にはあてはまらなかった。
[#ここから太字]
どうして直接たずねてみなかったの?
[#ここで太字終わり]
たずねるって、なにを?
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何系なのか、よ。
[#ここで太字終わり]
ぼくにわからなかったのに、どうして彼が知ってるわけ?
[#ここから太字]
でも、あなたは自分が何系だか知ってるでしょ。
[#ここで太字終わり]
うん。それに、彼が何系なのかもわかったと思うよ、もし聖ブリンクが迷路街の知り合いで、彼の友だちや仕事や住んでる場所も知っていたらね。系っていうのは、その人を調べればわかるっていうものじゃないんだ。鏡を見て、自分は赤毛だとわかるようにはいかない。リトルベレアではみんな系に属していて、系っていうのは――系っていうのは、つまり、名前みたいなものじゃなくて、一本の糸みたいなものなんだ。この説明でわかる?
[#ここから太字]
そうね。いいから先をつづけて。聖ブリンクがいと系だと思ったとき、彼はなにに没頭していたっていったっけ?
[#ここで太字終わり]
彼はクロスティック・ワードをやってたんだ。
聖アーヴィンが、聖モーリンの樫の木で、聖人になるすべを彼女から学んでいたとき、彼は何年もその木にいたのに、聖モーリンが建てた家の中にただの一度も入れてもらえなかった。聖モーリンは、聖アーヴィンと口論になると、ここから出ていって、わたしをひとりにしてと命令することがあったんだけど、聖アーヴィンは去ろうとせず、彼女に贈りものを持ってきた。でも、聖モーリンはそれを投げ捨て、聖アーヴインが身を隠すと見つけ出して棒で追い払い……とにかくとても長い物語なんだけど、最後には、死の床について、追い払うこともできないほど衰弱している聖モーリンのもとに聖アーヴインがやってきて、もうこれで聖人になることはできないと嘆いていると、聖モーリンは「そうね、アーヴィン、それが物語よ。その物語を語りなさい」といって息をひきとったんだ。
樹上の家にやってきて二、三日たったとき、ぼくはばつの悪い思いをしながらも、どうしてぼくがやってきたかを〈まばたき〉に打ち明けた。すると彼は、聖モーリンみたいに、こういっただけだった。「聖人になりたいのか? 聖人に? じゃあなぜこんなところにいる? どうして聖人になるための修行をせんのだ?」
ぼくは頭を垂れて答えた。「ここでいっしょ暮らして、お話を聞いたり、なさることを見たりしていれば、あなたがどうやって聖人になったのかを知り、おなじようにするすべを学べるかもしれないと思ったんです」
「わしが?」〈まばたき〉の声は、驚愕にかすれていた。「このわしが? ばかな、わしは聖人なんかじゃない! いったいぜんたい、どこからそんなことを思いついたんじゃ。わしが聖人だと! まったく、おまえは迷路街で真実の語りを学んだのではないのか? わしの話したことをそっくり聞きそこねたのか? わしの話しぶりが、おまえには聖ロイのように聞こえるのか?」
「はい」と、ぼくは真実を語った。
〈まばたき〉は、てれたように目を伏せ、クロスティック・ワードを見つめた。
「いやいや」しばらく思案顔になったあと、〈まばたき〉はいった。「ひとつ教えてやろう。聖人は、みずからの生《せい》の物語を語り、そして……」
「でも、あなただって語ってくれたじゃないですか、都市に行った物語や、そこで見つけたもののことを」
「それはちがう。わしが語る物語はわしの生の物語ではなく、われわれの生、われわれの人間としての生きかたの物語じゃ。叡知と知識とはべつのものだ。たしかに、わしに知識があることは認めよう。それでおまえがわしに出会えたことをうれしく思うなら、たくさんの知識を持っておると認めてもよい。役にもたたぬ知識ではあるにしてもな。しかし、叡知となると――天使ならざる身のこのわしにも、これだけはわかる。叡知は必ずしも知識から生まれるものではないし、知識からはけっして生まれえぬ叡知もある。おまえが求めているのが知識なら、ふむ、わしはこれまで何年も、知識を伝える相手を持たなんだから、喜んで教えてやろう。しかし、もしおまえが求めるのが叡知なら、なにかほかの道を見つけたほうがよい。わしにはなんの手助けもできんからな」
「知識を持ち、なおかつ聖人になることは可能でしょうか?」
ぼくがそうたずねると、〈まばたき〉は、しばし考えこむような表情になった。
「おそらくな。しかし、聖人になるということと、いかに知識を貯えているかということのあいだには、なんの関係もない。たとえていえば、背が高かろうと、太っていようと、青い目をしていようと、聖人になることにはなんの差し障りもない、それとおなじだ」
「では」ぼくはほっとしていった。「ぼくはまず知識を集めて、その過程でかしこくなる可能性に賭けたいと思います」
「わしは一向にかまわんよ」わが聖人はいった。「なにを知りたい?」
「まず第一に、いまなさっているそれはなんですか?」
「これか? これはクロスティック・ワードじゃ。ほら」
テーブルの朝日があたる場所に、一枚の薄いガラス板が置いてあった。その下に、細かな模様がびっしり書かれた紙が一枚敷いてある。その模様が活字と呼ばれるものだということは、ぼくも知っていた。紙のほとんどはその活字に埋めつくされているが、残る一画には、箱の絵が描いてあり、それが黒と白のいくつもの小さな箱に分割されている。紙を敷きこんだガラス板の、白い箱の上にあたる場所に、〈まばたき〉は小さな黒いしるし――彼はそれを文字≠ニ呼んでいた――をつけていた。紙はしわくちゃで黄ばみ、一カ所、茶色いしみがついている。
「まだリトルベレアに住んでいた子どものころ」〈まばたき〉はガラス板の上に背をかがめ、白い箱のひとつの上に、文字みたいな顔をしてとまっていた蜘蛛を払いのけた。「ほね系の部屋の箪笥でこの紙を見つけた。だが、これがなんなのか、どんな物語があるのかを教えてくれる者はだれもいなかった。ある金棒曳きは、聖ジーンのパズルみたいなパズルだろうといった。だが、ちがっていた。べつの金棒曳きは、〈輪っか〉みたいなゲームだろうといった。だが、ちがっていた。この謎を解くためにリトルベレアをあとにして放浪の旅に出たとまではいわんが、しかし、外の世界に出れば、これがどんなパズルもしくはゲームなのか、どうやってこれを解くのか、それとも遊ぶのかをつきとめられるだろうと思っていた。たしかに、その目的はほとんど達した。ただし、それからもう六十年になるが、いまもまだ完成していない」
〈まばたき〉はテーブルの下に頭をつっこみ、そこにしまってある品々の中からなにかをさがしはじめた。
「はるばる旅をして、おおぜいの人々と話をした。最初に知ったのは、この紙の意味を理解するには、書いてあることの読み方を学ばねばならんということだった。もっともな助言ではあったが、長いあいだ、読み方を知っている人間にはひとりも出会わなんだ」
〈まばたき〉は、木の箱をひっぱりだして、それをあけた。中には黒くてぶあつい、積み木のようなものがいくつか入っていた。それは、前にも見たことがあった。
「〈本〉ですね」とぼくはいった。
「ああ、本だよ」と聖ブリンクがいう。
「たくさんありますね」
「わしが訪れたある場所では」といいながら、彼はいちばん上の〈本〉をとりあげた。「リトルベレアとおなじくらい大きな建物が、天井から床までぜんぶ本で埋めつくされていた」
彼が〈本〉の蓋を開くと、その下から、縫い綴じられた紙があらわれた。それといっしょに、〈本〉独特の、ほこりっぽくて紙くさいにおいがぷんと漂ってくる。
「この本には」と彼は眠り語りのようにゆっくりした口調でいい、指先をいちばん大きな文字の下にすべらせた。「一千のことが書いてある」指をページのほかの場所にさまよわせながら、「なんとかかんとかかんとか」と息をひそめてつぶやく。指は最後に、いちばん下の赤い文字の上でとまった。
「時間《タイム》、生命《ライフ》、本《ブックス》」と、考え深げにいうと、聖ブリンクはまた本の蓋を閉じた。
「この世界には」灰色の積み木をたたきながら、聖ブリンクはいった。「一生を本の研究に捧げて、天使たちの秘密を垣間見ようとする人々がいる。わしはとうとう、そのうちの幾人かを見つけ出した。だが、彼らは逆を向き、うしろを見ている。わしが望んでいたのは例のパズルを解くことだけだったが、文字の読み方を学べば学ぶほど、わし自身、うしろを向くようになった。天使たちが書き残したものには果てしがない。彼らは、自分たちがやったひとつひとつのことについて、その方法を微に入り細にわたってすべて書き残している。それはすべて本の中におさめられて、だれかが発見するのを待っているのじゃ」
「つまり、もし書いたものを読むことができたら、彼らのやっていたことすべてができるようになるということですか? 空を飛んだりとか?」
「ふむ。天使たちの時代には、『必要は発明の母』ということわざがあった。いつか、われわれの内なる必要がすべてをまた生み出す日が来ることも想像できなくはない。しかし、過去の知識すべてが、こうした本とともに葬り去られてしまうことのほうがもっと容易に想像できる。もう遊んでもおもしろくないおもちゃでも、子どものころとても大切だったものはなかなか捨てられないようなものだ。さて」
聖ブリンクは〈本〉ぜんぶを箱にしまい、テーブルの下のもとの場所に押しこんだ。
「その、本を研究している老人たちは、百万の指導書に書かれた指示のいずれかにしたがって、現実になにかをすることを夢見ているわけではない。かつてはすべてがこんなふうだったと知るだけで、彼らにはじゅうぶんなのだ。またそんなふうになる日が来るかもしれない――そうだな、それはたとえば、若いころのさびしさを思い出してひとりほほえみ、それがみんな過去の話であることに感謝するようなものだ」
〈まばたき〉は古えのパズルの上にまた身をかがめた。ため息をつき、指先を唾で湿して、ガラスの曇りをぬぐう。
「ここに書いてある指示にしたがって、白い箱のひとつひとつを文字で埋めてゆく。しかし、その指示というのがパズルなのじゃ。一文字ずつばらばらにすると箱にぴったりはまるような単語を示す手がかりでしかない。ぜんぶの手がかりを解読し、正しい単語を見つけ出して、すべての文字を正しい箱に書きこむと、箱の文字にひとつのメッセージがあらわれる。つなげて読むと、きちんと意味をなすメッセージが出てくるはずなのじゃ」
正確にこのとおりのことを彼がいったかどうか自信がない。仕組みをきちんと理解できたためしがなかったから。でも、どうして彼がこれに何年も費やしていたかは理解できた。こんなにうまく隠されている以上、最後に箱の中にあらわれるのは、ものすごくだいじなメッセージにちがいないからね。
ぼくはメッセージをかたちづくる箱の文字に目を落とした。それは歯が抜けた年寄りの口みたいに、あちこち穴があいていた。
「なんて書いてあるの?」とぼくはたずねた。
[#ここから1字下げ]
さんでぃ ごのま のか やくにはこ くたちが
いるか はしみ い ん のようなかわ い
をな ってはいるがこのじゆうのくにのあめいつち
から たさをだしたよ っぱのて すとなのだ
THERE ARE COS KS IN SAN DI O CZ RS
OF THE STRE TS TH ALL THEMSELVES
PR TTY NAMES LIKE TH CI ISE S COMM
TEE BUT THEY ARE THE TIR TS
OF EU PE SPROOT NG A N IN THE SWEWT
SOIL OF THIS FREE LAND
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから太字]
その人のいうとおりよ。それはパズル、もしくはゲームだった。でも、うまく隠されているからだいじなものにちがいないって考えるのはまちがいね。そういうパズルは何千もあるの。天使たちはそれをひとつ二、三分、長くても一時間くらいで解いて、捨ててしまうのよ。
[#ここで太字終わり]
天使たち……聖ブリンクがいったことをほんの一部でも信じられるとしたら、〈嵐〉の百年ぐらい前の時代は、人間がこの世にあらわれて以来、きっといちばんわくわくするような時代だったんだね。ぼくはその時代のことを夢に見て、じつさいにはどんなふうだったんだろうと考えて何時間も過ごした。ぼくの白昼夢をかたちづくる材料は、〈まばたき〉の口から湯水のように湧き出した。たぶん、若いころの彼はぼくに似てたんじゃないかと思う。このときでさえ、彼はまだそんなふうだった。もっとも、ぼくがむかしはきっと、ものすごくすばらしかったんでしょうねといったとき、彼は鼻を鳴らしたけどね。
「すばらしい、か」と彼はいった。「その当時の死の最大の原因は、人間が自分で自分を殺すことだったのを知っておるか?」
「自分を殺すって、どうやって?」
「武器を使ってだ。武器のことは前にも話しただろう。それに、毒や薬。高い建物の上から身を投げたり。天使がほかの目的のためにつくりだしたいろんな機械を使ったり」
「わざとそういうことをしたの?」
「わざとだ」
「どうして?」
「理由ならいくらでもある。彼らの生きていた時代がすばらしかったとおまえが考える理由とおなじ数だけな」
もちろん、ぼくは納得しなかった。あいかわらず腰を下ろして白日夢にふけりつつ暑くて眠い午後を過ごし、天使たちの断末魔の苦悩について考えていた。世界を〈道路〉でおおい、夜空に〈小月〉を浮かべながら、それでも満足できずに高いビルの上から飛び下りて死んだ彼らのことを(もっともぼくは、〈まばたき〉の説はまちがいで、彼らはそれが空を飛ぶ唯一の方法だと考えたのかもしれないと思っていたけれど)。
そのころの世界は人間でいっぱいだった。変化に乏しい近ごろにくらべると、はるかに活気があったような気がする。最近では、新しいものが誕生するには幾生涯もの歳月が必要だし、世界は何世代にもわたって変わらないままだ。でもそのころは、たった一生涯のあいだに一千の新しいことがはじまり、そして終わった。巨大な力と力がぶつかりあい、押し寄せてきたまたべつの力に呑みこまれた。破壊と完成とがとてつもない競争をくりひろげていたみたいだ。数百万の人間の途方もない努力によって世界の一部が征服されたとたん、その征服の成果がたちまち征服者に牙をむきだしてくる。〈道路〉が車に乗った数千の人間を殺したのとおなじこと。それとおなじように、天使たちが膨大な労働力とはかりしれない天才を注ぎこんだ機械仕掛けの夢もまた、天使たちに襲いかかった。一日中、トウワタの種子のように空中に放射され、目に見えないまま石の壁を通り抜け、待っている天使たち自身の体さえ通り抜け、すべての天使たちの眼前に同時に出現して、警告したり指示を与えたりするこの機械仕掛けの夢は、すべての人間が夢見るひとつの夢であって、すべての人間が一致団結して行動することを可能にしたけれど、やがてついに(どうしてなのかぼくにもわからないけど)夢を体が通り抜けるのは毒であるという事実が発見され、そのころにはもう、数百万の人々が病気になったり若死にしたり子どもを持てなくなったりしていたというのに、夢そのものが夢は毒だと警告したときでさえ、夢から覚めて自分たちがひとりぼっちだと気づくのが怖かったのか、あるいはもう目を覚ますことができなくなっていたのか、人々は夢見ることをやめられず、最後には〈長期連盟〉が女たちを目覚めさせ、女たちは夢見るのをやめた。こういうことぜんぶが、ひとりの人間の一生のあいだに起きたんだ。
そして〈嵐〉が近づくにつれて、ますます速度がはやくなってきた。迫りくる〈嵐〉の速度との、終末という目的地をめざす競争だった。解決策は、ますます奇妙でますます自暴自棄的なものになり、被害はますます大きくなって、天使たちは災厄のあぎとの中でもっとも野放図な夢を見た。すなわち、永遠もしくはそれに近い寿命を獲得する夢。汚染された地球を捨てて、地球と月のあいだに永遠に浮かびつづける街で暮らす夢。戦争がはじまり、数百万の人間が百万のちがった方法で倒れ、だれもがたがいの首を絞めあっていたせいで、こうした夢は実現しなかった。そして、絶望的な解決策が失敗し、あるいはつくりての眼前で自爆しているあいだに、〈長期連盟〉がいたるところで秘密裏に勢力をのばし、天使たちとひそかに闘っていたけれど、天使たちのほうは、その渦中にありながら、〈長期連盟〉の存在にさえほとんど気づいていなかった。ようやく気づいたときには、すでに〈連盟〉が地上に残された唯一の勢力となっていた。〈法《ロー》〉と〈清府《ガムミント》〉は、戦争と、世界を人間の手中にとどめようとする戦いとで、もうとっくに消耗しつくしていたのだ。
世界を人間の手中にとどめる戦いといえば、真実の語り手たちは、コープ・グレートベレアの千の電話を通じて語りはじめていた。数百万の光が消え、機械の夢が色褪せて、天使たちがおそろしい闇の中にひとりぼっちで残されてゆくあいだ、千の腕と千の目を持ち、どんな人間よりもかしこいプランターは、天使の意のままに他の星の空や太陽を探索し、パンの木や、いまでは知る由もないさまざまなものを故郷に持ち帰った。いちどきに進行していたこうしたことをすべて理解できる人間はだれもいなかったし、それも不思議ではなかった。
それから、〈嵐〉がやってきた。〈七つの手〉がいったように、だれでも当然予見できていたはずの〈嵐〉の到来によって、すべてが壊れはじめ、壊れつづけて、ついに数百万の人々みんなが太古の森の世界にたたずむことになった。いまだかつて一度も経験したことのないその世界で、人々は、彼らの夢の真の姿とおなじくらい奇妙なものを見るように、驚異の念に打たれて周囲を見まわした。
〈まばたき〉はいった。
「天使たちのとほうもない労苦と力によって、色彩豊かな巨大なガラス球を世界の上に浮かべていたようなものだ。その球はあまりにも美しく、あまりにも奇妙で、浮かばせておくためにあまりにも多くの力を必要としたために、天使たちにとってはほかのものは存在しないも同然だった。その球をながめているうちに、彼らは世界のことを忘れてしまった。その球が〈嵐〉に砕かれて失われると、われわれは、太古の昔から変わることのない旧世界に、二度と癒えることのない傷とともにとり残された。だが、この古いあたりまえの世界のいたるところに、その巨大な球のばらばらの破片が何年にもわたって広く散らばり、そうした半端物がいま、不可思議な場所で奇妙な目的に使用されている。太陽の光にかざしてみたり、中をのぞいてみたり、想像をたくましくしたりすることはできる――しかし、もとにもどすことは二度とできん」
ぼくたちは晩夏の黄色い草原に大の字に横たわって、ぶあつい雲がゆっくり流れてゆくのを見上げていた。森を乾燥させ、ほこりっぽいにおいと錆に似た茶色のしみを残してゆく寒気はあったけれど、夏はつづいていた。|機械の夏《エンジン・サマー》。
「ねえ、〈まばたき〉」とぼくはたずねた。「空には街があるの?」
〈まばたき〉は耳のうしろを掻くと、両手を枕がわりにしてあおむけに寝そべった。
「空の天使街か。小聖ロイがああいう雲をそう呼んだものだ。しかし、ひとつ物語がある。〈嵐〉の時代、天使たちはガラスの天蓋におおわれた都市群を建設したが、それはなんらかの方法で雲のように空に浮かぶことができたそうだ。どうかな。天使にその力があったことはたしかだが。むかしはこういわれていたものだ。いつか、おそらく数千年の歳月を経たのちに、天使たちがもどってくる。都市群が着陸し、自分たちが空にいるあいだに地上でなにがあったかをたしかめるため、天使たちがそこから降りてくる、と。ふむ、しかし……だれひとり、どんな天使ももどってはこなかった……。わしにもわからんが……ひょっとしたらむかしの人間は、〈小月〉と混同じていたのかもしれん。〈小月〉はたしかに空の都市で、そこにはたしかに天使たちが住んでいた。しかし彼らは〈嵐〉につかまって、故郷にもどるすべもなく、ひとり残らず死んでしまった――いや、ひょっとしたら、まだあそこにいるかもしれん。だれにわかる? おや、トウワタの綿毛が飛んでるな、ほら、あそこ」
茶色い種子が〈まばたき〉のそばを漂っていた。彼自身とそっくりだ。もっと近づいてよく見たら、〈まばたき〉に似た長い鼻と小さな顔がついているんだろうか。それは〈まばたき〉のしわの寄った白いシャツの上をころがり、また離れて、どこかに飛んでいってしまった。風の向くままに。
「半端物《ビッツ・アンド・ピーシズ》」〈まばたき〉が眠たげな声でいった。「半端物」
〈まばたき〉は眠ってしまった。ぼくは雲をながめながら、そこに天使たちの住む谷間を思い描いた。
[#改ページ]
第五の切子面
半端物……。銀のボールと手袋。聖ゲアリのプランケット伯父さんの天使画。老婆とふたりの子どもが天気を教えてくれる小さな家と、石でできた四人の死者。偽物の脚。ドクター・ブーツのすべて以外、中になにも入っていない透明な球。プラスチックに囚われた蠅。空の都市。いや、もとにもどすことなんかできない。それは〈まばたき〉のいったとおりだし、ぼくはもとどおりにしたいと思ったことなんか一度もない。ただ、こういうものひとつひとつが、かわるがわるぼくにメッセージを与え、標識となって、つぎはあっちだと指さしてくれて、それを最後までたどっていけば、失われた貴重なものがいつか見つかる――たぶん、ただの知識だろうけど、なによりも見つけたいとぼくが願っているものが見つかる――そんな気がした。
[#ここから太字]
あなたは見つけたのよ。
[#ここで太字終わり]
ぼくが? このぼくってなんなの? ここに来るのはぼくとはまるでちがうものだとモンゴルフィエが教えてくれたんじゃなかったかな。ここに来るのはただの投影、消えない夢みたいなもので、だれがつくったわけでもないプランケット伯父の天使画がプランケット自身じゃないのとおなじに、やっぱりぼくじゃないんだっていわなかったっけ? だったらどうして、ぼくが見つけたなんていうの?
[#ここから太字]
ほかにはだれも、銀のボールと手袋を見つけなかったからよ――この銀のボールと手袋をね。ほかにはだれも、これをさがしていなかった。ほかにはだれも、最初から最後まで手がかりをたどって――最後の一段を登りはしなかった。たぶん、ほかのだれかにだって、できないことじゃなかったでしょうね――でも、だれもやらなかった。だから、あなたがわたしたちを見つけたのよ。わたしがいま話しているあなたが。わたしに話をしているあなたひとりだけが。さあ。プランケットのことを話してくれるつもりじゃなかったの?
[#ここで太字終わり]
ぼくは……うん。そうだ、その絵を見たときのこと、〈まばたき〉が教えてくれたことを話すつもりだった……この物語、ぼくよりよく知ってる?
[#ここから太字]
いいから話して。あなたが話すのは、わたしのためじゃないのよ。
[#ここで太字終わり]
ワンス・ア・デイが見せてくれたあの小さな家と、それに石でできた四人の死者のことを、ぼくは〈まばたき〉に話した。
「四つの石の頭のことなら知っておる」と〈まばたき〉はいった。「山をなす四つの頭じゃ。しかし、わしの知る物語では、それは四人の死者ではない。おそらく、四つの石の頭は、四人の死者の絵なのじゃろう。それとも、ささやき系の冗談なのかもしれん。その娘はなんといったんだったかな? 『気が狂ってる』。ふむ。ささやき系のいうことについていける者などおらん。しかし、ひとつ物語がある。
〈嵐〉の時代、コープの最後の光と電話が永遠に途絶え、大聖ロイがわしらを導いて放浪の旅に出たときのこと、わしらの中にゲアリという男の子がいた。のちの聖ゲアリだな。聖ゲアリは語り手だった伯母と、プランケットという名の伯父とに育てられた。プランケットの仕事は、その性質上、秘密にされていたが、〈嵐〉で頓挫した天使たちの最後の計画のひとつにかかわるものだった。不死を達成する計画だ。その秘密はプランケットの妻の口を通じて漏れ、彼女はゲアリに、おまえの伯父は死んで埋葬された、そのことはまちがいないけれど、それでも伯父は、クリーブレンのそば、はるか西の、かつてコープがあった場所の近くの地下で生きている、と打ち明けた。
そこで聖ゲアリは、語り手たちが逃げのびてきた道のりを逆にたどり、伯父とされる人物がまだ生きているかどうかたしかめようと、クリーブレンをめざした。西に向かう途中で、聖ゲアリはかつて伯父が埋葬されるのを見た場所を通り過ぎたが、それでも進みつづけた。長い探索のあげく、ゲアリはたしかに、プランケットの妻が話してくれたとおりの場所を見つけた。だが、そのときにはすでに、ほかの者たちもその場所を見つけていた。ある者は、不死にまつわる天使たちの知識に焦がれ、またある者は、天使たちの残したものすべてを破壊しようという思いにつき動かされ、その業績を破壊しようとして。
彼らが見つけたものは、厳重に監視され、その処分をめぐって激しい議論が闘わされていた。それは、どこにも開き口がなく、中になにも入っていないように見える五つの透明の球だった。五つの球のうち四つには、四つの人間の顔の、灰色でぴかぴか光る天使画が貼りつけられていた。その顔のひとつが、聖ゲアリのプランケット伯父だった。
聖ゲアリが伯父を連れ帰ろうとすると、その場にいた連中は猛反対した。しばらくのあいだ、聖ゲアリは彼らと押し問答をつづけ、砕けるものなら球を砕いてしまおうとする者や、できるなら球を開くか、操作しようとする者の手から、プランケット伯父を守っていた。そのとき、〈長期連盟〉が介入してきた。〈連盟〉の女たちがやってきて、この問題については自分たちが決定するから――その当時は、いろんな問題について彼女たちが裁定を下していた――ほかの者はだれも、球に手を触れたり、これ以上調べたりしてはならんと申し渡した。聖ゲアリは納得しなかった。そしてある晩、ある意味ではプランケット伯父その人であるその球をこっそり持ち出し、逃げ去った。
何年ものあいだ、数々の危機に見舞われながらも、ゲアリはプランケット伯父を手放さなかった。だれがどう見てもからっぽの球を後生大事に抱えているゲアリを語り手たちは笑い者にしたが、ゲアリは頓着しなかった。老齢におよんでゲアリは偉大な聖人となり、〈長期連盟〉が権勢を誇っていた当時、語り手たちがニューネヨークのそばに築いていた居留地の近くのブナの木に居を定め、いつもプランケット伯父といっしょに暮らしていた。だが、プランケットがなにかひとことでも口にしたとしても、それを聞いた者はひとりもおらん。
ゲアリの死後、プランケット伯父は聖アンディのワゴンにしまわれて、他の品々の仲間入りをした。貴重で無益なそれら無数の品々、いまに語り伝えられる銀のボールと手袋、夜目のきく眼鏡、夢機械などと同様に、プランケット伯父もけっきょくは失われてしまった。あるいは売り払われたのかもしれんが、それを覚えている者はおらん、だれもたいして気にかけていなかったからな。しかし、〈長期連盟〉はおおいに気にかけていた。四人の死者の最後のひとりを〈連盟〉がさがしているという噂が伝わってきた。ほかのものを壊したように、あの球を破壊してしまうつもりなのだという者もあれば、敵の手にわたらぬようにするためだという者もあった。しかし語り手たちは、そうした議論にはほとんど関心を示さなかった。そしてそれっきり、噂は途絶えてしまった」
質問したいことはいくつもあったけれど、〈まばたき〉はなにを聞いても肩をすくめ、首を振るだけだった。球は五つなのに、なぜ天使画は四つしかなかったのか? 五つの球がみんなそっくりおなじだったのなら、なぜ五人のではなく四人の死者といわれているのか? 語り伝えられているように、その四人が生きているなどということがどうしてありうるのか?
「天使に聞け、〈長期連盟〉に聞け」と〈まばたき〉はいった。「彼らしか知らんよ。わしが知っているのはゲアリの物語だけだ。ささやき系がそれ以上を知っていたとしても、それは彼らの秘密だ――しかし、わしにはどうも、ささやき系が知っているとは思えん。ささやき系が守る四人の死者はただのゲームではないかという気がする。オリーブの三つの夢や、七つのさすらい星や、小聖ロイの最後の九つの言葉とおなじように。しかし、ひとつだけわかっておることがある。どうしてこれをわしが持っておるか、そのいきさつを話すつもりはないが、ほら……」
そして、わしらがさすらっていたとき§bを証明するためにンババが箪笥になにかとりにいくみたいに、〈まばたき〉は立ち上がって持ち物を調べ、壁の割れ目から、ひびの入った一枚の天使画をとりだした。それは、あの透明な球につけられているのを聖ゲアリが見つけて、プランケットを運びだしたとき彼がいっしょに持ち去った、プランケット伯父の天使画だった。絵の中のプランケットはボタンつきのシャツを着て、頭は無毛に近く、灰色の頭髪が綿毛のように薄く残っているだけ。プランケットは、つるりとしたあごの下あたりに、字が書かれたカードを持っていた。視線はまっすぐこちらを向いてはいず、だれかに呼ばれたみたいに、わずかに横を見ている。絵の裂け目がその顔に白い線をつけて、ひどい傷跡のように見えた。満面に笑みをたたえ、白い歯が総入れ歯みたいに光っている。その絵を見ていると、なぜかぞくりと体が震えた。
「たぶん」ぼくはようやく口を開いた。「最初からみんなまちがいだったんだ。その球はみんななにかべつのもので、四人の死者なんてほんとはいなかったのかもしれない。べつの物語とごっちゃにするか、それともまちがえてしまったんだ。たぶん」
〈まばたき〉はこちらにほほえみかけると、ぼくの頬を軽くたたいた。
「たぶんな」と彼はいった。「さて、キノコをさがしにいくとするか」
〈まばたき〉ほど老齢の人間が、こんな吹きさらしの樹上の家で冬を越すとは思っていなかった。ところが、秋が急ぎ足でやってきているのに、引っ越しの気配は全然なかった。〈本〉を調べたり、ガラス板の下のクロスティック・ワードをむっつり見つめたりで〈まばたき〉がぼんやり過ごしているうちに、夜は寒くなり、朝には冷たい霧が家の中を満たしはじめて、ぼくたちは昼近くまで〈三つ熊〉にくるまって過ごすようになった。〈三つ熊〉というのは、かぶっているとあたたかい、縫い合わせた毛皮に〈まばたき〉がつけた名前だけれど、夜も早いうちから、ぼくたちはやっぱりそれにくるまって、煙をくゆらしたり話をしたりしながら長い夜を過ごし、小さな木炭の火が消えてゆくのをながめるのだった。
「あのくらいの火じゃ、もうすぐたいして役に立たなくなるよ」とぼくはいった。
「そうだな」と〈まばたき〉はいった。「あれがいらなくなるとは、ありがたいことじゃ」
森は透明になってきた。いまでは家の窓から、ずっと草原のほうまで見通せる。霜の降りた岩のあいだを冷たい小川が流れているあたりまで見えそうだった。〈まばたき〉とぼくは、家の保全作業にとりかかった。泥や苔をすきまにつめ、夏じゅうしまいこんであったぶあつい敷物を壁にかけた。炉の通気口を閉ざし、煙突をふさいだ。いままでの扉にぴったり重なる新しい扉を入口につくり、寒さを遮断していちばんうまく過ごすにはどうすればいいかで口論した。
一日じゅう雲が黒くかたまったまま動かず、今夜はたいへんな霜になりそうだというある日、〈まばたき〉はしまってあった場所からぶあついビニール・シートを二枚出してきた。いまでもぴかぴかで、これはたいへんな宝物だ。一枚で小さな窓の外側をそっくりおおい、もう一枚で内側をおおうことができた。この作業が終わると、〈まばたき〉はふたつの寝椅子を窓に向かって並べた。
「〈水差し〉はいっぱいかな?」と〈まばたき〉はたずねた。
「はい」
「では、これで準備がととのったようじゃ」
小さな火皿の上で小枝に火をつけると、〈まばたき〉は小さな木炭のかたまりを燃やした。火が熾《おこ》るあいだに、しっかり蓋をした天使銀の小さな壺を出してきて、蓋をあける。中から黒い粉をたっぷりつかみだし、むずかしい顔でしげしげとながめ、いくらか壺の中にふり落としてから、残った粉を赤くなった木炭の上にふりかけた。煙は出なかったが、いままで嗅いだこともないような濃密なにおいがきつくたちこめた。ぼくも手伝ってあといくつか最後の準備をすませたあと、〈まばたき〉は慎重な手つきで壺にまた蓋をし、自分のわきに置いた。指を口もとにあててぐるりを見まわし、準備万端ととのっていることに満足した顔になった。
ぼくはなんともいえないあたたかさと眠気に包まれたが、それと同時に神経は張りつめていて、眠るのと起きているのとが同時にできそうな感じだった。どうやら〈まばたき〉もぼくとおなじ気持ちらしく、ぼくたちふたりは、〈まばたき〉が体にかけてくれた銀の布のおかげでさらにあたたかくなった〈三つ熊〉の下にもぐりこむと、居心地のいい体勢をとり、そうやってすわったまま三カ月を過ごしたのだった。
一日めの夜、ぼくたちはほとんど話をしなかった。まるで眠っているみたいに静かで、じっと動かずにいたけれど、草原の向こうの山にぼんやり浮かぶ黒い木々の背後で、くっきりした冷たい夕焼けが薄れていくのをじっと見つめていた。日々が過ぎ、その月の満月が裸の大地を照らすころ、ぼくたちは大地が凍ってゆくピシピシッという音に耳をすました。雲が集まり、月の白い顔の前を急速に横切ってゆく。夜明けまでには初雪が降りはじめ、細かくて冷たい粒が地面をおおった。その雪は、強い風にあおられて、土ぼこりのように舞い上がった。
夏のあいだいつも冷たかった〈水差し〉の水は、冬になるといつもあたたかかった。ほぼ一日一度の割合で、ぼくは寒さでぱさぱさになった聖ビーのパンをパイプにつめて煙をふかした。満月になるたびに、聖ブリンクはぶつぶついいながら〈三つ熊〉から這い出して、木炭に火をつけ、例の黒い粉を燃やした。あたたかい天候がつづくと、ぼくたちはたまに起き出して、二枚重ねの扉をあけ、年老いたふたりの病人みたいにそろそろと縄ばしごを降りていっては、ほんのちょっと外にいただけで疲れきって引き上げてくるのだが、外の見物はそれだけでじゅうぶんだった。
ぼくたちの眠りは、深くて奇妙な眠りだった。冬ががっしりと根をおろしてしまうと、その眠りから覚めるのは正午を過ぎてからのことになり、夕闇迫るころにはまた眠りにつく。眠りと眠りの合い間にちらちら外をのぞき見しているような感じで、なにごともないまま何日も過ぎていった。深く積もった雪が森を埋め、ぼくたちは一日じゅうすわったまま、一匹の狐が足跡ひとつない草原の雪を横切ってゆくのをながめ、カケスやツバメのふるまいを見物して、それがすむとまた眠りに落ちた。樫の木に住む二匹のシマリスが、とうとうこの樹上の家へと入ってくる道を見つけて、ぼくらの上を元気よく走りまわり、ぼくらの吐くあたたかい息を吸いこんだ。激しい雪嵐が吹き荒れて、森全体が氷の中に封じこめられた三日間、シマリス二匹は〈まばたき〉のひざの上で眠った。嵐が去ったあとの晴れた青い朝、森を包む氷は、まぶしすぎて見ることのできない音楽を奏でているような気がした。シマリスたちは眠った。ぼくたちは眠った。小石や苔のかけらや枯葉の軸が風に吹かれて家に舞いこみ、足元までやってきた。ぼくらは〈まばたき〉の愛する眠れる樫の木の一部となって、枝々が風に鳴る音、みごとな大枝の一本が氷の重みに耐えかねて折れる悲鳴を聞いた。樫の枝の雪が家の屋根にどさりと落ち、それから屋根をすべって地面へと落ちていった。まばたきの回数が前より減ってきたことに気づく。しかも、まばたきをするときには眠っていることが多い。ぼくの右手は、もう半月も左手の下になったままだ。
そのはてしない季節の、とあるあたたかな一日、白い午後のこと、〈まばたき〉が苦労して起き上がって、ふたりをまた深い冬眠へと誘うべく、新しい粉を燃やそうとしているとき、ぼくはたずねてみた。
「どこから来たの?」
「どこから来たって、なにがだ?」と〈まばたき〉は聞き返し、なにか動物でもあらわれたのかと周囲を見まわした。
「その粉のこと」とぼくはいった。「それに、どういう仕組みなの?」
黒い粉はすでに効果をあらわしはじめていた。つんと鼻をつく金臭いにおいが、真鍮ののどから漏れるあたたかい息のように空中に漂い、ぼくは、ずっとおなじ場所にすわりっぱなしの尻がもぞもぞと動いて、もっと居心地のいい位置をさがすのを感じた。
「仕組みとか効果とかが知りたければ、天使に聞け」と〈まばたき〉はいった。「きっと教えてくれるさ、おまえにはわからんだろうがな。どういう仕組みなのか、自分でわからんのか? 粉の働きにじっと耳を傾けてみろ。時間はあるんだから」
細心の注意を払って〈まばたき〉がまた自分の寝椅子に腰をすえるあいだ、ぼくは粉が作用する音に耳を傾けようとした。〈まばたき〉の言葉の意味がだんだんわかってきた。この冬が終わるまでには、粉の仕組みと効き目が自分にもわかるだろうということもわかってきた。その粉といっしょに過ごしたことのない人には、うまく説明できないんだけどね。
「どこから来たかについては」〈まばたき〉はずっとすわっていられるお気に入りの姿勢をさがしながらいった。「そう……それにはひとつ、物語がある……」
たくさん眠ったってことはいったよね、でも、目が覚めているときは、頭の中が妙にすっきりと鋭敏になっていて、目の前の出来事すべてが、ゆっくりした正確さで起きているような感じがした。ほんのささいなことにも、思いもかけなかったような豊かな中身があるのがわかって、びっくりしてしまう。狐の動きのひとつひとつを目で追えたりというようなことばかりじゃなくて、聖ブリンクの長くてこんがらがった話さえもが、すみずみまでくっきりと鮮明に頭に入ってきた。白と黒の草原を流れる小川が、夕焼けを反射してピンク色に染まり、くっきりそれと見分けられるように。
〈まばたき〉は話しつづけた。その黒い粉のこと、天使がつくりだしたほかのいろんな粉や薬のこと。天使たちが、世界を自分たちの都合のいいようにつくりかえるだけでは満足せず、つくりかえられた世界に合うように人間までつくりかえてしまったいきさつ。天使は、大地に対してやったのとおなじように、人間の心のいちばん深い奥底を舗装し、改造したのだという。それから、薬の娘たちのこと。〈まばたき〉はいった。
「薬と薬の娘のちがいは、木の棒と木そのもののちがいのようなもの。薬が絵具だとしたら、薬の娘は水晶の色の変化だ。薬は人間の体を変えて、病気と闘い、苦しみを静める。薬の娘は、人間の体が自分で自分を変えるための提案をする。その提案は拒否することができない。薬は、食べものとおなじだけの時間、体の中にとどまる。しかし、薬の娘の場合には、それが体から消えたずっとあとまで、体の変化が持続する」
四種類の薬の娘は、〈四つ壺〉におさめられていた。一番めの壺は、ほとんどどんな病気でも追い払ってくれる。最後の、灰色がかった白い壺の中の白い粉は、最初の壺の結果生じた奇妙な問題を解決するためにつくられたものだった。
「天使たちは、幼い人間の命を奪う病いを治すすべを学んだ」と〈まばたき〉はいった。「いつかは永遠に生きられるようになるかもしれぬと希望を抱いた。それはまちがいだったが、人間を生かしておくことに成功しすぎて、まもなく世界は、限度をはるかに超えた数の健康な人間であふれかえることになると思われた。不死人にも等しい健康な肉体を保ち、みずからの愚かさ以外の原因では死ぬことのない人間が、蟻塚からあふれでる蟻のように、次から次へと子宮からあふれだしてきた。彼ら全員を養えるだけの食べものも、空間もなかった。蟻の巣を蹴飛ばして、そこからあふれでてくる蟻たちを見たときの恐怖と嫌悪を想像してみるがいい。当時の人間たちは、自分たちの種族にそれとおなじ気持ちを抱いた。中でもとりわけ、〈法《ロー》〉と〈清府《ガムミント》〉にはその気持ちが強かった。というのも、この両者が、世界を人間のものにしておくという重責すべてを担っていたからだ。
そこで、もはやわしらが忘れてしまった方法、薬の娘たちと似てはいるがはるかに精巧な手段を用いて、彼らは我と我が身を子どものできぬ体に変えた。数世代を費やし、天使はとうとう、この不妊を永久的なものにすることに成功した。母親から子どもへと、不妊の体質が引き継がれていくようになった。そして、〈四つ壺〉の四番めに入っている薬の娘に、停止している子づくりの機能を再始動させる効果を与えた。それを飲んだ女はしばらくのあいだ子を宿せるようになるが、そうして産んだ子は子をつくれない。たとえていえば、目がないまま生まれてくるようなものだ。目が顔についているかわりに、母親から子どもへと宝物みたいに代々伝えられて、どの子もみずから、目を持つか否かを選ぶことができる。
〈嵐〉さえ来なければ、この方法が成功していたかもしれない。天使は、〈道路〉を建設することや、本物のとなりに偽の月を置くことを選んだのとおなじように、自分たちの数を自由に選ぶようになっていたかもしれない。しかし、〈嵐〉はやってきた。〈嵐〉の到来が、彼らのこのおそろしい選択によって速められたのでないとはだれにもいえまい。〈嵐〉のあとにつづいた冬と戦争と災害のさなか、天使たちがこの世界から永遠に追放したと思いこんでいたもろもろの古い災禍によって、数百万の人々が死んでいった。にもかかわらず、この新しい不妊処置のおかげで、生まれてくる子どもはほんのわずかだった。
いま、わしら残された者たち、ごく少数の子孫たちは、天使のなした処置をもとにもどすことができず、わしら自身の一部を、白い壺に入れて体の外に携えている。いまもなお、天使の選択がわしらに残されているわけだ」
ぼくが五つか六つの年の冬のこと。母親の〈ひとこと話す〉をさがしていて、カーテンで仕切られた場所にいるのを見つけたことがある。母親は、静かに近づいていくぼくに気づかず、老いた金棒曳きの〈高笑い〉の話に一心に耳を傾けていた。話の内容は聞こえなかったけれど、そのとき、〈七つの手〉がいっしょなのに気がついて、ぼくはそれ以上近づくのをやめた――ぼくと彼との結び目がいちばんもつれているときだったから。ぼくはその場にひざまずき、冬の光の中で三人を見守った。〈高笑い〉は壺が並んだ箱をあけて、体の前に持っていた。指一本でテーブルの上の白い壺を押し、母のほうへとすべらせた。母の鼻の頭は汗で光り、顔には奇妙なこわばった笑みが浮かんでいた。母は四番めの壺を持ち上げ、また下ろして、
「いいえ」といった。「今年はだめ」
〈七つの手〉はなにもいわなかった。彼はそれを望んでいたんだろうか? 彼の意向は問題じゃなかった。〈七つの手〉が黙っていたのは、天使の選択が〈ひとこと話す〉だけに委ねられていたからだ。
「今年はだめ」と彼女はいい、〈高笑い〉だけを見つめた。〈高笑い〉は唇を結んだままうなずいた。そして、箱の四番めの場所に壺をもどした。箱の蓋が、かすかな音をたてて閉じた。
夢の中でその音を聞いて、ぼくは目を覚ました。
「天使たちは」と〈まばたき〉が話しているところだった。「電話や車や〈道路〉があったころ、よくこんなふうにいった。『世界はせまい。日ましにせまくなってゆく』と」〈まばたき〉は首を振った。「世界はせまい、か」
ふたりで聖ビーのパンを吸ったあと、〈まばたき〉は冬の話をつづけた。〈戦争〉の冬の話、戦士を天使たちから守り、生かしつづけた例の黒い粉の話、〈まばたき〉がそれを持つにいたったいきさつ、〈長期連盟〉が宣言をなした冬のこと。大聖ロイがコープ・グレートベレアの扉を閉ざし、語り手たちが追われながらの長い放浪の旅に出た冬と、大聖ロイの失われた片脚の話。世界のほかの場所のこと、大海原の向こう、どんな声ももはや聞こえてこない場所のこと……。
「失われた片脚って?」とぼく。
「寒さのせいだ」と聖ブリンクはいった。「凍りついて腐りだし、切断しなければならなかった。もっと前の時代なら、天使の科学で新しい脚、本物の脚をそっくりつけなおすこともできただろう。しかし、大聖ロイは、偽物の脚でがまんするほかなかった」
夕焼けの小川のようにくっきりしている……。「いま迷路街にある脚だね」と、ぼくはいった。
「そのとおり」雪はたえまなく静かに降りつづけていた。「脚を失った直後には、泣き叫び、思い悩み、こんなことなら死んだほうがましだと考えるものだ、と大聖ロイはいった。しかし、天使がつくれたようなものではなくても、人工の脚をつけることはできる。木でできていても、用は足りる。痛みと間の抜けた気分を同時に味わいながらも、自分に鞭打って立ち上がり、歩き出す。そしていつか、それに耐えられるようになる。たぶんもう二度とダンスはできないし、また愛を交わせるようになるまでには長い時間がかかるだろうが、それでも、なんとかやっていける。それといっしょに生きていくすべを学べる。笑うことさえできるようになる。ロイはまさしく笑ったよ。それでもロイは、つねに一本、脚が欠けていた。そのことにどんなにうまく対処できるようになったとしても。
そして、〈嵐〉を目のあたりにしたロイはこう考えた。これから先のわれわれは、自分とおなじだ――みんな、片脚のない人間なのだ。それが子どもを持たないという選択だったのか、あるいはさらに前の、世界を人間に都合のいいかたちに改造するという天使の決断だったのかはともかく、どんな代償を支払ったとしても、われわれはその競争に敗けたのだ。その結果、われわれ、片脚のない人間たちが残された」
きょうは、たそがれが永遠につづくようだった。朝が終わったとたんにたそがれがはじまり、いつのまにかそれが終わって、月のない夜に変わっている。
「だが、わしらは笑うことができる。わしらにはわしらの〈システム〉、わしらの叡知がある。それでも、片脚であることに変わりはない。失われた片脚は、風邪とちがって、治ることはけっしてない。わしらはその欠落といっしょに生きていくすべを学ぶ。学びつづける」
〈まばたき〉はかすかに身じろぎした。
「さて、と。冬の物語はこれで終わりだ……おやおや、きょうの光はまたえらく灰色じゃな。この世界もわしとおなじくらい眠たがっているようじゃ。いまごろリトルベレアは閉ざされて、みんな中にこもり、昔話を語っておるだろう……春は、来るときになれば来る」
そしてぼくたちはまた、そのままの場所で眠りについた。降りしきる雪とともに日々が過ぎ、ベールに包まれた冷たい太陽は空を急速に動いた。星も月も見えない日が何日もつづいた。狐も鳥も、姿を見せなかった。
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第六の切子面
灰色の雨が汚れた雪塚の最後のひとつを溶かし、鳥たちが大勢もどってきて、大きくのびとあくびをするような新鮮な香りが森を満たしたある日、〈まばたき〉とぼくはそろそろと縄ばしごを降りて、ふらつく足で地面に立つと、かぐわしい空気を胸いっぱいに吸いこみ、目をぱちぱちさせながら周囲を見まわした。
この前の満月の夜、天候を見定め、指折り数えてなにかを二度勘定したあと、〈まばたき〉は黒い粉の壺をしまいこんだ。けれど、あたたかくなった最初の数日、ぼくたちは長い眠りの最後のひと眠りを眠っている最中で、まだ寝床についていた。晴れた朝、起きなければいけないとわかっているのに、しわくちゃの毛布の下で日が高くなるまでわざとごろごろしているような感じだった。
ようやく起き出したぼくたちは、ゆっくりした足どりで森の中をぶらつき、冬眠から覚めた仲間たちにあいさつした。カタツムリ、日向ぼっこしている亀、すっかり痩せたおかげでだぶだぶの借り着を着てるみたいなウッドチャック。木々にもあいさつした。立ち止まって、くんくん空気を嗅いでいるウッドチャックを見ているうちに、ぼくの胸は感謝の気持ちでいっぱいになった。乗り切ったんだ。またひと冬を乗り切った。乗り切れなかった者もおおぜいいる。だが、冬はもう去った。人生の半分を占める冬は去った。人生は冬と夏、一日は半分が眠りで半分が目覚め、ぼくの仲間は人間で、人間たちは生き、そして死んでいった。ぼくはまたひと冬を乗り切り、そうして春の大地を踏みしめ、濡れた木々のにおいを嗅いでいる。ワンス・ア・デイのことを思うと、はるか彼方を旅する彼女の姿がありありと目に浮かんだ。聖ロイは冬に片脚を奪われたけれど、生きて春を迎えることができた。
ぼくはそれらすべての重みを感じながら腰を下ろし、〈まばたき〉を見上げた。老いてしわだらけのその顔を見た。あの黒い粉の助けがあってもなお、冬のおかげで体が弱り、老けこんでいる。そしてぼくは、ベレアでは生き延びなかった人々がいることを知った。〈まばたき〉が燃やしたあの粉の効果は、止める[#「止める」に傍点]ことだったのだと気がついた。いま押し寄せている耐えがたいほどのこの感情すべてを止める効果を持っていた。粉の効力が消えたいま、その感情が復活し、大きくふくれあがっている。ため息をつき、なんとかそれを吐き出してしまおうとしたけれど、だめだった。ぼくは、芽を吹き出した地面にすわったまま、しゃくりあげるように嗚咽《おえつ》しはじめた。
リトルベレアでは、人々が春を迎えて、古い部屋を新しい部屋につくりかえていることだろう。しめがね系が〈径〉ぞいのすべての壁を動かし、すべての扉を開き、踏みかためられた新しい土の床に陽光を入れているだろう。ベレアは、日溜まりの中の生まれたばかりの虫のように太陽の下で体をのばし、このは系は勢定《せんてい》し飾りつけし、人々を招いてリトルベレアがほぐされていくようすを見物させている。断熱材がしまいこまれ、部屋の落ち葉と冬の残津は掃きだされ、お気に入りの椅子が〈径〉ぞいに運ばれて、お気に入りの陽光を浴びる。そして、新しい言葉に合わせて、すべての系が、思いと笑いに鼻歌を歌う。
「で、おまえは故郷に帰りたいんだな」と〈まばたき〉がいった。
「なんですって? 帰りたい? どうしてそんなことを?」
「話しかけても答えない。わしの言葉も聞こえてはおらん。この家を出ていけるというのに、昼になるまでずっと窓の外を見つめている。やることもたくさんあるんだぞ。かたづけたり修理したりの仕事ばかりじゃない、外には見るものがたくさんあるし、花々は咲き乱れておる。なのにおまえは、家の中に閉じこもって動こうとせん」
「ここだと、閉じこもってるって感じはあんまりしないよ」
「わしのいっていることはわかっているだろう。体じゅうむずむずするのに、どこを掻いていいかわからんのだ」
「でも、もどるわけにはいかないんだ。もちろん」
「もちろんな」
蜂が群がり、新しいパンをさがしに〈小さい山〉の向こうへいく探険隊が組織され、ンババの鳥たちがもどってくる。そしてもうすぐ、〈リスト〉の旅人たちがやってくる。今度は、ひょっとしたら彼女もいっしょかもしれない。彼女に話すことはたくさんある。
「きっと、世界にはほかの場所があるんだろうな」
「ああ」と〈まばたき〉がいった。「きっとあるはずだ、こことおなじようにすばらしい場所が」
ぼくは窓から離れて、乱暴に縄ばしごを降りた。〈まばたき〉の言葉に、半分腹を立てていた。図星を指されたからだ。花々の咲き誇る草原に腰を下ろして考えた。ああ、帰りたいよ、こうして春を迎えたいま、ぼくは故郷に帰りたい。故郷のことを思うと痛いほど胸が締めつけられた。その日一日、帰りたい帰りたいとあんまり強く願いつづけていたものだから、その思いが小川のそばの木立からふたりの色白の男の子たちを呼び寄せたのを見ても、たいして驚かなかった。ふたりは前より痩せて、片方は赤い帯ひも、もうひとりは青い帯ひもを首に巻いていた。ぼくは冬のあいだに、もっとだいじないろんなことといっしょに、このふたりのどっちがどっちだったかを忘れてしまっていた。
ふたりは、動物が隠れてないかとやぶを棒でつつきながら、あいかわらずのんびりした態度で土手を上がってくる。ひとりがぼくに気づいて手を振り、ぼくも手を振り返した。まるで、冬のあいだじゅう、ふたりは小川のすぐ先にいて、春一番のあたたかい日が来るのを待ってさっそくやってきたみたいだった。
「やあ」と声をかけてきたのは、たぶん〈芽生え〉のほう。「もう聖人になったの?」
「ううん。まだだよ」
「あのさあ」と、もうひとりがうしろにやってきて、「リトルベレアじゃ、みんなきみがもどってくるのを待ってるよ」
「〈月なし〉が秋にベレアへ行ったんだ」と、最初にあいさつしたほうがいう。「それに、春になってからもう一度。きみのお母さんがさびしがってるってさ」
兄だか弟だかのほうは、草原にうずくまり、片手で槌せた金髪をすきながら、木の葉をさがしている。「たぶん」とそっちの子がいった。「まるまる一年ここにいて、まだ聖人になってないんだから、いったん帰って、またいつかやりなおしたほうがいいんじゃないかな」
「たぶんね」ともうひとり。
「たぶんね」とぼくは答えて、母のことを考えた。ぼくの話をしたといっても、〈月なし〉の知っていることはほんのちょっとしかない。ぼくはあっさり故郷をあとにしたきり、母親の気持ちも、ほかのだれかの気持ちも、ほとんど考えていなかった。恥ずかしさとじれったさが熱い波になっていっぺんに押し寄せ、ぼくはぱっと立ち上がり、こぶしを握りしめた。
「うん。そうだ、帰らなきゃ」とぼくはいった。「たぶん、そうしたほうが……」
「聖人はどこ?」と、双子が口をそろえていった。
聖人。ぼくは森をふりかえった。サンザシのあいだから、白い髪に縁取られた茶色の顔がのぞき、臆病な野生動物みたいにぼくたちのほうをちらっと見たが、ぼくと目が合うと、すぐまた陰にひっこんでしまった。ぼくは、森と、双子がなにか見つけて熱中している倒木との中間に立っていた。
「待ってて!」ぼくがそう叫ぶと、双子はびっくりしたように顔を上げた。ふたりにとって、急ぐことなどなにもないのだ。
聖人をさがして必死にこの森を歩きまわった、この前の春のことを思い出した。そのとき、この森は、どこにでもあるただの森だった。ところがいま、愛しはじめた相手の顔とおなじように、ぼくはこの森にすっかり慣れ親しんでしまい、はじめて見たときの森の印象などすっかり忘れて、いまのこの森のことしか頭になかった。この森には、〈径〉とおなじように通り道がある。裂けたカバノキのあいだを抜け、常緑樹のぶあつい木立を迂回し、土手を下って、苔とシダの生えた空き地とキノコが生えている黒い倒木のところに出て、いまは割れ目から緑が顔を出している粘板岩の露岩を乗り越え、イバラの斜面を登ると、そこに古い樫の木の木立があり、中でいちばん古い樫の木に、〈まばたき〉の家がある。樫の木の根元に腰を下ろして、顔を伏せている〈まばたき〉の姿は悲しげに見えた。
ぼくは忍び足でゆっくり近づいていって、なにもいわずにとなりに腰を下ろした。〈まばたき〉は顔を上げなかったけれど、顔を伏せているのが悲しみのせいじゃないことはぼくにもわかった。足元の草むらにいるものを一心に見つめているのだ。それはいちばん大きい種類の黒蟻だった。触角をたえまなくふるわせながら、倒れた草のあいだを苦労して進んでいる。
「道に迷っておる」と〈まばたき〉がいった、「道がわからなくなって、自分の巣に帰れないのじゃ。蟻にとっては、これ以上の災厄はない。蟻にとって、道に迷うのは悲劇だな」
「それはなに? 悲劇って」
「悲劇というのは、古えの時代の言葉だ。だれかの身にふりかかったおそろしいことを意味していた。それは、その場の状況と、自分のおかしたあやまちしだいで、だれの身にも起こりうることだ。悲劇は、真実の語りに似ている。なぜならそれは、わしらがみなおなじ性質を持っていること、わしら自身には変えることができず、たえず苦しまねばならぬ性質を持っていることを示しておるからじゃ。この蟻がいつか自分の巣をさがしあて、自分の経験と自分が感じた苦しみを語ることができれば、蟻たちは悲劇というものを知ることになろう。しかし、たとえこの蟻が帰れたとしても、それはかなわぬ話だ。ある意味では、いままでどんな蟻も、道に迷う悲劇に遭遇したことはない。この蟻が最初の一匹だ。蟻にはこうしたことについて話すすべがなく、前もって警告されることもありえないからな。わかるか?」
「と思います」
〈まばたき〉は地面から目を上げ、ぼくにおだやかな視線を向けた。
「さて。〈灯心草《ラッシュ》〉、わしはすべての物語を語りつくしたようだ。だいじな物語はひとつ残らず。それに、あのふたりのそっくりさんがもどってきたんだから、おまえは故郷に帰るのだろうな」
ああ、老〈まばたき〉! この年の冬、ぼくは彼とともに真実の語りを学んでいた。彼の言葉の重みとやさしさのせいで、ぼくにはどんな答えも返せなかった。ただ彼のそばにひざまずいて、待った。けれど、彼はそれ以上なにもいわず、闇夜の人間のように草のあいだを悪戦苦闘して進む蟻を見つめるばかりだった。
「どうしたらいいか教えてください」と、ぼくはついにいった。
「いやいや」〈まばたき〉はひとりごとのようにつぶやいた。「それはできん。どうやら、聖人がどうのこうのというおまえのたわごとに、いささか影響されてしまったようだな。すくなくとも、おまえが覚えていて、またくりかえし語れる物語を話してやりたいと思う程度には。しかし、あれは物語などではない。『それから、それから、それから』が果てしなくつづくだけのもの……聖人などであるものか。もし聖人なら、おまえがなにをしたらよいか教えることを拒んだだろう。聖人ではないから、それを教えることができないのだ」
ぼくは〈七つの手〉のこと、いっしょに〈道路〉を見にいった日のことを思った。あのとき、〈七つの手〉はこういった。「どこかに行くつもりなら、そこにたどりつけると信じていなきゃならん。どんな道を通り、どんな手段によっても」ぼくは〈縫い合わせ〉と〈月なし〉のこと、川岸の家に住みながらも、迷路街と強い絆《コード》で結ばれているふたりのことを思った。〈ワンス・ア・デイ〉のことを思った。だめだ。ベレアはぼくを引き寄せてやまないけれど、故郷にもどることはできない。いまはまだ。
「ねえ、〈まばたき〉」とぼくはいった。「前にいったよね、あの四人の死者のこと。もっと知りたいなら〈長期連盟〉か天使に聞いてみろって」
「どちらも、いまはない」
「でも、〈ドクター・ブーツのリスト〉は〈連盟〉の子どもだ。〈連盟〉が知っていたことを知っている」
「と称しているな」
「なら」ぼくは深く息を吸いこんだ。「彼らにたずねてみるよ」
〈まばたき〉は黙ってまばたき、かたわらにひざまずいているぼくにはじめて気づいて、いつのまに来たのかと驚いているような顔をした。
「たぶん、ぼくは聖人になるべき運命じゃないんだ。たぶんちがう。でも、ぼくが学んで、語ることのできる物語はある」
指をのばし、混乱して動けなくなっている蟻のために草むらに道をつくってやった。泣いてしまうんじゃないかと思った。聖人になりたいと思っていたのに。
「道は知っている」と〈まばたき〉がいった。「いや、知っていた、というべきかな」
ぼくは目を上げた。〈まばたき〉の茶色の顔には、ほほえみのしわが刻まれかけていた。彼はぼくに、どうしたらよいか教えたくなかった。でもぼくは、彼が心の中で選んでいた道を選んだのだ。
「しかし、おまえが知りたがっていることを、はたして彼らが教えてくれるかな」
「ある女の子がいるんだ。ささやき系の子で、何年も前にベレアを出て、彼らといっしょに暮らしてるはずだ。もしその子が見つかったら、教えてもらえると思う」
「そうかな」
ぼくは答えなかった。わからなかった。
「ふむ。いま聞く気があるなら、〈ドクター・ブーツのリスト〉までの道を教えよう。それが第一歩だ」
リトルベレアのことやワンス・ア・デイのことと、〈まばたき〉が教えてくれる道順のことを同時に考えるのは無理だったから、ぼくは、物語を聞く前の金棒曳きがするように、てのひらを〈まばたき〉のほうに向けてつかのま片手を上げ、頭の中をできるかぎりからっぽにした。そして〈まばたき〉は、ぼくがけっして忘れられないようなやりかたでそこからの道順を語ってくれた。なぜなら、ある意味で、彼はたしかに聖人だったから。ぼくの聖人。
ぼくらは立ち上がり、腕組みしたまま、咲いたばかりの花々に彩られたまぶしい草原へと歩いていった。双子が聖人のところにやってきた。双子の肩をたたき、くすくす笑う〈まばたき〉は、ふたりの知っている年老いた小男にもどっていた。ぼくたちは腰を下ろして話をした。
〈まばたき〉の眉毛は踊るように上下し、小さな手はひっきりなしにひざをたたいた。双子は迷路街の噂話を語った。といっても、ふたりが知っていることはごくわずかだったけれど、〈まばたき〉はそれに耳を傾け、あたたかな日だまりの中であくびをした。とうとう彼は、斜面に足を上げて寝転がった。
「そうか、迷路街はあいかわらずか……新しいことはなにもない、あったとしてもおまえたちは知らんと……ふむ。それから、それから、それから。また春が来て、またあたたかくなる……忙しいことじゃ、来たかと思えばまた去ってゆく……」
〈まばたき〉は両手を頭のうしろで組み、眠りに落ちた。あたたかな南風に吹かれて、静かな寝息をたてている。
ぼくたちは忍び足でその場を離れた。ぼくは荷造りをすませたが、細いひもで編んだハンモックは、〈まばたき〉へのささやかな贈りものとして残していくことにした。
「今夜には、川岸の家に着けるね」と〈芽生え〉がいった。そして〈花盛り〉が、「そしたら、あしたには故郷に帰れるよ」
「ううん」とぼくはいった。「故郷には帰らない。でも川まではいっしょに行くよ。そこで、〈道路〉をさがす」
「聖人になるのはやめたんだと思ったのに」と〈芽生え〉。
「聖人のことはわからない」ぼくたちは、小さな小川の岸にたどりついていた。「でも、故郷をあとにするって決めたんだから、離れているべきだと思うんだ」
森の中へと歩きながらうしろをふりかえると、草原で眠っている〈まばたき〉の姿がちらりと見えた。またいつか会うことがあるだろうか、と、そのときはぼくは思った。
ぼくは、またいつか彼に会えたんだろうか。
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第七の切子面
翌日の夜明け、ぼくは〈道路〉の大きな合流地点に立って、前の晩の焚火のピンク色の燃えさしを足で散らしていた。南に目を向けると〈道路〉は、晴れた朝の光を浴びて輝く森林地帯へと下り、西のほうを見ると、まだ陽の射していない暗い大地へと延びていた。ぼくの頭上には、錆ひとつない柱に支えられて、さしわたしが〈道路〉の端から端まである巨大な緑色の板がそびえ、強くなりはじめた風にキイキイ音をたてて揺れている。板には文字が書いてあったけれど、ぼくに意味がわかるのは、汚れた白で描かれたふたつの矢印だけだった。ひとつは南を指し、もうひとつは西を指している。ぼくは、ささやかなキャンプをたたみ、南に向かって歩き出した。
午後には、明けがた目にした森林地帯にさしかかった。〈道路〉は森の中に入り、森も〈道路〉の中に入りこんでいる。森の大木は急勾配の斜面を下り、若木や低木は〈道路〉の上に優雅に顔を出して、春が川面の氷を割るように、〈道路〉の灰色の表面にひび割れをつくっていた。なだらかに傾斜する大木の木立が〈道路〉に影を落としている。〈道路〉を深い傷のように横切る流れを渡るとき、水底の石ころに混じって〈道路〉のかけらがあるのに気がついた。いつの日か、〈道路〉はすべて洗い流されてしまうんだろうか? 〈まばたき〉が話してくれた、天使の巨大な球のかけらのことを思い出した。
森の中を歩きつづけて七日たっても、木々がまばらになったり、森が終わったりする気配はまるでなく、反対にますます森が深くなり、古くなるばかり(とはいえ〈道路〉にくらべれば新しいけれど)。このあたりは古えの時代の土地で、歩くのはいい気持ちだった――すくなくとも〈道路〉にそって歩いているかぎりは。しかし、夜になると事情が変わる。夜になると、千年前、ここには森なんかまるっきり存在しなかったんだと考えてしまう。そのころには、森のかわりに、人間の住む家々、それとも街があっただろう。なのにいまは、巨大で冷淡な木々と、動物しか通れないびっしり茂った下生えがあるばかり。もはやここでは、〈道路〉だけが人間のものだ。しかし、その〈道路〉も、いつかは征服されてしまう……。
ぼくの焚火は闇の中にぼんやりした大きな穴を穿ち、動物たちを遠ざける。それでも物音は聞こえた。昆虫たちの王国が夜通し歌を歌いつづけている。その音の中で、ぼくは浅い眠りを眠った。うつらうつら、眠りと目覚めのあいだを行きつもどりつして、夢は現実のよう、現実は夢のよう、そのどちらも、飽くことを知らないあの機械の群れに埋めつくされていた。
まるで、森に囚われて、かつてほかの場所にいたことがあるのを忘れてしまったような感じだった。夜に対する恐れが消えることはなかったけれど、それはこの森にふさわしい恐怖に思えた。昼間歩いているときには、右を向いても左を向いても森しか見えない。ひとりごとさえやめてしまい(真実の語り手は、ひとりぼっちのときはいつもひとりごとをいうものなんだ)、森がぼくを見るのとおなじように、ひたすら森を見ていた。ぼくは森の一部だった。
だから、ある月のない夜、目覚めと眠りのあいだで、二頭の大きな動物がそばを通り過ぎ、片方の足音がすぐ近くから聞こえたときも、ぼくは餌食にされかかった小動物のようにぴくりとも動かず、ただ待ち受けていた。神経は張りつめているのに、なぜかはっきりと目を覚まして叫び声をあげたり逃げ出したりすることはできなかった。そして、動物たちは通り過ぎた。翌朝になると、動物たちがほんとうにいたのかどうかさえ自信がなくなった。すわって煙をくゆらせながら、逃げおおせたことに感謝したものかどうか考えこんだ。この森のおかげで、いままでずっと、ぼくが世界でたったひとりの人間だと信じ込んでいたから、その朝、人間の歌声を聞くまでは、ゆうべ通り過ぎたのが人間だったということに気づかなかったのだ。
鳥たちはたがいにおしゃべりするし、たえまなくふりそそぐ陽光さえも物音をたてるように思える。だが、人間の声はまったくべつの種類の物音だから、ひと声聞いただけで森の物音と区別することができた。声は、ぼくがやってきた方向からこちらに向かって近づいてくる。忘れてしまったわけじゃないけれどうまく説明できない理由で、ぼくはその声から隠れた。〈道路〉の脇の大きなシダの茂みの陰から様子をうかがった。〈道路〉の広い灰色の表面を歩いてやってきたのは、人間ではなく、最初は一匹、ついで二匹、それから三匹の巨大な猫だった。これまで森の中で、臆病な野生の猫を何匹か見かけていたし、ベレアにもネズミやモグラをとる猫がいて、一、二匹なら見たことがある。でも、いまやってくる猫は、そういうのとはぜんぜんちがう種類の猫だった。大きいだけじゃなくて――人間みたいにうしろ足で立ち上がったら、ぼくに負けない身長がありそうだ――やわらかな足どりは自信に満ち、ランプのような目は眼光鋭く、おだやかな知性のきらめきを宿している。これに似た猫を、話に聞いて一匹だけ知っていた。オリーブといっしょにベレアにやってきた猫だ。
猫たちはぼくの気配を察したようだが、着実な足どりを乱すことなくぼくの隠れ場所のほうへとやってきた。ちょっと怖くなったけれど、猫の態度に威嚇するようなところはなくて、ただ好奇心にかられているだけのようだった。そしていま、道をやってくる歌声の主が目にはいった。十人かそこらで、そろって黒い服をまとい、顔はつば広の黒い帽子で隠れている。彼らは、猫たちがシダの茂みになにか興味をひくものを発見したらしいのを見てとると、歌うのをやめ、猫たちに劣らず興味|津々《しんしん》の様子でこちらにやってきた。ぼくは立ち上がり、〈道路〉に足を踏み出した。彼らはぼく以上にびっくりしたようだった。というのも――こんなにはやく出会えるとは思っていなかったけれど――ぼくがさがしていたのは彼らだったからだ。
ぼくは、まわりに集まってきた彼らにあいさつし、笑みを浮かべた。一行のひとりがいった。「迷路街の子だぜ」
「おれたちのキャンプをどうやって見つけた?」ともうひとり。
「見つけたなんて知らなかった」
「おれたちになんの用だ? なにをしに来た?」
早口で敵意に満ちたその口調のおかげで、言葉が出てこなくなってしまった。ぼくは口ごもった。最初に口を開いた、背が高くて手足のひょろ長い男が、ぼくの前にやってきて腕をぎゅっとっかみ、きびしい目でまっすぐぼくを見つめた。
「おまえ、何者だ?」とたずねる声は低く、有無をいわさぬ響きがあった。「スパイか? 交易者か? もうおまえたちに用はないんだ。ここまでつけてきたのか? 森の中に仲間が隠れてるのか?」
彼ら全員がぼくの周囲をびっしりとりまいた。みんな無表情で、感情を隠している。
「ぼくは――」と、やっと口を開き、「あなたたちに――あなたたちに会いにきたんです。リトルベレアでは訪問者がこんな扱いを受けることはありませんよ。つけてきたんじゃない、ぼくのほうが先を行ってたんです。害意はないし、ぼくはひとりです。ひとりぼっちなんです」
驚いたことに、ぼくの言葉を聞いて、彼らは黙りこみ、当惑したような顔でむっつりぼくを見つめた。それはもちろん、ぼくが真実の語りを語ったからだ。目の前にいる男たちのだれひとり、真実の語りを語っていないのに気づいて、ぼくはショックを受けた。たぶん、ワンス・ア・デイだって、たとえ再会できたとしても、もはや真実の語りを語ることはないだろう。周囲数百マイル四方にわたって、これからぼくが出会うだろうだれひとりとして、真実の語りを語らないのだ。そう考えると、のどがぎゅっとしめつけられ、涼しい朝だというのに汗が噴き出してきた。
ごま塩のひげをたくわえ、となりに従えた猫とおなじ優雅な身のこなしの男が、ぼくの前に進み出て、「リトルベレアでは、おまえたちにはおまえたちの秘密がある」といった。「おまえたちは自分たちを守っている。おれたちにもおれたちの秘密がある。このキャンプは秘密のひとつだ。だから、おれたちはびっくりしている。なによりも」
「わかりました」とぼくはいった。「ぼくはそのキャンプがどこにあるのかも知らないし、このまま歩きつづければ二度と見つけることはないでしょう。そうしたほうがよければ、そうします」
それ以上いうべきことはなにもなかった。彼らはそのキャンプに向かいたがっていたし、ぼくとしては彼らを見失いたくなかった。彼らはぼくを連れていきたくないが、どうすればぼくを厄介払いできるのかわからない。彼らにとってぼくは正真正銘の驚きなのだ。
猫たちはもうぼくに飽きて、またもとの道を歩き出していた。彼らの何人かも、まるで猫に呼ばれたように、そのあとについて歩き出した。ぼくの問題が解決したわけではなかったが、どうやら猫たちが彼ら全員にかわって決断したらしい。例の大男がまたぼくの腕をつかみ――顔はあいかわらずむっつりしていたが、さっきほど強くはつかまれなかった――ぼくたちは猫のあとについて〈道路〉を歩きはじめた(あとで知ったことだけど、〈リスト〉では、議論や懸案事項にこういうかたちで決着がつくことが多い。猫たちが決断するんだ)。
まもなく、〈道路〉の支線が〈道路〉本体を離れ、鋭いカーブを描いて下りはじめた。支線はところどころ崩れ、森の中に消えかけている。斜面のいちばん下にたどりついたところで、支線はやっとまっすぐになり、また〈道路〉と合流した。しかし、その〈道路〉はさっきとはべつの方向に向かい、長い外套のようにシダを茂らせた橋の下をくぐっていた。このときになってやっと、何年も前に見たあの〈道路〉とおなじような巨大な螺旋のひとつをぐるっと回ってきたのだと気づいた。木立のあいだから、〈道路〉の広い背中が隆起しつつ大きな円を描いているのが垣間見えた。森全体の中を〈道路〉が縫い目のように走っているのはまちがいない。どこをどう走っているのかはともかく〈道路〉はどこに行くの? と〈七つの手〉にたずねたことがある。どこにでもさ、と〈七つの手〉は答えた。
それから、ぼくたちは〈道路〉を離れて、とても通れそうにない森の中へと踏み込んだが、そこには隠れた道があり、やがて小さな石の空き地に出た。空き地のはずれに、森に抱かれるようにして、彼らのキャンプがあった。屋根が平たくて軒の低い建物で、天使が建てたものだが、大きな窓はいまは丸太でふさがれている。建物の前には、朽ちた金属の山が二列に積み上げられていた。山は人間の背の高さほどもあり、もとはなにかの機械だったもののようだけれど、ぼくにはなんなのか見当もつかなかった。
ドアの前にすわっていた、黒い帽子をかぶった痩せた老人が、手に持った棒をゆっくり振ってぼくたちにあいさつした。猫たちはすでに老人のそばにいて、日だまりの中でしっぽを振りながら毛づくろいをしていた。ぼくの腕をつかんでいた背の高い男は、老人にぼくを示し、「こいつは中に入れない」といってから、ぼくを見た。べつにかまわないというしるしにぼくが肩をすくめてうなずくと、男たちは扉をくぐって中へ入っていった。
ぼくは石の空き地に立ったまま、老人ににっこり笑いかけた。守衛兼見張りの役目を任されているようだが、老人は驚いたそぶりも案じるそぶりも見せず、笑みを返してきた。建物のわきに、大きな四角いプラスチックの板がたてかけてあるのに目が止まった。〈まばたき〉の〈水差し〉みたいになめらかなその板は、汚れてひび割れてはいるものの、赤と黄の色はいまも鮮やかで、貝殻《シエル》の絵が描いてあった。陽射しが強くなってきた。ぼくはとうとう勇気をふるいおこし、建物の陰の、老人のとなりに腰を下ろした。
ぼくたちはまた笑みをかわしあった。老人は、見張りの役を果たすどころか、目の前にある、朽ちた天使の機械の山となにも変わらない。ぼくは口を開いた。
「何年か前に……」
「おお、そうじゃったそうじゃった」老人は物思いにふけるようにうなずき、空を見上げた。
「何年か前、女の子がひとり、リトルベレアからあなたたちのところにやってきたでしょう。ワンス・ア・デイっていう、若い女の子です」
「泳いどる」と老人はいった。
どう答えていいかわからなかった。たぶん、この人は惚《ぼ》けてるんだろう。しばらく黙ってすわっていたが、ぼくはまた口を開いた。
「その子はここに来たはずです。いえ、ここじゃないかもしれませんけど、あなたたちといっしょに暮らしてるはずなんですが……いや、ほかの人に聞いてみます」
「まだもどっておらんよ」と老人はいった。「それとももどったかな?」
「もどってないって……」
「森の中の池に出かけた、しばらく前に。おまえさんがいっとるのはその子のことじゃろ?」
「さあ。ぼくには……」
老人は、ぼくがなにか奇妙なふるまいをしたみたいにこちらを見た。
「その子はゆうべ、おまえに会いに出かけた。おまえが近くにいるのをブロムが知っていたからな。そうじゃろ? そして今朝はやく、おまえにあいさつしてからもどってきた。それから寝た。いまは池にいる、そのはずじゃが」
老人はぼくが、一行といっしょに遠くから来たものと思っている。ぼくが彼女に会ったはずだと……いや、そのとおり、ぼくはワンス・ア・デイと出会ってたんだ。目覚めと眠りのあいだに、あの動物たちがそばを通り過ぎたときに。人間がひとりと、もう片方は猫だったにちがいない。ぼくははじかれたように立ち上がり、老人を驚かせた。
「その池というのはどこですか?」と声に出してたずねた。
老人は森の中の、道の入口らしき場所を棒の先で指した。ぼくは走り出した。
おそろしく広いこの世界に、おそろしく少数の人間しか住んでいない。そして彼女は、闇に包まれた森の中ですぐ前を通り過ぎたというのに、ぼくは気づかなかったんだ。長いあいだ行方の知れなかった友だちに再会できるとでもいうように、ぼくは森の中をひた走った。が、そのときとつぜん、ひょっとしたら、こんなふうにとびつくべきじゃないかもしれないという考えが浮かんだ。いまの彼女はぼくが知っていた彼女とはまるでちがう人間になっていて、ぼくのことなんか覚えてないかもしれない、いや、それほどではなくても、どうしてぼくがここまでやってきたのかわからないかもしれない。そんなふうに考えながらも、ぼくはせいいっぱいの速度で走りつづけた。道は苔むした岩棚へとまっすぐ登っていた。向こう側から、水の流れ落ちる音が聞こえてくる。ぼくは苔に足をとられながら岩肌を登り、ふらつく足でようやく頂きに立って、向こうを見下ろした。
さざ波だつ深い池の水面に、木の葉が漂っている。小さな滝がその池にそそぎ、鐘を鳴らすような水音としぶきをあげている。あたり一面、岩は黒と緑と真鍮色に濡れて光っていた。そして、水際にひざまずいたひとりの少女が、透きとおった水に両手を入れ、両の胸を水面につけて水を飲んでいた。そのかたわらで、黒ぶち入りの大きな白猫が、やはり水を飲んでいる。猫がぼくの足音を聞きつけ、巨大な頭をこちらに向けた。水が猫の白いあごをつたう。それに気づいた少女が立ち上がって、口と胸を手でぬぐいながら、こちらを見た。一瞬、白い歯がこぼれ、その顔にほほえみに似た表情が浮かんだ。それから、猫とおなじ、警戒するようなかたい表情になり、対岸の岩場に向かってそろそろと降りていくぼくをじっと見据えている。
でも、あれは彼女じゃない。ぼくの知っていた少女に胸のふくらみはなかったし、黒い乳暈《にゅううん》は小さく閉じた口か、まだ開かないつぼみのようだった。いまそこにいる少女はたしかに豊かな黒髪だし、目ははっとするほど青く、釣り上がった眉は怒ったような不機嫌な表情に見えるけれど、それでも彼女じゃない。あれから六つの春が過ぎている。ぼくのあごには薄くひげが生えている。ぼくもぼくじゃない。
「ワンス・ア・デイ」
彼女とおなじように、池の端の濡れた岩に両手をかけ、ぼくはそう呼びかけた。ワンス・ア・デイの視線はぼくの目を離れず、その顔にはまた、さっき上から見たあの笑みが浮かんだ。でもいま、こうして近づいてみると、彼女のせわしない息づかいが耳に届いた。となりの猫がおなじようにしてみせたとき、それが猫の笑みなのだということがわかった。歯をむきだし、シューッとうなる笑み。
ワンス・ア・デイの耳に入れるべき言葉が、なにひとつ思い浮かばなかった。猫は自分の態度をはっきりさせたし、彼女は猫の態度にならった。着ていたズボンとシャツを脱ぎ捨て、ぼくは氷のように冷たい水に足を踏み入れた。彼女はじっと動かず、こちらを見ている。大きなふた掻さで、彼女がすわっている岩にたどりついた。ワンス・ア・デイの足もとの岩をつかんで、水が冷たいねと声をかけようとしたとき、彼女は立ち上がり、ぼくに触れられるのが怖いというようにあとずさった。猫のほうは向きを変え、かじかんだ体を引き上げて水をしたたらせているぼくの前から静かに歩き去った。そして、ぼくが追い求めてきた彼女は、くるりときびすを返して走り出した。
その背中に呼びかけ、あとを追いそうになったが、そのとき急に、追いかけていくのは最悪のやりかただという気がした。ワンス・ア・デイがすわっていた場所に腰を下ろし、岩肌に残された彼女の濡れた足跡がしだいに乾き、消えていくのを見つめた。ぼくは聞き耳をたてた。森からは、走っていく足音がとだえていた。そんなに遠くまで行ったはずはない。ぼくにできるのは、話しかけることだけだった。
そのときなんといったか、もう覚えていない。でもぼくは、自分の名を名乗り、それをもう一度くりかえした。どんなに長い道のりをやってきたか、ゆうべ彼女がすぐそばを通り過ぎたことを知ってどんなにびっくりしているかを話した。
「自分でも信じられないほど長い距離をやってきたよ」とぼくはいった。「ほかになにも贈りものはないけど、でもこれから先、きみが望むだけの……」
何度も彼女のことを想い、あの春の彼女を思い出したことを話した。樹上の家で過ごした冬が去った今年の春、彼女はどうしているだろうと思い、そのために涙を流したことを話した。でも、とぼくはいった、あとを追いかけてきたんじゃないんだ、追いかけはしなかった、きみがくれた〈おかね〉で、ぼくは追いかけないと誓ったし、じっさい追いかけなかった。物語を聞きたかっただけなんだ。ある聖人から、そうなんだよ、ワンス・ア・デイ、ぼくは聖人といっしょに暮らしてたんだけどね、その聖人から秘密を教えてもらって、それについてもっと知りたくなった。でもそれはきみのせいなんだよ、とぼくはいった。ずっと歩いてきたこの道にぼくを送り出したのはきみなんだから。ねえ、だからせめて、いまここでぼくの名前をいってくれないか、そうすればきみが、ぼくの覚えている少女だってことがわかるから、だって……。
彼女がぼくの前に立っていた。髪の毛とおなじ黒の、星々の模様を散らした、とてもやわらかそうな外套を着ていた。
「〈|しゃべる灯心草《ラッシュ・ザット・スピークス》〉」と彼女はいった。まっすぐぼくの顔をのぞきこんではいるけれど、その目はどこか眠り歩きの目のようで、なにかべつのものを見ている。「わたしがいないのに、どうしてわたしのことを思い出せたの?」
彼女は真実の語りを語っている、そう思ったけれど、そう願ったけれど、しかし彼女の語りは猫とおなじ無表情で、森の中でぼくを見つけた男たちの謎めいた無表情とおなじ仮面に隠されていた。
「きみはぼくのことを一度も思い出さなかったのかい?」
猫が用心深い足どりで森から出てきて、ぼくたちの前を歩いていった。
「ブロム」とワンス・ア・デイはいった。呼びかけるというより、ただ名前をいっただけのような口調だった。猫は通りすがりにこちらを一瞥しただけで、キャンプのほうへと小道を歩いていった。ワンス・ア・デイはしばらく猫のうしろ姿を見送っていたが、やがてあとを追って歩き出した。ぼくのほうをふりかえり、腕組みして、いった。
「じゃ、いらっしゃい」
そしてその瞬間、いまと、はじめて彼女に会った日とのあいだに横たわる歳月が一瞬のうちに折り畳まれ、消え去った。彼女のその言葉その口調は、ぼくたちがまだ七歳で、ぼくがワンス・ア・デイのあとについて〈絵具の赤〉の部屋へ行ったあの朝、彼女が口にした言葉とそっくりおなじだったからだ。ぼくが彼女の保護を必要としており、そして、彼女としては気が進まないけれど、ぼくを守ってやらなければならないのだというようなその口ぶりも、あのときとまるでおなじだった。
ぼくがどんなふうにしてここまでやってきたか、ワンス・ア・デイがたずねようとしないので、ぼくのほうから話した。
「あなたは囚人なの?」
「たぶん」
「わかった」
歳月だけではない変化――彼女の語りを包む仮面だけではない変化がワンス・ア・デイに起きていた。狐の一家を見せてあげたお礼にぼくにキスした少女、オリーブが小聖ロイと並んで横たわったようにぼくと横たわったあの少女は、あとかたもなく消え去っていた。でも、そんなことはちっともかまわなかった。ぼくが見つけたこの少女を――星をちりばめた黒い外套をまとうこの少女を永遠に追いつづけられるなら。
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第八の切子面
夕暮れ、ぼくは彼らのあいだに緊張してすわっていた。もっとも、彼らのほうはすっかりくつろぎ、暮れなずむ空の下、キャンプの建物の外壁に背中をあずけていた。議論の内容にくらべると、彼らの態度にはまるで凶暴さが足りなかった。
「木に縛りつければいい」とひとりがいって、両手でぼくを縛り上げるようなしぐさをした。「それから、死ぬまで棒でぶちのめすんだ」
「ほう?」灰色のあごひげをたくわえた年かさの男がいった。「で、縛られたり殴られたりするあいだ、こいつがじっとしててくれなかったら?」
「じっとしてなんかいないよ」とぼくはいった。
「おれたちで押さえつけとくんだ」と最初の男。「頭を使えよ」
ワンス・ア・デイはぼくと離れて、ブロムといっしょにすわっていた。ほかの連中が話すあいだ、あまり関心のなさそうな表情で、顔から顔へと順ぐりにながめていた。ここは彼らの森なんだから、どうしたってうまく逃げのびるのは不可能だ。ぼくはそう腹をくくった。
「ナイフがあったら」と、べつの男があくびをしながらいった。「舌を切りとるんだけどな。そうすれば、だれにも話せなくなる」
「切りとる役はあなたがやるの?」とワンス・ア・デイがいい、相手が答えないと、軽蔑したように首を振った。
「ま、どのみち、ナイフなんかないんだから」と、男はたいしてめげたようすもなくいった。
つまり彼らは、ぼくがベレアにもどって、このキャンプの場所をみんなにいいふらすことをおそれているのだった。そんなことになれば、侵略されたり盗まれたりする可能性がある。いまでもまだ、盗賊はいる。ぼくを信じるいわれはない。彼らはただ、どうしたらいいかわからないのだ。
「親切にしてあげたらどう?」とワンス・ア・デイがいった。「いろんなものをあげて」
「そうそう」と、闇に包まれて顔の見えないだれかがいった。「そしていつか、こいつが|暗く《ダーク》なったとしたら、いま親切にしてやったところでなんになる?」
「そんな人じゃないわ」とワンス・ア・デイが小さな声でいった。それから長いあいだ、だれもなにもいわなかった。戸口のそばのだれかが急に立ち上がったので、ぼくはびくっとした。例の見張りの老人だった。老人は建物の中に入っていくと、すぐまた、白い光の玉を前にかざして出てきた。彼が手を離すと、冷たく輝くその球は、トウワタの種子のように宙を漂い、すわっている男女にやわらかな光を投げかけた。ぼくの頭は自分の運命のことでいっぱいだったけれど、漂い出した〈光〉を見て、オリ――ブと満月のことを思い出した。ぼくは、ほかの猫たちにまじってうずくまっているブロムに目をやった。ブロムがこちらを見返す視線には、ぼくを殴り殺すことについて議論している人々の顔に浮かんでいるのとおなじ率直さがあった。そしてあのとき、小聖ロイの耳に、オリーブは恐るべき秘密を告げたのだ。
「ぼくに考えがある」声が震えそうになるのをおさえて、ぼくはいった。「もし、ぼくが出ていかないとしたらどうかな」周囲の面々はみんな、仲間の意見を聞くときとおなじ寛大さでぼくを見た。「あなたたちのもとにとどまって、二度と故郷にもどらないとしたら? ぼくも仕事が手伝える。ものを運んだりとかね。そして、ぼくが年をとり、老衰で死んだら、秘密は守られる」
彼らは黙っていた。べつにこの提案について考えているふうもなく、まるでなにも聞かなかったみたいだった。
「力は強いし、いろんなことを知ってるよ。物語も知ってる。出ていきたくない」
彼らはぼくを見、そよ風に吹かれてかすかに動く〈光〉を見た。とうとう、若い男が身を乗り出し、「おれもひとつ、物語を知っている」といって、それを語りはじめた。
こうしてぼくは、ブロムとワンス・ア・デイのあいだにはさまれてその夜を過ごした。みんなたちまち眠りに落ちてしまったが、ぼくは眠らなかった。あれからあと、ぼくを殴るとか切り裂くとかいう話はいっさい話題にのぼらなかった。あれからあと、話題のいかんにかかわらず、だれもひとこともしゃべらなかった。ただ物語が語られていくだけで、ぼくはほかの人々といっしょに笑みを浮かべてその物語に耳を傾けたけれど、さっぱり理解できなかった。
そして、とうとうぼくが眠りに落ちてからまもなく、夜明けの前に、ワンス・ア・デイがぼくを揺り起こした。
「猫たちが歩き出したわ」と彼女はいった。その顔は暗く、奇妙な感じだった。一瞬、彼女がだれなのかわからなかった。ぼくは朦朧《もうろう》としたまま立ち上がると、がたがた震えながら、ワンス・ア・デイといっしょにちょっとだけ煙をくゆらし、彼女がくれたカップの熱い飲みものを飲んだ。乾燥させた花みたいな味がしたけれど、おかげで身震いがおさまった。ワンス・ア・デイが手渡してくれた丈の長い黒のケープをまとうと、それを見て彼女がくすりと笑った。変装したぼくの姿に、ほかの人々も笑い声を洩らした。長い夜のあいだに恐怖は去り、ぼくはひとつ学んでいた。真実の語り手は勇敢である必要はほとんどない。つねに他人の立ち場と考えを知っているからだ。けれど、ここにいる人たちはそういうやりかたで話すことができず、だから、彼らもほんとうは危害を加えるつもりなどなかったのに、ぼくは恐怖を感じたのだ。人間のことを怖いと思ったのは、ゆうべがはじめてだった。そしてこれからは、しばしばそういう事態が生じるだろうということもわかった。恐怖や混乱や不安におちいることになる。だから、ぼくがしなければならないのは、たったひとつ、勇敢になることだ。こんな年になってから、はじめてそのことに気づくというのは、なんとも奇妙な感じだった。考えてみると、老いた人々が平和に死んでいく迷路街では、一度もそれを学ぶ機会がなかったのだ。
猫たちが歩いていた。出発の時間だ。ゆうべのうちに荷造りされていたもののうち、だれがなにを運ぶかでちょっとした議論になった。ぼくはぴかぴか光る大きな黒い荷を背負うことになった。さらさらという音からすると、乾したパンがいっぱいにつまっているらしい。まる一年近く保《も》ちそうな量だ。ぼくがパンを運ぶのはうってつけだという気がした。ぼくたちは、まだ暗い〈道路〉を長い一列になって出発した。先をゆく猫たちの姿が遠くにぼんやり浮かび、森を通して見える左手の空が白みはじめていた。
陽が高くなり、猫たちがたっぷり歩いたころ、ぼくらは午後を過ごせそうな場所を見つけた。午後いっぱいは猫といっしょに昼寝をしたりぶらぶらしたりで休息し、夕方になると、またじれて歩きはじめる猫たちを追って出発することになる。そこは、山懐に抱かれた草原で、黒い松やカバノキのあいだに、背の高い、羽毛でおおったような草が生えていた。ワンス・ア・デイとぼくは額をくっつけあって腹ばいに寝そべり、籠からスゲをひっぱりだして、甘い根元を噛んだ。
「子どものころは」とぼくはいった。「いつかリトルベレアをあとにして、いまは失われたぼくたちのものを見つけ出し、それを持って帰ってきて、彫り箪笥の中にしまうつもりだった……」
「なにを見つけたの?」
「なんにも」
「あら」
「でも、聖人を見つけたよ。樹上の聖人だ。彼といっしょに暮らして、聖人になるすべを学ぼうと思った。で、そうしたのさ」
「いまのあなたは聖人なの?」
「ううん」
「そう」ワンス・ア・デイは歯のあいだにスゲをはさんだまま笑みを浮かべた。「それは物語ね」
ぼくは笑った。再会してからはじめて、ワンス・ア・デイが迷路街でぼくの知っていた少女と重なった。
「それでその人が、わたしたちをさがせといったのね」
「そうじゃない。ほら、きみがはじめた物語、あの四人の死者の物語のせいだよ……」ワンス・ア・デイの顔に雲が影を落とし、彼女は顔をそむけた。「〈連盟〉ならその物語を知ってるっていわれたんだ。でも、ぼくが来たのはそのためじゃない」
「じゃあ、なんのため?」
「きみを見つけるため」
そのことをちゃんと自覚したのは、ワンス・ア・デイの姿を池で見たときがはじめてだったけれど、それからあとは、ほかの理由など理由でもなんでもなくなってしまった。ぼくは、繊維で編んだ籠からまた一本スゲをひっぱりだした。スゲというのは、どうしていくつもの節がひとつにまとまった、こんなかたちをしてるんだろうと思いながら、スゲの甘さを味わった。
「むかし、ベレアにいたときには、〈リスト〉の暮らしが体に合わなくて、ある年の春、きみが死体で帰ってくるんじゃないかと思っていた。ホームシックにかかってね。さびしそうな青い顔をしたきみの姿が目に浮かんだよ」
「わたし、ほんとに死んだのよ。簡単だった」
ぼくの顔に浮かんだとまどいの表情がよほどおかしかったらしく、ワンス・ア・デイは低い声でおもしろそうに笑った。ひじをついてにじりよってくると、顔をぼくの顔に近づけ、ぼくの歯のあいだの草をとって、目も口も開いたままキスをした。
「わたしのことを思っててくれてうれしい」キスのあと、ワンス・ア・デイはいった。「あなたを|暗く《ダーク》してごめんなさい」
どういう意味なのかわからなかった。
「きみも、ぼくのことを思っててくれただろ。そのはずだよ」
「たぶんね。でも、だとしてもどんな気持ちだったか忘れてしまった」
ワンス・ア・デイのわきにいた猫のブロムが、鋭い歯をむきだしにして大きなあくびをした。ざらざらの舌が口の中で弓なりになり、寄り目になった。ワンス・ア・デイは、猫とおなじように、重ねた手の上にあごをのせた。
「うれしいわ」そういって、彼女は眠りについた。
旅は何日も何日もつづいた。朝と夜は、暑い中をひたすら歩き、昼間は眠った。歩きながら、〈リスト〉は節のない歌をはてしなく歌いつづけた。最初のうちはまるで意味のないでたらめに聞こえたが、やがて興味をひくものがいっぱいあるような気がしてきた。だれがいちばんうまいかを聞き分け、その声が歌に加わるのを待ちわびるようになった。彼らの歌が旅の荷を軽くする手段であることもしだいにわかってきた。ぼくが使った〈四つ壺〉の二番めの壺とおなじように、時間をはてしなくひきのばし、とうとう時間は消え去って、知らず知らずのうちに何マイルもの道のりが背後に去っている。
ある日の明け方、〈道路〉が巨大な蜘蛛の巣のようになっている場所にさしかかった。コンクリートの巨大な首や肩が、廃墟となった背の高い建物群を支えている。どの建物も、ガラスやプラスチックは数百年前に剥げ落ちてしまっている。ここまで来てようやく、彼らは歌うのをやめた。故郷に近づいて、移動の夢から目覚めはじめたのだ。
太陽が高くなっても一行は足を止めず、森の中の道しるべとなる大小の廃墟をたがいに指さしあいながら先を急いだ。〈道路〉がゆるやかにカーブするところで故郷を目にして、彼らは歓声をあげた。ワンス・ア・デイが指をさす。彼方に、黒い四角形が見分けられた。信じられないほど黒く、まるで白昼にうがたれた正方形の穴のように見える。
「なんだい?」とぼくはたずねた。
「〈通行壁《ウェイ・ウォール》〉よ」とワンス・ア・デイがいった。「さあ!」
〈道路〉を離れ、コンクリートの支線を歩いていくと、だしぬけに大きなむきだしの広場に出た。広大な石の地表にはひび割れが走り、その上を風が吹きわたるばかりで、まるっきりなんの役にも立っていない。まるで天使が、世界のどれだけ多くの部分をいちどきに石で覆うことができるかを誇示しようとしたみたいだった。石の広場に建ち並ぶビル群は、崩壊しているものもあれば、完全なかたちで残っているものもあった。ひとつは、〈四つ壺〉の最初のとおなじ、奇妙な青とオレンジ色で、小さな尖頂がついている。中央のいちばん大きな建物は、地面からはるかな高みへと伸びる巨大なアーチ形の肋骨でできていた。平坦な表面の大部分は、漆黒の正方形におおわれている。のび放題のひげのように建物をおおうツタも、この黒い正方形の上には生えておらず、その黒は日光さえ反射していない。まるでそこには存在しないもののようで、見ていると、知らず知らず寄り目になりそうだった。
その建物から、猫といっしょに人々が出てきて、手を振り、あいさつを叫びながら、ぼくたちのほうにやってきた。ぼくより頭ひとつ背の高い老婆が先頭に立ち、その横では巨大な虎猫が老婆のスカートに体をすりつけている。老婆は長い手に杖をついているけれど、杖など必要には見えないしっかりした歩きっぷりだった。老婆はワンス・ア・デイを手招きし、笑いながら長い腕をワンス・ア・デイの体にまわした。ワンス・ア・デイも老婆を抱きしめ、ため息をつくように名前をつぶやいた。ジンシヌラ。老婆がぼくに目をとめ、杖をふりあげてぼくを指した。
「で、この子はどこで見つけたんだい?」と、片腕に抱いたワンス・ア・デイに向かってたずねる。「それとも、オリーブ・グレイヘアがここへよこしたのかい、わしらはみんな死んだと告げるために?」
ワンス・ア・デイは老婆の腕の中で笑いながら体をすりつけただけで、なにもいわなかった。
「ぼくは、ここで暮らすために来たんです」とぼく。
「なに? なんじゃと?」
「暮らすために来たんです」と、ぼくは声を大きくした。「それに、オリーブはいく生涯も前に死んでいますよ」
それを聞いて、老婆はまた笑った。
「そこに持ってるの、それはパンだね? さあ、荷物を下ろしな。ためしてみよう。もし、いまのあたしが暗ければ、いろいろ質問するところだがね。暮らすというのはかまわないが、しかし……ま、ともかく、給油市《サービス・シティ》にようこそ」老婆は杖を上げて、石の広場に建つ周囲の建物を示した。「さて、と。こっちへおいで、迷路街の子。しばらく考えて、どうするか決めるとしよう」
老婆は片腕をぼくの体にまわした。その力は、森でぼくをつかまえたひげの男に劣らず強かった。ぼくたち三人は、ワンス・ア・デイが通行壁と呼んだ、壁の黒い穴めざして歩き出した。ジンシヌラは、ぼくとワンス・ア・デイをしたがえて、大きな歩幅でずんずん進んでいく。ぼくは向きを変えようと逆らったけれど、彼女は腕を離さず、ついに通行壁は頭上高くそびえたった。見ることのできない虚無を目の前にして、頭がくらくらした。まっすぐそこに踏みこんだら、なにも見えない暗黒に呑まれてしまうのではないかと、一瞬、かぎりない恐怖を感じたが、そのときそれにぶつかった。いや、ぶつかったんじゃない。一瞬、全身がひとつの関節みたいにポキンと鳴ったような感じがしたかと思うと――次の瞬間、ぼくたちは中に入っていた。そこは暗闇ではなく、いままで見たこともないほど大きな屋内だった。広々として、明かりに満ちている。眼鏡に雨粒が落ちたときみたいに、周囲のものすべてが奇妙にゆらめき、屈折して見えた。通り抜けてきた黒い壁をふりかえると、外が見えた。この場所を照らす光は、外から降り注いでいる。これが通行壁か!
そして、黒い壁に照らされたこの場所は、〈ドクター・ブーツのリスト〉が住まう家だった。ぼくはまだつっ立ったまま、ぽかんとして見とれていた。ジンシヌラはワンス・ア・デイをしたがえて、広大な床をなす黒と白のタイルの上を歩いていった。かかとはコツコツと音をたて、声が反響する。床はひたすら上へと迫り上がっていって、湾曲した天井をかたちづくる金属の肋骨《リブ》につながっている。迷路街の蜂の巣のような内部とは正反対の、音の響くこの巨大な空間に、そっくりひとつの街がつくれそうな数の人間がいた。背後の壁からは巨大な棚がつきだして、それが二階となり、天井からケーブルで釣り下げられた幅の広い階段がそこに通じている。人々は、その棚のヘリや階段にすわって、足をぶらぶらさせながら、眼下の仲間たちに声をかけていた。旅人たちは荷物を積み上げて腰を下ろすと、友人たちと言葉や抱擁をかわした。子どもたちは、もどってきた旅人たちに渡す飲み物を手に、タイルの上をあちこち走りまわっている。人々の集団からパンの煙が雲をなして立ち昇り、大きな猫たちはくんくんにおいを嗅いでミャーオと鳴いた。巨大な空間全体に、ごろごろのどを鳴らすような〈リスト〉の古代語がぶんぶんわんわんと鳴り響き(ぼくに目を止めると黙りこんでしまう人たちもいないではなかった)、〈夜〉をまたぎこして天使たちの宝物蔵にとびこんでしまったことにだれも驚いていないようだった。
なぜなら、ここはそういう場所だからだ。ワンス・ア・デイは、友人たちのさしだす手をかいくぐってぼくのほうに走ってくると、ぼくを大騒ぎのまっただなかに連れ出した。
この空間の長い長い壁ぞいに、すべて天使製の、容器や箪笥や箱がずらりと並んでいた。つやつや光る白いプラスチックでできた、ぼくの腰の高さくらいのものもあれば、すべて天使銀製の、両開きのガラス扉がついた背の高いものもあった――あんまりたくさんあるので、その鈍い輝きがこの場所の熱を冷ますようにさえ思えた。開いたままの背の低い容器のいくつかは、傾けた鏡が上部についていて、中に入ってるものを二倍に見せている――天使でなければ考えもしない思いつきだ。
ワンス・ア・デイはこうした容器のあいだを走りまわり、次から次へと中身を指さしては、旅のあいだに話してくれたものの実物を見せてくれた――「で、ここにあるのが、前に話したあれで、そこにあるのが前に話したあれ」という調子。まんまるに見開かれた目はきらきら輝き、彼女は明るく、ぼくはワンス・ア・デイのことがいとおしくてたまらなくなった。彼女はぼくの手をひっぱって、容器が並んでいる壁の端から端までを埋めつくして並ぶ巨大な絵の正面に連れてきた。放っておいてもこんなに大きなものを見逃すわけはないのだが、どうしても見せなければと思いこんでいるらしく、彼女は並んだ絵をまっすぐ指さした。絵の色は、天使がそれをつくったときそのままの鮮やかさを保っているように見えた。一枚には、にんじん、ビート、豆、べつの一枚には卵と白い瓶が描いてある。一枚に描かれた雌牛は、人間そっくりの笑みを浮かべていて、妙な感じだった。ワンス・ア・デイはその雌牛を指さしながらいかめしい表情でたたずんでいたが、そのときだれかの姿を目に止めて、やさしい声でいった。
「ゼア」
それが名前だった。色の薄い金髪、肩と鼻にピンクの日焼けのあとが残る少年が、人々の輪の中にすわっていた。まわりはほとんど年上で、少年から距離を置こうとしているみたいに見えるけれど、それでも少年に笑みを向け、ときおりだれかが手をのばして腕をなでたり肩にさわったりしている。ワンス・ア・デイはその輪のほうへ歩いていった。ゼアという名の少年は目を上げ、ぼくたちを見た。ワンス・ア・デイは前からの知り合い、ぼくははじめて会った見知らぬ他人なのに、どちらに向ける視線もまるでおなじだった。ワンス・ア・デイは輪のあいだを抜けて、少年の前にひざまずいた。彼女を見るゼアの目は、さぐるような視線だけれど、なにかさがしているものがあるわけでもないようだった。ワンス・ア・デイは少年の顔と手にふれ、頬にキスすると、なにもいわずにもどってきて、ぼくのとなりに腰を下ろした。
「なんだい?」
「ゼアよ」とワンス・ア・デイ。「今年、その年齢《とし》になったばかりで、きょう、ドクター・ブーツからの手紙を受けとったの」
「なんだい、それ?」
「手紙よ。ドクター・ブーツの」
「彼、どうして裸なんだい?」
「裸でいたいからよ」
ゼアはかすかに笑みを浮かべ、やがてその笑みが大きくなった。体の中に笑いがあるようで、周囲の人間たちも笑みを浮かべて、たがいに顔を見合わせ、それからゼアを見た。ゼアは、今度は声をあげて笑い出し、みんなも彼といっしょに笑った。どこかでだれかがなにかを落とし、チャリンと音がして、猫たちがいっせいに耳をぴんとたてた。ゼアは目をまるくして、さっとそちらをふりむいた。
「きみもその、ドクター・ブーツからの手紙っていうのをもらったのかい?」とぼくはたずねた。
「ええ。彼の年齢になってから、毎年五月の月にね。最初のは、ここへ来た次の夏。今年は、キャンプに出かけていってあなたに会う直前に」
「自分の手紙を受けとるのとおなじようなものなの?」
「ええ。おんなじよ。わたしはおんなじように感じる」
「黙ってたの? 黙ってないといけないの?」
「その必要はないわ。ただ、黙ってしまうだけ、とくに最初の手紙のときはね。なにもいうことがないのよ。ぜんぶ済んでしまってるんだから。なるようになるの。そのあとでのおしゃべりは、ただ――ただ楽しみのためだけ。ちょっとした暇つぶしね」
「ぼくと話すときも――やっぱりそうなの?」
ワンス・ア・デイは片手で黒髪をかきあげ、なにもいわなかった。ぼくも、それ以上あえて言葉を重ねようとはしなかった。部屋の中に夕闇が降りかけていた。昼間の青いゆらめきが、くすんだ金色に変わってゆく。
「彼、きれいでしょ?」とワンス・ア・デイがいった。
「ああ」
「きれい」
「ああ」
日が落ちるにつれて、低く静かな歌がはじまった。ブロムか、それともジンシヌラの虎猫か、猫がゴロゴロのどを鳴らす音に似たその歌声は、やがてべつのグループに、そしてまたべつのグループへとひきつがれていった。低く甘い笑い声、つぶやき、うなり。ひとつひとつの声がメドレーのように部屋の中を伝わっていく。そして、夜の闇が降りると、ひとつまたひとつと声がとだえ、最後のほうまで残っていたワンス・ア・デイの高く悲しげな声も消えて、とうとうみんな静かになった。そして、〈光〉がとりだされた。
たぶん天使たちは、昼のあいだ冷たい球を暗くしておく方法を知っていたのだろう。〈リスト〉は、昼間、球を黒い袋に入れておいて、夜になるとそれをとりだす。球はたくさんあったが、それでもこの広大な空間には、ところどころ闇に包まれたポケットができていた。ゼアの周囲の人間はだれひとり、彼のそばに〈光〉を持ってきてやろうとしなかった。そして、薄闇のなか、彼のきれいな体が、体内でランプが光っているかのように輝いているのが見えた。
[#改丁]
第三のクリスタル ドクター・ブーツからの手紙
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第一の切子面
[#ここから太字]
……挿し込んでしまうまで待って。
[#ここで太字終わり]
なに? また最初からはじめるの?
[#ここから太字]
いいえ。だいじょうぶよ。これが二番目のクリスタル。ほら、こんなに小さいのに、ぜんぶ入ってるの。〈まばたき〉も〈花盛り〉も〈芽生え〉も、あのくだりがそっくりぜんぶ入ってる。
[#ここで太字終わり]
あといくつあるの? もう日が暮れるよ。ほら。下の雲がみんなピンクと黄色に染まってる。
[#ここから太字]
三つで終わりよ、いつもはね。
[#ここで太字終わり]
天使……そろそろ教えてくれないかな……。
[#ここから太字]
いいえ。まだだめ。話してちょうだい。つぎの日、給油市《サービス・シティ》ではなにがあったの?
[#ここで太字終わり]
ええっと、ぼくたちが眠ったあの夜のことだね。ワンス・ア・デイはぼくを連れて、幅の広い階段を上がっていった。階段の上は広い壇になってて、この部屋のうしろ半分にかぶさってる。中二階《メザニン》とみんなは呼んでいた(〈リスト〉はそういう言葉をたくさん知ってるんだ。古代のコインを天使石の上に落としたときの音みたいだよね、メザニンなんて)。そこには、カーテンと低い壁で仕切られた小さな部屋がいくつもあって、ぼくはリトルベレアのことをちょっと思い出した。
ワンス・ア・デイが見つけてきた、枕がいっぱい積んであるだけのだれもいない部屋に、ぼくたちは並んで横たわった。ワンス・ア・デイは物語の力でぼくを〈リスト〉の腕の中に引きこもうとしてるみたいに、ずっとしゃべりどおしだったけど、とうとうひっきりなしにあくびが出て、話をつづけられなくなってしまった。ワンス・ア・デイはここにもどってきたことがうれしくて、ぼくが目の前にいることにとっても喜んでいて、そのせいかぼくは、なんともいいようのない気持ちで胸が痛んだ。ああ、ドクター・ブーツ、あなたはみんなを、こんなに幸福な、こんなに希少な存在にしています――いや、そうじゃなくて、自分自身の力でそういう存在になるようにさせています。
〈ドクター・ブーツのリスト〉には、ぼくにはぜったいできなかったことができる。ワンス・ア・デイはここで暮らした歳月のあいだに、それができるようになっていた。彼らは猫のように眠る。短いうたた寝を何度もくりかえすんだ。ワンス・ア・デイは、しばらく眠っていたかと思うと、長いあいだ起きていて、またちょっと眠り、また目を覚ます。その夜ぼくは、彼女が起き出してどこかに行き、ぼくの長い眠りが終わるのを待ちきれなくて、また様子を見にもどってくる気配を感じた。でもぼくは、慣れない場所に来た人間が見る深い夢の真ん中にいて、目を覚ますことができなかった。やっと起きたのは、冒険の最中に自分があげた悲鳴のせいだった。ぼくは横になったまま目を開き、自分がどこにいるのか思い出そうとした。
よろよろと立ち上がって、仕切りのカーテンを抜けると、そこは広大なホールを見下ろす、中二階の端っこだった。通行壁を抜ける途中でかすかに青みを増した、晴れた朝の光があたりに満ちている。ワンス・ア・デイが、両手を膝小僧にあてて身をかがめ、通行壁の前に立っているのが見えた。その横には、筋肉質の茶色い肌の男がすわっていて、両手に持った透きとおった青いガラス玉を、まっすぐ光が射し込むようにくるくるまわしている。男が口にくわえた小さな木のパイプから、細く白い煙が立ち昇っていた。
ぼくはおぼつかない足どりでそちらに歩き出した。途中で通り過ぎた人々は、ぼくが笑顔を向けると黙りこんでしまう。近づいてみると、茶色の男の手首にはめられた、青い宝石をちりばめたブレスレットが目にとまった。リトルベレアでの交易の日、ワンス・ア・デイが〈リスト〉の男にプレゼントしたブレスレットだ。男の名はハウドといったけれど、彼が自分で名乗ったその名前は、やわらかく長く、猫のため息のような、発音できない名前に聞こえた。ほかの人間たちがまわりに集まってきて、ぼくはおおいにめずらしがられた。猫のように遠慮のない視線で、ぼくのおさげ髪や眼鏡をじろじろながめ、ドクター・ブーツや〈リスト〉についてぼくがあまりにも無知なのにびっくりしている。言葉はわかったものの、彼らの話のほとんどは理解不能だった。外では、朝の光を浴びて黒白猫のブロムが広々した石の地面を歩いている。ワンス・ア・デイやほかの連中は、通行壁に不慣れなぼくがどうするか見物しようとこちらを向いた。ぼくはまっすぐ歩いて外に出ようとした。が、そうはいかなかった。通行壁のそばまでは行けるものの(壁からはつねに、かすかに金臭い、熱い風が吹いてくる)外には出られない。ぼくは周囲の人々の顔を見まわした。みんな、そっくりおなじ笑みを浮かべていた。
「そうはいかないんだよ」ハウドがパイプをくわえたままいった。ワンス・ア・デイが寄ってきて、ぼくをひきもどし、
「一方通行なの」と笑いながらいった。「わからない? 一方通行なのよ」
ワンス・ア・デイはぼくの手を引いて、白と黒の市松模様の床を横切り、ホールの奥の壁の端から端までずらりと並ぶ重いガラスのドアを抜けると、本物の朝の光の下、建物をぐるっとまわって正面に出た。そして、ぼくとブロムをしたがえ、石の地面を通行壁めがけて走り出した。次の瞬間、その果てしない暗黒に溺れてしまうにちがいないと思えたけれど、もちろんそうはならず、ぼくたちはまた中にもどって、はあはあ肩で息をしていた。
「一方通行なの」とワンス・ア・デイはいった。「一方通行よ! わたしはそれを学んだわ、学んだのよ。ぜんぶ一方通行なの。わからない?」
茶色の男ハウドは、彼女の言葉をぼくがちゃんと理解したかどうかたしかめるような視線でぼくを見た。ぼくにはわかっていなかった。
通行壁に関して、もうひとつ新しく学んだことがある。一度だけ、片腕を壁につっこみ、またひっぱりだしてみた。そして、そんなことはもう二度とすまいと心に誓った。
リトルベレアでは、一分とか一マイルとか口にするのとおなじような感覚で、一カ月という。天使たちにとってはそれぞれ正確な単位を意味していて、どの一カ月、どの一分、どの一マイルもおなじ長さだったけれど、ぼくたちにとっては、場合によって長かったり短かったりする。〈リスト〉でも、一分や一マイルについては事情がおなじだったが、彼らは一カ月の長さをちゃんと知っていた。日にちに順番に数を振っていって、三十かそこらで一カ月になり、十二カ月で一年になり、またふりだしにもどる。そして、説明してもらったけれどもう忘れてしまった理由で、四年に一度、順番のついていない一日を冬に追加する。
ぼくにとって、月の名前は季節の名前だ。これまでずっと、三月がふたつつづいて四月がなかったり、九月の真ん中に十月がやってきたりするような年を過ごしてきた。でも、〈リスト〉の暦《こよみ》は気に入った。日にちを数えるのは、ちゃんと数えておきたいからという理由ばかりではなく、一年の十二の季節を教えてくれるのだ。
サービス・シティにある、オレンジの屋根と小さな尖頂のついた建物は、28[#「28」は縦中横]フレーバーと呼ばれていて、〈ドクター・ブーツのリスト〉の名を高からしめている薬のほとんどが、そこでつくられていた。ワンス・ア・デイに連れられて、ぼくは28[#「28」は縦中横]フレーバーを訪れ、小さなテーブルをまるく囲んだふたつの座席に、それぞれ腰を下ろした。周囲は薄暗く、秘密めいた感じがした(かつて28[#「28」は縦中横]フレーバーには大きなガラス窓がいくつもついていたそうだけれど、いまはそのほとんどが割れてしまい、棒やプラスチックでふさがれている)。建物の中には、ぼくたちがすわっているのとおなじような、天使製のテーブルがたくさん並んでいて、何世紀もたっているというのに、偽物の木目には傷ひとつついていない。ぼくたちのテーブルには、〈リスト〉がだいじなものをしまっておくためにつくるきれいな箱がひとつ置いてあった。ワンス・ア・デイは慎重な手つきで箱の蓋をとった。
「カレンダーよ」とワンス・ア・デイがいった。
箱の中には、ぴかぴか光る四角いタイルが何枚も重ねてしまわれていた。タイルの山はふたつあって、片方は表向き、もう片方は裏向きに重ねてある。タイル一枚の大きさは、両手を並べるとちょうど隠れるくらいだった。表向きに重ねた山のいちばん上のタイルには絵がついていて、その下に、四角いマス目の列が並んでいる。〈まばたき〉のクロスティック・ワードにちょっと似ていなくもない。絵に描かれているのは、ぼくとはじめて出会ったあの六月のワンス・ア・デイよりも幼い、ふたりの子どもだった。薄い青の花が信じられないほどたくさん咲き誇る草原で、真剣な表情をしたふたりが花を摘んでいる。男の子のほうはショートパンツ、女の子のほうは摘んでいる花とおなじ薄い青の小さなドレスを着ていた。
ワンス・ア・デイは指先で絵の下の黒い文字にふれ、「六月」といった。絵の下のマスのひとつに、松脂《まつやに》でくっつけたり剥がしたりできる小石がついていた。ワンス・ア・デイはそれをつまんで、ひとつとなりのマスに動かした。六月の十日目。そのとき、通行壁の前に釣り下げられた鐘が四度鳴り、薄闇の中に澄んだ音色を響かせて夕暮れを告げた。ぼくらはあの巨大な部屋に帰った。
二十日が過ぎ、暦の小石がいちばん最後のマスにたどりついたとき、ぼくたちはまた28[#「28」は縦中横]フレーバーに出かけて、席についた。その日は、ほかにも見物にやってきた人たちがいて、暑さのなか、ジンシヌラの大きな手が六月のタイルを裏向きの山に移し、次のタイルを見せるのを待ち受けていた。新しいタイルがあらわれると、彼らはそろって、ほうっというような満足の声をあげた。
新しいタイルの絵を見て、天使たちがどんなに奇妙な、どんなに古い種族でも、やっぱり人間に変わりはないんだなということがわかり、ぼくはつい笑ってしまった。こういう絵を描けるからには、彼らも人間が知っていることを知っていたわけだ。六月のタイルとおなじふたりの子どもが(女の子はまだあの青いドレスを着ている)、六月より緑の濃い、暑さつづきで長くのびた芝生に寝ころんで、空を見上げている。空に浮かぶのは、くるくるかたちの変わる大きな雲――ぼくの雲だ。空の都市。でも、ぼくが笑ってしまったのは、そのせいじゃない。ふたりの子どもと芝生は絵のいちばん上に描かれていて、眼下を漂う雲を見下ろしている。夏の雲をながめていると、じっさいこんな気分になる。
「七月」と、ワンス・ア・デイはいい、宵の鐘が鳴った。
七月、ぼくはワンス・ア・デイといっしょに遠征して、〈リスト〉が薬の調合に使う植物や石や土やキノコを採集した。さがすのに飽きると、ぼくらは寝ころがって雲をながめた。
「|暗い《ダーク》と|明るい《ライト》ってどいうこと?」とぼくはたずねた。「きみたちはどうして、だれかが暗いとか明るいとかっていうの?」
ワンス・ア・デイはなにもいわず、両手を枕にして目を閉じた。
「遊びなの? 小聖ロイが、オリーブのことを、暗いときの彼女はとてもとても暗く、|明るい《ライト》ときの彼女は|空気よりも軽い《ライター・ザン・エア》っていったよね」
それを聞くと、ワンス・ア・デイはぺちゃんこのおなかをふるわせて笑った。
「それ、聞いたことある」
「どういう意味なんだい?」
しばらく黙って寝ころんでいたが、ワンス・ア・デイはやがて、片ひじをついて身を起こし、ぼくを見た。
「いつもどるの、リトルベレアに」
彼女の口から発せられたその名前は、奇妙に響いた。ここに来て以来、ワンス・ア・デイがリトルベレアという名前を口にしたのはこれがはじめてだったけれど、彼女の口から聞くと、ありえないほど遠く離れた場所のように聞こえた。
「もどらないよ。もどらないってみんなに約束したんだ」
「あら、そんな約束、だれも覚えてないわよ。出ていったってだれも気にしない。どこに行くのかなんてだれも聞かない」
「きみは気にしてくれる?」彼女の言葉の中に、気にしているのかいないのかを聞きとることができなかった。まるで、なにかを気にすることなどぜんぜんないみたいだった。でも、そんなことはありえない。一瞬、心臓が冷たく――それとも熱く――なった。ぼくはあわてていった。「どっちにしても、舌を切りとられたくないからね」
「舌?」そういってから、ワンス・ア・デイは笑い出した。「あのときはみんな暗かったのよ。いまは……」
そこまでいって、ワンス・ア・デイは顔をそむけ、口をつぐんだ。まるで、謎々のいいかたをまちがえて、うっかり答えをばらしてしまったみたいに。でもぼくには、なんにもばれてなんかいなかった。
「ロイのジョークだったのよ」とワンス・ア・デイがいった。「ただのジョーク。古いジョークね。ほらほら、わたしたち、落っこちてる!」
眼下に――そう、眼下に――雲でいっぱいの空が回転していた。魔法の力で芝生に貼りつき、のんきにあぐらをかいているけれど、ぼくらは街や顔や奇怪な白い動物の群れに向かって果てしなく落下している。世界の屋根にしがみつこうと手を握っているが、それも妙な話だ。雲はすぐ下で渦を巻き、空は芝生なのだから。
やがて七月のタイルが時間のテーブルの上でめくられて、裏向きの山が七枚、表向きの山が五枚になった。
カレンダーのふたりの子どもは、くっきりした日陰に寝ころがっていた。男の子は、麦わら帽子を顔にかけ、長い黄色の麦わらを一本くわえたまま、小さな裸足の脚を大きく開いて、ぐっすり眠っている。あの青いドレスを着た女の子は、そのとなりで、黄色の麦畑ごしに、円錐形の屋根がついた天使の赤い塔のほうを見ている。夏の嵐の灰色の雲が、遠くのほうでむっくり頭をもたげている。八月。
夏のあいだ、ぼくたちは日陰の家でいっしょに過ごした。丘の上に並ぶ二本の楓の木がつくる影がぼくたちの家で、そこからはずっと遠くまで見晴らせた。天使たちの残したものはみんななくなっているし、ワンス・ア・デイは青いドレスなんか着ていなかったけれど(そもそも彼女は服を着ていない)。日がたつにつれてぼくたちの家はかたちを変え、ぼくらのお客さまたちの茶色の体は、日陰が動くのといっしょに動いた。
「背骨にそって、四つのドアがあるんだ」とハウドがいった。痩せた脚の片方をひざの上にのせ、顔を隠すつば広の帽子から、木のパイプだけがつきだしている。「ありったけの力で押しても、ドアをあけることはできない。それがおれの意見だ」
「それはドアが開いているからよ」とワンス・ア・デイがいって、あくびをした。「暑いと眠くなっちゃうわね」
「閉めるのもあけるのとおなじくらいたいへんだ」とハウド。
「いいえ。風で開くのよ。廊下に並んだドアがひとつずつ風で開いてくみたいに。議論はこれでおしまい。ドアは開いてる」
「そう考えるとは、きみは明るいな」と、ハウドがいい、ワンス・ア・デイはまたあくびをして、小柄な褐色の体を芝生の上にのびのびと横たえた。その胸がひらたくつぶれる。ワンス・ア・デイは、ぼくのほうに眠たげな笑みを向けた。
「太陽が動いたぞ」とだれかがいった。「みんな場所をずらせ」
日陰。
夕暮れになって、だれかが持ってきていた〈光〉をとりだしたが、風がそれをサービス・シティのほうに運び去ってしまい、みんな思い思いにそのあとについて帰っていった。ぼくとワンス・ア・デイは、いっしょに寝ころがったまま、月が昇り、日陰の家をすっかり様変わりさせるのを見守った。
「あなたはどう思う?」と、やがてワンス・ア・デイがいって、ゆっくり姿勢を変えながら、ぼくから離れていった。「背骨にそって四つのドアがあると思う? あるとしたら、どうやって開くんだと思う?」
「わからない」といって、ぼくも彼女のあとについて動いた。
「わたしにもわかんない」
遠くで雷がごろごろと鳴った。地平線の向こうで、巨人が寝言をいっているみたいな音だった。並んで寝ころんでいると、ぼくたちの月陰の家もすこしずつぼくらの上から動いてゆき、静かな冷たい光がぼくらに降りそそいだ。
そして九月のタイルが時間のテーブルにあらわれ、裏向きの山は八枚、表向きは四枚になった。
「あの人を知ってる」九月のタイルを見るなり、ぼくはいった。「あのふたりの子どもがだれなのかも、これでわかった」
「あなたがあのふたりを知ってるなんてことがどうしてあるの」とワンス・ア・デイがたずねた。
「きみがあのふたりを見せてくれたからさ。暗くなると出てくるあの年寄りがいる。わかるだろ? あのおばあさんはいま、中で待ってるんだ、今月はね。で、ふたりの子どもが外に出てる……」
「いいえ、ちがう」
「そして来月には、あのおばあさんが出てきて、子どものほうが隠れてしまう」
「そんなことない。あれはただのふたり、だれでもいいのよ」
「暗さと明るさ。きみがいったとおりじゃないか、覚えてないのかい……」
「ちがう!」ワンス・ア・デイが叫んで、ぼくを黙らせた。
目の前のタイルには、|機械の夏《エンジン・サマー》の金色の一日が描かれていた。ふたりの子どもはほがらかな顔で歩いている。男の子は〈本〉をつるしたひもを肩にかけ、女の子はぴかぴかの九月の林檎を自慢げに持っている。いままでのタイルとおなじように、子どもはふたり、女の子のほうはいつもの青いドレス姿で、その月の色に染まった一日が描きだされている。果物の汁をしぼりだすようにして、一カ月をたった一日にしぼりだし、凝縮したような絵だった。でも、この月のタイルにだけは、もうひとりべつの人物がいた。子どもたちが笑顔で歩いていく先には、とんがり屋根の小さな赤い家があり、その戸口に小さく顔を出しているのは、小柄な老婆だった。
そしてそう、これから暗くなる。でも、それはいいことだ。あの老婆が外に出てきて、ふたりの子どもはどこかにこもり、暗い月が過ぎるのを待たなきゃいけない。もっともなことじゃないかい? 天気のない、屋根つきの都市で暮らしている天使たちでさえ、忘れてはいないだろう。あたたかく完璧な機械の夏に、あの老婆が待っていることを……。
「ちがう!」ワンス・ア・デイはそう叫んで、ぼくのもとから走り去った。
「ぼくは理解したいんだ」中二階の枕の山のあいだでワンス・ア・デイを見つけて、そう切り出した。「真実の語りを語ってくれなきゃいけない。聖ロイの脚をしまってあったあの部屋で、きみは壁の家を見せてくれた。明るいときには子どもたちが出てきて、暗くなると老婆が出てくる。そのあいだには、じっと動かない四人の死者がいた。あれは、天気についてのものだった。あのタイルもきっとそうなんだ」
「ええ。天気についてのものよ」
「ああ。でも、ぼくたちがあの家を見ていたとき、頭上を雲が横切ったのに、老婆は出てこなかった。そして、ぼくが最後に見たとき、きみが出ていった日のことだけど、春だというのに老婆は外に立っていた……」
ワンス・ア・デイはぼくから目をそらして顔を伏せ、猫みたいに頭を両手にのせていた。いま、首をめぐらしてこちらを見ると、「じゃあ、天気のことだったの?」
「わからない。でも、そうじゃないとしたら、ほかになんだったというんだい? きみの言葉の中に、どうしてそれが聞きとれないんだ?」
ワンス・ア・デイはまた顔をそむけた。
「あのタイルは天気についてのものよ。天使たちはあれを月を告げるためにつくった。それはまちがいない。それだけ」
「じゃあ、どうしてぼくから逃げたんだい?」
ワンス・ア・デイはなにもいわず、じっとそこに横たわったままでいるのに、もっと遠くへ逃げていくような気がした。逃げていく場所へと追いかけていきたくて、彼女をひきとめようとするみたいに、両手で肩をつかんだ。でも、彼女はすでに逃げ去ってしまっていた。
夢の中には、こういうのがある。急ぎのお使いやなにかの仕事で出発し、方角を教えてもらったのに、走りつづけてたどりついた場所はめざしていた場所じゃなくて、用事の中身も変わってしまっている。さがしにきたはずの相手が、さがしてこいといった人物になっている。やるはずだったことが場所に変わり、その場所が宝の箱になったり、おそろしい噂になったりする。そして、目的地がくるくる変わるものだから、けっしてそこにはたどりつけない。それでも、そんな変化に驚きもせずさがしつづけて、目の前でどんどん変わってゆく目的を、うまずたゆまず、はてしなくやりとげようとしつづける。
目を覚まし、けっきょくさがしているものなどなかったのだと気づくまで。
「ワンス・ア・デイ」顔を隠している彼女の髪に頬を押しあてた。「ワンス・ア・デイ、冬なんかないといってくれ。冬なんか来ないといってくれ。そうしたらきみを信じるから」
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第二の切子面
雨まじりの風が吹きつけるある日、ぼくなら十一月の第一日目と呼ぶところだけれど、カレンダーによれば九月の二十一日、ぼくはジンシヌラに呼ばれて28[#「28」は縦中横]フレーバーに赴いた。ジンシヌラは、九月のタイルを前に、時間のテーブルについていた。
「これがだれなのかと思っておるのか?」と彼女はいった。
「はい」
「ただのふたりじゃ。この月のどのふたりともおなじ。もうひとりは老婆で、今月、ふたりの子どもはそのばあさんのところに相談をしにいく」
ジンシヌラはぼくに笑みを向けた。大きくていかつい顔が、豊かな灰色の髪のせいでなおさら大きく見える。目のまわりはしわだらけで、いつも悲しげに見える。しかし、ジンシヌラの笑みは快活で本物だった。
「それで、いまの生活はどうだね、迷路街の子や?」
「上々です」とぼくはいった。ほんとうならそれ以上はいわないところだけれど、相手がジンシヌラでは、ぼくの言葉が意味するとおりのことだけしか聞きとらないだろう。ただ、上々だということしか。「でも、ドクター・ブーツからの手紙がなんなのか、教えていただけませんか?」
まわりにはほかにも、仕事をしたりテーブルでおしゃべりしたりしている人々がいて、中の何人かは顔見知りだった。サービス・シティの周辺でじろじろ見られるのは、もう慣れっこになっていた。せめていまだけは、ジンシヌラとふたりきりで話したかったが、それは〈リスト〉の流儀に反する。ほかの連中は、興味津々の顔でこちらを見ていた。
「手紙じゃよ」とジンシヌラはいった。「ドクター・ブーツからの」
ぼくは周囲の視線を肌に感じた。目を伏せて、タイルのなめらかな角をなでているジンシヌラの長い手を見つめた。
「ひとつ」とぼくは慎重にいった。「わからないことがあります」
「いつもそうであったほうがよいと、わしなら願うところじゃがな」
「ワンス・ア・デイがいおうとしていたらしいことです。あなたたちのいう、暗いと明るいのことです。理解するのはたやすくありません。道すじは見つけたような気がしました。冬の到来に関係があるんです。でも、それもまた、新しい謎にすぎませんでした。彼女はまるで、謎が答えなんだといってるみたいです」
「どんな謎もそれぞれ答えがある」とジンシヌラ。「簡単なことじゃ。しかし、どうして謎が答えを知っているなどということがある? おまえをあざけっていると思うでない。そのつもりはない、ほんのすこしも。それはたしかに、秘密のものだ。真実の語り手たちはそうした秘密をあまり信じてはおらぬ、それだけのこと。おまえは、それが自分の追い求めるものだと知りもしないのに、あの娘の秘密を求めた。おまえに秘密を教えるとすれば、あの娘はみずからそれを学ばねばならぬ。だが、あの娘は秘密を知りたくないのだ」
「自分でも知らない秘密を持つなんて、どうして可能なんです?」
周囲の人々は、すでにみんな顔をそむけていた。若い連中はこういう会話を好まない。年上の連中はもう聞く気をなくしている。しかし、ジンシヌラだけは両手の指を組んで、笑顔でぼくのほうに身を乗り出した。
「ふむ、おまえはどうやって真実の語りを語る? おたがい、秘密を打ち明けあおうではないか」
「それは秘密じゃありません。あんまりうまく学ぶから、知っていることも忘れてしまうようなものです」
「ふむ、それでは」とジンシヌラはいって、両手を広げた。「そういうことじゃな」
〈絵具の赤〉はむかしこういった。ささやき系にとって、秘密とは話したくないものではなく、話すことのできないものなのだ、と。
「ひとつわからないことがあります」ぼくはばかみたいにくりかえした。「それを知りたいんです。それを学ぶすべがきっとあるはずです、あなたたちはみんな知ってるんですから。もし話してもらえないことなら、どんな方法を使っても学びます」
ジンシヌラのまっすぐな目は、多くを見すぎたあまり、たるんでふさがってしまったように見えた。
「自分がなにを求めておるのか、わかっておるのか?」と彼女はやさしくいった。「秘密に関することは、ひとつ知ってしまうと、永遠に知っていつづけることになる。それは、おまえの秘密になる。あともどりして、また知らない状態になることはできぬ。引き返す道はないのじゃ」
「通行壁みたいに」
「通行壁?」とジンシヌラは笑みを浮かべていった。「そんなものはない」
みんながおだやかな笑い声をあげた。まるで、古いジョークがぴったりの場面で出てきたときみたいに。彼らの笑い声で、ジンシヌラのそばをかたときも離れないファーファという名の虎猫が目を覚ました。ジンシヌラがなでてやると、猫はまた目を閉じた。
「知ってのとおり、〈連盟〉は真実の語り手に対してどんな愛情も持っていない。おそらくそれは、むかしむかし、真実の語り手の女性が〈連盟〉に加わろうとしなかったためか、あるいは〈嵐〉のあと、そうできたはずのときに救いの手をさしのべようとせず、自分たちだけの世界に閉じこもっていたためじゃろう。おまえたちみんなが彼らの助けなしに生き延びたことで、誇りを傷つけられたのかもしれん。女たちが〈連盟〉の解体を告げに他の者たちのもとに赴いたのち、ずいぶん長い時が過ぎてからようやく、オリーブが迷路街に赴いた。〈連盟〉は、おまえたちと和平を結ぶ気など毛頭なかった。〈連盟〉にとっては恥になるが、オリーブが行くのをじゃましようとした者もいたくらいだからの。ふむ。なにもかも、はるかむかしの話じゃ。
しかし、それ以来の幾生涯にもわたって、わしらはちがったふうに年を重ねてきた。このわしも、おまえの迷路街をよく訪れたものじゃ。はるかむかしの話だから、いまでは明るくも暗くもない。そのころの迷路街にひとり、男の子がいて――そう、男の子じゃった。もしいまも生きていたら、もうたいへんな年寄りじゃろうな――ここで自分といっしょに、自分たちみんなといっしょに暮らさないかとたずねた。そうしたいのは山々じゃったが、怖かった。最後には、男の子のほうもそれに気づいた。いずれは袋小路に追いつめられることになると、ふたりともわかったんじゃろうな。とはいえ、あそこからここに来ることのほうが、はるかにたいへんなはずじゃ。おまえさんの恋人が来られたのは、あの子がいとこだったからだ。おまえは……いや。怖がらせるようなことはいうまいよ」
ジンシヌラは顔をそむけ、骨ばった長い腕を上げてブレスレットの位置をなおした。宵の鐘が鳴った。ジンシヌラはちょっと考えるような顔になり、口を開いた。
「ああ、たしかにおまえの知らぬことがひとつある。そう、たしかにそれを学ぶ道もある。ただし、いまはその季節ではない。それにどのみち、おまえにはまだはやすぎる。ここで暮らし、耳を傾け、学ぶがいい。そして、与えられぬものは求めぬこと」ジンシヌラは二十日から二十一日へと、松脂でねばつく小石を動かした。「あの子が謎をかけたといったね。では、これから新しい謎をかけよう。謎を話してもかまわないと考えるのは、まず第一に、おまえはこれが謎だと思うだろうけれど、じつは謎ではないから。第二に、おまえがここで暮らすなら、わしらの流儀でなくおまえの流儀で暮らすべきだから。第三に、どのみちきょうはこの謎のための日、いまはこの謎のための時期だからじゃ。
謎はこうじゃ。人はなにかを覚えておくために指にひもを結ぶ。だが、やがて、指にひもを結んであることを忘れてしまう。そうなると、二重に、そして永遠に忘れてしまったことになる。このカレンダーは、わしらの指に結んだひもだ――そしてドクター・ブーツからの手紙は、わしらがそれを、二重に、そして永遠に忘れてしまうその方法なのじゃ。
この謎を解く道をさがすがいい。おまえの故郷の名高い〈径《みち》〉のことは知っておる。もしそれをここで見つけたいなら、こう考えるのじゃ。径は、自分のいる場所の名前にすぎない。径をたどってめざす場所は、物語でしかない。かつておまえがいた場所も、またべつの物語でしかない。物語の中には愉快なものもあればそうでないものもある。それが暗いと明るいじゃ」
ぼくは、九月のタイルをはさんで、ジンシヌラの前に頭を垂れてすわり、耳を傾けていた。もしぼくが、それまでの成長の過程でたった一度でも真実ではない物語を聞かされたことがあったら、ぼくはこのとき理解していたかもしれない。
「追放になったの?」とワンス・ア・デイがたずねた。通行壁の向こうから運ばれてきた林檎の籠のあいだにすわり、ほかの林檎を腐らせてしまう悪い林檎を子どもたちがよりわけるのに手を貸していた。
「いや」とぼくは答えた。「そうは思わない」
ワンス・ア・デイは、頬っぺたのようにつやつやと赤い林檎をひとつとって、星をちりばめた外套にこすりつけて磨き、ぼくにさしだした。
「よかった」
前にワンス・ア・デイの話しぶりに感じたことはまちがいだった。仮面がぼくからなにかを隠しているわけじゃない。透明な言葉の内側に不透明さが満ちているだけで、晴れた秋の朝を霧が満たしているようなものだ。それでも、頭上の空は青い。ジンシヌラは、彼らの秘密に立ち入らせないための方法を逐一示した。彼女が知らなかったのは、ぼくがすでにそれに足を踏み入れていることだ。森の中の池のそばで、いや、それよりずっと前、いまでは天使たちが空を飛んでいたころとおなじくらいむかしのことに思えるけれど、リトルベレアでだれのひざをやっていたときから。出口なんかないことは、はじめからわかっていた。ほんとうの意味でうしろをふりかえってみたことは一度もなかった。
[#ここから太字]
彼女のいうとおりよ、たぶん。ほら、通行壁のこと。そんなものはないの。
[#ここで太字終わり]
え?
[#ここから太字]
つまり、ものじゃないってこと。ドアなんかとちがって、ひとつの状態にすぎないの。戸口の空気の状態。水の状態が変化して氷になるように、そこでは空気が変化しているのよ。
[#ここで太字終わり]
そうなの?
[#ここから太字]
ずっとむかし、暖房のためにそういうことをやっていたはず。熱い空気が吹き出してきたといったでしょ。たぶんそれはただの機械よ、暖房のための……。
[#ここで太字終わり]
たぶんそうだろうね。それに、迷路街のあの部屋の壁にあった小さな家はただのおもちゃで、天気を告げるだけのもの。なにもかも、ただの≠ニかたんなる≠ニかだけの≠チていうものだってこと? そんなにたくさん知ってるくせに、どうしてなんにもわかってないの?
[#ここから太字]
ごめんなさい。
[#ここで太字終わり]
ううん、ちがうんだ。ただ、ここのところが物語の中でもむずかしい部分でね。生き抜くのがいちばんつらかったところ、きちんと話すのがいちばんむずかしいところなんだ。でも、ここのところをちゃんとわかってもらえないと、物語全体が意味をなさなくなる。だから、そこにいるぼくを想像してみてくれなきゃいけないよ、天使。ぼくを想像しなきゃいけない。想像しなきゃ、ぼくは存在しなくなっちゃう。物語はひとっかけらも存在しなくなっちゃうんだ。
[#ここから太字]
わかった。つづけて。
[#ここで太字終わり]
十月の28[#「28」は縦中横]フレーバーは、いろんなにおいがぶつかりあっていた。テーブルとおなじ木目調の長いカウンターがあって、そのうしろには大きな鏡がかかっていた。黒いしみだらけの、曇った鏡だけど、そこには白でふたりの人間が描いてある。エプロンをつけ背の高い帽子をかぶった男が、〈四つ壺〉の拡大版みたいに見えるものを男の子にさしだしている。〈リスト〉が薬をつくり、保管しているのがこの28[#「28」は縦中横]フレーバーだ。天井からは茶色の根っこが輪になってぶらさがり、プラスチックの上には、しわが寄った葉っぱやくしゃくしゃのつぼみが山になっている。鏡のうしろにある大きなステンレス・スチールのオーブンと流し台で、いろんなものを焼いたり洗ったり混ぜ合わせたりしている。その場所は、キッチンと呼ばれていた。茶色のハウドは、そういうことをとてもよく知ってる人だけど、彼はいま、カップの中に混乱《コンフュージョン》を入れて、人々のあいだにまじって、ながめたり笑ったりしていた。
[#ここから太字]
混乱?
[#ここで太字終わり]
あそこでは葉っぱやなんかを煮立てて、混乱をつくるんだ([#ここから割り注]「浸出液」「浸剤」「煎じ汁」などを意味する infusion の転訛か[#ここで割り注終わり])。目を覚ます混乱もあれば、眠らせる混乱もある。体を強くしたり弱くしたり、頭を悪くしたりよくしたり、あたたかくしたり冷たくしたりする混乱がある。
「暗さと明るさを混乱させるんだ」とハウドはいった。「そして、飲んでからちょっと時間を置く。するとしばらくのあいだ、混乱のことだけを考えて、ほかのすべては考えられなくなる」
「すべて?」
「それが〈相対性《リラティヴィティ》〉さ」
混雑した建物の中には、細長い金色の木の葉が乾してあった。ハウドやほかの連中が小さなパイプにつめて吸う葉っぱで、その葉の山が何列も何列も並んでいる。見た目と同様、かわいた金色のにおいがした。そばにはカレンダーがあって、ふたりの子どもがオレンジ色の落葉を掃き集めて焚火をしている十月のタイルをハウドがめくると、十一月のタイルがあらわれた。あのふたりが腕を組んで、裸の木立のあいだを、ちょっとおびえたような顔で歩いている。木々の枝のあいだで、真っ黒なカラスが鳴いているのが見える。まくれあがった茶色の葉が一枚、ふたりの前を舞う。カーブした黒い線は〈風〉を意味している。
ハウドは、ぼくとおなじ十一月の子どもだと思う。たっぷり厚着したハウドが、サービス・シティのすぐ外、石の広場のはずれにある大きな切り株に腰を下ろして日がな一日過ごしているのをよく見かけた。ハウドに会いたければ、そこに行けばよかった。ハウドのパイプから立ち昇る白い煙は、カレンダーの子どもたちが燃やすオレンジ色の枯葉の煙に似ていたけれど、切り株のまわりの落葉は灰色で、ハウド自身、十一月の色をしていた。木の実の茶色と、切り株みたいな年輪。
「こいつは、おまえたちのパンとはちがうんだ」とハウドはぼくにいった。「煙を吸っても、体にいいことはひとつもない。吸いすぎると死ぬこともあると、すさまじく大量に吸ってた天使たちはいっていた……わざわざこんな話をするのは、こいつがほんとにうまいからさ、一度慣れてしまうとな」
そういってさしだしたパイプをワンス・ア・デイが顔をしかめて拒んだので、ハウドはぼくのほうにさしだした。吸ってみると、その煙はいがらっぽくてぴりっと辛く、この日にぴったりの、秋と焚火と茶色の味がした。
ハウドはくんくん空気を嗅いでから歯のあいだにパイプをもどした。
「いまなら、一年のほかの時期にはわからないことがわかる。一年のこの月には、〈都市〉が見えるそうだ」
「〈都市〉か」だれかが喜びと恐怖の入り混じる声でつぶやき、そして子どもたちがせがむ。「話してよ、〈都市〉の話をしてよ」
「たとえばきょうみたいな日だ」とハウドはいって、黄色いてのひらをこちらに向けた。「大空を雲が深く埋めつくして、雲が流れ、風が目に見えそうで、すぐにまた冷たい雨が降りだしそうな天気の日。ほら、わかるか? 雲の灰色の結び目が、まるぽちゃの顔みたいに見えるところ? その顔があくびをすることがある――見てろよ、いますぐにもあくびをするかもしれないからな――するとその口の向こうに、灰色の石と凍りついた大地に似た色の〈都市〉が見える。天使たちが、根っこを掘り出すみたいに地面から引き抜いた〈都市〉だ。はるか遠くの高みを漂ってるが、それでも、岩に生える水晶みたいに〈都市〉からそそりたつ、四角形の高い塔は見えるはずだ。下側には〈都市〉といっしょに引き抜かれた大地のかたまりがある。その表面は、羽飾りみたいな木の根っこにおおわれ、ところどころに引きちぎられた橋がぶらさがっている。道路を迎え入れたトンネルは虚空に通じている。雲の群れがそのまわりで逆巻き、渦をなして、〈都市〉の姿を半分隠している。ひょっとするとその雲は〈都市〉の古えの煙かもしれない。だから、〈都市〉がもっと近づいたときはじめて(またすぐ雲に飲み込まれて、謎だけが残ることにならなければの話だが)、数えきれないほど多くのガラスの輝きが見えてくる。〈都市〉の底から、石や土のかけらがたえず落ちているのが見えるはずだ。すさまじい風が〈都市〉の進む方向を変え、空に浮かぶ巨大な車輪のようにうまずたゆまずゆっくり回転させているのがわかる。
そして、〈都市〉の碁盤《ごばん》の目の通りには、生ある者の姿はなく、やはり石か、それ以下のものでできた死者たちが歩き、死神のごとく生にしがみつき、夢を見て、ぴくりとも動かない。
「それを見た人間は、だれしもぞくっとするのさ」
「物語を聞いたときとおなじように」とワンス・ア・デイがいって、両手で自分の肩を抱きしめた。
「今月とおなじようにな」とハウドはいった。「ほら、冬がやってきて、世界がぞくっと身震いするだろ」
物語を聞いたときとおなじように……小聖ロイは雲のことを〈空の都市〉と呼んだ。そしてハウドは〈都市〉のことを雲と呼び、そこに四人の死者をつけくわえて、子どもたちを身震いさせる。十一月の身震い。はるかむかしのこと、〈七つの手〉は、すべての失われたものは最後に〈空の都市〉にたどりつくといって、眼鏡をなくしたンババを笑わせた。どこかで、燃えつきた太陽が沈みはじめた。空と午後とは、それにつれて、霞がかかったようになった。
「じゃあ、冬はほんとうに来るんだね」とぼくはいった。
「ああ、冬は来るさ。ただし、来るときにしか来ない」
ハウドはパイプの煙を吐き出し、にやっとした。「それが〈相対性〉さ」
ハウドがそういうと、もちろん、みんないっせいに笑った。もちろん、ぼくだけはちがった。
サービス・シティのある石の広場を囲む巨大な森は、虫けらをつかむみたいにいまにもサービス・シティをつまみあげようとしている巨人の二本指を思わせる。この森は、ベレアの森とちがって、冬を迎えても痩せこけた亡霊みたいな姿にはならなかった。ベレアの森よりはるかに大きく、すさまじい勢いで成長しているように思えた。ツタのからまる建物群は、ぼくが春にやってきたときよりもっと深く、森に埋もれているように見えた。黒い木々のあいだからはまだ〈道路〉が見えるけれど、いずれは隠れてしまうだろう。
森は強い。世界はのろいけれど強い。サービス・シティが森に呑まれてゆくにつれ、〈道路〉も川の流れに呑まれ、冬に壊されてゆく。そしてベレアも、いつかおなじ運命をたどる。まわりの橋が落ち、広大な世界へつづく道は、たしかにゆっくりとではあるにしても、たしかに閉ざされてゆく。ぼくたち人間のすみかはすべて、世界と冬とに傷つけられ、呑み込まれる。サービス・シティのうしろにうずたかく山をなし、石の広場のあちこちに散らばる枯葉は、〈まばたき〉の樹上の家に入り込み、リトルベレアの屋根屋根にも鳥の糞や去年の巣にまじって霜のように降り積もる。
それでもベレアでは、人間と世界との古えの戦いは、遠い過去のことだとしても、まだ忘れられてはいない。〈ドクター・ブーツのリスト〉が、暮らしやすい川沿いの谷間ではなく、巨大で無慈悲な森の中に住んでいるのも、たぶんそのためだろう。でも彼らは、そういう過去を忘れてしまっているように見えた。もはや世界を押し止めようと戦ってはいないし、天使たちが世界を敵にまわしていかに戦い、勝利し、そして敗れ去ったかということさえ、ろくに覚えていない。でも、そこに問題がある。彼らのしきたりや暮らし全体が、彼らが忘れようとしているものにもとづいてるんだよ。
というのも、そこにはドクターがいたからだ。冬のあいだは屋内の壁沿いにいた。彼女は、通行壁を抜け、中二階への階段を登ることができたし、ぼくが覗き込むすべての目の中からこちらを見ていた――ぼくには彼女が見えなかったけどね。
彼ら、〈リスト〉の人々は、ふつうなら子どもっぽく見えたはずだ。くるくる変わる悲哀と熱狂、暗さと明るさ、だらだらとつづくくだらない無意味な口げんか。なのに、彼らは子どもっぽくなかった。むしろ、おとなびているように――年寄りじみているわけではないが、人生経験と古い知識と古いマナーと注意深い周到さを備えたおとなに――見えたけれど、それが不思議だった。子どものように移り気で、子猫のように遊ぶくせに、なぜそんなふうに見えるんだろう。彼らにとって、きのうやあしたは夢とおなじぐらいにしか現実じゃないというのに、それでもなぜか用意周到に見える。
そう、夢とおなじ……。冬が来ればワンス・ア・デイはさびしげになる、つまりほら、暗くなるだろうと思っていたのに、彼女は変わらなかった。いや、相変わらず、くるくる気分が変わったというべきか。暗いと明るいのあのゲームだか遊びだか、それがなんなのかぼくにはいまもわからないけれど、それは毎日毎日、一瞬一瞬に起きるもので、季節によって変わるものじゃなかった。ぼくとワンス・ア・デイはふたりきりになれる場所を中二階につくり、長い長いたそがれのあいだ、そこで過ごした。ときおり、たそがれのさびしさが彼女をさびしくさせることがあり――いや、たそがれのさびしさのなかで、偶然さびしく見えることがあり――そんなときははやいうちから〈光〉をとりだして、もう夜になったようなふりをした。夏に灼《や》けた彼女の肌はまた白くなり、ふんわりした髪が手足に黒く映えた。そしてぼくらは、人混みの真ん中でいっしょに夢を見た。そういうことについて彼女がよそでは話そうとせず、話題にすることもいやがって、なにもなかったようにふるまうのは、彼らの古いマナーと似たような、羞じらいのせいだと思っていた。でもそれは羞じらいじゃなかった。彼女は、どんなしるしも残したくなかったんだ。ひとときひとときを唯一のものに、夢とおなじく過去のないものにしたかったんだ。言葉はなかった。ワンス・ア・デイはひとつの言葉も望まなかった。
それから、ぼくは目を覚ました。いまのぼくにわかるのは、あのときのぼくが夢を見ていたことと、いまは目覚めているということだけだよ。
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第三の切子面
大雪が降ったその月、カレンダーの子どもたちは厚着をして、顔がついた大きな雪のかたまりをこしらえていた。手は小枝で、頭には〈リスト〉の男がかぶるような帽子をかぶせてある。そのあくる月、二月のある日のこと、ぼくたちは中二階に寝そべって、雨に変わりはじめた雪をながめていた。雪のカーテンごしに見える黒い木々は、ゆっくりこちらに向かってくるみたいだったけれど、もちろんじっさいにはすこしも近づいてこない。ワンス・ア・デイはブロムと身を寄せあって寝そべり、爪を注意深く噛んで長さを整えては、ざらざらの壁にこすりつけて先をなめらかにしていた。まわりでは、小さな冬の物語が語られていた。森の扉の物語、すりへった階段のてっぺんに小さな扉があり、中は明るく、細く開いたその扉から目が外をのぞく。
〈リスト〉の長い怠惰の時だった。なにかを待つといういいかたが彼らにもあてはまるなら、この時期の彼らは春を待つこと以外ほとんどなにもしていなかったともいえる。〈リスト〉の子どもたちのほとんどは、周到な計算のもと、この時期に生まれる。眼下では、一団の人々が、生まれたばかりの子どもをあやしていた。その大騒ぎから察すると、どうやら女の子みたいだ。もっと年長の子どもがふたり、壁ぎわにずらりと並ぶ細長い白い容器の列の、開いた容器のところに立って、はてしない着替えゲームに興じていた。ひとりが黒く輝くベルトをはずし、もうひとりがしていたぼさぼさのかつら、にせものの毛皮と交換した。宝石や汚れたリボンや|腕・時計《アーム‐クロック》やぼろぼろのシャツをひきずりながら、ふたりはそれぞれ相手の目の前でくるっとまわって見せて、けなし言葉や誉め言葉を受ける。合間合間の白い裸身を楽しみつつ、ぼくはそれをながめていた。ふたりのくぐもった声が、ぼくたちのいる場所までかすかに届く。
「曲がり角の扉」ぼくたちのそばにいる語り手が眠たげな声でいった。「扉が細く開き、そこから冬が入ってきて、まっすぐ心臓に吹きつける」
ぼくは、厚着をした〈まばたき〉が眠たげに語る、|世界はせまい《イッツ・ア・スモール・ワールド》[#「世界はせまい」は太字]、という声を思い出した。
そしてほら、前にいったとおり、彼らは用意周到で、注意を怠らない。だから、彼らが消えることはない。〈リスト〉が消え去る道を選ぶことはない。消え去ることが彼らの最終目標じゃないかと思ったこともあるけれど、ちがう、そうじゃなかった。でも、彼らはいずれ、まるごと呑み込まれてしまうだろう。なぜなら彼らは、二重に、そして永遠に、人間と世界との戦いを忘れ去ってしまっているから。二重に、そして永遠に、かつてすべての人間の指に巻かれていた糸のことを忘れてしまっているから。そして彼らは、この森の中で、海底の秘密の寝床に横たわるクラゲみたいに暮らし、そのときどきの目的のためにしか行動せず、自分たちのおこないを猫とおなじ程度に限定して、一年の十二の季節がめぐるのをはてしなく閲《けみ》しつづけている。そしてそのあいだに、森と水と冬が天使たちの遺産を食い荒らしてゆく。〈道路〉や、そしてたぶんリトルベレアまで……。
「いちばん短い月は二月よ」ワンス・ア・デイが、手入れの済んだ爪を頬にすべらせ、なめらかさをたしかめながらいった。「同時に、いちばん長い月かもしれないけど」
眼下の床は、人間のものであると同程度に、そのあいだを歩きまわる猫たちのものでもあった。リトルベレアにも猫が住んでたって前にいったけど、ここでは、〈リスト〉が猫といっしょに住んでいるのであって、その逆ではないという感じ。猫たちの意向は尊重されていた。ハウドの話によると、〈リスト〉の猫は、ベレアでぼくが知っていた猫とはまるで血統がちがうんだそうだ。ここにいる、平和的でかしこい巨大な動物は、天使がいわば発明した種の子孫なのだという。天使は、ぼくたち人間を変えたのとおなじ方法を使って猫の品種を改造し、新しい品種をつくりだした。理由もおなじ――そのほうが便利だったから。それ以降の一千世代のあいだに、注意深く番《つが》わせることで、猫はさらに変化を遂げていた。ここの猫はめったに狩りをしないかわり、自分たちのためにつくられた食べものを28[#「28」は縦中横]フレーバーの台所で食べる。リトルベレアにいたころは、近くの森から、親とはぐれた赤ん坊が泣きわめいているような気味の悪い鳴き声がよく聞こえてきたものだけれど、ここの猫がそんな声で鳴くことはめったにない。〈リスト〉の人たちはおとなだと前にいったけれど、猫たちが闊歩する床をこうやって見下ろしていると、おとなは猫のほうで、人間は猫の子どもなんじゃないかという気がしてきた。子どもがおとなを観察してふるまい方を学ぶように、〈リスト〉は猫からそれを学んでいる。
ささやかなこの発見で、ぼくは得意になった。でも、この洞察がどんなに鋭く真実を射止めているかにはぜんぜん気づいていなかったから、このときのぼくは、相変わらずなんにもわかってなかったんだ。
人々をうしろにしたがえ、ジンシヌラが通行壁を抜けてやってきた。みんな、寒さを防ぐために、冬用の厚手の服を何枚も重ね着していた。
「森に行くよ」ジンシヌラが下から中二階のぼくたちに呼びかけてきた。「おいで」
「どうしたの?」とワンス・ア・デイがたずねた。
「猫が一匹、迷子になった。さがすのを手伝っておくれ」
いなくなった猫は、パフという名前だった。たいそう年寄りの、動きの鈍いオレンジ色の雌猫で、ぼさぼさの長いたてがみがあり、片目が見えなくなっている。パフがいなくなって二日になるんだよと、ぼくらがあたたかい服を着込むあいだに、ジンシヌラが説明した。いなくなったのがブロムやファーファならだれも心配しやしないが、この冬場にパフがいなくなったとなるとね……ジンシヌラはぼくたちの支度を急がせた。
森の中は濡れて暗く、ひどいものだった。細い雨がまだ降りつづき、泥と古い雪だまり以外のものがこんなところでどうして見つかるのか、ぼくには見当もつかなかったけれど、一行は、まるで道を知っているみたいに、その日一日歩きつづけた。ぼくたちは広く散開して、すぐにたがいの姿が見えなくなった。やがて気がつくと、悪戦苦闘するぼくの横を、目まですっぽり灰色の布で隠した知らない男が歩いていた。男は手に持った棒切れで汚れた雪をかきわけ、鼻から白い息を吐いていた。
「ちょっと手を貸して」雪の下のなにかに足をとられてしまい、ぼくは男にそう声をかけた。
「|犬の時季《ドッグ・デイズ》だ([#ここから割り注]現代英語では、「盛夏」、または「停滞期」「沈滞期」を意味する[#ここで割り注終わり])」と、男がいった。
男の助けを借りて、ぼくは足を抜いた。「なんていったの?」
「犬の時季」男は棒切れを振って、森を指した。「二月は犬どもの痩せる月だ。食べるものがなにも見つからないとき、犬たちはぐるぐる輪を描いて走りまわり、いちばん弱いやつが倒れると、そいつを餌食にするという話だ。どうかな。おれは公平な話だと思うがね。しかし、ふつうはなにかしら食うものが見つかる」
パフみたいな餌食が見つかるわけか。年老いた、寒さに震える猫。リトルベレアで聞いた物語では、犬たちははるかむかしにみんな食べられるか殺されるかしてしまっていた。でも、この森では……。
「犬の時季」
男がまたくりかえした。口もとに巻きつけた灰色のスカーフの上で、ふたつの眼が左右を油断なく見まわしている。ぼくたちは立ち止まって一服した。たえまない雨音が耳の奥を満たし、ほかの物音が聞こえにくい。背の高い木々の頂きは霧に隠れ、黒い幹は濡れて腐っているように見えた。と、とつぜん、すぐそばで森がはじけ、ぼくたちはさっとふりむいた。仲間のふたりが、木々のあいだからこちらにやってくる。ふたりとも、この天候にふさわしい黒い服に身を包んでいた。ぼくたちは声をかけあい、また歩き出した。ぼくの眼も、灰色の相棒とおなじように、左右を見張りはじめた。
突き出した枝に肌をひっかかれ、木の根っこにつまずきながら、長いあいだ、茨《いばら》のやぶを切り開いて進み続けた。前方の地面が急勾配で落ち込み、窪地のようになっていた。いちばん低いところに黒い水がたまり、ヘリには薄い氷が張っている。すり鉢状のその窪地の端までやってきたとき、棒切れを持った相棒が向かい側の斜面にあるもの[#「あるもの」に傍点]を見つけ、ぼくはべつのものを見つけた。
相棒が見つけたのはパフだった。窪地の向こう側、左手のほうの雪の斜面を、頂上めざして登っている。
ぼくが見つけたのはワンス・ア・デイだった。パフのあとを追って、右手の斜面を登っている。
ぼくたちはふたりとも指をさし、同時に「あそこ!」と叫んだ。ワンス・ア・デイは、猫の見えない目の側から追いかけているらしく、パフは彼女に気づいたようすもなく、雪にあごまで埋もれて必死に登りつづけていた。と、ちょうどそのとき、パフを追う、べつのものの声が聞こえた。霧を貫いて響きわたるそれは、鋭くかんだかい吠え声だった。何度も何度も声が響き、ぼくは恐怖に凍りついた。ワンス・ア・デイも立ち止まったが、パフは進みつづけている。左手のほうで森がはじけるような音をたて、その奥から、一匹の動物がとびだしてきた。ぼくの相棒は歯をむきだしにして、恐怖の悲鳴を洩らした。その動物は――汚い黄色の毛皮、痩せこけた体に大きな頭――足を止め、頭を大きく振って、ワンス・ア・デイからパフへと視線を移した。パフはようやく窪地の上にたどりつき、その向こうに姿を消そうとしている。動物のうしろで森がまたざわざわと音をたて、今度は赤い動物がとびだしてきた。止まろうともせず、痩せた背中をまるめて雪の上を突っ切ってゆく。黄色い動物がそのあとを追った。また一匹、斑点のついたのが駆け出してきて水の中にとびこみ、しぶきを散らして上がってくると、さっきの二匹を追って斜面を登り出した。
ワンス・ア・デイが斜面のてっぺんにたどりつき、雪の中の犬たちと戦っている。ぼくの相棒は、ぼくと水たまりの中間地点にいて、大声で叫びながら棒切れをふりまわしていた。ぼくもようやくショック状態を抜け出し、あとを追って走り出した。黒い水と泥にひざまでつかって水たまりを迂回しているとき、さらに二匹の犬がわんわん吠えながら森を出てきて、ぼくたちの姿を見て足を止めた。あとずさり、斜面を登るぼくたちに近づいたり離れたりをくりかえす。犬たちに背中を向ける気にはなれず、ぼくたちも叫び声をあげて、犬の吠える声に対抗した。ようやく、ワンス・ア・デイの足跡を追ってきた〈リスト〉の仲間がふたり、森から姿をあらわした。ぼくの相棒は灰色のスカーフをひきむしると、ふたりに向かってそれをふりまわした。犬たちもそのふたりを見て、あらぬ方角に逃げ去った。
服を濡らし、冷たい息をあえがせながら、ぼくたちはようやく窪地の上に出た。パフもワンス・ア・デイも犬たちも、すでに姿を消していた。雪は足跡に乱れ、濡れた黒い土がところどころ露出している。そして、ぼくの足元から向こうのほうへと、長い血のすじが点々とつづいていた。
猫の血だ。ぼくはその考えにすがりついた。パフの血。哀れなパフ。でも、もうずいぶん年寄りだったわけだし、かわいそうにはちがいないけれど、とにかくあれは猫の血だ……。黒い服を着た〈リスト〉のふたりが雪の上の足跡を指さしあいながら、ぼくの前を急ぎ足で通り過ぎた。ぼくはまだ、茫然と立ちつくしていた。となりにやってきた棒切れの男が、ずぶ濡れのブーツを絞りながら、
「|犬の時季《ドッグ・デイズ》」といった。「痩せる月だ。だから、すごくでかい相手以外なら、やつらは団結して襲いかかって……」
「ちがう」とぼくはいった。
男はせわしなく左右に首を振りつつ、さっきのふたりを追って歩き出した。
「もし彼女が猫といっしょにいたら」というのが聞こえた。「両方ともやられる。そう、森の中にひきずりこむんだ。いまはもう静かだろ、それがどういうことかというと……」
ちがう、そんなはずはない。この男は頭がどうかしてるんだ。そう思いながら、あとについて歩き出し、それからふりかえって雪を見つめた。あれは猫の血なのに、それがわからないなんてどうかしてる。なのにどうしてこんなにずんずん歩きつづけるんだろう?
「しょせん、犬は犬で犬で犬だ」と〈棒切れ〉。
「いいからさがしてよ」ぼくは叫んだ。泥につかった足には、まるで力が入らない。「黙ってさがして」
「煙だ」と男がいって、立ち止まった。
ぼくもそのにおいを嗅ぎ、同時に見た。森の中、灰色の背景にひときわ茶色に浮かぶ黒いしみ。男は仲間に向かって大声で叫びながら、そちらのほうに走り出した。ぼくはじっと立ったまま、まだ自分に真実の語りを語ろうとしていた。怖かった。そもそも、森の中の火がなにを意味するのか見当もつかなかった。〈棒切れ〉はこちらをふりかえり、ぼくに手を振ってから、木立のあいだに姿を消した。
木々のあいだに小道があり、その道のつきあたりに立つ古い天使石の壁の前に、丸太造りの小屋があった。編み枝細工の屋根の穴から、灰まじりの煙が立ち昇っている。水たまりのところで見た一匹目の黄色い犬が小屋の戸口の前でうろうろしていたが、ぼくらの姿を見るとあとずさり、走り去った。べつの方角から、黒い服を着た男がふたり、小屋のほうに歩いてきて、中の闇に姿を消した。まるで、通行壁を通り抜けたみたいに。ふたりは笑っているみたいだった。それにつづいて、〈棒切れ〉も中に入った。ぼくもようやく戸口にたどりつき、中で人々の話している声を聞いた。
中に入った。
焚火の炎と煙の中に、黒い外套をまとった人々がすわり、低い声で笑いながら、あたたかくくつろいでいた。ジンシヌラも笑っていた。その横には老いたパフが寝そべり、眠っていた。そして、パフの腕の中に、ワンス・ア・デイがいた。炎を映した彼女の目はきらきらと輝き、笑みを浮かべている。ぼくは忍び足で彼女に近づいた。恐怖はまだ、腹の中にかたい結び目をつくっていた。彼女に手を触れ、本物だとたしかめるまでは安心できなかった。
「だいじょうぶなんだね」ぼくがいうと、みんなが笑った。
「ええ」ワンス・ア・デイが答えた。「ドクターがいたから」
「ドクターって? なんのドクター?」
ワンス・ア・デイは笑みを浮かべたまま首を振るだけだった。
「いったいなにがあったの? この火はどうしてここに? いったいなにがどうなって……」
ジンシヌラが片手をしっかりとぼくの手首に置いた。
「しーっ。いまはすべて上々なんだよ」
ほかの人々はもう黙りこんでいた。一瞬、パフが目を覚まして、片目でぼくを見た。そしてそのとき、いまはもう――おそらくは永遠に――いったいなにがあったのか、雪の上の血はだれの血だったのかを教えてもらえないだろうということがわかった。なぜなら、それはもう過去のことで、いまではないからだ。いまはすべてが上々だ。与えられないものを求めてはならない。もし犬の群れに囲まれていたのがぼくだったら、この上々の場所を見つけられなかっただろう。ぼくならこの場所をさがしもとめたにちがいないから。
「うん」とぼくはいい、「うん、いまはすべて上々だ。焚火もなにもかも、うん、すばらしいよ」
「彼は暗かった」と〈棒切れ〉がいった。焚火の炎ごしに、その顔が満面に笑みをたたえているのが見えた。「暗すぎて、叫んだくらいだよ」〈棒切れ〉は気持ちよさそうに頭のうしろで手を組むと、またにやっとして、「犬の時季だ」と満足そうにいった。
こんなふうにして、ぼくは|暗さ《ダーク》と|明るさ《ライト》の意味をつきとめたんだ。
[#ここから太字]
二月のタイルのことをまだ聞いてないわ。
[#ここで太字終わり]
あんまりよく覚えてない。ひび焼き≠ノなってたのは覚えてる。ほら、熱かなにかで、細かいひび割れが蜘蛛の巣みたいに広がってたんだよ。この月にふさわしく、画面のほとんどが黒い絵だった。ふたりの子どもは、たしか冷たい川にかかる橋の上に立っていた。川にはなにか大きなものがあったけど、なんだったのか覚えてない。
三月のタイルでは、女の子の青いドレスのすそが、十一月のタイルのめくれた枯葉とおなじカーブでめくれていた。〈風〉を意味する曲線だ。ふたりは、世界の頂上みたいに見える茶色の丘に立って、風に吹かれていた――周囲にはうすい紫色の大空以外、なんにも見えない。風がふたりのうしろから吹いてきて、髪の毛を乱し、ふたりの揚げている凧《たこ》を高く高く舞い上がらせて、そのせいで凧はとても小さく見えた。
サービス・シティの廃墟になった建物の中でまだ屋根の残っている部分に、〈リスト〉のいろんなものが山積みにして保管されてるんだけど、ワンス・ア・デイはそこから自分用の凧を見つけ出していた。ぼくたちは、がやがやと騒がしい中に腰を下ろして、ゼアの話に耳を傾けているところだった。ワンス・ア・デイは話を聞きながら、慎重な手つきで凧に新しいしっぽを結びつけていた。視線はじっと手もとを見つめ、口は両手がしたがっているのとおなじ命令に従っているみたいだった。糸をぴんと張るためにぎゅっと閉じ、開き、また閉じて次の布をさがす。結び目ができると、ワンス・ア・デイは舌を出した。
「三月、月が満月になると、野ウサギは気が狂う」しゃべりながらゼアの目が大きくなり、激しい光を帯びた。「野ウサギは足を踏み鳴らし」ゼアの足が地面を蹴り、どしんと音をたてる。「こぶしをかため、耐えられない、耐えられない」ゼアはまた足をぴくぴくさせながら、まわりを見渡した。「べつの野ウサギがやってくると、彼は叫ぶ、『場所はないよ、場所はないよ!』と。たとえたっぷり場所があっても」
ワンス・ア・デイはゼアの馬鹿騒ぎに声をたてて笑い、それからまた作業にもどった。仕事に没頭するワンス・ア・デイはサービス・シティのだれよりも美しいと思ったけれど、それはぼくが彼女を愛しているからで、じつのところ、サービス・シティの人間は、だれもがワンス・ア・デイとおなじようにして自分の仕事に没頭する。ひとつひとつのことに全神経を集中するんだ。まるで仕事のほうが人間に遂行せよと命令しているような感じ。仕事が主人なんだ。
もちろん、〈リスト〉がやることはそう多くない。その数少ない仕事のひとつが、三月に凧を揚げること。さっき話した建物には、壊れたものから無傷のものまで、たくさんの凧が、ゴムのブーツとか、灰色のケープとか、畳んだ傘を入れた傘立てとか、雑多な品物のあいだに掛けてあった。寒くて風の強い凧揚げにうってつけの日、かたくて新しいエニシダみたいな冬の日に、〈リスト〉の人々は総出で茶色の丘の頂きに散らばり、帽子を頭にゆわえつけ、服を風にはためかせながら、鮮やかな色のしっぽをつけた凧を宙に舞わせる。もっとも、中には凧揚げをしない人もいるけどね。
それはともかく、静かで空気のかぐわしいある日、森に青白いものが芽をふきだしたころ、凧のタイルがめくられて、片方の山には三枚、もう片方の山には九枚になった。まわりで見守っていた人々は、四月のタイルがあらわれると、小さく満足の声をあげた。
横なぐりに吹きつける銀色の驟雨が、水たまりにしぶきを散らしている。水ぎわが銀色に光り、かすかに緑色の光を反射する水たまりがそこらじゅうにあった。このタイルだけは、女の子があの青いドレスを着ていない。男の子も女の子も、おそろいのぴかぴか光る黄色い外套を着て、女の子のぶかぶかの黄色い長靴からはすらりとふくらはぎがのびている。でも、女の子の傘の色は青だった。ほかの月にも雨は降るけれど、〈リスト〉が傘をさすのは四月だけだ。
どしゃ降りの雨の日、ぼくは通行壁ごしに、傘の花を開かせて石の広場を闊歩する彼らの姿をながめた。継ぎのあてられた傘、曲がって骨がとれている傘、逆さまに聞いてコウモリの翼みたいになっている傘。その中に、ハウドがいた。灰色と緑の縞模様がついたハウドの傘はひときわ大きく、奇妙なかたちの柄がついている。ハウドは、通行壁ごしにぼくの姿が見えているみたいに、ぼくが彼を見た瞬間、こちらを向いてにっこりした。
彼らがもどりはじめたころ、鐘が五回鳴った。宵の鐘ではなく、一日のまんなかの鐘だ。帽子と畳んだ傘とを振ってしずくを落とし――なぜだか、屋内で傘をさすことは禁じられていた――あたたかく濡れた一日のにおいを嗅ぎながら、水滴できらきら光るシダや若枝、花びらを運びこんだ。彼らが床のまわりに集まってくると、専用の高い椅子を与えられているジンシヌラは、猫が人間を見るような態度で彼らをながめた。おだやかで、持ち前の好奇心に満ちたそのまなざしも猫とおなじ。大きな両手を軽く動かし、黙ったままで彼らをすわらせた。子どもたちはおとなしくしなさいと命じられ、しだいに喧騒が静まった。人々は、〈リスト〉特有の辛抱強さを発揮して席をゆずりあいながら、ジンシヌラのほうを向いて腰を下ろした。しばらくすると、ジンシヌラの前に二重の半円ができた。内側の半円には女性と女の子たち、外側の半円には男性と男の子たち。
ワンス・ア・デイが顔を流れるきれいな雨のしずくをぬぐいながらぼくの前を通り、こちらにちらっと笑みを向けてから女たちの席にすわった。並んですわりたいと思ったけれど、きょうは〈リスト〉が〈長期連盟〉とマザー・トムのことを記念した日で、こういう日には男たちは自分の場所をわきまえ、うしろにすわって口をつぐんでいなければならない。
通行壁の向こうで、一瞬、すすり泣きの発作のように雨足が強くなり、また静まった。ぼくたちは黙っていた。ジンシヌラが語りはじめ、猫たちが好奇心をつのらせた。
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第四の切子面
「冬の最後の月」ジンシヌラは、足もとの猫だけに話しかけているみたいな口調で、静かに語りはじめた。「それは春の最初の月でもある。それまでかたく凍って重みに耐えてきた川の氷がついに割れ、巨大なかたまりとなって漂い出し、たがいにぶつかりあって、美しい景観をつくる。
川はどうしてそんなことができたのかと氷がたずねた。川がそれに答えたなら、こんなふうにいっただろう。あなたは自分で仕上げることのできない仕事にとりかかり、あなたがやらなかった仕事がわたしにまかされただけ。それに、あなたがやった仕事をとり消したのはわたしではありません。時間と変化がやったことで、わたしはとり残されました。
返事をするとしたら川はそう答えただろうが、しかし川は答えない。返事をする相手の氷が残っていないから。
もしわしらが古えの時代について物語を語るなら、こんなふうにいうとしよう。男たちは天使で、空を飛べた。男たちはカチカチで割れやすい氷の板だった。その下を滔々《とうとう》と流れる見えない川が、女たちとその〈連盟《リーグ》〉だった。時間と変化についていえば、そう、そのふたつはいつの時代もおなじで、べつの名を持つことはない。
さていま、その時代の男たちが、女たちにいった。『おれたちは〈小月〉を空に投げ上げ、おれたちのプランターは太陽の軛《くびき》を逃れた。おれたちはこういう仕事をいつまでも遂行しつづける使命がある。男にはなすべきことがあり、時間を有効に使わなければならないから、おまえたちの中にこの仕事を手伝える者がいれば、だれでも手伝ってかまわない。しかし、おれたちが新しい月をつくり、それを古い月のとなりに置いたというのに、おまえたちはまだ古い月に支配されている。時間を有効に使うことができない、それがおまえたちの最大の弱点だ』
そしてマザー・トムは、〈連盟〉の女たちに向かっていった。『これこそが、あなたたちの持てる唯一の力です。春が近づいています、すべての川の氷がかならず割れます。時間はあなたたちを必要としています。そして、暗くても明るくても、時間はあなたたちを利用するでしょう』」
ジンシヌラは椅子のうしろに手をのばし、背の高い箱をとりだして、それを自分の前に置いた。箱の正面は、アーケードを模したようなかたちになっていた。ジンシヌラが箱のうしろでなにかを勢いよくまわすと、アーケードの中が明るくなり、その奥に庭園が見えた。そこでは果物の木が花を咲かせていて、太った巨大な女が手を振った。女は手を振った。つまり、手を振っている女の絵が見えたんじゃなくて、女は片手を上げ、こんにちはというふうに手を振り、その手を下ろしたんだ。それからまた上げて、また手を振り、また下ろし、それからまた上げて手を振った。女が手を振るあいだ、ジンシヌラは自分の手を軽く箱の上に置いて、話をつづけた。
「マザー・トムはいった。『わたしの一部は男で、一部は猫で、一部は夢で、そして〈ぜんぶ女性〉です』
つまり、マザー・トムは〈手術〉を受けたんだよ。彼女はかつて男で、それから女になった。それも、非常にたくみに。当時は、あらゆる可能性と創意工夫がある時代だった。かつての彼女の男性の部分が本物だったのとおなじくらい、彼女の女性の部分は本物だった。彼女は自分の中の女性の部分をジャニスと名づけた。それは、〈道路〉で不慮の死を遂げ、マザー・トムに女性の部分を提供することになった女性の名前だった。『ジャニスが知ったら喜んでくれるでしょう』とマザー・トムはいった。そのころの医師にとって、体の一部分をべつの一部分と置き換えることは簡単だった。天使流の考え方からすれば、これで落着のはずだった。ところが、マザー・トムの女性の部分が外に向かって成長し、ひとつの人格を育てはじめた。やがて、光をむしばむ闇のように、ひとりの女の人格が、老人であるマザー・トムの人格を凌駕することになった。『ジャニスがわたしの心を変えようとしている』とマザー・トムはいった。マザー・トムは女ふたり分の体重があり、アビのような声を持ち、完全な〈女〉になりたがって、女たちの〈連盟〉に加わることまで望んだ。
当時、天使たちのあいだでは、〈連盟〉に関するこんなジョークがあった。〈連盟〉の会議では、鳩みたいな胸をした女が腕組みして、切り花の花瓶のあいだからほかの女たちに向かって話をする。みんな花を飾った帽子をかぶっていて、ばかげたことしかいわない、と」
ジンシヌラは、深いポケットからクルミとクルミ割り器をとりだした。
「よくできたジョークだった。けれど天使たちには、なぜそれがおかしいのかわかっていなかった。
わたしは、自分の時間を正しく使おうとする女たちの戦いのことを思って泣いた。そして、泣いている女たちの姿を思い描いた。マザー・トムは、〈連盟〉の会議のあと、よく泣き出すことがあった。会議の席で女たちが、天使たちとではなく、おたがい同士でいがみあいはじめたときだ。傷つきおびえ怒り理性をなくした女たちの声を夢の中で聞いて、マザー・トムは泣いた。その声はなによりも女性的≠セった。『女性的だなんて!』と、マザー・トムは涙したものだった。『女性的!』彼女は自分がなんの仲間に加わったのかを学びはじめ、それを知って喜んだのだと思う。『全宇宙のすべてのプランターにかけて、わたしは二度と男にはもどらない』と彼女はいった。『銀行にあるすべての〈おかね〉、空の都市すべてにかけて』
マザー・トムは〈連盟〉を混乱させた。長いあいだ、〈連盟〉は彼女が仲間になることを認めなかった。しかし彼女は話すのをやめようとせず、機会が与えられるかぎり話しつづけた。そして年月がたつうちに、彼女の物語は長くなっていった。彼女にわかるかぎりの、来たるべきもののこと。男たちのこと(なぜなら彼女もかつてはその一員だったから)。暗さと明るさのこと(もっとも、これについてなにをいうことがあっただろう?)。女たちは、女たちのうちのある程度は、マザー・トムの言葉に耳を傾けるようになり、その言葉を理解した。しかし、ときにはただ顔をそむけ、ほほえみ、耳を貸さず、〈連盟〉がまたすてきな場所になるのを待った。
『すてき!』と、マザー・トムは叫んだものだった。『すてきだって!』というのも、年をとるにつれ、ますます多くの〈連盟〉の女たちが話を聞くようになるにつれ、マザー・トムは泣くことが少なくなり、大声をあげることが多くなってきたからだ。
このとき、天使たちがあやまちをおかした。彼らはずっと、〈連盟〉のことを珍妙なものだと考えていたが、マザー・トムのことはそれ以上に珍妙だと思った。けれどマザー・トムは男たちのことを知っていて、いつまでも話しつづけ、ますます年をとり、ますます大声になり、聞く者が増えるにつれてますます年をとり大声になっていった。そしてとうとう、男たちは、逃れようともがく小鳥を掌中にした者となった。ぎゅっと握りしめれば、小鳥は死ぬ。握りしめていないと、小鳥は逃げてしまう。天使たちはぎゅっと握りしめたが、小鳥は逃げてしまった。それが、あいもかわらぬ天使のやりかただったのだ」
ジンシヌラは言葉を切り、おだやかな熱心さでクルミを食べた。
「つまり、天使はようやくジョークの意味を理解した。女たちが自分たちの時間を正しく使おうと奮闘し、天使たちのおそろしい計画に協力しているかぎり、天使がおそれることはなにもなかった。けれど、マザー・トムが口をつぐめと命じ、女たちが口をつぐんだとたん、天使の計画はたいへんな危機に直面した。そこで天使たちは二人か三人をマザー・トムの庭園に――そう、この庭に――送りこんで、彼女を殺した。マザー・トムはそのとき八十歳間近だった。なのに彼らはマザー・トムを殺した。
もしわしらが古えの時代の物語を語るなら」とジンシヌラはつづけた。「天使たちがマザー・トムを庭園で殺したその日は、一年のうちでいちばん短い一日、冬が猛威をふるいはじめる一日であったと語るだろう。けれどその日は、その日よりのち、一日の長さが春に向かってゆっくりと日ましに長くなっていく、その境い目の日でもあったと語るだろう。というのも、その長い一生の最後で、マザー・トムはついに、愛していた女たちから理解されたからだ。天使たちは長いあいだ、小鳥が死んだものと思っていた。氷はぶあつくなった――しかし、川はさらに深い。氷は沈黙を守り、川はひとりごとしかいわず、その声はだれにも聞かれなかった。
川はマザー・トムについて語った。この絵がつくられたのはその当時のことだ。マザー・トムを記憶しておくために、これとおなじ絵が一千もつくられ、女たちがそれを守り伝えた。絵はマザー・トムのことをこう語った。|暗い《ダーク》ときにはとてもとても|暗く《ダーク》、|明るい《ライト》ときには|空気よりも軽かった《ライター・ザン・エア》、と。
川はマザー・トムが残した言葉について語った。来るべきものについて語った。女たちの夫は、毎日、来るべきもののために計画を立て、戦い、敗北して、自分たちの時間を有効に使って来るべきものを克服しようとする仕事から帰宅した。そして女たちは、男が話すときには口をつぐめ、というマザー・トムの助言を思い出した。
庭と服と食糧難と、明かりが消えゆくことについて。子どもたちについて(これがいちばん美しい話だった)、〈おかね〉の物語と、明かりが永遠に消えてしまったらどうすべきかについて。天使が実現した最新の驚異と、まもなくあらゆることが可能になり、欲しがったものすべてを夫たちが与えてくれそうな気がすることについて語った」
ジンシヌラは片手で目がしらをおさえ、マザー・トムがいつまでも永遠に手を振りつづけている箱に触れた。
「欲しがったものすべて。わたしがその時代に生きていたら、暗く、暗く、暗くなっていただろう。いまそのことを考えるだけでも暗くなる。なんとつらい、なんとつらい役目だろうか。みずからを時間の主人と考える者たちが、時を縛る無益な話をはてしなく語りつづけているあいだ、その話を理解できたとしても言い返すことはできずに、じっと黙って時間の道具でありつづけるというのは。いくら食べても満腹せずに貪りつづけ、咳きこんでは寄生虫を吐き出す病気の猫を見守るように、自分たちの種族を見守りつづける。それでもなお、口をつぐんでいなければならない。そして、いかなる道具もそうであるように、いつ自分たちが必要とされる時が来るか、彼女たちにはけっしてわからなかった。また、自分たちの考えが正しいかどうかも、彼女たちにはついぞわからなかった。自分たちの仕事が、結局は、天使の果てしない飢えを満たすだけのものではないか、欲しがったものすべて≠ネのではないかという疑いを、彼女たちはけっして消し去ることができなかった。それはマザー・トムの役目ではなかったし、マザー・トムは自分がその役を担わないことを知っていた――時間の道具をつくるのは、暗さと明るさの炎の中でいつまでも道具を研ぎながら仕事の準備が整うのを待つ、あの長い火なのだ。
天使にとって、〈嵐〉は、人間の誕生以来もっとも暗い時期だった。なぜなら、氷は春のことなどなにひとつ知らないからだ。そして、〈法《ロー》〉と〈清府《ガムミント》〉の崩壊後はじめて、サービス・シティのこの床の上で、さらにまた、こことおなじような一千の場所で会議が開かれたとき、すでに〈連盟〉は大きく成長していたし、彼女たちの物語すべては全員がそらで覚えていた。マザー・トムのことを忘れていなかったし、その言葉の意味を理解して、世界に手を貸すためにまずなにをなすべきかも多少は心得ていた。しかし、それだけのことを知っていたにもかかわらず、それでもなお、このときの女たちはけっして明るくはなかった。なぜなら――覚えておくのだよ、子どもたち――〈連盟〉の女たちの思慮分別にもかかかわず、その暗さと明るさにもかかわらず、彼女たち自身も天使だったからだ。このことをけっして忘れてはいけない。なぜなら、それこそが彼女たちの最大の栄光だったのだから。わたしは、彼女たちがそのときここで会議を開いていたのを感じた。どんな技術があろうとも、彼女たちが感じたのは恐怖、闇、恐慌だったことを知っている。のちになにを生み出したにしろ、このときの彼女たちは、自分たちのなすべきことのほとんどが、天使たちの死を見守ることだけだと知っていた。なぜなら、、氷は太陽のもとで、泣き声と笑い声とに似た音を立てながら割れてゆくものなのだから」
ジンシヌラの前の女たちのうち幾人かは、両手にあごをのせて熱心に聞き入っていた。それ以外の女たちは、子どもをおとなしくさせたり、猫を追い払ったり、居心地のいい場所を求めて動いたりするのに忙しかった。子どもたちは、真剣なことが話されているときによくやるように、おたがいに相手の気を散らして遊んでいた。というのも、これはけっきょく古い古い物語で、何百回となく聞かされているものだったから。きょうは、〈リスト〉がその話を最初から最後まですべて語ると決めた、一年に一度の日なのだ。その場にいた中でいちばん熱心に聞いていたのは、ひょっとしたらこのぼくだったかもしれない。
庭のマザー・トムが片手を上げ、振り、下げた。
「わしらは〈連盟〉の子どもであり」とジンシヌラはいった。「マザー・トムを覚えている――あの古えの時代の女たちが、いまもここにいると感じている。彼女たちはこの場所で、はるかむかしに失われた一千の棚を一度は埋めつくしていた食糧を守り、分配していた。この場所で、失われてひさしい、命を救う薬をつくっていた。彼女たちは、いまもこの場所に残されている物語や天使の遺品をたずさえて、旅からもどってきた。彼女たちはこの場所で計画を練り、古い盟約がかたちづくられ、それが世界を今日あるような姿に変えることになった。そしてこの場所で、とうとうあの戦いは放棄された――老境にさしかかった人間が、はるかむかしの両親の死を後悔しないのとおなじように、わしらはなにも後悔しないけれど、しかしわしらはそのことを忘れはしない。
もしおまえたちが、〈連盟〉が名高い記憶の〈長期連盟〉へと成長していったころの物語を語るとしたら、猫はなにか不満があるときに好奇心を発揮するものだというだろう。猫の好奇心が、薬の娘の秘密、天使の薬すべての秘密を発見したのだというだろう。そしていま、わしらはそのことに感謝する。〈連盟〉が、天使の秘密すべての中でもっともおそろしい四人の死者を発見し、それを破壊したのだというだろう。そしていま、わしらはそれに身震いし、彼女たちの勇気をたたえる。〈連盟〉は、いまのわしらのように、ドクター・ブーツのことを学んで、暗さと明るさを知ることになった――もっとも、それについていうことはなにもないのだが。だがしかし、当時のままの〈連盟〉はいまはない。好奇心は満たされ、戦いは終わった。暗さと明るさについていえば、世界はむかしよりも明るくなっている」
ジンシヌラは首を振り、笑みを浮かべて、ひざからクルミの殻のかけらを払い落とした。
「しかし、考えてみるがいい」彼女は笑みを浮かべて人々の顔を見わたした。「すこしだけ長く考えてみれば、子どもたちよ、世界がどんなに奇妙なものか、しあわせだとかさびしいとかいう以前に、世界が結局ずっとずっと奇妙なものになってしまったことが感じとれる。いま、五月になり、あの交わりが訪れる。なによりも奇妙なものが。わたしはだれの秘密も望まない。ただ、わしらがいまいるこの瞬間のこと、それがあのとき≠セったこと、それがいまここにやってきたことを思うだけだ。そしてああ、それはなんと奇妙な、奇妙な、奇妙なことだろう!」
ジンシヌラのこの問いに、ぼくのまわりの顔はなにかを理解しはじめたように見えた。ぼくが知っていて彼らが知らなかったことを。笑いのさざなみがあちこちで起き、それが広がって、男たちの深い笑い声になり、やがて宵の歌が消えていくように消えていった。世界の奇妙さを笑う彼らの笑い声のおかげで、ぼくがここに来てからはじめて、彼らがふつうの人間のように――つまり、真実の語り手のように――思えた。
その笑いの中で、一日がおしまいになったような感じだった。雨は夜まで、あるいは夜通し降りつづけるだろう。雨の銀のゆらめきの中で、午後はすでに暗くなりかけていた。ジンシヌラはまだ、マザー・トムを前に置いてすわったまま、クルミを割って食べ、一方ぼくたちは体をのばして立ち上がり、また歩き出したり話をしたりしはじめた。
ぼくは、マザー・トムが手を振っている箱の前の、ワンス・ア・デイがすわっている場所へと歩いていった。箱の中の庭も薄暗くなっていて、マザー・トムが手を振るスピードは前よりのろくなっていた。ワンス・ア・デイがまだそれを見つめているので、ぼくもそれを見つめた。
「あれはどういう意味なんだい」とぼくはたずねた。「『五月になり、あの交わりが訪れる』っていうのは?」
「ドクター・ブーツからわたしたちに届く手紙のことよ」ワンス・ア・デイは箱から目を離さずに答えた。
庭には花をつけた木が一本あった。いま、こうして近づいてみると、ちっぽけな猫がマザー・トムの大きな足の横で丸くなっているのが見えた。マザー・トムの手が上がり、花びらが一枚、木から落ちてひらひら舞いはじめた。マザー・トムの手が高く上がって振られる。花びらが地面に落ちる。マザー・トムがほほえみ、足もとの猫がのんびりと目を閉じる。マザー・トムが手を下げる。笑みが消え、手が体のわきにもどる。それから庭全体が、一瞬びくっと揺れたように見えた。マザー・トムの顔がむっつりいかめしく気づかわしげな表情になる。猫の目が警戒するようにぱっと開いた。マザー・トムの手が前とおなじように上がり、顔が明るくなって笑みが浮かび、猫の目が閉じはじめる――そしてまた一枚、木から花びらが落ちてくる。ぴったりおなじタイミングで。
マザー・トムは、|暗い《ダーク》ときはとてもとても暗く、|明るい《ライト》ときは|空気よりも軽かった《ライター・ザン・エア》といわれている。
マザー・トムが手を振り、また手を振った。そのたびに彼女の顔は暗く気づかわしげになり、それから明るい笑みになる。彼女がほほえむたびに猫が目を閉じる。そのたびに新しい花びらが、軽やかに揺れながら地面に落ちていく。
「ずっと長く見ていたら、落ちる花びらがなくなって、実が生《な》るね」
「いいえ」とワンス・ア・デイがいった。「そうはならないわ」
聖ジーンがつくったパズルがある。彼は細長い紙切れを一枚とって、半分ねじり、それをつなげて輪のかたちにした。さて、この輪の外側を指でたどってみてごらん、ただし、内側にさわってはいけないよ、と彼はいった。ところがいつも、外側をたどり終えないうちに内側がはじまってしまう。輪はいつも、終わりにたどりつく前にまたはじまってしまう。
「それは謎じゃないか」とぼく。「先月約束しただろ、もうぼくに謎はかけないって」
「謎なんて覚えてない」
マザー・トムが手を振る。猫が眠る。花びらが落ちる。小さな閉ざされた場所に永遠に閉じこめられたような、窒息しそうな感覚とともに、ぼくはそのとき理解した。落ちてくる花びらはすべて一枚のおなじ花びらで、マザー・トムが手を振るのは一回きりだということを。そして、冬はけっして来ないということを。
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第五の切子面
「いつ行くの?」とぼくはたずねた。
五月の光が、ぼくたちふたりの、丘の日陰の家を再建していた。ふたりでならした芝から、金緑色の新しい芽が吹いていた。
「もうすぐよ」とワンス・ア・デイはいった。「だれかが知らせにくる」
彼らはひとりずつ川に向かって降りてゆき、多くは裸で、ドクター・ブーツのもとからもどってくる。老いた者たちは子どものような、若き者たちは老人のような顔で。ここで友だちになった人たちがもどってくると、ぼくはひとりひとりに会いにいった。彼らはおだやかな視線をぼくに向けたけれど、彼らはそこにいなかった。ぼくのあいさつの言葉は口の中で消えてしまった。いちばん年下の子どもたちさえ、ぼくとおなじように残されていたけれど、いつもよりおとなしく、ぼくの知らないゲームで猫と遊んでいた。猫のほうはおちつきがなく、ピリピリしているようだった。中身を(ある意味で)なくしてしまったのは〈リスト〉のほうなのに、ぼく自身がそこにいない存在になってしまったような気がした。彼らの魔術の確固たる重みの中にあっては、ぼくなど、記憶と誤解のちらつきでしかない。
「もしも」とぼくはワンス・ア・デイにいった。「もしも今年、きみが行かなかったら?」
「どういう意味?」
べつにそんなことを知りたいわけではないし、ぼくのいったことにはまったくなんの意味もなく、自分としてはほとんどなんの関心もない――そんな口調だった。絶望が大波になってぼくの胸に押し寄せた。リトルベレアにいたころは、ただの一度も、いくら彼女がささやき系であっても、そんな質問はしたことがなかった――どういう意味?≠セなんて。
「口にしたとおりの意味」ぼくはおだやかにいった。「口にしたとおりのことを、心で思っているよ」
ワンス・ア・デイはぼくを見た。その瞳の青は、ぼくたちの背後の空のようにうつろで不透明だった。ワンス・ア・デイは目をそむけ、湿った草むらではねるバッタたちと、中でもいちばん大きな一匹に狙いをつけて追いかけているブロムとを見つめた。彼女には、聞きとることができない。すべてを言葉で口にするしかないのだ。
「あそこに行って手紙をもらうのをよしてほしいんだ」とぼくはいった。
いっしょに暮らした一年のあいだに、ワンス・ア・デイはゆっくりと、ぼくの知っている人になってきた。ぼくがかつて知っていたあの少女ではないけれど、月を追うごとに、ぼくの知っている人になってきた。ぼくは、与えられないものを求めたりはしなかった。彼女のほうからぼくに与えてくれたのだ。けれど、もし彼女が手紙を受けとったら、またぼくから離れてしまい、〈小月〉へと飛び去ってしまったも同然になることはわかっていた。
「聞いて」と、ぼくはワンス・ア・デイの細い手首をつかんだ。「ふたりでここを出ていけばいい。みんな気にしないっていったじゃないか。いまは、みんながいちばん気にしない時季だ。今晩出ていこう」
「どこへ行くの?」ワンス・ア・デイは、途方もないほら話、〈リスト〉のジョークのひとつを聞いたみたいに、ぼくに笑い顔を向けた。
「リトルベレアにもどればいい」この言葉には、こんな意味がこめられていた。ぼくたちの生まれたベレア。ベレアと聖人たちと〈ファイリング・システム〉、ここの老人たちのように結び目をかたく締めるのではなく、結び目をほどいてくれる金棒曳きたち。どの物語にも証拠があり、すべての秘密にすくなくとも名前があるベレア。ぼくはこういったのだ、故郷に帰ればいい、と。
「あそこはわたしの故郷じゃない」と彼女はいい、ぼくの心臓がびくんととびはねた。彼女がぼくの思いを聞きとったのを聞いたからだ。「あそこはわたしの故郷じゃない、わたしが自分を見つけた場所だというだけ」
「でも、だったらどこでもいいよ、きみの好きな場所ならどこへでも行く、ただ……」
「いわないで」
ワンス・ア・デイはやさしくいって、芝生に目を落とし、きらきら光るバッタたちを見つめた。彼女はこういっていた。いまわたしを暗くしないで。とりわけ、いまだけは。
遠くのほうで、だれかがこちらに向かって歩いてくるのが見えた。袖なしの黒い外套を着て、つばの広い帽子をかぶっている。ハウドだ。ちょっと離れたところで立ち止まり、一瞬、ぼくたちを見つめた。それから、持っていた杖を上げてワンス・ア・デイを招き、きびすを返して歩き去った。
「もう行かなきゃ」といって、彼女は立ち上がった。
「きみが行ってしまったら、ぼくはきみを失うことになる。それがわかってるの?」
けれどワンス・ア・デイは答えず、ハウドのあとについてサービス・シティのほうへと歩き出した。
ぼくはひざに顔を埋めて、足のあいだの芝生を見つめた。草の葉の一枚一枚、小さなつぼみ、もっと小さな虫――それがはっきりと、いままで見たこともないほどはっきりと目に映った。その美しさに、ぼくは感嘆した。
だめだ! はじかれたようにぼくが立ち上がると、ブロムが遊ぶのをやめてこちらを見た。ぼくはワンス・ア・デイのあとを追って走り出した。彼女は、太陽の照りつける広大な石の広場を歩いていく。冬の寒さで石の表面はひび割れ、歳月が人間の顔に刻むしわのように、細かなしわが刻まれていた。
「ワンス・ア・デイ」と背中に呼びかけた。「ぼくは行くよ。どこに行くかわからないけど、ここを出ていく。一年たったらもどってくる。でも、約束してくれ。ぼくのことを考えてくれるって。ぼくのことをいつも考えていてくれるって。ベレアのこと、あの狐の一家のこと、〈おかね〉のことを考えて……考えてくれるって。ぼくがやってきて、きみを見つけ出したことを考えて、考えて……」
「狐なんて覚えてない」ワンス・ア・デイはふりむきもせずにいった。
「もどってきて、またきみにたずねるよ。ぼくのことを考えててくれるかい?」
「あなたがいないのに、どうしてあなたのことを考えられるの?」
怒りの発作にかられてワンス・ア・デイの肩をつかんだ。
「考えられるとも! やめろ! ぼくに向かって話してくれ、ぼくに向かって話してくれ、こんなの耐えられない、もしきみが……。わかった。わかったよ」
最後のせりふは、彼女がぼくに対して表情を閉ざし、きびすを返して、枯れ枝がさわるとか古い外套がひっかかるとか、ちょっとした邪魔が入ったとでもいうみたいにぼくの手をふりほどいたからだ。
「これだけは聞いてくれ。きみが口でなんといおうと、聞こえるのはわかってる。ぼくはもう出ていくけど、ぼくたちふたり、おたがいのことを考えていることはできる。そしてぼくはもどってくる。春になったら」
「いまが春よ」
そういって、ワンス・ア・デイは石の広場を歩いていった。ぼくは、その背中を見送った。一瞬、通行壁の広大でうつろな暗黒を背景に、ワンス・ア・デイの姿は白く生き生きとして見えたが、すぐに消えてしまった。瞬時のうちに。消えた。まるで最初から存在しなかったみたいに。
もしも――とぼくは考えて、心が冷たい石に変わるのを感じた――もしも彼女がぼくに真実の語りを語っていたのだとしたら。もしも、ぼくが語っていたことすべてを――ブロムに言葉がしゃべれず聖ブリンクに嘘がつけないのとおなじく、ただのひと月、ただの一日たりとも、ぼくがここを離れることはできないということを――彼女が聞きとっていたとしたら。
その日、それからあと、自分がなにをしていたか覚えていない。たぶん、置き去りにされたままの場所に、あの石の広場に立ちつくしていたのだろう。けれど夕方になって、ワンス・ア・デイがもどってくる姿を目にするより前に、ぼくは28[#「28」は縦中横]フレーバーへジンシヌラをさがしにいった。
ジンシヌラはほかの長老たちといっしょに長いカウンターの前に立ち、みんなといっしょになにごとかじっと考えにふけっていた。その前には、署名を書きつけられるよう、蜜蝋をきれいに塗った、大きくてなめらかな板が置いてあった。しばらく考えてから、ジンシヌラはひとりの女を前に連れ出し、その女に先の尖った棒を手渡した。ほかの人々がほほえみうなずく中で、女は蝋の上に署名した。ジンシヌラは女を抱きしめ、女は二、三人の連れといっしょに歩き去った。
「ぼくも行きたいんだ」とぼくはいった。ジンシヌラはたるんだ目をこちらに向けた。「あなたのテストにはぜんぶパスした。与えられなかったものは求めなかったよ。でもいま、ぼくは行くことを求める」
ジンシヌラは片手を上げて、ほかの人たちに待つよう合図し、それからぼくの肩を抱いて、時間のテーブルへと導いた。そこでなら、ふたりきりで話をすることができた。
「おまえにテストを課した覚えはないよ」とジンシヌラはいった。「だが、ひとつたずねたいことがある。おまえはどうしてここへ来たんだね?」
それにはいろんな答えがあったけれど、いま重要な答えはたったひとつだけだった。
「四人の死者の物語があったんです」とぼくは答えた。「知り合いの賢者が、あなたがたならその物語の結末を知っているかもしれないと教えてくれました。それはまちがいだったみたいです。でももう、そんなことはどうでもいい」
「四人の死者は死んでいる」ジンシヌラは片手にあごをのせていった。「〈連盟〉がそれらを破壊した――中にまったくなにも入っていない四つの透明な球を。ただひとつを残してすべてを壊し、残るひとつは永遠に失われて、破壊されたも同然……」
「五つあったんだ」
ジンシヌラはほほえんだ。
「そのとおり。たしかに五つあった」彼女のたるんだ目の中に、その謎に対する答えがあった。最後のテストは、それを求めないこと。
「もうどうだっていい。ぼくはただ、彼女といっしょにここにいたいだけなんだ。でも、ここにはいられない、あなたたちの知っていることを知らないと、それを理解しないと……」
「それがなんの助けにもならないとしたらどうだね? おまえたち真実の語り手は、知ることや理解することに重きを置きすぎると思うがの」
「いいえ。おねがいです。ぼくが望んでいるのは、理解することでさえない。彼女だ……ぼくはなりたい、彼女に。ぼくは彼女になりたい。ぼくはもう、ぼくでいたくない。ぼくでいてもしかたがない。ぼくの知っていることはどれも、これっぽっちも助けにはならない。彼女でいることがぼくでいることよりいいかどうかもわからないけど、でももうどうだっていいんだ。降参する。助けてください。ぼくにはもう、隠していることなんかなんにもない」
ジンシヌラはじっと耳を傾け、爪を噛み、考えにふけっていた。ぼくたちはいつのまにか、この場所にふたりきりになっていた。唯一の例外は猫のファーファだけれど、こっちにはまるで興味を示していない。ぼくは、ジンシヌラとのあいだにある五月のタイルに目を落とした。ふたりの子どもは(一年たっても、すこしも成長していなかった)大きな扉のついた木の家の中に立っていた――戸口から陽光が射し込み、家の中は山積みにした黄色い干し草でいっぱいだった。ふたりは両手をひざについて、女の子の足もとで寝ているまるまる太った小さな猫を見ている。その猫の乳首には、三、四、五匹の子猫が吸いついていた。これまでに見たどんな猫の親子よりも、それはぼくがワンス・ア・デイに見つけてやったあの狐の一家に似ていた。いつかはぼくも、あの狐たちのことを忘れてしまうんだろうか?
ジンシヌラがこちらに身を乗り出し、ぼくの頬をなでた。彼女の指輪がひげに触れるのを感じた。
「わたしはブーツを愛している」ジンシヌラは静かにいった。「わたしは噂に聞くだれよりも年をとっている。これ以外の方法ではなしとげられなかったことだ。わたしはブーツを愛している。だから、おまえの望みをかなえよう。そして、わたしが乗り切れたように、おまえがそれを乗り切れることを祈ろう。だが、あれがなにかをしてくれる望みはない。あの手紙は、いつもしてきたことをするだけだ。そして、手紙の意味を説明することはできない。ブーツにも、わたしにも、おまえの若い恋人にも、そしていずれわかるだろうが、おまえ自身にさえも。
しかし、すでに多くの言葉を費やしすぎた。言葉など助けにはならん」
ジンシヌラは立ち上がり、蜜蝋を塗った板が置いてあるカウンターへとぼくを導いた。
「今夜はひとりで過ごしなさい。あすの朝早く、わたしのところにおいで。そうしたら連れていこう。そしておまえは、ドクター・ブーツからの手紙を受けとる」ジンシヌラはぼくに先の尖った棒を手渡した。「さあ、名簿《リスト》に署名しなさい」
彼らの署名すべてがそこにあった。ワンス・ア・デイの署名もあった。ぼくには名前のしるしがなかったから、不器用な手つきで、せいいっぱい丁寧に、ぼくの系の、てのひらのしるしを〈リスト〉に描きつけた。
その夜、眠れなかったけれど、ぼくはひとりでいた。横になったまま、考えていた。ぼくをここまで導くのにワンス・ア・デイが大きな役割をはたしているとしても、どのみちそのきっかけは、そもそものはじまりからずっとぼくが歩いてきた径に横たわっていたはずだ。この目で四人の死者を見て、この耳にオリーブの聞きとれない秘密をワンス・ア・デイがささやいた。聖人になってこの謎を解こうとベレアを旅立ち、冬が人生の半分であることを知った。でもそれとおなじ程度にしか、ワンス・ア・デイの心には近づけなかった――少しも近づくことはできないんだ、この最後の一段を上がってしまわないかぎり。ぼくはゼアのことを考えた。サービス・シティに来た最初の日に見た彼のことを考え、彼がそうしていたように、いま長老たちのあいだにすわっているだろうワンス・ア・デイのことを考えた。内側からランプで照らされたような姿のワンス・ア・デイを思い描いた。あしたになれば、ぼくも彼女とおなじになる……。ぼくの唯一の後悔は、古い背負い袋を荷造りして、この夜のうちにサービス・シティを永遠に去ってしまわなかったことだ。
翌朝早く、寒さと期待に震え、あくびを噛み殺しながらジンシヌラのもとを訪れ、彼女のあとについて森を抜けて、川岸に降りていった。長い筏《いかだ》が、プラスチックの綱でもやってあった。ぼくの両親とおなじくらいの年格好の男女が、筏にすわって待っていた。ジンシヌラが腰を下ろすと、ぼくとその男とでもやい[#「もやい」に傍点]をとき、つるつるになった古い竿で、流れの速い五月の川に筏を漕ぎだした。
筏の横腹にぶつかる波の音と森のさえずりの中、ぼくたちは押し黙ったまま流れを進んでいった。ジンシヌラは煙をくゆらし、歯のあいだにはさんだパイプの位置をひっきりなしに変えていた。
「手紙について、ひとつだけ古いジョークがある」と、一度ジンシヌラがいった。「天使たちは、どの手紙にも三つの部分があるといっていた。〈拝啓〉と〈本文〉と〈敬具〉だ」
ぼくはその古えの言葉の響きに耳を傾けたが、なにもいわなかった。風雨に浸食された川岸の土手は廃墟のように崩れ、いまではそのほとんどが森におおわれていた。
ところどころに見える苔むした直角や直線が、かろうじて、天使のつくりだした土手を忍ばせる。ぼくたちはその前を過ぎ、薄い緞帳《どんちょう》のように広がるしだれ柳の林を過ぎて、やがて、川にしつらえられた桟橋にたどりつくと、筏をまわして桟橋にもやった。
桟橋からのびている径は――なんていったっけ――湿原に通じていた。柳の若木や柔らかそうな草が生い茂り、陽光の射し込む林間の湿地。〈リスト〉の何人かがそこにいて、近づいてくるぼくたちのほうを見ていたが、あいさつはしなかった。裸の者もいる。湿原の中央に、天使石でできた小さな家が建っていた。歳月の流れで地面に沈みこみ、いまでは部分的に、やわらかな土に埋まっている。その家の低い戸口まで、せまい径が通じていた。ジンシヌラはいっしょに来たふたりをわきに呼んだ。ふたりはたがいにうなずきあって、ぼくに笑みを向けると、腰を下ろした。ジンシヌラは、通行壁の前でしたようにぼくの肩をしっかりつかんで、小さな家の中の暗闇へと導いた。
家には小さな窓がひとつあるきりだった。外の陽光に目が慣れていたので、薄暗い家の中ではしばらくなにも見えなかった。最初、その小さな四角い部屋はからっぽだと思った。が、やがて、そうではないのがわかった。ガラスみたいに透明な、いやもしかしたらガラス以上に透明な箱もしくは台座みたいなものがあって、その中に銀と黒のボールかノブみたいなものが一列に並んで、水中にあるみたいに浮かんでいる。箱の上には、ひとつ、透明の球体があった。大きさは人間の頭くらいで、中にはなにも入っていない。
「五番めだ」とぼくはささやいた。
「ブーツだよ」とジンシヌラはいった。氷のように輝く銀の手袋を片手にはめようとしているところだった。「おすわり」
命じられて、ぼくはすわった。どのみち、ひざはもう体重を支えてくれそうになかった。ジンシヌラは手袋をはめた手で箱の中のノブのひとつを回すようなしぐさをした。ノブが回転した。上にある透明の球体は、人間がはっと息を飲むときみたいな音とともに一瞬にして黒くなった。あまりにも黒いので、もはや球ではなく、世界から切り抜いた黒い円のように見えた。
「さあ、目を閉じて」とジンシヌラがいった。「目を閉じるのがいちばんだ」
ぼくは目を閉じた。けれどその前に、ジンシヌラが銀の手袋をした手で箱の中のもうひとつのノブをまわすしぐさをし、黒い円が台座から浮き上がって、〈光〉のように宙を漂ってこちらに向かってくるのが見えた。
そのあと起きたことを話さなきゃいけないんだけど、ぼくには話せない。そのあいだは、そこにブーツがいて、ぼくはいなかったから。ぼくが〈しゃべる灯心草〉の中にいないあいだ、そこにはブーツがいた。ブーツが生きていた。彼女が〈灯心草〉で、ぼくはそうじゃなかった。ぼくはどこにもいなかった。なにも覚えていない――ぼくはいなかったんだから――そのあいだ、〈灯心草〉はブーツの存在に染められ、彩られていたわけだけれど、その彼のほうも、やっぱりなにも覚えていない。ぼくが彼の中にもどったときのことも含めて、なにもかも忘れてしまっている。ブーツは無数の生涯を生きてきたけれど、彼女は記憶を持っていないからだ。ぼくが知っているのは、ブーツが最後にしたことだけ。それは、目を閉じることだった。そのとき、ブーツは〈灯心草〉を離れた。そしてその瞬間――ブーツが離れたその瞬間に、ぼくは手紙を受けとった。ぼくの手紙は、ぼく自身だった。
「目をあけて」とジンシヌラがいった。
それ――目をあけて=\―が、〈灯心草〉の戸口から入ってきた。ぼくはいなかった、だからそれは、なんの中にも入れなかった。だがそれでも、それはすばらしい速さで、これまでそうしたものが数えきれないほど何度も通ってきた古い径を見つけ出し、その径を走った。ただし今回だけは、まるで〈光〉になったみたいに、それは自分が通ってゆく無限に長い路を見ることができた。径は〈灯心草〉だった。壁や|蛇の手《スネークズ・ハンド》が彼の内臓で、数えきれない階段や曲がり角、にせの道すじ、無数の部屋が彼そのものだった。それは、道すじや階段、通路を通って奥深くへと入りこんでいった。そしてぼくは――ぼくはなにものでもなかった。けれどぼくは、ジンシヌラがその言葉を、目をあけて≠ニいう言葉を発したそのとき、非在のちっぽけな中心から外にまっすぐのびだして〈灯心草〉をかたちづくり、目をあけて≠受けとめた。その言葉が通った径と、その径が通じる場所が、いっしょになってぐるぐるまわった。目をあけて≠ヘぼくを見つめ、ぼくはぼく自身が径のある場所をつくるのを見つめ、目をあけて≠ヘその径を通って、ぼくが径をつくった場所を通り抜けた。それは、いくつもの球のような場所だった。パンの木のような場所だが、しかしそこではすべての球がたがいに重なり合い、つくることだけからつくられたまばゆい球の集合体となって、球のそれぞれがもうひとまわり大きな球の中にすっぽりおさまり、ぴったりのタイミングで目をあけて≠もっと小さな球の中へと次々に逃がしてゆき、とうとうその言葉とぼくとで、両者を支える〈灯心草〉をかたちづくった。そしてぼくたちは――ぼくと目をあけて≠ニ〈灯心草〉の三者は――静かで迅速な結合を遂げ、いっしょに進んでいった。それから、ぼくは目をあけた。
黒い球体が顔の前から遠ざかり、台座の上にもどってそこでとまった。ジンシヌラはまた、銀色の手袋をはめた手で、ノブをまわすしぐさをした。球はまた透明になった。ブーツは眠りについた。
ジンシヌラが口を開いた。「歩けるかな? もう行くよ」
目をあけて≠支えるためにぼくがつくった巨大な場所が、つくられたときよりちょっとだけ速いスピードで、雲のようにそっくり消え去ってしまい、ぼくはジンシヌラの新しい言葉を受けとめる新しい径のついた新しい〈灯心草〉をつくった。そしてそのとき、ぼくは(動くことができず、上げたひざのあたりで両手のこぶしを握りしめ、口も目も大きく開いていた)、これまでに数百万のぼくをつくり、そのひとつひとつを失い、ひとつひとつを変えてきたこと、それらのぼくは雲よりも実体がなく、風に揺れる旗よりも変わりやすいことを知り、そしてこれから、さらに百万のぼくをつくることになるのを知った。そのひとつひとつが、いまのこのひとつとおなじようにちがっていて、そしてこのぼくといえば……どこから来たんだろう? 一瞬前のぼくは、いったいどんなふうだった? いま学んだばかりのあの巨大なものはなんだったのだろう? 消えてしまった……ぼくはなにかである≠ニいうこと、その中にいる♂ニを把握しようとしたけれど、できなかった。そして恐怖≠ェ〈灯心草〉のまばゆい全球体を通って追いかけてきた。ぼくは自分が、恐怖≠フ住むための家をつくっているのを感じ、そのとたん、恐怖∴ネ外のものに住んだことがあるのを忘れ去った。ぼくは必死にほかの家を再建しようと、ほかのことを思い出そうと苦闘したけれど、その苦闘はただ恐怖≠フ家を豊かにするばかりで、いまここにいるぼくはおびえている〈灯心草〉でしかないのだった。
けれどそのとき、陽光が生じた。ジンシヌラがぼくを外に連れ出したのだ。
そして、太陽がぼくの部屋全体を占領したおかげで、恐怖≠フ家は記憶以下の存在でしかなくなった。
言葉のひとつひとつに対してばかりか、この世の名前を持つすべてのものひとつひとつに対して、それぞれの家を建てなければならないのだと考えて、ぼくはもうちょっとで泣き出しそうになり、もうちょっとで笑い出しそうになった。柳≠ェ生じ、芝生を歩く≠ェ生じた。ぼくの知っていた人≠ェ生じた。ぼくが首をまわすたびに一千のものごとが径を要求し、次はだれの番かでてんでにしゃべりあい、そしてぼくが番をまわすたびに一千の〈灯心草〉がつくられ、さざめきため息をつきささやきぶつかりながら消えていった。
ぼくは立ち止まり、ぴくりとも動かなかった。ジンシヌラに手をひっぱられて、われに返った。この奔流の中では、まちがいなくなにかが道に迷うはずだ。どんな名前に対しても、迷わせてしまうようなまちがった〈径〉をつくらないように注意しなければならない。待って、待ってくれ、とぼくは懇願したけれど、彼らは待ってくれなかった。すべて≠ノ対して間に合う速さでつくるなんて、いったいどうしてできたんだろう? ぼくはその努力で石のようにかたく緊張した。ぼくが収容するすべを知っているのは恐怖≠セけだ。けれど恐怖≠フ戸口でぼくは止まった。なにかがぼくの中で起き上がろうとしている。ぼくが対面できないすべてに対面しようと、なにかが起き上がりかけている。
起き上がったのはブーツだった、というふうにいってもいい。ブーツは出ていってしまったけれど、それでもやはり彼女は残っていたのだ、といってもいい。ブーツは起き上がり、ぼくの奥底にある彼女の家から、忘れなさい[#「忘れなさい」は太字]といった、といってもいい。忘れなさい。あなたが、いつまでも建てつづけているその完璧な家以外のものだったことがあることを忘れなさい。暗い家だろうと明るい家だろうと、その家はひとりでに建つのです。そこに入ってくる名前たちについていえば、どれひとつとして迷子になることはありません。もし家が完全なものであるなら、その足もとにかならず〈径〉ができるのですから。
というようなことをブーツがいった、といってもいい。それが彼女からの手紙に書いてあったことだ、といってもいい。彼女の言葉によって石のような緊張は消え、ぼくは風の中の旗のようにはためき、泣くと同時にほほえんだ、といってもいい。そんなふうにいってもいいんだけど、でも秘密は、ああ、秘密は、ブーツにはなにひとつ、まったくなにひとつ、いうことがないっていうことなんだ。
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第六の切子面
時間というのは、うしろ向きになにかから歩き去っていくようなものだと思う。たとえば、キスから。まず最初に、キスがある。そこから一歩下がると、視界にふたつの瞳が映り、もっと下がると、その瞳を含む顔が見えてくる。顔はやがて体の一部になり、体はそれを囲む戸口におさまり、戸口はそのわきの木立のあいだにおさまる。戸口へとつづく径が長くなり、戸口は小さくなり、やがて木々が視界いっぱいに広がって、もう戸口は見えなくなり、それから径は森の中に消え、そして森は山々の中に消える。それでも、中央あたりのどこかにキスはまだある。時間というのはそんなものだ。
いま、ぼくの中心には、ぼくじゃなくてドクター・ブーツがそこにいた時間がある。それがキスだ。手紙が来たのはそのときではなく、ぼくが最初の一歩を踏み出したとき、生まれ変わったようなぼくが、ずっと住んでいた場所に――〈灯心草〉とこの世界とに――帰ってきたそのときだった。それでもブーツは、いまもそこに、ぼくの中心にいる。ときおり、心臓の鼓動が強くゆるやかになる瞬間、それとも夢が砕ける瞬間、それともいまの一瞬がばらばらになる瞬間に、ブーツであるというのがどういうことだったかを思い出すことがある――いや、味わうことができるといったほうが近いな。もしあのままサービス・シティで暮らしていたら、毎年毎年あのキスをくりかえしてたら、ぼくは自分自身であるのとおなじくらいブーツになり、〈灯心草〉をブーツと共有することになっていたと思う――〈リスト〉の全員が、自分たち自身を彼女と共有しているように。それでも、筏がもどってくるのを桟橋にすわって待っているあいだ、ぼくは自分が永遠にブーツとともに生きることになるとわかっていた。
いま、待っていたといったよね。そう、ぼくはしばらくのあいだ待とうとした。でも、長くは待てなかった。そのかわりぼくは桟橋男になって、なにも待たなかった。ぼくにはもうそのあいだ≠ェなかったんだ。
「だれか、棹を操ってくれるかね」ジンシヌラは、ぼくといっしょにすわっていた何人かにそう声をかけた。「この子には無理だ」
茶色い流れの上をすべるようにして筏が桟橋にやってきた。濡れた木が石にぶつかり、筏はぐるりと回転した。乗っていたふたりが筏の動きにあわせて立ち上がり、つばの広い帽子の下からぼくを見た。ひとりが白い綱をぼくに向かって投げた。ぼくは、桟橋に落ちた綱をただじっと見つめていた。彼らの笑い声を聞いてぼくも笑ったけれど、長い棹が大きな音をたてて筏にぶつかるのを見物する仕事に夢中になって、なぜ笑ったのかを忘れてしまった。ぼくは、すすり泣きのあとに肩をふるわせて息を吐き出すような、大きなため息をついた。目の前のものすべての途方もない豊饒さに対するため息だった。
男たちがぼくを筏に乗せ、ジンシヌラがあとから乗りこんだ。川上へと船首を向けるその動きで目の前の世界が回転し、眩暈《めまい》が襲ってきた。
ワンス・ア・デイのことをジンシヌラに伝えたのは、筏に乗っていたそのふたりだったと思う。ふたりがジンシヌラと話し合い、三人がそろってぼくのほうを見たような気がする。そのときワンス・ア・デイの名が口にされるのを聞いたとしても、そのときのぼくには、それを支える大きさの家を建てることができなかった。だからぼくは、そのかわり、筏の横のさざ波を見つめ、頭上の葉むらにそそぐ太陽の数え切れないまばゆい視線を見つめていた。それ以前のぼくには知る由もなかったし、予想もしなかったことだけれど、しばらく肉体を留守にして、そのあいだ、ぼくよりも単純で迷いがない、無邪気な知恵を持つ生きものをそこに住まわせることで、ぼくは大きく変わった。ぼくをかたちづくる世界も大きく変わった。つのる喜びとともにぼくはそのことを学んだ。筏が進み、ぼくが一日の中をすべり、一日がぼくの中をすべるあいだ、ぼくは仕事を主人とすることを学んだ。それはただ、自分ではなにをすることも選ばず、仕事がぼくを選び、その仕事がなされるというだけのことだった。どんな猫もなんの造作もなくそれをやってのけるし、生きとし生けるものすべてがその方法を知っている。唯一人間だけが、その方法を学びとらなければならないのだ。仕事を主人とすることは、人間にとってつらい仕事だった。いかに遠いとはいえ天使たちの子孫である人間にとっては、いちばん困難な仕事だった。しかし、学ぶことは可能だ。学びとることが、それを習得する唯一の道だった。なぜなら、ぼくが人間だからだ。はるか遠く、はるかむかしに、天使たちはすさまじい苦しみの中で世界と戦い、たえず戦いつづけた。けれど、ぼくはこれから、世界の長い小春日和《エンジン・サマー》の中で学んでいく。そう、世界とともに生きるすべを学ぶことになる。結局それは、こんなにも単純な、いたましいほど単純なことだった。ぼくは、ぼくのやさしい仕事主が増殖してゆくのを感じ、両の目からは塩からい涙が落ちた――ちょうどいま、天使、きみの目からも涙が落ちているみたいにね。
ジンシヌラは筏の上を歩いてきて、ぼくのとなりにすわった。感謝の気持ちを言葉であらわすことができず、ぼくはただ、彼女のひざに頭をのせた。ジンシヌラはぼくの髪をなでながらいった。
「ワンス・ア・デイがけさ、交易に行く者たちといっしょに、西に行ってしまったよ。行くように選ばれたのではない。行くことを自分で選んだんだ。あの子はハウドにこういい残した。〈灯心草〉がいなくなるまで――永遠にいなくなってしまうまでもどらない、と」
二重に、そして永遠に。時を超えて、家の外側に家がある。そこに住むことは、その中にある百万の小さな家に住むことよりはるかにむずかしい。ちょうどそのとき、ぼくは川の浅瀬のアメンボたちがつくりだすさざ波についての家を楽しんでいるところだった。
「もしこうなると知っていたら」とジンシヌラはいい、そこで口をつぐんだ。それ以上、いったいなにがいえただろう。やがてまた口を開き、「〈灯心草〉、おまえは必要なだけ長くここにとどまらなくてはならない。けれどわたしたちは、いつかあの子にもどってきてほしい」
このときの〈灯心草〉にそういうとは、ジンシヌラはなんと賢明だったことか! なぜなら、そのときのぼくは明るく、彼女はそれを知っていた。遠くのほうで暗い家が建ちはじめるのをたしかに感じてはいたけれど、そのときのぼくは明るく、そしてアメンボをながめていた。ぼくはため息をついた。たぶんそれは、こんなふうにして、〈灯心草〉の背中から、巨大で絶望的な重荷がとりのぞかれたことに対するため息だったのだろう。同時にワンス・ア・デイの背中からも、その重荷はのぞかれた。二度と故郷に帰れないとしたらどんなにさびしいことだろうと、ぼくは満足して考えていた。ぼくは眠ったと思う。
ああ、もうへとへとだよ、天使。休まなきゃ。
[#ここから太字]
休んで。
[#ここで太字終わり]
きみのクリスタルをとりだしてよ。もうなにも……ほんとになんにも、話すことはないんだ。
[#ここから太字]
結末だけ。そう長くはかからないわ。
[#ここで太字終わり]
月が昇ってる。もう三日月だ。ぼくがここに来ることを選んだときは満月だった。そんなに長くここにいたってこと?
[#ここから太字]
いいえ。もっと長いわ。
[#ここで太字終わり]
雲が厚いな。たぶん下じゃ、月は見えないね……ああ、天使、それをとりだしてよ。やめて。もう話せない。
[#改丁]
第四のクリスタル 空は芝生
[#改丁]
第一の切子面
[#ここから太字]
……そしてこの新しい、四つめのクリスタルではじめて。
[#ここで太字終わり]
無駄にしないほうがいいよ。まださっきのが終わってない。
[#ここから太字]
いいの。もうつづけられる?
[#ここで太字終わり]
そういうの、つまりそのクリスタルのことだけど、どうして必要なのか話してくれたっけ? 話してもらったかもしれないけど、忘れちゃったんだ。
[#ここから太字]
ただ……あなたの強さをたしかめるためだけ。つまり、物語が人によって変化するかどうかをたしかめるのよ。だれが……。
[#ここで太字終わり]
ぼくがだれかによって。
[#ここから太字]
語り手がだれかによって、よ。
[#ここで太字終わり]
変化した?
[#ここから太字]
ええ。ちょっとしたことだけど。ワンス・ア・デイのことをあなたほど愛していた人はほかにいないと思う。いえ、つまり、この物語の中では。
[#ここで太字終わり]
彼のことを話してくれないかな、いまのぼくがなっている人のことを? それ、男の人?
[#ここから太字]
そうよ。
[#ここで太字終わり]
愛してるの?
[#ここから太字]
そうよ。
[#ここで太字終わり]
ぼく、どうしてそう思ったのかな? きみが彼女に似てるせいかな?……いや、そう、ぼくはそんなこと知るべきじゃないんだ、そうでしょ? うん。つづけるよ。
ワンス・ア・デイが行ってしまったあと、ぼくがサービス・シティでどんなふうに過ごしたかを話してあげたいけど、そのころのことはほとんどなにも覚えてない。べつに驚くようなことじゃないけどね。ぼくが覚えてるのは、からっぽであると同時にいっぱいであるような感じがしたことだけ。それに猫のことも覚えてる。床の上で場所を変え、けんかをしてはけんかのことを忘れ、階段を降りていって(ぼくにとって、階段は言葉よりはっきりしていた)休み、休んでいるうちに眠って、眠っているうちにもっと深い眠りに入っていく。猫を見ていると、ぼくも眠ってしまう。
それから、ぼくは出発した。どうやってその日を決めたのかも、その日のぼくが暗かったのか明るかったのかも覚えていない。どちらの方角に向かったかも、西じゃなかったということしか覚えていない。覚えているのは、七月、サービス・シティから遠く離れた岩の上にすわって、雌牛と友だちになったことだ。
ぼくのひげは長く伸びていた。迷路街の人たちみたいに短く切りそろえてはいなかった。そばにはテントがあった。大きくて四角い、布じゃないけど布みたいなもので、ジンシヌラが〈リスト〉の宝物の中からさがしだしてきて、ぼくにくれたんだ。片面が銀色、もう片面が黒で、〈リスト〉のいちばん薄いマントより薄いのに、それにくるまるとあたたかくて、濡れた地面に敷いても水がしみなかった。ぼくの背負い袋には、無駄使いしなければ一年近くもつだけのパンが、〈リスト〉のつくる乾いた小袋につめて入っていた。そして、〈四つ壺〉やその他の薬。それから、むかし、知り合いのしめがね系がつくってくれた薄くて青い紙がひと束。それにマッチ。これは、二度に一度は火がつかずに消えてしまう代物で、ベレアの人たちがつくるのほど上質じゃなかった。そして、ぼくの銀色のテントの上、背負い袋の横には、ブロムがすわって、いつでも逃げ出せる体勢で油断なく雌牛を見張っていた。
ブロムはワンス・ア・デイについていったと思うよね。ぼくもそう思うところだけど、でも彼はぼくについてきた。いやそれとも、ぼくが彼についていったというべきかな。ぼくには行くあてなんかなかったし、ブロムのほうは根っからの冒険者だった。そして七月のある日、ぼくたちは草原にたどりついた。歩くにはうってつけで、ブロムには追いかけるネズミやウサギがたくさんいたし、遠くには牛たちの姿も見えた。ぼくはつばの広い黒い帽子をかぶっていた。サービス・シティで暮らしていたあいだ、ぼくは一度も男物の帽子をかぶらなかった。でも、出発の日に、ハウドが自分の頭から帽子をとって、ぼくの頭にかぶせてくれた。大きさはぴったりだった。ぼくがそれにふさわしいというわけじゃなかった。ぼくが帽子をかぶらなかったのは、自分がそれにふさわしくないと思っていたから。でもハウドのくれた帽子は大きさがぴったりだった、それだけのことだ。
その雌牛は、どうやら子どもをなくしたらしく、大きな乳房はぱんぱんにふくらんで、そのせいか、哀しげな鳴き声をあげていた。ぼくがその草原で二、三日、静かにキャンプしていたからか、それともドクター・ブーツのせいなのか、雌牛はぼくに近づいてきた。ぼくはじっと動かず、すわったまま煙をふかしていた。ブロムがフーッとうなり、雌牛はあとずさった。雌牛はダンスでも踊ってるみたいに、こちらに近づいたり離れたりをくりかえしていた。悪いね、きみのそのお乳を飲んであげることはできないんだよ、とぼくは心の中でいった。とうとう雌牛は、さわれる距離まで近づいてきたけど、ぼくがためしに片手をのばすと、またあとずさりした。彼女はすごくきれいな目をしていた。大きくて潤んだ茶色の瞳。美女の瞳そっくりで、それがなんともおかしかった。まつげは長く、絹のようだった。
まる一日、試行錯誤をくりかえしたあげく(ドクター・ブーツの忍耐心のはてしないことといったら!)、ぼくは雌牛の乳房をしぼって乳を出すコツを学び、雌牛はそれを許してくれた。いったん乳が出はじめると、雌牛は石みたいに動かず、ぼくのなすがままになって、ほっと安堵のため息を(牛にため息がつけるとしたら)つきさえした。ミルクは細い奔流となってほとばしった。乳房にたまっていたミルクがなくなりかけるころ、ぼくはふと思いついて永久耐用型の帽子を脱ぎ、乳房の真下の地面に置いた。最後に残ったミルクが、帽子の底にわずかにたまり、ぼくは多少の不安を感じながらも、思い切ってそれを飲んでみた。あたたかく、濃く、白い味がした。赤ん坊だったころ味わった味を思い出すかと思ったけれど、だめだった。いや、思い出したのかもしれないね、その味が気に入ったから。小川に帽子を洗いにいく途中、もし雌牛がずっとそばにいてくれたら、パンと水だけの食生活へのいい味つけになるなと考えた。ミルクに害はないはずだ。おいしいというのは、いちばんの証拠だから。
雌牛はほんとうにそばにいてくれて、ブロムは彼女が寄ってきてもフーッとうならなくなった(友だち同士になったとまではいえないけれど)。ぼくが移動するとき(つまり、ブロムが移動して、ぼくがついていくとき)、彼女はあとについてきた。古えの時代、天使たちは飼っている動物にこの名をつけたと〈まばたき〉から聞いたことがあったので、ぼくは彼女を|ポチ《ファイドー》と名づけた。彼らといっしょの旅は、多少退屈ではあったけれど、ぼくは忍耐強いっていったよね? はぐれたときは、歩くのをやめて腰をすえる。そうやって半日か一日待っていると、二匹ともぼくのところにもどってくる。
このときのぼくはいままででいちばん暗かったはずだと思うかもしれないけど、そうじゃなかった。ぼくはしあわせだった。季節は夏、それも天気がよくて暑くて乾いた夏だった。草の海ははてしなく広がり、ちょっと風が吹くとそこに銀色のすじが走って、まるで魚が池の上にとびはねてるみたいに見えた。仲間がほしければ猫のブロムがいるし、ミルクがほしければ雌牛のポチがいる。楽しみがほしければ、〈灯心草〉がいた。ポチが草を食《は》み、ブロムが狩りか昼寝をしているあいだ、ぼくは、あのときブーツが教えてくれた〈灯心草〉の径を歩いて過ごした。ぼくは彼のことが好きだった。彼にははてしない数の内部があるみたいだった。そうした暗い隅や奇妙な場所で、〈灯心草〉は世界と、言葉と、ほかの人々と、知っているもの好きなもの嫌いなものと結びついていた。
それからもっと時間がたち、冬になってからはじめて、ぼくは〈灯心草〉のことが怖くなってきた。
十月ごろ(〈リスト〉のカレンダーがないこのときは、むかしながらの当て推量にもどっていた)、草の海が茶色に変わり、雨がそれを濡らすようになると、ぼくは冬を過ごす場所をさがしはじめた。これはサービス・シティを出たあと、はじめて自分から選んでやろうとしたことだった。もう、見つけ方を忘れてしまっているんじゃないかと思ったけれど、心配するまでもなく、場所のほうがぼくを見つけてくれた。ぼくのやったことといえば、〈道路〉をさがしあてて、何日か〈道路〉沿いに歩き、それからまた〈道路〉と合流する(とわかっている)小さな枝道にそれた――それだけだった。そして気がつくと、ぼくは彼の顔をまっすぐのぞきこんでいた。
彼といっても、頭だけだった。全長は、ぼくの身長の約三倍。太い首は、ひび割れから雑草の生えた小さな四角い石の台座に載っていた。周囲一面に木が生い茂り、枯葉が山をなしていた。たぶん、かつては色を塗られていたんだろうけど、いまの彼は薄汚れた白っぽい色で、黒い錆が目のあるあたりの場所に筋をつけて、すすに汚れた涙のようだった。巨大な右耳から左耳まで、顔いっぱいに笑みを浮かべていたから、とてつもない喜びに涙を流しているみたいに見えた。
それは、まちがいなく頭だった。ふたつのふくれた目、玉のような鼻、笑う口はぱっくり開き、下唇はカウンターみたいに広く平たくつきだしている。口の中に並ぶ金属の板は、歯並びの悪い歯のようだ。ただ、頭にしては、冗談みたいにまんまるな球体だった。前に立つと、むかしどこかで見たことがあるような気がしたけれど、いまだにどこで見たのか思い出せない。
首のうしろに金属の扉がついていた。紙みたいに薄くて錆びていたから、それを蹴破って中に入った。内部は密閉されていて暗く、長いあいだずっと閉めきっていた場所特有のにおいと、首尾よく中に入りこんだ動物たちのにおいがした。ブロムとぼくがそこを占領すると、動物たちは蜘蛛の子を散らすように逃げだした。開いた戸口から射し込む光で、どんな場所を手に入れたのかがわかった。そこは、こともあろうにキッチンだった。28[#「28」は縦中横]フレーバーのキッチンのミニチュア版みたいに見えた。それにしても、〈道路〉が走っているだけのなにもない場所のどまんなかで、こんなものがいったいなんの役に立つんだろう? 天使たちは、どんな場所にでもキッチンをつくれることを自慢したかったのかもしれない……。
巨大な頭の鼻の高さに天井があり、内部の空間を半分に仕切っていた。天井にははねあげ戸がついていたので、ぼくはそのへんのものを積み上げてよじのぼり、二階に上がってみた。ずいぶん暗かったけれど、頭蓋のカーブと眼窩《がんか》のくぼみはどうにか見てとることができた。散乱する古えの時代の品々と新しい蜘蛛の巣のあいだをさんざん歩きまわったあげく、金属製のパイプらしき棒状のものを見つけて、ぼくは巨大なまるい瞳孔をふたつともそれでぶち破り、光を入れた。
まるまる一日か二日がかりで、古えの時代の廃物をぜんぶ放り出し、床がしっかりしていることと、頭蓋が雨漏りしないことをたしかめた。ブロムとぼくが頭蓋に登っていけるように階段をつくり、首のうしろの扉を修理し、夜になれば閉められる雨戸を両目にとりつけた。古えの時代の技術には多少通じていたし、冬が来たときポチに食べさせるための乾し草やなにかを数日がかりで集めて運びこんでおく分別もあった(もちろん、ぼくが集めた分だけではとても足りなかったけど)。驚いたことに、産んだ子どもはもういいかげん大きくなっているはずなのに、ポチの乳房は搾ってやるとまだミルクが出た。
一階にある天使銀製の桶で火を熾すこともできた。桶の上には天使銀製のおおいまでついていて、外に通じる穴があいていたから、煙が充満して困ることもなかった。熱は高いところに上がってゆく。そこでぼくは、木の枝と葉っぱと松葉で二階にベッドをつくり、黒と銀の布ならぬ布をその上にかけた。こうして、頭の中の暮らしがすっかりおちついたころ、冬がはじまった。
もしきみがそこにいて、木立の根元に立ち、すっかり葉が落ちて雨に光る(いまでは毎日雨が降るような感じだった)木々のあいだから上を見上げたら、ぼくたちの住んでいる頭が霧雨の中に灰色に浮かび上がり、錆びた歯で白痴的な笑みを浮かべているのが見えたはずだ。そして、その左目から顔を出し、きみを見下ろしているのは(でもきみを見てるわけじゃない。なにも、だれも見てはいない)ブロムで、右目から外をのぞいているのはぼくだっただろう。この頭がいったいなんのためのものなのか、いろんな可能性を考える時間はたっぷりあった。ぼくはその冬のあいだじゅうひとりぼっちで、無数の説明が頭に浮かんだ。あるとき、ぼくはふと、ひとつの仮説を思いついてすくみあがり、暗くなった。ぼくが住んでいるこれは、天使がつくりだしたものなんかじゃなくて、天使自身のひとりが、この荒廃した場所に首まで埋もれて、死に顔に笑顔をはりつけたまま、口の中にキッチンがあり脳の中にぼくがいる我が身の末路に涙しているんじゃないか――そう考えると、恐怖のあまり逃げ出したくなった。
まあでも、なんとか乗り切った。そうするしかなかった。ほかには行く場所なんてどこにもなかったから。
生活のために復収《アッヴェンジ》(avvenging)をはじめたのは、この冬のことだった。ある意味で、いま生きている者はみんな復収者《アッヴェンジャー》(avvenger)だ。天使の品々を収めた宝物蔵を持つ〈リスト〉はもちろんだし、迷路街にも彫り箪笥がある。知識を計算に入れるなら、〈まばたき〉だって復収者だ。しかし、中には、唯一絶対の職業が復収者であるような人間もいる。たとえば、ティープリーみたいに。
ある日のこと、ぼくはガラスをさがしにいこうと思い立った。目のところには、雨戸がわりに木の板をとりつけてあるのだけれど、そのかわりになるガラスがほしかった。ひょっとしたら、状態のいい透明のプラスチックだって見つかるかもしれない。頭のところに来る途中に、広大な廃墟があったのを思い出した。そこでぼくは、その日一日かけて廃墟を探険し、使えそうなものをさがすことにした。十二月っぽいあたたかな一日で、晴れた、茶色の、元気が出る日だった。ぼくは、ちょうど誕生期を過ぎたばかり。十七になっていた。
その廃墟は、天使が無数のなにかをつくっていた場所のひとつで、建物はおそろしく大きく、そのてっぺんは周囲の森を見下ろすほど。高い壁が一面だけ、まるで切り抜き細工みたいにぽつんと立っていた。どの窓にもいまはもうガラス一枚はまっていなくて、陽光が素通しになっている。なのになぜか、壁はガラスがはまっていたときよりもっと見えにくくなったように見えた。大きな木々が他の倒壊した建物の壁の内側まで手足の先をのばしていたが、大きな石の広場(どの廃墟にもかならずこれがある)の中はがらんとしていて、崩落した壁の破片がところどころにいびつな山をなし、いばらのある茶色の草がその間から生えているくらいだった。よその場所とくらべて、べつに静かというわけでもない。カケスがぼくを見て金切り声をあげ、シマリスがキイキイ鳴く。それでも、なぜかしんとしているように思えた。建物のあいだの径が直角に交差しているのが見えた。いちばん幅の広い径は、いちばん大きくていちばん荒廃の度合いの低い建物に通じていた。ぼくはその建物の広くて暗い口をめざして歩いていった。もうちょっとでそのまま中に入るところだったけれど、暗闇に目を慣らそうと足を止めて目をしばたたいたとき――そこに床がないのに気づいた。ぼくの身長の五、六倍はありそうな垂直の崖の縁に、ぼくは立っていた。ずっと下のほうで、なにかがちょこまかと動いた。この場所をすみかと定めた動物だ。小さな音が、途方もなく大きく響いた。
ガラスのない窓から射し込む光の柱が空中のほこりを照らしていたが、眼下の暗い混沌はその光の柱からはずれている。それでも、降りていける経路があるのはどうにか見分けられた。途中まで降りたところで、もどれるかどうか不安になって足を止めた。足もとの張り出しに転がっていた小石を蹴り落とし、底にぶつかる音に耳を澄ました。その場に腰を下ろし、肩に落ちてきたものを手で払いのけようとした。
ふりむくと、肩に落ちてきたのは手袋で、手袋の中には手が入っていた。思わず叫び声をあげたが、張り出しの幅がせますぎて立てなかった。肩に置かれた手の先には、背の高い体があり、そのてっぺんには白い顔がついていて、縮れた眉毛の下の目がうさんくさげにぼくの目を見すえていた。
「さあ」と男がいい、肩をつかむ手に力をこめた。手袋はつやつや光る黒のプラスチック製で、大きくてかたいカフからプラスチックの房飾りが下がっていた。カフには、印刷するかペンキで描くかしたらしい、白い星の絵が薄く残っていた。こわがるべきなのか驚くべきなのかわからなかった。男は、フードつきのきらきら光る厚手の服で、頭から足の先まで全身を包んでいた。その衣服には、赤と白の太い縞が何本も走り、肩のところには鮮やかな青の四角があって、きれいなかたちをした白い星が何列もまっすぐに並んでいた。赤と白のフードの下からは、男の長い首が蛇の鎌首さながらにのびていた。あんまり長いので、首の骨が折れたみたいにまんなかあたりで曲がっている。鉄の色をした髪の毛は短く切ってあり、きれいに刈りとった切り株のように見えた。ぼくは思わずにっこりしてしまった。肩をつかむ力が弱くなることはなかったけれど、男のほうも笑みを浮かべた。歯並びはきれいで、欠けた歯は一本もなく、完全にそろっていた。そして、草とおなじ緑色をしていた。
「復収者か?」と男はたずねた。
「わからない」と答えたものの、その言葉には聞き覚えがあるような気がした。「ガラスをさがしてたんだ。使えそうなものがここで見つかるかと思って。ガラスか、透明のプラスチックか……」
「復収者だな」と男はいい、ひとつうなずくと、緑の歯をむきだして笑った。ぼくの肩から手を放し、手袋をはずした。その手は白く、いくつも指輪が光っていた。その手をこちらにさしだし、「握れ」といった。手を貸して立たせてくれるんだと思ったが、ぼくがその手をとると、男はただ――ぼくの手を握り、上下に振っただけで、また手を放した。警告なのかあいさつなのか、しぐさの意味がわからない。男はまだ笑みを浮かべていたけれど、なぜだかその緑色の歯のおかげで、どうしてそんなことをしたのか見当がつかなかった。縞模様のスカートをたくしあげてぼくのわきをすりぬけると、男はぼくが気づいていなかった手がかりを使ってどんどん降りはじめた。それからこちらをふりかえって手を振り、ついてこいと合図した。
男についていくのはほねだった。蜘蛛かリスみたいに、崩れた壁や錆びついた残骸をつたって降りていく。ときおり、はるか頭上の大きな窓から降りそそぐ十二月の光の柱を男が横切ると、派手な外衣が一瞬輝いて、縞模様つきのランプみたいに見えた。そのとき、ふと思い出して、「ぼくは復収者じゃないよ」といった。降りていくぼくたちのたてる物音の幾重にもかさなるこだまに負けないよう、声を張り上げて、「復収者はみんな死んだと思ってた」
その声に男は足を止め、こちらをふりかえった。彼の体の半分は窓の光を浴び、半分は闇の中だった。
「死んだ?」と男はいった。「死んだといったのか? 本気か? この|国家の《ナショナル》服が見えないのか?」男は着ているローブを光の中で大きくはためかせた。「この国家の服は、つくられたそのときからずっと死んでいる。だが、いまでも新品同様に役に立つ。おれがこれとおなじように死んだずっとあとになっても、だれかの体がこの古い栄光に包まれることだろうよ。だから、死んだなんていうな。黙ってついてこい」
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第二の切子面
「復収者《アッヴェンジャー》ってのはよ」とティープリーがいった。「コンドリみたいなもんだ」
ようやくたどりついた彼の部屋は、廃墟のはらわたの奥にある小さな部屋で、粗末なランプに照らされていた。ここまで来る途中、暗い戸口にいる人間の顔や、べつの戸口にひっこむ瞬間の背中をちらっと目にしていた。ぼくたちがすわっているテーブルの下には子どもがひとりいて、いろんなものを静かにとっかえひっかえしている。たぶん、取引を勉強してるんだろう。というのも、この部屋には古い品物がごろごろしていて、まるで彫り箪笥の中にすわってるみたいな感じだったから。もっとも、ここにある品物にはまったくなんの秩序もないように見える。
ティープリーが――自分の名前に加えて――教えてくれたところでは、ほかの人間たちはみんな彼の家族で、ここにいる子どもはみんな、彼の子どもなのだそうだ。みんな!
「おれの仲間《ギャング》」彼は子どもたちのことをそう呼んだ。前にいったとおり、ぼくは思い出した。復収者というのは、〈連盟〉が力を持っていた時代、〈連盟〉に屈することをいさぎよしとせず、天使の廃墟から回収できるものを回収し、それを利用し、おたがいに交換して、できるかぎり天使に近い生き方で暮らしていた人々だ。そして、彼らの最大の宝物は、むかしながらのやりかたで、代理なしに、猫みたいに何度も何度も子どもが産める女だった。当然のことながら、女を宝物と見なすような男たちは〈連盟〉の敵だったから、復収者のほとんどが狩りたてられ、殺された。だから、天使の品々でいっぱいの隠れ家に、ティープリーとすわっていると、何百年もむかしの時代に迷いこんだような気がした。
「コンドリ?」とぼくはたずねた。
「ほら、コンドリだよ。でかくて、翼が広くて、頭の禿げた鳥で、死んだものを食べて生きてる。コンドリは|国家の鳥《ナショナル・バード》だ」
「ナショナルっていうのがなんなのか知らないんだ。たしか天使に関係のある言葉だったけど……」
「そうそう、それだよ」とティープリーがいって、長い指をぼくにつきつけた。「おまえ、天使を見たことないのか? みんな禿げ頭か、ほとんど禿げ頭だろうが。コンドリとおんなじさ」
一瞬、彼は本物の天使を見たことがあるんだろうかと思ったけれど、もちろん彼がいっているのは天使の絵のことだった。ああ、それならぼくも見たことがある。プランケット伯父の灰色の天使画。たしかにコンドリみたいに禿げていた。
ティープリーはこの部屋ととなりの部屋のがらくたの山をひっかきまわして、ぼくがほしがっているガラスかプラスチックをさがしはじめた。
「復収者っていうのは」ティープリーは探索をつづけながら(ここにもリスの巣みたいな秩序があることがだんだんわかってきた)いった。「このおれみたいに、天使たちがつくった傷《いた》まないもので生活している人間のことだ。傷まない≠チていうのは、使い捨て≠カゃないってことだ。天使たちはむかし、一回使っただけで捨ててしまえるものがいいと考えていた。どうしてそんなことを考えたのか、理由は忘れた。だが、しばらくするうちに、このままそんなことをつづけていると、世界じゅうのものをひとつ残らず使い捨てちまうことになると気がついた。そこで彼らは考えを変えて、たったひとつ持っていれば永遠に使いつづけられるものをつくりはじめた。うまくつくれるようになったころにはすべてがおしまいになっちまったけど、天使たちがつくったものはいまも傷んでない……おい、こいつはどうだ?」
ティープリーは箱いっぱいのガラス瓶の底を見せた。緑色のや茶色いの。
「もっと大きいのがいいんだけど」とぼく。
ティープリーはがっかりしたそぶりもなく箱をしまった。
「いまさっき、『生活している』といっただろ。それはつまり、この国家のものみたいに着たり、食べるものと交換したり、女に贈ったり、いろんなやりかたで使うってことだ。それにひょっとしたら――」ティープリーはこちらに身を乗り出し、にやっと笑って、「ひょっとしたら、食べたりな。天使の食べものを見つけて、それを自分で食べるのさ」
あんまり勝ち誇ったような顔をするので、思わず吹き出した。「ちょっと古くなってるんじゃない?」
「いっただろ、『傷まない』って」ティープリーは真剣な口調でいった。「『復収者はコンドリみたいなもんだ』といったよな。『コンドリは死んだものを食べて生きる』って。なあ、少年――おっと待った、こいつを見てみろ」
ティープリーは凹面の黒いプラスチックをとりだした。曲がって、ひっかき傷がついている。
「もうちょっと透明なのをと思ってたんだけど」というと、ティープリーはそれをガチャンと投げ出し、探索を再開した。
「なあ、傷まないものをつくるっていうのは、そもそものはじめから死んでるものをつくるってことなんだ、そうすれば死ぬ心配もないからな。たとえば、死んだ金属、あの天使銀だ。錆びることも穴があくことも曇ることもない。それに死んだ木みたいなプラスチック。朽ちることも虫が食うことも割れることもない。それに、いちばん奇妙なものがもうひとつ。天使は死んだ食べものをつくることができた。ぜったい古くならない食べもの、ぜったい腐らず、ぜったい傷まない。おれはそういうものを食べてる」
「ぼくもそういう食べものを持ってるよ。煙をふかすんだ」
「ちがうちがう! あの邪悪なピンク色の代物じゃない! おれがいってるのは食べもののことだ、口に入れて食べるもののこと。ほら、これを見ろ」ティープリーは爪先立ちになって、上のほうの棚から、蓋をした金属の壺を下ろした。プラスチックの鈍い輝きに包まれている。錆びない金属の上に、プラスチックのおおいがついていた。「さあ、目と耳をようくあけてろよ」
壺のいちばん上には輪っかがついていて、ティープリーはその輪に指をさしこみ、ぐいとひっぱった。輪がはずれるだろうと思ったが、そうじゃなくて、息を吸いこむみたいなシューッという音とともに蓋全体が優雅な螺旋を描いてはずれた。
「ほら」といって、ティープリーが壺の中身を見せた。おがくずか、小さな木のかけらみたいに見えた。「ジャガイモだ。いや、いまはちがうぞ、まだそうじゃない。だが、こいつを水と混ぜると、おったまげるぜ。ゆでてつぶしたジャガイモのできあがりってわけさ。しかも、つくりたて同様にうまい」
「つくりたて同様にうまいって? どんな味がするの?」
「ふむ。死んだ味だな。しかし、食べものみたいだ。水に放りこむだけで、天使のつくった、つぶしたジャガイモみたいなものができる。それも、千年前のジャガイモだぜ」ティープリーは畏敬に満ちた目で壺を見つめ、中身を振ってみせた。砂を振るみたいな乾いた音がした。「千年たてば、岩だって、いや山だって変わっちまう。しかし、天使はこのジャガイモを最初から死んだものとしてつくったから、変わることなどありえない。つまり、不死のジャガイモをつくったのさ」
ティープリーはとつぜん、放心したように腰を下ろした。
「きょうはガラスはない。二、三日したら、またもどってきてくれ。見つかってるかもしれん」ティープリーは帰りの道案内にさっきの子どもを呼び、「だが、忘れるなよ」と、出ていくぼくの背中にいった。「お代はいただくからな」
ぼくはもどってきた。しょっちゅうもどってきた。長い冬だったし、ティープリーはいい話し相手だった。ぼくは暗い家のことを話した。時を経て忘れてしまうことについて話した。妙な話だけれど、あの頭の中にひとりでいると、ときどき自分を失いそうになる――でも、老ティープリーといっしょだと、居心地がいい――たぶんそれは、復収者というのが、いままで出会った人々の中で、ぼくが育った世界からいちばん遠い種類の人間だったせいだろう。
自分を失うというのは、こういうことだ。ひとりでいるのに、だれかそこに話しかける相手がいるような気がする。冷たい頭の中で(火はとうに消えている)目を覚まし、黒と銀にくるまって横たわって、ぼくはそのもうひとりと話しはじめる。そしてそいつは返事をし、ぼくたちは長々と寝そべって、ひとつの物語をふたつのちがう語り方で語ろうとしているふたりの金棒曳きみたいに口げんかする。
ぼくらの話題はブーツのことだった。その物語の中心に、彼女の手紙がある。でもぼくはその手紙を忘れ、その手紙が忘れなさい[#「忘れなさい」は太字]だったことを忘れていた。ぼくはとうとう起き出して、雌牛の乳をしぼり、腰を下ろして煙をくゆらし、それから冷たいベッドにまたよじのぼる。そしてそのあいだじゅう、そのもうひとりと、忘れようにも思い出せないことをめぐってはてしないおしゃべりをつづけているのだ。
ぼくは本気で彼女になりたかったんだとぼくは説明した。ほんとうにそのつもりだった。いまでもその気持ちは変わらない。ぼくのせいじゃない。だれのせいでもないんだとぼくはいった。ブーツのせいでも、彼女のせいでも、ぼくのせいでさえない。ぼくは選んだんだ、わからないのか? いうことなんかなにもないんだよ。でも、彼はこういう。じゃあどうしてここにいて、あそこにいない? 努力が足りなかったんだろ。おまえのいうことが正しくないのはわかってるさ、とぼくは答える。どうしてだか思い出せないけど、そういうことじゃない、その反対なんだ。とにかく、ぼくは努力した、努力したとも……。それでもまだ足りなかったんだ、と彼はいう。そしてぼくたちふたりは相手に背を向けようとする。でも、うまくいかない。
ぼくがおびえていたのは、彼女になろうとする試みに失敗し、その試みの過程でぼくがぼくでなくなってしまったことだった。ぼくのいちばん最初のころの自分が、眠りの直前の瞬間に、次から次へとやってきてはぼくを脅かし(むかしの自分が呼び出せるようになっていたことは話したっけ? そうなんだよ)、そしてぼくはなにか学ぶかわりに――いや、なにひとつ学ばずに――おぞましく、癒すことのできない傷を受けた。つまり、いくらやってみても、ぼくはもう、自分が口にしたことを心に思うことができず、心に思うことを口にすることができなかった。そして恐怖のうなりがぼくの体じゅうを吹き抜ける。ぼくはまっすぐ目の前を見つめて、このあたたかさなら、きょうはティープリーがどんなようすか見にいけるだろうかと考える。
そうしてぼくとティープリーは、その日一日をいっしょに過ごす。永久耐用型の天使製品――ティープリーは縞模様のローブ、ぼくは黒いマントと帽子――にあごまでくるまって、古えの時代の混沌のあいだを手と足が動かなくなるまで動きまわり、古えの時代の品物について話し合う。やがて、身を切るような寒気の中を、廃墟の奥のティープリーの穴蔵までもどり、回収してきた宝物をおろして、どっちがどれをとるかで議論する。ぼくが出かけていくのはもっぱら運動と話し相手のためだったから、いつもティープリーがいちばんいいものをとった。もっとも、彼が気を悪くするといけないから、ぼくのほうも真剣に取引しているふりをしたけどね。ティープリーは死んだものにかけてはとことんがめつい商売人で、どんなに役立たずの機械でも、長いこと思案して、なにかに使えるんじゃないかとしつこくひねくりまわしてからでないと、捨てることはなかった。
ときおり、ティープリーが〈住宅《ハウジング》〉(と彼は呼んでいた)の、大きくてよさそうな一画を見つけると、ぼくたちは二日か三日がかりの遠出をした。子どもたちのうちのだれかを連れていくこともあったけれど、妻はけっして連れていこうとしなかった(「こいつは男の仕事なんだ」とティープリーは毎度のように胸を張っていった)。
ティープリーは天使の知識をずいぶんたくわえていたけれど、ぼくにはそれがどの程度信頼できるものなのかさっぱりわからなかった。一度、いままで見た〈住宅〉がどれもまったくおなじなのはどうしてなのかとたずねたことがある。小さな荒れ果てた場所のそれぞれがおなじで、どのひとつにもキッチンのための部屋と、体を洗うための石の場所がついている。天使のうちだれかひとりくらい、家をつくるのにちがうやり方を思いついたのがいてもよさそうじゃないか? するとティープリーは、おまえが見た程度のもので驚いてるなら、おれが旅したところまで行ってみるがいい、といった。そこは見渡すかぎり一面に〈住宅〉が広がっていて、〈海岸〉から〈海岸〉まで何千マイルも旅しても、出発した場所にあったのとまったくおなじ箱の家が見つかる。〈住宅〉の中には、住んでいる人間がどこに行こうと、ごろごろ転がって、カタツムリの殻みたいにいっしょについてくるものまである、とティープリーはいった。万が一、たどりついた先にあったものが、自分たちに必要なものとちがっていたときのためにな。考えてもみろ、天使たちというのは、命がいくつあっても歩き通せないくらいのものすごい距離を踏破して、その途中のあらゆる場所にまったくおなじ〈住居〉があることを望み、それを実現したんだぜ。
でも、ティープリーはいったいどうやってこういうことすべてを知り得たんだろう? 彼の説明以外にも、まったくべつの説明があるのかもしれない。おなじ〈住居〉をつくることが〈法〉だったとか。
霧氷の降りしきるある日、崩れた大きな石材が巨大な山をなし、みずからの重みで大地に沈み込んでいる場所で――その光景はまるで、大地が大きな、口に入りきらないほど大きな天使の仕事を食べかけているみたいだった――ぼくはいいものを見つけた。新品同様のぴかぴかのネジがいっぱい入った大きな箱。
「新品同様じゃないか」
寒さと羨望に震える声でティープリーがいった。そして、帰り道のあいだじゅう、なくしてないだろうなとか、おれが持ってたほうが安全なんじゃないかとか言い通しだった。あたたかくてこぢんまりした彼の隠れ家にもどってくると、ぼくはその箱をふたりのあいだのテーブルに置いた。ティープリーは片手の手袋をはずし、その手をさらさら音のするネジの中につっこんだ。きれいに削った螺旋の先端に指先でふれ、ネジの頭の溝に親指の爪をさしこんだ。
「ネジだ。ネジってのは釘とはちがう、なにかを糸で縛ったりするのとはぜんぜんちがうんだぜ、少年。ネジってのは、ネジには――」ティープリーはこぶしをかためた。「ネジには権威[#「権威」に傍点]がある」それから、どんな答えが返ってこようがべつにどうでもいいんだよというような口調で、「これと引き替えになにがほしい?」
「そうだね」とぼくはいった。「手袋がひと組あると役に立つな」
ティープリーは、すばやくまた片手に手袋をはめた。
「そうとも。もちろん、あったかくていいやつがほしいだろうな、こんなのじゃなくて」といって、ティープリーは手袋をした手を上げ、黒いプラスチックの指先をうごめかした。どうして左右の袖口に一個ずつ星が描いてあるんだろう?
「いい手袋に見えるけどね」とぼくはいった。「永久耐用型だし」
「『手袋がひと組』といったじゃないか。こんな手袋、はめてないも同然に思えるようなすごいのを見たことがあるぜ」それから、横目でちらっとこちらを見て、「そろってるのはないんだよ」
ティープリーはぼくの文句を制するように片手を上げてから、となりの部屋にさがしにいった。汚いぼろ布に包んだものを持って、彼はもどってきた。
「手袋ならある。ほら、これが手袋だ」
ティープリーはぼろ布の包みを開いて、ぼくの前のテーブルに置いた。銀色の手袋が氷のように輝いていた。
信じてもらえないかもしれないけど、天使、ぼくはそれ――手袋っていうより手みたいなもの、手のまばゆい影みたいなものだった――を目にするまで、ジンシヌラがブーツを操作するとき使ったのがそういう手袋だったことを忘れていた。聖アンディが盗まれたという手袋にそっくりの手袋が、ぼくとブーツとを入れ替えたことを、すっかり忘れてしまっていた。信じられないだろ? でも、そうなんだ。ひび割れたテーブルの上のティープリーの手袋を目にしたそのとき、ぼくはそのもうひとつの手袋のことを思い出した――いや、それだけじゃない。それを見たとき、あの瞬間がふたたび、完全なかたちで、ぼくの中にどっと流れこんできた。あのとき感じた驚異も、あのとき感じた恐怖もすべていっしょに。ぼくはあの小さな部屋を見た。台座にのった透明の球を見た。ジンシヌラが手袋をはめるのを見、目を閉じて[#「目を閉じて」は太字]というのを聞いた。あまりにも多くの驚異が、ほとんど瞬時のうちにそのあとをひきついだ――それまで完全に忘れていたものが。
「むかし、そういう手袋を見たことがあるよ」その瞬間が薄れたあと――いやちがう、薄れたんじゃない――過ぎ去ったあと、ぼくはいった。
「見ると手に入れるとじゃ大ちがいだ」とティープリーがいった。
「それに、そういう手袋にまつわる物語も知っている。たぶん、その手袋の話じゃないかな」ある場所――たったひとつの小さな場所、点とさえいえそうな場所――があって、そこで、ぼくの人生にあるものすべてが交錯した。寄り目になるとき右眼の視線と左眼の視線が交わるみたいに、心が交わるのを感じた。
「そのネジだけど」とティープリーがいった。
「うんうん」とぼくはいった。「あげるよ」
ティープリーは、ぼくがあんまりあっさり譲ってくれたことにびっくりしたらしく、のろのろと箱を手にとった。まずい取引をしてしまったんじゃないかと考えていたんだろう。
「この手袋、どこで見つけたんだい?」
「そんなこと、もういいじゃないか。いまはそこにあるんだから」
「これといっしょに、どこかこれのあった場所のそばに、ボールが――銀色の、いや銀色じゃないかもしれないけど、これとおなじ色のボールがなかったかい?」
「なかったよ」
「たしかかい? まだそのへんにあるのかもしれない。またそこに行くことはない? いっしょに行きたいんだ」
ティープリーはうさんくさげに目を細くした。「そのボールの話はいったいなんだ?」
「どういうものなのか、ぼくにもわからない」ぼくはティープリーの混乱ぶりとぼく自身の混乱ぶりに、思わず笑い出した。「わからない。わかってればいいんだけどね。わかってるのは、それを手に入れるためだったら、ぼくの持ってるものぜんぶさしだしてもかまわないってことだけ。もっとも、たいしてあるわけじゃないけど」
ティープリーはコンドリの禿げ頭をぽりぽり掻き、浮かない顔で手袋を見つめた。「かたっぽだけなのに」
こうしてぼくには、考える対象ができた。長いあいだ、自分の手にはめてみようとはしなかった。手袋はしみひとつなく、ありえないほど完全なかたちで、ぼくの持ち物の真ん中に横たわっていた。どんなに折り畳んでも、手袋はつねに血の通った手のかたちにもどった――薄くて、手に持っても重さを感じないくらい軽いのに。とうとうそれを自分の手にはめてみたとき――それは吸いつくようにしてぼくの指をすべり、手首まですっぽり包み込んだ。まるで、長年のあいだ、人間の手に飢えていたみたいに――ぼくはほとんど瞬間的にまたそれをはずした。その手袋をはめた自分の手がなにをするか、それが怖かったんだと思う。そのとき以来、ぼくは手袋をながめ、それについて考えるだけにした――考えは堂々めぐりするばかりだった。
夜の時間を埋めてくれるのは、手袋だけではなかった。もうひとりのぼくは、手袋なんか彼女への想いをつのらせるだけだと主張し、ぼくはそれを認めた。それにどのみち、再現されたぼくたちの淡い黄昏の夢は弱く、ぼくと彼女の絆はあまりにも弱かった。ときおりぼくは、すそをひっぱりあげて横たわり、無益なものと必死に格闘し、それと同時に自分がやはり、無益な冷たい涙を流しているのに気づいた。
ほんとに、笑わないでよ。
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第三の切子面
やがてある日、ぼくは冬が永遠につづくことを知った。氷が張らない日や太陽が照る日もあるだろうけれど、いつもその翌日にはまた寒さと雨がもどってくる。
その日、朝は晴れていたのに、午後になるとまた雲が空をおおい、たえまない涙を降らせはじめた。夕方になるころには、霧雨は鼻風邪程度にまでおさまったけれど、雲は低く垂れこめたままで、もう仕事をつづける気にはなれなかった。ぼくは、くぼんだ眼窩の内側にパンの山を運び上げ、それが薔薇色の灰の小さな山に変わるまで煙をくゆらした。吹き込んできた湿った風がその灰を散らした。いや、今年、春は来ない。木は絶望に汚れ、芯まで冷え切っていった。死んでしまったわけでも、凍りついてしまったわけでもない。冬じゅうずっと雪はすくなかった。けれど、希望はなかった。
彼女のもとにもどれないことに感謝するんだな、と彼はぼくにさとした。彼女はおまえが、自分とおなじものになってブーツのもとからもどってきはしないことを知っていたんだ。もどってきたおまえは、あわれな半端者にすぎない。行く前とおなじ人間でもなければ、べつの人間でもない。彼女が最初に愛したおまえではなく、かといってほかのだれかでもない。
ぼくにはわからないよ、と彼にいった。なにひとつわかっていなかったし、いまはもうなにひとつ残っていない。ぼくは彼女のためにいちばん深い叡知を投げ捨てて、自分を彼女の姿を映すための透明な池に変えた。でもいまは、からっぽの空しかない。
ああ、わからないのか? と彼はいった。おまえは透明になろうとしたが、反対に彼女は不透明になろうとけんめいだったんだ。
通行壁みたいに、とぼくはいった。
彼女は不透明にならなければならない。おまえは透明にならなければならない。愛よりも強い力はこの地上に残されていない。だがしかし……。
不透明か、とぼくはいった。たしかに。
透明だ、と彼はいった。
ぼくが彼女の中に見たもののことを打ち明けたあの瞬間にはちがった。でもその瞬間、彼女はそれを変えてしまい、さらに遠くへとぼくから隠してしまった。
彼女はそれを知らずにいることを望んでいたんだ、と彼はいった。責めることなどできない。
それはまるでこんなふうだった。ぼくは彼女を追いかけて洞窟の中に入り、通ってきた道すじに長いひもを垂らしながら歩きつづけた。やがて、ひもの長さがいっぱいになり、それ以上もう進めないというところまで来たとき、ドクター・ブーツがぼくの手からひもを奪いとった……。
どのみち一方通行なんだよ、と彼はいった。だから、出口などありはしない。
その点については、と彼はいった。おれたちの意見は一致するな。
じゃあ、そろそろその荷を軽くするときだね、とぼくはいった。
ぼくは持ち物すべてをしまってある背負い袋のところに行って、〈四つ壺〉をおさめた箱をとりだした。それを持って窓辺にひきかえし、封をはがして蓋をあけた。最初の壺は青く、中にはオレンジ色のものが入っていた――28[#「28」は縦中横]フレーバーと呼ばれていた建物のふたつの色だ。これは、どんな病気にも効く薬の娘だった。二番めの壺は黒くて、中身は薔薇色。かつて、〈七つの手〉との結び目が解けたぼくを夢見させてくれたあの薔薇色のものだ。三番目は銀色で、荷を軽くする黒い粒が入っている。四番目の壺は灰色で、むかし、〈|ひとこと話す《スピーク・ア・ワード》〉が拒むところを見た(いいえ、今年はだめ、と彼女はいった)白い天使の選択が入っている。ぼくは火のついたままで窓のところに置いてあった葉巻をとると、二本の指のあいだに深くはさんで、立ち昇る煙に目を閉じ、壺のことを考えた。ぼくは、鏡の前に立っているハウドを思い浮かべた。
鏡には、山高帽子をかぶった男が巨大な四つの壺を男の子に向かってさしだしているところが映っている。「暗さと明るさを混乱させるんだ」とハウドはいった。「するとしばらくのあいだ、混乱のことだけを考えて、ほかのすべては考えられなくなる」
「すべて?」とぼくはたずねた。
「それが〈相対性《リラティヴィティ》〉さ」とハウドはいった。
じゃあ、とにかく〈相対性〉なんだ、それがなんだろうと。ぼくたちは混乱をためしてみよう。そう思って、銀の壺と黒の壺の蓋をとった。片方から、消し炭のような黒い粒をひとつとり、飲み下した。それから親指を舌の先で湿し、もう片方の壺の薔薇色の表面に押しつけ、その親指を唇の内側になすりつけた。それから、また煙をくゆらせて窓辺に灰の山をつくり、強くなりはじめた風が湿気とともにその山を吹き散らした。
ぼくの頭の内部はゲームにちょうどぴったりの広さだったけれど、人々はうしろのほうに立って眼窩の窓をふさいだので、頭の中は暗くなってしまった。参加者たちはひざを上げ、頬を寄せ合って輪をつくった。ゲームに使うボールはひとつだけで、おしゃべりの声こそかしましいけれど、どうやってはじめるかについての議論はなかった。ボールはぼくの母親のひざからはじまった。
「だれのひざ?」とみんながいい、金棒曳きの〈高笑い〉がボールをンババのひざに動かした。
「銀のボールと手袋のことなら」とンババがいった。「あれはなくなってしまった。でも、あとのほうについては、ほら、これをごらん」そういってンババは口を開き、完全にそろった歯を見せた。それは草とおなじ緑だった。
「だれのひざ?」みんながいうと、ボールは〈絵具の赤〉のひざに移り、彼女のひざから〈七つの手〉のひざに移り、〈七つの手〉が「ああ、大将、いつかな」といって、それからまたボールが〈絵具の赤〉のひざにもどり、彼女は「系《コード》に結び目とは! 大笑いだね」といった。しっかり握った〈絵具の赤〉の長い玉ばさみのあいだでボールは宙に静止していた。「だれのひざ?」とみんながいい、ボールはワンス・ア・デイのひざに移った。彼女はありえないほど青い瞳で見上げていった。「いつまでも末長く」
「女たちに聞け」と〈七つの手〉がいってボールを〈絶体絶命〉にまわし、〈絶体絶命〉はおだやかに煙をくゆらしながら、「|空気より軽い《ライター・ザン・エア》、空気より軽い」といった。
「ロイの古いジョークがあるわ」とワンス・ア・デイはいって、ぼくを〈絵具の赤〉に動かした。「無数の生涯」と〈絵具の赤〉はいった。「誕生と死のあいだの瞬間に、無数の生涯がある」
「いまが春」とワンス・ア・デイがいい、あぶなっかしい手つきで玉ばさみを〈絵具の赤〉のひざの上のボールに向かって動かした。玉ばさみが近づくと、ジンシヌラがゆっくり首を振った。
「猫には命がいくつあるかな?」とジンシヌラはたずねた。
「九つ」と〈絵具の赤〉が答える。
「ミス」と、青い宝石の腕環をしたハウドがいって、爪の黄色い手で落ちたボールを拾い、自分のひざに置いた。
「だれのひざ?」みんなが声をそろえていい、玉ばさみがボールにのびた。「〈大きな結び目〉と〈最初の罠〉で〈小さな罠〉になり、〈小さな罠〉と〈遠征〉で〈小さな二番目の門〉か、このは系だと〈はずされた大きな罠〉になる」と〈絵具の赤〉がいって、ボールはまた、ひざからひざへと飛びはじめた。
「上下左右ぜんぶ見えるし」と〈芽生え〉がいって、ぼくを〈花盛り〉のひざに動かした。
「自分を捕まえているものはなにも見えない」と〈芽生え〉がいった。「なのに蠅は動けない」
「それを教訓にしなさい」と〈花盛り〉がいって、ぼくを〈まばたき〉のひざに動かした。「わしらはみんな片脚のない人間じゃ」といって、〈まばたき〉はあくびをした。「失われた片脚は、風邪と同様、よくなることはけっしてない」
「もう聖人になったの?」と〈芽生え〉がたずね、〈花盛り〉がぼくをまたワンス・ア・デイの細いひざにもどし、〈まばたき〉が「半端物」といって、ぼくをべつの女の子のひざに移した。大きな猫を連れ、星のついた黒いローブをまとったその子は、それまでずっとゲームを見物していた。「わたしがいないのに、どうしてわたしのことを考えられるの?」とその子はいった。
「ミス! ミス二回」と猫がいった。ボールはもどされて、ゼアのひざにまわった。ワンス・ア・デイがやさしい声で、「きれい」といった。
「けっきょく」と、みんなが待っているあいだに〈絵具の赤〉がいった。「ただのゲームなんじゃよ」
「だれのひざ?」
ボールはめまぐるしく動きはじめた。「目的は」とハウドがいった。「自分がそれをプレイしているのだとけっして気づかないようにすることだ」
「いつか透明になる」と〈絵具の赤〉がいった。「そして透明な人生では、死から自由になれる」
「それといっしょに生きるすべを学ぶことじゃ」と〈まばたき〉がいった。「わしらはその欠落といっしょに生きていくすべを学ぶ。学ぼうとしつづける。わしらにはわしらの〈システム〉が、わしらの叡知がある……」
「真実の語りはいかにしてなされるのかな?」とジンシヌラがいった。「おたがい、秘密を打ち明けあおうではないか」
「謎なんて覚えてないわ」とワンス・ア・デイがいった。
「〈拝啓〉、〈本文〉、〈敬具〉。そこに径を見つけることができる」
「径」と〈絵具の赤〉がいった。
「は名前に過ぎず」とジンシヌラがいった。
「歩く足の下にできる」とンババがいった。
「なぜなら、自分がいまいる場所だからだ」とジンシヌラがいった。
「わしらがさすらっていたとき」とンババがいった。
「おまえが径のどこにいるかは」とジンシヌラがいった。「ひとつの物語にすぎない」
「それから、それから、それから」と〈まばたき〉がいった。
「物語のあるものは楽しく……」
「それが〈相対性〉だ」とハウドがいった。
「……あるものはそうではない。それが暗さと明るさだ」
「彼[#「彼」に傍点]は暗かったよ」と〈棒切れ〉がいって、濡れた黒い木の玉ばさみでボールを拾い上げた。ボールはすべり、小枝の玉ばさみのあいだでころがった。〈棒切れ〉はボールをつかめない。それまでは、みんなとてもうまくやっていたのに。
「猫には命《ライヴズ》がいくつあるかな?」とパフがたずねた。「はやく」
「無数の生涯《ライヴズ》がある」と〈絵具の赤〉が答えた。「誕生と死のあいだの瞬間に、無数の生涯がある」〈棒切れ〉はいまやっと、ボールをどうにか彼女のひざにのせるのに成功し、まわりのみんなはひとり残らず、ああーっといった。
「だれのひざ?」とみんなが口をそろえた。「ドクター・ブーツのひざ」とワンス・ア・デイが静かにいった。「いまが春よ」
「そして、真実の語りというのは……」
「透明」と〈絵具の赤〉がいった。
「そして、暗さと明るさは……」
「不透明」とジンシヌラがいった。
みんなが遊んでいるボールはクルミの実だった。ボールに向かってジンシヌラがのばした玉ばさみは、クルミ割り器に似ていた。「不透明、透明」とボールがいった。「通行壁みたいに」
「ミス」とワンス・ア・デイがいった。ちょっと悲しそうに、でもこうなるのはわかっていたというように。
ジンシヌラが笑みを浮かべてボールを指でつまみあげた。「通行壁?」と彼女はいった。「そんなものはない」ジンシヌラはクルミの実をクルミ割りにはさんだ。
「ミス三回」とティープリーがいった。「ゲームはおしまいだ」
ジンシヌラがおだやかにクルミを割った。
ぼくは物音に目を上げた。頭上の頭蓋に細い亀裂が走り、そこに指があらわれた。
指にはさんだ葉巻はもう火が消えていた。ブロムはぐっすり眠っていたが、ベッドのいつもの場所にはいなかった。床の戸口ごしに、階下で燃えている低くて暗い炎が見えた。外からは宵闇の音が重く響き、ぼくはそれがなんなのかをさとった――雨だ。かすかなきしみとともに、頭蓋の亀裂が広くなった。ぼくは声を上げてばっと立ち上がったが、その音で目を覚ましたのはブロムではなく、ドクターだった。
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ドクターって?
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「でも、あれは正しくない」とぼくはいった。「ほんとはミス三回じゃなかったのに」
「ええ」とドクターはいった。彼女はそんな年じゃないのに髪の毛が白く、ぼくの黒と銀の布を体のまわりでおさえている手には、しわが寄っていた。彼女が動くと、その下でベッドがきしんだ。彼女は大きく静かな瞳でぼくを見た。
「だって」とぼくはいった。「ぼくはたしかに、真実の語りがどうやってなされるかを知ってるんだもの」
「ええ」とドクターはいった。
「暗さと明るさとおなじやりかたでなされるんだ」
「ええ」とドクターはいった。
「うん」とぼくはいった。「真実の語りを語るときにすることというのは、自分の言葉が聞こえる相手に向かって、暗さと明るさについて語ることなんだ。古い物語を上手に語れば語るほど、いまこの瞬間について語ることになる」
「ええ」とドクターはいった。
「だからぼくは、最初からずっと暗くて明るかった。学ぶ必要なんてなかった、ぼくはそれを知らなかったんだから」
「ええ」と彼女はいった。
「そして、心に思っていることを口にし、あるいは口にしたことを心に思うのをやめたことも一度もなかった、だって、ほかになにができる?」
「ええ」
「じゃあ、ちがいはないんだ。ふたつはおなじものなんだ」
「ええ」
「じゃあ、あれはそういう意味なのかい、通行壁なんてものはない、というのは?」
「ええ」
「そうか。わかった。じゃあ、ミス二回だね」
「ええ」
「ゲームはまだつづくんだ」
「ええ」
「そうか。わかったよ。でも」とぼくは腰を下ろして、「もしふたつがおなじものなら、どこにちがいがあるんだい?」
「ええ」とドクターはいった。
頭上で、なにかが割れる大きな音がして、ぼくは首をすくめた。目を上げると、ぼくの頭の亀裂がおそろしく大きくなっていた。降りこんできた雨が、灰色を汚した。ブロムが上を、それからぼくを見た。ぼくは背負い袋のところにいって、〈四つ壺〉を放りこみ、眼鏡をさがしてかけた。
「出発の時間が来たみたいだ」とぼくはいった。
ドクターは、近づいてくるぼくをベッドから見つめていた。「これは大きいから、ふたりで入れるよ」といって、ぼくは彼女がかぶっていた黒と銀をひきはがした。
薄闇の中でぼくは、彼女といっしょに猫が寝ていたのかと思った。でももちろん、彼女が猫だった。慎重かつ優雅な身のこなしで寝返りを打つと、彼女はベッドの上で四つん這いになり、床に飛び下りた。まるまるした脚と腿は、〈リスト〉のファーファに似ていた。彼女は両手をついて床を歩き、窓辺に近づいた。両手を窓がまちにかけ、ひざをついてすわる。しつぼがくるりとまわって、脚のうしろに巻きついた。頭上で、頭蓋が音をたてて裂けた。細かな白い粉が降ってきた。
「とにかく」ぼくはやっとのことで声を出した。「ここを出なきゃ」
彼女はぼくから雨に、雨から床の戸口にと目を移した。音もなく床を歩いて、戸口の向こうに姿を消した。ブロムもそのあとを追った。ぼくは背負い袋を肩にかつぎ、黒と銀をまるめて持ち、帽子をかぶった。見上げると、頭蓋一面にひび割れが走っていた。
彼らは外への戸口のところで、雨を前にした猫らしい、思慮深い躊躇《ちゅうちょ》を見せて待っていた。ブロムには自分で決心してもらうしかない。ぼくはおずおずとドクターに近づき、その前にひざまずいた。戸口から吹き込む湿った雨に、彼女は身震いしたが、ぼくが銀の手袋をはめているのを見ると――いつどうやってはめたのか覚えていない――おちつきをとりもどし、ゆっくり両手を上げて、ぼくの首にまわした。イエスだったかノーだったか、自分でも思い出せない低い叫びをあげて、ぼくは片腕で彼女の体を抱き上げた。そしてぼくたちは、夜と雨の中に足を踏み出した。
頭をあとにして、つまずきながら下り坂を降りていくぼくの足の下で、踏まれた落葉からじゅくじゅくと水がしみだした。雨まじりの突風が吹きつけ、荷物ごと転んでしまいそうになる。背後で、捨ててきた頭が崩れ去る音が聞こえたような気がした。振り向こうとしたけれど、どうせ四方は闇と森に包まれているし、ドクターの手が首に回されていたので思いとどまった。肌に感じる彼女の息はおだやかであたたかく、まるで眠っているみたいだった。体を押さえているぼくの手は、つまずいたりよろけたりするたびに強くつかんでしまうのに、彼女はのんびりおちついている。いっしょにかぶっている布の下でぼくに体を押しつけ、そこをねぐらと定めたようにさえ思えた。
広いむきだしの〈道路〉に出て、ぼくは足を止めた。右を見ても左を見ても、風と雨と石とぼんやり浮かぶ黒い木々ばかり。「どこに行ったらいいか……」はやくも息をあえがせながら、ぼくはいった。「どこに行ったらいいか、わかるような気がする」
「ええ」と、ドクターは黒と銀の布ごしにくぐもった声でいった。彼女はため息をついた。ぼくはため息をついた。そしてぼくたちは、北に向かって歩き出した。
長い道のりだった。考えてみれば、故郷からこんなに遠い南までやってくるのに何カ月もかかっている。〈まばたき〉の住む森まで歩き、それから南のサービス・シティに歩き、そして次の年のひと夏。いつも南に向かって歩いていた。しかも、いまの荷は重い。
「それに、雨も降ってる」ぼくは痛む肺から声をしぼりだした。「春は来ない……」
ようやく霧雨に濡れた夜明けが訪れたとき、ぼくは雪におおわれた裸の丘に立ち、〈あの川〉の流れる広い谷間を見下ろしていた。視界からは隠れている〈あの川〉の流れから、冬の息のように白い蒸気が立ち昇っている。ぼくの両手両腕があまり長いあいだ、凍りついたように動かないので、ぼくは旅のいちばん困難な部分が過ぎ去ったのを知った。
「どこか」ぼくは彼女にいった。「〈あの川〉を越え、山をくだったあたりに、森があるんだ。その森には、知っている人にはわかる径がある。歩いていくうちに径はどんどんはっきりしてきて、とうとうそれが木々の下で広くなると、そこに扉が見える。近づいていくにつれて扉はどんどんはっきりしてきて、きみはその前に立つ。それから中に入り、前を見る。空のように不透明な青い瞳をした女の子が〈輪っか〉をして遊んでいる。そして入ってきたきみに気づいて目を上げるんだ。でも、ぼくはもうこれ以上歩けないよ」
ぼくは地面にひざをつき、荷物を下ろした。筋肉が反動で痙攣《けいれん》し、ぼくは震えながら、握った両手をゆっくり開いた。布をしまってから、ここまで運んできた荷物に目をやって、そんな値打ちがあっただろうかと考えた。
きれいなプラスチックのじょうごと水差しは、雨水を受けて貯めておくのに使った――いまではどちらもめずらしい品物だ。あんまり錆びていない鋤の刃と、白い綱。ほとんどはぼろぼろになった〈本〉が何冊か――これは、もしまた会うことがあったら〈まばたき〉にあげようと思って持ってきた。天使銀の半端物――ひとつはティープリーが犬の首輪と呼んでいたもので、なにか使い道があるかもしれないと思って入れてきた。そして――荷物の中でいちばん重いのが――プラスチックでおおわれた金属の機械で、むきだしになっているところは錆びている。なんとなく、〈まばたき〉のクロスティック・ワードの機械版みたいな外見だった。文字を書いた小さな板が何列にもなって並び、説明のしようもないものがついていた。ティープリーはこれを、ちょっと軽蔑したような口調で、スペリング・マシンと呼んでいた。これをとっておいたのは、|綴り《スペル》が学べるかもしれないと思ったからだ。
「でも、とにかく重すぎて、とても運べないよ」とぼくはいった。「とにかく重すぎるんだ」
「じゃあ、おまえの復収の日々は終わったのかい?」とティープリーがいった。「語り手たちがなにかを捨てることはぜったいないと思ってたが」
心臓の鼓動がのろくなった。ところどころ霧に包まれた丘の頂きと谷間が薄れはじめたように思えた。まるで五感にちょっと力を加えてやれば、その向こうを見通せるみたいな感じがした。ぼくは力を加えてみた。そこに見えたのは、ティープリーの廃墟へとつづく道路と、星と縞をまとった老復収者その人だった。ぼくはドクターを抱き、がらくたの山を背負って一晩歩きつづけ、故郷ではなくこの場所にたどりついたのだった。たぶん、あとにしてきたぼくの頭は、まだ無事なんだろう。そんなことはどうでもよかった。あそこにもどるつもりはなかったから。
「いや、まだ終わったわけじゃない」とぼくはいった。この現実の中で、声は薄っぺらく頼りなく聞こえた。
「どこに行くんだ?」とティープリーがたずねた。
「故郷だよ。春が来たから」
そのとおりだった。雨はその前触れだったのに、ぼくは気づいていなかった。けれど、いまこうして、荷物の静かな山の前でひざまずき、あたりを見まわしてみると、そのことははっきりしていた。周囲の濡れた茂みからしたたる水のひとしずくひとしずく、小枝の一本一本の中に緑の芽があり、くたびれた草をなでる風が、のびはじめたばかりのやわらかな新しい若木を垣間見せる。もちろんブーツは、こんな秘密を語ってはくれなかった。いつかは春が来ることをぼくが忘れてしまうまで、春はかならず来るとささやいてはくれなかっただろう。それが暗さと明るさなんだとぼくは思った。いまは春。すばらしい。だからぼくは、ドクターを放した。放すのは、倒れるような感じだった。けっして目に見えないけれど、そこで待っていることは疑いようのない二本の手に向かって、ゆっくりうしろ向きに倒れてゆくような感じ。
「しかし、こいつはどうだ?」ティープリーがそういって、ローブの下からなにか小さなものをとりだした。冬の氷のひとかけら。いや、もっとべつのもの。「ちょっと旅に出たんでね」と彼はいった。
それは、まるっきりボールのかたちをしていなかった。ブーツの台座の中で、水中にあるみたいに宙吊りになっていたあのノブに似ていた。ぼくは銀の手袋をはめた片手を上げた。「ください」とぼくはいった。
「お代はいただくよ」
「ぼくの持っているものぜんぶと交換だ」
ティープリーはボールをさしだすようなしぐさをしたが、その前にボールが手を離れた。落としたのかもしれない。けれど、落ちなかった。ぼくの手袋が奇妙なかん高い音を発しはじめ、ボールは手袋のほうに漂ってきて、小鳥のようにふんわりとぼくの手袋に着地した。
そして、両者がいっしょになったとき、ふたつは二重の音を発しはじめた。その音を、この〈都市〉にある機械《エンジン》が聞きつけたんだ、そうでしょ? 何世紀もずっと、その音を聞こうと待ちつづけていた天使の耳があったんだ。そしてそれが聞こえたとき、モンゴルフィエが準備しはじめた。
「これだけじゃ足りないね」と、ティープリーがぼくの宝物を爪先でつつきながらいった。「そのボールほどの上物とは釣り合わない。そいつは上等だよ、状態は完全だし」
「わかった」
ぼくはそういうと、袖の中をさぐって、古えの時代のぴかぴか光る〈おかね〉をとりだした。ぼくが|買れた《ポット》一枚だ。それをつまんだとき、表面に刻まれた天使の顔の結い上げた髪を親指の腹に感じた。でも、それはもう、ぼくにはどうでもいいものだった。ぼくはとうとう、失われたものを見つけ出した。そしてそれを迷路街に持ってゆき、その置き場所にもどして、自分がいかにしてそれを手に入れたかについての、長い奇妙な物語を語ることができる。それにどのみち、聖アンディのボールと引き替えに〈おかね〉をティープリーにわたしたところで、ぼくが自由になれるわけじゃない。〈おかね〉も、人間のするほかのすべてのこととおなじだ。みんな、一方通行なんだ。
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第四の切子面
夏も近づくころになって、ようやくぼくは、リトルベレアが横たわる谷を見晴らす丘の頂きに、現実に立っていた。そういう場所がほんとにあるんだよ。混乱の中で見たよりもっと細部が凝っていて、もちろん緑色だったけれど、すぐにそれとわかった。三年前にぼくが出発したときと、ちょうどおなじ季節だった。
全速力で丘を駆け下り、しめがね系の扉に通じる径を見つけようと最初は思った。でも、なにかがぼくをひきとめた。旅の道中、毎晩そうしていたように、ぼくはキャンプをしつらえ、腰を下ろした。夜がやってきた。月はもうちょっとで満月。また昼が来たようだ。そのとき思った。丘を下りていけば、ぼくはオリーブとおなじになる。正直な黄色い目をした大きな猫をかたわらに、はるか遠くからとつぜんやってきて、おそろしい秘密を語りはじめるのだから。
ティープリーの廃墟を出発したあとの最初のキャンプで、ブロムがぼくを見つけたことは、まだいってなかったよね。焚火に忍び足でやってきたからぎょっとしたけれど、ブロムの姿を目にして、ぼくは大声で笑い出した。でもブロムのほうは、ぼくの息のにおいを嗅ぎ、ぼくがたしかにぼくだと確認すると、キャンプの周囲をひとわたりながめたあとで、吐息をついて足を投げ出し、そのまま眠ってしまった。まったく、猫ってやつは。
お客さんを最初に見つけたのはブロムだった。あれからもう一日たっていた。丘を下って〈あの川〉をわたる決心がまだつかなくて、ぼくはあおむけに寝そべり、金緑色の若葉を見上げてぼんやりしていた。そのとき、アウアウアウアウというブロムの鳴き声――小鳥やなんにもない空に向かって猫が叫ぶときの声――がして、なんだろう、たぶん空高く飛んでいる鷹かなにかだなと思いながら、寝返りを打ってそちらに目をやったぼくは、次の瞬間、叫び声をあげてとびおきた。
だれかが、曇り空から、巨大な白い傘に乗って降りてくる。
それは、白くて半透明の、巨大な球の上半分だった。半球のヘリから何本もロープがのび、ぴんと張って、逆さにしたお椀のかたちに空気を貯めている。そのロープの下に、蜘蛛の巣につかまった蠅みたいなかっこうで男がひとりぶらさがり、脚をぶらぶらさせながら降りてくる。ぼくはあわてて立ち上がり、風に吹かれてのろのろと流されてゆくその傘の落下点めがけて走り出した。近づくにつれて傘はどんどん大きくなり、途方もなく大きな波打つ円屋根みたいに見えた。ロープにぶらさがった男の姿も、いまでははっきり見分けられる。男はぼくに向かって手を振り、それから一心不乱に綱をひっぱりはじめた。そうやって傘を操作し、森の中ではなく、斜面の草原に着地しようとしているらしい。ぼくは傘のあとを追って走った。男はふんわりとどころではなく、すごい速さで地面に落下してゆく。傘があろうとなかろうと、すさまじい力で地面にたたきつけられるのは確実に思えた。こうなってみると、あの傘はあまりいい考えとは思えなかった。ぜんぜん役に立ちそうにない。ぼくは息をつめ、男の足が草原にぶつかるのを見守った。着地の瞬間、衝撃をやわらげるためか、男は体を大地に投げ出し、そのあとから円屋根が落ちてきて――けっきょくそれは、ただの布だった――くしゃくしゃになり、風に吹かれて大きくはためいた。
傘だったものは、風をはらんで、いかにも大儀そうにまた起き上がりかけていた。やっと立ち上がった男は傘の動きに引きずられながら、顔を真っ赤にしてその力と戦い、必死にもがいて綱を切り離そうと奮闘している。やっと体を自由にすると、濃霧みたいに波打ちながら頭をもたげるその白いものをひっぱり、なんとか押さえこもうとしはじめた。ぼくは石を拾ってその白い布に投げ、頭の部分を地面に釘づけにした。それでずいぶん作業が楽になり、男は布をどうにかまるめて山にすると、ぼくのほうに顔を向けた。
「モンゴルフィエ」と男はいった。ぼくはどう答えていいのかわからなかった。
男は色白のまじめくさった顔で、細くて黒い髪の毛が目にかぶさっている。ポケットがたくさんある、体にぴったりの茶色い服に全身を包み、長いひもがついた、ひざまである奇妙なびかぴかのブーツをはいていた。ぼくはにっこり笑ってひとつうなずき、男に近づいた。すると彼は、黒くて大きな目をぼくに向けたままあとずさった。野生の動物がひどいけがをしたときみたいな目だった。
ちょうどそのとき、ぼくのうしろの茂みからブロムが用心深く姿をあらわしたのを見て、男は悲鳴をあげた。いまにも倒れそうなようすでよろよろと後退し――男の背中には、体とおなじくらい大きな荷物があった――腰の鞘におさめたなにかを必死に手探りし、一気に引き抜いた。それは、てのひらに入る大きさの機械で、握りと、黒い金属の指がついていた。男は機械の指をブロムに向け、目をまんまるに見開いたまま、凍りついたように立っていた。男の恐怖心を感じとったブロムが忍び足でぼくのうしろに隠れ、油断のない目で見張りながらうずくまると、男はようやく機械をしまい、ブロムから目をそらさずにその場にしゃがみこんだ。背負った大きな荷物の底が地面につく。腰のベルトの黒い点を押してから男はまた立ち上がったが、荷物のほうは草原に直立したままだった。
「モンゴルフィエ」と男はまたいった。荷物にひもは一本も見当たらなかった。いびつな形をして、ぼくの持っている黒と銀の布に似たもので包まれている。その布は、濡れているか、でなければ風で押しつけられているみたいに、荷物にぴったり張りついていた。
「それ、どうなってるの?」とぼくはいった。「その荷物だけど」
男は片手を上げてぼくを黙らせると、もう片方の手をたくさんあるポケットのひとつに入れて、べつの小さな機械をとりだした。それを片耳にあてて、ちょっといじり、耳の上に固定した。それは黒くて大きな偽物の耳みたいに見えたけれど、まさにそういうものだった。男は「こっちにおいで」というように片手で手招きし、横目でにせの耳をうかがっていたが、ぼくが進み出ると、ぱっとあとずさった。
「あなたは、むかしぼくが連れてた雌牛よりもっと臆病だね」
とぼくはいった。その声に、男は首をひっこめ、耳に聞き入るような顔になった。男は眉間にしわを寄せ、唇を噛んだ。
「もっとおく、びようだね」と男は眠り語りのような口調でゆっくりいい、ぼくたちはたがいにとまどい顔で見つめあった。男はまた、ぼくを手招きした。また足を踏み出そうとして、ぼくはやっと、男がなにをやっているかに気づいた。言葉がちがうんだ。ぼくのいったことは、彼にはなにひとつ理解できないし、ぼくも彼のいうことはなにひとつ理解できない。しかし、あのにせの耳は、ぼくの言葉がわかるみたいだ。
あの耳がぼくの言葉を彼にささやき、それから彼が、できるかぎり正確に、ぼくの言葉で答えを返す。空でなにをやっていたのか質問できるようになるまでには、長い時間がかかりそうだ。そこでぼくは、ゆっくりと腰を下ろし、話しはじめた。
しばらくすると、男のほうも腰を下ろし、聞きはじめた――耳に聞き入るのではなくて、ぼくの言葉にときどきうなずいたり、ときどきわけがわからないという顔で両手をふりまわしたりしながら。男は口の前でこぶしを握りしめ、とうとう関節のあたりがまっ白になってしまった。ぼくが口にするむずかしい言葉のいくつかはかなり速く理解できるようになったくせに、「いい天気だね」というと、面食らった顔になった。夕方近くなるころには、ぼくたちはかなりうまくやりとりができるようになっていた。男は慎重に言葉を選び、たいていは意味を伝えられるようになった。視線はおちつかず、小鳥や虫が小さな物音をたてるたびにさっとそちらを向くし、一度、蝶《ちょう》がそばに飛んできたときはぱっと立ち上がってしまったくらいだった。ぼくがいることにはまるで驚かず、ずっとむかしからぼくとここで会う約束をしていたみたいに、いっしょにすわってぼくに話をさせているというのに、あたりまえの出来事のひとつひとつが彼をびくつかせるみたいだった。彼にとって、その恐怖から気をまぎらわす唯一の方法は、ぼくの話に耳を傾け、苦労して言葉をしゃべることだった。
とうとう彼は、手を振ってぼくを黙らせた。ブーツをはいた足を引き寄せ、両手でひざを抱くと、彼はいった。
「そう。なぜわたしがここに来たかを、そろそろ話さなければならない」
「よかった」とぼくはいった。「どんなふうにしてやってきたかも話してね」
男はじれったげに歯噛みし、ぼくはおちつくようにと手を振った。
「わたしが来たのは、わたしたちの財産をとりもどすためだ。きみがそれを持っていると、わたしは思う」
「財産」という言葉をぼくが使ったことはないのに、男がそれを知っているのが妙だった。生まれてこのかた、ぼくが「財産」なんて言葉を口にしたことは一度もないんじゃないかと思う。
「財産って、どんな?」とぼくはたずねた。
男はまたべつのポケットから、陽光を浴びて鈍く光る、薄い銀の手袋をとりだした。
「これとそっくりの手袋。そしてもっとだいじなのは、これとはべつの小さなもの。それの外見は、たとえば……」
「ボールみたいな」とぼくはいった。今度はぼくがびくつく番だった。「ねえ」と不安を押し殺してたずねた。「ぼくの質問に答えてくれる?」
「三つだけ」と男はいって、三本指をたててみせた。「質問は三つ」
「どうして三つなの?」
「むかしからの決まりだ」
「わかったよ、三つだね」ぼくは〈リスト〉の流儀でひとつひとつ数え上げた。「エー。そのボールと手袋はどういうもので、プランケット伯父さんをはじめとする死者たちとどんな関係があるのか? ビー。ぼくがそれを持ってることをどうして知っていたのか? シー。あなたはいったいどこから来たのか?」
質問を聞き終えると、彼はにせの耳に目を向けたままうなずいた。それから、ぼくのほうを見ると、落ちてきてからはじめて、その顔に笑みが浮かびはじめた。それまでのかたく閉ざされた表情よりもっとよそよそしい、奇妙な、暗い笑み。
「わかった。最後の質問から順に答えよう――これもまた、むかしからの決まりだ。わたしは――」と、男は空を指さして、「上から来た。空にある〈都市〉、ラピュタとも呼ばれている街から来た。わたしたちの財産をきみが持っていたのを知ったのは、それが出す音のおかげだ――きみの耳には聞こえない、ずっとかすかな、ふつうの音とはちがう種類の音だが、〈都市〉にある機械《エンジン》がそれを探知した。そしてそれは、きみが死者と呼んだダニエル・プランケットとおおいに関係がある。わたしは〈都市〉から、彼を背負ってここに連れてきた。ほら、あれだ」
そういって、男は草原のまんなかに横たわる黒いものを指さした。
「そういうことを知ってるってことは」とぼくはいった。「あなたは天使なんだ」
男は笑みを消して聞き入り、それから、わからないというしぐさをした。
「やっぱり」と、ぼくは長い沈黙のあとにいった。「三つの質問じゃ足りないみたいだね」
男はうなずくと、これから大仕事にとりかかろうというみたいに、いずまいを正した。手はじめに彼は、三つのちがうやりかたで説明をはじめたが、そのたびに混乱して、途中でやめてしまった。まるで、言葉のひとつひとつが彼の体のひとかけらひとかけらで、苦痛と戦いながらそれを内臓から吐き出しているみたいだった。彼の話してくれたところでは、空にはいくつも街があるわけではなく、ラピュタと呼ばれる都市がひとつあるきりで、天使たちが世界を支配していた最後の日々に建設されたものなんだそうだ。ラピュタは基底部でさしわたし一マイルある巨大な半球で、端から端までぜんぶ透明――透きとおった三角形の板を無数につぎあわせた美しいレース編みみたいなもの。それをひとことでいいあらわす言葉もあるけれど、要するにそれらの板はたがいの重みを支えられるように組み合わされて、板はガラスではなく、なにかべつのもの――というより、なんでもないもの、といったほうがいいかもしれない――光を通すけれど、それ自身は何物でもなく、しかし、光以外なにも通さないもの、あるいは状態で……。
「通行壁みたいなものだね」と、ぼくはいった。彼はぼくの顔を見たけれど、「通行壁なんてものはない」とはいわなかった。外の空気が冷たいときにも内部の空気をあたたかく保っている方法を説明しようとして、途中で混乱し、ぼくはそれなら知っていると答えた。それはただ、すべてが空気より軽いおかげなんだ。
「そう」と彼はいった。「空気より軽い」
そして、だからこそ、さしわたし一マイルもある〈都市〉が空に浮かび、その完璧な単純さに支えられて、以来永遠に浮遊しつづけてこられた。そのあいだに、何世代もの天使たちが生まれ、生き、死んでいった。彼は機械や仕掛けのことを語り、ぼくは最初、どうしてそんなもので自分たちの〈都市〉をいっぱいにしたがるんだろうと思ったけれど、やがて彼のいう機械がいまも完璧に動くものなのだということがわかってきた。つくられた当初の目的をいまなお果たすことのできる機械が、〈都市〉にはある。ぼくは彼のにせの耳を見つめ、それから草原に横たわる荷物を見つめた。彼はぼくの表情に気づいて、「そう。あれさえまだ動いている」といった。
彼は過去の出来事を語った。〈嵐〉のあと、天使たちが四人の死者たちをさがすためにもどってきたこと。天使の仕事の中でももっとも偉大なものだった四人の死者のうち、三人が〈連盟〉によって破壊され、ひとりが行方不明になっていたこと。その失われたひとり、プランケットをさがしもとめ、やはりそれをさがしていた〈連盟〉に先んじて見つけ出し、〈空の都市〉に持ち帰ったこと。ただし、プランケットには欠落している部品があったと彼はいった。ボールがひとつと、それを動かすための手袋。それは……それは……そこで彼は口をつぐみ、べつのやりかたでまたプランケットのことを説明しはじめた。これには長い時間がかかった。しょっちゅう言葉を切っては考えを整理し、こぶしを噛んだり、もどかしげに長靴をたたいたりするからだ。彼の緊張がぼくにも伝染し、やたらに質問して話の腰を折るものだから、とうとう黙っていろとどなられてしまった。
プランケットの天使画を見たことがあるよ、とぼくが話してから、たがいの理解が急速に進みはじめた。彼は深く息を吸ってからこう語った。プランケットである球体は、その絵のようなものだ。ただしそれは、プランケットの顔をおさめるかわりに、彼の自己をおさめている。絵を見て、彼がどんな顔をしていたかを知るかわりに、きみはその球体をマスクみたいに頭にかぶる。すると、それをかぶっているあいだ、きみはいなくなって、かわりにプランケットがいる。プランケットがきみの体の中でふたたび生きはじめる。きみはプランケットの目から外を見る、いや、プランケットがきみの目から外を見る。いま、その球にはプランケットがつまっていて、なる[#「なる」に傍点]ことのできるだれかを待っている。たとえば……たとえば言葉の意味が、意味することのできる言葉を待っているみたいに……。
「手紙みたいに」とぼくがいうと、彼はゆっくりうなずいた。ぼくのいった意味がよくわかっていないらしい。「そしたら、あのボールと手袋は?」
「球の中身を消去するためのものだ」と彼はいった。球体は容器でしかない。いまはプランケットをおさめているけれど、ボールと手袋があれば、それを空《から》にすることができる。プランケットはどこにもいなくなり、球体はだれも前に立っていない鏡のようにからっぽになって、かわりにだれかべつの人間を映すことができるようになる。死者は死んでしまう。
「二重に、そして永遠に」とぼくはいった。「それがほかの三人に起きたこと?」
「だと思う」
「五番めをのぞいては」
「四人しかいなかった」と彼はいった。
「五つめがあったよ」とぼくはいった。
彼は立ち上がって、荷物のところに行った。銀色の手袋をはめた手で、荷物のまわりに張りついていた黒いものをひきはがした。そこには透明な箱か台座のようなものがあった。その中に、黒と銀のノブがいくつも並び、水中のボールみたいに浮かんでる。てっぺんには、人間の頭くらいの大きさの球体があり、中にはなにも入っていないように見えた。
「四人だった」と彼はいった。「それ以前に、動物を使った実験があった。実験したのは、こんなふうにして人間の……人間の絵を写しとったら、その人間が死んだり傷ついたりするかもしれないと思ったからだ。もし動物が死ねば、そのこと自体はともかく、人間に対してやってはいけないということがわかる。しかし、実験は成功した。そして、四人の人間を使っておなじことが行なわれたんだよ」彼はまた腰を下ろし、ひざを抱いた。「だから、きみがいってる五番めの球は、実験のときのものだ。中に入ったのは猫だよ。ブーツという名前の猫だった」
すでに、陽はとっぷりと暮れていた。眼下の谷は闇に包まれ、木々の影が斜面の草原にまで届いている。でも、ぼくらがいる場所はまだ明るい。茶色の服に身を包んでひざを抱いた彼と、ぼくと、プランケットであるもの。プランケットはもう死んでいるんだけど。
「ぼくはその猫だったことがある」とぼくはいった。
彼の目に恐怖の色がのぞいた。白い顔が無表情になる。「そしてわたしは」と彼はいった。「ダニエル・プランケットだったことがある」
「そしてもどってきた」
「そしてもどってきた」と彼はいった。
「天使」とぼくはいった。「どうしてここに来たの?」
「わたしはきみの質問に答えた。今度はきみが、わたしの質問に答えてくれ」彼は背筋をのばし、耳の位置をなおして、おもむろにたずねた。「永遠に――もしくはほとんど永遠に――生きられるとしたらどうだい?」
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第五の切子面
月の出まで、夜じゅう彼の質問に答えつづけた。石でできた四人の死者を目にしたいきさつ、そのとき、あたたかな部屋の中で身震いしたこと。ワンス・ア・デイのあとを追ってサービス・シティに赴いてブーツになったのも、すべてはその謎を解くためだったこと。四人の死者がいつもぼくの人生を横切り、そのたびにぼくはさらに深く闇に入りこんでいったこと。ぼくはそのすべてを語ろうとした。そしてひと晩じゅう、モンゴルフィエは説明をつづけて、その仕組みと効果を語り、それには苦痛もなく害もないと証明されているのだと語った。
「プランケットのかわりにあなたたちの死者になれっていうけど」とぼくはいった。「どうしてそんな人間が必要なんだかわからないし、それを理解できたとしても、ぼくがその人間になるなんて無理だよ。ね?」
「でも、きみからなにかをとるわけじゃないんだよ」熱意に震える声で彼はいった。「ただの――ただの霜がついたガラスみたいなものだ。そこに親指を押しつけたところで、なにかを失ったりしやしない」
「どうかな。ぼくがいないとき、ブーツがぼくの中にいた。前とおなじように生きていた。うん、彼女は気にしなかったよ。たぶん気にしなかったと思う。でも、人間なら気にするんじゃないかな。プラスチックの箱の中に閉じこめられて、上下左右ぜんぶ見えるのに動けない蠅のことを考えると、怖くなるんだ」
「蠅?」彼は自分の耳に向かっていった。「蠅だって?」どういう意味なのか理解できないみたいだった。ぼくは自分用に葉巻を巻き、その手が震えているのに気づいた。
「蠅……」彼は絶望的な口調でつぶやいた。ぼくはマッチをすったけれど、くすぶったまま頭がとれてしまい、それがブロムに命中したものだから、ブロムはうなり声をあげてとびあがった。そして、蠅と炎とブロムと、いつまでたってもわからないぼくのせいで、彼はにせの耳を頭からむしりとると、それを地面にたたきつけ、わっと泣き出したんだ。
なに?
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ううん。ただ……そうね、あなたの話を聞いてると、まるで彼が喜劇の主人公みたいな気がしてくるから。彼はそんな人じゃなかった。勇敢でりっぱで、彼の時代の人間の中では最高の人物だったのよ。降りていったとき、そこでなにが見つかることになるか、彼は知らなかった。彼が知っていたのは、〈都市〉と――そしてプランケットが生きていた世界だけだった。モンゴルフィエが知っていたのは、下の世界は彼をごくりと飲み込んでしまうだろうということだけ。写真をべつにすると、彼はどんな動物も見たことはなかった。なのに彼は、わたしたちの生活を変えるために、故郷からとびおりたのよ。喜劇の主人公なんかじゃなかったの。
[#ここで太字終わり]
ぼくはただ、ぼくの驚きを伝えたかっただけなんだ。彼の苦しみをいいあらわす言葉がぼくには見つからない。そうなるまでぼくは、不愉快で年をとったみたいな気持ちだった。ほら、怒り狂った子どもの前だと、そんな気持ちになるでしょ。彼の説明についていけなかったし、それで彼は泣き出してしまった、ぼくがいいたかったのはそれだけで……。
[#ここから太字]
もし彼があなたの言葉を話せたら、きちんと説明できていたのにね。
そうしたら彼はこういったはずよ。天使たちが空に〈都市〉を建設したのは、絶望のためでも、自分たちがつくりだした廃墟から逃れるためでもなかった。〈都市〉は彼らの誇りだったし、人間に残された最後の希望、人間が生み出した最高の機械だった。そこには〈都市〉の創造にいたるまでの知識が――狂気にかられて〈欲しがったものすべて〉を破壊しようとした人間から救い出された知識が――保存されるはずだった。プランケットは、天使のあらゆる仕事の中でもいちばん複雑で、いちばん貴重なものだった。〈都市〉の人々が最初にプランケットを使ったとき、その目的は、彼らが救い出した他のすべての品々を使ったときとおなじ――それを生み出した知識と技術を思い出すことだった。
ところが、プランケットを使うことで、彼らは予想もしなかったことを学んだ。とてもおそろしくて、とてもすばらしいこと。つまり、人間になるというのがどういうことなのかを学んだのよ。あなたがブーツから、生きているというのがどういうことなのかを学んだように、彼らはプランケットから、人間になるというのがどういうことかを学んだ。そしてそれは、彼らが思っていたのとはまったくちがっていたの。
あなたは、プランケットの時代に生きていた人間みんなが空を飛ぶことのできる天使だったと思ってるでしょ。世界をつくり変えて人間のものにしようとする熱情に燃える、後悔も忍耐も恐怖も知らない人々だったと。でも、そうじゃないの。当時の人間の大多数は天使なんかじゃなかった。あなたとおなじよ。天使の世界を理解することができず、どんな驚異の仕掛けにもまるきり無知で、天使の渇望の巻き添えを食うだけの存在、天使の世界が崩壊してゆく中でわけもわからず苦しんでいるだけの存在だった。プランケットもそのひとり。ジンシヌラは、〈連盟〉の女たちさえも天使なんだといったけれど、天使たちはプランケットを通じて、自分たちさえも人間なんだということを学んだのよ。
天使たちの最初のひとりがプランケットの目から外を見て、そのことを理解した。そしてもどってきたとき、その人は二度としゃべらなかった。
[#ここで太字終わり]
そんな話を聞くと、ぼくがいまなっているこの人のことが心配になるよ。どんなにつらい……どんなにつらいことだろう。ブーツになるよりつらいね、きっと。ずっとつらいはずだ……。
[#ここから太字]
ええ。ブーツには記憶がないけれど、あなたにはあるものね。プランケットにも記憶があった。天使たちは、プランケットから抜け出すとき、すべてを記憶していたの。彼の恥辱、彼の痛手、彼の困惑、それに彼の〈欲しがったものすべて〉。ブーツからの手紙は、「忘れろ」だったわね。プランケットの手紙は「思い出せ」だったのよ。
その結果、これは狂気の産物、まちがってつくられたものだから、二度と使うべきではないということになった。でも、それはまた使われたわ。いちばん勇敢な人々がプランケットに耐えることを学び、その体験を語った。そして、迷路街の人々が聖人たちの物語を語り、語りながら年を重ねていくように、〈リスト〉が〈連盟〉を記憶し、ブーツの中で年を重ねていくように、わたしたちはプランケットの中で年を重ねていった。そのあいだにわたしたちの学んだことといえば、プランケットの苦しみ、わたしたちの苦しみとともに生きるすべだけだった。わたしたちはさまざまな計画を忘れてしまった。その年月が数百年におよぶと、わたしたちの誇りは消え去り、プランケットだけを研究しつづけた結果、わたしたちの希望は恐怖になり、わたしたちの脱出は流刑になった。
[#ここで太字終わり]
でも、どうしてやめてしまわなかったの? もどってこなかったの? まちがいだったとわかれば、〈都市〉はもどることもできたんじゃないの?
[#ここから太字]
いいえ。天使があとにした世界はプランケットの世界だった。彼らが地上について知っているのはそれだけだった。人間の支配はじゅうぶんではなかったとプランケットは告げた。だとすれば、下の世界は人間もろとも死滅しているはず。ほかの可能性はありえなかった。
[#ここで太字終わり]
でも、そうじゃないよ。けっきょく、ちがう道をたどったんだ。もどってこられるよ。つらいことなんかなにもない。もどってこなきゃ。故郷なんだから。
[#ここから太字]
故郷……世界がどんなに広いか、あなたは知ってる? わたしは知ってる。世界のまわりをいつも風が西向きに吹きつづけ、〈都市〉はその風にのって動いていく。ひとりの人間の一生のあいだには、〈都市〉は世界を一周してまたもとの場所にもどってくるのよ。わたしは海の上で生まれた。大人になっても、下にはまだ海があった。わたしたちは、嵐の中をつっきっていく。嵐といっても地上には関係のない嵐だけれど、わたしたちは嵐が生まれる場所を知っているし、〈都市〉はびくともせずにその中を通り抜ける。ここに雪が降るとき、雪は上向きに舞う。稲妻は手を触れられそうなほど近くまでやってくるし、空から落ちてくるんじゃなくて、地上から昇ってくるのよ。そんなこと、怖いと思ったことは一度もないわ。
雲が割れると、ずっと下のほうに、ぼんやり遠く、美しい、いつかたどりつけそうな大地が見える。あなたたちが遠くの山々を見て、いつか行ってみたいと思うけれど、ほんとうに行くことはない、それとおなじようなもの。いいえ。わたしの故郷はここ。そしてモンゴルフィエの故郷もここだったの。そして、この故郷のために、プランケットの恐怖で暗くなった彼は、地上にとびおり、あなたを見つけた。わたしたちを癒してくれることになるあなた、わたしたちをプランケットから解き放つあのボールと手袋を見つけてくれたあなたを。わたしたちの古い涙をやがて乾かしてくれるあなたを。
あなたの言葉を話すことができたら、彼はきっとこんなふうにいったはずよ……。
[#ここで太字終わり]
あの人はしゃべれなかったのに、どうしてきみはぼくの言葉をしゃべれるの?
[#ここから太字]
あなたが教えてくれたからよ。わたしたちもいま、真実の語り手なのよ、〈灯心草《ラッシュ》〉。
[#ここで太字終わり]
それできみは? きみはどうなの、天使? どんなふうだか知ってるの? 自分がべつのものになって、そのあと、なにもないところからはるばるもどってくるときの感じ、まるで高いところから落ちてくるみたいな、あの、ええっと、ほら……知ってるの?
[#ここから太字]
いいえ。わたしが知っているのは、話に聞いたことだけ。プランケットになるのはいちばん残酷な体験だったということ。あなたを背負うのは重いけれど、最後にあなたをおろすのは楽しくて、何日か黙りこんだあとは楽になるということ。プランケットとともに生きることを学べた人はだれもいなかったけれど、あなたとともに生きることならわたしにも学べるということ。プランケットはわたしたちを勇敢にしたけど、あなたはわたしたちをしあわせにしてくれたそうよ。でも、わたしはまだやってみてないの。あなたの重みを背負うのが怖いのよ。
[#ここで太字終わり]
モンゴルフィエには背負えたの? ぼくは彼にとって楽だったかな?
[#ここから太字]
いいえ。プランケットを経験したあと、彼は二度とやろうとしなかった。彼はあなたをここに連れてきた。そして、やってみた人たちの話を聞き、うまくいくことを見届けた。でも、自分では二度とやらなかった。
[#ここで太字終わり]
聞いてると恥ずかしくなってくるよ。それだけいろんなことがあったのに、結局ぼくが――というかぼくの一部が――ここに来ることに承知した理由ときたら。ほんとに恥ずかしいな。
[#ここから太字]
どんな理由?
[#ここで太字終わり]
それはただ……ええっと、つまり、子どものころからずっと、ぼくは心のどこかで、〈空の都市〉を信じてたんだ。〈まばたき〉みたいに可能性として信じるのでも、〈リスト〉みたいに物語として信じるのでも、小聖ロイみたいに楽しい空想として信じるのでもなくて、現実の存在だと信じてたんだ。雲とおなじように現実の存在だと思っていた。そしたら、その〈空の都市〉からひとりの天使が降りてきて、ぼくを連れていきたいといった。そりゃ、モンゴルフィエは何度も説明してくれたよ。生身の人間であるぼく自身はどんな変化も感じることはなくて、あいかわらずあの草原にすわってる。自分はぼくから〈ファイリング・システム〉の一枚のスライドみたいなもの(思いついていたらきっと彼もこういってただろうね)をとっていくだけなんだ、って。それでもまだぼくは、心のどこかで、〈空の都市〉がどんなふうだか、この目で見ることができるかもしれないと思っていたんだ。この天蓋とか、眼下の雲とかをね。それだけだよ。
でもぼくは、その前に眠ってしまった。モンゴルフィエと会話する苦労ですっかりくたびれていたからね。ぼくは黒と銀の布にくるまって、しばらく月をながめていた。ブロムはぼくのとなりでゴロゴロのどを鳴らしていた。モンゴルフィエは眠ろうとせず、木にもたれてまっすぐすわったまま、見張りをしていた。
その夜、ぼくは迷路街の夢を見た。金棒曳きたちが系の研究に励む、彫り箪笥をしつらえた大小さまざまの部屋を抜けて〈径〉を走ってゆく夢。煙をくゆらす人々や遊ぶ子どもたちの前を通り、小さくて暗くて深いベレアの奥にある、天使石でできたせまい通路を走り、螺旋を描くようにして迷路街の中心へとすこしずつ近づいていた。でも、中心にたどりつく前に夢から醒めてしまい、けっきょく正確な中心はわからなかったなと思いながら目を開くと、寝ずの番でやつれた顔のモンゴルフィエがあれを――〈銃〉といったっけ――ひざにかかえたまま、あいかわらずそこにすわって、待っていた。
「わかったよ」とぼくはいった。「わかった」
ぼくは目をこすり、身を起こした。彼は緊張したぎこちない動きで立ち上がり、片手をさしだして、銀のボールと手袋を催促した。ぼくは背負い袋の中を手探りした。てっぺんに詰めたぼろ布の下で、それはやさしくぼくを呼んでいた。
「さあ」ぼくがふたつをわたすと、モンゴルフィエはいった。ひと晩寝ていないせいで声はかすれていたけれど、会ってからはじめて聞く、おちついた口調だった。彼は先に立って草原を歩き、花々が咲き乱れる中に立っているプランケットのところに行った。
「すわって」と彼はいった。「そして、目を閉じて」
腰を下ろしたけれど、目を閉じはしなかった。〈あの川〉が流れる谷間から立ち昇ってくる銀色の霧をながめた。モンゴルフィエが機械をいじっているのをながめた。彼はぼくの手袋をはめた手でボールを持ち、プランケットがのっている台座のそばまで持ってくると、手を離した。ボールはまるで投げつけられたみたいに、ガラスみたいな光沢がある箱の中に埋まり、もともと入っていたほかのボールといっしょに一列に並んだ。黒と銀のノブのように見える。モンゴルフィエは手袋をした手でそのノブを回すようなしぐさをした。すると、ノブが回った。台座の上の球がガラスよりも透明になり、それから煙が充満したみたいに曇った。モンゴルフィエは、球体が真っ黒になるまでノブを回しつづけた。通行壁みたいな黒になるまで。球体は、朝の草原にうがたれた黒い虚無になった。
「プランケットは死んだよ」と彼はいった。「目を閉じて」
もとから持っていたもうひとつの手袋でモンゴルフィエが黒いノブを回すしぐさをすると、球体が台座から浮かび上がった。
「目を閉じて」彼は気づかわしげな口調でまたくりかえし、ぼくから機械へと目を移した。
「わかったよ」と答えたけれど、目は閉じなかった。帽子をかぶり、また脱いだ。黒い球体がゆっくりとぼくの顔の前にやってきた。一瞬、通行壁が視界いっぱいにふさがったときに感じた、あのはてしない恐怖を感じた。それから、ぼくは目を閉じた。
そして目をあけると、ここにいた。
[#ここから太字]
そうね。そしてまた目を閉じなきゃいけないわ、もう物語は語られて……。
[#ここで太字終わり]
待って。手袋を置いてよ。心配なんだ。
[#ここから太字]
心配?
[#ここで太字終わり]
彼のことも心配だし、ぼくのことも心配だよ。ねえ天使、ここでこうやって話していないときのぼくは――ひとりぼっちで、あの蠅みたいに身動きできずにいるぼくは――いったいどうしてるんだろう?
[#ここから太字]
どうもしてないわ。夢を見ているとしても、目覚めたときには忘れてしまっている夢ね。でも、あなたが夢を見ているとは思わない。いいえ、なんにもしていないのよ、たぶん。
[#ここで太字終わり]
ぼくはまだあの草原にいて、ぼくが……つまりぼくの物語だけがここに来て、語られてるみたい。でも、そんなはずないよね。ぼくはこの物語を、前にもそっくり語ってるんでしょ。
[#ここから太字]
ええ。
[#ここで太字終わり]
どうして覚えてないの?
[#ここから太字]
あなたはここにいないのよ、〈灯心草〉。あなたは全然いなくて、ただ――ただそう、〈ファイリング・システム〉の一枚のスライドみたいなものがあるだけ。それがあなたのことを明かすのは、ただ――。
[#ここで太字終わり]
重なり合いによってだけ。
[#ここから太字]
そう、そのとおりよ。重なり合い。べつのスライドとのね。いま、あなたがいるあいだはここにいない人、あなたがいなくなったらもどってくる人との重なり合い。でも、あなたがここにいるあいだに聞いたことは、あなたにどんな影響も残さない。プランケットの写真に笑いかけても、写真のプランケットが笑い返さないのとおなじこと。またべつの人の中に入ったら、あなたはまた、一瞬前までは草原でモンゴルフィエといっしょだったのに、もうここにいる自分に気づいて、びっくりすることになる。そして、天蓋や雲にまた感嘆する。ここではなくて台座の上にいるときのあなたがどうなっているか、それはわたしたちにもわからない。わかっているのはただ、ときどきあなたがその深い眠りから目覚めて……
[#ここで太字終わり]
何回? いったい何回?
[#ここから太字]
……そのたびにそうたずねること。わたしたちの息子が……わたしの息子が大きくなって、〈灯心草〉、そしてその気になって、あなたを身につけたら、そのときあなたは三百回ここで目覚めることになるでしょうね、その二倍の数の年を経て。
[#ここで太字終わり]
まさか。嘘だよ、天使……。
[#ここから太字]
無数の生涯よ、〈灯心草〉。〈絵具の赤〉がいったでしょ。
[#ここで太字終わり]
でも、〈絵具の赤〉はもういない。みんないなくなってしまったんだね。そしてぼくは……じゃあぼくはどうしたんだろう、天使、ぼくの人生では? 年をとったの? あの丘を下ったの? それにワンス・ア・デイは……ああ天使、ぼくはどうなったの?
[#ここから太字]
わからない。あなたになることを経験したあとで、あなたのその後を推測した人たちがいるわ。あなたがどんなふうにベレアにもどったか、あなたがどんな聖人になったかを推理したり、夢想したりした。モンゴルフィエは、迎えにやってきた古いヘリコプターで彼が飛び去ってゆくとき、大きな目を見開いてそれをいつまでも見つめているあなたの姿を見たといっている。わたしたちにわかっているのはそれだけ。ほかにはなにも知らないのよ、〈灯心草〉、あなたが語ってくれること以外には。いまここにいるあなたがすべてなの、〈灯心草〉。
[#ここで太字終わり]
そしてそのたびに、ぼくはこういうことを学ぶの? それから忘れてしまうの? 箱の中のマザー・トムみたいに、聖ジーンのひねってつないだ紙の輪みたいに?
[#ここから太字]
ええ。
[#ここで太字終わり]
じゃあもうぼくを自由にしてよ、天使。眠らせてよ、死ぬことができないんなら。自由にして、すぐに。まだぼくが耐えられるうちに……。
[#ここから太字]
ええ。さあ、眠りなさい、勇敢な人。またお眠りなさい、〈灯心草〉。目を閉じて、目を閉じて。忘れなさい。
[#ここで太字終わり]
ただ……待って、待って。ねえ。いまぼくがなっているこの人だけど、きみは彼に親切にしてあげなきゃいけないよ、天使。彼がもどってきて、思い出したときには。さあ、ぼくの手をとって。彼の手をとって。うん、それでいい。離さないで。約束して。
[#ここから太字]
ええ。約束するわ。
[#ここで太字終わり]
いっしょにいてあげて。
[#ここから太字]
いつまでも末長く。約束するわ。さあ、目を閉じて。
[#ここで太字終わり]
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底本:「エンジン・サマー」扶桑社海外文庫、扶桑社
2008(平成20)年11月30日第1刷
入力:
校正:
2008年12月22日作成